僧侶の系譜

僧侶一覧 
僧侶 / 釈迦十大弟子役行者行基鑑真道鏡円仁と円珍円珍安然空也性空源信良忍重源慈円明恵無学祖元天海沢庵宗彭鈴木正三隠元円空 
木喰上人 / 木喰1木喰2木喰3木喰4木喰上人梵字考五百羅漢と義山和尚と木喰行道 
 

雑学の世界・補考   

 

                     
          奈良 平安 鎌倉 室町 戦国〜 江戸
        600 700 800 900 1000 1100 1200 1300 1400 1500 1600 1700 1800
                                                           
   役行者 (修験者) 634 701                                                    
   行基   667 749                                                    
   鑑真   688 763                                                    
   道鏡   700 772                                                    
  最澄 天台宗 766 822                                                    
  空海 真言宗 774 835                                                    
   円仁 天台宗 794 864                                                    
   円珍 天台宗 814 891                                                    
   安然 天台宗 841 915                                                    
   空也 天台宗 903 972                                                    
  性空 天台宗 910 1007                                                    
   源信 天台宗 942 1017                                                    
   良忍 (融通念仏) 1072 1132                                                    
   重源   1121 1206                                                    
  法然 浄土宗 1133 1212                                                    
  栄西 臨済宗 1141 1215                                                    
   慈円 天台宗 1155 1225                                                    
   明恵 華厳宗 1173 1232                                                    
  親鸞 浄土真宗 1173 1262                                                    
  道元 曹洞宗 1200 1253                                                    
  日蓮 日蓮宗 1222 1282                                                    
   無学祖元 臨済宗 1226 1286                                                    
  一遍 時宗 1239 1289                                                    
  一休 臨済宗 1394 1481                                                    
  蓮如 浄土真宗 1415 1499                                                    
  千利休 (茶人) 1522 1591                                                    
   天海 天台宗 1536 1643                                                    
   沢庵 臨済宗 1573 1645                                                    
   鈴木正三 (禅思想家) 1579 1655                                                    
   隠元 黄檗宗 1592 1673                                                    
   円空 (造仏聖) 1632 1695                                                    
  古月 臨済宗 1667 1751                                                    
  白隠 臨済宗 1685 1768                                                    
   木喰 (行者・造仏) 1718 1810                                                    
                                                           
                                                    僧侶修行の旅

 
僧侶

阿育王(あいくおう)  
アショーカ王(紀元前268〜前232年)アレキサンダー大王の遠征後の混乱の中、紀元前四世紀にチャンドラグプタが現れて、インド最初の大帝国である、マウリヤ王朝を開いた。阿育王は、その最盛期、3代目である。王は仏教を国教として厚く保護し、セイロン島へ伝えたのは王の子、マヒンダである。仏教が世界的宗教となったのは、王の力によるところが大きい。  
阿那律(あなりつ)  
アヌルッダ。シャカ族の出身で、釈迦のいとこ。失明するが、天眼を得て天眼第一とされる。釈迦10大弟子の一人。  
阿難(あなん)  
アーナンダー。シャカ族の出身で釈迦のいとこ。釈迦の身近に25年間仕え、多聞第一と称される。釈迦十大弟子の一人。  
安然(あんねん)  
(841?〜915?年)安然は円仁・円珍を受けて天台宗の密教化を大成させた人物。天台宗の密教(台密)を真言宗とさえ呼んだ。こうして天台宗も真言宗と並んで日本密教を担った。  
一休宗純 
(1394〜1481年)臨済宗の僧で、後小松天皇の子。晩年に京都大徳寺に住した。寺院内の抗争など俗事を嫌い、寺々を転々としたり、盲目の森女との恋など型破りな禅僧として知られる。  
一遍 
一遍智真(いっぺんちしん/1239〜89年)伊予の河野氏の出身で、長じて太宰府にいた浄土宗の聖達(しょうたつ)に入門し、浄土教に入った。その間にも、各地の霊場や山岳寺院などで修行を重ねている。熊野に参籠して居るときに熊野権現から「南無阿弥陀仏欠定六十万人」と記した札を配るという神勅を受けて、その御札配り(賦算/ふさん)を始めた。一遍の思想は、同じ浄土宗の中でも法然や親鸞のそれとはかなり違っており、特に神祇信仰に厚い事で知られる。  
隠元  
(1592〜1673年)中国では1644年に明が滅亡して清朝に代わった。その為長崎には福建省を中心に多くの亡命者が渡航し、寺院を建立して先祖を祀った。彼らが福建省の黄檗山万福寺(臨済宗楊岐派)から招いたのが隠元である。彼は多くの弟子や工人を連れて来日し、江戸幕府も歓迎して宇治に寺地を与え、隠元は其処に万福寺を開いて黄檗宗の祖となった。  
優婆離(うばり)  
ウパーリ。仏典結集のおり、戒律の編集の中心になったと云われる。戒律をよく守り、持律第一とされる。釈迦十大弟子の一人。  
運慶(うんけい)  
鎌倉時代を代表する仏師(1151〜1223年)仁平元年(1151年)頃に誕生したと考えられる。父の康慶(こうけい)は興福寺に仏所(仏像を製作する工房)を置く奈良仏師のひとり。運慶の作品は写実的な作風で、鎌倉時代を代表する仏師。奈良の仏師集団を率いる。  
永観(えいかん)  
又は永観(ようかん)とも読む。(1033〜1111年)三論宗。光明山寺に隠遁したが、後に東大寺別当となる。『往生住因』『往生講式』などを著し、念仏を広めた。  
栄西 
明庵栄西(1141〜1215年)または(ようさい)とも読む。備中(岡山県)の吉備津神社の神職の子として生まれ、比叡山に入り密教を学んだ。1168年と1187年に入宋して、天台宗の虚庵懐敞(こあんえしょう)から臨済宗を学んで導入、始めは博多で禅を広めた。栄西は当初から有力な天台宗の密教僧であり、台密葉上流の祖でもある。(栄西の房名は葉上房)栄西は鎌倉仏教の新仏教各祖師とは異なり、旧仏教に依然として属しつつ、新しく禅を導入した。  
叡尊(えいそん)  
(1201〜90年)律宗の僧で、房名は思円(しえん)、諡号は興正菩薩(こうしょうぼさつ)奈良の興福寺の僧を父として、現在の大和郡山市に生まれる。17歳の時に京都府山科の醍醐寺で得度し、同年に東大寺戒壇院で受戒し、醍醐寺などで密教を主に学ぶ。1236年9月に、興福寺の覚盛(かくじょう=1194〜1249年)らと東大寺法華堂の観音菩薩の前で戒律を守る事を誓って菩薩僧(単に自分だけの悟りを目指すのみならず、他人をも救済しょうとする僧の事)となった、と主張し、以後奈良西大寺を中心として興法利生(こうぼうりしょう=仏教を興し、衆生を救済する)活動に努め、10万人を越える信者を獲得するに至る。特に、戒律護持を勧め、釈迦信仰、太子信仰、文殊信仰などを広める。彼の高弟に忍性がいる。  
慧遠(えおん)  
(334〜416年)山西省に生まれ、儒教・道教を学んだ後、仏教に転じた。402年に百余名の同志と共に念仏結社の白蓮社を結んだ。  
慧思(えし)  
(515〜577年)南岳慧思(なんがくえし)予州(河南省)武津の人で天台宗第二祖。慧文禅師に学ぶ。『法華経』『般若経』などの大乗経典を講じ、また『法華経』などの基づく禅定を実践した。伝記は『続高僧伝』巻十七などのみえる。  
懐奘《孤雲懐奘》(えじょう)  
(1198〜1280年)比叡山で出家し達磨宗に入るが、道元が帰国すると程なく入門した。彼は道元より年長であったが、いつも道元の傍に持していたので師の日常の言行、法話を『正法眼蔵隋聞記』として纏めた。道元に次いで永平寺の二世を勤めた。  
慧能(えのう)  
(638〜713年)六祖慧能。三歳で父を失い、貧窮のなかに育った。五祖弘忍の弟子となり、やがて弘忍に認められて袈裟と鉢を授けられ六祖となる。  
円空(えんくう)  
(1632〜95年)美濃国(岐阜県南部)に生まれる。(諸説あり)諸国で修行を重ね、素朴で荒々しい仏像を数多く制作する。造仏聖(ぞうぶつひじり)とも呼ばれる。  
役行者(えんのぎょうじゃ)  
役小角(えんのおづぬ)七世紀後半〜八世紀早くから修験道の始祖として考えられてきた。「続日本紀」や「日本霊異記」などに登場して、呪術をよくし、瞬間的に移動したりする神秘的能力に長けた修験者として描かれる。又、各地の霊山の開祖ともされる  
円珍(えんちん)  
智証大師/814〜891年)円仁と同様入唐する。円珍も帰国後密教的な天台宗に付加する事に努めた。後に円珍の門流は、比叡山の東麓の得園城寺(おんじょうじ=三井寺)を根拠地として、天台宗の内部で長期に渡り延暦寺と熾烈な抗争を続けた。円仁・円珍によって天台宗の密教化が促進されたが、その傾向を決定的にしたのが安然(あんねん)であった。  
円仁(えんにん)  
(慈覚大師/794〜864年)最澄に始まる延暦寺の天台座主の三代目。最澄の弟子であった円仁も、838年に唐に留学して、847年に帰国。この間円仁は天台教学と密教を系統的に学び、潅頂(かんじょう)や常行(じょうぎょう)・三昧(ざんまい)を始めて行った。彼は文徳天皇にも両部(金剛界と胎蔵界)の潅頂を施している。尚、円仁は10年に渡る留学、旅行の記録を記した「入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんらいぎょうき)」を著している。  
円爾弁円(えんにべんねん)  
聖一国師(1202〜80年)鎌倉寿福寺などで禅を学び、1235年に入宋。1241年の帰朝後、藤原道家の帰依を受けて京都に東福寺を開く。多くの弟子を育て、臨済宗聖一派(東福寺派)の祖となる。  
大谷光瑞(おおたにこうずい)  
鏡如(きょうにょ)上人・(1876〜1948年)浄土真宗本願寺派(西本願寺)の第22代宗主であった光瑞は、3次に及ぶ大谷探検隊を組織して、西域に埋もれていた多くの経典などを持ち帰った。  
飲光(おんこう)  
慈雲飲光(じうんおんこう/1718〜1804年)江戸時代の真言宗の僧で、戒律の復興や梵語の研究で知られた。出家後京都の儒学者伊藤東涯に教えを受け、やがて具足戒(小乗律)を受けた。後に、葛城山中の高貴寺で「釈迦在世当時と同じ修行をすべきだ」と教える『正法律』を打ち立て、身のレベルでは釈迦在世当時と同じ服装をし、口のレベルでは釈迦と同じ言葉により、意のレベルでは坐禅を勧めた。その為、慈雲はサンスクリット語(梵語)を精力的に研究し「梵学津梁(ぼんがくしんりょう)」千巻を著した。  

 

迦葉(かしょう)  
カーシャパとも云う。摩詞迦葉とも呼ばれる事が多い。教団の最長老で、釈迦の滅後、教えの編纂(仏典結集)の中心人物となった。少欲知足に徹して、頭陀(ずだ=清貧の修行)第一とされる。釈迦十大弟子の一人。  
迦旃延(かせんねん)  
カーティヤーヤナ。特にカースト否定の平等を説いたと云う。教えの解説に優れ、論議第一と云われる。釈迦十大弟子の一人。  
覚鑁(かくばん)  
(興教大師 1095〜1143年)鳥羽院の保護を受けて1132年に高野山に大伝法院(だいでんぽういん)を開創。一定の規模を備えた大伝法院を拠点として真言宗内に勢力を張ったが、周囲の反発を買って金剛峯寺座主と大伝法院座主とを退任して、紀州の根来寺に隠棲した。「五輪九字明秘密釈(ごりんくじみょうひみつしゃく)」を著して、密教と阿弥陀仏の浄土信仰とを習合させ、大日如来と阿弥陀如来とは一体であるとした独特の真言念仏を称えた。覚鑁を祖とする流れは後に、新義真言宗と呼ばれる。  
河口慧海(かわぐちえかい)  
(1866〜1945年)大阪生まれで、黄檗宗の僧侶であった慧海は、鎖国状態のチベットに潜入し、「チベット大蔵経」などの貴重な文物を日本にもたらした。慧海は仏教伝来以降、中国から伝わってきた漢訳経典に疑問を持ち、より原典に忠実と思われるサンスクリット語の経典を求めて、旅に出た。  
鑑真(がんじん)  
(688〜763年)揚州の人。日本からの留学僧の要請によって苦難の末に来日。部派仏教以来の出家者の戒を日本にもたらす。  
基(き)  
窺基(きき)とも云う。(632年〜682年)法相宗の祖で、長安の慈恩寺に住したことから、慈恩大師とも云われる。法相宗の教義を著した「大乗法苑義林章(だいじょうほうおんぎりんしょう)」「成唯識論述記(じょうゆいしきろんじゅつき)」など多くの著作がある。  
儀山善来(ぎざんぜんらい)  
(1802〜1878年)幕末から明治にかけての臨済宗の高僧。弟子から、滴水、独園ら名僧を多数輩出した。  
義浄(ぎじょう)  
(635〜713年)37歳の時広州から海路でインドへ行き、25年後に帰国。金剛明最勝王経(こんごうみょうさいしょうおうきょう)・孔雀王経(くじゃくおうきょう)などを漢訳した。仏教の実生活や異国の風土に関心が深く、帰路のスマトラ島で書いたという旅行記「南海寄帰内法伝(なんかいききないほうでん)」は当時の風俗を伝える貴重な文献となった。また、インドに赴いた求法僧の伝記を「大唐西域求法高僧伝(だいとうせいいきぐほうこうそうでん)」に纏めた。  
行基(ぎょうき)  
(667〜749年)河内国大鳥郡の人。道昭の弟子というが確証は無い。民間布教と社会事業に力を尽くし、多くの弟子を集めたために、その活動は屡々政府によって禁圧された。大仏造立の功績により、天平十七年(745年)大僧正となる。  
清沢満之(きよさわまんし)  
浄土真宗大谷派(1863〜1903年)尾張の人東京大学で哲学を学び、仏教思想の近代化をはかった。  
空海 
(弘法大師/774〜835年)讃岐(香川県善通寺市)に生まれ、官吏養成機関である大学に入学したが、ほどなく阿波の大滝岳や土佐の室戸岬など四国各地の山岳で修行に励んだ。797年には「三教指帰(さんごうしいき)」を書き、儒教・道教より仏教が優れている事を論じた。804年に遣唐使に従って入唐し、長安の青竜寺の慧可(えか)に就いて正統的密教を学んで帰国した。帰国後は朝廷から与えられた東寺(教王護国寺)や高野山などを根拠地として、東大寺などの奈良の寺院にまで活動の範囲を広げて精力的に活躍し、「十住心論(じゅうじゅうしんろん)」や「即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)」などを著して独自の密教を開いた。  
空也(くうや・こうや)  
(903〜972年)比叡山で得度出家して光勝の僧名を持つが、空也と自称した。京都はもとより、東北地方に至る諸国を遊行して庶民に念仏を広め、阿弥陀聖とも、市聖とも称された。京都に西光寺(後の六波羅蜜寺)を開く。  
鳩摩羅什(くまらじゅう)  
クマーラジーヴァ(344〜413年)中央アジアの亀茲国(クチャ)に生まれ。中国に来て訳した書物は「般若経」「法華経」「阿弥陀経」などの経から、「大智度論」「成実論」などの論書に至り、流麗な訳文で現在でも用いられているものが多い。  
恵果(けいか)  
(746〜805年)陝西省に生まれ、不空に師事して金剛頂系の密教を学んだ。また、善無畏の弟子から大日経の密教を受け、両部の統合者とされる。  
瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)  
(1268〜1325年)永平寺の懐弉のもとで得度した後、各地の寺で修行を重ね、能登に総持寺を開いた。仏事執行の方法を整備し、積極的に祈祷を取り入れるなど民衆教化に努め、その結果曹洞宗の教勢は飛躍的に拡大する事になった。曹洞宗では道元を高祖、瑩山を太祖と呼ぶ。  
玄奘(げんじょう)  
(602〜664年)629年に長安を発ち、シルクロードを経てインドに入る。各地の仏跡の他、インドのほぼ全域を旅して645年に長安へ帰った。勅命を得て仏典の翻訳にあたり、大般若教をはじめ、その訳経は76部1347巻におよび、それまでの翻訳の誤りを原典に照らして改めた。旅行記の「大唐西域記」は当時の西域やインドの地理・文化を伝える文献である。  
源信(げんしん)  
恵心僧都(942〜1017年)平安中期の代表的な学僧。九歳の時に比叡山に登り、後に比叡山横川恵心院にあって、念仏の拠点とする。985年に「往生要集」を著し、往生浄土の要諦を示す。また、二十五三昧会と呼ばれる念仏結社をつくり、「二十五三昧式」を著して臨終行儀の方法を定めた。  
孤雲懐弉(こうんえじょう)  
(1198〜1280年)比叡山で出家し達磨宗に入るが、道元が帰国すると程なく入門した。道元より年長であったが、いつも道元の傍に持していたので、師の日常の言行や法語を「正法眼蔵随聞記」として纏めた。道元に次いで、永平寺の二世を勤めた。  
虎関師錬(こかんしれん)  
(1278〜1346年)臨済宗東福寺の出身。密教や中国史、漢詩文の学識が深かった。宋から来日した蘭渓道隆に、中国の仏教の歴史には詳しいが日本の仏教の歴史に暗いことを非難された。それが契機となって仏教史書『元亨釈書=げんこうしゃくしょ』三十巻が著された。この大書は、今なお学問的価値を失っていない。また、師錬はいわゆる五山文学の初期の作家の一人でもある。その作品に『済北集=さいほくしゅう』がある。  
古月和尚 (伊呂波口説き) 
(1667‐1751年)江戸時代前期-中期の僧。寛文7年9月12日生まれ。臨済(りんざい)宗古月派の祖。豊後(ぶんご)(大分県)多福寺の賢巌禅悦(けんがん‐ぜんえつ)の法をつぐ。のち日向(ひゅうが)(宮崎県)大光寺住持、筑後(ちくご)(福岡県)福聚寺の開山(かいさん)となり、鎮西の古月、東海の白隠とならび称された。門下に月船禅慧(げっせんぜんね)ら。寛延4年4月24日死去。85歳。日向出身。俗姓は金丸。諡号(しごう)は本妙広鑑禅師。 
金剛智(こんごうち=ヴァジュラボーディ)  
(671〜741年)中インドの一国の王子として生まれたという。十歳の時ナーランダ寺で出家して諸経典を学んだ後、南インドで金剛経系の密教を学ぶ。スリランカを経て中国にいたり、720年に洛陽に入る。金剛頂経をはじめ、儀軌などを翻訳した。 

 

最澄 
伝教大師(766〜822年)渡来人の家柄に生まれ(生誕地は滋賀県大津市)出家後、804年に空海と同じ遣唐使船団で唐に留学、翌年帰国する。唐では主に天台教学を学び、天台の典籍を多く請来した。桓武天皇から厚遇され、比叡山延暦寺を中心に活動。天台教学は法華経に基づき、一乗思想(法華経に全ての仏教が統一されると云う思想)を説き、一切衆生に仏性が備わっていることを教える。法相宗の五性格別の思想とは相容れず、後に法相宗の徳一(生没年不詳、平安時代前期)とこの点で論争を繰り広げることになった。又最澄は戒律にも関心を持ち、梵網経による大菩薩戒を学んだが、大乗菩薩戒を授ける戒壇を設置するために奔走する。著書には大乗戒を体系的に述べた「山家学生式(さんげがくしょうしき)」「顕戒論(けんかいろん)」など多数ある。  
思託(したく)  
(生物年不明)沂州(山東省)の人。鑑真に師事し、天平勝宝五年(753年)鑑真と共に来朝。日本最古の僧伝『延暦僧伝』や鑑真の伝記『大和上鑑真伝』などの著作がある。  
慈円(じえん)  
(1155〜1225年)平安時代末期の天台宗には慈円が現れた。当時最高貴族であった九条家の出身で、父は関白忠通、兄には兼実がいる。1192年以来通算四回天台座主を歴任している。天台宗の正統派として安然の思想を継承して密教の修法に優れ、朝廷の為の祈祷を精力的におこなった。著作は密教関係に止まらず、家集「拾玉集(しゅうぎょくしゅう)」や歴史書「愚管抄(ぐかんしょう)」でも著名。  
舎利仏(しゃりほつ)  
シャーリープトラ、又は舎利子とも云う。バラモンの出身で、始めは懐疑論者のサンジャヤの門に入り、その弟子を多く引き連れて釈迦の僧団に加わる。教義に優れていて、智慧第一とされる。釈迦十大弟子の一人。  
須菩提(しゅぼだい)  
スプーティ。徹底して争いを避けた非暴力主義者であったと云う。多くの人に敬われ、供養第一と云われる。釈迦十大弟子の一人。  
俊芿(しゅんじょう)  
(1166〜1227年)律・禅・天台などを兼学した僧で、やはり入宋経験がある。帰国後、律・禅・天台・浄土の兼学の寺として京都に泉涌寺を建てた。戒律の復興者として著名な叡尊も、この人から戒律の講義を受けている。真言宗泉涌寺派の祖でもある。  
趙州従シン(じょうしゅうじゅうしん)  
(778〜897年)曹州の人。若くして南泉和尚の弟子となった。南泉和尚との最初の出逢いの時、南泉は横臥したまま趙州に訊ねた。南泉「いったい何処から来た」趙州「瑞像からやってきました。」南泉「それなら瑞像を拝んだか。」趙州「いいえ、瑞像は拝みません。その代わり臥如来を拝みました。」趙州には、このように最初から鋭鋒が表れていた。  
貞慶(じょうけい)  
(1155〜1213年)法相宗の僧で解脱坊とも呼ばれた。始め興福寺に入ったが、後に笠置寺に隠棲した。法然の専修念仏運動に接し、奈良仏教・平安仏教のいわゆる既成仏教側に立ち、体制の危機感を持って「興福寺奏状」を朝廷に提出し、その抑圧・弾圧の為に動いた。  
親鸞 
(1173〜1262年)下級貴族であった、日野有範(ひのありのり)の子として京都に生まれ、九歳で比叡山に登る。29歳の時、比叡山を出て法然の門に入った。その後1207年の弾圧で越後に配流され、赦免後常陸へ出た。以後20数年間を関東で過ごす。  
聖徳太子 (古代日本仏教) 
(574〜622年)厩戸王などの異称を多く持つ。用明天皇の子で、叔母である推古天皇の摂政として政治の実務に携わった。儒教の政治思想を取り入れ、冠位12階の制度や、17条憲法を制定した。太子は高句麗から来た僧の慧慈(えじ)について仏教を学び、仏教の保護にも力を入れたと云われる。その成果が斑鳩寺(法隆寺)・橘寺・中宮寺などの寺院建立や、「三経義疏」の執筆であった。太子没後まもなく太子信仰が生まれて徐々に高まりを見せ、鎌倉時代の親鸞は太子を、仏教の日本における開祖として「和国の教主」と呼んだ。  
真諦(しんたい)  
パラマールタ(499〜569年)西インド出身の僧で、梁の武帝に招かれて中国に来た。「倶舎論」や「大乗起信論(だいじょうきしんろん)」などの訳で知られる。  
鈴木正三  
(1579〜1655年)江戸時代前期に日常生活の中での禅を説いたユニークな思想家。三河の武士の家に生まれ、42歳で出家して曹洞禅を修めたが、仮名草子作家でもあり、特定の宗派には属さなかったようである。彼は全ての人は現在の仕事に精励する事が大切で、そのまま悟りの道へつながると説き、江戸時代の身分制に合致して生きる事を教えた。  
石頭希遷(せきとうきせん)  
(700〜790年)唐の玄宗皇帝時代の傑僧。「江南の馬祖・湖南の石頭」と並び称されたほどの禅僧で、初めは六祖慧能の弟子であったが、慧能が亡くなったあと遺命により青原行思(せいげんぎょうし)の弟子となった。  
世親(せしん)  
ヴァスヴァンドゥ、天親とも訳す。(4〜5世紀)無着の弟で、『倶舎論(ぐしゃろん)』『唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)』『浄土論』など多くの著作を残した。  
雪舟   
「雪舟等揚(せっしゅうとうよう)」(せっしゅう)臨済宗の禅僧(画師)(1420〜1506?年)備中国赤浜(岡山県総社市)に生まれる。子供の頃宝福寺に預けられ、悪戯をして柱に縛り付けられた時、足の指を使って「涙のネズミ」を描いたという。代表作として、1496年(77歳)の時に描いた「慧可断臂図」が有名。  
仙崖義梵(せんがいぎぼん)  
(1750〜1837年)江戸末期の臨済宗の僧。博多の聖福寺に住持した。洒脱な墨絵に巧みであった。  
善無畏(シュバカラシンハ)(ぜんむい)  
(637〜741年)インドの一国の王であったが、反乱にあって出家。ナーランダ寺で密教を学び、716年に長安に入り玄宗皇帝に国司として迎えられ大日経を始めとする訳経にあたる。著述の『大日経疏(だいにちきょうしょ)』は弟子達への大日経の講義を纏めたものである。  
善導(ぜんどう)  
(613〜681年)山東省に生まれ、20余歳で玄中寺の道綽の門に入る。観無量寿経に注釈して「観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)」を制作した。観無量寿経疏と名付けられたものは多い中にも、善導の著作を指すことが一般的になっているほど、その影響力は大きい。善導は曇鸞や道綽を継承、発展させ、「散心(散乱した状態の心)」の称名念仏を肯定した。善導の後には数々の後善導と称される人々(例えば迦才・法照)が出て、時代を超えて影響を与えた。日本の法然も善導から決定的影響を受けた一人で、「偏へに善導一師に依る」と云ったほどである。  
千利休 (利休最後の手紙) 
(1522〜91年)和泉国堺(大阪・堺市)の魚問屋に生まれる。17歳の時に北向道陳(きたむきどうちん)について茶を学び、その後竹野紹鴎(たけのじょうおう)に入門する。織田信長・豊臣秀吉などに庇護されて、「天下一の茶人」として名を馳せるも、後に利休の権勢を疎んじた秀吉に自刃へ追いやられる。  
ソンツェンガンポ王  
(581?〜649年)位階や刑法の制定、仏教の導入など、その事跡は日本で云えば聖徳太子と近い。奇しくも同年代の治世である。聖徳太子は日本の教主と敬われ、ソンツェンガンポ王はあ観音の化身とされるが、ただ、太子が遣隋使を派遣して中国王朝からの日本の独立を目指したのに対し、王は遣唐使を送って公主(皇女)との婚姻を求めた。その結果、文成公主が王の長子に降嫁し(長子没後に王と再婚)、今日、チベットが中国の一部とされる論拠の一つとなっている。 

 

沢庵宗彭(たくあんそうほう)  
(1573〜1645年)沢庵は大徳寺に住した臨済宗の僧で、1627年後水尾天皇が大徳寺、妙心寺などの僧に紫衣を許したのに対して幕府は無効とした。所謂「紫衣事件」で沢庵は幕府に対抗しょうとしたが、出羽の上山に流される。沢庵漬けの考案で知られる。  
湛然(たんねん)  
(711〜782年)中国天台宗の第6祖。天台三大部の注釈のほか多くの著作があり、天台宗を体系づけた天台中興の祖と云われる。  
智(ちぎ)  
(538〜597年)湖南省に生まれ、23歳の時に「慧思(えし)=南岳(515〜577年)」のもとで法華三昧を修した。38歳の時道教の霊場でもあった天台山に籠もる。そこで摩詞止観を中心とする天台教学を体系づけた。中国天台宗は智を第3祖とし、慧文(えもん)・慧思を1祖・2祖とする。  
重源(ちょうげん)  
俊乗房(しゅんじょうぼう/1121〜1206年)鎌倉時代には当時の中国、宋に留学した僧侶が続々と出てきた。重源もそのひとりである。帰国後重源は、平家によって焼き討ちされていた奈良の東大寺復興の為の大勧進職となり、各地の東大寺の荘園を強化することなどで復興の費用を捻出した。  
ツォンカパ  
(1357〜1419年)33歳頃から文殊菩薩の示現を得て中観の教えを受けたと云う。36歳でゲルグ派を開宗。ラムリム=菩提道次第論(ぼだいどうしだいろん)など多くの著作がある。  
天海(てんかい)  
(慈眼大師 1536〜1643年)江戸時代初期、日光を中心とする関東の天台宗に天海が登場した。天海は徳川家康の帰依を受けて比叡山から関東の天台宗を独立させようと奔走し、江戸上野に寛永寺を建立した。その後、家康の死後遺体が埋葬されていた駿府の久能山から日光に改葬して、故家康に「東照台権現」号の勅許を勝ち取り、幕府の中に一定の位置を占めた。  
道鏡(どうきょう)  
(?〜772年)河内国若江郡出身。俗称弓削の連。内道場の禅師となり、孝謙上皇の看病で功績があった。法王の位を授けられて権力を振るったが、皇位につこうとして画策し失脚した。  
道元 
永平道元/希玄(1200〜53年)上級貴族久我家の出身で、両親に早く死に別れたので仏門に入った。比叡山を経て、栄西の弟子である明全に師事した。1223年、明全と共に入宋して、天童山の如浄に就いて曹洞宗の系統の禅を継ぐ。宋で椎茸を買い付けに来た高僧に、生活の中の料理や炊事などの卑近な事こそ大事な修行であることを諭されたと言う逸話は有名である。帰国後は永平寺を開き、「只管打坐」と言われる厳しい修行に入った。  
道綽(どうしゃく)  
(562〜645年)山西省生まれで、14歳で出家して涅槃経に帰依するが、48歳の時かって曇鸞が住した石壁玄中寺(せきへきげんちゅうじ)に入り、曇鸞の事跡に打たれて浄土宗に転じた。以後、日々に7万遍の念仏を称える。念仏1遍ごとに小豆一粒を取る「小豆念仏」を公案し、民衆に広めた。「安楽集」で、仏教を聖道と浄土の2門にわける。教えには、時(時代の状況)・機(人の性格)・にふさわしいものがあると説き、末法の煩悩に染まった人々には自力修行の聖道より、阿弥陀仏の本願による念仏によるべきであるとする。  
独園(どくおん)  
(1819〜1895年)明治初期の相国寺の和尚。廃仏毀釈を断行した政府に対して、宗教の尊厳を主張した。  
曇鸞(どんらん)  
(476?〜542?年)道教の長生不死の秘法を霊感によって得たというが、北魏の都洛陽で訳経にあたっていた北インド出身の僧、菩提流支(ぼだいるし=ボーディルチ)に会い、仙教を焼き捨てて観無量寿経を受けた。「往生論註(浄土論註)」に、末法無仏の時代には他力信心を宗とする浄土往生に寄るほかは無いと説く。 

 

日蓮 
(1222年〜82年)鎌倉時代に成立した新しい仏教の祖師のうち、唯一東国に誕生した人物で、阿房国長狭郡(千葉県天津小湊町)に生まれ、地元の清澄山を軽油して比叡山・南都(奈良)などに修学した。そのうち、釈迦の教えは唯一の正法である法華教にきわまるので、その法華教の題目を「南無妙法蓮華教」と称える事で、釈迦のいます霊山浄土へ到達できると説いた。日蓮の布教は主に「折伏(しゃくぶく)」と言う他州批判を含む激しいとり、その対象が鎌倉幕府にまで及んだので、幕府によって伊豆・佐渡へ流罪に処せられた。晩年日蓮は後事を託す高弟6名を選び(六老僧)身延山t教団を付託した。  
日奥(にちおう)  
(1565〜1630年)豊臣秀吉の方広寺千僧供養への出仕を拒否すべきであると主張して、不受布施派を率いた。後に徳川家康によって、対馬に遠流に処せられた。幕府権力や宗門の中で大勢となった受布施派の、身延山の日乾(にっけん)を始めとする僧侶達とするどく対立したが、生涯不受布施の宗義を守った。  
日親(にっしん)  
(1407〜88年)鍋かむり日親、と称された日蓮宗の僧。上総の生まれで、中山の法華経寺で修行し、後に京都で説法を始めた。行動が急進的であったので、宗門内でも異端視された。将軍足利義教に「立正治国論」を提出し諫暁しょうとした。「国主諫暁」は日蓮以来宗門の伝統であって、入牢させられ拷問されたがその後も各地で激烈な折伏による布教を行った。日親にもこうしたエネルギッシュな布教の反動としての弾圧や拷問が協調され、真っ赤に焼けただれた鍋を頭に被せられたと言う日親説話が作られた。  
忍性(にんしょう)  
または、良観房(りょうかんぼう/1217〜1303年)鎌倉時代の代表的な律僧。現在の奈良県磯城郡三宅町屏風に誕生。1232年に出家し、翌年東大寺戒壇院で受戒、1240年に遁世して奈良西大寺叡尊の弟子となり、1252年以後は極楽寺など関東を中心に活躍する。ハンセン病患者救済をはじめ、橋や港湾の整備、寺社の修造など様々な社会救済事業を行った。 

 

白隠慧鶴 (はくいんえかく) 
(1685〜1768年)臨済宗の中興の祖とされる。信濃国飯山の正受老人(恵端/1642〜1721年)の禅風を受け継ぎ、後に京都妙心寺第一座となり、多くの門下を教育した。  
馬祖道一(ばそどういつ)  
(707〜786年)漢州什方県の人で馬氏の出身。容貌奇異で、牛のごとく悠々と歩き、虎のごとき眼であたりをみましたという。はじめは律宗の僧であったが、後に南獄壊譲(なんがくえじょう)に出逢い、その教えを受けて大悟した。  
盤珪(ばんけい)  
(1622年〜)元和8年(1622)播磨国浜田村(現在の姫路市網干区浜田)に儒医菅原道節の三男として生まれた。11歳で父を失い、その後兄に育てられる。17歳の時、臨済宗妙心寺派随鴎寺(赤穂)の雲甫和尚に参禅してここで出家、永啄という法名を与えら れた。  
パドマサンバヴァ  
(生没年不詳)8世紀にインドからチベットへ入ったと云う。チベット王によるサムエ大寺院建立にあたって悪霊調伏の秘儀を行うなど、多くの奇跡を現したと伝えられ、ニンマ派最高の祖師として尊崇される。  
不空/ 不空金剛(ふくう)  
(705〜774年)アモーガヴァジュラ金剛智の弟子。師とともに中国に来て訳経を助け、一旦インドへ戻って真言の秘法を伝える。  
富楼那(ふるな)  
富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし)、又はプールナマイトラーヤニープトラ。宣教に優れて、説法第一と云われる。釈迦十大弟子の一人。  
法顕 (ほうけん)  
(337?〜422?年)399年、戒律の典籍(律蔵)を求めて長安を発つ。敦煌を経て西域諸国を通り、パミール高原を越えてインドに入った。インド各地やスリランカで仏典を収集し、海路でジャワ島を経て414年頃に帰国。仏典の漢訳の他、旅行記の「仏国記」(法顕伝)を著した。  
法然 
法然房源空(ほうねんぼうげんくう/1133〜1212年)浄土宗の開祖となる法然は、美作(岡山県久米南町)に生まれ、出家後比叡山に登った。比叡山の別所である黒谷で、経典の集大成である大蔵経を次々に読破していたが、そのうちに善導の「感無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)」の一節に出会い、善導に対して「ひとえに善導一師に依る」と断言するほどの決定的な影響を受け、京都東山の吉水で浄土宗を開いた。1207年の弾圧により法然の初期の教団は、門弟が死罪や流刑に処せられ法然自身も四国に流罪になるなど壊滅状態に追い込まれた。法然の没後浄土宗は多くの分派に分かれていった。そのうち筑紫に下った弁長(べんちょう/1162〜1238年)の弟子、良忠(りょうちゅう/1199〜1287年)が鎌倉に光明寺を開き、弟子を輩出した。その法系(鎮西派)が浄土宗の主流となる。 

 

明恵(みょうえ)  
又は高弁(こうべん/1173〜1232年)明恵坊と呼ばれた高弁は華厳宗に属した。高弁も貞慶と同様、法然の専修念仏によって危機感と仏教者としての良心を掻き立てられ、専修念仏に対する批判をおこない、「摧邪輪(ざいじゃりん)」を著した。  
ミラレパ  
(1040〜1123年)幼くして父を失い、財産を奪った叔父の一族を呪術によって絶滅させたという、悲劇の後に大いに罪を悔い、修行者マルパより密教の秘儀を伝授されたと云う。多くの奇跡を示した禁欲の修行者、詩聖として知られるカーギュッパ派の祖師。  
無学祖元(むがくそげん)  
(1226〜86年)建長寺の住職として1279年に招かれた中国の臨済僧で、鎌倉円覚寺開山。  
無着(むじゃく)  
アサンガ(4〜5世紀)無着は弥勒(マイトレーヤ)に師事して唯識を授けられたという。この弥勒は歴史的に存在した人物なのか、はよく分からないが、ともかく無着は弥勒から教えを受け『摂大乗論(せつだいじょうろん)」などの論書を著した。  
無窓疎石(むそうそせき)  
(1275〜1352年)臨済宗の僧で、南禅寺に住した。後、後醍醐天皇、北条高時、足利尊氏ら政治権力者から高く評価され、とくに後醍醐天皇からは「無窓国師」の号を与えられた。天皇の死後は、尊氏、その弟の直義といった足利幕府の初期の政治家と関係が深く、政治顧問となる。  
目蓮(もくれん)  
マウドゥガリヤーヤナ。舎利仏と共に釈迦の僧団に加わり、修行をよく行い神通力に優れ、神通第一とされる。釈迦十大弟子の一人。  

 

羅ご羅・羅尊者(らごら)  
ラーフラ。釈迦の実子で、修行において不言実行をなし、密行第一とされる。釈迦十大弟子の一人。  
蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)  
(1213〜78年)1246年に北条時頼の招きで来日した中国の臨済僧で、鎌倉建長寺開山。  
ランダルマ王  
(809〜842年)吐蕃王朝代十世で、即位当時王朝の財政は破綻しており、王は僧の特権の廃止、援助の停止によって立て直しを図った。その為、破仏王悪名で知られる。豪族間の政争も激しく王朝の末期的な状況の中で暗殺された。以後チベットは分裂し、チベット仏教の歴史にも一期を画することになった。  
竜樹(りょうじゅ)  
ナーガールジュナ(2〜3世紀)竜樹は『中論』を始めとする多くの論書を著した、初期大乗仏教の大論師である。竜樹の教説は主に『中論』によっていたので、中観派(ちゅうがんは)と云われており、唯識・喩我の哲学と並んで、初期大乗仏教の二大学派とされた。著書として、中論の他に大般若経の注釈である『大智度論(だいちどろん)」がある。  
良忍(りょうにん)  
(1072〜1132年)平安時代後期の僧で、比叡山を出て京都大原に草庵を結び、一人ひとりが修する念仏を別の人に融通する事で、多くの人が多くの念仏を修する事になり、極楽往生を確実なものにしょうと考える「融通念仏」を始めた。この思想は、あくまでも念仏の回数、数量を重視するものであったが、良忍は天台声明(仏教音楽)の大成者でもある。融通念仏は身分の貴賤、老若男女を問わず集団で行われ、その念仏は熱狂的なものであった。  
蓮如 
(1415年〜99年)浄土真宗で親鸞の子孫が管理する墓所から発展して、鎌倉時代後期に本願寺が成立する。その8代目として本願寺に生まれたのが蓮如である。蓮如が本願寺を継いだ時本願寺は衰退しきった時期で、彼には本願寺の再建や信者の獲得と言う大きな課題を与えられた。1471年、越前の吉崎に坊を構え、越前や加賀など北陸諸国への布教に大きな成功をおさめた。蓮如の布教の特色は、各地の農民信者を組織した「講」を作り、本願寺に直接つながらせ、「南無阿弥陀仏」と墨書した本尊や「御文章(お文)」と呼ばれる書簡を講に与えたことである。 
 
 
釈迦十大弟子

 

阿難尊者
仏教とは一言で言えば、「智慧と慈悲」の教えです。拙僧が口癖にしております「人がしあわせになるための教え、社会が平和になるための教えである」という、まさに「至福の寄辺」と言えるものです。その意味からも仏教はまさしく人類の至宝と言っても過言ではありません。  
お釈迦さま入滅後、その教えを後世に伝えることこそ至上命題となりました。十大弟子を中心に多くの弟子が集まり、教え賜った「法」を整理検証され膨大な経典ができ上がりました。爾来現在まで2500年に亘ってその法灯は人類に光明を放されているのです。  
阿難尊者は、お釈迦さまの実のいとこで、侍者(おそばつき)として25年もの間ひたすら随従された方で十大弟子の一人に数えられます。弟子1250人の中で常にお釈迦さまの説法を間近で聴聞され、よく質問され、その記憶力が抜群だったことから「多聞第一」と称されました。  
お釈迦さま滅後に第一結集という教典編纂のための会議が開催されることになりましたが、阿難はまだ悟りが開けておらず、出席資格である阿羅漢(修行を修了した者)ではありませんでした。しかし会議には記憶力のずば抜けた多聞第一と言われる阿難の出席は是が非でも欠かせません。ついに彼は頑張って阿羅漢の悟りを開き、会議の場では説法回想を担当されて余人の及ばない貢献をされたのです。  
教典の多くの冒頭は「如是我聞」とか「我聞如是」から始まっていますが、この「我」とは阿難のことだと伝えられています。阿難はお釈迦さまの従兄弟であるといいました。お釈迦さまが成道(おさとり)された日の未明に叔父である斛飯に第二子が誕生されたのです。お釈迦さまの父君の浄飯王は「めでたい」という意味の「アーナンダ」(阿難)という名を付けさせたのです。「名は体を表す」とはよく言いますが、彼は生まれつき美男子であり、誰からも「愛でられる」存在でした。特に女性の心を虜にさせるほどでした。お釈迦さまをして阿難に限って肌の露出を少なくするように指導されたとか。彼はまたイケメン色男であるばかりではなく情にも厚かったのです。  
お釈迦さまの養母の願いを聴き入れて、お釈迦さまに懇願して当時まだ許されていなかった女性の出家(比丘尼)の道を開いた功労者とも伝えられています。  
教団の中でも阿難に対しての信奉はかなりのものでした。後々の仏教教団は、阿難を師と仰ぐ人達によって大きく発展したといわれています。お釈迦さまが80歳の夏安居(げあんご)のとき、諸国を飢饉が襲いました。このような時に教団が一箇所に固まっていたのでは共倒れになってしまうということで、お釈迦さまは一時的に解散命令を出し、ご自身は阿難と二人で過ごすことになりました。   
阿難陀(あなんだ)  
パーリ語でも、サンスクリット語でアーナンダ(Ānanda、आनन्द)。阿難とも書く。多聞第一(たもん・だいいち)。 釈迦の従弟。nandaは歓喜(かんぎ)という意味がある。出家して以来、釈迦が死ぬまで25年間、釈迦の付き人をした。第一結集のときアーナンダの記憶に基づいて経が編纂された。120歳まで生きたという。  
阿難陀あなんだとも呼ばれます。多聞たもん第一といわれます。お釈迦さまの説法をもっとも沢山聞いたということです。説法を沢山聞けたのは、お釈迦さまの秘書的役割を勤めていた為です。修行は未完成ながら、人柄の良さから多くの人に推薦され約20年勤めました。阿那律と同様お釈迦様のいとこと言われています。出家も阿那律と一緒。お釈迦様より30才くらい若く、美男子、やさしい、世話好き、と伝えられています。特に女性に親切であったと言われ、尼僧誕生のきっかけは阿難の働きと伝えられています。阿難は他人につくす優しさのあまり、煩悩がなかなか捨て切れませんでした。しかし、お釈迦さまが亡くなり、一番たくさん話を聞いていた阿難は、お経の編集作業で責任者となり、その責務によりついに悟りを開きました。 
舍利弗尊者
智慧第一と称され釈尊が特に信頼をよせていたといわれます。「般若心経」の中には釈尊の説法の相手となり「舎利子」として登場されています。また「阿弥陀経」の中で釈尊は阿弥陀仏と極楽浄土の様子について語るなかで「舍利弗よ」と三十七回も語りかけています。彼は裕福なバラモンの家系の生まれであり、目連尊者とは幼友達でした。  
あるとき目連と二人で祭り見物にでかけました。そこで祭りに酔いしれ狂喜乱舞する人たちをみて、この人たちもやがて100年もしないうちに皆この世にいないであろうと思うと、言い知れない無常観におそわれたのです。その思いを親友の目連に打ち明けると彼もまた同じことを感じていたのです。このことがきっかけで二人は出家することになったのです。二人とも、はじめは、六師外道のひとりである懐疑論者サンジャヤのもとで修行していましたが、どうしても満足の安心を得られません。二人は日頃真の師に出会ったらお互いに知らせあう約束をしていました。  
あるとき、舍利弗は街で一人の修行僧に出会いました。その清清しい立ち居振る舞いに感動して思わず尋ねました。「あなたの師はだれですか。その師の教えはどのようなものですか?」と。するとその僧は答えました。「私の師は釈尊です。」と言って、「諸法は因縁より生じ、如来はその因を説き給う。」という偈文を述べました。それを聞いた舍利弗はたちどころにその教義の偉大さを理解しました。さすが智慧第一と称された人物です。彼は急いで目連のもとに行き、探し求めていた正師が見つかったことを知らせたのです。  
目連も舍利弗から偈文を聞き二人は早速釈尊の弟子になることを決意したのです。釈尊の教えに感銘を受けて舍利弗はサンジャヤの弟子250人を連れて釈尊に弟子入りしたと言われています。やがて彼は阿羅漢(悟りを得て修行を終えた位の人)を得て教団内において、釈尊をして「私の次の席を得ることのできる智慧と徳を兼ね備えた第一の尊者だ」と言わしめる存在になったのです。ただ残念なことは釈尊よりも早く入滅されたことです。   
舎利弗(しゃりほつ)  
パーリ語でサーリプッタ (Sāriputta、सारिपुत्त)。サンスクリット語でシャーリプトラ(Śāriputra)。舎利子とも書く。智慧第一。 『般若心経』では仏の説法の相手として登場。  
智慧第一と言われます。同じ十大弟子の目連とは子供の頃からの友人。舎利弗は目連と共に、それまで修行していた集団の人たち250人を誘ってお釈迦様の弟子になります。舎利弗と目連は教団をよくまとめました。般若心経や妙法蓮華経のなかで、お釈迦様の説法の相手としてよく登場します。奢利富多羅、奢利補怛羅しゃーりーぷとら、舎利子と記される事もあります。インドでは、男の子に母親の名前を取り「○○の子」という呼び方がよく用いられます。舎利弗はシャーリの子という言葉の音写で、意訳とミックスしたのが舎利子です。般若心経に出てくる「舎利子」の部分はこの人の名前です。舎利弗は病気でお釈迦様より先に亡くなっています。 
阿那律尊者
阿那律尊者は釈尊と同じ釈迦族の出身で釈尊の従弟だといわれています。ある日釈尊が祇園精舎で説法されている最中に彼はつい居眠りをしまいました。釈尊に「あなたは道を求めて出家したのではありませんか。それなのに説法中に居眠りをするとは、一体出家の決意はどうしたのですか」と、叱責されてしまいました。それ以後彼は釈尊の前では決して眠らないことを誓い不眠不臥の修行をしました。その厳しい修行のせいかは分かりませんが失明してしまたんです。釈尊は眠ることをすすめたのですが固辞したのです。彼はそのかわり肉眼では見えないものを見通す力、即ち「天眼」(智慧の眼)を得、「天眼第一」と称せられるようになりました。  
こんな逸話が残されています。ある日阿那律尊者が衣のほころびを繕おうとして、針に糸を通そうとするのですが、どうしても通りません。彼は「どなたか私のために針に糸を通してくださいませんか」とお願いしました。すると、「私が功徳を積ませていただきましょう」と釈尊ご自身が申し出られたのです。 
阿那律(あなりつ)  
パーリ語でアヌルッダ(Anuruddha)、サンスクリット語でアニルッダ(Aniruddha、अनिरुद्ध)。天眼第一(てんげん・だいいち)。 釈迦の従弟。阿難とともに出家した。仏の前で居眠りして叱責をうけ、眠らぬ誓いをたて、視力を失ったがそのためかえって真理を見る眼をえた。  
天眼第一の阿那律といわれる。阿泥盧豆、阿奴律陀あにるっだなどとも書かれます。お釈迦さまのいとこといわれています。兄の勧めで出家を決意し、母親の許しを得るために親戚の阿難とともに出家します。阿那律はお釈迦さまの説法中、居眠りをしました。お釈迦さまは「尊い話は、智者にとって楽しみであり、聞く人の心を和ませるものである。居眠りをするとは。何のために出家したのか。」と叱責されました。いらい仏の前では決して眠らないと誓いを立て、不眠・不臥の修行をしました。睡眠不足から視力が衰えました。それを知ったお釈迦さまは、「怠慢も、やりすぎも、ともに煩悩なのだから、眠りなさい」とさとしましたが、「誓いを立てたのだから」とかたくなに守りました。そして、ついに視力を失いました。しかし、逆になんでも見通す真理を見る眼=天眼通という力を得ました。
迦旃延尊者
迦旃延尊者、対論や哲学的論議を多くされていることから「論議第一」と称せられました。彼は婆羅門家の出であり、西インドのアヴァンティー国出身とか、南インド地方出身とかの説がありますがはっきりしたものはありません。大変聡明な少年であった彼は、博学な兄のバラモン教の聖典の講義を一度聞いただけでその内容をすべて暗記してしまうほどでした。その才能に嫉妬した兄はやがて迦旃延少年を憎むようになりました。兄の嫉妬はひどくなる一方で、彼の身に危険を感じた父親は彼をアシタ仙人に預けることにしました。アシタ仙人とは釈尊がまだシッダルタ太子と呼ばれていた子供の頃に、「この少年は将来仏陀になる人だ」と預言した人物だといわれています。アシタ仙人のもとで弟子としてバラモンの教えを学んでいましたが、ある日どうしても解けない偈文に出くわしました。それを知ったアシタ仙人は彼に釈尊を紹介することにしました。  
釈尊は懇切丁寧にその偈文の意味をお答えになりました。この出来事が契機となって、迦旃延は釈尊の弟子となったのです。ある日、彼は自分の出身国の王様から、「釈尊の教えを直に受けたいので来ていただけるように頼んでほしい」ということの依頼をうけました。実はそれまでにも何人かの家来がすでに釈尊にそのお願いに行っていたのですが、そのうちの誰一人戻ってきてはいなかったのです。その理由はなんと、釈尊にお会いしてその教えに感動してみんな弟子になってしまったからなのです。  
修行がすすみ立派な弟子となっていた彼はあらためて釈尊に自国に巡錫(じゅんしゃく)して欲しい旨お願いしました。すると、釈尊は自分に代わって迦旃延自身が帰国するように申されたのです。彼はその釈尊のお言葉を命として帰郷し国王はもとより自国の津々浦々布教されたのです。やがて仏教がインドに広く広まったのはそれが大きな要因だったとも言われています。 
摩訶迦旃延(まかかせんねん)  
パーリ語でマハーカッチャーナ(Mahākaccāna、महाकच्चान)、サンスクリット語でマハーカートゥヤーヤナ(Mahākātyāyana)。論議第一。 辺地では5人の師しかいなくても授戒する許可を仏から得た。  
論議第一の迦旃延といわれます。摩訶迦旃延とも呼ばれます。子供の頃から聡明で、一度聞いた講義の内容は忘れず良く理解したと言われます。お釈迦様の教えを、いかに良く理解していたかを伝える話が多く残されています。迦旃延の兄も優秀で、父親は兄の嫉妬を心配して、迦旃延をアジタ仙人に預けます。アジタ仙人は、お釈迦様はいずれは仏陀となる、と予言をした人です。ある時、難解な文をどうしても解明できず、お釈迦様に教えを請うことなり、これがきっかけで弟子となります。迦旃延の生まれについては、諸説があって、はっきりしないところがあります。生まれがバラモンの説もあれば、クシャトリヤの説もあります。釈迦様に出会う前は、アジタ仙人の弟子という説と、アヴァンティ国の王様に仕えていた説があります。
須菩提尊者
須菩提(しゅぼだい)は北インド、コーサラ国の首都サーバティ(舎衛城)のバラモン家系の大長者の家に生まれました。「祇園精舎」を寄進したといわれるかの有名な須達多(スダッタ)長者は彼の叔父にあたります。幼少より天才的頭脳を発揮し神童といわれるほどでした。十歳をこえる頃には諸学を修め学ぶものが無くなったとのこと。しかしその慢心からやがて他人を見下すようになり、世の中さえも蔑視するようになってしまったのです。甚だしい虚無主義と、その性行からついに両親からも見放され、突然家を出てしまったのです。数年間の放浪の末、幸いにも祇園精舎に至りました。そこで釈尊の説法を聞き深く感銘し、ついに釈尊の弟子になったのです。  
そして数年の修行と釈尊の教導の下、無諍(むそう)第一といわれるようになりました。「無諍」とは「言い争わない」という意味です。かつてのあの横柄傲慢な人がまさに悟りを得て生まれ変わったのでした。その穏和な性格から教団内では勿論のこと、在家の人々からも広く慕われたといわれます。あるとき、釈尊が亡き母・麻耶夫人のための説法を終えたとき、「須菩提は空を感じ私の法身を拝謁した」と言われたそうです。その「空観」の悟りから「解空第一」と称せられ、諸弟子の中でも特に尊厳を集めたといわれます。「解空」の「空」とは「色即是空」の「空」のことです。つまり「空」を理解した人ということです。 
須菩提(しゅぼだい)  
パーリ語でもサンスクリット語でスブーティ(Subhūti、सुभूति)。解空第一(げくう・だいいち)。 空を説く大乗経典にしばしば登場する。西遊記では、なぜか孫悟空の師匠として登場している。  
解空げくう第一または無諍むそう第一といわれます。解空 とは空を良く理解していること。空は般若心経に出てくる「色即是空、空即是色」の空。物事にとらわれない、執着しない、という教えです。空は元々膨らんだ状態を意味し、中が空洞化すること。内実がないこと。実体が無いことです。無諍とは言い争いをしないこと。須菩提は、元は短気で粗暴な性格でしたが、お釈迦様に出会い、円満な人格となりました。教団内は勿論のこと、在家の人々からも慕われていました。争う心がないとき、真に心の平安を得ることができます。須菩提は、お釈迦様に祇園精舎を寄進した人=須達多長者すだったちょうじゃのおいといわれます。
富楼那尊者
釈尊とは生年月が同じで十大弟子中では最古参でした。特に弁舌に秀でていて"説法第一"と謳われています。出身には異説あるようです。一つには、インド西海岸の港町に生まれで、海洋貿易の大商人だった父親が女中に生ませた子だったということから無一文で生家を出て、薪や香木を売って生計を立て、やがて父親ゆずりの商才のお陰で大商人に成りあがりました。  
ある日商人達がお釈迦さまの教えを唱えたり歌にして歌っているのを聞いて大変興味を持ち、是非一度釈尊に会いたいという願望を持ちました。祇園精舎を寄進したという須達多(スダッタ)長者に頼んで面会が叶い、お釈迦さまの教えに感銘しそのまま出家してしまったとのこと。  
もう一つの説です。コーサラ国のカピラ城近郊のバラモン種族の生まれで、父はカピラ城主浄飯王(釈尊の実父)の国師で大富豪だったとか。母は釈尊の最初の弟子(五比丘)の一人である阿若憍陳如(アニャキョウチンジャ)の妹だったとのこと。幼い内から聡明で釈尊の成道の噂を聞き鹿野苑へ赴き釈尊の弟子になったとか。  
彼は優秀で舎利弗から徳風を慕われ、よく問答を行い、その見識をお互いに認め合ったとか。また阿難は彼の弁才を比丘の新人教育の手本にしたとか。特に弁舌にすぐれていたといわれますが、迦栴延が哲学的な議論を得意とする学者タイプの"論議第一"だったのに対し、富楼那は人情味のある大衆向き説法を得意とした庶民派タイプの"説法第一"だったのです。  
また彼は特に殉教的精神の持ち主だったことでも有名です。ある時彼は遠い未開の土地に布教に赴く決心をしました。釈尊が「その国の人々は凶暴であるから、もし汝に辱めをしたらどうするか?」と聞かれたのに対して、彼は「もし私を辱めたとしても命までは奪わないから彼等を善良な民と考えます」と答えました。  
釈尊がさらに「では、もし彼等が汝の命を奪おうとしたら?」と聞かれたのに対して、「世の中には自ら命を絶つ者もいます。だからこの老朽の身に殉死を与えてくれる人は善良であると考えます」と答えました。釈尊は「よいであろう。行くがよい。行って彼の地の人々を教化救済するがよい」と申され、彼を賞賛されたといわれます。  
彼は阿羅漢果を得てさらにその天与の弁才と布教の信念のもと、遂には9万9千人の人々を教化したと伝えられています。  
富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし)  
パーリ語でプンナ・マンターニープッタ(Puṇṇa Mantānīputta)、サンスクリット語でプールナ・マイトラーヤニープトラ(Pūrṇa Maitrāyaniputra、पूर्णमैत्रायनीपुत्र)。 略称として「富楼那」。他の弟子より説法が優れていた。説法第一。  
説法第一の富楼那といわれます。お釈迦様が悟りを開いて初めての説法=初転法輪しょてんぼうりん後の第一の弟子です。十大弟子の中では一番早く弟子となった人です。弁舌さわやかで、解りやすいお説教をすることで有名です。60種類の言語に通じていたといわれます。お釈迦様と誕生日が同で、お釈迦様より長生きをしました。富楼那と呼ばれた人は複数いたといわれます。十大弟子の富楼那は富楼那弥多羅尼子ふるなみたらにしがフルネームです。弥多羅族の女性の子、富楼那という意味。満願子とか満慈子とも言われます。別人のひとりは、商才に長けた人で、弟子となってから辺境の地で布教しながら自らの修行を完成させ、阿羅漢となった人です。お釈迦様より先に他界しています。
優波離
「持律第一」と言われた優波離はインドのカーストでも下層のシュードラの出身でした。釈尊がまだ悉多(シッダルタ)といわれた太子の頃カピラ城で釈迦族のもとで、なんと阿那律の奴隷として仕えていた理髪師だったのです。主人である阿那律や釈尊の実子の羅睺羅や金比羅など六人が釈尊の弟子になるということになりその一行に付き添って行かれたのです。  
阿那律は出家するときに所有物を全部優波離に与えましたが、優波離は釈尊の教えの方が偉大だと言ってそれを断り、自ら出家を切望したのです。主人である阿那律が釈尊に「世尊よ、願わくば理髪師優波離を本日受戒の最初としてください」と申し出て、釈尊は優波離を最初の受戒者とされたのです。  
釈尊は、「出家以前において身分の違い、地位の高低など種々あるが、出家後はすべてその差別はない」と常に述べられていました。仏教教団(サンガ)ではすべての者は平等でしたが、ただ一つ序列がありました。それは出家順位です。身分や年齢に関係なく先に出家した者が先輩であり兄弟子になるのです。  
その儀礼に従い阿那律達も優波離に礼拝したのです。これを見て釈尊は「釈迦族の高慢な心をよくぞ打ち破った」と賛嘆せられたとのこと。「本来人間に階級などない」という当時としては革命的な釈尊の教えが示された事例の一つです。  
優波離が「持律第一」と言われたのは戒律に精通しそれをよく守ったからです。サンガでの修行は厳しいものでした。とくに釈迦族から集団で出家した阿那律や羅睺羅達貴族出身の若きボンボンにとってサンガでの質素貧窮の生活はさぞ大変なことだったでしょう。  
その点奴隷出身であった優波離は、体は丈夫で貧しい暮らしにもよく慣れていたので、きつい修行や厳しい戒律も彼にとっては案外容易なものでした。それに加え彼はたいへん律儀な性格の持ち主であり戒律に精通し、よく守ったことから、後に阿羅漢果(悟り)を得て、「持律第一」と称せられるようになりました。  
釈迦サンガにおける規律は彼によって設けられたものが多く、釈迦入滅後、仏典のための第1回の結集では、彼は戒律の編纂の責任者として活躍したのです。  
優波離(うぱり)  
パーリ語でも、サンスクリット語でウパーリ(Upāli、उपालि)。持律第一。 もと理髪師で、階級制度を否定する釈迦により、出家した順序にしたがって、貴族出身の比丘の兄弟子とされた。  
持律第一戒律に精通した人といわれました。あるとき、優波離はお釈迦様に、森の中で修行したいと申し出でます。しかし、お釈迦様は優波離の実直さを考慮して、戒律や禅定による智慧で悟りを開くように勧めます。もともと律儀な性格だったので、戒律によく精通し、またよく守ったことから、戒律の第一人者となりました。お釈迦様が亡くなった後は、戒律部門の編集の中心人物として活躍しました。優波離は理髪師で、お釈迦さまの髪を剃ることで出会い弟子となりました。弟子入りのタイミングは、阿那律や阿難と同時期です。当時は階級社会で、儀式は王族が先ですが、阿那律と阿難は、優波離の実直さに、出身による自分たちの奢りを反省し、受戒の順序を譲りました。そのため当時の常識をくつがえし、優波離が先に受戒することになりました。
羅睺羅尊者
羅睺羅(ラゴラ、あるいはラーフラ)は、釈尊の実子であり、密行第一と称されました。釈尊は16歳で結婚されましたが、なかなか子宝に恵まれず、27歳になったとき妻のヤショーダラ姫との間にようやく授かったのが一人息子、羅睺羅でした。  
釈尊が出家する2年前のことでした。おそらく釈尊はこれで釈迦族の跡継ぎができたと安心されたのかもしれません。しかしこれには異説があり、妃が身ごもられたのを知ってすぐに出家されたという説もあります。  
また、羅睺羅が生まれたのはお釈迦さまがお悟りを開かれた日だったという説もあります。そうだとすると羅睺羅は六年もの間、母の胎内にいたということになります。「羅睺羅は顔は似ていないしお釈迦さまの息子ではない」などという不名誉な噂まで出たようです。実際彼の顔は釈尊に似ておらずかなり不細工だったようです。  
そんな噂を聞いた羅睺羅は「顔は不細工でも私の心は仏である」と言って胸を開けて見せたという。この話は彼が信仰の対象として人気があった中国唐の時代の逸話だと言われていますが、十六羅漢信仰はその時代に生まれたものであり、十大弟子の中で只一人羅睺羅だけが十六羅漢に選ばれたことからも彼の中国での人気の程が窺われます。  
出生の次第はともかく、釈尊自身が否定しているわけでもありませんから羅睺羅は間違いなく釈尊の実子なのです。彼は父親のいないカピラ城で王子として何不自由なく素直に育てられました。  
羅睺羅が九歳になった時のことです。釈尊が久しぶりに帰城することになったのです。それを知った城の重臣たちが、幼い羅睺羅に入れ智慧をしたのです。  
「お父上に頼んで、お城や財宝を息子に譲るという証文を書いてもらいなさい」という内容でした。それは、カピラ城主の権利は事実上釈尊にあったことから教団に城を乗っ取られるのではないかと重臣達が心配したのです。  
「わたしは王になろうと思います。どうぞ財産を下さい。お宝をお与えください。」と言いながらすがりつく幼い羅睺羅に釈尊はびっくりしてしまいました。  
ことの重大さを知った釈尊は、舎利弗と目蓮を呼んで羅睺羅をニグローダの林に連れてゆき、羅睺羅を出家させてしまったのです。「お前には金銀財宝ではなく、私が修行をして得た真理の仏法という財産を継がせてあげよう」と釈尊は申されたのです。  
年少のころは釈尊の実子ということもあり、特別扱いを受け慢心が強く、釈尊より戒められたこともあったようです。20歳で具足戒を受け比丘になってからは舎利弗に就いて修行を重ね不言実行を以て密行を全うし、ついには密行第一と称せられるようになったのです。  
密行とは戒律を遵守し特に密教での修行を徹底することです。そんな厳しい修行に耐え、ついに彼は阿羅漢果を得えたのです。十六羅漢に選ばれたことなどを考えれば実に人間味あふれるドラマチックな人生を送った人だったようです。  
羅睺羅(らごら)  
パーリ語でも、サンスクリット語でラーフラ(Rāhula、राहुल)。羅云とも書かれる。密行第一(みつぎょう・だいいち)。 釈迦の長男。釈迦の帰郷に際し出家して最初の沙弥(少年僧) となる。そこから、日本では寺院の子弟のことを仏教用語で羅子(らご)と言う。  
密行第一といわれました。密行とは緻密、厳密、手抜かりのないことです。お釈迦様の実子なので、周囲はどうしても特別な目で見ることが多く、必然的に戒律を厳守するようになりました。羅怙羅、羅護羅、羅雲、羅云、とも書かれます。いずれも音写で、意味は障碍しょうげ、覆障ふくしょう、障月、執日、という意味です。お釈迦様の出家直前に生まれた子供なので、出家の決意を鈍らせる=束縛、から障碍と言う意味合いの名が生まれたと伝えられます。お釈迦様が悟りを開いて帰郷した時、12歳になった羅喉羅を初の少年僧として出家させました。そして、この時から未成年の出家には両親の許可が必要という規則が出来きました。十大弟子の中で唯一、十六羅漢に選ばれています。
目連尊者
目連は、幼い頃より舎利弗(サリープッタ)とは大の仲良しの間柄でした。祭りに興じている人々を見て無常を感じ、二人して出家を決意したいきさつは舎利弗尊者の紹介の中で話したとおりです。  
二人は幼なじみで、ほんとうに仲の良い親友同士でした。性格こそ対照的な二人でしたがいつも一緒で、亡くなったのもほぼ同じ頃で、師の釈尊よりも短命だったのです。十大弟子の中でも最も早くに弟子となり、力を合わせて初期の教団をまとめていかれたのです。  
釈尊もそんな二人をたいへん頼りにされておりました。先月の「羅睺羅尊者」の中でもふれたように釈尊の実子羅睺羅を出家させ、その後の指導の専任をまかされた程二人に対する信頼が深かったのです。「智慧第一」と称せられた舎利弗に対して、目連は「神通第一」と称せられました。「神通」とは一種の超能力のことで、肉眼では見えない処を見抜く力のことです。  
こんな逸話が残されています。釈尊がある法座に臨まれました。しかし、いつまで経っても説法が始まりません。侍者の阿難尊者が、「世尊よ、夜も更けましたので、どうかお始めください」と申されますと、釈尊は、「この法座の中に不浄の者がいるので、法を説くことはできない」と申されました。そこで目連尊者が他心通という神通力をもって不浄な比丘を見つけ、その法座から追放し、改めて釈尊に説法を願ったということです。  
あと、なんとも有名なお話が「盂蘭盆会」のいきさつでしょう。ある日、目連尊者が父母の恩に報いるために修行で得た神通力で亡き両親を探していました。  
すると仏界に居るはずと思っていた母がなんと餓鬼界に堕ちていたのです。骨と皮ばかりに痩せ細って逆さ吊りにされていたのです。それを見た目連は食べ物を鉢に入れて母に差し出すのですが、母が食べようとするとその食べ物はたちまち火に変わってしまい食べることが出来ません。  
目連は悲嘆のあまり号泣し、釈尊のところに行かれ、ことの実情を説明し救済を求めたのです。釈尊の示されたところによりますと、目連の母が餓鬼界に堕ちたのは過去世の罪過によるものであり、それを救うには多くの出家者に百味の飲食(おんじき)を供養することでした。  
7月15日の萬行のあと多くの僧侶の供養を受けて目連の母は救われたのです。「もし、後の世の人々がこのような行事をすれば、たとえ地獄にあろう者でも救われるでしょうか」と尋ねた目連に、釈尊は「もし孝順心をもってこの行事を行うならば必ずや善きことがおこるであろう」と答えられました。  
お盆(盂蘭盆会)の起源はこの曰く因縁によるものであり、お盆こそまさに「先祖供養」の原点なのです。仏教徒にとって、孝順心によるご先祖供養こそ報恩感謝の証なのです。  
さて、目連は又教団のボディガード的存在でもあったのです。釈尊の説法を守るために異教徒にはことさら厳しい対応をされていました。そのせいもあってか異教徒からはとくに憎まれる存在になっていたのです。  
目連の最期は悲惨でした。彼を憎む異教徒達に襲われ惨殺されてしまったのです。瀕死の目連のもとにかけつけたのは親友の舎利弗でした。「神通力第一の君がどうしてこんな目に・・・」と嘆く舎利弗に、目連は釈尊への最後のお別れの言葉を託して息を引きとりました。  
その後間もなくして舎利弗も病のため亡くなってしまいました。釈尊にとって舎利弗と目連の二人はまさに二大弟子だったのです。二人の高弟を一度に失った釈尊の嘆きは如何ばかりだったでしょうか。   
摩訶目犍連(まかもっけんれん)  
パーリ語でマハーモッガラーナ (Moggallāna、महामोग्गळान)。サンスクリット語でマハーマゥドガリヤーヤナ (Maudgalyāyana)。 一般に目連(もくれん)と呼ばれる、神通第一(じんずう・だいいち)。 舎利弗とともに懐疑論者サンジャヤ・ベーラッティプッタの弟子であったが、ともに仏弟子となった。中国仏教では目連が餓鬼道に落ちた母を救うために行った供養が『盂蘭盆会』(うらぼんえ)の起源だとしている。  
目連は目建連子の略。神通第一と言われます。神通じんずうとは、普通では見たり、聞いたり、感じたり、出来ないことを感じ取る超人的な能力です。この能力により、地獄で苦しむ母の姿を知り、救うために供養をした話が有名です。この話がお盆の起源となりました。当初は幼馴染の舎利弗と共にサンジャヤという人の率いる集団に所属していましたが、舎利弗と共にお釈迦様の弟子になりました。舎利弗は祇園精舎、目連は東寺を建てたことで有名。東寺は祇園精舎から東北に数キロ離れたところで、鹿子母講堂ろくしもこうどうあるいは鹿堂ろくどうとも呼ばれた、かなり大きな建物です。目連がお釈迦様の護衛をした記録が残されており、体格が良かったと想像されています。死因もお釈迦様を殺害しようとした人の弟子達によって殺されたといわれます。
迦葉尊者
釈尊の滅後、二世となって教団を率いたのはこの迦葉(かしょう)尊者でした。彼もまたバラモンの出身でした。裕福な家柄の良い家に生まれました。癇症で欲の無い子供でした。特に潔癖に症が付くほどの性格からか、結婚は望まず出家を望んでいたのです。  
なにぶん名家でもあることから両親が必死で結婚を説得して、やっと妻を迎えたのです。しかしそれから出家するまでの十二年間、妻とは一度も床を共にすることはなかったといわれます。  
やがて両親も亡くなり希望通り出家が叶い釈尊の弟子となったのです。ある日釈尊と托鉢に出た途中、釈尊が木陰で休もうとしたとき、彼は自分の衣を脱いで畳んで釈尊の座布団にしたのです。  
師の喜ばれているお顔を見て迦葉尊者はその衣を献上致しました。それに対して釈尊も自分の袈裟を迦葉尊者に与えたといわれます。彼は生涯そのお袈裟を何よりも大切にされました。これが「伝衣」の始まりとなったのでしょうか。  
迦葉尊者で有名なのは「拈華微笑」(ねんげみしょう)の故事です。釈尊が霊鷲山(りょうじゅせん)での説法の折、金婆羅華の花を一輪手にして大衆に拈じ示したところ、誰もその意味がわからない中、迦葉尊者だけがニコリと微笑されたのです。  
それを見て取った釈尊は、「わたしの仏法を今迦葉尊者にそっくり伝えた」と宣言されたのです。釈尊から迦葉へと仏法が"以心伝心"された瞬間でした。「伝衣」とこの「伝法」から釈尊の後継者は事実上迦葉尊者に決まったと言えるでしょう。  
釈尊が故郷に向かう旅先の途中で亡くなったとき、迦葉尊者は別の旅先で訃報を受けました。迦葉尊者は釈尊のもとへ急ぎました。それまでの間、阿難尊者が荼毘に付すために棺に火をつけようとしますが、何度やっても火がつきません。  
ところが迦葉尊者が拝んだあとで、パーッと燃え出したというのです。まるで迦葉尊者の帰りを待っていたかのようでした。釈尊の葬儀の導師を務めたことにより迦葉尊者が教団の二世となったのです。  
釈尊が入滅されておよそ3ヶ月後、迦葉尊者は第一回目の「結集」(けつじゅう)を開きました。結集とは、世尊亡きあと、その「法」を検証整理して後世に伝えるための「経典編纂会議」のことです。迦葉尊者の呼びかけに王舎城郊外の石窟、七葉窟に499人の阿羅漢が集結しました。  
もちろん阿難尊者もかけつけたのですが、ところが彼はまだ悟りを開いていなかったため阿羅漢の資格が無く入場できなかったのです。しかし、釈尊の侍者として25年間いつもおそばに仕え、全ての説法の内容を知っている記憶力抜群の人だったといわれます。それだけに彼抜きに経典の編纂はできないことは誰もが認めるところでした。  
しかし潔癖で厳格な迦葉尊者は頑として阿難尊者を中に入れなかったのです。それを受けて阿難はその晩死に物狂いで坐禅をしたのです。結果ついに悟りを手に入れ、すぐさま迦葉尊者のもとに急ぎました。  
迦葉尊者は阿難の悟りを認め結集(けつじゅう)に加えたのです。そして500人の阿羅漢の中から阿難尊者を司会進行役に抜擢したのです。記憶力の良い阿難尊者は「如是我聞」(わたしはこのように聞きました)と言って、とくとくと語り出し、こうして初めての経典編纂会議は粛々と進んだのです。  
迦葉尊者の入滅は劇的でした。第一回の結集からおよそ20年後、百歳になった迦葉尊者は三世に阿難尊者を指名し後を託されひとり山に入り禅定に入りました。そこに三つの山が押し寄せ彼を飲み込んでしまったのです。まさに壮絶な即身成仏でした。  
「頭陀(ずだ)第一」とは「はげみ第一」ということです。三衣一鉢というのが出家者にとっての全財産です。その粗衣粗食に耐え修行を徹底される姿に釈尊は「頭陀」の模範だと称えました。  
禅宗寺院に多く祀られている釈迦三尊仏は、向かって右脇に迦葉尊者、左脇に阿難尊者が脇侍となっていますが、舍利弗尊者と目連尊者の亡きあと、釈尊とその教えを護るのは自分たちだという決意が表れていて壮観です。  
"十大弟子"とは、すべての人間が持ち合わせている人間性を代表した尊者達と言えるのかも知れません。自分は彼等の何れに近いのかを考えてみるのも自分自身の内面を知る一助になるかもしれません。 
摩訶迦葉(まかかしょう)  
パーリ語でマハーカッサパ(Mahākassapa、महाकस्सप)、サンスクリット語でマハーカーシャパ(Mahākāśyapa)。大迦葉とも呼ばれる、頭陀(ずだ) 第一。 釈迦の死後、その教団を統率し、500 人の仲間とともに釈迦の教法を編集し(第一結集)、付法蔵 (教えの奥義を直伝すること) の第一祖となった。  
頭陀ずだ第一の摩訶迦葉まかかしょうといわれます。大迦葉とも呼ばれます。頭陀とは衣・食・住にとらわれず、清浄に仏道を修行することです。畑仕事をしていて、土から出てきた虫が鳥に食べられる光景を目撃します。間接的ですが、殺生の罪を感じ、この事がきっかけとなり出家します。清廉潔白で非常な厳格さをもって生き抜き、お釈迦さま亡き後は、教団で指導的役割を担いました。生い立ちについてはいろいろな経典に数多く登場しますが、南方に伝わったものと、北方に伝わったものとでは多少の相違があります。両親の名前など異なります。話題の多い生涯を送った人です。お釈迦様の弟子となったとき、すでに32相中、七つの相を具えていたといわれ、八日目には阿羅漢となっていた、と伝えられます。
[ 参考 ]

 

極楽浄土と天国
 
 
役行者

 

[ えんのおづの /おづぬ /おつの、舒明天皇6年-大宝元年 / 634-701伝 ] 飛鳥時代から奈良時代の呪術者である。姓は君。 修験道の開祖とされている。 実在の人物だが、伝えられる人物像は後世の伝説によるところが大きい。天河大弁財天社や大峯山龍泉寺など多くの修験道の霊場に、役行者を開祖としていたり、修行の地としたという伝承がある。  
役氏(役君)は三輪氏族に属する地祇系氏族で、加茂氏(賀茂氏)から出た氏族であることから、加茂役君(賀茂役君)とも呼ばれる。役民を管掌した一族であったために、「役」の字をもって氏としたという。また、この氏族は大和国・河内国に多く分布していたとされる。  
舒明天皇6年(634年)に大和国葛城上郡茅原(現在の奈良県御所市茅原)に生まれる。父は、出雲から入り婿した大角、母は白専女。 生誕の地とされる場所には、吉祥草寺が建立されている。  
17歳の時に元興寺で孔雀明王の呪法を学んだ。その後、葛城山(葛木山。現在の金剛山・大和葛城山)で山岳修行を行い、熊野や大峰(大峯)の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いた。兵庫県西宮市甲山、六甲山系目神山で弁財天を感得したことと関連して、役行者は奈良の天河の洞川(どろかわ)に住む近縁者、四鬼氏に命じて、唐櫃に移住させ、吉祥院多聞寺奥の院とされる心経岩、六甲比命神社、雲が岩一帯を守護させた。(以後、四鬼氏は六甲修験の総元締めとして、六甲山西部を管理していた。) 20代の頃、藤原鎌足の病気を治癒したという伝説があるなど、呪術に優れ、神仏調和を唱えた。また、高弟にのちに国家の医療・呪禁を司る典薬寮の長官である典薬頭に任ぜられた韓国広足(からくに の ひろたり)がいる。  
文武天皇3年(699年)5月24日に、人々を言葉で惑わしていると讒言され、役小角は伊豆島に流罪となる。人々は、小角が鬼神を使役して水を汲み薪を採らせていると噂した。命令に従わないときには呪で鬼神を縛ったという。  
2年後の大宝元年(701年)1月に大赦があり、茅原に帰るが、同年6月7日に箕面の天上ヶ岳にて入寂したと伝わる。享年68。  
中世、特に室町時代に入ると、金峰山、熊野山などの諸山では、役行者の伝承を含んだ縁起や教義書が成立した。金峰山、熊野山の縁起を合わせて作られた『両峰問答秘鈔』、『修験指南鈔』などがあり、『続日本紀』の記述とは桁違いに詳細な『役行者本記』という小角の伝記まで現れた。こうした書物の刊行と併せて種々の絵巻や役行者を象った彫像や画像も制作されるようになり、今日に伝わっている。  
寛政11年(1799年)には、聖護院宮盈仁親王が光格天皇へ役行者御遠忌(没後)1100年を迎えることを上表した。同年、正月25日に光格天皇は、烏丸大納言を勅使として聖護院に遣わして神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡を贈った。  
勅書は全文、光格天皇の御真筆による。聖護院に寺宝として残されている。  
伝説  
役行者は、鬼神を使役できるほどの法力を持っていたという。左右に前鬼と後鬼を従えた図像が有名である。ある時、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとした。しかし、葛木山にいる神一言主は、自らの醜悪な姿を気にして夜間しか働かなかった。そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、折檻して責め立てた。すると、それに耐えかねた一言主は、天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴したため、役行者は彼の母親を人質にした朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になった。こうして、架橋は沙汰やみになったという。  
役行者は、流刑先の伊豆大島から、毎晩海上を歩いて富士山へと登っていったとも言われている。富士山麓の御殿場市にある青龍寺は役行者の建立といわれている。  
また、ある時、日本から中国へ留学した道昭が、行く途中の新羅の山中で五百の虎を相手に法華経の講義を行っていると、聴衆の中に役行者がいて、道昭に質問したと言う。  
続日本紀  
小角の生涯は伝承によるところが大きいが、史料としては『続日本紀』巻第一文武天皇三年五月丁丑条の記述がある。日本の公式な歴史書にある唯一のものであるが、執筆の時期は役小角が亡くなってから約100年も後の頃と考えられる。  
丁丑。役君小角流于伊豆島。初小角住於葛木山。以咒術稱。外從五位下韓國連廣足師焉。後害其能。讒以妖惑。故配遠處。世相傳云。小角能役使鬼神。汲水採薪。若不用命。即以咒縛之。 / (大意)文武天皇3年5月24日、役君小角を伊豆大島に配流した。そもそも、小角は葛城山に住み、呪術で称賛されていた。のちに外従五位下の韓国連広足が師と仰いでいたほどであった。ところがその後、ある人が彼の能力を妬み、妖惑のかどで讒言した。それゆえ、彼を遠方に配流したのである。世間は相伝えて、「小角は鬼神を使役することができ、水を汲ませたり、薪を採らせたりした。もし鬼神が彼の命令に従わなければ、彼らを呪縛した」という。  
文武天皇3年5月24日は、西暦699年6月26日(7月1日説もあり)。  
解釈として、句末を示す助字の焉を抜かして文を繋げ、「外従五位下の韓国広足は小角を師としていたが、その後に師の能力を妬んで讒言した」とする説もある。広足が正六位上から外従五位下に昇進したのは、役小角が没したとされる時期から約30年後の天平3年(731年)である。さらには、広足の氏が韓国であることからか、朝鮮半島からの渡来人系呪術師が、日本古来の呪術師を妬んで起きた事件と解釈する説もあるが、韓国氏は物部氏の分流であり、渡来人ではない。  
この記録の内容の前半の部分は事実の記録であるが、後段の「世相伝テ云ク…」の話は、すでになかば伝説のような内容になっている。役小角に関する信頼される記録は正史に書かれたわずかこれだけのものであるが、後に書かれる役行者の伝説や説話はほとんどすべてこれを基本にしている。  
日本霊異記  
役小角にまつわる話は、やや下って成立した『日本現報善悪霊異記』に採録された。後世に広まった役小角像の原型である。荒唐無稽な話が多い仏教説話集であるから、史実として受け止められるものではないが、著者の完全な創作ではなく、当時流布していた話を元にしていると考えられる。  
『日本霊異記』が書かれたのは弘仁年間(810年 - 824年)であるが、説話自体は神護景雲2年(768年)以降につくられたものであろうとされている。  
『日本霊異記』で役小角は、仏法を厚くうやまった優婆塞(僧ではない在家の信者)として現れる。上巻の28にある「孔雀王の呪法を修持し不思議な威力を得て現に仙人となりて天に飛ぶ縁」の話である。  
役の優婆塞は大和国葛木上郡茅原村の人で、賀茂役公の民の出である。若くして雲に乗って仙人と遊び、孔雀王呪経の呪法を修め、鬼神を自在に操った。鬼神に命じて大和国の金峯山と葛木山の間に橋をかけようとしたところ、葛木山の神である一言主が人に乗り移って文武天皇に役の優婆塞の謀反を讒言した。優婆塞は天皇の使いには捕らえられなかったが、母を人質にとられるとおとなしく捕らえられた。伊豆大島に流されたが、昼だけ伊豆におり、夜には富士山に行って修行した。大宝元年(701年)正月に赦されて帰り、仙人になって天に飛び去った。道昭法師が新羅の国で五百の虎の請いを受けて法華経の講義をした時に、虎集の中に一人の人がいて日本語で質問してきた。法師は「誰ですか」と問うと「役の優婆塞」であると答えた。法師は高座から降りて探したがすでに居なかった。一言主は、役の優婆塞の呪法で縛られて今(『日本霊異記』執筆の時点)になっても解けないでいる。  
『続日本紀』との大きな違いは役小角を告訴したのが一言主の神となっていることで、この一言主神が後々のいろいろな説話や物語などに登場してくる。また、道昭が新羅の国で役小角に会う話が初めて出てくる。この『日本霊異記』にある説話は『続日本紀』の記録とともに、その後の役行者の伝記や説話の根幹になっている。  
信仰  
役行者信仰の一つとして、役行者ゆかりの大阪府・奈良県・滋賀県・京都府・和歌山県・三重県に所在する36寺社を巡礼する役行者霊蹟札所がある。また、神変大菩薩は役行者の尊称として使われ、寺院に祀られている役行者の像の名称として使われていたり、南無神変大菩薩と記した奉納のぼりなどが見られることがある。  
肖像  
修験道系の寺院で役行者の姿(肖像)を描いた御札を頒布していることがあるが、その姿は老人で、岩座に座り、脛(すね)を露出させて、頭に頭巾を被り、一本歯の高下駄を履いて、右手に巻物、左手に錫杖(しゃくじょう)を持ち、前鬼・後鬼と一緒に描かれている。手に持つ道具が密教法具であることもあり、頒布している寺院により差異がある。  
修験道の系譜  
修験−役行者〜1.義学(覚)−2.義元(賢)−3.義真−4.寿元(彦山開山)−5.芳元(五代山伏)−6.助音−7.黒珍(羽黒山)−8.日代−9.日円(天台 熊野社)−10.長円(天台 法華行者)十代山伏》→11.円珍(智証大師 天台寺門派祖) 
■2 
役行者とは  
「役行者(えんのぎょうじゃ)」とは、7〜8世紀に奈良を中心に活動していたと思われる、修験道の開祖とされている人物です。  
「役小角(えんのおづの)」がその本名であると言われ、またほかに「役優婆塞(えんのうばそく)」、「神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)」、「山上様(さんじょうさま)」などの呼び名があります。  
役行者が、7〜8世紀に実在したことは確かなようですが、生没年など詳しいことは不明です。もっとも、伝説の多くは、舒明天皇六年(634)1月1日に大和国茅原にて生まれ、大宝元年(701)、68歳の時に「没した」のでなく、「昇天した」としています。いずれにせよ、この世の人でなくなった、ということでしょう。  
「役優婆塞」とは、平安初期に成立したと目されている『日本霊異記』における役行者の呼び名です。優婆塞(うばそく)とは、サンスクリット「upāsaka(ウパーサカ)」の音写語で、「在家仏教信者」を意味する言葉です。役行者は、僧侶ではなく、在家仏教信者として修行した人です。  
「役行者」という呼称は、平安期に入ってから使用されだしたもののようです。それ以前の奈良時代には、「役君小角」と一般に呼ばれていたようですが、詳細は不明です。  
「神変大菩薩」とは、盈仁(えいにん)法親王がつとめられた「役行者一千百年御遠忌」を機に、聖護院門跡に三年間仮御所を置かれいた光格天皇が、寛政十一年(1799)、役行者に贈った諡号(しごう)です。諡号とは、僧侶や貴人などの死後に、その生前の行いを尊んで朝廷から贈られる名です。  
さて、役行者にまつわる伝説は、大変多く残されており、それらが記された書物なども数多く伝わっています。それら伝説のなかで、役行者は、不思議な力を駆使して空を、野山を駆けめぐり、鬼神を自在にあやつった人とされています。  
伝説には、奇想天外にすぎて、現代的には到底信じがたいようなものが多くあります。しかし、いずれにせよ、役行者とは、数々の不可思議な事績をのこした偉大な修行者、修験道の開祖として崇められてきた存在です。  
しかし、そのように伝説に彩られた役行者ですが、それが実在の人物であったことを確認できる正史と言われる史料は、非常に限られています。いや、たった一つで、しかもわずか数行でしかありません。平安初期に編纂された、『続日本紀(しょくにほんぎ)』にある記述がそれです。  
『続日本紀』にみる役行者  
「文武天皇三年五月丁丑」 役君小角(えんのきみ しょうかく) 伊豆島ニ流サル。初メ小角葛城山(かつらぎさん)ニ住シ呪術ヲ以テ称サル。外ノ従五位下韓国連廣足(からくにのむらじ ひろたり)焉ヲ師ト為ス、後其ノ能ヲ害(そね)ミ、讒(ざん)スルニ妖惑ヲ以テス。故ニ遠島ニ配セラル。世ニ相イ伝エ言ク。小角能ク鬼神ヲ役使シ、水ヲ汲ミ薪ヲ採セ、若シ命ヲ用ヒザレバ即チ呪ヲ以テ之ヲ縛ス。(原漢文)  
〈訳文〉 文武天皇3年(699)5月24日、役君小角が伊豆島に流された。小角は葛城山に住み、呪術をよくすると、世間の評判であった。従五位下の韓国連廣足という者が、当初この小角を師と仰いでいたが、その能力をねたんで、(役小角が)人々に妖言を吐き惑わしていると朝廷に誹謗中傷した。そのため、(小角は)遠島の刑に処せられたのである。世間の噂では、小角は巧みに鬼神を使役して、水を汲んだり薪を採らせ、もし(鬼神が)命令に背くようならば、たちまち呪術によって身動きがとれないようにしてしまう、などと言われている。  
ここからわかることは、「鬼神を使役できると世間で噂されている、葛城山に住む行者の役君小角が、従五位下というかなり高い官位にあった弟子の告発で島流しにあった」ということだけです。正史からは、役行者の人となり、生い立ちや思想などはまったく知ることが出来ません。しかも、役行者が流刑に処せられたのは事実としても、その業行は、あくまで「世間の噂」でしかありません。宗教者が社会を「妖惑」するのは、いつの世も為政者にとって、とても危険なことです。例えば「僧尼令」でも、社会を妖惑する行為を第一条にて禁じています。正規の僧尼でも、これを行うものは処罰されたのです。役行者のように、山に住んでいる「在俗の者」がこれを行うのは、なおさら危険とされて配流されたのは当時として当然と言えるでしょう。役行者に関連して、正史から知られることは、ただこれだけのことです。  
『日本霊異記』にみる役行者  
次に挙げるのは、史料ではなく、あくまで説話集です。  
同じく平安初期に、『続日本紀』にやや遅れて成立したとされる、薬師寺の僧景戒(きょうかい)によって編纂された日本最古の説話集、『日本現報善悪霊異記』いわゆる『日本霊異記(にほんりょういき)』です。この上巻に、当時の世間一般が流通していたであろう、役行者にまつわる説話が収録されています。ここでは、『続日本紀』に見られなかった、役行者の出自についてなどが若干記されており、いかなる修行を行っていたかを多少描かれています。 むろんこれは説話集ですから、それが事実であったかどうかは別の話です。  
「孔雀王の咒法を修持し、異しき験力を得て、現に仙と作りて天に飛ぶ縁 第二十八」 役優婆塞(えんのうばそく)は、賀茂役公(かものえのきみ)、今の高賀茂朝臣(たかかものあそん)といふ者なり。大和国葛木上郡茅原(ちはら)村の人なり。生(うまれながら)知り博学一なり。三宝を仰ぎ信(う)けて業とす。毎(つね)に庶(ねが)はくは、五色の雲に挂(かか)りて、仲虚(なかぞら)の外に飛び、仙宮の賓と携り、億載(おくさい)の庭に遊び、蘂蓋(すいがい)の苑に臥伏(ふ)し、養性(ようじょう)の気を吸ひ、くらふことをねがふ。所以(ゆえ)に晩年四十余歳を以て、更に巌窟に居り、葛を被、松を飲み、清水の泉を沐み、欲界の垢を濯ぎ、孔雀の咒法を修習し、奇異の験術を證し得たり。鬼神を駆使得ること自在なり。(以下略:後述)〈原漢文〉  
〈訳文〉 「孔雀明王の呪法を修め、不思議な力を得て、現世で仙人となって天に飛んだ話 第二十八」 役優婆塞は、賀茂役公、今の高賀茂朝臣の出身である。大和国葛木の上郡茅原村の人であった。生まれつき博学でぬきんでており、仏法僧の三宝を深く信じていた。いつも(彼が)心に願っていたのは、五色の雲に乗って、果てしない空を飛び、仙人の宮殿にいる客人と一緒になって、永遠の楽園や、華の満ちた苑起居してその「気」を得、身心生命を養う事を心掛けていた。(若い頃からそのようにねがっていたので、)四十歳を過ぎるころには、洞窟で生活するようになり、葛で作った着物を羽織り、松の実を食べ、清らかな湧き水で沐浴するなどして、俗世間の垢を落とし、孔雀明王の呪法を修行して、不思議な力を得たのである。鬼神を使役することは自由自在であった。(以下略:後述)  
原文の全てとその訳文を掲載するのは長くなりすぎるため、省略いたしました。以上に述べられているのは、役行者は、三宝に帰依する優婆塞あり、その上に道教的、密教的な苦修練行によって不思議な修験の術を得たというのです。ここでは道教と仏教とが混在しており、なんとも奇妙ですが、これが『日本霊異記』当時の日本民族宗教に対する一般的な見方とも考えられます。これは、いまだ弘法大師空海によって、悟りをその第一目的とする「純密(じゅんみつ)」が、唐からもたらされる以前に行われていた、悟りを第一目的にするのでなく、超自然的能力の獲得をこそ主目的とする「雑密(ぞうみつ)」を、役行者が行っていたとする伝承と見ることが出来るでしょう。また、修験がまだ正統な密教の影響を多分にうけて「修験道」として成立していない時代の反映とも見ることも出来るでしょう。さて、以下に、先ほどは長きに過ぎて省略した箇所の、概要だけを示しておきます。  
〈概要〉 この後、孔雀明王の呪法を習得した役行者は、鬼神達に、「金峯山(きんぷせん)と葛城山(かつらぎさん)の間に橋を架けろ」と、(途方もない無理難題を)言いつけます。鬼神達はそんなことは到底出来ない、と悩み、困り果てます。そこで、葛城山の一言主(ひとことぬし)という神は、(役行者の無理難題から逃れるため、人にとりついて)「役行者が、文武(もんむ)天皇を抹殺しようとしている」という託宣をさせます。当然、文武天皇は、役行者を捕縛しようとしますが、役行者は不思議な力があるため容易に捕まりません。そこで、天皇が役行者の母を捕らえると、役行者は母のために自ら捕縛され、伊豆に流されます。役行者は、昼は刑罰どおり伊豆でおとなしくしているも、夜になると富士山に飛んで行き、そこで修行する日々を送っていました。しかし、何者かが再び天皇へ讒言(ざんげん)したため、役行者は今度こそ極刑に処されかけます。ところが、不思議な出来事があって助かるのでした。伊豆での生活も3年を過ぎた大宝元年(701)正月、役行者は恩赦(おんしゃ)によって許され、大和に帰ります。そして、役行者はついに仙人となって、どこか天高く飛んでいってしまうのでした。この後、日本の道照(どうしょう)という高僧が、天皇の命によって唐に渡り、そこで五百人の中国僧を前に『法華経』を講義していると、日本語で問い掛けてくるものがあります。道照が「誰だ」とその名を問うと、「役優婆塞」という返答があります。道照は、日本の聖人に違いないとおもってその声の主を探しますが、ついに見つけることは出来ませんでした。さて、役行者を讒言(ざんげん)によって流罪にさせた一言主は、いまだに役行者によって呪縛されたまま(『日本霊異記』編纂当時)だといいます。  
以上が、『日本霊異記』に掲載される役行者の説話です。この説話の最後は、「役行者があらわした奇瑞はあまりに多く、それらを逐一挙げることは面倒である。ほんとうに仏法の不思議な力は広大で、信仰した者は必ずそれを知ることになるだろう」と結んでいます。さて、以上はあくまで説話、いわゆる「お話」でありますが、例えば、唐で役行者の声を聞いたという道照は、白雉四年(653)から斉明天皇五年(660)にかけ唐に渡り、かの玄奘三蔵に師事して学んだ高僧で、文武四年(700)に没した人です。しかし、そうすると、『続日本紀』の記事にある「699年に役小角が伊豆に流された」と、『日本霊異記』の「701年(以降)に役小角がどこか天高く飛んでいった」「その後、道照が役行者の声を唐で聞いた」とする話とでは、半世紀ほどの年代的ずれが生じていることがわかるのです。役行者が「どこかに飛んでいった」ときには、道照はすでに没してこの世に無かったのですから、この話は虚構に過ぎないと言えるでしょう。また、別の側面から一言すると、そもそも役行者が流罪に処されたのは、鬼神達に対して全く理不尽と言える要求をしたことに起因しており、よって自業自得であったとも言えます。しかし、役行者は一言主神(ひとことぬしのかみ)を呪縛して放置するなど、仏教者として意外とも思える行動に出ていることが描かれています。が、それでも『日本霊異記』の中で尊敬の対象とされ描かれているのは、『日本霊異記』の編者景戒が、役行者の「不思議な力を獲得していた」という伝承をこそ重く見たためでしょうか。  
しかし、この『日本霊異記』の説話が、後代まで語り継がれることとなる、伝説的存在としての役行者の姿を描いた原型となったことは間違いないと見て良いでしょう。役行者を「役優婆塞(えんのうばそく)」と仏教の在家信者としていること。仏教と道教との混同がみられること。『孔雀王呪経』という密教経典に基づくと考えられる、孔雀明王の呪法を行ったとしていること。富士山で修行したとすること。仙人となって中国に渡った、などといった点がそれです。このような『日本霊異記』に見られる、伝説的存在としての役行者像の原型は、幾多の書物の中に踏襲され、鎌倉・室町・江戸と時代が下るごとに、さらに超人的能力を持った者として描かれていきます。そしてまた、『日本霊異記』ではある観点からすると、むしろ「不思議な力で鬼神をも使う呪術者」とも捉えうる人であったのが、後代になるに従い前鬼後鬼を改心させた、あるいは雨乞いの民衆を助けた等の民話が出てきて「人格的にも優れた立派な人であった」と描かれるようになっていき、全国各地で民衆の信仰をより集める存在となっていきます。  
■3 
修験道とは  
修験道は、山を聖域と見、その聖域の奥深くまで分け入って修行することによって、神秘的な力を得、その力によって自他の救済を目指そうとする山岳信仰の宗教です。このようなことから、修験を「山伏(やまぶし)」と言うこともあります。修験との名称は、その字の如く、「修行して験力を顕す道」であるということから名づけられたものです。修験道は、自然の中でも特に「山」を神聖視してきた日本人古来の山岳信仰に、インドの宗教である仏教や、中国の宗教である道教や儒教など、外来の宗教が結びつき、さらにそこに神道や陰陽道、民間信仰などまでが取り入れられ、次第に形成されてきました。修験道の教義や世界観、修行方法は、ほとんどの場合仏教、とりわけ密教のものが取り入れられており、そのため仏教や密教についての知識がなければ、まず修験道を理解することは出来ません。しかし、では「修験道=仏教」かというと、そうとは言えません。これは、中世より修験道を伝えたのが、役行者のような在俗の者だけではなく、仏教僧のなかでもとりわけ密教僧が主体であったためです。よって、「修験道は仏教の一部」と見なされる場合が多く、修験道を仏教の修行法の一つとして考えられています。修験道とは、日本古来のきわめて漠然とした宗教的心情を、主に仏教の思想体系によって整理し、さらにその他の宗教をも換骨奪胎して形成されてきた「日本独自の宗教」である、と捉えるのが妥当かもしれません。  
修験道の歴史  
修験道は、7〜8世紀に大和葛城山で活動していた呪術者、「役小角(えんのおづの)」によって開創されたと伝承されています。もっとも、現実には、役小角が当初、具体的にどのような思想を持ち、どのような修行を行っていたかは、ただ葛城山の中に住んで呪術を駆使していることが知られているだけで、詳しいことはわかっていません。そして、そのような役小角は、弟子の讒言により島流しに処されたことが伝えられています(『続日本記』)。  
又、奈良中期から末期にかけて、仏教僧の中に山林修行を行う者が多数現れます。  
平安期初頭に密教が日本に伝えられると、修験道は、主に密教の僧侶による主導のもと、仏教のなかでも特に密教の体系的な思想と修行法を導入した、「仏教の一派」「仏教の修行法の一つ」とも言い得るものになっていきます。現在、修験道の当山派と本山派という二大流派の派祖として崇められている聖宝と増誉は、それぞれ真言密教僧と天台密教僧なのです。  
奈良時代には、国家から危険視されて規制の対象となり、社会からも賤民(せんみん)として扱われさえしていた山林修行者の一部は、真言密教を初めて日本に伝えた空海や、天台宗の密教を伝えるために唐に渡った、円仁(えんにん)・円珍(えんちん)などによって、密教が隆盛を迎えるようになった平安期になると、貴族達などからむしろその験力、呪力などによる現世利益が期待される存在となり、ある程度の社会的地位が約束されるようになったようです。  
鎌倉初期には、必ずしも僧侶でない一般の山林修行者達が、修験道独自の集団を形成していき、次第に神道や陰陽道などさまざまな宗教の思想を取り込みつつ、民衆の支持を集めていったようです。そしてその修行や活動拠点は、葛城山・大峰山・金峯山・熊野三山だけでなく、富士山・羽黒山・彦山・御嶽山・大山・白山など全国各地に広がりを見せ、それぞれが独自の教義や一定の組織を持つに至ります。しかし、江戸幕府が開かれると、それら全国各地に展開していた修験者たちは、一部を除いて、真言系の当山派か天台系の本山派の、何れかの派に所属させられることになります。  
明治維新を迎えると、国家神道の(「神道とは宗教のような低俗なものでなく、より普遍的科学的な人の道」とする)建前上、神道を含んだ様々な宗教の混淆である修験道は、容認できるものでなかったため、明治元年(1868)から明治5年(1872)にかけての太政官達によって、公式には廃止されます。しかし、それまで修験道を支持していた人々の信仰や、祭祀などの慣習まで廃することは出来ず、また修験道側も、組織として真言宗醍醐派や天台宗寺門派に属してその命脈を保とうとするなど、なんらかの形で存続します。  
そして、昭和の大戦後、修験道諸流は、それぞれが宗教法人格を取得するなどして、一個の独立した宗教として復活することになります。 
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鬼人 役行者小角 
修験道や神仙道の開祖とされる役行者にまつわる伝説をまとめたものである。志村氏の奇伝好きが嵩じてか、そのスーパーマンぶり(鬼人!)がトコトン描かれている。そして、役行者は何者であり、どのように生きたのか、未だ霞がかってはいるが、我々に見えるようにしてくれた。周辺の強烈な人たちの奇伝も面白い。  
母は、大和葛城山一帯の豪族である高加茂氏の事葛城君の一人娘、白専女(しらたらめ)である。養父は、出雲の加茂氏出身の大角であり、そこは雅楽と兵士の家系であった。大角は早くに亡くなっている。実父は諸説ある。大角、舒明天皇の落胤、「独鈷杵」が口から入る夢を見て懐妊したとの神話、その他である。小角とは幼名であり、成人後の名が伝わらなかったので、そのまま使われた。舒明6年(634)、生まれたときに角があったという。3歳で梵字を書き、7歳で慈救の呪を十万遍誦した。10歳頃に仏教の勉強をはじめ、17歳で出家し、19歳で大峯(山上ヶ岳山系)での修行に入った。  
大峯では木食(もくじき)して神仙道(修験)の修行を行い、仙人になって種々の神通力を得、空も飛べるようになったと書かれている。その山には大峯権現神社を建てた。役行者は後に吉野金峯へ移っている。その土地神である山神金精大明神を拝んでいると、地蔵菩薩や弥勒菩薩が出てきたがそれを捨て、最後に金剛蔵王権現が現れ、これに帰依した。山上ヶ岳を西に下った天川では修行中に弁才天が現れている。そこに天河弁財天社が建ち、後に箕面へ勧請された。このように中世の神仏習合の素材となる活躍があった。  
役行者は、九州から東北までの各地の山岳信仰に関わりを持ち、修験道の開祖とされている。むしろ「登山家」というべきだろうが実に多くの高山に登ったと書かれている。彦山、富士山、秩父今宮神社、出羽三山…。飛んできては山の修験の開祖となっている。また、彼は僧姿ではなく、俗形で各地を歩いたようである。俗にありながら五戒を守る者を「優婆塞(うばそく)」という。役優婆塞とも呼ばれた。  
役行者は前鬼・後鬼を従えていた。神仙道の神通力を持っていたからだとされるが、志村氏は、おそらく古代の大峯山中に住んでいた異形の者たちであったろう−と言う。これを、密教系の修験者が使役する「護法童子」のイメージと混同したのだと。また、葛城山の地神であった一言主神も配下として使った。元は葛城地方の豪族であったが雄略天皇に敗れて忘れ去られた勢力であり、後の葛城山の山人(山伏)を指しているとする説が紹介してある。  
修験道の開祖と同時に鉱山との関係もありそうである。鉱山の神様は「金山彦」であった。壬申の乱で大海皇子は大友皇子に追われ、吉野から山城、志摩を経て美濃へ落のびる。この美濃で加担したのが、不破明神(金山彦)であった。金山彦とは鉱業をバックとした新羅系の軍団である。役行者も大海皇子との政治的なつながりを持つ。大海皇子が吉野山に身を寄せたのも、葛城山の豪族でもある役行者を頼ってのことである。後に天武天皇となって室生寺や当麻寺の建設でも役行者と関係した。逆に考えると、役行者とは、金山彦と似た鉱業関係の新羅系豪族であったかも知れない。更に、役小角の神通力は百済の高名な僧より強いとする話もある。仏教拡大に抵抗する勢力のようでもあった。  
文武天皇のとき、韓国連広足(従五下位典薬頭)の讒言にあって役行者は伊豆大島へ流刑になった。更に、島へ役人を派遣して斬ろうとすると「富士明神」が出て刀をボロボロにしていまった−とする話ができている。その間に韓国連広足は頓死してしまう。天皇の夢に「北斗七星」が現れて、役行者の刑は解かれた。参内を求めらるが固辞し、唐に渡ったか熊野で入定したとされている。後に光格天皇より「神変菩薩」の贈り名があった。 
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役小角(えんのおづぬ、えんのおつぬ) / 役優婆塞(えんのうばそく) 
役行者、名は役小角、後に光格天皇から「神変大菩薩」の号を贈られる。白鳳時代の山岳修行者で、修験道(しゅげんどう)の開祖として山伏たちに崇められている人物。全国各地の山岳寺院の多くが彼を開祖としている。北河内でも、交野市私市の山の上にある獅子窟寺が、この役行者を開祖とする。 
大和国南葛城郡茅原(ちはら)村(現在の御所市茅原)で、舒明天皇6年に賀茂氏の流れを汲む家に生まれた。17才で元興寺に学び、やがて、葛城山で山林修行に入り、さらに、熊野や大峰の山々で修行を重ねる。 
ある時、北の方角に霊光を見、その光を追って摂津国の箕面山の大滝に至り、滝穴の中へ入って、そこで龍樹菩薩から大いなる法を授けられて悟りを開く。龍樹菩薩は二世紀頃の南印度の人であるから、もとより、それは事実ではなく、滝は龍であるとの観念によるものであろう。その後、吉野の金峰山に行き、ここで、蔵王権現を感得する。彼は、憤怒の形相すさまじいその仏の姿を、悪魔を降伏させ衆生を済度する仏として、桜の木に刻んで堂に祀る。これが金峰山蔵王堂の草創であると云う。 
やがて、彼は全国の霊山と云われる山々をくまなく遍歴し、その足跡は、北は羽黒、月山、湯殿の出羽三山より、南は彦山、阿蘇、霧島、高千穂に及び、それと共に彼の法力、行力は比類もなく高められて、超人的な域に至った。 
彼には、前鬼(善童鬼)、後鬼(妙童鬼)と呼ばれる夫婦の従者がいたと伝えられ、また、吉野山と葛城山との間に石橋を架けようとしたと云う伝説もある。 
ところが、文武天皇3年(699)5月、彼の弟子の一人であった韓国連広足(からくにのむらじひろたり)が、その能力を妬んで彼を讒言したため、妖術をもって人心を惑わす者として捕らえられて伊豆の大島に流罪になる(この伊豆嶋流罪の記事だけが、彼について史書が記した唯一のものである)。 
2年後の文武天皇5年(701)1月、罪を許されて帰京するが、それから4ヶ月後の5月(3月に大宝と改元して大宝元年5月)箕面において寂滅したと云う。 
霊異記 / 仏法を厚くうやまった優婆塞(僧ではない在家の信者)として現れる。大和国葛木上郡茅原村の人で、賀茂役公の民の出である。若くして雲に乗って仙人と遊び、孔雀王呪法を修め、鬼神を自在に操った。鬼神に命じて大和国の金剛山と葛木山の間に橋をかけようとしたところ、葛木山の神である一言主が人に乗り移って文武天皇に役優婆塞の謀反を讒言した。役は天皇の使いには捕らえられなかったが、母を人質にとられるとおとなしく捕らえられた。伊豆島に流されたが、昼だけ伊豆におり、夜には富士山に行って修行した。大宝元年(701年)正月に赦されて帰り、仙人になった。一言主は、役優婆塞の呪法で縛られて今(霊異記執筆の時点)になっても解けないでいる。 
仏教は平野部に寺院を構えることによって始まったが、しばらくすると、俗塵を離れて静寂な山中に入って研学・修行しようという僧侶たちが現れてくる。それは原始的な山岳信仰にも支えられたものであった。役行者はそうした山岳修行者たちの、おそらく、最も早い段階の人物であったと見られる。そうした山岳修行者たちによって、次第に修験道が形成されてゆく。修験道は山岳信仰を基底に置き、それに密教と道教が習合したもので、平安時代iに聖宝らによって体型化される。この過程において、役行者は修験道の開祖者であるとされた。最も古い山岳修行者であったことによる。修験道の行者たちが山伏である。彼らは山岳に登って難行苦行を重ねて呪力を体得し、それに基づいて加持祈祷をする。 
山伏たちは全国の山々を修行の場とする。そうした山伏たちの修行の山々に建てられた山岳寺院は、しばしば役行者を寺の開基とするが、実際に役行者によって開かれたとは限らない。従って、交野の獅子窟寺も、役行者によって本当に開かれたものかどうかは定かではない。しかし、少なくとも、そこが、役行者を開祖と仰ぐ山伏たちの修行の道場の一つであったことだけは間違いない。
■6 
八大竜王 
御名とおはたらき 
難陀(なんだ)・跋難陀(ばつなんだ)・沙伽羅(さがら)・和脩吉(わすきつ)・徳叉迦(とくさか)・阿那婆達多(あなばたつた)・摩那斯(まなし)・優鉢羅(うはら)の八大竜王の総称。法華経の会座に列した護法の竜神。 
八大竜王は、釈迦生身の眷属で、釈迦生誕の砌、彼等が天より甘露を降らせ祝福したともいう高い神格をもつ竜神。水を司どる神、水分の神でもある。 勝れたるものは、自由に雲を起してその中を飛翔し、殆ど天と等しき威徳あるものとして顕教、諸教にある。 
「妙法蓮華経」の中の観世音菩薩普門品の別称を「観音経」といい、我国では聖徳太子により最初に講じられているが、釈迦がこの中で観音に帰依すれば「観音が身を三十三身に変じてあまねく衆生を救い、願いを叶え、教化して下さること」を説いている。十六弟子を始め、諸仏、諸菩薩と共に、生きとし生けるものの代表として八首の竜王が幾千万の眷属をひきつれて、この経を聴聞した結果、観音の教化によって、仏道に向かわれた神でもある。従って観音菩薩の宝珠(魂)をその身に宿されて、観音と一体となり、観音菩薩の守護神となって霊山の「神々と諸仏、諸菩薩」との橋渡しの役割をされた神ともいえる。異質なもの(神と仏)との和合を願った「釈尊、聖徳太子、役行者」の共存共栄の大きな世界実現に大きな使命をもたれている神であることが解る。 
奈良時代前後に成立した霊場には、例外なく○○竜神や八大竜王、又はこの中の1、2首の竜王が祀られ発展してきた歴史がある。しかし八大竜王全首奉斎されてたり、神格の高い神々と習合しているところは意外と少ない(明治維新時にかくされてしまった神々だが、時の要請に従ってあちこちで復活の話も取り沙汰される昨今である)。 
密教大辞典には、各竜王の神徳について次のように記されている。「難陀」は歓喜、「跋難陀」は賢喜、亜歓喜、難陀の兄弟。「沙迦羅」は海の意、請雨法の本尊。印度無熱池に住し密教の守護神。「竜女成仏」はこの竜王の女の成仏を説く。「和脩吉」は宝有、多頭、九頭竜のこと。「徳叉迦」は、多舌、毒視、和脩吉と同胞。怒って凝視すれば、人畜直ちに命を終える、と。「阿那婆達多」は無熱。雲山頂の池に住み、四大河(東ガンジス、南インダス、西オクサス、北シーター)を分けて、人間世界を潤す、一切馬形、徳が最も高い。「摩那斯」は大尉、高意、慈心、大力大身、雨を降らさんとするとき、七日衆事の終わるを待って、それから雨を降らす、故に慈心と那尽く。「優鉢羅」は青蓮華と訳す。青蓮華池に住する故にこの名あり・・・と。 
竜の起源 
難陀(なんだ)はサンスクリット語「ナーガ」からきている。インドのナーガ族が、蛇を神格化して蛇神崇拝をした。日本にきて、イザナーギ、イザナーミになったという説もある。大海に棲み、雲を呼び、雨を降らす秘力を持つ。神格の高い竜を竜王と称えた。「竜神は「カ(火)とミ(水)」で「神」の語源とも。水は潤いを意味し、恵みに通じる。水と観音菩薩の「恵みと慈悲」は、万物の命を支え育むところからも「不離一体」といっても過言ではないだろう。」とも言われている。 
竜泉・竜樹・竜穴信仰と和脩吉・沙迦羅 
竜神への祈願については、桓武天皇の御代(824)に空海の請雨により神泉苑の竜上天し、雨振る(江談抄)とか、「弘法大師早魃の時神泉苑にて請雨経を修するに、天竺の阿耨達智池より善女竜王きたりて雨を降らす」とかは、我国最大の古代説話集の今昔物語に記されている。善女竜王とは沙迦羅の第三女善女竜王。やや前だが、役行者開創の宝生寺の竜穴神社で、宝亀年中(770-780)、皇太子時代の桓武天皇の病気平癒が僧侶により祈願されたと続日本書紀にある。鎌倉時代橘成季の成した古今著聞集には、澄憲、災早の時竜神に祈りて雨を降らすともあり、神泉や竜穴と共に竜神への信仰の大きさを知ることができる。奈良県天川村の 龍泉寺も、圭室文雄編「日本名刹事典」によれば、「開基の役行者が八大竜王を祀ったことに始まる。」と記されている。ここには「竜の口」の伝説がある。この泉は今も大峯山修験者の清めの水として清冽な流れを 寺の林泉にたたえている。 
奈良県吉野山の金峰山修験本宗の総本山は、役行者が、蔵王権現を感得した寺として有名だが、傍らの行者堂を下った処にある「竜王院」では、先代五条覚澄師が八大竜王と共に脳天大神を祀られている。愛媛県西条市石鎚神社の「八大竜王社」。高野山の八大竜王は弁天さんとして祀られている。一は天川系、二は高野山系である。二は、独自で山の周辺にいくつか祀られている。御神体は木彫りの二つの蛇体で、その上に頭があり、顔は人面で翁と嫗である。千葉県市川市の「法華経寺」には文応元年(1260)になって日蓮により、八大竜王が祀られている。 
九頭竜の名は比較的多くの人に知られている。この竜王は、八大竜王の中の一首で「和脩吉竜王」のことである。諸竜の王、細竜の類を食う密教擁護の善神といわれ、水天の眷属でもある。長野県「戸隠神社」、(元比叡山延暦寺末寺)「箱根神社」の湖上祭の御祭神も九頭竜である。金龍山の山号に輝く浅草寺の境内にも九頭竜権現が祀られている。福井県の九頭竜川野流域には、九頭竜権現の小祠が多くみられる。 
清竜権現で知られるのが沙迦羅竜王の第三女善女竜王である。密教では如意輪観音の化身として崇められている。弘法大師帰朝の祭、青龍寺から勧請して青瀧と改め、聖宝の代醍醐寺に移した。現山上の清瀧堂は国宝。沙迦羅竜王と「竜女伝説」で名高いその女を祀っているのが、山形県鶴岡市の善宝寺。庄内札所一番でもある。明治維新直後から八大竜王の御名を秘して、「戒道大竜女」の別称で祀られている。沙迦羅は海の神、請雨法の本尊で、現在も神職の参詣も多いという。 
八大竜王と役行者 
八大竜王は役行者=役小角(624-710)が奉斎したことで知られる。役小角は聖徳太子没して12年後、*明6年に葛城山の麓、茅原の里(現御所市)に出雲の加茂氏と葛城氏の娘との間に生れ、仙道、道教、古神道、仏教を学んだ。これに満足せず、人間完成への探究と実践こそ神仏の境地到達の道であり、国家安泰、万民幸福の道であると悟り、更に難行苦行し、箕面山で竜樹から乱れた世を救う悲報を授かった。吉祥草寺、蔵王堂をはじめ、関東では日輪寺(茨城)、大平山三吉神社(秋田)、金嶺神社(山形)、熊野神社(山形、温海町)など、役行者開基や何らかのかかわりをもったと伝えられる寺社は四十余ヶ寺数えられるという。それ程に力を持った役行者については、「超人、役行者小角」に「神変不可思議、得体の知れぬ謎の超人」と述べられている。 
その役行者が11才の時(645)に、大化改新を迎えている。38才の時には、壬申の乱(672)で天武軍を援け、その後天武帝に重く用いられたといわれている。真剣に国家安泰、万民幸福への道を探り、衆生を教化して、人々を仏の道に誘うことを願って「行学」の限界を修め、遂に神仏習合の神々を時と処に尋ねて、祀っていった。その結果、農耕国家かつ仏教国家にとって「水から生れる発想や自然の摂理」を祀ることと共に、「国家安泰、万民幸福」を国家的規模で祀る重要さを感じていたことが推定できる。「水と観音」が一体となった姿、それが八大竜王でありそれは、万物の生命の根元であり、愛でもある。そして生きる力でもあり、真理である。 
役行者と秩父 
699年に伊豆に流された役行者は、701年に罪を許されている。その後箕面に住んだが、その頃知々夫(713年に秩父となる)の地に訪れている。その地には既に御巫八神が祀られていたからに他ならない。そして八首の竜王(八大竜王)を合祀して八大宮と称した。神界で最高の神格をもたれた八神と、仏界で大日経系の胎蔵界の最高尊格を持たれる大日如来との橋わたし役をされる使命を八大竜王にみたのであろう。観音菩薩と不離一体であるという八大竜王の(御神徳=力=教え)に、役行者は、将来の希望即ち国家安泰、万民幸福の願いをたくされたのではなだろうか。「その後相州の八菅山(703)そして和銅3年(710)に入定した。」という。果たせるかな、秩父はほどなく、行学を修め、人間探求と実践並び神仏の境地到達の道を求める修験道の一台拠点(聖護院直末寺、大先達)となり、その後500-800年を経て天文五年(1536)観音札所34ヶ寺が整えられた。そして江戸の発展に伴い、多くの巡礼を受け入れ、観音札所と八大現社(今宮八大宮)は共々盛んとなった。しかし、明治維新と太平洋戦争敗戦の荒波と、観光商業主義の世情の中に、御巫八神と八大竜王を祀る八大宮はしずまられ、およそ130年の間、お隠れになる日々を余儀なくされたのである。 
水分の神 
明治維新から130年、再び「水」の神徳を求める人が増えて、八大竜王はあらためて水の神として、又、神と仏の橋わたしの使命をもたれて顕れ出られる時を迎えようとしている 。 
このような時を迎えることが出来たのは、昭和から平成にかけての観音信仰、札所めぐりの復活である。特に百観音めぐりを世に出された浅草寺清水谷孝尚師、満願寺平幡良雄師の尽力は特筆されていくだろう。かつては御巫八神→八大竜王→観音菩薩という順序で祀られた神仏だが、激動の明治→平成を経て観音菩薩→八大竜王→御巫八神の順で光があてられていくのだろうか。しかし、時代のうつりかわりをよそに、竜神信仰の珍しい神事の一つに秩父今宮神社の水分祭がある。これに先立って毎年4月4日、竜神木前で、竜神を称える竜神祭。続いて今宮神社の「水分祭」が行われる。この水は武甲山の伏流水がわき出しているところである。この日は秩父神社のお田植祭(祈年祭)でもあり、秩父神社から神官、伶人、神部(かんべ)(農家の代表)、市や町会の代表者が「水乞い」に来られる。今宮神社から秩父神社に八大竜王並びに八神の御神徳=※生きとし生けるものの生命の源、生成発展の力=を「水幣(みずぬさ)」に託して授与する日である。水幣は八大竜王(明治期以降は(おかみ)の神)即ち「水」と「自然の法に則した教え」の象徴でもある。この恵みによって秩父神社のお田植え祭が行われる。そして秋になると稲が収穫され、新殻が秩父神社から今宮神社へ奉納され、そして水は山(武甲山)へ返される。神々を称え、そして感謝するおまつり、それが12月3日の秩父神社の夜祭で、豪華な付祭はあまりにも有名である。 
竜神様の卵好きはよく知られる。この外、神共には毎夜丑の刻、米3升を炊いて供え又、特に梨を好まれる。 
「時により過ぐれば民のなげきなり、八大竜王雨止め給え」(金槐集、源実朝)は、建歴元年7月洪水天に漲(みなぎ)りて土民苦しみしかば右大臣実朝が詠じた歌として知られる。
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修験道 
わが国古来の原始的宗教ともいえる民俗信仰として山岳信仰(山の神への畏怖と崇拝)があり、それらに呪術や巫術などのシャーマニズム、大陸から渡来し仙境・仙人などの概念をもたらした道教が複合し、飛鳥時代には仙境と称された吉野・熊野や葛城山に籠り仙人に成ろうとする行者が現れている。これらの者のなかでもっとも知られたのが役小角(役行者)で、後に小角は修験道の祖とされる。平安時代に天台、真言両宗により密教がもたらされたことから、それらの教義によって修験道として確立。こうしてわが国独自の宗教的活動としてスタートした修験道は、その成立過程で密教の修行とされる籠山や回峰行などの山岳仏教と習合した。  
修験の霊場あるいは道場としては熊野三山を拠点とする熊野修験、さらに弥勒下生の地とされた金峰山を拠点とした修験が最も盛んで、そのどちらも大峰山の峰入を修行の場としていた。  
○聖護院、三宝院は、峰入といひて、大峰山にのぼり給ふことあり。役行者の跡をしたひ物せさせ給ふよし也。熊野より大峰をへて吉野に出るを、順峰入といひ、よし野より大峰をへて熊野に出るを、逆峰入といへり。春山と秋山とにて、順逆の差別をするは、ひがごと也。(『橘窓自語』)  
この外、羽黒山、日光、彦山などにも修験が起り、役小角の修行の地葛城山、北アルプスの雄峰立山、伯耆大山、富士山、筑波山、戸隠山など全国の主な山がその対象となっている。  
これらの事から、室町期になると修験道は台密系の聖護院を本山とする本山派と、東密系の醍醐寺三宝院を本山とする当山派の二大潮流が生まれ、江戸期には全国の修験道が幕府の宗教政策により、この二派に組み入れられる。  
本山派(ほんざんは)  
修験道の世界では、熊野と金峰の修験が最も盛んで、それらの修験道が全国に影響を与え、勢力を伸ばしていた。しかし、戦国期になると熊野三山の影響力が衰え、それまで三山の検校とはいえ名目だけの存在だった聖護院門跡は、衰勢の挽回のため自ら修行を行う。特に第二十三代熊野検校になった道興は、那智籠のうえで西国・東国を巡錫し、熊野先達を直接聖護院の配下にしていった。さらに京都東山に勧請されていた熊野若王子社を別当とし、乗々院を熊野三山奉行にするなど、全国の熊野社・修験を傘下におさめ本山派を形成した。本山派では各地の熊野先達を年行事に補任して、それまで先達・配札・祈祷などをしていた地域を霞として認め、その活動を安堵し、その上前を取る形で掌握・支配した。  
当山派(とうざんは)  
内山永久寺、法隆寺、三輪山、松尾寺など大和の諸大寺に依拠した修験は、吉野から峰入して熊野まで抖數(とそう:正しくは手篇)した。彼らは大峰山中の小笹に拠点を置いて、当山正大先達衆と呼ばれる結衆をつくりあげていた。最盛期には三十六余の寺院から正大先達が出ていたことから、当山三十六正大先達衆とも呼ばれたこれらの正大先達は、回国を旨とし、各自が全国各地に個人的に弟子をつくったことから、その支配を袈裟筋支配と呼んだ。これら当山正大先達衆は、醍醐寺を開いた聖宝を大峰山の峰入を再興した修験者として崇めていたことから、慶長年間(1596〜1615)頃から醍醐寺三宝院を本寺として当山派と呼ぶ教派を結成した。  
先達(せんだつ)  
山伏の功労者で、峯入りのとき等に、同行者の案内・指導をする者。 
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役行者(役小角)  
通称として呼ばれる修験道の開祖とされる役行者は役小角のことをいいます。平安時代に山岳信仰の隆盛に伴い「役行者」と呼ばれるようになったといいます。五色の雲に乗って空を飛び、海の上を走り、鬼神たちを自在に操り支配したといわれる人物です。天皇の政を疎み、主に山に住み修行したといわれています。伝説では、葛城山(金剛山)で山岳修行を行い、さらに、熊野、大峰の山々で修行を重ね、金峯山(吉野)で金剛蔵王大権現を感得した。20歳代で、中臣鎌足の病気を治癒した伝説もあります。  
修験道は日本古来の神道の一つ山岳信仰であり、山に籠り修行することで「験」(しるし)が得られると信じられ、そのもの達を修験者とか山伏と呼んでいます。時代とともに中国からの儒教、道教、仏教などのすぐれた新しい要素を巧みに取り込みながら、日本独特の習合宗教となっていきました。ここでは、天武天皇との関わりに限定して話を進めます。よって、修験道の変遷と苦難の歴史まで扱うことはしていません。天武天皇時代に生きた、生身の役小角を描き出すことに心掛けました。  
役小角は「続日本紀」に出てくる実在の人物です。さらに、同時代に著された「日本霊異記」にも取り上げられたことから、当時から著名な人物であったことがわかります。しかし、彼の生き様は道教を母体とした仙人思想に基づくものであったために、その足跡はその後、顕著に伝説化されていきます。平安後期の大江匡房が「本朝神仙伝」においてさらに具体的に仙人になった役行者を紹介し、鎌倉時代末期の「役行者本記」により、ほぼ現在描かれる役行者像が完成されたと言われています。他に「扶桑略記」をはじめ「元亨釈書」、「今昔物語 巻11第4」、「三宝絵詞中」など多数描かれていますが、中村宗彦氏が書かれたように(「役小角」伝私記―その原初伝承―)、詳細な現状伝わる文献の調査から、「原初伝承に近づくためには、『続日本紀』、『日本霊異記』以外に部分的に『為憲記』及び『役公伝』を参考にすれば十分」とされています。内容は「大同小異」といわれます。それならば、なおさら基となった「続日本紀」と「日本霊異記」を詳細に読み込んでおくことが大切と考えました。  
続日本紀は国書、日本書紀に続くものです。当然その長大な作品の前部分(役小角が描かれる時代)は早くに完成していましたが、何らかの理由によりこの前半部分は全面的に書き直しが行われ、出来上がったのは続日本紀全体が完成された797延暦16年より少し早かった程度に過ぎませんでした。一方、日本霊異記は薬師寺の僧、景戒(きょうかい)によって787延暦6年に著されました。仏教の立場に立つものですが、より庶民に近い目線から描かれているように思います。よって、この二つの視点は異なるものの、ほぼ同時代の作品といえるものです。これら二つを比較することは大きな意義があるのです。
続日本紀 699 文武3年5月24日  
丁丑、役君小角流于伊豆嶋。  丁丑、役君小角、伊豆嶋に流さる。  
初小角住於葛木山、以呪術称。 初め小角、葛木山に住みて、呪術を以てほめらる。  
外従五位下韓国連広足師焉。  外従五位下韓国連広足が師なりき。  
後害其能、讒以妖惑。     後にその能を害ひて、讒づるに妖惑を以てせり。  
故配遠処。          故、遠き処に配さる。  
世相伝云、          世相伝へて云はく、  
小角能役使鬼神、汲水採薪。  「小角能く鬼神を役使して、水を汲み、薪を採らしむ。  
若不用命、即以呪縛之。    もし命を用ゐずは、即ち呪を以て縛る」といふ。  
五月二十四日、役の行者小角を伊豆嶋に配流した。はじめ小角は葛木山に住み、呪術をよく使うので有名であった。外従五位下の唐国連広足の師匠であった。のちに小角の能力が悪いことに使われ、人々を惑わすものであると讒言されたので、遠流の罪に処せられた。世間のうわさでは「小角は鬼神を思うままに使役して、水を汲んだり薪を採らせたりし、若し命じたことに従わないと、呪術で縛ってうごけないようにした」といわれる。
日本霊異記二八  
役優婆寒(えんのうばそく)と呼ばれた在俗の僧は、賀茂の役公(えんのきみ)で、今の高賀茂朝臣(たかかものあそん)はこの系統の出である。大和国葛木郡芧原村(奈良県御所市芧原)の人である。生まれつき賢く、博学の面では近郷の第一人者であった。仏法を心から信じ、もっぱら修行につとめていた。この僧はいつも心のなかで、五色の雲に乗り、果てしない大空の外に飛び、仙人の宮殿に集まる仙人たちといっしょになって、永遠の世界に遊び、百花でおおわれた庭にいこい、いつも心身を養う霞など、霊気を十分に吸うことを願っていた。  
このため、初老を過ぎた四十余歳の年齢で、なおも岩屋に住んでいた。葛(かずら)で作ったそまつな着物を身にまとい、松の葉を食べ、清らかな泉で身を清めるなどの修行をした。これらによって種々の欲望を払いのけ、『孔雀経(くじゃくきょう)』の呪経の呪法を修め、不思議な験力(げんりょく)を示す仙術を身につけることができた。また鬼神を駆使し、どんなことでも自由自在になすことができた。  
多くの鬼神を誘い寄せ、鬼神をせきたたて、「大和国(奈良県)の金峯山(きんぷせん)と葛木山との間に橋を架け渡せ」と命じた。そこで神々はみな嘆いていた。藤原の宮で天下を治められた文武天皇の御代に葛木山の一言主の大神が、人に乗り移って、「役優婆寒は陰謀を企て、天皇を滅ぼそうとしている」と悪口を告げた。天皇は役人を差し向けて優婆寒を逮捕しようとした。しかし、彼の験力で簡単にはつかまらなかった。そこで母を捕まえることとした。すると優婆寒は、母を許してもらいたいために、自分から出て来て捕らわれた。朝廷はすぐに彼を伊豆の島に流した。  
伊豆での優婆寒は、時には海上に浮かんでいることもあり、そこを走るさまは陸上をかけるようであった。また体を万丈もある高山に置いていて、そこから飛び行くさまは大空に羽ばたく鳳凰のようでもあった。昼は勅命に従って島の内にいて修行し、夜は駿河国(静岡県)の富士山に行って修行を続けた。  
さて一方、優婆寒は極刑の身を許されて、都の近くに帰りたいと願い出たが、一言主の大神の再度の訴えで、ふたたび富士に登った。こうして、この島に流されて苦しみの三ヵ年が過ぎた。朝廷の慈悲によって、特別の赦免があって、701大宝元年正月に朝廷の近くに帰ることが許された。  
ついに仙人となって天に飛び去った。  
わが国の人、道照法師が、天皇の命を受け、仏法を求めて唐に渡った。ある時、法師は五百匹の虎の招きを受けて、新羅の国に行き、その山中で『法華経』を講じたことがある。その時、講義を聞いている虎の中に一人の人がいた。日本のことばで質問した。法師が、「どなたですか」と尋ねると、それは役優婆寒であった。法師は、さては「わが国の聖だな」と思って、高座から下りて探した。しかしどこにも見当たらなかった。  
例の一言主大神は役優婆寒に縛られてから後、今に至ってもその縛めは解けないでいる。  
この優婆寒が不思議な霊験を示した話は数多くあって揚げ尽くせないので、すべて省略することにした。仏法の呪術の力は広大であることがよくわかる。仏法を信じ頼る人にはこの術を体得できることがかならずあるということを実証するだろう。
役行者の実像  
行者の素性ははっきりしています。日本霊異記によると、  
役優婆寒者、賀茂役公。今、高賀茂朝臣者也。大和国葛木上郡芧原村人也。  
役行者こと役小角(えんのおづの)は賀茂氏の一族で役公(えんのきみ)であることから名づけられたようです。延暦の頃には賀茂氏の本宗家といえる高賀茂朝臣(たかかものあそん)を名乗ることになる由緒正しい家柄です。大和国葛木郡芧原村(奈良県御所市芧原)の出身です。続日本紀でも葛木山に住んでいたというから矛盾はありません。  
優婆寒(うばそく)であるといいます。僧侶ではないのです。在家のものですが帰依三宝(仏、法、僧)を重んじた僧の一歩手前のような立場といえます。  
かなりのインテリで、中国の書物に深く傾倒し、舶来の儒教、道教、仏教に精通していました。  
ここで三教を論じるつもりはありませんが、この頃の教えはそれぞれがいい意味で影響しあい、混然としたものでした。儒教は孔子によってまとめられた、すぐれた中国思想です。道教は中国独自に古くからある多神教です。仏教はインドから伝わる一神教です。ひとつになることはありませんでしたが、それぞれに影響を与え、独自な発展を遂げたものなのです。  
日本霊異記の作者は僧侶ですから、役行者が仏教を深く信仰したという書き方になっていますが、彼の知識は仏典だけに留まらなかったと思われます。しかも彼の行動から察するに、彼の興味はむしろ道教にあり、とくに自然とともに生きる仙道に共感しながら、「抱朴子」などに描かれた仙人に自らなることを本気で目指していたと思われます。  
「初老を過ぎた四十余歳」といいますから673天武2年頃でしょうか。彼の生年は諸説ありますが、たぶん天武天皇の壬申の乱前後と思われます。この歳になってもまだ、岩屋に籠っていたと書かれます。  
ところが後に、讒言にあって、伊豆の島に699文武3年5月24日に流されたのです。天武天皇崩御から13年後のことでした。
密告者は誰か  
続日本紀の解釈の違いと思われますが、朝廷に讒言したのは弟子の韓国連広足という記事をよく見かけますが、ここは上記で示した宇治谷孟氏の訳が正しいと思います。  
韓国連広足は、藤氏家伝に724〜728神亀年の頃、呪禁(呪術で病気を祓う)師とあり、731天平3年正月27日に外従五位下を授けられ、翌年10月17日に典薬頭に任じられている高級官僚です。「韓国」という氏姓は790延暦9年11月10日の記事に書かれるように、物部連の苗裔で、その祖先が韓国に派遣されたので韓国姓となったものと届けられ、このとき韓国の文字を伏せ、高原連に名が替わりました。姓氏録では摂津神別に物部韓国連、和泉神別に韓国を載せています。  
つまり、渡来系氏族ではなく、古くからの物部氏の一派です。正真正銘の役行者のりっぱな弟子であり、文脈からも「あの広足殿の師匠が役行者なのです」とのニュアンスをもつ紹介記事のはずです。  
密告者の韓国とは、漢文記事を誤訳したのだと思います。現代文は文章を流れに沿って意味を組み立てますが、漢文では短い文章の中に大量の情報を書き込むのです。ですから讒言の記事の前に韓国連広足に名前が出たからといって、彼が密告の首謀者とは言えないと思います。韓国連広足は役行者の忠実な弟子であり、続日本紀は単に讒言されたといったにすぎません。しかし、日本霊異記ははっきり密告者を語っているのです。だから続日本紀の記述と矛盾してはいないのです。  
ただ、注意したいのは、弟子の韓国は宮廷に籍を置いていることです。役行者には多くの弟子がおりますが、こうした宮廷内部にまでいたのです。私は役小角が朝廷にも顔のきく人物だったと考えます。韓国は師匠の推薦で堂々と天皇に仕えることできたと思います。これから述べていきますが、彼の行動には朝廷の命に逆らう行動は一切見られないと思われるからです。  
続日本紀では鬼神を私物化し、わがまま放題に使役していました。日本霊異記で示されたように、「讒言したのは一言主の大神が人に乗り移り」巫女などに神や死人を代弁させたのです。真の密告者は鬼神や一言主神など古い日本の神たちでした。役小角を嫌い訴えたのだと思われます。古い日本の呪術系神道一派が関与していたのです。事代主との類似は別に譲るとして賀茂神社(葛城市)や鴨都波神社(御所市)、さらには富士山を含む三島大社(静岡県三島市)はその主神です。役行者は葛城の賀茂の一族ですから、一族の守り神やそれを奉じる他の賀茂氏の一部に反感をかっていたようです。
流刑とされた本当の理由  
流罪の理由が続日本紀と日本霊異記では大きく異なっています。日本霊異記では「謀して天皇を傾けむとす」とあり、政府転覆の企みとなります。続日本紀では「妖惑=庶民を惑わ言動」の罪となります。日本霊異記のような政府転覆は死罪ですが、実際には流罪でしたから、当時の法に照らせば続日本紀の表現が正しかったようです。すぐれた能力が人に誤解され、悪用されると続日本紀、すなわち時の朝廷は考えたのです。日本霊異記の庶民感覚からすれば、役小角の態度や行動は見た目にも危ういものに見え、天皇に反目する存在と考えたからなのかもしれません。いずれにしろ、彼は讒言にあい、伊豆に流されました。この辺は、黒岩重吾氏がいうように、民衆に慕われた役行者が政府側から危険視されたとするのが最善のようです。  
彼は天武天皇の死後、少しおごり高ぶっていたのかもしれません。彼だけではありません。一族のもの達もこのとき浮き足立っていたと思われるのです。役小角は賀茂氏と同族です。その賀茂氏も朝廷から咎められているのです。続日本紀698文武2年3月21日 山背国(山城国)の賀茂祭の日に、多勢の者を集めて騎射をすることを禁止した、と認められるからです。じつは前年、賀茂氏の娘が文武天皇夫人となったのです。むろん、その娘宮子の父親が藤原朝臣不比等であることは言うまでもありません。この藤原不比等は人の前面に出て目立つことを極端に嫌った男です。あまり派手な行動で問題を起こすな、と一族の者を戒めたのです。他にも原因があったのでしょうが、賀茂氏を代表して罰せられたのが役小角でもあったわけです。  
697 文武1年8月20日 / 賀茂朝臣比売の娘、宮子が文武天皇夫人となる。  
698 文武2年3月21日 / 賀茂祭での無礼講を諫める、詔。  
699 文武3年5月24日 / 賀茂氏の一族の一人、役氏の小角が伊豆に流される。  
      6月23日 / 浄広参の日向王が卒した。  
      6月27日 / 浄大肆の春日王が卒した。  
      7月21日 / 浄広弐の弓削皇子(天武天皇と大江皇女の子)が薨じた。  
      9月25日 / 新田部皇女(天智天皇皇女)が薨じた。  
      12月3日 / 弓削皇子の母、大江皇女(天智天皇皇女)が薨じた。  
【賀茂氏と天皇家の関係系図】  
天武天皇  
 ├―――――――草壁皇子  
持統天皇       |  
             ├―――文武天皇  
天智天皇       |        |  
 ├―――――――元明天皇   |  
姪娘                   ├―――聖武天皇  
                      |  
鴨朝臣小黒麻呂――鴨比売    |  
             ├――――宮子  
中臣鎌足―――――中臣不比等  
ところが、699文武3年役行者が流罪に処せられると、皇位の近親者が次々亡くなられていきます。役小角を伊豆島に流した途端、皇室の面々が次々倒れたのです。あわてた当時の朝廷は10月13日、天下の有罪の人々を赦免します。しかし、この原因は役行者に起因するとは考えなかったようです。斉明天皇の越智陵と天智天皇の山科陵が問題と判断したようで、すぐに二つの陵の修造を命じているのです。かつて、私もこの次々と起こった死亡記事を流行病と断定し、この時期に薨去された弓削皇子への暗殺説を否定する根拠に用いたことがあります。朝廷では役小角の恨みが原因とは考えていません。持統天皇の周囲には彼女を守る堅固な呪術家たちがそろっていたとも考えられますが、むしろ役小角をよく知る持統太上天皇は彼が恨みをいだくような男などとは考えてもみなかったと思うのです。彼はいい人なのです。むしろ朝廷は「小角の能力が悪いことに使われる」ことのないよう、この純朴な能力者を地方に流すよう配慮したのです。  
伊豆島に流された役小角のですが、実際には意外に行動が自由に見えます。伊豆島にいながら、「遠江(とおとうみ)」静岡県大井川以西一帯を駆けめぐります。空を飛び、海上を走ったとありますから、実際に見たかどうかは別にして、まさに神出鬼没、広範囲な行動範囲であったのです。むろん大和の山々を踏破した役小角ですから、日本の象徴、富士山にも登ったのです。この自由な行動を許したのは、実は朝廷でした。伊豆は賀茂氏の勢力圏内です。「日本古代氏族人名辞典」吉川弘文館によると、  
伊賀国      の鴨藪田公、  
伊予国      の鴨部首・酒人君、  
大和・阿波・讃岐国の賀茂宿禰・鴨部・役(えん)君  
遠江・土佐国   の鴨宿禰・鴨部、  
伊予国      の賀茂伊予朝臣・賀茂首  
伊豆での役小角と賀茂氏との関わりを「役行者」日本経済新聞社による前田良一氏は疑問としながらも生き生きと描いて見せます。賀茂氏は大変大きな古くからある氏族です。神武天皇東征で大和に導いたヤタガラス伝説は賀茂氏といいます。また、修験道に通じた後年の忍者にも共通点を見出し、伊賀国などが基幹としています。また四国伊予国の地方豪族、越智氏、さらには九州、宗像氏、安曇氏と通じた大航海王国として関連つけようとします。また、本研究で不思議と感じていた河内(本研究では泉大津、難波)・淡路島、讃岐国を結ぶラインについても言及しています。また、黄金伝説と吉野を結びつけます。これらの視点には目が覚めるような鋭さを感じます。彼の行動力と取材能力には脱帽です。本研究で漠然と述べたことがこの本では明確に説明されていたからです。本稿での役行者は天武天皇時代の実像に迫ります。人間くさいものです。本研究内で描いたバラバラな記述をここで集約しておきます。
役小角はいつ流刑を許され、何故許されたのか。  
701 文武5年1月 / 通説では、同年の大宝元年1月、役小角は京に戻ったといわれ、6月7日68歳で箕面の天井ヶ岳にて入寂したともいわれます。  
701 大宝1年3月21日 / 対馬国が金を貢じたので、年号を大宝と改めた。この年、宮子夫人が、後の聖武天皇を生むと続日本紀にある。  
701 大宝1年11月4日 / 全国に大赦する。  
702 大宝2年正月 / 大赦により、役小角、京に戻る。(本説)  
上記の年表で本稿の結論を示しましたが、日本霊異記が記したように、伊豆島に流された役小角は3年で戻ることができました。伊藤太文氏は「これには文武の即位に当たって旧体制につながる勢力を駆逐しようとする持統―文武の意思が見て取れます。しかし、同年、持統上皇が重症の床に臥すことになり、それを役行者の恨みによる『「験術』のせいではないかと怯えた持統―文武側が、彼を許すに至った」と解釈されました。秩父今宮神社一八〇〇年史 古社・秩父今宮神社研究会編 叢文社  
卓見と推察します。この論を推し進めて、続日本紀を読み直してみると、ことはもっと大きな広がりを見せたのです。  
まず、役小角の赦免の日付を特定します。文武天皇に譲位してから持統太上天皇が崩御されるまでの5年間に全国的な大赦は文武3年に1回、4年に1回、大宝1年に1回と2年に5回の合計8回ありました。役小角の赦免だけは特別で続日本紀には書かれていないという考え方もありますが、几帳面な続日本紀に関して漏れはないと思います。この8回の大赦のどれかで京にもどったのです。  
通常の現代語訳には大宝1年正月に赦されたような文面を多く見かけますが、原文を読むと違います。日本霊異記には「以、大宝元年歳次辛丑正月、令近天朝之辺」とあるのです。大宝元年正月はこのときまだ、文武5年正月です。大宝元年になるのは3月21日なのです。「次正月」とは翌年大宝2年正月のことです。しかも、「正月に赦免された」のでもありません。少し前、大宝元年11月4日の全国におよぶ大赦「於是垂慈之旨」により赦免されたものです。その結果、流された時より3年後の翌大宝2年正月までに天皇のそばに戻れたと日本霊異記は正確に記しているのです。正確には2年7ヶ月におよびました。  
699 文武3年5月24日(続日本紀)〜702大宝2年1月(日本霊異記)  
続日本紀は11月4日の大赦の理由を書いていませんが、たぶん聖武天皇が生まれたからだと推測できます。聖武天皇が生まれたのは大宝元年の生まれであることはわかっています。賀茂一族の娘が、天皇の第一皇子(後の聖武天皇)を出産したのです。この年の大赦は11月4日だけです  
時代は大宝に代わっていました。金が対馬で発見されたから大宝としたとありますが、案外、藤原不比等の策謀のようにも思えます。この頃、この生まれた子は中臣氏と賀茂氏の娘ですから、まだ文武天皇の側室で身分は高くありません。しかし、藤原不比等の頭の中はすでに、この子を天皇にすべく壮大なプロジェクトがはじまっていたのです。別の理由で、元号を変えさせ、全国的な大赦まで行ったのです。対馬に金が出たことはデマだったとあります。対馬の歴史はこれ以降、政治がらみの嘘が多いのです。案外、このときの嘘の出所は、不比等辺りだったのかもしれません。対馬にはお咎めがないからです。対馬の金に騙されたのは朝廷だったのではなく、我々庶民側であったのかもしれません。不比等の孫が生まれたことを金にかこつけて全国からお祝いさせられた形です。  
ところで、これをどう訳したらよいのでしょう。  
然庶宥斧鉞之誅、近天朝之辺、故伏殺剣之刃、上富岻之表。  
斧鉞の誅を宥れて朝の辺に近づかむことを庶ふが故に、殺剣の刃に伏して、富岻に上る。  
1.極刑の身を許されて、都の近くに帰りたいと願い出たが、一言主の大神の再度の訴えで、ふたたび富士に登った。(中田祝夫氏)講談社学術文庫  
2.極刑を許されて朝廷のある都の近くに帰りたいと願ったので、今度は誅殺の刑に処せられ、あやうく逃れて富士山に飛び上がった。(池上洵一訳)対訳日本古典新書 創英社1978  
3.刑罰を許されて天皇の辺りに近づきたいと願い、命をかけて富士山に登った。(原田敏明、高橋貢訳)東洋文庫97平凡社1967  
4.重い刑罰を赦されて都へ還ろうと思って、自ら刃に伏して富士山に上った。(蔵野憲司訳)古典日本文学1筑摩書房  
1.2.は「役公伝」など後世に描かれた役行者が流罪中、再度の誣告にあったとする記述を踏まえて訳出されたものとおもわれます。原文にはない余分な解釈があるからです。しかし、役公伝をはじめ三宝絵詞、扶桑略記は、続日本紀、日本霊異記と比較してかなり遅い書物です。そこで本稿は続日本紀、日本霊異記の記述だけで役行者像を描いています。本来の訳は3,4でいいのです。ではこのわかりにくい原文をどう解釈すべきなのでしょう。実は、富士にある三島神社はやはり賀茂氏の守り神です。その祭神は事代主神です。一言主神との違いが正確にはわかりませんが、ここでは同等と考えました。つまり、京で彼を陥れた神にここでも対峙して見せたのです。役小角は、そんな富士に登って祈りをささげたのです。当時はまだ富士は活火山であったはずです。  
役小角はそれほど帰りたがっていたのです。そこには朝廷への恨みや憎しみは微塵も見られません。それどころか、戻りたい一心で祈っています。誠意を尽くして嘆願したようです。朝廷とその周辺の反目をこの文章からは窺い知れません。それにしても、役小角はなぜ、そこまでして京に戻りたいと願ったのでしょう。そんなに老いた母が恋しかったのでしょうか。私は彼がそれまで歩んできた朝廷との関わり、特に天武天皇との結びつきに大きな自負と自信をのぞかせていたように思うのです。彼が戻りたかった場所は故郷の山々ではありません。日本霊異記にもあるとおり「近天朝之辺」つまり、朝廷そのものだったのです。  
しかし、役行者にとって、京での不在の3年間に環境は大きく変化していました。以下で述べる彼を知る道照たちは役行者の流罪中に次々亡くなっており、政治の舞台での彼の存在はもう無用ものだったのです。たぶん、彼を重用した天武天皇のあとを継いだ皇后、持統太上天皇までが崩御されたのを期に、彼は自らまた自然を求めて、京を去ったと思われます。もう彼の過去の業績を知るものなど残っていなかったのです。まさに、仙人となり天に飛び去ったのでした。「遂作仙飛天也。」  
ここまでの話をまとめます。  
朝廷が役小角を流罪にした理由は、朝廷そのものから彼を遠ざけることでした。罪を犯したからではないのです。讒言したのは、中国からの仏教や道教を嫌う古い日本の神々を信仰するものたちでした。その刑は意外に軽いと思います。3年間も短い。しかも伊豆は彼の一族が支配する行動が自由な地域でもあるのです。朝廷は役小角を彼の親戚筋に預けたのです。伊豆の一族は彼に同情的だったようです・逆に、少なくとも60歳を超える高齢者が、一族のもの達と高速船を操り、伊豆を歩き回ったことは何か密命を帯びていたようにも思えます。伊豆の島を抜け出すのは一人ではむりで、海の一族でもある賀茂氏の協力があったはずです。しかし、役行者は天皇の傍に戻りたいと願っていました。自分の氏族、賀茂氏の娘が文武天皇の子を生んだのを期に京に帰る事を許されたのです。
道照について  
日本霊異記に紹介された役小角を「聖」すぐれた能力者であると認めた人物に道照がいます。道照について、続日本紀はまれにみる長文をもって彼の小史を載せています。日本霊異記22にも載せられた讃辞より長いのです。朝廷からの信頼の大きさがわかる一文です。とても続日本紀の全文を紹介できないのが残念ですが、概要は次の年表でまとめてみました。なお、年表は続日本紀以外の記録も一緒に載せています  
道照(道昭) 629 舒明1年生〜700 文武4年没 72歳  
629 舒明1年(1歳) / 河内国丹比郡に生まれる。若くして飛鳥寺(元興寺)に住む。  
653 白雉4年(25歳)5月 / 遣唐使、貞慧もこのとき参加。玄奘三蔵に師事。  
661 斉明7年(33歳) / この頃帰国。元興寺の東南隅に禅院を建立。弟子に行基など。  
669 天智8年(41歳) / この頃より10年位「外遊」。船を造り、橋を造り、井戸を掘ったとある。  
679 天武8年(51歳) / 10月の勅により、京にもどる。  
680 天武9年(52歳) / 天武天皇の勅願により、往生院(大阪府泉南市牧野)を開基。  
692 持統6年(64歳) / 薬師寺に招かれ、繍仏の開眼講師を務める。  
698 文武2年(70歳) / 大僧都に任命される。(疑問とする説も多い)  
700 文武4年(72歳) / 3月10日没。座禅のまま没した。「記録上火葬された最初の人物」  
彼の年齢はわかっています。その結果、653白雉4年(25歳)5月、遣唐使として、中臣鎌足の長男貞慧らとともに参加します。中国ではあの孫悟空で有名な玄奘三蔵に師事したとあります。660斉明6年(32歳)頃帰国したようです。もといた元興寺の東南隅に禅院を建立し、ここを基点に修行したようです。  
そこでこの役小角と道照の接点です。道照が役行者のことを語ったのは晩年の彼の講話でのことだったと思われます。10年唐で修行しているとき、仙道を身につけた役小角と千里を超えた新羅の地で再会できたのだよ、とでも語ったのだと思います。日本霊異記の記述では、道照との唐での再会記事は時間軸がずれていると指摘するものがありますが、そうではないと思うのです。道照が晩年、仙人となった役小角と大陸で会ったのではなく、晩年の講話のなかでの思い出話だったはずです。それは道照が唐で役小角に出会った話はこの道照だけが知る事実です。このことは道照が唐に行く20歳代ですでに、役小角と親交があったと解釈したいのです。若い頃から修行に励む役小角を褒め称えたようです。山に籠り厳しい修行を自分に課す仙人、役小角行者を知るものだからこその讃辞です。黒岩重吾氏は「役小角仙道剣」で役小角にこうした舶来の学問を授けたのは、道照あたりではなかったと卓越した視点で書いておられます。伝承でも650白雉1年 役小角17歳のとき、飛鳥寺(元興寺)で、孔雀明王の呪法を学ぶとあります。このとき、道照も飛鳥寺にいたはずです。少なくとも、この頃から道照と役小角は知り合いであるわけです。日本霊異記の現代語訳からは、役小角が伊豆嶋から許され戻ってから、唐に居た道照と会ったように描かれています、ここは、原文構成から後半部分に役小角の不思議な奇跡をひとまとめにして紹介したものだと考えられます。先にも述べましたが、文章を前後の流れで捕らえると見間違います。仙人になった役行者が後年、道照と会ったのではないのです。  
もう少し、道照を追います。  
続日本紀 700 文武4年  
三月己未。道照和尚物化。天皇甚悼惜之。遣使弔賻之。  
和尚河内國丹比郡人也。俗姓船連。  
父惠釋少錦下。和尚戒行不缺。尤尚忍行。〜  
「3月10日 道照和尚が物化(死去)した。天皇はそれを大変惜しんで、使いを遣わして弔い、物を賜った。和尚は河内国丹比郡の人である。俗姓(出家前の姓)は船連、父は少錦下(従五位下相当)の恵釈である。和尚は持戒・修行に欠けることがなく、忍辱(忍耐)の行を尚んだ。〜」宇治谷孟 訳  
日本で記録上、火葬すなわち荼毘に付された最初の人物と言われています。  
そして、2年後、702 大宝2年12月22日、持統太上天皇も火葬されました。皇室でも初めてのことと言われます。明らかに、道照を見習ったものです。道照の教えに大きな影響をうけ仏教に帰依したものです。これはとんでもないことだったはずです。一般の古い風習に従わず、愛し尊敬し続けた夫、天武天皇の持つ死後の道教の概念を踏襲することなく、自分の肉体を1年後の12月17日とはいえ火葬させたのです。この一年におよぶ殯(もがり)の儀式は行われ、復活への思いは残したようです。  
俗姓(出家前の姓)は「船連」また「丹」とも書きます。河内国丹比郡の人です。大阪府松原市・美原町・狭山市と羽曳野市・堺・など西部にわたる地域を指します。同族に津氏や白猪氏がいます。父、恵尺は百済王の子か孫といわれ、天智時代の官位、小錦下(従五位下相当)でした。皇極天皇4年6月に乙巳の変により蘇我蝦夷が自殺する際、国記を火の中から救ったといわれた人物でもあるのです。つまり代々蘇我本宗家に仕えていたと思われます。船連はもと船史で渡来氏族です。553欽明14年7月4日に天皇から勅を承った蘇我大臣稲目宿禰が王辰爾(おうじんに)を遣わし、船の税を記録させました。これによって船司とし、船史(ふねのふびと)の姓を賜ったとあります。683天武12年に史から連となり、791延暦10年正月に宮原宿禰となっています。また、造船、港湾施設建造などの土木工事の高度な技術をもっていた渡来氏族ということで、元百済王ですから大変な人脈をもっていたはずです。宇治橋は彼が造ったと続日本紀にはありますが、実際の碑には大化2年道登が造ったとあり日付もあわず、日本霊異記も道登が造ったとしているので、正しいとすれば宇治橋については修理をした程度なのかもしれません。その活動範囲は大和・山背・摂津・河内に渡るといわれます。  
679 天武8年5月の吉野会盟あと、10月の勅令が道照らを寺に戻したと言われています。  
日本書紀 天武天皇 679 天武8年5月  
是月、勅曰、凡諸僧尼者、常住寺内、以護三寶。  
然或及老、或患病、其永臥陝房、久苦老病者、進止不便、淨地亦穢。  
是以、自今以後、各就親族及篤信者、而立一二舎屋于間處、老者養身、病者服藥。  
「この月、勅して、『そもそも僧尼は、常に寺内に住して仏法を護持すべきである。しかし老いたり病んだりして、狭い僧坊に寝たまま、長らく苦しむのでは、動くにも不自由であり、清浄なるべき場所も穢れる。それ故。それ故今後はそれぞれの親族か、信心の厚いものをこれにつけ、一つ二つの屋舎を空いた所に建てて、老人は身を養い、病人に薬を服するようにせよ』といわれた。」  
つまり、669 天智8年の頃から天武天皇の指示で全国を歩き回ったような表現です。まさに壬申の乱のなかを歩いているのです。この勅令により、その労をねぎらうかのように壬申の乱は終わったのです。天智8年、中臣鎌足が薨じた頃には天武天皇は壬申の乱を想定し始めていたことになります。息の掛かった僧などの仲間が全国に散り、豪族との協定を模索していったのです。  
   ( 略【皇室と役行者の年齢構成】)  
役小角がいつ生まれいつ死んだか不明です。上記年表は634 舒明6年に生まれで生誕地は吉祥草寺とする後世の書物から取りました。本稿でも役行者と道昭は年齢が近いと思われることから、この説を採用していきます。ただ流罪のとき母親が老いたとはいえ生きておられたわけです。長男と考えても年齢80歳をゆうに超えていたことになります。黒岩重吾氏は10歳ぐらい若いと設定されています。あるいはそうなのかもしれません。本稿が描いた役行者の人物像はのちに偶像化され描かれた小鬼を足で踏みつけた金剛力士像とは相容れません。最先端の中国道教を書物で研究し尽くした知識人であり、朝廷に忠実で自然を愛するやさしい山男の風貌が浮かび上がりました。  
やっと、前段が終わり本題に入ります。ここまでてこずったのは、続日本紀や日本霊異記への誤訳とも思える異訳の多さへの驚きからです。後世に伝わる多くの知識が古原文訳に反映してしまったように思えます。別に古典漢文の授業ではないのですが、本稿の主旨に沿い、原文と現代解釈の間に横たわる長い時間のほこりを取り除きたいという思いがこんな長文になってしまいました。  
次に天武天皇と役行者の接点を列挙していきます。文献による二人の接点はありません。そのほとんどが伝承に頼ります。よって、矛盾した表現、断定的な思い込み、神社、仏閣側からの保守的態度が見られますが、よく吟味すればするほど、どれもすばらしいものであることがわかります。
天武天皇と役行者の史実と伝承による接点
賀茂氏と天武天皇との関わり  
賀茂蝦夷  
賀茂蝦夷は役行者の親族であり、壬申の乱で活躍した功臣です。  
日本書紀 672天武1年壬申 6月  
因乃令吹負拜將軍。  
是時、三輪君高市麻呂・鴨茂君蝦夷等、及羣豪傑者、如響悉會將軍麾下。  
因りて吹負に命して將軍に拜す。  
是の時に、三輪君高市麻呂・鴨茂君蝦夷等、及び豪傑しき者、響の如く悉に將軍の麾下に会ひぬ。  
壬申の乱の初め6月、「吹負を大和の将軍に任命された。このとき三輪君高市麻呂、賀茂蝦夷ら諸豪族は響きが声に応ずるように、ことごとく将軍の旗の下に集った」といいます。  
7月には、河内から進入する近江軍に備え、数百人を率いて岩手道(二上山の南を河内に抜ける竹ノ内峠か)を守ったとありますから賀茂氏の地元で行動したようです。684 天武13年に鴨君が朝臣姓を賜り、695 持統9年4月17日、直広参の位を賀茂朝臣蝦夷に追贈し賻物を賜りました。つまりこの時亡くなったことになります。  
「三輪君高市麻呂、賀茂蝦夷ら諸豪族は響きが声に応ずるように、ことごとく将軍の旗の下に集った」とはどういうことなのでしょう。少なくとも、吹負の招きに応じたわけですが、早すぎる対応といえます。賀茂氏は、はじめから天武天皇に付き従っていたように思えます。または賀茂一族らは天武天皇と打ち合わせを事前に済ましており、吹負の呼びかけを待っていた書き方にも見えます。なぜなら、共に応じた三輪君とは後に大三輪朝臣となりますが、奈良時代には大神(おおみわ)朝臣と表記される、賀茂(鴨)氏と同類の大和の古くからの氏族です。天武天皇はこの葛城の地との盟約をすでに終わらせていたのです。それを仲介したのが役行者であったのかもしれません。  
賀茂氏は大きく二系統あるようです。大和葛城(奈良県御所氏)を本拠地とする賀茂君、後の賀茂朝臣は大物主の子、太田田根子の孫、大鴨積を始祖とします。葛城の高鴨神社は賀茂朝臣の神社ですが、事代主や味鋤高彦根神(賀茂大御神)は賀茂朝臣が祀っていた神であると考えられているのです。賀茂氏にはもう一派、山城国葛野を本拠とした代々賀茂神社の奉齋した賀茂県主がいます。佐伯有清氏の研究によれば、八咫烏に化身して神武天皇を導いた賀茂建角身命を始祖とするものたちにあたります。葛城氏と同類で神武天皇を大和に導いたものです。  
八咫烏伝説では、熊野から大和に向かった神武天皇が道に迷われたとき、天照大神から遣わされたこの八咫烏の導きによって、無事、宇陀の下県につけたとあります。このとき、大来目(おおくめ)の大軍を率いたのが、大伴氏の祖先の日向氏で、天皇から道臣の名を授けられました。ほとんどの壬申の乱の氏族が吉野の周りに集結したような伝説です。久米氏は後に皇族の戦闘歌舞の久米舞とまでいわれた部族で、天武天皇に付き従い、後に朝臣姓を授かりました。神武天皇のころは大伴氏とこの久米氏が軍部を統括する2大勢力でした。また道臣には壬申の乱の功臣、路真人になる豪族もいるのです。余分なことですが、八色の姓で大伴氏はなぜか、朝臣姓を得られませんでした。その下となる宿禰姓です。そのなかの筆頭ではあります。  
当麻国見(当摩とも) たいまのくにみ、たぎまのくにみ  
用明天皇の皇子、麻呂子皇子=当麻皇子(麿古王=聖徳太子の弟)の孫、当麻豊浜の子?  
麻呂子皇子は603推古11年7月征新羅将軍として難波から出発されました。ところが妻の舎人姫王が赤石で薨じたため、その地に葬りそのまま帰還した皇子です。姓はもと当麻公 たぎまのきみ、後に八色の姓により真人姓を得ています。大和国葛下郡当麻郷(北葛城郡当麻町・香芝町一帯)を本拠地とする氏族のようです。  
【当麻国見関連年表】  
684 天武13年10月 / 八色姓の制定で最高位の真人姓を得る  
685 天武14年5月19日 / 直大参、当麻真人広麻呂卒。壬申年之功。贈直大壱位。  
686 朱鳥1年 / 天武天皇の葬儀の際、左右兵衛の事を誄。時に直大参(正五位上相当)。  
696 持統11年2月28日 / 直大壱の国見は東宮大傳に任じられる。時に直広壱(正四位下) 文武天皇、当時軽皇子の教育係か?  
697 文武1年8月1日 / 文武天皇即位  
699 文武3年5月24日 / 役行者、伊豆嶋へ流罪  
699 文武3年10月20日 / 国見らが越智山陵(母の斉明天皇陵)修復のため派遣された。時に直大壱(正四位上)  
701 大宝1年7月21日 / 壬申の功臣として100戸が与えられた。このとき、亡くなったか?  
壬申の乱では吉備国守、当麻公広嶋は近江朝の使者に欺かれ殺されています。日本書紀は、吉備国守当麻公広嶋と筑紫大宰栗隈王は元から大皇弟(天武天皇)についていた、と敵に語らせています。壬申の乱のとき、すでに吉備国と筑紫国は天武天皇の味方であり、つまり親しかったことになるのです。685天武14年5月に直大参、当麻真人広麻呂が卒し、壬申年之功として直大壱位を贈られます。残念ながらその具体的な功績は不明です。一方、朱鳥1年天武天皇崩御の際、直大參の当摩真人国見が左右兵衞事を誄る、とあることから、国見は軍事権を掌握する重要な立場にあったことがわかります。一方、当麻真人智徳は688持統2年11月に天武天皇の2年にもおよんだ最後の誄を終わらせ、大内陵に葬りました。この男は以降、持統天皇、文武天皇の葬儀を仕切る高い立場にいたようです。国見に限らず、当麻氏全体が密接に当時の朝廷を支えていたことがわかります。  
葛木市富麻(たいま)には当麻寺(奈良県葛城市當麻1263)があり、役行者所縁の地と云われているところです。681天武10年、河内国交野郡山田郷の禅林寺を移し、当麻寺を建立したとあります。(692年と社伝にはあるという)上記を象徴するように、この寺は桜井市の三輪山に相対する二上山の麓に位置し、西方浄土(死者)の入口と言われるようになるのです。当麻氏は役行者と同郷だったのです。  
次に寺に残る、天武天皇と役行者との接点です。  
笠置山(かさぎやま)と笠置寺   
京都府相楽郡笠置町にあります。  
671 天智10年 / 大海人皇子出家して笠置山から吉野に入る。旗揚げの地とも言われる。  
685 天武14年 天武天皇、笠置寺建立。(笠置寺縁起には白鳳11年天武天皇の創建とあるそうです。)  
皇子時代に狩猟で断崖絶壁の地に迷い込み、神仏により助けられ、そこに笠を目印にしました。後日来山したところ一羽の白鷺によってその場所を知り得え、ここに仏堂を建てたと社伝にあるというものです。ここは、山伏修行の場としても知られており、役行者もこの地で修行されたようです。昔は修行に使われたという千手窟(せんじゅいわや)があったといいます。古くから山岳信仰、巨石信仰の霊地と推定された場所です。いたるところに巨石あり仏像が刻まれました。昔、笠置寺は法相宗の寺です。道照と同じであり、役行者もその教えを学んでいるのです。  
桜本坊 さくらもとぼう  
天武天皇勅願寺。金峯山修験本宗 奈良県吉野町吉野山1269。兄、天智天皇のもとを離れ、吉野に向かった大海人皇子(後の天武天皇)は、現在の「桜本坊」の前身である吉野離宮日雄殿(ひのお)に留まったと言われています。冬の日に桜が咲き誇っている夢を見た大海人皇子が役行者の高弟、日雄角乗(ひのおのかくじょう)に訊ねたところ、「桜は花の王といわれ,近々皇位に就くよい知らせです」と答えました。その後、壬申の乱に勝利し,皇位に着いた天武天皇は、夢で見た桜の木の場所に寺を建立し桜本坊とされたものです。役行者は常に天武天皇と一緒には行動してはいないようです。しかし、天皇のおそばには必ず、彼の部下がつき従っていたように見えます。これ以外にも、吉野には役行者と天武天皇の影が多く存在するのです。  
大日寺 だいにちじ  
桜本坊に近く上記の日雄角乗が開基したものです。真言宗醍醐派。奈良県吉野町吉野山2357。天武天皇との縁が深いとあり、上記に伝承とダブルものがあります。役行者霊蹟札所36カ所寺社の一つです。役行者の高弟といわれる人物は、こうしたお寺の開祖に留まらず、朝廷内部にまで幅広くいたことがわかります。決して組織的な大きな宗教集団を目指すものではありませんでしたが、役行者を慕うものはどこにでもいたようです。役行者の自由な行動様式が少し見えてきます。  
矢田寺  
矢田山金剛山寺(こんごうせんじ)奈良県大和郡山市矢田。大海人皇子が矢田山で壬申の乱の戦勝祈願を行なった伝承が残ります。勝利の後、675天武4年智通に命じて、七堂伽藍造営が始まりと言われています。この智通は653斉明4年唐に渡り、法相宗を広める道昭と同期生です。673天武2年には僧正、その後、平城京に観音寺建立にも関係しました。八咫烏(やたがらす)伝説と矢田寺があるのかわかりませんが、奇妙な名の類似が見られます。  
千光寺  
白鳳時代 役行者が開基されました。真言宗醍醐派。奈良県平群町鳴川188。天武天皇時代、朝廷より500石とともに寺名が与えられたといわれます。本稿では、吉野会盟で天皇自ら千年の平和を約したとしました。天武天皇の志、千の光の名にふさわしいと思うのです。つまり、朝廷とは天武天皇のことと考えられ、少なくとも彼はこのことを知っていたはずです。この吉野会盟にも、役行者の影がしのびやかに控えているように見えるのです。役行者霊蹟札所36寺のひとつです。  
弘川寺  
役行者によって建立された奈良県南河内郡河南町にある山寺です。役行者霊蹟札所36ヶ寺社の一つです。天武天皇の勅願寺でもあります。白鳳5年天武天皇が請雨祈願をはたしたことから勅願寺になったといわれます。伝承では天武天皇に請われ、役行者が雨乞いの祈祷により雨を降らせたと伝わるところです。白鳳5年とは677天武6年を指すと考えています。大地震と日照りのあった年です。翌年678天武7年に天武天皇の長女十市皇女が雨を降らせようとした巫女として自殺しています。何とか雨を降らせようとしていた天武天皇がここでも役行者に協力を依頼していたのです。  
勝持寺(花の寺)  
京都市西京区大原野にあります。680天武9年 神変大菩薩=役行者が創建。本尊は薬師如来 薬師霊場42番札所、天武天皇勅願寺です。皇后(後の持統天皇)が重い病になったとき、薬師寺建立を期に日本全国にこうした薬師如来を祭る寺が作られています。役行者も天武天皇とともに鵜野皇后の病気を治そうとしていたことがわかるのです。696年には役小角が和泉国普賢山に薬師浄土を創開するといいます(現、獅子窟?寺)。  
蛇足ですが1799寛政11年、聖護院宮盈仁親王が光格天皇へ役行者御遠忌(没後)1100年を迎えることを上表しました。その際、烏丸大納言を勅使として聖護院に遣わして、神変大菩薩の諡を贈ったとあります。  
室生寺 むろうじ  
奈良県宇陀市室生区にあります。天武天皇の勅願寺ですが、寺伝によると681天武10年天武天皇の願いで役行者が創建したと伝えられているそうです。714和銅7〜793延暦12年の興福寺の僧賢m(けんきょう)により桓武天皇の病気平癒により開基といわれています。法相宗の僧。真言宗室生派。法相宗といいますから、役行者の親友、道昭と同じ宗派です。また、竜神を信仰する山岳寺院です。  
長谷寺   
天武天皇の勅願寺です。奈良県桜井市初瀬。686朱鳥1年 長谷寺の開祖、道明(天武天皇の病気平癒を祈願して豊山(初瀬)に多宝塔を敬造した) 霊木を用いて十一面観音像を造立して長谷寺を創建、開眼供養には行基が関与。奈良弘福寺(川原寺)の僧侶、俗姓は六人部氏。室生寺のそばにあり、共通のにおいがします。  
このように、天武天皇と役行者は壬申の乱での活躍もさることならが、それ以降もつかず離れず、天皇をサポートしているように思えるのです。
天武天皇と役行者との活動範囲の類似点 / 和泉市に関わる  
天武天皇と役行者がともに壬申の乱における吉野の地に大きな共通点があることがわかりましたが、和泉市にも二人は共通な交わりが見え隠れするのです。和泉市は本研究では天武天皇が誕生した場所と特定しています。ところがそこには、役行者の足跡が数多く残るところでもあるのです。  
聖神社 ひじり   
大阪府和泉市王子町。天武3年 天武天皇の勅願により、渡来氏族の信太首(しのだのおびと)が氏神として祀る。聖 は「日知り」の意味で暦の神とある。近くの信太の森は安倍晴明誕生秘話が残るところ。陰陽道などもこの流れを引き継ぐものと思われる。山岳地だけではなく、京における修験者、聖神社の伝説などに注目することができます。  
施福寺 せふくじ  
近くに和泉市槇尾山の山頂近く(和泉市槇尾山町136)があります。欽明天皇勅願寺、行満上人により開基といわれます。役行者が書写した法華経を葛木の峰々に安置し最後の巻尾をこの地、如法峯に納めたことから巻尾(まきお)と呼ばれました。行基や空海もこの山で修行を積んだようです。往事には3000人の僧を抱える太寺だったとあります。  
松尾寺 まつおでら   
大阪府和泉市松尾寺町2168。役行者霊蹟札所36寺のひとつで泉州松尾寺があります。672白鳳元年に役行者が開基とあります。役行者がこの地で7日間修法し、楠の霊木に「如意輪観世音菩薩」の尊像を刻んで安置したことに始まったとあります。  
一方奈良にも同名のお寺があります。718養老2年 舎人親王 真言宗醍醐派 奈良県大和郡山市山田町683。天武天皇の皇子・舎人親王が42歳の厄除けと「日本書紀」編纂の完成を祈願して建立したと伝わります。元正天皇の勅願といわれ、役行者像が安置されているそうです。  
往生院   
大阪府泉南市信達牧野。天武9年 上記で述べた道照によって建てられました。天武8年に勅により地元に戻った翌年のこととなります。持統天皇には絶大の信頼を得ており、このことは天武天皇にとっても同じと考えていいと思います。往生院は天武天皇の勅願寺だからです。持統天皇自らをも火葬させることでも、道照への傾倒の大きさは測りしれません。しかも、この道照は役行者を聖として讃え、彼をよく知る旧知の間柄だったことも日本霊異記などの記述からわかるのです。  
慈眼院   
大阪府泉佐野市日根野。天武2年 隣接する日根神社(和泉五社のひとつ)の神宮寺。泉州の最古刹、覚豪阿闇梨によって井堰山願成就寺無辺光院という名で創建。日根氏の氏寺。天武天皇の勅願寺。  
役行者霊蹟札所は現在、36ヶ寺社あります。役行者が開基したとするもの19社、36社のうち天武天皇に関するもの6社、白鳳時代に創立するものは21社、吉野にある寺10社と集中しているのです。
天武天皇と役行者の仙道思想の類似  
「丹生川上神社上社 本来は吉野川の近くにあったが、大滝ダム建設で水没。平成10年3月、川を見下ろす現在地に移ったといいます。例大祭での晴れやかな舞楽奉納は有名、雨師の神、竜神をまつり、天武天皇創建と伝わります。」これはインターネット上での新聞記事で見たものです。あるいはホームページの書き込み記事だったかもしれません。  
天武天皇は「丹生にゅう」に大きな興味をもっていました。吉野(東吉野―宇陀)は水銀の産地です。丹生といわれるその原石は水銀朱を加熱することで水銀が採取できるものです。水銀朱は道教では不老不死、不老長寿の高貴薬とされ、聖なる水として水銀朱に聖水を混ぜたものを飲み、若さを保とうとしたのです。天武天皇の崩御の後も、続日本紀において、文武初年度から鉱物献上の記事が多いのです。顔料や染料としたという言い訳が目立ちます。仙薬調合のための収集であったはずです。このことは前に述べました。また、年号も大宝は金にまつわる年号、和銅は自然銅の発見によるもの、さらに、慶雲、霊亀、神亀、にいたっては露骨に神仙思想そのものになるのです。  
天武天皇は仙道に深く関与していました。役小角はその先達であり、よき理解者であり、丹生を求めて山々を渡り歩く仙薬収集の達人であったと思われるのです。早くから、役行者とは知り合っていたように思えます。その発想は彼の人生のなかでもかなり若い頃にまで遡ることができます。彼が生まれ育ったと思われる、父や叔父の住んだ和泉地方は丹生の研究に相応しい土地だったのです。  
しかも、彼の母、斉明天皇も神仙思想には違う意味で深い理解者であったことも大きな関わりがあったはずです。斉明天皇は吉野が聖なる地―神仙境とされ、そこの離宮を建てたと言われています。仙薬があるとする三神山一つ蓬莱山には亀の背中に乗っているという神仙思想があります。明日香の地に残る亀の石像などは有名で、仙薬より神仙世界の具体化に興味が集中していました。斉明天皇の宮を広げたのちの飛鳥浄御原宮は母の水の宮殿といえるものでした。神仙の極意なのです。  
壬申の乱は天武天皇にとって突発的な受け身としての防衛行動ではなく、かなり計画的な前向きな天皇位奪取を目指したとする説を多く見かけます。私もそう思います。壬申の乱をサポートした人間離れしたスピードある組織行動に関与したのは天武天皇の優秀な舎人たちでした。役行者を勉強するうちに、さらに深く低く飛び回り情報伝達に携わったと思われる役行者や道照などの仏教徒や道教を重んじる優婆寒が俳諧して全国を駆けめぐっていたことがわかってきたのです。悪い表現かもしれませんが、趣味ではじめた仙薬の高貴薬、丹生収集の産地は天武天皇や役行者の壬申の乱を踏破した地名とダブってくるのです。天武天皇は九州から京に戻った天智7年以降、仙薬収集を役行者などに委託しながら、自らは天皇転覆を企むようになっていきます。役行者のようなもの達は、全国を飛び歩くなかで各豪族たちとの橋渡し役として利用されてきたとも思えます。近年の精鋭の小説家がまるで忍者のような天武天皇といった、じつは影の立役者たちがいたのです。吉野会盟により天武天皇は全国に散った名もない優婆寒や僧侶達を郷里に戻す勅令を発しています。彼の中での壬申の乱がやっと収束し終わったのです。そんな僧侶達を大切にしなさいと、労をねぎらったのです。  
この頃の最先端の知識は中国にあり、三教と言われました。  
儒教は紀元前6世紀、孔子により道徳理念としてまとめられました。前漢の武帝により国教として全盛を迎えています。仏教は1世紀ごろインドの釈迦を祖としています。儒教と関わりながら中国独自の発展をとげ随・唐時代に多くの寺院が建立されました。道教は5世紀中頃、民間信仰が基になって成立。文献としては「無為自然」自然のまま生きる老子を祖と考えられますが、2〜3世紀の五斗米道(ごとべいどう)という呪術的活動などその起源はさらに古いと思います。道教のなかの仙道は老子・荘子中心の道家思想として不老長寿を目指すものです。歴史的には、古来の巫術や鬼道の教を基盤とし、墨家の上帝鬼神の思想信仰、儒教の神道と祭礼の哲学老荘(道家)の「玄」と「真」の形而上学、中国仏教の重層的、複合的にとりいれたものといわれます。道(タオ)という宇宙と人生の根源的な真理の世界一の不滅とそれに一体となるべく修行し煉丹術をおこない、不老不死の霊薬、丹を練り服用し仙人になることを究極の理想とするものなのです。  
役行者は日本の古い神道をあたかも従えるかのように中国の道教、広くは道教の性格でもある仏教や儒教をも複合させ、習合させていきます。さらに役行者の好み、山岳信仰として独自の発展を遂げたということで教祖といえると思います。天武天皇も役行者と同時代に生き、二人が歴史のなかで交差するなかで、互いを認めあい協力しあってきたと考えられるのです。 
[ 参考 ]

