日中関係史

総論東アジア世界における日中関係史7世紀の東アジア秩序15-16世紀の日中関係思想宗教の伝播中世日本の中国銭経済美術史日中の相互認識江戸期日本の中国認識政治社会構造の比較近現代史総論近代日中関係の発端対立と協調日本の大陸拡張政策と中国国民革命運動満洲事変から日中戦争日本軍の侵略と中国の抗戦日中戦争と太平洋戦争漢奸第二次上海事変・・・
 

雑学の世界・補考   

日中関係 古代・中近世史 総論

日本と中国の関係は古来非常に密接で、しばしば「一衣帯水」と形容された。両国の関係には、例えば文化やヒトの交流といった積極的な面もあれば、また戦争や侵略という不幸が起きたこともある。2006 年12 月に発足した日中歴史共同研究における古代・中近世史の研究では、日中両国の古代・中近世史のうち、日中交流を中心とした各種の問題を全般的に考えると同時に、日中両国の東アジア地域史と世界史における地位と影響を全面的に理解することにも努めた。
この歴史共同研究が進む中、胡錦濤国家主席は2008 年5 月に訪日して福田康夫総理大臣と会談し、ともに「『戦略的互恵関係』の包括的推進に関する日中共同声明」を発表した。その中では、「双方は、日中関係が両国のいずれにとっても最も重要な二国間関係の一つであり、今や二中両国がアジア太平洋地域及び世界の平和、安定、発展に対し大きな影響力を有し、厳粛な責任を負っているとの認識で一致した。また双方は、長期にわたる平和及び友好のための協力が日中両国にとって唯一の選択であるとの認識で一致した。双方は『戦略的互恵関係』を包括的に推進し、また、日中両国の平和共存、世代友好、互恵協力、共同発展という崇高な目標を実現していくことを決意した」と記された。両首脳はまた「双方は歴史を直視し、未来に向い、日中『戦略的互恵関係』の新たな局面を絶えず切り開くことを決意し、将来にわたり絶えず相互理解を深め、相互信頼を築き、互恵協力を拡大しつつ、日中関係を世界の潮流に沿って方向付け、アジア太平洋及び世界の良き未来を共に創り上げていく」ことを宣言した。また双方は共同プレス発表で「日中歴史共同研究の果たす役割を高く評価し、今後も継続していく」とした。
両国首脳によって高く評価される中で、古代・中近世史分科会の両国の研究者は、最も重要な経験は研究過程における率直さと公平性であると認識し、終始謙虚な姿勢でこのために努力してきた。もちろん、これは双方の研究者がある問題について関心の持ち方や処理方法が異なることを排除するものではない。しかし、双方で歴史の出来事の見方や評価が分かれるときには、唐代の歴史家、劉知幾が言うところの「他善必称、己悪不諱(他の善い点は必ず賞讃し、自らの悪い点は隠しだてしない)」との主張に従ってきた。すなわち古代・中近世史分科会の両国の研究者たちは、共同研究をより実り豊かなものとするために、東アジア地域史や世界史の文脈で日中両国の歴史を多面的な角度から眺めるなどして、相手側の長所を掘り起こすことに努めると同時に、自らの欠点を隠そうとはしなかった。こうした広い視野は、上記の「『戦略的互恵関係』の包括的推進に関する日中共同声明」の精神とも通底しており、新しい時代の日中歴史共同研究にふさわしい成果をもたらす基礎でもあったのである。
包み隠さず言うならば、歴史の過程にはいつも積極的な面と消極的な面の二つが存在するため、双方の研究者が選択的に叙述し、いずれかの面に重きを置いて分析すると、隔たりや異なる点が出てくるのは免れない。研究者が個人の認識を強調するのも正しい現象である。歴史の事実を見るときに、われわれは「実事求是(事実にもとづいて真実を求める)」の原則に極力従おうとする。双方共に、歴史は真っ暗な世界を無数のランプで照らし出すようなもので、はっきりしているところもあるとはいえ、やはり光の届かない曖昧模糊とした部分もあると考えている。古代・中近世史という史料の限られた分野で、そうした曖昧な部分について主観的な推測と判断で満足することは当然できない。古代・中近世史研究とは、史料を掘り起こし、疑問を消し去り、そのうえで判断の正確性を高めていく過程の中で一致した認識である。
本報告書の作成に向けて、双方の研究者は相手側の歴史認識を相互に理解することを基礎として、真剣に、率直に討論し、共通するテーマについて論文を執筆し、これまでにない貴重な経験を積み重ねた。これは大変有益な作業であった。古代の中国は世界史の大きな文化の中心として、四方にその文化を伝え、周囲の国々の文化に影響を与え、新たな文化を形成させる刺激を与えたりした。古代・中近世史分科会の日本側の学者は、中国文化の伝播と影響という観点を十分に重視し、中国側も日本文化の独自性と創造性について十分に評価し、双方は共に、両国の文化が相互に影響し刺激し合った歴史的プロセスにも大いに関心を寄せた。
ドイツ生まれのユダヤ人政治哲学者、ハンナ・アーレント(Hannah Arendt)によれば、ヨーロッパでいう世界史とはもともとギリシア人の理解の天分から生まれた。彼らは自分で直接世界を観察する力を持っていただけでなく、自分と意見が異なる人の世界に対する認識を理解することができ、ゆえに間接的に理解する能力を備えていた(『思索日記』I)。「自分の意見と異なる意見」の尊重こそ日中歴史共同研究において古代・中近世史の研究を成功させる条件でもあったと言えるかもしれない。これはまさしく「実事求是」の精神を体現している。この精神に立った本報告書は、不十分な点があるかもしれないが、日中両国歴史家の3年にわたる努力の結果であることを読者にご理解いただけるよう期待する。 
 
古代中近世東アジア世界における日中関係史

 

はじめに〜友好二千年の見直し
日本と中国との間に二千年余りの外交の歴史があるというのは周知の事実である。今から二千年前の西暦57 年、倭の奴国が後漢の光武帝に使節を送って朝貢して金印を賜与されて以来、日中の外交史が始まった。その二千年の歴史のうち、1840 年アヘン戦争以降は近代とされる。その近代の百六十年余りの歴史を除くと友好であったというのがこれまで両国での一般的な見方であった。
「友好往来二千年」ということばは、日清戦争以降の近代の「不幸な歴史」としばしば対比されてきた。日中双方では友好的関係を語る外交上の常套句になっている。1972 年の日中共同声明では、「日中両国は一衣帯水にある隣国であり、長い伝統的友好の歴史を有する。両国国民は、両国間にこれまで存在していた不正常な状態に終止符を打つことを切望している」(中日両国是一衣帯水的隣邦、有着悠久的伝統友好的歴史。両国人民切望結束迄今存在於両国間的不正常状態。)と述べられ(1)、「長い友好の歴史」と「不正常な状態」とが対比されている。一衣帯水という漢語、すなわち海に隔てられていても一筋の帯のように細い海であることが両国の友好関係を象徴しているとされた。
1992 年に天皇が訪中したときの楊尚昆国家主席による歓迎辞のなかでも、近代の「不幸な歴史」に対して「中日両国は一衣帯水の隣国であり、両国国民は二千年以上の友好往来の歴史を有している」ことが強調された。とくに「長い友好往来の歴史でお互いに学びあい、助け合い、深い友情を結びつけ、人類の東方文明に貴重な貢献をした」とも述べている。これに対して天皇は、「中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期」に対比させた「交流の歴史」についてつぎのように具体的に語っている。「特に、7世紀から9世紀にかけて行われた遣隋使、遣唐使の派遣を通じ、我が国の留学生は長年中国に滞在し、熱心に中国の文化を学びました。両国の交流は、そのような古い時代から長い間平和裏に続き、我が国民は長年にわたり貴国の文化に対し深い敬意と親近感を抱いてきました」という内容である(2)。こうして友好的な交流の象徴として遣隋使・遣唐使が取り上げられてきた。
1998 年江沢民主席が早稲田大学で行った「歴史を鑑として、未来を切り開こう」という講演でも、一衣帯水の隣国の悠久な二千年の歴史を、秦漢、南北朝、隋唐、宋から清と時代を追って述べている(3)。これはおそらく中国側における中日交流史の学界の見解に依拠した内容であろうと思われる。日本人民が各時期に外来文化を学習し、そこから新しいものを作り出す偉大な民族であったことが強調されている。すなわち秦漢時代には中国大陸から農耕という生産技術と道具が伝わって縄文から弥生時代に入り、南北朝期には渡来人という中国の移民が、養蚕、絹織物、製鉄の技術を伝え、さらに隋唐時代には、遣隋使、遣唐使が中国の古代文化の典籍を学び、宋から清の時代には交易関係が存在したという。なかでも吉備真備、阿倍仲麻呂、そして苦難を越えて日本に渡った鑑真和上という人物が中日友好交流に貢献した人物として取り上げられる。
2008 年5 月胡錦涛主席が同じ早稲田大学で講演を行った。中日両国人民の友好往来の歴史に言及し、とくに長い歴史の過程において中日両国人民は互いに交流し、互いに学び合い、東アジアの文明と世界の文明の発展に貢献した相互性を強調した。ここでは日中関係をアジアや世界に向かって発展させようとする強い意欲をうかがうことができる。私たちはいま、日中間の歴史研究者の議論をふまえて二千年の友好の時代の意味をより深く掘り下げていくことが求められている。前近代が友好であり、近代が不幸であると概括されたことの意味を十分踏まえ、未来に向けて友好をより確かなものにしていかなければならない。私たちは具体的な史料に基づいて前近代の友好の時代の歴史の真実に冷静に向き合っていかなければならない。
一、共同研究のテーマ設定と議論の経過
今回の日中歴史共同研究は二つのグループに分れている。日本側は古代・中近世分科会と近現代史分科会といい、中国側は古代史組と近代史組と呼んでいる。中国では1840 年のアヘン戦争以前の時代を古代という。古代と近代という二区分法がとられたのは、秦漢から明清までの皇帝制の諸王朝を中央集権的封建制の時代と考えたからである。ヨーロッパ史の古代・中世・近世・近代という時代区分では、中世は封建制の時代と位置づけられる。しかし中国では皇帝も一人の封建領主であり、封建制(フューダリズム)はヨーロッパと異なって中央集権的な政治体制をとるものと考えられてきた。一方日本の中国史研究者の間では、近代以前(前近代)を古代・中世・近世に分ける時代区分をとってきた。秦漢から明清まで繰り返されてきた中央集権的な政治体制よりも、社会体制の変化のなかに歴史的な発展の段階を見いだそうとしてきたのである。すでに1955 年に、中国科学院長郭沫若を団長とする訪日学術視察団は日本の中国史研究者と時代区分の議論をしており、双方の見解の違いは明らかになっていた(4)。
日本人の研究者の間でも、古代の終末を後漢から魏晋期に置く見解と、唐代末期に置く見解の違いが存在する。10 世紀まで古代を下げる見方は、日本や朝鮮の古代により近づけて東アジア世界から中国史をとらえようとする日本人の研究者に独自なものである。中国の近世についても、10 世紀の宋代以降の君主独裁政治の時代とする見方に対して、日本やヨーロッパにあわせて16 世紀から18 世紀を近世とする見方も出されている(5)。
日本のいわゆる京都学派の東洋史学者である内藤湖南や宮崎市定は、中国を中心とする東洋史を想定するがために、「中心」の中国の歴史の発展と、「周辺」に位置する日本などの歴史の発展には時間的格差があって当然であると考えた(6)。前田直典はその時間差の幅をできうるかぎり排除し、東アジアにおける歴史発展の相互連関性を強調した(7)。それはまた東アジアにおける時間的同時性を強調するものであり、日本史の古代・中世・近世・近代という時代区分とそれとを時間的にも内面的にも連関させようとした。その後、中国史における時代区分の論争自体は1970 年代で終息し(8)、日本と中国における古代、中世、近世相互の連関についても、奴隷制、封建制という社会発展段階として議論されることはほとんどなくなった。
しかし、そもそも時代区分という歴史認識の違いが日中間の研究者にあったことは認めておかなければならない。もちろん日本人の中国認識のなかにも前近代と近代の二つに大きく二つに区分する見方がないわけではない。日本は1894 年の日清戦争、中国でいう甲午戦争を契機に、中国認識が変わってきた。前近代の伝統中国を尊崇しながら近代の中国を軽んじるという見方、これはある種ねじれた日本人の中国認識といわざるを得ない(9)。時代区分の歴史認識の差は、同じものを別の角度から見ると言うよりも、中国史と日本史とを相互連関的に東アジアという地域世界史のなかでとらえようとする日本の研究者と、中国史を多民族からなる中華民族史として捉え、その周縁に対外関係史を位置づけようとする中国の研究者との見解の差によるものといえる。その差は予想以上に大きかったが、互いの率直な議論のなかで、双方の立場を理解する道が開かれたと考える。
2006 年12 月に日中歴史共同研究の第1回会議が北京で開催された。歴史共同研究でどのような議論を進めていくのか、研究テーマをどのように設定するのか、まずは各自が専門の分野について語りながら自由に意見の交換を行った。続く2007 年3 月に日中歴史共同研究第2回会議を東京で開催した。ここで中国側はあくまでもこれまで研究蓄積のある中日交流史の成果に基づいた共同研究を主張したが、日本側は東アジア世界のなかで日中の外交、文化交流、そして社会構造を比較していくことを主張した。当初その違いは予想以上に大きかったが、中国側は日本側の提案に対して大局的な立場から理解を示し、日本側も共同研究という性格から柔軟な姿勢をもって中国側の意見に応じた。
この2日間の議論で分科会の総合テーマのタイトルは「古代中近世の東アジア世界における日中関係史」とされた。東アジア世界とは日本側が主張する歴史的枠組みであり、日中関係史は中国側が力点を置く視点である。総合テーマは三部構成にし、第一部で国際関係、第二部で文化交流、第三部で相互認識と政治社会構造の比較を行うことにした。こうしてつぎのような構成にまとめられた。
第一部 東アジア国際秩序とシステムの変容
第1章 7世紀の東アジア国際秩序の創成
第2章 15世紀から16世紀の東アジア国際秩序と日中関係
第二部 中国文化の伝播と日本文化の創造的発展の諸相
第1章 思想、宗教の伝播と変容
第2章 ヒトとモノの移動
第三部 日中両社会の相互認識と歴史的特質の比較
第1章 日本人と中国人の相互認識
第2章 日中の政治、社会構造の比較
第一部では日中間の直接的な関係だけでなく、東アジア世界に国際的秩序を認め、そのなかで日中関係を考えていくものである。第二部の文化交流は、中国から日本への文化の非対称な伝播を一方的にかつ不均衡に扱うのではなく、日本で生まれた文化の独自性をもできるだけ扱うものである。第三部では、日中の社会構造の比較と同時に、双方がどのように認識してきたのかという課題も入れた。
日中の歴史認識の違いは近代史だけでなく前近代史でも明らかになった。このことは共同研究を進めるに当たってけっしてマイナスではなく、議論を進めていくうえで大変重要なことである。これまでの日中間の歴史学研究の学術交流は、日中の中国史研究者同士が活発に行ってきたのであり、日本史の研究者が学術的な交流に加わる機会は多くはなかったからである。中国史の秦漢史、魏晋南北朝史、隋唐史、宋史、明清史のいわゆる断代史では、日中双方の研究会間で交流は盛んであり、そこでは日中の歴史認識の差は問題にはならず、個人レベルでの学術交流が進んでいる。しかし日本の歴史が、中国の歴史と外交史や文化交流史を超えた深いレベルでどのようにかかわっていたのかについては議論される機会はほとんどなかったといってもよい。日本の古代(律令制国家の時代)と中国の古代(秦漢〜隋唐、前3 世紀〜10 世紀)、日本の中世(鎌倉幕府・室町幕府、12 世紀〜)と中国の中世(宋元)、日本の近世(幕藩体制)と中国の近世(明清)とが、時代を共有するだけでなく、どのような構造的関わりをもっていたのかはまだわかっていない。とくに中国の研究者においては、一律に封建制で括ってしまうので、古代・中世・近世という展開が見えてこないのである。
日本考古学や古代史の分野では、稲作・青銅器・鉄器・都城など大陸の先進的な技術や各種の思想が日本列島の歴史に大きな影響を与えただけあって、日本中世史や近世史に比べて交流が活発であった。古代という時代を共有するだけでなく、構造的な連関も認められる。日中の考古学者が共同で漢代長安城を発掘したり(10)、漢代皇帝陵の測量調査をしたり、唐長安城大明宮の復元事業を進めたり(大明宮含元殿遺跡保存環境整備計画、日本の文化遺産無償支援)、敦煌莫高窟壁画の保存修復(東京国立文化財研究所と敦煌博物院との日中共同研究「敦煌莫高窟壁画の保存修復」)など、日中共同研究の事例は多い。遣隋使・遣唐使を通して隋唐の律令や都城制の枠組みが日本に輸入され、日本の律令制国家を作り上げたことが、必然的に日本の研究者の眼を中国に向かわせてきた(11)。近年でも遣唐使として唐に入り現地で埋葬された留学生の井真成の墓誌の発見は、あらためて遣隋使や遣唐使の意味を振りかえる機会になった(12)。また1999 年に浙江省寧波市の天一閣に伝存されてきた北宋の天聖令の写本の発見は、今まで知られていなかった唐代の開元令の条文が含まれていることがわかり、日本古代史の研究者と中国の研究者との学術交流を活発化させている(13)。そこには日中間の国境の障壁はない。仁井田陞の『唐令拾遺』(東方文化学院、1933 年)と池田温主編『唐令拾遺補』(東京大学出版会、1997 年)といった日本人による中国研究の国際的な成果が改めて注目されている。こうした新史料を前にすると、日中間の歴史認識の差が問題になるよりも、新史料を日中間の研究者が協力して学術的に解明していこうという前向きの姿勢が生まれてくる。
しかし多くの場合、いったん歴史認識というものを問題にすると、相手に対する理解の欠如が顕著になってくる。中国にとって前近代の日本は外交上の一国であって、中国文化を一方的に受容するだけの存在であり、逆に中国の社会を左右するような影響をもつものではなかった。ユーラシアの東端に位置する中国にとって、東の海を隔てた日本よりも、陸続きである北方遊牧地帯、朝鮮半島、西域、東南アジアとの関わりの方が重要であったことはいうまでもない。したがって中外関係史の一つとしての中日交流史を研究すれば十分であった。しかし一方の日本側の認識では、中国文化を受け入れることが日本という国家、文化にどれほどの影響を与えてきたのかは計り知れないと考える。大陸の文化は大部分一方通行の形で朝鮮半島と中国の沿海地域から日本列島に入ってきた。したがって日中の歴史を振り返るときに、日中間の不均衡な関係の分析から出発しなければならず、日中関係史や交流史のレベルの解明ですむはずがなかった。東アジア世界という国際世界のなかで日本と中国の歴史は展開してきたし、そのなかでヒトやモノが移動し、思想や宗教も伝播してきた。その日中の歴史認識の差をまずは理解することから私たちの日中共同研究は始まったといえよう。
日本側の主張は、国や文化の大きさの差を問題にするのではない。確かに人口の多さと領域の広さから見れば中国の歴代の王朝、とくに秦・漢・隋・唐・北宋・元・明・清といった統一王朝はまさに大国であり、日本はその周辺に位置する小国であった。たとえば八世紀末の日本の人口はわずか600 万人前後であり(14)、同じ時期の唐王朝の人口は玄宗の天宝一四年(755)年で5293 万人に達している。しかしだからといって小国が大国に対等な関係をあえて求める必要はない。重要なことは、中国も日本も相互に関わることによって歴史が変わってきたことを十分認識することである。相互の関わりは日中の直接的な外交、戦争、交易だけではない。朝鮮半島、東北アジア、北アジア、東南アジア、中央アジアなどの地域の動向と連動して関わることもある。東アジアに共有する文化を認めることは難しいことではない。漢字・儒教・漢訳仏教・律令など中国文明が発信した文化が東アジア世界に伝わっていった。しかしそれらを共有文化として認識することだけにとどまってしまったならば、双方の真の認識には至らない。日中双方の違いを認めあうことが、日中相互の理解に至るために最初にとるべきことである。
当初、歴史共同研究の委員の専門分野の偏りが日中間の認識の違いを生み出す理由でもあった。中国側の委員は中日関係史・日本史を専門とする。一方日本側の委員は、国際関係史の山内昌之以外は中国史の専門である。中国の日本史研究者は中日関係史を重視し、日本の中国史研究者は東アジア世界のなかで中国や日本の歴史を見ようとするのはやむをえないことであった。
こうした双方の専門の偏りは外部執筆者の参加で埋められた。中国側は、日中文化交流史、日本古代史の研究者が加わり、その後、総論部分の執筆では考古学、日本文学、第三部第二章では隋唐史、元代史の研究者9名が参加した。中国側は総勢16 名となった。従来の中日関係史も重視しながらも、中日の国家、社会の差異をも積極的に論じていこうとする強い意欲が伝わってきた。とくにさきにふれた日唐律令の比較研究を積極的に進めている中心メンバーも加わった。
日本側は日本古代史、中世史、思想史、絵画史の研究者が5名加わり、総勢10 名となった。日中ともに各分野の研究者がそろう形になった。これほどのメンバーが日中双方で同じテーマで論文を執筆し、双方の歴史認識を理解しながら議論していくことは、かつてない貴重な作業となった。
2008 年1月、第3回会議を北京で開催し、外部執筆者も参加した。第3回の会議では、双方のパートナーの論考を読み、お互いに自分の論考の主旨と、相手方の論考への意見を出し合った。日本側は、日中の古代、中近世の歴史を検討するだけでなく、中国側に日中関係史の枠組みを越えて、「独自性と受容力」に代表される日本社会の歴史的特質について深く検討するように提案した。双方が他者を理解することが重要であり、たんなる日本と中国が「同文同種」といった思いこみから来る誤解を乗りこえ、対等なパートナーとして相手を受け止めるための作業であるとの認識を強調したのである。東アジアのなかの日中の社会や国家を見る場合、共通点とともに異質な部分にも眼を向ける必要がある。たとえば日本の古代律令体制はその規範となった中国古代の唐代の中央集権体制に近似しているが、社会・村落・家族の形態には当然差異がある。日本の中世封建体制は中国よりも西欧に類似性を求めるために、宋代の中央集権体制の中世とは異なっていると認識されている。
2008 年3月に福岡の九州大学医学部講堂で古代中近世史部会だけの第4回会議を開催した。史料に基づいて事実誤認は修正し、相手方の立場を重視するために改めるべきところは率直に改める雰囲気が出てきた。一同が九州大学総長室を訪れ、郭沫若の書「実事求是」を実見し、あらためて歴史共同研究の基本精神を確認した。事実に基づいて真実を求めるというこのことばは、もともとは清朝考証学者たちのことばであった、毛沢東もこの精神を評価した。1955 年中国科学院院長の郭沫若は訪日学術視察団団長としてこの四字句を揮毫した。私たちはまた福岡滞在期間中に対馬を訪れた。日中間は一衣帯水といっても、実際は大海で隔てられている。ところが対馬と朝鮮半島とはわずか50 キロメートルしか離れていない。2000 年の日中交流史のうち7世紀ごろまでの古代においては、山東半島、朝鮮半島から朝鮮海峡・対馬海峡を渡るルートが主要なものであった。中近世の対馬の重要性は、国境の島として朝鮮との通交関係の拠点となったところにある。対馬藩の宗家の菩提寺万松院では大スギに囲まれた墓所を歩きながら、大陸と日本を繋げ続けた対馬の歴史を想い、海神神社を覆う森林では、大陸との自然景観の連鎖を感じた。日本は大陸からけっして隔絶された世界でないとの認識を新たにしたのであった。
二、一国史史観の克服
さて友好の時代とされた前近代にも日中間に戦争があったことは認識しておくべきである。近年出版された中国人民革命軍事博物館編著『中国戦争史地図集』(星球地図出版社編制、2007 年)には「唐與高麗、百済之戦(644〜668)」と「明万暦抗倭援朝戦争(1592〜1598)」の二つの戦争を日本が関わったものとして取り上げている。第一部の「東アジア国際秩序とシステムの変容」のなかで「7世紀の東アジア国際秩序の創成」と「15 世紀から16 世紀の東アジア国際秩序と日中関係」をとくに取り上げたのも、7世紀と15、16世紀が戦争と外交のなかで日中関係が密接な関係をもった時期であることを認識しているからである。
7世紀に倭は滅亡後の百済救援のために唐と新羅の連合軍と戦い、白江(白村江)で大敗した。『旧唐書』巻199 上東夷列伝の記述は簡単であり、この戦争が唐にとってはそれほど重要なものではなかったと認識されている。しかし新羅が介在しているとはいえ、古代の日中間が戦火を交えた数少ない事例の一つであり、戦争の意味は十分認識しておくべきである。唐からすれば高句麗との戦争の延長に新羅との同盟があったにすぎず、海を隔てた倭と直接対峙したわけではなかった。唐にとって見れば、鎮将の劉仁軌が気づいていたように、壊滅した百済軍400 隻のなかに「倭衆」の救援軍が紛れていた程度の認識であった。この戦争の後、日本は朝鮮半島から撤退することになったので、むしろ日本側の方こそこの戦争の影響が大きかった。しかし唐の劉仁軌は新羅・百済・耽羅(済州島)・倭の四国の使者を伴って帰国し、唐の高宗はこうした東アジア諸国の使者に加えて突厥・于闐・波斯・天竺など周辺の酋長や使者を伴って泰山の封禅を行うことになる(15)。東アジアだけでなく、唐の周辺地域に広げて見れば、東方での戦争の勝利が唐にとっても大きな
意味をもったことは否定できない。川本芳昭論文は、大国唐と小国倭との関係で捉えようとはしない。同じ土俵の上に唐と倭を位置づける。すなわち唐も中華の外にあった五胡、北朝の系譜を引いた王朝であり、東アジアに自らを中心とした国際秩序を築いていく。一方の倭も東夷から脱却し、やはり自らを中心とした「中華」を目指そうとした。そのような両者の動きの中で戦争は起こったのである。
モンゴルの対外戦争のなかでも、東の海を越えた戦争は『中国戦争史地図集』には取り上げられていない。13 世紀に日本側のいう元寇(文永の役・弘安の役)が起こり、とくに2 回目の弘安の役(1281 年)では、クビライは南宋を滅ぼした後に江南軍十万を組織し、それを北九州に派遣した。その規模は、同時に高麗から出発した東路軍四万を凌いだが、江南軍は武装軍というよりも移民団に近かったので(16)、元寇はあくまでもモンゴルと日本との戦争という意識が強く、旧南宋の人々と戦争したという意識は前面に出ていなかった。今回第三部第二章の四節で張暮輝が元寇について若干触れ、元と日本の交戦を、騎馬民族モンゴルと日本の武士との戦いとして騎馬文明間の対決と位置づけた。中国の元朝史研究者が同時代の鎌倉時代の武家政権を元の政権と関連させてとらえようとした点は新鮮であるものの、騎馬文明史観には疑問が残る。元寇を東アジア世界から位置づける研究は、池内宏、旗田巍のものがあったが、日本のモンゴル史研究からはクビライが海を視野に入れた国家を目指していたことが強調されている(17)。
16 世紀、日本が朝鮮半島を侵略した文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)の際に、朝鮮の宗主国であった明は援軍を出し、日本軍と戦った。日本国内を統一した豊臣秀吉は、明へも出兵する意欲をもち、大軍を朝鮮に送った。このときも日中間の直接の戦争ではなかった。村井章介論文では、秀吉が中国・朝鮮・日本を統轄する「三国国割」構想をもち、それが挫折していく過程をたどることや、またさらに秀吉の動きは女真のヌルハチと連動して中華帝国明への挑戦であったことを指摘する。ここでも日中両国を越えて東アジア全体を視野に入れた理解が必要なのである。日中間の前近代の戦争は、日中関係史という範疇だけでは理解できない。朝鮮半島を含めた東アジア世界のなかで位置づけなければならない。そして戦争があった事実も「友好の二千年」の陰に隠すべきものでもない。
日本と中国には日中交流史という学問があり、その流れは現在でも続いている。辻善之助『増訂海外交通史話』(1930 年、42 年、内外書籍株式会社)、石原道博『明末清初の日本乞師の研究』(富山房、1945 年)、木宮泰彦『日華文化交流史』(冨山房、1955 年)の流れは、藤家禮之助『日中交流二千年』(東海大学出版会、1977 年)、大庭脩『江戸時代における唐船持渡書の研究』(関西大学東西学術研究所、1967 年)、『江戸時代における中国文化受容の研究』(同朋舎出版、1984 年)、『古代中世における日中関係史研究』(同朋舎出版、1996 年)、松浦章『清代海外交易史』(朋友書店、2002 年)、『江戸時代唐船による日中文化交流』(思文閣出版、2007 年)にも続いている。
木宮の著作は中国語にも翻訳され(18)、中国の中日関係史研究にいまでも大きな影響を与え続けている。1995 年から出版された日中文化交流史叢書全10 巻は、日本側が大庭脩・池田温・中西進など、中国側が周一良・王暁秋・劉俊文・王勇などが編集委員となって進められた大きな成果である。歴史・法律制度・思想・宗教・民族・文学・芸術・科学技術・典籍・人物を扱い、大修館と浙江人民出版社から日中共同出版された。日中間に多くのモノやヒトが行き交ったことは事実である。日中交流史や交易史研究の成果は、日中間にヒトとモノとが具体的にどのように行き交ったのかを明らかにしてくれた。とくに日本文化に与えた影響ははかりしれない。
日中関係史が近代の日本と中国という国家を前提として語ってきたものだとするならば、その国家の枠組みを単純に過去にさかのぼらせることには注意をしなければならない。近代国家は歴史的に形成されてきたものであり、そこにいたる歴史的な過程を無視することはできない。二千年前には日本という国家はなかったし、日本という国号は少なくとも7世紀になって誕生したのである。厳密にいえば倭の奴国王が後漢光武帝に朝貢使節を出したことは、日本と中国の外交ではなかった。奴は北九州の北端にあった小国であり、倭も日本列島全体を指すものではない。
現在の日本からさかのぼった歴史は日本史であるが、私たちは海に囲まれた日本列島を舞台とする歴史を時間系列で見ていかなければならない。同様に中国史とは現在の中華人民共和国にいたる過程の歴史であり、王朝の変遷という歴史の流れを見ていかなければならない。二千年前の中国の国家は漢であったし、7世紀の日本が外交をもったのは唐という国家であった。日本史同様に、中国史を黄河と長江に代表される大河が東の海に注ぐユーラシア大陸東端の地域を舞台にした歴史として見ていくべきであろう。
東アジア世界という歴史的な世界観は、中国文化の影響を受けてきた日本人には抵抗なく受け入れられる。朝鮮、日本、ヴェトナムには中国の漢字・儒教・仏教(漢訳仏教)・律令という諸文化が伝播したことで、共有する文化圏をもっていたことが東アジア世界論の出発点である。しかし中国、朝鮮、日本、ヴェトナムの歴史が、一国の枠を超えて。東アジア世界という、大きな枠組みの中でどのように動いてきたのかについてはいまだ明らかにされていない点が多い。
近代の歴史学がそもそも国民国家の歴史から出発した以上、一国史の枠から抜け出ることは容易ではない。一国の内と外の関係は、とくに前近代の歴史では、外交、交易を外、政治社会経済文化の歴史を内として別に切り離される。その結果対外関係が国内の情勢に影響があったのか、なかったのかというレベルで語られがちである。とくに四方を海に囲まれた日本は、海を渡ることによってはじめて外国との関わりが生ずるので、より一国史的観点の呪縛は強かった。
その呪縛から解き放たれようと新たな問題提起をしたのは、日本の東洋史学者であった。西嶋定生は前田直典の提起を継承して日本の東洋史、中国史の研究者の立場から東アジア世界論を展開した(19)。西嶋も中国史、日本史、朝鮮史の各国史の寄せ集めではなく、世界史のなかに中国史、日本史、朝鮮史を体系的に位置づけようとした。従来の日中交渉史(遣隋使・遣唐使・日宋貿易・日明貿易など)や比較史研究(日中律令制の比較、均田制と班田収授法の比較など)を超えて、東アジア大陸の歴史と日本の歴史との間に一体的な歴史構造を探し求めようとした。それが冊封体制という国際秩序である。西嶋の冊封体制論の出発点は6世紀から8世紀の東アジアにあった。この時代の日本は隋唐帝国の冊封体制の外部に存在する朝貢国であり、そのなかで主体的に中国の文物制度を摂取して律令体制を築いていった時期であった。そして、漢王朝から19 世紀に至るまでの前近代において、自己完結的な地域世界として東アジア世界を設定し、それが一体化した世界史のなかに解消していく道筋を明らかにしていった。冊封体制論は東アジア世界の自律性を主張するための理論であった。西嶋も冊封体制が前近代の東アジア世界すべてを貫徹しているとは考えていなかった。唐王朝や明王朝は政治的な冊封体制が中心であったが、宋王朝は冊封体制を維持できないかわりに東アジア交易圏の中心的役割を果たしたという。
日本中世史の研究者からも一国史的枠組みを乗り越えようとする新しい見方が出されてきた。網野善彦は「日本国」の国制の歴史ではなく、列島の自然と社会と、朝鮮半島・中国大陸・北東アジア・東南アジアなど列島外の地域との交流に視点を置く独自の歴史学を提起した(20)。西嶋が東アジアの国際的秩序を問題にし、外から日本を捉えようとしたのに対して、網野は日本史研究者として内側の一国史、一民族史の枠を取り払い、東アジア世界へ広がっていく多様な日本の姿を明らかにしようとした。それは当然中国史における多民族、多様性の議論に連結していくべきものである。網野はまた、近世以降の国民国家が形成されていくなかで、それまでの海を通じての列島と列島外地域の間の自由奔放な動きが抑えられていくと主張した。網野は13 世紀後半以降15 世紀にかけて列島社会が大きな転換期に入り、列島の内外を結ぶ交通の発達や安定を背景にした人やモノや銭貨の流通が、社会のあり方を大きく変えていったという。第二部第二章桜井英治論文「ヒトとモノの移動」は、日本が12 世紀以降17 世紀前半まで500 年近く中国銭の時代に突入する時代が、中世という時代区分と重なることを論じている。そして専制中国と分権日本という中世の異質な国家体制の差異を、中国からの距離と対外的緊張の弱さに求めようとした。
網野が提起した列島と周辺の地域史の観点は、新しい時代区分となって登場する(21)。従来の古代・中世・近世という時代区分は一国史的な観点であり、アジアのなかの日本史の時代区分を十の時期に分けて試みている。しかし古代の時期を1「中原の統一と周辺地域の覚醒」(BC3世紀〜AD3世紀)2「中原の分裂と周辺の国家形成」(3世紀〜6世紀末)3「律令制的国家群の登場」(6世紀末〜8世紀半ば)と区分しているように、あまりに細分化してしまったために、まだ大陸中国と列島との相互連関がまだ十分に見えてこない。古代・中世・近世という時期区分も、一国史を超えた地域世界史の変容を大局的に見ていくときの基準としては今でも有効であると思われる。近年出版された宮地正人編『新版世界各国史1日本史』(山川出版社、2008 年)のまえがきでは、日本の歴史の流れを東アジア地域世界との関わりで記述して点を、それは従来の外交史のジャンルを超えて日本史を成立させている不可欠の構成要素として押さえていく条件として確認されている。
日本史研究者の海域への視点は、中国史、東南アジア史の研究者の海域への関心と連動しつつある。桃木至朗編『海域アジア史研究入門』(岩波書店、2008 年)では、海域アジアの時代を中世(9 世紀〜14 世紀前半)、近世前期(14 世紀後半〜17 世紀初頭)、近世後期(17 世紀中葉〜19 世紀初頭)と分けてその時代の特徴を明らかにし、これまでの海域史の成果を総結集してあらたな展望を試みる。中世はユーラシア規模でのアジア海域交流の活性化の時代、近世前期は大航海時代に始まる世界の一体化の時代、後期は伝統社会に回帰していく時代としてとらえながら、東アジア世界を超えて世界史から大きく海域史を見ようとしている。一国史を内と外に分けて外のみの海域の連帯ではなく、一国史そのものも取り込むような地域世界史を目指すときに、海域がどのような視点を提供するのか、さらにさぐっていく必要があろう。
三、歴史教科書に見る日中関係史
日中の歴史教科書を比較して見ると、双方の歴史認識の差異は顕著である。日中の歴史共同研究を進めるに当たって、両国の歴史教科書のなかで相手国である日本や中国がどのように記述されているかを知っておく必要がある(22)。
歴史教科書の執筆には歴史研究者が重要な役割を果たしてきたので、歴史認識の差異には研究者としての責任もある。中国の中学校、高等学校の教科書は日本でも翻訳されており、一般にも関心がもたれている(23)。中国の歴史教科書に日本はどのように記述されているのか、日本の歴史教科書に中国はどのように記述されているのか。また中国の教科書にある日本の記述は、新しい日本史の研究水準をどこまで反映しているのか、日本の歴史教科書にも新しい中国史の成果がどこまで現れているのだろうか。
日本の歴史教科書における中国史の記述にも問題が見られる。日本の高等学校では日本史と世界史の教科として歴史を学び、双方の教科書のなかに中国に関する記述が数多く見られる。ところが日本史と世界史の教科では中国や日中関係の記述の内容が異なっている。理由は日本における日本史研究者と中国史研究者の視点の違いにある。日本史の教科書では日本史の研究者が中国史を執筆し、世界史の教科書では中国史の研究者が日本史部分をも執筆する。つまり日本史の教科書では日本に視点を置いて朝鮮ともに中国との交渉の歴史が書かれ、世界史の教科書では中国に視点をおいて東アジアの日本が朝鮮とともに記述されている。このことは日本における日本史研究者と中国史研究者の東アジア世界のとらえかたの違いにも関係してくる。
そもそも史料というものは日中それぞれの世界観で書かれている。ともすると歴史研究者は一方の史料の性格と内容に左右されてしまう。中国史の研究者は中国の史料を中心に国際関係を考え、日本史の研究者はもっとも近い日本の史料を中心に国際関係を考える。双方の突き合わせの作業を行わないままに、各国史(中国史、日本史)や世界史の歴史教科書が作成されてしまう点は反省する必要があろう。8世紀に編纂された日本の史書である『古事記』『日本書紀』が出現する以前は、日本にとっては外国の史料である『漢書』『後漢書』『三国志』『宋書』『隋書』をよりどころとしてきた(24)。現在の日中の教科書にみる日中交流史の記述の違いは、ある意味では正史の記述の読み取り方の違いからきているようである。
倭や日本は中国歴代正史の東夷列伝のなかの一項目において記述されてきた。たとえば南朝宋の范曄の『後漢書』では、東夷列伝・南蛮西南夷伝・西羌伝・西域伝・南匈奴列伝・烏桓鮮卑列伝という六つの外国伝があり、中国の周辺に位置する蛮夷戎狄の四夷を並べている。その筆頭にあげられた東夷列伝のなかに、扶余国・挹婁・高句麗・東沃沮・馬韓・辰韓・弁韓が順に記述され、最後に韓の東南海中にある倭が登場する。『後漢書』よりも早くにまとめられた『三国志』は、『魏書』『蜀書』『呉書』の三書を北宋のときに一書にまとめたものである。その『魏書』に外国伝があり、烏丸鮮卑東夷伝として一つにまとまっている。ただ西晋の陳寿が『魏書』をまとめるにあたって依拠した魚豢の『魏略』の逸文には西戎伝も残されているから、三国の魏では西方、北方とならんで東夷の世界が位置づけられていたことがわかる。『隋書』では東夷伝・南蛮伝・西域伝・北狄伝ときっちりと四つに整理され、その東夷伝のなかでは高句麗、百済、新羅、靺鞨、琉球の最後に倭国が入る。中国という地域に樹立した諸王朝にとってみれば、陸続きの世界にこそ関心があり、政治的にも文化的にも関係が深かったことはいうまでもない。中国から見れば、倭は海を隔てた朝鮮の彼方にある一世界という認識にすぎなかった。さらに『旧唐書』では、突厥列伝上下・迴紇列伝・吐蕃列伝上下が入り、南蛮西南蛮列伝・西戎列伝・東夷列伝・北狄列伝が続く。突厥・迴紇・吐蕃は四夷の外国とは別に位置づけられている。『新唐書』でも北狄列伝・東夷列伝・西域列伝上下・南蛮列伝上中下とあり、東夷列伝のなかでは高麗・百済・新羅・日本・流鬼と並ぶ。日本に関する記述は決して多くはない。ここではじめて天皇の系図が見え、中国の正史は倭から日本へと完全に切り替わっている。『宋史』では八つの外国列伝の七番目に倭国と日本国が並列して入り、ここでも歴代天皇の年代紀を掲げる。『元史』では三つの外夷列伝しかない。その一つのなかに高麗、耽羅(済州島)に続いて日本が入る。『明史』では九つの外国列伝の三番目に単独で日本の記述が入っている。日本列伝として独立したのは始めてである。それだけ明にとって日本は重要であったことになる。
中国の歴史教科書に見る倭や日本関係の記事は、上で挙げたような歴代正史の東夷伝からの引用が多い。伝統的な正史のスタイルによって現代の歴史教科書も記述されている。たとえば中国の歴史教科書の隋唐史の箇所には、多民族国家の発展と友好的な対外関係の記述が別々に述べられている。多民族国家の発展では突厥・回紇・靺鞨(渤海国)・南詔・吐蕃の歴史が述べられ、友好的な対外関係の箇所では、新羅・日本・東南アジア・インド・中央アジア・西アジアからヨーロッパ・アフリカへと広がる世界が記述されている。しかし伝統的な正史の華夷思想と現代の多民族史観(中華民族史観)とに差異があることも確かである。靺鞨、渤海は『旧唐書』『新唐書』では北狄列伝に入っているが、現代の歴史教科書では唐の版図に入れて説明される。それは中国史が漢族の歴史としてではなく、多民族からなる中華民族の歴史として語られているからである。中華思想は中国だけのものではなかった。日本の古代においてもとくに8世紀、大宝律令以降みずからを中華とし、冊封することはなく、唐を隣国、新羅や渤海を蕃国とした(25)。
日本の歴史教科書のなかでは、同じ8世紀に登場する2人の人物の扱い方が対照的でもあり、象徴的でもある。遣唐使の留学生として唐に渡り、玄宗皇帝の治世に安南節度使となった阿倍仲麻呂(漢名晁衡あるいは朝衡)のことはおもに世界史の教科書のなかの唐代に記述される一方、奈良時代の日本に渡り戒律を伝えた鑑真のことは日本史の教科書に記述されている。中国の歴史教科書では、17 歳で唐に渡り50 数年も滞在して帰国することのなかった阿倍仲麻呂と、6 回目でようやく渡航を果たし唐に帰ることのなかった鑑真和尚を日中友好交流の象徴的な貢献者として並べて登場させている。一部の教科書では阿倍仲麻呂に代わって吉備真備や空海が登場するものも出てきている。
古代日本の中国文化受容は遣隋使、遣唐使以前の5、6 世紀に朝鮮半島を通じて行われた。中国の南朝や隋唐に外交使節を出しながらも、最初に中国文化を受容したチャンネルは朝鮮半島の百済からの渡来人を通じたものであった。漢字・儒教・仏教・医・易・暦などの文化が朝鮮半島の百済から伝来したのである。王仁は『論語』、『千字文』を伝え、百済の五経博士、易・暦・医博士も渡来している。百済以外でも高句麗の僧曇徴は紙を伝えた。こうしたことは日本側の『日本書紀』に記述されており、日本史の教科書に反映されている。韓国の歴史教科書では、中国南朝と交流した百済が日本に仏教を伝えたことに言及する。しかしながら中国の歴史教科書を見ても、中国文化が東アジア世界に伝わっていく魏晋南北朝時期の東アジアの記述がすっぽりと抜け落ちている。倭の奴国の後漢への朝貢からいきなり隋唐期の日中交流史に移ってしまうのだ。中国の教科書では北方少数民族と漢族との融合の記述が重視され、また仏教が盛んになったことから西方文化への関心が高かった点が強調されている。中国の南北朝から東アジアへの文化の発信については記述がまったくない。日本史の教科書でも、倭が中国南朝に外交使節を出していることには言及するが、南朝から中国文化の受容があったことはふれられていない。
中国の教科書では、南宋代には海を通した対外交流が盛んであり、中国の絹織物・陶磁器・茶などが日本に輸出され、日本から商船が頻繁に出入りしたことが述べられている。宋代の造船技術の高さが背景にあり、海を航行した沈没船も発見されている。
中国において、元朝は統一的な多民族国家として描かれている。そして元朝と日本との関係では、経済文化交流が行われ、仏教と飲茶の風習が日本で盛んに行われたことには言及するが、日本史にとって重要な元寇については、まったく記述がない。『元史』外夷列伝一には元の世祖が高麗を通じて日本に国書を送ったことと、その後の至元11(1274)年七月に九百艘、兵士1万5千人が日本に遠征したが失敗したこと、至元18(1281)年に再度10 万人を日本に送って失敗したことは確かに記述されている。しかし、伝統的な正史の外国伝に記述された日中関係の重要な記述が教科書には活かされていない。元を中国史における征服王朝として位置づける見方をとっておらず、高麗の服属や日本遠征もとりあげることがない。13 世紀の東アジアの歴史は、元の動きを中心に動いており、高麗の服属、南宋の滅亡、2 回にわたる日本遠征軍の派遣はそれぞれ密接に連関していたことを忘れてはならない。
13 世紀から16 世紀の倭寇の記述は日中両国の歴史教科書で異なっている。ついでに言えば、これらは韓国の教科書とも異なっている。日本の日本史教科書では、倭寇は朝鮮・中国沿岸で活動した海賊・商人集団であり、14 世紀前期の倭寇はおもに日本人であり、16世紀後期の倭寇はおもに倭寇を名乗った中国人集団であったことを記述している。王直(?〜1559)が後期倭寇を代表する中国系海賊のリーダーであり、日本の松浦などを根拠地に中国本土を襲撃したことも述べられている。李成桂は倭寇を撃退した武将であり、高麗を倒して朝鮮を建国した。中国の歴史教科書では、戚継光が抗倭闘争に勝利したことには言及しているが、東南沿海の不法商人が倭寇と結託したことにはふれないものもあり、王直の名に至っては出すことはないし、倭寇が明に与えた影響の大きさについてもふれていない。しかし『明史』日本伝には倭寇の記事が詳しく、日本国王義持(足利義持)に取り締まりを命じたことなどが見える。明代の『籌海図編』には、安徽省出身の王直は、国境を越えた人々を取り込んで五島や松浦を拠点にし、浙江・福建の沿海都市を略奪したことが記述されている。中国の歴史教科書では、海域の商業活動を積極的に評価する視点はまったくない(26)。海はあくまでも中国人の貿易を禁じ、外国人の貿易も制限された世界でしかないのである。
四、中国文明と東アジアの海
すでにふれたように日中共同声明のなかに、「日中両国は一衣帯水の隣国であり、長い伝統的友好の歴史を有する」という一節があった。一衣帯水とは本来は一本の着物の帯のように狭い川の流れをいい、古くは隋文帝のことばにも見える(27)。それが日中間を隔てる海を形容したことばになった。つまり海によって両国は隔てられているものの、その海は帯のように狭いものであり、長い友好の歴史を持ってきたではないかという文脈で使われた。しかし一衣帯水は象徴的なことばであり、現実の海への関心を示すものではない。
日中間にはさまれた現実の東アジアの海への認識は、歴史的にも揺れ動いてきた。とくに近代になっても領海がわずか3海里(5.55 キロメートル)の時代は海の国境をめぐる紛争は起こらなかったが、1970 年代以降12 海里(22.2 キロメートル)を領海とし、また200海里(370 キロメートル)の排他的経済水域内の漁業権や海底資源の開発権が主張されるようになってから、領海など海をめぐる問題は国際間の摩擦の原因になっている(28)。
海に囲まれ、海に点在する列島という視点から日本という国家が形成されてきた過去の歴史を振りかえると、その周辺の東アジア世界とは東アジアの海そのものであった。一方そもそも中国文明は内陸文明であり、海洋とは無縁であるとの認識が強かった。内陸文明と海洋文明の対比から中国をとらえる見方は中国人自身にもあり、中華文明の早熟性と近代における後退性を自己反省的にとらえた「河殤」では、海洋文明は外在的な欧米の工業文明を象徴するものであった(29)。逆に日本とヨーロッパの海洋文明の優位性を脱アジアの立場で議論する立場もある(30)。
海に囲まれた日本から中国を見たときに、単純に内陸文明として捉えるのではなく、内陸部と沿海部を併存させてきた中国の多様な歴史的環境を見るべきである。同様に大陸の東端の海域に面した中国から日本を見たときにも、日本の列島社会の多様性を認識すべきである。そして双方の多様な文化と歴史は、双方の歴史的環境の共有と連関から生まれたものであることを認識すべきである。
日本と中国、さらには東アジア世界のなかでの古代、中世、近世の時代の共有や連関を考えていく場合、東アジア世界史の舞台となった東アジアの海域に視点を置く立場は重要である。近年、日中歴史共同研究の日本側委員でもある東京大学の小島毅が立ち上げた文科省科学研究費補助金特定領域研究「東アジアの海域交流と日本伝統文化の形成」には百名以上の研究者が参加し、筆者も「東アジア海文明の歴史と環境」というテーマで日中韓三国間の共同研究を立ち上げている(31)。
ところで、中国の東方の海岸線は32000 余キロにも及び、4つの海(中国側の表現では渤海・黄海・東海・南海)に面し、6500 以上の島嶼がある。四方を海に囲まれた日本列島の海岸線33889 キロメートル、島嶼6852 と比べても、中国はけっして内陸国家とはいえない。中国の地形は西高東低であり、西の西蔵高原に水源をもつ黄河と長江の二つの大河川が6000 キロメートルも流れて東の海に行き着く。中国文明の起源は黄河と長江の中下流域の平原地帯にあったといえる(32)。黄河は河南省鄭州や開封を頂点として北は天津附近から南は淮水を経て長江まで達することもあった。黄河は海抜100 メートルまで下った所で広大な扇状地を形成し、長江中下流域までつながっている。華北平原は長江中下平原とつながっており、東方大平原と呼ぶことにしている(33)。この平原を、北端の北京から南端の杭州まで京杭運河が貫通している。そのもとになっているのが隋煬帝のときに開削された運河である。秦漢隋唐の中国古代の統一王朝は内陸の長安や洛陽を拠点として東方大平原を治めたが、北宋以降の統一王朝は開封(汴京)や北京など大平原に都を置いた。元明清と中華人民共和国の首都北京は渤海までわずか150 キロメートルに接近している。中国中央の中原もまさに大平原にあり、この平原での都市国家間の興亡が中国文明や統一帝国を生み出していった。日本と中国の交流は海港都市間のみの交流ではなく、この広大な地域との交流であったことを認識すべきである。海港都市は海域に広がるネットワークの拠点であり、そのネットワークは内陸にも広がっていた。少なくとも隋唐以降は、沿海から大平原という内陸にまで水上の交通網が広がっていた。
東アジアの海域の歴史を振り返ったときに、これまで注目されてきたのは海港と海港を結ぶ航路であった。前期の遣唐使は難波津・博多津から出て当初は朝鮮半島から山東半島の登州へ入る北路をとっていたが、8世紀以降の後期の遣唐使は、新羅との関係の悪化によって東シナ海を直接横断する南路をとって揚州や明州(寧波)へ入った。海港に到着した一行は多くは地方都市で待ち、一部が運河を北上して長安に向かった(34)。円仁の『入唐巡礼行記』に見るように、中国文明の中心地の中原をじっくり観察する様子が記録されている。
中国古代の水上交通は予想以上に発達していた。水上交通を発達させたものは、戦時における兵士や軍糧の輸送であり、長安・洛陽など内陸の首都圏への食糧輸送であった。秦は匈奴と百越との戦争のために、山東から黄河を溯って北に30 万の兵士の軍糧を輸送し、南は霊渠という運河を築き50 万の兵士の軍糧を運んだ。やがて黄河と長江は運河で結ばれることになった。隋は江南の穀物を首都圏に輸送するために、通済渠と広通渠を造り、南朝陳や高句麗への軍事行動のために南に山陽瀆、北に永済渠を開いた。1999 年安徽省淮北市で隋唐時代の通濟渠に沈んだ8隻の船が発掘された。最大のものは全長24〜27 メートルの大型船であった(35)。黄河、長江下流域における水上交通網の発達は、両大河の流れ込む東アジアの海における航路としても広がっていった。
中国に政治的な混乱が生まれたときには、大平原に居住する多くの人々が東アジアの海を渡り、大陸の文化、技術を伝えていった。徐福伝説はその象徴である。日本列島に到着した伝説は10 世紀までしかさかのぼれない。中国を統一したのは内陸国家の秦であり、東方六国のうち中原の韓・魏・趙を除く燕・斉・楚は海域国家であった。天下統一のことを四海併合と言い換えたのも、海域を十分意識したからであった。古代東アジアの諸国家が生まれると、今度は外交使節や留学生が海を渡って中国を訪れることになった。唐に渡った遣唐使の船は全長30 メートル、幅9 メートル、積載量約150 トンと推定されている。一艘に百数十人が乗り、水と食糧のほかに中国への土産を積んでいく必要があった。
東アジアの海には13 世紀から14 世紀の南宋・元の時代の交易船が、中国製陶磁器を満載したまま沈んでいる。その海中の遺跡は渤海・黄海・東シナ海(東海)・南シナ海(南海)にまで広がっている。長崎鷹島沖、韓国新安沖、中国遼寧省渤海沿岸綏中県、福建省泉州湾、同福州市平潭県碗礁、広東省川山群島沖、西沙群島へと広がっている(36)。近年の海中考古学の発展は、中国の龍泉窯や景徳鎮窯で生産された青磁・白磁が交易品として海を渡っていたことを明らかにした。東アジアの海は、新しく海上交易の舞台となっていった。沈没船は明らかに古代の船とは違っていた。新安沖の船は長さ28 メートル、幅6.8メートル、船体内部は七つの隔壁で区切られた構造船であり、陶磁器や胡椒などの積み荷は今で言うコンテナのような木箱に収められ、整然と積載されていた。船は海港間を結ぶものであっても、積載された商品は地域と地域とをしっかりと結びつけている。
現在の私たちはこうした東アジアの自然現象に国境がないことを十分認識し始めている。黄砂という自然現象は日本列島と中国大陸が一つの連鎖・連動の地域をなしていることをあらためて教えてくれた。黄土高原に見られる森林の伐採による環境の変遷は、黄河の水量の増減や洪水にも影響を与えてきた。黄河が洪水を起こせば、東方の大平原に龍のごとく大きく流れを変える。黄河下流の歴代の流道の変遷も、東方の海域の環境に影響を与えてきた。黄河長江下流域と東アジア海の環境は、まだ研究されはじめたばかりである。黄河と長江だけでも、毎年12 億トン、5 億トンの淡水と泥を海に流し続けてきたが、そのことが海水の温度と水産資源に大きな影響を与えているはずである。環境を視点に入れると、東アジア海をめぐる地域は、まさに共存すべき世界であることがわかる。歴史学者の地域認識は自然科学者に遅れをとっているようだ。いまや古代・中世・近世という時期区分が、社会の発展段階をも共有することを求めるものではなくなった。同時代のモノやヒトの流れによって時代を共有してきたことこそ重要であり、その歴史をまずは明らかにしておく必要があろう。
おわりに〜前近代の歴史認識の共有への展望
ここで日中歴史共同研究にも参考となる日韓歴史共同研究について一言しておきたい。日韓歴史共同研究は、2002 年5 月に始まり、3年間にわたる活発な討議をへて2005 年11月に報告書が4分冊で出された(37)。古代史の第1分科では4世紀から6世紀の日韓関係史が取り上げられ、「広開土王碑」『宋書』倭国伝、『日本書紀』などの史料の性格などが議論された。第2分科では、偽使(正規の使節を装った朝鮮王朝への使節)、文禄・慶長の役(壬辰倭乱)、朝鮮通信使が取り上げられ、研究史の整理ととともに専門論文が日韓双方から発表された。前近代の日韓関係は、日中関係よりも直接軍事的に衝突することが多く、共通の認識の共有に達することは難しいが、双方の歴史認識の違いを確認したことの意義は認められるだろう。
参加者の一人濱田耕策は、関係史をただ相手との一対一の関係でなく、多面的な関係を組み込んだ考察が欠かせなかったという。また濱田は、古代東アジアのなかで日本と韓国は国家の形成や経済、社会と文化の形成にどのような相互関係を結んできたのかを研究しなければならなかったと反省している。それも中国や日本に視点を置くのではなく、古代の朝鮮半島の諸国に立脚した国際関係史を構想することを提言されている。このような反省が出てきたのは、古代の日韓関係が日中関係よりも直接的なものであり、日韓の研究者の認識の差が大きかったからである。
日韓両国でも日韓共通歴史教材制作チームによる『日韓共通歴史教材 朝鮮通信使 豊臣秀吉の朝鮮侵略から友好へ』(明石書店、2005 年)などが出版されている。歴史教育研究会(日本)・歴史教科書研究会(韓国編)『日韓歴史共通教材 日韓交流の歴史 先史から現代まで』(明石書店、2007 年)、歴史教育者協議会(日本)・全国歴史教師の会(韓国)『向かいあう日本と韓国・朝鮮の歴史 前近代編上』(青木書店、2006 年)も出版されており、国を超えた歴史認識へと着実に進んできている。
私たちは東アジアの歴史を日韓関係史と日中関係史にわけてしまうことで、全体の動きが見失われてしまうことを十分認識している。近年日中韓三国間では東アジア共通の歴史教科書を執筆する動きが進んでいる。2005 年に日中韓三国共通歴史教材委員会による『未来をひらく歴史−東アジア三国の近現代史』(日本:高文研、韓国:ハンギョレ新聞出版部、中国:中国社会科学院社会科学文献出版社でそれぞれ出版)が三国で同時発売されたし、歴史教育者協議会編『東アジア世界と日本』(青木書店、2004 年)も東アジア世界のなかの日本通史である。『未来をひらく歴史』は近現代史の記述が目的であるから、前近代については序章の「開港以前の3国」で簡単にふれられているだけである。メンバーを見ても前近代史の専門家は入っていない。固有の伝統と文化をもっている三国の友好と戦争の歴史をとらえようとする姿勢は評価できるが、個々の具体的な記述はさらに期待したい。また東アジア歴史教育研究会(代表:東海大学名誉教授藤家禮之助)も三国の歴史家と協力して1996 年以来東アジア共通歴史教科書『東アジアの歴史』作りを目指してまもなく成果を公刊する。東アジア世界成立の基盤、東アジア世界の形成、東アジアの伝統社会、東アジア世界の新生と四部構成で、その三部が前近代であるという。代表の藤家禮之助は、一国主義史観を超え、東アジアをトータルに捉え直し、「国家」を相対化し、国家権力の障壁を低くし、未来の「東アジア共同体」共通の教科書の出発点を目指そうとしていると聞く(38)。
東アジアの歴史上に興亡した国家の領域は、現在の国境とかならずしも重ならない。古代国家高句麗は中国の東北三省と北朝鮮と韓国にまたがっているし、渤海も中国東北三省、北朝鮮、ロシアにまたがっている。中国の古代統一王朝は、中原を中心として現在の中華人民共和国の領域よりも狭い。日本の現在の領域が明確になるのも19 世紀後半になってからであった。もちろん現在の領土にいたる歴史をとらえることは重要であるが、かといって現在の国境の枠や一国史観にとらわれていたならば、過去の歴史を動態的に捉えることはできない。
日本の世界史の教科書では、高句麗の歴史は中国史でもなく朝鮮史でもなく、東アジア世界という地域史として扱われる。秦漢帝国崩壊後、中国が南北に分裂する時代、朝鮮半島では高句麗・新羅・百済の三国時代を迎え、日本列島の大和政権もこれと深く関わっていったと説明される。ここでは国家の枠を超えた地域世界史の観点が必要なのである。いま私たち日中両国の歴史研究者による歴史共同研究も、二千年の日中両国の歴史の意味を議論し、その成果はいつしか共通の歴史認識として教科書執筆にも役立つことであろう。
私たちが提案しているのは東アジア世界やさらには世界史全体のなかで日中の歴史を見直していくという立場である。日本における日本史研究や中国史研究の学界において築きあげてきた成果をもとに、中国の研究者と議論をしながら、あらたな歴史像を築いていきたいのだ。私たち歴史学者は、互いの歴史と文化の営みを尊重しあうバランスのとれた歴史認識を求めていきたいものである。

(1)竹内実+21 世紀中国総研編『日中国交文献集』蒼蒼社、2005 年。
(2)前掲注(1)。
(3)前掲注(1)。
(4)鈴木俊・西嶋定生編『中国史の時代区分』東京大学出版会、1957 年。
(5)岸本美緒『東アジアの「近世」』山川出版社、1998 年。
(6)内藤湖南「支那上古史」「支那近世史」『内藤湖南全集』第10 巻、筑摩書房、1969 年所収、宮崎市定『東洋における素朴主義の民族と文明主義の社会』平凡社、1989 年。
(7)「東アジアにおける古代の終末」鈴木俊・西嶋定生編『中国史の時代区分』東京大学出版会、1957 年。
(8)谷川道雄編『戦後日本の中国史論争』河合文化教育研究所、1993 年。
(9)安藤彦太郎『中国語と近代日本』岩波書店、1988 年。
(10) 中国社会科学院考古研究所・日本奈良国立文化財研究所編著『漢長安城桂宮1996-2001 年考古発掘報告』文物出版社、2007 年。
(11)西嶋定生編『日中合同シンポジウム〈古代宮都の世界〉奈良・平安の都と長安』小学館、1983 年。
(12)専修大学・西北大学共同プロジェクト編『遣唐使の見た中国と日本:新発見「井真成墓誌」から何がわかるか』朝日新聞社、2005 年。
(13)大津透「北宋天聖令の公刊とその意義−日唐律令比較研究の新段階−」『東方学』第114 号、2007 年。
(14)鎌田元一「日本古代の人口」『日本の古代別巻日本人とは何か』中央公論社、1988 年。
(15)『西嶋定生東アジア論集 東アジア世界と冊封体制』第三巻、岩波書店、2002 年。
(16)杉山正明『疾駆する草原の征服者』中国の歴史08、講談社、2005 年。
(17)杉山正明「モンゴル時代のアフロ・ユーラシアと日本」近藤成一編『モンゴルの襲来』日本の時代史9,吉川弘文館、2003 年。
(18) 木宮泰彦著・陳捷訳『中国交通史』民国20 年、1931 年、上海商務。
(19)『中国古代国家と東アジア世界』東京大学出版会、1983 年、『古代東アジア世界と日本』岩波現代文庫、2000 年、『東アジア世界と冊封体制』西嶋定生東アジア論集第3巻、『東アジア世界と日本』同第4巻、ともに岩波書店、2002 年。
(20)『列島社会の多様性』網野善彦著作集第15 巻、岩波書店、2007 年、『「日本」とは何か』日本の歴史00、講談社、2000 年。
(21)荒野泰典・石井正敏・村井章介『アジアのなかの日本史Tアジアと日本』東京大学出版会、1992 年。
(22)堀越啓介(東京大学卒業後の2008 年9 月からイェール大学総合学術大学院・東アジア研究修士課程)の協力を得て、氏の収集する2007 年に全国検定を通った初級中学(中学校)の歴史教科書8 種のうち6 種(人民教育出版社・華東師範大学出版社・北京師範大学出版社・四川教育出版社・中国地図出版社・河北人民出版社)の内容を確認してもらった。本文に反映させている。残りの岳麓出版社・中華書局版は未見である。氏の教示によれば、教科書の複数制は1980 年代から始まっているので、次第に多様な記述が見られるようになり、近現代の日中関係の記述には変化や多様性が見られるが、前近代の日中関係の記述に関しては、それほど大きな違いはなかった。
(23)『中国の歴史』中国中学校歴史教科書、明石書店、2001 年、小島晋治ほか訳『中国の歴史』中国高等学校歴史教科書、明石書店、2004 年。
(24)和田清・石原道博編訳『新訂魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』岩波書店、1951 年、歴史学研究会編『日本史史料』[1]古代、岩波書店、2005 年。
(25)石井正敏『東アジア世界と古代の日本』山川出版社、2003 年。
(26)村井章介『境界をまたぐ人びと』山川出版社、2006 年。
(27)『南史』陳後主紀。
(28)山田吉彦『日本の国境』新潮社、2005 年。
(29)蘇暁康編・鶴間和幸訳『黄河文明への挽歌 「河殤」と「河殤」論』学生社、1990 年。
(30)川勝平太『文明の海洋史観』中央公論社、1997 年。
(31)鶴間和幸編著『黄河下流域の歴史と環境 東アジア海文明への道』東方書店、2007 年。
(32)鶴間和幸編著『四大文明 中国』NHK出版、2000 年。
(33)歴史地理学者の鄒逸麟は華北大平原、黄淮海平原という語を使用している。『椿廬史地論稿』天津出版社、2005 年。
(34)王勇『唐から見た遣唐使 混血児たちの大唐帝国』講談社、1998 年、古瀬奈津子『遣唐使の見た中国』吉川弘文館、2003 年。
(35)安徽省文物考古研究所・安徽省淮北市博物館編『淮北柳孜運河遺址発掘報告』科学出版社、2002 年。
(36)中国国家博物館水下考古研究中心・海南省文物保護管理弁公室編著『西沙水下考古1998~1999』科学出版社、2006 年、碗礁一号水下考古隊編著『東海平潭碗礁一号出水瓷器』科学出版社、2006 年。
(37)日韓歴史共同研究委員会『日韓歴史共同研究報告書』財団法人日韓文化交流基金、2005年。
(38)藤家禮之助「『国家』−中国大陸と西太平洋における戦争の時期に少年時代を過ごし、いま歴史学という専門分野に携わるものとしてー」『唐代史研究』第10 号、2007 年。
 
7世紀の東アジア国際秩序の創成

 

は じ め に
7 世紀の東アジアは、隋による高句麗遠征に端を発する動乱によって幕をあけ、やがて隋の滅亡、唐の建国と拡大、それにともなう朝鮮半島諸国の興亡というようにめまぐるしく変動・展開した。その変動はやがて新羅による半島の統一、日本における古代国家の完成、唐を中心とした東アジア国際秩序の構築へと行き着く。
こうして創成された国際秩序はそれ以前の秦漢魏晋の時代の国際秩序とはかなり様相を異にするものであった。何故なら7 世紀の国際秩序は、後漢末・魏晋の時代より以降にあって生じた東アジア諸民族の自立化への動き、及び五胡十六国・南北朝時代における諸民族の融合を踏まえ出現したという性格を持つものであるからである。
よって本章ではまず表題に掲げた7 世紀の東アジア国際秩序がどのような過程をへて出現したものであるのかについて論じ、ついでそれを踏まえて、7 世紀の東アジア国際秩序の実相に及びたいと思う。なお、本章における考察は、本共同研究の性格に鑑み、その主たる焦点を日本と中国との関係におくこととする。  
1 倭国「自立化」の過程
紀元100 年前後の時点において所謂倭国は誕生したと考えられる1。107 年における倭国王帥升等による後漢王朝への遣使はそのことを後漢へ告げるための遣使であったと考えられる。その後、239 年卑弥呼は曹魏へ使節を派遣し親魏倭王の称号を受ける。このとき倭国の王としての卑弥呼は曹魏の遼東への拡大という時機をとらえて遣使したわけであるが、そこには遼東の公孫氏政権が曹魏によって滅亡させられたことの国際政治上で持つ意味に対する彼女の冷静な判断があったと考えられる2。その結果、彼女が親魏倭王の称号を受けたことは、所謂冊封体制の論理に基づけば、彼女が当時の魏の皇帝たる明帝の臣下となったことを意味する。
魏晋の時代における倭国と中国との間の政治的交渉を今日に伝える史料は、266 年(『日本書紀』神功皇后紀66 年条に引く『晋書』起居注)より後にあっては見出だせなくなる。すなわち266 年より後のいわゆる倭の五王の時代を迎えるまで、倭国・中国の外交交渉は途絶えるのである(ただし、266 年より後の3 世紀後半には交渉が継続した可能性はある)3。それが再び復活するのは東晋末の413 年以降のことである4。東晋の末から中国への遣使を再開した倭国は、南朝の宋の時代、中国南朝の宋の皇帝から倭国王の称号を賜り、以降、宋極末の478 年まで使節を派遣している。このことは、『宋書』倭国伝所載の記事などから窺えることであるが、その際、倭国王は、例えば478年に倭の五王の最後の王である倭王武から宋の順帝に送られた上奏文において、順帝に対して「臣」と称していることに示されているように、明確に中国皇帝の臣下であることを認識していた5。
しかし、日本の関東に位置する埼玉県の稲荷山古墳、および九州に位置する熊本県の船山古墳から出土した、その倭王武(獲加多支鹵すなわちワカタケル)の時代のものとされる5 世紀後半の鉄剣、鉄刀にはそれぞれ銘文が刻まれており、そこには「治天下(天下を治める)」という記述が見える6。このことは、5 世紀後半の倭国の王が「天下」を治める王でもあったことを伝えているとされよう。稲荷山古墳出土鉄剣銘文の冒頭に見える辛亥年は現在471 年を指すことが、多くの研究者によって支持されている。つまり、『宋書』倭国伝中の倭王武の上表文が順帝に差し出された478 年をさかのぼる471 年の時点で倭王武は「治天下大王」と称し「天下」を治めていたと考えられるのである。
周知のように、天下とは四海によって区画された世界を意味し、それはあるときは中国とも呼ばれることがある7。478 年における倭王武の上表文に「封国は偏遠にして、藩を外に作す。昔より祖禰、躬ら甲冑を擐き、山川を抜渉し、寧処に遑あらず。東のかた毛人を征すること五十五国、西のかた衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。王道融泰にして、土を廓き畿を遐かにす(遣使上表曰。封国偏遠、作藩于外。自昔祖禰、躬擐甲冑、抜渉山川、不遑寧処。東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国。王道融泰、廓土遐畿)」と見えるように倭王武は自らが治める倭国がその天下の域内に属するものと捉え、自らにまつろわぬ「毛人五十五国、衆夷六十六国、海北九十五国」を平定することが、宋の「王道融泰、廓土遐畿」へとつながったとしている。
つまり、倭王武は上述の上表文において倭国が「毛人五十五国、衆夷六十六国、海北九十五国」を平定したことが、「畿」(宋朝皇帝の支配領域)を拡大することにつながったとしているのである。ここには宋の境域、倭国の境域、毛人国などの境域などをも含め、それらを天下とする認識が示されているとされよう。
ところが、先に述べたように日本国内から出土した鉄剣、鉄刀の銘文には、「治天下」の表記が見えるのである。中国の政治思想において天下を治めうるものは天命を受けた唯一人たる天子−皇帝である。乱世において幾人かの天子が乱立する際、彼らが相手を非正統と攻撃し、天下の統一を目指すのは、自らのみが天命を受けた正統な支配者であることを天下に示すために他ならない。このことを踏まえると、5 世紀段階の倭王武は内に対しては「治天下大王」と称し、中国皇帝の対しては称臣するという、ダブルスタンダードの政治姿勢を使い分けていたということになろう8。  
2 4〜6世紀朝鮮・中国における中華意識の叢生
前節で見た古代日本における天下意識はやがて日本を中華とする意識へと展開するが、これと同様の動きは、すなわち中国から見たとき「夷狄」の建国した王朝が、中華を標榜するようになる動きは同時代の朝鮮や中国にあっても生じていた。今これを朝鮮、中国の順に見てみよう。
三国時代の魏は遼東に拠った公孫氏の勢力を滅亡させた後、その新領土を確保するため、244 年、将軍毌丘倹を遼東に派遣し、遼東の背後にあった高句麗を討った。この攻撃によって、朝鮮北部にあって国力を発展させていた高句麗は、国都の陥落、国王の亡命など手痛い打撃を蒙ったが、3 世紀後半からの魏晋交替、晋の国力の衰退などにともなって、遼東方面での中国の勢力が衰えたのに乗じて、再びその勢力を伸張し始める。そしてついに313 年には前漢以来、中国王朝の長年にわたる半島支配の拠点としての役割を果たしてきた楽浪郡を陥落させ、生産力の豊かな西北朝鮮の地とそこに住む漢人を傘下におさめることに成功し、その勢威を急速に強めてゆく。
その後、朝鮮の南方にあって勢力を拡張してきていた百済との間で熾烈な抗争を演じ、史上著名な好太王の称号にも見えるように高句麗王は「太王」の号を称するようになり、永楽という年号を使用するまでに至る。こうした年号などの採用は、高句麗がその国家形成にあたって中国の政治制度を一つの模範としていたことを明確に示している。
その好太王が死去し、後を継いだ子の長寿王は414 年に、その父の功績を称えて有名な好太王碑を建立している。好太王碑の第一面には、高句麗の由来を記して、「おもうに昔、鄒牟王の基を創むるや、出ずること北夫余の天帝の子よりす。母は河伯(河の神)女郎にして、卵を剖って世に降る。・・・・・・言って 曰く、我( 鄒牟 王 )はこれ「皇天」の子なり(惟昔始祖鄒牟王創基、出自北夫余天帝之子、母河伯女郎、剖卵降世。・・・・・・言曰 、我是皇天之子)」とあるが、ここで「皇天(大いなる天)」という用語が用いられていることは重要である。なぜなら、ここに見える「天」は「中国を中心としてとらえられた天」ではなく、「高句麗を中心としてとらえられた天」であるからである。また、好太王碑は、高句麗の始祖である鄒牟王が天帝と河伯女郎との間の子として卵から生まれたなどと、高句麗が高句麗独自の神話的世界を持っていたことを伝えている。それだけに碑文にみえる「天」の内容は、そうした高句麗の神話と無縁な中国の場合における「天」の内容とはズレたものであったと考えられる。
しかし一方で、そうした高句麗の神話的世界が、中国に由来する「天帝」、「皇天」などの用語を以て語られていることにも注目しなければならない。なぜなら、ここでは高句麗の神話的世界が中国思想というフィルターを通して語られているわけであり、そこには高句麗自体が中国文化を受容し、中国の用語を用いて自らの神話を語るという屈折した側面が見受けられるからである。
また、好太王碑第一面には、「百残(百済のこと)や新羅はもと(高句麗の)属民にして、由来朝貢す(百残新羅旧是属民、由来朝貢)」と見え、第二面には、「(百済の王は高句麗の)王に跪いて自ら誓う(跪王自誓)、今より以後、永く(高句麗王の)奴客たらん、と。太王(好太王のこと)恩赦す(跪王自誓、従今以後、永為奴客。太王恩赦)」とあって、高句麗の政治体制は、高句麗王を中心とした「朝貢・跪王(貢を献じ、高句麗王に跪く)」体制であったとされている9。
中国における「朝貢」という政治用語の実態と、当時の高句麗における「朝貢」の実態とは、高句麗では「跪王」、「奴客」などの独特の用語が使用されていることから見て、全く同じものであったとは考えられない。けれども、ここで好太王の碑を建立した当時の高句麗が、百済のような服属勢力との関係を「朝貢」という用語を以て表現していることは注目されなければならない。従来の好太王碑の研究では、こうした用語の使用が当然のことがらとして取り扱われ、不思議なことに「朝貢」といった中国起源の政治用語が、中国ではない朝鮮のような地で用いられるようになっていることの意味自体が検討されることはなかった。しかし、こうした用語の使用は、少なくとも当時の高句麗が、「跪王自誓」などの独特の服属儀礼が存在していたにもかかわらず、百済や新羅などとの関係を中国の政治思想に基づいて「朝貢」の関係にあるものととらえていることを示しているのである。
さらに、好太王の子の長寿王時代の北扶余の地方官であった牟頭婁という人物の墓で発見された墓誌には、「天下四方」の表現も見られる。つまり、こうした中国の政治思想に基づく高句麗国家、高句麗社会形成の動きは、好太王の子の長寿王の代にも受け継がれ、「天下」という概念の受容をももたらしているのである(ただし、この「天下」という概念の受容はこの時期よりさかのぼるものかも知れない)。
また、5 世紀末に建てられた朝鮮の忠清北道中原郡にある高句麗による新羅領侵入の記念碑である中原碑には、「東夷の寐錦(新羅王を当時の現地音に基づいて呼んだ称号)」「寐錦に衣服を賜う」などの表現が見えるようになる。新羅を「東夷」と呼び、衣服を賜うなどの行為は、高句麗自身が、中国が高句麗を東夷(東方の夷狄)と見なす見方を受け入れ、同じく東夷である新羅に、その新羅が高句麗に服属してきたのでとった対応であると理解することはできない。なぜなら、高句麗は先に述べたように年号や天下の用語などを使用し、自らを夷狄の朝貢を受ける存在、すなわち「中華」と位置づけるようになってきているからである。換言すれば、このときの高句麗は自らを「中華」と位置づける立場から、新羅を自国の東方にいる東夷(東方の夷狄)と見なしていたと考えられるのである。つまり、中国の政治思想に発する年号の採用、「朝貢」の採用、「天下」の認識などから考えて、高句麗は古代日本に先んじて、高句麗を中心とする「中華」意識を形成し始めていたといえるのである。
こうした「中華」意識形成の動きは、紙幅の関係でその詳細について述べることは省くが、倭国や高句麗にのみ生じていたわけではなく、古代朝鮮においては百済や新羅においても生じていたI。しかし、倭国をも含めたこれら諸国における中華意識の形成を比較してみると、好太王碑の建立が5 世紀初であり、そこに高句麗独自の年号が見えること、その他の諸国における同様の動きの開始がそれより時期的に遅れていることなどから、これら諸国の中で最も早く中華意識形成への動きが生じたのは、高句麗においてであったと考えられる。では高句麗のそれはそうした現象の淵源ということができるのであろうか。高句麗や倭国に中華意識が成長してきた時代は、いわゆる五胡の入華に示されるような東アジア動乱の時代と重なる。この時代は例えば騎馬の文化の伝来に見るように、朝鮮、日本へもその影響が波及し、文明圏規模での大量な人口流動が生じた時代である。そうした動乱の中心は中国の華北にあったが、そこでは胡族と漢族との間の激しい攻防が繰り広げられた。
五胡十六国時代の開始期に、漢族の側から「古えよりこのかた、戎人で中華世界の帝王となり得たものなどいない。名臣や功業を建てるものならばいるが・・・」とする考えが主張されていた。つまり、胡族は中華世界の帝王たりえず、所詮は漢民族に使われる下僕としての「名臣」となるのが精々だとする差別的言辞が当時なされていたのである。一方、胡族はそれに対抗して「帝王となるものにどうして定まったものなどあろうか。中国における昔の聖天子である禹や文王も夷狄から生まれたではないか。帝王となれるか否かはただ志と能力によるのだ」として、胡族も中華世界の帝王たりうると主張していた。(『晋書』載記)
そして当初は胡族君主の中に皇帝の称号を名乗ることに躊躇するものもあったが、大勢は皇帝の称号を採用する方向へと突き進んでいったのである。この際、こうした皇帝の称号の採用等の動きの存在が、彼らが中国的な政治理念を受容し、自らを中華世界の正統と位置づける意識を懐くようになっていったことを示しているという点は注意しておく必要がある。
そのような、胡族であるにもかかわらず自らを中原の正統、中華そのものとみなす動きは、自らの軍(すなわち胡族の軍)を「王師(天子の軍)」の語で呼ぶようになるといった形でも現れてくるようになる(『晋書』載記)。5 世紀の初めに、のちに南朝の宋を建国することになる劉裕が東晋の将軍として、山東半島に拠って鮮卑慕容部が建国していた南燕を攻めたときのことを伝えた記載に、南燕の皇帝であった慕容超が群臣を引見して東晋軍をどの様に防ぐかについて議したことが伝えられている。このとき公孫五楼という南燕の官僚は、『呉兵(東晋軍のこと)は敏捷果敢な兵であるので機先を制してこちらから攻めるべきです。』と述べている。しかし、慕容超はこの意見に従わず「籠城策」を採った。このとき慕容鎮は韓言+卓(南燕の尚書)に、『主上は籠城策を決定された。・・・・・・今年わが国は滅び、私は必ずこの戦いに死ぬであろう。あなたたち中華の士は再び、文身となるのだ』と述べた」(『晋書』慕容超載記)とあるが、これは当時、夷狄である慕容鮮卑が自らを中華と見なすようになっていたことをよく伝えている。
ここに見える「文身」は、南方の野蛮人(南蛮)の風習たる「被髪文身(冠をつけず髪をふり乱し、入れ墨をした様)」を念頭においており、江南に都をおく東晋をそうした南蛮だとしているのである。そして南燕の支配下から東晋の支配下に組み込まれることを、「中華」から「文身」の境遇に陥ることになると述べているのである。
こうした表現の存在は、鮮卑族たる慕容鎮が、さらにはその国家が、南燕を胡族が建国した国家であるにもかかわらず、「中華」として位置づけ、漢族王朝である東晋を「南蛮」の国家と位置づけていたことを示しているとされよう。
この動きは、五胡十六国時代の他の諸国にあってもみられ、後の時代になると、それはいっそう成長した形で示されるようになってゆく。
北魏の時代の洛陽の有様を記した『洛陽伽藍記』には、「洛陽を流れる伊水と洛水の間にある皇帝様のお通りになる御道をはさんで東に(東西南北の夷狄からの使節を応接する)四夷館があり、それぞれ金陵、燕然、扶桑、崦嵫という名で呼ばれていた。道の西には(これら夷狄の亡命者を住まわせる)四夷里があり、それぞれ帰正、帰徳、慕化、慕義という名で呼ばれていた(伊洛之間、夾御道、東有四夷館。一曰金陵、二曰燕然、三曰扶桑、四曰崦嵫、道西有四夷里。一曰帰正、二曰帰徳、三曰慕化、四曰慕義。)」とする記述がある。
この記事は鮮卑拓跋部が建国した北魏が、遷都後の洛陽に「四夷館」や「四夷里」を置いていたことを伝えているが、そこに帰正(正しきに帰す)、帰徳(徳に帰す)、慕化(王の化を慕う)、慕義(正しきを慕う)の用語に現れているように、周辺の四夷は北魏の正義や帝徳、あるいは王化を慕って、その都である洛陽に至るものとする観念のもと、その館や居住区の名称が定められていたのである。即ち、そこには鮮卑という漢民族の中華思想からみたとき、「夷狄」に過ぎない種族が建国した北魏が、自らを中華として位置づけていたことが示されているのである。
また、北魏の歴史を記した『魏書』は南北朝時代に相対峙した南朝の建国者をそれぞれ「島夷(島に住む夷狄)劉裕」、「島夷蕭道成」、「島夷蕭衍」などと呼んでいるが、長江以南を一つの島に見立てそこに住む夷狄として南朝諸朝の建国者を呼ぶ現象もまた、先に南燕が東晋を文身の国としたのと同様に、そうした中華意識の現れの一環とみることができる。
これらのことがらを、先に述べたことがら、すなわち古代の日本において自らを中心とする天下・中華意識の形成が見られたこと、同じ様な動きが高句麗や百済、新羅にあっても生じたこと、そしてそうした動きの先駆けは、年号や太王号の使用などから見て、高句麗によってなされたと考えられることなどと比較したとき、五胡によって建国された華北の諸朝における中華意識の形成は、古代朝鮮や日本におけるそうした意識の形成時と重なる部分もあるが、古代朝鮮や日本における動きより先行して生じたものであったことが明らかとなるのである。
ところで、唐の後の北宋の時代になった『楽府詩集』(横吹曲辞条)や唐の時代のことを記した『旧唐書』音楽志(北狄楽条)には、鮮卑歌によって隋以後の横吹楽が構成されていたことが伝えられている。すなわち、隋の鼓吹部32 曲、その系譜を引く唐の鼓吹部15 曲が、隋唐においては鮮卑の歌である「簸邏迴歌」・「真人代歌」に由来する鮮卑語の歌辞によって演奏され、皇帝行幸の際の鹵簿行列や夜警曲として用いられていたとされているのである。このことは、隋唐にあっては、皇帝権力のもっとも身近なところで五胡の一たる鮮卑の音楽が演奏されていたことを示している。換言すればそれは隋唐政権の根源が遠く鮮卑族に由来することを官人・民衆に宣布することにほかならない。つまり、このことは隋で確立した鮮卑系鼓吹楽が、憲宗の元和初年(806)、礼儀使高郢が建議して廃止するまで(『唐書』儀衛志下)、二百余年にわたって、権力の遙かな根源と正統性のありかを示すものとして、理解されたか否かは別にして、官人・民衆に対し歌いつづけられていたことを示しているのであるJ。この点は、『資治通鑑』の胡註に、「嗚呼、隋より以降、名称を時に揚ぐる者、代北の子孫(北方民族の子孫)、十に居ること六、七なり。氏族の弁、果たして何の益あるかな」(巻108、東晋孝武帝21 年の条)とあり、『夢渓筆談』に、「中国の衣冠、北斉より全く胡服を用う」(巻1)とあるような事象と符節を合するものであり、先に述べた五胡諸国による天下・中華意識の形成の事実と相俟って、隋唐帝国の性格を考える上に於いて是非とも踏まえておくべき事柄といえよう。  
3 7世紀冒頭・遣隋使段階における倭国と中国の関係
前節までの考察において指摘したように古代日本、朝鮮における天下・中華意識の形成は、中国における五胡諸族の建国した諸国における天下・中華意識の形成と連動するものであったが、しかし、この動きは「夷狄」を出発点にしたという点では同質の、五胡諸国・北朝を母胎とした隋唐帝国の出現によって大きな圧力にさらされることとなる。本節ではその一端を遣隋使の問題との関連で見てみることとする。倭国からの中国への使節は倭王武による478 年の遣使を最後として、以後隋の開皇20 年(600)までの120 年余の間途絶する。『隋書』倭国伝には、その開皇20 年における国交再開時において、倭国使と隋の高祖・文帝との間に交わされた問答を伝え、
開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言、「倭王以天為兄、以日為弟。天未明時出聽政、跏趺坐。日出便停理務、云委我弟。」高祖曰、「此太無義理」。於是訓令改之。
とある。日本における遣隋使、遣唐使研究の専家として著名な増村宏氏は、このときの倭国使の発言に対して、倭国使は文帝から風俗を問われたのでそのまま答えたにすぎないとしている。また、大業3 年(607)の際の遣隋使小野妹子がもたらした国書に見える「日出處天子致書日没處天子無恙云々」(『隋書』倭国伝)を念頭に置きながら、開皇20 年の場合は皇帝と倭国使との間の問答であり、大業3 年の国書の場合とは区別すべきであるとするK。
確かに何らかの区別はなすべきであろう。しかし、倭の五王による最後の遣使(478年)以来、120 年余の沈黙を破って派遣された倭国からの使節の、中国再統一を果たした隋の皇帝たる文帝との間の、それも当時の東アジア世界に王者として君臨している人物との間の問答を、風俗を問われたことに対する単なる回答と見なしてよいものであろうか。また、外交の場面における訪問国のリーダーとの間の問答を、単なる「問答」と見なすことができるのであろうか。
倭王武による478 年の遣使以来122 年ぶりの、この倭国による遣使再開は、西晋崩壊後の、300 年になんなんとする混乱を収束して589 年、隋が中国を統一したこと、及びその統一のエネルギーが半島に及び、高句麗と隋との間に緊迫した事態が生じた状況下に行われたものである。それ故そのような緊迫した状況下における外交の現場において発せられた倭国使の発言は、到底単なる問答などではないと考えられる。このときの倭国使の回答によれば、倭王は「天の弟」(当時の大王は推古であるので天妹とすべきか)、「日の兄」ということになる。周知のように「天子」は単に「天の子」のみを意味するのではなく、地上世界を統治せよとの天命を受け、天下に君臨する皇帝そのものを意味し、「日」は中国では皇帝そのものを暗喩する用語であるL。また、倭王が「天の弟」ということを、中国的家族制度に基づき天子たる中国皇帝の側からから見れば、倭王は中国皇帝の叔父、叔母の位置に属する尊属ということになり、倭王が「日の兄」ということを「日」と暗喩される中国皇帝の立場から見れば、倭王は中国皇帝の兄ということになるM。
つまり、このことが文帝をして「これははなはだ理屈の通らない話だ」(此太無義理)と言わしめた原因と考えられ、ために前掲の『隋書』倭国伝の記載の末尾に、「於是訓令改之」と見えるような対応が文帝によって採られたと考えられるのである。
このことを念頭において、この開皇20 年(600)から7 年後の大業3 年の際の小野妹子が煬帝にもたらした国書に見える「日出處天子致書日没處天子無恙云々」の記事について考えてをみよう。従来の研究ではこの国書の内容が倭国側の対等外交を求めた姿勢が示されたものとする理解が大勢であるが、上で明らかにしたことがらを踏まえれば、一歩進んでこれは一面では大業3 年の遣隋使において倭国側が文帝の訓令を受けて一定の譲歩、修正を行ってきているものと見ることもできる。何故なら大業3 年の国書における小野妹子のもたらした国書の内容が、煬帝から見たとき、いかほど不遜なものであろうとも、「日出處天子」「日没處天子」という形でいずれもが「天の子」であると称しており、決して自らを「天の弟」「日の兄」などとは称していないからである。そこには開皇20 年のときに見られたような叔父・甥や兄弟という家族的秩序になぞらえ、倭王を皇帝より上位に位置づけんとする姿勢はなくなっているからである。外交という問題の性質上、大業3 年に遣隋使として中国に至った小野妹子が、その7 年前の遣使の際、文帝が倭国使に対し「此太無義理」と述べ、天弟・日兄の主張を改めるよう「訓令」したことを認識していなかったということは、ことが国家の浮沈に関わる外交案件であることに思いを致せばあり得ないことがらである。それゆえ、小野妹子がもたらした国書に見える「日出處天子致書日没處天子無恙」の表現は、倭国側が文帝の「於是訓令改之」という下命を踏まえた上で作成したものということになるのである。
ところで先に見たように『隋書』倭国伝によれば、小野妹子のもたらした国書を見た煬帝は、
覽之不悦、謂鴻臚卿曰、蠻夷書有無禮者、勿復以聞。
と述べたとされるが、この状況は、開皇20 年の遣隋使との問答をへて、それに対してその不合理さを指摘した文帝の場合と似通っている。文帝の場合はその不合理さを改めるよう「訓令」している。文帝がその「訓令」を文書の形で倭国使に手交したのか否かは定かではない。
『隋書』倭国伝に、小野妹子の帰国の際、同行して倭国に至った裴世清が倭国王と会見したことを伝えた記載が見え、そこには、裴世清と会見した倭王は大いに悦んで「私は海の西に大隋という礼儀の国があると聞いた。故に使い(小野妹子)を遣わして朝貢した。私は夷人であり、海中の片隅にいるために礼儀というものを聞くことがなかった。そのため国内に留まって謁見できなかった。いま故に道を清め館を飾り、大使を待った。冀わくは大国惟新の化を聞かん」といった。裴世清はそれに答えて、「皇帝の徳は天地にあまねく、その恵みは四海に及ぶ。王が皇帝の化を慕ったが故に行人を遣わして宣諭するのである。」と述べた、とされているN。
一方、裴世清は『日本書紀』推古紀の記述によれば、来日の際、煬帝の国書を持参したと伝えられO、またその国書を倭国王に伝達・会見した後のこととして、『隋書』倭国伝には、
其後遣人謂其王曰、朝命既達、請即戒塗。
とある。
これらのことは裴世清の来日が倭国に対する宣諭を目指したものであったことを示しているが、現行の『隋書』や『日本書紀』などの史書による限り、そこに「日出處天子致書日没處天子無恙」とある文言に対して無礼であるとした煬帝の意向を伝える倭国王に示された「訓令」にあたる文言は見あたらない。
『隋書』倭国伝によれば、文帝の場合、倭国使の回答に対して「此太無義理」と述べている。煬帝は「覽之不悦、謂鴻臚卿曰、蠻夷書有無禮者、勿復以聞」とあってあからさまに不快の念を表明している。この文帝と煬帝の対応を比較した場合、その不快の表明は煬帝の方が強くなされているといえよう。
ではこの煬帝の「不快の念」はどのように倭国へと伝達されたのであろうか。小野妹子のときの場合、ことが倭国から送られた国書に対する「不快」であるからには、その伝達が遣隋使(小野妹子)に対してのみにとどめられた、あるいは倭国中枢への伝達を要しないものとして処理されたといったことは考え難いであろう。
しかし、従来の研究はこの点について全く考究することなく、煬帝が「不快」であったにもかかわらず裴世清を派遣したのは、当時の隋が対高句麗の関係で、その背後に位置する倭国の存在を重視したからであるとする。ただし、こうした理解は十分な解答たり得ない。何故なら、倭国への不快の度合いが煬帝に比べればそれほどでもなかったと考えられる文帝のときの場合は、具体的なことがらは不明であるが、『隋書』倭国伝に、高祖(文帝)曰、「此太無義理」。於是訓令改之。
とあるように、なんらかの「訓令」という形でそれが示されたことが窺えるからである。さらに、この問題との関連で考究すべきことがらが『日本書紀』には記されている。それは煬帝から倭国へ送られた国書には、裴世清が持参したものの他に、もう一通の小野妹子に託された別の書があり、それが小野妹子が帰国の際、百済によって盗まれたとする奇妙な記述が『日本書紀』に見えることである。すなわち、推古天皇16 年(608)6 月、裴世清一行が難波津に至ったとき、彼らをともなって倭国に帰着した小野妹子が上奏してきたことを伝えて、『日本書紀』推古紀に、
爰妹子臣奏之曰、「臣參還之時、唐帝以書授臣。然經過百濟國之日、百濟人探以掠取。是以不得上。」於是、群臣議之曰、「夫使人雖死之、不失旨。是使矣何怠之、失大國之書哉。」則坐流刑。時天皇勅之曰、妹子雖有失書之罪、輙不可罪。其大國客等聞之、亦不良。」乃赦之不坐。
とあるのである。この記載からは小野妹子が煬帝から託されたとする返書の具体的内容を知ることは出来ない。しかし、具体的論証はここでは省略するがP、その書こそが先にその存在を想定した、煬帝からの訓令書であったと考えざるを得ないのである。もしこの小野妹子にもたらされた煬帝の書の中に訓令のことが何ら記されていなかったとすれば、そもそも何故煬帝が裴世清と小野妹子との各々に返書を付託したのかという理由が極めて不可解なものとなるであろう。唯一、その紛失を恐れ、同一の文書を本国の使節と交渉国から派遣された使節との両名のものに預けるということが想定されるが、中国の外交においてこのようなことが行われた事例を筆者は寡聞にして知らない。よってこうした想定が実際にありえたとは考えがたい。つまり、裴世清と小野妹子のもたらした文書の内容は異なっていたと考えられる。異なっていたとすれば小野妹子の授けられた書は「訓令」の内容を含んでいたと考えられるのである。
前述のように『日本書紀』によればその小野妹子の書が百済によって奪われたという。
何故そのようなことが生じたのかということについては、種々の説があるが、いまはその詳細には立ち入らないQ。百済によって奪われたという説も成り立ちうるであろうし、小野妹子や倭国の中枢がその書を破棄したということも考えられるであろう。ただし、煬帝が小野妹子に授けた書にいかなる内容のことが書かれていたのかということについて、小野妹子が関知していなかったということはあり得ないであろう。また、小野妹子がその書の内容を知っていたならば、小野妹子は使節の使命として当然そのことを何らかの形で倭国中枢に伝達したはずであるから、倭国中枢もまたそのことを知ることになったであろう。つまり、国書の紛失の存否に関わりなく、小野妹子の持参した煬帝の書の内容自体は倭国中枢に伝達されていたと想定されるのである。
でなければ、小野妹子失書に対して流罪と決した群臣の議を大王自ら勅命を下して覆し、小野妹子を赦免するということは考えがたいであろう。また、『日本書紀』推古紀には、裴世清の帰国時のこととして、唐客裴世清罷歸。則復以小野妹子爲大使。
とあるように、不可解なことに小野妹子は、煬帝の書を紛失するという外交上の大失態を演じたにもかかわらず、その罪が異例の形で免ぜられたのみならず、裴世清が隋に帰国する際、再び「遣隋大使」に任ぜられ、中国へ派遣されているのである。つまり、聖徳太子などの倭国中枢は小野妹子が失ったとされる煬帝からの書の内容が隋からの「訓令」にわたるものであったことを必ずや認識していたと考えられるのである。  
4 倭国と唐との「争礼」
先掲の裴世清帰国の際のことを記した『日本書紀』推古紀の記載には、続けて、唐客裴世清罷歸。則復以小野妹子爲大使。吉士雄成小使。福利爲通事。副于唐客、而遣之。爰聘唐帝。其辭曰、東天皇敬白西皇帝。使人鴻臚寺掌客裴世清等至、久憶方解。季秋薄冷、尊如何。想清悆。此即如常。今遣大禮蘇因高、大禮乎那利等。謹白不具。
とある。ここに「天皇」、「皇帝」、「謹白」などの表現が見えることなどから、この国書で倭王は隋の皇帝を先輩か兄に見立て、倭国の王が隋の皇帝と対等であることを改めて主張している。この際、そこに史上初めて日本における政治的リ−ダーとしての「天皇」という呼称が用いられていることは注目に値するR。つまり、天皇という呼称はまず外交文書で使われはじめ、従来の大王あるいはオオキミと併用されながら国内で通用するようになったのではないか、そして、やがて律令の中で天皇号として定着するようになったと考えられるのである。
換言すれば、倭国は自国におけるそれまでの天下意識の形成を踏まえ、遣隋使を派遣した当初、「天弟、日兄」の立場をとったため、文帝の訓令を受け、「天子」という表現を和らげた隋の天子と対等の称号を名乗った。しかしその後再び今度は煬帝から「訓令」を受け、それを受ける形で「謹白」などの表現を用い、隋の皇帝を先輩か兄に見立てこの問題を処理しようとした、その過程で「天皇」の用語がもちいられる段階に至ったと考えられるのである。
そこには、南北朝の混乱を終息せしめ、新たに中国を再統一した隋に対し、倭国が一定の譲歩を示しつつも、一貫して強い自己主張を貫いていることが窺える。この自己主張の貫徹は朝貢国に対し、臣礼をとることを求める中国の立場から見たとき、容認しがたい姿勢ということになるであろう。先に見た煬帝の不快もそれと同根の政治理念から生じていたものと言える。
それ故、このような形での裴世清の帰国は再び隋側の反撥を呼び起こすものとなった可能性がある。しかし、『隋書』をはじめとした当時の関係史料は、このことについて語るものがない。史料の欠落という可能性もあるが、おそらくそこには、隋が高句麗遠征の混乱の中で滅亡していったことが、大きく関係していると想定される。
また、唐が建国されても、しばらく倭国と唐との間の政治交渉はおこなわれなかった。
それが再開されたのは、唐が建国されて10 年以上のちのことである。
『旧唐書』倭国伝には、貞観5 年(631)のこととして、(太宗)遣新州刺史高表仁、持節往撫之(倭国のこと)。表仁無綏遠之才、与王子(他の関係史料は王子を全て王とする)争礼、不宣朝命而還。
とある。ここに見える礼とは何であろうか。この時期より後のものであるが、『大唐開元礼』嘉礼・皇帝遣使詣蕃宣労の条に、執事者引蕃主迎使者於門外之南、北面再拝。使者不答拝。・・・使者称有詔。蕃主再拝。使者宣詔訖、蕃主又再拝。執事者引蕃主、進使者前、北面受詔書。・・・とあり、開元礼においては蕃国を皇帝の使者が訪うたとき、使者は蕃国側の再拝に答えず、皇帝の詔書を宣し、蕃国側は北面して詔書を受けることになっていた。631 年の段階においても、この点に大きな相違はなかったであろう。『隋書』倭国伝に拠れば、608 年に来日した隋使・裴世清は大礼の哥多毗の率いる二百余騎の迎えを受けて飛鳥の都に入り、その後、其王與清相見、大悦曰、「我聞海西有大隋、禮義之國、故遣朝貢。我夷人、僻在海隅、不聞禮義。是以稽留境内、不即相見。今故清道飾館、以待大使。冀聞大国惟新之化。」清答曰、「皇帝徳並二儀、澤流四海。以王慕化、故遣行人來此宣諭。」とあるように、倭王と会し、その際倭王は夷人と称し、さらに裴世清はそれに答えて宣諭したとしている。また同じ『隋書』倭国伝には、裴世清がこの倭王との会見の後のこととして、其後遣人謂其王曰、朝命既達、請即戒塗。
としている。すなわち、裴世清は、朝命、則ち煬帝の命令は既に伝えたので帰国したい、と述べているのであるが、とすれば裴世清はこの時点で、使者として「朝命」を伝達すること、すなわち倭王に対する「宣諭」の役割は遂行されたという認識を持っていたことを示している。先に挙げた『旧唐書』に見える高表仁の場合は、後には「綏遠の才が無かった」という評価を下されることになるが、「争礼」前の時点でそうした評価が存在したわけではなく、また、高表仁自身はこの「争礼」の時点で未だ「朝命」を伝達していないと考えていたはずである。にも関わらず彼が「争礼」を起こしたということは、高表仁には「朝命」伝達の前段において、倭国側に何らかの「非礼」にわたる対応があったとする認識があったことが窺える。その際、その「非礼」とは、彼が唐使として倭国に来朝していることを考えれば、単なる使節個人に対する待遇の如何といったようなことであったとは考えがたい。そこには唐の体面に関わる問題が存在していたと考えざるを得ないであろう。
それ故、倭国側と紛糾が生じ、「朝命」を達することなく帰国することとなったが、『旧唐書』はそれをとらえて「綏遠の才が無かった」としているわけである。とすれば、『旧唐書』に述べられていることを意を持って汲み取れば、『旧唐書』には「高表仁は唐の体面に関わる「礼」にこだわって争いを引き起こし、結果、「朝命」を達せず帰国することになったが、これは高表仁に夷狄を綏撫する才がなかったからであり、夷狄に対する綏撫には深慮が必要である。」ということが述べられていることになろう。
ところで、所謂遣唐使は630~894 年の260 年間に18 回が計画され、うち15 回が実行に移された。また、この15 回の遣唐使の帰国にともなって唐帝の意を帯して勅使が来日したのは、632 年の高表仁、778 年の趙宝英の場合の計2 回のみである。つまり、唐使趙宝英の来日は(ただし、趙宝英は遭難し、実際に来日したのはその部下の孫興進)、高表仁以来、実に1 世紀半ぶりのことであった。このとき、その唐使をどのような形で迎えるべきか議論が興り、唐使とともに帰国した遣唐使判官小野滋野は諸蕃国(新羅や渤海など)の礼と同じく接遇すべきを主張し、中納言石上宅嗣は蕃主が皇帝の使者を迎える礼を迎えるべきであると主張している。
先に述べた『日本書紀』と『隋書』に見える遣隋使関係の記載には相互に矛盾する点が多く、果たして実態がどのようなものであったのか不明な点が多いS。ただ、これらの矛盾および上述の唐の時代の唐使趙宝英の来日の際の議論を踏まえると、高表仁来日の際の争礼とは、開元令のいう嘉礼に関わるものであり、そこに両者の体面の問題が存在していたことが窺えるのである。  
5 唐・高句麗・百済・新羅の動向と白村江の戦い
北魏孝文帝の洛陽遷都の頃、明確な形でその方向性が示され始めた北朝による中国再統一への動きは、北魏末の動乱によって一頓挫するが、北周が北斉を滅ぼして華北を統一すると、再びその動きを強め、北朝最後の王朝隋による統一に至る。
中国再統一の直前、隋が北周にかわって建国(581)すると、その強大化を恐れた高句麗や百済は、南朝の陳との結びつきを強めた。当時、隋は東アジアにおいて圧倒的な国威を保持していた。にもかかわらず高句麗・百済がそのような動きに出たのは、強大な隋に脅威をいだいたからと考えられる。
589 年、隋が陳を平定すると、百済・新羅は隋に遣使し、隋との関係を取り結ぶことに成功する。しかし、高句麗はこれに反して隋による中国再統一に脅威をいだき、軍備を増強して国防に努めようするようになる。
漢の武帝による朝鮮四郡の設置以降における中国の朝鮮半島に対する支配は、313 年にそれまでの朝鮮支配の拠点であった楽浪郡が高句麗に滅ぼされて以降、途絶していた。しかし、隋では当時、300 年の混乱を経て実現した中国再統一の機運を受けて、藩国でありながら定められた歳貢を実行しない高句麗に対する膺懲の議論が活発になってきていた。一方598 年、高句麗は靺鞨万余騎を率いて遼西に侵入し、607 年には隋の北方にあって隋を牽制する突厥と高句麗との連繋が発覚するなど、隋と高句麗との関係は悪化の一途を辿っていた。
また、朝鮮半島の状況も、百済・新羅を軍事的に圧倒した5 世紀までの高句麗優勢の状況から、高句麗、百済、新羅の三国が鼎立する、とめどもない抗争の段階へと推移していた。当初、三韓の一である馬韓の中から興った百済は、その王である近肖古のとき(371年)高句麗領となっていた平壌を陥落させるほどの勢威を示すが、阿華王の代となると挫折を味わい、前に述べたように「奴客」として高句麗太王に跪くことになった( 396年)。さらに、475 年には高句麗の攻撃をうけ亡国の瀬戸際に立たされるが、その後体制を立て直し、495 年に百済王は南朝の斉に遣使し、高句麗や倭国のように自己の配下に対し、中国王朝の将軍号や王爵などの官爵を賜るよう求めるようになるまで勢いを盛り返すのである。
また、かつて高句麗の属民であった新羅は(好太王碑一面)、6 世紀初めになると503 年に建立された迎日冷水新羅碑の記載で至都盧葛文王が智証王と称し、524 年に建立された蔚珍鳳坪新羅碑の記載では牟即智寐錦王が法興王と称しているように、中国的かつ仏教的王号を称するようになっている。さらに法興王の23 年(536)には、始めて新羅独自の年号を建て建元元年と称すまでに至り、朝鮮半島に確固たる基盤を築き、益々その勢威を拡張しつつあった。
隋が建国した頃の半島の状況はこのように、これら三国がそれぞれ鎬を削り合っていたのであるが、中国では隋唐の統一、拡大が一方で進行していたのであり、この中朝の関係は、相互に絡み合いながら7 世紀の隋による高句麗討伐、隋の滅亡、唐の建国、唐による高句麗討伐、百済の滅亡、白村江の戦い、高句麗の滅亡、新羅による半島の統一へと展開して行ったのである。
612年、隋の煬帝は二百万と号する大軍を派遣し、高句麗を討った。これは隋から見たとき、突厥との連繋を企図する高句麗に対する懲罰戦という性格を持ち、また、既に高句麗との関係の険悪さが進行していた新羅・百済両国からの高句麗討伐に対する要請にもこたえるものでもあった。しかし、高句麗は遼東城での籠城や乙支文徳率いる醍水(清川江)の戦いなどで隋軍を撃退することに成功する。その後も高句麗は再三隋軍の侵入を退け、遂に618年、国内の反乱のなかから、唐が建国された。
その後、朝鮮三国間の抗争はいっそう激化し、また、唐が東アジアにおける国際秩序の構築のために半島への関与を強めたので,高句麗では642年に泉蓋蘇文が高句麗王であった栄留王を弑し、宝蔵王を擁立して臨戦体制を整え、645年以後、高句麗は五度にわたり唐の遼東攻撃を退けることに成功する。しかし、665年に泉蓋蘇文が死去すると,彼の子供たちの間に対立が生じ、これが契機となって高句麗の戦時体制が動揺することとなった。結局、この動揺に乗じて,唐は高句麗を攻め、隋以来60有余年に亙たる歳月に及ぶ抗争を経て、668年、高句麗を滅ぼすことに成功するのである。
古代日本の国家形成の転機ともいうべき白村江の戦いは、唐によるこの対高句麗戦の南方戦線における戦いという様相を示している。
唐の場合と異なり、隋による三度に及ぶ高句麗遠征は、百済への侵攻をともなうものではなかった。しかし、唐による高句麗遠征は、高句麗の南方にある百済を衝くという側面も有するものになる。それは643年に唐の太宗が救援を求めてきた新羅の使者に、百済は海を頼みとしているが朕は水軍数万をもって攻めることもできる、と述べていることなどに示され始める(『新唐書』高麗伝)。ただし、太宗の時点における唐の主敵はあくまでも高句麗であり、徐々に新羅との連合へ傾斜しつつも、いまだ百済を敵視する段階にまでは至って居らず、むしろ対高句麗戦争遂行の上で、百済に唐側に加わるよう慫慂している段階にあり、こうした方針は太宗の治世が終わるまで変化することはなかった。
しかし、新羅の金春秋が唐との同盟関係を成し遂げ、唐風の制度改革に着手し、さらに高宗の段階になって、新羅が高宗の年号である永徽の年号を採用し、唐の制度を導入する段階に到ると、様相は大きく変わってくることとなった。
百済は倭国と同様、南北朝時代にあっては南朝と深いつながりを持ち、北朝と交流することはほとんどなかった。それ故、北朝の継承国家としての隋唐との間に十全な意味での親しい関係を確立できない歴史的状況下にあった。また、隋の高句麗遠征時において、隋を支持することを表明してはいたが、それはその本心から出たものではなく、時勢を観望する対応から出たものであったといえる。また、隋が高句麗を討って、結局滅亡したことも、唐による高句麗遠征に際しての百済の対応に大きな影響を及ぼしていたと考えられる。すなわち、百済は、唐にとっても高句麗を攻略することは容易ではなく、とすればその状況を利用して、宿敵である新羅を討とうと企図していたと考えられ、この時期、百済が唐に朝貢することを取りやめていた背景にも、そうした百済の配慮が働いていたと想定されるのである。
このような状況を受けて、唐が百済に対する方針を明確に変更することを告げたのは永徽2年(651)のことであった。そのことを伝えて、『旧唐書』百済伝に、高宗が百済王に与えた璽書が見え、その一節に、王、もし進止に従わざれば、朕(高宗)已に新羅王金法敏の請う所により、其に任せ王と決戦せしめん。また高麗に約束せしめ、遠く相救恤するを許さず。高麗もし命を承けざれば、即ち契丹諸蕃をして、遼澤を渡り入りて抄掠せしめん。王、深く朕が言を思い、自ら多福を求め、審らかに良策を図り、后悔を貽ることなかれ。とある。これに拠れば、このとき唐は百済が高句麗と結んでいることをも認識していたこが窺えよう。
このような推移の後、結局、百済は660年、唐によって滅ぼされることになるのであるが、周知の如く所謂白村江の戦いは、このとき、百済を滅ぼし百済の故地にあった唐軍とそれを後援した新羅の勢力が、百済復興を企てた余豊、およびそれに与した倭国軍との間で交えた戦いであり、倭国の軍隊はこの戦いで壊滅的な敗戦を蒙ることになる。この戦いにおいて百済・倭国が壊滅的敗戦を蒙ったのは、倭国の軍隊が寄せ集め的な軍隊であったため、充分な統制がとれていなかった、いや統率された軍隊であり、むしろ倭国が百済救援よりも、この機に乗じて新羅から領土を奪うことに執着したからであるなど、研究者間では対立的な見解が存在するが[21]、ともかくもこの敗戦が、倭国に自国にも唐の鋭鋒が及ぶとする深甚な脅威を抱かしめることとなったことは動かしがたい事実である。
唐はその後、668年、高句麗を滅ぼすことに成功し、その都平壌に安東都護府を置いたが、高句麗遺民の復興運動や朝鮮半島の統一を志向する新羅との戦いに敗れ、676年に安東都護府を遼東に移すこととなる。
翻って考えるに、唐の高句麗遠征は、高句麗に対する昔年の遺恨を果たすこと、中国旧領の回復などにその目的があったが、しかしそうした目的の中にあって、第一のものは、唐を中心とした東アジアにおける国際秩序構築にあったといえる。新羅や百済、さらには倭国にはそもそも自国を中心としたそうした国際秩序の構築の意図はなく、当時これらの諸国に存在したのは、半島における、あるいは自国の権益の拡大、保持にその最大の狙いがあった。従って、最終的に、7 世紀における諸国間の抗争が、新羅による半島の領有に帰結したとしても、それは唐にとって新羅が唐の国際秩序を認める冊封国である限り、利点のある終息であったといえるであろう。
一方、新羅による半島の統一とともに、唐の脅威が薄らいでいった倭国では、臨戦態勢下において実現した天皇を中心とした律令体制を完成させることに成功し、新たな国号「日本」を制定するに到るのである。  
6 世界秩序の変貌−魏晋南朝と北朝隋唐−
所謂魏晋南北朝時代にあっては中国との間で冊封関係(朝貢関係)を結んだ周辺諸国のリ−ダーが、中国王朝の爵位のみならず官職をも受けて中国王朝の臣下となるという現象が広範に見られた。倭国王が王号のみならず将軍号や都督号を与えられていることなどにもそうした現象が端的に示されているが、それはこの時代における中国の王朝権力の弱体化と、中国王朝がそうした状況を踏まえつつ周辺諸国をその体制へと取り込こもうとした意図の存在とによって促進されたものである。
しかし、一方でこれを胡族をはじめとした諸民族の側から見たとき、それは諸民族の自立への動きと併行するものでもあったのである。後漢後期には既にその様相を見せていた匈奴・鮮卑など所謂五胡の移動・侵入はその後、五胡十六国の成立、北朝の出現へと展開し、北朝の拡大を懼れた南朝は北朝を封じ込めるための国際的包囲網の形成を企図する。450 年、北魏の世祖太武帝は50 万の大軍を発して南朝の宋を攻め、長江の北岸にまで達したとき、宋の太祖に手紙を送り、その中で、「この頃、関中で蓋呉という人物が反逆し、隴右の地の氐や羌を扇動しているが、それはお前が使いを遣わして誘っていることである。・・・・・・またお前は以前には北方の柔然(モンゴル高原にあった)と通じ、西は赫連(十六国の一・夏国を建国した匈奴赫連氏)、蒙遜(河西地帯にあった匈奴・沮渠蒙遜のこと)、吐谷渾(中国の西部・青海省の地にあった鮮卑)と結び、東は馮弘(十六国の一・北燕の主)、高麗(高句麗)と連なる。凡そ此の数国、我みなこれを滅したり。(『宋書』索虜伝)」とあるのは、南朝の宋の時代におけるそうした動きをうかがわせるものである。しかし、こうした包囲網は時代を下るに従って徐々に崩されて行くのである。上で述べた450 年における北魏の長江北岸にまで至る南侵もそうした状況を生む上で大きな役割を演じることになった。
いまそうした南朝を中心とした体制の衰退の一面を具体的な事例をあげて見てみよう。所謂倭の五王の時代の山東半島は倭国をはじめとして東夷の諸国の南朝への使節派遣において、その中継地点として極めて大きな役割を果たしていた。そして、413 年から倭国の南朝への使節の派遣が始まるのも、東晋の将軍であった劉裕がその地にあって鮮卑慕容部が建国していた南燕を滅ぼし(410)、山東の地を領有したことと関連しているが、その山東半島の地は、469 年正月以降、今度は北魏の領有するところとなる([22]) 。
それまで南朝領であった山東半島を手中にした北魏は、早速その経営に乗り出している。すなわち、その翌年(北魏皇興4 年)にはそこに新たに光州という州を設置し、その5 年後の延興5 年(475)には軍鎮を置き、その支配を一段と強化しているのである。以後北魏はここを基地として南朝へ朝貢する東夷の船舶を厳しく監視するようになった。そのため、東夷の諸国から南朝へ送られた使節や南朝からの答礼使が、山東の沿岸で遊弋する北魏の船舶によって拿捕されるという事態まで生じるようになる。また皇興3 年(469)2 月には、柔然、高句麗、庫莫奚、契丹等の北アジア、東北アジアの諸国が相継いで北魏に朝貢するが、これら遣使は北東アジア地域の諸国が南朝に朝貢する際のセンターとしての役割を果たしていた山東の地がその前月に陥落したことに触発されたものであろう。これは逆に見れば山東半島が魏領となることが東夷諸国にとってどれほど重大な意味をもつものであったかを示している。また、高句麗はその2 年後に皇帝の位についた北魏孝文帝のとき、それまでの貢献品の額を倍増しているが、このことも山東の陥落と無関係ではないであろう。
つまり、この5 世紀の後半の時点で、南朝が目指した国際連携のもとでの北朝の封じ込めという施策は、その東部戦線においてその連環が断ち切られたことがわかるのである。ではその西部戦線はどのように推移していたのであろうか。当時、西部の吐谷渾や河西回廊の勢力、さらには北方の柔然の勢力との連絡に大きな役割を果たしていたのは長江上流の四川の地であったが、この地も長い南北抗争の末、南北朝の後半には北朝の勢力の傘下に組み込まれることになる。それは西魏廃帝2 年(553)のことであったが、このとき江南は北方から帰順した胡族の将軍である侯景の起こした乱による混乱の中にあった。当時征西大将軍として四川の地にあった梁の武帝の八男である武陵王紀は552 年8 月、軍を率いて東下し、湖南の地を図ろうとした。当時湖南の地には武帝の七男である湘東王繹(後の元帝)がいたが、彼は憂慮して救いを北方の西魏に求め、四川の地を背後から撃つことを求めた。これに対し西魏では将軍尉遅迥を派して四川を討つ計を定め、翌年3 月、軍を起こす。武陵王は防戦に努めたが、結局8 月成都は陥落し、四川は北朝の西魏の領有に帰し、南朝は対北朝の国際戦略上の重要拠点である四川の地をこうして喪失したのである。このような流れを受けて、南北朝時代は最終的に北朝最後の王朝である隋による中国再統一へと帰結して行く。このことを南朝の側から見るとき、それは南朝を中心とした世界システムの崩壊を意味していたといえるであろう。
北朝の拡大、隋唐帝国の出現は南朝のみに影響を及ぼしたのではない。先に取り上げた北魏世祖太武帝が宋の太祖に送った手紙にも見えるように、それまで南朝と連動、あるいはその傘下にあった柔然、吐谷渾、雲南爨蛮(雲南にあった南蛮勢力)、高句麗、百済などの諸勢力は唐代にかけて相継いで滅亡する。一方で、それら諸勢力の背後にあって勢力を蓄積してきていた突厥、吐蕃(チベットで興起)、南詔(雲南で興起)、渤海、新羅、日本などが興隆してくるのである。本章で示した高句麗、百済の滅亡、新羅による半島の統一はその好例ということが出来るであろう。そしてそうした動きは、例えば、南朝時代、南朝の寧州刺史などに任じ、昆明・曲靖を中心として雲南東部を支配した爨氏勢力や、大理を中心として独立勢力を形成した張氏白子国勢力が、隋唐の攻撃を受けて滅亡し、替わって南詔が勃興してくる動きにも見えるように、東アジア規模において生じた動きであったのである。
それ故、倭国が遣隋使、遣唐使の派遣を通じて、国制の大改革を実施し、白村江の戦いによる敗戦を一つの主要な契機として古代律令制国家を完成させ、国号を日本と称した動きも、単に国内問題、あるいは朝鮮半島の動きといったような規模で捉えるべきことがらではなく、上で述べたような中国を中心とした「天下」の動きのなかにおいて捉えるべきものと考えられるのである。
夷狄であった五胡の中から出現した北魏が、南朝と同じく正統王朝であることを示す北朝の呼称をもって中国の士大夫からも認知され、北朝を受けた隋唐が中国の正統王朝となるという逆転現象、隋唐の文化、国制に見出される胡俗文化の影響などに注目するとき、秦漢から魏晋へと受け継がれてきた中国史の流れはここにいたって一転し、従来非正統なところに生じた流れが正統となるという、極めて興味深い展開をこの時代の歴史は示している。
また、本章において筆者は古代日本における歴史展開をその中華意識の形成という観点から考察したが、その軌跡を五胡・北朝・隋唐に至る中国史の展開と比較するとき、秦漢魏晋的秩序から見ると、同じく夷狄であったものが、それぞれに「中華」となるという点で(「東夷としての倭から中華としての日本へ」と「五胡から中華への変身」)、両者は相似た軌跡を描いたのである。そしてこの軌跡の類似は、今まで述べてきたことを踏まえると、決して偶然に生じた類似ではないといえるのである。すなわち、五胡・北朝・隋唐と古代日本は、秦漢帝国を母胎として、その冊封を受けるという形で魏晋南朝的システムの中から成長し、それを突き崩しつつ出現した、という面で共通した側面をもつ国家群であったといえるのであり、7 世紀東アジアの国際秩序は、マクロな視座から捉えたときそのような過程をへて創成されたものといえるのである。  

1 西嶋定生『倭国の誕生』(東京大学出版会、1999 年)参照。
2 大庭脩『親魏倭王』(学生社、1971 年)参照。
3 266 以降の280 年、西晋は呉を滅ぼし天下を統一する。その後、4 世紀初頭の八王の乱の勃発まで、西晋は中央において混乱の目を生じていたが、繁栄していた。それ故、266 年から300 年までの間に、倭国使が朝貢した可能性はある。
4 この年、高句麗も東晋に遣使している。この頃、高句麗と倭国が交戦状態にあったことから、この年の倭国使を高句麗が同伴した倭国捕虜とする説もある。
5 『宋書』倭国伝に、「順帝昇明二年、遣使上表曰。封国偏遠、作藩于外。自昔祖禰、躬擐甲冑、抜渉山川、不遑寧処。東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国。王道融泰、廓土遐畿。累葉朝宗、不愆于歳。臣雖下愚、忝胤先緒、駆率所統、帰崇天極」とある。
6 辛亥年、七月中記。乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児弖已加利獲居、其児多加披次獲居、其児多沙鬼獲居、其児半弖比、其児名加差披余、其児名乎獲居臣。世々為杖刀人首、奉事来至今。獲加多支鹵大王寺、在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也。(稲荷山古墳出土鉄剣銘文)治天下獲加多支鹵大王世、奉事典曹人、名无利弖、八月中、用大鋳釜幷四尺廷刀、八十練六十捃三寸上好□刀。服此刀者長壽、子孫注々得三恩也。不失其所統。作刀者名伊太□、書者張安也。(船山古墳出土鉄剣銘文)
7 山田統「天下という観念と国家の形成」(初出一九四九年、『山田統著作集』、明治書院、一九八一年、第一巻所収)参照。
8 この倭王の天下はこの時点で倭国の支配下に入っていた領域のみを指していたわけではなく、先に見た「毛人五十五国、衆夷六十六国、海北九十五国」をも含むものであったであろう。この点に関しては、川本芳昭「漢唐間における「新」中華意識の形成−古代日本・朝鮮と中国との関連をめぐって−」(『九州大学東洋史論集』30 号、2002年)参照。
9 武田幸男『高句麗史と東アジア』(岩波書店、1989 年)参照。
I 川本芳昭『中華の崩壊と拡大−魏晋南北朝−』(講談社、2005 年)、前掲「漢唐間における「新」中華意識の形成−古代日本・朝鮮と中国との関連をめぐって−」参照。
J 渡邉信一郎「隋文帝の楽制改革−鼓吹楽の再編を中心に−(『唐代史研究』8 号、日本唐代史研究会、2005 年)、川本芳昭「鮮卑の文字について」((九州大学21 世紀COE プログラム:東アジアと日本、統括ワークショップ報告書、2007 年)参照。
K 増村宏『遣唐使の研究』(同朋舎、1988 年)130 頁参照。
L 例えば『後漢書』李固伝に、李固の対策を挙げ、そこに、「中常侍在日月之側、聲勢振天下。」とある。
M 『史記』巻110 匈奴伝に、「高帝乃使劉敬奉宗室女公主、為単于閼氏、歳奉匈奴絮庶米植物各有数、約為昆弟以和親。冒頓乃少止。」とあり、『二十二史剳記』巻25 宋遼金夏交際儀には、「大概両国交際、毎重儀節之間。澶淵之盟、宋為兄、遼為弟。」とある。
N 原文は以下の通り。「其王與清相見、大悦曰、「我聞海西有大隋、禮義之國、故遣朝貢。我夷人、僻在海隅、不聞禮義。是以稽留境内、不即相見。今故清道飾館、以待大使。冀聞大国維新之化。」清答曰、「皇帝徳並二儀、澤流四海。以王慕化、故遣行人來此宣諭。」
O 『日本書紀』に見える煬帝の国書の原文は以下の通り。其書曰「皇帝問倭皇。使人長吏大礼蘇因高、至具懷。朕欽承寶命、臨仰區宇。思弘徳化、覃被含靈。愛育之情、無隔遐邇。知皇介居海表、撫寧民庶、境内安樂、風俗融和、深氣至誠、遠脩朝貢。丹款之美、朕有嘉焉。稍暄、比如常也。故遣鴻臚寺掌客裴世清等、稍宣往意。并送物如別。」
P 川本芳昭「隋書倭国伝と日本書紀推古紀の記述をめぐって−遣隋使覚書−」(『史淵』141 輯、2004 年)参照。
Q 李成市『古代東アジアの民族と国家』(岩波書店、1998 年)305 頁参照。
R 古代日本における「天皇」号の開始については、推古の時からとするものと、天武の時からとするものとがあり、現在は後者の説を支持する研究者が多い。その意味で、後者の立場を中心として、本文に引用した史料には、後世の改竄が加えられているとされる。本稿は天皇の最初の使用を外交の場においてであったとして、前者の立場に立つものである。ただし、この考えは律令制の確立とともに、天武の時から正式に天皇号が確立することと矛盾するものではない。なお、古代の天皇制については大津透『古代の天皇制』(岩波書店、1999 年)参照。
S 前掲拙稿「隋書倭国伝と日本書紀推古紀の記述をめぐって−遣隋使覚書−」参照。
[21] 八木充「百済の役と民衆」(小葉田淳教授退官祈念会『国史論集』、1970 年)、鬼頭清明「白村江の戦いと律令制の形成」(同著『日本古代国家と東アジア』所収、校倉書房、1976 年)、韓昇「日本と白村江の戦い−政治決定と軍事行動」(九州大学21世紀COE プログラム:東アジアと日本、国際シンポジュウム:東アジアにおける交流と変容、2004 年)等参照。
[22] 川本芳昭「倭の五王による劉宋遣使の開始とその終焉」(『東方学』76 輯、1978年 、同『魏晋南北朝時代の民族問題』汲古書院、1998 年所収)参照。  
 
15 世紀から16 世紀の東アジア国際秩序と日中関係

 

