弔 (仏事)

 

亡者は「仏」南無南無阿弥陀仏仏事の起源中陰十三仏と仏の供養十王信仰享年と行年線香清め塩布施お数珠塔婆戒名各宗派の葬儀地方の葬送日本のお葬式火葬の始まり日本の埋葬文化子規の埋葬談義閻魔大王と死者の蘇生日本人の死生観と他界観殯(もがり)日本人の墓お葬式子どもの葬送火葬と遺骨尊重日本霊異記平安末期の葬送黒い喪服冠婚葬祭法要のしきたり「死」喪葬1「死」喪葬2遺書古代ギリシャローマの葬儀・・・ 
 
 
【弔う】とむらう 人の死をいたみ、その喪にある人を慰める。死者の霊を慰め冥福を祈る。 
【弔】ともらい/とむらい とむらうこと。弔問。法要。葬式。のべおくり。 
【弔する】ちょうする 人の死をいたんでくやみを述べる。死を悲しみいたむ。とむらう。 
【弔上】とむらいあげ 最終年忌。死後三三年目とか四九年目の例が多い。 
【弔扇】文字や絵の書いてない白紙のままの扇。弔いの際に持つところからいう。 
【弔合戦】死者の復讐をしてその霊を慰めるために、敵と戦う。仇討ち。 
【弔書】ちょうしょ 弔意を表した文書。人の死をとむらう手紙。くやみ状。 
【弔恤】ちょうじゅつ 人の死をとむらいその死を哀れむ。 
【弔詞】ちょうし 死者をとむらうときに述べることば。くやみの気持を述べることば。 
【弔使】ちょうし 死者をとむらうためにつかわされる使者。
【弔客】ちょうかく 人の死をとむらう人。くやみに来る人。とむらい客。 
【弔歌】ちょうか 死者をとむらう歌。挽歌。 
【弔慰】ちょうい 死者をとむらい遺族を慰める。 
【弔祭】ちょうさい 死者の霊をとむらいまつる。 
【問弔】といとむらい 死者の冥福を祈る。追善供養。 
【追弔】ついちょう 死角の生前をしのんでとむらう。 
【慶弔】けいちょう 出産、結婚などの喜ぶべきことと、死などの悲しむべきこと。吉事と凶事。 
【敬弔】けいちょう つつしんでとむらうこと。 
【葬礼・喪礼】死者を葬る儀式。葬儀、葬式。とむらい。 
【喪葬】そうそう 死者を葬りとむらう。 
【追善・追薦】ついぜん 死者の冥福を祈って善根を修める。死者の年忌などに仏事供養をいとなむ。
【追善会】死者の冥福を祈って催される法会(ほうえ)。追善供養。 
【追善合戦】死者に代わってその恨みをはらし復讐(ふくしゅう)をして霊を慰めるために戦う。 
【追善供養】死者の冥福を祈ってする供養。 
【追善興行】歌舞伎などで故人をしのび、冥福を祈ってその忌日などにする興行。 
【追孝】ついこう 死んだ父母や祖先などの冥福を祈り供養して孝養を尽くす。先祖の菩提をとむらう。 
【葬式】死者をほうむる儀式。葬礼。とむらい。 
【葬儀・喪儀】死者を葬る儀式。葬式。葬礼。とむらい。 
【悼詞】とうし 人の死を悲しみとむらうことば。弔辞。弔詞。 
【喪家】そうか とむらいのある家。喪中の家。不幸のある家。 
喪家の狗(いぬ) 見る影もなくやつれて元気のない人。 
【後世】ごせ 生まれかわった後の世。後生(ごしょう)。来世。死後の世界で幸福に暮らす。後世の安楽。 
後世を弔う 故人の来世の安楽を祈って葬儀や法要を行なう。 
後世を願う 仏道に専心し来世の安楽を願う。極楽浄土に往生することを願う。
【川施餓鬼】かわせがき 水死した人の冥福を祈って川で行なう施餓鬼供養。難産で死んだ産婦をとむらう。 
【殯】かりもがり 死人を埋葬するに先だって、しばらくの間、遺体を棺に納めてとむらう。もがり。 
【揚斎】あげどき 最終年忌の法事。葬揚(とむらいあげ)。遺族が寺に行って経をあげてもらう簡単な法事。揚げ法事。 
【相悔】あいぐやみ 死者の出た家同士が会葬せず、手伝いなどにも行かぬこと。 
【賻】ふ 死者をとむらうために喪家におくる財貨。賻物(ふもつ)。 
【憚る】はばかる 忌みきらう。とむらう。葬式を出す。 
【折口】おれくち 知人の死にあうこと。とむらい。一種の忌み詞。 
【招魂】しょうこん 死者の霊を招いてまつる。死者をとむらう。 
【招魂祭】招魂社で行われた祭祀された人々の霊をとむらった祭典。東京の靖国神社で行われた春季大祭(4/21〜23)秋季大祭(10/17〜19)。
【限】かぎり 人生の限界。臨終。最期。死者をとむらう。死後の供養。葬送。とむらい。 
【空葬】からとむらい 死体の発見されない死人のために仮に行なう葬式。 
【訪】とむらい「とぶらい(訪)」の変化した語。 
【訪う】とむらう さぐる。詮策する。 
【野辺送】なきがらを火葬場や埋葬場までつき従って送る。とむらい。野送り。 
後の事 死んだ人をとむらう作法。入棺・葬送・法要などのこと。 
【亡】なき 生きていない。すでに死んでこの世にいない。 
【熟柿】うみがき 熟した柿の実。 
熟み柿が熟柿を弔う 似た境遇のものが相手の身の不幸を慰める。
【軽服】きょうぶく 軽い喪。喪に服すこと。軽い喪に服する時に着用する喪服。 
【無服】むふく 喪に服することがない。喪に服さなくてよい。 
無服の殤(しょう) 七歳以下で死ぬこと。父母はそのために喪に服することがないところからいう。 
【喪】 人の死後その親族がある一定の間、悲しみに沈み屋内に謹慎していること。 
【喪屋】 葬式まで死体を安置しておく所。もがりのみや。死者の霊を慰めるため墓所の近くにつくって遺族が喪中を過ごす家。 
【玩物喪志】がんぶつそうし 珍奇な物をもてあそびそれにおぼれ大切な志を失うこと。 
【斬衰】ざんさい 中国の喪服の一つ。その衣装をつけて喪に服すること。粗い麻布を用い、下辺は裁ったままにしてふち縫いしない裳(も)と上衣。最も大切な人の死で三年の喪に服するのに着用する。 
【果】 人の死後の忌(いみ)や喪の終わり。その時に行なう仏事。四十九日、また一周忌。 
果ての緒(お) 琴の一三弦のうち、もっとも手前にある最高音の巾(きん)の弦。 
果ての事 人の死後、四十九日または一周忌の仏事。 
果ての月 一周忌の終わりの忌月。一年の終わりの月。一二月。しわす。 
果ての年 喪のすんだ年。諒闇(りょうあん)の果てた年。 
三年の喪 父母の喪をいう。昔の中国では父母の死による服喪が三年間だった。
【服直】ざんさい 喪に服していた人が喪があけて、常服に着替えること。 
【期功強近】きこうきょうきん(中国で「期」は一年間喪に服すること。「功」は大功、小功の別があり、大功は九か月間、小功は五か月間喪に服すること)有力な近親をいう。忌服の及ぶ範囲の近親を総称したもの。 
【重喪】じゅうも (重い喪の意)父母の喪。 
【重服】じゅうぶく 重い喪。その喪に服すること。重い忌服。父母の死の際の忌服。重喪。 
【喪屋】むや 風葬時代の墓穴。奄美群島の喜界ケ島でいう。 
【除服】じょぶく 喪の期間が終わって喪服をぬぐこと。喪があけること。忌明(いみあき)。 
【忌・斎】いみ 神聖に対する禁忌。心身を清浄に保ちけがれを避け慎むこと。斎戒。 
忌みを被(かぶ)る 忌の状態になる。自分または近親者が葬式、出産、月経などの忌まれる状態になり、謹慎しなければならなくなる。 
【心喪】しんそう 喪服は着ないが心の中で喪に服す。弟子が師の喪に服する場合にいう。 
【喪】そう 人の死。 
【宮中喪】 宮中で行なわれた喪。昭和22年廃止。 
【御思】みおもい (「み」は接頭語)天子の喪に服する期間。諒闇(りょうあん)。
【滅ぼす・亡ぼす・泯ぼす】 ほろびるようにする。なくする。消滅させる。うしなう。死なせる。殺す。 西大寺本金光明最勝王経平安初期点‐六「国の位を喪(ホロボシ)失せむ」 
【服喪】 喪に服すること。身内の人が死んだ後一定期間、喪服を着て家にこもって慎む。 
【匿む】しなむ 物を隠す。ものごとを他にわからないように秘密にする。 書紀‐仲哀九年二月(北野本南北朝期訓)「天皇の喪(みも)を匿(シナメ)て天下(あめのした)に知らしめず」 
【服種】ぶくだね (「ぶく」は「服忌(ぶっき)」の意)喪に服している家の農産物の種子。 
【服する】 (「ぶくする」とも)喪にこもる。服喪する。 
【服者】ぶくしゃ 父母、兄弟、親類など近親者が死んで喪に服している人。 
【服解】ぶくげ 昔、官吏が父母の喪に服するために職を解かれること。 
【服】ぶく 喪中の人が着るきもの。もぎぬ。喪服。服衣(ぶくえ)。喪にこもる。喪中。服喪。 
【服】ふく (「服」の音は古く「ぶく」で喪服あるいは喪に服することについては、後世でも「ぶく」と慣用される。ころも。着物。衣服。 
【箒持】ははきもち (「はわきもち」の時代も)古代の葬送のとき、ほうきを持って加わる人。けがれを払い、また墓所を清掃するためともいう。 
【倚廬】いろ 天皇が父母の喪に服する期間にこもる臨時の仮屋。板敷を常の御殿よりもさげ、蘆の簾(すだれ)に布の帽額(もこう)をかけ、簀(す)を敷く。
【発喪】はつも 喪を発すること。その人の死を人々に告げ知らせること。 
【発喪】はっそう 喪を発表すること。葬礼で声をあげて泣くこと。 
【籠僧】こもりそう 人の死後、中陰(49日)の間喪屋にこもって読経など仏事をいとなむ僧。 
【縄纓】なわえい 無文の平絹の冠に用いる纓の一種。縄と布、またはあらぎぬをよりあわせて作った黒、黄二本の纓。天皇が父母の喪に用いる。 
【弔う】とむらう 人の死をいたみ、その喪にある人を慰める。くやみを述べる。弔問する。 
【摘髪】つみがみ 未亡人が喪のしるしとして髪を短く切ること。また、その人。後家。 
【土殿】つちどの 貴人が喪に服して籠るための粗末な仮屋。板敷を取り除き土間としたもの。 
【月】 喪の明ける最後の一か月などのように機の熟する期間。あることが行われるのに適当な期間。「月が満ちる」 
【通喪】つうそう 世間一般で行われている葬儀の形式。世間的に通用している喪。 
【奪情】だつじょう 律令制で喪に服している人に服喪をやめ、出仕することを命ずること。 
【大憂】たいゆう 親の喪。天子の崩御。 
【大喪・大葬】たいそう 天皇・太皇太后・皇太后・皇后の喪に服す。たいも。その葬儀。 
【大故】たいこ 大きな不幸。父母の喪。
【素車】そしゃ 彩色しない白木の車。喪の時に使う。 
【喪礼】そうれい 喪の礼法。 
【喪服】 喪中に着る衣服。もふく。忌中にあること。喪に服すること。服喪(ふくも)。 
【贈賻】ぞうふ (「贈」は死んだ知人への「賻」は生きている知人にその家の不幸を助けるためのおくり物の意)喪のある家に贈る進物。香典。 
【濛気・朦気】もうき 気のふさがること。心気の鬱陶すること。気持のぼんやりすること。太平記‐二〇「常に死人の首を目に見ねば、心地の蒙気(モウキ)するとて」 
【喪期・喪紀】そうき 喪に服する期間。 
【凶器・兇器】 喪の時に用いる道具。 
【毀滅】きめつ 喪に服して悲しみのあまり命を落とすこと。 
【除喪】じょも 喪期を終え、または服喪をきりあげて喪を除くこと。じょそう。 
【忌明】きめい 近親者の死後に服する、一定の喪の期間が終わること。いみあけ。 
【除喪】じょそう 喪期を終え、または服喪をきりあげて喪を除くこと。除服。いみあけ。 
【忌服】きぶく 父母、その他近親が死んだ場合一定の期間喪に服すること。服忌。 
【小功】しょうこう 中国古代の喪服の一つ。こまやかな地質の麻の布でつくり五か月の喪に用いた。
【六禁】ろっきん 荒忌(あらいみ)の六つの禁制事項。諸司の政務は平常通りに行われるが、喪を弔い、病者を見舞い、肉食を禁じ、死刑・裁判・音楽を行わないこと。 
【喪祭】そうさい 喪に服することと祭祀をとり行うこと。葬礼の儀式。死者を葬ったあと霊をまつる祭。 
【錫紵】しゃくじょ 天皇が二親等以内の親族の喪に服する時に着る浅黒色の闕腋(けってき)の袍。 
【忌明】きあけ 喪に服する期間が終わること。いみあけ。 
【三無】さんむ 声なき楽、体なき礼、服なき喪をいう。精神があって形式がないこと。 
【三不去】さんふきょ 中国古代および日本の律令制で、妻を離婚できないとされた三つの条件をいう語。妻に帰る家のない場合、妻が舅姑の喪を果たした場合、結婚した時に貧しく後に裕福になった場合。 
【忌】 喪にこもって忌み慎しむ一定の日数。いみ。忌中。喪中。死者の命日。「一周忌」「七回忌」 
【暇・遑】いとま 喪の忌に服すること。 
【斎宮】 伊勢神宮に奉仕した未婚の内親王(皇女・女王)。天皇の即位の初めごとに一人が選ばれて、三年の精進潔斎ののち、伊勢に下向した。天皇の崩御・譲位によって交代するのを原則としたが、父母の喪などによって解職することもあった。崇神天皇の時に始まると伝えられ、鎌倉末期の後醍醐天皇の時代に廃止。斎内親王。斎王。
【神度剣】かむとのつるぎ 上代神話で味エ高日子根神(あじす(し)きたかひこねのかみ)が怒って天稚彦(あめわかひこ)の喪屋を切り伏せたという太刀の名。大量(おおはかり)とも。 
【国喪】 国民全体の服する喪。 
【解除】げじょ 天皇の喪に服する期間が過ぎて喪服をぬぐ儀式。けがれを祓い清めること。 【汚らう・穢らう】けがらう 近親者が死んだために喪に服する。 
【大御服】おおんぶく 天皇か父母の喪に服している間、人々が着用している喪服。 
【喪中】 喪に服している期間。 
【忌掛・忌懸】いみがかり 一家親族のなかで喪に服すべき間柄。 
【愁髪】うれいがみ 葬式や喪に服しているときに結う島田髷。人目に立たないように、つぶし島田などが行なわれた。 
【諒闇・諒陰・亮陰】りょうあん (「諒」はまこと、「闇」は謹慎の意、「陰」は「もだす」と訓じ、沈黙を守る意。一説に、「梁闇」の二字と同じで、むねとする木に草をかけたもので、喪中に住む小屋の意) 天皇の服する喪のうち、もっとも重いもの。期間一年。本来天皇の父母に対して行われるものであるが、その他に対して行われる例も多い。臣下にも素服を与えて服喪させるが、その期間は一定していない。ろうあん。
【聞喪】ききも 遠く離れた土地で近親者の死を聞いて喪に服すること。 
【薄墨】うすずみ 書いた墨の色の薄いもの。薄い墨つき。喪に関する文字の薄い墨色の意にも用いる。 
【哀】あい 嘆くこと。哀れむこと。喪。喪中。 
【御服】おんぶく 喪服。喪服を着て喪に服すること。 
【思】 (「物思い、嘆き」の意から)喪に服すること。その期間。 
【荒忌】あらいみ 近親が死去した場合などに家にこもって喪に服すこと。 
【殯】もがり (喪(も)上(あがり)」の変化という) 書紀‐斉明四年五月(北野本訓)「今城(いまき)の谷の上に、殯(モカリ)を起てて収む」 
【六礼】りくれい 中国古代の礼制における、六種の士の礼、冠・婚・喪・祭・郷・相見の総称。人としてわきまえるべき礼。 
【憂・愁・患】うれえ 苦しいこと。喪。忌中。 
家の艱(なやみ) 父母の喪。家の不幸。一家の災難。家難。 
【薄鈍】うすにび 染色の名。藍色がかった鼠色の薄いもの。うすにぶ。うすにび色をした衣服。喪服、僧服など。それを着て喪に服しているさま。 
【山上】やまあがり 長崎県の対馬で墓地の近くに喪屋をつくり遺族がこもること。 
【祥月】しょうつき 人の死後一周忌以降の、死去した月と同じ月。元来は、「正月(しょうつき)」と書いたが「しょうがつ」とまぎらわしいので、中国の小祥、大祥の「祥」の字を借りたという。祥月命日の略。 
【祥月命日】しょうつき‐めいにち 人が死んだ月日と同じ月日。正忌(しょうき)。正忌日。忌辰(きしん)。 
【正忌・祥忌】しょうき =祥月命日 
【正日】しょうにち (「正忌日」の略)人の死後喪にはいって四九日目の日。一周忌の当日。毎年の命日。
 