 

弘法大師 修行の旅 関連諸説 
八百万の神々 
仏と神々 
鬼と邪鬼 
仏教
 
 
行基

 

[天智天皇7年-天平21年 / 668-749] 奈良時代の日本の僧。生年については、677年4月する説もある。僧侶を国家機関と朝廷が定め仏教の民衆への布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。また、道場や寺院を多く建立しただけでなく、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、困窮者のための布施屋9所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。朝廷からは度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得てその力を結集して逆境を跳ね返した。その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。  
生涯  
父高志才智、母蜂田古爾比売の長子として、河内国(後に和泉国)大鳥郡に生まれる。生家は後に行基によって家原寺に改められた場所で現在の大阪府堺市西区家原寺町にあった。  
河内国大鳥郡(757年に和泉国へ分立、現在の大阪府堺市西区家原寺町)に生まれる。682年(天武天皇11年)に15歳で出家し、飛鳥寺(官大寺)で法相宗などの教学を学び、集団を形成して近畿地方を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活動した。704年(大宝4年)に生家を家原寺としてそこに居住した。その師とされる道昭は、入唐して玄奘の教えを受けたことで有名である。  
民衆を煽動する人物であると朝廷から疑われたこと、また寺の外での活動が僧尼令に違反するとされたことから、養老元年4月23日詔をもって糾弾されて弾圧を受けた。だが、行基の指導により墾田開発や社会事業が進展したこと、豪族や民衆らを中心とした教団の拡大を抑えきれなかったこと、行基の活動を朝廷が恐れていた「反政府」的な意図を有したものではないと判断したことから、731年(天平3年)弾圧を緩め、翌年河内国の狭山池の築造に行基の技術力や農民動員の力量を利用した。736年(天平8年)に、インド出身の僧・菩提僊那がチャンパ王国出身の僧・仏哲、唐の僧・道璿とともに来日した。彼らは九州の大宰府に赴き、行基に迎えられて平城京に入京し大安寺に住し、時服を与えられている。738年(天平10年)に朝廷より「行基大徳」の諡号が授けられた。(日本で最初の律令法典「大宝律令」の注釈書などに記されている。)  
民衆のために活躍した行基は740年(天平12年)から大仏建立に協力する。このため「行基転向論」(民衆のため活動した行基が朝廷側の僧侶になったとする説)があるが、一般的には権力側が行基の民衆に対する影響力を利用したのであり、行基が権力者の側についたのではないと考えられている。741年(天平13年)3月に聖武天皇が恭仁京郊外の泉橋院で行基と会見し、同15年東大寺の大仏造造営の勧進に起用されている。勧進の効果は大きく、745年(天平17年)に朝廷より仏教界における最高位である「大僧正」の位を日本で最初に贈られた。(続日本紀)  
行基の活動と国家からの弾圧に関しては、奈良時代において具体的な僧尼令違反を理由に処分されたのは行基のみと言われている。そのため、それぞれに対して、同時代の中国で席捲していた三階教教団の活動と唐朝の弾圧との関連や影響関係が指摘されている。  
三世一身法が施行されると灌漑事業などをはじめ、前述の東大寺大仏造立にも関わっている。大仏造営中の749年(天平21年)、喜光寺(菅原寺)で81歳で入滅し、生駒市の往生院で火葬後竹林寺に遺骨が奉納された。また、喜光寺(菅原寺)から往生院までの道則を行基の弟子が彼の輿をかついで運搬したことから、往生院周辺の墓地地帯は別名、輿山とも呼ばれている。また、朝廷より菩薩の諡号を授けられ「行基菩薩」と言われる。その時代から行基は「文殊菩薩の化身」とも言われている。なお、行基が迎えた菩提僊那は752年、聖武天皇(749年に退位し当時は、太上天皇)の命により、東大寺大仏開眼供養の導師を勤めた。  
この他、行基は古式の日本地図である「行基図」を作成したとされ、日本全国を歩き回り、橋を作ったり用水路などの治水工事を行ったとされ、全国に行基が開基したとされる寺院なども多く存在する。  
行基有縁の地  
行基は畿内を中心とした各地で布教活動を行っていたことから、近畿地方を中心として各地に有縁の地とされる土地が存在している。  
生家跡は知恵の文殊菩薩を本尊とすることから合格祈願で有名な家原寺となっている。  
大阪府高石市高師浜3丁目付近で生まれたという説もあり、「行基生誕の地」の石碑が建てられている。その石碑には、「行基に連なる大工集団が千歯扱きを考案した、その大工集団は徳川末期まで京都御所の御用大工となった、高度な大工技術を駆使して高石地区の住宅建設を請け負っていた」と刻まれている。なお、これらの功績により、この付近が「匠」と呼ばれており、行基生誕伝承のある地に建てられた自治会館が「匠会館(八区会館)」と呼ばれている。  
近鉄奈良駅前には、1969年の同駅地下化の際に広場が作られ、赤膚焼の行基像が建立された。広場は「行基広場」と呼ばれ、奈良ではよく知られた待ち合わせ場所として定着している。この赤膚焼の行基像は後に心ない者の手によって破壊され、現在は1995年に製作されたブロンズの像が建っている。  
大阪府岸和田市の八木だんじり祭では、久米田寺開山堂(行基堂)前に周辺地区のだんじりが集結する。これは、久米田寺の前に位置する久米田池を行基が掘削指導し、田畑の開墾や周辺住民の生活向上へ寄与し、その他の遺徳を顕彰する「行基参り」と呼ばれている。  
兵庫県伊丹市の昆陽池公園の園内施設には行基の胸像と顕彰碑が設置されており、昆陽池の南南東1キロほどの場所に行基の開基した昆陽寺がある。市内には行基町(ぎょうぎちょう)という地名がある。 
■2 
天智天皇7年-天平21年(668-749)  大阪・堺生まれ。貧しい者の為に社会事業に取組み、生前から菩薩とよばれた奈良時代の高僧。今日の社会福祉の基を開いた。百済王の子孫(帰化人)。15歳で出家し薬師寺に入り、当時の仏教界の第一人者・道昭(どうしょう)に学ぶ。若い行基は道昭に随行して諸国を巡り、重税にあえぐ民衆の貧困生活と、都の貴族の贅沢な暮らしぶりの格差に衝撃を受ける。行基は仏教本来の目的は民衆の救済にあると考え、700年(32歳)に師の道昭が他界すると、その遺志をついで本格的に社会事業に乗り出した。704年(36歳)、故郷の堺に戻り生家を道場として家原寺を開く。多くの人々が行基の説法を聞く為に集まり、民衆は彼を菩薩と呼んで慕った。次第に地方の豪族にも行基の支持者が現れ始め、1000人の信者が行基と行動を共にするようになった。行基は各地で橋を架け、道路を整備し、水害対策で堤を築き、農業の為に池を掘った。同時に多数の布施屋(無料宿泊所)を設けて貧民を救済。建立した寺院は畿内だけで49ヶ所、全国では約700に及ぶといわれている。  
「続日本紀」の記録によると、730年に行基が仏法の集会を開いた際、1万人もの民衆が集まったという(当時の少ない人口を考えると驚異的)。 
ところが、朝廷は行基を危険人物と見なし始める。庶民の不満に行基が耳を傾けることは、体制への反抗を扇動する行為というのだ。当時は「僧尼令」が定められ、僧侶の役目は国家安泰を祈ることであり、寺の外で活動すること(民衆教化)は固く禁じられていた。事実、行基のもとへは朝廷に不満を抱く庶民が多く集まった。これを警戒した聖武天皇は行基を激しく弾圧し、ついには平城京から追放する。その結果、人心はますます聖武天皇から離れていった。741年(73歳)、聖武天皇は行基に謝罪。そして東大寺の建立のために協力を要請した。朝廷が大仏造りを呼びかけても人々は積極的に動かないが、行基が声をかければ嬉々として民衆が集うことを朝廷は認めざるを得なかった。745年(77歳)、行基は聖武天皇から日本初の大僧正(僧侶の最高位)に任ぜられた。749年(81歳)、行基は奈良西部の菅原寺で数千の弟子に囲まれ他界。生駒の山中に葬られる。それから3年後に大仏が完成し、開眼法要が営まれた。 
1235年、行基の墓と伝承されていた場所から二重の銅筒が発見され、中に入っていた銀瓶に「行基菩薩遺身舎利之瓶云々」と記された札があった。これによって正式に行基の墓と確認され、同地に竹林寺が建てられた。行基が火葬された奥山往生院にも五輪塔がある。 
東大寺修二会(お水取り)では読み上げられる過去帳には、聖武天皇、光明皇后の次に、行基菩薩の名が記されている。どれほど行基が大仏建立で大役を果たしたかが分かる。 
全国を巡った行基が作ったとされる日本最初の地図(行基図)は、江戸時代に伊能忠敬が測量図を作成するまで日本地図のスタンダードだった。 
日本全国に行基が発見したとされる温泉がある。 
行基の師、道昭は日本法相宗の開祖。道昭は遣唐使で大陸に渡り、あの玄奘(三蔵法師)に師事した。道昭は日本で初めて火葬された人物でもある(遺言で火葬された)。
奈良仏教 
743年聖武天皇は大仏建立の詔をだしました。仏教の力で国家の安寧を図ろうとする鎮護国家の精神にもとづいてです。この国家的な大事業は困難を極めましたが、大仏建立に際して大きな役割を果たしたのが行基です。行基は民間で活躍をしていた僧侶で、仏教を伝道し、橋や堤を作る土木事業にも尽力しました。言い伝えによると、彼を慕い集まる庶民はしばしば1000人を数え、説法を聞き、また土木事業を習得した行基の指導に従って橋や堤を造った。しかし、当時の僧尼令では寺院の外で仏教の布教をすることは違反とされていました。それ故「百姓をまどわす」ものとして警戒されていました。大仏建立事業が始まり、多くの人々の協力が必要になると、政府も行基の力を必要とするようになります。行基も大仏建立に協力をして大いに貢献しました。行基は749年に82歳でなくなります。大仏開眼には間に合いませんでしたが、小僧行基とさげすまれていた彼は、大僧正行基と尊敬されるようになります。行基がどのような人物であったか、よく分かりません。しかし、日本の仏教の歴史の中には、民間仏教者とでもいう流れがあります。それは平安時代に引き継がれます。市聖と尊敬された空也はその代表でしょう。そのような民間仏教者の祖のようなものが行基とも言えそうです。 
大仏開眼 
752年聖武上皇、孝謙天皇らの他に文武百官や中国やインド、ベトナムから渡来した僧侶らが列席するなかで、高さ約16mの黄金に輝く盧舎那仏の開眼式が行われた。導師にはインド僧の菩提僊那が務めるというように、国際色豊かな開眼式でした。天平文化の国際性を暗示している。 
天平の甍 
大仏開眼は鎮護国家としての国家仏教を象徴する出来事でした。しかし、仏教を中央集権的な律令国家の基本とするためには、まだやり残していることがありました。国家の役人としての僧侶の権威付けです。当時、僧侶は特別の扱いとして、課税の対象からはずされていました。そのためもあったでしょう。多くの人々が自ら出家をして僧となることをしました。このような僧侶は私度僧と呼ばれ、官許なしに僧となることは禁止されていました。しかし、民衆の支持もあって、私度僧はあとをたちませんでした。行基も民衆に人気を博した私度僧の一人でした。正式の僧侶となるための戒壇院の設立は差し迫った問題でした。 
東大寺の大仏殿の西側に戒壇院があります。東大寺創建当時、唐では正式の僧侶となるためには、受戒といい戒壇で戒律を受ける儀式が必要でした。この時に受ける戒律は具足戒といいます。具足戒は比丘(男性)の場合は250戒、比丘尼(女性)の場合は348条にのぼりました。具足戒を受けるには三師七証といって、3人の師と7人の証人が必要でした。つまり10人の高僧が必要でした。当時、日本ではそのような正式の具足戒を授ける仕組みも整っていませんでした。僧侶の世界では正式な戒壇院で受戒することが正式な僧侶として認められる要件でした。言わば、僧侶としての一年生にあたります。唐にわたった日本の僧侶がどれほど日本で経験豊かな僧侶であっても、唐についてから先ず具足戒を受けなくてはなりません。それ故、日本の僧侶は法会の席では新羅からきた若い僧侶よりも末席に座らなくてはなりませんでした。それ故、戒壇院の設立は国内的にも対外的にも、必要不可欠でした。 
そのような要請のもとに招かれたのが鑑真でした。当時、すでに唐で名僧と尊敬されていた鑑真は、師の渡航に反対する弟子たちの妨害や、難破などのために5回のとこうに失敗した後、6度目にようやく渡航に成功しました。しかし、その時には、鑑真自身は視力を失うなどの辛苦をなめた渡航でした。来日した鑑真は、大仏殿の前に臨時の戒壇を築き、聖武上皇らに菩薩戒を授けました。その後、大仏殿の西側に戒壇院を設立し、ようやく日本にも正式の戒壇院に登り、具足戒を受けるという制度が確立することになりました。 
鑑真の晩年は決して恵まれたものではありませんでした。鑑真の日本への渡航は戒律を日本に伝え、多くの僧侶をつくることでした。しかし、当時の政府の意図は、むしろ僧侶の門戸を狭めることでした。晩年の鑑真は大僧正の任を解かれました。彼は唐招提寺の建立に力を注ぎました。唐招提寺は落ち着いた風格のある古寺です。唐招提寺には国宝の鑑真和上像があります。言い伝えでは、結跏趺坐したまま76歳の生涯を閉じた鑑真和上の姿を写した像ということで、鑑真の姿をよく伝えているといわれます。 
若葉して、おん眼のしずく、ぬぐわばや [芭蕉] 
鑑真が日本にもたらしたものは戒律ばかりではありません。天台宗にも詳しかった彼は天台の経論も多くもたらしました。やがて、天台は最澄によって再発見されることになります。とにかく、鑑真によって戒壇院が設立され、仏教も僧尼令のもとに国家統制の下に入りました。その後、戒壇院は筑前観世音寺と下野薬師寺にも作られ、三戒壇となりますが、とりわけ東大寺の戒壇院は大きな権限を持ちました。僧侶となるためには東大寺の戒壇院で受戒しなくてはならなりませんでした。後に最澄が天台宗を開き、弟子の養成にいくら力をいれても、最終的に東大寺で受戒をする段になって、思うように受戒を受けられなかったり、または受戒をした弟子が叡山にもどらなかったりすることがありました。叡山に大乗仏教の精神にのっとった大乗戒壇院を設立することは、最澄の悲願となりました。しかし、かれの生前にはこれは実現しませんでした。今でも、東大寺の戒壇院では30年に一度、受戒が行われているとのことです。 
天平文化 
三月堂は堂自体が国宝です。東大寺に残る建築物の中で一番古いもので、奈良時代のものです(一部は鎌倉時代)。このご本尊は不空羂索観音。日光・月光菩薩も国宝です。その他にも多くの国宝があり、三月堂(法華堂)は「天平仏の宝庫」といわれるように、堂内には仏像がところ狭しと並んでいます。阿修羅像はあまりにも有名です、修羅場といわれるように、阿修羅はインドの神に激しく戦いを挑む悪魔でした。しかし、この激しさが仏法を護るための護法神として取り入れられることになります。国宝館は藤原氏の氏寺としての往時の興福寺の力を示すみどころがいっぱいあります。天平仏ではありませんが、旧山田寺の仏頭は白鳳時代を代表する国宝で見逃すことができないでしょう。それと戒壇院の四天王像です。 
奈良から平安へ 
奈良仏教は聖武天皇に代表される国家仏教、鎮護国家をめざすものでした。自らを「三法の奴」とした聖武天皇のもと、仏教と国家は結びついていきます。そのような状況のなかで道鏡の問題が生まれました。道鏡は法相宗の僧侶でしたが、聖武天皇の娘であった称徳天皇の病を呪いで治療したことがきっかけで称徳天皇の寵を得るようになりました。おそらく恋愛感情もこめられていたでしょう。766年道鏡は法王となり、天皇と同じ待遇をえることになりました。769年「道鏡を天皇にすれば国が平和になる」との宇佐八幡宮のお告げがありました。女帝は和気清麻呂を派遣してその真偽を確認してくるように命じました。しかし、清麻呂は女帝と道鏡の期待を裏切って「皇族が後を継ぐべき」との報告をしました。道鏡は怒り、清麻呂を穢麻呂、清麻呂の姉の広虫を狭虫として備後に流しました。称徳天皇の死後、その後ろ盾を失った道鏡は下野の薬師寺に左遷されました。道鏡事件は、政治と仏教の結びつきから生じた仏教の堕落を露呈することになりました。その後の光仁天皇・桓武天皇の課題は、人心の一新、政治の建て直し、また、仏教界の堕落に対して厳しい取締りを行うことでした。桓武天皇は794年平安遷都を行いました。天皇は奈良仏教の寺院が平安京に移動することを禁止しました。桓武天皇は恐らく坊主を嫌っていたでしょう。その様な天皇にとって、純粋な修行僧であった最澄は、従来の僧侶にはない新鮮さを感じたことでしょう。やがて、天皇は最澄の支援者となっていきます。奈良仏教と平安仏教の相違は明瞭です。国家仏教、鎮護国家の奈良仏教に対して、平安仏教は都から山にこもりました。若き最澄が奈良仏教の堕落を嫌って叡山にこもったことに象徴されるように、初期の平安仏教は山岳仏教でした。最澄が比叡山、空海が高野山を拠点としたことは有名です。女人高野と呼ばれた室生寺を訪れれば、奥の院への道を歩むうちにそのことが納得されるでしょう。
奈良の大仏 
盧舎那仏(るしゃなぶつ)、あるいは、毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)といいます。盧舎那とは、サンスクリット語で、ヴィロチャナー、光を放つもの、という意味です。 
世界最大級の木造建築、東大寺大仏殿に収められている盧舎那仏は、高さが約15m強。この像全体が、3mもの高さがある巨大な蓮弁(れんべん=ハスの花びら)の上に座っている のです。 
蓮弁に描かれた模様をよく見ると、これがまったく驚きなんです。そこには、太陽系のような小宇宙が何億も集まり、銀河系のようなものができている様子がデザイン化され、線刻されています。これはまさしく現代にも通じる宇宙観です。世界の中心にそびえる須弥山(しゅみせん)さえ、はるか下界の小さな宇宙の一つに描かれている。この図を「蓮華蔵世界海図」といい、あらわされている広大な大宇宙を三千大千世界(さんぜんだいせんせかい)といいますが、この宇宙全体が、盧舎那仏の台座に描かれている のです。 つまり、人間には計り知ることのできないほどの大いなる世界の上に座り、この世界を体現する仏、それが大仏、盧舎那仏なのです。仏教がつくりあげた、おそらく最大、最高の仏像です。これが華厳(けごん)の仏な のです。 
南都六宗のひとつで、最後にさかんになったのが華厳宗です。その中心経典は「華厳経」というたいへんに長いお経です。4世紀ごろからインドで編集されていたこの経典が中国に伝わり、740年ころ、新羅の僧、審祥(しんじょう)が日本に伝えて研究が始まりました。それまでの仏教を総合し、世界像を示しているこの華厳経に、盧舎那仏があらわされている。それは宇宙全体を総合する仏、宇宙的な生きた体として描かれているのです 。 
奈良時代に入り、ひとつの国家として動きはじめた日本では、バラバラな豪族とか地域を、具体的な施策で統合して治める必要が出てきます。ではいったい、どのような方法がいいのでしょうか。 
そこに出てきたのが、それぞれが似たようなものを照らし合い、お互いにお互いが映り合い、影響し合うネットワーク、そういう仕組みをつくるというアイデアでした。つまり、ここで日本が取った政策とは、この盧舎那仏をいただいた華厳経の仕組みを使うことだったのです。華厳経には、それぞれの存在が一種の真珠のように磨かれた鏡の球で、盧舎那仏の光を受けて、お互いにお互いが映り合うような宇宙観が描かれています。日本という国をつくるために、この華厳世界をモデルにしたネットワークが、大仏のつくられた東大寺を中心に展開されていく のです。 
東大寺には今も、「四聖御影」(ししょうのみえ)という絵が残されています。たいへん有名な絵ですが、ここには大仏建立に携わった4人の中心メンバーが描かれているのんです。   
それは建立プロジェクトのトップとなった聖武(しょうむ)天皇と、大仏の設計図ともいえる華厳(けごん)経を解釈した僧の良弁(ろうべん)、中国から日本に招かれたインド僧で大仏開眼の導師となった菩提僊那(ぼだいせんな)、そして、民衆の力をまとめて建立に貢献した行基(ぎょうき)の4人です。 
行基は法相(ほっそう)宗の僧です。この時代、僧たちによる民衆救済の活動がはじまりました。行基はそこに自らの使命を見いだしたのです。 諸国をめぐり、貧困や病気の人々を助けるだけでなく、貧しさの原因そのものを取り除くために、農業技術の指導、橋や道路の補修など、さまざまな社会事業を成し遂げていった。行基菩薩と呼ばれてたいへんな尊敬を集めました。 ちなみに現存最古の地図といわれる日本列島の地図は、「行基図」と呼ばれています。行基本人の作ではないようですが、江戸初期まで広く使われたといいます。行基がいかに日本中をくまなく歩き、情報を集めようとしたか、よくわかります。行基の下には各地の人々が結集し、草の根のネットワークができてきます。 
このような民衆のネットワークに今度は上からの動きが重なります。730年頃からたびたび天然痘の大流行がありました。740年には九州で藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の反乱も起きる。国家を揺るがすこれらの事態に悩んだのが聖武天皇でした。 
聖武天皇は、741年に河内(大阪)の仏教信者たちが造営した智識(ちしき)寺を訪れ、本尊の盧舎那仏をみて感激するのです。 そこで聖武天皇はすぐ、大仏の建立の詔(みことのり)を出します。743年のことでした。疫病や争乱で乱れた国を、智識寺で行われていた人材、資材、知恵、資金を調達するしくみをモデルにして復興しようと考えたのです 。 
そのときプロデューサーとして登用されたのが行基だったのです。民衆の組織力に長けた行基が、諸国の信者たちの寄付や労力のまとめ役となります。こうして大仏建立は官民一体の一大国家プロジェクトとして推進されていく のです。 
同時に聖武天皇が行ったことがもうひとつあります。それは日本の各国ごとに国分寺・国分尼寺(こくぶんにじ)を建設することでした。その名称はいまでも各地に残っています。全国の国分寺・国分尼寺の中心になったのが、大仏をおさめる奈良の東大寺と聖武天皇の皇后である光明皇后がつくった法華寺でした。 
この2寺をセンターとし、各国分寺を通じて、各地に知識や技術をもたらされるしくみです。国分寺ネットワークはそれぞれ、今でいうと、研究所やシンクタンクに、病院や図書館を合わせもったような役割を果たしていたわけです 。 つまり、ピカピカに磨かれた玉の鏡面に映りあう華厳のネットワーク・イメージが現実化して、国造りの基盤を担うものとなって現れたわけです。 
743年の「大仏建立の詔」から約10年。752年に、いよいよ大仏の開眼供養が盛大に行われました。国内だけでなく、唐、新羅をはじめ、遠くベトナム、インド、ペルシアなどからも人々が招かれ、非常に国際色豊かな祭典でした。参列した聖武太上天皇(譲位した天皇です)はこのとき僧の身分です。すでに行基の元で出家をしていた のです。 
さあ、古代最大のナショナルプロジェクトと言うべき、大仏建立の意義はわかりましたか? こうして仏教は、これまでの氏族仏教、一族の仏教ではなく、国をつくり、守るという考えにもとづいて信仰されるようになります。これを「鎮護(ちんご)国家」の思想といいます。 
では、この鎮護国家のトップに立つのはだれでしょうか?仏でしょうか?仏は、理想の国の祭主(さいしゅ)なんですね。現実の国のトップ、それは、天皇でした。
■3 
大師伝説  
空海=弘法大師は、説話・伝説の宝庫のような人です。なにしろ北海道を除く日本全国を隈なく旅して、各地で杖を立てて木を生やしたり、岩を叩いて泉を湧き出させたり、悪鬼・悪竜を退治したり、雨を降らせたりしているのですから。その数は432にも及ぶのだそうです。奈良時代の行基に代表される有名無名の私度僧(未公認の僧)達が、長年にわたって全国各地で植樹や灌漑や貧者救済などのボランティア活動を繰り広げ、民衆の記憶に残っていたものが、大師信仰の広まりと共に全て弘法大師の所業と伝えられるようになったものでしょう。 
空海が係わったとされる寺院も全国に201あるそうです。空海が具足戒を受けたのは22の年ですから、62歳で没するまでに毎年五つの寺院の開祖や中興の祖になった勘定になります。このうち資料で確認できるものはせいぜい10位のもので、大部分はその盛名にあやかって寺が勝手に縁起を作り上げたものと思われますが、そうではないという証拠もありません。 
空海と行基を直接結びつけるこんな話があります。空海がまだ山野にあって修行中だった頃、播磨の国の路辺で出会った老女が鉄鉢を差し出しました。老女は行基菩薩の弟子僧の妻で、弟子僧は、やがて聖がやって来ると予言していて、その時はこの鉄鉢をさしあげるようにと常々言っていました。貴方こそその聖に違いないと思い供養したというのです。このように民衆にとって空海は行基の後継者であり、しかも私度僧達には欠けていた諸々の災厄を積極的に退ける強力な呪術力を持った救済者として期待されていました。 
高野山に今も残る「御遺告」(空海が入定の七日前に記したとされる遺言書)によると、空海の母は天竺の聖僧が胎内に入る夢を見て身籠ったので、両親は「この子は昔仏弟子だったに違いない。だから将来は仏弟子にしよう」と思い、空海もいつも泥土で仏像を作り祠に安置して礼拝していたとあります。生まれる前から聖僧になることを運命付けられていたことになります。 
空海は仏門に入って既存の経論を研究しましたが満足できません。そこで仏前で一心に祈ると、夢の中に人が現れて「お前が求める経典は大日経と言って、大和の国久米寺の東塔の下にある」と告げました。これは善無畏三蔵が80年ほど前の養老年間に来朝してもたらしたのですが、未だ密教の気運が熟していないと見て将来のために埋めておいたものでした。 
同じ「御遺告」の中に「伊豆の国桂谷山寺へ往き、大般若魔事品を虚空の中に書く。六書八体文文点画、筆に随って字と為るを見る」とあります。「高野大師行状図画」になると更に詳細にこう記しています。「伊豆の国桂谷という山寺に行って仏法修行をなさった時のこと、この寺はもともと魔縁の多い所で障難があったので、大師は空中に向かって大般若魔事品をお書きになると、虚空の中に文字が現れ、六書八体の点画は乱れる事が無かった。その後は天魔もここから去り、仏法が広まったので、大師自ら大日如来の像を作って安置された。今の修善寺がこれである。国が治まり、民が豊になったのも偏に大師のご恩徳である。」 
河内国の国主が石川郡で、その地に住む悪龍を追い払って寺を建てました。しかしそのために山内の水源が枯渇し、領民が難渋していたところ、大師が加持祈祷で龍を呼び戻し、再び泉が湧き出るようになりました。そこで名を龍泉寺と改めました。 
空海が唐から帰国するに際し、皇帝に謁見しました。宮殿の一室に王羲之が字を書いた壁面があったのですが、破損したため修理して白壁のままになっていました。かねがね空海の能書ぶりを聞いていた皇帝はここに字を書くように勅を下しました。今昔物語によるとこのとき空海は、両手両足に一本ずつ筆を持ち、更に口に一本くわえて、壁面に文字を五行に書き下しました。驚嘆した唐帝は「五筆」という号を賜り、以後彼は五筆和尚と呼ばれるようになったということです。一体どんな姿勢で書いたのですかね。 
唐から帰った空海は、やはり能書として名の高い嵯峨天皇の知遇を得ます。あるとき天皇がお手本をあまた取り出されて空海に示されました。中に殊に勝れた一巻があり「これは唐人の手跡でいかにもめでたい重宝であるが、誰が書いた物かわからない」と仰せられました。空海は「これは私が書いたものです」と軸を放って御覧に入れると「某年某日青龍寺に於いて書す 沙門空海」とありました。それでも今の空海の書風と違うと不審気な面持ちの天皇に対して「国によって書き様を変えております。唐は大国なのでこのように書きました」とお答えしました。 
弘仁9年(818)勅により宮城の諸門の名称を改め、額を懸けることになりました。古今著聞集によれば、大内裏十二門のうち、南面の美福・朱雀・皇嘉三門は空海、西面三門は小野美材、北面三門は橘逸勢、東面三門は嵯峨天皇が担当しました。いずれも能書の誉れの高い人達ですが、「天子は南面す」と言って南は正門に当たりますから、空海が最上位ということになります。橘逸勢と嵯峨天皇は空海と並んで三筆と言われた人達です。小野美材は小野篁の孫、俊成の子でやはり能書で知られた人ですが、没年が902年なので、百歳まで生きたとしても弘仁9年には未だ16歳にしかなっておらず、時代が違います。員数あわせのために連れてこられた感じがします。 
本朝能書伝によると、この時空海は応天門の額も書いております。「また応天門の額を書かせ給いしに、上の円なる点を忘れ給いて門にうちて後、筆を濡らして投げ上げたまいしかばその所につきにき。」空海は書道のみならずダーツの名手でもあったわけです。 
「いろは歌」も一般に空海が作ったと言われており、空海と最澄の合作という説もあります。五十音図の作者も新羅の法明尼、吉備真備、空海などの説があります。 
このように空海に関する言い伝えには人間離れしたもの、明らかに誤りだと思われるもの、贔屓の引き倒しに近いものなども多く、数多く書かれている伝記にしても神がかっていたり美化されすぎたりした部分が多く見られるのですが、その行跡を仔細にたどると、空海と言う人はこのような超人伝説に頼らずとも充分に超人的な才能の持ち主であったことがよくわかるのです。
■4 
学者と僧侶の違い 
私は二人を考えるとき、最終的に学者と僧侶との違いにいきついてしまう。最澄は学者タイプの僧侶であった。空海は実践家タイプの僧侶であったと思われる。だが大乗仏教の精神が利他・慈悲であるからには、僧侶は学識もさりながらまず衆生済度に生きる実践者でなければなるまい。釈尊がインド各地を遊行して、悩める人々のための対機説法に生涯を捧げたところには、すでに大乗精神の心髄があったといえよう。 
空海の大先輩、私度僧であった行基菩薩が治水や架橋など多くの社会事業をなしたのも大乗の精神である。空海もまた治水灌漑工事や、学校や寺院の創設や、また鉱山開発(水銀鉱脈)など、済世利民の活動は八面六臂である。 
空海は高野山をして、最澄のように十二年間、山(比叡山)を一歩も出てはならぬという戒律は作らなかった。おそらく空海には、僧侶たるものは「庶民の中に飛び込むべし」という信念があったからだと思われる。密教学ではこれを『菩提心論』の「三句の法門」(菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を畢竟す)に求めるが、空海はそのような教義以前に、はなから僧侶とは衆生済度に献身すべきものだ(方便を畢竟す)と思っていた。 
かたや最澄が籠山十二年目に、まず社会的宗教運動として展開したのは、なんと比叡山に、一切経、つまり、当時日本に輸入されていた全経典を目録にしたがって写経し、経蔵に揃えることであった。つまり、山中での総合中央図書館の整備である。彼の異常とも思えるような文献蒐集熱は、空海の入唐請来目録が自筆で残っているほどである。(『最澄と天台本覚思想』栗田勇著 作品社) 
このことは世俗を厭い、山林で修行する血気盛んな三十一歳の最澄の宗教的事業としては奇異な感じをうける。しかしこれこそは学者たる最澄の本望であったと思われる。 
最澄の精神は引き継がれ、経典整備の事業はその後も比叡山天台宗では徹底して行われ、天台宗は「総合大学」として発展するのである。鎌倉新仏教は「比叡山大学」で学んだ学僧たちから生まれてきたことを考えれば、最澄を教育家とするのは確かに一面の評価ではある。しかし、やはり仏道とは何か、大乗仏教とは何かという問題が残る。 
はたして天台教学を学んだ優秀な学僧たちの多くが比叡山を離れて行った。法然・親鸞・日蓮など、真摯に仏道を模索した学僧たちほど、籠山して学ぶよりも民衆の中に飛び込み、それぞれ大乗の精神を追求したのである。しかも彼らが開いた宗派仏教は、元々最澄が空海によって触発され、その後比叡山が確立した台密を吸収することによって生まれた民衆仏教だったのである。 
真言教学は空海一代で見事に完成されたために、ほとんど脱皮する余地を見ぬまま継承されてきた。これを硬直化と批判するむきがあるやに聞く。しかし祖師の教義を時流に合わせて何でもかんでも社会化することがはたしてよいかどうか。例えば今日の臓器移植問題を方便畢竟だの菩薩行だのといって仏教側が奨励することが正しいといえるのか。(詳しくは本頁『臓器移植問題』@AB及び長澤弘隆の頁)。 
真言宗がやるべきことは、むしろ、弘法大師の志を汲み取り、神仏習合の平和共存の密教思想が日本文化の基底にあることを、広く世に知らしめることであるように思われる。それには、お山(高野山)にいて教義を説くだけではなく、民衆の中に飛び込んで身近に寄り添う方途をさぐるところから開始されるべきではないだろうか。 
■5 
行基の残した港湾の水利ディベロップメント 
『日本後紀』によると、弘仁3年(812)、嵯峨天皇は「大輪田泊」に港の修築使を派遣し、勅命でははじめて国営によって泊の修築が行われたという。  
その16年後の天長5年(828)、嵯峨同様に空海と親交をもっていた淳和天皇は、空海をこの泊の造船瀬所別当に任じ、港湾整備の指導監督にあたらせる。朝廷は、満濃池や大和益田池の治水工事を短期間でやり遂げた空海の高い手腕を買い、あるいは雨乞いで見せた天地をも動かす祈祷の功顕までもたのんだのであろうか、15年経っても埒があかないこの国営の港湾修築を空海に託した。  
当時、はじまったばかりの国策による治山治水や港湾整備が難航すると、なぜこうも空海に別当の役が向けられたのであろうか。  
まず推測できることは、そのような大規模な治山治水・港湾整備には当然ながら高度の知識と技術を必要とするのだが、おそらくそうした技術系の役人が朝廷にはいなかったのだろう。朝廷の高官を養成する奈良の大学寮では土木技術を教えていなかったのである。それを学べるのは、当時は奈良の官大寺くらいであっただろう。  
奈良の官大寺には、唐に留学した際中国の土木技術を修得した僧(例えば道昭)や、そういう僧から直接手ほどきを受けた僧(例えば行基)がいたし、仏教僧の必修として「五明」を教えていて、そのなかに工芸・技術・天文暦・占術を学ぶ「工巧明」があった。「五明」とは、「声明(誦唱・音韻)」・「工巧明」・医方明(医学・薬学)・因明(仏教論理学)・内明(仏教教理学)で、いずれも唐からもたらされたものである。  
空海はこの「五明」の学にはめっぽう強かった。長安の滞在中に詩文や書のほかに最新の「工巧明」も学んできたにちがいない。帰国後道昭や行基の事蹟を大安寺や東大寺で知ることもできた。渡来中の中国人の技術者と親しく交わっていたかもしれない。この時期、高野山の造営で治水土木に巧みな人夫も多くかかえていたであろう。空海は「工巧明」の点で、当時としては傑出していたと思われる。  
さらに、国営事業とはいえ資材から人夫まですべての費用を国費でまかなったのではなく、おそらく地元有力者の資金提供や人々の労働力提供までさまざまな民間の助力を必要としたのではないか。そうした対外交渉には何といっても当時は国家的な肩書きや名声がものをいったであろう。その点で空海は、嵯峨・淳和2代にわたり天皇のブレーンであり、国家仏教の総本山東大寺のトップに立ったことのある人であり、雨乞いなどで天地を動かす祈祷の功顕までもち合わせた人であった。その上、空海には満濃池・大和益田池と直近の実績があった。だから「大輪田泊」にはやはり空海だったのであろう。  
東大寺と「大輪田泊」とは古くから浅からぬ関係にあった。  
天平年間、聖武天皇による東大寺大仏殿造営の勧進を行った行基が、同時代にこの泊を開いている。また鎌倉時代には、平氏による南都焼き討ちの際炎上した東大寺の復興、とくに大仏及び大仏殿の復元を行った重源もこの泊を修築している。大陸や朝鮮半島との交易の拡大に道を開き、この泊を東大寺の所領とし、ここで得た収入を東大寺にもたらしたのである。  
この3年前に空海がものした「益田池碑銘」には「東大寺沙門大僧都伝燈大法師遍照金剛」とある。この時期の空海が国策の土木事業にかかわる場合の立場は、東大寺名誉別当くらいの国務であったことが想像できる。空海はその立場で行基や重源と同様東大寺と「大輪田泊」の関係のなかで公務に赴いたのではないか。まだ東大寺の堂塔伽藍の造営や密教化もつづいていて、大きな資財を必要としていたかもしれず、東大寺の資金源としての「大輪田泊」の港湾機能の修復拡充が必要になっていたこともありえよう。空海はひょっとして、港湾工事に明るい中国人技術者を「大輪田泊」に連れて行ったかもしれない。  
この地一帯は古くから瀬戸内海上交通の要衝として栄え、当初は「務古の水門(むこのみなと、武庫ともいう)」といわれたところが発展した。朝鮮半島などとの国交や交易もここを通じて行われていた。ここには、『日本書紀』の神功皇后の時代に稚日女尊(ワカヒルメノミコト、天照皇大神の幼名)を祀る生田神社が鎮座し、その領地である神の地を「神戸(かんべ)」といっていた。  
天平時代に行基が「摂播五泊」を開き、西国の諸国から大和朝廷に運ばれる公租・年貢等の物資輸送や朝鮮半島などとの国交や交易の港として重要な役割を担った。  
平安時代になると、「務古の水門(武庫)」よりもその西側「大輪田泊」が中心となり、「神戸(かんべ)の属する<津>」の国であったこの地の長官を「難波ノ津」の役人が「<摂>する(兼ねる)」ことになり、「摂津」とよぶようになった。  
おそらく「難波ノ津」を出航した何次かの遣唐使船団もこの泊に停泊し、潮を待ち風を待ち、食糧や水や荷を積んでまた出航していったにちがいない。この頃開けていた瀬戸内や西海の港には、「摂播五泊」のほか「方上」「那ノ津」「牛窓」「児島」「敷名」「長井浦」「風早」「熱田津」があり、遣唐使船団は1日進んではそちこちに出入港をくり返していったであろう。かつては第十六次遣唐使船の乗員だった空海にとって「大輪田泊」は懐かしい港だったにちがいない。  
平安時代後期には、宋との貿易で利権と富をほしいままにしようとした平清盛が「大輪田」を大規模に修築し、この港を眼下に見渡せる福原(今の兵庫区)に遷都を試みたが、源平の合戦に破れて灰燼に帰した。  
鎌倉時代には東大寺の勧進重源の修築により大いに復興した。以後この港の修築は東大寺が行っている。東大寺は周防にある寺領地の租米を運ぶのにこの港が大いに役立ち、朝廷や幕府も西国から租米を運送するのにここを上陸拠点とした。この時代にこの港はわが国随一の交易港となり「兵庫津」とよばれるようになった。  
重源は、建久7年(1196)、ここに「兵庫関」という関所を設けて通行料(関銭)をとり、治承4年(1180)平重衡によって焼かれた東大寺の再建や「大輪田泊」の修築の資金にした。後にこの関所は南北2ヶ所に分かれ、北を東大寺が南を興福寺が管轄し収入をあげながら争ってもいる。  
重源はまた荒廃していた「魚住泊」や「河尻泊」も修築した。伝えでは漁民や村民の要望に応えたといわれているが、おそらく兵庫関と同様に東大寺復興資金対策であっただろう。 重源はこのほかにも、摂津沿岸から大坂湾一帯を通る年貢輸送の船から1石に対し1升の米を徴収したり、山陽道の難所や伊賀の悪路を通行できるように整備し、東大寺復興のための各種用材(周防産)や瓦(備前・伊勢産)を東大寺に運ぶ要路を確保したりして、「大勧進」と称されるようになった。  
建久年間には、備前が重源に、播磨が文覚に付され、それぞれ東大寺と東寺の造寺料(官寺である両寺の諸堂伽藍を造営する際の資糧をまかなう料田)とするなど、空海ゆかりの両寺が摂津の隣国にまで領地をのばした。  
ちなみに重源は、13才の時に醍醐寺に入り、のち高野山で修学した真言僧である。四国・熊野でもたびたび修行を積み、3度入宋したともいわれている。  
南北朝時代には、北朝の足利尊氏・新田義貞の足利軍と楠木正成の南朝軍とが戦った「湊川の合戦」の舞台となり、戦火により廃港の憂目をみた。  
室町時代・戦国時代を経て江戸時代になると、朝鮮通信使や北前船等の往来がさかんになり瀬戸内の海運の拠点として栄えた。幕末に不平等条約といわれた「日米修好通商条約」の締結により新しく「神戸港」が開かれ、「兵庫津」は次第に海運から産業の拠点にその機能を変えていった。明治時代以後は国の近代化にともない、「神戸港」はわが国を代表する国際貿易港として現在に至っている。  
平成15年6月、神戸市の発掘調査により8世紀後半から10世紀前半にかけての「大輪田泊」の遺構が兵庫区で見つかった。今まで奈良時代から平安時代の遺構の発見例はなく、市の教育委員会は奈良時代に「大輪田泊」が存在したことが裏づけられたと発表した。  
今回の発見により、奈良時代から港湾の整備が行われ、大陸や朝鮮半島との外交や交易航路の要衝として、西国と京・奈良を結ぶ物資輸送の上陸拠点として、あるいはまた十数次にわたった遣唐使船の停泊地として大いに栄えたことが推定される。ただ10世紀から後は使用された形跡がなく、平清盛が宋との交易のために大規模整備を行ったという「大輪田泊」は、こことは別の場所であった可能性が出てきた。  
満濃池の修築をはじめ、益田池の潅漑工事、「大輪田泊」の港湾整備、日本初の庶民の子弟のための私学校「綜芸種智院」の設立など、空海はいわゆる社会事業を次々と手がける。これを人はよく済世利民や世間教化というが、それは少し単純ではなかろうか。  
この時期の空海は、独自の密教教義の集大成に入っていた。その中心的コンセプトの一つが「果分可説」の考え方である。  
空海にとって、別当としての公務であれ、自ら志した事業であれ、社会事業はすべて「生仏一如」「凡聖不二」の方便であり、その原理は「果分可説」であった。言い換えれば「羯磨曼荼羅」に同じである。 
■6 
飯綱権現 (いいづな) / 高尾山・薬王院(高尾山薬王院有喜寺)  
真言宗智山派の大本山で成田山新勝寺、川崎大師平間寺とともに、関東の三大本山。山頂の薬王院は、本尊の薬師如来・飯縄権現・不動明王の三尊が一体となる霊場。  
奈良時代・天平16年(744)に聖武天皇の勅命を受け、東大寺大仏の建立の悲願のため諸国に国分寺造営を命じた天皇の願いを達成すべく薬師の像を刻んだ行基菩薩が東国鎮護の祈願寺として、道を開いた 。行基は奈良時代の僧で和泉の人。俗姓、高志氏。道昭・義淵らに法相数学を学び、のちに諸国をめぐり、架橋・築堤などの社会事業を行い、民衆を教化し行基菩薩と敬われた。最古の日本総図を作ったとも伝えられる。薬王院の名は創建当初、御本尊薬師如来を安置したことに由来 。  
■7 
行基焼 
須恵器の別称。室町時代末頃に始まり、祝部土器の名称が普遍化した1887年(明治二〇)頃までの問、支配的な呼称として慣用されましました。行基焼という名称の由来は、奈良時代に活躍した僧行基が窯を築き須恵器を創製したという伝説に基づきます。行基の出生地は和泉国大島郡(大阪府泉北郡)とされていますが、この地はわが国の須恵器生産の一大巾心であった陶邑窯の所在地に当たっているため、行基と須恵器窯とが結び付いてこの伝説が生まれたものと思われます。行基を窯業の祖とする伝説はこの他にも各地に残っています。またわが国で最初に姫帽を用いて製陶したのは行基であるという伝説もありますが、いずれもまったく根拠はないようです。  
2  
5世紀から12世紀にかけて我が国で生産された陶質土器である須恵器の別称。江戸時代、茶人間で鑑賞用として珍重され、水指、花入などに用いられている。名称の由来は、名僧行基が窯を築き須恵器を創製したという伝説に基づく。  
3  
行基焼は和泉国、日本陶器の初と云われますが、調べによると行基の陶器を焼いたことは正史に伝えていないと云う。古行基は河内国埴田陶器で、初め磁器を作り、遺骨を盛ったり、経巻を納めたりして土中に収めていました。今に残っているものは行基壷と呼んだり行基焼と云っています。茶人はこれらに水を盛ったり、花を挿したり、壁に懸けたり、また席上に飾って観ました。  
4  
奈良時代に諸国を行脚した憎行基が各地で窯を築き須恵器の作り方を教えたという伝説から、須恵器のことをいう。また山茶碗に限って行基焼ということもある。行基は和泉国大鳥郡(現在の堺市)の人とされているが、この地は須恵器生産の一大窯場であったことからかもしれない。ロクロを最初に用いたのも行基という説もある。斎瓮(いわいべ)の類。また、天平時代和泉より出て諸国を廻歴し土木工事を起こし民益を計った高僧行基が和泉大島郡陶器荘で創始したともいい、その他にも同種の伝えがあるが、いずれも根拠のないものである。  
山茶碗  
山茶碗(やまぢゃわん)は11世紀ごろの常滑や瀬戸周辺のほか、東海地方西部で焼かれた日用雑器のことです。日用品として大量に焼かれた山茶碗は、須恵器の窯の技術を広めた伝承をもつ僧「行基」の名をとって行基焼(ぎょうきやき)ともよばれます。集落部のほか山中の廃棄場所である物原(ものはら)からも大量に出土したことが名前の由来とされます。はじめは高台のあるものが出土していますが、13世紀ごろからは高台のない簡素な作りになっています。窯の焼成温度の上昇とともに薪の灰が熔けた自然釉のかかる山茶碗も出てきます。山茶碗はその作りの簡素さと自然釉の美しさが特徴といえます。手に取るとこの土味が印象的です。石はぜや器面のブク(泡状にふいたもの)が土の粗さをあらわしています。よくこんな土でロクロ引き出来たなと驚かされます。裏側と見込をみると凹凸の表面に自然釉がみられます。粒状になった緑の自然釉は、光にかざすと淡い輝きを放ちます。  
大原焼  
土師器の系統をつぐ素朴な素焼きで天平の昔、行基菩薩(670年〜749年)がこの地に行脚して来て行基焼の手法を伝えたと言われる。生活に密着した日用品のホウロク、コンロ、ゴマ煎り、コタツ、土鍋、茶釜などをつくり、これが近隣一般へ普及して江戸中期から明治初期にかけては10数箇所の窯元で350人もの陶工が生産に励み、30隻積み出し専用船で笠岡港から各地へ出荷された。当時の作品としては、里庄町の不動院や神島瀬戸の五重塔などが残っている。製法は土を練り、形を作り仕上げて陰干し、窯に入れて摂氏900度位で7〜8時間焼いてつくる。現在では伝統的な素焼きのほかに新たに焼き締め法を取り入れ、新しい大原焼きの魅力を醸し出している殿山窯のみとなった。  
泉北丘陵 / 須恵器発祥の地  
むかしむかしの話でございます。京都に都が置かれていた頃の話でございます。  
「近頃、泉北丘陵の窯業地帯(現在の泉北ニュータウン)からの貢物が途絶えがちであるなんとか納めさせよ」との帝からの厳命を私は受けたのです。実地調査とは名ばかり、税金の強制徴収の役であります。いつの世でも、どこの国でも、お上のすることはむごいものであります。重い税ほど民、農民にとって恐ろしいものはありません。京の都より淀川を船で下り、三国丘は方違神社に旅の安全を祈願して、目的地の泉北丘陵の陶器山に参りました。このあたりは高杯(たかつき)や水がめをたくさん作っており、全国に売っている土と火の町でございます。  
ここでできる須恵器は、土に水を加えて練り上げ、木をくべ火をたいて焼きあげます。「陰陽五行説」の木・火・土・金・水・の全て網羅しているのであります。私は、このことを美木多上の窯元で始めて知ったのです。  
それというのは・・・・ あるところで、ひとりの青年が白髪まじりの老人のお尻をたたいているのに出会いました。老人はシクシク泣いていました。私はこの残酷な光景を見るに忍びず、青年に注意 しました。「老人をいじめるのはいけない老人は国の宝である即刻やめなさい」ところが意外な言葉がはね返ってきました。「私は親の言うことを聞かないこの子をせっかんしているのだ」と言うのです。  
青年は父親なので あり老人はその子供であったのです。父親はすっぱいミカンをちっとも食べようとしないわが子に愛のムチを打ってしよっちゅうミカンを食べていた父親は若々しく全然食べない子供は老人のように老いさらばえていたのでした。このように土に育てられたミカンは人間を美しく元気にする果物なのであります。私はここでハッと悟らされました。須恵器の生産には多大な青春を費やすことを。また、ミカンは無病息災の妙薬であることを- 私は税金の取立てを止めて帝のため不老長寿のミカンを沢山持って帰ることにしました。美木多上のミカンは晩秋ともなりますと蜜柑が重い谷間の農家族の風景を展開しています。  
なお、泉北丘陵地帯の須恵器つくりの伝統は奈良・平安朝時代には植田焼き行基焼として人々に親しまれました。以後、その技法は連綿として、この地で受け継がれ 、湊焼、堺焼、大仙焼、法道時焼など、ひとつの地域としては珍しく多くの窯を有する所で有ったのです。  
中世の行基焼き  
古くから、山茶椀・山皿と呼ばれ、近年、灰釉系陶器という名称が提唱されている、中世の東海地方でさかんに用いられた焼き物がある。この焼き物には古来、また、行基焼きという名称が用いられたが現在は用いられない。今回の少考では、行基焼きという名称の発生の理由の検討から、現在まったく用いられない行基焼きという言葉を考えたい。  
行基焼きの行基とは、奈良時代、東大寺大仏建立の大きな力となった僧、行基菩薩のことである。この行基であるが、もう一つ考古学用語として(建築技術としての用語というべきかもしれないが)用いられる。それは行基瓦と呼ばれる丸瓦、行基葺きと呼ばれる瓦の葺き方である。行基焼き・行基瓦とも窯業に関係のある用語であることは注目すべきであろうか。  
行基瓦は古代瓦の概説書の見開きや口絵に必ずといっていいほど引用される程、有名な現存の建造物がある。奈良市奈良まちの元興寺極楽坊、本堂である。元興寺極楽坊は行基と同じ奈良時代の僧・智光が遺したとされる浄土変相図・智光曼荼羅に対する信仰の中心として、寛元2年(1244)に僧坊の一部を本堂に改造しているが、その屋根には、元興寺創建時の瓦が用いられ、その丸瓦が行基瓦と呼ばれている。  
『今昔物語集』巻11第2には「行基菩薩、佛法を學びて人を導きたる語」という話が載っている。この話の後半部分には、前述の僧・智光が真福田という名前で登場し、行基菩薩との因縁により真福田が出家するという、行基菩薩の元興寺極楽坊、智光とのただならぬ関係をうかがわせる。このことは、中世の南都に於いて行基菩薩が復興の象徴とされていたことと関係がないとはいえない。治承4年(1180)平重衡の兵火によって焼失した東大寺を再建した俊乗坊重源や、西大寺の興正菩薩叡尊など中世南都において行基菩薩を意識して自らの活動をおこなった僧は枚挙にいとまがない。  
南都、元興寺極楽坊に葺かれた瓦であるが故に、また、その瓦の制作時、使用時の便利の故に、行基によりあみ出された瓦という伝説が生まれたと理解するのは可能ではないだろうか。  
このように行基菩薩は中世の南都を中心とした僧の活動に大きな影響をあたえている。それは行基菩薩の中世の民衆のあこがれの想いと相まっているようにも思える。行基焼きと呼ばれた器の正体。これをつきとめるにはもう少し時間が必要なようである。  
重源と渥美窯の製品とを近く結びつける言葉として「行基焼き」という言葉11)があげられます。行基は東大寺大仏の創建当時、聖武天皇を支えたお坊さんの名前です。  
中世行基焼きとは、重源の活躍した時代に渥美窯などで焼かれた茶椀や小皿などの焼き物をさしていう言葉です。つまり、中世行基焼きとは重源のような僧たちの力によって支えられた焼き物を意味するのではないでしょうか? 重源にも行基の行ったことを再びおこなっているのだという感覚はあったでしょう。  
志戸呂焼(しとろやき)  
静岡県島田市金谷(旧金谷町)で焼かれる陶器。 志戸呂の古窯跡は、鎌倉時代、室町時代、桃山時代とそれぞれに推定されるものがかなりあり、 鎌倉時代の窯跡からは瀬戸地方で行基焼とか山茶碗とかよんでいるところの、荒土を焼き締めただけの平たい椀や小皿の類の破片が出ている。 これらは素地が炭化して灰黒色になっている。 底は、糸きりした上により土を輪にして付けた、付け高台で、籾がらを敷いた上に載せたので、高台に籾のついた跡が残っている。 この頃の志戸呂焼は、江戸時代のものとは全く異なり、むしろ鎌倉 室町期の古瀬戸によく似ている。  
いわゆる志戸呂焼は、大永年間(1521-1528)頃に葉茶壷を焼いたのに始まるという。 天正年間(1573-1592) 初期、美濃国久尻の陶工加庄右衛門景忠が、五郎右衛門と改め作陶した。 慶長年間(1596-1615)に家康が瀬戸から加藤四郎右衛門景延を招いて開窯されたという説もある。 景延は美濃久尻に唐津式登窯を導入した功労者として知られている。家康は天正16年(1588)5月14日に、焼物商売免許の朱印状を授け、 伝馬朱印状、13人扶持などを与えて窯に保護を加えた。  
志戸呂焼は「七度焼」ということと、「祖母懐」という銘があるのが特徴とされていた。 七度焼は景延が7度も焼いた名器から出たもので、この壺に静かに耳を近づけると、壺が鳴いているような音が伝わってくるといわれ、 今でも七度焼をやいている。  
寛永年間(1624-1644)には、小堀遠州の好みの茶器を製し、「遠州七窯」に数えられたというが、遠州が直接指導した形跡はない。 享保年間(1716-1736)から「志戸呂」の銘をうった作品が生産された。享和元年(1801)には30数軒の窯元があった。  
現在、志戸呂焼と呼んでいるものは、瀬戸風の黒褐色のやきもので、江戸中期以降のものがほとんどである。 茶入が最も有名で、金谷付近に多く残っているが、本当の名器は少ないと言われている。 褐色もしくは黒柚のものが主で、裏に「祖母懐」とか「祖母懐加藤四郎」または「姥懐」の刻銘がある。  
現在も茶壺が中心で、土は鉄分が多く赤みがかった器に黄色釉と黒釉を掛け、独特の侘びた味わいがある。また、非常に堅牢で湿気を寄せ付けないのも、茶器に好まれる理由である。 
■8 
行基式〈日本図〉
現存する行基式日本図がなぜ「行基菩薩御作」とかならずしるされているのか、それを作図したのは本当に行基なのか。中世の文学資料「渓嵐拾葉集(けいらんしゅうようしゅう)」から、中世期には「行基菩薩記」というものが出回っていたことが推測され、行基菩薩の日本遍歴と田畠の開墾、そこから導き出された日本図が独鈷の形をしていたと記されていたことなどがわかる。ここから、日本は独鈷の形であるという聖化の物語が生まれ、天のぬ矛や伊勢神宮の心の御柱も独鈷の形であり、さまざまなシンボリズムが同化されていった。 
■9 
聖人伝・高僧伝と社会事業  
「聖人」と「菩薩」の称号 
聖人伝や高僧伝は中世に入って組織的に集められて以来、農民や商人から貴族階級の人々にまで親しまれてきた。ヨーロッパの「聖人」と同様に、日本でも奈良時代から「菩薩」や「菩薩僧」とよばれた人物がしばしば六国史や伝記の中に登場する。しかし、菩薩と称された人物は、必ずしも社会事業に貢献しているとは言いきれない。この論文で取りあげる高僧伝は、江戸初期の「本朝高僧伝」のような書籍だけではなく、もっと広い意味で、民衆から高僧として崇拝されていた人物をとりあつかった伝記である。このように、社会事業の観点から聖人伝と高僧伝を比較すると、まったく異なった文化の間にも、偶然とは思えないような共通点があるように思われる。 
ヨーロッパの聖人伝の殆どは脚色された大げさな伝記から成り立っているため、多くの歴史学者は研究対象にならないと言っている。ここで考えたいのは歴史的事実ではなく、聖人伝の誇張やレトリクが当時の価値観や世界観をどのように反映しているかである。今日において、伝記というものは主人公の短所をも叙述することが要求されるが、大部分の聖人伝は信者の奇跡に焦点をしぼり、聖人同士の違いが殆ど見られないことが多くなっている。12-13世紀になると聖人伝は修道院のミサの中で朗読されるようになり、命日や誕生日になると特別な儀式が行われた。また、日本の往生伝や高僧伝と同じように、ヨーロッパの聖人伝も、読んだり聞いたりすることによって、功徳が得られると信じられていた。 
古代、中世ヨーロッパの聖人伝について言える事は、描写されている聖人が必ずと言っていい程、なんらかのかたちで社会福祉に携わっていることである。秀でたキリスト教徒が聖人の称号を与えられるには、ローマ法王の正式な認知が必要であったが、一般的には地元の信仰者が長旅をして、司祭か他の高官にその聖人が行った善行について報告することが必要であった。13世紀になるとヨーロッパ中の小さな町や村落などで、福祉活動に力を注いだり、奇跡を起こしたりする者を「聖人」と讃え始めた。しかし、イノセントr世(1160-1216)はこういった動きが、曖昧な聖人をたくさん作りだすと考え、法王だけが中央主権的に聖人を選択することができるよう新たな法律を定めた。 
日本の場合、菩薩の称号を制限するメカニズムが存在しなかったせいか、文献の中には幅広い人々が菩薩と讃えられている。鑑真とともに唐から来朝してきた中国僧、思託は聖徳太子の生涯を上宮皇太子菩薩伝に記し、現存する日本最古の僧伝集である「延暦僧録」には24名の伝記が記述されている。残念ながら、その伝記は散逸してしまったが、現存する目次には、上宮皇太子菩薩、近江天皇菩薩、行基菩薩、勝宝感神聖武皇帝菩薩、天平仁正皇后菩薩、沙門釈浄三菩薩、長岡天皇菩薩、感瑞広祥皇后菩薩、広智菩薩などといった多くの人々が菩薩の称号を与えられている。この目録が興味深いのは、聖徳太子、天智、聖武、桓武天皇、光明皇后、乙牟漏皇后といった俗人である皇族が菩薩と呼ばれていることである。確かに、聖武天皇や光明皇后は布施屋や施薬院などの福祉施設の建設にかかわっているので、敬虔な仏教徒として菩薩と称されてもおかしくはない。又、行基菩薩のように朝廷から正式に与えられた尊称を記述している書籍も存在する。 
日本で菩薩が社会事業と関連づけられるのは、行基の長年における布施屋などの建設であるが、その化身としてまつられてきた文殊菩薩への信仰は、平安初期に日本全土に浸透していたようである。大安寺の勤操が創始した文殊会では経典を読むばかりではなく、地元の農民や官吏も文殊菩薩の教えをまっとうするために穀物を寄付したと元亨釈書に記されている。天長5年2月25日(828)官符によれば、勤操が死欠した後も、泰善という僧が文殊会の存続を望み、僧網も全国でこの会が行えるように申し出たと「類聚三代格」に記述されている。 
日本の菩薩号の特色は、神仏習合思想を受けて、781年に八幡神宮に八幡大菩薩の称号を奉進していることである。そもそも菩薩号というものは、歴史上の人物だけではなく、文殊、普賢、観音菩薩のように智慧や慈悲をつかさどる守護神として扱われている。初期キリスト教で、このような役目を果たしたのは、新約聖書に登場するガブリエルなどの天使たちであろう。民衆に親しまれてきた聖人も、天地の仲裁者の立場を担っていると、神学者の間で考えられていたようだが、守護神というよりは、民衆と同じ立場におかれた人物として描かれている。 
そして、平安末期から鎌倉時代にかけて、律宗を再建した高僧には、朝廷から菩薩号がおくられることが度々あった。後醍醐天皇は覚盛(1194-1249)に大悲菩薩の称号を授与し、忍性(1217-1303)を忍性菩薩と呼んでいる。そして、後伏見天皇は叡尊(1201-1290)を興正菩薩と称している。この点では、中世のローマ法王が、候補者を聖徒の列に加えることと似ているが、日本では高僧を選出したり、評価したりする複雑なプロセスは存在しなかった。 
日本最初の仏教通史である「元亨釈書」(1322年「元亨二」)は、仏教伝来から鎌倉時代末までの、約七百年間にわたる高僧の伝記や史実を記録した極めて重要な資料である。虎関師錬は序章に梁や唐の高僧伝に倣って「元亨釈書」を編纂したと記しているが、400人あまりの僧伝の中で、わずか4人だけが菩薩号の称号で呼ばれている。しかも、その4人は、叡尊を除くと、全て奈良時代の僧や皇族であることが伺われる。虎関師錬は高僧に対して、個人的な評価を加えたというよりも、前例に倣って菩薩と記してい たようである。更に戦国や江戸時代になると、禅師号、国師号、大師号といった称号が頻繁に高僧に授けられたようであるが、菩薩号は高僧伝の中で殆ど使われなくなった。 
「貧困者」とキリスト教 
こうして考えてみると、ヨーロッパの聖人伝は最初から社会事業と密接なつながりがあったようである。そもそもキリスト教では「貧困者」が大事な役割をはたしており、聖人にとって彼等はなくてはならない存在であった。最近「貧困を一掃する」とか「貧困にうちひしがれた人々を助ける」といったスローガンが、世界の政治家の間で頻繁に用いられるようになったが、「貧困」という概念は曖昧なもので、容易に定義できない。「富」は数えることができても、「貧困」を量ることはできない。特にいわゆる「先進国」と「発展途上国」の間には、21世紀に入っても生活水準に大きな差異があるため、「貧困者」というのは、なおさら分かりにくくなってきた。 
一般的に現代人にとって「貧困者」という言葉は、住居、仕事、財産を失った人々のことを指すが、古代の日本やヨーロッパの社会にはかなり違った基準が存在していた。金銭がまだ広く使われていない時代には、「貧困」というのは「富」や「財産」ばかりではなく、社会的地位の最も低い人々を指していたのかもしれない。 
古代、中世ヨーロッパのキリスト教信者にとって「貧困者」は侮辱や虐待の対象ばかりではなく、崇拝の対象でもあった。町人文化が栄え始めると、「貧困者」はもっと身近な存在になり、文学作品のなかにも度々登場するようになった。読み書きできる人口が増えていく中で、聖書はもっとも重要な位置をしめていた。特に新約聖書は、民衆の生活の中で絶対的な役割を果たしている。その福音書が「富者」と「貧困者」を両極として扱っていることから、「貧困者」というカテゴリーが、現代の西洋人によって作り上げられたものではないことが分かる。 
例えば、ルカの福音書6.25の中で、イエスは本格的な説法を始める前に12人の弟子を山上に集め八福について説いた。その第一福にイエスは、「貧しい者は幸いである。神の国はあなたがたのもの」と語っている。この「貧しい者」が、具体的に誰を指しているかは、明確ではない。けれども同じ福音書の中でイエスは、「金持ち」と「貧困者」のたとえ話を語っている。ルカの福音書17.19-31を概要すれば、あるお金持ちの屋敷の門の前で、ラザロという貧困者が毎日横たわっていた。お金持ちはラザロをかまってやらなかったため、地獄に落ちてしまった。お金持ちはラザロが天国でアブラハムの側にいるのを見て、地獄から助けを求めた。しかしアブラハムは、そのお金持ちの前世の生きかたを咎め、地獄で罰を受けるしかないと言った。興味深いことに、「貧困者」に対しては、ラザロという名前がつかわれているものの、「お金持ち」には特定の名前が与えられていない。しかも、ルカのたとえ話の中でラザロだけが名前のある登場人物となっている。このラザロは、中世のヨーロッパの絵画の中で頻繁に取り扱われ、聖人として崇拝されている。 
イエス自身の活動も、様々な「貧困者」の為に奉げられていることは言うまでもない。ルカの福音書は、イエスがユダヤ地区の様々な町を訪れながら、ハンセン病患者、手足の不自由な者、悪霊にとりつかれた者の苦しみをも癒したと伝えている。その社会事業の範囲は、あまりにも広く民衆の注目をあびたため、最終的には権力者の反感を買うことになった。恐らくユダヤ人の司祭にとってイエスは、従来の価値観をひっくりかえす危険な人物だったのだろう。 
ラテン語で「貧困者」の意味を持ちえる言葉は豊富に存在する。Insufficiens,mendicus(乞食)famelicus(空腹の)nudus(裸の)miserabilis(悲惨な)pannosus(粗末な装いの)などは物質的欠乏を指すが、omnesという語は弱者や身分の低い人を指していた。更に15世紀になるとイタリアでは、「貧困者」を「尊敬すべき者」と「価値のない者」に区別する神学者も現れた。Francisco de Vitoria(1480-1546)は Summa Theologiaの注釈書の中で「貧困とは苦しみの生活をおくることではなく、必要な最低限のものをそなえ律儀に生きることを指す」と説明している。大規模な不況の真っ最中だったイタリアでは恐らく「貧困者」をいくつものカテゴリーに分ける必要があったのかもしれない。キリスト教が普及して以来、未亡人、孤児、病人は「いたわるべき貧困者」としてとらえられてきた。これらの人々は新約聖書の福音書の中で慈しまれ、賞讃されてきており、古代、中世ヨーロッパの信者にとっても特別扱いされている例も少なくはない。中世に入ると貧困者は様々な修道士の援助を受け、団結して労働組合のようなものを構えるようになった。15世紀にはストラウスブルグ、バゼル、フランクフルトなどで、かなり大規模な施設が足の不自由な者とハンセン病患者などの間で設けられ、大多数は城下町の外で労働者を集めていた。 
しかし、他の「貧困者」は、蔑まれることさえあった。典型的なイタリアの15世紀の寓話を取り上げてみれば、「貧困者」の中には働けるのに貧しく偽るものがいて、町の広場で倒れては人から金銭を騙し取って生活していると考えられていたようである。オーグスバーグに住んでいた有名な浮浪者は、ある時死んだふりをして、葬儀のお金を町の者に寄付してもらった。しかし事実が役人にもれると、彼は即座に首吊りの刑にされたと伝説は語っている。この他にも「貧困者」であることを利用して怠惰な生活をおくった逸話は極めて多い。ジャック・デヴィトリー(1160-1240)というイタリアの神父は、興味深い説法の中で仕事ぎらいの貧困者についての寓話を残している。その話を要約すると、ある日町中で足の不自由な貧しい男と盲目の男が気軽に話をしていた。すると、急に聖マーティンの葬列が現れ、二人はその中に巻き込まれてしまった。聖マーティンの霊的能力の噂を聞いていた二人は焦って、「大変だ。もし彼の聖体にふれてしまえば、病はたちまち治ってしまい、一生働かなければならない」と叫んだ。葬列が過ぎ去った後、彼らの病は治ってしまったという結末である。このように、聖人の遺体や遺骨に関する信仰は中世になると幾つもの聖人伝にまとめられた。 
そもそも 「貧困者」という言葉は農民や労働者を指す場合も多かったと、カータ・リンドバーグは説明している。封建社会の中で農民は無力で、騎士や王の保護が必要だと考えられていた。そのせいか、agricolaやlaboratorは軽蔑されることが多かった。中世イタリアの社会において、農民はもっとも低い身分にあったものの、自ら貧しい生活をおくる者は崇拝されていたようである。俗生活を捨てて修道士になるには、いくつもの誓いを立てなければならなかった。その中でもっとも重要な誓約は、貧困、純潔(性的禁欲)、忠順だった。ここで詳しい説明をはぶくが、貧困の理想をつらぬいた修道士は、pauper Christi(キリストの貧困者)と称された。しかし、イタリアの各地では内乱が起こっていたため、ベネディクト会の修道士は自給自足の修道院を建て、外部の混乱から逃れようとしていた。修道院はキリスト教の教えをまっとうするための祈りと修行の場と考えられていたようであるが、13-14世紀になると修道院の中には裕福な院も現れ、元来の意味も失われつつあった。無論このような傾向は、日本の禅宗の中でも見られるのではないだろうか。祈りと瞑想は、キリスト教と仏教の思想の中でもっとも重要な要素ではあるが、社会との接触を切って専念すると危険な執着になりうることは様々な伝説や説話の中でみられる。アッシジの聖フランシスコもこの傾向を実感していたのかもしれない。彼が13世紀に呼び起こした改革運動は、修道士と民衆の共存を求めるもので、町を中心に活動した。金銭の流通と長距離貿易の繁栄を伴い、裕福な商人は増えていた。しかし、イタリアの教会は依然として商人に対して批判的な姿勢を崩さず、レスター・リトルは商人の中には、自分の富に対して罪悪感を抱いていた者も多くいたと考えている。しかしフランシスコは商人を責めず、何らかの形で貧困者に食料や衣服を恵むことで、功徳を得ることができると説いた。その為アッシジのフランシスコは後の世に商人を守る聖人とされている。 
商人はキリストが述べたように、全ての財産を捨てて神の教えを守ることはできなくても、食料を「貧困者」に施すことによって罪をあがなうことができた。12-13世紀イタリアの説教の中には、「貧困者」への施し物は、死後天国で神から授けられるという話がよくみられる。特に裕福な商人の葬儀では、財産の何割かを「貧困者」に施すという遺書さえ残っている。現代人にとって、「貧困者」への施し物によって、天国でも裕福な暮らしができるという考えは、福音書の教えといささか矛盾が感じられるが、中世の神学的立場から見れば納得できたのかもしれない。このようにして中世イタリアの修道士、司祭、司教は「富者」と「貧困者」を結びつけ、お互い不可欠な存在に作りあげた。 
社会福祉の聖人 
さて、社会福祉の聖人として崇拝された人々は、地元の信仰者たちの中にとけこみ、村落や町を活動範囲とした。ベンカサの12世紀の聖人伝に登場する聖ライネリウス(?-1160)は、裕福な商人の子として生まれ、優秀な成績で大学を卒業した。その後彼は、父の商売を継ぐことになっていたが、気が進まずエルサレムに巡礼することを決意した。13年の年月が過ぎた後、彼はようやくピサの町へもどり、様々な福祉施設を建てることに携わった。数十年後ピサの民衆は彼の死をいたわり、社会福祉の聖人としてまつりあげた。ある注釈書によれば、彼はアレキサンダーr世によって聖人の列に加えられた。ピサには他にもこういった福祉の聖人たちが活動していた。聖ウバルデスカは女性の聖人として当時の民衆に親しまれていた。田舎からピサへ流れてきた彼女は、聖ヨハネ・エルサレム病院のシスターとして任命され、物乞いをしながら病人の介護に生涯をささげたと語り継がれている。ウバルデスカの死後、彼女はエルサレムの病人を見守る聖人として崇拝された。 
社会福祉の聖人はたまに政治的運動を呼び起こし、教会の不正を指摘する者さえいた。特に、ピアツェンザの聖レイモンド・パルメリオはエルサレムへの巡礼から戻った後、様々な都会の社会問題に積極的に取り組んだ。彼は年々増加していた売春、貧困、法廷の汚職問題の深刻さを訴え、東ロンバルディの司教をも批判した。地方の豪族の支持をえて、教会の権威者を攻撃しながらも、民衆に崇拝され続けたことは、聖パルメリオのカリスマ性を物語っている。聖パルメリオは社会福祉の聖人として讃えられているものの、13世紀の聖人伝の中で、闘争的な聖人というカテゴリーに属している。即ち正統的な聖人伝の中にも、教会の堕落や不正を訴える余地はあったようである。 
聖人伝が教会から正式に承認された礼拝文学になってから、社会福祉の聖人は、一般的に職人といった卑しい身分の者として描写されている。聖パルメリオは若い頃、靴職人として働き、聖デオグナは酒職人として労働し、聖ファシオ・デ・クレモナは金細工師として知られていた。しかし、職人は教会からもっとも卑しい社会層として軽蔑されており、殆どの聖人伝の中で主人公は日常生活に戸惑いを感じ、職人をやめる類型が見られる。聖パルメリオやホモノブスも職人をやめて長期の巡礼に出かけた。一方聖ファシオ・デ・クレモナは金細工師をやめることはなかったが、彼がつくった十字架や盃は貧しい地元の教会に配られたと伝えられている。聖人伝の多くは地元の司祭によって記述されてきたが、13世紀以降は中央主権の厳しい審査が加えられたため、カルト的な要素をはぶかなければならなかった。そのせいか、もっとも顕著な聖人伝は、その聖人とまったく関係のない人物によって書かれている。やはり、古代の聖人伝はラテン語でまとめられていたが、中世に入ると口語的で一般の信者を対象に記されることが多くなった。ローマ教会は、聖人伝を統一しようとする一方、庶民に分かる言葉で紹介しようとしていたようである。 
最後に、日本もイタリアも中世に入ると、福祉活動に携わった聖人の社会的地位を実際よりも高く見せる傾向が見られる。14-15世紀のイタリアの聖人伝も若い頃、職人として活躍した紹介の部分を軽視したり、はぶいたりすることによって、後世に上流階級の聖人として見せつけることができた。日本でも行基の例を取り上げてみると、8世紀の「大僧正舎利瓶記」などでは行基の祖先を百済系の帰化人と記しているが、14世紀になると「行基縁起図絵詞」のように行基の先祖を、中国の漢高祖(BC.247-195)や応神天皇の時に来日し「論語」十巻「千字文」一巻を献上した王仁と結びつける僧伝も増えていた。リチャード・キーキヘファは聖人というものは、時代が過ぎていくとともに民衆と社会的距離を増していくものであると断言している。確かに後世の信者にとって聖人は手の届かない存在であったかもしれないが、聖人伝の中で彼等は身近な人としても描写されている。天地の仲裁者として信仰されてきた福祉の聖人は今日においても複雑な存在である。
■10 
葬のいろいろ 
佛教での御葬式には土葬(地)、水葬(水)、火葬(火)風葬(風)、の4種類の方法があるのだそうです。これを四大(しだい)と言い、佛教用語で、私達の周囲にあるものは、『地、水、火、風』の四大から出来ているという意味で「お坊様が病気」と言う事を表す言葉を「四大不調(しだいふちょう)」と言うのだそうです。 私達の身体は四大で形成され、死ぬと、土葬(地)、水葬(水)、火葬(火)風葬(風)、の4種類の方法で葬儀が行われるのだそうです。  
地 / 土葬 
地は土の事ではなく「形があること」をさすのだそうです。人間の持っている形ある物とは「身体が形」と言うことに、なるようです。  
松原の土葬の棺は、私の採集では、埋葬(まいそう)と火葬がありますが(松原は土葬も埋葬も同じ土に埋める方法ですが、内容により言葉を選びます。表現詳細略)座棺は埋葬の墓で使用していました。採集を振り返って考えますと、土葬の方が古く、火葬の方が新しい葬儀法であろうと思いますが、火葬の場合は行基墓と言い、墓場に焼き場があります。となると、行基墓がいつ頃から出来たかのもんだいになりますが、現在私の採集からは回答が出来ていません。私の採集によると座棺葬儀体験者は昭和10年以前生まれの男性で、以後は寝棺です。座棺とは樽の中に前かがみに手足を身体が硬直する前に急いで胸前に折たたみ、御尻を下にして樽の中へ死者を裸で入れ、顔を出して着物を着たように、上から白い布を掛けました。座棺も、寝棺も共に月日が、自然に土にかえしてくれる埋葬方法です。  
ただし、私が採集始めた昭和40年代前半の使用はなく、大阪市瓜破でしたが、まだどの墓にも火葬用焼き場が残っていました。松原の火葬、土葬の儀礼については、両儀礼とも深く、長期に多く取り扱って説明していますので、ここでは省略しますが、私は民間口頭伝承話の採集に力を入れている体験からしますと、松原には火葬と土葬を題材にした民話は数多く残っています。火葬は当然ながら行基民話です。もう一方は全国的に分布している土葬墓を示し「飴買い幽霊…胎児を身ごもったまま死んだ母が、毎夜墓を出て飴を買いに行った話」も、同様な形態で松原でも伝承されています。この御話を彷彿させる土葬の方法で、死者は埋葬されます。その埋葬は次のような方法です。  
墓穴を掘る前に、まず棒を地面に刺して掘る所に前任者の棺がないか調べてから地面にお金を(四方と思う確認していない)置いて、4尺から7尺くらい土の下で、苦しくないように空気穴を作ります。作り方は細い竹の棒から節を除いて立てます。ついては松原ではありませんが、土葬にもいろいろあって次のような形式のものもあるようです。埋葬後、3年程度で再度発掘し、その骨を壺に入れてお墓に納める方法があるそうです。この時、所によると掘り出した骨を水でよく洗って納める方法をもつ風習があるそうです。  
そのほかに、特殊な土葬になりますが、エジプトのピラミットで知られている「ミイラ」葬も、日本でもあったようです。私は残念にも知らず、説明できませんが、東北地方に「藤原3代」のミイラがあるのは有名だそうです。次の事例は、出羽三山の「木食上人」の事例です。上人は生前から木の実やソバ粉を食べ、生きている時から土中の棺に入り、死後ミイラになるよう努力された事例もあるそうです。(松原の事例で、土葬座棺の儀礼がおこなわれた事例は同行の組織が残っていた頃の事例(私の同行で実際体験採集は昭和48年が最終)  
水 / 水葬 
現在はほとんど行われていないそうです。古い記録に紀州の御寺の住職(寺の名前がすれて見えず)が、亡くなった時、遺体を小舟に乗せて沖に放つ葬法があったと書かれているがこれも一種の水葬でしょうとありました。現在は航海中に死人が出、故国に、遺体を連れ帰れない時のみ、水中へ沈め、汽笛を長く鳴らして3周して去る儀礼もあるそうです。松原の水葬儀礼の採集はないが、形と川の用途からないと考えます。  
火 / 火葬 
死体を焼いて「お骨」にして祀る方法で、日本では仏教とともに火葬の方法が輸入された。死を「けがれたもの」と考えた日本人に火葬は素直に受け入れられ、現在では都会はもちろん、田舎でも火葬が多くなったとあります。  
○火葬と土葬は松原の葬儀方法として、採集がありますので、事例と共にのせていますが、この時書いておりました通り、松原は行基七墓の風習が最近まで残っております。行基墓には、焼き場がありました。松原の風習で、河内七墓参り、松原七墓参り、地域七墓参りの風習は大切に思っています。私の採集では、昭和15年生まれの女性で、地域七墓を、経を読むように一気に話して下さり、母親と歩いた七墓まいり、七墓のおかげと手を合せて語る人などに出会って、民話部門で書いておりますが、行基を信仰しているのではなく、行基を自然体で受け入れる姿は、松原を私製用語『記紀の松原』と言わしめる土壌の力かもしれません。また死を「穢れたもの」と考えた日本人を云々と考えるのも、なるほどと思いますが、松原には女性が「穢れたもの」の思想の原点と考える血盆経(コツコツと30余年研究していますが、裏経と言うだけ五里霧中です。しかし、高見地区に伝承する民話や唄に隠された言葉の解読の完成で「女性と穢れ」の回答を毎月の月経とつなげずに回答を得ると思っています。  
風 / 風葬 
最近は「鳥葬」の語がつかわれているそうです。死体を野外に置き、鳥や獣の飼食にし、風化するのに任せるそうです。日本でも古くは風葬が行われていたらしく、「餓鬼草紙」にはその様子がかかれているそうです。
[ 参考 ]

 

奈良平安の日本 
仏教 
地図 
空海 
和讃 
弔(仏事)
 
 
鑑真

 