はじめに
1402 年、日本の実質的な最高権力者であった足利義満が、明の建文帝によって「日本国王」に冊封された。これは、確実なところでは478 年に、「倭の五王」のしんがり武が、中国南朝の宋の順帝から、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東太将軍倭王」に封じられて以来、じつに900 余年ぶりのできごとであった。
日本の古代国家は、7世紀以降、中国の諸王朝とは対等、朝鮮半島の諸王朝よりは上位、という国際的地位の実現を戦略目標とした。8世紀初頭に編纂された日本律令もその枠組みで構成されている。しかしその戦略は、中国からも朝鮮からも受け入れられず、日本にとっての理想型の域を出なかった。しかし、日本の支配層は、東アジア国際社会の現実に自己を合わせるのではなく、中国・朝鮮と正式の国交を結ばないことによって、観念のなかで建前を温存することを、伝統的な外交姿勢とした。
義満にその強固な伝統を破らせた力は何だったのか。また、実現した「日本国王」という地位は、天皇・朝廷が存在するなかで、国内的・対外的にどう機能していたのか。また、15-16 世紀には、日本も中国も大きな経済的変動を経験したが、そのなかで明中心の国際秩序はどのように変貌し、明征服を最終目標とした豊臣秀吉の朝鮮侵略政争、さらには女真族による中華の奪取へとつながっていったのか。本章では以上のような課題を、できるだけ簡潔に、かつ筋を通して述べてみたい。 
1 冊封体制への編入
a倭寇と「日本国王」
1368 年に中国で明が建国されたころ、東シナ海沿岸地域では海賊の横行が深刻な外交問題となっていた。彼らは朝鮮や中国から「倭寇」と呼ばれたが、その実態は「日本人の海賊」だけから構成されるものではなく、日本列島の西辺を主要な策源地としつつも、国境をまたぐ海域を活動の場とする超国家的な海民や交易民の集団であった。13-14 世紀の東アジアでは、国境や海を超えたヒト・モノ・情報の往来が、民衆レベルにまで及んで活発化し、それが中国・日本の内乱状況とあいまって、倭寇を発生させた。
明は、日本に送った2通目の外交文書で、山東で起きた倭寇事件に言及し、中華の正統を握ったことと並べて「倭兵海を越ゆるの由」を諭し、もし禁圧できなければ兵を送って国王を捕縛する、と警告した(『太祖実録』洪武2年2月辛未条)。このころ、朱元璋と覇を争った方国珍・張士誠の残党が、海島に潜み、「倭を勾きて寇を為す」動きがあり、明は沿海民が「倭」と連携するのを恐れて、その出海を禁じた(『明史』兵3海防)。これが明代を特徴づける海禁政策の始まりである。このように、国の基礎固めを急ぐ明にとって、倭寇問題は内政とも直結した問題であった。それだけに明は強い姿勢で日本に連年のように外交攻勢をかけた。
当時の日本は、30 年以上も王権が南朝・北朝に分裂して内乱状態が続いていた。伝統的な外交窓口大宰府の所在する北九州は、京都の北朝・幕府勢力と対立する南朝方の征西府の牙城であった。明の使者を迎えた征西府の懐良親王(南朝の創始者故後醍醐天皇の皇子)は、初め伝統的外交観に従って、明の要求を拒絶していた。しかし、やがて明を後ろ盾に北朝側に対抗する戦略からであろう、臣従の使節を明へ送り、1371 年に洪武帝から「日本国王」に封じられた。明が地方勢力の主にすぎない懐良を「日本国王」に立てたのは、認識不足による錯誤とする説がある1けれども、元代以来日中間のヒトの往来はきわめて盛んだったから、明側に日本情勢の認識はそれなりにあったはずである。懐良冊封は、倭寇問題の解決能力を「日本国王」の要件とする明の選択によるものと考えられる。
ところが、征西府は1372 年に北朝方の九州探題によって大宰府を奪われ、急速に没落する。懐良冊封のため来日した明使は、九州探題に拘束され、急遽交渉相手を北朝・幕府に切り替えて、翌年京都に至る。京都政権の実権を握る幕府将軍足利義満は、使節を明に送って国交開始を試みたが、明は義満に外交の資格なしとして退けた。九州平定が未完了のため、倭寇問題の解決能力が充分でなかったことも、義満の挫折の一因であった。さらに、明が「日本国王」に冊立した懐良を軍事的に援助するという事態になれば、幕府は深刻な危機に陥ることになる。征西府を叩きつぶして懐良から「日本国王」の実質を完全に剥奪することが、九州における戦争の目的となった。
一方、明側は、征西府没落後も懐良を「日本国王」に認定する態度を変えなかったが、1380 年に左丞相胡惟庸を謀反の罪に問うて胡党の大粛清を行い、6 年後に胡党の林賢が「日本国王」を謀反に加担させようとしていた陰謀が明るみに出ると、洪武帝は日本との国交を断った。林賢と「日本国王」の陰謀については、荒唐無稽として退ける学説が有力だった2。しかし、1381 年に「日本国王」の使節として明に渡航し、捕縛されて雲南に流されたとみられる四人の日本僧の墓が、雲南省大理市に現存する3。胡党はモンゴルの残存勢力「北元」にも謀反への加担を呼びかけていた。この輪に加わって恩を売り、九州での劣勢をはね返そうとする壮大な戦略を、懐良は「博戯」と呼んでいる(『明史』外国3日本)。義満は1379 年にも対明通交を試みて拒絶され、しばらくは国内の体制固めに専念する。
一つは九州の平定で、1381 年に九州探題軍が肥後で征西府軍を大破し、83 年に懐良が死去することでほぼ達成された。ところが、九州探題今川氏や本州西端の大大名大内氏は、征西府との戦争を通じて力をつけ、やがて、朝鮮半島に兵を送って倭寇を討ったり、倭寇の捕虜を高麗に送還したりして、独自に外交の舞台に登場するに至った。これを警戒した義満は、1395 年に九州探題今川了俊を罷免し、99 年に大内義弘を謀反の罪で討伐して(応永の乱)、九州を直接に掌握する一方、外交上競合する可能性のある勢力をほぼ全滅させた。それ以前の1392 年に、南朝を平和的に北朝に吸収させ(南北朝合一)、いくども幕府に敵対する勢力の旗じるしとなってきた南朝は消滅していた。
もう一つが、急速な朝廷官位の上昇である。1394 年に37 歳で人臣の最高位太政大臣にまで昇りつめた義満は、早くも翌年にこれを辞退して出家した。急速な昇進の一つの目的は、できるだけ早く天皇の臣下で構成される官職体系から離脱し、明から「陪臣」のそしりを受けない立場に身をおくことにあった。出家は現世からの離脱ではなく、世俗身分からの超越を可能にする形式であった。1401 年に久々に対明通交を試みた際、義満は「日本准三后道義」と名のった。准三后は皇后・皇太后・大皇太后に準ずるという意味の名誉称
号で1383 年に獲得していたもの、道義は法名である。
b「日本国王」号の意味するもの
明では、晩年に対外消極方針を堅持した洪武帝が1398 年に死去し、嫡孫の建文帝が即位して、状況の変化が生じた。燕王に封じられて北平(のちの北京)にあった建文帝の叔父(洪武帝の子)朱棣は、翌年早くも帝位を窺って反乱を起こし、明は南京と北平の両政権に分裂する状況となった(靖難の変)4。そんなさなかの1401 年に到来した義満の使節を、建文帝は祖父の遺命に背いて受け入れ、翌年2月、義満を「日本国王」に冊封する使節を日本へ送った。前年には、洪武帝時代には「権知国事」(仮に国を治める者)に留められていた朝鮮国王を冊封している。建文帝にとって、朝鮮や日本と結ぶことは、燕王との対抗上欠くことのできない布石であった。しかしそれは遅きに失し、1402 年6月、燕王は建文帝を滅ぼして即位した(永楽帝)。
同年8月、建文帝の詔書を携えた使節が京都に到着し、義満は焼香三拝して詔書を受領した。翌年、義満は「日本国王臣源」の名で謝恩使を明使の帰国に同行させて送り出したが、その際、明の状勢を考慮して、建文帝あてと永楽帝あての2通の表文を持たせた。義満は明の状勢をよく知って対策を練っていたことがわかる(最初絶妙のタイミングで建文帝に使節を派遣したのも、情報収集の成果かもしれない)。南京に到着した使節は、即位の祝賀使に早変わりして、永楽帝に上表した。帝はただちに義満を「日本国王」に封じ、勅使に冠服・金印等と永楽勘合100 道を持たせて義満のもとに送った。こうして得られた勘合による最初の遣明船は1404 年に渡航した。これが勘合貿易の始まりである。
武家である幕府が国際関係の場に乗り出すには、それを支える人的基盤があった。南宋〜元の時代、日中貿易の活況にともなって、日本から僧侶が中国に渡航し、修行参学する動きがさかんになった。13 世紀なかば以降は、中国僧の日本渡来もあいつぎ、交流は双方向となる。そうしたなかで、博多・鎌倉・京都などの都市に中国風を直輸入した寺院が建てられ、中国文化を身につけた僧侶が養成された。鎌倉幕府の実権を握る北条氏や室町幕府を開いた足利氏は、自己を飾る新たな宗教的権威として彼らに着目するとともに、その能力を外交に利用した。とくに幕府と密接に結んで「官寺」の性格を帯びるようになった臨済宗五山派は、幕府の外交部局として機能した5。
14 世紀後半の倭寇の時代にも、15〜16 世紀の勘合貿易の時代にも、外交文書の起草や外交使節に任じたのは、ほとんどが五山派を筆頭とする禅僧たちであった。対朝鮮関係も同様である。ところが、きわだった例外が一つある。ほかならぬ1401 年に義満が建文帝に送った使節がそれで、文書の起草と清書には学問・書道を家業とする貴族があたり、正使・副使には義満側近の時宗(浄土教系)の僧侶と博多の貿易商人が起用された。当時の代表的な知識人であった禅僧は、意外に伝統的対外観に強く囚われていたから、義満のもくろむ破天荒な路線転換にあたっては、起用しづらかったのではないか。
足利義満が天皇家から皇位を簒奪する野望を抱いていたか否かに関しては、近年否定的な意見が多い6。その論調は、せっかく築いた政権を、支配層の秩序意識を逆撫ですることで揺るがすような、おろかな行為にふみきるはずがない、というものである。実現しなかったという結果から出発すれば、そのような結論にしかなるまい。
義満は、自己の望むところを、周囲からの発案を誘導する手法で実現するという、タクティクスに長けた人物であった。その意味で彼の死後、貴族たちが「太上法皇」号を贈ろうとした事実は注目される。彼が重要な法会に法皇の出で立ちで臨んだ、愛児義嗣を親王の準拠で元服させた、などの事実を加えて考えれば、彼の脳髄に義嗣を皇位に即けるプログラムができていたとみて不自然ではない。
しかしその達成は容易ではなかっただろう。義満が1393 年の後円融上皇の死後、朝廷人事を実質的に左右するにとどまらず、官位の形式的な叙任権までも掌握したとする学説7は、史料の誤読の上に立てられたものである。彼としては、無理をせず、周囲の勧めに従う形をとって、熟柿の落ちるのを待つつもりだったのかもしれない。しかし1408 年、義嗣の元服直後に、義満は急病で51 年の生涯を閉じ、そのプログラムが実現することはなかった。
問題は、義満の「日本国王」冊封が皇位簒奪計画とどうからむかである。天皇を頂点とする秩序体系から離脱した義満は、天皇を超える権威として明皇帝とのつながりを求めた、とする学説がある8。しかし、義満が明皇帝の「臣」を称したことは、彼を権威づけるどころか、中国とは対等なるべしとする貴族層の伝統的自尊意識を刺激し、根強い批判を招いた。彼自身には中国尊崇の気持ちが強かったようだが、彼が朝廷をも従えて主宰する政権にとって、「日本国王」冊封は不安定要因でしかなかった。
通常、中国の冊封を受けた東アジア諸国は、王が皇帝に臣従したことを明示し、中国の年号と暦を国内統治にも使用する。もちろん、中国に対する自立意識が高揚した時期に、周辺諸国が独自の年号を建てたりする例は散見するが、日本の場合、冊封を受けること自体が異例な上に、もっとも中国化が進んだ義満の時代でさえ、「日本国王」号や明年号・明暦が国内で使用された形跡はない。
冊封体制への編入といっても、天皇を中心とする旧支配層が「日本国王」号を王権の主体として認知したわけではなかった。義満の跡を継いだ足利家の家長たち(「室町殿」と呼ばれた)は、明に向けては「日本国王」を名のって日本の王権の主体のようにふるまいつつ、国内に対してはそれをあからさまにせず、天皇の存在を容認していた9。1471 年に朝鮮で作られた日本・琉球地誌『海東諸国紀』に収められた「日本本国之図」は、「山城州」のなかに「天皇宮」と「国王殿」を並べて記している。 
2 勘合貿易と地域間交流
a勘合と勘合貿易
義満の死後、名実ともに幕府の主となった嫡子義持は、初め明に「日本国王」の継承を告げて国交を結んだが、1411 年に来日した明使を追い返して、国交を断絶した。義満の対明臣従路線に批判的な勢力が、朝廷だけでなく幕府や有力寺院にもあり、そのあとおしを受けつつ、父の方針を覆したのである。しかし、義持の跡を襲った弟の義教は、1432 年に遣明使を復活させ、以後16 世紀なかばまで11 回の派遣が続いたI。
その間、室町殿は対外的に「日本国王」を名のり続けたが、彼らも義満同様、それを中国による権威づけとして国内統治に利用することはなく、外と内とで顔を使い分ける方式を続けた。むしろ「日本国王」は、冊封にともなって始まった中国公認の「勘合貿易」において、日本唯一の有資格者の名義として機能した。
「勘合」とはもともと中国国内で地方に赴く使節に与えられた通行証であり、チェックポイントに置かれた原簿と勘合に捺された印を照合することによって、その使節が真正のものであることが証明された。先述のように、1403 年に永楽帝から100 道の勘合が義満に交付されたが、その運用のシステムはつぎのようなものであったJ。同様の制度は、日本以外の周辺諸国と明との間でも行われたものと思われるが、細部まで具体的にわかるのは日本の場合のみである。
勘合は料紙に縦長長方形の朱印の左半分を2つ並べて捺したもので、よく誤解されているような割符ではない。朱印の印文は「日字 号」と「本字 号」の2種類があった。料紙上に別の小さな縦長の紙を置いて、両紙にまたがるように朱印を捺し、印の空格部分に墨で1〜100 の通し番号を書きこむ。そうすると、印影と墨字の左半が料紙に、右半が別紙に残る。この別紙百枚を綴じたものを「底簿」または「勘合底簿」といい、料紙に2つ並べて捺印するから、底簿も2扇(束)できることになる。勘合と底簿の設置場所について、『戊子入明記』所収宣徳八年(1433)六月礼部置文は、つぎのように述べる。
日字号勘合并びに日・本二字号底簿二扇を将て、收留して此に在り。及び本字号勘合并びに日字号底簿一扇を将て、人を差して日本国に齎赴し收受せしめ、本字号底簿一扇を将て、福建布政司に発して收貯せしむ。(「字」「此」の2字は意によって補った)日字号勘合100 道と日字号底簿・本字号底簿各1扇は礼部に留められ、本字号勘合100道と日字号底簿1扇は日本国へ送られ、本字号底簿1扇は福建(「浙江」の誤りらしい)布政司に置かれる。「日本国王」は遣明船1艘につき番号順に「本字n号」の勘合1道を持たせる。遣明使の持参した勘合は、日本船の受入港寧波の浙江布政司と南京(のち北京)の礼部の2箇所で、「本字n号」の底簿と突き合わされて、資格審査が行われた。日字号勘合・底簿の使用法は後述する。
勘合は、発行時の明年号を付して「永楽勘合」「宣徳勘合」などと呼ばれ、皇帝が代替わりして年号が変わると、未使用のものは返還し、新勘合が交付される決まりであった。1434 年、足利義教が遣明正使恕中中誓に持たせた明礼部あての咨文(『善隣国宝記』巻下)には、勘合に関する重要な情報が含まれている。
日本国、今填せる本字壱号勘合壱道もて、謝恩の事の為にす。宣徳捌年陸月初拾日、礼部の日字壱号勘合の咨文を准くるに、該の欽差内官雷春等の齎捧(もたらす)せる、誥命并びに給賜等の物と、勘合・底簿は、欽遵して逐一照数して収領せり。‥‥今開す。壱つ。謝恩の表文壱道。永楽年号本字勘合伍拾漆道・同日日字勘合百通底簿壱扇を齎繳(返納)す。‥‥先述のように、義教は1432 年対明通交を復活させ、これを受けて宣徳帝は、翌年、義教を日本国王に封じる誥命および給賜品と、宣徳の本字勘合100 道・日字勘合底簿1扇を、使節雷春に託して日本へ送った。これに答えて義教が派遣した謝恩使の正使恕中には、宣徳の本字壱号勘合が渡された。その際、義満がもらった永楽の本字勘合の未使用分57 道と日字勘合底簿1扇も、返納のため恕中に渡された。ここから、1432 年までに渡航した勘合船の総数が43 艘であった(1432 年の5艘を差し引いた永楽年間の船数は38 艘)ことがわかるが、さらに制度自体についても重大な事実が知られる。
第一に、明使が礼部の発給する「日字壱号勘合の咨文」を携えていたことと、日字勘合底簿が日本側に渡されていたことから、日字勘合・底簿を用いた、明船を日本側がチェックするシステムが機能していたことが判明する。勘合の制度は、諸国使の入明を規制するだけのものではなく、日字勘合底簿1扇が礼部に留置された点(その目的・機能は不明)を除いて、相互的・対称的なものであった。第二に、「礼部の日字壱号勘合の咨文」という表現から見て、勘合の料紙上に礼部咨文の文章が記されていた(逆にいえば咨文を書く料紙に勘合が用いられた)、と考えられる。遣明船は3ないし数隻の船団をなして渡航したが、正使にはかならず「日本国王」の明皇帝あて表文が託された。先の咨文にも、「今正使を差はし、謝恩の表并びに進貢の方物を開坐す」とある。つまり勘合貿易は、「日本国王」の進貢に付随してのみ認められる朝貢貿易の一種であった。また勘合は「日本国王」が保管し、その料紙上に「日本国」の礼部宛て咨文が書かれた上で、各船に1道ずつ渡された。したがって遣明船を送ろうとする勢力は、「日本国王」の進貢の機会を待つことと、「日本国王」から勘合の交付を受けることの2点が必須であった。
遣明船貿易には、進貢貿易・公貿易・私貿易の3形態があった。進貢貿易は「日本国王」から明皇帝への進物と、その逆方向の回賜からなるが、全体に占める割合は小さかった。公貿易は明政府が荷物を買い上げるもので、刀剣・硫黄・銅・扇・蘇木などがおもな品目であった。蘇木は東南アジアから琉球を経てもたらされたものの再輸出である。私貿易は寧波・上京路・北京で民間商人と取引するもので、銅・金などの鉱産物や公貿易で給付された銅銭を原資に、生糸・絹織物・陶磁器・書画などが購入された。貿易利潤は、うまくいけば刀剣や銅の場合5倍にもなった。公・私貿易における利潤の多寡は、使節の才覚にかかる部分が多かった。入明記には、公・私貿易の価格(なかでも公貿易の買い上げ価格)交渉に、使節が奔走するようすが記されている。
永楽年間の38 艘の勘合船は、すべて幕府の派遣になる「公方船」だといわれているが、その実態は史料が乏しく不明な点が多い。むしろ、「公方」以外の派遣主体が参入していたと考えたほうがよさそうである。この時期の特徴は、明使の帰国に合わせて渡航し、帰航時に明使をともなうというように、日明の相互に使節の往来があったことである。貿易利潤の追求だけが船を送る目的ではなく、政治的な性格がなお強かったといえるK。「公方船」は、1432 年以降しだいに数を減じ、1493 年を最後に姿を消す。明使の到来も1434 年が唯一の例で、日字勘合の機能は、帰航する遣明船に与えられて、回賜品の押領等の不正行為を封じることに変化したと推察される(橋本雄説)。船の派遣主体の多くは有力守護大名や大寺社で、「公方船」をも含め、実質的な経営は商人が担った。1476 年と83年の「公方船」は、細川氏の息のかかった堺商人の請負によるものであった。
勘合船が帰航すると、1艘につき3000〜5000 貫文程度の「抽分銭」が商人から派遣主体に納入された。抽分銭は、帰国時に、輸入された物資の価額を計算してその1割を納入する場合Lと、出発時に、見込まれる輸入価額の1割を納入することを請負う場合があり、抽分の語義に近いのは前者であるが、時代が下ると後者の方式が多く採用された。当然ながら、後者では見込みがはずれても額が変更されることはなかった。抽分銭を納入した残余が商人の収益となるが、見込み通りの売り上げがあった場合、通常で2万5000 貫程度に上り、利益率は約2.5倍であったM。
このように、貿易の利幅はたいへん大きかったので、多くの勢力が参入を望み、勘合を握る「公方」は、自前で船を派遣しなくても、「勘合礼銭」を収入とすることができた。その相場は、後期には1艘で300 貫文、3艘まるごとだと1000〜1100 貫文程度であった。
b海洋アジアの交流世界
東アジアの国際秩序を構成する要素は、中国中心の冊封とそれにともなう貿易のみではない。ここでは、冊封関係の彼方で周辺の諸国家・諸地域が結んでいた独自の交流世界を、琉球を中心に一瞥してみたい。なぜ琉球なのか。琉球は、周辺諸国にくらべて、陸地面積こそきわめて小さいが、中国・日本・朝鮮・東南アジア諸国に囲まれた、海路の要に位置している。ユーラシア東部を、長江の流路あたりを境目に、北側の内陸アジアと南側の海洋アジアに区分するとすれば、琉球は海洋アジアの中心というべき場所を占めている。
琉球は、恵まれた位置どりを活かして、海上交易の担い手として莫大な富を築き、未開地域のなかでは比較的早熟に国家を形成した。1458 年、国王の居城首里城の正殿に懸けられた大鐘には、つぎのような銘が刻まれている(沖縄県立博物館所蔵)。
琉球は南海の勝地にして、三韓(朝鮮)の秀を鍾め、大明を以て輔車と為し、日域(日本)を以て脣歯と為す。此の二中間に在りて湧き出づるの蓬莱嶋なり。舟楫を以て万国の津梁と為し、異産至宝は十方の刹に充満せり。琉球にとって追い風となったのが、倭寇問題を契機に明が採用した、沿海の民が私に出海することを禁じる海禁政策である(前述)。海禁の結果、外国の産物を中国商人を通じて入手することが困難になった明は、冊封関係にともなって琉球が朝貢する形式で、それらの物資を入手するシステムを作りあげた。その見返りとして、明は、随時通貢の許可、貿易船の賜与、子弟の高等教育の機会提供などの便宜を、琉球のためにとり計らった。琉球は、東南アジアの8つの国と国交を結び、朝貢の見返りに明から獲得した陶磁器・織物などを東南アジアに運んで、蘇木・胡椒などの特産物と交換し、それを明への朝貢品に充てる、というサイクルを回転させたN。日明勘合貿易における日本の輸出品として登場していた蘇木は、琉球が東南アジアから買い付けた品の一部が日本へ流れたものだった。このような華々しい活動の記録として、琉球は厖大な外交文書集『歴代宝案』を残した。そこに収められた外交文書の控えは、中国国内で使用された公文書の様式に従って、漢文で書かれている。文章のみならず様式まで忠実に写されているので、明・清代の公文書の書式を知る上でも貴重な史料であるO。収められた文書の多くは、琉球・中国間の冊封関係に基づいて両国間でやりとりされたものである。しかし、相対的に少数ながら、琉球と朝鮮および東南アジア諸国の間でやりとりされた文書も見出され、そこから、海洋アジアの豊饒な交流世界をかいま見ることができる。
琉球・朝鮮間の往来は、洪武〜永楽年間には媒介者なしになされていたが、1431 年には対馬の客商早田六郎次郎、1458 年には吾羅沙也文(五郎左衛門)、1467 年には博多商人道安、1470 年には新右衛門尉平義重が外交文書の運び手であった。いずれも日本人で、博多・対馬の人間が中心である。琉球から東北方向、日本列島や朝鮮半島との交易は、当初琉球船も積極的に参入していたが、しだいに倭寇勢力に主導権を奪われていった。1470 年の事例になると、この通信が朝鮮に到着したときには、使節の名も持参した外交文書の内容も、まったく別物にすりかわっていた。その後15 世紀末にかけて、しばしば朝鮮を訪れた琉球国王使は、すべて倭寇勢力が仕立てた「偽使」であったP。
他方、琉球・東南アジア諸国間の往来では、明の後援を得た琉球の積極性が際だっている。琉球が発した定型的な文書では、「明への進貢の品を確保するために、磁器などを積載して貴国に赴き、胡椒・蘇木などを収買して回国したい」と明記され、相手国への礼物には付けたりのように触れているにすぎない。通交の形態は、最初琉球の側から国交をもちかけ、以後も琉球船が相手国に赴いて返書を本国に持ち帰る、という形が圧倒的で、東南アジア諸国の船が琉球に来た例は一、二しか見出すことができない。
しかし、『歴代宝案』には、明との冊封関係に直接規定されない地域間の交流を語ってくれる文書もある。1428 年に開かれた旧港(スマトラ島のパレンバン)との関係は、その意味で興味深い事例であるQ。
1428 年に琉球王相懐機が旧港管事官に宛てた書簡に、つぎのような経緯が記されている。1421 年、旧港の施済孫から派遣されて博多に滞在中の使節20 余名を、「日本国九州官」渋川満頼(九州探題の父)が、琉球に送致して、本国への逓送を求めたR。琉球では、旧港への海路を諳んずる船長がいないので、暹羅に赴く正使闍那結制に旧港人を託し、暹羅から旧港へ送致してもらうように乞わせた。ところが、送還の成否が不明のまま時が過ぎたので、懐機は、今回旧港に赴く使節にこの書簡を持たせて送り出した。ここから、九州探題 琉球国王相 (暹羅) 旧港管事官という、国王より1レベル下の人間相互のつながりと、そのルートによるヒトの移動が観察できる。
1428 年の旧港あて琉球国中山王咨文に、「胡椒等の物を収買せしむ。回国して謹んで中国に進貢するに備ふ」とあって、通例と同様進貢物の獲得という目的が掲げられている。これだけを見れば、明の冊封体制の枠内で終始した事例にすぎないかに見える。しかし、たまたま残された同日付の執照(通行手形)Sが語る実際の経緯は、つぎのようなものであった。旧港での磁器販売をもくろんだ「実達魯」が、旧港官司の臨検をスムーズに通過できるように「文憑」の発給を琉球王府に求め、それに応じて国王名の咨文と執照が交付され、実達魯を正使とする使節団が組織された‥‥。実達魯の渡航の主目的は商業だったのである○21 。また、執照の文中に「義字七十七号半印勘合執照」とあり、琉球は外国との通交(明を含む)にあたって「半印勘合」を資格証明に用いていた。この勘合は、琉球王の代替わりごとに字(千字文を使用)が改められ、一号からの通し番号で発給されたから、明から賜与されたものではなく、琉球が独自に設定したものであったと考えられる。なおこの場合、勘合を料紙として記されたのは咨文ではなく執照(のちに符文が加わる)の文であった。
当時の旧港は形式上爪哇国(マジャパヒト朝)に服属していたため王が存在せず、1407年に明の船団長鄭和から「旧港宣慰使」に任じられた施進卿の子済孫が、1424 年に宣慰使の地位を嗣いでいた。旧港という国家の実体は、「爪哇国旧港宣慰司」と呼ばれる華僑集団で、そのリーダーが宣慰使を世襲する施氏だった。そこで、敵礼を考慮して琉球側は国王が表に出ず、王相の懐機が旧港管事官と文書を応酬することになった。懐機は素性の明らかでない人物だが、おそらくは琉球に定着した華僑であろう。つまりこの例には、通常の国王間の咨文からは見えない1レベル下の有力者(華僑などの商人が中心)相互の交流が露呈しているのである。
以上より、琉球・東南アジア諸国の関係は、明中心の冊封関係の外被に覆われているが、通交や貿易の実態に近づけば近づくほど、商業的な要素が優越することがわかる。取引にあたっては、琉球は相手国の官司による買い取りをできるだけ回避し、市場価格での取引を求めている。その際琉球が掲げたスローガンとして、『歴代宝案』文書に頻出するのが、「両平」(利益を互いに分かち合うこと)と「四海一家」の2つであった。
『歴代宝案』文書によるかぎり、東南アジア諸国から琉球へ能動的に船を送ることは、まれであったかに見える。しかし、『海東諸国紀』の「琉球国之図」を見ると、那覇港のところに「江南・南蛮・日本商舶所泊」と記されている。『おもろさうし』にある那覇港建設を歌った有名な歌に、「たうなばんよりやうなはどまり(唐・南蛮寄り合う那覇泊)」という句がある。また、16 世紀のヨーロッパ・日本の史料からは、南九州・琉球・ルソン間の船の往来を知ることができる。これらの史料に出る「南蛮」船の姿は、『歴代宝案』の語る冊封関係を中心とする世界の彼方に、おぼろげにたゆたっている。
c王権分裂と勘合貿易の変質
永楽帝の治世(1402-24)は、明の国力が大きく伸長した時代である。皇帝みずから長城以北に出陣するという空前の挙に出たモンゴリア遠征(1410-24 に五回)と、東南アジアからアフリカにまで到達した鄭和の大航海(1405-33 に七回)は、それを象徴する事件である。周辺諸国がこぞって明に朝貢したことも特筆すべきで、朝鮮や日本もその例にもれないし、鄭和の航海の目的も征服よりは「南蛮」の朝貢を促すことにあった○22 。
永楽帝の孫の宣徳帝とその子正統帝も、拡張路線を継承しようとしたが、モンゴル諸勢力の圧服は、思わしい成果があがらなかった。オイラト部のエセンは、東の明と西のティムール帝国を結びつける交易によって力を伸ばし、モンゴリアの統一を目ざしていた。明との朝貢貿易の飛躍的拡大を求めて拒絶されたエセンは、1449 年大挙して明へ攻め寄せた。正統帝はみずからこれを迎撃したが、北京の北100km の土木堡で大敗を喫し、捕虜になってしまった(土木の変)。あわてた北京では弟の景泰帝が立って急場をしのいだが、まもなく釈放されて北京に戻った兄との間で暗闘が続き、ついに1457 年、兄がクーデタで帝位を奪い返すという事態になる(天順帝)○23 。
その後、成化・弘治年間(1464-1505)は、後代から「盛世」と回顧される安定期であったが、モンゴル勢力には押されがちで、他の周縁部も明の統治下から離れていく趨勢にあった。1411 年 にアムール川下流のティルに開かれ、アイヌを含む諸民族の朝貢を受け付けていたヌルガン都司は、はやくも15 世紀なかばには機能を停止した○24 。15 世紀末〜16 世紀はじめになると、建州野人とか海西韃子とか呼ばれた女真族が遼東に勢力を浸透させ、遼東を経由して明に向かう朝鮮の外交使節の安全を脅かすようになる(『朝鮮成宗実録』25 年10 月丙辰条)。山東でも反乱が起き、1506 年に日本を出発した第14 次遣明船の使節一行は、北京に赴くことを許されず、1512 年南京で応接された。1520 年代に福建で始まり、1550 年代に頂点に達した倭寇の猖獗(嘉靖の大倭寇)も、軌を一にする動きであった。
同時代の室町幕府も、どこか明とあい似た軌跡をたどっている。義満・義持の時代に最盛期を迎えた幕府権力は、恐怖政治へと暴走した義教が1441 年に臣下の守護大名赤松氏によって暗殺される(嘉吉の変)と、急速に下り坂へと向かう。山名・細川・大内氏ら有力守護大名はしだいに将軍からの自立度を高め、彼らの連合体の上に将軍が乗っかっている状態となる。
1467 年に勃発し、10 年も続いて京都を焼け野原にした応仁・文明の乱は、将軍家や斯波・畠山という足利一門守護大名家の跡目争いから、幕府・守護体制が大きく二分されるという形で生じた。1490 年、40 年以上も室町殿の地位にあった足利義政が死に、甥の義稙(当時の名は義材)が将軍となったが、1493 年、細川政元がクーデタで義稙を追放し、義稙の従弟義澄を将軍に立てるという事件が勃発(明応の政変)、これを境に将軍は細川氏のあやつり人形にすぎなくなる。1508 年義稙が大内義興に擁されて上洛し、将軍職に返り咲いた。政元の養子高国は、これと結んで政権を維持したが、1521 年に義稙を追放して義澄の遺子義晴を将軍に立てた。義晴(1550 年40 歳で死去)とその子義輝(1546 年11 歳で襲職)は、長期にわたって将軍の座にあったが、その間、義稙の養子となった義晴の弟義維、細川氏の家臣三好元長、高国の甥晴元らとあいついで対立し、京都に居ることすらままならないありさまで、ついに1565 年、義輝が三好義継に殺されてしまう○25 。
こうした動向は、ただちに遣明船の派遣事業にはね返ってくる。1451 年出発の第9次勘合船は、船数9艘・渡航人員1200 名という空前絶後の規模だったが、派遣者に公方の名はなく、天竜寺(3艘)・伊勢法楽舎(2艘)・大和多武峰の寺院と、九州探題・大友・大内の大名がその顔ぶれである。土木の変に懲りた明は、この膨張ぶりに危機感を募らせ、10 年1貢、船は3隻以内、1隻の乗員は100 人以内という制限規定を作った。このころから、明側による買いたたきなどが原因で、使節団とのトラブルが目立つようになる。
1465 年出発の第10 次船は、成化勘合を携えて2年後に帰国したが、ちょうど応仁の乱の最中で、新勘合は幕府・細川氏と対立する大内氏が確保した。ところが、その前の景泰勘合が返還されずに継続使用され、堺商人と幕府・細川氏が送った1476・83・93 年出発の第11〜13 次船は、いずれも景泰勘合を持参した。第13 次船はあらたに弘治勘合をもたらしたので、1506 年出発の第14 次船が景泰・成化勘合の残余を返還するまで、日本には3種類の勘合が併存していた。明が勘合制度を厳密に運用しなかった上に、日本の権力分裂状態がからんで、勘合をめぐる状況は混沌としてくる。
明応政変後の1496 年に第13 次船が帰国したとき、越中に流浪していた足利義稙は、大内・大友・島津の3人に、1艘ずつの船の積荷を兵粮米として与え、自己の上洛の援護を命じた(『大乗院寺社雑事記』明応5年4月28 日条)。こうした勘合貿易の利権化は、勘合自体が一種の有価証券として売買される状況を生む。1501 年に将軍足利義澄の奉行人は、今後の勘合船派遣に関して、初度は将軍代始として送り、次は義満百回忌(1508 年)に就き相国寺に権利を与えるから、三度目を待つようにと、大友親治に告げた。勘合の予約販売である。その相場は、義澄の代始に送られた第14 次船の場合、3艘分セットで1100貫文、1艘分で300 貫文であった○26 。
応仁の乱後の勘合船は、将軍に密着して勘合の発給に関与し、堺商人をバックにもつ細川氏と、日中交通の要地赤間関・博多をおさえ、博多商人をバックにもつ大内氏との、寡占状態に移っていく。15 世紀中は細川側が優勢で、大内氏は望んだにもかかわらず1483・93 年出発の船から締め出されてしまった。ところが、大内船2艘・細川船1艘の構成で渡航した第14 次船が、1513 年に帰航したとき、将軍義稙の擁立者として権力を握る大内義興は、獲得した正徳勘合を懐に入れてしまう。
その結果、第15 次船は3艘とも大内船となり、正徳勘合1〜3号を持って1523 年寧波に入港した。これに対抗して細川氏は、弘治勘合5号を持たせた船1艘を送り、こちらは大内船より数日遅れで入港した。細川船の副使の中国人宋素卿は、賄賂を使って細川船を優先的に受け入れさせ、これに憤激した大内船の人々は、細川船の正使を殺し、船を焼き、逃れた素卿を追って明の役人を殺した(寧波争貢事件)。素卿は明の官憲によって捕縛され、のちに獄死した。この事件後の勘合船は大内氏の独占となり、1538・47 年出発の2回、弘治・正徳勘合を持って渡航した。後者のときに両勘合を返して、1550 年帰国したが、翌年の大内氏滅亡と道づれに、勘合貿易は廃絶してしまう。 
3 「世界史」への胎動
a嘉靖の大倭寇
冊封関係にともなう往来は、明と朝鮮、明と琉球の間では継続したが、日明間では勘合貿易の廃絶で姿を消した。しかし、東シナ海上の交流そのものが退潮したわけではない。
密貿易が公的往来にとって代わり、物流の規模はむしろ拡大したと考えられる。この趨勢のなかで発生したのが、嘉靖年間(1522-66)の「大倭寇」であった。
1543 年、大友氏が派遣主体と思われる3艘の船団が種子島を出帆した。船団は東シナ海上で嵐に遭い、1号船は烏有に帰し、2号船と3号船は種子島に引き返して(2号船の種子島帰還は推定)、翌年渡航に成功したが、公式受入れ港の寧波に入ったのは2号船のみであった。『鉄炮記』はこれらの船を「貢船」と呼び、『日本一鑑』は使者を「貢使」と呼んでいる。3艘の船団というのも勘合船の体裁である。これらの船は、1501 年に大友氏に「予約」され、まもなく給付された弘治勘合3道を携えていたらしい○27 。唯一寧波に入港した2号船も、貢期違反を理由に明側から受入れを拒絶されてしまった。とはいえ日本側の意図を重視するなら、この船団は「勘合船」の事例に追加すべきであろう。
2号船は、寧波からそのまま引き返したのではなく、密貿易の基地で寧波から程近い舟山諸島内の双嶼に移動したと思われる。1545 年、のちに倭寇王と呼ばれた中国人王直が、双嶼からこの船に乗って日本に来ているからである。3号船のほうは寧波に入港した形跡がなく、最初から密貿易港を目ざしたと思われる。
以上より、この遣明船団は、公的交通から密貿易へのシーン展開を、みずから演じてみせたアクターといえる。一方王直は、(おそらく種子島から豊後をへて)博多に至り、「博多津倭助才門」をともなって双嶼に戻り○28 、翌1546 年また日本にやってくる。『日本一鑑』はこれをもって「直浙の倭患」すなわち嘉靖の大倭寇の幕開けと記している。
1548 年、浙江巡撫朱紈が双嶼の密貿易基地を壊滅させ、倭寇の頭領許棟は捕らえられ、王直は逃走した。このとき、薩摩の人稽天と新四郎が捕らえられている。この事件を境に倭寇の活動は官憲との対立を深め、行動半径が広がり、暴力化した。王直は日本列島西端の平戸や五島に根拠地を置き、多くの部下を従えて王侯貴族のような生活を送ったという。
彼自身は海賊行為の主体というより、複数の倭寇集団の調停者としてふるまったり、あるいは官憲と協力して対立する集団を掃蕩したりして、海上における覇権を確立していった。倭寇は中国社会にとって外部的存在ではなかった。朱紈が「外国の盗を去るは易きも、中国の盗を去るは難し、中国瀕海の盗を去るは猶ほ易きも、中国衣冠の盗を去るは尤も難し」と述べた(『明史』巻205 朱紈伝)ように、その首領も構成員の多数も中国人であり、地方有力者(郷紳層)が倭寇と結んで密貿易に手を染めていた(「衣冠の盗」)。1549 年、朱紈が郷紳層の運動により罷免され自殺に追いこまれたこと、1567 年、やはり郷紳層の要望に応えて、日本への往来を除き海禁が解除されたことは、自由な貿易を望む沿海郷紳層と国家政策との矛盾が、倭寇猖獗の背景にあることを示している○29 。
1553 年からの数年間が倭寇の最盛期で、王直の部下たちは江蘇・浙江の各地を無人の境を行くごとく縦横に荒らし回った。しかし1557 年、王直は貿易の公許という餌に釣られて官憲に投降し、2年後に殺されてしまう。王直は投降に際して、五島から大友義鎮の使者をともなって舟山諸島の岑港に入った○30 。日本の勢力も貿易の公許に期待をかけていたのである。同時期、王直の配下から自立した徐海は、日本の大隅・薩摩を本拠に江浙で活動したが、これも1556 年討伐された。徐海と運命をともにした者のなかに、大隅の辛五郎がいる。その後倭寇の活動は規模を縮小して福建・広東地方に移り、1561 年に漳州府の沿海土豪が倭寇と結んで反乱を起こしたが、3年後に鎮圧された(月港二十四将の乱)。そして1567 年の海禁解除は、倭寇発生の根本原因を除去するものであった。
bヨーロッパとの出会い
ここで、王直が日本とかかわりをもち始めた時点まで時計の針を戻そう。1545 年、彼が双嶼から博多に姿をあらわしたのは、実は日本への初来ではなかった。『籌海図編』巻9に載せる王直の略伝に、つぎのような文章がある。
嘉靖十九年(1540)、時に海禁尚弛し。直、葉宗満等と広東に之き、巨艦を造り、硫黄糸綿等の違禁物を将帯し、日本・暹羅・西洋等の国に抵り、往来互市すること五、六年、致富貲られず。夷人大いにこれに信服し、称して五峯船主と為す。
1540 年に海禁を破って出海した王直は、日本・シャム・西洋などの国に至って貿易活動を行うこと5〜6年に及んだ。とすれば、彼が1544 年に双嶼で許棟の倭寇集団に加わったのは、日本やシャムを訪れたよりも後と考えられる。ポルトガル史料『諸国新旧発見記』によれば、1542 年シャムの都から3人のポルトガル人が1艘のジャンクに乗って脱走し、シナへ向かったが、嵐にあってジパンガスに属する島に漂着した。これがいわゆる西洋人の日本「発見」として有名な事件である。また日本史料『鉄炮記』によると、1543 年○31 、種子島に「西南蛮種の賈胡」の乗った船が到来して、彼らが携えていた鉄砲を種子島時堯が買い取った。これまた有名な日本への鉄砲伝来という事件であるが、このとき船中に「大明の儒生、名は五峯なる者」がおり、意思疎通の仲立ちをしている。
以上、中・欧・日の3つの史料を重ねあわせると、次のようなストーリーが描ける。王直(五峯)は1540 年に広東から「巨艦」で出海して東南アジア方面へ赴き、1542 年にはシャムにいた。その船(ジャンクは中国式の外洋帆船である)に3人のポルトガル人が乗りこんで「シナ」を目ざしたが、嵐のため航路をはずれて種子島に漂着した。こうしてヨーロッパからは日本「発見」、日本からは鉄砲伝来と呼ばれる事件が生起した。それをお膳立てしたのが、東南アジアと東アジアをつなぐ密貿易ルート上で活動する倭寇集団であり、王直こそが不可欠のバイプレーヤーだったのである。『鉄炮記』によれば、初度の到来の翌年、またポルトガル人が種子島に来て 2年連続でポルトガル人が同じ島に至ったことは、ヨーロッパ側の史料にも記されている 、
鉄砲の筒底を密塞する技術を伝受し、これによって種子島での現地生産が可能になる。その技術体系が豊後や畿内に伝わり、やがて全国に広がって、戦争のあり方を大きく変えていった○32 。『籌海図編』の「往来互市」という表現は、一度シャムから日本に行っただけでは使わないであろうから、ポルトガル人は2度目も王直の船に乗ってきたと推測される。すなわち、1542 年に王直はポルトガル人を乗せていったんシャムへ戻ったあと、43 年ふたたびポルトガル人を乗せて種子島に来、またともにシャムへ戻った。44 年にはシャムから双嶼に渡って許棟の集団に身を投じ、45 年に博多に現れた。その後の経緯はすでに記したとおりである。
ポルトガル人は、1497 年にバスコ・ダ・ガマが喜望峰を回って、翌年インドのカリカットに到達して以来、1510 年にインド西岸のゴアを占領してアジア展開の基地を建設し、1511 年に海路の要衝マラッカ(現マレーシア領)を確保し、1517 年には使節を広東に送って明との接触を開始した。しかし、公的な関係を開くことは明の拒絶で頓挫したため、密貿易のルートに身を投じて南中国の沿岸を東進し、1540 年に許棟らに誘われて双嶼に定着した。彼らは双嶼をリャンポーと呼び、アフリカやインドに築いてきた植民都市のように描いているが、実際には中国人を中心とする密貿易集団、すなわち倭寇の一員に加えてもらったにすぎない。すでに見た鉄砲伝来をめぐるいきさつもそうであるが、彼らが初めの数年間に利用した船のことごとくが中国式のジャンクであったことや、明人が彼らを「仏郎機夷」と呼んだことが、それを明瞭に語ってくれる。
1549 年にイエズス会師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来て、キリスト教を初めて日本に伝えた事件にも、まったく同様の要因が作用している。ゴアやマラッカを拠点に、アジアへの伝道活動に尽力していたザビエルは、1547 年マラッカで鹿児島からきた日本人アンジローに出会い、その優れた資質に注目して、日本渡航を志すに至る。彼が日本行きに使った船は、海賊という仇名をもつ中国人所有のジャンクであった。ザビエルは、この船が途中あちこちの港へ寄港してなかなか先へ進まないことにいらだっているが、各地で取引を行いながら密貿易ルートをたどる船であれば、当然のことである。2年間の日本布教後、ザビエルは活動の場を中国に移すべく、広東沿海の上川島に至り、1552 年病死したが、その動線は終始密貿易ルートをたどっている○33 。
ポルトガル人は1542 年の日本「発見」後、連年のように日本渡航をくりかえし、急速に日本認識を深めていった。彼らを駆りたてたものは、キリスト教布教もさることながら、日本銀の獲得であった。ポルトガル人ディオゴ・ド・コウトの『アジア史』が、「ジャパンと呼ばれている島々」では「銀が唯一の代価交換物であった」と記すように、日本では、1526 年の石見銀山発見、1533 年の新製錬法「灰吹法」の導入で、急速な銀の増産が起きていた。当時明では、経済規模の拡大と、徴税を銀に一本化する税制改革とがあいまって、莫大な銀需要が発生しており、日本銀のみならず南米の銀(当時の呼び名では「メキシコ銀」)までが、この巨大な吸引力に引きよせられた。メキシコ銀は、スペイン人によって、銀山からアカプルコ、マニラを経て、中国に入った。日本銀は、ポルトガル人を含む倭寇勢力によって、銀山から平戸−漳州(福建省)航路をたどって、中国に入った。
c中華への挑戦
日本で銀の増産をもたらした灰吹法は、中国から朝鮮に伝わり定着していたものが、日朝間の密貿易ルートで流出したものである。ところが16 世紀の朝鮮は、明との冊封関係にともなう「貢銀」の義務をのがれるために、「わが国には銀は産出しない」と主張し、鉱山を閉鎖し銀の売買を禁止していた。朝鮮でも、民間の資本力に鉱山をゆだねれば、爆発的な増産もありえたかもしれない。しかし明からの圧力はそうした猶予を朝鮮政府に与えなかった。その結果朝鮮は、日本から持ちこまれ、自国を通過して明に流入していく銀のことを、明にどう弁明するかに頭を悩ませるという、皮肉な結果となる。
これに対して日本では、技術的な遅れが密貿易ルートによる伝播で克服されると、たちまち増産が実現した。その理由は、第1に、形の上では明の冊封を受けていたが、その規制力ははるかに弱く、どれほど銀を産出しても「貢銀」の命令がくる心配はなかったこと、第2に、戦国大名が鉱山をわが手に確保して増産を助成する方向で動いたことである。やがて17 世紀前半、日本銀は世界の銀産の3 分の1 を占めるまでになる。これほどの爆発的な増産は、統一権力の登場によるかつてない権力集中と、その条件下での生産力の効率的な管理運用がなければ、実現しなかっただろう。同様の革命的変化は、数千年の遅れを一気にとりもどして中国の景徳鎮に匹敵する色絵磁器の生産を実現した窯業の分野でも、本州を一周して全国の物産を畿内や江戸に運ぶ廻船ルートを成立させた海運の分野でも、見出すことができる。そしてそのいずれにも、16 世紀末に豊臣秀吉(1537-98)が始めた朝鮮侵略戦争が関わっている。
日本銀は、当初はほとんどが輸入品の代価として海外、とくに中国に流出したが、やがて秀吉は銀で中世にはなかった自前の通貨を造り、侵略戦争の戦費をまかなった。窯業の技術革新は、秀吉軍が朝鮮から連れてきた陶工たちを使って、北九州の大名が殖産興業を行ったことで、日本に定着した。江戸時代の廻船ルートの原型は、秀吉が軍事物資を戦争の基地肥前名護屋城に運びこむため、各地の豪商たちを組織化することで形づくられた。
秀吉が1585 年に初めて大陸への野望を公言したとき、すでに目標は明にすえられていた。彼が1588 年に発した海賊停止令は、明との「勘合」復活を視野に入れた外交政策であった。この「勘合」は、室町時代のように皇帝・国王間の君臣関係を前提とするものではなく、明から望ませ日本が応じるかたちの日明関係復活が考えられていた。1589 年、琉球の使僧が島津義久の案内で上洛し、聚楽第で秀吉に謁見した。ついで90年、朝鮮の通信使が宗義智に導かれて上洛し、聚楽第で秀吉と対面した。秀吉はこれらの使節到来を、一方的に服属の意思表示と見なした。もともと琉球は薩摩に、朝鮮は対馬に従属しているというのが、彼の認識だった。
はなはだ自己中心的で希望的観測を交えたものであったが、秀吉は以上のように明・琉球・朝鮮との関係を設定する構想を描いていた。朝鮮への出兵は、彼の主観においては、海賊を禁圧して「勘合」復活を求めたのに応じない明と、その明への軍事行動を先導することを拒否した朝鮮を、懲罰するのが目的だった。
1592 年、日本軍は釜山に上陸し、わずか20 日ほどでソウルを占領した。名護屋城で捷報に接した秀吉は、征明成就後のマスタープランとして、「三国国割」構想を明らかにした。(1)後陽成天皇を北京に移し都廻りの10 か国を料所とする。秀吉の甥で養子の秀次を大唐関白として都廻り100 か国をわたす。(2)日本帝位は良仁親王・智仁親王のいずれでもよい。日本関白は羽柴秀保・宇喜多秀家のいずれかとする。(3)高麗は羽柴秀勝か宇喜多秀家に支配させる。そして(4)秀吉自身は「日本の船付き寧波府」に居所を定める。これより先、秀吉は亀井茲矩に「琉球守」の称号を与えていたが、島津氏からの抗議によりこれを取り消して、あらたに「台州守」を与えた。浙江省の地名をもりこんだこの称号は、三国国割が具体的構想だったことを示唆する○34 。
秀吉が朝鮮に攻めこんだ目的は、国王の降伏を受け入れて朝鮮を版図に収め、明への進撃の足がかりとすることにあった。しかし、国王があっさり都を捨てて朝明国境へ逃亡したことは、秀吉の第一の誤算であった。自己の命に逆らった相手を懲罰するためにも、戦争の長期化がさけられなくなったのである。朝鮮人民のねばりづよい抵抗と、冊封の論理に基づく明の援軍派遣、そして海軍力の劣勢による補給線確保の困難にぶつかって、日本軍は泥沼に引きずりこまれてしまう。
この戦争では、日明間で早くから和平交渉が重ねられ、1595 年に至って、小西行長と明側のエージェント沈惟敬との間で講和条件が合意された。その結果、秀吉を「日本国王」に封ずる冊封使が発遣され、96 年に聚楽第で秀吉と対面した。通説では、秀吉はこの会見で自身が明皇帝の臣下とされたことを知り、激怒して第2次の戦争を始めた、とする。しかし、これは江戸時代になってから現れる解釈であり、同時代の史料には、秀吉の怒りの原因は、彼が望む朝鮮南半分の割譲が無視され、朝鮮からの完全撤退が和平の条件であることを知ったことにある、と記されている○35 。
実際、この対面で秀吉に交付された誥命(秀吉を国王に冊立する詔書)は、大阪城博物館に現存しているし○36 、その後の『朝鮮宣祖実録』を追うと、冊封自身は効力を失っていなかったことがわかる。ここに至っても、「勘合」の復活は秀吉の宿願であり続けていた。小西行長は、自分が合意した条件が秀吉の了解と異なることを知りつつ、使者を京都までひっぱってきて、どうにか講和をまとめようとしたが、その思惑は外れて、戦火が再燃する結果となった。すでにそれ以前から、秀吉の獲得目標は、明征服どころか、朝鮮半島南半の確保という領土欲に矮小化されていた。
こうして始まった第2次戦争は、ソウルすらも主要な目標とはならず、主として朝鮮半島西南部の支配権確保が図られた。それすらも思うようには進まず、戦線が膠着化しつつあった1598 年、秀吉は病死した。徳川家康らの五大老は、ただちに日本軍の完全撤収を発令して、7年に及ぶ戦争は終わった。残されたものは、朝鮮全土の目をおおうような荒廃と、軍事費支出による明の財政悪化、そして豊臣政権自体の衰亡であった。16 世紀後半、建州女真のなかからヌルハチ(1559-1626)という英雄があらわれ、1580年代に建州女真を統一、さらに明が朝鮮で日本軍と交戦しているすきに、他の女真諸部族をあわせ、17 世紀はじめにはほぼ全女真の統一に成功した。
女真族の首長層は、居住地の特産である人参、貂や狐の毛皮などを、中国本土や朝鮮に売ることで巨利を得、その見返りに耕牛と鉄製農耕用具をもちかえった。このように女真族台頭の基礎には、農業生産力の向上と充実した農耕社会への転回があった○37 。そうした社会から、中国中心部の巨大化した消費社会にむけて、高級物産を売りこむ武装商業集団こそ、ヌルハチを生んだ母胎であった。当時女真との境界地帯を訪れた朝鮮人は、寒村だった所に四方から物資が集まり、朝鮮をしのぐ繁栄をとげているようすを目撃している。
1616 年、ヌルハチは後金という国号と天命という年号をたて、明からの自立を宣言し、2年後には「七大恨」を唱えて明に宣戦を布告した。この文書には、中華に対して臆するところがなく、逆に天命われにありという確信にみちている。軍事行動を前提に編成された規律ある社会組織をもつことが、彼の自信と自尊意識を支えていた。
このように見てくると、ヌルハチと秀吉の動きは、ともに辺境の経済発展に支えられて擡頭した軍事に秀でた権力が、中華の主体である明に挑んだ戦いであったことがわかる○38 。
秀吉の挑戦は失敗に帰したが、ヌルハチの孫順治帝の摂政ドルゴンは、1644 年に明を滅ぼすことに成功し、あらたな中華帝国清が生まれる。女真族という「夷」が「華」を乗っ取ったこの事態を、江戸幕府の儒者林家は「華夷変態」と呼んだ。これは日本や朝鮮に対して、世界観の変更を迫る深刻なできごとであった。 

1 佐久間重男『日明関係史の研究』(吉川弘文館、1992 年、p.54)ほか。
2 檀上寛「明初の対日外交と林賢事件」(『(京都女子大学史学会)史窓』57 号、2000年)。
3 向山寛夫「明初の訪中日本人僧侶たちの雲南への流謫」(『國學院雑誌』101 巻4 号、2000 年)。『嘉靖大理府志』巻二に「日本四僧塔」が見え、その説明に相当する場所に無銘の墓塔が現存する。また、1436 年に成った詩集『滄海遺珠』に大理で日本僧たちが詠んだ詩が掲載されており、流謫の地での生活ぶりがうかがえる。
4 川越泰博『明代建文朝史の研究』(汲古書院、1997 年)。
5 西尾賢隆『中世の日中交流と禅宗』(吉川弘文館、1999 年)。
6 河内祥輔『日本中世の朝廷・幕府体制』(吉川弘文館、2007 年、p.281 以下)など。
7 今谷明『室町の王権 足利義満の王権簒奪計画』(中公新書、1990 年)。この点に関する学説批判は、村井『分裂する王権と社会』(後掲)p.212-215 参照。
8 佐藤進一『日本の歴史9南北朝の動乱』(中央公論社、1965 年)。
9 田中健夫『前近代の国際交流と外交文書』(吉川弘文館、1996 年、p.73-75)。
I 遣明使の一覧としては、現時点では若干修正すべき点もあるが、田中健夫編『世界歴史と国際交流 東アジアと日本』(放送大学教育振興会、1989 年、p.90-96)所掲のものが便利である。
J 橋本雄「日明勘合再考(大会報告要旨)」(『史学雑誌』107 編12 号、1998 年)および史学会大会当日の報告。
K 橋本雄「遣明船の派遣契機」(『日本史研究』479 号、2002 年)は、この時期の遣明船を「回礼の遣明船」と呼び、15 世紀後半以降のものを「(将軍)代始めの遣明船」と特徴づける。
L 『臥雲日件録抜尤』享徳4年正月5日条に、「去歳入唐船帰、各出抽分光、命諸商定物価、令出十分一」とある。
M 橋本雄「遣明船と遣朝鮮船の経営構造」(『遙かなる中世』17 号、1998 年)。
N 高良倉吉『琉球の時代 大いなる歴史像を求めて』(筑摩書房、1980 年)、同『アジアのなかの琉球王国』(吉川弘文館、1998 年)ほか。
O 『歴代宝案』第一集校訂本一・二、訳注本一・二(沖縄県)に、これまでの研究が集約されている。ほかに、邊土名朝有『「歴代宝案」の基礎的研究』(校倉書房、1992 年)、同『琉球の朝貢貿易』(校倉書房、1998 年)。
P 橋本雄『中世日本の国際関係 東アジア通交圏と偽使問題』吉川弘文館、2005 年)。
Q 小葉田淳『中世南島通交貿易史の研究』(日本評論社、1939 年〔増補版刀江書院、1969年〕)。和田久徳「一五世紀初期のスマトラにおける華僑社会」(『お茶の水女子大学人文科学紀要』20 号、1967 年)。
R 日本側の史料『阿多文書』『御内書案』によれば、この使船は1419 年に琉球経由で日本へ向かったが、薩摩阿多の領主町田氏に抑留され、翌年幕府・探題の要請によって博多へ回航したことがわかる。註Q所掲小葉田書p.465-471、註P所掲橋本書p.247-248、参照。
S 東南アジア向けの執照は、15 世紀のものはこれ1通しかなく、1509〜70 年に、咨文の内容をもりこんだ形式のものが連続的に残っている。
○21 「本国頭目」とも呼ばれた実達魯は、朝貢使節に通事として加わり、福州の女性を娶ったという来歴のもちぬしで、1425 年には明へ謝恩使として、27 年には暹羅へ正使として、赴いている(宮田俊彦『琉明・琉清関係史の研究』文献出版、1996 年、p.88-91)。
○22 檀上寛『永楽帝 中華「世界システム」への夢』(講談社、1997)。中国では、鄭和の航海の目的は靖難の変後行方不明となった建文帝の探索にあった、とする説があるという。
○21 川越泰博『モンゴルに拉致された中国皇帝―明英宗の数奇なる運命』(研文出版、2004年)。
○24 中村和之「十五世紀のサハリン・北海道の交易」(東北中世考古学会編『海と城の中世』高志書院、2005 年)。
○25 山田康弘『戦国期室町幕府と将軍』(吉川弘文館、2000 年)。
○26 註P所掲橋本書、第六章。
○27 同前、第五章。
○28 この助才門と同一人物と思われる「種島の夷助才門すなわち助五郎」が、1556 年、王直とならぶ倭寇の頭領徐海の部下として現れる(田中健夫『倭寇 海の歴史』教育社、1982年、p.147)。1545 年、王直は種子島からこの人をともなって、まず貢船の出発地豊後に行き、ついで博多に現れたのであろう。
○29 註1所掲佐久間書、第二編第二章・第三章。註○28 所掲田中書、5章。
○30 註1所掲佐久間書、p.293。
○31 私は、『鉄炮記』の1543 年という年次は1年前に修正すべきだと考えているが、ここでは論証を省略する。後掲の村井「鉄砲伝来再考」、参照。この件をめぐる最新の論議については、私見とは解釈を異にするが、中島楽章「ポルトガル人の日本初来航と東アジア海域交易」(『史淵』142 号、2005 年)、的場節子『ジパングと日本 日欧の遭遇』(吉川弘文館、2007 年、第四章・第五章)、参照。
○32 宇田川武久『東アジア兵器交流史の研究 一五〜一七世紀における兵器の受容と伝播』(吉川弘文館、1993 年)。佐々木稔編『火縄銃の伝来と技術』(吉川弘文館、2003 年)。
○33 岸野久『ザビエルと日本 キリシタン開教期の研究』(吉川弘文館、1998 年)。
○34 紙屋敦之『大君外交と東アジア』(吉川弘文館、1997 年)。
○35 佐島顕子「壬辰倭乱講和の破綻をめぐって」(『年報朝鮮学』4号、1994 年)。金文子「慶長期の日明和談交渉破綻に関する一考察」(『お茶の水女子大学人間文化研究年報』18 号、1994 年)。
○36 大庭脩『古代中世における日中関係史の研究』(同朋舎出版、1996 年、第十三章)。
○37 朝尾直弘「一六世紀後半の日本 統合された社会へ」(『岩波講座日本通史11』、1993年)。
○38 岸本美緒「東アジア・東南アジア伝統社会の形成」(『岩波講座世界歴史13 東アジア・東南アジア伝統社会の形成 16〜18 世紀』1998 年)。
※本章執筆にあたって参照した拙著・拙論をまとめて掲げ、個々の註記は割愛する。著書:『アジアのなかの中世日本』(校倉書房、1988 年)/『中世倭人伝』(岩波書店、1993 年)/『国境を超えて 東アジア海域世界の中世』(校倉書房、1997 年)/『海から見た戦国日本 列島史から世界史へ』(筑摩書房、1997 年)/『中世日本の内と外』(筑摩書房、1999 年)/『日本の中世10 分裂する王権と社会』(中央公論新社、2003 年)/『東アジアのなかの日本文化』(放送大学教育振興会、2005 年)/『中世の国家と在地社会』(校倉書房、2006 年)/『国境をまたぐ人びと』(山川出版社、2006 年)論文:「古琉球と列島地域社会」(『新琉球史・古琉球編』琉球新報社、1991 年)/「中世倭人と日本銀」(竹内実ほか『日本史を海から洗う』南風社、1996 年)/「鉄砲伝来再考」(『東方学会創立五十周年記念東方学論集』東方学会、1997 年)/「東南アジアのなかの古琉球」(『歴史評論』603 号、2000 年)/「鉄砲はいつ、だれが、どこに伝えたか」(『歴史学研究』785 号、2004 年)/「鉄砲伝来と大分」(『大分県立先哲史料館研究紀要』9号、2004 年)/「「東アジア」と近世日本」(『日本史講座4近世の形成』東京大学出版会、2004 年)/「内乱と統一の連鎖 14 世紀後半〜15 世紀前半の日明関係」(青山学院大学史学会『史友』40 号、2008 年) 
 
思想、宗教の伝播と変容

 

はじめに
東アジアでは、古来、少なからぬ人々が当時の国境を越えて往き来し、思想や文化を伝えてきた。往来は陸路だけでなく海路でも行われ、四方を海に囲まれた島国日本にも大陸の高度な文明がもたらされた。「日本に大陸文化が伝わった」というよりも、「大陸の文化が伝わることによって日本という国が誕生した」と表現したほうが、歴史的には正確である。
国家をどう定義するかは難しい問題であり、本報告書の対象とするところでもないので議論は差し控える1。ここでは単純に、「一定の領土とその住民を治める排他的な権力組織と統治権とをもつ政治社会」という『広辞苑』の定義に従っておく2。日本に「排他的な権力組織」が登場するのは大陸との交渉があって以降であるし、それらが一つの組織に統合されて「日本」と自称するようになるのは、大陸諸国を外国として認識し、それらとの区別を図るためであったから、大陸との交流無くして「日本国」はあり得ないわけである。
『古事記』や『日本書紀』が記録しているところの日本の建国神話では、日本という国家は日本独自に、大陸とは無関係に誕生したことにされている。しかし、この建国神話は虚構である。この虚構にもとづいて日本の原像という表象が歴史的に形成され、そうして形成された虚構の表象が「国体」・「古層」等の表現によって繰り返し提起されてきた3。
それらの言説においては、「日本古来」という語が強調される。その結果、「日本文化には中国や韓国とは異なる独自性が本来的に備わっている」とする言説が、今でもかなり有力な考え方として日本社会に流布している。
以下、本章では、こうした「日本文化の起源についての虚構」が語り継がれてきた経緯を、思想・宗教の大陸からの流入という観点から整理していく。皮肉なことに、日本文化の独自性という虚構・神話は、大陸から学んだ思想・宗教という文化資源に依拠していた。そのことを、東アジアの国境を越えて活躍した先人たちの事績をたどりながら再考してみる。 
一 国号・王号・元号の制定と六国史編纂
西暦七世紀における東アジアの国際情勢と、そのなかでの「倭国」の動きについては、第一部第一章に詳しいのでここでは省略する。そこで活写されたように、「倭国」の段階においてすでに大陸との関係は重要であった。このことは、次の「日本国」段階に至っていっそう顕著になる。
日本がいつから「日本」と名告るようになったのかについては、諸説あり、現在も論争が続いている。日本の学界で学術的に支持されている見解として、早く見積もって七世紀初期、遅くとも七世紀末までに、「日本」という国号が定まったとされている。『日本書紀』(七二〇年完成)は、その名のとおり、この国家のことを「日本」と称して、開闢神話以来の歴史を記録している。
ここで重要なのは、この国号が対外的な呼称として自ら選んだものであったということである。通説によると、「倭」がその名を「日本」に改めたのは、倭字が持つ表意性を嫌い、太陽(日輪)が昇る東方を連想させる二文字の熟語に自分たちの誇りを籠めたとされている。これは中国側の史料である『旧唐書』日本伝などに見える説に由来していて、外国(唐)に対して外交使節がそのように説明したことを示している。
七世紀における国号「日本」の選定は、同時期の律令編纂と連動していた。すなわち、律令こそは「一定の領土とその住民を治める排他的な権力組織」の存在を宣言する基本法(=現代世界における憲法に相当する基本法)であり、編纂される当該の律令が想定する「一定の領土」こそ、「日本」という国家の空間的な拡がりにほかならない4。他称として「倭」を名告ってきた政治組織は、自称として「日本」を定めるとともに、その空間領域を排他的に覆うための統治機構を確立させたのである。
ただし、それはあくまで制度上・名目上のことであり、実態をともなうものではなかった。律令の規定が現実にどこまで実践されたかは、古くから論争があり、これも決着がついていない。とはいえ、制度・名目として排他的な国家機構が整備された点に、律令編纂の歴史的な意義を認めるべきであろう。
同時期に君主の称号も決まる。律令では、「天子」「皇帝」など、場合に応じた何種類かの称号を併記しており、そのなかに「天皇」が見える5。天皇という名称の使用開始時期についても今なお論争が続いているが、七世紀ということではほぼ一致している6。
さらに、元号。一般に、六四五年の「大化の改新」により定められた「大化」が日本最初の年号とされている。ただし、その後、年号を持たない期間も存在しており、空白期間無しに現在(平成)にまで続く元号使用は、大宝元年(七〇一年)からとなる。
このように、七世紀末までには、律令体制のもと、日本という国号、天皇という王号、中国とは別個の独自年号の三つが揃った。七一〇年には、中国の都城を模倣して設計された平城京への遷都が実現し、新生「日本」国の首都となった7。上述の『日本書紀』編纂作業はこれらと並行して進められており、七二〇年に完成する。
『日本書紀』にさきだって、七一二年には『古事記』が完成している。両者をあわせて「記紀」と呼び、日本最初の歴史編纂書とみなすことが多い。しかし、両書が編纂された八世紀当時以来、千年後の十八世紀にいたるまで、『日本書紀』のほうが史書として格が上であるとみなされていた。『古事記』の権威上昇には、本居宣長(一七三〇〜一八〇一)の登場と彼による「国学」運動の隆盛がある8。
『日本書紀』は本格的な古典中国語(日本語では「漢文」と呼ぶ)で綴られた史書であった。当時、まだ仮名文字が存在しない以上、これ以外の表記法はありえなかったわけで、律令や各種の政治文書もまた「漢文」である9。その文体は『古事記』(これも原文はすべて漢字)とは若干異なっている。また、表記には漢字を使用しているものの、語法上は中国語とは全く異なる『万葉集』(最古の「和歌」集)や「祝詞」(日本の神々に捧げる祈願文)とも異質である。すなわち、「日本」国が成立した当初の政治組織(=国家)において、政治・行政のための書記言語には中国語が用いられており、またこの国家の歴史(神話・伝説の要素を多く含む)も中国語で書かれていた。
『日本書紀』以降、国家が編纂する歴史書として、九世紀末にかけて『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』が編まれ、あわせて六国史と呼ばれる。いずれも『日本書紀』と同じ文体である。このように、国家がみずからその歴史を編纂し、書物の形で後世に残すことによって、その正統性を時間的に語り伝えようとしたのであった。 
二 儒教思想の受容と咀嚼
以上、いささか煩瑣にわたる点まで「日本」の成立過程を叙述してきたが、それは、こうした発想全体が大陸からもたらされた思想に基づくことを述べるためであった。すなわち、儒教の影響である。
かつては、『古事記』『日本書紀』の記載にもとづき、「応神天皇」(褒田別命)の治世に百済(朝鮮半島の一王国)から王仁(もしくは和邇と表記)が来日して『論語』をもたらしたことをもって、日本への儒教伝来とみなしていた10。そして、年代の推定作業により褒田別が五世紀に活躍したとされたことから、儒教伝来も五世紀のことと言われてきた11。ところが、近年の研究によって、この博士来日伝承は後世の創作にかかるとされ、現在、日本の歴史教科書では、儒教伝来の時期を六世紀と記述している12。
何をもって儒教伝来とみなすかによってこの年代は変わるので一概には言えないが、ともかく、「倭」における国家建設事業にとって、儒教伝来はその根幹をなす重大事件であった。その理由は、この時点で、儒教が東アジアにおける最も代表的な政治思想になっていたからである。
孔子が説いていた(とされる)元来の儒家思想と、漢代に整備された儒教との間には、大きな質的相違があるが、本報告書の領域外の問題なので説明は省く13。魏以降の諸王朝も、その国家統治の基本的な理念は、礼と法という二本柱を持つ儒教思想に立脚していた。「倭」の国造り段階および「日本」への発展過程において模範とされたのは、これらの儒教国家であった。中国から直接というだけでなく、朝鮮半島の諸「国家」(新羅・百済・高句麗)を通じても、「倭」は多くのことを学んでいた。
上記伝承上の王仁は、朝鮮半島からの渡来人の始遷祖として、後世になって仮託された人物であろうが、その子孫と称する「西文」氏の一族は、漢文作成業務によって大和朝廷に仕え、「日本」国の創設に尽力した。同様の一族として後漢霊帝の末裔を名のる「東漢」氏がいた。かれらは日本定住後も、なんらかのネットワークを使って朝鮮半島とつながっていたと思われ、漢字の運用能力を活かして大陸の先端技術や最新文化を「倭」の宮廷にもたらす役割を担っていた。
かつて日本においては彼らを「帰化人」と呼び慣わしていたが、これは事後的に、儒教思想に基づいて、彼らが日本国天皇の徳を慕って渡来・定住したことにするための虚構であった。むしろ、実態としては、かれらは「倭」が大陸先進文明諸国から招聘したエリート集団、もしくは彼ら自身が「倭」という国家の統治支配者集団の一員であったと見るべきであろう。余談ながら、日本国の法制用語として今も「帰化」という語彙が使われていることは、東アジアにおける伝統的な用語法(天皇の徳を慕って生来の国籍を離れる、という意味)に照らして、相手に不快感を与えかねない14。
「倭」が「日本」と改称し、その君主に「天皇」という称号を選定したのは、前節で述べたように七世紀のことである。「天皇」号の由来については、道教に由来するとの説もある15。また、唐の高宗がこの名称も用いていたことから、その影響を推測することもできる。「天皇」の権力確立に大きな功績をあげた天武天皇(六三一〜六八六)とその皇后の持統天皇(六四五〜七〇二)との関係は、まさしく同時期に唐に君臨していた高宗(六二八〜六八三)と則天武后(六二四〜七〇五)の関係を彷彿させる。(厳密には、則天武后は唐で
はなく、「周」の皇帝。)旧来、漢字表記で「王」もしくは「大王」と称してきた「倭」の君主が、「日本」の君主となるにあたって「天皇」と改称したことは、重要である。前述したように、律令では天皇以外に天子・皇帝といった、唐の君主と同じ称号を併記しており、天皇は唐の皇帝と同格の存在と主観的には考えられていたことを示しているからである。日本は唐の朝貢国ではなく、彼我対等の国家であり、その点で、唐の朝貢国にすぎない新羅(君主の称号は「王」)よりも一段格上であることを主張したのであった。『日本書紀』では、聖徳太子(厩戸王、五七四〜六二二)による遣隋使が「東の天皇、敬しんで西の皇帝に白す」という文面の国書を持って行ったと伝える。一般には、これは『隋書』記載の「日出る処の天子」を称した書翰とは別のものとみなされている。ただし、聖徳太子の時点で「天皇」を称していたわけではなく、後世の潤色がなされている可能性もある。
「倭国」は、日本という国号、天皇という王号を定め、あわせて独自の元号を選定した。
これも唐と対等の国家であり、「日本」として囲まれた地域を排他的に統治しようとする意思の表れであった。元号とは、それが通用する空間を時間的に支配する道具だからである。中国で元号制度を定めたのは、漢の武帝であった。従来、ある年を示すには「何々王(もしくは皇帝)の何年」と表記されてきたが、これ以降、皇帝が定める元号によって個々の年を示す方式になる。皇帝が直接統治する空間だけでなく、朝貢国の王も中国との交際にはその元号を用い、それによって臣従の意志を示す。
ある年を具体的にどの日から始めるかということも、中国の皇帝が決定する仕組みであり、実際には宮廷の専門家が天体の動きを観測して暦を定め、それを中国内外に宣布した。
これに従って月日を表示することを、「正朔を奉ず」と表現する。「正」は毎年の初めの月、「朔」は毎月の初めの日で、あわせて暦の意味であった。儒教の理念によれば、直接統治していない地域でも皇帝の徳を慕って朝貢使節を派遣してくるようになり、世界中で中国皇帝が定める暦を使用するようになることが、皇帝の究極の姿であった。
日本が独自に元号を定めたということは、唐における皇帝の徳から独立し、自分独自の帝国を形成することの意思表示であった。そして、擬似的に新羅や渤海を朝貢国として扱い、蝦夷を夷狄とみなすことで、天皇を中心とする世界を構築しようとしたのである。(日本国内では朝貢使節として扱われたが、新羅も渤海も自身の認識はこれと異なる。)つまり、『日本書紀』や律令が描く、天皇を君主として戴いた日本という「国のかたち」(後世、「国体」と呼ばれるもの)は、日本古来の姿ではなくて、新来の儒教思想に基づいて構築された架空の理想的政体にすぎなかった。
『日本書紀』は「神代」の部分で、中国や韓国の影響を一切排除して、日本独自の神々による国造りを語っている。日本が日本だけで独自に国造りを進めてきたとする物語を構築し、それによって日本が唐と対等・同格の国家であることを示そうという意図に基づいている。したがって、その「国生み神話」では日本列島(沖縄などの南西諸島および北海道・北方領土を除く)についてだけ語っていて、中国大陸や朝鮮半島がなぜ存在するのかは一切語らない。すなわち、当初から排他的に統治する対象として一定の領域を囲い込む。日本国が日本国として領有する固有の領土の正統性根拠が、この国生み神話によって示されているのである。
これに対して、盤古の例のように、中国の宇宙開闢神話は世界全体の起源として大地の創生を語る。そこには「どこからどこまでが中国である」という空間的な囲い込みはない。
儒教の伝承では、禹が「九州」を整備したとされる(『尚書』禹貢)。したがって、その範囲が堯舜時代の中国の領域ということになるが、それは実際には「禹貢」が書かれた戦国時代の地理認識・領域観念に由来している。その後、中国の範囲は拡大し、秦や漢の直轄統治の領域は禹貢九州よりも広大であった。このことを中国では、「皇帝の徳が直接及ぶ範囲が広がった」とみなし、儒教思想の論理で正当化した。これに対して、日本の場合には、律令体制が規定した国郡制度の範囲(沖縄や北海道を含まない)が、後世まで日本という国家の領域として思念された。
日本は儒教思想を受容・咀嚼しながら独自の国号・王号・元号を定め、そのことを『日本書紀』という歴史書編纂によって正当化した。「紀」は、中国においては、帝王による治世を年代記の形式で編纂した書物を意味する。すなわち、『日本書紀』は「日本」という国号を持つ王朝における帝王の年代記であった。中国では王朝交替があったのちに、前の王朝の帝王年代記を「紀」としてまとめ、これに当該時代の傑出した個人の伝記集成である「伝」や、国家制度にかかわる「表」・「志」(事項の記述)をともなう形式で正史を編纂していた。七世紀には、唐の朝廷において、『梁書』『隋書』等、いくつもの王朝の正史が作成されている。
「倭国」ではこれに倣って、七世紀後半に、みずから「日本」と改称するにあたり、自分たちの王朝の帝王年代記を編纂することにしたわけである。なお、韓国で最古の正史とされている『三国史』(現在では『三国史記』と区別して『旧三国史』と呼ばれる)は、十世紀の高麗時代になってから新羅・百済・高句麗の三国をまとめて記録したものである。すなわち、統一新羅滅亡後のことであり、日本のように現王朝がみずからの正史を編んだわけではない。
このように、八世紀初頭には、儒教思想の王権理論を用いて、日本は古来中国・韓国とは別の独自の歴史を持つとする歴史認識が構築された。『日本書紀』において、神功皇后の「新羅征伐」(歴史的事実ではない)を記録したり、「雄略天皇紀」以降において朝鮮半島との関係記事が増大したり、聖徳太子の遣隋使派遣事業が中国との対等外交であったと粉飾したりしているのも、すべて『日本書紀』が編纂された七世紀末から八世紀初頭という時期の歴史認識に基づいている。したがって、そこに記録された内容をそのまま記録対象時期の歴史的事実と認定することはできない。
また、百年前に那珂通世によって考証されたとおり16、『日本書紀』における建国紀年(初代神武天皇即位の年次とされる西暦紀元前六六〇年)は、中国伝来の革命思想(干支が辛酉の年に革命が起こるという思想)を利用して、西暦六〇一年もしくは六六一年の辛酉の年を基準に遡って定められたもので、これもまた儒教思想の賜物といえよう。神武天皇即位の日付けも、八世紀段階での中国伝来の暦(紀元前七世紀当時には中国にすらまだ存在していないはずの暦)に基づいて定められ、この虚構の伝承に依拠して、日本では二月十一日を「建国記念の日」という名称の祝日にしている。
このように、八世紀初頭には大陸伝来の知識にもとづいて日本の国制や歴史が定まった。遣唐使はその後も、中国から新たな知的情報を直接入手するために、多数の留学生・留学僧を伴って派遣された。仏教については次節にまとめて述べる。儒教関係では、律令制度の整備に必要な行政上の知識、および文章作成能力が求められた。吉備真備(六九三もしくは六九五〜七七五)や阿倍仲麻呂(中国名は晁衡、六九八〜七七〇)もその一員である。仲麻呂の場合は、帰国することができなかったものの、唐で官僚として活躍した。
日本国内での教育機関としては、首都の平城京に大学が設けられ、七二八年には文章(史学および文学)・明経(経学)・明法(法学)・算(天文学および暦学)の四学科体制が敷かれた。また、地方には国学が設けられた17。九世紀ともなると律令体制の弛緩や遣唐使派遣事業の中断(最後の遣唐使は八三八年の派遣)によって、唐から儒教を学ぶ必要性や機会が失われ、博士家の世襲によって世代間で継承された。
菅原道真(八四五〜九〇三)も文章博士(紀伝道)の家の出身である。彼は遣唐大使に任命されながら、自身遣唐使停止建白を行うことによって、日中両国政府間の公式通交の歴史に終止符を打った。ただ、近年の研究は、彼の建白が朝廷としての制度的な遣唐使廃止をもたらしたわけではないとみなしている18。また、この当時の政治状況を、新羅や渤海の衰退による朝鮮半島の政治的混乱とも結びつけ、単に日中両国関係だけでなく、東アジア規模での複合的な観点から分析する必要性が指摘されている19。 
三 仏教者の往来
八九四年に菅原道真が遣唐使の停止を建白してから、十五世紀初頭の足利義満による遣明使派遣まで、五百年間にわたって日中両国に正式な外交関係はなかった20。
しかし、この間にも、経済交流は継続しており、商人たちが海を横断していた。九世紀には、朝鮮半島や山東半島を拠点とする新羅系の商人が交易を担っていた。その代表格が張保皐(日本では張宝高とも表記、 ?〜八四六)である21。
やがて中国系の商人が進出するようになり、彼らは九州の博多に拠点を築いて、日本にも長期逗留するようになった。そのため、彼らが中国に出向くと、現地では「日本商人」と呼ばれた22。当時は、近代的な国籍概念や国境観念、あるいは民族国家という思念が存在しなかったから、エスニシティとしての集団区分によって、彼らを日中韓のいずれか一つに帰属させる分類方法にはあまり意味がない。それよりも、東アジア海域を生業の場とする貿易商人たちが活躍していたという事実を冷静に見つめるべきだとするのが、近年の日本における研究動向である23。
こうした商人のネットワークと関係を保ちながら、仏教教団のネットワークが存在していた。延暦寺の僧侶円仁(七九四〜八六四)は、最後の遣唐使に随行して渡唐し、現地で武宗による「会昌の廃仏」(八四五年)に遭遇し、苦労の末に帰国したが、彼の帰国を保護・援助したのは上述の張保皐のような新羅商人であった。円珍(八一四〜八九一)は円仁にやや遅れて八五三年に入唐し、八五八年に帰国しているが、彼の場合は往路・復路とも遣唐使とは無関係であった。彼がもたらした善本経典四四一部は園城寺(三井寺)の唐院に収蔵されて「寺門」(延暦寺を指す「山門」と対になる語)の貴重な思想的遺産となったが、これだけの量の書籍を個人旅行で運べるわけはなく、彼の場合も、仏教教団を支える形で貿易商人が活躍していたことを窺わせる。
さかのぼって、遣唐使時代には、唐からは鑑真(六八八〜七六三)が来日して戒律を伝え、また、最澄(七六七〜八二二)・空海(七七四〜八三五)は同時(八〇四年)に遣唐使船で渡唐して、それぞれ天台宗と真言宗を伝えた。空海があらたにもたらした密教は、その後の日本仏教史に甚大な影響を与えた。円仁や円珍の渡唐は、天台宗側が密教を受容・整備する目的を持っていた。
聖徳太子はみずから『勝鬘経』『法華経』『維摩経』に註釈(義疏)を著したと伝承されるが、史実としては疑わしい24。そのほか『日本書紀』などが伝える聖徳太子の仏教保護奨励政策も、どこまで史実なのか現在では疑問視されている。ただ、七世紀に確立した律令国家は、たしかに仏教を重視し、その加護を得て繁栄すると考えていた(鎮護国家の思想)。
聖武天皇(七〇一〜七五六)は新羅遠征計画をとりやめて東大寺の大仏を造営し、仏法によって守護された国家像を提示した25。
平安時代になると、東大寺の勢力を牽制する意味もあって、天台・真言の二つの宗派が王権の庇護を得て勢力を増すが、それは近代的な意味での宗教面のみならず、密教が持つ科学技術的な知(医学的・工学的な知)を期待する側面も併せ持っていた。現在でも、空海が造ったと伝承される灌漑施設が残っており、そうした技術を持つ集団を彼が従えていたことを示している。仏教寺院は多くの荘園を持ち、経済活動の担い手でもあった。唐や百済・新羅からの知識導入にあたって中心的役割を果たしたのは、仏教寺院であった26。
九世紀末から、唐の衰退にともない、浙江省には自立政権としての呉越国が存在していた。日本は地理的に浙江省との交流が深かったので、唐の都長安との交流が途絶えてからは、日中仏教交流はもっぱら呉越国の領域内で行われた27。最澄の上陸地は現在の寧波付近であったが、その後、寧波(はじめ明州と呼ばれ、十三世紀には慶元、十四世紀後半から寧波と改称)が法制上も中国における日本向けの窓口になった。
北宋がふたたび中国の主要部分を統合すると、東大寺の僧侶「然(九三八〜一〇一六)が渡宋し、開封で皇帝に謁見した。日本からは当時中国ですでに散逸していた儒教経書『孝経』の注釈書を持参し、中国からは最新印刷技術を用いた大蔵経を授かっている28。
最澄の系譜を引く天台宗の僧侶たちは、浙江省にある天台山を聖地として巡礼していた。また、文殊信仰で知られる山西省の五臺山も聖地とみなされた。一〇七二年に入宋した成尋(一〇一一〜一〇八一)は、随行した弟子に自分の日記や多くの書籍を持たせて日本に帰し、自身は中国で寂した。その日記は『参天台五臺山記』と名付けられていて、この二つの山の重要性を示している。なお、当時の宋の政府(王安石政権)は積極外交政策をとり、日本にも朝貢を呼びかけたが、日本の朝廷はこれを黙殺した。
十二世紀後半になると、南宋からの交易船がさかんに来航し、折から日本で政治権力を掌握した平清盛(一一一八〜一一八一)の積極策とも噛み合って、日宋貿易が華々しく展開した29。日本からは金・水銀・刀剣・扇・漆器・硫黄・木材などが輸出され、宋からは銭・絹布・香料・薬品・陶磁器・書籍などが輸入された。宋銭の流通は日本国内の商業活動も刺激し、つづく十三〜十四世紀の経済発展に大きく作用した。(詳しくは次章参照。)清盛は福原(現在の神戸)に大規模な海港を整備し(大輪田の泊)、後白河法皇(一一二七〜一一九二)を連れて行って宋の商人に会わせたりしている。しかし、そうした行為は日本一国主義を信奉する公家(宮廷貴族)たちには不評で、彼らが清盛の政治に対して反感をいだく原因にもなった。
この交易拡大にあわせて僧侶の渡航例も増加した。重源(一一二一〜一二〇六)は「入唐三度」と自称していた。(なお、宋代以降も、日本では中国のことを「唐」と呼ぶことが多かった。江戸時代でも中国船のことを「唐船」という。)明庵栄西(一一四一〜一二一五)も二度渡宋し、はじめて本格的に禅宗(臨済宗)を日本に伝えた。重源と栄西は、清盛晩年の政治動乱で焼失した奈良東大寺の再建にあたった30。その建築は従来の仏教伽藍(唐代の様式を受容したうえで日本特有の形式になったもの)とは異なり、その当時の中国(宋代)の様式を取り入れていた(大仏様、別名天竺様)。重源は、最新式の土木工事の技術を備えた集団も擁しており、おそらく中国との人脈によるものだろうとされている。
このように、仏教教団は現在の意味での単なる宗教勢力ではなく、文化面はもとより、科学・技術・政治・経済にまたがる多面的・総合的な存在であった。そのことは、栄西以降の禅仏教において、より明確な形を見せる。そして、それは、日本独自のものではなく、中国を中心とする東アジアに共通して見られる現象であった。
唐の滅亡後、中国の主要部分を再統合した宋は、後述するようにやがて儒教を中核に据えるようになり、その後の東アジアに思想面で大きな影響を及ぼした。一方、唐の北半を統治していた遼は、仏教尊重政策を続けていた。遼と日本との交流について文献史料は残っていないが、日本国内で北方にあった奥州藤原氏の平泉政権や北海道のアイヌとのあいだの通交の可能性も考えられる。
禅宗の伝来によって、日中間の交流は新たな段階を迎える。すなわち、中国における新たな文化潮流が、禅宗に付随する形で大挙して伝わってきたからである31。
次節で述べるように、宋代の中国において思想文化の大変革が生じていた。禅仏教も、それ自体はすでに唐代に確立していたが、宋代の新潮流に棹さして社会的な浸透を果たし、思想的にも発展していた。特に南宋になってから、宏智正覚(一〇九一〜一一五七)による曹洞系の黙照禅と、これを批判する大慧宗杲(一〇八九〜一一六三)ら臨済系統の公案禅とが力を持った。都が浙江省の杭州(臨安府)に移ったこともあって、呉越王国時代以来の仏教寺院がますます重要な位置を占め、十三世紀初頭には、教院系統の五山と並んで、寧波出身の宰相史弥遠(一一六四〜一二三三)の提案により杭州と寧波の五つの寺が禅院の五山と認定された。
そもそも、禅仏教は(達磨大師伝説にもかかわらず、実際には)インドや西域伝来というわけでは必ずしもなく、中国において独自に発達を遂げた思想流派であった。日本から中国に渡った僧侶たちは早くから禅に触れる機会を持っていたのであるが、自覚的に禅を日本に弘めようとしたのは栄西だとされる。彼は宋で黄龍系の禅を学び、帰国後は自分が馴染んできた天台密教と禅の融合を説いた(兼密禅)。『興禅護国論』を著して禅を日本に導入することの意義を強調し、新興勢力であった鎌倉幕府の支援を得て京都に建仁寺を創建する。
栄西に続く世代として、円爾(一二〇二〜一二八〇)は宋で無準師範(一一七八〜一二四九)から楊岐系の法統を継ぎ、帰国後は公家九条道家(一一九三〜一二五二)の庇護を得て京都に東福寺を創建した。鎌倉幕府執権の北条時頼(一二二七〜一二六三)にも慕われ、彼に禅戒を授けた。円爾も密教と禅の兼修を説いている。歿後、十四世紀になって花園天皇(一二九七〜一三四八)から日本最初の国師号(聖一国師)を贈られた。円爾門下の無関普門(一二一二〜一二九一)は亀山法皇(一二四九〜一三〇五)の帰依をうけて南禅寺の開山となった。
栄西は『喫茶養生記』の著者としても知られている。かれら禅僧が中国からもたらした喫茶の習慣が、のちの茶道(茶の湯文化)形成につながっていく。同様に、薬剤とそれにともなう医学、建築とも連動する土木工学など、禅宗寺院は生活文化や科学技術のセンターとしての機能を持っていた。もともと、鑑真が創建した唐招提寺や、最澄創建の延暦寺、空海創建の東寺など、仏教寺院はそうした役割を果たしてきた。すなわち、日本の文化は仏教信仰とともに中国伝来のものとして形成されたのである。
栄西や円爾の兼密禅に対し、永平道元(一二〇〇〜一二五二)ははじめ栄西の孫弟子として宋に渡ったが、寧波近郊の天童寺で宏智系統の黙照禅に接し、帰国後は「只管打坐」を説くようになった(曹洞宗)。
十三世紀後半になると、蘭渓道隆(一二一三〜一二七八)や無学祖元(一二二六〜一二八六)のように、臨済宗楊岐系の中国人僧侶が渡来するようになり、彼らによって兼密禅とは別の純粋禅が弘められた。蘭渓は鎌倉の建長寺、無学はやはり鎌倉の円覚寺を創建した。無学は無準師範の弟子で、円爾とは同門であった。無学の孫弟子に夢窓疎石(一二七五〜一三五一)がおり、朝廷や幕府から帰依されて、夢窓派と呼ばれる一大門流を築いた。夢窓は京都に天竜寺を創建している。
円覚寺は、その直前の蒙古襲来における戦死者を敵味方の区別無く供養するために建立されている。無学は浙江省の生まれで、蒙古軍の兵士に近い立場であったことも関係しているだろうが、もともと仏教にある怨親平等の思想が、鎌倉幕府執権北条時宗(一二五一〜一二八四。上述の時頼の子で、蒙古襲来を撃退したため日本では民族英雄扱いされている人物)を動かしたものであろう。円覚寺にかぎらず、近代以前の日本には「味方の戦死者だけを祭り、敵を排除する」というような宗教伝統は無い。
建長寺や円覚寺は、創建当時においては異国情緒あふれる場所であった。そこでは中国語による仏教学習がなされたとも言われる。鎌倉はたびたび兵火にかかったため、当時のままの伽藍は残されていない。ただ、当時の遺風を伝える円覚寺舎利殿(もとは別の寺の建物)の建築様式は禅宗様(唐様)と呼ばれ、上述の東大寺とはまた違った形で中国の最新様式を移入していた。
十四世紀初頭に、鎌倉幕府は南宋の制度を模して鎌倉に五山を定めた。建長寺がその第一位、円覚寺が第二位である。鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇(一二八八〜一三三九)は、京都で大徳寺創建にかかわったほか、京都に既存の禅宗寺院(南禅寺・建仁寺・東福寺)を含めた五山制度を定めた。この制度は足利直義(一三〇六〜一三五二)の改編を経て、足利義満(一三五八〜一四〇八)により京都と鎌倉それぞれの五山が決められた。(後醍醐ゆかりの大徳寺は、五山から抜ける。)その下には、これも南宋の制度を模して十刹が置かれ、臨済宗寺院全体を政治的に統括する部署として僧録司が相国寺(義満が創建させた寺院)に置かれた。
五山制度は、単に仏教界のみならず、政治・経済・社会・文化の全面にわたって十五世紀の日本に大きく作用した。遣明使の使節も五山の僧侶であり、彼らは日明貿易により潤ってもいた。五山では印刷出版事業も行われ、江戸時代における出版文化の基礎を築いた。特に、五山十刹の僧侶たち(これに林下と呼ばれる、大徳寺等の禅宗寺院も含めた広義の意味)による漢詩文の作成は、「五山文学」として文学史的に重要である32。彼らは政治外交文書の作成の必要もあって漢文を実習していたのであるが、宋代の詩文を模倣して作成された大量の作品は、日本文学史上に燦然と輝いている。彼らが漢詩の模範と仰いだのは、杜甫(七一二〜七七〇)・蘇軾(一〇三六〜一一〇一)・黄庭堅(一〇四五〜一一〇五)・陸游(一一二五〜一二一〇)らであった。古く、平安時代には白居易(七七二〜八四六)の詩文が尊重されていた。五山文学では模範とする作風が変質したのである。
中国においては後述するように、すでに禅宗勢力が政治的には力を持たなくなっていたのと対照的に、日本においては十四世紀から十六世紀にかけて、室町幕府と五山の禅院が結びついた国家統治が行われていた。室町時代の仏教界には思想的・教義的な新展開がないと評されることが多いが、中国文化の受容・浸透という点では重要な役割を果たした。
十七世紀の明清鼎革により、清の統治を潔しとしない人士が少なからず来日した。隠元隆g(一五九二〜一六七三)もその一人で、臨済・曹洞両宗とはまた異なる黄檗宗を伝えた。また、従来の抹茶とは異なる煎茶の作法を伝えたとされる。隠元豆(菜豆)という名称が示すように、彼もまた単に宗教教理をもたらしたわけではなく、日本人の日常生活に深くかかわる貢献をしている。 
四 朱子学の伝播と日本的特色
八世紀半ばの安史の乱ののち、中国は政治・経済・社会・文化の全面に及ぶ一大変革期に突入する。唐の前半と南宋とでは国家の様相が大きく異なるため、この変革は「唐宋変革」と呼ばれる。朱子学は唐宋変革のなかで、儒教において生みだされた思想流派であった33。
宋代には朱子学以外にも新興諸流派が多く登場し、漢代に形成された旧来の儒教を批判的に継承した。それを担ったのが科挙官僚を中心とする一群の人士であり、通常「士大夫」と呼ばれる。ただし、士大夫という語は宋以前から存在する。
宋代の新しい士大夫たちが志したのは、皇帝を頂点とする安定した政治秩序の再建だった。唐宋変革を経て、唐代までに通用していた方法は、すでに社会的・経済的な実情にそぐわなくなっていた。士大夫たちは、時代の要請に応えるべく、その思想資源を孔子・孟子の時代の儒家思想に求め、漢代儒教がそこから逸脱していると批判し、彼らなりの解読によって儒教の経書を再構成して理想的な秩序を構想し、そのために必要な思想教説を周囲の人たち(上は皇帝から、同僚・友人、そして下は一般民衆)に説いたのである。
そもそも、唐と宋の国家の性格は異質だった。その最大の理由は、唐が世界帝国であったのに対して、宋は漢族中心の国家だったことにある。唐宋変革のきっかけとなった安史の乱は、胡族(非漢民族の総称としてこの語を使う)の軍事指揮官(節度使)たちによって引き起こされた。それは唐がそうした人たちの軍事力に頼っていたことを示す。言い換えれば、唐は純粋な漢族国家ではなく、その視線は基本的に(東ではなく)西を向いていた34。
同じく世界帝国とはいっても、漢が成立したころには漢族(この語自体、漢王朝に由来している)に拮抗できるような国家は、匈奴以外に無かった。その匈奴もやがて分裂解体し、漢に服属する。ところが、漢が衰退滅亡すると、胡族により、漢を模倣した国家が周辺に叢生する35。南北朝時代の北朝はほとんどがそうした国家だったし、朝鮮半島にできた高句麗・新羅・百済も、その一例であった。それらをふたたび束ねる形で誕生したのが、隋・唐であったが、その支配集団は皇帝を含めて胡族出自であり、胡漢融合体制をしいていた北朝の系譜に属する。
したがって、唐が衰亡したのちに東アジアに君臨しうるのは、胡族をもまとめうる勢力でなければならなかった。宋は華北に後唐・後晋・後漢とつづいた胡族系の王朝を基盤として生まれ、同じく唐のあとに誕生した胡族(契丹族)の遼と対峙したが、結局その吸収には失敗した。また、西域方面でも、当初から漢や唐のような権勢をふるえずにいたが、十一世紀なかばに西夏が皇帝を自称することによって、その地域を包摂することに完全に失敗した。こうして、宋は漢族のみの王朝(国内に多くの少数民族を抱えながら)とならざるをえなかった。
漢の儒教は世界帝国の支配原理として形成された。唐で儒教が果たした役割も同様だった。ところが、宋代の士大夫たちは同じような統治制度を用いることはできなかった。遼や西夏との軍事的対峙を続けながら、自分たちこそが孔子以来の儒教の正当な後継者であることを示し、それによって国内の秩序を固めていく必要があった。十一世紀後半、欧陽修(一〇〇七〜一〇七三)らを中心に新たな思想文化の潮流が、こうして誕生する。欧陽修の次の世代のなかで最も成功したのは、王安石(一〇二一〜一〇八六)である。彼は宰相として政権を担い、新法を次々に制定して財政改革と制度確立に努めた。彼は学者としても一流で、経学的に多くの業績をあげ、また門人を多数養成した。対外的にも積極政策をとり、西夏を牽制するために青海省方面に出兵した。日本への朝貢呼びかけも、その一端であった。しかし、この路線はのちに新興の金と結んで遼を挟撃したことから破綻し、北宋は滅亡する(靖康の変、一一二七年)。
華中に避難して再建された南宋は、金との戦争続行を叫ぶ将軍岳飛(一一〇三〜一一四一)を粛清し、宰相秦檜(一〇九〇〜一一五五)の指導下に和平条約を結ぶと、高麗などとの対外交易に積極的に乗り出した。日本では平清盛の時代で、前述のように日宋貿易が発展した。十三世紀初頭の金への侵攻が失敗すると、クーデターを起こして権力を掌握したのが、前述の史弥遠である。ちょうどこの頃が朱子学の隆盛期にあたっている。
朱子学の大成者朱熹(一一三〇〜一二〇〇)は、対金主戦派(反秦檜派)の系譜に属している。彼らの心性を支えていたのが華夷思想であった。すなわち、自分たちは「華」であり、「夷」(=「胡」)に対して軍事的には劣勢とはいえ文化的には優越する。そして、この世で最も大事なのは、現実の力関係ではなく、美しく優れた文化を伝え、その立場を守っていくことである。自分の側が正しい場合には、絶対に力に屈してはならない。たとえ、それによって身体的生命が奪われるようなことがあっても、精神的に敵に降服してはならない。この世の正しい道理(=天理)のために命を落とした者は、史書がその功績を称え、国家がその遺徳を偲び、未来永劫忘れられることはない。それに対して、もし敵に屈服するならば、その人物は史書で批判され、悪者として永く記憶されるであろう。朱子学はこうして、大義名分論にもとづく歴史学を提唱する。
こうした発想はもともと漢代の儒教のなかにあり、孔子が編纂した(とされる)史書にちなんで春秋学と呼ばれていた。先述の欧陽修もその立場で正史を編纂した(『新唐書』『新五代史』)。同世代の司馬光(一〇一九〜一〇八六)は『資治通鑑』を著し、『春秋』ののちの時代を扱った。朱熹は彼らの見解をさらに発展させ、たとえば、三国時代の魏は漢を簒奪した憎むべき敵で、漢再興を志した蜀漢こそが正義の味方であると主張した。
金は北宋滅亡の仇敵であるのに、実際にはそのもとで和平を甘受しなければならない鬱屈が、朱子学の大義名分論を生み出した。彼らは、現実には黄河流域や泰山など中華文明ゆかりの故地を金に支配されているにもかかわらず、中華の正統な後継者は自分たち南宋であると主張する。その境遇は三国時代の蜀漢や南北朝時代の南朝と同じであり、したがって彼らは蜀漢や南朝を正統王朝と認定する。こうして、現実の力関係よりも理を重んずる歴史認識が確立する。秦檜は、そうした立場から見ると、許し難い敗北主義者であり、近代の用語を借用すれば、外敵に屈服した「漢奸」であった。彼の像が杭州の岳飛廟において縄をかけた姿でさらし者とされ、岳飛への参拝者が唾をはきかける慣行も、こうして誕生した。
また、朱子学は理想の秩序を追求するうえで、邪悪な思想として仏教、とりわけ禅を強く批判した。実は、思想教説の面で朱子学は禅の影響を大きく受けており、それゆえにかえって禅仏教の危険性を強調することによって、自分の側の支持者を増やそうとしたものと推察できる。とはいえ、言説上では禅とは相容れないというのが、朱子学の立場であった。
朱子学は十三世紀には士大夫に広範に支持者を拡げ、一二七六年に元が南宋を滅ぼして中国南部も統治するようになると、北方に流入して大都(北京)の宮廷にも浸透した。高麗には元から朱子学が伝わり、官僚たちのあいだに浸透していった。高麗はもともと遼の影響もあって儒教より仏教の力が強かったが、この時期、朱子学がこれを逆転させ、やがて朝鮮王朝になると完全に儒教国家となった。
元を放逐して中国の主要部分を統治した明は、漢族王朝ということもあって朱子学を尊崇し、科挙試験のための国定教科書に朱熹の著書を指定した。こうして、科挙受験生すべてが朱熹の書物を通じて儒教を学ぶようになり、朱子学は体制教学となった。そして、朱子学が批判する禅仏教は、宋代におけるような思想的影響力を喪失していった。(十六世紀に禅は一時的に復興する。)
朝鮮同様、ベトナムや琉球でも、明の指導を受けて朱子学が導入された。以後、清が科挙を廃止する(一九〇五年)まで、東アジア全体では朱子学が支配思想であった。十六世紀成立の陽明学、十八世紀の考証学は、部分的に朱子学を鋭く批判したが、その前提自体は朱子学と共有している。
日本にも、朱子学は早くから書物を通じて伝わっていた。上述の円爾が一二四一年に持ち帰った多くの書物のなかに、仏教関係書にまじって朱熹の著作が含まれていた。(のちにその請来書を整理した「普門院経論章疏語録儒書等目録」による。)また、十四世紀、後醍醐天皇の宮廷や足利義満の幕府において、僧侶が朱子学について講じたという記録が残っている。(前者については信憑性を疑う見解も根強い。)五山でも「唐物」崇拝の一環として、朱子学の基礎知識が学ばれていた。
しかし、日本で朱子学を弘めたのは、儒者ではなくて僧侶、それも主として禅僧だった。
遣唐使時代に儒学を職掌とした博士家は、あいかわらず漢代の儒教を講じていた。中国や朝鮮のような形での科挙制度が存在しなかったため、朱子学を学ぶことが栄達の手段にならなかったし、仏教とは別個の知的世界の拡がりにも乏しかった。そのため、朱子学は早くから受容されたものの、それが独自の政治哲学として作用するのは、ずっと遅れて江戸時代、十七世紀を待たねばならなかった。
五山の文化は、室町幕府の衰亡と軌を一にして下火になった。日本でも中国の唐宋変革に相当する大規模な変動が起こり、戦国時代・安土桃山時代と呼ばれる国内の政治抗争期を経て、江戸幕府が誕生する(一六〇三年)。
幕府は林羅山(一五八三〜一六五七)を政治外交顧問として登用した。羅山は儒者として仏教に批判的な立場をとったが、自身は僧侶の身なりで出仕させられていた。中江藤樹(一六〇八〜一六四八)という儒者は、そうした羅山のありかたを批判したが、日本においては官僚として国家に仕えるには、羅山のようにせざるをえなかった。仏教が国教だったからである。(藤樹も朱子学についての知識を京都の禅僧から得ている。)
しかし、やがて幕府の将軍や大名(封建領主)のなかに朱子学を尊重する有志が現れ、羅山の子孫(歴代、林大学頭と称した)も儒者としての姿で将軍に仕えるようになった。
その後、十七〜十八世紀には山崎闇斎(一六一八〜一六八二)・伊藤仁斎(一六二七〜一七〇五)・荻生徂徠(一六六二〜一七二八)をはじめとする多くの儒者が輩出する。
荻生徂徠は古文辞学を提唱し、明の王世貞らの文章を模して、従来の文体を改変した。
漢詩の方面では、五山文学で重んじられてきた『三体詩』に替えて『唐詩選』を推奨し、王維(七〇一〜七六一)・李白(七〇一〜七六二)・杜甫に代表される盛唐の詩を模範と仰いだ。そうした影響を受けて、十九世紀ともなると、かなり広範な階層において詩文の実作が試みられるようになり、律令時代や五山文学時代とは全く異なる様相を呈した。それは、中国文化についての知識が一般社会にまで浸透したことを意味する。
こうして生真面目な知識の受容・導入が進むにつれて、それを笑いの文化に活用する動きも芽生えた。荻生徂徠が詩文の制作を推奨したことに端を発して、「道学先生」よりも「文人」を生む傾向が生まれ、やがてパロディ作品までが作られるようになる。たとえば、大田南畝(蜀山人、一七四九〜一八二三)は『唐詩選』や『論語徴』(徂徠の作品)をもとにして、笑いの世界に読者を誘う作品を生み出した36。
これより先、中国で明が滅亡すると、朱舜水(一六〇〇〜一六八二)が亡命・来日し、最初は九州に、やがて江戸に住まうようになった37。彼は清を認めないという思想的立場からもわかるように、朱子学の華夷思想と大義名分論を信奉・実践する人物だった。将軍の親戚で、水戸の大名であった徳川光圀(一六二八〜一七〇〇)は、若い頃から朱子学に憧れ、野蛮な殉死を禁じたり領内の仏教寺院を整理したりしていたが、朱舜水を招聘して江戸にある自分の邸に住まわせた。朱舜水も、上述の渡来僧たち同様、単なる思想家ではなく、礼法や建築技術に精通していた。
光圀は大義名分論の立場による日本史の編纂事業を思い立った。一つの逸話として、次のように言われている(実際の真偽は不詳)。羅山の息子である林鵞峯(一六一八〜一六八〇)が、幕府の命令で編纂していた日本史は、日本の国の成り立ちを中国の呉太伯の渡来から書き始めていた。これは五山の禅僧の間に浸透していた説であった。このことを知った光圀は憤慨し、鵞峯にその記述を修正させるとともに、『日本書紀』の記述どおりに日本の国土は天皇の祖先神である天照大神に始まることを知らしめる書物を編纂する必要を感じたという。また、『史記』の伯夷伝を読んで自分の境遇と思い合わせて発奮したとされる。
光圀が編纂を開始した書物はのちに『大日本史』と呼ばれるようになり、作業開始から二百五十年後の一九〇六年になってようやく完成する。ただ、部分的には十八世紀にすでに流通していた。『大日本史』編纂事業を進めるこの流派は、水戸学と呼ばれる。
『大日本史』の史書の形式上の特徴は、歴代天皇を本紀とし、朝廷の摂政・関白や幕府の将軍・執権もすべて列伝として扱った点にある。そして、大義名分を正すため、神功皇后の即位を認めず、逆に大友皇子(七世紀に天武天皇との内乱に敗れた人物)の即位を認め、また十四世紀における日本の南北朝時代(一三三六〜一三九二)では南朝を正統と認定した。(これらを三大特筆と呼ぶ。)特に最後のものは、実際には力で北朝(室町幕府側)に圧倒されていたにもかかわらず、理は南朝にあるという判断に基づいており、朱子学の影響が顕著である。そして、南朝に仕えた人物を忠誠に篤いと顕彰し、北朝についた人物に逆臣として非難を浴びせる。朱舜水も、ある大名の邸で見せられた絵に感動して、南朝方の武将であった楠正成(?〜一三三六)を褒め称える文章を著した。徳川光圀と朱舜水が朱子学的な大義名分論によって正成を忠臣として顕彰したことは、のちに天皇のために戦うことを鼓舞する思想資源として利用され、近代日本の「皇軍」意識を醸成することになる。
この例のように、光圀が開始した『大日本史』編纂事業は、朱子学の日本的形態の一つの流派として連綿と受け継がれ、その思想的影響のもとに明治時代の忠君愛国教育が行われた。日本国は天照大神の仰せ(神勅)に基づく天壌無窮の「国体」を持ち、幕府の将軍といえども天皇の臣下にすぎないという論理がこれによって形成された。さらに、忠臣と逆臣とを峻別して前者のみを顕彰し、神(英霊)として祭るという論理もこうして用意された。
さらに、十九世紀なかばには陽明学的な精神主義が武士階層に浸透し、これに水戸学の主張が融合することによって、吉田松陰(一八三〇〜一八五九)や西郷隆盛(一八二七〜一八七七)をはじめとする、尊王攘夷運動の思想的原動力となった。西郷は「征韓論」を唱えたし、朝鮮政策の推進者であった伊藤博文(一八四一〜一九〇九)・山県有朋(一八三八〜一九二二)は松陰の門下生である。彼らが主張する「国体」は決して日本古来の教えではなく、十七世紀以降、朱子学・陽明学の流入にともなって生み出された教説に基づいていたのであった。 
五 「三教」観念と道教・神道 付:風水について
中国では五世紀頃から、儒教・仏教とならんで道教が教団組織として確立し、この三つを「三教」と呼ぶようになった。日本は六世紀に朝鮮半島から儒教・仏教を受容したが、道教は流入しなかった。
上述のように、「天皇」号や「真人」(六八四年に官人の最高の家柄に与えられた称号、「姓」の一つ)の語源は道教にあり、そうした点から日本の国造りに道教の影響を見ようとする見解もある。ただ、唐の玄宗(六八五〜七六二)が道士を日本に帯同させようとしたのに対して、遣唐使がそれを断ったことに示されているように、日本は道教教団の受け入れには消極的だった。もっとも、知識として「三教」は知られており、空海は渡唐前に『三教指帰』を著して、儒教・道教に対する仏教の教理的優越を主張している。
中国で、三教は制度的に区別されていたものの、実際の信仰の現場においては混合・融合している面もあり、仏教の伽藍守護神や冥界信仰には道教とつながる要素が強かった。
たとえば、泰山信仰に基づく十王には、その一人に閻羅王を含んでいる。閻羅という名称はサンスクリット語にもとづく仏教語だが、中国で道教風に変形し、冠をかぶり笏を持って中国官人の服を着るという姿で表されるようになり、それが仏教信仰の一環として日本にも伝来し、「閻魔様」として親しまれ現在にいたっている。また、道教的な陰陽五行思想にもとづく「陰陽道」も成立し、天皇家から庶民にいたるまで身分の上下を問わず幅広く信奉された。
十三世紀以降に伝来した新進の禅宗寺院における伽藍神も、道教もしくは民間信仰の神を含み、それが元来の由緒を忘却したかたちでそのまま日本に伝えられた。また、十六世紀以降、印刷出版された書物として通俗小説が流入するようになると、たとえば関羽(関帝)のように、神格化された英雄信仰も知られるようになり、日本の神社仏閣における祭祀でその像が用いられたりもしている。そうした意味では、道教教団は無かったにせよ、日本文化のなかに道教の要素はたしかに存在する。
日本では教団としての道教は存在しなかったが、やがて独自の三教観が成立する。その場合の、儒教・仏教と並ぶもう一つの「教」が神道であった。『古事記』『日本書紀』等に語られる建国神話がその思想資源であるが、宗教教団として成立するのは十三世紀になってからであった(伊勢神道)。十六世紀の吉田神道(唯一神道)や十七世紀の儒家神道(理当心地神道や垂加神道)を経て、十八世紀には復古神道が成立し、国学運動とも相まって日本古来の神話的な歴史を鼓吹した。この流れは、皇祖神天照大神を最高神として定位させて天皇中心の「国体」観念形成に寄与し、幕府を倒して天皇親政の世に復古させるという明治維新の思想的原動力となった。
復古神道成立後に回顧して語られる神道史では、伊勢神道などは仏教との融合協調(神仏習合)を教義とする点から批判を浴びてきた。しかし、歴史的には、仏教信仰を受容するなかで、それに付随する陰陽道や道教的な知見が神道の思想資源となり、最初から「習合」した状態で神道が生まれたのであって、仏教伝来以前に純粋な神道が「古層」として存在したとする言説は虚構にすぎない38。
復古神道の前段階として、儒家神道の歴史的役割は注目に値する。すなわち、密教や禅宗に象徴されるように、仏教を国教とする体制が日本では支配的であり、儒教はその付随物として学ばれていた。林羅山・徳川光圀・山崎闇斎らはこうした風潮を改革すべく、仏教を批判するために神道を顕彰し、日本古来の精神風土は儒教に親和的であったとする教説を普及させたのである。こうして、仏教に対抗すべく、儒教と神道の共同戦線が張られた。
復古神道はこうした段階を経て、「儒教でさえ外来の思想にすぎない」と唱え、本居宣長の「漢心」対「大和心(=日本魂)」という図式を継承して、日本の独自性・優越性を強調するにいたる。このようにして、「日本独自の信仰体系」を標榜する神道が成立したのであった。
つまり、日本の伝統的精神文化とは、中国を中心とする大陸文明に起源を持つものとして生まれ、その圧倒的影響を蒙りながら変容・発展を遂げつつ、ある時期から意図的にそれとの異化を図るために、人為的・歴史的に構築された観念の産物なのである。
* * *
最後に、この十年来、日本で急速に普及・受容が進んでいる「風水」思想について一言しておく。
風水の全体像を簡単に概括するのは困難であるが、地理的・風土的環境に考慮したうえで人間社会の基盤(都市・建築・墓地など)を設定するという性格を持っている。その点では、日本が唐を模倣して都城を設計した時点で、広義の風水思想に配慮したことは言うまでもない。しかし、それが呪術体系としての風水の影響によるものであるとは必ずしも言えない。すなわち、上述の道教と同様、個々の要素次元では風水の知識は伝わっていたけれども、それらを総合した体系としての風水論が日本に受容されていたかどうかは、定かではない。
その点では、むしろ現在進行している状況を、日本史上はじめて風水が広範かつ本格的に受容されていると評価することができる。ただその場合にも(古来の受容と同じように)38 末木文美士『日本宗教史』(岩波書店、二〇〇六年)等。
中国本土や香港・台湾の風水とは微妙に異なる点が見られ、日本における選択的受容の「伝統」は今なお生きていると見ることもできよう。 

1 中国古典には古くから「国家」という熟語が見え、この語の含意する内容が近代における翻訳概念としての国家と近かったからこそ、国家が翻訳語彙として用いられているわけだけれども、以下、本章で言及する「国家」とは史料用語としてのそれではなく、近代的な概念としてのそれである。
2 新村出(編)『広辞苑』(岩波書店、二〇〇八年刊行の第六版)、九七六頁。なお、『広辞苑』は日本国内で最も権威有りとされている辞典である。
3 「国体」という語彙は中国の儒教的知識人(士大夫)によって古くから用いられていたが、十九世紀の後期水戸学(朱子学が日本的展開を遂げた流派)がこれを日本の独自性を強調する意味で使用するようになった。「古層」は、丸山眞男が一九七〇年代から用いるようになった関鍵語彙。その最初の論文が一九七二年に書かれた「歴史意識の「古層」」で、『丸山眞男集』第十巻(岩波書店、一九九七年)に収録されている。丸山はその後、バッソ・オスティナート(Basso Ostinato)という音楽用語を借用して、日本文化が本来的に持つ、外来文化を消化吸収してしまう力を形容した。
4 日本の律令の文章には、「どこからどこまでの領域を日本国とする」という規定は見えない。ただ、これは唐の律令と同じである。ここで述べたいのは、国郡制による空間的な領域設定を想定したうえで律令が編まれているということである。
5 現存する『養老令』(七五七年施行)による。『飛鳥浄御原令』(六八九年)や『大宝令』(七〇一年)でどう表記されていたか正確には不明だが、おそらく同様だったであろう。
6 『古事記』・『日本書紀』等が伝える神話伝説的な記載は歴史的な事実ではないため、他の史料から判断して歴史学的に厳密を期した場合、六世紀末より以前に天皇号の使用開始が遡るとは考えられないのである。
7 時期的には主として七世紀を対象としているが、日本古代の都城と王権儀礼の関係を、中国の思想文化流入の面から論じた中国語の専著として、王海燕『古代日本的都城空間与礼儀』(浙江大学出版社、二〇〇六年)を挙げておく。
8 『古事記』についての学術的研究の最先端の成果を示すものとして、神野志隆光『漢字テキストとしての古事記』(東京大学出版会、二〇〇七年)を挙げておく。
9 古代における漢字受容については、その題名の論文を収録する、佐藤信『出土史料の古代史』(東京大学出版会、二〇〇二年)を参照。
10 この時、王仁は『論語』とともに『千字文』をもたらしたとされる。この二つの書物は唐における漢字学習教材であり、日本でも七世紀末には使用していたことが確認されるため、それを遡らせて王仁に仮託して創作された伝承であろうと推定されている(東野治之『正倉院文書と木簡の研究』、塙書房、一九七七年)。
11 応神天皇の在位年代は、『日本書紀』によれば西暦三世紀後半に相当するが、この年代設定は神功皇后(彼の母)の摂政在任時期を邪馬台国女王卑弥呼の在世年代にあわせるための作為的な設定にすぎず、歴史的事実とはみなせない。
12 王仁渡来伝説よりも確実な史料とみなされているのは、『日本書紀』欽明十五年(西暦五五四年)に、百済が五経博士、僧侶、各種の技能者を派遣してきたとする記事である。これをもって正規の儒教伝来とすると、百済からの仏教伝来(五三八年説と五五二年説あり)とほぼ同時期ということになる。
13 溝口雄三・池田知久・小島毅『中国思想史』(東京大学出版会、二〇〇七年)。以下、本章における中国儒教史の記述はこの本にもとづく。なお、「儒教」か「儒学」かという用語上の問題や、日本語と中国語とでこれらの用語の使い方が異なる点についての検討は省き、本章では「儒教」のみを使用する。
14 日本国の国籍法第四条には「日本国民でない者(以下「外国人」という。)は、帰化によつて、日本の国籍を取得することができる」とある。
15 福永光司ほか『道教と古代の天皇制————日本古代史・新考』(徳間書店、一九七八年)。
16 那珂通世『上世年紀考』(『那珂通世遺書』第一巻、大日本図書、一九一五年。初出は一八九七〜一八九八年の『史学雑誌』第八巻八〜十二号)。
17 律令制度のなかの学校制度については、久木幸男『日本古代学校の研究』(玉川大学出版部、一九九〇年)などを参照。
18 石井正敏『東アジア世界と古代の日本』(山川出版社、二〇〇三年)等。
19 石井正敏『日本渤海関係史の研究』(吉川弘文館、二〇〇一年)等。
20 義満にさきだって懐良親王が「日本国王」に封建されているが、彼は九州の一部を治める、南朝方の「征西将軍」にすぎず、律令が規定している「日本」全土の統治者ではなかった。なお、懐良親王の時代の九州情勢については、川添昭二『九州の中世世界』(海鳥社、一九九四年)等がある。
21 濱田耕策『新羅国史の研究————東アジア史の視点から』(吉川弘文館、二〇〇二年)。
22 榎本渉『東アジア海域と日中交流————九〜十四世紀』(吉川弘文館、二〇〇七年)。
23 村井章介『国境をまたぐ人びと』(山川出版社、二〇〇六年)等。
24 一九三〇年代にすでに津田左右吉が三経義疏は聖徳太子の撰述ではあるまいとの仮説を提示していたが、藤枝晃「勝鬘経義疏」(日本思想大系2『聖徳太子』所収、岩波書店、一九七五年)は、文献学的に『勝鬘経義疏』が中国の作品であることを実証した。なお、聖徳太子伝説の歴史的な形成過程については、大山誠一『<聖徳太子>の誕生』(吉川弘文館、一九九九年)を参照。
25 保立道久『黄金国家————東アジアと平安日本』(青木書店、二〇〇四年)。
26 新川登亀男『日本古代文化史の構想————祖父殴打伝承を読む』(名著刊行会、一九九四年)。
27 藤善真澄(編著)『浙江と日本』(関西大学出版部、一九九七年)。
28 遣唐使時代を中心とする書籍の流通については、王勇『書物の中日交流史』(国際文化工房、二〇〇五年)を参照。
29 森克己『日宋貿易の研究』(国立書院、一九四八年)、五味文彦『平清盛』(吉川弘文館、一九九九年)、高橋昌明『平清盛福原の夢』(講談社、二〇〇七年)等。
30 五味文彦『大仏再建————中世民衆の熱狂』(講談社、一九九五年)。
31 この時期の日中文化交流を広く論じた中国語の専著として、李寅生『論宋元時期的中日文化交流及相互影響』(巴蜀書社、二〇〇七年)がある。
32 玉村竹二『五山文学————大陸文化紹介者としての五山禅僧の活動』(至文堂、一九五五年)等。
33 土田健次郎『道学の形成』(創文社、二〇〇二年)、小島毅『宋学の形成と展開』(創文社、一九九九年)等。
34 森安孝夫『シルクロードと唐帝国』(講談社、二〇〇七年)。
35 川本芳昭『魏晋南北朝時代の民族問題』(汲古書院、一九九八年)。
36 小島康敬「「聖人の道」と「色道」」(『アジア文化研究』別冊十六号、二〇〇七年)。
37 朱舜水のほか、陳元贇(一五八七〜一六七一)も日本に亡命し、名古屋で活躍した。 
 
中世日本の中国銭経済

 