亡者は「仏」

 

一般に人は生きている限り、四苦(生、老、病、死)八苦(愛別離苦(あいべつりく)怨憎会苦(おんぞうえく)求不得苦(ぐふとっく)五蘊盛苦(ごおんじょうく)をはじめとする煩悩を持ち続け、「死」により人社会(日常生活)における煩悩から解脱でき、成仏する(仏と成る)という。  
密教教義では、亡者だけが仏になり得るわけではない。「釈尊(しゃくそん)」「釈迦族の聖者」が、出家し修行の後に、生前中に「覚(さと)り」(悟りでなく)を開いたことが、サンスクリット語で「Budhi(ブーディ)」であり、釈尊その者が覚れる者「覚者(かくじゃ)」「Bodhi-Sattva(ボーディサットバ)・覚る人」「真理に目覚めたる者」を漢字で「菩提薩(ぼだいさった)」略して「菩薩」となったことを意味し、「Budhi(ブーディ)」が変化して「Buddha(ブッダ)」「仏陀」となった 。真言密教の「即身成仏」思想(我が身即ち覚るもの成り「我即菩提」)で、「仏」は「覚り」と解釈する。
僧の葬儀
最澄(767〜822)
伝教大師最澄は822年6月4日午前8時頃、比叡山の中道院において寂滅した。釈尊入涅槃の儀式に従って、頭北面西右脇に臥し、円寂したという。ときに57歳であった。死去に先立って4月に弟子たちに告げて言った。「私の命ももう永くないが、死んでも何度も生まれ変わってきて、一乗(全ての衆生を救う唯一の教え)を学びそして広めるであろう」と。遺告により、遺体は比叡山東塔の浄土院に納められた。
空海(774〜835)
真言宗を日本にもたらした僧空海の末期は、「入定」といい、現在も生きて多くの人を助けているという信仰がある。『空海僧都伝』によると次のように描かれている。834年5月に、空海は弟子たちに次のように語った。「この世にいるのももう永くはない。そなたたちは仏法を守りなさい。私は永く山に帰るであろう」と。そしてその年の9月に自ら葬るところを定め、翌年正月から水気や流動食をも断ってしまった。そして3月21日の午前4時頃になって、空海は右脇を下にして最期を告げた。弟子たちのなかには震えが来て病人のようになってしまった者もいた。遺体は残された遺教によって高野山の東の峯に納められた。ときに62歳であった。
亡くなる5日前に残した25箇条からなる『御遺告』には、次のようにある。「私が入滅しようと定めたのは、今年の3月21日の午前4時である。弟子たちよ、悲しんで泣いてはいけない。(中略)私が死んだあとは、必ず弥勒菩薩のいる都卒天に往生して、56億7000万年後には、弥勒菩薩と一緒に人間界に下るであろう。それまでの間は、雲の間から仏道に励む者を助けるであろう」
法然(1133〜1212)
浄土宗の宗祖である法然は、74歳のとき四国に流罪となった。死の前年の1211年11月、4年9カ月目にやっと京都に帰ることが許された。東山大谷の山上の小さな庵に入り、翌年1月より病の床に伏した。そして天台宗の僧、円仁の九条の袈裟をかけ、病床でたえず念仏を唱え続けた。1月3日、弟子が「このたびは本当に往生なされてしまうのでしょうか」と尋ねると、「自分はもと極楽にいたものであるから、今度はきっとそこに帰る」と答えた。1月25日、庭まであつまった門弟たちの念仏の声に包まれて、正午過ぎに入滅した。80歳である。
往生往生というので、多くの人が集まり、どんな往生の印が空に現われるかと待ちに待ったが、何の現象も起こらず、多くの人をがっかりさせた。臨終の庵室は現在の知恩院勢至堂の場所にあたる。遺骸はその東崖の上に葬られた。はじめ石の棺に納められていたが、山門徒の破却から守るために1228年、西山の粟生野で火葬にして、遺骨を壁に塗込めて隠し、1233年1月、二尊院に廟塔を建ててそこに納められた。やがて法然の師恩に感謝し念仏を励ます「知恩講」が行なわれるようになり、現在も続けられている。
道元(1200〜53)
曹洞宗の宗祖、道元は1253年7月、病状が急変し、波多野義重たちの勧めで、京都に行き、そこで医師の診断を受けた。いよいよ末期に近づくと、道元は『法華経』の「如来神力品」を唱えながら経行した。そして面前の柱に『妙法蓮華経庵』と書きとどめた。8月28日夜半、一偈を残して入滅した。
遺骸は京都天神の中の小路にある草庵に運ばれ、東山赤辻の小寺に龕を運び火葬にされた。このとき、弟子の懐奘和尚は『舎利礼文』を唱え、参集の僧侶もこれに唱和して、龕の周囲を巡った。9月6日、懐奘は遺骨を持って京都を発ち、9月10日に永平寺にもどり、12日午後4時、方丈において入涅槃の儀式が行なわれた。その後、遺骨は西北隅に建てられた塔「承陽庵」に納められた。
親鸞(1173〜1262)
浄土真宗の開祖親鸞は、1262年11月28日午後2時頃、三条富小路の善法坊で入滅した。年齢90歳。『本願寺親鸞聖人伝絵』によると、亡くなる11月下旬頃から、病の気配が見えた。それ以来世俗のことは話さないで、もっぱら念仏を唱え続けた。そして28日昼頃、頭を北にし、顔を西に向け、右脇を下にして息を引き取った。その臨終を看取った末娘の娘の覚信尼は、母で当時越後にいた恵信尼に、その模様を手紙で知らせている。翌29日、親鸞の遺体を中心とする葬列は鴨川の東を通って、左京東山の西の麓にある、鳥辺野の南にある延仁寺で火葬にされた。翌日遺骨を拾い、同じ山麓の鳥辺野の北の大谷に納骨した。没後10年して、娘の覚信尼と門弟は墓所を改造し御影を納める。この大谷廟堂がのちの本願寺である。
日蓮(1222〜82)
日蓮聖人は武蔵の池上宗仲の邸にて生涯を閉じた。61歳。常陸の温泉へ養生に行く途上だった。9月18日に池上についた日蓮は、保護者当てに墓所を見延と定めた旨の手紙を出している。10月8日には死後分裂を防ぐため6人の本弟子を定めている。
10月12日、日蓮の枕元に大曼荼羅を掛け、その前に釈尊立像を安置して、参集した者たちが読経した。そして翌13日死亡した。この時、弟子の日昭は「臨滅度時の鐘」をついている。14日入棺、真夜中の12時に日昭・日朗が導師となって葬送を行なった。その時の式次第は「先火、次大宝華、幡(左右)、香、鐘、散華、御経、文机、仏、御履物、御棺、御輿(4名)、前陣(9名)、後陣(5名)、天蓋、御太刀、御服巻、御馬」とありそれぞれ担当する者の氏名が記入されている。さて遺言には、釈迦の立像を墓所の傍に建て、『法華経』も同じく箱に納め墓所の傍らに置く。香、供花は6人で当番を決めて行なうことが記された。
遺骸は池上邸の庭で荼毘にふされ、16日遺骨を収拾し、見延に納骨のために10月21日、池上を出発、10月26日無事納骨をすませた。翌年正月23日の百ケ日をきして墓石を建立し、6人の僧の間で香華の順番が定められた。しかしこの番も地元にいる日興がもっぱら行なうようになり、のちの分裂の一つのきっかけとなる。見延山はのちに日蓮宗教団の中心、見延山久遠寺となる。命日の10月13日には、御会式と呼ばれる報恩会が盛大に営まれている。
蓮如(1415〜1499)
本願寺八世の蓮如は、死の前年の4月より病の床にあったが、1499年3月25日、京都の山科本願寺で85歳の生涯を閉じた。医師の治療のかいなく、2月に病状が悪化。2月20日に大阪から輿で山科に行き、親鸞聖人の御影堂に参っている。そして27日に参詣した帰途には「門徒の人々に名残惜しい」と言って輿を後ろ向きに担がせ、手をふりふり帰っていった。それからおよそ1カ月、死の2日前に危篤状態になった。25日の正午、「いかにも静かに眠りあるが如く無病無煩にして、念仏の息はとどまり」85歳の生涯を終えている。遺骸は遺言に従って親鸞の御影堂に安置された。4月2日に予定された葬儀は、群衆の殺到を危惧して、急遽翌日の26日に行なわれた。このとき数万人の人が別れを惜しんだという。
蓮如の死と葬儀の様子を『第八祖御物語空善聞書』より詳しく見たいと思う。
3月9日、枕元の一間の押板に親鸞聖人の御影を掛け、頭北面西の向きで休まれた。
3月19日より、薬も重湯も「否」と言って取らなかった。「ただ御念仏ばかり、はやく往生ありたいとの御念願」と心に決めている。23日より、脈がないために、「はや御往生」と皆々がいっていた処、又8時頃より脈が現われ、「不思議」と皆々が言った。3月25日正午に往生。いかにも静かに、眠るがごとく御臨終された。「御往生の後、御堂へ入れて、聖人の御前にて、人にも見せよ」と御遺言。25日の晩には数万人の者が遺体とお別れした。
次は葬儀準備次第である。
一、ローソクは24挺、道の両方に立てる。又、火屋の四の隅に4挺、卓の向い、扉の脇に2挺。奉行は空善なり。
一、花は紙、花束は12合、提灯は後先4、花瓶・香爐皆々下間党の12、13の人々が持給るなり。
一、お供の女房衆、御輿14丁、御輿の先。
一、上様は御輿の先、同御一家衆35人。
一、御勤の人数、警固の衆15人。
一、御輿は、御堂の内にて、上様・波佐谷殿様御肩を御入候。
一、御輿の周りには下間党。また御庭より御輿に参る衆はやまと度善及び坊主衆。
一、火屋のたいまつの火は、先後丹波殿と駿河殿。
一、御勤の調声は慶聞坊、御焼香は上様。
一、「無始流転の苦を捨てて、」「南無阿弥陀仏の廻向の」「如来大悲の恩徳は」と、この三首なり。
一、御勤の後、焼香は上様・御兄弟衆・御一家衆までなり。
一、御勤の御人数、上々様・御一家衆・御堂衆、その外慶聞坊・法故坊等いずれも皆裳付け衣、絹袈裟なり。
一、御取骨の時は、御輿ただ5丁。ローソク7丁なり。
一、御取骨の事は、一夜御番を2百人ばかりとする。御上様取骨めされた後、人々火屋へ入って取る間、灰も土もとって、国々へ帰す。
大谷光勝(1817〜1894)
東本願寺派第21代の門主である大谷光勝師は、明治27年1月15日午後1時、中風により枳穀邸内において78歳の命を終えた。当時の新聞(明冶27年2月1日東京日日)には次のように記されている。
「東本願寺上人の葬儀 / 人間の浮生なる相をつらつら観じて、一心一向弥陀の本願にたよれとは勧められつる大谷派の門主21世厳如上人光勝師には、ここに化生の縁尽き、法燈の光り滅して、去る15日に、およそははかなき幻の姿を現在に示されたれば、同じく29日をもて、葬送の儀を執り行われぬ。当日の出棺は午前8時とかねては聞えしが、儀式の厳重なる故にてもや有るらん、時刻移りて11時の出門とは相成りぬ。参列の僧俗1万有余、僧は寺班の格式に随いて、五条、七条の袈裟、法服、差貫殊勝気に、俗は白鼠の素袍、上下各々襟を掻い繕う。法柩は寝棺にて、鈍色の布衣着たる由緒の人々これを舁く。これに続ける現法主光瑩師は、式のごとく(葬式に用いる)朱の傘をさし掛けさせ、鼠色の麻の衣、向こう掛けする藁履、青竹の杖をつきて、力なげに徒歩せらる。髯は延びぬ。服は湿りぬ。能化の法身にも死別の哀傷はげにおわしけりと、見る者覚えず南無仏と合掌礼拝せり。
皇族を初め奉り、諸華族方には各々代拝の使者を遣わさる。これらいずれも多きは10余人、少なきも3、5人の供廻りを随えたれば、その行列半里の余に続きたり。それよりも目凄じきは諸国より集える信徒の数なり。所轄所警察署の調ベにては、当日16万人の着京と注せしが、この善男女六条の阿弥陀堂門前よりして内野の葬儀場、それより花山の火葬場まで、往来の西側、太路小路の四角、鴨川の河原にひたと充満して、法柩の通行には声を楊げ手を合わせ、我々衆生をも早や早や迎え取らせたまえ、南無阿弥陀仏と叫く声有頂天にも響き、坤軸にも至るべしとはげに実事にて、この群集に揉まれて踏み倒され、圧し潰され、手を挫き、足を折るその悲鳴もまたおびただしく、巡査の制止、消防夫の防御もついにかなわで、五条の仮橋は踏み崩され、花山の火葬場なる谷間の桟敷は踏み落とされて、数名の怪我人を出だしたり。されど全体の式はおこたりなく、正午12時に内野の式場へ着き、厳重の法要終わりて花山に到り、午後11時30分に荼毘の事あいすみて遺骨を収め、翌30日午前零時30分に再び内野へ立ち戻り、1時これを龕薦堂に安じ、再び右を中陰堂に納めて、この荘厳なる葬式の終わりを告げたり。」
次にこの模様をさらに詳しく見てみるために、「風俗画報」の特集号『東本願寺葬式絵図』を参考にして取り上げてみた。(資料は国書刊行会よりの複刻版による)
○ 尊骸拝礼
1月18日午前8時より、死者にお別れをする「尊骸拝礼」が、枳穀邸内の東西の間で行なわれた。遺体の置かれた室内の左右及び後面は白の屏風で囲い、前面にはすだれが垂らされた。遺体は座録に安置され、死装束は香色(明るい茶色)の縮緬の道服である。鈍色の上下を着た従者6名が傍らに待機し、礼拝のあるごとに簾を巻き上げるのである。身分により入場する門が異なり、一般の拝観者は下馬場通腋門から入り、通埋門より出るのである。
1月19日午後7時、遺体を本山に移すため、枳穀邸の居間より棺を担ぎ。出す。棺の両側にはそれぞれ5名の従者がつき従い、本山に入るやただちに黒書院に入られた。
○ 御棺守護
棺を安置した黒書院の西壁には阿弥陀如来の軸を掛け、後面には白の屏風で囲み、その前に頭北面西に棺を安置された。棺の上には七条の袈裟で覆われ、棺の前に焼香のために菊燈2基と香爐が置かれた。二の間には従者2名、左に僧侶2名座し、僧侶の上手には寄贈の造花が並べられた。三の間の正面には堂衆2名が昼夜1時間交代で棺を守護し、出棺の時まで四方の障子は全て閉ざされた。
○ 大師堂、阿弥陀堂暇乞い
上人死去から14日目の1月29日、葬儀の当日となる。係員は午前1時より参集し、4時には鐘を鳴らし全員の集合となる。棺前の勤行も終わり、午前8時に棺を大師堂に移すにあたり、鈍子の服紗で棺を覆い、堂東の五畳台に安置すると、門跡(本願寺官長)は西側の五畳台に出仕する。ご連枝(法主一門)方は左右に列座され、院家以下末寺の僧侶たちはその後に座す。堂衆たちは柵内の正面に並び勤行された。大師堂の中央はご真影で、須弥壇の前には卓が置かれたが、内敷も供物もなし。勤行のあと棺は阿弥陀堂に移り、下陣の中央に棺を据えて勤行、再び正面から棺を出す。門跡などそれに従って階段を下る。
○ 出棺から葬儀場へ
次いで柩棺は葬儀場にと向かう。本寺の門から棺輿が出ると、10万の会葬者は口々に念仏を唱える。棺輿は本門の石階にとどまり、調声人の先声に続いて、数百の助音地は一斉に誦経しはじめる。この葬列は烏丸通内野葬儀場へと向かう。
内野葬儀場は4,500坪。その回りを青竹10,500本がめぐらされた。火屋(火葬場)は樅材で作られ高さ約10m、屋上にある擬宝珠は長さ約2mで銀箔が施されている。屋内には八葉蓮型の棺台がある。火屋の上には7.2m巾、長さ30mの秩父蓮華唐草金摺の幕が張られている。野机は長さ5.4m、巾1.8m、高さ1.2m。水引は長さ14m、赤地に金欄。打敷は白紗綾蓮華唐草金摺。花束は一対でその数は1万。そして百味飲食などが供養されている。野机の前には銀押の菊燈14対、その他高張提灯が77、辻ローソクが187本用意された。
参列者のために用意された幄舎は4m四方。そのあとに5.4と3.6mの休憩所が設置された。その他、裏方の席、代香並びに諷経席、休憩所が設けられた。献花はいずれも火屋の左右に陳列された。この内野は同寺の工作場で、代々門主を火葬にした所であるが、明治に入ってからは人家が近いこともあり、ここでは火葬が出来ず、葬儀のみを行ない、火葬は花山にて行なう。
午後1時葬列は内野青門に到着。門内の入場は参列の僧侶、皇族方使い、宗族親戚その他の会葬者に限られた。式は正信偈、念仏讃淘、短念仏、回向等の勤行が行なわれ、門主は轅に従って龕薦堂の後門より入り、自ら藁に火をつけると、しばらくして堂の四方から煙が出た。これを見て一同敬礼する。そして門主は堂の前門より出て、斜の道から幄舎に入り、それぞれ立て札の下に着席。再び正信偈、五却恩惟などの勤行を営み、門主以下順次焼香を始めた。
○ 花山荼毘所
葬儀式が終わり、次に火葬のため花山荼毘所に向かう。沿道には幔幕が張られ、行列を待つ老若男女の混雑がみられた。花山火葬場は、渋谷街道から火葬場の入り口にかけて、見張り所を設け、一般参観人は中に入れない。場内には両側に数百個の白張り提灯を連ね、休憩所は1号から7号まである。境内、火屋などは全て白地の幕を打ちめぐらし、室内には火屋奉行の他、いかなる役僧も入場は許されない。焼き終わるまでの間法主は、休憩所で待機するのである。
火葬竃は従来のものでは、棺が入らないので、鉄の門扉などはすべて今回のために改築された。竃は堅く鉄扉をし、白い幕を垂らして前面左右には銀色の燭台両脚が安置された。
花山荼毘の式は、入口門際より順次左右に別れ、沿道両側に立列し、宝来絹張提灯、松明、鞍掛けは火屋まで参進した。そして棺を龕前堂正面の鞍掛けに安置すると、力者は休憩所に退く。拝礼のあと門跡、連枝は休憩所に入った。龕前堂南北の扉を閉ざしている四方の白幕が垂らされ、棺は火屋の中に入った。
まず生の松の木の二つ割を方形に竃の中に積みあげ、その上に棺が安置された。棺はかねて燃えるように工夫がなされている。さて白服にて身を包んだ本山出入りの棟梁株4名が、火屋に入り、黒衣の僧2名がこれを監督した。やがて火を割木に点ずると、6人の者は皆口々に念仏を唱え始めた。焼き終わるまで死体は決して見る事はないという。それは棺が底から焼けるように、棺の周囲は厚さ約1mの柾木にしてあるため、棺が完全に焼ける頃には遺骸はすでに灰になっているという。こうして火を点ずると4人の焼人は周囲から絶えず油を注射する。この油は本山から出ているのである。
こうして遺体が焼けると、次に拾骨の式がある。荼毘の後、御骨を小長櫃に納め、白絹でもってこれを覆う。そして花山より内野葬儀場への還列を行なう。元来火葬場から灰骨を持ち帰るには、その帰り道を人に知られないようにするという古例がある。これは蓮如上人の火葬の時に、比叡山の僧が真宗の盛んなことを憎み、その灰骨を途中で奪おうとしたことがあり、それを避けるためという。そのため、灰骨は微塵も残さないように土器に納められ、花山からの行列とは別に、人知れず道を通って内野に帰るのである。
○ 灰葬式
1月30日午前6時頃、遺骨は内野の葬儀場に到着。法主の先導で、龕薦堂に進み、白絹で包まれた長櫃から遺骨が取り出され、野机に安置された。机上には花束一対、ローソク、香爐の五具足を配置。一同敬礼し、灰葬勤行、正信偈、念仏讃、短念仏を行ない、列係は紙燭に点火して従者に手渡された。骨捧役は野机の後に向かい、野卓の南を回って正中砂道を供奉。白張り長柄を捧げ、骨添え従者は紙燭を持って左右に供奉する。こうして式を終えて後、ただちに大師堂に白骨が納められ勤行が行なわれた。
○葬儀期間のデータ
葬儀中の3日間の宿泊人=下京区の旅館が346戸とし、届け出数は7万6000人。葬式当日に係り員に配付された割子の数=2千余個。参列者及び人夫に配付された折詰=2万余個。供廻りに渡した提灯=牡丹紋つき箱提灯240、白張箱提灯180、牡丹紋つき馬乗り提灯480。
幔幕の数=式場外青門までは、抱き牡丹の紋付。式場は白地幔幕を打ち廻らせる。その数は紋付は200張り、白地は150釜の金布を費やす。 
 