[鑑眞、鑑真、鉴真 / 持統天皇2年-天平宝字7年 / 688-763] 奈良時代の帰化僧。日本における律宗の開祖。俗姓は淳于。  
鑑真と戒律  
唐の揚州江陽県の生まれ。14歳で智満について得度し、大雲寺に住む。18歳で道岸から菩薩戒を受け、20歳で長安に入る。翌年、弘景について登壇受具し、律宗・天台宗を学ぶ。律宗とは、仏教徒、とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を伝え研究する宗派であるが、鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者であり、4万人以上の人々に授戒を行ったとされている。揚州の大明寺の住職であった742年、日本から唐に渡った僧・栄叡、普照らから戒律を日本へ伝えるよう懇請された。当時、奈良には私度僧(自分で出家を宣言した僧侶)が多かった。私度僧に対して差別的な勢力が、伝戒師(僧侶に位を与える人)制度を普及させようと画策、聖武天皇に取り入り聖武天皇は適当な僧侶を捜していた。  
仏教では、新たに僧尼となる者は、戒律を遵守することを誓う。戒律のうち自分で自分に誓うものを「戒」といい、サンガ内での集団の規則を「律」という。戒を誓う為に、10人以上の僧尼の前で儀式(これが授戒である)を行う宗派もある。日本では仏教が伝来した当初は自分で自分に授戒する自誓授戒が盛んであった。しかし、奈良時代に入ると自誓授戒を蔑ろにする者たちが徐々に幅を利かせ、10人以上の僧尼の前で儀式を行う方式の授戒の制度化を主張する声が強まった。栄叡と普照は、授戒できる僧10人を招請するため渡し、戒律の僧として高名だった鑑真のもとを訪れた。  
栄叡と普照の要請を受けた鑑真は、渡日したい者はいないかと弟子に問いかけたが、危険を冒してまで渡日を希望する者はいなかった。そこで鑑真自ら渡日することを決意し、それを聞いた弟子21人も随行することとなった。その後、日本への渡海を5回にわたり試みたがことごとく失敗した。  
日本への渡海  
最初の渡海企図は743年夏のことで、このときは、渡海を嫌った弟子が、港の役人へ「日本僧は実は海賊だ」と偽の密告をしたため、日本僧は追放された。鑑真は留め置かれた。  
2回目の試みは744年1月、周到な準備の上で出航したが激しい暴風に遭い、一旦、明州の余姚へ戻らざるを得なくなってしまった。  
再度、出航を企てたが、鑑真の渡日を惜しむ者の密告により栄叡が逮捕をされ、3回目も失敗に終わる。  
その後、栄叡は病死を装って出獄に成功し、江蘇・浙江からの出航は困難だとして、鑑真一行は福州から出発する計画を立て、福州へ向かった。しかし、この時も鑑真弟子の霊佑が鑑真の安否を気遣って渡航阻止を役人へ訴えた。そのため、官吏に出航を差し止めされ、4回目も失敗する。  
748年、栄叡が再び大明寺の鑑真を訪れた。懇願すると、鑑真は5回目の渡日を決意する。6月に出航し、舟山諸島で数ヶ月風待ちした後、11月に日本へ向かい出航したが、激しい暴風に遭い、14日間の漂流の末、遥か南方の海南島へ漂着した。鑑真は当地の大雲寺に1年滞留し、海南島に数々の医薬の知識を伝えた。そのため、現代でも鑑真を顕彰する遺跡が残されている。  
751年、鑑真は揚州に戻るため海南島を離れた。その途上、端州の地で栄叡が死去する。動揺した鑑真は広州から天竺へ向かおうとしたが、周囲に慰留された。この揚州までの帰上の間、鑑真は南方の気候や激しい疲労などにより、両眼を失明してしまう。  
753年、大使・藤原清河らが鑑真のもとに訪れ渡日を約束した。しかし、明州当局の知るところとなり、 遣唐大使の藤原清河は鑑真の同乗を拒否した。それを聞いた副使の大伴古麻呂は大使の藤原清河に内密に第二舟に鑑真を乗船させた。 天平勝宝5年11月16日(753.12.15)に四舟が同時にが出航する。第一舟と第二舟は12月21日に阿児奈波嶋(沖縄)到着、第三舟はすでに前日20日に到着していた。  
754年、約半月間、沖縄に滞在する。12月6日(754.1.3)に南風を得て、第一舟・第二舟・第三舟は同時に沖縄を発して多禰嶋(国)に向けて就航する。 出港直後に大使・藤原清河と阿倍仲麻呂の乗った第一舟は岩に乗り上げ座礁したが、第二舟・第三舟はそのまま日本(多禰嶋)を目指した。 七日後(七日去)の、天平勝宝5年12月12日(754.1.9)に屋久島(益救嶋)に到着、鑑真は晴れて日本への渡航に成功した。 朝廷や大宰府の受け入れ態勢を待っこと6日後の12月18日に大宰府を目指し出港する。翌19日に遭難するも20日(754.1.17)に秋目(秋妻屋浦)に漂着。 その後12日26日に、大安寺の延慶に迎えられながら大宰府に到着。奈良の朝廷への到着は、翌天平勝宝6年2月4日(754.3.2)である。 (参照『唐大和上東征伝』『続日本紀』)  
日本での戒律の確立  
天平勝宝5年12月26日(754.1.23)大宰府に到着、鑑真は大宰府観世音寺に隣接する戒壇院で初の授戒を行い、天平勝宝6年2月4日に平城京に到着して聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することとなった。4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けた。これが日本の登壇授戒の嚆矢である。併せて、常設の東大寺戒壇院が建立され、その後、天平宝字5年には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていった。  
758年(天平宝字2年)、淳仁天皇の勅により大和上に任じられ、政治にとらわれる労苦から解放するため僧綱の任が解かれ、自由に戒律を伝えられる配慮がなされた。  
759年(天平宝字3年)、新田部親王の旧邸宅跡が与えられ唐招提寺を創建し、戒壇を設置した。鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、日本にこれらの知識も伝えた。また、悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ。  
763年(天平宝字7年)唐招提寺で死去(遷化)した。76歳。死去を惜しんだ弟子の忍基は鑑真の彫像(脱活乾漆 彩色 麻布を漆で張り合わせて骨格を作る手法 両手先は木彫)を造り、現代まで唐招提寺に伝わっている(国宝唐招提寺鑑真像)が、これが日本最古の肖像彫刻とされている。また、779年(宝亀10年)、淡海三船により鑑真の伝記『唐大和上東征伝』が記され、鑑真の事績を知る貴重な史料となっている。
唐招提寺  
奈良市五条町にある鑑真が建立した寺院。南都六宗の1つである律宗の総本山である。本尊は廬舎那仏、開基(創立者)は鑑真である。井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった中国・唐出身の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂を始め、多くの文化財を有する。  
『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部親王(天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものである。寺名の「招提」は、サンスクリット由来の中国語で、元来は「四方」「広い」などの意味を表す語であったが、「寺」「院」「精舎」「蘭若」などと同様、仏教寺院(私寺)を指す一般名詞として使われていた。つまり、唐招提寺という寺号は、「唐僧鑑真和上のための寺」という意味合いである。  
鑑真の渡日と戒律の伝来  
鑑真(688年 - 763年)の生涯については、日本に同行した弟子の思託が記した『大和上伝』、それを基にした淡海三船の『唐大和上東征伝』、寺に伝わる絵巻物『東征絵伝』、井上靖の『天平の甍』などに詳しい。  
鑑真は仏教者に戒律を授ける「導師」「伝戒の師」として日本に招請された。「戒律」とは、仏教教団の構成員が日常生活上守るべき「規範」「きまり」を意味し、一般の仏教信者に授ける「菩薩戒」と、正式の僧に授ける「具足戒」とがある。出家者が正式の僧となるためには、「戒壇」という場で、「三師七証」という授戒の師3人と、証明師(授戒の儀式に立会い見届ける役の高僧)7人のもと、「具足戒」を受けねばならないが、当時(8世紀前半)の日本ではこうした正式の授戒の制度は整備されておらず、授戒資格のある僧も不足していた。そのため、官の承認を経ず、私的に出家得度する私度僧が増え、課役免除のために私度僧となる者もいて、社会秩序の乱れにつながっていた。  
こうした中、天平5年(733年)、遣唐使と共に渡唐した普照と栄叡という留学僧がいた。彼らが揚州(現・江蘇省)の大明寺で高僧鑑真に初めて会ったのは西暦742年10月のことであった。普照と栄叡は、日本には正式の伝戒の師がいないので、しかるべき高僧を推薦いただきたいと鑑真に申し出た。鑑真の弟子達は渡航の危険などを理由に渡日を拒んだ。弟子達の内に渡日の志をもつ者がいないことを知った鑑真は、自ら渡日することを決意する。しかし、当時の航海は命懸けであった上に、唐で既に高僧として名の高かった鑑真の出国には反対する勢力もあった。そのため、鑑真、普照、栄叡らの渡航計画は挫折の連続であった。ある時は船を出す前に関係者の密告で普照と栄叡が捕縛され、ある時は船が難破した。748年、5回目の渡航計画では嵐に遭って船が漂流し、中国最南端の海南島まで流されてしまった。陸路揚州へ戻る途中、それまで行動を共にしてきた栄叡が病死し、高弟の祥彦(しょうげん)も死去、鑑真自らは失明するという苦難を味わった。753年、6回目の渡航計画でようやく来日に成功するが、鑑真は当時既に66歳になっていた。  
遣唐使船に同乗し、琉球を経て天平勝宝5年(753年)12月、薩摩に上陸した鑑真は、翌天平勝宝6年(754年)2月、ようやく難波津(大阪)に上陸した。同年4月、東大寺大仏殿前で、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を授け、沙弥、僧に具足戒を授けた。鑑真は日本で過ごした晩年の10年間の内、前半5年間を東大寺唐禅院に住した後、天平宝字3年(759年)、前述のように、今の唐招提寺の地を与えられた。大僧都に任じられ、後に大和上の尊称を贈られた鑑真は、天平宝字7年(763年)5月、波乱の生涯を日本で閉じた。数え年76であった。  
伽藍の整備  
唐招提寺の寺地は平城京の右京五条二坊に位置した新田部親王邸跡地で、広さは4町であった。境内の発掘調査の結果、新田部親王邸と思われる前身建物跡が検出されている。また、境内から出土した古瓦の内、単純な幾何学文の瓦(重圏文軒丸瓦と重弧文軒平瓦の組み合わせ)は、新田部親王邸のものと推定されている。寺内に現存する2棟の校倉造倉庫のうち、経蔵は新田部親王宅の倉庫を改造したものと思われるが、他に新田部親王時代の建物はない。  
『招提寺建立縁起』(『諸寺縁起集』所収)に、寺内の建物の名称とそれらの建物は誰の造営によるものであるかが記されている。それによると、金堂は鑑真の弟子でともに来日した如宝の造営、食堂(じきどう)は藤原仲麻呂家の施入(寄進)、羂索堂(けんさくどう)は藤原清河家の施入であった。また、講堂は、平城宮の東朝集殿を移築改造したものであった。金堂の建立年代には諸説あるが、おおむね8世紀末と推定され、鑑真の没後に建立されたものである。  
伽藍の造営は鑑真の弟子の如宝、孫弟子の豊安の代にまで引き継がれた。平安時代以後、一時衰退したが、鎌倉時代の僧・覚盛によって復興された。 
■2  
唐の僧で、日本律宗の開祖。上海の北、長江河口の揚州(ようしゅう)出身。701年、13歳の時に父に連れられ大雲寺を訪れた際、仏像を見ているうちに身体の奥底から感動が込み上げてきて出家したという。律宗や天台宗をよく学び、揚州・大明寺の住職となった。そんなある日、鑑真のもとへ2人の日本人僧侶が面会を求めてきた。  
“名僧”探して苦節10年〜栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)  
「戒律」という言葉には2つの意味があり、各自が自分で心に誓うものを「戒」、僧侶同士が互いに誓う教団の規則を「律」という。奈良時代初期、日本の仏教界にはまだ公の戒律がなく、僧侶は納税の義務が免除されたことから、重税に苦しむ庶民はどんどん僧侶になっていた。朝廷は税収の減少に頭を悩ませていたが、国策として仏教を信奉している以上、僧を弾圧する訳にもいかない。とはいえ“にわか僧侶”たちには仏法を学ぶ姿勢もなく、風紀は乱れまくっており由々しき事態だった。  
仏教の先進国・唐では、新たに僧を志す者は、10人以上の僧の前で「律」を誓う儀式『授戒』を経て、正式に僧として認められた。この制度を朝廷は日本に導入しようと画策する。つまり、国家が認めた授戒師から受戒した者だけを僧に公認すれば、一気に僧の数が激減するし、僧侶個々人の質も高くなると考えたのだ。  
ところが国内には正式な授戒の仏法を知る者が誰もいなかった。そこで興福寺の2名の僧侶、栄叡と普照が「遣唐使船で渡航し、授戒を詳しく知る名僧を連れて来るべし」と勅命を受けた。  
当時、遣唐使は文字通り命がけだった。派遣された12回のうち、無事に往復できたのは5回だけ。半分以上が遭難していた。不安はあったが、世の荒廃を憂いた2人は勇気を出して乗船した。特に栄叡は農家出身で重税の厳しさも分かっており、日本の仏教界に行動規範となる「律」が導入されれば、節度ある生き方が美徳とされ、朝廷にも良い影響が広がって善政に繋がり、社会が良くなって欲しいと願った。  
733年、2人を乗せた第9次遣唐使は無事に大陸に到着したが、それからが大変だった。唐は国民の出国を禁じており、密出国の最高刑は死罪だった。国法を破ってまで日本に来てくれる名僧など簡単には見つからず、遭難の危険がある渡航には弟子や周囲が反対した。壁にぶつかって行き詰まり、苦悩する栄叡と普照。しかし、もっと大変な知らせが届いた。予算不足で次の遣唐使が来ないというのだ!「あり得ない!」激しく動揺しながらも、とにかく授戒師を探し続ける2人。唐の各地をさすらい、7年目には極度のホームシックから任務を諦めて帰国方法を模索した。それでも踏ん張って9年目に入った時に、2人は過去4万人に授戒を授けてきた名僧・鑑真の存在を知る。鑑真は仏道を究めていただけでなく、貧民や病人の救済など社会活動に力を注ぎ、民衆から大師として仰がれていた。「うがー!もう、この人しかいないッ!」。  
鑑真には多くの高弟(こうてい、トップクラスの弟子)がいて、各々の高弟がさらに千人規模の弟子をもっていた。栄叡と普照は最初から鑑真に渡日を懇願したのではなく、高弟の中から誰かを授戒師として遣わせて欲しいと熱望した。2人の叫びに近い思いを聞いて鑑真は強く心を動かされ、弟子たちに渡日の希望者を尋ねた。しかし、弟子達は生命の危険を心配して沈黙する。「ならば、私が行きましょう」。驚き反対する弟子達に鑑真は続けて言う「仏法の為に生命を惜しむことがあろうか。お前達が行かないのなら私が行く!」。師の揺るがぬ決意を聞き、弟子21人が随行することになった。すでに鑑真は54歳。さっそく海を渡る準備を進めた。  
ところが!せっかく鑑真という素晴らしい名僧の快諾を得ながら、彼らはなかなか日本へ帰れなかった。隣国の日本があまりに遠かった!唐の第6代皇帝玄宗は鑑真の人徳を惜しんで渡日を許さなかった。必然的に、出国は極秘作戦となる。東シナ海を越えるのも命がけだが、出国するまでがまた大変だった。  
6度の渡日大作戦〜挑戦と挫折の11年  
○ 第1回…743年(55歳)。上海南方の霊峰・天台山に参詣するフリをして日本に進路をとる作戦を立てるが、渡航を迷っていた弟子が密告。しかも「日本人僧の正体は海賊」というトンデモ情報を港の役人に流した為に、栄叡と普照は検挙され4ヵ月を獄中で過ごす。  
○ 第2回…744年(56歳)。頑丈な軍用船を購入し、仏像や仏典を山ほど積み込み、彫工、石工など85人の技術者・職人を乗せて出航!→暴風雨で遭難。船体を修理し再び外洋に挑むも座礁。寧波(ニンポー)付近へ無念のリターンとなった。  
○ 第3回…744年。態勢を整えて再び出航しようとしたところ、鑑真の渡日を惜しむ何者かの密告で、栄叡が再び投獄され失敗。鑑真は栄叡を助ける為に奔走し、最終的に栄叡は「病死扱い」で獄中から救出された。  
○ 第4回…744年。長江近辺からの出航は監視が厳しく困難となり、福州(台湾の対岸)から渡航しようと南下する。しかし、またしても弟子が鑑真を引留める為に当局へ密告。鑑真は官憲に捉えられ揚州まで送還される。一方、栄叡と普照は逃亡し南京以西の内陸部に潜伏する。  
○ 第5回…748年(60歳)。ブラックリストに載っていた栄叡たちは依然監視下にあったが、隙をついて出航する。この時は極悪巨大暴風雨の直撃を受け、半月間も漂流し、遠く海南島(ベトナム沖)まで流されてしまう。そして悲惨なことに、揚州に引き返す途中で、過酷な旅と南方の酷暑で体力を消耗した栄叡が他界する。遣唐使船で大陸に来て15年、ここまで頑張って来たが、栄叡はついに祖国の地を踏めなかった。親友・普照や鑑真は彼の死を心の底から悲しみ、鑑真自身もまた眼病で失明してしまう。  
○ 第6回…753年(65歳)。ついに日本から20年ぶりに第10回遣唐使がやって来た!日本側は帰国便で鑑真と弟子5人を非合法で連れ出す作戦に出る。遣唐使船は4隻600人の大船団。「1隻でも日本にたどり着ければ仏法を伝授できるように」と鑑真らは別れて乗船した。ところが出航直前になって、唐側官憲の厳重な警戒を恐れた遣唐大使が「やばい!絶対バレる」と鑑真らを下船させてしまう。だがこの時、副大使が独断でコッソリ自分の船に鑑真一行を乗せた(お手柄!)。  
11月16日出航。沖縄、種子島と東シナ海を北上していく。嵐に遭遇して大使の船は南洋に流されたが、副大使の船は持ちこたえ、1ヶ月後の12月20日に鑑真と普照は薩摩の地を踏んだ。第1回の密航計画から11年、6度目の正直で悲願が達成された。  
翌754年2月4日(66歳)、鑑真は大阪難波、京都を経て平城京に到着!行く先々で熱烈な歓迎を受けた。鑑真は朝廷から仏教行政の最高指導者“大僧都”に任命される。4月、東大寺大仏殿の前に戒壇を築き、聖武上皇、孝謙天皇ら440名に国内初となる授戒を行なう。755年(67歳)、常設の授戒施設となる東大寺戒壇院を建立。戒壇院の地下には仏舎利(釈迦の遺骨、米粒ほどの大きさ)が埋められており、ここで250項目の規律を守ることを誓い受戒した者だけを国は僧侶と認めた。これで乱れていた仏教界の風紀は劇的に改善された。  
…だが、鑑真と朝廷の蜜月はこの時がピークだった。鑑真は僧侶を減らす為に来日したのではない。正しく仏法を伝えた上で、多くの僧を輩出するつもりだった。彼は全国各地に戒壇を造る為に仏舎利を3000粒も持参していた。一方、朝廷の本心は税金逃れの出家をストップさせること。両者の思惑は対立し、758年、鑑真は大僧都を解任され東大寺を追われた。鑑真は自分が財源増収のため朝廷に利用されたことを知る。あの命をかけた渡航や栄叡の死は何だったのか。「こんなハズでは…」既に70歳。海を渡って唐に戻る体力はなかった。  
759年(71歳)、そんな鑑真の境遇を知った心ある人が、彼に土地を寄進してくれた。鑑真は私寺となる『唐招提寺』を開き戒壇を造る。「招提」は“自由に修行する僧侶”という意。この非公式な戒壇で授戒を受けても、国からは正規の僧とは見なされなかったが、鑑真を慕う者は次々と寺にやって来た。鑑真はまた、社会福祉施設・悲田院を設立し、飢えた人や身寄りのない老人、孤児を世話するなど、積極的に貧民の救済に取り組んだ。  
※同寺の敷地から鑑真の時代の食器が発掘され、そこには位のない一般僧侶を表す「大衆」の文字が書かれていた。  
763年3月、弟子の忍基は日本初の肖像彫刻となる鑑真の彫像を彫り上げた。その2ヵ月後、鑑真は永遠の眠りにつく。西に向って結跏趺坐(けっかふざ、座禅)したまま息を引取ったという。享年75歳。来日から10年、唐招提寺創建から4年目の春だった。中国にいた54歳のあの日、2人の日本人僧侶が面会に来るまで、異国の私寺に骨を埋めることになるとは想像もしなかっただろう。今でも鑑真の弟子達は唐招提寺から全国へ布教の為に巣立っている。1250年前、こんな聖者が日本にいた。  
※鑑真一行が乗り合わせた第10回遣唐使の帰国便4隻はまさに運命の分かれ道。大使の旗艦は南方マレー半島まで暴風に流され、漂着後は地元民と全く言葉が通じず、乗船者約200人の大半が殺された。  
※帰国後の普照は東大寺、西大寺に入る。旅をしていた時の辛い飢餓体験からか、759年(帰国6年後)、旅人の為に都郊外の街道に果樹を植えるよう朝廷に進言している。  
※761年、九州の大宰府・観世音寺と東国の下野国(栃木県)薬師寺にも戒壇が置かれ、日本の東西で受戒が可能になった。  
※鑑真が中国で住職を務めていた揚州・大明寺は1966年に文化大革命で破壊され僧侶は追放された。その14年後、奈良の唐招提寺から国宝・鑑真和上座像が荒廃した大明寺に「里帰り」として運ばれた。この彫刻を拝観する為に21万人が訪れ、これを機に100名の僧侶が大明寺に戻って、立派に再建された。鑑真は千年以上経っても、まだ仏法に貢献しまくりだ。 
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鑑真和上はなぜ海を渡ったのか / 中国から見た日本  
感動がなかった日本の国宝との最初の出会い  
皆さん、こんにちは。ただ今ご紹介に預かりました中国浙江大学日本文化研究所の所長をしております王勇(ワン・ヨン)と申します。かような立派な宗教家の先生方の会にお招きいただきまして、お話しさせていただくことは非常に緊張感を伴います。  
私は、聖徳太子、鑑真、最澄などを研究しておりますので、本日は、歴史の専門家の観点からお話をさせていただこうと思います。という訳で、宗教そのものについての理解はまだまだ浅いと思いますので、その点はご了承下さい。今日のテーマに掲げていますのは『鑑真和上はなぜ海を渡ったのか』そして、サブタイトルは『中国人の見た日本』この二つのテーマの組み合わせを繋ぎ合わせるのはなかなか大変かな、と思います。しかし、このテーマには、私の欲張りな部分が出ているかもしれません。  
それでは、鑑真和上像との出会いから話を始めたいと思います。実は、「本日の話のネタ探しに行った」と申しましたら大げさかもしれませんが、昨日、奈良西ノ京の唐招提寺で鑑真和上像を拝観してきました。この像は、現在国宝になっていますが、年に1度、3日間しか公開されません。その時にだけ厨子の扉を開いてそのお顔を拝ませていただける訳ですが、昨日6月6日はちょうど「開山忌」すなわち和上のご命日でしたので、大勢の方が参拝されておりました。  
昨日は私にとっては3回目の和上像との出会いになりました。1回目は1983年。今でもよく覚えておりますが、もちろん、当時から国宝であったこの「天平美術の頂点」とも言われているこの像は、美術品としても大変見事なものだったのですが、正直申し上げて、私にはなかなかその「気」が伝わってきませんでした。2回目は2001年。唐招提寺金堂大修理の折に、東京の上野博物館で特別展がありまして、ガラス越しにですが、至近距離で像を見ることができました。という訳で、昨日で3回目です。昨日は閉館時間ギリギリに駆け込みで入ったので、われわれの後ろから入ってこられる方がいらっしゃいませんでした。おかげ様で、同行の学生二人と一緒に、じっくり15分ぐらい拝見することができました。それにしても、私には毎回毎回違った鑑真像が見えてきます。このことについては後でお話しします。  
まず最初に、本日の講演のサブタイトルの部分を簡単にご説明した後に、本題に入っていきたいと思います。私は大学(日本の国立総合研究大学院大学)で、実は日本人の先生に教わったのですが、その先生とは、美術史では有名な、当時、東大の教授をされていた辻惟雄先生。また、仏像の鑑定家である上原昭一先生からも教わりました。この先生方から「(日本の)国宝第一号は何だと思いますか?」と尋ねられたことがありますが、これは皆様よくご存知だと思いますが、京都太秦(うずまさ)にある広隆寺の弥勒菩薩の半跏思惟像(はんかしいぞう)ですね。私は中国で日本文化を学んだ時から、この像が見たくて見たくてたまらなかったのですが、実際にこの目で見たときは非常にショックを受けましたね――今、私が住んでいる羽曳野(はびきの)の野中寺にも同様の半跏思惟像がありますけど――非常に小さかった。  
国宝第一号という大変名誉なものですから、私はてっきり東大寺の大仏のような立派なものを想像していたのですが、実際の仏像は、小さくて、蹲(うずくま)って、動きがない。今、インターネットで調べましたら、他にも(半跏思惟像のある)お寺には、歯の痛い方がよく参られるそうですね。「手で歯のところを押さえているように見える(会場笑い)という、まあこじつけのようなものですが……。本当に小さくて動きも少ないから、私には何も感動として伝わってきませんでした。
座の文化の発見  
また、十数年前、私が初めて日本に来たときに、「枯山水」の石庭で有名な京都の龍安寺に案内されましたが、その時も「何が美しいのか?」解らなかったですね。ただ砂を敷き詰めた庭に石が無造作に散乱しているように見えて、「何が美しいのか?」さっぱり解らない。それで私は、「日本文化には美がないのか?」それとも、私は「日本文化の美に無縁なのか?」と非常に悩みましたね。日本研究を生涯の仕事として続けていくためには、やはり感動が必要ですし、親しみを持ちたい。そういうものがなければ、研究意欲は失われてしまうんですね。  
その後、京都にある国際日本文化研究センターの所長である山折哲雄先生に出会いました。彼は私の恩師であり、また博士論文の推薦教授でもあるんですが、山折先生の美学というか、日本的な美観というようなものを、彼の『座の文化論』を通して学びました。そこから判ったことは、例えば、日本的な仏像を鑑賞するためには、日本的な美を創り出す人々の原点に戻らなければならないということです。  
それでは、日本の文化はどうやって創られてきたか? これは「座って」創られてきたんですね。「座って創られた文化は、立っては鑑賞できない」そう言われた時には、私は本当に感電したようにショックを受けましたね。  
そうすると、この半跏思惟像――50cmぐらいですから、幼稚園児よりもっと小さいですね――を作り出した人と同じ視線で見ると、やはり違うものが見えてきますね。半跏思惟像は居眠りをしていないんです。よく見ると、目は瞑(つむ)っていないんです。微(かす)かに開いている。とすると、顔の筋肉は休憩状態ではなく、少し緊張しているように見えます。それで、よくよく考えてみますと、この像は休息の姿勢ではないんですよ。内面世界の激しい示唆運動を伴う動作です。こうやって、作者と同じ姿勢で作品と対話すると、従来見えていないものが見えてくるものです。  
その後、龍安寺には何度も何度も足を運びました。私が初めてここを訪れた時は、廊下を歩きながら石庭を眺めたんですね。それは、私の高飛車な、高い姿勢そのものでした。これでは何も本質が見えません。ただ石ころが転がっているだけの空間ですね。しかし、廊下に座って、心を鎮めて、低い姿勢でこのお庭を拝見しますと、丁寧に手入れをされた砂の波がこちらに打ち寄せてくるように感じられます。石ころもただの石ころではなく、波に打たれている岩壁、あるいは「島」に見えてくる。これこそ日本的な美だと思いました。  
今から15年ほど前に、私はドナルド・キーン先生(註=米国の著名な日本学研究家)をうちの大学(浙江大学)に、3週間ほど集中講義にお招きしたことがあるんですよ。去年ようやく、その講義録を出版することができましたが、私は感動を込めてその「あとがき」を書きました。彼が著した『日本美の発見』は、「西洋人による日本発見の話」ですね。欧米の日本学者は、日本の学者には嫌われる傾向がありますけれども……。これについては、彼が日本で行ったいくつかの対談で反論されました。「もともとあるものを発見する必要はないじゃないか」と……。そう言われるとそれまでですけれど。  
それぞれの国に存在しているものが、人類全てに初めから属している訳ではないんですね。自分のものにするためには、苦労して発見する必要がありますね。私にしてみれば、日本的な美は、本当に苦労してひとつひとつ発見する対象のものでしたし、その感動を基にして、さらなる研究を続けて来ていると言えると思います。
忘れ去られていた鑑真  
先ほども申し上げましたように、鑑真像との対面は、1回目は感動はありませんでした。鑑真はまるで眠っているように見えました。その時に思い出したのが、唐招提寺を訪れた芭蕉の俳句です。6月6日といえば、季節は朱夏。季語も夏のものですね。「若葉して おん目の雫(しずく) 拭(ぬぐ)わばや」という句です。そういえば芭蕉の気持ちが分からないでもない。外は既に春花爛漫を過ぎて、若葉の萌え出づる季節だというのに、鑑真和上はあの薄暗い厨子の中で灰色に包まれています。今回はこの写真をお土産に買ってきましたが(写真を見せながら)、鑑真和上像とはこんな感じですね。1回目はもっと色がないように見えましたが、その後修復されたのか、この薄暗い光の中で見てもきれいですね。今は東山魁夷の襖画に囲まれて、明るさが増したように思いますが。  
ところが、江戸時代は鑑真の存在はほとんど忘れ去られているんですよ。『東征伝』という著書があるだけで、鑑真の伝記が禁書になっているんです。東大寺が鑑真の最初の伝記である『唐大和上東征伝』を発禁処分にしました。この「東征」とはどういう意味か。これを「東(日本)を征服する」の意だと、日本側に誤解されたんだと思いますね。「征」の中国語の意味は、ただ「行く」ということです。「東(日本)へ行く」だけで、当時は発禁処分になったんですね。そのため何も伝わってこない。  
二回目は2001年。これは既に完成した私の著書『おん目の雫 ぬぐはばや:鑑真新伝』で触れていますが、何度も校正を重ねましたので、和上像と再会したときの感動が違いますね。おそらく今、唐招提寺へ参拝しても、一番近くまで詰め寄っても5mぐらい間がありますが、そのときはガラス越しとはいえ、間近で視れたことで、いろんな発見がありました。髭や髭の穴まで見えてきます。像は乾漆で作られていますが、そこまで真に迫ったものです。このとき私はよく見ました。外面の世界は、彼にとっては「見えない」んですが、その代わりに、「もうひとつの目」で――目が見えるものは、逆に、本質があまりよく見えないのかもしれませんが――内面の世界を見極めようとしている。だから鑑真像の背後に、広大で、豊かで、波乱に富んだ人生が見えてきたような気がします。  
私は20年ほど前から鑑真に対して関心を持っていた訳ですが……、鑑真については、疑問がいっぱい湧いてくるんです。まず、彼の名前の読み方。これまでに何人かの日本人に尋ねてみましたが、納得のゆく回答が得られませんでした。「かんしん」あるいは「かんじん」ではなく、どうして「がんじん」なのか? また、なぜ「和尚」ではなく「和上」なのか? 禅宗や律宗では読み方が異なりますけれども、彼の名前は日本の中学や高校の歴史で必ず取り上げられる名前のひとつですね。  
似たような例として、「玄奘三蔵法師」が挙げられますね。お名前は申し上げませんが、日本では玄奘研究の第一人者とも言われている方は、「げんぞうと読む」と言われる。彼はこのことを生涯の仕事のひとつとし、死ぬまで十数年、衝突していらっしゃいましたが……。それでも慣用読みでは「げんじょう」ですね。  
このように、鑑真和上の名前は、われわれは皆「常識として」知っていますが、この「常識」というのが、「非常識」の罠ですね。このように問い詰められると、なかなか「常識」が役に立たない。  
先ほど「たくさん疑問が湧いてくる」と申し上げましたが――私の専門は、隋・唐時代つまり、日本でいえば奈良・平安時代なんですが――そもそも鑑真が「海を渡ろう」とすること自体が異常なんですね。まずどうして渡ろうとしたのか、理由が解らないんです。今からそのことについて話してまいりましょう。
鑑真渡海の謎  
この「なぜ、鑑真は(いのちの危険を冒してまで)海を渡ったのか?」という疑問は、私個人だけではなく、多くの人が共有している疑問なんです。日本でも、鑑真の渡海(渡日)の動機を探る先行研究があります。この先行研究も、変な方向に行きますと、「実は鑑真はスパイだった!」なんてのもある(会場笑い)。これは結構、日本では有力な説です。その他にも亡命説などいろいろありますけど、まともな説では、有名な仏教研究者である小野勝年先生の研究による説があります。その説によりますと、まず、鑑真は中国にいる時に既にかなり高い地位を築いているんです。そのままいけば、戒律宗では中国最高位を占めることが可能なくらい、エリートコースを歩むことが可能な立場でした。では、この約束されたに等しい地位を捨てて、何故、当時「未開の国」と思われていた日本へ渡ることを選んだのか?  
小野先生はこの視点から問題提起したのですが、誰も答えてくれないので、自ら著書の中で答えています。答えは四種類あります。これを要約しますと、ひとつ目は、聖徳太子との関係。「鑑真は聖徳太子を慕っているから、彼を慕って日本へ渡った」と……。この説も、日本でかなりの人が支持されていますね。特に福井康順先生をはじめとする、一流の仏教史学研究者がこの説に賛成しています。  
二つ目は、「遣唐使が(来日を)招請したから」という説です。具体的に言えば、十二回目の遣唐大使であった藤原清河が挙げられます。  
三つ目は、留学生。これはもともと「るがくしょう」と読むのですね。現在では「りゅうがくせい」と読まれていますが、この言葉は、「日本人が最初に作り出した和製漢語である」というのが私の説なんですが……。というのも、中国では、この「外国に留学する」という発想がないんです。少し話が逸れますが、中国には「漢字」という発想もないです。自分たちの国の文字をわざわざ「漢字」とは呼ばない。これも日本人が作ったと思われますね。「日本字」とは言わないでしょう?   
ですからこの「留学」という言葉は、文明の遅れている地域から――これは中国へ行くだけではなく、百済とか新羅へ行く人も――より進んでいる国へ学びに行くために作られた言葉ですね。そして、この言葉と対になっているのが、「還学生(げんがくしょう)」すなわち「還ってくる学生」です。最澄や空海はこれですね。これに対して留まる学生、つまり「帰ってこない学生」が留学生で、栄叡(ようえい)・普照(ふしょう)などです。彼らの情熱の籠もった招請に鑑真が屈した。あるいは感動した。というのが三つ目の説です。  
四つ目は、日本には仏教が伝わっているとはいえ、「戒律」が広まっていないので、「戒律を伝えるために行った」という説ですね。
鑑真は遣唐使に裏切られた  
この四つが一流の仏教史学研究者が唱える説なんですが、私はどれにも納得できませんね。私は最初の論文から、この「小野説」を批判しています。これらの説はいずれも、外部から、すなわち日本側から「鑑真渡海の動機」を説明しようとしていると思います。しかし、彼は中国人ですから、まず中国から出て行く理由から詰めていかなければならない。「日本が招くから行く」というよりも「出る理由」があるはずなんですね。  
例えば、この「小野説」を分析しますと、「遣唐使が招請した」――これは日本の多くの学者が支持する説ですが――鑑真はおそらく、遣唐使に対して恨みを持っていたはずです。遣唐大使藤原清河によって、「船も用意しましたから、是非、日本へお越しください」と誘われたのですが、鑑真が中国を出るときは、形としては密出国なんです。これは法律違反になりますからね。事実、鑑真は何度も捕まります。官憲が「蘇州に(遣唐使)船が停泊しているから、日本へ行きたがっている鑑真が乗船するはずだ」と目を光らせていますから、おそらくは、夜中に密かに裏門から出て、弟子たちの待つ船に乗り込んだんでしょうね。  
しかし、その遣唐使の船に無事乗船できても、すぐに出発できるわけではないんです。大型の遣唐使の船が出る時には季節風が必要ですので、風を待っている数日間、官憲にバレるのではないか? と大使は心配になるわけです。それで、四艘の責任者を集めて出た結論は「鑑真を船から降ろす」という大使の判断でした。しかし、その時、鑑真はすでに、弟子を裏切って、宗教界を裏切って、国家を裏切って船に乗りこんだんです。それなのに、荷物から何から何まですべて降ろされてね。私は『東征伝』のこのくだりを読むと、本当に心が痛みます。  
この時、副使の大伴古麻呂が「このままでは駄目だ。日本人の恥だ」とある夜、密かに鑑真を自らの船へ誘い、乗せます。そして船を出航させるのですが、「鑑真を乗せている」という事実は、船が沖縄に上陸してから、初めて公表されました。このことから考えてみても、「船から追い出された」鑑真の渡海の理由が「遣唐使が招請しているから」というのは考えにくいですね。  
では、三番目の説である「留学生の熱心な招請に応じて」ですが。確かに日本人の栄叡(ようえい)はずっと鑑真に付き添っていますね。ただ、彼は途中で亡くなってしまったんですが……。鑑真は渡海中に最愛の弟子二人を失っています。一人はこの栄叡、もう一人は中国人の祥彦(しょうげん)という一番弟子です。彼(鑑真)が盲目になったのは、従来の説では、長い間潮風に当たったため、と言われていますが、私は弟子の喪失による心痛、過労のほうが失明とより高い関連性があると思いますね。そしてもう一人の弟子、法進(ほっしん)は十二年間の旅に同行し、日本へ辿(たど)り着きますが……。実はこれらの話は彼の渡海にまつわる話の半分に過ぎません。  
はじめて鑑真が弟子と日本に渡ろうとした時は、日本人は四人いました。最初の失敗で、半分つまり二人が逃げました。そうすると「留学生の熱心な招請」は、一回目の段階で半分に減ったことになりますね。そして五回目の時に、今度は先に触れたように、もう一人の弟子、栄叡を失います。これで日本人の留学生は残るは一人、となったわけですが、この一人、普照(ふしょう)という人は、日本に行くことを諦めたのです。鑑真が海南島に流されて、楊州に帰ろうという時に、彼は「もう危険を冒して日本に帰るのは嫌だ」と韶州で一行から脱退して、独り明州(今の寧波)へ向かったのです。その後、鑑真がようやく日本へ渡ることに成功した時、彼のまわりには日本人は一人もいませんでした。だから「留学生の招請説」も該当しないと思います。
聖徳太子説も不十分  
では、日本で一番流行っている「聖徳太子を慕って海を渡った」という説について考えてみましょう。何故にこの説が支持されているかと申しますと、鑑真と彼を招請した留学生との間で交わされた会話が根拠となっています。  
日本には聖徳太子という高名な王子がおられました。彼が亡くなった頃は、日本ではまだそんなに仏教は広まっていないのですが、聖徳太子は生前に「二百年後に仏教が公に広まるだろう」と予言を残したんです。聖徳太子が亡くなったのが622年ですから、ほぼ二百年が経過したその当時、留学生たちが「日本に仏教は存在するけれども、僧侶を取り締まる戒律というものがない。だから、是非、日本へ来て、戒律を伝え広めて欲しい」と請うた、という訳です。  
それに対し鑑真は、「むかし、聞いた話だが、南岳の慧思(えし)(註=中国の高僧)が亡くなってから、倭国の王子に生まれ変わり、仏法を大いに隆盛させ、衆生を救済している」と答えました。(『唐大和上東征伝』の問答より)いわゆる転生説ですね。これによれば、鑑真は明らかに「慧思後身説」を信仰しています。これは非常におもしろい。私の博士論文の内容の半分もこれを追求したものです。  
もうひとつは、長屋王(註=天武天皇の皇孫。正二位左大臣として一時、国政を掌握するも、藤原氏の陰謀により謀反の罪をきせられ自害)にまつわる説です。彼は中国のお坊さんに袈裟千枚を寄進したのですが、この袈裟の縁にはある詩句が刺繍されていました。これは有名な句で、「山川域を異にすれど、風月天を同じくす。これを仏子に寄せて、共に来縁を結ばん」というものですが。私はこれに対し、仮説を立てています。あまり自信はないのですが……。  
これは有名な話ですが、鑑真は、長屋王の「風月同天 山川異域」の句から考えますと、「日本は仏教伝播の有縁の地。行きましょう」と答えます。ですから、聖徳太子は関係ないんですね。先ほどの説にしても、彼は「聖徳太子」ではなく、「倭国の王子」と言っています。長屋王も倭国の王子に違いないですからね。鑑真が日本へ渡る前に、中国の文献で聖徳太子が(中国で)知られた痕跡がないんです。慧思が倭国の天皇や王子に生まれ変わったという説はたくさんありますが、「慧思が生まれ変わった王子というのは、聖徳太子のことだろう」と唱えられ出したのは、奈良時代に鑑真が既に日本に渡った後の話です。この点からも、聖徳太子の説は違うと思われます。  
最後に残った説は「戒律を伝えるため」というものですが、この説にも疑問を挟む余地があります。というのも、鑑真が日本に来た時に携えてきた物は、戒律とは関係のないものがたくさんあるからなんです。例えば、天台宗の経典がたくさんあります。ですから、日本仏教の立場から考えた時に、鑑真は戒律への貢献よりも天台宗への貢献のほうがより大きいと私は思いますね。これは鑑真自身予期しなかったことなのか、それとも計算されたことだったのか判りませんが……。  
また、「日本文化への貢献」という側面から考えますと、まず「味噌」が挙げられます。聖武天皇が「おいしい」とおっしゃって、「金山寺味噌」と名前がついたものです。「豆腐」も鑑真。「漢方薬」ももちろん鑑真がもたらしたものですね。江戸時代に街中で漢方薬を買い求めると、包み紙に必ず鑑真和上の絵が印刷されていたんですよ。それから香道。「鑑真流香道」というのがあるぐらいです。またこれはどうかはっきりと判りませんが、医学の知識、またあるいは唐招提寺の建築・彫刻なども考えられますね。その点から考えても、「鑑真の伝えたものは戒律」という考え方は狭義過ぎると思えますね。
スパイ説から亡命説まで百花斉放  
では結局、何故、鑑真は海を渡って日本へ来たのか? という最初の質問に戻りますが、結局は分からないんです。分からないから奇妙な説が生まれてくる。  
先ほども少し触れましたが、天理大学の教授であり、美術史を専門としておられる鈴木治先生が書かれたものを例に挙げてみましょう。この『白村江――古代日本の敗戦と薬師寺の謎』という本は、大変人気があり、版を重ねていますが、この著書の中で、彼は鑑真のことを、「鑑真は中国から日本を転覆する目的で派遣されたスパイ」だという説を主張しています。そう考えますと、天平時代の歴史が「黒い」ものになってしまうのですが……。  
私は初めてこの本を読んだ時には、結構不満が残りました。最初は「鑑真がスパイだったら、吉備真備、阿倍仲麻呂、玄法だってスパイだぞ?」と反発したくなる。しかし、実際読むと、その必要は無いことが判ります。というのも、先ほど名前を挙げた遣唐使の人々は全員、スパイリストに入っているからです(会場笑い)。この話に興味のある方は、ぜひ、一読してみて下さい。こういう本もあるんですねえ。  
それ以外にあるものが、「鑑真亡命説」です。これは小野先生が書かれていますね。これに対して、私の尊敬する、またご本人も心から鑑真を敬愛しておられる東山魁夷画伯――昨日、唐招提寺に参拝した時に、画伯の絵を前にして「明日はちょっと悪口を言わせてもらいますよ」と言ってきたのですが――はですね、『唐招提寺への道』という、非常に情感溢れる著書を残されています。彼の文体は、詩と散文の中間というか、リズムや波があり、声に出して読むと大変心地良いです。  
彼はこの著書の中で、こう書いています。「鑑真和上の性格からみれば、唐の世は魅力あるものでなくなっていたはずである。いや、絶望を感じていたのではないだろうか。そこへ新しく興った仏教国家としての日本から和上へ渡航の要請があった。それは和上にとって、それはおおきな新生の啓発として響いていたに違いない……」しかし「東山先生、その頃の中国は盛唐の時代ですよ」と私は言いたい。  
唐の時代は、大きく初唐・盛唐・中唐・晩唐に区分されますが、この唐の時代は、中国史上でも最も華やかで強健な時代です。その中でも鑑真が中国にいた時期は、国際色豊かで、自信に満ち溢れた絶頂期(盛唐)の頃です。例えるなら――まあ、これは私の邪推の域を出ませんが――現在のアメリカ人が「もうアメリカ経済には絶望した」と言っているようなものでしょうか。ですから、この「亡命した」という推論は考えにくいと思います。私はこの説については『鑑真新伝』の中で詳しく触れています。興味のある方は、読んでみて下さい。
海外に出たくない中国人  
こういった説を考える前に、まず、鑑真が中国を出る理由から考える必要があります。これまでの理由は、日本を中心に考えられてきましたが、今日は中国側から考えてみましょう。  
まず、可能性として挙げられるものは、日中間の交流のあった「遣唐使の時代」であること。一般に「中国と日本は、この時期交流が頻繁だった」という考えが常識とされていますが、私はそれが「理由」ではないと思いますね。というのも、当時、中国が外交関係を結んでいた国は54あります。おそらく日本ぐらい交流の少なかった国はあまりないと思います。遣唐使は20年に1回しか来ませんからね。これでは文化の伝承ができない。「留学生を送った」といっても帰って来れない。「帰ろう」と思っても、仮に一度船を逃したら、帰国するのはさらに20年先の40年後。青年が大志を抱いて海を渡り、勉学を終えていざ帰ってくる段になると、もう60歳。当時60といえば、もう何もできないですね。今は60歳といえば、まだまだ元気ですけれどね。  
ですから、日本人は中国へ渡っていましたが、中国人が日本へ渡った例はほとんどないです。後世には、一攫千金を狙って、商売のために渡っていますがね。もちろん、国の正式の使節として派遣される例はあるのですが、皆(任命されることを嫌がって)逃げ回るんです。いくつか例を挙げましょう。一回目の遣唐使が帰国する時に、中国側は「唐使」をつけていましたが、その中の一人に高表仁(こうひょうじん)という官吏(新州刺史)がいました。文献にも残っていますが、帰国報告書の中で彼は、散々日本の悪口を書いています。  
彼は日本のことを「地獄門」と表現しています。「道は地獄の門を経て、その上に煙と火の形があるのを見た。金槌で叩かれた餓鬼のようなわめき声が聞こえて、使者は危惧しない者がない」(『唐会要』)と、そこまで書いています。誰が「地獄」へ行きたがるでしょう? ですから、当時は、唐の人は日本へまず行かない。鑑真は、よほど稀有――もしくはあえて「異様」と申し上げますが――な例だったということが読み取れます。  
二つ目の可能性として、「唐代は開放的な社会だったから、日本へ渡ることも奨励していたのではないか?」と推測される方もいらっしゃるでしょう。しかし、今でこそ中国政府は友好の旗印のひとつとして、鑑真を利用していますが、唐代の政府は、彼を支援するどころか、苛(いじ)めているんですよ。鑑真は、合計六回渡海を試みていますが、一回は完全に失敗。二回は遭難。二回は政府に密出国の容疑で逮捕されています。  
唐の法律には「海外に出てはいけない」と明記されています。例えば、日本人が中国に来た場合、婚姻は自由です。帰国も自由です。ただし、結婚した中国人の妻を伴って帰ることは禁止されています。中国の「海外禁止令」ですが、江戸時代の鎖国と通ずるものがあるように思います。玄奘三蔵(げんしょうさんぞう)と鑑真はその点、非常に似ていますね。玄奘三蔵も法律違反を犯して、一人で砂漠を渡りました。鑑真の場合は14人弟子を連れて海を渡っていますが……。二人とも国禁を破った。国の制度から考えた場合の「犯罪者」という点で同じですね。
日本は仏教有縁の地?  
次に3つ目の可能性として、「仏教世界は違う。仏教的な世界観、すなわち『仏の下では国境はない』だから、日本へ渡った」とも考えられます。これが一番有力かもしれませんが……。遣唐大使藤原清河が鑑真を招聘した時に、鑑真は「共に行こう」と、儒学者であり、唐代一流の文人でもあった蕭穎士(しょうえいし)を誘いましたが、彼(蕭穎士)は病気を口実にきっぱりと渡海を断っています。遣唐使から正式の招聘があった際に、中国政府は鑑真が行くことは認めていたのですが、「道士も連れて行くように」という条件を出します。これに対し、遣唐使は「天皇は道教を信奉していませんので、道士をお連れすることはできません。代わりに、春桃原ら4人を残して道教を学ばせましょう。また、鑑真和上を招聘する申請も取り下げます」と、その条件を拒否しました。それ故に、鑑真は公式な招聘を受けられず、個人で密かに渡海することになった。という顛末が考えられますが、そこに到るまでに、実はこのような話も残っています。  
先ほど鑑真が「日本は仏教興隆に有縁の地、行きましょう」と答える場面が出てきましたが、その時彼は、まず弟子たちに「誰か日本へ行く者はいるか?」と尋ねています。最初は自分自身が行くつもりではなかったんですね。日本の留学生たちにしても、当初から鑑真本人が来てくれるとは思っていません。「弟子たちのうちの誰かが来てくれれば」と思っていました。それで鑑真も行く者を募るわけですが、誰も名乗りを上げないので鑑真は怒ります。大弟子の祥彦(しょうげん)――彼は渡海の途中で亡くなりますが――ですら、鑑真に対し「かの国は、はなはだ遠くして、生命存しがたい。滄海渺漫(そうかいびょうまん)として、100人に1人も至ることはない。『人身得がたく、中国に生まれがたい』進修いまだ備わらず、道果いまだ剋せず。これがゆえに、衆僧は緘黙して応えることないのみ」これは簡単に申し上げると、「日本は大変遠く、海を渡れたとしても100人に1人も生還できません。それに今、中国として生を享けた、ということはどれほどめでたいことでしょう。ですから、行かないほうがいいです」という内容になります。  
こうして祥彦は弟子らを代表して、『大般涅槃経』の経文まで用いて、日本へ行くことの危険性を力説するのですが、それを聞いた鑑真は、「それならば私が一人で行こう」と答え、しばらくの間、黙っていました。すると今度は祥彦が折れ、「先生が行かれるのなら、私もついて行きます」と答えたのですが、その途端――何しろ大弟子が「行く」と言っているのですから――「私も行きます」、「私も行きます」と、他の弟子たちが後に続きました。そうして21名の弟子が同行することにはなったのですが、この弟子たちのほとんどは、嫌々、義理で行ったわけです。  
「仏教的な世界観」が理由ならば、何故、他の僧侶は海を渡ろうとしなかったのか? 実はこの時点で、渡海に成功し、日本に来たのは、僧侶・一般の人を合わせても24人です。では、逆に亡くなった人はどれぐらいいたのか? これは、成功した人数の1.5倍に当たる36人にのぼります。死亡率は、実際に船に乗った人の6割になります。それ以外に、話を持ちかけられただけで逃亡した人や途中で止めた人は、実に280人。ほとんどの人は1回で止めました。最初から最後まで鑑真に付き添った中国人は、思託という僧、ただ1人です。これはやはり、仏教界の常識とは違いますね。鑑真には何か特別な「理由」があると思うのです。
唐土における仏教迫害と慧思転生説  
私はその「理由」のひとつとして、当時の「道教と仏教の関係」という背景をもとに、仮説を立てています。鑑真は、則天武后(そくてんぶこう)という女帝の時代(註:655年、高宗の皇后となった武則天が、傀儡(かいらい)として擁立した皇帝の中宗、睿宗(えいそう)を廃した後、自ら中国史上初の女帝に立ち、690年唐室を乗っ取り、国号を「周」と改め、仏教を擁護して政治改革を行ったが、かえって国内政治に混乱をもたらした。705年、中宗が復位して、唐室が回復し、仏教が軽視されるようになった)に生まれたのですが、この人は例外的に仏教を奨励した人です。およそ300年にわたる唐の時代に皇帝として中国を支配したのは李一族でした。しかし、この一族が信仰していたのは仏教ではなく、道教なんですね。ですから、仏教は当時抑圧され、苛(いじ)められています。鑑真が生まれてから成人する頃までは、仏教は擁護されていたんですが、鑑真が遣唐大使藤原清河から来日の招請を受けた742年当時の中国は、仏教を軽視し、道教を重視する玄宗皇帝の全盛期でした。  
ですから、藤原清河が皇帝に鑑真の来日を請うた時にも、玄宗皇帝は「道士を連れて行くように」と言っているんですね。しかし、日本にはすでに神道が存在しましたから、道教の要素を取り入れることはあるかもしれませんが、道士を連れて行ったところで、「組織としての道教」を国家機構のどこへ組み入れたらいいのか困りますよね。ですから、日本側は先ほど申し上げたように、道士の同行を断りました。この仏教と道教の立場が逆転した時代。そのことが、鑑真が幾度も渡海を試み、日本へ仏教を伝えようとした決断の背後にある理由のひとつではないかと思います。最後に渡海を試みたときは、もう彼の周囲には、案内する日本人は1人もいませんでした。それでも、日本へ行った理由は、「このままでは仏教界の死活問題だから、中国社会を出よう」とした理由として、この「中国宗教界の事情」があると思います。  
2つ目は、鑑真が招聘される時に口にするほどの理由。ひとつは長屋王の逸話。つまり日本人は仏教を崇めている。伝教するには非常に良いところだという考え方。もうひとつは、彼に最後まで付き添った思託(したく)というお坊さんの説いた「慧思(えし)が、日本の王子に生まれ変わった」という説。これは非常に大きい理由です。これを少し説明させていただきますと、この慧思という人は、天台宗を開いた智(ちぎ)大師の先生です。それまで中国の南朝時代では、小乗仏教が流行っていましたが、この人は大乗仏教なんです。その中でも法華経を専門的に広める人でした。  
だから、小乗仏教から苛められ、何度も毒殺される危機に遭い、生死の境目を彷徨(さまよ)いますが、その度に息を吹き返しています。それ故、この人には「転生の伝説」が一杯あるんですね。私の故郷の広州市にも「三生石」があって、彼が3回生まれ変わったという、3つの石があるんですよ。これは江南でかなり流行った伝説です。一説では、彼が生まれ変わったのが中国天台宗の開祖、智だと言われていますが、実際は、おそらく転生ではなく、彼の弟子だと思われます。智は慧思から法華経の影響を受け、天台山に帰って、天台宗を開きました。ですから、江南という地は、鑑真の住んでいた土地であり、天台宗が大変広まった地域、また智の信仰の広まった地域……。そこから「日本に生まれ変わった」と……。現代人は信仰心が薄れているから、転生説そのものを支持しない方もいらっしゃるでしょうが……。今でも、中国やチベットでは、ダライ・ラマなどの宗教的指導者を探す時は、転生説をもとに探しています。皆さんもよくご存知だと思いますが、指導者が亡くなった日に生まれた子供の中から、転生者を2年、3年と歳月をかけて探すんです。つまり、転生を信じる者にとっては、はるか以前の宗教指導者が、今、現在も「生きている」ということですね。  
鑑真は、教養として、また、精神世界として、心の中に、律宗よりむしろ、もっと広い天台宗的な、智が教えた大乗仏教的な考えを持っていました。この鑑真の考え方は、基本的に当時中国で流行っていたものとは違うんですね。この点は、日本で深く研究されていますが、その智への信仰があって、それを追い求めていたのではないかと思います。
鑑真がもたらした舎利信仰  
また、鑑真は日本へ3000粒の仏舎利を持って来ました。この「舎利信仰」に対する研究はまだまだですけれども、実は極めていくと非常に面白いものがあると思います。話が逸れますが、昨日、唐招提寺に参拝しましたら、(現在修理中の金堂の)修理中の仏像が展示されていました。金堂の本尊、盧舎那仏の白毫(びゃくごう)(註=仏像の額にある突起)に、穴を開けて木製の玉が入れてあるんですが、その玉の中にさらに穴があって、その中に舎利が入っていました。この舎利こそ、鑑真が中国から持ってきた3000粒の仏舎利の中のひとつです。  
中国で仏教は、最初北方に伝わりましたが、すぐには広まりませんでした。皆、仏教というものを信じないのです。それは南方でも同じ。なかなか広まりません。そこで、僧侶たちは、「舎利をもって験(げん)をさす」という有名な言葉がありますが、これでもってして、仏や仏教の力や霊力を証明しました。それによってたちまち仏教は広まりました。そこで、9世紀頃、平安時代に鑑真の孫弟子にあたる豊安(ぶあん)が書いた『戒律伝来記』の中に、鑑真の舎利伝来についての記述が残っています。鑑真は、もしも、日本で仏教の教えが受け入れられていない、もしくはそれほど広まっていなかった場合のために、(中国で有効であった)舎利を持ってきたんですね。  
これに関連した話になりますが、日本の戒壇(註=僧侶になる資格を授ける国立の施設。勝手に僧にはなれなかった)も興味深いです。大和国(奈良県)の東大寺と、下野(しもつけ)国(栃木県)の薬師寺。そして、九州は筑紫国(福岡県)の観世音寺の3箇所に戒壇があって、その戒壇には必ず一番上に塔があって、塔の中に舎利があります。そういうところから推測しても面白いですね……。  
もうひとつは、従来あまり研究されていませんが、「鑑真の内面世界」から来る理由。盲目の鑑真の内面世界は、おそらく大変豊かなものだと思われますが、われわれが研究によって知っていることはまだほんの僅かです。氷山の一角に過ぎない。これから極めていくべきだと思います。彼の内的宗教世界には慧思への信仰があり、また舎利信仰への強い思いがある。  
鑑真は火葬されたのですが、これは彼にとって、不本意な形なんです。というのも、本来、生きたまま坐亡(「肉舎利」といい、即身成仏すること)することが最高の形とされますから。彼は亡くなった後、3日間、火葬されていません。これは、なんとか「肉体を保存しよう」としているんですね。中国の『高僧伝』という本の中に「鑑真伝」がありますが、その中では鑑真は火葬されなかったことになっています。本来、坐亡した場合は、体に漆や油を毎日繰り返し塗ることによって、肉体を保存しますが、鑑真の場合「油だけを用いて、今でも日本の高貴な人が参拝する毎に、油を塗っている」と伝えています。  
これは舎利信仰と繋がっている考えです。すなわち、「肉体は滅びても、精神は生きて」おり、さらに「死んだ後の肉体も、仏教の伝播に役立つ」のです。また、肉体が無くなっても今度は舎利が肉体に代わる証(あかし)となる。この来世を信仰する彼の思いは、慧思を信仰する思想と繋がっています。この関連性については、従来の鑑真研究ではまだ本格的に取り組まれておりません。もちろん、私の考えもまだ仮説に過ぎず、熟した考えには到っておりませんが……。 
話はこれで以上となります。ご清聴有難うございました。
王勇 
実は私は以前に2年間、奈良県の『シルクロード委員会』の委員を務めたことがございます。しかし、委員ではあるのですが「シルクロードは……」という考えに反論する存在としておりました。その時の座長は、今は亡き大庭脩先生で、その他にも東大の池田温先生、奈良の東野治之先生が名を連ねておられました。  
私は、中国と日本の交流というのは、シルクなどの「物品」よりも、より精神的な交流が盛んだったと思います。何故「精神的」かと申しますと、会話による意思の疎通は難しくても、「漢字が読める」日本人は当然、中国の書物を読めますからね。その「逆もまた真なり」で、実は今、私が浙江大学で教えている中国人の学生は『日本書紀』や『続日本紀』を簡単に読めるんですね。皆さんにとっては既に解りづらい文体だと思いますが……。『日本書紀』にいたっては、(1300年も昔の)720年に編纂されたものだということから考えてみても、この現象は興味深いものだと思います。日本から中国へ、また中国から日本へと「漢字は書物を媒体にして、時空を超え、現代に伝わっている」すなわちシルクロードならぬ「ブックロード(本の道)」の考え方ですね。  
先ほど三宅善信先生が触れられました、『三経義疏(さんきょうぎしょ)』の話にしましても、「聖徳太子がずば抜けて賢かったので、彼が独自のオリジナリティを発揮して3つの仏教経典を再編纂した」というよりは、彼自身、様々な文献(先行研究)を参考にしているんですよ。現在のルールでは、他人の文章を引用した場合は、出典を明らかにしないと駄目(盗作)ですが、昔は逆に「引用されることは好ましい」という考えだったんですね。つまり、今で言う「海賊版」という意識がない。仏教における基本的な精神は、法華経の序章に当たる部分(序品第一)に、「広宣流布」という話として出てきます。「仏教を学ぶ人は、それを広める義務がある。だから引用されることは喜ばしい」という内容です。そのとおり聖徳太子は、中国や朝鮮半島の様々な文献から文を引用しました。そうして作られたのが、有名な『三経義疏』だったのです。  
先ほども、三宅先生のお話にあったように、遣唐使の手によってこの書物は中国へ渡るわけですが、おもしろいことに、その本の旅が片道限りで終わらず、新しいコメントを加えられた後、再び日本へその書物が伝えられている点ですね。それも一度ではなく、複数回にわたります。その中で『法華経義疏』『勝鬘経義疏』が中国へ実際に渡ったという記録が残っています。残念ながら『維摩経義疏』にはそういった記録が残っていないのですが……。  
8世紀頃に中国の明空という僧が聖徳太子の『勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ)』を入手しています。これは聖徳太子が著してから約100年後にあたる、750年前後のことで、この頃、鑑真はすでに渡海しています。彼(明空)はこの本を読んで、その水準の高さに驚き、ショックを受けます。彼はこの本のために、更に注釈を付けました。この注釈をつけた本を、(若い頃、遣唐使として留学していた)日本天台宗の円仁(後の第三代天台座主慈覚大師)が中国の五台山で見つけ、筆写して帰ります。これもおもしろいですね。この本が書かれたのは中国の揚州の天台山ですから……。この本は円仁の後、円珍が見つけ出して「日本の面目の書」という後書きを書きます。その後ずっと天台宗の間で筆写されています。  
しかし、残念ながらこの本は、本家の中国では今は失くなりました。私の博士論文の後半はこの本の研究なんです。私は、この本をずっと長い間、日本国内で探しまわりまして、(とうとう大津市にある)天台真盛宗の総本山である西教寺というところに一番古い写本があることが判りました。当時、教学部長であった中島真瑞さんにお尋ねした時は、最初「ここ(西教寺)にはそんな本はないですよ」とおっしゃっていましたが、「必ずあるはずです」とお願いしましてね。ようやくこの写本に巡り会うことができました。この写本を研究したのは私が初めてでした。私は「必ずありますから」と再三お願いして、ようやくこの本に出遭うことができたのです。これは素晴らしい本ですよ。本当に感動が伝わってきます。  
まず、中国のお坊さんから『勝鬘経(しょうまんぎょう)』を解釈したものが韓国(百済)へ伝わり、それがさらに日本に伝わり、聖徳太子がその資料を参考にして『三経義疏』を書かれる。その本を遣唐使が中国へ持ってきて、中国のお坊さんが、さらにそれに注釈をつける。これを再び日本のお坊さんが日本へ持ち帰り、その後中国では失くなってしまう。それを千年後の私が様々なところを探して、再び日本で出遭ったわけです。  
この交流を追って行くと、西洋人同士のそれとも違う、また西洋と東洋間のものとも違うスタイル――すなわち、文書による濃密な相互交流の形――があることを見てとることができます。それは友人関係にも言えることですね。西洋人の友人とは、普段はお互い手紙のやり取りをするのは面倒なんです。けれど、仮に2年間ぐらい音信がなかったとしても、お互い用事ができればさっさと手紙を書きます。ところが日本人の友人とは、何も特別な用事がなくても、電話を一本かけてきて何気ない近況を知らせ合う。言うなれば、これも「違う目で見て、違う中身を創り出す」ということであり、ブックロードの真意がここにも表れていると思いますね。 
■4 
天平の甍 
大仏開眼は鎮護国家としての国家仏教を象徴する出来事でした。しかし、仏教を中央集権的な律令国家の基本とするためには、まだやり残していることがありました。国家の役人としての僧侶の権威付けです。当時、僧侶は特別の扱いとして、課税の対象からはずされていました。そのためもあったでしょう。多くの人々が自ら出家をして僧となることをしました。このような僧侶は私度僧と呼ばれ、官許なしに僧となることは禁止されていました。しかし、民衆の支持もあって、私度僧はあとをたちませんでした。行基も民衆に人気を博した私度僧の一人でした。正式の僧侶となるための戒壇院の設立は差し迫った問題でした。 
東大寺の大仏殿の西側に戒壇院があります。東大寺創建当時、唐では正式の僧侶となるためには、受戒といい戒壇で戒律を受ける儀式が必要でした。この時に受ける戒律は具足戒といいます。具足戒は比丘(男性)の場合は250戒、比丘尼(女性)の場合は348条にのぼりました。具足戒を受けるには三師七証といって、3人の師と7人の証人が必要でした。つまり10人の高僧が必要でした。当時、日本ではそのような正式の具足戒を授ける仕組みも整っていませんでした。僧侶の世界では正式な戒壇院で受戒することが正式な僧侶として認められる要件でした。言わば、僧侶としての一年生にあたります。唐にわたった日本の僧侶がどれほど日本で経験豊かな僧侶であっても、唐についてから先ず具足戒を受けなくてはなりません。それ故、日本の僧侶は法会の席では新羅からきた若い僧侶よりも末席に座らなくてはなりませんでした。それ故、戒壇院の設立は国内的にも対外的にも、必要不可欠でした。 
そのような要請のもとに招かれたのが鑑真でした。当時、すでに唐で名僧と尊敬されていた鑑真は、師の渡航に反対する弟子たちの妨害や、難破などのために5回のとこうに失敗した後、6度目にようやく渡航に成功しました。しかし、その時には、鑑真自身は視力を失うなどの辛苦をなめた渡航でした。来日した鑑真は、大仏殿の前に臨時の戒壇を築き、聖武上皇らに菩薩戒を授けました。その後、大仏殿の西側に戒壇院を設立し、ようやく日本にも正式の戒壇院に登り、具足戒を受けるという制度が確立することになりました。 
鑑真の晩年は決して恵まれたものではありませんでした。鑑真の日本への渡航は戒律を日本に伝え、多くの僧侶をつくることでした。しかし、当時の政府の意図は、むしろ僧侶の門戸を狭めることでした。晩年の鑑真は大僧正の任を解かれました。彼は唐招提寺の建立に力を注ぎました。唐招提寺は落ち着いた風格のある古寺です。唐招提寺には国宝の鑑真和上像があります。言い伝えでは、結跏趺坐したまま76歳の生涯を閉じた鑑真和上の姿を写した像ということで、鑑真の姿をよく伝えているといわれます。 
若葉して、おん眼のしずく、ぬぐわばや [芭蕉] 
鑑真が日本にもたらしたものは戒律ばかりではありません。天台宗にも詳しかった彼は天台の経論も多くもたらしました。やがて、天台は最澄によって再発見されることになります。とにかく、鑑真によって戒壇院が設立され、仏教も僧尼令のもとに国家統制の下に入りました。その後、戒壇院は筑前観世音寺と下野薬師寺にも作られ、三戒壇となりますが、とりわけ東大寺の戒壇院は大きな権限を持ちました。僧侶となるためには東大寺の戒壇院で受戒しなくてはならなりませんでした。後に最澄が天台宗を開き、弟子の養成にいくら力をいれても、最終的に東大寺で受戒をする段になって、思うように受戒を受けられなかったり、または受戒をした弟子が叡山にもどらなかったりすることがありました。叡山に大乗仏教の精神にのっとった大乗戒壇院を設立することは、最澄の悲願となりました。しかし、かれの生前にはこれは実現しませんでした。今でも、東大寺の戒壇院では30年に一度、受戒が行われているとのことです。
■5  
鑑真の戒律と授戒制度を無効化した天台宗最澄の「円戒の思想」  
古代日本の怨霊信仰と宗教観  
浄土系の鎌倉仏教は、旧仏教の難行苦行の修行と難しい学問による『善行の功徳』を否定することによって、『仏教の大衆化・救済の一般開放』に成功し、農民(被統治階級)への求心力が強かった浄土真宗などは親鸞の死後に急成長を遂げました。浄土真宗の『中興の祖』となった蓮如(1415-1499)の時に、山科本願寺と石山本願寺(石山御坊)が建設され、真宗の最盛期を迎えた顕如(1543-1592)の時代には、天下統一を窺う戦国大名を威圧するほどの巨大な宗教勢力へと成長しました。  
無論、比丘や比丘尼の戒律を無効化するという意味での日本特有の仏教解釈は、最澄が開祖した延暦寺の天台宗でも既に行われていました。現代の日本の寺院の住職(僧侶)の多くは、『肉食・セックス・飲酒・妻帯(結婚)・蓄財(ある程度の贅沢)』などを行っており、厳格な禁欲的戒律を守って悟りを開いたり、乞食となって布施のみによって生計を立てるというような修行生活には殆ど関心を示していません。同じ仏教でも宗派・教義によって戒律遵守の強度が異なるので一概には言えませんが、鎌倉仏教の影響を強く受けた大乗仏教の宗派や天台宗の本覚論の影響を受けた僧侶は、煩悩即涅槃(ぼんのうそくねはん)の立場に立っています。その為、『煩悩(欲求)や迷いを断ち切らなくても救済される(解脱できる)』という教義に依拠していて、それほど厳格ではない宗教生活(葬儀祭礼)を送っても問題はないとされています。  
比叡山の天台宗の始祖である伝教大師・最澄(767-822)は、厳しい修行と学問によって悟りを目指すことを推奨する一方で、悲壮な覚悟で日本に律宗を伝えた鑑真和上(688-763)の受戒の儀式を骨抜きにする『円戒(えんがい)・円頓戒(えんとんがい)』の新思想を弟子達に伝えました。最澄が起こした比叡山延暦寺(天台宗)は、天皇家(大和朝廷)の帰依や信仰も厚く、高度な知性と強い意志を持つ優秀な学僧が競って入山していました。  
天台宗の比叡山延暦寺は、日本仏教界の総本山であり他宗を凌ぐ最高権威として機能していましたが、日本の仏教界から『正式な戒律と授戒制度』を排除する教義上の発端を作ったのもこの延暦寺でした。日本では出家僧の間でも在家信徒の間でも、仏教の戒律(行為規範)の重要性を認識する者は少なく、事の善悪は別として『戒律の規範は守らなくても、仏さまを信仰していさえすれば良い』という内面重視の宗教意識が濃厚にありますが、その元々の原因は天台宗・最澄が考えた『円戒の思想(戒律遵守の義務を緩和する思想)』にあります。  
唐の高僧である鑑真は、暴風雨や政治的な妨害によって五回も日本への渡航に失敗し、遂には両目を失明してしまいますが、それでも日本への仏教伝道への理想を捨てきれずに六度目の渡海で日本へやってきました(753年)。幾多の苦難や障害を乗り越えて鑑真は日本に渡ってきたわけですが、その最大の目的は『律宗の正式な戒律と授戒制度』を日本に伝道するためでした。鑑真は東大寺大仏殿において日本初の菩薩戒の授戒を行い、唐招提寺を建立して律宗の教義編纂と布教活動に務めますが、鑑真が広めた厳格な授戒制度は最澄の天台宗によって実質的に無効化されていきます。近代的な法治主義では『罰則(制裁)のない刑法規定』には犯罪抑止効果はないと考えられていますが、仏教界においても『罰則(制裁)のない戒律』では僧侶に戒律を遵守させる力を期待することは出来ないでしょう。  
原始仏教は元より上座部仏教(小乗仏教)においても、釈迦が制定した『具足戒(比丘250条・比丘尼348条の戒律)』を遵守することが『悟り(解脱)』に至る必要最低条件と考えられていましたが、最澄の天台宗では具足戒を厳密に遵守する必要がないとする『円戒(円頓戒)』を制定し、『授戒の儀式』もぎりぎりまで簡素化しました。その結果、平安時代中期から鎌倉時代初期にかけて日本仏教の『無戒律化(戒律の実質的な廃止)』が急速に進み、浄土真宗の始祖・親鸞が妻帯肉食を当然のこととしたように、仏教の僧侶や信徒であるからといって(煩悩を消尽するための)戒律を厳しく守る必要はないという流れが決定的となりました。  
最澄が定めた円戒によって『外見的な行動規範としての戒律』は廃止され、『内面的な信仰心(心構え)としての戒律』へと質的な変化を見せました。また、戒律を破ることに対する罰則(制裁)も実質的に廃止の方向に進み、重大な戒律を破ったとしても懺悔・回心すればその罪を許されて、再度僧侶として仏道修行に復活できるようになりました。最澄は円戒の思想を基にして、鑑真が伝達した複雑で厳格な授戒制度を改変し、具足戒を授ける『三師七証(さんししちしょう)』は不要であるとしました。正式な授戒制度である三師七証では、有資格者である三人の師匠の僧侶と七人の証人の立会いが必ず必要であるとしており、『出家僧』になるためのハードルはかなり高く設定されていました。しかし、最澄は、三師七証の厳しい授戒制度を大幅に規制緩和して、一人の師匠の僧(伝戒師)さえ立ち会えば正式に授戒したと見做してよいとしました。  
伝教大師・最澄は、戒律遵守と授戒制度の革命的な規制緩和を成し遂げて、『仏教界に出家するための儀礼的・心理的ハードル』を大幅に引き下げ、上座部仏教的なサンガ(僧侶共同体)の厳しい規範性を無効化したと言えるでしょう。最澄の円戒の思想は、その後の比叡山延暦寺の高僧達によって『天台本覚論(てんだいほんがくろん)』へと再編成され、仏教徒は煩悩や迷いを抱いたままでも悟りを開くことが出来るという教義が確立しました。  
天台本覚論とは『一切衆生悉有仏性』の文句に示されるように、あらゆる衆生(生物)には悟り・解脱の機縁となる『仏性』が備わっているということであり、僧侶の煩悩や欲求を肯定して戒律を無効化する作用を及ぼしました。煩悩や迷いを乗り越えることが出来ない僧侶でも悟ることができるという天台本覚論には『衆生の平等な救済』の要素が含まれています。その為、法然の浄土宗や親鸞の浄土真宗に見られる『衆生救済の念仏信仰(浄土信仰)』は、天台本覚論からも影響を受けており、念仏を唱えれば誰でも救済されるという称名念仏の思想は、煩悩具足の僧侶でも救済が得られるという天台宗の教えが世俗化・一般化したものだと考えられます。  
厳格な戒律を廃絶した日本民族は、『具体的な行為規範や義務規定(命令・禁止)』がある宗教への適応性が低いと考えられ、良く言えば現実主義的な考え方をする民族、悪く言えばご都合主義的に宗教を利用する民族と言えます。つまり、『人間(自分)のためになる神仏』であれば信仰することもあるが、人間を永続的に支配して厳しく管理するような『創造主としての唯一神』に帰依することはまずないということになります。日本に一神教のキリスト教やイスラム教が根付かない大きな理由として、『全知全能の神への従属(一方的隷属)』や『六信五行のような具体的な行動の規制』を考えることが出来ます。簡潔に言えば、細々とした命令や指示をするような『人(自分)の上に君臨していることを意識させる神』を信仰することへの抵抗が強いということかもしれませんが、この辺は、日本にカリスマティックな独裁者が生まれにくい背景ともつながっている気がしますね。  
つまり、その宗教を信じることによって、日常生活に何らかの支障や制約がでてきたり特別な義務や規範を守らせられたりする場合に、日本人の大多数はその宗教を拒絶することが多かったのでしょう。煩瑣な規範義務の遵守や唯一神による支配(命令)を面倒くさくて息苦しいものだと感じるのは人間の本性のような気もしますが、敬虔な一神教(ユダヤ教・イスラーム教)の信者の場合には、『唯一神の支配・命令』を遵守することで来世の救済や現世の幸福が約束されるという『権利・義務の均衡』のような考え方をする人が多いようです。つまり、『絶対者である神との契約』を守ることによって初めて来世での救済(天国行き)や現世での加護を期待できるという考え方であり、お手軽な現世利益を求めて神社にお賽銭を投げるような宗教感覚からは遠いと思われます。  
戒律や義務を守らずとも救済(悟り)を得られるという意味で、天台宗〜浄土真宗以降の日本仏教は極めて特異な発展を遂げたということができます。唯一神や戒律が不在の日本仏教は、キリスト教やイスラーム教のように『全知全能の神に従属(礼拝)する宗教』ではなく、『人間の幸福・願望の実現に役立てるための宗教』としての側面を色濃く持っています。  
また、平安時代までの古代社会では、『伝説的な神仏』よりも『怨霊(無念と憎悪を残して死んだ人間の霊魂)』に強い畏敬と恐怖が持たれていて、神が下す神罰(仏罰)よりも『人間の悪意・怨恨の情念』が死後に残り続ける事のほうにリアリティを感じていました。『創造主である神のために人間がある』という一神教的な発想は日本人には馴染みがなく、絶対的な存在者(神)に支配・管理されているような世界観を受容することにも抵抗感がありましたが、その背景には死んだ人間が悪霊になるというアニミズム的な怨霊信仰(御霊信仰)があったようにも思えます。  
『創造主である天上の神』よりも『怨恨(憎悪)を抱いたまま死んだ人間』のほうに恐ろしさを感じる宗教的感受性が日本人にはあり、一神教的な世界の支配者である神に意識がなかなか向かわなかったということも考えられるわけです。この『死んだ人間の情念(恨みつらみ・心残り)』が何らかの形で残るという共感的な怨霊信仰は、現代の日本人にもわずかながら継承されている部分があります。その為、時に霊感商法やカルト宗教などで、『死霊・怨霊・前世の悪業を恐れる想像的な感受性(罪悪感)』が悪用されてしまうこともあります。他人に不運な死に方や恨みを残すような死に方をさせてしまった人の『耐えがたい罪悪感や復讐の想像力』が、怨霊信仰の母胎になっている部分もあります。  
古代の日本人が持っていたもっとも強固な宗教的感性は、『自分が謀殺(討伐)した相手が怨霊となって、祟りや呪いの災厄をもたらすのではないか』という怨霊信仰であり、天照大神(あまてらすおおみかみ)が国づくりに活躍する日本神話の時代にも、強引に『国譲り』をさせた大国主命(おおくにぬしのみこと)を祭祀する荘厳な出雲大社を建立しています。古代日本の宗教信仰では、諸外国のように政治的・軍事的な勝者が敗者の情念を完全に無視して記憶(歴史)から忘却するという心理が成り立ち難く、『怨霊化した敗者が祟りや呪術で復讐しに戻ってくるのではないか』という罪悪感に根ざした恐怖心が強く持たれていました。  
つまり、古代日本では弱肉強食の二元論的な価値観は『俗世』だけでしか成り立たず、肉体を失った弱者・敗者の怨霊がさまざまな形(天災・疫病・政変・突然死)で強者に復讐をしにくると考えられていたのです。古代日本では、ライバルを暗殺したり失脚させた俗世の権力者の不安(罪悪感)を和らげ、天変地異や疫病流行、政治的混乱など怨霊の祟りを鎮めるために『歴史的・政治的な敗者のための鎮魂(慰霊)』が宗教の重要な役割となっていました。 
■6 
奈良時代に僧侶が増えた理由と鑑真の来日理由  
僧が増えた日本の事情  
710年、都が平城京に遷都されましたが、この710年の段階では天皇の住まい(=内裏)があった程度の完成度だったと考えられています。この平城京を造るにあたり、長い期間、継続的に様々な人や資材が運ばれることとなります。  
平城京の地は奈良盆地の北側に位置し、それまではごく普通の農村で田んぼが広がり集落が散在的にある程度だったそうです。多くの人々が平城京の造営に伴い移住する事になりました。  
平城京造営のために京・畿内の庶民は一部税が免除されたといいますが、雇役(賃金を受け取った労役)自体もキツイ労働だったようです。また、遷都するのに必要なのは宮や都の整備だけではありません。平城京へ税を納めるために使う道路やその道路周辺の河川の灌漑・治水等のインフラも必要になります。それらは地方の人々が作ったことでしょう。  
雑徭と呼ばれる労役の形態で納める税は、食糧持参で民衆にはかなりの負担になりました。都を作ることで違う地域の人々にも負担が大きくなったと推測できます。結果、多くの人が逃げだすことになりました。これを浮浪・逃亡と呼びます(律令に定義がなくその解釈は様々です)。  
行政側も黙っているわけではありません。対策を取りました。浮浪人として見つかれば、庸・調を逃亡地で納めなければならないという規定を715年に作りました。逃亡先では口分田をもらえないため、本拠地に帰そうという試みです。  
また、近隣の5戸で構成された防犯や逃亡などを防ぐ連帯義務のある末端行政組織・五保というものもありました。個人または一戸が逃げ出すことで、家族や五保の人々が税を肩代わりする事にもなる制度です。この制度下では一度逃げた以上、元の場所に戻るのにはかなりハードルが高くなります。  
723年に三世一身法が、743年に墾田永年私財法が出来て、寺社や貴族、地方豪族らが自身の土地を広げるために浮浪人を召し抱えるようになるまでは、個人でどうにかしなければならない状況が続きます。そこで現れたのが私度僧と呼ばれる官許を受けることなく勝手に出家した者達です。当時も僧は税を納める事が無かったので、浮浪人の隠れ蓑として利用されることもあったようです。  
実はこの頃の仏教は、民衆への布教が禁じられています。にも関わらず何故一般の浮浪人になろうとするような人がいたのでしょうか?それは、布教が禁じられていた時代にも民衆に仏教の教えを説いて廻った人がいたためです。この僧侶の名を行基と言います。奈良時代ではよく聞く名前ですね。  
一方で、唐からの高名な僧を迎えようとした時の天皇・聖武天皇は即位直後から多くの災難にあっています。即位の翌年の725年には奈良周辺で大地震が起き、その後も余震に悩まされていたそうです。加えて732年には近畿周辺での大干ばつ。当時は天災=政治が悪いからというのが当たり前の認識でした。  
それを抑えるための質の良い僧が必要ということから、伝戒師(僧侶に位を与える人)制度の導入を目指す声が大きくなってきます。そして、その道の高名な僧を迎えたいと栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)という日本の僧が733年に唐へ渡った際に「この人だ!」となったのが鑑真だそうです。鑑真を迎えるにあたる日本側の事情は以上になります。  
鑑真が来日に命を懸けた理由?  
鑑真が初めて日本を訪れようとしたのが743年夏。それから752年の間に実に6回も渡航を試みているのです。当時の航海には命がなくなる危険性が高く、実際に鑑真は盲目となった6度目の航海で来日に成功しています。なぜそこまで命を懸けてまで来日したのか?栄叡と普照の熱意という理由だけでは納得できない部分もあります。そんなわけで、次は唐側の事情を調べてみます。  
唐ではもう少し後に755年から安史の乱(楊貴妃が原因とも)が起こりますので、その兆候を掴んでいたため?なんていう説、唐からのスパイ説様々あります。ただし、これ等の説は鑑真の目的が文献などからでははっきりしないための想像力を駆使した説なのでは?という人もいて本当にはっきりとしません。ということで、様々な説の中で個人的に一番納得できた説を紹介します。  
端的に言うと、唐における「仏教の扱いが低かった」こと。これが鑑真来日の理由だろうとする説です。  
そもそも中国での三大宗教は、儒教・道教・仏教の3つです。儒教は正確に言えば宗教とは違うのですが、科挙での必須科目でもあり儒家は優遇されていたと考えられます。後の二つはと言いますと、唐は創建以来「道先仏後」つまりは道教を優先させる方針でした。中でも鑑真が唐で活躍した時代の皇帝・玄宗は道教を特に重んじていたそうです。  
初めて来日しようとした時には既に鑑真は50代半ば。唐で既に高名になっていた鑑真はこれ以上唐では上を目指すことはできないと考えていたのではないでしょうか?自国では仏教が軽んじられている一方で、日本では仏教に重きを置いている。そんな状況が鑑真の来日を後押ししたのではないかと考えられます。  
まとめ  
諸説あるにせよ、日本側の事情と唐での状況という偶然が重なって為されたのが鑑真の来日。記事中にもある行基と共に奈良時代の仏教を大きく発展させるという偉業を成し遂げています。  
聖武天皇の時代、本当に多くの災害が続いています。地震に干ばつ。更に栄叡と普照が遣唐使として派遣された後も疫病(=天然痘)というどうしようもないことが続いています。勿論為政者のせいではありません。病気について調べたところ、735年の疫病流行以前の時期には前回のパンデミックの時の抗体を持った人が多くいたのに少数派になってしまった事、日本の気温が高くなった事が天然痘の大流行へ繋がったと言われています。  
栄叡と普照がいなくなってからも、そんな出来事が続きさぞ心許ない思いをされたであろう聖武天皇ですが、25年以上在位されています。天災続きで反乱も起こされているのに意外ですね。とにかく仏教に深く帰依し、その発展にも大きく貢献した天皇であるのは間違いなさそうです。
■7 
行基と鑑真  
日本仏教史の曲がり角に登場した二人の僧  
橘たちばな奈良麻呂ならまろの変へん(七五七)によって、反藤原派は一掃された。こうして、藤原ふじわら仲麻呂なかまろは藤原四兄弟の滅亡以来弱体化していた藤原氏の地位を、再び押し上げることに成功したのである。  
こののち大炊おおい王おうが即位して淳仁じゅんにん天皇になると、藤原仲麻呂は恵美えみの押勝おしかつの名を下賜かしされ(そうするように天皇に仕向けた)、天皇を傀儡かいらいにし、好き勝手な行動をはじめる。  
「恵美家えみけ」だけで朝堂を牛耳り、数々の特権を手に入れ、皇帝になろうとした気配さえある。もちろん、恵美押勝の野望は成就しなかったが、政局に大きな影響を及ぼした。そしてこの時、仏教界にも、大きな影響を及ぼしている。  
そこで今回は、日本仏教史の曲がり角に登場し、仏教界の基礎を築いたふたりの偉人にご登場願おう。行基ぎょうき (六六八〜七四九)と 鑑真がんじん (六八八〜七六九)である。  
お話ししたように、行基は乞食こじき坊主ぼうずの頭領でありながら、仏教界の頂点に登りつめた異色の存在である。  
かたや鑑真は、中国を代表する高僧でありながら、日本の招聘しょうへいにこたえ、命を賭して来日した偉人だ。しかし皮肉なことに、鑑真は大歓迎を受けたわけではない。日本側の体制に大きな変化があったからだ。つまり、鑑真は橘奈良麻呂の変の煽りを強く受けた人物だったのである。  
ところで、平安京遷都のひとつの理由に、南都仏教の腐敗が挙げられる。桓武かんむ天皇は新都に仏教を持ち込まないと心に決めていたほどだ。奈良時代末期の仏教界が、どのように腐敗していたのかといえば、それは怪僧・道鏡どうきょうの存在が大きな意味を持っていたのだろう。独身女帝・称徳しょうとく天皇に寵愛ちょうあいされて権力者となった道鏡は、玉座ぎょくざをも狙ったのである。  
道鏡をめぐるいざこざについては、連載の中で詳しく語るが、平城京の仏教そのものが腐りきっていたのかといえば、そのようなことはない。行基や鑑真は、日本仏教の基礎を造り上げ、多くの人々に支持されていたのである。  
師・道昭の影響を強く受けた行基  
行基は天智てんじ七年(六六八)、河内国かわちのくに(大阪府。のちに和泉国)大鳥おおとりの郡こおり(堺市、高石市)で生まれた。父は高志こしの才智さいち、母は蜂田はちたの古爾比売こにひめで、高志こし氏は百済系くだらけい渡来人とらいじんの書ふみ(文ふみ)氏しの枝族しぞくであった。  
天武十一年(六八二)、十五歳で出家した行基は、飛鳥あすか法興寺ほうこうじの道昭どうしょう(六二九〜七〇〇)のもとで修行した。  
一般にはあまり知られていないが、この道昭も、偉大な僧のひとりといっていい。俗姓は船連ふねのむらじで、河内国丹比郡たじひこおりで生まれた。白雉はくち四年(六五三)に入唐し、玄奘げんじょう三蔵さんぞうの元で法相教学を学んだ。特別に可愛がられ、同室で暮らしたという。  
斉明さいめい七年(六六一)に帰朝するが、このとき玄奘三蔵から、舎利しゃりと経論きょうろんを授かった。法興寺の東南の隅に禅院を建て、禅を広めた。また、各地に出向き、社会事業を行い、民の幸せを願った。橋を架け、道を整備し、道端に井戸を掘ったという。宇治川に架かる橋は、道昭が造ったとされている(現存せず)。日本で最初に火葬された人物でもある。  
行基の生涯も、道昭の影響を強く受けたものだ。生家を寺にした行基は、道昭と同じように、近畿地方を中心に社会事業を展開したのだった。天平十三年(七四一)までに、池や堀、道、港を整備した。また、布施屋ふせやを作り、調庸ちょうようを運搬する人たちや役民えきみんの便宜を図った。  
庶民の寄進を得て、多くの寺を建て、多くの民に仏の道を説いたのだった。このため、行基の元に、多くの信者が集まった。  
朝廷に危険視された行基を抜擢した聖武天皇  
行基の偉大な業績は、何といっても、仏教を大衆のものにしたことだろう。それまでの仏寺といえば、貴族や天皇家の私物であった。仏教ぶっきょう公伝こうでん(五三八あるいは五五二)ののち、まず蘇我氏が仏寺を建立し、仏を祀る権利を得た。そののち、天皇家や諸豪族が、寺を建立していった。ただし、一般庶民に、信仰が浸透したかというと、じつに心許ない。古代の寺院は「病院」や「学校」も兼ねていたが、要するに貴族の財力によってエリート集団、インテリ集団が集められた場所が、仏寺だったのである。  
これに対し行基は、多くの人たちに仏の道を説き、困った人たちを救済した。当然、人々は、行基を慕って集まった。平城京の東の高台に、数千人、多いときで一万人が徒党を組み、気勢をあげた。  
『続しょく日本紀にほんぎ』養老ようろう元年(七一七)四月の条には、次のようにある。  
「小僧(行基に対する蔑称)行基は、弟子らとともに出没し、徒党を組みいたずらに説教をし、ものを乞い、聖道と偽って人々を幻惑している。風俗は乱れ、みな仕事を放り出してしまっている。これはほんとうの仏道ではなく、法令にも違反している」  
朝廷は、行基の行動を危険視し、弾圧するように命じた。ところがのちに、聖武天皇は行基を抜擢してしまう。聖武天皇は「藤原の子」から「反藤原派」に転向し、行基とともに東大寺建立を押し進めていった。  
ただし、聖武天皇の時代は天変てんぺん地異ちいが相次ぎ、干魃や飢饉、疫病によって社会は疲弊していた。このため、事業は必ずしも順調に推移したわけではなかった。このため、橘奈良麻呂の変(七五七)に際し、乱の首謀者と時の権力者・藤原氏との間で、東大寺建立事業の責任を擦り付けあうという事態も出来した。いずれにせよ、南都仏教のシンボルである東大寺建立の当初の目的は、「多くの人たちの力で、盧舎那仏を造ろうではないか」という聖武天皇の無邪気な発想にあったことは間違いない。そして、この壮大な構想に乗ったのが行基であり、この人物の活躍がなければ、東大寺建立は途中で挫折していただろう。  
唐の高僧鑑真は、すでに“お荷物”になっていた?  
奈良仏教を築いたもうひとりの偉人・鑑真は、唐の時代の高僧で、「諸州しょしゅう屈指くっしの伝戒師でんかいし」と名がとどろいていた。この高僧がなぜ日本に渡ってきたかというと、日本側が「伝戒師を求めた」からである。  
この時代、生活苦から、勝手に僧になってしまい、税や労役を免れようとする輩が続出し(私度しど僧そうや優婆うば塞そく)、朝廷は頭を悩ませていた。そこで唐の授戒じゅかい制度を見習い、授戒をする資格を有した僧(伝戒師)を招聘しょうへいしたのだ。伝戒師から授戒した者だけが、正式に僧として認められる仕組みを造ろうとしたのだ。  
鑑真は五回渡航に失敗し、両目を失明し、大切な弟子を亡くしてしまった。六回目の渡海で、ようやく日本にたどり着いている。一度は、日本の役人が保身のために鑑真を裏切り、唐に身柄を引き渡している。唐の国禁を犯してまでして、鑑真は来日を決意していたのだ。  
天平勝宝五年(七五三)十二月、鑑真は日本の土を踏み、大宰府観世音寺(福岡県太宰府市)で、日本初の授戒を行なった。翌年二月に平城京に入ると、孝謙天皇や聖武上皇の歓迎を受け、四月に東大寺大仏殿前に戒壇を造り、聖武上皇らに授戒している。  
ただ、この後の日本での生活が順調だったわけではない。たとえば鑑真は大僧都だいそうずを任ぜられるが、「僧都」とは、僧綱そうごう(僧官)の「僧正そうじょう」「僧都」「律師りつし」の真ん中に位置する。日本の仏教界の重鎮だが、最高位に就いたわけではなかったのだ。  
さらに、鑑真といえば唐招提寺とうしょうだいじ(奈良市五条町)を思い出すが、これは朝廷が建てた寺ではない。「招提」は「私寺」を意味していた。  
天平宝字二年(七五八)には、淳仁天皇から、「あなたは老齢ゆえ、あまりこれ以上苦労されることはない」と、大僧都から引きずり下ろされてもいる。通説は、よい意味に捉えて鑑真の健康を気遣ったと考える。だが、橘奈良麻呂の変が、この前年であったことを軽視するわけにはいかない。藤原仲麻呂がいよいよ全権を握ろうとしていた時代であった。  
藤原仲麻呂にとって、鑑真は「前政権の置き土産」であって、特別ありがたく思っていなかったようだ。むしろ、お荷物になっていた可能性が高い。  
鑑真の来日を要請した長屋王はすでに滅亡していた  
鑑真は、けっして日本仏教界に大歓迎されたわけではなかった。それまでは、授戒する資格を持った僧がいなかったため、出家する者は、自ら「戒」を守ることを誓約うけいしていた、これを「自誓じしょう作法さほう」というが、「正式な授戒を受けなくとも、これまでどおりでよいではないか」と、名だたる寺の僧たちが主張しだしたのである。  
もちろん、既得権益に守られたエリートたちの反乱であった。興福寺こうふくじの講堂で、学僧と鑑真の弟子・思託したくが議論を闘わせ、思託が日本の学僧を論破する場面もあった。いずれにせよ、日本の仏教界が鑑真に冷淡であったことは間違いない。  
思託は鑑真に対する日本側の誹謗中傷や冷淡な態度に業を煮やし、「鑑真はいかに偉大な僧なのか」を、文字に書き残した。これを淡海おうみの三船みふねが、わかりやすく書き直したのが、『唐大とうだい和上わじょう東征伝とうせいでん』である。  
この文書には、鑑真が来日するきっかけになったひとつの事件を今に伝えている。  
遣唐使とともに入唐した栄叡えいえいと普照ふしょうが揚州ようしゅうに赴おもむき、鑑真に来日を請うたとき、鑑真は次のような長屋王とのやりとりを述べたというのである。  
すなわち、日本国の長屋王は、仏法を崇拝し、千の袈裟けさを造り、この国に贈ってきた。その袈裟の縁の上に、次の句を刺繍ししゅうしてあった。  
「山川域さんせんいきを異ことにすれど、風月ふうげつ天を同じくす。これを仏子ぶしに寄よせて、共ともに来縁らいえんを結むすばん」  
これを観て、鑑真は心を揺さぶられたらしいのだ。そして、日本行きを決意した……。  
ちなみに、この長屋王の漢詩は、中国にも資料が残っているので、作り話ではないようだ。多くの弟子が尻込みする中、「それなら、私が日本に赴こう」と鑑真が決意したのは、  
「異なる世界に住むわれわれだが、仏縁で結ばれているではありませんか」  
という純粋な長屋王の信仰心に、鑑真は胸を打たれたからだろう。だから、「密航」をしてまで、日本にやってこようと考えた。しかし、鑑真が来日したとき、すでに長屋王は、藤原氏の魔の手にかかり、滅亡していた……。  
日本側の冷たい仕打ちに煮えくりかえった思託が、「長屋王の真心」を強調している点は、無視できない。なにしろ長屋王は反藤原派の旗印であり、鑑真が来日した時、すでに長屋王は藤原四兄弟の手で抹殺されたあとだったからだ。  
反藤原派の天皇に豹変し、仏教を重視した聖武天皇の時代であったが、すでに藤原仲麻呂が台頭し、息の根を止められようとしていた。  
当然、藤原仲麻呂は、「反藤原派の手柄」である鑑真の来日をこころよく思っていなかっただろうし、藤原氏の氏寺・興福寺の僧たちが鑑真たちを無視しようとし、また「授戒など必要ない」と突っぱね、思託たちと論戦を展開した理由も、これではっきりとする。  
藤原仲麻呂全盛期に突入した瞬間、鑑真が御用払いになった意味は、歴史をふり返らなければ、その真意をつかむことはできないのである。 
[ 参考 ]

 

仏教 
古代日本仏教 
日中関係史 
空海
 
 
道鏡

 

[文武天皇4年-宝亀3年 / 700-772] 奈良時代の法相宗の僧。物部氏の一族の弓削氏の出自で、弓削櫛麻呂の子。俗姓が弓削連であることから、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)とも呼ばれる。兄弟に弓削浄人。天智天皇の皇子である志貴皇子の子とする異説もある女性の天皇として様々な圧迫を受ける孝謙天皇の政治を自身も苦しみながら支え続けた。  
朝廷での出世  
文武天皇4年(700年)に 河内国若江郡(現在の大阪府八尾市)に生まれる。若年の頃、法相宗の高僧・義淵の弟子となり、良弁から梵語(サンスクリット語)を学ぶ。禅に通じていたことで知られており、これにより内道場(宮中の仏殿)に入ることを許され、禅師に列せられた。  
天平宝字5年(761年)、平城宮改修のため都を一時近江国保良宮に移した際、病を患った孝謙上皇(後の称徳天皇)の傍に侍して看病して以来、その寵を受けることとなった。淳仁天皇は常にこれについて意見を述べたため、孝謙上皇と淳仁天皇とは相容れない関係となった。天平宝字7年(763年)に少僧都に任じられ、翌年天平宝字8年(764年)には藤原仲麻呂の乱で太政大臣の藤原仲麻呂が誅されたため太政大臣禅師に任ぜられた。翌年には法皇となり、仏教の理念に基づいた政策を推進した。  
道鏡が関与した政策は仏教関係の政策が中心であったとされているが、彼の後ろ盾を受けて弟の浄人は8年間で従二位大納言にまで昇進し、一門で五位以上の者は10人に達した。これが法体で政務に参与する事に対する反感も加わって藤原氏等の不満を高め確執することになる。  
宇佐神託と左遷  
大宰主神(だざいのかんづかさ)の中臣習宜阿曽麻呂(なかとみのすげのあそまろ)が、豊前国(大分県)の宇佐神宮より道鏡を天皇の位につければ天下は泰平になるとの神託があったと伝え、和気清麻呂が勅使として参向しこの神託が虚偽であることを上申したため、道鏡が皇位に就くことはなかった(宇佐八幡宮神託事件)。  
神護景雲4年(770年)に称徳天皇が崩御すると、道鏡は葬礼の後も僥倖を頼み称徳天皇の御陵を守ったが、神護景雲4年8月21日、造下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられて下向し、赴任地の下野国で没した。道鏡死去の報は、宝亀3年4月7日(772年5月13日)に下野国から光仁天皇に言上された。道鏡は長年の功労により刑罰を科されることは無かったが、親族(弓削浄人とその息子の広方、広田、広津)4名が捕えられて土佐国に配流されている。(以上、「続日本紀」)  
庶人として葬られたといい、龍興寺(栃木県下野市)境内に道鏡の墓と伝えられる塚がある。  
風説  
姦通説  
孝謙天皇に寵愛されたことから、平安時代以降の学者によって天皇と姦通していたとする説や巨根説などが唱えられ、『日本霊異記』や『古事談』など、説話集の材料にされることも多い。しかしこの説は信頼の置ける一次史料で確認することはできない。こうした説が流布された背景には、称徳天皇の崩御をもって天武天皇系の皇統が断絶して天智天皇系の皇統が復活したことから、天智天皇系の皇位継承を正当化するために天皇と道鏡を不当に貶めるためという指摘がある。また、道鏡が皇位を狙っていたという具体的な証拠も乏しく、左遷の時の理由に挙がってはいるものの、宇佐八幡神託事件などがあるにも関わらず、具体的な証拠として採用されていない。その左遷もあくまで「政治家から一般の僧侶に戻った」というに過ぎず、仮に女性と通じていたというなら、相手が天皇でなくても戒律を破ったとして僧職を剥奪されるはずである。このため、宇佐神宮の神託の内容が実際に皇位継承に関するものだったのか疑問視する意見や、皇位を継承させたがったのは称徳天皇の方ではないかという意見もある。そのため、中立性に疑問が残る僅かな史料から安易に道鏡を批評するのは適当ではないとの指摘もある。  
俗説  
熊本市にある弓削神社には「道鏡が失脚した後この地を訪れて、そこで藤子姫という妖艶華麗な女性を見初めて夫婦となり、藤子姫の献身的なもてなしと交合よろしきをもって、あの大淫蕩をもって知られる道鏡法師がよき夫として安穏な日々を過ごした」との俗話がある。道鏡の巨根伝説は根強く、江戸時代には「道鏡は すわるとひざが 三つでき」という川柳も詠まれた。また大阪・奈良の山中に生息する体長に比して非常に大きな交接器を持つオサムシの一種が「ドウキョウオサムシ」と命名されている。  
■2 
道鏡と女帝 
仲麻呂の死後、淳仁天皇に代わり称徳天皇(=孝謙天皇)が復位。道鏡と共に政界に現れた。道鏡の出身は低かったが、呪や禅といった超自然的な力を持った僧として次第に力をつけてゆき、宮中に出入りする看病禅師として女帝に近づいていった。彼女に気にいられた道鏡は、765年に太政大臣にまで登りつめ、翌年法王の名を賜った。彼らが権力を握っていた頃、皇位後継者が定まっておらず、世は不安に覆われ、人々は互いに疑い合い、その為に罪を着せられ処刑される人が後を経たなかったと言う。また、元々山で修行していた彼は、権力を持っていても政治を行うほどの能力を持っていなかった。その為政治は停滞し、財政は窮乏。官民は意気消沈といった具合だった。さらに彼と女帝は乏しい国費をひたすら寺院、宮殿の造営に注いでしまった。西大寺などがそれである。官民を省みない行いをした彼らであったが、女帝が、宇佐八幡宮からの神託を無視して銅鏡を皇位につけようとして失敗、その半年後に女帝は病死し、同時に道鏡も没落した。
■3 
道鏡と宇佐八幡宣託事件 
神護景雲三年(769)事実上天皇に近い行動をしていた法王道鏡は、後は形式的手順を踏むだけになって行った。  
そんな時に大宰府の祭祀を担当する官職にある習宜阿曾麻呂が「道鏡を天皇にしたならば天下泰平になるだろう、と宇佐八幡神が言っている」と道鏡に触込んだ、これ幸いと真に受けた道鏡は、早速称徳に報告した。  
これを聞いた称徳は輔治能清麻呂(後の和気清麻呂)に「託宣を下したいことがあるから尼の法均(和気清麻呂の姉)を寄こすように、と云う八幡神お告げがあった。」遠路の為に法均に替わって宇佐八幡に赴くように命じた。  
所が清麻呂の持ち帰った内容は意に反するもので神は「わが国では国家始まって以来ずっと君臣の秩序が定っている。臣が君になったことは一度もない。  
皇位には必ず天皇家の血筋を引く者を立てよ」との託宣し、道鏡排除のための協力を約束したと言う。  
当然称徳、道鏡は納得したわけでもなく、道鏡は内心激怒をしただろう。  
二人はこの託宣を捏造と決めつけ、清麻呂に因幡員外介に降格し左遷して大隅に配流、法均は還俗させ別部狭虫として備後に配流したのである。  
誰が見ても清麻呂は宇佐八幡の神託をそのまま伝えただけで、誰かが仕組んだ罠にはまっただけに過ぎない。  
その後、称徳は反省をしたのか「自分から皇位を願っても、諸聖、天神地祇の御霊が定めたものでなければ、かえって身を滅ぼすと・・・・・」道鏡への戒めの言葉を投げかけたと同時に自分にも戒めているような言い回しである。  
称徳は由義宮に行幸し、此処を西京とする。由義宮は弓削行宮した時に整備されたものと思われ、規模は河内国大県・若江・高安三郡にまたがる位の大規模なものと考えられる。  
神護景雲四年(770)由義宮に行幸した称徳はにわかに体調を崩した。  
平城京に帰ったものの以後政務を見ることはなく、女官の吉備由利だけが病床の称徳のその意思を取り次いでいた。  
この時点で道鏡の発言力や権威はなく、一切表に出ることが無い、称徳依存の地位だった。左大臣藤原永手が近衛府、外衛府、左右兵衛府を、又右大臣の吉備真備は、中衛府、左右衛士府の統率を担当し、万が一の体制がとられた。七七〇年八月四日、称徳は平城京の西宮の寝殿で死去した。時に五十三歳であった。  
称徳の死を知った重臣たちは前後策を模索した。皇位継承者の人選に入り天武の孫の文室浄三とその弟の文室大市を指す吉備真備と永手、宿麻呂が推す天智の孫の白壁王の三人に絞られ、永手が称徳の遺詔を読み上げ決着した。その後、吉備真備は致仕して新しい時代の到来となった。  
その日の内に白壁王は立太子し、称徳の高野山陵に埋葬を済ませた。道鏡は下野薬師寺に左遷、弟の浄人は土佐に配流された。  
白壁王は即位し光仁天皇の誕生となった。天武系の長きに渡る政権の移譲は、皇位継承者の失墜に注がれてやがて後継者不足に迫ったことは誠に皮肉なことで、飛鳥浄御原宮から平城京の終焉を持って天智系の孫白壁王に以上されたことも歴史の不変則の摂理を垣間見る思いがする。  
また王権に見向きも興味も示さない姿勢と、貫き終始、自ら酒におぼれる道化に扮した白壁王に朝廷の王権が負託されたのである。  
宇佐八幡宮神託事件 / 宇佐八幡は伊勢神宮に次ぐ第二の祖廟。日本最初の神仏習合の官寺。祭神は誉田別尊・比売大神・大帯姫命。縁起によれば欽明朝から大神比義が広幡八幡麻呂の神託によって和銅五年(712)鷹居社を建立した。『記紀』によれば宇佐国造がいて高魂命を祀っていたが九州で最初に大和朝廷に服属したと言う。  
この時期宇佐八幡者の神託がもたらされたかは定かではないが、朝廷と宇佐の関係は続いていたのか、神功皇后の九州に発した応神天皇の関係から深い結びつきがあったのか、穿った見方すれば朝廷の仕組んだ道鏡落としの罠であったかもしれない。  
何れにせよ称徳の失った道鏡は糸を切られた風船の様なもの、下野薬師寺に左遷され同寺で生涯を閉じた。  
■4 
呪われた平安京遷都  
棄てられた天武の王統  
平安京遷都といえば、腐敗した奈良の仏教界から逃げ出し、交通の便の良い場所に移って新しい体制を築いた画期的な出来事と信じられている。桓武(かんむ)天皇も、遷都を敢行した名君として歴史に名を刻んだのである。  
しかし、平安京遷都には秘密が隠されている。これまで軽視されてきた闇だ。  
そこで、平安京遷都にいたる道のりを、ふり返ってみよう。  
称徳(しょうとく)天皇が崩御されて、道鏡(どうきょう)は下野国(しもつけのくに)に追いやられた。これで平和が訪れたかと思いきや、大問題が持ち上がった。それは、称徳天皇が独身女帝だったことから、皇位継承問題が浮上したのである。  
ここで、天武系を推す吉備真備(きびのまきび)と、天智系を推す藤原百川(ふじはらのももかわ)が、暗闘をくり広げる。  
『日本書紀(にほんしょき)』に従えば、天智(てんじ)天皇と天武(てんむ)天皇は実の兄弟だから、天武の王家が途絶えて天智系の天皇が新たに立ったとしても、大きな問題はなかったと思われるかもしれない。しかし、この入れ替わりこそ、歴史の断層と言っても過言ではなかったのだ。  
連載中述べてきたように、そもそも天智と天武は、仲の悪い兄弟だった。藤原氏が推す天智、藤原氏に疎まれた天武……。蘇我氏が推す天武、蘇我氏を倒した天智というように、両者は水と油なのだ。  
壬申(じんしん)の乱(らん)(六七二)で大海人(おおあまの)皇子(みこ)(天武天皇)は甥の大友(おおともの)皇子(みこ)を殺して玉座を手に入れた。天智天皇の王統は、ここで途切れるが、天武天皇崩御ののち、皇后の野讃良(持統(じとう)天皇)が皇位を「簒奪(さんだつ)」し、混乱が生まれる。  
持統天皇は天智天皇の娘で、表向き持統は、天武の末裔を即位させるための中継ぎとして即位したが、持統を支えた藤原(ふじわら)不比等(ふひと)は、密かに「持統天皇から始まる天智系の王家の創立」を目論んでいた。そして、この新たな王家は、藤原不比等の孫の首(おびとの)皇子(みこ)(聖武(しょうむ)天皇)が即位することによって、完成するはずであった。ところが聖武天皇は、「天武の子」であることに目覚め、藤原(ふじわら)仲麻呂(なかまろ)(恵美押勝(えみのおしかつ))と政争をくり広げてしまう。また、聖武の娘の称徳天皇は、恵美押勝を誅伐(ちゅうばつ)し、道鏡を皇位に就けようとした。これは、藤原氏にとって悪夢のような出来事だったのだ。  
称徳天皇崩御ののち、藤原百川は、天智天皇の孫の白壁王(しらかべおう)を推した。すでに齢六十を超えていたが、危険を感じ、「酔いどれ」を装っていた人物だ。この人物こそ、桓武天皇の父・光仁(こうにん)天皇である。  
結局、吉備真備は孤軍奮闘するも、藤原氏に囲まれ、政争に敗れ、「長生(ちょうせい)の弊(へい)、この恥(はじ)にあう」と述べ、朝堂から去っていった。こうして宝亀(ほうき)元年(七七〇)、光仁天皇は即位する。  
なぜ平城京も棄てられたのか 
光仁天皇の正妃は、井上(いのうえ)内親王(ないしんのう)で、ふたりの間の子・他戸(おさべ)親王(しんのう)が、皇太子となった。井上内親王は天武系だから、バランスを考えた、ということになる。  
ところが、宝亀三年(七七二)三月、井上内親王は、巫蠱(ふこ)(人を呪うこと)を行ったと言いがかりをつけられ、皇后位を剥奪される。その二ヶ月後、皇太子の他戸親王も、母とともに厭魅(えんみ)大逆(たいぎゃく)(妖術で君主を呪うこと)に荷担してきたと糾弾され、廃太子となってしまった。  
事件は、まだ続く。宝亀四年(七七三)十月、光仁天皇は、突然井上内親王と他戸親王を責めた。姉が亡くなったのは、井上内親王の呪いに違いないというのだ。藤原百川の入れ知恵だろう。  
こうして母子は大和国(やまとのくに)宇智郡(うちぐん) に幽閉されたのである。そして宝亀六年(七七五)四月二十七日、井上内親王と他戸親王は、幽閉先で同じ日に亡くなってしまった。殺されたのだろう。  
『公卿(くぎょう)補任(ぶにん)』は、一連の事件を「藤原百川の策謀」だったと記録し、『本朝後胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)』は、井上内親王と他戸親王は「獄中」で亡くなったあと、龍になって祟ったと語り継ぐ。無視できないのは、『水鏡(みずかがみ) 』も、藤原百川が祟りに苦しめられたと記していることだ。  
井上内親王と他戸親王は、のちに祟り神と恐れられ、丁重に祀られる。元興寺(がんごうじ)(奈良市)の近くの御霊(ごりょう)神社が、ふたりを祀る神社である。  
ここで注意しなければならないのは、他戸親王を抹殺しなければ、桓武(かんむ)天皇(山部(やまべ)親王(しんのう))は即位できなかったという事実である。  
「血の論理」で考えても、桓武天皇即位の可能性は低かった。なにしろ他戸親王の母・井上内親王は、聖武天皇の娘であり、かたや桓武天皇の母は、百済の武寧(ぶねい)王(おう)の末裔(まつえい)・高野(たかの)新笠(にいかさ)であった。普通これを「卑母(ひぼ)」と呼ぶ。だから、桓武天皇が皇位継承できたことは、奇跡的なことだった。  
ちなみに、なぜ百済(くだら)王(おう)の末裔を母に持つ桓武が即位できたのかといえば、藤原氏が強力に押したからで、連載中述べたように、藤原氏の祖・中臣鎌足(なかとみのかまたり)が、百済王家から日本に人質として預けられていた豊璋(ほうしょう)だったと筆者はみる。  
いずれにせよ、他戸親王に難癖をつけて抹殺できたからこそ、桓武天皇は即位できたのである。  
つまり、桓武天皇は「祟られる対象」でもあったのだ。ここに、平安京遷都のひとつのヒントが隠されているように思えてならない。平城京は、藤原氏にとって、「政敵を葬り去った戦場」であった。それはとりもなおさず、「藤原氏を恨む人々の墓場」であり、藤原氏は祟り神と共に暮らしていたのだ。そして、藤原氏が井上内親王と他戸親王を抹殺することによって皇位が転がり込んできた桓武にしても、平城京は恐ろしい土地になっていったはずである。 
藤原氏に濡れ衣を着せられて、流罪になった早良親王(崇道天皇) 
桓武天皇は天応(てんおう)元年(七八一)に平城京で即位したが、すぐに遷都を計画した。延暦(えんりゃく) 三年(七八四)六月には山城(やましろの)国(くに)乙訓郡(おとくにのこおり)に長岡京(京都府向日市、長岡京市、京都市にまたがる)の造営をはじめ、十一月、完成を待たずに遷都を済ましている。  
ところが、ここで思わぬハプニングが起きている。翌年の四月、桓武天皇が長岡京を留守にした隙をついて、何者かが、造都の責任者・藤原種継を射殺してしまったのだ。  
下手人はすぐに捕まった。『続日本(しょくにほんぎ)』によれば、中納言・大伴(おおともの)家持(やかもち)が大伴氏と佐伯氏を巻き込み、桓武天皇の実の弟で皇太子の早良(さわら)親王(しんのう)をそそのかし、藤原種継を殺したというのである。  
早良親王はすぐに捕らえられ、廃太子(はいたいし)、淡路国に配流(はいる)がきまった。大伴家持は東北の地に赴任していたが、事件の直前に、すでに亡くなっていて、死後追罰を受けた。遺骸の埋葬を許されず、官籍からはずされた。息子も流罪となっている。  
大伴家持と藤原種継は、同じ中納言で、良きライバルであった。ただし、藤原種継は桓武天皇の寵愛(ちょうあい)を受けていたという強みを持ち、家持を東北の地に左遷させるために暗躍したようだ。だから、大伴家持が藤原種継を恨んでいても、なんら不思議はない。  
けれども、真犯人は別にいたように思えてならない。大伴家持、藤原種継の双方を同時に葬ってしまおうという、遠大な計画が、仕組まれていたのではあるまいか。  
藤原種継の母は秦氏(はたし)で、山城国の土地に深く根ざした渡来系豪族だった。長岡京遷都を急いだ桓武天皇は、秦氏と太いパイプを持つ藤原種継を重用したのだろうし、こののち、秦氏の影響力が増していくことは、火を見るよりも明らかだった。他の藤原氏にすれば、面白い話ではない。  
皇太子の早良親王が大伴氏とつながっていたことも、藤原氏にすれば、許されることではない。早良親王が即位すれば、藤原氏の地位が危うくなる。彼らの標的は、大伴家持ではなく、早良親王であろう。早良親王を抹殺するために、大伴家持が主犯格にでっちあげられたのだろう。 
■5  
道鏡譚  
奈良朝最大の政争勃発  
「恵美押勝(えみおしかつ)さまが途方もない数の兵をひそかに集めている」。天平宝字(てんぴょうほうじ)8(764)年9月、孝謙(こうけん)上皇へのこんな密告から事件は始まった。政争を勝ち抜き最高位まで昇りつめた押勝が今度は、祈祷(きとう)を操り皇室に取り入った道鏡を排除しようというのだ。最大の後ろ盾だった聖武天皇妃・光明皇太后の死後、思うように政権運営ができず、政敵の影がしだいに迫ってくることに焦りを覚えたのか。上皇だけでなく天皇も巻き込み、奈良朝最大の政治バトルの火ぶたがここに切って落とされた。  
怪僧出現  
恵美押勝の本名は藤原仲麻呂といい、藤原氏の繁栄の礎を築いた鎌足(かまたり)の子、不比等(ふひと)の4人の子が独立して設けた北、南、京、式の4家のうちの南家の出身。政界進出後、同じ一族で聖武天皇妃の光明皇后(聖武天皇死後は皇太后)の権威を背景に地位を築き上げていく。  
天皇は聖武から孝謙、さらに淳仁(じゅんに)へと譲位されていくが、押勝は天皇側近としての地位を着実に固め、天平宝字4(760)年に皇族以外で初の太師(たいし)に就任する。太師は天皇を補佐する役職で、のちの太政大臣に相当する。  
恵美押勝という唐風名は淳仁天皇が即位直後、唐風政策を進める仲麻呂のことを思って与えるなど、このときまではわが世の春をおう歌していた。  
ところが、太師就任直後の7月16日、突然、皇太后が亡くなると、翻ったように上皇との関係が急激に冷え込んでいく。  
そんなとき、天平宝字5年に上皇が行幸(ぎょうこう)先の近江・保良宮(ほらのみや)で重病にかかり、宮中に動揺が走る中、珍しい密教の修法を会得したという道鏡に祈祷を頼むことになった。  
これがよほど効いたのだろう。当時、皇室に10人ほどいた医学の知識を持った僧侶「看病禅師」の力を持ってしても回復しなかった病気がまたたく間に治癒したのだ。  
こうなると、これだけの法力を持った僧を上皇も手放したくなかった。「道鏡よ、私に仕えぬか」と積極的に手を差し伸べてきた上皇に、道鏡も断る手段はなかった。  
以来、上皇は常に道鏡を傍らに置くなど信頼を深めていく一方で、かつての側近だった押勝との関係はさらに疎遠なものになっていった。  
エスカレート  
道鏡は河内国若江郡の出身で、現在の大阪府八尾市の弓削(ゆげ)神社周辺を拠点とした物部氏の一族、弓削氏の出でもあり弓削道鏡とも呼ばれていた。生まれた年は文武天皇4(700)年ともされるが、もっと若いという説もある。  
法相宗(ほっそうしゅう)の僧・義淵(ぎえん)の弟子となり、華厳宗(けごんしゅう)の僧で東大寺開山の良弁(りょうべん)から学んだサンスクリット語=梵語(ぼんご)=を駆使して密教の経典や修法を読解すると、葛城山で密教仏の如意輪観音(にょいりんかんのん)を本尊とする「如意輪法」などを会得していった。  
当時の仏教は学問的な色彩が強かったことから、このとき、まだ公式ルートに乗って入っていなかった祈祷を主体とした密教は不可思議で神秘的である半面、怪しげな印象もあったのかもしれない。  
このため、そんな密教を操る道鏡にますますのめり込んでいく孝謙上皇に、淳仁天皇は冷静になるよういさめる。が、上皇はこれに逆上してしまい、「天皇の行為は私への不孝」となじり、出家して天皇と別居したいと言い出した。  
さらに押勝が担当していた政務や賞罰の取り扱いなども取り上げたうえで、上皇は全国の僧を統括する少僧都(しょうそうづ)の職にあった押勝派の僧・慈訓(じくん)を解任し、後任に道鏡を据えるといった露骨な行動に出る。  
上皇側にここまで出られると、押勝からすれば、これまでのように天皇と上皇の両方を見る必要もなくなり、視線はしっかりと定まったのだろう。  
「道鏡さえいなくなれば上皇さまもきっと目を覚ましてくれるはず」  
天平宝字8年9月、押勝は淳仁天皇に願い出て、畿内とその周辺の軍事力強化のために新しく設けた司令官に就任すると、兵を集め出した。  
クーデター勃発  
このときの規定では、新設の司令官が10カ国から動員できる兵の数は一国につき20人と決まっていた。ところが、押勝は600人を動員する命令書を作るよう太政官の高丘比良麻呂(たかおかひらまろ)に命じる。  
しかし、いくら天皇の了解があったとはいえ、比良麻呂はこの命令をそのまま実行するにはかなりの迷いがあった。  
平城京に都が移ってまだ50年。この間、朝廷は政争に明け暮れ、天下を揺るがす乱や騒動が起きては長屋王(ながやのおおきみ)や藤原広嗣(ひろつぐ)、橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)といった有力者が次々と消えていった。  
そして今回も、尋常ではない兵の動員のし方に加えて、最近のただ事ではない雲行きなどもあり、比良麻呂も身の危険性を感じていた。そこで孝謙上皇に押勝の挙兵が間近いことを密告したのだ。  
さらに数日後、道鏡の排除計画について押勝が占わせた陰陽師(おんみょうじ)の大津大浦(おおつのおおうら)の密告もあり、これまでは噂でしかなかった話が確信へと変わっていった。  
最初に動いたのは孝謙上皇=道鏡側だった。少納言・山村王を天皇のいる中宮院に派遣して、駅鈴(えきれい)と天皇の印を回収するように命じている。  
駅鈴は朝廷から支給された官僚の通行手形で、各地から兵を動員するのにはなくてはならない必需品だった。  
これに対し、先手をとれると思っていた押勝は上皇の行動に焦りを隠せない様子で、3男の藤原訓儒麻呂(くすまろ)と兵に、山村王から印と駅鈴を奪回するよう命じる。  
ここに押勝の道鏡排除に向けたクーデターが勃発した。歴史上知られる「恵美押勝の乱」である。 
女帝の病を祈祷で治し「寵愛」得る  
天平宝字8(764)年9月、先の女帝・孝謙上皇(こうけんじょうこう)が祈祷(きとう)を操る僧の道鏡を重用したのを機に、しだいに上皇との溝を深めていった政界の最高実力者、恵美押勝(えみおしかつ)(藤原仲麻呂)は武力での道鏡排除を決意する。だが密告で計画が発覚し、最初に動いたのは上皇=道鏡側だった。地方での徴兵に不可欠な鈴印(れいいん)を奪うと、歴史教科書にも登場する押勝のライバルを討伐軍の軍師に迎え入れたのだ。  
鈴印の争奪戦  
事件の4年前、同じ藤原一族で最大の後ろ盾だった聖武天皇の妃(きさき)、光明皇太后が亡くなった直後から精彩を欠いていく押勝。一方、誰も治せなかった上皇の病を祈祷で治し、上皇の寵愛(ちょうあい)を一身に浴びることになった道鏡。  
誰が見ても2人の勢いの差は歴然としていた。それが、淳仁(じゅんに)天皇が承知していたとはいえ、規定の人数を遙かに超える徴兵の命令書を手配した役人、さらには計画の成否を占わせた陰陽師(おんみょうじ)に押勝が裏切られる原因だった。  
この2人の密告を受けて上皇と道鏡は、淳仁天皇の御所に少納言・山村王を派遣し、鈴印を没収する。このとき天皇は何の抵抗もしなかったという。  
先手をとられて歯がゆい思いの押勝は9月11日、自分の息子の藤原訓儒麻呂(ふじわらのくすまろ)と部下に山村王を襲撃させて鈴印を奪取する。  
ところが、そこに上皇側の応援が駆けつける。そして今度は、押勝側も増援部隊兵を差し向ける大混乱ぶりで、結局は訓儒麻呂が戦死し、鈴印は上皇の手に渡った。  
このとき上皇軍の主力となったのは、上皇の親衛隊「授刀衛(じゅとうえい)」と呼ばれる兵士で、上皇の皇太子時代の警備兵・授刀舎人(とねり)を発展させたものだった。  
当時、授刀衛のほとんどの幹部が押勝の影響で藤原一族で占めていたが、常に上皇の身辺にいたことが上皇側にとっては幸いしたのだろう。  
また当時、宮中の守衛や門の開閉を役目にしていた「衛門府(えもんふ)」の長官が、道鏡の弟、弓削浄人(ゆげのきよひと)というのも後押しした。  
軍師・吉備真備  
一方、押勝軍の主力は天皇の警備を担当する「中衛府(ちゅうえふ)」だった。聖武天皇の時代、農民層の構成で弱体化しつつあった兵士の質を見直そうと新設した組織。ところが、押勝の長官就任で天皇よりもむしろ押勝の私兵的な性格が強まっていった。  
さて、鈴印を巡る戦いの後、上皇は戦闘停止を求めて押勝邸に使いを派遣するが、押勝は抵抗を一向にやめないため、上皇は12日、押勝を謀反人と公式決定する。  
ついに「逆賊」になった押勝。鈴印もなく、徴兵の手立ても失ったことから一度、押勝の本拠地の近江国(滋賀県)の国府に向かったうえで、越前国司を務める息子と態勢を立て直そうとする。  
一方、上皇は反乱軍の行動範囲を狭めようと、押勝を謀反人とする通知書を周辺国に浸透させると同時に討伐軍を編成。軍師に吉備真備(きびのまきび)を迎え入れ、藤原良継(ふじわらのよしつぐ)を指揮官に任命した。  
吉備真備といえば聖武天皇の片腕として歴史教科書にも出てくる才人。  
20歳前半で唐に留学すると20年間、最先端の政治制度や軍学などを学び、帰国後は奈良朝の制度構築に向けて辣腕(らつわん)を振るった。  
だが、孝謙天皇時代の到来とともに頭角を現してきた押勝から九州へ左遷されると、東大寺造営担当の長官として都に戻ってくるのに14年もかかっている。  
また、良継は押勝と同じ藤原一族だが、兄・広嗣(ひろつぐ)の反乱の影響で昇進もかなわず、押勝の暗殺計画を立てたりもしたが、事前に発覚して官職、姓を剥奪されていた。  
それだけに2人の押勝憎しの思いは強かった。特に70歳に近いとはいえ真備の執念はすさまじく、11日の鈴印を巡る戦いでは、東大寺造営中の工員や写経中の学生もかり出すほどだったとか。  
恵美押勝の死  
とりあえず鈴印奪回に失敗した押勝は12日、一族と都を出て奈良街道から宇治を北上、東海道の逢坂山から近江国府を目指すルートを選ぶ。道も整備されていたために早く到着するとみたのだろう。  
だが、それを予測した上皇軍は田原(現在の京都府宇治田原町)から宇治・勢多(瀬田)川沿いに近江に入ると、押勝軍の進路を妨害するため国府近くの勢多橋を焼き払った。  
その直後だった。国府に行くため勢多橋まで来た押勝軍は突然、橋が無くなっていることに驚く。しかも対岸に敵軍がズラリ展開しているのを見て、国府入りを断念。琵琶湖西岸沿いのルートを北上する。  
一方、すでに湖東から北上していた上皇軍は越前国府に入って押勝の息子を殺すと、15日に近江と越前の国境・愛発関(あらちのせき)で押勝軍と激突する。  
まだ息子の死を知らない押勝軍は強硬に関を突破しようとするが、上皇軍の強固な守りを崩せず退却。17日の三尾(みお)の崎、18日の勝野(かつの)の鬼江(おにえ)(いずれも現在の滋賀県高島市)での戦いに敗れ、押勝は妻子らともに琵琶湖畔で処刑される。  
その数は34人とも44人ともされ、湖畔の砂浜と一帯の水面は真っ赤な血で染まったといわれている。ただし6男の藤原刷雄(ふじわらのよしお)だけは禅行を修め、唐に留学した経験があったため処刑は免れて隠岐島に流される。  
この判断の背景には、同じ禅行を積んでいた道鏡の存在があったことは否めない。  
もう2人の前をさえぎる者はいなくなった。淳仁天皇を廃して上皇が再び「称徳(しょうとく)帝」として天皇の座に戻ると、道鏡はさらに上を目指し、うごめき始めるのだった。 
一介の僧が「太政大臣」に上り詰める  
行幸(ぎょうこう)先の近江・保良宮(ほらみや)で病を患った奈良朝の女帝・孝謙(こうけん)上皇の前に一介の僧の道鏡(どうきょう)が出現したことで、朝廷は動揺する。誰も手がつけられない心の病を祈祷(きとう)で治し、上皇に気に入られた末、政権の中枢に躍り出てきたためだった。女帝は道鏡の政敵、恵美押勝(えみおしかつ)を倒して再び天皇に即位すると今度は押勝の後任として、道鏡に太政大臣の就任を要請する。出会いからわずか4年。この異常なまでのスピード出世の背景にあったものは。  
生涯独身  
聖武天皇(後の上皇)と光明皇后(後の皇太后)の間に男の子が育たなかったことから娘の阿倍内親王(ないしんのう)が女性の皇太子となり、天平宝字2(749)年8月、天皇に即位する。これが孝謙天皇である。  
女性の天皇というと、これ以前にも持統(じとう)天皇や元明(げんめい)天皇のように、天皇あるいは皇太子の妻が即位するケースはあったが、天皇の娘が皇太子となり即位する例は初めてだった。  
この場合、皇室の男系を維持するために孝謙天皇は後々にわざわいの種を残さないように独身を貫き、子供をもうけないなどの必要があり、本人も覚悟の上での即位だった。  
そんなとき、天皇の父・聖武上皇は死の直前の天平勝宝8(756)年、政界きっての実力者、藤原仲麻呂(なかまろ)(のちの恵美押勝)を呼ぶと、天皇の後継ぎである皇太子として道祖(ふなど)王をあてることを言い残して亡くなる。  
上皇も王位継承の問題を複雑化したくないため、娘はあくまでも中継ぎ天皇であり、長期政権を望んでいなかったのだ。  
ところが、上皇が亡くなった翌年の天平宝字元(757)年、喪が明けていないにもかかわらず、道祖王が自分に仕える少年と関係を持ったことが発覚。女帝は道祖王を廃し、代わりに大炊(おおい)王(後の淳仁(じゅんにん)天皇)を立てる。  
このとき女帝は、今回の経緯についてこう説明している。  
道祖王は夜な夜な住まいを出ては関係し、「皇太子の重責に耐えられない」と漏らす。女帝は忠告を重ねたが、癖はおさまらなかったのだという。  
その後に道鏡との関係が噂される女帝だが、当時はまだ潔癖さを求める余りの厳正な処分だったとも。  
女帝の孤独  
その一方で、道祖王の処分の背景には大納言・藤原仲麻呂の存在があったともいわれている。現に、道祖王の代わりに立てた大炊王を強力に推挙したのは仲麻呂だった。  
藤原氏出身の光明皇太后の子の孝謙天皇と皇太后のおいの仲麻呂。この関係をうまく使い、仲麻呂は道祖王を退けることで短命に終わるはずの天皇の座を延命させ、さらなる権力を握るといったことを考えたのかもしれない。  
道祖王の処分後、仲麻呂は政敵・橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)が起こした政変を鎮め、奈良麻呂があげた天皇候補の中にいた道祖王を殺害すると同時に不満分子の一掃にも成功する。そして強大な力を手にした仲麻呂は、女帝との関係をさらに深いものとしていった。  
しかし、奈良麻呂の乱の翌年、孝謙天皇が大炊王に譲位したところで仲麻呂の態度が大きく変わった。淳仁天皇はかつて皇太子に推してもらった礼もあり、仲麻呂に恵美押勝という唐風の名とともに、律令制下の最高位である太師(たいし)(太政大臣)をプレゼントする。  
仲麻呂も淳仁天皇を自分の邸宅に住まわせるなどして、天皇との関係を築いていくが、女帝から遠ざかっていった。  
しだいに孤立していった女帝。寂しさが募る中で母の光明皇太后の死がさらに追い打ちをかけた。子も夫もなく、母までもがこの世から消えたことで、孤立無援の存在になってしまったのだ。  
スピード出世  
そんな押勝に裏切られた女帝の心に深く入り込んできたのが、密教を操り不可思議な力を持った河内の僧の道鏡だった。  
平城宮の改修のために一時、都を保良宮に移した天平宝字5(761)年、女帝は病を患う。寂しさから来る精神的な病といわれている。  
病を扱う禅師として、そんな女帝に付き添った道鏡は祈祷と献身的な看病で治してしまう。このときの女帝は、突然、目の前に「待ち人が現れる」といった心境だったのだろう。  
女帝は40歳代半ばで老け込むには早い。一方、地方土豪の出身の道鏡は師に恵まれたとはいえ、宮中に出入りする一介の禅師に過ぎない。だが、道鏡の献身的な姿が上皇の病を癒し、2人が同世代ということも幸いした。  
健康を取り戻した女帝は押勝への復讐(ふくしゅう)を考える。2年後、道鏡を全国の僧を管理する少僧都(しょうそうず)に登用し、押勝も無視できない存在に成長させる。  
ここで起きることが予想されたのが、宮中の2極分裂。淳仁=押勝の天皇派vs孝謙=道鏡の上皇派という図式の中、天平宝字8年に起きた戦いで女帝は押勝を殺害すると、淳仁天皇も廃して自ら称徳(しょうとく)天皇として再び即位する。  
以後、女帝との関係をさらに深めていった道鏡は、破格のスピードで出世を重ねていく。このときすでに夫婦同然の関係といわれた2人は、押勝の乱の翌年の天平神護元(765)年に旅に出る。  
大和、紀伊、和泉をめぐって道鏡の故郷・河内に入るルートで、新婚旅行ともとれるこの旅の終盤に差しかかった10月29日、河内の弓削行宮(ゆげあんぐう)に入った女帝は弓削寺で太政大臣に道鏡を任じることを仏に誓う。  
一度は道鏡が断った人事だったが、どうしても就いてもらいたい女帝は仏前に誓うかたちで就任を要請したのだ。こうなると道鏡も断れなかった。 
神託「道鏡を天皇にすべし」  
女帝・称徳(しょうとく)天皇の愛人として力を伸ばしてきた道鏡は天平神護2(766)年、法王に就く。副天皇というべき、これまでになかった位で、皇族しか継げない聖域に、宮廷の誰もが「次は…」とした疑念と不安を抱いていた。そこに九州・大宰府(だざいふ)から「道鏡を天皇にすべし」とする宇佐八幡の神託が届く。喜ぶ女帝に反対の声をあげる臣下ら。ついに、事の真偽を確かめるため、使者を宇佐に派遣することになった。果たしてその結果は。  
神託  
政敵・藤原氏の代表格だった恵美押勝(えみおしかつ)を戦いで破って以来、道鏡は昇進に昇進を重ね、たどりついた法王の座。待遇は天皇と同じ扱いとされたため、宮廷の間では「天皇の実質的な後継者指名では?」といった驚きが広がった。  
同時に2人の周辺では、道鏡のライバル・和気王の謀反による死▽淡路に流された後も人望を集めた淳仁天皇の変死▽天皇の異母妹・不破内親王(ふわないしんのう)の皇籍剥奪−など事件が相次いで起きたことから、道鏡の陰謀説もささやかれ始める。  
そんなとき、神護景雲3(769)年5月に九州から、祭事一切をつかさどる大宰主神(だざいかんづかさ)と大宰帥(そち)(大宰府の長官)の弓削浄人(ゆげのきよひと)が現れる。  
大宰主神によると、「宇佐八幡の大神が道鏡を天皇にすれば天下は治まると告げられた」という。これには女帝も喜んだ。道鏡を後継者にしたいが、穏やかでない空気に包まれた宮廷の雰囲気に決心も鈍っていたからだ。これで女帝の後継者は道鏡で決まり…と思われた。  
だが、弓削浄人が道鏡の弟というだけでなく、朝廷も15年前、宇佐を舞台にした僧・行信によるニセ神託事件で被害を受けたことも手伝い、臣下のほとんどから反発を受けるなど、溝は深まるばかりだった。  
そこに意外にも割って入った道鏡は、「宇佐へ使者を遣わされては」と提案する。よほど自信があったのだろう。これには周囲から異論も起こらなかった。  
再調査  
神託は神が巫女(みこ)の口を借りて告げる言葉なので、どこまで信用できるかが問題だった。そこで、女帝が九州への派遣要員として選んだのが、当事者の道鏡以外に、最も信頼を置いていた和気広虫(わけのひろむし)だった。  
11歳の時から30年近く女帝に仕える広虫は仏への信仰があつく、災害や戦いで親を亡くした子供を自宅に預かるなど、孤児院の先駆けとなる福祉活動で知られる女官。  
だが女帝の前に出た広虫は病のため辞退し、弟の清麻呂を推薦する。そして清麻呂が宇佐から持ち帰った神の言葉は「国が始まって以来、主君と臣下は定まっている」だった。すなわち道鏡の即位は否定されたのである。  
吉報を待ち焦がれていただけに、この結果に大いに失望した女帝は、清麻呂に因幡(鳥取)行きを命じるが、再調査の結果も清麻呂の偽証だったことを知ると官位を剥奪し、行き先もより遠い大隅(鹿児島)に変更。広虫も備後(広島)に流された。  
押勝の乱で女帝側についた清麻呂は“女帝ファミリー”として着実に出世していたにもかかわらず、どうしてこのような裏切り行為に出たのだろう。  
宇佐に使者として派遣される直前、道鏡が昇進をエサに脅迫まがいの勧誘をしてきたため、反対派の声も聞いたことが要因のひとつになったらしい。  
押勝の強引な政治手法に嫌気をさして女帝側に味方をしたが、道鏡の昇進にまで手を貸した覚えがないというのが大半の主張で、実は清麻呂も同じ思いをしていたのだ。  
宮廷から追放  
清麻呂の事件以来、浄人らが伝えた宇佐八幡の神託も本当だったのか、誰の報告を信じればいいのか、疑心暗鬼に陥った女帝はこの年の10月、みだりに皇位を求めないように警告し、後継者は自分が決めると宣言する。  
はじめに道鏡本人、あるいは親派が動き、続いて反道鏡派が対抗する“偽証合戦”のあげ句、振り出しに戻ったようにもみえる。  
ところが、10月17日から11月9日まで女帝は道鏡と連れだって道鏡の故郷、河内(大阪)の由義宮(ゆきのみや)に行幸(ぎょうこう)している。やはり道鏡にご執心の女帝は、道鏡による皇位継承の夢をこのときも見ていた。  
最初の行幸から4年。すっかり宮城らしい景観に整えられた由義宮の素晴らしさをたたえ、女帝は西京(にしのみやこ)と名づける。  
続いて2人は翌年の宝亀元(770)年も2月27日から由義宮を訪れて歌舞音曲の世界に浸るが、ここで女帝は体調を崩し、8月に平城宮で亡くなる。  
このときは、“女帝ファミリー”の吉備真備(きびのまきび)の妹とされる吉備由利(きびのゆり)が立ち会ったのみで、道鏡や臣下の姿もない寂しい最期だったといわれている。  
以降、崖から落ちるように急速に力を失っていったた道鏡は、今度は政敵・藤原氏の藤原百川(ももがわ)らが推して皇位に就いた光仁天皇により下野(しもつけ)(栃木)へ左遷されてしまう。  
ニセ神託で国家転覆をはかった主犯格にしてはあまりに刑が軽いため、主犯は他にいたという説もあり、その候補の一人に女帝もあげられている。  
光仁天皇への皇位継承の際には女帝の遺言が読み上げられるが、その遺言も偽造だったといわれている。  
結局、一介の僧が国家を乗っ取りそうになった前代未聞の大騒動は、敵、味方ともに終始「嘘」で塗り固められた、現代人顔負けの詐欺事件だったようだ。 
■6  
皇帝になろうとした生臭坊主  
『続日本紀』が記録する道鏡の専横  
古代史を彩る大悪人と言えば、蘇我入鹿そがのいるかか道鏡どうきょうのどちらかだろう。  
蘇我入鹿の専横が『日本書紀にほんしょき』のでっち上げであり、むしろ蘇我氏が中央集権国家の建設を目指していたことは、連載中に述べてきた。ならば、もうひとりの大悪人・道鏡も、「本当はよい人」だった可能性はあるのだろうか。  
そこでまず、道鏡の生涯を、『続日本紀しょくにほんぎ』の記事を中心にふり返ってみよう。  
『続日本紀』宝亀三年(七七二)四月六日の条には、「造薬師寺ぞうやくしじ別当べっとう道鏡どうきょう死しす」とあり、以下の薨伝こうでん(三位以上の貴族の死後記される追悼文)が続く。ちなみに、ここにある「薬師寺」とは、奈良市ではなく、栃木県下野しもつけ市の薬師寺で、道鏡はこの地に左遷させられていたのだった。それはともかく……。  
道鏡の俗姓は弓削連ゆげのむらじで、河内かわちの人だ。梵文ぼんぶん(サンスクリット語)に精通し、禅行ぜんぎょうで名高い。だから、内道場(宮中内の道場)に入り、禅師ぜんじとなった。天平てんぴょう宝字ほうじ五年(七六一)に(孝謙こうけん上皇が淳仁じゅんにん天皇とともに)保良宮ぼらのみや(滋賀県大津市国分)に行幸されたとき、看病して以来、寵愛ちょうあいされるようになった(このとき孝謙上皇は四十四才。ちなみに孝謙上皇はこののち重祚ちょうそして称徳しょうとく天皇になる)。廃帝(淳仁天皇)は、ことあるたびに孝謙上皇に諫言かんげんしたが、聞き入れられず両者の関係は悪化した。天皇はすなわち平城ならの別宮に住むようになった(淳仁は中宮院に、孝謙は法華寺)。天平宝字八年(七六四)、大師だいし恵美えみの仲麻呂なかまろ(恵美押勝えみのおしかつ)が謀反むほんを起こし誅殺ちゅうさつされ、道鏡は太政大臣だじょうだいじん禅師ぜんじとなった。しばらくすると、道鏡は「法王」となり、鸞輿らんよ(天皇の乗る輿こし)を用いるようになった。衣服も飲食も、供御くご(天皇に供給されるもの)とそっくりだった。大小の政務に関わりをもつようになった。弟の浄人きよひとは、布衣ふい(庶民)から八年の間に、従二位じゅにい大納言だいなごんに駆け上がった(異常な出世)。道鏡の一門から、五位の人(高級官僚)男女あわせて十人も輩出した。時に、大宰主だざいの神かむつかさ習宜すげの阿曾麻呂あそまろが、「八幡神の教え」という偽りの託宣たくせんを利用して、道鏡を皇位に就けようとたぶらかした。道鏡はこれを信じ、その気になった。詳しくは、称徳天皇紀に記されている。天子てんし崩御ほうぎょ(称徳天皇の死)ののちも、道鏡は自分の権威を疑わず、密かに僥倖を頼みにして、葬礼のあとも、称徳天皇の山陵を守っていた。朝廷は、先帝の寵愛深かった道鏡の処分に困り、造下野国薬師寺別当に任じ、亡くなると、庶民と同じ待遇で葬った。  
ここには、道鏡が保良で孝謙上皇と出会って以来の、道鏡の「専横ぶり」が記録されている。ならば、本当に『続日本紀』の言うとおり、道鏡は専横を極めたのだろうか。  
道鏡を天皇に仕立てあげようとした宇佐八幡託宣事件  
道鏡が「大悪人」と信じられているひとつの理由に、「醜聞しゅうもん」がある。のちの時代に、話に尾鰭おひれがついて、独身女帝と生臭坊主の房事に、関心が集まってしまったのである。  
たとえば九世紀前半の仏教説話集『日本にほん霊異記りょういき』には、光明こうみょう皇太后こうたいごうの時代、次のような趣旨の歌が流行ったという。「法師が袈裟けさを着ているからといって、侮ってはならない」これは、こののちに起きる出来事の前兆だったといい、道鏡は称徳天皇と同衾どうきんし、色仕掛けで権力を握ったのだと記される。  
次第に噂話がどんどん過激になって、「道鏡巨根伝説」が語られるようになったが、その逆もある。  
鎌倉時代の『古事談こじだん』には、次のような記事が載る。  
称徳天皇は道鏡の「陰」では物足りなくなり、山芋やまいもで代用したが、中で折れてしまい、取れずに腫れ上がってしまった(なんという話だ)。そこで小さな手をした尼が手に油を塗って取り出そうとした。これをみた藤原ふじわらの百川ももかわは、「霊狐れいこなり(化け狐)」といって、尼を斬り殺した。称徳天皇もしばらくして亡くなったという。  
ただし、これらの話は、真実の歴史と混同することはできない。  
それよりも大切なことは、道鏡は本気で皇位を狙っていたらしいことだ。神護じんご景雲けいうん三年(七六九)に起きた、宇佐うさ八幡はちまん神託事件しんたくじけんである。  
道鏡の野望に称徳天皇がからんでいたことは、これよりも四年前の次の宣命からも明らかだ。  
「皇太子の地位は、人があれこれ決めるものでなく、天地(神)が授けてくれるものだ。いまだに明らかな祥瑞しょうずいが無いのだから、今決めることはできない」  
そして四年後、称徳天皇が望んでいた神の祥瑞が、もたらされたのだ。道鏡の薨伝こうでんにあったように、宇佐八幡神(大分県宇佐市の宇佐神宮の祭神)が、「道鏡をして皇位に即かしめば、天下太平ならむ」と告げたといい、都に報告されたのである。  
すると称徳天皇も、「そういえば、私も夢で見た」といいだした。  
「昨夜、八幡神の使いが神託を授けるから、人を差し向けるように」  
と命令されたというのである。  
称徳天皇は和気わけの清麻呂きよまろを宇佐に派遣した。ところが、清麻呂は次のような神託を持ち帰ってきた。  
「わが国始まって以来、君と臣の秩序は整っていた。臣が君に入れ替わることは、これまで無かったではないか。日嗣ひつぎはかならず天皇家の血筋から選ばねばならない。だから、すみやかに道鏡を排除しなさい」  
称徳天皇は激怒し、和気清麻呂の位階と勲位を剥奪はくだつし、大隅おおすみに流してしまったのである。  
いったい、称徳天皇は、何を考えていたのだろう。どこの馬の骨ともしれぬ道鏡を、なぜ天皇に立てようと考えたのだろう。ヒントを握るのは、称徳天皇自身の境遇ではなかろうか。  
称徳天皇のご乱心は恵美押勝の専横に対する反動?  
天平てんぴょう宝字ほうじ八年(七六四)の恵美押勝の乱を制した孝謙こうけん上皇は、兵数百を淳仁天皇のもとに派遣し、次のような強烈な宣命を読み挙げさせている。  
「聖武天皇が私に皇位を譲られたとき、次のように述べられた。王を奴やっこ(奴婢ぬひ)となしても、奴を王といっても、私の好きにすればよい……」  
淳仁天皇を「廃帝」というのは、皇位を孝謙上皇に剥奪されたからである。孝謙上皇は、聖武しょうむ天皇から授かった「王を奴にしても、奴を王といってもかまわない」という権利を、実行してみせたわけだ。そしてこの言葉の延長線上に、道鏡擁立が隠されていたわけである。  
孝謙上皇の暴走は「恵美押勝の専横に対する反動」ではなかったか。  
恵美押勝は藤原ふじわらの不比等ふひとの四人の男子、武智むち麻呂まろ、房前ふささき、宇合うまかい、麻呂まろが天然痘てんねんとうで全滅したのち、ひとりで藤原氏の復興を成し遂げた。それはそれで偉業といっていいが、手口が卑劣なものだった。  
連載中触れたが、聖武天皇の大仏造立を邪魔立てし、紫香楽しがらき周辺で山火事を起こし、ゲリラ戦を展開したのが、恵美押勝であった。また聖武天皇と県あがた犬養いぬかいの広刀自ひろとじとのあいだに生まれた安積あさか親王しんのうを密殺したのも、恵美押勝だった可能性が高く、橘たちばなの奈良なら麻呂まろの変へん(七五七)は、橘奈良麻呂や大伴おおともの古麻呂こまろが恵美押勝の挑発に乗った形で起きている。  
反藤原派を一掃した恵美押勝は、専横をくり広げていく。  
恵美押勝は淳仁天皇に「父」と呼ばせていたことはすでに述べたが、淳仁天皇は本当の父親=舎人親王とねりしんのうに「皇帝」の称号を授けている。淳仁天皇の父=舎人親王は皇帝なのだから、同じ淳仁天皇の父=恵美押勝も、「皇帝と同等の地位」に立ったことになる。子供だましのような話だが、本人たちは大真面目であった。  
恵美押勝は、「貨幣鋳造ちゅうぞうの権利」を獲得してしまう。これは本来国家の仕事であり、個人が好き勝手に金を造り続ければ、当然インフレが起きる。インフレの中で富み栄えるのは、貨幣を勝手に鋳造できる恵美押勝だけになってしまう。  
「恵美えみ家印けいん」の所持も許されている。  
これは私印だが、官印と同等の扱いを受けていた可能性がある。  
また、恵美押勝は他の藤原氏をも排除し、「恵美家だけで朝堂を独占する」体制を築いた。  
このように、恵美押勝は「実権」を完全に掌握し、政敵を抹殺し、「皇帝と同等の権威」を獲得したのだから、実質的な「王」そのものといっていい。憶測にすぎないが、恵美押勝は玉座をも狙っていた可能性が高い。しかもそれは、「傀儡かいらいの王」ではなく、独裁王である。  
孝謙上皇が道鏡に熱を上げ、いっぽうで淳仁天皇を避難し、暴れ出した本当の理由は、恵美押勝の専横に対する怒りが、隠されていたのではなかろうか。  
道鏡と物部氏の意外なつながり  
孝謙上皇(称徳天皇)は聖武天皇と光明こうみょう皇后こうごう(光明子こうみょうし)の間の娘で、光明子は藤原不比等の娘なのだから、「藤原系の天皇」であった。けれども、聖武天皇と光明子が「藤原の子」「藤原の娘」でありながら、「藤原氏のやり方に疑問を感じていた」こと、光明子が「藤原不比等の娘」である以上に、「県あがた犬養いぬかいの三千代みちよの娘」であったことは、連載中に述べてきたとおりだ。したがって、「県犬養三千代の孫」の称徳天皇も、「藤原の子」でありながら、反藤原的だった可能性が高い。  
橘奈良麻呂の変(七五七)に際し、光明皇太后と孝謙天皇が、二度も謀反人たちを釈放していたのは、橘奈良麻呂が県犬養三千代の孫だったこと、母と娘が、「藤原のために働いている振りをして、実際には反藤原派とつながっていたから」だろう。  
天平宝字元年(七五七)に孝謙天皇は、「内陣の帳とばりに天下太平の文字が浮かびあがっていた」といって、道祖王ふなどおうを廃太子に追い込み、大炊王おおいおう立太子りったいしの茶番劇を演出した。これは、恵美押勝の描いたシナリオを、その通り孝謙天皇が演じてみせたのだろう。けれども、もし仮に私見通り、孝謙天皇の本心は「反藤原」であるのに、権力者の横暴に従わざるを得なかったとするならば、これほどの屈辱があるだろうか。  
「いったい、天皇とはなんなのか」  
「藤原のための天皇なら、天皇など必要ない」  
「藤原が権力を握るための道具が天皇ならば、天皇などない方がまし」  
という発想に結びついていったのではなかったか。だからこそ、「天皇を奴やっこにしても、奴を天皇といっても」という言葉が口を突いて出たのだろう。これが、聖武天皇の遺言ではなく、孝謙天皇本人の気持ちだったと思えば、道鏡擁立の真意も、明らかになってくるのではあるまいか。  
『続日本紀』天平宝字八年(七六四)九月、恵美押勝の乱の直前、恵美押勝は道鏡を指して、次のように罵倒している。  
「道鏡の朝廷で活躍している様子を観ると、先祖の大臣として仕えていた過去の一族の栄光を取り戻そうとしているのだ」  
道鏡の俗姓は弓削連で、「弓削」は物部氏と接点をもつ。弓削連は物部氏と勢力圏を接し、蘇我そがの馬子うまこに滅ぼされた物部もののべの守屋もりやの母は、弓削氏である。  
ただし、弓削氏の祖で大臣を務めた人物はおらず、そのため、道鏡は物部系の可能性が出てくる。  
物部氏の祖のニギハヤヒは、神武しんむ東征とうせい以前のヤマトの王であり、称徳天皇は、「いっそのこと、ヤマト朝廷を振り出しに戻してしまおう」と考えたのではあるまいか。  
道鏡の王権おうけん簒奪さんだつ計画には、多くの謎と秘密が隠されているように思えてならない。  
■7 
うわさ話 
天皇が信頼のできる側近を重用するのは当然といえば当然だが、奈良時代の女帝・称徳天皇の道鏡(生年不詳〜七七二)に寄せる信頼は度を越したものだった。  
道鏡は禅宗の僧で、加持祈鵡によって病気を治癒するすべに長けていた。称徳天皇の信頼も、病で臥せったとき、道鏡の祈鵡によって治ったことに端を発する。  
道鏡は称徳天皇の後ろ盾で出世し、大臣禅師から左大臣にまで昇進した。さらに、その上の位である太政大臣禅師に任じられ、七六六(天平神護二)年には法王に任命されている。衣・食・住まで天皇と同等の待遇とされ、道鏡の住んでいる由義宮は、西京と呼ばなくてはならなかったほどだった。  
七六九(神護景雲三)年には、「道鏡を天皇にすれば天下泰平になる」との字佐八幡の託宣があったとされ、大騒ぎになった。  
称徳天皇の命で託宣を確認しに行った近衛将監・和気清麻日は、託宣はこれとはまったく反対であったと報告をする。これが称徳天皇と道鏡の怒りを買い、清麻呂は九州の大隅国へ左遷されてしまった。  
このように、称徳天皇の偏愛ぶりはすさまじいものだったのである。  
称徳天皇は、道鏡と夫婦同然の生活をしており、道鏡のなすがままだったともいわれる。「日本霊異記」には、「弓削(道鏡の俗姓)の氏の僧侶道鏡法師、皇后と同じ枕に交通し:::」という記述がある。「交通」とは、つまり性交のことである。  
称徳天皇を虜にした道鏡の男としての魅力とは、何だったのか。  
諸説あるが、道鏡は情事の際に密教のさまざまな秘術を使い称徳天皇をよろこぼせたという。また、たいそう立派な一物の持ち主で、それを使って称徳天皇をいいなりにしたともいわれている。  
驚くことに、日本で初めて女性上位の体位を実践したのは、称徳天皇と道鏡だったとされる。初めての経験に、称徳天皇が夢中になったとしてもおかしくはないかもしれない。 
[ 参考 ] ]

 

日本史概観 1 神代から平安 
奈良平安の日本 
祟り・御霊 
無頼漢・雑題・うわさ話
 
 
円仁と円珍・安然

 