1)古代日本貨幣史の概要
a. 古代の銅銭鋳造事業
本節の課題は、中国銭を主要貨幣として展開した中世日本経済の特質について論じることにあるが、はじめにその前史をなす古代貨幣史の概要から述べておく。
日本の鋳造貨幣の歴史は7 世紀後半にはじまる。現在確認されている日本最古の鋳造貨幣は「無文銀銭」とよばれる銀貨である1。これは出土品として二十数点が現存しているが、中央に小孔の穿たれた直径3 センチほどの銀貨であり、銘文をまったくもたないことからこの名でよばれている。この銀貨は、原料銀の産地や鋳造主体、詳しい鋳造開始時期などいっさい不明だが、天武天皇の政府が7 世紀後半に最古の銅銭である富本銭を鋳造したときにはすでに流通していたことが知られている。
一方、遅くとも683 年以前に鋳造が開始されていた富本銭は、円形方孔で「富本」の銘文をもつ中国銭タイプの銅銭であった。富本銭が鋳造された天武朝は、663 年の白村江での敗戦によって対外的緊張が高まるなか、中央集権化が強力に推進され、古代律令国家の基礎が築かれた時代であった。「日本」という国号がはじめて採用されたのもこの時代であり、また、それまでの「大王」が「天皇」とよばれるようになったのもこの時代とみる説が有力である。天武天皇は中国型の専制国家を志向し、律令制や都城制など、中国の制度を積極的に導入したが、銅銭の鋳造もその一環であった。けれども銀銭の使用に慣れていた人びとは、素材価値の低い銅銭を容易に受け入れようとはせず、最初の銅銭鋳造の試みは失敗に終わった。
古代国家が次に鋳造した銅銭は708 年初鋳の和同開珎である。これは1991 年に富本銭が最古の銅銭と確認されるまで、長いあいだ日本最古の銅銭と考えられてきたものである。和同開珎は710 年に完成する平城京建設に向けた財政手段(労働者にたいする支払手段)として鋳造されたものとみられる。富本銭のときとは異なり、律令政府はかろうじてその普及に成功したが、その後も市場価値の下落に苦しめられ、そのたびに新銭の発行によってこれを弥縫せねばならなかった。
ともあれ、これ以後、律令政府は10 世紀後半まで約300 年間にわたり、富本銭・和同開珎を含め、合計13 種類の銅銭を鋳造しつづけたが、958 年初鋳の乾元大宝を最後に銅銭鋳造事業は中絶する。その直接の原因は、原料銅主産地である長門国長登銅山の衰退にあったが、もうひとつの原因として、対外的緊張の緩和にともない、古代国家がそれまでとってきた専制国家型の大規模財政を放棄したことがあげられよう。国家財政が大幅にスリム化したことにより、財政補填手段としての銅銭鋳造事業は不要になったのである。 
b. 商品貨幣の時代と信用経済の萌芽
政府が銅銭鋳造事業を中止すると、銭は急速にその信任を失い、明くる11 世紀初頭に銅銭の流通はついに途絶する。これ以後、12 世紀半ばまでの約150 年間、日本社会は金属貨幣をもたず、もっぱら米と絹布(絹・麻布)に依存する商品貨幣(実物貨幣・物品貨幣)の時代を経験する。10 世紀後半といえば、高麗やヴェトナムなどの東アジア諸国がまさに銭の鋳造を開始した時期にあたるが、その同じ時期に日本は銭経済を放棄したのである。米や絹布が銅銭に取って代わったことについては、一見すると先祖返り、つまり経済の発展段階を逆行する動きのようにみえるかもしれないが、それは正しくない。商品貨幣経済は、物々交換のようにモノなら何でもよかったわけではなく、米と絹布というごくかぎられたモノにしか貨幣の資格を認めていなかったからである。
この時代にはさまざまな信用貨幣(手形)が発生し、日本史上、最初の信用経済の発達がみられたことも見のがせない。米や絹布という、持ち運びに不便な貨幣を使っていたことが、逆に貨幣の節約手段、輸送の省力化の手段としての手形決済を発達させたと考えられる。このように信用経済が商品貨幣の時代に発達するという傾向は世界史的にも広く確認されるが、それはこの時期の日本にもよくあてはまるといえよう2。
この時代の手形類を振り出していたのは民間の金融業者ではなく、中央の財務機関である大蔵省や、諸国の徴税を担当していた国守(このころになると、遙任といって任国に赴任せず、京都に留まるケースが増えてくる)などであった3。大蔵省や国守は他の官庁などから経費の請求をうけると、所管の出納担当者に支払いを命じた支払命令書を振り出し、請求者はそれを当該担当者のもとに持参して経費の支払いをうけたのである。
国守が振り出した支払命令書のなかには、支払地が地方であるものも少なくなかったが、そのようなばあい、請求者自身が地方に赴くのはコストがかかるため、民間の金融業者で
ある借上がそれらの支払命令書をまとめて買い取り、地方での回収業務を代行することもあった。手形割引の早い例といってもよいだろう。このように、日本における最初の信用経済は、10 世紀後半〜12 世紀の財政システムのなかから発生したのである。
ところがこれらの手形類は、いずれも中世の入口にあたる12 世紀中に姿を消してしまう。
国守の徴税能力の低下やそれにともなう財政システムの改編の影響もあったが、12 世紀半ばに銭経済が復活した影響も大きかったであろう。輸送性能にすぐれた銭の普及は手形決済の必要性を低下させたと考えられるからである4。
12 世紀後半に日本社会は突如として金属貨幣の時代に再突入する。しかしそれは、かつてのような自国鋳貨によるものではなく、中国銭、なかんずく北宋銭の大量流入によって招来されたものであった。そしてこの中国銭への依存は基本的に寛永通宝の鋳造が軌道に乗る17 世紀後半まで維持されることになる。
このように、前近代の日本の貨幣史は、自国鋳貨の時代→商品貨幣の時代→中国銭の時代→自国鋳貨の時代、という複雑な変遷をたどるが、そのうち中国銭の時代はほぼ時代区分上の中世に一致する。なぜ日本の中世国家はみずから貨幣を鋳造せず、その供給を中国に依存しつづけたのか、またそのような中国銭への依存は中世の流通経済にどのような影響を与えたのか、これらは中世日本の国制を考えるうえでもきわめて重要な問題であろう。 
2)中国銭経済の開始
a. 宋銭の流入
北宋(960〜1127)は中国歴代王朝中まれにみる大量の銅銭を鋳造した王朝であり、北宋銭は明代にいたるまで中国国内流通銭の首座を占めつづけることになるが、にもかかわらず中国は北宋時代からすでに銭不足に悩まされていた。その原因のひとつに周辺諸国への銅銭の流出があったが、銅銭の国外流出は次の南宋(1127〜1276)の時代にさらに深刻化した。とくに1199 年には日本・高麗への銅銭帯出を禁止する法令が出されており、日本が宋銭の主要な流出先に数えられていたことが知られる。
一方、日本側の史料をみると、1150 年の土地売券に約150 年ぶりに銭が再登場し、1179年には朝廷で宋銭使用の停否が検討されるほどの流通量に達した。1193 年に朝廷はついに宋銭使用の禁止にふみきるが、朝廷の禁止令にもかかわらず、民間での宋銭使用は一向に衰えず、結局なしくずし的に宋銭使用は容認されてゆく。朝廷がいくら銅銭の使用を促しても人びとがそれをつかおうとしなかった古代とは対照的に、この時期には朝廷がいくら銅銭の使用を禁止しても人びとはその使用をやめなかったのである。その理由は、すでに森克己が指摘しているように、宋銭が民衆のイニシアティブによって流通を開始した貨幣であったからにほかなるまい5。
一方、12 世紀末東国に成立した武家政権である鎌倉幕府は、1226 年に准布の貨幣的使用を禁じ、銅銭使用を強制する法令を出している。幕府は朝廷とは異なり、宋銭にたいして寛容な態度をとったが、この法令は中世の権力が明確に宋銭の基準貨幣化を打ち出した最初の意思表示でもある。そして、このころから宋銭は米・絹布がもっていた貨幣機能を急速に吸収しはじめるのである。 
b. 宋銭の貨幣機能獲得過程
通常、貨幣の機能といえば、1.一般的交換手段(流通手段)、2.支払手段、3.価値尺度機能(計算手段・計算貨幣)、4.富の蓄蔵手段、という4 つの機能をさす。近代貨幣においてはこれらの諸機能が統合され、有機的に結びついているが、前近代貨幣のばあい、それらはしばしば分裂し、各機能ごとに異なる貨幣が用いられている例もめずらしくなかった。そして中世の銅銭も、当初からこれらすべての機能を備えた完全な貨幣として登場したわけではなかったのである6。
造都事業にかかわる国家的な支払手段として国家によって広められた古代の銅銭にたいし、宋銭は一般的交換手段としてまず民衆のあいだに広まった点に特徴があるが、宋銭が米や絹布から貨幣機能を吸収し、貨幣形態として完成するまでには、なお長い時間を要した。以下、松延康隆7・大田由紀夫8らの研究にそってその過程を概観しておこう。
第1 の画期は、宋銭が絹布の支払手段としての機能を吸収する1220 年代後半である。貢租のうち、従来、絹布など繊維製品で納められていた部分がこのころを画期としていっせいに代銭納化してゆくのである。前述の1226 年の幕府法もその一環として位置づけられるが、同じく絹布がもっていた価値尺度機能も13 世紀半ばごろまでに宋銭に吸収された。
第2 の画期は、宋銭が米の支払手段としての機能を吸収する1270 年代である。その変化をもっとも明瞭に示すのが、この時期におきた、いわゆる年貢の代銭納化である。米の価値尺度機能も1300 年代にはほぼ宋銭に吸収され、こうして14 世紀初頭に宋銭は貨幣形としての完成をみることになる。
ところで年貢の代銭納化がおきた1270 年代には、日本だけでなく、ジャワやヴェトナムなど、東アジア全域で中国銭経済への転換がおきている。この時期、中国では南宋の首都臨安が1276 年に陥落し、かわって中国を支配した元(モンゴル)は、翌1277 年に紙幣専用政策を採用して国内での銅銭使用を禁止した。その結果、国内での使い道を失った銅銭が中国から大量に流出し、それがこの時期、東アジア全域に中国銭使用の拡大という共通の現象をもたらしたのである。日本における代銭納制の普及も明らかにその一環であり、この現象を流通経済の発達といった国内的要因だけで説明することはできない。むしろ大田も指摘するように、このとき大量に流入した中国銭がその後の日本に加速的な流通経済の発達をもたらしたと考えるのが妥当だろう9。 
3)中国銭経済の展開
a. 市場経済の発達と割符の登場
年貢の代銭納制は、たんなる収取方式の変更というだけでなく、その後の経済全体にはかりしれない影響をおよぼした。荘園現地では、それまで生産物をそのまま貢租として中央に送ればよかったのにたいし、代銭納制のもとでは、それらを現地でいったん売却・換金し、そこで得た銭を中央に送らねばならない。代銭納制はそのような売却・換金がおこなわれる場としての定期市を全国各地に簇生させた。
売却された生産物は、売却された時点で商品に転化する。その一部は地域内で消費されたが、他の一部は遠隔地商人の手に渡り、巨大な消費者人口をかかえる畿内はじめ遠隔地へと運ばれた。物流の見地からいえば、それまで貢租として現地を船出し、中央に送られていた生産物が、代銭納制以後になると今度は商品として船出し、中央に送られるようになったということである。こうして年貢の代銭納制はいまだかつてない厖大な商品の流れをつくりだし、その結果、日本列島ではこれ以降、本格的な市場経済が展開することになった10。そして、この経済発展のもとで平安時代に続く信用経済発達の第二のピークが訪れることになる。
この時代を特徴づける信用貨幣が割符である11。日本における為替手形の源流は、13 世紀前半に発生した、他地返済の特約の付いた特殊な借用証書にあったと考えられる。それがやがて送金手段に転用され、あるいは商業上の決済手段にも利用されて、江戸時代の為替手形につながってゆくことになるが、割符もその一種として発達したものであることはまちがいない。ただ割符には、一般の為替手形にはみられない大きな特徴があった。それは、割符の多くが10 貫文の額面をもつ定額手形だったことである。割符はしばしば1 つ、2 つと個数で数えられ、1 つといえば10 貫文、2 つといえば20 貫文を意味した。
割符が定額だった理由は、不特定多数の人びとのあいだを転々流通することがあらかじめ前提されていたためと考えられる。1 回の取り組みで役割を終えるのであれば、定額である必要はなく、江戸時代の為替手形のように額面に端数が出てもよいからである。その意味で割符は紙幣に近い性格も備えていたといえる。
ところで10 貫文というと、今日の貨幣価値でいえば100 万円前後に相当するから、かなりの高額貨幣である。それが問屋によって振り出されていたことも考え合わせると、割符が遠隔地間の巨大な商品取引のなかから発生してきたものであることはまちがいない。
割符は振出地も支払地も畿内やその周辺のものが多いが、それらはしばしば遠隔地商人の手で地方へ運ばれ、米や各地の特産物の買付に利用された。こうしていったん地方の生産者の手に渡った割符は、今度は年貢の送進手段としてふたたび荘園領主のいる畿内に送られ、換金されたのである。このような高額の信用貨幣が流通していたところにも、中世後期における信用経済の発達ぶりがうかがえよう。 
b. 14 世紀の銭貴と後醍醐天皇の貨幣発行計画
14 世紀に入ると13 世紀後半のインフレーションは終息し、日本は一転して銭荒(銭不足)・銭貴(銭高)に見舞われることになった。松延康隆が明らかにした14 世紀の著しい地価下落は、そのような銭荒・銭貴の進行を端的に示す現象であろう12。後述する後醍醐天皇の貨幣発行計画もこの銭荒・銭貴に便乗して企てられた可能性が高いが、14 世紀後半には高麗・李氏朝鮮やヴェトナムでも銅銭や紙幣を自前で発行する動きが強まることから、14 世紀には東アジア規模で銭荒・銭貴が進行していたとみられ、その原因が中国からの銭流出の鈍化にあったことも疑いない13。
備蓄銭の慣行が14 世紀後半ごろから日本各地で本格化するのも、このことと無関係ではない。松延は備蓄銭慣行の広まり、すなわち銭が富の蓄蔵機能を獲得したことが、銭の退蔵を促し、それが銭荒・銭貴の原因になったと推測したが、これは原因と結果が逆である可能性が高く、むしろ長期的な銭荒・銭貴傾向のなかで将来の銭供給にたいする不安とさらなる銭貴への予測から、備蓄銭の慣行が広まったと解釈したほうがよさそうである14。
このような銭貴傾向のなか、中世日本にあってただひとり銅銭と紙幣の発行を考えた人物があらわれた。後醍醐天皇(1288〜1339、在位1318〜1339)である。
後醍醐天皇の貨幣発行計画については、従来、天皇の貨幣鋳造大権を回復しようとしたとか、貨幣経済に基礎をおく国家への転換を図ったといった説明がなされてきたが、『太平記』巻12 には、貨幣発行は大内裏造営のために計画されたと明記されている。名目貨幣、すなわち額面価値がその素材価値を上回る貨幣のばあい、発行者には貨幣発行収入がもたらされるが、その利益は、銅銭よりも紙幣を発行したほうがさらに大きくなる。後醍醐の貨幣発行計画も、銅銭だけでなく、紙幣の発行も視野に入れていたことからわかるように、大内裏造営費用を捻出するための財政補填策として構想されたものだったのである。この点は、造都事業と密接な関係をもって進められた古代律令政府の銅銭鋳造事業とまったく同じ発想であり、後醍醐の貨幣発行計画もその点では依然として古代的なものにとどまっていたといわざるをえない15。
後醍醐の貨幣発行計画は結局日の目をみなかったが、そもそも後醍醐がどこからこのアイデアを仕入れたかといえば、紙幣という着想に注目すれば、やはり中国からとみるのが自然だろう。とくに後醍醐が銅銭と紙幣の併用を考えていたことからすれば、そのモデルは紙幣専用政策をとった元ではなく、銅銭と紙幣の併用政策をとった南宋に求められるべきである16。
後醍醐天皇以外の為政者が貨幣の発行を思い立たなかったのは、結局、大内裏造営計画のような大事業を企図した者が中世には後醍醐以外存在しなかったためである。後述するように、財政補填策としての貨幣発行は中世日本のような“小さな政府”には無縁のものだったといえよう17。 
4)中国銭経済の終焉
a. 明銭の流入と明銭論争
12 世紀半ばに大量の宋銭流入によってはじまった中国銭経済は、途中いくつかの小変動を経験しながらも、15 世紀後半まではほぼ安定的な状態を保っていたとみてよい。1368 年に中国に明王朝が成立すると、以後、洪武通宝(1368 年初鋳)・永楽通宝(1411 年初鋳)・宣徳通宝(1434 年初鋳)などの明銭が流入しはじめるが、明銭が宋銭に取って代わることはなく、流通銭の首座は依然として宋銭によって占められていた。
ところが15 世紀末になると、それまで3 世紀以上にわたって維持されていた中国銭経済にもようやく動揺の兆しがみえはじめた。その動揺はまず特定の銭種のみを選好して、それ以外の銭種の受け取りを拒否する撰銭行為となってあらわれ、それを取り締まるための撰銭令がこれ以後、室町幕府や、地方権力である戦国大名によって頻繁に出されてゆく。初期の撰銭に関して注目すべきことは、老朽化した銅銭に加え、当時出まわりはじめたばかりの明銭が忌避の対象となった点である。西日本の代表的な戦国大名である大内氏が1485 年に発布した撰銭令は、撰銭令の初見史料として知られるものだが、そこでもっとも問題視されていたのもやはり明銭にたいする撰銭行為であった。明銭にたいする忌避はほどなく畿内にも波及するが、研究者の関心をさらに引きつけたのは、明銭忌避が日本ばかりでなく、同時期の中国でもおきていた事実である。
日中でほぼ同時並行的に明銭忌避が発生した原因に関しては、現在3 つの説が提唱されている。この問題をはじめて本格的に取り上げた足立啓二は、中国における明銭忌避の原因を、1436 年に明政府が銀財政への転換を開始して銭が国家的支払手段でなくなったことに求め、日本における明銭忌避はそれが波及したものだと説明した18。この理解にもとづいて足立が提唱した、中世日本は中国の内部貨幣圏であるとの主張は、1990 年代初頭の日本史学界に大きなセンセーションを巻きおこしたが、この説はまもなく、明は銀財政以前から鈔法(紙幣専用政策)をとっており、銭が国家財政とリンクしていた事実はそもそもなかったとする大田由起夫の批判によって後景に退いた。代わって大田が注目したのは、明銭の鋳造量の少なさ、その希少性であった。大量に存在することが小額貨幣として受容されるための重要な条件であったことは理論的にも確かめられているが、明銭はその条件を満たしていなかったというのが大田の説明である19。そして近年、第3 の説を提唱したのが黒田明伸である。黒田は、北京で永楽通宝にたいする撰銭が発生するのが1460 年代であったこと、そしてそのきっかけが1456 年ごろから顕著になる江南からの私鋳永楽通宝の流入にあったことに着目し、この私鋳永楽通宝がやがて北京でなく、日本をめざすようになったと推測した。つまり黒田は、北京と日本で明銭忌避がほぼ共時的に発生した原因は、まさに同一の私鋳永楽通宝が流入したことにあったとみたのである20。
すでに否定された足立説は別として、大田説・黒田説のいずれが正しいかはいまだに決着をみておらず、また今後第4 の説が登場する可能性もないとはいえないが、ここでは、この問題が日中双方の15 世紀貨幣史にとって共通の課題であることを指摘して、今後の研究の進展に期待したいと思う。
なお、明銭がたどったその後の足どりについてだけ触れておくと、明銭のうち洪武通宝と宣徳通宝がついに精銭(宋銭を中心とする良貨)の仲間入りをはたすことができなかったのにたいし、永楽通宝は16 世紀半ばにいたってようやく精銭としての評価を獲得する。
とくに東日本では永楽通宝の評価が上昇し、当該地域におけるもっとも代表的な精銭となる21。永楽通宝はこうして初鋳以来約150 年を経てようやく日本における市民権を獲得したのであるが、その背景にはじつは精銭全体の希少化というより切実な事態が進行しつつあったのである。 
b. 精銭の希少化と私鋳銭
銅銭の流通量は追加供給がないかぎり減少する。とくに精銭は退蔵されやすく、また自然の老朽化・貶質化によっても絶えず悪銭への格下げがおきたから、市場において希少化する速度は他の銭種にくらべてはるかに早かった。またこのころようやく精銭の仲間入りをした永楽通宝も、より高い評価が得られる東日本に大量に流出した可能性が強く、畿内・1991 年)、同「東アジアにおける銭貨の流通」(荒野泰典他編『アジアのなかの日本史V 海上の道』東京大学出版会、1992 年)。
西日本においては精銭の希少化がきわめて早い速度で進行したと考えられる。精銭の希少化は精銭だけでなく、やがては銅銭全体の希少化を招くことになろう。この時期、それを補完する役割をはたしたものが私鋳銭にほかならない。
私鋳銭には日本国内で鋳造されたものと中国で鋳造されたものとがあったが、とくに後者は16 世紀半ばの嘉靖の大倭寇によって大量に国内にもたらされ、量的にも精銭を凌駕する勢いを示した22。それにともない、民間では、当初のように私鋳銭を流通から完全に排除してしまうことは少なくなり、代わって精銭よりも低い価値を与えたうえで通用させる慣行が一般化した。商人たちは、精銭自体が希少化するなかで、入手のむずかしい精銭にこだわるよりも、低品位ながら豊富に存在する私鋳銭での取引を選んだのである。
しかし私鋳銭によってかろうじて維持されていた銭経済もついに破綻の時を迎える。
とくに西日本においては16 世紀後半に中・高額取引分野における銭遣いが破綻し、1570年前後には銭遣いから米遣いへ、続く16 世紀末から17 世紀初頭には米遣いから銀遣いへの転換があいついでおきた23。400 年以上にわたって続いてきた中国銭経済がいよいよ終焉の時を迎えようとしていたのである。
その原因については、中国からの銭供給の途絶に求めた黒田明伸の所説にしたがうべきだろう。黒田は、第1 に1566〜67 年に明政府が倭寇の本拠地であった漳州を制圧するとともに海禁を一部解除したこと(銭の密輸組織の消滅)、第2 にマニラ―アカプルコ間の定期航路の開設にともない、ポトシ銀が銭の密造基地であった中国東南沿岸部に流入し、同地域を銭遣い圏から銀遣い圏に変えてしまったこと(銭の密造組織の消滅)を指摘して、それらが中国から日本への銭供給を途絶させたとみるのである24。
中国と日本国内、2 つの銭供給源のうち一方を失ったことで、日本国内では銭の希少化がさらに進行した。西日本において銭遣いから米遣いへの転換がおきたのはそのもっとも顕著なあらわれだが、この時期におきた土地制度上の重大な変化である貫高制から石高制への転換もそれにともなうものであった。年貢や軍役の基準となる土地生産力の算定には、それまで銭に換算する貫高制が用いられていたが、1580 年代ごろから米に換算する石高制への転換が進み、江戸幕府によって全面的に採用されるにいたった。この一見先祖返りにみえる現象も、中国からの銭供給の途絶の影響とみることにより、合理的に理解することが可能となろう。
一方、銭が比較的豊富に存在した東日本では基本的に米遣いへの転換はおこらなかったが、銭の希少化はここでも確実に進行していた。そのことを明瞭に示すのが低銭(私鋳銭などの悪貨)の価格高騰である。16 世紀後半の奈良ではビタとよばれる低銭が流通していたが、当初100 文=米2 升6 合程度だったその価格が、1590 年ごろには100 文=米1 斗6升にまで高騰する25。同じようなビタ価格の高騰は京都・伊勢・越前などでも確認されるが、いずれも銭の希少化にともなう現象と考えられよう。
銭の希少化にともなっておきたもうひとつの現象は精銭の空位化である。低銭に価格高騰がみられたのと並行して、流通銭の最上位に位置していた精銭におきたのが実体の消滅と計算貨幣化の動きであった26。たとえば、奈良ではそれまで100 文=米2 斗前後の高価格をもっていた精銭が1590 年ごろ実体を失い、「本銭」とよばれる純粋な計算貨幣に転化したことが知られている27。そして東日本において高い評価を獲得し、「超精銭」としての地位を築いていた永楽通宝も、まもなくまったく同じ道を歩むことになる。
関東地方を支配していた戦国大名後北条氏は、諸税の永楽通宝での納入を原則としながらも、実際には黄金・米穀・漆・綿等での代納を認めざるをえなかったし、東海地方でもそれまで永楽通宝で納入されていた年貢が1584 年ごろから永楽1 貫文=ビタ4 貫文の比価でしだいにビタによる代納に切り替えられていった28。永楽通宝はいまだ完全に実体を失ってはいなかったものの、これらの事実は、東日本においても永楽通宝の希少化が着実に進行しつつあったことを物語っている。そして明くる17 世紀にはついに永楽通宝の空位化が現実のものとなった。
1608 年、成立まもない江戸幕府は、永楽1 貫文=京銭(ビタ)4 貫文=金1 両の公定レートを定めると同時に永楽通宝の流通を禁止したが、このころまでに永楽通宝は流通銭としてはほぼ実体を失っていたとみられ、流通の禁止もそのような現状を追認した措置と考えられる。にもかかわらず、上記の公定レートに永楽通宝が組み込まれたのは、永楽通宝が計算貨幣としては生きていたためである。このような永楽通宝の実体の消滅と計算貨幣化も中国からの銭供給の途絶がもたらした影響にほかならない29。 
c. 寛永通宝の発行と三貨制度の成立
17 世紀前半は小額貨幣の不足が深刻化し、民間・諸藩・幕府それぞれがこの事態への対応を迫られていた時代であった。民間の対応としては、中世以来の私鋳銭生産と、民間金融業者による紙幣(私札)の発行など、また諸藩の対応としては、藩営工房における組織的な私鋳銭生産や低品位銀貨・紙幣(藩札)の発行などが具体的な動きとしてあげられるが、このような小額貨幣不足を抜本的に打開することになったのが、江戸幕府が1636 年に鋳造を開始した寛永通宝である。寛永通宝は、当初は鋳造量も少なかったために、しばらくは古銭(中国銭とそれを模した私鋳銭)との併用が続いたが、1670 年に江戸幕府はようやく古銭の使用を禁止して寛永通宝への一本化を実現する。このころまでに寛永通宝の鋳造が軌道に乗り、それを安定供給できる体制が達成されたのであろう。こうして日本は自国鋳貨のみによる貨幣体系を確立し、約500 年におよんだ中国銭経済がついに幕を閉じるのである。
一方これよりさき、江戸幕府は高額貨幣である金銀貨の発行も開始していた。中世は中国銭のみを用いていた単一通貨の時代であったから、この点にも江戸幕府幣制の画期性があらわれている。
中世の高額貨幣としては、前述のごとく信用貨幣である割符があったが、この割符は16世紀初頭に忽然として姿を消してしまう。これに代わって新たな高額決済手段として浮上してきたのが、鉱山開発の進展にともなって産出量が増えてきた金銀であった。ただしこの段階の金銀はいずれもまだ品位・形状ともに一定していなかったうえ、秤にも地域差があり、それらが遠隔地決済の妨げになっていた。全国統一を果たした豊臣秀吉は、度量衡を統一して全国市場の基礎を築くとともに、賞賜・贈答用の金貨として天正大判を鋳造したが、本格的な通貨としての金貨は江戸幕府が鋳造した慶長小判が嚆矢である。一方、銀貨としては、各大名がそれぞれの領国内で流通させていた領国銀が存在したほか、貿易用・遠隔地決済用には精錬された高品位の灰吹銀がそのまま用いられていたが、いずれもやがて江戸幕府によって鋳造された慶長丁銀に統一された。こうして江戸幕府は金・銀・銅貨よりなるいわゆる三貨制度を確立するのである。
ところで16 世紀以来、東日本では主に金が用いられたのにたいし、西日本では銀が用いられるという地域性があったが、この傾向は江戸時代にもそのままうけつがれた。
良質な金山が甲斐・伊豆・佐渡など東日本に多く分布していたのにたいし、石見銀山をはじめとする良質な銀山が西日本に集中していたことがこのような配置を生んだとみられるが、西日本に銀が普及した背景としては、貿易を通じて東アジア世界に広く開かれていた地理的環境も見落とすわけにはいかない。計数貨幣であった金貨にたいし、銀貨がその後も長く秤量貨幣でありつづけたのもそれが東アジアの国際通貨であったこととかかわりが深い。まもなく江戸幕府は鎖国政策によってオランダ・中国・朝鮮・琉球以外との交渉を断つことになるが、かつての東アジア貿易の痕跡は「東の金遣いと西の銀遣い」として国内経済に刻印され、幕末にいたるのである。 
5)中国隣国型国家と辺境型国家
日本は12 世紀半ばから17 世紀前半まで、500 年近くにわたって、銅銭をみずから鋳造せず、その供給を中国に依存しつづけたが、前述のごとく、その期間が時期区分上の中世とほぼ一致することは見のがせない事実だろう。
同時期の周辺諸国の状況をみると、朝鮮(高麗918〜1392、李氏朝鮮1392〜1910)やヴェトナム(10 世紀半ば以降)、琉球(15 世紀後半、第1 尚氏王朝末期から第2 尚氏王朝初期)など、中国の近隣にあってその影響を強くうけていた国々ほどむしろ銅銭を自鋳する傾向にあり、しかもこれらの国々の多くが古代の日本と同様、専制的な国家体制を採用していたことも重要である。琉球の国制は他とやや異なるが、それでも銅銭の自鋳を開始する時期が、琉球の歴史のなかでもっとも中央集権化の強まる時期と一致していることは注目してよい30。
これにたいし、中国から遠く離れたジャワ(マジャパイト王国1293〜1520 ごろ)ではもっぱら中国銭とそれを模倣した私鋳銭が使用され、中世日本とよく似た貨幣状況を示している。しかもジャワは港市国家(ヌガラ)、中世日本は封建制と、国家体制はかならずしも同一ではないものの、いずれもきわめて分権的な国家であった点も共通する。朝鮮やヴェトナムのように中国と隣接し、中国型の中央集権的な体制を敷いていた国家群を中国隣国型国家、逆にジャワのように中国から遠く離れ、中国とは異なる分権的な様相を示していた国家群を辺境型国家とよぶなら、日本は古代から中世にかけて中国隣国型から辺境型へと国家の体質を大きく方向転換させたといえるのである。そして、すでに述べたように、そこには対外的緊張の緩和が大きく作用していたと考えられる。
中国や中国隣国型国家が採用した専制体制とは、古代日本の律令体制を含め、対外戦争の脅威を契機として採用された戦時体制であり、人員・物資の大量移動を前提とするきわめて非能率的な体制であった。そして貨幣を自鋳するか否かという問題もこの財政構造と密接にかかわっていたのである。
これにたいし、中世日本の政府は、朝廷にせよ、幕府にせよ、首長が大宮殿に住まう習慣もなければ、異民族との戦争が慢性的に財政を圧迫するという経験ももたなかった。元(モンゴル)の襲来は一過的な事件に終わったし、国内の合戦にしても当時は武士たちが自弁で戦うのが原則であったから、国家が大規模な財政をもつ必要はまったくなかったのである。財政手段としての貨幣発行は中世日本の“小さな政府”には無縁のものであったといえよう。
一方、朝鮮やヴェトナムのようにつねに独立を脅かされていた国家にとって、独自の鋳貨をもつことにはたんなる経済政策にとどまらない、自主独立の象徴としての意義もこめられていたと考えられる。朝鮮が、民間にほとんど受容されなかったにもかかわらず、銅銭自鋳にこだわりをみせたのもそのためであろう31。
このようにみてくれば、東アジアにおいては中国との距離、対外的緊張の強弱が国家体制をデザインするにあたって重要な因子となっていたことはまちがいない。分権的な国家は中国からの地政的な距離が遠く、対外的緊張の相対的に弱い地域に生まれる傾向がある。そしてその分権的な国家デザインのなかの一形態として中世日本の国制を理解することができるのではなかろうか32。 

1 無文銀銭・富本銭・和同開珎については、今村啓爾『富本銭と謎の銀銭―貨幣誕生の真相』(小学館、2001 年)、また古代貨幣史一般については、栄原永遠男「貨幣の発生」(桜井英治・中西聡編『新体系日本史12 流通経済史』山川出版社、2002 年)参照。
2 カール・ポランニー『経済の文明史』(日本経済新聞社、1975 年、原著1957 年)、フェルナン・ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15―18 世紀T―2 日常性の構造』(みすず書房、1985 年、原著1979 年)、拙稿「中世の貨幣・信用」(桜井英治・中西聡編『新体系日本史12 流通経済史』山川出版社、2002 年)、同「借書の流通」(小野正敏・五味文彦・萩原三雄編『モノとココロの資料学―中世史料論の新段階』高志書院、2005 年)。
3 10〜12 世紀の手形類については、大石直正「平安時代後期の徴税機構と荘園制―解体期の封戸制度」(『東北学院大学論集』歴史学・地理学1 号、1970 年)、川本龍市「切下文に関する基礎的考察」(『史学研究』178 号、1988 年)、勝山清次『中世年貢制成立史の研究』(塙書房、1995 年)、本郷恵子『中世公家政権の研究』(東京大学出版会、1998 年)、佐藤泰弘『日本中世の黎明』(京都大学学術出版会、2001 年)等参照。
4 注2 拙稿「中世の貨幣・信用」。
5 森克己『続々日宋貿易の研究』(国書刊行会、1975 年)。
6 この問題を考えるさい、カール・ポランニーの「全目的貨幣」「特定目的貨幣」という概念が有効である。注2 ポランニー書、第3 章「貨幣の意味論」(原著1957 年)、および同『人間の経済T』(岩波書店、1998 年、原著1977 年)参照。
7 松延康隆「銭と貨幣の観念―鎌倉期における貨幣機能の変化について」(『列島の文化史』6 号、1989 年)。
8 大田由紀夫「12―15 世紀初頭東アジアにおける銅銭の流布―日本・中国を中心として」(『社会経済史学』61 巻2 号、1994 年)。
9 前注大田論文。
10 年貢の代銭納制と市場経済とのかかわりについては、注2 拙稿「中世の貨幣・信用」、同「足利義満と中世の経済」(『ZEAMI』4 号、2007 年)等参照。
11 割符については、拙著『日本中世の経済構造』(岩波書店、1996 年)、中世の信用経済一般については、注2 拙稿「中世の貨幣・信用」、同「日本中世における貨幣と信用について」(『歴史学研究』703 号、1997 年)参照。
12 注7 松延論文。
13 拙稿「銭貨のダイナミズム―中世から近世へ」(鈴木公雄編『貨幣の地域史―中世から近世へ』岩波書店、2007 年)。
14 前注拙稿。
15 注11 拙稿「日本中世における貨幣と信用について」。
16 南宋の貨幣政策については、高橋弘臣「南宋江南の貨幣―元朝貨幣政策との関連をめぐる考察」(『史学雑誌』105 編1 号、1996 年)参照。
17 注2 拙稿「中世の貨幣・信用」。
18 足立啓二「中国からみた日本貨幣史の二・三の問題」
19 大田由紀夫「15・16 世紀中国における銭貨流通」(『名古屋大学東洋史研究報告』21 号、1997 年)。
20 Kuroda, Akinobu, “Copper Coins Chosen and Silver Differentiated: Another Aspect of the ‘Silver Century’ in East Asia”, ACTA ASIATICA 88, 2005、同「東アジア貨幣史のなかの中世後期日本」(鈴木公雄編『貨幣の地域史―中世から近世へ』岩波書店、2007年)。
21 中島圭一「西と東の永楽銭」(石井進編『中世の村と流通』吉川弘文館、1992 年)。
22 ここで中国銭輸入の担い手について一言しておきたい。中国銭が本格的に流入を開始する12 世紀半ばから14 世紀半ばまで(中国の王朝でいえば宋・元代)、および明の海禁政策が弛緩する16 世紀については、倭寇勢力を含む密貿易者が主な担い手であったと考えられる。一方、明の海禁政策が実効性をもっていたと考えられ、実際にも倭寇の活動が下火になる14 世紀末から15 世紀にかけては、朝貢貿易が中国銭輸入の主要ルートのひとつであったことは疑いないものの、それだけでは日本の国内需要を満たせたとは考えられないため、他の流入ルートの解明が急がれていたが、最近は琉球を介して流入するルートが有力視されている(橋本雄「撰銭令と列島内外の銭貨流通―“銭の道”古琉球を位置づける試み」『出土銭貨』9 号、1998 年)。ただしその量は、中国銭が大量流入した13 世紀後半の流入量には遠く及ばなかったものと推定される。
23 浦長瀬隆『中近世日本貨幣流通史』(勁草書房、2001 年)。
24 黒田明伸『中華帝国の構造と世界経済』(名古屋大学出版会、一九九四年)、同「16・17世紀環シナ海経済と銭貨流通」(『歴史学研究』711 号、1998 年、のち歴史学研究会編『越境する貨幣』青木書店、1999 年、に再録)。
25 毛利一憲「ビタ銭の価値変動に関する研究」上・下(『日本歴史』310、311 号、1974 年)。
26 注2 拙稿「中世の貨幣・信用」、注11 拙稿「日本中世における貨幣と信用について」、注13 拙稿。
27 注25 毛利論文。また、本多博之『戦国織豊期の貨幣と石高制』(吉川弘文館、2006 年)は、毛利氏領国の「古銭」も同じ歴史をたどったことを明らかにしている。
28 小葉田淳『日本貨幣流通史』(刀江書房、1969 年)。
29 注2 拙稿「中世の貨幣・信用」、注11 拙稿「日本中世における貨幣と信用について」、注13 拙稿。
30 東恩納寛惇「南島通貨志の研究(前編)」(『拓殖大学論集』9 号、1955 年、のち『東恩納寛惇全集4』第一書房、1976 年、に再録)。
31 本節では貨幣の経済的機能を中心に論じてきたが、貨幣にはそのほかにもここで述べたような政治的、象徴的機能や、あるいは宗教的、呪術的機能もあったことを付言しておく。
32 マルク・ブロックは、西ヨーロッパにおける異民族侵入の終焉の意義に触れて次のように述べている。「≪最後の侵入≫の研究がどれほど教訓に富むとしても、それらの教訓のために、侵入そのものの終焉というもっとも重要な事実を見逃がしてはならないであろう。その時まで、外部から来た部隊によるあの掠奪と諸民族のあの大移動とが、西ヨーロッパの歴史にも世界の他の部分の歴史にも真に基盤を与えていたのであった。その時以後は西ヨーロッパはこの外民族の侵入を免れることになるが、世界の他の部分はそうならなかった、或いはほとんどそうならなかった。‥‥われわれがほとんど日本以外の地域とは共有していないこの異例の特権を、深い意味における、ヨーロッパ文明の基本的要素の一つだったと考えていけないことはない」(マルク・ブロック『封建社会T』、みすず書房、1973年、56〜57 頁)。この言葉は東アジア世界における中世日本の位置を理解するうえでも至言であると思われる。 
 
美術史から見たヒトとモノの移動

 

1.美術史的観点の特性
この小論では、中国文化の伝播と日本文化の創造的発展の諸相という命題について、東アジア美術史の観点から、とくに日中間の美術交流における人とモノの移動について考えてみることにしたい。具体的なトピックについて述べる前に、議論の前提となるいくつかの条件を確認しておくことにする。
まずとりあげたいのは、美術という概念に関わることである。1990年を前後する時期から日本で美術史学の成立問題として盛んに議論されてきたことであるが、日本をはじめとし中国を中心とする東アジア世界の漢字文化圏では、そもそも美術という言葉や概念は存在していなかった。美術は、近代になって西洋から移植された概念であり、近代以前のさまざまな造形藝術にかんする概念や思想は、近代以降、美術概念の優位性のなかで再編され今日に至っている(註1)。
たとえば、造形藝術のジャンルを例にとってみよう。美術史では、建築・彫刻・絵画などが主要なジャンルとされてきたが、このような美術のジャンルは、東アジア世界の過去について語る枠組みとしては十分に機能しない。漢字文化圏にあって、近代以前、文人のイデオロギーをもっとも強く表象するジャンルであり、もっとも高い価値づけのなされてきた書画は、近代の美術概念のもとで書と画が分離され、画は絵画として再編され、書はもっとも低い位置へと周縁化されてきた。一方、従来、プロフェッショナルな工人の手仕事として藝術の範疇にはなかった建築と彫刻は、逆に美術概念のもとで、きわめて高い価値付けを付与されるようになる。こうしたわずかな事例からもわかるように、近代以降の美術概念を尺度としながら近代以前の古代・中近世における日中間の美術交流について論じることには、自ずと限界があることを予めお断りしておきたい。
つぎに確認しておきたいことは、美術品といわゆる通例のモノとの違いである。美術品は、物理的なモノでありながら、たんに経済的価値だけではなく、そうした経済的対価や資本と交換できない美的価値を不可分に具有する。その意味で、美術品は、文化や歴史などの象徴性を不可分に具有する文化財や文物と呼ばれるモノと変わるところはない。美術品、あるいは文化財・文物が具有している象徴性は、とりもなおさず、付与する側と付与される側との相互の関係性のなかで、その意義や価値の度合いが斟酌される。
両者の関係性が成立する場や仕組みを通して、個々の美術品・文化財・文物は、はじめて社会性をはらみながら意味をもち、歴史のなかで機能していく。したがって、このような象徴性を具有する特別な価値をもつモノの日中間の移動にあっては、日中双方の力学がたえず作用することを忘れるべきではない。
以上の前提を踏まえつつ、本稿では、与えられた命題に対して、古代から中世にわたる日中間の美術交流の全容について概観することは避け、むしろ、きわめて特色をしめす事例をトピックとしてとりあげながら、議論の材料を提示していくことにする。 
2.人の移動における作り手の不在
中国の美術が日本に影響をあたえ伝播させたものは、一般論としての様式にとどまらず、図像・色料・支持材などの作品に具わるさまざまな形態や材料があるほか、制作理念や技術・鑑賞法など美術品にかかわる人々の営為をもふくんでいる。その意味で、日本における中国美術の影響伝播は、物心両面におよび、造形にかかわるさまざまな有形無形の制度として、長期にわたって日本で規範とされてきたといってもよい。こうした圧倒的といえる美術の影響伝播という関係性にあっては、当然ながら、数多くの作り手の役割を重視するのが一般的な見解であろう。
しかしながら、日本における中国美術の影響伝播においては、双方の仲介者としての作り手の存在がきわめて希薄である。日中間における人の移動にあって、作り手の不在という事実は、意外と忘れられているのではないだろうか。海を越えて日中間を移動・往還した作り手について、管見では十指を数えるばかりでしかない。もちろん、作り手の不在は記録上の問題に留まることで、素直に実態を反映していないという意見も予想される。しかし、同じ事象を古代ギリシア・ローマ美術に規範性をもとめる近代以前の西洋や、日本と同じく東アジア世界で中国美術に規範性を求めた朝鮮と較べてみると、むしろ、その不在の事実がさらに強く確信されることになる。人の移動における作り手の不在は、日本における中国美術の影
響伝播における大きな特色とみなすことができるのである。数少ない事例であるので概観してみることにしたい。
まず、日本から中国へわたった制作者の場合である。
1 黄文(書)本実
2 粟田家継
3 黙庵、鉄舟徳済、頂雲霊峰
4 雪舟、如寄
1と2は、遣唐使の一員として中国へ渡った画師である。中国に派遣された遣隋使・遣唐使には、技術者としての画師が含まれていたが、その実態はよくわかっていない。
1の黄文本実は、白鳳時代に活躍した人物で、飛鳥時代の推古12年(604)に定められた画師の制度において、古代の宮廷画家としての役割を担った5つのファミリー(黄書画師、山背画師、簀秦画師、河内画師、楢画師)の一つであった黄書氏に出自をもつ(註2)。古代の画師は、他領域の技術者とおなじく、いずれも朝鮮系の渡来人であったが、黄書姓を名乗る本実はそうした渡来系の古代の画師が中国へ留学したことが確認される稀有な例である。本実は、おそらく第5次遣唐使(665〜667)の一員だったと考えられ、初唐の王玄策が中天竺で転写してきた仏足石図を、都長安の普安寺で転写して日本に伝えている(藥師寺『仏足石歌』)。近年では、高松塚古墳やキトラ古墳のなどの造像に本実が関与した可能性を述べる論者もいるように、こうした画師が先進的な唐代美術の移植に積極的に関与したことが考えられよう。
2の粟田家継は、承和5年(838)、第19次遣唐使の大使{從として中国に渡っているが、じっさいは画師であった。円珍の『入唐求法巡礼行記』によれば、揚州龍興寺に画仏所を定めて仏画や影像の模写や制作を行っている。遣唐使の画師が、都の長安ではなく、日中間の出入口にあたる現地の港町で一種の工房を構えていた事実は、じつに興味深い(註3)。
寛平6年(894)、菅原道真の建議で遣唐使が廃止されると、中国への公式な渡航はなくなり、画師や仏師が中国を訪れる機会は、室町幕府第3代将軍足利義満が遣明使を派遣する応永8年(1401)まで、500年間もの空白期があった。この間、13・14世紀には、入元した禅僧が余技として中国で水墨画を描く事例が知られている。
3の黙庵霊淵や鉄舟徳済、頂雲霊峰はその代表格で、とくに黙庵霊淵は、近世までは中国人と誤解されていた画僧で、かつて南宋の都があった杭州・六通寺で水墨画を描き、牧谿の再来といわれ、遂に帰国を果たすことなく中国で没している。鉄舟徳済と頂雲霊峰は、元時代江南の禅林で流行していた松竹梅の歳寒三友や菊竹梅蘭の四君子などの文人的な主題の水墨画を描いたことで知られ、頂雲も黙庵同様、帰朝していない(註4)。
入明使が日中間を往来するようになると、遣唐使の場合と同じく、随行員としての画師の存在が注目されるが、4の雪舟等楊と5の如寄は、中国への渡航が確認できる珍しい事例である。いずれも禅僧であるが、画師としての職掌を担っていたものと想像される(註5)。
4の雪舟等楊は、応仁元年(1467)から同3年(1469)にわたる約2年間、遣明使の一員として中国を旅し、美術史上、後世にあたえた影響力において突出している。雪舟は、都の北京では礼部尚書の命で礼部院の壁画を描き、また寧波では、天童寺第一座の位を拝領したほか、現地の文人たちとの交流も盛んに行っている。帰国後、自ら「大唐国裏画師無し」と述べた有名な逸話が、江戸時代初期の狩野永納『本朝画史』に収められて以来、中国留学を実現した日本を代表する画家として広く喧伝されることになった。海外留学を果たした画師といえば、まず雪舟の名前が思い浮かぶが、雪舟の中国留学を、近代になって西洋へ渡った日本の画家や西洋におけるいわゆる画家の留学という事象と較べるとき、かの著名な雪舟でさえ、その中国での体験は、入明使に随行した画僧としての制約から自由ではなかったことは、もっと強調されてよい(註6)。
つぎに中国から日本を訪れた制作者の場合を確認する。
5 陳和卿、伊行末
6 周丹士(周坦之)
7 逸然性融、楊道真、范道生
8 沈南蘋、伊孚九、張秋谷、費晴湖、江稼圃等(来舶画人)
近代以前、日本の作り手が中国を訪れる機会が乏しかったことと同様、中国から来日した作り手の事例もきわめて少ない。古代にあって遣隋使・遣唐使の帰朝にあわせて来日した画師や仏師などの事例は、じつは知られていない。日本の古代画師は、そのほとんどが朝鮮半島からの渡来人の家系であったが、そうした造形集団の中国からの来日・移住は、天平勝宝5年(753)、6度目の渡航でようやく来日を果たした鑑真が、弟子とともに数多くの技術者を帯同したことが、稀なケースとして記憶されている。鑑真は、失敗に終わった第二次の渡航時に85名もの工人を伴っていたが、ようやく成功した6度目の渡航による来日時でも、かなりの工人を帯同したことは確実である。鑑真の一行には、とくに木彫像に秀でた仏師が多数含まれていたようで、唐で流行した檀像を等身大にまで拡大し、盛唐の大理石彫刻にも通じる重厚な量感をもつ一木彫成像を制作している。その見事な作例は、今も唐招提寺に現存し、平安時代における一木彫成像流行の一脈を形成した(註7)。
5の陳和卿と伊行末は、いずれも平安時代末、東大寺大仏の復興事業にあたって、入宋僧の重源の招請をうけ来日した鋳造と石造の専門家である。両人ともに寧波の出身者であり、博多に居住していた宋商たちが、彼らの来日を支援した可能性が高い。陳和卿は、大仏の鋳造に関わったが、新たに鋳造された大仏の相貌が違和感をもって迎えられた事実は、当時における日中間の趣向の差を示していて興味深い。なお伊行末は、現存する東大寺南大門の石造狛犬、同大仏殿の石灯籠の作者としてしられる石工であるが、近年、石造狛犬の材料が寧波地域特産の梅園石の可能性が指摘され注目を集めている(註8)。
6の周丹士(周坦之)は、鎌倉時代の初めに来日した可能性がある画師で、入宋僧の俊芿が亡くなる直前の嘉禄3年(1227)、その肖像画を描いたことが記録からわかる(俊芿『泉涌寺不可棄法師伝』)。
7の逸然性融は、黄檗宗の隱元を招請したことでもしられる、明末に来日し長崎の興福寺に居住した杭州出身の僧である。逸然は画技を得意とし、長崎で渡辺秀石、河村若芝らの日本人画家を育成し、唐絵の祖ともいわれる。楊道真は、隱元とともに来日した肖像画家で、中国画と西洋画を折衷させた陰影の強い肖像画を得意とし、数多くの作例を残している。范道生は隱元が帯同した仏師で、京都・万福寺の諸像を制作した(註9)。
8の沈南蘋をはじめとする画人は、一時的ではあるが、いずれも長崎に滞在した来舶清人たちである。沈南蘋は、享保16年(1731)年に来日して長崎に2年間滞在し、濃彩の写生による新しい花鳥画を伝え、長崎で彼に学んだ画人をとおして、その斬新な画風は江戸で流行することになった。伊孚九以下の4名は、長崎を訪れて中国の南宗画を伝え、江戸時代の南画の画人たちの範となっている(註10)。
以上、海を越えて日中間を移動・往還した作り手について概観してきたが、彼らの活動を通して、新しい様式や技術が日本に伝えられ、当時の日本における美術史の動きに少なからず影響を与えたことは、まぎれもない事実である。しかし、先に述べたように、日中間を移動・往還した作り手の数は、日本における圧倒的な中国美術の影響伝播を考えるうえで、きわめて少ないといわざるをえない。視点をかえてみれば、こうした日中間を移動・往還した作り手の不在ともいえる少なさは、むしろ中国美術の日本への影響伝播においては、作り手以上に、留学僧や渡来僧などの、造像活動の全体構想やシステム自体を日本にもたらした知識人の活動や、こうした知識人の移動・往還とともに日本に舶載されてきた美術品・文物自体の役割が、きわめて大きかったことの証左でもあるだろう。
くりかえしになるが、日本における中国美術の影響伝播は、物心両面におよび、造形にかかわるさまざまな有形無形の制度として、長期にわたって日本で規範とされてきた。しかし、この圧倒的な中国美術の影響伝播は、作り手の役割ばかりでなく、あるいはそれ以上に、美術や造像をめぐる人々の活動や中国からもたらされた美術品の規範的な役割によって成立しているといってもよい。その点にひとまず日中間における美術交流の大きな特色があることを確認しておきたい。
美術、あるいは造像活動の全体構想やシステムをもたらした人物としては、先に述べた鑑真がそうであったように、中国への留学僧や中国からの渡来僧を列挙することができよう。しかし、それらは、すでによく知られている事例の鄒衍となるので、ここでは日中間を移動・往還した人物たちのなかで、美術や造像に大きく関わった人々の多くが僧であったという事実を確認するにとどめておきたい。 
3.美術品の移動とコレクションの形成
日中間における美術品の移動は、人の移動に比してさらに膨大かつ多様である。美術品の移動は、モノに美的・文化的価値が具有されているからこそ、日中双方の力学のなかで成立する事象でもある。そうした日中間の力学をしめすもっとも端的な事例の一つに、受け手となる日本側における中国美術の蒐集があげられるだろう。今日、日本には、膨大な量の中国美術が伝来し、また蒐集されている。しかし、美術品が伝来して現存するとこと、意図的に蒐集されることは、本来、異なる行為の結果をあらわす事象であり、個別に論じられるべき性格をもつ。近代以前に形成されたさまざまな中国美術コレクションから、有力な仏教寺院における経典・典籍・仏画・仏像などの宗教的活動に由来して伝来してきた品々や江戸時代以来の文人趣味の流行にともなう広範な書画文房の舶載品の蒐集を除いていくと、中国美術を主体的に蒐集するというコレクション形成の事例は、文献上の記録を加えてみてもわずかでしかない。
古代の中国美術のコレクションを代表する事例は、正倉院宝物として現存する数々の宝物類の中に見いだすことが出来る。正倉院の宝物とは、天平勝宝八年(756)、亡くなった聖武天皇の四十九日の法要にあわせて、光明皇后から東大寺の盧舎那仏に献納された珍宝類をはじめとする一連の献納品のことで、その内容は、聖武天皇遺愛の品々と東大寺盧舎那仏の開眼供養に使用された器物類とに大別される。こうした宝物類の中で、既に失われてしまっているが、王羲之草書の搨写本二十巻(『国家珍宝帳』)や王羲之・王獻之親子の真蹟(『大小王真蹟帳』)、歐陽詢の真蹟屏風(『屏風花氈等帳』)などの六朝時代から初唐にわたる著名な書家の真蹟や搨写本の存在はきわめて重要で、当時の中国において高く評価されていた美術品が、ほぼ同時代の日本の天皇家でも蒐集され、大切に所有されていた事実をしらせている。
『国家珍宝帳』には、大唐勤政楼前観楽図屏風、大唐古様宮殿画屏風、大唐古様宮殿画屏風などの中国絵画についても記載があるが、書の名家に比すべき作者の名前はそこにない。一般に中国における書画の価値付けが作者の品等によって分類され、さらに書画のコレクションにおいて、個々の作品に作者名を付記することが前提となっていることからすると、奈良時代の天皇家周辺では、明らかに絵画よりも書にコレクションとしての優位性をおいていたことが理解される。その意味で、中国名家の書の蒐集は、日本における中国美術コレクションの嚆矢であったといってもよい。未だ仮名の発明されていなかった古代における中国美術のコレクションが、書を重視し、絵画に先駆けて蒐集の対象となっていた背景にはそれなりの理由があったはずで、おそらくは中国の律令による支配体制を整備・強化する過程で、王権の正統性を表象するにふさわしい書体が選別された事情と何らかの関係性があるかもしれない。
平安時代以降、天皇家や摂関家の周辺で、正倉院宝物に匹敵する中国の美術品蒐集の事例はしらない。
一方、仏教寺院においては、平安時代から鎌倉時代にかけて、畿内の有力な寺院を中心に、中国への留学僧の活動にともなって中国からの舶載品がもたらされ蓄積されていった。とくに最澄・空海をはじめとする平安時代の入唐八家には請来目録が現存し、経典・典籍・絵画・彫刻・梵音具などの数々の舶載品が総合的に記録されている。なかでも、空海が帰朝にあたって将来した真言五祖像(京都・東寺)は、張彦遠『歴代名画記』に記載されるほどの名手であった李真が描いたことが判明する貴重な一例である。しかし、こうした仏教寺院における中国の美術品の伝来と蓄積という事象は、より正しい意味での蒐集とは異なることは、先に述べたとおりである。
したがって、入唐僧の請来目録について逐一述べることはせず、さまざまな美術品のなかで、彫刻(仏像)の移動・舶載がさほど多くなかったことにのみ、注意を喚起しておきたい。彫刻(仏像)は、移動の困難な建築と同じく、可搬性という点において限界を有している。日本に舶載された仏像は、概ね、造像において雛形となりうる小さい仏像を基本とする。小金銅仏や檀像、可搬性を前提とする檀龕に唐時代の名品が少なくないのは、そうした事情を反映している。また様(ためし)といわれた絵画や図像にもとづく平面の図案から、日本において立体として造られるという造像の手順は、平面の図面プランから構築する建築と同様、本来的に仏像の移動を前提にせずとも造像が可能であったという側面も、仏像の移動が限られた理由にあげられよう(註11)。中国から日本に舶載された仏像として、10世紀の末、入宋僧の「然がもたらした京都・清凉寺の生身の釈迦像(優填王像)が有名であるが、日本におけるこの霊験あらたかな仏像の受容は、立体像を平面にいったん還元し、さらに平面から立体へと模造をくりかえしていくという中で流布していった。そもそも、「然が天台(現在の臨海)で造らせた模刻像自体が、おそらく平面の様から立体の彫刻につくられた像であったことも念頭に置いておきたい(註12)。
日本において、中国の美術品を主体的に蒐集するようになったのは、かなり時代が降ってからのことになる。記録の上では、南北朝時代、14世紀の鎌倉・円覚寺仏日庵の収蔵品を記録する『仏日庵公物目録』あたりを端緒とする(註13)。そこには、当時のつよい唐物への憧憬がしられるが、目録の内容は、基本的に禅宗寺院が必要とする宗教的性格をもつ品々を中心とするもので、中国で価値付けされた世俗画を含めた本格的な舶載品への愛好を背景とする蒐集は、さらに降って、15世紀の室町将軍家のコレクションにまで待たねばならない。
室町時代の将軍家は、当時の旺盛な唐物趣味を反映し、南宋から同時代の明時代にまで至る、さまざまな高価な舶載品を蒐集した。それらの蒐集品は、東山御物と呼ばれる一大コレクションを形成し、歴代の将軍たちは、それらを邸宅中の会所に飾り立て鑑賞している。南宋以来の絵画の名品には、「天山印」(足利義満)、「雑華室印」(足利義教)などの中国にならった鑑蔵印が捺されることも行われた(註14)。将軍の周辺には、同朋衆とよばれる専門家が侍り、舶載された美術品の価値付けから管理、とりあつかいを委ねられていた。当時の唐物趣味や中国美術のコレクションをしめす記録には、『御物御画目録』や『室町殿行幸御飾記』・『君台観左右帳記』などがある。いずれも同朋衆として仕えた能阿弥の著作にもとづいている。とくに『君台観左右帳記』は座敷飾りを指南する秘伝書として、能阿弥・藝阿弥・相阿弥と三代続く一家に伝えられたもので、当時の京都における陶磁器、漆器、絵画を含めた総合的な中国美術品の鑑賞のようすが記載されている。なお、『君台観左右帳記』のはじめには、中国画人の目録があり、画人名とともに、その字、出身地、得意とする主題が記載されている。この画人目録は、将軍家のコレクションや京都周辺の寺院に所蔵されている中国画をもとに、当時、日本で読まれていた元末の画史書『図絵宝鑑』(一三六八年、夏文彦自序)などの記述を参照しながら作成されたもので、当時における中国絵画に関する総合的な知識が披瀝されている。『君台観左右帳記』は、後に江戸時代になると出版され、日本における中国美術鑑賞の手引き書として、ながらく絶大な影響力を発揮することになった(註15)。 
4.様式における選択的受容
美術品の移動には、先にみた蒐集の事例でみてきたように、中国美術のもつ規範性に対する日本側の選択が、常に働いている。本章では、つぎに作品のもつ様式の側面から、絵画を中心に日本における選択的受容の様相を確認しておくことにしたい。
古来、数多くの中国絵画が舶載され、日本における造像様式の上で規範とされてきた。その意味で、中国美術の影響伝播は、それを無視して、日本における美術の様式展開を語ることができないほどに大きい。
しかし、近年の日本における美術史学においては、影響伝播という議論の枠組み自体の有効性について、異論が提出されている。とくに、近年の日中間の美術様式の比較・交流にかんする語りをみるとき、日本美術に対する中国美術の影響伝播論は、あくまでも渡し手の論理であって受け手の実情を引き出すことが出来ない、という日本美術史研究者からの批判は看過できない。あたかも渡し手の行為であるがごとくに影響もしくは伝播という言葉で語られてきた内容のほとんどは、むしろ受け手の渡し手に対するなんらかの働きかけとして実践されたものに他ならないとする立場からみると、主客が逆転した影響伝播の論理自体に矛盾があるというわけである(註16)。しかしながら、東アジア世界の一端に位置するという地政的条件からみても、日本における美術の様式展開の流れがもともと中国や朝鮮と無関係で形成されたはずもなく、影響伝播論への批判は、日本における美術史研究から東アジア的視点を後退させ、過去の実態から乖離した自国美術史の語りを再生産する危険をはらんでいるということもできる。
このような認識のズレを解消するためには、渡し手の視点から眺める影響伝播論の有効性と限界を確認するとともに、受け手の視点から眺める受容論の有効性を検証しつつ、多様な中国美術の選択的受容という観点から、東アジア的な広がりのある双方向性をもった視点を重ねあわせることが必要となる(註17)。
近代以前の日本において、中国美術の影響や伝播が広汎な事象におよんでいることはいうまでもなく、一方的な渡し手でありつづけた中国と受け手でありつづけた日本という立場が逆転することはほとんどない。日本への影響伝播論がながらく有効性を保持してきたのも、じつはこうした史実に由来する。しかし、古代から中近世までの長期にわたる日中間の関係性が一様であったわけでもなく、とくに古代と中近世との間では、双方の関係性に大きな違いが認められてよい。
渡し手から受け手へという基本的な情報流通の方向性を認めたうえで、同時に双方向の関係性のあり方を考えてみると、渡し手と受け手との間で、可逆性があるか否かによって二分ができる。可逆型と非可逆型という二つの類型があることになるが、まず、この類型にしたがって美術史における日中間の関係性を確認することにしたい。 
〈可逆型〉
可逆型とは、受け手の情報が渡し手の情報の復元・可逆性を保証する場合である。この場合、情報伝達における渡し手の受け手に対する行為は、影響あるいは伝播という言葉でさししめすことができる。一方、受け手の渡し手に対する行為は、同化や共有という言葉に対応する。この間の事情を、可逆型のもっとも典型的な事例といってよい中国の唐時代の絵画と日本の天平時代の絵画との関係性についてあらわしたものが概念モデルTである。
唐時代の絵画とはいえ、実際には、さまざまな多様性をはらんでいる。たとえば、規範的な作例としてAという作品があれば、A1・A2のようなAの規範性にしたがう作品もある。またAとは異なる傾向をもつBやCという規範的な作品も存在し、これらの作品の規範性にしたがうB1・B2あるいはC1・C2という作品も存在する。唐時代の絵画は、ひとまず規範性をもつ母集合のA・B・C・・・とその規範性にしたがうA1・A2・・・、B1・B2・・・、C1・C2・・・というさまざまな作品群の総体としてとらえることができるだろう。
一方、唐時代の絵画の絶大なる影響力によって、あるいは唐時代の絵画に積極的に同化をはかることで成立した天平時代の絵画では、唐時代の絵画における多様性を反映しながら、A’・A1’・A2’ 、B’・B1’・B2’ 、C’・C1’・C2’ のような唐の絵画の規範性にしたがう作品が存在する。
日中間における可逆型の関係性にみられる顕著な特色は、このように情報の受け手側の作品から、渡し手側の作品の内容や渡し手側の絵画史の問題について議論することができることにある。天平時代のA’であれB1’であれC2’であれ、これらの作例を使って唐時代のA・B・Cの作品について語ることは十分に可能であるし、実際そのような事例も多い。具体的な作例としては、たとえば、騎象奏楽図(正倉院南倉)と法華堂根本曼陀羅(ボストン美術館)との間にみられる斬新な山水表現の共通性にみることができる。
唐時代の絵画と天平時代の絵画との関係性にみられる可逆型の受容の場合では、渡し手の中国美術の影響伝播論がきわめて有効性をもつばかりでなく、受け手からの可逆性が保証されている限りにおいて、日本で制作された作品の個々は中国絵画史に不可欠な材料となりうるのである。 
〈非可逆型〉
非可逆型とは、渡し手の情報が必ずしも受け手の情報から復元できない場合である。この場合でも、情報伝達における渡し手の受け手に対する行為は、影響あるいは伝播という言葉でさししめすことができる。しかし、受け手の渡し手に対する行為は、むしろ選択的であり、両者の間には、さまざまなフィルタリング作用が介在する。典型的なモデルとして浮かびあがるのが、宋時代の仏画と鎌倉時代の仏画の関係性で、この間の事情をあらわしたものが概念モデルUである。
宋時代の絵画も唐時代の絵画とおなじように多様性をはらんでいる。宋時代のさまざまな絵画も、規範性をもつ母集合のD・E・F・・・とその規範性にしたがうD1・D2・・・、E1・E2・・・、F1・F2・・・というさまざまな作品群の総体としてとらえることができる。一方、宋時代の絵画の影響をうけた鎌倉時代の絵画の場合、きわめて特殊な例としてD’・E’・F’のような可逆型受容の結果としてあらわれる作品の存在も論理上ありうるが、ほとんどはD→X・E→Y・F→Zへと変化する。したがって、鎌倉時代のX・Y・Zという作品から、宋時代の絵画を可逆的に復元することはできない。このような変化が起こるのは、端的にいえば、天平時代が唐的であるほどに鎌倉時代は宋的ではないし、鎌倉時代が宋的であるほどに宋時代が鎌倉的では決してないからである。このような天平時代と鎌倉時代における対中国関係の違いは、平安時代における国風文化の成立以前と成立以後との差異に起因しているとみてよい。
こうした非可逆型の事例として、たとえば、板絵四天王像(蘇州市博物館)/宅磨勝賀筆・十二天屏風(東寺)の場合をあげることができよう。あるいは数々の日本に舶載された宋代の寧波仏画とそれを受容した鎌倉時代や南北朝時代との関係性を検証することで、日本における選択的受容の様相を確認することが可能である。このように非可逆型の場合では、影響伝播論はひとまず有効性を保持し続ける。宋時代の新たな様式の影響伝播にともなって、日本では鎌倉時代の仏画で宋風の仏画がつくられることになった、ということに異議をさしはさむ余地はない。
しかし、このような影響伝播論が、受け手の多様性を説明することができないことも事実である。すでに指摘されてきたように鎌倉時代の絵画様式における宋画の影響は、仏画ばかりでなく、水墨画から日本特有の絵画とされる大和絵にまで広汎におよんでいる。ジャンルを問わず、宋画の影響力の強弱ないしは宋画受容の深浅の振幅がみられるが、渡し手から眺める影響伝播論から、その振幅の度合いを予測することは期待できない。ここでいう振幅の度合いが、まさしく日中間に介在するフィルタリング作用の干渉と深くかかわっているからでもある。宋時代の仏画と鎌倉時代の仏画との関係性は非可逆型であり、両者の間には、さまざまなフィルタリング作用が介在する。こうしたフィルタリング作用を前提とするとき、はじめて、日本に舶載された南宋仏画に対して、日本側のさまざまな選択肢(模倣・増幅・拒否等)が明確になる。
さて、可逆型と非可逆型の日本における中国美術の様式受容における二つの型を確認してきたが、この二つの類型は、如何なる理由から、古代と中世・近世との間で画然とわかれてくるのだろうか。先に、天平時代と鎌倉時代における対中国関係の違いが、平安時代における国風文化の成立以前と成立以後との差異に起因している可能性を述べたが、一般に、国風文化の成立をもって、日本に独自の選択作用が確立する理由を、説明するのは容易ではない。次章では、中国という規範性へのアクセシビリティ(accessibility)という観点から、東アジア世界の美術交流における日中関係と朝中関係との違いを確認し、再び、この議論へ立ち戻ることにしたい。 
5.規範性へのアクセシビリティ―朝鮮からの視点
しばしば、美術史の領域では、中国美術の受容における日朝間の違いが指摘されてきた。そのもっとも代表的な事例が、中国の山水画受容における日朝間の差異である。
中国絵画における世界に冠たる達成の一つが、北宋の山水画であることに異論はないであろう。北宋の都であった開封の宮廷や官庁の壁画を埋め尽くしていた郭煕に代表される大観的な山水画は、皇帝を中心とする儒教的イデオロギーをもっとも強く表象してきた美術であり、ながらく朝鮮では規範とされ、日本ではまったく受容されることはなかった。こうした違いの理由は、遣唐使以後の宋商の活発な活動による日中間の交流という観点からは、容易に説明できない事象の一つである。
北宋後期の画史書としてしられる郭若虚『図画見聞誌』巻6「高麗国」条によれば、煕寧7年(1074)、北宋の都開封を訪れた高麗の使節は、大金をはたいて鋭意、中国の図画を購入し、また煕寧9年(1076)、再び北宋の都開封をおとずれた高麗使節の一行は、数名の画工を帯同し、大相国寺の壁画を尽く模写させて帰国したことを伝えている(註18)。この大相国寺の壁画の模写は、後に高麗を訪れた中国使節の徐兢が宣和6年(1124)に完成させ後の乾道3年1163)に刊行された『宣和奉使高麗図経』によれば、高麗の都開京(開城)にあった華厳宗の中心寺院、興王寺の壁画に写し伝えられていたという。
高麗使節が開封を訪れた時期は、まさしく郭煕の全盛時代で、郭煕の言葉をあつめ、また往時の活動を記録する山水画論『林泉高致集』「画記」によれば、郭煕の山水画が高麗に贈られたことが記録されている。
別の文献によれば、煕寧7年(1074)の時点で、郭煕の山水画は、時の神宗皇帝によって高麗使節に下賜されたとみてよい。北宋の李郭派の山水画が、高麗にすでに受容される可能性は、使節の派遣と皇帝からの下賜というかたちで、中国から高麗に直接与えられている。こうした中国絵画の直接的な受容は、おそらく正式な使節の通交がなければ実現できない次元のものであった。
よく知られている日本の摺畳扇(扇子)の中国への移動も、じつは、この郭若虚『図画見聞志』「高麗国」条に記録されているもので、日本の摺畳扇が、高麗の使節によって密かに持ちこまれ私的な贈り物とされていた事情を伝えている。この『図画見聞志』にみえる逸話は、美術交流における日朝間の対中国関係の違いを、もっとも象徴的にあらわしているといってよいだろう。
わずかな事例であるが、このように朝鮮からの視点を交えてみると、正式な使節を派遣することのなかった日本が、ながらく宮廷を中心とする最高級の中国美術品に対してアクセスできなかったことがわかる。このことは、意外にも日中間の往来がきわめて盛んであった南宋と日本との関係性においても同様であり、後世、最高級の美術品とされ規範とされてきた南宋の宮廷絵画が日本に舶載されるようになったのは、同時代の鎌倉時代ではなく、足利義満が遣明使を派遣するようになった15世紀初頭まで待たねばならない。
その間、200年間にも及ぶタイムラグが横たわっていた事実は、もっと認識するべきであろう。宮廷絵画という至高の規範性へのアクセシビリティという観点からみれば、遣唐使を廃止して以降、日本はその手段を自ら放棄し、従前の遣唐使以来の交流の中で規範としてきた唐の宮廷文化を更新することはなかったことになる。日本から中国に贈られた大和(倭)絵屏風が、唐の李思訓の作例と誤認されていたという米芾『画史』の記録は、いわば、唐の規範性に対して同根異株とでもいうべき差異が日中間で培養されていた事実を物語っている。もちろん、先に述べた「然が、宋の太宗から、完成したばかりの北宋版大蔵経を下賜されたように、入宋僧が関与することでようやく入手できた最高級の文物があったことは否定しない。しかし、この場合でさえ、「然が僧であったが故にアクセスできなかったモノとして、編纂されたばかりの儒学の注釈書等の典籍がかなりあったはずで、その事実もまた忘れ去られている。
中国という規範性へのアクセシビリティという観点から再検証するとき、商人を介した経済活動による日中交渉が盛んになったとはいえ、遣唐使の廃止を契機に、少なくとも美術や文化の領域では、大きな断絶が続いてきたことには、もっと注意を払うべきであろう。その事実は、幸か不幸か、自ずと美術における日本の対中国観や文化受容の構造に変化をもたらすことになったともいえるのではないだろうか。
前章で、古代と中世との間で、いわば可逆型と非可逆型という中国美術の受容形態が二分されることを述べたが、その理由の一端も、おそらくは、これまで見てきた宮廷美術という中国の規範性からの乖離と軌を一つにしている。近年の美術史学の動向をみるとき、しばしば、経済活動における日中交渉を前提に平安時代後期における北宋美術の受容を積極的に検証しようとする論者がすくなくない。当然ながら、個別具体的な事象における北宋美術の受容は認められてしかるべきである。しかし、もっとも中国的な美術の規範性を体現していた宮廷美術に対して、日本がアクセスする手段をもたなかった事実も、あわせて論じられるべきではないかと考える。
さいごに結びにかえて、東アジア的視座の重要性について、若干の議論を加えたいと思う。
日本における中国美術の受容を語る場合、しばしば、和漢論がとりあげられる場合が多い。和漢論とは、室町時代以降の日本美術史を語るときのキーワードとして使用される和漢の論理構造のことで、対立的に語られる和と漢とは、いずれもより大きな和の範疇のなかに二重に形成されているとする見方である。和のなかの漢(日本の内部で収斂される中国イメージ)と和の外にある漢(中国)とは、本来的に別物でありながら、個別な文化的・社会的営為のなかでは、ときとして連続性をもつこともある。鎌倉仏画の語りでしばしば使用される宋風という概念も、和の外に展開する宋代絵画と、和の内においてその受容の結果としてあらわれる宋風とが本来的に別物であること、さらに和の中の漢としての宋風に対して和の中の和としての大和絵があるという点では、和漢論の枠組みとほとんど共通し、こうした文化受容の構造は、さらに平安時代の貴族たちの意識にまで遡って論じられることもある。和漢論は、しかしながら、中国に対して、等しく一元化をはかる点で、自ずと限界性を露呈する。
美術をめぐる日中関係を見渡すとき、中国から舶載されたにもかかわらず、日本で受容されることなく拒否された仏画の事例は数多い。あるいは、逆にもっとも中国の規範性を体現する美術でありながら、同時代の日中交渉の視界の外にながらく置かれることになった宋代の宮廷美術の事例もある。このような、いわば、日本の内側にとりこまれた他者と、日本の外側に位置づけられてしまった他者をも、議論の俎上に乗せるためには、二国間におけるたんなる影響伝播論や受容論にも、また限界性がともなうであろうことは予想しておかねばならない。その意味で、今日、わたしたちの世代には、東アジア世界のなかで、さまざまな視点を交錯させ、実態に即した歴史を語る必要がうまれているのではないだろうか。
日本における和漢論的文化受容の構造については、ひるがえって隣国の朝鮮半島では、ほとんど同様の主張を聞くことがない。たとえば、宋風や和漢論と同じような美術史上の概念は、現在の韓国美術史の語りのなかに存在するのか、と自問してみてもよい。和漢論のアナロジーとして韓中論、朝中論が成立するのか否か、すくなくとも伝統的な朝鮮半島における言説でそのような事例があることを筆者は知らない。
むしろ日本との単純な比較対照として見つめると、中国と朝鮮との関係は、近代以降の言説で、正統か非正統かという立場で議論されてきた感をもつ。こうした正統・非正統という分類思考は、日本における国学的ナショナリズムと相似た現象でもあるが、中世以降、徹底して儒学文化圏の雄としてその一翼を形成してきた隣国ならではの論理構造でもあるだろう。それは日朝双方の中国文化に対するアクセスの違いや、近代におけるナショナリズムの表象が、日朝間において異なるかたちで現れているようでもある。
たとえば、高麗時代の画家で、北宋の徽宗朝の画院で活躍したとされる李寧、朝鮮王朝時代の15世紀、安平大君の庇護をうけて活躍した安堅の事例のように、日本からみれば朝鮮における中国へのアクセスまたはその受容は、より直接的でかなり異なる様相をはらんでいる。美術以外のさまざまな文化において、隣国では中国的なものをより純化させてきた一面があるようにもみえる。このような日朝間の対中国におけるスタンスの差異は、ときとして日本では否定的に解釈され、中国を表象するもっとも有力な一部として隣国を位置づけようとする一因ともなっている。
しかし、そもそも日本や朝鮮という地域の枠組みに対峙して中国という枠組みを考えること自体が、東アジアの美術や文化を考える上で有効なのかどうかさえ、議論されたことはすくない。日朝双方の中国へのアクセスの違いは、逆に絶大なる規範性をもつ中国という枠組みを、時代や地域によってさまざまな顔をもつ単位のコンテクストへと分節化するための有力な視点を提供することにもなる。中国が実態に即して分節化され、さらに分節化された個々の単位がふたたび有機的な結合体として作用しあうとき、日本と韓国の美術史の過去は、どのように関連づけられるのだろうか。おそらく日本と朝鮮の美術史の過去も、中国と同じく分節化されていくはずである。美術史における東アジア的視座の実践は、たんなる三国間の独自性にもとづく境界性の確認ではない。むしろ自国領分における美術史の外と内にひろがる多様性がともに開かれ、分節化された個々の単位が、それぞれ中国を含めた東アジア世界全体の視座のなかでふたたび有機的に結びつけられていく必要性を感じている。その実践のためには、まず他者を理解し、また自らの依ってきた言説や思考の境界性を明らかにしていく作業が不可欠であることはいうまでもない。 

(1)日本における美術、美術史学の制度に関する議論は、北澤憲昭『眼の神殿―「美術」の受容史ノート』(1989年、美術出版社)を嚆矢とする。他に木下直之『美術としての見せ物』(1993年、平凡社)、高木博志『近代天皇制の文化史的研究―天皇就任儀礼・年中行事・文化財』(1997年、校倉書房)、佐藤道信『〈日本美術〉誕生―近代日本の「ことば」と戦略』(1996年、講談社)など先駆的な業績としてあげられる。近代における美術史学の言説を問題とする国際シンポジウムの報告書として次のものがある。東京国立文化財研究所編『語る現在、語られる過去―日本の美術史学100年―』(1999年、平凡社)。筆者は、この国際シンポジウムにおいて第二セッション「内なる他者としての東アジア」を担当し、シンポジウムの議論を第二セッション報告としてまとめたているので参照されたい。
(2)平田寛「上代の画師・画工」『日本美術全集3_正倉院と上代絵画』(1992年、講談社)、平田寛「上代画工研究史料(稿)」『人間文化研究シリーズ』4号(2002年)、平田寛『絵仏師の時代』(1994年、中央公論美術出版)。
(3)平田寛『絵仏師の時代』(前出)
(4)黙庵については、海老根聰郎「黙庵とその時代」『水墨美術大系5_可翁・黙庵・明兆』(1974年、講談社)が詳しい。頂雲霊峰については、海老根聰郎「頂雲霊峰について」鈴木敬先生還暦記念会編『鈴木敬先生還暦記念中国絵画史論集』(1981年、吉川弘文館)を参照。
(5)雪舟に関する研究はきわめて盛況をみせており、発表論文もきわめて数が多い。ここでは、雪舟研究の基礎資料を網羅するもっとも新しい成果を挙げておく。山口県立美術館雪舟研究会編『雪舟等楊―「雪舟への旅」展研究図録』(2006年、「雪舟への旅」展実行委員会)。如寄については、高橋範子「還俗僧萬?集九周邊の畫事について一畫人如寄と雪舟」『松ケ岡文庫研究報』(1991年)。
(6)雪舟の北京での学習を中国明代絵画史の文脈から考える展覧会が、2005年、東京の根津美術館で開催されている。特別展図録『明代絵画と雪舟』(2005年、根津美術館)、なお、同図録に収録される島尾新「雪舟と明代絵画―亀裂と同調」及び、板倉聖哲「成化画壇と雪舟」の論考を参照されたい。
(7)鑑真の伝記等については、安藤更生『鑑真大和上伝之研究』(1960年、平凡社)がもっとも詳しい。
(8)陳和卿及び伊行末をはじめとする東大寺復興期の造像については、つぎの展覧会図録を参照。『特別展_重源上人―東大寺復興にささげた情熱と美』(1997年、四日市市立博物館)、『大勧進重源―東大寺の鎌倉復興と新たな美の創出』(2006年、奈良国立博物館)。ほかに岡崎譲治「宋人大工陳和卿伝」『美術史』30号(1958年)を参照。
(9)黄檗美術については、錦織亮介『黄檗禅林の絵画』(2006年、中央公論美術出版)が詳述している。
(10)沈南頻のもたらした新様式の江戸時代の日本における受容については、『江戸の異国趣味―南蘋風大流行―』(2001年、千葉市美術館)を参照。
(11)仏教彫刻において、型としての様から立体を造像することを指摘した論文には、主に次のものがある。水野敬三郎「宋代美術と鎌倉彫刻」『國華』1000号(1977年)、同『日本彫刻史研究』(1996年、中央公論美術出版)所収。紺野敏文「請来『本様』の写しと仏師(1〜3)」『佛教芸術』248・258・269・270号(2000年〜2003年)、藤岡穣「仏像と本様―鎌倉時代前期の如来立像における宋仏画の受容を中心に―」『講座_日本美術史2_形態の伝承』(2005年、東京大学出版会)。
(12)長岡龍作「清凉寺釈迦如来像と北宋の社会」『國華』1269号(2001年)。
(13)高橋範子「『仏日庵公物目録』によめること―宋風の禅文化、鎌倉に到来―」『開館40周年記念特別展_宋元仏画』(2007年、神奈川県立歴史博物館)。
(14)足利将軍家のコレクションについては、特別展図録『東山御物―雑華室印に関する新史料を中心に―』(1976年、根津美術館、徳川美術館)が今日の研究の基礎を形成した。
(15)君台観左右帳記の各種写本については、矢野環『君台観左右帳記の総合的研究』(1999年、勉誠出版)が参考になる。君台観左右帳記の中国画人目録が近代以前の絵画史における一つの制度として機能してきたことについては、井手誠之輔『日本の宋元仏画』(日本の美術418号)(2001年、至文堂)を参照されたい。
(16)日本における中国美術の影響伝播論は、日本美術史についてはじめて編纂された『稿本日本帝国美術略史』(1901年、農商務省)が、美術における中国の歴代王朝と日本の時代との対応関係に留意しつつ積極的に影響伝播論を展開している。近年では、東アジア的視点から日本美術史の再考をうながすことを企図して書かれた中国絵画史研究者の論説に顕著な特色で次のものがある。戸田禎佑『日本美術の見方―中国との比較による』(1997年、角川書店)、小川裕充「中国絵画―東アジア国際様式の消長」『日本美術全集12 水墨画と中世絵巻―南北朝・室町時代の絵画T』(1992年、講談社)、同「中国絵画の古典性とは?―日本絵画史にとってのそれを中心に」『美術フォーラム21』4号(2001年、醍醐書房)。影響伝播論に対する日本美術史研究者側の批判は、ジェンダー論の立場からなされた千野香織氏による戸田・小川両氏の論説に対する批判がある。千野香織「南北朝・室町時代の絵巻物―新しい光のなかで」『日本美術全集12 水墨画と中世絵巻―南北朝・室町時代の絵画T』(前出)、同「日本美術のジェンダー」『美術史』136 号(1994年)、同「日本の美術史言説におけるジェンダー研究の重要性」『語る現在、語られる過去―日本の美術史学100 年』(1999年、平凡社)、同「美術館・美術史学の領域にみるジェンダー論争」『女?日本?美?―新たなジェンダー批評に向けて』(1999年、慶応義塾大学出版会)。
(17)井手誠之輔「影響伝播論から異文化受容論へ―鎌倉仏画における中国の受容―」『講座_日本美術史2_形態の伝承』(前出)。本論での議論も、基本的にこの論文に準じている。
(18)「皇朝之盛、遐荒九譯來庭者、相屬於路。惟高麗國敦尚文雅、漸染華風、至於伎巧之精、他國罕比,固有丹青之妙。錢忠懿家有着色山水四卷、長安臨潼李虞曹家有《本國八老圖》二卷、及曾於楊褒虞曹家見細布上畫《行道天王》、皆有風格。熙寧甲寅歳、遣使金良鑒入貢、訪求中國圖畫、鋭意購求、稍精者十無一二、然猶費三百餘緡。丙辰冬、復遣使崔思訓入貢、因將帶畫工數人、奏請模寫相國寺壁畫歸國、詔許之。於是盡模之持歸。其模畫人頗有精於工法者。彼使人毎至中國、或用摺疊扇為私覿物。其扇用鵶青紙為之、上畫本國豪貴、雜以婦人鞍馬、或臨水為金砂灘、暨蓮荷、花木、水禽之類、點綴精巧。又以銀泥為雲氣月色之狀。極可愛。謂之倭扇、本出於倭國也。近歳尤祕惜、典客者蓋稀得之。倭國乃日本國也、本名倭、既耻其名、又自以在極東、因號日本也。今則臣屬高麗也。」『図画見聞志』巻6「高麗國」条所収。 
 
日本人と中国人の相互認識

 

はじめに
古代日本は、中国をモデルとして国家の諸制度や文化を成立させた。古代の日本にとって、中国はお手本であり、支配層のなかで中国を意識しない人はいなかっただろう。逆に、古代の中国で、どれくらいの人が日本や日本人を知っていたかはおぼつかない。
本稿では、古代日本人の中国観・中国認識について考えてみたい。ただし、古代日本において、個人の中国観・中国認識を語る史料は極めて少ない。それは、吉田孝氏や義江明子氏が指摘しているように(1)、律令国家が成立した8世紀においても、日本の社会構造を規定していたのが、「氏(うじ)」であったことに拠っている。日本の古代では、律令官僚制においても必ずしも個人が単位とはなっておらず、集団から個人が未だ独立していないのである。そのため、まずは国家としての中国観・中国認識について述べ、その後、8世紀末からの唐風化の時代において、集団から独立してきた個人としての日本人の中国観・中国認識について、菅原道真などを例として触れることにしたい。 
1、律令国家の中国認識
唐令を継受した日本令には、諸蕃の規定が散見する。よって、本来、日本にとって唐も諸蕃に入るわけだが、実際には、大宝令の注釈書である「古記」は、新羅=蕃国、唐=隣国としている(2)。日本の律令制においては、日本を中心とし、蝦夷・隼人を夷狄、新羅=蕃国、唐=隣国とする、小中華思想が成立していたとされている(3)。そのような見方には、唐は日本にとって新羅とは違い、支配下にはない別格の国とする考え方が見て取れる。しかし、唐=隣国、という考え方には、一方で対等であるかのようなニュアンスも感じられる。このような日本の唐に対する認識はどのように生まれてきたのだろうか。
日本と中国の国際関係は、『漢書』地理志から見え、後漢の建武中元二年(57)には、倭の奴国が朝貢し、その時賜ったのが、金印「漢委奴国王」であるとされている。印綬を賜ったことは、中国の皇帝から「漢支配下の倭の奴国王」に任じられ、このことによって、中国と君臣関係になったことを示す。このように、中国の皇帝が周辺諸国の王等を冊書によって国王に封じ君臣関係を結ぶと、諸国国王は中国の皇帝に朝貢し、皇帝は回賜として返礼物を与えた。諸国国王は中国皇帝から自分の地位の正統性を認められることで、自国内における王権の強化・安定を図った。このような古代における中国を中心とした国際関係を、冊封体制と呼ぶ(4)。
その後、3世紀には、邪馬台国の女王卑弥呼が三国時代の魏に朝貢し、「親魏倭王」に冊封された(5)。5世紀には、倭の五王(讃・珍・済〈允恭〉・興〈安康〉・武〈雄略〉)が南朝の宋に使いを遣わし、軍事指揮官に任じられ、冊封体制下に入った(6)。
しかし、6世紀になると、中国大陸の混乱もあり、日本は中国との関係を断った。日本が中国との国際関係を再開するのは、589年に隋が南朝の陳を滅ぼして中国を統一してからである。隋が中国を統一すると、高句麗と百済がまず冊封を受け、ついで新羅も冊封を受けた。新羅と争っていた日本も、新羅との関係を有利にするために遣隋使を派遣することにしたのである(7)。その後、607年には小野妹子が遣隋使として派遣された(8)。
遣隋使の特徴は、隋に対して朝貢はするが、これまでの日本のように冊封は受けないとした点である。隋は、朝鮮三国(高句麗、百済、新羅)に対しては、冊封するか、戦争をするかという二者択一の厳しい態度で臨んだのに、上記のような日本の姿勢を受け入れた。それは当時、隋が高句麗と戦争状態にあったため、高句麗の背後にある日本を重視して容認したものと考えられる(9)。ただし、日本の朝貢はするが、冊封は受けないという中国に対する姿勢は、遣唐使にも継承されていく。
612−614年、隋の煬帝が高句麗に出兵し、一方で隋国内では反乱が起きた。その結果、618年、隋が滅亡して、唐帝国が成立することになった。高句麗、百済、新羅は同年早速冊封を受けている。
623年、隋に留学していた留学僧恵日らが、新羅経由で帰国し、「且其大唐国者、法式備定之珍国也」と評して(10)、留学生の必要性と唐との国交を進言した。630年、第1回遣唐使として犬上御田鍬が派遣されることになる。隋から唐へと中国の王朝が交替しても、遣唐使は唐の皇帝に朝貢はするが、冊封は受けないという姿勢は受け継がれた。唐が日本のこのような姿勢を許したのは、日本を絶域と見なしていたこと、当時唐と争っていた新羅の背後に日本があることを警戒したためと考えられる。
中国に対して一定の距離をとる姿勢、独立性を保とうとする姿勢は、その後も継承されていくことになった。近代においても、西欧列強に対する日本の姿勢は同様のものだったと捉えられる。すなわち、大国に対して一定の距離をおく姿勢は、遣隋使・遣唐使以降、日本の外交方針になったと言えよう。
このような対外方針が可能であったのは、前近代における地理的要因の大きさによると考えられる。四方を海で囲まれ、大陸から遠方に位置する日本は、対外戦争などの危機に対処する必要は殆どなかった。しかし、現代では科学技術や情報の進歩により、前近代とは別の状況が生じている。 
2、遣唐使の中国認識
遣唐使が派遣された回数については、通説では20回を数える(11)。遣唐使は派遣目的等から前期と後期に分けることができ、第1回から第7回の遣唐使を前期、第8回から第20回までを後期とする。
前期の遣唐使は朝鮮半島において戦争状態が続いていた時期に派遣されたもので、政治折衝的な性格が強い。船は2隻で、120人ほどが派遣され、博多から壱岐・対馬をとおり、朝鮮半島西海岸を経て、黄海を渡り、山東半島に到着して陸路で長安に向かう北路が取られた。白村江戦から壬申の乱を経て31年間の遣唐使中断期をはさみ、701年、大宝律令が成立すると、遣唐使が再開される。
後期の遣唐使については、唐を中心とした国際関係が安定した時期で、朝貢と文化輸入を目的に派遣されたと考えられる。船は4隻で、構成員は500人から600人ほどであった。新羅との関係が悪化したため、航路は南路を取り、博多から五島列島を経て、東シナ海を一気に渡り、長江沿岸に到着した。運河により華北に向かい、汴州からは陸路で長安に至った。
唐に到着した遣唐使一行のうち、約1割が都長安に向かい、残りは遣唐使船が着いた地方に残って都からの一行が帰って来るのを待っていた。一方、都に到着した遣唐使一行は、外交儀礼(賓礼)と元日朝賀の儀式に参列し、唐との外交関係を確認することになる。
延暦の遣唐使を例に見てみると、延暦23年(804)12月23日に第1船の一行が長安城の外宅に安置されると、24日には国信・別貢等物を監使に付して皇帝に奉じている。25日に大明宮の宣化(政)殿において礼見(皇帝不出御)、麟徳殿において皇帝に対見し、「請う所、並びに允さる」とある。その後、内裏で設宴され、官賞があった(12)。
延暦の例は唐代後半期なのでやや異なる点もあるが、礼見と対見が『開元礼』の賓礼の「蕃国使の表および幣を受ける」儀式、内裏における設宴が「皇帝が蕃国使を宴す」儀式に該当する(13)。
外交儀礼(賓礼)のうち、唐皇帝との対面の儀式である「蕃国使の表およ幣を受ける」儀式を『開元礼』によってみてみると、場所は宮城の太極殿で、儀式次第は、皇帝が太極殿上の御座に出御すると、蕃国使が太極門から入り、殿庭の版位につく。蕃国使は国書と朝貢品を皇帝に奏上する。皇帝からは故国の蕃主と臣下について下問があり、蕃国使は回答を奏上する。その後退出する。日本の遣唐使が唐皇帝から下問を受けた例として、『日本書紀』斉明5年(659)に高宗とのやりとりが見える。日本からの朝貢品は、『延喜式』大蔵省によると、銀、水織絁、美濃絁、黄意絲、綵帛、畳綿、紵布、望陀布など、絹製品や調庸物が多く、加工品ではなく原料が多い。
日本の遣唐使が国書を持参したか、しなかったかについては議論がある。それは、日本と唐の間で交わされた国書が1通しか残されていないからである。その1通は、唐の文人政治家である張九齢の文集『唐丞相曲江張先生文集』巻七にある「日本国王に勅す書」である。唐の皇帝から外国に対して出される国書には3つの形式があったが、この「勅」の形式はもっとも格下の文書様式であった。また、冒頭が「勅す日本国王 主明楽美御徳」で始まっている。「主明楽御徳」は「スメラミコト」であり、天皇を意味する。このことは、唐に対して、日本が天皇号を君主号としては使用していなかったことを示す。「スメラミコト」という天皇の和名を、唐には日本国王の名前と受け取られる可能性を期待して使用したのではないかと考えられている(14)。
一方、日本から唐皇帝への国書は1通も残されていない。日本からの国書は、臣下が皇帝に奉ずる上表形式であったと推測されている。日唐間で交わされた国書がほとんど残されていないのは、これらの国書の文書様式や内容が日本にとっては都合が悪いものであったために、日本国内では公にされることがなく、正史にも記録されなかったからだと考えられている(15)。
皇帝との対面の儀式が終了すると、皇帝から宴を賜った。『開元礼』には「皇帝、蕃国使を宴す」儀式として見える。皇帝が御座につくと、蕃国使は門を入り、殿庭の版位につく。ついで、蕃国使の昇殿者が殿上に昇り、座につく。皇帝が乾杯し、一同が酒を飲む。皇帝以下食事を取る。舞人が舞う。皇帝から特別な賜酒がある。蕃国使が殿を下り、殿庭の版位につく。皇帝から贈答品を授ける。
皇帝からの贈答品は錦や綾の高級繊維製品や銀器などであった。その他、宴会では官職も賜った。たとえば、承和の遣唐大使である藤原常嗣は、「雲麾将軍、検校太常卿、兼左金吾衛将軍、員外置同正員」であった(16)。常嗣は、日本では正三位、参議、左大弁、大宰帥であり、唐からもらった官職も三品相当であった。「員外置同正員」とは正員以外の名目上の官職であることを表している。名目上とは言え、官職をもらうと、告身(辞令)や官服を支給された。延暦の遣唐使判官高階遠成がもらった告身の例が『朝野群載』巻20に残されており、養老の遣唐使は朝服を賜って帰国後の拝見において着している(17)。
唐の皇帝から官職を授けられることは、唐皇帝の臣下になることを意味していたが、日本の遣唐使の場合、唐皇帝からもらった官職は日本国内では通用しなかった。告身は朝廷に納められ、朝服も日常的に使用されたことはなかった。日本国内においては、官人はあくまで天皇に仕えるのであって、唐皇帝からもらった官職は公にされなかった。この点が、唐からもらった官職が国内でも意味をもっていた朝鮮諸国や渤海とは異なる点である。
さて、遣唐使は、外交儀礼が終わると、正月元日の朝賀の儀式に参列することになる。
延暦の遣唐使も、12月25日の外交儀礼の後、延暦24年(805)正月元日、大明宮の含元殿における朝賀に参列した。朝賀の儀式も『開元礼』に見える(18)。太極殿に皇帝が出御し、在京の文武官、諸州の朝集使(都督・刺史)、諸蕃の使が参列する。皇帝に対して、皇太子と、群官・客使を代表して上公が新年の賀詞を奏上し、それに対し皇帝から制勅が下される。地方の州鎮が、上表文と皇帝の徳を示す祥瑞を奏上する。太極門の左右廂、朝堂前などに陳列されていた諸州・諸蕃の貢物が太府寺に納入される。
朝賀の儀式は、皇帝が、唐帝国内外の官人や諸蕃使に代表されるヒトと、諸州や諸蕃からの貢献物や朝貢品に象徴されるモノを生み出す領土を支配していることを示した儀式である。つまり、外交儀礼が日唐間の関係を確認するものであったのに対し、朝賀の儀式は、唐帝国の構造を目に見える形で表した儀式であり、朝賀の儀式に参列することにより、遣唐使は唐皇帝の権力・権威を如実に感じ、唐を中心とした国際関係における日本の位置づけを認識することになったと考えられる(19)。
以上のように日本の遣唐使も諸国の使と同じく唐皇帝に朝貢を行っていた。日本としては、第一節で述べたように、日本を中心に新羅や渤海を蕃国とみなした中華思想のミニュチュア版を構想しており、唐から一定の距離をおこうとしていたわけだが、唐から見れば、日本は絶域からわざわざ皇帝の徳を慕って朝貢してくる臣属国であった。日本も唐においては、唐皇帝を頂点とした国際関係のなかに入らざるを得なかった。
そのため、唐においては、外交儀礼を行って、唐を中心とした国際関係における国書をやりとりし朝貢し、官職や回賜品をもらって臣属関係を構築し、朝賀の儀式においては唐を中心とした国際関係のなかにおける日本の位置づけを認識していた。このような日本と唐の関係は、遣唐使を通じて天皇を始めとする日本の朝廷の支配層も認識していた。しかし、その事実を日本国内で明らかにすることは、小中華思想の頂点にいる天皇にとっては都合の悪い事だった。よって、国書や官職、朝服などの日唐関係の現実を示すものは人目にふれないよう処理され、正史にも記録されることはなかった。
以上のように、日本が日本国内と国外で唐に対する姿勢を使い分けていたことを、東野治之氏はダブル・スタンダードと呼んでいるが(20)、このようなことができたのは、古代日本の場合、地理的な要因のため、新羅や渤海のように一般人を含む幅広い交流が唐との間になかったためだと考えられている。
このように、古代日本は国家としてはダブル・スタンダードで唐に対して臨んでいたが、そのことを知っていたのは、実際に中国を経験して日唐関係の現実を認識していた遣唐使と、遣唐使を通じてその事実を把握していた日本の朝廷の支配層のみであったと言えよう。 
3、中国文化への憧憬―日本の律令国家は何を中国に求めたのか
医恵日等が「且其大唐国者、法式備定之珍国也。常須達」(『日本書紀』推古31年7月条)と奏上したことにより、遣唐使は開始された。恵日ら隋に留学していた学問僧や医にとって、唐は何はともあれ、法式備定の国と認識されていたことがわかる。
そのことは、前期の遣唐使および留学生として派遣された伊吉連博徳や土師宿禰甥、白猪史宝然らが、大宝律令の撰定に参加したこと(21)、後期の遣唐使の初期に派遣された留学生・請益生のなかでも大和長岡や秦大麻呂が法律を学んだことによっても知られる(22)。
すなわち、大宝律令や養老律令を編纂する時期には、法律を学ぶために留学生が唐に派遣されたと考えられるのである。文化受容の観点からみていくと、時期によって、日本側が中国文化に求めるものが変化していくことがわかる。
当初は律令の編纂が中心であったが、養老の遣唐使以後、礼の受容が本格的になっていくことが指摘されている(23)。養老の遣唐留学生であった吉備真備が将来した「唐礼」130巻は、顕慶3年(658)に頒下された『永徽礼(顕慶礼)』に該当する。真備は唐礼以外にも『太衍暦経』1巻、『太衍暦立成』12巻、測影鉄尺1枚、銅律管1部、鉄如方響写律管声12条、『楽書要録』10巻、弓箭など、天文や礼楽関係、兵器などを献上している(24)。将来した「唐礼」を用いて、真備は釈奠の儀式を整備した(25)。また、真
備は、天平勝宝の遣唐副使として再び入唐し、『開元礼』を将来したと考えられている。
称徳朝に右大臣になった真備は、釈奠の儀式をさらに整備して、中国と同じように、大学に称徳天皇を迎えて儀式を行った。
正倉院宝物からは中国文化直輸入の生活をうかがうことができるが、奈良時代後半には唐風趣味を称される藤原仲麻呂が現れた。藤原仲麻呂の中国認識についてみてみよう。
藤原仲麻呂は、藤原不比等の孫、武智麻呂の次男で、叔母の光明皇后に付属した皇后宮職が発展した紫微中台の長官として、聖武天皇と光明皇后の子どもである孝謙天皇の時期に権力を掌握していった人物である。権力を掌握した後、唐風の政策を行ったことで著名である(26)。
仲麻呂の唐風政策としては、まず、天平勝宝9歳(757)4月4日、大炊王立太子に際し、課役負担の軽減をはかるため、正丁・中男の年齢を1歳繰り上げること、『孝経』を家ごとに1本備えさせることがあげられるが、ともに唐玄宗の天宝3載(744)12月の施策に倣ったものである。これに先立ち、天平勝宝7年正月に「年」を「歳」と称することにしたが、これも「年」を「載」とした唐の先例(武后期・玄宗期)に倣ったものであった。
さらに、天平宝字2年(758)8月1日、孝謙天皇譲位と淳仁天皇即位に際し、孝謙に宝字称徳孝謙皇帝、光明皇太后に天平応真仁正皇太后という尊号を奉じ、8月9日には、亡き聖武に勝宝感神聖武皇帝と尊号を奉じている。これも、唐代の武后ー玄宗期における尊号の盛行に倣ったものである(27)。
この他、天平宝字2年8月25日の官号改易、同3年5月9日の常平倉・平準署の設置、同年6月22日の武后が編纂を命じた『維城典訓』を官人の必読書に指定したこと、天平宝字5年に行われたと推測される『氏族志』の編纂などがあげられる。
仲麻呂の唐風化政策とされるものには、武后期・玄宗期に行われたものが多く見られる。
これらの政策は、天平勝宝の遣唐使によってもたらされたと考えられる。ほぼ同時代の唐における政策をいち早く取り入れている点、後世ではあまり評判のよくない武后の政策も当時は気にしないで摂取している点が興味深い。古代日本では多かれ少なかれ唐の制度・政策を参考にしているわけだが、仲麻呂の場合は特に唐に対する憧憬の気持ちが強く、唐風化政策をよいものとして施行している。
また、仲麻呂の時期には、安史の乱についての情報が初めて日本に伝わったことが重要である。天平宝字2年(758)9月、遣渤海使小野田守が渤海大使らとともに帰国して、12月には朝廷で帰朝報告を行っているが、そのなかで、安史の乱についての情報が明らかにされた。天宝14載(755)11月、御史大夫兼范陽節度使安禄山が叛乱を起こし、洛陽を占拠した。玄宗は兵を派遣して応戦したが、翌年6月、長安を出て剣南に逃げ、7月に霊武郡都督府で粛宗が即位した。ついで幽州節度使史思明も叛乱を起こした。渤海には、安禄山の追討と称して、平盧留後事徐帰道から援軍の要請がきたり、その後安禄山側に通じた徐帰道を討った安東都護王玄志から使いが派遣されてきたりして、安史の乱についての最新情報が伝えられていた。
これに対して、仲麻呂は、大宰府に命じて西陲の防衛を固めさせ、帰国する渤海使に付して、天平勝宝の遣唐大使として入唐し唐に滞在中の藤原清河を迎えに行く迎入唐大使高元度を派遣することにした(28)。天平宝字3年正月元日朝賀の儀式に参列した後、2月16日に渤海使と高元度らは出発した。渤海では、いまだ唐では争乱状態が続いているため、日本からの使いのうち、高元度ら11人のみを渤海の賀正使とともに入唐させ、残りは返してきた(29)。残りの使いは10月に対馬に漂着し、年末に入京している。
一方、高元度らは入唐したが、長らく朝見も許されず、清河の帰国も許されないまま、天平宝字5年8月、大宰府に帰国して、仲麻呂に復命報告をしている。高元度らは唐の送使にとともに帰国しており、唐からは兵杖の様を送られている。
この後、仲麻呂は遣唐使派遣と、新羅征討を計画しており、両計画とも仲麻呂の失脚により実現しなかったが、当時の国際情勢に素早く対応しようとしていることが注目される。
以上のように、仲麻呂による唐の政策継受や、安史の乱への対応などは、同時代性が強いことと現実的な対応であることが特徴である。ここに、当時の日本の中国に対する認識が表れている。仲麻呂の唐風化政策については仲麻呂の個人的な趣味のように言われることが多いが、奈良時代後半は唐風化へのひとつの段階であることが指摘されている(30)。
平安京に遷都した桓武天皇は、天皇権力・権威を拡大して初めて中国の皇帝をめざし、中国に倣って、天を祭る郊祀の儀式も行っている(31)。延暦23年には遣唐使も派遣された。しかし、平安時代に入ってからの延暦の遣唐使と、事実上最後の遣唐使となった承和の遣唐使については、宝亀までの遣唐使とはやや異なった面が見られるので注意を要する。
それは、遣唐使一行に文章生出身者が含まれるようになったことである。文章生・文章得業生出身の菅原清公が遣唐使判官、文章生出身の朝野鹿取が遣唐使准録事、橘逸勢が留学生に選ばれている。遣唐使に文章生出身が含まれることによって、日本側が中国文化に求めるものが、明経から文章へと変化していったことが窺える。
本来、大学では、儒教の経典を学ぶ者が学生であったが、神亀5年(728)に直講4人(文章学士1人を含む)、律学博士2人、明法生10人、文章生20人が新設され、法律を学ぶ部門と歴史・文学を学ぶ部門が設けられた。文章科は秀才・進士試に対応する学科で、文章博士の官位相当は当初、正七位下であった(32)。
文章科出身者は延暦期になると多く見えるようになり、文章科の位置づけは次第に高まっていった。その背景としては、平安時代初期の大学就学の強制政策があった。大同元年(806)、諸王・五位以上子孫は皆大学に入ることが義務づけられた。弘仁3年(812)には緩和されたが、天長元年(824)には五位以上子孫で20才以下の者は悉く大学に入ることになった。この規定は『貞観格』に定着する(33)。
このような大学就学強制政策は、儒教思想の浸透をはかるとともに、血筋ではなく、能力主義による官吏登用をめざした王権の官僚制再編策と考えられている(34)。その結果、中下級官人が取り立てられる下地が出来上がった。
そして、嵯峨天皇を中心として、「文章は経国の大業」(魏文帝の『典論』による)をスローガンに、漢詩文を作ることが盛行した。嵯峨天皇(上皇)は、貴族・官人を集めて、漢詩を作る会を盛んに催した。「君臣唱和」の奉和詩が多く作られ、その成果が、『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』の三大勅撰漢詩文集となった。
そこに見える皇族・上級貴族としては、皇太弟大伴親王(のち淳和天皇)、有智子内親王、良岑安世、藤原冬嗣などがいる。また、中下級官人としては、小野岑守(嵯峨天皇の侍読、参議、篁の父)、菅原清公(文章生、文章得業生、遣唐使判官、大学頭、文章博士、侍読、従三位、道真祖父)、滋野貞主(元楢原造、文章生、少内記、式部大輔、参議、正四位下、娘は仁明後宮)、朝野鹿取(元忍海原連、文章生、遣唐使准録事、侍読、参議、式部大輔、従三位)、巨勢職人、賀陽豊年(文章博士、東宮学士、陰陽頭、式部大輔、贈正四位下)、桑原腹赤(のち都宿禰、文章生、文章博士、大内記、良香伯父)などがいる。
中下級官人には文章生出身者が多い。文章生出身の中下級官人で取り立てられた人々を「文人派」と呼ぶ(35)。このような人々が議政官にまでなり、上級貴族出身者に対してひとつの政治勢力となったのが平安時代前期政治の特徴である。これらの人々を取り立てたのが、嵯峨天皇を筆頭とする平安初期の天皇で、唐の科挙官僚制に倣って、官僚制を再編し唐風化することによって、天皇権力の専制化をはかったのである(36)。唐代も後半期になると、科挙制が進行し、貴族出身者でも科挙を経ないと官僚になれないようになっていった。科挙官僚が皇帝独裁化を支える機能を果たしたのである。天皇専制を支える官僚制の唐風化という点からみても、日本の中国認識の同時代性を指摘できよう。
この時代を象徴する嵯峨天皇と側近の貴族・官人たちが詠んだ漢詩から、彼らの中国への思いを読み取ることができる。彼らの漢詩については、中国の『文選』や類書である『芸文類聚』、そして盛唐や中唐におよぶ唐代詩集から詩句詩語を抽出して、詩が作りあげられているということが指摘されている(37)。
詩題も唐風で、中国北方の国境警備に行ったまま帰らない夫を待ちわびる妻の嘆きを詠った閨怨詩や、北方の荒涼とした風景を詠んだ辺塞詩が多く作られている。また、『文華秀麗集』巻下の雑詠には「河陽十詠」が収められているが、山崎の地を中国黄河北岸の河陽県に見立て、淀川を長江に見立てて詠んでいる(38)。このように、中国に対する憧憬が表れているのが三大勅撰詩文集の漢詩の特徴である。平安初期には、政治システムも漢詩も唐に出来るだけ類似したものを作り出そうとしていたと言えよう。しかし、一方で、仲
麻呂の時期における、遣唐使の将来した唐の政策をいち早く取り入れたり、安史の乱への対応など差し迫った状況と比較すると、平安初期の政策継受や漢詩文の摂取は、いつの時期のものを受容したのか明確ではなく、日本側の中国に対する認識の変化を指摘できる。 
4、菅原道真の中国認識
延暦の遣唐使の後、承和の遣唐使が派遣される。この遣唐使が事実上、最後の遣唐使となった。平安時代に入ると、遣唐使の派遣間隔が、25年から30年とひらくようになる。承和の遣唐使の後、60年たってから、寛平6年(894)遣唐使派遣が計画されたが、遣唐大使菅原道真の奏上によって、遣唐使は廃止されたというのが通説であった。
しかし、近年、道真の奏上は遣唐使廃止を願ったものではなく、結果的に遣唐使停止という状態になったのだという説が出され、支持を集めている(39)。そこで、その根拠となった史料に基づいて検討しながら、菅原道真の中国認識について考えてみたい。その史料とは、菅原道真自身が書いた「奉勅為太政官報在唐僧中瓘牒」「請令諸公卿議定遣唐使進止状」(『菅家文草』巻10・9所収)である。
寛平6年7月22日の「奉勅為太政官報在唐僧中瓘牒」によると、在唐中の僧中瓘から上表文と脳源茶が天皇に献上されてきた。中瓘から太政官宛の状には、温州刺史朱褒が使いを日本に派遣したことが受け入れられるだろうかとしながらも、疑うには及ばないとしている。朱褒からの申し入れは、日本から朝貢使を派遣してほしいということだった。それに対して、太政官は、「唐商人の情報からも、朱褒は黄巣の乱以降、十有余年、支配を全うして、皇帝もその忠勤を愛しているということであるので、天皇としても、その申し入れに耳を傾けざるを得ない。しかし、儀礼には定めもあり、期待どおりにはいかないことを使者に伝え、近年災害が多いので準備が難しく、朝議が定まったとは言え、朝貢使派遣に時間がかかるかもしれないことを伝えてほしい」という旨を、中瓘に申し入れた。
遣唐使派遣の決定に基づき、寛平6年8月21日に参議左大弁菅原道真が遣唐大使、左少弁紀長谷雄が副使に任命された(40)。
ところが、寛平6年9月14日、遣唐大使菅原道真は「請令諸公卿議定遣唐使進止状」という、遣唐使派遣について公卿等の再考を請う状を提出した。それによると、中瓘の録記には、唐の凋弊について具に記されており、中瓘は、朱褒からの日本から朝貢がないことについての質問は伝達するが、日本からの入唐については反対の意見であったらしい。
さらに、「記録を検討すると、代々の遣唐使は、渡海で命を落とす者があったり、賊に逢って身を亡ぼす者もいたが、唐に至ってから、難阻飢寒の悲しみがあったことはなかった。
しかし、中瓘の報ずるところによれば、そのような未然のことが起こるのは推して知るべしである。よって、公卿・博士に下して、遣唐使の可否について定めさせてほしい。これは国の大事であり、自分ひとりに係わることではない」と願い出ている。
通説では、この結果、寛平6年9月30日の『日本紀略』に「其日、停遣唐使」とあり、遣唐使が廃止されたとされてきたが、この日付には疑問があり、この後も道真らが遣唐使を称していることなどから、遣唐使のことはなし崩し的に停止に至ったと、石井正敏氏が指摘され、現在は石井説に同調する研究者が多い。
さて、以上における道真の中国認識については、どのように考えることができるだろうか。温州刺史朱褒については、『新唐書』劉漢宏伝・『呉越備史』巻1などに史料がみえ、黄巣の乱以降、江南で力をもった浙東観察使劉漢宏とのちに呉越をたてる銭鏐との争いにおいて、温州を基盤に劉漢宏について助けたが、その後後梁の太祖となる朱全忠と結び、唐皇帝より温州刺史を授けられ、静海軍使に充てられたことがわかる(41)。温州刺史となっていたのは、中和3年から天復2年に没するまでと考えられる(42)。浙西では、運河と塩業務機関との連繋によって商業が盛んで、それらを媒介に杭州八都、十三都と呼ばれる都市間の武装勢力の結合がみられたが、浙東では個別分散的な山間立塞が一般的であるなか、朱褒が温州城を治めたのは稀な例と考えられている(43)。このように、浙東においては朱褒の勢力は抜きん出たものであった。また、朱褒が船による戦いを行っていること(44)、浙東地域には海上交易の痕跡があること(45)などから、日本に朝貢を求めることになったと考えられる。日本からの朝貢使を自らの政権の基盤強化に利用しようとしたのであろう(46)。
道真の2通の文書は、1通目では唐皇帝から温州刺史を授けられた朱褒の力を認めながらも、2通目では黄巣の乱以降の唐帝国全体の衰微と、そのため唐に到着してからの難阻飢寒の恐れ、その結果都長安にたどり着くことの困難さを理解している点で、当時の中国、江南の状況を正しく理解していると言えよう。よって、道真の遣唐使派遣再考要請は妥当なものであったと考えられる。
朱褒からの朝貢使要請と唐の事情を知らせてきた僧中瓘とは、どのような存在であったのだろうか。僧中瓘は、既に元慶5年(881)10月13日には、高丘親王の薨去について唐から知らせてきており(47)、この後にも延喜9年2月17日に朝廷と連絡があり、沙金が送られている(48)。承和の遣唐使までは、遣唐使が「唐消息」をもたらし、それによって唐の情勢が朝廷に伝えられていた(49)。しかし、遣唐使の派遣が間遠になっていた道真の時代には、中瓘のような在唐僧や頻繁に日本を訪れる唐商人によって、唐に関する情報が伝達されるようになっていた。
このような情報のあり方の変化の背景には、当時の国際関係の変化がある。安史の乱以降、唐は節度使の勢力伸張や異民族の圧迫などから国力が衰微し、唐を中心とした国際関係の秩序も乱れてくる。その間隙をついて、新羅商人や唐商人の活躍が目立ってくるようになり、日本にも来朝するようになる。中瓘のような僧も彼ら商人の手によって入唐していたのである(50)。
こうして遣唐使が派遣されなくとも、唐の情報や文物が入手できる状況になってきていたことから、道真による遣唐使派遣再考要請がなくとも遣唐使は自然に消滅していくことになったと考えられるのである(51)。
遣唐使が停止されることになった外的要因については以上のように考えられるのであるが、この他に内的要因もあったと考えられる。唐の求心力の低下によって、周辺諸国においては、独自の文化が開花するようになっていく(52)。日本においては、前述したように、平安初期に唐風文化が花開いたが、そこにおいて作られた漢詩は中国と同じ詩題であり、日本の風景を中国の風景に見立てて詠んだもので、中国に対する憧憬にあふれたものであった。その後、日本の漢詩文は大きな転換期を迎える。承和年間の『白氏文集』の受容である(53)。白居易の漢詩文の平易さが日本でも受け入れやすかったということもあり、『白氏文集』の受容を通じて、日本人は中国の事物ではなく、自らの周囲にある事物や生活における感情を詠むことができるようになったのである(54)。日本独自の漢詩文の誕生と言えるだろう。その代表的な漢詩文作者が菅原道真である。
日本が中国に求めるものも変化した。前述したが、延暦の遣唐使から文章生出身者がみえてくるのだが、寛平の遣唐使にいたっては大使の菅原道真も副使の紀長谷雄も文章生出身であったことは象徴的である。国家の支配理念である儒教から文章へと、中国に対して求めるものは変化した。そして日本独自の漢詩文の成立により、平安初期のような、できるだけ中国のものにちかづけようとする単純な中国への憧憬は消滅したのではないだろうか。一方で唐商人らの活躍によって、日本にいても中国の文物を入手できる環境が出来上がりつつあった。こうして、どうしても中国に行かなければならない、遣唐使を派遣しなければならないということはなくなったのである(55)。 
むすびにかえて
古代日本にとって中国は政治的にも文化的にも国際関係の中心的存在であり、認識せざるを得ない相手であった。いかに中国に対応するかということが、古代日本にとっては重要な課題であった。中国への対応は、中国認識に基づいているわけだが、古代日本が中国にどのように対応したかについては史料が残されているが、中国をどのように認識していたかについては、特に個人についての史料はほとんどないと言ってもよい。そのため、本稿においては中国認識というより、中国に対する対応について記述することになってしまった。その点をお断りしておきたい。全体的にみると、古代日本にとって絶対的な存在であった中国が、唐帝国の衰退を機に国際関係が変化したことによって、相対的な存在に変化していったと言えるのではないだろうか。その間、古代日本が中国の諸制度や文化を受容し、自らの国制や文化の基盤を築いたことも、中国の相対化を進めることになったと考えられる。こうして、菅原道真以降平安時代中期に、前近代を通じた日本の中国認識の枠組みが成立したことを指摘して考察を終わることにしたい。 

(1)吉田孝『律令国家と古代の社会』(岩波書店、1983年)、義江明子『日本古代の氏の構造』(吉川弘文館、1986年)。
(2)『令集解』公式令1条「古記」。唐を蕃国とする史料として、令以外に『続日本紀』慶雲元年11月丙申条、同4年5月壬子条などがあげられる。一方、唐を中華とする史料としては、弁正の漢詩「戎蕃預国親」(『懐風藻』26番)、菅原清公の漢詩「我是東蕃客、懐恩入聖唐」(『凌雲集』72番)、『入唐求法巡礼行記』において円仁が唐の官司に提出した文書などがあげられる。
(3)石母田正『日本古代国家論』第一部(岩波書店、1973年)
(4)西嶋定生『中国古代国家と東アジア世界』(東京大学出版会、1983年)。
(5)『三国志』魏書・東夷伝・倭人条
(6)『宋書』倭国伝、倭王武上表文
(7)『隋書』倭国伝では600年のこととする。
(8)『日本書紀』推古16年(608)条。
(9)吉田孝『日本の誕生』(岩波新書、1997年)。
(10)『日本書紀』推古31年7月条。
(11)遣唐使については、石井正敏「外交関係」(池田温編『唐と日本』吉川弘文館、1992年)、東野治之『遣唐使船ー東アジアのなかで』(朝日新聞社、1999年)、同『遣唐使』(岩波新書、2007年)、古瀬奈津子『遣唐使の見た中国』(吉川弘文館、2003年)など参照。
(12)『日本後紀』延暦24年6月乙巳条。
(13)『開元礼』巻79賓礼、巻80賓礼。
(14)東野治之『遣唐使船ー東アジアのなかで』(朝日新聞社、1999年)
(15)同上
(16)『入唐求法巡礼行記』開成4年(承和6年)2月26日条。
(17)『続日本紀』養老2年正月己亥条。
(18)『開元礼』巻95皇帝元正冬至受皇太子朝賀、巻97皇帝元正冬至受群臣朝賀并会。
(19)古瀬奈津子『遣唐使の見た中国』(吉川弘文館、2003年)。
(20)東野治之『遣唐使船ー東アジアのなかで』(朝日新聞社、1999年)、同『遣唐使』(岩波新書、2007年)、
(21)『続日本紀』文武4年6月甲午条など。
(22)『続日本紀』神護景雲3年10月癸亥条、天平7年5月壬戌条。
(23)東野治之「奈良時代遣唐使の文化的役割」(『遣唐使と正倉院』岩波書店、1992年、初発表は1979年)。
(24)『続日本紀』天平7年4月辛亥条。
(25)真備の釈奠整備については、弥永貞三「古代の釈奠について」(『日本古代の政治と史料』高科書店、1989年、初発表は1972年)参照。
(26)藤原仲麻呂については、岸俊男『藤原仲麻呂』(吉川弘文館、1973年)。
(27)大津透「天皇制唐風化の画期」(『古代の天皇制』岩波書店、1999年、初発表は1992年」)。
(28)『続日本紀』天平宝字2年12月戊申条、同3年正月丁酉条。
(29)『続日本紀』天平宝字3年10月辛亥条。
(30)古瀬奈津子「儀式における唐礼の継受」「唐礼継受に関する覚書」(『日本古代王権と儀式』吉川弘文館、1998年、初発表は1992年、1991年)。
(31)『続日本紀』延暦4年11月壬寅条、同6年11月甲寅条。
(32)神亀5年勅の復原は、古藤真平「文章得業生試の成立」(『史林』74−2、1991年)による。
(33)『日本後紀』大同元年6月10日勅、同弘仁3年5月戊寅条、『類聚三代格』巻7所収天長元年8月20日太政官符。
(34)海野よし美・大津透「勧学院小考ー平安初期の氏の統合ー」(『山梨大学教育学部研究報告』42、1991年)。
(35)弥永貞三「仁和二年の内宴」(『日本古代の政治と史料』高科書店、1988年、初発表は1962年)、玉井力「承和の変について」(『歴史学研究』286、1964年)。
(36)古瀬奈津子「令外官と皇帝・天皇権力」(『日本古代王権と儀式』吉川弘文館、1998年)。
(37)小島憲之『古今集以前』(塙書房、1976年)、同『国風暗黒時代の文学』中(中)・中(下)TU・下Tなど(塙書房、1979年〜1991年)。
(38)藤原克己「嵯峨朝の漢文学」(『菅原道真と平安朝漢文学』東京大学出版会、2001年)、同『菅原道真ー詩人の運命ー』(ウェッジ、2002年)。
(39)石井正敏「いわゆる遣唐使の停止についてー『日本紀略』停止記事の検討ー」(『中央大学文学部紀要』史学科35号、1990年)、森公章「菅原道真と寛平度の遣唐使計画」(『続日本紀研究』362、2006年)、東野治之『遣唐使』(岩波新書、2007年)。
(40)『日本紀略』『扶桑略記』
(41)鈴木靖民「遣唐使の停止に関する基礎的研究」(『古代対外関係史の研究』吉川弘文館、1985年、初発表は1975年)。
(42)郁賢皓『唐刺史考全編』4(安徽大学出版社、2000年)
(43)山崎覚士「唐末杭州における都市勢力の形成と地域編成」(『都市文化研究)』7、2006年)。
(44)『新唐書』劉漢宏伝、『呉越備史』巻1武粛王。
(45)山崎覚士註(43)前掲論文。
(46)東野治之『遣唐使』(岩波新書、2007年)。
(47)『日本三代実録』
(48)『日本紀略』『扶桑略記』
(49)東野治之「遣唐使と海外情報」(『遣唐使船ー東アジアのなかで』(朝日新聞社、1999年)、山内晋次「遣唐使と国際情報」(『奈良平安期の日本とアジア』吉川弘文館、2003年、初発表は1994年)。
(50)石上英一「古代東アジア地域と日本」(『日本の社会史』1、岩波書店、1987年)、同「古代国家と対外関係」(『講座日本歴史2古代2』東京大学出版会、1984年)、東野治之『遣唐使』(岩波新書、2007年)。
(51)東野治之『遣唐使』(岩波新書、2007年)。
(52)吉田孝『日本の誕生』(岩波新書、1997年)。
(53)小島憲之『古今集以前』(塙書房、1976年)、藤原克己「転換期としての承和期」(『菅原道真と平安朝漢文学』東京大学出版会、2001年)。
(54)藤原克己「転換期としての承和期」(『菅原道真と平安朝漢文学』東京大学出版会、2001年)。同『菅原道真ー詩人の運命ー』(ウェッジ、2002年)。
(55)東野治之『遣唐使』(岩波新書、2007年)。 
 
江戸期日本の中国認識

 