南無(なむ)

 

仏様に手を合わせる時、その仏様が阿弥陀(あみだ)様だとしたら、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」とお唱(となえ)えします。では、南無(なむ)とはどういう意味なのでしょうか。 
印度(インド)の国に行かれた方は、その国の人びとが合掌して、「ナマス・テー」と挨拶する光景を御覧になられたことがあるでしょう。 
これは「あなたに敬礼します」という親愛と尊敬を込めたことばで、出会った時も別れる時も「ナマス・テー」です。このナマスが「南無(なむ)」なのです。ナマスの語源はナモーで、漢訳して南無と表記しました。音(おん)を写したのです。南無とは、帰命(きみょう)、敬礼(けいれい)の意味で、心の底から全身全霊で仏様を信じることなのです。ですから、「南無仏(なむぶつ)」と唱えたならば、「真心を込めて仏様を信じます」と表明したことになるのです。 
さて、お寺参りをなさる機会がおありでしょうが、その時、まずはじめにお堂におまつりされている仏様のお名前をしっかり確かめてから、お唱えしましょう。 
阿弥陀様なら、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」 
お薬師様なら、「南無薬師瑠璃光如来(なむやくしるりこうにょらい)」 
観音様なら、「南無観世音菩薩(なむかんぜおんぼさつ)」 
お釈迦様なら、「南無釈迦牟尼如来(なむしゃかむににょらい)」 などとなる訳です。 
また、マンガ「一休さん」などで、「たすけて」というところを「南無三(なむさん)」という場合があります。これは、南無三宝(なむさんぼう)のことで、三宝とは、仏・法(仏の教え)・僧(仏教教団)の三つの最も大切な心のよりどころという意味ですから、対処に困ってすがる思いでつぶやいたのかも。 
仏様を信じ、仏様がお説きになった教えをよりどころとし、ただひたすら祈りつつ歩むところに心の平安があります。そして、あらゆるものに支えられて生きていることにも気付くのです。   腰掛(こしか)けし石を 拝(おが)んで 立つ遍路(へんろ)  
 
南無阿弥陀仏

 

永禄3年(1560)足利晴氏が死んだ時、妻芳春院(氏綱の娘)が詠んだ歌 
亡き跡を 嘆くばかりの 涙川 流れの末は 永き滝つ瀬 
睦まじく 結ぶ契りの 睦言も むなしき空に 紫の雲 
あはれさの あとに残りて あぢきなや あけぼの照らす 有明の月 
満ち潮に み法の船の み(水)馴れざお 弥陀の誓いと 身はなりにけり 
たれも皆 頼みをかけよ 他念なく 他力の心 ただ仏なる 
二つなく 不捨の請願 不思議やな 深き願ひぞ 不退とはなる
伊達政宗が原田宗時を弔った漢詩 
夏衣キツゝナレニシ身ナレドモ別ルゝ秋ノホドゾモノウキ 
虫ノ音ハ涙モヨホスユウマグレサビシキ床ノオキフシモウシ 
アハレゲニ思フニツレズ世ノナラ七ナレニシ友ノ別モゾスル 
見ルカラニ猶アハレソウ筆ノ跡今ヨリ後ノ形見ナラマシ 
誰トテモ終ニユカン道ナレドサキダツ人ノ身ゾ哀ナル 
吹ハラフ嵐ニモロキ萩ガハナタレシモ今ヤオシマザラメヤ
島津義久が甥の久保(忠恒の兄)を弔った際に詠んだ歌 
なく虫の 声は霜をも 待ちやらで あやなく枯るる 草の原かな  
むらさきの 雲にかくれし 月影は 西にや晴るる 行くへなるらむ 
あめはただ 空に知られぬ 習ひあれや うき折々の 袖にかくれて 
みし夢の 名残はかなき 寝覚かな 枕に鐘の 声ばかりして 
たづねても 入らましものを 山寺の ときおく法の ふかきこころを 
ふでをみぎり 弓を左に もてあそぶ 人の心や 名に残らまし
徳川慶喜(1837-1913)  
最後の十五代将軍はそのあと46年間の余生をおくった。大正2年11月22日肺炎による心臓麻痺でで死亡した。葬儀は寛永寺内に新設された齋場で神式で行なわれた。葬列の模様は野村敏雄「葬送屋菊太郎」に描かれている。 
「さすがに前公方様を慕う人々の群れは、寒風をおして谷中の斎殿から上野界隈まで、三橋から腰越、清水堂、桜ケ岡、博物館前と押し寄せて、葬列の沿道は人波で埋まった。中でも江戸名残の火消組が一番から十番まで十コの纒(まとい)を押し立てて待ち受ける姿は、いかにも公方様の葬儀にふさわしく、さらに旧幕の昔をしる老人たちの見送りも、すこぶる多かった。山内では木戸銭をとって見物人を店の奥によびこむ茶店まで出た。交通は伝通院まで遮断され、その道筋は榊や生花がすきまもなく飾られた。慶喜の柩は唐破風型の桧の白木造りで、輦台の長さは2間、高さ6尺、正面と側面は金色まばゆい葵の定紋を打ち、白丁に担がれてしずしずと谷中の墓地にむかう。葬列につきそう遺族は狩衣(かりぎぬ)姿に黒綾織の烏帽子、藁靴、竹杖、婦人は白無垢の紋服、下げ髪で、そのあとから旧幕臣たちの列がつづいた。」
浄土  
浄土は仏さまの世界です。その仏さまの世界に生まれることが私たちにとっての救いです。それが真宗の基本的な教えです。浄土とは、安楽国とも安養国ともいわれる阿弥陀如来の国土です。私たち人間の生きる世界になぞらえて国土として現されています。 人間の救済がなぜ国土として、つまり、浄土として現されているのでしょうか。それは私たちの救いが、個人的な私一人の心の安らぎにとどまらないからです。もちろん、私たちの心が落ち着き、心が安らかになることは大事なことでしょう。 しかし、人間の救いということになりますと、ただ単に私一人の心が安らぐことでは本当の救いになりません。あらゆる人々と共に安らぐことが成り立たないと、私たちは救われないのです。 なぜなら、人間は、文字どおり、人と人との間柄を生きる存在だからです。私たちは関係を生きています。世界とともにある存在です。他者とともに生きる存在です。 ですから、私たちが日々感じる喜びも悲しみも、それはかかわりの中で起きる感情であります。生活をともにする相手が悲しんでいるときに、私ひとりが喜べますか。悲しいはずです。それが人間を生きるということの具体的な姿です。 そのような私たちの生きることの現実が、真宗が浄土をもって人間の救済を明らかにしてきた根本的な理由です。浄土とは阿弥陀経に「倶会一処(くえいっしょ)」(ともに一つ世界に生きる)とあります。あなたも私もともに生きることのできる世界です。 それは、決して私たちが普通に考えているような死後の世界としての「あの世」ではありません。また、ユートピアとしての理想郷でもありません。それは、人間を見失ったものに人間を回復させる仏さまの世界なのです。 そういう人間回復の大地としての浄土こそが、人を傷つけ踏みつけてやまない私たちの誰もが、何よりもいただかなければならない世界なのです。 
 
十三仏事・十五仏事・十九仏事の起源

 

