古代日本仏教

韓国仏教の役割聖徳太子1聖徳太子2聖徳太子3維摩経中国の涅槃図捨身思想と怨霊信仰衆生救済の鎌倉仏教の成立破戒と男色最澄「円戒の思想」・ ・・
 

雑学の世界・補考   

古代日本仏教における韓国仏教の役割

古代韓日仏教文化交流に関する研究は、その研究資料がほとんど古代高句麗・百済・新羅の三国が一方的に仏教を伝えたという記事ばかりで、今までの研究が大きく誤解されており、もう一方、日本側ではこの部分の研究をなおざりにして、無視してしまう傾向さえあった。つまり、百済が日本に仏教を伝えたという事実に対し、それが下賜か献上かという問題が提起されたのがそれであり、一方、日本が古代仏教を論ずるにおいてインド・中国・日本の三国仏教論を提示しながらも韓国仏教を論外にしているのがそれであると言えよう。しかしこうした事情は、ともすれば仏教を日本に伝え恩恵を施したという立場になりがち、または、仏教を伝えてもらったのは事実だが、あまり影響は受けたことがないという姿勢をとったことから由来するかも知れない。そのため古代韓日間の仏教文化交流に関する研究は、主に古代韓国が日本に仏教を伝えてくれた事実を中心として研究するべきだが、こうした仏教伝米の事実をもっと総合的な文化交流の次元から見極めていくと、当時の韓日間の関係をより具体的に解明することが出来ると思うのである。このような視覚の研究が今まで全然なかったわけではないが、これらは交流次元という側面では進みがあっても、部分的な交流に限られているので、物足りなさが感じられる。従って、本研究は出来るだけより多くの因果関係を総合するという立場から、古代韓日間の仏教文化交流の真骨頂に接近していきたい。ここでいう韓国の古代とは、三国時代に限られた時期で、本研究は同時代の両国間の交流関係を対象にする。
百済仏教と日本初伝仏教の展開
日本初伝仏教の展開過程
まず、韓国や日本の史書が伝えている両国の仏教初伝に関する記事の相違に注目していただきたい。(三国史記)や(三国遺史)は、高句麗・百済・新羅に初めて仏教が伝わったことを次のように述べている。
高句麗
小獣林王2年、前秦の符堅王が使臣と僧順道をもって仏像や経文を送り、翌年省門寺を創建して順道をこの寺に泊まらせた。これが高句麗仏教の始初である。
百済
沈流王元年、胡僧の摩羅難陀が東晋から来、彼を歓迎して王宮に泊まらせて禮敬した。翌年、新都漢山州に寺を建て、僧10人を得道させた。これが百済仏教の始初である。
新羅
新羅の仏教は様々な紆余曲折を経て社会に伝来したので、高句麗や百済のように簡単には述べられない。新羅に仏教を伝じた者は沙門で、信仰の対象は三宝であった。礼拝の場所がなかったが、初めて持つようになったのは訥祇王のときである。
以上、古代韓国社会での仏教伝来の史実から見ると、仏像・仏経・仏僧の三宝が伝わり、またこれらを受容する仏寺の創建がなくては、仏教の伝来とは認められなかったと思われる。高句麗は、この四つの仏教伝来の条件を確かに明示している。しかし百済と新羅とは仏像や経文が伝えられたことを明確に記述してはいないが、仏僧が来て仏教を伝え、仏寺を創建して仏教を広めたということから、仏像や仏経を仏僧が持ってきたのを間接的に伝じていると言える。これに比べて、(日本書記)が伝じている日本仏教の初伝記事は次のように異なっている。
欽明天皇13年(552)、百済の聖明王は西部姫氏達率怒悧斯致契らを遣わして、釈迦・仏の金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干券を贈った。別に上表し、仏を広く礼拝する功徳を述べて、「この法は諸法の中で最勝であります。解り難しく入り難しくて、周公・孔子もなお知ることが出来ないほどでしたが、無量無辺の福徳果報を生じ、無上の菩提を成し、例えば人が随意宝珠を抱いてなんでも思い通りになるようなものです。」
つまり、百済の聖王が仏像と仏経を伝じ、仏法の優れたことを賛文をもって理解させているにほかならない。ここでは仏僧が来たこともなく、仏寺の建立もないのである。しかし、この日本書記の記録は幾つかの理由から信頼性を欠けていると言われるが、これに対して信頼性をもつ日本初伝仏教文献と言われている(元興寺伽藍縁起並流記資財帳)でも事情は同じである。この記録によると、太子像、潅仏器、仏説起巻一篋が伝えられたと言って、ここでも仏像類と仏経類のみを言及している。以上のような日本の初伝仏教の記事は、仏教が一方的に伝えられただけで、日本社会がこれを受け入れていなかったのを示したものと言える。日本の欽明天皇は仏教の受容を強いられる立場ではなかったので、百済から贈られた仏像や経典を奉仏派の蘇我稲目に取らせ、自分は中間に立っていた。このように伝えられた仏教を百済から日本に贈与された仏教だと見ている。しかし、当時国家の間に仏教が伝わるというのは、王権確立を通じた古代国家の発展と緊密な関係をもつ文化段階を背景にしているので、日本が仏教を積極的に受容しなかったのは、百済が贈与したためと言うよりは、むしろ受容できる文化段階ではなかったことを意味しているのである。一方、以上の百済仏教を国家的な立場からは受容しなかったとしても蘇我氏などの奉仏豪族がこれを受容して将来、国家的・社会的な仏教に展開・発展していくために古代韓国仏教の支援と指導が続いた事実に注目すべきである。またこのような事実も日本仏教伝来の歴史として認めなければならないのである。つまり、日本の仏教伝来は、新羅仏教のように幾つかの段階の展開過程を経ているが、このような過程には古代韓国仏教が大きな役割をはたしたのである。以下、その幾つかの段階の日本仏教伝来の過程をみると、次のようである。
第1段階
百済系渡来人たちと深く係わっていた奉仏派の豪族、蘇我稲目が百済の送った仏像と仏経を自分の私家に奉安し、私的な信奉を行なう段階。
第2段階
反対派によって伝えられた初期の仏像は難波の中に捨てられ、それ以後、蘇我稲目のあとを継いだ蘇我馬子の私家に仏像はなかったが、敏達天皇13年(584)、鹿深氏が百済から弥勒石像1躯を持ってきて蘇我馬子の私家の入口に奉安し、善信尼などの尼僧に弥勒石像を礼拝供養させた。ここでは前段階とは違って、仏像を私家の奥に隠して個人の崇拝をしたのではなくて家の入口に安置して、より多くの人々に崇拝の便宜を図り、尼僧に仏像を崇拝供養させる仏教儀礼の進展まで到っている。一方、同じ時期の敏達14年(585)2月15日、釈迦の涅槃日を記念して、蘇我馬子の根拠地の富浦に日本最初の塔の造営が始まった。これは百済の威徳王が敏達天皇6年(577)、僧侶と共に造仏工・造寺工を遣わしたということから、これら僧侶と技術者によって造られたと思われる。以上の2段階を見ると、仏像・仏経が伝えられただけでなくて、伽藍が形成され、仏教儀礼を行なう僧尼の出現もあったのである。これは豪族勢力による仏教の社会化を意味するが、こうした豪族勢力による仏教の社会化に危機感を感じた敏達天皇は、疫病の流行が蘇我馬子などの奉仏に因るといって、破仏行為を敢行して仏像・仏殿などを破壊し、善信尼などの僧尼を還俗させた。
第3段階
蘇我馬子が発病し、仏教への帰依を敏達天皇に発願したので、敏達は蘇我馬子に限って奉仏を許可した。馬子は善信尼らに弥勒像を供養させて病気が治った。これをきっかけに蘇我馬子による奉仏は一段と発展するようになった。つまり、仏教信仰とは、仏像や仏経を奉安し、いいかげんに礼拝供養すればすむのではなくて、伝統的な仏教の戒法に従って受戒した僧尼によって祈願行為を行なうべきだという僧宝信仰への発展を見ることになった。前の第2段階でも、善信尼らの出家者が存在したが、これらは仏僧の役割を代行した巫女に過ぎなかったので、正統の戒法を受け継いだ僧尼を要したのである。このような願いを用明天皇2年(587)、来日した百済の臣が聞き、彼は百済の尼僧の受戒法を次のように語っている。
尼僧はまず、尼寺に10人の尼師を招請して戒を受け、また法師寺に行って10人の法師を招き受戒する。
ここで、尼僧の受戒のためには20人の戒師が要り、尼寺と法師寺が必要であるが、当時、日本には善信尼らが居住する尼寺はあったが、法師寺と戒師の資格をもつ20人の僧尼がいなかった。それで、仏教の正統的受戒のためには、まず法帥寺を建て、また百済から戒師の資格のある僧尼を招かなければならなかった。こうして蘇我馬子は皇室と諸豪族に訴え、反物部勢力を糾合し反仏派の物部勢力を打倒しながら法師寺建立の立志を強化した。蘇我馬子は崇峻元年(588)、百済に要請し、僧侶や造寺工・露盤工・匠工・絵画工人などの法師寺の建立に必要な要員を遣わしてもらった。この時、日本に来た百済僧は6人で、受戒のため必要な20人の戒師には及ばなかったので、善信尼らはやむを得ず百済に行って受戒するしかなかった。これが日本最初の百済留学学問僧であった。崇峻天皇3年(590)、百済に行って受戒した善信尼ら5人の尼僧が帰国し、尼寺用として造営中の櫻井寺(後の富浦寺)に泊まるようになり、588年、百済から来た僧侶6人は法師寺の建立予定地に假僧房を建てて居住した。
第4段階
この段階では、受戒のためにはもとより、戒を受ける僧侶が僧宝としての役割を果たすため必要な法師寺の建立が続くのである。法師寺建立の必要性はすでに前段階で要求されたところだが、前段階では法師寺の機能を担当する僧宝が設けられていなかったので、これを充足するためには百済に留学僧を送って、戻ってくるのを待つしかなかった。第3段階ですでに建立中であった尼寺としての桜井寺と共に法師寺をその近くに建てようとしたのは、百済の法師寺と尼寺との機能を日本に移植するためだったと思われる。今日、当時百済の法師寺や尼寺について碓かめる方法はないが、(大日本仏教全書)によると、
百済の法師寺と尼寺では、毎月1日と15日の2度にかけて白羯磨の法会を行なうのが恒例であった。同地域の僧と尼が15日ごとに午前中一寺で会同し、読誦した戒律の条目に基づいて各者に該当する罪を絵像の前で懺悔告白する。このような会場の寺は、法師寺と尼寺が交代するが、法師寺と尼寺は鐘の音が聞こえる所に位置して、おたがいに容易に往来する。
と書いてある。すなわち、百済の正統仏法を日本に移植するためには法師寺の建立が必要であり、また法師寺の建立のため百済の僧侶や技術者らを招いたのは当然のことであろう。法師寺は今日の飛鳥寺に当たるといわれるが、1956年より1957年にかけた発掘調査によって、創建当時の伽藍遺構が見つかった。また同報告によると、この寺の伽藍配置は、塔を中心として東西と北に3金堂が配置されて、周りに回廊があり、塔の正面に中門、中金堂の北側に講堂址が発見されたと言う。このような伽藍配置は、八角殿址塔を中心として北と東西に3金堂をもつ一塔3金堂の伽藍配置で、高句麗の金剛寺とも比定される韓国平安南道清岩里廃寺址の伽藍配置と同じ系列のものだと見込まれる。もう一方、同寺址からは百済瓦堂や同系列の瓦堂が発見された。また、前述の百済技術者によって、この飛鳥寺が創建されたという文献記録から見れば、むしろこの伽藍は百済系の伽藍様式を追っているのではないかと考えられる。一方、飛鳥寺の完工の後、高句麗の僧恵慈と百済の僧恵総の2師を迎え、渡来人の止利によって、中金堂の丈六釈迦金銅像が造営されたと言う。これによると、飛鳥寺と関連しては高句麗仏教との係わりをも排除してはならないと思われる。以上のように飛鳥寺の建立は高句麗・百済の宗教的・技術的な支援なしでは不可能なことであって、後の飛鳥寺の経営にも恵慈、恵総など高句麗・百済僧の指導を要したのである。のみならず、百済僧の観勒を僧尼検校の最高の地位である僧正に任じて僧尼の指導を任せている。つまり、日本最初の仏寺とも言える飛鳥寺はいろんな紆余曲折を経て完工され、経営が出来るようになるが、以上のように4段階にかけて展開・発展した日本初期仏教のあらゆる役割を百済仏教が主に担当したとも言えるのであろう。
日本初伝仏教の性格

前述したように、日本初伝仏教の展開過程は、私の国のように国家や王室中心の仏教でなくて、蘇我氏などの豪族が中心となっている。すなわち、国家仏教でなくて豪族仏教として成長していったことから、その特異性が見られるのである。例えば、我国の場合は、在来の族的部族信仰を仏教が受容、統合するという性格をもっているが、日本初伝仏教は、まず、族的部族信仰を自ら仏教に転換させている。そして、族的信仰から仏教信仰に転換した豪族が他の豪族を転換させる段階を経て初めて、国家仏教に発展するようになったのである。日本仏教を最初に受け入れた有力豪族の蘇我氏が建立した飛鳥寺が、日本固有の国神を崇拝する豪族の領有地でなくて、古代韓国系の渡来人を村主とする渡来人の領有地に建てられたというのは注目すべきことである。なぜならば、真神原と呼ばれた飛鳥寺の創建予定地には昔から槻木があって、この樹林は、この地元の人々の宗教聖地だったと言う。しからば、飛鳥寺の創建は仏教以前の樹木崇拝の聖地に仏寺が建てられ、樹林信仰での巫が飛鳥寺の僧尼となるわけだが、こうした例は、古代韓国社会に仏教が受けられた当時の事情からも見きわめることができるからである。つまり、蘇塗信仰の基盤の上に仏教が受容される百済仏教がそれであり、新羅で天鏡林に興輪寺が、神遊林に四天王寺が建てられたということなどが、そのようなことだと思われる。古代日本でも樹林信仰はあっただろうが、飛鳥寺が建てられた聖地が古代韓国系神の聖地だったとすれば、日本仏教の始源をなす飛鳥寺は蘇我氏を中心とした豪族の私寺的な性格をもつのは言うまでもなく、その私寺的な性格をもつ飛鳥寺は古代韓国仏教が蘇塗信仰に基づいて仏寺を建立する類型と同じ脈絡から理解されるのである。結局、日本の初期仏教は蘇我氏を中心とした豪族の私寺仏教に始まるが、反仏派の物部氏の豪族勢力が崩壊しながらより多くの有力豪族らが蘇我氏の支援を受けて私寺を建立したので、その数は46個寺に到ると言われる。そして次の日本仏教は、このように有力豪族によって建てられた余他の私寺が再び高句麗・新羅の仏教を受け入れながら新たな仏教文化の発展を図るようになったと思われる。
新羅仏教と聖徳太子の日本仏教