はじめに
本節では、江戸期日本の知識人達が中国をどのように見ていたかを彼らの言説を通して考察する。
江戸幕府は17 世紀の前半をかけて所謂「鎖国」体制を完成させる。近年の日本史研究では「鎖国」概念の再検討が進み、鎖国をキリスト教布教禁止を目的とした宗教政策として見るよりは、明朝・李朝朝鮮でとられた「海禁政策」の一形態として捉えるのが学界の共通理解となってきた。すなわちその実態は、対外世界との遮断ではなく、幕府の貿易独占と出入国規制であったする見方である1。事実、近世の日本は完全な閉鎖状態にあったわけではなく、長崎、薩摩、対馬、松前の四つの窓口を設けて、それぞれオランダ・中国、琉球、朝鮮、蝦夷との交易圏を確保していた。「鎖国」という閉鎖的なイメージをはるかに超えて、「四つの口」を通して海外から多くの物や情報がもたらされ、人の交流も絶えることはなかった。
しかしそれにしても、国外渡航は禁じられており、中国を直に見聞した者は、漂流民2を除いては皆無であったろう。この意味で江戸時代の中国認識は主に書籍や情報というフィルターを通して醸成されたものであった。従って本節では、そういった書籍・情報を媒介とした<想像上の中国>や<中国の象徴(例えば儒教)>に関する、江戸期知識人達の言説の変遷を追うことを課題とする。
(1)では、華夷観念を江戸期日本の儒者達がどのように受け止めたかを検討する。聖人の教えでは中国と日本とは当然に「華」と「夷」との関係にある。日本の儒者達は儒教を奉じながらも、この関係性をそのまま受け容れることには心理的に抵抗があった。そこから華夷観念についての様々な対応・解釈が試みられる。それらが17 世紀から18 世紀前半にかけて出揃うので、この時期の問題としてそれらを類型化して整理する。
(2)と(3)では、江戸時代を通じて聖人の教えを最も深く理解しようとした荻生徂徠と、逆に聖人の教えに最も激しい反感を示した国学者(主に本居宣長)を考察の対象とする。徂徠は太古中国の「先王の道」を人類の普遍的な文化規範と見なし、それを明らかにしようとした。他方、宣長はこれに対するに上古日本の「神々の事跡」が「道」であるとして、これを明らかにしようとした。両者、好対照をなす。しかし徂徠は他者としての中国を通して日本を外から眺め、宣長は内なる日本を掘り下げたその先に外なる中国の他者性を垣間見ていたとも言えよう。端的に言えば、徂徠は中国認識を通して日本を、宣長は日本認識を通して中国をと、両者共に中国と日本との関係性の中で思索を深めていったのである。
(4)では、江戸後期から幕末期にかけて、西洋世界の登場によって、日本の中国への認識や位置付けがいかに変化したかを検討する。洋学者の西洋認識はそれまでの華夷観念に大きな地殻変動をもたらすこととなったので、これを中心に考察する。 
(1) 「華夷」思想への対応と変容――17 世紀〜18 世紀前期――
江戸中期の儒者、荻生徂徠(1667-1728)は嘗てこう述べた。遙か昔、「吾が東方の邦」は無知蒙昧な状態にあった。そこに王仁が文字を伝え、吉備真備が経典を伝え、菅原道真が出て文章学問の道が開け、さらに藤原惺窩が出てから後、人々は「天」や「聖」(聖人)についても論ずるようになった。この「四君子」は世々に学宮に祀っても良いくらいだ3、と。徂徠は文明の国、中国から漢字、書籍、学問が伝わり、それを学び消化することによって始めて日本は文化的に開けてきた、と観る。そして徂徠は、世界と人間とを統一的に理解する、思想としての儒学の日本における受容と展開の出発点に藤原惺窩を位置づけた。
藤原惺窩(1561-1619)は1590 年に朝鮮からの使者達とまみえた。彼らとの筆談や詩文の応酬はそれまで儒仏一致的な伝統の中で思想を形成してきた惺窩に衝撃を与え、彼を儒学に向かわせる機縁となった。惺窩は儒教とそれを生み出した中国に対する憧憬の思いが募り、1596 年に「大明国へ渡ラント欲シテ」4出帆した。しかし舟は難破し鬼界ヶ島に漂着、望みは潰えた。その二年後に惺窩は姜と出会い、彼との濃密な交流が始まる。姜は豊臣秀吉による朝鮮侵略の時の捕虜で、李氏朝鮮の朱子学者である。惺窩は姜の向こうに明国を思い描いたに違いない。惺窩は姜を通して先進の学問、朱子学を吸収していった。
姜は捕らわれの身でありながらも、衣冠を正し、端座して読書・綴字に勤しむ「読書人」に典型の生き方を通した5。惺窩はそういった姜の日々の生活を目の当たりにして感銘を受けた。己を厳しく律し、「天理」を現実生活の中に貫徹させてゆく、儒者という新しいタイプの人間の在り方をそこに見たからである。惺窩は姜から釈奠の儀礼、科挙の制度、経筵講義等々の儒教文化について教えを受け、また姜に助けられて四書五経の訓点を朱子の註によって刊行せんとした。
惺窩は中国を思慕し、「ああ、中国に生れず、またこの邦の上世に生れずして当世に生まれる。時に遇はずと謂ふべし」6と嘆いたという。門人林羅山は「先生、常に中華の風を慕ひ、その文物を見んと欲す」と伝えている7。惺窩は1593 年に明国からの講和使、謝用梓・徐一貫と会見しているが、その時の質疑草稿には彼の明国観がよく窺える。そこでは「大明ハ昔日聖賢ノ出ズル国ナリ。予ヲ以テ之ヲ想像スルニ、文武兼ネ備へ知勇双ビ全シ。
朝鮮モ亦、其ノ風ヲ慕ヒ、其ノ命ヲ奉ズル国ナリ」8、と「聖賢」を輩出した「大明」への賛辞が綴られている。その賛辞は外交儀礼にとどまるものではなかった。「語脈通ぜず、礼容同じからず」で、壁はあるものの、「四方に使いして君命を辱めざる」使者への敬意を惺窩は表している。使者への労を労って贈ったかと思われる詩には、「四海は一家、遠方に非ず、大明の高客、忽ち梯航す。言うを休めよ語韻の翻還に苦しむと。中に賞音、故郷に同じき有り」9との感慨が詠まれている。ここで注目しておきたいのは、惺窩の「四海」意識である。彼は日中両国の言語や文化の相違を認めつつ、それを「四海」意識を持って越えようとする。
彼は「理」の概念を宋明儒学から学び取り、その普遍性を信じた。朱印船貿易に携わっていた角倉素庵(1571-1632)に与えた「舟中規約」に言う。
異域の我が国における、風俗言語異なりと雖も、其天賦の理は未だ嘗て同じからずんばあらず。其の同を忘れて其の異を怪しみ、少しも詐欺慢罵することなかれ国によって風俗言語は異なっても、天から賦与された「理」(「天賦の理」)は人間社会に共通にある。そのことを忘れ、自分達の言語風俗と違うからといって他を軽蔑したり罵ったりしては決してならない、というのである。惺窩は国々の風俗言語の「異」を認めつつも、それを越えた「同」、すなわち人間の普遍性・同一性を信じ、それに目を向けよ、と言う。惺窩のこの「同」の主張は、自分への同化を他者に強いるものではない。彼が「同」を強調するのは、「理」の普遍性を確信して、それに基づいた他者との対等な交流を願っているからである。
理の在るや天の幬はざる無きが如く、地の載せざる無きに似たり。此の邦も亦然り。朝鮮も亦然り。安南も亦然り。中国も亦然り。東海の東、西海の西、此の言は合ひ、此の理は同じ。南北も亦然るが若し。是豈に至公・至大・至正・至明に非ずや。若し之を私する者有れば、我は信ぜざるなり也11「理」は普遍的であり、これを「私する者」を自分は認めないという強い主張、ここには日本、朝鮮、安南、中国といった国の異なりを越えた人類同胞への志向が窺える。彼は朱子学の「理」の観念を林羅山のように差別を根拠づける原理(「上下定分の理」)としてではなく、平等性の原理として捉え、その普遍思想としての可能性をぎりぎりまで突き詰めていった12、と言えよう。惺窩は中国を敬慕しつつも、国と国との関係を尊卑・優劣をもって見る華夷的発想から自由であった。残念ながら惺窩のように考える儒者はごく希で、多くの儒者が華夷観念に囚われた。
中国歴代王朝が東アジア諸国にとった対外政策を「冊封体制」という。周辺諸国は中国に「朝貢」し、その「回賜」(返礼)として「冊書」(皇帝の命令書)と「封爵」(王号・統治権)が授けられる。ここに宗主国と藩属国という関係が成立する。この冊封体制を支えるイデオロギーが華夷思想である。すなわち中国は天下の中央に位置する文明国家(「中華」)であり、四方の野蛮な国や民族(東夷・西戎・南蛮・北狄)は中国から「礼」(文化)を教えられてこそ、文明化されるとする考え方である。この華夷秩序の観念は儒教とセットとなって、ベトナム、朝鮮、日本においても流通した。江戸日本の儒者達にとって、聖人の教えによって「東夷」と目される自国をどのように受け止め、華夷の概念をいかに解釈するかは深刻な問題であった。ここから様々な言説が生まれてくる。17 世紀から18 世紀前期までを一応の射程において、先行研究を踏まえて13、それらの言説を以下に類型化してみよう。 
1華夷を固定的実態概念として捉える言説
華夷の区別が礼の有無によるならば、論理上は「夷」であろうと礼を備えれば「華」となり得る。山崎闇斎(1618-1682)の弟子で朱子学を厳密に理解する佐藤直方(1650-1719)はそのような考え方を真っ向から否定して、「中国夷狄ト定リタルハ地形ヲ以テ云、風俗善悪デ云ハヌナリ」14と言う。つまり、「中国夷狄ノ分」は「道ハ行レフト行ハレマイト、中国ト云ハ是カラ爰ト一定」したものである。「正統」性を論証するのに「義不義、徳不徳の吟味は入らぬ」のと同じで、中国は中国、夷狄は夷狄で、これ以上に明白なことはない。
自国を中国、他国を夷狄、と呼ぶべきとの説もあるが、これは自国贔屓による華夷概念の私的な解釈にすぎない。「中国夷狄ト云ハ根本聖人ノ立言」である以上、いやしくも儒者を以て任ずる者は、これをそのまま受け入れよ、と直方は言うのである。このような原理主義的な思考を取る儒者は少なかった。多くの儒者は以下に示すように、華夷概念に様々な解釈を試みた。 
2華夷思想の枠組みの中で「東夷」日本の優秀さを主張する言説
熊沢蕃山(1619-1961)は華夷秩序を前提とした上で、精一杯日本を主張する。中国は「天地の中央」にあって中華である。その周りに東夷・西戎・南蛮・北狄が位置する。その四夷の中では「東夷」(「朝鮮・琉球・日本)が優れている。なぜならここでは文字が通じるからである。「東夷」の中でも日本が一番優れている。それはなぜか。それは天照大神と神武帝の「徳」によるからである15、と蕃山は「神」を持ち出して、日本の地位の浮上をはかる。
林羅山(1583-1657)・林鵞峰(1618-1680)・中江藤樹(1608-1648)・熊沢蕃山・木下順庵(1621-1698)らは日本の天皇の祖先を呉の太伯とする皇祖太伯説に肯定的であったが、その裏には日本が「東夷」であることを認めた上で、日本建国のルーツを中国に求めることによって、日本の劣位性を薄める気持ちがあったと解することもできる16。
長崎の天文歴算家で『華夷通商考』の著者西川如見(1648-1724)も中心軸を中国に置きつつも、日本は「万国の東頭にありて、朝暘始めて照らすの地で、陽気発生の最初」17であるが故に、他国に優ると説いた。すなわち如見は『易』や風水説、陰陽五行説を動員して、「東」を生命発生の地として特別視し18、そこに位置する「日本」の卓越性を導きだそうとするのである。如見の場合は地理認識が「地球万国」規模に拡大しており、「唐土は、天地万国に対しては、百分が一にも及ぶべからず」と、中国の相対化がかなり進んでいる。 
3自国を「中国」とする言説
山崎闇斎の弟子の浅見絅斎(1652-1711)は同門の佐藤直方と対立し、「唐ヲ中国トシ其ノ外ヲ夷狄トシテイヤシムコト」は全く「理」の通らないことだと主張する。自分が生まれた国を「主」とし、他国を「客」と見るのが「実理当然」である。故に「唐ノマネ」をする必要はない。「内外賓主ノ弁」からすれば、「日本ヲ中国トシ、異国ヲ夷狄トスル」のが「筋」である。嘗て山崎闇斎先生は、堯舜文武が「唐ヨリ日本ヲ従ヘント」と攻めてきたら、武器をとって戦うのが「大義」であり、「徳化ヲ以テシタガエントスルトモ、臣下トナラヌ」のが「春秋ノ道」だと語ったが、ここに義理は明白である19。絅斎のこの主張は直方と鋭く対立するかに見えるが、華夷の別は「徳」の如何に関わりがないと考える点では同じである。両者とも中心を中国におくか、日本におくかの違いで、華夷の概念を実態的に捉えている点では共通している。
このような日本を中心とし他を周縁とする日本中心型の華夷思想は、徳川光圀にも見られるが20、山鹿素行の場合がよく知られている。素行は歴史書『中朝事実』(1669 年成立)を著している。書名の「中朝」は日本を意味する。素行の主張はどこの国でも自分が住んでいるところを「中国」と呼んで然るべきだといった、いわば謙虚な自国中心主義に止まらない。素行には中国に代わって日本を中心に世界秩序を編成してゆこうとする考え方が窺える。自国を中心とする思考法はどこの国でも見られよう。問題は自国の中心性を何をもって論証するかである。朝鮮にも「小中華意識」といわれる朝鮮型のそれがあった。すなわち、明朝が北狄に滅ぼされてしまった今、儒教文化を正しく継承している朝鮮こそが「中華」であるとする意識である。しかし日本の場合、朝鮮のように習俗のレベルまで深く儒教の礼文化が根付いているわけではない。そこで素行は日本の優秀性の根拠に、「神」の建国とその血統による統治の永続性、そして「武」による支配の事実を挙げる。素行にとって、日本は「武教」国家であり、そのことが日本を他に対して屹立させて所以であり、「礼教」もこの「武教」に包摂されるべきものであった。 
4華夷を変動的機能概念として捉える言説
対馬藩に仕え日本と朝鮮との外交に大きな足跡を残した雨森芳洲(1668-1755)は、国の尊卑はその国の道徳性如何にあると説いた。「国の尊きと卑しきとは、君子小人の多きと少きと、風俗の善悪とにこそ因るべき。中国に生まれたりとて、誇るべきにもあらず、又夷狄に生れたりとて、恥ずべきにしもあらず」21。このような考え方をより鮮明に打ち出したのが太宰春台である。春台は偏に礼文化の有無が「中華」と「夷狄」とを分かつメルクマールであるとして次のように言う。
四夷ヲ狄ト名付テ、中華ヨリ賎シムルハ、礼儀ナキ故也、中華ノ人ニテモ、礼儀ナレケバ夷狄ト同ジ、四夷ノ人ニテモ、礼儀アレバ中華ノ人ニ異ナラズ。22「礼儀」の有無によって、「華」「夷」の関係は所を変えて変動するというのである。
これは「中華」という用語を地理概念としてではなく、「礼儀」を表象する文化概念として解する見方である。その国において「礼儀」が機能しているところはどこでも「中華」たり得るというのであるから、これは民族や地理といった固定的な規定を越えた、ある意味での普遍性を志向した考え方であると言えよう。 
5華夷の弁を無用とする言説
伊藤仁斎(1627-1705)は、「華夷の弁を厳しくするは、大いに聖人の旨を失せり」23と言い、その長男東涯(1670-1736)はより明確に「聖人に華夷の弁無し」24と、華夷の弁を無用とする25。東涯は言う。古来日本は中国からの制度・文化を受け入れながら、国の制度を整えてきた。だとすれば、儒教は「異方の習い」で「我が邦」に適さないとする考えも、逆に儒教を信奉する余りに「中夏は文明の地、礼楽の在る所、本邦夷服に僻処し、簡陋文無く」と日本を卑下する考えも、いずれも間違いである26、と。東涯は華夷の弁を喧しく論じるのを無意味とし、「本朝の制」の「其の由所」、すなわち中国歴代のゥ制度とその沿革についての学問的講究に努めた。その見事な成果が『制度通』(1724 成立)である。
以上の2から4の類型が示すように、17 世紀から18 世紀前半にかけて、華夷秩序的発想を受容しつつも、それに解釈を加えて中国に対する日本の地位の相対的浮上をはかる言説が展開された。そういった言説が強く押し出されて来る背景には、1644 年の明清交替という事態が大きく与っていた。江戸幕府に仕えた儒者林鵞峰はこれを「華夷変態」と呼んだ(村井報告第二章)。清朝は夷狄が中国に居座ったものとする見方は儒者に限らずかなりの層にまで広まった。近松門左衛門(1653-1724)は明の忠臣「鄭芝龍」を父とし、日本人「小むつ」を母とする混血児「和藤内」(鄭成功がモデル)を大陸に雄飛させ、「韃靼」を退治するという芝居、『国性爺合戦』を上演して大成功を収める。この劇で近松は「大明国」を「孔孟教をたれ給ひ五常五倫の道」が今に盛んな国とし、「韃靼国」を「道もなく法もなく・u12539 .畜類同然の北狄、俗よんで畜生国」27と描いている。明から清への交替は確かに江戸知識人達の中国へのイメージを低下させた。しかし、18 世紀前期頃までの日本の知識人層にとっては、中国文明は依然として上位にあり、日本を自己主張するにしても、その言説は「いわば中国文明の傘の下」にあった28。
18 世紀中頃なると、中国古典への理解が一層深まり、中国古代へ回帰せんとする言説が出てくる一方、他方ではそれに刺激されつつ逆に「中国文明の傘の下」から脱却して礼文化そのものを激しく排斥せんとする言説が登場してくる。すなわち、前者が徂徠学であり、後者が国学である。そこで、次に項をあらためこれら二つ言説に見られる中国観を検討する。 
(2) 荻生徂徠一門の中国認識―― 中国憧憬・18 世紀中葉――
A 徂徠の中国憧憬
江戸時代を通じて、中国太古文明への憧れが誰にも増して強く、中国を最も深く理解せんと努めたのは荻生徂徠であったであろう。「東海は聖人を出さず、西海は聖人を出さず」29、東海、すなわち中国から見て東の日本からも、西の国々からも聖人は出現しなかった、と徂徠はいう。
徂徠によれば「聖人」とは、宋学で説かれるような道徳的人格者の意ではなく、「道」(「礼楽刑政」)の制作者の意である。「道」は「自然」にあのではなく、「聖人」によって作られた。それ故に「聖人の道」というのである。人間は鳥獣と違って、制度・作法・儀礼を設けて人間関係を調整し、詩や音楽といった適切な仕方で感情を表現する。そういった人間の文化的な営みを成り立たせているシステムの総称が「道」である。先ず伏羲、神農、黄帝によって「利用厚生の道」が作られ、顓頊、帝嚳を経て、更に堯、舜によって真に精神文化的な「礼楽の道」が完備されたのであり、「道」とはこれら諸聖人の制作的努力の結晶である、と徂徠は考えた。つまり、鳥獣同然の暮らしをしていた人類に文明をもたらした偉大な創造者、それが徂徠の言う「聖人」である。
太宰春台(1680-1747)は師のこの説を一層先鋭化させ、殊更に次のように説いた。聖人の教えが伝わる以前の日本では、「神代より人皇四十代頃までは、天子も兄弟叔姪夫婦になり給ひ候」、すなわち近親婚が畜類同然に行われていた。それは記紀に明らかである。
日本人がそれを恥ずべき行為と思うようになったのは聖人の教えがもたらされたからである。
中華の聖人の道此国に行はれて、天下の万事皆中華を学び候。それより此国の人礼義を知り、人倫の道を覚悟して、禽獣の行ひをなさず、今の世の賤き事までも、礼義に背く者を見ては畜類の如くに思ひ候は、聖人の教の及べるにて候30「中華の聖人の道」が伝えられて始めて、日本は文明に浴し、人々は「礼義」の何たるかを知るようになった。春台の歯に衣着せぬこの発言は国学者の神経を逆撫でし、多くの反発を招いた。さすがに徂徠はここまで挑発することはない。しかし、これは徂徠の聖人制作説の論理が行き着く先の言説であった。
徂徠にとって中国は文明発祥の地であり、「天下」の中心であり、それ故に憧憬の対象であった。徂徠は著作のここかしこで中国文明の優越性を説き、その文物を愛好した。「凡そ百工の巧は中華を精となす」31との信念を有する徂徠は、長崎の玄界上人からもらった香炉、筆、墨、紙が「皆な中華の物」であったのを感謝し、これ以上に愛でるべきものはないと珍重した32。中国趣味は生活の隅々にまで徹底され33、文具は「唐紙唐筆ニテナケレバ物書カレヌ」程であったし、書画もその評価基準は中国風への接近度如何であり、日本くささを「和習」として嫌った。
文物だけではなかった。中国の風景にも徂徠は熱い想いを馳せた。1707 年、黄檗山万福寺八代の唐僧悦峰と芝の瑞聖寺で会見した折、徂徠は西湖の景色について白話で尋ねている34。白居易や蘇軾が愛でた風光明媚な西湖は、日本人にとっても憧れの地であった35。
その美しい風景は好んで画題に取り上げられ、早くは室町時代に雪舟(1420-1506)や狩野元信(1476-1559)が、江戸時代には狩野探幽(1602-1674)らが絵筆をとった。渡明した雪舟を除いて、画家達は見たこともない西湖の風景や中国の情景をどのようにイメージして描いたのであろうか。それには見本があった。明末清初に出版され、日本に舶載された『三才図絵』『芥子園画伝』『八種画譜』といった木版画がそれである。狩野派の絵師達や南画の画家達はこれらの画譜からイマジネーションを膨らませて、幻想の中国を造形していった36。徂徠も彼が愛好した唐詩からのイメージに加えて、こうした画譜37やそれをもとにして絵師が描いた作品を通して、西湖をはじめとした中国の風景に心を躍らせたに相違ない。徂徠の中国への旺盛な好奇心は尽きることなく、悦峰との話題は中国での桜の有無、詩の規則、寺院での礼法、音韻の問題へと次々と展開してゆく。
中国の「聖人の道」を基準にした徂徠にとって、日本の「侍ノ道」はどう評価されるのか。日本には「侍道」があるではないか、なぜわざわざ「儒道」を学ぶ必要があるのか、そのような問いに自ら答えて徂徠は言う。
儒道ハ勿論侍ノ道ナレド、中華ニハ聖人ト云人ガ出タリ、日本ハ聖人ナキ国ユヘ、ソノ侍道ガ武ノ一方へ偏ナル処アルゾ38もとより「儒道」は「侍ノ道」である。ところが日本は「聖人」を輩出しなかったが為に、侍は「詩書礼楽」といった文化的教養を身につけることなく、武一辺倒に偏った。当世「武士道」と称しているものは「大形ハ戦国ノ風俗」に過ぎない。「聖人ノ道ノ外ニ、別ニ国土相応ノ武士道アルトイヘル」39は大間違いである。武将・侍は中国をモデルとした「士大夫」「士」へと君子化されるべきある。それ故に、侍たる者は経書を学ぶべし、と徂徠は説いた。しかし、経書を学んで科挙にパスすれば誰もが高級官僚への道が約束される中国や朝鮮の場合と違って、科挙なき日本で侍に経書の学習をいくら督励しても、その動機付けに欠けるものがあった。八代将軍徳川吉宗は学問を幕臣達に奨励すべく、大学頭林信篤と儒官室鳩巣らにそれぞれ昌平坂の聖堂と八重洲河岸の高倉屋敷で開講するように命じた。しかし「御旗本ノ武士ニキク人絶エテナシ」40というありさまであった。所詮、学問は「芸事」に留まった。しかしその分、自由度は増した41。
中国文化の優秀性、それは言語表現においても証される、と徂徠は言う。中国語は一文一語に多くの意味情報が凝縮された簡潔かつ濃密な言語で(「密」)、「夷」のそれは粗く間延びした言語(「疎」)だと、徂徠は見る。
中国ノ詞ハ文ナリ、夷ハ質ナリ、中国ノ詞ハ密ナリ、夷ハ疎ナリ42この認識に基づいて徂徠は古文辞学を提唱し、弟子達にも中国語の学習を課した。この徂徠の説を世人が「喜ンデ習フ」さまは「信ニ狂スルガ如シ」で、享保年間(1716-1735)に徂徠学は江戸の知的世界を「一世を風靡」するに至る。 
B 古文辞の学習と黄檗宗
徂徠は中国古代の「聖人の道」を明らかにする為の学問方法として、古文辞学を提唱した。それは概ね次のような主張を含む。「聖人の道」は「六経」に遺されているから、「六経」を学ぶことが大前提である。しかし「六経」は中国古代の修辞的な言葉、すなわち「古文辞」で記されているので、「古文辞」の習得を必須とする。古文辞の習得にあたっては、古典の読解だけではなく、自分も古典の言葉で述作する必要がある。そのことを気づかせてくれたのが明の李攀龍・王世貞である。彼らは擬古主義的な文学論を首唱し、古人が使用した句や表現を模倣し綴り合わせて詩文を作れと説いた。徂徠はこの方法を知り、これを更に発展させて、詩文だけではなく経典を理解する為の学問方法として一般化したのである。
徂徠の古文辞学提唱は後世の注釈・解釈を排して原典そのものに立ち返って、その意義を正しく把握せんとするものであり、この点では伊藤仁斎が先に唱えていた「古義学」と共通する面がある。しかし、徂徠はこの原典主義を更に徹底し、従来の訓読式の漢文読書法を排して、中国語の構文のままに直読し理解すべきことを主張した。なぜなら漢文訓読では文意は得られても、文全体が含蓄する事実の豊かさは漏れ落ちてしまうからである。
徂徠は外国語を外国語の構文のままに処理できるような、母国語とは別のもう一つの言語回路網の形成を要請しているのである。徂徠のこの主張は重要である。訓読は中国語への、強いては中国への真の理解を遠ざけてしまう。「此の方には自ら此の方の言語有り、中華には自ら中華の言語有り。体質本より殊な」43っていることを明確に自覚する必要がある。
漢文を日本語に回収して分かったような気になるのではなく、漢文はどこまでも中国語であると認識し、その他者性に自覚的であれ、と徂徠は言うのである。
かくして徂徠の塾、「蘐園」では漢文は訓読されず、直読された。しかし直読するには「唐音」を知る必要がある。そこで彼らは長崎出身の唐通事達から中国語の日常会話を学んだ。鞍岡元昌(蘇山)、中野ヒ謙(1667-1720)、岡島冠山(1674-1728)らが蘐園一門における唐話の師匠格であった。中でも冠山は徂徠が主宰した訳社の訳士として聘せられた。
冠山は『唐話類纂』『唐話纂要』等々の語学教科書を編著している。『唐話類纂』の巻頭には徂徠、安藤東野、太宰春台が名を連ねており、徂徠一門との関係の深さが窺える。また彼は『水滸伝』の日本での最初の翻訳書『通俗忠義水滸伝』の訳者とも目されており、羅貫中の『三国志演義』にならい『太平記』を中国の白話小説風に仕立てた『太平記演義』も上梓している。
徂徠一門の中国語学習熱と中国文化への傾倒に関して言えば、黄檗宗との関係も注目される。長崎には興福寺・福済寺・崇福寺の唐三ヵ寺が長崎在住の唐商人達によって創建されていた。興福寺の逸然は四代将軍徳川家綱の委嘱を受け、福建省福洲の黄檗山万福寺の住持隠元隆g(1592-1673)の招請に成功する。1654 年、隠元は63 歳の高齢にもかかわらず、数十名の弟子や職人を従えて来朝した。その規模は8 世紀の鑑真渡来を上まわるものであったという。隠元は後水尾法皇や徳川幕閣の崇敬を得て、京都宇治の黄檗山万福寺の開祖となった。その後も黄檗僧の来朝は続き、黄檗宗は広まり、江戸では芝白銀台に紫雲山瑞聖寺が開かれた。1745 年には897 か寺の黄檗寺院を数えるにいたった44。黄檗寺院ではお経は唐音で読まれ、儀式作法も明風であった。万福寺山門内では中国語が飛び交っていたのか、「山門を出れば日本ぞ茶摘唄」(菊舎尼1753-1826)という句も残っている45。黄檗寺院は日本の中の「中国」であった。徂徠は「黄檗派ノ法事ハ日本ノ法事ト替リ、儀式見事ニ調テ、乱ルコト曾テ無。是亦異国ノ礼法ノ面影写シタル故如此」46と黄檗寺院での中国風の儀式を賛嘆する。徂徠一門は先に触れた悦峰をはじめ黄檗僧侶との親交が深く、徂徠一門の中国趣味は黄檗文化からの影響によるところ大であった。
徂徠一門では「吾が党の学者、睡中寐語と雖も、亦た顛倒せず」47と徂徠が豪語するように中国語が使用された。また自分の姓名を三文字にして、中国風に擬して呼び合った。
例えば徂徠は「物茂卿」、服部南郭は「服南郭」と称した。地名も、長崎は「崎陽」、山城は「洛陽」と中国風に呼称した。こうした徂徠一門の中国的スタイルへの傾倒ぶりは、傍目には気障な中国かぶれと映じた。「中国は人の人なり。夷狄は人の物なり。物は思ふこと能はず。ただ人のみ能く思ふ。中国の礼楽の邦たる、その能く思ふがための故なり」48といった徂徠の過激な言辞に出くわして憤慨する人もいた。徂徠が自らを「東夷の人」と称し、孔子の肖像への賛に「日本国夷人物茂卿」49と自署したことも、後世に物議を醸した。しかしこれら一連の言動は「和習」を排する為の不可欠の自覚的な行為として徂徠には観念されていたと思われる。それにしても、なぜ「和習」を脱することがかくも必要なのか。
徂徠は若い時、父親の江戸払いに従っての南総の片田舎で生活を余儀なくされた。父親が赦免され、十数年ぶり江戸に戻って来たところ、江戸城下がすっかり変貌しているのに驚き、江戸府内に住み続けていたならばその変化には気づかなかったであろう、とその著『政談』で述懐している。江戸という「曲輪」(囲い)から外に出たことによって、はじめて江戸がよく見えたのである。この経験は日本という「曲輪」の外から日本を見ることが必要であるとの自覚にもつながる。しかし鎖国のもと日本の外に出ることは不可能である。とすれば、日本にあって疑似的な中国を作り出せばよい。徂徠及びその一門の中国志向にはそういった意識がなかったとは言えない。
唐話学を武器とした徂徠一門は当時の日本における中国学の中心であった。徂徠は明の洪武帝が民衆教化の為に発布した『六諭衍義』を訳し50、また『明律国字解』を著した。
また徂徠の弟荻生観(北渓1670-17549)は将軍吉宗に仕え、『大明律』三十巻に校訂と句読点を施した(『官准刋行大明律』1723 刊)。そして『大明会典』『大清会典』等を用いて明朝と清朝の諸制度の比較をし、「華」の明がなぜ崩壊し、「夷」の清がなぜ勝利したかを客観的に理解しようとしている51。当時、中国のゥ制度に最も通暁していたのは、この北渓と『制度通』を著した伊藤東涯であったであろう。詩では服部南郭が『唐詩選国字解』を公刊し、これがベストセラーとなり、詩社が各地で結成され、文人趣味が江戸中期以降も広まる契機となった。
他者認識は同時に自己認識でもある。徂徠は中国に向けてきた視線を日本内部へと反転させる。すると中国では秦以降に消滅してしまった「聖人の道」が日本に残存していることが見えてくる。徂徠によれば、日本の雅楽は聖人が作った「楽」であり、日本の「神道」は周王朝以前の古い形態の「道」が日本に伝わって残ったものとされる。「天」「鬼神」へ敬虔な信仰、それに基づいた祭政一致を統治の基本とする「吾国の神道」は「唐虞三代の古道」に他ならない。「吾邦の道は、即ち夏商の道也」(『論語徴』)。また、中国では秦が「郡県を以て封建に代え、法律を以て礼楽に代え」、それ以後「聖人の道」は失われた52。ところが当代の徳川王朝は封建の治世であり、「聖人の道」に叶っている。中国では「聖人の道」が消滅してしまったが、日本ではここかしこに「聖人の道」が遺っている。ここにおいて中国の優越性を認めてきた徂徠が他方で「日本の優越」53をも説くこととなる。
三代よりして後は、中華と雖も亦た戎狄之れを猾る。古の中華に非ざる也。故に徒に中華の名を慕う者は、亦た非なり54。
夏・殷・周の「古の中華」と秦漢以後の中国との明確な切り分けが徂徠の中国認識の中で進むとともに、その中国憧憬は次第に「古の中華」に限られてくる。晩年の著作『政談』では秦漢以後の中国を一貫して「異国」と表現している。
それにしても、「古の中華」を価値の基準をとし、日本の神道はもともと「聖人の道」に由来するとの徂徠の学説は国学者達を痛く刺激し、彼らの激しい儒教批判の言説を呼び起こした。そこで次に国学の儒教批判の言説を見てみよう。 
(3)国学者の中国認識――「漢心」批判の言説・18 世紀後半――
賀茂真淵(1697-1769)は『国意考』で、「道」は聖人によって作られたものとする徂徠の説を逆手にとって、「皇御国」の「唐国」に対する優位を主張し、次のように説く。儒者は「から国の道」をもって「世の中を治めむ」とするが、一体それで天下が治まったことがあるのか。中国の歴史を見ればその実態は王朝簒奪の繰り返しではないか。「いやしげなる人もいでて君をころし、みづから帝といへば、世の人みなかうべをたれて、順ひつかへ」、それのみならず、「四方の国をばえびすなどいひて、いやしめ」ていたのに、「其夷てふ国」(清)が「から国の帝となれる時は、またぬかづきて、したがへり」という有様である。「儒の道こそ、其の国をみだす」ものである。また或る儒者(太宰春台をさすー小島注)は儒教伝来以前には「仁義礼智」という言葉がなかったことをもって日本にはその教えがなかったと説くが、それは浅薄な議論である。凡そ人に「いつくしみも、いかりも、理りも、さとりも、おのづから有る」のは当然で、日本は殊更に仰々しく名目を立てて教説化する必要がないほどに「天地の心のまま」に「久しく治」まっていたのである。
何事も「人の心もて、作れることは、違ふこと多ぞかし」。日本は「もとより、人の直き国」で、「天地の心のまにまに」治まり、「理りめきたること」はなかった。しかし儒教が伝わってからというもの、「天武の御時、大なる乱(壬申の乱ー小島注)」が起こり、奈良時代には衣冠調度など「唐めきて」、上辺だけ雅やかとなり、「よこしまの心」が多くなった。それ故、儒教流入以前の「我すべら御国の古への道」に復帰すべきである。
小賢しい人為の否定と大らかな自然への回帰、この真淵の主張に儒教への対抗思想としてあった老子の無為自然説との類似性を見て取ることができる。事実、真淵は「老子てふ人の、天地のまにまに、いはれしことこそ、天が下の道には叶ひ侍る」55と老子の説に共感している。「唐にては、万物の霊とかいひて、いと人を貴める」が、「凡天地の際に生とし生るものは、みな虫」である。人間はなまじい「智」を持ったが為に、「さまざまのあしき心」が出て、世も乱れた。「鳥獣の目よりは、人こそわろけれ、かれに似ることなかれ」と教えるであろう。このような素朴な自然主義的な人間観に立つ真淵にとっては、中国は礼文明(「華」)の国であるが故に尊いのではなく、逆にそれ故にこそ否定されるべき存在としてあった。この師の説を受けてよりラディカルに反儒教・反中国の言説を展開したのが本居宣長(1730-1801)である。
宣長は京都での勉学時代に、人に「礼義」なければ禽獣と同じであるから「聖人の道」を学ぶべきだと主張する儒生に次のように応えた。貴方は「聖人の道」を学んで、「而して後に禽獣為るを免がれ」ようとでもいうのですか。「異国人」はそうでしょうが、「吾が神州」は違う。上古の時、君も民も「自然の神道」を奉じ、これに依って身は修めずして修まり、天下は治めずして治まっていた。修身治国には何も「聖人の道」を必要としない、56と。宣長は「聖人の道」は人類に普遍的な教えではなく、特殊中国の文化規範にすぎないと見たのである。宣長は「聖人の道」に対抗して、初期には「我邦の大道」は「自然の神道」であるという言い方をしていたが、彼の記紀研究の深化にともない、最終的には「自然の」という修飾語を削って単に「神道」と言うようになる57。それは自然の働きよりも、その働きの根源にある「神」の主体性が宣長に大きく意識されてきたからである。世の中のすべては「自然の事」ではなく、「神の御はからひ」のうちにあると考えるに至ったのである。
かくして宣長は「神の道」をこう説く。それは「天地おのずからなる道」(老荘思想が念頭にある)でもなく、「人の作れる道」(儒家、特に徂徠が念頭にある)でもなく、上古日本の神々の事跡である、と。それ故に「神の道」を知るには、それが記された『古事記』の正しい読解が前提となる。宣長のこの発想と方法への自覚には徂徠からの影響がある。徂徠は中国古代の「聖人の道」を明らかにすべく、「古文辞」の習得に励み、「六経」の世界に立ち向かった。同じように宣長は日本古代の「神の道」を明らかにすべく、古代日本語の研究を通して『古事記』の世界に立ち向かった。宣長が「神代」「古代」の解明に『古事記』を取り、正史の『日本書紀』に依拠しなかったのは、『日本書紀』は「唐土の書籍の体をうらやみて」、「潤色多き」漢文で綴られているからである。「かくさかしだちて何事も唐のやうをならへることの見なれたる後の心」58からは神代・古代を正しく知ることが出来ない、と宣長は言う。
宣長の儒教批判は苛烈である。ここでは1世界の生成、2人間観、3政体観の三つの点から整理して、その言説を見てみる。
1世界の生成について。宣長によれば、儒教では世界の成り立ちを「陰陽八卦五行などいふ理屈」を立てて説明しようとするが、これらは「聖人」が勝手に作り出した「そらごと」にすぎない。世界をすべて合理的に説明できると考えるのは「人智」の思い上がりであり、世界は「人智」を越えた神々のはからいの内にある。世界の始まりを唯一正しく伝えている『古事記』によると、この世界は「産霊の御霊」によって産出された。日本は「四海万国を照らさせたまふ天照大御神」が生まれた「御本国なるが故に、万国の元本大宗たる御国」59である。宣長は「神の道」を日本限定の「道」とは見ない。「神道」は「まことの道」であり、「まことの道は、天地の間にわたりて、何れの国までも、同じく一すじなり」と、「神道」の世界普遍性を説く。ここから文化相対主義の枠に収まりきらない「皇国」ナショナリズムの論理が導出されてくる。つまり日本の独自性への認識がそのまま世界に冠たる優秀性への主張と飛躍して展開される。宣長のこの面での言説を肥大化させて、国粋主義的なイデオロギーを構築していったのが、宣長没後の門人平田篤胤(1776-1849)である。
2人間観について。中国は「神の御国」ではないので悪人が多い。それ故に善悪を厳しくあげつらう「国のならはし」が生まれた。「聖人」は人間かくあるべしと教えるが、それ以前にかくあらざるを得ないのが「人情」である。「人の実の情といふものは、女童のごとく未練に愚かなるもの也。男らしくきつとして賢きは、実の情にあらず。それはうはべをつくろひ飾りたるものなり」60。男はかくあるべし、女はかくあるべし、などというのは「漢心」に染まったものの見方でしかない。愛しい子に先立たれた場合、女親は涙にくれまどい、その様は何ともしどけない。これに対し、男親のいさぎよく諦めた様は人目には立派に見える。しかし男親の様は世間体を気にして取り繕っているからであって、結局自分の素直な心にウソをついていることに他ならない。子を亡くした悲しみは、父であろうと母であろうと変わりはない。母親の「女々しい」さまこそが「これぞかざらぬ真の情」である。「漢心」に染まった人は善悪をこちたく論うのを貴いことだとするが、そういう人は「たをやぎたる風雅のおもむき」を終ぞ知ることがない。人間にとって最も大切なことは「物のあはれを知る」ことである。「物のあはれを知る」人とは物事の本質や人の心の機微を推し量ってこれに深く共感できる人である。このように宣長は儒教の道徳主義的な人間観に対抗して主情主義的な人間観を提示した。
3政体観について。宣長は「徳」の有無による王権の交代、すなわち易姓革命は王位を簒奪した者の自己正当化の論理に他ならないとして否定する。「徳」ある者が「位」に就くのが「真に貴き物」と思うかも知れないが、「それは実は悪風俗」である。「異国は徳を尊む俗にて、庶人といへ共、徳だにあれば貴しと思ふ故に、おのづから上をあなどる心有て、つひに簒奪の禍をまねけり」61。そのことは中国の歴史が証しており、近くは清による明の王権奪取がよき例である。これまで「夷狄」と賤しめていた者を「天子とて仰ぎ居るは、いともいとも浅ましき国のありさま」である。これに対して「皇国」では、「その貴きは徳によらず、もはら種によれる事」62であるから、「萬々年の末代までも、君臣の位動くことなく厳然」としている。こうして宣長は「徳」ではなく「種」、即ち「皇統」(血統)の原理を根本に据えて日本の優秀性を弁証しようとした。これは「礼」や「徳」を基準とした儒教的な華夷観念の解体には違いないが、「種」という別の原理による尊卑観念の新たな構築に他ならない。自・他を対等ではなく優劣をもって位置づけようとする点では両者何らかわりはない。
以上のような宣長の中国への反感と「漢心」批判には論理に飛躍と混乱がある。先ず、宣長には儒教と中国との区別がついていないので、儒教への批判がそのまま中国への嫌悪に直結してしまう。宣長が嫌悪したのは儒教というフィルターを通してみた中国であって、無論現実の中国そのものとは違う。次に彼の「漢心」批判にしても、「漢心」それ自体への批判と、中国的なるものを無節操に信奉する日本人の「漢心」への批判とが、一緒になって議論が進められており(宣長の苛立ちは主に後者に向けられていよう)、論が甚だ感情的になる。このように彼の中国認識には問題が残るが、中国に対して無知であったわけでは決してない。その逆で青春期の勉学ノート『在京日記』63が示すように、彼は漢籍を渉猟しそれらを丹念に抜き書きしている。彼の漢籍についての知識と理解は生半可ではない。その意味では宣長は古典中国を反射板として日本のアイデンティティーを形象化していったとも言えよう。宣長の「大和心」「神道」の概念は「漢心」「聖人の道」を合わせ鏡として練り上げていった面が多分にある。宣長にとって中国は否定すべき大いなる存在として絶えず意識され続けた。彼の中国への過剰なまでの反発には中国コンプレックスの裏返しでもあった、とも言えよう。
ところで、何かにつけ中国的なるものに反感を示した宣長であったが、平安朝時代の文学に多大な影響を与えた白居易には格別の親近感を抱いていた64。この事は注目に値する。
『白氏文集』には「多情」(情が深く感じやすいこと)という詩語が頻出し、感傷的な詩が多い。宣長は人から「物のあはれを知る」とはどういうことかを問われ、『白氏文集』にある「劉家花」と題された作品での「多情」の用例を引いて説明している65。つまり宣長は白居易を「物のあはれを知る」詩人として高く評価したのである。白居易は儒教的倫理観に疑いを持ち、『長恨歌』のような男女の情愛をテーマとした艶詩を多く作った。それ故、その作品は男性からは女々しいと批評されたが、女性からは支持された。『源氏物語』を愛好し、人情の本質を「女々しい」と見た宣長の感性に白居易の「多情」が響かないはずがなかった。日中の国柄・文化の違いを際立たせた宣長ではあるが、他方では「人情」はどこでも変わりはないとの確信を持っていた。「人情ト云モノハ、全体古モ今モ、唐モ天竺モ、此国モ、カハル事ナシ」66。漢詩も和歌もそうした普遍的な「人情」に根ざしたところからの産物であり、「歌と詩はもと同じ心ばへなるべきもの」であった67。その意味で宣長の「物のあはれを知る心」と白居易の「多情」とは、「人情」という共通基盤において国境を越えて互いに「共鳴」しあう関係にあったと言えよう。「漢心」と「やまと心」とを鋭く対峙させた宣長の視線は、意外にも各々の文化的衣裳を剥いだその奥の裸の人間性に向けられていたのである。国や文化の差異を超えた普遍的な人間の本質、それを宣長は理性ではなく感情において捉えたのである。 
(4)洋学者を中心とした中国認識――中国の相対化・18 世紀後半〜19 世紀前半――
18 世紀の後半、蘭学が興隆し西洋への理解が進むと、西洋からの目を通して中国の位置を捉え直す状況が出てくる。『解体新書』(1774 刊)翻訳の中心人物前野良沢(1723-1803)は、ギリシア自然哲学由来の四元素説に基づいて儒教の陰陽五行説は「支那一区ノ私言」にすぎないものと否定した。そして「支那」では古来大地は四角く碁盤のようなものと考えていたが、後世にヨーロッパからの天文学が伝わって「地球」と称するようになった、と述べている68。その翻訳メンバーの一人であった杉田玄白(1733-1817)はこの地球球体説に立脚して、「地なるものは一大球なり、万国これに配居す。居るところは皆中なり。何れの国か中土となさん。支那もまた東海一隅の小国なり」69と中国を相対視する。ここには大地が球体であること、そして球体であるからには地理上において中心はないことの認識が明確に示されている。興味深いのは、視点の基軸を西洋において、そこから眺めて「支那もまた東海一隅の小国」と位置づけていることである。「支那」という言い方は、早くは新井白石(1657-1723)が『采覧異言』(1715)で西洋語に従って中国を「支那」と記述しているが、蘭学者達が中華世界観からの離脱を意識して、「中華」「中国」に代えて「支那」の語をオランダ語(China)の訳として常用するようになって70、一般化してくる。
地球という視圏からの中国の相対化は玄白の門人大槻玄沢(1757-1827)にも継承される。
玄沢は更に一歩進めて、華夷観念にとらわれた中国と、それに追随する日本を容赦なく批判して言う。「漢土ニテ自国ヲ夏華トシ、域外ヲ蛮夷ト名ケシハ、此ヲ尊トシ、彼ヲ卑メシ名ナレバ、其実ハ私称ニシテ公称トイフベカラズ。華夏トイフ中ニモ得失アリ、蛮夷ト呼バルヽ中ニモ得失アルベシ」。我が国は古来より何事も「漢土ヲ師トセシ国俗ナレバ、皆コレニ倣ヒテ海外ノ国々ヲバ蛮夷蛮夷ト称スル」71が、これは大きな間違いである、と。
玄沢にとっては「道正シク術精ナル」のが「華夏」であり、「道正シカラズ術粗ナル」のが「蛮夷」であった。ここで、興味深いのは玄沢が「道」(道徳)だけではなく「術の精粗」をも華夷の指標に取り入れている点である。この場合の「術」とは当然に西洋の「術芸」が念頭にある。とすると玄沢は「術」に秀でた「西洋」こそが「中華」の名に相応しいと考えていたと言えよう。ここには<中華としての西洋>という考え方が垣間見える。
また遠近法、明暗法などを駆使した「蘭画」の方が「和漢の画」よりも「物を真に写す」点において断然勝れているとした司馬江漢(1747-1818)も、『地球全図略説』(1793)等を著して地球体説と地動説の普及に努め、その立場から「支那を中華」と呼ぶのも、また「吾邦ヲ葦原ノ中津邦」と呼ぶのも共に自国中心的な物の見方でしかなく、井の中の蛙であると論じている72。江漢には天文学や地理学上の知識をもって中華意識的発想そのものからの脱却を志向しているようなところがある。
日本では華夷を機能概念において捉える傾向が強かったので、西洋の文明の方が中国のそれに優っていると認識されるや、西洋をむしろ「中華」と見なすような考えが出てくる73。中国の支配層である文人官僚達は西洋の科学技術を積極的に取り入れることには大きな抵抗感があった74。科挙で選抜されて儒教文明の正統な担い手を自負する彼らからすれば、実用的な技芸の学は卑賤視すべきものであり、なによりも西洋文明を受容することそれ自体が中華文明全体の否定を意味したからである。これに対して日本の知識人層である武士は、佐久間象山に典型的に見られるように、軍事、科学技術の面において西洋の方が優っていると認識するや「西洋芸術」を積極的に摂取せんとしたが、それは中華意識による正統性の観念が中国の文人官僚たちほどに伝統的に重くのしかかることがなかったからである。文明のモデルを中国から西洋へと切り替えること−−その先が明治期の「脱亜入欧」−−は容易であった。
学術技芸に限らず政治・社会制度の面においても西洋の方が中国古代の理想的な統治を実現していると考える者もでてきた。松江藩士萩野信敏(1716-1817)は堯舜禹「三代の道」は今やオランダに存していると見ていたし75、熊本藩士横井小楠(1809-1869)は、西洋は「君臣の義を廃して一向公共和平」に務め、その政治制度は「殆三代の治教に符合する」と評した76。
1842 年、清はアヘン戦争でイギリスに敗北する。この事実は幕末日本の知識人にとって、それまで懐いてきた中国観や西洋観の転換を迫られる程に衝撃的であった77。これを機に中国へのイメージは決定的に悪化する。幕府昌平校の儒官古賀侗庵(1788-1847)は、いち早く清のアヘン戦争での敗因は単に軍事力の差や海防の不備にあるだけではなく、その根底にある「夜郎自大」の中華意識が「支那の病根」となり、今日の結果をまねいたと分析し、また弟子の塩谷宕陰は「清人は華を以て自ら高ぶり、外蕃の情を索むるを務めず」と述べ、清朝の慢心を批判した78。更に佐久間象山(1811-1864)、安積艮斎(1791-1860)、横井小楠、福沢諭吉(1898-1994)も一様に他から何も学ぼうとしない独善的な中国の姿勢を批判し、日本は中国の「己惚れの病」79を鑑戒とし、その轍を踏むなと警告した。こうして清朝敗北の原因はその尊大な中華意識にあるとする見解が幕末期日本の知識人達の間での共通認識となり、中国に対する否定的なイメージが定着して行くのである。
1862 年、幕府は中国視察をも意図して、貿易船千歳丸を上海に派遣した。それに乗り込んだ高杉晋作(1839-1867)は、イギリス、フランス、アメリカの租界地が広がり、半ば植民地と化した上海の現状を目の当たりにし、その折の感慨を日記に次のように書き留めている。「つらつら上海を観るに、支那人尽く外国人の使役と為り、英・法(フランス)の人街市を歩行すれば、清人皆傍に避けて道を譲る。実に上海の地は、支那に属すとも、英・仏の属と云ふも可也」80と。清朝の無惨な姿は現実のものであった。
この5 年後、大政は奉還され近代国家としての明治政府が樹立される。その近代日本は、欧米列強に蚕食されてゆく中国の苦悩と痛みを、アジアの同胞として理解し分かち合うことをせず、欧米列強に追随し、中国の分割に乗り出していった。 
結びにかえて
結びにかえて二つの点に言及しておきたい。その一つは、今更ながらのことではあるが、大陸文化の摂取の過程で日本文化が形成されてきたという事実の重みである。小島毅報告(第2部1章)の「歴史的に正確に言えば、『日本に大陸文化が伝わった』のではなく、『大陸の文化が伝わることによって日本という国が誕生した』」との指摘は重要である。
日本の「神道」は太古の「聖人の道」が伝わったもの、とする徂徠の説は遙か昔に日本列島に移住した人々の歴史的ルーツにまで遡って考えれば、決して荒唐無稽とは言えない。
「日本」「日本人」という純粋無垢なDNA を想定した日本文化論は幻想である。宣長は外来文化の衣裳を一枚ずつ剥がしてゆけば、それに汚染されていない純粋な「日本」に行き当たると考えた。しかしそれは玉葱の皮を剥いて芯を求めるのと同じ虚しい作業に終わるであろう。そうではなく、様々な外来文化の受容の総体を日本文化と見て、その変容の特色を考察すべきであろう。宣長の「大和心」にしても「漢心」を否定的媒介にして産出されたものとも考えられよう。 

1 田中健夫 『中世対外関係史』 東京大学出版会 1975 年、荒野泰典 『近世日本と東アジア』 東京大学出版会 1988 年。
2 漂流民の異国体験としては、江戸期では1664 年に越前三国浦の船乗り国田兵右衛門等が漂流し、「韃靼」の都盛京(瀋陽)に連行され、その後北京に行き格別の厚遇を受け、翌年帰国を遂げた記録、『韃靼漂流記』がよく知られている。ただ、知識人の言説に焦点を合わせた本報告では、論文構成上からこれらの漂流記を本文に組み込むことは困難であり、ここでは漂流民達の異国体験も日中間の相互認識に関わる重要な主題たり得ることを指摘するに留めておく。
3「昔在邃古、吾東方の国、泯々乎として知覚罔し、王仁氏有りて後、民始めて字を識り、黄備氏有りて後、経芸始めて伝ふ、菅原氏有りて後、文史誦すべく、惺窩氏ありて後、人人言ふときは、則ち天を称し聖を語る。斯の四君子者は世々学宮に尸祝すと雖も、可なり」(「与都三近」『徂徠集』巻27 8 丁表)
4「欲渡大明国国遇疾風而到鬼界島」 『惺窩先生文集』巻3 『藤原惺窩集』上巻 思文閣出版 1978 年 64 頁。
5 辛基秀・村上恒夫 『儒者姜と日本』 明石書店 1991 年 302 頁。
6「惺窩答問」 岩波日本思想大系『藤原惺窩・林羅山』 198 頁。
7「惺窩先生行状」 岩波日本思想大系『藤原惺窩・林羅山』 190 頁。
8「明国講和使に対する質疑草稿」 『藤原惺窩集』巻下 原漢文 思文閣出版 1978 年 367頁。
9「邂逅大明国使」 『惺窩先生文集』巻3 原漢文 『藤原惺窩集』巻上 1978 年 63 頁。
10「舟中規約」 『藤原惺窩集』巻上 前掲書 原漢文 126 頁。
11「惺窩答問」 『林羅山文集』上巻 原漢文 ぺりかん社 1979 年 348 頁。
12 源了圓 『近世初期実学思想の研究』 創文社 1980 年 171 頁。
13 渡辺浩 『宋学と近世日本社会』(東京大学出版会 1985 年)第二章。澤井啓一「『水土論』的志向性」(岩波講座 大貫隆編『歴史を問う3』 2002 年)。
14「中国論集」 岩波日本思想大系『山崎闇斎学派』 424 頁。
15『集義和書』巻八 『増訂蕃山全集』第1 冊 ぺりかん社 1978 年 199 頁。
16 渡辺浩 『宋学と近世日本社会』 57 頁。塚原学は、皇祖太伯説は「中国に対する劣位の承認とだけとるべきでなく、東方君子国=日本という主張に通じる感覚をもつもの」と解すべきとする。「江戸時代における『夷』観念について」『日本歴史』371 号 4 頁。
17 『日本水土考・水土解弁・増補華夷通商考』 岩波文庫 20 頁。
18 時代は降るが、水戸学の会沢正志斎も『新論』で「神州」は「東方に位し、朝陽に向」っているが故に万国に優れていると、「東」に特別の意味を持たせている。
19「中国弁」 岩波日本思想大系『山崎闇斎学派』 416−419 頁。
20「毛呂己志を中華と称するは、其国の人の言にて相応なり。日本よりは称すべからず。日本の都をこそ中華といふべけれ、なんぞ外国を中華となづけんや。其いはれなし」 『西山公随筆』 『日本随筆大成』(第2 期)7 巻。
21『たはれ草』 有朋堂文庫『名家随筆集』下 8 頁。
22『経済録』巻2 『日本経済大典』第9 巻 明治文献 1967 年 432 頁。
23『論語古義』 関儀一郎編 『日本名家四書註釈書全書』第3 巻 32 頁。
24「聖人無華夷弁論」 『経史博論』巻2 関儀一郎編 『日本儒林叢書』第8 巻 39−40 頁。
25 渡辺浩 『宋学と近世日本社会』(東京大学出版会 1985 年)51 頁。
26『制度通』1 平凡社東洋文庫 11 頁。
27 岩波日本古典文学大系50 『近松浄瑠璃集』下 230 頁
28 塚本学 「江戸時代における『夷』観念について」 『日本歴史』371 号 10 頁。
29『徂徠先生学則』 『荻生徂徠全集』第1 巻 みすず書房 1973 年 71 頁。
30『弁道書』 『日本倫理彙編』6 224 頁。
31「峡中紀行」 『徂徠集』巻15 31 丁表。
32 吉川幸次郎「民族主義者としての徂徠」 『仁斎・徂徠・宣長』所収 岩波書店 1975 年。
33 塾蘐園の光景を描いた『蘐園諸彦会讌図』と呼ばれる絵画がある。徂徠を中央に配して、時計回りに安藤東野、万庵、平野金華、服部南郭、宇佐美灊水、太宰春台、山県周南の七人の高弟が描かれている。この七人を蘐園七才子と言うが、これは明代嘉靖年間(1521-1565)に活躍した王世貞、李攀竜等七人の文人に擬している。彼らが集うその座卓の上にある器は唐物であり、ここにも徂徠とその一門の中国風を慕う趣味の一端が偲ばれる。小島康敬「蘐園諸彦讌会図」『蘐園社中の基礎的研究−−江戸の知的研究体−−』 文部科学省科学研究費報告書 2006年3 月。
34「和尚の故郷は杭州と聞いておりますが、杭州はかって南宋の都があったところ、さぞ文物風俗が他の地方とは違うのでしょうね。」(徂)、「忠臣たちの旧跡が今なお在ります」(悦)、「名高い西湖の景色はいかがですか、蘇堤、孤山には名賢の旧蹟が沢山あると聞いています。忠義の人岳飛の旧跡など、詳しくお聞かせ頂けますか」(徂)、「岳飛の廟は歴代の王朝が修理を重ね今に至るまで人々の慕うところです。西湖の景色はとても一筆で尽くすことなどできません」(悦)、「そうでしょう、そうでしょう。孤山の周囲には梅の花はありますか」(徂)、「梅は見事です。昔から孤山は王気の有るところと言われています。去る年、康煕帝が訪れ行宮を建てました」(悦)、「惜しいことだ。まさに始皇帝のしたことに同じで、興ざめだ」(徂)、「和尚は上国に生まれ、名勝を飽きるほどご覧になられ、大変羨ましい。西湖の広さはいかほどでしょうか」(徂)、「四里です。花と柳が盛りの頃は最高です」(悦)、「和尚は銭塘江を渡ったことはございますか、江の広さはどれくらいでしょうか」(徂)、「二里です。広くて渡るのが難しい」(悦)、「銭塘江の潮は天下の奇観ですね。中秋に見たことがおありですか」(徂)、「八月の観潮は、満ち潮が山のごとくで、天下第一の景観です」(悦) 石崎又造『近世日本に於ける支那俗語文学史』 弘文堂書房 1940 年10 月 56−57 頁 原漢文。
35 金文京「西湖と不忍池」 和漢比較文学叢書16『俳諧と漢文学』 汲古書院 1994 年。
36 開館20 周年記念展『中国憧憬−日本美術秘密をさぐれ−』 町田市立図国際版画美術館2007 年4 月。
37『芥子園画伝』は李笠翁の山水画集をもとに王概が増補した絵画の手本。日本には、元禄年間に伝えられ、寛延元年(1748)以来模刻され、南画をはじめ江戸期の画壇に影響を与え、池大雅や与謝野蕪村も参照している。ちなみに大日本近世史料『幕府書物方日記』五には幕府の書物方は『芥子園画伝』」を徂徠の弟の荻生惣七郎(観)の持っていた善本(「笠翁画伝」)と交換した旨の記載がある(享保九年六月十一日の項目)。
38『訓訳示蒙』 『荻生徂徠全集』第2 巻 みすず書房 1974 年 437 頁。
39『太平策』 岩波日本思想大系『荻生徂徠』 454 頁。
40『政談』 岩波日本思想大系『荻生徂徠』 439 頁。
41 あろうことか、日本では江戸期に孔子や聖典『論語』が笑いのネタとなって広まってゆく。代表的なものとして、前者では孔子が釈迦や老子と一緒に遊廓で遊ぶといった奇想天外な戯作『聖遊廓』(著者不明)があり、後者では徂徠の論語注釈書『論語徴』に遊廓吉原の「町」をひっかけた、『論語町』(大田南畝著)がある。『論語町』は論語や経書の章句を吉原遊廓での色事にひっかけて注釈した、パロディ的作品である。社会の隅々まで儒教の礼文化が浸透した李朝朝鮮のような知的風土では、このような形で、大っぴらに儒教が茶化され、笑いの文化として受容されてゆくことはまずなかったであろう。小島康敬 「『聖人の道』と『色道』」 『アジア文化研究』別冊16 号 国際基督教大学 2007 年3 月。
42『訓訳示蒙』 前掲書 438 頁。
43『訳文筌蹄』 『荻生徂徠全集』第二巻 みすず書房 1974 年 547 頁。
44 中野三敏 『十八世紀の江戸文芸』 岩波書店 1999 年 73 頁。
45 石川九楊 『書と日本人』 新潮文庫 2007 年3 月 81-82 頁。
46『政談』 岩波日本思想大系『荻生徂徠』 397 頁。
47「与江若水」 『徂徠集』26 巻 6 丁表。「吾党学者、雖睡中寐語、亦不顛倒」
48『蘐園随筆』巻4 『荻生徂徠全集』第17 巻 みすず書房1976 年 299 頁。
49 吉川幸次郎「民族主義者としの徂徠」は、徂徠が「夷人」と自称したのは、「夷人」なればこそ正しい伝統を把握し得たのだという徂徠の自負の表れと解する。『仁斎・徂徠・宣長』 岩波書店 1981 年 240 頁。
50 吉宗は庶民教化に役立てようとして、この書物を最初幕府の儒官室鳩巣に命じたが、明代の口語で書かれていたため鳩巣は十分に読解することができず、徂徠にあらためて命じられた。
51 川勝守 『日本近世と東アジア世界』 吉川弘文館 2000 年 253 頁。
52「復水神童 又附答問」 『徂徠集』巻24 巻 12 丁裏。
53 吉川幸次郎 『仁斎・徂徠・宣長』 240 頁。
54「復柳川内山生」 『徂徠集』巻25 15 丁裏。
55『国意考』 岩波日本思想大系『近世神道論・前期国学』 382 頁。
56『本居宣長全集』第17 巻 筑摩書房 23 頁。
57 相良亨 『本居宣長』 東京大学出版会 1978 年。
58 『石上私淑言』巻2(53) 『本居宣長全集』第2 巻 筑摩書房1968 年 144 頁。
59『玉くしげ』 『本居宣長随筆』第8 巻 311 頁。
60『紫文要領』 新潮日本古典集成『本居宣長集』 202 頁。
61『くず花』下巻 『本居宣長全集』第8 巻 154 頁。
62『くず花』下巻 『本居宣長全集』第8 巻 153 頁。
63「在京日記」『本居宣長全集』 第16 巻。
64 諸田龍美「多情と物のあはれ−−白居易の宣長の共鳴」 愛媛大学法文学部論集 人文学科編第20 号 2006 年。この論考から示唆される所は多く、以下の記述は同論考を参照。
65 注64 の諸田論文 37 頁。
66『あしわけをぶね』 『本居宣長全集』第二巻 筑摩書房1968 年 46 頁。
67 宣長によれば、「おろかなる実情のありのまま」を詠ずるという点で、日本の歌も中国の詩も本来同じであったが、後代に至って中国の詩は「漢心」の賢しらに毒されて堕落したと言う。
68『管蠡秘言』 岩波日本思想大系『洋学』上 133 頁。
69『狂医之言』岩波日本思想大系『洋学』上 230 頁。
70 渡辺浩 『東アジアの思想と王権』 東京大学出版会 1997 年 170 頁。佐藤三郎「日本人が中国を『支那』と呼んだことについての考察」によれば、19 世紀になると「支那」の語を用いる例が増えてくるが、そこには中国を見下すようなニュアンスがあるという(『近代日中交渉史の研究』吉川弘文館 1984 年 34 頁)。
71『蘭訳梯航』 岩波日本思想大系『洋学』上 375 頁。
72『和蘭天説』 『司馬江漢全集』第三巻 八坂書房 1994 年 36 頁。
73 植手通有 『日本近代思想の形成』 岩波書店 1974 年 242 頁。渡辺浩 「『東アジアの思想と王権』 前掲書。
74 無論『海国図志』を著し、「夷の長技を師とし以て夷を制す」る必要を説いた魏源の存在を忘れるべきではない。しかし『海国図志』は中国では当初は重視されなかった。他方、日本では1851 年に舶載されると早くも1854 年に翻刻され、1856 年までに二十種類あまりの翻訳本が刊行された(鮎沢信太郎・大久保利謙『鎖国時代日本人の海外知識』 乾元社 1953 年)。ここにも西洋に対する日中間の危機意識の差が見られる。
75『題蘭学階梯首』岩波日本思想大系『洋学』上 323 頁。
76『国是三論』 岩波日本思想大系『渡辺崋山・高野長英・佐久間象山・橋本左内』448-449 頁。
77 アヘン戦争の情報が日本に与えた衝撃に関しては、王暁秋『中日近代啓示録』 北京出版社1987 年(邦訳『アヘン戦争から辛亥革命−日本人の中国観と中国人の日本観』 小島晋治監訳 東方書店 1991 年)に詳しい。
78 前田勉 『近世日本の儒学と兵学』 ぺりかん社 1996 年 433 頁。
79「唐人往来」 『福沢諭吉全集』巻1 岩波書店 1958 年 14 頁。
80「上海淹留日録」 『東行先生遺文』下巻 1916 年 民友社 原漢文 79 頁。他の一つは、今なお私たちを呪縛している華夷秩序的発想(現代風に言えば「中心-周縁」の序列化)をいかに克服するかという問題である。この問題に関しては江戸後期の昌平校教授佐藤一斎(1772−1859)の次の言葉が示唆に富む。引用して締め括りとする。茫々たる宇宙、この道只これ一貫す。人よりこれを視るとき、中国あり、夷狄あり。天よりこれを視るとき、中国なく、夷狄なし。
81『言志録』 日本思想大系『大塩中斎・佐藤一斎』 31 頁。 
 
日中の政治・社会構造の比較

 

はじめに
本章は日本と中国の政治・社会構造について、歴史学の視点から比較研究を行うことを目標としている。議論に先立ってなぜ我々がこうしたテーマを設定したのか、日中両社会の比較を行うことでどのような効果が期待されるかについて、主として日本の情況を踏まえながら説明しておくことにしたい。
一般的に日本人は二つの異なる中国イメージを持っている。その一つは中国の古典文明に対する憧憬や親しみといった感情であり、それは例えば『三国志演義』の英雄たちへの興味や李白、杜甫の漢詩に対する関心となって現れる。もう一つは近代以後の不幸な日中関係史に対するネガティヴなイメージであり、日中戦争期の史実や一九四九年以後の中国現代史については多くを知らないか、無関心であることが少なくない。この二つの中国観は互いに断絶したまま、今日まで多くの日本人によって共有されていると言えるだろう。
一九七二年の日中国交回復後しばらくは前者のイメージと共に「中国に親しみを感じる」と答える日本人が増え、二○○三年に日中関係が悪化すると後者のイメージと共に現代中国に対する否定的な見方が強まったのはそのよい例である(1)。
こうした二つの相反する中国観が生まれた理由は何であろうか。まず容易に気づくことは、プラス、マイナスの中国イメージがそれぞれ唐代(日本では平安中期)までの古代、近現代の歴史をベースに形成されているという事実である。言いかえるなら宋から明・清時代(平安後期から江戸時代)の中国に対するイメージが希薄になっている。むろん日本史に即して言うならば、このイメージの希薄さは遣唐使廃止後の日本が社会の独自性を強め、幾度かの戦争や活発な交易にもかかわらず、交流の歴史において唐代以前のような強いインパクトを与えなかったことに起因している。
また前章の第二節、小島康敬論文が明らかにしたように、江戸知識人のあいだで中国認識は日本認識の手がかりとして重要な役割を果たした。だが現代日本の世界史教育において、宋から明清時代の中国史についてかなりの分量が割かれているにもかかわらず、この時代の中国に対する人々のイメージは相変わらず乏しい。チンギス・ハーンの伝記が人々の人気を集め、テレビのドキュメンタリーで鄭和の西征が取りあげられても、それらは項羽、劉邦の争いや玄宗皇帝、楊貴妃の運命など、日本人になじみのある物語にはかなわないというのが現実であろう。
それではこうした空白は何をもたらしたのだろうか。宋代(平安後期)以後の日中両国は密接な関係を持ちながらも、それぞれ個性を持った異なる社会へと発展した。日本の中国史学界では唐から宋にかけての中国の社会変動を「唐宋変革期」と呼び、商品経済の進展や都市の繁栄など、その後の中国社会を直接に基礎づける変化が起こったと考えられている。また日本でも国風文化や室町時代の東山文化など、現在の日本文化の原型が形作られたのはこの時期であった。だがこれら重要な変化に関する情報は、少なくとも日本人の中国イメージに大きな影響を与えなかった。つまり日本と中国が互いに異文化であることへの理解が妨げられてしまったと言ってよい。
さらに相手を異文化として見る視座の欠如は、近代以降の日中関係にもマイナスの影響を与えた。日清戦争後の中国では日本への留学ブームが起こり、日本でもこれに呼応するように中国との提携をめざすアジア主義が唱えられた(2)。だがそれらの動きは「日本と中国は同文同種だから、すぐに分かり合える筈だ」という安易な思いこみに支えられていた。そしてこうした予想が外れ、日本と中国が個性の異なる「他者」であることが明らかになった時、両者のあいだにはかえって深刻な対立や拒否反応が生まれたのである。
いっぽう中国の場合はどうだろうか。古来中国にとって日本は「東夷」であり、神秘的な異国として受けとめられた時期があったものの、多くの場合中国を中心とする国際秩序の周辺に位置する「東方の小国」に過ぎなかった。日本文化を中国文化の亜流と見なす考えも根強く、清末の日本留学生も日本が受容したヨーロッパの近代文明には強い興味を抱いたが、日本文化そのものには殆ど関心を示さなかった。つまり中国においても日本を異文化として捉える視座は欠けていたと言わなければならない。
一九七二年に日中の国交回復がなされると、「日中両国は一衣帯水の隣人である」ことがしきりに強調された。それは近代の不幸な関係を乗りこえる第一歩としては重要な認識であっただろう。また本報告書の第一部、第二部を見ても、日中関係(とくに古代の日本から見た中国の存在感)がいかに重要な役割を果たして来たかを痛感させられる。だが二一世紀の日中関係に目を向けた時、我々は日本と中国が共通のベースを持ちながらも、それぞれの社会が如何なる個性を育ててきたかについて理解を深める必要がある。身近な隣人であるが故にこそ互いを異文化として尊重し、その差異について自覚することが息の長いパートナーシップを確立するうえで不可欠の作業であると考えられるのである。
現在のところ日中両社会を異文化として比較する試みは、日本の歴史学界ではいくつかの注目すべき研究があるものの、充分な成果があるとは言い難い。また中国でも近年中堅、若手研究者を中心にこれらの課題に対する取り組みが始まっているが、研究はなお途上にある(3)。そこで本章ではいくつかの先行研究を参考としながら、仮説を提起することで問題提起を行いたい。もとより筆者は明清社会史が専門であり、中国古代史および日本史については門外漢ゆえの誤りも免れないと思われる。大方の叱正を乞う次第である。 
一、王権と政治制度をめぐる比較
(a)王権をめぐる比較―皇帝制度と天皇制―
近年日本の歴史学界では、日本の王権即ち天皇制の歴史的特質をめぐる議論が盛んに行われている。また中国では秦の始皇帝以来、皇帝制度が存続したことは周知の事実である。
本節はこれら二つの王権と彼らによる統治体制を比較することから話を進めたい。
まず中国の皇帝制度について見よう。戦国時代の中国では各地を支配する王はいたが、天下を支配する権力者はいなかった。紀元前二二一年に中国の統一を達成した秦王の政は、中国全土の支配者にふさわしい称号を大臣たちに調べさせた。その結果出された案は、天地の神々よりも尊い天帝を意味する「泰皇」という称号だった。だが政は父親の昭王が名のっていた「帝」の字にこだわり、これと泰皇の「皇」を結びつけて「皇帝」とすることに決めた。それは「光り輝く帝」という意味であり、天の中心に鎮座する天帝に対して、地上世界の中心に君臨する権威として自らを位置づけたのである(4)。
その後始皇帝が死去して秦は滅んだが、皇帝の称号は「朕」という自称、命令を意味する「詔」といった用語と共に、歴代の中国王朝に受けつがれることになった。もっとも皇帝の称号がすぐに定着した訳ではなく、劉邦(高祖)の開いた前漢が二○○年余りにわたって存続したことが、皇帝制度の成立に大きな役割を果たした。金子修一氏によると、皇帝の即位儀礼においては臣下による承認が重要で、即位式そのものはあっけないほどに即物的であったという。また王権を正当づけるレガリアとして日本では三種の神器が有名だが、中国の皇帝制度ではこれに相当する御璽も大きな意味を持たなかった。金子氏はこれを官僚制度の発達と関係していると推測している(5)。
次に日本の天皇制について見よう。日本の国王(大王)が「天皇」の称号を用いるようになった年代については、七世紀初めの推古天皇の時代とする説と、七世紀後半の天武・持統天皇の時代とする説がある。一時期は七世紀後半説が有力であったが、近年堀敏一氏、吉田孝氏はやはり七世紀初めに中国との外交関係の中でこの称号が生まれたと主張している。その根拠となるのは六○八年に第三回遣隋使の使節であった小野妹子が持参したという「東の天皇、敬って西の皇帝に白す……。謹みて白す」(6)という国書である。
日本人の読者であれば、聖徳太子が隋の煬帝に対等な外交関係を求めて送ったとされる「日処づるところの天子、日没するところの天子に書を致す。恙なきや」(7)という国書を良く知っている。だがその国書は六○七年、第二回遣隋使の時のもので、「天皇」号が登場する先の国書と同一ではない。初め日本の国書に腹を立て、これを否認した煬帝であったが、高句麗対策を重視して裴世清を使者として派遣した。六○八年の遣隋使はこの裴世清を隋へ送って行った時のもので、「敬って白す……謹白」という書式は前年のそれに比べて鄭重な表現になっている。
それでは何故「天皇」だったのだろうか。当時の東アジアにおいて中国の皇帝は圧倒的な存在であり、周辺諸国の支配者は皇帝よりも一段ランクの低い「王」としてその世界秩序に従属的に組み込まれた。これを冊封体制と呼ぶが、日本の大王も皇帝の別称である「天子」の称号を用いることは少なくとも対外的には許されなかった。だが一方で日本は新羅などの朝鮮半島諸国、八世紀に成立する渤海との外交関係を優位に進めるため、「王」から超越する称号を模索していた。「天皇」の語は道教的な神仙思想の影響よりは、皇帝号の候補ともなった三皇(天皇、地皇、泰皇)に由来すると言われるが、六○八年の国書で天皇号が初めて用いられたことは、日本が隋・唐の冊封を受けず、東アジアの国際秩序の中で一定の独自性を保とうとする意図の現れだったと見ることが出来よう(8)。
さて皇帝制度と天皇制の違いはどこに求められるだろうか。様々な議論が可能であると思われるが、筆者はまず中国の皇帝制度を支えていた天命思想が、日本に受容されなかった点が重要なのではないかと考える。
天命思想は中国独自の政治思想で、天は有徳の者に天下を治めることを命じるという考え方である。もし皇帝に徳がなければ、天は別の有徳者に新たに天命を下し、徳を失った者を「放伐」させる。あるいは帝位を有徳の者に譲ることもある(これを禅譲と呼ぶ)。いずれにせよ皇帝が別の姓の者へと交替するため、これを易姓革命と呼ぶ。実際に中国では六一八年に隋(楊氏)が滅亡すると唐(李氏)が立つなど、王朝の交替が繰り返された。
また天命は身分や民族の違いにかかわりなく、全ての人間に与えられる可能性があった。
一四世紀に元末の動乱の中で乞食僧からライバルとの激しい競争を勝ち上がり、明朝の創設者となった朱元璋はその典型である。さらに宇宙生成の理論である五行思想によって王朝交替(とくに禅譲)を合理的に説明することも行われ、宋以前の諸王朝は循環する木、火、土、金、水の五要素と自らの徳を結びつけた(9)。
ところが日本は中国の政治制度を受容する過程で、この天命思想を意図的に受容しなかった。七世紀後半から日本は中国の律令を継受して国家体制を整えたが、王朝交替を前提としている条文は採用しなかった。例えば唐律には前王朝の子孫が罪を犯した場合、特別に審査して減刑するという規定があったが、日本の律令がこれを削除したのはその一例である(10)。
また中国の皇帝は庶民と同じように姓を持ち、五世紀日本の「倭の五王」も中国南朝から「倭」姓を与えられた。だがその後日本が冊封体制から離脱すると、天皇は姓を名乗らなくなり、豪族や臣下となった皇子に姓を与えたものの、自らは現在に至るまで姓を持っていない。それは大王の時代から天皇が一般人の社会規範から超越した存在、特異な霊威を始祖から継承した存在と見なされていたことを物語る。徳さえあれば誰にでも天命が下ると主張する天命思想は、こうした天皇観とは相容れなかったのである。
それでは天命思想をめぐる差異は、日中両国の王権にいかなる影響を与えただろうか。
九八四年に宋の二代皇帝である太宗は、日本の僧侶から日本の国王が一姓の世襲であり、臣下も皆世襲であると聞いてため息をついた。そして宰相に次のように語ったという彼らは島国の夷人であるのに、国王は久しく世襲し、その臣も親のあとを継いで絶えない。これこそ古の理想の道である。ところが中国は唐末より戦乱が絶えず、王朝は短期間で交替し、大臣・名家で跡を継ぎえた者は少ない。朕は徳において古の聖君に劣るが、日夜つつしみ怠らず、後世の模範となりたい。それが子孫のためであり、大臣たちの子孫に禄位を世襲させることになろう(11)。
ここからは中国の皇帝が、天命思想を受容しなかった結果として「万世一系」になった日本の天皇制を羨んでいた様子が窺われる。だが興味深いのは太宗が自らの王朝を「万世一系」たらしめるために、「日夜つつしみ怠らず、後世の模範」となる努力を行おうとしていた点である。元々天命思想は皇帝支配を根拠づける論理であると共に、皇帝の過ちを諌めたり、批判する根拠ともなり得る思想であった。そもそも天命が誰に下ったかは何人も証明できないから、皇帝権力の正当性はただ天下の人々が彼に従っているという「事実」以外にはない。言いかえれば皇帝は常に臣下たちから承認を受ける必要があり、論理的には法や制度を定め得る究極の道徳的能力の持ち主であることが要請されていた。
皇帝が天命思想のもとで社会とのあいだに抱えた緊張関係を、最も強く感じていたのは異民族王朝の君主たちであった。とくにラストエンペラー・宣統帝溥儀で知られる満洲族王朝の清朝は、明代東北の国際交易をめぐる激しい競争を勝ち抜いた軍事集団であり、華北へ進出(これを「入関」とよぶ)した後も皇帝たちは満洲の有力者との闘争を経て権力を確立した。
このため康煕帝は毎年内モンゴルの猟場で狩りを行い、遊牧民社会の首長(ハーン)であることを実証して見せた。また北京の紫禁城では朝早くから起きて儒学の研究に取り組み、漢族社会の伝統から見ても非のうちどころのない皇帝という評価を勝ち取った。さらに彼はヨーロッパの学問にも強い関心を示し、天文学、数学から地理、音楽に至る幅広い学問に熟達した(12)。むろん全ての皇帝が彼のように勉強家だった訳ではなく、奢侈に溺れ政務を顧みなかった皇帝も少なくなかった。だがいかなる相手に対しても優位に立とうとする多民族国家の君主としての康煕帝の緊張感は、天命思想がその内部にかかえた競争原理の産物と見ることが出来よう。
いっぽう天命思想を受容しなかった日本の天皇制はどうだろうか。まず王朝交替を可能にする皇位継承の論理を持たなかった日本では、天皇(大王)の権威を裏づけるものは天照大神(始祖神)から継承された霊威であった。また天皇を「天つ神の御子」と見なす天孫降臨神話は、朝廷を支える畿内の豪族たちの始祖も天孫に含める点に特色があった。だがそれらの神話は中国に比べて民族、言語、文化の差異が小さく、後述のように社会の流動性も乏しかった日本社会においてこそ有効な論理であった。その後畿内を中心とする支配体制は全国に及んだが、近代に台湾、朝鮮といった植民地を獲得すると、天皇の権威をどのように説明するかについて困難に直面することになる。
また日本では王朝交替はなかったが、天皇が常に政治的権力を行使した訳ではなかった。
日本人の読者には言うまでもないことだが、平安中期には藤原摂関家が外戚として実権を握り、院政(上皇すなわち引退した天皇による政権)および武士政権の登場によって天皇のあり方は大きく変容した。とくに江戸幕府が一六一五年に禁中並公家諸法度を制定し、京都所司代を通じて朝廷を厳しく統制すると、天皇は火事などの例外を除いて京都の御所から外へ出ることが出来なくなった。天皇の存在は京都のその周辺の人々には知られていたが、地方の庶民はその存在を殆ど知らなかったという(13)。
みずからは権力を行使せず、それぞれの時代の権力者に征夷大将軍などの称号を与え、権威の源泉として利用される天皇―石井良助氏は第二次大戦以前の津田左右吉や和辻哲郎といった先学の学説を継承しつつ、天皇の「不親政」にその歴史的な特質を見出した(14)。
これに対して吉田孝氏は江戸時代の天皇については確かに「不親政」とも言えるが、そこから直ちに天皇制が古代から現代に至るまで一貫した性格を帯びていたと言えるのだろうかとの疑問を提起している。
そこで改めて日本の王権について考えて見ると、二三九年に魏へ使者を送った女王卑弥呼の邪馬台国は、男の王とその姉妹、娘などによって担われる「複式王権」であった。普段は男性の王が政治を、卑弥呼が祭祀をつかさどっていたが、戦乱などによって男の王が立てられなくなり、卑弥呼やその宗女(父系一族の女性)であった壱与が王となったという。続く大和政権も大王と畿内の豪族から成る連合政権という性格が強く、大王と豪族たちの関係は相互依存的で、中国における皇帝と貴族、官僚勢力との緊張関係とは明らかに異なっていた。
ちなみに古代の日本にしばしば見られる女帝も、こうした王権のあり方と密接に関わっていた。例えば推古天皇は女帝であるが、具体的な政治は彼女の甥に当たる聖徳太子が担っており、そこには卑弥呼時代の複式王権を確認することが出来る。また他の女帝も先の天皇の配偶者か、未婚の皇女が即位するのが通例で、ある特定の候補者(例えば後の聖武天皇)を即位させるためのつなぎ役として女帝(元正天皇)が立つこともあった。それは中国において則天武后が激しい闘争の末に権力を奪取した過程とは全く異質で、天皇と豪族による連合政権だった大和政権の性質がよく現れている。
さらに一一九二年に鎌倉幕府が成立すると、日本は本格的に武家政権の時代へ入った。
だがこの武家の王権は従来の天皇(あるいは院)の王権を全く否定することはせず、重層的に併存しながら、互いに自分の王権の優位を主張するという形を取った(15)。むろん中国でも南北朝時代や五代十国など、複数の王権が並立する情況がなかった訳ではない。だがそれらは中国社会の通念では「大一統(大いなる統一)」を欠いた異常な時代であり、英明な皇帝によって帝国が再統一されることが望ましいと考えられた。少なくとも日本のように複数の王権が重層的に存在する「二重政権」状態が、江戸末期に至るまで数百年にわたり常態化することはなかったのである。
このように考えると、王権をめぐる日本と中国の差異とは、「一君万民」体制による集権的な王権を志向する中国と、王権のあり方がそもそも複合的で、二重政権が自然と受け容れられた日本といった形でまとめることが出来よう。むろん二つの王権はどちらが優位あるいは高度という問題ではなかった。中国の皇帝は社会の承認を得るべく、天下に君臨する圧倒的な権威たらんとして努力を重ねたが、天命思想がかかえる競争原理のゆえに激しい権力闘争を生み、王朝が交替する度に国土と民衆を破滅的な戦乱に巻きこんだ。いっぽう日本の王権はその重層性ゆえに、権力の所在が不明確となりがちであったが、政権交代に伴う社会的なコストを最小限に抑えることに成功した。
さらに王権をめぐる日中間の特質の違いは、両国の文化にも大きな影響を与えたと思われる。多民族社会の中で王権の正当性を主張する必要があった中国では、自らの意図を他者へ明確に伝える文化が発達した。これに対して日本では王権の正当性を説明する差し迫った必要がなく、個人の意志は他者との相互依存的な関係の中で共感、理解されるべきものとされた。崔世広氏は中国文化を「意」の文化、日本文化を「情」の文化と評した(16)が、こうした差異は日本の儒教理解だけでなく、日中両国の王権のあり方が影響していると見ることが出来よう。 
(b)古代の政治・支配制度とその影響をめぐる比較
ここで取りあげるのは日本と中国の政治、支配制度の比較である。日本の古代史について見た場合、唐の司法、行政制度である律令が受容され、七○一年の大宝律令に見られる自前の律令制定によって国家の支配体制が整えられたことは良く知られている。このため日本ではこの時期の政治制度をわざわざ「律令体制」と呼びならわしている。
だがこうした呼称は中国には存在しない。一九七五年に湖北省雲夢県で秦代の律が発見されたように、中国の律令は長い歴史を持ち、とくに刑法である律は清朝末期に至るまで機能したからである。なお日本史の通説では一○世紀に律令体制に一つのピリオドが打たれるが、行政法である令は京都の朝廷を中心に生き残り、形の上では江戸時代まで存続した。これと対照的に中国では各王朝で政治組織が大きく異なり、唐令も宋代の天聖令などに受け継がれたものの、少なくとも明清時代には影響を与えなかった(17)。同じ律令であっても、日中間で長く用いられた部分が異なるという事実が興味深い。
またあらかじめ指摘しておくべきもう一つの点として、この時期に日本が律令を編纂した国際関係史上の意味がある。日本史において唐の制度、文化の受容は天皇を中心とする中央集権的な国家体制作りが目的であり、大宝律令の制定はその一つの到達点を示すものと考えられている。そして石母田正氏らは七○二年に三二年ぶりに送られた第七回遣唐使について、大宝律令の制定を唐に知らせることがその使命だったと推測した(18)。
こうした議論に対して、坂上康俊氏は日本が積極的に大宝律令を中国に紹介することはなかったと反論している。もともと律令は天下に君臨する中国皇帝が制定すべき帝国法であった。冊封を受けた国々は唐の決めた国号や唐の年号を用いることを求められ、例えば新羅は体系的な律令法典を編纂、施行しなかった。日本の場合は冊封を受けていなかったため、年号などの多少の問題は「絶域(王化の届かない遠い外国)」との理由で黙認されていた。だが律令を制定すれば日本の天皇と中国の皇帝が対等であると主張することになり、中国側が容認出来ないばかりか、使節の派遣を「朝貢」と考えていた日本側としてもありえないことだったというのである(19)。
この論争は唐代における律令制度の比較が、中国文化の影響を受けながらも一定の自立性を保とうとした日本との関係において成り立つテーマであった可能性を示唆している。
また同じく唐の周辺諸国でも、突厥やウイグルなど遊牧・牧畜の優越した社会では律令が受け入れられなかった点に注目し、朝鮮、日本、ヴェトナムなど農耕が優越する同質の社会において律令が普遍性を持っていたとする見解もある(20)。もっともその全体像については、紙幅の制約もあって詳述する余裕はない。ここでは日本の班田収授法と中国の均田制を取りあげることで、当時の両国民衆の生活ぶりを比べてみよう。
班田収授法と均田制は共に土地公有制の理想のもとで、農民に耕地を均等に分配して再生産を保障し、その見返りに様々な税役を負担させるシステムであった。班田収授で良民の成年男子に支給される口分田は二段(約二三アール)で、女子にはその三分の二が与えられた。これに対して隋唐の均田制では成年男子に一○○畝(約五八○アール)が与えられる。女子への給田が行われないことを差し引いても、その面積は日本の場合に比べてかなり広い。また一○○畝の内訳は口分田が八○畝、代々農民側に残る永業田が二○畝とあるように、均田制では全ての耕地を給付と返還の対象とした訳ではなかった。
次に税制について見ると、その基本が租・庸(力役)・調であることは日本、中国共に代わらない。日本の租は一段あたり二束二把(約四合程度)のイネを徴収したが、唐代の均田制では粟(籾殻つきの穀物)二石を納めた。中国は国土が広く、栽培される穀物も地域によって多様だったためである。もっとも当時の日本人がもっぱら米を作り食べていた訳ではない。口分田の収穫から租を納めた残りは、一日当たり四○○グラム程度で、とても主食をまかなえる量ではなかった。当然人々の食生活はイネ以外の雑穀に大きな比重を置いていたと考えられる。
続く調は現物納の税負担で、唐では絹二丈と綿三両(または布二、五丈と麻三斤)と決められていたが、日本では地方の行政単位である郡ごとに繊維製品または地域の特産品を納めた。当時の日本では令に記された規格通りの織物を作る道具や技術が一般に普及しておらず、在地の行政官である郡司の主導のもとで一括生産する必要があったからである。
また庸は唐のばあい労役二○日またはそれに代わる絹、布、日本では労役一○日に替わる布二丈六尺(七、七メートル)が徴収された。
これらの税徴収の基礎台帳となるのが戸籍であった。戸籍の作成は唐が三年に一度、日本が六年に一度であったが、実際に日本の郡では課税台帳となる計帳(厳密には歴名)が毎年作成されていた。これは戸ごとの構成員を記した名簿で、名前、年齢だけでなくホクロなどの身体的特徴まで記入されていた。いっぽう唐の戸籍は多くが戦乱によって散逸したが、シルクロードの拠点であった敦煌、トルファンなどの辺境の文書が今日まで伝えられている。それらは家族構成の詳細なデータだけでなく、所有する土地の面積が資産額に応じた九等のランク(戸等)と共に記入されていた。また家族構成は三名から五名、一組の夫婦に子供二人、老人一人といったケースが多く、儒教的な立場から賞賛された大家族主義を実行するのは難しかったことがわかるという(21)。
以上唐と日本の土地および税制度を簡単に比較したが、その内容にはかなりの違いがあったことがわかる。唐の均田制では永業田の所有とその売買を認めていたが、日本は永業田の制を継受しなかった。また唐の口分田は受田可能な面積の限度額を示したと考えられる(これを限田説という)のに対し、日本のそれは実際に支給する面積であるという大きな違いがあった。さらに農民たちが支給額を超える土地を所有していたり、開墾したりした場合、これを制度的に吸収する余裕がなかった。このため日本の班田収授制は均田制を受容したものではなく、中国古代の井田制の理想をそのまま実現しようとするものだったという説もある。渡辺晃宏氏はこうした班田収授法の特質について、中国の制度が持つ懐の深さを無視して、あまりに律儀に制度化した結果、融通の利かない体制を作ってしまったと指摘している(22)。その問題点は七四三年に開墾地の永久私有を認めた墾田永年私財法および荘園・公領制の展開となって現れたのである。
またこれらの税の徴収過程は、日中両国の政治体制の特質を明確に浮かびあがらせている。例えば日本の租は最初の収穫を神に捧げる初穂儀礼に起源をもち、在地首長層に対する貢納に転化したものであった。このため徴収されたイネを中央へ運んで財源にすることは出来ず、律令政府は地方に倉を立てて中央から派遣された国司に鍵を管理させた。同じことは計帳の作成にも当てはまり、中央は畿内以外の諸国から個人の名簿を提出させることが出来なかった。
すでに述べたように日本の大和政権は天皇と畿内の豪族による連合政権であり、畿内以外の各国には郡司となった旧首長たちの影響力が強く残っていた。律令政府も畿内以外の各国を完全に掌握することは出来ず、それがイネの取り扱いをめぐる中央と地方の綱引きとなって現れた。いっぽう均田制の場合には唐の主要な支配地域で実施された痕跡が見あたらず、法規は作られても実行されなかったとする具文説を唱える研究者もいる。敦煌やトルファンの事例にも規定から外れた内容が多く、均田制が全国一律に運用されなかったことは確実で、中国社会の多様性がよく現れていると言えよう。
ちなみに日本の調、庸は中央の財源となったが、その輸送を担当するのが運脚とよばれる労役であった。また中国、日本共に地方政府が徴発する雑徭と呼ばれる労役があり、本来は貧民救済や飢饉対策として置かれた公出挙(イネの貸付け、日本)や義倉(唐)も事実上の税となった。さらに兵役も当時の民衆が課された労役の一つであった。
唐の軍事制度は府兵制と呼ばれ、従来兵士は武器、食糧を自弁するなど重い負担に苦しんだとされてきた。だが実際には将校として昇進するチャンスもあり、その家族は租庸調を免除されるなど有利な部分もあった。また北方の辺境防衛に当たる兵士を防人と呼んだが、日本でも六六三年の白村江の敗戦後に唐の進攻にそなえて九州北部の警備にあたる防人が置かれた。彼らの多くは九州から遠く離れた東国から徴発され、家族との再会を果たせずに異郷で命を落とした。対外戦争が民衆に多大な犠牲を強いるのはいつの時代も変わらないのである(23)。
ところでこうした古代の政治、支配制度はその後の日中両社会にいかなる影響を与えたのだろうか。日本では一九六○年代の高度成長期に入るまで、班田収授のために施行された土地区画である条里制が田圃の区画として生きていた。だが中国の場合は均田制がどこまで実行されたか不明で、その後大きな戦乱が繰り返されたという事情も手伝ってその痕跡を見出すことは難しい。むしろ現在中国の農村を調査して確認されるのは明代の里甲制度の影響であるという。
いっぽう日本では、律令政府が作った政治、支配制度は日本人の自己認識に深い影響を与えた。日本が「瑞穂の国」すなわち水稲耕作を基盤とする均質な農業社会であり、そこに生きた日本人とは民族的に単一な農民のことであるという常識が生まれたのである。日本史研究においてこうした日本認識を「思いこみ」による虚像と批判したのは網野善彦氏であった。
網野氏は次のように述べている。考古学や民俗学、言語学の成果を踏まえて考えると、日本列島は古来東と西(あるいは南北)で人種、言語、文化の異なる多様な社会であり、中世においても稲作以外の生業に従事する様々な職人集団や女性が活躍していた。だが日本の歴史学者は、「日本」の国号が生まれた七世紀に実施された律令制度を研究する中で、日本が天皇の全国支配のもとで一律に口分田を与えられ、イネを作る班田農民(特に男性)からなる均一な「島国」社会であるというイメージを作り出した。また畑作の多い東日本を稲作中心の西日本に比べて「遅れた」発展段階にあるとか、非農業民を研究対象からはずすことで、先のイメージに合わない史実を従属的に位置づけたり、例外として切り捨ててしまったという(24)。
この網野氏の問題提起は、これまで通説とされていた日本史像に対する大胆な挑戦であった。中国人の読者からすれば、国土の狭い日本の習慣が実は多様であり、一律な社会ではないという事実そのものが新鮮に映るかも知れない。さらに日本の古代史研究者からは、律令国家が成立したから日本全体が均一な社会になったという決めつけでは済まない。多様でありながらも、総体としては共通の特色をもつ日本という社会がどのように成立したかを明らかにすべきだという反論がなされた(25)。
それでは日中の比較社会史という視角から、この網野氏の議論をどのように捉えることができるだろうか。まず日本の古代史に戻ってみると、東西日本の差異とは天皇と畿内豪族による畿内政権が全国を支配していった姿に重なると考えられる。これを中国の歴史に当てはめるとすれば、古来諸王朝の首都として栄えた華北(あるいは「中原」)と漢民族の南進に伴って開発されたフロンティアの華南の差異を想起させる。
一一、二世紀の西日本には神人、供御人と呼ばれる人々がいた。彼らは諸国を自由に通行する特権を与えられ、天皇や神仏(寺院)に直属して奉仕する職能民であったが、その背景にはある官職を特定の親族集団(あるいは家)が世襲的に継承する「職の体系(官司請負制)」と呼ばれる体制があった。こうした職能集団は古代の氏姓制度の系譜を引き、律令時代の政治制度が変容する中から現れたが、いずれにせよ畿内政権の基盤であった西日本において特徴的な制度であった。
これに対して東日本では「職の体系」はきわめて未発達であった。この地域で主流だったのは惣領と呼ばれる一族の長が将軍の御家人となる主従制であり、その背後にあるのは東国武士団をささえた同族結合であった。中国の場合こうした同族結合は、古代中国文明の中心地だった華北よりもフロンティアだった華南に多く見られる。王朝政府の庇護やサービスが得られない中で、先住民族の抵抗を抑えつつ入植活動を進め、開墾事業を行うためには凝集力の高い人々の結束が必要だったからである。その結果江蘇、浙江から福建、広東など華南の広範な地域において父系出自集団である宗族組織が発達した。
またフロンティアは経済的な後進地であることを意味しなかった。魏晋南北朝に開発の進んだ江浙デルタ地区は、宋代には「江浙熟すれば天下足る」と言われたように穀倉地帯となり、さらに時代が降ると商品作物の生産地として発展した。日本の場合、東日本の荘園・公領は西日本に比べて規模が大きく、律令時代の行政単位から転化した郡、条、院がそのまま荘の単位となっていることが多かった。また西日本では「本百姓」「長百姓」と呼ばれる有力な百姓たちの横の連帯が強固だったのに対して、東日本では郡司、郡地頭となった有力豪族が地域の経営を請け負い、自らの一族や従者を郡内の各地に配置して、一族と主従関係を通じて郡全体を管理する体制を取った。こうした東国社会の特質はフロンティアとして開発された結果と見ることが可能であろう。中国でも江浙や台湾の開発は巨大な資本によって耕地を独占した商人によって進められたからである。
ちなみにこうした東西日本の差異は、東日本が主従関係と同族結合をベースとした「タテ」「イエ」社会、西日本が年齢階梯制のような村人の連帯を軸とした「ヨコ」「ムラ」社会として現在も続いているという。また網野氏の指摘の中で見逃してならないのは被差別部落の問題である。様々な職能民がいた西日本ではケガレを清めることを仕事とする非人、河原者といった人々がおり、一七世紀以後に被差別民として固定されたが、東日本にはこうした人々は少なかった(26)。
中国では長く奴僕の制度があり、広東の水上生活者である蛋家などの被差別民も存在した。だが社会変動の幅が大きかった中国では、ある集団が制度的に賤民と位置づけられて世襲的な差別を受けた例は必ずしも多くなく、その人口比率も一パーセントに満たなかった(27)。さらに中国ではマジョリティであった筈の漢族でさえ、常に周辺諸民族に対して優位に立っていた訳ではなかった。賈敬顔氏の研究によれば、唐や五代十国には「漢人」が罵り言葉の意味で用いられた。現在も「痴漢」「悪漢」「大食漢」など、「漢」のついた語彙にマイナスの意味を含んだケースが多いのはその影響であるという(28)。 
二、身分制度と社会の流動性をめぐる比較
(a)武人政権と科挙制度、知識人のあり方をめぐる比較
中国で唐が滅亡し、五代十国を経て宋朝が成立した一○世紀は、東アジアの諸国にとっても大きな変動期であった。日本では古代律令国家が転機を迎え、朝鮮半島では新羅が滅亡して高麗に代わった。さらに東北アジアでは渤海が滅亡し、東南アジアではヴェトナム(呉朝および丁朝)が中国の支配から独立した。ちなみにモンゴルが滅亡した一四世紀には明(中国)、室町幕府(日本)、李朝(朝鮮半島)が成立し、一七世紀には清(中国)、江戸幕府(日本)へと変わった。これらの事実は当時の東アジア世界が互いに密接に影響し合いながら、一つの共通したサイクルで動いていたことを物語っている。
さて一○世紀の東アジアにおける社会変動を特徴づける一つの現象は、武人政権の登場であった。中国の場合その原型は辺境防衛のために設置された節度使であり、安史の乱(七五五〜七六三年)以後には内地にも置かれ、観察使を兼任して軍事・民政を掌握した。これを藩鎮と呼ぶが、彼らは黄巣の乱(八七五〜八八四年)後に軍閥化して争うようになった。その一人であった宣武節度使の朱全忠が九○七年に唐を滅ぼし、後梁を立てたのは良く知られている。その後各地に分立した王たちは出身こそ様々であったが、いずれも親軍・禁軍などの軍事力を背景に統治した。九六○年に宋を建国した趙匡胤(太祖)もこうした武人皇帝の一人であった。
次に日本の場合であるが、これまで武士は地方豪族や有力農民が開発した土地を守るために武装した在地領主であると言われてきた。だが近年の研究によって、彼らの起源は天慶の乱(九三九〜九四一年)の鎮圧に功績をあげて「武」の異能者として特別視され、都の警備を任されるようになった皇親の後裔(源氏と平氏)、あるいは犯人追捕や反乱鎮圧を行う国衙軍制出身の世襲的な戦士と考えられるようになった(29)。むろん武士たちが政治的実力を伸ばすうえで、院政、平氏政権および鎌倉幕府の成立が重要な役割を果たしたことは言うまでもない。ただし幕府創設当初の武士政権はなお京都の公家政権よりも下位にあり、これが対等な立場に立ったのは一二二一年の承久の乱以後のことであった。
さらに日中の比較社会史からは外れるが、武人政権という点では一二世紀の高麗に成立した武臣政権を挙げることができる。これは文班(朝鮮の特権身分である両班の一つ)官僚の権力独占に対する反発によって生まれた政権で、しばしばクーデターを起こして文臣を駆逐し、武臣同士の抗争を経た後に崔忠献が武臣のリーダーたる教定別監に就任した。
またモンゴルの高麗進攻に対して頑強に抵抗した三別抄はこの武臣政権の直属軍であった。
これら三つの武人政権はどのような違いを持っていたのだろうか。高橋昌明氏によると、高麗の武臣がかかえる私兵組織である都房は日本の平氏や源頼朝の御家人組織と比較できるという。だが武臣と都房の間には、源頼朝と御家人の間でおこなわれた「御恩」にあたる土地給与(本領安堵と新恩給与)の事実が確認できない。また鎌倉幕府が平氏政権の失敗から、軍事警察以外の朝廷の政務に介入しない原則を作ったのに対して、武臣政権は軍事以外のあらゆる政務を担当した。その結果教定別監の下には多くの文官が勤務しており、かえって旧来の門閥=文臣によって排除されていた武臣や地方郷吏出身の有能な知識人に活躍の場を与えたという。
いっぽう中国の節度使・藩鎮政権について見ると、彼らは親軍・禁軍将兵との間に仮子、義子といった擬制的な親子関係を築くことで結束を強化した。だが私的な関係をベースとした君主の権力は不安定で、代替わりの時に新旧の家臣団の間で内紛が発生し、王朝の内部崩壊を招いた。鎌倉幕府の御家人も源頼朝に忠誠を誓う私兵集団ではあったが、彼らは内裏の警備にあたる京都大番役などの「奉公」を通じて公的な軍事組織としての側面を持ち、侍所を初めとする自前の政治組織を作っていた。このため源氏将軍が断絶した後も、「鎌倉殿」を中心とする主従体制は揺るがなかった。
また節度使や藩鎮の下には幕職官と呼ばれる文官がおり、武人皇帝の諸王朝も旧来の官僚機構をそのまま継承した。九○五年に朱全忠は唐朝貴族の生き残りを殺して黄河に投げ込んだ(白馬の禍)が、旧来の門閥貴族が淘汰された結果、武人政権の国家運営はますます新興の儒教的知識人(文人)に依存することになった。いっぽう武人皇帝の中には積極的に文人と交わり、儒教的な規範を学習することで、支配者にふさわしい有徳者という評価を勝ちとろうとする者も現れた。また彼らには武人としてのアイデンティティの形成は見られず、社会的な評価に堪えうる固有の規範も生まれなかった。日本の武士が「兵の道」に代表される独自の価値規範を持ち、犬追物に見られる大がかりな武芸の鍛錬によってその存在感をアピールしたのとは対照的であると言えよう(30)。
さて宋の太祖は皇帝権力の強化を図るべく、節度使の軍事権を取りあげて文臣による官僚体制を整えた。文臣官僚の供給源となったのは官吏登用試験である科挙制度であったが、日本がこの科挙制度を受容しなかったことは日中両国が性質の異なる社会となるうえで大きな役割を果たした。
ここで科挙制度の概略について見よう。科挙は隋代に始まり、唐代の則天武后の治世には作詞を含む教養試験だった進士科の合格者が官僚として多く用いられた。だが唐代は貴族勢力がなお健在であり、科挙が本格的に機能するようになったのは宋代からである。太祖はそれまでの解試(地方試験)、省試(中央礼部の試験)に皇帝みずからが行う殿試をつけ加え、最終合格者の決定権を皇帝が握るというシステムを作りあげた。その後科挙が形を変えつつも、元代の一時的中断を除いて清末の一九○五年まで存続したことはよく知られている(31)。
次に科挙制度が中国社会に与えた影響と日本との差異について考えたい。科挙は立前のうえでは万人に門戸が開かれており、試験に及第すれば「昇官発財」すなわち官僚となって財産を築く道が約束されていた。むろん教育機関が未発達だった当時は長期にわたる試験勉強に巨額の費用がかかり、有力者の子弟でなければ合格などおぼつかなかった。また一八世紀まで奴僕など賎民階級の人々は受験の資格が与えられず、受験時に身元保証人が必要とされたために、地元の有力者とつながりを持たない移民(例えば広東西部の客家)は受験が認められないケースもあった。
だが恩蔭制度による例外を除いて権力の世襲を認めず、試験の結果によって官僚に登用するという実力本位のシステムは、社会階層の流動化を大いに推し進めた。それは武家政権の時代に入って「イエ」による職能請負制が確立し、下剋上の時代を経た後に再び士農工商の身分制度が強化された日本社会との大きな違いであった。王朝交替がくり返された中国と、天命思想を受容しなかった日本の王権をめぐる差異にも当てはまるが、身分や社会の流動性という点で両国には大きな隔たりが生まれたのである。
また科挙制度は政治的上昇のチャンスが均等に与えられるという共同幻想を生み、熾烈な競争が生まれた。人々はフロンティア開発の主体ともなった宗族組織に結集し、教育施設(私塾)や有能な成員に対する資金援助(義荘)の制度を整えた。貴族の世襲的な特権が失われる中で、有力者たちにとって科挙合格者を継続的に生みだすことが政治、社会的な発言権を維持するうえで不可欠となったためであった(32)。
むろん宋代の科挙試験は受験生数十万人に対して合格者が数百人という狭き門であり、時代が降るにつれてその競争倍率はさらに上がった。合格者の平均年齢は宋代でも三六歳であり、明清時代の最も著名な宗族であっても八世代続けて科挙合格者を生み出すことはできなかったという(33)。また科挙制度は失敗者に対する救済措置を欠いていたため、競争の激化は人的エネルギーを浪費させただけでなく、社会に大きなストレスを抱え込ませた。合格を断念した学生たちは地域社会で一定の影響力を行使したり、他の官僚のブレイン(幕僚)となることに活路を見出したが、中には太平天国運動(一八五○〜一八六四年)の指導者だった洪秀全のように王朝の打倒をめざす者も現れた。
科挙制度が中国社会に与えた影響について、最後に挙げるべきは儒教的規範をベースとした帝国の統合と価値観の一元化である。中国の辺境諸省には風俗習慣や宗教の異なる様々な少数民族がおり、王朝政府は彼らの科挙受験を奨励した。とくに清朝は苗学額などと呼ばれる少数民族専用の科挙定員枠を設け、受験勉強を通じて少数民族に漢文化を受容させようと試みた(34)。
日本人の阿倍仲麻呂が唐代の科挙に合格し、高官に取り立てられたエピソードは有名であるが、科挙は儒教的規範さえ習得すれば受験生の出身民族や人種にこだわらないという包容力を持っていた。歴代王朝は周辺民族を統合する吸引力として科挙制度を活用することで、巨大な版図の形成とその安定的支配に役立てたのである。
だが一方で科挙は国家公認のイデオロギーである儒教(明代以後は朱子学)を人々のあいだに浸透させ、一元的な価値観によって社会を統制するという機能を果たした。とくに科挙制度を通じて学者と官僚、儒学と権力が密接な関係を持ったことは、科挙エリートである知識人に国家運営の担い手としての強い自負を育てると共に、中国文化そのものが政治と切り離せない特質を帯びることになった。
いっぽう日本の場合はどうだろうか?科挙制度を受容しなかった日本では、人々が政治的上昇をめざして競争するチャンスもなければ、儒教が社会に浸透することもなかった。
江戸幕府は天下統一後の秩序安定のために朱子学を採用し、昌平坂学問所を設立して儒学の振興を図った。だが一八世紀初めに正徳の治を行った新井白石など僅かな例外を除くと、日本の儒者が政治に参与するチャンスは与えられなかった。江戸時代の儒者は出身も様々で、彼らの治めた学問は「遊芸」すなわち一種の教養として受けとめられていた。
政治的には不遇だった日本の儒者であるが、彼らの学問は特定の「正統」に固執する必然性がない分だけ多様であった。陽明学や考証学に打ちこむ者もいれば、当時の日本の常識的な道徳意識との接合を図る者も現れた。また儒学の多様化は国学、蘭学など儒学以外の思想潮流を導き出し、それらが相互に影響し合う情況を生んだ。水戸彰考館の儒学者たちが天皇を政治的統合の中心として仰ぐ尊皇攘夷思想を唱えたり、ヨーロッパの技術を必要に応じて学ぶ和魂洋才が叫ばれた背景には、こうした学問の多様化が深く関わっていたのである(35)。それは近代化への改革を進める最中も、儒学的「正統」に対する信頼だけは揺るがなかった中国の洋務派官僚たちとの大きな違いであった。
ところで本節の前半で取りあげた「武」の問題は、その後いかなる展開を辿ったのであろうか。宋代以後の中国では科挙官僚を中心とした文治統治が行われ、軍人は文官のコントロール下に置かれた。明代の武官は世襲制で、清代には武芸や必要最低限の知識を問う武科挙が実施されたが、彼らの地位は高くなかった。むしろ「よい鉄は釘にしない、よい人間は兵隊にならない(好鉄不当釘、好人不当兵)」といった言葉が示すように、軍人は社会的に疎まれる存在であった(36)。それは科挙制度の生んだ一元的な価値観がもたらした弊害の一つであった。
これに対して日本では、武家政権が一八六七年の江戸幕府の滅亡まで六五○年以上にわたって続き、社会における「武」の優位は明らかであったように見える。だが大多数の日本人は豊臣秀吉の刀狩りによって兵農分離が行われて以後、庶民のレヴェルでは「武」とくに刀や鉄砲といった武器の所有、使用とは無縁であったと考えている。いわゆる「丸腰の民衆」像である。こうした日本人の自己認識は、倭寇や秀吉の朝鮮出兵などの影響によって、日本イコール武力優先の危険な国というイメージを抱いた近世・近代初頭の中国人の日本観と大きく隔たっている。
それでは実態はどうだったのか?藤木久志氏によれば、一六世紀の日本人は武士、庶民の区別なく大小の刀(刀と脇差)を身に帯びていた。男子が帯刀することは成人の証であり、村人が鳥獣の駆除や治安の維持に武力を行使することは「自検断」として広く認められていたからである。また豊臣秀吉の刀狩令は帯刀の権利を原則として武士のみに限ったが、村に武器があることは禁止せず、百姓・町人が脇差を差すことも認めていた。また鉄砲は時代と共にかえって増加する傾向にあったという。
だが当時の日本人はこれらの武器を使うことを自ら抑制した。そのきっかけは秀吉の出した喧譁停止令(一五八七年頃)であり、戦国時代の苛酷な内戦と武力の応酬に疲れた人々は、紛争解決の手段として武器を使用することを封印したという。さらに徳川幕府や諸藩もこの新たな慣行を尊重し、百姓一揆の場面でも一揆側が武力を行使しない限り発砲しなかった。つまり江戸時代の日本は武士の時代でありながら、自律的な武器制御の作法を持った社会だったのである(37)。
日中両社会の比較という視点から見た場合、上記の事実は改めて日本が社会変動の幅が小さく、コンセンサスの取りやすい社会であったことを教えてくれる。近代以前から日本は明文化された規定がなくても様々な社会的規範が存在し、それらを遵守することが求められる社会であった。またそれらの不文律は「ウチ」つまり日本人を対象としたものであり、「ソト」である外国人には必ずしも適用されなかった。中国人が日本社会とつき合うことの難しさは、こうした「見えないルール」にあると言えるだろう。 
(b)移住と社会結合、民衆宗教をめぐる比較
ここまで本章では日中両社会の特質として、身分や社会階層をめぐる流動性の違いについて検討した。本節は空間的な流動性すなわち移住をめぐる差異から話を進めたい。
すでに述べたように、中国社会は漢民族の周辺地域に対する移住によってその領域を広げてきた。とくに華南諸省への移住は、華北が王朝交替や北方民族の進入によって混乱する度に入植地の開発を伴いつつ進められた。例えば江浙地方の開発は魏晋南北朝時代に始まり、五代十国の諸王朝は揚子江下流域に大規模な水利施設を構築した。時代が降るにつれて漢族の入植先は福建へ向かい、明代には広東の珠江デルタ地区の開発が行われた。移住の波は内陸の各省にも及び、明清時代には江西から両湖(湖北、湖南)、四川および雲貴(雲南と貴州)へと広がった。
こうした移住を促す要因となったのが中国の人口増加であった。もともと中国の人口は長い間六五○○万人前後で推移し、一六世紀頃にようやく一億人を超えたに過ぎなかった。
だが温暖な気候と政治的安定が重なった一八世紀には、人口も一億五千万人から三億人に倍増した。これらの人口を吸収したのが従来手つかずであった山間部や辺境の少数民族地区であった。また開発が頭打ちとなって余剰人口に苦しんだ福建と広東の人々は、かつてフロンティアだった時代に培ったノウハウを生かして海外への移住を試みた。東南アジアを初め世界各国に散らばる華僑は多くがこの地域の出身であった(38)。
いっぽう日本はどうであろうか。歴史人口学の成果によると、一六世紀の日本の人口は一五○○〜一六○○万人であったが、一七世紀に新田開発や都市の成長によって三○○○万人に急増した。しかし中国で人口爆発の起こった一八世紀には、増減をくり返しながらも三○○○万人の水準で停滞した(39)。また移住という視点から見ると、江戸時代の日本も都市や他の村へ奉公に行くなどの人口流動が盛んであった。だが少なくとも中国のような大規模な移民活動は生まれなかった。
これらの違いはどのようにして生まれたのだろうか?両国の地理的サイズという問題を除いた場合、まず手がかりとなるのは相続制度をめぐる差異であろう。江戸時代の日本とくに東日本は長子(一子)相続であり、跡取りとなった長男が財産の大部分を相続することで直系家族である「家」の存続を図っていた。残りの息子たちは奉公に出るか、新たに屋敷を設定して「分家」となり、嫡系の「本家」に対して従属的な関係を結んだ(40)。
だが奉公先の都市とくに一八世紀の江戸は男性が過剰な社会(男性三二万人、女性一八万人)で、結婚のチャンスは少なかった。また衛生状態の悪い都市の死亡率は高く、低所得などの原因で出生率も低かったため、「蟻地獄」と言われるほどに農村人口を吸収し、全体の人口増加を押しとどめる効果を果たした。また農村に残って分家となった人々は保有する耕地が少なく、他の下層農民(耕地を持たない無高や小作人)と同じく家系が断絶することが多かった。結婚年齢が遅く、貧困のために意図的な出産制限(間引き、子返し)をすることが多かったためである(41)。結果として農村の余剰人口は常に淘汰され、大規模な移住が行われる必然性もなかったと考えられる。
これに対して中国は徹底した均分相続であった。中国では子供夫婦がそれぞれ親から離れて自立した生計を営むことを「分家」と呼ぶが、分割にあたって嫡子かどうかの区別はなく、耕地以外の財産や自立以前にかかった教育費など細かな部分に至るまで取り分が均等になるように計算された。また自立した各分節(これを房と呼ぶ)間の関係も平等で、日本のように本家が強い発言権を持つこともなかった(42)。むろん均分相続である以上、世代が降ると共に一家族当たりの相続分は減少した。言いかえると中国の相続制度は常に移住による新たな耕地の獲得を義務づけられていた。
さらに香港新界でフィールドワークを行った文化人類学者の瀬川昌久氏は興味深い指摘を行っている。広東の宗族では長期にわたり海外へ出稼ぎに行った人間が、宗族成員としてのメンバーシップを失わないという(43)。彼らは往々にして家族を故郷に残し、海外からの送金によって宗族への義務を果たしていると見なされるためである。また中国の宗族は村落をはるかに超えた規模で形成されるのが普通であった。
これに対して日本では同族の範囲が極めて狭く、同じ村に継続的に住み、本家・分家として庇護と奉仕の関係を築いた者の間に限定された。村落外へ転出したり、他村で家を創出した者は同族の一員と見なされなかった。元々日本では「ムラ」すなわち村落組織の結束が強固で、共有地である入会地を持ち、用水の管理や冠婚葬祭、宗教行事も村落を単位に行われたからである。また日本では「村八分」という制裁措置が存在したが、村落内での社会関係を喪失することは最も忌避すべき事態と考えられていた。つまり日本では父系原理の拡大が居住によって阻止され、一度外地へ出ればメンバーシップを失うために後戻りが利かなかった。日本は中国に比べて移住することのリスクが遥かに大きな社会だったのである(44)。
こうした移住をめぐる日中間の差異は、人々が作り出す社会関係や行動様式にも大きな影響を与えた。国内外に関わりなく、中国人の移民活動は多くが宗族や同じ方言を話す同郷人のネットーワークを頼って行われた。移民たちは入植先に会館、公所と呼ばれる同郷団体を作って相互扶助を行うと共に、特定の神々を崇拝してその結束を強化した(横浜中華街にある関帝廟はその一例である)。また会館は特定の職種を独占する商工業ギルドでもあり、移民たちは会館を通じて身元を保証され、商業活動や入植事業について情報を得ることができた(45)。
また中国では移民たちが成功のチャンスを広げ、没落の危険を回避するために多様な事業を兼営することが行われた。羅香林氏は移民とくに客家の特徴として「農工商学仕兵など種々の異なる業務を兼営する」ことを挙げ、「客人の家庭は複式組合とも言うべきもので、専門の家業はなく、一二の純粋な商家や工の家、或いは官僚の家柄を探すのは容易ではない」(46)と述べている。こうした傾向が生まれた理由として、科挙制度の影響によって社会階層が流動性を帯び、人々が特定の職業的身分を持つことがなかった点を挙げられよう。
これらネットワークを活かした強固な社会結合と柔軟な行動様式は、中国社会の大きな特徴であったと考えられる。
これに対して日本は一六世紀に海外貿易が盛んに行われ、東南アジアに多くの日本人町が生まれた。だが一七世紀に江戸幕府が日本人の海外渡航および帰国を禁止すると、近代にハワイへの移民が行われるまで海外への移住はほぼ断絶した。また江戸時代は士農工商の身分が原則として固定されており、職業も世襲されることが多かった。もっともそれは日本語でいう「職人気質」すなわち手工業者などが自分の職種にプライドを持ち、その技術に磨きをかける一種の職業倫理を生んだ。こうした意識は農民を含む多くの日本人に共有され、後に魯迅が「日本人の長所は何事によらず、文字通りの命がけでやる真面目さにある」(47)と評した、几帳面さを重んじる社会風土を育てたと考えられる。
ところで日本と中国の社会を比較する時、見逃せないのは民衆反乱および民間宗教の性質をめぐる違いである。中国では秦末の陳勝、呉広の乱以来、王朝末期に巨大な反乱が多く発生した。とくに後漢末の黄巾の乱における太平道、元末の紅巾の乱における白蓮教など宗教結社が母体となった反乱が発生したことで知られている。
これに対して日本では室町から戦国時代にかけて土一揆が起こり、一向一揆など宗教組織が関わった反乱も発生した。だが江戸後期に成立した天理教、丸山教などの民間宗教の多くは、百姓一揆や世直しの民衆運動と直接の関係を持たなかった。むろん現在の中国では「農民戦争」を歴史の原動力として評価するよりは、反乱の破壊的な側面を強調することの方が多い。だが中国でこうした反乱が多く発生したのは事実であり、日中の比較をすることで冷静な議論が可能になると思われる。
そこで反乱発生の原因について考えると、本章が検討してきた社会の流動性をめぐる差異が大きな影響を与えていることは否定できない。小島晋治氏によれば、中国は日本に比べて地縁結合が弱く、村落を「共同体」たらしめる物質的な諸条件を持っていなかった。また土地の売買が盛んであり、均分相続であったために農民層の下層への分解が起こりやすかった。さらに国土の広い中国では自然災害の被害も大きく、没落した農民が大量に流民化するケースがしばしば見られた(48)。
これら中国の下層民衆が直面していた不安定な生活ぶりを、最もよく示すのは白蓮教などの民間宗教が説いた末劫思想であった。これは一種の仏教的な終末思想で、日本でも一一世紀に末法思想が浄土教と共に広がりを見せた。だが中国の末劫思想はカタストロフの描写において生々しいリアリティを持っていた。例えば『龍華経』という経典の一節は「山は揺れ地は動き、黄河は氾濫して人々は溺死する。蝗が天を蔽い、雨が降り続き、家は倒壊して身の置き場もなくなる」「人民は互いに食い合って餓死し、夫婦といえども相い顧みない」(49)と記している。王朝交替の度に激しい社会動乱を経験してきた中国の民衆にとって、これらの内容は決して絵空事ではなかったという。
これに対して日本の民間宗教には終末思想と呼びうる言説が殆ど見られなかった。中国では末劫のカタストロフを救済するのは弥勒仏の転世(ないしは下生)とされていたが、日本のミロク信仰には「弥勒転世」の観念が見られない。また「ミロクの世」という言葉は江戸時代の日本で広く流布していたが、それは「豊作の世」を意味しており、宗教的な内容を殆ど喪失していた(50)。その背景には一六一五年に豊臣氏滅亡を最後に戦乱が収まり(元和偃武)、江戸幕府の農村統制策によって人々の移動や社会の流動化が抑制された日本の情況があったと考えられる。
また白蓮教では転世する弥勒仏がみずから地上の支配者となるのではなく、清朝皇帝と異なる「真の命をうけた天子」による新王朝(復興された明朝)を補佐するものと考えられていた。このため白蓮教の蜂起時には皇帝を名乗る「牛八(明朝王室の姓である「朱」を分解したもの)」なる人物が現れた。また白蓮教以外の諸教派でも会員たちに高位高官への政治的上昇を約束することがしばしば行われた。
だが日本ではこうした現象は絶えて見られなかった。日本は天命思想も科挙制度も受容しなかったために、王朝交替を可能にするロジックがなく、また身分制度の枠組みを超えて階層移動が起こるという発想がなかったためである。じじつ日本の百姓一揆では農民が年貢の減免といった経済的要求をすることはあっても、大名や武士への身分的上昇を要求することはあり得なかった。逆に中国の民衆反乱では、農民が農民としてのアイデンティティを維持しつつ、農民の地位を制度的に改善し、それを可能にする政治権力の確立をめざす動きは殆ど起こらなかった。小島晋治氏はここから中国の農民反乱をドイツ農民戦争と同じく「農民戦争」という枠組みで評価することはできないと述べている(51)。
最後にこれら末劫思想に見られる救済の言説を通じて、人々が懐いていたユートピアの差異について考えたい。中国では前近代、近代を通じて理想とされたのは儒教の大同思想であった。大同とは人々が一切の「私心」を排し、相互扶助の行きわたった調和的な社会状態のことで、近代の康有為、孫文、毛沢東といった改革・革命指導者は多くがこの思想に影響を受けた。太平天国が提起した『天朝田畝制度』もこうした大同ユートピアの表現であり、全ての男女に均等に耕地を割り当てて「一人残らず暖衣飽食できるようにする」(52)と述べている。
現在の中国では一九五○年代の大躍進政策や人民公社の制度に対する反省から、こうした社会建設のプランを平均主義または農業社会主義と呼んで批判している。そこでは平均ユートピアは視野の狭い小農経済の「立ちおくれた」思想であり、商品生産という発想を欠いていたために、社会に破壊的を影響もたらしたとされている。だが孔子の「乏しきを憂えず、均しからざるを憂う」という言葉に代表されるように、もともと中国の伝統思想は経済の発展による富裕化という発想を欠いていた。また平均主義を主張したのは多くの場合知識人であり、これを「小農の思想」と批判するだけでは中国でなぜこうしたユートピア像がくり返し提起されたのか説明がつかない。
一八三三年に安徽のある読書人が社会改革のプランを北京の都察院に提起した。彼は反乱発生の原因を大土地所有の展開と貧富の差の拡大に求め、国が耕地を買い上げて人々に均等に分配することにより、井田法を復活させるべきだと訴えた。また彼はその経費として交鈔制度にならった約束手形を発行し、徴税時に少しずつ手形を回収すればよいと主張した。上記の事例は平均ユートピア思想が広いすそ野を持っていたことを伝えているが、ここで特徴的なのは「井田が毀されて復活せず、游民が次第に多くなった」(53)とあるように、中国社会がもつ流動性の大きさに対する不安感が赤裸々に表明されている点であろう。
井田法は唐代の均田制や日本の班田収授法もめざした社会プランであったが、こうした復古主義的なユートピア像が生まれた背景には、王権および社会階層が交替と上昇、没落をくり返し、柔軟なネットワークの中で人々が移動してやまなかった中国社会の現実があった。日本では豊作の世を意味した「ミロクの世」が、中国では世界の破滅を伴った「弥勒の転世」になった理由の一つも身分や社会の流動性をめぐる差異にあった。つまり大同思想の超安定的なユートピアは日本に比べて競争が激しく、流動性が高かった中国社会の特質が生み出した一つの反作用だったのである。 
小結
本章の内容を要約すれば次のようになる。日中の政治体制をめぐる比較の中で、まず取り上げたのは皇帝制度と天皇制であった。そして中国の皇帝が「一君万民」の集権的な王権であったのに対して、日本の王権は複合的で、長期にわたり二重政権が続いた事実を指摘した。この違いを生んだ分岐点は天命思想の受容にあり、中国の皇帝は易姓革命の競争原理ゆえに社会との間に緊張関係を持ち、ライバルとの激しい権力闘争の中で自らの正統性を主張する必要があった。これに対して日本の天皇は神話によって裏付けられた霊威に権威の源泉があり、豪族たちとの関係は相互依存的であった。こうした特徴は武家政権の時代にも引き継がれ、王権の重層性ゆえに政権交代に伴う社会的なコストを抑えることに成功した。
次に本章では古代の行政・司法制度をめぐる日本と唐の比較を試みた。そして日本の班田収授法、唐の均田制は共に中国古代の井田法を出発点としていたが、均田制は広大な国土ゆえに全国一律に運用されず、永業田によって一定の土地私有を認めるなど幅広い選択肢を持っていた。これに対して日本の班田収授法は土地公有制の理想を律儀に実現しようとした結果、かえって融通の利かない体制を作ったことを指摘した。また律令体制は後の日本人の自己認識に大きな影響を与え、「イネを作る均質な単一民族の島国」という日本イメージを作り出した。実際には東西の日本は中国の南北と同じく、フロンティアの開発を通じて異なる特徴を持つ社会であった。だが中国に比べて社会変動の幅が小さかった日本では、社会の多様性よりも均質性が強調されることが多かった。
続いて本章は一○世紀以後の日中両社会の変化について、それが現在の両国社会の差異を生み出した直接の要因として検討を加えた。日本と中国、朝鮮半島はいずれも武人政権が登場したが、強固な政治組織と武人固有の社会的規範が生まれたのは日本だけで、中国では科挙制度の発達により、皇帝のもとで文人官僚による支配体制が構築された。また権力の世襲を認めない科挙は社会階層の流動化を推し進め、中国社会の隅々にまで激しい競争原理を刻み込んだ。それは「イエ」による職能請負制が確立し、江戸期に士農工商の身分制度が固定された日本社会との最大の相違点であった。
さらに中国の科挙は儒教的規範に基づく帝国の統合と価値観の一元化をもたらした。とくに朱子学が国家公認のイデオロギーとして社会に浸透したことは、知識人に国家運営の担い手としての強い自負を育てると共に、中国文化そのものが政治と切り離せない体質を帯びることになった。これに対して江戸時代の日本では儒者が政治に参与するチャンスはなく、儒学も一種の教養として人々に受け止められていた。ただし彼らの学問は特定の「正統」に固執する必然性を持たない分だけ多様であり、それが幕末の新しい思潮を生み出す柔軟さへとつながった。
いっぽう中国では科挙による社会階層の流動化と並んで、空間的な流動性の高さも特徴の一つであった。とくに一八世紀に中国が人口爆発を起こすと、経済的先進地からあふれた人々は辺境諸省や海外へと移住した。こうした移住を可能にした原因は家族および相続制度の違いにあり、長子相続だった日本では余剰人口が村落内の分家や都市の奉公人として吸収あるいは淘汰され、大規模な移住が必要とされる人口増加につながらなかった。これに対して中国は徹底した均分相続であり、世代が下るにつれて目減りする相続分を補うために新たな耕地の獲得が要請された。また中国では外地に長く住んだ人間でも故郷の宗族におけるメンバーシップを失わず、村落の枠を超えて同族結合が広がらなかった日本に比べて移住することのリスクが少なかった。こうした社会慣行の違いが、世界中で活躍する中国人華僑と日系移民との違いを生んだと考えられる。
最後に本章はこうした社会の流動性に関する両国社会の違いが、人々の意識とくに民間宗教の思想に与えた影響について考察した。中国の民間宗教が説いた末劫思想はカタストロフの描写において日本の民間信仰とは比較にならないほどのリアリティを持ち、中国の下層民衆が直面していた不安定な生活ぶりを示していた。また中国には転生した弥勒に補佐される「真命天子」の新王朝という考え方があり、蜂起した宗教指導者が皇帝を名乗ったり、会員たちに高位高官を約束する事例が多く見られた。だが王朝交替や身分の枠を超えた階層間移動といった発想のなかった江戸期の日本では、一揆の参加者が王権の樹立をめざしたり、武士身分に上昇しよう試みることは起こらなかった。さらに中国の革命・改革運動を理論的に支えた大同思想も、流動性の大きな中国社会に特徴的な現象であった。
人々は厳しい競争と大きな社会変動にさいなまれた一つの反作用として、平均主義に見られる超安定的なユートピア像を追い求めたのである。
このように考えると、改めて日本と中国は「同文同種」の隣人でありながら、二つの社会の間には大きな差異が存在していることがわかる。むろんそれらの違いはアプリオリに存在したのではなく、両国の歴史が長い年月をかけて生み出した特質と呼ぶべきものであった。また古代へ遡るほど律令制など共通のベースが多かったのも事実であり、日中両国が東アジア世界という一本の根元から枝分かれした二つの社会であると見ることも可能だろう。少なくとも本章の考察を通じて、日本と中国がそれぞれ尊重に値する個性をもった社会であるという事実を明らかにできたのではないかと考える。
現在も日中関係について考える時、まず「小異を捨てて大同に就く」ことが重要だという意見がしばしば聞かれる。それは手がかりとしては一面の真理かも知れない。だが本章が日中両社会の差異を取り上げることで、両国の友好関係に水を差すことを意図していないことは理解して頂けたと思う。あらゆる人間が異なる顔を持つように、日本と中国という二つの社会にも各々の特徴がある。社会の流動性が大きく、厳しい競争を勝ち抜くためにしたたかな行動スタイルを身につけた中国人、身分制度の影響によってある種の職業倫理を持ち、何事につけ真面目に取り組む日本人……。過度の一般化は慎まなければならないが、これら両国民のもつ気質の違いをふまえてこそ本当の意味でのパートナーシップを確立できるのではないか。日本と中国が互いに相手の良さを知り、それを活かすことによってWin-Win の関係を築くことは決して不可能ではない。
元上海総領事の杉本信行氏は長年にわたる中国体験の中で、中国社会の持つ多面性と多様性にたびたび驚かされたと述べている。また日本では中国人の気質について悪意に満ちた一面的な見方が多すぎると述べたうえで、中国認識において大切なのは各種データによって観念的に中国を見ることではなく、机上の理論を排した現実に即して中国を理解することだと指摘した。さらに日中双方の人々が互いの状況を正しく認識することは、両国の国益につながると訴え、「日中は必ず理解しあえます」と自信をもって断言したという(54)。
本章がどこまで中国の現実に即した議論をなしえたかは読者の判断に委ねる他はないが、ここで言及した内容が日中の相互理解を深めるうえで少しでも役立つことを願ってやまない。筆者の中国史研究を支え、中国社会を理解するうえで貴重な示唆を数多く与えてくれた両国の友人たちに感謝して本章を終えたいと思う。 