.最澄以後の天台宗  
奈良の仏教は法相宗を除き衰退していき、教養的な分野として存続していましたが、平安の仏教も僧兵が跋扈し、貴族の子弟が立身出世する風潮となり堕落していきます。比叡山もいっとき衰えますが良源が復興し、つぎの尋禅が摂関家の藤原師輔の子供であったことから、藤原氏からの援助を受けました。東大寺や三井寺も発展し、寄進された荘園と共に数千の僧兵を蓄えて政界に権力を行使するようになります。  
最澄没後の比叡山について概観しますと、比叡山延暦寺は桓武天皇の勅願により伝教大師最澄が開創された寺で、最澄が延暦7年(788年)に、「阿耨多羅三藐三菩提の仏たち我が立つそまに冥加あらせたまえ」と祈念して、一乗止観院を建立したことから始まります。それいご、平安仏教の発祥地として発展してきました。四宗兼学を奨励したことから日本仏教の総本山といわれますが、最澄は特に天台大師の法華教学を継承した、日本の天台法華宗の根本道場、鎮護国家の道場として建立しました。  
最澄の没後を受け継いだのが初代座主の義真(824年)で、その後の2代円澄(833年)からは「半ばは弘法の弟子なり」(『報恩抄』1219頁)というように、真言密教の影響をうけていき、3代座主の慈覚大師円仁(854年)、安慧(864年)と続きますが、智証大師円珍(868年)は比叡山を天台密教の寺としてしまいました。そして、五大院安然(841〜不明)が台密教学を大成したといいます。  
天台座主  
最澄=義真―円澄―慈覚大師円仁―安慧―智証大師円珍・・・18代良源  
                 五大院安然  
第1世  義真――781〜833年  修禅大師  
第2世  円澄――779〜858年  寂光大師  
第3世  円仁――794〜864年  慈覚大師  
第4世  安慧――794〜868年  
第5世  円珍――814〜891年  智証大師  
第18世 良源――912〜985年  元三大師  
欽明天皇2年(630年)から承和5年(838年)に至る約200年に、17回の遣唐使に同行した留学生は26名で、留学僧は96名に上るといいます。平安初期に入唐した天台宗の最澄・円仁(794〜864年)・円珍の3名と、真言宗の空海・常暁・円行・恵雲・宗叡の5名は、入唐八家と称しているように多くの僧侶が入唐して仏教を学び帰っています。  
最澄の弟子のなかでは6人が入唐求法しています。そのなかでも、第3世の円仁は承和5年(838年)45歳のときに入唐し、道教を信じた武宗の「会昌の破仏事件」(842年)に遭遇し、滞在していた資聖寺にて還俗させられ、54歳(847年)にて帰国します。しかし、長安寺に滞在し不空の密教を継ぐ大興善寺の元政より金剛界の密教を学び、青竜寺の義真から胎蔵界と蘇悉地を学び、そして、玄法寺の法全から胎蔵界を伝授されて帰朝しました。この学識をもとに『金剛頂経疏』・『蘇悉地経疏』などを著し、61歳で座主になり天台密教の流れを作りました。それは真言宗の密教に上回るほどの学識といいますが、最澄の「円密一致」の思想に、「理同事勝」・「一大円教」を立てました。  
第5世の円珍は義真の弟子で、遣唐使の制度が終わったあと、40歳(853年)から5年間入唐し、円仁と同じ長安にて法全から金胎両界と、蘇悉地・三昧耶(さまや)戒を伝授されて帰朝します。貞観10年(868年)55歳のときに座主となり、大友氏の力により三井寺(園城寺)を賜り、天台の別院とし密教を広める伝法灌頂の道場としました。円仁の母は空海の姪にあたるといいます。  
円仁と円珍の入唐求法は、最澄の密教に対する研究を補足するためであったとはいえ、天台宗の密教化とともに、この密教の教義において円仁と円珍の二つの流れに分立します。円珍系は平安中期に三井寺を本拠として寺門派となり、円仁系は山門派として分かれます。  
日蓮聖人は慈覚大師円仁のことを『撰時抄』に、  
「慈覚大師は伝教大師の第三の御弟子なり。しかれども上一人より下万民にいたるまで伝教大師には勝てをはします人なりとをもえり。此人真言宗と法華宗の奥義を極させ給て候が、真言は法華経に勝たりとかかせ給へり。而を叡山三千人の大衆、日本一州の学者等一同帰伏の宗義なり。弘法の門人等は大師の法華経を華厳経に劣とかかせ給るは、我がかたながらも少し強きやうなれども、慈覚大師の釈をもつてをもうに、真言宗の法華経に勝たることは一定なり。日本国にして真言宗を法華経に勝と立をば叡山こそ強かたきなりぬべかりつるに、慈覚をもつて三千人の口をふさぎなば真言宗はをもうごとし。されば東寺第一のかたうど(方人)慈覚大師にはすぐべからず」  
と、『法華経』を捨てて真言を立てた第一の方人とのべています。  
慈覚大師が『大日経』を第一とした由来について、『報恩抄』には大日輪の「夢想」(1213頁)によることがのべられています。これは明らかに最澄の法華一乗思想に背くことでした。最澄の真言理解は「円密一致」で、天台の三諦円融と真言の阿字本不生とは同一と見ます。また、諸法実相と阿字体大も同一とし、四種三昧と真言念誦も矛盾しないとして、密教を取り入れて兼修しました。  
このようなことから、、日蓮聖人は慈覚を「蝙蝠鳥」のようなものと譬え、死後に徳を慕って建立する墓碑もない、と末期をのべています。すなわち、『報恩抄』に、  
「第三の慈覚大師は始は伝教大師の御弟子ににたり。御年四十にて漢土にわたりてより、名は伝教の御弟子、其跡をばつがせ給ども、法門は全御弟子にはあらず。而ども円頓の戒計は又御弟子ににたり。蝙蝠鳥のごとし。鳥にもあらず、ねずみにもあらず。梟鳥禽・破鏡獣のごとし。法華経の父を食、持者の母をかめるなり。日をい(射)るとゆめ(夢)にみしこれなり。されば死去の後は墓なくてやみぬ」  
円珍も入唐して天台・真言を修学して帰国しますが、円仁と同じく理同事勝であるとのべ、法華宗と真言宗の二つは共に醍醐であり深秘であって異なることがない、いわゆる、「二宗斉等」(1215頁)であることを、貞観8年(866年)の勅宣にあるとのべたことにたいし、日蓮聖人は疑義をもって、伝教大師はいづれの著書にのべているかと批判しています。  
『報恩抄』に、  
「智証大師は本朝にしては、義真和尚・円澄大師・別当・慈覚等の弟子なり。顕密の二道は大体此国にして学し給けり。天台・真言の二宗の勝劣の御不審に漢土へは渡給けるか。去仁寿二年に御入唐、漢土しては真言宗は法全・元政等にならはせ給、大体大日経と法華経とは理同事勝、慈覚の義のごとし。天台宗は良畿和尚にならひ給ふ。真言・天台の勝劣、大日経は華厳・法華等には及ず等等[云云]。七年が間漢土に経て、去貞観元年五月十七日御帰朝。大日経の旨帰云 法華尚不及 況自余教乎等[云云]。此釈は法華経は大日経には劣等[云云]。又授決集云 真言禅門乃至若望華厳・法華・涅槃等経是摂引門等[云云]。普賢経の記・論の記云、同等[云云]。貞観八年丙戌四月廿九日壬申 勅宣申下云 如聞 真言止観両教之宗同号醍醐倶称深秘等[云云]。又六月三日勅宣云 先師既開両業以為我道。代々座主相承 莫不兼伝。在後之輩豈乖旧迹。如聞山上僧等専違先師之義成偏執之心。殆似不顧扇揚余風興隆旧業。凡厥師資之道闕一不可。伝弘之勤寧不兼備。自今以後宜以通達両教之人為延暦寺座主立為恒例[云云]。されば慈覚・智証二人は伝教・義真の御弟子、漢土にわたりては又天台・真言の明師値て有しかども、二宗の勝劣は思定ざりけるか。或は真言はすぐれ、或は法華すぐれ、或は理同事勝等[云云]。宣旨を申下には、二宗の勝劣を論ぜん人は違勅の者といましめられたり。此等は皆自語相違といゐぬべし。他宗の人はよも用じとみえて候。但二宗斉等とは先師伝教大師の御義と宣旨に引載られたり。抑伝教大師いづれの書にかかれて候ぞや。此事よくよく尋べし」  
円仁は横川で法華経の如法経を始め、覚超が根本如法経の聖地として盛んになります。国分寺も『金光明経』・『仁王経』・『法華経』・『般若経』などを読誦した、護国修法・懺悔滅罪の諸行事を在地に浸透させていました。最澄いごには円密一致の思想が時風に靡き、しだいに細分化して分裂していくことになります。その理由の一つに、『報恩抄』に、  
「事勝の印と真言とにつひて、天台宗の人々画像木像の開眼の仏事をねらはんがために、日本一同に真言宗にをち(堕)て、天台宗は一人もな(無)きなり」  
と、開眼供養には印・真言の秘法が流行していたのです。これは、密教の影響を強く受け、すでに密教の修法が日常的になっていたということです。ここに、最澄が専一とした『法華経』を主体とする、天台宗の僧は一人もいないと指摘されたのです。  
円珍は空海の『十住心論』を批判し、円密一致をのべながらも、「理劣事勝」の密教を興隆する結果となります。これを進めたのが安然で天台宗の教学を密教化しました。  
安然は最澄の俗縁で9歳の時に、円仁より菩薩大戒を受け、円仁の没後は遍昭に顕密の金胎両界の授職灌頂を受け、元慶8年(884年)に元慶寺の座主となり、晩年に比叡山に五大院を建て隠棲します。天台の四教の上に密教を立てる五時五教判(蔵教・通教・別教・円教に密教を加える)、仏・時・処・教に於いて、釈尊の所説は真言密教であるとする四一教判や、一大円教論を立てて天台密教を説いています。日蓮聖人は安然について、『撰時抄』に、  
「安然和尚と申叡山第一の古徳、教時諍論と申文に九宗の勝劣を立られたるに、第一真言宗・第二禅宗・第三天台法華宗・第四華厳宗等[云云]。此の大謬釈につひて禅宗は日本国に充満して、すでに亡国とならんとはするなり」  
と、真言宗のほかに禅宗の評価を高くしたと、その罪科にふれています。  
円仁の弟子で相応(831〜918年)は、東塔に無動寺を建て回峯行を伝えます。また、円仁は唐より五台山の念仏を請来しており、これを基とした常行三昧を不断念仏として完成し、これら観想的な念仏から、やがて法然の口称念仏へと進展した、日本浄土教に発展していきます。円珍以後の叡山は、円珍門流が座主職を継ぎ、円仁門流は京都の法性寺・山科の元慶寺に勢力を留めていましたが、円仁の弟子慧亮の門に、比叡山第18代座主の良源(912〜985年)が出て、円仁門流が勢力を持つようになります。  
良源は比叡山中興の元三大師のことで、学識が勝れていることは、法相宗の義照や南都の法蔵を論破していることからうかがえ、18代の座主となりました。横川に法華三昧堂を建て、慧心院を開いて三塔の存在を磐石にし、僧風を厳格にし論議を行なう「広学竪義」(りゅうぎ)を始めました。最澄と徳一との間に起きた、一乗・三乗思想の論争は「応和の宗論」にみられるように、平安時代を通じて継続されていきます。これは応和3年(963年)8月12日より5日間、村上天皇が宮中の清涼殿において、天台宗10名、奈良側10名を選び『法華三部経』について対論させました。良源と興福寺の仲算(ちゅうざん)との、方便品「無一不成仏」の解釈論は名声を博しました。  
また、良源は浄土念仏を強調するようになりました。良源の弟子、慧心僧都源信(942〜1017年)は『往生要集』を著し、のちに法然の浄土宗を叡山から輩出することになりました。日蓮聖人は慧心について、『撰時抄』に、  
「法然が念仏宗のはやりて一国を失とする因縁は慧心の往生要集の序よりはじまれり。師子の身の中の虫の師子を食と、仏の記し給はまことなるかなや」  
と、慧心の浄土教受容が、法然の念仏に誘因した罪科をここにみています。  
平安末から鎌倉時代にかけて、急速に発展したのが浄土教です。寛平(889年)ころから律令制の土地制度が崩れ始め、地方の郡司や土豪、有力農民が貴族と結託して、広大な土地を荘園化していきます。この私的な荘園を守るために武士が出現します。関東の平将門と瀬戸内海の藤原純友が、「承平天慶の乱」(939年)を起こすことにより、畿内は騒然としました。このころ、市聖と呼ばれた空也(903〜972年)が、京都に入り弥陀の称号を唱えます。そして、十一面観音を六波羅密寺に安置しました。  
とくに、日蓮聖人が三虫の一人に挙げたように、慧心のもたらした浄土信仰の影響は強いものでした。摂関期になると皇室や摂関家などが豪華な寺院を建てます。藤原道長の法成寺(1022年)、道長の宇治平等院(1053年)などがあります。末法思想の不安からくる極楽往生が、浄土信仰に拍車をかけた形となってあらわれます。  
この末法思想のなかに、慧心は『一乗要決』を著し、一乗真実・五乗方便を決托して、しだいに、一乗思想に傾倒していきます。また、平安中期から師匠から弟子へ口伝法門が盛んとなり、慧心は本覚法門、檀那僧都覚運は始覚法門を伝えたという、本覚法門が口伝されるようになります。  
念仏思想は慈覚大師円仁が入唐して、五台山の念仏修行を、比叡山の常行三昧堂に移したときからあり、慧心の『往生要集』や、「念仏の一行」こそ末法の人々に残された救済の実践行であるという提示は、さらに浄土思想に影響をあたえました。  
大原の良忍(1073〜1132年)は、来迎院を建てて融通念仏宗を開き、融通念仏を始唱して念仏を説きました。のちにふれる61代座主顕真に影響をあたえます。良忍は比叡山の東塔常行三昧堂の堂僧を勤めており、ここで不断念仏の合掌僧として修行していました。ここでの称名念仏が大原声明を完成させる基礎となり、天台声明の中興といわれました。  
良忍は22歳ころに大原に隠棲し、来迎院・浄蓮華院を建てます。45歳のときに弥陀から「一人一切人、一切人一人。一行一切行、一切行一行」の文を感得します。これにより一人の念仏と万人の念仏とが、相即し融合するという教えを説き始めました。  
しかし、これらのように念仏信仰は盛んに行なわれていましたが、天台念仏は三昧堂入って観想するという、観念的念仏であったので庶民には受け入れ難いものでした。ゆえに、教理的な極楽往生から、極楽往生を確信させるための教理が求められました。  
ここに、法然の口称念仏を説く浄土教が台頭してきたと言われるのです。ただし、院政期に、三論宗の禅林寺の永観(1033〜1111年)は、『往生拾因』を著し東山に来迎講を開いて口称念仏を説いており、同じ三論宗の珍海(1091〜1152)も、『決定往生集』を著して、称名念仏を説いていましたので、法然の浄土教が確立されるまでの弥陀浄土信仰は存続されていたといえましょう。  
法然(源空、1133〜1212年)は浄土宗を立て、称名念仏・専修念仏の一行による救済を説きました。摂政の藤原兼実(1149〜1207年)から庶民にいたる幅広い信者を作りました。藤原兼実は藤原五摂家の一つで九条家の祖となります。天台座主の慈円は同母の弟で、藤原兼実も晩年(1202年)に出家して円証と名乗り、京都の法性寺に葬られました。  
奈良時代の人々は現世肯定的であったのが、しだいに、現世を否定的にうけとめるようになり、法然の『選択集』における専修念仏こそが極楽に往生できることで、それが阿弥陀仏の本願であるという教えが人々に受け入れられたのです。  
ところで、東台両密の所依の経論に違いがあります。東密は『大日経』・『金剛頂経』・『釈摩訶衍論』・『菩提心論』、台密は五部秘教(『大日経』・『金剛頂経』・『蘇悉地経』・『瑜祇経』・『一字頂輪王経』)と、『菩提心論』をそれぞれ所依の根本聖典としています。  
叡山の密教化について、日蓮聖人は55代明雲座主(1135〜1184年)にふれ、比叡山を真言山としたということが『下山御消息』に、  
「後白河の法皇の御宇(中略)天台座主明雲、伝教大師の止観院法華堂の三部をすてて、慈覚大師の総持院大日の三部に付給。天台山は名計りになり、法華経の所領は大日経の地となる」  
と、批判します。明雲は平清盛が出家したときの戒師を勤めており、平家の護持僧として平氏政権と延暦寺を担う深い関係にありました。平清盛に従えられていた後白河法皇が、木曾義仲に襲撃された「法住寺合戦」で、平家都落ちには同行せず、延暦寺にとどまった明雲は、木曽義仲軍に斬殺されてしまいますが、この明雲は仁安2年(1167年)に第55代の天台座主になり、真言を修したことを『神国王御書』に、  
「其上安徳天皇の御宇には、明雲座主御師となり、太上入道並に一門捧怠状云 如彼以興福寺為藤氏氏寺 以春日社為藤氏氏神 以延暦寺号平氏氏寺 以日吉社号平氏氏神[云云]。叡山には明雲座主を始として三千人の大衆五壇の大法を行、大臣以下家々に尊勝陀羅尼・不動明王を供養し、諸寺諸山には奉幣し、大法秘法を尽さずという事なし」  
と、明雲が真言の修法をした事実を示し、  
「叡山五十五代の座主明雲、人王八十一代の安徳天皇より已来は叡山一向に真言宗となりぬ」  
と、これより比叡山は真言宗になったとします。  
台密といわれる天台密教の学風は、その後、三派に分かれ、この三派がさらに台密13流に分派していきます。  
叡山には慈覚門徒と智証門徒の派閥争いあり、良源のときには僧兵が跋扈し叡山の規律が乱れて暗黒時代になります。良源のあと弟子の尋禅が継ぎますが、病弱のため辞任します。このあと20代座主になったのが、智証門徒の余慶(919〜991年)でした。この宣下に慈覚門徒が反対し、余慶は3ヶ月で辞任します。これによって両門徒の争いが表面化し、智証門徒は三井の園城寺を本拠として決別します。この両門徒の争いは長く続くことになります。  
根本大師流 / 最澄―広智―徳円  
慈覚大師流 / 円仁―長意―玄昭―玄鑑     
   谷流―東塔南谷皇慶(977〜1049年)・・承澄(1205〜1282年)  
   川流―遍昭―最円・・良源―覚超(952〜1034年)  
智証大師流 / 円珍―  
この台密にたいして、天台教学は慧心流・檀那流の二派に分かれます。さきにあげた源信は横川の慧心院に住したので慧心僧都と呼ばれます。70余部150余巻の著述があり、そのなかの『一乗要決』3巻は、最澄が徳一と論争した「三一権実」についての著述で、南都が主張した「五性格別説」を破折したものです。  
しかし、源信は念仏三昧を行じ、臨終にあたっては弥陀仏の手に糸を結び、その糸を手して入滅したというように、浄土信仰者として知られます。『往生要集』は浄土往生に関しての経論を集めたもので、これが法然(1135〜1212年)の『選択集』に見られる、浄土教の念仏信仰に展開していきます。  
檀那流は東塔檀那院に住した、覚運(953〜1007年)の流派で、覚運は師の良源の勧めで、静真・皇慶(977〜1049年)から真言密教を学びました。慧心・覚運ともに止観・観心を学びましたが、学説の違いにより二派に分かれ、さらに、それぞれが4流に分かれ、慧檀8流といわれるようになります。この流れは口伝法門を重視し、中古天台の本覚法門に発展していきます。  
この事相を重視した台密には、最澄・円仁・円珍・遍昭の四師の系統があります。このなかで円仁の系統に皇慶がおり、谷派として主流となり続きます。皇慶の門下に長宴(1016〜1081年)の三昧流があり、ほかに、相実の法曼流に諸派があります。また、頼昭の双厳房流に、智泉院流・仏頂流、契中の穴太(あのう)流、忠快(1159〜1227年)の小川流、忠快の弟子の承澄の西山流があり、永意の蓮華流があり昧岡流があります。  
それに、栄西の房号に因んだ葉上流があります。栄西は横川南楽房の顕意から密教を学んでいるので、穴太3流の一つに入ります。門弟に長楽栄朝・退耕行勇・明全・道聖・玄珍・厳淋・円淋などがいます。  
遍昭の系統に出た、川流の祖となる覚超(960〜1034年)は衰えましたが、平安末期から鎌倉初期にかけて分派し、中世には13流の系統ができました。現在、穴太流・法曼流・西山流・三昧流・葉上流の5派と、三井派の山寺派の6流が続いています。  
さて、平安後期(1100年ころ)から本覚法門が台頭しており、これは文献学的な勉強といわれています。草木・国土といった非情や、あらゆる現実のものが本来的に仏の現われであり、悟りの状態にあると説きます。仏教の諸経典は成仏を目標とし、そのための修行が説かれています。しかし、本覚法門では、私たちはすでに悟ったものであり、それを自覚することが大事であるとします。ここに法華円教の成仏を認めるのです、そして、仏としての自己を観察することを観心といい、その観心の内容は文字では表せないとして、師匠から弟子へと相伝する口伝法門が流行しました。  
本覚法門の文献には『牛頭決』・『五部血脈』・『枕双紙』・『修善寺決』・『漢光類聚』などがあり、最澄や源信の名前で伝わっていますが作者は不明です。また、口伝や切紙で相承された法門というのが多く伝わります。  
慧檀における本覚法門の受容にも違いがあります。両流ともに観心を基本としますが、檀那流は教相を重視し始覚的であり、本覚法門に徹底していたのが慧心流といいます。慧心流の宝池房証真(1189〜1204年)は碩学として知られています。  
このように、叡山には本覚法門の流れと、宝池房証真や慈円のような文献実証的な学問の伝統があり、日蓮聖人はこの学派に影響をうけたといいます(高木豊『日蓮』)。また、俊範も本覚法門に系統しているといいます。日蓮聖人が本覚思想に影響をうけたとしている花野充昭先生の『日本・中国仏教思想とその展開』や、田村芳朗先生の『天台本覚論』には、17歳で書写した『授決円多羅義集唐決』は、本覚思想の初期の文献であったと指摘しています。   
浄土教の信仰も継続されており、来迎院・浄蓮華院を創建した良忍(1073〜1132年)は、大原声明を完成させ、永久5年(1117年)に阿弥陀仏の示現により、自他の念仏が相即融合しあうという融通念仏の勧進をはじめ、称名念仏による浄土を説きました。そして、全国を行脚し結縁した人々の名を記入する名帳をもって勧進を行っています。摂津の平野(大阪市平野区)の領主、坂上広野の私邸地に開いた修楽寺が、のちに、融通念仏の総本山である大念仏寺となります。坂上広野は坂上田村麻呂の次男になります。  
また、日蓮聖人は61代座主顕真(1131〜1192年)を、「一向謗法の法然が弟子」『神国王御書』(同889頁)となったとみています。顕真は承安3年(1173年)に比叡山より大原別所に隠棲し、文治2年(1186年)に勝林院に法然・重源・貞慶・明遍・証真らの碩学を集めて大原問答を行ったとされます。翌年勝林院で不断念仏をはじめ建久元年(1190年)に天台座主に就任しています。日蓮聖人は浄土信仰に傾斜した顕真を法然の弟子とみられ、この顕真が座主になったことを謗法とされたのです。  
日蓮聖人の日本仏教史観の特徴は、正法である法華経の伝来と発展に注意が注がれていました。聖徳太子の仏教興隆の徳を称え、南都仏教の伝来も鑑真を法華仏教の先駆者として位置づけ、それを最澄の天台法華宗の前提とみなします。最澄は南都仏教界と対決し、比叡山を建立して法華経を宣揚してきましたが、日蓮聖人の感心は、その後の天台宗の座主が、最澄の意思通りに法華一乗を伝えているのか、という懐疑から謗法へと視野が移ります。  
日蓮聖人は最澄が受け継いだ、天台大師の純粋な法華教学に、密教を混入させたことを、比叡山は濁れる山と批判しました。では、日蓮聖人はいつころ密教化したとみていたかというと、さきにのべたように、円仁・円珍の密教受容が叡山を真言宗に近づけたと指摘されたのです。  
佐渡配流以前は、安然の『普通広釈』などを真言批判に引用していますが、身延期には比叡山を密教化させ、最澄に背反した円仁に源信をくわえて、正統天台の獅子身中の三虫と批判するようになります。円仁は天台宗を密教化し、安然は禅宗化し、慧心僧都源信は念仏化して最澄の法華思想から離れることになったのです。  
日蓮聖人は最澄からの正統法華経の伝弘者を問い、終には、義真以後の座主は謗法者とみなして、これいご、日蓮聖人の弘教は天台宗を含めた、謗法対治へと進展していくことになるのです。  
比叡山と三井寺の対立  
入唐八家といわれる高僧に最澄、空海、常暁、円行、恵運、宗叡、そして円仁と円珍があげられる。最澄によって開かれた比叡山延暦寺は、最澄(767〜822)のあと座主制がしかれ、初代に最澄の直接の弟子ではない義真が就き、第2代の時に、義真が推薦する円修が就くことになったが、最澄の弟子たちが反対を唱え、結局最澄の愛弟子である円澄に決まる。このとき円修は室生寺に下ることとなる。  
そして次の第3代が円仁(794〜864)であり、第5代が円珍(814〜891)であった。この二人によって天台宗の密教は発展し、良源で完成をみるが、この二人は義真系(円珍)と最澄系(円仁)にわかれており、それぞれの派が対立を起こすことになる。それは日増しに強くなり、ついに円珍系の僧たちは、叡山を下り、麓の三井寺(園城寺)を根拠とするにいたる。これが長きにわたる三井寺と比叡山の確執で、「山門寺門の抗争」と呼ばれるが、比叡山宗徒による三井寺の焼き討ちは中世末期までに大規模なものだけでも10回以上に及んだ。しかし、三井寺は平安時代には朝廷や貴族の尊崇を集め、さらに室町幕府においてもその保護を受けた。これは、強力な延暦寺の勢力を牽制するために三井寺に対して一定の支援をすることが必要であると考えられている。行く度かの逆境にあってもいつも盛り返し、そんなことをとらえて「不死鳥の寺」とも称された。そんな三井寺も、原因は定かでないが1595年(文禄4)豊臣秀吉により寺領の没収を命じられる。それにより三井寺の本尊や宝物は他所へ移され、当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺の西塔・転法輪堂(釈迦堂)に移された。3年後、秀吉の亡くなる直前に再興を許可されているが、釈迦堂は今も、根本中堂から西へ歩いて20分の所に存在する。この建築物は古く、、南北朝時代の1347年の建立とされる。昨日見て来たが、拝観時刻を過ぎており中には入れなかったが、清楚で厳かな堂である。  
円仁は慈覚大師とも呼ばれ、最澄に忠実に仕え、師からも深く愛され、最澄が止観(法華経の注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。性格は円満にして、眉の太い人物であったと言われ、立石寺(山形)、瑞巌寺(宮城・松島)、浅草寺(東京)など、彼がを開いたり、再興した寺は500以上に及ぶ。円珍は智証大師と呼ばれ、頭は丸く尖っていて、知性に鋭く、その発せられる言葉には相手を威圧する力を持っていたとされる。ただ、人(円載)に対する中傷や、円満さには欠け、毒舌家であった。でも三井寺では宗祖として尊崇され、国宝の彫像をはじめ、多くの円珍像が伝わる。二人とも対立はしたが、天台宗では理解に劣る「密教」を唐に学び、密教においても天台宗を真言宗(空海)の上に置こうとする強い願望は共通のものであった。  
比叡のお寺と神社  
比叡山にある延暦寺、園城(おんじょう)寺(三井寺)、西教寺の天台系総本山と山王(さんのう)総本宮の日吉大社(いずれも大津市)。四つの寺社は密接にかかわりあい、織田信長の焼き打ちにあうなど日本の歴史にも大きな影響を与えてきた。今と未来について、宗教者や信者たちに聞く。  
延暦寺 / 「回峰行」苦難克服の力  
数珠を握りしめる。立ち上がり、真言を唱えると、足が前に出た。午前4時30分の出発から17時間余りで約30キロを歩いた。行者が数珠で頭に触れた。仏の慈悲にふれる「お加持」。涙があふれた。  
6月15日。天台宗総本山・比叡山延暦寺の修行「回峰行」に臨む行者が、人々のために祈りながら京の町中を歩く「京都切り廻まわり」。千日回峰行の500日に挑戦中の釜堀浩元・善住院住職に、全国の信者ら約40人が随行した。  
そのうちの一人、美紗さん(53)=仮名=は膝を痛め、うずくまった。初夏の日差しが体力を奪い、50メートル、100メートルと遅れていく。「もうダメか」。あきらめかけた時、仏にすがり、自らに課した行を完遂することができた。  
織田信長の延暦寺焼き打ち(1571年)で壊滅的な打撃を受けた後、いち早く復活したのが、体一つでできる回峰行だった。原点に立ち返り、今に伝わる修行の形を確立。延暦寺の代名詞となった。厳しい修行を続ける行者に、人々は手を合わせる。  
美紗さんは、40歳を過ぎてから月に3、4回、延暦寺に参拝している。「人には言えない悩みを抱えて、みんな、ここにたどり着くんです」  
不妊治療で心身ともに疲れていた20年前、夫に他の女性の影が見え隠れした。子宝に恵まれ、乳飲み子の娘の子育てに奮闘していた17年前、父が末期がんで亡くなった。母は、父の看病のストレスを発散するかのように美紗さんの貯金を使い込んだ。  
美紗さん所有のマンションも、借金の抵当に入れていた。マンションは取り戻したが、母とはわだかまりが残った。優しく接したはずの夫には「いい妻ぶるな」と反発され、口論になる。  
「2人にきつく当たってしまう自分が、心底嫌だった」。悩んだ末、知人の勧めで延暦寺に参拝した。山の空気にふれるうち、「日本の仏教のふるさと。信じることに、迷いはない」と思うようになった。  
5年ほど前からは、毎朝の読経を欠かさない。般若心経、観音経……。「泣いていても、嫌な心がすうっと消える」。母と夫への怒りは、ゆっくりと小さくなっていった。祈り続けた末に見える「何か」を求めて、4年前から切り廻りに随行するようになった。  
2003年に千日回峰行を満行した藤波源信・長寿院住職(55)は「どうしようもなく疲れたら、立ち止まればいい。じっとして、本来の力が蓄積されれば、踏み出せる時が来る」と語る。  
2度目の不貞に踏み込んだ夫は今年7月、家を出ていった。娘は離婚を勧めるが、「親の因果は子に報いる。娘のためにも、離婚は根本的な解決にはならない」とも思う。今は、祈りに全てを託す。  
切り廻りでは、行者が小さな不動堂の前で手を合わせていた。美紗さんが幼いころ、母に手を引かれてよく来ていた場所だった。  
「逆菩薩ぼさつ」。憤怒の形相で試練を与える不動明王に、母がだぶった。「苦労させられた母から、お不動さんとの縁をもらっていたんだ。意味のない20年ではなかった」と感じたという。  
葛藤は簡単には消えないが、美紗さんは「悩んでばかりだったころとは違う。自分を信じることができたら、仏さんが私を変えてくれはる」と笑う。信仰を力に変えて、苦難を乗り越えていこうと決めている。  
西教寺 / 戒律と念仏 無限の重み  
セミ時雨が降り注ぐ境内に、鉦かねの音が「カン」と鳴り響く。本尊の阿弥陀如来坐像が安置された本堂で、尼僧が鉦を打つ合間に「南無阿弥陀仏」と唱え続けている。大津市坂本の天台真盛宗総本山・西教寺で、500年以上前から見られる光景だ。  
「不断念仏」。寺を中興した宗祖・真盛上人(1443〜95年)が入寺した1486年(文明18年)から始まった修行は、通算で約18万5000日に及ぶ。極楽往生を願う「称名しょうみょう念仏」を柱とするのは、浄土宗や浄土真宗と同じだが、殺生や盗みをしないなどの道義を重んじる「戒律」も、もう一つの柱としている。  
「戒称二門」と呼ばれる教えについて、寺崎豊好執事(47)は「戒律と念仏の両方を大切にすることで、仏の教えに無限の重みと広がりが生まれると考える」と説明した。  
真盛上人は、京を焼き尽くした応仁・文明の乱(1467〜77年)で荒廃した人心を立て直そうと比叡山を下り、同寺を再興した。栄達は望まず、身分の別なく布教した姿から「無欲の聖」と称される。  
この地に草庵を結んだ延暦寺の僧・源信(恵心僧都)が985年に著した仏教書「往生要集」の教えを基に、「悪行を働けば地獄に落ちる」という因果応報を示して戒律を授け、西方浄土へ行くための念仏の功徳を民衆に説いた。  
境内には研修道場を兼ねたユースホステルがあり、企業・団体などが合宿している。ヨガと座禅を取り入れた体操健康法を広めている「日本ヨーガ禅道友会」(事務局・京都府八幡市)は毎年7月、同寺で夏期研修を開く。  
会員約260人は午前6時30分から、川合歳明宗務総長を導師とする勤行に参列し、般若心経などを唱えた。行を終えた会員たちは、すっきりとした表情。八田捷也代表(75)は「境内が修行の雰囲気に包まれ、心を静めるのにふさわしい地」と語った。  
寺では1日から、お盆の墓参りが始まっていた。墓地は東に琵琶湖を見渡す高台にあり、西方浄土の趣だ。親族総出で先祖の墓に手を合わせ、僧侶が読経する姿は、檀家だんかを持たない延暦寺、園城おんじょう寺では見られない。  
3日、1万の御霊が眠る墓地の入り口では、世話方が墓参の檀家から墓の場所を聞き取り、台帳を作るための調査をしていた。地元を離れるなどして場所がわからなくなり、無縁墓になるのを防ぐためだという。  
墓地総代会代表の能仁隆さん(77)=大津市坂本=は「信長の焼き打ち後からの立派な墓がある。無縁になるのはしのびない」と話した。  
織田信長の延暦寺焼き打ち(1571年)により、ともに灰燼に帰した西教寺の再興に尽力したのは、坂本城主の明智光秀だ。木村至宏・成安造形大付属近江学研究所長(日本文化史)は「民衆に慕われ、支えられてきた寺に仏心を呼び覚まされ、光秀は西教寺の檀徒となった。苛烈な焼き打ちに加わった罪滅ぼしをしたかったのだろう」と語る。  
本能寺の変(82年)で信長を倒した光秀は、羽柴(豊臣)秀吉に敗れた。境内には光秀や妻の煕子(ひろこ)らの墓が立つ。6月14日の光秀の命日には、無欲の聖の教えを継ぐ檀家たちによって、追善法要が営まれている。  
日吉大社 / 神仏 1000年超の総本宮  
「桜や紅葉が真横にある。たまらない景色ですね」。大津市坂本、河村社寺工殿社社長の河村直良さん(63)は、山王総本宮・日吉大社で、西本宮の屋根を見上げた。  
同社は江戸後期の創業。比叡山にある日吉大社、延暦寺、園城寺、西教寺などで、檜皮(ひわだ)ぶきやこけらぶきの社殿や堂塔の屋根のふき替え工事を請け負っている。6代目の河村さんは40年にわたり、屋根の上で四季を身近に感じながら、仕事をしてきた。  
「神さんが下りてこられる屋根を守るのが代々の務め」と誓う。寿命を通常の30年からさらに10年延ばすため、屋根にたまった苔こけや落ち葉を定期的に無償で取り除いている。同大社の責任役員の一人で、西教寺を守る「出入商人会」の会員でもある。  
大みそかに除夜の鐘をつき、年が明ければ初詣に行く。「神仏習合」といわれる日本人独特の宗教観は、比叡山から広まった。天台系の三つの総本山は、日吉社(日吉大社)が祀る神々を寺の守り神とする。  
神道学者の嵯峨井建さん(66)は「日吉社は山の神。天台は山に修行し、山に学ぶ仏教。共通点が多い」とする。天台宗の教え「草木国土悉皆成仏そうもくこくどしっかいじょうぶつ(万物に仏が宿る)」と山の自然が結びついた。  
特に日吉社と延暦寺は、江戸時代まで実質的に一体化していた。延暦寺は比叡山の地主神「大山咋神(おおやまくいのかみ)」を本尊・薬師如来の化身ととらえる。日吉社の主要な社殿の床下には、仏像を祀り、僧侶が拝む「下殿」がある。密教図像の「山王曼荼羅」は、日吉社の神々が仏などの姿で描かれている。  
政治・経済面でも、次第に延暦寺の管理下に置かれるようになっていった。  
平安後期(11世紀末)から戦国時代(15世紀後半)まで約400年間、延暦寺が乱暴ざたの処罰や座主職を巡る争いなどを解決したい時には、日吉社の神輿を担ぎ、京都まで下った。「神輿振り」と呼ばれる朝廷や幕府への強訴だ。  
「日吉神人(ひえじにん)」と呼ばれる奉仕者たちは、延暦寺・日吉社領の年貢米を元手に京の公家や役人に高利貸しを行い、経済基盤を強固に支えた。  
一方で、延暦寺(山門派)と園城寺(寺門派)の争いや織田信長の延暦寺焼き打ち(1571年)など争乱に幾度となく巻き込まれ、日吉社は社殿を焼失した。  
反動が、明治時代になって起きた。1868年に神仏分離令が出された直後、日吉社の神職らが社殿の仏像や経典などを全て撤去して焼き払い、全国に波及した廃仏毀釈運動の口火を切った。「1000年の結びつきを断ち切る『宗教革命』だった」と嵯峨井さん。  
とはいえ、約30年後には天台座主が再び社参。神仏習合の祭礼も戦後まもなく復活した。4月の大祭「山王祭」には、天台座主が一山の僧侶を引き連れ、法要をつとめる。  
馬渕直樹宮司(61)は「三つの総本山と日吉大社は、切っても切れない関係。一体化することはないが、重なり合う。協力できるところは協力しあいながら、先人の教えを守っていきたい」と語った。  
園城寺 / 延暦寺と対立 今は昔  
7月22日、大津市園城寺町の天台寺門宗総本山・園城寺(三井寺)の行者堂前で、本山採灯大護摩供が営まれた。この日の同市の最高気温は32・7度。護摩壇の炎に向けて、山伏姿の行者たちが「シャンシャン」と錫杖を振りながら、般若心経を唱えている。  
福家英明長吏(89)が天下太平を祈願し、所願成就や病気平癒など人々の願いが書かれた護摩木を炎の中に投じていった。同寺の行者講の約30人が出仕。行者歴約70年の駒井芳雄さん(88)は「修験道は、ここが鍛えられる」と話し、自分の胸をポンとたたいた。  
修験道は、行者たちが難所が続く山に分け入って岩や滝、樹木などの自然を拝み、仏と一体になるための修行をする。園城寺は、京都・醍醐寺の「当山派」と並ぶ2大流派の一つ「本山派」の根本道場として、京都・聖護院とともに行者を育ててきた。  
宗祖・円珍(814〜91年、智証大師)が、紀州・熊野から奈良・吉野まで約180キロの「大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)」を巡ったことが起源とされる。今年は生誕1200年。慶讃大法会が10月18日〜11月24日に開かれる。福家長吏は「智証大師の功績をもっとよく知ってもらうことが大命題」と語った。  
円珍は第5世天台座主。中国・唐で学んで経典や図像を持ち帰り、空海の真言密教(東密)に比べて遅れていた天台密教(台密)の確立に貢献した。宗祖・最澄や第3世天台座主の円仁と並び、「天台三聖」と称される。  
没後に円仁派と円珍派の弟子の間で座主職を巡る対立が起き、円珍派は993年、比叡山を下りて園城寺に入った。  
1081年、武装化した円仁派の僧らに焼かれたのを機に1336年まで計10度、園城寺は壊滅的な焼き打ちを受けた。「山」といえば延暦寺(山門派)、「寺」といえば園城寺(寺門派)と言われるほど強大だった2大勢力は、日本の宗教史上最も激しい争いを繰り返した。  
延暦寺の経済を支えた大津の港や日吉神人の争奪、源平の争いに巻き込まれたことなど原因は多々あるが、園城寺は焼かれるたび、伽藍を復興し、「不死鳥の寺」と呼ばれた。慶讃大法会では、僧たちが焼き打ちから何度も死守した秘仏の数々が開扉される。  
寺宝を救ったのは、園城寺の僧だけではない。「1336年の焼き打ちの際、円珍が唐から持ち帰った文書(国宝)が、園城寺から一時流出している」と明かすのは、下坂守・元奈良大教授(日本中世史)。「持ち出したのは延暦寺以外に考えられない。円珍は延暦寺にとっても、偉大な座主の一人。心ある僧は、その価値を知っていた」  
現代。かつてのような骨肉の争いがあるはずもなく、両寺と西教寺の天台系総本山は、晋山式や祖師たちの遠忌法要にお互いに参列し、定期的に会合を開いたりしている。  
園城寺の福家俊彦執事長(55)は「人口減社会に突入し、僧侶や信者の確保が厳しくなる。教えは守らなければならないが、派閥意識にとらわれないよう気をつけたい」と話し、一層の連携を希望した。  
最澄、円仁、円珍、良源、源信、真盛……。3か寺を結ぶ鍵があるとしたら、偉大な祖師たちが持っているに違いない。  
延暦寺 / 焼き打ち 教訓生き続け  
「新生比叡山は信長に功あり」  
「焼く者は焼かれる」  
延暦寺発行の1970年1月8日付「比叡山時報」で、同寺長(ちょうろう)、小林隆彰さん(85)が、寺最大の危難・織田信長の焼き打ち(1571年)について書いた記事の見出しだ。  
朝廷と結んだ特権階級として新興勢力を拒み、仏法を忘れて園城寺(三井寺)や日蓮宗の寺院を焼き払うなどしたため、焼き打ちにあった。焼き打ちは宗教本来の姿に立ち返るための「不滅の大教訓」としたい――と書かれている。  
発行当時は「信長は憎き仏敵」との考えが大勢を占めたという。即座に天台宗の研究者から天台座主あてに「書いた者を即刻比叡山から追放せよ」という直訴状が来た。  
小林さんは「自分だけが正しいという固定観念が争いを生む。信長だけを憎むのは仏の道に反する」とけんか両成敗を主張する。延暦寺は1992年、数千人といわれる犠牲者と本能寺の変に倒れた信長の霊をともに慰める鎮魂塚を建立。焼き打ちがあった9月12日に法要を営む。  
平安後期以降、延暦寺は強大な武力と広大な荘園を持ち、朝廷も鎌倉、室町両幕府も、簡単に手を出せなかった。白河上皇は、思い通りにならないものの一つに「比叡の山法師」を挙げた。武士の世は鎌倉時代からと教わるが、真に完成したのは江戸時代からだったとさえいわれる。  
朝廷や幕府への要求が通らない場合、延暦寺は末社だった京都・八坂神社の祇園祭を延期した。天災や疫病を悪霊の仕業と信じ、催行を願う民衆の恐怖心を利用した。朝廷は結局、寺に屈し、祭はたびたび歳末に行われた。雪が降る大みそかだったこともある。  
焼き打ちの犠牲者と信長をともに供養する鎮魂塚。小林さんは「歴史の教訓を折に触れて思い出していかなければ」と語る(大津市の延暦寺で)  
「焼かれたのは自業自得」。前延暦寺執行で叡山学院教授の武覚超さん(66)の答えは明快だ。「開山以来の書物や寺宝は失われたが、山全体を覆っていた“垢”も全て取れた。学問や回峰行などの修行に励む本来のよさを取り戻すことができた」  
ただし、応仁・文明の乱(1467〜77年)が起き、群雄割拠の戦国時代に入ると、武力が急激に衰えた。信長に徹底抗戦した一向宗(浄土真宗)の門徒のような民衆も持たなかった。  
県教委文化財保護課の井上優副主幹は「ほとんど丸腰の状態。焼き打ちの時は浅井・朝倉軍が勝手に比叡山に駐屯し、信長から追い出しを要求されても、寺は何もできなかったのでは」とみる。  
頽廃か。衰退か。歴史の評価は分かれるが、延暦寺にとって、大きな転換点となったことは間違いない。  
「政治や権力とは一線を画して、人々のためにできることを考える」。延暦寺執行の小堀光實さん(60)は、今を生きる寺の姿勢を説明する。原点に返り、宗祖・最澄の「一隅を照らす」の精神を広めているという。  
今も昔も檀家を持たないが、小堀さんは「山を下り、僧侶一人ひとりが地域に声をかけ、顔の見えるつながりを作っていかなければ」と目標を掲げた。  
焼き打ちを糧に生き続ける教訓。根本中堂の「不滅の法灯」とともに、未来永劫引き継がれていくのだろう。 
天台宗を支えた僧たち  
三代天台座主 / 円仁(794〜864)  
10年に及ぶ唐滞在で天台教学と密教を修し、天台宗発展に寄与する。  
794年下野国(栃木県)に生まれた円仁(えんじん)は、15歳にして比叡山に上り、最澄より摩訶止観の奥義を伝授された。その後、遣唐使に任命され、数回の天候不順にあったが、838年7月2日に入唐を果たす。五台山で天台教学を修めた後に、長安へ赴(おもむ)き密教を学び、幾多の経典を書写する。その間に金剛界、胎蔵界(たいぞうかい)の灌頂(かんじょう)をうけ、蘇悉地(そしつじ)の大法も授かる。長安では僧たちが、民衆に分かりやすい言葉で節をつけながら町中で繰り広げる「俗講」に心打たれる。847年に帰国した円仁は、比叡山に戻り、五台山で学んだ天台教学を伝え、俗講から得た感激を山の念仏ともいわれる常行念仏として広めた。  
 
金剛界:無量無数の一切の如来たちと身体と言葉と精神が1つに集合した絶対界  
胎蔵界:胎蔵は母胎のことで、一切を含有すること  
灌頂:阿闍利により法を受けるときの儀式  
蘇悉地:真言を称えることにより達しうる効果  
五代天台座主 / 円珍(814〜891)  
5年間の入唐後、円密一致の教義の充実に努める  
逆卵型の特徴ある風貌(ふうぼう)であったとされ、こうした相の持ち主特有の、明晰(めいせき)な頭脳の持ち主であったとされている。讃岐国の生まれで、空海の血縁であった円珍(えんちん)が、真言宗ではなく、天台宗の僧となったのは、諸説あるが明確なものはない。15歳で比叡山に上った。12年間で四種三昧(ししゅざんまい)の修行を終えた。32歳で教理教学の責任者である学頭に任命されている。853年に入唐を果たした円珍は、円仁の果たせなかった天台山に入り、天台大師智の足跡を巡礼し、天台宗に関わる多くの典籍(てんせき)の書写も行った。その後、円珍は長安を訪れ、密教の金剛界、胎蔵界の灌頂(かんじょう)を受けるとともに、蘇悉地(そしつじ)の大法まで授けられる。帰国した円珍は、868年に五代天台座主になり、円密一致という日本天台宗の理念を徹底させている。日本天台宗と中国天台宗の教義の狭間(はざま)に立って、それまで不明確だった円密一致を、法華経と密教は同列であると円珍は説いたのである。  
十八代天台座主 / 良源 (912年〜985年)  
比叡山の地位を学問、教団的に不動のものとした  
最澄と同じ近江国の生まれで、父方は帰化人を先祖に持つ木津氏の人であった。12歳で比叡山に上った良源(りょうげん)は、裏付けある弁舌の人であった。比叡山は当時、東塔、西塔、横川(よがわ)があったが、最北端で円仁が開発し、当時、荒れていた横川(よがわ)周辺を整備した。40歳で阿闍利(あじゃり)となり、55歳で天台座主となった良源は、最澄の忌日に催される法華会に広学堅義(こうがくけんぎ)を加え、論議の場とすることで、教学の発展の基盤とした。横川に常行三昧堂が建立されるなどで、講会や広学堅義が盛んに行われ、学僧たちが競い合い、比叡山はかってないほどに発展した。  
 
阿闍利:師範たるべき高徳の僧、修行が一定の水準に達し、伝法灌頂により秘法を伝授された僧  
源信(942〜1017)  
念仏による極楽浄土を浸透させ、浄土信仰の基盤をつくる  
法然や親鸞に影響を与えた「往生要集(おうじょうようしゅう)」を著した源信(げんしん)は、大和国(奈良県)の生まれである。9歳で比叡山に上った源信は31歳で広学堅義を及科して、宮中の論議でも一躍、名を上げた。母から「名利を求めるのではなく、真の仏道を極めよ」と告げられた源信は、あるとき、予感を感じて実家に向った。実家では母が臨終の床についていたという。源信に予感があったと告げられた母は、仏の契りと喜んで、念仏を唱えて亡くなったという。源信が「往生要集」を執筆し始めたのは、そんなことが原因であるといわれている。往生要集は、日本の浄土信仰の発展に寄与しただけでなく、宋の天台山にも伝えられ、それを読んだ天台山の高僧が激賞したとも伝えられている。念仏運動は幅広い層に受け入れられ、下級貴族から、民衆にまでも浸透していった。  
慈円(1155〜1225)   
歌人としても名を成し、名門出身であるが仏法に邁進した  
摂政関白藤原忠通の子で、関白九条兼実の弟であった慈円(じえん)は、60歳で辞するまで4度天台座主に就任している。これは当時の教団が家柄や親、兄弟の権力によって出世が決まることへの反発で自らから辞したものであろう。こうした矛盾から逃れるには、厳しい修行に打ち込むしかなかった。西行に真言密教の教えを乞うたとき、西行から「歌の心得がないものには真言の大事がわからない」と言われ、歌に打ちこんだという。西行から真言の大事を学ぶことはできたが、歌の魅力に取り付かれ、歌への情熱が覚めやらぬ時期もあったという。歌を通じて後鳥羽上皇と深いつながりを持つようになった慈円は、公武共存の道を探るが、平安王朝文化の天皇親政を目指す後鳥羽上皇は、慈円の意見を取り入れなかった。後鳥羽上皇の行き過ぎを思いとどまるように歌を贈り、「愚管抄(ぐかんしょう)」を表わしたが、後鳥羽上皇の宣旨(せんじ)で幕府打倒を目指した承久の乱が、勃発してしまった。  
真盛(1443〜1495)  
社会清化に専心した無欲の説法智者  
伊勢国の生まれの真盛(しんせい)は19歳で比叡山に上る。その後、20年間は一度も比叡山を下りることなく、天台教学の修学に励んだ。25歳で阿闍利になり、大乗会の講師をつとめる。20年間の修学中は、わき目もふらず一心に学問に打ち込み、栄達を夢見ていた時期もあった。転機になったのは、39歳のとき母の最期を看取ったことである。母を失うことで、世のはかなさを感じ、それまでの栄達を願う生活に無常を感じたとされている。法然ゆかりの比叡山黒谷青竜寺で隠遁生活に入る。隠遁生活で真盛がたどり着いたのは、念仏への道であり、その心を確実にしたのが源信の「往生要集」であった。念仏こそが衆生を救う道であると確信し、比叡山をおりた真盛は教化活動に邁進し、往生要集を講義した。無欲清浄を説き続けた真盛には、弟子達への遺言として「無欲清浄に念仏せよ」という言葉が残っている。  
天海 (1536?〜1643)  
家康の帰依で比叡山の復興に尽くし、関東天台宗の礎を築く  
家康の側近として、徳川幕府の礎(いしずえ)を築いた天海(てんかい)は名僧でありながら、その一生は謎に包まれている。没年は分かっているが、生年は諸説で45年もの開きがある。そうなると生涯は90年から135年もの開きとなる。出自も足利氏であったり、明智光秀その人という説まである。江戸城内の論議の場で家康に認められた天海は、比叡山の復興を命じられて、信長の焼き討ちで荒廃した諸堂の再建に力を注ぐ。比叡山が現在も仏教の殿堂としての位置を保っているのも、天海の30年に亘る復興事業の継続にあるといって良いだろう。比叡山が朝廷の権力下にあったため、関東天台法度を制定し、天台教団の中心を関東に置いたのは、家康であった。その全権を任されたのが天海であり、比叡山を再興し、関東一円の天台宗の教化に尽くした天海は、270年の日本の平和を築いた名僧ともいえる。因みに徳川家康は大権現(だいごんげん)の神号で呼ばれているが、これは天海が秀吉は大明神の神号で呼ばれていて、豊臣家は滅んだと指摘し、大権現の神号を主張したという。  
 
円仁

 

(延暦13年-貞観6年 / 794-864) 第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれで出自は壬生氏。  
794年(延暦13年)下野国都賀郡壬生町(現在の壬生寺)に豪族壬生氏(壬生君:毛野氏の一族)の壬生首麻呂の子として生まれる。兄の秋主からは儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄の理解者であって、多くの弟子を最澄に師事させている。  
※生誕地については栃木市岩舟町下津原に生まれたという説もあり、順徳天皇撰による「八雲御抄」では岩舟町での誕生が記されている。なお、下津原の手洗窪は「慈覚大師誕生の地」として栃木市の史跡に指定されている。  
15歳のとき、唐より最澄が帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい、最澄に師事する。奈良仏教の反撃と真言密教の興隆という二重の障壁の中で天台宗の確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問と修行に専念して師から深く愛される。最澄が止観(法華経の注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。  
814年(弘仁5年)、言試(国家試験)に合格、翌年得度(出家)する(21歳)。816年(弘仁7年)、三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受ける(23歳)。この年、師最澄の東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は、新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。817年(弘仁8年)3月6日、大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。  
性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。浄土宗の開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。  
遣唐使の渡海の困難  
836年(承和2年)、1回目の渡航失敗、翌837年(承和3年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。838年(承和5年)6月13日、博多津を出港。『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。円仁の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁はずぶ濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。  
※上陸日である唐の開成4年7月2日は日本の承和5年7月2日と日付が一致していた。唐と日本で同じ暦を使っているのだから当然ではあるが、異国でも日付が全く同じであることに改めて感動している(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。  
天台山を目指すが…  
最後の遣唐使として唐に留学するが、もともと請益僧(入唐僧(唐への留学僧)のうち、短期間のもの)であったため目指す天台山へは旅行許可が下りず(短期の入唐僧の為日程的に無理と判断されたか)、空しく帰国せねばならない事態に陥った。唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。そこで円仁は遣唐使一行と離れて危険をおかして不法在唐を決意する(外国人僧の滞在には唐皇帝の勅許が必要)。天台山に居た最澄の姿を童子(子供)の時に見ていたという若い天台僧敬文が、天台山からはるばる円仁を訪ねてきた。日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て、懐かしく思って訪れて来たのだという。唐滞在中の円仁の世話を何かと見てくれるようになる。海州東海県で遣唐大使一行から離れ、一夜を過ごすも村人達に不審な僧だと警戒され(中国語通じず、「自分は新羅僧だ」と主張しているが新羅の言葉でもない様だ、怪しい僧だ)、役所に突き出されてしまう。再び遣唐大使一行のところに連れ戻されてしまった(『行記』839年(開成4年)4月10日条)。  
在唐新羅人社会の助け  
当時、中国の山東半島沿岸一帯は張宝高をはじめとする多くの新羅人海商が活躍していたが、山東半島の新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅人社会の助けを借りて唐残留に成功(不法在留者でありながら通行許可証を得る等)する。遣唐使一行から離れ、寄寓していた張宝高設立の赤山法華院で聖林という新羅僧から天台山の代わりに五台山を紹介され、天台山はあきらめたが五台山という新たな目標を見出す。春を待って五台山までの約1270キロメートルを歩く(『行記』840年(開成5年)2月19日〜4月28日の58日間)。  
五台山巡礼  
840年、五台山を巡礼する。標高3000mを超す最高峰の北台にも登山する(47歳)。五台山では、長老の志遠から「遠い国からよく来てくれた」と温かく迎えられる(『行記』840年(開成5年)4月28日条)。五台山を訪れた2人目の日本人だという(1人目は、最澄とともに入唐し、帰国せず五台山で客死した霊仙三蔵)。法華経と密教の整合性に関する未解決の問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。また、南台の霧深い山中で「聖燈」(ブロッケン現象か。『行記』840年5月22日条、6月21日条、7月2日条)などの奇瑞を多数目撃し、文殊菩薩の示現に違いないと信仰を新たにする。  
長安への求法  
当時世界最大の都市にして最先端の文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から約1100キロメートルを徒歩旅行する(53日間)。その際、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、金剛界大法を授き、青竜寺の義真からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地大法を授く。また、金剛界曼荼羅を長安の絵師・王恵に代価6千文で描かせる。台密にまだなかった念願の金剛界曼荼羅を得たこの晩、今は亡き最澄が夢に現れた。曼荼羅を手に取りながら涙ながらに大変喜んでくれた。円仁は師の最澄を拝しようとしたが、最澄はそれを制して逆に弟子の円仁を深く拝したという(『行記』840年10月29日条)。描かせていた曼荼羅が完成する(『行記』840年(開成5年)12月22日条)。しばらくして、唐朝に帰国を百余度も願い出るが拒否される(会昌元年8月7日が最初)が、その間入唐以来5年間余りを共に過して来た愛弟子・惟暁を失う(『行記』843年(会昌3年)7月25日条。享年32)。また、サンスクリット語を学び、仏典を多数書写した。長安を去る時には423部・合計559巻を持っていた(『入唐新求聖教目録』)。そして、842年(会昌2年)10月、会昌の廃仏に遭い、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶った(会昌5年2月)。  
帰国の旅の苦難  
当時の長安の情勢は、唐の衰退等も相まって騒然としていた。治安も悪化、不審火も相次いでいた。その長安の街を夜半に発ったが(曼荼羅や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)、夜にも関わらず多くの長安住人の送別を受けた。送別人の多くは、唐高官の仏教徒李元佐のほか、僧侶及び円仁の長安暮らしを支えた長安在留の新羅人達が主であった。餞けとして絹12丈(30m余)を贈ってくれた新羅人もいた(845年(会昌5年)5月15日)。歩くこと107日間、山東半島の新羅人の町・赤山まで歩いて戻った。  
この際、新羅人の唐役人にして張宝高の部下の将・張詠が円仁のために唐政府の公金で帰国船を建造してくれたが、密告に遭い、この船では帰れなくなる。  
「円仁が無事生きている」という情報は日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。楚州の新羅人約語(通訳のこと)劉慎言に帰国の便船探しを頼み(彼は新羅語・唐語・日本語を操れるトライリンガルであった)、彼の見つけた新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を贈っている。朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。博多津に到着し、鴻臚館に入った(『行記』847年(承和14年)9月19日条)。日本政府は円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いる様に太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の筆を擱いている(『行記』847年(承和14年)12月14日条)。54歳。  
この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間、書き綴った日記が『入唐求法巡礼行記』で、これは日本人による最初の本格的旅行記であり、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されている(エドウィン・ライシャワーの研究により欧米でも知られるようになる)。巡礼行記によると円仁は一日約40kmを徒歩で移動していたという。  
目黒不動として知られる瀧泉寺や、山形市にある立石寺、松島の瑞巌寺を開いたと言われる。慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされ、浅草の浅草寺もそのひとつ。このほか北海道にも存在する。  
後に円仁派は山門派と称された。(円珍派は寺門派、両者は長期にわたり対立関係になった)。 
 
円珍

 

(弘仁5年-寛平3年 / 814-891) 平安時代の天台宗の僧。天台寺門宗の宗祖。諡号(しごう)は智証大師(智證大師、ちしょうだいし)。入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。  
弘仁5年(814年)讃岐国(香川県)金倉郷に誕生。多度郡弘田郷の豪族・佐伯一門のひとり。俗姓は和気。字は遠塵。空海(弘法大師)の甥(もしくは姪の息子)にあたる。生誕地は善通寺から4kmほどのところ。幼少から経典になじみ、15歳(数え年、以下同)で比叡山に登り義真に師事、12年間の籠山行に入る。  
承和12年(845年)役行者の後を慕い、大峯山・葛城山・熊野三山を巡礼し、修験道の発展に寄与する。承和13年(846年)延暦寺の学頭となる。仁寿3年(853年)新羅商人の船で入唐、途中で暴風に遭って台湾に漂着した。  
天安2年(858年)唐商人の船で帰国。帰国後しばらく金倉寺に住み、寺の整備を行っていた模様。その後、比叡山の山王院に住し、貞観10年(868年)延暦寺第5代座主となり、園城寺(三井寺)を賜り、伝法灌頂の道場とした。後に、比叡山を山門派が占拠したため、園城寺は寺門派の拠点となる。  
寛平3年(891年)入寂、享年78歳。三井寺には、円珍が感得したとされる「黄不動」「新羅明神像」等の美術品の他、円珍の手による文書が他数残されており、日本美術史上も注目される。  
著作は90を数え、円珍の教えを知る著作である「法華論記」「授決集」の他、自身の書いた入唐旅行記の「行歴抄」など著名である。『智証大師全集』全3巻がある。「行歴抄」では、円載との確執が描写されている。  
智証大師円珍の生涯  
ご誕生  
円珍は、弘仁五年(814)、讃岐国(香川県善通寺市)に生まれました。 父は和気宅成、母は佐伯氏の娘で、弘法大師空海の姪にあたります。十歳で『毛詩』、『論語』、『漢書』、『文選』を習い、天長五年(828)に叔父の僧仁徳(伝教大師最澄の弟子)に従って上洛。 翌天長六年に仁徳に案内されて最澄が開いた天台宗の総本山比叡山延暦寺に登り、義真(778〜833)に師事しました。  
比叡山入山  
この当時、正式な僧侶になるには国家試験を受けなければなりませんでした。 合格者は、年分度者とよばれ、比叡山では、年に二人しか年分度者を出せない決まりでした。 十九歳の春、円珍はこの試験に抜群の成績で合格し、 翌年には、師義真和尚を拝して菩薩戒を受け一人前の僧侶となり、 比叡山の掟に従って一期十二年の籠山(ろうざん)修行に入られます。  
黄不動尊の感得  
十二年籠山中の承和五年(838)冬、座禅中の円珍の前に金色に輝く不動明王が忽然と現れ、 「我は金色不動明王である。仏法の真髄を伝える汝を守護するために示現するものなり。 仏の教えを究めて迷える衆生を導くべし」と告げられ、その尊容を描き、 常に礼拝するように命じられます。 これこそ大師一生の信仰を決定づけた黄不動尊で、以後、大師に危機迫るときには必ず影現し大師を守護し続けます。 このときの尊像が日本三大不動の一つとして有名な秘仏・金色不動明王(黄不動尊)画像です。  
三井修験道の始まり  
籠山修行を満じられた円珍は承和十二年(845)、役行者の後を慕い大峯、葛城、熊野三山を巡礼し、 那智の滝に参籠されます。この事跡こそが円・密・修験の三道融会をかかげる三井修験道の起源をなすものであり、 これ以降、大峯山は智証門流をはじめとする修験者の活躍により霊山として発展していくことになります。  
新羅明神の示現  
修行を積まれた大師は、承和十三年(846)、 三十三歳にして比叡山の大衆に推されて比叡山一山の真言学頭となりますが、 この頃より大師の夢に山王明神が現れ、唐に渡って法を求めるよう勧められることがあり、 ついに仁寿三年(853)、入唐求法の旅へと出発されます。  
入唐求法への旅  
六年間にわたる在唐中、天台山国清寺において日本からの留学僧のために止観堂(天台日本国大徳僧院)を建立するなど、 各地を遍歴し種々の法門を伝授されました。 長安では青竜寺法全和尚から「両部大教阿闍梨位潅頂法」という密教の奥旨を伝授され、 法全秘蔵の「五部心観」を付与されます。 この盛唐密教の精髄を示す「五部心観」は、いまも三井寺に大切に伝持されています。  
ご将来経典と唐院の創建  
円珍は四百四十一部一千巻の貴重な経典をたずさえ帰朝されました。 これらの経典類は、新羅明神の夢告により園城寺唐院に永蔵されることになります。 新羅明神は、帰朝の船中で円珍の前に影現された守護神で、 その霊像は秘仏として三井寺に祀られています。  
三井寺の再興  
貞観八年(866)五月二十九日、太政官牒をもって真言・止観両宗弘伝の公験(くげん)を賜わり、 円・密・禅・戒の四宗に併せて修験の一道を加える天台寺門の教法が正式に認められました。 同年には三井寺の別当職にも任じられます。 この職は長吏(ちょうり)と呼ばれ、今日で百六十二代を数えています。  
晩年の付法とご入滅  
貞観六年(864)七月、宮中仁寿殿において大悲胎蔵潅頂壇が設けられ、 円珍が親しく清和天皇、良房など殿上の貴紳に潅頂を授けました。 貞観八年(866)、皇太后明子(梁殿皇后)の護持僧となりました。 貞観十年(868)には第五代天台座主となり、寛平三年(891)十月二十九日、 七十八歳をもって入滅されるまで二十四年間の長きにわたり仏法の興隆に尽くされました。 その門下には五百余人の弟子が育ち、教えを受けた人々は三千余人といわれています。 延長五年(927)、醍醐天皇より智証大師の諡号(しごう)が贈られました。 この勅書は、三蹟で高名な小野道風が書いています。 (※関連名宝「制誡文」)  
■2 
智証大師とは円珍示寂後に朝廷より賜った諡号である。円珍は、俗姓は因支首で讃岐国那珂郡金倉郷(香川県丸亀市)の人である。父は宅成といい、母の佐伯氏は空海の姪であった。弘仁5年(814)に誕生した。幼い頃から才を示したため、15歳の時に叔父である僧仁徳にしたがって叡山に登り、義真の弟子となった。19歳の時、年分度者の制によって得度し、天長10年(833)4月15日に授戒した。授戒の後は最澄が定めた『山家学生式』の規定にしたがって12年篭山した。  
その間承和5年(838)冬、石龕にて坐禅している時、たちまち金人が現われて「お前はまさに我が形を図画して慇懃に深く信仰しなさい」といった。円珍が誰何すると、金人は「我はこれ金色の不動明王である。我は法器(仏法を受ける素質をもつ者)を愛するから、常にお前の身を擁護しよう。お前は早く三密の奥儀をきわめて、衆生の舟航となりなさい」といった。円珍はその形を熟視してみると、容貌は魁偉・奇妙で、威光は火が燃え上がるように盛んで、手には刀剣を持っており、足は虚空を踏んでいた(空中浮遊のこと)。そこで円珍は画工にその蔵を写させた。像は今でもある(『天台宗延暦寺座主円珍伝』)。この像こそ園城寺に伝わる秘仏「黄不動」であるといわれている。円珍にはこのような霊験説話が多い。  
12年篭山が終わった後、経論をきわめ尽くしてしまい、疑問があってもそれを教えることが出来る人がいなかった。そのため円珍は入唐留学に想いを馳せるようになった。承和14年(847)正月、大極殿吉祥斎会において、法相宗の明詮(789〜868)と激しい論戦を行なった。そのため円珍の名は朝野に轟くこととなった。  
嘉祥3年(850)春、夢に山王明神が現われて、「公(円珍)は早く入唐求法の志を遂げなさい。留まってはならない」と告げた。円珍は「そのうち請益闍梨和尚の仁公(円仁)が三密をきわめて本山(叡山)に帰着されるでしょう。今さらどうしてせわしくも航海に出ようとすることがありましょうか」と答えた。神は重ねて「公(円珍)の言葉のようであったら、世の中の人が多く髪を剃って僧となっているのに、公(円珍)はどうして昔にせわしくも剃髪の志をとげたのか」といった(『天台宗延暦寺座主円珍伝』)。翌年春に明神は重ねて入唐をすすめたため、円珍は入唐を許諾した。そこで円珍は入唐の意志を上表したため、天皇は深く感じ入って入唐を許可した。また円珍は太政大臣藤原良房(804〜72)のあつい帰依を受けていたため、この後も藤原良房・基経父子の助力を得ることができた。  
仁寿元年(851)4月15日、円珍は入唐の志を遂げるために九州太宰府に向かい、同3年(853)7月16日に新羅商人の船に乗船して一路唐に向い、12年間の入唐留学の末、天安2年(858)6月19日に帰国した。  
帰朝した円珍は叡山の「旧房」に住み、所伝の大法・天台宗の章疏を諸僧に教授した(『天台宗延暦寺座主円珍伝』)。この「旧房」について、『朝野群載』やそれを引用した『九院仏閣抄』では「山王院千手堂」とする。ただしこの旧房とは山王院の近くになった西谷の住房である唐院(後唐院)であるとする説がある(佐伯1989)。また『寺門伝記補録』では、貞観2年(860)に円珍が園城寺唐坊廓内に一座を構え、山王三聖を勧請したことを記した上で、故叡岳大師(最澄)の房内にも神座があって、房を山王院と号したとする(『寺門伝記補録』第8、山王勧請)。  
貞観10年(868)6月3日、勅によって天台座主に任じられた。円珍は時に55歳であった。同14年(872)9月に叡山に帰ったが、それ以降は朝廷の要請があっても叡山の外には出ることがなかったという。寛平2年(890)12月26日に少僧都に任じられた。しかし翌寛平3年(891)2月には病となったのか、自身の火葬法を指示している。同年10月29日、袈裟をつけて手棒を頂戴し、水で口をそそぎ、右側に臥せて5更(午前3時〜5時)に入滅した。78歳。円珍入滅の36年後の延長5年(927)12月27日、朝廷は円珍に智証大師の諡号を賜った。
■3 
天台宗 
中国十三宗・日本八宗の一で、中国・朝鮮・日本を通じての代表的な一宗とされる。中国天台山で智者大師智覬が創立した教学体系で、日本では最澄が比叡山に開創して以来平安仏教の中枢となり、日本の文化に多大な影響を及ぼした。天台大師智覬は慧思のもとで禅観を修し、実修すべき仏教を法華精神に基づいて五時八教に体系づけ、蔵・通・別・円の四教と空・仮・中三観の教義により十界互具・一念三千の思想を導き出し、天台思想を創始したとされる。我国では延暦四年(785)、東大寺で受戒した最澄が比叡山に籠って天台教学を志し、同二十三年入唐して天台法門を伝承したことに始まる。最澄は天台山湛然門下の道遂と行満から天台法華の法門と菩薩戒、順暁から密教、脩然から牛頭の禅要を伝承、叡山の天台宗の基とした。  
やがて大乗戒の戒壇を設けるために朝廷へ請願を試みた最澄だったが、南都僧綱らの反対で中々実現しなかった。最澄滅後の弘仁十三年(822)ようやく勅許され延暦寺が創建された。この最澄の門下には師の遺志を受継ぐ人材が多く、最澄滅後一山を統率し『天台法華宗義集』を著した義真、第二世天台座主に任ぜられた円澄、延暦寺別当となり師の行業を編した光定、師の伝記『叡山大師伝』を著した一乗忠(仁忠)などが知られ、入唐して師の不十分な密教を補修し伝承した第三世座主円仁、密教の一大円教論を伝来し第四世座主になる円珍ら代表的な門下が最澄の遺詼「我が志を述べよ」を遂行した。また、円仁門下の安然は化法四教と台密を五教論に組織づけて大成し、相応は回峰行を創始するなどの業績を残している。この間の充実した教学で天台教線は地方に延び、各地の大寺が天台別院となった。その後、一時その勢は衰えるも円仁法流の良源座主が承平五年(935)、焼亡した叡山諸堂を復興し、横川に堂舎を開き三塔を確立、論義を始めとした教学を勧め、二十六条式を制して僧団を刷新するなど叡山の中興を行った。その門下は三千とも称され、源信・覚運・覚超・皇慶の四哲と呼ばれる人々を出している。源信が恵心僧都と通称され叡山浄土教を確立し恵心流と称される門流を生み、覚運が法華思想を宣布しその法系を檀那流とし、横川の覚超は密教に秀でその法脈を川ノ流といい、東塔南谷の皇慶の密教法系を谷ノ流とされ、これら四哲の法流はのちに恵壇八流・台密十三流を生んだ。  
一方、円珍法流にも千観や余慶、その門下の慶祚・勝算らの偉才を輩出、中でも余慶は良源と並び称され、永祚元年(989)天台座主に補任されている。しかし、この補任で円仁系の僧徒が反抗、正暦四年(993)ついに円珍派の僧徒らは比叡山を追われ三井寺に移り、この山門対寺門の抗争はのちまで続くこととなった。白河天皇に信任された寺門派の頼豪は、三井寺に戒壇建立を奏したが山門の妨害でかなわず憤死したとも伝えられている。  
また、円仁が五台山から伝えた念仏は四種三昧のうちの常行三昧に位置づけられ、良源の『九品往生義』や源信の『往生要集』による叡山の弥陀信仰は、空也・良忍・永覚らを通じて民間に普及され、法華信仰と念仏往生の調和を生み、良忍、叡空から円頓戒と『往生要集』を相伝した法然房源空、その門流の隆寛・辨長・証空・聖覚・源智・親鸞、さらには一遍ら念仏の学僧は皆叡山で学んでいる。同じく鎌倉仏教を成立させた栄西・栄朝・道元・日蓮も叡山で学んだ。一方最澄が比叡山の守護神を山王と称して以来、神は仏の化現として国を守る本地垂迹思想を展開し、鎌倉時代には山王一実神道として真言宗の両部神道とともに大成する。また、回峰行や修験道と影響しあい記家成仏・声明成仏思想も生じ、円珍が熊野三山で修練したと伝える遺風により、門流の増命・余慶らが入峰練行を行い、増誉・行尊らによって寺門系の本山派修験道の基礎がかためられ、白山・日光山・羽黒山・大山など各地の修験が栄え民間に浸透することとなる。  
元亀二年(1571)、延暦寺は織田信長によって焼き討ちされ全滅するが豊臣秀吉、徳川家康によって再建され、教学や法義は地方学山、特に尊舜・尊海・定珍らによって発展した関東天台によって再興された。中でも天海は仙波喜多院など関東の学山に住し、日光山を領して徳川家康を東照宮大権現となし東叡山寛永寺を創し、親王を迎えて輪王寺門跡とし、歴代皇族がこれに任じ管領宮として天台座主をもかね、明治維新まで全仏教を統轄し天台宗の中心は関東に移った。  
千日回峯行(せんにちかいほうぎょう) / 比叡山第三代天台座主円仁(慈覚大師、794〜864)が入唐し五台山で修行して帰国したことにより、山岳の抖數に関心をもったことから、その弟子相応によって千日回峯行が始められた。相応の創始した回峯行は、堂舎、木石すべてが仏身とされる比叡山の霊地を七年間のべ一千日回峯する修行。その内容は、初年度から三年間は毎日百日間毎夜30キロ、四年目、五年目は同じ距離を百日間歩く。こうして七百日の回峯を終えると、七日間無動寺谷の明王院に籠って、断食・断水・不眠・不休・不臥で毎日十万遍の真言を唱える堂入を行う。次の六年目は百日間にわたって毎夜60キロ、七年目の最後の年は二百日間毎日約60キロの「京都大廻り」を行う。その後、九日間にわたって再び無動寺に籠り断食のうえで七百座の護摩をたき終了する。こうして回峯行が終え当行満阿闍梨になると、土足で宮中に参内して玉体加持をする。 
■4 
延暦寺 
滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。比叡山、または叡山(えいざん)と呼ばれることが多い。平安京(京都)の北にあったので北嶺(ほくれい)とも称された。平安時代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。平成6年(1994)には、古都京都の文化財の一部として、(1200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも登録された。寺紋は天台宗菊輪宝。  
最澄の開創以来、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であった。天台法華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持った。特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った。  
「延暦寺」とは単独の堂宇の名称ではなく、比叡山の山上から東麓にかけて位置する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)などの区域(これらを総称して「三塔十六谷」と称する)に所在する150ほどの堂塔の総称である。日本仏教の礎(佼成出版社)によれば、比叡山の寺社は最盛期は三千を越える寺社で構成されていたと記されている。  
延暦7年(788年)に最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を建てたのが始まりである。開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の弘仁14年(824年)のことであった。  
延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、融通念仏宗の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている。比叡山は文学作品にも数多く登場する。1994年に、ユネスコの世界遺産に古都京都の文化財として登録されている。  
また、「12年籠山行」「千日回峯行」などの厳しい修行が現代まで続けられており、日本仏教の代表的な聖地である。  
名僧を輩出  
大乗戒壇設立後の比叡山は、日本仏教史に残る数々の名僧を輩出した。円仁(慈覚大師、794 - 864)と円珍(智証大師、814 - 891)はどちらも唐に留学して多くの仏典を持ち帰り、比叡山の密教の発展に尽くした。また、円澄は西塔を、円仁は横川を開き、10世紀頃、現在みられる延暦寺の姿ができあがった。  
なお、比叡山の僧はのちに円仁派と円珍派に分かれて激しく対立するようになった。正暦4年(993年)、円珍派の僧約千名は山を下りて園城寺(三井寺)に立てこもった。以後、「山門」(円仁派、延暦寺)と「寺門」(円珍派、園城寺)は対立・抗争を繰り返し、こうした抗争に参加し、武装化した法師の中から自然と僧兵が現われてきた。  
平安から鎌倉時代にかけて延暦寺からは名僧を輩出した。円仁・円珍の後には「元三大師」の別名で知られる良源(慈恵大師)は延暦寺中興の祖として知られ、火災で焼失した堂塔伽藍の再建・寺内の規律維持・学業の発展に尽くした。また、『往生要集』を著し、浄土教の基礎を築いた恵心僧都源信や融通念仏宗の開祖・良忍も現れた。平安末期から鎌倉時代にかけては、いわゆる鎌倉新仏教の祖師たちが比叡山を母体として独自の教えを開いていった。  
比叡山で修行した著名な僧としては以下の人物が挙げられる。  
良源(慈恵大師、元三大師 912年 - 985年)比叡山中興の祖。  
源信(恵心僧都、942年 - 1016年)『往生要集』の著者  
良忍(聖応大師、1072年 - 1132年)融通念仏宗の開祖  
法然(円光大師、源空上人 1133年 - 1212年)日本の浄土宗の開祖  
栄西(千光国師、1141年 - 1215年)日本の臨済宗の開祖  
慈円(慈鎮和尚、1155年 - 1225年)歴史書「愚管抄」の作者。天台座主。  
道元(承陽大師、1200年 - 1253年)日本の曹洞宗の開祖  
親鸞(見真大師、1173年 - 1262年)浄土真宗の開祖  
日蓮(立正大師、1222年 - 1282年)日蓮宗の開祖
5 
聖護院 
京都市左京区にある本山修験宗の総本山。もと天台宗寺門派の大本山で、円満院、実相院とともに天台三門跡のひとつ。 円珍の創建とつたえ、はじめは常光院と称した。寛治4(1090)園城寺長吏の増誉が、白河上皇の熊野詣の先達をつとめた功により熊野三山検校職に任じられ、そのとき聖体護持のために常光院をあたえられたため聖護院と改称された。平安末期、後白河上皇の皇子の静恵法親王(じょうえほっしんのう)が入寺して以来、法親王の入寺があいつぎ門跡として園城寺長吏と熊野三山検校とを兼務した。室町時代から熊野修験者の全国的な組織化をすすめ、江戸時代には本山派(天台系)修験道の本山となり、当山派(真言系)修験道と拮抗した。堂宇は応仁の乱の兵火などでしばしば焼失し寺地も移動したが、 延宝4(延宝4)現在地に再建された。天明8(1788)、安政元(1854)の2度の皇居火災には、当寺が光格天皇や孝明天皇の仮宮となったため、聖護院旧仮皇居として国の史跡にも指定されている。 書院のほか、不動明王立像2体、智証大師(円珍)座像、熊野曼荼羅図などが重要文化財。毎年8月1日には奈良吉野の大峰山に峰入りするため、全国から数千の山伏があつまり、当寺から京都駅まで山伏行列をおこなうことでも有名。また江戸時代以来、土地の名産に聖護院大根があり、現在では八橋煎餅も知られている。 
開創 
聖護院は本山修験宗(山伏)の大本山であり、智証大師・円珍によって創建された天台寺門宗の門跡寺院、本尊は不動明王。本山修験はおよそ千二百年前、役行者神変大菩薩が開 いた宗派で、平安朝の初めに智証大師に伝わり、大納言藤原経輔の子・増誉大僧正に継れた。増誉大僧正は寛治4年(1090)白河上皇が熊野本宮に御参詣の際、先達をつとめた功によって一寺を賜り、「聖体護持」の二字をとって「聖護院」と勅称された。またこのとき増誉大僧正は、熊野三山検校職に任ぜられ、修験道の統轄を命ぜられ た。なお当院は四世門主に後白河天皇の皇子・静恵法親王が入寺し門跡(皇子・貴族などが住まう寺院)となった。 
沿革 
聖護院門跡は初め今の場所にあったが、応仁の乱(1467-1477)で焼失し、洛北の岩倉村長谷の地に移された。文明13年(1481)に夫人日野富子と不和になった足利義政が入寺 したため、本格的に堂舎の整備が行われたが同19年焼失。その後、豊臣秀吉が烏丸上立売に当院を造営、しかし、市中に移った後も再度の火災に見舞われ焼失した。延宝4年(1676)後水尾天皇の皇子・道寛法親王の時に現在地に復した。 
天明8年(1788)御所炎上の際、光格天皇が本院を仮皇居とし3年間住まわれ、また安政元年(1854)の御所炎上の際にも孝明天皇の仮皇居となり、この由緒をもって昭和11年「聖護院旧仮皇居」として史跡に指定された。
 
安然

 

[あんねん、承和8年- 延喜15年 / 841-915] 平安時代前期の天台宗の僧。五大院阿闍梨・阿覚大師・福集金剛・真如金剛などと称される。近江国の生まれ。出自については不明であるが、最澄と同族と伝えられている。初め慈覚大師円仁につき、円仁の死後は遍照に師事して顕密二教(顕教と密教)のほか戒・悉曇(しったん)を学んだ。877年(元慶元年)中国(唐)に渡ろうとしたが断念。884年(元慶8年)に阿闍梨・元慶寺座主となった。晩年は比叡山に五大院を創建して天台教学・密教教学の研究に専念した。安然は、「大日経」を中心とする密教重視を極限まで進めて台密(たいみつ=天台宗における密教)を大成した。 
■2  
天台密教の大成者である、滋賀県の出身で最澄の縁戚とも言われる、円仁の弟子で比叡山を真言宗とまで称した、これは空海の真言宗と言う意味では無く大日如来を軸とした安然の真言宗とされる、天台随一の碩学と言われ円仁、円珍に続き台密に於ける教学理論及び実践面の完成者である。  
自身が創建した五大院に住んだことから・五大院大徳・五大院阿闍梨・阿覚大師・福集金剛・真如金剛等と呼ばれた、安然の主張は一大円教にある、即ち仏の教義は全てが密教であると言う、安然は五教判すなわち、四教の・蔵(三蔵教、小乗)・通(初歩の大乗、声門、縁覚、菩薩)・別(別教、菩薩を説く)・円(三諦円満な縁融法門)の上位に密教を据えて、顕劣密勝すなわち、真言密教を最高の法門と強調した、安然の理論は「仏の所説乃至ないしその法門は悉く真言教」と言い、五教判即ち「円劣密勝」で天台の伝統である密教を四教の上位に於いた、即ち天台宗も真言密教に包括されていると言う、他に教えはなく毘盧遮那如来一佛のみで、諸仏も大日如来そのものであると言う教説で一神教的な要素が加わる、但し偶像崇拝を容認しておりキリスト教・イスラム教との隔たりは大きい。   
若年から顕教・密教・三部大法、即ち両部大法(大日経義釈や金剛頂経義訣など)に蘇悉地、悉曇を学ぶ、入唐を目指したが果たせず、入唐八家の請来経典類を研究しまとめた、四宗兼学の内、円(法華経)・戒(戒律)・禅を否定し密教に統一した。  
空海の秘密曼荼羅十住心論に対抗できる論客は日本佛教界からは徳一を除いて一世紀程現れず、安然の「胎蔵金剛菩提心義略問答抄」が著されて対抗出来るようになった。  
また徳一が反論した程度で批判者が無かった空海の天台宗を一道無為心(真言よりも二段下位)にランクした「十住心論・顕密論」を「胎蔵金剛菩提心義略問答抄」を著して一世紀ぶりに批判している、しかし真言宗との境界が曖昧になり宗派内から批判を受け、晩年及び没年の詳細はよく解らない、安然のラジカルな手法は天台の円、禅派等から酷く疎まれるが台密を維持する為の手法であったとの説がある。  
安然は円珍と共に不動明王信仰に篤く、十九の観想法を示す「不動明王立印儀軌修行次第」を著す等、天台宗の不動信仰の隆盛に貢献した、因みに青蓮院の国宝・不動明王像は安然の十九の観想法を基に描かれている。  
空海の真言宗よりも優位を論じ、著作に「真言宗教時義」「八家招来録」「悉曇蔵八巻」「教時問答」「教時諍論」「菩提心義抄」がある。  
五大院に住んだことから五大院阿闍利・五大院先徳・阿覚大師などと呼ばれた。  
時代の要請か密教に偏重して東密との相違が不明瞭になり比叡山内部から反感を買い、晩年は不遇であった様である、示寂場所や年代は不詳である。  
■3  
五大院安然と台密の系譜について  
天台密教(台密)の特色は胎蔵金剛両部に蘇悉地を加えた三部の密教とする所にあり、胎金合揉め傾向が強い。台密の蘇悉地の相伝はいうまでもなく慈覚大師円仁の入唐求法によるもので、以来両部の要妙に渉る大法として台密め秘伝とされた。円仁は蘇悉地経を、その疏の冒頭で「所レ言蘇悉地錫羅経者、是三部経王、諸尊肝心、緒二総真言之秘旨↓該二貫大教之要妙こと定義し、従来の遮那・止観両業の年分度者に金剛界と蘇悉地の度者を加増せしめた。蘇悉地の伝法は更に貞観十六年十一月に、時の天台座主円珍と阿闇梨遍昭及び承雲の三名の連署による蘇悉地起請状で「与二阿闇梨位一之後、可ニレ授蘇悉地大法一事、右大法者、為二胎蔵金剛界両部大法之両翼↓是以唐大師等井我慈覚大師、殊秘二惜之↓不ニレ同他部軸伍自今以後伝法者、須下教二弟子一令レ登二阿闇梨之位一後方与中授件法か若不レ然者恐損二大道↓故定如レ件」とて阿閨梨位を得た者でなければ伝法がなされない程に秘されたのである。  
しかしながら、蘇悉地は特にその根本印や本尊が明確ではなく、伝法の形式・内容も不分明なのである。そのことが台密の形成の上で後に様々な説を生むのであるが、その最も重大なのは安然の教説であろう。安然は蘇悉地は胎蔵界の悉地法なのであり、それに金剛界の悉地法というべき喩紙経を加えなければ全き都法の伝法はなしえないとするのである。こうした考え方が、後世の台密に喩舐灌頂を生じ、それを秘伝中の深秘となしたことになっていくのではないかと考えられるのである。安然は教時問答巻四に「問、第五蔵何、……一、金剛界秘密蔵、二、胎蔵界秘密蔵、……或可ニレ言三蔵↓加二蘇悉地秘密蔵一以二十八道一而為二紀綱↓ 与二前両界一少差別故、又阿闇梨印信云、是両界部大法之羽翼也、奉レ勅受二学両部大法一寛者方始授レ之、或言二四蔵↓ 加二喩伽喩祇秘密蔵↓謂蘇悉地経十八道錐ニレ異両界州而三部同二胎蔵界↓実是胎蔵大法中之悉地成就法也、今金剛頂喩舐経是可ニレ言両部大法之肝心一也、以三説二両界阿闇梨位行法一故也、其中大悲胎蔵頓証八字印明是大日経中阿闇梨真実智品印明、而明二五部三十七尊法一実是金剛界中之悉地成就法也、故与二蘇悉地法一相対是為二四蔵一……L と、その教説を述べ、蘇悉地が仏部、蓮華部、金剛部の三部立てであるのは胎蔵界の悉地法に異らないとして、より明確に両部を合揉しうる喩舐経を相対させてくる。  
安然は喩祇経を、その疏の冒頭で「此喩伽中有二十二品一有二十四法↓是金剛界蘇悉地法、響如二胎蔵蘇悉地経十八曼茶羅法一」と定義し、巻二では「爾時仏母金剛吉祥復説二成就大悲胎蔵八字真言↓若諦二持一千万遍一獲二得大悲胎蔵中一切法一時頓証一云々、故知此仏母法成二就一切明↓通能成二就大悲胎蔵三部秘法大金剛界五部秘法↓ 非レ如三蘇悉地教三部真言各別成就不ニレ通諸部一」と喩祇経の両部に渉る功能を高く評価している。同様のことは金剛界大法対受記巻七にも、今のと同じ喩祇経金剛吉祥大成就品を引いて「彼真実智品唯有下布二八字法上無二印真言↓今此経中明白説レ之、故知金剛界中兼二説胎蔵極密究寛之法↓若不レ入二此金剛界大阿闇梨位一則胎蔵界大阿闇梨位終無レ由二成就一也、若不レ入二彼胎蔵界二檀大阿闇梨位一則金剛界大阿闇梨位終無レ由二且ハ足一也」という。すなわち両部各別ではなく、通じて功能を満足しえる悉地法を最上とし、胎金両部に通ずる阿闇梨位のみを都法と主張しているのである。それ故に喩舐経を金剛界の悉地法として蘇悉地と相対させることにより台密の機能が十全となり得ると考えたのであろう。  
この喩舐経を重視することは、後世に至っては台密独自の喩祇灌頂を生ずるのであり、また慈円が仏眼尊崇の根拠として安然の教説を基本としたこともすでに指摘されている。それでは、安然がこれ程に強調する喩舐経の伝法が一体どうであったかといえば、それは余り明了にはなしえないのである。安然自身は金剛対受記巻七に「元慶八年十月十五日夜、中院与二首然二人胎蔵授位灌頂一付二此無所不至印及三身説法印↓十六日夜、金剛界中付二大日三昧耶印叫於二後別時一唯安然付二喩舐経阿闇梨位印明州又於二別時一付二真実経三身印明ハ此別時印不レ付二首阿閣梨↓霧検二崔酪一唯教三一人授二与都法一不レ付三一人↓具如二彼経↓ 推二量師意一不ニレ可敢言一云々」とて師の遍昭より唯授一人の秘法として喩舐経阿闇梨印明を付法されたというのである。しかし、安然以前、円仁や安慧の頃には喩舐経の相伝等は全く見えず、円仁、円珍の入唐相承にも全く名は見出せない。将来目録等によると、安然のいわゆる八家秘録では喩祇経は空海、恵運、宗叡の将来であり、円仁の入唐新求聖教目録では青蓮院本にはあるものの、高山寺本には見えないのであるが、ただ金剛吉祥大成就品のみが抽出して将来されている。従って、諸尊法の一つとして相伝した可能性がある、という程の推測しかできない。  
このように喩紙経伝法の系譜は不明であり、それ故に後世の伝承も数説に別れるのである。例えば天台霞標五ノ一にある伝円仁記、十三重灌頂秘録では恵果-義操-義真-円仁と相伝しており、慈眼大師全集所収の西山流喩祇架頂相承は恵は果-義操-全雅-円仁とされ、台密十三流相伝では全雅- 円左仁説が多いものの恵果-慧則- 元政-円仁の系譜をたてる流派もある、という旦ハ合に数種の相承説が見られる。ただ、このうち義操全雅-円仁の相承は全く問題で、それは円仁自身が日本国承和五年入唐求法目録で全雅は弁弘の弟子であるといっているからである。また、三井の敬光の山家学則は「又、喩祇灌頂ハ五大尊者入唐シテ伝へ玉ヒ、殊二台密ニノミ伝フル所ニテ……」と安然入唐相承説まで述べられている。かかる相承説の混乱は、台密の形成期にあっては喩舐経は未だ教相の上に大きな比重を占めていなかったのではないか、と考えられるのであり、喩舐灌頂の成立も、おそらくは平安末期のことなのではなかろうか。従って安然が遍昭より相承したという形式も、灌頂ではなく、単なる伝法であろうと考えられるのであるが、それを安然が唯授一人の秘法として宣揚していることは、台密の伝承の上にひとつの問題を提起することにもなるのではなかろうか。さらにいえば、円仁が喩祇経の中の金剛吉祥大成就品のみを将来しているということは、後世に金剛吉祥大成就品に基づく仏眼尊崇、台密の仏頂信仰の流れの中で、一体どのようにとらえるべき問題なのであろうか。  
台密の系譜の中で、遍昭と安然の位置する所とその教説に…、さらに解明の必要な部分が多く残されているといわざるえない。  
 
1 三 崎良周「慈覚大師の密教における一二の問題」(慈覚大師研究)。  
2 三 崎良周「慈鎮和尚の仏眼信仰」(密教文化、大山公淳教授古希記念号)、同「慈鎮和尚の密教思想について」(仏教史学十ニノ一)、多賀宗隼「慈円の研究」。  
3 小 野勝年「入唐求法巡礼行記の研究」第四巻。  
4 台 密十三流の相承譜については、大正大学、木内尭央助教授の御好意により拝見及び御教示を賜わった。なお、派によっては順暁が最澄に伝法した三種悉地の印信を喩舐伝法と関係づけている場合もあり、稲田祖賢「五大院先徳安然大和尚の相承について」(叡山学報第一輯) では、喩舐灌頂は宗祖が順暁阿闇梨より之れを相承せられ更に慈覚大師が全雅元政二師に従い、長安城に於いて相承せられた事は巡礼記に明な所であって、とあるが、この主張にはいささか混乱ないし錯誤があるようである。 
[ 参考 ]

 

仏教 
最澄 
僧侶修行の旅 
日蓮聖人御書 [1] 
日蓮聖人御書 [2] 
八ツ橋
 
 
空也

 

平安時代中期の僧。阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人と称される。口称念仏の祖、民間における浄土教の先駆者と評価される。俗に天台宗空也派と称する一派において祖と仰がれるが、空也自身は複数宗派と関わりを持つ超宗派的立場を保ち、没後も空也の法統を直接伝える宗派は組織されなかった。よって、空也を開山とする寺院は天台宗に限らず、在世中の活動拠点であった六波羅蜜寺は現在真言宗智山派に属する(空也の没後中興した中信以降、桃山時代までは天台宗であった)。踊念仏、六斎念仏の開祖とも仰がれるが、空也自身がいわゆる踊念仏を修したという確証はない。門弟は、高野聖など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、鎌倉時代の一遍に多大な影響を与えた。    
 
後年多くの伝説が語られたが、史実を推定するに足る一次史料は少なく、『空也誄』(くうやるい)や、慶滋保胤の『日本往生極楽記』が、没後間もない時代に記された僅かな記録である。没年の記録から逆算して、延喜3年(903年)頃の生まれとみられる。生存中から空也は皇室の出(一説には醍醐天皇の落胤)という説が噂されるが、自らの出生を語ることはなかったとされ、真偽は不明。『尊卑分脉』によれば仁明天皇の皇子・常康親王の子とされているが、常康親王は貞観11年(869年)に没しており、年代的にはやや無理がある。延喜22年(922年)頃に尾張国分寺にて出家し、空也と名乗る。若い頃から在俗の修行者として諸国を廻り、「南無阿弥陀仏」の名号を唱えながら道路・橋・寺院などを造るなど社会事業を行い、貴賤(きせん)を問わず幅広い帰依者を得る。  
天慶元年(938年)京都で念仏を勧める。天暦2年(948年)比叡山で天台座主・延昌のもとに受戒し、「光勝」の号を受ける。ただし、空也は生涯超宗派的立場を保っており、天台宗よりもむしろ奈良仏教界、特に思想的には三論宗との関わりが強いという説もある。貴族や民衆からの寄付を募って観音像や四天王像を造立した。天暦4年(950年)より金字大般若経書写を行う。天暦5年(951年)十一面観音像ほか諸像を造立(梵天・帝釈天像、および四天王のうち一躯を除き、六波羅蜜寺に現存)。応和3年(963年)鴨川の河原にて、大々的に金字大般若経供養会を修する。この際に三善道統の起草した「為空也上人供養金字大般若経願文」が伝わる。これらを通して藤原実頼・藤原師氏ら貴族との関係も深める。天禄3年(972年)東山西光寺(京都市東山区、現在の六波羅蜜寺)において、70歳にて示寂。  
彫像  
空也の彫像は、六波羅蜜寺が所蔵する立像(運慶の四男 康勝の作)が、最も有名である。他には、月輪寺(京都市右京区)所蔵、浄土寺(松山市)所蔵、荘厳寺(近江八幡市)所蔵が代表的である。いずれも鎌倉時代の作で、国指定の重要文化財である。彫像の造形は、特徴的である。一様に首から鉦(かね)を下げ、鉦を叩くための撞木(しゅもく)と鹿の角のついた杖をもち、わらじ履きで歩く姿を表す。6体の阿弥陀仏の小像を針金で繋ぎ、開いた口元から吐き出すように取り付けられている。この6体の阿弥陀像は「南無阿弥陀仏」の6字を象徴し、念仏を唱えるさまを視覚的に表現している。後世に作られた空也の彫像・絵画は、全てこのような造形・図像をとる。  
福茶  
正月や節分、大晦日などで飲まれる茶。特に正月の福茶を大福茶(おおぶくちゃ、だいふくちゃ、だいぶくちゃ、大服茶・皇服茶・王服茶とも書く)という。京都・関西地方の慣習。新年の季語。  
入れ方  
黒豆、昆布、梅干し、山椒といった具に煎茶や湯を注ぐ。元日に大福茶として入れる場合は、若水を沸かした湯を用いる。  
起源  
福茶(大福茶)は古くから行われている儀礼である。その起源として次のような説がある。平安時代、村上天皇の頃、疫病の流行を憐れんだ空也上人は十一面観音像を彫り、俥に載せて京の町を曳いて回った。その観音の供え物としていた茶を飲んだ多くの病人が快復したという。また、病床の村上天皇が六波羅蜜寺(空也が開基した寺)の観音の供え物としていた茶を飲んだところ、快復したとの言われもある。村上天皇がこれを吉例として元日に服するようになり(王服)、これにならって一般の人々も一年の邪気を払うために元日に飲むようになったということである。  
各地の福茶  
京都府京都市 / 六波羅蜜寺では、正月3が日の行事として「皇服茶授与」を行っている。疫病が流行った天暦5年(西暦951年)、空也は八葉に割った青竹でたてた茶に、梅干しと結び昆布を入れたものを振る舞ったと伝わる。現在でも無病息災を願う正月の行事として伝承されている。  
長野県佐久地域 / 豆殻または菊の枝などを焚いて若水を沸かす。茶請けとして勝栗、柿、豆(あおばつ)、数の子などを添える。  
■2 
平安時代中期に優婆塞として阿弥陀経を信仰し、南無阿弥陀仏を唱える事にて庶民を教化し、また積極的に社会活動に従事したので人々から「阿弥陀聖」と呼ばれた空也が、改めて延暦寺にて天台宗系念仏を学んだが、観念観想を主体とする天台念仏に疑義を抱き、天台宗を去り称名念仏に切替て京市中を庶民層主体に念仏布教を行い、布教の手段として念仏を唱えながら踊る「踊念仏」を考案した。空也が起した称名念仏(空也念仏)は連綿として受け継がれ、やがて六波羅蜜寺や空也堂を中心に盛んになっていった。後に空也堂などの附近にあった散所と密接になり、空也念仏の聖達による散所が形成されるようになった。空也聖の特色は日常「茶筅」や台所用品である「ササラ竹」を念仏布教をしながら京の市中を売り歩いており、寒中や春秋の彼岸には修業の一環として、瓢や鉢を叩いて念仏や和讃を唱えて市中の墓所や斎場を供養に廻り、また市中の家々を廻り念仏を唱え布施を受けて居たので「鉢叩き」と呼ばれる賎民扱いをされる下級宗教者であった。なぜ彼等が賎民扱いをされたかと云いますと、二つの理由があります。一つは散所に住いしたことである。散所は即ち賎民の集落と見なされたこと。二つ目は彼等が扱う竹細工が賎民の扱う業種であったこと。律令時代には上番する隼人より隼人舞と竹笠造作を習得させるために、隼人司に竹細工所が置かれ専従する隷属の雑戸が設けられていた。雑戸解放後竹細工に従事していた奴婢(被差別民)が、何れかの貴族・社寺を本所として隷属し、散所を形成した処が空也堂の附近であり、この散所と結び付いて空也聖の竹細工の製造販売が成立した。江戸中期頃から空也堂の念仏聖の托鉢姿である「鉢叩き」の風俗を真似た大道芸をするものが現れ、鉦を叩き歌うように念仏を唱え門付をしたので、彼等を称して「歌念仏」と呼んでいたが、彼等は下級宗教者ではなく物乞いの徒であった。
清水寺の近辺は、昔は鳥部野と言って死者を遺棄したり埋葬したりするところでした。化野(あだしの)の露、鳥部野の烟と言われますね。清水寺から清水坂を下り、清水道の信号を渡ってすすむあたりには鳥戸野の入り口にあたる六道の辻に位置しました。その付近には、今は珍皇寺や六波羅蜜寺があります。珍皇寺は中世以来、「六道さん」の名で親しまれ、あの世(冥府)とこの世の出入り口とも考えられていました。今でも、この寺はお盆の前にはあの世からの亡者の英霊を迎えるために多くの参詣者で賑わうとのことです。六波羅蜜寺は空也上人ゆかりの寺です。この寺の空也上人像は口から六体の仏が出ているというように「ナムアミダブツ」という音を形に表わしたことでも有名です。諸国を遊行し、各地で道を拓き、井戸や池を掘り、橋を架け、野原に遺棄された死骸を火葬にしたと伝えられる空也は、972年この寺で入滅しました。六波羅という地名は、昔、遺棄された髑髏が多かったために「どくろがはら」と呼ばれたことから、「ろくはら」という地名がついたとの説もあります。市聖や阿弥陀聖と呼ばれた空也は念仏を民間に広めることに大きな役割を果たしました。
■3 
平安時代中期の僧。天台宗空也派の祖。阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人と称される。民間における浄土教の先駆者と評価される。踊念仏、六斎念仏の開祖とも仰がれるが、空也自身がいわゆる踊念仏を修したという確証はない。門弟は、高野聖など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、鎌倉時代の一遍に、多大な影響を与えた。 
「空也誄」(くうやるい)や、慶滋保胤の「日本往生極楽記」に、生存中から空也は皇室の出(一説には醍醐天皇の落胤)という説が噂されるが、自らの出生を語ることはなかったとされ、真偽は不明。 
922年ごろ、尾張国の国分寺(尾張国分寺)にて出家し、空也と名乗る。若い頃から在俗の修行者として諸国を廻り、南無阿弥陀仏の名号を唱えながら道路・橋・寺などを造り、社会事業を行い、貴賤(きせん)を問わず幅広い帰依者を得る。 
938年、京都で念仏を勧める。 
948年、比叡山で天台座主・延昌のもとに受戒し、「光勝」の号を受ける。(ただし、空也は生涯超宗派的立場を保っており、天台宗よりもむしろ奈良仏教界、特に思想的には三論宗との関わりが強いという説もある。)。 
950年より金字大般若経書写を行う。 
951年、十一面観音像ほか諸像を造立(梵天・帝釈天像、および四天王のうち一躯を除き、六波羅蜜寺に現存)。 
963年、鴨川の岸にて大々的に供養会を修する。これらを通して藤原実頼ら貴族との関係も深める。東山西光寺(京都市東山区、現在の六波羅蜜寺)において、70歳にて示寂。 
空也・彫像 
六波羅蜜寺 空也上人像空也の彫像は、六波羅蜜寺が所蔵する立像(運慶の四男 康勝の作)が、最も有名である。他には、月輪寺(京都市右京区)所蔵、浄土寺(松山市)所蔵、荘厳寺(近江八幡市)所蔵が代表的である。いずれも鎌倉時代の作で、国指定の重要文化財である。 
彫像の造形は、特徴的である。一様に首から鉦(かね)を下げ、鉦を叩くための撞木(しゅもく)と鹿の角のついた杖をもち、わらじ履きで歩く姿を表す。6体の阿弥陀仏の小像を針金で繋ぎ、開いた口元から吐き出すように取り付けられている。この6体の阿弥陀像は「南無阿弥陀仏」の6字を象徴し、念仏を唱えるさまを視覚的に表現している。後世に作られた空也の彫像・絵画は、全てこのような造形・図像をとる。
空也と源信がひろめた念仏 
「お彼岸(ひがん)」をみなさんは知っていますね。秋のお彼岸とか、春のお彼岸って言いますね。彼岸とは、何でしょうか? もとは、サンスクリットのパーラムpram、川の向こう岸という意味です。つまり、あちらの世界、あの世を指している。彼岸とは、あちら側にある宗教的な理想の地、悟りの地の「浄土」なんですね。 
私たちは現実社会の中では、ヒア(here)、「ここ」にいます。でも、いつかはゼア(there)、すなわち、あの世、浄土に行くことになります。もちろん、行いによってはダメな人もいるかもしれない。ちょっとドキドキですね。平安人たちはまさにその渦中にいました。 
京都のはずれ、加茂町には、浄瑠璃寺というお寺があります。11世紀半ばに最初のお堂が建てられましたが、寺内の西に本堂が建てられ、中には九体の阿弥陀仏が東を向いてずらっと並んで座している。寺の中心には池があって、東側から池を挟んで、西の本堂を拝む形になります。すなわち浄瑠璃寺の配置は、西は彼岸、東は此岸(しがん=この世)ですね。まさにヒアとゼアの、この世とあの世を間に池をはさんで構造化したものなんです。 
王朝の栄華が進む一方、都は「不安時代」の様相が濃くなってくる。平安京は朱雀大路を軸として、右京、左京に区分けされた都市でしたが、疫病、盗賊が跋扈(ばっこ)する平安中期には、桂川に近く、低湿だった右京が荒れ果て、人も住まなくなってしまう。朱雀大路の南の端、羅城門では鬼が出て、陰陽師が調伏しようとしても、なかなか収まらない。まさに黒沢明監督の名作「羅生門」で描かれた平安末期の荒廃した世界が始まっていたんです。 
そこで、都大路の人々は浄瑠璃寺の阿弥陀仏が表している「西方阿弥陀浄土(さいほうあみだじょうど)」に、貴賤を問わず強いあこがれをもちはじめたんですね。寺院の中では、仏を念ずる念仏が唱えられていましたが、いよいよ念仏もお寺、あるいは修行する山中で唱えているだけにはいかなくなった。10世紀ごろには都大路で人々に聞こえる形で直接念仏を唱える人が出てきます。その代表的な僧が、市聖(いちのひじり)と呼ばれた空也(くうや)上人ですね。 
京都・六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)では、今も空也踊躍(くうやゆやく)念仏が続けられています。しみじみした鉦(かね)の音に合わせて踊りながら念仏を唱える姿は、空也上人が、人が集まる平安京の東市や西市の門に立って、念仏の功徳を広めるために、念仏を唱えながら踊り、人々に念仏と浄土信仰を勧めた姿を写したものなんです。 
市に現れ、念仏を説く空也の姿は、人々にとって衝撃的なものでした。草鞋を履き、すねを出した粗末な短い衣を着て、胸に下げた鉦を撞木(しゅもく)で鳴らしながら、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱える上人は、圧倒的に人々に尊敬されたんですね。鎌倉時代の仏師康勝(こうしょう)の有名な空也像は、その口から出た「南無阿弥陀仏」の一音一音が6つの仏となったといわれる空也上人の伝説の姿をそのまま彫刻にした印象的な作品です。 
空也は若いときから諸国を遊行し、とくに当時の辺境である東北で仏教を広めていったことが、今も語り継がれています。空也がもつ強い影響力は、仏教を口で伝えるだけでなく、当時あふれていた道ばたの死者を供養して墓を立て、険しい道を平らにし、橋を架けたり井戸を掘るという、民衆の救済事業を念仏を広めるとともに展開していったことにあるんですね。こういった踊り念仏とともに社会の人々を救済する遊行僧の姿は、鎌倉時代の一遍上人と時衆(じしゅう)の人々に受け継がれていくんです。 
もう一人、念仏をより普及させたキーパーソンがいます。天台宗の源信(恵心僧都=えしんそうず)がその人です。985年、学問僧であった源信は、往生の手引書ともいえる「往生要集」(おうじょうようしゅう)を著した。そこに書かれたこの短い言葉が貴族の間で大流行します。「厭離穢土(おんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)」ですね。 
この世は汚れた穢土(えど)、苦悩や矛盾に満ちた世界で、人間はその中を輪廻(りんね)している。これを厭(いと)い、念仏を唱えることによって、阿弥陀仏が永遠の極楽浄土へ導いてくれることが説かれているんです。これが浄土教の基盤となっていきます。 
こういった現世を否定的にみる当時の仏教の観念が、絵画としてわかりやすく描かれて残されています。それが「六道絵(ろくどうえ)」ですね。仏教では、この人間世界は三界六道(さんがいりくどう)にあり、人間は生きているときに果たした善悪により、死後に六つの世界のどれかに輪廻転生(てんしょう)すると考えられたのです。 
その六つの世界とは、一番上に学問、善行を施した者の「天道」、続いて「人道」があります。ここまでが善を行ったものが行くところで、以下、悪行を重ねるにしたがってランクが下がり、いつも戦い合う「修羅道」、獣の道の「畜生道」、飢えに苦しむ「餓鬼道」、そして最後が「地獄」に落ちていく。 
人間の生きる世界とは、六道輪廻の世界で、繰り返し繰り返し続き、なかなか抜け出せない世界なんですね。でも、そこを脱出できる方法があった。それが念仏でした。阿弥陀仏を信仰することにより、これらの輪廻転生を超越した永遠の極楽に迎えられると考えられたのです。源信の「往生要集」は、のちに中国の天台山国清寺にもたらされて、宋の時代の中国仏教界にも大きな影響を与えたといわれてるんですね。  
空也・浄土信仰・念仏・六波羅蜜寺  
空也(「くうや」あるいは「こうや」)は平安時代中期に活躍した僧で、「念仏聖」「阿弥陀聖」「市聖」などとも呼ばれています。京都の六波羅蜜寺に安置された空也上人立像(重文・康勝作)で有名ですが、この像が身にまとう粗末な衣、草履、首にかけた金鼓や左手に握られた鹿の角の杖などは、そのまま空也の過ごした人生を物語っています。 
空也は、延喜三(903)年に生まれました。出生地や、両親については不明です。実は醍醐天皇の第五皇子であるとか、仁明天皇の孫にあたるとかいわれることもありますが、確かなことはわかりません。 
若い在俗のころから人びとのために道路や橋を造り、井戸や池を掘り、うち捨てられた遺体を集め火葬するなどの慈善事業に身を投じました。20歳ごろには尾張国の国分寺で出家をし、このときから「空也」の名を名乗るようになります。30代半ばからは京都に入って市中で貧しい人びとを助け、念仏を説いて暮らし、比叡山で受戒もしました。また貴族層との交流もあり、盛大な法会を催すこともあったといいます。 
天禄三(972)年、彼が創建に尽力した西光寺にて入滅しました。西光寺は、先に述べた六波羅蜜寺の前身となった寺です。 
空也の活躍した同時代に、日本の浄土思想の基礎を築いた源信がいます。天台の学僧であった源信は、「往生要集」を編纂し、貴族を中心に理知的な浄土信仰を広めました。そうした源信と対比して、おもに市井で活躍した空也は、しばしば呪術的・狂騒的な念仏をすすめていたといわれることがあります。 
六波羅蜜寺の像が粗衣をまとい、草鞋に杖の姿なのは諸国を遍歴し市井に暮らした人生を表わしていますが、首からさげた金鼓や口から出てきた六体の阿弥陀仏は、彼の念仏の呪術的・狂騒的な側面を表しているとも考えられます。そうしたことから、鉦を鳴らし鉢や金鼓などを叩いて行う狂騒的な念仏が「空也念仏」と呼ばれ、のちの一遍の踊り念仏へとつながっていったといわれるようになりました。 
空也についての史料はほとんど残っておらず、彼がどのような人生を送り、どのように人びとを勧化したのかよくわかりません。ただ、彼の死後ほどなく、貴族の源為憲によって彼を悼む「空也上人誄」が書かれたり、右大臣藤原実資の日記「小右記」に遺品といわれるものが登場したり、あるいは少しのちの鴨長明「発心集」に空也を「わが国の念仏の始祖」とする文章があったりと、彼の事績が高い評価を得、大きな尊敬を集めていたことは確かといえるでしょう。
■4 
「一たびも南無阿弥陀仏という人の 蓮(はちす)の上にのぼらぬはなし」  
――いかなる人であろうと、一たび南無阿弥陀仏と唱えれば、必ず蓮の上にのぼらないものはいない(極楽往生できないものはない)――  
この和歌を書いた石塔婆を、平安京の囚獄でもあった東市の市門に建てた僧。  
その名を「空也(くうや)(903―972)」と言う。  
私が憧憬を抱く仏祖の一人である。  
わが国ではじめて、貴賎上下を問わず念仏往生を唱導した人。  
わが国ではじめて上人(しょうにん)と呼ばれた人。  
京の都を行乞をして、得るものがあれば病人貧者に施し、己を捨て去り、ひたすらに易行念仏を説いて庶民を勧化し、京の人々に「阿弥陀聖(あみだひじり)」、「市聖(いちのひじり)」と敬慕されて止まなかった人である。  
上の和歌が書かれた石塔婆を読んだ、罪人の心中はいかばかりであったろうか・・・地獄に落ちるは必定であろう我が身でさえ、一たびの念仏で極楽往生できるのだ。それが京の市民の宗教的、精神的な支えであった空也上人の言葉であれば尚のこと、罪人が激しく感涙にむせんだであろうことは想像に難くない。  
空也上人の生涯は多く謎に包まれており、また上人本人の著作も伝わらず、その教えは思想としての結実を見ることはなかった。  
だが、法然上人より200年も先駆けて、口称念仏という究極の易行道を他者救済(利他)の一念で推進した空也上人は、「日本浄土教の祖」と言っても過言ではないであろう。空也上人の市井における口称念仏による万人救済の菩薩道の発露が、歴史(人々)に潜在力(唯識の言葉を借りれば、種子として)として蓄えられたために、鎌倉時代に至り法然上人において専修念仏の教えとして見事に花開くことができたのではなかろうか。また、時宗の祖一遍上人は、念仏者、空也上人の「捨ててこそ」の境涯に自己の宗教的アイデンティティーを求め、空也の「文」という念仏聖としての所懐を護持していたという。  
さて、ここに空也上人のエピソードを紹介したい。  
昔、神泉苑の水門外にひとりの病女があった。年たけ容色衰えているのを、上人 はあわれんで朝夕これを見舞い、袖の中に籠を隠し、その好みに応じて生臭物な ども買い与えて養生させた。ふた月して病女はようやく元気を取り戻し、何か取 り乱してものも言えぬ風情である。上人は女に何を思っているのか問うと、女は 精気が内のこもって、上人と交接したいのです、と答えた。上人はしばらく考え ておられたが、遂にこの女と交わってよいとの気色を示された。病女は嘆息し  て、われは神泉苑の老狐、上人は真の聖人、といいおわって、忽然として姿を消 した。その臥(ね)ていた薦席(こもむしろ)もたちまち消えてしまった。  
長くなるが、このエピソードに対する松本史朗氏の優れた述懐を以下引用する。  
これは、とくにドラマティックな話ではない。ここには、自己の手や足を切断したり、高所から身を投じたりといったような捨身の外的な要素はまったく含まれていない。しかしはっきりいって、これほど恐ろしく、また深い話はない。このエピソードにおいては、空也はすでに京都の市井において、「市聖」、「阿弥陀聖」と呼ばれ、民衆の絶対の信頼を得ている。口にはつねに南無阿弥陀仏と唱えながら、もし布施を受ければみずからそれを用いることなく、貧者や病人に施し、また水の乏しいところには新しく井戸を掘ったりなどしたので、人はみな空也を敬わざるをなかったのである。空也は、このような慈悲の行為のひとつとして年老いた病女の世話にあたっていたものであろう。病を治すために生臭物なども買い与えたと言うところに、例えば戒律と言うような外面的なきはんなどにとらわれずに、ただ相手の苦しみを救おうとする空也の慈悲の深さが現れている。しかるに、病が癒えた老女が望んだことはなんと空也と性的な関係がもちたいということであった。自己というものをまったく捨てて念仏に没入し、ただ利他の行ひとすじに生きてきた空也にとっても、これは驚きであったであろう。空也が生涯女性を知らなかったことは、京都六波羅蜜寺にある彼の木像からもじゅうぶんにうかがい知ることができるし、第一、彼は生まれ落ちて以来、性的なことなど心に思ったことさえなかったであろう。彼はそれほどまでに聖人だったのである。また、かりに空也が老女の頼みを聞き入れて彼女と交わったりしたら、どのようなことになるのか、考えてみるといい。聖人の堕落の話ほど、人々を喜ばせるものはない。彼の名声は一夜にして消えうせ、ごうごうたる非難と軽侮の声がわき起こって、いままで人々に敬われていた彼は、反対に、人々に石をもって追われるようにになるであろう。そして彼のおかげで、せっかく京都の人々の間に根付いたと思われた念仏の習慣もたちまちに消えて、ただ嫌悪の対象となるであろう。こういうことを空也が考えたかどうか。伝記にはただ「しばらく考えた」というところが、おそらくもっとも尊いところなのであろう。空也もまた人間である。迷いがないといえば嘘になる。おそらくは暗い小部屋のかたすみで、笑っている醜い老婆を前に、美しい子どものような顔をうつむけてじっと考え込んでいる空也の姿を想像すると、何かぞっとするようなすごさにとらわれる。しかし、空也はついに決意する。彼は勝ったのである。彼は他人への愛ゆえに自己のすべてを完全に捨て去ったのである。自己の名声をも、そしてまた、自己の清らかさをも。いわば彼は、自己を十字架にかけ、そして殺したのである。それゆえにこそ、初めて「上人は真の聖人」といわれることができたのである。私は、これほどまでに深い愛の話を、あまり聞いたことはない。これほど徹底的な自己放棄、これほど無私の愛がどこにあるであろうか。私はこの話を読んで初めて、彼の像のあの「恍惚」と評される不思議な表情の謎が一部解けたような気がしたのである。  
以上の松本史朗氏の文章は、一エピソードに対して、あまりにドラマティックで空想的な美化をしていると捉える向きもあるだろう。しかし、私はこの文章を読み、氏の捉えた空也上人像の美しさに大きな感動と深い共感を覚えた。(※ただし、氏の思索における断定的で原理主義的な仏教理解にはいささかの疑念を感じざるを得ないのだが…本書は同じ著者が書いた本とは思えない)  
私は、歴史のテキストを客観的史料に基づいて、正確に判断するという作業の妥当性をあまり信用しないし、そのことに重きを置かない。なぜならテキストを解釈する時には、少なからず読み取る側の主観なり価値観が含まれてしまうからである。さらに言えば、論拠とするその史料すら、その作者の主観による読み取りが行われているともいうことができるのだ。ならば、史料に示された事実に反した解釈でなければ、一見素朴に感じられるテキストの内容から、自由にイメージを飛翔させ、躍動する宗教的な“命”にまで昇華させることの方が、むしろ自己・他者の「生」にとって、価値があると考るからである。  
さて、空也上人のかほどに強烈な慈悲心はいずこから生じたものだろうか。  
私は、それは間違いなく空観に基づいた智慧から生じたものであると考える。上人は二十歳で尾張(愛知県)国分寺において出家して沙弥(しゃみ)となり、自ら「空也」の名を称したとされる。詳しくは後述するが空也という名前は『十二門論』のなかの「大乗の深義は空なり」という言葉に由来すると考えられる。空也上人と仏教の根本思想「空」との関係。これは従来省察されることは少なかったようだが、着目すべき事柄であるように思う。鎌倉時代以降の浄土宗・時宗の中には、空也は最初に三論宗を学んだという説が繰り返し伝えられている。法然から弁長・良忠と続く浄土宗の第三祖良忠は、その著『浄土宗要集』の中で、空也は『発心求道集』という書物を遺し、そこには空也が「三論宗吉蔵を常に礼拝し、浄土宗の善導にも常に随順すべきである」と書いていると述べている。以後、空也が三論系の念仏者であったとする伝承は江戸時代の浄土系学者にまで繰り返して論じられている。三論宗はインドの龍樹の『中論』と『十二門論』、弟子の提婆の『百論』の三つの論書を拠りどころとした、般若経の空の思想に基づいた教義を信奉する宗派で、わが国では奈良時代までもっとも有力な宗派であったとされる。また、空也の出家した尾張の国分寺が三論教学の寺、元興寺の系統であったことから考えても、空也が出家の前後に三論を学んだ可能性はきわめて高いといえよう。(引用、参照:『阿弥陀聖 空也 石井義長 講談社選書メチエ』)  
以上のように、空也上人の念仏は、大乗仏教の根幹、「空」思想に裏付けられたものであるということができるのではないであろうか。ここで「空」について詳しく論じる余裕はないが、簡潔に言えば「空」とはからっぽ、虚しいということではなく、すべての現象は関係性の中で生起しており、それ自体の力で成立する固有の実体はないとする真理である。この世界(全宇宙)が空なることを全身心で体現していけば、自我への執着はなくなり、他者の救済がそのまま自利となる。そこに菩薩の自利利他行が現成するのである。  
空也上人はまさにその名の通り、口称念仏を通して「空」なることを全身心で体現した稀有な上人である。そして、その念仏の行は「空」であるがゆえに必然「慈悲」の行であった。「空」を覚ることは、そのまま智慧と慈悲の一如を示すのである。  
私たちの祖先にこれほどまでに「美しい人間」がいたことに驚嘆する。また私は、「空」を体現することがこれほどまでに「美しい人間像」を現出せしめたことに大いなる救いを覚えてならない。  
『空也上人誄(るい)』では空也上人についてこう語っている。  
「尋常(つね)の時、南無阿弥陀仏と称えて、間髪を容れず。天下また呼んで、阿弥陀聖となせり」と。  
京都東山、六波羅蜜寺の空也上人像(運慶四男、康勝作:鎌倉時代)は、そんな上人像を見事に表している。己を捨て去った恍惚とした空也上人像の口元からは、六体の阿弥陀仏が出現している。これはもとより、上人の発した南無阿弥陀仏の六文字の名号が、阿弥陀仏となって現れたものである。南無阿弥陀仏、すなわち永遠のいのちと一如になった空也上人がそこにいる。  
ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがいもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもついやさずして、生死をはなれ、仏となる。 『道元禅師「正法眼蔵 生死巻」』  
京の人々にとって、阿弥陀聖・空也上人の称える念仏の姿は、阿弥陀仏の具現化として自然に感得されたのかもしれない。  
最後に道元禅師の言葉でこの記事を終わりたい。  
菩提心をおこすというは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願しいとなむなり。 『道元禅師「正法眼蔵 発菩提心巻」』 
■5 
専修念仏と融通念仏 
鎌倉時代の念仏の流れは、法然・親鸞・一遍と、その念仏の性格は少しずつ違えど、或る流れがある。 
一遍は、近代になってから、「法然・親鸞・一遍」と、専修念仏の系譜のなかで論じられることが多くなっている。法然によって創始された専修念仏は、その後親鸞、さらに一遍を経て発展、あるいは完成したという論である。柳宗悦の「南無阿弥陀仏・一遍上人」や、唐木順三の「無常」が、そうした立場から書かれたといってよい。 
だが、一遍の浄土教は、専修念仏の影響を深く受けているが、専修念仏の範疇にいれることはできない。なぜなら、一遍は自ら語っているように、平安時代中期に生きた空也(903-972)や、また融通念仏を主宰した良忍の系譜に連なる人物であったからである。 
日本の浄土教の大きな流れである「専修念仏」と「融通念仏」を説明しておかなくてはならない。専修念仏は、要するに法然上人によっていきなり作られた、阿弥陀信仰の極限形です。阿弥陀仏が法蔵菩薩だった頃の誓願に着目し、もし阿弥陀仏が「仏」としてあるならば、必ずこの誓願を果たしてくれるだろうという絶対他力の救済を信仰することで成立する浄土教です。必要なのは、「絶対他力の信」であり、この現世での行いは悪人・善人問わず救済されるという非常に明快な宗教です。後には親鸞聖人に受け継がれ、法然上人・親鸞聖人の門下が教団を作って大きくしたために現在までの日本に多大なる宗教的影響を与えました。 
それに対して、空也上人は「市聖」「阿弥陀聖」と呼ばれた平安中期の仏教者で、在俗の修行者として諸国を遊行遍歴し、阿弥陀仏の名前を称えながら各地で道を開いたり、井戸や池を掘り、橋を架けて、野原に遺棄された死骸を火葬にするなどの救済事業を行いました。36歳の時には京都市中に入り乞食して集めた施物を貧民に与えました。46歳の時に比叡山に上って受戒すると、貴族の外護なども受けるようになりました。同時代には恵心僧都源信などがおり、彼らは哲学的に高度な浄土信仰を貴族層などに広めておりましたが、空也上人は庶民の間に入って情動的・狂躁的な信仰を広めました。千観上人などは、正面からその影響を受けて野に下りました。 
融通念仏は平安時代末期にかかる良忍(1072-1132)上人が阿弥陀仏の直説として感受した「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行 是名他力往生 十界一念 融通念仏 億百万遍 功徳円満」という偈をもって、自他の念仏が融通して円満なる功徳が満ちることを説き、日課として口称念仏するべきだと勧めました。融通念仏は宗派としての勢いはその時々にあって盛衰を繰り返したため、なかなか資料も伝わりませんが、現在の融通念仏宗は鎌倉時代の法明や江戸時代の大通が出て、広めたのが元となっております。大阪市平野区の大念仏寺を総本山とします。 
そして、融通念仏は各地に関係を持っていた寺社がありました。これは、融通念仏が寄付を募る手段として有効だった事があるためです。融通念仏者は各地を旅し、一種の漂泊の民になることから、多くの霊力を身に着けた「聖」としてみられていました。そして、この霊力を頼みに人を集めていたようです。寺社はそれを融通念仏者に依頼し、融通念仏者もそのことによって大手を振って各地の寺社で「興行」を打つ事が出来ました。結果として、融通念仏が行った寺社の祭神が同時に融通念仏の守護神になったようです。こういったことがあったので、一遍の伝記上にも多くの神が登場し、一遍に道を知らせます。結果、これらの説には、法然-親鸞の系統に見るような専修念仏のラディカルさは見えず、思想的にはかなりの相違を見ることが出来ます。13歳の春に筑前太宰府にいた法然の孫弟子聖達に就いて出家しました。それから12年間、浄土教の勉学に励んだそうですが、36歳の時、四天王寺や高野山を経て熊野に詣でて神託を受けます。これ以降はより一層「南無阿弥陀仏」と称えながら神社のお札のような「念仏札」を配ります。後には時宗の祖とされる一遍聖人ですが門弟達には「神明を重んじよ」と説きました。また、岩波文庫本の「一遍上人語録」には熊野権現や大隅正八幡宮や北野天神などの結縁があった事が示されています。 
 
一遍聖人は一宗の開祖であり、その伝記を書こうとすれば大変な労力と時間を費やすことになりますので、ここでは1つ禅宗と関わる有名なエピソードを挙げるに留めておきましょう。一遍聖人は、心地覚心という臨済宗の僧に印可をもらったことが知られています。 
宝満寺(兵庫県神戸市長田区)にて、由良の法灯国師に参禅していたときのことですが、国師が「念起即覚」の話を挙げたときに、一遍聖人はこのように歌を詠んで呈しました。 
 となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏の声ばかりして 
しかし、国師はこの歌を聴いて「まだ徹底していない」と仰ったので、一遍聖人はまた歌を詠んで呈したところ、国師は手巾や薬籠などを与えて、「印可証明の信」を表したのでした。 
 となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏なむあみだ仏 
この一段は、古来から浄土系の祖師と禅宗系の祖師との交流を指摘するものとして知られています。「念起即覚」とは、「無門関」の最後に出る「禅箴」に出る用語だとされていますが、禅宗では一切の善悪の思量の及ばない念こそ覚に他ならないとするのですが、これについて心地覚心が聞いたというのです。すると、一遍聖人は、念仏一念には仏もわたしもなく、ただ「南無阿弥陀仏の声ばかりだ」と詠んだわけです。しかし、覚心は許しません。何故ならば、ここには「南無阿弥陀仏の声」と、「声を聞いている主体」という二見対待が起こっているからです。したがって、それを突かれた一遍聖人は直ちに「南無阿弥陀仏」という仏もわたしもないただ念仏の実相を示すことで、印可証明を受けました。 
このような一遍聖人の宗教には、明らかに禅的と言えるような考えが出てきます。ひたすら「捨」を強調したこともですが、以下のような説示なども禅的だと言えましょう 
浄土門は身心を放下して、三界・六道の中に希望する所ひとつもなくして、往生を願ずるなり。此界の中に、一物も要事あるべからず。此の身をこゝに置ながら、生死をはなるゝことにはあらず。 
我体を捨て南無阿弥陀仏と独一なるを一心不乱といふなり。されば念々の称名は念仏が念仏を申なり。 
又或人、紫雲たち、華降けるを、疑をなしてとひ奉りければ、上人答云、「華の事は華にとへ、紫雲の事は紫雲にとへ、一遍はしらず」と。 
しかし、この華や紫雲が現れたときに、一遍聖人は、自分は知らないから、華のこと華に聞け、紫雲のことは紫雲に聞けという言い回しや、普通であれば「私が南無阿弥陀仏と唱える」と主語と述語に別れるところですが、これを「念仏が念仏を申す」という不可思議な論理はなかなかに面白いですね。しかも、法然上人がひたすらに阿弥陀仏に頼む「信の一念」を強調していたことに対して、以上に取り上げた一遍聖人の説相は「体」に言及が及び、今ここにある私という行為論的な内容が強調されていることを見て取れます。したがって、確かに専修念仏系ではただ信と念仏称名が重要とする選択が働くのに対し、一遍聖人の場合には念仏する行為を媒介に、多くの諸行や信仰を習合していくことになります。それは、或る人と一遍聖人との問答にも良く現れております。 
或る人が問うて「念仏以外のさまざまな修行では往生するものでしょうか、しないものでしょうか?また、「法華経」信仰と名号とはどちらが優れているのでしょうか?」云々と聞いた。 
上人は答えて「さまざまな修行も往生するならばするだろう、しなければしないだろう。また、名号とて「法華経」信仰に劣るなら劣るが良い、勝るなら勝るが良い。小賢しくも智慧者ぶって論議するのを止めて、ひたすら念仏をする者を善導上人は「人中の上々人」と誉められた。「法華経」信仰を釈尊が世に現れた根本義だという経典もある。また、釈尊が五つの汚れた悪い世の中に出で現れて、仏道を成就したのは、この信じがたい「法華経」を説くためだというのも、経典に書いてある。しかし、我らは何かのきっかけにしたがって修行し、役に立ったというならば、それはみな勝れた法だと言うべきであるし、役に立たないのならば劣った法だと言うべきであって、仏の意図した本当のところではない。 
一遍聖人の考え方は、拙僧が何故、宗教者は自分が正しいというのか?にて問題にした「真理の事後決定」に関わってきます。予め真理を定めることは出来ず、決まった後で確認される作業で体系化していくことです。しかし、体系化してしまった人は、事後決定したはずなのに、そのことに気付かないこともあります。例えば法然上人が弟子であった大胡太郎実秀に書いた手紙で示した考え方は一遍聖人や拙僧とはずいぶん異なっています。大胡実秀は阿弥陀念仏に対して、悪人ですら救われるというのなら「法華経」信仰を持っていたのならば、なおさら良いのではないか?と聴いたのです。それについての法然上人の返答は以下のような内容でした。 
「本願念仏では、罪を作った人でさえ、念仏するならば救われるという。それならば「法華経」を読み、さらに念仏するならば、往生は疑いないものになるのではないだろうか?なぜ「法華経」を読むことが不都合なのだろうか?」と、このようにいう人は、私のいる京の都でも少なくなりません。一見、もっともなことに思われますが、中国の善導大師は「阿弥陀仏の誓願に相応ずる行だけが、往生の正しい道であり、そのほかはいかに素晴らしい行であっても、阿弥陀仏が嫌われる道だ」とされておられます。阿弥陀仏がお勧めになっている念仏の道でさえ、我らには辛いものであるのに、阿弥陀仏がお勧めになっていない行を、どうして付け加えられましょうか。 
ここに見るように、法然上人は作善主義から離れ、ただ念仏一道のみを強調していくわけです。「専修念仏」とは、このようなものだとご理解下さい。 
 
一遍聖人の往生について、「一遍上人語録」では上巻には「遺誡」が示され、下巻にはその伝記が示されます。下巻を追いながら、一遍聖人の最期がどのようなものだったのかを考えてみましょう。 
一遍聖人は、往生される年の5月頃生涯がそれほど長くない事を自覚しながら、死期が近い事を弟子達に告げます。そして、往生する前の月になると、「阿弥陀経」を誦してから、所持していた書籍等を自ら焼き捨てて「一代の聖教はみな尽きて、南無阿弥陀仏となってしまったのだ」と言います。この焚書にも、禅的なものを感じるのですが、中国禅宗の祖師でも、多くが焚書して、経典の文字から離れてただ一行に徹する様が描かれます。 
さらに、往生の前に、紫雲がたなびいた事を弟子が報告すると「さてさて、今日明日は臨終の時期ではないようだ。最期の時に紫雲がたなびくという奇瑞が起こるはずがない」と言って一蹴します。一遍聖人は常に「物の道理を知らない者は、変化に執着する心でもって考えるから、真の仏法を知ることがない。これでは何の意味もない。ただ「南無阿弥陀仏」なのだ」と示していたとされますので、奇瑞である紫雲にも興味を示さなかったのでしょう。 
そして、いよいよ臨終が迫ると以下のように説きます。「我が門弟達は、私の葬礼の儀式を調えてはならないぞ。遺体は荒野に捨てて、獣のエサにするのだ。ただし、在家の者で仏法結縁の志を遂げようとする者があれば、葬儀を嫌うものではない」とします。かつて釈尊(ゴータマ=ブッダ)は出家者が葬儀に関わることを否定し、在家人に任せたとされておりますが、その古い伝統にしたがったものでしょう。この点、道元禅師とは全く相反しており、道元禅師は中国禅宗の清規にしたがって僧侶は僧侶によって葬儀をしたものだと拝察されます。弟子の1人である僧海首座に対して葬儀をしたこともあることからご理解できるかと思います。 
また、或る人が一遍聖人に臨終について聞こうとすると、聖人は「良い武士と仏道を志す者は、死ぬ様を辺りには知らせないものだ。私の命が終わる時を、どこの人が知ることがあろう」と言い、最期は杳として知られませんでした(この一連の描写は、前掲同著の137-139頁から、拙僧が意訳しまとめたものです)。 
 