一説に、インドの起源とする、初七日、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日の七仏(この七仏事までを中陰(ちゅういん)という)があり、中国を起源とする、百ヵ日、一周忌、三廻忌の三仏事、そして、日本起源とする、七廻忌、十三廻忌、三十三廻忌の三仏事が合わさって、「十三仏事」となったといわれる。この「十三仏事」は12-13世紀頃、一般に普及した。16世紀頃、十七廻忌、二十三廻忌の二仏事が加わり「十五仏事」となり、その後、二十五廻忌、三十七廻忌、五十廻忌、百廻忌の四仏事が加わり「十九仏事」となった。  
何故、初七日「不動明王」、二七日「釈迦如来」、三七日「文殊菩薩」、四七日「普賢菩薩」、五七日「地蔵菩薩」、六七日「彌勒菩薩」、七七日「薬師如来」、百ヵ日「観世音菩薩」、一周忌「勢至菩薩」、三廻忌「阿彌陀如来」、七廻忌「阿\(あしゅく)如来」、十三廻忌「金剛界大日如来」、十七廻忌「胎蔵界大日如来」、二十三廻忌「般若菩薩」、二十五廻忌「愛染明王」、三十三廻忌「虚空蔵菩薩」、三十七廻忌「金剛薩(こんごうさった)」、五十廻忌「愛染明王」、百廻忌「五秘密(金剛薩)」仏が選ばれたか。 
「不動明王」「愛染明王」「大日如来」「金剛薩」の仏は、密教の伝来と共に日本に入ってきた仏で、特に「金剛界大日如来」は、弘法大師空海が遣唐使として中国に渡り真言密教承継の第八祖として持ち帰った金剛界曼荼羅(まんだら)に描かれる真言密教特有の仏である。 
インド起源の「中陰の仏」、七仏が中陰の仏として選抜された記録はない。15世紀頃に十三仏の意義を正当化するため「十三仏抄」が偽作されたといわれる。生命の真理は、宇宙の生命の中に見いだされた根源体より生じることを曼荼羅は表現している、中陰七仏乃至十九仏の意義や功徳も曼荼羅から説明できる。我々が目で認識している現象界の仏様は、仏像や仏画に表現される仏だが、密教なり仏教が発祥した時代のインドの仏像は、現代日本社会の各寺院で祀られている仏像等の姿とは大きく異な る。時代と共に曼荼羅も形を変え中国密教において形がはっきりとした。 
@仏像で表現する羯磨(かつま)曼荼羅 A仏画として表現された姿態形像を持つ大曼荼羅 B種字(しゅじ/それぞれの仏の象徴として表現した梵字)による法曼荼羅 Cそれぞれの仏の功徳を仏の形相として表した仏の所持する弓矢や杖或いは印契等を以て表現した三摩耶(さんまや)曼荼羅の四種であるが、その原形はインドにおいて仏事を修法するときに用いる土壇(もとは土で作ったものが、中国、日本では木製で作られるようになった修法壇)であり、寺院に祀る仏像を含めた仏堂(お堂)そのものが曼荼羅であることからはじまりる。 
つまり、十三仏乃至十九仏の仏は、密教教義の根本真義となる曼荼羅の中から選抜された仏なのである。  
仏式葬儀の起源
現在、日本の葬儀の9割以上が仏式であるといわれるが、仏式葬儀の形式のルーツはどこにあるのだろうか。各宗派は葬儀に経典を読むが、そこに書かれている内容は葬儀そのものと関係があるとは思えない。仏教とは釈尊の教えであり、釈尊自身は弟子に、「自分の葬儀は町の者がするから、出家した弟子たちはそれにかかわらずともよい」と述べているからである。しかし仏弟子たちは釈尊の葬儀に積極的に参加している事実も見逃せない。
日本で現在行われている仏教葬儀で見られる慣習のルーツは、釈尊の涅槃直前の様子や釈尊の葬儀などを起源としているものといわれるので、それを見ていくことにする。
釈尊は長い伝道生活のあと、老年を迎えて身体の衰えを隠せなくなった。自分の死期を感じ、南方のマガダ国から数百人の弟子を連れて北方に向かって最後の旅に出た。旅を続けて約半年後に、釈尊はクシナガラで死を迎えた。時に80歳であった。
釈尊の父の葬儀
釈尊が68歳の年、ヴェーサーリの大林精舎で雨期を過ごしていた。そこに釈尊の生まれたカビラ城から使者が来た。釈尊の父である浄飯王が自らの死期を予知し、息子に会いたいという知らせであった。釈尊は浄飯王の病いの知らせを受けると、弟子たちを伴いカビラ城へと出発した。
釈尊は王を見舞い、宮中の人々に仏法を説いた。釈尊がカビラ城に着いてから7日目に王は息を引き取った。王が崩御されると、釈尊は重臣たちと葬儀の準備を進めた。たくさんの香料を溶かした汁で王のからだを洗い、きれいに拭きとったあと、絹の布で全身を覆い棺に納めた。7つの宝石で遺体を荘厳したあと、棺を台座の上に安置し、真珠で編んだ網を垂れめぐらした。そのあと華を四方に散らし、香をたいて死者を供養した。
棺を葬場に送る際、釈尊は親の恩義に報いるために自ら棺をかついだ。釈尊の弟、子供、従弟も棺をかついだ。親に対する最後の孝行は、その遺体を最後まで守ることだろう。この棺をかついだ4人は、浄飯王の子供、甥、孫にあたる。日本の葬儀において、故人の実子、兄弟、孫と言った血縁の者が棺をかつぐ習慣がある。これは釈尊を始めとする因縁の深い人々が、浄飯王の棺を擔いで葬儀を営んだことに由来している。なおそのあと火葬に附しているが、これはインドの伝統的な葬法である。
湯かんの起源
遺体を棺に納める前に香水で洗浴する。これが仏葬における湯潅の起源である。遺体を洗う行事は原始仏教時代から行われたといわれる。経典の中に次のような記録がある。
仏教を奉ずる僧侶が葬式から帰ったが、体を洗わない。俗人がそれを見て、「釈尊の弟子は浄潔を尊ぶと言うが、決して清浄ではない。葬式に列し、遺体に近づいたにも拘わらず、体を洗わないのがその証拠である」と非難した。釈尊はそれを聞いて、「体を清めないことはよくない。遺体に近づいた者は洗浴せよ」と言って、弟子たちに体を洗わせた。釈尊は、「遺体に触れた者は身体も洗い衣服も共に洗え、遺体に触れなかった者は、手と足を洗えばよろしい」と言った。
インドでも遺体を不浄と考える習慣があったようである。インドの古代の法律である『マヌの法典』に、「死体に触れた者は10日後に清められる。その死せる師のために葬儀を行う学生もまた10日後に清められる。火葬場に死体を運ぶ者も同様なり」とある。
霊前読経の起源
『毘那耶雑事18』に、葬式の際に僧侶の中で経文や偈頌を読誦する事に長じた者が、『無常経』や偈を読誦し、死人のために咒願せよという記事がある。咒願というのは、死者への冥福を祈る意味で、現在の回向にあたる。早い時代から仏弟子が葬儀を行い、読経を行ったと考えられる。
死者に法話引導することは、釈尊も行ったと思われる記録がある。死者の家庭を訪れ、親族の人々に対して説法されたことは、『法句譬喩経』にでている。浄飯王が崩御された時にも、釈尊は弟子、宮中の臣などの人々に説法している。
このような釈尊の行動を見ると、檀家や信者が、死者のために誦経、供養や説法を依頼されることがあれば、その求めに応じることは衆生を導くための機会ともなった。
転輪王の葬儀
釈尊は阿難尊者に、3か月後に入滅するとの宣言をされた。阿難尊者はこの宣言を聞いて大変に驚いたが、それは変えられない事実であった。そして自分は釈尊の葬儀をしなければならない。そこで、釈尊にどのような葬儀をしたらよいかとの指示を仰いだところ、転輪王の葬儀を模範とするようにと答えた。
転輪王とは、天下を統一する伝説上の帝王のことで、戦争に大変巧みな王のことである。この転輪王は俗世界を支配する王であるが、自分の葬礼はこの転輪王を模範として行えと言われたのである。
では転輪王の葬儀はどのように行うのか。まず王の身体を絹綿で包み、その上を新しい麻布で包み、金棺を作ってその中に油を入れて死体を納める。さらに外側を鉄の棺で囲み、二重棺にするといわれている。
そのあとあらゆる香木を焼いて火葬にした。わからないのは、鉄の棺では焼けないのではないかということだ。油を入れるというのは、遺体保存の役目もあるが、やはり火力を強めるためであろう。現在、ガンジス川河畔での火葬を見ていると、薪の上に直接遺体を乗せて焼いている。そして骨が完全に焼けないまま川にほうり込んでいる。
釈尊の死の告知
死の告知は、死が前もって知らされていなければならない。現代は医療の発達があって病名がはっきりしていれば、その経過もだいたい予測できる。仏教は真実を追及する教えであるため、死に直面することもいとわない。釈尊の場合、自分の死ぬ時期を告白した最初の相手は悪魔であった。悪魔は釈尊に向かい、あなたはすでに地上での役割を果たし、弟子たちもあなたの教えを守っていきますので、いまこそ涅槃に入ってくださいとお願いする。それに対して釈尊は「悪魔よあせるな。私はあと3カ月したら涅槃に入る」と。これを聞いて、悪魔が喜んだことはいうまでもない。
釈尊最後の食事とお斎(おとき)
釈尊はマツラ族の住むパーヴァーに行って法話をした。法話は大変感動的なもので、これを聞いた鍛冶工のチュンダはお礼として釈尊を食事に招いた。食事は大変に豪華なものであり、かつめずらしいものであった。そしてなかに釈尊にしか消化できない料理が出てきた。そこで釈尊は弟子にそれを食べるなといい、自分だけはそれを口にした。そのあと釈尊はこの食事にあたり、死ぬほどの苦痛を生じた。この釈尊が食べた料理は謎とされているが、きのこ料理の一種であるといわれている。なおこの食事をささげたチュンダは、大変に後悔したが、釈尊はチュンダを許している。
さて法事の食事を普通「お斎(おとき)」という。インドで時食と非時食という言葉があり、時食は僧侶が食事をする時間であり、非時食は僧侶が食事をしてはいけない時間を指した。これが日本にも伝わり、時食が斎(とき)という言葉にかわっていったものと思われる。
末期の水の由来
家族や親戚の人が、臨終をむかえた人に末期の水をささげる習慣が現在にも残されている。筆先に水をつけて唇を湿らせたり、新しい綿に水をしめらせて唇をぬらしたりする。この末期の水をささげる行為は、釈尊の臨終に阿難尊者が水を差し上げたことにもとづいている。
釈尊は旅の途中、食事にあたって苦しんでいた。彼が滞在していたパーヴァーという町は、小部落のために医者もいない。そこで長い道のりではあるが、医者のいるクシナガラまで帰ることになった。その途中、小さな川の辺で休憩を取られた。
釈尊は喉が渇いて仕方がないので、同行の弟子の阿難に川の水を汲んで飲ませてほしいと頼んだ。しかし近くの川は水が濁っていたので、遠くの川に汲みに行くことを提案した。しかし釈尊は近くの川で汲むことを願った。釈尊にしたがってもう一度出かけでみると、すでに川はきれいになっていた。そこで阿難尊者は器になみなみと水を汲んで、釈尊に差し上げた。釈尊はおいしいと言って水を飲んだ。この水が釈尊の最後の飲物であった。
釈尊の死装束
仏式の葬儀では普通、納棺されるときに白の経かたびらを着る。これは巡礼の際に着る装束で、巡礼の途中に道で倒れるとその衣装のまま火葬にされた。さて釈尊の場合、マツラ族のプックサという人から、金色の衣装を贈られた。弟子の阿難はこれを釈尊に着させた。ビルマなどにある寝釈迦像の衣装が金色になっているのも、プックサから贈られた金色の衣装を着ているからである。この衣装はそのまま釈尊の死装束となったわけである。
沙羅双樹と紙華花の起源
釈尊は多くの修行僧と一緒に、クシナガラにむかって進んだ。クシナガラの入口にバツダイ河があり、その辺までたどり着いたが一歩も動けなくなってしまった。バツダイ河の東側の堤一体は、沙羅双樹の林となっており、釈尊はこの林の中で休みたいと言われた。
阿難は沙羅双樹の林の中に石の台を見つけたので、ここに釈尊に休んでいただいた。そのとき沙羅双樹が一面に花開き、空からは白檀の花が降り注いだ。
釈尊の涅槃の模様を描いた図では、横になっている釈尊の四方を大きな樹木が、4本あるいは8本描かれている。これが沙羅双樹である。根元が1本で途中から2本に分かれて描かれている。日本の葬儀には、この紙華花を用いる習慣が全国で見られる。これは、釈尊が沙羅双樹の木に囲まれて亡くなられたことから、一般の人の葬儀にも象徴として使っている。白い華にするのは、釈尊が横になったとき、沙羅双樹が白い花を咲かせて供養したことに由来している。ただし日本では、土葬のときに埋葬した土地の四隅にこれを置くことがあったから、魔避けなどの呪術的な用い方をしたことも考えられる。
頭北面西の由来
人が亡くなると、改めて布団の位置を変えて敷き直す。特に頭を北向きにして寝かせるという慣習がある。これは釈尊が入滅したとき、頭を北に向けて休まれたということに基づいている。
バツダイ河は北に水源があり、南に向かって流れている。この河の東側にある沙羅双樹の林のなかで、釈尊は頭を北、足を南、右脇を下、顔を西に向けて休まれた。これを頭北面西といい、右脇を下にする寝方を獅子臥の法と言っている。
臨終の知らせと涅槃
阿難はクシナガラの町に行き、集会場で釈尊の死の近いことを告げた。町の人々はこれを聞くと、大勢の人々が最後の説教を聞きに釈尊のもとに集まった。釈尊の死を涅槃に入るという。涅槃の境地は覚者だけが到達できる境地であるので、凡人が亡くなっても涅槃に入ったとはいわない。釈尊がもうじき涅槃に入るという知らせを聞いて、土地に住む120歳の学者のスバドラも釈尊の教えを聞き、弟子になりたいと願った。
釈尊は最後の教えを説くと、静かに涅槃に入った。阿難が釈尊の涅槃を人々に伝えると、大地が震え、天の太鼓が鳴り、そして花が降り注いだ。
釈尊の最期の言葉
釈尊は最期まで意識がはっきりしており、枕もとにいる修行僧たちに最後の言葉を残した。それは、「修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させなさい』」これが最後の言葉であった。入滅したのは満月の夜といわれ、わが国では2月15日に涅槃会がいとなまれる。
最後のお別れと通夜
釈尊が亡くなると、人々は嘆き悲しんで、一目でもいいから仏を拝することを願った。阿難尊者は、この願いを聞き入れて、大勢の尼や女性信者たちに前に進むことを許した。そこで女性たちは遺体に近づき、さまざまな香や花をささげた。阿那律(あなりつ)をはじめ、多くの弟子たちは釈尊の遺体の左右にはべって、教えについて語りながら夜を明かした。
死の供養
阿難は早朝にマツラ族の集会場に行って、釈尊の死を告げた。これを聞いた人たちは悲しんで泣き、地面に倒れた者もあった。
そこでマツラ族は従僕たちに「町にある香と花輪と楽器をすべて集めよ」と命じた。これを聞いた人々は、出来るだけ多くのお香と花輪と楽器と布地をもって、釈尊のいる沙羅樹の林に向かった。布でいくつもの傘を作り、幕を幾重にも張りめぐらした。そして釈尊を音楽と花輪と香で供養した。このようにしてその日は過ぎた。
その日の夜、族長たちは阿難尊者に、釈尊のために7日間の供養を申し出た。阿難尊者から了解を得ると、マツラ族は翌日も同じように音楽で釈尊を供養した。こうして7日目に火葬をする日を迎えた。その日の昼、マツラ族は釈尊の遺体を音楽で供養しながら、南の町まで運んだ。人々は町を掃除し、道に浄水をそそいで到着を待った。そして遺体を乗せた御輿が城内に入ったとき、天からは華が雨のように降り、遺体のあとに多くの人々が従った。
釈尊の葬列
8人のマツラ族の指導者は頭から水をかぶって体を清め、新しい衣装をつけて釈尊の遺体をかついだ。しかし遺体がびくとも動かない。これは遺体を南に運ぼうとしたからである。そこで彼らは北の門を通って町の北に運び、北門から町の中央に向かい、そこから左に曲がって東門から外に出た。町を出て、川を渡って宝冠寺に至り、その堂に御輿を降ろした。
一本樒(しきみ)の由来
迦葉尊者が500人の弟子を連れて遠方にいたとき、釈尊の病気の知らせを聞いた。看病にと急いでクシナガラに向かう途中、手にまんだら華をもつ旅人に出会った。葬儀に長く枝のついた一本花を持つ習慣があるので、葬儀があったのであろう。そこで彼に釈尊のことを問いただすと、すでに一週間前に死亡し、その葬式に出てこの華をもらってきたと語った。これを聞いた迦葉は、火葬に遅れないようにと道を急いだのであった。
日本にはまんだら華はないので、かわりに葬儀に一本樒を使う。樒の実はインド原産で、鑑真和尚が日本にもたらしたといわれている。
※樒(しきみ):シキミ科の常緑小高木。「しきび」とも言う。「」とも書く。)
香木での火葬
インドでは火葬で香木を使うが、日本では、葬儀の時に抹香を焚いて焼香する。抹香を用いて焼香し、香木供養にかえるのであろう。
インドでは釈尊の時代より火葬が行われていた。祭壇の火葬する所に香木を積み重ね、その上に棺を安置し、油を注いで火をつけて火葬にする。葬儀には花を捧げる他、12尺ほどの香木を持って死者を供養する習慣がある。この香木は火葬の薪に使用するのである。
釈尊の火葬
マツラ族は阿難に遺体の処理の仕方を尋ねた。そこで阿難は、釈尊から聞いた方法を彼等に告げた。
そこでマツラ族の人々は、釈尊の遺体を新しい布で包んだ。次にほぐした綿で包んだ。次に新しい布で包んだ。このように500重に釈尊の遺体を包んで、鉄の油桶に納めた。宝冠寺の中庭に香木を積み、そこに釈尊を納めた桶を乗せ、転輪王と同じように鉄の缶でふたをした。そして香油をそそぎ、マツラ族の4人の族長が薪に火をつけようとしたが点火しなかった。それは、釈尊の弟子の迦葉尊者の到着を待っておられたからである。
そのとき迦葉尊者は火葬場に到着した。彼は左肩だけにかけ直して、合掌して薪の回りを3回右にまわり、釈尊の足元に礼拝した。このとき棺に入っていた釈尊の足が姿をあらわしたという。このように迦葉と修行僧が礼拝したとき、火葬の薪は自然と炎をあげて燃え上がり、棺のなかの遺体を焼き上げた。
還骨法要のルーツ
こうして釈尊の灰もすすもきれいに燃え、棺のなかは遺骨だけになった。そのあと天から雨が降り注いで火葬の薪を消した。荼毘がすむと、マツラ族の人々は遺骨を集めて金のかめに入れ、集会場に運んだ。かめの回りを柵で囲むと、7日の間音楽と香で供養した。
日本でも火葬を終わった遺骨を自宅の後飾り壇に安置して、還骨法要を行うが、そのルーツはここにあるといえる。
釈尊の舎利
釈尊の入滅が各地に報道されると、七つの国の王が、釈尊の舎利を分配してほしいとクシナガラへ要求した。こうして舎利は8分の1ずつ各国に分配された。分配がすんだあとに、モーリア族が同じように申し出をした。しかしすでに遺骨の分配は終わっていたので、使者は荼毘の灰を持ち返った。こうして釈尊の遺骨は8つの卒塔婆が作られてそこに納められた。またモーリア族は灰の塔を作って祀った。
卒塔婆の起源
釈尊の遺骨を祀る習慣はいつから始まったのだろう。仏教の卒塔婆の場合には、釈尊自身が阿難尊者に述べたことによる。
釈尊は、自分の遺体を火葬にしたあと、四つ辻に卒塔婆を作るべきであると言っている。そして「そこに遺骨を納め、花輪または香料をささげて礼拝する。これは悟りを得た人の卒塔婆であると思うと多くの人の心は静まる。そして死後には天の世界に生まれることが出来る」
このように釈尊は語った。
仏舎利の発見
1898年、ネパールの国境近くのピプラーヴァで、フランス人の考古学者ペッペが舎利壷を発見した。その表面に「これは仏陀世尊の舎利を納める器である」と記されていた。  
 