百済の聖王が536年、初めて日本に仏教を伝えて以来、蘇我氏の豪族が中心となって物部豪族らの反対を退けながら、596年、飛鳥寺を創建した。そして、余他の豪族勢力も仏寺を建て、私的な仏教が発展していくまで日本皇室の仏教への関心が如何なるものだったかを見ると、最初伝来当時の欽明天皇(538-571)は、仏教に対し奉仏派と反仏派の中立的な立場で、敏達天皇(585-587)は、仏教受容の姿勢を取っていなかった。その後、用明天皇(585-587)によって初めて崇拝され、聖徳太子に到って、国家仏教としての性格をもつようになるが、こうした仏教が白鳳奈良仏教に引き継がれたのである。
私寺仏教から官寺仏教への転換
私寺仏教とは、国家仏教ではなくて豪族一家の祈願を担当する仏寺を指し、官寺とは、国家仏教、すなわち国家と人民の安寧を祈るのを目当てに建てられた仏寺を指す。我国の寺院は初期の一部を除いては最初から官寺、つまり国家仏教から始まっているが、日本仏教は前述したように草創期の寺院は私寺から始まっている。そして、このような私寺が官寺に転換するには、半世紀以上の長い日々を待ってからである。これは私寺として創建された飛鳥寺が官寺に移行する過程を見ればもっと明らかになるのである。飛鳥寺が蘇我馬子の発願による私寺だったというのは、(日本書記)崇峻天皇前記(587)で明らかなことだが、大化改新により、馬子の子孫である蝦夷入鹿親子が滅亡し、飛鳥寺側では新しい飛鳥寺の創建縁起を創作して、皇室との関係を深めて官寺的性格の寺院に変貌していくのである。つまり、飛鳥寺では縁起を創作し直す過程で、創立者の蘇我馬子との関係を出来るだけ薄くし、その代りに飛鳥寺の創立に天皇が関与しているかのように記述している事実を幾つかの文献から見極めることが出来るが、大体その過程は次のようである。第一段階では、馬子が発願者として蘇我氏自身のため創寺したのを明らかにしている。
第二段階では、馬子が天皇のため寺を建てるという発願の主体者に変貌している。第三段階では、推古天皇が発願者となって馬子と聖徳太子に命じて寺を建てしめたことになっている。最終段階では、馬子の名前は全く見えなくなり、推古天皇の勅願で、寺と仏像が造成されたことになっている。
このようにして飛鳥寺は徐々に官寺的性格を強化して、まもなく天武9年(680)には国の官寺である大官大寺の一つになったのである。以上の如く7世紀末から8世紀の初めになると、日本には飛鳥寺・薬師寺・川原寺・大官大寺・法隆寺などの寺刹が国家的寺院の官寺として経営される。日本仏教において私寺が官寺に移行する過程を見ると、最初の段階の私寺の性格を明らかに表すのは、発願者が個人であり、目的も個人の安寧を祈願しているのである。しかし、官寺に移行する第一段階において、国王や王室の安全のために寺を建てるという発願文の変化が出る。こうした段階の代表的な寺刹として、四天王寺・広隆寺などに注目すべきだと思われる。なぜならば、これは聖徳太子信仰と新羅仏教との係わりを理解するに役立つからである。広隆寺は最初の寺名は斑鳩寺で、一次伽藍・二次伽藍・三次伽藍があったのが発掘調査で確かめられたが、飛鳥寺の記録が(日本書記)などに詳細に記載されているのに比べ、法隆寺のことは、文献記録からは詳しいことを見ることが出来ない。しかし、遺物を通して見ると、一次伽藍が聖徳太子自身によって創建されたといえば、二次伽藍は聖徳太子の死後、彼を迫慕して再建したことが分かる。一方、四天王寺は聖徳太子自身が建立したとも、または聖徳太子のため建立されたとも伝じられている。法隆寺は、古代韓国からの渡来人である奏河勝が創建したと伝じている。この寺は最初に京都九条の河原県に位置していたが、寺域が狭くて今日の太秦に移り建てたという。ところがこの寺を建てようとしていたある曰、聖徳太子が諸豪族らに、自分の持っている仏像を礼拝したい者にゆずると言った。それで河勝が聖徳太子から仏像をもらって広隆寺を建てたという。
この時、聖徳太子が奏河勝に寄贈した仏像が如何なる仏像で、また聖徳太子はどのような経路を経てこの仏像を手に入れたのかは知れないが、奏河勝がそれまで仏法興隆の主導権を握っていた飛鳥の蘇我馬子に仏像を求めなくて、斑鳩地方(法隆寺)の聖徳太子に仏像を求めたという点に目を引かれるのである。なぜならば聖徳太子と広隆寺の奏河勝、四天王寺の難波吉士などの結合は、仏教を通じたことであり、このように仏教を媒介にする聖徳太子の支持者が徐々に増えていたとも老えられるからである。聖徳太子は推古天皇の即位により、20歳にして摂政皇太子として任命され、政治的には冠位12階の制定、17条の制定・公布などによって革新的な施策を通した人材の登用と儀礼秩序の確立を図り、貴族官僚の徳育教化や政治の質的転換をもたらした。一方、摂政に就任した推古2年(594)、始めて仏法僧の三法興隆の詔が発表されると、諸臣僚らは君親のため寺の建立に競り合った。以後、聖徳太子崇拝の風潮が生じ、法隆寺と共に太子信仰を高揚するようになったという。これと係わって新羅仏教と聖徳太子信仰との関係が見られる次のような記事が注目される。まず、6・7世紀にかけて新羅は、日本に仏像などの仏教文物を伝えている。その記事を(日本書記)で見る
(1)新羅遣奈此政奈末進調井送佛像
 眞平王・元年(579)敏達天皇8年冬10月
(2)新羅遣奈末竹世士貢佛像 眞平王38年(616)推古天皇26年秋7月
(3)新羅遣大使奈末智洗爾 任那遣達率 奈末智並来朝 仍貢佛像一具 及金塔井舎利 且大頂幡一具
 小幡 十二條 即佛像居於葛野秦寺
 以余舎利金塔潅頂幡等皆納宇四天王寺。
 眞平王45年(623)推古天皇31年秋7月
(4)大宰獻新羅調賦 井別所獻佛像
 神文王8年(688)持統天皇3年2月
(5)新羅獻金銅阿彌陀像 金銅観世音菩薩像
 大勢至菩薩像各一躯・神文王9年(689)持統天皇3年4月
以上のように、新羅では日本に仏像などの仏教文物を随時に送っていたことが分かるが、この中で特に目を引くのは(3)の記事である。この記事で「即仏像居於葛野奏寺」といって当時送った仏像の奉安場所を明記しているからである。この葛野奏寺は今日の京都市太秦にある広隆寺で、この寺は我国の国宝83号弥勒菩薩半跏思惟像と全く同型の弥勒像を奉安していることから我国との関係を思わせている。ところが、この寺の創建は前述した記事の仏像を送った1年前に聖徳太子が別世(622)したので、彼の冥福を祈るために新羅系の豪族と推定される奏河勝が創立したと伝じられている。そして、奏河勝は広隆寺の本尊仏を弥勒半跏像と奉安することを希望した。従って新羅の真平王にそのような仏像を要請してもらったのが、前議事の仏像であり、またそれが今日に伝わっている広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像だと知られている。一方、真平王に弥勒像と共に送られた金塔・舎利・潅頂幡などは難波の四天王寺に献されたというが、このような事実は蘇我氏や飛鳥寺などを通して百済関係の仏教文物が伝えられたこととは違って、太秦の広隆寺や難波の四天王寺には新羅の真平王から直接仏像・仏具などが献納されているのが注目されるのである。ここには弥勒信仰をめぐった新羅と日本との新たな仏教文化交流関係が形成されていたと考えられる。真平王によって送られ四天王寺に献納された金塔・舎利などは(四天王寺御朱印縁起)に書いてある「金塗六十宝塔基」として知られているが、同縁起によると、金堂の本尊仏は、金銅救世観音像一體だが、(太子伝古今目録抄)所引の(大同縁起)には「弥勒菩薩一駆蓮華座」とされている弥勒菩薩像である。このような菩薩像については百済国王が聖徳太子を敬い慕って造成した像だという寺伝もあるが、以上の四天王寺・広隆寺の新羅との関係から見る限り、むしろ新羅との係わりを重視すべきだと思う。四天王寺は聖徳太子の創建、または聖徳太子の為に創建されたという寺伝がある。これは飛鳥寺が私寺から官寺に移行する過程の中で、創建者の発願が代るようになったことと同じ類型だと思われる。つまり、四天王寺も官寺としての位置を碓固にする以前に、私寺としての四天王寺が存在したのである。
田村圓澄は、この私寺としての四天王寺は難波に本拠地をもつ難波吉士によって創建され、一方、難波吉士の「吉士」とは、新羅の官等である17官階のうち第14位の「吉士」にあたると言って、難波吉士は新羅系人だと主張している。そして、この難波吉士は6世紀の後半より7世紀にかけて日本朝廷の対新羅交渉が活発になると外交使節として新羅に度々行ったという。(日本書記)によると、610年、新羅・任那の使臣が入京した時、膳大伴は任那の使臣を迎える荘馬長に、そして新羅の使臣を案内する役を奏河勝が担っている。さて、法隆寺も、再建法隆寺の以前に私寺的性格をもつ斑鳩寺があったというが、この私寺としての法隆寺の前身は、斑鳩地方(奈良県生駒郡斑鳩町)に本拠地をもつ膳氏豪族によって建てられたと推定されている。膳氏家は早くから古代韓国と深い関係を結んでいた。膳斑鳩は、464年に高句麗の軍士に囲まれた新羅の王を救う為に、難波吉士赤目子と一緒に出兵しており、膳巴堤便は545年、百済に渡ったことがある。また膳傾子は570年、高句麗使者を饗応する役を担うなど古代韓国の事情に詳しい開明豪族で、蘇我馬子と共に反仏派の物部安屋の討伐に参加した奉仏派であった。一方、膳氏と聖徳太子との関係を見ると、膳傾子の娘が聖徳太子の妃にもなるが、聖徳太子が605年に斑鳩に宮を移した動機というのが膳氏による斑鳩の開明性にあった、ということにもっと重点をおくべきだと思われる。このように見ると、斑鳩の膳氏、難波の難波吉士、太秦の河勝は皆護仏の豪族で、早くから私寺を所有していた。これら豪族の中、難波吉士と河勝などは新羅系人という基盤をもとにして古代韓国と深い関係を結んでおり、膳氏は韓国の事情をよく知っていた開明派豪族で、前述の2人の豪族とは、お互いに意気投合することが出来たのである。そして、聖徳太子と膳氏は仏教を前提とした開明性により、深い係わりが結ばれたと思われる。要するに聖徳太子、膳氏、難波吉士、河勝氏らは仏教を基盤としてお互いに結ばれ、またその結合は百済仏教をもとにしていた蘇我氏による仏教とは違って、新羅と直接に連結された新しい仏教による結合(開明性)であった。
この新たな仏教は弥勒仏教を指向していた。そのような仏教は、私寺仏教を克服して公的な国家仏教を目指し、ここに聖徳太子による国家仏教が展開されたと考えられる。
新羅仏教と聖徳太子信仰
筆者は、韓国仏教史において初期仏教の主流をなしているのが弥勒思想であったのをしばしば強調してきたところだが、初期日本仏教においても、弥勒仏・弥勒菩薩像がよく登場している点が注目を引く。つまり、敏達天皇13年に鹿深が百済から弥勒石像一體をもらってきて、善信尼らに供養礼拝させたのがそれである。また、最初に百済が日本に仏教を伝えた時も太子像一駆を送ったというが、この太子像も弥勒像を指していると思われる。もう一方、仏教を通して聖徳太子と関係深かった四天王寺、広隆寺などにも、前述したように弥勒像が本尊として奉安されたという。それでは、韓国と日本が共に初期仏教において弥勒信仰に深い感心を表していたのは何を意味するのであろうか。弥勒信仰は、死後、弥勒が修行している兜率天への往生を目的とする上生信仰と、弥勒の娑婆世界下生を待つ下生信仰とに分けられる。ここで前者は弥勒菩薩が信仰の対象となり、後者は弥勒仏が信仰の対象となっている。そして、上生信仰が個人の問題と係わる信仰形態を持つならば、下生信仰は国土や全国民に帰結される信仰形態をもつのである。一方、上生信仰は戒律を守ることを強調するが、下生信仰は弥勒への礼敬のみを強調する。そして、前者は戒律重視ということから転輪聖王思想と結ばれ、後者は弥勒下生が到来した時の世俗の政治は転輪聖王によって行われるということから転輪聖王と結ばれる。ここで弥勒信仰は、上生信仰や下生信仰共に転輪聖王思想との係わりが考えられるが、新羅の弥勒信仰は上・下信仰が共存している。つまり、弥勒半跏像を造成し、八関斎戒など戒律を重んじる新羅仏教は上生信仰と言えるし、真慈らによって弥勒の下生を発願し、弥勒が花朗に化現するというのは、下生信仰の一端として見られる。ところが、前者は主に貴族階層によって流行し、後者は王権を中心として展開しているが、両形態の弥勒信仰は共に正法政治のために必要だったと思われる。初期仏教の社会的展開が転輪聖王思想に基づいているというのは、真興王の行跡からも見極められる。真興王 は2人の太子を銅輪・舎輪、または金輪と命名しているが、これは転輪聖王がその威徳に従って、金輪王・銀輪王・銅輪王・鉄輪王として四洲を治めるということから始まったと思われる。一方、真興王の純狩碑に表れている巡行も、阿育王が行なった転輪聖王としての巡行と同じ性格であるのが理解される。つまり、阿育王は転絵聖王の立場からダルマの政治を行なって法巡行を自らの実践事項とした。巡行の主な目的は、沙門達と会見し彼らに布施を施すことと、各地の大衆と接触しながらダルマ政治に関する意見をまとめることであった。真興王の巡狩碑は、征服した各地方の人々を直接把握し、これらの地域社会に秩序を付与するのに一次的意味をもっていたが、こうした巡狩に法師を同行させていることは、阿育王によるダルマ政治の巡行によく似ている。以上、初期新羅仏教の社会的展開は転輪聖王思想の実践にあり、それと係わって弥勒信仰が盛行したとも考えられる。特に新羅の弥勒信仰は花朗、すなわち弥勒であり、半跏思惟像でもあるという信仰形態を展開させたという点に特徴がある。こうした発想は転輪聖王の立場から正法政治を目指していた真興王によって育成されたことから意味があると見られるのである。百済においても弥勒信仰が大いに盛行したが、(三国遺事)の記録や益山弥勒寺の三院伽藍の遺蹟から下生信仰の盛行の様子を充分に推測できるのである。しかし、このような下生信仰の道場が武王代に大いに経営される前、百済には弥勒上生信仰が流行していたのを、弥勒寺緑起説話が伝えていることから、百済にも弥勒上・下生信仰が共存していたことが分かる。そして、百済仏教の戒律上、弥勒信仰との係わりも謙益の事跡から見ることが出来る。一方、聖王・法王などによる戒律思想も、転輪聖王としてダルマの政治を行うのに必要だったという事実に接近することが出来る。唯、新羅の弥勒信仰に見られる花朗の弥勒化現といった形態は見ることが出来ない。もう一方、日本では、新羅系渡来氏族の難波吉士と奏河勝などの奏氏に弥勒上生信仰の対象である弥勒半跏思惟像が新羅から送られ、四天王寺と広隆寺に本尊として奉安されたというのはすでに述べたところだが、このような弥勒半跏思惟像を新羅では花朗と崇拝していたが、日本では半跏像信仰が聖徳太子の形で崇拝されたという田村圓澄の論証はかなり目を引くのである。
なぜならばこのような信仰形態は、弥勒即花朗といった、新羅の弥勒信仰から由来していると考えられるからである。半跏像即聖徳太子の信仰形態をもつ寺院は、前述した四天王寺・広隆寺以外に法隆寺・中宮寺・法起寺・橋寺・葛木寺などの7個寺が8世紀前後に広がっていたことを(法隆寺伽藍緑起并流記資財帳)などで見ることができる。ところが、このような聖徳太子信仰が拡大していくうち、飛鳥寺が意図的に除かれているのは興味深いことである。なぜかと言えば、半跏像即聖徳太子信仰は百済系仏教の影響を強く受けて存立した飛鳥寺を無視することから成り立ったと見られるからである。そして、これは天智9年(法隆寺)の消失以前にすでに成立して、この時期を境に、日本仏教に対した新羅仏教の影響が百済に代わって表れ始めたとも見るからである。新羅の弥勒半跏像信仰は上生信仰で、またこうした信仰が花朗に関する崇拝だったというのは前述の通りであるが、同時期の新羅においてはこうした上生信仰は下生信仰と対をなしていたことに特徴的要素が見られる。これら花朗の立場から見ると、花朗は個人的に崇拝の対象にもなるが(上生信仰)、龍華香徒と呼ばれた花朗によって導かれた花朗集団と対をなしたのがこれである(下生信仰)。しかし日本の「半跏像即聖徳太子信仰」のパターンは新羅に比べれば、聖徳太子個人の崇拝に止まった上生信仰の段階で、これは前述した聖徳太子崇拝の寺院が未だ官寺としての位置を得ていなかった私寺の段階だったのを意味している。ところが、この聖徳太子信仰は法隆寺の消失年代の670年を境に大きい変化を呼び起こしている。つまり、飛鳥時代が幕を下ろして白鳳期を迎えたのである。言い換えれば、豪族による私寺仏教時代から国家による官寺仏教への移行を意味するのである。これは、個人崇拝段階の聖徳太子信仰が、日本全域を受容の基盤とする公的信仰の対象に転換したのを意味するのでもある。そして、この段階の日本仏教の大転換においても、新羅仏教との深い関わりが存続していることを意識せざるを得ないのである。
王権の確立と国家仏教の発展
法隆寺の金堂に奉安された金銅三尊仏像は、推古29年(621)に亡くなった聖徳太子を追善するため、622年に韓国系渡到来人と知られている仏師によって造仏された。この仏象の光輩に次のような銘文が残してある。
法興王31年(推古29,621)、聖徳太子の母后か死亡した。翌年正月22日には太子が枕上に臥し、続いて妃の膳朗女が発病した。王后・王子・話臣達は悲歎に暮れて、太子と等身の釈迦像の造成を発願して太子の転病延寿を祈願し、もし定業であるならば浄土に上がって悟りに到るよう念願した。その効果を見ずに2月21日太子は死んだ。そして、癸未年3月中旬、釈迦像侠侍及び荘厳具が完成された。仏師は司馬鞍首止利だったと云う。
これに対し、田村圓澄は次のように幾つかの問題点を提起している。
まず、法興の年号を聖徳太子の行歴と関連して解釈して、仏法隆興に由来する法興年号は法王、すなわち日本の釈迦である聖徳太子とみてから初めてその意味が生き返ると述べている。釈迦=悉達太子は19歳に出家入山したが、聖徳太子の19歳は崇峻天皇4年、すなわち法興元年に当たるという。従って、法興年号は聖徳太子信仰が発展し、太子を日本の釈迦として信奉するようになった段階で法隆寺の僧侶によって使われたという。そして、法興年号を伝じている二つの資料、すなわち「伊予温岡碑文」と前記した「法隆寺金銅釈迦像光背銘」は共に聖徳太子を中心に置き、また太子のことを法王大王法皇と呼んだことは偶然ではないという。以上、聖徳太子=釈迦という考え方は、新羅の善徳女王以後に展開した新羅王=釈迦仏という発想と同じ脈絡で理解されている点が注目を引く。筆者は、新羅仏教の発展段階を法興・真興王代と真平王代、そして善徳女王以後の3段階に分けて考えてきたが、聖徳太子=釈迦という発想は、こうした新羅仏教に対比して考える必要があると思われる。初期の新羅仏教は、霊異力の必要な社会であって、より優れた霊異力と信じられた仏教を受容する(法興王代)。このような仏教は王室を中心に受け入れられ、王室の権威を高める仏教に転換して、弥勒下生信仰に基づいた転輪聖王思想へ展開された(真興王代)。一方、貴族集団の了解を経て受け入れられた仏教は、貴族集団の修行徳目に展開される。こうした仏教は花朗の修行の徳目としても重要な役割を果した。結局、八關斎などの修行実践によって身分的品位を高める貴族的宗教と認識され、その信仰は弥勒上生信仰に基づいていた(真興王代)。以上のように、新羅の初期仏教は弥勒思想を中心として、王室と貴族社会で、その社会的展開を見るようになるが、真平王代に到ると、中国に行ってきた圓光法師の世俗五戒を通して、より幅広い階層に仏教が受け入れられた。それは、真興王代には王室と貴族層に弥勒思想という共同の基盤があったが、王室側は転輪聖王思想に基盤したダルマ政治の実現を強調し、これに対し貴族層は身分的品位を高めるという信仰動機を持っているのが相互の差として表れる。
真平王代、圓光法師の世俗五戒による仏教は、このような信仰動機の対立性を解消して、社会的に共同の信仰基盤を設け、信仰階層を一層拡大して行ったものと言える。これは圓光法師自身の身分的制約から出た文化運動だったとも言えるが、一方、インドの阿育王のダルマ政治においても、弥勒思想に見られる八關斎戒・具足戒・十善戒などの出家者中心の戒律を対象にしたことでなくて、在家者中心の戒律を重んじたことに注目する必要がある。というのは、新羅では真平王代の圓光法師に到って初めて、一般民衆層まで基盤をおいた理想社会建設運動が起こったと見るからである。特に、圓光の世俗五戒が花朗の倫理徳目として重んじられたというのは重要な意味を持つのであり、当時の仏教は一層社会的意味を持つようになる。このような意味から、圓光法師の大乗仏教に関した諸説はもっと大きい社会的意味を持っていると言えるのである。一方、こうしてより広い階層に広がった仏教の社会的展開があってこそ、これを元にして新羅社会は、さらに華厳思想を受容し、その社会的展開を見るようになったと考えられる。新羅に華厳思想が伝来したのは、慈蔵の入唐求法から始まる。慈蔵は唐から戻って皇龍寺に九層塔の建立を勧め、重建伽藍を成し遂げ、江原道の五臺山を中国の五臺山に比定して、真身常住の場所と信じ、東・西・南・北・中の五方にそれぞれ修道道場を設けた。また自らの生家を改造して華厳経を論ずるなど、華厳思想の社会的展開を導いた。
次はこれまでの弥勒信仰に代って華厳思想を受容するようになった歴史的意義を見て行きたい。
新羅弥勒信仰の社会的展開の表相として、真興王代の興輪寺と1次伽藍として皇龍寺が建立されたといえば、善徳女王代に華厳思想を受容し、その社会的な意味を現わして立てられたのが九層塔と重建伽藍としての面目を備えた皇龍寺と言える。しかし、こうした文化転換は社会変動と軌を共にしている。つまり、華厳思想を受容し重建伽藍として皇龍寺を建立するにあたり、慈蔵が中国の五臺山で文殊菩薩を親見したことを語っている次の記事からも知ることができる。
君の国王は、すなわち天竺の刹帝利種王としてすでに仏記を受けた。故に特別な因縁があって東夷共工の種族とは異なる。また慈蔵が中国の太和地で行なった神人との対話の中、神人が言って、
君の国は女を王となして、徳はあるが威厳がないので隣国が謀ろうとしている。早速本国に帰って九層塔を建てると、九韓が来て朝貢し、王業が永遠に太平するだろう。
などの事実が注目を引くのは、こうした慈蔵による新羅華厳思想受容の縁起説話などは、すべてが新羅王権の尊厳性と深く係わっていると思われるからである。つまり、弥勒仏教時代の新羅国王は転輪聖王と象徴されたが、華厳思想の受容は新羅の王を釈迦仏に対比するようになったのがそれである。金哲■氏は、新羅仏教が王室即刹帝利種という真種説を主張しながら成立した王即仏思想がより体質的に敷かれていたと言い、また李基白氏は、真興王代には転輪聖王と立ち並んでいた王権が、真平王代になると釈迦仏と考えられる変化をもたらしたと言っているが、これらはすべてこのような事実を裏付けているのである。ところが、筆者はこれに加えて次のように思いたい。つまり、金哲剋≠ヘ、新羅王権の王即仏思想が高句麗を通した北方仏教の影響だと言っているが、それに加えて慈蔵による華厳思想の受容を考察してみれば、王即仏思想は一層説得力を得ると思われる。一方、李基白氏は、新羅の王権が真平王の時には釈迦仏に比肩されたと言うが、これもそれより後の普徳女王代からと考えられる。李基白氏は次の表を作ってその事実を説明している。
表からみても、釈迦仏は釈迦の父である自浄(真平王)と摩耶夫人(金氏)の子女である善徳女王になる。善徳女王代から新羅の主権が釈迦仏と象徴されたことは、前述した慈蔵の求法人唐時、文殊にもらった新羅国王は、天竺刹帝利種族という教示と皇龍寺九層塔の縁起説話でも見きわめられるが、これら諸縁起説話は、華厳思想に基づいているのを見過ごしてはならない。なぜならば、華厳思想こそ、新羅の国王が釈迦仏でありうる根拠を十分に裏付けることが出来るからである。つまり、華厳思想によると、その主仏は法身毘盧舎那仏だが、釈迦仏は百億化身の一であるので、化身仏としての釈迦仏の出現はいつでも可能なことである。言い換えれば、新羅の国王が釈迦でありうるのは、華厳思想の三身仏体系によってのみ可能になるということである。それでは、新羅王権の象徴が転輪聖王から釈迦仏に替わったというのは何を指しているのか。故高翊晋教授は次のように言っている。
弥勒仏があるためにはその前に釈迦仏が、また新しい転輪聖王が出るためにはその前に阿育王が存在しなければならない。
これは大変示唆的な説である。つまり、三国に仏教が受容された初期の国王が転輪聖王と象徴されるためには、阿育王説話を受け入れなければならなかったように、弥勒仏を知るためには釈迦仏を知らなくてはならないことである。結局、弥勒思想によって支えられた転輪聖王よりは、弥勒思想の一つの根源としての釈迦仏に戻った存在に国王を比喩することによって一層、王権の権威を高めようとしたと思われる。そして、あえて言いたいのは、このような王権に対した仏教的象徴が、新羅王族に対し聖骨・真骨の区分を生じさせたと考えられる。丁仲換教授は〈新羅聖骨考〉で、聖骨について政治・社会・文化的な面において考察したが、文化的な面の内容の中、聖骨概念の成立を、仏教の公認以後、仏教の宗教的神聖觀念から抜き出されて、当時の政治・社会的与件を基盤にして、王室の骨品を聖骨と呼んだと言えるので、遺事の中古期に属する法興王より真徳女王までを聖骨というのは妥当な説であると言えよう。
と述べている。筆者はこの説に全く賛同するところだが、ただひとつ加えたいのは、王権が転輪聖王と象徴された時期を聖骨で、もう一方、釈迦仏と象徴された以後を真骨と呼んだと思ってみたい。つまり、聖骨の聖は転輪聖王の聖から取り、真骨の真は釈迦仏の真と象徴されたか、それとも刹帝利種という真種説の真から取ったと考えられる。
以上、新羅の王即仏思想は中国からの華厳思想の受容によって可能だったと言える。しからば、日本において、聖徳太子=釈迦仏の信仰形態はどこから由来しているのか。こうした信仰形態は一応、新羅の王即仏思想と同じ脈絡から理解される。670年代以後、日本は白鳳期に入ってから、新羅と日本との友好関係が続き、日本の仏教界は新羅への求法活動に積極性を見せている。つまり、当時日本の学問僧の内、唐に留学した者は僅か2人だが、新羅には観常・雲観・知隆・明聡・観智・辯通など13人を数えるのである。こうして、国家意識が益々成長していた日本が、新羅から王即仏思想を受容して国家仏教を発展させ、もう一方では、これを通した律令国家の体制を確立していったと考えられる。
日本王室が直接仏教を受容したという記事は、これより先立つ舒明天皇11年(639)に百済川の方に百済宮と百済寺を建て、九層塔を建てたということからみられるが、これは国家仏教としての段階に入った官寺でなくて、豪族の私寺に対比するべき王室の祈願を担当する王室の私寺だったと思われる。唯、豪族の私寺を代表する寺院だった飛鳥寺の一塔三金堂伽藍様式の塔が五層だったのに比べ、王室の私寺だった百済寺の塔を九層塔にしたのは、王室の権威を高めようとした意図が見られる。そして、これば皇龍寺九層塔を立てるようになった動機が、王室の権威を高めるためであったという事実と関連させて考えれば「聖徳太子即釈迦」思想の成立以前から王権強化のための新羅的影響があったことを見ることができる。
このように、聖徳太子を釈迦と対比しているのは、間違いなく新羅の王即仏思想に影響を受けたのであるが、一方、両者の間には大きい差があるのが見られる。つまり、新羅では「王即仏」であるが、日本では「太子信仰」であるのがそれである。これを田村圓澄は聖徳太子即半跏思惟像に対する信仰が聖徳太子即釈迦(法皇)の公的信仰に発展・展開していったと主張している。また、洪淳氏は、法王の聖徳太子が天皇の位置であったら、法興天皇と諡号を付けたはずだが、摂政に止まったので後世仏法隆盛の法王としての聖徳太子を崇仰するようになったと言っている。しかし、日本仏教が「王即仏」でなくて「王太子即仏」に止まっているのは他にもその理由をみることができると思われる。
前述したように、新羅では早くも貴族層で大いに流行った私的仏教としての弥勒上生信仰から弥勒即花朗の信仰形態を成立させていった。もう一方、国家社会的な仏教として弥勒下生信仰から弥勒下生の雰囲気造成のための転輪聖王としての国王の位置が社会的に大きく浮き彫られた。つまり、公的な国王中心の仏教と私的な貴族中心の仏教か共存していたのである。しかし、日本仏教において半跏像即聖徳太子の信仰形態は弥勒上生信仰のパターンと見ることも出来るが、こうした個人信仰の上生信仰が流行っていたころ、日本では国家・社会的信仰としての弥勒下生信仰の発展・展開がなかった。それで新羅では、次の段階に至って公的な国家仏教を発展させようとした時には、公私の並存仏教の中、公的仏教を選び強調する形態を持ち、日本の場合は、「弥勒菩薩即聖徳太子」の私的信仰形態を公的国家的信仰形態に転換させるにおいて「聖徳太子即釈迦仏」のパターンを形成するようになったと考えられる。日本仏教のこうした転換の契機というのが、たとえ新羅仏教の影響だと言っても、その結果論的意味は相当の隔たりを見せている。つまり、新羅仏教が上向的意味を持つならば、日本仏教は下向的意味を持つのがその事実をいうのである。それ故、この段階の仏教を転換させるには、新羅では華厳思想の受容が、日本では法華思想の受容が要求されたと考えられる。すなわち、(日本書記)が伝じている聖徳太子の法華経講説や、道慈が法隆寺に招待され法華経を講じたというのは、それと相関関係をもつと思われる。日本が華厳思想を受容して国家運営の原理となすようになるのは東大寺と国分寺を経営する奈良時代になって始まるからである。
韓国仏教の受容基盤と日本仏教

古代韓国の土着信仰と日本仏教
初期に仏教を受容した日本の社会階層が、韓国系の渡来氏族と深く係わった豪族であったか、それとも韓国系の氏族集団であったかということは日本仏教の受容形態を理解するに重要な意味を持つのである。
つまり、百済の聖王が伝えた仏教に対し反仏派の物部派と対立しながら仏教を積極的に受容した蘇我氏は、飛烏地方に住んでいた渡来人と密接に関係しながら古代韓国文化に対して深く理解していた。一方、少し遅れて新羅から仏教を直接に受け入れた難波の難波吉士、太秦の奏河勝などは皆新羅系の移住民だったというのがその事実を言うのである。
また、日本最初の寺院である飛鳥寺を、反仏派達が崇拝していた日本国神の聖地に建てずに韓半島系神の聖地に建てたということは注目に値する。なぜならば、日本仏教はその受容基盤から古代韓国文化の影響を受けたので、古代韓日仏教文化の交流問題は百済(聖王代)からの仏教伝来のはるかに以前から、韓国の渡来人集団によって受容された仏教を問題にせざるを得ないからである。
韓日間交流の始まりは、遠くは石器時代までさかのぼるという。(三国志)東夷伝などの文献資料によると3世紀以後から接触が頻繁になり、5〜6世紀にはいると大和朝廷と古代韓国との交流は一層盛んになって、仏教を信仰する渡来人集団が増加し、韓国系豪族の数も増加して、これらによる仏教が徐々に古代日本社会のうちに入り込んだと思われる。
百済に行って初めて受戒したと言われる善信尼などの比丘尼は、受戒前には、巫女としての機能を持っていたという。もし、しからば、日本仏教の受容基盤さえも韓国文化との交流関係から探らなければならないのである。これは、韓国の土着信仰が超越神的巫俗信仰であれば、日本の土着信仰は閉鎖的地域擁護神としての氏神信仰とも言えるからである。従って、飛鳥寺が国神の聖地に建てられずに韓半島系神の聖地に建てられたので、巫俗機能を持つ僧尼が必要になったのは当然だと思われる。
古代韓国仏教受容の基盤は蘇塗信仰形態から見ることが出来る。蘇塗とは、魏志東夷伝馬韓條によると、
鬼神を信じて国邑には各一人を立て天神の主祭となし、これを天君と名づく。また諸国には各々別邑があって、これを蘇塗と呼ぶ。大木を立て、鈴鼓を振り鬼神に奉る。
というところ、飛鳥寺を建てた聖地の槻木は蘇塗の大木に、また天君は善信尼などの巫女に対比して見ることもできる。こうした蘇塗は主に馬韓地方にあったことから百済仏教は蘇塗信仰を基盤として受け入れられたと言えるし、新羅では天鏡林、神遊林などが仏教寺院に替わったという事実が同じ脈路で理解されるからである。
以上、飛鳥寺の仏教は、蘇塗信仰に基づいて受容した百済仏教をこの地方の百済系移住民がはやくから受容していたことからその淵源を探ることができる。
以後の日本仏教は、豪族たちの私寺仏教から国家的な官寺仏教に展開・発展するにも新羅仏教など韓国仏教の影響を受けるが、反仏派の崇拝対象である諸日本国神を受容して、全国を基盤とする国家仏教へ展開しながら、韓国仏教とは相当の差をみせている。
古代韓国の百済や新羅では、強力な王権を中心とした国家仏教を通して、国王が仏教興隆や仏教統制の両権限を発揮するためには貴族仏教と国家的・社会的仏教とが並行していた段階であって、国王は仏教興隆の役割を担っていた。しかし、日本仏教ではそのような段階が見られない。
つまり、新羅仏教で「王即仏」思想を確立させるためには、国王は自ら仏教興隆の努力をしなければならなかったが、日本仏教は「聖徳太子即釈迦」あるいは「聖徳太子即法皇」という信仰形態で見られるように、日本王権は仏教の中でそのような地位を確保するため自ら努力したのでなく、最初から強力な地位を持って、本来の仏教でも絶対的な機能者という性格を持っている。これは、日本仏教の土着化ないし社会化を意味するが、その背景には日本の土着文化の影響があったのを見逃してはならない。すなわち、それは古代王権確立の背景となった開国神話の構造的意味が韓日間に相違していることから淵由すると考えられる。
日本の開国神話は降臨する神(瓊々杵尊)を中心に展開し、高天原の神達の動向が中心となっている。しかし、韓国の建国神話は地上の国が舞台となり、ここで主役を演じている者も神達でなくて、その地方の住民達である。新羅の赫居世王神話の中でそのような神話構造を見ることができる。
つまり、我々は上に百姓を治める君主がいないので、百姓達が皆、勝手気ままに振る舞っている。徳のある人を捜し出して、君主に立て、国をおこし、都を定めようではないかと言い合った。そこで、高い所に登り、南の方を眺めてみると、楊山のふもとの蘿井のそばに、不思議な気配が雷光のように地面にさしたかと思うと、一頭の白馬が跪いていて、礼拝するような姿勢をしていた。そこへ行ってみると、一個の紫色の卵があり、人々をみると、長くいなないてから天に登ってしまった。それで(人々が)その卵を割ってみると、男の子が出て来た。顔だちや姿が綺麗で美しい。驚きながらも不思議に思って、その男の子を東泉で沐浴させてやると、体から光を放ち、鳥や獣も一緒に踊り、天地が揺れ動き、日と月とが清明であったので、よって彼を赫居世と名づけ、位号を居琵邯と言った。その時の人々が争って祝い喜んでいうには、「今、天子が降りて来たから、当然徳のある女君を捜して、配偶を決めねばならない」この日、
このような神話の構造は、高句麗や駕洛国の神話からもみられるが、とにかく日本の開国神話が神達の活動を強調し、天皇の支配権の強大さを象徴しているのに対し、古代韓国の開国神話は自らの責任下に始祖王を迎え、彼を優れた国王として支えていく住民中心の神話という差異点が注目に値する。というのは、以上のような神話の背景は王権強化のためであり、また仏教受容の過程で韓国と日本が相違点を見せていると思うからである。
一方、このような文化背景の相違点が、以後両国仏教の主流をなすにおいても相違点を表すようになったと思われる。つまり、新羅で「王即仏」思想が華厳思想に基づいたならば、日本での「聖徳太子即法王」思想は法華思想が主流をなしたと考えられ、また統一新羅時代の伝統的宗教意識が、包括的な華厳思想と直観的な禅宗とにあったならば、日本は奈良時代に華厳思想を受容しても、以後平安時代の宗教意識は統一論的な天台・法華宗や密教が主流をなしていた。
高句麗・百済・新羅と日本文化
高句麗・百済・新羅の三国が日本と接触しはじめた時期は、(三国史記)による新羅建国初から接触が始まっている。(日本書紀)によると、神功皇后の新羅征伐伝説から始まっている。しかし、こうした接触は6世紀初、大和政権を中心とした古代統一国家の成立以前のことであって、恐らく日本列島内の北九州・吉備・畿内などとの個別接触であっただろう。そして、三国と日本との関係を仏教文化を中心にみる場合は6世紀以後になる。6世紀以後の仏教文化を中心とする韓日間の関係記事を調べるとき、韓国側の文献資料は皆無の状態だが、(日本書記)には数多く伝わっている。これを三国の時代別・国家別に分けて見れば次のようである。(省略)
以上の文献は唐の則天武后長安3年(703)義浄によって翻訳された(金光明勝王経)の文句を引用していることが確認された。従ってこの資料は信憑性をかけていると判明されたが、この資料の本になったのが(元興寺伽藍縁起並流記貿財帳)と知られている。この貿料は日本仏教の初伝資料となっているので紹介してみると、(省略)
これら資料から見る限り、(日本書記)に表れた三国と日本との仏教関連記事は、百済が11件で一番多く、高句麗が9件、そして新羅が7件である。一方、これを時代別に見ると、百済関係記事は初期に多く、統いて高句麗、新羅の順である。ここでは日本が仏教を受容するに当たって初期の6世紀には主に百済を通して交流したが、7世紀に入ると大体高句麗や新羅を通して韓国仏教を受容しているのが分かる。
一方、以上の文献を主題別に分けてみると、百済からは聖王代に仏像と仏経などを送って日本に初めて仏教が伝来して以来、続いて律師・禅師・比丘尼・呪禁師などの僧侶や仏像工・造寺工・鑢盤博士・瓦博士・画工などの技術者、そして仏舎利などを百済を通して受容している。ここで見れば、百済仏教が日本仏教に及んだ影響というのは、日本において仏教寺院の土台を据えることだったと思われる。つまり、百済は日本に「寺」というのが何かを教えたのである。そして、寺の建築技術を支援し、寺の機能を果たすよう多方面にかけて僧侶を遣わしたと考えられる。
日本に最初に伝えられたのは仏像と仏経のみで、これだけで仏教が完全に伝えられたとは言えない。仏教における信仰の機能は仏宝・法宝・僧宝の三宝信仰の連係的関係によってその機能を果たすようになるからである。故に仏像(仏宝)と仏経(法宝)を通して仏経を受けいれた日本は僧侶(僧宝)を招聘し、三者の連係的機能を果たすために寺を建てなければならなかった。そして、寺を建てるには造寺工などの技術者が、造塔には仏舎利が必要だったのである。
これに比べて高句麗の記事は差を見せている。高句麗の記事が初めて見つかるのは、推古3年(595)に日本に来た高句麗僧恵慈を聖徳太子が法師にしたことからである。(日本書記)によると、同年、百済からも僧恵聡が来ていた。翌年の596年、百済の援助によって完成した飛鳥寺(法師寺あるいは法興寺)に蘇我氏はこれら高句鹿と百済の両師を招くが、聖徳太子は両師の中、高句麗の恵慈を託している。
これは仏教を通した外交関係の変化を意味している。言い換えれば、聖徳太子以後には高句麗仏教と日本仏教の間、外交的次元の交流が始まるのである。つまり、605年に飛鳥寺の丈六銅像の焼成のことを聞いた高句麗王が黄金300両を贈り、僧隆雲聡などの僧侶を派遣して日本仏教の興隆を積極的に助けているのがそれである。従って、百済が日本仏教の仏寺の機能を果たすよう支援したといえば、高句麗は社会的機能を果たすよう支援したとも言える。高句麗王が仏教の僧侶だけでなくて儒学や絵具・紙墨にも精統した工芸技術者を派遣しているのは、仏教文化のより幅広い理解をもたらしたと思われる。
一方、新羅では真平王元年(579)、日本に仏像を送っているが、しばらく交流を断って推古天皇24年(616,新羅真平王38)に再び仏像を送り始めている。これは百済が僧侶や造仏工など技術者を派遣していることとは対照をなしている。唯、真平王45年(623)には仏像とともに金塔及び舎利大観頂幡一具、小幡十二條など儀式用具を送っているのが注目される。なぜならば、これは信仰儀礼の制度的様式が日本に伝えられたと思われるからである。もし、そうであるならば、仏教のこうした信仰儀礼の制度的様式が政治的に応用されて仏教が天皇権強化に寄与し、また律令制度の確立に初めて寄与するようになったと考えられる。これは聖徳太子以後の日本仏教が主に新羅との接触を通して展開している事実とも深く係わっている。そして、このような日本仏教は再び唐の留学僧を新羅を通して接触することによって一僧理論化された学問的仏教に発展するようになったとみられる。
日本仏教の伝来と発展において以上のような三国との関係記事を通してみる時、三国と日本と歴史的交流関係を次のように推測することができる。第一、大和政権内で新百済勢力とも見られる蘇我氏が仏教受容を契機に政治的対立関係の物部氏を退けて政権を握ることかできた。そして、蘇我氏によって受容された仏教は主に仏寺の機能を日本社会に土着化させるに大きく寄与し、その結果、仏法僧の三宝信仰体系を理解するようになって精神世界の発展をもたらした。一方、仏寺の経営などから得られる建築文化の発展をももたらした。第二、聖徳太子の摂政以後、蘇我氏の専横を阻止するため百済中心の外交を止揚し、高句麗・新羅などの諸国との多元的外交に転換して多様な文化を摂取することができた。その結果、後の日本仏教は仏寺が仏寺としての機能だけに止まらずその機能を拡大して社会文化的な展開をもたらしたと言える。これは6世紀中葉以来に成長してきた古代国家を体制的に整備・強化するための時代的な要請でもあった。
結語