一遍聖人は、一方で夢告などの神秘的体験を示しながら、最終的には今生きる自分自身の肉体を離れた奇跡を信じる事はありませんでした。結果として「聖」としての性格と「禅者」という徹底した現実感とを具有していた念仏者であったように感じます。おそらく伝記で一遍聖人像が多様な描かれ方をしているのは、この相反する性格を備えていたからではないか?と思うのです。臨終に見るような奇跡の否定と死後の肉体を捨てる様は、仏塔信仰によるブッダの神格化へ強烈なアンチテーゼを突きつけます。また一遍聖人の「聖」という性格から、時宗は非常に盛行しましたが、確固たる拠点を持たなかった事と、カリスマ的性格に依存した事もあって、後には衰退します。しかし、盆踊りや死者への祭礼を仏教者の仕事として受け止めるなど、多くの面で日本文化に多大なる影響を与えました。  
民間念仏 
中国浄土教においてすでに念仏の口称性が強調され、教理の面でも口称性の理由が深められていたが、民間の布教される側からみると念仏は同じことばの繰り返しという、呪術的言語にも似た、ありがたいことばであった。日本でもすでに奈良時代から浄土教の教えが入ってきていたが、平安時代になって民間に滲透したのは空也を始めとする念仏聖たちの活躍による。この念仏聖たちは六波羅蜜寺の空也像にみるように鉦(かね)をたたき、鹿の角の杖をつき、ひたすらに六字の名号を称えることにより往生することを説いた。空也を祖とする念仏行者・阿弥陀の聖(ひじり)と称する人々はほかにも多くいて、山林で修行をし、さまざまな霊験を行った。この念仏聖たちの伝統は鎌倉末期に出た一遍上人によって始められた時宗の徒によって引き継がれ、近世にいたるまで、鉢扣き・茶筅などの念仏系の聖として放浪する。一遍は遊行という型で全国を歩く一方、念仏を感得し、歓喜のうちに踊り始めたという踊り念仏をひろめた。これらが芸能化し、さまざまな念仏踊りが成立する。念仏の民間の定着には、念仏聖や時衆の徒のような、シャーマニスティックな民間宗教者の働きがあった。一方受け入れる側の民衆にも、念仏を唱えれば病気が治る、災害からまぬがれることができるとする信仰があった。とくに御霊や怨霊の祟りによって病気や災害がもたらされると考えた時代には、その御霊や怨霊を念仏で無事往生させて災厄を防ぐとしたため、念仏が民俗行事や民俗芸能に多く入るようになった。死してまもない新仏を送る、盆行事に念仏芸能が多いのは当然であるが、ほかに虫送り・雨乞いなどの災厄除けの芸能にも念仏が用いられる。
■6 
空也と一遍  
遊行寺で発見された新たな空也上人立像  
遊行寺の什宝の調査によって発見された「木造空也上人立像」が昨年から遊行寺宝物館で展示されている。今年も、1月1日から2月14日まで「遊行寺の名品」として特別展が遊行寺宝物館で開かれている。空也上人立像は、木造、漆塗り、玉眼像高48cmで室町時代の作品。  
宝物館の解説によれば  
「この空也上人立像は、念仏を唱える口から六体の阿弥陀が現れたという伝承を写実的に表しており、右手に撞木(しゅもく)、左手に鹿角杖(ろつかくじよう)、胸に金鼓(きんこ)をさげている。すねを露わにした足には草鞋(わらじ)をはき、一歩踏み出した姿は躍動的であり、念仏を唱えながら遊行する様子を丁寧に表現している。」  
空也の像は、国指定の重要文化財の六波羅蜜寺蔵(運慶の四男 康勝の作、鎌倉時代)が有名であるが、六波羅蜜寺のものは117cmと大きく、また若く凛々しい顔姿をしている。これに対して今回発見された像は「晩年の老いや苦行相が入るが、眼光は鋭く、信念をもち、歩み続ける表情をよくとらえている。また、衣の裾に阿弥衣(あみえ)風の模様を彫り込んでおり、これは『一遍聖絵』の中に描かれる阿弥衣の模様と酷似しているところから、時宗様式がはいったものと考えられる」という。  
空也とは  
空也については、そのユニークな立像が有名であるが、実際の行動については必ずしも良く知られていない。平安時代中期の僧で、阿弥陀聖、市聖と称され、民間における浄土教の先駆者と評価され、また踊念仏の開祖とも仰がれる人である。空也という名前は「大乗の深義(じんぎ)は空也(くうなり)」からきている。いかなる凡夫愚人もただ「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで極楽往生できると説いて、ただ一人市中に遊行し「一念往生」の思想を実践した人である。彼の歌には次のようなものがある。  
「一たびも南無阿弥陀仏という人の蓮のうえにのぼらぬはなし」  
一遍は空也を祖師と仰ぐ  
なぜ遊行寺に空也上人像があったのか。その彫像の制作や入手、保存の経緯は明確ではないが、遊行寺の時宗の開祖一遍(1239-1286)と空也(903-972)には、300年の時代の隔たりがあるが両者には大変密接な関係がある。一遍もまた、鎌倉時代、遊行における捨聖として念仏を説き、また踊り念仏を広めていった人である。一遍にとって空也は、身命をかけて遊行の行動に入ってゆく時に「わが先達」といい「祖師」と仰いだ人である。その彫像が時宗教団に保存されてきたとしても少しも不思議はない。「捨て聖」と言われた上記の両者の彫像のイメージが何と似ていることか。  
一遍は空也の言葉を常に身に着けていた  
一遍は遊行の際、空也が書いたといわれている次のような言葉を常に身に携えていた。  
「心に執着がないから日が暮れればとまり、身には住むべき所がないから、夜が明ければ立ち去る。耐え忍ぶ衣(心)が厚いから杖や木で叩かれても、石や瓦を投げられても痛くない。慈悲の室(思)が深いので、悪口も聞こえて来ない。口にまかせて唱える念仏三昧であるから、市中がそのまま道場である。念仏の声に従って仏を見るのであるから、出で入る息がそのまま念珠である。(後略)」  
この言葉に述べられている空也の自在な念仏三昧の境地は、一遍に深い共感を与え易行(いぎょう)の称名念仏を述べ伝えた。彼は、阿弥陀仏による他力の教えの開祖といわれる法然(1133-1212)や親鸞(1173-1282)よりも、むしろ更に源流の200年前の空也その人を祖師と仰いでいたのかもしれない。  
どうして空也の文を手に入れていたのか  
空也の記録は余り残っておらず、一遍が持参していたといわれる聖絵の記録が、空也の思想を推し量るうえで大変貴重なものになっている。一遍はどうして空也の文を手に入れていたのか。このことを考える上で、参考になるのがもう一つの空也像である。これは、一遍出自の河野氏の祈願所であった松山の浄土寺にある鎌倉時代製作のものである。この地に空也が3年滞在したという伝説があり、一遍の時代に空也を念仏の祖師として信奉する人々がいて、これらの人々との交流から、一遍は、空也の文を容易に入手出来たのではないかといわれている。一遍の空也敬慕は、まさにこの浄土寺の立像の影響にあったのである。  
踊念仏の始祖  
以上、空也と一遍の関連を述べたが、もうひとつ忘れてはならないのが、「踊り念仏」である。踊り念仏を空也が始めたという記録はないが、比叡山の僧侶たちが念仏を唱えながら阿弥陀仏の周りを回る修行を、初めて京都の町中の民衆の間に持ち込んだのが空也だといわれている。その後、京都の六波羅蜜寺や空也堂に伝えられたほか、芸能者によって全国に広まっていったといわれている。  
「空也堂踊念仏図絵」表題の左側には、松尾芭蕉の俳句「から鮭も空也の痩も寒の中」が記されている。  
「一遍聖絵」においても、「踊り念仏」の先達を市聖空也にもとめている。「そもそもをどり念仏は空也上人或は市屋或は四条の辻にて始行し給ひけり」と。下図は、空也上人が始めたとされるゆかりの地で、踊念仏を実行した時の「一遍聖絵」の場面である。  
一遍も、空也にならって堂内念仏を市中の群集に持ち出すために再び始めたのである。  
「ともはねよ かくても踊れ こころ駒みだのみときくぞうれしき」  
踊りは、一遍にとって何もかも捨て去る心の解放でもあったのである。  
以上、一遍が祖師とした空也との関係を見てきたが、まさに、一遍が、鎌倉時代に、自らをして「空也」を再来させたといっても過言ではないであろう。  
■7 
浄土教の広まり 
末法思想の広まり  
国風文化が栄えた時代、つまり摂関政治が栄えた時代でもあるのですが、都では貴族たちがはなやかで贅沢な生活を送っていました。 
しかし同時に盗賊が横行し、地方でも受領による不正が行われるなど、社会不安が高まってきた時期でもありました。 
このような社会情勢の中、加持祈祷や方違(かたたがえ)・物忌(ものいみ)などが流行し、また怨霊や疫病などの災いをのがれようとする御霊会(ごりょうえ)の信仰もさかんとなりました。 
そしてこのような社会情勢の中、末法思想という考え方が広まり、社会不安におびえる人々の心をとらえました。 
末法思想は外国から伝わった考え方なのですが、この「末法」とはどのような意味なのでしょうか? 
釈迦の死後、仏教が正しく行われている時代1000年間を正法(しょうぼう)の時代とよび、それ以後の1000年間を正しい教えが失われ、形だけの教えが行われる像法(ぞうぼう)の時代とよびます。 
そしてそれ以後、仏教がまったく行われない時代がはじまるとされ、その時期を末法の時代とよびます。 
日本では、この末法の時代が後冷泉天皇の永承7年(1052)に始まると考えられていました。 
末法思想が広がると、人々は社会不安や天災の増大とも相まって、現世における生活に希望を失い、来世に期待をかけるようになります。 
そして、この「末法の世」に、人々の心をとらえたのが、浄土教とよばれる教えでした。 
空也・源信と浄土教  
10世紀の中頃から京都六波羅蜜寺の僧空也(くうや)が、諸国を歩き、浄土教の教えを広めました。浄土教とは、阿弥陀如来に帰依して念仏すれば、誰もが極楽浄土に生まれかわることができるという教えです。 
そして生まれ変わることを仏教用語で「往生する」といいます。ですので、極楽浄土に往生することが浄土教の大きな目的であるということができます。 
空也はとくに人の集まる市で、浄土教の教えを広めたので市聖(いちのひじり)とよばれました。 
さて、ここまでのお話しの中で、大きな疑問が二つわいてこられたと思います。つまり、「極楽浄土とは何なのか?」「念仏とは何なのか?」という疑問です。 
さらに「どうして阿弥陀如来に帰依し、念仏すれば極楽浄土に往生できるのは何故なのか?」という疑問もわきあがってきますよね。 
少し難しい話しになってしまうのですが、こられの説明をこれからしてみたいと思います。 
そもそも仏教の目的は、修行による解脱にありました。解脱とは簡単に言ってしまうと「悟り」を開いて、悩みや苦しみのない世界へ行くこととお考え下さればよいでしょう。そして本来は解脱した者を仏とよびます。 
しかし、浄土教の目的はそのうわべだけをみると、極楽浄土に往生することのように感じられます。 
極楽というとキリスト教で言う天国のような場所を想像されると思うのですが、どうなのでしょうか? 
実は「極楽」ではなく「浄土」の方が、キリスト教でいう「天国」に近い意味の言葉になります。 
解脱した者、すなわち仏の住む世界のことを言います。「仏の住む浄(きよ)められた世界」、それが浄土なんですね。 
そしてこの点が、一神教であるキリスト教と、多神教的な仏教とのちがいになるのですが、仏教では多くの仏がいますから、その仏の数だけ浄土があることになります。 
例えば薬師如来という仏の住む浄土は瑠璃光浄土(るりこうじょうど)といいます。 
ですから極楽浄土とは、阿弥陀如来という仏の住む浄土のことなんですね。 
ところが現在では、たいていの場合、極楽浄土=天国というように考えられがちです。 
これはどうしてなのか、どうして極楽浄土だけがもてはやされ、他の浄土はかすんでしまっているのか、それには理由があります。 
実は、阿弥陀如来は、人々を救うために四十八の誓願をたてているのですが、その中のひとつに「阿弥陀如来を信じるものは、その国、つまり極楽浄土に生まれ変わるために十回「念仏」すればよい。」というものがあるんです。 
もちろん実際に、阿弥陀如来がそう誓願するのを誰かが聞いたというのではありません。阿弥陀如来のことを記した仏典(経典)にそのように書いてあるということです。 
ところが他の仏たちはこんな誓願はたてていません。しかも「十回の念仏」という具体的な方法まで、阿弥陀如来はのべています。 
このことから、「浄土へ往生するなら阿弥陀如来の極楽浄土へ」ということになったのではないか、そしてそれが、「極楽浄土=天国」というイメージができあがった理由ではないか、そんな風に考えられています。 
では次になぜ人々は「極楽浄土への往生」を目指したのか?という点を考えてみたいと思います。 
極楽浄土は阿弥陀如来の住む世界で、まさに「天国」のようなところ、だから誰だって「行けるものなら行ってみたい。」そう考えるのが自然ですよね。 
先ほど、「しかし、浄土教の目的はそのうわべだけをみると、極楽浄土に往生することのように感じられます。」とものべました。 
しかしこれは、正確に言うとちがうんです。 
確かに浄土教は極楽浄土への往生を目指してはいるのですが、それには目的があるんです。浄土教も仏教ですから最終目的が「解脱」であることは変わりません。 
しかし、一般の人がいくら厳しい修行を積んだところで、なかなか解脱という境地にいたることは難しいです。いや不可能と言ってもよいでしょう。 
そこで浄土教では解脱にいたる方法として、極楽浄土への往生をまず目指したんです。つまり、「現世ではなかなか難しい解脱も、極楽浄土で阿弥陀如来の「指導」を受ければ、必ず可能なはずだ。」という考え方ですね。 
このような理由から、浄土教では極楽浄土への往生を目指します。けっして往生そのものが本来の目的ではないのだ、ということをここでご理解下さい。 
では最後に、念仏とは何なのか?というお話しになります。 
これを説明するのは難しいのですが、簡単に言ってしまえば「阿弥陀如来を信じること」と考えていただければよいでしょう。 
具体的にはどのようにすればよいのか?空也が説いたのは「称名念仏」という方法でした。 
これは阿弥陀如来の名を唱える、つまり「南無阿弥陀仏」とくり返し阿弥陀如来に呼びかけることです。ですので、称名念仏は唱名念仏とも表記されます。 
「南無」とは「帰依する」という意味のサンスクリット語です。「称名念仏」は簡単な方法なので、多くの人々に受け入れられました。 
そして「称名念仏」をすすめた空也のあと、源信という僧が「往生要集」を著し、浄土のようすや往生の方法を詳しく説明しました。 
その中で念仏の最も良い方法として源信がすすめたのは称名念仏ではなく「観想念仏」という方法でした。 
「観想念仏」とはいったいどういう方法なのか、これは阿弥陀如来や極楽浄土の有様を出来るだけ思い浮かべる、つまり観想することによって、念仏をするという方法です。 
「イメージトレーニング」というものがありますが、これに近いやり方ですね。 
この方法は、ただ阿弥陀の名を唱える「称名念仏」に比べると少し高度な感じがします。それが理由かどうかは不明ですが、源信の「観想念仏」は貴族たちの間で流行したようです。 
阿弥陀如来の四十八の誓願のように、仏が人々を救うためにたてた誓いのことを「本願」といいます。京都には現在、「西本願寺」「東本願寺」というたいへん有名な寺があります。また、戦国時代には、大坂に「石山本願寺」という寺もありました。「本願寺」という寺号は、ここから来ているんです。 
先ほどご紹介した阿弥陀如来の本願には続きがあって、「もしそれ(阿弥陀如来を信じ、十回念仏した者は極楽浄土に往生できること)が、成し遂げられないならば、私(阿弥陀如来のこと)は解脱しない」とも言っています。 
実はこの本願は、阿弥陀如来がまだ解脱を達成していない法蔵菩薩と呼ばれていた時代にたてられたものなんです。 
そして現在、法蔵菩薩は解脱して阿弥陀如来となっているわけですから、「この本願は必ずまもられるはずだ」と信者たちは考えるわけですね。 
ですから、阿弥陀如来の本願を信じている者にとって最後に問題になってくるのは「十回の念仏」の意味だけ、ということになります。 
おそらく「十回」という回数には大きな意味はないのでしょう。これは「簡単にできる」ということのたとえであると考えられています。 
そして「念仏とは具体的に何をすればよいのか」という問題に対する答えが、空也の「称名念仏」であり、源信の「観想念仏」であると、そのようにご理解いただければよいと思います。 
本地垂迹説と浄土教美術  
浄土教の流行と前後して、奈良時代からすでにおこっていた神仏習合の思想がさらに発展し、平安時代の後期には本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)という考え方が確立しました。 
神仏習合とは、神道と仏教の融合をはかることですが、これが発展したのが本地垂迹説です。 
本地垂迹説とは、簡単に言ってしまうと、「神は仏が仮に形を変えてこの世に現れたものである」、つまり「神は仏の化身である」という考え方ですね。 
この化身のことを「権現」といいます。 
もう少し後の時代になると、神道における最高神である天照大神は、実は大日如来が形を変えたものであると考えるなど、それぞれの神について特定の仏をあてはめることがさかんになりました。 
本地垂迹説では、あくまでも仏が本体(本地)で、神は仏の仮のすがたという考え方です。つまり、「仏主神従」ですね。 
寺院の側でもその守護神を鎮守として境内に祀ったり、あるいは神宮寺といって、神社の境内に寺が建てられたり、あるいは仏像をまねて神像をつくったりということも行われました。 
この神仏習合から本地垂迹説への流れは、「仏教の国風化」といえるでしょう。この考え方は、明治初年に神仏分離令が出されるまで続きました。 
浄土教の流行にともなって、それに関係した美術作品も数多く生まれました。 
「浄土教美術」の中で最も有名なのは、阿弥陀堂です。これは源信のすすめた「観想念仏」を形にしたものであると考えることができます。 
阿弥陀堂とは阿弥陀如来を安置するためのお堂のことですが、その内部は贅をこらしたつくりになっており、現世に「極楽浄土」を再現しようとしたことがよく分かります。つまり、当時の人々が、イメージした極楽浄土の姿がそこにあるわけですね。 
この時代につくられた阿弥陀堂で最も有名なものは、京都府宇治市にある平等院鳳凰堂でしょう。 
10円硬貨にもデザインされており、みなさんもよくご存じだと思います。建設したのは藤原頼通ですね。 
平等院は、1052年、つまり日本において末法の時代が始まると考えられていた年に、頼通が宇治に持っていた別荘を寺としたものです。 
平等院の阿弥陀堂である鳳凰堂は、翌年の1053年に落成しました。 
ところで、「鳳凰堂」という名前の由来をご存じでしょうか?実は鳳凰とは伝説上の鳥の名前なんですね。 
鳳(ほう)は「大鳥」、凰(おう)は「神鳥」のことであるとされています。姿はクジャクに似ており、「聖人」が現れるとき、出現する鳥であると考えられていました。 
鳳凰堂のデザインをじっと見てみて下さい。どうでしょうか?鳳凰が翼を広げたように見えないでしょうか?これが名前の由来だと言われています。 
ちなみに鳳がオスで、凰はメスなんだそうです。 
もうひとつ有名な阿弥陀堂があります。そうです、岩手県平泉町にある中尊寺金色堂ですね。 
中尊寺は藤原清衡(ふじわらのきよひら)が建立した寺院で、1105年に元になる寺が建てられ、1126年から「中尊寺」という寺号を用いるようになったそうです。 
阿弥陀堂である金色堂は、1124年の建立です。その名の通り、その内壁・外壁は、漆塗の上から金箔がはられ、文字通り金色に輝いていたそうです。 
阿弥陀堂としてはこの二つが有名なんですが、実はもうひとつ、この二つに先立つ素晴らしい寺がありました。ご存じでしょうか? 
それは京都市上京区にあった法成寺(ほうじょうじ)で、建立したのは藤原道長です。 
1019年に出家した道長が阿弥陀堂を建立したのが法成寺の始まりであると言われています。そして1022年に金堂と講堂の落慶供養が行われ、そのときから法成寺と称するようになったようです。 
道長が亡くなるとき、法成寺の本堂に床を敷き、本尊の阿弥陀如来と自分の手を五色の糸でつないで臨終を迎えたという話は有名ですね。 
法成寺は1058年に炎上し、その後頼通によって再建されましたが、鎌倉時代に入ると衰退し、残念ながら現在では残っていません。 
次にこの時代の仏像のお話しをしましょう。 
この時代につくられた仏像で最も有名なものは、平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像でしょう。 
平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像は、たいへん柔和で気高い姿をしています。作者は定朝(じょうちょう)という仏師で、寄木造とよばれる技法を完成させた人物として有名です。 
寄木造とは、それまでの一木造(いちぼくづくり)とはちがい、仏像のからだをいくつかの「部品」に分け、それを仏師が分担して彫り、これらを最後に組み立ててひとつの仏像にするという手法です。 
寄木造は、まるでプラモデルをつくるようにして仏像をつくる手法なんですね。この手法は能率的で、それまでに比べると仏像の「大量生産」が可能になったそうです。 
この時代の作ではないのですが、この時代に関係の深い木像がもうひとつあります。空也像です。 
市聖(いちのひじり)とよばれた空也が、布教している姿をあらわしたものですが、その特徴は口から6体の小さな仏像がはき出されているという点です。 
これは空也が「南無阿弥陀仏」と唱えたところ、その一音一音が、阿弥陀仏に変わったという伝説をあらわしたものなんですね。 
空也像は鎌倉時代中期の康勝(こうしょう)の作で、京都の六波羅蜜寺にあります。 
絵画では、往生しようとする人々を迎えるために阿弥陀如来が来臨する場面を示した来迎図(らいごうず)がさかんに描かれ、人々の信仰を助けました。   
8 
信仰と民謡 
踊り念佛から念佛踊りへ  
現在多くの人々は、念佛は極楽往生の願いを実現するために始ったと解している。  
日本に伝えられた初期の念佛は、中国の五台山の法照流五会念佛(ホウショウリュウゴエネンブツ)で、天台宗の僧円仁(エンニン・794〜864)が行った比叡山常行堂引声(インゼイ)念佛といわれ、歌讃詠唱する音楽的念佛であった。これは願生(ガンショウ)浄土のためでなく、天台宗の四種三昧の実践であり、阿弥陀佛の名を詠唱して常行三昧を行ずることで摩訶止観(マカシカン)の諸法実相の理を悟るためのものであった。だから念佛は方便として用いられたのであった。この念佛の曲調を伝承して比叡山の常行堂の不断念佛に結番(けつばん)するのが堂僧であった。融通念佛の良忍(リョウニン・1072〜1132)がこの堂僧の中から出たのも理のあることであった。  
この常行三昧の引声念彿が融通念佛に通ずるものである。  
融通念佛は一般に「一人一切人、一切人一人、一行一切行、一切行一行」というのは、常行堂の引声念佛に源をもつ詠唱念佛であった。その曲調を、朗詠、今様のような日本的発声法にし、民衆に歌いやすくしたものが良忍の融通念佛であり、念佛を合唱することですべての人の往生を確かにする方法であった。  
現存の詠唱念佛である六斉念佛は、先の融通念佛のうち「四編」(シヘン)「阪東」(バンドウ)「白舞」を入れているので、六斉念佛は融通念佛から出来てきたことを示している。  
この融通念佛と踊り念佛は鎌倉時代の中頃に現われる。それは円覚十万上人道御(ドウギョ)であった。道御は正嘉(ショウカ)元年(1257)壬生寺(ミブデラ)で融通念佛狂言を始め、融通念佛は大念佛の名で踊り念佛化した。道御は唐招提寺や法隆寺の勧進聖で10万人を勧進するごとに大念佛会を営み十万人聖といわれ、生涯に100万人勧進をしたので、百万聖人(しょうにん)ともいわれた。また、謡曲「百万」はこの聖を題材にしたものである。  
踊り念佛は空也(クウヤ)(903〜972)に始まる。『日本往生極楽記』に記されているように市聖(イチヒジリ)といい、阿弥陀聖というように念佛に重点をおく跳躍、足踏を中心に、鉦(カネ)や杓(ヒサゴ)を持つ程度とみられる。  
すべての芸能は神や霊に対する鎮魂、呪術舞踊に出発し、死霊や怨霊による凶作や疫病をさけるために呪文、呪声、仮面、呪具、足踏(反閇(へんばい))があるけれど、呪具はやがて風流へ発展し、呪文は歌謡や念佛へ、呪舞は舞踊や行道へ発展したものである。空也上人の頃も大念佛や怨霊鎮魂の御霊会が屡々なされており、踊り念佛も大念佛となったことは自然の歩みとみられる。源平争乱による怨死者を亡魂する七日間大念佛が「法然上人行状画図」(巻三十)にみえる。地方では遊行聖(ユウギョウヒジリ)たちのすすめで大念佛がされている。  
大念佛の場所に供養卒塔婆が立つことが多いが、空也没30年の後に記された『拾遺抄』に「市門にかきつけて待りける」とあり、寿永(ジュエイ)3年の『拾遺抄註』に七条猪隈(シチジョウイノクマ)の市門に石卒塔婆をのせている。この市門のあとに一遍の市屋道場が建てられたのである。  
一遍上人(1239〜1289)は時宗の開祖で弘安2年、信州小田切で踊り念佛を始めたという。それは空也上人のものを受け継いだので、『聖絵(ヒジリエ)』を見ればわかるように「うたう念佛」であり、融通念佛であった。一遍の配った南無阿弥陀佛の賦算札は60万人を志したが、25万人で入寂(ニュウジャク)した。世間では時宗特有のものと考えているが、実は融通念佛のものであった。  
『一遍聖絵』の踊り念佛では高台の館の庇の間に狩衣姿の主人、そして従者が座し、板縁に一遍が立ち鉢をたたく。庭では20人程の僧と俗が輪を作り、中心に鉢をたたく者がある。鉢と簓(ササラ)をもつ僧侶がいる。足拍子をそろえ、踊りに熱中している。老僧が撞木(ツエギ)をもち、若僧侶が鉢をもって、踊りの輪の中心で踊る。これが調声人物(チョウショウジンブツ)である。風流踊りの念佛では願念坊(ガンネンボウ)、願人坊(ガンニンボウ)、道心坊(ドウシンボウ)、新発意(シンボチ)に当る。  
盆踊り  
旧暦7月13日〜16日、新暦で8月13日〜16日を中心として孟蘭盆会にする舞踊を盆踊りという。村落で先祖を迎え、夜を徹して舞踊するものである。  
折しも日本人は正月、お盆、春秋お彼岸に先祖がこの国土へ帰り来るとの霊魂観念を持っており、その折に先祖を迎えて交歓舞踊するもので、仏教の解説によって亡魂供養が広まった。 
盆踊りは室町期の永享(エイキョウ)の頃、『看聞御記』によると風流(フリュウ)行列に念彿を囃す形が生じてくる。『経覚私要鈔』『大乘院寺社雑事記』が著された長禄から文明年間には、練り物と踊り念佛が華麗な盆踊りに変化してきた。  
永禄(エイロク)11年(1568)京都烏丸の盆踊りに真ん中に幟(ハタ)をもち華麗装束の50人以上の町衆が二重の円陣で盆踊りをした。4年後の元亀2年、京都室町衆によって、7月16・17・18・19日に盆踊りが行われ、73の燈籠風流(フリュウ)で賑わった。  
『多聞院日記』『実隆公記』『三藐記』『慶長日件録』を並べると、室町期、京都、奈良の盆踊りが150年程の間に公家衆、町衆に、また華麗風流(フリュウ)も踊り念佛として民間に浸透してきたことがわかる。一方踊り念佛も空也、一遍からみれば、これ又風流(フリュウ)により変化してきている。  
次に、江戸時代の幕藩体制下での厳しい取り締りの下で、どういう姿に変化したかを理解しておかねばならない。  
江戸期の風俗等を記した『風俗問状答』をはじめ、『飛州志七』『羇旅(キリョウ)漫録中』『中陵漫録巻十四』『守貞漫稿巻二十四』『嬉遊笑覧』をみると盆踊りは7月夜、笛、太鼓、三味線、鉦が入り、男女が踊り、音頭取がでて七七七五調の唄で流行唄伊勢音頭、ときに僧衣で「鉦をうち地獄極楽の事など作りたるものに、節をつけて唄い」「念佛踊りと名付、盆前より男女大勢入交りて、鉦太鼓等にてはやし踊り候その唄身ぶり実に鄙(ヒナ)ぶりにて甚だおかしく、それを楽しみ盆遊びにいたし候」(奥州白川)、丹後峯山では「町方いろは音頭、在方那須の与市扇の的」などから、一般に目蓮尊者(モクレンソンジャ)の物語りも唄の中へ入ってきた。  
盆踊りの母胎は古代の鎮魂の儀礼であり、中世になつて風流(フリュウ)や踊り念佛と言われ、寺院の法会に付随してきた。近世になると、各地の様々な踊りの手ぶりが加わり、風流踊りとなり、念彿踊りになり、次第に娯楽化の方向へ転化してきたとみられる。  
ところが踊りが何度も禁止されたのは、民衆の結集が大きな脅威であったからであり、江戸期に伊勢音頭はしばしば禁止された。富山県八尾町黒瀬谷の本法寺には盆踊りの折、伊勢音頭を唄うことを禁じた文書があり、伊勢音頭の波が年を異にして入っていたのである。  
越中の盆踊りを眺めると、多種多様ではあるが大要を列挙しておく。  
下新川…はねそ、口説き、ざんざか、千代萩、鈴木主水、見真大師口き説 
黒部…はねそ、川崎、まつざか、二十八日口説、古代神、見真大師 
魚津市…はねそ、蝶六、松坂、見真大師  
滑川市…松坂、はねそ、古代神、心中物 
上市町…川崎、鈴木主水、松栄、歓喜嘆 
富山市…松栄、えんやら、やんさ、野下、鈴木主水 
大山町…サッサ、えんやら、ガラテン、心中 
婦中町…やんさ、川崎、どっとこせ−(お七くどき)、おわら、忠臣蔵、歓喜嘆 
新湊市…口説き(サカタ)、ぼんぼら貝、野下、坂田、段物、忠臣蔵、やんさ、荷下、ちょんがれ、からくち、歓喜嘆 
氷見市…青田、ぼんぼら貝、ちょんかり、鈴木主水、忠臣蔵 
福光・城端…チョンガレ、さかた、目蓮尊者、けいけいづくし、松坂、八百屋お七、鈴木主水、村づくし 
五箇山…ちょんかり、八百屋お七、草島ぶし、古代神、川崎、坂田、あさい、麦やぶし、平井権八 
高岡・砺波・戸出…さかた、本回り、栗ひろい、すすはき、石山合戦、おさ物語 けいけいづくし、鈴木主水、平井権八 ないないづくし 
庄川町…ちょんかれ、目蓮尊者、地獄めぐり、鈴木主水、石山合戦、袖しぼり、忠臣蔵、栗ひろい 
井波町…ちょんかれ、地獄めぐり、宮本左エ門、一ノ谷村づくし ものづくし、ないないづくし、坂田、綽如上人 
福野町…ちょんかれ、坂田、宮本左エ門、鈴木主水、石山合戦、目蓮尊者、釈迦一代記 
小矢部市…さんかさ、目蓮尊者、鈴木主水、袖しぼり、八百屋お七、村づくし、古代神、ないないづくし 
福岡町…坂田、さんかさ、目蓮尊者、鈴木主水、袖しぼり、すげさ、青田、ものづくし、盆踊り、チョンカレ節 
盆踊りチョンガレ  
北陸の盆踊りにチョンガレ節が広く歌われている。  
チョンガレの名は念佛聖くずれの願人坊主が鉦(カネ)をたたき諸国を歌い歩いた音曲ともいうが、チョンガレの語は「ちょろける」「ちょうける」、関西の「悪ふざけ」、関東の「ちょき者」、瓢軽(ひょうきん)の意ともいう。  
そのことばは福井市、加賀、能登、越中に分布している。特に越中の呉西では横綱、大関、関脇、小結、前頭という番付にして音頭取の美声を競い神社、寺院での大会では、その名を掲額している。  
また、音頭取の師匠の碑が呉西地区(小矢部市・砺波市)にみられる。チョンガレ流行は、特に吉崎、二俣、福光、城端、小矢部、福野、川崎、桂(五箇山)と地図上で一直線に並んでいる。  
一方、チョンガレ節の台本が福光、井波、戸出の各図書館に所蔵されている。特に福光町図書館には江戸末期から、明治のものが多く、県文化財に指定された。  
この台本からもチョンガレの諷刺即妙の戯れの意を十分理解することができる。  
新川地方の古代神は新保広大寺節(シンボコウダイジブシ)を母胎にした口説き節で、踊りの振りは願人坊主の踊りが基本である。また魚津のせりこみ蝶六は、この古代神から分かれて出来たものである。石川県津幡町のチョンカレ盆踊りは県指定文化財になっているが、実は越中から願人坊主が訪れて伝承されたものだと伝えている。  
次に県内のチョンガレ保存会を紹介する。  
小矢部市東蟹谷地区/ちょんがれ保存会 
伝承によると、文明3年蓮如上人が越前吉崎から越中へ布教に来られ、蟹谷庄土山の土山御坊(現伏木勝興寺の旧跡)を作り、高木場(高窪)に移り、小原道は加賀、越中の交通要地で、この道筋にちょんかれ節が唄われ、報恩感謝の盆踊唄と伝えている。  
盆踊りの場所は浄福寺(水落)、勝満寺(水島)、清月寺(芹川)が多く、9月の地蔵祭が最後であった。歌詞として次の如くである。  
浄瑠璃風のもの…仮名手本忠臣蔵、太閤記、勧進帳、源平盛衰記等  
仏教説話風のもの…目蓮尊者、釈迦八相記等  
武勇風のもの…平井権八、岩見重太郎、鈴木主水、石山合戦等  
人物風のもの…八百屋お七、箱根仇討等 
この中で特に好まれたのが、「目蓮尊者地獄めぐり」「鈴木主水」「八百屋お七」等である。  
福光町ちょんかれ保存会 
ちょんがれ 『目蓮尊者 全五段』『石山合戦』『清八おつじの恋ものがたり』『蜈蚣(百足)退治』『鈴木主水 上・下』『八百屋お七 四段目』『平井権八 岩屋の段』『雲州作兵衛白石囃』『宮本武勇伝』  
からくち 『俵藤太縄ケ池伝説物語』『けいけいづくし』『八百屋お七物語』『青物づくし』『草づくし』『国づくし』『赤間ケ関和尚おとし』等  
城端ちょんがれ保存会  
庄川町五ヶ種ちょんがれ保存会  
石川県のチョンガレを、『石川県民謡』から引用すると  
じょんがら…野々市町、鶴来町、能登町、寺井町、鹿島郡中島町、輪島町  
ちょんがり音頭…河北郡津幡町、羽咋市神子原  
ちょんがり節…輪島、珠洲、鳳至郡柳田  
歓喜嘆…野々市町、河内村  
蓮如おどり(シャシャムシャ)…加賀市塩屋町  
この他に、能登時国の盆踊り、福井県芦原町浜坂の盆踊り、石川県白峰村桑島の「じょうかべ」の口説きなどのチョンガレがある。 
北陸の福井、加賀、能登半島、富山県呉西地区の分布をみると、蓮如時代と言えなくとも真宗と深い関連がみられる。  
チョンガレ節は一般に浪花節の前身とみられて、説教祭文から変化してきたと解されたが、特徴は節(フシ)が早口で軽快になり、冗談を交じえて人を笑わせ、独特の台本もできた。ときに浄瑠璃の一部を口説きにしたものが語られ、台本は古いもので、節だけチョンガレのものもあった。チョボクレ チョボクレ、チョンガレ チョンガレのはやし言葉も入るが、その発声法は「へばり声」と言われて、祭文も、チョンガレも、浪花節も同じとされている。また浪花節の節廻しは義太夫、祭文、歌舞伎の声色にも取り入れられ、近畿地方の盆踊り「江州音頭」にも取り入れられた。  
浄土真宗の色が濃いのは、浪花節への以前に、浄土真宗の唱導に利用されていたらしく、『綽如上人記五段次第』『釈迦八相記ちょんがれぶし』『石山合戦ちょんがれ』『目蓮尊者ちょんがれ』『童子丸』『親鸞経』等が有力なものである。こうしてみると、チョンガレ節の民謡史上の位置を理解することができる。  
[ 参考 ]

 

踊念仏・盆踊り 
念仏 
一遍 
時宗・時衆 
口説きの系譜 
説経節 
仏教
 
 
性空

 

[しょうくう、延喜10年-寛弘4年(910-1007)] 平安時代中期の天台宗の僧。父は従四位下橘善根。俗名は橘善行。京都の生まれ。書写上人とも呼ばれる。
36歳の時、慈恵大師(元三大師)良源に師事して出家。日向国霧島山や筑前国脊振山で修行し、966年(康保3年)播磨国書写山に入山し、国司藤原季孝の帰依を受けて圓教寺(西国三十三所霊場の一つ)を創建、花山法皇・源信(恵心僧都)・慶滋保胤の参詣を受けた。980年(天元3年)には蔵賀とともに比叡山根本中堂の落慶法要に参列している。早くから山岳仏教を背景とする聖(ひじり)の系統に属する法華経持経者として知られ、存命中から多くの霊験があったことが伝えられている。1007年(寛弘4年)、播磨国弥勒寺で98歳(80歳)で亡くなった。
圓教寺には肖像彫刻・性空像(重要文化財)があり、東京大学史料編纂所は性空像の模本(画像)を所蔵している。 
徒然草 / 第六十九段
書寫の上人は、法華讀誦の功積りて、六根淨にかなへる人なりけり。旅の假屋に立ち入られけるに、豆の殻を焚きて豆を煮ける音の、つぶつぶと鳴るを聞き給ひければ、「疎からぬ己等(おのれら)しも、恨めしく我をば煮て、辛(から)き目を見するものかな」と言ひけり。焚かるゝ豆がらのはらはらと鳴る音は、「我が心よりする事かは。燒かるゝはいかばかり堪へがたけれども、力なきことなり。かくな恨み給ひそ」とぞ聞えける。 
 
 
源信

 

平安時代中期の天台宗の僧。恵心僧都(えしんそうず)と尊称される。浄土真宗では、七高僧の第六祖とされ、源信和尚、源信大師と尊称される。  
(年齢は、数え年。日付は、文献との整合を保つため、旧暦(宣明暦)表示(生歿年月日を除く)とした。)  
天慶5年(942年)、大和国(現在の奈良県)北葛城郡当麻[2]に生まれる。幼名は「千菊丸」。父は卜部正親、母は清原氏。  
天暦2年(948年)、7歳の時に父と死別。  
天暦4年(950年)、信仰心の篤い母の影響により9歳で、比叡山中興の祖慈慧大師良源(通称、元三大師)に入門し、止観業、遮那業を学ぶ。  
天暦9年(955年)、得度。  
天暦10年(956年)、15歳で『称讃浄土経』を講じ、村上天皇により法華八講の講師の一人に選ばれる。そして、下賜された褒美の品(布帛〈織物〉など)を故郷で暮らす母に送ったところ、母は源信を諌める和歌を添えてその品物を送り返した。その諫言に従い、名利の道を捨てて、横川にある恵心院(現在の建物は、坂本里坊にあった別当大師堂を移築再建)に隠棲し、念仏三昧の求道の道を選ぶ。  
   母の諫言の和歌 
    「後の世を渡す橋とぞ思ひしに 世渡る僧となるぞ悲しき まことの求道者となり給へ」  
永観2年(984年)11月、師・良源が病におかされ、これを機に『往生要集』の撰述に入る。永観3年(985年)1月3日、良源は示寂。  
寛和元年(985年)3月、『往生要集』脱稿する。  
寛弘元年(1004年)、藤原道長が帰依し、権少僧都となる。  
寛弘2年(1005年)、母の諫言の通り、名誉を好まず、わずか1年で権少僧都の位を辞退する。  
長和3年(1014年)、『阿弥陀経略記』を撰述。  
寛仁元年6月10日(1017年7月6日)、76歳にて示寂。臨終にあたって阿弥陀如来像の手に結びつけた糸を手にして、合掌しながら入滅した。  
浄土真宗の宗祖とされる親鸞は、主著『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)「行巻」の末尾にある偈頌『正信念仏偈』(『正信偈』)「源信章」で、「源信広開一代教 偏帰安養勧一切 専雑執心判浅深 報化二土正弁立 極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」と源信の徳と教えを称えている。また『高僧和讃』において、「源信大師」10首を作成し称讃している。 
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和讃 
仏・菩薩や祖師・先徳、経典・教義などを日本語で讃歎した讃歌である。インド語または中国語でとなえる「梵讃」「漢讃」に対し、七五調で作られたものが多く、これに創作当時流行していた節を付けて朗唱する。 
起源は古く、平安時代には「法華讃歎」「百石(ももさか)讃歎」などが流行し、古い和讃には、良源作と伝えられる「本覚讃」、千観作になる「極楽浄土弥陀和讃」、源信作「極楽六時讃」「来迎讃」などがあり、ほとんど平安中期の天台浄土教によって流布したものである。鎌倉時代には、和讃は布教の用に広く認められ鎌倉仏教各宗で流行をした。浄土真宗の親鸞作の「三帖和讃」(浄土和讃・高僧和讃・正像末和讃)や、時宗の一遍作「別願讃」や他阿作「往生讃」などを含む「浄業(じょうごう)和讃」などが代表となっている。こうした和讃は、広く民衆の間に流布し、日本の音楽に大きな影響を与え、民謡や歌謡、ことに演歌などの歌唱法に影響の形跡が残っている。和讃は一般には諸仏、菩薩、高僧の徳や行跡を和文の詩形式で讃えた歌謡を指し、多くは七・五の十二音節を一句として、それを重ねる形式で作られる。のちの今様の成立や現代に伝わる童歌などに大きな影響を与えた。鎌倉時代に入ると和讃は仏教儀式のなかでことのほか重要視されるようになった。
和讃の果たした役割  
まず、和讃が歌い継がれた背景と役割を考えてみよう。  
今、戦前に生まれた世代以外では和讃を知る人は多くないだろう。祖母から聞いた和讃を私も子供に伝えた事はない。和讃が詠いつづけられた背景、あるいは地蔵信仰が継続した背景を、そして私が伝えなかった背景を考えてみる。  
和讃の主人公は、幼くして死亡した子供である。主人公は、時代とともにその数、死亡の原因に変化があるが、有史以来絶えることなく日常的な存在である。現在の父母にとっても、例外ではあるが、知らない出来事ではない。  
風水害・地震など天災地変、戦乱、事故、病気は、対策の進歩により減少しているが、これらの原因による幼子の死亡が避けられてはいない。飢餓は日本では皆無に近いとはいえ、地球の何処かで起きている。交通事故、殺人による死亡は近代の新たな原因である。間引き、人工中絶、虐待死は、その起因が異なるとはいえ継続して幼子のリスクである。  
ところで、和讃が生まれ育つには、幼子の死亡するリスクと救いの大衆宗教がなければならない。末法思想の大流行とともに、地蔵信仰が国民化したのは平安時代末期といわれる。それ以前では仏教は、奈良時代の移入以来、支配階級における護国宗教であった。その仏教が国民各層に信仰されるようになるのは、平安期の浄土教の流行を機としている。  
中央や地方の政治がみだれ,人々の心が不安になるにつれて,念仏をとなえて阿弥陀仏にすがれば,極楽浄土で幸福がえられると説いた浄土教がさかんになった。ここで、浄土教の変遷を見てみる。  
阿弥陀信仰である浄土教はすでに奈良時代に日本に伝わっていた。奈良時代には,阿弥陀仏像が多数つくられた。その本質は祖先崇拝、祖先の追善供養であった。死者を極楽浄土に往生させようとする呪術的儀礼が,奈良時代の阿弥陀信仰の本質であり,その哀訴の対象として阿弥陀仏が礼拝された。  
阿弥陀仏の救済によって「極楽浄土で永遠の命を得る」ということ、信仰は、諸行無常という仏教の根本原理と矛盾する。それは、インドで生れた仏教が諸文化・宗教の要素が加わることによって変容した結果と考えられている。阿弥陀仏の誓願(阿弥陀仏が仏になる前に、将来このような仏になろうと決意して建てた誓い)の中に、  
「念仏をとなえたならば・・・・極楽に迎え入れる」という表現があるそうだ。「‥‥すれば、極楽に迎え入れる」という考え方は、「契約」そのものである。  
シルクロードの活発な交流の中で、ゾロアスター教を介して旧約・新約聖書さらにはコーランへと流れる「契約宗教的」要素が含まれた、と考えられる。基盤は仏教でありながら、独特の教義を持つのが浄土教だといえる。この浄土教が日本に入り普及した経緯を見てみよう。  
仏教は、1世紀半ばの後漢代には中国にもたらされていた。3世紀から5世紀に、浄土教『無量寿経』、『般若経』、『維摩経』、『法華経』、『阿弥陀経』が翻訳され、浄土教『観無量寿経』が書かれ、後に言う「浄土三部経」が揃った。  
日本に広範囲に浄土教を布教したのは、円仁(794―864年)である。遣唐使として唐から帰国した円仁は、念仏三昧(ざんまい)の法を比叡山に伝え、いわゆる「山の念仏」をはじめた。休むことなく口に阿弥陀仏の名を唱え、休むことなく心に阿弥陀仏を想う行であった。十世紀の後半にいたると、日本の浄土教は新しい段階を迎える。  
空也(903―972年)および源信(942―1017年)の登場によって、浄土教は二つの方向に発展する。空也は、信者とともに鉦(かね)を叩(たた)き、踊りながら一心に念仏を唱えた。この踊り念仏は、激しい動作によって宗教的興奮をもたらす伝統的な修行の形式を継承したものである。念仏を自ら唱え、あるいは僧俗男女の別なく他の人とともに唱えるものであった。空也は各地の人々が集まる市などをめぐり,庶民に浄土教の信仰を説いた。「市の聖(いちのひじり)」といわれた。堂舎や念仏僧を必要としないため、庶民のあいだに根を下ろしていく。人々は、もっぱら死後の安楽を求め、呪術的な現世利益を念仏の行に期待した。  
他方、源信(天台宗の僧。恵心僧都(えんしんそうず)ともいう)は、985年に『往生要集』を著し浄土教を発展させた。末法の時代に「だれでも帰依しなければならないほどすぐれているのが浄土の教えである。  
顕教とか密教と呼ばれている教えはたくさんある。しかし、智恵のすぐれた人にとっては、それほどむずかしいと思わない教えであっても、私たちのような愚かな者は、どうして修することができようか。そんな人たちのために用意しておかれた教えが念仏の法門である。だれでも阿弥陀仏を一心に信じればすくわれる」と説く。  
『往生要集』は、すさまじい地獄の有り様と、妙なる音楽が響き天人が舞う清らかな極楽の有り様とを、対比的に生々しく描きだした。源信の説く浄土教は、僧侶、貴族で関心を集めた。彼らは、往生を確実にするために阿弥陀堂を盛んに建立した。その代表的なものが藤原頼通の建てた宇治・平等院鳳凰堂で、中堂は阿弥陀浄土を具現しているといわれる。  
ここで、時代の潮流であった末法思想について見てみよう。  
釈迦の入滅後、二千年を経過すると、一万年間は釈迦の教えだけが残り、悟りを得る者はいなくなるとするのが末法思想であり、中国から伝えられた。  
平安時代後期は、飢饉や日照り、水害、地震、疫病の流行、僧兵の抗争が続き、貴族も民衆も危機感を募らせていたので、末法思想が現実感をともなって受け止められる。  
最澄によれば1052年(永承7年)に末法に入るといわれ、仏教界のみならず一般思想界にも深刻な影響を与えた。末法の世という時代と、その時代に生を受けた人間の性質に相応しい教えとして生まれたのが、法然や親鸞などの、いわゆる鎌倉新仏教だと言われる。  
仏教の大衆化を以上の経過をたどったという。ここで、本題の地蔵信仰を見てみよう。地蔵菩薩は、梵語で、命の源泉である「大地」を意味するという。インドにおいて、釈迦生誕以前に、婆羅門教(バラモン)の地神であったという。釈迦が悟りの境地に達せられたとき、この地神が現われて、釈迦の悟りを証明したという(「過去現在因果経」)。  
また、地蔵十王経によれば、閻魔大王に化身し、死後の裁定を行なうという。地蔵十王経等の地蔵経典は、奈良時代に伝来したが、信仰はさほど広がらなかった。  
平安時代、社会状況の不安定、末法思想の流布、浄土教の庶民層への普及、の時代環境の中で、釈迦入滅後、56億7千万年後に弥勒菩薩が出現するまで、すなわち末法の時代に、現世利益はもとより死者を輪廻から救済すると信じられ存在感を示した。  
また、室町時代になって、六道(地獄道・餓鬼道・阿修羅道・畜生道・人間道・天道)の一切衆生を教化する存在とされ、地蔵菩薩が爆発的に信仰されるようになったという。六地蔵は、六世界に現れた地蔵の姿を表わしたもので、宝珠地蔵・宝印地蔵・持地地蔵・除蓋障地蔵・日光地蔵・檀陀地蔵という名前が付いている。日本古来よりの道祖神と習合して発達したという。  
さらに、江戸時代には、身代わり地蔵信仰が発展して、延命地蔵・子育地蔵・腹帯地蔵・とげぬき地蔵・水子地蔵などが作り出された。  
地蔵像の形には、一般に童子の姿の地蔵と僧形の地蔵があるが、歴史的には僧形のものが古い形で、だいたい12世紀ころから童子の形の地蔵が出てきたとされる。  
大寺院や荘厳な阿弥陀仏に代表される護国仏教として信仰された仏教が、庶民の素朴な信仰と結合して、六道の苦と日常的な救済の祈りとして、庶民に地蔵信仰が広まっていく。その確かな証左が、童子の形の地蔵であり、身代わり地蔵信仰である。今も全国の村はずれに立つお地蔵さんは庶民の信仰の長い歴史を証明する。もちろん、仏教の経典に見られる複雑な論理は忘れ去られる。地蔵が閻魔大王に化身し、死後の裁定を行なう、同時に、釈迦入滅後弥勒菩薩が出現するまで、現世利益はもとより死者を輪廻から救済するという論理は分かりにくい。閻魔=鬼、地蔵=救済者、の二元論の中で、庶民の個別の苦しみごとに、諸地蔵が生まれる。「生まれる」「育つ」という庶民の切ない望みに地蔵はかかわっている。  
和讃はこの地蔵信仰の中で生まれ、そして庶民信仰を構成し、歌い継がれて行く。  
明治期の国家神道創設の中で、廃仏棄却の強権発動を通じ、仏教が壊滅的打撃を受ける。ただし、国家権力といえども、庶民信仰を消し去ることは出来ない。地蔵は村々に残り、和讃も歌い継がれる。しかしながら、老獪な国家権力は、教育勅語・軍人勅諭・天皇信仰の社会システムで、精神と生活様式を規制する。地蔵も和讃も反国家的でないので、黙認されたというべきかもしれない。あるいは、庶民の迷信とさげすまれながら見捨てられたのかもしれない。祖母もそんな中で、賽の河原地蔵和讃を詠い続けていたのだろうか。  
戦後、天皇の人間宣言および教育改訂に伴い、日本教信仰の支柱が崩壊する。同時に経済混乱と経済発展の中で、宗教の多様化と無宗教化が進展する。食べるのが最優先であり、また、豊かになっていく。  
リスクの形が変わっていく。また、リスクの認識の仕方も変わる。病は治療される可能性が見出される。貧困は乗り越えられる可能性が見える。種々のリスクに回避の可能性が見える。もちろん、死には回避の可能性がないのは知っている。科学知識の普及の中、賽の河原地蔵和讃の物語は現実との接点を失っていく。  
ただ、人の悩みは尽きない。人のすぐ傍にずっといた地蔵は、密やかに立ち続ける。そして、新たに生まれ変わる。親族に迷惑掛けないで安らかに死にたい、こんな望みは、ぽっくり地蔵を生む。  
が、地蔵が持つ閻魔大王への化身、地獄の裁定者の側面なくして、和讃は生まれない。救済者だけを望む、現世利益だけを望む世界に、和讃は育たない。物言わないお地蔵さんは立ち続けても。大菩薩峠から尾根伝いに岩場を乗り越えると、旧峠に至る。賽の河原と命名されている。 
高僧和讃  
民衆と肩組む高僧方 言行一致、独自性(オリジナリティー)の人  
印度には数多い菩薩がた、中国にはあまたの高僧たちが出られました。にも拘らず親鸞聖人が、印度では竜樹・天親の二菩薩、中国では曇鸞・道綽・善導の三高僧、わが日本では源信と源空(法然上人)のお二人、合わせてわずかに七人の方を、わが真宗の祖師(七高僧)として選ばれたのは何故でしょうか。その理由として昔から次の三つがあげられています。  
先ず第一に、自ら筆をとってお書きになったものがあるということです。こういうことを申しますと真宗は賢い人でなければ入れないのか、という疑問がおこりますが、そういう意味ではありません。たしかに七高僧は今で言うインテリ、学問のすぐれた方ばかりであります。  
どの方を見ても、仏教界の代表者ですが、しかし他の高僧がたと違うところは、私たち愚かなものに対して、君たちは間違っている、こうしなければならないのだと、高いところから教訓を垂れ手本を示すような知識人でなしに、私たちと同じところに身を置き、私たちと同じように迷い、そして念仏によって目覚められた方、そこからどんな愚かな者でも肯くことができ、どんな賢い人間も肯かざるをえないのが本願であることを、身をもって示し、そのことを著作をもってあらわしていられる方々であります。  
次に第二番目には、発揮説があるかどうかということで宗祖がきめられたであろうと言います。発揮というのは、その時代その社会、それぞれの場所で本願のまことを証明されたということでありましょう。本願は永遠のいのちであります。無限のものでありますから、従ってこれだけのものということはありません。これだけのものというのは死んだものでしょう。しかし無限のものを無限といっても無限にはなりません。その時その時に或る人を通して輝いている、その輝きが発揮ということで、これがなければ人真似になってしまいます。各祖師はその時その場所で夫々自分一杯を生きられ、そこから本願に遇われたその救いを、自分自分の独自の形で示していられますが、その全体が本願の光なのであります。  
第三番目には解行相応ということが言われます。解は了解、わかるということ、行は行うということで、それが一致するのを相応と申します。私たちはえてして頭で分ってもそうなれないということがあり、或は内の心と外のあらわれが違っていることがあります。  
七高僧がたは、念仏の道は間違いなく救われる道であることを了解され私たちにもすすめていられますが、自らも念仏申していられるのであります。このことは、これらの方々のどの著書を見ても、そこに深い信仰告白と懺悔が貫いていることが証明しています。七高僧についてのこの和讃は宝治二年(一二四八)、宗祖七十六才の時に御草稿ができ、建長七年(一二五五)御齢八十三才の時に手を加えて清書されたものであると、言われております。 
高僧和讃・親鸞 
本師龍樹菩薩は 「智度」「十住毘婆沙」等 
 つくりておほく西をほめ すすめて念仏せしめたり 
南天竺に比丘あらん 龍樹菩薩となづくべし 
 有無の邪見を破すべしと 世尊はかねてときたまふ 
本師龍樹菩薩は 大乗無上の法をとき 
 歓喜地を証してぞ ひとへに念仏すすめける 
龍樹大士世にいでて 難行易行のみちをしへ 
 流転輪廻のわれらをば 弘誓のふねにのせたまふ 
本師龍樹菩薩の をしへをつたへきかんひと 
 本願こころにかけしめて つねに弥陀を称すべし 
不退のくらゐすみやかに えんとおもはんひとはみな 
 恭敬の心に執持して 弥陀の名号称すべし 
生死の苦海ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば 
 弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける 
「智度論」にのたまはく 如来は無上法皇なり 
 菩薩は法臣としたまひて 尊重すべきは世尊なり 
一切菩薩ののたまはく われら因地にありしとき 
 無量劫をへめぐりて 万善諸行を修せしかど 
恩愛はなはだたちがたく 生死はなはだつきがたし 
 念仏三昧行じてぞ 罪障を滅し度脱せし 
釈迦の教法おほけれど 天親菩薩はねんごろに 
 煩悩成就のわれらには 弥陀の弘誓をすすめしむ 
安養浄土の荘厳は 唯仏与仏の知見なり 
 究竟せること虚空にして 広大にして辺際なし 
本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき 
 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし 
如来浄華の聖衆は 正覚のはなより化生して 
 衆生の願楽ことごとく すみやかにとく満足す 
天人不動の聖衆は 弘誓の智海より生ず 
 心業の功徳清浄にて 虚空のごとく差別なし 
天親論主は一心に 無碍光に帰命す 
 本願力に乗ずれば 報土にいたるとのべたまふ 
尽十方の無碍光仏 一心に帰命するをこそ 
 天親論主のみことには 願作仏心とのべたまへ 
願作仏の心はこれ 度衆生のこころなり 
 度衆生の心はこれ 利他真実の信心なり 
信心すなはち一心なり 一心すなはち金剛心 
 金剛心は菩提心 この心すなはち他力なり 
願土にいたればすみやかに 無上涅槃を証してぞ 
 すなはち大悲をおこすなり これを回向となづけたり 
本師曇鸞和尚は 菩提流支のをしへにて 
 仙経ながくやきすてて 浄土にふかく帰せしめき 
四論の講説さしおきて 本願他力をときたまひ 
 具縛の凡衆をみちびきて 涅槃のかどにぞいらしめし 
世俗の君子幸臨し 勅して浄土のゆゑをとふ 
 十方仏国浄土なり なにによりてか西にある 
鸞師こたへてのたまはく わが身は智慧あさくして 
 いまだ地位にいらざれば 念力ひとしくおよばれず 
一切道俗もろともに 帰すべきところぞさらになき 
 安楽勧帰のこころざし 鸞師ひとりさだめたり 
魏の主勅して并州の 大巌寺にぞおはしける 
 やうやくをはりにのぞみては 汾州にうつりたまひにき 
魏の天子はたふとみて 神鸞とこそ号せしか 
 おはせしところのその名をば 鸞公巌とぞなづけたる 
浄業さかりにすすめつつ 玄中寺にぞおはしける 
 魏の興和四年に 遥山寺にこそうつりしか 
六十有七ときいたり 浄土の往生とげたまふ 
 そのとき霊瑞不思議にて 一切道俗帰敬しき 
君子ひとへにおもくして 勅宣くだしてたちまちに 
 汾州汾西秦陵の 勝地に霊廟たてたまふ 
天親菩薩のみことをも 鸞師ときのべたまはずは 
 他力広大威徳の 心行いかでかさとらまし 
本願円頓一乗は 逆悪摂すと信知して 
 煩悩・菩提体無二と すみやかにとくさとらしむ 
いつつの不思議をとくなかに 仏法不思議にしくぞなき 
 仏法不思議といふことは 弥陀の弘誓になづけたり 
弥陀の回向成就して 往相・還相ふたつなり 
 これらの回向によりてこそ 心行ともにえしむなれ 
往相の回向ととくことは 弥陀の方便ときいたり 
 悲願の信行えしむれば 生死すなはち涅槃なり 
還相の回向ととくことは 利他教化の果をえしめ 
 すなはち諸有に回入して 普賢の徳を修するなり 
論主の一心ととけるをば 曇鸞大師のみことには 
 煩悩成就のわれらが 他力の信とのべたまふ 
尽十方の無碍光は 無明のやみをてらしつつ 
 一念歓喜するひとを かならず滅度にいたらしむ 
無碍光の利益より 威徳広大の信をえて 
 かならず煩悩のこほりとけ すなはち菩提のみづとなる 
罪障功徳の体となる こほりとみづのごとくにて 
 こほりおほきにみづおほし さはりおほきに徳おほし 
名号不思議の海水は 逆謗の屍骸もとどまらず 
 衆悪の万川帰しぬれば 功徳のうしほに一味なり 
尽十方無碍光の 大悲大願の海水に 
 煩悩の衆流帰しぬれば 智慧のうしほに一味なり 
安楽仏国に生ずるは 畢竟成仏の道路にて 
 無上の方便なりければ 諸仏浄土をすすめけり 
諸仏三業荘厳して 畢竟平等なることは 
 衆生虚誑の身口意を 治せんがためとのべたまふ 
安楽仏国にいたるには 無上宝珠の名号と 
 真実信心ひとつにて 無別道故とときたまふ 
如来清浄本願の 無生の生なりければ 
 本則三三の品なれど 一二もかはることぞなき 
無碍光如来の名号と かの光明智相とは 
 無明長夜の闇を破し 衆生の志願をみてたまふ 
不如実修行といへること 鸞師釈してのたまはく 
 一者信心あつからず 若存若亡するゆゑに 
二者信心一ならず 決定なきゆゑなれば 
 三者信心相続せず 余念間故とのべたまふ 
三信展転相成す 行者こころをとどむべし 
 信心あつからざるゆゑに 決定の信なかりけり 
決定の信なきゆゑに 念相続せざるなり 
 念相続せざるゆゑ 決定の信をえざるなり 
決定の信をえざるゆゑ 信心不淳とのべたまふ 
 如実修行相応は 信心ひとつにさだめたり 
万行諸善の小路より 本願一実の大道に 
 帰入しぬれば涅槃の さとりはすなはちひらくなり 
本師曇鸞大師をば 梁の天子蕭王は 
 おはせしかたにつねにむき 鸞菩薩とぞ礼しける 
本師道綽禅師は 聖道万行さしおきて 
 唯有浄土一門を 通入すべきみちととく 
本師道綽大師は 涅槃の広業さしおきて 
 本願他力をたのみつつ 五濁の群生すすめしむ 
末法五濁の衆生は 聖道の修行せしむとも 
 ひとりも証をえじとこそ 教主世尊はときたまへ 
鸞師のをしへをうけつたへ 綽和尚はもろともに 
 在此起心立行は 此是自力とさだめたり 
濁世の起悪造罪は 暴風駛雨にことならず 
 諸仏これらをあはれみて すすめて浄土に帰せしめり 
一形悪をつくれども 専精にこころをかけしめて 
 つねに念仏せしむれば 諸障自然にのぞこりぬ 
縦令一生造悪の 衆生引接のためにとて 
 称我名字と願じつつ 若不生者とちかひたり 
大心海より化してこそ 善導和尚とおはしけれ 
 末代濁世のためにとて 十方諸仏に証をこふ 
世世に善導いでたまひ 法照・少康としめしつつ 
 功徳蔵をひらきてぞ 諸仏の本意とげたまふ 
弥陀の名願によらざれば 百千万劫すぐれども 
 いつつのさはりはなれねば 女身をいかでか転ずべき 
釈迦は要門ひらきつつ 定散諸機をこしらへて 
 正雑二行方便し ひとへに専修をすすめしむ 
助正ならべて修するをば すなはち雑修となづけたり 
 一心をえざるひとなれば 仏恩報ずるこころなし 
仏号むねと修すれども 現世をいのる行者をば 
 これも雑修となづけてぞ 千中無一ときらはるる 
こころはひとつにあらねども 雑行・雑修これにたり 
 浄土の行にあらぬをば ひとへに雑行となづけたり 
善導大師証をこひ 定散二心をひるがへし 
 貪瞋二河の譬喩をとき 弘願の信心守護せしむ 
経道滅尽ときいたり 如来出世の本意なる 
 弘願真宗にあひぬれば 凡夫念じてさとるなり 
仏法力の不思議には 諸邪業繋さはらねば 
 弥陀の本弘誓願を 増上縁となづけたり 
願力成就の報土には 自力の心行いたらねば 
 大小聖人みなながら 如来の弘誓に乗ずなり 
煩悩具足と信知して 本願力に乗ずれば 
 すなはち穢身すてはてて 法性常楽証せしむ 
釈迦・弥陀は慈悲の父母 種種に善巧方便し 
 われらが無上の信心を 発起せしめたまひけり 
真心徹到するひとは 金剛心なりければ 
 三品の懺悔するひとと ひとしと宗師はのたまへり 
五濁悪世のわれらこそ 金剛の信心ばかりにて 
 ながく生死をすてはてて 自然の浄土にいたるなれ 
金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 
 弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける 
真実信心えざるをば 一心かけぬとをしへたり 
 一心かけたるひとはみな 三信具せずとおもふべし 
利他の信楽うるひとは 願に相応するゆゑに 
 教と仏語にしたがへば 外の雑縁さらになし 
真宗念仏ききえつつ 一念無疑なるをこそ 
 希有最勝人とほめ 正念をうとはさだめたれ 
本願相応せざるゆゑ 雑縁きたりみだるなり 
 信心乱失するをこそ 正念うすとはのべたまへ 
信は願より生ずれば 念仏成仏自然なり 
 自然はすなはち報土なり 証大涅槃うたがはず 
五濁増のときいたり 疑謗のともがらおほくして 
 道俗ともにあひきらひ 修するをみてはあだをなす 
本願毀滅のともがらは 生盲闡提となづけたり 
 大地微塵劫をへて ながく三塗にしづむなり 
西路を指授せしかども 自障障他せしほどに 
 曠劫以来もいたづらに むなしくこそはすぎにけれ 
弘誓のちからをかぶらずは いづれのときにか娑婆をいでん 
 仏恩ふかくおもひつつ つねに弥陀を念ずべし 
娑婆永劫の苦をすてて 浄土無為を期すること 
 本師釈迦のちからなり 長時に慈恩を報ずべし 
源信和尚ののたまはく われこれ故仏とあらはれて 
 化縁すでにつきぬれば 本土にかへるとしめしけり 
本師源信ねんごろに 一代仏教のそのなかに 
 念仏一門ひらきてぞ 濁世末代をしへける 
霊山聴衆とおはしける 源信僧都のをしへには 
 報化二土ををしへてぞ 専雑の得失さだめたる 
本師源信和尚は 懐感禅師の釈により 
 「処胎経」をひらきてぞ 懈慢界をばあらはせる 
専修のひとをほむるには 千無一失とをしへたり 
 雑修のひとをきらふには 万不一生とのべたまふ 
報の浄土の往生は おほからずとぞあらはせる 
 化土にうまるる衆生をば すくなからずとをしへたり 
男女貴賎ことごとく 弥陀の名号称するに 
 行住座臥もえらばれず 時処諸縁もさはりなし 
煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども 
 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり 
弥陀の報土をねがふひと 外儀のすがたはことなりと 
 本願名号信受して 寤寐にわするることなかれ 
極悪深重の衆生は 他の方便さらになし 
 ひとへに弥陀を称してぞ 浄土にうまるとのべたまふ 
本師源空世にいでて 弘願の一乗ひろめつつ 
 日本一州ことごとく 浄土の機縁あらはれぬ 
智慧光のちからより 本師源空あらはれて 
 浄土真宗をひらきつつ 選択本願のべたまふ 
善導・源信すすむとも 本師源空ひろめずは 
 片州濁世のともがらは いかでか真宗をさとらまし 
曠劫多生のあひだにも 出離の強縁しらざりき 
 本師源空いまさずは このたびむなしくすぎなまし 
源空三五のよはひにて 無常のことわりさとりつつ 
 厭離の素懐をあらはして 菩提のみちにぞいらしめし 
源空智行の至徳には 聖道諸宗の師主も 
 みなもろともに帰せしめて 一心金剛の戒師とす 
源空存在せしときに 金色の光明はなたしむ 
 禅定博陸まのあたり 拝見せしめたまひけり 
本師源空の本地をば 世俗のひとびとあひつたへ 
 綽和尚と称せしめ あるいは善導としめしけり 
源空勢至と示現し あるいは弥陀の顕現す 
 上皇・群臣尊敬し 京夷庶民欽仰す 
承久の太上法皇は 本師源空を帰敬しき 
 釈門儒林みなともに ひとしく真宗に悟入せり 
諸仏方便ときいたり 源空ひじりとしめしつつ 
 無上の信心をしへてぞ 涅槃のかどをばひらきける 
真の知識にあふことは かたきがなかになほかたし 
 流転輪廻のきはなきは 疑情のさはりにしくぞなき 
源空光明はなたしめ 門徒につねにみせしめき 
 賢哲・愚夫もえらばれず 豪貴・鄙賎もへだてなし 
命終その期ちかづきて 本師源空のたまはく 
 往生みたびになりぬるに このたびことにとげやすし 
源空みづからのたまはく 霊山会上にありしとき 
 声聞僧にまじはりて 頭陀を行じて化度せしむ 
粟散片州に誕生して 念仏宗をひろめしむ 
 衆生化度のためにとて この土にたびたびきたらしむ 
阿弥陀如来化してこそ 本師源空としめしけれ 
 化縁すでにつきぬれば 浄土にかへりたまひにき 
本師源空のをはりには 光明紫雲のごとくなり 
 音楽哀婉雅亮にて 異香みぎりに映芳す 
道俗男女預参し 卿上雲客群集す 
 頭北面西右脇にて 如来涅槃の儀をまもる 
本師源空命終時 建暦第二壬申歳 
 初春下旬第五日 浄土に還帰せしめけり 
五濁悪世の衆生の 選択本願信ずれば 
 不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり 
南無阿弥陀仏をとけるには 衆善海水のごとくなり 
 かの清浄の善身にえたり ひとしく衆生に回向せん
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説経 
平安時代中期頃から法華信仰と浄土信仰が隆盛し、ことに法華経の功徳を説く天台宗の僧侶による「法華八講」「十講」「三十講」が宮中始め貴族の館や説経道場・寺院などにて頻繁に行われていたことが、当時の貴族の日記や随筆のその様が多く出て来る。この「法華八講」と云うのは、法華経八巻を一日に朝座・夕座と二回講じ、四日間にて全巻を購読する法会のことである。このように頻繁に行われるようになると、名を成す僧侶の中から説教を専門職とする者たちが出るようになり、彼らはスター的な存在になっていった。説教の行う説教師については、皆様ご存知の源氏物語を始め様々な平安時代の物語や随筆には説経僧・説経と云う言葉で多く出てくるなど、この当時名説経師としてスター的な存在であったのが、奈良興福寺の清範、延暦寺の院源、浄土教の源信(恵心)等であった。個々の説教師に対する聞き手の反応も様々であり、特に宮廷に仕える女房達に持て囃され、好まれる説経師がどのようなものか、女性の目から清少納言は「枕草子」30段「説経師は顔よき」の項にて次の様に記されている。「説経の講師は顔よき。講師の顔をつとまもらへたるこそ、その説く事の尊さも覚ゆれ。外目しつれば、ふと忘るるに、にくげなるは罪や得らむと覚ゆ。この詞はとどむべし。少し年などのよろしき程こそ、かやうの罪は得がたの詞書き出でけめ。今は罪いとおそろし。」〔説経をする講師は容貌の整った方が良い。何故ならその美貌な顔をじっと見つめているので、精神が集中出来、その説く事が心に染み入り尊いと思う。容貌の醜悪な講師は、聴く方がついよそ目をしてしまうので集中出来ず、その結果つい有難い話も忘れてしまう。故に醜悪な顔の講師は、聴聞者に仏の有難さを理解させられないので仏罰を被るだろう。この様な事を書くと仏罰が当たるので止めます。いま少し年が若い頃には、この様な罰当たりな事を平気で書きもしただろうに、あの世に行くのが近くなった今では仏罰が恐ろしい〕また、この項の中で清少納言は、説教僧が説教を行う説経道場や貴族の館が、貴紳淑女達が華やかな装いにて集う社交の場としての一面も兼ね備えており、其処には説教が主ではなく、その場所に赴き社交に励む者も居た様を次の様に記している。「一、二回聴聞した故に何時も行かなくてはならないと思い、夏の暑い日盛りに、きらびやかな帷子を見せびらかして着て、烏帽子には物忌みの札を付けて、敢えて善根を積むために物忌みで篭っておる日なのに来ていると人に思わせる魂胆なのか来ている。聴聞を聞かず世話役の僧侶と立ち話をしたり、聴聞客の交通整理を買って出たり、久振りに会った人には側に行って座り、数珠を手慰みしながら世間話にうち興じ、彼方此方に視線を動かして説教を聴かず、何時も聴いているので別段耳新しくないとの素振りをしている」清少納言が書いているように彼女が華々しく女房生活をしていた時代は、仏教流布を積極的に行うために説経が盛んに用いられ、人々も宮中や有力公家の館の「講」に招かれ、説経を聴く事が1つの社会的ステータスともなっていた。また、説経師の側としても、有力者の催す「講」の説経を任されることは、説経師としての力量を認められることとして喜ばしいことであった。
恵心僧都と往生要集 
天台僧円仁が伝え延暦寺横川の三昧常行堂にて継承されて来た浄土教に傾倒したのが、横川恵心院に住した天台僧源信(後の恵心僧都)で、寛和元年4月(985)「往生要集」を完成させた。この「往生要集」はインドに生まれた仏教が、日本に到達するまでに様々な形に育成発展して来た過程において出来上がった「往生浄土」の思想と信仰を様を、様々な経論の中より選び出し、問答形式にて編纂したもので、「往生の業は念仏を本となす」を主旨として、念仏往生の要を懇切に説き、且つ地獄極楽を説いた仏教書であり、この書が世に出るや浄土教信仰において最重要な仏書として位置付けられる様になった。また様々な知識人にも読まれ、平安時代中期以降の日本文学作品や絵画などの芸術などに及ぼした影響は計り知れず、浄土思想史上における金字塔を成すものであった。この書に盛られた浄土思想を源として後に「浄土宗」「浄土真宗」「時宗」「天台宗眞盛派」などが創設され、また後世になると「往生要集」より六道・地獄・極楽に関する個所を抜き出して絵本が作られ、広く民間に流布され、近世になるとこの絵本を基に「覗きからくり」などの民間芸能が生まれ、また、掛け絵図を基に信者に絵の説明をする「絵解き」が寺院や小屋掛けにて行われるようになった。現在でもお寺にて地獄極楽絵図を掲げ住職が絵解きを行っておられる所もある様ですし、読者の中には縁日やお祭りの時に小屋掛けにて地獄図の説明を聞いた方も居られると思います。この「往生要集」は当時の説経師達にとっては、説経の題材を得るには都合のよい事例が多く載せられており、格好な教本となったし、以後の説経隆盛において欠かすことの出来ない重要な台本でもあった。この書に盛られた「地獄観」は、苦界とも云える現世に生きる者達に取っては身近な存在であり、素直に受け入れ易いものであった。この地獄に相対する「極楽浄土」は阿弥陀如来の居られる西方浄土にて、苦しみや煩悩がない安楽境であるとされ、現世にては求める事の出来なかった「極楽」に行く手段としては、生前ひたすら「南無阿弥陀仏」の称名を唱える事で、死後如何なる人でもこの極楽浄土に生まれ変わる事が出来るとするのが浄土教の教えであった。阿弥陀仏の浄土と来迎(人の臨終の時に仏・菩薩が浄土へと導くために迎えに来る事)が恵心僧都によって特に鼓吹され、且つ誰にも解る様に平易に「極楽往生の道」が説かれたことにて、浄土信仰は急速に普及し、当時社会に広まっていた末法思想と相俟って貴族社会に浸透していった。この末法思想と云いますのは、六世紀に中国にて考え出された史観で、釈迦入滅500年間は仏教が正統に実践される「正法」の時代であり、以後の千年間は仏果(修業を積んだ結果得られる成仏)や仏証を体得した者が皆無となるが、釈迦の教えと行法は存続する「像法」の時代である。それ以後の一万年は仏法が衰え廃る「末法」の時代としている。この思想は当時の我が国の仏教界に根強く定着しており、往生要集が出された平安中期は「像法の時代」の終末期であった。あたかもそれに併せる如く摂関政治にて権勢を振るった藤原道長が萬寿4年(1027)に逝去するや、摂関政治も翳りを見え始め、約140年後の仁安2年(1167)に平清盛が太政大臣となり、天皇の外戚となるや藤原氏支配の摂関政治も終末を迎えた。また治承元年(1185)に平家の滅亡にて武家政権が確立されるや平安時代も終った。
法然と浄土教 
源信著「往生要集」に傾倒した天台僧法然は、「いかに罪深い愚かな凡夫でもひたすら阿弥陀仏の本願を信じて念仏称名すれば救われる」とする専修念仏による往生を説き、安元元年3月(1175)天台宗を離脱し京都東山黒谷に庵を建て浄土宗を開立した。それは源信に遅れること約200年であった。それまでの仏教は教義・経典を理解できる貴紳階層を対象にしたものであり、愚痴・無知・蒙昧・罪悪深重の一般庶民を対象にしたものではなかった。この法然の説く専修念仏は難解な教義経典を知らなくても、ひたすら念仏称名すれば極楽往生が出来るとの事にて、今まで仏教に無縁であった一般庶民に受け入れられていった。また法然の教えは貴紳・老若・男女を問わない万民のための念仏であったので、後白河法王・関白九条兼実の帰依を得るようになり、貴紳・宮中の女官・武士・庶民が争って庵に参集した。現在の仏教に疑義を抱く、既存宗派の僧侶達が多数その門を叩き弟子となった。中でも目立つのが保元・平治・平家滅亡と打続く源平の闘争に従軍した有力鎌倉方武士の無常感による念仏門への帰依であった。法然の黒谷の庵にての浄土教の説教は、仏教自体を無縁なものと思っていた庶民層に土に浸み込む水の如く、民衆の絶大なる支持を得て受け入れられていった。その理由として上げられるのが、文盲無知な庶民に浄土教の教義を理解させ宗門を拡大する手段とし取られた口演(説経)による布教に外ならなかった。しかし、他宗派との差別化をするには、興味を抱かせるための庶民性豊かな説経(話芸)であった。そこで考えられたのが、民衆が好む娯楽的要求を受け入れるために、比喩因縁談に重点を置いた説教を用い、語り掛け、身振り手振りを使い、内容に沿った表情や音色に感情表現を加えた話法が作られた。この話法を浄土教の説教に取り入れたのが、天台門より浄土門に転じた当時説経師として著名であった安居院聖覚であった。この聖覚は説教の達人として名高く天台宗の高僧ながら、叡山を離れ安居院に住まいし妻帯し10名の子供を設け、破戒僧として世間から指弾されながらも、説教にて道俗を教化していた澄憲法印(藤原信憲の子息)の子息である。父と同じく比叡山にて天台門を学び、父に劣らない説教者として名を成していた。しかし、法然の説く浄土教に接するや、天台宗を離れ、法然に傾倒し浄土宗に転向し、その高弟となった。この説教の名人の入門は法然にとって念仏門布教には欠かすことの出来ない存在となり、様々な説教手法を創設したので、「説教念仏義の祖」として尊敬された。法然と同時代に天台の高僧にて澄憲法印と呼ばれる説教達人がおり、比叡山を降り安居院を住まいにし、僧の身ながら妻帯し十名の子供を儲け、世人から破戒僧として厳しい指弾を受けたが、説教を持って道俗の教化に努め、安居院流唱導の祖と称されている。因みに澄憲は保元の乱の中心人物であった小納言藤原通憲(信西)の子供で僧籍に入った者である。子の聖覚も比叡山にて勉学し父の劣らない説教者として名を成したが、山を降り父と同じく安居院に住した。やがて法然に傾倒し天台宗を離れ浄土宗に帰依し高弟となった。この聖覚の入門は法然にとり念仏門布教に欠く事の出来ない存在となり、様々な説教手法を創設したので、後に「説教念仏義の祖」と尊敬されるようになった。彼の説教手法は従来の表白体の説教を止め、比喩因縁談を中心とした口演体説教に変えたことである。彼の説教手法は法然門下の僧侶に広まり、庶民を対象にして各所にて説教道場が開かれたので、浄土宗は一挙に信者を増やしていった。この浄土宗の盛行に対し天台宗はじめ旧仏教側は脅威を抱き、様々な圧迫を加えて来たが、浄土門では摩擦を避け釈明にこれ努めて来た。しかし、後鳥羽上皇熊野行幸中に御側の女官が無断にて法然の弟子により浄土宗に出家する事件が起り、これを契機として、承元元年(1207)に「念仏停止」の断が下され、法然以下主だった弟子が流罪になった。この事件は浄土教にとっては京都での活動の停止であったが、反面流罪になった者達がその地にて浄土宗を普及させると云う、浄土宗の地方伝播と云う側面を齎した。聖覚は安居院に拠り浄土宗説教手法はを守って来たが、以後安居院流の説教手法は説教道の大きな流派として厳しい修練と口伝より、浄土宗に数多くの説教者を輩出し連綿と継承されるようになった。後に安居院流説教道は節付説教(説談説教)の名にて呼ばれ、本の話芸に多大な影響を与えている。この節談説教の方法は、俗受けのため有効で、声明・和讃・講式などが発展するにつれ、これらを取り入れて改良され、次第に芸能的要素が加わっていった。
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空也と源信がひろめた念仏 
清水寺の近辺は、昔は鳥部野と言って死者を遺棄したり埋葬したりするところでした。化野(あだしの)の露、鳥部野の烟と言われますね。清水寺から清水坂を下り、清水道の信号を渡ってすすむあたりには鳥戸野の入り口にあたる六道の辻に位置しました。その付近には、今は珍皇寺や六波羅蜜寺があります。珍皇寺は中世以来、「六道さん」の名で親しまれ、あの世(冥府)とこの世の出入り口とも考えられていました。今でも、この寺はお盆の前にはあの世からの亡者の英霊を迎えるために多くの参詣者で賑わうとのことです。六波羅蜜寺は空也上人ゆかりの寺です。この寺の空也上人像は口から六体の仏が出ているというように「ナムアミダブツ」という音を形に表わしたことでも有名です。諸国を遊行し、各地で道を拓き、井戸や池を掘り、橋を架け、野原に遺棄された死骸を火葬にしたと伝えられる空也は、972年この寺で入滅しました。六波羅という地名は、昔、遺棄された髑髏が多かったために「どくろがはら」と呼ばれたことから、「ろくはら」という地名がついたとの説もあります。市聖や阿弥陀聖と呼ばれた空也は念仏を民間に広めることに大きな役割を果たしました。 
念仏をより普及させたキーパーソンがいます。天台宗の源信(恵心僧都=えしんそうず)がその人です。985年、学問僧であった源信は、往生の手引書ともいえる「往生要集」(おうじょうようしゅう)を著した。そこに書かれたこの短い言葉が貴族の間で大流行します。「厭離穢土(おんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)」ですね。 
この世は汚れた穢土(えど)、苦悩や矛盾に満ちた世界で、人間はその中を輪廻(りんね)している。これを厭(いと)い、念仏を唱えることによって、阿弥陀仏が永遠の極楽浄土へ導いてくれることが説かれているんです。これが浄土教の基盤となっていきます。 
こういった現世を否定的にみる当時の仏教の観念が、絵画としてわかりやすく描かれて残されています。それが「六道絵(ろくどうえ)」ですね。仏教では、この人間世界は三界六道(さんがいりくどう)にあり、人間は生きているときに果たした善悪により、死後に六つの世界のどれかに輪廻転生(てんしょう)すると考えられたのです。 
その六つの世界とは、一番上に学問、善行を施した者の「天道」、続いて「人道」があります。ここまでが善を行ったものが行くところで、以下、悪行を重ねるにしたがってランクが下がり、いつも戦い合う「修羅道」、獣の道の「畜生道」、飢えに苦しむ「餓鬼道」、そして最後が「地獄」に落ちていく。 
人間の生きる世界とは、六道輪廻の世界で、繰り返し繰り返し続き、なかなか抜け出せない世界なんですね。でも、そこを脱出できる方法があった。それが念仏でした。阿弥陀仏を信仰することにより、これらの輪廻転生を超越した永遠の極楽に迎えられると考えられたのです。源信の「往生要集」は、のちに中国の天台山国清寺にもたらされて、宋の時代の中国仏教界にも大きな影響を与えたといわれてるんですね。
「往生要集」 
空也が民間に阿弥陀仏の信仰を広めたのに対して、源信は貴族の間に浄土への憧れをかきたてました。秀才であったが名利を嫌って横川に隠棲した彼は、44歳の時に「往生要集」を完成しました。横川の恵心院に住したため「恵心僧都」と呼ばれた源信の「往生要集」は浄土教を広めるのに計り知れない影響を与えました。 
「往生要集」は二章からなり、第一章は「厭離穢土」といいます。そこで源信は地獄の様子を克明に描写しています。さらに、衆生が輪廻する六道の苦しみを述べ、人々に世が末法の時代に突入しようとしていることを実感させました。第二章の「欣求浄土」では、ひるがえって浄土の素晴らしさを克明に説きます。観無量寿経の影響を強く受けた「観察門」では、阿弥陀仏の姿を観想することを説きました。 
時はあたかも不安の時代でした。摂関政治が地方政治の乱れをさそい、それが武士の台頭に拍車をかけるなど、貴族たちに社会不安を与えようとしていた時代でした。末法の世には、自力の学問や修行では救われず阿弥陀仏にすがるほかはないとの源信の言葉は、貴族たちの心を揺さぶります。そのような貴族の一人に道長がいました。「この世をば わが世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしとおもえば」との歌を詠んだ道長は53歳でした。しかし、体調を崩した彼は、阿弥陀仏の信仰にすがります。法成寺の阿弥陀堂には九体の阿弥陀仏が安置されました。阿弥陀仏が衆生を救うのには九つのグレードがあるとの信仰からでした。現在、この法成寺はありませんが、浄瑠璃寺(九体寺)には道長が造営した法成寺の阿弥陀堂と同種の九体の阿弥陀仏が安置されています。1027年道長は臨終を迎えます。北を枕に西向きに伏し、阿弥陀仏の手に結ばれた糸を自らも握りしめ、僧侶の読経の中で、浄土を夢見て62歳の生涯を閉じました。
末法の世の到来 
比叡山の円仁が伝えた五台山の念仏がしだいに僧から文人貴族に広まりました。東国で争乱があるなど治安が悪化して人心が動揺すると、空也(903-972)が京で念仏勧進を行い熱狂的信者を集めました。また源信は「往生要集」を著し、地獄を説いて六道輪廻の観念を人々に浸透させ、弥陀の相好や浄土の荘厳を観ずる念仏を説きました。 
極楽往生を願って道長が法成寺(1022)を、子の頼道が宇治の平等院(1053)を建立するなど華麗な浄土系寺院諸堂を建設しました。しかしこの頃すでに、彼らの貴族政治にも陰りが見え始め、しだいに地方武士階級の勢力が増し、さらには疫病の流行や治安の乱れ、大地震や大火など天変地異が頻発し、また僧兵の横行などから、人々には正に末法の世の到来を予感させました。 
末法は、釈迦入滅2000年後に始まるといわれ、我が国では1052年(永承7年)にあたるとされました。 
この説は「三時説」といい、仏滅後千年を教えと修行とさとりが備わっている正法の世、次の千年が像法の世で教えと修行はあるがさとりがないとされ、その後の一万年は教えのみで修行もさとりも無い末法の世が来るとされました。これは中国で書物に記されたものであり、インドでは時代を意味する概念ではありませんでした。 
しかし、当時は、権勢のある家柄の子弟が寺の要職につき、下級の僧は僧兵化していくなど、正に俗化した僧侶たちの横暴の様が末法の世を感じさせ、さらに様々な動乱がおこり末法を強く意識させられる時代であったのです。 
平安時代末期は、正にそうした世の中にあって救いとなる教えとは何かが模索されておりました。
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仏教概観   
最澄と空海 
日本の仏教は、平安時代初期の空海・最澄といふ二人の人物によって大きく変わります。この二人によってその後の日本仏教の基礎が築かれたといってもよいでしょう。最澄、空海の二人とも唐にわたり(最澄は国家によって派遣され、空海は私費留学生として)当時の中国の最も新しい仏教を日本に伝えました。 
空海は24歳の時、儒教・道教に比して仏教が最も優れているという主張を「三教指帰」で明らかにし、804年30歳で唐に渡ります。唐では当時最も新しい思想であった密教を学び、帰国後は高野山に金剛峰寺を建立し真言宗を開きました。空海は、経典の研究ばかりをおこない人々の救済をおこたっていた奈良仏教を批判し、三密(身に印を結び、口に真言を唱え、心に仏を思い描くこと)の修行によって大日如来と融合し生きたまま仏の知を得ること、すなわち即身成仏の思想を強調しました。(仏の知の世界を図像化したものが曼荼羅です)また、「十住心論」でしめした人間の心や菩提(ぼだい)心の展開をまとめた思想は、日本仏教全体に深い影響をあたえた。空海が遍歴したといわれる各地には弘法大師信仰が生まれました。最澄は空海と同じく804年に唐に渡り、天台、密教、禅を学び、帰国後は日本天台宗を起こし、比叡山に延暦寺を建立しました。彼は、「涅槃経」の「一切衆生悉有仏性」という一文にあらわされる、生きとし生けるものはすべて仏性をもち、仏になる可能性を持っているという一乗思想を展開しました。 
浄土教の興隆 
平安時代の中期を過ぎると浄土の教えと阿弥陀仏の信仰が広がっていきます。大乗仏教では歴史的存在としての仏(応身仏)に加えて、法(真理)それ自身としての仏(法身仏)と私たちの世界とは異なったさまざまな世界で教えを説くそれぞれの仏(報身仏)が存在するという仏身論が起こってきますが、その中で特に信仰を集めたのが西方極楽浄土で教えを説く阿弥陀如来と東方瑠璃世界で教えを説く薬師如来でした。特に、仏陀の死後この世界では仏だの教えは衰弱していくという末法思想が信じられ、1052年、仏陀の教えはあっても修行方法も結果としての悟りも得られないという末法に入るといわれると、阿弥陀如来の力にすがって何とかしてこの世界での死後、極楽浄土に生まれ変わろうという信仰が広まったのでした。十世紀には空也が現れ念仏を広めました。 
当時栄華を極めた藤原道長がその死におよんで、極楽往生を願い、自らが書写した経典を床に埋め、枕元に阿弥陀如来を安置し、その手から五色の糸を伸ばしてその手に結びつけ、僧たちに経を読ませながら臨終を迎えたという話は有名ですし、その子頼道も宇治に大きな寺を建て阿弥陀如来を安置したこともよく知られています(現在の平等院鳳凰堂)。 
もともと阿弥陀信仰とは、阿弥陀仏が法蔵菩薩であったとき、四十八の誓願をたて修行した結果仏になったというところから出発します。その誓願の第十八願が「たとい我仏を得たらむに、十方の衆生、心をいたし信楽して、我が国に生ぜむと欲して、ないし十念せむに、もし生ぜずといはば正覚を取らじ」というもので、これを阿弥陀の本願といいます。つまり、法蔵菩薩は阿弥陀仏になっておられるのであるから、その誓願の内容は成就されている、つまり、阿弥陀仏の名前を唱えた(念仏)われわれ衆生は必ず救われるのであるという信仰なのです。 
そしてこの信仰を世に広めるのに力のあったのが、天台座主であった源信の「往生要集」という書物でした。源信は極楽の荘厳さと地獄の悲惨さを共に描きながら、強く極楽往生を願うことを説きます。そして極楽往生の方法として、念仏を唱えながら、極楽の世界を目の当たりにしているように思い浮かべるまでにならなければいけないというのです。このような修行としての念仏は後の法然以降のただ口に唱えればよいという口唱念仏に対して観想念仏といわれます。 
また平安末期から鎌倉にかけて浄土信仰はますます強くなり、多くの阿弥陀仏が建立され、来迎図が描かれ、極楽往生の事象を集めた「往生伝」がたくさん作られました。 
鎌倉仏教の特徴 
鎌倉仏教というと、すぐに法然や親鸞、道元、日蓮といった人物たちによって担われた新しい運動を思い出しますが、じつは天台をはじめとしていわゆる旧仏教においても信仰が大きく広がった時代でした。つまり、平安末期から鎌倉にかけて広がった戦乱や社会的不安が、従来の貴族階級だけではなく、一般民衆の間にも仏教信仰が浸透していった時代だったのです。しかし、一般民衆にまで信仰が広がるとき、その信仰はいままでの深い学問や厳しく長い修行を要求するものであることはできませんでした。鎌倉新仏教の祖師たちは従来の仏教のなかからこれとおもわれる一つの行を取り出し、それだけを行うことで救いが得られるのだと民衆に説いたのでした。それは、法然や親鸞ならば念仏であり、栄西や道元であれば禅であり、日蓮は唱題(「南無妙法蓮華経」と唱えること)という一行を選び取ったのでした。又同時にその祖師たちは民衆のためにわかりやすく語りかけることを行いました。仮名法語はその現れです。もちろん旧仏教にたつ人々も同じく民衆の中に入ろうという意志を持ち、こうして仏教は今までにない広がりをもっていったのでした。 
法然と念仏 
比叡山にあって知恵第一といわれた法然は修行・学問を重ね、最後に至った信仰は、中国の善導にならって、ただひたすら阿弥陀仏にすがりその名を唱えるという、称名念仏という単純明快な一行でした。阿弥陀の本願にすがって念仏するにまさる行はないと考えた法然は、さらに造像起塔(仏像を作り塔を建てる)ことによって救われるとするならば、貧しいものは救われず、智慧高才を以て救われるとするならば愚かなものは救われない、持戒持律をもって救われるとするならば、戒を破らざるを得ないものは救われないことになる。阿弥陀の本願はすべての人々を救うためにあり、そのためにこそ難行ではない易行としての念仏があると考えたのでした。つまり称名念仏こそが最も容易であるばかりではなく最も確実な往生の方法であると考えたのです。彼のこの「只いっこうに念仏すべし」という立場は専修念仏といわれます。 
親鸞 
平安後期から鎌倉時代にかけては、それまでの貴族政治が衰退し戦乱が生じて人々が不会におののき、自らの限界を突きつけられた時代でした。その中で親鸞は、阿弥陀仏に対する念仏こそ救われるための唯一の方法であるとした師法然の教えを徹底し、自力の修行を捨て自らの身をすべて仏にゆだねるという絶対他力の立場をとりました。親鸞は、良心があるから人は殺せないという弟子に向かって、「自分の心が善くて、殺さないのではない。また殺すまいと思っても、百人、あるいは千人を殺すこともあるだろう」といいます。そこには、状況次第ではどのような悪でも成し得る人間の罪業への深い自覚があります。そしてそのような悪人である人間をこそ阿弥陀仏は救おうとされるのだという絶対的な信心にたって、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」(歎異抄)という悪人正機説を説いたのです。 
栄西と道元 
一方、救いということに対して法然や親鸞とまったく対照的な姿勢をとったのが道元でし。道元は、栄西から臨済禅を学んだ後入宋し、曹洞宗を日本に伝えました。彼は人間を含めあらゆる生類はそのまま仏であるという立場から出発します。そして本来備わった仏性を生活の中で直感することを目指したのです。かれは「只管打座」ただ座禅にひたすら打ち込めといいますが、食事や雑務、睡眠などの生活すべてが座禅であり、仏の知につながっているという立場なのです。いいかえれば、座禅を中心とする修行は仏の知を体得するための単なる手段ではなく、それ自身が仏の知を体現している目的になるというのです。「正法眼蔵」の中では「仏道をならふというは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」と述べられています。 
一遍・日蓮そして旧仏教 
日蓮は、法華教信仰にもとづいて「南無妙法蓮華経」という題目を唱えること(唱題)に一切の修行を集約し、日蓮宗を開きました。そして他宗に対しては「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と厳しく攻撃を行い、鎌倉幕府に対しても「立正安国論」を献上し法華経への帰依を進めました。浄土宗からは一遍が出て全国を遊行し、踊り念仏をはじめました。旧仏教側の動きとしては法相宗の貞慶が「興福寺奏状」を華厳宗の明恵が「摧邪論」を著して専修念仏を批判しました。その批判は、単に念仏によって救われるというならば、修行の意味はいったいどこにあるのかということでした。また律宗の叡尊は、幅広い社会救済事業に取り組みました。  
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お葬式(抜粋) 
火葬 
7世紀になると仏教の影響を受けて、火葬が行われるようになります。日本における最初の火葬は、西暦700年(8世紀初頭)、法相宗の祖・道昭だったと伝えられています。(しかし実は、7世紀はじめの遺跡から火葬の跡が発掘されています。) 
703年持統天皇が遺言によって火葬されます。その後、文武天皇、元明天皇、元正天皇と火葬が続きますが、その後天皇家の火葬は途絶え、840年淳和上皇から再び火葬が始まります。 
淳和上皇は、「魂は天に昇っているのに亡骸が墓にあって、これに妖怪が住み着いて悪事を働くといけないから、火葬後骨を砕いて山の中に撒き散らせ」と遺言し、大原野西山に散骨されました。嵯峨上皇も、薄葬を実行するために、細かな遺言をしたそうです。 
化野 / 空海 
811年真言宗の開祖空海(=弘法大師)は、京都の街に打ち捨てられ野ざらしになっていた遺体を、化野(あだしの・京都市嵯峨野)に埋葬(置いただけか?)したと伝えられています。以来化野と鳥辺野(とりべの)が、京都における庶民の墓地となります。 
「往生要集」 
このころ、この世の末かと思わせる飢饉や疫病の流行にのって、末法思想が広がります。人々は救いを求めて極楽浄土を夢見ます。そこに、惠心僧都源信が現れ、極楽浄土へ行くための方法を説きます。それは具体的な例を引きながらの説法で、源信の地獄や極楽という思想は多くの人々に広まりました。源信はとことん人間を穢れたものととらえ、「南無阿弥陀仏」を念じて救いを求めるよう説きます。 
また、源信が「往生要集」に書いた臨終の作法は、後々まで葬儀に影響を与えます。今日の葬儀の作法の多くが源信に始まったといわれています。 
仏教による庶民の供養 / 僧・隆暁 
1181年、西日本を養和の大飢饉が襲います。鴨長明は代表作「方丈記」に、「道のほとりに、飢え死ぬもののたぐひ、数も知らず(4万余-長明)。・・・くさき香に満ち満ちて、変わり行くありさま目も当てられぬ・・・。河原などには馬車など行きかふ道だになし」と書いています。まさに地獄のようなありさまを、この文章は正確に伝えています。 
このとき、仁和寺の僧・隆暁が京都の町をめぐって死者を弔いました。そのことに鴨長明はよほど感動したのでしょう。方丈記には「隆暁法印という人、・・・数も知らず死ぬることを悲しみて、その首のみゆるごとに、額に、阿の字を書きて、縁を結ばしむる」と書いています。 
「阿」は、100を超える仏教上の意義を与えられ、万物の根源であり不滅であることを意味するそうです。「縁」とは死者と仏の縁を意味します。僧・隆暁は、まことに名も無き死者を供養するという、宗教者らしい志を体現した人でした。僧・隆暁は、京の町で2ヶ月間この行為に没頭し続けたそうです。 
仏教の流行・鎌倉時代 
鎌倉時代には、庶民のための仏教が隆盛を誇ります。法然の浄土宗、、その浄土宗を発展させた親鸞の浄土真宗、一遍の時宗、日蓮による日蓮宗などが開かれました。いずれも庶民の救済を掲げました。 
浄土宗は「誰でも念仏を唱えれば極楽浄土にいくことができる」、時宗も「誰もが1度の念仏で仏になることができる」と説き、特別な修行や寄進が無くても、成仏できるという考え方は多くの民衆に受け入れられるところとなりました。また、日蓮も法華経尾を通じて民衆救済を行おうとします。 
浄土真宗の開祖は親鸞ですが、さらにそれを継ぐ偉大な布教者が生まれます。1415年に大谷本願寺の8代目として生まれた蓮如がその人です。蓮如は、浄土宗の開祖親鸞の「善人なおもて往生を遂ぐ。いわんや悪人をや」(歎異抄)という言葉の思想こそが、すべての民衆を救済すると考て、その教えを広め、それが民衆の間に受け入れられます。 
また、鎌倉時代には宋から禅宗(臨済宗や曹洞宗)が中国(宋)から伝えられます。禅宗は位牌を日本に持ち込みました。もともと仏教には位牌はありませんでした。禅宗は儒教の葬儀に使われていましたが、日本にこれが伝えられると、武士の間に広がりました。
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中世新仏教の死生観  
現代の私たちは、一九九七年の「臓器移植法」の制定に伴って、「脳死」という未曾有の新しい死の基準を、一個の人間としてどう捉えるべきかを求められている。 この重大局面に、現代の宗教界はどう対応しているのだろうか。たとえば、西欧のキリスト教世界の場合、フォイエルバッハやニーチェの「神は死んだ」の言葉に象徴されるごとく、十九世紀から「無信仰の信仰」に入り、人間の内面世界は混迷の時代に突入している。 このことは、日本の宗教界とて変わらない。近世における葬式仏教化、近代における全宗教の天皇教化によって、普遍宗教としての仏教もまた圧殺されてしまった。日本宗教、とりわけ既成仏教は「無信仰の信仰」の時代に入って久しい。 そもそも、釈尊の時代に「死の超越」の宗教として創唱された仏教が、このように「無信仰の信仰」と化したのは、近世から近代にかけての政治との絡みによるものであり、その点、すぐれて歴史的な所産と言わなければならない。したがって現代の私たちが生と死あるいは来世観を含めた総体としてのあるべき仏教の姿を学ぶとすれば、それは「無信仰の信仰」以前の古代・中世の仏教をおいて他にないことになる。 結論を先取りして言えば、「生と死」あるいは「あの世とこの世」の関わり、来世観が、思想の問題として真正面から取り上げられたのは、十世紀の源信の「往生要集」においてであった。 
地獄と極楽 / 「往生要集」 
極楽往生の指南書である「往生要集」を執筆したときの源信の自称名は「天台首楞厳院沙門源信」というものであった。天台宗総本山の比叡山延暦寺は三塔からなっており、その一つである横川の中堂が首楞厳院と呼ばれ、源信はそこで仏道修行する一介の出家者=沙門だったのである。天台宗僧の源信は、どんな目的をもって「往生要集」を書こうとしたのか。その執筆目的を、源信は自らこう述べている。 「それ往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり。道俗貴賤、誰か帰せざる者あらん。ただし顕密の教法は、その文、一にあらず。事理の業因、その行これ多し。利智精進の人は、いまだ難しと為さざらんも、予が如き頑魯の者、あに敢てせんや」。 阿弥陀仏の極楽に生まれるための教えと修行は、この濁りはてた末の代の人々にとって大切な目や足に当たるものである。この教えと修行には、出家者も在俗者も、あるいは高貴な人も貧窮な人もみな心を傾けるであろう。ただ、これまでの天台宗(顕教)と真言宗(密教)の教えは、その内容が一つではない。それにまた、極楽に生まれるために行なう、仏の相好(ようす)や浄土のすがたを観想する「事の業因」も、仏を普遍的な真理そのものと捉えて、これと一体となる修行の「理の業因」も、その内容がじつに多い。利智でひたすら打ちこめる人には、それもむずかしくないだろうが、私のような知恵のゆき届かぬ者にはかなわないものだ。 このように源信は、奈良・平安仏教の教えである「顕密の教法」に代わるものとして、「濁世末代」にふさわしい教えを示そうとして「往生要集」を執筆しようとしたのである。 では、その「往生要集」をどのように構想・執筆しようとしたのであろうか。源信は前の文章に続けてこう語っている。 
死生観の転換 
中世の死のイメージ / ひと口に日本の中世仏教といっても、いわゆる鎌倉新仏教が興る中世前期と、その新仏教が南北朝期における一定の教団形成を終えて展開を遂げていった中世後期の室町時代とでは、大いなる差異が存する。よってここでは中世前期についても可能な限り目配りし、その比較を通して室町仏教の死生観を探ってみたい。 鎌倉時代の仏教説話集たる「沙石集」には前に引用したように、次のような一文が収録されている。 「死トイフコト、オソロシクイマハシキ故ニ、文字ノ音ノカヨヘルバカリニテ、四アル物ヲイミテ、酒ヲノムモ三度五度ノミ、ヨロヅノ物ノ数モ、四ヲイマハシク思ヒナレタリ」。 この史料から「沙石集」の作者無住が、死という不可避のものに対して、「恐ろしい」と「忌まわしい」という観念を抱いていたことは容易に読み取れよう。死=「忌まわしい」の観念は後述するように、必ずしも中世全期に通底したものではないにしても、死=「恐ろしい」という恐怖の観念のほうは、中世全体、いな時空を超え、すべての人間が抱懐する根源的な観念であると思われる。 源信が「往生要集」で、臨終念仏の作法である「臨終行儀」を詳細に説き明かしたのも、その心奥に死=恐怖なる観念が厳存していたからではなかろうか。源信は往生のための正しい念仏のあり方=「正修念仏」を説示することによって、死の恐怖から自らを、また他者をも解き放とうとしたのである。 「沙石集」および先に挙げた「今昔物語集」を見れば、中世の人々はその前期・後期の区別を越えて、一様に死=恐怖なるもの、死=閻魔庁への堕落と観念していたことがわかる。 
死生観の転換 / では中世とは、このように死をめぐって、恐怖心一色に塗りこめられた時代だったのであろうか。思うに如何に死ぬかということは、逆に言えば如何に生きるかということであるから、その「死にざま」についても、現実における「生きざま」が直接間接に反映されるに相違ない。つまり、個々の人々が如何なる「生きざま」を示したかによって、「死にざま」の観念も微妙に変わってくるのである。 したがって次なる作業として、中世における現実の「生きざま」を、y「現世に対する価値観」、およびz「神祇観」の二つの物差しによって測定し、それによって「死にざま」を分析することが可能になる。 まず念仏門の親鸞を中心に考えてみると、・・・
■8  
源信の「臨終の行儀」  
藤原道長の死から200年の後、嘉禎元年(1235)4月頃から、三条家の右大臣・藤原実親の妻の容体が急に悪くなった。彼女は死期が迫ったことを知り、出家をして、6月15日夜に亡くなった。  
この状況を藤原定家の「明月記」が詳しく書いている。それによると、当日彼女は沐浴のあと浄衣をまとい、清い畳を敷いて端座し、五色の糸を阿弥陀如来像の手から引いて定印を結び、死期を待った。  
午後2時頃からは、無言で観想を行い、夜半にいたって遷化した。  
この女性には、未婚の妹がいて8年前の安貞元年(1227)に亡くなっているが、最後に大病でやせ細った妹は、前日の朝に出家し、死去の日には念仏を数百回も唱え、五色の糸を引いて定印を結び、午後4時頃に亡くなった。  
これらは源信(942-1017)の「往生要集」(985)の「臨終の行儀」に記された方法に従ったものであり、姉妹ともに絶賛に値する往生であった。(角田文衛「平安の春」)  
往生要集は、寛和元年(985)に天台沙門源信により書かれた、念仏信仰の書である。これにより、地獄・極楽のイメージが日本人の心に定着したといわれる。  
前記の道長の死も明月記に書かれた姉妹の死も、この源信の「臨終の行儀」に従ったものであると思われる。そしてこの行儀に従い臨終を迎えた貴紳衆庶は、おびただしい数にのぼるといわれ、それは「日本往生極楽記」(985-986成立)をはじめとする往生伝に、多数記録されている。  
この行儀は、臨終に臨み阿弥陀如来の来迎をお迎えするためのものである。高野山の「聖衆来迎図」を見ると、彩雲に乗った25人の聖衆が、音楽を奏したり舞踏をしながら、金色燦然と輝く阿弥陀仏を囲ぎょうして、しずしずと湖水の面に天下っている光景を描いている。  
ご来迎の様子は、身近な人の夢の中などにでてくる。例えば、叡山西塔の沙門仁慶は、死の病の中で、自ら法華経を読み、結縁の衆僧を請じて、読経・念仏を唱えて入滅した。  
そのとき傍らの人の夢に、大宮大路に五色の雲が空より降りて、音楽と妙なる香りが空に満ち溢れた。仁慶は頭を剃って大きな袈裟を着て、威儀具足して手に香炉を持って、西に向かって立っていた。そこへ雲の中から蓮華台が下りてきた。  
仁慶はこの蓮台に座して、雲の中を西方遙に去っていった。時の人は、これは仁慶が極楽に迎えられたしるしであるといった。(「大日本国法華経験記」第52)   
[ 参考 ]

 

和讃 
説経節 
踊念仏・盆踊り 
六道の辻 
念仏 
平安鎌倉の物語に見る神仏 
無縁仏 
冥途
 
 
良忍

 

[延久5年-天承2年 / 1073-1132] 平安時代後期の天台宗の僧で、融通念仏宗の開祖。聖応大師。尾張国知多郡の領主の秦道武(はた の みちたけ)の子。良仁とも書き、房号は光静房または光乗房。生年は延久4年(1072年)説もある。比叡山東塔常行三昧堂の堂僧となり、雑役をつとめながら、良賀に師事、不断念仏を修める。また禅仁・観勢から円頓戒脈を相承して円頓戒の復興に力を尽くした。22歳から23歳のころ京都大原に隠棲して念仏三昧の一方で、来迎院・浄蓮華院を創建し(寂光院も良忍による創建説がある)、また分裂していた天台声明の統一をはかり、大原声明を完成させた。1117年(永久5年)阿弥陀仏の示現を受け、「1人の念仏が万人の念仏に通じる」という自他の念仏が相即融合しあうという立場から融通念仏を創始し、称名念仏で浄土に生まれると説き、結縁した人々の名を記入する名帳を携えて各地で勧進を行った。四天王寺に参籠した時に見た霊夢により、摂津国住吉郡平野庄(現大阪市平野区)の領主の坂上広野の邸宅地に開いた修楽寺が、その後の融通念仏の総本山の大念仏寺の前身である。1773年(安永2年)聖応大師の謚号を賜った。  
■2  
良忍上人(聖應大師)は、延久四年(1072)尾州知多郡富田荘(現愛知県東海市富木島町)に誕生、父はその地方一帯を治める領主で、名を藤原秦氏兵曹道武といい、母は熱田神宮大宮司第二十四代、藤原秀範の息女でした。生まれつき美声の持ち主だったところから、幼名を音徳丸と名づけられました。十二歳で比叡山に登り、良賀僧都のもとで得度し、名を光乗坊良仁と与えられました。良忍と改名したのは大原へ隠棲して後のことです。比叡山での良忍上人は堂僧(堂守り)として修業する傍ら、天台の学問はもとより密教や戒律の修法にも努めました。二十一歳ですでに多くの学侶(学問をする修行僧)を教導する講主の職に任ぜられることになります。しかし学問の議論ばかりが先走り、真に道を求める心が薄れていることを嘆いていた良忍上人には当時の比叡山は決して修行に適した環境ではなくなっていました。伝教大師が強調された道心がゆるんでいたのです。また時代は貴族社会に変わって武家政権に移行する動乱期にさしかかっていました。一大仏教拠点たる比叡山にも時代変革に伴う世俗化の波が押し寄せていたのです。そうした中にあって心ある修行僧は本来の仏道を求めて別の地に移り棲むことがよく行われました。  
大原隠棲のこと  
二十三歳にして良忍上人は洛北大原に隠棲されることになります。大原は比叡山の別所として、念仏聖や修行者が草庵を結んで一つの集落を形成していたところです。大原での良忍上人は、世俗の営みを断ち偏に往生を願う純心な念仏行者であったこと、一切経を披閲し堂舎、仏像を造立し多年修練したこと、一日六万遍の念仏を称えるかたわら、法華経書写に励んだこと、睡眠時間をきりつめ、手足の指を燃やして仏と経に供養したこと等が最も古い資料とされる「後拾遺往生伝」「三外往生記」等に見え、真摯な念仏行者であり、法華経の修行僧であったことが窺えます。また「一切経を披閲し」とあるのは、大原来迎院に「如来蔵」という書庫を建て、仏教の典籍に親しまれたことを指しています。かくて上人四十六歳の永久五年(1117)五月十五日 午の刻(正午)一心に念仏を称えている中に阿弥陀仏が面り相好(お姿)を現じ、速疾往生といって、後の世を待たずに、現世にだれもが速やかに智慧かがやき喜び溢れる幸せの世界に至る方法として融通念仏の法門を授与されました。その授与された御文を「弥陀の妙偈」といい、融通念佛宗の教えの要となるものです。  
「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行 是名他力往生 十界一念 融通念仏 億百万遍 功徳円満」  
告げ終わって更に大光明を放って、白い絹一枚を上人に授与されました。そこには今しがた空中にお姿を現された仏、菩薩の尊像が描かれていました。中央に阿弥陀如来が立ち、その周囲を十体の菩薩がとりかこむお姿で、ご本尊「十一尊天得如来」であります。  
鞍馬寺多聞天王の冥助と鳥羽帝の帰信  
良忍上人は阿弥陀如来の示現をいただき、融通念仏の教えを深く領解したとはいえ、いまだ民衆に念仏を勧める機縁の熟さないまま草庵に閑居しておられました。しかし上人の徳は人づてに京の都に伝わっていました。ある時、鞍馬寺の多聞天王が威厳に満ちたお姿を現して上人にいわれるには、 「あなたは先に仏さまから尊い融通念仏を授かったのに、どうしてそれを人びとに勧めて苦しみの衆生を救済しないのか」 このお言葉によって布教の時ようやく至ったことを知った良忍上人は、天治元年(1124)6月9日 はじめて市中に出て念仏勧進を始められました。上人の名は朝廷に達し鳥羽上皇は宮中に上人を招いて皇后や百官もろともに融通念仏会を修し、自ら日課百遍の念仏を誓約されました。その上、上皇はご帰信のしるしに愛用の鏡を鉦に鋳かえて上人に授与されました。これを“鏡鉦”といい念仏勧進の道すがら鏡鉦を叩いて歩かれ代々大切に伝持されてきました。中祖法明上人のとき、故あって“亀鉦”と改称され今に大念佛寺の宝物として伝わっています。さらに鳥羽上皇は自ら融通念仏勧進帳(名帳)を製し、帰信者に名を記させるべくご自身もお名前を録し、かつ序文をしたためられました。天治二年(1125)4月4日 お礼のため鞍馬寺で通夜念仏をされた良忍上人の前にまたも多聞天王が現れ、神々の世界にまで融通念仏日課百遍を勧めた証拠に「神名帳」を授けられました。その「神名帳」には梵天、帝釈、四天王をはじめとして、閻魔王界から地獄の役人に至り、かつ日本国内の八百万神の名が星のごとく連なっていました。神々もまた融通念仏の行者としての誓約をされているのです。融通念仏が神祇同音といわれるのはそのためです。  
声明と良忍上人  
良忍上人を語るとき、忘れてはならないのは“声明”です。声明はもとインド五明の一つで音声、言語を研究する学問でした。それが転じて経文に曲節を付けて唱える梵唄を意味するようになりました。仏教音楽と考えてよいでしょう。声明は古くから中国に伝わり東晋、宋の時代に声楽に長じた法師の出現により盛んになり、さらに北魏の頃、陳思王曹植が出て天台山の一峰である魚山を根拠地として梵唄を盛んにしました。日本でもすでに奈良時代に経文に抑揚をつけて唱える風習がありましたが、平安時代に入って仁寿年間(851〜854)天台宗第三祖 慈覚大師円仁が入唐して梵唄を伝えたのが源流といわれています。慈覚大師は中国天台山を模して大原来迎院一帯を魚山と称し、仏教音律の根本道場としたのが始まりでしたが、一時衰退したのを良忍上人がこれを再興しました。良忍上人は天性の美声の持ち主だったことはすでに述べましたが、寛誓、尋宴、瞻西等について声明を習得し、音階を整理修補し、実技と理論を合一組成し、在来の法流を統一して魚山流声明を大成されました。実に声明業中興の祖として仰がれている所以です。大原には、音無しの滝、呂川、律川など良忍上人の声明に因んだ名称が残っています。  
融通念仏とは  
融通とは溶け合い和合することです。砂とセメントと水は、それぞれその形も働きも異なりますが、この三者が溶け合って和合すると強固なコンクリートになるのも融通です。融通念仏は、念仏が相互に融通して大きな力となることをいいます。すなわち念仏を称えることによって、人と人、人と物、物と物とのすべての関係の上に融通和合の世界を自覚し、苦脳と迷いのこの世を喜びに満ち溢れ、悟りの智慧かがやく楽土(浄土)にすることをめざした教えです。  
念仏のすすめ  
融通のはたらきの中では、一人の念仏は小さくとも、同時に一切の人に功徳を分かち、一切の人の念仏が一人の上に注がれてくる。念仏こそすべての善行の根本であり、すべての善行は念仏の中に摂(おさ)まってきますから本宗の信徒は毎朝十遍の念仏と、日課念仏百遍を称えることが大切なつとめとなっています。
■3 
融通念佛宗のあゆみ  
国産第一号の宗派  
日本仏教の宗派は古来、十三宗五十六派と称していました。戦後、多くの宗教法人が分派独立したり、新たに開立したりして今ではその数も百六十程になっています。しかしその教義及び歴史と伝統の上に立ってみると十三宗がその根本であることに変わりありません。融通念佛宗は古くから“大念仏宗”又は“融通大念仏宗”と呼ばれ親しまれてきました。日本仏教十三宗のうちで成立順にみると第六番目になります。天台宗、真言宗に次いで平安時代後期に成立した古い歴史を持つ宗派です。鎌倉時代になると、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗など相次いで成立しましたが、融通念佛宗はその先駆けをなしたもので国産仏教第一の宗派といえるのです。なぜならそれまでの宗派は三国伝来といってインド、中国または朝鮮を経てわが国に伝えられた、いわば輸入仏教であったからです。それでは融通念佛宗についてその概要を説明しましょう。  
大念佛寺の開創  
良忍上人はかねてより聖徳太子尊崇の念が深く、名帳勧進を兼ね太子ゆかりの四天王寺に詣でた折、平野が融通念仏を広めるのにふさわしい土地柄であるとの太子の夢告を得られました。平野の地は征夷大将軍 坂上田村麿の第二子広野公の管轄下におかれ、その菩提寺である修楽寺(明治初年、廃仏毀釈により杭全神社に吸収された)の別院だった香華院において融通念仏会を修したところ、参集の人びとがあとを絶たない盛況ぶりでした。鳥羽上皇はここを念仏勧進の根本道場と勅されました。これが総本山大念佛寺の開創です。  
法燈の中断と法明上人の出現  
その後、良忍上人の後継者がこの念仏の勧進をますます盛んにしていきましたが、大念佛寺に伝わる宗門の法燈(血脈ともいう)は、第六世 良鎮上人が寿永元年(1182)に没して後、良き後継者に恵まれなかったため、元亨元年(1321)まで百三十九年間中断することになりました。その間、融通念仏の法儀、宗要の密意、霊宝の悉くは石清水八幡宮の男山の社殿に蔵されました。宗門の法燈が中断したとはいえ融通念仏の法流は別のルートを経て各地に伝播することになったのです。嵯峨清涼寺、花園法金剛院、壬生地蔵寺などで融通念仏が盛んに修せられとともに、聖と呼ばれる遊行性をもった僧が各地で念仏勧進に励みました。東大寺叡尊、円覚十万上人道御、一遍智真は融通念仏の普及に最も尽力した聖達でした。また民間信仰や芸能と結びつき、日本全国に広まっていったのです。宗門の法燈が消えていた鎌倉時代において法然上人、親鸞上人、日蓮上人等が出て、新仏教が開花しましたが、その中にあって融通念仏はその庶民性と寛容性とによって各地に力強く浸透していったのです。融通念仏がいわゆる傍系において盛行を見ていた折しも、高野聖として活躍していた深江の法明上人が宗門の法燈を継承することになります。  
法明上人による復興  
元亨元年(1321) 法明上人四十三歳の11月15日夜、深江の草庵に石清水八幡大士が来現して、 「永らく融通念仏の法燈を伝授する器を待っていたが、あなたこそその人材である」と告げ融通念仏の口伝を授与し、その上、良鎮上人以来男山の社殿に預かっていた霊宝のすべてを返還する旨を伝えます。八幡大士の神勅は同社の社人にも及び、融通念仏の霊宝の授受が茄子作(枚方市)の里で行われます。ここは八幡宮の社人と法明上人の一行とが霊宝の授受を行うために出向いて遇々出会った所であったのです。その時の両者の感激ぶりは本尊「十一尊天得如来」を傍らの松の木に掛け、その周りを念仏を唱えながら踊りだしたという故事にもよく表れています。これが今も史蹟として残る茄子作の“本尊掛けの松”であります。法明上人は惣(郷村)を中心に活動し、念仏共同体として講を組織し、大念仏教団の基礎を築かれました。  
大通上人の再興  
室町、戦国時代を経て徳川初期に第三十六世 道和上人の時、総本山大念佛寺の寺地が現在地に定まり一宗の本寺としての権威は高まったものの、元和元年(1615)大坂夏の陣によって堂舎ことごとく焼失しました。それから六十年後の寛文十二年(1672)第四十三世舜空上人の時、立派な本堂が再建されました。(明治三十一年に焼失し現在の本堂は昭和十三年竣工) かくして第四十六世 大通上人の出現を見ることになります。天和二年(1682)初めて江戸に登り、将軍綱吉公の裁可を請い僧侶の服正を正し、広く諸国を巡歴し、高徳を訪ね、有縁の信者を教化することに努められました。元禄元年(1688)宗門の復興の台命を受け、儀礼を整え、諸堂を新築、また境内を整備し什物を修理するなど大念佛寺の景観を一新されました。また檀林勅許を賜わり、宗内に仏教の学問を盛んにし、自ら「融通圓門章」「融通念佛信解章」を撰述し、教義を宣布し、さらには末寺を巡錫して本山と末寺との関係を密にされました。まことに大通上人は宗門の再興の大恩人というべく今日に至るまで、その偉業は輝かしい光彩を放っているのです。  
■4 
日本での法華経の流布 
日本では正倉院に法華経の断簡が存在し、古くからなじみのあった経典であったことが伺える。 
606年(推古14年)に聖徳太子が法華経を講じたとの記事が日本書紀にある。 
「皇太子、亦法華経を岡本宮に講じたまふ。天皇、大きに喜びて、播磨国の水田百町を皇太子に施りたまふ。因りて斑鳩寺に納れたまふ。」(巻第22、推古天皇14年条) 
615年には聖徳太子は法華経の注釈書「法華義疏」を著した(「三経義疏」参照)。 
聖徳太子以来、法華経は仏教の重要な経典のひとつであると同時に、鎮護国家の観点から、特に日本国には縁の深い経典として一般に考えられてきた。最澄によって日本に伝えられた天台宗は、明治維新までは皇室の厚い尊崇を受けていた。 
聖武天皇の皇后である光明皇后は、全国に「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」を建て、これを「国分尼寺」と呼んで「法華経」を信奉した。 
天台宗の最澄は、自らの宗派を「天台法華宗」と名づけて「法華経」を至上の教えとした。 
鎌倉新仏教においても法華経は重要な役割を果たした。大念仏を唱え融通念仏宗の祖となる良忍は後の浄土系仏教の先駆として称名念仏を主張したが、華厳経と法華経を正依とし、浄土三部経を傍依とした。一方で浄土宗の祖である法然や浄土真宗を開いた親鸞などは、自らさとりに向かうことのできない凡夫の救いは浄土三部経に説かれているとし、それを正依としたが、法華経を批判する言葉は見いだせない。阿弥陀仏の久遠成仏説などは法華経の影響といえる。曹洞宗の祖師である道元は、「只管打坐」の坐禅を成仏の実践法として宣揚しながらも、その理論的裏づけは、あくまでも法華経の教えの中に探し求めていこうとし続けた。臨終の時に彼が読んだ経文は、法華経の如来神力品であった。 
日蓮の登場によって、「仏教の最高経典」{正法(妙法)}としての法華経の地位を不動のものにしようとする思想的系譜は一段と先鋭化を遂げた。日蓮は、「南無妙法蓮華経」の題目を唱え(唱題行)、妙法蓮華経に帰命していくなかで凡夫の身の中にも仏性が目覚めてゆき、真の成仏の道を歩むことが出来る、という教えを説き、法華宗各派の祖となった。ここにおいて、法華経信仰が日本全国の大衆にまで広まり始める。日蓮教学の法華宗は、この経の題目(題名)の「妙法蓮華経」(鳩摩羅什漢訳本の正式名)の五字を重んじ、南無妙法蓮華経(五字七字の題目)と唱えることを正行(しょうぎょう)とする。 
近代においても法華経は、おもに日蓮を通じて多くの作家・思想家に影響を与えた教典である。主義の左右を問わず、近代の著名な法華経信仰者の人生に共通するのは、小市民的な栄達を嫌い、どこまでも己の理想のみに殉じていこうとする非妥協的な態度にあると言えそうである。宮沢賢治(詩人・童話作家)や高山樗牛(思想家)、妹尾義郎(宗教思想家)、北一輝(右派革命家)、石原莞爾(軍人・関東軍参謀)らがよく知られたその例といわれている。 
昭和20年太平洋戦争での敗戦後、法華経は女人成仏は可か否かなど一部の文言については進駐軍の意向もあり教学上、解釈の変更も一部の宗派では余儀なくされた。
■5 
融通念仏 
良忍を始祖とする念仏信仰。ちなみに「融通念仏宗」は江戸時代になって成立したもので、良忍の始めたものとは別である。融通念仏とは、「うたごえ運動」(五来重)であるという見事な説明がある。融通念仏は、「一人一切人 一切人一人」(ひとりは全員のために、全員は一人のために)というスローガンのもとにつくられた念仏信仰者の共同体。 
名帳に登録されて参加者になると、過去・現在・未来にメンバーの唱えたすべての念仏の功徳を、すべての参加者が得られるというもの。融通念仏では、多数の参加者が一斉に念仏を唄う集会「融通大念仏」をしばしば開催した。このとき念仏にあわせてうたうメロディーに、良忍の得意とした声明などの音楽が導入されたと考えられる。のちに融通念仏からは六斎念仏の「うたう念仏」(居念仏)と「踊る念仏」(立ち念仏)が発展し、「うたう念仏」は盆踊り歌の、「踊る念仏」は踊り念仏や盆踊りの源流となったとする説がある。
■6 
浄土教 
阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く教え。浄土門、浄土思想とも。 
「浄土」という語は中国での認識であるが、思想的にはインドの初期大乗仏教の「仏国土」がその原型であり、多くの仏についてそれぞれの浄土が説かれている。中国・日本においては阿弥陀仏信仰の流行にともない、浄土といえば一般に阿弥陀仏の浄土をさす。 
平安時代の浄土思想は主に京都の貴族の信仰であったが、空也(903-972)は庶民に対しても浄土教を広め、市の聖と呼ばれた。良忍(1072-1132)は「一人の念仏が万人の念仏と融合する」という融通念仏(大念仏)を説き、融通念仏宗の祖となった。天台以外でも三論宗の永観(1033-1111)や真言宗の覚鑁(1095-1143)のような念仏者を輩出した。 
平安末期から鎌倉時代に入ると、法然(1133-1212)は「選択本願念仏集(選択集)」を著して浄土宗を開創し、根本経典を「仏説無量寿経」「仏説観無量寿経」「仏説阿弥陀経」の「浄土三部経」に、天親の「浄土論」加え制定した(「三経一論」)。  
法然の弟子の親鸞(1173-1262)は「教行信証」等を著して継承発展させ、後に浄土真宗の祖となる。一遍(1239-1289)は、諸国を遊行して時宗を開いた。平安時代後期から鎌倉時代にかけて興った融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・時宗は、その後それぞれ発達をとげ、日本仏教における一大系統を形成して現在に及んでいる。  
専修念仏と融通念仏 
専修念仏は、法然上人によっていきなり作られた、阿弥陀信仰の極限形です。阿弥陀仏が法蔵菩薩だった頃の誓願に着目し、もし阿弥陀仏が「仏」としてあるならば、必ずこの誓願を果たしてくれるだろうという絶対他力の救済を信仰することで成立する浄土教です。必要なのは、「絶対他力の信」であり、この現世での行いは悪人・善人問わず救済されるという非常に明快な宗教です。後には親鸞聖人に受け継がれ、法然上人・親鸞聖人の門下が教団を作って大きくしたために現在までの日本に多大なる宗教的影響を与えました。 
対して、空也上人は「市聖」「阿弥陀聖」と呼ばれた平安中期の仏教者で、在俗の修行者として諸国を遊行遍歴し、阿弥陀仏の名前を称えながら各地で道を開いたり、井戸や池を掘り、橋を架けて、野原に遺棄された死骸を火葬にするなどの救済事業を行いました。36歳の時には京都市中に入り乞食して集めた施物を貧民に与えました。46歳の時に比叡山に上って受戒すると、貴族の外護なども受けるようになりました。同時代には恵心僧都源信などがおり、彼らは哲学的に高度な浄土信仰を貴族層などに広めておりましたが、空也上人は庶民の間に入って情動的・狂躁的な信仰を広めました。千観上人などは、正面からその影響を受けて野に下りました。 
融通念仏は平安時代末期にかかる良忍上人が阿弥陀仏の直説として感受した「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行 是名他力往生 十界一念 融通念仏 億百万遍 功徳円満」という偈をもって、自他の念仏が融通して円満なる功徳が満ちることを説き、日課として口称念仏するべきだと勧めました。融通念仏は宗派としての勢いはその時々にあって盛衰を繰り返したため、なかなか資料も伝わりませんが、現在の融通念仏宗は鎌倉時代の法明や江戸時代の大通が出て、広めたのが元となっております。大阪市平野区の大念仏寺を総本山とします。 
そして、融通念仏は各地に関係を持っていた寺社がありました。融通念仏が寄付を募る手段として有効だった事があるためです。融通念仏者は各地を旅し、一種の漂泊の民になることから、多くの霊力を身に着けた「聖」としてみられていました。この霊力を頼みに人を集めていたようです。寺社はそれを融通念仏者に依頼し、融通念仏者もそのことによって大手を振って各地の寺社で「興行」を打つ事が出来ました。結果として、融通念仏が行った寺社の祭神が同時に融通念仏の守護神になったようです。 
こういったことがあったので、一遍の伝記上にも多くの神が登場し、一遍に道を知らせます。結果、これらの説には、法然-親鸞の系統に見るような専修念仏のラディカルさは見えず、思想的にはかなりの相違を見ることが出来ます。13歳の春に筑前太宰府にいた法然の孫弟子聖達に就いて出家しました。それから12年間、浄土教の勉学に励んだそうですが、36歳の時、四天王寺や高野山を経て熊野に詣でて神託を受けます。これ以降はより一層「南無阿弥陀仏」と称えながら神社のお札のような「念仏札」を配ります。後には時宗の祖とされる一遍聖人ですが門弟達には「神明を重んじよ」と説きました。「一遍上人語録」には熊野権現や大隅正八幡宮や北野天神などの結縁があった事が示されています。
称名念仏  
善導は憶念(念ずる)と称名(称える)とは同一であると主張して、称名念仏を勧めた。観想念仏のように阿弥陀仏や浄土を心の中でイメージ化する瞑想は特に必要でない。したがって、特別な修行や浄土を観想するための建築空間(寺院・堂)や宗教美術(仏像・仏画)は不要となり、時間と空間を問わず誰でも称名念仏できるため、幅広い層の民衆に対する浄土教の普及に貢献した。 
日本天台宗の円仁(慈覚大師)は、入唐の際に五台山竹林寺を訪れて法照の流れを汲む念仏を日本に持ち帰った。これは五会念仏とも五台山念仏ともいわれ、独特の声明による称名念仏が特徴である。これが日本の称名念仏の源泉となった。 
称名念仏の流れは、平安時代末期の日本において、融通念仏の祖の良忍に受け継がれ、その後の融通念仏宗では「南無阿弥陀仏」と称え、「大念仏」という。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて法然が開いた浄土宗では「南無阿弥陀仏」をひたすら称える「専修念仏」を行い、同系宗派の親鸞の浄土真宗にも受け継がれている。室町時代に天台宗から生じた天台真盛宗は、円戒と称名念仏を主にしている。
称名念仏2  
善導は憶念(念ずる)と称名(称える)とは同一であると主張して、称名念仏を勧めた。観想念仏のように阿弥陀仏や浄土を心の中でイメージ化する瞑想は特に必要でない。したがって、特別な修行(例:日本天台宗の常行三昧)や浄土を観想するための建築空間(寺院・堂)や宗教美術(仏像・仏画)は不要となり、時間と空間を問わず誰でも称名念仏できるため、幅広い層の民衆に対する浄土教の普及に貢献した。日本天台宗の円仁(慈覚大師)は、入唐の際に五台山竹林寺を訪れて法照の流れを汲む念仏を日本に持ち帰った。これは五会念仏とも五台山念仏ともいわれ、独特の声明による称名念仏が特徴である。これが日本の称名念仏の源泉となった。称名念仏の流れは、平安時代末期の日本において、融通念仏の祖の良忍に受け継がれ、その後の融通念仏宗では「南無阿弥陀仏」と称え、「大念仏」という。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて法然が開いた浄土宗では「南無阿弥陀仏」をひたすら称える「専修念仏」を行い、同系宗派の親鸞の浄土真宗にも受け継がれている。室町時代に天台宗から生じた天台真盛宗は、円戒と称名念仏を主にしている。
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踊念仏の系譜  
一遍の念仏勧進は融通念仏によったものであるといわれる。だから、熊野で「融通念仏すゝむる聖」(「一遍聖絵」第3巻)といわれたのである。融通念仏は、良忍が天台教学を身につけ大原の山中にいて声明による念仏をひろめようとした。これに対して一遍は民衆の中にいて民衆とともに往生の機を得ようとしたのである。これは空也に近い。一遍は「空也上人は吾先達なり」(「一遍語録巻下」99)といっている。 
歴史的に踊り念仏のおこなわれた寺について見ると、七条金光寺・四条金蓮寺・大炊道場聞名寺・五条御影堂新善光寺・丸山安養寺・霊山正法寺・大津荘厳寺などがあり、時宗の寺僧が踊念仏をおこない、大津荘厳寺の法事には東山法国寺の僧が行っている。また四条坊門極楽寺の空也像の前では毎日踊念仏があった。その他では京極光明寺では宇津宮弥三郎朝綱持仏の阿弥陀開帳があり、大阪四天王寺の短声堂では大念仏を修していた。いま踊り念仏・念仏踊の多くは盆を中心にしておこなわれているが、京都では彼岸におこなわれることが多かったという。  
踊念仏のひろがり 
「一遍聖絵」では最初の小田切の里での踊念仏を別にすれば、念仏踊をおどっているのはすべて僧尼であり、一般民衆はこれを見ている。前述の諸寺におこなわれる踊り念仏・念仏踊も僧尼が踊ったとある。それが次第に民衆の間で踊られるようになる。「融通念仏縁起」にも念仏踊のさまが描かれているが、この方は俗人も踊っている。そして寺の本尊のまえで踊っていて、舞台はつくられていない。「融通念仏縁起」の版本は明徳2年(1391)良鎮によってつくられ、肉筆本の方は応永21年(1414)につくられ、版本にしたがって描かれたもののようである。 
両本とも室町のはじめに描かれたもので、この頃になると、俗人も踊に参加しはじめていた事がわかる。こうして僧から俗へと除々に踊が拡大浸透していったもののようである。  
■8 
念仏踊り 
念仏踊り(ねんぶつおどり)と聞いて、日本史に登場する「踊念仏(おどりねんぶつ)」と当たりがつけば、大体どのようなものか想像できるかも知れない。何も思い当たらなくとも、字面から念仏を唱えて踊る類と見当は付くだろうが、日本舞踊上の念仏踊りというジャンルは、踊念仏ではないらしい。数少ないながら「念仏踊り」は現存するので、成立までの背景や現在までの流れを本筋としつつ、念仏行がどのようにして芸能に昇華したのかという辺りを探ってゆこうと思う。 
現在、一般に言われる念仏踊りとは、仏を讃え喜びを表す信仰表現として、神に奉納していた感謝の踊りに念仏を盛り込み、それが芸能化したものであるが、芸能の「念仏踊り」としての明確な枠組みは未だ定着していないようだ。大塚民俗学会編「日本民俗事典」の解釈によると、「踊念仏は仏教儀礼として、念仏・和讃を詠いながら霊の鎮魂や鎮送のために踊るものであるから、これを芸能または娯楽のためにすると、念仏踊となる。 
しかし現今は、民俗芸能と称して大念仏・六斎念仏・盆踊などを、すべて念仏踊に入れている」という。現存のものは、念仏踊りと名が付くものの概して念仏は唱えられず、内容的には雨乞踊・豊年踊・花笠踊など、どちらかというと田楽や風流を思わせる。まず曖昧になっている境界線を探ってみる。 
宗教上、集団で繰り返し踊るという行為を遡ってみると、平安時代、比叡山で行われていた「常行念仏(じょうぎょうねんぶつ)」が歴史上最初に登場する。これは比叡山施設の1つである常行堂内で、僧侶らが念仏を唱えながら阿弥陀仏の周囲をぐるぐる行道する修行であった。この念仏行を京都の街中に初めて持ち込んだのが、平安時代中期の僧で踊念仏(おどりねんぶつ)の開祖といわれる「空也(くうや)」である。 
空也が踊っていたという史実はないのだが、鉢を叩きながら一般庶民に念仏を教える馴染みやすいスタイルは、後の踊念仏の源流であると考えられている。空也は市聖(いちのひじり)、阿弥陀聖とも呼ばれ、社会事業を行いながら幅広い層に念仏行を広めた功績者として名高く、彼の踊念仏は、京都・六波羅蜜寺や空也堂に、「念仏聖(ねんぶつひじり)」の先駆となった門弟や「鉦たたき」「鉢叩き」と呼ばれた芸能者により、全国に広められていった。 
次の流れとして、平安時代末期に天台宗の僧侶である聖応大師・良忍が起こした「融通念仏(ゆうづうねんぶつ)」がある。座行と、立行の2通りのスタイルがあったが、立行は集団で調子を合わせて念仏行を行うもので、その姿は後の踊念仏に近いスタイルといえるだろう。 
集まって一緒に念仏を唱えた人々の効験は、互いに享受されるという「1人の念仏が万人の念仏に通じる」思想に基づき、これより念仏を大勢で一緒に唱えることが徐々に重要視されるようになり、また集団行道が踊りに発展する契機になったと考えられている。口称念仏(称名念仏)の最初の流れを作り、熊野・高野を主な根拠地としていた遊行聖(高野聖など)らにより一般民衆に伝播され、民間の間で次第に風流化していったと考えられている。  
次に鎌倉時代になり、時宗の開祖・一遍による「踊念仏(おどりねんぶつ)」がようやく登場する。遊行上人、捨聖(すてひじり)とも呼ばれ、市聖・空也を師として信濃国伴野(長野県佐久市)で踊念仏を起こし、和歌・和讃による解りやすい教化と、信不信・浄不浄を問わない念仏勧進を行いながら日本全国を巡行し踊念仏を広めた。 
普及の最大の要因は一遍本人が遊行念仏を行ったことにあるが、踊念仏の救済観も普及要因の1つだと考えられている。死者の供養だけでなく、現世に生きる人々を救済するという思想、現世の自分たちが救われることで死者もまた救われるという思想に発展させた。このことが踊念仏への参加を促進し、更に念仏行の芸能化を推し進める契機になったと考えられている。広く一般に認知されたことにより、村落共同体での「念仏講」などの類の母体を獲得し、全国各地に普及・定着していった。 
この段階では、念仏を唱える本人が踊るスタイルであり、歴史的に長く踊念仏が行われた寺社は七条道場金光寺・四条道場金蓮寺・霊山正法寺・大津荘厳寺などの時宗寺院で、時宗の寺僧が踊念仏(空也念仏)を行い、四条坊門極楽寺にある空也像の前では毎日踊念仏が行われた。現在、踊念仏・念仏踊りの多くは盆を中心に行われているが、京では彼岸に行われることが多かったようだ。 
踊念仏が風流化して念仏踊りに近づくにつれ、華美な服装・仮面・持物などとなり表出し、念仏和讃から恋歌・叙景歌・数え歌などに変わり、太鼓のみが他の楽器類よりも目立つようになり、一般に念仏踊りと言えば太鼓を打ちながら勇壮に跳ねる太鼓踊りを主体とするものが連想されるまでになった。また融通念仏からの流れを汲み大勢集まった人の数だけ功徳が得られ、誰でも参加できる参加性の高さが残された。 
こうした風柳化の始まりは、田楽と踊念仏の結合が平安末期に行われたことによるという説もあり、平安末期当時の宗教色の濃い今様の法文歌を白拍子が舞い歌ったりしたことから念仏踊への道が開かれたともいわれる。越中五箇山(現・富山県南砺市)の「コキリコ踊」や越後黒姫村女谷(現・新潟県柏崎市)の「綾子舞」などにこの段階の念仏踊がみられ、いずれも国指定重要無形民俗文化財になっている。
踊り念佛から念佛踊りへ  
現在多くの人々は、念佛は極楽往生の願いを実現するために始ったと解している。 
日本に伝えられた初期の念佛は、中国の五台山の法照流五会念佛(ホウショウリュウゴエネンブツ)で、天台宗の僧円仁(エンニン/794-864)が行った比叡山常行堂引声(インゼイ)念佛といわれ、歌讃詠唱する音楽的念佛であった。 
これは願生(ガンショウ)浄土のためでなく、天台宗の四種三昧の実践であり、阿弥陀佛の名を詠唱して常行三昧を行ずることで摩訶止観(マカシカン)の諸法実相の理を悟るためのものであった。だから念佛は方便として用いられたのであった。この念佛の曲調を伝承して比叡山の常行堂の不断念佛に結番(けつばん)するのが堂僧であった。融通念佛の良忍(リョウニン/1072-1132)がこの堂僧の中から出たのも理のあることであった。 
この常行三昧の引声念彿が融通念佛に通ずるものである。 
融通念佛は一般に「一人一切人、一切人一人、一行一切行、一切行一行」というのは、常行堂の引声念佛に源をもつ詠唱念佛であった。その曲調を、朗詠、今様のような日本的発声法にし、民衆に歌いやすくしたものが良忍の融通念佛であり、念佛を合唱することですべての人の往生を確かにする方法であった。 
現存の詠唱念佛である六斉念佛は、先の融通念佛のうち「四編」(シヘン)「阪東」(バンドウ)「白舞」を入れているので、六斉念佛は融通念佛から出来てきたことを示している。 
この融通念佛と踊り念佛は鎌倉時代の中頃に現われる。それは円覚十万上人道御(ドウギョ)であった。道御は正嘉(ショウカ)元年(1257)壬生寺(ミブデラ)で融通念佛狂言を始め、融通念佛は大念佛の名で踊り念佛化した。 
道御は唐招提寺や法隆寺の勧進聖で10万人を勧進するごとに大念佛会を営み10万人聖といわれ、生涯に100万人勧進をしたので、百万聖人(しょうにん)ともいわれた。また、謡曲「百万」はこの聖を題材にしたものである。 
踊り念佛は空也(クウヤ/903-972)に始まる。「日本往生極楽記」に記されているように市聖(イチヒジリ)といい、阿弥陀聖というように念佛に重点をおく跳躍、足踏を中心に、鉦(カネ)や杓(ヒサゴ)を持つ程度とみられる。 
すべての芸能は神や霊に対する鎮魂、呪術舞踊に出発し、死霊や怨霊による凶作や疫病をさけるために呪文、呪声、仮面、呪具、足踏(反閇(へんばい))があるけれど、呪具はやがて風流へ発展し、呪文は歌謡や念佛へ、呪舞は舞踊や行道へ発展したものである。 
空也上人の頃も大念佛や怨霊鎮魂の御霊会が屡々なされており、踊り念佛も大念佛となったことは自然の歩みとみられる。源平争乱による怨死者を亡魂する7日間大念佛が「法然上人行状画図」(巻30)にみえる。地方では遊行聖(ユウギョウヒジリ)たちのすすめで大念佛がされている。 
大念佛の場所に供養卒塔婆が立つことが多いが、空也没30年の後に記された「拾遺抄」に「市門にかきつけて待りける」とあり、寿永3年の「拾遺抄註」に七条猪隈(シチジョウイノクマ)の市門に石卒塔婆をのせている。この市門のあとに一遍の市屋道場が建てられたのである。 
一遍上人(1239-1289)は時宗の開祖で弘安2年、信州小田切で踊り念佛を始めたという。それは空也上人のものを受け継いだので、「聖絵(ヒジリエ)」を見ればわかるように「うたう念佛」であり、融通念佛であった。一遍の配った南無阿弥陀佛の賦算札は60万人を志したが、25万人で入寂(ニュウジャク)した。世間では時宗特有のものと考えているが、実は融通念佛のものであった。 
「一遍聖絵」の踊り念佛では高台の館の庇の間に狩衣姿の主人、そして従者が座し、板縁に一遍が立ち鉢をたたく。庭では20人程の僧と俗が輪を作り、中心に鉢をたたく者がある。鉢と簓(ササラ)をもつ僧侶がいる。足拍子をそろえ、踊りに熱中している。老僧が撞木(ツエギ)をもち、若僧侶が鉢をもって、踊りの輪の中心で踊る。これが調声人物(チョウショウジンブツ)である。風流踊りの念佛では願念坊(ガンネンボウ)、願人坊(ガンニンボウ)、道心坊(ドウシンボウ)、新発意(シンボチ)に当る。
■9  
良忍の融通念仏とその思想背景  
融通念仏宗の宗祖良忍上人の研究は、他宗他派の宗祖伝とちがい一筋縄ではいかぬような気がする。良忍の伝記はその成立過程において二転、三転、四転して、今日見るが如き宗祖伝が完成されたようである。今昭和五十六年は上人の八百五十回忌にあたるので、この機会に史実としての上人伝を明らかにしたい。また良忍が出世した平安末期に融通念仏という特色ある念仏思想がどうして誕生したかという、その思想背景をも明らかにしたい。先に刊行された佐藤哲英著の『叡山浄土教の研究』には、横田が「良忍と融通念仏」の一章を分担執筆したので、今回の共同研究でも「史実として見る良忍上人伝」は横田が担当し、「叡山浄土教における良忍上人の地位」は佐藤が分担した。
史実として見る良忍上人伝  
塚本善隆博士が昭和三十一年の『日本仏教学会年報』に発表された「融通念仏宗開創質疑」なる論文は、われわれ融通念仏宗の学徒にとつて大きなショックだつた。爾来われわれは確実な史実として見た宗祖伝を追求し、その実像を明らかにしたいと微力をつくしできたが、ここにその一端を発表して識者の高判を仰ぎたいと思う。  
大原如来蔵の良忍上人真蹟洛北大原にある来迎院は良忍上人建立の寺であり、その寺の経蔵たる「如来蔵」には良忍の書写本や、手沢本など十五点が現存する。その中には上人が十八歳から二十一歳頃までの筆蹟や、三十一歳筆の『仏種集』、四十九歳筆の『三観義私記』もあるので、青年時代から壮年時代にかけての上人の筆蹟を、まのあたりに見ることが出来る。今その一端を示すと次の如くである。  
寛治四年 (一〇九〇) 良仁十八歳 (無外題春回帖)  
寛治七年 (一〇九三) 良仁二十一歳 (摩詞止観第一)  
康和元年 (一〇九九) 良忍二十七歳 (讃阿弥陀仏偶)  
康和五年 (一一〇三) 良忍三十一歳 (仏種集上巻)  
嘉承二年 (一一〇七) 良忍三十五歳 (金鉾論)  
保安二年 (一一二一) 良忍四十九歳 (三観義私記抄)  
これによつて良忍は青年時代の十八歳から二十一歳頃までは「良仁」と自署しており、二十七歳以後は「良忍」と署名しているので、みずから「良仁」より「良忍」へと改めたようである。このうち『仏種集』上巻の奥には  
康和国年八月十日未刻。於二叡山檀那院実報房幻書写功畢。  
比丘良忍  
とあるので良忍は三十一歳頃まで比叡山上の檀那院実報房にいたことが知られる。  
紀州粉河寺発掘の経筒の銘文昭和三十四年九月、紀州粉河寺裏の産土神社の経塚から発掘された経筒には左の銘文があることが報告されている。  
奉納妙法蓮華経一部八巻  
天治二年九月五日癸酉。助教清原信俊  
勧進六口大法師勝聞・賢俊・聞寛願尊良忍・忍濡四吉間。於ニ芹生別所。如法如説奉二書写一畢。是依レ為二霊験幻所レ奉レ埋二粉川宝前一也。願以ニ此善根幻生二兜率内院幻結二縁衆生噴共値二遇慈氏尊幻法界衆生。平等利益。敬白。  
これは清原信俊が願主となり、六人の勧進僧によつて大原の芹生別所で法華経の如法書写を行い、天治二年 (一一二五)九月五日に粉河寺の宝前に埋納した時の願文である。この六口の勧進僧のうちに「良忍」の名が見出されるが、時に良忍は五十三歳である。この二つの史実によつて、青年時代の良忍は叡山で『摩詞止観』や『法華玄義指事』などの天台文献を書写して、研鑛にはげんでいたことがわかり、五十歳頃になると大原で法華経の如法書写を行い、勧進僧として活躍していたことが知られる。  
寂滅後まもなく撰述の住生伝三種の比較良忍は法然上人誕生の前年なる天承二年 (一二二二) 二月に六十一歳で入寂したが、寂後数年ならずして三善為康の『後拾遺往生伝』(一二二七-一一三九) が書かれ、その下巻には「沙門良仁」伝がある。この良仁伝によると叡山の住侶で堂衆をつとめていたが「暮年に及んで大原山に隠居し (中略) 如法経六部を書写して自他に廻向し、或は手足指を燃して、九年仏経に供養す」とあり、焼身供養などのきびしい練行をなす勧進僧の生活が窺われる。また「日別に妙経一部を諦し、念仏六万遍、三時の行法多年怠らず」とあるから、法華と念仏とを兼修する叡山浄土教徒であつたことを伝えている。  
次に良忍寂後十数年をへて蓮禅の書いた『三外往生記』の「良忍上人」伝では、叡山東塔常行堂の堂衆であつたが「永く交衆を絶つて、小庵を構えて大原に止住し、十二時に三昧行を修して年来解倦せず」とあるから、大原に隠遁後は念仏三昧の生活をしていたらしい。また「遷化の後には極楽に往生し瑞祥嫡焉」「入棺の時その軽きこと鴻毛の如し」という奇瑞も記されている。そして  
大原律師覚厳の夢に、上人来りて告げて曰く、我れ本意に過ぎて上品上生にあり。これ融通念仏の力なり。天承二年二月。  
という一文が添えられている。ここに始めて「融通念仏」という言葉が登場するが、『三外往生記』の著者蓮禅が当時の風聞を書きとめたもののうちに、融通念仏の功力を讃える言葉が見出されることは、良忍寂後十数年もたたぬ間に既に良忍と融通念仏とを結びつける信仰が芽ばえていたことを示すものである。  
『後拾遺往生伝』には「沙門良仁」伝はあつても良忍の伝記がないと思い誤つて、三善為康の滅後になつてこれを補なつたものが中巻に見られる「上人良忍」伝である。この補遺がいつ行なわれたか明瞭でないが、『三外往生記』の後三、四十年以内のことかと思う。この「上人良忍」伝では、叡山首樗厳院 (横川) の禅徒であつた上人は、「中年以後に大原に移住し偏えに往生を願い」「常に仏前に対して燈明の光を消して極楽の依正を観じた」という。また舎弟尭賢上人に密かに告げて曰く、「我れ年来、白毫観を修して黒業罪を戯し、敢えて散心なきも妄りに声を出さず」とあり、その臨終には五色の糸を仏手にかけて念仏解らず。入滅ののち三箇日間は生けるが如く身体が暖かく、顔には微笑を浮べ、入棺の時には軽きこと一紙の如しという奇瑞がいろいろ書き立てられ  
隣房に常陸律師あり。夢に上人告げて曰く、我れ本意に倍して上品上生に在り。これ融通念仏の力なり。上人年来の善知識僧厳賢(小湯屋の聖と号す) 上人往生の由を告げらる。凡そかくの如き夢想を告げ来りしもの惣じて三十余人なり。  
という融通念仏の夢告が記されている。いまここに上人の寂後まもなく記された往生伝の三種を比較すると、三伝ともに大原の地に隠遁生活を送つた聖的な上人像をえがきながら、『後拾遺往生伝』の「上人良仁」伝では、きびしい練行を続ける法華勧進僧の面が強く示されている。これは紀州粉河寺から発掘された経筒の銘文によつて、大原の芹生別所で法華経の如法写経を行つた勧進僧良忍の記録が裏づけられるので、恐らく生前の業績をありのままに伝えたものであろう。  
ところが良忍上人は叡山の常行堂で堂僧生活をし、山を下つて大原に移つてからも常行堂の念仏を伝えて大原の声明に一時代を画した人であるから、当然叡山の念仏者らしい行業を日夜続けていたらしく『三外往生記』の「良忍上人」伝には「十二時に三昧行を修して年来癬倦せず」といい、『後拾遺往生伝』中巻の「上人良忍」伝には「常に仏前に対して燈明の光を消して極楽の依正を観じた」とか、年来白毫観を修して妄りに声を出さずとかあるのは、観想念仏者の風格を伝えたものであり、良忍もまた多くの叡山浄土教の念仏者に見られる法華と念仏とを兼修した人であつた。これとともに、これらの三伝に共通してみられることは、手足や指を焼燃して九年間仏経に供養し、一千日間無動寺に参籠して鹿履をつけず、仏前の燈明を消して極楽を観想したという如き、むしろ苦行ともみられる常人を絶した厳しい練行生活を送つていたことが窺われる。このようにこの三伝は上人像に対する観点がそれぞれ違つてはいるが、これらを総合したところに良忍上人伝の素描は画き出されていると見てよかろう。  
上人伝聖化の第一歩、融通念仏の合言葉しかるにこの三伝における臨終瑞相を比較すると『後拾遺往生伝』巻下の「沙門良仁」伝には、ただ「音楽撃レ雲、見聞盈レ門」と抽象的に記されていたにすぎなかつたが、『三外往生記』の「良忍上人伝」になると「入棺之時。其軽如二鴻毛こと具体的である。さらに『後拾遺往生伝』巻中の「上人良忍」伝では「入滅之後三箇日。身暖如二生時幻顔和似二微笑ことか「棺敏之時。軽如二一紙ことか「上人房前有一二池幻池東岸有二竜頭舟幻舟中観世音菩薩。放二金色光幻安禅微笑」などいろいろな瑞相が加わつてくる。これらの瑞相は恐らく上人の寂後良忍を敬慕する集団の人々の問で語り伝えられたものを記録したものと思うが、寂後二十年もたたぬ間に上人伝聖化の第一歩がふみ出されていることに注意したい。特に上人敬慕の人々の間に感銘深く語り伝えられたのが、「我過二本意幻在二上品上生幻是融通念仏之力也。」という夢告であり、われわれもまた融通念仏の力によつて極楽往生しようという信徒間の切なる願いが窺われる。そればかりか『後拾遺往生伝』中巻の「上人良忍」伝になると、上人の夢想を告げられたものが三十余人もあつたというから「融通念仏」を合言葉として集つている信徒集団は次第に増大していつたのであろう。  
古今著聞集から融通念仏縁起へ残念ながら良忍には一部の著作も残つていない。また上記三種の往生伝成立の十二世紀中様から鎌倉中期までの百年の間に良忍を崇拝敬慕する融通念仏集団がどのような進展を示したかを知る何等の文献も残されてないが、信奉者間に進められた良忍伝の聖化は長足の進歩をとげ、上人を崇敬する融通念仏集団は年一年と成長拡大していつたものと思われる。そして鎌倉中期になつて橘成季の『古今著聞集』(一二五四) が書かれる。先きの往生伝では上人の夢告として語られた融通念仏の功力が『古今著聞集』になると、夢は夢ながらも上人自ら夢の中で感得した阿弥陀如来自身の示講として記されてくる。すなわち良忍四十六歳の夏、しばしまどろむ間に夢に阿弥陀仏の示謳として速疾往生の法たる円融念仏が示され「一人の行をもつて衆人の行となすが故に、功徳広大にして順次に往生す。」という融通念仏の功力が記されている。そこで上人は勧進帳を携えて念仏勧進に出かけると三千二百八十二人の記帳を得たばかりか、鞍馬寺毘沙門天の記帳まで得たという。このように『古今著聞集』になると良忍像がいよいよ神秘化されて融通念仏宗の宗相としての良忍伝が浮ぴあがつてくる。併しながら三種の往生伝でも『古今著聞集』でもその筆者は宗団人ならぬ第三者であつたが、鎌倉末期に及んで融通念仏宗の宗団人によつて、良忍上人の生涯を記述されたものが『融通念仏縁起』(一三一四) であり、ここに今日見るが如き融通念仏宗の宗祖伝は完成を見るのである。
叡山浄土教における良忍上人の地位  
   融通念仏思想の時代的位置づけ  
大原における良忍中心の念仏集団叡山浄土教の展開史において良忍上人をどう位置づけるかは、なかなか面倒な問題である。良忍 (一〇七二-一一三二) は源信 (九四二-一〇一七)の没後六十五年目の誕生であり、法然 (一一三三-一二一二)の生誕より一年前の入寂であるから、平安末期の白河院政期に活動した人である。ところが源信の没後から法然の出世までの百年間は叡山浄土教における第二の暗黒時代で、文献資料の極めて乏しい時期である。また良忍には今のところ一部の撰述もみつかつていないし、その融通念仏が果して良忍の創唱であるのかどうかも相当吟味してかからねばならぬ問題である。というのは融通念仏という言葉がはじめて文献に見られるのは、良忍寂後二十年近いころに沙弥蓮禅が書いた『三外往生記』の良忍上人伝であるが、その記事たるや良忍の没後に大原律師覚厳の夢に上人が現われて、「我れ本意に過ぎて上品上生にあるは、これ融通念仏の力なり」といつたというのである。このような夢告に見られる融通念仏であるから、これを史実とみることは出来ないとする学者も少なくない。  
けれども良忍が生存した平安末期における大原の状勢に目を向けると、『本朝新修往生伝』(日本思想大系本六九〇頁) の「大儒清原信俊」伝では、この信俊が願主となつて大原山寺では大がかりな写経供養が行なわれており、勧進僧によつて法華経一千五百部の書写と三十万部の転読がなされていたので、大原には数多き勧進僧が集つていたことがわかるが、良忍もその勧進僧の一人に加わつていたのである。また大原声明の中興であつた良忍は不断に念仏三昧を行ずる念仏聖であつたが、常人に絶するきびしい練行をつづける良忍の周辺には、良忍を敬慕する在家信者の群れが集つて、おのずと念仏集団を形成していつたかと思う。そして良忍がなくなると上人は覚厳律師の夢枕に立つて「わが上品上生の往生は融通念仏の力であつた」というお告げをしたというのである。個の力ではどうにもならない極楽往生も、衆の力で可能になるという融通念仏の思想は庶民の問に次第にうけ入れられ、「融通念仏」を合言葉とする信仰集団が発生し、それは良忍上人を崇敬する融通念仏集団として生長発展していつたものかと思われる。  
決定往生縁起に見る十界念仏融通念仏というのは一人一切人、一切人一人という一即一切の原理に立つて、わが唱うる念仏が衆人の念仏に融通し、衆人の唱うる念仏がわが念仏に融通し、一人往生すれば衆人も往生して功徳広大であるというのである。かかる一即一切の原理に立つ特殊な念仏思想が果して平安末期に存在しうるかどうかを考察してみたい。ここに平安末期の叡山浄土教の流れから現われた「十界念仏」という異色の念仏思想をとりあげると、これは『恵心僧都全集』第一巻の『決定往生縁起』に見られるもので、その十界念仏たるやただ単に南元阿弥陀仏を十たび唱えるという念仏ではなく、「南元仏法法界阿弥陀仏、南元菩薩法界阿弥陀仏(乃至) 南元地獄法界阿弥陀仏」といつた十界の弥陀念仏を称えるのである。そうすると十界がそれぞれ十界に互具するが故に百返の念仏となり、百界に各十如を具するので千返の念仏となる。さらに五陰世間、国土世間、衆生世間のゆえに三千返の念仏となる。そして三千世間各々無量数あるがゆえに無数の念仏となる。十念でも往生業となる、まして無量無数の念仏をやといつている。そして一念の菩提心の功徳は百千の塔をつくる善根よりも勝れているので、この殊勝な菩提心に托して唱える十念の功徳は決定往生の業となること間違いない。このように十界念仏の思想はその理論根拠として十界互具、百界千如、三千世間という天台の一念三千説をあげているが、そればかりか  
十界念仏ももうけて結縁のために勧進をすること、猶し臨終十念に擬せんとす。(恵心全集、一、五五七)  
という念仏勧進の言葉まで見られる。この十界念仏の説かれる『決定往生縁起』の成立は、真源 (一〇六四-一一三六) の『自行念仏問答』と相前後するものと考えられるので、ほぼ良忍の出世年代と一致する。このように十一世紀の末様か十二世紀の初頭に作られた『決定往生縁起』の十界念仏が、天台の一念三千説を根抵とする念仏思想であるように、良忍の融通念仏もまた天台の「一行一切行、一切行一行。一人一切人、一切人一人」という一即一切の思想を根砥とする念仏思想である。今この両念仏に直接のつながりがあるというのではないが、少くとも十二世紀初頭に天台の一念三千説にもとつく十界念仏の勧進がすすめられていたとすれば、ちようどその頃に出世した良忍によつて融通念仏の勧進があつたとしても、思想史的観点からいささかも無理な推測ではないのである。  
叡山浄土教における一人一切人の思想叡山浄土教は源信によつて組織と体系が与えられているので、叡山浄土教の展開史上で源信の占める地位は極めて大きく、平安末期に発達した叡山浄土教は、源信の二大名著である『往生要集』と『観心略要集』とを基点として展開するのである。特に『観心略要集』には天台の実相原理たる三諦三観、一念三千を根抵とした「阿弥陀三諦説」という独自の阿弥陀仏論が説かれている。この阿弥陀三諦説は阿弥陀の三字に寄せて空仮中の三諦の理を観ぜんとするもので、天台では空仮中の三諦を観ずれば成仏するのだから、この空仮中の三諦の理をそなえた阿弥陀の三字を称念すれば成仏するという「念仏成仏」が説かれている。而してこの『観心略要集』の思想の流れから『妙行心要集』『自行念仏問答』『決定往生縁起』『真如観』などの一連の文献が作られる。  
まず源信の『観心略要集』では円融三諦の理論をのべて  
「即レ三而一、即レ一而三。非三非一、而照三ご一こ (恵心全集一、二七八) とあるが、この三即一、一即三という円融三諦の理論は、安楽院恵快の『妙行心要集』になると二願一切願、一切願一願。一法一切法、一切法一法」(恵心全集、二、四三三) とある。けれども『妙行心要集』ではまだ弥陀思想に関連した一法一切法、一切法一法は語られていなかつたが、真源の『自行念仏問答』になると弥陀に来迎引接の願があるかないかを問うて三義をあげる中に  
円教意。一仏一切仏。一切仏一仏。一行一切行。一切行一行。一願一切願。一切願一願。故弥陀一仏願。一切仏願。(恵心全集、一、五四九)  
とあつて、弥陀の願行についても一即一切の円融相即の思想が見られることは注目に価する。また先きにあげた『決定往生縁起』の十界念仏も天台の一念三千説にもとついて十念の念仏に無量無数の念仏があるというものであつたが、次にのべる『真如観』には  
我が功徳すなわち一切衆生の功徳となり、一切衆生の功徳すなわち我が身に成就し、互いに自行化他の功徳具足して、倶に周辺法界の仏となりぬと観ずべし。(恵心全集、一、四九三)  
とあつて、ここには「一人一切人、一切人一人」の思想が見られるのである。この『真如観』は『菩提要集』(一一〇五)との関連において成立年代を考察すべきであるが、恐らく十二世紀初頭を下るものではあるまいと考えている。このように見てくると良忍が出世した平安末期には、すでに『自行念仏問答』に説かれるような「一仏一切仏、一切仏一仏。一行一切行、一切行一行。一願一切願、一切願一願」という相即観が説かれて、弥陀一仏の願は一切仏の願であり、弥陀一仏の行も一切仏の行であるという思想が現われている。そればかりか『真如観』になると、「我が功徳はすなわち一切衆生の功徳となり、一切衆生の功徳はすなわち我が身に成就す」という一人一切人、一切人一人の思想まで現われているのである。  
卒直にいつて今日のところ良忍には一部の著作もみつかつていないので、良忍に融通念仏の思想があつたという積極的徴証はつかみ得ないけれども良忍の没後二十年も経ぬ一一五〇年頃の撰述とみられる『三外往生記』の良忍上人伝には、融通念仏という一語が登場してくる。それは良忍自身の言葉として「我れ本意に過ぎて上品上生に在り。これ融通念仏の力なり」といつてはいるが、大原律師覚厳への夢の告げにすぎず、これをもつて良忍に融通念仏の思想があつたと断言することはできない。しかるに既に見てきたように平安末期における叡山浄土教の思想動向のうちには、一即一切の思想が次第に強調されて、二願一切願、一切願一願。一行一切行、一切行一行」という願と行についての互具相即が語られているばかりか、「一人一切人、一切人一人」という人についての互具相即まで語られており、しかもそれが良忍の出世年代と等しい十一世紀末葉か十二世紀初頭の文献に見られることは、そのころ既に一人一切人、一切人一人の思想が叡山浄土教家のあいだ醗醸にしていたことを示すものである。先に一言したように文献資料によつては良忍に融通念仏思想があつたとする積極的証拠は認めがたいが、良忍の在世時代には『真如観』に見るような一人一切人、一切人一人の思想が叡山浄土教のうちに流れていたとすれば、少くともその後半生を大原に隠遁して念仏生活をつづけていた良忍に、一人一切人の融通念仏の思想があつたとしても、いささかも時代的矛盾はないものと考えている。  
〔附記〕  
当日の研究発表では「今日のところ良忍には一部の著作もみつかつていない」と申したところ、早速良忍にもこんな著作があるとの報告を頂いた。その一は『布薩略作法』で、叡山学院の小寺文頴教授からの報告である。その二は曼殊院には『出家作法』なる古写本があると、谷大の白土わか教授からの報告である。その三は良忍上人伝承の『引声阿弥陀経』があると、叡山学院の天納伝中教授からの報告である。大阪平野の大念仏寺では、今年五月に良忍上人八百五十回忌法要がつとまり、『良忍上人の研究』なる記念出版が企画されているので、上記の新出資料の全文写真とその研究とが収載されて、良忍に関する新分野の研究が開発されることは、学界のために喜こばしい次第である。
■10 
声明(しょうみょう) 
仏教の声楽。節にのせてお経などを唄ういわば男声合唱。声明は、すでに奈良時代に南都(奈良)の諸寺にある程度伝来していた。平安時代になると、天台宗延暦寺の僧円仁(794-864)によって、中国で発達した「うたう念仏」といわれる声明の一種「五会念仏」(ごえねんぶつ)が伝えられ、わが国における声明発展の基礎を築いた。 
日本における声明を大成したのは、良忍(1072-1132)である。良忍は比叡山の下級僧である堂僧(常行三昧堂などの施設で声明に乗せて念仏を勤行する僧)をつとめ、親鸞の遠い先輩にあたる。のちに下山し、当時「聖」(ひじり)たちの一大拠点であった京都大原に入って来迎院を開創。各地の声明をほとんどすべて吸収しわが国の声明を大成したという。 
現在も大原は「魚山(ぎょざん)流」声明の本拠地として有名である。良忍はまた融通念仏の創始者でもある。多くの念仏聖の集まる大原で、声明のような音楽を採り入れた念仏芸能が成長し、後の踊り念仏のベースになっていったものと考えられる。後の六斎念仏などの念仏芸能の念仏歌詞には、「ゆうづうねんぶつ なむあみだぶつ」といった歌詞が含まれ、また曲調には「ユリ」「ソリ」「アタリ」などという声明由来の節回しが残されているという。このように声明は、後の盆踊り音楽はじめ日本民謡の音楽の源流となったと考えられている。
声明2 
日本の伝統的な仏教聖歌(ぶっきょうせいか)であるが、仏教とともにインドから中国へ伝えられ、中国で新たに作られたものも加わり、日本へと伝えられた。もともと声明とは古代インドの学問のひとつで、シャブダ・ビドヤーといわれ、言葉の学問、つまりサンスクリット語=梵語(ぼんご)の文法学を意味しており、日本では平安時代、密教僧が真言や陀羅尼の学習のためにこの梵語の文法学である悉曇(しったん)を学んだ。752年東大寺大仏開眼供養の際、声明が唱えられたことが記録にあり、その後、9世紀の初めに弘法大師空海により真言声明が、また、中頃には円仁により天台声明がそれぞれ中国から伝えられている。 
2/ 仏教の声楽。節にのせてお経などを唄ういわば男声合唱。声明は、すでに奈良時代に南都(奈良)の諸寺にある程度伝来していた。平安時代になると、天台宗延暦寺の僧円仁(794-864)によって、中国で発達した「うたう念仏」といわれる声明の一種「五会念仏」(ごえねんぶつ)が伝えられ、わが国における声明発展の基礎を築いた。 
日本における声明を大成したのは、良忍(1072-1132)である。良忍は比叡山の下級僧である堂僧(常行三昧堂などの施設で声明に乗せて念仏を勤行する僧)をつとめ、親鸞の遠い先輩にあたる。のちに下山し、当時「聖」(ひじり)たちの一大拠点であった京都大原に入って来迎院を開創。各地の声明をほとんどすべて吸収しわが国の声明を大成したという。 
現在も大原は「魚山(ぎょざん)流」声明の本拠地として有名である。良忍はまた融通念仏の創始者でもある。多くの念仏聖の集まる大原で、声明のような音楽を採り入れた念仏芸能が成長し、後の踊り念仏のベースになっていったものと考えられる。後の六斎念仏などの念仏芸能の念仏歌詞には、「ゆうづうねんぶつ なむあみだぶつ」といった歌詞が含まれ、また曲調には「ユリ」「ソリ」「アタリ」などという声明由来の節回しが残されているという。このように声明は、後の盆踊り音楽はじめ日本民謡の音楽の源流となったと考えられている。
声明3 
僧侶が節を付けて唱えるお経や、仏さまの徳や慈悲を讃えて伝統的な節を付けて歌う讃歌などを、古代インドではガータと言い、中国や日本では現在も「梵唄(ぼんばい)」と言っています。 
一方、古代インドで文字の発音を研究する学問を“サブダヴィジャ”と言い、中国ではこれを声明と訳し、日本へも発音(音韻)の学問を指す語として伝わりました。ですから、中国でも日本でも声明は、梵唄(賛歌)とは別のことを指す語だったのですが、鎌倉時代に天台宗の湛智(たんち)という声明家が、「声明用心集(しょうみょうようじんしゅう)」「声明目録」という著書のなかで、梵唄の理論を述べたことから、日本では梵唄のことを声明とも言うようになりました。それ以後どちらかというと、声明という言い方のほうが広く用いられています。以下、声明とさせていただきます。  
 