中陰又は中有(ちゅうう)

 

真言宗の葬儀の儀式において行う引導作法の中の表白文に次の句がある。  
敬って、真言教主大日如来両部界会諸尊聖衆・・・略・・・生と者(いっぱ)、不生の生、滅と者(いっぱ)、不滅の滅、生滅共に不可得なり。得て称すべからざる者か。ここに今日の亡者、娑婆の縁、ことごとき既に他界に趣きて、南浮身(なぶしん)を離れてまさに中有にうつり、よって今、釈王十善の遺風に任せて、なくなく葬送荼毘の儀式を刷い、如来有応の道場をいつくしみて、新たに聖霊得脱の引摂(いんじょう)を祈る。六大無碍の火を燃やして、本来不生の体を焼き・・・とある、前世に死したる後、未だ次生(輪廻転生による次生)を受けざる間をいう。  
仏教辞典などでは「中有」の形は、その趣くべき所の本有の形の如く、この間の人の身は、小児の5-6歳位の形量にして、微細の浄色を以て成り、肉眼には見えず。その存続する時間は極少七日又は七七日、或いは無限なり、と説明している。即ちこれが「中陰」における仏事の起源である。この期間を「忌中」という。  
冒頭の「大日如来」を真言密教の教主即ち根本仏とする両部界会は、「金剛界曼荼羅」と「胎蔵界曼荼羅」の両部界をいう。両部界会が示す世界に存する諸尊聖衆の中に十三仏乃至十九仏があり、それらの仏の功徳を以て亡者の冥福を祈る供養が、年廻(廻向)の仏事として行われることとなったと解釈できる。  
六大無碍(むげ)の「六大」とは「地、水、火、風、空」の五大「宇宙生命の根本要素」生命を構成する要素(肉体界を表す)「体」の働きを示す「胎蔵界」「理」と、第六番目の「識」(精神界を表す)「心」の働きを示す「金剛界」「智」を合わせたもので、この両界は「理智不二」であると説いている。
中陰(四十九日)について  
仏教が興る前からインドにあった死生観に、転生輪廻説というのがあります。当時の人々は生命というのは、1つの生が終わるとまた何かに生まれ変わり、それはあたかも車輪が回転するように、留まることがないと考えていたのです。この説における、死の瞬間から次の生を受けるまでの間の時期、これを中陰(ちゅういん)または中有(ちゅうう)と呼びます。  
ところで、この生まれ変わり方ですが、七日を単位として生まれかわるというのです。ある者は初七日で、これを逸したものは二七日で、同様に三七日… 六七日で、しかしながらどのような者であれ、七七日を越えることはないというのが中陰思想です(今日、四十九日をもって満中陰というのは、これによります)。  
仏教は超経験的な転生輪廻の考え方は採りませんから、中陰思想もない筈ですが、仏教を分かり易く説くために、中陰思想を方便(真実を説くための手だて)として採り入れてきました。しかし、あくまでも方便であることを忘れてはなりません。  
さて、わが浄土宗西山禪林寺派では、「南無阿弥陀仏」と弥陀の慈悲を頂いて安心(あんじん)を得ている者は中陰の状態を受けない、と説きます。臨終間際のたとえ十声のお念仏であっても、また早口や口に称えることのできない状態に陥った者が、人の称えるお念仏を耳にするだけでも、直ちに阿弥陀仏の来迎を蒙って往生できる―、これがわが宗派の受けとめ方です。また経典によれば、往生の速やかなことは、壮者がヒジを曲げる程の速さであると説かれ、来迎にあずかったものは、速やかに極楽の宝池の蓮華に托せられると説かれています。  
ところが、このことを知らずお念仏に耳を傾けない者は、中陰を受けるのです。次の生処を求めて迷うことになります。それゆえ法然上人は、「六趣(迷いの世界)を指して、中有に生を求む」ことのないように、いまだ安心を得ていない人に念仏を勧め、浄土をねがわしめておられるのです。  
それでは、中陰中の法要を営むのはどうしてなのでしょうか。またどのような心でつとめればよいのでしょうか。  
経典によれば、浄土の蓮華の中に生まれた者も、その前生の善悪の果報によって、華の開く時期に早い遅いの差があると説かれています。その差を「華合の障り(けごうのさわり)」といいます。したがって、中陰中の法要は、亡くなった人の華合の障りが一刻も早く解けるように、亡くなった人と共に懺悔することなのです。  
中陰の間の四十九日は、このことに深く思いを致し、自分にとってかけがえのない人の死を契機として、仏縁に目覚めるよう自ら努めるための、いわば修養期間です。 
 
十三仏と仏(亡者)の供養

 