以上、古代韓日間における仏教文化を通した両国の交流関係を見極めてきた。その結果を一言でいえば、古代韓国において高句麗・百済・新羅の三国は一方的に先進仏教文化を日本に伝えたと言えるが、これは5世紀以後の中国・韓国などの国際社会で成熟していた仏教文化受容による社会発展の段階を6世紀後半に日本社会をもて踏ませたということから交流史的な意味を持つのである。
日本初伝仏教の受容基盤は古代韓国人の渡来人集団文化だったということにまず、注目の必要がある。つまり、仏教受容において中心の役割を果たした蘇我氏の政治的基盤が渡来人集団だったし、これら渡来人集団の樹木信仰などの在来信仰が仏教受容の基盤となったのである。一方、こうした渡来人集団による仏教受容の形態は蘇塗信仰などを基盤として仏教を受け入れた百済・新羅での受容形態と軌を一にしているので注目に値する。なぜならば、このような受容形態が国神崇拝者の物部氏らの強い反発に直面し、そのためしばらく日本初伝仏教は蘇我氏などの私寺仏教に止まらざるを得なかったと思うからである。
このように日本初伝仏教の受容と発展に寄与した国は百済であった。つまり、百済は日本に初めて仏像や仏経を伝じただけでなく、以後も続けて僧侶や造仏工などの技術者を派遣して仏教寺院の機能を果たさせた。これは百済が日本社会で寺院の機能が何かを教えただけでなく、仏教の宗教的機能や文化的機能の拡大にも寄与したのである。こうして日本社会で寺院の宗教的機能と文化的機能が益々蓄積・拡大するにつれて仏教の国家的受容が必要になるが、この段階で高句麗仏教や新羅仏教の受容が要求されたと思われる。特に大化改新の以後、仏教を律令社会の発展に寄与できる思想体系と思って、新羅の弥勒思想と「王即仏」思想を受容して「聖徳太子即釈迦仏」思想に展開・発展していくことに注目の必要がある。そして、この段階で日本仏教が国家仏教へ目指すようになってからは、その受容の基盤が初伝時代の私寺仏教とは異なって日本の国家神話を元にして新羅仏教を受容するようになったと思われる。そして、各々の受容基盤が異なったので新羅仏教の主流が華厳思想だったのに対し、日本仏教は法華思想がその主流を形成するようになったとみられる。一方、このように仏教思想に対する選択の必要性が生じ、唐などへの学問僧の留学が頻繁になるが、これにも新羅が大きな役割を果たしている。特に興味深いのは、日本国家仏教は百済よりは新羅仏教を受容しているのである。これは仏教の私伝から公伝に到る過程が新羅と共通性を持っていることから起因すると考えられる。
要するに、6世紀後半より7世紀、8世紀にかけての日本社会は、政治的には律令制度を確立して、文化的には仏教を受容して国家仏教に発展して行った時期である。この時期の日本仏教は全く高句麗・百済・新羅仏教の影響と支援下で発展されたという日本古代史に対する新たな認識が必要である。もう一方、韓国仏教の一方的な日本伝播に対する背景の究明を通した文化交流史の正しい認識が要求されるのである。なぜならば、それは百済が日本に仏教を伝えた事実を巡った問題、すなわち下賜か贈与か、あるいは献納かといった問題を正しく認識するためにも必要なことだと思うからである。
 
中国における聖徳太子

南岳慧思と聖徳太子
聖徳太子の実像と虚像
歴史上の有名な人物は大概二つの顔をもっている。実在の人物としての顔と、伝説上の人物としての顔と、である。そして空間的に広く伝えられ、または時間的に長く記憶される人物ほど、後者の虚像がより豊富であり魅力的である。なぜなら、各地域・各時代の人々がその人物の再生に、それぞれの夢を託して潤色を加えつづけてきたからである。
日本の歴史のなかで、聖徳太子ほど実像と虚像の交錯している人物はおそらく、ほかにいないであろう。聖徳太子の虚像といえば、観音の顔があれば、釈迦の顔もある。道教の偉人と思えば、儒教の聖人にも例えられる。また、維摩居士と勝鬘夫人、甚だしきはキリストの面影さえ重ねられていると主張する人もいる。数多くの虚像のうち、中日文化交流史の視点からすれば、もっとも興味を引くのは南岳慧思の生まれ変わりである。
坂本太郎氏はその著「人物叢書聖徳太子」(吉川弘文館)の冒頭において、太子伝の執筆は「歴史家の悲しい宿命である」と嘆き、その理由を「古くからまつわりついた伝説のジャングルの中から、一筋の醜実の道を見つけ出すことは容易ではない」と説明している。
千余年もの太子信仰の堆積はいまや虚像のジャングルと化している。しかし、近代の歴史家はこのような太子の虚像を「荒唐無稽」と一蹴して、実像のみの追究に精魂をかたむけてきた。かくして、近代史学の斧によって、無残に切り倒されてしまった虚像のジャングルの廃墟に、たとえ聖徳太子の実像が化石のごとくぽつんと顕われてきたとしても、なんという寂しい光景であろう。
梅原猛氏は「従来日本の国内の状況でのみ考えられた聖徳太子の像を、東アジア全体の状況の中で考え直すところからうまれる聖徳太子の新しい像」を求めて、かの大著「聖徳太子」(小学館)を世に問うた。時代の隔たりや国境の妨げを超越して、聖徳太子の原像に迫ろうとする著者の意志がひしひしと伝わってくる。
東アジア全体に聖徳太子を位置づけることによって、虚像のもつ歴史的意味があらためて認識される。というのは、聖徳太子と異文化との接点は実像よりも、虚像にあるからである。
南岳慧思の数奇な運命
聖徳太子は、8世紀後半以降の太子伝では、ほとんど南岳慧思の生まれ変わりとして綴られている。それにもかかわらず、太子研究のなかで慧思の存在はあまり注目されていないようである。
聖徳太子への生まれ変わりは、南岳慧思にまつわる雄大な転生劇の一餉にすぎない。いわば、慧思伝説の全体からみれば、周辺的かつ末端的な存在である。聖徳太子とのかかわりを理解するためにも、日本転身にいたるまでの過程を明らかにしておかなければならない。
慧思(515-77)は恵思・思大師・思禅師・思禅子・思大禅師・思大和上ともいう。晩年を南岳の衡山に過ごしたことから、南岳慧思と通称される。道宣の「続高僧伝」や潅頂の「隋天台智者大師別伝」および慧思の自叙伝ともいうべき「立誓願文」などによれば、俗姓は李氏、魏の延昌4年(515)11月11日南像州(今の河南省)の武津に生まれたという。
彼は15歳のとき出家受具して、もっぱら「法華経」を読誦する。20歳のとき、大菩薩心を発して、諸国を歩き名師を訪ねたところ、慧文に出会い、観心の法をうけた。その後、日夜をとわず研磨に励んで、とうとう法華三昧を悟った。法華三昧とは成仏の修行法であり、さらに無相行と有相行に分けられる。
慧思はこのような修行法を自ら実践しながら、北方から南方へと移り、各地で「法華経」などを熱心に講説した。時あたかも南朝の梁が陳に滅ぼされる寸前にあって、一行は南北朝の境目にある河南の光州にいたり、しばらくそこの大蘇山にとどまつた。
数年の間に、「生を軽んじ法を重んずる」信者たちがここに雲集して、競って慧思の教化を受けた。そのなかに、慧思より法華三昧を伝授してのちに天台宗を開いた智掴(智者大師)もいた。
北斉天保9年(558)、慧思は多くの門下や信者の協力を得て、河南光城県の斉光寺において、金字の「大品般若経」と「法華経」をつくり、瑠璃の宝函におさめ、それを石窟に秘蔵することができた。さらに「立誓願文」を撰して、造経のいきさつを述べつつ、自らの再誕と仏教の隆盛を予言した。
斉光寺での造経と予言は、南岳慧思と聖徳太子との習合の伏線を用意しておいた。すなわち、伝説は単なる再誕予言から、東海転生を経て、日本への生まれ変わりといったふうに展開していく。また、聖徳太子が小野妹子を隋へ派遣した目的は、かの石窟に秘蔵されていた金字「法華経」の将来にあったと伝えられる。ただし、日本における伝説の舞台は、北方の斉光寺から南方の衡山に移されていたのである。
南朝陳の光大2年(568)、慧思は門下40人余りをひきいて、久しく徘徊した河南の地をさり、さらに南下して念願の衡山に入った。
中国では、昔から山岳信仰が盛んに行なわれていたが、満代になると、五行思想に基づき霊験の多い五岳を定めて、国家祭祀の対象とした。その一つに数えられる衡山は、南方の湖南省にあるため、南岳と呼ばれた。
ときに、陳の宣帝は慧思の高徳をあおぎ、殊礼をもって迎え、「大禅師」の尊号をあたえた。陳の太建9年(577)6月22日、南北朝の乱世を力強く生き抜いた希有の名僧は、享年63歳にして、晏如として示寂した。乱世の最中にあって、自ら天災大禍に見舞われ、幾度となく生死の境界をさまよった慧思は末法濁世をなげきながらも、あらゆる生霊を救済せんと全心身をかたむけた。
かくして、慧思の波瀾万丈の生涯に心を動かされ、その高尚な人格を慕う人々は、あくまでも彼の死を拒み、仏教の転廻思想に基づいて、転身の虚像を創りつづけた。とくに天台宗では、彼の「法華経」宣揚および智頌への法華三昧の伝授を賛え、自宗の遠祖に位置づけた。
慧思転生説の発生
南岳衡山については、隋唐時代を中心に多くの地誌が作られている。唐・李仲昭の「南岳小録」や宋・陳田夫の「南岳総勝集」などをめくってみると、神仙的な雰囲気を漂わせる描写に終始している。鑑償和上にしたがって来日した思託は「上宮皇太子菩薩伝」(「延暦僧録」より別行したもの)を著わし、儒・仏・道三教の修行者が衡山にむらがり、僧侶だけでも常に五千人ほどいると記している。
衡山を舞台に演出された無数の悲喜劇のなかで、慧思の「三生伝説」はとくに後世の人々に興味津々と語りつがれる。「南岳総勝集」と「続高僧伝」より、伝説のあらましを紹介しよう。
陳の光大2年(568)6月22日、慧思はさまざまな困難をのりこえて、念願の衡山にたどりついた。そこで、「私はむかしここで修行して、今は3回目の生まれ変わりだ」といって、前世の住寺や座禅の跡を示した。半信半疑の弟子らは地面を掘ったら、悪人に首を切られた慧思前生の遺骨が見つかったという。
話の順序は前後してしまうが、承和14年(847)に帰国した入唐僧円仁は、中国から請来した「経論・金剛両部の大曼茶羅および諸尊の壇像・舎利ならびに高僧の醜影など合わせて計50点」をまとめて、「入唐新求聖教目録」を著わした。その目録に「南岳思大和尚示先生骨影一鋪三幅緑色」とみえるのは、右の伝説をリアルに描いたものと推察される。
慧思の「三生伝説」は鑑醜僧団によって、はやくも日本に伝えられた。思託は「上宮皇太子菩薩伝」で、このことを太子前世の事蹟として記している。内容を要約すると、次のようである。
衡山には千年の梨樹があり、開花結実すると、必ず聖人が現われてくる。ある時から、梨樹に花が咲く度に、慧思が現われ、自ら石碑を立てて、予言を記す。かくして、衡山に三つの石碑が立てられ、唐の人はみな「南岳に行って、思禅師の三生石を見よう」という。
慧思の虚像は時代と共に新しく創られ、やがて転生伝説は「三生」から「六生」にふくらんでいく。たとえば、同じく思託の撰した「大唐伝戒師僧名記大和上鑑颯伝」(以下「大唐鑑償伝」と略す)に、「南岳衡山に(中略)思禅師あり、六生ともにこの山に於て修道す。一生ごとに一塔並び一盤石を立つ。その三石は般若台仏殿の前にあり、三塔は般若台南の石室にあり」と記されている。
複数の太子伝に引用された撰者不明の「大唐国衡州衡山道場釈思禅師七代記」(以下「大唐七代記」と略す)は、慧思の衡山における6回の転生を具体的に示している。
○第一代は晋朝の許氏に生まれる。
○第二代は宋朝の崔氏に生まれる。
○第三代は斉朝の李氏に生まれる。
○第四代は梁朝の韓氏に生まれる。
○第五代は陳朝の駱氏に生まれる。
○第六代は周朝の姚氏に生まれる。
右の六朝はいずれも紀元265年から589年までの両晋南北朝の乱世に激しく入れ替わった王朝である。慧思の転身は隋唐になっても続くが、海外への生まれ変わりがしだいに目立ってくる。
倭国への生まれ変わり
「大唐七代記」によれば、達磨はインドから南岳に来て、慧思に「海東」への転生をすすめた。
すなわち、なぜこの山に化留し、十方に遍せざらんや。所以に因果並びに亡ぶ。海東に誕生せよ。かの国に機なく、人情曼悪なり。貪欲を行とし、殺害を食とす。よろしく正法を宣揚し、殺生を諌め止めしむべし。
達磨はこう言い残して、さきに東方へ飛んでいったという。伝説では、達磨は日本にいたり、飢人と化して、片岡山で聖徳太子と遡遁し、和歌を交わしたように敷街されている。
当時、中国の感覚からいえば、仏教は西方より伝わってくるから、中国より東にはなかったはずである。換言すれば、求法は西へ、伝法は東へといったイメージはかなり固定化している。この意味で、慧思の「海東」転生は自然な成りゆきである。
慧思の再誕予言もこの成りゆきにしたがって変化する。つまり、「大唐鑑醜伝」に「われ滅度せば、仏法なき処に向ひ、身を受けて衆生を教化せん」とあるのが、「上宮皇太子菩薩伝」では「余、今東方の仏法なき処に往き、人を化し物を度せん」となっている。
再誕の地はさらに「東方」「東海」から「倭国」へと具体化していく。「大唐七代記」は、慧思の六朝転生の記述につづいて、「身を第六の生に留め、機を第七の世に候つ(中略)所以に倭国の王家に生まれ、百姓を哀衿し、三宝を棟梁とす」と記している。これによれば、慧思の第七生は達磨の勧告にしたがって、東海中の「倭国の王家」に生まれ変わったということになる。
鑑醜和上は唐天宝元年(742)、入唐僧の栄叡らに渡日を請われ、次のように答えた。淡海三船の「唐大和上東征伝」より掲げておく。
むかし聞くに、南岳の思禅師は遷化の後、生を倭国の王子に託して仏法を興隆し、衆生を済度せりと。
右の文中に「むかし聞く」とあるから、倭国転生説は天宝年間より以前に、中国の江南一帯で流布していたはずである。この推論を裏づけるのは、「大唐七代記」に引かれた次の碑文である。
碑の下に題して云はく、倭州の天皇、彼の聖化する所なり。聖人の遷跡より晴代に至る以下、禅師の調度、金銀書・仏肉舎利・玉典・微言・香炉・経台・水瓶・錫杖・石鉢・縄床・松室・桂殿、未だ傾けず朽ちずして、衡山の道場に皆悉く安置す。今代の道俗、喩仰し帰敬す。李三郎帝即位開元6年歳次戊午2月15日、枕桐銭唐館写し竟る。
「李三郎帝」とは玄宗皇帝のことを指し、叡宗の第三子に生まれたから、「三郎」の幼名があった。「開元6年」は元正天皇の養老2年(718)にあたり、倭国転生説の下限とみることができる。
慧思と聖徳太子の習合
南岳慧思が東海、具体的には倭国に生まれ変わったことは、かの延々とつづく慧思転生伝説の自然な延長である。しかし、この伝説は日本の天皇家と結びつくことによって、思いがけぬ方向へ転換してしまったのである。
銭塘館の碑文に「倭州の天皇」とあり、「唐大和上東征伝」に「倭国の王子」とあるのは、日本の政教一致の風聞を下敷きにしていると推察される。言いかえれば、遣隋使や遣唐使によって、日本の仏教事情が多少なりとも中国にもたらされていたことを物語る。
はじめて日本に仏教興隆を奨励し、天皇家と仏教を結びつけた人といえば、聖徳太子をおいて、ほかにいない。ということは、聖徳太子の事蹟も入華僧らによって宣伝されたに違いない。
慧思の生まれ変わりは天皇・王子を経て、聖徳太子へと接近していく。とくに、鑑醜僧団の渡日をきっかけとして、南岳慧思と聖徳太子のかかわりはより明確な形をとって現わてきた。
思託撰の「上宮皇太子菩薩伝」は内容上大きく二分して、前半は慧思と南岳の叙述に全体の約三分の二をさき、後半は聖徳太子の事績に充てている。前後をつなぐのは「思禅師、後ちに日本国橘豊日天皇の宮に生まる」という一文である。
橘豊日天皇はすなわち用明天皇のことであるから、右の慧思後身はいうまでもなく、用明天皇と泥部穴穂部皇女との間に長子として生まれた聖徳太子をさす。慧思と太子の習合はここから始まり、伝説の舞台を海外に広げていく。
「聖徳太子伝暦」(平安時代)によれば、聖徳太子は自らの前身を妃に語り、今は「第七代なり」といった。その前身とは同書の推古26年(618)の条に詳しく記されている。
冬十月、太子妃を召し、命じて日はく、「吾が昔の世、微賎の人なり。師の法華経を説くに逢ひて、家を逃れ髪を剪りて沙彌となる。修行すること三十余年、衡山の下に身を捨つ。今この時を憶ふに、晋末の世に当る。魂を韓氏の腹に宿し、また人と為り得。(中略)即ち衡山に登り、修行すること50余年なり。宋文帝の世に当り、また身命を捨てて劉氏に託生し、また男と為り得。出家して入道すること、40余年を経たり。身を彼に捨て、高氏に生まる。この時、斉王は天下に君臨す。また衡山に修行すること60余年、命を此に捨つ。梁の世に当り、梁相の子に託生す。また出家して入道す。猶も衡山に在りて、七十年を経たり。陳周の世を歴て、必ず東海の国に生まれて仏法を流通せんと誓願す。身を第六の生に留め、機を第七の世に侯つ(後略)」と。
慧思の伝説はそのまま太子伝に吸収されている。のみならず、聖徳太子の事蹟も新しく解釈される。たとえば、遣隋使の派遣は前世持誦の「法華経」を将来するためとあったり、日羅・阿佐王子・観勒など半島人の来日は衡山にありし時の宿縁を追ってきたとあったりする。
「聖徳太子伝私記」(1238-47)は上宮王院舎利殿の「種々宝物」をあげつつ、経台・経笞・念珠・周世尺・印仏・針筒・袈裟などに「六生」「先生」と註記している。それも慧思との習合によって、太子ゆかりの舶来品に対して、与えた新しい解釈にすぎない。
興味深いことは、太子安息の場所まで南岳の衡山にたとえられている。道澄の「聖徳太子の廟に謁す」という五言律詩の序文に、「余聞くに、太子の前身は慧思禅師と為りて、生々衡岳山に於て修道す。故に彼の中に一生岩・二生塔・三生蔵の遺跡が存す。この邦に応化するに迄りて、儲君の身に現る。百姓を安撫し、三宝を興隆す。蕎りて後に全身を此処に葬る。然るに則ち此処は、東方の衡岳山なり」とあるのは、偶々管見に入った一例である。
鑑鷹渡日と聖徳太子

鑑醜渡日の動機
天平勝宝5年(753)12月、中国律宗の高僧鑑餌は、12回目の遣唐使副使大伴古麻呂の船に身を隠して、盲目のまま日本に漂着した。唐天宝元年(742)、入唐僧の栄叡らの招請をうけて渡日を決意してから、はやくも12年の歳月が過ぎさったのである。
その間に、前後6回にわたって渡海をこころみたが、うちの5回はことごとく失敗に終わった。鑑醜に随行した僧俗のなかで、36人が生命を失い、200人あまりが途中で脱退した。最初から最後まで鑑償について日本に到着したのは、わずか中国僧の思託と日本僧の普照の2人のみであった。
小野勝年氏は鑑醜の唐における地位に注目して、その渡日の動機に疑念をいだき、つぎのように述べている。
完成した律大徳としてすでにゆるぐことのない宗教的地位を築きあげていた鑑償のことであってみれば、よしんば引き続き唐土における戒律活動に従事したとしても、その業績は偉大であったに相違ない。そうした安全な確率を捨てて、あらゆる面で冒険な方途を彼に選ばしめたのは果たして何故であろうか。(「鑑醜とその周辺」)
右の設問に対して、小野氏は自ら三つの解答を考えていた。つまり渡日の動機として、「第一にわが国から派遣された栄叡や普照らの留学僧の熱誠のこもった招請運動によって大いに動かされたこと」「第二には聖徳太子という不世出の篤信政治家があらわれ、日本に仏法を興隆せしめ、それによって政教一致の理想国家を実現せんとしたが、実はその精神が、百年をへてなお引続き日本に生きていることが鑑箕の心を惹いた」ということ、聖徳太子と鑑興渡日の因果関係について、福井康順氏も肯定的な見解をしめし、「鑑箕の渡東の際の問答もあり、聖徳太子に対する敬慕の念を表明しており、即ち過海の動機をば示唆している大事な発言なのである」と指摘している(「聖徳太子の「南岳取経」説についてー附、鑑箕渡海の動機―)
ここで「大事な発言」というのは、鑑償と栄叡の間に交わされた問答である。この時の情景を、淡海三船撰の「唐大和上東征伝」は次のように活写している。栄叡・普照師、大明寺に至り、大和上の足下に頂礼して具さに本意を述べて 曰はく、「仏法東流して日本国に至れり。その法ありと雖も、伝法の人なし。本国にむかし聖徳太子あり、日はく、200年の後、聖教日本に興らんと。今、この運に鍾る。願はくは和上乗遊して化を興したまへん」と。大和上答へて日はく、「むかし聞くに、南岳の思禅師は遷化の後、生を倭国の王子に託して仏法を興隆し、衆生を済度せりと(中略)これを以て思量すれば、まことに仏法興隆に有縁の国なり」と。
右の記事をそのまま信じるならば、鑑醜の渡日は太子信仰となんらかの関わりをもっていることになる。
ところが、辻善之助氏をはじめ、学界では鑑鷹と栄叡の対話を渡日後の思託の作為によったものとする意見が一般化している。この意味で、鑑償渡日のなぞはまだ未解明のままであるといえよう。これについての筆者の考えをしめす前に、まず鑑償渡日の前後事情をふりかえってみたい。
鑑箕と蕭穎士(しょうえいし)の招請
天平勝宝4年(753)春ごろ、藤原清河を大使とする12回目の遣唐使は難波津を出帆して、無事揚子江附近に着岸した。天平勝宝期の遣唐使は、当時造営中の東大寺の大廬舎那仏に塗るべき黄金の不足分を中国から調達するのが主要な目的であったと言われているが、それよりもっと重大な使命が彼らに与えられていたようである。
その使命とはー体なんであろうか。蔵中進氏はその著「唐大和上東征伝の研究」で、戒師の招請を藤原清河らに託した可能性の大きいことを示唆した。また井上薫氏は、遣唐使の出発は予定より2年遅れて大仏開眼のわずかーヵ月前になり、黄金入手が大仏開眼に間に合わないことが承知の上であった事実に着目して、「本当の目的」は「栄叡らが道琲以上の大戒師を探し続けているが、その様子をつかみたかったことや、帰国を欲する阿倍仲麻呂らを迎えることも含まれていた」と指摘している。(梅原猛ほか著「仏教伝来・日本編」)
「唐大和上東征伝」によると、遣唐使は玄宗皇帝に謁見したとき鑑醜および弟子5人の名簿を提出して、日本に招きたいと正式に交渉したことが知られる。
日本は遣隋使以来、儒教と仏教をバランスよく摂取するため、学問生と学問僧を並行的に遣わしてきた。したがって、藤原清河らに与えられた使命の中に仏教文化を担う高僧とともに、儒教文化を担う文人の招請を含んでいるはずである。ここで、「新唐書」のつぎの記録が注目されてくる。
蕭穎士、字は茂挺、梁の都陽王恢の七世の孫なり。(中略)林甫死し、更めて河南府参軍事に調ばる。倭国、使を遣はして来朝し、自ら陳ぶらく、「国人、蕭夫子を得て師と為さんことを願ふ」と。中書舎人張漸ら、不可を諌めて止む。
蕭穎士の伝記を略述すると、彼は開元23年(735)進士に挙がり、対策第一の栄冠に輝いた。その後、一流の文人と交遊して名を天下に馳せ、さらに、蕭夫子と号されて集賢校理となったが、宰相の李林甫と敵船して地方に左遷された。天宝11載(752)11月に李林甫が急死すると、蕭穎士は再び京官に復帰した。そのとき、倭国の使者は彼を国師として招聘したという。
この時期の「倭国使」といえば、藤原清河らをおいて、ほかにいない。したがって、蕭穎士と鑑償の招請は、同じ遣唐使によって行なわれたとみるべきである。ところが、唐人招請の公式な交渉はどうも不調に終わったらしい。唐天宝12載(753)10月、藤原清河らは長安を辞して揚州の延光寺にいたり、鑑醜に交渉の結果を報告した。
弟子など、さきに大和尚の尊号ならびに持律の弟子5僧を録して、すでに日本に向ひ伝戒せんことを主上に奉聞せり。主上、道士をつれ行かしめんことを要す。日本の君主、ふるく道士の法を崇めず。(中略)これがために、大和尚の名も亦た奉し退けたり。
つまり、遣唐使が鑑償の招聘を願い出たところ、玄宗皇帝は道士をつれていくことを要求した。日本の天皇は道教を信仰しないから、道士の渡日を拒否するために、鑑醜の招請を自ら撤回したという。
一方、蕭穎士の招聘も「新唐書」によれば、張漸らの役人に反対されて、実らなかったようである。
儒教的世界観と仏教的世界観
かくして、公的な交渉は異文化間のズレによって、惜しくも失敗に終わった。しかし国家意志とは別に、僧侶としての鑑醜と文人としての蕭穎士がどんな態度を示したか、これまた興味深い問題である。
まず、蕭穎士についてみよう。劉太醜の「送蕭穎士赴東府序」によれば、彼は病気を口実に、日本の懇請を断わったのである。
頃、東倭の人、海を喩へて来賓し、その国俗を挙げて、夫子に師せんことを願ふ。敢へて私請するに非ず、天子に表聞するなり。夫子辞するに疾を以てし、而して之に従はざるなり。蕭穎士の渡日拒否は、さまざまな原因が背後にあろうが、主として華夷思想によったものと考えられる。
華夷思想とは、つまり中国を文明の発祥地とし、周辺の諸民族が中国との距離が遠くなるにつれ、文明度が漸次近くなるという儒教的な世界観をさす。世界文明の中心地にあって、読書に読書をかさねて科挙に受かって出世したのが、すなわち蕭穎士のような文人官吏である。
中華のピラミッドにのぼりつめた彼らにとって、未開の僻地と位置づけられる「東夷」へ渡る理由は一体どこにあろうか。むしろ中華を遠ざけて夷蛮に近づくことは、彼らの文明志向と離反する異常な行為とみられ、儒教的な世界観からは拒絶されなければならない。
それに、中国の歴史を通観してみると、勅命を負わされた使節、巨大な利益に命を惜しまなかった商人、宗教心に駆り立てられた僧侶とは違って、儒教的な温室に育った文人たちが功名の世界に没頭して、自主的に海外へ赴く冒険精神に欠けていることは、近代以前のどの王朝にもあてはまる事実と認められる。蕭穎士とは対照的に、鑑醜は正式の招聘が不可能となった最悪の事態にもかかわらず、唯一残された密出国の道をあえて選んだ。両者の態度の相違について、東野治之氏は「それには、単に人物の違いというだけでなく、仏教のもつ世界性と漢学のもつ中国中心的な性格が反映している」と指摘する。(「遣唐使と正倉院」)
ところが、鑑醜の執拗な渡日志向は、単なる仏教の世界観で説明しきれないところがある。当初、栄叡らの招請を受けて、鑑醜は弟子らに渡日をすすめたところ、誰も応じなかった。高弟の祥彦は「涼槃経」の「人身は得難く、中国に生じ難し」という言葉を引き合いに出して、拒否の理由を弁明した。
また、鑑醜の渡日は日本側の熱誠のこもった懇請に心を動かされたとする意見もあるが、事実はそうではないらしい。というのは6回目の渡日は遣唐使に裏切られての密航だったのである。
天宝12載(753)10月、鑑醜一行は遣唐使の提案を受け入れて、ひそかに揚州の龍興寺を脱出し、蘇州の黄泗浦に到着して遣唐使の帰帆に潜入した。
しかし、出発間際に、藤原清河らの態度ががらりと変わり、鑑償一行は船から全員追い出されてしまった。その原因はただの投入の責任逃れである。「唐大和上東征伝」は日本側の言いわけをつぎのように記している。
ただいま広陵郡、和上の日本に向はんことを知り、将に舟を捜さんと欲す。若し捜し得られなば、使として残ひあり。また風に漂はされて還りて唐の界に着くことあらば、罪悪を免れず。
弟子の、同宗の、信者の、そして祖国の再三の挽留をすべて押し退けて、日本からの招請に応じた鑑餌らはここで見事に見捨てられ、まさに致命的な一撃を受けたのであろう。しかし不思議なことに、鑑餌はこの屈辱をも呑んで、日本へ渡る初志を捨てなかった。そこで、さすがの副使大伴古麻呂も見るにたえず、鑑館らをひそかに自分の船に収容した。こうしたいきさつ、それにこれまでの5回の渡航中に200人余りが脱退したことを考え合せると、鑑醜渡日の特異さが感じられ、その動機は仏教的な世界観におさまらないことが明らかである。すれば、一体なんであろうか。
鑑眞と聖徳太子
「唐大和上東征伝」にみえる鑑眞と栄叡の問答はいうまでもなく、鑑眞渡日の動機をさぐる重要な手掛かりとなる。これによって、金治勇氏は「鑑眞は聖徳太子が南岳慧思の後身であるとの説に促されて渡日した」と断言する。(「上宮王撰三経義疏の諸問題」)
鑑眞と聖徳太子の関連づけは、最初は天台宗の僧侶によって提唱されたらしい。「慈覚大師伝」に「凡そ天台宗の本朝に伝はるは、聖徳太子、前身の経を迎へて、而してこれを南岳に得、鑑眞高僧、中道の経を提げて、而してこれを東朝に移す」とあるのは、聖徳太子と鑑眞和上を、ともに天台宗の遠祖と仰いでいる。
円仁は承和14年(847)唐より帰国して、朝廷に表文を上り、天台宗の日本伝来をつぎのように述べている。
大唐の南岳思禅師の後身聖徳太子、不世の徳を以て、この国に転生す。即ち使を唐国に遣はして、旧経を迎へて取り、自ら章疏を製し、義理を講演す。その後、唐僧鑑眞など、遠く聖化を慕ひ、天台法門を将して来朝す。
右文では、鑑眞らは聖徳太子の「聖化」を慕って来日したように論じられている。このような信仰の起源は、日本天台を開宗した最澄にまでさかのばれる。最澄は「註金剛鉾論序」において、天台創立の根源を聖徳太子と鑑眞和上に求めている。
伏して願はく、遠くは上宮太子を仰ぎ、近くは過海和上を憑みて、この宗を建立せり。かの徳に報謝すべし。わが国の仏弟子、誰か二聖の恩を忘るる者あらん。
最澄の「二聖」への崇敬は、聖徳太子の「法華経」宣揚と鑑眞の「法華経」注釈書の将来に由来したものと思われる。鑑眞将来の天台関係の章疏は以下の8部56巻である。
○「天台止観法門」十巻
○「法華玄義」十巻
○「法華文句」十巻
○「四経義」十二巻
○「次第禅門」十一巻  
○「行法華懺法」一巻  
○「小止観」一巻  
○「文妙門」一巻
最澄は東大寺の戒壇院で具足戒を受けたとき、鑑眞将来経に巡り合い、それを書写して研讃に励んだと言われる。そのいきさつは「参義伴国道書」や「叡山初祖行業記」などに伝えられている。右に見られる聖徳太子と鑑眞の関連づけはあくまでも天台宗に対してのものであって、両者の間の直結関係ではない。つまり、鑑眞渡日と聖徳太子の因果関係を説明する証拠にはならないわけである。
鑑眞の渡日は聖跡への巡礼
「本朝高僧伝」によれば、元興寺の律師隆尊は「国家に戒師なき」現状を深く憂え、舎人親王に名師の招来を建言し、「来たりて戒法を国家に流布せしめんこと」を願った。それがすなわち鑑眞招請のきっかけとなったのである。
一方、鑑眞の全宗教生涯を通じてみれば、彼は一貫して律宗の宣揚に徹しており、渡日後も日本側の要請に応じて、戒を授け律を伝えることに専念していた。
なのに、鑑眞はなぜ天台経典をまとめて将来したのか。布教のためにもたらしたとは考えられない。というのは、最澄の登場までに、これらの章疏は「物機の熟せざるを以て、鍼封して世に伝はることなし」(「参義伴国道書」)というように、世間に流布しなかったのである。「元亨釈書」に「勝宝の間に、鑑眞、台宗の章疏を挟して来たり。時に偉器なかれば、ただ函蔵するのみ」とあるのも、傍証となろう。
さらに、凝然の「三国仏法伝通縁起」に、「鑑眞和尚、既に台宗をこの国に伝へど、未だ講敷を広めず、先に戒律を弘む」とあって、鑑眞僧団による伝教がなかったことを物語る。すると、天台章疏は鑑眞僧団が自らの信仰用にもたらしてきた可能性が濃厚に出てくる。
筆者はこれによって、鑑眞の内面世界に、天台宗への志向、言いかえれば天台開祖智翻への崇拝がひそんでいることを推測したい。栄叡と鑑眞の対話は思託の「大唐鑑置伝」で、次のように記されている。
栄叡乃ち大明寺に向ひ、和上の足下に頂礼して具さに心事を論ずるに、「むかし本国の上宮太子日はく、二百年の後、日本に律義大いに興らんと。然るに皇太子、玄聖の徳を以て日本国に生まる。三統を萄貫し、先聖の宏猷を纂す。三宝を恭敬し、黎元の厄を救ふ。まことに聖人なり(後略)」と。
和上便ち日はく、「(前略)また天台智者日はく、三百年の後、我が遺せる所の文墨、世に感伝せんと。大師無常して、二百年に泊ぶ。而して今大唐、国家の道俗、すべて大いに興隆せり。聖人の言語、未だ曽て相違することなし」と。
右文では、栄叡の太子信仰に対して、鑑眞は熱烈な智掴信仰をもって応じている。「大唐鑑箕伝」は右文につづいて、さらに「その智者禅師、これ南岳思禅師の菩薩戒弟子なり。慧思禅師は乃ち日本に降生し、聖徳太子と為る。智者は唐国の分身、思禅師は海東の化物なり」と記している。
鑑眞の智迦信仰はその師の南岳慧思にさかのぽれる。慧思は「唐国の分身」として智掴に、「海東の化物」として聖徳太子に生まれ変わったから、鑑眞の宗教信仰は自然に聖徳太子にもおよんでいく。
ここで思い出されるのは、4回目の日本渡航をひかえて、鑑眞が過酷な自然を凌いで天台山国清寺を参拝したことである。鑑眞にとって、智掴ゆかりの国清寺は「聖跡」であり、自らの参拝は聖跡への「巡礼」であった。
程度の差はあるにしても、鑑眞の日本への渡航も慧思の後身を追って、過酷な自然を凌ぎ人為的な阻害を押し退けての一種の「聖跡への巡礼」と言えるのではあるまいか。
 