中国に仏教が伝わったのは今から二千年ほど前ですが、中国に運ばれたお経の大部分はすぐに中国語に翻訳されましたので、儀式のお経や讃歌は、インドから伝わった節(ふし・旋律)そのままではなくて、中国語に合った節で朗唱したり歌ったりしたものと思われます。それでも一部はインド語のままで唱えることもありましたので、そのような部分にはインドの節が遺されていたかも知れません。 
しかし二百数十年も経ったころには、中国にも独自の讃歌やお経が生まれたようです。そのことを物語るのが「魚山伝説」であります。三国時代の英雄曹操(そうそう)の子息曹植(しょうしょく・192〜232)が斉(せい)の国の東阿(とうあ)の王であったころ、魚山という丘の上で、天上から響く音楽を聴き、その節に模して讃歌を作成したのが、中国声明の始めであるというのです。 
この話は中国の人々が、中国梵唄(声明)の始まりをこの偉大な詩人である曹植に求めたいという気持ちの表れでありましょう。読者の中には過般、松下隆洪師とともにこの魚山の曹植の墓を訪ねられた方も、おられることと思います。(筆者も別途に訪ねました) 
ところで声明は日本に、いつ頃何処から誰が伝えたのでしょうか。まず中国から高句麗(こうくり)へ372年仏像やお経が伝わりました。やがて新羅(しらぎ)や百済(くだら)に伝わり、538年にはその百済から仏像とお経が日本に贈られています。しかし、それと同時に仏教儀式と不可分の声明が伝わったと見ることはできません。日本で仏教儀式が行われた最初の記録は、日本書紀にある584・5年の蘇我馬子による石仏殿や舎利塔供養ですが、このとき勤めた僧は百済や高麗系の尼僧であったとのことです。しかしどのような儀式と声声であったかは記されていません。 
その後、奈良時代を通じて大寺院の最高位の僧の大部分は、中国や朝鮮半島からの渡来の僧でありました。一例を挙げれば、752年に行われた東大寺の大仏開眼供養(かいげんくよう)を主宰し、同年に当時から今日まで絶えることなく行われている同寺二月堂のお水取り(十一面観音悔過・けか=修二会・しゅにえ)を始めた東大寺の長者は、中国(唐)からの渡来僧、実忠であります。このうち、大仏開眼供養会では現在の奈良各寺や天台・真言宗に伝わる曲名と同じ曲名の声明が唱えられたことが記録されていますが、その旋律についてはやはり分りません。しかしお水取りは今でも行われていますから、当時の旋律の面影を今日に伝えるものとして注目されています。 
また奈良時代の始めの720年にはお経の読み方について、やはり渡来僧と思われる道栄という僧の唱え方を手本として統一すべきであるというお触れが出されています。さらに736年には、インド・イラン系や今のヴェトナム系の僧も日本に渡ってきて、儀式や仏教芸能(伎楽)などを伝えています。このようでありますから、日本には声明は、長期に亙って次々と日本に渡ってきた中国・朝鮮・南方の僧たちによって伝えられたのであります。言い換えますならば、隋・唐時代の中国の仏教儀式や梵唄が直輪入されて、日本の寺院でほとんど同時代に行われ、唱えられていたと云っても良いのであります。 
奈良時代も終わりに近くになりますと、声明は各寺院でますます盛んになり、その結果、唱法に乱れが生じるまでになっていたようで、「哀音(あいおん)をやめ、正音(せいおん)を用いよ」との布告が出されているほどであります。 
哀音とは恐らく、寺院の伝承からはずれた民間歌曲の節回しを指したのではないかと思われます。 
さて、平安時代になりますと様子が変わってまいります。日本から積極的に中国に出かけていって、仏教を学び、それを日本に伝える僧が現れたのです。帰国後、延暦寺に天台宗を開いた最澄と、東寺(教王護国寺)に真言宗を開いた空海がその人です。ただ、声明に関しては天台では三代目の円仁が中国の天台山から伝えたものが基盤となり、真言宗では空海に続く僧たちがその基礎を築いたと考えられています。 
その後、天台宗には良忍(1073〜1132)が出て中興し、真言宗では寛朝(919〜998)が中興のあと,1140〜50ごろには覚性親王(かくしょうしんのう)によって、本相応院流(ほんそういんりゅう)・東相応院流、醍醐流、進流(しんりゅう)の四流派に整理されました。このうち進流は、大和中川寺から高野山金剛峰寺に本拠を移し、新義真言宗の分流後は根来寺(ねごろじ)、長谷寺(はせでら)、智積院(ちしゃくいん)にも引き継がれ、やがて真言宗全体に広がりました。  
 
音楽の上から声明を見ますと伝来系には、幾つもの小旋律型(小さな節のまとまり)がつながってーつの曲ができているものと、文字の音節や抑揚ごとに短い音が付けられているものとがありますが、この二つの傾向は、日本製声明にもはっきり見ることができます。たとえば真言宗で読まれているや四座講式(しざこうしき)や天台宗の六道講式(ろくどうこうしき)などの講式声明は「重(じゅう)」という、云うならば大旋律型によって曲を構成しながら、細部では一言一言の抑揚や表情に考慮した音が付けられていますので、その両方の性質を備えているということが出来るのです。 
ところでこのような声明が、日本古来の音楽と比べてどのような違いがあったのでしょうか。それを考えるには、声明以前の日本の音楽がどのようであったかということが分からなければなりません。しかしその時代の姿のままで現在にまで残っている音楽は残念ながらありません。宮中で行われている「東遊(あずまあそび)」や「御神楽(みかぐら)」の行事の中の「駿河歌(するがうた)」や「阿知女(あじめ)」などの古代歌謡も、大陸から入ってきた雅楽の影響を受けて雅楽器の伴奏で歌われています。 
このように日本に大陸文化としての声明や雅楽が伝わってくる以前の日本固有の音楽は、現在では宮中や大神社での行事や神事を通じて、はるかに偲ぶ(しのぶ)より外ありません。しかしそれらに共通することがあります。それは、歌われる言葉のことであります。声明は梵語や漢語であり、雅楽は当時の世界最高の合奏音楽ではありますが、日本にとっては声明とともに外来音楽であることに変わりありません。そのような音楽事情の中で、日本古来の言葉で歌われた歌や、古来から日本にあった楽器による音楽などとは、かなり長期に亙って融け合わないで併存していたものと思われますが、平安時代になりますと声明や雅楽を積極的に日本人の感覚に沿って自分たちのものに消化しようとするようになったのではないかと考えます 
勿論そのような傾向は、宮中の公郷(くぎょう)達みずからが楽器を演奏したり、仏教法要に参勧(さんきん)したりしたことと深い関係があります。しかし神道音楽には雅楽が重要な役割を持つようになったとはいえ、歌は外来歌曲にとって変わることは不可能なことであります。古来からの歌曲はたとえ伴奏楽器として雅楽器が用いられ、そのことによって大きな変容を遂げたとしても、今日までその面影を留めてきたと考えることが出来ると思います。 
その様子は、ちょうど明治期に入ってきた洋楽器ピアノの伴奏で日本古曲を歌うことが行われるようになると、小節線で区切られた拍によって節が数えられると同時に、音の高さも平均律というピッチにはめられるという変化が生じたのと同じ様な影響があったと思われます。 
 
ここまで見てきましたように、雅楽や声明という伝来音楽は、古来から日本にあった音楽に次のような影響をもたらしたものと考えます。 
1 歌では旋律型の連結や漢語の抑揚(四声)に基いた声明曲の造り方(構造)が、それまでの日本語の抑揚と歌詞の句読(切分法)に従った日本古来の歌曲の、旋律の造り方に採り入れられていったであろことは充分に考えられます。この傾向は漢語の日本語への流入と、軌をーにすると思われます。  
2 歌と楽器の両方の音楽について、「拍」または「拍子」という考えが入ってきたことにより、古来の日本音楽にも「拍」の考えが生じたものと思われます。また歌の伴奏に外来楽器である雅楽の楽器を用いるようになり、それまでの日本固有の音律(音の高さ)に、雅楽律(振動数)へと引き寄せられるという変化が起こったことは容易に考えられます。  
3 雅楽や声明(特に雅楽)の音階についての理論に、古来の日本音楽も組み込まれたであろうと考えられます。  
 
伝来声明がわが国の音楽(邦楽)に何らかの影響をもたらしたことは明かでありますが、この両者には経過的な中間段階があります。それは外来声明の日本化であります。先にも触れましたが、小さな旋律型をつなぐという曲の作り方や、文字の抑揚にもとづいて旋律を作るという方法が、中国や朝鮮から直接伝えられて、今日まで残っているのか、わが国で変化または考案された作曲法なのかは、いずれとも断言できませんが、いずれにしてもこの作曲法は日本製声明にも形を変えて受け継がれ、講式、表白、祭文法則などのいわゆる「読み物声明」は勿論のこと、和讃、往生礼讃、讃嘆などの豊かな旋律を備えたいわゆる「歌い物声明」を生み出しました。さらにこれらは一方では宗教民謡とでも云うべき念仏、御和讃、御詠歌などを生み出す源泉となり、また一方では語り物琵琶音楽(特に平家琵琶)や同じく語り物である浄瑠璃音楽や能の謡曲を生み出す源泉ともなったのであります。 
このうち念仏は、南無阿弥陀仏というわずか六文字に、極めて多種多様なリズムや拍を持つ旋律が施されるという、声明の分野でも一大種目を形成することとなりました。そしてこの念仏がお寺から出て一般民衆の手に渡るや、すさまじい勢いで念仏芸能とでも云うべき芸能の、これまた一大種目を形成するに至ったのであります。そして今日にも全国各地に行われている念仏講、大念仏狂言、六斎念仏などの芸能へと発展していくのであります。 
また琵琶音楽の中でも平家琵琶は独自の発展を遂げ、謡曲は鼓、太鼓、笛などとともに能の一翼を担い、三味線と一体になった浄瑠璃などの語り物音楽は、やがて人形劇や歌舞伎という舞台音楽へと発展したことはよく知られている通りであります。  
 
先にも記しましたように、曹植と魚山の名は没後数十年に書かれた三国志の魏書に初めて登場し、没後約三百年の梁高僧伝や没後三百六十年(593)建立の碑文にも出てきますが、その曹植が魚山で天上からの奏楽を聞いたという記事は、没後四百年の「広弘明集」が初めてであります。その後に続く「法苑珠林」(668)「釈氏要覧」(1019)や「仏祖統記」(1269)では、曹植がその音楽を倣って梵唄を製作した、というようになっています。 
わが国では承安二年(1173)に、大原の声明師家寛が後白河法皇に撰上した声明集の序文(執筆者は澄憲)の中に、「昔陳子王之遊魚山 遥聞仙人之唄声・・・」(むかし陳子王=曹植、魚山に遊び、はるかに仙人の唄の声を聞き・・・)と書いていることで分かるように、曹植と魚山と声明とを結ぶ話はこの頃までには日本に伝わっていたのです。 
そして嘉禎四年(1238)には、大原の声明家の宗快が声明記譜上の原則の一覧表を作成し、それに「魚山目録」と名付けたことでも分かるように、この時までには魚山を声明と同じ意味に用いていたばかりでなく、現在の大原一帯を指して魚山と呼んでいたことも明らかになっています。 
少々脱線しますが、後白河法皇が建礼門院を訪ねて大原へと向かう「灌頂の巻(かんじょうのまき)・小原御幸(おはらごこう)」で、平家物語の末尾を飾っているのは、琵琶法師たちがその芸能の発祥を天台声明に求め、その中心地を大原としていたことの現れと見るのは穿ち(うがち)過ぎでしょうか。 
一方、真言宗でも魚山の名は1496年に長恵が編纂した声明曲集の巻末に「魚山芥集(ぎょさんたいかいしゅう)」とあるのをはじめ、その後、「魚山私抄」「魚山集」などの名称を持つ声明曲集が多く著されているのを見ても、魚山が声明と同じ意味で用いられてきたことが分かります。 
このように魚山は日本においては、ひろく宗派を越えて声明の代名詞であるばかりでなく、その発祥の地を遠く中国に求める心情と、伝承の上での正当性の表明であるのであります。そうでありますから、これまでわが国から中国のこの地を訪れて、少なくともその所在をその目で確かめることが行われなかったのは真に不可思議なことと云わなければなりません。多数の東寺真言宗の方々が昨年六月に魚山を訪ねられましたことは、わが国においては声明の再評価、再認識の契機となりましょうし、中国側にとりましても魚山と仏教寺院音楽への関心の高揚に大いに意義を持つものと考えます。筆者も昨年三月末に天台宗の天納傳中師を団長として九名ばかりで魚山の地を訪ねることが出来ました。その時は魚山の丘とその周辺は全く未整理の状態でしたが、わずか三ヶ月後に東寺真言宗の方々が訪ねられたときには、信じられれない早さで整備が進められていた様子を、松下隆洪師からこの「会員便り」によってお知らせ頂きました。  
 
中国側の上記のようなすばやい対応は、とりもなおさず中国国内に於ける魚山の再認識と関心の高まりの現れに他ならないと考えます。そしてその契機となったのが日本からの訪問者の増大であったことも事実でありましょう。中国のみならず日本においても、これまでは曹植の名は、主として偉大なる詩人として、また悲劇の王族の一人としてでありましたが、今後、仏教音楽の立場から、魚山伝説を生んだ時代の背景や寺院音楽それ自体の歴史研究が、「魚山曹植墓」の日本に於ける紹介を手始めとして日中双方の研究者の手で進められることを願って止みません。また、日本に伝存する雅楽の管絃や舞楽とその音楽理論等の中国に於ける資料の発掘と紹介も本紙上において手掛けられたことは、研究上大いに貢献するものと考えます。
[ 参考 ]

 

庶民の信仰と生活 
踊念仏・盆踊 
念仏 
法華経と用語 
口説きの系譜
 
 
重源

 

(ちょうげん) 保安2年-建永元年(1121-1206) 中世初期の日本に生きた人物。平安時代末期から鎌倉時代にかけて活動した僧である。房号は俊乗房(しゅんじょうぼう、俊乗坊とも記す)。 東大寺大勧進職として、源平の争乱で焼失した東大寺の復興を果たした。 
経歴 
紀氏の出身で紀季重の子。長承2年(1133年)、真言宗の醍醐寺に入り、出家する。のち。浄土宗の開祖・法然に学ぶ。四国、熊野など各地で修行をする。中国(南宋)を3度訪れたという(異論もある)。 
東大寺は治承4年(1180年)、平重衡の南都焼打によって伽藍の大部分を焼失。大仏殿は数日にわたって燃え続け、大仏(盧舎那仏像)もほとんどが焼け落ちた。 
養和元年(1181年)、重源は被害状況を視察に来た後白河法皇の使者である藤原行隆に東大寺再建を進言し、それに賛意を示した行隆の推挙を受けて東大寺勧進職に就いた。当時、重源は齢61であった。 
東大寺大勧進職 
東大寺の再建には財政的・技術的に多大な困難があった。周防国の税収を再建費用に当てることが許されたが、重源自らも勧進聖や勧進僧、土木建築や美術装飾に関わる技術者・職人を集めて組織し、勧進活動によって再興に必要な資金を集め、それを元手に技術者や職人が実際の再建事業に従事した。また、重源自身も京の後白河法皇や九条兼実(2)、鎌倉の源頼朝などに浄財寄付を依頼し、それに成功している。 
重源自らも中国で建設技術・建築術を習得したといわれ、中国の技術者・陳和卿の協力を得て職人を指導した。自ら巨木を求めて山に入り、奈良まで移送する方法も工夫したという。また、伊賀・紀伊・周防・備中・播磨・摂津に別所を築き、信仰と造営事業の拠点とした。 
途中、いくつもの課題もあった。最大のものは大仏殿の次にどの施設を再興するかという点で塔頭を再建したい重源と僧たちの住まいである僧房すら失っていた大衆たちとの間に意見対立があり、重源はその調整に苦慮している。なお、重源は東大寺再建に際し、西行に奥羽への砂金勧進を依頼している。 
こうした幾多の困難を克服して、重源と彼が組織した人々の働きによって東大寺は再建された。文治元年8月28日(1185年9月23日)には大仏の開眼供養が行われ、建久6年(1195年)には大仏殿を再建し、建仁3年(1203年)に総供養を行っている(3)。 
以上の功績から重源は大和尚の称号を贈られている。 
重源の死後は、臨済宗の開祖として知られる栄西(4)が東大寺大勧進職を継いだ。 
東大寺には重源を祀った俊乗堂があり、「重源上人坐像」(国宝)が祀られている。鎌倉時代の彫刻に顕著なリアリズムの傑作として名高い。浄土寺(播磨別所)、新大仏寺(伊賀別所)、阿弥陀寺(周防別所)にも重源上人坐像が現存する。 
著作 
重源は、建仁3年(1203年)頃に「南無阿弥陀仏作善集」を記している。今日、一部で戒名に阿弥陀仏をつけるようになったのは重源の普及によるともいわれる。 
大仏殿のその後 
重源が再建した大仏殿は戦国時代の永禄10年(1567年)、三好三人衆との戦闘で松永久秀によって再び焼き払われてしまった。 
現在の大仏殿は江戸時代の宝永年間の再建で、天平創建・鎌倉再建の大仏殿に比べて規模が縮小されている。 
大仏様 
重源が再建した大仏殿などの建築様式はきわめて独特なもので、かつては「天竺様(てんじくよう)」と呼ばれていたが、インドの建築様式とは全く関係が無く紛らわしいため、現在の建築史では一般に「大仏様」(だいぶつよう)と呼んでいる。 
当時の中国(南宋)の福建省あたりの様式に通じるといわれている。日本建築史では飛鳥、天平の時代に中国の影響が強く、その後、平安時代に日本独特の展開を遂げていたが、再び中国の影響が入ってきたことになる。構造的には貫(ぬき)といわれる水平方向の材を使い、柱と強固に組み合わせて構造を強化している。また、貫の先端には繰り型といわれる装飾を付けている。 
西行と重源 
高野にこもりたるころ、草のいほりに花の散り積みければ、/散る花のいほりの上を吹くならば風入るまじくめぐりかこはむ(西行) 
秋の末に寂然、高野にまゐりて、暮の秋によせて思ひをのべけるに/なれきにし都もうとくなりはててかなしさ添ふる秋の山里(西行) 
法会の当日、法皇は仏前の巽方(たつみ)の仮屋の御所に入ったが、それは松葉で葺いてあり、いちばん西に法皇、中に八条院、東に女房たちが入った。舞台に到着した開眼師定遍により仏眼真言が唱えられた後に、法皇が大仏殿の麻柱をよじ登って開眼を果たす予定とされていたが、定遍が遅れてしまい、近臣の藤原親能、藤原能盛(よしもり)、平業忠(なりただ)らの助けで登った法皇がまず開眼を行った。さらに仏眼真言も法皇自身が唱えたというが、やがて遅れてきた定遍も仏眼真言を唱えたのであった。かくして大仏は再生を遂げたのである。  
■2 
治承4年(1180)も押し詰った12月28日、「王法仏法」の象徴ともいえる東大寺が平重衡の焼打ちによって灰燼に帰した。 
翌治承5年(1181)3月17日、左小弁兼蔵人の藤原行隆が十数人の鋳物師を引連れて焼損の実態を調査し「修造不可」の結論に達したにもかかわらず、後白河院は6月26日には藤原行隆を造寺造仏長官に任じ、8月には60歳の俊乗房重源に「東大寺造営勧進」の宣旨を下し、これをもって東大寺復興事業がスタートしたのである。 
ところで、後白河院が重源に「勧進」宣旨を下した事について、当初は、朝廷・摂関家・鎌倉幕府から庶民にいたる幅広い信者を持つ法然上人を推挙したところ、「自分は念仏勧進に専心する身」と辞退する代わりに信頼の厚い重源を推薦したとの説もある。 
律令国家崩壊に伴う財政破綻と源平争乱による国土の荒廃・疲弊の中での東大寺修復は並大抵ではなかったが、ここでは、渡海僧重源でなくてはなし得なかった点に絞って、先ずは大仏の修復から述べてみたい。 
「東大寺造営勧進」の宣旨をうけるやいなや、重源は直ちに大仏の螺髪(※1)から鋳はじめるのだが、大仏の頭部と大仏の両手の鋳造は日本の鋳物師の技術で充分可能としても、その頭部と両手を焼残った大仏の胴体に鋳継ぐ技術を日本の鋳物師が未経験であることが判明して重源は厚い壁にぶつかる。 
そこで重源が配下をあちこちに派遣して情報収集をしていたところ、宋の鋳物師・陳和卿(ちんなけい)が船が破損して帰国がかなわず九州の港に停泊していることを知り、早速彼を呼び寄せて鋳造方法を協議した結果、大仏鋳造の中心的役割に陳和卿一行を採用し、補佐役に東大寺鋳物師草部是助(くさかべこれすけ)を充てて大仏修造を推し進め、元暦2年(1185)8月28日には大仏開眼供養に漕ぎ着けている。 
このことから注目したいのは重源と宋人鋳物師陳和卿との繋がりである。重源が「東大寺造営勧進」の宣旨を賜って大プロジェクトに着手し鋳造の難題に直面していた。九州の港では宋人鋳物師陳和卿がたまたま停泊していた。それだけでは、この二人は繋がらない。 
宋王朝(960-1279)の時代、私的な貿易は盛んに行われたが日本は宋と正式な国交を持たなかった。そんな状況下、入唐三度の経験を持つ重源であったればこそ、陳和卿に繋がる情報網を持てたのであろうし、宋人鋳物師が持つ技術への確信と信頼をもてたのである。 
重源の抜擢に応えた東大寺鋳物師草部是助の系統が、後に「東大寺─大仏方供御人惣官」職を代々受け継いだ事は既に述べた。 
※1 螺髪(らほつ):仏像の頭部の髪の様式。螺状をした多くの髪がならぶもの。因みに螺とは殻が渦巻形に巻いている貝類のこと。
大仏修造については宋人鋳物師陳和興(ちんなけい)の革新的な技術を登用してほぼ三年をかけて成し遂げた重源であるが、次の難題は大仏殿修造である。 
天平17年(745)年に聖武天皇の勅願により東大寺が創建された頃は、遣唐使がもたらした大陸文化・仏教文化を受け入れた平文化が開花し、国力と民心に勢いがあったが、それでも東大寺造営に伴う莫大な事業費捻出は国家財政の窮乏を招いたとされる。 しかるに大仏修造の任を負った重源が直面した現実は、律令制度崩壊による国家財政の破綻と源平争乱による国土の荒廃と民心の疲弊であった。 
 
ともあれ資材の調達から始めねばならない。重源が最も欲した良質の巨木は、東大寺創建時の聖武天皇の治世時には畿内一円に豊富に見られたが、源平争乱、養和の大地震、度重なる飢饉を経た鎌倉初期には吉野の山奥か伊勢神宮の杣(※1)にしかのこっておらず、いずれもが金峰山や伊勢神宮といった大寺社の所領となれば、幾たび重源がそれらの伐採許可を申請しても受け入れられるはずのものではなかった。 
朝廷が事態の打開を図って文治2年(1186)3月に周防国(山口県)一国を東大寺造営料に充て重源に国務を管理を任せたので、重源は自ら番匠(※2)を率いて周防に赴くが、ここでも源平合戦の荒廃が甚だしく、飢えた民心を安定させる為に米や種子などを人々に与える事から始めなくてはならなかった。 
目当ての資材を求めて重源と番匠が杣に分け入ると、高さが7丈(21メートル)から10丈(30メートル)に及ぶ巨木のため、大轆轤を設けて70人の作業員が大綱で巨木を搬出するか、轆轤が使えなければ千人余りで轢く工夫を編み出さねばならなかった。 
そうして搬出した巨木も、空洞や枝木の良し悪しを吟味すると100本の内の90本は使い物にならず、吟味した資材を何とか佐保川に持ち込でも、浅すぎて木が流れない場所では、堰を築き水を溜めては落とすという作業を180箇所も繰り返して何とか木津の港に運び、そこから巨木を筏に組んで瀬戸内海を経て淀川に流し、淀川を遡って奈良まで運ぶという有様であったが、その間の樵(きこり)達の食事と健康管理ならびに士気の鼓舞などのマネジメントも含めて、正にロジスティックスにおけるイノベーションが求められたのである。 
 
平清盛が太政大臣従一位になった仁安2年(1167)に、47歳で入宋して諸寺を巡って最先端の仏教建築技術を習得して帰朝した重源が、資金不足、資材不足、時間不足、技術者不足の諸条件をクリアして大仏殿修造を成し遂げるために編み出したのが、最も簡単な工法を用いて最も堅牢な建造物を建てる「天竺様建築」であった。 
現在唯一大仏殿と同じ「天竺様式建築」を留めている東大寺南大門(下図)を文献と照合した専門家の結論を、建築に全く暗い私が、同じく建築に明るくない人たちに少しでも理解してもらえるように簡略化して述べると、 
1、先ず18本の主柱(母屋柱)を揃える。 
2、次に、これらに差し込む肘木(ひじき)や貫(ぬき)に用いる部材(長さ一尺2寸5分、厚さ7寸)を大量に造る。 
3、そして、斗(※4)(1尺2寸8分四方、高さ9寸)を2080個作る。 
作業としては1と2の作業が大部分で、1と2の作業をしている間に1の柱に2を差し込む穴をほり、14本の虹梁(※3)と約500本の垂木を造って建物の骨組み部材の勢作を終える。 
図の南大門木組をみると、柱を上層まで一本で貫き、そこに、肘木を差し込むという極めてシンプルな構造でありながら、層の屋根裏まで見透かせる内部構造を通して堅牢さが見て取れる。 
つまり、宋の仏教建築をつぶさに研究してきた重源は期せずして、今から820年も前に、個々人の技術差を問うことなく、大量の人員を投入して、資材の無駄を最小限にとどめ、短期間で、堅牢な建築物を構築するという、マスプロダクションの手法を編み出したのである。 
※1 杣(そま):植樹をして材木をとる山。 
※2 番匠(ばんしょう):古代、交代で都に上り木工寮(もくりょう)で労務に服した木工。 
※3 虹梁(こうりょう):社寺建築に用いる、やや反りを持たせて造った化粧梁(はり)。 
※4 斗(と):酒を酌みとる柄杓の形をしたものか。漏斗
今から50年も前の中学の美術で、東大寺南大門の金剛力士像の阿形と吽形の見事な調和を目にして以来、長い間私の頭の中に「運慶と快慶」は対の存在として刷り込まれていた。例えは古いが、一世を風靡した漫才コンビの「ダイラケ(ダイマル・ラケット)」のような、あるいは職場で何時も対になって行動するので「おしゃれ小鉢」と称された若い同僚のようなものとして。 
「ここからみると奈良は火の海である。興福寺の東金堂の屋根が焼ける。西金堂も火がついている。五重塔と三重塔は火柱となって焼け落ちた。すぐ眼の下にある東大寺の大仏殿は炎上の旺(さか)りで、逃げ帰ってきた者が話しているのを聞くと、大仏殿の二階の上には2千人余りが焼死しているという。金銅16丈の廬遮那仏(るしゃなぶつ)は御頭(みぐし)が地に落ちたと語った。講堂、食堂(じきどう)、回廊、中門、南大門はすでに跡かたもなく焼けたとういうのだ。(中略) 
天平の諸仏体は、いまこの炎の中に消滅し去ろうとしている。運慶は炎を凝視していた。凝視しているのは、実は、不空羂索(ふくうけんじゃく)立像や四天王立像とその足下の鬼形や、八天像、十大弟子像、十一面観音像などの素描であった。(中略) 
運慶はその消失を不思議に惜しいとは思わなかった。惜しいと思うのは、尋常の観念だと考えた。いつでも見られる眼前の具象が残ることはかえって邪魔なのだ。(中略) 
運慶はそんな身勝手な事を考えて、燃え狂う火を群集と共に、眺めた。すると、横でしきりと炎に向かって合唱して歔(な)く者がいる。彼は口の中で「恐ろしやな。天竺、震旦(しんたん)にもこれほどまでの法難はあるまい」と、呟いては、泣きながら経を誦(ず)している。運慶はその男を見た。それが父の康慶の弟子の快慶であった。運慶は忽ちこの男を軽蔑した。これは畢竟、尋常な人間なのである。」 
長い引用になったが、これは、松本清張の短編小説「運慶」から、平重衡の南都焼討の光景を春日山に避難して眺めている運慶を描いたものである。 
何よりも独創性とリアリティを重んじる運慶は、仏師としての芸術の天分は快慶よりも自分の方が一枚も二枚も上手だと自負したにもかかわらず、東大寺造営勧進職・重源は、快慶には東大寺中門の二天像、僧形八幡神坐像、南大門金剛力士像阿形など5作品を造らせたのに対して運慶には3作品しか造らせていない。 
その理由を小説「運慶」は、 
「運慶の造った仏像は、あんまり人間臭くて感心しない。仏像は尊厳さが第一だ。写実も結構だが、ああ、仏放れがしていては、仏という感じに遠くなる」と、 
運慶の作品に対する重源の言葉として用いている。 
さて、そうなると、探究魔を自認する私としては、長い間「対」として認識してきた運慶と快慶の作風にそんなに大きな違いがあるとすれば、実際にこの目で確認しなければ気がすまない。 
そう思っていたところ、折りしも東京国立博物館で「東大寺大仏」展が催されていることを知り、早速会場に足を運んだのだが、そこで、驚かされた事は次の二点である。 
その第一は、快慶の代表作とされる金剛力士像阿形の筋骨逞しく迫力満点の作風と、優美で穏やかな他の諸作品との余りにも大きな違いである。 
そして第二の驚きは、東大寺南大門の金剛力士像解体修理を終えて発見された「金剛力士像像内納入品」の記録では、これまで運慶の作とされてきた吽形像の作者は定覚(運慶の実弟)と湛慶(運慶の長子)、他方、快慶の作とされてきた阿形像の作者は運慶と快慶と墨書されていた事である。
先日は栄西像を見るために鎌倉国宝館に足を運んだのだが、そこで運慶の作品と対面したばかりか鎌倉幕府が運慶一門を重用した形跡を知ることが出来たのは望外の収穫であった。因みに入館券には運慶作とされる「十二神将立像」が使われている。 
では、何故鎌倉幕府が運慶を重用したのであろうか。ここで私のすっ飛びを展開するなら、 
源頼朝が日本国総追捕使・総地頭に任じられた文治元年(1185)を「鎌倉時代」の開始とするなら、その翌年の文治2年(1186)に北条時政(※1)が願成就院(静岡県)の「毘沙門天立像」を初めとする諸像を、さらに、文治5年(1189)には、和田義盛(※2)が浄楽寺(神奈川県)の「阿弥陀三尊像」等の諸像を運慶に造らせているのは、彼らなりの明確な意図があってのことであろう。 
源頼朝と共に鎌倉幕府を創設したこれら二人の武人が、新しい「武者の世」の到来を世に周知させる広報活動の一環として仏像を建立したとすれば、律令国家並びに公家文化のシンボルともいえる定朝様式を連綿と踏襲して朝廷や平家に重用され仏師界を席巻していた院尊や明円を登用するとは到底考えられない。 
鎌倉幕府は彼らの新たな武者の文化を打ち立てるべく、院尊や明円に代わ仏師として慶派(運慶の父が棟梁)の奈良仏師に白羽の矢を立てたのであろう。他方、伝統に安住する院尊や明円の圧倒的な支配に辟易し、南都焼討により灰燼に帰す興福寺や東大寺の仏像を眺めながら、これからいよいよ自分の独創性を発揮できると熱い血を滾らせていた運慶にとって、東国武士からの要請は新たな作風で仏師界の主導権を握る願ってもないチャンスだった。 
治承5年(1181)8月に重源が「東大寺造営勧進」職を拝命され東大寺復興事業がスタートしたのは既に述べたが、東大寺サイトの「東大寺の歩み・歴史年表」によれば、 
文治2年(1185)3月7日、源頼朝、重源に米1万石・砂金千両・上絹千疋を送り再興を助成する(吾妻鏡) 
建久元年(1190)12月初旬、源頼朝、密かに四天王寺・東大寺に参詣する(東大寺文書) 
建久6年(1195)3月11日、源頼朝、馬千頭・米1万石・黄金千両・絹千疋等を重ねて寄進する(吾妻録) 
と、源頼朝が東大寺修復に並々ならぬ関心を抱き、朝廷に対抗するかのごとく資金・資材面で相当な支援を行ったことが記されている。 
その莫大な経済的支援の威力を行使して、源頼朝が重源に慶派仏師の活用を示唆したと考えても何ら不自然ではない。何しろ聖武天皇の発願により建立され天平文化の象徴ともいえる東大寺に新たに武者の文化を打ち立てる事にもなるのであるから。 
この機会に宋朝様式を取り入れたい重源にとっても、これほどの大修復工事を考慮すると、院尊や明円の一派だけでは人員だけでなく技術面でも慶派の投入は不可欠であったであろうが、「運慶の造った仏像は、あんまり人間臭くて感心しない。仏像は尊厳さが第一だ。写実も結構だが、ああ、仏放れがしていては、仏という感じに遠くなる」(「小説日本芸譚」より「運慶」松本清張)と思えばこそ、より多く快慶の登用に傾かざるを得なかったのではあるまいか。 
※1 北条時政:鎌倉幕府創業の功臣で初代執権。伊豆の流人源頼朝を引き立てて幕府創立に尽くし、娘政子の父として外戚の権威を発揮した。 
※2 和田義盛:鎌倉前期の武将で侍所の初代別当(長官)。源頼朝の挙兵に三浦一族と共に参加し、平家追討・奥州征伐に武功を立て重用された。
さて、話を東京国立博物館で開催した「東大寺の大仏」展に戻すと、会場には快慶作の「僧形八幡神坐像(勧進所八幡殿)」「阿弥陀如来像(俊乗堂)」「地蔵菩薩立像(康慶堂)」の3作品が展示されていた。 
いずれの作品も線の切れが美しく、ささくれたこちらの気持ちを柔らかく解きほぐしてくれるようなたたずまいだった。私の気持ちを鎮めてくれる何ともいえない空気に魅せられて、優美な仏像の一つ一つに足を止めじっくりと向き合いたい気分にさせてくれたのだ。 仏像に一目惚れとはおかしな表現だが、その時の私は、正に三つの仏像にそれぞれ一目惚れして立ち去りがたい気分になっていたのだった。 
思うに重源は、東大寺復興にあたって、東大寺の象徴という以上に荒廃した国家の復興の象徴とも言える中門の二天像を慶派の棟梁・康慶でなく、また康慶の長子運慶でもなく快慶を抜擢し、さらには、重源の東大寺復興にこめた信仰心の発現ともいうべき「僧形八幡神坐像(勧進所八幡殿)」(下図左)と「阿弥陀如来像(俊乗堂)」(下図右)は快慶だけに造らせている。 
平家という正に武者によって焼討ちされた東大寺復興は、内乱に次ぐ内乱と相次ぐ飢饉により荒廃した国土、疲弊した民の心を復興させる事業でもあり、何よりも疲弊した人々の心を慈しみ、労わり、復興に向けて一つに纏め上げてゆくうえで、武者の世に自らの独創性を重ねた作風の運慶ではなく、快慶を重用した重源の気持がこれらの作品からも伝わってくる。 
ところで快慶の仏像から立ち昇る「慈しみ」と「労わり」の空気は一体何処から生じているのであろうか。 
東大寺復興において重源は勧進活動の拠点として幾つかの別所をを設け、播磨別所とされる浄土寺(兵庫)阿弥陀三尊立像、伊賀別所とされる新大佛寺(三重)阿弥陀三尊立像は快慶が造仏し、他にも難波別所に安置した丈六(じょうろく:一丈六尺約480センチ)の阿弥陀三尊像も快慶作の可能性が高いとされており、別所が大衆への布教活動の拠点であった事を考えれば、快慶は重源の依頼で造仏に関わっただけではなく布教活動の面でも重源と行動を共にしていたことは十分考えられるのである。 
それを解き明かす鍵としては、重源は醍醐寺出身で浄土信仰に篤く、自ら南無阿弥陀仏と称し信徒にも阿弥陀仏号を付与し、他方快慶は、建久3年(1192)に後白河法皇の追善のために制作された醍醐寺「弥勒菩薩立像」(下図)から「巧匠安阿弥陀仏」の称号を使い始めて、それ以降の作品には「仏師」ではなく宋風に「巧匠」を用いて「安阿弥陀仏」と銘記しているものが多い。 
その三年前の文治5年(1189)に制作され現在ボストン美術館に収蔵されている「弥勒菩薩」制作時には「仏師快慶」と銘記されていた事を考え合わせると、この二作品の間に快慶が重源へ深く傾倒し、熱心な念仏信仰の信者となった可能性が高く、敬虔な信者としての姿勢が彼の作品にあのような「慈しみ」と「労わり」の佇まいを表現させたのではないか。 
ともあれ、国立博物館では運慶の作品が展示されていなかったので二人の作品を間近に見比べる私の目論みは外れたが、重源が何故東大寺復興に快慶を重用したのかについては少し理解が深まったように思う。
「わが身五十余年を過ごし、夢のごとし幻のごとし。既に半ばは過ぎにたり。今やよろづをなげ棄てて、往生極楽を望まむと思う。たとひまた、今様をうたふとも、などか蓮台の迎へに与(あず)からざらむ」 
これは後白河院が「梁塵秘抄巻十」に表明した極楽往生への強い強い願望であった。 
その後白河院が法然上人から「往生要集」の講説を受けて感動し、自らの死に際しては法然上人の儀式に則って往生を願ってひたすら念仏を唱え、建久3年(1192)3月13日、寅の刻(午前4時)、床の上に端座して眠るがごとく66歳の命を絶えた事は既に述べた。 
「往生要集」で著者の恵心僧都(源信)は、「この世はこんなにも醜い苦の世界であるが、西方には阿弥陀浄土という美しく楽しい世界がある。さあ、この醜い世を厭離して美しい極楽浄土を願い求めよう」と呼びかけ、死後に阿弥陀浄土へ行く方法は「南無阿弥陀仏」と誦(ず)す事」と口誦念仏を説いた。 
この恵心僧都の口誦念仏をさらに発展させたのが法然上人で、「末法の凡夫には難しい修行や瞑想ではなく、極楽往生を念じただ口で「南無阿弥陀仏」と唱えて阿弥陀如来におすがりするだけでよい」とする専修念仏を主唱したことから、浄土教は後白河院のような法皇から遊女・乞食に至るまで一気に広がり鎌倉仏教を代表する事になる。 
ところで、後白河院が乞い願った「蓮台の迎へ」を示す来迎像は、両脇に勢至菩薩と観音菩薩を伴った阿弥陀如来が雲に乗って現れる形が基本だが、それを体現する「来迎三尊像」は、鎌倉時代以前は三尊とも座っているか、阿弥陀如来が座っているのが一般的であったが、鎌倉時代以降は三尊とも立つのが一般的になったという興味深い変化が見られる。 
鎌倉時代の代表的仏師・快慶の作品は40件ほど存在が知られているが、そのうち13件が「来迎阿弥陀立像」で、その線の美しい優美な阿弥陀像は後に「安阿弥様の阿弥陀仏」と称され大いに流行したとされる。 
図の「阿弥陀三尊像」は安阿弥様の阿弥陀仏の代表ともいえる作品で、祈りで来迎者を迎えようとする勢至観音(向かって左)と、腰をかがめ前に差し出す蓮台で来迎者を迎えようとする観音菩薩(向かって右)の姿に、浄土教に心を重ねた快慶の創作姿勢が読み取れる。 
とりわけ、図の慈愛に満ちた観音菩薩像から思いおこすのは、土佐に流される法然上人に教えを請おうと舟で近寄る遊女を描いた「法然上人絵伝」の一こまである。芸だけでなく春をひさぐ遊女も蓮台の迎へに与かれるのかと。 
「善人なをもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」との、法然上人から親鸞へと受け継がれた強烈なメッセージが浄土教には脈々と流れているのである。
■3  
東大寺「大仏様」 
昨年は公慶上人の遠忌法要でしたが、今年は重源上人の800年御遠忌です。重源上人は治承四年に焼失した東大寺を再興されました。その前半生はよくわかっていません。(東大寺が炎上したのは平安時代末で、大仏開眼から428年目。重源が東大寺復興造営の朝命を受けた時、彼は61歳) 
彼の伝記は「南無阿弥陀仏作善集」(なむあみだぶつさぜんしゅう)という書物です。彼は自分のことを南無阿弥陀仏と呼んでいました。また、弟子たちにも阿弥陀仏号という別名をつけました。このほか、重源上人に関する史料としては、没後100年のちに書かれた「元亨釈書」(げんこうしゃくしょ)や「播磨浄土寺開祖伝」があります。彼は藤原末期の保安二年(1121)、武官の家に生まれました。俗名を刑部左衛門尉重貞(ぎょうぶさえもんのじょうしげさだ)といいます。 
13歳の時、京都醍醐寺で出家しました。17歳の頃は四国の真言霊場で修行し、19歳の頃は大峰、熊野、葛木、白山、立山など各地の霊峰を巡ったようです。 
仁安二年(1167)、後白河上皇の頃、入宋しました。 
高野山延寿院の鐘銘には「入唐三度上人重源」と刻まれています。 
また、九条兼定が書いた「玉葉」という日記には、本人が渡唐三か度と自称したとの記述があります。 
ところが、栄西と一度宋に渡ったのは記録も残っているのですが、あと二回については、詳細がよくわかっていません。もっと言えば、実際に渡ったのかどうかも含めて不明です。 
栄西は備中一宮吉備津宮に生まれました。重源と仲が良く、重源の臨終にも立会い、鐘楼の勧進職を引き継ぎました。 
重源はもともと東大寺とは何の関係も持っておりませんでした。 
「黒谷源空上人伝」(くろだにげんくうしょうにんでん。浄土宗関係の記録)、「源平盛衰記」(げんぺいせいすいき)などには、東大寺復興の責任者に後白河院が法然を指名したが、法然は、自分は念仏の勧進であり、造寺造仏の勧進はできないと辞退した。そして、代わりに重源を推挙したとあります。 
知恵第一の法然、支度第一の重源という言葉がありますが、当時から重源は有能な実務家として知られていたようです。 
これが重源が「結縁勧請の聖」(けちえんかんじょうのひじり)と呼ばれる所以です。 
なお、「東大寺造立供養記」には、異説が残っています。 
そこでは、重源が治承五年(1181)2月、霊夢により東大寺に参詣し、自分で東大寺復興の勧進職に立候補するためにやって来て、造東大寺長官藤原行隆にアピールしたと書かれています。 
ともあれ、養和元年(1181)、重源は東大寺造営の宣旨を賜り、勧進上人になりました。 
1181年、東大寺は螺髪(らほつ)から再現されることになりました。 
当時の日本人、とりわけ、当時の日本の鋳物師(いもじ)にこれだけの巨大仏を再現することができるのかを尋ねたところ、鋳物師自身からは悲観的な回答しか得られませんでした。 
そこで重源はたまたま日本に来ていた宋の鋳物師陳和卿(ちんなけい)を登用したのです。 
寿永二年(1183)2月11日には右手が、同年4月19日には頭部の鋳造が完成しました。 
文治元年(1185)4月頃、大仏尊像の修造が完成しました。 
同年8月28日、後白河院の行幸を得て開眼式が執り行われました。 
本来開眼するのは、東大寺別当の職にある者が執り行うべきです。しかし、式当日、当時の別当はいつまでたっても、会場に姿を現しません。 
しびれを切らせて後白河院が待ちかねて、自ら大筆を執り、大仏に開眼したと伝えられています。思うに、これは後白河院が開眼をしたがっていることを察した別当が、気を利かせてわざと遅刻したんでしょうな。 
当時の大仏は顔にしか金箔を貼っておりませんでした。金といえば奥州の砂金、当時は藤原秀衡の時代です。 
文治二年(1186)2月又は4月、重源上人は伊勢神宮を参拝し、大仏造営の祈願をしたおり、西行法師を訪ねました。 
これは、西行法師に、奥州から砂金を奉納してもらうよう頼んだのではないか、と考えられています。 
西行は源頼朝を訪ねてから奥州へ旅したと言われています。 
頼朝は、西行に銀でできた猫を与えたが、西行はそれをすぐ、その辺で遊んでいた子供にあげてしまったという話が「吾妻鏡」という書物に出ています。 
後に砂金450両の奉納を受け、全身に金箔を張ることができたのですが、奈良時代、聖武天皇が発願した初代の大仏も全部鍍金しない内に開眼したと伝えられています。 
鎌倉時代に再興された大仏も、顔のみ鍍金して開眼を迎えたということになります。  
重源は、大仏はともかく、大仏殿が完成するか、を非常に心配していたようです。材木を調達することがまず大変なんですね。奈良吉野山の桧を探しましたが、良いものはありません。次に伊勢神宮遷宮に備えて良い木を用意していないか調べましたが、駄目でした。 
話は変わりますが、東大寺の管長は、管長になると伊勢神宮に公式参拝することになっています。 
同年3月23日、大仏殿造営のため周防国(山口県)を造営料として与えられ、重源は国司に任命されました。 
同年4月18日には杣(そま)始めの式を行い、徳地町の「なめら」から切り出しました。 
徳地町、現在は合併で山口市に編入されているのですが、今日は徳地町と呼ばせていただきます。 
柱の長さは27-30m、短くても20-24mが必要で、直径も1.6mくらい必要となります。 
直径18cmの縄で縛って70人がかりで引っ張って運びました。 
100本切っても使い物になる良材は10本程度しかありません。重源は良い木材を得るため、米一石の賞金を出しました。 
木材を運ぶには「さな?川」で流しました。「木津」という地名がありますが、これは奈良時代、木材を集めたことに由来します。 
合格した木材には鉄の刻印を打ち込んで目印にしました。その刻印は阿弥陀寺に残っています。 
(この刻印は先日の「重源」展で展示されていた。山口県・阿弥陀寺所蔵で重文。撥(ばち)のような形をした鉄製のヘッドで「東大寺」という字が浮き彫りになっている。そして、そのヘッドには木製の柄が通してある。最初、この刻印はちょうど金づちで釘を打つみたいに直接木を叩くのかと思っていたが、それではうまく刻めないだろう。柄を持って刻印面を木に押し当て、別の金づちでその刻印面の背を叩いて、木に「東大寺」という文字を刻み込んだものと思われる) 
佐波川は水かさが少なかったので、大きな木材を運ぶのにどうしたかと言うと水をせき止め、118ものダムを造りました。魚通しという3-4mの導水路をうまく活用したのです。 
この川には「りんげ王」?水難の地という場所があり、川底に3本の木が刺さっているそうです。日照りになって水量が減ると、その木が見えたとも言います。今でも「この先に木が沈んでいる」という石碑が残っています。 
重源は材木を切り出す人たちの健康のため石風呂を作りました。石を焼いて濡れむしろ、薬草などをかぶせ、浴衣に着替えて入るものです。 
私も入ってみましたが、焼き立ての石を入れると熱くて3分と入っていられません。岸見という所のの石風呂は特に大きくて、中に10人くらい入ることができます。神経痛、打ち身、くじきなどに効きました。 
文治三年には130本ほど切り出しました。最長のものでは39mの木を切り出し、これは大仏殿の棟木に使用しました。 
国司に任命されても守護がイケズしまんねんね。 
(「イケズしまんねんね」というのは、「意地悪するんですよね」という感じの柔らかい関西弁。) 
地頭が重源の米を盗んだりもしたようです。重源もこれには困りました。 
重源は、文治五年(1189)年に九条兼実を訪ね、「150本も切り出したが、まだ10本くらいしか届かない。こんなことでは勧進職を続けていくことはできないので、辞退させてもらいたい」と申し入れたが兼実が慰留しました。 
周防の阿弥陀寺では当時の山門や仁王、湯船が残っています。 
建久元年(1190)7月、大仏殿母屋柱二本立柱したという記録が残っています。同年10月19日には後白河法皇の臨幸により大仏殿の上棟式が行なわれました。 
建久四年(1193)3月には、東大寺造営のため、高尾の文覚上人(もんがくしょうにん)が播磨国奉行となりました。 
また、同年4月10日には備前国、現在の岡山県を東大寺造営料として賜り、重源は国司に任命されました。 
「南無阿弥陀仏作善集」を読んでも備前時代のことはよくわかりません。現地では、大湯屋跡の池が残っている。地名でいうと、湯迫(ゆば)という地に蒸し風呂をつくったようです。少し前までは草ぼうぼうの荒地だったのですが、最近行ってみると、現在では石碑や温泉ができていました。
瀬戸町の万富という所に13箇所もの東大寺瓦窯址が見つかっています。瓦には「東大寺大仏殿」の刻印が施されています。 
平瓦に文字を入れる例は奈良時代からあるのですが、軒瓦に文字を入れたのは重源が最初です。 
渥美半島の伊良湖でも3箇所の東大寺瓦窯址が見つかっています。伊良湖で焼かれた瓦の刻印は「東」と「大仏殿」の二種があります。 
万富で焼いた瓦は吉井川で運搬しました。伊良湖からどう運んだかはよくわかっていません。紀伊半島をぐるっと廻ったとはちょっと考えられませんが、どうやって運んだのでしょうか。 
また、どういう風にして瓦を焼いたかもよくわかりません。 
なお、この「万富」のことは「南無阿弥陀仏作善集」にも載っていません。 
東大寺の造営のため重源は各地に、東大寺別所、高野新別所、渡辺別所、播磨別所、備中別所、周防波阿弥陀仏(周防別所)、伊賀別所という七別所を設けました。 
別所には丈六阿弥陀如来像を本尊とし、浄土堂、湯屋、鐘を備えました。別所とは、重源が諸国に派遣した勧進聖(かんじんひじり)の専修念仏の道場でもあったのです。 
建久六年(1195)3月12日、大仏殿落慶供養が営まれました。 
重源には復興造営の功によって「大和上」(だいわじょう)の位が授けられました。 
その後、重源が失踪してしまうという事件が起きました。そこであわてて、源頼朝が八方手を尽くして行方を捜索させました。高野山に行っていたことが判明し、頼朝は藤原ちかよし?という人物を出迎えの勅使として派遣しました。結局20日間ほど後に帰還したそうです。 
如意輪観音、虚空蔵菩薩という大仏の両脇侍は71日間で完成したと言われています。 
また、四天王は運慶、快慶をリーダーとして106日間で完成させたと言われています。 
正治元年(1200)、南大門が上棟しました。また、回廊なども完成しました。 
建仁三年(1203)7月、南大門の金剛力士像が完成しました。金剛力士像は平成5年に大修理が行なわれ、いろいろなことが分かりました。わずか69日間で完成させたと言われていたのですが、バラしてみると30くらいの部品を組み合わせて出来ていたことが分かりました。それが驚くべき早さで完成した秘訣なのでしょう。 
同年11月30日、東大寺総供養が営まれました。この辺のことは、「明月記」などにも書かれています。 
建永元年(1206)6月5日、俊乗房重源は83歳で亡くなりましたが、61歳から22年間、東大寺復興に捧げました。  
[ 参考 ]

 

西行の生涯
 
 
慈円

 

[久寿2年-嘉禄元年 / 1155-1225] 平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧。歴史書『愚管抄』を記したことで知られる。諡号は慈鎮和尚(じちん かしょう)、通称に吉水僧正(よしなが そうじょう)、また『小倉百人一首』では前大僧正慈円(さきの だいそうじょう じえん)と紹介されている。父は摂政関白・藤原忠通、母は藤原仲光女加賀局、摂政関白・九条兼実は同母兄にあたる。  
幼いときに青蓮院に入寺し、仁安2年(1167年)天台座主・明雲について受戒。建久3年(1192年)、38歳で天台座主になる。その後、慈円の天台座主就任は4度に及んだ。『徒然草』には、一芸ある者なら身分の低い者でも召しかかえてかわいがったとある。  
天台座主として法会や伽藍の整備のほか、政治的には兄・兼実の孫・九条道家の後見人を務めるとともに、道家の子・藤原頼経が将軍として鎌倉に下向することに期待を寄せるなど、公武の協調を理想とした。後鳥羽上皇の挙兵の動きには西園寺公経とともに反対し、『愚管抄』もそれを諌めるために書かれたとされる。だが、承久の乱によって後鳥羽上皇の配流とともに兼実の曾孫である仲恭天皇(道家の甥)が廃位されたことに衝撃を受け、鎌倉幕府を非難して仲恭帝復位を願う願文を納めている。 また、『門葉記』に採録された覚源(藤原定家の子)の日記には、没後に慈円が四条天皇を祟り殺したとする噂を記載している。  
また、当時異端視されていた専修念仏の法然の教義を批判する一方で、その弾圧にも否定的で法然や弟子の親鸞を庇護してもいる。なお、親鸞は治承5年(1181年)9歳の時に慈円について得度を受けている。  
歌人としても有名で家集に『拾玉集』があり、『千載和歌集』などに名が採り上げられている。『沙石集』巻五によると、慈円が西行に天台の真言を伝授してほしいと申し出たとき、西行は和歌の心得がなければ真言も得られないと答えた。そこで慈円は和歌を稽古してから再度伝授を願い出たという。また、『井蛙抄』に残る逸話に、藤原為家に出家を思いとどまらせて藤原俊成・藤原定家の跡をますます興させるようにしたという。『小倉百人一首』では、「おほけなく うきよのたみに おもふかな わがたつそまに すみぞめのそで」の歌で知られる。 越天楽今様の作詞者でもある。 
■2  
摂政関白藤原忠通の子。母は藤原仲光女、加賀局(忠通家女房)。覚忠・崇徳院后聖子・基実・基房・兼実・兼房らの弟。良経・後鳥羽院后任子らの叔父にあたる。  
二歳で母を、十歳で父を失う。永万元年(1165)、覚快法親王(鳥羽天皇の皇子)に入門し、道快を名のる。仁安二年(1167)、天台座主明雲を戒師として得度する。嘉応二年(1170)、一身阿闍梨に補せられ、兄兼実の推挙により法眼に叙せられる。以後、天台僧としての修行に専心し、安元二年(1176)には比叡山の無動寺で千日入堂を果す。摂関家の子息として法界での立身は約束された身であったが、当時紛争闘乱の場と化していた延暦寺に反発したためか、治承四年(1180)、隠遁籠居の望みを兄の兼実に述べ、結局兼実に説得されて思いとどまった。養和元年(1181)十一月、師覚快の入滅に遭う。この頃慈円と名を改めたという。  
寿永元年(1182)、全玄より伝法灌頂をうける。文治二年(1186)、平氏が滅亡し、源頼朝の支持のもと、兄兼実が摂政に就く。以後慈円は平等院執印・法成寺執印など、大寺の管理を委ねられた。同五年には、後白河院御悩により初めて宮中に召され、修法をおこなう。  
この頃から歌壇での活躍も目立ちはじめ、良経を後援して九条家歌壇の中心的歌人として多くの歌会・歌合に参加した。文治四年(1188)には西行勧進の「二見浦百首」に出詠。  
建久元年(1190)、姪の任子が後鳥羽天皇に入内。同三年(1192)、天台座主に就任し、同時に権僧正に叙せられ、ついで護持僧・法務に補せられる。同年、無動寺に大乗院を建立し、ここに勧学講を開く。同六年、上洛した源頼朝と会見、意気投合し、盛んに和歌の贈答をした(『拾玉集』にこの折の頼朝詠が残る)。しかし同七年(1196)十一月、兼実の失脚により座主などの職位を辞して籠居した。  
建久九年(1198)正月、譲位した後鳥羽天皇は院政を始め、建仁元年(1201)二月、慈円は再び座主に補せられた。この前後から、院主催の歌会や歌合に頻繁に出席するようになる。同年六月、千五百番歌合に出詠。七月には後鳥羽院の和歌所寄人となる。同二年(1202)七月、座主を辞し、同三年(1203)三月、大僧正に任ぜられたが、同年六月にはこの職も辞した。以後、「前大僧正」の称で呼ばれることになる。  
九条家に代わって政界を制覇した源通親は建仁二年(1202)に急死し、兼実の子良経が摂政となったが、四年後の建永元年(1206)、良経は頓死し、翌承元元年(1207)には兄兼実が死去した。以後、慈円は兼実・良経の子弟の後見役として、九条家を背負って立つことにもなる。  
この間、元久元年(1204)十二月に自坊白川坊に大懺法院を建立し、翌年、これを祇園東方の吉水坊に移す。建永元年(1206)には吉水坊に熾盛光堂(しじょうこうどう)を造営し、大熾盛光法を修す。また建仁二年の座主辞退の後、勧学講を青蓮院に移して再興するなど、天下泰平の祈祷をおこなうと共に、仏法興隆に努めた。  
建暦二年(1212)正月、後鳥羽院の懇請により三たび座主職に就く。翌三年には一旦この職を辞したが、同年十一月には四度目の座主に復帰。建保二年(1214)六月まで在任した。  
建保七年(1219)正月、鎌倉で将軍実朝が暗殺され、九条道家の子頼経が次期将軍として鎌倉に下向。しかし後鳥羽院は倒幕計画を進め、公武の融和と九条家を中心とした摂政制を政治的理想とした慈円との間に疎隔を生じた。院はついに承久三年(1221)五月、北条義時追討の宣旨を発し、挙兵。攻め上った幕府軍に敗れて、隠岐に配流された。  
慈円はこれ以前から病のため籠居していたが、貞応元年(1222)、青蓮院に熾盛光堂・大懺法院を再興し、将軍頼経のための祈祷をするなどした。その一方、四天王寺で後鳥羽院の帰洛を念願してもいる。嘉禄元年(1225)九月二十五日、近江国小島坊にて入寂。七十一歳。無動寺に葬られた。嘉禎三年(1237)、慈鎮和尚の諡号を賜わる。  
著書には歴史書『愚管抄』(承久二年頃の成立という)ほかがある。家集『拾玉集』(尊円親王ら編)、佚名の『無名和歌集』がある。千載集初出。勅撰入集二百六十九首。新古今集には九十二首を採られ、西行に次ぐ第二位の入集数。  
「大僧正は、おほやう西行がふりなり。すぐれたる哥、いづれの上手にも劣らず、むねと珍しき様(やう)を好まれき。そのふりに、多く人の口にある哥あり。(中略)されども、世の常にうるはしく詠みたる中に、最上の物どもはあり」(後鳥羽院御口伝)。  
 
色まさる松こそ見ゆれ君をいのる春の日吉ひよしの山のかひより (拾玉集)  
散りはてて花のかげなき木このもとにたつことやすき夏衣なつごろもかな (新古177)  
鵜飼舟あはれとぞ見るもののふの八十やそ宇治川の夕闇の空 (新古251)  
身にとまる思ひをおきのうは葉にてこの頃かなし夕暮の空 (新古352)  
いつまでか涙くもらで月は見し秋待ちえても秋ぞ恋しき (新古379)  
夕まぐれ鴫たつ沢の忘れ水思ひ出づとも袖はぬれなむ (続古今357)  
おほえ山かたぶく月の影さえて鳥羽田とばたの面おもにおつる雁がね (新古503)  
そむれども散らぬたもとに時雨きて猶色ふかき神無月かな (拾玉集)  
木の葉ちる宿にかたしく袖の色をありともしらでゆく嵐かな (新古559)  
明けばまづ木の葉に袖をくらぶべし夜半よはの時雨しぐれよ夜半の涙よ (拾玉集)  
ながむれば我が山の端に雪しろし都の人よあはれとも見よ (新古680)  
みな人の知りがほにして知らぬかなかならず死ぬるならひありとは (新古832)  
蓬生にいつか置くべき露の身はけふの夕暮あすの曙 (新古834)  
我もいつぞあらましかばと見し人を偲ぶとすればいとど添ひゆく (新古835)  
初瀬川さよの枕におとづれて明くる檜原に嵐をぞきく (玉葉1193)  
旅の世にまた旅寝して草まくら夢のうちにも夢をみるかな (千載533)  
立田山秋ゆく人の袖を見よ木々の梢はしぐれざりけり (新古984)  
さとりゆくまことの道に入りぬれば恋しかるべき故郷もなし (新古985)  
わが恋は松を時雨のそめかねて真葛が原に風さわぐなり (新古1030)  
わが恋はゆくかたもなきながめよりむなしき空に秋風ぞ吹く (風雅1517)  
わが恋は庭のむら萩うらがれて人をも身をも秋の夕暮 (新古1322)  
野べの露は色もなくてやこぼれつる袖より過ぐる荻のうは風 (新古1338)  
せめてなほうき世にとまる身とならば心のうちに宿はさだめむ (拾玉集)  
おほけなくうき世の民におほふかなわが立つ杣に墨染の袖 (千載1137)  
世の中を心高くもいとふかな富士のけぶりを身の思ひにて (新古1614)  
花ならでただ柴の戸をさして思ふ心のおくもみ吉野の山 (新古1618)  
山路ふかく憂き身のすゑをたどり行けば雲にあらそふ峰の松かぜ (拾玉集)  
わが心奥までわれがしるべせよわが行く道はわれのみぞ知る (拾玉集)  
まことふかく思ひいづべき友もがなあらざらむ世の跡のなさけに (玉葉2590)  
心ざし君にふかくて年もへぬまた生むまれても又やいのらむ (玉葉2591)  
山里にひとりながめて思ふかな世にすむ人の心づよさを (新古1658)  
草の庵をいとひても又いかがせむ露の命のかかるかぎりは (新古1661)  
里の犬のなほみ山べに慕ひくるを心の奥に思ひはなちつ (拾玉集)  
何ごとを思ふ人ぞと人とはば答へぬさきに袖ぞぬるべき (新古1754)  
いたづらに過ぎにしことや歎かれむ受けがたき身の夕暮の空 (新古1755)  
うち絶えて世にふる身にはあらねどもあらぬ筋には罪ぞかなしき (新古1756)  
思ふことなどとふ人のなかるらむ仰げば空に月ぞさやけき (新古1782)  
ひと方に思ひとりにし心には猶そむかるる身をいかにせむ (新古1825)  
なにゆゑにこの世を深く厭ふぞと人のとへかしやすく答へむ (新古1826)  
思ふべき我がのちの世はあるかなきか無ければこそは此の世にはすめ (新古1827)  
町くだりよろぼひ行きて世を見れば物のことわりみな知られけり (拾玉集)  
たれならむ目をしのごひて立てる人ひとの世わたる道のほとりに (拾玉集)  
それもいさ爪に藍しむ物はりのしばしとりおく襷すがたよ (拾玉集)  
まことならでまた思ふことはなきものを知らぬ人をばなにかうらみむ (拾玉集)  
君をいのる心の色を人とはばただすの宮のあけの玉垣 (新古1891)  
立ちかへる世と思はばや神風やみもすそ川のすゑの白波 (玉葉2800)  
わがたのむ七の社のゆふだすきかけても六の道にかへすな (新古1902)  
もろ人のねがひをみつの浜風に心すずしき四手しでの音かな (新古1904)  
ねがはくはしばし闇路にやすらひてかかげやせまし法のりのともし火 (新古1931)  
とく御法みのりきくの白露夜はおきてつとめて消えむことをしぞ思ふ (新古1932)  
極楽へまだ我が心ゆきつかず羊のあゆみしばしとどまれ (新古1933)  
いづくにも我が法のりならぬ法やあると空吹く風に問へど答へぬ (新古1941) 
3 
過まれるを改める善の、これより大きなるは無し。 
人は誰でも過ちや間違いを犯すものである。もし「自分には過ちは何もない」という人がいれば、その人は自分の過ちに気づかないだけである。過失を認めて、すぐに反省して改める。これにまさる善はない。過ちを知りながら、そのままにしておけば、ますます傷口を広げて、さらに大きな間違いを犯してしまうことになる。過ちを素直に認めて、改めることが、賢い心であり、強い心の持ち主である。立場やプライドにとらわれず、自分の過ちを認めて改めることができるかどうか。そこに本当の勇気があるか、次に向って飛躍できるかどうかが問われている。「愚管抄」
■4 
「愚管抄」 
慈円をどう読むか、ずっと課題だった。あの晦渋な文体をどう読むかではなく、慈円の意図をどう読むかということである。 
日本人として、日本の歴史を読む者として、この課題はまことに大きいものがある。ふりかえって、歴史家や国文学者が「愚管抄」を本格的に採り上げるようになったのは、せいぜいここ50年のことである。小林秀雄や保田與重郎や坂口安吾などの、戦前から独自の思索を示してきた歴史好きの文学者たちもこの課題を避けていた。慈円をこそ綴ってもよさそうな、その後の石川淳や花田清輝や梅原猛にも、慈円は薄かった。 
べつだん「愚管抄」が綴った「道理の歴史思想」を把握すること自体はそんなに難しいわけではない。その歴史思想を慈円という特異な人物が綴ったことを同時に視野に入れることが、ぼくにとっての課題だったのである。 
この課題に初めて本格的に挑んだのは、知るかぎりでは大隅和雄だった。「愚管抄を読む」が、慈円の歴史思想の解読だけではない視野を提供していた。これを継いだのはおそらく五味文彦あたりだろうか。他の国史や国文の者たちはあいかわらず慈円に目が狭い。 
このことは近現代において最初に慈円に本格的な目をむけたのが筑土鈴寛(つくど・れいかん)であったにもかかわらず、今日、ほとんど筑土鈴寛の彫琢の成果が注目されていないことにもあらわれている。そこを大隈や五味は一歩も二歩も踏みこんだ。けれども、これらの成果はまだ日本思想の一角にくみこまれてはいない。 
保元元年に日本は「武者ノ世」「乱逆ノ世」になった。1156年である。ヨーロッパではリューベックとロンバルディアに都市同盟が結成され、中国では朱子が格物致知を説いていた。 
この年の7月2日、鳥羽上皇が亡くなり、7月11日の暁から明け方にかけて日本がめまぐるしく動いた。そこで、慈円も驚くほどの複雑な人間模様の対立が渦巻いた。 
まず左大臣藤原頼長(弟)と関白藤原忠通(兄)が衝突し、これを庇って鳥羽院に疎まれた崇徳上皇(兄)と後白河天皇(弟)が対立し、これにそれぞれくっついて平忠正(叔父)と平清盛(甥)が刃を交わし、さらに源氏一族では源為義(父)と源義朝(子)が闘いあった。骨肉相争う朝廷政治の内紛に「武者」が初めて登場したときでもある。 
慈円はこの保元の乱とともに生まれた。久寿2年(1155)のことである。 
3年後には平治の乱がおこる。慈円自身が「鳥羽院ウセサセ給テ後、日本国ノ乱逆ト云コトハヲコリテ後、武者ノ世ニナリニケルナリ」と「愚管抄」に書いたように、慈円は「乱逆」と「武者」の暴発とともに時代の波を生きた人物だった。同世代には平知盛・源義経・北条政子・建礼門院徳子・鴨長明がいる。 
しかし慈円ほどにこの「乱逆の世」を痛々しく感得し、これをつぶさに観照し、そこから日本の歴史というものを捉える試みに分け入った者はいなかった。こういうことをしたのは慈円が最初のことだった。 
こうした歴史観の披瀝をするにあたって、慈円は天台座主という仏教界の最高位にいた。 
のみならず慈円は摂関家に生まれた名門でもあった。それも白河院から鳥羽院におよぶ三代の摂政関白を17年にわたって維持しつづけた“法性寺殿”こと関白藤原忠通の53歳のときの子であって、13人にのぼる兄弟には近衛基実や九条兼実など、その後に関白になっている者がずらり揃っていた。当時の日本社会の最高の地位にいた一門の者だったのである。 
日本人は、このような人物の歴史観に慣れていない。トップの座についたアリストクラシーの歴史観を受け止めない。聖徳太子や藤原冬継や北条泰時を軽視する。どちらかといえば西行や兼好法師や鴨長明の遁世の生き方に歴史観の襞をさぐったり、民衆の立場というのではないだろうが、「平家」や「太平記」にひそむ穢土と浄土のあいまに歴史を読むのがもっぱら好きだった。 
為政者に対しても、将門や義経や後醍醐のような挫折者や敗北者に関心を示して、天智や頼朝や尊氏のような勝利者がどのように歴史にかかわったかということには、体温をもって接しない。系統から落ちた者をかえって熱心に読む。そのような傾向は、北畠親房の「神皇正統記」がいまのいままで、あまり議論になってこなかったことにもあらわれている。 
けれども「愚管抄」は、そうした従来の判官贔屓の好みだけでは読めないのである。 
もうひとつ、難点というのか、奇妙なことがある。慈円が天台座主だったからといって、「愚管抄」に仏教思想や天台教学や本地垂迹思想を読もうとしても、たいした成果は得られないということである。「愚管抄」はそういう仏教思想をつかわずに、日本の歴史というものを綴っていた。 
なぜそんなふうになったのだろうかというのが、ぼくが長年にわたって抱いてきた関心だった。 
慈円は1歳で母を亡くし、10歳で父を失い、13歳で出家した。20歳で大原に隠棲して天台法華を学び、翌年には比叡の無動寺に入って千日入堂をはたした。 
こういえば、いっぱしの仏道修行に励んだかのようだが、いや、実際にはそのような覚悟のある人物だったとおもわれるのだが、周囲の目がそうさせなかった。16歳ではやくも一身阿闍梨の称号を許され、いきなり法眼の位を与えられた。 
仏門や遁世を嫌ったのではない。慈円は25歳で比叡を下り、兄の九条兼実のもとに赴いて「遁世したい」ということを申し出るのだが、兼実に思い止まるように説得されてしまっている。隠棲への思いはあったのに、名門の出自を捨てるには至らなかったのだ。そればかりか、結局は比叡山延暦寺の中央に摂関家から送りこまれた管理者のエースとしての役割を負わされた。 
慈円が天台座主になったのは建久3年のこと、すなわち頼朝が鎌倉幕府を開いた1192年のことだった。後白河院が亡くなったあと、この時期の政治の中心にいたのは、後鳥羽院と頼朝と、そして慈円の兄の兼実だったのである。 
しかし歴史はいつも支配者を変えていく。 
慈円が座主になった4年後、兼実が失脚し、慈円も座主辞任を余儀なくされる。そこに頼朝の死が加わった。これで慈円が世をはかなむのなら日本人好みなのだが、そうはしなかった。慈円は九条家の権威の再興を試みて、後鳥羽院と親交を結び、47歳でふたたび天台座主に就いたのである。 
ここから先の慈円は、天下安泰を祈祷する日本国最高位の修法者になっていく。王法と仏法に橋をかける立場の頂点に立ったのだ。こうした自身の身を慈円は「サカシキ人」とよび、あえて「サカシキ人」としての思索と行動を深めることに任じていった。西郷隆盛や勝海舟ではなかった。木戸孝允や大久保利通なのである。 
けれども、ここでふたたび時代が動く。後鳥羽院が討幕に走って承久の乱となった。慈円は後鳥羽院に武家との対立を回避するように勧めるのだが、ついに時代を動かすことはできなかった。慈円はやっと思い知ったことであろう。 
こうして上皇から離れざるをえなくなった渦中、「愚管抄」が綴られたのである。 
当然に日本の社会の中心におこったことを「上から見た記述」にしたと想定されるのだが、そうではなかった。 
たしかに慈円の立場は情報のすべてを入手するに最も有利な地位にあったのだけれど、慈円はそれらの情報を摂関家のためにも、自分自身のためにも、また仏教や比叡山の立場のためにも、まったく“利用”しなかった。改竄もしていない。あくまで「道理」が見えてくるようにと、これらの情報を史実をあきらかにするためにのみ使って記述した。 
こんな歴史書は、それまでまったくなかったものだった。しかも一人の目で歴史を記述するということは、それまでだれも試みていなかった。いままでの正史は複数の者たちの記述の総合であって、いわば企業の社史のようなものである。けれども慈円はそれを一人で果たすことにした。この魂胆、この意図を読みきることが、慈円を読むことの 面白さなのである。 
 
全7巻の「愚管抄」の構成は3部に分かれている。 
第1部はあとから加わったとおぼしい「皇帝年代記」で、神武天皇から順徳天皇までが年代順に紹介されている。そして、その随所に「道理」としての天皇就任の次第が解説される。開巻冒頭に「漢家年代」として中国の王朝を列記しているのが異色である。あきらかに慈円は中国を意識しつつ、日本の特異な歴史性を浮き彫りにしたかったのだった。 
読んでいくと、日本の天皇の皇位継承の次第で道理が通っていたのは、第十三代の成務天皇までだというようなことがはっきり書いてある。では、そのあとの天皇を批判しているのかというと、そうではなく、仲哀天皇のときに御子がないため孫を皇位に就けてもいいという「新しい道理」ができたというふうに書く。「ナニ事モサダメナキ道理」があってもよいのだという見方なのだ。 
慈円にとって「道理」とは「それぞれにそうなる道理がある」という意味なのである。 
第2部は、この道理の推移にもとづいて、いったいどのように日本の歴史が進んだかということを書いている。ここは説話なども駆使しての叙述になっていて、文体は「小右記」「玉葉」「明月記」などの日記叙述に似ているのだが、狙いはあくまで摂関家の歴史こそが日本の歴史だったという見方を貫くところにあった。 
こうして第3部、いよいよ慈円が直近の歴史の推移をどう見たかというところに入っていく。怨霊や末世の問題が避けられないなか、どのように政治の道理が推移するべきかを正面から議論して、後鳥羽院の政治の仕方に注文をつける。 
慈円は全巻を通して、歴史万象すべては相対的であるという見方をとっている。 
摂関家と仏門の頂点にいた慈円にとってすら、歴史はたえず流動するものであり、何を機軸にして見ても生起消滅の変化がおこるものだったのである。 
しかしそうした見方をしたうえで、慈円が絶対に譲らないものがあった。読みとるべきは、ここである。 
その第1は、天皇は天皇の血筋から生まれる系統そのものであるという、日本歴史の“真相”を断言したことだった。「愚管抄」はこういうときは「正法」という言葉すら使っている。 
慈円は冒頭に「漢家ニ三ノ道アリ」と書いて、中国では皇道・帝道・王道こそが国の根幹になっていることをあきらかにする。しかし日本の歴史をつぶさに見ていくと、「コノ日本国ノ帝王ヲ推知シテ擬(なぞらえ)アテテ申サマホシケレド」、中国的な「歴史の道」はあてはまらない。日本には日本の「風儀」があると気がついていく。 
こうして慈円は日本の天皇には、「国王ニハ国王フルマイヨクセン人ノヨカルベキニ、日本国ノナラヒハ、国王種姓ノ人ナラヌスヂヲ国王ニハスマジト、神ノ代ヨリサダメタル国ナリ」と宣言するのである。この皇統の「スヂ」(筋)の発見が慈円の自慢であった。 
第2には、日本という国の歴史には「顕」の歴史とは別に「冥」の歴史があるという見方である。 
これこそは「愚管抄」を貫く最も特異な歴史観で、いわば日本国史に「負の機能」を初めて強調したものだった。 
ぼくの読者は、おそらくはぼくが歴史に「負の装置」や「負の機能」があると再三強調してきたことを知っておられようが、このような見方はいまだ歴史研究においては認められていない。しかしながら慈円はとっくにこのような見方を採っていた。 
もっとも慈円はこのような「負」を「冥」(みょう)ととらえ、「目に見えない歴史の力」というふうに見た。そして、この「目に見えない歴史の力」を大胆にもおよそ4種に分けたのである。 
一つは、時代を越える神々の力というもので、そのトップに伊勢大神宮=天照大神と春日大明神=天児屋根命(藤原氏の祖神)があると見た。 
二つ目は「冥の世」のものが「顕の世」に仮の姿であらわれたもので、慈円はこれを「化身」「権化」とよんだ。たとえば菅原道真はこの権者にあたっていて、道真が「冥」を担当したことによって藤原氏の「顕」が維持できたというふうに見た。「天神ハウタガヒナキ観音ノ化現ニテ、末代ザマノ王法ヲマヂカク守ラントオボシメシ云々」とある。 
三つ目はいわゆる怨霊で、人間の怨嗟が凝り固まって歴史を変化させたというふうに見た。藤原百川を殺した井上内親王から崇徳上皇まで、「愚管抄」は怨霊の歴史を明示的に史実に入れている。 
四つ目は天狗・狐狸のたぐいの邪悪な異類異物たちである。慈円はこうした異類の存在を確信していて、それゆえ、自身がその調伏をすることに意義を見出していた。 
第3に慈円が譲らなかったのは、むろん「道理」の力である。これは説明するまでもない。 
以上、「神の力」「冥の力」「道理の力」をもって、慈円は日本という国の特質をあきらかにする。 
このような慈円の見方は、やはり日本に特異な歴史観であるとともに、慈円のような摂関社会と仏教社会の両方の頂点の立った者が歴史の激変をみずから体験したうえについに決断して採用した見方として、おおいに注目されるのである。 
慈円は鎌倉新仏教の動きには理解を示さないし、芸術や庶民のこともいっさい書いてはいないのだが、そういうこととは別に、まことに独自な歴史観を紡いでみせたのだった。これはマキアヴェリやチャーチルの記述が歴史の渦中にいた者として長く読み継がれ、さまざまに分析されてきたように、もっと注目されてよい見方であった。
5 
日本国  
ここで国家について考えるために、日本史における国という言葉の変遷を見ていきます。  
『古事記(712)』や『日本書紀(720)』などの日本神話には、神々の住む天界の「高天原」や、日本の別名である「大八洲国(葦原中国)」、死者の住まう「黄泉の国(根の堅州国)」などが記されています。高天原と大八洲国の表現の違いから分かるように、「国」は「天」に対して「地」にあるものを指し示しています。  
『大宝律令(701)』では、「国家」という語で「天皇」を表しています。天皇の尊号を、直接的に称するのを憚ったためだと言われています。日本という国家にとって、天皇という存在が重要な意味を持つことが分かります。  
天台宗の最澄(767~822)は、『内証仏法相承血脈譜』において「三国」という表現を使用しています。三国とは、日本・唐土(中国)・天竺(インド)のことです。昔の日本人にとっては、この三国がそのまま世界として捉えられていたのです。この考え方は、長いあいだ日本人の思想に影響を与えました。  
紀貫之(870頃~945頃)の『土佐日記』には、国という言葉がいくつかの意味に使い分けられています。〈唐土とこの国とは、言異なるものなれど、月の影は同じことなるべければ、人の心も同じことにやあらむ〉という文章では、「この国」が「日本」を意味しています。唐と日本とは言葉は違いますが、月の光は同じはずですから、人の心も同じなのだと語られているのです。また別の箇所では、国が郡の意味で使われたり、故郷の意味で使われたりもしています。  
慈円(1155?1225)は、〈日本國ノナラヒハ、國王種姓ノ人ナラヌスヂヲ國王ニハスマジト、神ノ代ヨリサダメタル國ナリ(『愚管抄』)〉と述べています。日本国は、天皇家の血筋によって保たれていることが分かります。  
浄土真宗の親鸞(1173~1262)は『高僧和讃』において、〈日本一州ことごとく 浄土の機緑あらはれぬ〉と述べ、日本における浄土を願っています。  
日蓮宗の日蓮(1222~1282)は、『立証安国論(真筆)』で「くに」の文字の書き分けを行っています。「国」の使用回数が十五回、「國」の使用回数が一回で、「口」の中に「民」で「くに」とする文字が五十二回です。「口」の中にどのような文字が入るかで、「くに」という言葉によって強調すべき要点を表しています。「くに」という言葉の使い分けの比較から、日蓮が「くに」と「民」を密接に結び付けて論じていることが分かります。また、『報恩抄』では、〈日蓮は日本国のはしらなり。日蓮失うほどならば日本国のはしらをたをすになりぬ〉と述べています。自分が日本を支えているのだという自負が伺えます。  
北畠親房(1293~1354)は、〈大日本者國也。天祖ハジメテ基ヲヒラキ、日神ナガク統ヲ傳給フ。我國ノミ此事アリ。異朝ニハ其タグヒナシ。此故ニ神國ト云也(『神皇正統記』)〉と述べています。受け継がれてきた伝統によって、日本と他国を区別していることが分かります。  
戦国時代では、戦いの単位である大名の領土が「国」として用いられる場合があります。このことは、時代の状況によって、国の意識の範囲が揺れ動いていることを示しています。朝倉孝景(1428~1481)は家訓『朝倉栄林壁書』において、〈国を見事に持成も、国主の心づかひに寄べく候事〉と述べ、越前守護大名の領有する地域に対して国という字を用いています。また、毛利元就(1497~1571)は子息(隆元・元春・隆景の三人)にあてた『毛利元就書状』において、〈誠手広く五ヶ国・十ヶ国之操調にて候〉と述べています。ここでも、戦国大名の領有する地域に対して国の文字が用いられています。安芸の領主から身を起こして、安芸・備後・石見・長門をはじめその周辺の諸国を征服して支配・介入できるようになった状態について語られています。  
江戸時代に入ると、幕府の海禁政策(いわゆる鎖国)の影響から、国の文字が藩単位で用いられることが多くなります。海禁政策とは、外交・貿易の権限を幕府が制限・管理することを指します。本多正信(1538~1616)は、〈国家ヲ治メントスレドモ治メル可キ本ナケレバ治ラズ。其本ト云ハ国主郡主ノ御心ナリ(『治国家根元』)〉と述べています。ここでいう国家は徳川幕府や藩を指し、国主は国持大名であり、郡主は小大名や上級旗本などを指しています。また、山本常朝(1659~1719)は、〈御国家を治め申上えの忠節、何か有る可きや(『葉隠』)〉と述べ、国家を佐賀藩とし、選び出されて佐賀藩を治めるという忠節よりほかになにがあろうか、と語っています。  
海禁政策下でも、オランダなどを通じて諸外国の情勢や学問を研究することはできました。しかし、庶民に情報が制限されていたのも事実です。そのため、日本という単位を「国」とすると、日本の正しさを他国と比較することが難しくなります。正しさは、比較対照を失うと暴走するか、脆弱化します。そのため、「国」が藩という単位で認識されたのだと思われます。そうすると、その藩(国)の掲げる正しさが、他の藩(国)と比較可能になります。正しさは、比較すべき他の正しさがなければ、自身の正しさを保てないのだと思われます。  
例えば福沢諭吉(1835~1901)は、〈各国の交際と人々の私交とは全く趣を異にするものなり。昔し封建の時代に行はれたる諸藩の交際なるものを知らずや、各藩の人民必ずしも不正者に非ざれども、藩と藩との附合に於ては各自から私するを免かれず。其私や藩外に対しては私なれども、藩内に在ては公と云はざるを得ず。所謂各藩の情実なるものなり。此私の情実は天地の公道を唱て除く可きに非ず、藩のあらん限りは藩と共に存して無窮に伝ふ可きものなり。数年前廃藩の一挙を以て始めて之を払ひ、今日に至ては諸藩の人民も漸く旧の藩情を脱するものゝ如しと雖ども、藩の存する間は決して咎む可らざりしことなり。僅に日本国内の諸藩に於ても尚且斯の如し(『文明論之概略』)〉と述べています。福沢諭吉は、封建時代では藩が基本単位であり、廃藩の後は日本が基本単位だと考えているのです。  
ただし、江戸時代には藩を「国」とする考えと同時に、日本を「国」とする考えも当然ながら見られます。  
水戸藩の第二代藩主である水戸光圀(1628~1700)は、〈毛呂(もろ)己(こ)志(し)を中華と称するは、其の国の人の言には相応なり、日本よりは称すべからず。日本の都をこそ中華といふべけれ。なんぞ外国を中華と名づけんや。其のいはれなし(『西山公随筆』)〉と述べ、日本人は日本を中心に考えるべきことを説いています。  
井原西鶴(1642~1693)の『日本道にの巻(西鶴独吟百韻自註絵巻)』には、〈和歌は和国の風俗にして、八雲立御国の神代のむかしより今に長く伝て、世のもてあそびとぞなれり〉とあります。また、〈日本道に山路つもれば千代の菊〉とあり、日本の街道の里程に山路の里程までを加えるなら、千年も保つという菊の寿命のように尽きることがないと述べています。  
近松門左衛門(1653~1724)の『国性爺合戦』には、〈日の本とは日の始、仁義五常情有り〉とあります。  
荷田在満(1669~1736)の『国歌八論』には、〈日本はわが万世父母の国なれども、文華の遅く開けたる故に文字も西土の文字を用ゐ、礼儀・法令・服章・器財等に至るまで悉く異朝に本づかざるはなし。ただ歌のみわが国自然の音を用ゐて、いささかも漢語をまじへず〉とあります。  
学者である富永仲基(1715~1746)の『出定後語』には、〈道を説き教へをなすは、振古以来、みな必ずその俗によつて、もつて利導す〉とあります。振古以来とは、昔からという意味です。その上で、〈竺人の、幻における、漢人の、文における、東人の、絞における、みなその俗しかり〉とあります。印度人が「竺人」であり、「幻」とは化幻性、神秘的性癖のことです。中国人が「漢人」であり、「文」は文辞性、修飾的性癖のことです。日本人が「東人」であり、「絞」は絞直性、秘密的性癖のことです。仲基は、〈言に物あり。道、これがために分かる。国に俗あり。道、これがために異なり〉と述べています。言語思想の形成条件の相違によって思想に違いがあり、地方固有の風俗習慣が行なわれることで風土的差異が思想に影響するというのです。  
本居宣長(1730~1801)の『鈴屋答問録』には、〈國とは、上代には一縣一郷ほどの所をもいひつれば、其地、其地に、國生ノ神は有べし〉とあります。国には、国ごとに根付いた神が居るというのです。その上で日本については、〈皇統の動きたまはぬを本として、其外にも他國にまされることの多きぞ、天照大御神の御本國のしるしにして、他に異なる也〉と語られています。  
上田秋成(1734~1809)は、〈他国の聖の教も、ここの国土にふさはしからぬことすくなからず(『雨月物語』)〉と述べています。ここでの他国は漢土(中国)であり、ここの国土とは日本のことを指しています。  
以上のように海禁政策下では、日本という単位と藩という単位が、それぞれの立場に応じて国という言葉で使い分けられていました。海禁政策が緩和(いわゆる開国)されると、国の使用例も日本という単位で統一されていきます。  
佐久間象山(1811~1864)は『省ケン録(せいけんろく)』において、「一国」で松代藩を指し、「天下」で日本全体を意味し、「五世界」で五大洲、つまり地球全体を表現していました。しかし、後の『象山書簡』では「国」という言葉を日本全体の意味で用いる傾向がきざしています。国ないし国家を藩の意味で用いる傾向と、日本全体の意味で使う新しい傾向とが、時代の変遷により変化していくのが分かります。  
江戸末期の政治家である横井小楠(1809~1869)は、〈我国の万国に勝れ世界にて君子国とも称せらるるは、天地の心を体し仁義を重んずるを以て也。されば亜墨利加(アメリカ)・魯西亜(ロシア)の使節に応接するも、只此天地仁義の大道を貫くの条理を得るに有り(『夷虜応接大意』)〉と述べています。日本を我国とし、新しく登場したアメリカ(嘉永六年六月三日浦賀に入港したアメリカ使節ペリー)やロシア(同七月十八日長崎に来航したロシア使節プチャーチン)と対峙させています。  
哲学者の西周(1829~1897)は、〈国とは何等を指して国と云ふべきものなるや。徒に土地あるを以て云ふ語にあらず。土地ありて人民あり、人民ありて政府ある之を国と云ふ。則ち英語state.国の字は元と或の字なり。其を境界して国と為すの字なり(『百学連関・総論』)〉と述べています。日本語の「国」と英語の「state」との通約が見られます。  
評論家の山路愛山(1865~1917)は、〈今日において日本は世界の日本なりというはなお徳川時代において薩摩は日本の薩摩なりというがごとし。世界は一の完璧なり。日本はその一部分なり。二者決して分つべからず。世秋を知らずして日本を知らんとし、世界の歴史を解せずして今の日本に処らんとするは、なお昔の日本を解せずして薩摩に処らんとするがごとし(『日本現代の史学および史家』)〉と述べ、国と世界との関わりについて言及しています。  
哲学者の西田幾多郎(1870~1945)は、〈外国の事物を研究しても、そこに日本精神が現れると云うことを忘れてはならない。そしてそれが逆に日本的事物に働くのである(『日本文化の問題』)〉と述べています。また、〈歴史的世界には、自己自身を形成する自覚的世界が含まれて居るのである。これが国家と云うものである。歴史的世界は、国家として自覚するのである。国家形成と云うものを予想せないで、歴史的世界と云うものなく、歴史的世界と云うものを前提とせないで、国家形成と云うものはない(『国体』)〉とも述べています。国家は歴史の上に形成されることを強調しています。  
以上のように、日本史において、「国」および「日本という国」の姿が示されています。国については、歴史的伝統的な相違によって、自国の正しさと他国の正しさを比較することが必要となります。その必要性の関係性において、国家の境界線は引かれるのです。
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怨霊から御霊へ  
政争や戦乱の頻発した古代期を通して、怨霊の存在はよりいっそう強力なものに考えられた。怨霊とは、政争での失脚者や戦乱での敗北者の霊、つまり恨みを残して非業の死をとげた者の霊である。怨霊は、その相手や敵などに災いをもたらす他、社会全体に対する災い(主に疫病の流行)をもたらす。古い例から見ていくと、藤原広嗣、井上内親王、他戸親王、早良親王などは亡霊になったとされる。こうした亡霊を復位させたり、諡号・官位を贈り、その霊を鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」として霊は鎮護の神として平穏を与えるという考え方が平安期を通しておこった。これが御霊信仰である。また、その鎮魂のための儀式として御霊会(ごりょうえ)が宮中行事として行われた。記録上、最初に確認できる御霊会は、863年(貞観5年)5月20日に行われた神泉苑で行われたもの(日本三代実録)である。  
この最初の御霊会で、崇道天皇(早良親王。光仁天皇の皇子)、伊予親王、藤原大夫人(藤原吉子、伊予親王の母)、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文屋宮田麻呂)、観察使(藤原仲成もしくは藤原広嗣) の六人が祭られた。後に、井上皇后(井上内親王。光仁天皇の皇后)、他戸親王(光仁天皇の皇子)、火雷天神(下御霊神社では6つの霊の荒魂であると解釈している。一般には菅原道真であるともいわれるが、道真が祀られるようになったのは御霊神社創設以降)、吉備聖霊(下御霊神社では6つの霊の和魂であると解釈している。吉備大臣吉備真備、もしくは吉備内親王、とも言われる)をくわえ、観察使と伊予親王が省かれた「八所御霊」として御霊神社(上御霊神社、下御霊神社)に祀られている。  
御霊信仰が明確化するのは平安時代以降であるが、その上限がどこまでさかのぼれるかどうかは、ひとによって理解が一定していない。史料的に確実な例としてあげられるのは、『続日本紀』の玄ムの卒伝にみえる藤原広継の怨霊であるが、それ以前については意見がわかれている。聖徳太子が怨霊であったとする梅原猛(『隠された十字架』)の説は証拠にとぼしいが、蘇我宗家(蘇我蝦夷・蘇我入鹿)の滅亡にその兆候がみとめられるとする八重樫直比古のような理解や、大津皇子にその発端をみる多田一臣らの説は、『扶桑略記』『薬師寺縁起』のように後世にくだる史料に拠らざるを得ない欠点はあるものの、一定の論拠を有している。また長屋王については寺崎保広(『人物叢書 長屋王』)が、天平7年(735)以降に大流行し、藤原四子らを死に追いやった天然痘と王の怨霊とが関連づけている。この長屋王に関しては藤原広嗣と時代も近い点からみて、ほぼ疑いないと思われる。ただし、本郷真紹のように、長屋王や広嗣の怨霊の記事は、『続日本紀』が平安時代の編纂までくだることから、この時代の潤色であるとみて、早良親王以前の怨霊の存在は認めがたいという見方もある。現状では、奈良以前の例については確証を得難いということになろう。  
なお、小説家の井沢元彦は『逆説の日本史』において、古代の日本は中国文明の影響によって、子孫の祭祀の絶えた者が怨霊となるとして、これを「プレ怨霊信仰」と呼び、それが長屋王と藤原四子の事件により「冤罪で死んだ者が怨霊となる」という「日本的怨霊信仰」へと変化したと提唱している。ただし井沢の説は、定説として確定していない梅原の説をほぼ全面的に承認しての論である。  
この古代の怨霊について論述したものはあまり多くはないが、『愚管抄』に「アラタニコノ怨霊モ何(いかに)モタダ道理ヲウル方ノコタウル事ニテ侍ナリ」とあり、また怨霊が現れるのは「意趣ヲムスビテ仇ニトリ」という形式を踏むとしている。すくなくとも慈円は怨霊というものは、現れるだけの理由があって現れるものであり、それは「意趣」を返すためであると論じている。慈円の認識が古代から中世の一般的な認識であったのかはわからないが、この叙述によれば、やはり怨霊というものは非業の死、恨みによって生まれるものと考えられていたということになる。平安時代から鎌倉時代にかけては崇徳上皇・藤原頼長(宇治の悪左府)、安徳天皇、後鳥羽上皇・順徳上皇、後醍醐天皇などが怨霊となったと怖れられ、朝廷や幕府は慰撫や慰霊のために寺社を建立している。  
南北朝期を通して、こうした怨霊鎮魂は仏教的要素が強くなるが、それでも近世期の山家清兵衛(和霊神社)や佐倉宗吾(宗吾霊堂)などの祭神に見られるように、御霊信仰は衰退してはいなかった。それをもっとも端的に示すのが『太平記』であって、仏教的な影響を受けつつも、南北朝の動乱を怨霊の仕業とする立場を見せ、社会を変動させる原動力であるとみなしている。これは源平合戦などの世の乱れの一因に崇徳院の怨霊の影響があったとみる『保元物語』『平家物語』のありかたを一層、進展させたものと認められよう。  
また、一般に御霊信仰の代表例として鎌倉権五郎(鎌倉景政)が語られることが多いが、彼は怨霊というよりは、超人的な英雄としての生嗣や祖霊信仰に基づく面が強いように考えられる。鎌倉権五郎に関しての話題は、民俗学的な面(一つ目小僧)からも見る必要がある。
[ 参考 ]

 

僧侶の言葉 
平安鎌倉の物語3 愚管抄 
日本の美意識 [2] 
霊と幽霊
 
 
明恵

 