すべての仏が曼荼羅の中に存在する。曼荼羅は宇宙そのもので、「生」「不生」であると同時に「滅」「不滅」である。人が人間の体を宿して生きているのは、一刹那、つまり宇宙生命の中でほんの一瞬である。肉体は滅びようと、土の中から、大気の中から、この宇宙の中からなくなることがなく、永遠の時間を超越した中に存在していると考える。曼荼羅の中心にある大日如来を生命の根源体と し、太陽系の「太陽」を象徴している。この宇宙の因縁的構成は、「生」としていきる人間にとって、肉体界(胎蔵界)と精神界(金剛界)が不二(一体)なることを説いている。曼荼羅の世界は偉大な宇宙の構成から 、最少なる人をも表現しているのだ。このことが因縁真理の基本で、人が生きているとき存在する色界(現象界)から肉体滅び行く無色界(人の目には見えない世界)に至る「仏界」においても、縁起を得て輪廻転生する世界があると している。それらを密教教義として表現したものが曼荼羅で、物理的であると同時に非物理的な世界観は、二次元にも三次元にも或いは次元を超え、三世(過去、現在、未来)の時空を超えた表現をしている。 
仏像の起源は、釈迦の滅後、釈迦の教えを信仰する信者が釈迦を崇拝するために作り上げた。しかし、生前中も密教としての崇拝仏があったようだ。それは密教的に解釈すれば、宇宙の根本思想に基づく須彌山(しゅみせん)を表す大塔(stu-pa・ストゥーパ/卒塔婆・そとば)、曼荼羅(壇)であったのではないかと思われる。正確な記述はないが、釈迦如来をはじめとする仏像が作られたのは釈迦滅後4-5百年の紀元1世紀頃といわれる。  
釈尊が三ヶ月後の入滅(涅槃)を予言された頃、弟子の阿難(あなん・阿難陀)に説いた言葉に始まる。「阿難よ、自らを燈火とし、自らを帰依として、他を帰依してはならない。法を燈火とし、法を帰依として、他を帰依してはならない。」即ち、自らが法「真理の教え/法界(dharma・ダルマ dha-tu・ダーツ)真理/宇宙の真理」の灯明となり、自らを信仰しなさい。灯明が私(真理の教えを説いた釈尊)と思って精進に努めなさいということだ。  
弟子達は、釈尊の亡骸を荼毘(火葬)に付し、遺骨を八分骨してインド国内各地方に仏舎利塔を建て弔った。しかし、弟子達や人々は釈尊を偲び、生前中の釈尊の足跡や覚りを開 いた菩提樹下の台座などへの崇敬の念を持つことになり、教えの発展を車輪に喩えて法輪などの崇拝対象の代替物が作られるようになった、この時期は釈尊が崇高な存在として崇拝され、人間の形に表現することは考えられなかった。時が経つにつれ仏像としての「釈迦牟尼仏」「釈迦如来」の仏像が作られる ようになった。こうした歳月が経つ中で、釈尊の出現は、過去の縁起を説く教えに結びつき、来世に再来し衆生を教化する「彌勒菩薩」の功徳として信仰されるようになり、「観世音菩薩」の慈悲や阿弥陀浄土を示す「阿彌陀如来」など、数多くの仏像仏画 に表現されていった。それらの仏像仏画の崇拝対象が、自らの覚りの道(自帰依法・灯明)を開くものであると、釈迦の教えが伝えられている。  
仏(像・画)には大きく分けて「如来」「菩薩」「明王」の三種類がある。  
「如来」(tatha-gata・タターガタ)は、如実に来至せり者、如実より到来せし者、如く来たりし者で、仏の総称で、宇宙の真実を如実に体得して来た者であり、自身が救い主で厳然として存在する仏(自性輪身・じしょうりんじん) である。「大日如来」(maha-vairocana・マハーヴァイローチャナ/毘盧舎那如来・びるしゃな)のような「宇宙仏」、如来と一体化したと見なされた釈尊が「釈迦如来」として表現された「人間仏」、「阿彌陀如来」「薬師如来」のような「理想仏」がある。  
「菩薩」(bodhisattva・ボーディーサットバ/菩提薩)は、大心を発して仏道に入り、四弘誓願(しぐせいがん・涅槃を得るための4つの誓願)を発し、六度(六波羅蜜・6つの知恵)の行を修し、上求菩提(じょうぐぼだい・自利)下化衆生(げけしゅじょう・利他)、五十一位(十信、十住、十行、十廻向、十地、妙覚)・三祇百劫(成仏するのに要する時間)の修行を経て仏果を証す者をいう。直訳すれば「覚れる人」となり、「如来」が体得した真理を具体的に表現する働きをする仏(正法輪身・しょうぼうりんじん/如来の分身として慈悲の手をさしのべ人々を救済する仏)である。それ故「観世音菩薩」のように経典でも実践的に説法を行い、衆生を教化し、救済する仏なのだ。  
「明王」(vidya ra-ja・ヴィディヤラージャ)は、大日覚王(=大日如来)の教令を受け憤怒身(教令輪身・きょうりょうりんじん/如来の変身した姿)を現じ、諸々の悪魔を降伏する諸尊をいう。「明」は光明の意義で、知恵を示し、また真言陀羅尼(咒)を「明」という。「王」は王様の意義で、智力を以て一切の魔障を摧破する威徳を持つ仏をいう。胎蔵界曼荼羅では、肉体界の血やエネルギーを示し、金剛界曼荼羅では、精神界の裏面にある、怒、欲、愛、慢などといった心の作用を示している。  
亡者の供養をする側は、曼荼羅の世界(宇宙)観の中に、人間界に生きる社会を基準に見た上で、仏界の理想的思想観を観じながら亡者が仏界に至り輪廻転生する中で、仏の功徳による知恵や様々な力を得て成仏し、真の仏と成り得た後に、我々の生きる衆生界における苦難や苦悩を救済してくれることを願うのである。  
曼荼羅絵(大曼荼羅)の仏の配列を見みると、金剛界においては中央に、胎蔵界においては上段中央に「大日如来」があり、「大日如来」を中心に眷属の仏が配列され、その役割や相互間の関係を表している。「仏界を死後の世界とする観点から曼荼羅を解釈した場合」亡者の輪廻を説く教えや仏の功徳を表現したものが、曼荼羅絵の中の仏の姿となる。  
「中陰」の仏は、亡者は死に行く過程でまさに肉体が滅び行く、未だ衆生界を離れたばかりの仏であるため、「大日如来」は、教令輪身(きょうりょうりんじん/強化し難き衆生を強剛なる姿に変化(へんげ)して教化する導き手)として初七日「不動明王」に姿を変え、諸悪を退治し苦難から人を救う。容姿は「不動明王」の特性といえる精神界の裏面にある怒りや憎しみといった憤怒の形相をあらわにし、肉体界における血液や力(エネルギー)がみなぎる炎を背負っていると考えられる。  
二七日「釈迦如来」において、歴史上に存在した釈迦牟尼世尊「釈尊/ゴータマ・シッタルダ」の説法を受け入れる。寺院では、「釈迦三尊」というように「釈迦如来」を本仏として左右の脇仏に「文殊菩薩」「普賢菩薩」が祀られ(配置)ている。次の三七日「文殊菩薩」四七日「普賢菩薩」となる。  
三七日「文殊菩薩」は、「文殊の知恵」ともいわれ、釈迦の弟子の知恵の第一人者・舎利弗(しゃりほつ)の変化身(へんげしん)だ。知恵の行、即ち般若波羅蜜多の行を行うことで、三摩地(=覚りの境地/無上正等覚)を得ることが出来、「般若心経」では観自在菩薩の説法の場面から説いている。四七日「普賢菩薩」の功徳として「普賢の行願」がある。迷える者がこの行を願うことで、「普賢菩薩」は強い慈悲の力を普き持ち救ってくれる。  
中陰においては未だ本来の仏界には辿り着くことの出来ないことを示し、五七日「地蔵菩薩」が六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)輪廻を説き伏せ、未だ六道をさまよう亡者を第七世界の真の仏界に導こうとしている。釈迦が五十六億七千万年を経た未来に「彌勒菩薩」に姿を変え再来し、人類救済の説法を行うまでの間は「地蔵菩薩」がすべての人を救 うという。  
六七日「彌勒菩薩」で、衆生を救済すべき功徳を授かることとなり、中陰を離脱するまでの仏にとっては人間界の苦しみが未だ癒されていないのである。中陰最後の七七日「薬師如来」にして、人が生きる上で逃れることの出来なかった根本四苦の内の心身「病」を薬で癒し、苦悩から解き放つのだと考えて良いと思う。 
中陰を離れ真の仏界に導かれた仏は、脇仏から本仏のへの順で功徳を授かり変化して行く。十三廻忌(金剛界)及び十七廻忌(胎蔵界)の根本仏となる「大日如来」に至るまでは、七廻忌「阿如来」が「大日如来」の東方に位置するのに対し、三廻忌「阿彌陀如来」西方に位置されている。「阿彌陀如来」の両脇仏が、一周忌「勢至菩薩」百ヵ日「観世音菩薩」となる。十七廻忌「胎蔵界大日如来」から先の仏、二十三廻忌「般若菩薩」、二十五廻忌「愛染明王」、三十三廻忌「虚空蔵菩薩」、三十七廻忌「金剛薩」、五十廻忌「愛染明王」、百廻忌「五秘密(金剛薩)」の功徳は、真の仏と成り得た後に衆生界に生きる我らを教化し苦難や苦悩から救ってくれるものと考えられ、同時に既に永代供養の成仏身であると考えられる。
三日の供養 
葬式の翌日を「三日」といい、近隣の人たちや近親者が喪家に集まって三日の供養をする。この日から線香は二本あげる。葬式で死者が住職から引導を渡され初めて仏になる。それまでは迷わずに冥土へまっすぐ一本道を行くようにと線香は一本供える。この日、まず仏に手向ける団子を六個作り、それを持って墓参りをする。墓参りがすむと参会者は本膳で振舞いを受ける。食事がすむと亡くなった人の着物を水で洗い、しぼらずに家の日陰に北向きに干す。このとき着物が落ちないように藁を結んだ「ゆつら」を掛ける。着物は一定期間を過ぎると片付ける。この習俗は他所でいう「水かけ着物」といわれるものである。地区によってはこの日、葬式に借用した道具を返したり菩提寺にお布施を届けたりする。また何日か経ったあと死者が生前に社寺に立てた願いのうちで叶わなかったものを死後にまで持ち越さないように、近親者によって「願もどし」を行う。岩井市の弓田にある慈光寺の不動尊は別名「ぽっくり不動」といわれ、年配者に信仰がある。この寺への願もどしは、立願者が大願成就したお礼の意味合いが強い。また、願もどしをしないと、枕団子をゆでるとき浮いてしまう、といわれている。 
忌日供養 
死亡した日より数えて七日めを初七日といい、以後七日めごとの忌日、四十九日間供養するのを忌日供養という。葬式の日、菩提寺の住職が七本の塔婆に七日めごとの供養を記し、それを柄のついた枠に並べた忌日塔婆(または七本塔婆)といわれるものを墓地にさし、忌日供養の墓参りのさい一枚ずつ取りはずす。地区によっては塔婆を家に置き、忌日ごとに一枚ずつ墓地にさす。初七日には近親者によって、死者が生前着ていた衣類や持ち物を分ける「形見分け」をする。この行為は、死者の霊魂を継承するため、霊魂が籠りやすいと考えられる衣類などを分けるものだと考えられる。三十五日めの五七日忌の供養を「ハツゼンチ」とか「ハツデイニチ」といい、牡丹餅をつくってそれを草履の裏にぬりつけ、それを杖に吊るして墓に供える。死者が剣の山を登るとき滑らないためにといわれている。四十九日めの七七日忌には死者の魂が家の棟を離れるといい、この日をもって忌の期間の区切りとする。祭壇を片付け、位牌を仏壇に納め、神棚を覆い隠していた神塞ぎの紙も取りはずす。地区によっては餅を搗き、四九個丸めて竹籠に入れ菩提寺へ納める。これを「四十九餅」という。
供養  
宗教の形でいえば、供養ほど、私たちの身近なものはないでしょう。法事・法要にお墓参り、先祖供養に水子供養、さらには針供養に人形供養、全部ひっくるめて供養という名で、私たちの宗教的行為が語られています。 それだけではなく、若い人たちまでもがテレビの影響なのでしょうか。心霊写真などと称した霊のたたりに恐怖して、「供養してもらわないと」と思わず口に出す今日このごろの状態です。 一体全体、供養とは何でしょうか。もともと供養とは、「食物や衣服を仏法僧の三宝に供給する」ことを意味しています。決して、亡くなった人から祟られたりすることのないようにと願って供養するなどということはないのです。 それがいつの間にか、供養が祟りと災いから、自分の身を守るための道具にされてきたのです。それは、私たち自身が仏教を利用して自分の欲望を満足させようとしてきた結果であります。 供養は、仏さまの大いなる世界を私がいただいたことの表現です。それが、死者を供養しないと私が祟られる、私に災いが起こる、だから供養しなければならないと、供養が自分の欲望を満足させる道具になっていることが問題なのです。 そうではなくて、供養とは、「仏法僧の三宝」として現されている真実の世界に対してなされるものです。本当に尊敬されるべき世界、本当に大切にされるべき世界を見いだすことです。それは自分を中心にして生きているものが、自他平等のいのちを現す仏さまの世界に、われもひとも共に生きることのできる世界を見いだすことです。その感動が供養の形をとるのです。 
初七日/不動明王(Acala・アチャラ/阿遮羅、不動金剛明王、無動尊、無道使者) 
明王と名の付く仏には、五大明王と八大明王があり、五大明王は、「不動明王」を中心に東西南北を囲む四明王(東「降三世(ごうさんぜ)明王」、南「軍荼利(ぐんだり)明王」、西「大威徳(だいいとく)明王」、北「金剛夜叉(こんごうやしゃ)明王」)で、八大明王は、五大明王に「烏蒭沙摩(うすさま)明王」「無能勝(むのうしょう)明王」「馬頭(ばとう)明王」を加えたものをいう。他に「孔雀(くじゃく)明王」「太元(たげん)明王」などがあるが、二十五廻忌と五十廻忌の「愛染明王」がよく知られている。 
不動明王は、大日如来の教命を受け憤怒の相を示し(教令輪身・きょうりょうりんじん)、火生三昧(かしょうざんまい)に住して内外の難障と諸々の穢垢(えく・ケガれ)を焼き、一切の魔軍や怨敵を滅ぼすといわれる。 
仏像仏画には様々な形があるが、身体黒色(黄、赤、青のものもある)で、右手に剣「煩悩悪魔を断伏す」、左手に羂索(けんさく・縄)「自在の方便を示す」を持ち、弁髪を左肩に垂らし、左目半眼、右目見開き、或いは両眼を見開き、口の両端の牙を交互或いは両方を上又は下に突き出し、憤怒の顔で、火焔を背にし、右肩を出し、大盤石に右脚を踏み下げて座し或いは立っている。 
不動明王の眷属に、二大童子と八大童子があり、不動三尊という場合には、二大童子の矜羯羅(こんがら)童子と制迦(せいたか)童子が脇仏として配置される。八大童子はこの二大童子に、慧光(えこう)童子、慧喜(えき)童子、阿耨達(あのくた)童子、指徳(しとく)童子、烏倶婆迦(うすばか)童子、清淨比丘(しょうじょうびく)の六仏を加えたもの。 
不動明王は、一般的に祈祷の代表仏であり、修験道(真言宗醍醐派の修験道や天台宗の修験道)の山岳修行(大峰修行など)には常に本地仏として祀られる仏で、その功徳は、不動明王が背負う真赤な火焔に象徴されている。火焔は、世間の闇を照らし、迷いや災難を焼き尽くすことを表わし、真言密教における護摩祈祷で、息災、増益(無病息災、病魔平癒、家内安全、交通安全など)を祈願するために修法する「不動法」や、国家安穏のために修法する「安鎮法」などがある。  
二七日/釈迦如来(S'a-kya・シャーキャ/釈迦国の出身である釈迦牟尼世尊(しゃかむにせそん)「釈尊・ゴータマ・シッタルダ」を如来仏とした) 
歴史上の仏教開祖「釈尊」が、真理に目覚めたる者=「菩薩」(bodhisattva・ボーディーサットバ/菩提薩)として覚りを開いたことが、入滅後に崇高な存在として崇拝され、仏像仏画の原形が作り上げられる段階で、「薩/sattva(サットバ・人)」としての「菩薩」の崇拝観念を超えて「理想仏」の「如来」像を作り上げ「釈迦如来」となった。  
三七日/文殊菩薩(Man~jus'ri-・マンジュシュリー/文殊尸利の略、曼殊室利・溥首) 
別称「妙吉祥菩薩」ともいわれ、大乗仏教経典「華厳経」「法華経」でその徳が説かれている。「三人寄れば文殊の智恵」との言葉があるように、知恵の第一人者として崇められるが、同じ仏教思想の中で、釈迦(釈尊)の直弟子である「舎利弗(しゃりほつ)」が知恵の第一人者であるといわれる。これは仏教伝来の伝承経路が異なり、それぞれの伝承される過程での教えの違いによるものだ。上座部(じょうざぶ)仏教で「舎利弗」を知恵者としたのに対し、釈迦の入滅後、インドに生まれた「文殊尸利」(曼殊室利、溥首、若しくは他の名)を知恵者とした大乗仏教の教えとの違いにある。 
密教伝来とは別に、仏教伝来は2つの伝承経路に分かれる。インドから南下してセイロン(スリランカ)やビルマを経由し4世紀頃に百済(くだら)に到達した「上座部仏教・小乗仏教」と、インドから北上してアフガニスタンより中国西域を経由し世紀に新羅(しらぎ)に到達した「大乗仏教」がある。日本に6世紀半ば(西暦538年)に伝来し、一般的に大乗仏教の教えとされている。 
文殊菩薩の功徳は、この世(現実社会)における間違った考えや邪悪な思想や行為を断ち切り、人々の迷いや無智を正して、真実の智恵を与え、幸せな人間社会へ導くとしている。 
仏像や仏画に見る一般的な容姿は、左手に迷いを断ち切る剣を持ち、右手に智恵を与える経巻を持ち、獅子の台座に座っている。髪型には様々あり、一つ束ね、五束ね、六束ね、八束ねなどがあり、五束ねのものが多い。 
文殊菩薩の配下に善財童子、優填王(うてんおう)、仏陀波利三蔵(ぶっだはりさんぞう)などがある。「華厳経」に説く文殊菩薩の教化により舎利弗が弟子を連れて後を追い、その徳を讃える話から、善財童子が五十三人の師匠を訪ねて求道の旅に出たという話があり、この話から東海道五十三次の宿駅が江戸時代につくられることになったといわる。 