聖徳太子2 / 内藤湖南

聖徳太子に關して徳川時代の儒者で之を作者の聖と稱せし人があつたが、之は最も善く當つて居つて、殆んど其の人格の全體を悉して居ると思ふ。支那で作者を聖と稱するのは、即ち人民の爲に其の生活に關する種々の仕事器物など、更に進んでは文物典章を作つた人を聖人とすると謂ふ意味で、伏犧神農以下文武周公に至るまで皆さう謂ふ性質の人である。日本では勿論人民の生活に關する一般的のことは前から自國で發明されて居ることも有り、又聖徳太子以前に於て支那から輸入されたこともあるが、しかし其の内外の文化を巧く煉り合せてそして今日の日本文化の基礎を作り、その當時の日本文明を建設したと謂ふ點に於ては聖徳太子以上の人は無い。
聖徳太子は永い日本の歴史に於て啻に佛教家に尊崇されるのみならず、大工左官などの職人の祭る神としてもあがめられて居るのは、明らかに其の作者たることを證據だてて居るものと謂つても宜しい。それが爲に佛教に反對し施(ひ)いて聖徳太子にも反對する所の儒者でさへも、聖徳太子の作者たるの點に於ては異議が無いので、恰も支那の聖人と謂はれる人々と同じ意義に於て之を作者と稱したのである。其の文明の建設者としての事業の中最も主なることに就いて茲に二三述べてみようと思ふ。  
太子の外交方針
其の第一は外交に關することである。一口に謂へば日本が獨立の國家たることを國人に自覺せしめ、それと同時に外國にも認めしめたのは太子であると謂つて宜しい。其の點を明らかにするに就いては聖徳太子以前の外交の歴史を説く必要がある。
日本の海外交通の事實は、我々が日本の古代史に於て知つて居るよりも遙に古いものと思はれる。山海經に在る倭の記事は戰國末から漢初までの記録であらうと思はれる。引き續き漢の武帝が朝鮮を平げて其處に四郡を置いた時に、樂浪の海中に倭人あることが知られて、既に漢書の地理志に載つた。此等は日本紀の日本年代より謂へば神武天皇の開國以後になるけれども、近來の史家は之を神武天皇以前のこととして認めるに躊躇しない。さうして日本の土地から出る遺物の中にも此の時代と相應するものが出土して此の記事を裏書することが多い。神武天皇以後とも想はれる交通の事實には、後漢の光武帝の中元二年に委奴國の朝貢した記事があり、引き續き安帝の時代に倭面土國王より生口を獻ぜしことが有る。三國時代になると有名な卑彌呼の交通があり、晉代より南朝にかけて歴代交通の記事が各時代の支那正史に載つて居る。
此等の交通を裏書するものとして最もやかましい出土の遺物は、博多の志賀島より出た漢委奴國王の金印であつて、之は當時の漢の制度を考へても外國に遣る印として最も重んじた形迹もわかり、制度にあるが如く蛇鈕であることなども其の確かなものであることを示して居る。國學者並に史家の間には、之が九州から出たので大和の朝廷には關係の無いものと解釋する人が多く、非常に詳しく書かれてある卑彌呼の記事も九州地方の女酋であると謂ひ、又た東晉より宋、南齊にかけて倭國王に與へた官爵がいろいろあるが、其の一例を謂へば
使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王
などと謂ふものがあるが、此等も多分日本から任那に派遣せられて居る太宰(みこともち)が朝廷の名を濫用したのであらうなどとも解釋せられて居る。しかし事實は必しもさうではないのであつて、上に擧げた長い官爵名でも、なかなか細かに考へると面白い事實が發見せられるので、日本から稱する時には前に謂ふが如く倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事と稱するが、支那の南朝の方から與へる時には百濟を除いて倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事と稱して居る。之は當時百濟王は日本を經ずして直接に南朝に交通して居つたので、南朝ではそれをば別に百濟王に封じて居るから、日本の方には百濟を入れなかつたのである。斯の如きことは任那の太宰では爲し得べきことではないと考へられる。勿論斯の如き記事が有つたからと謂つて、日本が當時支那の屬國だと謂ふことにはならない。
當時の外交は一種特別の事情があるので、日本の朝廷が海外と交通する時に、其の使者の職を承はる者は何時(いつ)でも支那若しくは朝鮮の歸化人である。最も古い卑彌呼時代でも新羅の歸化人が使者の職を承つたのである。東晉宋齊の間に使者に行き、若しくは交通を司つたものは皆支那の歸化人であることは、姓氏録などを見るとわかる。其の姓(かばね)を見ても、譯語(おさ)と謂ひ史(ふびと)と謂ひ文首と謂ひ船首と謂ふ種類は、皆此の海外交通に關係して船の運上に關する文書などを司り、貨物を檢査して居つたので、それが又史(ふびと)であり其の外にも朝廷並に豪族にも各歸化人の文書を司る者があつたらしいから、それらの手に據つて支那の文字を利用し帳簿などを製造することは早くから行はれて居つたものであらう。外交の事は朝廷でもそれらの輩に委任して置くのが至極便利であるので、朝廷で自ら記録を作る必要をも考へなかつたらしい。
此等の歸化人は海外に派遣せらるゝ際、朝廷より貿易に關する御趣意を承つて、海外から珍貨を齎らし、若しくは技人(てびと)を召しつれ歸るべき任を帶びて行く。斯くして支那に到着すると、支那はむやみに體面を重んずる國であり、海外より來る者は之を蠻夷の使者として、國王の上表などが無ければ通(とほ)りが惡い。それで譯語、史(ふびと)、等は支那の外交を司る鴻臚寺などの官吏と諜し合はせて、うまく上表を作り、それを支那の天子に上りてその自尊心を滿足させ、思ふ儘に日本朝廷の使命を果たして歸るので、之が當時の使者及び譯官の祕訣であつたに相違ない。斯の如きことは遙に後世まで支那では行はれたので、明代に於て四譯館に保存されてあつた各國の上表などに據つて考へても善くわかるので、譬へば滿州地方の女眞人からの上表などには女眞文字女眞語で上表を書いてはあるが、其の文法は支那語の文法で、先づ支那文が出來てからそれを女眞語に直譯した形迹の歴然として存するものがある。其の國字を有つて居る國の上表でさへも斯の如くであるから、全く支那文字を以て書く上表の如きは、其の作り法(かた)の支那の朝廷に都合よく書かれると謂ふことは當然のことで、南朝時代などに於て日本とか百濟高句麗などが上つた表と謂ふものの、如何にして出來たかは想像するに難くない。
又た船首の官などが置かれた時代は大分海外交通が頻繁で、朝廷の近い處即ち河内と大和との界で、淀川大和川に入つて來る船を檢査する爲にそれが置かれたのであるが、其の以前は其の檢査を遙に遠い九州の入口で行つたので、漢委奴國王の印が志賀島から出たのも其の爲である。三國志の倭人傳に據ると日本より三韓並に魏の帶方郡に往來する者の貨物は、國王の命令として博多附近で檢査せられる。それ故當時海外交通を司る職に在つた安曇連などが、支那から受取つた國王の印を自分の家に預つて置いて、支那と交通する際に勝手に之を押捺して文書を作つたものであらう。勿論此の時の文書は竹簡木簡で、泥で封じた上に印を押捺するのであるから、印が在れば即ち支那へ持つて行つた時證據となるので、文書は簡單でも、或は無くても、よかつたかも知れない。之は後世足利時代に山口の大内氏が、足利家の日本國王の印を使用して明と交通したのと同樣の關係であつて、勿論古代の方は朝廷では其の印が如何に使用せられるかなどには無頓着で居られて、單に貿易の結果のみを考へて居られたのであらう。それ故、此の時代の外交は一言で掩へば通譯外交であり、貿易上の利益さへ有れば其の交通の關係は或は不問に附せられたか、或は明らかに承知せられざりしかであつて、體面上の問題は重きを置かれなかつたのであらう。但し日本文化がだんだんに進んで、時として貴族の間に支那の學問をなさむとする人が出て來ると、此の交通方法の破綻が顯はれることがある。菟道稚郎子が高麗の上表の無禮を發見した傳説などは其の一例であるが、これらは稀に有つたことで、大體は依然として通譯外交が繼續したのである。
然るに聖徳太子は支那の學問をも充分に爲して、海外の事情にも通ぜられたのであらう、通譯外交がいたく國家の體面を毀損せることに氣がついて、通譯が獨占して居つた外交の權を朝廷に收められ、隋に使者を遣はす時には歸化人の譯官、史(ふびと)の輩ばかりに委任せず、小野妹子の如き皇別の名家を使者としてやつて居る。それに國書の如きも隋書に載れる
日出處天子致書日沒處天子無恙云々
の如きは、其の語氣から察するに、恐らく太子自ら筆を執られたものであつたらしく、全然對等の詞を用ひられたので、隋の煬帝の如き、久しく分離した支那を統一したと謂ふ自尊心を持つて居る天子をして、從來に例の無い無禮な國書だと驚かしめたのである。此の時、日本國書の無禮には驚いたが、海外に居る國の王として不思議なものと思つたらしく、妹子の歸るのに添へて裴世清と謂ふ使者を遣はした。其の時妹子にも返翰を渡し、裴世清には別に國書を授けて遣はしたが、妹子は途中で百濟人に盜まれたと謂つて返翰を持つて來ない。之は多分其の書體が對等ではなかつたので、妹子は故意にそれを失つたか、或は太子の差金(さしがね)で失つたことにしたのであらうと想はれる。しかし裴世清の持參した國書は、之を失ふ譯に行かないから朝廷に差し出すことになつたが、其の初には
皇帝問倭皇
とあつた。後に出來た太子傳には、此のことを天皇から問はれた時に、太子は、天子から諸侯に賜ふ式である、しかし倭皇と謂つて皇の字を用ひてあつて、皇も帝も同樣に重い字であるからと謂つて、とりなして無事に通過したと謂つて居るが、實は支那の書式としては皇帝問倭王であるべき筈である、隋の原書は倭王であつたに相違ないが、日本で上られる時に少し手を加へたに相違ない。之に對して日本から隋へ送つた國書は日本紀にあつて、
東天皇敬白西皇帝
とあつて、同じく對等の詞を使つてある。之に懲りたか、隋からは再び使者は來なかつたが、太子の考は日本が支那と對等の國であることを知らしめると同時に、國交を破らずして其の文化を取り入れ、多くの留學生などを遣るつもりであつたから、餘程うまく加減をして外交をせられたものと見える。兎も角此の一擧で日本の朝廷も自國の位置を自覺し、支那にも之を知らしめたのであるから、當時の世界に於ては國際上の一紀元と謂つてよかつたのである。
 これ以後引き續き支那との交通の行はれた時に、太子ぐらゐ巧妙に取り扱つたことも尠ないので、郭務が唐の高宗から使者として來た際などは、其の取り扱ひ法は接待係に口授せられて之を明かにしなかつた。如何(どう)も劃然と對等のやり法(かた)では無かつたらしく想はれる。しかし歴代の遣唐使が、支那に交通する他の國々とは異つて、一度も上表を持つて行かない。支那からも、他の國々の如く勅書を受取つて歸らない。それで以て國交を維持して、其の使者の座席などは恆に外國の主位を占めたらしく、嘗て新羅の次位に置かれた時に、日本の使者が抗議をして其の位置を換へたと謂ふ故事が遺つて居る。唯唐の玄宗の時に、張九齡が草した『勅日本國王書』と謂ふのがあつて、
勅日本國王主明樂美御徳
と書き出したのがあるが、此の勅書は日本に到着したか如何かは分明でない。
大體聖徳太子の方針が歴代の國交に遺つて居つて、支那との間に不即不離の交通を維持して居つたらしい。其の中にも見事なやりかたは太子であつて、後にはこれ程巧妙には出來たことが無い。  
太子の内政上の主義
次には内政に就いて述べるが、これも太子以前の國内の事情を十分に理解せなければ太子の勝れた點がわかりにくい。太子以前の國情は大化革新の際の詔に見えて居る所で、昔から天皇等の立て給へる子代の民、處々の屯倉、別(わけ)、臣、連、伴造、國造、村主の保てる部曲の民と謂ふ樣なものが全國に充ち滿ちて、朝廷の官吏とも謂ふべき者の治める土地は至つて尠なかつた。殊に豪族は多くの土地を占有し、外交貿易の上にまで歸化人を利用して私の權力を張つて、殆んど朝廷と異ならぬ有樣であつた。然るに聖徳太子は其の時代に於て有名な憲法十七ヶ條を發布した。大體は今日の法文の如くではなく、訓令の體であるけれども、其の中には見逃がし難い立派な主張を顯はしたものがある。即ち第十二條に
國司國造、勿斂百姓、國非二君、民無兩主、率土兆民、以王爲主、所任官司、皆是王臣、何敢與公、賦斂百姓、
とあるが、これは當時の如き氏族制度時代に於て、即ち各氏族が公民(おほみたから)の外に多くの部曲民を私有して居つた際に、斯の如き憲法に據つて、官司は皆王臣、人民は皆王の人民と謂ふ主義を發表したのは、非常に進歩した考と謂はなければならぬ。國史家の中には、之は公民だけに對したことで、部曲民を含んで居らぬと謂ふ説を唱ふる人もあつて、聖徳太子の主義を強ひて無力に解釋せむとしたりするが、百姓と謂ふことが二度も使つてあつて、其の上に兆民と謂ふ詞も同樣に使ひ、之を皆公民の意味に解釋して國史國造以下あらゆる官司の私有して居つたものも公民と認める意味を表はしたのは、決して狹義に解釋すべきものではない。之は最近の明治維新の版籍奉還と同じ意味を含んで居るものと謂つてよろしいのである。
尤も聖徳太子の斯の如き主義を思ひつかれたのは、支那の秦漢以來の政治にも通曉して居られた爲でもあらうが、或は又た隋代の政治改革を既に知つて居られて、それに倣はれたものと推測し得ることもある。隋の文帝は魏晉以來の名族專有の政治を改めて郷官を廢し、後の科擧制度の端緒を開いた人であつて、支那の政治の歴史には重大な關係を有つて居る人である。聖徳太子の憲法發布は妹子の遣隋以前に在るけれども、いづれ遣隋以前に隋の國情をば出來るだけ調べられたことであらうから、隋の政治改革をも知つて居られたかも知れぬ。さうすれば此の憲法の趣意は益々以て天皇の大一統主義と解釋すべきものであつて、今日の日本の國體の起源を開いたのは太子であると謂つてよろしい。唯太子は此の主義を實行するに至らずして早世し給ひ、後に三十年程を經て大化の時に主として天智天皇が之を實行せられたので、其の功績は孝徳天智の兩天皇に歸すべきであるけれども、兩天皇の改革は聖徳太子の宏遠な理想規模に據つたことは疑の無いことで、之は單に其の主義から謂ふばかりでなく、大化革新の主なる參謀であつた人々、南淵請安、高向玄理、僧旻など謂ふ人々は、皆聖徳太子が妹子につけて隋に遣はした留學生である。天智天皇にしても藤原鎌足にしても、此等の新智識が無かつたならば、決してあれだけの破天荒の鴻業を爲すことが出來なかつたであらう。して見れば大化革新の功績は其の主要な部分を、やはり聖徳太子に歸せなければならぬ譯である。  
佛教採用の一理由
聖徳太子が佛教を盛にしたことに就いて、今日では格別に攻撃する人も無くなりつつあるが、一時國學者などは歴史の文を曲解してまでも惡口を謂つたので、譬へば推古天皇の十五年に神祇を祭祀することを怠つてはならぬと謂ふ詔勅が出て居るが、これだけは太子の意志でなくて、推古天皇の思召であると解釋し、太子攝政時代の中の事實にまで斯の如き選り別けをして太子を攻撃した。之は今日の史眼から見れば謂はれの無いことで、太子は佛教を盛にすると共に神祇をも崇敬せしめたに相違無い。それに就いて考ふべきことは當時佛教の如き新しい宗教を取り入れる必要が日本にあつたことである。之は明治の維新でもわかるが、維新以後迷信に關する淫祠を禁じ、或は巫女の職業を禁じた樣なことは、太子の時代に於ては最も必要があつたに違ひない。日本の探湯の刑罰、或は蛇を瓶の中に置いて之を訴訟の兩造者に取らせることなどは隋書にも出て居るくらゐであるから、一般に行はれて居つたに相違ない。かゝる迷信を除く爲には、當時最も合理的に進歩した宗教と謂はれる佛教の如きは極めて必要であつた。佛教は其の後になつて日本の迷信を利用して修驗道やら眞言宗やらが興つたけれども、太子時代に輸入された佛教の極めて理論的であることは、太子の著述なる三經疏に據つても知ることが出來る。  
蘇我氏と太子
後世の國學者儒者から最も太子を攻撃するのは、馬子の弑逆を處分せなかつたことであるが、是亦時勢をも事情をも考へない議論である。馬子が弑逆を行つたと謂ふことは、今日から見れば明白な事實であつても、當時は下手人は別にあつて、而も馬子はその下手人を自ら殺して居る。形迹が顯はれない上に、當時の太子は廿歳にも達しない少年である。蘇我氏の權勢が絶頂に達して居る歳とて、若し太子が馬子に對して事を擧げて敗れたならば、皇室に如何なる危害が及んだかも知れない。それ故に隱忍して時を待ち、其の勝れた才徳を以て自然に馬子をも威服せしめ、蘇我氏の權力をも壓へる樣にしたことは、日本紀を讀んだだけでも分明である。
太子の薨去せられて後に、馬子が推古天皇に葛城の縣(あがた)を領地にしたいと請うた時に、天皇は巧妙に之を謝絶せられた。天皇が崩去せられる時に、其の位を太子の御子なる山背大兄王に讓られる御遺言があつたが、これらは太子が推古天皇に生前よくよく進言して置かれたことと想像し得られる、それを馬子の子の蝦夷等が變更して舒明天皇を位に即け奉つた。其の後蝦夷は着々山背大兄王の勢力を削いで、遂に之を弑し奉つたが、其の經過を觀ると太子が生前に蘇我氏の勢力を削ぐ爲に、自分の親信する者をとりたてゝ居られたことがわかる。即ち境部摩理勢などが其の人であつて、此等は太子が在せば其の勢力の許に蘇我氏を壓へつける有力な人物であつた。唯山背大兄王が仁柔で父王の如き材略が無かつたから、此の有力な手足が皆先づ蘇我氏の爲にぎ取られて、遂に王も禍殃を蒙るに至つたが、しかし其の失敗の迹に據つても太子の深謀遠慮を推測することが出來るので、太子は馬子よりかも年少であり、其の晩年までには必ず豪族を壓へつける希望を達せられる目算であられたに相違ない。其の出來なかつたのは運命であるから致しかたがない。聖徳太子の如き位置にある人の批評をするのには、斯かる前後の情勢を考へなければならぬ。匹夫の任侠の徒が臂を攘げて一己の志を行ふ者と一樣には論ぜられないのである。
斯の如く考へ來れば、太子は作者として、人格者として、殆んど缺點の無かつた人と謂ふことの出來るくらゐである。近頃になつて太子の一千三百年忌に、いろいろな企に據つて太子の功徳が頗る表彰されたが、しかし其の間には古史に關する國史家の意見に我々の贊成せられない處も有るので、茲に自分の意見を概略發表して置く次第である。(大正十三年六月)
 