承安3年-寛喜4年(1173-1232) 
和歌山有田出身。南都六宗の華厳宗(大本山は東大寺)の学僧。諱(いみな、没後の贈り名)は高弁。鎌倉初期の同時代を生きた法然、親鸞、日蓮と違って新宗派を開いた教祖ではないので、現代では知名度が低いけれど、当時は旧仏教界側の最も影響力の大きな人物の1人だった。父は平重国、母も武家出身。 
1180年、7歳の時に母が病没、父も半年後に挙兵した頼朝軍と戦い東国で敗死してしまう。翌年、両親を失った明恵は、亡き母が生前に彼を京都高尾・神護寺の薬師仏に仕える僧にしたがっていたことから、同寺の叔父を頼って仏門を叩き、名僧文覚(もんがく)の弟子となる。 
明恵は母がこの薬師仏に祈願して授かった子どもだった。 
熱心に華厳宗を学び、16歳の時に東大寺にある鑑真が作った戒壇院で公式に出家。これまで以上に力を入れて修行するが、京都や奈良の僧たちが出世レースに明け暮れている姿を見て違和感を感じ、1196年(23歳)、故郷紀州に戻ると山中に小さな庵を建てそこに篭って修行を続けた。 
この時の仏道を究めんとする明恵の決意は相当なもので、学識で有名になり傲慢になりつつあった自分を戒める為に、そして色欲の煩悩など全ての俗念を取り去る為に、庵に入ってすぐ右耳を切り落としている。彼は「これでもう自分から人前に出なくなる。人目をはばかり、出世しようと奔走することもない。私は心が弱いので、こうでもしなければ道を誤ってしまう」と語り、そして「目を潰すとお経が読めなくなる。鼻がないと鼻水が落ちてお経が汚れる。手を切ると印が結べない。耳は見栄えが悪くなるだけだ」と耳を選んだ理由をあげている。以後、明恵は自身の事を「耳切り法師」と呼ぶようになった。 
※ゴッホは耳を切ったり「ボンズ(坊主)としての自画像」を描いている。明恵の影響、というのは考え過ぎだろうが、文献で“坊主”を知っている以上、可能性が全くゼロともいえない。 
1199年(26歳)、神護寺に帰るが、師の文覚が後鳥羽上皇への謀反の嫌疑で流刑となり死去、神護寺は荒廃し明恵は各地を流転する。次第にあらゆる全仏教の原点となる釈迦の遺跡を巡拝したいとの思いを強め、30歳、32歳の時に2度にわたってインド渡航を計画した。三蔵法師の旅行記などを熟読して長安からの日程表を作り旅支度をしたが、病に伏したり周囲の猛反対や神託の為に頓挫。実際、大陸の治安はチンギスハンの勢力拡大と共に悪化しており旅を出来る状況ではなかったという。 
1206年(33歳)、後鳥羽上皇から京都郊外の栂尾(とがのお)を与えられ、華厳宗の修行道場として高山寺を再興する。明恵は坐禅をこよなく愛し、数日分の食料を小ぶりの桶に入れて裏山に行き、「一尺以上ある石で、私が坐ったことのない石はない」というほど、昼夜を問わず石の上、木の下などで坐禅を重ねた。 
明恵は常に釈迦を深く慕い、憧れていた。心の中心にいたのは釈迦だ。彼は釈迦を敬慕するあまり、仏陀伝を聞いている途中で失神したという。そして釈迦の言葉を理解する為にも、学問、戒律、行を重視していた明恵は、1212年(39歳)、念仏(南無阿弥陀仏)さえ唱えれば阿弥陀の大慈悲で極楽往生できるという法然・親鸞の浄土教へ反感を持ち、「摧邪輪(さいじゃりん)」を著して、舌鋒鋭く猛烈に抗議した(ちなみに親鸞とは年が同じ)。 
1215年(42歳)、臨済宗開祖の栄西禅師が没する。明恵は30歳頃から栄西と交流があり、明恵の誠実さに惚れ込んだ栄西は「宗派の後継者になって欲しい」と願ったが、明恵はガラじゃないとこれを固辞。栄西は「せめてこれだけでも」と、自分の大切な法衣を明恵に贈った。栄西は弟子達に「分からないことがあれば明恵上人に聞け」と言い残したという(すごい信頼ぶりだ)。 
栄西はまた、宋から持ち帰った茶種を明恵に渡した。明恵は高山寺に茶園を作って栽培し、優れた効能を知ると宇治に広め、そこから静岡や各地に茶が伝わった。高山寺のある栂尾は茶の発祥地として鎌倉後期には日本最大の産地となり、毎年天皇にも献上された。 
1221年(48歳)、承久の乱で幕府軍に追われて高山寺の境内に隠れていた上皇側の落武者をかくまい、明恵はその罪で六波羅(治安機関)の北条泰時の下に連行される。泰時に真意をただされた明恵はこう語った「私は親友に祈祷を依頼されても引き受けない。なぜか。全ての人々の苦しみを救う事が重要であり、特定の人の為に祈祷などしないのだ。この戦でも、どちらか一方の味方をするつもりはない。高山寺は殺生禁断の地である。鷹に追われた鳥、猟師から逃げてきた獣は、皆ここに隠れて命を繋いでいる。ましてや人が岩の狭間に隠れているのを、無慈悲に追い出せようか。むしろ袖の中でも袈裟の下でも隠してあげたいし、私は今後もそうするつもりだ。もしも、この当然のことが許されぬのなら、即座にこの愚僧の首をはねられよ」。この毅然とした態度、高潔な徳に泰時は胸を打たれ、無礼を謝ると帰りの牛車を用意して寺に届けた。この後、泰時は明恵を師と仰ぎ、教えを請うためにしばしば高山寺に足を運んだ。この2年後、明恵は夫を戦で失った妻たちの為に尼寺(善妙寺)を開いた。 
1231年(59歳)、明恵は紀州で法要を行ない、帰って来た後に疲れが出て床に伏した。そして翌年1月、明恵は「今日臨終すべし」と告げて、弟子たちに「名声や欲得に迷わぬように」と戒め、しばらく座禅をした後、「時が来たようだ。右脇を下に身を横たえよう」と横になり、蓮華印にした手を胸に置き、右足を真っ直ぐ伸ばし、左膝を少し曲げて重ねた。最期は顔に歓喜が満ち、安らかな大往生だったという。明恵は禅堂院の後方に、弟子によって丁重に埋葬された。現在、廟前には毎年11月8日に茶業者が訪れ、その年の新茶を供える献茶式が行われている。 
栄誉を避け、戒律を守り、ひたすら釈迦を慕い、心静かに修行し続けた清僧・明恵。訃報を聞いた天台座主の良快は、宗派が異なるにもかかわらず「今の世は、明恵上人のような人こそ聖人と言うのだ」と称えたという。 
月の歌人・明恵 
明恵がまだ10代半ばの頃、放浪歌人の西行法師が何度か神護寺を訪れており、明恵は歌道の指導を受けたという。明恵は一晩中屋外で座禅を組むことが多かったことから、「月の歌人」と呼ばれるほど月の歌を大量に詠んだ。その歌才は勅撰集に27首も選ばれているほど優れている。 
「山寺に 秋の暁 寝ざめして 虫と共にぞ なきあかしつる」 
(山寺の秋の朝焼け。眠れぬ私は虫と共に泣きあかしたよ) 
「隈もなく 澄める心の 輝けば 我が光とや 月思ふらむ」 
(隅々まで澄み切った私の心の明るい輝きを、月は自分の光と思うのではないか) 
「昔見し 道は茂りて あとたえぬ 月の光を 踏みてこそ入れ」 
(昔訪れた廃寺の草茂る道。私は月の光を踏み入って行く) 
「あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月」 
(明るい!明る過ぎるぜ、お月さまッ!) 
「雲を出でて 我にともなふ 冬の月 風や身にしむ 雪や冷たき」 
(雲から出て私に同行する冬の月よ、風が身に沁むだろう、雪が冷たいだろう) 
川端康成はノーベル文学賞受賞の記念講演「美しい日本の私」の冒頭でこの名歌を紹介した。 
高山寺 
寺内の石水院は戦火をくぐり抜けた鎌倉期の建物で国宝。「明恵上人座禅像」のほか、有名な「鳥獣人物戯画」(漫画の原点!)も寺の所蔵で、これまた国宝だ。明恵は幼くして死に別れた両親をよく懐かしみ、母の遺品の美しい櫛を、常に肌身離さず懐に入れていた。また夢で修行に出かける時はいつも仔犬が登場することから、仔犬を見る度に父母の生まれ変わりではないかと思ったらしく、明恵に帰依した名仏師・運慶が彫ってくれた木彫の仔犬を、常に机の側に置いて大切に可愛がっていたという。これらの櫛や仔犬像は現在も高山寺に保管されている。 
平家一門が我が世の春を謳歌していた頃、明恵は建礼門院(清盛の娘、安徳の生母)に受戒を頼まれた。ところが、建礼門院は高座の御簾(みす)から手だけを出しており、明恵は静かにこう言った。「私は低い身分ですが釈迦の弟子となって久しく、高座に上らず受戒すれば師弟ともに罪に落ちると経にあります。どうか私以外の法師を招き御授戒ください」。びっくりした建礼門院は御簾から飛び出て彼を高座に座らせ、その後は深く帰依するようになったという。 
明恵は19歳から58歳までの40年間、毎夜の夢を綴った。これは世界で唯一の夢の日記、「夢記(ゆめのき)」として知られている。 
承久の乱の際、明恵は泰時への説法で許されたが、後鳥羽院は隠岐に流され、かの地で死去している。 
高山寺は真言宗と華厳宗の寺であったが、江戸時代に真言宗のみに転じた。 
インド旅行がボツになった悲しみを慰めるように、明恵は寺周辺の山に釈迦と縁のあるインドの山の名を付けている。 
高山寺には複製画の「鳥獣人物戯画」が展示されている。オリジナルは京都国立博物館に預かってもらっている。 
文覚(俗名遠藤盛遠)は頼朝に挙兵を促した高僧。父の仇ともいえる人物に弟子入りしたわけだが、明恵が後年それを知ったのかは不明。神護寺に伝頼朝像があるのは文覚繋がりだろう。 
釈迦は阿弥陀について語っていない以上、阿弥陀より釈迦を尊ぶ明恵の気持は理解できる。また、宗教の価値が人の苦しみを取り除くことにあるならば、念仏ひとつで救われる浄土教がお経を読めない多くの民衆を勇気づけたかを考えると、要は一人一人が自分にあった思想を選べばいいのだと僕は思う(もちろん何も選ばなくてもいい)。
■2 
鎌倉時代前期の華厳宗の僧。法諱は高弁(こうべん)。明恵上人・栂尾上人とも呼ばれる。父は平重国。母は湯浅宗重の四女。現在の和歌山県有田川町出身。 
承安3年1月8日(1173)平重国と湯浅宗重の四女の子として紀伊国有田郡石垣庄吉原村(現:和歌山県有田川町歓喜寺中越)で生まれた。幼名は薬師丸。 
治承4年(1180)8歳にして両親を失い、高雄山神護寺に文覚の弟子上覚を師として出家。法諱は成弁(後、高弁に改名)。仁和寺・東大寺で真言密教や華厳を学び、将来を嘱望されたが俗縁を絶ち紀伊国有田郡白上や同国筏立に遁世した。釈迦への思慕の念が深く2度天竺(インド)へ渡ることを企画したが、春日明神の神託が在り断念した。 
建永元年(1206)後鳥羽上皇から山城国栂尾(とがのお)を下賜されて高山寺を開山し、観行と学問にはげんだ。戒律を重んじ、念仏の信徒の進出に対抗し、顕密諸宗の復興に尽力した。法然の浄土宗を批判した「摧邪輪(ざいじゃりん)」「四座講式」の著作や、40年にも及ぶ観行での夢想を記録した「夢記」などがあり、弟子の筆記による「却廃忘記」など数多くの著書がある。和歌もよくし家集「明恵上人和歌集」がある。 
山本七平氏によれば、承久の乱の後、鎌倉方の総司令官で後の三代執権となる北条泰時と出会ってその尊敬を得、泰時のその後の政治思想、特に、関東御成敗式目の制定の基礎となった「道理」の思想に大きな影響を与えたとされる。 
寛喜4年1月19日(1232)死去。享年60(満58歳没)。
■3 
鎌倉仏教・鎌倉旧仏教  
鎌倉仏教とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて発生した仏教変革の動きを指します。その中で、浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・時宗・日蓮宗(法華宗)を鎌倉新仏教と呼びます。この鎌倉新仏教に対し、旧仏教(南都仏教)の中にも新しい動きが生まれました。これを鎌倉旧仏教と呼びます。  
第一項 天台宗の慈円  
慈円(1155~1225)は、鎌倉時代初期の天台宗の僧です。  
歌人として後鳥羽上皇に高く評価される一方、日本国のあるべき姿を説き明かそうとして1220年頃に史論書『愚管抄』を著し末法思想を示しました。末法思想とは、末法に入ると仏教が衰えるとする思想のことです。末法とは、仏法の行われる時期を三つに分けた三時のうち、最後の退廃期のことです。その末法思想において、道理が語られています。文中には道理という文字が頻発し、江戸時代には「道理物語」と呼ばれました。道理という言葉は、様々な意味で使用されています。『日本の名著9(中公バックス)』にある大隅和雄の補注を参考にすると、道理の意味を次のように分類できます。  
第一に、〈御孝養アルベキ道理〉というように、人が践み行うべき道徳的に正しい道という意味があります。第二に、〈タゞ一スヂノ道理ト云事ノ侍ヲ書置侍リタル也〉や〈世ノ移リ行道理ノ一通リヲ書ケリ〉というように、筋道・理屈という意味があります。第三に、〈三世ニ因果ノ道理ト云物ヲヒシトヲキツレバ〉というように、因果(の道理)という意味があります。第四に、〈仏法王法マモラルベキ道理〉や〈コレ又臣下出クベキ道リ也〉というように、各道理の相対的な把握の上で、それらを超える社会的な基準(としての道理)という意味があります。第五に、〈ウツリマカル道理〉や〈何事モサダメナキ道理〉というように、道理は世の移り変りに従って変化して行く(という道理)という意味があります。これらの道理の意味を踏まえて、『愚管抄』の中でも重要と思われる「道」の用例を見ていきます。  
[巻第三]では、〈加様ノ次第ヲバ、カクミチヲヤリテ正道ドモヲ申ヒラクウヘハ、ヒロクシラント思ハン人ハカンガヘミルベキ事也〉とあります。こういうふうに順々になってゆく歴史の次第を順を追って、正しい道を申し明らめる上は、広く歴史を知ろうとする人は参照し、反省して見るべきであるということです。  
[巻第五]では、〈文武ノ二道ニテ國主ハ世ヲオサムルニ〉とあります。  
[巻第六]では、〈コレハヲリヲリ道理ニ思ヒカナヘテ、然モ此ヒガ事ノ世ヲハカリナシツルヨト、其フシヲサトリテ心モツキテ、後ノ人ノ能々ツ丶シミテ世ヲ治メ、邪正ノコトハリ善悪ノ道理ヲワキマヘテ、末代ノ道理ニカナヒテ〉とあります。この書ではその折々の道理に考えを合わせて、しかもこんな誤ったことが世を滅ぼそうとして事をたくらんだのだと人々にその節々を理解させ心を行きとどかせて、のちの人がよくよくつつしんで世を治め、邪と正との道理、善と悪との道理をわきまえて末の世の道理に適うように書いたというのです。  
[巻第七]では武力について、〈チカラノ正道ナルカタハ、宗廟社稷ノ本ナレバ、ソレガトヲルベキニヤ〉とあります。武力の使用が正しい道理に従って行われるということは、国家の大本なので通るべきだというわけです。歴史を貫くものとしては、〈コレニツキテ昔ヲ思ヒイデ今ヲカヘリミテ、正意ニヲトシスエテ邪ヲステ正ニキスル道ヲヒシト心ウベキニアヒ成テ侍ゾカシ〉とあります。昔のことを思い出し、現在のことを顧みて、世の中を正しい考えにもとづくように帰着させ、邪を捨てて正に帰する道をしっかりと理解すべきだというのです。歴史を顧みて判断するということが重要だということです。そこで、君は臣を立て、臣は君を立てて世を治めていくという道理を基として、〈コノ道理ニヨリテ先例ノサハサハトミユルト、コレヲ一々ニヲボシメシアハセテ、道理ヲダニモコ丶ロヘトヲサセ給ヒナバメデタカルベキ也〉と語られています。道理によって先例を明白に理解することができるのですから、それを事にあたっていちいち考え合わされて、道理を理解してその筋を通したなら、たいへん立派な世となるであろうと語られているのです。  
第二項 法相宗の貞慶  
貞慶(1155~1213)は、平安末期から鎌倉初期の法相(ほっそう)宗の僧です。戒律を厳守し、旧仏教の改革を提唱しました。  
『愚迷発心集』には、〈実にこの身を念(おも)はんと欲せば、この身を念ふことなかれ。早くこの身を捨てて、以てこの身を助くべし。徒らに野外に棄てんよりは、同じくは仏道に棄つべし〉とあります。身を捨ててこそ、身を助けることができるということです。ただし、ただ捨てるのではなく、仏の道にこそ身を捨てるべきだとされています。そこで、〈我進んで道心を請ふ〉と述べられているのです。  
また、『興福寺奏状』では、〈まさに知るべし、余行によらず、念仏によらず、出離の道、ただ心に在り〉とあります。出離とは、迷いを離れて解脱の境地に達することで、仏門に入ることです。仏の道は、心に在るのだと語られています。  
第三項 華厳宗の明恵  
明恵(1173~1232)は、鎌倉初期の華厳(けごん)宗の僧です。  
『摧邪輪』では、〈我、口業(くごう)を以て、讃嘆説法して、皆わが化(け)を受け、言下(ごんか)に道(どう)を得ん者をして尽さしめん〉とあります。明恵は、言葉と行為をもって仏教の教義を説き聞かせ、道を得る者に尽くすと述べています。  
『却癈忘記』では、〈惣テ聊モ菩提心ナドアリテ仏道ヘヲモムキヌルニハ、身命ナドハモノ、カズニテモ候ハヌ也〉とあります。仏の道に赴くには、体や命などはものの数ではないとされています。  
『梅尾明恵上人伝記』では、〈清浄の欲と云ふは仏道を願ふ心也。仏道に於いて欲心深き者、必ず仏道を得る也〉とあります。仏を願う心が清浄で深いならば、仏の道を得ることができるというのです。そこで、〈日々に志を励まし、時々に鞭をすゝめて、大願を立てて、善知識の足下に頭をつかへて、身命を惜しまずして道行を励ますべし〉とあり、日々志を持って過ごし、時には厳しく、大願を立て、善き知識に頭を垂れ、身体や生命を惜しまずに道を行くことが勧められています。そのため、〈実に生死を免れんと思ひ給はば、暫く何事をも打ち捨て、先づ仏法と云ふ事を信じて、其の法理を能々弁へて後、せめて正路に政道をも行ひ給はば、自ら宜しき事も候ふべし〉と語られています。生死の迷いから逃れたいならば、仏法を信じて法理を弁えて、正しい道に政治を行い、自ら実践すればよいというのです。  
『梅尾明恵上人遺訓』には、〈人は阿留辺幾夜宇和(あるべきやうわ)と云ふ七文字を持(たも)つべきなり。僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり。乃至、帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様なり。此のあるべき様を背く故に、一切悪きなり〉とあります。人間の「あるべきよう」が、その各々の立場において、あるべき様として語られています。そして法師(仏法に通じ人々を導く師となる者)に対しては、〈只心を一にし、志を全うして、徒らに過す時節なく、仏道修行を励むより外には、法師の役はなき事也〉とあります。心を一つにし、志を全うし、時間を無駄にせず、仏の道を修行するより他はないとされています。  
第四項 華厳宗の証定  
証定(1194~?)は、鎌倉初期の華厳(けごん)宗の僧です。  
『禅宗綱目』では、〈修行するところの理、宜しくこれに順じて、乃ち心を起して悪を断じ、善を修せず、また心を起して道を修せざるべし。道即ち心なり、心を将(も)つて還つて心を修すべからず。悪もまた是れ心なり、心を将つて還つて心を断ずべからず。不断不修、任運自然なるを、名づけて解脱の人とす〉とあります。道は心なのだと語られています。そこにおいては、善悪ともに心であり、自然なままの状態である人が解脱した人なのだとされています。  
第五項 真言律宗の叡尊  
叡尊(1201~1290)は、鎌倉中期の律宗の僧です。蒙古襲来で神風を祈願しました。  
『興正菩薩御教誡聴聞集』には、〈我心ヲ聖教ノ鏡ニアテ見ルニ、教ニ背クトコロヲバ止メ、自ラアタルヲバ弥(いよいよ)ハゲマシ、道にスヽムヲ学問トハ申ナリ〉とあります。自分の心を聖なる教えに映してみて、教えに背くことを止め、自分に合うところを伸ばし、道へと進むのが学問だというのです。中道については、〈空有ニ着セズシテ空有ヲ失ザルヲ本意ト為ス、即中道也〉とあります。ここでの中道は、一切のものは唯識所変のもので、非有非空の中道であることを言います。  
第六項 華厳宗の凝然  
凝然(1240~1321)は、鎌倉時代後期の東大寺の学僧です。  
『華厳法界義鏡』には、〈妙有これを得て、しかして有ならず、真空これを得て、しかして空ならず、生滅これを得て、しかして真常たり、縁起これを得て、しかして交映たり。菩薩これを得て、遐(はる)かに誓願を発し、広く業行を修し、無住の道に遊歴し、有涯の門に通入す〉とあります。流転生滅する迷いの世界において、華厳の真理観によると、菩薩は誓いを立てて修行し、自在無礙の道を巡るのだとされています。
■4 
栄西と明恵上人 
政治と結びつきながら日本流仏教が定着していた鎌倉時代に、宗から帰った栄西は、持ち帰った臨済の布教活動で、さまざまな政治的妨害を受けます。しかし栄西は禅の教えは国を守っていくものであるとする「興禅護国論」などの書物を著し、鎌倉に下り二代将軍頼家の帰依と庇護を受け、元久2年(1205)京都に最初の禅寺建仁寺を完成し第一世となり禅宗を広める土台を築きました。その2年後、明恵上人が京都栂尾(とがのお)に華巌宗の興隆を願って高山寺を中興し、たびたび栄西を訪れ問答をしていたといいます。栄西は、明恵に茶の薬効を話し、喫茶をすすめ、茶の実を栂尾(とがのお)に送ったのではと考えられます。さらに注目すべきことは京都の栂尾における茶栽培です。その後2世紀にわたり、栂尾における茶の栽培は盛んで、栂尾の茶を本茶、それ以外のものを非茶と称したほどだといいます。狂言「茶壷」にもこの坊の銘茶穂風のことが演じられるほどで、宇治以前の茶名産地が栂尾であったことがわかります。
■5 
明恵の論難 
1212年(建暦2年)法然上人入寂後に「摧邪輪」を著す。法然上人在世中には「選択本願念仏集」は門外不出で、数人の門弟に筆写が許される。入寂後に刊行。 
「高弁、年来、聖人において、深く仰信を懐けり。聞こゆるところの種種の邪見は、在家の男女等、上人の高名を仮りて、妄説するところなりとおもひき。未だ一言を出しても、上人を誹謗せず。たとひ他人の談説を聞くと雖も、未だ必ずしもこれを信用せず。しかるに、近日この選択集を披閲するに、悲嘆甚だ深し。」 
「二の難を出して、かの書を破す。」「一は、菩提心を撥去する過失。二は、聖道門を以て群賊に譬ふる過失。」(「摧邪輪」) 
明恵の聖道門の立場から見れば「菩提心」がないのは仏教ではない。法然上人は口称念仏だけで往生できるとし、菩提心等を諸行とし、廃捨したが、法然浄土教はそれまでの浄土教の立場からも否定されるべきもの。聖道門でも浄土門でもない邪説である。長年法然を高僧として「仰信」していた明恵は裏切られたという気持ちがあったのだろう。落胆と義憤が感じられる。 
明恵の論難は聖道的立場に立てば当然であり、また伝統的浄土教の立場からも疑問をもつのはもっともだろう。親鸞聖人の法然上人への帰依が遅かったのも、伝え聞く法然浄土教に疑問を感じていた可能性があり、聖徳太子の示現があって初めて帰依することができた。そのことを「本願に帰す」と述べられたのであり、法然浄土教を支えていたのが「本願」の感得・信受であり、また自分もそれを受け継ぐのだという自覚があった。従って「本願」の立場、如来廻向の立場からしかこの論難には答えられない。それによって聖道門の立場と浄土門の立場が鮮明になる。こうして「二双四重の教判」が生まれる。親鸞聖人の「横超」に対して、「竪超」は特に明恵を意識したものであろう。 
明恵と親鸞聖人はともに1173年(承安3年)に生まれた。この二人は仏教のもつ、智慧を中心とする「覚醒原理」と、慈悲を中心とする「救済原理」の二つの面をよく表している。親鸞聖人も二人の間にある対応関係を感じておられたのだろう。明恵の考え方の中には親鸞聖人とかなり近いものがある。明恵は十八願文について「至心信楽の文、必ずしも菩提心にあらずと言ふと雖も、もし口称の外に内心を取らば、内心を以て正因とすべし。口称は即ち是れ助業なり。」と言う。また明恵は「欲生心」を取り上げない。後に「三業惑乱」の三業派は「欲生心」を別して取り上げたが、「欲生心」を取り上げない明恵はよく浄土教を理解していたと言える。これは信楽中心の信心正因という親鸞聖人の立場に近い。口称より至心信楽という内心が正因となるのは、明恵に「形より心」という考え方があるからである。 
これは親鸞聖人も同様である。法然上人が十八願を「念仏往生の願」とし、親鸞聖人が「至心信楽の願」とされたことを考えると、明恵が十八願の中心は「十念」の口称の念仏より「至心信楽」にあるとしたのは明恵の卓見であり、親鸞聖人はこれと同様の立場である。ただし親鸞聖人はそれを如来より賜るものとし、ここが明恵と異なる点である。明恵の菩提心と親鸞聖人の信心とはよく対応し、自力と他力の違い、聖道門と浄土門の違いがわかる。明恵が菩提心を中心としながらも信心もある程度理解できたのは、釈尊崇拝の念が極めて厚く、その心情が親鸞聖人の阿弥陀仏崇拝の念と共通するものがあったからだろう。親鸞聖人は明恵を批判していないがその理由がよくわかる。 
また聖道門は主として根本存在の寂静相を表し、浄土門は主として活動相を表すとも言える。浄土門が具体相を好むのはそのためである。如来の人格的表現、浄土、名号、往生、廻向等によってその救いが具体的に表される。親鸞聖人の「浄土真実」である。こうして無相を好む聖道門からは浄土門の具体相が無相に達する前段階に見え、また具体相を好む浄土門からは聖道門の無相は具体相が表れる前段階に見え、相互の誤解を生みやすい。 
「教行信証・信巻」「菩提心釈」「しかるに菩提心について二種あり。一つは竪、二つは横なり。」「横超とは、これすなはち願力廻向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。横竪の菩提心、その言一つにしてその心異なりといへども、入真を正要とす、真心を根本とす、邪雑を錯とす、疑情を失とするなり。」「「論の註」にいはく、-この無上菩提心は、すなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。」 
このように「竪超」の菩提心を認めつつ、「横超」の菩提心を説く。両者は異なる立場だが、当然成仏という点では一致する。両者の違いをよりいっそう明らかにするに当たり、「願作仏心」を衆生の心に先立つ如来の願心、本願として受け取ると、「願作仏心」はまず如来が我々を成仏させようとする「仏に作さんと願ふ心」となる。それは如来が我々を救おうとする「度衆生心」であるとともに、我々を成仏させることで如来と一体となって衆生済度に参加させ、より多くの衆生を救おうと願う「度衆生心」である。先に如来の「仏に作さんと願ふ心」である「願作仏心」があり、それが廻向されて衆生の「仏に作らんと願ふ心」である「願作仏心」となって表れる。「願力廻向の信楽、これを願作仏心といふ」ということは「願力廻向」の「願作仏心」である。往相、還相、二廻向は「度衆生心」という如来の本願の働きとして一環一体のものである。「横超」の菩提心は如来の度衆生心の表れ、本願の表れである。自ら悟り成仏しようとする聖道門の「竪」の菩提心は覚醒原理の表れ、如来が衆生を成仏させようとする本願の働きである浄土門の「横」の菩提心は救済原理の表れと言える。 
成仏を目指す聖道門の「竪」の菩提心は成仏して涅槃に入って終わりかもしれないが、度衆生心の表れである「横」の菩提心では成仏は始まりであり終わりではない。それは成仏が定まった正定聚の段階からすでに始まっている。本願に生が定まったからであり、また本願は常に働き場を求めているからである。こうして信心が本願の働き場となる。それが我らの「無我」である。具体的には「自信教人信」であり、「常行大悲」である。「教人信」は「自信」という如来より賜る信心が「人をして信ぜしむ」(教は使役の助字)のである。如来の願心が本当の主語である。「常行大悲」も同様であり、如来の慈悲が我らをして「常に大悲を行ぜしむ」のである。「自づから然らしむ」働きである。こうして我らは我なすにあらずして浄土でも此土でも本願を表し、終わりなき「無量寿」の徳を表し続ける。
■6 
明恵上人は兜率天への往生を目指した  
明恵上人(1173−1232)は、山城高山寺の開祖であり、華厳宗の中興の祖といわれる。  
上人は、釈迦の思想とその風土にあこがれ、三蔵法師のようにインドまで旅に出ようと考えたほどであった。また修行に夢を取り入れて、その記録である「夢記」を書いたりした。いろいろとエピソードが多い有名な上人であり、それらの話は、徒然草、古今著聞集、謡曲など、いろいろなものに残されている。  
「徒然草」では「栂尾の上人」として登場する。ある日、上人が川で馬を洗う男を見た。この男は、馬に「足、足(あし、あし)」といい、足を引かせながら洗っていた。  
仏教で梵語の「あ」の字は12母音の最初のもので、宇宙一切の本源・種子の意味をもつものである。上人は馬引く男までが、「阿字、阿字」と尊い言葉を唱えながら仕事をするものと、感心する話が出てくる。しかもその馬は、皇居の警備を司る役所のものとわかり、「うれしき結縁をもしつるかな」といって、上人は感涙をぬぐわれた。落語の「豆腐問答」に似た話である。  
また「古今著聞集」では、上人が釈迦の遺跡拝礼のため弟子千人以上をつれて、インドへ渡ろうと考えたが、春日明神の御託宣により中止になる話がある。この話は能の「春日竜神」にもなっている有名なエピソードである。  
春日大社は、藤原氏の祖神・天児屋根命を氏神として祀る神社である。平安末期には、同じ藤原氏の氏寺である興福寺の管理下にある神社であった。摂関貴族が神託を得るために利用されており、僧侶が神社の神託によるのも面白い。  
春日明神のご託宣は、釈迦在世中ならばインドへ渡るのもよいが、春日明神も仏法守護のためにこの国にいるほどであり、上人も国内にいて衆生を済度すべきであるというものであった。春日明神は、このご託宣の正しさを証明するために、いろいろな不思議を見せる。そこで上人も納得し「涕泣随喜して、渡海の事も思い留り給ひけり」と記されている。  
明恵上人の臨終にあたっての儀の沙汰は、弟子により記録された「最後御所労以後事」と、「最後臨終行事事」に詳細に述べられている。その内容は道長の比ではなく、プロフェッショナルの臨終儀式ともいえるものである。ここではその要点のみを記す。  
まず、兜率天を選択する理由は、そこで弥勒書薩の教えを聞くことにある。弥勒は釈迦の弟子として実在したとされる仏であり、釈迦の入滅後に未来仏として、再度この世に下り、竜華菩提樹の下で釈迦の教えを説く。それまでは天上の兜率天において、釈迦の教えを説き続けるといわれる。  
明恵上人は、釈迦の教えを弥勒菩薩から直接聞きたいために、兜率天への往生を選択したといえる。臨終の儀には弥勒仏が安置された。それは弥勒仏を釈迦と同体とし、兜率天への往生を願ってのことであろう。  
寛喜3年(1231)は大飢饉の年で、春から京都の町は餓死者が道にあふれるほどであった。5月には飢餓民の暴動がおこり、7月にはさらに餓死者が増える状態であった。  
この年の秋から上人の病は悪化し、自分が5色の糸になって閻浮台をまわり、人々をみな縫い取る夢とか、虚空を呑んでしまい、すべての衆生草木河海が我が虚空の中にあるといった夢を見る。  
翌寛喜4年(1232)1月19日、上人は亡くなった。既に前年の10月から弥勒仏が安置されて、その前に端座して宝号を唱える臨終の儀が開始された。1月10日から病状が悪化した。  
上人は手を洗い、浄衣を着て袈裟をかけて、結跏趺座して行法座禅に入った。その間、弥勒菩薩のとばりの前の土砂が、紺青色になり、焔を発して部屋中に散った。この行法座禅は、1月の始めから1日に2〜3度繰り返していた。  
1月11日には、「置文」つまり「遺言状」を書いた。1月12日から人々を集めて、昼夜不断に文殊の五字真言を唱えさせた。この陀羅尼は、1遍唱えると8万4千の陀羅尼蔵を誦する効果があるといわれる。この間も座禅し法を説いた。この間、何度も呼吸が止まった。弟子たちは、ひたすら宝号を唱え真言を誦した。  
16日の座禅では左脇に不動尊が現れた。この日、弥勒の像を学問所に移し、五聖(毘廬舎、文殊、普賢、観音、弥勒)の曼荼羅を東に掛け、南を枕として右脇臥の儀別にならった18日には、諸衆のダラニをやめ、一人しずかに座禅念誦を行った。  
19日午前7時頃、手を洗い、袈裟を付け、念珠をとり、看病者に寄りかかり安座して、臨終の時であることを告げ、高声で心地観経と華厳経の一節を唱えた。そして人々には、慈救呪、五字真言と宝号を唱えるように頼み、右脇に臥した。  
「南無弥勒菩薩」と数変唱え、目を閉じて、静かになった。最後の言葉は、「我戒ヲ護ル中ヨリ来ル」(弥勒が善財につげた言葉)であった。  
既に、1月の始めから多くの人の夢に明恵上人の往生が現れていたが、19日には、信然阿闍梨の叔母が、西方からたなびく紫雲の中に明恵の立つ夢を見た。
■7 
戒律死守した唯一の僧・明恵  
彼のような思想に対して当然に対抗宗教改革が起こった。その代表が華厳宗の栂尾高山寺の明恵であり、『摧邪輪』を記し、仏典のどこを探しても法然の主張するようなことは記されていないと批判した。明恵は典型的な高僧というタイプの人で、民衆を直接に教化するより瞑想と隠遁を愛したが、彼を慕う人は多かった。  
執権の北条泰時は彼から強い感化を受け、それが「貞永式目」の法哲学の基本になっていると思われる。また弟子の義林房喜海は生涯彼とともにあって、『明恵上人行状』を記し、これとその他の資料を基にして記された『明恵上人伝記』は徳川時代まで広く読まれた。その中の「あるべきようは」の七字を重んずること、いわばすべての人がその社会的位置で「あるべきようにあれ」という教えもまた、間接的だが強い教化力をもっていたと思われる。また彼が自らの「夢」を記しつづけた『夢記』は、心理学的に、また精神分析的に貿重な資料で、現代でも多くの人に研究されている。  
だが明恵自身の生涯の夢は、インドに行き、仏跡を歩きつつ、ありし日のブッダを慕いしのぶことであった。彼はこの夢を果たせなかったが、たとえ末世・末法の世であっても、あくまでブッダを慕い、彼が示した戒律通りに生きることが彼の生き方であった。生涯、戒律を一点一画も破らなかった僧が日本にいたか、と問われれば「明恵がいた」といえる。それは法然とは対極の存在であったといってよい。  
同じころ、栄西と道元によって中国から禅宗がもたらされた。これが広く普及したのは鎌倉時代であり、「只管打坐(しかんたざ)」の厳しい修業と厳格な戒律は、武士の生活規範とよく合致したものと思われる。禅は鈴木大拙により欧米に紹介され、日本の仏教といえば「ZEN」と思っている人も少なくないが、決してそうではない。ただ禅についてはすでに多くのことが紹介されているので、本書ではこれにとどめ、民衆的新宗教へと進もう。 
■8 
日本的革命の哲学 
保元(ほうげん)の乱は、大雑把にいえば、鳥羽法皇と崇徳(すとく)天皇との勢力争いであり、平家も源氏もそれぞれふた派に分れて戦った。平清盛は、鳥羽法皇の側についてのし上がるきっかけをつかんだ。そのあとの平治の乱は、藤原氏と源氏が結託して起こした反乱であり、平清盛はこれを討って、権力の座を手中にした。なお、源頼朝の挙兵は、源氏と平家の戦いであり、「乱」とは言わない。源頼朝が鎌倉幕府を開いたのちも後白河法皇と後鳥羽天皇の態勢はそのまま続いたのである。その後、後白河法皇はなくなり、後鳥羽天皇がそのあとを継いで後鳥羽法皇となりすべての実権を握った。その後鳥羽法皇を、武士の頭領でもない北条一族が処分したのである。 
これは大変なことで、天皇を敬う立場からは、北条一族はケシカランということになる筈である。そこをどう理解するかということがポイントであり、問題の核心部分である。 
山本七平は、以上のように、「皇国史観」の源流とされる水戸学において、義時・泰時のとった行動を是認しているさまを紹介しているのだが、やはり・・・後鳥羽・土御門・順徳の配流ほど驚愕すべき事件はわが国の歴史上他に例を見ない。宝字の変(皇太后孝謙が天皇淳仁を廃す)は、皇太后が天皇を幽した事件であるし、保元の乱は天皇である後白河が上皇(崇徳)を配流した事件である。 
ところで、泰時は明恵の思想に大きな影響を受けたことはつとに知られている。明恵と泰時の邂逅は、余りに<劇的>で話がうまく出来すぎているので、これをフィクションとする人もいることはいる。しかし、明恵上人が何らかの形で幕府側から尋問されたことは、きわめてあり得る事件である。 
というのは、いずれの時代も無思想的短絡人間の把握の仕方は「二分法」しかない。現代ではそれが保守と革新、進歩と反動、タ力とハト、右傾と左傾、戦争勢力と平和勢力という形になっているが、二分法的把握は承久の変の時代でも同じであった。まして戦闘となれば敵と味方に分けるしかない。その把握を戦闘後まで押し進めれば、朝廷側と幕府側という二分法しかなくなる。そしてそういう把握の仕方をすれば明恵は明らかに朝廷側の人間であった。否、少なくともそう見られて当然の社会的地位と経歴をもっていた。その人間に不審な点があれば、三上皇を島流しにし、天皇を強制的に退位させた戦勝に驕る武士たちが、明恵を泰時の前に引きすえたとて不思議ではない。さらに彼に、叡山や南都の大寺のような、配慮すべき政治的・武力的背景がないことも、これを容易にしたであろう。 
ところがこの明恵に感動して泰時がその弟子となった。このことはフィクションではない。 
さて、西欧型革命の祖型は、体制の外に絶対者(神)を置き、この絶対者との契約が更改されるという形ですべてを一新してしまう「申命記型革命」である。 
この場合、それは、現実の利害関係を一切無視し、歴史を中断して別の秩序に切り替えるという形で行なわれるから、体制の中の何かに絶対性を置いたら行ない得ない。従って革命はイデオロギーを絶対化し、これのみを唯一の基準として社会を転回させるという形でしか行ない得ないわけである。 
体制の内部に絶対性を置けば、それは、天皇を絶対としようと幕府を絶対としようと、新しい秩序の樹立は不可能である。 
体制の内部に絶対性を置きながら新しい秩序を樹立することはできない。しかし、新しい秩序を確立しなければならない。古い秩序の継続と新しい秩序の創造、この矛盾をどう解決するか。そこで明恵の思想・「あるべきようは」が光り輝いて来るのである。 
明恵のユニークさというのは、国家の秩序の基本の把え方にある。明恵は「人体内の秩序」のように、一種、自然的秩序と見ているのである。明恵に本当にこういう発想があったのであろうか。この記述は史料的には相当に問題があると思われるが、以上の発想は、明恵その人の発想と見てよいと思う。というのは、「島へのラブレター」がそれを例証しており、このラブレターの史料的価値は否定できないからである。 
「その後、お変りございませんか。お別れしまして後はよい便(べん)も得られないままに、ご挨拶(あいさつ)もいたさずにおります。いったい島そのものを考えますならば、これは欲界(よくかい)に繋属(けいぞく)する法であり、姿を顕(あらわ)し形を持つという二色(にしき)を具(そな)え、六根(ろっこん)の一つである眼根(げんこん)、六識(ろくしき)の一つである眼識(がんしき)のゆかりがあり、八事倶生(ぐしょう)の姿であります。五感によって認識されるとは智(ち)の働きでありますから悟らない事柄(ことがらが働くとは理すなわち平等であって、一方に片よるということはありません。理すなわち平等であることこそ実相ということで、実相とは宇宙の法理(ほうり)そのものであり、差別の無い理、平等の実体が衆生(しゅじょう)の世界というのと何らの相違はありません。それ故に木や石と同じように感情を持たないからといって一切(いっさい)の生物と区別して考えてはなりません。ましてや国土とは実は「華厳経(けごんきょう)」に説(と)く仏の十身中最も大切な国土身に当っており、毘廬遮那仏(びるしゃなぶつ)のお体の一部であります。六相まったく一つとなって障(さわ)りなき法門を語りますならば、島そのものが国土身で、別相門からいえば衆生身(しゅじょうしん)・業報身(ごうほうしん)・声聞身(しょうもんしん)・菩薩身(ぼさつしん)・如来身(にょらいしん)・法身(ほつしん)・智身(ちしん)・虚空身(こくうしん)であります。島そのものが仏の十身の体(てい)でありますから、十身相互にめぐるが故に、融通無碍(ゆうずうむげ)で帝釈天(たいしゃくてん)にある宝網(ほうもう)一杯(いっぱい)となり、はかり得ないものがありまして、我々の知識の程度を越えております。それ故に「華厳経」の十仏の悟りによって島の理(ことわり)ということを考えますならば、毘廬遮那如来(びるしゃなにょらい)といいましても、すなわち島そのものの外にどうして求められましょう。このように申しますだけでも涙がでて、昔お目にかかりました折からはずいぶんと年月も経過しておりますので、海辺で遊び、島と遊んだことを思い出しては忘れることもできず、ただただ恋い慕(した)っておりながらも、お目にかかる時がないままに過ぎて残念でございます」 
確かに、現代人は明恵の世界を共有することはむずかしい。しかし、明恵が真に「島を人格ある対象」と見ていたことはこれで明らかであろう。同様に日本国そのものも「国土身」という人格ある対象であるから、まずこれに「人格のある対象」として「医者の如く」に対しなければならぬというのが、その政治哲学の基礎となっている。 
これを政治哲学と考えた場合、それは「汎神論的思想に基づく自然的予定調和説」とでも名づくべき哲学であろう。というのは、国家を一人体のように見れば、健康ならそれは自然に調和が予定されており、何もする必要はないからである。前に私は、これを「幕府的政治思想の基本」としてハーバードのアブラハム・ザレツニック教授に説明したとき、「一種の自然法(ナチュラル・ロー)的思想」だと言ったところ、同教授は「法(ロー)であるまい、秩序(オーダー)であろう」と言われたが、確かに「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」への絶対的信頼が基本にある思想といわねばなるまい。これは非常に不思議な思想、「裏返し革命思想」ともいうべき思想である。 
さて、流動的知性というのは、まあいうなれば、一つの考え方にとらわれないで、無意識のうちにもいろんなことがらを勘案しながら、そのときどきのもっとも良い判断をくだすことのできる知性であるといっていいかと思われるが、これはまさに明恵の発想方法・「あるべきようは」そのものではないかと思う。日本では、西洋に比べて、現在なお流動的知性が濃厚に働いていると考えているが、「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」という根源に立ち「国の乱れて穏かならず治り難きは、何の侵す故ぞと、先づ根源を能く知り給ふべし」という明恵の発想方法に今こそ立ち戻らなければならない。 
わが国は、古くは中国、近年は欧米から・・・やむなくいろんな法律をまねしてわが国の法律としてきた。諸外国の法律をまねしたものを「継受法」という。やむなく「継受法」を採用しなければならないのは、もちろん国としての力関係による。幕末・明治(黒船)にも、大化・大宝(白村江)にも、さまざまな外圧が否応なく法と体制の継受を強制したことも否定できない。簡単にいえば、相手と対抗するには相手と同じ水準に急速に国内を整備しなければならず、それは相手の法と体制を継受するのが最も手っとり早い方法だからである。大和朝廷は562年の任那(みまな)の滅亡以来、朝鮮半島で継続的な退勢と不振に悩まされつづけ、さらに隋・唐という大帝国の出現は脅威以外の何ものでもなかった。そしてその結末は、663年の白村江の決定的大敗であった。これらがさまざまに国内に作用するとともに、当時の大和朝廷はすでに、全国的政府としてこれを統治しうる経済的・政治的基盤を確立していたことも、大宝律令を断行し得た理由であろう。大陸の文化を「継受しようという意志」は歴史的にほぼ一貫して持ちつづけられて、701年やっとそれが大宝律令として公布されるのである。そのことが間違っていたのではない。そうではなくて、それが「名存実亡」となったとき、「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」という根源に立ち、どう逆転(裏返し)できるかである。 
天皇は「名」であり武士は「実」である。律令は「名」であり式目は「実」である。「名」を捨てて「実」に従わなければならない。「名」より「実」をとるべきである。それが二元論の常識であろう。「名」より「実」をとるという逆転、裏返しといってもいいが、それが西欧型革命であろう。しかし、明恵の「裏返し革命」は違う。単なる逆転、裏返しではなくて、もういっぺん「否定の否定」をやるのである。「名」ではなくて「実」である。しかし、なおかつ、「実」でなくて「名」である。「名」であると同時に「実」である。「名」でもないし「実」でもない。要は、流動的知性が重要なのである。 
そのような明恵の教えを、実に生まじめに実行した最初の俗人が、泰時なのである。そしてそれは確かに、日本の進路を決定して重要な一分岐点であった。 
もしこのとき、明恵上人でなく、別のだれかに泰時が心服し、「日本はあくまで天皇中心の律令国家として立てなおさねばならぬ」と信じてその通り実行したらどうなったであろう。また、「日本は中国を模範としてその通りにすべきである」という者がいて、泰時がそれを実行したらどうなっていたであろう。日本は李朝下の韓国のような体制になっていたかもしれない。 
完全に新しい成文法を制定する、これは鎌倉幕府にとってはじめての経験なら、日本人にとってもはじめての経験であった。 
律令や明治憲法、また新憲法のような継受法は「ものまね法」であるから、極端にいえば「翻訳・翻案」すればよいわけで、何ら創造性も思考能力も必要とせず、厳密にいえば「完全に新しい」とはいえない。さらに継受法はその法の背後にどのような思想・宗教・伝統・社会構造があるかも問題にしないのである。われわれが新憲法の背後にある宗教思想を問題とせず「憲法絶対」といっているように、「律令」もまた、その法の背後にある中国思想を問題とせずこれを絶対化していた。これは継受法乃至は継受法的体制の宿命であろう。 
思想・宗教・社会構造が違えば、輸入された制度は、その輸出元と全く違った形で機能してしまう。新憲法にもこれがあるが、律令にもこれがあった。 
中国では「天」と「皇帝」の間が無媒介的につながっているのではなく、革命を媒介としてつながっている。絶対なのは最終的には天であって皇帝ではない。ところが日本ではこの二つが奇妙な形で連続している。それをそのままにして中国の影響を圧倒的に受けたということは、日本の歴史にある種の特殊性を形成したであろう。その現われがまさに泰時である。 
いわば「天」が自然的秩序(ナチュラル・オーダー)の象徴ではなく、天皇を日本的自然的秩序の象徴にしてしまったのである。これは「棚あげ」よりも「天あげ」で、九重の雲の上において、一切の「人間的意志と人為的行為」を実質的に禁止してしまった。簡単にいえば「天意は自動的に人心に表われる」という孟子の考え方は「天皇の意志は自動的に人心に表われる」となるから、天皇個人は意志をもってはならないことになる。これはまさに象徴天皇制であって、この泰時的伝統は今もつづいており、それが天皇制の重要な機能であることは、ヘブル大学の日本学者ベン・アミ・シロニイが「天皇陛下の経済学」の中でも指摘している。
日本に革命思想はなかったか 
孟先生がいわれた。 
「暴君の桀王・紂王が天下を失ったのは、人民を失ったからである。人民を失ったとは、人民の心を失ったことを意味する。天下を手に入れるには一っの方法がある。人民を手に入れることであり、そうすればすぐに天下を手に入れることができる。人民を手に入れるには一つの方法がある。人民の心を手に入れることであり、そうすれば人民を手に入れることができる。人民の心を手に入れるには一つの方法がある。人民の希望するものを彼らのために集めてやり、人民のいやがるものをおしつけない、ただそれだけでよろしい。人民の仁徳にひかれるのは、まるで水が低いほうに流れ、獣がひろい原野に走り去るようなものだ。淵に魚を追いたてるのが、獺(かわうそ)である。茂みに雀(すずめ)を追いたてるのが、鳶(とび)である。殷の湯王、周の武王のほうに人民を追いたてたのが、夏の桀王と殷の紂王とである。現在、天下の君主のなかで仁政を好むものがあれば、諸侯はみなその君主のほうに人民を追いたてるにちがいない。いくら天下の王となるまいとしても、不可能であろう。現在の王となろうと希望する者は、七年間の持病をなおすため、三年間かわかした艾(もぐさ)をさがしているようなものだ。もし平常からたくわえておかなかったら、死ぬまで古い艾(もぐさ)を手に入れることはできまい。もしも仁政を心掛けなければ、死ぬまで恥を受けることにびくびくして、ついに死亡してしまうだろう。 
詩経に、 そのふるまいのどこによいところかあろうか  ともどもに溺れ死ぬばかりだ 
とよんでいるのは、このさまをいったのだ」と。 
天皇を民衆とし、民衆を天皇とする(「皇を取て民となし、民を皇となさん」)という崇徳の逆転宣言は、痛烈な天皇制打倒宣言であり、反逆宣言である。
聖書型革命と孟子型革命 
孟子の革命論 
前章で記した「革命」の基本的定義をもう一度要約してみよう。 
それは現体制の外に何らかの絶対者を置き、その絶対者の意志に基づいて現体制を打倒して新体制を樹立する、ということであろう。 孟子にとって絶対者は「天」であり、その「天」の意志は自動的に「民心」に表われるから、その「民心」の動向に基づいて新しい王朝を樹てることが「絶対者の意志」に従うことであった。 
そして以上の「革命」を、西欧の「革命論」の基礎となった「旧約聖書」と対比してみると、両者の違いは明確に出てくる。聖書の場合も、体制の外に絶対者すなわち「神」を置いている。この点まではある意味では両者に変りはない。しかし、前章で記したように聖書には孟子のような「天意=民心論」すなわち、絶対者と民心とが自動的につながっているという思想はない。そういう自動的なものではなく、神と人をつなぐものが「契約(ベリート)」なのである。孟子の革命論と聖書の革命論との決定的な違いは「契約」という考え方の有無にあると言ってよい。 
人類最初の西欧型革命 
この違いがなぜ出てきたかの「発生論的探究」は今回は除き、それは創造神話の時代からの、基本的な違いであると指摘するにとどめよう。これらに関心のある方は拙書「聖書の常識」を参照していただきたい。この点、孟子における「天意」の表われ方はきわめて自動的だが、聖書における「神の意思」の表われ方はまことに「作為的」であって、「神」が契約を更改すれば社会は基本から変わってしまうわけである。 
ではここで欧米人を一人つかまえて次のような質問をしてみよう。「ここにAという国があったとしよう。その国のある階級を代表するBなる者が服従しないので、A国皇帝がその代表の討伐を命ずる勅命を出し、実際に戦端が開かれた。ところがこのBなる者は一挙に首都に進撃し、皇帝一族を追放し、皇帝を退位させて自分の望む者を帝位につけ、討伐を企画した者どもを処刑した上で、自分が擁立した皇帝をも無視し、その形式的な認証も署名もない基本法を勝手に発布し、この法は過去において皇帝が発布した法規とは全く無関係と宣言したら、これは革命と言えるか、言えないか」。今まで私が質問した限りでは、すべての欧米人は「もちろん革命ですよ」と言った。 
承久の乱は日本史最大の事件 
まず注目すべきは、承久の乱という事件が、武士団が朝廷と正面衝突をして勝利を得た最初の戦争だということである。朝廷への個々の小叛乱、否、相当に大きな叛乱もそれまでにあったが、すべては失敗に終わっている。また武士団が勝手に三上皇を配流に処し、仲恭天皇を退位させ、後堀河天皇を擁立したのも、このときがはじめてである。 
天皇に刃向うことは当時は強烈なタブーであり、武士団の中に、強い恐怖と非倫理的悪行という考え方と、伝統否定という心理的抵抗があって当然だった。当時の武士は、事を起すにあたって必ず「院宣」とか「令旨」とかを受け、名目的には天皇家の一員の「命令」によって行動している。この点では頼朝とても例外でなく、彼の行き方は常に何らかの「大義名分」を保持し、院政を利用して幕府を育てあげるという政策をとっている。ところが承久の乱はこれと全く違って、義時追討の「院宣」が下っているのに、これをはねかえして軍を起したのであり、彼には「大義名分」といえるものは全くない。 
さらに「身分」が大きく心理的に作用するこの時代に、頼朝と義時とを比べれば、両者の違いは余りに大きい。頼朝は「源氏の嫡流」「武家の棟領」で、すでに何代にもわたって朝廷と関係をもつ名門である。一方北条氏といえば伊豆の豪族にすぎず、それも、三浦、千葉、小山のように強大な同族的武士団を擁して数郡から一国にわたって勢力を振った大豪族でない。下級かせいぜい中級の豪族、ごく平凡な在地武士、伊豆国の在所官人であった。その伊豆さえもちろん彼の支配下にあったわけでなく、狩野、仁田、宇佐美、伊東等の豪族がいた。 
当時の東国の武士団は、京都に対して強い「文化的劣等感」をもっていた。これが朝廷側の「官打ち」を可能にしたし、「官位」「恩賞」でさそえば、義時を討とうという人間が鎌倉の中から出て来て少しも不思議でない。御家人にとっては彼はあくまでも「同輩」か「下輩」にすぎず、勅を受けてこれを討つことに罪悪感を感じる者がいるはずがない。 
三浦一族の意識では義時は「伊豆の小豪族、自分以下の北条氏」にすぎず、これを、「一天ノ君ノ思召」で討つことに、何ら良心のとがめを感じなくて不思議ではない。後鳥羽上皇が、「成上り」として御家人からさえ反感をもたれている義時などは、諸国に院宣を下せば簡単に討滅できると考えて不思議ではなかった。 
そしてこの予測は、必ずしもあたらなかったわけではない。その証拠に上皇挙兵のとき、多くの鎌倉御家人が京都側に立っている。 
限定的西欧型革命 
「吾妻鏡」には尼将軍政子の訓示として次の言葉がある。「皆、心を一にして奉(うけたまわ)るべし。是れ最後の詞(ことば)也。故右大将軍朝敵を征罰(伐)し、関東を草創してより以降、官位と云ひ、俸禄と云ひ、其の恩既に山岳よりも高く、溟渤(めいぼつ)よりも深し。報謝之志浅からんや。しかるに今、逆臣之讒により、非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族(やから)は、早く秀康・胤義らを討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし。但し院中に参ぜんと欲する者は、只今申し切るべし」と。 
これは有名な<名訓示>だから知っている人も多いであろう。政子が果してこの通りに言ったかどうかはわからないが、これはあくまでも心情に訴える「女性の論理」だから、大筋はこの通りであろう。彼女はまず「恩」をとき、「名を惜しむの族」はこの「恩」を忘れた「裏切り者の御家人」秀廉・胤義を討ち取るべきだと主張する。敵は決して天皇家でなく、幕府への「逆臣」であり、「非義の綸旨」が下ったのは、その「讒」によるのだから、この「逆臣」を討伐するのだという論理である。これは確かに、御家人の感情に訴える点では効力があったであろう。 
しかし、たとえ「非義の綸旨」であろうと、勅命が下った以上、これに抵抗すれば抵抗した者が「逆臣」である。そうならないためには、まず降伏し、それが「逆臣の讒」であることを朝廷へ陳情して撤回してもらうことが「筋を通す道」であろう。この議論を展開するのが泰時である。ところがそれに対して義時は次のように言ったと「明恵上人伝記」にある。 
「尤(もっと)も此の事さる事にてあれども、それは君主の政ただしく、国家治る時の事なり。今此の君の御代と成て、国々乱れ所々安からず、上下万民愁(うれい)を抱かずといふことなし。然るに関東進退の分国ばかり、聊か此の横難に及ばずして、万民安楽のおもひをなせり。若し御一統あらば、禍(わざわい)四海にみち、わずらひ一天に普(あまね)くして安きことなく、人民大に愁(うれう)べし。これ私を存じて随(したがい)申さざるにあらず。天下の人の歎(なげき)にかはりて、たとへば身の冥加(みょうが)つき、命を落とすといふとも、痛む可きにあらず。是れ先蹤なきにあらず、周武王・漢高祖、既に此の義に及ぶ歟(か)。それは猶自ら天下を取りて王位に居(おわ)せり。これは関東若し運を開くといふとも、此の御位を改めて、別の君を以て御位に即(つ)け申すべし。天照大神・正八幡宮も何の御とがめ有べき。君をあやまり奉るべきにあらず、申勧(すす)むる近臣どもの悪行を罰するにてこそあれ」 
これは、義時がこのように言ったと泰時が明恵上人に言っているわけで、この考えが義時のものなのか泰時のものなのか明らかでない。というのは、明恵上人の「義時泰時批判」に対する泰時の弁護だからである。またこの伝記自体がどれだけ史料的価値があるかも問題であろう。泰時と明恵上人との関係は後に記すが、しかしいずれにせよ、ここに記されている論理は孟子の「湯武放伐論」であり、この著者が孟子によって義時・泰時を正当化していることは明らかである。 
「桀紂の天下を失えるは、その民を失えばなり」にはじまる孟子の言葉の「桀紂」を「上皇」にすれば、ここで義時が言っているのはまさに孟子の言葉であり、「是れ先蹤なきにあらず……」なのである。上皇はまさに、人民を幕府の方へ迫いやってしまう。「獺(だつ)なり」「せん(亶に鳥)なり」であり、それによって否応なく民心が集まってきた幕府は「王たることなからんと欲すといえども、得べからざるのみ」になった。ただ義時・泰時の場合は、天皇家を滅ぼしてかわって北条天皇になり、前の体制を浄化するだけで、そのままその体制をつづけていったわけではない。この点では「限定的中国型革命」ともいうべきものだが、この限定は孟子にとっての「天」が彼にとっては「天照大神・正八幡宮」という自己の伝統にあった点にあるであろう。だが「式目」の発布という点から見れば、これは中国の革命思想を越えており、「限定的西欧型革命」とも言えるのである。
北条泰時の論理 
衆の「棄つる所」と「推す所」 
水戸彰考館の前総裁・安積澹泊(あさかたんぱく)は、「大日本史論讃」に次のように記している。 
「兄弟牆(かき)にせめ(門のなかに児)ぎ、骨肉相賊(そこな)うは、蓋(けだ)し人倫の大変なり。保元の事、亦惨ならずや。崇徳上皇の戎(いくさ)を興せるは、固より名義無し。帝、已むを得ずして之に応ずるは、之を猶(ゆる)して可なり。拘(とら)えて之を流せるは己甚(はなは)だしからずや。…此(こ)れ、彝倫(いりん)(人倫)のやぶ(澤のつくりと敗のつくり)るる所なり。藤原信頼を嬖寵(男色の相手として寵愛)して、立ちどころに兵革を招き、平清盛に委任して、反って呑噬(どんぜい)に遭い、源義仲・源義経に逼られて、源頼朝を討つの誥を下すに至りては、則ち朝令夕改、天下、適従(主として従う)するを知るなし、大権、関東に潜移して、其の狙詐の術に堕つを知らず。…摂政兼実、清原頼業の語を記して曰く、「嘗(かつ)てこれを通憲法師に聞く。帝の闇主たる、古今にその比少し…」」と記し、政権が関東に移ったのは、「闇主」後白河帝の失徳が原因としている。 
では、義時・泰時に配流された後鳥羽上皇その人、さらにこれを行なった当事者である泰時には、どのような評価が下されているのであろうか。確かに今までのような例があるとはいえ、これはあくまでも朝廷内のこと、たとえ幕府ができても、それが名目的には朝廷内の一機関ならともかく、「天皇制政府」以外に「幕府制政府」とも言うべきものを樹立し、陪臣でありながら三上皇を配流に付して天皇を退位させ、勝手に法律を発布するなどと言うことは、「皇国史観」の源流とされる水戸学では到底許すべからざることではないのか? 
後白河帝への批判 
安債澹泊(あさかたんぱく)は後鳥羽天皇の即位の異常さに言及する。「人君、位に即くには、必ずその始めを正しくす。その始めを正すは、その終りを正す所以なり。古より、未だ神器なくして極に登るの君あらず。元暦の践祚は、一時の権に出で、万世の法となすべからず。藤原兼実これを当時に議し、藤原冬良これを後に論ず。異邦の人すらなお白板天子(玉璽なき自称天子、白板は告命なき白い板)を議す。国朝、赫々たる神明の裔、豈(あに)、その礼を重んぜざるべけんや。これ祖宗の法を蔑(なみ)して、その始めを正さざるなり…」と。 
この事件は、平宗盛が安徳天皇と神器をもって西に走ったので、後白河法皇が高倉天皇の第四子尊成親王を立てて天皇とし、神器なしで、ただ参議の藤原修範を伊勢に派遣して大神宮に新しく天皇を立てたと報告した事件を言う。これがいわば「白板天皇」の後鳥羽帝で、藤原兼実はこれを「殆為二嘲弄之基一」と記し、冬良は「先帝(安徳)筑紫へ率ておわしければ、こたみ初て三の神宝なくて、めずらしき例に成ぬべし」と記している。これは、当時の人にはショッキングな大事件であったらしく、「源平盛衰記」等でも盛んに論じられている。従って義時・泰時も、口にはしなくても当然にこのことを知っており、その心底のどこかに「後鳥羽上皇は白板天皇にすぎない」という意識はあったであろう。それを可能にしたのは、後白河法皇である。 
さらに、仲恭天皇(九条廃帝)から後堀河天皇への譲位の強制・新帝擁立も、全く前例がなかったことではない、とも言い得たし、白板系を廃して正統にもどしたとも主張し得たであろう。というのは、後堀河天皇の父の後高倉院は後鳥羽天皇の兄だからである。同時に、この「白板天皇」にすぎず、「「殆為二嘲弄之基一」という状態は後鳥羽上皇にも作用して、少々異常な高姿勢を幕府に対してとらせたとも見られる。 
なぜ泰時だけがべタホメか 
さらに泰時は、京都に進撃した総司令官であり、そのうえ朝廷から立法権を奪って勝手に「関東御成敗式目」という法律を発布した。 
こう見てくると、天皇のみ正統でこれが絶対なら、泰時は日本史上最大の叛逆者であり、どのような罵詈讒謗が加えられても不思議でないはずである。 
ところがまことに不思議なことだが、泰時への非難はまさにゼロに等しい。「皇国史観」の源流とされる水戸学でも、当然、泰時への批判は実に峻烈になりそうなものだが、奇妙なことに「ベタホメ」なのである。 
そうした考え方はまさに孟子の革命論―天意=人心論―であろう。「白板天子」後鳥羽上皇への「嘲弄」と、その失徳と失政は、結果として孟子のいう「獺(だつ)(かわうそ)なり、せん(亶に鳥)(とび)なり」となって人民を幕府の方へ追いやってしまったので、幕府は「王たることなからんと欲すといえども、得べからざるのみ」という形になった。それなのに義時は終生「位、四品を踰えず」で自らが王になろうとする野心なく、専ら仁政を施したのは立派で、「天下に功無しと請うべからず」なのである。義時でさえこうであれば泰時が「ベタホメ」になって不思議ではない。 
「貞永式目」は徳川時代にも「標準」であり、広く民間に浸透し、明治五年までは寺子屋の教科書で、明治二十二年の憲法、二十三年の民法公布まで日本人の「民の法」の基本となっていた。だが「貞永式目」という法の公布には、天皇は一切タッチしていない。日本人は長いあいだ幕府の執権が定めた法の下にいたわけで、この時以降を「幕府法の時代」と規定してよいであろう。 
その意味では確かに「ベタホメ」は当然なのだが、これを「人神共に憤る」という後鳥羽上皇の項の批判と対照すると、日本人の政治意識とは全く不思議なものだと思わざるを得ない。というのは天皇からの奪権者への「ベタホメ」は、天皇制の否定のはずだからである。 
だがさらに澹泊(たんぱく)は、承久の乱における泰時の態度には、ただ「弁護のみ」で、次のように記している。「承久の変に、義時を諫争し、言、切なりといえども聴かれず。その、兵を将(ひき)いて王師に抗するや、遂に乗輿を指斥する(仲恭天皇を退位させたこと)に至れるは、その本心に非ず、誠に已むことを得ざればなり。四条帝崩ずるに至りて、則ち籤(くじ)を探りて策を決し、土御門の皇胤を翊戴(よくたい)す。乃心(たいしん)王室(心、王室にあり)、亦従(よ)りて知るべきなり。源親房謂う「承久の事は、その曲、上に在り。泰時は義時の成績を承け、志を治安に励み、毫も私する所無し」と。これ、以て定論となすべし」と。 
日本人の心底にある理想像 
「神皇正統記」の著者の北畠親房・・・・この南朝正統論の「生みの親」こそ、最も徹底した泰時批判論者であって不思議ではない。それがやはり、「後鳥羽上皇がよろしくない」であり、「泰時は立派だ」としている。 
まことに不思議なのだが、その立場からして当然に泰時に徹底的な批判を加えて然るべき人間が、すべて「泰時だけは別」としている。 
一体この不思議はどこから出たのであろう―それを探究するのが本稿の目的の一つである。というのは、その国の歴史において、彼のような位置にありながら「ベタホメ」にされるということは、日本人の心底にある、ある種の「理想像」を彼が具現していたと思われ、その理想像を形成した「思想」と彼の制定した「法律」こそ、以後の基準になっていると思われるからである。 
「将軍なき幕府」の自壊を待つ 
後鳥羽上皇が期待していたのは「幕府の自壊」であった。事実、後鳥羽上皇が泰時に等しい「徳」と「政治力」をもっていたらこれは可能だったかも知れない。というのは幕府の中心たるべき源実朝には子供がなく、その「象徴的中心」は失われようとしていた。義時は政子を京都に派遣し、実朝の後継者として皇族将軍を東下させることを院の当局者と密約していた。いわば義時自身、自分と朝廷との間に立ちうる「仲介的人間」を欲していたわけである。だが実朝が死ぬと院はこの件をうやむやにし、中心を失わせて御家人相互を争わせ、その間に、個々に朝廷側に寝返らせて、北条政権を崩壊させようとした。 
そこで実朝弔問と同時に摂津の国長江・倉橋両荘の地頭改補を幕府に命じた。同荘の領家は、院の寵愛する伊賀局亀菊のものであったが、地頭が亀菊の命に従わなかったというのがその理由である。ところがこれは幕府にとって重要な問題であり、もしこれが前例になれば、地頭への任免権は実質的に朝廷に奪われる。従って、勲功の賞によって与えられた地頭職を罪科なく免ずることはできず、義時は、弟の時房に一千騎をさずけて上洛させ、院に拒否を回答させた。一種の力の誇示による圧力であろう。こうなると半ば決裂状態であり、院による皇族将軍の東下などは期待できない。そこで頼朝の外孫の左大臣九条道家の幼児三寅を将軍に迎えることにした。 
無条件降伏論者の泰時 
後鳥羽院は、北面の武士を中心に、寺社の僧兵や神人をも誘い、さらに承久三年四月に順徳天皇が仲恭天皇に譲位してこれを助けるという体勢をとった。その上で、在京中の御家人を味方に誘い、幕府と親しかった西園寺公経(きんつね)を幽閉し、同年五月十五日、諸国に義時追討の院宣・宣旨が下され、ここに承久の乱は勃発した。いわば仕掛けたのはあくまでも朝廷側である。 
こうなると、鎌倉側も早速に対応策を考えねばならない。しかし泰時はこのときまず「無条件降伏論」を展開したという。 
果して事実か否かはわからない。泰時と明恵上人が非常に親しく、共に尊敬し合う間柄であったことは、両者が交換した和歌が残っているから事実であろうが、「明恵上人伝記」の中に記されていることが、ことごとく事実ではないかも知れぬ。しかし、この泰時の態度は、他の資料と対比して矛盾がないことも事実なのである。彼はあらゆる点で「消極論」であり、もし上皇が討伐軍を東下させるなら、箱根・足柄を防御線としてこれを防ごうと提案している。 
そしてこの点から見れば、泰時の「無条件降伏論」なるものも、後に足利尊氏がとった方策と変らないのではないか、とかんぐることも可能なのである。いわば、これほど恭順の意を表しているのに、なお朝廷が高圧的に出れば、御家人は「明日はわが身か……」と思って逆に団結する。その団結したところで、長途の遠征で疲れた敵を箱根の山岳地帯で迎撃すれば必ず勝つ。勝った上で院宣・宣旨の撤回を求めれば、天皇と戦場で直接的に対決することは避けられる。もしこれが真相なら、泰時は相当な策士ということになるであろう。 
賽は投げられた 
いずれにせよ軍議では、無条件降伏論も迎撃論も斥けられ、出撃論が採択された。しかしこれは必ずしも多数意見でなく大江広元が強く主張し、尼将軍政子がこれに同調したためと思われる。 
政子の名演説の「名を惜しむの族(やから)は、早く秀康・胤義らを討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし」 
評議の結果は泰時・時房を大将軍とし、武蔵の軍勢が集まりしだい出撃ときまり、ついで遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・安房・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野・陸奥・出羽の諸国に飛脚をとばして御家人の参向を求めることになった。これがいわゆる東国だが、当時の幕府の直接的な支配圏はわずかこれだけである。 
この場合は、朝廷の切り崩しが成功するか、幕府側がこれをはねのけて団結するかが勝敗の分れ目であり、その点から見れば、武士団を「戦争へと踏み切らせる」ことが第一のはずである。大江広元はこの点をよく理解していた。彼は義時に向って即時出撃を強く主張し、その結果、泰時は軍勢の到着を待たず、二十二日払暁京都に向って進撃することになった。藤沢を出たとき、従うものは子息時氏以下十八騎にすぎなかったという。まさに「賽(さい)は投げられた」であったろう。 
このようにして泰時は出発した。しかし彼は途中で引返してきて、上皇が自ら出陣したときに取るべき態度を義時にたずねた。これは彼にとっても、武士団にとっても大きな問題であったろう。義時は次のように答えたという。 
「かしこくも問えるおのこかな。その事なり、まさに君の御輿に向いて弓を弓くことはいかがあらん。さばかりの時は、かぶとをぬぎ、弓のつるをきりて、ひとえにかしこまり申して、身を任せたてまつるべし。さはあらで、君は都におわしましながら、軍兵をたまわせば、命をすてて千人が一人になるまで戦うべし」と。 
おそらく、このことを武士団が知ったら士気の低下を招くであろう。というのは「こういう事態になったら無条件で降伏である」という前提で戦争ははじめられるものではない。それを知れば、戦う気力は失せてしまう。さらにこのことが裏切者を通じて敵にもれれば、敵ははじめからそれを作戦として用いるであろう。それを避けるためにこのような方法をとったとすれば、泰時は決して、単純なる「忠誠の人」とはいえず、この点では「尊氏の出家」以上の政治力をもった人間かも知れないのである。 
「承久の乱」の戦後処理 
6月16日、泰時は、六波羅の屋敷に入って占領行政を開始した。泰時が18騎とともに鎌倉を進発してから21日目のことである。さっそく上皇は泰時に勅使を派遣し、この討幕の挙は謀臣の計画で自分の意思でなく、すべては幕府の申請のまま宣下すると申入れた。 
終戦処理の最高方針を決定したのは義時であったが、義時は、実に巧妙なやり方で終戦処理を行なった。詳しくは省略するが、まず後鳥羽上皇に部下を処分させた。まず「上下」を分断してから「上」の処分にかかった。この辺は確かに辛辣きわまりない。彼の意図は、幕府の要求がそのまま通る朝廷へと改組することであった。 
そして、7月9日、新天皇(後堀川)が決るやいなや、三上皇の配流が決った。7月13日のことである。土御門は早く世を去ったが、その後、二上皇の還京運動が起っている。だが泰時は頑としてこれを拒否している。 
なお、幕府は、朝廷側に味方した公家・武士の所領を調査して没収した。3000余ケ所にのぼったとういう。 
しかし、泰時は、厳しいばかりではなかったようだ。大体において処罰の嫌いな人間であったようで、のちに義時の後妻の伊賀氏が、義時の死後、泰時を廃して自分の子政村を執権にしようとした陰謀のときでも、処刑者なし、首謀者三人への幽閉と遠流のみで、他は一切処罰なしで事をおさめている。承久の変で処刑者が少なかったのもおそらく彼の建議で、また彼は、敵方の人間を助けようとさまざまに努力している。 
明恵上人との出会い 
そういう彼であっても、敗残兵の小部隊で所々に蟠踞して盗賊化すれば治安上放置するわけにはいかない。ところが栂尾の山中に多くの軍兵が隠れているという風説があり、そこで安達景盛が山狩りを行ない、どうも意識的に軍兵をかくまっているらしい僧侶を見つけて逮捕し、これを泰時の面前に引きすえた。これが高山寺の明恵(みょうえ)上人であった。泰時は驚いて明恵上人を上座にすえ、この非礼にどうしてよいかわからぬ体であった。上人は静かに口を切ると次のように言った(くわしくは後に全文を引用するが、まずここではその要旨を記しておこう)。 
「高山寺が多くの落人を隠して置いたという風説があるそうだが、いかにもその通りであろう。大体私は、貴賤で人を差別しようという心を起すことさえ、沙門にあるまじきことと考え、そういう心をきざしても、それを打消すことにしている。また人から何かの縁で祈祷を頼まれても、もし祈って助けることができるなら、何よりも先に一切衆生が三途に沈んで苦しむのを助けるべきで、夢のような浮世のしばしの願などを祈ることは、大事の前の小事だから受けつけたことはない。このようにして歳月をすごして来たから、私に祈ってもらったなどという人はこの世にはいないであろう。しかしこの山は、三宝寄進の所で殺生禁断の地である。鷹に追われる鳥も、猟師に追われる獣も、みなここに隠れて助かる。では、敵に追われた軍兵が、かろうじて命を助かり、木や岩の間に隠れているのを、わが身への後の咎を恐れ、情容赦なく追い出し、敵に捕えられ命を奪われても平然としておられようか。私の本師釈迦如来の昔は、鳩に代って全身を鷹の餌とし、また飢えた虎に身を投げたという話もある。それほどの大慈悲には及ばないが、少しばかりのこともしないで、よいであろうか。隠し得るならば、袖の中にも袈裟の下にも隠してやりたいと思う。この後も助けよう。もしこれが政治のために困ると言うなら致し方ない。即座に私の首をはねられたらよかろう」 
泰時は深く感動し、武士の狼籍を詫び、輿を用意して高山寺に送りとどけた。この話はどこまで事実かわからない。しかし明恵上人と泰時との運命的な出会いが、彼が六波羅に居たときのことであったのは事実、また泰時が心の底から尊敬したのは明恵上人であり、同時に、泰時に決定的な感動を与えたのも明恵上人であったであろう。これは二人が交わした歌にも表われている。天皇も上皇も泰時には絶対でなかった。そして絶対だったのは、おそらく明恵上人なのである。
明恵上人の役割 
明恵上人に感動して 
明恵上人と泰時の邂逅は、余りに<劇的>で話がうまく出来すぎているので、これをフィクションとする人もいる。しかし明恵上人が何らかの形で幕府側から尋問されたことは、きわめてあり得る事件である。 
というのは、いずれの時代も無思想的短絡人間の把握の仕方は「二分法」しかない。現代ではそれが保守と革新、進歩と反動、タ力とハト、右傾と左傾、戦争勢力と平和勢力という形になっているが、二分法的把握は承久の変の時代でも同じであった。まして戦闘となれば敵と味方に分けるしかない。その把握を戦闘後まで押し進めれば、朝廷側と幕府側という二分法しかなくなる。そしてそういう把握の仕方をすれば明恵上人は明らかに朝廷側の人間であった。否、少なくともそう見られて当然の社会的地位と経歴をもっていた。その人間に不審な点があれば、三上皇を島流しにし、天皇を強制的に退位させた戦勝に驕る武士たちが、明恵上人を泰時の前に引きすえたとて不思議ではない。さらに彼に、叡山や南都の大寺のような、配慮すべき政治的・武力的背景がないことも、これを容易にしたであろう。 ところがこの明恵上人に感動して泰時がその弟子となった。このことはフィクションではない。 
明恵上人の泰時への影響は実に大きく、明恵の弟子喜海が著わしたといわれる「栂尾明恵上人伝記」によると後の泰時の行動原理はすべて明恵上人から出たもので、彼の時代に天下がよく治まったのも、彼自身が生存中も死後も前述のように「ベタホメ」であるのも、すべて明恵の教えに従ったためだと言うことになる。こうなると「貞永式目」にも明恵上人の思想が深く反映していることになるが、これが果して事実であろうか。 
事実とすれば、どのような思想に基づく「法」が、徳川時代にも安積澹泊(あたかたんぱく)の言うように民の標準であり、明治の民法典論争から民法の制定まで、現実に日本人を規制していたのであろうか。これはわれわれの社会に最も長く存続した法であり、また生活規範であったから、現実には今なおわれわれの「本音の規範」の基となっているがゆえに大きな問題と思われる 
明恵上人が生れたのは承安三年(一一七三年)、親鸞も同じ年に生れているから二人は同年である。いわばこの対蹠的とも言える二人は同じ激動の時代を生きていた。それは宗教的にも政治的にも新しい日本が新しい規範と秩序のもとに生れ変わる「生みの苦しみ」の時代であり、この二人の思想家が共にその後の日本に決定的に影響を与えた。 
栂尾(とがのお)の高山寺の経蔵に伝わるおびただしい数の古典籍は、800年の時間に耐えて来た中世の総合図書館の相貌を今に示している。その中心はいうまでもなく明恵とその弟子たちが形成したものであるが、それらは決して栂尾の地に自然に集積したものではない。一冊、一巻に明恵の遍歴の生涯のあとがしるされ、弟子たちの随従のあとがしのばれる。そうした典籍の森の中に立つと、鎌倉時代の初頭に成立して行った一つの信仰集団の緊張と豊饒がひしひしと伝わって来る。その核といった明恵は、いわば硬質の存在としての仏教者である」・・・・と。事実、その蔵書目録の中の明恵上人による書写と著作の量もまた驚くべきものであり、著書だけで七〇巻に及ぶという。 
政治的変革の誘発者 
「古今著聞集」や「沙石集」にある説話は当時多くの人が知っていた明恵上人の面影であろうが、それらはまことに「この世離れ」のした話であって、世人にこのように映じた人から直接的な政治的影響を受けるなどとは、まず、考えられないからである。 
では一体こういう人が、大きな政治的・社会的影響力を持ち得るのであろうか。それはありそうもないことに思われるが、最も非政治的な人間こそ、大きな政治的変革を誘発し得るのである。 
西欧型革命の祖型は、体制の外に絶対者(神)を置き、この絶対者との契約が更改されるという形ですべてを一新してしまう「申命記型革命」である。 
この場合それは、現実の利害関係を一切無視し、歴史を中断して別の秩序に切り替えるという形で行なわれるから、体制の中の何かに絶対性を置いたら行ない得ない。従って革命はイデオロギーを絶対化し、これのみを唯一の基準として社会を転回させるという形でしか行ない得ないわけである。 
体制の内部に絶対性を置けば、それは、天皇を絶対としようと幕府を絶対としようと、新しい秩序の樹立は不可能である。
明惠の「裏返し革命思想」 
自然的秩序への絶対的信頼 
政権を維持するにはどうしたらよいか 
「国会で多数を維持すればよい」 
「では、多数を維持するにはどうすればよいか」 
「国民の支持を得ればよい」 
では、以上のすべての支持を得るにはどうすればよいか。すべての人がこうあってほしいという期待に答えればよい、それだけになる。ではどうすればそれが可能なのか。 
そこに出てくるのが「明恵上人伝記」の中の、覚智伝承ともいうべき部分である。 
秋田城介入道大蓮房覚知(あきたじょうのすけにゅうどうだいれんぼうかくち)語(かた)りて云(い)はく、 
「泰時(やすとき)朝臣(あそん)常(つね)に人(ひと)に逢(あ)ひて語(かた)り給(たま)ひしは、我(われ)不肖(ふしょう)蒙昧(もうまい)の身(み)たりながら辞(じ)する理(り)なく、政(まつりごと)を務(つかさど)りて天下(てんか)を治(をさ)めたる事(こと)は、一筋(ひとすぢ)に明恵上人(みょうえしょうにん)の御恩(ごおん)なり。其(そ)の故(ゆゑ)は承久大乱(じょうきゅうのたいらん)の已(い)後(ご)在京(さいきょう)の時(とき)、常(つね)に拝謁(はいえつ)す。或時(あるとき)、法談(ほうだん)の次(ついで)に、「如何(いか)なる方便(ほうべん)を以(もつ)てか天下(てんか)を治(をさ)むる術(じゅつ)候(さうら)ふべき」と尋(たづ)ね申(まう)したりしかば、上人(しょうにん)仰(おほ)せられて云(い)はく、「如何(いか)に苦痛(くつう)転倒(てんどう)して、一身(いっしん)穏(おだや)かならず病(や)める病者(びょうじゃ)をも、良医(りょうい)是(これ)を見(み)て、是(こ)れは寒(かん)より発(おこ)りたり、是(こ)れは熱(ねつ)に犯(をか)されたりと、病(やまひ)の発(おこ)りたる根源(こんげん)を知(し)って、薬(くすり)を与(あた)へ灸(きゅう)を加(くは)ふれば、則(すなは)ち冷熱(れいねつ)さり病(やまひ)癒(いゆ)るが如(ごと)く、国(くに)の乱(みだ)れて穏(おだや)かならず治(をさま)り難(がた)きは、何(なん)の侵(をか)す故(ゆゑ)ぞと、先(ま)づ根源(こんげん)を能(よ)く知(し)り給(たま)ふべし。さもなくて打(う)ち向(むか)ふままに賞罰(しょうばつ)を行(おこな)ひ給(たま)はば、弥ゝ(いよいよ)人(ひと)の心(こころ)かたましく(ねじけて)わわく(みだりがましく)にのみ成(な)りて、恥(はぢ)をも知(し)らず、前(まへ)を治(をさ)むれば後(うしろ)より乱(みだ)れ、内(うち)を宥(なだ)むれば外(そと)より恨(うら)む。されば世(よ)の治(をさ)まると云(い)ふ事(こと)なし。是(こ)れ妄医(もうい)の寒熱(かんねつ)を弁(わきま)へずして、一旦(いったん)苦痛(くつう)のある所を灸(きゅう)し、先(ま)づ彼(かれ)が願(ねが)ひに随(したが)ひて、妄(みだ)りに薬(くすり)を与(あた)ふるが如(ごと)し。忠(ちゅう)を尽(つ)くして療(りょう)を加(くは)ふれども、病(やまひ)の発(おこ)りたる根源(こんげん)を知(し)らざるが故(ゆゑ)に、ますます病悩(びょうのう)重(かさな)りていえざるが如(ごと)し。されば世(よ)の乱(みだ)るる根源(こんげん)は、何(なに)より起(おこ)るぞと云(い)へば、只欲(ただよく)を本(もと)とせり、此(こ)の欲心(よくしん)一切(いっさい)に遍(あまねく)して万般(ばんぱん)の禍(わざはひ)と成(な)るなり、是(こ)れ天下(てんか)の大病(たいびょう)に非(あら)ずや。是(こ)を療(りょう)せんと思(おも)ひ給はば、先(ま)づ此(こ)の欲心(よくしん)を失(うしな)ひ給(たま)はば、天下(てんか)自(おのづか)ら令(れい)せずして治(をさま)るべし」と云々(うんぬん)」 
この言葉は、「明恵上人はこのように語った」と泰時が語っているわけで、明恵上人の言葉を聞いたままに記したものではない。その上、さらにそれを大蓮房覚智がだれかに語り、それが覚智伝承となって世に伝わってこの「伝記」に収録されたのだから、泰時の受取り方、さらに覚智の解釈その他が当然に入っているであろう。そのため大変に「通俗的訓話」のようになってはいるが、その基本までもどってみると明恵上人の考え方は、実にユニークだといわねばならない。だが両者の考え方が混淆していると見て、これを一応、明恵―泰時政治思想としておこう。 
ユニークというのは、国家の秩序の基本の把え方で、明恵上人は「人体内の秩序」のように、一種、自然的秩序と見ている点である。明恵上人に本当にこういう発想があったのであろうか。この記述は史料的には相当に問題があると思われるが、以上の発想は、明恵上人その人の発想と見てよいと思う。というのは、「島へのラブレター」がそれを例証しており、このラブレターの史料的価値は否定できないからである。 
「その後、お変りございませんか。お別れしまして後はよい便(べん)も得られないままに、ご挨拶(あいさつ)もいたさずにおります。いったい島そのものを考えますならば、これは欲界(よくかい)に繋属(けいぞく)する法であり、姿を顕(あらわ)し形を持つという二色(にしき)を具(そな)え、六根(ろっこん)の一つである眼根(げんこん)、六識(ろくしき)の一つである眼識(がんしき)のゆかりがあり、八事倶生(ぐしょう)の姿であります。五感によって認識されるとは智(ち)の働きでありますから悟らない事柄(ことがらが働くとは理すなわち平等であって、一方に片よるということはありません。理すなわち平等であることこそ実相ということで、実相とは宇宙の法理(ほうり)そのものであり、差別の無い理、平等の実体が衆生(しゅじょう)の世界というのと何らの相違はありません。それ故に木や石と同じように感情を持たないからといって一切(いっさい)の生物と区別して考えてはなりません。ましてや国土とは実は「華厳経(けごんきょう)」に説(と)く仏の十身中最も大切な国土身に当っており、毘廬遮那仏(びるしゃなぶつ)のお体の一部であります。六相まったく一つとなって障(さわ)りなき法門を語りますならば、島そのものが国土身で、別相門からいえば衆生身(しゅじょうしん)・業報身(ごうほうしん)・声聞身(しょうもんしん)・菩薩身(ぼさつしん)・如来身(にょらいしん)・法身(ほつしん)・智身(ちしん)・虚空身(こくうしん)であります。島そのものが仏の十身の体(てい)でありますから、十身相互にめぐるが故に、融通無碍(ゆうずうむげ)で帝釈天(たいしゃくてん)にある宝網(ほうもう)一杯(いっぱい)となり、はかり得ないものがありまして、我々の知識の程度を越えております。それ故に「華厳経」の十仏の悟りによって島の理(ことわり)ということを考えますならば、毘廬遮那如来(びるしゃなにょらい)といいましても、すなわち島そのものの外にどうして求められましょう。このように申しますだけでも涙がでて、昔お目にかかりました折からはずいぶんと年月も経過しておりますので、海辺で遊び、島と遊んだことを思い出しては忘れることもできず、ただただ恋い慕(した)っておりながらも、お目にかかる時がないままに過ぎて残念でございます」 
確かに現代人は、明恵上人の世界を共有することはむずかしい。しかし明恵上人が、真に「島を人格ある対象」と見ていたことはこれで明らかであろう。同様に日本国そのものも「国土身」という人格ある対象であるから、まずこれに「人格のある対象」として「医者の如く」に対しなければならぬというのが、その政治哲学の基礎となっている。 
これを政治哲学と考えた場合、それは「汎神論的思想に基づく自然的予定調和説」とでも名づくべき哲学であろう。というのは、国家を一人体のように見れば、健康ならそれは自然に調和が予定されており、何もする必要はないからである。前に私は、これを「幕府的政治思想の基本」としてハーバードのアブラハム・ザレツニック教授に説明したとき、「一種の自然法(ナチュラル・ロー)的思想」だと言ったところ、同教授は「法(ロー)であるまい、秩序(オーダー)であろう」と言われたが、確かに「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」への絶対的信頼が基本にある思想といわねばなるまい。これは非常に不思議な思想、「裏返し革命思想」ともいうべき思想である。 
なぜこれが「裏返し革命思想」といえるのか 
固有法と継受法 
革命は「西欧型革命」と「中国型革命」に大別できるが、義時、泰時の行動は現象的にはむしろ「限定的西欧型革命」というべきだ。 
天皇から権力を奪取してこれを虚位に置き、「貞永式目」などという法律を武蔵守にすぎない泰時が天皇の裁可も経ずに一方的に公布・施行してしまうなどという革命は、中国型革命にはない行き方だからである。では西欧型革命なのであろうか。現象的・限定的にはそう見えるが、決してそうは言えないのは「明恵―泰時政治思想」が、西欧型革命の基本とは全く違うからである。 
西欧型革命の基本型ともいうべきヨシヤ王の申命記革命について言えば、それはいわば神殿から出てきた「神との契約書」の通りに社会を基本から変えていこうという革命である。この行き方は、その契約書に記されている「言葉(デバリーム)」が絶対なのであり、現に存在する「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」が絶対なのではない。「申命記」はへブライ語聖書の書名では「言葉(デバリーム)」であるが、「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」はこの「言葉(デバリーム)」で示されている通りに再構成すべき対象で、この「言葉」の方が絶対で、現存する秩序は絶対ではないのである。この基本的な考え方の違いは今も欧米と日本との間にある。 
では「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」を絶対化し、「言葉」によって構成された世界を逆に否定するという明恵の「裏返し革命」が、どうして「限定的西欧型革命」のような形になったのであろうか。 
幕末の国学系の歴史家伊達千広は、その署「大勢三転考」において、日本の歴史を三期に区分し、「骨(かばね)の代」「職(つかさ)の代」「名の代」とした。面白いことに彼もまた明恵上人と同じように紀州の出身であり、明治の政治家陸奥宗光の実父である。 
この区分は、政権の交替でなく、政治形態という客観的な制度の変革による本格的な歴史区分であり、それをそのまま歴史的事実として承認しているからである。この見方は、天皇親政を日本のあり方と規定し、幕府制を歴史の誤りとする皇国史観的見方とは基本的に相容れない。 
彼の三大区分のそれぞれを簡単に記せば「骨(かばね)の代」とは、古代の日本の固有法文化に基づくもので、その基本は、国造・県主・君・臣のように居地と職務が結合した血族集団を基礎とする体制で、これを身体にたとえれば氏(うじ)が血脈で骨(かばね)は骨に相当し、その職務は、血縁的系譜の相承で子孫に受けつがれる。この「骨(かばね)」は天武天皇13年(684年)に廃され「職(つかさ)の代」となる。いわば朝廷から「官職」を与えられてはじめて地位と権限とが生ずる時代である。この684年とは、年代記的に記せば、681年に律令(浄御原令)がつくりはじめられ、682年に礼儀・言語の制が定められ、683年に諸国の境界がきめられ、684年に諸氏の族姓を改めて八色の姓とされ、685年に親王・諸王十二階・諸臣四十八階が定められている。これらの制度の変革が彼のいう「職(つかさ)の代」のはじまりであろう。そして第三の「名の代」は文治元年(1185年)、源頼朝が六十余州総追捕使に任ぜられた以後の時代で、「名」とは封建制下の大名・小名の時代である。 
無理があった律令制度 
「継受法」、この言葉は今更説明の必要はないと思うが「広辞苑」では「他国の法律を自国の国民性・民族性に照らして継受した法律」とされ、「固有法」に対立する概念とされている。そして「社会のあるところに必ず法あり」ならば、中国の法を継受する以前にも何らかの法が日本にあったであろう。それが「骨(かばね)の代」の法だ。 
大陸の文化を「継受しようという意志」はほぼ一貫して持ちつづけられて、701年やっとそれが大宝律令として公布される。 
幕末・明治(黒船)にも、大化・大宝(白村江)にも、さまざまな外圧が否応なく法と体制の継受を強制したことも否定できない。簡単にいえば、相手と対抗するには相手と同じ水準に急速に国内を整備しなければならず、それは相手の法と体制を継受するのが最も手っとり早い方法だからである。大和朝廷は562年の任那(みまな)の滅亡以来、朝鮮半島で継続的な退勢と不振に悩まされつづけ、さらに隋・唐という大帝国の出現は脅威以外の何ものでもなかった。そしてその結末は、663年の白村江の決定的大敗であった。これらがさまざまに国内に作用するとともに、当時の大和朝廷はすでに、全国的政府としてこれを統治しうる経済的・政治的基盤を確立していたことも、大宝律令を断行し得た理由であろう。 
だが大化の改新は、その基本である「公地公民制」があってはじめて機能するわけであり、これが崩壊すれば中央の機能はたちまち麻痺してしまう。そしてこの制度ではまず、唐を下敷にしてペイパープランがつくられ、そのプランの方へ当時の「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」を押しこんで行くという形にならざるを得ない。これは相当に無理なことであり、これを強行しようとすれば否応なく神権的な啓蒙的絶対君主が必要となり、同時にこの体制が、決して唐の模倣でなくわが国本来の体制であるとしなければならない。いわば、外国を絶対化し、その法と体制を継受しているのに、「王政復古」で日本本来の姿に戻ったのだとしなければならないのである。大化元年の詔に「当(まさ)に上古聖王の跡に遵(したが)いて天の下を治め、復当に信あって天の下を治む可し」とあり、この行き方もまた明治と変りはない。またそれを遂行した天皇が「天智・天武」等神権的名称で呼ばれることも、明治が生み出した「現人神天皇制」と共通している。 
これは厳密の意味では、西欧型革命でも中国型革命でもない。ただ、ペイパープランの「言葉」の方へ「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」を押し込んでいくという現象は似ている。しかし西欧型革命は、いかに新しい理論を基にしていようと、その理論がその社会から生れたものなら、その社会の現実に根をもっているが、外国に出来ている伝統的体制をほぼそのままに輸入して強行することは、その社会の「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」に基礎を置いているとはいいがたいから無理がくる。もちろん、法が輸入されるときは、体制も宗教も文化も共に輸入されてその社会に作用し、その社会の文化的転換を引き起す。だがそのような転換によって引き起された新しい文化は、その体制と法とが予期したものではない。律令は武家という「新しい階級(ニュー・クラス)」とそれを基にした「武家文化」などというものが出てくることを全然予想していなかった。 
新しい階級が出て、新しい秩序が要請されるなら、律令を改定すればよさそうなものだが、継受法はそれができないのが普通である。理由はまずはじめから無理があるから、絶対的権威をもって強制的に施行し、そのため「現人神の法」とされるか、または「法自体」を「物神化」してこれを絶対としなければならないからである。そのため律令も急速に「名存実亡」化していく、いわば社会に「名法」と「実法」ができてしまって、人びとは通常は「実法」に従っている。そしてそれをだれもあやしまなくなる。これは「物神化」している新憲法にもある現象である。たとえば「平和憲法を絶対に守れ」といっている私大の学長に、では八十九条を字義通りに遵守し、それに定められた通り実施してよろしいかといえば、簡単に「よろしい」とは言えないであろう。 
条文は次の通りである。「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」。これによれば公金は、公の支配に属さない教育事業に支出してはならず、従って私立大学にも支出してはならないはずだが、そういえばおそらく、「それは別である」とさまざまな「理論」を述べうるであろう。それは結局この条項の一部がすでに「名存実亡」しているのであって、この「名法」とは違う「実法」が当然のこととして社会で行なわれているということである。人はそれを不思議としない。が、そのため憲法を改正しようとはいわない。ただこの場合、少々こまるのは、もし「私大をつぶしてやれ」という政治家が出てきて、この条項を盾に、「私大への国家補助は憲法違反だ」といって打ち切れば、「憲法を絶対に守れ」と主張している者はこれに対抗できないという問題を生ずる。そしてすべての法が「名存実亡」となれば、支配者はすべての点で、自己に都合のよいように名法・実法の使いわけができて、これは「無法よりこまる」という状態になってしまう。 
名存実亡化する継受法 
律令には同じことがあり、さらに公地公民制は、裏返せば、すべてに利権が附属する利権制国家になりうる。事実、律令制はそうなって行った。というのはこの制度が本当にその通りに実施されれば、口分田を如何に勤勉に耕したとて、それによって得た富で隣地を買って財産をふやすことはできない。しかし官職につけば必ず利権はついてまわり、またさまざまな不正を行ないうる。(名存実亡:表向き言っている事と実体とが合わないこと) 
律令制は一面では利権制であり、同時にそれが公地公民制の崩壊へとつながった。 
公地公民制は原則的には土地の売買は認めておらず、またこれは寄進することもできないはずである。ところがこれが行なわれておりそこで天平18年(746年)これを改めて禁じ、5月に再び禁じた。しかし現実には、つまり「実法」としては行なわれており、甚だしい例には、私有の墾田を公地として官に売り渡している例もある。そして天平勝宝元年(749年)には諸大寺の墾田を制限し寺院に土地を寄進することを禁じているが、それも守られていない。 
自己の伝統的な「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」を無視した継受法には、いかに神権的権威でこれを施行しても「名存実亡」となり、同時にその間隙を縫って利権が発生し、いかんともしがたい様相を呈する。 
その原因は日本的自然秩序を無視した律令という継受法の「名存実亡」にある。そこで、まず「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」という根源に立ち「国の乱れて穏かならず治り難きは、何の侵す故ぞと、先づ根源を能く知り給ふべし」という発想になる。この明恵―泰時的政治思想の背後にはこのような歴史的体験があり、それがさらに生々しく、承久の乱の前夜に再現したわけである。
「貞永式目」の根本思想 
自然的秩序絶対の思想 
私は時々、いま日本人が「泰時のような状態」に置かれたらどうするであろうかと空想する。 
いまもし新憲法も消え、それに基づく政治制度も消え、西欧型民主主義も消えてしまって、「全く新しい思想を自ら考え出し、それに基づく法哲学を創出し、それによって今までの人類にない新しい法律と制度を作り出して制定し、実施しよう」ということになったら、人びとは一体どうするであろうか。 
人間が、何か新しい発想で新しいことをはじめようと思っても、過去を全く無視することはできない。 
その発想を体系化しかつ具体化するための「思想的素材」は過去と同時代に求めざるを得ない。しかしこのことは、他国の法と体制をそのまま継受することとは全く別である。継受は決して新しい発想を自己の中に創出したのでなく、自己と無関係のあるものを見て、それに自己を適応させようとしただけである。この点、明恵―泰時政治思想は前者であり、まず「自然的秩序絶対(ナチュラル・オーダー)」という思想を自ら創出し、それを具体化するための素材を同時代と過去に求めたにすぎない。 
まず「今ある秩序」を「あるがままに認める」なら、朝も幕も公家も武家も律令も、そしてやがて自らが作り出す「式目」の基になる体制も、あるがままにあって一向に差しつかえないわけである。朝幕併存は「おかしい」と日本人が思い出すのは徳川期になって朱子の正統論が浸透しはじめてからであり、それまでは、それが日本の自然的秩序ならそれでよいとしたわけである。これが大体、明恵―泰時政治思想の基本であろう。だがその基本を具体化し、現実をそれで秩序づけるとなれば、この基本を具体化する素材が必要である。そしてその基本的素材は中国の思想に求められた。だが、中国思想に求めたのはあくまでも素材である点が、律令とは決定的に違う。同時に、それが本質であって素材でない中国とも違ってくる。これはもしも今、泰時のような状態に置かれたら、その基本的発想は自ら創出しても、それを具体化する素材は西欧の政治思想に求めるであろうというのと同じである。このことは今の段階では、政治家よりむしろ経営者の行き方にあるが―。 
宗教法的体制は生まず 
前章で記したように、明恵上人は泰時に、この自然的秩序に即応する体制を樹立するには「先づ此の欲心を失ひ給はば、天下自ら令せずして治るべし」であるといい、その背後には、「政治は利権である」が当然とされていた律令制の苦い歴史的体験があるであろうとのべた。この体験も一つの素材であるが、つづく明恵上人の言葉には明らかに、孔子・老子・荘子・孟子等の考え方が入っている。 
たとえば「孟子」は「心を養うには寡欲が最良の方法である。その人となりが寡欲であれば、たとえ仁義の心を失っても、失った所は少なくてすむ。その人となりが多欲であれば、仁義の心があるとしてもきわめてわずかである」と説き、また老子は「無欲にして静ならば、天下将(まさ)に自ら定まらん」といい。荘子も「聖人の静なるや、静は善なりと曰うが故の静なるに非ず。万物の以て心を撓(みだ)すに足るもの無きが故に静なり。……それ虚静恬淡、寂莫無為、天下の平(和)なるにして道徳の至(きわみ)なり」としている。この考え方の背後にあるものは、「自然法則は道徳法則である」という発想だから、それは先験的なものであり、「無欲」な自然状態になれば、この先験的道徳法則が発見できるという考え方であろう。後にこれを体系的な哲学にするのは朱子であろうが、明恵上人の考え方はもちろん朱子学的ではなく、むしろ、それへ至る思想の日本的・仏教的解釈と見るべきであろう。 
また明恵上人は春日大明神をも信仰しており、この点では最も正統的な三教合一論者であったといえる。そして喜海の記すところでは、大乗・小乗はもとより外道の説も孔老の教えもすべて如来の定恵(じょうえ)から発したものだと固く信じていたらしい。 
しかし、この考え方が政治的に機能するときは、何らかの宗教を絶対化した「宗教法的体制」にはならない、そのことが、まさに泰時の政治思想さらに幕府の政治思想の基本となっている。従って泰時が明恵上人の影響を強く受けたことは日本が「仏教体制」になったということではないし、華厳教学をもって日本の「統治神学」となし、他はことごとく排斥するということでもない。 
朝廷の清原家を別にすれば、儒教を研究し講義するのもまた僧侶であった。 
儒者が公的な位置になったのは徳川時代からであり、有名な林羅山も身分では僧侶で法印であり、その子春斎も法眼であった。 
明恵上人が儒教の教えをとき、「貞永式目」に儒教についての規定がなくても、当時の常識では別に不思議ではない。 
人間は自然の一存在 
従って新しい秩序のための材料として儒教的発言が明恵上人の口から出て別に不思議ではない。 
「民を視ること傷めるが如し(傷病者を見るように)」は文王への孟子の評、また前述のように「無欲にして静ならば、天下将(まさ)に自ら定まらん」は「老子」、また「聖人の静なるや、静は善なりと曰(のたま)うが故の静なるに非ず。万物の以て心を撓(みだ)すに足るもの無きが故に静なり」は「荘子」の言葉である。また孟子も寡欲が仁と義の前提であるとしている。これは、人間を自然の中の一存在ととらえて、自然の秩序が同時に個人の道徳律の基本であり、それがまた社会の秩序の基本であるとする中国の基本的思想から出た考え方である。しかし人間は知覚作用があるから、これが経験的世界に反応する。それが「情」であり、心が外物に触れて動くと情が働いて「欲」が生ずる。この「欲望」に動かされると、人間は自然の秩序を基本とする道徳律からはずれる。そこで心が外物に動かされず、欲を起さなければその行為はおのずから道徳律にかない、それが自然的な秩序を形成するという考え方である。そしてこの状態になれば、人間の徳によって宇宙の秩序と一体化し、それによって社会は整々と何の乱れもなく調和して機能する。この状態が「子曰く、政を為すに徳を以てすれば、譬えば北辰のその所に居て、衆星のこれを共(めぐ)るが如し」という「論語」の言葉にもなる。 
明恵の「あるべきようは」 
では人は「無欲で無為」であればよいのか。さらに全員が無欲になって隠遁してしまえばよいのか。面白いことに明恵上人は決して無為を説かなかった。 
「或時上人語りて曰はく、「我に一つの明言あり、我は後生資(たすか)らんとは申さず、只現世に有るべき様にて有らんと申すなり。聖教(しょうぎょう)の中にも行すべき様に行じ、振舞ふべき様に振舞へとこそ説き置かれたれ。現世にはとてもかくてもあれ、後生計(はか)り資(たす)かれと説かれたる聖教は無きなり。仏も戒を破って我を見て、何の益かあると説き給へり。仍(よっ)て阿留辺幾夜宇和(あるべきやうは)と云ふ七字を持(たも)つべし。是を持(たも)つを善とす。人のわろきは態(わざ)とわろきなり。過(あやま)ちはわろきに非ず。悪事をなす者も善をなすとは思はざれども、あるべき様にそむきてまげて是をなす。此の七字を心にかけて持(たも)たば、敢(あ)えて悪しき事有(あ)るべからず」と云々」と。 
また「遺訓抄出」には「又云、我は後世たすからむと云者にあらず。たゞ現世先づあるべきやうにてあらんと云者也。云々」とあり、この言葉は座右の銘のように絶えず口にしたらしい。この考え方は浄土教の信者とは方向が全く違う。 
元来この言葉は、僧に対して、それぞれの素質に応じた行(ぎょう)をして解脱を求めるように、その行を「あるべきように」行なえといった意味ではなかったかと思われるが、後に、一般人すべてに共通する規範として受取られるようになった。高山寺所蔵の「伝記」の断簡に「人は阿留(ある)へきやうはといふ七文字を可持(もつべき)也、帝王は帝王の可有様(あるべきよう)、臣下は臣下のあるへきやう、僧は僧のあるへきやう、俗は俗のあるへきやう、女は女のあるへきやうなり。このあるへきやうそむくゆへに一切あしき也」と記されているのは、このように受取られた証拠であろう。もっとも、これは室町時代のものといわれる。 
「あるべきようは」を具体化すれば、細かいことまで「こうあるべきだ」と定めた一種の律法主義になる。事実、明恵上人にはそういった律義な一面があり「聖教の上に数珠・手袋等の物、之をおくべからず。文机の下に聖教、之をおくべからず。口を以て筆をねふるべからず。壇巾と仏具中と簡別せしむべし……」と言ったような、学問所と持仏堂における細かい規則が定められている。これは当然で、「あるべきようは」はまずそれを示さなければならない。それをしないで、いきなり叱るとか罰するとかいうことは、それこそ「師」の「あるべきようは」に背くであろう。だがそれはいわゆる律法主義であってはならず、心のじっぽう(実法)というものが常に意識されなければならない。 
すなわち「ただ心のじつぽう(実法)に実あるふるまひは、をのずから戒法に付合すべき也」で内的規範がそのまま外的規範であるようになるのが「あるべきようは」であって、「心の実法に実ある」振舞いが、ごく自然的な秩序となって、この戒法に一致するように心掛けよ、である。従ってこれは見方を変えれば「あるべきよう」にしていれば、自然にこうなるということ、それも決して固定的でなく、「時に臨みて、あるべきように」あればよいのである。そして面白いことに泰時にとっては「法」も、こういったものなのである。 
律令格式を無視して 
貞永元年(一二三二年)、「式目」の発布と同時に彼は次のような手紙を六波羅探題の弟の重時に送っている。 
御式目事 
雑務御成敗(訴訟)のあいだ、おなじ躰(てい)なる事(同趣旨の訴訟)をも、強きは申とをし、弱きはうづもるゝやうに候を、ずいぶんに精好(せいごう)(念入りに)せられ候へども、おのづから人にしたがうて(当事者の強弱上下で)軽重などの出来(いでき)候ざらんために、かねて式条をつくられ候。その状一通まいらせ候。かやうの事には、むねと(専ら)法令の文(律令格式に基づく公家法)につきて、その沙汰あるべきにて候に、ゐ中(いなか)にはその道をうかゞい知りたるもの、千人万人が中にひとりだにもありがたく候。まさしく犯しつれば、たちまちに罪に沈む(処罰される)べき盗人(ぬすみ)・夜討躰(てい)のことをだにも、たくみ企(くわだ)てゝ、身をそこなう輩(ともがら)おほくのみこそ候へ。まして子細を知らぬ(罪の意識のない)ものゝ沙汰(さた)しおきて候らんことを、時にのぞみて(裁判になって)法令にひきいれてかんがへ候はゞ、鹿穴(落し穴)ほりたる山に入りて、知らずしておちいらんがごとくに候はんか。この故にや候けん、大将殿(頼朝)の御時、法令をもとめて(律令格式の条文に基づいて)御成敗など候はず。代々将軍の御時も又その儀なく候へば、いまもかの御例をまねばれ候なり。詮ずるところ、従者主に忠をいたし、子親に孝(けう)あり、妻は夫にしたがはゞ、人の心の曲(まが)れるをば棄て、直(なお)しきをば賞して、おのづから土民安堵の計り事にてや候とてかやうに沙汰(制定)候を、京辺には定(さだ)めて物をも知らぬ夷戎(えびす)どもが書きあつめたることよなと、、わらはるゝ方(かた)も候はんずらんと、憚(はゞか)り覚え候へば、傍痛(かたはらいた)き(心ならずも)次第にて侯へども、かねて(予め)定められ候はねば、人にしたがふことの出来(いでき)ぬべく候故に、かく沙汰候也。関東御家人・守護所・地頭にはあまねく披露(ひろう)して、この意(こころ)を得させられ候べし。且(かつ)は書き写して、守護所・地頭には面々(めんめん)にくばりて、その国中の地頭・御家一人ともに、仰せ含められ候べく候。これにもれたる事候はゞ、追うて記し加へらるべき(追加法を公布する)にて候。 
あなかしく。 
貞永元八月八日武蔵守(御判) 
駿河守殿 
これを読むとまことに面白い。まず律令制は形式主義なので、裁判に際しては必ず「法令にひきいれて」すなわち律令格式の条文を引用して、これに基づくべきことになっているが、その法令なるものは「ゐ中(いなか)(田舎)」で知っているものは皆無に等しい。さらにこの「法」が「名存実亡」ともなると、「名法」は知らずに当然のこととして「実法」通りにやっていたのに、ひとたび裁判ともなると、それが「罪」であるとされてしまう。これではまるで「鹿穴(落し穴)」を掘っている山の中にそれと知らずに入っていって落ち込むのと同じことになってしまう。 
そして頼朝以来、律令格式を一切無視して裁判をしてきた。しかし頼朝のような「権威」がいなくなると、どんなに裁判に念を入れても「人にしたがうて」すなわち当事者の強弱高下によって不公平になりやすい。そこで、公平を期するために、予めこれを定めたという。というとこれは明恵上人の「戒法」にあたるであろう。 
世界史上の奇妙な事件 
だがこの「戒法」というものは「心の実法に実あるふるまい」をしていれば、自然にそれが、「戒法」になるような「法」であらねばならない。それは、結局、自然的秩序(ナチュラル・オーダー)をそのままに「戒法」としたということになる。いわば、内心の規範(道徳律)と社会の秩序と自然の秩序が一体化するような形であらねばならぬということ。それが「詮ずるところ、従者主に忠をいたし、子親に孝あり、妻は夫にしたがはゞ、人の心の曲れるをば棄て、直(なお)しきをば賞して、おのづから土民安堵」となる、いわば「あるべきようは」が達成されるということであろう。泰時にとっては「立法の趣旨」とはつまりそれだけであった。 
この手紙の署名は「武蔵守」であり、「式目」の末尾の「起請詞」における署名は「武蔵守平朝臣泰時」なのである。今でいえば大体「武蔵県知事」にあたるが、当時の「武蔵」の地位はもちろん東京都より低い。たとえこれが「東京都」と同格であったとしても、「知事」が勝手に法をつくって公布するというのは、正統論から見れば、あるまじき行為である。いまもし東京都知事が勝手に憲法を発布して、その末尾に「東京都知事」と署名していたら、だれでも「そんなバカなことが通用するか」と言うであろう。もちろん当時は、庶民はそんなことはいうまい。だが「法」を一手に握っていた公家がこれを黙って見すごすはずはない。するとその非難の矢面に立つのは六波羅探題の弟の重時である。そこで泰時は、前便の約一ヵ月後に、次のような手紙をおくっている。 
御成敗候べき条々の事注され候状を、目録となづくべきにて候を、さすがに政(まつりごと)の躰をも注(ちゅうし)載(のせ)られ候ゆへに、執筆の人々さかしく(賢明にも)式条と申(もうす)字をつけあて候間、その名をことごとしき(大げさ)やうに覚(おぼえ)候によりて式目とかきかへて候也。其旨を御存知あるべく候歟(か)。 
さてこの式目をつくられ候事は、なにを本説(立法上の典拠)として被注載之由(ちゅうしのせらるるのよし)、人さだめて謗難(ぼうなん)(非難)を加事候歟(か)。ま事(こと)にさせる本文(=本説)にすがりたる事候はねども、たゞ道理のおすところを被記(しるされ)候者也。かやうに兼日に定め候はずして、或はことの理非をつぎ(ないがしろ)にして其人のつよきよはきにより、或は、御裁許ふりたる事をわすらかしておこしたて候(判決ずみの件を知らぬ顔で再び裁判に持ち出すようなことをする)。かくのごとく候ゆへに、かねて御成敗の躰を定めて、人の高下を不論(ろんぜず)、偏頗(へんぱ)なく裁定せられ候はんために、子細記録しをかれ候者也。この状(式目)は法令のおしへ(律令格式)に違するところなど少々候へども、たとえば律令格式はまな(真名=漢字)をしりて候物のために、やがて(すなわち)漢字を見候がことし。かなばかりをしれる物のためには、まなにむかひ候時は人は目をしいたる(盲目になる)がごとくにて候へば、この式目は只(ただ)かなをしれる物の世間におほく候ごとく、あまねく人に心えやすからせんために、武家の人への計らひのためばかりに候。これによりて京都の御沙汰、律令のおきて聊(いささか)も改まるべきにあらず候也。凡(およそ)法令のおしへ(律令格式)めでたく(立派)候なれども、武家のならひ、民間の法、それをうかゞひしりたる物は百千が中に一両もありがたく候歟。仍(さて)諸人しらず候処に、俄(にはか)に法意をもて理非を勘(かんがえ)候時に、法令の宮人(朝廷の法曹官僚)心にまかせて(恣意的に)軽重の文(条文)どもを、ひきかむがへ候なる間、其勘録(判決)一同ならず候故に、人皆迷惑と云云(うんぬん)、これによりて文盲の輩もかねて思惟し、御成敗も変々ならず候はんために、この式目を注置(ちゅうしおか)れ候者也。京都人々の中に謗難を加(くわうる)事候はゞ、此趣を御心得候て御問答あるべく候。恐々謹言。 
貞永元九月十一日武蔵守在― 
駿河守殿 
法の形をとらぬ実法 
まことに面白い手紙である。彼は「式目」を「目録」と名づけようとした。では当時の「目録」という言葉に「法令集」という意味があったのであろうか。実は、ない。「所領目録」「文書目録」等、「目録」の意味と用法は現在とは変らない。従って泰時にとっては「式目」とは「法規目録」とでも言うべきものであった。ではこの「法規目録」はいかなる法理上の典拠に基づいて制定されたのか。そう問われ、またそれが明らかでないと非難されても、そのような法理上の典拠はないと彼はいう。このように明言した立法者はおそらく、人類史上、彼だけであろう。そして言う「たゞ道理のおすところを被記(しるされ)候者也」と。一体この「道理」とは何であろうか。泰時はそれについて何も記していないが、簡単にいえば「あるべきようは」であろう。前の手紙と対比しつつ、今まで記した明恵―泰時的政治思想を探って行けば、それ以外には考えられまい。いわばこれが立法上の典拠なのである。 
彼は律令格式がきわめて体系的で立派なことは認めている。しかしそれは「漢字」で書かれているようなもので「かな」しかわからない一般人にはわからないという。そこでこの「式目」は、「かな」しか知らない多くの人を「心えやすからせんため」に制定したものであるという。もちろんこれは比喩であって「式目」もまた実際には「漢文」で書かれている。しかし律令格式を知る者は、「千人万人が中にひとりだにもありがたく」また「百千が中に一両もありがたく」という状態は、この法律を知る者が皆無に等しかったことを示している。これは事実であろう。問題はこの語の前の「武家のならひ、民間の法」という言葉である。これは確かに、律令格式とは別の「武家法と民間の慣習法」があるという意味ではなく、「武家・庶民を問わずそれを知らないのが一般的である」という意味であろう。ではその武家・庶民が完全に「無法」かというと決してそうではなく、一種の「法の形式をとらぬ実法」があり、社会は律令格式によらずそれによって秩序を保って来たことは否定できない。その意味では「武家法と民間の慣習法」の存在を言外に主張していると見てよいであろう。 
簡単にいえばそれが自然的秩序(ナチュラル・オーダー)であり、そのため逆に律令が浸透しなかったともいえる。そして人びとは、不十分ながらその秩序の中に生きており、それを当然としているのに何かあって法廷に出れば「俄に法意をもて理非を勘(かんがえ)」となり、「人皆迷惑と云云」という状態になる。そして泰時が、この状態に終止符をうとうということである。だが泰時は決して、「式目絶対、今日から「関東御成敗式目」が日本国における唯一絶対の法である」と宣言したわけではない。彼はあくまでもその時点において「あるものはある」とする態度を持している。いわば出来あがった自然的秩序をそのまま肯定しているわけで、朝幕がそのまま併存してよいように、「律令・式目」もまた併存していて一向にかまわなかった。彼は「式目」への謗難を礼儀正しく拒否したが、といって「律令」に謗難を加えようとはしなかった。だが律令は結局、「天皇家とその周辺」の「家法」のようになっていき、「武家国内の教会法のヴァチカン」のように、やがて、そこだけが特別法の一区画になって行くのである。 
明恵と鈴木正三をつなぐもの 
「明恵上人伝記」は明治に消されてしまった本だが、それまではおそらく最も広く読まれた本の一つである。もっとも版に起されたのは徳川初期(寛文五年・一六六五年)だが、それまでも筆写によって三百五、六十年、読みつがれてきた。 
「あるべきようは」はむしろ僧侶への訓戒であろうが、これが「人は阿留(ある)へきやうはといふ七文字を可持(もつべき)也、帝王は帝王の可有様(あるべきよう)、臣下は臣のあるへきやう……このあるへきやうにそむくゆへに一切あしき也」と理解されるとこれは世俗の一般倫理になる。さらにこれに「我に一つの明言あり、我は後生資(たすか)らんとは申さず、只現に有るべき様にて有らんと申すなり」が加わると、一般人はこれを「後生を願ってひたすら念仏を唱えていても無意味で、そんなことをするよりもこの世の任務をあるべきように果せばそれでよい」という考え方になる。これは世俗の任務を一心不乱に行なえば宗教的救済に通ずるという意味になってくる。この考え方は前に「勤勉の哲学」で記した鈴木正三の「四民日用」の考え方の祖型ということができる。事実ある坊さんは私に「鈴木正三は禅宗というけれど、むしろ明恵上人の系統をひくと考えた方がよいのではないのか」といわれたが、確かに両者の思想には関連があると思われる。しかしそのことを正三の著作から実証することはむずかしい。 
だがこのほかにも両者相対応している考え方は多い。たとえば大乗・小乗はいうまでもなく外道の説も孔老の教えもすべて如来の定恵より発したもの、という考え方は正三の「口ニテ云処ハ、老子ノ教モ、孔子ノ教モ、昔シ天竺ニ発興セシ外道ノ教エモ、仏道モ、一ツ也、少シモ替事ナシ……」という考え方に通ずるであろう。だがしかし最も決定的な影響は自然的秩序がすべての基本であり、内的規範(道徳律)も社会秩序もそれに基づかねばならぬとする明恵―泰時的な考え方である。この考え方は徐々に日本人に浸透し、キリシタン時代から徳川時代にかけてこれが日本人にとって当然の考え方となった。もうだれも、律令格式の存在は念頭にない。そしてこれが一種絶対的ともいえる思想になっていたことを、日本人自身が自覚しないまでになっていた。 
そして、それは外国の思想と衝突したときに、明確に自らのうちに再把握されるという結果になっている。これが最も明確に出ているのがキリシタンから反キリシタンに転じた不干斎ハビヤンであろう。転向する前には、この自然的秩序を基として「あるべきよう」な社会を形成するにはキリシタンが最もよい方法を提供していると彼は考え、次のように言う。 
「(キリシタンは)現世安穏、後生善所ノ徳ヲ得セシメン為ニ弘メ玉へル法ナレバ、外ニハ善ニ勧ミ、悪ヲ懲スノ道ヲ教へテ、利欲ヲ離レ、アヤウキヲスクイ、キハマレル(困窮者)ヲ扶ケ、内ニハ又、天下ノ泰平、君臣ノ安穏ヲイノッテ、孝順ヲ先ニシ、高キヲ敬イ、賤シキを哀ミ、ヲノレ責テ戒律ヲ守リ、都(すべ)テ浮世ノ宝位(たからい)ヲバ破れ靴(ヤブレグツ)ヲ捨ルヨリモ尚カロンジ……」 
等々。これは泰時的な「あるべきようは」であり、ハビヤンはキリシタンがそれを実現してくれると信じた。 
そして転向後は、キリシタンこそこの自然的秩序の基本を破壊するものと考える。それが伝道文書の「妙貞問答」と排耶書の「破提宇子」に表われている。この二つを通読すると、「転んだ」ように見えて、実は、自然的秩序絶対という点では一貫している。これが明恵上人が残した最大の遺産であったろう。 
そのような明恵の教えを、実に生まじめに実行した最初の俗人が、泰時なのである。そしてそれは確かに、日本の進路を決定して重要な一分岐点であった。 
もしこのとき、明恵上人でなく、別のだれかに泰時が心服し、「日本はあくまで天皇中心の律令国家として立てなおさねばならぬ」と信じてその通り実行したらどうなったであろう。また、「日本は中国を模範としてその通りにすべきである」という者がいて、泰時がそれを実行したらどうなっていたであろう。日本は李朝下の韓国のような体制になっていたかもしれない。
象徴天皇制の創出とその政策 
天皇も律令も棚あげ 
完全に新しい成文法を制定する、これは鎌倉幕府にとってはじめての経験なら、日本人にとってもはじめての経験であった。 
律令や明治憲法、また新憲法のような継受法は「ものまね法」であるから、極端にいえば「翻訳・翻案」すればよいわけで、何ら創造性も思考能力も必要とせず、厳密にいえば「完全に新しい」とはいえない。さらに継受法はその法の背後にどのような思想・宗教・伝統・社会構造があるかも問題にしないのである。われわれが新憲法の背後にある宗教思想を問題とせず「憲法絶対」といっているように、「律令」もまた、その法の背後にある中国思想を問題とせずこれを絶対化していた。これは継受法乃至は継受法的体制の宿命であろう。 
思想・宗教・社会構造が違えば、輸入された制度は、その輸出元と全く違った形で機能してしまう。新憲法にもこれがあるが、律令にもこれがあった。 
中国では「天」と「皇帝」の間が無媒介的につながっているのではなく、革命を媒介としてつながっている。絶対なのは最終的には天であって皇帝ではない。ところが日本ではこの二つが奇妙な形で連続している。それをそのままにして中国の影響を圧倒的に受けたということは、日本の歴史にある種の特殊性を形成したであろう。その現われがまさに泰時である。 
いわば「天」が自然的秩序(ナチュラル・オーダー)の象徴ではなく、天皇を日本的自然的秩序の象徴にしてしまったのである。これは「棚あげ」よりも「天あげ」で、九重の雲の上において、一切の「人間的意志と人為的行為」を実質的に禁止してしまった。簡単にいえば「天意は自動的に人心に表われる」という孟子の考え方は「天皇の意志は自動的に人心に表われる」となるから、天皇個人は意志をもってはならないことになる。これはまさに象徴天皇制であって、この泰時的伝統は今もつづいており、それが天皇制の重要な機能であることは、ヘブル大学の日本学者ベン・アミ・シロニイが「天皇陛下の経済学」の中でも指摘している。 
もっともこれを指摘しているのは氏だけではない。戦国末期に日本を訪れたキリシタンの宣教師は分国大名を独立国と見なしていた。法制的な面からいえばこの見方は正しく、各分国をヴェネチアやミラノやフィレンツェのような独立小国と見て当然である。しかし分国大名は自分が独立国だという意識はなく、やはり天皇を日本の統合の象徴と見て尊崇していたことは、多くの人が指摘している。権力いわば立法権・行政権・司法権をもたなくても統合の象徴とは見ていたわけである。この状態を現出させたのが泰時であり、これが日本の伝統となった。 
その泰時自身は大変な「天皇尊崇家」であったと思われる。三上皇を島流しにしようと、仲恭天皇を退位させようと、尊崇家なのである。それでいて、否それなるが故に、「貞永式目」はあらゆる点で完全に天皇を無視しており、天皇の裁可も経ず、天皇のサインさえない。この点では「御名御璽」がついている新憲法より徹底している。さらにその末尾の起請文を読むと、天皇に対してこの法の遵守を聖約するといった言葉も全くない。起請の対象は「梵天・帝釈・四大天王、惣じて日本国中六十余州の大小神祇、別して伊豆・筥根(はこね)両所権現、三嶋大明神・八幡大菩薩・天満大自在天神の部類眷属」である。いわば法の制定などという行為は、名目的にも実質的にも、天皇とは無関係であった。なぜこうなったのか。 
天意が人心にそのまま表われるように、天皇の意志がそのまま人心に表われるなら、「式目」発布のときにその序文として「院宣」をもらってもおかしくないはずである。確かにこれは「武家法」だから武家が制定するのが当然ともいえようが、武家は非合法集団でなく、それまでも泰時はしばしば奏請して院宣を出してもらっている。さらに、後高倉院も後堀河天皇もそれを拒否するはずはない。だがそれができなかった。理由は、律令には慣習や先例の集積は法とはしないという原則があったからである。継受法はしばしばこうなる。 
いまの日本で自衛隊が国民の八六パーセントの支持をうけても、またこれが存在し存続していても、憲法にはそれに関する条項が入れられないのと似た現象であろう。同じように当時の社会ではすでに現実の社会的慣習と先例が法となっている。しかしそれを法として認めることはできない。だがそれは結局、天皇ともども律令も棚あげされる結果となった。このことはもちろん、式目が律令を全然参考にしなかったということではなく、法に対する考え方の基本が全く違っていたということである。 
地味な「政治家(ステイツマン)」の業績 
泰時は確かに日本史における最も興味深い人物であり、また梅棹忠夫氏が評されたように「日本で最初の政治家(ステイツマン)」であり、あらゆる意味で重要な人物である。 
泰時(執権)と叔父の時房(連署)、この二人の信頼関係はまさに絶対的であった。延応元年の夏に泰時が発病したとき、時房は酒宴中であったが、酒宴をやめなかった。周囲が不思議そうな顔をすると彼は、自分がこうやって酒を飲んでいられるのも泰時のおかげだ。泰時が死んだら到底こんなことはやっておれないだろう、これが今生最後の酒宴だと思うから、見舞に行かず酒を飲んでいるのだ、といったという。 
執権・泰時は、連署・時房をよき相談相手として、評定衆との合議制で政治を行なった。もちろん、合議制だけでは能率的な政治は行い得ないので、それなりのしっかりした官僚組織が必要であるし、天皇を頂点とした安定した政治システムも必要である。 
泰時は、まず幕府の移転を行ない人心の一新を行なった。同じ鎌倉の中ではあるが、大蔵から宇都宮辻に役所を移転したのである。政子の死後半年のことである。そして間髪を入れず、将軍予定者の三寅の元服と将軍就任である。1219年(承久1)将軍源実朝が暗殺されて後、左大臣九条道家の子の三寅が、源頼朝の遠縁にあたるという理由で、将軍として鎌倉に迎えられた。三寅は当時2歳であり、頼朝の尼将軍・北条政子が政務を行ったが、政子の死によって、一日も早く三寅を将軍にして政治の安定を図る必要があったのである。1225年の暮れも押し迫った頃、ようやく三寅は元服し、頼経と改名した。年令8歳である。すぐに朝廷に申請して翌年の2月に頼経は征夷大将軍に任じられた。 
ここではじめて、天皇→将軍→執権・連署→評定衆という<形式>が確立し、後鳥羽上皇との反目以来つづいていた変則的状態は終り、体制の法的整備は完成した。 
泰時は派手派手しさがないから、義時急死・鎌倉帰還・伊賀氏の陰謀の制圧と処理・政子の死・幕府の移転・三寅の元服と将軍任命・新体制の整備が驚くべき速さで進んで行ったことに人は案外気づかない。さまざまな意味でその見通し、計画、処置は的確であった。 
これによって幕府は寛喜二年にはじまる大飢饉に備えることができたといえよう。そしてこの飢饉の体験は「貞永式目」に生々しく反映している。何しろ生産性が低い時代である。気候不順はすぐ農作物を直撃する。この年は陰暦の六月九日に雪が降った。今でいえば七月中旬から下旬、最も暑いときである。ところが八月にも九月にも大雨で農作物は枯死し、気温も急低下して冬のようになった。鎌倉でも暴風のため人家の破損が多かったが10月から11月になると今度は暖冬異変で、京都では11月から12月に桜が咲き、蝉が鳴くという状態になった。 
戦乱より飢饉が恐い 
昔から日本人を苦しめたのは戦乱よりむしろ飢饉であったと思われる。 
この自然的秩序(ナチュラル・オーダー)が狂ってくると、いわば「天変地異」が起ると、如何ともしがたいわけである。これは幕府といえども何とも致し方がない。 
こうなると「天変地異」すなわち自然的秩序の異常現象には、人間は、受動的にこれに対応する以外に方法がないことになる。いかなる「権」も「天」に勝てぬなら、天変地異が起ったら法律も変え、生活規範も変えてこれに対応しなければならない。後述するように「式目」では飢饉の時の人身売買を許している。 
泰時の質素と明恵の無欲 
同じ試練が泰時を襲った。 
まず彼は、飢饉だ、飢饉だといっても、米が、ある所にはあることは知っていた。まず彼は京都・鎌倉をはじめとする全国の富者から、泰時が保証人となって米を借り、それを郡・郷・村の餓死しかかっている人に貸し与えた。彼は、来年平年作にもどれば元金だけ返納せよ、利息は自分が負担しようといってその借用証を手許に置いた。 
しかし泰時は結局資力のない者には返済を免除し、それはすべて自分で負担したので、大変な貧乏をした。 
何しろ利子負担分と返済の肩がわりが貞永元年までに九千石になり、そのうえ多くの領地の年貢を免除したから財政的には大変である。 
「病にあらずといえども存命し難し」 
もっとも泰時の倹約の話はこれだけではない。彼は常に質素で飾らず、館の造作なども殆ど気にかけなかった。 
さらに無欲な者を愛するとともに、作為的に何かを得ようとする者、いわば「奸智の者」を嫌った。 
裁判になった場合でも、敗訴した者が率直に自分の非を認めれば、泰時は決してそれ以上追及しなかった。 
下総の地頭と領家が相論したとき領家の言い分を聞いた地頭が即座に「敗けました」といった。泰時はその率直さに感心して、相手の正直さをほめたという話が「沙石集」にある。一方この逆の場合、すなわち裁判に不服なものが実力で抵抗すると脅迫しても、彼は少しも屈しなかった。北条氏は絶対的権威でないし、相手は武力をもっているからそのような抵抗が起って不思議ではない。そういう場合の泰時は実に毅然としていた。いわば怨を恐れて「理」を曲げれば、それが逆に、権威なき政権の破滅になることを知っていたのである。いわば彼の一生は、「ただ道理の推すところ」を貫き通し、この「道理を推すこと」を貫き通すことだけを権威としていたわけである。これが「日本最初の政治家(ステイツマン)」といわれる理由であろう。
■9 
人は阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)という、七文字を持つべきなり。 
人には、それぞれ生まれながらの境遇があり、そなわった性格や能力がある。人はもちろん努力し、精進して生まれながらの状態を向上させていくものである。その場合、人は人それぞれの、あるべき姿を認識して、それに徹して生きるべきである。明恵は、それを「あるべきようわ」と漢字七文字で示す。仏法の修行は死後の安楽を願って行なうものではなく、「ただ現世に、まずあるべきように、とあらん」と、現在の生き方をさらに充実させて、人としてのあるべき姿を求めて生活することである。それには、自分の分を知ることである、と明恵は説いている。「栂尾明恵上人遺訓」 
人は常に浄玻璃の鏡に、日夜の振る舞いのうつる事を思うべし。 
「淨頗璃の鏡」とは、地獄の閻魔(えんま)王庁にあって、亡者(もうじゃ)の生前の善悪の行ないを映し出す鏡のことで、業鏡(ごうきょう)ともいう。明恵(みょうえ)はいう。地獄の鏡に映るのは、日々の行為ばかりではない。誰もみていないからと思って行なったことも、自分の心の中で密かに思うことも、すべてこの鏡に映し出されているのだ。たとえば、亡き人のために供養したとしても、その心に損得勘定や世間体などという思惑があれば、本当の供養とはならない。真に供養するという仏心がなければ、いくら供養したとしても亡者は安らかにはならず、その人もまた地獄の鏡に自分の醜い姿と心を映し出されて苦しむことになるのだ。そのため人は、つねに日々の行ないを正し、心に仏心をいだかなければならない、と説く。「栂尾明恵上人遺訓」 
心穢くして祈する者は、いよいよ悪き方には成り行くとも、所願の成就することは、ふつと有るまじきなり。 
自分の欲得のために神仏に祈る人は、その心はますます悪く汚くなっていくばかりで、その願いが叶うことはまったくない、と祈りの心のあり方を説いたもの。救いを求めて祈る。祈りと救いは一体である、というのが私たちが思う信仰であろう。これは、ある目的を叶えたいために祈る、ということで、そのため祈る対象が、その目的に応じて変わってくる。その対象は、私たちがもつ欲望や、その裏返しの不満の数だけ設定される。たとえば健康であれば病気にかからないように祈り、病気になれば回復を祈る。こうした祈りは真剣で切実であるが、祈りの本質を考えると、人間の身勝手さだけが目立ってくる。欲得を秘めた祈りは、心を汚すのである。代償を求めない祈りこそ、神仏が守ってくれるのである。「栂尾明恵上人遺訓」
阿留辺畿夜宇我(あるべきようわ) 
「阿留辺畿夜宇我」は、明恵にとって、自分の生き方を律するための簡潔にしてかつ根本的な言葉であったが、ものとこころの連続性を相当に深く体得していたと思われる明恵の生き方を示す言葉として誠に味わい深い言葉である。 
明恵にとって高山寺に住むことは、相当の決意を要することであったろう。弟子をとることを好まず、世間一般との交際を避け、ひたすら求道の姿勢をくずすことのなかった彼にとって、後鳥羽院から賜わる土地に住むことは、すなわち貴顕との交わりを或る程度受けいれることを意味するわけであるから、大変な態度の変化を要求されることになる。そのようなことを念頭におきながら、「夢記」に記録されている建永元年の夢を見てゆくことにしよう。この年の十一月に明恵は高山寺の土地を受けるのであるが、内外界の変化を反映してか、この年には多くの夢が記録されている。 
「夢記」の建永元年の夢を続けて見てゆくことにしよう。以下に示すのは六月の夢のひとつである。 
一、同六日の夜、夢に云はく、石崎入道之家の前に海有り。海中に大きなる魚有り。人云はく、「是鰐也。」一つの角生ひたり。其の長(たけ)一丈許り也。頭を貫きて之を繋ぐ。心に思はく、此の魚、死ぬべきこと近しと云々。(「鰐の死の夢」) 
この夢は、少しおもむきの異なるものである。石崎入道は湯浅の一族の一人かと推察されているので、この海は紀州の海であろう。そこに「鰐」と呼ばれるような大魚がいる。明恵はそれを見て「死ぬべきこと近し」と思っている。このような大魚の死は、明恵の内界における相当な変化を予示している。明恵はおそらくこの夢によって、自分にとって一つの転換期が到来しつつあることを予感したのではなかろうか。 
われわれは何か新しいものを得たとき、それによる喜びと、その背後において失われたものに対する悲しみとの、両者をともにしっかりと体験することによって、バランスを保つことができる。 
「鰐の死の夢」以来、短時日のうちに相ついで生じた一連の夢は、明恵が後鳥羽院から賜わる地所を受けるための、心のなかでの内的な準備がはじまっていることを示している、と考えられるのである。あるいは、十一月には正式に高山寺の方に居を移しているので、この夢を見たあたりで内々の交渉があったのかも知れない。 
明恵にとって高山寺の土地を後鳥羽院より受けとることは、彼の生き方を根本的に変えることになり、大変な覚悟が必要であっただろう。「法師くさい」のが嫌だと言って二十三歳のときに神護寺を出た彼が、約十年を経て、その神護寺の別所を院より賜わって住むことになる。それらすべての事象に、彼は「相応等起」の感をもったであろうし、高山寺に住みつくとしても、それはあくまで自らの求道の姿勢と矛盾するものとはならない、という自信に裏づけられて、彼は院の申し出を受けたのだろう、と思われる。これら一連の夢は、彼のそのような心の動きを反映しているものであろう。 
この年(建永2年)には、明恵に東大寺尊勝院の学頭として華厳宗を興隆するようにという院宣が下り、彼の講義の聴講者もだんだんと数を増すようになった。このような変化を、塚本善隆は次のように的確に記述している。 
「静閑所に独処修行することを好んだ明恵も、いまや華厳宗再興の使命を自覚し、他人を数化することにつとめる化他行(けたぎよう)に進んだ。久しい彼の修学の成果が、みずからのうちに信念を確立してきたことを物語るものでもあり、孤独性の強かった彼が、社会・人類に奉仕する宗教人として練れてきたともいえる」 
ところで、明恵は、「阿留辺幾夜宇和(あるべきやうは)」について、「此の世に有るべきように有ろうとする」ことが大切であると明言している。これは、当時急激に力を得てきた法然の考えに対するアンチテーゼとして提出されたものと思われる。従って、この言に続いて、現世のことはどうであっても後生だけ助かればいいなどと説いている経典はない、と言い切っているのである。 
このような例に接すると、日本人としてはすぐに「あるがまま」という言葉に結びつけたくなるが、わざわざ「あるべき」と、「べし」という語が付されているところに、意味があると感じられる。 
このような日々の「もの」とのかかわりは、すなわち「こころ」の在り様につながるのであり、それらをおろそかにせずになし切ることに、「あるべきやうわ」の生き方があると思われる。そこには強い意志の力が必要であり、単純に「あるがままに」というのとは異なるものがあることを知るべきである。 
明恵が「あるべきやうに」とせずに「あるべきやうは」としていることは、「あるべきやうに」生きるというのではなく、時により事により、その時その場において「あるべきやうは何か」という問いかけを行ない、その答えを生きようとする、極めて実存的な生き方を提唱しているように、筆者には思われる。  
法然の夢と明恵の夢の相違 
法然と明恵の思想の根本的差異の検討に問題を絞り、それをできるだけ理論的に解明していってみたいと存じます。 
そこで、これ以下においては、法然の主張もしくは法然の立場と一致する主張を(A)で表わし、明恵の主張もしくは明恵の立場と一致する主張を(B)で表わすことにして先に進むことに致します。 
まずその手始めとして、(A)に法然の「選択本願念仏集」の一段、(B)に明恵の「摧邪輪」の一段を掲げ、その後で両者を比較してみることに致しましょう。いずれも原は漢文で書かれていますが、ここでは訓読で紹介させて頂きます。 
(A)(一)かの諸仏の土(くに)の中において、或いは布施をもつて、往生の行とするの土あり。…或いは菩提心をもつて、往生の行とするの土あり。…或いは持呪をもつて、往生の行とするの土あり。或いは起立塔像(きりゆうとうぞう)、飯食沙門(ぼんじきしやもん)および孝養父母(きようようぶも)、奉事師長(ぶじしちよう)等の種々の行をもつて、おのおの往生の行とするの国土等あり。…かくの如く往生の行、種々不同なり。つぶさに述ぶべからず。(二)即ち今は前(さき)の布施・持戒ないし孝養父母(きようようぶも)等の諸行を選捨して、専称仏号を選取す。故に選択と云ふなり。…(三)念仏は易きが故に一切に通ず。諸行は難きが故に諸機に通ぜず。しかれば則ち一切衆生をして平等に往生せしめむがために、難を捨て易を取りて、本願としたまふか。…(四)まさに知るべし。上の諸行(=造像起塔、智慧高才、多聞多見、持戒持律)等(六波羅蜜、菩提心、持呪等全ての諸行)をもつて本願とせば、往生を得る者は少なく、往生せざる者は多からむ。しかれば則ち、弥陀如来、法蔵比丘の昔、平等の自費に催されて、普く一切を摂せむがために、造像起塔等の諸行をもつて、往生の本願としたまはず。ただ称名念仏の一行をもつて、その本願としたまへるなり。 
(B)(一)病患は巨多にして方薬は一に非ず。根機は万差にして教門は多種なり。或いは愚鈍にして聞思に足らず、或いは愚鈍に非ずと雖も天性一行を好む。此の如き類に対しては、称名一行を勧進すべく、必ず余行を勧むべからず。…(二)たとひ日本国に於て幾爾(いくばく)かの衆生有りて多分は皆な称名の根機に契合(かいごう)するも、若し二三人の其の機に相当せざるが如き者に押して之を勧進せば、汝(=法然)に於て過となるべし。況や十二十の人以上においてをや。是の故に、たとひ如説の行を授くと雖も、若し一門を守らば薬病乖角の失有り。…(三)此の如く経説一に非ず。凡そ諸行に於て意を得ることを本となすべし。一文に向いて偏執なかるべきのみ。…(四)若し二門和会せば、浄土門を愛する人は何ぞ聖道門を憎まんや。若し此の過無ければ、諸仏出現の楽有り、演説正法の楽有り、僧衆和合の楽有り、同修勇進の楽有り。大楽の此の極み、豈に快ばざらんや。 
(A)と(B)その違いを、あらかじめ簡単な言葉で指摘しておくことにすれば、法然は平等主義であるのに対して、明恵は差別主義なのであります。次に、それを、(A)(B)それぞれの文脈を辿ることによって明らかにしてみましょう。 
(A)についていえば、(A)(一)で、往生の行に種々あることを一般的に列挙したのを受けて、(A)(二)では、その諸行を選捨し念仏のみを選取することが選択にほかならないと規定し、(A)(三)では、その理由を、全ての衆生を平等に往生させるために阿弥陀仏は全ての人が実行可能な平等主義念仏を本願として選択したのではないか、ということに求め、(A)(四)では、その理由を再確認するような形で、阿弥陀仏が余行をもって本願としたのでは往生しないものが多くなるが、そのようなことはありうるはずはないから、やはり全ての人がなしうる称名一行だけが阿弥陀仏の本願であったはずだとの結論になるというわけであります。この(A)は、阿弥陀仏が、かつて法蔵比丘であった昔に、平等の慈悲に催されて一切衆生を一人残らず平等に救済しようと願ったことを終始基本に置いて微動だにしておりませんので、阿弥陀仏の前での全ての人の平等を主張しているという意味で、明らかに平等主義であるということができると思います。 
これに対して、(B)はどうでしょうか。(B)は、その引用の真っ先の(B)(一)において、まず現実のあり方に注目し、人の能力は千差万別だということを容認しております。その上で、人の中には愚鈍なものもいれば一つのことしかできないものもいるという現実に訴えて、病気に応じる薬のように、そういう類のものに対しては称名一行という薬だけしか利かないと決めつけているわけです。(B)(二)では、日本には確かに称名一行という薬しか利かない劣機のものは沢山いるかもしれないが、しかし、たとえ少しでも、かかる愚かな人ではない勝機のものがいるとすれば、彼らに称名一行の薬を与えても無駄であり、そんなことでは病気と薬とが乖離してしまうだけだとされております。(B)(三)では、要するに経文にはいろいろの説があるわけだから決して一つの説だけに偏執してはいけないということが示されています。最後に、(B)(四)では、浄土門と聖道門という二門中の一門のみに偏執することがなければ、あらゆることが二門の差別のままで和合して万々歳だという一往の結論が導かれているわけです。二つは二つ。それでもなおかつ一つ。多は一である。このようにして、(B)は、現実の差別をそのまま容認し、それを無視してはいけないと主張しているわけですから、明らかな差別主義だと言わざるをえないのであります。 
「本覚思想」(もしくは「本迹思想」)とは、以下のごとき「本」と「迹」との関係によって全てのあり方を説明しようとする思想である。 
(1)「本」は、基体(locus)であり、原因であり、一であり、実在であり、本質(atman)であるが、「迹」は、基体に依存するものであり、結果であり、多であり、非実在であり、本質に依存するもの(atmaka)である。 
(2)「迹」は非実在であるが、右のごとき「本」を基盤とすることによって、ある程度の実在性をもち、場合によっては、一挙に実在と肯定される。 
(3)「迹」は「本」によって無条件に包括されている。 
(4)「迹」は言葉によって表現できるが、「本」は言語表現を超えたものである。 
「本覚思想」を図示するとすれば、円内の「迹」を円周の「本」が包み込んだような一つの円となり、その円周は実は無限大までに拡がりうるものだと考えて頂いても差つかえないと思っております。 私は、今の場合、菩提心は「本」に相当すると見做しておいても大過ないだろうと思っているわけです。 
明恵は、「一切の仏法は皆な此の心(=菩提心)に依って生起することを得。」と述べているわけですから、彼が菩提心を「本」としてそこに「迹」としての全仏法を位置付けていたことは明らかであり、従って、彼の事実主義ないし差別主義は、先に定義した「本覚思想」でもあるということができるのであります。 
ここで、菩提心を「本」としてそこに「迹」としての全仏法が位置づけられているという構造をもう一度確認してみることにすれば、全仏法とは大きく分ければ浄土門と聖道門とでありますから、この二門が和合して「迹」としてきちんと円内に位置づけられ、しかもこの二門はそれぞれ劣機と勝機とに割り当てられて寸分の移動も許されておりませんから、先に見た(B)(一)の傍線部分のように、「此の如き類に対しては、称名一行を勧進すべく、必ず余行を勧むべからず。」ということになってしまうわけです。 
従って、「本覚思想」とは、円周の「本」のうちに全てのあり方を差別して秩序正しく円内の「迹」(結果、現れ方、現象、姿、行ない)として割り付るという考え方でありますから、「阿留辺幾夜宇和」という考え方が、後世になって明恵に仮託されたものだとしても、それはある意味で見事に明恵の考え方を表わしていると見做してもよいと私は思っております。明恵の「阿留辺幾夜宇和」というのは余りにも有名な言葉だと存じますが、今は、「栂尾明恵上人遺訓」より引用してみることに致します。 
人は阿留辺幾夜宇和(あるべきやうわ)というふ七文字を持(たも)つべきなり。僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり。乃至、帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様なり。此のあるべき様を背く故に、一切悪(わろ)きなり。 
このようにして、円周の「本」のうちに、僧は僧として、また俗は俗として、ないし、帝王は帝王として、また臣下は臣下として、差別されてきちんと秩序正しく円内の「迹」として収まって、その秩序を決して乱さないこと、これが「阿留辺幾夜宇和」という七文字を持つことなのであります。これに逆うことは以ての外であり、最も悪いことなのでありますから、この考えを支えている「本覚思想」は、「忤(さから)うこと無きを宗と為(せ)よ」といって上下和睦を求め、「事を論うに諧(かな)えぬれば、事と理と自ら通じ、何事か成らざらん。」といわれた、聖徳太子に帰せられる「憲法十七条」と一脈通ずるところが大いにあると思われるのです。 
さて、袴田憲昭は、河合隼雄の「明恵夢を生きる」の一節を取り上げ、大いなる疑問を呈しておられるので、そ点につき、私の考えを述べておきます。問題の河合隼雄の「明恵夢に生きる」の一節は次のとおりです。 
山本七平によれば、北条泰時が制定した「貞永式目」は、画期的などというより一種の「革命」とも言うべきものであるが、その思想的支柱として明恵が存在したというのである。既に述べたとおり「仏教史」の通説では、明恵は新仏教に対する「保守主義者」という判定を下されるのだが、ここでは日本においては珍しい「革命」の理論的支柱とされている。このような両面をもつところに明恵の特徴が見出される。明恵は保守的でもあり、革新的でもあるのだ。このことは、わが国の新仏教の祖師たちが、イデオロギー的にラディカルなのに大して、明恵はコスモロジー的にラディカルであったと言えるだろう。山本は泰時に対する明恵の強い影響を指摘しつつ、「泰時が受けた影響は教義的≠ニいうよりむしろ人格的≠ナあったと思われる」と述べている。確かに、泰時が明恵に依存すると言っても、彼の打ち立てた体制が仏教体制になったとか、聖武天皇が華厳宗を用いたような意味で、華厳宗を彼の統治のための支柱にしたというのではない。確かに明恵の華厳思想は、「貞永式目」制定のなかに生かされているが、それがあくまで明恵という人を通じてなされたところが特徴的なのである。 
この一節に関して、袴田憲昭は、次のように述べている。 
「私には、ここに示されている山本七平氏の考えも河合隼雄博士の考えも、いくら理解しようと思ってもよく理解できないのです。明恵が保守的でかつ革新的だというのは一番よく分かりません。私はこの講義で、法然を革命的と言いましたが、それと真向から対立する明恵は明らかに保守的なのです。」と。 
以上です。袴田憲昭は、「法然の夢と明恵の夢の相違」について以上のように書いている。法然の夢は「論理の夢」明恵の夢は「事実の夢」だと言い、「事実の夢」は革新性がないかのごとく述べている。「ですから、明恵の夢は、けっして現実を変えるような夢ではないわけです。」と。しかし、明恵の夢に革新性がないとの理解はまちがっている。西田幾多郎の「場所の論理」によれば、修行の積み重ねの向こうに直感があり、それはとりもなおさず真理を悟ることである。したがって、法然の夢も明恵の夢も修行を積んだ人の夢であり、夢そのものが直感であり、悟りの表れである。法然の夢に革新性があり明恵の夢に革新性がないなどという理解は誤解である。そうではなくて、明恵は、事実は事実として踏まえながらも、常に、「あるべきようわ」を志向しているのであって、明恵の夢に革新性がないとの理解はまちがっているのである。 
また、袴田憲昭は「泰時の<貞永式目>すなわち<御成敗式目>は革命的なものであるはずがありません。」と言っているが、彼はとんでもない誤解をしているのではないか。泰時の<貞永式目>すなわち<御成敗式目>はまちがいなく革命的なものである。その泰時の革命性については、すでに、日本人を動かす原理・「日本的革命の哲学」(山本七平、1992年)にもとづき、じっくり時間をかけて勉強したところである。 
今、私たちが学ぶべきは、泰時のその革命性であり、泰時の思想的支柱であった明恵の革命性である。明恵のコスモロジー性といって良い。明恵の思想のどこに新しいものを生み出す力があるのか?明恵の思想のどこにコスモロジーを形成する力があるのか?そこが問題の核心である。創造的破壊を行なって、異質なものを融合する・・・その改革のエネルギーはどこから出てくるのか?そこが問題の核心である。私は、田辺元の「種の原理」にその解答があると考えている。田辺元の「種の原理」は、ここでは、中沢新一が言う「流動的知性」と言い替えても良い。  
[ 参考 ]

 

僧侶の言葉 
時代の人々 
日本の美意識 [2] 
栄西 
親鸞 
冥途 
神国 
近代日本雑話
 
 
無学祖元

 