(1)たとえば内閣府大臣官房政府広報室の調査によれば、本格的な日中交流が始まった一九八○年五月に「中国に親しみを感じる」と答えた日本人は78.6 パーセントであったが、反日デモ後の二○○五年一○月には32.4 パーセントへ落ち込んだ。逆に「親しみを感じない」と答えた日本人は63.4 パーセントにのぼったという(家近亮子「日中関係の現状」(家近亮子等編『岐路に立つ日中関係―過去との対話・未来への模索』晃洋書房、二○○七年)
(2)菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』中国の歴史10、講談社、二○○五年、一二三頁、一三○頁。
(3)例えば王敏氏は近年中国人が日本文化と中国文化の差異について研究するようになったと指摘している(王敏「日中相互認識のずれについて」『アジア遊学』七二号、二○○五年、七頁)。また王勇氏は二○○五年に浙江商工大学日本研究所の行った中国人に対するアンケート調査の結果、「日本は独特な文化を持っている」という解答が44.5 パーセントにのぼったと述べている(王勇「日本文化への視座―模倣と独創の間」(同四五頁)。
(4)司馬遷『史記』始皇帝本紀。鶴間和幸『始皇帝―史実と伝承のはざま』吉川弘文館、二○○一年、八二頁。梅原郁『皇帝政治と中国』白帝社、二○○三年。
(5)金子修一「古代中国の王権」(網野善彦等編『岩波講座・天皇と王権を考える』一、人類社会の中の天皇と王権、岩波書店、二○○二年、一六五頁)。
(6)『日本書紀』。堀敏一「日本と隋・唐両王朝との間に交わされた国書」(『東アジアの中の古代日』研文出版、一九九八。吉田孝『歴史の中の天皇』岩波新書、二○○六年、六頁。
(7)『隋書』巻八一、東夷伝倭国条。また吉田孝氏はこの国書について、隋から日本へ送られた国書と同じく小野妹子が途中で握りつぶし、結局隋には渡されなかったと推測している(『歴史の中の天皇』六頁)。
(8)本位田菊士「天皇号の成立と東アジア」(荒野泰典等編『アジアの中の日本史』U、外交と戦争、東京大学出版会、一九九二年、六三頁。大津透『古代の天皇制』岩波書店、一九九九年。吉田孝『歴史の中の天皇』一○頁。
(9)小島毅「天道・革命・隠逸」(『岩波講座・天皇と王権を考える』四、宗教と権威、岩波書店、二○○二年、六九頁)によると、朱子学がこの五行思想に基づく五徳終始説を否定したために、禅譲による平和的な易姓革命は行われなくなった。また日本に輸入された朱子学は、かえって万世一系の国体を誇示するための理論的な下支えになったという。
(10)吉田孝『歴史の中の天皇』五六、二二九頁。むろん天命思想や易姓革命の思想が日本に全く影響を与えなかった訳ではなく、道鏡の皇位簒奪事件はその現れであった(同書七三頁)。壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)が自らを漢の高祖になぞらえたことも、天命思想が天皇の権威づけに用いられた例という。さらに桓武天皇は唐風化を推し進め、長岡京郊外で二度にわたり天を祀る郊祀儀礼を行った。大隅清陽氏はこれを「直輸入の天命思想」と指摘している(大隅清陽「君臣秩序と儀礼」、大津透等『古代天皇制を考える』日本の歴史08、講談社、二○○一年、三一頁)。
(11)『宋書』倭国伝。王勇『中国史のなかの日本像』農文協人間選書、二○○○年、一三○頁。この時宋を訪問したのは東大寺僧の「然で、彼が献上した『年代記』などの日本情報は中国人の日本認識を大きく変える役割を果たしたという。
(12)岸本美緒「皇帝と官僚・紳士―明から清へ」(網野善彦等編『岩波講座・天皇と王権を考える』二、統治と権力、岩波書店、二○○二年、二四一頁)。岸本美緒・宮嶋博史『世界の歴史』一二、明清と李朝の時代、中央公論社、一九九八年、三○二頁。またブーヴェ、後藤末雄訳『康煕帝伝』平凡社東洋文庫、一九七○。
(13)吉田孝『歴史の中の天皇』一六五、一九二頁。
(14)石井良助『天皇―天皇の生成および不親政の伝統』山川出版社、一九八二年。
(15)吉田孝『歴史の中の天皇』一九、五七、六七、一二四頁。
(16)崔世廣「「意」の文化と「情」の文化」(王敏編著『〈意〉の文化と〈情〉の文化・中国における日本研究』中公叢書、二○○四年、一九六頁)。
(17)氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国』中国の歴史06、講談社、二○○五年、一三八頁。また唐代史研究会編『律令制―中国朝鮮の法と国家』汲古書院、一九八六年。池田温編『中国礼法と日本律令制』東方書店、一九九二。なお唐令については仁井田陞氏、池田温氏が日本の『令義解』などを手がかりに復元作業を進め、その成果として中村裕一『唐令逸文の研究』汲古書院、二○○五年がある。また一九九九年には寧波の天一閣で唐開元令の条文を含んだ宋の天聖令が発見され、両国学界の注目を集めている(大津透「北宋天聖令の公刊とその意義―日唐律令比較研究の新段階」『東方学』一一四号、二○○七年)。
(18)石母田正「天皇と『諸蕃』」(『石母田正著作集』四、日本古代国家論、岩波書店、一九八九年、二九頁)。またこの説は鈴木靖民氏、青木和夫氏らによってニュアンスの差はあれ支持されてきたという(鈴木靖民「日本律令の成立・展開と対外関係」『古代対外関係史の研究』吉川弘文館、一九八五年、二二頁。青木和夫『日本の歴史3・奈良の都』中央公論社、一九六五年、六頁)。
(19)坂上康俊「大宝律令制定前後における日中間の情報伝播」(池田温・劉俊文編『日中文化交流史叢書』二、法律制度、大修館書店、一九九七年、四九頁)。また濱田耕策氏は新羅の律令について「唐の律令を参酌して国政の基本的法典を改編したもの」と述べるに止まり、独自な律令を制定したとは述べていない(同『新羅国史の研究―東アジア史の視点から』吉川弘文館、二○○二年、三三七頁)。
(20)石上英一「比較律令制論―序論」(荒野泰典等編『アジアのなかの日本史』一、アジアと日本、東京大学出版会、一九九二年、八一頁)。
(21)渡辺晃宏『平城京と木簡の世紀』日本の歴史04、講談社、二○○一年、五○頁。氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国』一五三頁。また堀敏一『均田制の研究―中国古代国家の土地政策と土地所有制』岩波書店、一九七五年。同『律令制と東アジア世界―私の中国史学(二)』研文出版、一九九四年。
(22)渡辺晃宏『平城京と木簡の世紀』六九頁。また吉田孝『飛鳥・奈良時代』岩波ジュニア新書、一九九九年、七七頁。
(23)関晃『大化改新の研究』上・下(『関晃著作集』一・二、吉川弘文館、一九九六年)。渡辺晃宏『平城京と木簡の世紀』七○、七六頁。氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国』一五七頁。池田温『敦煌文書の世界』名著刊行会、二○○三年。谷川道雄「府兵制国家と府兵制」(『律令制―中国朝鮮の法と国家』四二三頁)。
(24)網野善彦『東と西の語る日本の歴史』そしえて、一九八二年(講談社学術文庫再版、一九九八年)。同『「日本」とは何か』日本の歴史00、講談社、二○○○年。
(25)大津透「「日本」の成立と天皇の役割」(『古代天皇制を考える』日本の歴史08、八頁)。吉田孝『日本の誕生』岩波新書、一九九七年。
(26)網野善彦『東と西の語る日本の歴史』一四八−一八六頁。同『日本の歴史をよみなおす』筑摩書房、一九九一年、八○頁。なお大津透「近江と古代国家―近江の開発をめぐって」(『律令国家支配構造の研究』岩波書店、一九九三年、九四頁)は、畿内政権の支配力が強い近江が畿外に新たに開発された植民の地であったことを指摘している。
(27)Ho-Pingti“The Ladder of Success in Imperial China; Aspects of Social Mobility,1368-1911”Columbia Unversity Press, 1962.(何炳棣、寺田隆信訳『科挙と近世中国社会―中立出世の階梯』平凡社、一九九三、三四頁)
(28)賈敬顔「『漢人』考」(費孝通編『中華民族多元一体格局』中央民族大学出版社、一九九九年、一六九頁)。また西澤治彦等訳『中華民族多元一体構造』風響社、二○○八年、二五七頁を参照のこと。
(29)川尻秋生「武門の形成」(加藤友康編『摂関政治と王朝文化』日本の時代史六、吉川弘文館、二○○二年、一三四頁)。下向井龍彦「国衙と武士」(『岩波講座日本通史』六、岩波書店、一九九五年、一七五頁)。高橋昌明『武士の成立―武士像の創出』東京大学出版会、一九九九年。
(30)高橋昌明「東アジアの武人政権」(歴史学研究会・日本史研究会編『日本史講座』三、中世の形成、東京大学出版会、二○○四年、一三一頁)。服部英雄『武士と荘園支配』日本史リブレット二四、山川出版社、二○○四年。
(31)平田茂樹『科挙と官僚制』世界史リブレット九、山川出版社、一九九七年。宮崎市定『科挙―中国の試験地獄』中公新書、一九六三年。村上哲見『科挙の話』講談社現代新書、一九八○年。
(32)井上徹『中国の宗族と国家の礼制―宗法主義の視点からの分析』研文出版、二○○○年、六三頁。Freedman,Maurice“Chinese Lineage and Society: Fukien and Kwangtung”. London School of Economics Monographs on Social Anthropology,no33. London:Athlone Press(M・フリードマン著、田村克己・瀬川昌久等訳『中国の宗族と社会』弘文堂、一九八七年)また客家の科挙受験が認められなかった点については片山剛「清代中期の広府人社会と客家人の移住―童試受験問題をめぐって」(山本英史編『伝統中国の地域像』慶応義塾大学地域研究センター叢書、二○○○年、一六七頁)。
(33)何炳棣、寺田隆信訳『科挙と近世中国社会―立身出世の階梯』一七○頁
(34)菊池秀明「明清期、広西チワン族土官の漢化と科挙」(『広西移民社会と太平天国』【本文編】、風響社、一九九八年、一二五頁)。
(35)渡辺浩「儒者・読書人・両班―儒学的「知識人」の存在形態」(『東アジアの王権と思想』東京大学出版会、一九九七年、一一五頁)。
(36)宮崎市定『科挙―中国の試験地獄』一六八頁。Lloyd E. Eastman, Family, Fields, and Ancestors: Constancy and Change in China′s Social and Economic History, 1550-1949,Oxford University Press, 1988(ロイド・イーストマン著、上田信・深尾葉子訳『中国の社会』平凡社、一九九四年、二六八頁)。
(37)藤木久志『刀狩り―武器を封印した民衆』岩波新書、二○○五年。
(38)斯波義信『華僑』岩波新書、一九九五年、五五頁。ロイド・イーストマン著、上田信等訳『中国の社会』一三頁。
(39)鬼頭宏『文明としての江戸システム』日本の歴史19、講談社、二○○二年、七○頁。
(40)福田アジオ「アジアにおける家と村落」『アジアのなかの日本史』一、アジアと日本、一九一頁。
(41)速水融『江戸の農民生活史―宗門改帳にみる濃尾の一農村』日本放送出版協会、一九八八年。同『歴史人口学の世界』岩波書店、一九九七年。
(42)末成道男「社会結合の特質」(橋本萬太郎『漢民族と中国社会』民族の世界史五、山川出版社、一九八三年、二六七頁)。菊池秀明『広西移民社会と太平天国』【本文編】五一五頁。
(43)瀬川昌久『中国社会の人類学』世界思想社、二○○四年、二○九頁、二二○頁。同『中国人の村落と宗族』弘文堂、一九九一年。同『客家―華南漢族のエスニシティーとその境界』風響社、一九九三年。同『族譜―華南漢族の宗族・風水・移住』風響社、一九九六年。
(44)福田アジオ「アジアにおける家と村落」。
(45)斯波義信『華僑』六五頁。
(46)羅香林『客家研究導論』(広東、一九三三年、台北衆文図書再版、一九八一年)第七章、客家的特性。
(47)内山完造『魯迅の思い出』社会思想社、一九七九年。菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』中国の歴史10、三七二頁。
(48)小島晋治「十八世紀末〜十九世紀中葉の民間宗教、民衆宗教の思想―日本と中国」(『太平天国運動と現代中国』研文出版、一九九三年、一四五頁)。
(49)澤田瑞穂『校注・破邪詳弁―中国民間宗教結社研究資料』第一書房、一九七二年、一八三頁。
(50)宮田登『ミロク信仰の研究』新訂版、未来社、一九七五年。安丸良夫『日本の近代化と民衆思想』青木書店、一九七四年。
(51)小島晋治「平均主義の歴史的性格とその社会的基盤」「太平天国運動の性質」(『太平天国運動と現代中国』一六五頁、一三一頁)。
(52)『天朝田畝制度』(西順蔵編『原典中国近代思想史』一、アヘン戦争から太平天国まで、岩波書店、一九七六年、三一九頁)。
(53)金銘館封章、道光十三年九月二十四日、軍機檔65314 号、台湾故宮博物院蔵。また菊池秀明「洪秀全の挫折と上帝教―檔案史料から見た太平天国前夜の広東社会」(学習院東洋文化研究所編『東洋文化研究』一○号、二○○八、一三七頁)。
(54)杉本信行『大地の咆哮―元上海総領事が見た中国』PHP 研究所、二○○六年。 
 
近現代史 総論

 

近現代の日中関係史は、激しい戦争を含む時期であり、近現代の歴史に関する記憶は、今になっても両国民衆の心の中においてまだ生々しい。とくに日本による侵略の被害を受けた中国民衆にとって、その記憶はさらに深刻である。
そのため前近代の日中関係史に比べ、日中両国民の間で、戦争の本質と戦争責任の認識に関し、相互に理解するにはかなりの困難が存在する。
日中両国の研究者は、まず近代西欧列強との接触を、アジアの近現代史の始点として考えた。この始点が、どの程度外部からの衝撃によるものなのか、どの程度内発的な要素によるものなのか、両国研究者の見解は必ずしも一致していない。しかし西欧との遭遇の重要性という一点については、双方は共通の認識に達している。もし西欧各国がアジアに足を踏み入れなければ、日中両国がその後にたどったような道を歩んだとは考えられない。日中両国は、西欧の衝撃を受けた時期と受け方においては異なっていたが、中国においてはアヘン戦争、日本においてはペリー来航と明治維新を始点としている。こうした基本的問題の判断について、双方の意見は一致している。
研究テーマを決定するにあたり、近現代史分科会の考え方は、古代・中近世史分科会とは幾分異なっている。近現代史分科会の研究者は、時間の流れにより近現代史を段階に分け、各段階での日中関係発展の変化をさらに時間によりいくつかの時期に分け、各時期の歴史のプロセスについて総合的に研究した。
言い換えれば、われわれは特定のテーマについてではなく、基本的には時間の流れに沿って歴史発展の基本プロセスについて論文を執筆することとした。具体的には、近現代史分科会では1931年から1945年にかけての戦争を真ん中に置いて、戦前、戦中、戦後の三つの歴史段階を定めた。第一段階はそれぞれの開国から1920年代まで、第二段階は満州事変から日本の敗戦まで、第三段階は戦後から現在までである。各段階は時間の流れによりさらに三つの時期に、つまり3段階9時期とし、これを3部9章に分けてそれぞれが論文を執筆した。時期ごとの研究内容が相互にバランスのとれたものとなるよう、時期ごとに、重要で必ず言及すべき問題点を「共通関心項目」として定め、双方の論文がそうした問題点についての分析を必ず含めることとし、一方が重要と捉えている問題がもう一方では全く扱われていないという状況が起きないようにした。上述の歴史発展の基本的プロセスの認識について両国の研究者に隔たりが存在するだろうし、かなり大きな差異ですらあることを考慮して、現段階ではあらゆる認識について完全に意見が一致することを求めず、まず日中双方の研究者が各時期について各自の視点で論文を執筆し、それから比較対照し、意見を交換して十分に討論することとした。相手側の妥当と思われる意見を取り入れて修正した後、やはり双方の論文を併置する形式で発表する。つまり「同一の対象について、意見を交換し、十分に討論して、各自が論述する」という方法を取った。
近現代史分科会は全体会以外に2006年12月に北京で、2007年3月に東京で、2007年11月に福岡で、2008年1月に北京で、2008年3月に鹿児島で、2008年5月に済南で、合計6回の会合を持ち、意見を交換した。これ以外にも日中双方の委員はそれぞれが何度も会合を持ち、個別に現地視察を行って研究を重ねた。
近現代史分科会の両国の研究者は終始真剣、率直、かつ友好的な雰囲気の中で共同研究を進めた。研究と討論の過程で、大部分の歴史の事実について双方の研究者の理解と認識は同じか、あるいは近いものであり、それは双方の研究者がいずれも歴史研究の基本原則と学術規範を厳格に遵守し、史実を尊重し、事実に基づいて真実を求めたからであること、これが共同研究をスムーズに行なうことができた基本的理由である、ということがわかった。研究方法と認識の仕方には双方の研究者に差異が見られた。中国側は、日中両国間に発生した一連の問題の本質を重く捉えたが、日本側の研究者は問題発生と展開のプロセスを追求する傾向があった。当然ながら、長時間にわたる共同研究により、双方の研究者はそうした差異についても一定の相互理解に達した。日本側は、戦争が中国に大きな影響をもたらした原因を中国側が重視しているが、そうであったとしても学術研究が感情に流されることはなかったと捉えた。中国側は、日本側の見方は実証的であるが、日本の加害者としての責任を否定してはいないと捉えた。歴史研究の面でいかに単純化を脱し、複雑性を重視するか、同じ歴史の事件に対しての異なる解釈にどう対応するか、引き続き双方の研究者により討論を進める必要がある。しかし、双方が相手の考え方をある程度理解したのは、これまでの近現代史分科会における大きな前進である。 
 
近代日中関係の発端

 

はじめに
19 世紀半ばに至るまで、東アジアには、当時の西洋における国際秩序とは異なる国際秩序が存在していた。西洋列強は、この国際秩序を不便として、優越した軍事力を背景として、その変更を要求した。このような西洋の挑戦によって、東アジア国際秩序は根本的な変容を迫られた。東アジアの変容を、もっぱら西洋の衝撃に対する対応と見ることは一面的に過ぎるが、西洋の衝撃なしには、東アジアの変容はありえなかった。
この西洋の衝撃に対する日本と中国の対応は、著しく異なっていた。その対応の違いが、その後の日中関係に大きな影響を及ぼすことになった。日本と中国が、それぞれの歴史と伝統を背景に、どのように西洋の衝撃に対応していったか、そしてその中から、前近代においては比較的限られていた日中間の接触が、いかに形成され深まっていったかを、本章では明らかにしていきたい。それゆえこの章は、近現代史分科会論文集の大部分の章と異なり、両国関係の叙述や分析そのものではなく、比較史を通じた関係史の成立と発展という形をとることとなる。その際の重点は、執筆者の専門からして、当然、日本に置かれることとなる。 
第一節 西洋の衝撃と開国 / 日本と中国
1.近代西洋国際秩序と東アジア国際秩序
19 世紀の前半まで、東アジアには中国を中心とする国際秩序が成立していた。周辺国の多くは中国から冊封を受け、中国に対して朝貢していた。それによって、中国の文化的政治的優位を承認し、他方で中国からそれぞれの国における支配者たることの承認と庇護を受け、あわせて朝貢による貿易上の利益を享受していた。1
その中でほぼ日本だけが、中国との対等を主張していた。古代において、あるいは中世の足利義満などが、それぞれの国内的政治的経済的利害から、王として中国に対する臣下の礼を取ったことがあったが、これはごく例外的であった。2
その結果、中国にとって日本は比較的遠い存在であった。当時の清国も、朝貢国については比較的詳しい情報を持っていたいが、日本についての情報は乏しかった。3他方で、日本は清国のことはもちろん良く知っていた。江戸時代にも貿易は行われていたし、その最大の輸入品のひとつは書物であった。こうした清国との限定的な接触の中で、日本は清国から強い影響を受けつつ、同時にこれに反発して、独自の文化を形成し、独自のアイデンティティを形成していった。
ところで、西洋における世界秩序は、世界史の中でユニークなものである。そこでは、世界は主権国家と植民地とからなり、主権国家はすべて形式的には対等であり、国家はその国内および植民地内の事柄すべてについて責任を負う。逆に言えば、完全な責任を負うことのできない土地に対して主権を主張することは出来ない。また、以上のコロラリーとして、すべての土地はどこか一つの国だけに所属することとなる。同時に二つ以上の国には所属する土地はないし、またどこにも所属しない無主の土地も、原則的にはない。
このような国際関係は、世界史的に珍しい。多くの文明圏において、国家は対等ではなく、中心的な国家が存在して、他はこれとの関係で階等的に位置づけられることが多い。
また、国家と領土の関係も絶対的ではなかったから、二つ以上の国家に属する土地もあれば、どこの国家にも属さない土地もあった。
伝統的な東アジア国際秩序においても、すでに述べたとおり、国家は対等ではなかった。
宗属関係における属国は、西洋における主権国家ほど独立的ではなかったが、西洋における植民地ほど従属的ではなかった。琉球のように日本と清国に対し両属という国もあった。
日本でも、北海道については、ロシアが進出するまでは領土の観念は希薄であった。
こうした国際関係の中に位置していた日中両国にとって、西洋との出会いは困難なものであった。しかし、とくに中国は西洋が持ち込もうとした近代国家システムにうまく適応することができず、多くを失った。これに対して日本は、相対的にこの課題を大きな失敗なしに乗り切っていった。4 
2.中国の開国
清国は1661 年に遷界令を出して一種の大陸封鎖を行っていたが、1684 年、これを解除して「海禁」を解き、マカオ、寧波など4 港を開き、海関を設けて貿易を行った。しかし1757 年には、外国船との貿易はカントン(広州)だけに制限することとなった。カントン貿易は18 世紀の末から19 世紀にかけて大いに繁栄し、年間150 隻の外国船が入るようになっていた。そこで最も活発だったのは、イギリスだった。しかしイギリスは一種の朝貢国として位置づけられ、限られた中国人商人(広東13 行)を媒介として、さまざまな厳重な制限の下において、貿易を許されていたのである(カントン・システム)。
ところが、18 世紀末から、中国からの茶の輸入が盛んとなり、イギリスから大量の銀が流出するようになると、イギリスはこれを阻止するため、アヘンの輸出を開始した。アヘンはたちまち中国に広がり、中毒者が激増するに至った。財政再建と国民のアヘン中毒追放のため、1839 年、林則徐がアヘンの没収、厳禁に踏み切り、アヘン戦争が始まった。イギリスにおいても、これは不正義の戦争であるとして強い反対があったが、戦費支出の件を含め、1840 年5 月、上下両院の支持を得るに至った。
戦争が始まると、清国はイギリスの敵ではなかった。その結果、1842 年、南京条約が締結され、広州に加え、廈門(アモイ)、福州、寧波(ニンポー)、上海の開港と香港島の割譲が取り決められた。翌1843 年、アメリカから同様の要求があると、一視同仁の論理によって、清国は英国以外の諸国に対しても、最恵国待遇を付与することとした。
しかしそれでも条約港での貿易は、清国からみて、朝貢関係の一環であるカントン・システムを拡大したものであった。港の数は限定されており、南方に偏っており、いずれも田舎の漁村にすぎなかった。こうした僻地に土地を与えたことによって、西洋人を懐柔しようとしたのであった。
しかし西洋列強は、条約港において清国から土地を借り上げ、都市基盤を整備し、行政制度を整備し、伝統的な中国とは異なった空間を作り出していった。これが租界である。
とくに上海には西洋建築が次々に建築され、その景観は一変するに至った。そこには、キリスト教も流入していった。租界は、中国を大きく変えることとなったのである。
以上のような清国の弱体化の中で、キリスト教の影響のもと、太平天国の乱が起こり、中国を大混乱に陥れた。乱は1850 年から64 年まで続き、2000 万人以上が犠牲となったといわれる。この鎮圧の主力となったのは、清国の正規軍ではなく、曽国藩の湘勇や李鴻章の淮有など郷勇であった。また、ゴードンの常勝軍などの外国人傭兵だった。太平天国はそれ自体清国に大きな打撃を与えただけでなく、伝統的な満州族中心の体制の無力を示した点においても、重要だった。
この間、偶然もあって起こったのがアロー戦争だった。1856 年10 月、イギリス船籍を名乗る中国船アロー号に清国官憲が臨検を行い、清国船員12 名を海賊容疑で逮捕し、その際、イギリス国旗を摺り下ろしたとされる事件が起こった。実際には、この船の船籍登録は期限切れとなっており、清国側の行動は不法ではなかったが、イギリスは南京条約で獲得できなかった諸権利を獲得しようと、他の列強を誘って共同出兵を持ちかけた。仏、露、米のうち、誘いに応じたのはナポレオン三世のもとで積極的な対外政策に乗り出していたフランスで、57 年末に広州を占領した英仏連合軍は天津に向かい、太平天国で疲弊していた清国政府は譲歩して、1858 年6 月、天津条約を結んだ。
しかし、英仏軍が去ったあと、北京では条約に対する反対が高まり、翌年批准のためにやってきた英仏との間に衝突が起こったため、戦闘は再開され、英仏軍は1860 年10 月、北京に入り、円明園と頤和園を破壊し、多大の略奪を行った。
そして1860 年、清は英仏と北京条約を結び、天津条約の内容を確認するとともに、さらなる負担を負うこととなった。その内容は、1天津、漢口、南京など11 の港を条約港とし、条約港居住外国人に旅行する権利を与える。2キリスト教布教権の承認、アヘン貿易の合法化、3外国使節の北京常駐、西洋人に対して「夷」の字を使うことを禁止する。4イギリスに九龍半島を割譲する、などであった。この際、調停にあたったロシアに対しても、それまで混住であった沿海州を割譲することとなった。
以上を要するに、イギリスを始めとする西洋諸国は、清国に対する野心があり、軍事的実力を背景に、さまざまな口実を設けて、これを実現していった。清国は、西洋諸国の軍事力と野心を十分警戒することなく、不用意に口実を与えていったのである。もう少し警戒すれば、被害は少なく済んだであろうという局面は少なくなかった。 
3.日本の開国
これに対し、日本の開国は、比較的大きな混乱なしに行われた。
1853 年7 月、ペリーが日本に来航し、国交を求めた。ペリーは同月、いったん日本を去ったが、1854 年2 月、再び来航し、日本はペリーと日米和親条約を締結した。その結果、神奈川、函館、長崎、新潟、下田の5 港を開くこととなった。しかし、これは、まだ鎖国の例外措置という面もあり、本格的な開国ではなかった。イギリス、ロシア、フランスなどが、これにならった。しかし、1856 年にアメリカから下田領事としてハリスが来日し、通商航海条約の締結を求めると、日本はいよいよ決断を迫られるようになった。通商条約の締結は明らかに鎖国政策の放棄であり、和親条約よりはるかに重大事件であった。
当時の幕府には、緩やかな開国論と伝統的な鎖国論が対立していた。一方は、開国は不可避と考え、西洋軍事技術を導入し、外交機関を整え、大名などの意見を徴し、世論の支持を得て開国しようとしており、次の将軍には一橋慶喜(1837〜1913)を擁立しようとしていた。他方、保守派は、西洋との衝突には危惧を持ちながらも、軍事外交制度の変革にも大名その他の意見を徴することにも消極的であり、次期将軍には、幼少ながら血統において将軍によりふさわしいと考えられた紀州の徳川慶福(1846〜66)を推していた。
ペリー来航以来、幕府をリードしていたのは老中阿部正弘であった。阿部が1857 年に没すると、そのあとを継いだのは堀田正睦であった。彼らはいずれも西洋文明に理解をもち、開国は不可避と考えていた。問題はその方法であった。彼らは幕府の専断ではなく、多くの大名の意見を徴し、さらに朝廷の許可を得て、条約に調印することを考えた。ところが、意外にも条約勅許問題は将軍継嗣問題とからみあって複雑化し、幕府は朝廷の勅許を得る事に失敗した。ここで堀田は失脚し、南紀派の井伊直弼が大老に就任し、条約に調印し、徳川慶福の将軍継嗣を決定した。そして多くの反対派が処刑された(安政の大獄)。しかるに、これに対する反動が今度は起こり、井伊直弼が暗殺される(桜田門外の変、1860 年3月)という事態となったのである。
安政の大獄そして桜田門外の変のころより、日本では攘夷運動が激しくなった。しかし西洋との軍事的衝突は、個別的な外国人襲撃を別とすれば、1863 年6 月の長州藩による外国船砲撃、1863 年8 月の薩英戦争、それに1864 年9 月の四国連合艦隊による下関攻撃程度であった。中国に比べて、相対的に混乱は少なかった。
それにはいくつかの理由があった。
第一に、西洋列強の主たる関心が中国だったことである。巨大な中国に比べれば、日本はその傍らの小さな国であった。またアヘン戦争からアロー号戦争に至るプロセスで、列強は日本に本格的に関与する余裕はなかった。それが、英仏でなくアメリカが、日本開国の先頭に立った理由の一つである。なお、後述するように、朝鮮に対する列強の圧力も、中国に対する圧力に比べれば小さかったが、それも同様の事情による。
第二に、それゆえに、日本は清国の敗北を知って、列強に対する準備をする時間的余裕があった。とくに、アヘン戦争のような不正義の戦争において、清国が敗れたことは大きな衝撃であり、西洋列強の邪悪な意図と恐るべき実力を知ることができた。日本近海や琉球には、繰り返し西洋の船が訪れており、オランダからは開国の勧告が来ていた。日本も自ら開国する決断は出来なかったが、より準備が出来ていたことは確かである。
第三に重要なのは、日本のエリートは武士であり、がんらい軍事を重視する存在だったことである。武士は、日本が西洋に勝てないことを、すぐに理解したのである。ロシアのプーチャーチンとの応接など、対外関係の処理に活躍した川路聖謨は、万里の波濤を越えてやってきたプーチャーチンは「真の豪傑」であると高く評価し、彼自身を含め、太平の世になれた武士の遠く及ぶところではないと嘆いた5。
これに比べ、清国における価値の中心は文であり、武ではなかった。林則徐のような立派な官僚もいたが、その判断は十分北京に伝わらなかったし、尊重されなかった。
朝鮮においても、価値の中心は文であった。とくに李氏朝鮮においては、明のあと、儒教の正統を継ぐのは朝鮮であるという観念が広まっていた。アヘン戦争についての情報は、日本以上に入っていたが、強い反応はなく、1845 年の時点で、清の状況は「無事矣」と考えられていた。このとき、魏源の『海国図志』がもたらされたが、日本と違って、それも海防思想の勃興をもたらさなかった。太平天国についても、重大事件とはみなしていなかった。江南の事件には関心が低かったのである。警戒感が高まったのは、ようやくアロー戦争が華北に波及してからであるといわれる。6
なお、日本においても、文の中心である京都の朝廷では、事態の深刻さを理解できる者は少数であり、列強に勝てるかどうかを真剣に検討する人は稀であった。
第四に指摘すべきは、日本社会が経済的に高度に統合されていた事実である。江戸時代、日本にはすでに全国単一市場が成立しており、各藩は沿岸航路を通じて大阪に物資を往来していた。したがって、黒船数隻の登場は、地域的な危機ではなく、ただちに全国的な危機になりえたのである。
これに比べれば、中国では南方の危機は全国の危機になりにくかった。朝鮮半島においても、高度な経済発展・経済統合は見られず、沿岸航路はとくに重要なものではなかったので、危機感が弱かったのであろう。
第五に、教育の普及と、民族的一体感は、日本がもっとも強かったといってよいであろう。17 世紀はじめからの長い平和の中で、識字率が向上し、日本文化への見直しが盛んとなり、原初的なナショナリズムが芽生えていた。そこでは、天皇への注目が高まり、日本は外国に敗れたことがないという不敗の伝統が強調されていた。
第六に、大前提として、日本は長年中国との交流を通じて、日本より優れた文明がありうることをよく知っていた。日本人の世界観は、自国中心主義ではなかった。一見自国中心主義と見える思想も、実は背伸びした、中国の優位に反発しての自国中心主義であった。したがって、西洋が日本よりも、少なくともいくつかの分野において優れていることを認めるのに、さほどの困難はなかった。
江戸時代における蘭学の普及も、これと関係している。福沢諭吉は、1862 年、ヨーロッパ旅行において、中国人留学生、唐学捐(土へん)と知り合いになり、清国で横文字を解するものの数を尋ねたところ、11 人という答えを得て、驚愕している。7この数は、必ずしも信頼できる数ではないかも知れないし、福沢もそのまま信じたわけではないだろうが、それにしても、日本には500 人程度の蘭学者ないし洋学者がいるのに、西洋と長い交際のある大国清において、それほど少ないのかと驚いたのである。
おそらく、大多数の中国人は、伝統的に、自国より優れたものの存在を知らなかった。
中国の自国中心主義は、それと人に言われても分からないほど深く浸透していたのである。 
第二節 明治維新と脱亜入欧
1.幕府の崩壊と新政府の成立
開国に踏み切った日本で、次の課題は、新しい政治体制の模索であった。
ペリー来航のとき、外国との応接の中心が徳川幕府であるべきことを疑うものはなかった。幕府の石高は800 万石といわれ(天領400 万石余と御家人ら300 万石余)、第二位の加賀前田家(102 万石)、薩摩島津家(77 万石)以下を圧していた。
それに多くの藩は経済的に疲弊して、余力はなかった。また彼らは、のちに述べる薩摩や長州などを除いて、長年の徳川氏支配の中で、その家臣としての意識を持つようになり、みずからの領土を自分で支配するという観念が希薄になっていた。
しかし幕府にも弱点はあった。石高は農業収入を基礎としたもので、江戸期を通じて発展してきた商業に対する安定した課税システムを持っていなかった。農業は江戸時代後半伸び悩み、幕府財政も、各藩同様、逼迫していた。
幕府の軍事力も、長年の平和の中で陳腐なものとなっており、新しい軍事技術が導入されればたちまちゼロからの競争になる運命にあった。しかも幕府の家臣には、平和になれて特権に安住する旗本・御家人が多く、新しい技術を獲得するための厳しい訓練を受ける意欲や柔軟性に乏しかった。
また幕府の正統性は脆弱であった。幕府が全国支配者であるのは、征夷大将軍に任じられるからであって、究極は朝廷による任命に依存していた。朝廷の家臣であることにおいて、将軍も他の大名も同輩であった。すでに述べた開国をめぐる混乱も、幕府が朝廷の勅許を得ようとして失敗したことから発していた。しかも征夷大将軍である幕府が、征夷ができないとき、その正統性は大きく揺らぐこととなった。
これに対し、薩摩と長州は、17世紀初頭の徳川氏の全国制覇において敗者となり、封土を削減され、多くの家臣団を抱え、困窮を耐え抜いて、尚武の気風を維持していた。
ところで、幕府首脳は譜代大名であり、小藩の藩主であった。外様の雄藩や親藩を排除して、幕府政治はなりたっていた。しかし、こうした有力な藩をも加えた挙国一致で対外危機に臨むべきだという有力な意見が存在していた。一橋派と南紀派の対立は、この点を焦点としていた。
伝統的な幕府中心の体制を維持しようとする井伊直弼が桜田門外の変で倒れたあと、さまざまな形で挙国一致体制が模索された。それは、幕府と朝廷の協力のもとに雄藩が参加する公武合体論として展開された。1862 年には、天皇の妹の将軍との結婚(和宮降嫁)、島津久光の建議による一橋慶喜の将軍後見職就任と松平慶永(越前)の政事総裁職就任が実現され、1864 年2 月には京都に一橋慶喜、松平慶永、伊達宗城(宇和島)、松平容保(会津、京都守護職)、山内豊信(土佐)、島津久光(薩摩)8による参預会議が置かれるに至った。雄藩の中でここから排除されたのは、当時攘夷を鮮明にしていた長州だけだった。
しかし参預会議は内部対立から十分機能しなかった。権力の独占を維持したい幕府と、これに割り込みたい雄藩の政治的対立があり、貿易の利益を独占した幕府と、これに参入したい雄藩とくに薩摩との対立があった。
そのころ、新任のフランス公使ロッシュ(64 年4 月着任)は、ナポレオン三世の積極的な対外進出の一環として、幕府に接近し、これに対し、幕府の中には親仏派官僚が形成されていった。その結果、幕府は再び独自権力強化の路線に戻っていった。なおそのころ、イギリスは薩摩と接近していた。それは薩摩がより貿易の開放に積極的であり、また意思決定システムにおいて柔軟で果断だという判断からであった。9
幕府の親仏路線に対し、これを脅威と感じた薩摩は、幕府の二度目の長州征伐を前に、長州と接近して薩長同盟を結んだ(66 年3 月)。そして7 月から始まった戦争において、薩摩に支援された長州は幕府を撃退した。薩摩は上海から武器弾薬を密輸し、これを長州に提供した。中国がすでに開国していて、中国経由で西洋との貿易が可能であったという事実は、日本の明治維新のあり方に決定的な影響を及ぼしたのである。10
幕府の絶対主義強化路線と薩長の倒幕路線の中間に、もう一度浮上したのが、公武政体論や幕府雄藩連合体制論の流れを引く大政奉還論であった。その主唱者は土佐であって、幕府を廃止し、徳川氏は一大名となり、諸侯会議において国事を議するものとし、土佐も一定の発言権を持つことになるわけであった。
これが実現すれば、徳川家が中心となる体制が出来たであろう。徳川氏は、徳川慶喜という有能なリーダーを持ち、外国との交際の経験を持ち、実務能力を持つ官僚を持ち、フランスの援助を得ていた。67 年10 月9 日、徳川慶喜が大政奉還して、一大名となろうとしたのは、そうなっても国政をリードできる自信があったからである。また、土佐はその中で有利な地位を確保できるはずであった。
それは、薩長にとっては認められないことであった。徳川氏の存続を許すにしても、一度は軍事的に打撃を与えてからでなくてはならなかった。薩長は徳川に対する処罰を主張して、ついに王政復古に持ち込んだ。天皇の指導のもとに国政を行うという決定であった。
1868 年1 月3 日のことだった。
これを不満とする徳川と薩長の間で1 月27 日、戦争が起こった。緒戦は朝廷側が有利であったが、まだ戦争の行方は知れない段階で、徳川慶喜は兵を引き、江戸に戻り、以後、抗戦を放棄した。戊辰戦争と呼ばれる戦争は、この鳥羽伏見の戦いで始まり、1869 年6 月、函館の五稜郭の陥落で終わるが、徳川を中心として組織的な戦争は起こらなかった。つまり、事実上、一日で大勢が決してしまったのである。
徳川方に軍事的勝利の展望がなかったわけではない。しかし、長年の平和になれた日本人は、戦争の継続を好まなかった。徹底抗戦すれば、日本を二分する戦いとなり、日本が植民地化される恐れがあるという危惧が、徳川方にあり、徹底抗戦をためらわせた。また、すでに降伏しているものに対し、寛大な措置をとるのが日本の文化的伝統であり、それは薩長の側にも理解されていた。
イギリスが仲介したのも大きい。イギリスの目指すのは貿易上の利益であって、安定した秩序こそ望ましいものであった。江戸城無血開城は、勝海舟と西郷隆盛の決断で決まったが、圧力をかけたのはパークス英国公使であった。
それにしても、それにしても、260 年の統治の実績を持つ徳川幕府の崩壊は驚くべきことであった。もっとも大きな違いは、薩長では伝統にとらわれない下級士族が藩政の中枢を掌握したが、幕府ではそうならなかったということであろう。その意味は、新政府のもとですぐに明らかになる。 
2.新政府の開国
薩長が指導する新しい政府は、当然、攘夷路線をとると思われた。福沢諭吉などは絶望的な気分でこれを迎えた。しかし意外なことに、新政府は攘夷路線をとらず、明確な開国路線をとった。
1868 年2 月10 日、新政府は外国との和親を布告した。戊辰戦争のさなか、各地で外国人との衝突が起こっていた。薩長の首脳は攘夷を不可能と知っており、これを戒めた。しかし、多くの人は、薩長は攘夷路線をとるものと信じており、この布告を意外とした11。
さらに天皇は4 月6 日、五箇条の誓文を発したが、その第四には、「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」とある。その意味は広いが、中核的な意味は鎖国の否定、陋習の否定、そして開国であった。
新政府は、さらに各藩が地方に割拠する制度を改め、中央集権化をめざした。函館の五稜郭が陥落して戊辰戦争が終わってから一ヶ月もたたないうちに、1869 年6 月、版籍奉還を行って、藩主に行政権を返還させた。ただ、原則として藩主をあらためて知藩事に任命したので、大きな違いはないように見えた。しかし1871 年8 月には廃藩置県を断行し、藩を廃止して県を置き、その行政官としては中央から知事を任命し、これまでの藩主は東京に住むことを命じた。多くの西洋人は、これを革命だと感じた。奇跡だと考えた。
それが可能となったのは、多くの藩がすでに経済的に疲弊していたからであった。また、長年の幕府の支配のもとで、多くの藩において、自らの領地とのつながりが薄くなっていた。そして中央集権でなければ外国と対抗できないことが広く理解されていた。それにしても、これは意外な展開であった。福沢諭吉は、洋学を志した仲間とともに、「この盛事を見たるうえは、死すとも悔いず」と、叫んだと回顧している12。もちろん、これに反感を持ったものも多かった。薩摩の事実上の藩主であった島津久光は、廃藩置県を憤り、西郷や大久保を許さなかった。
1871 年11 月には、さらに、岩倉使節団が派遣された。岩倉具視、大久保利通、木戸孝允ら、政府首脳の半ばを含む大集団が、一年半にわたって欧米旅行を断行した。革命直後の新政権が、長期に国を空けるなど、およそ常識では考えられない行動であった。それだけ彼らは欧米を見たいと考えたのであった。
そこから、彼らは西洋文明との巨大な格差を実感し、これに追いつくために全力を挙げなければならないと決意した。そして強兵よりも富国が重要であることに気づいたのである。
国内体制の整備において、注目すべきは徴兵令の制定である。政府は1872 年12 月、徴兵の告諭を発し、また73 年1 月、徴兵令を定めて、一般国民を基礎とする軍事力の整備を決定した。
新政府の指導者は武士であったにもかかわらず、またそれほど多くの兵力が必要だったわけではなかったにもかかわらず、この決定を行った。この方針を定めたのは、長州の大村益次郎であった。大村が1869 年末に暗殺されたが、その路線は長州の山県有朋によって引き継がれた。大村はがんらい村医者であり、また山県は下級の武士であって、奇兵隊に加わって戦った経験を持っていた。そして長州では、戦争のさなか、意外に武士が役に立たず、むしろ意識の高い一般庶民がよく戦うことを知っていた。
その後、政府は武士身分の廃止にまで進んだ。武士のための俸禄は、新政府の重い負担となっていた。まず、1873 年、秩禄(家禄と賞典禄)の奉還を奨励し、奉還する武士には一部を現金、一部を公債で支給した。さらに1876 年8 月、ついに金禄公債を発行して、家禄制度を廃止した。この間、廃刀令を発して帯刀を禁止した(1876 年3 月)。
これは重大な決定であった。武士層の身分的特権と経済的特権をともに廃止したのである。明治の前半、多くの反乱が起こったが、こうした急進的措置を考えれば、無理もないことであった。よく新政府の基礎が揺るがなかったと感じるほどである。
このように、江戸時代において、封建領主が割拠し、その頂点に幕府があった制度は根本的に変革された。まず薩長が幕府を打倒し、薩長の下級士族からなる官僚が、薩長を含む藩を廃止し、さらに自ら武士を廃止してしまったのである。この変革は、いずれも天皇の名において行われた。薩長官僚は、藩の威光ではなく、天皇シンボルをフルに利用して、この変革を行ったのである。13
このように、当初、尊王攘夷を掲げて出発した運動は、新政府において大きな変化を遂げた。政府は天皇の意思を尊重したりしなかったし、攘夷は開国となった。しかし、尊王というシンボルは、天皇を尊敬とするということではなく、中央集権ということであり、攘夷というのは外国人を排撃するのではなく、外国と並び立ちうる国家を作るということ
だったと読み替えることができる14。そしてその二つは、近代国家の内的特徴と外的特徴である。その意味で、明治維新は何よりもナショナリズムの革命であったのである15。
ところで、清国でも1860 年に北京条約を締結したのち、変革が始まった。1861 年3 月には、総理各国事務衙門を設置され、これまでの「夷務」も「洋務」とされた。ようやく外交を統括する機構が作られたわけである。
そして1861 年11 月、同治帝が即位し、西太后や恭親王が実権を握った。その中で、改革運動が始まる。同治中興であり、洋務運動である16。
同治中興は、「中体西用」といわれるように、西洋からの近代的な技術、とくに軍事技術を導入するとともに、経世儒学的な思想を強調した。太平天国の乱が鎮圧に向かったころから、曽国藩・李鴻章ら、この乱の鎮圧に成果を上げた官僚たちによって、ヨーロッパの技術の受容が開始された。とくに機械化された軍備を自前でまかなうために、上海の江南製造局に代表される武器製造廠や造船廠を各地に設置し、その他にも、電報局・製紙廠・製鉄廠・輪船局や、陸海軍学校・西洋書籍翻訳局などが、新設された。
そのスローガンは、「中体西用」であった。伝統中国の文化や制度を本体として、西洋の機械文明を枝葉として利用するのだということが表明されている。中国の国力は日本をはるかにしのいでいたので、これらの改革は規模も大きく、時期も明治維新より早かった。
たとえば日清戦争以前、中国の北洋艦隊(北洋水師)は規模や質において日本海軍を上回りアジア最大の艦隊であった。
にもかかわらず、洋務運動は十分な成果を挙げなかった。
一つは担い手の問題であろう。洋務運動の中心は北京の政府ではなく、太平天国鎮圧の中心だった地方長官、李鴻章、左宗棠らであった。全国が一体として運動ではなかった。
当初、これらの企業は半官半民の官督商辨で、官が最小限度の監督をし、資金を出した商人が実権を握るというものだったが、これを支えるべき安定した銀行などがなく、恐慌が起こると官の力が強まり、徐々にこれを私物化するようになった。その結果、民間資金は集まらなくなった。
もう一つは「中体」というところにあった。中国最初の外交官としてイギリスに派遣された劉錫鴻は、西洋文明の充実に驚嘆した。しかし、帰国後、鉄道の建設に反対している。
墓地の風水を破壊する、などが理由であった17。要するに中国の場合、儒教が大きな障害になったというべきだろう。
これは福沢諭吉と大きな対象をなしている。福沢は、少なくとも明治の初めまでは、儒教倫理を徹底して排撃した。それが西洋文明受容の大きな障害であることを知っていて、その排撃に努めたのである18。 
第三節 日清修好条規の成立
ところで、開国した清国に対し、日本も貿易と国交を望んだ。幕府が1862 年、千歳丸を上海に派遣して貿易の開始を申し入れたことについては、すでに述べた。その中に高杉晋作がいたことは良く知られた事実である。
他方で、中国人の日本への渡航は、もっと多かった。そもそも鎖国時代より、多数の中国人が長崎に来航していた。開港後、西洋諸国が日本に来るにしても、これを支えたのは中国人商人だった。その中には、アヘンを吸引するものがあり、これを取り締まることが必要だった。また日本としても、対清貿易の拡大を希望していた。
1870 年8 月、日本政府は外務大丞柳原前光を清国に派遣した。通商の協議と、さらに外交関係樹立の予備協議が目的だった。太平天国の乱が一段落し、同治中興によって小康を得ていたときであった。とくに外交関係においては、総理各国事務衛門を設立して、伝統的な外交関係を脱皮して、新しい外交に取り組もうとしていた。
しかし、柳原は北京に入ることを許されず、天津で9 月、李鴻章と会談し、総理衙門にあてた外務卿の書簡を渡した。その中で、隣国同士で外交関係がないのは遺憾だとして、近々その交渉を始めるべく、そのために、まず通商を協議したいと述べた。
これに対し総理衙門は「大信不約」の意をもって、条約は不要だと答えた。しかし柳原の重ねての申し入れに、李鴻章はこれに応じるべきだと考え、その意見を上奏し、総理衙門はこれを受け入れた。総理衙門によれば、西洋諸国と交際して日本だけを拒絶するのは「一視同仁」の原則に反するものであった19。
しかし反対する意見もあった。安徽巡撫英翰は、外国が新たに通商を求めてくることは認めるべきでないとして反対した。すなわち、外国は犬羊のさがであり、ただ利を図り、威を恐れ、中国の強弱に注視し、弱いと見るとつけこんでくる。日本は「臣服朝貢の国」であって、条約を結んだ国とは違う、これを許せば、次々と臣服諸国が同じ事を要求してくる、日本はかつての倭であり、明代の倭寇は今日の英仏に劣らぬ患であった、こうした患を増やしてはならないというのであった。以下の李鴻章などの議論に比べれば、間違いが多く、時代錯誤的である。そういう認識がまだまだ少なくなかった。20
李鴻章はこのような意見を退けて、日本は元以来朝貢を通ぜず、中国の属国ではなく、清代からは平和な関係が続いている、また日本は西洋諸国と条約を結んで自強をはかっている、「これを篭絡すればあるいはわが用となろうが、これを拒絶すれば必ずわが仇となる」として条約締結を支持した。そして中国に近く、人の往来の多い日本には、条約を結んだのちには、在日の中国人を取り締まり、また日本の動静を偵察するために、役人を派遣して東京または長崎に駐在させるべきだと述べた。21 22
翌1871 年9 月、日清修好条規が成立した。これは、欧米に対して不平等条約を締結させられている国同士が結んだ平等条約である。相互に外交使節と領事を駐在させ、相互に制限的な領事裁判権を認めるなど、双務的性格を持っている。
注意すべきは、最恵国条款が含まれていなかったことである。これは清国側が注意したところである。曽国藩も李鴻章も、日本との条約締結は支持したが、最恵国条款の挿入には強く反対していた。李鴻章によれば、外国人が内地に入って通商することが最大の弊害であり、加えて日本人は貧しくて貪欲でうそつきであり、中国と近いので往来も便利であり、顔つきや文字も同じであるため、内地通商の弊害は一層ひどいものになる、内地通商の道をふさぐために、最恵国条項は絶対に挿入してはならないと主張した。23
なお、この条約で注目すべきは第二条である。そこには、「両国好を通ぜし上は必ず相関切す。若し他国より不公及ひ軽藐する事有る時其知らせを為さは何れも互に相助け或は中に入り程克く取扱ひ友誼を敦くすへし」とあった。両国が条約の用語に十分な理解がなかったかもしれないが、これは日中が提携して第三国に対抗する可能性を含むもので、西洋列強の関心を引き起こす可能性があった。実際、イギリスやドイツから強い疑問が出されている。
たしかに、日本側には、西洋の進出に対抗するため、日清提携が必要だと考えるものは、当時少なくなかった。1875 年2 月、右大臣岩倉具視はその上奏文において、諸外国の中でもっとも恐るべきはロシアであり、もし清国がロシアに併呑されるならば日本の独立も危なくなる、それゆえ清国との親善を図り、互いに助け合って、「両立両全」を図るべきだとのべ、その後1882 年にいたって壬午事変で日清関係が緊張したときにも、外務卿井上馨に意見書を送り、今日のアジアで独立を保っているのは日清両国のみである、その両国が提携しなくては「西力東漸」の勢いを阻むことは到底できないと述べている。こうした考え方は、広く民間にも共有されていた24。
先にも述べたように、この条約締結を最初に日本が申し入れたとき、李鴻章は、日本は単独で欧米諸国に対抗できないでいるので、清国は日本を援助し、欧米が日本を支配しないようにすべきだと述べている。日清両国いずれにおいても、欧米に対する警戒から、日中相互に提携して、欧米に対応しようとする思想が存在したことが分かる。
ところで、日清修好条規の締結によって、両国は外交使節を交換、常駐させることとなった。王芸生によれば、中国商人で横浜に住むもの2000 余り、神戸に数百、長崎に1000余りなどであったという。25李鴻章は1876 年2 月上奏して、日本に対する警戒が必要だとして、その情勢を探るためにも使節を常駐させるべきだと述べた。
77 年1 月、駐日公使に翰林侍講・何如璋、次席に張斯桂、書記官に黄遵憲と決定した。
ちょうど西南戦争のさなかだったため、着任は少し遅れ、12 月となった26。
これは日中関係史上、重要な事件となるはずであった。何如璋は立派な文人であり、多くの漢学者が交友を求め、日本ではちょっとしたブームとなった。
また黄遵憲の残した『日本国志』(1880 年)は、全40 巻の大部なものであり、日本の進歩の著しいことを賞賛し、清国における対日理解の欠如を厳しく批判している。何如璋が、部下の黄遵憲に命じて起草させ、朝鮮から来日していた修信使・金弘集に渡した著名な『朝鮮策略』(1880 年8 月2 日)は、当時の国際情勢についての優れた分析であった。
しかし、最初からそうであったわけではない。何如璋は、のちに日本の発展を的確に理解するようになるが、最初は日本を軽視し、自国を過大評価する傾向があった。儒教的中国的な認識の枠組みから抜け出すのは容易なことではなかった。その間に、日中両国の間には、次々と問題が発生していた。 
第四節 台湾出兵と琉球問題
1.琉球帰属問題
日本と清国とは、日清修好条規締結の直後から、領土問題をめぐって鋭く対立することになった。
その一つは沖縄・琉球問題であった。がんらい沖縄ないし琉球は、日清両属とよぶべき位置にあった。その名称自体、二つの起源を持っている。すなわち、沖縄(ウチナー)とは、広義の日本語・かな文化を共有する沖縄の人々が、大和(ヤマト)に対して自らを呼んだ言葉である。他方で、琉球とは、14 世紀に明が倭寇対策として当時の中山王に朝貢を促し、その見返りに与えた国号である27。
しかし、17 世紀以来、事実上琉球王国を支配していたのは薩摩であった。すなわち、1609年の島津家久の征討以来、島津氏は琉球を支配したが、清国との冊封・朝貢関係は、貿易上有利なものであったので、これを維持させ、風俗についても日本化を避け、全般的に独自の風俗を維持させた。そして、清国も、琉球が実は薩摩藩の支配下にあることを知っていた。このように複雑な国際関係が存在していたのである。
しかるに、両属という関係は、西洋近代の国際関係の中にはありえないものであった。
沖縄/琉球は、清の一部となるか、日本の一部となるか、独立するか、三つに一つであった。
そして独立した場合には、西洋列強の侵略を受ける可能性は十分にあった。ペリーも沖縄に立ち寄って条約を結んでいるし、それに先立って、イギリスやフランスが琉球に立ち寄って交易を求め、これをアジア進出の足がかりにしようとしていた。日本の政策は、他のいずれにもならないよう、沖縄の日本帰属を明確にすることであった。
1871 年8 月、明治政府は廃藩置県を断行したが、琉球については、これを鹿児島の管轄とした。そして、72 年1 月、鹿児島県の県官、奈良原繁らを派遣して、本土の政治変革と島治改革について告げた。
ところが、1871 年11 月には、台湾に漂着した宮古八重山の漁民69 名のうち、54 名が殺されるという事件が起こっていた(3 名は事故死)。1872 年6 月、12 人の帰還によってこの事件を知った鹿児島県では、問罪出兵を建議した。
しかし、政府は慎重に対応を検討し、琉球の日本帰属を確実にする事実を積み重ねていった。1872 年10 月、琉球国王尚泰は琉球藩王に任ぜられ、華族に列せられた。つまり旧大名と同様の待遇を与えられたのである。同月、琉球から外交権を接収し、これまで琉球が外国と締結した条約(たとえば1854 年琉米修好条約)と交際事務を外務省の管轄とすることとし、外務省出張所を那覇に置いた。他方で、清国に対する隔年朝貢は実施されており、清国から異議はなかった。
ところが、73 年3 月にも、備中小田県(現在の岡山県)の4 名が漂着し、略奪されるという事件が起こった。そこで政府は、副島種臣外務卿を特命全権大使として清国に派遣し、交渉させたが、清国は、殺人者は「生蛮」に属し、「化外」の地にあって、清国政教の及ばぬところであるとして、責任を認めなかった。
そこで日本政府は74 年2 月6 日、台湾出兵を決定し、西郷従道中将を事実上のリーダー(台湾事務都督)に任じた。しかし欧米列強が批判的な態度をとると、いったん出兵は中止とされた。ところが西郷は、政府の許可がなくても出兵するという決意を明らかにしたため、政府は再度出兵に決した。西郷の軍は5 月長崎を発し原住民を平定した。
1873 年10 月に、征韓論に強く反対した大久保が、台湾出兵に踏み切った第一の理由は、薩摩の爆発を恐れたからである。2 月1 日には、前参議、江藤新平が佐賀の乱を起こしており、これが薩摩に連動すれば政府は崩壊の危機に直面すると考えられた。政府は台湾出兵により、薩摩士族の対外的膨張のエネルギーを外にそらそうとしたのであり、実際、兵士の多くは薩摩で集められ、リーダーは西郷隆盛の弟、西郷従道であった。ただし、征韓論に反対したもう一人の有力参議、木戸孝允は台湾出兵に反対して辞職している。第二は、征韓に比べれば、軍事的な危険は小さいと思われたからである。第三に、清国が化外の地といい、責任を認めなかったことから、あわよくば、これに対する領土権を主張できるかも知れないと考えるものもあった。この出兵で重要な役割を果たしたアメリカ人ルジェンドルは、そのような意見であった。28しかし大久保は、そういう論者を抑えて、琉球の日本化の一環として台湾出兵を実施したのである。
1874 年10 月、大久保は北京に行って清国との交渉にのぞんだ。イギリス公使ウェードの斡旋もあって、清国は日本の出兵を「保民の義挙」と認め、撫恤金50 万両(67 万円)を支払うことに合意した。これは琉球が日本の一部であることを認めることであった。西洋諸国は、当初は日本の主張に無理があると思っていた。しかるにこのような結果を見て、日本の外交的勝利だと考え、日本の外交的手腕を高く評価した29。なお大久保は、出兵の正当性を認めさせることに重点があり、賠償金は後日返還する予定であった。30
交渉にあたった大久保は、帰国後12 月、琉球を完全に日本の領土に組み込むことが必要だと建議している。そして1875 年3 月、ボアソナードは日本の統治権をより完全にするため、琉清交際関係を廃止させることを建議し、7 月、琉球を訪れた内務大丞松田道之は隔年朝貢の廃止、慶賀使派遣の廃止、在福州琉球館の廃止を命じた。琉球当局者は朝貢継続を嘆願したが、政府はこれを認めず、琉球はこれを清国に訴えるという事態となった。
琉球の密使は1887 年2 月、福州に到着し、浙閩総督何環と福建巡撫丁日昌は、琉球を保護すべきだと提起した。1877 年9 月、李鴻章は森有礼駐清公使に対し、琉球の朝貢を廃止させた件について質した。この問題は、同年末に着任した初代公使・何如璋の最初の重要な仕事となった。
1878 年5 月、何如璋は三つの案を具申している。第一は、日本と交渉するとともに、琉球に軍艦を派遣して朝貢中止について追及することであった。このように強硬な姿勢を示せば、日本側は慎重になるだろう、これを上策とする。第二は、理をもって交渉し、日本側が譲歩しなければ琉球側に必ず救援することを約束し、日本の合併に抵抗させる。もし日本が琉球を攻撃すれば、清は兵を出して、琉球とともに日本を挟み撃ちにする。必ず清が勝利して、和平が結ばれる。これが中策。第三に、繰り返し理をもって交渉し、あるいは国際法を引用して各国の公使に仲介を頼む。日本側は自国の狙いが無理だと知って、琉球は存続できるだろう、というものであった31。
このころ、何如璋の日本に対する評価はまだ低く、日本の政治は不安定、経済も弱体であり、軍備増強の成果も上がっていない、軍艦は鉄甲と称しているが実は鉄皮に過ぎないと主張している。しかし李鴻章はこの評価に反対し、日本の軍艦は鉄板の厚さは4 寸もあって、侮れないと述べていた。のち、日清両国を訪れたグラント前大統領の評価は、中国の軍事力はとても日本に及ばないと見るものであったから、おそらく李鴻章の方が正しかったのであろう。それに、いざ日本と戦争になれば全責任を負わざるをえない李鴻章としては、慎重な判断に傾くのは無理もないことだった。
1879 年3 月、日本は廃藩置県を断行し、首里城を接収し、4 月、琉球藩を廃止し、沖縄県を置くことを全国に布告した。旧藩王父子は6 月、沖縄を離れ、上京した。
しかしこのころには、何如璋の意見も変化していた。1879 年末の意見書では、日本が自主独立の外交を行い、陸海軍の訓練も成果を挙げているとして、清が琉球に遠征しても勝利を収めることは難しいと論じていた。琉球からはたびたび清国の援助を求める使節が秘密のうちに送られたが、清国はこれに応じる気配はなかった。
1879 年7 月、グラント前アメリカ大統領が世界漫遊の途次、清国を経て来日した。グラントは清国要人から琉球問題についての調停を依頼されていた。グラントは日本政府に対し、相互に譲り合って問題を解決するよう勧めた。
ここに日本側が提示した案が、1880 年の琉球分島案である。日本は琉球諸島のうち、宮古・八重山の両島を清国に割譲し、その代償として、日清修好条規を試行期限内に改正ないし追加する形で、中国内部において欧米人なみの通商権を獲得しようとした。分島改約または分島増約といわれる。これは清が拒絶したことによって実現されなかった。
以上のように、日本は慎重にしかし断固として琉球処分を推し進めた。これに対して、琉球は抵抗したが、それは支配層が中心であり、民衆にとって、琉球処分は、薩摩支配の前近代よりは、明らかによい方向への変化であった。32他方で、清国は遅れを取り、日本の主張を徐々に受けいれることとなった。しかしこの問題に決着がつくのは、日清戦争を待たねばならなかった。
なお、清国では当時、洋務運動が起こっていたが、独立のためには自強が必要だという考えは広まりつつあった。 
第五節 朝鮮問題の発端33
もう一つの大きな問題が朝鮮問題だった。文禄・慶長の役(壬辰倭乱)によって、日本と朝鮮との関係は断絶していた。徳川家康は関係修復を求め、朝鮮もこれに応じて、1607年から1811 年まで、12 回の通信使を日本に派遣している。通信使は国内を旅行して江戸に行き、この間、日本の学者文人と交わった。
ただ、外交としては、そこにはさまざまな難しい問題が存在していた。朝鮮は中国に対して朝貢国であるのに、日本は中国に対して対等と主張していたことである。これは、朝鮮国が徳川将軍と対等であり、徳川将軍より上位にある天皇は、皇帝と対等ということになり、日本は朝鮮より上位ということになる。それは、しかし朝鮮にとっては受け入れられないことであったろう。
こうした難しい外交を担当していたのは、対馬の宗氏であった。宗氏は対朝鮮外交を一手に担い、ときに国書を改竄するなどして、日朝関係を維持してきた。また宗氏は、釜山に、長崎における出島に相当する、草梁倭館という特殊地域を有していた。
ところで、日本の幕末にあたる1864 年1 月、朝鮮では高宗が即位したが、実権を握っていたのは、高宗の父、興宣大院君(以下、大院君)であった。
大院君の政策は、一言で言えば、復古的革新であった34。朝鮮の王宮、景福宮は、文禄慶長の役で焼失して以来、250 年もそのままとなっていたが、正式の王宮が消失ままであってはならないと、1865 年、その再建に着手したのはその例である。
したがって、対外的には攘夷の強化であった。
まずロシアは、沿海州を得て朝鮮と国境を接するようになったため、国境の町慶興(キョンフン)を1864 年と65 年の二度訪れて、交易を申し入れたが、二度とも拒絶された。
1866 年、大院君は1866 年、キリスト教を弾圧し、数千人を迫害し、9 名の外国人宣教師を処刑した。そのトップはフランス人だったので、フランスは1866 年10 月、艦隊を派遣して江華島に上陸し、江華府を陥落させたが、兵力と補給の不足から、11 月、撤退した。
朝鮮は勝利をおさめたわけである(丙寅洋擾)。
またこれより前、1866 年、アメリカの商船、シャーマン号が交易を求めて、平壌をめざして大同江をさかのぼるうち座礁し、焼き討ちされるという事件があった。これを詰問するため、1871 年5 月、アメリカ艦隊が来襲して、江華島に上陸したが、江華島の防備は強化されており、アメリカは江華島を占領することが出来ず、撤退した(辛未洋擾)。
このように、中国と日本が開国を受け入れていたとき、朝鮮は攘夷を断行し、短期的にこれに成功していたのである。しかし、それは莫大な費用を必要としたし、また長く続くはずはなく、いずれ西洋列強の大規模な介入を招く可能性が高かった。
1869 年1 月、明治政府は対馬藩主宗義達に命じて、王政復古を朝鮮政府に通告せしめた。
しかし朝鮮政府は、「皇」「勅」など、中国の皇帝にしか使わない言葉が含まれているなどの理由で、その受領を拒絶した。
政府は対韓交渉を外務省に移し、1870 年、佐田素一郎、森山茂を派遣して情勢を探らせた。また、70 年10 月、吉岡弘毅、森山茂らを派遣して、外務卿書簡を届けようとしたが、接受を拒絶された。
廃藩置県によって、宗氏は廃されたので、新政府は、いよいよ朝鮮との間に新しい外交関係を結ぼうとし、倭館に外務省の外交官を駐在させようとした。
72 年9 月、外務大丞花房義質が軍艦・春日などを率いて渡韓し、草梁倭館を接収した。韓国はこれに対し、草梁倭館への食料供給を拒絶し、館の前に日本を「無法之国」と侮辱した書を掲示した。
こうした情勢に、日本の中にはいわゆる「征韓論」が高まった。「征韓論」の内容は一義的ではなく、無礼をとがめて出兵せよという議論から、大使を特派して、衝突を辞することなく強硬に交渉せよという議論まである。ともあれ、特使派遣がその最大公約数であったが、それは、1873 年8 月、政府内部で決定された。事は重大なので、当時外遊中であった岩倉大使らの帰国を待って正式決定することになった。10 月14、15 の両日、閣議で征韓論が議論されたが、太政大臣三条実美は煩悶のあまり急病を発し、岩倉具視がその代理となり、再度議論を行って、征韓は中止と決定した。征韓支持の参議の方が多く、反対の参議の方が少ないにもかかわらず、この決定を行ったのである。
征韓論の背景として重要だったのは、国内秩序の不安定だった。攘夷から開国への転換や、藩の廃止や、その他の多くの改革によって、大きな不満が蓄積され、一触即発の事態となっていた。対外的冒険は、それを一時そらせるかのように思われたのである。 
江華島事件と日朝修好条規
征韓論政変の二ヶ月のち、朝鮮では李太王親裁の名のもとに、大院君は執政を停止され、王妃閔妃一族が政権を掌握した。大院君の攘夷政策は、巨大な財政負担となって、国政は揺らいでいた。そして新政権において、頑迷な対日政策をようやく変更しようとしていた。
日本では、大久保政権が1874 年5 月、台湾出兵を断行した。8 月、清国は京城に急使を派遣し、征台のあとに征韓が行われる恐れがあると警告したので、朝鮮政府は事態を重視して対日政策担当者を更迭して、政策変更の準備をしていた。
1874 年9 月より、朝鮮側は、6 月以来草梁倭館に滞在していた外務省の森山茂と接触し、国交再開の協議を開始した。明治政府の官僚と朝鮮政府の官僚の最初の接触だった。
しかし交渉は難航したので、森山は日本軍艦を測量を名目に派遣して威嚇することを提案した。1875 年、日本は軍艦・雲揚などを送り、朝鮮東岸を測量し、その後、西岸を測量し、9 月、江華島に接近して朝鮮側からの砲撃を誘発し、報復攻撃を加えた。
このころ、ボアソナードは意見書において、「朝鮮は支那に対し全く臣属の国にあらず、又た全く独立の国にあらず一個中間の位置にある」として、朝鮮に罪を問う使節を派遣するが、それに先立って清国にも使いを送り、ただし、できるだけ朝鮮を独立の国として扱うという方針を示している。
同年11 月、森有礼が北京に公使として派遣された。森有礼は、12 月9 日、北京に到着し、10 日、総理衙門に恭親王を訪問して交渉した。その際、清国側は、「朝鮮は中国の藩服に属するも其施行する一切の政教禁令は従来同国の自主専行に任せ中国は之に対し干渉する事無し。今日本国は朝鮮と修好せんと欲するも之亦朝鮮自ら主持すへき事に属す」と述べている。これを日本は、清国は朝鮮を独立国と認めたとして、朝鮮との交渉は清国に協議することなく日朝関係の中で処理することができると判断した。清国は、これが失言であったことに気づき、「朝鮮は事実清国所属の邦土の一なること周知の如く」と述べている35。
この点について、王芸生は、「其後朝鮮問題の一切の紛糾は皆此一語の禍する所となったのである。不謹慎なる一語の貽す禍深しと云ふべしである」と非難している。
朝鮮に対しては、1875 年12 月、黒田清隆が特命全権弁理大臣として派遣された。交渉は難航し、一時は日本で開戦論も高まったが、76 年2 月27 日、日朝修好条規が締結された。その第一款には、「朝鮮は自主の邦にして日本国と平等の権を保有せり」とある。しかし後段では、朝鮮による日本に対する領事裁判権の承認、関税自主権の否定といった、不平等条約に典型的な条項が含まれていた。これは朝鮮を清国との宗属関係から切断することが狙いだった。
ただ、それは清国の立場と決定的に矛盾するものではなかった。清国は日朝の対立が戦争に発展することを危惧して、朝鮮に対して柔軟姿勢をとるよう勧告していた。日朝、日清、清朝関係がぎりぎり折り合えるところで成立したものであった36。 
壬午事変
そうしたバランスはまもなく崩れ始める。1879 年3 月の琉球処分は、その契機となったように思われる。
1879 年7 月、李鴻章は朝鮮高官の李裕元に書簡を送り、日本を牽制するために列強に対して開国することを勧め、また清国に対する依存を強めるよう勧めた。同じ年の9月、日本を訪問した金弘集に対し、駐日公使の何如璋は、黄遵憲に執筆させた『朝鮮策略』を渡している。そこでは、ロシアを最大の脅威と見て、清国と「親しみ」、日本と「結び」、西洋の中でもっとも友好的なアメリカと「連なる」ことを提言したものであった。二つの意見の間には興味深い共通点と差異が存在する。一番の違いは、日本をどう見るかであった。
1881 年2 月、朝鮮問題の担当は、これまで属国の問題を扱っていた礼部ではなく、北洋大臣と駐日公使がそれぞれ朝鮮と直接協議することとさだめられた。そして、李鴻章の勧告による西洋諸国との条約締結は、まずアメリカを対象に行われた。朝鮮の条約案は清国との協議のもとで、1882 年4 月から始まった、シューフェルト米海軍代将、駐清臨時代理公使ホルコムを相手に、天津で行われた。こうした事実自体、朝鮮の「独立」とは相容れないことであった。しかもその草案の中で、「朝鮮は中国の属邦」という趣旨の一条が挿入された。アメリカは結局この条項を受け入れず、したがって、この文言は大統領宛の親書の中で述べられることとなった。それにしても、清国の意図は明確であった。
1882 年9 月には、清の貿易商にきわめて有利な中朝商民水陸貿易章程が締結された。締結は壬午事変の後だったが、その前から着手されたものであった。そこでは、他の条約国は最恵国待遇にあずかることができないと、明記されており、宗主国清国の地位は他国と同じではないことが、すなわち朝鮮の従属が、別の言葉で述べられたといってもよい。また、この協定の改定は、北洋大臣と朝鮮国王が交渉し、清国の皇帝の許可を得て実行されることになっていた。そこでは、李鴻章が朝鮮国王と対等になることになっていたのである。そして李鴻章は腹心の袁世凱を朝鮮に送りこんだ。
清国の狙いは、朝鮮に対する支配権を実質化することであった。しかし、この交渉のさなか、李鴻章の部下であった馬建忠は、朝鮮がより自主的になり、清国にたいして従属的でないことを発見している。37日本の影響力もまた、拡大しつつあったのである。
すなわち、1877 年には日本から花房義質公使が着任して、日本との交際の強化を説いていた。81 年、高宗は日清両国に留学生を派遣することとし、日本に対しては再び金弘集を修信使として派遣した。同年5 月、朝鮮王朝は日本公使館付武官、堀本礼造に軍隊の教練を依頼することを決定した。この軍隊、別枝隊は両班の子弟80 名からなっていた。
1882 年7 月23 日、朝鮮旧軍の兵は政府に反抗して、大規模な暴動を起こした。壬午事変あるいは壬午軍乱である。直接のきっかけは軍の不満だった。新式装備の別枝軍と比べ、旧軍は著しく劣遇され、13 ヶ月の間、給与の未払いが続く有様だった。
さきに閔妃政権によって引退を余儀なくされていた大院君は、これを復活の絶好の好機だと見て、反乱を利用して、ふたたび政権を握った。
この反乱の際、兵は日本人教官を殺害し、日本公使館をも襲撃した。花房公使はかろうじて逃れ、京城から仁川に脱出し、26 日、イギリス船に救われ、ようやく日本に帰るという有様だった。これは日朝関係を大きく揺るがす可能性を持っていた。
これを知った清国は、いち早く介入した。8 月4 日、三隻の軍艦を出発させ、8 月13 日には陸軍の派遣も決定した。その数は数千に上った。そして26 日には、事件の中心人物であった大院君を逮捕して天津に送った。
これは明らかにそれまでの宗属関係と大きく異なる対応だった。清国は、より直接的に朝鮮を統制する方向へと転換していたのである。
これは日本にとって困った事態であった。朝鮮を清国から独立の国として、日本の影響力を強化したい日本と、従属関係を実質化して、影響力を強化したい清国との対立の中で、清国の力が強化されることになったのである。
この結果、済物浦条約が結ばれた。そこでは、日本は京城に駐兵権を持つこととなった。
他方、清国も兵を置き、両国は京城で対峙することとなった。 
甲申事変
壬午事変によって、排日の巨魁である大院君は朝鮮から除去されたが、清国の影響力は強化された。しかし朝鮮の中には、清国との関係を重視する事大党とともに、日本と結んで近代化を図ろうとする独立党が対立していた。
日本の言論人で朝鮮問題に深くかかわったのは福沢諭吉であった。福沢の慶応義塾には、1881 年より朝鮮からの留学生がやってきて、滞在していた。金玉均もその一人だった。鎖国の殻を破ろうとして学ぶ彼らは、福沢にとって、あたかも20 年前の自分自身のようであった。彼らとの交際を通じて、福沢は朝鮮問題に深い関心を持つようになり、彼ら近代化派を、政府の政策を超えて、支援するようになった。1882 年、壬午事変に直面した福沢は、自分がかつて軍備増強を十分主張しなかったことは誤りであったと自己批判し、軍備の増強が不可避だというようになった。
こうした独立党が日本の支持を期待して起こしたクーデターが、甲申事変であった。84年12 月4 日、清国がフランスとの戦争に手を焼き、余力がないことを見て取った独立党の金玉均、朴泳考、洪英植らは竹添進一郎公使の支持を得てクーデターを起こした。
いったん高宗は独立党の動きを受け入れ、クーデターは成功したかに見えた。しかし事大党はただちに清国軍に協力を要請して反撃に転じ、兵力に劣る独立党と日本軍は敗北し、金玉均、朴泳考らは日本に亡命した。当時の北洋艦隊は日本を圧倒する力を持ち、陸上の清国軍は日本に十倍する3000 人を擁していた。
1885 年1 月9 日、漢城条約が結ばれた。事変の責任は不問としたまま、朝鮮は日本に謝罪し、被害日本人に賠償金11 万円を支払い、焼失した公使館の再建のために2 万円を支払う、などが合意された。日本がかかわった事件にもかかわらず、日本にとってむしろ有利な解決となったのは、事件が朝鮮内政問題とされたからであった。38
これに続いて、天津条約が結ばれた。事変のさなか、清国軍による日本公使に対する発砲、日本人に対する殺傷などの問題があったからである。交渉は難航したが、イギリス公使パークスの仲介もあり、4 月18 日、伊藤博文と李鴻章が天津で交渉して、天津条約が結ばれた。そこでは、両軍の4 ヶ月以内の撤退や、いずれも軍事教官を派遣しないこと、もし将来内乱が発生した場合には、相互に通知しあうこと(行文知照)、などが決められ、清国軍の側に不注意があったことが認められた。これも予想以上に、日本に有利な内容であった。フランスとの紛争をかかえる李鴻章は、妥協したのである。また日本も、面子がたてば、それ以上に清国と対立するつもりはなかった。
しかしながら、甲申事変は明らかに独立党、親日派の敗北であった。福沢諭吉の「脱亜論」が書かれたのは、1885 年3 月、甲申事変が終わり、天津条約の交渉が始まる前であった。その中で福沢は「東洋の悪友」との交際は謝絶して、「隣国なるか故」に特別のことをするのではなく、普通に付き合うべきだと述べた。これは短い論説であり、脱亜という言葉もタイトル以外には使われておらず、当時、とくに注目を引いたものでもない。この論文の意味するところは、朝鮮の学生を庇護していた福沢が、親日派を通じての朝鮮の改革が、挫折したという告白であった。とくに強硬なアジア外交を説いたものではなかった。
ただ、日朝の提携、日清の提携という要素が、以後、強調されなくなるのは確かである。
明治前期から存在していた日清あるいは日清韓提携論の大前提は、朝鮮や清国の側に日本と協力しようとする勢力があることであった。しかしそれは誤りであることが明らかになった。朝鮮において清国とは鋭い対立があることが明らかになったのである。
しかし、日清が1894 年の日清戦争に向かって進んでいったと考えるのは早計である。朝鮮には、清国の進出を好まぬ勢力があり、高宗は清の影響力を制限するため、ロシアと結ぼうとしたことがある。イギリスはロシアの進出を嫌い、85 年3 月、巨文島を占領した。
これに対してロシアも対抗すると声明したため、李鴻章は必死で行動し、両国とも朝鮮領土を占領しないという妥協を成立され、87 年、英国を巨文島から撤退させた。朝鮮をめぐる国際関係は複雑であり、日本はロシアに備える必要もあり、清国に対する報復や対決は、外交路線の中心にはならなかったのである。39
軍事力の増強も、必ずしも急速には進まなかった。たしかに1880 年代の日本では軍拡が重要課題であり、それは以上のような朝鮮情勢と対応していた。実際、1882 年までは軍事費は予算の20%未満であったのに、83 年からはそれを超えていった。その内容は、海軍の増強が中心であった。北洋海軍に対抗しうる海軍の建設は急務だと思われたのである。ところが、財政事情はその継続を許さず、85 年には、甲申事変の敗北にもかかわらず、また清国北洋海軍が最新鋭艦二隻(定遠・鎮遠)を加えたのにもかかわらず、軍拡は修正されることになる。40陸軍では、85 年に鎮台条例が改正され、88 年には鎮台が廃止されて師団制が導入されたが、当時はまだ大陸作戦用の軍隊というほどの力はなかった。訓練も、敵の上陸を撃退する訓練が多かった。41
1885 年、日本で内閣制度が成立したころ、日本の対朝鮮政策は、清英との協調のもとに、朝鮮を中立としようとする路線が優勢であった。これに対応して、軍備拡張もむしろ穏健であった。急速な軍備拡張を唱える勢力も、清国との対決を主張する勢力も存在したが、彼らは政府の中枢にはいなかった。42 
おわりに
中江兆民が1888 年に刊行した『三酔人経綸問答』は、近代日本における政治論、外交論の古典としてよく知られている。その中には、洋学紳士君、豪傑君、南海先生という三人の人物が登場する。洋学紳士は、民主政治の積極的な受容を説き、対外政策においては、いかに努力しても西洋諸国に追いつくことは不可能であり、むしろ世界の世論に信を置いて、非武装政策を取るべきだと主張する。これに対し豪傑君は、世界の趨勢は弱肉強食であり、日本はこのままでは列強の餌食となる、単独で西洋諸国と対抗できない日本は、近隣の老大国を切り取るべきだという。
最後に南海先生が言う。洋学紳士君にも豪傑君にも、一つ共通の欠点がある。それは「過慮」である。世界は洋学紳士の言うほど理想主義的に発展はしていないし、豪傑君の言うほど力ばかりの状況でもない。それに日本はそれほど無力ではない。着実に漸進的に民主化を推し進め、外交においては周辺国との友誼を深め、容易に侵略されない程度の武備を備えることが望ましいと述べる。
この三人は、いずれも兆民の分身だったと思われる。兆民は紳士君のような民主化を考え、もしかしたら豪傑君のような路線が可能ではないかとも考え、しかし、結局、南海先生のような政策しかありえないと考えた。それは明治20 年当時の最大公約数でもあった。
19 世紀の後半にあっては、紳士君のような路線は、まず不可能だった。したがって、選択は豪傑君の方向か、南海先生の方向か、そのいずれかであった。言い換えれば、日本の針路そして日中関係の未来は、まだ決まってはおらず、その後の日中それぞれの政策と、西洋諸国の政策によって決められることになる。それが明治20 年、日本が朝鮮半島で敗北し、また国内で議会設立に向かう時点での、姿であった。 

1 このような体制の名称については諸説あるが、冊封と朝貢ないし進貢を中心とし、文化的優劣関係を中核とする点で、大きな違いはない。その特色の詳細な検討として、西里喜行『清末中琉日関係の研究』(京都大学学術出版会、2005 年)、13−18 頁、が参考になる。
2 坂野正高『近代中国政治外交史』(東京大学出版会、1973 年)、第三章。なお、『万暦会典』(1587 年)には、日本は朝貢国とされているが、『嘉慶会典』(1818 年)には、互市諸国の中にあげられている。同上、84−87 頁。
3 たとえば『瀛環志略』(1866 年)は、古い書籍をそのまま引用し、日本の三大島は、北の対馬島、中の長崎、南の薩〔山ヘンに司〕馬(さつま)であると述べる有様であった。佐々木揚『清末中国における日本観と西洋観』(東京大学出版会、2000 年)、B−C頁。
4 ただし、ここでいう「成功」「失敗」というのは、あくまで当時の西洋との接触と独立の維持という観点における成功と失敗である。一般的に言って、ある課題における成功の条件は、次の課題における失敗を引き起こすことが少なくない。それは東アジアの歴史を考えるときにも忘れてはならないポイントであろう。
5 佐藤誠三郎「川路聖謨」、佐藤『<死の跳躍>を超えて』(1992 年、都市出版社)所収、133 頁。
6 以上、原田環「19 世紀の朝鮮における対外的危機意識」、『朝鮮史研究会論文集』21 巻(1984年3 月)。
7 石河幹明『福澤諭吉伝』第一巻(岩波書店、1932 年)、330−333 頁。
8 島津久光は、藩主ではなく藩主の父であり、陪臣であった(それゆえ、任命は他より二週間ほど遅い)。それは、この会議が真に実力を持つ者の会合であったことを示す事実である。
9 1863 年8 月の薩英戦争において、薩摩はイギリスを相手によく戦ったのみならず、講和の交渉のさなかに、イギリスからの武器の購入とイギリスへの留学の相談を持ちかけた。この柔軟性に、イギリスは強い印象を受けた。
10 すでに1862 年、幕府は千歳丸を上海に派遣して貿易を求めている(佐藤三郎『近代日中交渉史の研究』、吉川弘文館、1984 年)。また1863 年には函館奉行所が健順丸を上海に派遣している。
11 岡義武「維新直後における尊攘運動の余炎」、『岡義武著作集』第6 巻(岩波書店、1993年)所収。
12 福沢諭吉「福翁百余話」、慶応義塾編『福沢諭吉全集』第六巻(岩波書店、1959 年)所収、419 頁。
13 なお、天皇は日本の伝統においては、文の象徴であったが、ここでは軍事リーダーへとその役割を転換されることとなった。それがのちに、大元帥として、統帥権の中心に置かれたわけである。天皇シンボルの利用は、この段階では明らかな成功であったが、のちに、思慮深い元老や政治家が天皇の周囲にいなくなったとき、軍部の悪用するところとなり、大きな問題を引き起こすことになるのである。
14 北岡伸一『日本政治史:外交と権力』(1989 年、放送大学出版協会)、32 頁。
15 この点を最初に指摘したのは、岡義武「明治維新と世界情勢」(1946 年)(『岡義武著作集』第一巻所収)であるといわれている。
16 洋務運動については、日本側でもっとも詳細な研究として、鈴木智夫『洋務運動の研究』(汲古書院、1992 年)がある。
17 菊池秀明『ラスト・エンペラーと近代中国<中国の歴史 第10 巻>』(講談社、2005 年)、68−69 頁。
18 ただし、福沢が根本的に反儒教であったとは、必ずしもいえない。『文明論之概略』あたりから、儒者に対する配慮を忘れなかったし、明治10 年ころからは、少なくとも、武士のエトスを強調するようになるが、それは儒教とも親和的であり、功利主義一辺倒ではなかった。丸山真男「福沢諭吉の儒教批判」(1942 年)、丸山『福沢諭吉の哲学』(岩波書店、2001 年)所収。また、北岡伸一『独立自尊:福沢諭吉の挑戦』(2002 年、講談社)。
19 坂野正高、『近代中国外交史研究』(1970 年、岩波書店)、243−244 頁。
20 同上。
21 同上。
22 李鴻章は、日本の「自強」の動きをもっとも良く知っていた一人であった。たとえば、生麦事件から薩英戦争にいたる経緯や同戦争における薩摩の善戦について、『ノース・チャイナ・ヘラルド』から情報を得ていたいたといわれる。佐々木前掲書、12 頁。
23 坂野前掲書、246−247 頁。
24 岡義武「国民的独立と国家理性」、『岡義武著作集』第6 巻、248−250 頁。
25王芸生前掲書、168 ページ。
26 張偉雄『文人外交官の明治日本:中国初代駐日公使団の異文化体験』(柏書房、1999 年)
27 平野聡『大清帝国と中華の混迷』(講談社、2007 年)、287 頁。
28 William L. Newman, America Encounters Japan: From Perry to MacArthur, Baltimore: MD, The Johns Hopkins University Press, 1963, ch. 9.
29 清沢洌『外政家としての大久保利通』(1942 年原刊、1993 年、岩波文庫)。
30 勝田政治『<政事家>大久保利通』(2003 年、講談社)、182−183 頁。
31 張前掲書、96 ページ。
32 「琉球処分」については、これを侵略的統一と見る見方(たとえば井上清)と、近代的統一の一環と見る見方(たとえば下村富士男)がある。最初の本格的な琉球・沖縄研究者である伊波普猷は、基本的に琉球処分を解放ととらえ、「琉球処分の結果、所謂琉球王国は滅亡したが、琉球民族は日本帝国の中に入って復活した」と述べている(我部政夫『明治国家と沖縄』、三一書房、1979 年、第一章)。なお、琉球処分においては、民衆を巻き込んだ大規模な抵抗や、これに対する流血を伴った弾圧はなかったことを指摘しておきたい。
33 日朝ないし日韓関係について、基本的な研究は依然として、田保橋潔『近代日鮮関係の研究』(朝鮮総督府中正院、1940 年)が重要。また、彭澤周『明治初期日韓清関係の研究』(塙書房、1969 年)も参照。
34 木村幹『高宗・閔妃』(2007 年、ミネルヴァ書房)、48 頁。
35 王芸生前掲書、128 ページ。
36 岡本隆司『属国と自主の間:近代清韓関係と東アジアの命運』(名古屋大学出版会、2004年)33 頁。
37 同上、69 頁。
38 木村前掲書、175 頁。
39 高橋秀直『日清戦争への道』(東京創元社、1995 年)、186−200 頁。
40 同上、208−212 頁。
41 戸部良一『逆説の軍隊<日本の近代9>』(中央公論新社、1998 年)、107−114 頁。
42 朝鮮中立化計画を含む、日本のさまざまな朝鮮政策、軍備政策について、大澤博明『近代日本の東アジア政策と軍事』(成文堂、2001 年)を参照。 
 
対立と協調 / 異なる道を行く日中両国

 

日清戦争と下関条約、三国干渉による遼東半島の返還、日本留学熱および近代日本文化の中国への影響、義和団運動と8 カ国連合軍、日露戦争、辛亥革命日清戦争から辛亥革命にかけての時期は、日中関係がきわめて緊密化し、共通体験を有する時代でもあり、また同時に転機でもあった。だが、その転機は直ちに1930 年代の戦争に結びつく変容ではなく、依然として多様な可能性を秘めた時期であった。
まず、この時期に日中が政治的、経済的、文化的にきわめて緊密な関係を築いたことについて説明を加えたい。この時期には、直接的な人的交流が急増し、また王族や高級官僚や留学生が日本を多く訪れ、そして東京が中国でおこなうことのできない革命運動や立憲運動などの政治活動の場ともなった。また、中国が近代国家建設を本格的に開始し、明治維新を意識した国家諸制度の改革をおこなうなど、日中双方が近代国家建設を体験し、ともにハーグ平和会議に参加するなど、主権国家を基礎とする国際社会の一員として対外関係を築くようになった。日中は、「近代」をつうじて結び付けられ、西洋文明の受容、国家建設、そしてナショナリズム、アイデンティティ形成などの面で共通経験を有し、またさまざまな相互関係を育むことになったのである。
次に、近代日中関係の転機としての面についてである。第一に、両国が国家間戦争を体験し、その結果、二国間関係が日清修好条規に基づく平等な関係から、下関条約に基づく日本に有利な不平等条約体制の下に位置づけられるようになった。第二に、日本が中国をめぐる国際政治に列強のひとつになった。日本は、中国をめぐる国際政治に、遅れて参加した列強となった。中国をめぐる国際政治をめぐる基本的な枠組みには、1858 年の天津条約、1901 年の北京議定書、1921 年の九カ国条約があるが、日本は1901 年の北京議定書から加わることになった。第三に、日清戦争の結果、中国が台湾を日本に割譲し、中国が朝鮮の独立を承認し、その後1910 年に日韓併合がなされるなどして、日本は植民地を有する帝国となった。その結果、台湾と中国、朝鮮と中国といった関係とともに、関東軍の置かれた旅順・大連という日本の租借地や各地の日本租界と中国との関わりが生まれ、日中関係が単に東京と北京の関係ではない、多元的な関係となったことは重要だろう。
本章で検討する日清戦争から辛亥革命に至る時期は、日中両国の関係が多元化、緊密化していく時期でありながら、同時に政治外交的な関係が多様化しつつも、ある意味で敵対的な局面が見られ始めた時期であった。だが、その敵対的関係は決して決定的なものではなく、両国それぞれの将来、また日中関係にもさまざまな選択肢が残されていた時期だということを看過してはならない1。 
1.朝鮮半島をめぐる対立と日清戦争
朝鮮半島をめぐる日中対立
19 世紀後半、日中両国がそれぞれ近代国家へと変容する中で、両国は国境を画定していった。日本は、旧来の幕藩体制下での国家よりも拡大するかたちで国境線を引こうとし、沖縄や北海道を都道府県に組み込んだ。それに対して、中国は必ずしも拡大型ではなく、既存の省設置地域に加えて新疆などの藩部や台湾などの辺縁に省を置くなどして国土を確定していった2。日中関係は、琉球を介在した関係、および長崎貿易で結びつく互市関係から、日清修好条規で結びつく国家間の外交関係となった。東アジアがこのような主権国家間の関係へと変容する中で、琉球の外交権は日本によって否定され、琉球と中国の関係は日中関係の一部に位置づけられた。
このような状況の中で、中国はそれまで有していた冊封や進貢に基づく周辺諸国との関係を基本的に維持しつつも、西洋諸国や日本との諸関係の中で、調整、変化を加えていった。琉球をはじめとして、冊封、進貢に基づく関係を有していた周辺諸国が中国とのこうした関係を途絶させる中で、朝鮮とはその関係を維持した。その朝鮮が東アジアの国際政治、日中関係の最大の焦点になった。1876 年、日本は不平等条約である日朝修好条規によって朝鮮を開国させたが、これが朝鮮と中国の関係を直ちに変えるものではなかった。また、1880 年に駐日公使館参賛官であった黄遵憲による『朝鮮策略』に「中国に親しみ、日本と結び、アメリカと聯なる」と表現されていることに見られるように、中国は朝鮮が「開国」することを忌避していたわけではない3。中国の朝鮮に対する基本姿勢は、「属国でもあり(あるが)、また自主でもある」というダブルスタンダードであった。中国と朝鮮の間の宗属関係は維持されるが、他方で朝鮮は自主の国として諸外国と対外関係を築きうるとしたのである4。このような中国と朝鮮の宗属関係は、イギリスなどから常に否定的に捉えられていたわけではないが、日本はそれを批判し、朝鮮の「独立」を求めるとともに、朝鮮内部で親日派の養成に努めた。
国王高宗の外戚の閔妃の一族が日本に接近し、それに反発した大院君を支持する勢力が、1882 年に反乱を起こした(壬午事変)。この反乱は失敗に帰したが、閔妃の勢力は中国との連携を推進した。この年、中朝水陸貿易章程が締結され中朝貿易が制度化され、以後、朝鮮半島に中国租界も開設された。1884 年、金玉均らの独立党が日本を恃みにクーデタを起こしたが、袁世凱率いる中国兵の来援により鎮圧された(甲申事変)。1885 年、日中両国は天津条約を締結し、軍を撤兵させ、以後出兵する場合には相互通告することとなった。朝鮮をめぐっては、中国が優勢となり、幽閉されていた大院君を連れ返った袁世凱は駐箚朝鮮総理交渉通商事宜として、朝鮮の内外政に以前以上に大きな影響力をもつにいたった5。
後世、日本の対アジア侵略というコンテキストを説明する上で有名になる脱亜論は、朝鮮政策について比較的強行であった『時事新報』に1885 年に掲載された。しかし、同時代において福沢の言論がそれほど注目されたものではないことが最近明らかにされている6。なお、日中韓関係においては軍事的に中国が優勢となり、1886 年に長崎清国水兵事件が起きるなど、日本では中国の軍備増強が脅威として認識されたが、それが両国の対立を直ちに惹起するものではなく、日中間で海軍の艦船交流がおこなわれるなど、直接的な衝突は回避された7。 
日清戦争の勃発から講和へ
1894 年、朝鮮半島で農民を中心とする東学の乱がおきると、朝鮮の要請を受けた中国が出兵、天津条約に基づいて日本にも通知したので、日本側も出兵した。両国の出兵にともない、朝鮮政府と反乱者側は和解し、両軍は乱の鎮圧の必要が無くなり、朝鮮から両国に対して撤兵要請がなされた。しかし、日本側が朝鮮の内政改革案を提示し、それに対して朝鮮と中国が反発し、日本政府が親日政権を朝鮮に成立させるなどしたため、日清両国は対立を深め、7 月25 日に豊島沖の海戦がおこなわれるなど、7 月末から交戦状態となり、8 月1 日に両国が宣戦布告した。この間、日本は1894 年7 月16 日に日英通商航海条約を締結して領事裁判権撤廃に成功し(1899 年発効)、イギリスから日本の朝鮮派兵についても実質的な支持を得た8。
開戦以後、日本国内では議会も戦争関連予算や法案を承認し、国家の歳入の二倍強にあたる経費を戦争に投入した。戦局は日本に有利に進行し、日本は朝鮮半島から中国軍を駆逐するとともに、遼東半島や北洋海軍の拠点であった威海衛も占領した。また、台湾方面への派兵は、戦争当初から企図されていたというよりも、戦局が有利に展開する中で採用され、講和交渉がはじまってから進展した。1895 年3 月26 日、日本軍が澎湖島を占領し、台湾および澎湖島の割譲を講和の条件とした。
1895 年4 月、日中両国の全権代表、伊藤博文・陸奥宗光と李鴻章が下関条約を締結した。
その結果、中国は、朝鮮の独立自主を認め、遼東半島、台湾および澎湖諸島を割譲し、賠償金2億両を支払い、さらに蘇州、杭州など四港の開港を約した。また、第六条第二条によって開港場、開市場で、それまですでにおこなわれていた外国企業が条約港において工場経営をおこなうことを認めた。その結果、外国企業は対中投資を積極的におこなうようになった(当初は、イギリスの綿紡績が中心)。なお、日本は中国において列強が有しているのと同じ特権を獲得することになり、日中関係は不平等条約に基づく関係となった。
戦勝国となった日本ではあったが、そのまま戦果を享受できたわけではなかった。特に遼東半島については、駐華ドイツ公使経験者であるフォン・ブラントから干渉の可能性があるとの情報を得てから、李鴻章は条約に調印した9。中国の地方大官にも、「遼東半島を棄ててはならない。遼東半島が無ければ東三省はなく、東三省がなければ我が王朝は無い」というように、遼東還付を求める論調があった。また、駐ロシア公使の許景澄がロシア側に対して積極的に働きかけていた10。実際、三国干渉は1895 年4 月23 日にロシア、ドイツ、フランスの三国によっておこなわれ、日本か5 月8 日に受けいれ、中国側が日本に三千万両の報償金を支払った。日本が得た金額は賠償金を含めて二億三千万両(日本円で三億五千六百万円)となり、それは賠償金特別会計として軍備拡張費などに利用され、また金本位制や産業発展の基礎となった。三国干渉のほか、蘇州や杭州などの開港にともない設置することとなった日本租界についても、中国側の黄遵憲らとの交渉の末、僻地に設定されるなどしたため、実際には日本の商業拠点とはならなかった11。
他方、中国は主要朝貢国である朝鮮を喪失し、「属国と自主」というダブルスタンダードのうちの、対外関係のひとつのスタンダードを失うことになった。また、中国が戦費調達や賠償支払いのために列強からおこなった多くの借款は、その後の財政を圧迫した。朝鮮半島では、中国の影響力が限定的になり、1897 年には大韓帝国が成立した。そして、1899年に(原則)平等な清韓修好通商条約を締結したので、朝鮮とも不平等条約を締結した日本が優位な国際関係が形成された(朝鮮における中国租界などは維持された)。 
日清戦争の位置づけをめぐる日中の議論
日本の朝鮮への関与やその後の日清戦争へと至る道程をいかに捉えるのかという点について、日本の学界でも見解が分かれている12。通説は、日清戦争までの日本には帝国主義国となるか、植民地となるかの二者択一しかなく、結果的に帝国主義にならざるを得なかったとする見解だろう。これは、日本が朝鮮侵略、対清戦争を一貫して目指していたということでもある。最近ではその通説を補強する斎藤聖二『日清戦争への軍事戦略』(芙蓉書房出版、2003 年)もある。他方で、高橋秀直『日清戦争への道』東京創元社、1995 年)は、松方デフレ期から初期議会期にかけての明治政府には「小さな政府」的な路線であり、むしろ確固とした朝鮮政策は欠如していたとしている。これは日本に第三の道があった可能性を示す議論で、このような志向性が日本の対朝鮮政策を抑制的にしていた(財政面、軍事的未整備)とされている13。また、大澤博明『近代日本の東アジア政策と軍事』(成文堂、2001 年)も、通説には批判的である。
中国では、明治以来の日本の対外侵略をすべて国際公法違反だとし、陸奥宗光の言動を批判的に検討する論考が少なくない。また、開戦時期については、1894 年7 月25 日の豊島沖海戦とともに、中塚明の7 月23 日の日本の朝鮮王宮占領に求める説も肯定的な評価が与えられることが多い。中塚の使用した福島県立図書館の佐藤文庫にある参謀本部編『日清戦争史』草案は、中国でも翻訳され、それに依拠した文献や、それを日本が明治以来対中侵略の意図を有していた証拠とする論稿も見ら見られ始めている。また、賠償について場、賠償金二億両、遼東半島還付報償金三千万両、威海衛占領費百五十万両だけでなく、日本の奪った艦船、機器などを合わせると三億四千万両に達したとする見解も見られる。
日清戦争へと至る時期の中国と朝鮮の関係について、日本では岡本隆司『属国と自主のあいだ』(名古屋大学出版会、2006 年)があるが、中国においても中朝関係に注目する王如絵『近代中日関係与朝鮮問題』(人民出版社、1999 年)、同『甲午戦争与朝鮮』(天津古籍出版社、2004 年)などが、中朝関係の問題点、朝鮮から見た中国側の問題点などを扱い、中国における新たな日清戦争研究の流れを示している。ただし、日清開戦については1894 年7 月23 日説を採用してはいない。
他方、日本が何時清との戦争を想定して本格的な準備を開始したかという問題もまた一つの焦点である。日本の議論では、陸海軍それぞれの動向、議会との関係などの論調が複合的に参考にされるのに対して、中国の論調では明治初年以来の日本に一貫した「大陸政策」が存在したとされることがあり、また日清戦争については、山県有朋に注目し、比較的早い時期から日本が対中戦争を準備し、軍拡路線を歩んでいたとする見解が目立つ。日本でも、吉川朗『軍備拡張の近代史─日本軍の膨張と崩壊─』(吉川弘文館、1997 年)のように、天皇の軍隊の創設や1888 年の陸軍における師団制の採用に注目する見解もあるが、1889 年の第一回帝国議会での山県総理の「主権線・利益線」演説などに示された路線が、1891 年からの軍拡路線として実行に移されたことに注目すべきであろう。この軍拡は、議会において問題となったものの、同年の大津事件やロシア艦隊の長崎来航などによって海軍拡張が正当化され、1893 年2 月10 日の建艦詔勅により海軍軍拡がいっそう進められることになった。1893 年には山県の「軍備意見書」もあり、財政的に可能なときに陸海軍の拡張をすべきだという機運が高まり、軍拡路線が高まっていたと考えられる。 
2.義和団事変と中国をめぐる国際政治の変容
日清戦争後の中国をめぐる国際政治
日清戦争後、中国をめぐる国際政治にはいくつかの大きな変化が見られた。第一に、日清戦争後、李鴻章はじめ中国首脳部はロシアに接近した。1896 年3 月、ロシア皇帝にニコラス二世の戴冠式に慶賀使としてペテルスブルグに派遣された李鴻章は、露清秘密同盟条約を締結した14。この条約は、中国東北部の鉄道敷設権策史の研究』塙書房、1995 年)。だが、政策という面では、朝鮮政策を積極的に推し進める傾向が連続していたわけではない。
および経営権を露清銀行に与えることなどが定められたが、第一条には、「日本国がもしロシアのアジアの東方における領土、あるいは中国の領土、そして朝鮮の領土を侵略占領した場合には、この条約に基づいて事態に対処する。両国は、すべての陸海軍の中で派遣可能な軍をすべて派遣し相互に助けあう。兵器や糧食についても、相互に援助しあうように尽力する」という文言があり、日本を仮想敵とした軍事同盟条約であった15。しかし、日本側には日清戦後ただちに中国を侵略する意図があったわけではない16。
第二に、外国資金主導の鉄道建設が活発化し、それに鉱山開発利権などが絡み、それが勢力範囲設定にまで進展していった。このような動きは、イギリス、ロシア、フランス、ドイツなどが主導し、対中投資をおこなう十分な余裕の無かった日本の関与は限定的であった。だが、勢力範囲設定については、日本も1898 年4 月に福建省不割譲に関する交換公文を中国と締結し、台湾の対岸の福建省を勢力範囲とした。
第三に、租界と異なり、主権そのものを貸し出すかたちになる租借地が中国沿岸部の各地に、主に軍事目的で設定された。1898 年3 月にドイツにより膠州湾租借地にはじまり、旅順・大連(ロシア)、威海衛(イギリス)などが租借地となった。日本はこの租借地獲得競争に加わることはなかったが、やがて日露戦争で旅順・大連租借地をロシアから獲得し、第一次世界大戦ではドイツの膠州湾租借地を攻撃、占領することになる。
第四に、アメリカが対中政策を積極的に展開し始めたことがあろう。1898 年の米西戦争に勝利したアメリカは、フィリピン・グアムを領有し、多く華人を受け入れてきたハワイを併合し、フィリピン・ハワイにも、中国人移民を抑制する「排華法」を適用していった。
1899 年9 月、アメリカの国務長官ジョン・ヘイは門戸開放宣言を英仏露独伊日の各国に発した。これは、各国が設定した勢力範囲や租借地において、中国の関税率が有効であり、また各国それぞれの経済活動が妨げられないようにするためのものであった。これは遅れてきた帝国としてのアメリカに有利な内容であったばかりでなく、ロシアの大連租借を警戒するイギリスにとっても受け入れ可能な内容であり、各国は原則的にアメリカの宣言に応じた17。ただ、アメリカが租借地や勢力範囲をもたぬ帝国として出現したことは、中国にとって、当時においても、歴史的にも大きな意味を持った(実はアメリカは福建省に租界の開設を模索していたが、断念している)。以後、原則的にであれ、アメリカは中国の主権や統一の保持を唱え、文化交流などを通じて、中国の知識人の世界や官界に強い影響力をもつようになった。そして、日清戦争、日露戦争ともにアメリカが斡旋して講和に至っていることにも留意すべきである。 
戊戌変法と日本
下関条約の交渉過程において、康有為らの第二上書の見られるような講和拒否とともに、変法(政治・制度改革)を求める意見書が多く呈された18。康有為や梁啓超らの主導した戊戌政変は、「一統垂裳之勢」を否定して、「列国並立之勢」を主唱するなど、対外関係の面でも先のダブルスタンダードとは異なる新たな観点を提示した。内政面では、国家制度の改革、富国政策、人材の養成などを主唱した。だが、イギリスや日本なども、必ずしもこの新しい政治に同調していたわけではなかった。イギリス公使マクドナルドも、1898 年6 月11 の国是の詔について、根本的改革を認めたものとして評価しつつも、「皇帝の訓戒が中国之完了の心を深く動かすと期待できる理由は殆どない」とし、さらに「上諭が一つでも実際上の効果を生じている徴候はほとんど見えない」としている19。戊戌変法は、日本の明治維新をモデルとしているとされる。だが、日本を含めて列強からの支持を得ていたわけではなかった。結局、この新政は三ヶ月で頓挫した20。
康有為や梁啓超は、日英両国公使館の保護によって日本に亡命し、1899 年6 月13 日に横浜にて保皇会を組織し、梁啓超は以後、『清議報』、『新民叢報』などを日本で刊行した。
日本は中国の反政府派の避難所(アジ−ル)としての役割を果たしたのである。日本政府は、清朝政府の要請にしたがって、彼らを監視したり、活動を取り締まったりした。だが、日本国内でも彼らの活動に対する支持者、支援者も多く見られ、彼らとの「個人的」交流が、政治軍事面での対立と対照的に、民間における「友好の物語」として後の日中関係史研究において強調されることになっていく21。 
義和団事件と北京議定書(辛丑和約)
戊戌変法の後、中国が極端に保守化したとする見解もあるが、この点は定かではない。中国は、1899 年には第一回ハーグ平和会議に参加した22。以後、ベルヌ条約、万国郵政会議などの国際会議や国際組織における日中関係が、東アジアの二国間関係とは異なるかたちで形成されていく。
だが、その1899 年から排外的な宗教結社である義和団が山東省を中心に活動を開始し、当初はそれを鎮圧していた清朝中央も、山東省から北京周辺に移動してきた義和団を認め、1900 年6 月21 日に宣戦の上諭を発して列強全体と戦闘状態に入り、東交民巷の公使館区域は危険にさらされ、日本公使館員も戦闘をおこなった23。6 月20 日にはドイツ公使であるフォン・ケラーが射殺されるなど外国側にも犠牲者が出ていた。8 月14 日、日本を含む八カ国連合軍が北京に侵入した。連合軍の総数はおよそ二万人であり、ほぼ半数が日本軍であったとされる24。この義和団事件に際して、山東巡撫の袁世凱、両広総督の李鴻章、湖広総督の張之洞、両江総督の劉坤一らは、宣戦の上諭に従わず、義和団を反乱軍と看做し、列強との協調に努めた(東南互保)25。なお、義和団事件に際して「文明国の軍隊」であることを目指して規律を重視していた日本軍が総理衙門档案を守ったということが知られている。外務部司員王履咸は、「前年の京師の変の際、他の各衙門の檔冊(檔案を綴じたもの)が焼かれてしまい本来の姿を失ってしまったのだが、幸いにして本部(=総理衙門)の檔案は日本兵によって封守されたので、遺失しなかった」としている26。他方で、日本陸軍は戸部などから馬蹄銀や釣鐘などを鹵獲品として日本に持ち帰り、銀は国庫に繰り入れられ、釣鐘は靖国神社に寄贈された27。
1901 年9 月7 日に結ばれた辛丑和約(北京議定書)およびそれに続く中英マッケイ条約などは、1858 年の天津条約に次ぐ、中国をとりまく国際政治の基本条約となった。日本はそこに列強の一員として加わり、以後、この辛丑和約の枠組みの中で日本は列強と協調しながら中国に関与することになる(21 カ条要求に至って、この枠組みから突出し、ワシントン体制下で再度対列強協調が模索される)。この枠組みでは、いわゆる「中国分割」に歯止めがかけられ、列強は北京政府を支持しながらその近代化を推進し、財政面でも借款の返済が順調におこなわれるように関与していくことになった。中国は辛丑和約によって4億5 千万両という、日清戦争の二倍以上の賠償金の支払いを命じられた。賠償金は公債形式で、40 年年賦で返済することとされ、金貨に対する相場で計算されることにいなっていた。賠償金の配分額は、ロシアがもっとも多く(29%)、次いでドイツ(20%)、日本はアメリカと同じで(7%)であった。また、公使館区域が設定されるとともに、各国の駐兵権が認められた。
日清戦争から義和団事件にかけて、日本では中国の統一性、統治能力そのものを問うような言論とともに、日中提携論や中国保全論も見られたが、日本が主導して中国を救うべきだといったような言論が大勢であった28。 
3.「近代」をめぐる日中の交錯
光緒新政と中国人留学生の来日
義和団事件を経て、変法の路線が再び採用され、北京議定書締結前の1901 年1 月29 日、中国は変法預約の詔書(「新政の詔書」)を宣布し、立憲君主制を模索することとなった29。戊戌政変と異なるのは、その国内基盤だけでなく、国際的にも支持を受けていたことであった。7 月には総理衙門にかわって、中国で最初の本格的な外交機関である外務部が設けられた。義和団事件の講和交渉の過程で、北京公使会議と清側の全権代表がやりとりしていた際に、外務部の見取り図を描いたのは、日本の小村寿太郎とアメリカのロックヒルであった30。また、人材養成面でも、科挙制度が改革され、各省から留学生を海外に派遣して、学業を修めたものには挙人や進士の資格が与えられることになった。そして、1905 年に科挙試験が廃止されることが決まると、海外留学にいっそう拍車がかかった31。
このような海外留学熱は、日中関係に新たな展開をもたらした。それは多くの留学生が日本に来日したことである32。日本から中国へは明治初年から語学留学生が外務省によって派遣され(小田切萬寿之助、瀬川浅之進らがその出身)33、中国からも公使館付留学生が来日していた。だが、光緒新政における法政重視の風潮、また科挙試験の廃止と外国留学の官途への資格化という状況に直面し、もっとも簡便に、かつ廉価に留学でき、そして漢字を利用できるという点で日本が留学先として選ばれることになった。この段階では、中国人留学生は日中の経済力の関係から、個人差はあるにしても、総じて比較的豊かな生活を日本で送ることができた34。そして、1903 年から1906-1907 年まで、日本に多くの法律や政治を学ぶ学生が訪れた(最大年間1 万人。留学生数という面では戦時中のほうが多い)。
主に法政面での多くの人材が養成されるとともに、東京がアジア各地の青年の政治運動の拠点となった35。彼らは、東京で多くの雑誌を刊行して自らの政治、思想上の心情を披瀝した。このような、近代的な国家観やナショナリズムに接した海外の華人社会の政治運動などが、中国本国にフィードバックされていくことになった。康有為や梁啓超だけでなく、孫文、そして魯迅らもこの時期に日本に留学したし、蒋介石も陸軍の高田連隊に入隊していた。こうした点で、20 世紀前半の中国の各界の要人が日本体験をもつことになった。だが、1905 年12 月に留学生取締規則が強化され36、また中国政府も日本の教育機関が短期間で学位を授与するなどとしていたことを問題とし、次第に欧米留学(内容的には、理系、技術系)を推進するようになると、日本への留学生は減少していった。また、アメリカが、義和団賠償金を人材の養成と自国への留学経費に充当したことも(清華大学堂の設置)、欧米留学が促進される要因となった。 
日中の「文化」交流の進展
日本の大都市部に数千人の中国人青年が居住するというのは日中関係史上、未曾有のことであった。彼らの多くは日本そのものではなく、日本が西洋から輸入した近代文明に関心を有していた。だが、このような交流は、日本において受容されていた西洋の諸学が中国に伝わる契機となり、社会、経済、社会主義などといった、現代中国で多用される用語が日本から中国に伝わった37。日本が欧米言語から訳した漢字や術語が中国に流入したのである。また、日本における中国論も中国に輸出され、中国における中国論にも影響を与えた38。
そして、19 世紀末から日本で長く保存された漢籍類が中国に逆輸入されるといった現象も見られていた39。このほか、中国で留学生生活を題材にした中国語小説が出版されたり、多くの中国人学生と接した日本社会でも、中国への距離感が急速に縮小し、中国を題材とした小説などが数多く書かれるようになっていく40。 
日中双方の「近代」とナショナリズム
両国の内政に目を転じれば、この時期の日本は立憲君主制に基づく議会制度を軌道に乗せ、桂太郎と立憲政友会の西園寺公望が交互に首班となる桂園時代を迎えていた。また、日清戦争開戦直前に日英通商航海条約が締結されたことで治外法権撤廃にめどが立ち、関税自主権は1911 年に回復させ、財政面でも日清戦争の賠償金を基礎として金本位制を確立して、日本銀行が兌換券を発行し始めるなど、ようやく近代主権国家として「自立」していくプロセスにあった。そして、経済面でも日清戦争後に資本主義が本格的に成立し、1900 年に最初の資本主義的な恐慌がおこなった。19
世紀末から20 世紀初頭には、綿糸と生糸の生産が増加し、主要な輸出品となった。綿糸は中国や朝鮮への輸出が激増し、1897 年に輸出量が輸入量をうわまわった。生糸は、幕末以来日本の最大の輸出品であったが、器械製糸業が発達し、1909 年には世界最大の生糸輸出国になった。重工業の面でも、1897 年に八幡製鉄所が設立され、日露戦争後には生産が軌道にのった。
中国では、前述のように財政困難の下で近代国家建設を進めようとし、その法律や制度を構想する上で、同じ立憲君主政体を採る日本の諸制度が参考とされることが多く、また留学生たちが日本の吸収した西洋の知識を中国に伝えた。外交面でも、1903 年に締結された中英通商条約(マッケイ条約)によって、釐金をはじめとする内地課税の全廃など通商にあらたなルールが形成されるとともに、近代的法制整備を促し、それが実現すれば領事裁判権を撤廃することが約された。日本、アメリカも、この中英条約に準じた通商条約を中国と締結した。1903 年10 月8 日に締結された追加日清通商航海条約の第十一条では、「清国政府ハ其ノ司法制度ヲ改正シテ日本及西洋各国ノ制度ニ適合セシムルコトヲ熱望スルコトヲ以テ日本国ハ右改正ニ対シ一切ノ援助ヲ与フヘキコトヲ約シ且清国法律ノ状態其ノ施行ノ設備及其ノ他ノ要件ニシテ日本国ガ満足ヲ表スルトキハ其ノ治外法権ヲ撤去スルニ躊躇セサルヘシ」としたのであった41。この点で、外交の面でも、日本は中国に対して条約改正の道筋を示したことになり、光緒新政や宣統期に新たな法典の編纂や制度設計が急がれたのも、このような条約改正の道筋がつけられていたことと関係していた42。
近代主権国家への性向は、国民世論や政治思想の面で、ナショナリズムの勃興を孕むものでもあった43。20 世紀最初の十年、日本では日露戦争を通じてナショナリズムが強まり、また中国でもロシアの満洲からの撤兵問題に関する拒俄運動、アメリカ移民問題にからむ反米ボイコット運動44、そして日本がかかわる人類館事件や第二辰丸事件を通じて、民族性や国家を強く意識した政治運動が発生した45。人類館事件は大阪での第五回内国勧業博覧会の学術人類館において、漢族のアヘン吸引者やで纏足の女性が「展示」されることを知った中国人留学生らが、同じく展示されるインド、マレー、ジャワ、アフリカの人々と「同列に扱われること」に『浙江潮』などの留日学生メディアが抗議したのであった。反米運動でも、中国系移民に対する人種差別を根拠とする移民制限が問題となり、実際に移民を多く輩出するわけではない地域も巻き込んだ運動となった。また、1890 年代後半に外国に譲渡された鉄道利権や鉱山採掘をめぐる利権を回収したり46、自開商埠が開設されるなどして、中国側主導で開港場を運営したりする動きが強まった。
こうした政治運動で結集核となったのは、清朝というよりも、「中国」であった。「中国」はこの時期に次第に国名として定着しつつあったのである。梁啓超は、1901 年に「中国史叙論」という一文で、「吾人がもっとも慙愧にたえないのは、我国には国名がないことである」とし、唐や漢は王朝名、支那は外国人の使用する呼称、中国・中華には自尊自大の気味があるとしながらも、これらそれぞれ欠点をもつ三者を比べると、「やはり吾人の口頭の習慣に従って『中国史』と呼ぶことは撰びたい」と述べたのだった47。梁は、「中国」という呼称を、王朝交代を超えた呼称として想定したのである。もちろん、「中国」という概念、
観念は古くからあり、個々の時代において再解釈されてきた。梁は、それを「主権国家」的なコンテキストの下で再定義しようとしたということだろう48。 
3.日露戦争と満洲問題
日露戦争と日中関係
北京議定書後の中国をめぐる国際政治は、中国の分割を義和団事件以前の状態にとどめておくという前提の上に成立していた。列強は、そうした列強の在華利権を保障できるような中国の中央政府の存在を望み、分割をとどめるという意味での現状維持の下、列強は自らの権益を拡大しようとしていた。中国政府も、そうした列強の動きを利用しながら、外資主導型の近代化政策を推進しようとしていた。
だが、ロシアは義和団の際に満洲に派遣した兵を、もともと対露関係推進派であった李鴻章が1901 年11 月に病没した後も引揚げようとはしなかった。ロシアは1896 年に中国と密約を締結して満洲での鉄道敷設権と経営権を獲得し、また1899 年に締結された英露協定(スコット・ムラヴィヨーフ協定)もロシアの在満鉄道利権を認めていた。また、1900年の英独協定(揚子江協定)には、確かに山東に基盤を築いたドイツと結んで、ロシアの南下を防ぐという側面があったものの、英露協定の路線に反するものではなかった49。しかし、義和団事件後もロシアが満洲から撤兵しないと、イギリスとしても難しい判断に迫られた50。1902 年1 月30 日、日本と日英同盟を締結した。この条約では、日本がイギリスの中国における、イギリスが日本の朝鮮と中国における特殊権益(special interests)を相互承認するものであった。日本国内には、伊藤博文のように、ロシアとの間で「満韓交換」をおこなう日露協商論もあったが、桂太郎内閣はイギリスとの同盟を選択したのであった。
中国も、日英同盟を総じて好意的に受け止めたようである。
日英同盟を受け、ロシアは満洲からの撤兵を決断し、1902 年4 月8 日、中国と満洲還付条約を締結して、第一期撤兵をおこなった。ところが、ロシアは第二期以後の撤兵を実行せず、逆に七項目を撤兵条件として中国側に提示するに至った。日本では、三国干渉に対する「臥薪嘗胆」の下にロシアに対する国民感情が強調されるが、中国においてもこの満洲占領問題に反発する「拒俄(ロシア)運動」が全国的に展開された。この運動は京師大学堂の学生に端を発し、留日学生にも広まっていった51。 
日露戦争の勃発と中国の中立
日露戦争は朝鮮半島をめぐる日露両国の衝突とともに、この満洲還付条約を履行しなかったことを原因として1904 年2 月7 日に発生した。中国は、2 月12 日に局外中立を宣言した52。Michael Hunt によれば、袁世凱と張之洞が1903 年11月2日に召見され、東三省問題について議論し(中立決定については不明)、以後二ヶ月の間、袁世凱はイギリス駐華公使であるアーネスト・サトー(Sir Earnest Satow)との間で、清が輸送や食糧などの兵站面で日本を支援すべきかどうかについて相談、結局、袁は日本の満洲に対する野心の程度を計りかね、日本支援政策を見合わせたとする53。Hunt は、光緒二十九年九月十四日(1903 年11 月2日)の召見について『張文襄公年譜』に依拠している54。この後、張之洞は、「俄日有役,我局中固難,局外似亦不妥(「日本とロシアの間に戦端が開かれた場合、中国がその局中にあるのは難しいが、かといって局外にあるのもまた適当とは言えない」)と述べ、袁世凱は「附俄則日以海軍擾我東南,附日則俄分陸軍擾我西北(ロシアに味方すれば日本海軍が南を脅かすだろうし、日本につけばロシア陸軍が我々の西北を狙うだろう)」と述べたとされる55。清朝の宮廷内部の政策決定過程を把握することは史料的制約から難しいが、閲覧可能な史料による経緯を見れば、中国には東三省の主権回収という目標があり、また戦局からして、ロシアに与するよりも、日本に与したほうがその可能性があると看做しながらも、どちらかに与して参戦することは、敵からの攻撃があることもあり不利と考えられていたということだろう。
中国国内の官僚たちもそのような中央政府の政策を支持していたようである。1928 年に出版された蔡元培等主編『日俄戦争』は以下のように整理している。(1)まず当時はロシアの侵略こそが顕著であり、日本はそこまででないという前提の上で、有識者は日本の勝利を予見しながら、「暴を以て暴にかえる」という方針で、それを中国の自強の策にしようとを考えていたが、一般人は単純に日本に頼ろうとしていた。他方、(2)ロシアを「北狄」とみて恐怖心を感じる向きもあった。北に行くほど強くなる、という歴史的理解とロシアの大きさを重ねて、最大の敵というイメージが形成されたという56。
中国は、調印の遅れていたハーグ平和会議の諸条約に急ぎ調印し、国際的なルールにのっとるかたちで局外中立をおこなおうとした57。その「局外中立条規」の内容を見ると58、当時、満洲に軍隊を展開していたロシア側にとっては、厳しい内容が数多く含まれている。
中国人の戦争への関与は禁止され、鉄道での兵の輸送、軍事に関連する製品の販売などが禁止されていたのである。そうした意味で、この中国の中立は、厳正中立というよりも日本に対する好意的な中立であったと考えられる面も有る。実際、中国の地方大官の中には個人的に日本側に協力し、戦争終結後に日本から勲章を受けた者が少なくない59。
中国が日露戦争に直面した際に、1896 年の露清密約はどのような扱いを受けたのであろうか。外務部尚書であった那桐の日記である。その1904 年6 月11 日には、外務部の幹部たちが露清密約を文書庫から出して閲覧したことがうかがえる60。しかし、この条約があるからロシアに与するか否かという議論にはなっていない。他方、ここで同じくこの密約を見たとされる鄒嘉来については、その日記『儀若日記』を見ても、この密約のことは記されていない61。この点を考えても、日露戦争において、1896 年に締結された露清密約は、知識として清の外交当局者に認知されていたが、それを根拠とした外交姿勢を清がとることも、またロシア側もそれに基づいた要請をしたわけではない、とひとまず見ることができよう。だが、何よりも重要なのは、少なくとも外務部の幹部が露清密約を確認したのが、1904 年6 月11 日という事実だろう。清朝が局外中立を宣言したのは1904 四年2 月12 日。
少なくとも確認できるのは、局外中立を決定する過程において、外務部の幹部たちは露清密約のことは念頭においていなかった、ということである。 
ポーツマス条約の締結と「日露戦争の世界史的意義」
日露戦争の主戦場は、満洲であった。当初、戦場は限定されたが、次第に拡大し、また中国の中立についても、日中の双方から批判が続出した62。他方、当初は日本に好意的な言論が多く見られた中国では、日本がロシアにかわって満洲の占領統治を開始すると、ロシア利権が日本に移動するだけであることが明確になり、次第に日本を批判する言論が目立つようになった63。
戦局は、日本側が旅順要塞を攻め落とし、バルチック艦隊を全滅させるなど、比較的日本に優位に推移したが、日本海海戦後は膠着自体になり、結局、アメリカの斡旋で1905 年9 月5 日のポーツマス条約で終結した。中国は、講和会議への参加を企図するなどしたが、所期の目標を達成し得なかった。このポーツマス条約によって、日本は中国政府の承諾を得ることを条件に、ロシアが南満洲で有していた諸利権を継承することになっていた。これは、満洲に対する中国の主権を確認するものであったが、同時に日本が列強のひとつとして中国をめぐる国際政治にいっそう関与することを示していた。ロシアの南満洲における利権は、旅大の租借地、南満洲鉄道、および鉱山採掘権などであった。だが、日本はポーツマス条約で賠償金を取得することはできず、増税に耐えてきた国民の不満が日比谷焼き討ち事件などとして現われた。ただ、ここで留意すべきは、日露戦争後に日本の対中政策がいっそう強硬になったと単純に論じることはできない点である。
他方、日本は戦勝の意義をさまざまなかたちで見出した。それは日中関係にもかかわるものであった。その一つが、「専制の立憲に対する勝利」、「白色人種に対する黄色人種の勝利」などとしてアジア諸民族からも歓迎され、各地のナショナリズム、立憲運動に影響を与えた、というものである。中国についても、孫文の言論などから、日露戦争の勝利を権威付ける議論がとられてきた。確かに、黄色人種の白色人種に対する勝利という面も『東方雑誌』に見られる64。こうした言論は日露戦争前後に盛んであった黄禍論とも関係するものであった。また、日露戦争における日本の勝利とアジアの民族運動とのかかわりについては、頻繁に孫文の大アジア主義講演(1924 年)の言辞が引用され、それが日本のアジア主義を支える根拠にもなった。孫文は、1905 年6 月11 日にマルセイユを発って東に向かって旅立ち、7 月初めにシンガポールに到着しているから、その途上での逸話であろう65。
孫文は、「日本ガ露西亜ヲ敗ツタト云フコトハ、東方ニ居タ亜細亜人ハ、或ハ余リ重要視シナカツタカモ知レナイシ、又余リ感興ヲ引カナカツタカモ知レナイガ、西方ニ居タ亜細亜人及ビ欧洲ニ近接シテ居タ亜細亜人ハ、常ニ欧洲人カラ圧迫ヲ受ケテシュウジツ苦痛ヲ嘗メ、而モ彼等ノ受ケル圧迫ハ東方ニ居ル亜細亜人ヨリモ更ニ大デアリ、其ノ苦痛ハ更ニ深刻デアツタ為ニ、彼等ガ此ノ戦勝ノ報道ヲ聞イテ喜ンダコトハ、我々東方人ヨリモ一層大キカツタノデアリマス66」と述べている。これは、ロシアから圧迫を受けている西方諸民族が、東方人よりも日本の勝利を喜んだというもので、中国人自身の歓喜を直接述べたものではない。1905 年8 月13 日に東京で開かれた歓迎会において孫文は、「中国に立憲君主制は不適である」と明言している67。この一週間後、孫文らは東京にて中国革命同盟会を設立、11 月26 日には機関誌『民報』を刊行し、三民主義を唱えた。 
「満洲」問題の発生
日露戦争は、朝鮮半島における日露対立とロシアの満洲撤兵問題を直接の原因として発生した。戦中から、日本は朝鮮に対する侵出を強め、1905 年には第二次日韓協約を締結して大韓帝国の外交権を奪って、統監府を置いた。満洲利権については、ポーツマス条約に基づいて、1905 年12 月22 日に日中間で北京条約(満洲に関する条約)が日中間で締結された68。日本は、1906 年に関東州を統治する関東都督府を旅順に置き、南満洲鉄道株式会社を大連に設立した。日本は日露戦争における多大な犠牲の代償として南満洲利権を獲得したのである。以後、南満洲利権は日本にとって生命線となり、この利権を保持するという論理で満洲事変が発生したことを考えれば、この日露戦争は以後の対中政策、あるいは日中関係を規定するものとなった。
この「満洲に関する条約」だけで満洲諸利権をめぐる日中交渉が終わったわけではない。
この条約は言わば大枠を定めたもので、詳細はその後も交渉が続けられた。小村寿太郎外相は、新民屯―法庫門間鉄道、大石橋―営口間鉄道、撫順・煙台炭鉱、安奉線・満鉄線鉱山、京奉鉄道の延長という、いわゆる満洲五懸案に間島問題を加えて満洲六案件として、問題を一括処理しようとした。間島を加えたのは、間島問題で譲歩することで他の五条件を有利に処理するためであったと考えられている。朝鮮に隣接し、朝鮮人が多く移住していた間島をめぐる問題はきわめて敏感な課題であった。結局、1909 年9 月に間島に関する日清協約と、満洲五案件に関する日清協約が締結された。これによって、北京条約の内容が定められ、そして中朝間の国境が画定した。また満洲の朝鮮人に対する領事裁判権への適用については、日本領事の立会いという程度に限定的となった69。
このような満洲における日本利権が確定していく過程で、それに異議を唱えたのは、日清、日露の両戦争で調停役を務めたアメリカであった。1905 年、鉄道王と言われたハリマンが満鉄共同経営を提案したが、日本政府はこれを拒否した。また、1909 年には、アメリカ国務長官ノックスが、満洲における鉄道利権を中立化しようとした。しかし、1910 年7月、日本はロシアとのあいだに第二次日露協商を締結し、逆に南満洲全体をその利権の範囲とした。実際、日露間では、第1 次協商で定められた分界線で利権の境界線としていた。
それによれば、日露戦争における戦区、すなわち遼河以東が日本の勢力範囲の西限とされていたが、アメリカの鉄道利権をめぐる提議と日本の利権問題が絡められたこともあって、第二次協商では、南満洲全域に日本の利権が拡大したとみなされるようになったのだった70。日本と満洲の関係は経済面でも緊密になっていった。満州向けの綿布輸出、また大豆粕の満洲からの輸入は、日本の主要貿易品であった。 
4.日露戦後の日中関係と辛亥革命
中国利権をめぐる協商関係の形成
日本は、ロシアの満洲からの撤兵を他国よりも強く求めた。これは自国の在華権益を拡大しようとする面と、列強との共同歩調をとるという原則の双方に基づいていた。『大阪朝日新聞』の論調などにおいても、1900 年から1903 年にかけて対露強硬論が強調されていたが、開戦後は黄禍論への対応もあり、幾ら勝っても「満洲開放や清国の領土保全を主張」するようになった。そして、1905 年3 月の奉天会戦のころから、黄禍論も収まったので、「日本は満洲に対して列強と異なる特殊地位にあるとの立場を公然と主張するようにな」り、「この考えを清国や列強に認めさせていくことが、日露戦争後の日本外交の一つの柱とな」ったとしている71。
戦争の結果、満洲北部をロシア、南部を日本が獲得することで、最調整がはかられた。
まず、日仏間では、日本側のパリでの公債発行、フランスの仏領インドシナでの安全を約した日仏協商が1907 年6 月に締結された。次いで、満洲利権をあらためて確定する第一次日露協商が締結された。この二つの協商は、英露協商とあいまって、ドイツ包囲網を形成した。東アジアにおいては、1890 年代から登場したドイツとアメリカが、英仏露の協商関係にどのようなスタンスを取るのか、そして中国がそこにどのように絡むのかが問題となっていた。日本は、必ずしも英仏露三者との関係だけでなく、アメリカとの協商関係の形成にも(移民問題がありながらも)意欲を見せていた72。
1908 年中国の奉天巡撫である唐紹儀が訪米する。日本側は、これをウィルヘルム二世が提唱する米独清協商案に関係するものだと見なし、日米協商案を積極的にアメリカに提案した。その結果、1908 年11 月に高平・ルート協定が締結された。ここでは、太平洋地域における現状維持・通商自由と、中国の門戸開放・機会均等・領土保全が確認された。この協定の締結によって、満洲をめぐる日米間の摩擦は一定程度緩和されることになった。
これによって、日本の南満洲における利権はほぼ確定したのであった73。
なお、このような1900 年代後半の国際環境、特に日露協商の形成が日本の韓国併合に有利な環境を作り出した。1910 年に日韓併合に際しては、朝鮮半島の中国租界が撤廃されることになり、中国の朝鮮半島の利権が事実上消滅することになった。そして、日韓併合が中国の知識人与えた衝撃は大きく、亡国の危機が強まったのであった。 
立憲君主制の試みと日中関係
1905 年11 月25 日、中国には考察政治館が設けられた(のちに憲政編査館へと改称)。
各国の政治体制を考察することを目的としたこの機関では、日本もまた調査対象となった。
また、1907 年には沈家本らが修訂法律大臣となり、近代的な刑法典が起草された(最終的には不採用)。1908 年8 月27 日、憲政予備の詔が発布された。九年以内に憲法を制定して、議会を召集することが示された74。このような法典整備や憲政への移行過程には、日本を模した部分が少なくない。政府の組織改革野面でも、1909 年に設けられた軍諮処は日本の参謀本部にならったものだし、1911 年に設けられた弼徳院は枢密院をモデルとしていた。また、人員の面でも、中央政府や地方政府で近代的な諸制度を制定していくに際して、日本から帰国した留学生が果たした役割も大きかったと考えられる。
地方においても、1909 年10 月4 日に各省に地方議会に相当する諮議局が設けられたが、これも当時の日本の地方選挙を模倣した間接選挙であり、議員には日本留学者が少なからず含まれていた。また、1910 年10 月3 日には中央に資政院が設けられ、1913 年の正式な議院の開設が定められた。
このような日本モデルの近代的国家機構、制度建設がおこなわれる中、必ずしも日中関係が良好であったわけではない。関係の緊密化が良好な日中関係には必ずしも結びつかず、対立局面も多々生まれたのであった。
1907 年に開催された第二回ハーグ平和会議では、中国代表となった陸徴祥公使は、特に日本を警戒していた75。実際に、国際仲裁裁判所の判事選出をめぐる問題で、中国が一等国待遇を求めたのを日本が阻止したとされる76。日本が問題としたのは、中国の近代化の程度であり、陸代表は、本国に対して速やかに憲法およびその他の法制度を確立し、主権を保つことを本国に要求したのだった77。このような憲法や法制整備によって国際的地位を保たねばならないとする見解は、当時の在外使臣に共通するもので、「法制整備が実現しなければ、次の平和会議で中国は何等国になってしまうのだろう」と心配されたのであった78。
また1908 年には日中間で第二辰丸事件が発生している。マカオ付近で武器密輸疑惑によって、第二辰丸号が中国側官憲に拿捕され日章旗を降ろされたことなどをめぐる交渉で、中国側の対日交渉が民衆の支持を得られず、排日運動へとつながった事件であった79。 
辛亥革命
1908 年11 月に光緒帝が、次いで西太后が逝去した。宣統帝が即位し、皇族を中心とした政権ができあがっていき、新政権の下で袁世凱は失脚した。1911 年5 月、中国に内閣が誕生した。総理は慶親王、閣僚十三名中、五名が皇族であった(親貴内閣)。これに対して、諮議局連合が抗議したが、容れられなかった。宣統年間には、このような中央の朝廷と地方の諮議局の対立がいっそう際立つようになった。特に争点となったのは鉄道であり、1911年5 月に郵伝部大臣の盛宣懐が鉄道を国有化する旨を示すと、その国有化が外債によっておこなわれることに対して各地で反対運動が発生し、軍隊が導入されるほどになった。
他方、孫文ら言わば海外のディアスポラの影響を強く受けた革命運動は、断続的に武装蜂起を繰り返していた。辛亥革命は、言わば上述の中央と地方の争いに、このディアスポラの動きが相俟って生じたものである。1911 年10 月に発生した武昌蜂起を契機に清朝からの独立を唱える諸省が中南部を中心に増加したが、その独立はあくまでも中央政府に対する自立であって、国家としての独立ではなかった。このときには孫文は中国国内にいなかったが、その後帰国し、1912 年1 月1 日に臨時大総統となり、孫文の下に中華民国臨時政府が臨時首都南京に発足した。だが翌月には、中央・地方関係が再び表面に現れ、清朝皇帝退位を条件として、袁世凱が正式な大総統に就任、北京に首都が移された。
辛亥革命に直面する前後、日本の中国政策は一つの転換点を迎えていた。満洲権益の強化、南方への侵出、あるいは中国政府への影響力の強化など、いくつかの選択肢の中で、第二次西園寺内閣は方針を決定しかね、静観の方針を採った。武昌蜂起に接して日本側は、たとえば山県有朋が1910 年の大逆事件と関連付けて考えたように、「皇帝制度」の崩壊の可能性として意識された面もあった。徳富蘇峰は、「ペストは有形の病なり、共和制は無形の病なり」と述べた80。
その後、西園寺公望内閣の内田康哉外相は1911 年11 月28 日の閣議で、イギリスとの協調の下で、共和制でも、清朝の専制でもない、立憲君主政体採用を中国政府に促していくこと、そのために清朝軍と革命軍の調停をおこなうことを決定した81。だが、自らの利権を守ることのできる強力な統一政権を望むイギリスはすでに南北調停を開始しており、日本の要請は拒絶された。12 月22 日の閣議で日本政府は辛亥革命については成行きに任せるとの決定をおこなった82。
1912 年1 月1 日、南京に中華民国臨時政府が成立し、孫文が臨時大総統となった。中華民国は、領域としては清の版図を基本的に継承し、チベット、モンゴルなどを内包した多民族国家として五族共和を唱えた83。当初、袁世凱にも、これを契機とした条約改正の意図があったようであるが、結局、清朝が締結した列強との諸条約はそのまま継承された84。
1912 年2 月12 日に清朝皇帝が退位の上諭を発し、事態は収束に向かい、孫文が14 日に臨時大総統の辞し、翌15 日に南京の参議院が満場一致で袁世凱を臨時大総統に選出した。
3 月10 日、北京で袁世凱は臨時大総統に就任、3 月11 日に臨時約法が制定された。この臨時約法は、政治の基礎を定めたもので、大総統権限を相当程度制限している。それが、袁世凱総統が後に皇帝になろうとしたことの背景にあると理解されている。
日本政府は、臨時政府成立直後から漢冶萍公司を担保とした借款などを臨時政府におこなったが、袁世凱を中心とした事態収拾が図られる中、ロシアとともに四国借款団に加わることとなった。1913 年4 月、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアとともに2500 万ポンドの善後借款をおこない袁世凱政権を支えたのである。この点でも、日本は列強との協調をはかっていた。そして、同年10 月日本は北京政府を政府承認したのであった。以後、二次、三次革命、あるいは広東政府などが生まれるが、日本は南京国民政府の成立まで北京政府を支持していくことになる。
この間、ロシアのモンゴルに対する政策は積極化し、外モンゴルは独立を宣言したほどであった。日本はロシアと交渉をおこない、第一次、第二次日露協商で定められた満洲の分界線を内蒙古にまで延長した。これによって、内蒙古は東を日本、西をロシアの勢力範囲とした。そのため、以後は内モンゴル東部も日本の勢力範囲下にあると認識されるようになった。「満洲問題」は「満蒙問題」になったのである。 
おわりに
日清戦争前後から辛亥革命にかけての時期は、以下の三点に概括できるであろう。第一に、日中関係がきわめて緊密化し、また一面で世界史における共通の時代を体験したということである。これは、中国政府が明治維新を意識した立憲君主制度を模索したこと、法政を学習するために多くの留学生が訪れたこと、そして経済的にも貿易面などできわめて関係が緊密化したことなどがあげられる。人の交流という面では、往来にパスポートが不要であったことも付言しておきたい。第二に、このように日中間の総体的な関係が緊密化していったにも関わらず、政治外交軍事的に敵対的な局面が生まれ始めた時期だということである。日清戦争、義和団事件という二度の宣戦布告をともなう戦争や、中国を戦場とする日露戦争を体験する中で、日中関係には敵対局面が頻繁にみられるようになった。第三に、日本が中国と不平等条約を締結し、中国をめぐる国際政治に列強として加わり、さらには各地に利権を獲得する中で、当初は列強と共同して中国に関与していた状態から、次第に地域的な国際政治のアクターとして行動するようになったということである。
近代の日中関係史において、日清戦争はひとつの転換点とされる。日本が有利な不平等条約体制が形成され、日本国内でも中国を蔑視する傾向が生まれたことなど、それ以前とは異なる傾向が顕著に見られたことも確かであろう。しかし、この時期にはまだ多くの政策の可能性や選択肢が残されており、友好から敵対への転換点とすることは適当ではない。
むしろ、近代の日中関係のプロセスの一部として理解するのが妥当であり、1910 年代の二十一カ条要求やその後の展開の中で敵対関係が本格化したと見られる。本章で扱った時期には、日本は中国に対して、基本的に北京議定書の枠内で、列強と協調しながら関与したが、中国ナショナリズムの形成期であったこともあり、日中の対立局面もまたところどこで見られ始めていた、といったことであろう。 