聖徳太子3  
本名、厩戸(うまやど)皇子。名前の由来は、厩(馬小屋)の前で産まれたからとの伝承もあるが、出生地の「厩戸」(明日香村・橘寺付近に昔あった地名)や蘇我氏興隆の地「馬屋戸」(奈良・御所市)からきているとする説が有力。一度に10人の話を聞き、各々に的確な答えを返したことから「豊聡耳」(とよとみみ)とも呼ばれた。
太子が生まれた古墳時代末期は、百済を通じて仏教が伝来(538年)してから約40年が経った頃。政局では仏教を崇拝する蘇我馬子と、日本古来の神道を信奉する物部守屋が激しく対立していた。国際派の馬子は「アジア各国が仏教を信奉しており、日本もこれを採り入れ世界の仲間入りをするべき」とし、守屋は「そんなことをすれば天照大神など日本の神々の怒りに触れる」という保守勢力の代表だった。太子のお婆ちゃんは父方が馬子の姉、母方が馬子の妹(皆父親が蘇我稲目)。蘇我氏の血をひく太子もまた少年期から仏教に傾倒していた(後の太子の妻は馬子の娘・刀自古)。馬子が百済から伝わった弥勒像を自邸に安置すると、10歳の太子が供養に訪れたという。
585年(11歳)、太子の父親・第31代用明天皇が即位したが、ほどなく父は病に臥した。父は天皇として初めて公に仏教に帰依する。587年、13歳で父は他界。馬子は先代の第30代敏達(びたつ)天皇の妃で太子の父の妹、額田部(ぬかたべ)皇女(後の推古天皇)を皇位継承者に推し、一方、物部守屋が敏達天皇の弟・穴穂部皇子を推した事で、ついに両者は戦場での直接対決となった。この戦乱では太子も蘇我軍として戦場に出る。当初、戦いは物部氏に有利に進んでいたが、太子が仏像を彫って四天王に勝利祈願したところ、自軍の矢が守屋に命中し形成が逆転、物部氏は滅亡した。
戦後、額田部皇女は弟の崇峻(すしゅん)天皇を即位させたが、崇峻天皇は馬子と仲違いして即位から5年目に暗殺された(この時代の天皇はホント命がけ)。これを受けて額田部皇女が初の女性天皇として即位し、推古天皇となった(592年)。翌年、推古の甥っ子で皇太子の聖徳太子が、19歳で摂政となり天皇の補佐に当たった。太子は就任直後に、四天王へかつての戦の感謝を込めて日本最古の官寺(国の寺)・四天王寺を建立する。
この593年の摂政就任の4年前に、大陸には約370年ぶりの統一王朝・超大国「隋」が誕生しており、朝鮮半島では高句麗・新羅・百済が覇権を競っていた。日本は100年以上も中国と公式に交流を持っておらず、大陸の情報が極端に不足していた。太子は渡来した高僧から隋が高度な文明社会を築いていることを聞かされる。隋には法律と官僚制による優れた行政システムがあり、政治に儒教を導入して役人に道徳を重んじさせ、首都長安では仏教芸術が花開いていた。当時の日本は大豪族が一族の利益を求めて互いに争い、民衆の暮らしは常に困窮しており、あまりに政治制度が立ち遅れていた。太子は先進国の隋と国交を結ぶことで、最先端の文化・技術を採り入れると共に、交流を通して日本の国際的地位を向上させようと思った。馬子も太子と同じ考えであり、両者は協力して改革に取り組む。
596年(22歳)、まずは国内初の本格的仏教寺院の法興寺(現飛鳥寺)を完成させた。五重塔と伽藍を備えた荘厳な寺院だ。大和政権は百済人を中心として、優れた建築術・彫刻技術を持つ者を大量に受け入れており、渡来人は宮廷人口の3分の1にまで達した。その意味でも出身国の関係なく互いの心を結ぶ仏教が益々重要になった。
そして600年(26歳)、ついに太子は120年ぶりに使者を大陸に派遣する。隋を建国した文帝は官僚の登用に際し、貴族が世襲制で就任していた伝統を廃して、真に優秀な人材を確保する為に、全ての人々に登用の機会を与える科挙(国家試験)を導入した人物。日本の政治システムを問われた使者は、大和政権に法令もなく政治的に未成熟だったことから、天皇の権威を全面に出す為に古来の日本神話を引き合いに出してしまう。文帝は呆れ果て「倭国(日本)の政治は道理にかなっていない。指導して改めさせねば」と語り、使者は外交関係を結んでもらえなかった。
日本にとって屈辱的とも言える、この第1回遣隋使の失態は「日本書紀」には記載されておらず、中国側の歴史書にのみ載っている。
発奮した太子は馬子との共同執政の中で中央集権化を進め、603年(29歳)に官僚制の基礎となる冠位十二階を、翌604年(30歳)には十七条憲法を制定していく。
冠位十二階
朝鮮諸国の冠位制度を参考に、儒教の徳目を現わす言葉「徳・仁・礼・信・義・智」をそれぞれ大小にわけて12階(大徳〜小智)を定め、位ごとに色分けした冠(帽子)を授けたもの。紫を頂点に、青・赤・黄・白・黒と続き、さらに色の濃淡で身分の差がひと目でわかった。血縁に関係なく働きぶりによって冠位を上下させ、格の低い氏族の出身者でも頑張れば高い地位につけた。これは律令制の位階制の源となる。
憲法十七条
日本初の成文の法令集。太子が理想国家の実現へ願いを込めて作った、官僚の行動倫理。仏教や儒教の長所を導入した。(以下抜粋)
第1条「和をもって貴しと為す。協調・親睦の気持ちをもって論議せよ」
第2条「あつく三宝(仏・法・僧)を敬え。本当に極悪な人間はまれであり、正道(仏道)を知れば従うものだ」
第4条「官僚は礼の精神を根本とせよ。上に立つ者に礼があれば、民も必ず礼を守り、国家は自然に治まる。その逆も然り」
第5条「官僚は欲を貪(むさぼ)らず民の訴えを公正に裁くように。近頃の訴訟を治める者は賄賂が常識となり、賄賂を見てから訴えを聞いている。裕福な者の訴えはすぐに受け入れられるのに、貧乏な者の訴えは容易に聞き入れてもらえない。もってのほかだ」
第6条「悪を懲らしめて善を勧めよ。へつらいあざむく者は、国家や人民を滅ぼす鋭い剣である」
第8条「官僚たちは、朝早く出勤し、夕方は遅く退出せよ。公務はうかうか出来ぬものだ。一日かけても全て終えるのは難しい。遅く出勤すれば緊急の用に間にあわないし、早く退出しては必ず仕事をやり残してしまう」
第10条「心の怒りを絶ち、人が自分と考えが違っても怒ってはならない。人それぞれに考えがあるのだ。自分は必ず聖人で、相手が必ず愚かということはない。皆ともに凡人なのだ。これをよく踏まえ、相手がいきどおっていたら、自分を振り返って自らに過ちがないかと恐れよ」
第12条「地方官は勝手に税をとってはならない。国に2人の君主なく、みな天皇の臣下である」
第16条「春から秋までは民を使役してはいけない。民が農耕をしなければ何を食べていけばよいのか。養蚕が為されなければ、何を着たらよいのか」
607年(33歳)、第1回遣隋使の不面目から、冠位十二階、十七条憲法を制定し、前年には金色に輝く飛鳥大仏を法興寺に安置させ、この年には仏教の総合大学・法隆寺を建立した。外交官の小野妹子は血縁ではなく能力によって登用された公式の冠位を持つ人間。もう政治システムも仏教美術(文化レベル)も以前の「倭国」ではない。リベンジの体勢は整ったッ!7月3日、太子は「日本書紀」に記されている“第1回”の遣隋使を派遣する。妹子が謁見したのは、3年前に父(文帝)と兄を暗殺して2代皇帝に即位した暴君・煬帝(ようだい)。聖徳太子が記した国書の文面はこうだった。
「日出ずる処の天子、書を日没するところの天子に致す、つつがなきや云々」
“日が昇る東の国の天子(天皇)が、日が沈む西の国の天子(皇帝)に手紙を送ります。お元気ですか?”
これを読んだ煬帝は激怒。隋は朝鮮半島の高句麗、百済、新羅を属国扱いしていたが、島国日本はさらにその下の後進国と見なしていた。そんな国が対等に振舞うばかりか、隋を没落国家のように「日没する国」とは無礼千万。しかも「天子」という中国の皇帝にしか使われぬ尊い言葉を日本の王に使うとは何事か。煬帝は隋の外交官に「今後、無礼な蛮族の書はワシに見せるな」と命じるほど憤慨する。
妹子は処罰されそうになったが、このころ隋は高句麗への遠征で苦戦しており、「ここは高句麗の背後に位置する日本と手を結んだ方が得策」と、煬帝は友好姿勢をとることにした。また、妹子が公式な官位を持つ外交官であったことから、日本には整った官僚制度があり交渉が可能だと分かった。翌年、隋の外交官が初めて飛鳥の地を踏み、朝廷で国書を読み上げ日本式の礼(4度お辞儀をする等)を執った。太子の「これからは対等な関係で行くのでヨロシク」という目論見は、ここに見事成就した。
以降、数度にわたる遣隋使、遣唐使の派遣で多くの留学生・学僧を送り、彼らが吸収した知識を国政に反映させ、日本は国力を高めていった。
晩年の太子は未来の国を造る若い人材を育てる為に、政治の第一線から離れ、教育者として斑鳩宮(法隆寺東院)で仏典の研究に没頭する。太子は20歳の頃から仏教の慈悲の心の実戦として、民の救済の為に力を尽くしてきた。四天王寺には貧しい人の為の施薬院(薬局)、療病院(病院)、悲田院(飢えた人を救い身寄りのない老人を世話した社会福祉施設)などを設けていた。太子は高句麗の高僧・慧慈(えじ)に師事し、全ての人が慈悲心を大切にする平和国家の実現の為に、615年(41歳)、仏教の教科書となる「三経義疏」を作成した。人々が興味を持ちやすいように、膨大な仏典の中から選んだ「三経」は、“誰でも必ず仏に成れる”とシンプルに説く「法華経」、唯一女性が主人公の仏典「勝鬘(しょうまん)経」、問答式で親しみやすい「維摩(ゆいま)経」を選んだ。
622年(48歳)、前年暮れに太子の母が亡くなると、年が明けて太子も床に伏し、2月に入ると4人の妻のうち膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)が他界する。そして、翌22日に太子も逝去した。「日本書紀」は人々の様子をこう記す「王族・諸臣及び天下の百姓ことごとく、長老は愛児を失うが如く、幼い者は父母を亡くした様に、泣き涙する声が巷に満ちた。耕す男は鋤を手にとらず、杵を突く女は杵をとらず、皆「日月が光を失い、天地が崩れ落ちたようだ。今後、誰を頼りにすれば良いのか」と嘆いた」。享年48歳。わずか3ヶ月で3人が亡くなっていることから伝染病ではないかと言われている。
太子は27歳の時に、墓所の候補地を既に決めており、他界する2年前に自身の廟を造っていたが、その際、自分の子孫を“残さないように”と、風水の吉兆に逆らって「あそこの気を断て、ここを断て」と命令したと言う。これは“一族の繁栄=幸せの絶対条件”とする時代にあって驚くべきことだ。権力を誇る者の愚かさや、物部氏のような大豪族が滅んでいく様を見てきた太子ならではの強烈なエピソードだ。
大阪府南河内郡太子町の叡福寺北古墳(太子墓)は直径50m、高さ100mの円墳で、内部は横穴式石室になっている。太子、母、膳郎女の3人が合葬されていることから「三骨一廟」の墓となった。724年に聖武天皇が伽藍を建て、太子信仰が盛んになるにつれ、太子の墓や遺品を伝える同寺は霊場となり、空海、親鸞、日蓮などの名僧が巡礼し、不動明王、愛染明王は空海作と伝えられる。周辺は“王家の谷”と呼ばれ、推古、敏達、用明、孝徳天皇陵などがある。
後日談
推古天皇が病没した時に太子と妻・蘇我刀自古(とじこ)の息子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)を擁立する動きがあったが、馬子亡き後に蘇我氏を束ねていた蘇我蝦夷(えみし、馬子の子)はこの即位を封じた。推古天皇と連続で蘇我氏系の山背大兄王が天皇になると、反蘇我氏勢力との対立が深刻化すると判断したからだ。しかし、蝦夷の子・蘇我入鹿が政治の実権を握ると、入鹿は彼の手足同然になっていた別の皇子の擁立を企て、依然として皇位継承の有力候補にあった山背大兄王の存在が邪魔になった。
太子の他界から21年後の643年、入鹿は山背大兄王が住む斑鳩宮を襲撃。山背大兄王はいったん生駒山に逃れる。家臣から「東国へ逃げて再起を期し、入鹿を討ちましょう」と意見されるが「挙兵して入鹿と戦えば勝てるだろう。しかし私のことで戦乱になって苦しみ傷つくのは百姓たちだ。そんな事態を引き起こすくらいなら、私の命を入鹿にくれてやろう」と、斑鳩寺に舞い戻り、山背大兄王は一族22人もろともに首をくくって自害した。ここに太子の血は絶えた。太子をよく知る蘇我蝦夷は、入鹿が山背大兄王を殺害したことを聞き、激しく怒ったと伝えられる。この事件の2年後、大化の改新で蘇我氏は滅亡した。
※太子&馬子が忍者を初めて使ったとされている。太子は伊賀の服部氏族や甲賀の大伴細人を使って各地の情報を収集し、馬子は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に崇峻天皇や敵対豪族を暗殺させたとのこと。
※実は日本書紀に「聖徳太子」という呼称は出てこない。死後130年経って編纂された「懐風藻」で初めて出てくる。太子の師・恵慈がその死を知って“太子は聖(ひじり)の徳を持っていた”と詠嘆したことによる。
※現在法隆寺にある国宝仏像・法隆寺釈迦三尊像は太子と等身大に造られている。他界の前年に止利仏師(とりぶっし)が彫り始めたもので、太子の死後に完成した。止利は像の背後に太子追悼の銘文を刻んだ。
※現在、東京の最高裁判所には太子が十七条憲法を制定する場面が描かれた絵が飾られている。

維摩経

「維摩経」の舞台となるのは中インドのヴァイシャーリーで、遊女アームラパーリーが寄進したマンゴー園に釈尊が滞在されていたときのことである。大富豪である維摩居士はその方丈で病に伏っていた。そこで、釈尊は舍利弗をはじめとする弟子たちに見舞いに行くように言ったが、弟子たちは全て維摩居士と討論してやりこめられていたため誰もが見舞いに行くことを拒んだ。そこで、文殊菩薩がその役を引き受けるこことなった。経典は、この弟子たちとの問答を中心に、空の何たるかを証し、文殊との問答によってその真髄を明かしている。
その原題は、「無垢という名声高い者が説いたお経」である。一番古い漢訳は厳仏調によって188年に訳された「古維摩詰経」(現存せず)という記録があるところから、1-2世紀頃に成立したと思われる。現存する漢訳は次の3つで、このうち鳩摩羅什訳が最も有名で一番親しまれている。いずれも大正新修大蔵経第14巻に収められている。
維摩経と日本文化
聖徳太子は仏典の注釈書として「三経義疏」を著わしましたが、その三経の一つとして「法華経」・「勝鬘経」と共に取り上げられたのが「維摩経」です。
「維摩経」は略称で、鳩摩羅什の翻訳名は「仏説維摩詰所説経」といい、「維摩詰によって説かれたお経」といった意味になります。「維摩詰」は、サンスクリット語の「ヴィマラキールティー」の音写で、「汚れなく名声の高い者」を意味しますが、それ以上に維摩詰が在俗の仏教信者=「居士」であったことから、「維摩居士」として親しまれております。
「維摩経」は比較的短い大乗経典ですが、その構成は非常にドラマチックで、文学性の高い経典とされています。在家の維摩居士によって、仏教の専門家である出家修行者達が、次々に論破されやりこめられていきます。その様子は時には痛快でさえありますが、維摩居士の逆説的な表現の中に、大乗仏教の根本である「空」についての深い洞察がこめられており、それ故に日本でも僧侶ばかりでなく広く一般に親しまれてきました。例えば、「無常」の喩えとして知られる「聚沫(しぶき)」・「泡」・「炎」・「芭蕉」・「幻」・「夢」・「影」・「響」・「浮雲」・「電(いなずま)」はいずれも維摩経に出るものです。しかし、出典についての知識がなくとも、これらの言葉の持つ仏教的なニュアンスは十分にご理解いただけると思います。また、沈黙が言葉以上に雄弁に語ることは「維摩の一默雷の如し」として知られておりますし、鴨長明の「方丈記」の「方丈」は維摩居士の一丈四方の簡素な居室を指して「方丈」ということに由来するものです。
仏教に関する教養は日本文化のかなり大きな部分を占めるものと考えられますが、その形成に「維摩経」の果たした役割は少なくなかったものと考えられます。今回の「維摩経」原典の発見を契機として、大正大学では日本の仏教文化の研究をさらに充実させていきたいと考えております。
秘境チベットと河口慧海
チベットは、平均海抜4000m、「世界の屋根」と呼ばれる大高原地帯です。ポタラ宮は、チベットの政治・文化の中心地のラサ(拉薩)にある法王ダライ・ラマの居城です。ダライ・ラマは観音菩薩の化身であり、歴代のダライ・ラマが祀られているポタラ宮は聖地として信仰され、五体投地で巡礼する人も少なくありません。
現在のポタラ宮は、ダライ・ラマ5世によって1645年から造営されたもので、東側の「白宮」と中央部の「紅宮」によって構成されております。「白宮」はダライ・ラマの瞑想室など生活の場や政府の機関が集まっており、「紅宮」には壮麗な歴代のダライ・ラマの霊廟を中心に、多くの仏像と宗教儀礼のための部屋が数多くあります。
19世紀になるまで、ポタラ宮はチベットにおける宗教と政治の舞台でありました。4,000mを越えるヒマラヤ山脈に囲まれた地域でありながらチベットは、古くから外国の使節や商人をなど受け入れてきました。しかし、たび重なる外国からの侵略により次第にその門戸を狭め、19世紀末から20世紀の初頭にかけてはイギリスの進出を恐れて厳重な鎖国体制をとるようになっていました。折しも、明治時代に入り、近代的な文献研究が端緒についた日本の仏教学界では、サンスクリット語原典の宝庫としてチベットが注目されるようになっておりました。そして、明治33年(1900)7月、河口慧海(1866-1945)は決死の覚悟で単身ヒマラヤを越え、ついにチベット密入国を果たしました。その旅の様子は「西蔵旅行記」に詳しく記されていますが、彼の二回の入蔵によって膨大な資料が日本にもたらされたのです。
河口慧海は、その後大正大学教授として後進の指導に当たり、また河口コレクションの一部が大正大学に残されております。その河口慧海がチベット入国を果たしてから、ちょうど100年目の1999年7月、大正大学綜合佛教研究所は世界中の研究機関に先駆けてポタラ宮所蔵の文献調査を行い、幸運にも「維摩経」のサンスクリット写本を発見いたしました。河口慧海教授の宿願が叶った瞬間でした。
 
中国の涅槃図

雲岡石窟における涅槃図の受容
ここで問題にする中国の涅槃図は敦煌莫高窟には北涼、北魏窟にはそれぞれ見いだされず、雲岡石窟においてもそれほど多くの、また規模の大きな涅槃図は見いだされない。雲岡石窟では、比較的初期の造像であろうとされる第十一窟の南壁上層にごく小さく表されたものと、五世紀末から六世紀初めとされる西端諸洞の第三十五窟、第三十八窟の三例がそれぞれ見られるのみである。
そして、釈迦の仏伝によって荘厳されている第六窟には、その作例は見いだせない。このことから、雲岡石窟でも僅かに涅槃図は製作されてはいたが、主流な題材とはならなかったということがいえる。この点を当時の歴史的背景に拠りながら雲岡石窟における涅槃図の造像背景について考えていきたい。今日、一般に涅槃経といった場合には曇無識によって北涼玄始十年(四二一)に訳了された「大般涅槃経」(四十巻本=以下、「四十巻本」と記す)を指す。この「四十巻本」が訳された時期はちょうど敦煌石窟、雲岡石窟が盛んに造営された時期とそれほど隔たっていない。この「四十巻本」が訳された当初、広く北魏の地に流布し、当時の仏教界に影響を与えていたということは訳者の曇無識の史伝にも窺える。さらに「魏書釈老史」の記載を見ると、二月十五日に釈迦が涅槃し、さらに釈迦の涅槃を常楽我浄としている箇所から、「四十巻本」の記載に基づいてこの「魏書釈老志」が書かれたということがわかる。つまり、正史にこのような記録がなされるほど、「四十巻本」の「大般涅槃経」が北魏の地に流布し、定着していたのである。
しかも、この記載は釈迦という人物の紹介を兼ねており、釈迦がカピラ国の王の子であり、四月八日に母の右脇から誕生し、三十二相があったことなど、釈迦の仏伝を説く「本起経」に拠っていながら涅槃の記載に関しては特に、阿含部の涅槃経典でなく曇無職訳の「四十巻本」に拠っているのである。当時の北魏仏教界の釈迦のとらえ方からすれば、仏伝によって荘厳されている雲岡石窟第六窟などに、釈迦の涅槃の場面が造形化されてしかるべきかと思われるが、仏伝の一景としては涅槃図は表されてはいない。雲岡石窟中期の造営と思われる第十一窟の涅槃図も仏伝中に表現されたものではなく、単独に表されている。また、雲岡石窟期の様式を伝える大安元年(四五五)銘藤井有鄰館蔵石造仏坐像の背面や、延興二年(四七二)銭大和文華館蔵石造仏坐像の光背背面に仏伝の表現が見られるが、誕生の場面や成道の場面を描くのみで、涅槃図は表されていない。つまり、北涼から北魏の仏伝図には、あえて涅槃図を描くことは拒否されていたといえる。ガンダーラの涅槃図が仏伝の中から発生したことを考えたならば、このことは非常に特異なことであろう。当時は、明らかに釈迦の涅槃とはどういったものか意識されていたにもかかわらず、あくまで釈迦の宗教的帰結である余涅槃》と造形上の《涅槃図》は相入れないものであったと考えられる。
さて、インドにおいて涅槃図を製作する際には仏の超人性を露わにするために、釈迦の姿を生身の人間の姿で表現することは長い間タブーであった。涅槃図に限らず、さまざまな仏伝の場面において釈迦は様々な象徴によって表され、それは聖樹などで表現されていた。ことに舎利崇拝の場面においては、ストゥーパによって釈迦の姿を象徴しており、ストゥーパを礼拝する人々の姿を表現することによって、釈迦の偉大さを表しているようである。この初期インド美術においてストゥーパで象徴されていた釈迦は、前述のようにガンダーラにおいて初めて人間・釈迦の表現がなされたのである。
ガンダーラの涅槃図は史伝的な阿含部の涅槃経典に基づいて造形化されている。ガンダーラの涅槃図の造像の典拠になっているこれらの涅槃経典には、釈迦の涅槃以後の葬送の方法から茶毘の仕方、埋葬方法、遺骨の処理についてまで詳しく言及されている。そこには釈迦の涅槃後、釈迦に対する追慕の念から八国の王が舎利をわが物としようと争ったという場面が語られている。ここでは一婆羅門の調停により釈迦の舎利は八つに分配されることになったが、それぞれの王は舎利を城にもち帰り、塔を建て供養したというのが、ほぼどの阿含部の涅槃経典にも共通する内容である。
この経典の記載からも、また、初期インド美術に見られるストゥーパ崇拝の像がおそらく釈迦の涅槃を象徴したものであるという点からも、釈迦の涅槃が仏塔崇拝と密接であることは容易に想像しうる。
インドにおいて、涅槃図は仏伝の一景ではあったが、その背後に釈迦滅後の造塔供養が暗示されている。それは、小乗仏教の釈迦に対する追慕の念による遺骨崇拝につながるものであり、阿含部の涅槃経典に語られている通りである。一方、大乗の経典類のなかで最も仏塔の記載が多いものは、なんといっても「法華経」である。
「法華経」には、仏陀滅後にその舎利をおさめて仏塔をつくり、供養することが説かれている。これは、釈尊の滅後に遺身が火葬にされ、残された舎利が八つに分けられ、舎利塔が建てられたという、阿含部の涅槃経典に語られる伝承に関係があるという。
北魏代の石窟、特に雲岡石窟においては、この「法華経」の記載に忠実に仏塔を表現している。第六窟は、その四方の壁面を仏塔のレリーフで飾っている。第一篇、第二窟、第三十九窟は支堤窟となっている。これらは、明らかに「法華経」に説く釈迦崇拝の仏塔であり、それぞれ、その最下段には「法華経」の象徴である釈迦多宝の二仏並坐が表現されている。つまり、ここでは既にインド以来の釈迦追慕のための仏塔崇拝が、「法華経」に基づいた大乗的な仏塔崇拝に変化しているといえる。
大乗の「法華経」に語られる仏陀観と小乗の経典類に語られる仏陀観との大きな違いは、その仏身観の違いによる。「法華経」では、釈迦がクシナガラの沙羅双樹の間で滅したという事実は、如来がこの世に現れることが希有であることを知らせるための方便であるということを説いている。「法華経」「序品」には、釈迦の入滅の場面も語られているが、こうした「法華経」の趣旨からすれば、「法華経」の象徴として《涅槃図》を表現したとは考えにくいであろう。つまり、「法華経」のいわんとする仏陀観は《久遠の仏》ということなのである。視覚的に釈迦の死を想起させる涅槃図は「法華経」の《久遠の仏》という仏陀観とは相入れないものであったろう。この点からいえば、雲岡石窟は釈迦の肉身そのものに対する追慕というよりは、釈迦の教えそのものに対する信仰に基づいた造形化ということがいえ、前出のように「法華経」の記述そのものに忠実である。その仏塔崇拝は釈迦多宝の二仏並坐を、象徴として施した七宝塔に対する信仰なのである。「法華経」「見宝塔品第十」には、地上より涌出した多宝塔から多宝如来が釈迦の経説を聞き、それを褒めたたえ、半坐を分かちて釈迦を招き入れたという件が語られ、「法華経」中のクライマックスとしてつとに有名であろう。この「見宝塔品第十」に見える多宝如来は、釈迦の正統性を明らかにする如来である。この如来を二仏並坐の形で造形化することによって、過去仏である多宝如来の存在をアピールし、釈迦の超人性を強調し、釈迦の教えそのものの偉大さを具現しようとするものである。
以上のように、中国、殊に雲同期における仏塔造立は釈迦の肉身ではない釈迦の教えそのもの、即ち釈迦の法身の造形化であるということがいえる。教えは即ち経典であり、これらの塔は釈迦の経塔なのである。従って、たとえ大乗の涅槃経典類が、当時の仏教界に思想的に影響を与えていようとも、殊更、釈迦の生身の肉体の滅する様を露わにした《涅槃図》そのものを造形化しようとする意志は働かず、仏伝の一場面に涅槃図を描くこともあえて行わなかったのである。
ここまで雲岡石窟における涅槃図の造像背景について述べた。以上の点から、雲岡石窟では殊更、涅槃図に関する興味が高かったとは考えられないが、それでも三例の涅槃図が現存している。
涅槃図はガンダーラにおいて、釈迦の《入滅の場面》、即ち釈迦の《死の瞬間》が初めて視覚化されており、中国の仏教美術、殊に、雲岡石窟などは、様式的にも形式的にも、無論中国化しているということはいえるが、やはり、西方からの要素は強く打ち出されている。特に、初期の造像は西方からの要素が強いことは、度々指摘されるところであろう。その《西方》がどの地域にあたるのか、様々な見方があるが、経典の内容を絵解きしようとする仏伝は、ガンダーラにその淵源を多く負っているものと考えられる。
しかしながら、この第六窟や、第七、第八、第十二窟には集中的に仏伝が表されながら、いずれも涅槃図が表されていない。その理由については、前章で述べた点と関わるものでもあるが、これらの像が仏伝とは関係をもたずに、独立して表されているという点も考慮にいれるべきなので、中央アジアに見られるキジル石窟の涅槃図も比較の対象とした。キジル石窟の製作年代が確定的でなく、諸説あるため、積極的に中国の涅槃図と比較することは難しいが、ここでは主にガンダーラの涅槃図との比較を行いながら、キジル石窟の涅槃図も考慮に入れていく。
まず、ガンダーラの涅槃図の体躯の表現について見ていきたい。最古の作例とされる旧マルダーン在、ペシャーワル博物館蔵涅槃図から、ロリヤン・タンガイ出土カルカッタ美術館蔵涅槃図、ナトゥ出土カルカッタ美術館蔵涅槃図など、ガンダーラの涅槃図はすべて、頭を左側に向けて手を枕にし、右脇を下にして臥し、両足は衣に覆われて実際の足は現されないものが多いが、衣文の様子から足を重ねていることがわかる。釈迦の体は寝ている状態でありながら、正面を向いているので、はっきりと体の右側を下にしている。ガンダーラの涅槃図には、この原則からはなれる作例はないという。これは、西晋白法祖訳「仏般泥沮経」(二巻)の「北首枕手狩右脇臥。屈膝累脚。」という記載と、また馬鳴作、曇無職訳の「仏所行讃」の「如来就縛床北首右脇臥枕手累錐叉足猶如獅子王」という記載に忠実である。北首というのは、元来インドでは北を主とする考え方によるものである。ガンダーラの作例が、このように経典の記載に忠実であり、この原則にはずれるものがないということは、この釈迦の体躯の表現が犯すことのない形式として定着していたということがいえる。
キジル石窟には、主に中心柱の後ろ、後廊奥壁に涅槃図が描かれている。この石窟は独自の涅槃観に支えられてその涅槃図が製作されており、ガンダーラの涅槃図から、一歩進んで、涅槃図のみを独立させた点が特徴的である。しかし、図様そのものは、ガンダーラで確立した涅槃図を用いており、やはり、頭を左にし、手を枕にして、右脇を下にして表現されている。この表現はガンダーラの作例が衣によって覆われているのに対し、キジル石窟の作例は写真が公開されているものを見る限りでは露わにされている。これは足元に表された大迦葉に託した意義と大きく関わっている。釈迦の足元に触れる大迦葉は、釈迦滅後に経典結集を行った人物である。ここでは、彼は釈迦人減後にその衣鉢をつぐ人物、釈迦の後継者として重要視されているのである。
こうした、キジル石窟独自の大迦葉に対する位置づけは、この地方の仏教信仰と深く関わっている。これは、釈迦の入滅の瞬間を造形化しながら、釈迦が既に亡くなってからしばらく後に登場する大迦葉を表すという、いわば、異時同図的な表現といえるだろう。ガンダーラでもカピシ地方のショトラク出土の涅槃図には釈迦の足元に大迦葉が表現されており、大迦葉の意義づけはこの地方から起こったものと考えられる。
キジル石窟では、独自の涅槃観を発展させる上でも、やはり釈迦の体躯の表現については、ガンダーラの涅槃図をその祖型としており、特に、頭を左にし、右脇を下にして臥し、両足を重ねるという表現の原則は変わらない。特に、釈迦は体の前面を見る者に向けており、手を枕にすることが表現のポイントになっている。
さて、ここで雲岡石窟の涅槃図に目を転じたい。雲岡石窟の涅槃図は三例あることは述べたが、いずれも釈迦の頭は右側にあり、両手を体の脇につけ、仰向けの状態で表されている。そして第十一窟の作例の釈迦は光背をつけないが、西端諸洞の第三十五窟、第三十八窟の作例の釈迦には舟形光背が表されている。
ガンダーラの仏像は、涅槃図に限らず円光の頭光をつけており、特に涅槃図独自の光背の表現が見られるわけではない。キジル石窟では、頭光とともに身光も表され、それは火焔光背となっている。キジル石窟の壁画の年代は諸説あり、確定的でないことは述べたが、ガンダーラの涅槃図のみと比較した場合には、ガンダーラにおいて初めて涅槃図が製作された点から、明らかにそれよりは年代は下がるものと考えられる。雲岡石窟と比較した場合にも、雲岡石窟が開墾された時期には既に、キジル石窟においても涅槃図を含んだ壁画が製作されていたということは、先達の研究からほぽ疑いはないであろう。キジル石窟の涅槃図の図版がすべて公開されているわけではないので、その全貌は明らかではないにしても、第三十八窟の涅槃図や第二〇五窟(第二区マーヤー窟)の仏伝四相図中の涅槃図を見る限り、やはり、この表現からはずれるものはないのである。おそらく、すべての涅槃図はこの原則からはずれるものはないであろう。
ここで、ガンダーラ、キジル石窟の作例と雲岡石窟の作例を比較した際に、釈迦の体躯の表現に関していえることをまとめてみる。
@ガンダーラ、キジル石窟の涅槃図が中国の涅槃図が頭を左側現するのに対し雲岡石窟の例は右側である。
Aガンダーラ、キジル石窟の例が手を枕にし、右脇を下にして横臥するのに対し、雲岡石窟の例は両手を体側につけ仰臥する。
Bガンダーラの例は頭光をつけるのみであるが、キジル石窟の例は頭光、身光をつけ、特に火焔光背で表されるものもある。それに対し、雲岡石窟の例は光背をつけない例、舟形光背の例がある。
以上、明らかに雲岡石窟の作例は、西方の涅槃図の祖型と異なっており、経典の内容に忠実とはいえない。このことから、雲岡石窟の工人たちはガンダーラやキジル石窟の涅槃図を参照して涅槃図を製作したものかどうかは、疑わしいといえるだろう。殊に西端諸洞の二例が舟形光背なのは、第六窟の降誕の場面における釈迦が、やはり舟形光背をつけている点などを参照したのではないかとも考えられる。  
北朝期の涅槃図の表現