[嘉禄2年-弘安9年 / 1226-1286] 中国明州慶元府(浙江省寧波市)出身の鎌倉時代の臨済宗の僧。諡は仏光国師・円満常照国師。日本に帰化して無学派(仏光派)の祖となる。字は子元。建長寺・円覚寺に兼住して日本の臨済宗に影響を与える。その指導法は懇切で、老婆禅と呼ばれ、多くの鎌倉武士の参禅を得た。  
生涯  
1226年、南宋(中国)の明州慶元府の許家に生誕。  
1237年、兄の仲挙懐徳の命で杭州の浄慈寺の北礀居簡のもとで出家。1240年代に径山の無準師範に参じ、その法を嗣ぐ。この頃、石渓心月や虚堂智愚、物初大観、環渓惟一らを歴参する。  
1262年、東湖の白雲庵に移転。  
臨刃偈  
1275年、元(蒙古)軍が南宋に侵入したとき、温州の能仁寺に避難していた無学祖元は元軍に包囲されるが、「臨刃偈」(りんじんげ。「臨剣の頌」とも)を詠み、元軍も黙って去ったと伝わる。  
乾坤(けんこん)孤筇(こきょう)を卓(た)つるも地なし   
喜び得たり、人空(ひとくう)にして、法もまた空なることを  
珍重す、大元三尺の剣  
電光、影裏に春風を斬らん  
なお、のちに臨済宗の雪村友梅も、元で諜者の嫌疑をかけられるが、この臨刃偈を唱えたことで許されたとも伝わる。  
来日  
1279年、日本の鎌倉幕府執権・北条時宗の招きに応じて来日。鎌倉で南宋出身の僧・蘭渓道隆遷化後の建長寺の住持となる。時宗を始め、鎌倉武士の信仰を受ける。  
蒙古襲来  
日本と元との戦いである元寇が起こり、1281年(弘安4年)、2度めの戦いである弘安の役に際して、その一月前に祖元は元軍の再来を予知し、時宗に「莫煩悩」(煩い悩む莫(な)かれ)と書を与えた。  
また、「驀直去」(まくじきにされ)と伝え、「驀直」(ばくちょく)に前へ向かい、回顧するなかれと伝えた。この祖元の言葉はのちに「驀直前進」(ばくちょくぜんしん)という故事成語になった。無学祖元によれば、日本が元軍を撃退した事に対して時宗は神風によって救われたという意識はなく、むしろ禅の大悟(だいご)によって精神を支えたといわれる。  
1282年、時宗は巨額を費やし、元寇での戦没者追悼のために円覚寺を創建し、祖元は開山となる。  
1286年(弘安9年)、建長寺にて示寂。享年61。墓所も建長寺にある。  
■2  
莫煩悩 / 元寇と北条時宗と無学祖元  
1268年(文永5年)3月5日、北条時宗が第八代に執権に就任します。18歳のときでした。この年の1月、日本には、蒙古(元)からの国書がもたらされています。執権は北条政村でしたが、異国からの侵攻を受けるかもしれないという国難に対処するために、得宗である時宗を執権とする人事が行われました。(※そもそも、政村は時宗が成人するまでの間の中継ぎの執権でした。)  
禅に求めた不動心  
時宗は父時頼とともに建長寺の蘭渓道隆に帰依していました。蘭渓道隆が建仁寺に住持した後は、二世兀菴普寧、三世大休正念の教えを受けていたといいます。1278年(弘安元年)7月24日、時宗が師としていた蘭渓道隆が亡くなります。師を失った時宗は、新たな師を宋の国に求めました。そして迎えられたのが無学祖元です。日本に渡った無学祖元は建長寺の五世となります。  
蘭渓道隆が京都の建仁寺に住持すると、建長寺二世に迎えられたのは兀菴普寧でした。しかし、兀菴は、時頼が死ぬと宋に帰国してしまいます。そのときの理由は、「時宗はまだ幼年で誠志信敬の心がない」というものだったそうです。三世には大休正念が迎えられました。時宗は、大休正念を師と仰ごうとしますが、大休正念は師となることを固辞したといいます。  
無学祖元の臨刃偈(りんじんげ)  
無学祖元は、元の侵攻による難を避けて能仁寺にいましたが、やがてそこにも元の兵がやってきたといいます。寺僧はみな逃げ出しますが、無学祖元はひとり僧堂に残っていました。元兵は刀をかざして無学祖元を脅しますが、それに対して・・・  
「振りかざされた剣も、生死を超えた身には稲光のあいまに春風を斬るようなものだ」  
といったといいます。元兵は、「死をおそれぬ無学祖元の気迫におされ退散していった」という逸話が残されています。  
莫煩悩  
1281年(弘安4年)、日本は、元軍による二度目の侵攻を避けられない情勢となります。苦悩の時宗は、この年の正月、無学祖元を訪ねます。すると、無学祖元は、紙片に「莫煩悩」(まくぼんのう)という三文字を書き、それを時宗に渡しました。  
「迷うことなく信ずるところを行え」という意味であったといいます。  
「蒙古の襲来は、大風が掃蕩してくれるので心配ない」との説明を加えられたともいいます。  
そして、この年、元軍が攻めてきました(弘安の役)。  
この「莫煩悩」の文字を師より受けた時宗は、元の襲来の報が入ると、無学祖元に「喝」(かつ)という言葉を告げて、自分の決意を示したと伝えられています。 
■3  
北条時宗と無学祖元禅師  
1 大国の脅しに屈することなく戦った若き指導者・北条時宗  
いまから800年ほど昔、日本への侵略を目論む超大国・蒙古のおどしに対して、毅然とした態度で立ち向かった若き指導者がいました。その若者の名は北条時宗、まだ17歳の青年でした。  
「蒙古来襲の国難に立ち向かった鎌倉幕府の執権」北条時宗(1251〜1284年)  
2 明治期に詠まれた元寇の和歌に次のようなものがあります。  
寇船(あだふね)を覆(かへ)しし風は武士(もののふ)の猛(たけ)き心のうちよりぞ吹く  
3 文永の役  
文永五年(1268)、 蒙古(もうこ ※元)の国書を携えた高麗(こうらい)の使いが大宰府に現れます。既に中国北部と朝鮮半島の高麗を支配下においていた元は、表向きは友好を求めますが、その使者の来訪は明らかに我が国への軍事的恫喝(どうかつ)でした。  
蒙古の国書「願わくば、今より以後、通商して好(よしみ)を結び、もって相親睦しようではないか。なお、聖人は四海を家となすものであるが、日本が蒙古に通好しないならば、それは一家のうちではないということであり、止むを得ず兵を用いることも有りうる。それは朕の好むところではない。日本の王よ、そこのところをよく考えて欲しい」  
これは、「わが国に従え、そうしなければ武力を用いてそうさせるぞ」と云う脅迫状のようなもの。18歳の時宗が執権職に就いたのは正にこの年です。使いはその後もたびたび来訪し、朝廷、幕府はそのつど評定を重ねましたが、あえて返書を送らぬまま、九州に所領のある御家人(ごけにん)たちに異国警護を急がせます。北条時宗は、「礼なければ仁(おもいやり)なく、仁なき交わりは、禽獣(動物)の交わりにもおよばず」と、これを黙殺し、返書を送らなかった。そして遂に文永11年10月、高麗軍と合わせて3万人の元軍は、900艘(そう)の船に分乗してまず対馬(つしま)を襲いました。対馬の守護代である宗助国(そうすけくに)は68歳の老将ですが、直ちに大宰府と壱岐に急使を送った後、80騎余りで大軍に立ち向かいました。昔も今も国境最前線のこの島で、最後の1騎まで奮戦しましたが半日持ちこたえるのが精一杯でした。  
上陸した元の兵たちは「民家を焼き略奪殺戮(さつりく)を恣(ほしいまま)にし、婦女子を捕えて掌(て)に穴を穿(うが)ち、その穴を綱で貫いて船べりに数珠(じゅず)つなぎにした」  
元の古書に、「索ヲ以テ手頭ト手頭ヲ連結シタルニ非スシテ。女虜ノ手掌ヲ穿傷シ。索ヲ貫キ舷端ニ結著シタルヲ謂フナリ」とある。(「捕虜となった人々の手首同士を綱や縄で結び付けているのではなくて、掌に穴を空け、そこに綱を貫き通してそれらの人々を舷端に結わえ付けた」)と彼らの記録(『元史』)に記しています。  
続いて壱岐(いき)が攻撃されました。ここの守護代の平景隆(たいらのかげたか)は、対馬からの一報を得て大宰府へ援軍を要請し、100騎ほどで島内の樋詰(ひづめ)城に立て籠もって防戦しました。島民も続々と籠城に加わり一晩は凌(しの)ぎますが、やがて全滅してしまいました。こうしていよいよ10月20日(新暦の11月26日)に、元軍は博多湾西部から上陸し、先陣が博多に向かって赤坂(現在の福岡城址)まで迫って来ました。この合戦の様子は『蒙古襲来(もうこしゅうらい)絵詞(えことば)』に活写されています。その『絵詞』によると、御家人たちは大宰少弐(だざいのしょうに)の武藤景資(むとうかげすけ)を大将として博多の海辺側に集結し、景資は元軍がさらに博多に攻め寄せるのを待って迎え撃つようにと命令を下しました。  
この戦況は近年の研究で明らかになって来ました。それによると、10月20日中に少なくとも2度の合戦が行われ、日本軍が元軍を撃退し、百道(ももち)の海(博多湾)に追い落としたとのことです。大宰府攻略という目標は達せず、「味方の体制が整わず、又矢が尽きた」(『元史』)ため船に戻った元軍は、その夜半に吹き荒れた暴風に押し流され一斉に退却してしまいます。  
4 弘安の役  
文永の役の翌年に、鎌倉にやって来た元の使いを時宗は斬首(ざんしゅ)に処しました。 文永の役の翌年、またも元の使者が国書を持って、時宗に会うことを要求した。この際、「日本国としては、意地を見せた。このたびはフビライ王と和をむすぶべき」との、バカな声が幕府の中にもあったが、それに対し、時宗はこう云ったそうです。「対馬、壱岐の無辜の民を多く殺害したその暴を詫びぬとあれば、それは人間の道ではござらぬ」と。  
そして再び来寇するに違いない元軍に備えて水軍を整備し、九州沿岸の防備を固めました。特に博多湾岸沿いに石築地(いしついじ)を築いた「元寇防塁(ぼうるい)」は、今日まで一部を留めて往時を偲ぶことが出来ます。やがて弘安4年(1281)、元の皇帝フビライは元軍、旧南宋軍、高麗軍合わせて4400艘、14万人の大軍を二手に分けて送り込んで来ました。弘安の役です。  
そのうち東路軍は志賀島(しかのしま)に上陸し、我が軍と激戦を繰り広げます。その後、長崎県鷹島(たかしま)に待機中だった江南軍と合流して総攻撃の機会を窺ううちに、閏(うるう)7月1日(新暦の8月23日)の大型台風によって壊滅的な打撃を受けてしまいます。二次にわたる元寇は、鎌倉幕府の政治、外交姿勢と九州御家人たちの奮戦に加え、暴風雨や台風という自然現象の後押しもあってはねのけることが出来ました。そしてこの自然現象はやがて「神風(かみかぜ)」と呼ばれるようになります。  
5 時宗の人となり  
このように2度の国難を打破した鎌倉幕府の最高リーダーが時宗ですが、その事績を伝える資料は驚くほど少なく、本人の言葉もあまり残っていません。弘安の役後3年足らず、34歳の若さで急死しており、正に元寇撃退のために生を享(う)けたかの如(ごと)くです。元を迎え撃つ弘安4年の正月に、禅の師無学(むがく)祖元(そげん)が書して渡したという「煩悩する莫(なか)れ」(一説では「妄想する莫れ」)はよく知られています。以下に、その祖元が時宗の葬儀で語った法語の一部を、次に掲げておきましょう。  
[偉人をしのぶ言葉]  
母に孝養を尽し、君に忠節を尽し、民には恵みの心を以って治め、参禅して深く悟る処がある。20年間天下の権を握っても喜怒を表に出すことが無くいつも沈着である。元寇を瞬(またた)く間に追い払ってもそれを自慢する様子もない  (『仏光国師語録』四より)
無学祖元禅師  
1 無学祖元禅師(むがくそげんぜんじ / 1226-1286)  
中国明州慶元府(浙江省)出身の鎌倉時代の臨済宗の僧侶です。北条時宗の要請により、亡命的に来日されました。無学祖元禅師は、北条時宗と当時の日本の臨済宗に精神的な影響を与えた様です。  
1278年(弘安元年)7月24日、八代執権北条時宗が師としていた建長寺の蘭渓道隆が亡くなります。時宗は新たな師を求め、蘭渓道隆の弟子の無及徳詮と傑翁宗英を宋へ派遣します。そして、迎えられたのが無学祖元です。1279年(弘安2年)8月20日、来日した無学祖元は、建長寺の第五世住持となります。時宗の新たな師として鎌倉幕府御家人からも信仰を受け、特に蒙古の襲来に際しては、時宗の政策に大きな影響を与えたといいます。  
2 祖元・無学・仏光禅師  
○ 祖元という人は、どういう人かと申しますと、宗の人で、無学とも称し、仏光禅師ともいう人で、はじめ径山の無準和尚に師事し趙州無字の公案を授けられました。その後、この無字の公案を追求をして、五年間も熱心に求め続け、遂に無字の公案による三昧の境に達し、木像のごとく動かざること三日三晩、寺僧の鳴らす木版の音に、大死一番忽然と悟ったといわれる人です。  
○ 臨刃偈(りんじんげ)  
1275年、蒙古軍が南宋に侵入したとき、温州の能仁寺(のうにんじ)に避難していた無学祖元は元軍に包囲される(その時、寺に仕える者達は皆先を争って逃げ去りました)が、泰然として坐っていて、首領が白刃を揮って、彼の首に当てても、いささかも動揺せず、このような生命の危機に直面しても少しも顔色を変えず、落ち着いて、  
[臨刃偈] 「乾坤無地卓孤 且喜人空法亦空」「珍重大元三尺剣 雷光影裏斬春風」(乾坤こきょうをたっするに地無し かつ喜ぶ人空法また空)(珍重す大元三尺の剣  雷光影裏(えいり)春風を斬る)  
「乾坤すなわち真の天地を求めて一本の竹の杖で修行をした結果、徹底して悟ると、もはや地は無くなって”空”となってしまったのである。そしてなおかつ喜ばしいことに、人も空であり、法もまた空であるのだ。すなわち、空の奥底に、無限に広がった天と地、陰と陽があり、人も、法も全てのものは、この天地の奥底より生じておる。わしはすでに大悟して、その空の世界に住んでいるのである」「であるから、元の兵達よ、お前達が大切にしているその大きな剣で、わしの首を切りたいのなら、切り落してもよいぞ。しかし、それは、雷光稲妻が光って、その実態のないその影が春風を斬るがごとくに全く空しい事である」  
を唱え、そのあまりの立派さ豪胆さに元兵も敬畏して、逃げ去ったということです。  
3 北条時宗と無学祖元禅師  
ある時、時宗は、無学祖元禅師に尋ねました。  
時宗:「人の世における最大の苦労は臆病です。私は武士でありながら臆病で困っているのです。これを解脱させてもらいたいのですが。」  
禅師:「臆病の解脱とは容易(たやすい)。臆病の原因となっている所を断ち切りなさい。」  
時宗:「臆病で気が弱い心(怯懦 きょうだ)は、何処から来るのでしょうか。」  
禅師:「時宗自身から来るのです。」  
時宗:「臆病は、私の最も嫌うところです。どうしてそれが時宗から来るのでしょうか。」  
禅師:「試みに明日より時宗という自己を棄て去って来なされ。」  
時宗:「ではどうしたら時宗を棄てることが出来ますか。」  
禅師:「一切の妄念思慮を断ずるのです。」  
時宗:「一切の妄念思慮を断ずるにはどうしたら良いのでしょうか。」  
禅師:「ただひたすら座って坐禅を組み(只管打挫)、心と精神の静寂を求めることです。時宗に浮かんでくるすべての想念は相手にせず、心の奥深い根源世界を求める事に徹しなさい。」  
時宗:「私には余りにも俗事が多すぎて、座禅する時間が少ないのです。」  
禅師:「いかなる俗事に携わろうとも、一切の俗事がそのままの修行の道場になるのです。修行が進めば、やがて時宗の内なる真実の心が何たるかを悟るでしょう。」  
4 無学祖元禅師の五ヶ条の要訣  
このように禅師は時宗を導き、時宗に、修行の規範となる”五ヶ条の要訣”を授けたのです。  
五ヶ条の要訣 〜 無学祖元禅師  
一、外界の事物に対して全く無頓着なること。常に精神を磐石の如く保ち、世界に只吾れ独りなりと思うべし。しかも精神坦然として恭敬を忘るべからず。  
二、精神を常に澄水の如く保つべし。精神動揺して外界の事物に頓着すれば、必ずその他を忘却すべし。突然の怖畏は、この間より生ず。一方に注意すること深ければ一方の油断もまた深きなり。務めて平如として精神を臍下丹田に置くべし。  
三、才略智謀に恃(たの)むところあるべからず。恐懼(きょうく)病は才略の謀計を現出するの原動力なれば なり。その機に当り変に応じてこの心を失わずんば、必ず霊妙なる当意即妙の策略智計を生ずべし。よろしく平の時と非常の時とその心を一にすべし。  
四、勇猛の士気はよく白刃を踏むべし、柔弱の肢体は、窓隙(そうげき)の風をも忍ぶ能わず。よろしく常に勇猛の士気を保持すべし。  
五、見るところ、狭少なるときは、その眼光見識狭少にして、胆量また自ら狭少なり。すべからく常に注意してその心量を拡大すべし。  
これらによって、時宗は、禅宗の修行により真理を求めて、悟りを深めていきます。時宗は、類稀なる善い師を得、その師の導きもあり、元寇という国難に対し、毅然たる行動で立ち向かっていくのです。
莫煩悩「煩悩する莫(なか)れ」  
1281年(弘安4年)、日本は、元軍による二度目の侵攻を避けられない情勢となります。苦悩の時宗は、この年の正月、無学祖元を訪ねます。すると、無学祖元は、紙片に「莫煩悩」(まくぼんのう)という三文字を書き、それを時宗に渡しました。「迷うことなく信ずるところを行え」という意味であったといいます。また、「驀直去」(まくじきにされ)と伝え、「驀直」(ばくちょく)に前へ向かい、回顧するなかれと伝えた。(この祖元の言葉はのちに「驀直前進」という故事成語になりました)さらに、「蒙古の襲来は、大風が掃蕩してくれるので心配ない」との説明を加えられたともいいます。  
この無学祖元の言葉で、時宗の心に、稲妻のように衝撃が走った!  
そうなのだ…。自分は自分で元の脅威を巨大なものにしていた…。その時、時宗の心に、かつてない平穏が巡っていた…。無学祖元の言葉に従い、自らの出来るすべての準備を整える時宗。すべての準備を終わり、明鏡止水の思いで、運命の時を待つ…。そして、この年の夏、元軍が攻めてきました(弘安の役)。時宗は、元の襲来の報が入ると、無学祖元に「喝」(かつ)という言葉を告げて、自分の決意を示したと伝えられています。無学祖元によれば、時宗は「神風」によって救われたという意識はなく、むしろ禅の大悟(だいご)によって精神を支えたといわれています。  
「莫妄想(まくもうぞう)〜妄想すること莫れ〜」  
−過去や未来を思い悩まず、今に集中する−  
肉体や心の欲望、未来への不安や執着など、私たちの心を曇らせる最大の原因が妄想です。それをくよくよ考えるなというのが「莫妄想(妄想すること莫れ)」です。元寇の危機にさらされていた鎌倉時代、執権・北条時宗は、強大な元軍との戦いに悩み、中国から招いていた無学祖元禅師のもとを訪れました。無学禅師は時宗に「莫妄想」とさとしたといいます。時宗はこの一言で決心を固め、今できるかぎりの防備に全力を尽くして、あとは天命を待つ心境にいたったといわれています。結果、元軍は二度とも暴風雨に襲われ、壊滅状態になりました。  
今できることに全力を尽くしましょう。よりよい未来をつくるのは今の努力しかありません。 
■4  
無学祖元の女性教化と女人往生観  
無学祖元は、中世期における渡来僧の一人であるが、その門下からは中世に傑出する尼僧、無外如大が出ている。また、その女性参禅者が多いこともすでに指摘されている。  
平安時代に仏教思想が流布される過程で、仏教は女性を穢れたものとする思想を明確にし、尼寺も著しく衰退した。そこで、女人往生を否定する教説が著しく強調された。しかし平安末期から鎌倉時代にかけて戦乱が頻発し、夫に先立たれた女性が仏教に救いを求めるようになると、仏教はそれまで否定してきた女人往生を考えざるを得なくなった。いわゆる、鎌倉新仏教の開祖たちもそれぞれに女人往生説を展開している。ここでは、無学祖元の語録『仏光円満常照国師語録』より、無学に参禅した女性と、無学が彼女らに与えた法語などをもとに無学の女人往生観について考えたい。 
はじめに  
従来、前近代における女性の地位は低いと見られてきた。今日の日本中世史研究においては必ずしもそうではない、特に女性が財産相続権を有していたことに注目して女性の地位はある程度保障されていると考えられている。  
一方で仏教における女性差別は厳然として存在し、それについてもこれまで様々な研究が行われてきた。概して前近代の仏教がいかに女性を差別してきたかを解き明かしてきた。中世についても、既に女人往生や尼僧、女性参禅者といった様々な観点から中世仏教がどのように女性を捉えたか明らかにせんと試みられている。しかし、それらに言われているとおり、女性に触れた史料は少なく、中々全体像を明らかにすることは困難であると言える。  
中世の女性像を明らかにするには経済的な側面ばかりでなく、様々な要素を合わせて総体的に判断しなければならないはずである。その中でも仏教の位置付けは重要だと思われる。なぜならば、「宗教における性差別問題は、宗教のみの問題領域にとどまるものではありえない」のであり、「宗教とは、それに基礎づけられて形成された文化パラダイムの中核として、そのパラダイムに生ずる一切の世界観、価値観、人間観、モラルなどから社会制度、性規範、主体形成のあり方をまで支配する力をもつもの」だからである[1]。つまり、前近代の人々を支配する仏教の女性観を明らかにすることで中世における女性の地位を精神文化的側面からとらえなおすことができると考えられる。  
中世には劇的な時代の変化に相関していわゆる“鎌倉新仏教”とかつて呼ばれた仏教の新潮流が発生した。それらの新しい仏教思想は女性を取り巻く中世の時代状況に影響され、あるいは時代の女性観を規定していたはずである。  
ここでは、中世に中国より渡来した禅僧?無学祖元の語録を頼りに、無学がどの様に女性を捉えていたか考えてみたい。同時にこれによって中世女性像を捉え直す一つの端緒になればと考えている。 
1、古代から中世にかけての女性と仏教  
まず、中世までの仏教のもつ女性観を概観したい。  
日本の仏教史上、女性を忌む思想は平安時代に入っていっそう明確になった[2]。8〜9世紀頃、尼僧は国家の仏事、法会の場から締め出された。ここにおいて官僧と官尼という対応関係が崩れ、尼寺の僧寺への隷属も進行した[3]。  
女性を穢れた存在とし、忌避する考え方は日本社会への仏教の浸透と共に強く定着したと考えられる。仏教の清浄を護持する考えが、女性の生理や出産による出血を穢れと見て忌んだ[4]のである。一方で仏法が王権に入り込む中で、既に王権に結びついていた神信仰の持つ儀礼とタブーを取り込む必要に迫られ、寺内における穢れの排除が行なわれるようになった。女性差別の形成という点では仏教と神信仰は相互補完的役割を果たしたと考えることができそうである。  
さらに、平安時代を通して、仏教が人々の生活に入り込んで来るなかで女性蔑視の思想もまた人々の間に流布され定着した。とりわけ象徴的であるのが血盆経の流布である。血盆経は10世紀以降に中国で成立したいわゆる「偽経」だが、道教にも取り入れられて広く流布し、さらに日本に伝播した[5]。ここでは、女性は月経、出産の出血による穢れから死後血盆地獄に堕ちると説かれ、血盆経をその苦しみから免れることができると言う。女性は生れながらにして穢れており必ず地獄に堕ちるというのである。  
そもそも仏教は“五障”として「梵天?帝釈天?魔王?天輪聖王?仏」になれない、つまり、女性は仏教世界の指導者にはなれないとしており、女性は、悟りを得ることが出来ない=仏になれない=往生できないと、女性の往生を否定している。その理由は『法華経』によれば「女人は垢穢にしてこれ法器に非ざる」からとある。これでは現世で如何に高い徳を積んでも悟りを得ることは出来ず、往生は叶わないことになる。既に述べたように8、9世紀に尼寺が衰退したが、それにより女性の幼少期における出家は例外的になった。一方で、老病死に際して現世や来世での救済を願う、臨終出家が主流になったのである。  
しかし、平安末期から鎌倉時代にかけて近畿のみならず全国に戦乱が相次ぎ、夫を戦争で失った。出家女性が急激に増加した。古代では出家は婚姻関係を否定するもので、離婚の一形態として出家が行われていたのに対して、夫の死後に再婚を拒絶し夫婦関係を継続し夫の菩提を弔うという新しい女性の出家に対する考え方が定着したことによる。いわゆる“後家尼”の出現[6]である。結果、戦死した夫の菩提を弔うため出家する武家婦人が増加し、“後家仏教”の様相を呈してきた。“鎌倉新仏教”、中世仏教の担い手たちは、女性の救済、“女人往生”の問題を考えざるを得なくなっていたのである。 
2、中世仏教開祖の女人往生観  
中世仏教開祖たちの女性観はどのようなものであっただろうか、以下に示してみる。  
法然(浄土宗開祖)の場合、善導の「弥陀の本願力によるがゆえに、女人も仏の名号を称すれば正しく命終の時、則ち女身を転じて男子となることを得、仏の大会に入りて無生を証吾す」(『観念法門』)を受け、既存仏教が、五障三従によって女人の成仏の道をふさいでいると強く批判。特に教団を支える多くの女性信者が居た[7]事が分かっている。その主張は阿弥陀の力によって女性は男性に変化して成仏できるという“変成男子”による成仏である。  
親鸞(浄土真宗開祖)は「弥陀の大悲ふかければ、仏智の不思議をあらわして変成男子の願をたて、女人成仏ちかひたり(『大経和讃』)」、「弥陀の名願いによらざれば百千万却すぐれどもいつつのさわりはなれねば、女身をいかでか転ずべき(『善導和讃』)」とあり、法然と同じく変成男子による救済を説いた。一方で「男女大小聞きて、同じく第一義を獲しめむ。…まさに知るべし諸の衆生は、皆これ如来のこなり(『信文類』)」とあるなど男女平等の往生を説いており一定でない。さらに親鸞が妻帯していたことは有名だが、親鸞には「女犯」[8]の観念があった。また、真宗教団には尼は居ても尼寺はなく、寺の主人たる僧を坊主、妻尼を坊守として扱った。  
日蓮(日蓮宗開祖)の場合、「此の経持つ女人は一切の女人にすき(過ぎ)たるのみならず一切の男子に越へたりとみて候(「四条金吾妻宛書状」[9])」とあり、『法華経』こそ唯一の救い、女性を救う教えであると主張した。これによって、法然らの浄土教説は女人を助ける法ではないと批判している[10]。『法華経』は日蓮によって女人救済の法と解されたのである。  
では、中国からもたらされた禅宗においてはどのように女人往生が説かれたのであろうか。入宋して曹洞禅を伝えた道元の場合、在来仏教が行ってきた女人結界を鋭く批判し、男女共に求道心あるものは平等と主張した。また道元は教団に多くの尼僧を迎えた。さらに「男性を惑わせる女性が穢れているのではなく、女性に惑わされる男性が穢れている」という現代にも通じる斬新な教説を展開した。しかし、「女身成仏の説あれど、またこれ正伝にあらず」と言うなど女人の往生には否定的でありその往生は変成男子[11]によるとした。  
これまで、中世仏教開祖たちの女人往生説についてみたが、その共通する点は既存仏教の女人結界への批判と、“変成男子”による女性の往生に見ることができる。  
中世には宋元との民間貿易の拡大にともなって僧侶の往来が頻繁になり、特に中国から禅宗の高僧が来日したことが時代のトピックとなっている。これらの僧侶は日本に大陸最新の仏教教学もたらした。中国から来化した渡来僧は女人往生の問題にどの様に対処したのであろうか。宋朝より来日した無学祖元の門下に無外如大という尼僧がいる。彼女は無学臨終に際して「後事を託す」(『佛光国師塔銘』)とまで言われ、後に尼寺を官寺として組織した尼五山で開山になる。如大については「その存在は日本女性史?宗教史上極めて重要な存在として位置付けられる[12]」とされている。  
以下、無学祖元の女人往生観について少し考えてみたい。 
3、無学祖元について、その来歴と教化の態度  
まず、無学祖元その人について紹介したい。  
無学祖元は、俗姓は許、諱は祖元、字は子元、後に無学と号した。1226年、慶元府に生れる。早くに出家し、径山無準師範以下諸知識に歴参している。1269年、真如寺の住持になった後、天童寺などに歴住した。1279年、北条時宗の招聘により来日し、建長寺に住した。その後、円覚寺を開くなど日本仏教界で活躍し、南宋禅の普及に勤めた。1286年、60歳で没するまで「度する弟子三百、余嗣法者衆、皆光明盛大」と言われるように多くの高僧を育てた。門下に高峰顕日などの高僧がいる。死後、仏光円満常照国師を追贈され、一般に仏光国師と呼ばれる。  
無学祖元に関する史料は語録として、『仏光円満常照国師語録』(一真?徳温ら撰、1367年刊、以下『仏光語録』とする)があり、他に『無学禅師行状?仏光禅師行状』『仏光円満常照禅師年譜』一真?徳温撰(『仏光語録』附)がある。伝記には『元亨釈書』(虎関師練撰、1321年刊)巻8?釈祖元伝、『延宝伝燈録』(師蛮撰、1678年刊)巻2?子元祖元伝、『本朝高僧伝』(師蛮撰、1702年刊)巻21?祖元伝、などがある。  
このうち『仏光語録』は“語録中の語録”(晦岸常正和尚)と言われるすぐれた語録である。一方で『元亨釈書』は書全体の内容に疑問が持たれており、無学祖元の伝についてもその出自や事績に語録などと異同が見られる。後代に編まれた『延宝伝燈録』、『本朝高僧伝』両書の本伝は『元亨釈書』を引いているため、無学祖元の教化活動を明らかにするには『仏光語録』に拠るところが大きくなる。本論では大正蔵所収のものを典拠とした。  
無学祖元の人物像について玉村竹二は以下の様に評している。曰く“人を接化するのに極めて懇切丁寧”である。これは『仏光語録』巻9「告香普説」などに見られ、同普説では、身分の低いある武士が無学の下を訪れ、「いくら学んでも仏法が一向に理解できぬ」と涙ながらに訴えるが、無学は優しく懇切丁寧に粘り強く説き、ついにこの武士は悟りを得るというエピソードが紹介されている。また、“無学祖元という人は…自らに対して厳格にして、他人に対して憐愍に満ち、懇切丁寧なる一人格、些か感傷に堕するかとさへ思われる浪漫的性格さへ具備している”といい、同時に“この人ほど自己を告白する禅僧は稀である”とされている。この様な玉村氏が称した無学の為人と教化の態度は様々な史料に見てとれる。無学が率直な宗教指導者であったことは、日本という“外国”で宗教指導を行うにあたって、女人往生という問題に直面したときいかに行動したか、その根底を考えるうえで無視できない要素であろう。参禅者には北条時宗夫人のような高貴の女性も多く、曲学阿世の輩であれば時流に合わせて自らの教説を変えているであろう。その点で、元軍の刃に曝されながら蕭然としていたという無学は自らの教説を権門に阿って変えるような人物ではない。また、その懇切丁寧な指導は一人一人の参禅者に対して向き合う姿勢であろうから、教化活動の実態を知るうえで語録の意義を高めている。  
無学は1279年に渡来することになるが、これは北条時宗が、蘭渓道隆の死後建長寺の住持を求め、徳詮?宗英を派遣[13]したのを受けてのことである。やや本論の主旨とはずれるが、この無学来日の経緯をめぐっては二種類の意見が示されてきた。従来、玉村氏らによって無学祖元を南宋滅亡以降元朝の支配を嫌った亡命僧と捉える考え方が示されると、これが一般に知られ、無学が蒙古の襲来と戦う北条時宗の軍師であったかのような解釈がなされてきた。これに対して西尾賢隆氏は、最初は無学ではなく別人を招請される予定であったことや、無学が度々帰国の意志を示していることから亡命僧とは言えないと反論している。  
西尾氏は『仏光国師語録』巻四「接荘田文字普説」を引いて、“「老僧、日本の招き趣くに臨み、多く衲子有り、衣を牽き泣を垂る。我、諸人に向って道う『我、三両年にして便ち回らん、煩悩を用いざれ』と」とあるが、両三年したら帰ろうという亡命があるであろうか、そうはいえまい。”(西尾1989)としている。しかし、“両三年したら…”を含む箇所、には「老僧臨趣日本之招、多有衲子、牽衣垂泣。我向諸人道、我三両年便回、不用煩悩。吾今与諸兄説、諸人見老僧、却作等閑、甘悠悠度了歳月。不知老僧撇掉了大唐多少好兄弟。要来開諸兄眼目。中間或有一箇半箇、直下如生獅子児哮吼壁立万仭。方可与仏祖雪屈方称我数万里遠来之意。檀那建此道場、堂宇高広四事供養種種妙好。(中略)若有幾人参請眼目開、契得老僧意者、亦可以鎖我思郷之念、慰我為法求人之心、千万勉力…」とあり、修行を等閑にする弟子達を叱咤する言葉であり、西尾氏が言うような無学が帰国の意志を示した言葉とは取りにくい。無学が亡命僧かそうでないかを論ずるのは本論の目的とするところではなく、俄には断じがたい問題であると思われる。ここではむしろ、「懇切丁寧な教化」「本心を吐露する」という無学の人物像を彷彿とさせる内容であるとみたい。もっとも強調したい点は、無学祖元という人物がきわめて率直に、かつ丁寧に参禅者に向き合って指導にあたったという点である。 
4、無学祖元の女性教化と女人往生観  
女性の往生が否定されるなかで、救済を求める女性たちはそれぞれに高僧、禅知識を尋ねており、「鎌倉時代に来日した渡来僧の周辺には、禅宗に帰依し、真摯な求法修行のなか渡来僧と問答を交わし、その力量を認められた尼僧が何人もいた(原田正俊)」と言われる。  
円覚寺文書によれば北条貞時は『禅院制府』(「円覚寺文書」円覚寺蔵)を定め、女性が寺に入って良い日を規定したといい、女性で参禅する者の多かったことが忍ばれる。  
この中で無学はどのように女性と関わったのであろうか、尼僧の研究に史料的制約が多いことはすでに述べたとおりだが、以下無学に関わる尼僧、女性参禅者について語録から見ていきたい。  
無学祖元に関わる女性としてその筆頭にあげるべきなのは無外如大である。  
無外の伝記は『延宝伝燈録』巻10にあり、「京兆景愛尼無外如大禅師、別号無著、初名千代野。陸奥太守平泰盛之女…」などとある。しかし安達泰盛(1231〜1285年)の娘とは考えにくく、「資寿院置文」[14]に記される無着の伝記が混入した(舘2008)と考えられている。出自も明らかでない無外ではあるが、『佛光国師塔銘』には、無学の臨終に際して「後事を託」されたほど無学に愛された高弟であり、無学が最も頼んだ弟子としてバーバラ?ルーシュ氏により紹介されている。また後に尼寺を官寺として組織した尼五山筆頭の景愛寺で開山となっており、その頂相が宝慈院に現存している。尼僧の頂相は極めて稀で同時代に高く評価されていたことが分かる。語録上にも無外の名は散見され、その法器の高さが無学の率直な言葉によって度々賞賛されている。  
無学の日本における教化の大きな成果の一つと言えるのがこの無外如大の存在であり、無学の高弟の中から後に尼五山を再建するほどの尼僧が登場したことは注目すべき事実である。  
他に語録に見られるその他の尼僧、女性参禅者を列挙すると、以下の通りである。  
妙覚大姉  
「妙覚大師下火 五障身妙覚体。猶如摩尼出於濁水。…」(巻4)  
道性大姉(巻7)  
僧爾大姉(巻7、9)  
「示僧爾大師 …爾不見妙總。亦是一女流。」(巻7)  
海雲比丘尼(巻7)  
小師尼慧蓮(巻7)  
小師慧月(巻7)  
長楽尼院長老(巻7)  
尼慧禅(巻8)  
尼本上人(巻8) が見られる。  
これらの内、大師とあるものは、「大師は高僧に朝廷より与えられる号であるとともに、禅宗の信仰深い女性を指す。大姉と同義」(舘2008)とあることから、内容から見て、女性として良いと思われるものを挙げた。  
以下に具体的な法語をあげて考えてみたい。  
まず、巻7には「示小師尼慧蓮 仏性覚体。妙明円満。不問女人。不問男人。受用具足。不用安排。…」とあり、「男性であれ女性であれ、具足(戒)を受けた者は区別がないのだ」としている。  
また、同じく巻7を見ると、「示小師慧月 儞性如宝月。…是名智慧光。此光照山河。男女無異相。…証此妙理時。便入諸仏海。」と、同じく男女の別がないことを言っている。  
また、無学は「誰が浄土に往生できるか」と質問された際に、  
「(接荘田文字普説)…昔迦葉尊者一日乞食。不擇貧富乞食。路中逢一女人。見尊者行乞。廻起念。思身辺更無可有。只彼器中有潘汁。挙手奉献。尊者受施。訖迺騰空。現十八変相。女人即得生天。…」(語録巻4)と答えている。  
摩迦迦葉に布施を行った女性が成仏を得たという仏伝を引いて、「功徳によって男女の別なく往生できる」と答えているのである。  
さらに、時宗が仏賛を求めた際には、  
「太守請賛仏賛五大部経典普説 …又有一宝女。持珠白仏願我此珠貫仏頂上即擲。其珠便貫仏頂。人天大会。各見珠中所現来世成仏劫土。仏言此宝女已於九万六億仏所。種植善根。所生之処。」(語録巻6)とあるが、これは自らの頭頂に珠を投げた女性がなぜ成仏し得るか釈迦が説いた仏伝を紹介しているのである。  
これらを総括すると、女人の往生を積極的に支持していたと言える。とりわけ「男女の別はない」とする教説は画期的なものに見える。しかしこ点については注意を要する。次節で述べたい。 
5、無学と『法華経』観音信仰  
無学は『法華経』を引き、  
「諸小乗皆蒙授記。龍女献珠成仏。大涅槃経体円極。無処不周」(同上、語録巻6)として大乗の立場を明らかにしている。  
禅宗は“不立文字、教外別伝”といい本来根本とする経典を持たないが、「夢中問答集」(無学法嗣高峰顕日の弟子夢窓疎石と足利直義との問答集)によれば、「唐土の禅院には毎朝粥の後、大悲咒一遍なむと誦するばかりなり。これ則ち座禅を本とする故なり。…建長寺の始めには、日中の勤めはなかりけり。蒙古の襲い来りし時、天下の御祈りのために、日中に観音経をよみたりける。そのままにしつけて、今は三時の勤めとなりたり。かようの勤めも、禅家の本意にはあらねども、年来しつけたることなれば、後代の長老たちもとどめ給ふことなし」とあり、『観音経』(『法華経』「普門品」観音の功徳?利益を具体的に詳説した経典)の読誦は「無学によって儀則化された」(山藤2002年)ことが明かである。  
なお、『元亨釈書』巻八淨禅三之三釈祖元伝に  
「四年春正月、平帥来謁。元采筆書呈帥曰、莫煩悩。師曰、莫煩悩何事。元曰、春夏之間博多擾騒。而風纔起万艦掃蕩。願公不為慮也。果海虜百万寇鎮西、風浪俄来一時破没。初元在雁山、定中観音大士現形曰、我将舡来取汝。乃示日月二字。元起詣像前卜籖。亦得日月二字…語曰、百万虜寇。天兵助順、豈不勝耶…」とある。これについては、「『礼記』「曲礼上」、「故日月以告君」を典拠とし、婚姻の日取りを決めること」[15]とされる意見もあるが、やや強引な解釈に過ぎよう。ここでは、『元亨釈書』著者の主張として「無学が時宗に蒙古襲来を予言し、その根拠として無学が観音の擁護を得て知り得たからだ」としたものとしたい。  
無学と観音のつながりについては、『無学禅師行状』に「母陳氏、嘗夢一僧襁褓嬰児以授。遂懐妊。母以累重不楽意。夜午見、一白衣女子登牀、腹曰、此児佳男子、善保勿棄。及誕白光耀室」とある。無学の出身地慶元府は観音の霊場普陀山に近く、白衣を纏った女性は典型的な観音の像容であることから考えて無学は強い観音信仰を持ったことは明らかである。  
無学は女人往生を積極的に支持していることは前節ですでに述べたとおりだが、無学の明確な『法華経』尊重の態度から見て、女人往生の根本と成ったのは『法華経』であり、観音信仰と見るべきである。『法華経』(提婆達多品)には「龍女は五障?垢穢ゆえに女性は成仏できないとする舎利弗の眼前で釈迦に宝珠を献上し、変成男子して成仏を果たした」とあり、『法華経』は変成男子による女人往生の重要な根拠となっている経典である。  
従って、『法華経』の重視から見れば、無学の女人往生説は“変成男子”の域を出ていないと言うべきだが、それについてはなお検討の余地があるようにも思われる。今後の課題としたい。 
小結  
以上のことから、無学は宋朝から来化し、多くの女性を含む僧俗を教化した。強い観音信仰を持ち、“変成男子”による女人往生の根拠となる「法華経」読誦を進める一方で、その法語を見ると、男女の別ない往生を説いた形跡も見られる。無学は多くの女性を教化し、その門下からは無外如大が出て、尼寺再興を果たした。無学の教化は“変成男子”についてはなお考慮すべき点をのこすものの、女人往生が否定された前時代に反して、女人往生説を肯定しており、画期的なものと言えるだろう。これは渡来僧無学の日本にあたえた影響の一つと見ることもできるだろう。 
■5  
鎌倉期における禅宗の受容と展開  
道元についてみる前に、日本の禅宗の流れについて概観しておこう。入唐した学生・学問僧(300年間で149人)に比べると入宋僧(170年間で109人)・入元僧(160年間で222人)の数ははるかに多い。入唐僧たちは、国家の留学生として求法の責務を負わされていた。ところが「然や成尋らの北宋時代の渡海は、国家からの派遣ではなく私的なもので、仏蹟巡礼が目的であった。平安末から鎌倉期に渡海した僧、すなわち入宋僧は次のように3分類できるといわれている。1.「然などの延長線上にあるもので重源や栄西などのように早く入宋した人びとで仏蹟巡礼を目的とするもの、2.俊芿(しゅんじょう)や月翁智鏡などのように律宗を伝えるためのもの、3.禅宗を求めてのもの、以上の3分類である。栄西は天台宗に活力を与えるために禅を用いようとした人物であるが、その2回目の入宋でさえ、宋より「天竺」に渡り仏蹟を巡礼するのが最終目的であったことはよく知られている。しかし、その後の入宋僧の大部分は3である。また日本の禅宗界は、中国禅を能動的に求めた時期から受動的に受容された時期へと移っていったとみることもできる。鎌倉前期には道元に代表されるような求法伝法を目的とした入宋僧が多かった。しかし後期以降は次第に文化摂取のための入宋・入元へと変化し、滞在年数も長くなっている。そしてこの時期には多くの優秀な中国禅僧が渡来したといわれており、日本の禅宗にとっては受動的受容の時期ということになる。鎌倉前期の禅宗界をみると、栄西が建立した京都建仁寺は真言・止観・禅の三宗を兼ねそなえた比叡山の末寺として存在し、栄西自身は鎌倉幕府のなかでは台密僧として活動しており、彼の門弟たちも同様であった。中国禅宗界を代表する無準師範の法を嗣いで帰国した円爾弁円は、9条道家の外護を受けて京都東山に本格的な禅寺の東福寺を建立しているが、同寺も真言・天台・禅の三宗を修する道場として出発したとされる。唱えた禅も顕密禅と称されるものであった。なおこの時期に、只管打坐(ただひたすら打ちすわる)という純粋禅を唱えていた道元は越前に赴くことになる。道元が越前に入ることを決断した要因の1つに、圧倒的な大伽藍である東福寺の建立を挙げる説があるほどである。このような日本の禅宗界の兼修禅的・顕密禅的な傾向を変化させたのは、寛元4年(1246)に渡来した蘭渓道隆であった。彼は宋朝風の純粋禅をもたらしたのである。彼が開山となった鎌倉の建長寺は、宋朝風の建築様式で建立された。この蘭渓が京都の建仁寺の住持となるに及んで、純粋禅は京都にももたらされた。武士のなかにも北条時頼のように、禅に深い理解を示す者も出てきた。ただし兀菴普寧は時頼が没すると、禅の理解者なしとして帰国した。北条時宗は、日本においても著名であった無準師範の高弟の環渓あたりを招こうとしたが、実際には法弟の無学祖元が弘安2年(1279)渡来した。蘭渓・無学ともに元の圧迫を避けての渡来という感じが強く、必ずしも一流の人物ではなかったようであるが、両者により宋朝風の純粋禅がもたらされた。元は再度の日本侵略に失敗すると、属国となるよう勧誘するために一山一寧という禅僧を送り込んできた。北条貞時はいっとき彼をとらえるが、のちには建長寺の住持としている。以後は日本からの招きに応じて渡来した人物が多く、東里弘会・東明慧日・霊山道陰などが挙げられる。このうち東明慧日は曹洞宗宏智派を伝えた人物である。彼およびのちに渡来した東陵永璵の法孫は、臨済宗で占められた五山派のなかでは珍しく曹洞宗として存在し、朝倉氏の外護を受けて越前にも寺院を有した。鎌倉最末期になると、清拙正澄や明極楚俊・竺仙梵僊などの一流の禅僧が招きに応じて渡来してくるようになる。明極は当時の入元僧の多くが彼のもとを訪れるほどの人物であり、竺仙も入元僧であれば一度は訪れるという古林清茂の高弟であった。これ以降は渡来僧は途絶え、わずかに曹洞宗宏智派の東陵永璵が観応2年(1351)渡来したに過ぎない。また日本の禅の水準も高まり、渡海してまで中国禅林から学ぼうとする者は少なくなっていた。そうしたなか鎌倉末期から南北朝期にかけて、渡海の経験のない、密教的要素を禅のなかに融合させた禅風をもつ夢窓疎石が活躍するようになり、その門派が勢力をもつようになっていったのである。禅宗の展開をみる場合、臨済宗と曹洞宗に分けてみるよりも、宗派にかかわらず京都・鎌倉の 五山を中心に展開した五山派(叢林)と地方に発展した林下(または林下禅林)とに分けて把握すべきであるという見解がある。そして中央から地方への伝播は三波に分けてとらえられている。まず第一波には越前永平寺開山の道元をはじめ、臨済宗の紀伊国由良西方寺(のちの興国寺)の開山である無本覚心、陸奥国松島円福寺の性才法心、山城国勝林寺の天祐思順などがおり、彼らは中国禅を積極的に求め、地方に隠遁し、教団形成には否定的であったという。このうち道元や天祐を除くほとんどの人びとは密教的性格をもっていた。彼らの活躍した時期は鎌倉前期であった。次に第2波は五山派寺院の門弟らで、上層の地方豪族の保護を受けて各地に寺院を建立した人びとである。それらの寺院は5山寺院の末寺となっていった。第三波には中国の中峰明本に参じて念仏禅を伝えた人びとが多く、隠遁的であった。近江国永源寺の寂室元光、常陸国法雲寺の復庵宗己、筑前国高源寺の遠渓祖雄、甲斐国天目山棲雲寺の業海本浄などで、南北朝前期から中期にかけての人たちである。またこの時期には、さまざまな理由で5山およびその周辺の寺院から地方へ出た人びともおり、一派を別立する者や、各地の他派へ流入する者などがいたのである。こうしたなかで、教団否定的であった各派も教団を形成するようになっていった。永平寺道元下の法孫のなかにも、永平寺から加賀大乗寺へ出た徹通義介や、能登永光寺・総持寺を開いた瑩山紹瑾などが登場するに及んで、曹洞宗は大規模な教団へと変化していった。五山派に属することなく各地に展開した林下禅林を代表するものには、永平寺道元下の曹洞宗や臨済宗の京都大徳寺・妙心寺の門流などが挙げられる。なお、曹洞宗でも宏智派は5山叢林のなかにあり、朝倉氏の保護を受けて越前にも進出してくることになるのである。
■6  
禅宗諸派 / 五山派寺院  
鎌倉幕府は13世紀末ごろに、次第に増加しつつあった禅宗寺院を統制するために、中国で行なわれていた五山官寺制度を取り入れている。しかし実際にその機能が整えられるのは南北朝の内乱期を経て室町期になってからであった。五山官寺制度は、全国のいわゆる五山派に属する寺院を五山-十刹-諸山の位次に組織することであり、その寺院への住持辞令ともいうべき公帖は将軍から発せられることになっていた(関東以東の諸山寺院の住持には関東公方から発せられた)。なお五山の上である南禅寺と京都五山第一の天竜寺に対しては公帖に加えて朝廷より綸旨が出され、紫衣被着が許可された。 
越前・若狭においても、五山制度が整うなかで京都・鎌倉の五山寺院から進出してきて、寺院を建立する禅僧が現われるようになってくる。 
まず、越前・若狭の五山寺院についてみておこう。越前では足羽郡弘祥寺・南条郡妙法寺の2か寺が十刹、今立郡の日円寺・善応寺と永徳寺(所在地未詳)が諸山、若狭では高成寺と安養寺が諸山に列せられていた。これらの寺院を開いた禅僧たちは、京都・鎌倉から越前・若狭に進出してきた人びとであった。  
諸山から十刹となった妙法寺 
少林山妙法寺の開山は鎌倉円覚寺の開山として知られる無学祖元、その門弟の高峰顕日、さらにその門弟の夢窓疎石の3人となっている(「扶桑五山記」)。夢窓は後醍醐天皇や足利尊氏・直義の外護を受け、同時期の禅宗界の中心となった人物である。この三開山のうちの誰の段階で建立されたのかは不明であるが、3名連記しなければならない理由が存在したに違いない。あるいは無学や高峰の時期に成立した寺を夢窓の時期になってさらに本格的な寺院としたというようなことかもしれない。夢窓派の寺院ということになろうか。現在は廃寺となっているが、武生市妙法寺町にあったと考えられている。暦応3年11月(1340)付の得江頼員軍忠状に「妙法寺城」の名がみえる。暦応3年にはすでに妙法寺が存在し、城山の名として用いられるほどになっていたのであるから、寺院の成立はそれよりも以前ということになる。いつごろ諸山に列せられたかは不明であるが、「心田播禅師疏」に怡菴という人物が妙法寺に入寺するさいの「山門疏」(新住持を迎える寺院で作る詩文)があるので、心田清播の没する文安4年(1447)以前であることは確かである。かなり以前とみてよかろう。このように怡菴が文安4年以前に住持となり、寛正4年10月13日(1463)には正伝首座が住持辞令ともいうべき公文(公帖)を受けている。しかし応仁の乱後に兵火にかかり、寺産も奪われるというありさまであった。永正4年(1507)の仙甫□登座元の入寺は、当寺が40年ぶりに粗末ながらも旧観に復した直後のものであった。月舟寿桂が法眷疏(法類による祝辞)を作成している(「幻雲稿」)。 
戦国期に入ると五山派寺院は一般に衰退へと向かうが、妙法寺の場合は寺勢を盛り返したようである。天文13年3月17日(1544)夢窓と兄弟弟子の元翁本元を開山とし同じ諸山に列せられていた日円寺に比べて、より上位に列せられるよう僧録である鹿苑院へ願い出ている。翌日鹿苑院僧録は、諸山に上下の位次はなく、僧侶の席次は公文を受けた順によるという返答書を送っている。その後も妙法寺は日円寺よりも上位の位次を求める運動を続けたのであろう、10年後の天文23年4月2日、十刹に列せられている。  
■7  
電光影裏斬春風 (でんこうようりにしゅんぷうをきる)  [仏光国師語録拾遺]  
夏目漱石は鎌倉円覚寺えんがくじの名僧、釈しゃく宗演そうえん(1859〜1919)について禅を学んだ経験があり、彼の代表作『吾輩は猫である』の中で哲学者八木独仙どくせんをしてときどき語らしめている言葉が、この「電光影裏に春風を斬る」の語です。  
すなわち、何でも昔  
しの坊主は人に斬り付けられた時、電光影裏に春風を斬るとか、何とか洒落しやれた事を云いったと云う話だぜ……。  
鎌倉円覚寺の開山かいさん、仏光ぶっこう国師は名は祖元そげん、別に無学むがくと号し、いわゆる南宋なんそうの末期、モンゴル民族の元げんの中国征服が着実に進みつつある時代に生まれ、十余歳にして径山きんざんの無準ぶじゅん和尚に弟子入りし、研鑚けんさんすること数年、ついに禅定ようやく熟して、師の法を嗣ぐに至ったのです。師の禅定の深さについては古来より評が高く、あるときなど、禅定に入ったまま、三日三晩、木仏の如く微動だにすることなく、ついにこれを見た僧たちは師が死んだのではないかと疑い、近くに寄って見ると微かに息をしていたので安心したという逸話も伝わっているほどです。  
後に台州だいしゅう真如寺しんにょじに住しましたが、南下した元兵が国土を蹂躙じゅうりんし、至るところで乱暴狼藉ろうぜきを働く噂を聞いて、温州うんしゅう能仁寺のうじんじに難をのがれます。しかし、元軍の侵攻は急で揚子江を渡り、温州に攻め入り能仁寺にも乱入して来ます。一山の僧たちは逃げまどうけれども、無学祖元禅師、ただ一人踏み止まります。  
禅堂にどっかと坐り禅定ぜんじょう三昧ざんまいに入って、泰然たいぜん自若じじゃく、動ずる気配もありません。群がり囲んだ元兵の一人が大刀を揮ふるって、師の首に当て、「坊主!起たて!」と怒鳴ります。そこで初めて禅定を出た禅師は、やおら、一円相いちえんそうを描いて静かに句を唱えます。  
乾坤けんこん、地として孤筇こきょうを卓たくする無し  
喜び得たり、人空にんくう、法も亦また空  
珍重す大元三尺さんじゃくの剣けん  
電光影裏ようりに春風を斬きる  
さすがの乱暴者も師の挙動に圧せられて、振り上げた大刀を収めてそそくさと退散します。  
「孤筇こきょう」とは中国四川しせん省に存する竹の一種で、節は普通の竹よりも長く、内部は空洞ではなくて樹木のようになっており、よく杖つえに利用されることから、杖じょうとか錫杖しゃくじょうの意に用いられます。  
――この広大こうだい無辺むへんの大地も、ただ一本の杖を立てる余地もないほどにあなた方「元げん」の天下である。どこかに行けと言われても、どこへ行くこともできません。しかし、私は幸いに一切いっさい皆空かいくうの理を体得することができたので、執着するものとて何一つない、無一物むいちもつの心境です。私を斬るというけれど、言ってみればその大刀も空、私も空。空で空を斬る、あたかも稲妻がピカリと閃ひらめく間に春風を斬るようなものではないか。さぞかし、手応えの無いことだろうよ!死ぬもよし、生きるもよし、どうぞご自由にこの老いぼれ坊主の首を斬りなさい!  
やくざの男が強がりをいって、「さあ殺せ!さあ殺せ!」とわめいているのとは自ずと違います。  
一切皆空かいくうの理。すなわち自分を含めて、目にうつるすべての物体が皆な実存するのではなく、いろいろな働きの関係の中にあるのであって、それを縁といいます。仮に寄り集まっているのに過ぎません。縁が尽きればまた分散してゆく、この現象を理論として了解するのではなく、実地に体験した一人の禅僧のぎりぎりの生死観しょうじかんが、この「電光影裏に春風を斬る」の語です。  
私たちにも好むと好まざるとにかかわらず、「死」がやってまいります。「武士道とは死ぬことと見つけたり」と言われるように、「死」という現実に対してガップリ四つに組んで生きていくことが、真摯な生き方ではないでしょうか。  
俳聖松尾芭蕉は、病床にあって、弟子たちが辞世じせいの句を求めたのに対して、「昨日の発句ほっくは今日の辞世、今日の発句は明日の辞世、我が生涯の言い捨てし句々、一句として辞世ならざるは無し」と答えたといわれます。私たちも明日、否、今日にも死が突然やってくるかもしれません。今を大切にしたいものです。  
因ちなみにこの無学むがく祖元そげん禅師、母国、宋そうの滅亡に遭うや、直ちに日本に渡来し、時の執権しっけん、北条時宗を心血そそいで薫陶くんとうし、彼をして二度にわたり元軍を撃滅せしめたことを思うと、何か不思議な感じがします。  
[ 参考 ]

 

血盆経 
中世前期の信仰 
中世後期の信仰 
道元
 
 
天海

 

(天文5年?-寛永20年 1536?-1643) 安土桃山時代から江戸時代初期の天台宗の僧。南光坊天海、智楽院とも呼ばれる。大僧正。諡号は慈眼大師。徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した。  
出自 
三浦氏の一族である蘆名氏の出自で、陸奥国に生まれたとされる。その根拠は、『東叡山開山慈眼大師縁起』に「陸奥国会津郡高田の郷にて給ひ。蘆名修理太夫平盛高の一族」と記されていることである。しかし同時にそこには「俗氏の事人のとひしかど、氏姓も行年わすれていさし知ず」とあり、天海は自らの出自を弟子たちに語らなかったとある。また、「将軍義澄の末の御子といへる人も侍り」と足利将軍落胤説も同時に載せられている。須藤光暉『大僧正天海』では諸文献の比較検討により、蘆名氏の女婿である船木兵部少輔景光の息子であると結論づけている。  
生年 
天海の生年はっきりしていないが、100歳以上の長命であったことは確かであるとされる。小槻孝亮の日記『孝亮宿祢日次記』には、天海が寛永9年4月17日(1632年6月4日)に日光東照宮薬師堂法華経万部供養の導師を行った記事があるが、天海はこの時97歳(数え年)であったという。これに従うと生年は天文5年(1536年)と推定され、没年は107歳(数え年108歳)となる。このほか永正7年(1510年)(上杉将士書上)、享禄3年(1530年)、天文11年(1542年)、天文23年(1554年)といった説がある。しかしこれらは比較的信頼度が低い史料が元であるとされている。須藤は12種の生年説を比較検討した上で、天文5年説を妥当としている。  
前半生 
龍興寺にて随風と号して出家した後、14歳で下野国宇都宮の粉河寺の皇舜に師事して天台宗を学び近江国の比叡山延暦寺や三井寺、大和国の興福寺などで学を深めたという。元亀2年(1571年)、織田信長により比叡山が焼き打ちに合うと武田信玄の招聘を受けて甲斐国に移住する。その後、蘆名盛氏の招聘を受けて黒川城(若松城)の稲荷堂に住し、さらに上野国の長楽寺を経て天正16年(1588年)に武蔵国の無量寿寺北院(現在の埼玉県川越市。後の喜多院)に移り、天海を号したとされる。  
喜多院住持 
天海としての足跡が明瞭となるのは、無量寿寺北院に来てからである。この時、江戸崎不動院の住持も兼任していた。浅草寺の史料によれば北条攻めの際、天海は浅草寺の住職忠豪とともに家康の陣幕にいたとする。これからは、天海が関東に赴いたのはそもそも家康のためであったことがうかがえる。豪海の後を受けて、天海が北院の住職となったのは慶長4年(1599年)のことである。その後、天海は家康の参謀として朝廷との交渉等の役割を担う。慶長12年(1607年)に比叡山探題執行を命ぜられ、南光坊に住して延暦寺再興に関わった。ただし、辻達也は天海が家康に用いられたのは慶長14年(1609年)からだとしている。この年、朝廷より権僧正の僧位を受けた。また慶長17年(1612年)に無量寿寺北院の再建に着手し、寺号を喜多院と改め関東天台の本山とする。慶長18年(1613年)には家康より日光山貫主を拝命し、本坊・光明院を再興する。大坂の役の発端となった方広寺鐘銘事件にも深く関わったとされる。  
後半生 
元和2年(1616年)、危篤となった家康は神号や葬儀に関する遺言を同年7月に大僧正となった天海らに託す。家康死後には神号を巡り崇伝、本多正純らと争う。天海は「権現」として山王一実神道で祭ることを主張し、崇伝は家康の神号を「明神」として吉田神道で祭るべきだと主張した。天海が2代将軍となった徳川秀忠の諮問に対し明神は豊国大明神として豊臣秀吉に対して送られた神号であり、その後の豊臣氏滅亡を考えると不吉であると提言したことで家康の神号は「東照大権現」と決定され家康の遺体を久能山から日光山に改葬した。その後3代将軍・徳川家光に仕え、寛永元年(1624年)には忍岡に寛永寺を創建する。江戸の都市計画にも関わり、陰陽道や風水に基づいた江戸鎮護を構想する。紫衣事件などで罪を受けた者の特赦を願い出ることもしばしばであり、大久保忠隣・福島正則・徳川忠長など赦免を願い出ている。これは輪王寺宮が特赦を願い出る慣例のもととなったという。堀直寄、柳生宗矩と共に沢庵宗彭の赦免にも奔走した。寛永20年(1643年)に108歳で没したとされる。その5年後に、朝廷より慈眼大師号を追贈された。墓所は栃木県日光市。慶安元年(1648年)には、天海が着手した『寛永寺版(天海版)大蔵経』が、幕府の支援により完成した。
寛永寺  
東京都台東区上野桜木一丁目にある天台宗関東総本山の寺院。山号は東叡山(とうえいざん)。東叡山寛永寺円頓院と号する。開基(創立者)は徳川家光、開山(初代住職)は天海、本尊は薬師如来である。徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠る。17世紀半ばからは皇族が歴代住職を務め、日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇ったが、慶応4年(1868年)の上野戦争で主要伽藍を焼失した。   
創建と伽藍整備  
江戸にあった徳川家の菩提寺のうち、増上寺は中世から存在した寺院であったが、寛永寺は天海を開山とし、徳川家により新たに建立された寺院である。徳川家康・秀忠・家光の3代の将軍が帰依していた天台宗の僧・天海は、江戸に天台宗の拠点となる大寺院を造営したいと考えていた。そのことを知った秀忠は、元和8年(1622年)、現在の上野公園の地を天海に与えた。当時この地には伊勢津藩主・藤堂高虎、弘前藩主・津軽信枚、越後村上藩主・堀直寄の3大名の下屋敷があったが、それらを収公して寺地にあてたものである。秀忠の隠居後、寛永2年(1625年)、3代将軍徳川家光の時に今の東京国立博物館の敷地に本坊(貫主の住坊)が建立された。この年が寛永寺の創立年とされている。当時の年号をとって寺号を「寛永寺」とし、京の都の鬼門(北東)を守る比叡山に対して、「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」とした。その後、寛永4年(1627年)には法華堂、常行堂、多宝塔、輪蔵、東照宮などが、寛永8年(1631年)には清水観音堂、五重塔などが建立されたが、これらの堂宇の大部分は幕末の上野戦争で失われた。このようにして徐々に伽藍の整備が進んだが、寺の中心になる堂である根本中堂が落慶したのは開創から70年以上経った元禄11年(1698年)、5代将軍徳川綱吉の時である。   
徳川家と寛永寺  
近世を通じ、寛永寺は徳川将軍家はもとより諸大名の帰依を受け、大いに栄えた。ただし、創建当初の寛永寺は徳川家の祈祷寺ではあったが、菩提寺という位置づけではなかった。徳川家の菩提寺は2代将軍秀忠の眠る、芝の増上寺(浄土宗寺院)だったのである。しかし、3代将軍家光は天海に大いに帰依し、自分の葬儀は寛永寺に行わせ、遺骸は家康の廟がある日光へ移すようにと遺言した。その後、4代家綱、5代綱吉の廟は上野に営まれ、寛永寺は増上寺とともに徳川家の菩提寺となった。当然、増上寺側からは反発があったが、6代将軍家宣の廟が増上寺に造営されて以降、歴代将軍の墓所は寛永寺と増上寺に交替で造営することが慣例となり、幕末まで続いた。また、吉宗以降は幕府財政倹約のため、寛永寺の門の数が削減されている。  
徳川家霊廟  
東京国立博物館裏手の寛永寺墓地には、徳川将軍15人のうち6人(家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定)が眠っている。厳有院(家綱)霊廟と常憲院(綱吉)霊廟の建築物群は、東京の観光名所として知られ旧国宝に指定されていた貴重な歴史的建造物であったが、昭和20年(1945年)の空襲で大部分を焼失。焼け残った以下の建造物は現在重要文化財に指定されている。  
厳有院霊廟勅額門、同水盤舎、同奥院唐門、同奥院宝塔  
常憲院霊廟勅額門、同水盤舎、同奥院唐門、同奥院宝塔  
輪王寺宮  
寛永20年(1643年)、天海が没した後、弟子の毘沙門堂門跡・公海が2世貫主として入山する。その後を継いで3世貫主となったのは、後水尾天皇第3皇子の守澄法親王である。法親王は承応3年(1654年)、寛永寺貫主となり、日光山主を兼ね、翌明暦元年(1655年)には天台座主を兼ねることとなった。以後、幕末の15世公現入道親王(北白川宮能久親王)に至るまで、皇子または天皇の猶子が寛永寺の貫主を務めた。貫主は「輪王寺宮」と尊称され、水戸・尾張・紀州の徳川御三家と並ぶ格式と絶大な宗教的権威をもっていた。歴代輪王寺宮は、一部例外もあるが、原則として天台座主を兼務し、東叡山・日光山・比叡山の3山を管掌することから「三山管領宮」とも呼ばれた。東国に皇族を常駐させることで、西国で天皇家を戴いて倒幕勢力が決起した際には、関東では輪王寺宮を「天皇」として擁立し、気学における四神相応の土地相とし、徳川家を一方的な「朝敵」とさせない為の安全装置だったという説もある。   
衰退と復興  
江戸時代後期、最盛期の寛永寺は寺域30万5千余坪、寺領11,790石を有し、子院は36か院に及んだ(現存するのは19か院)。現在の上野公園のほぼ全域が寛永寺の旧境内である。最盛期には、今の上野公園の2倍の面積の寺地を有していたというから、その規模の大きさが想像できる。たとえば、現在の東京国立博物館の敷地は寛永寺本坊跡であり、博物館南側の大噴水広場は、根本中堂のあったところである。上野の山は、幕末の慶応4年(1868年)、彰義隊の戦(上野戦争)の戦場となったことから、根本中堂をはじめ、主要な堂宇はこの時焼失し、壊滅的打撃を受けた。明治維新後、境内地は没収され、輪王寺宮は還俗、明治6年(1873年)には旧境内地が公園用地に指定されるなどして寺は廃止状態に追い込まれるが、明治8年(1875年)に再発足。もと子院の1つの大慈院があった場所に川越の喜多院(天海が住していた寺)の本地堂を移築して本堂(中堂)とし、ようやく復興したものの、寺の規模は大幅に縮小した。第二次世界大戦の空襲では、当時残っていた徳川家霊廟の建物の大部分が焼失した。上野戦争で焼け残り、第二次世界大戦の戦災もまぬがれたいくつかの古建築は、上野公園内の各所に点在している。 
増上寺 
仕事絡みで時々JR浜松町駅を利用することがあるが、夏の暑い時期など、ホームに降りた瞬間、湿気を含んだ海風の気配と、潮の香りを感じることがある。浜松町という場所は、それほど海が近い。JR浜松町駅北口から竹芝ふ頭(伊豆・小笠原諸島への定期便が出ているほか、東京湾遊覧船などにもここから乗れる)までは歩いて数分の距離だ。この竹芝ふ頭に続く道を何度も歩くうちに、遅まきながらこの道の起点が増上寺だということに気付いた。この道は増上寺の参道だ。しかも、はっきりと増上寺と海を結ぶ意図を持って作られた道なのである。  
1680年製の古地図で確認してみたところ、増上寺の向きも、この道の道筋も、江戸初期から変わっていないことが分かった。ただ、芝大門交差点から間近い浜松町駅の辺りからは、江戸時代には海岸だったようだから、増上寺から海までの距離は当時500メートル程度しかなかったのではないだろうか。  
海と増上寺を結ぶ道、何か意味がありそうだ。1858年の古地図を使って、増上寺と海を結ぶ道を示してみた。それにしてもこの地図を眺めるにつけ、増上寺の寺域の広大さには驚かされる。地図で赤く塗られているのは寺および寺の関連施設だ。増上寺の周囲を取り囲むように立ち並ぶ赤色の建物は、全て僧の宿舎・学寮と「坊中寺院」と呼ばれる塔頭(西の金地院や、北側の愛宕山周辺の寺は除く)。なにしろ、増上寺には修学僧が常時3000人も学んでいたというのだから、関連施設の数もハンパじゃない。これらの関連施設を含む境内の広さは、なんと25万坪にも及ぶものだったという。  
建物の広さに関して、メディアなどではよく「東京ドーム〇個分」と表現されることがあるが、その物差しで言えば「東京ドーム18個分」ということになる。・・・多分そう言われても全くイメージが湧かないと思うが、とりあえず、「途方もない広さ」であることは間違いない。  
ところで、増上寺に関してよく言われるのが、江戸城の裏鬼門に位置する鬼門封じスポットにあたるということだ。徳川家の菩提寺である寛永寺と増上寺は、各々江戸城の鬼門・裏鬼門を護るべくロケーションされたとか・・・江戸市街の建設に風水の概念を取り入れることは、家康〜家光のアドバイザーであった天海和尚の発案とも言われる。実際、増上寺は、もともと紀尾井町辺りにあったものを、1598年にわざわざ芝に移転させられている。移転先が芝でなければならない何らかの事情があったことは確かだ。ただ、家康(寛永寺については家康の死後、家光の時代に建立された)ほどの百戦錬磨の武士が、陰陽道の呪術的なセキュリティーバリア理論を優先して街づくりを進めたとは、到底考えられない。それに、以前から気になっていることだが、増上寺は江戸城の裏鬼門というには若干東に偏りすぎている気がする。純粋に裏鬼門の護りという機能を求めるのであれば、もっと西側に造られるべきだったのではないだろうか。あるいは、増上寺のロケーションにはもともと、裏鬼門の鬼門封じという意図はなかったのでは・・・?  
仮に増上寺が江戸城裏鬼門を護る意味で芝に配されたのだとしても、家康が天海の案を取り入れたのは、それが呪術的な方位学に適っていただけでなく、現実の要請に重ね合わせた結果から芝が最適なロケーションと判断したからだろう。その「現実の必要性」の上で、増上寺の位置は、江戸城の裏鬼門=南西よりも少し東よりでなければならなかったのだと思う。  
では、その必要性とは何なのか?寛永寺と増上寺のロケーションの必然性に関しては、もうひとつのポピュラーな説がある。こちらは、軍事面からのアプローチだ。  
増上寺や寛永寺のロケーションについては、江戸城の鬼門封じという以外に、江戸から各地への幹線道となる東海道・奥州街道との関係が指摘されることがある。増上寺は寛永寺よりも早く、1598年から芝の現在地に移転しているが、たしかに、その場所はまさに東海道の道筋にあたっている。  
現在増上寺大門の建つ交差点・芝大門交差点で参道と交差しているのは日比谷通りだが、芝大門交差点から海岸方向へ参道を戻った一つ目の交差点は第一京浜道、すなわち旧東海道と交わる。つまり、増上寺が海側を向いているのは、東海道の街道筋に向かって建てられているため、という解釈も成り立つわけだ。現在のロケーションで見ると増上寺から旧東海道までは少し距離がある感じがするが、江戸期の地図では、東海道道筋までは増上寺の付属施設で固められており、実質的に増上寺は東海道に面しているような格好になっていた。  
東海道を江戸方面へ下ってきて最後の宿場となるのが品川宿。品川を出ていよいよ江戸市街に入るという丁度江戸の入口のあたりに、芝は位置している。そういう意味で、東海道沿いに有事には砦に早変わりする寺というハコ物を配置することは、江戸を防御する上で必要な措置だったのかもしれない。さらに、品川宿−江戸間でも特に芝という場所が選ばれたことについて、ひとつ考えられる理由がある。それは、愛宕山の存在だ。  
現在も、虎ノ門から愛宕山下を通り、増上寺に続く道があるが、虎ノ門からこの道を南に向かって歩き始めると、じきに大きな東京タワーが見えてくる。東京タワーは増上寺の境内だった場所に建てられた東京のランドマーク。とても分かりやすい増上寺の目印でもある。東京タワーが近くに見えるということは、増上寺が近いということだ。虎ノ門から増上寺までは、直線距離にして約2キロ程度しかない。そして、その途上にあるのが、愛宕山。江戸市街で最も高く見晴らしのいい場所として知られ、江戸城にも近い。陸上戦では、見晴らしのいい高台は必ず陣地になる。戦争を知らない私にはあまりピンと来ない話だが、恐らく愛宕山のような場所は、軍事上要注意地点だったに違いない。にもかかわらず、東海道を増上寺のあたりで脇道に入ると、愛宕山まではすぐの距離だ。そして、愛宕山から江戸城も、また至近距離にある。何故増上寺は芝にあるのか・・・という問題を考える時、愛宕山の存在はひとつの大きな手がかりになる気がする。  
愛宕山に注目しながら1860年の江戸の地図を眺めると、ちょっと面白いことが分かる。愛宕山の山頂には愛宕神社があるわけだが、これは江戸開府の時家康が京都の愛宕神社を勧請したものだ。江戸市街の防火祈願のためと言われるが、勿論それだけではなく、この丘陵を管理下に置くことが大きな目的のひとつだったのだろう。さらに、まるで愛宕山の周囲を取り囲むように、寺が立ち並ぶ。愛宕山の裏手を守るように細長い構えを持つのが天徳寺。そして、愛宕山と増上寺との間をつなぐような位置に、青松寺。このほかにもいくつかの寺が、愛宕山の周囲を固めている。地図上で寺は赤く表示されている(青松寺は何故か白だが)のだが、愛宕山の周囲から増上寺までは、真っ赤だ。この辺りは、いわゆる寺町なのである。  
ところで何故この場所に寺が多いのか?・・・それは、ここに寺町を作る意図をもって寺が集められたからである。天徳寺・青松寺とも、増上寺と同じく家康の時代にこの場所に移転させられた寺だという。移転の発端は江戸城の拡張のためだが、敢えてこの地が移転先に選ばれたのは理由があってのことだろう。また、両寺とも、増上寺同様徳川幕府に厚遇された寺でもある。  
こうした事実を見ても、東海道から江戸城へのアプローチ、特にその中継地点で江戸を見渡せる場所にある愛宕山へのアプローチを阻む目的で、この一帯に寺が重点配備されたという事情が見えてくる。寺は江戸時代地域住人の宗教・身元の管理にも利用されていたことは知られているが、軍事的にも幕府機構に深く組み込まれていたのだと思う。増上寺が芝に置かれたのも、愛宕山周辺を寺=有事のための要塞で固める計画の一環としてのことだったのではないだろうか。  
ちなみに虎ノ門付近から愛宕山下を通り、増上寺に向かう道は、将軍の御成り道でもあったようだ。この道に面して愛宕神社の鳥居があり、神社へは急斜面に設けられた険しい石段を登らなければならない。この石段を、別名「出世の石段」という。この名の由来は、将軍家光が増上寺に参詣する途上、家臣に馬に乗ったまま石段を駆け上がる競争をさせたという逸話から来たものだという。将軍が増上寺に参詣する際には、虎ノ門が使われたのだろうか?  
時代を遡ると、家康が駿府と江戸を行き来するのに使っていたと言われる中原街道は、現在の桜田通り。増上寺御成り道の一本西側にある通りで、その起点はやはり虎ノ門だ。江戸初期には、虎ノ門界隈は主要街道の突き当りだったわけだ。虎ノ門が、何故虎の方角(東北東)ではないのに「虎ノ門」なのかについては謎とされているようだが、街道との関係などを見ると、この門は江戸城防御の上で何か重要な意味を持っていたように思える。(ただ、何故「虎」なのかという問題とは、結びつかないが・・・)  
輪王寺1 
お寺やお堂、15の支院の総称で勝道上人が天平神護(てんぴょうじんご)2年(766)神橋のそばに四本竜寺(しほんりゅうじ)を建立したのが始まり。平安時代の弘仁元年(810)朝廷から一山の総号として満願寺の名をもらい、後に円仁(えんにん)が来山して天台宗となって現在に至る。鎌倉時代には弁覚(べんがく)が光明院(こうみょういん)を創設して一山の本院とし、天皇家から門跡を招く皇族座主の制度が始まった。安土桃山時代には小田原の北条氏に加担したため、豊臣秀吉に寺領を没収されて一時衰退した。江戸時代、慶長18年(1613)将軍の相談役・天海が貫主(かんす)となり、東照宮を創建してから日光は一大聖地に躍進した。明暦元年(1655)に守澄法親王(しゅちょうほうしんのう)が輪王寺宮を称し、寺名の輪王寺はこれによる。   
輪王寺2 
輪王寺は日光山輪王寺といい、二荒山(ふたらさん)神社・東照宮とともに、日光の2社1寺として、日光山の運営にあたりました。開創は天平神護2年(766)沙門の勝道上人が初めて日光山内にいたり、四本龍寺を建立しました。当地は回峰修験の道場であり、観音信仰の霊地でした。 嘉祥元年(848)、円仁が勅を奉じここに来て、三仏堂・常行堂・法華堂を創建し、鎮護国家の道場としました。円仁入山の際、山内37ケ寺の支院ができ、その総号を「一乗実相院」といい、円仁を開祖としました。これを機に当山は天台宗に帰することになりました。  
江戸時代の元和3年(1617)、天海は徳川家康の遺骸を久能山から日光山に遷座し、山王一実神道の祭祀形式によって家康を東照大権現として祀り、日光廟(東照社)を創建しました。 江戸時代を通じ、代々の日光山主は上野の東叡山寛永寺の宮が兼務し、天台一宗を管理しました。  
明治4年(1871)、神仏分離令が発布せられると、東照権現は東照宮となり、輪王寺の称号や東叡山の山号もすべて廃され、寺は旧称の満願寺と改称されましたが、明治16年(1883)に輪王寺の寺号を許され、2年後には門跡号が充許され、今日の日光山輪王寺となりました。  
本堂の三仏堂は、明治14年(1881)二荒山境内から現在の地に移されました。 主な国宝として、輪王寺大猷院霊廟や『大般涅槃経集解』等があります。  
東照宮 
徳川家康は慶長8年(1603、征夷大将軍になり任ぜられ江戸に幕府を開く。秀忠に2代将軍の座を譲ってからも大御所として天下ににらみをきかせ、重要な遺言を残した。「遺体は久能山におさめ・・・一周忌が過ぎたなら日光山に小さな堂を建て勧請し、神としてまつること。そして八州の鎮守となろう・・・」 
元和2年4月17日(1616)家康は駿府で75歳の生涯を閉じる。翌年、日光に社殿が造営され、朝廷から東照大権現の神号が贈られ、遺言どおり神としてまつられた。 
「八州の鎮守」とは現代風にいえば「日本全土の平和の守り神」である。日光は江戸のほぼ真北にあり、不動の北極星の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたのである。家康が望んだ「小さな堂」は、やがて家康を敬愛する3代将軍家光によって、いま見るような絢爛豪華なものに生まれ変った。現存建物のほとんどは「寛永の大造替」で建替えられたもの。  
大山咋神 (おおやまくいのかみ / 山末之大主神) 
咋・杭と同義で、山に杭(くい)を打って「ここは私の所有地」とする意、この神が山の所有者ということか。大年神(おおとしがみ)と天知迦流美豆比売(あめちかるみづひめ)の子で、素戔嗚神の孫、大山祇神の曾孫に当たる。稲荷神社の祭神である宇迦之御魂神の甥、竃の神である奥津日子神、奥津比売神の弟に当たる。 
古事記に「この神は近つ淡海国の日枝山に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神なり」とあり、比叡山の山麓の大津市・日吉大社と、京都の松尾大社に鎮座。全国の日吉神社・日枝神社・山王神社、松尾神社に勧請されている。日枝と比叡は字を変えて書いたもので、もともと比叡山はこの神の土地である。比叡山に延暦寺が入って天台宗が興きてからは、その守護神にもなった。山王とは比叡山の王という意味で、天台宗をもとする山王神道・山王一実神道も興った。日光に家康を山王一実神道で祭る東照宮を作った天海上人は 、比叡山をまるごと日光に勧請して江戸の守護とした。山王或いは比叡の神という場合、大比叡・小比叡という区別がされ、小比叡が元からここにいた大山咋神で、大比叡は後に勧請した三輪の大物主神である。日吉大社の場合、東本宮に大山咋神、西本宮に大物主神が鎮座 。
■2 
天文5年-寛永20年(1536-1643) 
「天海僧正は人間の中の仏なり。恨まれるのは出会いが遅かったことだ」(家康) 
通称・南光坊天海。安土桃山-江戸初期の天台宗・大僧正。徳川のブレーンとして家康、2代秀忠、3代家光に仕え、幕府の設立と安定に努めた。別名「幕府の知恵袋」「黒衣の宰相」。陸奥・会津高田出身。蘆名兵太郎。10歳で出家し「隋風」と名乗り、13歳で宇都宮粉河寺に学ぶ。1553年、17歳で比叡山に学僧として入り、三井寺や興福寺でも熱心に学んだようだ。1558年(22歳)、母が病没したため故郷にいったん戻り、24歳で下野国(栃木県)足利学校に学び、29歳で上野国(群馬県)善昌寺で修行を続けたとのこと。1571年(35歳)、比叡山に帰ったが信長による全山焼き討ちで入れなかった。甲府に入り武田信玄の元に逗留。1573年(37歳)、上野国長楽寺で修行し、会津に戻って黒川稲荷堂の住職となる。1590年(54歳)、武蔵国(埼玉県)川越・喜多院の僧正豪海の弟子となり、この頃名前を「天海」と改めた。同年、江戸城に入城した家康に師・豪海の代理として謁見。翌年、常陸国(茨城県)江戸崎不動院と無量寿寺北院を兼務。 
天海は武芸に長じていたようで、1600年(64歳)の関ヶ原合戦に従軍したと思われる。「関ヶ原合戦図屏風」に東軍最後方の家康の傍で、鎧をまとった天海が描かれているからだ(絵には「南光坊」と書かれている)。 
ただし!ここまでは「……と、言われている」。つまり前半生は全くの謎。確定されている経歴はこれ以降。 
1607年、71歳の時に家康から比叡山の探題奉公(幕府の要職)に任命され、信長の焼き討ちで衰退していた延暦寺を再興。これを機に積極的に幕政に参画するようになる。1612年(76歳)、埼玉の喜多院の住職となり同院を関東天台宗の総本山とする。家康は寺領300石を寄進。翌年、日光山第53世貫主を家康から拝命。豊臣家が滅亡した大坂の陣では、合戦の際に作戦会議で家康に意見を述べていることから、戦略にも優れていたようだ。豊臣に余程深い恨みがあったのかも(天海の甲冑は現在大阪城に展示されている)。 
1616年(80歳)、家康は他界の15日前に遺言を天海に伝え、葬儀の導師を務める。僧界トップの大僧正に任ぜられ、家康に「東照大権現」(“権現”は天台系)を贈った。当初、“東照大明神”とする動きがあった。天海は「明神」に猛反対し「権現」として祀られるようになった。秀吉が「豊国大明神」だったからだ。家康の亡骸は静岡・久能山に埋葬され、翌年に日光へ改葬、東照社(東照宮)が建立された。 1625年(89歳)、上野に寛永寺を創建し、同寺は後に徳川家の霊廟となった。京都の鬼門(北東)を比叡山が守るように、江戸の北東を守護するべく“東の叡山”という意味で寛永寺の山号を「東叡山」と名付けた。1636年(100歳)、家光の大号令で日光東照宮が現在のように大増築される。 
以後、1643年に107歳という仰天するほどの長寿で他界するまで、その身を天台宗の布教に捧げた。没後5年目に謚号(しごう、死後の名)として「慈眼(じげん)大師」が朝廷から贈られた。この号が贈られたのは平安時代以来700年ぶり。それほどの快挙だ。天海は仏法だけでなく、風水や陰陽道にも深く通じており、天海がこれらの知識をもとに江戸の都市計画を練ったとされている。 
天海は長生きしただけに「正体」をめぐる伝説も多い。11代足利義澄の子、或は12代足利義晴の子であるとか、第4次「川中島の戦い」を見物していたとか、没年にも諸説あり最高で135歳!だが、最も有名な伝説は「天海=明智光秀説」。これがトンデモ話と笑い飛ばせないのは、奇妙な一致点が山ほどあるからだ。 
家康の墓所、日光東照宮は徳川家の「葵」紋がいたる所にあるけれど、なぜか入口の陽明門を守る2対の座像(木像の武士)は、袴の紋が明智家の「桔梗」紋!しかもこの武士像は寅の毛皮の上に座っている。寅は家康の干支であり、この門を造営した天海は徳川の守護神であると同時に、文字通り“家康を尻に敷く”ようだ。また、門前の鐘楼のヒサシの裏にも無数の桔梗紋が刻まれている。どうして徳川を守護するように明智の家紋が密かに混じっているのか。 
日光の華厳の滝が見える平地は「明智平」と呼ばれており、名付けたのは天海。なぜ徳川の聖地に明智の名が?(異説では元々“明地平”であり、訪れた天海が「懐かしい響きのする名前だ」と感慨深く語ったと伝わる) 
2代秀忠の「秀」と、3代家光の「光」をあわせれば「光秀」。 
天海の着用した鎧が残る。天海は僧兵ではなく学僧だ。なぜなのか。 
年齢的にも光秀と天海の伝えられている生年は数年しか変わらない。 
家光の乳母、春日局は光秀の重臣・斎藤利三の娘。斎藤は本能寺で先陣を切った武将であり、まるで徳川は斉藤を信長暗殺の功労者と見るような異様な人選。まして家光の母は信長の妹・お市の娘。謀反人の子を将軍の養育係にするほど徳川は斉藤(および光秀)に恩があったのか。※しかも表向きは公募制で選ばれたことになっている。 
強力な物的証拠もある。比叡山の松禅院には「願主光秀」と刻まれた石灯籠が現存するが、寄進日がなんと慶長20年(1615年)。日付は大坂冬の陣の直後。つまり、冬の陣で倒せなかった豊臣を、夏の陣で征伐できるようにと“願”をかけたのだ。※この石灯籠、移転前は長寿院にあり同院に拓本もある。 
家康の死後の名は「東照大権現」だが、当初は“東照大明神”とする動きがあった。天海は「明神」に猛反対し「権現」として祀られるようになった。秀吉が「豊国大明神」であったからだ。 
そして極めつけ。光秀が築城した亀山城に近い「慈眼(じげん)禅寺」には彼の位牌&木像が安置されているが、没後に朝廷から贈られた名前(号)が「慈眼大師」。※大師号は空前絶後の名誉。“大師”とは“天皇の先生”の意。つまり、信長を葬った光秀は朝廷(天皇)の大恩人ということ。 
天海の墓は滋賀坂本と家康が眠る日光東照宮に隣接した輪王寺・慈眼堂にある。坂本は明智光秀の居城・坂本城があった場所で、山崎の合戦の際に、この地で光秀の妻や娘も皆死んだ。天海の墓と明智一族の墓まで歩いていける距離にある。そして天海の墓の側には家康の供養塔(東照大権現供養塔)が建っている。明智一族の終焉の地に天海の墓と家康の供養塔…実に意味深だ。 
日光の墓は慈眼堂の拝殿背後にあり、天海の命日(10月2日)は慈眼堂で長講会(じょうごえ、法要)が営まれ、天海の大好物であり、長寿の秘訣という「納豆汁」がお供えされる。 
寛永寺に眠る将軍は、4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定の6人。天海の髪が納められた「天海僧正毛髪塔」もある。 
家光の遺言は「死後も東照大権現(家康)にお仕えする」。これを受け4代家綱が日光に家光廟大猷院を建立した。家光の霊廟は家康の方を向いている。 
光秀であった場合、前半生の経歴を比叡山で出会った「隋風」から買ったのではないか、或は比叡山で亡くなった「隋風」に成りすましていたのではないか、そんな説もある。比叡山にとって光秀は、宿敵・信長を倒した英雄であり、どんな協力も惜しまなかっただろう。
年表  
1536年、天文5年 (所伝) 福島県大沼郡会津美里町の高田で誕生。長男。幼名は、兵太郎。父は舩木。母は蘆名氏の娘。  
1546年 10歳 実家の近所の龍興寺(りゅうこうじ)で出家、「隋風」と称します。3年間修行。龍興寺は天台宗の円仁(えんにん)創建の古刹(こさつ、古い寺)。円仁は、最澄の弟子で、最後の遣唐使。天台宗を完成させた世界的な偉人。天台宗は仏教の力で国を導くという国家鎮護を信仰の核にしています。   
1549年 13歳 宇都宮市の粉河寺(こかわでら、現・宝蔵寺、ほうぞうじ)の住職に弟子入り。住職の皇舜は高僧。  
1553年 17歳 天台宗の総本山、比叡山に入山、実全に師事、天台教学を学びます。比叡山は、最澄が山を開いてから、円仁、円珍、良源、源信、良忍、法然、親鸞、一遍、栄西、道元、日蓮など各宗教の祖を生んだので、日本仏教の母とよばれています。またさまざまな芸能を生んだので、「山」といえば比叡山をさしました。  
1556年 比叡山を下山。大津の三井寺(みいでら、現・園城寺おんじょうじ)のに学びます。奈良、興福寺などで学びます。林和成重に日本書紀を学びます。法相(ほっそう)、三輪を学びます。   
1558年 22歳 実母病気のため、時会津へ帰省します。母は逝去。  
1560年 栃木の足利学校に入り、4年間にわたり、儒学、漢学、易学、国学、経済学、天文学、医学、兵学を習得します。天海は、粉河寺、三井寺、興福寺、足利学校と学業を続けます。  
1564年 群馬県太田市世良田の善昌寺に学びます。   
1571年 35歳 比叡山入山を試みますが、比叡山が織田信長により焼き打ちされ果たせませんでした。天海は、 明智光秀の世話で、山門の学僧、衆徒と共に、武田信玄の元に身を寄せます。武田信玄に請われ、山門の学僧と論議をしたり、天台宗について講義したりします。  
1573年  会津に戻り数年間滞在。   
1577年 41歳 蘆名氏の要請を受けて、群馬県太田市世良田の善昌寺(現・長楽寺)で5年間修行。天海は塔頭の住職に。会津若松の黒川稲荷堂の別当(長官)をつとめます。このように若いときから、天海は流浪の学問僧でした。   
1590年 54歳 関東有数の大寺院、川越の無量寿寺の北院(のちの喜多院)に移り、名を天海と改めます。無量寿寺は円仁(えんにん)が創建しました。天海が11歳で入った会津の龍興寺も円仁が創建したものでした。無量寿寺は天台宗の関東総本山で580の寺を従えていました。しかし、このころは北院も中院も荒れ果てており、南院は墓地を残すのみでした。この年天海は、初めて江戸入りを果たした家康に多くの僧とともによばれました(諸説あり)。このとき天海は不老長寿の秘薬として、川越の納豆を献上しました。家康は、この納豆をいたく気に入りました。や がてこの納豆は芝崎納豆とよばれ、江戸の名物になりました。いまも芝崎納豆は、神田神社の参道のみやげ店で販売しています。  
天海はいよいよ喜多院を根拠地に関東に根をおろします。   
1589年 蘆名氏が伊達政宗に攻められます。天海は蘆名盛重とともに白川に逃れます。1590年(?)蘆名盛重が常陸の江戸崎に移るのに従い、江戸崎不動尊院を再興し、住職も兼ねます。  
1599年 63歳 北院の住職・豪海没し、天海は無量寿寺北院の第27世住職に。北院は、のちに喜多院になります。天海の飛躍がはじまります。  
1603年 67歳 天海、家康に登用されます。江戸幕府開幕の年です。天海は神田神社に平将門(たいらのまさかど)の霊を大手町(旧称は芝崎)から今の地に分祀(ぶんし)し、江戸の町の守護神にしました。家康が江戸幕府を開いた年です。将門は朝廷に反抗した朝廷の敵でした。天海は、民衆に人気のあった朝敵の将門を江戸の街を守る神様にすることにより、江戸の民が尊皇思想をもたないようにしくみました。   
1607年 71歳 この年から5年間、家康の依頼で比叡山探題奉行となり、内輪もめの激しかった延暦寺の再興に着手します。探題(たんだい)とは、宗教の最高の権威者のことです。延暦寺の南光坊に住したことから、南光坊天海とよばれました。 偶然ながら、喜多院第57世の塩入亮忠(りょうちゅう、1889−1971、大正大学学長)も南光坊住職をつとめた。 家康は、喜多院を東の比叡山と言う意味で、東叡山という山号にしました。  
1608年 駿府城で家康に「山王一実神道(さんのういちじつしんとう)」を講義。この後もしばしば家康に招かれ講義します。 家康(1542-1616)の将軍としての在職期間は1603年から1605年までです。その後は大御所として駿河に移転しました。駿河は、京都と江戸の中間にあり、両方ににらみをきかせることが出来ました。  
1609年 73歳 後陽成天皇に天台宗について説きます。天海は天台宗の権僧正(ごんのそうじょう)に。権僧正は、僧正に次ぐ地位です。  
1610年 天台宗の広学堅義(りゅうぎ)探題に選ばれます。  
1611年 僧正に任じられ、後陽成天皇から毘沙門堂門室の号を賜ります。家康は川越で放鷹(ほうよう)し、天海に面会し、寺領を寄贈します。天海は、家康の指示で、川越の無量寿寺北院を喜多院と改め、喜多院を関東天台宗の総本山に定め、山号を東叡山に変更します。家康は、関東天台宗の全権を喜多院に与えることにより、朝廷側の比叡山の勢力を関東に移すことにします。  
1612年 76歳 家康は、川越の無量寿寺北院を喜多院と改め、寺領300石を寄進し、喜多院を関東天台宗の総本山に定め、山号を東叡山に変更します。家康は、関東天台宗の全権を喜多院に与えることにより、朝廷側の比叡山の勢力を関東に移すことに成功します。家康、喜多院に天海を訪問します。  
1613年 77歳 家康は71歳 天海、家康を駿府城に訪問し、天台論議法要をおこないます。家康は喜多院に参詣し、天海の天台論議法要を聴聞します。天海は、日光山の貫首(かんじゅ)も兼任し、日光山の復興にとりかかります。貫首とは、天台宗の大寺の住職のことです。喜多院で、家康と天海が仏法を談じます。家康は、喜多院に寺領500石を寄進します。  
1614年 78歳 家康は72歳 3月 天海、上洛します。4月 御所で『延喜式』の書写を請います。5月 天海、家康に天台血脈を授けます。6月 9日、13日、17日、22日、25日、18日、天海は、駿府城で家康に天台論議法要をおこないます。7月 3日、18日、21日、27日、駿府城で家康に天台論議法要をおこないます。9月 9日、11日、15日、18日、21日、27日、駿府城で家康に天台論議法要などをおこないます。11月 家康の大阪出陣に従って上洛し、家康のために御所の貴重書を借用します。また、天皇、上皇、家康間の講和につとめます。  
1615年 1月 後陽成天皇より御衣、燕尾帽、鳩杖を賜る。6月 二条城で天台論議法要をおこない、家康が聴聞します。10月 江戸城で天台論議法要をおこないます。  
1616年 80歳 家康は74歳 2月 家康の病気見舞いのため、駿府に急行します。4月 藤堂高虎に受戒します。4月2日 家康、駿府にて、本田正純、金地院崇伝(こんちいんすうでん)、天海の3人に遺言します。家康は、自分の死に及び、病床に3人をよび遺言を残しました。天海もその1人でした。それほどまでに天海は頼りにされていました。天海は、家康の神名を東照大権現(とうしょうだいごんげん)とつけました。伊勢神宮の天照大神(あまてらすおおみかみ)を意識し、東国の天照(あまてらす)という意味で東照大権現にしたのでしょう。東照大権現とは、家康が東照という神となって仮に(=権)あらわれている姿ということです。家康をまつる東照宮は全国に100以上あります。このうち、久能山東照宮、日光東照宮、および仙波東照宮を3大東照宮とよびます。川越の仙波東照宮は、1617年、家康の亡きがらを久能山から日光へ運ぶ途中、わざわざ喜多院へ寄り法要が営まれたことにより建立されました。4月17日 家康が死去します。 天海は葬儀の導師となり、静岡の久能山に埋葬します。このとき家光は13歳。家光は生涯で9回川越を訪問しています。6月 上洛し、家康の神号を奉請します。7月 大僧正に任じられます。9月 江戸にて家康の神号勅許を復命します。10月 日光山にのぼり、東照社造営の縄張りをはじめます。   
1617年 81歳 2月 家康に神号が朝廷から贈られます。神号は天海の主張通り「東昭大権現」でした。天海は導師となり、家康の遺骸を久能山から日光へ移送。 3月15日 駿府の久能山にのぼり、徳川家康の霊柩をみずから掘り起こし、自分が住職をしている川越の喜多院で実に4日間もの大法要を営み、日光におさめました。ご神霊の行列は1300人にも及びました。葬儀の導師をつとめた天海はこのとき81歳でした。今に続く日光の「千人武者行列」は、久能山から日光へのこのときの行列を模したものです。天海は、伊勢神宮の天照大神(あまてらすおおみかみ)に対して、家康を「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」としました。東の天照(あまてらす)という意味です。権現とは「仮の姿」ということで、ほんとは仏様だが、いまは仮に「東の天照大神だ」ということです。家康をまつる東照宮は、全国に130ほどあります。川越の仙波東照宮が、日光東照宮、久能山東照宮とともに三大東照宮とよばれているのは遺骸のコースが、久能山→川越→日光だったからです。川越は日光からの気のエネルギーの中継所でもありました。 3月23日 川越の喜多院に到着。天海、4日間にわたり法要します。以降、一行1300人は、川越から忍(おし)、館林、佐野、鹿沼、日光へ向かいます。 4月16日 家康の神像を正殿に安置します。儀式は天海の「山王一実神道(さんのういちじつしんとう)」でおこないました。山王一実神道は、すべての神の教えは、日吉(ひえ)山王の教えに帰するという教えです。つまり、すべての神々はみな山王の分身であるということです。天海は山王権現を東照大権現に置き換えました。山王一実神道の宗教上の目的は「現世安穏、後生善処」、つまり徳川幕藩体制と徳川家を支える支柱の確立でした。徳川幕府の日本支配と国家安泰をめざしていました。江戸期を通じ家康は神君とよばれました。神(東照大権現)と君主が一体であることを意味します。「神=君」という思想があったからこそ、戊辰戦争でも官軍は、寛永寺は焼いても、どの東照宮も攻撃しませんでした。 4月17日 ご祭礼をおこないます。 4月19日 法華曼荼羅供  
1618年 4月 江戸城内に東照廟を勧請(かんじょう)し、導師をつとめます。  
1619年 5月 上洛し、桓武天皇の廟塔を修造します。8月 伏見城にて、天台論議法要をおこないます。9月 尾張に東照権現を勧請します。  
1620年 2月 花山院忠長の息子(のちの公海)を養子にします。8月 水戸東照宮の縄張りをおこないます。  
1621年 4月 水戸に東照権現を勧請し、導師をつとめます。10月 紀伊に東照権現を勧請し、導師をつとめます。  
1622年 4月 東照権現7回忌法要を日光山でおこないます。  
1623年 7月 上洛します。12月 上野に寛永寺の造営を始めます。12月 最胤(さいいん?)法親王に書状にて、東叡山に皇子を迎えたいという希望を述べる。2代将軍秀忠(1578-1632、在職1605-1623)死去。家光(1604-1651。在職1623-1651)が後を継ぐ。天海は、秀忠、家光の政治顧問格でした。  
1625年 89歳 天海は江戸城の鬼門封じのために上野に寛永寺を建て、将軍家の菩提寺にしました。山号を喜多院から移し東叡山とし、関東天台宗総本山にします。喜多院の山号は以前の星野山にもどしました。比叡山延暦寺は「延暦時代」に建てられました。それに対抗して、「寛永時代」に建てたので寛永寺にしました。また東叡山(とうえいざん)という喜多院の山号を寛永寺に譲りました。東叡山は、関東天台宗の総本山です。東叡山とは、東(関東)の比叡山という意味です。今の上野公園も含む広大な敷地を保有していました。朝廷側の比叡山は全国を支配していましたが、関東の580ほどの寺社は東叡山寛永寺が治めるようになりました。京都御所を仏教面では比叡山が守り、比叡山を神道面で日吉神社が守っています。江戸では、寛永寺、神田神社が鬼門を封じ、増上寺、日枝神社が裏鬼門を封じるようにしました。 天海はまた「家康=北極星」のしかけを施しました。日光東照宮は江戸城の真北に位置します。江戸の街からは日光の男体山(なんたいさん)が見え、男体山の真上に北極星が輝きます。北極星は宇宙を支配する神で、無数の星が北極星をめぐります。家康は、神となり、江戸を守ることになります。「北極星=家康」のしかけをつくったのが天海です。徳川家では、家康だけが神で、あとの将軍は仏です。家康が「神君」とよばれるのは、神であり、君主であるからです。天海は、家康を「東昭大権現(とうしょうだいごんげん)」という神様にし、250年以上にわたり徳川家の安泰をはかり、日本に平和をもたらしました。世界史上希有なことです。 2月24日 川越・三芳野神社の遷宮の導師をつとめます。7月 徳川家光が日光山を参詣します。法会(ほうえ)をとりおこないます。  
1626年 上洛し、宮中で論議法要をつとめます。8月 公海に京都・毘沙門堂門室をゆずります。  
1627年 9月 上野に東照権現を勧請、導師をつとめます。  
1628年 南禅寺金地院(こんちいん)に東照宮を建立します。4月 日光山で東照大権現13回忌の導師をつとめます。  
1632年 96歳 4月 日光山で東照大権現17回忌の導師をつとめます。徳川家光も日光登山をおこないます。7月 沢庵の赦免を乞い、許されます。  
1633年 8月 二の丸東照宮完成し、遷宮を執務します。  
1634年 6月 上洛します。閏7月 比叡山坂本東照宮の正遷宮をすすめます。10月 比叡山諸堂の復旧に着手します。  
1635年 徳川家光より東照権現縁起の撰述の委嘱を受けます。5月 日光山にのぼり東照大権現仮殿遷宮の儀をつとめます。6月 江戸城・紅葉山東照宮の祭祀をつとめます。  
1636年 100歳 4月 東照社の大造替完成。東照大権現21回忌の導師をつとめます。『東照権現縁起(真名本)』上巻が完成します。   
1637年 101歳 寛永寺において『天海版 一切経』を活版印刷する大事業を計画します。一切経とは、仏教経典の全集で、大蔵経(だいぞうきょう)ともよばれます。12年後に完成します。全6323巻です。  
1638年 102歳 川越大火で、喜多院が全焼します。天海を崇敬していた家光は、ただちに喜多院の再建にとりかかります。家光は、江戸城から大切にしていた「家光誕生の間」「春日局(かすがのつぼね)化粧の間」を移築します。これらは、江戸城の唯一の遺構です。春日局は家光の乳母で、家光を将軍に押し立てた立役者です。  
1640年 『東照宮権現縁起絵巻(仮名本)』全5巻が完成します。『東照権現縁起(真名本)』中巻、下巻が完成します。4月 東照大権現25回忌、日光東照社で導師をつとめます。  
1641年 7月 日光山奥院石造宝塔が完成します。  
1643年10月2日 死去 107歳 5月 日光山に相輪橖(そうりんとう)を造立します。9月28日 五か条からなる遺言を述べます。  
五か条の遺言  
1 東照大権現の神威を増すこと。  
2 天台宗を繁栄させること。  
3 天海の後継者には、親王をむかえること。  
4 京都山科の毘沙門堂の門室を再興すること。  
5 天皇の命に違反する罪で配流された人々の赦免をおこなうこと。  
10月2日 天海、寛永寺で死去します。 数えでは108歳です。徳川家康と同じく日光に埋葬されました。日光の天海蔵には、天海の蔵書1万冊が収められています。慈眼大師(じげんだいし)の追号が朝廷から贈られました。この追号(ついごう)は、天台宗では5人目700年ぶりの出来ごとでした。10月17日 天海の柩が江戸・寛永寺から日光山・大黒山の慈眼堂に埋葬されます。家光の大猷院(だいゆういん)が、近くにあります。公海が天海を後継します。  
1644年 10月 日光山、東叡山、比叡山・坂本に天海の御影堂(みえいどう)が創建されます。  
1645年 日光東照社を東照宮にすることが宣下されます。これ以降、東照宮といえば、日光の東照宮を指すことになります。誤解を避けるときは、日光東照宮と記します。  
1646年 3月 日光東照宮の例祭に朝廷から奉幣使(ほうへいし)が派遣されます。以降、伊勢神宮とともに例幣使として毎年派遣されるようになります。  
1648年 4月 慈眼大師の謚号(しごう、おくり名)が朝廷から贈られます)。  
1654年 後水尾天皇の第3皇子・守澄 法親王(しゅちょう ほっしんのう)が日光山門主となります。東叡山を兼帯します。  
1655年 守澄法親王が第179代天台座主(ざす)につきます。2月 守澄 法親王に「輪王寺宮(りんのうじのみや)」の号が勅賜されます。守澄 法親王は、比叡山、東叡山、日光山の三山管領宮(さんざんかんれいのみや)とよばれます。毘沙門堂が門跡(もんせき)寺院に昇格します。(門跡寺院とは、皇族・貴族が住持をつとめる格式高い寺院のことです。) (上記年齢は1月1日生まれ換算の満年齢です。) 
天海僧正 [東照宮御実紀附録巻二十二] 
君御若年の程より軍陣の間に人と成せ給ひ。櫛風沐雨の労をかさね。大小の戦ひ幾度といふ事を知らざれば。読書講文の暇などおはしますべきにあらず。またく馬上をもて天下を得給ひしかどももとより生知神聖の御性質なれば。馬上をもて治むべからざるの道理をとくより御会得まし/\て。常に聖賢の道を御尊信ありて。おほよそ天下国家を治め。人の人たる道を行はんとならば。此外に道あるべからずと英断ありて。御治世の始よりしば/\文道の御世話共ありけるゆへ。其比世上にて好文の主にて。文雅風流の筋にふけらせ給ふ様に思ひあやまりしも少からず。」すでに島津義久入道龍伯などもわざ/\詩歌の會を催し。大駕を迎へ奉りし事有しが。実はさるえうなき浮華の事は御好更にましまさず。常に四子の書。史記。漢書。貞観政要等をくり返し/\侍講せしめられ。また六鞜三略。和書にては延喜式。東鑑。建武式目などをいつも御覧ぜられ。藤原惺窩。林道春信勝等はいふまでもなし。南禅寺の三長老。東福寺の哲長老。清原極臈秀賢。水無瀬中将親留。足利学校三要。鹿苑院兌長老。天海僧正など侍座の折から常の御物語にも文武周公の事はいふもさらなり。漢の高祖の寛仁大度。唐の太宗の虚懐納諌の事ども仰出され。さては太公望。張良。韓信。魏徴。房玄齢等が。己をすてゝ国家に忠をつくしたる言行どもを御賞誉あり。本朝の武将にては。鎌倉右大将家の事を絶ず語らせ給ひしとぞ。いづれにも章句文字の末をすてゝ。己をおさめ人を治る経国の要道に。御心ゆだねられし御事は。実に帝王の学と申奉るべき事にこそ。(卜斎記、駿府記) 
天海大僧正と日光 
徳川家康公を日光に東照大権現(とうしょうだいぎんげん)として祀(まつ)り、江戸を護る一大霊場として隆盛の極みに導いたのが、当山第53世貫主(かんす)天海(てんかい)大僧正です。家康公・秀忠公・家光公、三代にわたる徳川将軍から生き仏のように崇められた天海は、並はずれた才能を持つ卓越した天台僧でした。  
同時期に活躍した金地院崇伝(こんちいんすうでん)が黒衣の宰相と呼ばれたのに対し、比叡山南光坊に住したので南光坊天海とも呼ばれ、その活動は宗教方面に限られていました。  
慶長18年(1613)、家康公より日光山貫主を拝命すると、本坊・光明院(こうみょういん)を再興し、関東における天台宗の基盤とすべく日光山の整備に努めました。また、その宗教観は家康に強い影響を与え、天海が初めて家康公に会って以来、幾度となく家康公の為に論議[問答議論によってお経の意味を明らかにする儀式]を開き、また、幾度も家康公に天台の教えを授けています。公が薨(こう)じる前年には、山王一実神道(さんのういちじつしんとう)の伝授もありました。天台の神道であるこの教えに基づき、家康公の御遺骸は久能山から日光山へ遷葬、東照大権現として当地に祀られたのです。「(日光にて)関八州の鎮守(ちんじゅ)とならん」との家康公の御遺言どおり、日光山は、京都における比叡山のように、徳川家の或いは徳川幕府の鎮守となったのです。  
その後も、108歳の長寿といわれる天海大僧正は、寛永16年(1639)、家光公に山王一実神道を相承、寛永8年(1631)、寛永17年(1640)の東照大権現17回忌、25回忌の導師、寛永19年(1642)には日光東照宮で法華曼荼羅供の導師を勤めるなど、寛永20年(1643)10月2日、東叡山寛永寺にて入寂される直前まで精力的に宗教活動を続けました。5年後、慈眼大師の諡号を賜い、朝廷から賜る大師号としては史上最後の日本で7番目のお大師様となりました。  
慶安元年(1648)4月20日、東照大権現33回忌には将軍家光公の日光社参がありました。その際将軍は、天海の廟所[墓所]である慈眼堂にも参拝されています。また、寛永寺慈眼堂にて天海7回忌が奉修された際も出席されたり、家光公の天海を慕う気持ちを窺うことができます。慶安4年(1651)4月20日、家光公は死去の際、遺言の通り、祖父家康公と天海大僧正の側近くに、大猷院殿として葬られました。すなわち、現在日光山には家康公、家光公、天海僧正の廟所(びょうしょ)があり、今尚、参詣の人々が絶えないのです。 
■3 
天海の言葉 
「気は長く勤めは固く、色はうすく食は細うして、心ひろかれ。」 
気持ちをゆったりと持って、物事にこだわらず、仕事をきちんとこなして、性的な欲望を控え目にする。食事は腹八分におさえ、心を広くゆったりと保て、という健康法の教えである。天海(てんかい)は天台僧で、徳川家康の仏法の師である。上野寛永寺や日光東照宮を造り、百八歳の長命を保った。天海はまた長寿の秘訣を歌にしている。「長命は粗食(そしょく)正直(しょうじき)日湯(ひゆ)陀羅尼(だらに)おりおり御下風(ごかふう)あそばさるべし」長生きのコツは、美食を避けて粗食に徹し、心のストレスとなる嘘はつかずに正直に生きること。毎日、風呂に入って緊張をほぐし(日湯)、経文を読んで(陀羅尼)、オナラは我慢しない(下風)ことである、と説いている。
■4 
天海 / 悪智恵「国家安康君臣豊楽」  
「愚僧たちもそう思いよす。鐘の銘文はもっと短く、要点だけを述べればよろしいかと思います」「しかし、当代切っての名僧清韓穀がお書きになった文だ。余計な注文はつけまい」そういいながらも家康は文章の最後の方にじっと視線を注いでいる。天海には家康がどこを気にしているのかよくわかる。というのは片桐且元がこの文案を持ってきたとき、天海が助言して入れさせた文字がいくつかあるからだ。最後の、「国家安康、四海に化を施し、万歳に芳を伝ふ。君臣豊楽」という十六文字(原文は漢文なので)は天海が入れさせたものなのだ。天海にすれば、「全体に、実辞麗句が多すぎて印象が薄い」と思ったからである。もう少しパンチを効かせなければ駄目だと判断した。そこで思いついたまま国家安康以下の十六文字を入れさせたのだが、片桐且元に渡したあと天海の頭に閃くものがあった。それは、(この十六文字は、将来問題になる)という予感であった。その種を自分がまいた。家康は、文章を二人に返した。そして、「その文案を、秀頼殿の方は鐘に銘として彫り込んだのだな」と念を押した。二人の憎は領いた。家康は下がってよいという合図をした。下がりかけて天海が、「大御所様、ちょっとよろしゅうございますか」といった。家康は、「どうぞ」と領いた。しかし眉を寄せた。天海と崇伝はいつも連れ立って行動し、また額を集めて相談しているから、天海だけが残るということはちょっと意外だったからだ。祭伝も同じことを感じたのだろうか、廊下へ出がけにちらと天海を振り返って眉を寄せた。しかし天海はあくまでも残る姿勢を示していたので崇伝は去った。  
「なにか」家康が水を向けた。天海は持っていた鐘銘の文案をもう一度家康に示し、「実を申せば、この十六文字はそれがしの才覚によって清韓殿に進言したものでございます」「ほう、そんなことをしたのか」家康は上目づかいに天海を見た。天海は領いた。家康は天海が示した部分を再読した。しかしそこは家康自身がさっき引っかかった箇所だ。特に、「国家安康君臣豊楽」の八文字は気になる。誰が見ても、「徳川家康の名を分断し、豊臣家が栄える」と読める。家康は呆れた。それは天海の悪知恵に対してでもあったが、そういう冒険をあえてする天海の度胸にも驚いたのである。家康はにやりと笑った。そして、「御坊もなかなかの知恵者だな」といった。天海は、「いずれ、この箇所をもって問題といたしましょう」そう告げた。家康は、「うむ。しかし、わしは知らぬよ」そう告げた。天海はにこりと笑った。  
「もちろんでございます。たとえ憎といえども、この天海も生命を賭しておりますので」そういった。家康は領いた。そして、「早く戻られた方がよい。崇伝殿が勘繰ると因る」「はい」家康の言葉に天海も早々に立ち上がった。しかし天海は心の中で、(これで、崇伝殿より一歩前に出た)と自己の立場の優位確立を手応えとして感じた。それは自分の助言として清韓に挿入させた「国家安康君臣豊楽」の八文字は、必ず大問題を引き起こすという予感があったからである。それを承知で天海は家康に報告したのだ。  
本当をいえば、家康の名をずたずたに引き裂き、豊臣家が栄えるなどという考えを文字にした張本人が自分なのに、天海はそれに賭けていた。これが大問題となり、豊臣家に対する宣戦布告の口実にでもなれば、家康はそれがもともとは天海が考えたことなどということは問題にしない。逆に褒めてくれるだろう。そういう目算が天海にはあった。しかし廊下を歩きながら天海は、(それにしても、わしは知らぬよと仰せられる大御所様も、なかなかの狸殿でいらっしゃる)とひとりほくそえんだ。そして、(もともと駿府城はそういう場所なのだ)と改めて思った。ここには悪知恵を絞り出す連中が群として集められている。  
林羅山 / 「国家安康」と「君臣豊楽」にイチャモン  
この直後に、例の方広寺の鐘銘にイチャモンがつけられる。イチャモンの論理を考え出したのは金地院崇伝と林羅山である。鐘銘のなかに「国家安康」と「君臣豊楽」という文字を発見し「国家安康」というのは、家康の名をズタズタに切り刻んだものだ」といい、君臣豊楽については、「豊臣家を君として楽しもう、という意味だ」と言った。  
こんなこじつけは、本来なら通用しない。しかし、当時家康の周りにいた天海や崇伝たち学僧も羅山の説を支持し、居丈高になって豊臣家を攻撃した。  
豊臣家は狼狽した。「もってのほかの言いがかり」と抵抗したが、家康側は許さなかった。憤激した豊臣家は態度を硬化きせ、大坂城に兵を集めはじめた。こうして、大坂冬の陣が起き、この後の夏の陣によって豊臣家は滅亡する。そのきっかけをつくったのは林羅山である。そのためにかれは、「曲学阿世」の徒と後世に汚名を残した。  
しかし江戸時代二宮六十五年間、かれの唱えた栄子学は、徳川幕府の「官学」として位置づけられ、かれの私塾はやがて、「徳川幕府の官立大学」に昇格する。  
ここまでの待遇を、羅山が受けるようになったのは、戦国の思想である「君、君たらざれば、臣、臣たらず」という思想を、「君、君たらずとも、臣、臣たれ」という無制限服紘の精神に変、え、日本の仝武士に植えつけたことによる。その意味でも、羅山は「曲学阿世」の徒といわれて仕方がないかもしれない。日本の武士の基本的人権やその主体性・自由・自立性を大きく奪い取ったからである。 
■5 
徳川家康と仏教  
戦国時代まで寺院は宗派に囚われず、僧侶は複数の宗派の教学を学んでいた。各地の葬祭も様々な宗派の僧侶が取り仕切っていた。徳川家康は一宗派に一つの本山を置き、各寺院を宗派ごとに整理した。そして各寺院は本山の指示に従うよう命じた。これを「本寺末寺制度」と言う。家康は僧侶に勉学に勤しむよう求め、寺院の形態も学僧中心に改めた。本寺と末寺の関係を確立し、各地の寺院が独自の行動を取らないよう規制した。この二つを維持するため、寺院に俗世との関係を見直させた。  
慶長十四年八月二十八日、家康は紀州高野山に法度を出した。門跡は学問僧が務めることを定め、特に宝性院、無量寿院の住職は学識豊かでなければならないとした。  
慶長十八年二月二十八日、武蔵河越喜多院に「関東天台宗諸法度」を出した。関東の天台宗末寺は喜多院の許し無く住職を決めてはならない。末寺は喜多院の指示に従うこと。末寺は喜多院の許可無く総本山延暦寺と交渉してはならない。これによって関東の天台宗寺院は喜多院の指揮下に入った。家康は天台宗を東の喜多院、西の延暦寺に二分し、その勢力を弱めた。喜多院を延暦寺よりも優遇することで、延暦寺の歴史的優位性を否定した。  
元和元年七月、「浄土宗諸法度」により、浄土宗寺院は本山の指揮下に入るよう命じられた。新たに寺院を建立する際も、本山の許可を得ることとなった。また、浄土宗は金銭に応じてその秘儀を俗人に相伝することがあったが、家康はこれらの行為を行う者を法賊と厳しく批判し、俗人への秘儀相伝や法脈相伝を禁止した。諸国を往来して金銭を集める勧進僧や、在家に法具を用意して寺院の真似事をする布教行為も禁止した。  
晩年の家康は合戦で多くの人を殺めたことに心を痛めていた。その開墾から、大御所時代、天海の勧めにより日課念仏を始めた。これは三尺を超える巻物に南無阿弥陀仏の文字を細かく書き込むというもの。一日、千回を超える時もあったという。生涯、六万遍に及んだという。 
徳川家康と道教  
家康の薬好きは有名である。彼は漢方医片山予安に薬学を学んだ。駿河浅間神社と久能山に百余種を超える薬草を植えた薬草園を開いた。箪笥の八段目には八の字、万病丹、銀液丹、黄中散などが入っていた。宇喜多秀家が朝鮮から持ち帰った医書「和剤局方」六巻も愛読。同書は宇喜多秀家から妻の病を治した曲直瀬道三に贈られ、後に道三は秀忠に献上。秀忠から家康に贈られた。大久保長安のために鳥犀丹を贈ったこともある。  
徳川家康は晩年、道教の仙薬である「銀液丹」を服用していた。材料は水銀とヒ素。家康は死後、東照大権現として神格化される。これは天照大神に対抗した東の最高神を意味する。家康は道教の仙薬を飲んで死んだ。道教は各時代で最高神が変わるが、この頃は老子を神格化した「太上老君」を最高神としていた。道教は優れた偉人を最高神として崇めるのだ。古代天皇も己を神格化するために道教を取り入れたのだろう。家康も道教に従って最高神となる。天海が家康の遺言として大権現を言い張ったのも、道教の要素が含まれていると考えるべきではないか。  
道教には「庚申信仰」というものがある。天神は人の善悪を裁き、寿命の長短を決めるというもの。寿命の書き込まれた帳簿を「名籍」と呼ぶ。「抱朴子」などは庚申の日になると、人の体内に住む三匹の虫「三尸(さんし)」はその人の善悪を天神に報告する。三尸虫は鬼神の一種であり、宿主を殺すことで自由となり、死者への供物を食べることが出来る。仙薬のなかには三尸虫を退治する効能の薬があった。日本では三尸虫が天上世界に行かないように御宮に籠もって寝ずの番をする「宮籠り」という風習が生まれた。家康は慶長四年、藤堂高虎宛の手紙に「寸白の虫」が出たと記している。寸白の虫とは条虫、サナダムシのことである。恐らく大便と共に出てきたのだろう。死の間際、自己診断で寸白の虫が原因としたのは、サナダムシに慢性的に寄生されていたためと思われる。家康は寸白退治に万病円(トリカブト)を飲んだと言うが、寸白は三尸虫と考えられていたのではないか。有名な逸話だが、万病円の服用を注意した医師片山宗哲を流罪にしている。  
「抱朴子」は「山中を歩いていると七、八寸の小人が馬車に乗っているときがある。これは肉芝であり、捕らえて服用すれば不老不死になれる」と記す。慶長十四年、駿府城の庭に指のない手を天に向ける肉塊が現れ、驚いた家臣は山へ追い払っている。博識の者の説明によると、この肉塊は「封」と呼ばれ、食せば万病を治し怪力を与える薬になったと言う。「封」は肉芝の一種ではないか。また、「見聞談叢」によると家康は林羅山に反魂香の産地を尋ねている。これは羅山の学識を試すためのものであったが、こうしたいくつかの断片を重ね合わせると、家康が神仙思想に興味を示していたという仮説が出来上がる。 
方広寺大仏殿の梵鐘  
慶長十九年四月十六日、豊臣家は方広寺大仏殿の梵鐘を鋳造。六月二十八日、方広寺大仏殿の梵鐘を釣り下げた。  
慶長十九年七月、天海は方広寺大仏開眼供養の際、天台宗と真言宗、どちらを左班に据えるのかと豊臣家に質問した。左班とは上席のことである。天台宗を左班としなければ、天台宗の僧侶は開眼供養に出席しないと主張したのだ。豊臣家は天台宗を左班にすると返答した。  
慶長十九年七月二十一日、徳川家康は方広寺大仏殿の梵鐘の銘が自分を呪うものとして激怒。「駿府記」によると、徳川家康は上棟の日が吉日でないことにも不満を抱いていたと云う。武将は合戦の日時を占いによって決めるほどであったから、吉日でない日に上棟を行うことに不快感を抱いたようだ。そして、開眼供養を八月三日、大仏殿供養を八月十八日にすべきと主張した。八月十八日は豊臣秀吉の十七回忌である。  
慶長十九年七月二十六日、片桐且元が弁明のため駿府に入った。しかし、徳川家康は拝謁を許さなかった。  
昔から梵鐘の銘の批難は徳川家康の悪辣非道な謀略と言われてきた。徳川家康は方広寺の鐘銘を批判させるため、五山七老を重用。特に相国寺有節瑞保、東福寺集雲守藤、南禅寺英岳景洪がそれに従っている。  
「前征夷大将軍従一位右僕射源朝臣家康公」。右僕射とは右大臣の唐名で、敵を倒し悪を払う役職であるためこの名がついた。豊臣秀頼も右大臣であり、同じく梵鐘に右僕射と書かれている。「国家安康君臣豊楽」。国家安康とは徳川家康を呪ったのではなく、その名にちなんだ吉字を選んだものだ。君臣豊楽も豊臣の名にちなんだ吉字であり、それ以上の意味はない。これらは梵鐘の銘を記した文英清韓の林羅山に対する弁明である。文英清韓に理があることは明らかである。  
仏教各派が徳川家に阿諛追従するなか、妙心寺の海山宗格だけは文英清韓を弁護した。愚者である林羅山では、名筆として名高い文英清韓の筆を知ろうとしても無理である。文英清韓は凶事を望んで文を記したわけではなく、天下太平を祈って吉字を記したのだ。こうした主張にこそ理があるが、当時は正論が通らなかったのだ。  
慶長十九年七月二十九日、片桐且元は神龍院梵舜に大仏殿落慶供養の延期を告げた。「当代記」八月三日の項に方広寺の賑わいが記されている。醍醐寺三宝院が導師を、妙法院が呪願師を務めた。天台宗五百人、真言宗五百人の僧侶が参加。六百石もの餅がつかれ、三千余名が参集した。しかし、徳川家康が立腹していると伝わると、こうした人々は帰って行った。  
慶長十九年八月十二日、神龍院梵舜は豊国大明神の十七回忌法要の延期を決めた。八月二十日、本多正純らは片桐且元に対し、鐘名の件と牢人招集について詰問。鐘名については片桐且元に理があったが、牢人招集については否定することは出来なかった。  
一方、正栄局と大蔵卿局も鐘名事件の弁明のため駿府城を訪れており、阿茶局が両名の応接を任された。片桐且元は豊臣秀頼の江戸参勤、淀殿の人質、国替えのどれかを認めることが和解の条件を告げられた。これを報告した且元は大坂城の有力武将から裏切り者と攻め立てられた。正栄局と大蔵卿局の報告では和解は問題なく成立することになっており、誰も条件など口にはしなかったとされていた。片桐且元は暗殺の危機を知り、居城茨城城に蟄居。遂に豊臣家を見限り、徳川家に味方することを決意した。  
慶長十九年十月一日、神龍院梵舜は豊国神社社頭にて天下安泰の祈祷を行った。同日、板倉勝重は大坂騒擾を徳川家康に報告。遂に徳川家康は開戦を決意した。 
豊国大明神の神権剥奪  
豊臣家滅亡の直後から豊国神社の破却は進められていた。慶長二十年五月十八日、穢中により神龍院梵舜は豊国明神社の神事を略した。五月十九日、神龍院梵舜は豊臣家滅亡の余波が豊国神社に及ぶと考え、この日から徳川家康の側近に社領安堵を懇願する。  
慶長二十年六月十八日、本多正信は伏見城にて豊国神社破却を秀忠に進言。同日、豊国神社にて月例祭が再開されたが、行法祈念は略された。  
慶長二十年七月九日、徳川家康は二条城にて南光坊天海、金地院崇伝、板倉勝重と話し合い、豊国神社の破却を決めた。七月十日、神龍院梵舜らに豊国神社破却の沙汰が下される。神官の知行、および社領は没収。方広寺大仏殿住職照高院興意は職を解かれ、聖護院にて遷居。天台宗妙法院常胤が新たに方広寺大仏殿住職となり、寺領千石を加増された。神主萩原兼従は豊後にて千石を知行することが決まるが、正式に拝領したのは徳川家康の没後である。  
豊臣秀吉の墓も移された。神号「豊国大明神」は廃止され、「国泰院俊山雲龍大居士」に改められた。京都所司代板倉勝重が豊国神社の破却を進めた。豊臣秀吉の長男棄丸(実は次男)の菩提寺祥雲寺は、智積院日誉に下げ渡された。祥雲寺住職海山は棄丸の遺骨を持って妙心寺に移ったと云う。七月十一日、豊国神社にて最後の神事が行われた。  
元和元年七月末、北政所は豊国神社の処遇を「崩れ次第」に任せるよう徳川家康に嘆願した。徳川家康はこれを受け入れ、徳川神社の一部の存続を許した。こうして豊国神社は風雨によって社殿が傷み、倒壊しようともそのまま放置されることとなった。北政所の嘆願は破却を免れるための、正に窮余の策であった。  
元和元年八月四日、徳川家康は駿府へと向かった。八月十八日、醍醐寺座主義演は徳川家に憚り、醍醐寺での豊国大明神の法要を中止した。そして、毎月十八日の法要も中止している。豊国神社では神事を略すも、神龍院梵舜ら十数名が参拝。片桐貞隆も参拝している。  
元和元年八月末、豊国神社はその大部分が破却された。豊臣秀吉の神廟、社殿は残された。また、神龍院梵舜が徳川家康から賜った神宮寺も残されている。十月一日、神龍院梵舜は豊国神社に洗米を献げた。以降、神龍院梵舜は毎月一日と十八日に参拝を続けた。  
元和元年十二月四日、徳川家康は隠居城建設のため伊豆泉頭を実検。年明けから建設工事を行うことにした。  
元和元年十二月十八日、妙法院常胤が豊国神社の参道を塞いだ。このような嫌がらせを受けるほど、豊国神社の権威は失われていた。 
徳川家康の死  
元和二年四月十七日、徳川家康が没した。懸命に看病を続けていた榊原清久が、その最後を看取った。金地院崇伝の「本光国師日記」に遺言が記されている。  
「臨終候ハバ、御体をは久能へ納、御葬礼をハ増上寺にて申付、御位牌をハ三洲之大樹ニ立、一周忌も過候て以後、日光山に小さき堂をたて、勧請し候へ、八州之鎮守ニ可レ被レ為成との御意候、皆々涙をなかし申候」  
これとは別に、榊原清久は神職となり、生前同様に家康仕えるよう遺言を受けた。徳川家康は自身が神として祀られることを承知しており、神職も指名していたのだ。  
徳川家康の遺体は久能山に運ばれた。そしてその御霊を祀る仮殿の建設が早急に行われた。四月十九日、久能山山頂の仮殿に徳川家康の御霊を遷宮。祭主は神龍院梵舜、榊原清久が務めた。仮殿は三間四方で、鳥居、井垣、燈籠一対など神社に必要な様式が整えられていた。四月二十二日、大工頭中井正清は久能山に神社造営を命じられた。四月二十五日、徳川秀忠は榊原清久を神官職に任じ、父家康の最後を看取ったことを讃えた。  
元和二年五月三日、金地院崇伝と南光坊天海は徳川家康の神号をめぐり対立。神龍院梵舜と崇伝は「大明神」を、天海は「大権現」を主張した。この時、天海は「山王一実神道」を提唱している。  
徳川秀忠、金地院崇伝らの反対を受けた天海は、豊国大明神の子である豊臣秀頼は滅んだと述べた。この言葉で徳川秀忠は考えを改め、父家康の神号として「権現」を選定した。 
東照大権現と山王一実神道  
徳川家康の御霊は徳川家の手により、天照大神に比肩する最高位の神として祀られた。天皇が天照大神の子孫として日本を統治するように、徳川将軍は東照大権現の子孫として日本を統治したのだ。  
山王一実神道は南光坊天海が提唱したもので、天台宗の山王神と釈迦を同一視する信仰方法に立脚している。天台宗は釈迦如来、薬師如来を信奉した。山王神を釈迦の垂迹であるとして、比叡山の守護神に祀っていた。  
一方、真言宗は大日如来を信奉し、垂迹という形で大日如来と天照大神を同一視していた。天台宗は釈迦如来と大日如来を同一視するようになり、ここに天照大神、山王神、釈迦如来、薬師如来、大日如来を習合信奉する思想が生まれた。  
こうした思想を背景に、比叡山の守護神である山王神を中心として神仏を習合した信仰。これが山王一実神道である。  
権現とはこの世に仮の姿(権)に現れた神仏を意味する。徳川家康という人間を祀るのではなく、神仏の垂迹(仮の姿)である徳川家康を祀るのだ。  
天海は権現の論理として「空仮中」を挙げた。徳川家康の場合、空として薬師如来、仮として徳川家康、中として東照大権現として存在した。特に天台宗は薬師如来と天照大神、釈迦如来、大日如来を同一視しているのだから、東照大権現はあらゆる神仏を包括する圧倒的な存在に昇格した。  
実際、日光東照宮では中央に東照大権現を祀り、右に天照大神と同一とされる山王権現を、左に冥府を司る魔多羅神を祀っている。中央の徳川家康の神格は左右の神を上回った。 
■6 
七福神 
最初から七福神は七人だったのかといえばそうではありません。平安時代後期のころは、すでに記したように、まず海からの恵みをもたらしてくれる神様・恵比須と寺院の食厨(台所)の守護の神様・大黒天を共に福の神としてペアで祀ることから始まりました(大阪や京都では、今も恵比須と大黒天のみを祀る風習が残っています)。 
次に女性の神で、古事記にも登場する神様・天細女命(あめのうずめのみこと)がここに加わりますが、京都では同じく女性の神様、弁才天のほうが人気があったために、天細女命に代わって芸能と財福の神様・弁才天が七福神に加わったとされています。 
さてこれからがいかにも庶民が生んだ信仰らしく、いろいろな福をもらおうと考えたのか、知恵と武闘の神様・毘沙門天と、開運・良縁・子宝の神様・布袋和尚を加え、五福神としたあと、さらに長寿の神様・福禄寿、長寿と幸福の神様・寿老人を加えて七福神としたといわれています。 
本来は五福神でもよかったはずなのですが、当時の庶民が「七福神」にこだわったのには、仏教経典・仁王般若波羅密経にある七難即滅七福即生にちなんだといわれています。この言葉は本来、仏の教えを守っていれば七つの大難(太陽・星の異変、火災、水害、風害、旱害、盗難)は消滅し、七つの福がえられるという意味なのですが、当時の人々は福を得るために、この七という数字にこだわっていたのかもしれません。 
こうして生まれた七福神は、江戸時代に入ると全国規模で爆発的な人気を博することになります。そのきっかけを作ったのは徳川家康に仕えた政治指南役・天海僧正で、天海僧正が家康に「上様は寿老人の長寿、大黒の富財、福禄寿の人望、恵比寿の正直、弁才天の愛敬、毘沙門の威光、布袋の大量という<七つの徳>をお持ちです。この七神には七難即滅七福即生の功徳があります。」と言ったのに家康が喜び、狩野探幽に七福神の絵を描かせて尊崇したところ、これを各大名がまねをし、全国に広まったといわれています。
■7 
江戸初期のキリスト教 
徳川家康は、当初、キリスト教の布教を黙認しました。家康は貿易の実利は求めましたが、キリスト教には一貫して無関心でした。オランダ船リーフデ号の漂着によりイギリス人航海士ウィリイアム・アダムス(三浦按針)を家臣として最新の欧州事情情報を得ていました。スペイン、ポルトガルの旧強国と新興国のイギリス、オランダが八十年戦争を行い新興国側が勝利し、ポルトガルは斜陽にあることを知っていました。このウィリアム・アダムスはイギリス兵として参戦した実践の経験者であり、詳細な西洋事情に通じていました。 
1612年、岡本大八が引き起こした大名・有馬晴信を巻き込む疑獄事件の双方がキリシタンであったことから危険視され、これを契機として、1613年、諸大名や幕臣へのキリスト教の禁止が通達されました。このとき、家康の旗本・原主水が改易処分になっています。 
翌1613年には家康側近の「黒衣の宰相」金地院崇伝の手による「排吉支丹文」により、キリスト教禁止の明文化がなされ全国で迫害が頻発しました。1619年京都で52名、1622年長崎で55名、1623年江戸で55名の殉教が知られています。これらより、250年のキリスト教迫害の歴史が刻まれることになりました。 
「黒衣の宰相」とは:家康の政治顧問僧です。政治参謀の役割をしました。 
「崇伝(本光円照国師)」は室町幕府の有力大名一色家の出身です。 
京都五山(1天龍寺2相国寺3建仁寺4東福寺5万寿寺)の上の別格・南禅寺の塔頭・金地院の住職(駿府と江戸にも金地院を創建)を勤め、建長寺と南禅寺の住職を歴任して37歳で臨済宗の頂点に立った高僧です。 
家康の下で西笑承兌(相国寺中興の祖、南禅寺住職、秀吉・家康の外交担当僧)に代わり外交顧問を務め、また、朝廷との交渉や寺社行政に関わり「キリスト教の禁止」「寺院制度(寺請制度・寺檀制度)」「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」の制定に深く関わりました。 
豊臣家との大阪の役の発端となる「方広寺鐘銘事件」で「国家安康」「君臣豊楽」の文句が「徳川家康を二つに切る呪詛で徳川の滅亡と豊臣の繁栄を祈ること」であり、許し難いことであると難癖をつけて強引に開戦の理由にしたのは崇伝と天海の共同謀議であるといわれています。 
大阪夏の陣で真田幸村の軍に攻められ自刃を口ばしった家康を止めたのは崇伝であるともいわれています。 
ライバルの沢庵宗彰(大徳寺住職・普光国師)が崇伝を天魔外道と評した「紫衣事件」で後水尾天皇の勅許を撤回させたことにより、天皇が退位するという事態を引き起こしました。世間の評価は悪く「大欲山気根院潜山悪国師」と評しています。 
なを、京都五山は足利将軍が定めた制度ですが、寺院の格式や上下関係を表すものではありません。例えば、同じ臨済宗の大徳寺や妙心寺は南禅寺に匹敵する本山格を持つ有名な伝統寺院です。 
「天海(慈眼大師)」は出自が不明で諸説の取りざたがある不思議な人物です。 
川越の喜多院の住職を務め、家康の下で朝廷との交渉役に携わりました。 
比叡山探題執行として南光坊に住し、比叡山の再興に尽力しました。 
日光輪王寺や東叡山寛永寺を建立して天台宗の総本山とし、天台宗大僧正となりました。 
家康の死後、その諡号に「明神」(吉田神道)を推す崇伝と「権現」(山王一実神道)を推す天海の争いとなり、「大権現」が三代将軍家光に採用されました。 
崇伝はこれ以降勢力を失っていきます。 
天海は「日光の大造替」で東照宮を荘厳して功績を挙げて信頼を得ています。 
徳川が滅びた明治になって比叡山は再び総本山となりました。 
崇伝も天海も絶大な権力者・徳川三代(家康・秀忠・家光)に深く密着し、徳川家のための支配体制の構築に積極的に関わりすぎました。この制度は露骨な権力基盤の強化策に過ぎず、僧侶が提案する政策ではない、との批判があります。 
江戸時代は日本史に前例のない特殊構造の封建社会を強固に構築にしました。 
しかも、徳川家の支配権を確立するための異常な政策であるとして、これを評価しない有識者が多くいます。 
崇伝と天海は、権力に極端に媚び諂い過ぎた、との批判があります。人々が僧侶に期待する「あるべき姿」とあまりにもかけ離れすぎていて、評価に値しないと考える人々は少なくありません。 
岡本大八事件は謀略の匂いがする奇異な事件です。1609年2月、ポルトガル領マカオで有馬晴信の朱印船の水夫が酒場で些細なことからポルトガル船マードレ・デ・デウス号の水夫と乱闘し晴信の水夫60名が殺害され積荷を奪われる事件が発生しました。これを激怒した晴信は報復すべく家康に許可を願い出ました。晴信の報復の許可願いは、これを放置すれば日本国の権威が傷つくと判断した家康に聞き届けられました。1609年12月長崎でマードレ・デ・デウス号を発見した晴信はこれを三日間の包囲攻撃(船長と乗組員は逃亡)により沈没させました。このとき、目付役として同行した者が家康の側近・本多正純の与力であった岡本大八と長崎奉行の長谷川藤広でした。 
この報告は、大八を通じて正純の手から家康に伝わり、晴信は家康から激賞を受けました。大八と晴信はともにキリシタンであったので、晴信は大八を饗応したのですが、このとき、大八が晴信に「今は鍋島領になっている旧有馬領の藤津・杵島・彼杵の三郡を恩賞として晴信に与えようと考えているらしい」と虚偽の甘言を弄したとされています。そこで、晴信は、これを実現するために、家康に働きかける運動資金として、金品の提供を正純にすべく大八に渡したのですが、このすべてを大八は自分の懐に入れたばかりか、家康の朱印状を偽造して晴信に渡し、更に6000両の大金を旧領回復の運動資金として詐取したというのです。 
1611年の末に至り、待てど暮らせど恩賞の沙汰がなく不信に思った晴信は直接に本多正純に面会し催促しました。正純は驚愕して大八を詰問しましたが大八はシラを切り続けるばかりです。晴信の嫡男・直純の妾が家康の養女・国姫(桑名藩主・本多忠政の娘、家康の長男・松平信康の孫)であるところから家康に申し出て採決を仰ぎました。駿府町奉行の調査により大八は逮捕され極刑を免れなくなりましたが、大八は晴信を一蓮托生の道ずれにするために、晴信が長崎奉行長谷川藤広(家康の愛妾・於奈津の兄)の暗殺を企てたと訴えました。藤広がポルトガル船の包囲攻撃が三日もかかり手ぬるいと批判されたことを根に持った晴信が「ポルトガル船撃沈の次は藤広を海の藻屑にしてやる」と口走ったということでした。 
晴信は身の潔白の陳述に努めましたが、度重なる尋問に遂にこれを認める供述をしてしましました。その結果、大八は火刑、晴信は領地(島原藩・4万石、実質石高は半分程度)没収・甲斐に流罪のうえ切腹に処されました。しかし、幕府は晴信の嫡男・直純(15才より駿府城で家康の側近として仕えた)に対し家督と所領の相続を許して、厳しいキリシタンの取り締まりを命じています。この2年後、直純は領民に対する迫害に嫌気がさしたのか幕府に転封と願い出て許され、1614年日向延岡(5万3000石)に加増されて転封になります。これに替わって大和・五条から入国した板倉重政が過酷な年貢の取り立てやキリシタン弾圧を行い島原の乱(1637年)を誘発する原因を作ることになります。当時、島原は晴信の庇護によりキリシタンが多い地域として有名でした。 
島原の過酷な「年貢の取り立て」と「キリシタン弾圧」 
島原藩は公称4万石ですが、実際の石高は3万石に満たない上げ底の藩でした。 
適正な年貢の取り立てでは石高の半分あるかないかです。石高に見合う年貢を取ろうとすると、過酷な取り立てにならざるをえません。 
領民を従わせるには残酷な刑罰が考えられます。同時に、キリシタンの弾圧をも行えば、残忍な拷問や処刑に行き着きます。これには、当時の強い反カトリックのオランダ人も辟易しています。 
「蓑踊り」は素肌に蓑を着させて火をつける刑ですが、もがき苦しむ様が踊りのように見えることから名ずけられました。 
数十年以前に、島原城内の残酷なキリシタン刑罰の数々を再現した展示物を見ましたが、あまりの残虐性に驚き、これは人間のする行為ではない、と思いました。 
この事件の顛末は奇異です。岡本大八は莫大な資金を何に使ったのでしょうか。詐欺は収賄の真実は金銭の使途が明白にならないかぎり事件は解決したとは言えません。ましてや謀略の仕事師として定評のある絶対的な権力者・家康とその重臣にして懐刀といわれ吏務と交渉に辣腕を振るった正純(その父は家康の側近の謀略家で重臣の本多正信)が裁定した事件です。岡本大八にこの絶対権力者の名前を騙る意思や、大名を相手に詐欺を仕掛ける度胸があるでしょうか。 
もしこれが事実なら、初めから死を覚悟の上で行った犯罪ということになり、無残な結末は目に見えています。事実、この後、正純が裏で糸を引いたのではないかとの風評が流れ、正純は幕閣で孤立して行くことになります。 
ともあれ、この事件を契機にしてキリスト教の禁止政策が強化され、キリスト教徒に対する弾圧が各地で頻発することになります。とりわけ、島原地方はその重点施策のターゲットになっていくことは事実です。 
プロテスタント国家のオランダが「キリスト教の布教がない貿易も可能」との意向を示したので、宣教師やキリスト教を保護する理由がないことから、幕府はキリスト教禁止のシナリオを具体化させる方針を固めることになります。 
1637年残酷な税の取り立てを発端とする「島原の乱」が勃発し、幕府は強い衝撃を受けましたが、これを契機として、乱の終息後、1639年に再度の「寛永の鎖国令」を布告しました。 
ポルトガル船は来航禁止となり、オランダ商館も長崎の出島に制限されました。そして「宗門改め制度」や「寺檀制度」の完成とともにキリスト教は禁止されました。 
「島原の乱」の衝撃と岡本大八事件は、大名のキリスト教離れを決定的にする政策に利用されたものと考えられます。 
後日談があります。幕府が諸外国と結んだ「不平等条約の改正(関税自主権、治外法権)」が明治政府の重い外交課題になりました。 
諸国との外交・交渉が遅々として進まない理由の一つに「キリスト教の禁止」が取り沙汰されました。 
ヨーロッパでは日本における教会の発展と受難の物語が語り継がれ、多くの人々が日本への再布教の日が来ることを待ち続けた、ということです。 
キリスト教徒禁止令が解かれたのは1873年(明治16)のことでした。
■8 
浅草寺 
浅草寺に伝存の「浅草寺縁起」によると、推古天皇三十六年(628)3月18日の早朝、檜前浜成(ひのくまのはまなり)、竹成(たけなり)兄弟が江戸浦(隅田川の下流辺りを昔は宮戸川といった)で漁労中、一体の仏像を投網(とあみ)の中に発見した。それを土師中知(はじのなかとも)が拝し、聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)の尊像であることを知り、自ら出家し、屋敷を寺に改めて深く帰依(きえ)したという。これが浅草寺の草創である。 
また観音さまご出現の翌日、十人の草刈り童子が藜(あかざ)で草堂を造ったとも伝える。この経緯からもわかるように当時の浅草は漁村と農村といったような二重構造で地域の開発がすすめられていたといえよう。それに秩序も整っていたと思われるのは、観音信仰を郷土全体で共有の形で受け入れていることである。檜前兄弟と土師中知の三人を祀ったのが「三社権現社(さんじゃごんげんしゃ)」、今の浅草神社である。 
このことにより広漠とした武蔵野の一画、東京湾の入江(江戸浦)の一寒村であった浅草は、宗教的集落として発展し、今日の浅草となったのである。なお太平洋戦争で浅草寺は空襲を受け、観音堂を焼失したが、その焼跡から土師(はじ)器の灯明皿(とうみょうざら)や須恵器(すえき)の華瓶(けびょう)や陶鉢(とうはつ)などが出土し、考古学の上から奈良時代末期の姿を偲(しの)ぶことができるようになった。 
ご本尊である聖観世昔菩薩のお像を、大化元年(645)勝海上人(しようかいしようにん)という僧が来られ「秘仏」と定められた。やがて九世紀平安時代の初期[天長五年(828)または天安元年(857)とも伝えられる]に慈覚大師(じかくだいし)が比叡山より来られ、ご秘仏の姿に模して「お前立(まえだち)」のご本尊(お開帳仏)を謹刻され、このときに版木(はんぎ)観世音菩薩御影(みえ)(柳御影という)を作られた。 
この版木は弘仁期(810-824)ごろの刷仏(すりぶつ)版木と認められているので、ご本尊の御影を所望する者が多かったと推定でき、当時の信仰の普及のほどが偲ばれる。のちに勝海上人は浅草寺の「開基」、慈覚大師は「中興開山」と仰がれるに至っている。 
「武蔵野地名考」が「この地、観世音の霊場にて、おのずから聚落(しゅうらく)となり、荒蕪(こうぶ)のひらくること他に先立ちたれぱ、浅草の名はおこりたり」と記しているのは、これらのことを指しているのであろう。ちょうどこのころ、承和二年(835)の「太政官符(だじょうかんぷ)」に隅田川に渡船二艘を増すようにとの記録があるように、隅田川沿いのこの地は早くから房総・奥州地方への交通の要所であったと推定され、このことが浅草寺と浅草の発展に大いに寄与した。 
天慶五年(942)平公雅(たいらのきんまさ)が浅草寺に祈願して、武蔵国の国守に任ぜられた報謝のしるしとして七堂伽藍を再建した。その中に法華・常行の二堂が含まれているのは、浅草寺が慈覚大師以来、比叡山延暦寺を祖山とする「天台」の法流に属していたことを示すものであろう。 
のちに源義朝が当山に帰依し、承暦三年(1079)観音堂が炎上した折、ご本尊が自ら火焔を逃れ、近くの榎(えのき)の梢に避難されたとの故事を聞き、その榎で観音像を刻み奉納した。このお像は現在「温座秘法陀羅尼会(おんざひほうだらにえ)」の本尊として拝まれている。義朝の子源頼朝も治承四年(1180)下総から武蔵の国に、平家追討の戦陣をすすめて入る時、戦勝祈願のため浅草寺に参詣している。 
浅草と浅草寺の文献上での初見は、鎌倉幕府の事跡を記した歴史書「吾妻鏡(あずまかがみ)」にある。それには養和元年(1181)源頼朝が鎌倉の鶴岡八幡宮造営のため、浅草から「宮大工」を招いたとあるが、頼朝の脳裏にかつて参拝した浅草寺の壮麗な伽藍のことがあったからであろう。また建久三年(1192)後白河法皇の四十九日忌の法要が鎌倉で営まれた際には、浅草寺より寺僧三名が出仕している。 
建長三年(1251)には五十人ほどが集まっていた食堂(じきどう)に牛が暴れ入り、怪我人を出したとある。これらの記録は当時の浅草寺の規模を推定させる史科であるぱかりか、為政者が浅草寺を関東切っての古格ある寺として認めていたことがわかる。 
さて、平安朝末期に始められた西国三十三観音札所巡礼にならい、鎌倉時代になると坂東札所が制定された。これには頼朝の篤い観音信仰と東国の武士たちが平家追討のために西国に赴いた折、実際に西国札所のいくつかの霊場に詣でたことが、この成立を促したといわれる。 
福島県棚倉町の都々古別(つつこわけ)神社の観音像の台座銘に、天福二年(1234)(天福は元年で終わりだが、地方のため文暦と年号が変わっていたことに気付いていない)に僧成弁(じょうべん)が茨城県八溝山日輪寺(坂東二十一番札所)に籠もったあと坂東札所を巡礼したと墨書されているので、少なくともこれ以前に成立していたといえる。浅草寺は十三番の札所として、他の観音霊場と連携を保ちながら多くの巡礼者を迎え今日に至っている。 
正応二年(1289)後深草院二条の自伝「とはずがたり」に「霊仏と申すもゆかしくて参る」とあるのは、この時期に浅草寺の霊名が四隣に行き渡っていたとみてよいだろう。室町時代から安土・桃山時代にかけては、足利尊氏が寺領を安堵し、足利持氏が経蔵を建立、応永五年(1398)には定済上人(じょうさいしょうにん)が広く勧進して観音堂を再建することなどが行なわれた。また、文明十八年(1486)ごろ道興准后(どうこうじゅごう)と堯恵法印(ぎょうけいほういん)が当寺に参詣したと「廻国雑記」と「北国紀行」が記している。 
室町時代の小田原城主北条氏綱(ほうじょううじつな)によって天文八年(1539)堂塔が再建され、その家臣の江戸城代家老遠山直景(とうやまなおかげ)の子を浅草寺の別当職(住職)にあてた。この人こそ浅草寺中興第一世忠豪(ちゅうごう)上人である。忠豪上人は衆徒十ニヵ寺、寺僧二十二ヵ寺を制定、浅草寺運営の基礎を築いた。 
戦国時代末期・江戸時代の初めには、天正十八年(1590)徳川家康が江戸に入府すると、天海大僧正(慈眼大師)の進言もあって浅草寺を祈願所に定め、寺領五百石が与えられた。慶長五年(1600)関ケ原の戦いの出陣に際し、家康が武運を観音堂において祈念し、勝利を得たことで天下に一段とその霊験の著しさが行き渡った。明和八年(1771)の「坂東霊場記」が「天正年中より堂社僧院湧く如く起り、坂東無双の巨藍(こらん)となる」と記すのは、まさしく徳川家の帰依による隆昌のさまを活写しているといえよう。
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鬼が作った日本 
鬼とは、権力の外にいながら強力な技術と思想をもったグループのことである。彼らは、ある時は権力に利用され、ある時は対抗しながら、日本の歴史を動かしてきたのだ。本は、古代から明治時代にいたるまでの、鬼グループの動きについての対談である。これをケノ流にまとめてみた。けだし、二人は鬼の歴史を語ることで闇の世界を想像する力を思い起こさせ、文化に活力を取り戻そうという魂胆なのだ。鬼は時代の裂け目に動き出すものだから。  
鬼には2種の系統がある。柳田國男の言う常民とは異なる上に書いたような実在のグループが一つ。本書のメインテーマだ。もう一つは、伝説や芸能で取り上げられる空想上の生き物である。この系統は、馬場あき子の『鬼の研究』に詳しい。観念上の鬼は、中世に卑女=般若として完成したという。もちろん空想といっても何らかの実在の背景を持っていてキッチリ割りきれるものではない。馬場は実在のグループへも迫っている。また土蜘蛛や天狗の話もあって面白い。後者の系統の鬼に興味の方は是非にも読まれたい。  
では先ず、鬼に登場願おう。大和朝廷は、ツクシ(北九州)・タニハ(丹後)・ケヌ(関東地方西北部)・スワ(諏訪)の各国を吸収してゆくが、クマソ(熊襲)・ハヤト(隼人)・エゾ(蝦夷/東北地方)は「まつろわぬ(不服・不順)」人々として残った。朝廷の版図に摂り込まれながら、その征服戦の際に抵抗が強かった場所、たとえば葛城や熊野は後々「闇」の空間として見られ、鎮撫のため大きな神社が建てられた。すなわち、過去の強力な敵対者が鬼になるのである。武力で勝てない被征服者は、呪術・宗教を通じて無意識の反抗をした。朝廷からは、土蜘蛛・夜刀神・国栖・佐伯などと呼び蔑まれて、且つ恐れられていた。また東北(夷)からはいつも闇の贈り物があった。ここから「鬼」の歴史が始まったのだ。  
天変地異や疫病の流行は為政者を恐れさせた。奈良時代、天然痘の大流行があった。順わぬ民や政敵もいる。例えば藤原広嗣の乱。これらは悪霊が蔓延ったからに違いない。それらから霊的に防衛するため、大陸渡来の宗教、特に仏教が国家安護に利用された。聖武天皇は、奈良に金ピカの大仏(毘廬遮那仏)を作らせ、全国の国分寺の総本山として鎮座させたのだ。その金を大量に供給したのが陸奥国小田郡で、砂金の発見者は百済王敬福であった。渡来人は優秀な技術を持っていたわけである。この大仏建立事業はインフレを招き、平城京を混乱させることになった。  
早々にケノ的脱線となる。大仏建立に僧行基がおおいに働いた。資金の調達(「勧進」と言う)、技術者・作業者の確保、聖武天皇・橘諸兄など行政との調整をこなしたのであるが、彼が組織化したのが土木建築の技術者と作業者の鬼グループだったに違いない。行基自身は毘廬遮那仏の完成を見ることはなく没したが、一方、大仏建立のために組織化されながら、その組織体は大仏完成後も一定の力と政治的発言権を持ちつづける。組織体を維持するため、東大寺西塔竣工後も次ぎの仕事を要求するようになるのだ。  
この構造は、高度成長期からバブル期に成長した土建業界と行政の産官複合体と同じである。中央政府は独立行政法人を作ったが、地方自治体は暗黙の産官複合体を作った。例えば、神戸市がそうである。六甲山の裏側を削り宅地や工業団地を造成した。掘った土は大阪湾を埋めてポートアイランドと六甲アイランドという人口島を作くり、そこに市営住宅を建てた。「神戸市株式会社」と言われたほど産官の複合化が進んだのだ。その産官複合体は、関西国際空港建設で生き延びた。発案は中央主導だったが、要求(陳情)がなかったとは言えないだろう。こうして瀬戸内の島が削られて行った。とくに小豆島の向かいにある家島諸島は島一つがなくなるほど削られている。やがて関西国際空港1期工事が終わると、神戸産官複合体を維持するために、今度は無駄と分りきっている神戸空港建設を要求するようになった。市議会はいつもこの問題でゆれている。では、8世紀の奈良朝末期、新しい大土木事業が要求されなかっただろうか?  
地方の反乱・仏教勢力の増長などを嫌い、生臭い政変を経て、桓武天皇は秦氏の領地である宇多村に新都を造営した。平安京である。ここも霊的に防衛しなければならない。今度は仏教ではなく風水を採用した。それは、東=川=青龍、西=道=白虎、南=池=朱雀、北=山=玄武という四神相応という理論に基づいている。鴨川、山陰道、巨椋池、船岡山(貴船山・鞍馬山)が地理的に対応する。艮(うしとら)の鬼門には、内裏に大将軍八神社、外には一条戻り橋、更に延長上に延暦寺を配したのだ。  
またケノ的脱線となるが、青龍・白虎・朱雀・玄武の原イメージは四季であろう。春は青、秋は白、夏は赤(朱)そして冬は黒(玄)という古代中国の季節と色の対応があり、更に、青春=東、白秋=西、朱夏=南、玄冬=北という季節・色・太陽位置という3要素の連想である。ここまでは何となく理解できる。ただ、川・道・池・山が東・西・南・北に対応する媒介項は別にあるようだ。風水にかかわらず象徴体系は、分かったようで分らない。だから面白いのだが…。  
さて、京都にはもう一つ、鬼よけの奇策があった。門である。朱雀大路の最南に羅城門がある。内裏の南には朱雀門がある。これらの門は登桜に行くための階段が設えてなかったらしい。ガランとした空間が門の上部に広がっていた。あっても仁王像くらいのものだった。なぜならここは観念上の鬼のために作られていたのだ。鬼が都のあちこちを徘徊しないように門の上部に鬼だけが登れる特等席が儲けられていたわけだ。実際は、夜になると盗賊が寝泊まりしたかもしれないが、彼らは警備員の役も果たしたに違いない。鬼を封じ込めた事には変わりなかったのだ。  
このように古代は、何らかの霊的コンセプトを基に国家基盤のグランドデザインとしたのである。何かを発案する時には、最初の取っ掛かりが必要だ。鎌田東二は『聖なる場所の記憶』の中で、「第一行目は神から来る」という言葉を使っている。また「わたしは、そうしたイメージの第一行目を探りあてようとする あえかで 幽(かそ)けき感覚を『もののけ感覚』と呼んでいる」とも書く。時の天皇は「もののけ感覚」によって鬼の気配を感じ、やはり「もののけ感覚」を論理化した宗教=呪術を以って鬼に対処したのだ。  
順わぬ人々に目を移そう。奈良葛城地方の人は土蜘蛛と呼ばれたが、一言主という国津神を信仰していた。こういった山には先住の猟師・山岳民族がいたのである。柳田國男は「山拠の人」と呼んだが、山蒿(サンカ)のことであろう。明治時代まで見られたと言う。先に上げた土蜘蛛・夜刀神・国栖・佐伯が当時の日本各地の先住民族の呼称だった。ここに道教の神仙思想がはいり習合する。それにつながる賀茂一族のスーパースターが役行者(小角)である。葛城山に住むシャーマン的な呪術者であった。  
更に平安時代になり山へ密教僧が入ってくる。一部の軋轢はあったが結局、習合して修験道が生まれた。彼らは渡来系の人が多く、鉱山や薬草などの高度の知識・技術を持っていた。先に書いた百済王敬福の砂金献上話もそれを裏付けている。平泉の藤原三代も黄金文化であったが、これを支えていたグループがあった筈だ。不老長寿薬の原料である水銀はどうか。また、日本刀の発祥地、岩手県の舞草の鉄を見出しのは誰か。そう考えてくると鬼の広がりが想像できる。柳田國男は、日本の山は東北から中部地方の末端まで全く下山することなく渉り歩くことができたと言う。移動する修験者同士のネットワークが日本の山々に張り巡らされていたのだ。中央政府とは別の、高度な技術と思想を持つ集団=鬼の世界があったのである。  
馬場あき子は、文学に現れる鬼を集計して山・橋・門が登場ヶ所ベスト3だという。山は集団で現れることが多く、橋や門は単独が多い。山では、鈴鹿の鬼(鈴鹿御前、立烏帽子)、逢坂山(関山)、そして有名な大江山の鬼を紹介している。大江山の鬼は、比叡山の童(雑役)がことあって集団で大江山へ移り拠点としたことと対応しているという。説話では、酒呑童子として書かれている。特徴は、歳をとっても童(わらわ)と呼ばれ、童髪(肩までの乱髪)をしていたことだ。結髪の令が出ている時代に神部・斎宮宮人及び神人は結髪の制を免れていた。この乱髪は、死後の風俗として想定されている。国津神の末裔が生活のため寺の雑役をさせられ、故あってそこを去った歴史が浮かび上がるのだ。一方、橋や門は交通の要衝であったことと関係があると考察している。この話は中世に重要となってくる。  
山岳系の鬼のネットワークがあれば、平地にも鬼はいたはずだ。時代は遡るが、日本書紀の景行天皇紀に「山に邪しき神あり、郊(むら)に姦(かだま)しき鬼あり」とある。平地に住む順わぬ民は、姦計をなして反抗していたのだ。卑弥呼は鬼道をなすとあり、呪術をよくした。その類の末裔かも知れない。奈良時代から道教をベースとした天文学や医薬に詳しい渡来系の者が入ってきてた。共に呪術=医術を業としていた。呪禁道といわれるが、これに密教が加わり、占いまで行う陰陽道(おんみょうどう)へと発展する。上は天皇の相談役、下は町の辻占いをした。彼らを陰陽師(おんみょうじ)という。そのスーパースターが安倍清明である。このグループも後に鬼となって行くのだ。  
陰陽師は、式神という鬼を用いて術をかける。一種の催眠術である。奈良期の呪禁道では呪う時には毒虫などを用いていたのだが(蠱毒)、後に象徴的に紙製の人形(ひとがた、式人形)を用いるようになった。これに霊を乗り移らせて治療なり呪詛なりをする。さらに発展して紙の人形を召使のように使う術になる。それが式神である。伝令をしたり人を殺めたりするのだ。式神は、寺男のような実在者(童)だったという説もある。仏教説話にある護法童子は修験道の呪法で用いられるが、式神はこれとも関係があるかもしれない。ここで注目すべきなのは、陰陽師が紙を自由に入手できる立場にあったことで、製紙業と関係していたと考えられるのだ。先端技術を握っていたので為政者ともつながりができる。製紙技術・医術・呪術・占術などの特殊技能をもって権力の中枢に入っていったのだ。  
平安末期になって陰陽師そのものが鬼になる。密教僧や修験者が中央政界に入って来たり、武士が実権を握り出すと、陰陽師は権力の近くから追い出された。それで地方の武士団に流れ込み軍事顧問や相談役になる。もちろん振れこみは、恐ろしい呪術者・先端技術者であったから、周りは彼らを「鬼」と見なしたのだ。それが後に自ら武装するようになったのが、忍者である。渡来系の大伴氏は遁甲術を伝えており、中央政治に敗れ甲賀に落ち延び甲賀忍者になったという説、唱門師系統の下級陰陽師が甲賀に入ったとする説、などがあるが、要は追い出された陰陽師が忍者になっていったのである。  
陰陽師などの異能者がすべて忍者になったのではなく、生きて行くために色々な職に特