胎蔵界曼荼羅において中臺八葉院(ちゅうだいはちよういん)の葉上西南を文殊院と名づき、金剛界曼荼羅の賢劫十六尊中に配置される。  
四七日/普賢菩薩(Samantabhadra・サマンタバッダラ/三曼多跋陀羅、Vis'vabhadra・ヴィシュヴァバッダラ/輸跋陀) 
普賢菩薩は、文殊の智恵(智・慧・證)に対して慈悲の仏(仏の理・定・行)とされている。文殊と共に釈迦如来の二脇士とされ、六つの牙を持つ白象に乗り釈迦如来の右方に侍(じひ)している。 
六つの牙を持つ白象については、釈尊の生みの母とされる摩耶夫人がこの白象の夢を見たことから懐妊したと言われる話が残されているが、この「六」の意味には、六波羅蜜(ろっぱらみつ)としての「布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・知恵(ちえ)」を表している。真言宗は特に智恵と慈悲を仏の「いのち」として強く説き、普賢菩薩は力強い慈悲心を表わす仏で、その慈悲心は「普賢の行願」といわれ、凡人がすべて仏に成る行を勧め、その願いを普き持っている。  
行願に十の願いがある。 --- 諸仏を禮敬すること 如来(の恩徳)を称讃すること 広く供養を修すこと 業障(悪業)を懺悔(ざんげ)すること 功徳を随喜(ずいき)する(喜ぶ)こと 転法輪(てんぼうりん)仏の教えを請うこと 仏の永世を請うこと 常に仏を随て学ぶこと 恒に衆生に順じること 普く皆廻向すること --- 
なお、普賢菩薩は大日如来の眷属として、胎蔵界曼荼羅の中臺八葉院や文殊院などに配置されるほか、それらの内眷属として金剛薩(金剛手(こんごうしゅ)院の中尊)と同等とされていることがある。  
五七日/地蔵菩薩 (Ks.itigarbha・クシティガルバ/枳師帝掲婆、乞叉底蘖婆) 
地蔵菩薩は釈迦の入滅後56億7千万年を経た来世(未来)に再度この世に現れるといわれる弥勒菩薩が来るまでの間、いかなる悪事や災難に対しても怒ることなく、屈することもない、大きな慈悲と慈愛の心で、衆生のすべての人々を苦しみから救済するといわれる。姿は頭を丸め、見るからに優しく、身近に接することのできる姿(声聞形)、即ち出家沙門の姿(僧形)をし、一体だけで祀られている時には右手に錫杖を持ち、左手に宝珠を持っている。 
街角や峠に地蔵さんをよく見かけられる。古くから墓場の入口には六体地蔵(六地蔵)や水子地蔵、寺院の境内やお堂に子育地蔵や子守地蔵などが祀られている。このうち六体の地蔵は、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の「六道」を表し、亡者の冥土入りに、死者が「中陰」に在る輪廻転生の橋渡しを担っていると考えられる。同時にこの世の現実社会における「六道輪廻」を通して、人々を苦しみや災難から救ってゆこうとする誓願を持ち続けている。  
地蔵菩薩の誓いと守りの功徳は、生と死の両界における危機を回避し、孤独な気持ちから解放させてる母親の慈愛心を持った寄り添いの念が込められている。子供のように弱い者に対しては三世(過去・現在・未来)を超えた強い慈愛の力を以て救っていこうとする。水子地蔵では、先祖代々における過去の水子供養を行うことだけでなく、現世、未来永劫に至るまで水子としての不幸が起きないことを願う萬霊供養が行われることとなる。 
真言宗では大人が亡くなった時は本尊大日如来の梵字である(あ)字を位牌の戒名の上に書くが、幼な子が亡くなった時は地蔵菩薩の梵字である(か)字を書く。 
胎蔵界曼荼羅には地蔵院の主尊として菩薩形をなし、左手には幢を持ち蓮華上に立て、右手に宝珠を持っている。  
六七日/彌勒菩薩(Maitreya・マイトレーヤ/彌帝隷、梅低梨、迷諦隷、梅怛麗、慈氏) 
彌勒菩薩は、ヴェーダ・ウパニシャッド(2500年程前)釈迦(釈尊)の時代インド仏教の二大教系の一つの瑜伽行派の祖として実在した彌勒とは別の者と言われ、彌勒の教義思想による信仰から彌勒菩薩の信仰が広まったといわれる。 
彌勒菩薩は釈迦の入滅後56億7千万年を経た来世(未来)に再度この世に現れ、三度の説法会を開き迷える衆生の救済にあたる仏だといわれる。その説法会には龍花という花が咲き、龍華三会といわれる。 彌勒菩薩は別名・慈氏菩薩ともいわれこの世の衆生を強い慈悲の心で救済するという誓願を表わしている。 
一説に、真言宗祖弘法大師空海は、この彌勒菩薩の浄土とされる都率浄土を観じ、その誓願を得て、釈尊滅後から来世の彌勒菩薩出現の間における現世の救済にあたったともいわれている。真言密教にあっては未来永劫にわたり大師の教えに導かれ、都率浄土への往生を即身成仏思想のもとに観じ得ることがでが出来るということになる。  
七七日/薬師如来(Bhais.ajya−guru・バイシャジャ・グル/殺社、Bhais.ajya−vaid.u~ryaprabha・バイシャジャ・ヴァイデュルヤプラバハ/薬師瑠璃光、醫王佛、醫王善逝 ) 
薬師如来は、左手に薬壷を持ち、右手を与願印を結び、「病」に苦しむ人々に薬を与え、心身を供養(回復)施す功徳持つ仏。 薬壷は瑠璃(るり)という宝石(七宝)で作られ、瑠璃の放つ光を浴びることで一切の心身病が治るとされている。そのために、薬師如来は薬師瑠璃光如来とも呼ばれ、東方浄瑠璃世界の教主にして、衆生の病原を救い無明の疾病を治すといわれる。病気平癒の誓願を表わす仏として広く信仰を集めている。 
真言陀羅尼でいう、コロコロとは「速疾に速疾に」という意味で、センダリとは「暴悪の相をなせる者」をいい、マトウギは「象王といわれる狂象の如くの降伏の相を住する者」という意味である。 
右手に結ぶ与願印は、人々の願いを成就する功徳を表し、単に病気の苦しみを取り除くというだけでなく、十二の大願を持っている。その中の「相好具足」「光明照被」「除病安楽」の三誓願が民衆に信仰され、身体の健康と病気平癒の誓願といわれている。 
仏像の光背には化仏(けぶつ)といわれる七つの小さな仏があり、両脇には、手に日輪を持つ日光菩薩と手に月輪を持つ月光(がっこう)菩薩、それに十二神将(じゅうにじんしょう)を従えている。四天王として、持国天(じこくてん/東)、増長天(ぞうちょうてん/南)、広目天(こうもくてん/西)、多門天(たもんてん/北)が配置されている。曼荼羅に配置される方角は、阿彌陀如来が未来往生の西方浄土とされるのに対し、薬師如来は東方浄土の現世に利益を施す仏とされている。  
百ヶ日/観世音菩薩(Avalokites'vara・アヴァローキテーシュヴァラ/阿縛廬枳低濕伐邏) 
観世音菩薩は、勢至菩薩と対をなす阿彌陀如来の脇侍(わきじ)として配される。世の中の実態をありのままに観じ、人々の声を聞き、たちどころに苦しみや悩みを救い、我らを取り巻く悪事災難を除くことを誓願としている。  
姿は三十三身或いは四十身あるといわれ変化(へんげ)し、相手に応じて三世を自在に、いかなる場所にも自由に出現し、救済行を行うことから、観自在菩薩ともいう。三十三身の変化身(へんげしん)が西国・東国の三十三観音や秩父三十四観音の札所巡りの起りともなっている。経典にも広く登場し教主となり、妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう/法華経)の「観世音菩薩普門品(ふもんぼん)第二十五(観音経)」や、「般若(波羅蜜多)心経(はんにゃはらみったしんぎょう)」などよく知られた経典である。「観音経」は、人が生きる上で遭遇する多くの災難や恐怖に対しては、一心に観世音菩薩の妙智力を信じ念ずれば、救われるという除災招福を説いた経典で、「般若心経」は密教における「空(くう)」思想を説く経典である。  
應化(おうげ/衆生済度のためにその場その時に応じて変える姿)の三十三身は、楊柳(ようりゅう)龍頭(りゅうず)持経(じきょう)円光(えんこう)遊戯(ゆげ)白衣(びゃくえ)蓮臥(れんが)滝見(たきみ)施薬(せやく)魚籃(ぎょらん)徳王(とくおう)水月(すいげつ)一葉(いちよう)青頸(しょうきょう)威徳(いとく)延命(えんめい)衆宝(しゅほう)岩戸(いわと)能静(のうじょう)阿耨(あのく)阿摩提(あまだい)葉衣(ようえ)瑠璃(るり)多羅尊(たらそん)蛤蜊(こうり)六時(ろくじ)普悲(ふひ)馬郎婦(めろうふ)合掌(がっしょう)一如(いちにょ)不二(ふに)持蓮(じれん)灑水(しゃすい)といわれ、これらの行化(ぎょうけ/教化を行う姿)の代表的な姿は「七観音」といわれ、聖(しょう)観音と「六観音」の、十一面(じゅういちめん)観音、千手(せんじゅ)観音、如意輪(にょいりん)観音、馬頭(ばとう)観音、不空羂索(ふくうけんさく)観音、准胝(じゅんてい)観音となる。 
様相は、聖観音や如意輪観音のように女性的な姿のものから馬頭観音のように忿怒像で火炎を燃やし、厳しい顔をしたものまで様々な姿をしている。  
百か日 
亡くなって百日めを「百かん日」といい、近親者を呼び、墓参りし、塔婆を立てて供養する。この日に限らず塔婆を立てるときは前日に菩提寺へ行って塔婆を迎え、一晩家に泊めて供養してから建てるものだとされている。なお、立てた塔婆にそれぞれの参会者が半紙を細かく切ったものを帯状にして結ぶ習俗がある。来世に長男、長女として生まれたいと思ったら上の方へ、末子に生まれたいと思ったら下の方に結ぶ。この紙は他の紙と離して結ぶのがよい。仏はこの紙を階段として天に向かって昇るからだという 
初彼岸と新盆・年忌供養 
葬式が終わって最初に迎える彼岸を「初彼岸」といい、近隣、親族、縁故の人たちが彼岸参りに訪れる。亡くなってから最初の盂蘭盆会を「新盆」と呼び、初彼岸と同様に近所や親族、縁故の人たちが「盆参り」に訪れる。菩提寺の住職も新盆の家を回り、盆棚の供養をする。そして菩提寺では施餓鬼供養が行われ、新盆の家では、関係者とともにこの法会に出席する。死後、年ごとに回ってくる忌日を年忌という。一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、三十三回忌が主な年忌供養である。年忌供養は命日より少し早めに行う。「仏さまは催促しないから早めに供養するのがいい」といわれているからである。三十三回忌は弔い上げともいう。この供養によって死者の霊魂は清まり先祖になるといわれ、葉付塔婆を上げる。葉付塔婆とは、杉の生木の上の方の葉を残し、幹を削って戒名を書き、塔婆としたものである。この木を伝わって霊は天上界へ昇っていくとされている。北生子ではこれを「別れ塔婆」とか「生き塔婆」と呼び、五十回忌に上げる習わしとなっている。人の一生は現世において日々の経過にしたがって伸展するだけでなく、来世においても弔い上げを経て先祖となるのである。 
一週忌/勢至菩薩(Maha-−stha-ma pra-pta・マハー・スターマ・プラープタ/摩訶薩駄摩鉢羅鉢多、大精進、得大勢) 
阿彌陀如来と三位一体の脇仏となる観世音菩薩が「慈悲の仏」に対し、勢至菩薩は「知恵の仏」といわれる。文殊菩薩も「知恵の仏」といわれるが、文殊菩薩が釈迦の二大弟子(十大弟子の内の二大弟子)であった舎利弗(しゃりほつ)の変化仏(へんげぶつ)であるのに対し、勢至菩薩は目連(もっけんれん/目連)の変化仏であるといわれている。 
勢至菩薩の名の由来は、「観無量壽経(かんむりょうじゅきょう)」という経典に智恵の光を以て普く一切を照らし、三途を離れしめて無上の力を得せしむ。是れ故に大勢至と名づくと説かれ、大きな智恵の「勢い」で人々の仏智仏性を開き、遂には覚りに至らしめる功徳を持つことから、「勢至」という名が付けられた。 
「三途」とは、日本で古くから語られる「三途の川」のことで、「火途」「血途」「刀途」の三途を渡す「地獄」「餓鬼」「畜生」の三世界にある迷いや苦しみだといわれる。地獄絵などにも描かれ「焦熱地獄」「血の池地獄」「針の山地獄」に喩えられている。 
様相は、左手に蓮の花を持ち、右手にこの花を強く押し開こうとする勢いを示している。如来が、この世で実際に救いに導く菩薩を使わせて人々の仏智仏性を開かしめるという姿勢を表わしたものだといわれる。胎蔵界曼荼羅には観音院に配置されている。  
三廻忌/阿彌陀如来(Amita-bha・アミターバ/阿彌陀婆=無量光、Amita-yus・アミターユス/阿彌陀庚斯=無量壽、Amr.ta・アムルタ/無量清浄佛、甘露王如来) 
「阿弥陀浄土」の言葉のように浄土宗や浄土真宗で阿彌(弥)陀如来を主本尊として祀り、「南無阿弥陀仏」の六字名号(念仏)を唱えれば、阿弥陀如来の力(功徳)により悩みや苦しみから救われ、安心を得ることが出来ると信心されている。 
浄土系宗派では「阿彌陀経」という経典がよく読経され、「舎利弗よ、仏の光明は無量にして、十方国を照らすに妨げるところがない。この故に号して無量光如来という。また、舎利弗よ仏の寿命及びその人民も無量無辺にして阿僧祇劫(あそうぎこう/無限)なるが故に無量壽と名づく」と説かれ、阿彌陀はサンスクリット語で無量寿と訳され、「知恵と慈悲」を表す。知恵の光と慈悲の功徳は無量無辺で限りないことを示すことから「無量壽如来」ともいう。 
阿弥陀如来は西方にある極楽浄土の教主で、弥陀の四十八願という多くの誓願を本願力とし、本願力に対する報恩報謝の念仏として六字の名号を唱えるのだといわれている。 
浄土真宗開祖の親鸞(しんらん)上人著作の「歎異抄(たんにしょう)」には「善人なおもて往生す いわんや悪人をや」という句があり、どんな悪人も阿弥陀如来の本願力によれば極楽浄土に往生出来るという慈悲の強さを説いている。しかしこれは「悪人正機」ということを意味するもので、いかなる人の悪業、悪因も正しい教えに巡り会う機縁に恵まれれば阿弥陀如来の力を以て浄土へ往生出来るとした仏縁の広さを示したものなのだ。 
人の生命が亡くなる時に二十五人の菩薩が阿弥陀如来と共に迎えに来て、浄土へ導いて行く、これを「弥陀の来迎(らいごう)」という。 
仏像仏画の様相は様々あるが、よく見かける姿に、結跏趺坐(けっかふざ)にして阿弥陀定印(じょういん)を結ぶものと、両手に転法輪印(又は説法印ともいう)を結ぶ立像がある。  
七廻忌/阿(あしゅく)如来(Aks.obhya・アキショービヤ/阿、阿婆、無動、不動、無瞋恚) 
「阿」とは「不動」「無瞋恚(むじんに)」を意味する。いかなる誘惑にも打ち勝ち、永遠に怨みや怒りを抱かぬことを堅固不動に誓い衆生済度にあたる仏といわれる。容姿が美しく「妙色身(めいしきしん)如来」ともいわれ、この誓願のもとに東方世界に妙喜(みょうき)浄土を司ることから、薬師如来の別称ではないかという説もある。 
仏像仏画に見る一般的な容姿は、袈裟の角を左手で持ち、右手は五指を伸ばした与願印若しくは施無畏(せむい)印を結んでいる。 
密教曼荼羅の中では、知恵を表す「金剛界」曼荼羅(精神界)と、一切のモノを抱擁する慈悲を表現する「胎蔵界」曼荼羅(肉体界)の中枢を担う中央「大日如来」の分身として、「五智」・「五仏」の如来が配置されるが、阿如来は金剛界五智如来の一尊として、大日如来の東方に配置されいる。金剛界の五智如来は、金剛界大日・阿・寶生(ほうしょう)・阿彌陀・不空成就(ふくうじょうじゅ)で、胎蔵界の五如来は、胎蔵界大日・宝幢(ほうとう)・開敷華王(かいふかおう)・無量寿(むりょうじゅ)・天鼓雷音(てんこらいいん)である。 
金剛界は人間の精神界を表し、曼荼羅では精神(心)を九会(くえ/九識)に区切りそれぞれの働きが示されている。そのうちには大日如来を中心として東・南・西・北に配置した五智如来(九識から転じて得る五種類の知恵)があり、それぞれの属性に分けて知恵の働きを表現している。 
大日如来の教令輪身(きょうりょうりんじん)としての変化身が「不動明王」となる如く、それぞれの如来もまた四天王の明王に変化(へんげ)する。 
金剛界大日如来(変化身/不動明王)法界体性智(ほうかいたいしょうち)/諸法の体性(モノの実体や主体)となる知恵阿如来(変化身/降三世(ごうさんぜ)明王)大円鏡智(だいえんきょうち)/大円鏡のように法界の万象を正しく映しとる知恵寶生如来(変化身/軍荼利(ぐんだり)明王)平等性智(びょうどうしょうち)/差別を滅して平等一如となり観ずる知恵阿彌陀如来(変化身/大威徳(だいいとく)明王)妙観察智(みょうかんさっち)/諸法を分別し世の中をよく観察し巧みに説き伏せる知恵不空成就如来(変化身/金剛夜叉(こんごうやしゃ)明王)成所作智(じょうそさっち)/自利[上求菩提(じょうぐぼだい)]と利他[下化衆生(げけしゅじょう)]の優れた業(ごう)(行為)を成就する知恵  
十三廻忌・十七廻忌/大日如来 (Maha-vairocana・マハーヴァイローチャナ/摩訶毘盧遮那。大光明遍照・大日遍照・遍照) 
大日如来は密教の教主としての根本仏で、密教思想の「宇宙生命の根源体」であると同時に「宇宙のありとありとあらゆる一切のモノの構成要素をなす中核」である。密教では信仰を作り上げてきた起源が大日如来であり、すべての仏が大日如来の化身となる。 
仏像仏画に見る大日如来は、二種類に分けられ、智拳印を結んでいるものが金剛界大日如来で、法界定印を結んでいるものが胎蔵界大日如来である。胎蔵界大日如来の仏像は、一般的に金剛界大日如来が祀られていることが多い。  
二十三廻忌/般若菩薩(Prajn~a-・プラジュニャー/般若。知恵・恵・明・清浄・遠離) 