以上、雲岡石窟の涅槃図のガンダーラと比較した際の独自性について述べてきた、さらに洛遷後の龍門石窟にも僅かながら涅槃図が見られる。また、地域的にも雲岡石窟よりは西方にあたり、時代も下がるが、麦積山石窟に西魏代の涅槃経変が描かれている。中国北朝期には、それほど多くの涅槃図が残っているわけでなく、それぞれの比較には困難をきわめるが、以下、その少ない作例を比較していくことでもまた、中国の涅槃図の特徴が浮き彫りになる。これらの北朝期の作例を特に釈迦の体彊の表現について雲岡石窟の涅槃図と比較していきたい。
釈迦の体躯
龍門石窟には、今まで普泰洞(第十四窟)の涅槃図一例しか、存在が指摘されていなかったが、どうやら魏字洞(第十七窟)にも完全な形ではないが、涅槃図(図価)が表されている。これらの涅槃図は、釈迦の頭こそ右側に表されているものの、やはり、右手は体の横につけ、手を枕にはしていない。手を枕にしていないので、釈迦は仰向けに寝る形をとっている。雲岡石窟の作例が三例とも、釈迦の寝る姿を上の視点からとらえているのに対し、龍門石窟の二例は横からとらえている。そして、いずれも光背はつかない。
ここで石窟の造像をはなれて、同じ時期の単独の石仏の光背などに表された涅槃図を比較してみたい。麦積山石窟第一三三窟十号造像碑の中に涅槃図が表されている。この碑像は三段に区画され各々、中央に上から二仏並坐、交脚菩薩、施無畏印の如来が表されている。これらの像の様式からこの作例は北魏六世紀の製作であると考えられ、ぽぽ、龍門石窟の開襲と同じ時期の製作である。この像の涅槃図もやはり手を体の横につけ、仰向けに寝ている姿で表されている。光背も表現されない。ただ、後述する釈迦をとりまく会衆に菩薩が見られるといい、この点のみが龍門石窟の涅槃図とは異なるともいえる。
麦積山石窟第一三三窟十号造像碑の涅槃図の上部には釈迦の思惟像が表されており、龍門石窟の涅槃図にもやはりその上部に思惟像が表されている。涅槃図の上部に釈迦の思惟像が表される他の例は見当たらないが、この時期の涅槃図には、釈迦の思惟像とセットで表すということに、何らかの意義が与えられていたのではないかとも考えられる。この点について経典には特に記載はなく、どのような背景に支えられて造像されたのか、にわかに判断はつきがたい。
このような思惟像とセットで表される例は、この他に柄雲寺石窟第二ニニ窟の、門口上部の涅槃像と窟頂に釈迦の思惟像が表される例がある。この涅槃像は同時期の涅槃図とは異なる点が多く、特異な作例となっている。この像については後述する。
以上のように、龍門石窟の二例と、麦積山石窟の碑像には多くの共通点が見られる。釈迦の思惟像とセットで表される例は、それほど多くはないが、他の単独石仏にも釈迦の体躯の表現に共通点が見られる。また、甘粛省博物館蔵石造像塔も仏像の様式から、北魏六世紀の造像と考えられる。この塔は五つの四角い石を積み重ねてあり、その一場面に涅槃図が表される。この涅槃図も釈迦は両手を体側につけ、仰向けに寝る姿で表される。
シカゴ美術館蔵浮彫造像碑にも、その背面に涅槃図と金棺出現らしき図が表されている。この造像碑は大統十七年(五五一)の銘文があり、その年代は明らかである。この涅槃図の釈迦も、同じく両手を体側につける形で表されてはいるが、釈迦は手を枕にしないで、横向きに寝る表現となっている。この涅槃図は釈迦の寝る姿を上からとらえつつ、背後の会衆は正面向きで表されており、視点が二つあるように感じられ、プリミティブな表現となっている。光背は表されていない。しかし、やはりこの表現は龍門石窟や、麦積山石窟の造像碑の体躯の表現とそれほど変わったものとも考えられず、その延長上に位置するものであろう。
時代がやや下がるが、東京国立博物館蔵、北斉天保十年(五五九)銘の台座浮彫にも涅槃図が見られる。この作例では、釈迦の頭は右側にあり、手も枕にせず体側につけ、仰向けに寝ており光背もない。この釈迦の体躯の表現も、龍門石窟などに見られた涅槃図と基本的に変わるものではない。響堂山石窟にも一例、涅槃図が存在するが、釈迦の頭は左側で手は体側につけ、仰向けに寝ている。この釈迦の様式は、丸彫りで柔和な印象を与え、東京国立博物館蔵台座浮彫の釈迦とほぼ同様のものである。
以上はすべて、浮彫の作例であるが、麦積山石窟の第一二七窟に西魏代の壁画の涅槃図の作例が存在する。この作例は涅槃図というよりは、八王分舎利の場面を主に描くことを目的とした経変画である。同じく、第二二五窟にも涅槃に関する壁画があるが、この作例もやはり八王分舎利を主題としており、既に釈迦の涅槃図は表されていない。このような涅槃経変は、他の中国の石窟には見られない。西域のキジル石窟には、八王分舎利回が描かれているが、この壁画では国王たちが、槍を持って戦う様を大きくとらえ、正面観照性を強く打ち出した表現になっているのに対し、この麦積山石窟の八王分舎利図は、国王の戦う様を傭轍的にとらえている。明らかに、この麦積山石窟の二つの作例が、西方の様式にのっとって描かれているのではないことがわかる。むしろ、この二つの作例は八王分舎利という主題を選ぶことで、戦闘場面を絵画化したものであろう。これらは、主題の力点の置き方から、純粋な涅槃図とはいえないが、第二一七窟の涅槃図には小さいながら、釈迦の臨終遺誠や釈迦の涅槃の瞬間が描かれている。この涅槃の場面を見ると、やはり、釈迦は仰向けに寝て、両手を体側につけていることがわかる。このことは既に指摘されているが、特にこの涅槃の場面は、釈迦の寝姿がやはり、俯瞰構図で表されているという点が特徴的であろう。この作例が壁画の作例であるため、このように表すことができたといえるが、このような絵画表現の源流は雲岡石窟の表現の源流とは異なるものである。
これは、同じ西魏代の敦煌莫高窟の壁画が、北魏代の西方的な様式から、中国的な様式へと展開しているのと軌を一にしていると考えられ、描写が俯瞰的になって建物の表現などが、より立体的に表されるようになっている。このような点から、麦積山石窟の壁画も様式的に中国的な表現を用いて、涅槃経変、八王分舎利図を描いたと考えられる。しかし、表現の精練さは、他の窟の表現を見ても建物の描写など、より立体的な描写になっている点、敦煌莫高窟の技法より、麦積山石窟の作例のほうが勝るであろう。
これらの点から、麦積山石窟の涅槃経変がより中国的であり、涅槃の場面そのものは小さいながらも、仰向けで両手を体側につける表現が、中国独自の釈迦の涅槃の表現として、定着していたということの根拠のひとつとなる。
以上のことから、中国北朝期の涅槃図は、ガンダーラやキジル石窟などにみるような、経典の記載に忠実な涅槃図とは異なった独自の表現がなされており、これらの作例を粉本として製作されたとは考えにくい。ガンダーラでは釈迦の涅槃という事実を、一般の人問の死と区別するためにこのような表現をとるという。その点からいっても中国の涅槃図はその原則に反しており、人問が寝ている状態の肢体で表されている、ということがいえるだろう。さらに、雲岡石窟の二例を除き、このような表現の涅槃図に光背がついていないということは、釈迦を特別視せずに、一人の人問の死を表現するという立場から、涅槃図が製作されたといえよう。このような涅槃図における釈迦の体彊の表現から、中国では偉大な宗教的指導者である釈迦の涅槃はガンダーラで製作された釈迦の涅槃とは異なった意義をもって製作されたということがいえる。数少ない涅槃図はこうした涅槃の理解によって、製作されたに留まっている。
以上に述べた涅槃図はいずれも人像ではなく、仏籠の上部や、下部、石仏の背面などに表され、礼拝像として表現されたものではない。わずかに麦積山石窟の造像碑の例や北斉の台座浮彫の例が仏伝の一場面として表される他は、ほとんどが仏伝から離れて、単独で表されている。このことは、キジル石窟に見られるような礼拝像化した独自の涅槃図とも異なっている。
また、阿含部の涅槃経典には釈迦が生まれたルンビニー(降誕)、釈迦が初めて悟りを開いたブッダガヤ(降魔成道)、釈迦が初めて教えを説いたサールナー卜(初転法輪)、そして釈迦入滅の地であるクシナガラ(涅槃)の四カ所を巡礼することの功徳が説かれており、後にはこの四つの事蹟の重要さを強調するためにグプタ期のサールナートにおいて四相図が製作された。中国では涅槃を除く、他の三例はいずれも礼拝像として単独で造形化されている。特に、降魔成道や初転法輪は雲岡石窟、敦煌石窟においても流行した主題である。しかし、ことさら涅槃図は礼拝像化せず、かといって、仏伝として積極的に表されたわけでもなかった。雲岡石窟だけでなく、北周代の敦煌莫高窟第二九〇窟のフリーズ状の仏伝図も涅槃までは描かれていない。敦娘莫高窟にはそもそも仏伝図はそれほど多くは製作されていないが、その少ない作例には、いずれも涅槃まで描かれていない。これは雲岡石窟の第六窟に製作された仏伝のように、釈迦の生涯を描いても、涅槃までは描かない、という伝統をひくものであろう。
このように中国北朝期の涅槃図は、仏伝とも切り離され、独立した礼拝像でもなく、一層その意義を暖昧にしている。以上、釈迦の体躯の表現について述べてきた。中国北朝期の涅槃図は経典の記載と離れた独自の表現によって生みだされたということがいえる。
釈迦をかこむ会衆と背景の樹木について
これまで、ガンダーラと中国の釈迦の体躯の表現を比較することによって、中国では独自の釈迦の寝姿を作り出していた、ということを述べた。ここではその釈迦の周りをとりまく会衆の表現について述べたい。ガンダーラの涅槃図には、釈迦が入滅する際に嘆き悲しむ会衆の表現が、バラエティー豊かに表現されている。カルカッタ美術館蔵ロリヤン・タンガイ出土の涅槃図は破損もなく、人物の表現も精織である。これらの人物の表現は釈迦の背後にいて、手を挙げて悲しむ様を表している。小乗の涅槃経典には釈迦の入滅の際に、マッラ族が訪れ、悲しむ様が述べられており、ガンダーラの作例は.会衆の表現に関しても経典の記載に忠実であることがわかる。周知のように、釈迦は沙羅双樹のもとで入滅し、ガンダーラの涅槃図にも、やはり二本の樹木の問で涅槃にはいる様子が表されるものがある。この樹木は本来なら、沙羅樹であるはずが、椋欄の木で代用されている。
ここでは、ガンダーラの涅槃図の会衆と樹木の表現を、中国の涅槃図の会衆と樹木を比較することによって、その特徴を考えたい。
甘粛省博物館蔵北魏石造像塔の背後の会衆は頭を丸めて比丘形のようであり、これらは皆、手を挙げて悲しみ、どことなくユーモラスな表現となっている。これはプリミティブな表現ではあるが、基本的にはガンダーラの会衆の表現を踏襲しているといってよいであろう。枕元には、釈迦の頭を支える人物、足元には釈迦の足に触れる人物が表されている。ここでは、樹木の表現は見られない。しかし、この作例で特徴的なのは、釈迦の涅槃の下にラッパを吹いて喜ぶ、外道の姿が表される点にある。このような表現は、他の北朝期の作例には見当たらず、経典にも記載はない。この点については、中国独自の表現である。
この作例よりは若干古い作例に、雲岡石窟第十一窟の涅槃図がある。この作例は足元と枕元にそれぞれひとりずつの人物がいるほか、その両脇に二人ずつ、比丘が表されている。釈迦の体躯の表現が裸なのも、この作例のみしか見られず、特異なものだが、釈迦の涅槃図より比丘が大きく表されている例は、この作例だけである。この比丘は皆、合掌しており、哀悼の様を示すものとは思えない。この作例が仏禽の下に位置することから、釈迦の涅槃の場面の会衆というよりは、上の仏籠の仏像を供養する意味があるのだろう。釈迦の寝る休台の脇に不思議な形の樹木が見られ、ガンダーラの樹木をパターン化したプリミティブな表現かと思われる。この作例は中国北朝期の涅槃図の中でも例外的な作例である。
これより、やや時代の下がる第三十五窟の会衆は、背後の左端の人物が手を挙げており、他の人物は俯いて、いずれも嘆き悲しむ様を表している。釈迦の足が露わにされ、足はそろえて上向きに表現され、その足に触れる人物が表されている。第三十八窟は摩減して、判別しにくいが、背後の人物が悲しむ様を表しているようである。枕元に人物がおり、足元には脆いて、釈迦の足を触る人物が表されている。これらの作例には樹木は表されない。
この時代の涅槃図の会衆は、特に比丘も俗人も表される傾向にあるようだが、会衆の嘆き悲しむ様そのものは、プリミティブながらガンダーラの会衆の表現に基づくものであろう。
ところが、龍門石窟の会衆の表現をみると、顔の表情こそ悲しげであるが、手を挙げる仕草は見られなくなる。この背後の会衆は、衝立のようなものの背後にいて、首だけ出している様が、他にはないものである。これらの人物は頭を丸めた比丘である。枕元には合掌する人物が正座しており、その左側には区画を設け、梵鐘の下で、合掌する比丘がいる。このように梵鐘を表した作例は、無論、ガンダーラには見られず、中国独自のものである。
涅槃図と思惟像との組み合わせから、龍門石窟の作例とは近い関係にある麦積山石窟の第二二三窟十号造像碑の涅槃図は会衆の表現に関しては、龍門石窟の作例と随分異なり、背後には三人表されている。釈迦の寝る休台の表現は、幕をきちんと折り込んで垂らしたようになっており、甘粛省博物館蔵北魏石造像塔と近い表現となっている。足元には人物が表されているが、背後には樹木は見られない。この作例は、甘粛省博物館蔵北魏石造像塔の涅槃図と龍門石窟の涅槃図の両方の要素を持つものである。
しかし、やや時代が下がり、西魏代のシカゴ美術館蔵石造浮彫造像碑は、釈迦の肢体や背後の人物がプリミティブな表現ながら、会衆は龍門石窟の作例と同じく比丘形であることがわかる。これらの比丘は悲しみを表さず、にこやかにほほ笑んでいるようにさえ見える。やはり、足元には釈迦の足を触る人物がおり、枕元にも摩滅しているが人物が表されている。しかし、この足元の人物は、背後の人物が頭を丸めてはっきりと比丘であるのに対し、明らかに比丘ではない俗人の姿で表されていることがわかる。
この釈迦の涅槃の区画を設けた隣には、釈迦の棺が表され、棺の右上には顔の部分が破損しているが、頭に肉髪らしき様子を表しており、またその衣の様子から、釈迦を示すものと考えられる。その釈迦は右足を組み、手跡の姿勢をとる。釈迦は右手を挙げ、脆く比丘に話しかけているようである。棺の後ろには宝珠を持つ菩薩らしき人物がいる。その後ろには茎の伸びた蓮華座に朕坐する仏が六体表されている。
この釈迦が棺より出て、説法をするという内容は「摩訶摩耶経」に見られるが、この経典では仰利天から降りて来た仏母摩耶夫人のために説法するのであって、弟子へのための説法ではない。時代が下がり、唐代の敦煌莫高窟第三三二窟の涅槃経変には明らかに、釈迦が金棺の上に乗って、脆く摩耶夫人に説法する様が描かれるが、この作例とも異なっている。また、後ろに仏が表されるのも「摩訶摩耶経」にも記載はなく、他の涅槃経典類にも記載はない。菩薩が宝珠をとるのも他に例はなく、経典にも特に述べられない。北魏の単独石仏の背面などに、過去七仏が表されており、この図の背後の蓮台に乗る六体の坐仏は、釈迦を含めて過去七仏を表したものかどもとれるが、蓮台に乗る表現ではなく、断定はできない。
さらに、この涅槃の情景と、棺から出た釈迦を表した情景の上部にはそれぞれ木が四本ずつ描かれ、いずれも中央寄りに比丘と梵鐘が表される。梵鐘を表すことや、涅槃の場面の会衆が比丘である点などから、この作例が龍門石窟の作例と近い関係にあるといえるが、左側の棺の場面などを描くという点では、この作例は大変特異なものということがいえる。この棺の場面の意味に関しては、さらに考察を要する。いずれにしても、中国独自の表現であり、この涅槃図が当時の葬送と関わっている可能性も指摘したい。次に、北斉代の東京国立博物館蔵台座浮彫の涅槃図を見てみると背後の人物は、やはり、頭を丸め、偏祖右肩の比丘であることがわかる。足元と枕元にはそれぞれ人物がおり、いずれも背後の会衆と同じ比丘形である。この表現は甘粛省博物館蔵北魏石造像塔以来のものであろう。釈迦の左側には釈迦の涅槃の悲しみに耐えられず、悶絶する阿難が地面に突っ伏している。
同じ北斉代の南響堂山石窟第五洞の涅槃図は、釈迦の頭の向きこそ反対だが、釈迦の仰向けに寝る様は北斉の東京国立博物館蔵台座浮彫と大変よく似ている。背後の会衆も比丘であり、釈迦の足を触る人物もいる。枕元にはやはり、人物が表されている。カーテンのように表された寵の外には、様式化した樹木が二本表される。釈迦の手前には袖の長い衣を着て、釈迦の左手をとっているかのような人物が表され、このような人物の配置は、他の中国の作例には見られない。この人物は背後の比丘たちとその服装が異なっており、「摩訶摩耶経」に述べられる摩耶夫人ともいわれるが、釈迦の手前に人物を表した例は、中国にはこの作例しかなく、必ずしもこの人物を摩耶夫人と考えることは難しいであろう。
このような作例はこの一例のみであるが、日本の法隆寺五重塔北面塑像の涅槃像は、こうした人物配置がなされる作例である。この人物は書婆大臣で、釈迦が入滅する際に脈をとった人物だという。時代も下がり、地域もかけ離れてはいるが、このような作例がある限り、この響堂山石窟の涅槃図の釈迦の手前の人物が、耆婆大臣であるという見方も捨てきれないであろう。釈迦が入滅の際に脈をとった医師がいたという記載は、どの経典にも見られず、独自の発想かと考えられるが、法隆寺の例がその塑像の様式など多く大陸によっている点、その発想の根幹は中国にあるかと考えられる。この点からも、この響堂山石窟の作例が、そうした人物の配置の最初かとも思われるが、やはり断定はできない。
隋代の敦煌莫高窟第二九五窟の涅槃図の釈迦の左側には、椅子に腰掛けた人物が表されており、この人物を摩耶夫人とする説があるが、この人物を仮に摩耶夫人だと考えても、響堂山石窟の作例に表された人物の表現とは、大変異なっており、比較の対象にはならないであろう。また、唐代の敦煙莫高窟第三三二窟の涅槃経変の金棺出現の場面に見られる摩耶夫人とも、位置的に異なっている。いずれにしても、こうした人物を表すことは、西方には見られず、中国独自の表現である。
さて、西魏代の麦積山石窟第一二七窟の涅槃図は、前述のように、その主題は八王分舎利にあり、涅槃の場面そのものも小さく表され、判別しにくい。休台の前に天龍八部衆、奇獣異禽が集まっており、釈迦が涅槃にはいらぬことを願っている様が表され、釈迦の仰臥する七宝休台には迦葉のために釈迦が両足を出しているという。しかし図版から見る限りは、そこまでの描写が行われていることまでは判別しにくい。経典から考えるならば、釈迦の入滅の際、集まる会衆に天龍八部衆や奇獣異禽が含まれることを述べたものは、「四十巻本」の「大般涅槃経」であり、阿含部の涅槃経典には述べられていない。また、「八王分舎利」、「茶毘」の内容が語られるのは、阿含部の涅槃経典類であり、天龍八部衆や奇獣異禽が描かれるというのであれば、これらが主として描かれるというこの経変の趣旨と相矛盾するものかと考えられる。いずれにしても、会衆の内容までは判別できず、ここでは即断しがたいが、西方の表現と異なるということがいえる。樹木に関しても、釈迦の休台の左側に表されるが、釈迦が二本の樹木の問に横たわるガンダーラの表現とは明らかに異なっている。
同じ麦積山石窟の北周代、第二十六窟の涅槃図に表される会衆は、明らかに皆頭を丸珍、僧衣を着た比丘であると考えられる。これらの僧は偏祖右肩にするもの、通肩にするものの両者が見られる。足元には釈迦の露わになった足に触る僧が表され、大迦葉がと思われる。その大迦葉の左には、沐台にうつ伏して悲しむ人物がおり、阿難がと思われる。樹木は表されるようだが、本数は判別しがたい。
涅槃の場面の右側には、釈迦の臨終遺誠の場面が表され、釈迦をとりまく会衆は左の涅槃の場面と同じく比丘である。この場面に、樹木は釈迦の背後に二本、左に二本、右側に二本表されている。注目すべきは釈迦が台座に結跡践坐し、説法する前には動物らしき婆が描かれており、その右にはその服装から天部であると思われる人物が表されている。この描写から、この涅槃図が「四十巻本」の「大般涅槃経」に拠っていることがわかり、史伝的な阿含部の涅槃経典に拠って製作されていない現存する最初の涅槃図であると考えられる。この点からこの麦積山石窟は涅槃図に関しても先駆的な内容を表していたということがいえる。ここでは既に、ガンダーラの涅槃図からは完全に離れ、中国独自に「四十巻本」の涅槃経典に依拠した涅槃図を製作していたのである。しかし、「四十巻本」の涅槃経典には述べられない大迦葉接足作例の描写は残っており、これは前出の作例群の伝統をひくものかと考えられる。
以上、釈迦をとりまく会衆と樹木について述べてきた。中国における会衆の表現は雲岡石窟など初期のころは、プリミティブながらガンダーラの涅槃図の会衆の哀悼の表現によっていながらも、特異な表現であった。樹木も第十一窟のプリミティブな表現を除いて、西端諸洞の作例には表されていない。これが、龍門期以降、会衆は主に比丘形で表されることが一般的となり、必ずしも哀悼の様を表さなくなり、その描写は静かになっていく。樹木も必ずしも二本ではなく四本、八本など定まった表現にはなっていない。このことから、北斉ごろまでに、中国ではガンダーラをはなれた、独自の会衆の表現が行われるようになったということがいえる。
枕元の人物については、特定の人物を指摘することはできなかったが、ガンダーラの作例には枕元で釈迦の頭を触る人物が表された例はなく、中国独自の表現と考えられる。足元の人物は、キジル石窟や、ショトラク出土の作例からすれば、大迦葉であると考えられるが、中国の例では、足元の人物すべてを大迦葉であるとは考えにくい。背後の比丘の表現と比べて、同じ描写で表されないものもあり(シカゴ美術館蔵石造浮彫像碑の例など)、比丘であると考えられない作例がある。既に中国では、大迦葉の意義は形骸化して足元に人物を表すことのみが定着したものと考えられる。または、この表現は全く中国独自の表現であり、特定の意味を持つ人物である可能性もある。ここでは、これらの枕元や足元に表される人物が誰を表しているのか、特定はできなかった。いずれにしても、中国北朝期の涅槃図は、会衆や樹木の表現に関して、ガンダーラ、キジル石窟の涅槃図との関係は、切り離されたものと考えられ、釈迦の体躯の表現同様、中国独自の内容を示すものとなっている。以上の点については、別表を参照されたい。
このように、ガンダーラの涅槃図が経典の内容に忠実に釈迦の体躯を表現し、超人的な釈迦が減することを嘆く会衆を表していたとするなら、中国北朝期の涅槃図は、むしろ、身近な人間の死を意識して涅槃図を表現していた節がある。中国においてはかって、人間の死の瞬間を造形化した例はなく、仏教美術が流入したことで初めて、人間の《死の瞬間》を造形化する機会が与えられた。
一章で述べたように、雲岡石窟では「法華経」が流通したという点から、涅槃図に対する興味が薄かったが、また一方では、人間の《死の瞬間》を視覚化することに、違和感を感じていたということもいえるのではないだろうか。そのことに関する積極的な根拠は見いだしえなかったが、雲岡石窟の開墾が政策の一環として行われ、曇曜五窟が北魏の皇帝になぞらえて造像されたということと、あながち無関係ではなかろう。いずれにしても、中国北朝期の涅槃図には、西方から離れた独自の表現が見られ、その意義も大きく異なっているのである。  
敦煌莫高窟における北朝末期の変容