1 拙稿「関係緊密化と対立の原型−日清戦争後から二十一カ条要求まで」(劉傑・三谷博・楊大慶編著『国境を越える歴史認識』東京大学出版会、2006 年所収)
2 茂木敏夫『変容する近代東アジアの国際秩序』(山川出版社、1997 年)
3 『朝鮮策略』の言論については、ロシアを脅威として認識する対外観とともに、駐日公使であった何如璋の琉球問題をめぐる対日強硬論と関係を有する。『朝鮮策略』の内容については、平野健一郎「黄遵憲「朝鮮策略」異本校合」(『国際政治』129 号、〈国際政治と文化研究〉、2002 年)を参照。
4 岡本隆司『属国と自主のあいだ−近代清韓関係と東アジアの命運』(名古屋大学出版会、2004 年)
5 田保橋潔『近代日支鮮關係の研究−天津条約より日支開戰に至る』(京城帝国大学、1930年)、林明徳『袁世凱与朝鮮』(中央研究院近代史研究所、1970 年)
6 遠山茂樹「日清戦争と福沢諭吉」(『福沢研究』6 号、1951 年11 月)、平山洋『福沢諭吉の真実』(文芸春秋社、2004 年)、酒井哲哉『近代日本の国際秩序論』(岩波書店、2007 年11 月)
7 1891 年の艦船交流に際しては、船員を上陸させないなど、日中双方で騒擾を防ぐ努力がなされた。「在京清国全権公使李経方丁憂帰国ニ付汪鳳藻臨時代理公使任命并清国北洋水師ニ於テ我国艦隊ヲ優待セントスル挙アル件」、『公文類纂』明治二十四年第九巻)。
8 アメリカの駐華公使であったデンビーは回想の中で、「日清間の戦争は、最初に敵意を抱いた日本側においてでさえ、決して確たる判断に基づいて起こされたものではなかった。無論、清は日本との戦争など想像さえしていなかった。清は自惚れの中に自らを位置づけ、まさか“倭人”たちが大胆にも攻撃してくるなど考えていなかった」と述べるなど、戦争の必然性について疑義を呈している。Denby, Charles, China and her People: Being the Observations, Reminiscences, and Conclusions of an American Diplomat. Vol.I;pp.122-126, L.C. Page & Co.,1906.
9 坂野正高『近代中国政治外交史』(東京大学出版会、1973 年、414 頁)
10 「江督劉坤一奏請飭密商俄国促日還遼予以新疆数城為謝片」(光緒二十一年閏五月十六日、『清季外交史料』一一五巻、二一)、許公使の動向は、許同莘『許文肅公(景澄)遺集』(民国七年鉛印版)参照。
11 大里浩秋・孫安石編著『中国における日本租界 重慶・漢口・杭州・上海』(御茶ノ水書房、2006 年)
12 佐々木揚「最近10 年間の中国における日清戦争史研究」(『東アジア近代史』第11 号、2008 年3 月)参照。
13 この高橋の見解には反論もある。たとえば神山恒雄は財政史の観点から、その松方デフレ期に決して小さな政府という議論があったわけではないとする(神山恒雄『明治経済政
14 矢野仁一『日清役後支那外交史』(東方文化学院京都研究所、1937 年)、佐々木揚「日清戦争後の清国の対露政策−一八九六年の露清同盟条約の成立をめぐって−」(『東洋学報』59 巻1・2 号、1997 年10 月)
15 「専使李鴻章與俄外部大臣羅抜戸部大臣微徳訂中俄密約」(光緒二十二年四月二十二日[1896 年5 月22 日]、『清季外交史料』巻122、1−2)
16 蒋廷黻『中国近代史』(初版、長沙、商務印書館、1938 年/香港版、立生書店、1954 年、96 頁)は、この密約締結を中国の失策とし、日露戦争、二十一箇条要求、満洲事変なども、この密約に由来するものとしている。
17 A.W.Griswold, The Far Eastern Policy of the United States, New York, Harcourt,Brace & Co.,1938, pp.36-86.
18 「康南海自編年譜」(中国史学会主編『戊戌変法』上海人民出版社、1957 年、第四冊所収)19 坂野正高『近代中国外交史研究』(岩波書店、1970 年、306−307 頁)、林権助『わが七十年を語る』(第一書房、1935 年、78−103 頁)、王樹槐『外人与戊戌変法』(中央研究院近代史研究所、1965 年)
20 戊戌変法の経緯については、茅海建『戊戌変法史事考』(生活・読書・新知三聯書店,2005年)を参照。
21 従来、日本における立憲派や革命派の活動については、馮自由『中華民国開国前革命史』(世界書局、1954 年)に依拠した面が強かったが、昨今、孔祥吉、村田雄二郎らにより、日本外務省記録などとの比較検討に基づく史料批判が進められ、その信憑性に疑義が呈されている。
22 唐啓華「清末民初中国対『海牙保和会』之参与(1919−1928)」(『政大歴史学報』23 期、2005 年5 月)、拙稿「中国外交における象徴としての国際的地位」 (『国際政治』〈特集・天安門事件後の中国〉145 号、2006 年夏)
23 服部宇之吉『北京籠城他』(平凡社、東洋文庫、1965 年)
24 佐藤公彦『義和団の起源とその運動 : 中国民衆ナショナリズムの誕生』(研文出版、1999年)、斎藤聖二『北清事変と日本軍』(芙蓉書房出版、2006 年)
25 李国祁『張之洞的外交政策』(中央研究院近代史研究所、1970 年)
26 光緒二十八年(1902 年)三月二十八日、外務部司員王履咸呈文(中央研究院近代史研究所所蔵外務部檔案、02-14、14-2、「各項条陳」)。
27 明治37 年5 月「経理局 北清事変の際獲得したる戦利品処分の件」(陸軍省大日記、防衛省防衛研究所所蔵、アジア歴史資料センター:レファレンスコードC08010342000)
28 たとえば、大隈重信「支那保全論」(早稲田大学編輯部編『大隈伯演説集』早稲田大学出版部、1907 年所収)
29 李剣農『最近三十年中国政治史』(太平洋書店、1930 年)
30 拙稿「外務の形成―外務部の成立過程」(岡本隆司・川島真編著『中国近代外交の胎動』東京大学出版会、近刊所収)
31 ダグラス・レイノルズが「黄金の十年」と表現したように、この時期に留学生が多く来日したことや、その留学生たちと日本人との交流は、「友好交流」として肯定的に描かれることが多い。しかし、留学生数の多寡それじたいをメルクマールにしたり、友好・非友好の二分論で日中関係史を描くことには疑義を呈したい。Douglas R. Reynolds, China,1898-1912 : the Xinzheng Revolution and Japan, Cambridge, Mass., Harvard University Press, 1993.
32 黄福慶『清末留日学生』(中央研究院近代史研究所、1975 年)
33「清国ヘ本省留学生派遣雑件」(日本外務省保存記録、6.1.7.1)
34 張玉法「中国留費学生的経歴与見聞(1896−1945 年)以回憶録為主体的探討」(衛藤瀋吉編著『共生から敵対へ−第4回日中関係史国際シンポジウム論文集』(東方書店、2000 年所収)
35 實藤恵秀『中国人日本留学史稿』(日華学会、1939 年)、大里浩秋・孫安石編著『中国人日本留学史研究の現段階』(御茶の水書房、2002 年)
36 文部省令第十九号「清国人ヲ入学セシムル公私立学校ニ関スル規程」。これは中国人留学生からの反発を惹起し、1905 年12 月5 日に陳天華は東京の大森海岸でと投身自殺した。
37 呉玉章『呉玉章回憶録』(中国青年出版社、1978 年)には、呉が日本留学中、幸徳秋水らの著作を通じて社会主義思想に接したさまが描かれている。
38 劉建輝「日本で作られた中国人の「自画像」」(『中国21』22 号、2005 年6 月)
39 王宝平『清代中日学術交流の研究』(汲古書院、2005 年)、王宝平編『日本文化研究叢書中国館蔵和刻本漢籍書目』(杭州大学出版社、1997 年)
40 厳安生『日本留学精神史―近代中国知識人の軌跡』(岩波書店、1991 年)
41 中英条約は、田濤『清朝条約全集』(第二巻、黒龍江人民出版社、1999 年、P.1193)、日中の条約は同上書(第三巻、黒龍江人民出版社、1999 年、P.1263、P.1270)を参照。なお、中日条約の第六款、中美条約の第十三款には、中国が「国家一律之国幣」(統一貨幣制度)の制定に努力するという条文もある。
42 宣統元年八月初一日「考察憲政大臣李家駒奏考察日本司法制度並編日本司法制度考呈覧摺」(『宣統政紀』十九巻一葉)
43 吉澤誠一郎『愛国主義の創成―ナショナリズムから近代中国をみる』(岩波書店、2003年)
44 張存武『光緒三十一年中美工潮的風潮』(中央研究院近代史研究所、1966 年)
45 坂元ひろ子『中国民族主義の神話―人種・身体・ジェンダー』(岩波書店、2004 年)
46 李恩涵『晩清的収回礦権運動』(中央研究院近代史研究所、1963 年)
47 梁啓超「中国史叙論」(『飲冰室文集』六、中華書局版、1960 年)、訳文は岸本美緒「中国とは何か」(尾形勇・岸本美緒編『中国史』山川出版社、1998 年)に拠る。
48 日本は、この「中国」という呼称を公式に使用することを躊躇した。辛亥革命の後、駐華公使であった伊集院彦吉は、日本外務省に「清国」などではなく、王朝を超えたChinaなどの呼称が日本にも必要だと説き、「支那」を公文書でも用いることを提案し、外務省に受け入れられた。拙稿「『支那』『支那国』『支那共和国』−日本外務省の対中呼称政策」(『中国研究月報』571 号、1995 年9 月)参照。
49 アメリカも同じく中国東北部におけるロシア利権を基本的に黙認していた。これは当地のロシア利権をめぐるコンガー駐華公使とヘイ国務長官の間のやりとりからもうかがえる。’Mr. Hay to Mr. Conger’, Department of State, Washington, January 3, 1903, F RUS,1903, pp.46-47.
50 L.K.Young, British Policy in China 1895-1902, London, Oxford University Press,1970.
51 北京では京師大学堂の学生を中心に運動がおこり、日本の中国人留学生の間では湯爾和や鈕永建らを中心に「拒俄義勇隊」が組織された。拒俄運動については、中国社会科学院近代史研究所中華民国史研究室主編、王学庄・楊天石著『拒俄運動』(中国社会科学出版社、1979 年)がある。だが、この「拒俄運動」の運動内容が(ロシアの撤兵を求める点などで)外務部の慶親王や直隷総督袁世凱の方針に似ていたとしても、政府がその運動を利用したり、後盾としたわけではない。この点につき、湯と鈕が抗議と運動のため帰国した際に、袁世凱が会見を拒否したこと、また清の駐日公使館もこの運動を「名義は『拒俄』だが、実際には革命運動だ」とする立場にたって取り締まったことを想起したい。呉玉章『呉玉章回想録』(中国青年出版社、1978 年、P.18-21)参照。
52 拙稿「日露戦争と中国の中立問題」(軍事史学会編『日露戦争(一)国際的文脈』錦正社、2004 年12 月)、鈴木智夫『近代中国と西洋国際社会』(汲古書院、2007 年)
53 Michael H. Hunt, Frontier Defense and the Open Door: Manchuria in Chinese-American Relations,1895-1911,Yale University Press,1973,pp.84-87.なお、Hunt には、日露戦争時期を含む中米関係を論じた、Michael H. Hunt, The Making of Special Relationship; The United States and China to 1914, Colombia University Press, 1983
54 Hunt が依拠した版本は陽胡鈞纂輯『張文襄公年譜』(北京天華印書館、1939 年)だが、筆者は東洋文庫所蔵の許同莘編『張文襄公年譜』(商務印書館、1944 年、P.176)に依拠する。そこには、年譜記事と別に、注記として「東三省交渉の件について、光緒廿九年三月にロシアから七条件が外務部に提示された。ロシアは東三省の権利を独占しようとした。中国はロシア政府の言うとおりにはせず、開港場を設定しなかった。また外国人の雇用については、もし実行すれば、中国の権限が中国北方に及ばなくなるので、外務部が拒否した。日本はすでに戦争準備をしているといい、慶親王がアメリカ公使と調停の相談をしてきたが、アメリカ公使はこれを謝絶した。九月、東三省のことはまずます加熱を極めた。伝聞によれば奉天将軍は追い出されたという。公(張之洞)は袁督(袁世凱)と同日に召見された」と記されている。
55 「直督袁世凱致外部日俄開杖我応守局外祈核示電」(光緒廿九年十一月初九日、『清季外交史料』一七九巻、第四葉)
56 呉敬恆・蔡元培・王云玉主編、呂思勉撰述・朱紹農校閲『日俄戦争』(〈新時代史地叢書〉上海商務印書館、1928 年、P.92-93)
57 中国は、義和団事件で批准の遅れていた「国際紛争平和的処理条約」に正式に批准し、ハーグ平和会議加盟国として日露戦争に中立しようとした。中国はオランダと交渉し、「国際紛争平和的処理条約」そのほかについて、皇帝の裁可を経て、オランダに寄託するかたちで1904 年11 月21 日に批准した。
57 光緒三十二年七月廿五日発、「練兵處文」(外務部檔案、中央研究院近代史研究所所蔵、02−21、12−1)、日本側もこの批准については翌年初頭に駐日オランダ公使であるスウェルツ・ランダスから確認連絡を受けている。明治38 年1 月16 日発、小村外務大臣ヨリ内閣総理大臣宛「清国ニ於テ海牙万国和平会議ニ関係セル条約及宣言ノ批准書ヲ寄託シタルノ件」(日本外務省保存記録2.4.1−2「第一回万国平和会議一件」第八巻)。
58 光緒に十九年十二月二十七日「日俄戦争中国局外中立条規」(『清季外交史料』181 巻、20−23 葉)。なお、この局外中立条規について、当時に直隷総督袁世凱の顧問であった坂西利八郎は、「清の日露戦争への局外中立」という回顧文で、「幸ひ支那は善意の中立をやってくれました」と述べ、さらに「支那の局外中立の宣言は、支那側がこの坂西に書かした」と告白している。露清密約についても「露国との密約もあるのですから露国から中立違反の証拠をおさへられないやうに」しており、袁世凱も「体面上局外中立に違反したという証拠を掴まえられないように、どこまでも細心の注意を払っておった」と述べていた坂西利八郎「その頃の日本と支那」(東京日日新聞社・大阪毎日新聞社『参戦二十将星 日露大戦を語る』(東京日日新聞社・大阪毎日新聞社、1935 年)。
59 梅渓昇編『明治期外国人叙勲史料集成』(思文閣出版、1991 年)、袁世凱については明治40 年9 月16 日「清国直隷総督袁世凱叙勲ノ件」(P.380-381)、このほか明治41 年に、陸軍通訳となった中国人や呉佩孚らの北洋軍の軍人にも勲章が贈られている(P.525-529)。
60 光緒三十年五月十一日(1904 年6 月11 日)(『那桐日記』、北京市档案館蔵)
61 光諸三十年五月十一日巳丑(1904 年6 月11 日)(鄒嘉来『儀若日記』、東洋文庫蔵)
62 中国の中立政策について、日清戦争の記録で著名なW.F.Tyler は、「中国はいささかも近代的な中立国家が果たすべき義務をいささかも理解していなかったようである」と評したという。”Extracts from Memorandum on China’s Neutrality in Russo-Japanese War,” Presented by Capt.W.F.Tyler, for presentation at the International Congress at The Hague, in Hosea Ballou Morse, The international relations of the Chinese Empire ,vol III, London, Longmans, Green, 1918, P.478.
63 井口和起『日露戦争の時代』(吉川弘文館、1998 年)、特に「戦場−朝鮮と中国」、「『西方覇道の猟犬』」において、井口は、「満州の民衆は、いわば国家から見捨てられたなかで独自の反ロシア闘争を展開し」ていたが、結局戦争がおきても、「中国東北地域の民衆にとっては、侵略者がロシアから日本にとってかわったに過ぎなかった」というように、日本の戦争の勝利が現地の中国人に肯定的に捉えられたわけではないことを確認している。なお、日本の占領統治については、佐藤三郎「日露戦争における満州占領地に対する日本の軍政について」(『山形大学紀要(人文科学)』第6 巻第2 号、1967 年)を参照。
64 「論中国民気之可用」(『東方雑誌』第一期、1904 年4 月25 日)
65 陳錫祺主編『孫中山年譜長編』(上、中華書局、1991 年、P.337)
66 外務省調査部編前掲『孫文全集』(上、P.1135-1136)
67 広東省社会科学院歴史研究室・中国社会科学院近代史研究所中華民国史研究室・中山大学歴史系孫中山研究室編『孫中山全集』(1 巻、中華書局、1981 年、P.277-283)
68 王芸生『六十年来中国与日本』(第四巻、大公報社、1932−34 年)
69 李盛煥『近代東アジアの政治力学−間島をめぐる日中朝関係の史的展開』(錦正社、1991年)
70 北岡伸一『日本陸軍と大陸政策 1906−1918 年』(東京大学出版会、1978 年)
71 伊藤之雄『立憲国家と日露戦争−外交と内政 1898―1905』(木鐸社、2000 年、P.271)
72 川島真・千葉功「中国をめぐる国際秩序再編と日中対立の形成−義和団事件からパリ講和会議まで」(川島真・服部龍二『東アジア国際政治史』名古屋大学出版会、2007 年)、千葉功『旧外交の形成 1900-1919』(勁草書房、2008 年)。
73 寺本康俊『日露戦争以後の日本外交−パワー・ポリティクスの中の満韓関係』(信山社、1999 年)
74 張朋園『立憲派与辛亥革命』(中央研究院近代史研究所、1969 年)
75 光緒三十年三月十三日収、駐和陸公使致丞参信(外務部檔案、中央研究院近代史研究所、02‐21、2−2)
76 光緒三十三年九月初二日収、駐和陸大臣文 「密陳保和会前後実在情形並近来世界大勢」(外務部檔案、02−21、4−1)、光緒三十三年九月初二日収、駐和陸大臣信一件(外務部檔案、02−21、10−1)
77 光緒三十三年八月十五日収、専使陸大臣等致本部電(外交部檔案、03−34、1−1)
78 光緒三十三年八月十五日収、専使陸、駐俄胡、法劉、比李、和銭大臣電(外務部檔案、02−12 一、2―3)
79 辰丸事件に関する古典的研究として、菊池貴晴「第二辰丸事件の対日ボイコット」(『歴史学研究』209 号、1957 年7 月)がある。
80 徳富蘇峰「対岸の火」(『国民新聞』1911 年11 月12 日)。また辛亥革命に対する日本の世論の動向については、野沢豊「辛亥革命と大正政変」(アジア史研究会中国近代史部会編『中国近代化の社会構造―辛亥革命の史的位置』教育書籍、1960 年)がある。
81 千葉功『旧外交の形成−日本外交 1900−1919』(勁草書房、2008 年、213 頁)
82 臼井勝美「辛亥革命と日英関係」(『国際政治』58 号、1978 年)
83 片岡一忠「辛亥革命時期の五族共和論をめぐって」(『中国近現代史の諸問題−田中正美先生退官記念論集』国書刊行会、1984 年)
84 曹汝霖『曹汝霖一生之回憶』(伝記文学出版社、1980 年、86〜87 頁)  
 
日本の大陸拡張政策と中国国民革命運動

 

はじめに
近代の日中関係において、第1 次世界大戦と満州事変が大きな転機であったことに異論はなかろう。第1 次大戦に参戦した日本は、中国に対華21 カ条要求を突きつけた。かつて義和団事件や辛亥革命では列国との関係に配慮した日本だが、21 カ条要求では中国と単独で対峙するに至った。また、満州事変が日中関係を暗転させたことも明らかである。だからといって日中関係が、21 カ条要求から満州事変へと直線的に向かったわけではない。
その間には、ワシントン体制と呼ばれる比較的に安定した国際秩序が存在していたし、「東方文化事業」という文化交流の試みもあった。
このため本章では、第1 次世界大戦が勃発した1914 年から満州事変直前の1931 年までをたどり、日中関係の起伏を論じてみたい。この間の日中関係は、4 つの時期区分で変遷してきたといえよう。第1 期は、第1 次世界大戦からパリ講和会議までである。第2 期は、パリ講和会議後からワシントン会議を経てワシントン体制が成立するまでとしたい。第3期は、北京政府の末期から北伐の時期であり、日本では第1 次幣原外交期となる。第4 期は、国民政府の成立から満州事変前までとする。そのころ日本は、田中外交と第2 次幣原外交の時代だった。
そのような4 つの時期区分に沿いながら、以下では20 年弱の日中関係を跡づけていく。
分析の比重は日中間の外交関係に置かれるが、列国の動向についても適宜ふれることにしたい。パリ講和会議やワシントン会議、北京関税特別会議などに示されるように、国際政治のなかで日中関係が規定されたところも多いからである。「おわりに」では、ワシントン体制と呼ばれる1920 年代の国際秩序について、日中関係に即して考察する。 
1.第1 次世界大戦
1) 第1 次世界大戦の勃発と対華21 カ条要求
1914 年6 月28 日、サラエボでオーストリア皇位継承者とその妻が暗殺された。このサラエボ事件を契機として、7 月28 日にはオーストリアがセルビアに宣戦布告したため、ドイツ・オーストリアの同盟国側とロシア・フランス・イギリスの協商国側が戦争を開始した。第1 次世界大戦の勃発に際してグリーン(William Conyngham Greene)駐日イギリス大使は、中国近海のドイツ仮装巡洋艦を攻撃するため日本に支援を求め、大隈重信内閣の加藤高明外相に日本海軍の出動を要請した。グリーンの対日要請は、イギリス商船の保護という限定的なものであったが、加藤はこれを手がかりに全面的な参戦を進めた。
日英同盟を根拠として日本は8 月15 日、ドイツ艦艇の即時退去ないし武装解除だけでなく、膠州湾租借地を中国に還付する目的で日本に交付するよう求めて、ドイツに最後通牒を発した。通牒の回答期限は1 週間であり、ドイツがこれに応じなかったため、23 日に日本はドイツに宣戦布告した。日本は第1 次世界大戦に参戦したのである。日本海軍の第2 艦隊は27 日、膠州湾を封鎖した。9 月2 日には日本陸軍の久留米第18 師団が山東半島北岸の龍口から上陸し始め、山東鉄道を占領した。11 月に日本軍は、青島の要塞を攻略してドイツ軍を投降させた。イギリス軍も小規模ながら青島戦に参加した1。
1915 年1 月に日本は、中国に対して5 号21 カ条の要求を行った。この要求は、中国外交部を経ずに日置益駐華公使から袁世凱大総統に対して直接になされた。対華21 カ条要求といわれるものであり、主な内容は次のとおりであった。
第1 号:山東省におけるドイツ権益の対日譲渡(4 カ条)
第2 号:大連・旅順租借期限と南満州・安奉鉄道の期限を99 年延長するなど南満州・東部内蒙古における権益の拡充(7 カ条)
第3 号:漢冶萍公司の日中合弁化(2 カ条)
第4 号:中国沿岸の不割譲(1 カ条)
第5 号:政治財政軍事顧問として日本人を傭聘することなど(7 カ条)
広範な要求ではあるが、加藤外相の力点は第2 号の満蒙に置かれており、その目的は既得権益の存続に対して条約的根拠を与えることにあった。また、対華21 カ条要求の第5号は、「希望条項」として交渉の最終段階で棚上げとされた。それでも日本は、5 月7 日に最後通牒を突きつけた。中国が最後通牒を受諾した5 月9 日は、中国では国恥記念日とされた。5 月25 日には北京で、2 つの条約と13 の交換公文が結ばれた。山東省に関する条約、南満州および東部内蒙古に関する条約、漢冶萍公司に関する交換公文、膠州湾租借地に関する交換公文、福建省に関する交換公文などである2。
このうち山東省に関する条約の第1 条では、中国政府がドイツ山東権益の処分を日独間協定にゆだねるとされていた。この条約と同時に交わされた膠州湾租借地に関する交換公文には、膠州湾を商港として開放し日本専管居留地を設置することを条件として、膠州湾租借地を中国に返還することが明記されていた。加えて1918 年9 月24 日にも、済南―順徳間鉄道と高密―徐州間鉄道を日本の借款によって建設するという交換公文が日中間で交わされた。他方で、イギリス、フランス、ロシア、イタリアは1917 年2 月から3 月、日本の参戦に対する代償として、山東半島や南洋諸島での権益獲得を支持すると相次いで日本に伝えていた。とりわけ山東問題は、のちのパリ講和会議などでも議論になっていく。
加藤外相の後任には石井菊次郎が就任し、一方の中国では袁世凱が皇帝となることを表明した。だが日本は、イギリスやロシアとともに袁世凱に帝政の中止を勧告した。袁世凱に対する大隈内閣の態度は強硬であった。大陸浪人の川島浪速らは、中国の政治結社である宗社党を援助して満蒙独立運動を企てており、日本の参謀本部もこの動きを支えようとした。帝政に反対する第3 革命が広がると、袁世凱は帝政を取り消し、1916 年6 月に急逝した。すると日本は、黎元洪大総統を支援する方針に転じ、満蒙独立運動は収束していった3。 
2) 西原借款から新4 国借款団へ
1916 年10 月には、寺内正毅内閣が発足した。寺内首相の意向を受けた西原亀三は、北京で段祺瑞国務総理らと会見し、日本興業銀行、台湾銀行、朝鮮銀行などを通じて対中国借款を行うこととした。西原借款といわれるものであり、段祺瑞政権との間で8 つの契約、総額1 億4500 万円の借款を成立させた。その内訳は、第1 次・第2 次交通銀行借款、有線電信借款、吉会鉄道借款前貸金、吉黒両省森林金鉱借款、満蒙4 鉄道借款前貸金、山東2 鉄道借款前貸金、参戦借款である。
中国側でこれに応じたのは、段祺瑞国務総理のほか、曹汝霖交通総長、陸宗輿中華滙業銀行董事長などである。西原借款は、第1 次大戦下で好景気にある日本の外貨を中国に投資し、段祺瑞などの安徽派を軸に親日派を養成しつつ「日中提携」を築こうとするものであった。だが西原借款に対しては、国際協調を重んじる外務省などから批判が高まり、「日中提携」の試みは頓挫した。西原借款の返済については、1 億2000 万円がこげついた4。
中国は1917 年3 月にドイツと国交を断交し、8 月にはドイツとオーストリアに宣戦布告して第1 次世界大戦に参戦した。このころ日本は、存在感を増していたアメリカと対中国政策の合意を形成しようとした。寺内内閣からは元外相の石井菊次郎がアメリカに特派され、11 月にランシング(Robert Lansing)アメリカ国務長官との間に交換公文を成立させた。この石井・ランシング協定では、アメリカが中国における日本の「特殊利益」を認めるとしながらも、日米両国は主義として門戸開放や機会均等を支持すると規定された5。
この間にロシアでは革命が起こり、1918 年には革命後のロシアに対する出兵が懸案となった。当初から共同出兵に積極的なのは、イギリスとフランスであった。もともと消極的だったウィルソン政権は、同年7 月にウラジオストクへの共同出兵を日本に提起した。その名目は、チェコ軍の救済であった。8 月からは日米の共同出兵が実行され、出兵された日本軍は7 万3000 名となった。9 月に成立した政友会の原敬内閣は、初の本格的な政党内閣であり、シベリア出兵について兵力の削減と出兵地域の限定を行った6。
同じころにアメリカのウィルソン政権は、日本、イギリス、フランスに対して新4 国借款団を提起した。アメリカの提案では、日米英仏が共同して中国に借款を行うこととされた。交渉の過程で原内閣は、条約的根拠のある既得権益に限って満蒙除外を行うという「列記主義」を受け入れた。米英側は、満蒙を地域として除外する「概括主義」を日本に許さなかったのである7。とはいえ、北京政府は新4 国借款団そのものに懐疑的であり、日本も新4 国借款団との合意内容に抵触する南潯鉄道延長借款契約や四洮鉄道借款契約を独自に成立させた。 
3) パリ講和会議と5.4 運動
第1 次世界大戦が終結すると、1919 年1 月から5 月にかけてパリ講和会議が開催された。原内閣は、パリ講和会議に向けて西園寺公望を首席全権として、牧野伸顕枢密顧問官、珍田捨巳駐英大使、松井慶四郎駐仏大使、伊集院彦吉駐伊大使を全権に任命した。会議の半ばでパリに到着した西園寺に代わって、事実上の首席全権の役割を果たしたのが牧野であった。一方の中国代表団は、陸徴祥外交総長を首席全権として、これに顧維鈞駐米公使、施肇基駐英公使、王正廷の各全権が加わった。
原内閣は、パリ講和会議でイギリスとの協調による旧ドイツ権益の継承を主眼とし、そのほかの問題では大勢に順応した。日中関係で最大の問題は、山東懸案であった。すでに述べたように、対華21 カ条要求後の1915 年5 月には、山東権益に関する条約が日中間で締結されていた。これによって中国政府は、ドイツの保有する山東権益の処分を日独間協定にゆだねると規定されたのである。1918 年9 月にも日中間では、山東鉄道を日本の借款によって建設するという交換公文が成立していた。
そこで牧野全権は1919 年1 月27 日、日米英仏伊各国によって構成される5 大国会議において旧ドイツ権益の無条件譲渡を要求した。一方の中国代表団は、旧ドイツ権益の対日譲渡に強く反発した。中国側からこの問題を主導していた顧維鈞は、翌28 日の5 大国会議で発言を認められた。このとき顧維鈞は、大戦中の山東問題関連協定は「暫定措置にすぎない」との持論を披露して、山東権益の直接返還を要求した。山東問題をめぐる日中双方の見解は、このように相容れないものであった。2 月以降の会議では国際連盟創設についての討議が中心となり、山東問題は4 月下旬まで棚上げとされた8。
結局のところパリ講和会議では、日本の要求がヴェルサイユ条約の第156 条から第158条に山東条項として盛り込まれた。これによってドイツは、鉄道や鉱山、海底電線などの山東権益を日本に譲渡した。そのことを不服として中国代表団は、6 月28 日のヴェルサイユ条約調印式に欠席した。ただし、中国は対オーストリア講和のサン・ジェルマン条約に調印しており、その批准によって中国は国際連盟に加盟し、アジア枠を利用することで国際連盟の非常任理事国に何度か当選した9。
この間に中国では、民衆を主体とする5.4 運動が起こっていた。そこで北京政府は、運動の標的となっていた曹汝霖交通総長、章宗祥駐日公使、陸宗輿幣制局総裁を6 月10 日に罷免した。さらに13 日には、銭能訓国務総理が引責辞職を発表した。にもかかわらず、山東問題に端を発する日貨排斥運動は、それから1 年近く途絶えなかった。対日不信をぬぐえない中国は、単独での対日交渉を不利とみなし、パリ講和会議後も山東問題をめぐって日本との直接交渉を拒んだため、その解決はワシントン会議に持ち越された。
このころ満州では、張作霖が念願の東三省制覇を果たしていた。張作霖は、安直戦争と呼ばれる1920 年7 月の北洋軍閥間紛争で直隷派に加担し、その地位を高めた。この内乱で没落した安徽派に代わって張作霖が北京政府に発言力を得るようになり、原内閣は張作霖に接近する姿勢を示した。原内閣は1921 年5 月に東方会議を開催し、東三省内における張作霖への支援という方針を確認した。それでも、奉天派と直隷派が1922 年春に第1次奉直戦争と呼ばれる内紛に陥ると、日本陸軍の出先は張作霖を支持すべきだと主張したものの、高橋是清内閣の内田康哉外相らは武器供給や財政支援を拒んだ。 
2.ワシントン体制の成立
1) ワシントン会議と9 カ国条約
パリ講和会議後から1920 年にかけて小幡酉吉駐華公使は、山東問題の交渉を中国に呼びかけつつ、排日運動の取り締まりを申し入れた。だが北京政府は1920 年5 月、山東問題の直接交渉を拒否すると回答した。日本は山東問題解決の条件を示したものの、中国は一国で日本と交渉することを不利と判断し、直接交渉に同意しなかった。1921 年1 月には、日中共同防敵軍事協定を廃止する公文が交換された。
アメリカでは1921 年3 月に、共和党のハーディング(Warren G. Harding)政権が誕生した。ハーディング政権は「平常への復帰(Return to Normalcy)」を唱えて、戦時体制からの転換を図った。そのハーディング政権の呼びかけによって、ワシントン会議が同年11 月に開幕した。ワシントン会議の直前には原敬首相が暗殺され、原と同じく政友会総裁の高橋是清を首班とする内閣が成立した。高橋内閣は原内閣の全閣僚を留任させており、対外的には原内閣の路線を継承したが、内政的には軍縮に移行しようとしていた。
ワシントン会議は、1921 年11 月から翌年2 月にかけて開催された。ワシントン会議の主な成果としては、中国をめぐる9 カ国条約、海軍軍備制限に関する5 カ国条約、太平洋問題についての4 カ国条約が挙げられる。日中関係では、9 カ国条約が重要な位置を占めることになった。9 カ国条約とは、1922 年2 月に結ばれた中国関係の条約であり、日本と中国のほか、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、ベルギー、オランダ、ポルトガルの9 カ国がこれに調印した。ソヴィエトは会議に呼ばれていなかった。また、日本、アメリカ、イギリス、フランスは4 カ国条約を締結し、その第4 条に日英同盟の廃棄が明文化された。
日本の首席全権は加藤友三郎海相であったが、中国関係については駐米大使の幣原喜重郎全権が担当した。一方の北京政府は、会議に際して国内から意見を求めるとともに、代表団に各派を含めることで統一の体裁を整えようとした。極東問題について中国首席全権の施肇基駐米公使は、1921 年11 月に10 原則を提起した。施肇基の10 原則には、中国の領土保全、門戸開放、機会均等などが盛り込まれていた10。
これに対してアメリカ全権のルート(Elihu Root)が、現状維持的な「ルート4 原則」を提起した。その4 項目とは、主権の独立と領土的行政的保全、安定政権の樹立、機会均等、友好国の権利などを害する行為を慎むこと、であった。このルート4 原則が採択されたため、中国の主権を尊重しつつも、各国の既得権益を原則的に維持することで列国は合意したのである。ルートの路線は、現状維持的対日協調策ともいうべきものであった。「ルート4 原則」は、9 カ国条約の第1 条に盛り込まれた。このため、9 カ国条約の第3 条は門戸開放と機会均等を規定しているものの、第1 条には現状維持的な規定が採用されていた11。
これと関連してヒューズ(Charles Evans Hughes)国務長官は、門戸開放原則について決議案を提示した。門戸開放原則に関する調査機関として、「諮議会」の設立を盛り込もうとしたのである。ヒューズ案によると「諮議会」は、諸外国の既得権益も門戸開放原則の観点から審議できるという。したがって、既得権益への門戸開放原則の適用という問題を再燃しかねなかった。だが、全権で駐米大使の幣原喜重郎は、既得権益までもが「諮議会」の審査対象となることに異論を唱えた。このため、既得権益については審議の対象外とされたのであり、門戸開放原則についての決議案は採択されたものの、具体的な成果には乏しいといえよう。 
2) 山東問題と対華21 カ条要求関連条約の改廃問題
ワシントン会議では、山東問題についても協議された。日本と中国は1922 年2 月、山東懸案に関する条約に調印したのである。この条約では、15 年賦の国庫証券によって鉄道財産を日本に償却し、国庫証券の償還期間中は運輸主任と会計主任に日本人各1名を任用して、鉱山経営は日中合弁とすることが盛り込まれた。山東問題をめぐる日中交渉では、米英からマクマリー(John Van Antwerp MacMurray)とランプソン(Miles Wedderburn Lampson)がオブザーバーとして参加し、停滞しかけていた日中交渉を打開した。そのことは、中国を調印拒否に追い込んだパリ講和会議と大きく異なっていた。
ワシントン会議では、中国の関税をめぐる条約も締結された。中国に増徴を認める内容の条約が成立したことは、のちの北京関税特別会議につながっていく。さらには、シベリア撤兵問題や東支鉄道問題なども議論されたが、中国の関税自主権回復や治外法権の撤廃については合意されなかった。
他方で顧維鈞全権は1921 年12 月、中国における租借地の回収を提議していた。これについて埴原正直全権は、南満東蒙条約によって関東州租借権を99 年間延長したという立場を堅持した。つまり埴原は、原内閣期の新四国借款団交渉によって日本の特殊権益がアメリカ、イギリス、フランスに承認されたと解釈し、さらに在華権益の現状維持的規定としてルート4 原則を援用したのであった。イギリスも日本の立場に理解を示し、関東州をイギリスの九龍租借地になぞらえて埴原の主張を擁護した。
それでも王寵恵全権は、21 カ条要求に関連する条約の改廃を要求した。しかしこれには、日本が批判的であったことはもとより、アメリカとイギリスも冷ややかであった。イギリス代表団は日本の立場を支持し、既成条約の効力を論議するのは不条理であるとした。さらにアメリカのヒューズは、21 カ条要求関連条約の改廃問題を山東問題と密接な関係にあるとみなし、山東問題の解決までその審議を延期した。
このため、21 カ条要求関連条約改廃問題が初めて審議されたのは、閉会間際の1922 年2 月2 日であった。日本側からは幣原が、中国側の主張を批判しつつも3 項目で譲歩した。
その譲歩とは、「列記主義」的南満特殊権益の範囲を除いて南満東蒙の借款優先権を新借款団に提供し、南満での外国人顧問傭聘における優先権を放棄したうえで、留保していた対華21 カ条要求の第5 号を撤回するというものであった。もっとも、これらの譲歩は1921年10 月の原内閣閣議決定で形式的な譲歩として予定されていたものにすぎない。ヒューズも、王寵恵の提起を支持しなかった12。
なお、ジャーナリストの石橋湛山は、ワシントン会議に際して「一切を棄てる覚悟」を主張していた。つまり、日本は満州権益を放棄し、台湾や朝鮮に独立を認めて中国と提携すべきだと石橋は考えた。石橋は東洋経済新報社に太平洋問題研究会を設置し、国民党代議士の鈴木梅四郎、田川大吉郎、植原悦二郎、さらには知識人などもこれに参加した13。 
3) ワシントン体制の成立とその後
日本の学界では、1920 年代の国際秩序をワシントン体制という概念で論じることが通例になっている。すなわち、ワシントン体制とは日米英3 国による協調外交の体系であり、中国はそのもとに位置づけられており、ソヴィエトは体制から排除されていた。その起点となるのが、1921 年から翌年にかけて開催されたワシントン会議にほかならない。
ワシントン会議の9 カ国条約に即していうなら、北京関税特別会議や北伐、1929 年の中ソ紛争、中国「革命外交」などへの対応が試金石となり、ワシントン体制は1931 年の満州事変で崩壊したといえよう。もう1 つの支柱である5 カ国条約に関しては、1930 年の第1 次ロンドン海軍軍縮会議で、補助艦などについて軍備制限が補強された。だが日本は、1936 年1 月に第2 次ロンドン海軍軍縮会議に脱退を通告し、海軍軍縮について無条約となった。
日中間では王正廷外交総長と小幡酉吉駐華公使が、1922 年12 月に山東懸案細目協定や山東懸案鉄道細目協定を結んだ。山東鉄道については、4000 万円の中国国庫証券と引き換えに返還することとされた。青島には日本総領事館が同月に設置され、青島守備軍は撤退した14。
それでも中国では、国権回収運動が高まりつつあった。なかでも、日本の租借地であった旅順・大連をはじめ、教育権や商租権、鉄道権益などに対して回収運動がなされた。このうちの商租権とは南満州における土地貸借権であり、1915 年に日中間で締結された南満東蒙条約に基づいていた。とりわけ重要なのが、中国の旅順・大連回収運動であった。対華21 カ条要求の関連条約を無効とみなす北京政府は、関東州租借地の期限が1923 年3 月で満期になると日本に主張したのである。しかし、中国側の主張は日本に認められなかったため、示威行動や日貨排斥が中国の各地で行われた。
このころ日本は、中国に対して「対支文化事業」という文化的アプローチを打ち出していた。第1 次世界大戦後に中国人の日本留学は2、3 千人に低迷しており、中国の留学先はアメリカが主流になっていた。義和団事件賠償金を中国への文化事業に還元する構想は、寺内内閣が中国の第1 次大戦参戦に伴って賠償金の支払いに猶予を与えたころから存在していた。1922 年6 月に顔恵慶外交総長が小幡駐華公使を通じて義和団事件賠償金支払いの2 年延期を要請すると、日本政府は文化事業構想を具体化していった。
日本政府は「対支文化事業」の基礎となる特別会計法を1923 年3 月に制定し、岡部長景外務省対支文化事務局事務官や入沢達吉外務省嘱託東大教授による現地視察を経て、対日留学の奨励、研究所や図書館の設置、および東亜同文会による中国での教育といった事業を推進しようとしたのである。その財源には、義和団事件賠償金残額のほか、山東懸案解決時の山東鉄道補償金も繰り入れられた。同年4 月には、北京政府から朱念祖江西教育庁長らが日本に派遣された。
1923 年12 月に再来日した朱念祖は、汪栄宝駐日公使とともに出淵勝次対支文化事務局長などと交渉した末に、その成果を1924 年2 月の覚書として結実させた。この出淵・汪覚書は、北京に図書館と人文科学研究所を設立し、上海に自然科学研究所を設立したうえで、博物館、医科大学、および病院の設立を検討し、日中同数の評議員会を設置して会長は中国人とすることを内容とした。したがって、中国側の意向をかなり反映していた。名称も、「対支文化事業」から「東方文化事業」と改められた。にもかかわらず、その後も東三省を中心とする教育権回収運動と呼応して、「東方文化事業」は文化的侵略であるとの批判が中国側から相次ぎ、1928 年の済南事件後には中国の委員が脱退するに至った15。 
3.北京政府「修約外交」と第1 次幣原外交
1) 5.30 事件
出淵・汪覚書が1924 年2 月に成立したころ、日本の首相は清浦奎吾であった。清浦は山県有朋直系の官僚であり、主な閣僚の母体を貴族院の研究会などとする清浦内閣は、政党との関係では政友本党のみを与党とした。この清浦内閣に対して、憲政会、政友会、革新倶楽部の護憲三派は時代錯誤と批判した。その護憲三派が総選挙に圧勝したため、憲政会総裁の加藤高明を首班とする護憲三派内閣が6 月に誕生した。外交面ではソ連との国交を樹立するなどした加藤内閣は、男子普通選挙法を成立させてもおり、政党内閣は1932年の5.15 事件まで続いていく。
加藤内閣の外相が幣原喜重郎であった。1924 年7 月の議会で幣原は、中国に対する不干渉を堅持し、機会均等主義のもとに両国民の経済的な関係を深めることで、ワシントン会議の精神に依拠した国際秩序を形成すると公言した。幣原は、加藤内閣のほか第1 次若槻礼次郎内閣、浜口雄幸内閣、第2 次若槻内閣という憲政会─民政党系の内閣において、通算5 年以上も外相を務めた。
幣原は、第2 次奉直戦争や郭松齢事件などの中国内乱において不干渉の立場を貫いたが、日本陸軍の上層部や中堅層のみならず外務省出先からも無策と批判されがちであった。第2 次奉直戦争で日本陸軍の出先は、裏面工作によって馮玉祥のクーデターをもたらした。
クーデター後には張作霖、馮玉祥、段祺瑞の会談が開かれ、段が臨時執政となった。郭松齢事件では関東軍が、満鉄付属地30 キロ以内での戦闘禁止を独断で通告している。このとき関東軍は、ソ連に操縦された馮玉祥と国民党が郭松齢に接近して東三省の赤化を企てていると認識したのである。これによって馮玉祥がソ連への亡命に追い込まれたのに対して、張作霖は関内での影響力を強め、大元帥として北京に君臨するに至った。
このころ中国には、日本の綿業資本によって紡績工場が設立されていた。中国にある日系の紡績工場は、在華紡と呼ばれた。もともと在華紡の中心は上海であったが、第1 次世界大戦後には青島や天津にも在華紡が進出した。日本の対中綿糸輸出は1914 年を頂点に減少しており、賃金高騰などによって日本紡績業の競争力が低下するなかで、中国の綿糸市場を掌握するためには現地に進出して紡績業を経営する必要があった16。だが1925 年2月上旬には、内外綿株式会社や大日本紡績、および日華紡績といった上海の主要な在華紡でストライキが行われた。ストライキは青島の在華紡にも波及し、4 月には大日本紡績の職工約2500 人が賃上げや労働条件の改善を要求してストライキに入った。ストライキに対して日本側は、沈瑞麟北京政府外交総長に取り締まりを要請した。
すでにドイツやソ連と対等な条約を締結していた北京政府は、中国外交史上初の賠償をドイツから獲得することに成功しており、列国との間でも不平等条約の改廃を目標とする「修約外交」の機会をうかがっていた。この「修約外交」とは、狭義には不平等条約の期限が到来した際に改廃を求めるものであり、広義には1912 年以来の北京政府による不平等条約改正外交全般を含んでいる。
1925 年5 月30 日にはイギリスを中心とする租界警察が、上海でデモに発砲して多数の死傷者を出した。このため、6 月からは大規模なストライキやデモが中国の主要都市で行われた。6 月1 日から3 回にわたって沈瑞麟北京政府外交総長は、日本、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、オランダ各国の公使などで構成されていた駐華公使団に対して、逮捕された学生などの釈放や事件の再発防止を強く要請した。さらに北京政府外交部は6 月24 日、不平等条約によって諸外国との友好関係が阻害されていることを5.30 事件の一因とみなし、中国の国際的地位は第1 次世界大戦の敗戦国にも劣っているとして、領事裁判権や租借地での改善を駐華公使団に提起した。このため5.30 事件は、不平等条約の改正問題につながった。
5.30 事件について中国の世論は、弾圧を主導したイギリスに最も批判的であった。しかし、「日英米三国協力」を基調とする幣原外相は、警察責任者の処分や犠牲者への救恤による5.30 事件自体の解決を優先し、直接関係のない条約改正は審議すべきでないという方針であった。北京政府外交部の派遣した交渉員と矢田七太郎駐上海総領事の間で、ストライキ解決の条件が交渉された。労働組合法に基づく工会の承認、ストライキ中の賃金支給、賃上げ、理由なき解雇を行わないことなどをめぐって協議が行われた末に、日中間で妥協が成立した。 
2) 北京関税特別会議
ワシントン会議で1922 年2 月に調印された中国関税条約は、関税率を速やかに5%に改定して、地方政府の課す通行税である釐金を廃止するために特別会議を条約実施後3 月以内に開催し、その特別会議においては2.5%の増徴を行うと規定していた。つまり、合計で7.5%の付加税を承認する方向が打ち出されたのである。その後に中国の関税率は5%に改定されたものの、フランスの批准が遅れたため関税会議は長らく開催されなかった。
ようやくフランスが1925 年8 月にこれを批准すると、北京政府は関税会議を10 月に開催すべく各国に呼びかけた。政権基盤の脆弱な北京政府は、会議の成功によって財政を確保し、正統性を高めることに努めた。
北京関税特別会議は1925 年10 月26 日に開幕した。中国はこの会議に沈瑞麟、顔恵慶、王正廷、黄郛、蔡廷幹の各全権らを送った。日本代表団は日置益を首席とし、次席の芳沢謙吉に加えて佐分利貞男、重光葵、堀内干城、および日高信六郎らが随員となった。会議は、沈瑞麟外交総長の開会宣言と段祺瑞執政の歓迎挨拶によって開幕した。王正廷全権は、関税自主権の回復を要求し、5%から30%の差等税率を暫定措置とすることを提起した。
これに対して日置全権は、関税自主権を原則的に承認する用意があると演説した。この原則的承認案が合意を得ると、関税自主権獲得までの暫定措置が最大の焦点となった。
2.5 から22.5%の差等税率という日米英共同の妥協案が1926 年3 月に採用されると、焦点は増収分を債務整理に充当させるか否かという問題に移った。イギリスが2.5%付加税の無条件承認を打ち出したため、充当問題を未決のままに付加税を先行させることで合意が成立するかに思われた。だが、債務整理などを重んじた幣原は、この付加税先行案に賛同しなかった。そのため、会議はこれといった成果のないままに、7 月に無期延期となった。幣原の秩序構想とは、概してワシントン会議における決議の枠内にとどまろうとするものであった17。
北京関税特別会議が不毛な結果に終わったためもあり、北京政府の外交に対する一般的な評価は高くない。しかしながら、北京政府の「修約外交」に具体的な成果がなかったわけではない。国務総理兼外交総長の顧維鈞は、1926 年11 月に臨時弁法と呼ばれる暫定協定を導入することで、中比和好通商行船条約を強引に失効せしめている。そのほか北京政府は、1920 年代前半までにドイツ、オーストリア、ソ連の天津租界を回収していた。さらに1927 年に北京政府は、ベルギーとの新条約交渉において天津租界を回収する合意を取りつけた。このため天津租界の保有国は、日本、イギリス、フランス、イタリアだけとなった18。 
3) 北伐と南京事件
その間に広州では、1924 年1 月に国民党第1 回全国代表大会で連ソ・連共・労農扶助の3 大政策が決定され、第1 次国共合作が成立していた19。さらに広州の国民政府では、蔣介石が1926 年6 月に国民革命軍の総司令となった。その国民革命軍が、中国の再統一に向けて北方へ軍事行動を展開した。北伐の進展に伴って、1927 年1 月には国民政府が武漢に移された。さらに国民革命軍は、同年3 月に上海や南京を占領した。日本では1926年1 月に加藤首相が死去し、同じく憲政会の若槻礼次郎内閣が成立していた。若槻内閣には幣原外相が留任しており、元大蔵官僚の若槻は外交を幣原に任せた。
1927 年3 月24 日に南京が国民革命軍によって占領されたとき、南京では、日英の領事館や外国人などが中国の国民革命軍によって襲われた。アメリカ系の金陵大学も被害にあった。これに対してイギリスとアメリカは、南京の城内を軍艦で砲撃した。しかし日本は、居留民の要請もあって報復しなかった。若槻内閣の幣原外相は、この件で中国への制裁に反対であった。むしろ幣原は、蔣介石を評価してこれを交渉相手にしようとした。このため幣原は、軟弱外交として非難された。
南京事件翌日の3 月25 日には、第6 軍第17 師団長の楊杰が南京領事の森岡正平を訪れた。ここで楊は、南京事件について遺憾の意を表したうえで、「掠奪ハ在南京共産党部員カ悪兵ヲ煽動案内セルニヨルモノニシテ即時徹底的ニ取締ヲ為シ外交部ノ設置ト共ニ賠償ノ交渉ニ応ス」と述べた。このように楊が南京事件の責任を共産党に帰したことは、森岡の電報を通じて幣原の中国観にも影響した。のみならず、黄郛を介して蔣介石も、南京事件が共産党によるものだという見解を日本側に示し始めた。
そこで幣原は、蔣介石らに「深甚ナル反省ト決意トヲ促サムコト」を矢田上海総領事に訓令した。つまり、蔣介石に対して幣原は、「共産派」への断固たる措置を暗に求めたのである。中国の秩序形成を支援するという観点から「外交的平和的方法」を用いつつ、「蔣介石ノ如キ中心人物」によって時局を収束させるべきだと幣原は考えた。このような判断の根底には、経済的利益を重視する国益観があった。蔣介石は4 月12 日、上海で反共クーデターに至った。
蔣介石を交渉相手とすることに加えて、幣原の方針にはもう1 つの特徴があった。すなわち、イギリスやアメリカと歩調を合わせることである。南京事件において日本は、イギリス、アメリカ、フランス、イタリアとともに一度は共同通牒を行った。しかし、その後は列国との調整が難航した。とりわけ、イギリスが中国への再通告を主張したのに対して、アメリカはそれに批判的であった。このため、中国との交渉は各国別となった20。
そのほか同年4 月3 日には、漢口事件が発生した。日本外務省の調書によるとその契機は、漢口の日本租界において日本人水兵2 名が、中国人の群衆によって暴行を受けたことであった。このとき日本は、海軍陸戦隊を上陸させることで租界を確保したが、それでも幣原を軟弱外交とする世論は高まっていた。他方、反共クーデターを起こした蔣介石は、南京に国民政府を成立させた。汪兆銘の率いる武漢国民政府も、9 月に南京の国民政府と合流した21。 
4.国民政府「革命外交」と田中外交・第2 次幣原外交
1) 第1 次山東出兵、東方会議、山本─張鉄道協約
若槻内閣は1927 年4 月20 日に退陣し、政友会の田中義一内閣が発足した。政権交代の主因は金融恐慌であったが、政友会は幣原の外交にも不満をつのらせていた。北伐が華中から華北に差し掛かると、田中内閣は5 月下旬に居留民保護のため山東出兵を行った。山東省には、日本陸軍の1 個旅団が派遣された。国民革命軍は山東省から撤退し、蔣介石が8 月に武漢政府と南京政府の妥協策として下野すると、第1 次北伐は中断された。来日した蔣介石は11 月に田中を私邸に訪問したものの、田中と蔣介石の溝は埋まらなかった22。
この間の1927 年6 月下旬から7 月上旬に田中内閣は、芳沢謙吉駐華公使や武藤信義関東軍司令官らを招集し、東方会議という大規模な会議を開催した。ここで田中は、包括的な方針として「対支政策綱領」を訓示した。田中にとって理想的なのは、反共的な傾向にある蔣介石や張作霖が中国の南北を分割して統治することであった。田中は、蔣介石による統一を認めつつ、張作霖を東三省に帰還させ地方政権としての安定を図ろうとした。
もっとも田中の構想は、日本外務省や陸軍の方策を集約していなかった。東方会議の総決算であるはずの「対支政策綱領」には雑多な主張が盛り込まれており、前文では「日本ノ極東ニ於ケル特殊ノ地位ニ鑑ミ支那本土ト満蒙トニ自ラ趣ヲ異ニセサルヲ得ス」としながらも、第6 項では「満蒙南北ヲ通シテ均シク門戸開放機会均等ノ主義ニ依リ内外人ノ経済的活動ヲ促ス」とされた。「対支政策綱領」には矛盾する部分が少なくないのである23。
東方会議に関連して、「田中上奏文」と呼ばれる怪文書がある。この「田中上奏文」とは、田中首相が昭和天皇に上奏したとされるものである。その内容は、東方会議に依拠した中国への侵略計画であった。だが「田中上奏文」は、実際の東方会議と大きく離反していた24。
田中内閣は、満州における鉄道政策を重視していた。田中内閣は同年10 月、満鉄社長の山本条太郎を介して張作霖と満蒙5 鉄道の協約を成立させた。山本・張鉄道協約と呼ばれるものであり、田中外交は張作霖との関係を柱の1 つとしていた。さらに田中内閣は、敦化―老頭溝―図們線、長春―大賚線、吉林―五常線、洮南―索倫線、および延吉―海林線の5 鉄道建設請負を骨子とする山本・張鉄道協約の細目を交渉し、1928 年5 月には吉林―五常線を除いて各鉄道の建設請負契約を成立させた。 
2) 済南事件と張作霖爆殺事件
蔣介石が1928 年4 月に北伐を再開すると、田中内閣は第2 次山東出兵を行った。済南で居留民保護に携わった日本軍は、支那駐屯軍臨時済南派遣隊と第6 師団であった。日本軍と国民革命軍は、5 月3 日に済南で衝突した。藤田栄介駐青島総領事は、「三日午前十時頃邦人家屋内ニ支那兵ノ掠奪アリトノ報ニ我軍四名救護ノ為赴キタルニ対シ発砲負傷セシメタルニ付我軍已ムナク応戦」と伝えた25。ただし、多くの事件と同様に、済南事件の発端に関して日中の史料は相容れない。
この済南事件に際して田中内閣は、第3 次山東出兵に踏み切った。正確な数字を挙げるのは困難であるが、済南事件では日本側よりも中国側に多数の死傷者を出している。このころ吉野作造は、「今度の様な形で支那と戦ふは我国に取て一大不祥事である」と論じていた26。済南事件の事後処理をめぐって、日中交渉は難航していった。
それでも、済南での松井石根参謀本部第2 部長―張群間交渉、南京での矢田七太郎駐上海総領事―王正廷外交部長間交渉、上海での芳沢謙吉公使―王正廷外交部長間交渉、および重光葵駐上海新総領事―周龍光外交部第2 司長間交渉を経て、ようやく1929 年3 月に芳沢公使と王正廷外交部長が済南事件解決文書に調印した。すなわち、「該事件ニ伴フ不快ノ感情ヲ記憶ヨリ一掃シ以テ将来両国国交ノ益々敦厚ナランコトヲ期スル」との共同声明、共同調査委員会の損害調査による双方への賠償、国民政府による日本人保護の保証、および山東派遣軍の2 カ月以内の撤退などによって済南事件は解決されたのである27。
他方で田中首相は1928 年5 月、東三省治安維持への積極的関与を全面に押し出した閣議決定を踏まえ、奉天軍が東三省へ早期撤退した場合には国民革命軍の追撃を阻止するものの、交戦状態にて退却した場合には両軍ともに武装解除を要求すると芳沢公使に訓令していた。田中としては奉天軍を早期撤退させることを意図し、最後的手段としてのみ武装解除を想定していたのである。
国民政府は田中内閣の方策を内政干渉と批判する一方で、奉天軍撤退の際には追跡せず、閻錫山に京津地区の治安を担当させる意向を日本側へ示した。張作霖も奉天に向けて出発することを町野武馬顧問に伝えており、田中首相の構想は表向きには批判を浴びながらも、実際には中国南北の両勢力に了承されつつあるかにみえた。
田中構想に対する痛烈な批判は、むしろ日本陸軍から寄せられた。白川義則陸相は従来の張作霖援助論から一転して張作霖下野を主張するようになっていたし、荒木貞夫第1 部長も奉天軍の武装解除を目的とした満鉄付属地外への派兵を熱心に説いていた。陸軍中央は、村岡長太郎司令官が率いる関東軍の立場に接近していたのである。
関東軍の謀略によって6 月4 日に発生した張作霖爆殺事件は、田中首相の構想を現実に葬り去るものであった。すなわち、張作霖が北京から奉天へと向かうと、関東軍高級参謀の河本大作大佐らは張作霖を列車ごと爆殺した。この張作霖爆殺事件は、当時、満州某重大事件とも称された。この事件で田中内閣は、対満州政策の柱と位置づけてきた張作霖を失った。張作霖没後の満州では、息子の張学良が実権を掌握した。
張学良政権は、12 月に蔣介石の南京国民政府と合流した。このことは、中国の再統一を意味した。中国史上に易幟と呼ばれるものである。張学良政権が満州問題の外交権を国民政府に移管すると、田中内閣の重視する満州での鉄道政策は停滞した。 
3) 国民政府「革命外交」
中国南方では国民政府が、正式に承認される前から積極的な対外政策を展開していた。
その手法は実力行使をも視野に入れた国権回収策であり、しばしば「革命外交」と称された。国民政府「革命外交」の典型は、1927 年1 月の漢口・九江イギリス租界回収であろう。最初に「革命外交」を唱えたのは陳友仁であった。陳友仁は広州国民政府の外交部長代理を経て、武漢国民政府の外交部長となった。1928 年になると南京国民政府外交部長の黄郛や王正廷が、中国の関税自主権を欧米列国に承認させた。
欧米列国に関税自主権を承認させたのは国民政府初期外交の主たる成果であり、通商条約改正、差等税率の暫定的導入、外資系輸出に対する付加税導入、および陸境特恵関税廃止といった通商問題でも、国民政府は成果を収め始めていた。もっとも、そうした外交的成果は、黄郛や王正廷による政治指導だけに還元されるべきではない。アメリカなどの中国寄りな対応は、すでに北京政府末期の「修約外交」によって相当程度まで準備されていたし、国民政府の通商政策も北京政府の「修約外交」を大筋において継承したものだからである。このような中国の方針は、日本にも対応を迫るものであった。関税自主権承認で遅れをとった田中内閣は、差等税率や輸出付加税への対処をめぐってイギリスとの共同歩調を模索したが、うまくいかなかった。
田中内閣は、国民政府による漢冶萍公司や南潯鉄道の接収を阻止したものの守勢に立たされており、満蒙鉄道交渉も頓挫していった。張学良の政権が、易幟に際して中国東北をめぐる外交権を国民政府に移管したためである28。後年に王正廷は、「アメリカ政府、とりわけアメリカの国民は、常に大いなる友情を中国に示していた」し、ランプソン駐華イギリス公使は「知的かつ多才であり、完全なる対等を求める中国に同情的であった」と回想している。他方で王は、「対日政策には細心の注意を払った」という29。
このように田中外交は、次第に手づまりの状態となっていた。1928 年から1929 年ごろの国民政府「革命外交」と田中内閣の対応については、以下の表を参照されたい。日本国内では野党の民政党が、田中外交への批判を強めた。張作霖爆殺事件の真相を知った田中首相は一旦、昭和天皇に厳罰を約束した。だが、陸軍の圧力が高まったため、関係者の行政処分にとどまった。これによって河本大作は停職となり、関東軍司令官の村岡長太郎は予備役になった。昭和天皇が田中の変節を叱責すると、田中内閣は1929 年7 月に総辞職した。民政党の浜口雄幸内閣が誕生し、外相には幣原が復帰したのである。
国民政府「革命外交」と田中内閣の対応(1928-1929 年)
「革命外交」の3類型  細 目      田中内閣の対応
不平等条約改正策 関税自主権の回復 次期内閣に持ち越し
通商政策      新通商条約締結  交渉には合意
            差等税率暫定導入 差等税率導入を承認したうえで
                        外債整理への充当を追求して失敗
            外資系輸出に対する付加税  徴収阻止に失敗
            陸境特恵関税廃止 抗議によって延期せしめた
重要産業接収策  漢冶萍公司接収  抗議して接収を放棄させた
               南潯鉄道国有化  債権保持に成功
            (服部龍二『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』)
4) 奉ソ戦争と経済関係
1929 年の下半期には、中ソ間に紛争が起こった。その発端は、中国による東支鉄道の回収策であった。当初、中国側の当事者が張学良政権であったことから、この中ソ紛争は奉ソ戦争とも呼ばれる。日本では浜口内閣で幣原が外相に復帰しており、次の第2 次若槻内閣にも幣原は外相として留任する。幣原は、奉ソ戦争について汪栄宝駐日中国公使やトロヤノフスキー(Aleksandr A. Troianovskii)駐日ソ連大使と個別に会談し、中ソ間の直接交渉を斡旋するように努めた。
幣原の発想は、ソ連側の要求が原状回復である限り、中国側はこれを認めねばならないというものであった。他方で、アメリカのスティムソン(Henry L. Stimson)国務長官は、日米英仏など不戦条約の批准国で委員会を構成しようとした。しかし、王正廷外交部長は、スティムソンの試みを有効とみなさなかった。やがて張学良は、東支鉄道の復旧や検挙者の即時解放というソ連側要求をほぼ全面的に承認する意向を示した。このため、ハバロフスクを舞台とする中ソ交渉は急速に妥結へ向かった。東北政権とソ連政府は12 月に東支鉄道の原状回復についての議定書に調印し、国民政府とソ連政府の間でも同様の議定書が調印された。奉ソ戦争はようやく終結したのである30。
同年11 月には佐分利貞男駐華公使が、箱根のホテルで怪死を遂げた。そこで日本は、小幡酉吉を後任の駐華公使に任命した。すると中国は、小幡へのアグレマンに難色を示した。アグレマンとは、大使や公使の任命に先立って、派遣先の国家が与える承認のことである。かつて対華21 カ条要求のときに小幡が駐華日本公使館の1 等書記官であったことを理由に、国民政府は小幡へのアグレマンに難色を示したのである。しかも王正廷外交部長は、小幡にアグレマンを与える交換条件として、公使館を大使館に昇格することを日本に提起した。だが小幡は、すでに対華21 カ条要求後の1918 年から1923 年に駐華公使を務めており、その後も駐トルコ大使などになっていた。幣原外相は、中国の求める交換条件を理不尽なものとして退けた。結局のところ中国は、小幡へのアグレマンを拒否した。
浜口内閣は、経済不況の克服を政策の目標に掲げており、井上準之助蔵相のもとで金解禁を断行した。のみならず、中国への経済進出は重要課題の1 つであった。1930 年1 月から幣原は、駐華臨時代理公使の重光葵を関税自主権の交渉に当たらせた。中国で日中関税協定の推進に積極的なのは、財政の安定化を図る宋子文財政部長であった。王正廷外交部長は、むしろ治外法権の撤廃に関心を寄せていた。そこで重光は宋子文財政部長と関税自主権交渉を進め、日中関税協定が5 月に調印された。この協定で中国に関税自主権が認められ、その交換公文では、綿製品や海産物の現行税率を3 年間据え置きとするほか、関税協定実施の4 カ月後に特恵関税を廃止するなどと規定された。
さらに日中関係では、治外法権撤廃問題や外債整理問題が中心的な課題となった。王正廷外交部長が治外法権の即時撤廃を強く求めたのに対して、列国の足並みはそろわなかった。治外法権撤廃とともに焦点となったのは、中国の外債をいかに償還せしめるかという問題であった。日本は西原借款などの不確実債権を保有しており、以前から外債整理交渉を行っていた。国民政府内では、宋子文が対外的信頼を回復して中国への投資を活性化させようとしたのに対して、王正廷は西原借款償還の否認を公言した。中国において西原借款は、軍閥間の内争に利用されたものとして悪名高かったからである。そこで重光は、宋子文や蔣介石と提携するように努めた。だが、1931 年9 月には満州事変が勃発し、外債整理交渉は頓挫した31。 
5) 中国における日本人コミュニティ
最後に、中国における日本人コミュニティを論じておきたい。日本外務省亜細亜局の調書によると、1930 年末の時点で中国には「本邦人」が90 万3311 人いたという。この「本邦人」とは、「内地人」「朝鮮人」「台湾人」を合わせた概念である。90 万3311 人の内訳は、「内地人」28 万3870 人、「朝鮮人」60 万9712 人、「台湾人」9729 人となっている。「内地人」の分布は、関東州11 万6052 人、満州11 万2732 人、「支那本部」5 万3212人、香港1868 人、マカオ6 人となっている。したがって、「内地人」約28 万人のうち、
関東州および満州に約23 万人が在留していたことになる。
「内地人」の居住する「支那本部」5 万3212 人のうち、半数近い2 万4182 人が上海に暮らしていた。2 万4182 人の内訳は、上海の共同租界に1 万8607 人、フランス租界に392 人、「付近支那街」に5183 人となっている。上海以外では、青島1 万1211 人、天津5760 人、漢口2137 人、済南2048 人、北平1208 人などとなっている。「朝鮮人」60 万9712 人のうち、60 万5325 人までが満州に居住していた。なお、関東州の中国人人口は、82 万534 人であったという32。
このうち在満日本人の居住地は、9 割がた関東州と満鉄付属地に偏っていた。在満日本人の半数近くは満鉄社員や関東庁官吏およびそれらの家族であり、そのほかに日本企業の支店関係者、貿易業者、在満日本人を顧客とする商工業者・サービス業者などがいた。このため満州の日本人社会は、満鉄社員と関東庁官吏を中心として、その周辺に日本人向けの商工業者やサービス業者が存在していた。1920 年代に在満日本人による経済活動は、満鉄の人員整理などによって低迷した。日本人の居住地は、関東州と満鉄付属地に固まるようになっていた。張学良政権と日本の間には、「満鉄包囲鉄道網」や商租をめぐるせめぎ合いもあった33。
列国の権益が集中する上海には、1930 年代初頭の時点で約2 万4000 人の日本人がおり、多くは共同租界の北部に居住していた。上海の日本人は、よりよい生活を求めて主に西日本から移住した「土着派」と、商社や銀行の支店、紡績会社などで働く「会社派」に大別された。したがって、上海の日本人社会は、上海のイギリス人コミュニティなどと同じく階層社会であった。1931 年7 月の万宝山事件で日貨排斥が高まると、上海の日本人居留民は、日本総領事館にではなく日本海軍に期待するようになった。日本外務省と日本海軍は、意思の疎通に支障をきたしていた34。
天津には、1898 年から日本租界が置かれており、中国における日本の専管租界としては最大のものであった。居留民の数は、満州、上海、青島に次ぐ多さであった。上海や漢口などと同様に、天津には居留民団が設置され、水道や電気などの行政を担った。租界の運営には、議決機関の居留民会や執行機関の行政委員会が当たった。天津の日本人は、貿易業を中心としていた。その日本人社会の上層には、大企業の支店長や貿易商、運輸・通信業者、金融業者、医者、弁護士などがいて、その下に中流の地元商人がおり、さらに下層には零細な雑貨商や料理屋などがいた。1920 年代末に天津の日本人は、中国の日貨排斥、治外法権の撤廃、租界回収の動きに対応するため、中国各地の居留民団や商工会議所と糾合して日本政府に訴願しようとしたものの、うまくはいかなかった35。
このように中国各地の日本人と中国の間では、摩擦も少なからずあった。満州事変後に日本外務省は、リットン調査団を意識しながら権益侵害について報告書をまとめた。外務省の報告書には、中国における日貨排斥などについて記されている36。のちのリットン報告書も、中国のボイコットは合法的に行われたという中国側の主張を支持していなかった37。 
おわりに
本章では、第1 次世界大戦から満州事変直前までの日中関係をたどってきた。主な争点でいうなら、対華21 カ条要求、西原借款、新4 国借款団、パリ講和会議と5.4 運動、ワシントン会議における9 カ国条約や山東条約、「東方文化事業」、5.30 事件、北京関税特別会議、北伐と南京事件、山東出兵、張作霖爆殺事件、奉ソ戦争、小幡アグレマン拒否、日中関税協定、中国の治外法権撤廃問題と外債整理問題、日本人コミュニティなどである。
そして、1920 年代の東アジアをめぐる国際秩序となったのがワシントン体制だった。
第1 次世界大戦期に日本は、対華21 カ条要求という過大な要求を最後通牒で突きつけるという失策を犯した。とはいえ、そこから日本が一貫して大陸への膨張に突き進んだわけではない。重要なのは、21 カ条要求の経験に加藤高明や幣原喜重郎らが学ぼうとしたことであろう。のちに首相となった加藤は幣原外相に外交を任せるようになり、加藤の憲政会が体制内化することで、日本は政党政治の時代を迎えたのである。
原内閣を含めて第1 次大戦後の日本は、概して対米英協調の枠組みを守ろうとした。
1920 年代を通じて日本外交の中心的役割を担ったのが幣原であり、幣原は駐米大使としてワシントン会議に参加したうえで、5 年以上も外相を務めた。ワシントン体制を最も体現していたのが、幣原にほかならない。ワシントン会議の精神のもとで幣原外交は、統一へと向かう中国に理解を示した。だが、とりわけ南京事件後に国内では、「軟弱外交」という幣原批判が高まった。山東出兵を行った田中外交も、ワシントン体制を脱しようとするものではなかったが、田中の意図に反して関東軍は張作霖爆殺事件を引き起こしてしまった。
一方の中国は、この間に北伐と易幟によって再統一を果たした。袁世凱没後に政局が混乱することもあったが、中国は北京政府の「修約外交」や国民政府の「革命外交」などを通じて、政治的安定と国権回復を期していたといえよう。日本と中国の間では、「日中提携」構想や文化交流などを含めてさまざまな可能性と試みがあったことも、この時代の大きな特徴である。
1920 年代の国際秩序となったワシントン体制は、中国関係のみならず海軍軍縮、太平洋を含む多面的なものであった。日中関係についていうなら、ワシントン体制は2 つの面を備えていた。第1 に、ワシントン会議の精神に基づいて日本が米英との協調を基軸としたため、日本の大陸進出は比較的に抑制された。第2 に、列国の在華権益はワシントン会議によっても基本的には維持されており、日米英の協調は中国における現状維持を前提としていたところがある。中国にとってワシントン体制は、不平等条約を容認していたことでは不利な半面で、日本に対する抑止としては有益でもあったことになる。ワシントン体制の二重性といってもよい。
このようなワシントン体制は、固定的なものではなく次第に変容をとげていった。中国が国権回収と統一に向かったときの対処について、日米英に十分な合意はなかった。それだけに、中国が「修約外交」や「革命外交」を進めると、日米英は足並みを乱して秩序構想を分化させた。とりわけ田中外交期の日本は、国民政府との関係構築に取り残されることになった。やがて満州事変では、幣原外相までもが中国との直接交渉に挫折し、日本陸軍主導の傀儡政権構想に妥協するようになった。幣原外交の変質と崩壊によって、ワシントン体制の終幕は日本側から引かれたといわねばならない。 

1 斎藤聖二『秘 大正3 年日独戦史 別巻2 日独青島戦争』(ゆまに書房、2001 年)。
2 外務省編『日本外交年表並主要文書』上巻(原書房、1965 年)404-416 頁、臼井勝美『日本と中国──大正時代』(原書房、1972 年)61-89 頁。
3 北岡伸一『日本陸軍と大陸政策』(東京大学出版会、1978 年)181-193 頁、櫻井良樹「第2 巻 解題 大正時代初期の宇都宮太郎──参謀本部第2部長・師団長時代」(宇都宮太郎関係資料研究会編『日本陸軍とアジア政策 陸軍大将宇都宮太郎日記』第2 巻、岩波書店、2007 年)4-5 頁。
4 森川正則「寺内内閣期における西原亀三の対中国『援助』政策構想」(『阪大法学』第50 巻第5 号、2001 年)117-146 頁。
5 高原秀介『ウィルソン外交と日本』(創文社、2006 年)61-102 頁。
6 細谷千博『ロシア革命と日本』(原書房、1972 年)85-104 頁。
7 三谷太一郎『増補 日本政党政治の形成──原敬の政治指導の展開』(東京大学出版会、1995 年)334-344 頁。
8 服部龍二『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』(有斐閣、2001 年)20-46頁。
9 川島真『中国近代外交の形成』(名古屋大学出版会、2004 年)249-265 頁のほか、唐啓華『北京政府與国際聯盟(1919-1928)』(台北:東大図書公司、1998 年)も参照。
10 川島真『中国近代外交の形成』266-318 頁。
11 麻田貞雄『両大戦間の日米関係──海軍と政策決定過程』(東京大学出版会、1993 年)128-132 頁。
12 服部龍二『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』89-112 頁。
13 増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995 年)73-81 頁。
14 本庄比佐子編『日本の青島占領と山東の社会経済 1914-22 年』(財団法人東洋文庫、2006 年)。
15 阿部洋『「対支文化事業」の研究──戦前期日中教育文化交流の展開と挫折』(汲古書院、2004 年)、山根幸夫『東方文化事業の歴史──昭和前期における日中文化交流』(汲古書院、2005 年)。
16 高村直助『近代日本綿業と中国』(東京大学出版会、1982 年)107-132 頁。商工省貿易局「日華貿易ノ概況」1931 年5 月、11-13 頁によると、日本の対中貿易額は次のように推移していた(単位円)。90,037,354(1910 年)、88,152,792(1911 年)、114,823,727(1912年)、154,660,428(1913 年)、162,370,924(1914 年)、141,125,586(1915 年)、192,712,626(1916 年)、318,380,530(1917 年)、359,150,818(1918 年)、447,049,267(1919 年)、410,270,497(1920 年)、287,227,081(1921 年)、333,520,262(1922 年)、272,190,662(1923 年)、348,398,787(1924 年)、468,438,956(1925 年)、421,861,235(1926 年)、334,183,608(1927 年)、373,141,991(1928 年)、346,652,450(1929 年)。
17 Akira Iriye, After Imperialism: The Search for a New Order in the Far East, 1921-1931 (Cambridge: Harvard University Press, 1965), pp. 57-88;臼井勝美『日本と中国』196-254 頁。18 服部龍二『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』156-169 頁。
19 その前後の孫文に関する最近の研究として、田嶋信雄「孫文の『中独ソ3 国連合』構想と日本 1917-1924 年──『連ソ』路線および『大アジア主義』再考」(服部龍二・土田哲夫・後藤春美編『戦間期の東アジア国際政治』中央大学出版部、2007 年)3-52 頁。
20 服部龍二『幣原喜重郎と二十世紀の日本──外交と民主主義』(有斐閣、2006 年)110-112 頁。ただし、南京事件の原因について現在の学界では、「共産派」に断定されているわけではなく、北軍陰謀説などもある。この点については、栃木利夫・坂野良吉『中国国民革命──戦間期東アジアの地殻変動』(法政大学出版局、1997 年)259-262 頁を参照。
21 外務省編『日本外交文書』昭和期T、第1 部、第1 巻(外務省、1989 年)660-666 頁、家近亮子『蔣介石と南京国民政府──中国国民党の権力浸透に関する分析』(慶應義塾大学出版会、2002 年)55-136 頁。
22 佐藤元英『昭和初期対中国政策の研究──田中内閣の対満蒙政策』(原書房、1992 年)23-76 頁、小林道彦「田中政友会と山東出兵──1927-1928 (1)(2)」(『北九州市立大学法政論集』第32 巻第2・3 号、第33 巻第1 号、2004-2005 年)1-33、1-52 頁。
23 佐藤元英『昭和初期対中国政策の研究』77-164 頁。
24 重光葵駐華臨時代理公使らが国民政府外交部に「田中上奏文」の根本的な誤りを説いており、満州事変前の中国は日本の取り締まり要請にある程度応じていた。このため国民政府外交部は、「田中上奏文」を偽書と知っていた可能性が少なくないと思われる。その史料的根拠などについては、服部龍二「『田中上奏文』と日中関係」(中央大学人文科学研究所編『民国後期中国国民党政権の研究』中央大学出版部、2005 年)455-493 頁、同「『田中上奏文』をめぐる論争──実存説と偽造説の間」(劉傑・三谷博・楊大慶編『国境を越える歴史認識──日中対話の試み』東京大学出版会、2006 年)84-110 頁、同「満州事変後の日中宣伝外交とアメリカ──『田中上奏文』を中心として」(服部龍二・土田哲夫・後藤春美編『戦間期の東アジア国際政治』)199-275 頁を参照されたい。
25 外務省編『日本外交文書』昭和期T、第1 部、第2 巻(外務省、1990 年)344 頁。なお、北伐期日中関係についての中国側研究として、邵建国『北伐戦争時期的中日関係研究』(北京:新華出版社、2006 年)がある。
26 吉野作造『吉野作造選集』第9 巻(岩波書店、1995 年)345 頁。
27 外務省編『日本外交文書』昭和期T、第1 部、第3 巻(外務省、1993 年)501-507 頁。
28 久保亨『戦間期中国〈自立への模索〉──関税通貨政策と経済発展』(東京大学出版会、1999 年)23-49 頁、服部龍二『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』218-226頁、小池聖一『満州事変と対中国政策』(吉川弘文館、2003 年)115-127 頁、後藤春美『上海をめぐる日英関係 1925-1932 年──日英同盟後の協調と対抗』(東京大学出版会、2006年)98-99、154 頁。「革命外交」については、李恩涵『北伐前後的「革命外交」(1925-1931)』(台北:中央研究院近代史研究所、1993 年)も参照。
29 服部龍二編『王正廷回顧録 Looking Back and Looking Forward』(中央大学出版部、2008 年)131-132 頁。
30 土田哲夫「1929 年の中ソ紛争と『地方外交』」(『東京学芸大学紀要 第3 部門 社会科学』第48 集、1996 年)173-207 頁、同「1929 年の中ソ紛争と日本」(『中央大学論集』第22 号、2001 年)17-27 頁、服部龍二/雷鳴訳・米慶余校正「中国革命外交的挫折――中東鉄路事件与国際政治(1929 年)」(米慶余主編/宋志勇・藏佩紅副主編『国際関係与東亜安全』天津:天津人民出版社、2001 年)294-308 頁。
31 Edmund S. K. Fung, The Diplomacy of Imperial Retreat: Britain's South China Policy, 1924-1931 (Hong Kong, Oxford, New York: Oxford University Press, 1991), pp.184-189; 久保亨『戦間期中国〈自立への模索〉』51-71 頁、服部龍二『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』263-278 頁、小池聖一『満州事変と対中国政策』127-218 頁。
32 外務省亜細亜局「支那在留本邦人及外国人人口統計表(第23 回)」1930 年12 月末日現在(木村健二・幸野保典解題『戦前期中国在留日本人統計』第4 巻、不二出版、2004年)1、96、106、108、110-111、119-120 頁。
33 塚瀬進『満洲の日本人』(吉川弘文館、2004 年)46-51、120-121、161-170 頁。
34 上海居留民団創立三十五周年記念誌編纂委員『上海居留民団三十五周年記念誌』(上海居留民団、1942 年)、高綱博文「西洋人の上海、日本人の上海」(高橋孝助・古厩忠夫編『上海史 巨大都市の形成と人々の営み』東方書店、1995 年)123-131 頁、後藤春美『上海をめぐる日英関係 1925-1932 年』45-48、217-243 頁。上海居留民団創立三十五周年記念誌編纂委員『上海居留民団三十五周年記念誌』1101 頁によると、「土着派と会社派といふやうな分野が居留民の間に出来て、さうして相当激烈な競争があり民会も紛糾したらしい」のであり、「土着派」と「会社派」の対立は上海だけでなく天津や漢口でも同様だったという。
35 臼井忠三編『天津居留民団三十周年記念誌』(天津居留民団、1941 年)、小林元裕「天津のなかの日本租界」(天津地域史研究会編『天津史──再生する都市のトポロジー』東方書店、1999 年)185-207 頁。なお、重慶、漢口、杭州などの租界については、大里浩秋・孫安石編『中国における日本租界──重慶・漢口・杭州・上海』(御茶の水書房、2006 年)がある。
36 服部龍二編『満州事変と重光駐華公使報告書――外務省記録「支那ノ対外政策関係雑纂『革命外交』」に寄せて』(日本図書センター、2002 年)。
37 外務省編『日本外交文書 満州事変』別巻(外務省、1981 年)227-229 頁、加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』(岩波新書、2007 年)141-142 頁。 
 
満洲事変から日中戦争まで

 

1.満洲事変
1)柳条湖事件
1931 年9 月18 日夜、奉天郊外の柳条湖で満鉄の線路が爆破された。関東軍の作戦参謀・石原莞爾と高級参謀・板垣征四郎を首謀者とする謀略によるものであった1。鉄道守備を任務とする関東軍はこれを中国軍の仕業とし、自衛のためと称して一気に奉天を制圧した。
柳条湖事件発生の数ヵ月前、陸軍では省部(陸軍省と参謀本部)の課長レベルで、在満権益に重大な侵害が加えられた場合には武力を発動する、というコンセンサスが成立していた2。彼らの構想では、武力発動の前に内外の理解と支持を得るために1 年ほどの世論工作が必要とされ、したがって柳条湖事件の発生は早すぎたが、関東軍が武力行使に踏み切った以上、それをバック・アップするのは当然と見なされた。発動した武力を背景として、張学良政権の「排日」政策をやめさせ、権益の維持・増進を図ることが目標であった。そのためには、満洲に張学良政権に代わる親日政権を樹立することも視野の中に入っていた。
ただし、首謀者の石原や板垣にとって、武力発動は単なる自衛や権益擁護のためだけではなかった。彼らは北満も含む満洲全土を領有するつもりであった。こうして満洲での武力発動は、政府や陸軍指導部の基本方針に反する行動として開始されたのである。まず第一に、石原や板垣を含む陸軍の急進的な軍人は、ナショナリズムの急進化を背景とした中国の「革命外交」によって日本の在満権益が危機に瀕しているととらえたが、これに対して幣原外相の対中外交はまったく効果的な手を打っていないと見なされた。それゆえ急進的な軍人たちは、謀略によって日中間に衝突事件を引き起こし、満洲の「危機」を強引な武力行使によって一挙に打開しようとしたのである。
第二に、満洲での軍事行動は、満洲の危機打開のためだけではなく、日本の国防のためにも必要であると考えられた。石原らは、1929 年の奉ソ戦争におけるソ連の行動を見て、その軍事的脅威が復活しつつあると判断し、ソ連の軍事的脅威に対抗するためにも、満洲全土を日本の支配下に置こうと計画した。満洲全土を支配下に置けば、対ソ国防上有利な態勢を築くことができ、また、満洲の豊富な資源を確保して日満一体の自給自足圏を構築することができると考えられたのである。自給自足圏の構築は、第1 次世界大戦の教訓として少壮軍人たちが学んでいた総力戦の前提でもあった。
第三に、武力発動によって日本を取り巻く国際関係が緊張し対外的危機が造出されれば、それをテコにして日本本国の国内政治の改造を促すことができるとも期待された。急進的な軍人は、政党政治が「党利党略」に明け暮れて国防を顧みず、国民の利益や要望にも応えていないと見なした。彼らは、「腐敗堕落」した政党政治を打倒し、総力戦を戦うための国家改造を目指した。満洲における武力発動を、そうした国家改造のきっかけとすることも目論まれたのである。
こうして柳条湖事件は、石原らの周到な計画と目論見に基づいて開始された。事件後、奉天を制圧した関東軍はさらに進んで安東、営口、長春など満鉄沿線の要地を占領した。
居留民保護を名目として、満鉄沿線から遠く離れた吉林にも進出し、そのため手薄となった南満洲の防備を理由に朝鮮軍に援助を要請した。
事件の報を受けた東京の若槻(礼次郎)内閣は9 月19 日、事態不拡大の方針を決めた。
陸軍指導部は関東軍の行動を容認し、朝鮮軍の越境(満洲進出)を政府に要請したが、事態不拡大の方針に反するとして認められなかった。しかし、かねてから関東軍の幕僚との間に援軍派遣の了解があった朝鮮軍は、陸軍指導部が政府の承認と天皇の裁可を得るのに戸惑っていることに痺れを切らして、9 月21 日独断で国境の鴨緑江を越えた。若槻内閣は朝鮮軍増派を追認せざるを得なかった。天皇の裁可を得ない独断越境は、本来、軍法違反で処罰の対象となるはずだったが、柳条湖事件の謀略と同様、有耶無耶に済まされてしまった。そしてこの後、現地軍の一部が突出し、それに東京の陸軍指導部と政府が追随し出先軍の行動を追認してゆくというパターンが繰り返されることになるのである。
マス・メディアも強硬であった。各新聞は、事件が中国側の計画的な行動であるとの関東軍の言い分を鵜呑みにした上で、その背景には度重なる排日行為や権益侵害の積み重ねがあると読者に解説し、関東軍の行動を自衛権の発動であると正当化した。新聞は事変をめぐって活発な報道合戦を繰り広げ、事変を利用して発行部数を伸ばした。そして、その強硬論は国民を煽る方向に作用したのである3。
関東軍の行動に対する国民の支持は、武力発動が自衛や権益擁護のためであるとの政府による説明に基づいていた。だが、既に述べたように、関東軍の石原らの狙いは自衛や権益擁護を超えており、彼らは満洲全土を領有する計画であった。しかしながら、満洲領有案に対しては陸軍指導部の急進分子ですら同調しなかった。このため石原ら関東軍は独立国家樹立構想に軌道修正したが、これに対しても積極的支持があったわけではない。関東軍の武力発動に対する支持の多くは、自衛もしくは権益擁護という理由に基づいており、陸軍中堅層を含む強硬論者の間でさえ、期待されたのは張学良政権に代わる新しい親日地方政権を樹立することくらいであった。  
2)中国の対応と国際連盟
関東軍の軍事行動はほぼ計画どおりに進行した。それを可能にした理由の一つは、中国側が武力抵抗を試みなかったことにある。事変勃発時に張学良は10 万の兵を擁して北平(北京)に滞在していたが、満洲には東北軍20 数万の大軍が存在し、これに対する関東軍の兵力は2 万に満たなかった。しかし事変前から、蔣介石は張学良に対して日本側を刺激しないよう命じ、張学良も奉天の部下に日本との衝突を避けるよう指示していた。
事変勃発直後も張学良が不抵抗方針を継続したのは、日本政府が関東軍に対するコントロールを回復できるだろうと考えたからであった。そこには、張学良の軍閥としての思惑も絡んでいた。もし東北軍が関東軍と戦って兵力を損耗すれば、自分の権力基盤が弱体化すると張学良は懸念した4。蔣介石も張学良に武力抵抗を命じなかった5。当初は、中国政府も日本政府による関東軍の統制に期待をかけた。9 月19 日、財政部長の宋子文が中国駐在公使の重光葵に対して、日中両国による事件の共同調査を提案したのは、そうした期待がまだあったからである6。しかし、関東軍が南満の要地を次々と占領するに及んで、中国は日本との直接交渉による解決を断念するに至った。
当時、国民政府は江西省に本拠を置く共産勢力と軍事的に対峙し、この年5 月に成立した広東政権とも対立関係にあり、対日武力抵抗を試みる余裕がなかった。そのため国民政府は二つの方法によって日本の行動を抑制しようとした。排日ボイコットと国際連盟への提訴である。柳条湖事件以後、日貨排斥は反日抵抗運動として、その規模と激しさを増した。しかし関東軍の行動を抑制することはできなかった。
一方、国際連盟は必ずしも中国の期待どおりには動かなかった。英仏等の大国は、国際秩序の動揺を最小限に抑えると同時に、日本の行動が権益擁護の自衛措置と見なされる限りは、日本の立場に配慮しつつ自制を求めようとした。それまで国際秩序の維持に協力してきた幣原外交への期待もあった。幣原は中国との直接交渉による事変解決を主張した。
これに対して中国は、関東軍による要地占領の解消つまり鉄道付属地内への撤退が先決であると反論した。9 月30 日、連盟理事会は、日本軍の早期撤退を決議したが、撤退には期限を付けなかった。撤退監視員の派遣という中国側の要求は退けられた。
ところが、こうした連盟の配慮にもかかわらず、関東軍は突進する。国内では10 月中旬、参謀本部の中堅将校を首謀者とするクーデタ計画が発覚した(十月事件)。クーデタは未発に終ったが、陸軍を抑制しようとする政府にとっては無言の圧力となった。10 月8日、関東軍は張学良が東三省回復の本拠としていた満洲西南部の錦州を爆撃する。さらに、対ソ刺激を懸念する陸軍指導部によって抑えられてきた北満進出にも踏み切り、11 月19日には要衝チチハルを占領した。新国家擁立への関与を禁じた政府の方針を無視して、満洲各地で国民政府から独立した地方政権の樹立を背後で促進し、新国家の首班に予定する廃帝溥儀を、謀略による騒動に紛れて天津から満洲に連れ出した。
こうして、権益擁護のための自衛行動という日本の主張は説得力を失い始め、国際連盟の対日不信が強まってゆく。10 月24 日、理事会は日本軍の期限付撤兵勧告案を採決したが、日本のみの反対で否決された。結局理事会は日本の同意を得た上で12 月10 日、現地への調査団派遣を決議し、その調査が終了するまで問題の解決を先送りした。調査対象には日本の主張により、満洲の事態だけではなく、中国の全般的状況(排外運動や政府の条約義務履行能力など)も含まれた。  
3)事変解決の模索
国際連盟が問題解決を先送りしている間、日中両国の間では直接交渉によって事変解決を目指す試みが潜行する。これには、日中両国の政権交代が関わっていた。
中国では日本に対抗するため、南京の国民政府と広東政権との合流が進み、その合流条件として12 月15 日、蔣介石が国民政府主席・行政院長・陸海軍総司令を辞職し下野した。
これに代わって行政院長には孫科が就任し、国民政府の首脳は広東政権要人によって占められることになった。外交部長に就任した陳友仁は広東政権時代から、日中間の直接交渉による事変解決を唱えていた。中国は孫科政権の下で、一時的にではあったが、直接交渉に傾いたのである。
一方日本では、軍部の台頭に対抗するため二大政党による協力内閣を目指す動きが生まれたが、この協力内閣運動をめぐって民政党の若槻内閣は閣内不一致をきたし総辞職した。
これに代わって政友会の犬養(毅)内閣が登場する。明治期から孫文や黄興など中国の革命家を支援してきた犬養首相は、中国に密使を派遣して事変解決を図ろうとした。彼の解決構想は、満洲における中国の主権を前提とした上で広汎な権限を持つ地方政権を樹立し、日中対等の条件で経済開発を実施するという内容であった。
密使に起用されたのは、犬養と同じく中国同盟会の同志であった萱野長知である7。孫科政権誕生直前に中国に渡った萱野は、居正、孫科らと会見し、犬養構想に基づく事変解決を模索した。孫科らは、特殊行政組織として東北政務委員会をつくり、日本の商租権を認めて日中対等の経済開発を実現する、という構想を示したが、その狙いは張学良の勢力を駆逐し、国民党の満洲進出を実現することにあったという8。
しかしながら、萱野の工作は犬養内閣の主要閣僚と軍部の厳しい反対にあう。それまで幣原外交を批判してきた政友会であっただけに、犬養内閣には、書記官長の森恪をはじめとして、強硬論者が多かった。彼らの間では、国民政府の統治が満洲に及ぶこと自体に反対が強かった。その反対を受けて1932 年1 月初旬、ついに犬養は萱野に帰国を命じざるを得なくなる。陳友仁は、日本との直接交渉が挫折した上、国内の反日世論に押され、対日断交を主張するようになった。
犬養首相は、中国との秘密交渉を試みると同時に、陸相に荒木貞夫を起用し陸軍の統制を回復しようとした。だが、ここでも犬養の期待は裏切られた。関東軍に対する陸軍指導部の統制は回復されなかった。関東軍は陸軍指導部の了解を得て、反満抗日分子を討伐するためにその策源地を叩くという名目で1 月3 日、錦州を占領した。それまで幣原外交に期待してきたアメリカの国務長官スティムソン(Henry L. Stimson)は、錦州占領に反撥して不承認政策を通告してきた。九ヵ国条約や不戦条約に違反しアメリカ国民の権利を侵害するいかなる状態も協定も承認しない、という趣旨の通告であった。2 月5 日、関東軍はさらに、かつて出兵を禁止されたハルビンを攻撃してその占領に成功した。  
4)上海事変と満洲国建国
事変勃発後、日増しに激しくなる反日ボイコットの中心となったのは上海である。それに対する日本人居留民の反撥が高まる中で、衝突事件が発生する。1 月18 日、上海で布教中の日本人僧侶が中国人に襲われ、翌日その報復として今度は日本人が中国人の工場を襲撃した。公使館付陸軍武官補佐官(上海駐在)の田中隆吉が、列国の関心を満洲からそらすために、関東軍の板垣の要請に応じて画策した謀略によるものであったという9。
上海の居留民団はいきり立ち、これを受けて総領事は上海市長に対し、犯人の処罰のほかに抗日団体の即時解散を含む強硬な期限付要求を突きつけた。不穏な空気が流れる中で、日本海軍は居留民保護のため艦船や陸戦隊を上海に増派し、中国側では上海周辺の19 路軍が警備を強化した。1 月28 日、日本海軍陸戦隊と、かつて江西省で共産軍と戦った精強な19 路軍とが衝突、上海事変が始まった10。
海軍は自前の戦力では19 路軍に対抗できず、陸軍の派遣を要請せざるを得なくなる。
この上海派兵に対しては犬養首相と高橋(是清)蔵相が強く反対したが、結局、居留民保護を訴える陸海軍の主張に押し切られた。派遣された陸軍部隊も苦戦を強いられ、やがて派遣兵力は3 個師団に及び上海派遣軍が編成された。
日本政府は満洲事変と上海事変とを絡ませず別個のものと取り扱って、事態を必要以上に拡大しない方針をとった。派遣軍は、中国軍に打撃を与えて日本軍の威力を示すことを優先したが、3 月初めの攻撃でそれを達成した後は、国際連盟による牽制もあって、自制的な行動をとるようになった。
一方、中国では1 月1 日に正式に発足した孫科政権が一月も持たずに崩壊し、汪精衛が行政院長に就任、蔣介石も政権に復帰した。中国にはまだ日本と戦う実力が備わってはいないと考える蔣介石は、陳友仁の対日断交方針に反対し、直系部隊を上海戦線に投入して19 路軍の抗戦を支えながら、同時に日本との妥協の道を探った11。
積極的に停戦斡旋に動いたのはイギリスである。列国の牽制と斡旋の下で3 月中旬には事実上の停戦が成立し、5 月5 日に正式に停戦協定が調印された。停戦協定は、日本軍の撤退と、中国軍の駐屯を認めない非武装地帯の設定が眼目であった。中国側には、領土を割譲せず賠償金も支払わないで外国軍を撤退させたのは、アヘン戦争以降初めての大勝利である、との評価もあったという12。
上海での軍事紛争は、関東軍の板垣が狙ったように、列国の注視を満洲から離れさせた。
その間、満洲では独立準備が着々と進行し、ついに3 月1 日には溥儀を元首(執政)とする満洲国の建国が宣言された。国際連盟の調査団(リットン調査団)が現地入りする前に、既成事実がつくられた。
現地の事態の急展開に押されて、陸軍指導部は既に新国家樹立を容認していた。犬養首相は満洲国の国家承認に否定的であったが13、同年5 月、海軍青年将校を主体とするテロ(五・一五事件)で暗殺されてしまう。後継首相には海軍長老の斎藤実が起用された。前年に発覚した軍人による未遂のクーデタ(三月事件、十月事件)や相次ぐテロが政党政治を激しく攻撃していたので、天皇から後継首相について諮問を受ける元老西園寺公望は、政党内閣を当面見合わせ、「中間内閣」と呼ばれる非政党内閣によって危機を乗り切り、政治に対する陸軍の圧力を緩和しようと考えたのである。
だが、強硬であったのは陸軍だけではない。例えば満洲国の承認については、政府よりも議会やマス・メディアのほうが積極的であった。6 月、衆議院は満洲国承認決議案を可決した。柳条湖事件時の満鉄総裁で関東軍に協力し、斎藤内閣の外相に就任した内田康哉は、議会での答弁で、日本は「国ヲ焦土ニシテモ」主張を貫くと述べ、満洲国承認を強く示唆した。9 月15 日、日本は日満議定書を調印して満洲国を正式に承認した。国際連盟から派遣されたリットン調査団が、現地調査を終え北京で報告書を作成した直後であった。
10 月2 日に公表されたリットン報告書は、柳条湖事件後の関東軍の行動を自衛の範囲内にあるものとは認めず、満洲国が住民の自発的な独立運動によって生まれたものとも認定しなかった。ただし報告書は、事変前への原状復帰が望ましいとも論じなかった。そこで提案されたのは、中国の主権と領土保全の原則を前提としながら、軍閥を排し、満洲における日本の権益と歴史的な関わりを考慮した自治的地方政府を形成することであった。満洲という地域の特殊事情に配慮した妥当な解決構想であり、事変前であったならば日本でもそれなりの評価を得たであろう。しかし、事変後1 年を経て、もはや日本ではほとんど見向きもされなかったのである。  
5)満洲国の実態
満洲国は「王道楽土」「民族協和」という新国家建設の理念を謳った。居留民の中にはこの理念に共鳴し、奉天軍閥の圧政と苛斂誅求から満洲住民を救い、理想的な国家をつくることに情熱を燃やす者もあった。満洲の地方有力者や中小軍閥の中には、張学良に対する反感や自己保身から、新国家に同調する者も出てきた14。
むろん積極的に新国家建設に参加する住民は少なかった。反満抗日のゲリラ活動もなかなか下火とはならず、これに対しては満洲国の国防と治安の維持を担当する関東軍が徹底的かつ厳しい弾圧を加え、1932 年9 月の平頂山事件のように、ゲリラに通じたとされる住民の虐殺に至るケースもあった。
満洲国の統治実績の例として挙げられるものに幣制改革による通貨の統一がある。事変以前から満洲の地域金融システムは通貨統一の方向に向かっていたが、満洲国はこの方向を継承して強力に実現を図った15。通貨の統一は満洲経済の近代化を促し、1934 年までに満洲は中国の中で最も工業化された地域となった16。満洲国は経済のインフラストラクチャ整備にも力を入れた。鉄道では1933 年から44 年までにおよそ6,350 qの新線が建設され、道路では32 年から39 年までに総延長15,480 qの国道が竣工した17。鉱工業の面では石炭、電力、鉄鋼、アルミニウム等の生産が大きく伸びた18。
しかしながら、こうした産業基盤や鉱工業の発展は住民の生活水準の向上を目指すものではなかった。多くの場合、開発や近代化は軍事的な考慮に促され、鉱工業の発展も軍需関連部門に傾斜していた。特に日中戦争の拡大以後はその傾向が強まり、満洲は日本の兵站基地化していった。太平洋戦争期に入ると満洲国も戦時体制を強化し、日本の戦争遂行の要求に応じることを最優先した。戦争末期には経済・金融のバランスが崩れ住民に多大の苦痛を与えた19。満洲国は「王道楽土」にはなり得なかった。
「民族協和」もスローガンだけに終始した。実質的に満洲国をコントロールしたのは関東軍であった。中央政府と地方(省)政府の実権は日本人官僚(日系官吏)によって掌握され、中央政府機関に占める日系官吏の比率も1934 年の53 パーセントから1940 年の69パーセントに増えた20。日本人の権力独占は強まるばかりであった。様々の面で日本人と他の満洲国人との格差が拡大した。当初から大きかった建国の理念と現実の乖離は、ますます広がっていったのである。  
6)熱河事件と国際連盟脱退
満洲国は、奉天、吉林、黒竜江の東三省に加え熱河省を合わせて、その版図とした。だが、熱河省長の湯玉麟は、華北に蟠踞する張学良軍から強く牽制され、曖昧な態度をとり続けた。熱河は、張学良が満洲国の動揺を狙ってゲリラ部隊を浸透させる主要なルートであった。このため関東軍は湯玉麟を排して、実力で熱河を掌握することを計画した21。しかし1933 年に入り熱河への実力行使が日程に上ると、斎藤首相・内田外相と天皇がこれに強い懸念を示すようになる。それは、その頃国際連盟がリットン報告書に基づく事変解決勧告案を審議中だったからである。
満洲国を承認した日本としては、もはや報告書に基づく勧告案を受け容れることはあり得なかった。ただし連盟規約によれば、紛争当事国を除く全会一致の勧告を当事国の一方が受諾し、他方がそれを不服として新たに戦争を始める場合には、連盟はその国に対して制裁を発動するものとされていた。そのため政府首脳や天皇は、連盟の勧告案採決後に日本が熱河に武力を行使し華北にそれが波及すれば、連盟が制裁を発動するのではないかと憂慮していたのである。結局、政府は2 月20 日、勧告案可決の場合は連盟を脱退すると決定した。連盟の一員でなくなれば、制裁を受ける法的根拠はなくなるはずであった22。2月24 日、連盟総会は勧告案を可決し、3 月27 日、日本は連盟脱退を通告した。連盟による制裁を危惧して熱河「討伐」を躊躇する意味はなくなった。
一方、中国側では、熱河はいわゆる満洲の東三省とは異なる地域と認識され、したがって関東軍が軍事力を用いて熱河を完全に掌握しようとすれば、それは日本の新たな「侵略」と見なされることになった。関東軍の熱河進出の動きに対し、国民政府が湯玉麟と張学良に熱河防衛を厳命したのは、このためである。張学良は20 万を超える東北軍を熱河に入れたが、1933 年2 月、関東軍2 個師団が熱河作戦を開始すると、2 週間足らずで潰走した。
剿共戦を指揮していた蔣介石は事態の急変に驚き、華北の東北軍と西北軍25 万の大軍を長城の防衛戦に投入した。
長城線に達した関東軍は中国軍の頑強な抵抗に遭い激戦を交えた。同年4 月、ようやくそれを排除し、長城線を越えて関内に侵入した関東軍は、陸軍指導部の反対にあって一旦は長城線外に撤退したものの、5 月、あらためてこれを突破して関内に入った。満洲国防衛のためには、それを脅かす華北の張学良の権力基盤を壊滅させねばならない、というのが関内進出の理由であった。
中国にとって、張学良軍が敗走した「熱河の惨敗」は大きな衝撃であった。上海での対日抗戦を成功と見る傾向があっただけに、その衝撃は大きかった。しかも、共産勢力との戦いは依然として決着がつかなかった。蔣介石は、外敵を撃ち払う前に国内の敵を平らげるという「安内攘外」の方針に基づき、日本との妥協に向かう。北平近郊にまで迫った日本軍に抵抗を続けて、さらに失地を広げるよりも、一時的に屈して妥協を図り、将来の失地回復に備えようと考えたのである23。
こうして1933 年5 月31 日、天津郊外の塘沽で日中両国の軍事当局の間に停戦協定が調印された24。関東軍が長城線以北に引き揚げる代わりに、その南に広大な非武装地帯(戦区)が設定され、そこには中国軍は駐留できず、警察部隊(保安隊)が治安の維持にあたることになった。蔣介石と汪精衛が合作した国民政府は、塘沽停戦協定が中国側にとって不利であることを承知しつつ、満洲国の承認につながることを避け、これ以上の失地拡大を防ぎ、特に平津(北平と天津)を確保し、関東軍を長城線以北に撤退させることを、より重視したのである。  
2.関係安定化の模索と挫折
1)戦区接収と実務協定
塘沽停戦協定によって満洲事変には一応のピリオドが打たれた。だが、華北の事態はまだ流動的であった。中国にとっては、満洲国を承認しないことは当然としても、当面その実在をどのように取り扱うかに苦慮しなければならなかった。この困難な問題に取り組んだのは黄郛(行政院駐平政務整理委員会委員長)である。彼を中心とした華北の地方機関が、南京の中央政府の指示を受けつつ、満洲国を代表する関東軍との交渉に臨んだ。
交渉の最初の案件は、関東軍の関内撤退と中国側による戦区接収であった。関東軍による長城線の確保など不完全さは残ったが、中国側による戦区の行政権回収には一応の決着が付いた。次に交渉の対象となったのは中国と満洲国との連絡に関わる諸問題である。まず鉄道連絡については、日中合弁の民間会社を設立し、その会社が奉天・北平間の列車を運行するという通車に関する合意が1934 年6 月に成立した。難しかったのは、国家承認に関わる郵便の交換であったが、これについては国際連盟が、郵政機関の間で関係を持つことは満洲国の国家承認を意味しないと決議し、それを受けて同年12 月、通郵に関する申し合わせができた。その直後には、長城線を境界として税関を設置する協議も妥結した。
このような実務に関する交渉の過程で、華北当局は国民政府の指示を受け、満洲国承認に関わる事項を一貫して拒否し、関東軍との合意覚書の作成には同意したが、それを協定とは認めず調印することも回避した25。この点で中国側は日本に対して一方的に屈服したわけではない。しかし、多くの場合、中国側は日本の要求を受け容れざるを得なかった。
黄郛は、塘沽停戦協定の枠内で交渉する限り中国側の不利を脱却することができないので、同協定を解消し、華北問題を華北当局と関東軍との折衝ではなく、中央政府間の交渉に載せる必要があると考えるようになった26。
一方、日本政府は、戦区の交渉をほとんど関東軍の手に委ねた。満洲国の実在を既成事実とし、地方としての華北の現地交渉を軍事に関わる問題として関東軍に委ねながら、政府・外務省は、全体としての中国との関係修復・安定化に取り組もうとしたのである27。  
2)広田・重光外交
1933 年9 月に内田に代わって広田弘毅が外相に就任してから彼の首相時代も含め1937年2 月までは、一般に広田外交の時代と呼ばれる。ただし対中政策に関しては、広田の了解の下で、次官の重光が主導的役割を果たした。重光は、親日的と見られた蔣汪合作政権との提携を通じて日中関係を安定化させようとする。その際、彼は欧米列国の中国に対する関与を制限ないし排除し、列国の権益を犠牲にすることによって中国の対日協力を引き出そうとした28。
1934 年4 月のいわゆる天羽声明には、このような重光の構想が示されている29。天羽声明とは、外務省情報部長の天羽英二が新聞記者との会見で行った非公式の談話であり、それが内外に報じられて国際問題化した。声明の趣旨は次のようなものである30。中国問題に関して日本は列国とその主張・立場を異にし、それゆえ国際連盟を脱退したのだが、東アジアの平和と秩序の維持は日本の使命であり、中国とともにその責任を全うする決意である。これに対して、列国の中国に対する共同動作は、たとえ名目は経済的あるいは技術的なものであっても政治的な意味を帯びることは避けられず、結果として中国の国際管理や勢力範囲の設定を招きかねない。したがって、そのような列国の援助は、東アジアの平和と秩序を乱すものとして日本は反対せざるを得ない。
このような趣旨の天羽声明は、直接的には、中国の欧米派と呼ばれるグループが日本を除外したかたちで欧米列国との経済提携を画策していることに対する警告であった。前年に財政部長の宋子文は、日中関税協定の特例措置が期限切れになると、据え置かれていた日本商品に高率関税を課し、アメリカとの間に5000 万ドルの信用供与(棉麦借款)を成立させた後、列国から技術・経済援助を得ようと画策していた。宋子文のアドヴァイザーとして対中援助を具体化させていたのは、国際連盟の元事務次長(後のヨーロッパ統合の父)ジャン・モネ(Jean Monnet)である31。
欧米のメディアは天羽声明を、日本が「東亜モンロー主義」を表明し侵略主義的な意図を示したものと非難した。しかし、各国の政府レベルでは、門戸開放・機会均等の原則を尊重するとの広田外相の釈明を受け容れた。中国でもメディアの反応は厳しかったが、政府の対応は冷静であった32。  
3)日中提携の試み
天羽声明のつまずきにもかかわらず、広田・重光の対中関係安定化の試みは継続された。
中国側でも、日本側の試みに応じる条件が整いつつあった。1933 年11 月、福建に移駐させられた19 路軍と反蔣勢力が手を結んで福建人民政府を樹立したが、翌年1 月の国民政府中央軍の総攻撃で同政府は壊滅した。江西省の共産軍に対する第5 次剿共戦も順調に進み、1934 年11 月には瑞金が陥落、共産軍は「長征」という名の逃避行に移った。こうして蔣汪合作政権の基盤強化により、対日関係安定化のための前提が形成されたのである。
1935 年1 月、蔣介石は徐道鄰の名を借りて、『外交評論』に「敵か?友か?−中日関係の検討」という論文を発表した。この中で蔣介石は、日中関係悪化について日本だけでなく中国にも責任があることを認め、日中提携の必要性を訴えた33。同年1 月22 日、広田外相は帝国議会の演説で中国に対する不脅威・不侵略を唱え、日中親善を論じた。広田演説に応えるかのように同年2 月、国民政府は全国の新聞社に排日言論の掲載禁止を命じた34。
3 月には、各省市の教育部に反日的な教科書の使用禁止を命令した。
日中の親善ムードがピークに達したのは同年5 月17 日の大使交換である。中国に対する常駐使節を公使から大使に昇格させる方針は、既に1924 年に閣議決定されていたが、1934 年から翌年にかけての関係安定化と親善ムードの中で、ようやく実現の運びとなった。
日本は列国(英・米・独・仏)にも中国との大使交換を働きかけ、その賛同を得た。1935年6 月には、国民政府が邦交敦睦令を公布し、排日運動を禁止した。
このような親善ムードを背景に、日中経済提携の動きも本格化した35。同年10 月、中国実業界の経済視察団が来日し、同時期には日本実業界の経済視察団が訪中した。翌1936年1 月には東京に日華貿易協会、上海に中日貿易協会が設立された。  
4)梅津・何応欽協定
広田や重光が、満洲国の実在を所与のものとして、中国統一を進める国民政府との間に安定した関係を構築しようとしたのに対して、これに逆行する動きが華北で繰り返される。
現地の関東軍や支那駐屯軍が、国民政府による中国統一に否定的であったからである。現地軍は、失地回復を諦めない国民政府の本質を「抗日」であると見なし、それゆえ満洲国の防衛や対ソ戦略の観点から、華北にそのコントロールが及ぶことを阻もうとした。対ソ戦の場合、国民政府は抗日のためにソ連に協力するかもしれないと危惧された。出先の軍人たちは、国民政府の「誠意」はポーズにすぎないとして大使交換にも批判的であった36。
こうした中、華北で事件が発生する。戦区内で活動する抗日反満の武装集団はときおり熱河に侵入し関東軍を刺激していたが、1935 年5 月中旬、業を煮やした関東軍は長城線を越えてこれを討伐した後、満洲国領内に引き揚げた。このとき日本側では、河北省主席・于学忠がこの武装集団を陰で支援していたと睨んだ。また、同じ5 月の初め、反蔣・反国民党の親日新聞社の社長2 人が天津の日本租界で暗殺された。日本側の調査では、犯人は国民党の特務組織のメンバーであるとされた。ここでも、河北省当局と国民党機関の責任
を問う声が上がったのである37。
5 月29 日、支那駐屯軍参謀長の酒井隆は、軍事委員会北平分会委員長代理の何応欽に対して二つの事件の責任を問い、国民党機関の河北省撤退、于学忠の罷免、于学忠軍(東北軍系)と中央軍の河北省外への移駐などを要求した。軍司令官・梅津美治郎の不在を狙った酒井の独断であったが38、要求通告の事後報告を受けた梅津や陸軍指導部は、一時戸惑った後これを追認した39。
要求通告後、支那駐屯軍は天津の省主席官邸前に部隊を展開して威嚇し、関東軍も国境近辺に部隊を集中して圧力を加えた。中国側は日本政府に斡旋を要請したが、広田外相は、地方的軍事問題は外交交渉の埒外であるとして関与しなかった。苦況に陥った何応欽は6月10 日、結局、酒井の要求を受諾するとの口頭による回答を寄せ、後日、要求を受諾したという事実のみを記した書簡を送った。これがいわゆる梅津・何応欽協定である。中国側は合意内容を実行したが、それは日本との協定によるものではなく、中国自身の自発的な行政措置であるとの立場をとった。つまり中国側からすれば、梅津・何応欽協定なるものは存在しないとされるのである40。
同じ頃、察哈爾省の張北でも事件が起こった。日本陸軍の特務機関員が同地で中国兵に不法監禁されたというのである。それまでにも察哈爾省に駐屯する宋哲元の第29 軍(西北軍系)と関東軍・満洲国側との間には、たびたび紛争が生じていた。関東軍はこの張北の事件を利用し、満洲国の国境防衛と内蒙古自治工作に役立てようとした。
関東軍から派遣された土肥原賢二(奉天特務機関長)は省主席(宋哲元)代理の秦徳純に対し、第29 軍の長城以南撤退、排日機関の解散などを要求し、6 月27 日秦徳純はこれを認める文書の回答を提出した(土肥原・秦徳純協定)。この結果、第29 軍は河北省に移駐していった。かつて長城の防衛戦で関東軍と激しく戦い、今度は察哈爾省から追われた第29 軍は、当然ながら強烈な抗日意識を持つことになる。
1934 年から1935 年前半にかけて、満洲国の実在を所与のものとして、国民政府との間に安定した関係を構築しようとした日本政府の試みは、限定的ではありながら、一定の成果を挙げつつあるように見えた。だが、華北での出先軍人の策動はその試みに冷水をかけ、中断させてしまう。日中提携の実現を図ってきた南京政府や北平政務整理委員会のいわゆる親日派の人々からは、日本軍人による傍若無人の行動と、それを掣肘しない日本政府に対して、嘆きの声が上がった。黄郛によれば、梅津・何応欽協定は彼らに対する国内的支持を弱め、彼らに「悲哀ト絶望トヲ感セシメタ」という41。  
5)広田三原則
華北の状況変化によって困難さが増したとはいえ、日中関係全体の安定化を目指す動きが断念されたわけではない。むしろ、華北での出先軍人の突出を抑えるとすれば、大使昇格をテコとして全般的な日中関係安定化を進めることが必要であると考えられた。
こうした発想から、日中外交当局の間で国交全体を改善するための協議が開始される。
1935 年1 月、広田外相が帝国議会で日中親善を謳った直後、国際司法裁判所判事の王寵恵が来日し、日中国交に関する三つの原則を提示したが、9 月になって初代大使の蔣作賓は、あらためてその原則を説明した。1相互の独立尊重と対等関係、2友誼に基づく交際、3平和的方法による問題解決、という三原則が実現されるならば、中国としては満洲国を当面不問に付し、さらに上海停戦協定と塘沽停戦協定の取消に同意してくれるならば経済提携を進め軍事的協力も検討したいと蔣大使は述べた。
一方日本では、中国に対する方針についての協議が7 月あたりから外務・陸軍・海軍の三省事務当局間で始まり、10 月4 日、関係大臣の了解事項となった42。その中の、1中国の排日言動の徹底的取締と欧米依存政策からの脱却、2満洲国独立の黙認(できれば正式承認)、3赤化勢力の脅威排除(防共)のための協力、がいわゆる広田三原則である。了解事項の付属文書として、中国の統一あるいは分立を助成したり阻止したりすることを行わない、という申し合わせがなされたが、これは華北の事態を睨み陸軍を牽制するために付け加えられたものと言えよう。
日中両国の三原則を比べてみると、中国側の原則はまだしも相互主義的であったが、広田三原則は一見して明らかなとおり、日本側の一方的な要求に終始していた。日本側の原則は、相手国との相互的なギヴ・アンド・テイクよりも、国内の関係者の主張や要求をどのように調整するかということに重点を置いていた。10 月7 日、広田外相はこの三原則を蔣大使に提示した。しかし、これによって日中関係安定化のための交渉が動き出すことはきわめて難しかった。交渉の前提となる「原則」それ自体に問題があったからである。その上、1935 年後半には、交渉の環境も悪化しつつあった。  
3.華北の紛糾
1)幣制改革
国民政府は、国内敵対勢力を制圧しながら日本に抵抗するという政治的・軍事的問題のほかに、経済的にも深刻な問題に直面していた。世界大恐慌の影響に加えて、剿共戦の長期化や満洲事変以後の日本との武力紛争が、軍事費を増大させ国家予算を圧迫した。満洲の喪失は関税収入の大幅な減少を招いた。さらにこれに輪を掛けたのがアメリカの銀政策である。アメリカが内外の市場から銀を買い付けたため、銀貨が高騰し、中国から大量の銀が流出したのである。中国は実質的に銀本位制をとっていたため、甚大なダメージを受けた。
中国はアメリカに銀買上の中止と銀価抑制を要請したが、協力を得られなかった。次いで中国は各国に借款を要請する。この要請を受けた日本は、しかし、消極的であった。満洲国建設に資金を注ぎ込んでいたため、外債に応じる財政的余裕がなかった。仮に応じるとすれば、中国が債務を返済することが先決であるとされた。また、中国が外債を有効に使うためには複雑な貨幣制度(幣制)を根本的に改める必要があるとされたが、国民政府にはそれを実現する能力がないとも判断された。
イギリスでも、貨幣制度の改革なしには借款は一時しのぎにしかならないと考えられた。
ただし蔵相のチェンバレン(A. Neville Chamberlain)は、日英の共同借款が日英協調を促し東アジアの安定に資することに期待をかけた。この大蔵省の後押しもあって、イギリスは政府首席経済顧問のリース=ロス(Frederick W. Leith-Ross)を中国財政再建援助のために現地に派遣することになる。
1935 年9 月、訪中前に来日したリース=ロスは日本側に注目すべき提案を行う。その提案とは、中国を経済的混乱から救うには銀本位制を放棄させる幣制改革が望ましく、幣制改革のためには借款を供与しなければならないが、これを具体化する方式として日英両国が1000 万ポンドの借款を満洲国に与え、それを満洲国が中国に対して満洲喪失の代償として引き渡したらどうか、というものであった。つまり、満洲国を経由しての日英共同借款によって、中国を経済的苦況から脱却させ、日英協調を実現し、さらに中国の満洲国承認も引き出そうとリース=ロスは提案したのである43。だが、日本政府はこの提案に否定的であった。中国の幣制改革の実現可能性については依然として懐疑的であり、共同借款についても反対であった。列国による借款は中国の国際管理につながる危険性があり、少なくとも列国の政治的影響力を維持・強化させるので望ましくはないと考えられた。それよりも中国は一時しのぎの借款に頼らず自力更生を図るべきであると広田外相や重光次官は論じた44。
日本の対応に失望したリース=ロスは中国政府に幣制改革を勧告する。それは中国自体がそれまで検討してきた改革構想にほぼ合致したものであった。こうして11 月4 日、国民政府は幣制改革を断行する。銀本位制を廃止して管理通貨制に移行し、貨幣の発行を三つの銀行にだけ限定して銀を国有化する、というのがその改革の骨子であった。イギリスは単独の借款供与には踏み切らなかったが、自国の銀行が保有していた銀を中国側に引き渡すことで、幣制改革の成功を助けた。アメリカは中国の銀を購入する協定(米中銀協定)を締結し、中国が保有銀を売却して得たドルあるいは金をベースにして銀本位制から脱却することを可能にした。
日本の否定的な予想にもかかわらず、中国の幣制改革は成功への道を辿る。国民政府は幣制改革によって西南派や華北将領等の地方勢力の経済的な基盤を掘り崩し、その面からも国家統一を進めようとしたのである45。  
2)「北支」工作(華北「自治」運動)
国民政府の幣制改革は、日本陸軍にとって歓迎されざる事態を意味した。それはイギリスの差し金によるものと見なされ、イギリスの影響力の拡大を伴うことが警戒された。それに加えて、国民政府による経済的な面での華北コントロール強化も憂慮すべき事態であった。華北将領たちの間でも、地方的利害から幣制改革には抵抗があった。こうして華北では陸軍出先機関による反撃が始まる。
出先軍はまず、察哈爾省から河北省に移ってきた宋哲元ら華北将領に圧力を加えて、現銀の南送を防止し、幣制改革を妨害しようとした。また、梅津・何応欽協定の成立以来、出先軍は華北「自治」運動を陰で工作していたが、幣制改革後はこの運動を性急に強行しようとする。
関東軍は、華北将領に国民政府からの離反を促すため、満洲国国境の山海関付近に一部兵力を集中した。陸軍中央はこの措置に驚き、兵力移動は認めたものの、まだ「北支」工作のために武力を行使すべき段階ではないと関東軍に自制を説いた。外務、陸軍、海軍の三省事務当局は意見調整を行い、華北「自治」を支持することには合意したが、そのための行動には慎重さが必要であるとし、「自治」の程度は最初から過大な要求をすることを避け、漸進的に行うべきであると申し合わせた。
一方現地では、土肥原から華北「自治」を要請された宋哲元(平津衛戍司令)、商震(河北省主席)、韓復(山東省主席)らが、その圧力をかわしながら、何とか「自治」へのコミットを回避しようとしていた。結局のところ、「自治」運動の成果として実現したのは、戦区督察専員(戦区の行政首長)の殷汝耕を長とし、戦区を領域として11 月25 日に成立した冀東防共自治委員会だけであった(12 月25 日、冀東防共自治政府に改組)。殷汝耕には叛逆者として国民政府から逮捕状が発せられた。
南京の国民政府は、華北将領に対して日本に屈服しないよう牽制しつつ説得するとともに、日本の要求に何らかのかたちで対応する必要に迫られた。そのため蔣介石は北平軍事分会を廃止し、宋哲元を冀察綏靖主任に任命するとともに、高度の自治権を持たせた「大官」を華北に派遣する、との案を提示した。在中国大使の有吉明はこの提案に注目し、「自治」運動を抑制して蔣介石による事態収拾を見守るべきではないかと意見具申した。ところが、本国政府は国民政府による大官の華北派遣に反対する。国民政府ないし国民党の影響力が華北に残存し強化されるのではないかと警戒したのである。国民政府が大官として何応欽を華北に派遣し、「自治」の態様や防共等について日本側と協議しようとしたとき、日本側は彼と会おうとしなかった。
現地陸軍は華北将領に対する圧力を一段と強めた。特務機関等が後ろで糸を引く「自治」運動が各地で繰り広げられた。こうした動きに対して、12 月9 日、北平では大学生を中心とした数千人のデモ隊が「抗日救国」を叫び、公安当局と衝突した。16 日には1 万人以上が参加したデモが北平で展開された。華北の将領は「自治」推進と反対の板挟みとなり、軍閥としての利益から自己保身を図った。物情は騒然とし、ついに何応欽も事態収拾不能を認めざるを得なくなった。
12 月18 日、最終的に妥協の産物として発足したのが冀察政務委員会である。8 月末に廃止された北平政務整理委員会(政整会)に代わる、国民政府の地方行政機関として設置された。ただし、国民政府が黄郛や何応欽のように華北に地盤を持たない有力者を派遣して地方行政を担当させたのではなく、冀察政務委員会は宋哲元を委員長にしたことに示されているように、あくまで華北の実力者を主体とした地方機関であった。日本側が華北将領による「自治」を要求していたからである。そしてその分、南京(国民政府)と北平(冀察政務委員会)は意思の疎通に欠けるところが多くなった。中央政府の思惑や地方軍閥の利害も複雑に絡み合った46。
日本は当初、華北五省(河北、察哈爾、山東、山西、綏遠)の「自治」を目指したが、冀察政務委員会は河北・察哈爾の二省と北平・天津の二市を管轄したにすぎなかった。また、国民政府からの分離を目指したのに、冀察政務委員会は国民政府の地方行政機関として設置された。こうした点で、現地陸軍が目指した華北「自治」の目標はまだ達成されていなかった。
一方、日本の外交当局は、国民政府が「自治」運動の抑制を求めてきたとき、それを中国の内政問題であるとして突っぱねながら、華北への大官の派遣に反対し、何応欽の北上に際しては彼との接触を避けた。1936 年1月、日本政府は「第一次北支処理要綱」を決定し、現地軍の性急な行動には自制を求めつつも、華北の「自治」推進を追認した47。
こうして、出先陸軍の「北支」工作により、国民政府では、いわゆる親日派の影響力が低下していった。政整会廃止の数ヵ月前に黄郛は委員長の職を辞した。1935 年11 月、汪精衛は何者かによって狙撃され、やがて行政院長兼外交部長を辞任した。12 月には、外交部次長として対日外交を取り仕切ってきた唐有壬が暗殺された。国民政府内の親日派との提携によって対中関係を安定化させようとしてきた広田・重光外交は、その前提を失い、広田三原則をめぐる交渉もほとんど動かなくなった。
その上、1936 年2 月、東京では陸軍過激派将校によるクーデタ(二・二六事件)が発生し、日本の首都は一時、麻痺状態に陥った。反乱軍鎮圧後、広田を首班とする内閣が発足したが、暫くは政府も軍も事件の再発防止と国内の安定に関心と努力を注がねばならなかった。  
3)多発する事件
中国では、華北でもそれ以外の地域でも、日中関係をこじらせる問題や事件が相次いで発生していた。両国の関係をこじらせた問題の一つは、冀東特殊貿易である48。中国から言えば、冀東地区での密貿易にほかならない。満洲事変以前も関東州から渤海湾を渡って河北省沿岸や山東半島へ向かう密貿易は少なくなかったが、事変以後は、日本商品への関税が高かったことと、戦区の沖合での密輸取締船の活動を日本側が禁止したこともあって、戦区を経由する人絹や砂糖等の密輸が飛躍的に増えた。
冀東政権が成立すると、その行政経費を捻出するため同政権は輸入品に特別税を課したが、それは国民政府の正規の関税の4 分の1 程度であったので、その特別税を払っただけの「特殊貿易」が横行し、国民政府の関税収入に大きなダメージを与えるとともに、国内経済を混乱させた。中国側はこれに抗議したが、日本は中国の内政問題であるとして取り合わなかった。
華北でもう一つ日中関係をこじらせたのは、1936 年5 月、支那駐屯軍が兵力を3 倍(約5800)に増やしたことである。この兵力増強は、長征を終え(1935 年10 月)陝西省延安に根拠地を構えた共産軍に対処することを目的としていたが、これには隠れた理由もあった。性急かつ強引に華北「自治」運動を画策する関東軍に、「北支」工作から手を引かせ満洲国育成に専念させるというのが、その理由である。「北支」工作は支那駐屯軍が主導するものとし、そのために兵力増強とともに軍司令官を親補職にして関東軍司令官と同格としたのである49。
支那駐屯軍の増強は、事前通告を行わず、新たに駐屯地とされた豊台が義和団事変最終議定書に明記されていなかったこともあり50、中国側から厳しい批判を招いた。関東軍に対する牽制という内向きの理由は当然ながら表面には出せず、むしろ日本は兵力を増強させてまた何か事を起こそうと画策しているのではないか、という疑惑を強めてしまった。
上海では1935 年11 月、海軍陸戦隊の水兵が射殺される事件が発生し、翌年2 月になって、犯人は中国の特務組織に関わる人物であることが判明した。華中・華南の権益や居留民の保護を担当する海軍を、上海の水兵射殺事件は強く刺激した。1936 年8 月には、一時閉鎖していた成都の領事館再開を前に、現地に赴いた新聞記者を含む日本人グループが暴徒に襲われ、死者2 名、重傷2 名の被害を出した(成都事件)。同年9 月、広西省の北海で薬局を営んでいた日本人が殺害された(北海事件)。広西省に移駐してきた19 路軍が排日を煽っていたことを重視した海軍は、艦船を北海に派遣して現地調査を行い、国民政府が責任を回避し事件解決を遷延させる場合には武力行使も辞さないとの強硬な姿勢を示した。北海事件直後には漢口で日本領事館の警察官が射殺され、上海でもまた水兵が殺害される事件が起こり、これらの事件も海軍を硬化させた。
ただ、このときは華北の事態を重視する陸軍が北海への陸兵派遣に消極的であり、成都事件を解決するために始まった川越茂大使と張群外交部長との交渉に、北海事件の解決も委ねられることになった。  
4)対ソ戦略と対中政策
その頃、日本政府は広田三原則の行詰りに応じて対中政策を見直し、新しい方針を打ち出していた。1936 年6 月、陸海軍が国防方針を改訂したとき、政府はこれと並行して同年8 月、国家戦略としての「国策の基準」を定め、これに準拠して「帝国外交方針」、「対支実行策」、「第二次北支処理要綱」を策定したのである51。
このうち「対支実行策」では、国民政府を反ソ・対日依存の方向に誘導し、華北の特殊性を認識させてその「自治」を容認させるとともに、具体的には防共協定・軍事同盟の締結、日本人顧問の傭聘、日中航空連絡、互恵関税協定の締結(冀東特殊貿易の廃止とその交換条件として排日高率関税の引下げ)、経済提携の促進等を提案することが方針とされた。
注目されるのは、防共協定の締結という方針である。ここには、日本の対ソ戦略バランスの悪化という事情が絡んでいた。そもそも満洲事変は対ソ戦略上有利な態勢を構築することを目的の一つとして始められたが、結果的には逆説的にも日ソ間のバランスは日本にとって不利な方向に傾いた。ソ連が外交的には日本に対して宥和的な態度をとりつつ、軍事的には日本の脅威を深刻にとらえ、極東領土の軍備強化を図ったからである。1934 年6月の時点で、ソ連陸軍の極東兵力は日本陸軍の総兵力に匹敵し、対ソ前線に位置する満洲と朝鮮の日本陸軍兵力はソ連極東陸軍の30 パーセントに達しなかった。しかもこの兵力の格差は広がりつつあった52。
陸軍が日ソ戦の場合の中国の向背を懸念し、抗日を本質とすると考えられた国民党の勢力を華北から排除しようとした背景には、こうした対ソ戦略バランスの劣勢があったのである。さらに、1936 年2 月、陝西省の共産軍が一時、山西省に進出してきたことは、現地および本国の陸軍の警戒を強めた。これを受けて3 月末、多田(駿)支那駐屯軍司令官は宋哲元との間に、極秘裡に防共協定を結んだ53。また、前年12 月、華北「自治」に反対して繰り広げられた北平のデモにも、共産勢力の影響力増大が感知された。皮肉なことに、日本が国民党機関を排除した後の間隙に、その特務組織による苛烈な弾圧が姿を消したこともあり、共産勢力が浸透していたのである54。
以上のような対ソ・防共の考慮は、「第二次北支処理要綱」にも貫かれている。そこでは、中国の領土権の否定、独立国家の樹立、あるいは満洲国の延長を図るかような行動は避けるが、華北の「分治」を促進して防共親日満の地帯を建設し、国防資源の開発と交通施設の拡充を進めてソ連の侵攻に備えるとともに、日本・満洲国・中国の三国「提携共助」を実現することが謳われた。注目されるのは、華北「分治」が政府の確定した方針として掲げられたことである。開発すべき国防資源としては鉄、コークス用石炭、塩、石炭液化、棉花、羊毛等が挙げられた。既に関東軍や支那駐屯軍の依託を受けて、華北の経済資源に関する調査が進められており、1935 年12 月には満鉄の子会社として興中公司が設立され、華北資源開発に関する事業を開始していた55。
成都事件が起こったのは、このような国交調整方針が固まった頃である。日本側の要求は当初、犯人・責任者の処罰、排日の取締という事件解決に重点を置いていたが、やがて国交調整方針に含まれる全般的なものへと膨らんでいった。北海事件など、その後に続く事件の発生が日本側の態度を硬化させた。一方、中国側は事件解決と排日取締には応じたものの、それ以外の点では日本の要求に対して妥協を拒んだ。中国側は、塘沽・上海両停戦協定の廃棄、冀東政権の解消、華北自由飛行(満洲国と華北との航空連絡に消極的であった中国側を牽制するため、中国軍の監視を名目に関東軍が華北に軍用機を飛ばしていたもの)の中止、密貿易の停止、内蒙古に侵入した「偽軍」(傀儡軍)の解散、を要望し、日本側と正面から渡り合った。
成都事件をきっかけとして1936 年9 月に始まった川越・張群会談は、こうして進展を見せなかった。そのうちに関東軍の後押しする内蒙軍が綏遠省北部に侵入し、そこで中国軍と衝突した事件(綏遠事件)をめぐって会談は暗礁に乗り上げ、同年12 月、事実上、打ち切られた。  
5)内蒙工作と綏遠事件
綏遠で中国軍と衝突したのは、察哈爾省で内蒙古自治を目指して活動していた蒙古の王族、徳王の軍隊である。南京の国民政府は蒙古人の自治要求に押されて蒙古地方自治政務委員会(蒙政会)を設置したが、徳王はこれにあきたらず、土肥原・秦徳純協定で宋哲元軍を察哈爾省から押し出した関東軍に接近した。1936 年4 月、察哈爾省の徳化に徳王を主席とする内蒙軍政府が関東軍の指導下に成立し、満洲国との間に相互援助条約を結んだ。内蒙工作を強引に推進していたのは関東軍参謀の田中隆吉である。陸軍指導部は必ずしもこれを支持しなかった。やがて徳王は財政的基盤の脆弱な内蒙軍政府を強化するために、綏遠省の東部を支配下に入れようとする。同年11 月、徳王のために田中が掻き集めた無頼の匪賊部隊が蔣介石打倒を唱えて綏遠省に侵入した。しかし、この部隊は紅格図で簡単に敗れ、百霊廟に駐屯していた徳王の内蒙軍も綏遠軍の攻撃を受けて潰走した56。
この綏遠事件での中国軍の勝利は、日本軍に対する初めての勝利、しかも「無敵」の関東軍を打ち破った大勝利であると大々的に報じられ、中国各地で喝采を浴びた。綏遠への侵入に関東軍が間接的に関与していたことは間違いないが、実は戦闘にはほとんど参加していなかった。だが、これまで鬱積してきた対日屈服感からの解放も手伝って、綏遠事件の勝利は誇大に受け取られた。綏遠事件は中国の抗日感情を昂揚させ、日本に対抗する自信を回復させた。そして、その直後に歴史を転換させる事件が起こる。  
6)西安事件
それは12 月12 日、剿共戦の督戦のため西安を訪れた蔣介石が、内戦停止・抗日救国を訴える張学良と楊虎城によって拘禁された事件である。張・楊と延安の共産勢力との間には以前から共同抗日についての協力関係が生まれていた。事件発生の報を受けて延安から周恩来が飛来し、最終的に蔣介石は釈放された。事件収束に至る真相はいまだ不明だが、この西安事件によってその後の共同抗日と国共合作が促されたことは疑いない。
そもそも蔣介石は、満洲事変以後、安内攘外の方針に基づき日本との妥協を図ってきたが、究極の場合の対日戦の準備を疎かにしていたわけではない57。国民政府は剿共戦を戦うためドイツから軍事顧問を招聘し、軍事組織・戦略・戦術の近代化を図るとともに、その助言に基づき、対日戦に備えた軍事的措置を講じつつあった58。1936 年4 月には、ドイツとの間に1 億マルクの貿易協定を結んだ。ドイツからの武器の輸入とタングステン等の輸出によるバーター協定であった。中国はこのようなドイツとの密接な経済的・軍事的関係によって日本を牽制しようとしたが、同年11 月の日独防共協定の成立により、親独政策による対日牽制は頓挫した。
蔣介石は対日牽制のためにドイツとの連携だけでなく、ソ連(1932 年12 月国交再開)との連携も模索した59。一方、かつて国民党を敵視していたソ連も、中国の対日牽制を維持・強化する上で、蔣介石の指導力に着目した。反ファシズム人民戦線戦術を採用していた(1935 年8 月)コミンテルンは、中国共産党に対しこれまでの反蔣抗日ではなく、連蔣抗日の路線を勧告した。蔣介石は、外蒙古を衛星国化して新疆を「赤化」し北鉄(東支鉄道)を満洲国・日本に売却したソ連に対して、不信感を拭い去ることはできなかったものの、日本の強引な華北工作に対抗するため、対日戦の場合に軍事援助が得られるかどうかをソ連に打診していた60。さらに蔣介石は、紅軍(共産軍)に対して討伐を中断することはなかったが、日本に対抗する上での共産党との政治的妥協の可能性も排除しなかった。
たしかに日本との和解の可能性をまだ諦めてはいなかった。しかし、華北分離の動きがこれ以上強まれば、日本との武力衝突の可能性にも備えなければならなかった。そうしたところに西安事件は起こったのである。  
7)対中政策の再検討
西安事件は日本にとっても大きな衝撃であった。事件は、一方では中国の内部分裂の深刻さを示すものと受け取られたが、他方では国内統一に向かう重大な転機とも見られた。
関東軍は事件の結果、中ソ両国が抗日に関して完全に一致したと分析し、これまでのように華北「自治」を国民政府からの権限委譲によって実現するのではなく、国民政府の意向には捉われず日本が自主的に追求すべきであると主張した61。これに対して、参謀本部戦争指導課は、西安事件を契機として中国では内戦反対と国内統一の気運が進んだと指摘し、抗日人民戦線派が健全な新中国建設運動に転化し得るかどうかは、日本が従来の「帝国主義的侵寇政策」を放棄できるかどうかにかかっていると論じた62。言論界でも、国民政府による統一を肯定的に評価する中国再認識論が説かれ、実業界の一部には1936 年後半あたりから、華北分離工作を批判し、日中経済提携を説く主張が浮上していた63。
こうして対中政策の再検討が始まる。そのイニシアティヴをとったのは、戦争指導課長から作戦部長に昇任した石原莞爾である。彼は将来の対ソ戦を睨んで当面は満洲国育成に専念し日満一体の軍需産業基盤強化を図るため、中国との衝突回避を望んだ。そのため内蒙工作に反対し、華北分離を否定し、冀東政権廃止の可能性も考慮しつつあった。
一方、外務省でも対中政策の見直しがなされていた。その主眼は、華北分治工作の中止と経済的施策の実行にあった。1937 年3 月、広田内閣に代わる林銑十郎内閣の外相に佐藤尚武が迎えられて、陸海軍両省を巻き込んだ対中政策の再検討が本格化した。4 月に政府は「対支実行策」「北支指導方策」を決定し、華北の分治や中国の内政を乱す政治工作は行わないことを定め、前年の華北分治の方針を否定した。「対支実行策」では、国民政府が指導する中国統一運動に対して「公正なる態度」で臨むことが基本とされ、防共協定や軍事同盟の締結という要求項目はなくなった。反ソ・対日依存への誘導という前年の方針も謳われなくなった。「北支指導方策」では、目的達成のために華北民衆を対象とした「経済工作」に主力を注ぎ、これに国民政府の協力を求めることが合意された64。画期的な政策転換であった65。
その頃、横浜正金銀行頭取の児玉謙次を団長とする実業家グループが訪中し、中国の実業家たちと会談した。帰国後、児玉は冀東政権の解消と冀東特殊貿易の廃止を訴える意見書を佐藤外相に提出した。児玉訪中団のメンバーであった藤山愛一郎(大日本製糖社長)は岳父の結城(豊太郎)蔵相のメッセージを新任の外交部長王寵恵らの国民政府首脳に伝えた。それは日中経済提携の実績によって出先の関東軍や支那駐屯軍を抑制し、両国の関係安定化を図りたいとの趣旨であった66。
だが、現地では支那駐屯軍が林内閣の新方針に同調的だったのに対して、関東軍はそれを次のように強く批判していた67。政治的工作を行わず重点を経済的工作に置くというのは、従来の方針に比べて著しく消極的であり、日本との国交調整に応じる意思のない国民政府に親善を求めるのは、その「排日侮日」の態度を増長させるだけである。もし武力行使が許されるのであれば、中国に一撃を与えて、対ソ戦の場合の背後の脅威を除去するのが、最も有利な対策と言うべきだろう、と。
西安事件の衝撃を受けて、日本には対中政策の転換を図ろうとする動きが生まれたが、関東軍のように、それに反対する主張も根強かった。また、政策転換の実績を挙げるには時間が必要であった。そして、その実績が挙がる前に、1937 年6 月林内閣は総辞職した。
後継の近衛内閣の外相に就任したのは広田弘毅であった。  
8)盧溝橋事件前夜
日本の国防方針において、中国は仮想敵国のひとつであった。したがって、陸軍は毎年、中国と開戦した場合の作戦計画を作成した。中国の軍備強化に伴い、1937 年度(1936 年9 月から1 年間)の対中作戦計画での使用兵力は、前年度の9 個師団から14 個師団に増加した68。ただし、対ソ戦に備えての軍備拡充を焦眉の急としていた参謀本部では、中国との戦争は極力回避すべきであると考えられていた。
支那駐屯軍はこの作戦計画を受け、参謀本部の指示に基づいて華北の占領計画をつくった69。作戦計画が華北要地の一時的「占領」にとどまらず、やや長期の「確保」を要求していたので70、現地軍の占領計画も、万一の場合の不測事態計画であるとはいえ、それ相応に詳細なものとなった。
そして、華北では、そうした不測事態が起こりかねない状況になりつつあった。1936年、北平郊外の豊台に支那駐屯軍の増強部隊を収容する兵舎を建設したとき、中国人の間には、日本軍が軍用飛行場をつくろうとしているのではないか、との疑心暗鬼が生まれた71。
同年、平津地区で行われた支那駐屯軍秋季大演習も中国側の疑惑をかきたてた72。
北平近郊に駐屯する中国軍第37 師は第29 軍の中で最も抗日意識が高いとされており、第29 軍の高級将校の中には共産党員も紛れ込んでいた73。1936 年9 月18 日、柳条湖事件5 周年の日、豊台の日本軍と第37 師の兵士との間に小競り合いが生じた。中国側の謝罪と豊台からの撤退で事は収まったが、日本軍が中国軍に武装解除を要求しなかったのは第29軍を恐れたからだという噂が広まり、これを聞いて憤慨した連隊長の牟田口廉也は、今後類似の事件が起きたならば、今度こそ仮借することなく直ちに中国軍を膺懲し、侮日・抗日観念に一撃を加えねばならぬ、と部下に訓示したという74。
牟田口が予想した類似の事件は、それから10 ヵ月後、盧溝橋で起こることになる。対ソ戦闘法の夜間演習を行っていた日本軍部隊と中国軍との衝突であった。そのとき、前内閣(林内閣)の対中政策転換に反対し、中国の「増長」を憎み、華北を国民政府の政治的コントロールから分離することを目論んでいた対中強硬論者は、中国に「一撃」を加えることを躊躇しなかったのである。  

1 柳条湖事件の謀略については、秦郁彦「柳条溝事件の再検討」『政治経済史学』第183号(1981 年8 月)を参照。
2 「満洲問題解決方策の大綱」小林龍夫・島田俊彦編『現代史資料7・満洲事変』(みすず書房、1964 年)164 頁。
3 池井優「1930 年代のマス・メディア」三輪公忠編『再考太平洋戦争前夜』(創世記、1981年)177−185 頁。
4 宇野重昭「中国の動向(1926〜1932 年)」日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部編『太平洋戦争への道』第2 巻(朝日新聞社、1962 年)274 頁。
5 NHK取材班・臼井勝美『張学良の昭和史 最後の証言』(角川書店、1991 年)123−127頁。
6 柳条湖事件直後の国民政府内の対日直接交渉論については、加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』(岩波新書、2007 年)107−111 頁を参照。
7 萱野の和平工作については、時任英人「犬養毅と満州事変」『政治経済史学』第209 号(1983 年12 月)50−55 頁。
8 黄自進「満州事変と中国国民党」中村勝範編『満州事変の衝撃』(勁草書房、1996 年)360−361 頁。
9 田中隆吉「上海事変はこうして起された」『別冊知性−秘められた昭和史』(1956 年12月)を参照。
10 上海事変とその停戦交渉については、島田俊彦「満州事変の展開(1931−1932 年)」『太平洋戦争への道』第2 巻、第5 章を参照。
11 黄自進「満州事変前後における国民政府の対日政策」『東アジア近代史』第5 号(2002年3 月)22−24 頁。
12 同上、24−25 頁。
13 時任「犬養毅と満州事変」56−57 頁。
14 満洲国建国に関わった中国人については、浜口裕子『日本統治と東アジア社会』(勁草書房、1996 年)第2 章、第3 章を参照。
15 安富歩「「満洲国」経済開発と国内資金流動」山本有造編『「満洲国」の研究』(緑蔭書房、1995 年)239−246 頁。
16 Nakagane Katsuji, “Manchukuo and Economic Development,” in Peter Duus, Ramon H. Myers, and Mark R. Peattie, eds., The Japanese Informal Empire in China, 1895-1937 (Princeton University Press, 1989), p.134.
17 西澤泰彦「「満洲国」の建設事業」山本編『「満洲国」の研究』392 頁、407 頁。
18 Ramon H. Myers, “Creating a Modern Enclave Economy: The Economic Integration of Japan, Manchuria, and North China, 1932-1945,” in Peter Duus, Ramon H. Myers, and Mark R. Peattie, eds., The Japanese Wartime Empire, 1931-1945 (Princeton University Press, 1996) を参照。
19 塚瀬進『満洲国』(吉川弘文館、1998 年)190−198 頁、同「満洲国の実験」山室建徳編『日本の時代史25 大日本帝国の崩壊』(吉川弘文館、2005 年)130−132 頁。
20 塚瀬『満洲国』44 頁。
21 熱河作戦については、内田尚孝『華北事変の研究』(汲古書院、2006 年)第1 章、第2章を参照。
22 国際連盟と熱河作戦との関係については、井上寿一『危機のなかの協調外交』(山川出版社、1994 年)第1 章を参照。
23 鹿錫俊『中国国民政府の対日政策 1931−1933』(東京大学出版会、2001 年)第6 章、第7 章。
24 塘沽停戦協定の交渉については、内田『華北事変の研究』第3 章を参照。
25 光田剛「華北「地方外交」に関する考察」『近代中国研究彙報』第22 号(2000 年)53−54 頁。
26 光田剛『中国国民政府期の華北政治 1928-1937 年』(お茶の水書房、2007 年)206 頁。
27 臼井勝美『日中外交史研究』(吉川弘文館、1998 年)126 頁。
28 酒井哲哉『大正デモクラシー体制の崩壊』(東京大学出版会、1992 年)58−62 頁。
29 重光と天羽声明との関係については、冨塚一彦「1933、4 年における重光外務次官の対中国外交路線」『外交史料館報』第13 号(1999 年6 月)を参照。
30 「天羽英二情報部長の非公式声明」島田俊彦・稲葉正夫編『現代史資料8・日中戦争1』(みすず書房、1964 年)25−26 頁。
31 濱口學「ジャン・モネの中国建設銀公司構想」『外交史料館報』第15 号(2001 年6 月)を参照。
32 光田剛は、天羽声明によって蔣介石が日本を主敵と見なすようになった、と解釈している。光田『中国国民政府期の華北政治 1928-1937 年』202−204 頁。
33 宇野重昭「中国の動向(1933 年〜1939 年)」『太平洋戦争への道』第3 巻(朝日新聞社、1962 年)281−282 頁。
34 この間の日中間の動きについては、臼井『日中外交史研究』133−137 頁。
35 家近亮子『蔣介石と南京国民政府』(慶應義塾大学出版会、2002 年)182−185 頁、小林英夫「幣制改革をめぐる日本と中国」野沢豊編『中国の幣制改革と国際関係』(東京大学出版会、1981 年)242−243 頁。
36 戸部良一「陸軍「支那通」と中国国民党」『防衛大学校紀要』第68 輯(1994 年3 月)48−50 頁。
37 島田俊彦「華北工作と国交調整(1933 年〜1937 年)」『太平洋戦争への道』第3 巻、98−101 頁。
38 酒井の独断については、松崎昭一「再考「梅津・何応欽協定」」軍事史学会編『日中戦争の諸相』(錦正社、1997 年)35−39 頁を参照。
39 在中国若杉大使館参事官より広田外務大臣宛電報(6 月7 日)外務省編『日本外交文書昭和期U第1 部第4 巻上』第299 文書。
40 梅津・何応欽協定の成立経緯については、臼井『日中外交史研究』141−154 頁を参照。
41 在中国有吉大使より広田外務大臣宛電報(6 月25 日)『日本外交文書 昭和期U第1 部第4 巻上』第245 文書。
42 「対支政策[広田三原則]決定の経緯」『現代史資料8・日中戦争1』102−108 頁。
43 木畑洋一「リース=ロス使節団と英中関係」野沢編『中国の幣制改革と国際関係』210頁。
44 波多野澄雄「幣制改革への動きと日本の対中政策」野沢編『中国の幣制改革と国際関係』272−273、松浦正孝「再考・日中戦争前夜」『国際政治』第122 号(1999 年9 月)135−137 頁。
45 幣制改革の政治的側面に関する新しい解釈については、樋口秀実「1935 年中国幣制改革の政治史的意義」服部龍二ほか編『戦間期の東アジア国際政治』(中央大学出版部、2007年)を参照。
46 南京の国民政府と華北将領、特に宋哲元との関係については、Marjorie Dryburgh, North China and Japanese Expansion 1931-1937: Regional Power and the National Interest (Curzon Press, 2000)、光田『中国国民政府期の華北政治 1928-1937 年』を参照。
47 『現代史資料8・日中戦争1』349−350 頁。
48 冀東特殊貿易については、藤枝賢治「冀東貿易をめぐる政策と対中国関税引下げ要求」軍事史学会編『日中戦争再論』(錦正社、2008 年3 月)を参照。
49 支那駐屯軍の増強については、松崎昭一「支那駐屯軍増強問題」『國學院雑誌』第96 巻第2 号・第3 号(1995 年2 月、3 月)を参照。
50 日本陸軍は当初、通州を新駐屯地にしたいと考えていたが、通州は義和団事変最終議定書で認められた列国の「占領」地に入っていなかったため、国際的な批判を招くとして断念された。豊台も同議定書には明記されていなかったが、以前にイギリス軍が駐屯していたことがあり、そのとき中国側が抗議しなかったので、陸軍はここを新駐屯地に選んだ。
51『現代史資料8・日中戦争1』361−371 頁。
52 防衛研修所戦史室『戦史叢書・大本営陸軍部1』(朝雲新聞社、1967 年)352 頁。
53 臼井勝美「冀察政務委員会と日本」『外交史料館報』第16 号(2002 年6 月)34−35 頁、安井三吉『盧溝橋事件』(研文出版、1993 年)68−71 頁。
54 安井『盧溝橋事件』85 頁。
55 華北での日本の経済活動については、中村隆英「日本の華北経済工作」『年報・近代日本研究』第2 号(1980 年)を参照。
56 内蒙工作については、森久男「関東軍の内蒙工作と蒙疆政権の成立」『岩波講座・近代日本と植民地1 植民地帝国日本』(岩波書店、1992 年)を参照。
57 中国の国防計画については、安井『盧溝橋事件』126−135 頁。
58 対日戦準備に対するドイツ軍事顧問団の貢献については、Hsi-Huey Liang, The Sino-German Connection: Alexander von Falkenhausen between China and Germany 1900-1941 (Van Gorcum, 1978), chap.7-8 を参照。
59 蔣介石の対独・対ソ連携構想については、樹中毅「蒋介石の民族革命戦術と対日抵抗戦略」『国際政治』第152 号(2008 年3 月)、鹿錫俊「日ソ相互牽制戦略の変容と蔣介石の「応戦」決定」軍事史学会編『日中戦争再論』を参照。
60 この頃の中ソ関係については、Jonathan Haslam, The Soviet Union and the Threat from the East, 1933-41 (University of Pittsburgh Press, 1992), chap.3 を参照。
61 関東軍参謀部「対支蒙情勢判断」(1937 年2 月)臼井勝美「昭和十二年「関東軍」の対中国政策について」『外交史料館報』第11 号(1997 年6 月)67−70 頁所収。
62 参謀本部第二課「帝国外交方針及対支実行策改正に関する理由竝支那観察の一端」『現代史資料8・日中戦争1』382 頁。
63 この点については、伊香俊哉「日中戦争前夜の中国論と佐藤外交」『日本史研究』第345号(1991 年5 月)を参照。
64 『現代史資料8・日中戦争1』400−403 頁。
65 佐藤外相の下での政策転換については、臼井『日中外交史研究』第9 章、藤枝賢治「「佐藤外交」の特質」『駒澤大学史学論集』第34 号(2004 年4 月)を参照。
66 松浦「再考・日中戦争前夜」142−143 頁。
67 在満州国沢田大使館参事官より堀内外務次官宛(6 月11 日)外務省編『日本外交文書昭和期U第5 巻上』第144 文書。
68『戦史叢書・大本営陸軍部1』368−370、412−414 頁。
69 支那駐屯軍の華北占領計画については、永井和『日中戦争から世界戦争へ』(思文閣出版、2007 年)第1 章を参照。
70 『戦史叢書・大本営陸軍部1』413 頁。
71 エドワード・J・ドレー「戦争前夜」波多野澄雄・戸部良一編『日中戦争の軍事的展開』(慶應義塾大学出版会、2006 年)27 頁。
72 安井『盧溝橋事件』107−113 頁。
73 第29 軍副参謀長の張克侠は共産党員、第37 師長の何基澧は共産党シンパで1939 年に入党した。同上、91 頁。
74 秦郁彦『盧溝橋事件の研究』(東京大学出版会、1996 年)67−69 頁、臼井「冀察政務委員会と日本」36−38 頁。  
 
日中戦争 / 日本軍の侵略と中国の抗戦

 

はじめに
1937 年7 月に勃発した日中間の衝突事件は、全面戦争に発展したにもかかわらず、双方とも41年の太平洋戦争の開始まで宣戦布告を避けたという特徴がある。主な理由は、宣戦布告がアメリカ中立法の適用を受け、経済制裁と同様の効果をもたらす恐れがあったからである。さらに日本では、「戦争」への格上げは事態の早期収拾の妨げとなる、と判断された。日中紛争の長期化は、本来の敵と想定されたソ連や英米との対決に備えるためにも避けねばならなかった。こうして日本は、この戦争を当初「北支事変」と呼び、戦火が拡大した37 年9 月以降は「支那事変」と正式に呼称した。
もう一つの特徴は、全期間に及ぶ無数の和平工作が様々なルートで日本側から試みられたことである。それは早期収拾への期待と焦慮の反映でもあった。しかし、早期収拾への焦慮とは裏腹に戦闘は8 年を越え、宣戦布告による戦争以上に熾烈なものとなり、両国国民に大きな負担と犠牲を強いることになった。とくに戦場となった中国に深い傷跡を遺したが、その原因の大半は日本側が作り出したものといわなければならない。  
第1 節 盧溝橋事件の発生と全面戦争への拡大
1)盧溝橋事件の勃発と拡大要因
1937年の華北は、宋哲元を委員長とする冀察政務委員会が河北、チャハル両省を統括していた。この冀察政権は国民政府がいわば「緩衝機関」として設置したという成立事情から、冀東政権とは性格が異なり、支那駐屯軍にはその親日姿勢に不信感を抱く者も少なくなかった。他方、支那駐屯軍による頻繁な夜間演習は宋哲元の率いる第29軍には「挑発行動」と映り、必要以上に冀察政権側の警戒心を煽っていた。
7 月7 日夕刻、豊台駐屯の支那駐屯歩兵第1 連隊第3 大隊第8 中隊は、宛平県城北側の永定河にかかる盧溝橋畔でこの日も夜間演習を行っていた。午後10 時40 分頃左岸堤防陣地の方角から二度の銃撃を受けた。清水節郎中隊長は伝令を送って豊台の大隊本部に報告した。一木清直大隊長は警備召集によって約500 名の部隊を宛平県城近くの一文字山に出動させた。翌8 日午前3 時半頃に一文字山に到着した部隊は竜王廟方面で銃声を確認したため、北平の牟田口廉也連隊長に現状を報告すると牟田口は戦闘を命令した。一木大隊は5 時に攻撃命令を発して戦闘態勢をとる一方、堤防陣地の中国軍を包囲攻撃するため第8 中隊を前進させた。前進する第8 中隊と中国軍との間に戦闘が始まると、一木は5 時半に総攻撃を命じた。この間、二度の銃撃直後から同中隊の兵士一名が行方不明となり、まもなく無事に帰隊したが、その情報はかなり後まで大隊本部などに報告されず、事態を緊迫化させる一因となった。
現地で断続的な交戦が続く中、7 月8 日、参謀本部作戦部長の石原莞爾が療養中の今井清次長にかわって参謀総長に説明し、参謀総長名で事件の拡大を防止するため、「更ニ進ンテ兵力ヲ行使スルコトヲ避クヘシ」と支那駐屯軍司令官に命令した。翌9 日、参謀次長名で、中国軍の永定河左岸駐屯の禁止、謝罪と責任者の処分、抗日系団体の取締り等の停戦条件が指示された。停戦交渉は、北平特務機関と第29 軍代表との間で実施され、7 月11 日、29 軍は1陳謝と責任者の処分、2宛平県城、龍王廟に軍を配置しない、3抗日団体の取締り等の要求を受け入れ、11 日午後8 時に現地協定が成立した1。
一方、近衛文麿内閣は8日の臨時閣議で事件の「不拡大」を決定したが、不拡大は華北への動員派兵の抑制を意味しなかった。翌9日の臨時閣議で杉山元陸相が内地3個師団派遣の必要を提案した際には、他の閣僚の反対で取りやめとなる。しかし、7月10日に現地龍王廟で再度の衝突が起こると、翌11日の閣議は不拡大・現地解決の方針とともに、陸軍省部の要望を容れ、3個師団の派遣を承認した(実際の派兵は留保)。同日午後6時過ぎの派兵声明は、「今次事件ハ全ク支那側ノ計画的武力的抗日ナルコト最早疑ノ余地ナシ」と断定しつつも、「局面不拡大ノ為平和的折衝ノ望ヲ捨テス」と述べていた2。
近衛首相は同じ11日夜には言論界、政財界の指導者を集め、国民政府に反省を促すために「関東軍、朝鮮軍それに内地から相当の兵力を出すことはこの際已むを得ぬ」として派兵への全面協力を求めた。近衛は事態の拡大を望んではいなかったが、派兵という強硬姿勢を示すならば「中国側は折れて出る」はずであり、事件は短期間で片付くと信じていた3。いずれにしても、派兵決定とその公表は同時に進行していた現地の停戦努力を無視する行動であり、その後の現地交渉を困難なものとした4。
一方、中国の側でも、抗日気運の高まりのなか、妥協的な停戦を受け入れる可能性は狭まっていく。中国共産党は、事件翌日の8 日には、「抗日自衛戦争」の発動と国共合作を要求する通電を全国に発していた。他方、国民政府軍事委員会委員長・蒋介石は、対日抗戦のための内外体制の整備が途上にあったことから、当面事件の平和的解決に重きを置いていた。したがって、7 月17 日の廬山談話(19 日公表)では、外交的解決の期待を込めつつも、事件の解決が不可能となるような「最後の関頭」に立ち至ったときは必ず抗戦する、と決意を述べた5。
この間、天津では事態解決の努力が継続され、7 月19 日には現地軍間で、中国側が日本側条件を呑む形で排日言動の取締まりに関する実施条項(停戦細目協定)が調印される6。駐屯軍は21 日、「29 軍は全面的に軍の要求を容れ逐次実行に移りつつあり」として派兵慎重論を東京の陸軍に打電したが、前日の20 日、閣議は華北派遣を容認していた。陸軍省部の要求に応えたものであったが、駐屯軍の意見や参謀本部から派遣したスタッフの現地情勢の報告によって参謀本部は再び派遣を見送った。
しかし、25日、26日と連続して起こった小衝突事件(廊坊、広安門事件)を契機として、陸軍省部は延期していた3個師団の動員実施を決定し、27日の閣議はこれを了承した。駐屯軍は28日に全面攻撃を開始し、翌日には永定河以北の北平・天津地区をほぼ制圧した。その直後に起こった通州事件7は、日本の中国に対する強硬な世論を決定的なものにした。
こうした事態拡大にもかかわらず、不拡大方針はなおも堅持され、参謀本部の派兵計画も作戦の範囲を北平、天津に限定することを基本方針としていた。石原作戦部長は、7月末から柴山兼四郎軍務課長と共に外務省や海軍に働きかけ、国民政府の側から停戦を求める可能性を追求した。陸海外3省の間で停戦条件を定めたうえ、在華日本紡績同業会理事の船津辰一郎に上海での中国側との接触を依頼した(船津工作)。船津は8月7日に上海に到着し接触を開始するが、上海情勢の緊迫のため進展しなかった8。
盧溝橋における最初の発砲事件は「偶発的」であり9、現地においては局地的解決の努力がなされた。しかし、この衝突事件を好機とみなした支那駐屯軍(のち北支那方面軍)や関東軍は、蒋介石政権の打倒と華北占領という構想を圧倒的な軍事力によって実行していく。現地軍の行動を抑制できなかった大きな理由の一つは、陸軍部内のいわゆる「拡大派」と「不拡大派」の対立にあった。
石原作戦部長ら「不拡大派」は、中国との戦争は長期化を免れず、国力を消耗して対ソ軍備に支障を生じ、ソ連の介入を招く恐れがあるとして局地的解決を主張していた。他方、田中新一軍事課長や武藤章作戦課長らの「拡大派」は、事件勃発直後から、国民政府軍に一撃を加え、国民政府の抗日姿勢の転換を迫り、一挙に日中問題を解決するという「一撃論」を展開していたが、こうした一撃論は「不拡大派」を圧倒し、陸軍部内の多数派となるのである10。
事件発生から最も重要な最初の数日間に、外交ルートを通じた接触は南京の日高信六郎参事官と中国外交部との間の数回のみであり、事件処理の主導権は陸軍に握られ、外交当局は無力であった。
事件の「拡大」の要因は政府や世論にもあった。上述のように、現地の停戦努力を無視した早い段階での派兵声明、それに同調する近衛首相や「暴支膺懲」一辺倒となるマスメディアの論調などは、日本軍を華北侵略に向かわせる複合的要因であった。近衛内閣も事態の拡大を抑制するより、この事件を行き詰まっていた中国政策の打開の好機ととらえ、蒋介石政権の早期敗北を想定して大兵力の派遣を容認し、現地解決の努力を押し流していく。
この間、蒋介石は7 月29 日の緊急記者会見で、今や事態は「最後の関頭」にいたったことを認め、「局地的解決の可能性はまったくない」と、抗戦決意を改めて明らかにし、共産党との提携による対日統一戦線の形成(第2 次国共合作)に向けて両党間の懸案解決に動き出す。蒋介石は統一戦線における主導権掌握をねらった中ソ不可侵条約の締結(8 月21 日)、ソ連の対日参戦の要請(11月26 日)、華北の事態の国際連盟への提訴(9 月12 日)など戦争の「国際化」による最終的勝利をめざすことになる11。  
2)関東軍の積極介入と北支那方面軍の南下
事件勃発前、支那駐屯軍よりも強硬な中国政策を東京に迫っていたのは関東軍であった。陸軍省は、5 月末に柴山軍務課長を奉天に派遣し、華北分離工作の停止を求めた四相会議決定「対支実行策」(37 年4 月16 日)を関東軍に説明したが、関東軍は南京政府との国交調整の必要を認めず、武力による「一撃」を説くのみであった12。事変勃発後、関東軍は内蒙工作の促進と中国軍の熱河、チャハル進出を防ぐため、華北作戦と連携した内蒙古における兵力使用を参謀本部に再三具申していたが、不拡大方針の参謀本部は7 月末まで認めなかった。しかし、関東軍の強い意見具申の前に8 月7 日、参謀本部はチャハル作戦を容認した。元来、チャハル作戦はチャハル省内の中国軍を掃滅するため支那駐屯軍が担う作戦であったが、脇役であった関東軍が主役となる主客転倒の作戦と化した。チャハルに派遣された蒙疆兵団は張家口方面に進撃し、8 月末に占領した。その後も関東軍は南下を続け、チャハル、綏遠両省を勢力下に収め、次々に傀儡政権を樹立した。華北・内蒙を中国政府の影響下から切り離し、要地に駐兵権を獲得して重要資源の優先的開発を行うことが目標であった。
一方、華北では、8月31日、支那駐屯軍が北支那方面軍(寺内寿一司令官)に改編される。朝鮮軍や内地から増派を得て8個師団の大兵力となった北支那方面軍は2軍に分かれて南下し、河北、山西、山東の各省に侵攻した。9月末には保定を占領したが、中国軍が退避戦法をとったため作戦目的は達成されなかった。しかし、北支那方面軍は作戦地域を保定−滄州付近と示していたが、勢いに乗じてこれを突破してしまった。参謀本部はこれを追認し、さらに石家荘―徳州の線に拡大したが、北支那方面軍はこの制限線も大きく越えてしまう。そして10月中旬までに石家荘を占領した。
保定作戦で終わるはずの攻勢作戦が、北支那方面軍に引きずられて石家荘作戦に発展したのである。
さらに方面軍は、南京政府の抗戦意思の挫折のためには、徐州進撃が必要と判断するようになる。  
3)上海派兵
海軍の動向に眼を向けると、事変勃発後、軍令部や中国警備を担当する第3艦隊には強硬な空爆論も存在したが、米内光政海相は外交的解決に期待し、水面下で進んでいた船津工作に望みを託していた。しかし、上海での8月9日の海軍将兵の殺害事件(大山事件)は海軍部内の強硬論を刺戟した13。佐世保に待機中の陸戦隊が急遽派遣され、上海は一触即発の危機に陥った。
8月12日、国民党中央執行委員会常務委員会は、戦時状態に突入する旨秘密裏に決定した。14日払暁、中国軍は先制攻撃を開始し、空軍も第3艦隊旗艦「出雲」及び陸戦隊本部を爆撃した。蒋介石が上海を固守するために総反撃を発動したのは、ソ連の介入や列国の対日制裁に期待し、さらに日本の兵力を分散し、華北占領の計画を挫折させるためでもあった14。上海防衛戦には国民政府軍の精鋭部隊が投入され、その兵力は70万人を越え、戦死者も膨大な数にのぼった。
8月13日の閣議は、派兵に消極的であった石原作戦部長らの意見を抑えて、陸軍部隊の上海派兵を承認した15。米内海相も陸軍の上海派兵には積極的ではなかった。しかし、旗艦「出雲」の中国空軍による爆撃によって態度を急転させ、14日の政府声明作成のための臨時閣議では、「不拡大主義」の放棄を主張し、南京占領の提言にも及んだ。8月15日の政府声明は、対ソ戦考慮の観点から、依然、不拡大方針のもとで早期解決に努力すべきであるとする杉山陸相の意見によって不拡大方針の放棄は示さず、南京政府の打倒ではなく「反省を促す」ための出兵であることを強調していた16。
米内の積極的な派兵論への転換は、海軍の強硬姿勢への傾斜に歯止めを失ったことを意味した。
15日に下令された上海派遣軍は、純粋の作戦軍としての「戦闘序列」としてではなく、一時的な派遣の「編組」の形を取っていた。その任務も、上海在留邦人の保護という限定されたものであった17。しかし、上海戦は中国軍の激しい抵抗のなかで、事件を局地紛争から実質的な全面戦争に転化させる。
9月末、石原作戦部長は更迭され、後任には下村定少将が就任した。下村は石原と同じく戦争の長期化がソ連介入を招くことを恐れていたが、主戦場を華北から華中に転換し、むしろ積極作戦によって敵の主力軍を潰滅させる短期決戦が必要と考えた18。8月に参謀次長に就任していた多田駿中将もこれを支持した。この積極作戦の第1歩が、11月5日の第10軍による杭州湾への奇襲上陸であった。その直後、上海派遣軍と第10軍が統合され、松井石根を司令官に暫定的に中支那方面軍が編成された。その任務はもはや居留民の保護ではなく、北支那方面軍と同様に敵の戦意を挫くことであった。杭州湾上陸の成功は上海方面の戦況を一変させ、中国軍は退却を開始し、11月中旬、日本軍は上海全域を制圧した。
しかし、第10軍は、敵の退路を遮断するためさらに追撃を求めた。作戦部は作戦地域を蘇州―嘉興のライン(制令線)の東側と設定した。方面軍は制令線まで急速に進出すると、今度は制令線を撤廃して南京に迫るべきであると主張した19。南京はすでに8月15日から日本海軍による激しい渡洋爆撃に見舞われていたが、南京のみならず上海、漢口など諸都市に対する無差別爆撃は国際的非難を浴びていた。  
4)南京攻略と南京虐殺事件
参謀本部では河辺虎四郎作戦課長に加え多田参謀次長らが、さらなる作戦地域の拡大に反対していた。部内では制令線を撤廃し、南京攻略に向かうか否か激論となった。結局、中支那方面軍の再三の要求が作戦部の方針を南京攻略に向けさせた20。
11月15日、第10軍は「独断追撃」の敢行を決定し、南京進撃を開始した。松井中支那方面軍司令官もこれに同調し、軍中央を突き上げた。参謀本部では多田参謀次長や河辺作戦課長が、進行中のトラウトマン工作を念頭に、南京攻略以前に和平交渉による政治的解決を意図していたが、進撃を
制止することは困難であり、12月1日、中支那方面軍に南京攻略命令が下った。12月10日、日本軍は南京総攻撃を開始し、最初の部隊は12日から城壁を突破して城内に進入した。翌13日、南京を占領した。
この間、中国政府高官は次々に南京を離れ、住民の多くも戦禍を逃れ市内に設置された南京国際安全区(「難民区」)に避難し、また、日本軍に利用されないために多くの建物が中国軍によって焼き払われた21。
国民政府は11月中旬の国防最高会議において重慶への遷都を決定したが、首都南京からの撤退には蒋介石が難色を示し、一定期間は固守する方針を定めた。首都衛戍司令官に任命された唐生智は、当初は南京の死守方針であり、松井司令官の開城投降勧告を拒否したが、12月11日、蒋介石から撤退の指示を受けると、12日に各所の防衛指揮官に包囲突破による撤退を命じた22。しかし、計画通り撤退できた部隊はわずかで、揚子江によって退路が塞がれ、中国軍は混乱状態となり、多数の敗残兵が便衣に着替えて「難民区」に逃れた23。
中支那方面軍は、上海戦以来の不軍紀行為の頻発から、南京陥落後における城内進入部隊を想定して、「軍紀風紀を特に厳粛にし」という厳格な規制策(「南京攻略要領」)を通達していた。しかし、日本軍による捕虜、敗残兵、便衣兵、及び一部の市民に対して集団的、個別的な虐殺事件が発生し、強姦、略奪や放火も頻発した。日本軍による虐殺行為の犠牲者数は、極東国際軍事裁判における判決では20 万人以上(松井司令官に対する判決文では10 万人以上)、1947 年の南京戦犯裁判軍事法廷では30 万人以上とされ、中国の見解は後者の判決に依拠している。一方、日本側の研究では20 万人を上限として、4 万人、2 万人など様々な推計がなされている24。このように犠牲者数に諸説がある背景には、「虐殺」(不法殺害)の定義、対象とする地域・期間、埋葬記録、人口統計など資料に対する検証の相違が存在している25。
日本軍による暴行は、外国のメディアによって報道されるとともに、南京国際安全区委員会の日本大使館に対する抗議を通して外務省にもたらされ26、さらに陸軍中央部にも伝えられていた。その結果、38 年1 月4 日には、閑院宮参謀総長名で、松井司令官宛に「軍紀・風紀ノ振作ニ関シテ切ニ要望ス」との異例の要望が発せられたのであった27。
虐殺などが生起した原因について、宣戦布告がなされず「事変」にとどまっていたため、日本側に、俘虜(捕虜)の取扱いに関する指針や占領後の住民保護を含む軍政計画が欠けており、また軍紀を取り締まる憲兵の数が少なかった点、食糧や物資補給を無視して南京攻略を敢行した結果、略奪行為が生起し、それが軍紀弛緩をもたらし不法行為を誘発した点などが指摘されている28。戦後、極東国際軍事裁判で松井司令官が、南京戦犯軍事法廷で谷寿夫第6 師団長が、それぞれ責任を問われ、死刑に処せられた。一方、犠牲が拡大した副次的要因としては、中国軍の南京防衛作戦の誤りと、それにともなう指揮統制の放棄・民衆保護対策の欠如があった29。南京国際安全区委員長のジョン・ラーベは、唐司令官は「無分別にも、兵士はおろか一般市民も犠牲にするのではないか」と懸念し、中国国民の生命を省みない国民政府・軍首脳の無責任さを批判していた30。
さて、首都南京の占領は「勝利者」意識を日本の朝野に広め、事変の収拾方策や和平条件に大きな影響を与えた。近衛内閣が12月末の閣議で決定した「支那事変対処要綱」にも華北や上海周辺を政治的にも、経済的にも日本の強い影響下におくという、勝利者としての意識が反映している31。  
5)和平をめぐる葛藤−トラウトマン工作32と9ヶ国条約会議
事変の収拾に関する日本政府の基本的立場は、あくまで日中間の問題として解決し、第3 国の斡旋や干渉を排除するというものであった。しかし、9 月に入り、長期戦の様相となると、軍事目的の達成に応じて「第三国の好意的斡旋」を活用する和平も視野に入ってくる。まず名乗りをあげたのはイギリスであった。9 月中旬、新着任のクレーギー駐日大使が仲介の可能性について広田弘毅外相に打診を行い、広田は具体的な和平条件を提示している。それは、華北の非武装地帯の設定、排日取締と防共協力を条件に華北政権の解消と国民政府の行政容認、満州国の不問などであった。
これらの条件は蒋介石に伝えられたが、国際的な圧力や制裁を期待する蒋は受諾に否定的であった33。このとき国際連盟では、中国政府の提訴を受け9 月中旬から日中紛争を審議中であった。
その連盟総会では、中国代表・顧維鈞が日本の侵略行為に対し、国際的な緊急措置を訴えていたが、賛同する加盟国はソ連のみであり、日華紛争諮問委員会にこの問題を委任することとなった。
諮問委員会は日本の行動を9 カ国条約違反とする報告書を総会に提出し、9 ヶ国条約会議の召集を勧告した。諮問委員会に非加盟国として参加していたアメリカの要請によるものであった。10 月6日総会はこれを採択し、連盟の勧告により10 月15 日、開催国ベルギーが中心となりブリュッセル会議(9 ヶ国条約会議)が呼びかけられた。一方、10 月5 日ローズヴェルト大統領は、こうした連盟の動きに呼応して直ちに参加を表明し、いわゆる「無法国家」を非難する隔離演説を行ったが、アメリカの意図は集団的圧力による調停にあって、具体的な制裁行動ではなかった34。
一方、欧米諸国による事変介入を警戒していた日本は、10 月22 日の閣議で不参加を決定した。
不参加声明では、日本の行動は「支那側ノ挑発ニ対スル自衛手段」と主張したうえで、「両国間ノ直接交渉ニ依リテノミ之ヲ解決シ得ル」という立場を改めて表明した35。他方、広田外相は10 月27 日、各国大使に不参加理由を説明した際、閣議決定を踏まえ、第3 国の「好意的斡旋」は受諾の用意がある旨を通報したが、実際に和平条件を提示したのはドイツだけであった。
ドイツによる和平斡旋は参謀本部が熱心に取り組み、石原作戦部長の了解のもとで情報部員がドイツ大使館側と頻繁に接触していた。それが奏功し、10月下旬には上海で駐華ドイツ大使トラウトマンに和平条件が提示される。一方、東京では、陸軍の要望を容れた広田外相が駐日ドイツ大使ディルクセンに対し、クレーギーに示したと同様の和平条件(10月1日首相・陸・海・外の4相決定)を中国側に伝達するよう要請していた。11月初旬、トラウトマンは日本側の和平条件を蒋介石に伝えるが、開催中であった9ヶ国条約会議の対日制裁に期待していた蒋はこれを拒否した。
その9ヶ国条約会議では顧維鈞が、経済制裁や抗戦継続のため中国への物的援助などの具体策を訴えるものの、参加各国はそれぞれの思惑から制裁措置を躊躇し、対中援助にも、一方への援助は停戦の可能性を閉ざすとして大半の国が慎重であった。結局、11月15日の本会議は対日非難の声明を採択して事実上終了した。
9 カ国条約会議が実効的な行動をとることなく11 月下旬に閉幕したこと、さらに上海戦における敗勢は蒋介石の態度を変化させる。12 月7 日、蒋はディルクセン大使を通じて、日本側の和平条件を基礎として交渉に応ずる意思を伝えたが、広田は最近の情勢変化は講和条件の変更を必要としている、として即答を避けた。南京攻略が迫っていたからである。
しかし、日本の朝野には、南京の陥落は国民政府の崩壊をもたらすであろう、という戦勝気分が横溢し、蒋政権はもはや和平の相手ではなくなっていた。とくに現地軍や関東軍には、蒋政権が降伏に応じないのであれば、その正統性を否認し、新たな中央政府を育成すべきである、とする主張が勢いを増してくる。他方、参謀本部は、南京陥落が蒋政権の降伏や崩壊にはつながらず、戦争の長期化を招くのみとし、この機会に比較的寛大な条件によって講和すべきであると考え、こうした考え方がトラウトマン工作を支えた。しかし、政府首脳の意見は、蒋政権の弱体化や崩壊を前提として厳しい講和条件を要求するか、あるいは、もはや蒋政権を否認し、講和交渉自体の必要性を認めないか、いずれかに収斂していく。
一方、国民政府のなかでも日本との講和をめぐって議論が分かれたが、最終的に38 年1 月2 日、蒋介石は、ドイツの調停を拒否し、抗戦を貫くことを決定した36。
1月11日には参謀本部の要請によって日露戦争以来の御前会議が開かれる。参謀本部は御前会議開催について、「戦勝国が敗戦国に対し過酷な条件を強要する」ことを戒める意味がある、と説明した。指導者たちは「戦勝国」としての意識につつまれ、和平条件が中国にとって受け入れ難いものとなったことを示している37。参謀本部は最後まで交渉による和平を主張するが、1月15日、政府は最終的に交渉の打ち切りを決定した。
こうして南京陥落という絶好の日中講和の機会は失われてしまう。1月11日の御前会議決定によれば、和平が不成立の場合、「帝国ハ爾後之ヲ相手トスル事変解決ニ期待ヲ掛ケス、新興支那政権ノ成立ヲ助長」する一方、国民政府の潰滅を図るか、または新興政権の傘下に吸収することになっていた。1月16日、この方針の下で「対手トセス」声明(第1次近衛声明)が発表される38。  
第2節 戦線拡大と持久戦
1)事変解決策の混迷
a.徐州作戦と「新興支那政権」
南京占領後、参謀本部作戦課は38年夏までは新しい作戦を実施しない方針(戦面不拡大)を固めていた。しかし、北支那方面軍は徐州付近の主力軍を包囲殲滅する作戦に固執し、執拗にその必要性を訴えたため、河辺作戦課長が北京に赴き、ソ連の介入に警戒を強める必要から占拠地域の安定的確保が急務と説得したが、華北の各軍は受け入れなかった39。徐州作戦は38年4月初旬に発動され、5月下旬に徐州を占領した。しかし、中国軍は日本軍が包囲網を完成する前に退却戦術をとったため、中国軍主力の包囲殲滅という目的は達成できなかった。
徐州占領後、近衛首相は内閣改造を行い、外相に宇垣一成を、陸相に板垣征四郎を任命した。改造後の近衛内閣は、6 月10 日には休眠状態であった大本営政府連絡会議に代えて五相会議(首相、蔵相、外相、陸海相)を設置し、事変の早期解決のため方策を改めて審議する。
蒋介石否認政策を前提とする中国政策は、現地軍の指導によって華北・華中の占領地に続々と作られた新政権(「新興支那政権」)を国民政府に代わる中央政権として育成する一方、国民政府を崩壊させるか、あるいは国民政府を新政権の傘下に吸収することであった。
問題は南京陥落によっても蒋政権に変化が見られないことであった。政府・軍部内には、中央政権の早期樹立を避け、国民政府との直接交渉を重視する指導者も少なくなかった。宇垣外相がそのような立場であった。他方、なおも国民政府の軍事的圧迫による瓦解、あるいは謀略工作による蒋介石の下野に期待する指導者は、現地軍の主張に同調していた。板垣陸相がその代表であった。また、蒋否認論を強硬に主張した関東軍も、中央政権の樹立には直ちに賛同しなかった。関東軍は華北・内蒙の自治政権樹立を優先し、過早に親日政権を糾合して中央集権化を図るより「分治による統一」の必要性を主張した40。五相会議は、まず、蒋政権が「屈服」(蒋の下野や転向)すれば、新中央政権の構成分子として認めるとの方針を打ち出し、限定的ながら和平交渉の可能性が生れるが、最大の問題は「新興支那政権」の基盤が弱体であったことである。38 年3 月、中支那方面軍が南京に樹立した中華民国維新政府も同様であった。
b.宇垣工作と日英協力構想
この間、外務省の石射猪太郎東亜局長は38 年6 月の意見書で、新興政権の合流による新中央政権樹立論や、臨時・維新両政府に国民政府を合流させる方法は、蒋の下野を前提としたもので現実性がなく、国民政府を正統政府として認め、漢口攻略までに和平交渉を開始するという「国民政府相手論」の推進を外相に進言している41。
石射の「国民政府相手論」に賛同していた宇垣外相は、38 年6 月の国民政府行政院長・孔祥煕の秘書・蕎輔三と香港総領事・中村豊一との接触を機として、国民政府との和平会談の実現に向け熱心に取り組む(宇垣・孔祥煕工作)。中村・蕎輔三会談は7 月までに6 回に及び、蕎輔山は、蒋と孔が協議したとする和平条件を示すなど積極的な姿勢を示した。日本側が蒋の下野を必須条件としたため交渉は難航したが、中村は宇垣の意を汲み、実質的な蒋下野の棚上げ案など柔軟な姿勢をもって臨んでいた。他方、宇垣は他のルートにも関心を寄せ、とくに萱野長知を仲介として同じ孔との接触をはかっていたが、9 月末に突如として辞職し、和平工作も頓挫する。宇垣の辞職の原因は明らかでないが、国民政府を交渉相手とする宇垣の和平工作に、近衛首相をはじめ国内の支持が得られなかったことが一因であった42。
他方、この宇垣外相のもとで、中国に関する日英協力をめざした外交工作が進展している。この日英協力路線は、近衛改造内閣に入閣した池田成彬蔵相を中心としたもので、懸案問題を日英間で解決し、日本の優位の下で中国に「講和」を迫り、戦後経営も日英協力によって行う、というもので、財界や元老など「親英勢力」の支援も得て宇垣外相による外交工作の一環となる。イギリス側では、「穏健派」が対日関係の修復、さらに日中調停をも視野に入れ、クレーギー大使が宇垣と交渉に臨む。しかし、日中直接交渉を重んずる宇垣はイギリスの仲介には消極的であり、交渉は進展しなかった43。  
2)「長期持久戦」への転換−対峙段階の戦争
a.武漢・広東攻略と長期持久体制
参謀本部は徐州作戦に続いて漢口作戦と広東作戦を承認した。この二つの大作戦は南京攻略後から作戦部と現地軍において研究されていたもので、徐州作戦の成功がこの作戦の決定を後押しした。
漢口と広東の攻略により中国主要部の実質的支配が達成され、列国の中国援助ルートにも打撃を与え軍事的に事変解決を図ることができるはずであった44。
中支那方面軍は、38 年8 月末から30 万を動員して「蒋政権の中枢である武漢三鎮」の攻略戦を展開し、10 月末には漢口を占領した。さらに9 月下旬から広東攻略戦など華南作戦における作戦を敢行し、ほとんど無抵抗のうちに広東をも占領した。中国戦線に投入された兵力は100 万に及び、対ソ戦用の兵力まで引き抜かれて日本の軍事力は限界に近づいていた。しかし、蒋政権は屈服の気配をみせず、首都を重慶に移し正面作戦を縮小して四川省周辺に立てこもって「持久戦」を展開する体制をとる。因みに、武漢・広東作戦を通じて毒ガスの効果が実証され、38 年12 月、参謀本部は「大陸指345 号」によって、「特種煙」(あか筒、あか弾、みどり筒)の使用を認めることを各軍に指示し、中国戦線での毒ガス使用が一般化したといわれる45。
漢口、広東作戦後の38年11月中旬、陸軍省と参謀本部は新しい戦争指導の基本方針を合同決定し、12月初旬に天皇の裁可を得て発令された。それは、作戦地域を限定し、兵力を節減しながら占拠地域の安定確保と治安回復、資源獲得を図り、「長期持久の体制」に移行することを目標としていた。
事変開始以来、北支那方面軍や中支那方面軍に与えられていた、中国軍の戦争意思を挫折させ、戦争終結の機会をつかむ、という作戦目的は初めて変更されたのである46。こうして事変は新たな段階を迎える。
持久戦体制の下で日本軍が重視した戦略が、重慶など内陸部の要衝都市と内陸部にいたる援蒋ルートの遮断を目的とした、航空機による波状的な空爆であった。漢口飛行場を起点とし、38年12月から始まった奥地爆撃は、重慶など主要都市の市街地爆撃が含まれ、市民に大きな被害を与え、重慶爆撃では全期間を通じた中国側の死者は約11000人と言われる47。しかし、頻繁な奥地爆撃も飛行機の不足、致命的目標の欠如などから国民政府に大きな打撃を与えることはできなかった。
b.中国の抵抗
日本軍の大規模な軍事攻勢が一段落したとき、中国の大衆的ナショナリズムは蒋介石政権の対日和平や屈服を許さない規模で広がりつつあった。占領地域や作戦地域の拡大が刺激剤となり、それまで学生や都市住民、軍人にとどまっていた民族運動は、数千万の農民を含む大運動に膨れ上がっていた。蒋介石はこうした大衆的ナショナリズムに応える術を持たなかったが、中国共産党はその要望によく応え、とくに農民大衆の支持を急速に拡大させていった48。
38 年秋、中国共産党は、武漢陥落をもって抗日戦争が「対峙段階」に入ったことを確認し、国共合作を堅持しつつ長期戦を戦い抜くことを決定した。さらに共産党はその主要な活動を敵の後方におく方針を決定し、共産党軍は日本軍の後方の農村地帯に進出して民衆武装によるゲリラ戦を展開し、各地に抗日根拠地を建設していった。抗日根拠地は全国的に広がっていくが、とくに華北において強力であった。
38 年12 月、参謀本部は占領地域と主要交通線の確保を華北と華中の現地軍に命じた。華北では、共産党軍のゲリラ活動に対抗するため、部隊を市や町の拠点に細分化して分散配置する「高度分散配置」と呼ばれた配備形態を採用した。遊撃戦法を封殺し、住民の組織化や懐柔によって民生安定を図るのに適した部隊の配備形態でもあった49。他方、方面軍は、39 年初頭から抗日根拠地に対する「治安粛正」作戦を展開して、一定の成果を挙げた。
しかし、華北で勢力を拡大していた共産党軍(八路軍)は、40 年8 月下旬から年末にかけて、ベトナム戦争中のテト攻勢にも匹敵する大攻勢(「百団大戦」)を展開し、石太線を中心に、橋梁、通信施設などを徹底的に破壊し、北支那方面軍指導部を震撼させた。方面軍が虚を突かれた主たる原因は共産党軍に関する情報・諜報活動の欠如であった50。同時に、百団大戦は高度分散配置の弱点を暴露し、少数兵力で分散駐屯していた部隊は、人海戦術による攻撃に圧倒された。百団大戦は、日本軍による宜昌攻略などの圧力によって動揺し、対日和平に傾きかけていた国民政府を鼓舞する役割を果たしたといわれる51。
百団大戦に衝撃を受けた方面軍は、報復的な粛正作戦(第1 期、第2 期晉中作戦)を展開し、41年6 月には大規模な華北治安の安定化作戦として中原作戦を実施し、大きな戦果を挙げた。中原作戦後の41 年7 月には、「粛正建設3 ヵ年計画」を策定し、「未治安地区」(解放区)を「准治安地区」(遊撃区)に、「准治安地区」を「治安区」に変えていくという計画を推し進めた。また、方面軍は、41 年3 月から汪兆銘政府との協力のもとに、軍事・政治・経済の三位一体の運動として、新民会による反共工作の強化などを含む「治安強化運動」を展開した。これらの治安強化作戦の重点は、解放区の経済封鎖に置かれるようになり、軍の「現地自活」要求の強まりと相まって、共産党軍のゲリラ戦に対抗するため日本軍による粛正作戦も過酷なものとなり、住民の虐殺や略奪(これを中国側は「三光政策」と呼んだ)の原因となる52。  
3)東亜新秩序声明と汪兆銘政権の承認
a.東亜新秩序声明と汪兆銘の重慶離脱
38 年11 月3 日、近衛内閣は、いわゆる東亜新秩序声明(第2 次近衛声明)を発表し、日本が定義する東アジアの新たな国際秩序を「東亜新秩序」と呼び、日満華の共同による建設推進を「帝国不動の方針」と位置づけ、3 国が互恵平等の立場で経済協力や防共政策を進める、と宣言した。その一ヶ月前の38 年10 月初旬、アメリカ政府は長文の覚書で、盧溝橋事件以来アメリカ人が中国で被った差別待遇、市場独占化の現状を例示して、門戸開放原則・機会均等原則(9 カ国条約)の侵害に対し、速やかな改善を要求した。これに対し、宇垣に代わる有田八郎外相は、事変前の事態に適用されていた観念や原則は、東アジアの現状と将来の事態を律することはできない、と反論し、9 カ国条約などの国際原則を公式に否定していた53。東亜新秩序声明は欧米が築いた国際秩序の原則に代わる新たな原則を示したものであった。
この東亜新秩序声明は、国民政府が従来の抗日・容共政策と人的構成を改めるならば「敢テ之ヲ拒否スルモノニアラス」と述べ、「対手トセス」声明の修正を示唆していたが、和平の呼び掛けではなく、蒋政権の切り崩し工作の一環であった54。日本とともに東亜新秩序建設の一翼を担うはずの新中央政権の樹立工作は混迷を深め、反蒋勢力の結集による蒋政権の「屈服」が相変わらず難題であった。
しかし、このころ外交部亜洲司長・高宗武によって、汪兆銘を占領地区の統一中央政権の首班に据え、和平派を蒋政権から離脱させて蒋政権の外部で和平運動を展開し、蒋の下野と対日和平への転換を迫るという構想がもたらされる55。この高宗武工作には、陸軍の影佐禎昭大佐(参謀本部謀略課長)、今井武夫中佐を中心とし、中国側は高宗武のほか、汪の同志とみなされた周仏海(元国民党中央宣伝部副部長)や梅思平らが関与していた。
高宗武らは汪の命を受け、38 年11 月中旬から日本側代表と汪による挙事計画(汪の重慶からの脱出計画)や和平条件について会談に臨み、11 月20 日、日華協議記録に調印した。12 月初旬、汪一派は影佐らの手引きによって重慶を脱出し、昆明を経て12 月19 日ハノイに到着した。これに呼応して日本政府は12 月22 日、近衛首相談話(第3 次近衛声明)を発表した。その内容は日華協議記録の再現であり、日本側が中国の満州国承認、防共協定の締結と日本軍の防共駐屯、華北・内蒙における資源開発に対する便宜供与などを要求し、その代わりに、日本は戦費賠償を求めず、治外法権の撤廃、租界の還付を考慮する、というものであった。ただし、陸軍の要求で防共駐屯地域が「特定地点」とされ、撤兵条項も省かれた56。
汪は、12 月29 日、ハノイで対日和平を提唱し、国民党有力者の蒋政権からの離脱を期待する「艶電」を発表するが、和平条件について、速やかな全面的撤兵の必要性に加え、駐兵地域は「内蒙の付近に制限されなければならない」と強調した。つまり、第3 次近衛声明で抹消された部分の確認を求めたのである57。
一方、参謀本部内では、漢口作戦後を想定した講和条件の立案が進展し、38 年11 月に御前会議決定となった「日支新関係調整方針」は、政治形態の分治合作主義の採用、南京・上海・杭州三角地帯への治安駐兵、揚子江下流域の経済上の強度結合地帯化、日本人顧問の派遣など、第3 次近衛声明や日華協議記録にはない要求を列挙するものとなり、「21 か条要求を凌駕する苛酷なもの」となるが58、汪には翌39 年秋までは示されることはなかった。
39 年1 月、近衛首相は、汪兆銘の重慶脱出を見届け総辞職した。しかし、汪の重慶離脱に呼応する国民党有力者や反蒋軍閥は皆無であったため、政府や軍の指導者は汪による中央政権樹立に消極的となり、陸軍の一部には呉佩孚を首班とする新中央政府構想も再浮上する始末であった。相変わらず事変解決の展望は見出せなかった。
b.英ソの牽制―日独同盟と天津租界封鎖
事変収拾の方策が手詰まり状態となるなかで、ドイツの台頭によって流動化する欧州情勢を活用した対外方策も有力な手段となってくる。それは、対米関係の改善をはかりつつ、独伊との防共協定を対ソ・対英同盟として強化し、事変遂行や東亜新秩序建設の最大の妨害者と考えられた英ソを欧州において牽制するという構想であった59。38 年夏から陸軍の外交戦略の中心となったこの構想の実現のため、まず対独関係の強化がはかられる。
ドイツ側も38 年2 月にリッベントロップが外相に就任し、極東政策は親中路線から親日路線へと転換しつつあった。38 年5 月の満州国承認、中国派遣の軍事顧問団の引揚げなどがそれを物語っていた60。日独の接近はすでに38 年初頭からリッベントロップと大島浩陸軍武官との間で始まり、それを7 月に知った東郷茂徳駐独大使は、日独同盟は日華事変の解決に役立つどころか欧州の戦争に巻き込まれる恐れがあるとして宇垣外相に交渉中止を要請するが効果はなかった。陸軍は、極東ソ連軍に対する地上兵力の劣勢を外交的に補うという観点から、対ソ軍事同盟を目標とした枢軸提携交渉の推進力となった。
しかし、ドイツ側の期待はソ連よりも、主要な敵であるイギリスを対象とした同盟であり、ソ連とともに英仏をも加えるか否かをめぐって日本の指導層は紛糾し、近衛内閣の総辞職(39 年1 月)の一因となる。平沼騏一郎新内閣となっても、同盟の対象をソ連に限るとする外務省と英仏も含めることを主張する陸軍との調整がままならず、その決着は39 年8 月23 日の独ソ不可侵条約によってもたらされる。すなわち、長引く日独交渉の裏側で、ソ連は欧州と極東との東西二正面戦争の危機を避けるため、極東では満ソ国境での日本軍との衝突事件(ノモンハン事件)を収拾する一方、欧州ではドイツに接近しており、その成果が独ソ条約であった。独ソ条約は日独間に進行していたソ連を目標とする軍事同盟交渉を頓挫させた。平沼首相は「欧州の天地は複雑怪奇」と述べて内閣を総辞職した。
陸軍の外交戦略実現のためのもう一つの機会は、39 年6 月の北支那方面軍による天津英仏租界の封鎖であった。親日派要人がイギリス租界で暗殺されるという事件をきっかけに、華北の金融や経済の中心であった天津英仏租界を封鎖した。租界封鎖は38 年夏から計画され、徐々に封鎖網を強化していた矢先であった。現地軍にとって租界封鎖は、租界の回収によるイギリス排除であったが、東京の陸軍にとっては、東亜新秩序政策と事変解決へのイギリスの同調を誘うことが狙いであった61。
この事件を重視したイギリス政府部内では対日制裁問題が再燃するが、チェンバレン首相は対日制裁よりも外交交渉による解決を選ぶ。激しい反英大衆運動のなか、東京における有田・クレーギー会談は、39 年7 月イギリスの譲歩と妥協のうちに了解が成立した。その内容は、1英国は中国における現実の事態(戦争状態の存在)を確認し、2中国における日本軍の生存及び治安維持行為について妨害しない、というものであった。1について、「ミュンヘンの宥和」にも似た対日宥和の姿勢に対し、中国は激しく非難した。他方、平沼首相は蒋政権への打撃となるとして高く評価した。しかしその直後のアメリカによる日米通商航海条約の破棄通告は、イギリスを奮い立たせた。
日本の外交的勝利は減殺され、日英現地交渉におけるイギリスの立場を強いものとし、東京における協定は反古同然となる62。アメリカの強力な支持を得たイギリスが対日協調を選択する基盤はもはや存在しなかった。  
4)汪政権の樹立と重慶和平工作
汪の重慶離脱は蒋政権の動揺を誘うことはなかったが、高宗武は汪を中心に南京に新中央政府を樹立する構想を推し進める。39 年5 月、汪は自ら中央政権樹立の決意を影佐らに語り63、汪政権樹立工作は本格化するものの、政府・軍部が一致して支持する気運にはなかった。
とくに、参謀本部は汪政権の実力を疑問視し、沢田茂参謀次長の着任時の10 月には、「本樹立工作を後援すべきや、将叉これを打切り、重慶との直接交渉により時局を処理すべきやの分岐点」にあった。そこで参謀本部は、汪政権の樹立は妨害しないが、陸軍の政戦略はこれに影響を受けないという協定を政府と締結したうえで、汪政権樹立を容認した64。こうして39 年11 月にはようやく汪政権樹立を前提とした国交調整交渉が開始され、交渉の基礎とされたのが、1 年前の「日支新関係調整方針」であった。汪はこの対日交渉で撤兵と駐兵権の要求に抵抗するものの、結局、日本側の苛酷な和平条件を受け入れ、40 年3 月、南京に新中央政府を樹立する。
この間、参謀本部は汪政権と蒋政権の合流を期待して、重慶との直接交渉の可能性を様々なルートを通じて探っていたが、40 年に入ると宋子良なる人物を通じた和平ルートが開拓される。この「桐工作」は、40 年6 月には蒋、汪と日本側代表者の三者による停戦会談の約束へと発展し、停戦会談の促進を目的の一つに発動されたのが6 月中旬の宜昌作戦であった。戦面の不拡大を固持する参謀本部は宜昌作戦を躊躇するが、攻撃後にただちに撤退することを条件に許可した。しかし、宜昌に進撃した第11 軍は撤退することはなかった。桐工作の進展情報から、蒋政権に和平会談に応ずるよう「最後の決定を迫る為」、宜昌の確保を命じられたからである。実際、宜昌占領は日中戦争全体を通じて重慶に最も強い圧迫感を与えたという65。
しかし、桐工作は汪政権の撹乱をねらった中国側の謀略の疑いが濃厚となり停戦和平への期待は急速に萎んでしまう。さらに、松岡外相のもとで、浙江財閥の巨頭、銭永銘を通じた和平工作も、汪政権の承認を遅らせつつ折衝がなされたが進展しなかった。こうして蒋政権との停戦の術をなくした日本政府は、40 年11 月末日、汪兆銘政権を南京国民政府として正式に承認し、同時に日華基本条約を締結した。この基本条約は前述の「日支新関係調整方針」を基礎としたもので、「善隣友好」や主権・領土の尊重、互恵平等を謳ってはいたが、蒙疆・華北への防共駐屯、治安維持のための日本軍の協力、蒙疆・華北の国防資源の共同開発と日本への優先的提供などが規定されていた。同日、汪政権は日満華共同宣言によって満州国を正式に承認した。基盤の脆弱な汪政権の承認と汪政権の満州国承認は、事変の解決に寄与するどころか、かえって蒋政権との対立関係を固定化することになり、停戦和平の道を閉ざす結果となる。  
第3節 日中戦争と国際関係
1)列国の中国援助と対日経済制裁
盧溝橋事件の勃発によって逸早く中国援助に乗り出したのはソ連であった。ソ連は、37 年8 月には国民政府と不可侵条約を締結し、同時に武器・弾薬、航空機などを購入するための借款供与を約束し、直ちに実行に移していく。さらにソ連は義勇兵や軍事顧問団をも派遣し、その援助は、米英が援助を本格化させる1940 年までは中国にとってきわめて重要であった66。
アメリカの中国に対する直接的な援助はソ連より遅かったが、すでに盧溝橋事件の勃発以前から、銀の購入政策を続けていた。当初は為替安定資金に限定されていたが、使用条件も撤廃され、銀の売却で得た資金をもって軍需物資の購入に充てることができた。しかし、銀購入の先細りにより、直接的な援助が必要となり、38 年12 月、2500 万ドルの借款(輸出信用供与)協定が成立した。これを皮切りにアメリカは中国援助を本格化させ、40 年以降は最大の対中援助国となる67。
他方、イギリスは日本にとって、事変遂行と東亜新秩序建設の最大の妨害者とみなされていた。
しかし、援蒋ルートとしての香港ルートやビルマ・ルートを経由する軍需物資は、ソ連からの物資援助に比べてきわめて少なかった。中国は再三、武器供給と借款を要請していたが、日本を刺激することを恐れて道義的支援にとどまっていた。イギリスの最初に着手した具体的支援策はビルマ・ルートの建設であり、38 年12 月に完成した。さらに、中国の要請に応えて借款供与に動き出し、39 年3 月には500 万ポンドの法幣安定資金を供与したが、この通貨安定資金も日本の激しい通貨工作のために、期待された効果をあげることはできなかった68。
英米は、38 年末から中国援助を本格化させるが、援助の本格化は対日方針の転換を意味したわけではなかった。実際、アメリカの経済制裁は航空機や関連部品の道義的禁輸、クレジット禁止措置といった、軽微の措置に終始する。39 年7 月の日米通商条約の廃棄通告も、その狙いは日本軍の天津租界封鎖問題で妥協を余儀なくされていたイギリスを牽制するためであり、さらに、対日禁輸を要求する議会に先手を打つ意味もあった。ハル国務長官の「日本と事を構えず、アジアから撤退せず、日本の行動に同意を与えず」という対日方針は維持される69。一方、イギリスは、東アジア問題で対米依存を深めていくが、欧州大戦の勃発後は、本国防衛が主要関心事となり、ますますその傾向を強める。  
2)欧州大戦「不介入」と南進政策
平沼内閣が退陣し、阿部信行大将が組閣した直後の39 年9 月、第2 次欧州大戦が始まった。欧州大戦の勃発は東南アジアに植民地を有する英仏蘭の関心を欧州に集中させたという意味では日本にとって積極的な南進政策の好機であった。実際、海軍中堅層には大胆な南進国策への転換論が起こるが、日中戦争の解決を最優先課題とする政府・軍部の共通意思とはなり得ず、阿部内閣は欧州大戦への「不介入」政策を採択し、欧州の交戦諸国のいずれにもコミットしないことを宣言した。
欧州大戦の勃発と不介入という条件のもとで、事変の有効な解決手段は英仏ソなど蒋政権に対する列国の物資援助ルートの遮断と考えられた。とくに広東占領による香港・広東ルートの遮断後は、仏印ルートが最大の輸送量を有するとみられた70。ハイフォンからハノイを経て昆明にいたるルートと、ハノイから竜州−南寧にいたる二つのルートのうち、後者の南寧ルートの封鎖作戦が広東占領の第21 軍を主体として実施される。21 軍は占領直後の海南島に集結したのち、11 月下旬に南寧を占領した。しかし、12 月に入って国民政府軍による大規模な冬季攻勢が始まり、21 軍は翌年まで苦戦を強いられ、占領が確定したのは40 年2 月であった。南寧には南支派遣軍の第5 師団が駐留したが、軍事的圧力のもとで実施された外交交渉でも仏印側は援蒋ルート遮断に応ずる態度を示さなかった
仏印問題の行き詰まりは、ドイツ軍の西欧電撃戦によって打開される。39 年秋以降、西部戦線でほとんど戦闘が行われない「奇妙な戦争」が続いたが、40 年春からドイツ軍は電撃戦によってベルギー、オランダを制圧し、6 月にはフランスが降伏した。ドイツの欧州席巻は難航していた援蒋ルート遮断問題を進展させる。イギリスは40 年6 月中旬、日本のビルマ・ルート閉鎖要求に応じて3 ヶ月間の閉鎖に同意し、仏印当局も仏印ルートによる援助物資の輸送を停止した。また、フランスの対独敗北は、遊兵化していた第5 師団を中国方面に転用するか、仏印領内に侵入させるか、という問題に解答を与えることになり、9 月末に北部仏印進駐が敢行される。
他方、日本国内では、ドイツとともに「世界新秩序」建設を担うべきである、とする観点から、朝野の「革新勢力」によって日独同盟論と南進論が声高に主張された。仏蘭がドイツの支配下に入り、イギリスも危うくなったという状況のなかで、いわば力の真空地帯となった東南アジアのヨーロッパ植民地に進出する好機と映った。
しかし、「不介入」政策を堅持する米内内閣は、南進にも日独同盟にも消極的とみなされ、陸軍や革新勢力から激しい批判に遭い、40 年7 月総辞職に追い込まれる。陸軍の強力な後押しで成立した第2 次近衛内閣が7 月下旬に定めた二つの国策(閣議決定「基本国策要綱」、大本営政府連絡会議決定「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」)は、革新勢力の主張を大幅に取り入れたものであった。すなわち、世界は今や「歴史的一大転換期」にさしかかっているとの認識から、日本の「国是」は、「大東亜新秩序」の建設にあるとし、国内政治全般の刷新、自給自足経済の確立、国防国家体制の確立などを国策に掲げた。8 月初旬には新入閣した松岡洋右外相が公式に「大東亜共栄圏の建設」という言葉を用い、大東亜共栄圏の範囲は、日満華三国の東アジアだけではなく、東南アジアを含む地域であると述べた。
一方、「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」は、6 月下旬から、ドイツによる欧州制圧と、米内内閣に代わる新内閣の出現を前提として、参謀本部を中心に立案が進んだものであるが、その柱は仏蘭に続くイギリス本国の敗北を想定した極東における英領攻略であった。しかし、欧州戦線はイギリスの必死の防衛戦によって長期化の様相となり、ドイツに呼応して極東の香港やシンガポールを攻撃するという事態は遠のいていく。
ところで、上記「時局処理要綱」において、武力南進政策と日中戦争の収拾方策との関係は明瞭ではなかったが、それは、ドイツの欧州攻略と、日本の武力南進とを連動させることによって、事変を有利に解決できるという漠然とした期待の故であった。例えば、沢田参謀次長は40 年春頃から、「支那事変は欧州戦争と其の運命を共にすべく、・・・為し得れば南方作戦を敢行することが支那事変を有利に解決する途にあらずや」71と部内に説いていたが、こうした考え方が説得力を増してくる。事変の解決は、もはや日中の問題としてではなく、欧州の国際関係の変動と結びつけられていく。実際、汪政権承認後の収拾方策を定めた40 年11 月の「支那事変処理要綱」(御前会議決定)は、既占領地の安定確保を中国政策の基本とすることを確認するのみであった。
こうして、欧州列国との衝突を覚悟した武力南進による自給自足圏確立―長期自給体制の確立が陸軍の事変解決の一手段となる。しかし、英米の結束強化とABCD 対日包囲陣が整ってくるなかでは、武力による東南アジア侵攻は当面避けねばならず、まずは蘭印、仏印等に対する外交交渉による資源獲得や影響力拡大が優先された。しかし、これらの平和的・外交的手段による南進は、蘭印やタイへの英米の支援や牽制も作用して期待通りには進まなかった。  
3)日独伊三国同盟と日ソ中立条約72
三国同盟構想は、独伊との政治的結束強化という「時局処理要綱」の対外施策に沿ったものであったが、東南アジアの資源地帯にドイツの影響力が及ぶのを避けるという意味が含まれ、アジアにおける日本の覇権と欧州におけるドイツの覇権の相互承認が基本的内容であった。問題は、対英戦争中のドイツにどの程度協力を約束するかにあった。とくに陸軍案はシンガポール攻撃などドイツから対英参戦を要求された場合には「原則的にこれに応ずる」ことを約束するものであった。しかし、松岡外相は同盟の対象としてイギリスとともにアメリカを加えた対英米軍事同盟案へと変質させようとし、とくに海軍や外務省の強い異論に直面した。松岡の意図は同盟の威力によって対米戦争を回避することにあり、ドイツの日独同盟に対する期待もアメリカの欧州大戦への参戦抑止にあった。両者は欧州の戦争とアジアの紛争へのアメリカの介入を牽制することに同盟の主眼があることについて了解した。海軍は最後まで同盟に反対するものの、対英米参戦問題について交換公文等で自主的判断の余地を残すことで賛成に回る。こうして9 月下旬、日独伊三国同盟が調印され、松岡は同盟の意義について日米戦争の防止がそのねらいであることを力説したが、英米の援蒋政策を強化させる結果をもたらすのみであった。
ところで三国同盟の成立過程では、日独伊同盟にソ連を誘導して「四国同盟」とするという構想が陸軍から提起されていた。ドイツの対ソ影響力を活用して日ソ国交調整を図ることを念頭においていた松岡外相がその推進に積極的となる。元来、日ソ間の国交調整はノモンハン事件の解決(39年9 月)以来、ソ連の重慶政権に対する支援を抑制するという観点から追及されてきたが、40 年夏の南進政策の浮上によって、南進に備えた北方の安全確保という観点が加わり、さらに重要な懸案となっていた。
しかし、対ソ交渉は難航した。とくに陸軍は独ソ不可侵条約に匹敵する関係の設定を望んだが、具体的代償に乏しく、40 年秋からの不可侵条約の打診はことごとくソ連の拒否に遭う。そこで松岡は、41 年3 月から「四国同盟案」を抱いてモスクワ、ベルリンを訪問し4 月にはスターリンとの間で日ソ中立条約に調印した。日ソ中立条約の成立は、松岡から見れば日独伊ソの「四国同盟」の成立であったが、すでにヒトラーはこの時点までに対ソ攻撃を決定し、独ソ関係の現実は松岡の主観的判断を越えた厳しいものになっていた。  
4)日米交渉と中国問題
a.事変解決と対米交渉
事変解決のため、最後に残された外交的手段はアメリカによる和平斡旋を期待して直接、対米交渉に臨むことであり、そのための準備工作が日米民間人によって40 年秋から開始される。この対米工作には陸軍省軍務局長・武藤章、野村吉三郎駐米大使、ハル国務長官らも関与し、やがて41年4 月中旬には、日米会談のための非公式的な基礎案として「日米諒解案」が日本政府に伝えられる73。
諒解案は三国同盟の実質的な無力化を求める一方、一定の条件の下での事変の和平斡旋や東南アジアの資源獲得に対する日米協力を掲げており、日本側は政府も軍部もこれを歓迎した。ただし、諒解案は和平斡旋の前提として、「ハル4 原則」(領土保全と主権尊重、内政不干渉、機会均等、平和的手段によらざる限り太平洋の現状不変更)の受諾を求めていたが、日本側はこの諸原則を重視しなかった74。
日米交渉における主要な争点は、三国同盟に規定された参戦義務の適用問題、そしてアメリカの仲介による日中戦争の解決であった。前者は条約の解釈と実行の問題として妥協の道が開かれていくが、日本が最も期待した日中戦争の和平斡旋について、アメリカは単なる仲介者ではなく、その前提は、「ハル4 原則」を日本が受諾することであり、とくに、通商上の門戸開放、機会均等原則が無条件に中国に適用されることを重視した。一方、日本はこの原則の修正を要求し、日本軍の駐兵の継続によってそれを保証させようとした。
とくに、日ソ中立条約や三国同盟という外交的成果をもって有利な対米交渉を進めようとしていた松岡外相は、三国同盟に関する日本の義務や日中戦争収拾に関する和平条件の明確化という観点から諒解案を大幅に修正することになる。松岡の意見を容れた日本側の対案(5 月12 日対米提案)の日中戦争に関する部分は、アメリカは、40 年11 月に汪兆銘政権との間で締結した日華基本条約と日満華共同宣言の原則を「了承」した上で、蒋政権に対して和平を勧告すべし、と要求していた。
日華基本条約は、当時の公表部分でも、共同防共のための日本軍の蒙疆、華北への駐屯、治安維持のための駐屯、蒙疆・華北の国防資源開発に関する協力などを含み、日満華共同宣言は中国による満州国の主権と領土尊重を確認していた。
これに対するアメリカの回答(6 月21 日米国案)は、汪政権の否認、満州の中国への復帰、日本軍の無条件撤兵、防共駐兵の否認、通商上の無差別待遇などであり、日本の提案をほとんど否認していた。その後の交渉においてもアメリカはこれらの条件を後退させることはなかった。この回答に接した松岡は日本を「弱国・属国扱いするもの」と激怒し、交渉打切りを主張するが、近衛首相は松岡の更迭によって交渉の継続を図った。
b.中国駐兵問題と破局
6 月23 日の独ソ戦争の勃発は、ソ連が明確に反枢軸陣営の一員となったことを意味し、松岡外相の抱く日独伊ソの「四国同盟」構想を破綻させるものであった。アメリカは対ソ援助をさらに強化させ、また、中国共産党の内外戦略を変化させる。すなわち中共は、世界大戦の性格は、帝国主義諸国間の戦争であるとする「帝国主義戦争論」を後退させ、日独伊のファシズムに反対する「反ファシズム統一戦線論」を復活させる。国内では抗日民族統一戦線と国共合作をより重視するようになり、皖南事件で悪化した国共関係は修復され、第2 次長沙会戦では、国民党軍と共産党軍との間に一定の作戦協力も実現している75。
日本では陸軍部内に「北方戦争論」が浮上し、参謀本部や松岡外相はドイツのソ連攻撃に呼応した対ソ攻撃を主張した。南進論との論争の末、国策としては「南北併進」に落ち着いたが、対ソ攻撃は独ソ戦争がドイツに有利に展開した場合とされ、その準備のため関東軍の増強が図られるが、シベリアの気候的条件に加え、独ソ戦が早期に終結する見込はなくなり、8 月初旬に中止される76。
一方、南進政策は、仏印との軍事的結合を強化するとの既定方針に基づき、7 月下旬、南部仏印進駐が断行される。資源供給のための交渉が不調に終った蘭印を威圧するという効果や、南部仏印に航空基地を設定するという目的も含まれていた。南部仏印進駐に対し、アメリカは在米日本資産の凍結と石油の全面禁輸という最高度の経済制裁で応え、英蘭もこれに倣った。しかし、日米ともに戦争を決意したのではなかった。アメリカの最大の脅威は依然としてドイツであり、米独関係は極度に悪化し、6 月には独伊の在米資産はすでに凍結されていた。アメリカの対日強硬措置は、戦わずして日本を屈服させ、さらなる南進を抑止するためであった77。
他方、日本側からすれば、最高度の経済制裁は米英蘭中のABCD 包囲陣が、国防上耐え難いものとなったことを意味していたが、政府・軍部の指導者はなおも対米戦の回避の可能性を追及した。
その一つが近衛首相とローズヴェルト大統領との直接会談構想であった。この頂上会談のために改めて対米提案が検討された。その作成過程では、外務省は中国からの速やかな撤兵という原則のもとで、駐兵地域や駐兵期間の限定を盛り込もうとするが、陸軍はとくに蒙疆・華北における駐兵に固執した。結局、9 月25 日の対米提案は、通商上の門戸開放・機会均等については譲歩し、経済活動の自由を原則として認める方針を示していたが、駐兵について譲歩することはなかった。
10 月2 日のアメリカの回答は、日本の提案を否認するとともに、首脳会談についても、その前提として「根本的な諸問題について討議の進展」が必要である、として否定的であった。それでも近衛首相は、戦争回避の立場から、部分的撤兵案によって妥結に持ち込もうとするが、陸軍の立場を代表する東条英機陸相は撤兵に強硬に反対して内閣は崩壊する。10 月18 日に成立した東条内閣は、天皇の指示を受け、「白紙」の立場から非戦の可能性を追求した。11 月5 日の御前会議は、11月末を限度に対米交渉と作戦準備を併進させ、妥結しない場合の武力発動は12 月初旬と決定した。
同時に、最後の交渉案として「甲案」「乙案」が了承された。「乙案」は、アメリカの対日石油供給の約束と引きかえに、南部仏印の日本軍を北部仏印に移駐させ、当面の危機を回避しようとする暫定協定案であり、11 月20 日に米政府に提示される。
アメリカ政府でも暫定協定案の検討が進み、「乙案」に近い内容の暫定協定案が用意され、英蘭と中国(重慶政権)に内示される。しかし、日本との苦しい戦いを強いられていた蒋介石の期待はアメリカの対日参戦であり、暫定協定による日米の妥協は、さらなる対日戦争の長期化を意味した。
中国からみれば、アメリカは中国の犠牲において日本を宥和しているのであった。イギリスもまた暫定協定案の提出に消極的であり、アメリカの中国問題における譲歩が、中国政府や国民の士気に及ぼす影響を恐れていた。チャーチルの懸念は中国の崩壊がそれだけ日本の東南アジアへの攻撃を容易にしてしまうことにあった78。
かくして、「乙案」の拒否とともに、暫定協定案も取り下げられ、11 月26 日、いわゆるハル・ノートという形で対日回答がなされた。ハル・ノートは中国全土および仏印全土からの撤兵、重慶政権以外のすべての政権の否認、という要求を含み、日本をいわば満州事変以前の状態に引き戻すに等しかった。これを事実上の最後通牒と受けとめた日本政府は12 月1 日、御前会議において最終的に対英米開戦を決定した。
陸軍省軍務局員として、対米提案における中国問題の起草を担当した石井秋穂中佐によれば、蒙疆・華北への駐兵に固執したのは、対米交渉の破綻が目的ではなく、アメリカは華北の共産化の危機を理解するであろう、という期待の故であった79。中国の共産化と対米戦争とは陸軍が最も避けたかった事態であり、皮肉にも、中国の共産化を防ぐために駐兵に固執したことが、対米開戦を招くことになったのである。
他方、アメリカは、日米交渉の最終段階では、太平洋の安定のためには中国の主権を侵すような条件は承認できず、中国問題は英蘭中等との多国間協議が必要である、という立場をより鮮明にするようになっていた。もはや日本軍の駐兵問題は二国間の問題ではなく、太平洋の安定と不可分の問題となっていたのである。  

1 盧溝橋事件の経過については、以下の文献による。秦郁彦『盧溝橋事件の研究』東京大学出版会、1996年、138−211 頁。防衛研修所戦史室『戦史叢書 支那事変陸軍作戦(1)』朝雲新聞社、1975 年〔以下、「戦史叢書」〕、145−51 頁。安井三吉『盧溝橋事件』研文出版、1993 年、141−257 頁。寺平忠輔『盧溝橋事件』読売新聞社、1970 年、54−125 頁。外務省編『外務省執務報告・東亜局 第三巻 昭和十二年(1)』クレス出版、1993 年、第1・2 章。
2 外務省編『日本外交年表並主要文書(下)』原書房、1955 年、366 頁。
3 庄司潤一郎「日中戦争の勃発と近衛文麿の対応」(『新防衛論集』第15 巻3 号、1988 年)78−81 頁。臼井勝美『日中外交史研究』吉川弘文館、1998 年、212−42 頁。
4 天津特務機関員として第29 軍と停戦協議にあたった今井武夫は、「日華双方が局地解決に努力中の、極めて微妙な時機だっただけに、この廟議決定はわれわれ現地の日本側代表の行動を困難にすると共に、他方中国側にも連鎖反応を惹起して態度を硬化させ、両方面に破局的影響を及ぼした」と回想している(今井武夫『支那事変の回想』みすず書房、1964 年、31−32 頁)。
5 日本国際問題研究所編『中国共産党史資料集・第8 巻』勁草書房、1974 年、資料75(434−35 頁) 、84(468−71 頁)。石島紀之『中国抗日戦争史』青木書店、1984 年、59−60 頁。
6 香月清司司令官は「之で現地交渉は完全に纏ったことになったのでありまして、従ひまして支那駐屯軍が中央の指示である不拡大の方針に依って行った現地解決と云ふことは形式上成立した」と判断したという(「香月清司中将回想録」『現代史資料(12)』みすず書房、1965 年、538 頁)。
7 北京郊外の通州で、冀東政府の保安隊が約200 人余の日本人居留民などを殺害した事件。
8 戸部良一『ピース・フィーラー−支那事変和平工作の群像』論創社、1991 年、31−35 頁。
9 日本の研究者は偶発的発砲説が主流であり、中国の研究者には日本軍による計画的発砲説、謀略説が多い。秦『盧溝橋事件の研究』(前掲)は、29 軍兵士による偶発的発砲と推定している(138-82 頁)。安井『盧溝橋事件』(前掲)は、偶発説であるが直後の日本軍の対応を問題としている(168 頁、300−16頁)。
10 前掲、秦『盧溝橋事件の研究』282−339 頁。高橋久志「日華事変初期における陸軍中枢部」(『年報・近代日本研究(7)』山川出版社、1985 年)188−93 頁。「石原莞爾中将回想応答録」(『現代史資料(9)』みすず書房、1964 年)305−13 頁。
11 樹中毅「蒋介石の民族革命戦術と対日抵抗戦略」(『国際政治』152 号、2008 年3 月)76−78 頁。鹿錫俊「世界化する戦争と中国の『国際的解決』戦略」(石田憲編著『膨張する帝国 拡散する帝国』東京大学出版会、2007 年)211−19 頁。
12 臼井勝美「史料解題 昭和十二年『関東軍』の対中国政策について」(『外交史料館報』第11 号、1997年6 月)64−65 頁。
13 相澤淳『海軍の選択』中央公論新社、2002 年、104 頁。細川護貞ほか編『高松宮日記 第2 巻』、中央公論社、1996 年、530、533 頁。
14 楊天石(陳群元訳)「1937,中国軍対日作戦の第1年」(波多野澄雄・戸部良一編『日中戦争の軍事的展開』慶應義塾大学出版会、2006 年)99,108 頁。楊天石『我尋真実的蒋介石』三聯書店、2008 年、244頁。
15 「中支派兵の決定」(『現代史資料(12)』)364−94 頁。
16 前掲、相澤『海軍の選択』105−10 頁。戦史叢書『大本営海軍部大東亜戦争開戦経緯(1)』朝雲新聞社、1979 年、214 頁。
17 戦史叢書『支那事変陸軍作戦(1)』266 頁。正式な「戦闘序列」の発令は9 月11 日(同書、298 頁)。
18 「下村定大将回想応答録」(『現代史資料(9)』)378−81 頁。
19 井本熊男『作戦日誌で綴る支那事変』芙蓉書房、1984 年、161−79 頁。
20 南京戦史編集委員会編『南京戦史』(増補改訂版)偕行社、1993 年、17-20 頁。
21 孫宅巍主編『南京大屠殺』北京出版社、1997 年、72−73、83 頁。笠原十九司『南京事件』岩波書店、1997 年、120 頁。米国メディアの報道(南京事件調査研究会編訳『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』青木書店、1992 年、387−388、390、394、431−432、473−475 頁など)。
22 唐生智「南京防衛の経過」(南京戦史編集委員会編『南京戦史資料集T』(増補改訂版)偕行社、1993年)623−26 頁。蒋介石の南京死守作戦の強行は、ソ連の軍事的介入を期待していたため、とする指摘もある(笠原十九司「国民政府軍の構造と作戦」中央大学人文科学研究所編『民国後期中国国民党政権の研究』中央大学出版部、2005 年、281−82 頁。前掲、楊「1937、中国軍対日抗戦の第1 年」116−18頁。前掲、楊『我尋真実的蒋介石』240−41 頁)。
23 唐司令官は、陣地の死守を命じ揚子江の無断の渡河を厳禁し、違反者は武力で制圧したため、同士討ちが始まり、多くの兵士が徒死するにいたった(前掲、孫宅巍主編『南京大屠殺』70−71、76、78 頁。臼井勝美『新版 日中戦争』中央公論社、2000 年、83−85 頁)。
24 秦郁彦『南京事件』中央公論社、2007 年増補版、317−19 頁。
25 日本で刊行された最も包括的な資料集は、南京戦史編集委員会編『南京戦史資料集T、U』(増補改訂版、偕行社、1993 年)であり、第16 師団長・中村今朝吾の日記、上海派遣軍参謀長・飯沼守の日記、歩兵第30 旅団長・佐々木到一の手記、中支那方面軍司令官・松井石根の陣中日記などを収めている。
26 石射猪大郎東亜局長は、38 年1 月6 日の日記に、「上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る。略奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か」と記していた(伊藤隆・劉傑編『石射猪太郎日記』中央公論社、1993 年、240 頁)。
27 前掲、『南京戦史』(増補改訂版)398−99 頁。
28 前掲、秦『南京事件』103−07 頁。捕虜の取扱いも、殺害、解放、労役と部隊により異なっていた(原剛「いわゆる『南京事件』の不法殺害」軍事史学会編『日中戦争再論』錦正社、2008 年、139−55 頁)。北博昭『日中開戦』中央公論社、1994 年、54−68 頁。笠原十九司『南京難民区の百日』岩波書店、1995年、25−54 頁。
29 孫宅巍(笠原十九司訳)「南京防衛軍と唐生智」(藤原彰ほか編著『南京事件を考える』大月書店、1987年)153−58 頁。前掲、楊「1937、中国軍対日作戦の第1 年」113−22 頁。笠原十九司「南京防衛戦と中国軍」(洞富雄ほか編『南京大虐殺の研究』晩聲社、1992 年)214−41 頁。
30 ジョン・ラーベ(平野卿子訳)『南京の真実』講談社、1997 年、83−90 頁。なお、日中の「建設的対話」と「共通の理解」という観点から事件をとらえた研究として、楊大慶「南京アトロシテイズ」(劉傑ほか編『国境を越える歴史認識』東京大学出版会、2006 年、139−68 頁)。
31 臼井勝美「日中戦争と軍部」(三宅正樹編『昭和史の軍部と政治(2)』第一法規出版、1983 年)74−5頁。
32 トラウトマン工作については、前掲、戸部『ピース・フィーラー』第2・3 章、劉傑『日中戦争下の外交』吉川弘文館、1995 年、第2 章。
33 前掲、戸部『ピース・フィーラー』67−71 頁。
34 入江昭『太平洋戦争の起源』東京大学出版会、1991 年、67−71 頁。上村伸一『日本外交史 第20 巻日華事変(下)』鹿島研究所出版会、1971 年、170−75 頁。
35 前掲『日本外交年表並主要文書(下)』372−75 頁。
36 前掲、楊「1937,中国軍対日作戦の第1年」118−19 頁。
37 「昭和十三年一月十一日御前会議に於ける参謀総長、軍令部総長、枢府議長の説明要旨」(『現代史資料(12)』395−398 頁)。
38 数日後、「対手トセス」とは、「国民政府ヲ否認スルト共ニ之ヲ抹殺セントスル」ものと補足説明された(『日本外交年表並主要文書(下)』、387頁)。
39 戦史叢書『支那事変陸軍作戦(1)』483−87 頁。河辺作戦課長はまもなく転出するが、河辺の転出によって作戦部内の「不拡大思想は完全に一掃」されたという(前掲、井本『作戦日誌で綴る支那事変』202−03 頁)。
40 前掲、戸部『ピース・フィーラー』168−88 頁。『続・現代史資料(4)陸軍:畑俊六日誌』みすず書房、1983 年、148−49 頁。
41 外務省編『外務省の百年(下)』原書房、1967 年、315−37 頁。
42 前掲、戸部『ピース・フィーラー』213−52 頁。
43 松浦正孝『日中戦争期における政治と経済』東京大学出版会、1995 年、第3 章。前掲『続・現代史資料(4)』157 頁。Anthony Best, Britain, Japan and Pearl Harbor: Avoiding war in East Asia, 1936-1941(London: Routledge,1995),pp. 55-60.
44 戦史叢書『支那事変陸軍作戦(2)』朝雲新聞社、1976 年、109−12 頁。同『大本営陸軍部(1)』朝雲新聞社、1967 年、542−53 頁。
45 ただし、致死性ガス(きい剤)は、39 年5 月に山西省に限定した実験的使用が認められたのが最初といわれる(吉見義明・松野誠也編『毒ガス戦関係資料U』不二出版、1997 年、9−39 頁)。
46 前掲、井本『作戦日誌で綴る支那事変』306−08 頁。
47 「中国側から見た重慶爆撃」を含む最近の研究成果として、戦争と空爆問題研究会編『重慶爆撃とは何だったのか―もう一つの日中戦争』高文研、2009 年。
48 戦場となった中国において、過酷な人員・食糧の動員と徴発がなされ、社会の混乱と変容をもたらしたが、それが中国共産党が支持を拡大していく社会的基盤の形成につながった(笹川裕史・奥村哲『銃後の中国社会』岩波書店、2007 年)。
49 戦史叢書『北支の治安戦(1)』朝雲新聞社、1968 年、114−47 頁。山本昌弘「華北の対ゲリラ戦,1939−1945」(前掲、波多野・戸部編『日中戦争の軍事的展開』)189−218 頁。
50 当時陸軍は国民党軍の暗号の80%を解読していたが、共産党軍の暗号はほぼ皆無であった(前掲、山本「華北の対ゲリラ戦」200 頁)。また、戦史叢書『北支の治安戦(1)』382−83 頁。
51 前掲、石島『中国抗日戦争史』131−33 頁。
52 戦史叢書『北支の治安戦(1)』494−97 頁、528−37 頁。
53 前掲『日本外交年表並主要年表(下)』393−99 頁。
54 前掲、戸部『ピース・フィーラー』306−09 頁。
55 影佐禎昭「曾走路我記」(『現代史資料(13)』みすず書房、1966 年、349−98 頁)。西義顕『悲劇の証人−日華和平工作秘史』文献社、1962 年、195−98 頁。
56 前掲、劉『日中戦争下の外交』342−50 頁。前掲、戸部『ピース・フィーラー』310−25 頁。
57 前掲、劉『日中戦争下の外交』352−53 頁。
58 前掲、戸部『ピース・フィーラー』280−96 頁。前掲、臼井「日中戦争と軍部」83 頁。
59 38 年5 月、板垣陸相は五相会議で、「目下蒋を援けて居るものは『ソ』連と英なり本協定を結ぶことにより彼等を欧州に於て牽制せんが為なり」と述べている(『現代史資料(10)』みすず書房、1964 年、271 頁)。
60 1930 年代のドイツの親中路線について、田嶋信雄「解説 U−一九三〇年代のドイツ外交と中国−」(石田勇治ほか『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』大月書店、2001 年)309−24 頁。
61 永井和「日中戦争と日英対立」(古屋哲夫編『日中戦争史研究』吉川弘文館、1984 年)237−362 頁。
62 永井和「日英関係と軍部」(前掲、三宅編『昭和史の軍部と政治(2)』)184−87 頁。
63 戸部良一「汪兆銘のハノイ脱出をめぐって」(『外交史料館報』第19 号、2005 年9 月)。
64 沢田茂「記憶を辿りて」(沢田茂〈森松俊夫編〉『参謀次長沢田茂回想録』芙蓉書房、1982 年)168−69 頁。
65 波多野澄雄「南進への旋回:1940 年」(『アジア経済』26 巻5 号、1985 年5 月)30−33 頁。前掲『沢田茂回想録』57、177−78 頁。
66 ヤング(Arthur N. Young)によれば1939 年までにソ連が国民政府に供与したクレジットは英米の3 倍強に達していた(China and the helping hand, 1937-1945, Cambridge: Harvard University Press,1963,p.441.)
67 Ibid., pp.61-86. 206-07,441-42. 鈴木晟「アメリカの対応―戦争に至らざる手段の行使」(軍事史学会編『日中戦争の諸相』錦正社、1997 年)319−37 頁。
68 戸部良一「米英独ソ等の中国援助」(河野収編『近代日本戦争史 第3 編』、同台経済懇話会、1995年)340−44 頁。
69 Jonathan G. Utley, Going to war with Japan, 1937-1941(Knoxville: The Univ. of Tennessee Press, 1985), pp.9-10.
70 立川京一『第二次世界大戦とフランス領インドシナ』彩流社、2000 年、28 頁。なお、仏印問題については主に本書による。
71 前掲、沢田「記憶を辿りて」172 頁。
72 細谷千博「三国同盟と日ソ中立条約」(日本国際政治学会編『太平洋戦争への道 第5 巻』朝日新聞社、1987 年新装版、159−331 頁)などによる。
73 塩崎弘明『日米英戦争への岐路』山川出版社、1984 年、第2 部第3・4 章。なお、以後の日米交渉の経緯は、主に外務省編『日本外交文書・日米交渉―1941 年(上)・(下)』(外務省、1990 年)による。
74 野村大使は「ハル4 原則」は会談に臨む前提条件であることを日本政府に報告しなかった(須藤眞志『日米開戦外交の研究』慶應通信、1986 年、60 頁)。ハル長官は、4 原則の承認を前提に日本政府が「諒解案」を正式に提案すれば,それを基礎に日米会談に入ることを想定していた(細谷千博「『日米交渉』及びその記録文書をめぐる若干の問題点について」『外交史料館報』第2 号、1989 年3 月)。
75 前掲、石島『中国抗日戦争史』137 頁。
76 軍事史学会編『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌(上)』錦正社、1998 年、144−45 頁(1941年8 月9 日の条)。
77 J. Utley, Going to war with Japan, pp.151-55.
78 U. S. Dept. of State, Foreign Relations of the United States,1941 W,pp. 651-54,660-61,665-67.アントニー・ベスト(相澤淳訳)「日中戦争と日英関係、1937−1941 年」(前掲『日中戦争の諸相』)354頁。
79 波多野澄雄『幕僚たちの真珠湾』朝日新聞社、1991 年、143 頁。  
 
日中戦争と太平洋戦争

 