ここでは、まず、以上に述べてきたような中国的な涅槃図とは異なった要素を持つ北朝期の涅槃図について述べ、その上で敦煌莫高窟第四二八窟(北周)の作例を考察する。この第四二八窟の涅槃図は、敦煌莫高窟の最古の例であり、雲岡石窟や、龍門石窟では、北周以前から涅槃図が小さいながら製作されていたことを考えると、その出現は比較的遅いといえる。しかし、この涅槃図は他の石窟に表された涅槃図と比べて、石窟内での取り上げられ方は格段に大きくなっている。この涅槃図を前述の中国的な要素をもつ涅槃図と比較していき、その上で外来の要素がこの作例にどのような影を落としているのかを考えていく。それにより、敦煌の地域的な特徴も同時に浮き彫りにしたい。さらに、この第四二八窟の他の様々な尊像も考慮にいれていくことにより、北朝期最後の涅槃図としての意義を明確にしたい。
さて、この敦煌莫高窟第四二八窟の作例であるが、まず、釈迦の体躯の表現は、両手を体側につけ、この点からいえば、前述の中国的な釈迦の寝姿を踏襲するものである。しかし、同じ時期の麦積山石窟第二十六窟の涅槃図の釈迦が仰向けに表されているのに対し、この作例は両腕が二本とも同じ大きさで描かれ、必ずしも仰向けに表されていると考えがたい。もし、自然な状態で仰向けに描くなら、左手は描かないか、右手より小さく描くべきであろう。
この描写は麦積山石窟第二十六窟の涅槃図と比べて、遠近法を全く無視した表現がなされているといえる。しかし、その足の表現は両方を揃えて、両足のかかとが休台につく形で表されており、体躯の表現とは不釣り合いなものに見える。顔は足の部分と呼応するように、上向きに表されている。
つまり、この釈迦の体は足の部分だけ休台につけ、体は仰向けの状態のまま、無理やり正面に起こした状態となっている。また、体の後ろには二重の頭光、五重の身光が表され、二章で述べた中国的な涅槃図には、雲岡石窟の二例を除いたすべての作例に光背がなかったことを考えると、大変特異な印象を持つ。
一方、炳霊寺石窟や麦積山石窟には前章で述べてきた中国的な要素とは異なる要素を持つ涅槃図が存在している。柄雲寺石窟の第一三二窟東壁門口上部には、比較的大像(二二五メートル)の涅槃像がある。この窟の近くには、延昌二年(五二二)の銘がある第二一六窟があり、様式的にこの窟の造像とほぼ同じものであることから、この像ははっきりとした年代のわかる作例である。この涅槃像は前章で述べた涅槃図と大きく違い、中国の例では初めて右脇を下にして手を枕にし、横臥する涅槃図といえる。この像がガンダーラの涅槃図のように、経典に忠実であるといっても、むしろ、中国では例外的な表現であり、光背をつけるのも特異である。この作例を第四二八窟の作例と比較してみると、第四二八窟の作例が両手を体側につける点こそ違え、これらは光背をつける点、体の正面を見る者に向けて横臥する点、が共通している。
このような釈迦の寝姿を正面からとらえる視点の取り方、頭光と身光の両方の光背をつける涅槃図は、中国以外ではキジル石窟に見られる。柄雲寺石窟の涅槃像は西方からの影響が強く、北朝期の中国的な涅槃図とは、一線を画するものであった。このような西方的な要素が、柄雲寺石窟の涅槃像、敦煌莫高窟の第四二八窟の涅槃図に影響を与えているものと考え、キジル石窟の涅槃図と比較していきたい。しかし、キジル石窟の涅槃図の図版が現在すべて紹介されたわけではなく、また、その成立年代そのものが不確定な点から、この時代の敦焼墓局窟の壁画と直接比較することは困難を極める。ここでは特に、比較的成立が早いとされる作例を挙げて、比較していきたい。キジル石窟第四十七窟は、その壁画の様式から、ヴァルトシュミット氏のいう第一様式にあたり、また宿白氏のいう第一段階に当たる。キジル石窟の涅槃図はそのほとんどが中心柱の背後、後廊の奥壁にあるため、図版からはその全貌はよく観察できない。この第四十七窟には、現在は失われるが塑造の涅槃像があったと考えられる。光背部分が残っており、光背の外縁部は火*状である。その内側には連珠文が描かれ、そのさらに内側には化仏の立像が並んで描かれている。このような化仏の表現はキジル石窟独自のものであり、敦煌のほか、中国には見られない。しかし、第四二八窟の涅槃図は光背が他の同じ窟の仏像より強調されて描かれており、この涅槃図が光背を重視して描かれたということがいえ、その点から、この外縁の炎の揺らぐ様が、第四二八窟の涅槃図の光背の表現に影響を与えたと考えることができる。
釈迦の寝姿の視点の取り方が特異なものであることは述べたが、このような視点の取り方は、同じ時期の麦積山石窟第二十六窟の涅槃図に比べ、大きく異なっている。このような視点の取り方は、明らかに中国独自の涅槃図から離れたものであり、西方の視点の取り方を導入したものと考えられる。また、釈迦の衣は濃い赤で塗られ、衣文が体にそって自然に表される様がわかる。
ガンダーラ以来、涅槃図は釈迦が寝る姿を表しながらも、衣文は重力に逆らって立った状態の衣文の描写がなされてきた。キジル石窟もその衣文の描写に忠実であったろうことが想像され、この作例がこのような描写を踏襲しているものと考えられる。また、釈迦の衣は麦積山石窟第二十六窟の釈迦については、衣文の描写は判別しがたいが、周囲の会衆の衣の色と比べると白っぽい淡い色で表されているようである。
そして、この第四二八窟の涅槃図は、それまでの中国北朝期の涅槃図と比べて、会衆の数が格段に多くなっている。この釈迦の光背の後ろには、まず、光背をつけた比丘が十人表される。麦積山石窟第二十六窟の比丘をはじめ、中国北朝期の涅槃図の会衆には、光背をつけて表されるものはなかった。光背をつけることで、解脱に達した阿羅漢を意味し、聖なる人物を象徴していると考えられる。このことから、特に、この十人の比丘が釈迦の十大弟子を意図するものと考えられる。なかでも、左から三番目の人物は釈迦の光背にもたれ掛かり、激しい働哭の様子を表している。釈迦が入滅する際に、最も悲しみが深かったのは、釈迦の身の回りの世話をしていたという阿難であり、この働突する人物はこの阿難を表していると考えられる。このような阿難の慟哭の表現は、後述する敦煌莫高窟隋代の涅槃図と共通するものである。
この光背をつける十大弟子とは別に、前列の一番左端には光背をつけない、有髪で、髭面の老人が表される。この老人の尊名は特定できないが、光背をつけていないので、他の十人の比丘と区別されており、いまだ解脱に至らない須抜の可能性を指摘したい。彼は、釈迦入滅直前に最後の弟子となった外道で百二十歳の老人であったという。しかし、ガンダーラの涅槃図に表される須抜は、釈迦の休台の手前で禅定にはいる姿で表され、キジル石窟の作例もこれにならうものである。このような点からいえば、必ずしもこの老人が須抜であるとは考えられず、断定はできない。
その後ろには、前列の比丘とは異なった服装で、おそらく俗人を表したと考えられる会衆が十一人表されている。経典には釈迦入滅の際にマッラ族が集まったとされ、この俗人はそのマッラ族を表しているものと考えられる。前章で述べたように、中国北朝期の涅槃図の会衆は一生に比丘が表され、その悲しみ方は大変静かなものであった。それに対し、この後列の会衆の一番右端の人物は右手を高く挙げ、慟哭する様が露わである。このような会衆の慟哭する様は、キジル石窟第四十八窟の会衆の慟哭する様と共通するものである。この点からも、第四二八窟の涅槃図がキジル石窟の涅槃図からの影響を受けて描かれたものであると考えられる。釈迦の足元には人物が描かれているが、前列の十人の比丘の服装が僧衣なのに対し、この人物は後列のマッラ族と同じ白い衣服をつけていることがわかり、明らかに、比丘を表したものではないということがいえる。この点に関しては後述する。
一方、敦煌西千洞第八窟にも、ほぼ同じ時代の涅槃図があり、この作例も壁面に大きく描かれた西方的な涅槃図である。この作例の釈迦の体躯は右脇を下にして手を枕にし、横臥する様を表し、赤い衣を着ている。光背の表現こそ、第四二八窟の涅槃図とは異なった印象を与えるが、頭光と身光をつけ、その外縁は火焔光背になっている。その会衆の表現は変色のため、比丘を表したものか、俗人を表したものか判別しがたく比較できないが、足元には偏祖右肩の比丘が表され、大迦葉であると考えられる。キジル石窟における大迦葉の重要性は一章で述べたが、このような点からいっても、この作例こそキジル石窟の涅槃図を祖型にして描かれた、より西域的な涅槃図といえる。つまり、敦煌石窟には北周代より、新たな西方的な様相を呈する涅槃図が製作され、麦積山石窟以東の涅槃図とは一線を画した作例が見いだされるのである。
以上、釈迦の寝姿を表す際の視点の取り方、光背の表現、会衆の慟哭する様から、第四二八窟の西方的な要素を述べた。明らかに中国の独自の表現とは異なった描写がみられるということがいえる。
以上の点から、この作例が外来の影響の色濃い表現を示しているということを述べたが、一方、釈迦が両手を体側につけ、手を枕にしないという表現は、中国北朝期の涅槃図の特徴である。釈迦の両足はキジル石窟の涅槃図が、横臥する様を表すために、こちら側に揃えて表されるのに対し、第四二八窟の作例は釈迦の両足を休台につけている。このような表現は中国北朝期の涅槃図の伝統を踏襲するものであると考えられる。
経典には涅槃の際に集まった会衆が語られているが、そのなかで釈迦の入滅の際に集まった弟子は、十大弟子すべてが集まったとは述べられてはいない。必ずしも、この十人の比丘が十大弟子であると断言することもできないが、このように大勢の比丘を表すことは、中国北朝期の涅槃図の伝統に近いものがあると考えられる。キジル石窟の涅槃図の会衆は、図版から判別しがたい面はあるが、比丘の他、天部も表されており、これほど多くの比丘が表されていたとは考えにくい。中国の涅槃図の会衆に、天部が表されることはない。この点からおおむね、キジル石窟の涅槃図とは異なった中国的な伝統を見いだすことができる。
さらに、この作例のキジル石窟の作例と大きく異なっている点は、足元の俗人である。この人物は前述の通り比丘ではなく、従って、大迦葉であると考えることは困難であろう。背後の十人の比丘が十大弟子を表しているとすれば、大迦葉も既にその中に含まれることになり、なおさら、この人物が大迦葉である可能性は少ないであろう。前章で述べてきたように、中国北朝期の涅槃図には足元に人物を表すことが多く、特に比丘の姿で表されていない例もあった。第四二八窟の作例には枕元の人物こそ表されていないが、この足元の人物は、北朝期の伝統を踏まえて表されていると考えられる。キジル石窟では大迦葉が表され、象徴的な意味を与えられていたが、この作例では釈迦の涅槃の場面に、特にそうした象徴的な意義を与える必要がなかったものと考えられる。キジル石窟に見られる大迦葉を重要視する意識は、この敦燈では必要なかったものと考えられる。
また、背景の樹木の本数も四本であり、阿含部の経典に述べられる二本とも異なっている。敦煌西千仏洞第八窟の作例の樹木が二本であり、西方の描写に忠実であるのに対し、この点からもこの作例が中国北朝期の伝統をひく内容を持っていると考えられる。前述のように、中国北朝期の樹木の本数は一定しておらず、独自なものであった。この点からも、この作例の中には、北朝期の伝統が含まれていると考えられる。
以上の点から、この敦煌莫高窟第四二八窟の涅槃図は、明らかに、視点の取り方、光背の表現、会衆の慟哭する様などの点が、中国的な涅槃図の伝統から逸脱しており、新たな西方的な表現を持つ内容を示しているということがわかる。その西方的表現は、特に、キジル石窟の涅槃図から多くを摂取していると考えられ、多くの共通点が見られた。それは主に様式的な側面からいえることであり、図像的にはキジル石窟の涅槃図との共通点は必ずしも多くない。
それに対し、図像的にはいまだ中国の伝統を踏まえる点が多く、特に、その体躯の表現は西方の要素と全く異なるものであった。つまり、この涅槃図は様式的には西方の表現を取り入れつつも、図像的には中国の伝統を踏まえた、いわば折衷的な内容を示す作例であるということがいえる。
この第四二八窟は、石窟の形式は北魏代に流行した柱塔窟であり、北魏代に多く描かれた降魔図も描かれている。この降魔図は北魏の作例からそれほど発展したものでなく、簡略化されてはいるが、その悪魔の描写などは北魏のものからそれほど逸脱するものではない。涅槃図のとなりには、釈迦多宝の二仏並坐も表されており、この主題も北魏以来、好まれた題材であった。また、東壁には薩壊太子本生や、スダーナ太子本生など北魏から西魏にかけて多く好まれた主題を描き、この窟が北朝期の伝統からそれほど逸脱したものでなかったことが窺える。しかし一方で、盧舎那仏など新たな尊像もこの窟から出現し、涅槃図とともに新たな要素を導入しようとする意志も窺える。
この窟の西壁には、金剛法坐塔が描かれ、この塔の中には釈迦の誕生の場面が表されている。涅槃図がインドにおいて出現した際には、仏陀不表現の時代のストゥーパから発展して造形化されたといわれ、ストゥーパと涅槃図は深い関係があった。経典には釈迦入滅の後、その遺骨を祭るため、ストゥーパの起塔が述べられている。この塔が釈迦涅槃を供養する意味での塔であるとも考えられるが、むしろ、釈迦の誕生を描き、釈迦の成道を描くことで、釈迦の法の誕生を象徴する塔であると考えることもできよう。この五塔形式の塔は雲岡石窟第六窟などに見られるような形式であり、この雲岡石窟第六窟の多くの塔が釈迦の経塔を象徴するものであった点、この塔もそうした釈迦の教え=法を象徴する経塔であると考えられる。
この窟には西壁の金剛法坐塔に釈迦誕生、北壁に降魔図、西壁に涅槃図と釈迦の仏伝に関する主題が表されており、この涅槃図はいまだ仏伝の一景として表されているというむきもあるが、前述のように、涅槃図は仏伝の中に取り入れられることはほとんどなかったという点を踏まえたならば、この涅槃図は東壁の本生図、西壁の釈迦多宝二仏並坐とともに、釈迦信仰の一環として描かれたと考えられる。釈迦多宝の二仏並坐は周知のように、「法華経」の象徴の尊像であり、釈迦信仰を象徴する造像である。
この窟の涅槃図が、西方的な様式で描かれているものであるとしても、既にここではキジル石窟のような独自の石窟形式の中の涅槃図ではなく、他の主題同様、中国的な主題の一つとしてこの窟に溶け込んでおり、先に述べたような雲岡石窟における涅槃図に対する興味の低さは既に払拭されたものと考えられる。そのことは、この涅槃図のとなりに「法華経」の象徴である釈迦多宝の二仏並坐が描かれていることからもいえる。
さらに、このような西域的な涅槃図を描くことができたという点、この敦煌莫高窟が西方との関わりの深かったことを示している。それと同時に、この涅槃図が中国の伝統的な図様からそれほど逸脱しないという点、西方、中原、両者の折衷を示す敦煙の地域的な性格も同時に窺えるものである。いわば、この第四二八窟の涅槃図はこうした地域的特色を示すと同時に、北朝期最晩期である北周という時代の時代的特徴を如実に示す好例であるといえる。こうして、北朝期には中国なりの涅槃図の受容と変容があったわけであるが、次の隋代にはさらに一歩進んだ涅槃図の展開が見られる。第二九五窟には隋代の涅槃図があり、隋代に至ると一層、西方の影響の色濃い表現となっていく。南北朝の動乱を越えて国力の充実を図ろうとした隋という時代性を如実に示し、さらに中国における涅槃図の新たな転換を示していくのである。  
結び

以上、中国北朝期の涅槃図について述べてきた。この論稿ではガンダーラで成立した涅槃図がどのような過程で、中国に定着し変容したのかということを趣旨に、様々な観点から涅槃図を考察した。
北朝期初期、特に雲岡石窟では、ガンダーラの涅槃図は基本的には受け入れられず、雲岡石窟開墾当初の仏教界の動向に忠実に造形化が行われていたということを述べた。具体的には「法華経」の流通により、久遠の仏としての釈迦に対する信仰から《釈迦の死》の情景である涅槃図が造形としては、興味の対象の低いものであったということを明らかにした。
しかしながら、その少ない作例の中には西方の涅槃図とは別種の中国独自の涅槃図を作り上げており、明らかにガンダーラや、キジル石窟に見られる涅槃図とはその図様を異にするものだった。この点を主に釈迦の体彊の表現から考察し、これが人の寝る姿、つまりガンダーラの涅槃図とは異なった中国独自の人間の死の場面の造形化であったことを明らかにした。
中国では人間の死ぬ場面はこれより以前には、造形化されていず仏教が流入し、釈迦の涅槃という情景を知ることで、初めて死の場面に直面したのだった。元来、中国人は現世利益的な性向を持つといい、道教に象徴されるような不老長寿への信仰が厚かった。それは執拗なまでの生への憧れだったはずだが、仏教はそうした中国人の人生観を一変させてしまった。殊に、この涅槃図を考えることでそうした中国人の死生観の一端に触れられたかと思う。
中国で独自の涅槃図が成立しつつも、一方で外来の影響が涅槃図にも新たに影響を与えていく。敦煌莫高窟北周代の第四二八窟の涅槃図は、中国の独自性を踏襲しながらも、外来の新たな様式との折衷した内容を示しているということを明らかにした。この作例に新たな要素が見いだされるとはいっても、未だ北朝の伝統から大きく離れるものではなかったが、ここに至り、雲岡石窟以来主要な題材とならなかった涅槃図が北朝期の仏教美術の主題のひとつとして定着することになったのである。  
 
捨身思想と怨霊信仰

聖徳太子の『三教義疏』が説く勝鬘教の捨身思想と古代日本における怨霊信仰の影響力
武断派としての横顔も持つ聖徳太子は、新羅に525年頃に侵攻された任那(加羅,369-562)の日本府(内官家,うちつみやけ)を奪還するために、600年と602年に新羅征討の軍事活動を起こしました。562年に、残っていた任那の利権を完全に失った欽明天皇が必ず内官家を回復するように遺言して死んだように、古代日本の天皇家にとっては、任那(加羅・伽耶)はかなり重要な領地あるいは特殊なこだわりのある地域だったようです。しかし、聖徳太子の新羅征討は朝鮮半島に軍隊を送る前に中絶します。602年の新羅征討計画では、聖徳太子の実弟の来目皇子(くめのおうじ)を総司令官として2万5千人の軍勢を送ろうとしましたが、九州の筑紫で来目皇子が病死した為に新羅遠征は中断されました。
聖徳太子以前にも蘇我馬子によって暗殺された崇峻天皇も、591年に任那奪還のための新羅遠征計画を立てていました。崇峻自身が暗殺されたことにより新羅遠征は取りやめとなりましたが、古代の大和王権の朝鮮半島南端(任那)に対する領土的固執の強さを窺わせるエピソードです。聖徳太子も皇族の一員ですが、古代の皇族はかつて朝鮮半島に領有していた任那日本府の回復を悲願としており、任那に勢力を伸ばす新羅を敵視していました。天智天皇までの大和王権は、遂にその念願を果たすことは出来ませんでしたが、天武天皇の時代になってからは『唐(中国)の軍事的な拡大戦略』に対抗するため反新羅から親新羅への外交方針へと転換します。
聖徳太子の最大の功績は、地方豪族が群雄割拠していた日本を『中央集権的な法治国家(律令国家)』に改変する足がかりを作ったこと、国家の基本制度を確立する中で『日本国(大和朝廷)の自主独立性』を中国(隋)や朝鮮半島に明確に示したこと、『国家鎮護を目的とする仏教信仰』を日本に根付かせるために四天王寺や斑鳩寺(法隆寺)などの寺院を建立したことです。しかし、聖徳太子が病没すると太子の子・山背大兄王(やましろのおおえのおう,?-643)は、朝廷の有力豪族である蘇我入鹿と対立して殺害されることになります。聖徳太子の子孫一族は、結局、蘇我氏によって悉く打ち滅ぼされますが、山背大兄王は軍勢を集めなおして徹底抗戦すれば蘇我氏に勝利できる可能性もあったと言われます。
しかし、聖徳太子と同じく仏法を篤く敬っていた山背大兄王は、敢えて、武力による闘争を選ばずに蘇我入鹿に自分の生命を潔く与えてやったという側面があります。山背大兄王は、蘇我入鹿の襲撃を受けて『われ、兵を起して入鹿を伐たば、その勝たんこと定し。しかあれど一つの身のゆえによりて、百姓を傷りそこなわんことを欲りせじ。このゆえにわが一つの身をば入鹿に賜わん』と語ったとされますが、これは(本人自身の言辞ではない可能性も多分にありますが)聖徳太子の『三教義疏(さんきょうぎしょ)』の一つ勝鬘教(しょうまんきょう)の「捨身行」に依拠した振る舞いとも解釈できます。聖徳太子の著作と言われる『三教義疏(さんきょうぎしょ)』とは、法華教(ほけきょう)、勝鬘教(しょうまんきょう)、維摩教(ゆいまきょう)の三教の注釈書のことですが、勝鬘教で最も重視されている教えは『捨身行』です。
勝鬘教の説く捨身行とは、端的には『大慈悲心をもって他人のために死ぬこと』ですが、太子が建立した法隆寺にある国宝・玉虫厨子(たまむしのずし)の彩色画のモチーフは、釈迦本生譚(ジャータカ)にある『捨身飼虎(しゃしんしこ)』と『施身聞偈(せしんもんげ)』になっています。ジャータカというのは釈迦が前世で積んだ功徳の逸話を集積したものであり、捨身飼虎と施身聞偈というのは釈迦が行った捨身行のことです。捨身飼虎とは、苦行に精励していた釈迦が、飢えた虎のために自分の身体を食糧として差し出したという捨身行であり、施身聞偈というのは、仏法の精髄を示し仏の功徳を讃美する言葉である『偈(げ)』を知るために、釈迦が悪鬼に自分の生命を差し出したというエピソードです。
勝鬘教の捨身思想では、『自分自身の生命・身体・財産』を他人のために進んで喜捨することで、悟りを開き一切の苦悩や迷いを克服した仏陀になることが出来ると説きますが、聖徳太子の子の山背大兄王も蘇我入鹿に対して、正にこの利他的(自己否定的)な捨身行を誠実に実践したと見ることができます。仏教経典の勝鬘教の重要教義である捨身は、世界の他の宗教にはまず見られない『無抵抗主義(絶対平和主義)・自己犠牲精神・子孫繁栄の否定』などの要素が内在しており、日本の伝統的な『和の精神』と合わせて『捨身』は極めて利他的で非攻撃的であり、特異な思想であると言えます。
涅槃寂静の悟り(解脱)を目指す仏教が、キリスト教やイスラム教などの世界宗教と比較して、いまいち影響力をもてなかった理由として、『捨身の思想』に代表される徹底した利他主義の要素があるかもしれません。キリスト教やイスラム教は博愛主義を掲げながらも『家族愛の肯定や共同体の繁栄』といった利己主義を肯定する部分があり、仏教と比較すると『共同体(宗教・家族)のための戦争』を正当化するような現実的合理性があります。
そもそも、一切皆苦を前提とする仏教の捨身行や即身成仏のような『自分で自分の生命を投げ出す修行』を功徳として認めるような教義が、人生(生命の連鎖=輪廻)を肯定的に解釈する他の世界宗教にはありませんから、涅槃寂静を目指す自己犠牲が徳になるという発想は生まれようがないでしょう。しかし、涅槃寂静(絶対的な静寂)の彼岸を目標とする仏教では、煩悩を完全に断ち切った状態としての『死』がイメージされやすくなり、そういったペシミスティック(悲観的)な抹香臭い要素は、俗世で何とか生き抜こうとする一般の人々を遠ざけてしまい不人気になりがちです。四法印の『一切皆苦』や『諸行無常』は確かに真理の一片ではあるのですが、どうしても『現世の生そのもの・何かに執着せざるを得ない人生』を否定的に見る感覚がつきまといます。仏教にはキリスト教の『原罪』の観念とはまた異なったある種の重苦しさ、現世における諦観があり、あるいは、努力して手に入れた成功や快に対する虚無感(無意味さ)を誘ってしまう部分があります。
聖徳太子はもっとも身分が低い妻であった膳部妃(かしわでひ)と共に合葬されており、『殯(もがり,遺体を墓に埋葬する前に棺の中で一定期間にわたって安置しておく宗教儀式)』の期間が一ヶ月未満と非常に短くなっていたといいます。古代の王朝では、身分が高貴な人であればあるほど殯の期間が長くなり、天皇や皇子では一年以上の期間にわたって殯が行われることも少なくなかったといいますが、聖徳太子の殯が何故異常に短かったのかについては、太子暗殺説や政治謀略説、膳部妃との心中説など様々な説があります。聖徳太子は『日本書紀』などの正史では、病死(自然死)を遂げたということになっていますが、殯の期間の短さや膳部妃夫人との合葬など、標準的な皇族の葬礼とは異なる点があり何らかの謀略に巻き込まれたか捨身的な自殺(心中)をしたのではないかという見方もあるようです。
梅原猛氏は、著書『隠された十字架-法隆寺論』の中で法隆寺を聖徳太子一族の鎮魂の寺として位置づけていますが、古代日本のアニミズム(精霊崇拝)から発展した怨霊信仰にこだわっている逆説の日本史シリーズの井沢元彦氏も『“徳”の付く諡号(しごう)』からの類推で、聖徳太子は非業の死(自殺)を遂げた怨霊であるとしています。“徳”の付く諡号を持つ聖徳太子の死の真相は、未だ実証学的に確認されたわけではありませんが、井沢氏の『逆説の日本史2 古代怨霊編』によると、徳の付く諡号を持つ6人の天皇すべてが怨恨や無念を残す異常な死に方(古代信仰で怨霊になると恐れられていた死に方)をしていたり、天皇に相応しくない不徳な行いをしたり屈辱を受けたりしているようです。
その6人の天皇というのは、『第36代孝徳天皇・第48代称徳天皇・第55代文徳天皇・第75代崇徳天皇・第81代安徳天皇・第84代順徳天皇』ですが、崇徳天皇や崇道天皇(早良親王)などに代表されるように“祟(たたり)”を連想させる“崇”の文字を諡号に持つ天皇も無念や怨恨を残して死んだ人物が多いようです。孝徳天皇は中大兄皇子(後の天智天皇)の傀儡として使われ皇后を奪われて首都に置き去りにされるという屈辱を受け、称徳天皇は皇族ではない僧侶の弓削道鏡を天皇にしようと画策し、文徳天皇は排除しようとした藤原氏に逆に天皇位を簒奪され、崇徳天皇は保元の乱で政権を奪回しようとして失敗し『万世一系の天皇制を滅亡させる』という呪詛をかけて死にました。
しかし、『逆説の日本史2 古代怨霊編』の中でもっとも面白い仮説は、第38代天智天皇(中大兄皇子)・第39代弘文天皇(大友皇子)・第40代天武天皇(大海人皇子)の人間関係に関する考察であり、天武天皇が天智天皇の弟であるという通説を否定して、天武が天智の兄であるかあるいは、二人は兄弟ではないという非兄弟説を提唱しているところです。更に、天智天皇の死因が不明であり突如、京都の山科で沓(くつ)だけを残して失踪していることから、天智天皇が天武天皇に暗殺されたという異説を主張しているのですが、天智と天武の諡号の由来の考察はなかなか説得力があると感じました。
大海人皇子(天武天皇)は672年に壬申の乱を起こして、天智天皇の子の大友皇子(弘文天皇)を滅ぼすのですが、井沢氏はこれを天智系が天武系の血統に取って代わられた易姓革命として解釈しています。諡号の由来ですが、天智天皇の『天智』とは殷(商)の紂王が身に付けていた天智玉(てんじぎょく)という宝石の名前に由来しており、天智天皇とは暴君として知られる殷の紂王のメタファーになっています。一方、天武天皇とは乱世を武力で安定統治して帝王に贈られる『武』の諡号に由来しており、天武天皇とは殷の紂王を放伐して天下を掌握した『周の武王』のメタファーという説明が為されています。中国の古代史では、殷の紂が天命に背いた酒池肉林の悪政を行って民衆を苦しめたので、周の武王が紂王を打倒して易姓革命を実現していますが、日本でも天智(殷の紂王に由来する諡号)と天武(周の武王に由来する諡号)の間で易姓革命が起こったのではないかというわけです。
天智天皇−大友皇子と天武天皇の対立は、皇族・貴族の一族間の権力闘争という側面だけではなく、唐・新羅・百済との外交関係にどう対処していくのかという国際政略としての側面も併せ持っているので、一概に血統が異なる皇族間の易姓革命であるとは断言できないと思いますが、『天智天皇の死の不可解さ・天智天皇の陵(墓)の所在や殯の期間が不明であること・大友皇子が大海人皇子よりも先に即位しようとしたこと』や『天武天皇の生年の怪しさ・仏式の祭祀から天武系が除外されていること・壬申の乱の真相』などを説明する仮説としては面白いと思います。
中臣鎌足(藤原鎌足)は中大兄皇子(天智天皇)と協力して大化の改新(645)を成功させ、藤原摂関家隆盛の基礎を築きます。蘇我入鹿を殺害した大化の改進は、『天皇による中央集権体制』と『藤原氏による摂関政治(外戚政治の間接統治)』を生み出し、天皇家(男系)と藤原家(女系)が手を携えて日本の政治の主導権を握ることになります。藤原氏の独裁的な専横を快く思わない天皇家の皇子や家臣によって、藤原摂関家の政治的な影響力を削ごうとする動きも何度か起こりますが、平安時代までの貴族政治(公家政治)は藤原氏を中心にして運営されることになります。 
 
衆生救済の鎌倉仏教の成立に至る仏教史

“戒律・修行の価値”を相対化した天台本覚思想の影響
仏教の信仰や思想の全体像を一息に見渡すことは不可能に近いが、仏教の開祖である釈迦牟尼世尊(ゴータマ・シッダールタ)の言葉に最も近いとされる経典として『スッタニパータ』があり、『スッタニパータ』を読むことで仏教の信仰と修行のシンプルな原理に触れることができる。仏教は伝播したアジアの地域ごとに独自の発展と変容を見せたので、仏陀である釈迦の教えや思想をそのままの形で受容した人物・地域というのはまず無いのだが、仏教の悟り(苦からの完全な救済)の基本原理は『煩悩(欲望)の消尽』に収斂する。
俗世を捨てた出家者のみが解脱した阿羅漢(あらかん)の境地を目指す『上座部仏教(小乗仏教)』と菩薩による衆生の救済を目的とする『大乗仏教』の違いはよく知られているが、釈迦の教えの本義である“全ての人間の苦の消尽(衆生救済)”に近いのは『大乗仏教(マハーヤーナ)の菩薩行』である。苦行や学問、瞑想によって出家者のみが悟りを開こうとする『部派仏教(上座部仏教)』は形式化・教条化の度合いを強めており、一般民衆の苦しみや悲しみへの関心を失ったために、『自己救済の宗教』で完結して、布教の影響力を大きく落とすことになった。
閉鎖的な上座部仏教から開放的な大乗仏教への転換は『仏教の大衆化革命』として認識することができるが、大乗仏教の理論的な発展(教義の完成度の向上)に大きな貢献をした僧侶として、『中論(空観)』の龍樹(ナーガールジュナ)や『唯識論』の無著(アサンガ)・世親(ヴァスバンドゥ)などがいる。
日本の仏教史を遡ると、奈良時代から平安時代にかけては『皇室・摂関家』と『仏教(寺社)』との結びつきが極めて強かったので、仏教は神仏の加護で国の災厄(天災・疫病・飢餓)や戦乱を鎮撫するという『鎮護思想(鎮護国家)』の役割を担うに過ぎなかった。日本の王朝時代に信仰された鎮護国家のための仏教は、天皇や公家(貴族)の安定した治世を神仏の加護で守るための仏教であり、天皇・公家の病魔を僧侶の祈祷によって追い払う密教的(呪術的)な側面も持っていたが、『個人の悟り(解脱)』や『衆生(一般民衆)の救済』という仏教本来の目的からは遠かった。
天台宗の比叡山延暦寺で学んだ学僧の中から、『日本仏教の開放的な大衆化』に向かう鎌倉仏教の始祖が多く輩出されることになり、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、日蓮宗(法華宗)の日蓮が庶民にも分かりやすい『浄土門(念仏信仰)』や『法華経(題目信仰)』の教えを説いて仏教信仰の裾野を拡張した。時宗の一遍が諸国を放浪して広めた『踊り念仏』も、お祭り騒ぎをしながら仏道の功徳を積んで浄土に行けるという実践が簡単な信仰であり、天災・飢餓や内乱の荒廃に苦しんでいた民衆の心を強く捉えることになった。
臨済宗の栄西、曹洞宗の道元が開祖となった『坐禅・瞑想』を悟りの手段とする禅宗は、自律的な精神修養を好む武士階級の支持を集めることになったが、鎌倉仏教の創始者はそれぞれの教義・布教を通じて末法思想と政情不安で混乱する衆生の救済を進めていった。日本仏教の源流は王朝時代の『南都六宗・平安仏教(南都北嶺)』と鎌倉時代の『鎌倉仏教』にあるが、個人が悟りに至るための仏教の実践形態である『戒(戒律)・定(瞑想)・慧(教学)』の三学が日本仏教ではあまり重要視されなかったことに特徴がある。
唐招提寺を建立した鑑真(がんじん)がもたらした厳しい戒律は、天台宗の『本覚思想(ほんがくしそう)』によって相対化あるいは無効化されていき、すべての衆生は仏性(悟りの素因)を備えているので修行や戒律などは必要ないという方向に仏教の教義が大きく変質した。
天台宗の始祖である最澄(さいちょう)は、複数の高僧が立ち会う『三師七証(3人の教師と7人の証人)の授戒儀式』を廃止して、厳格な戒律を課す『具足戒(ぐそくかい)』を否定した。この本覚思想に基づく具足戒の否定によって、日本仏教は実質的に『無戒律あるいは戒律軽視の仏教』となったのである。
天台宗はすべての人間は仏(菩薩)になれる素因を持っているという『本覚思想』を先鋭化させて、僧侶の外的行動を規制する『具足戒』を撤廃し、内的規範としての『円戒(えんがい)・円頓戒(えんとんかい)』だけを課すようになった。この円戒に追随する鎌倉仏教の宗派の隆盛によって、俗人(在家)も僧侶(出家)も戒律を守る必要が無くなり、僧侶が戒律を破っても厳しい懲罰(教団追放・僧籍剥奪)を受けることは無くなった。
『破戒僧の生き方』を全的に正当化した浄土真宗の親鸞の登場によって、僧侶であっても『妻帯・性交・肉食・飲酒・装飾』あらゆる世俗的な行為が容認される余地が生まれ、聖俗の境界を曖昧にする『非僧非俗』の伝統は現代日本の仏教(浄土信仰)にまで基本的には踏襲されている。
『念仏・題目』をひたすら無心で唱えるだけで極楽往生が約束されるという『浄土思想(阿弥陀信仰)』の流行によって、日本仏教から『戒(戒律)・定(瞑想)・慧(教学)』のすべての実践が非義務化されたというのは非常に興味深いことである。日本人は『日常生活を細かく規制する戒律』を明確に定義して厳しく裁くことを嫌う民族性を持っていたとも言えるが、戒律や法律によるガチガチな生活行動の拘束(規制)を嫌うこの心性は、生活規律の多いユダヤ教やイスラム教の信仰とはかなり相性が悪いと言える。
現代の日本では、凶悪犯罪に対しては厳罰化の流れが進んでいるとも言われるが、基本的に日本人のかなりの部分は『細々とした日常生活の領域』に関しては、法律・条例で強く規制されることを余り好んでいるとは言えない。
最近、マナー違反の多い『路上喫煙』に対する罰則強化が行われて、禁煙指定地域における路上喫煙者から1,000円程度の罰金を徴収するようになったが、この条例による規制強化も実際の運用面ではかなり苦労しているようだ。多くの問題をマナー(心の持ちよう)に帰結させようとする日本の規範意識の歴史を考えれば、『マナー(心の問題)』を『法律(社会の問題)』へ格上げするのはなかなか困難なことなのかもしれない。日本人の間で『公共空間における行動(喫煙)の自由の範囲』のコンセンサスが得られていないというのもあるが、自分の生活行動が規制されることの抵抗感と合わせて、他者の罪を断罪することへの抵抗感というのもあるように感じる。 
 
松尾剛次『破戒と男色の仏教史』

日本仏教の戒律の歴史と宗性の童子(稚児)との男色
『戒(シーラ)』とは個人が自分で守ることを誓う内的な倫理規範であり、『律(ヴィナヤ)』とは違反に罰則を伴う僧侶集団(サンガ)の規則であるが、日本の古代仏教で尊重された戒律の原典は『四分律(しぶんりつ)』と『梵網経(ぼんもうきょう)』である。
『四分律』では男性の比丘(びく)に250戒、女性の比丘尼(びくに)に348戒もの信仰・修行の生活に関わる細かな禁止事項が授戒される。女性の僧侶のほうが戒が多いのだが、これは、女性のほうが罪深く煩悩が多いという古代インドにおける女性差別の名残とされる。釈迦自身も比丘のほうが比丘尼よりも悟りに近いと考え、女性の出家・悟りの可能性に対しては消極的であったという伝承が残されているが、日本仏教でも男女の性別にこだわらない『極楽往生・解脱の道』が示されるには、平等な衆生救済を本願とする『鎌倉仏教(浄土真宗系・日蓮宗系)』の誕生を待たなくてはならなかった。
在家信者には『五戒(不殺生・不邪淫・不偸盗・不妄語・不飲酒)』が与えられたが、本来は五戒のうち『不殺生・不邪淫・不偸盗・不妄語』に違反した出家僧は、『波羅夷罪(はらいざい)』で教団を追放されるという処罰を受けていた。平安時代の中期以降、武士が台頭して『混乱の中世』へと時代が進んでいくが、『僧兵・破戒僧』が増大した中世寺社勢力は、禁欲的な戒律の護持よりも武装・権益による実利を重んじるようになっていく。
奈良に唐招提寺(とうしょうだいじ)を建立した中国の高僧・鑑真(がんじん)は、日本に授戒制度(戒壇制度)を初めて導入した人物である。東大寺の大仏を建設した聖武上皇・光明皇太后も、鑑真から菩薩戒を授戒していることから、当時、正式な戒律の授与がどれだけ権威ある儀礼だったかが伝わってくる。755年に東大寺戒壇院が建設されて、国家の正式な官僧となる者は、この戒壇院で『三師七証(10人の高僧)』の立ち合いを受けて受戒することになる。
10人も師匠・先輩の僧侶が立ち会って通過儀礼としての授戒をするのは手間がかかるということもあり、次第にこの戒壇院での授戒儀式は簡略化されていき、『戒壇授戒(他受授戒)』から『自誓授戒』へと切り替える僧侶も出始めた。戒壇授戒(他授受戒)というのは、寺院の戒壇院で師の僧侶(戒師)から戒律を儀礼的に与えられるということであり、自誓授戒というのは、自分で戒律を守ることを誓って仏・菩薩から直接的に戒律を授与されるということである。
一見すると、厳かな儀式を通して師匠・先輩の僧侶から戒壇院で戒律を授けられたほうがきちんとしているように思われるが、実際に戒律復興運動を指導して熱心に戒律を守ることの重要性を説いたのは、戒壇制度にこだわらず自誓授戒した僧侶たち(公務員の官僧ではない僧侶)であったことが面白い。
8世紀・奈良時代の古代日本では、鑑真によっての3つの国立戒壇(奈良の東大寺・九州の筑前観世音寺・関東の下野薬師寺)が建設されたが、国立戒壇の最も大きな弊害となってくるのは官僧の年功序列制度(序列決定原理)に当たる『戒臈(かいろう)』であった。
早く戒壇授戒を受けた僧侶は、遅く戒壇授戒を受けた僧侶よりも、僧侶集団内での『席次(格)』が上になるという戒臈の年功序列によって、官僧(公務員の僧侶)は戒律を護持して悟りを目指そうとするモチベーションが弱まったのである。形式的に戒壇授戒を早く受けたか遅く受けたかによって、『僧侶集団内での序列・身分』が決まるので、戒律を厳密に守ったり衆生救済に乗り出したりしなくても、出自・戒臈がある程度良ければそれ相応の地位に就くことができたからである。こういった官僧の年功序列制度では、『戒臈(授戒の年次)』による出世昇進を気にする僧侶は増えても、積極的に持戒に努めたり衆生救済に乗り出したりする僧侶は出てきにくい。
比叡山延暦寺(天台宗)の始祖・最澄(さいちょう,767-822)は、出家者の悟りのみを目的とする小乗仏教の『四分律の授戒』を否定して、衆生を苦から救済する大乗仏教の『梵網経の授戒』を行おうとする。『第一章 持戒をめざした古代』は、最澄の死後に最澄の怨霊化を恐れて『延暦寺戒壇』が建設されたというところで終わるが、10〜11世紀頃には日本の仏教界は僧兵集団(延暦寺・興福寺)の形成や男色(稚児愛)の流行によってかなり破戒の風潮が広まっていたようである。
中世仏教界でどういった破戒が行われていたのかの具体的な事例については『第二章 破戒と男色の中世』が参考になるが、ここでは学僧として高名な東大寺別当の宗性(そうしょう,1202-1278)の数々の破戒行為が資料を元に挙げられている。宗性が自己の過ちの反省や善行の目標を1258年に書き記した『禁断悪事勤修善根誓状抄(きんだんあくじごんしゅぜんこんせいじょうしょう』には、以下のような36歳の時の誓願が残されている。
五箇条起請のこと
一.四十一歳以後は、つねに笠置寺に籠るべきこと。
二.現在までで、95人である。男を犯すこと100人以上は、淫欲を行うべきでないこと。
三.亀王丸以外に、愛童をつくらないこと。
四.自房中に上童を置くべきでないこと。
五.上童・中童のなかに、念者をつくらないこと。
右、以下の五ヵ条は、一生を限り、禁断すること以上の通りである。これすなわち、身心清浄・内外潔斎し、弥勒に会う業因を修め、兜率天(とそつてん)に往生を遂げるためである。今から後は、この禁断に背くべきでないこと、起請は以上の通りである。
嘉禎三年十一月二日
沙門宗性(花押) 生年三十六
95人の相手と男色関係を持った36歳の宗性の地位は『伝灯大法師位』で平僧に過ぎなかったが、当時は中級貴族出身のそれほど出世頭ではない僧侶にも男色の機会が少なからずあったことを伺わせる。女性が好きな異性愛者でも95人もの相手と関係を持つことは少ないが、宗性を例外的に好色な僧侶と仮定しても、中世寺院社会における男色行為は、平均的な現代人の想像力を遥かに超えた普及をしていたと考えることができるだろう。
では、僧侶の男色行為の相手になっていたのはどんな人たちだったのかという話になるが、これは師僧に仕える未成年の男児(稚児・童子)が多く、この男児の外見は『長い髪・鉄漿(おはぐろ)・化粧・小袖』という感じで女性に見えるように整えられていた。男性と女性という性別を超越した『中性的な聖性』が男の童子(稚児)には宿るとされていたが、寺社・師僧に仕える童子(稚児)は『配膳・給仕・娯楽的な技芸(笛・筝・舞)・男色』など様々な役割をこなしており、上童・中童子・大童子というランク分けが為されていたという。寺社に入門する稚児の年齢は10〜15歳が平均であったとされる。
現代的な倫理観からすれば師僧と童子(稚児)の関係は単なる児童虐待となるが、当時の制度化され慣習化された『中世寺社世界の少年愛』は、実質的な破戒行為ではあっても僧侶間では暗黙の了解として看過され『寺社文化』として定着していた。女性でなければいいだろうという不邪淫戒の強引な解釈もどうかとは思うが、実際には、13世紀以降には師僧が女犯(にょぼん)の戒律に違反して子どもを設け、仏弟子となった僧侶の子が『真弟子(しんでし)』と呼ばれることもあったという。第二章では、実際の稚児がどんな姿で僧侶に仕えていたのかという絵画史料として、『春日権現験記絵(かすがごんげんけんきえ)』が挙げられている。 
大乗仏教の原点回帰をめざす叡尊・忍性の戒律復興運動
日本仏教では戒律が殆ど問題にされず守られないといわれるが、『非僧非俗(官僧でもなく俗人でもない境地)』を自称した浄土真宗の開祖・親鸞(1173-1263)が『無戒(持戒の信仰的意味の喪失)』を宣言する遥か以前から、東大寺・興福寺・延暦寺・仁和寺といった名だたる名刹で戒律は実質的に形骸化していたのである。自ら男色や飲酒を戒める誓願を立てた東大寺の宗性は、それにも関わらず何度も繰り返し戒律を犯す行為をしてしまうわけで、結局、中世の僧侶世界は破戒が横溢して、妻子・真弟子(実子の弟子)を持つ僧侶も多く現れるといった事態になっていた。
現代の仏教・寺社では、明治初期に出た太政官布告(1872年)によって、結婚妻帯したり子供を持つことは当たり前となっていて問題視されないが、それは現代の日本仏教の役割が江戸期の檀家制度をベースにした『葬式・祭儀の役割』に限定されているからである。仏教本来の役割は『自己の悟り(苦の超越)・衆生救済(利他行)』にあり、平安時代〜鎌倉時代の官僧制度の最大の欠点は、『戒臈(年功序列)』による修行のモチベーションの低下と『触穢思想(死穢の忌避)』によって葬式・病者看護がしにくいことにあった。
悟り(修行・瞑想)や利他行に関心が薄い『葬式仏教』と揶揄される現代仏教であるが、本書では、平安・鎌倉時代の官僧は『触穢思想(死・病を穢れとする思想)』によって死体に触れることが禁忌とされていたので、葬式祭儀にさえ携わるのが難しかったという点について指摘している。つまり、ハンセン病や難病の患者を直接的に救済・支援するような慈善活動(利他行)を当時の官僧は行うことができず、そういった衆生救済の責務を自覚して実践し始めたのは官僧身分を捨てて遁世した忍性(にんしょう)のような僧であった。いったん身分・生活が安定した官僧になりながら、禁欲修行の拠点である笠置寺などに『遁世・隠遁』した僧(非公務員の僧)の中から、衆生救済を中心とする『鎌倉仏教』が誕生したのは偶然ではない。
『第三章 破戒と持戒のはざまで』が、本書では一番読み応えがある『戒律復興運動』の章であり、東大寺戒壇院を復興した実範(じっぱん,生年不詳-1144)と興福寺に戒律研究をする常喜院を建設した貞慶(じょうけい,1155-1213)から戒律復興の営為を掘り下げていく。国家(朝廷)に従属する官僧の限界は、鎮護仏教で寺社に籠って学問をし祈るだけということにあった。
こういった官僧と仏道のあり方に疑問を感じた興福寺の覚盛(かくじょう,1194-1249)は自誓授戒し、他者を救済する『菩薩比丘(ぼさつびく)』こそ真の僧であると述べるに至る。国立戒壇院での別授を必要とせずに、仏から直接的に戒律を受ける非公式な『自誓受戒』は、当時の鎮護仏教の権威的機関であった東大寺戒壇院に対する挑発的行為と受け止められた。『三師七証』の10人の戒師の存在を必要とせず、仏陀から直接的に授戒を受けるという『自誓受戒』を、東大寺は正式な授戒とは認めなかった。
第三章では、戒律復興運動に尽力した律宗の僧として叡尊(えいぞん,1201-1290)をクローズアップしているが、叡尊は醍醐寺で密教を学んだ後に、破戒僧が跋扈する仏教界に失望して釈迦の正法(しょうぼう)の時代に回帰せんとするような戒律復興運動に没頭していった。嘉禎2年(1236年)に興福寺の常喜院で覚盛と出会った叡尊は、持戒の再興で意気投合して、円晴・有厳と共に東大寺法華堂で自誓受戒を行って、彼ら4人は『自誓の四哲』と称されることになる。
叡尊は当時打ち捨てられて荒廃していた西大寺(さいだいじ)を戒律復興の活動拠点に定め、官僧が興味を示さなかった民衆救済と社会事業(道路・橋・井戸・溜め池の建設)に精力的に取り組んだ。釈迦の教えに原点回帰していく『興法利生(こうぼうりしょう)』こそが仏教の本質と見定め、衣食住を朝廷・荘園から保障される官僧の身分を捨てて、『無一物の乞食』をしながら叡尊・忍性は病者救済や社会事業、布教活動を行ったのである。叡尊は僧尼令によって活動を制限される官僧の身分を捨てたからこそ、『死穢(穢れ思想)』を気にせずに病者・死者と接することができるようになり、病者の看病や死者の葬礼といった僧の本来の仕事に専心することが出来た。
律宗の叡尊・忍性という僧侶は、現代の日本人のほとんどがその名前さえ殆ど知らなくなっていると思われるが、鎌倉時代・南北朝時代には10万人を越える膨大な信者を集め、幕府と朝廷からも尊崇を受けていた巨大な教団であった。叡尊と忍性は戒律復興と衆生救済に仏教のあるべき理想像を見出したが、男性と女性の僧を平等に処遇して尼僧にも別授受戒をした点は注目される。
叡尊の律宗教団は、法華寺に尼戒壇を設立して女性も二段階の別授受戒ができるようにし、正式な比丘尼を生み出すことに貢献して、南都北嶺の古代仏教にあった女性差別的な側面を緩和した。叡尊は女性は『仏・転輪聖王・帝釈天・魔王・梵天』の地位にはなれず成仏できないという女人五障説を信じていたものの、密教の伝法灌頂(でんぽうかんじょう)の儀礼を女性に実施すれば五障が消えると説いた。鎌倉仏教では、日蓮が特に法華経の題目(南無妙法蓮華経)による『女人成仏(にょにんじょうぶつ)』を強調したが、叡尊の尼戒壇設立以降、仏教修行や成仏可能性における男尊女卑的傾向が抑制されていったと言えるように思う。
中世仏教の男色の流行と破戒の常態化をテーマとした本書を読むと、『世俗』と『神聖(宗教)』の境界線とは何かということを改めて考えさせられるが、『持戒の定義』が男色(少年愛)にあるか女犯(妊娠出産)にあるかということは本質的な問題ではない。自己の悟りと衆生救済をめざす大乗仏教の菩薩は、その実践項目として般若経に依拠した『六波羅蜜』を持つが、『布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧』のうち、持戒の効果は自己の心身の安定と利己心の滅却にある。
私利私欲の自由な追求が社会全体の利益につながるという市場経済(自由主義経済)の効率性を発見したアダム・スミス以降、『禁欲と神聖の結びつき』は弱体化の一途を辿っているが、戒律による禁欲の意義は『宗教者の人格の高潔さ・非世俗性・煩悩からの離脱』の立証にあった。現代日本において仏教や僧侶の存在感は必ずしも大きくないが、大乗仏教の持つ『衆生救済の利他行』や『高潔な精神のロールモデル』は現代でも猶(なお)強く要請されている。
著者の松尾剛次さんがあとがきで述べているように『さまざまな欲望を断って利他行に邁進する僧の生きざま』が現代社会で顕現してくるのであれば、それは現代人が本気では信じられなくなっている『高潔な精神・理想の人格』のようなものを想起させるロールモデルとなり得るのではないか。
現代日本で『戒律復興運動』の現実味がどれほどあるのかは分からないが、仏教の存在意義が僅かなりとも残っているとすれば、世俗の富や権力にも揺るがない人格的な尊厳や価値というものが、神聖次元(精神的次元)において屹立し得るということの実践形態に他ならないと感じるのである。『神聖・禁欲・高潔』の価値が失われた現代社会のプラグマティックなあり方にちょっとした違和感や心の渇きを感じている時に、仏教・釈迦の言葉がふと読みたくなる、そういった感受性はきっと現代人の幾ばくかの人に残っている……であればこそ、現代日本においても仏教関連書籍の需要が完全には絶えないのであろう。 
 
鑑真の戒律と授戒制度を無効化した天台宗最澄の「円戒の思想」

古代日本の怨霊信仰と宗教観
浄土系の鎌倉仏教は、旧仏教の難行苦行の修行と難しい学問による『善行の功徳』を否定することによって、『仏教の大衆化・救済の一般開放』に成功し、農民(被統治階級)への求心力が強かった浄土真宗などは親鸞の死後に急成長を遂げました。浄土真宗の『中興の祖』となった蓮如(1415-1499)の時に、山科本願寺と石山本願寺(石山御坊)が建設され、真宗の最盛期を迎えた顕如(1543-1592)の時代には、天下統一を窺う戦国大名を威圧するほどの巨大な宗教勢力へと成長しました。
無論、比丘や比丘尼の戒律を無効化するという意味での日本特有の仏教解釈は、最澄が開祖した延暦寺の天台宗でも既に行われていました。現代の日本の寺院の住職(僧侶)の多くは、『肉食・セックス・飲酒・妻帯(結婚)・蓄財(ある程度の贅沢)』などを行っており、厳格な禁欲的戒律を守って悟りを開いたり、乞食となって布施のみによって生計を立てるというような修行生活には殆ど関心を示していません。同じ仏教でも宗派・教義によって戒律遵守の強度が異なるので一概には言えませんが、鎌倉仏教の影響を強く受けた大乗仏教の宗派や天台宗の本覚論の影響を受けた僧侶は、煩悩即涅槃(ぼんのうそくねはん)の立場に立っています。その為、『煩悩(欲求)や迷いを断ち切らなくても救済される(解脱できる)』という教義に依拠していて、それほど厳格ではない宗教生活(葬儀祭礼)を送っても問題はないとされています。
比叡山の天台宗の始祖である伝教大師・最澄(767-822)は、厳しい修行と学問によって悟りを目指すことを推奨する一方で、悲壮な覚悟で日本に律宗を伝えた鑑真和上(688-763)の受戒の儀式を骨抜きにする『円戒(えんがい)・円頓戒(えんとんがい)』の新思想を弟子達に伝えました。最澄が起こした比叡山延暦寺(天台宗)は、天皇家(大和朝廷)の帰依や信仰も厚く、高度な知性と強い意志を持つ優秀な学僧が競って入山していました。
天台宗の比叡山延暦寺は、日本仏教界の総本山であり他宗を凌ぐ最高権威として機能していましたが、日本の仏教界から『正式な戒律と授戒制度』を排除する教義上の発端を作ったのもこの延暦寺でした。日本では出家僧の間でも在家信徒の間でも、仏教の戒律(行為規範)の重要性を認識する者は少なく、事の善悪は別として『戒律の規範は守らなくても、仏さまを信仰していさえすれば良い』という内面重視の宗教意識が濃厚にありますが、その元々の原因は天台宗・最澄が考えた『円戒の思想(戒律遵守の義務を緩和する思想)』にあります。
唐の高僧である鑑真は、暴風雨や政治的な妨害によって五回も日本への渡航に失敗し、遂には両目を失明してしまいますが、それでも日本への仏教伝道への理想を捨てきれずに六度目の渡海で日本へやってきました(753年)。幾多の苦難や障害を乗り越えて鑑真は日本に渡ってきたわけですが、その最大の目的は『律宗の正式な戒律と授戒制度』を日本に伝道するためでした。鑑真は東大寺大仏殿において日本初の菩薩戒の授戒を行い、唐招提寺を建立して律宗の教義編纂と布教活動に務めますが、鑑真が広めた厳格な授戒制度は最澄の天台宗によって実質的に無効化されていきます。近代的な法治主義では『罰則(制裁)のない刑法規定』には犯罪抑止効果はないと考えられていますが、仏教界においても『罰則(制裁)のない戒律』では僧侶に戒律を遵守させる力を期待することは出来ないでしょう。
原始仏教は元より上座部仏教(小乗仏教)においても、釈迦が制定した『具足戒(比丘250条・比丘尼348条の戒律)』を遵守することが『悟り(解脱)』に至る必要最低条件と考えられていましたが、最澄の天台宗では具足戒を厳密に遵守する必要がないとする『円戒(円頓戒)』を制定し、『授戒の儀式』もぎりぎりまで簡素化しました。その結果、平安時代中期から鎌倉時代初期にかけて日本仏教の『無戒律化(戒律の実質的な廃止)』が急速に進み、浄土真宗の始祖・親鸞が妻帯肉食を当然のこととしたように、仏教の僧侶や信徒であるからといって(煩悩を消尽するための)戒律を厳しく守る必要はないという流れが決定的となりました。
最澄が定めた円戒によって『外見的な行動規範としての戒律』は廃止され、『内面的な信仰心(心構え)としての戒律』へと質的な変化を見せました。また、戒律を破ることに対する罰則(制裁)も実質的に廃止の方向に進み、重大な戒律を破ったとしても懺悔・回心すればその罪を許されて、再度僧侶として仏道修行に復活できるようになりました。最澄は円戒の思想を基にして、鑑真が伝達した複雑で厳格な授戒制度を改変し、具足戒を授ける『三師七証(さんししちしょう)』は不要であるとしました。正式な授戒制度である三師七証では、有資格者である三人の師匠の僧侶と七人の証人の立会いが必ず必要であるとしており、『出家僧』になるためのハードルはかなり高く設定されていました。しかし、最澄は、三師七証の厳しい授戒制度を大幅に規制緩和して、一人の師匠の僧(伝戒師)さえ立ち会えば正式に授戒したと見做してよいとしました。
伝教大師・最澄は、戒律遵守と授戒制度の革命的な規制緩和を成し遂げて、『仏教界に出家するための儀礼的・心理的ハードル』を大幅に引き下げ、上座部仏教的なサンガ(僧侶共同体)の厳しい規範性を無効化したと言えるでしょう。最澄の円戒の思想は、その後の比叡山延暦寺の高僧達によって『天台本覚論(てんだいほんがくろん)』へと再編成され、仏教徒は煩悩や迷いを抱いたままでも悟りを開くことが出来るという教義が確立しました。
天台本覚論とは『一切衆生悉有仏性』の文句に示されるように、あらゆる衆生(生物)には悟り・解脱の機縁となる『仏性』が備わっているということであり、僧侶の煩悩や欲求を肯定して戒律を無効化する作用を及ぼしました。煩悩や迷いを乗り越えることが出来ない僧侶でも悟ることができるという天台本覚論には『衆生の平等な救済』の要素が含まれています。その為、法然の浄土宗や親鸞の浄土真宗に見られる『衆生救済の念仏信仰(浄土信仰)』は、天台本覚論からも影響を受けており、念仏を唱えれば誰でも救済されるという称名念仏の思想は、煩悩具足の僧侶でも救済が得られるという天台宗の教えが世俗化・一般化したものだと考えられます。
厳格な戒律を廃絶した日本民族は、『具体的な行為規範や義務規定(命令・禁止)』がある宗教への適応性が低いと考えられ、良く言えば現実主義的な考え方をする民族、悪く言えばご都合主義的に宗教を利用する民族と言えます。つまり、『人間(自分)のためになる神仏』であれば信仰することもあるが、人間を永続的に支配して厳しく管理するような『創造主としての唯一神』に帰依することはまずないということになります。日本に一神教のキリスト教やイスラム教が根付かない大きな理由として、『全知全能の神への従属(一方的隷属)』や『六信五行のような具体的な行動の規制』を考えることが出来ます。簡潔に言えば、細々とした命令や指示をするような『人(自分)の上に君臨していることを意識させる神』を信仰することへの抵抗が強いということかもしれませんが、この辺は、日本にカリスマティックな独裁者が生まれにくい背景ともつながっている気がしますね。
つまり、その宗教を信じることによって、日常生活に何らかの支障や制約がでてきたり特別な義務や規範を守らせられたりする場合に、日本人の大多数はその宗教を拒絶することが多かったのでしょう。煩瑣な規範義務の遵守や唯一神による支配(命令)を面倒くさくて息苦しいものだと感じるのは人間の本性のような気もしますが、敬虔な一神教(ユダヤ教・イスラーム教)の信者の場合には、『唯一神の支配・命令』を遵守することで来世の救済や現世の幸福が約束されるという『権利・義務の均衡』のような考え方をする人が多いようです。つまり、『絶対者である神との契約』を守ることによって初めて来世での救済(天国行き)や現世での加護を期待できるという考え方であり、お手軽な現世利益を求めて神社にお賽銭を投げるような宗教感覚からは遠いと思われます。
戒律や義務を守らずとも救済(悟り)を得られるという意味で、天台宗〜浄土真宗以降の日本仏教は極めて特異な発展を遂げたということができます。唯一神や戒律が不在の日本仏教は、キリスト教やイスラーム教のように『全知全能の神に従属(礼拝)する宗教』ではなく、『人間の幸福・願望の実現に役立てるための宗教』としての側面を色濃く持っています。
また、平安時代までの古代社会では、『伝説的な神仏』よりも『怨霊(無念と憎悪を残して死んだ人間の霊魂)』に強い畏敬と恐怖が持たれていて、神が下す神罰(仏罰)よりも『人間の悪意・怨恨の情念』が死後に残り続ける事のほうにリアリティを感じていました。『創造主である神のために人間がある』という一神教的な発想は日本人には馴染みがなく、絶対的な存在者(神)に支配・管理されているような世界観を受容することにも抵抗感がありましたが、その背景には死んだ人間が悪霊になるというアニミズム的な怨霊信仰(御霊信仰)があったようにも思えます。
『創造主である天上の神』よりも『怨恨(憎悪)を抱いたまま死んだ人間』のほうに恐ろしさを感じる宗教的感受性が日本人にはあり、一神教的な世界の支配者である神に意識がなかなか向かわなかったということも考えられるわけです。この『死んだ人間の情念(恨みつらみ・心残り)』が何らかの形で残るという共感的な怨霊信仰は、現代の日本人にもわずかながら継承されている部分があります。その為、時に霊感商法やカルト宗教などで、『死霊・怨霊・前世の悪業を恐れる想像的な感受性(罪悪感)』が悪用されてしまうこともあります。他人に不運な死に方や恨みを残すような死に方をさせてしまった人の『耐えがたい罪悪感や復讐の想像力』が、怨霊信仰の母胎になっている部分もあります。
古代の日本人が持っていたもっとも強固な宗教的感性は、『自分が謀殺(討伐)した相手が怨霊となって、祟りや呪いの災厄をもたらすのではないか』という怨霊信仰であり、天照大神(あまてらすおおみかみ)が国づくりに活躍する日本神話の時代にも、強引に『国譲り』をさせた大国主命(おおくにぬしのみこと)を祭祀する荘厳な出雲大社を建立しています。古代日本の宗教信仰では、諸外国のように政治的・軍事的な勝者が敗者の情念を完全に無視して記憶(歴史)から忘却するという心理が成り立ち難く、『怨霊化した敗者が祟りや呪術で復讐しに戻ってくるのではないか』という罪悪感に根ざした恐怖心が強く持たれていました。
つまり、古代日本では弱肉強食の二元論的な価値観は『俗世』だけでしか成り立たず、肉体を失った弱者・敗者の怨霊がさまざまな形(天災・疫病・政変・突然死)で強者に復讐をしにくると考えられていたのです。古代日本では、ライバルを暗殺したり失脚させた俗世の権力者の不安(罪悪感)を和らげ、天変地異や疫病流行、政治的混乱など怨霊の祟りを鎮めるために『歴史的・政治的な敗者のための鎮魂(慰霊)』が宗教の重要な役割となっていました。 
 

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