はじめに―開戦と中国戦線
日米開戦時に日本軍は20 個師団、21 独立混成旅団を中国戦線に展開していたが、作戦を積極化させたわけではなかった。開戦直前に政府は米英蘭と開戦の場合には「出来得る限り支那に於ける消耗を避け、以て長期世界戦に対処すべき帝国綜合戦力の確保に資する」ことを確認していた1。
現地軍の再三の要請によって、緒戦期には四川侵攻作戦(五号作戦)などが計画されるものの、後半期の「一号作戦」を除けば、太平洋戦争期を通じて大規模な軍事作戦は抑制されていた。他方、事変の外交的・政治的手段も失われ、軍事的にも政治的にも解決策が見出せないまま精鋭部隊の南方転用が図られる。
一方、蒋介石政府(重慶国民政府)は、12 月9 日、日本に宣戦を布告し、42 年1 月には連合国共同宣言に「4 大国」の一員として署名した。蒋介石は宣戦布告のなかで「今次の戦争は必ず全体として解決されなければならない」と述べたように、中国は米英ソと並ぶ連合国陣営の「4 強」の一つとなった2。他方、中国共産党も開戦直後の「解放日報」において、抗日のための国際的統一戦線の必要性を訴え、英米との提携強化を主張した3。しかし、蒋介石が切望していたソ連の対日参戦が拒絶され4、近代的戦力に不足するなかで対日戦を有利に戦うためには、経済的・軍事的にはアメリカからの援助に頼らざるを得なかった。
アメリカにとって中国戦線の意義は二つであった。第1 は、太平洋における戦いを有利に運ぶため、日本軍の地上戦力を中国戦線に拘束すること、第2 は、重慶政府の支配地域に日本本土と日本の占領地に対する戦略爆撃のための航空基地を設定することであった。第2 の中国における航空基地の建設は、ソ連が対日中立関係を維持しており、沿海州やカムチャッカ半島を対日爆撃基地として米国に提供する可能性が低かったため、とくに重視された。これらの目的を達するため、いかに効果的に中国を支援するかがアメリカの課題であった5。  
第1 節 太平洋戦争下の中国戦場
1)重慶攻略作戦構想の挫折と浙贛作戦
支那派遣軍は、開戦と同時に上海、漢口、広東、天津等の租界に進駐し、英米軍の武装解除、権益接収を実施した。香港攻略を任務とする第23 軍は、12 月8 日に国境を突破し、13 日には九竜半島の掃討を終了した。香港要塞に対する降伏勧告を英軍が拒否したため同軍は、18 日に香港島を占領した。
この香港作戦を支援し、広東方面に移動した中国軍を牽制するための陽動作戦として、武漢地区の第11 軍による第2 次長沙作戦が実施された。第11 軍は、3 個師団約6 万の兵力をもって、12月下旬から攻勢作戦を開始し、第九戦区軍22 個師団約19 万名を擁する中国軍と激闘を展開し42年1 月初旬には長沙に侵入したが、まもなく長沙を放棄して漢口へ撤収した。日本軍の戦死者は約1500 名、戦傷4400 名、中国第九戦区軍は死傷28000 名以上を数えた6。蒋介石は「我が抗戦の、世界に対する貢献の大なることは各国も一致して認めざるをえまい」と自負し、敗北続きの連合国陣営の中にあって唯一日本軍の進攻を撃退した「勝利」として宣伝された7。
日本軍の東南アジア侵攻が一段落した42 年春、参謀本部は支那派遣軍の要請に応え、中国における大規模作戦の研究に着手した。4 月上旬、杉山元参謀総長は、畑俊六総軍司令官に適当な機会に重慶攻略作戦を実行するよう指示した。
ところが、4 月18 日に米軍機が日本本土を空襲して中国基地中国の浙江占領区に不時着したことから、急遽、浙贛作戦が実行される。本土空襲が国民や兵士の士気の低下をもたらす影響を考慮したものであった。上海の第13 軍は、華中と華北から集めた兵力をもって5 月中旬から浙贛線に沿って西進し、他方、漢口の第11 軍の一部が東進して7 月初旬に両軍の連絡に成功した。しかし、補給計画が充分ではなく、4000 人以上の死傷者を出し、沿線確保は行われることなく撤退した。重慶攻略作戦の準備が優先されたことも撤退の要因であった。いくつかの飛行場の破壊が成果であったが、その後、中国の航空基地は各地に建設されたため作戦の意義は疑問であった8。
この間、重慶攻略作戦構想の本格的準備が進捗し、9 月3 日、杉山参謀総長は「五号作戦」(四川作戦)の準備を派遣軍に指示した。そのねらいは、太平洋方面における英米の反攻に備えるため、大陸方面の兵備を軽減して対英米正面に転用する条件を作り出すことにあった。在満兵備の軽減が対ソ関係上、不可能であったことから中国方面がその対象となり、兵力節減の前提として「重慶政権の抗戦力の源泉を覆滅」をはかることにあった。他方、政略的には、重慶政権の足元である四川省の軍事的圧迫によって、同政権を「屈伏和平」に導くという効果が期待されていた9。
作戦計画では、南方から6 万、内地から12 万、満洲・朝鮮から18 万の兵力を増派し、主力は西安方面から、一部は武漢方面から 四川省に進攻するというものであった。ところが、42 年8月からのガダルカナル島(南東太平洋方面)をめぐる激しい攻防戦は、五号作戦に必要な物的基礎を奪って行く。作戦には30 万トンを超える船舶が必要とされ、海軍との折衝が行われるが、太平洋重視の海軍は南太平洋の制空権の確保に全力を挙げることを主張して譲らず、また船舶の消耗も予想を上回るものであった10。かくて、42 年11 月初旬には事実上の中止(43 年内は行わず)が内示される。その理由は「主として輸送に充当すべき船舶の欠乏」にあった11。こうして内地から中国への兵力増派は不可能となり、12 月10 日に中止される。
ガタルカナル攻防戦による国力(船舶)消耗と、それに連動した「5 号作戦」計画の挫折は、日中戦争解決方策の根本的な再検討を促すことになり、大規模軍事作戦はしばらく見合わせ、「政謀略」を重視する方向転換が図られる。戦争指導班長・甲谷悦雄大佐によれば、「戦略的な積極方策は国家戦力の現状から見込薄となり、政略的に積極的方策を講ずることで戦局に一大転換を図らんとする希望が政府、統帥部に表面化」してきたという12。その政略の重要な一環が「対華新政策」(後述)であった。  
2)ビルマ攻略作戦とCBI 戦線
開戦当初の中国にとって中国内陸よりも西からの脅威への対処が急務であった。日本軍による香港の占領に加えて、日本軍のビルマからの進撃によるビルマ・ルートの遮断、さらに昆明、重慶への進撃が危惧されたのである。42 年1 月、タイに進駐した日本軍は、ラングーンの攻略によって援助物資の揚陸を阻止するため、1 月20 日、国境を越えてビルマに侵入した。3 月7 日、ラングーンを占領した。
ビルマ駐留のイギリス軍は兵力不足と戦闘意欲の欠如のため、中国に派兵を求めざるを得なかった。国民政府は、在中国米軍最高司令官兼蒋介石の参謀長となったスティルウェル(Joseph W.Stilwell)中将の指揮のもとで、雲南省西部に集結していた中国軍をもって遠征軍を編成し、英軍との協同作戦に当たらせた。3 月下旬、日本軍(第15 軍)はトングー〔同古〕の南方で中国軍の精鋭第5 軍と激しい戦火を交え、3 月末にトングーを陥落させ、5 月末までに北部ビルマを占領し、ビルマ・ルートの完全遮断に成功した。一方、中国軍はインド方面と雲南方面に分散退却してしまう。
日本軍が中北部ビルマの占領に成功したことで、中国への補給路遮断は陸のみならず、空においても一定の効果を発揮し始めた。北ビルマのミキナ〔蜜支那〕には第18 師団の師団司令部と哨戒・戦闘用の飛行場を置き、中国への補給路を陸上のみならず航空方面でも大きく制約したため連合軍はヒマラヤ山脈越えの困難な航空輸送ルート(Hump 空輸)を選択せざるを得なくなった13。
42 年3 月、スティルウェル中将は、中国陸軍の近代化計画を中米両政府に提案し、当時300 個以上あった中国軍師団数の整理縮小計画を示すと共に、ビルマ戦敗北後にインドに脱出してラーンガルに逃れた中国軍の再編成、雲南省に集結した中国軍部隊の改編に着手した。これらの計画遂行とビルマ奪還に必要な軍需物資を恒常的に中国の輸送するためにはインドから中国までの補給路が必要であったが日本軍よって遮断されていた。そこで雲南省・北ビルマからインドまでの陸路を打通するために形成されたのがCBI(中国・ビルマ・インド)戦線であった。
ビルマ奪還はイギリスの分担であったが、そのイギリスはヨーロッパ、中東戦線とインド防衛を優先せざるをえず、ビルマ奪還に貴重な戦力を割くことはできなかった。アメリカも太平洋における反攻準備および英ソ支援を優先してCBI 戦線(ビルマ奪還)を低位においていた。また、蒋介石もビルマの奪回作戦に消極的で、代わりに蒋介石の顧問として中国空軍の育成に従事してきた米空軍シェンノート(Claire L. Chennault)少将の中国空軍強化プランを支持し、スティルウェルとの間に軋轢をひきおこし、両者の関係は42 年半ばから悪化した。
しかし、スティルウエルは中国やイギリスの反対をおして、42 年夏、北ビルマを通るレド公路の開発のため、インドのランガルーで米式の装備と訓練を施された中国新軍の建設に着手し、同年秋からは雲南から中国軍3 万2000 名が空輸によって合流し、訓練に加わった。43 年4 月からは、雲南省昆明において陳誠将軍の指揮下に新軍の訓練に着手し、8 月までに5 個軍15 個師団の改編が完成した。
この間、アメリカは中国戦線における対日戦略を陸軍近代化から戦略爆撃へと重点を移動させていったが、この背景には高性能ボーイングB29 爆撃機の実用化がある。高性能のB29 による日本本土の生産中枢への組織的爆撃は、日本の抗戦能力を破壊するもっとも能率的な戦略と考えられた。43 年5 月のワシントンにおける米英合同参謀会議(トライデント)での論議を経て、同年11 月の米英中首脳のカイロ会談において、中国戦線における連合軍の対日戦略の重点を戦略爆撃におくことが決定された。蒋介石自身は当初、陸軍の近代化にも熱意を持っていたが、やがてローズヴェルト大統領の説得もあって中国を基地とする対日戦略爆撃を支持するようになる。中国戦線の米軍のみならず中国軍の指揮権をも要求するスティルウェルとの関係悪化、さらに、中国陸軍の大幅な整理縮小に対する軍閥系勢力からの頑強な抵抗なども蒋が陸軍近代化に消極的になった要因であった14。
カイロ会談ではビルマ作戦が対日戦略において優先権が与えられ、蒋介石もランガルーと雲南の中国遠征軍を北ビルマに進攻させことを約束した。しかし、43 年11 月のテヘラン会談におけるスターリンの対日参戦の約束はビルマ作戦の意義を弱めた。蒋介石はテヘラン会談の情報から、雲南の新軍のビルマ作戦使用を拒否し、その代償としてスティルウエルにランガルーの中国軍に対する指揮権を与えた。スティルウェルは前年の浙贛作戦に鑑み、強力な中国地上軍なしには、航空基地が日本軍の地上攻撃で失われる危険を説いたが、太平洋戦線で苦戦する日本が中国戦線で新たな大攻勢を行う可能性は低い、と顧みられなかった15。
43 年12 月、スティルウエルは中国新軍を率いてインドから北ビルマ入口のフーコン河谷に侵入していたが、44 年5 月上旬、連合軍は、インパール作戦の発動によって防備が手薄となった北ビルマ、雲南に総反攻を開始した。日本軍第18 師団を優勢な火力によって粉砕し、7 月までにフーコンを占領し。また、北ビルマの要地ミチナ(蜜支那)を急襲し、8 月にはミチナ飛行場を奪回した。中国軍も同じころ、ビルマ国境のサルウイン河(怒江)の強行渡河を開始した。こうして北ビルマ・雲南方面で米軍により近代的軍隊に改編された中国軍が戦果を挙げているとき、中国本部では日本軍の大陸打通作戦(一号作戦、後述)によって国民政府軍は苦戦を強いられていた16。  
3)華北の戦い
40 年後半の百団大戦によって、日本軍は華北の抗日根拠地を基盤とする共産軍の実力と脅威を認識することになり、華北の治安粛正作戦において国民政府軍に対しては「帰順」を求めるが、「警戒監視にとどめ攻撃せず」とされ、共産軍対策が重点目標となる17。41 年3 月から42 年末にかけて、北支那方面軍は、華北全域を治安区(占領区)、准治安区(遊撃区)、未治安区(抗日根拠地)に区分し、未治安区に対して組織的な「掃蕩」作戦を展開するとともに、王克敏ら旧軍閥の有力者を指導者として樹立させた華北政務委員会(40 年3 月成立)と協力して組織的な「治安強化運動」を展開した。治安区では、華北政務委員会を利用した宣伝など清郷工作、遊撃隊の活動する地域の住民を「治安区」に強制的に移住させ、遮断壕を構築する「無人区」の設定、「未治安区に対しては、経済封鎖、商品流通の分断などを実施した。「准治安区」でも共産党支配地域への経済的締め付けが強化され、遮断戦を越えて「未治安区」の市場を襲い、農産物の収奪や没収、強制買い上げ等、その規模は大きくなっていった。
こうした治安強化運動や掃蕩作戦の強化は、抗日根拠地に大きな打撃を与え、根拠地は縮小を余儀なくされる。しかし、この未曾有の根拠地の危機は、共産党の指導による、農民大衆の経済的基盤の確立のための「減租減息」(小作料と利子の減額)運動の全面的展開や「大生産運動」などによって克服され、43 年以降、根拠地は徐々に再生・拡大をたどることになる18。
他方、北支那方面軍は華北への共産勢力の伸長を食い止めるために、43 年9 月、対ゲリラ戦専門部隊として北支那特別警備隊(北特警)を設置したが、結局、都市部でしか目立った戦果を挙げることができなかった。北特警の戦闘詳報によれば、43 年後半には、共産党軍が「治安地区」にも浸透し、「治安地区」の拡大という当初の方面軍の計画とは逆の結果を招いてしまっていた19。
こうした情勢のなかで、共産軍は勢力を盛り返し、根拠地は44 年末までには40 年の状態まで回復し、45 年6 月、共産軍は河北省で一斉に攻勢に出るのである。
ところで、42 年初頭、北支那方面軍参謀は政務将校の会同で、食糧と物資確保の緊急性を説き、「討伐作戦に伴ひ大規模なる物資獲得の手段を講ずるか、或は更に物資獲得の為に討伐を実施する」等の「創意工夫を要すべし」と説いている20。現地軍の「現地自活」という要求が強まるなかで、物資と食糧の確保のために手段を選ばない討伐作戦は、中国側が「三光作戦」と呼ぶ非違行為の背景となっていた21。すでに、40 年秋には、百団大戦に対する報復的な山西省中部での反撃作戦として、共産軍の根拠地とみなされた村落を焼き払う、という「燼滅(じんめつ)作戦」が強行されていた22。「燼滅」の一つの手段が化学弾薬(毒ガス)の使用であり、北支那方面軍司令部が各部隊に配布した『粛正討伐ノ参考』(1943 年5 月)によれば、化学弾薬は遊撃戦法をとる共産軍に対抗するために有効であるとして推奨されている。こうした「未治安区」における非違行為は、他の戦線への兵力抽出や部隊の改編によって補充兵の比率が増し、兵士の質が低下していたことが主な原因であった23。
また、満洲や日本への労働力の提供のため、華北において強制的な労働力の動員が42 年から実施され、その業務は日本軍と華北政務委員会の統制下にあった華北労工協会が一元的に請け負っていた。200 万人を超える労働者が華北から満洲、蒙彊に提供された。44 年以降は華北政務委員会が表面に乗り出し、重要労力緊急動員の秘密命のもとに日本軍が出動して「浮浪遊民」を逮捕徴発して日本や満洲に送り込んだ。日本全土への強制連行は43 年9 月から試行的に始まり、45年5 月までに約3 万9000 人の中国人が移送され、過酷な労働に従事し、秋田県の花岡鉱山事件のように中国人労働者の大規模な蜂起事件も起こっている24。  
4)一号作戦(豫湘桂戦役)
南東太平洋戦線で大きく戦力を消耗した日本軍は、43 年9 月、戦略の転換を図り、ビルマ、蘭印、西部ニューギニア、マリアナ諸島、千島列島、満州を結ぶ防衛ラインの内側を「絶対国防圏」と定めた。この「絶対国防圏」の防備強化のため、中国戦線から10 個師団の兵力(1.5 万)、馬1.5万頭、自動車2000 両などを絶対防衛圏の防備強化に転用する計画が策定されるが、一号作戦(「大陸打通作戦」)計画の浮上はこの転用計画を大幅に縮小させる25。
44 年4 月中旬から翌年の2 月上旬の間、派遣軍総兵力の約8 割にあたる約50 万人(延20 個師団)を動員し、一号作戦と呼ばれる日本陸軍史上最大の作戦が京漢・粤漢・湘桂の各沿線地域でみすず書房、1966 年、524 頁)。
実行された。河南省黄河から広東・仏印国境まで約1500 粁にわたる大作戦の目的は、日本本土空襲の恐れがある西南地区(桂林、柳州)に散在する航空基地の奪取、インド、ビルマ、雲南方面からの反攻阻止、南方資源の輸送のための仏印から中国、朝鮮にいたる交通路の確保であった26。
一号作戦の決定と遂行には、真田穣一郎少将と服部卓四郎大佐が最も重要な役割を果たした。
真田は42 年12 月に作戦課長、43 年10 月には作戦部長となっている。ガダルカナル島からの撤退決定に中心的役割を果たした真田大佐は、太平洋戦線における軍事的劣勢を補い、長期戦に耐える戦略体制を築くため、中国大陸の派遣軍と東南アジアの南方軍を連携させることが必要と考えた。服部は41 年7 月に作戦課長として開戦を迎え、前述の5 号作戦の立案の中心となったが、作戦が中止されたことから中国における攻勢作戦の機会をねらっていた27。服部は42 年12 月に陸相秘書官に転出し、43 年10 月に再び作戦課長となると真田作戦部長とともに本格的に一号作戦計画を実行に移そうとした。「太平洋における頽勢を大陸作戦によって補おうとする狙い」が両者に共通していた28。
作戦部が起案した最初の作戦計画は、敵航空基地の覆滅、南方軍との陸上連絡通路の確保、重慶政権の壊滅などを列挙していた。この作戦計画について、東条陸相は作戦目的を航空基地の覆滅一本に徹底することを条件にこの案に同意し、天皇も作戦目的を敵の航空基地覆滅に絞った作戦の実施について裁可した29。
しかし、44 年1 月24 日、杉山参謀総長から支那派遣軍に指示された「一号作戦要網」では、南方軍との連絡や重慶政権の継戦企図の破砕といった目的も含まれていた30。真田や服部の強い意思と派遣軍の積極的姿勢が反映したものと考えられる。一号作戦計画を参謀本部が積極的に取り上げたことは士気が沈滞気味であった派遣軍の幕僚たちを活気づけていた31。
一号作戦の前段である湘桂作戦は順調に進展したが、衡陽の攻略に際しては重慶軍の抵抗が激しくなり、しかも補給ラインが米軍機の攻撃を受けて日本軍は苦戦に陥ったが8 月初旬、衡陽を占領した。この衡陽占領は、一号作戦の重要な転機であった。
太平洋の戦局も重大な転機にさしかかっていた。44 年6 月末、中部太平洋のサイパン島の陥落によって「絶対国防圏」の一角が崩された日本軍は、太平洋戦線で劣勢に立たされ、さらに、北部ビルマからインド進攻をねらったインパール作戦でも敗退していた。こうした戦局の悪化は、近衛文麿ら重臣を中心に国内の「反東條勢力」の結集を促し、7 月の東條内閣総辞職の要因となった。
参謀本部は全般的な戦略を見直し、日本本土、沖縄、台湾、フィリピンを連ねる線を防衛し、この防衛ラインで敵の進攻を迎え撃つという基本戦略を決定した。これを「捷号」作戦と名づけた。問題はこの「捷号」作戦構想との関連で、継続中の一号作戦をどのように位置付けるかにあった。具体的には、一号作戦を計画通りに進め、桂林、柳州攻略を実施するか、あるいは中止するかという選択であった32。
陸軍省首脳部や参謀総長は、桂林、柳州への進攻についてインパール作戦のように補給物資が続かないことを恐れて中止すべきとの意見であったが、作戦部は一号作戦を計画通り実行する方針であった。派遣軍も作戦部の続行方針を支持していた。とくに真田作戦部長と服部作戦課長は、フィリピン作戦と一号作戦とは表裏一体であり、日本本土と東南アジアの交通連絡が遮断されないためには作戦の続行が必要と説いた33。この間、44 年9 月には、陸軍次官・柴山兼四郎中将が陸軍上層部を代表して、粤漢打通作戦のみを実施したうえ中止するよう畑総司令官に意見具申したが、畑は補給の検討は約束したものの中止には同意しなかった34。
こうして一号作戦は続行され、44 年11 月までに桂林、柳州の航空基地を占領し、45 年1 月には大陸縦貫交通路の確保をほぼ達成したが、すでに当初の戦略構想は意味をなくしていた。すなわち、重爆撃機B−29 は四川省の成都に集結して九州爆撃を開始しており、またマリアナ基地の完成に伴い、44 年末から同基地から東京など本土全域への戦略爆撃が始まっていたからである。
アメリカのアジア太平洋にとって中国戦線の意味は低下して行くが、米軍指導部は、中国戦線の危機を憂慮した蒋介石やスティルウエルの要求に応じ、主要都市爆撃を許可し、44 年12 月18 日、B-29 によって華中の日本軍拠点であった漢口爆撃が実施され、市街の9 割が灰燼となり、派遣軍に大きな打撃を与えた。
一号作戦における国民政府軍の敗退の原因は、兵士に対する劣悪な処遇、将校の腐敗などによって戦意が著しく低下していたこと、命令系統の混乱、情報不足などであった。中国側の損害はきわめて大きく、60〜70 万の兵士が犠牲となり、河南、胡南、広西、広東、福建の各省の大部分の領土を失った。他方、国民政府軍の敗退は、共産軍の対日反抗に有利な条件を作り出した。すでに44 年から、共産党軍は華北、華中の抗日根拠地を中心に活動が活発化していたが、日本軍が一号作戦で大兵力を動員したため、華北の治安警備能力が大幅に低下したことによって、共産勢力の反攻を助長し、日本軍の占拠地域を侵食していった35。
44 年末、新たに派遣軍総司令官に就任した岡村寧次大将は、一号作戦の余勢をかって重慶進攻を参謀本部に進言したが、太平洋戦線の戦局悪化から承認されなかった36。その代替案として浮上したのが、老河口と芷江作戦である。一号作戦の結果、航空基地を喪失した在華米空軍は老河口、芷江に戦闘機、中型爆撃機用の基地を造成した。派遣軍は、45 年3 月から4 月にかけて第12 軍は3 個師団など6 万名を投入して、老河口基地の破壊に成功した37。他方、芷江をめざした第20 軍約5 万に対し、中国軍約60 万と米空軍機が迎え撃った。中国軍には、スティルウェルの後任者ウェデマイヤー中将による陸軍近代化計画によって育成された近代化師団が加わっていた。この最後の大作戦は日本軍の惨憺たる敗北に終わり、第20 軍は45 年5 月下旬に撤収した38。  
第2節 日本占領地域の状況
1)汪政権下の政治と経済
重慶を脱出した汪兆銘は、40 年3 月、重慶からの遷都という形をとって南京に中華民国国民政府を樹立し、40 年11 月、日本は満州国地域を除く中国全土に統治権を有する中央政府として承認した。しかし、汪の意思に反して多数の日本人顧問が就任し、満州国の経験を生かした「内面指導」方式が貫かれ、日本の実質的な統制下におかれ、その統制は戦後も継続することが想定され、畑総司令官と会見した汪は「第二の満洲国となること」を憂いた39。こうした汪政権に国民党の有力な反蒋介石勢力が参加することはなく、基礎となる軍事力を欠き、和平陣営に参加した軍隊は「名ばかりで寧ろ土匪団」であった40。
経済面でも日本による物流支配と経済封鎖は深刻な産業不振と物価の騰貴をもたらした。汪政権のもとで中支那振興会社傘下の基幹産業は、形式の上では中国側の出資比率を51%とする日中合弁企業なったが、実権は日本側が握り続けた。たとえば汪は、上海、南京地区を含む江蘇省など三省で200 を超える軍管理工場の返還を要求して日本軍と交渉するが、日本軍は、小規模な工場の返還には同意したが、その他は買収ないし日中合弁を強要した。周仏海によれば「原則のうえでは統制権を放棄しているが、制限を無限に加えているので返還していないに等しい」状況であった41。軍用とは無関係な商品についても「厳格な制限を受け、その結果、和平地区内の商工業は疲弊し、物価は暴騰し政府の財源また枯渇に瀕する」状況であった。41 年8 月、日本は中央、地方に物資統制委員会を設置し、占領地域内の物資の移動制限緩和に乗り出したが、効果はなかった。  
2)通貨戦争
日本は日中戦争期間を通じて、物資の安定的獲得を目的として、占領地に中国聯合準備銀行、中央儲備銀行(41 年1 月発足)などを設立し聯銀券や儲備券を発行し、国民政府の旧法幣と通貨戦争を展開した。また陸軍は39 年には「杉機関」によって通貨謀略や法幣の偽造を行い、物資取得に投入し、軍票は国民政府の法幣を追いつめて行く。太平洋戦争の勃発と租界占領によって上海の法幣は弱体化し、汪政権は軍票の新規発行を停止し、旧法幣の流通禁止、43 年には儲備券による統一を実現した。儲備銀行は東京を含め38 支店をもつ大銀行となった。
しかし、旧法幣が急落する一方で、蒋政権の発行する統一公債は、開戦後も相変わらず上海で取引され、42 年1 月には開戦前の相場を上回り、新旧法幣の交換によって新法幣建てに改定されるとさらに高騰した。占領地で重慶政権の公債が流通し、額面を上回る価格で取引される事実は、中国国民の蒋介石政権に対する信頼が揺らいでいないことを示している。
元来、日本側通貨の流通範囲は都市と鉄道沿線の占領地に限られていたが、共産軍が「日本軍が重慶軍を放逐したる跡を占領し、所謂廉潔政治を行ひて華北華中方面に着々地歩を固め来り」という状況となると、聯銀券や儲備券の流通範囲はさらに縮小した。さらに通貨を増発して悪性インフレに見舞われた。占領地における物価騰貴は物資取得のために通貨を乱発した結果であり、それは軍票価格の下落を意味した。こうして「在支60 万の日本人社会の外に於ては全然別の価格体系が存在する」状況となる42。
南京政府治下の華中・華北では、南京政府の発行する儲備券(新法幣)が旧法幣に対し弱体性を克服できなかったこと、日本軍による軍票の乱発などが原因で、通貨の混乱、物価高騰、激しい物資不足に見舞われ、日本側の要請に応えることは不可能な状況にあった。インフレの進行を抑えて通貨価値を中国側通貨(旧法幣)より優位に維持し、購買手段として通貨機能の安定は最後まで実現できなかった。  
3)「対華新政策」とその破綻
ガダルカナル島(南東太平洋方面)をめぐる攻防戦が重大局面に差しかかっていた42 年12 月、御前会議は新たな中国政策(「大東亜戦争完遂の為の対支処理根本方針」)を決定した。その骨子は、南京国民政府の「自発的活動」の促進、蒙疆・華北などの「特殊地域化」方針の是正、治外法権や租界の撤廃、日華基本条約(1940 年11 月)の修正、経済施策における「日本側の独占」の抑制などを通じて、「国民政府の政治力を強化」をはかるというものであった43。それまで汪政府に対する基本政策であった「支那事変処理要綱」(40 年11 月)の根本的改定であった。
この「新政策」を浮上させた背景は、42 年後半の太平洋戦線における激しい消耗戦が経済力の低下を招いたため、日本側の関与を緩め、中国側の自発的活動に委ねて中国における統治の負担を軽減することにあった。もう一つの背景は、双十節(42 年10 月10 日)における重慶政権に対する英米の治外法権撤廃の声明であった。英米は戦後に治外法権の撤廃を行う意思を表明していたが、アジア太平洋の軍事情勢の改善や重慶政権の強い希望によって、実施を早めたものである44。
中国共産党も、中国人民の100 年来の独立と解放のための闘争の結果であり、「中英、中米間の新たな関係と新たな団結」として歓迎した45。中国の「民心把握」と「協力強化」という観点では、治外法権の撤廃など不平等条約の廃棄が有効な手段と考えられたことは、連合国側も日本側も同様であり、両者は競うように租界返還・治外法権撤廃の具体化を急いだ。
しかし、中国における多くの権益を失うことになる「新政策」の決定とその実施には、強力な推進力が必要であったが、その中心となったのが重光葵(42 年1 月汪政府大使、43 年4 月外相)であった。重光にとって「新政策」は、日本の対中国政策の「根本的更正」や「誤れる方向に指導した軍部の策謀を矯正」して、日本民族の「公正なる精神を支那民族に明瞭に示す」という意味があり46、日華基本条約の根本的改定による中国の主権回復の必要性を天皇や政軍指導者に懸命に説き、軍の反対を抑えた。
新政策の決定により、政治面では、治外法権の撤廃、租界の返還などが順次実施され、43 年8月には日華基本条約に代わって日華同盟条約が新たに締結され、汪政権は日本との関係においては、形式的にせよ平等な関係を築いた。
しかし、新政策には元来、戦争遂行上の必要物資の獲得という主目標が含まれ、経済面では、「上は日本軍人に牛耳られ、下は日本商人に独占されたまま、特殊化は日本の敗戦まで続けられた」47というのが実情であった。南京政府治下の人民にとって、物価高騰による経済的逼迫の解決こそが切実な問題であり、「新政策」を歓迎する雰囲気にはなかった48。日本側はこうした経済的逼迫を打開するために、軍票の新規発行停止と儲備銀行券への移行、さらに、日本軍による物流統制システムを廃止し、南京政府側の一元的な物資統制機関として43 年3 月に設立された全国商業統制総会(商統総会)に移行などの措置をとる。これらの措置は、南京政権の自立化促進の一環とされたが、現実的なねらいは、重要物資の内地送還−対日供給物資の確保のためであった49。
南京政府側にも、「商統会」(全国商業統制総会)を結成して統制権を中国側の手にとりもどし、統制を緩和させるならば、物価の高騰は抑制できるという見通しが存在したが、商統総会の機能は弱体であり、上海を中心に重要物資の隠匿が横行し始め、43 年夏には物価高は「破局的様相」となった。その原因は、南京政権と日本に対する人民の信頼が動揺し、儲備券の価値に疑念が生まれてきたことにあった。南京政府は「隠匿取締に関する国民政府令」(43 年4 月)などを公布して対応したが、成果は挙がらなかった50。
こうした破局的状況を日本政府も放置しえず、43 年7 月の大本営政府連絡会議は「対支経済施策に関する件」を審議し、金塊25 トンを華中、華北に現送し、これを市場に売却して通貨回収に充てるとともに隠遁の激しかった綿糸布の強制買い上げに用いる緊急措置を決定した。この措置は物資隠遁の風潮と物価高騰を一時的に抑制する効果があったが長くは続かなかった51。
開戦後、大蔵省の上海財務官室に勤務していた渡辺誠は、43 年12 月、新政策の混迷を打開する方策として、1)「経済問題に関しては国民政府に頼らず支那経済人を相手とすべし」、2)「官治統制」の廃止、3)「軍官は経済問題に関しては表面に立つべからず」と3 点を指摘する大胆な意見を提出している。渡辺によれば、上海財界と中国民衆の信頼を失っている汪政府に新政策の実施を期待するのではなく、「〔上海〕経済人の自主的活動」を直接支援すべきであった。さらに、渡辺によれば、新経済政策の真のねらいは、「日華両経済圏を融合」することで「新しき自給自足的新経済秩序を建設」することにあるが、日本側の軍需物資の調達のための「便宜手段」と化している点に混迷の真の原因があった。汪政権と日本の関係の本質を見抜いた渡辺の提案が考慮されることはなかった52。
日本軍の侵略に対する抗戦を通じて、中国はナショナリズムを農村や奥地まで浸透させ、戦後の国家建設にむけ社会変革と民族的統合の基盤を築いた。一方、日本は戦争を通じて日中提携協力や「新秩序建設」を目標にかかげ、経済的な先進地域を占領し、新興政権を樹立したが、軍事優先の「新政策」が住民の信頼を得ることも、戦時中国の建設に寄与することもなかった。  
第3 節 日本の降伏
1)大東亜会議と連合国の戦後構想
43 年11 月、日本のアジア占領地に樹立された「独立国」の代表(満州国、汪兆銘政府、ビルマ、フィリピン、タイのほか自由印度仮政府代表が陪席)が東京に参集し大東亜会議が開催された。
東条首相のねらいは、この年の秋と予測されたアジア太平洋における連合国軍の本格的反攻に備えるため、占領地の指導者を集めて共同宣言を発表することによってアジア諸民族の結束をアピールすることであった。しかし、この共同宣言の立案を担った外務官僚と重光外相は、共同宣言に新たな戦争目的の表明を託そうとした。すなわち、「大東亜共栄圏の建設」といった排他的で、日本の盟主的地位を強調した戦争目的に代わって、自主独立、平等互恵、人種差別撤廃、資源の開放といった普遍的な国際理念を宣言に盛り込むことによって、戦後世界における発言力の確保をねらいとした。実際、43 年8 月に外務省内の共同宣言の立案過程では、連合国の戦争目的である大西洋憲章を参照しつつ行われた53。重光はこの共同宣言を共通理念として、アジアの独立国が相互に平等の立場で「大東亜機構」を創設することを目標としていたが、各国が対等平等の立場で機構へ参加することは、日本のアジアにおける盟主的地位を否定するものであり、「国際連盟的思想を包蔵するもの」として陸軍省や参謀本部の反対によって実現しなかった54。最終的な共同宣言も、大東亜省、陸軍省や参謀本部の修正によって、戦争目的の再定義という外務省の意図は曖昧なものとなり、連合国にとっては単なる戦時プロパンガンダでしかなかった。
しかし、日本にとって大東亜会議は、日比・日緬同盟条約によるビルマやフィリピンの「独立」許与、汪兆銘政権との対等な同盟条約の締結(43 年8 月)など一連の「大東亜新政策」の一環であり、外交当局が大西洋憲章の意義に注目しつつ、「大東亜共栄圏」構想とは異なる、新たな戦後アジアに対する日本の構想を示そうとしたものであった。また、大東亜会議を含む一連の大東亜新政策に日本が託した重要な狙いの一つは、重慶国民政府を連合国陣営から切り離すことであったが、蒋介石や中国人民を惹きつけることはできなかった55。
ところで、大東亜会議の開催と相前後して連合国側の「外交攻勢」が活発となり、モスクワ外相会談、カイロ会談、テヘラン会談など一連の会談が開催される。とくに蒋介石が参加した英米中・カイロ会談は、対日軍事戦略の検討とともに、日本の占領地からの撤退を前提に戦後アジアにおける国際秩序の基本的枠組みを議論し、その成果をカイロ宣言(43 年11 月27 日)として公表した。後のポツダム宣言の基礎となるカイロ宣言は、開戦後、連合国側が初めて日本領土の処分に言及したもので、台湾、澎湖島の中国返還、1914 年以来日本の領有した諸島の剥奪、朝鮮の独立などを明記していた。待命中であった石射猪太郎大使は、蒋介石がカイロ宣言に署名していることに注目し、「全面和平は千里も先に行って了った」56と嘆いた。しかし、大東亜会議や対華新政策に国策の重点を置く日本政府は、カイロ宣言のねらいは、「抗戦の名目」を失いつつある蒋政権を連合国陣営からの離反を防ぐための宣言とみなし、その国際的な意義を重視することはなかった。しかし、朝鮮と台湾が連合国によって「独立」や日本からの「剥奪」を保証されたことは、日本が最も忌み嫌うこところであり、そこで日本政府は、カイロ宣言の報道にあたっては、具体的な領土問題には触れることを許さなかった57。
ところで、連合国の戦後経営の構想を注視しつつ、大東亜宣言に基づく具体的な機構案の検討を続けていた言論人が石橋湛山と清沢洌であった。大東亜会議からまもなく、清沢と石橋は、青木大東亜相に大東亜宣言を基礎に具体的な戦後機構案の作成について政府の取組みを促したが、政府にはその意思がないことに失望する58。しかし、両者は44 年の末にいたるまで、連合国側の戦後経営構想に着目しつつ。大東亜宣言の諸原則を基礎とする「新世界機構」を考案する必要があることを説き続けるのである59。  
2)和平工作
日米開戦以来、日本政府の重慶政府に対する和平工作は南京国民政府の手にゆだね、日本政府は直接関与しないという方針であった。南京政府では、重慶側の諜報機関や特務組織と深い関係にあった周仏海を中心に重慶へのアプローチが試みられるが進展しなかった。44 年8 月に成立した小磯内閣は、8 月末と9 月の最高戦争指導会議で、対重慶工作を首相のイニシアティヴのもとに統一し、日中終戦のために直接会談のきっかけを作ることに主目的を置くことを決定した60。小磯首相が重慶工作に熱心に取り組むようになったのは、朝日新聞副社長から入閣した緒方竹虎国務相の強い進言による61。
和平条件の作成は外務省が中心なり、9 月5 日の最高戦争指導会議は、「和平条件は完全なる平等条件に據ることを建前とす」という方針のもとに、以下の「和平条件の腹案」を決定した。
1完全平等の立場による和平、2和平にともなう重慶と米英との関係については出来る限り中国側の意向を尊重する、3汪・蒋関係は国内問題、4英米が撤兵すれば全面撤兵、香港は中国に譲渡する、などの「画期的な和平条件」であり62、開戦前後に提示されていたならば、あるいは日中和平の可能性も開かれたかも知れない。
結局、9 月9 日の「国民政府に対する伝達要領」では、満州国は中国の領域であることを認めるという外務省の新方針や、香港、蒙疆、南方権益などの具体的問題については、「支那側の意向を尊重して協議すべし」とされた63。
これらは重慶に対する和平条件として南京政府に伝達されたが、周仏海ら汪政権首脳は、満洲の中国返還(満州国の解消)が曖昧であったこと、汪政権強化という従来の方針に反していることから重慶政府と交渉に入ることを躊躇した64。日本国内でも天皇や重光外相は、汪政権の立場に配慮し、批判的であった65。結局、44 年9 月の最高戦争指導会議決定は、蒋介石の南京帰還、統一政府の樹立、中国からの撤兵という事実上の敗北を、日本が自ら提案せざるを得ない立場に陥ったことを物語っている。しかし、日本降伏までにはさらに1 年弱を空費することになる。
小磯の対重慶和平への熱意を背景に、政界の注目を集めていた路線開拓工作が宇垣一成の中国旅行であった。宇垣には汪政権を解消して重慶を「正統支那政府」と認め、「全面和平交渉」を提案するという構想があった66。9 月下旬に北京に入り、10 月初旬には上海で重慶側より派遣されたと称する周一夫らと会見するものの、結局、これといった路線を開拓することなく10 月13 日に帰国した。小磯や彼を支える宇垣グループの重慶工作を「南京政府解消論」とみなして終始批判的であったのは、汪政権に対する国際信義を重んずる重光外相であった67。
宇垣の中国旅行の直後、「全面和平」に関する日本側の意図を確認するため、10 月中旬に南京政府考試院長・江亢虎が来日した。江は南京政府を解消する用意がなければ重慶政府との和平の可能性はないことを要人に説いた。蒋介石側近と連絡のある繆斌(考試院副院長)、それに西南各将領と連絡を有する青年党、国社党の領袖たちであった68。
江のこうした議論に重光と小磯の反応は異なっていた。小磯は、南京政府側に江院長の述べるような意図が固まり、「全面和平」への機運が醸成されてくるならば、満州国の放棄にも応じようという姿勢をみせている。他方、重光は、あくまで日本が承認した南京政府を中心に和平を考え、南京政府の解消といった事態は極力避けようとした。
江は部下の繆斌(考試院副院長)から緒方竹虎情報局総裁と田中武雄書記官長宛の書簡(内容は不明)を託されていたが、江の帰国後、小磯は汪政権を通じた重慶工作に懐疑的となり、繆斌の招致に熱心となる。繆斌は、国民党中央委員や江蘇省民政庁長を歴任するが汚職の嫌疑などで、徐々に国民党を離れ、南京国民政府の立法院副院長となるが開戦後、密に重慶と通じていたことが発覚して考試院副院長に左遷されていた。小磯は、緒方のほか、緒方が朝日新聞編集局長時代の部下で、上海通信員の田村真作、朝日新聞記者の太田照彦、元陸軍大佐で小磯の信頼が厚かった山形初男といった人々からの情報と協力を得て、繆斌が蒋介石につながるルートであることを確信し、重光らの反対を押し切って45 年3 月中旬に来日を実現させる。繆斌が示した「中日全面和平実行案」は、1南京政府の解消、3重慶側が承認する「留守府」政権の組織、3「留守府」政権を通じた日中停戦・撤兵停戦交渉の開始、であった69。
しかし、最高戦争指導会議では、この条件の審議に入る前に、重光、米内海相、杉山陸相らが、繆斌という人物に対する信頼性、繆斌系統の人物は南京政府の倒壊を目的としていること、などの反対論を唱え、結局、和平提案を受け入れなかった。重光が最後まで反対したのは、南京政府の解消や全面撤兵という重大政策に踏み込むためには、「戦争終結の決心」が先決でなければならかったからである70。対英米戦争の終結の決断のない限り、南京政権の存在を無視した形での重慶和平工作はありえなかったのである。小磯は45 年4 月1 日、繆斌工作の続行を上奏したが、天皇は陸、海、外三大臣の反対を確認したうえ小磯に繆斌の帰国を命じた71。こうして繆斌工作は挫折し、それが一原因となって小磯内閣は総辞職する。
繆斌工作について、南京政府と日本の離間をはかり、日本の首脳部の分裂を図ろうとしたものという評価がある。繆斌工作が重光と小磯の亀裂を深めたという事実に着目すれば、そうしたねらいは成功したことになる72。しかし、そうした意図が蒋介石の胸中に秘められていたのか否か、なぜ、戦争の最終段階となってそれを実行に移すにいたったのか、これらを実証することは現在のところ困難である。繆斌工作と並行した動きが何世骰H作である。汪兆銘の和平運動に参加しながら重慶側の情報工作にも関与していた何世驍ヘ、44 年10 月、天皇親政、戦争責任者の処罰、日本軍の撤兵といった重慶側の和平条件を近衛文麿の実弟、水谷川忠麿らに託し、水谷川から近衛や重光外相に伝えられたが政府は取り上げなかった73。  
4)国民党支配の危機とヤルタ協定
アメリカ政府は、国民政府の腐敗と日本軍の攻勢による中国戦線の崩壊を憂慮していたが、ローズヴェルト大統領は、44 年7 月、中国戦線の建て直しをはかるためスティルウエルのもとに国共両軍の統一を蒋介石に要求した。蒋介石は、共産党軍が国民政府の指揮を離れ、やがて国民党による一党支配体制が崩れることを危惧し、この要求を拒絶してスティルウエルの解任を要求した。こうして中米関係は危機的状況となるが、10 月には米統合参謀本部が対日反抗のルートとして、台湾・アモイ作戦を放棄し、硫黄島から沖縄にいたるルートを選択したことによって中国戦線の意義が低下していた74。ここにローズヴェルトは、蒋介石の要求を受け入れ、中米危機は回避された。共産党や民主勢力や党内からの批判に対して国内結束を図る指導力を示した形となったが、ローズヴェルトは共産党の民主連合政府を支持するより、蒋介石政権の強化による中共の封じ込めを優先し、その中国政策は蒋介石支援と反共に傾いて行く。
44 年後半から、ヨーロッパとアジア太平洋の両戦線は、圧倒的に連合国側に有利に傾き、戦後世界の勢力配置をめぐって米ソのかけひきが激しくなる。焦点はヨーロッパでは東欧、アジア太平洋では日本撤退後の「満洲」であった。スターリンはすでに43 年11 月のテヘラン会談で対日参戦を約束していたが、45 年2 月のヤルタ会談では、その代償として、大連港の国際化とソ連の優先使用権、旅順港の租借、中東・満鉄両線の中ソ合弁経営などを要求し、英米はこれを受け入れた。ローズヴェルトは、中国の主権にかかわる条項について、中ソ交渉の必要を認め、スターリンもこれを受け入れ、45 年6 月から中ソ交渉が始まる。国民党政府は、旅順のソ連による租借に強く反発し、海軍基地として共同使用することを提案し、ソ連も同意するが、実際にはソ連側が旅順を海軍基地として単独で使用することになる。8 月9 日のソ連の対日参戦が交渉を急がせることになり、8 月14 日、中ソ友好同盟条約が調印される。国民政府は、ヤルタ協定の中国に関する項目の大部分を認めることになったが、ソ連の援助は国民政府を通じて実施されること、ソ連軍は日本降伏後、3 週間以内に東北から撤退を開始することを約束させた。ソ連参戦後の共産党支援や中国内政への干渉を封ずるという点からすれば中国にとって満足できるものであった75。
この間、共産党は、45 年4 月下旬から6 月にかけ、17 年ぶりに第七回全国代表大会(七全会)を開催し、毛沢東の権威と指導権を確立した。いまだ華南、華中の枢要地域は日本軍の占領下にあり、国民党軍の内戦挑発の行動が頻発するなか、毛沢東は、正規軍91 万、民兵220 万を擁する共産軍が抗日戦争の主力となっていると発言し、蒋介石国民党の消極的抗日路線を批判して、国民党が一党独裁を廃止し、当面、「民主連合政府」の形成に参加することを提唱した。国民党の一党独裁政権を強く意識し、多くの勢力を結集して国民党に対抗しようとした。一方、国民党地区の民衆にも民主化や連合政府を求める運動、政治参加の拡大を求める要求が高まり、国民党は抗戦初期に享受した政治的地位が危うくなっていた。こうしたなかで国民党は、5 月初旬から下旬にかけて重慶で第6 回全国代表大会を開催し、基本的に他の党派の参加を排除する国民党独裁に固執する戦後政権構想を打ち出し、日本の敗北が迫るにつれ、中共の民主連合政府論との対立関係は抜きさしならぬものとなって行く76。  
5)日本の降伏
日中戦争最後の大作戦−芷江作戦が日本軍の敗北に終わった45 年5 月末、参謀本部は兵力を華南から撤退して華北、華中に集結する方針を固め、派遣軍は、湖南、広西、江西方面の湘桂・粤漢鉄道沿線の占拠地域から兵力を引揚げ、その兵力を華中・華北方面に転用して後退作戦に移った。しかし、大軍の後退が完了しないうちに、7 月27 日、日本降伏を勧告する英米中3 国首脳によるポツダム宣言が発表される。『大公報』は天皇制の排除が明記されていない点は不満であるが、カイロ宣言の履行が明示されている点など他の条項は全て同意すると論じた。しかし、日本政府はこれを事実上拒絶したため、原爆投下に続いて8 月9 日のソ連参戦という「外圧」のなかで、8月9 日の天皇臨席による御前会議は天皇制維持を条件としてポツダム宣言の受諾を決定した。12日の連合国の回答は、天皇制維持という条件を明確に保証したわけではなかったが、日本政府は保証されたものと理解し、14 日の再度の御前会議によってポツダム宣言の受諾を決定した。
国共両軍は日本がポツダム宣言の受諾の意思を表明した直後の8 月10 日から、争って日本軍の接収に乗り出す。延安総司令朱徳は、解放区の全部隊に日本軍と傀儡軍の武装解放を命じ、各地の部隊に降伏受入のための進軍を指令した。一方、蒋介石は11 日、日本軍に対して、しばらく武器と装備を維持し、治安維持と交通確保にあたり、中国陸軍総司令何応欽の命令を待つよう訴えた。また、蒋介石は、抗日戦勝利のラジオ演説のなかで、「暴を以て暴に報ゆる勿れ」と述べ、軍閥の戦争責任は追及されねばならないが、日本人民に報復や侮辱を加えてはならないと訓告した。
こうした対日宥和的な態度に期待する日本政府は、8 月16 日、「日支間の行懸りを一掃し、極力支那を支援強化し以て将来に於ける帝国の飛躍と東亜の復興に資す」ため、事業者、技術者及び企業の残留を奨励し、「誠意を以て支那の復興建設に協力し日支の提携を促進する」ことを決定した。8 月21 日、これを重光外相名で現地公館に伝えている77。この指示の効果は不明であるが、中国にとどまって技術支援や復興支援にあたろうとする数千の日本人が残留(流用)したことは事実である。
他方、蒋介石は15 日、日本占領地に向けて、偽軍(南京国民政府軍)は現駐地で治安維持に当り、機を見て罪を償うよう努力することを指示した。主席陳公博は、36 万の偽軍を南京、上海、杭州に集め、国民政府軍による武装解除を待つと報告し、翌16 日には汪政府は解散を宣言した。
一方、共産党側は、朱徳中国共産党軍総司令が、国民政府は解放区の人民を代表し得ないこと、解放区抗日軍は対日平和会議に代表を選出する権限をもつこと、などを米英ソ三国に申し入れるとともに、解放区の日本軍に対しては共産軍への投降を命じた。この間、蒋介石は何応欽にすべての中国戦区内の敵軍の降伏を処理する任務を与え、共産党に対しても現駐地に駐屯して命令を待つよう指示したが、共産党軍が従うことはなかった。国共両軍の抜きさしならぬ対立が早くも現れていた。
戦争終結時に中国本土に展開する日本軍の兵力は概ね105 万人に上り、十分な兵員数と武器・装備、指揮命令系統も保持され、将兵の士気も高いまま降伏を迎えた。岡村総司令官は、8 月15日、派遣軍は「戦争には破れたりと雖も、作戦には圧倒的勝利をしめあり、斯くの如き優勢なる軍隊を弱体の重慶軍により武装解除さるるが如きは有り得べからざること」と上申している78。この日本軍は、華北全体と長江中下流域における主要都市とそれらを結ぶ鉄道沿線一帯をなおも占領していた。華北の日本軍占領地域を取り囲むように中共の抗日根拠地が存在し、四川・雲南といった奥地が国民党の支配地域であった。
こうした配置状況のなかで、日本軍の武装解除に迅速に動けるのは中共軍であった。日本の降伏が予想を越えて早く、国民政府は奥地に後退していた軍隊を結集して接収に赴かせることができなかった。中共軍は8 月16 日頃から華北一帯・江蘇北部において、日本軍に対して武器引渡しの要求を行ったが、派遣軍総司令部は「不法なる治安撹乱者に対しては蒋委員長の統制下に無きものと見做し、止むを得ず、断乎たる自衛行動に出ずべきこと」を通告した79。この「自衛行動」の容認命令は、8 月21 日からの降伏交渉において国民政府軍によって側によって支持され、この「自衛行動」の容認命令は、8 月21 日からの降伏交渉において国民政府軍によって支持され、両軍が協力して中共軍に対して「自衛戦闘」を展開する素地がつくられる80。こうして、中国本土では一部で強制的に武装解除された例を除けば、日本軍が中共軍に投降することはなかったが、華北・江蘇省北部の日本軍は中共軍の攻撃に対する自衛戦闘のため、7000 名の死傷者を出した。他方、華中(江蘇省北部を除く)・華南では終戦後に戦闘はほとんどなかった。
中共軍の日本軍占領地域への進撃を躊躇させたのは、中ソ友好同盟条約(前述)であった。ソ連による国民政府への支持と援助を約束した中ソ条約は、中共軍の進撃にソ連の後ろ盾を期待できなくなったことを意味した。こうした状況は、中共に戦略の方針転換を余儀なくさせた。8 月22 日になると、中共は華北における大都市及び主要幹線占領をあきらめ、小都市と農村の確保に乗り出し、満洲に主要部隊を満洲に移動させた81。
アメリカは対日戦勝利後、国民党軍を上海・南京・北京を含む華中・華北の主要地域に輸送し、国民政府による主要都市の接収を支援した。南京進駐部隊は9 月5 日から続々と空輸によって到着し、国民党軍は8 年ぶりに首都南京に入城した。そして、9 月9 日、岡村寧次派遣軍総司令官が南京中央軍官学校において降伏文書に調印し、何応欽中国陸軍総司令に降伏した。また、台湾では10 月下旬に投降式が挙行され、50 年に及ぶ日本の台湾支配が終焉した。
しかし、中国本土の日本軍の投降・武装解除は、国民党軍の北上時期によって異なり、その過程も決して平坦なものではなかった。華中・華南では、大半の部隊が45 年10 月までに武装解除が完了するが、華北においては、国民党軍の到着が遅れ、武装解除がずれ込み、全面的な武装解除の完了は46 年1月のことであった。
派遣軍にとっても国民党政府側とっても、予想外の事件が山西省の日本軍部隊が閻錫山軍に合流し、同軍とともに中共軍と戦う事態にまで至ったことであった。国民党政府は閻錫山側に対し、日本軍将兵の閻軍への参加志願の提出を制止せよとの訓令を発出しているが、国民党軍が現地に到着してからも第一軍所属の日本人将兵約2600 名は閻錫山軍と共同して中共軍と戦うため山西省に残留する道を選んだ82。そのうち、約1600 名は中共軍による山西省制圧直前の48 年までに帰国したが、1500 名余はなお山西省に留まって内戦に従事し、中共の支配下で囚われの身となった83。  
おわりに
盧溝橋事件以後の中国東北部(満洲)を含む中国における日本軍人・軍属の戦死者数は約42 万名、戦傷病者が約92 万名である。このうち太平洋戦争開戦後の戦死者は23 万名(戦傷病者50 万名)と推定され、この数は盧溝橋事件から太平洋戦争開戦までの数を上回っており、進攻作戦期よりも、後半期の中共軍との戦いに苦戦したという特徴が表れている。一方、国民政府軍の死者は約132 万名、負傷者180 万名にのぼっているが、そのうち太平洋戦争開戦後の戦死者、戦傷者数はともに激減傾向にある。この傾向は、国民政府が共産軍との対決に備えて軍を温存したこと、日本軍の東南アジアや太平洋方面への転用が続き、戦闘能力が低下していたことを示していよう。
ただし、44 年は戦死者、戦傷者とも10 万名を越えており、一号作戦による人的損害の大きさを物語っている。また、中共軍の死傷者数(失踪者を含む)は58 万名を越えると推定される84。
また、日中全面戦争は、双方の軍人だけではなく、とくに中国の非戦闘員に多くの犠牲を強いることになった。非戦闘員の犠牲の多さや日本軍による様々な「非違行為」は、戦後の日中両国民のなかに、新しい関係構築を妨げる深い傷跡を遺すことになった。国交回復を実現した72 年の日中共同声明において、中国政府が「戦争賠償の請求を放棄する宣言」を明記したにもかかわらず、細菌ガス使用問題、戦場における慰安婦問題、日本軍の遺棄兵器問題、中国人労務者の強制連行や強制労働問題など、日本軍による戦争犯罪を問い、戦後補償を求める運動が世代を超えて展開され、日本政府を相手とした裁判が今日まで続いていることは、そのことを物語っている。  

1 「対米、英、蘭開戦ノ場合ニ於ケル帝国ノ対支方策」(1941 年11 月10 日)外務省記録A7.0.0.9-51大東亜戦争関係一件 開戦関係重要事項集」。
2 家近亮子「蒋介石と日米開戦」(『東アジア近代史』第12 号、2009 年3 月)。
3 日本国際問題研究所『中国共産党資料集 第10 巻』(資料84、85、87)。
4 U.S.Dept.of State,Foreign Relations of the United States,1941,vol.4.,p.747.
5 等松春夫「日中戦争と太平洋戦争の戦略的関係」(波多野澄雄・戸部良一編『日中戦争の軍事的展』慶応義塾大学出版会、2006 年)391−92 頁。
6 防衛庁防衛研修所戦史部『戦史叢書47 香港・長沙作戦』〔以下、「戦史叢書」〕朝雲新聞社、1971 年、535 頁。
7 蒋中正『中国之命運』1943 年(日本語翻訳版、96 頁) 。
8 浙贛作戦の支作戦であった衢州攻略戦において第13 軍司令部は化学戦資材の使用を奨励し、第22 師団は42 年6 月初旬、大洲鎮付近における遊撃戦で「あか弾」を使用し、大きな効果を挙げたといわれる(第13軍司令部「セ号(浙贛)作戦経過概要」、及び「支那事変ニ於ケル化学戦例証集」陸軍習志野学校案、粟屋健太郎『未決の戦争責任』柏書房、1994 年、122、148 頁)。吉見義明・松野誠也編『毒ガス戦関係資料U』(不二出版、1989 年)、資料56。
9 「甲谷悦雄大佐回想録」(厚生省引揚援護局調整、1954 年)、伊藤隆ほか編『続・現代史資料(4)陸軍・畑俊六日誌』〔以下、「畑日誌」〕みすず書房、1983 年、1942 年9 月6 日、11 月15 日の条。
10 前掲「甲谷悦雄大佐回想録」。戦史叢書63『大本営陸軍部(5)』朝雲新聞社、1973 年、76−80、185−92、419−27 頁。
11 『畑日誌』1942 年9 月23 日、10 月5 日、11 月9 日、12 月13 日の条。
12 前掲「甲谷悦雄大佐回想録」。
13 バンプ空輸量はビルマ公路のそれを大きく上回り、1945 年まで在華米空軍の活動を支えた(西澤敦「対中軍事援助とヒラマヤ越え空輸作戦」(軍事史学会編『日中戦争再論』錦正社、2008 年)275−95 頁。
14 前掲、等松「日中戦争と太平洋戦争の戦略的関係」396−400 頁。
15 Tang Tsou, American Failure in China (Chicago: University of Chicago Press, 1963), p. 82.
16 一号作戦と北ビルマ・雲南作戦の関係については、浅野豊美「北ビルマ・雲南作戦と日中戦争」(前掲、波多野・戸部編『日中戦争の軍事的展開』)、297-338 頁。
17「第1 軍作戦経過の概要」第1 軍参謀部(1942 年1 月15 日)(『現代史資料(38) 太平洋戦争4』みすず書房、1974 年)〔以下『現代史資料』〕177 頁。馬場毅「華北における中共の軍事活動、1939−1945」(前掲、波多野・戸部編『日中戦争の軍事的展開』)232−34 頁。
18 西村茂雄『20 世紀中国の政治空間』青木書店、2004 年、135−77 頁。
19 山本昌弘「華北の対ゲリラ戦、1939−1945」(前掲、波多野・戸部編『日中戦争の軍事的展開』)209−11頁。
20 「政務関係将校会同席上方面軍参謀副長口演要旨」(1942 年1 月15 日)(『現代史資料(13) 日中戦争5』
21 前掲、山本「華北の対ゲリラ戦、1939−1945」204−05 頁。なお、「三光」は、殺光(殺し尽くす)・焼光(焼き尽くす)・槍光(奪い尽くす)の意味。
22 晉中第一期作戦(1940 年8 月30 日〜9 月8 日)では、「徹底的に敵根拠地を燼滅掃蕩し、敵をして将来生存し能はざるに至らしむ」方針のもと、「敵性ありと認むる住民中15 才以上、60 才までの男子」は「殺戮」の対象となり、「敵性部落」は徹底的に焼き払われた(独立混成第4 旅団「第一期晉中作戦戦闘詳報」)(前掲、吉見・松野編『毒ガス戦関係資料U』、資料53、54)。
23 例えば、第36 師団司令部「昭和十七年度粛正建設計画」(1942 年4 月15 日)(『現代史資料(13)』572−88頁)、前掲、山本「華北のゲリラ戦、1937−1945」209−11 頁。
24 各事業場の「華人労務者就労顛末報告書」に基づく研究として、西成田豊『中国人強制連行』(東京大学出版会、2002 年)がある。臼井勝美『新版 日中戦争』中央公論社、2000 年、207-10 頁。花岡事件については西成田『中国人強制連行』、363−402 頁を参照。
25 戦史叢書67『大本営陸軍部(7)』朝雲新聞社、1973 年、179−215 頁。中国戦線からの兵力抽出について同545−48 頁。
26 原剛「一号作戦―実施に至る経緯とその成果」(前掲『日中戦争の軍事的展開』)283-95 頁。
27 戦史叢書67『大本営陸軍部(7)』548−53 頁。
28 井本熊男『作戦日誌で綴る大東亜戦争』芙蓉書房、1978 年、499 頁。
29 前掲、原「一号作戦」287-88 頁。
30 この「要綱」によれば、「近き将来に於て米英が化学戦を行使するの公算大」と判断され、米英の毒ガス攻撃を恐れ、桂林、柳州など米軍基地付近での米軍に対する化学兵器の使用を避けるよう命じている。実際、中国戦線では44 年半ばから毒ガスなど化学兵器の実戦使用が禁じられ(前掲、吉見・松野編『毒ガス戦関係資料U』(不二出版、1989 年、30−31 頁)、使用回数は減少したものの使用を放棄したわけではなかった。
31 戦史叢書4『一号作戦(1)河南会戦』朝雲新聞社、1967 年、16−39 頁。
32 前掲、井本『作戦日誌で綴る大東亜戦争』570−72 頁。
33 前掲、原「一号作戦」290−91 頁。『畑日誌』1944 年10 月6 日の条。
34 前掲、『畑日誌』1944 年9 月13 日の条。
35 石島紀之『中国抗日戦争史』青木書店、1983 年、182−85 頁。
36 軍事史学会編『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌(下)』錦正社、1998 年〔以下『機密戦争日誌』〕、643−44 頁。
37 前掲、等松「日中戦争と太平洋戦争の戦略的関係」406−07 頁。戦史叢書64『昭和二十年の支那派遣軍(2)』朝雲新聞社、1973 年、379−432 頁。
38 前掲、『昭和二十年の支那派遣軍(2)』353−78 頁。
39 前掲、『畑日誌』1941 年4 月19 日の条。
40 前掲、『現代史資料(13)』39 頁。
41 蔡徳金編(村田忠禮訳)『周仏海日記』みすず書房、1992 年(1940 年5 月5 日の条)。
42 『続・現代史資料(11) 占領地通貨工作』、みすず書房、1983 年、937、836 頁。
43 参謀本部編『杉山メモ(下)』原書房、1989 年、321-23 頁。
44 Christopher Thorne,Allies of a Kind: The United States,Britain,and the War against Japan,1941-1945(New York;Oxford University Press,1978.),pp.178-79.,195-97.
45 前掲、『中国共産党史資料集 第11 巻』資料46。
46 重光葵『昭和の動乱(下)』中央公論社、1952 年、167、172 頁。
47 陳公博(岡田酉次訳)『中国国民党秘史―苦笑録・八年来の回顧』1980 年、講談社、334 頁。
48 前掲、『周仏海日記』、1943 年2 月23 日の条。
49 古厩忠夫「日中戦争と占領地経済」(中央大学人文科学研究所編『日中戦争―日本・中国・アメリカ』中央大学出版会、1993 年)344−59 頁。
50 岡田酉次『日中戦争裏方記』東洋経済新報社、1974 年、261−67 頁。
51 同上、267−68 頁。
52 「対華新政策の経済面に関する管見」(1943 年12 月20 日)『続・現代史資料(11)』829−37 頁。
53 波多野澄雄『太平洋戦争とアジア外交』東京大学出版会、1996 年、161−73 頁、278−84 頁。伊藤隆・渡辺行雄編『重光葵手記』中央公論社、1986 年、155-56 頁。
54 前掲、『杉山メモ(下)』、440-41 頁。
55 大東亜会議と共同宣言の「意図」について、波多野『太平洋戦争とアジア外交』(前掲)及び入江昭「戦後アジアへの戦時日本の構想」(細谷千博ほか編『日英関係史、1917−1949』東京大学出版会、1982 年)。
56 伊藤隆編『石射猪太郎日記』中央公論社、1989 年、1943 年12 月3 日の条。
57 天羽英二日記・資料集刊行会『天羽英二日記』第4 巻(非売品、1982 年)、884−85 頁。
58 清沢洌『暗黒日記』評論社、1979 年、1943 年11 月25 日の条。
59 前掲、波多野『太平洋戦争とアジア外交』、200−05 頁。
60 参謀本部所蔵『敗戦の記録』原書房、1967 年、163 頁。
61 前掲、『畑日誌』1944 年9 月4 日の条。
62 前掲『機密戦争日誌(下)』1944 年9 月5 日の条。
63 前掲『敗戦の記録』175−76 頁。
64 前掲『周仏海日記』1944 年10 月17 日、11 月4 日の条。
65 『機密戦争日誌(下)』1944 年9 月6 日の条、前掲『敗戦の記録』165-66 頁。
66 渡辺渡「感想日誌 巻七」(防衛研究所図書館蔵) (1944 年10 月2 日、10 月3 日)。
67 伊藤隆ほか編『重光葵手記』中央公論社、1990 年、486−87、436 頁。
68 江亢虎の来日については「重光大臣江亢虎考試院長第一次会談要領」(10 月17 日)、「同第二次会談要領」(10 月19 日)(外務省記録A7.0.0.9-61)。
69 田村真作『繆斌工作』三栄出版社、1953 年、175−76 頁。外務省編『終戦史録(上)』、新聞月鑑社、1952年、220 頁。
70 前掲、『重光葵手記』470−71 頁。
71 前掲、外務省編『終戦史録(下)』217−20 頁。
72 戸部良一「日本の対中国和平工作」(前掲、細谷千博ほか編『太平洋戦争の終結』)、43 頁。
73 繆斌工作、何世骰H作ともに、戴笠を指導者とする藍衣社系の諜報機関(軍統)が関与していた可能性が高い(前掲、戸部「日本の対中和平工作」38−42 頁)。また、汪熙「太平洋戦争と中国」(細谷千博ほか編『太平洋戦争』東京大学出版会、1993 年)によれば日中戦争の全期間を通じて日中双方が直接、間接に試みた和平接触は少なくとも29 回に及ぶ。中国側の意図は、日本軍の軍事攻勢の緩和、敵のカードを探るための情報収集、英米からの援助獲得の取引材料などであったという(90−98 頁)。
74 加藤公一「『スティルウェル事件』と重慶国民政府」(石島紀之・久保享『重慶国民政府史の研究』東京大学出版会、2004 年)、147−67 頁。
75 石井明「中ソ関係における旅順・大連問題」(日本国際政治学会編『国際政治』95 号、1990 年)、46−62頁。
76 山田辰雄『中国近代政治史』放送大学教育振興会、189−92 頁。前掲、石島『中国抗日戦争史』、200−02頁。
77 江藤淳編『占領史録(上)』講談社学術文庫、1995 年、524−31 頁。
78 前掲、『現代史資料(38)』403 頁。
79 岡村寧次『岡村寧次大将資料(戦場回想編)』原書房、1970 年、10 頁。
80 前掲、『現代史資料(38)』340 頁、346−48 頁。
81 門間理良「利用された敗者―日本軍武装解除をめぐる国共両党のかけひき」(前掲『日中戦争の軍事的展開』)67−83 頁。
82 前掲、『現代史資料(38)』367、510−12 頁。
83 厚生省引揚援護局編『続々・引揚援護の記録』クレス出版、2000 年、327 頁。
84 日本軍の被害は、厚生省社会・援護局監修『援護50 年史』、靖国神社資料(合祀数)等によっており、中国側の被害の推計は前掲、臼井『新版 日中戦争』、207−11 頁によっている。  
 
漢奸

 

(かんかん) 漢民族の裏切者・背叛者のことを表す。転じて、現代中国社会においては中華民族の中で進んで異民族や外国の侵略者の手先となる者を指している。日中戦争の際には、漢奸狩りが実行され、多数が虐殺された。
言葉の誕生
中国において売国奴を指す言葉だが、字義通り受け止めれば、「漢民族を裏切った奸物」と言う事になる。漢奸と呼ばれる有名人には秦檜、呂文煥、石敬瑭、呉三桂、汪兆銘などがいるが、中国の歴史の中で「漢奸」という言葉が生れ、現在の意味となったのは清の時代においてである。清朝では支配の中心であった満州族を除く民族が漢として意識されるようになった。これが漢という言葉で明確に民族を括ることの始まりである。最初は漢と満州族は対立する概念であったが帝国主義列強の影響が増した19世紀から満州族も漢に含まれるようになる。初めて漢奸という言葉が使われたのは17世紀であり、対立していた南方の部族と通じる漢に使われた。この時、支配の中心にいた満州族とは区別されていた漢の中の存在であり、今日の意味とは異なっていた。 
日中戦争における「漢奸」
日中戦争中及び戦争終結後には日本への協力の有無に関わらず、日本について「よく知っている」だけの中国人でも「漢奸」として直ちに処刑されたり、裁判にかけられた。また、日本に協力する者であれば漢民族でなくても「漢奸」と呼称した。この基準に照らせば、最も日本を研究し日本を一番知っていた蒋介石や対日戦略を立てていた何応欽、楊杰、熊斌など、中国側の中枢人物も「漢奸」に該当するという指摘もある。
日中戦争中の「漢奸狩り」
国民政府側の指導者である蒋介石は自軍が日本軍の前に敗走を重ねる原因を「日本軍に通じる漢奸」の存在によるものとして陳立夫を責任者として取締りの強化を指示し、「ソビエト連邦の GPU による殺戮政治の如き」「漢奸狩り」を開始した。
国民政府は徴発に反抗する者、軍への労働奉仕に徴集されることを恐れて逃走する者、日本に長期間移住した者などは、スパイ、漢奸と見なし白昼の公開処刑の場において銃殺したが、その被害者は日中の全面戦争となってから二週間で数千名に達し、国民政府が対民衆に用いたテロの効果を意図した新聞紙上における漢奸の処刑記事はかえって中国民衆に極度の不安をもたらしていた。また、中国軍兵士の掠奪に異議を唱えた嘉定県長郭某が中国兵の略奪に不満の意を漏らした廉で売国奴の名を冠せられて火焙りの刑に処せられた、との報道があった。1937年9月の広東空襲に対しては誰かが赤と緑の明かりを点滅させて空爆の為の指示を出したとして、そのスパイを執拗に追求するという理解に苦しむことも行われ、一週間で百人以上のスパイが処刑された。
上海南市にある老西門の広場では第二次上海事変勃発後、毎日数十人が漢奸として処刑され、その総数は 4,000 名に達し、中には政府の官吏も 300 名以上含まれていた。処刑された者の首は格子のついた箱に入れられ電柱にぶらさげて晒しものにされた。上海南陶では 1 人の目撃者によって確認されただけでも 100 名以上が斬首刑によって処刑された。罪状は井戸、茶壷や食糧に毒を混入するように買収されたということや毒を所持していたというものである。その首は警察官によって裏切り者に対する警告のための晒しものとされた。戒厳令下であるため裁判は必要とされず、宣告を受けたものは直ちに公開処刑された。
南京における「漢奸狩り」
日中戦争初期に日本で発行された『画報躍進之日本』の中で、陥落前の南京における「漢奸狩り」が報告されているほか、『東京朝日新聞』『読売新聞』『東京日日新聞』『ニューヨーク・タイムズ』も「漢奸狩り」について報道をおこなっている。
戦争が始まると漢奸の名目で銃殺される者は南京では連日 80 人にも及び、その後は数が減ったものの1937年(昭和12年)11月までに約 2,000 名に達し、多くは日本留学生であった(当時南京にいた外国人からも日本留学生だった歯科医が漢奸の疑いで殺された具体例が報告されている)。『画報躍進之日本』では「これは何らかの意図をもって特定の者にどさくさを利用して漢奸というレッテルを付けて葬るという中国一流の愚劣さから出ていた」との見方を示し、さらに「南京で颯爽と歩く若者は全部共産党系であり、彼らによってスパイ狩りが行われるため要人たちは姿を隠して滅多に表に出ることがなかった」と報告している。南京では軍事情報の日本側への伝達、日本の航空機に対する信号発信や国民政府が日本の軍艦の運航を妨げるために揚子江封鎖を行うとした決定を漏洩したことを理由とするにとどまらず、親日派をはじめ、日本人と交際していた中国人や少しでも日本のことを知るように話したり、「日本軍は強い」などと言うことを根拠として直ちにスパイと断定され処刑された。外国人も例えば日本の書籍や日本人の写っている写真を持っているだけでスパイの嫌疑を受け拘引されたことから、南京を脱出する外国人も出ていた。
南京攻略戦直前(1937年(昭和12年)12月初め)の南京城内では毎日、漢奸狩りで捕えられ銃殺される者は数知れず、電柱や街角に鮮血を帯びた晒し首が目につかない場所はなかった。 南京攻略戦後には、日本軍に好意を持つものは漢奸として処分されることを示したポスターが南京市内いたるところで確認された。 
日中戦争後
元日本人の伊達順之助、満洲族(女真族)の川島芳子や蒙古族の徳王といった人々も「漢奸」とされ、また女優・歌手の李香蘭(山口淑子)が「漢奸」の疑いで訴追された。戦争中、通敵・売国行為をおこなった人物だけでなく大東亜共栄圏に共感した人物についても「漢奸」と呼んだ。 川島芳子の裁判では、検察側はスパイの具体的な証拠を何一つあげられなかったが、村松梢風の小説『男装の麗人』などの小説や根拠不明の流説などをもとに死刑判決を下し、1948年(昭和23年)に銃殺刑を執行した。
汪兆銘は戦時中(昭和19年(1944年))に病死したが、汪兆銘政権を支えた陳公博などの要人 52 名は銃殺され、さらに、親日派ゆえに漢奸とされた約 4 万人が処刑や処罰を受け、処刑された者には墓を建てることも禁止された。国民党による漢奸裁判で断罪された汪兆銘の妻、陳璧君には罪を認めれば減刑するという司法取引が示されたが陳はこれを拒否、法廷において「日本に通じたことが漢奸というなら、国民党はアメリカと、共産党はソ連と通謀したではないか。我々の志は間違っていたのではない。単に日本が負けたから、こうなっただけだ」と陳述を行い、終身刑を受け獄死した。
魯迅の弟で著名な文学者周作人は、日本軍の北京占拠時も北京に留まって文学活動を続けたがために漢奸として裁判にかけられた(後に釈放)。この様に、日本軍の占拠した地域に留まって活動を続けたり、公的役職に留まっていた(中国側からは偽職とよばれる)ために戦後漢奸のレッテルを貼られた公務員、文学者、芸術家、学者なども多い。矢吹晋によれば江沢民は資産家の出身であり、その一族は日本軍の占領下に留まったことから日本軍に協力した漢奸と見なされることを危惧し、そのため「反日ポーズ」を取る必要があったとしている。台湾の李登輝元総統は2007年(平成19年)の靖国神社参拝により、反日感情に煽られた中国のネットユーザーから「李氏は漢奸だ」、「李氏は必ず地獄に落ちる」、「李氏は日本人にへつらっている」など過激なコメントが見られた。 
命運が分かれた漢奸たち
「漢奸」とされた要人の間でも(1) 満州国要人、(2) 蒙古聯合自治政府(自治邦)要人、(3) 汪兆銘政権の3つの類型で処分の傾向が異なる。また同じ類型の中にも例外はあり、彼らの命運や末路は極めて多様である。
(1)についてはソビエト連邦に連行されシベリアで収監された人物がほとんどで、呂栄寰のようにそこで獄死した者もいる。彼らは1950年に中華人民共和国へ引き渡された後は撫順戦犯管理所に収容された。ただし、この経緯を辿った者たちは死刑だけは免れているのである。張景恵・臧式毅のように獄中で死去した者もいるが、溥儀を筆頭に、特赦されて最後は平穏に一生を終えた者も決して少なくない。
(1)の類型の例外としては、まず蔡運升があげられる。蔡はソ連から赦免される形で北平に逃れ、後に北平無血開城にも貢献、中華人民共和国建国後も罪に問われることなく平穏に一生を終えた。さらにエルヘムバト(額爾欽巴圖)やボヤンマンダフ(博彦満都)のようなモンゴル族要人に至っては、中華人民共和国でもそのまま政権への参加が認められるほどだった。また、張燕卿や韓雲階のように日本やアメリカへ亡命できた者もいた。その一方でソ連の追及から逃れ潜伏した孫其昌や張海鵬は、後に中華人民共和国当局に発見・逮捕されて死刑に処されるという末路を辿った。
(2)については特に漢奸として処罰されること無く、国民政府に復帰して中国共産党への対処に動員される人物が多かった。李守信・呉鶴齢が典型的な例であり、国共内戦末期には徳王も蒙古自治政府を樹立して共産党に対抗したが、最後は撃破された。徳王と李はモンゴル人民共和国へ逃れたものの、1950年に中華人民共和国へ引き渡された。長期の収監の後、2人は特赦で釈放されている。呉は台湾へ逃れ、1980年に死去した。その一方で、蒙古自治邦副主席だった于品卿(漢族)は、張家口で八路軍により逮捕され、軍事裁判の末に銃殺刑に処されている。大漢義軍を率いた王英は、戦後に傅作義配下となるも、中華人民共和国建国後に逮捕、反革命罪で処刑された。
(3)については、上記他の2類型とは異なり原則として厳罰に処された。国民政府の下でも陳公博を筆頭として褚民誼や王揖唐、梁鴻志、殷汝耕などが死刑に処された。さらには国民政府では死刑判決を受けていなかったにもかかわらず、中華人民共和国成立後に改めて裁判を受け処刑された者までいた(例として張仁蠡)。また、無期懲役などで収監され中華人民共和国建国後もそれが継続した者で、後に特赦で釈放された例はほとんど見当たらず、彼らのほとんどは獄中で死去している。この点は、(1)の類型と異なるところである。軍政部長を務めた鮑文樾は内戦末期に台湾へ連行されたが、彼にしてもようやく赦免されたのは1975年のことであった。
ただし、(3)の中にも例外は存在する。政治家・銀行家の李思浩は、本人の意思に反してやむなく汪兆銘政権に協力させられ、さらにその間も国民党や共産党の人士に密かに協力していたことが認められ、国民政府でも中華人民共和国でも処罰から免れた。また、汪兆銘政権の軍人たちに対する処罰も原則として苛烈で死刑執行も少なくなかったが(例として斉燮元・胡毓坤)、龐炳勲や呉化文、孫殿英のように、蒋介石の事前の黙認を得て汪兆銘政権に降伏・参加した者は(いわゆる「曲線救国」)、戦後に国民政府への復帰を認められている。このほか、国際宣伝局局長湯良礼は終戦直後に逮捕されながらも何らかの理由で釈放され、故郷のインドネシアに戻ることができた。外交部長などを務めた李聖五も懲役15年の判決を受けながら内戦末期に釈放、香港で教鞭をとる。改革・開放時期になると大陸に戻り、家族の下で平穏に生涯を終えた。 
「漢奸」とされている主要人物
満州事変・日中戦争関係
愛新覚羅溥儀 / 清朝最後の皇帝、満洲国の執政、後に皇帝。
王克敏 / 中華民国臨時政府の首脳となり、さらに汪兆銘の南京国民政府にも参加した。
徳王 / 1930年代から日本軍に協力、モンゴル人の独立政権蒙古聯合自治政府主席を務めた。
殷汝耕 / 冀東防共自治政府主席、後に汪兆銘政権に参加した。
汪兆銘 / 南京国民政府設立、日本との協調路線を進めた。
江亢虎 / 汪兆銘政権において国府委員・考試院副院長・同院長を歴任。
周仏海 / 汪兆銘政権において行政院副院長・財政部長・中央政治委員会秘書長・中央儲備銀行総裁・上海市長・上海保安司令・物資統制委員会委員長を歴任。
陳公博 / 汪兆銘政権において立法院長と共に上海市長を兼任、後に政府主席代行・行政院長・軍事委員会委員長を兼任した。
川島芳子 / 清朝粛親王の王女。満州事変から日中戦争にかけて日本軍に協力した。
その他歴史上の人物
石敬瑭 / 後晋の皇帝、その地位のために燕雲十六州を契丹に献上し、さらに臣従した。
秦檜 / 南宋の宰相、岳飛ら軍閥を弾圧し、金と講和した。
呉三桂 / 明朝の将軍であり李自成の北京占領に際し清に味方し、清の中国平定を助けた。
辜顕栄 / 1895年(明治28年)6月5日、日本軍の台北入城を要請した。 
汪兆銘 「漢奸」と断罪された「愛国者」
「汝(なんじ)の敵を愛せ」とはギリシャ語で書かれた新約聖書の名高い章句である。この「敵」とはエヒトロスという私仇(しきゅう)を指し、公敵のポレミオスではない。人間としては好ましい相手でも公の活動では政敵となることもあり、その逆もありうるわけだ。
中国には「漢奸(かんかん)」という言葉がある。とりわけ戦中・戦後は、日本に協力した中国人をそう呼び、「売国奴」よりも厳しい表現であるらしい。
20世紀の中国史のなかで最たる漢奸と問えば、中国人なら誰しも汪兆銘(精衛(せいえい))をあげるだろう。親日派を漢奸と呼ぶなら、仕方がない。だが、汪兆銘その人は最後まで自分が愛国者であることを疑わなかったにちがいない。
蒋介石よりも4年前に生まれた汪兆銘は日本の法政大学に留学し、早くから健筆をふるった。漢人が満州人に支配されていた清国だから、20世紀初めには排満革命の機運が高まる。ほどなく孫文の率いる革命勢力のなかで、汪兆銘は頭角をあらわし、清朝摂政王の暗殺を試みたが失敗し、死刑宣告を受ける。幸いにも、1911年に辛亥革命がおこったために釈放され、名声をあげた。彼はなによりも孫文の忠実な信徒であり、民族主義の急進派であった。
一方、蒋介石は律義な軍人として孫文の信頼する人物だった。1925年、2人が師と仰いだ孫文が逝去すると、汪兆銘は満票で国民政府主席に選ばれ、蒋介石も汪の支持を背景に軍の主導権をにぎる。ここに汪・蒋時代がはじまったが、それは同時に2人の権力闘争のはじまりでもあった。
ところで、弱小勢力とはいえ共産党との関係は2人の争いに影をおとしていた。容共路線をとる汪と反共路線に走る蒋の溝は深まり、2人はしのぎをけずる。やがて、蒋が軍隊内の共産主義者を一掃したことをきっかけに、対立は決定的な局面をむかえる。だが汪が病気治療のために渡仏していた間に、蒋は国民革命軍総司令に就任し、国民党最大の実力者にのしあがった。やがて汪も蒋に同調し、反共に転じる。
この1927年の出来事までは、汪兆銘は決死の覚悟で事にあたり、孫文の後継者として活躍した人物と見なされていた。そこには、自分の命すら惜しまない「革命家」の姿がある。ところが反共路線を取る彼には、日本侵略者の傀儡(かいらい)となり下がった「漢奸」の姿が重なり、むしろそのイメージがふくらんでいくのである。
1930年代には日中関係は悪化の一途をたどる。やがて、重慶に政府を移した蒋介石は対日徹底抗戦を主張したが、汪兆銘はそれに異議を唱え南京に新政府を樹立する。というのも、彼は戦争によらない日中関係打開を模索していたからである。
「しかし今、政府は一般の人びと以上に高調を唱えている。政府が良心を隠して強硬なことを言うのなら、一般の人は何も馬鹿正直になる必要はありません。しかも、ちょっと発言しただけで、漢奸と言われてしまいます。(中略)その結果、人びとはますます真実を語らなくなりました。無責任とはこのことであり、亡国とはこのことである」(『汪主席和平建国言論集』)
1930年代における日中の国力・軍事力の差は歴然としていた。いったん戦火が広がれば、中国側が膨大な犠牲を強いられるのは火を見るよりも明らかだった。ならば、和平工作こそ賢明ではないか。汪兆銘の言い分はそこにあった。彼には、愛国者の道は中国人の犠牲をできるだけ少なくすることが肝要だったのだろう。反日分子に狙撃され重傷を負っても和平の道を模索したのだから、その姿には痛々しさがある。
ところで、中国側にも歴史の見直しの機運があるからとはいえ、劉傑『中国の強国構想』(筑摩書房)は「日本人が汪兆銘を愛国者と評価することはもちろんのこと、彼に示した理解と同情も、中国人から見れば、歴史への無責任と映るのかも知れない」と指摘する。
われわれ日本人には愛すべきエヒトロスであっても、中国人には憎むべきポレミオスであった。同国人のポレミオスとはやっかいなものだ。
汪兆銘
おう・ちょうめい 中華民国の政治家。1883年、清国・広東省に生まれる。1904年、日本の法政大学に留学。孫文の思想に同調し、革命家に。12年の中華民国建国後は孫文側近として活躍。25年の孫文死去後は国民党左派の指導者として、独裁色を強める蒋介石と対峙(たいじ)。37年の日中戦争勃発後、40年に日本の招きに応じて南京国民政府を樹立。44年、病没。 
南京大虐殺は実は「漢奸狩り」
日中戦争中及び戦争終結後には日本への協力の有無に関わらず、日本について「よく知っている」だけの中国人でも「漢奸」として直ちに処刑されたり、裁判にかけられた。また、日本に協力する者であれば漢民族でなくても「漢奸」と呼称した。この基準に照らせば、最も日本を研究し日本を一番知っていた蒋介石や対日戦略を立てていた何応欽、楊杰、熊斌など、中国側の中枢人物も「漢奸」に該当するという指摘もある。
日中戦争中の「漢奸狩り」
国民政府側の指導者である蒋介石は自軍が日本軍の前に敗走を重ねる原因を「日本軍に通じる漢奸」の存在によるものとして陳立夫を責任者として取締りの強化を指示し、「ソビエト連邦の GPU による殺戮政治の如き」「漢奸狩り」を開始した。
国民政府は徴発に反抗する者、軍への労働奉仕に徴集されることを恐れて逃走する者、日本に長期間移住した者などは、スパイ、漢奸と見なし白昼の公開処刑の場において銃殺したが、その被害者は日中の全面戦争となってから二週間で数千名に達し、国民政府が対民衆に用いたテロの効果を意図した新聞紙上における漢奸の処刑記事はかえって中国民衆に極度の不安をもたらしていたが、この大量虐殺によるテロ政策を連日続けていたため暴動の勃発は抑えられていた。前線に出た中国軍には掠奪など一切の暴虐が正式に許されていたが、中国軍兵士の掠奪に異議を唱えた嘉定県住民は漢奸として火焙りにより処刑されている。1937年9月の広東空襲に対しては誰かが赤と緑の明かりを点滅させて空爆の為の指示を出したとして、そのスパイを執拗に追求するという理解に苦しむことも行われ、一週間で百人以上のスパイが処刑された。
上海南市にある老西門の広場では第二次上海事変勃発後、毎日数十人が漢奸として処刑され、その総数は 4,000 名に達し、中には政府の官吏も 300 名以上含まれていた。処刑された者の首は格子のついた箱に入れられ電柱にぶらさげて晒しものにされた。上海南陶では 1 人の目撃者によって確認されただけでも 100 名以上が斬首刑によって処刑された。罪状は井戸、茶壷や食糧に毒を混入するように買収されたということや毒を所持していたというものである。その首は警察官によって裏切り者に対する警告のための晒しものとされた。戒厳令下であるため裁判は必要とされず、宣告を受けたものは直ちに公開処刑された。
南京における「漢奸狩り」
日中戦争初期に日本で発行された『画報躍進之日本』の中で、陥落前の南京における「漢奸狩り」が報告されているほか、『東京朝日新聞』、『読売新聞』、『東京日日新聞』、『ニューヨーク・タイムズ』も「漢奸狩り」について報道をおこなっている。
戦争が始まると漢奸の名目で銃殺される者は南京では連日 80 人にも及び、その後は数が減ったものの1937年11月までに約 2,000 名に達し、多くは日本留学生であった(当時南京にいた外国人からも日本留学生だった歯科医が漢奸の疑いで殺された具体例が報告されている)。
『画報躍進之日本』では「これは何らかの意図をもって特定の者にどさくさを利用して漢奸というレッテルを付けて葬るという中国一流の愚劣さから出ていた」との見方を示し、さらに「南京で颯爽と歩く若者は全部共産党系であり、彼らによってスパイ狩りが行われるため要人たちは姿を隠して滅多に表に出ることがなかった」と報告している。南京では軍事情報の日本側への伝達、日本の航空機に対する信号発信や国民政府が日本の軍艦の運航を妨げるために揚子江封鎖を行うとした決定を漏洩したことを理由とするにとどまらず、親日派をはじめ、日本人と交際していた中国人や少しでも日本のことを知るように話したり、「日本軍は強い」などと言うことを根拠として直ちにスパイと断定され処刑された。外国人も例えば日本の書籍や日本人の写っている写真を持っているだけでスパイの嫌疑を受け拘引されたことから、南京を脱出する外国人も出ていた。
行政院秘書であった黄月秋が最初に銃殺され、当時から日本側と頻繁に交渉していた外交部アジア司長高宗武、汪兆銘の腹心である曾仲鳴と褚民誼、実業家の周作民、許卓然などは監禁されるか生死不明となり、何澄など新聞記者 6 名(大公報 2 名、大美晩報 2 名、チャイナ・プレス 1 名、チャイナ・ウイークリー・レヴュー 1 名)が処刑された。『画報躍進之日本』ではこれらの「漢奸狩り」について、「このような人物たちは皆日本語に通じ、日本をよく知る者であったが日本によく抗議するのもその人物や新聞記者たちであり、日本を知っていると同時に愛国心の強い連中であったにも関わらず血祭りにするほどの逆上ぶりであった」と報告している。
南京攻略戦直前(1937年12月初め)の南京城内では毎日、漢奸狩りで捕えられ銃殺される者は数知れず、電柱や街角に鮮血を帯びた晒し首が目につかない場所はなかった。 南京攻略戦後には、日本軍に好意を持つものは漢奸として処分されることを示したポスターが南京市内いたるところで確認された
中国では日中戦争が本格化すると漢奸狩りと称して日本軍と通じる者あるいは日本軍に便宜を与える者と判断された自国民を銃殺あるいは斬首によって公開処刑することが日常化した。上海南市においても毎日数十人が漢奸として処刑され、その総数は4,000名に達し、中には政府の官吏も300名以上含まれていた。戒厳令下であるため裁判は必要とされず、宣告を受けたものは直ちに処刑され、その首は警察官によって裏切り者に対する警告のための晒しものとされた。上海 -支那事変後方記録-にそのナレーションがあった。中国政府の国民対策であったこのテロの効果を求めた新聞の漢奸処刑記事はかえって中国民衆に極度の不安をもたらした。 
 
第二次上海事変

 

1937年(昭和12年)8月13日から始まる中華民国軍の上海への進駐とそれに続く日本軍との交戦である。1932年(昭和7年)1月28日に起きた第一次上海事変に対してこう呼ぶ。上海戦(シャンハイせん)とも。
盧溝橋事件により始まった華北(北支)での戦闘は、いったんは停戦協定が結ばれたものの、7月25日の郎坊事件で停戦が破られると、26日の広安門事件で日本人に犠牲者が発生し、29日の通州事件(但し、当該事件は華北分離工作による日本の傀儡政権である冀東防共自治政府保安隊によって引き起こされた。)では民間人を含む230名が虐殺されたことにより、武藤章や田中新一ら拡大派が、石原莞爾や河辺虎四郎ら不拡大派を押し切った。この事件以後華中(中支)において交戦が拡大することになった。
背景
発生の背景には異見が色々あるので、主だった見解を挙げる。見解1は、中華民国総統の蒋介石の意向を述べた日本軍上海引き付け作戦であり、見解2は、見解1を含む当時の状況を総括した見解である。
見解1
この戦闘の背景には、蒋介石の、万里の長城以南の中国に対する統一を守る(蒋介石は現時点では満州における領土回復は後回しと考えていた)ために、日本軍を華北から撤兵に追い込むという戦略があった。このとき既に日本は華北分離工作によって華北にその影響力を強めており、これは国共内戦を戦う蒋介石にとっては国民の支持を得続けるためにも容認できない事態であった(←第二次上海事変時においては、西安事件が起きた後であり、国共合作は事実上成立している)。
この戦略の基礎となったのが1930年代における中独合作である。1934年からドイツの中国国民党への投資が続いており、ドイツ製の軍需物資が輸出され、ドイツ軍事顧問団の指導により、大陸沿岸と揚子江には砲台が築かれ、第一次世界大戦型の要塞線「ゼークトライン(チャイニーズヒンデンブルクラインとも)」が上海の西方の非武装地帯に上海停戦協定を違反して盧溝橋事件以前から築かれていた。又、継続的に参謀も派遣され、当時ドイツからの軍事顧問として国民党で働いていたファルケンハウゼンの計画にそって、国民党軍は上海租界を攻撃し、日本軍を要塞線にひきつけようとした。
この作戦は、上海に駐留する日本軍を攻撃により挑発して要塞線で出血を強いる事で、日本国内の対中干渉世論を転換させる事が目的であった。第一次世界大戦で得られた軍事的経験に従えばこれはあまり冒険的でない作戦計画であり、だからこそ蒋介石も採用したと思われる。
中国軍はドイツ製の鉄帽、ドイツ製のモーゼルM98歩兵銃、当時世界一といわれたチェコ製の軽機関銃などを装備し、火力では日本軍をはるかに上回り、第36師、第87師、第88師、教導総隊などはドイツ軍事顧問団の訓練を受けていた。1934年(昭和9年)、上海・南京間の陣地構築が始まり、1936年には陣地構築が急ピッチで進んだ。福山と呉県の間(呉福線)、江陰と無錫の間(錫澄線)、呉淞と竜華の間(淞滬線)、呉県から嘉興を通って乍浦鎮の間(呉福延伸線)にトーチカ群が設置された。
ゼークト大将とファルケンハウゼン中将は戦術だけでなく、戦争指導にまでかかわり、対日敵視政策、対日強硬策を蒋介石に進言した。ファルケンハウゼンは中国の敵は日本が第一、共産党を第二と考え、昭和10年(1935年)10月には、漢口と上海にある租界の日本軍を奇襲することを提案し、昭和11年(1936年)4月には、いまこそ対日開戦のチャンスだと進言した。
見解2
前月7月7日に起きた盧溝橋での日中両軍の衝突は停戦協定で収まるかにみえたが、その後も中国各地で日本(軍)への抗日・排日・反日行為は続いた。直後の7月10日蒋介石は蘆山会議を経て、徐州付近に駐屯していた中央軍4個師団に11日夜明けからの河南省の境への進撃準備を命じた。7月16日には中国北部地域に移動した中国軍兵力は平時兵力を含めて約30個師団に達している。アメリカはこの行動を非難し、地方的解決をもとめている。一方、日本軍は日本政府の事態の不拡大政策に基づき事態の沈静化に努め、8月3日には天津治安維持委員会の高委員長に被災した天津のための救済資金十万元を伝達している。しかし、8月12日未明には中国正規軍が上海まで前進し、国際共同租界の日本人区域を包囲した。翌8月13日には商務印書館付近の中国軍が日本軍陣地に対し機関銃による射撃を開始、小規模な戦闘が勃発した。さらに中国軍は空襲を加え、8月14日には上海地区の警備司令官である張治中が率いる中国政府軍が航空機により日本軍艦艇を攻撃。日本政府は国民党軍が上海において日本側に対しての砲撃、さらに日本の軍艦に対しての爆撃まで行ったことから、それまで日本が取っていた事態の不拡大政策を見直し、8月15日未明、「支那軍膺懲、南京政府の反省を促す」との声明を発表した。このように中国政府軍による上海攻撃の結果、日中両軍は全面戦争に突入した。この背景には、共産軍解散を目論んでいた蒋介石が先の西安事件によって捕らえられ方針を変えざるを得なくなったことがあった。蒋はソ連と不可侵条約を結び(8月21日)、共産党と妥協して統一戦線を作った(9月22日世に言う第二次国共合作)。
国民政府軍の精鋭部隊は上海から南京に続く約4ヶ月の戦闘で殆ど壊滅状態になり、政府軍はその後の共産党との内戦にも敗れることになった。 
当時の上海
当時の上海はフランス租界、日英米の共同租界、上海特別市の三行政区域に分かれていた。自国民を守るため、米軍2800人、英国軍2600人、日本海軍陸戦隊2500人、仏軍2050人、伊軍770人がいた。
大山事件
1937年8月9日夕刻に起こった、上海海軍特別陸戦隊中隊長の大山勇夫海軍中尉(海軍兵学校第60期卒業、死後海軍大尉に特進)が殺害された事件である。中国側からは「虹橋空港事件」と呼ばれる。 日本側は、これを中国軍のしわざだと考え、この事件が第二次上海事変のきっかけの一つになった。
大山事件発生まで
1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件を発端に、同月28日に至り日中両軍は華北において衝突状態に入った(北支事変)。上海では1932年(昭和10年)ごろから中国軍と日本軍の関係はかなり険悪であった。1935年11月9日には19路軍の支援を受けて日本の勢力を利用して蒋介石政権を打倒を図ろうと活動していた秘密結社によって中山水兵射殺事件が引き起こされ、1936年9月23日にも上海日本人水兵狙撃事件が引き起こされていた。1937年7月24日夜、宮崎貞夫一等水兵が中国人に拉致されたと在留邦人から報告されると日本側の対応は早く、上海特別陸戦隊は警備配置につき、調査を開始したが、これに対し中国保安隊は日本側に対抗するように要所ごとに土のうを積上げ、鉄条網を張り巡らすなどした。上海市長である兪鴻鈞が直ちに岡本季正上海総領事に連絡を取った。第一次上海事変後、停戦協定により中国軍は上海中心地への駐留が禁止され、3200人ほどの保安隊だけが認められていたが、先制攻撃が勝利への唯一の道と考えている中国軍は、7月下旬から、保安隊や憲兵隊に変装した兵隊を閘北に入りこませ、一帯には土嚢を積み、戦闘準備を着々と進めた。このため8月に入ると、自国の保安隊の動きに不安を煽られた上海市民は第一次上海事変を想起し、共同租界地やフランス租界地へ避難し出し、その数は一日に二万人とも五万人ともいわれた。
日本側はこの事件に即応したが、宮崎の逃亡の可能性を疑い、7月25日の午前4時には警戒配備を終了し、中国側も防備を撤収している。後に、宮崎は買春行為として軍紀違反の発覚を恐れて逃亡しただけであったという真相が明らかになった。
早期の時局収拾を目指した日本は船津辰一郎元上海総領事を上海へ派遣したが大山事件によって情勢が緊迫してゆくことになった。
事件発生
1937年8月9日夕刻に起こった、上海海軍特別陸戦隊中隊長の大山勇夫海軍中尉(海軍兵学校第60期卒業、死後海軍大尉に特進)が殺害された事件である。中国側から「虹橋空港事件」と呼ばれる。
この日も日本と中華民国の間で盧溝橋事件以来続いていた、日華間の緊張を改善させるための閣僚級会談が開かれていた。事件は、8月9日の午後6時半頃、大山中尉が斎藤與蔵一等水兵を運転手として、当時の虹橋空港の辺、上海共同租界のエクステンション(国際的な自由通行路)であったモニュメントロード(日本側呼称「記念通り」、中国側呼称「碑坊路」)において、中国保安隊(平和維持部隊)の隊員との間で起きている。 
日本側の報道
日本海軍特別陸戦隊午後九時四十五分発表を報道した『上海朝日特電8月9日発』では次の様に書かれている。
陸戦隊第一中隊長海軍中尉大山勇夫は一等水兵斉藤要蔵の運転せる自動車により本日午後五時頃上海共同租界越界路のモニュメント路(碑坊路)通行中、道路上にて多数の保安隊に包囲せられ次いで機銃小銃等の射撃を受け無念にも数十発の弾丸を受けて即死した。現場を検視するに頭部腹部には蜂の巣の如くに弾痕があり、自動車は前硝子が破壊せられ車体は数十発の機銃弾痕あり無法鬼畜の如き保安隊の行為を物語っている。右のモニュメント路は共同租界のエキステンションであり各国人の通行の自由のある所であるに拘らず、支那側は最近上海の周囲に公然と土嚢地雷火鹿柴などの防禦施設を構築し、夜間は兵力を以て勝手に通行を禁止し昼間にても通行人に一々ピストルを突き付けて身体検査するなどは明かなる停戦協定無視なるのみならず、共同租界居住各国人に対する侮辱である、支那側の無法なる抗日の公然たる挑戦行為である。なお同自動車の運転員一等水兵斉藤要蔵は座席に多量の血痕を残せるままいずこにか拉致されたものの如くである。帝国海軍陸戦隊は厳重に支那側の不法に対する責任を問うと共に厳正なる態度を以て徹底的解決を期せんとす。なお同中尉は軍服であったことを付記する。
1937年8月11日の『東京朝日新聞』では、前日の日中合同調査(後述)を受けた海軍省からの発表を元に、中国側から銃撃を受けたこと、大山中尉は武器を所持していなかったこと、中国側に停戦協定違反があったことなどが報じられた。
中国側の報道
『大公報』1937年8月10日号は次のように報道している。
8月9日午後5時半、日本海軍将兵2名が自動車に乗り虹橋飛行場に来て、場内に進入しようとした。飛行場の衛兵はこれを阻止しようとしたところ、日本軍側は発砲し始めた。衛兵は、日本軍とのトラブルを避けるように注意を受けていたので、これに反撃せずに退避していた。ところが、付近の保安隊が銃撃を聞きつけ出動した。これに対し、日本軍側がさらに発砲を行ったことで銃撃戦となり、保安隊員1名と日本人1名がその場で死亡し、日本人1名が重傷の後死亡した。
張治中工作説
作家ユン・チアンとイギリス人歴史学者ジョン・ハリデイの夫婦は、大山事件は張治中による工作とみている。
8月9日、張治中は蒋介石の許可なしに上海飛行場の外で事件を仕組んだ。張治中が配置しておいた中国軍部隊が日本軍海軍陸戦隊の中尉と一等兵を射殺したのである。さらに一人の中国人死刑囚が中国軍の軍服を着せられ、飛行場の門外で射殺された。日本側が先に発砲したように見せかける工作である。
なお同書によれば、張治中はソ連のスパイでもあったという。 
事件後の動き
この事件によって大山中尉、斎藤水兵が死亡した。この事件の報告を受け、兪上海市長は岡本上海総領事に、周珏外交部秘書は日本海軍武官本田に問い合わせをした。日本側は日本軍将兵が虹橋飛行場に行くはずがないと主張した。なお、事件発生直後、日本人武官が現場に赴き、保安隊中国人の死体がないことを確認しているため、その死体は後で運んだことや事件現場も飛行場から300メートルの地点であることから飛行場に向う意志のなかったことも明らかであった。
8月10日に日中共同の公式調査が行われた。日本上海領事および駐在武官・上海特別陸戦隊参謀・上海市政府秘書長・警備部司令部副官・上海工部局局員(英国人)等が参加した。中国側の直接関係者(射撃を行った保安部隊)に関した調査は出来なかった。その結果次のことが判明した。
大山、斉藤の両名は機銃弾がその頭部を貫通したことが致命的であること、大山は全身に30発以上の銃弾が打ち込まれていたこと、その他の弾痕を含む外傷は中国側が苛虐的に加えたものであること
死亡した中国保安隊員の死亡は機銃弾によるもので背中から2発を打ち込まれて即死していたこと、及び当時大山は拳銃を携帯せず、斉藤も拳銃を肩に掛けながら陸戦隊自動車を運転していたことから中国人同士撃ちであることがはっきりした
これらのことから中国側が主張した日本側から先に発砲した事実はなく、中国側が射撃を行い、両名の死体を侮辱する行為をおこなったことが明らかであること
なお中国側は使用が禁止されていたダムダム弾を使用し、この死体検死についても中国側は承認した。この間、中国側の主張は二転三転したが、日本側は車体の弾痕が遠距離・近距離入り乱れていることなどからも、保安隊が待ち伏せをし奇襲を行ったと断定した。また、大山は全身に30発以上の銃弾を打ち込まれた後、死体に対し頭部・腹部などに刃物・鈍器により損傷を与えたと検分された。また彼の靴、札入れ、時計などの貴重品が奪われたと日本の新聞は報じた。
同日、上海のノルウェー総領事アールは、在上海各国領事に対し領事団会議を開催することを求めた。当初、日本総領事岡本は固辞したものの、再三の要請により出席することになった。この会議で日本代表が事件の詳細を発表し、中国保安隊は国際租界とフランス特権区域に接する地域から一次的に撤退すべきであると提案した。英米仏伊代表は上海付近に戦禍を波及しないよう日中両国に希望することで決議をなし、上海市長へも伝達するとした。
同日、閣議で海軍側より陸軍に派兵要請を行い、4相会議で派兵が決定したが、これを受け、海軍の長谷川清中将は国際租界内の海軍司令部に対し、平静を保つように命令した。またこの日には、海軍陸戦隊には上陸命令はだされなかった。
8月11日、上海市長が日本領事に電話をかけ、「自分は無力で何もできない」と通報した。危機を感じた日本は同日夜、陸戦隊1支隊を予防のために上陸させた。
8月12日未明、中国正規軍本隊が上海まで前進、中国軍の屈指の精鋭部隊である第87師、第88師などの約3万人が国際共同租界の日本人区域を包囲した。日本軍の上陸に備えて揚子江の呉淞鎮と宝山にも約1千名を配置した。対する日本軍は、上海陸戦隊2200、漢口から引き揚げてきた特別陸戦隊300、呉と佐世保から送られた特別陸戦隊1200、出雲の陸戦隊200、他320の計4千人あまりであった。このため、日本領事は国際委員会を再び招集し、中国軍の撤退を要求した。しかし上海市長は中国は既に侵略をうけているとの声明を発表し、最後に喩市長は、中国軍は攻撃されない限りは攻撃しないと、中国政府として認められるのはせいぜいそれ位だと断言した。一方日本は上海近辺での中国の派兵の全ての責任は中国側にあるとした。午後5時50分、日本海軍の第3艦隊が軍令部に、陸軍派兵を要請する電報を打った。午後8時40分、「動員が下されても到着まで2週間かかる。なるべく戦闘正面を拡大しないように」という電報が東京から返ってきた。 
上海での戦闘
宣戦布告について
第二次上海事変の間、両国は互いに宣戦布告を行っていない。日本は米国からの資源輸入、中華民国も米国など中立国からの軍事援助を維持するために、それぞれ宣戦布告をするわけにはいかないという皮肉な事態があった。中華民国が日本に宣戦布告したのは、日本が米国および英国に宣戦布告した翌日の1941年12月9日であった。
戦闘の経過
8月13日午前10時半頃、商務印書館付近の中国軍は日本軍陣地に対し機関銃による射撃を突然開始している。日本の陸戦隊は応戦したが不拡大方針に基づいて可能な限りの交戦回避の努力を行い、また戦闘区域が国際区域に拡大しないよう、防衛的戦術に限定したほか、中国軍機が低空を飛行したが陸戦隊は対空砲火を行わなかった。列強各国の調停の申し出を期待したためである。
午後4時54分には、八字橋方面の中国軍が西八字橋、済陽橋、柳営路橋を爆破、砲撃を開始し、日本軍は応戦した。午後5時には大川内上海特別陸戦隊司令官が全軍の戦闘配置を命令し、戦闘が開始された。
この日には英米仏の各領事は日中双方に申し入れを行い、上海での敵対行動を回避する為に直接交渉を行うことを勧めた。また、回避案として以下を提案した。この提案原文が東京に届いたのはこの日の深夜であった。
1.中国軍は国際共同租界とフランス特権区域から撤退する。
2.日本軍は国際租界から撤退する。
3.中国軍撤退地域は多国籍軍が治安維持を行う。
長谷川清海軍中将(海軍上海特別陸戦隊及び第三艦隊司令長官)は、当初戦争回避を考えていたが、7月からの華北での戦火拡大から考えて、中国軍はすでに開戦を意図していると察した。そこで主戦論に切り替えて、5個師団の増援を日本政府に要求した。しかし政府は華北の収拾に気をとられ、1個師団の増援にとどまった。
13日午後9時頃から国民党軍が帝国海軍上海特別陸戦隊への総攻撃を開始し戦闘に突入した。当時、上海居留民保護のため上海に駐留していた陸戦隊の数は多めに見ても5千人であったのに対し、国民党軍はすでに無錫、蘇州などですでに20万人以上が待機していた。同日夜には日本海軍が渡洋爆撃命令を発令している。
8月14日には日本艦艇をねらったとされる国民党軍機による空襲(後述)が開始された。この爆撃によって周辺のフランス租界・国際共同租界に投下された爆弾はパレス・ホテルとキャセイ・ホテル(en)前の路上に着弾し、729人が即死し、861人が負傷した、31分後には婦女子の避難所となっていた大世界娯楽センターに爆弾が落ち1,012人が死亡し、1,007人が負傷した。民間人3000人以上の死傷者が出た事に対し、国民党政府は遺憾の意を表明した。しかし、租界への爆撃、もしくは誤爆はその後も発生した。又、国民党系メディアが爆撃は日本軍機によるものであると誤った内容の報道をしたこともあった一方、前日の渡洋爆撃命令を受けて、日本海軍も台湾の航空基地より爆撃機を飛ばして、杭州や広徳を爆撃している。九州から南京への渡洋爆撃も予定されていたが、九州の天候が悪かったため延期された。
同じく14日、上海租界内の帝国海軍上海陸戦隊が国民党軍の攻撃にさらされる。しかし、この攻撃は国民党軍が砲を随伴しなかった(もしくは保有しなかった)ため失敗に終わり、日本軍の反撃を招いた。重火器の欠乏から18日には国民党軍は攻撃を停止する。
日本政府は、国民党軍が上海において日本側に対しての砲撃、さらには日本の軍艦に対しての爆撃まで行ったことから14日夜から緊急閣議を開き、それまで日本側が取ってきた事態の不拡大政策を見直し、8月15日未明、「支那軍膺懲、南京政府の反省を促す」との声明を発表した。第3師団と第11師団に動員命令が下り、上海派遣軍が編制され、松井石根大将が司令官となる。日本海軍は、前日に延期された九州から南京への航空機による渡洋爆撃をこの日より開始し、戦闘の激化と共に飛行機を輸入に頼る国民党軍を駆逐し、上海周辺の制空権を掌握していく。
第87師、第88師の2個師であった中国軍は、15日になると、第15師、第118師が加わり、17日には第36師も参戦し、7万あまりとなった。日本側は、横須賀と呉の特別陸戦隊1400名が18日朝に、佐世保の特別陸戦隊2個大隊1000名が19日夜に上海に到着し、合わせて約6300名となった。
8月18日、英政府が日中両国に対し、「日中両軍が撤退し、国際租界とその延長上の街路に居住する日本人の保護を外国当局に委ねる事に同意するならば、英政府は他の列強諸国が協力するという条件の下で責任を負う用意がある」と通告した。仏政府はこれを支持、米政府もすでに戦闘中止を要求していた。
しかし、既に本格的な戦闘に突入していた日本政府は、これを拒否。国民党政府が協定違反による開戦意思を持っている以上、日本はそれと対決する以外ないと判断し、日本は全面戦争への突入に踏み込んだ。このときまでに、各国の租界の警備兵は大幅に増強され、各地域はバリケードで封鎖して中国軍と対峙したが、中国軍も列強と戦争を行うつもりは無かったので、租界への侵入は行わなかった。日中の衝突が列強の即得利益を脅かしかねないと感じた列強各国はこの事件において中立を表明した。
8月21日、中華民国とソビエト連邦の間で中ソ不可侵条約が締結された。ソ連は直ちに飛行機四、五百機と操縦士および教官を送り込んだ。
8月19日以降も中国軍の激しい攻撃は続いたが、特別陸戦隊は10倍ほどの精鋭を相手に、大損害を出しながらも、租界の日本側の拠点を死守した。蒋介石は後日、「緒戦の1週目、全力で上海の敵軍を消滅することができなかった」と悔やんだ。
8月23日、上海派遣軍の2個師団が、上海北部沿岸に艦船砲撃の支援の下で上陸に成功した。支援艦隊の中には、第六駆逐隊司令官として伏見宮博義王中佐も加わっていた。9月上旬までには上海陸戦隊本部前面から中国軍を駆逐する。同時期に中国側は第二次国共合作を成立させ、日本側は華北で攻勢に出るなど、全面戦争の様相を呈した。しかし、中国軍の優勢な火力とドイツ軍事顧問団によるトーチカ構築と作戦によって、上海派遣軍は大苦戦し、橋頭保を築くのが精いっぱいで、上海市街地まで20キロかなたの揚子江岸にしばられた。中国軍の陣地は堅固で、中国兵は頑強だった。依然として、特別陸戦隊は数倍の敵と対峙しており、居留民の安全が確保されたわけはなかった。このため、8月30日には海軍から、31日には松井軍司令官から、陸軍部隊の増派が要請された。
石原莞爾参謀本部第1部長一人が不拡大を名目に派兵をしぶっていたが、9月9日、台湾守備隊、第9師団、第13師団、第101師団に動員命令が下された。9月末までで第11師団は戦死者1560名、戦傷者3980名、第3師団は戦死者1080名、戦傷者3589名であった。9月27日、石原部長の辞職が決定した。
10月上旬、大場鎮の5キロ手前の呉淞クリークまで進んだが、中国軍の激しい抵抗に、呉淞クリークを越えて1キロ進むのに10日もかかる有様であった。10月18日には5個師団と1支隊の戦死傷者は22082名に達した。
10月9日、3個師団を第10軍として杭州湾から上陸させることを決定した。
10月10日、上海派遣軍はゼークトラインに攻撃を開始、2日後には各所で突破に成功した。10月26日、上海派遣軍は最大の目標であった上海近郊の要衝大場(Dachang)鎮を攻略し、翌27日、「日軍占領大場鎮」というアドバルーンを上海の日本人街に上げた。大場鎮を落として、上海はほぼ日本軍の制圧下になったが、中国軍は蘇州河の南岸に陣地を構えており、第3師団と第9師団は強力なトーチカのため、進めなかった。
11月5日、上海南方60キロの杭州湾に面した金山衛に日本の第10軍が上陸した。上陸しても、中国軍の攻撃はほとんどなかった。翌6日、「日軍百万上陸杭州北岸」というアドバルーンが上海の街に上げられると、蘇州河で戦っている中国軍は、第10軍によって退路が絶たれるかも知れず、大きく動揺した。11月9日、中国軍は一斉に退却し始めた。後方にあった呉福線や錫澄線の陣地は全くの無駄になった。
日本側は3ヶ月で戦死者10076名、戦傷者31866名、合わせて41942名の死傷者を出し、日露戦争の旅順攻略にも匹敵する凄残な消耗戦であった。
中国軍退却
日中戦争において中国側国民革命軍は堅壁清野と呼ばれる焦土作戦を用い、退却する際には掠奪と破壊が行われた。中国軍が退却する前には掠奪を行うことが常となっていたため掠奪の発生により実際は11月9日となった中国軍の退却が予測された。中国政府は「徴発」に反抗する者を漢奸として処刑の対象としていたが、あるフランス将兵によると彼は中国の住民も掠奪されるばかりではなく、数が勝る住民側が掠奪する中国兵を殺害するという光景を何回も見ている。中国側の敗残兵により上海フランス租界の重要機関が放火され、避難民に紛れた敗残兵と便衣兵に対処するためフランス租界の警官が銃撃戦を行うという事件も起きた。上海の英字紙には中国軍が撤退にあたり放火したことは軍事上のこととは認めながら残念なことであるとし、一方中国軍の撤退により上海に居住する数百万の非戦闘員に対する危険が非常に小さくなったとして日本軍に感謝すべきとの論評がなされた。
日本軍の南京進撃
10倍近い敵軍を壊走させた上海派遣軍は、10月20日に編成された第10軍(柳川平助中将)とともにすかさず追撃に入った。また、平行追撃と同時に敗軍の追討のために南京を攻略する構えを見せた。当初、参謀本部は和平交渉を行う為の相手政府を失う恐れから、南京進撃を中止するよう下令したが、のちに現地軍の方針を採用し南京攻略の独走を追認した。
ファルケンハウゼンは、要塞線が突破された時点で南京からの撤退を主張したが、蒋介石が南京での防衛戦にこだわったため、多くの兵力や市民が南京周辺で日本軍に包囲された。
海外メディアの報道
1937年8月30日のニューヨーク・タイムズでは一連の事件について「日本軍は敵の挑発の下で最大限に抑制した態度を示し、数日の間だけでも全ての日本軍上陸部隊を兵営の中から一歩も出させなかった。ただしそれによって日本人の生命と財産を幾分危険にさらしたのではあるが…」と上海特派員によって報じた。 またニューヨーク・ヘラルドトリビューン紙は9月16日に「中国軍が上海地域で戦闘を無理強いしてきたのは疑う余地は無い」と報じている。
国民党軍機による上海空爆
上海攻略に当たる日本軍にとって、最新鋭の戦闘機を揃えた中国の空軍戦力は侮りがたいものであった。戦力を無力化すべく、当時木更津・鹿屋航空隊に配備されていた最新鋭の96式陸上攻撃機38機の投入を決定、両航空隊をして第1連合航空隊を結成した。8月8日に九州・鹿屋航空隊所属の陸攻が本拠地を離れ、台湾に進出。これに先んじて中国空軍も南昌に集中する9個大隊の戦闘配置命令を下し、5日に空軍戦力を各地に分散させた。しかし、台風によって両者は睨み合いのまま足取りを阻まれていた。
13日、第三艦隊の長谷川長官は第1連合航空隊および大連港の加賀、鳳翔、龍驤に出撃命令を下したが、三隻ともに台風のため身動きが取れない状況となっていた。一方、中国空軍司令周至柔(中国語版)は同日に「空軍作戦第一号令」を発動。これは上海に上陸した日本軍、および長江に展開する日本艦艇を爆装した空軍戦力をして壊滅させる計画であった。
14日早朝、続く「空軍作戦第二号令」を受けた第3大隊の許思恩率いる五機のヴォート V92「コルセア」が筧橋を発進、続いて8時40分、大隊長張廷孟および副大隊長孫桐崗少校率いる空軍第2大隊所属のアメリカノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機(en)21機が安徽省の広徳基地を飛び立ち、上海へと向かった。10時30分、襲款澄率いる第11中隊6機が黄浦江にいた日本の第三艦隊の旗艦装甲巡洋艦「出雲」上空に飛来し、うち3機が11時22分、250キロ爆弾6発を投下。しかし雲によって照準が定まらず、5発は川に落ちて巨大な水柱を起こし、残り1発は、ジャーディン・マセソン社の倉庫に当たる。出雲ともう1隻の軽巡洋艦「川内」は高射砲の一斉射撃2回で援護しながら各々艦載機(九五式水上偵察機)を飛ばした。
同日午後4時、南からアメリカ製のカーチス・ホークIIを主力とする中国軍爆撃機の中隊が飛来し、フランス租界と国際共同租界を横切って再び日本の軍艦への攻撃を開始、日本側は高射砲の射撃を続ける。10機の中国軍爆撃機が雲の内外を飛び回り、迎撃する2機の日本軍機は常に空中にいたが、射程距離に到達するには速度が遅く、目標に達するために旋回と出直しを繰り返す。
やがて1機の中国軍爆撃機から2つの爆弾がチベット通りが国際共同租界とフランス租界との境界線であるエドワード7世大通りと交差する場所に落とされる。直ちに巨大な炎が起こり、激しい爆発となり、450人の命を奪い、5人の外国人を含む850人を傷つけ、12台の自動車を破壊。さらにもう一対の爆弾がキャセイホテルとパレスホテルの間に落とされる。爆発で12人の外国人を含む数百人以上が死傷。
およそ1,000ポンドの重さだったと見られる爆弾が半径50メートルの範囲を壊滅させた。犠牲者の大部分は、その服は完全に引き剥がされ、体はバラバラにちぎれた。遅延起爆型と思われるひとつの爆弾はその爆発力による周囲への損害は限定的ながらコンクリート、石敷、及び固めた地面の層を通して通りに幅3メートル、深さ2.4メートルのクレーターを造った。
中国軍爆撃機の攻撃は黄浦江の呉淞近くにいたイギリス海軍重巡洋艦「カンバーランド(Cumberland)」及び合衆国アジア艦隊旗艦である重巡洋艦「オーガスタ(Augusta)」の2隻にも向けられた。爆撃機2機の急降下はカンバーランド上空で行われたが、パイロットによる水平飛行への移行操作が早すぎ爆弾を誤った方向に向けたため攻撃は失敗。中国軍機は悪天候のため両方の艦船を日本の艦船と間違えたと判断し、どちらの艦からも発砲はなかった。
日本艦の対空砲火により中国軍機は爆撃には高すぎる場所にいることを強いられ、その爆弾を目標近くに落下させることができなかった。しかし、ひとつの爆弾は黄浦江の浦東側のアジア石油社の設備に当たり、一晩中燃え続ける火災を起こした。この日の戦闘において日本軍の艦載機と艦船の高射砲により中国軍機3機が落とされている。
この事件については租界に関係する各国が中国側に空爆の抗議を行った。翌15日夕刻には上海のフランス租界工部局はフランス租界上空に中国軍航空機が進入することを許さず、そのような場合には有効適切な処置を取ると発表し、16日にはフランス租界上空を通過した中国軍航空機に対してフランス駐屯軍は高射砲の一斉射撃を行った。
一方同日、日本海軍は台湾の航空基地より九六式陸上攻撃機6機を飛ばし、杭州や広徳へ爆撃に向かわせた。しかし周家口より飛び立った高志航上校率いる第4大隊がこれを迎撃。空中戦における中国空軍初の戦果となった。この事から、8月14日は中華民国空軍の記念日「空軍節」に指定された。1955年に三軍共通の軍隊記念日「軍人節」が制定されたが、現在でも台湾空軍ではこの日に盛大なイベントを催している。
日本人居留民の保護
日本海軍特別陸戦隊中隊長の大山勇夫海軍中尉が殺害され、中国軍は3万の軍で上海の租界を包囲し、対する日本は陸戦隊わずか4000人であった。日本領事館は在留日本人を小学校や歌舞伎座、旅館、東西本願寺に避難させた。8月13日午前10時30分、商務印書館付近の支那保安隊が日本の特別陸戦隊に機銃掃射を浴びせ、日本軍はできるだけ交戦を避けようとしたが、午後5時54分、八字橋から支那軍が急襲した。これは爆破を伴う本格的なもので、陸戦隊は遂に反撃を開始した。上海ではドイツ軍事顧問団の訓練を受け、ドイツ製などの最新の兵器を持った中国軍に対して寡兵の陸戦隊が奮戦した。八字橋では10倍の敵に対して5時間にわたって戦い、支那八十八師を撃退した。日本人居留民はどんどん引き揚げたが、日本人婦女子を含む230名が強姦・虐殺された通州事件が再現されるかもしれないとの恐れから、残っているひとりひとりの邦人に警備がつけられ、汽船やブロードウエイマンションに避難された。それでも800名の婦女子が特別陸戦隊の炊き出しに従事し、残った男子は土嚢作りを手伝い、のべ5万個も作った。 
漢奸狩り
中国では日中戦争が本格化すると漢奸狩りと称して日本軍と通じる者あるいは日本軍に便宜を与える者と判断された自国民を銃殺あるいは斬首によって公開処刑することが日常化した。上海南市においても毎日数十人が漢奸として処刑され、その総数は4,000名に達し、中には政府の官吏も300名以上含まれていた。戒厳令下であるため裁判は必要とされず、宣告を受けたものは直ちに処刑され、その首は警察官によって裏切り者に対する警告のための晒しものとされた。上海 -支那事変後方記録-にそのナレーションがあった。中国政府の国民対策であったこのテロの効果を求めた新聞の漢奸処刑記事はかえって中国民衆に極度の不安をもたらした。
督戦隊に監視される中国軍部隊
中国軍(国民革命軍)では督戦隊が戦場から退却する中国兵に銃撃を加えた。このため日本軍と交戦した中国軍の部隊が退却する際には督戦隊との衝突が何度も起きた。特に10月13日午後楊行鎮方面呉淞クリーク南方に陣を構えていた第十九師(湖南軍)の第一線部隊と督戦隊は数度の激しい同士討ちを行った。これは戦場に到着した第十九師の部隊が直ちに日本軍との第一線を割り当てられ、そこにおいて日本軍の攻撃を受けて後退した際に後方にあった督戦隊と衝突したものである。日本軍と督戦隊に挟まれた第十九師の部隊は必死に督戦隊を攻撃し、督戦隊も全力で応戦したため、数千名に及ぶ死傷者を出している。10月21日中国の軍法執行総監部は督戦隊の後方にさらに死刑の権限を持った督察官を派遣して前線将兵の取締りを行うとの発表を行っている。
上海南市難民区
上海に住むフランス人のカトリック教会ジャッキーノ神父は南市の30万人余の中国人住民のため大規模な避難区域を計画し、これを日中双方に提示し了承された。南市難民区はフランス人3名、イギリス人1名、スウェーデン人1名から成る南市避難民救助国際委員会が設置され、区域内に武器を携帯する者が在住しないことを宣誓し、日本側は区域内の非戦闘性が持続する限り攻撃しないことを約束した。この件は上海市長の受諾をもって1937年11月9日正午から正式に認められた。
評価と解説
東中野修道は、日中戦争は日本が土足で侵略したのでなく、第二次上海事変で中国が先に日本人居住の租界地を襲撃した事で全面戦争となった事についてあまり知られていない事を批判し、また、日本人租界区を警護した少数の日本兵がその何十倍の中国軍に襲撃される事を『横須賀の米軍が過激派に襲われたら反撃する』と解説した。
自衛隊の航空幕僚長だった田母神俊雄は演説でこの事件を触れていない風潮を批判しており、蒋介石軍の攻撃を『米軍基地に自衛隊が攻撃を仕掛け、アメリカ兵及びその家族などを暴行、惨殺するようもの』と述べている。
櫻井よしこは中独合作でドイツは国民党に多くの軍事顧問を入れ中国は自国のタングステンなど希少金属を提供しているような緊密な中独武器貿易があった事があまり知られていない事実を指摘している。
チャンネル桜の水島総は、自身が製作した映画『南京の真実』の中で記録映画を解説付きで説明している。
通州事件とともに第二次上海事変は日本人居留民とその保護の陸戦隊を襲撃する事件として、不拡大方針から『暴支膺懲』のスローガンが掲げられる一因であり、後に日本軍による重慶爆撃が行われるが、この事件についてはあまり触れられず日本の歴史教育で触れられる事は少ない。
日中両国とも歴史教育では多くが戦争の発端を盧溝橋事件と教えており、中国では抗日記念館の中で盧溝橋事件であると強調し、第2次世界大戦の際の無差別爆撃でもこの事件を触れていない事もある。また現在国民党政府が支配する台湾でも、盧溝橋事件を強調している。
参謀本部第二部の欧米班にいた杉田一次少佐は、「ドイツが早くより有力な軍事顧問団を中国に派遣し、長期に亙って軍事援助を行い、日本を相手とする国防充実に手を貸していたことに日本は無知であった」と述べている。 
補足
上海海軍特別陸戦隊本部国民党軍は日本軍に比べて弱体であったと思われがちだが、当時ドイツと国民党は中独合作と呼ばれる軍事協力を行っており、上海攻撃に参加した国民党軍はチェコやドイツ製の強力な機関銃などを装備していた。しかしながら補給や戦略予備の投入に関する関心は日本軍のそれよりも更に低く、各軍が連携出来ないまま突破・包囲されたと考えられる[誰によって?]。
同盟通信の松本重治上海支社長が「上海の戦いは日独戦争である」と月刊誌『改造』に書いた記事は、その部分は削除されて掲載された。
市街の守備が不可能になった時点で軍は撤退し、市長が敵軍に降伏交渉を行う。占領軍も市街攻略・防御には多大な犠牲が軍民に伴うためにこれを容認するのが普通である[誰によって?]。
1996年には上海事変時における中国人による日本人捕虜の虐待写真がCNNで紹介された。小林よしのりの「戦争論」でこの事件は触れられている。
在上海日本国総領事館は2005年の反日デモから4ヵ月後の8月に、反日抗議活動を目的とするインターネットの書き込みサイトで、8月15日に中国各地の大都市でデモを行うとの呼びかけがあった「反日デモ」が行われる可能性があるとして、注意を呼びかけている。第二次上海事変(中国では「8・13事変」)があった8月13日もそのデモ活動の対象とされている。また中国政府公式対外宣伝刊行物の『南京大虐殺写真集』の目次では『日本軍は軍拡をすすめ戦争準備をし、侵略戦争を計画する。瀋陽にて「満州事変」勃発、日本は満州を侵略する。盧溝橋にて「北支事変」勃発、日本は華北を侵略する。日本軍は第二次上海事変を起こし、上海へ出兵する。』と述べられている。
1927年の南京事件では、これと似たように外国総領事館を襲い、各国の居留民7名を殺害し、それにより中国は米英軍に居留民保護のために砲撃された。居留民保護のために反撃する事は日本だけでなく、アメリカやイギリスも行っている。
第二次上海事変の後はヨーロッパで迫害されたユダヤ人受け入れを1938年には河豚計画を検討し、1939年にユダヤ人難民が上海の「日本租界」にあふれるに至った。 
 

 

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