般若菩薩は、覚りを得るための「般若の(=)知恵」を象徴したもの、即ち「般若波羅蜜多」の行を得る教えを偶像化した仏といえる。「菩薩」は「菩提薩」の略で「覚り得た者」をいうように、真言密教の「即身成仏」思想では、この般若の知恵を以てすれば誰もが真の悟り(覚り)を得ることが出来るとする。 
仏像は作られていないので、一般によく知られないが、密教曼荼羅の胎蔵界では、持明院の中央尊として三目六臂(さんもくろっぴ)の姿で配置され、虚空蔵院には二臂(にひ)の般若仏母として配置されている。様相は、甲冑(かっちゅう)或いは羯磨(かつま)衣で宝冠をかぶり、梵篋(ぼんきょう/経箱)や知恵を表す剣を持つものがある。経典や剣を持たないそれぞれの手には異なる印を結んでいるが、六臂の手は「六波羅蜜」を象徴しているといわれる。 
胎蔵界曼荼羅の持明院は不動明王とその眷属の四天王の院で般若菩薩が中心に配置されている。その所以は、混迷する世の中で、欲望の執着から逃れることの出来ない凡夫に生きる我らの煩悩を打ち破るため、大日如来の教令輪身である不動明王が大勇猛心を以て火焔を負う憤怒の形相を表し迷いを断ち切ってくれるのだといわれ、その実践としての功徳の真知を得るために、どうしても般若の知恵のを体得した般若菩薩の力が必要になったからではと思われ る。 
虚空蔵院は、虚空蔵菩薩の持つ「虚空」即ち「大空の知恵」を行ずる功徳の内面に、「般若波羅蜜多」の行を実践するために必要となった「般若の知恵」と密教における「空思想」が本質となっている。  
二十五廻忌・五十廻忌/愛染明王(Ra-gara~ja・ラーガラージャ/羅闍、Vajra・ヴァジラ−ra~ja・ラージャ/縛日羅羅惹必哩耶) 
サンスクリット語(梵語)のRa-ga(ラーガ)は愛情・情欲・赤色を意味し、Ra~ja(ラージャ)は王を意味する。Vajra(ヴァジラ)は金剛を意味する。即ちRa-gara~ja(ラーガラージャ)はVajra(ヴァジラ)−ra~ja(ラージャ)と同一体とする別名を以て「金剛王」と訳すこととなり、「金剛王菩薩」は愛染明王が菩薩行として姿を変えたものなのである。 
愛染明王もまた、不動明王などと同じく「如来」の教令輪身(きょうりょうりんじん)としての姿で、人間の心の裏面にある怒、欲、愛、慢などといった「明王」の特性を持つ仏である。名の如く特に「愛欲貪染」を菩提心に昇華させる功徳、即ち真言密教思想における「煩悩即菩提」の誓願を示している。  
三十三廻忌/虚空蔵(こくぞう)菩薩(Aka-s'a-garbha・アカーシャーガルバ/阿迦捨蘖婆、又は、Gagana-an~ja・ガガナーアニャージャ/嚢彦惹) 
真言宗祖弘法大師空海が勤操大徳から「虚空蔵求聞持法(ぐもんじほう)」の教えを授かったという伝記が残っている。「聞持」とは「聰明博覧強記」といい、虚空蔵菩薩呪(真言陀羅尼)を百万遍唱えることで、記憶力が良くなる行なのだ。空海は、阿波の大竜ケ嶽や土佐の室戸岬でこの法を修法し、出家を決意したといわれる。虚空蔵とは「大空」即ちこの宇宙全体に生きる生命を表し、生命の源を観じ真理を覚る「空(くう)の境地を得る知恵」を示している。空海もこの虚空蔵菩薩の求聞持法を修法し、自らの身を以て地球の生命活動を体得しながら行脚し、大空の智恵を得られたのである。 
虚空蔵菩薩の形相は、左手に福徳を表わす蓮華又は福徳の如意宝珠を持ち、右手に知恵の利剣を持つものが一般的である。胎蔵界曼荼羅では虚空蔵院を構成している。  
三十七廻忌・百廻忌/金剛薩(こんごうさった) (Vajrasattva・ヴァジラサットヴァ/日薩怛摩訶薩怛、執金剛・持金剛・金剛手・秘密主・金剛主菩薩摩訶薩と訳す) 金剛薩とは、vajra(ヴァジラ)「金剛」=「永遠」を意味し、sattva(サットバ)は「人」を意味する。密教継承の教主として「付法(ふほう)の八祖」の第二祖となっている。 
密教発祥の地とされる天竺(てんじく/インド)からシルクロードをわたり中国へ、そして空海が遣唐使として唐(中国)に渡り日本に伝承した真言密教(三国伝来密教)の教義は、「付法の八祖」と「伝持(でんじ)の八祖」により伝承された。 
「付法の八祖」は「大日如来>金剛薩>龍猛(りゅうみょう)>龍智(りゅうち)>金剛智(こんごうち)>不空(ふくう)>恵果(けいか)>弘法」の八祖のことで、「伝持の八祖」は「龍猛>龍智>金剛智>不空>善無畏(ぜんむい)>一行(いちぎょう)>恵果>弘法」の八祖で、一般に何故に二通りあるのか紛らわしく思われ、なかなか理解できない。これには密教の神秘があり、一般仏教(顕教・けんぎょう)とは異なる秘密荘厳(ひみつそうごん)の奥義が秘められているのである。 
「付法」とは「付法の器」をいい、器の中にある水を教えと喩え、その水を一滴もこぼさずに次の器に移し受け継ぐことをいう。この付法の八祖の第一開祖としての「大日如来」は、密教の根本仏とされ、太陽として象徴される宇宙生命の根源体であり、また、宇宙を構成するありとあらゆる一切のモノの要素であることを示し、歴史上の人物としては存在しないが、真理を説き密教の教えを「金剛薩」へ承継し、その教えが「龍猛」に承継されたことは、密教思想において絶対的に確立された教義なのだ。 
「金剛薩」は密教を伝承した歴史上の人物として不詳だが、真理の覚りを開いた「釈尊」が永遠を生きる「永遠人」として同一体で、大日如来の説法は「金剛薩」を通してその教えが「龍猛」に受け継がれた。 
弘法大師(空海)の「付法傳(ふほうでん)」によれば、「龍猛」は釈尊の滅後八百年頃、南天竺(中インド)の鉄塔(寺院)に入り、そこで金剛薩と出会い密教の教えを受け、塔の前で真言(陀羅尼)を誦すと大日如来が種々に身に変じて虚空の中に姿を現じ、法門章句(毘盧遮那念誦法要(びるしゃなねんじゅほうよう)という経典一巻)を説き、その教えを龍猛に写させると姿を消滅させたという。この真言秘密の法をはじめて世間に流布したのが「龍猛」で、歴史上人物としての伝承者となったのが「伝持の八祖」だ。 
密教曼荼羅では、金剛界三十七尊の一として阿如来四親近の一に配置されている。理趣会(りしゅえ)の本尊として、菩提心の上より一切の諸法は悉く金剛の本質に他ならないと覚ると共に、悟り(覚り)を一切有情界に与えようと、降三世会(ごうさんぜえ)では憤怒の形相を表し、煩悩と所知の二障を断じる功徳を示している。胎蔵界では金剛手院(こんごうしゅいん)の中尊として成所作智(じょうそさっち)「自利[上求菩提(じょうぐぼだい)]と利他[下化衆生(げけしゅじょう)]の優れた業(ごう=行為)を成就する知恵のこと」の解脱道を表し、普賢菩薩と同一ともされている。  
由来・始まり
位牌
位牌はもともと儒教を信仰する家で用いられたが、これを禅僧が宋代に中国からもたらし、仏教に転用されたとされている。臨済宗の僧の日記『空華日工集』、応安4年12月30日に「位牌、古にある無しなり、宋以来これあり」とある。また14世紀に書かれた『太平記』に、卓の上に祀られていた位牌の裏に、歌を書きつける話がある。
諡(いみな)
諡は天皇や将軍などの貴人の俗名を死後に避け、尊んであらたにつけた称号で、おくりなともいう。神宮皇后が百歳で崩御され、10月に陵に葬られたときに、「気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)」というおくりなが奉られた。
院号
院号は天皇が譲位したのちの御所の呼称に起因するものであり、冷泉院より始まる。摂関家では九条兼家(1207)が死去したとき、「法興院」と称したことが始めてされている。院号殿は禅宗に帰依した足利尊氏(1305〜58)が「等持院殿仁山大居士」と称されたのが始めである。なお三代将軍足利義満の位牌の銘は「鹿苑院殿准三宮大相國天山大禅定門」と長い。
なお明治13年7月に、これまで士以上の有位の者でしか認められなかった院殿または、大居士という戒名も平民にも認められるようになる。
引導
禅宗などでは葬式の時に導師が棺の前で引導を授けるが、その起源は炬火(たいまつ)をとって火葬にするのが儀式化したもの。これを下炬(あこ)というが、仏典では迦葉(かしょう)が釈迦をだびにするときに炬をとったとしるすと、『菩薩所胎経』に記されている。
孟蘭盆
日本での孟蘭盆会は、推古天皇の14年(606)にはじまり、この年より寺ごとに4月8日、7月15日に斎を設けた。斉明3年(657)7月15日に仮に須弥山の形をかたどって、飛鳥寺の西で、始めて孟蘭盆会が行なわれた。
音楽葬
音楽評論家でありオペラ研究家の伊庭孝が、昭和12年(1937)2月25日死亡したが、その時の葬儀に彼の友人たちによって音楽葬が行なわれた。これが日本での音楽葬の始まりである。
戒名
インドでは出家しても俗名のままだが、中国や日本では受戒して俗名を改めた。
『日本書紀』に588年、蘇我馬子は百済の僧たちに、受戒の法を請い、善信尼らを百済に発たせている。聖武天皇(701〜756)登壇受戒して勝満と称された。
外国人墓
唐人の墓は、長崎の宗福寺、興福寺等に埋葬されている。墓石の年代には乾隆2年(1737)などと中国の年号で刻まれている。明治13年6月青山の共葬基地内に外国人の埋葬地が定められた。
過去帳
檀信徒の死者の死亡年月日、俗名、戒名を記す過去帳は聖武天皇の頃は「点鬼簿」と呼ばれていた。
日本での過去帳の始まりは、円仁(794〜858)で、結衆の名簿であった。
火葬
日本で最初に火葬が行なわれたのは文献上では『続日本紀』の文武天皇4年(7OO)の3月10日の条に、元興寺の僧道昭の遺体が飛鳥の粟原という所で火葬にされたとある。その2年後に、持統天皇が天皇で始めて火葬にされている。
火葬所
火葬場はかって三昧場と呼ばれ、五三昧は京都洛外の5ケ所の三昧所を指す。『平家物語』に墓所は、大和国、添上那、河上村、船若野の五三昧なり」とある。
忌服
近親が死去した場合、一定の期間喪に服することを忌服というが、「服」は喪服を着ることを意味している。この忌服のはじまりは、天武元年(672)3月18日、前年の12月3日に崩御した天智天皇の死を告知する場面で始めて登場する。「日本書紀」によると、「朝廷は阿曇連稲敷を筑紫につかわして、天皇の死を郭務宋らに告げた。郭務宋らはことごとく喪服を着て、三度挙哀(声を挙げて哀悼を表す)をし、東に向かって拝んだ」とある。
近代では、明治7年に大政官布告により「服忌令」が定められたが、これは武家の制を採用し、貞享元年(1684)の服忌令を改正した元禄6年(1693)の制、並びに元文元年(1736)増補したものを定めた。
経かたびら
死者に経が書いてある衣を着せるのは、真言密教の経典によるものである。『不空索神変真言経』(707〜709年唐の菩堤流支訳)に、「もしこの亡者のその身分死骸衣服に従って真言をなさば、身形映着して即ち解脱を得、所苦の身を拾ててただちに浄土に生ぜん」とある。
供物拝辞
明治23年12月25日、国語学者の大槻文彦の妻の死亡広告が「東京日日」新聞に掲載された。それによると、「造花ご寄贈の儀は平にお控え下さるべく侯」とある。
劇団葬
昭和3年12月25日のクリスマスの夜、心臓麻痺で倒れた新劇運動の小山内薫(1881〜1928)に対して、築地小劇場では劇団葬が行なわれた。
献体
明治11年5月、大坂の芸妓が自ら死体解剖を申し出た。岡沢貞一郎が解剖。心斎橋の病院長代理他生徒百名が臨場した。
医学の実習のため解剖用の遺体を登録する献体の会は、昭和30年(1955)9月に結成された。これを東京大学白菊会といい、文部省の基準では解剖体は医学生2人について一体必要であるとされる。
ゴルフクラブ
最後の将軍、徳川慶喜の七男である慶久が大正11年38歳で死亡した。この人はゴルフが得意だったので、納棺の時に故人が好きだった品物を入れようという意見がもちあがった。しかし前例がないということで家令が反対するので、兄弟たちは「兄弟だけで最後のお別れをしたいからその間遠慮してくれ」といって、内緒でクラブを棺のなかに入れたのである。
香典
足利義春の死(1550年)を記した『高松院殿穴太記』に「穴太の御所(喪所)へは、所々より、香冥を参らせらる」という記事がある。『播磨屋中井家永代帳』の明和2年(1765)5月20日の記録には、「九品院へ御袋様御新造様御香奠」とある。
高野山納骨
『兵範記』仁平3年(1153)12月8日の記事に、「今夕御室(覚法法親王)をご葬送。夜に入り嵯峨野ご門に移しその西の林の中に葬り、法橋寛深はお骨をかけ高野山に登り、塔のなかに納めた」とある。
告別式
明治34年、自由民権指導者の中江兆民が12月13日、咽喉ガンのため55歳で死亡した。葬儀は遺言により一切宗教上の儀式を用いなく、青山葬儀場において告別式を執行した。葬場の正面に棺を安置し、葬儀係の挨拶、板垣退助の弔辞、大石正巳の演説が行なわれた。
散骨
承和7年(840)5月、淳和天皇は皇太子に、人は死ねば魂は天に帰り、墓だけが空しく残り、鬼がそれについてたたりをするから、自分の骨は粉にして散くことを命じている。天皇の死後、遺言通り山城國の物集村で火葬した後、骨を砕いて大原野西山嶺の上にまいた。(続日本後紀)
寺院
552年、百済の聖明王は、欽明天皇に釈迦像を献じた。天皇はこの像を蘇我稲目に祀ることを命じた。稲目は喜んで大和の家に安置し、無垢原の家を捨てて寺とした。日本の寺のはしまりであるが、仏教式建築ではない。
自粛(普請鳴物停止)
天皇の大喪の時に「自粛」という言葉がはやったが、こうした自粛は、江戸時代から始まった。「徳川禁令考」によると、延宝8年(1680)第108代後水尾天皇崩御にさいして、町中での見せ物、普請(建築)等停止すべしという禁令が出された。「何にてもものさわがしい事ないように、町中裏々まで、残ることなく守るように」とのことである。こうした停止令は慶応3年(1867)、121代考明天皇崩御にさいしても、「普請鳴物停止」の触れ書きが出ている。なお停止期間は、お触れが出された1月4日から百ケ日法要のすむ4月14日までである。
辞世
この世に別れを告げる時に残す詩歌で、これが盛んになったのは平安後期からである。寿永3年(1182)7月、平家の一族が安徳天皇を擁して都落ちしたさいに、平薩摩忠度が途中から引き返して藤原俊成の許を訪れ、「さざなみや志賀の都は荒れにしをむかしながらの山桜かな」の辞世を残している。
自葬の禁止
明治5年6月28日自葬が禁止され、これ以後の葬儀は神官または僧侶に依頼することが決められた。自葬とは自分の信じるところによって行なう葬儀で、江戸時代の神道、儒教はともに自葬であって、喪主以下の人々が神道、儒教の式次第に則って行なった。
死体解剖
江戸時代の医家の山脇東洋(1705〜61)は、宝暦4年(1714)2月7日、京都所司代の許可を得て4人の男の死体を解剖する。これが日本最初の医学解剖で、その1ケ月後に解剖慰霊祭を行なった。明治に入って明治2年(1869)解剖に関する法律が出来、それには「病者の請願あるは死後解剖を許す」とある。ホルマリンによる遺体の長期保存が可能になったのは19OO年頃である。
死亡広吉
新聞の死亡広吉の始まりは、明治6年l月14日『日新真事誌』紙上の広告である。内容は死亡告知と葬儀の案内で、「本日12日の朝外務少補上野景範の父上野景賢病死せられ、来る15日午後第一時築地仲通り同氏邸宅より出棺、芝伊更子大円寺へ葬送あい成り筈につき同氏友人等の為にこれを報告す上野氏友人」とある。
儒葬
儒葬とは儒教の礼によって行なう葬儀であるが、12世紀の儒学者、朱子が編纂した「朱子家礼」が、日本の儒葬の基になっている。儒葬を日本で最初に行なったのは土佐の野中良継で、慶安4年(1651)6月に、その生母の葬儀を儒葬で行なった。ついで林羅山は明暦2年(1656)3月に母荒川氏の儒葬を行なっている。
殉死
君主の死に際して、臣下が後をおって命を捧げることをいう。「日本書紀」の中で、第11代の垂仁天皇の28年10月、天皇の母の弟の倭彦命が亡くなられた。「遺体は築坂に葬ったが、このとき近習の者を集めて、全員生きたままで、陵のまわりに埋めたてた。日を経ても死なないため、昼夜泣きうめいた。ついには死んで腐っていき、犬や鳥がそれを食べた」とある。このなかで殉死は古い習慣であるといっているので、これ以前に行なわれていたことが分かる。
心中
男女の心中の最初は天和3年(1683)、遊女市の丞となじみ客の長右衛門との情死である。近松も『心中刃は氷の朔日』のなかで「誰が初めしこの契り、音に聞きしは生玉のそれが初めのだい市の丞」と述べている。大阪で流行を続けた心中が江戸に飛び火したので、幕府は享保7年(1722)心中禁止令を出すに至った。
神葬
日本に仏教が到来してから、天皇の葬儀も仏式で行なわれるようになり、それは明治になるまで続いた。その間神葬で行なわれたものに、徳川家康の葬儀がある。明治5年6月28日、政府は自葬を禁止し、神葬または僧侶に依頼して葬儀を行なうことを定めた。これより一般での神葬祭が行なわれるようになった。
頭北面西
死者の頭を北に向けるという習慣は、釈迦が涅槃に入った時の姿を模したといわれており、『臨終方決』『涅槃経後分』『増一阿含経』に載っている。『増一阿含経』では「仏、阿難に告げる。わが滅度のあと、仏法は北天竺(北インド)にあるべし。この因縁をもっての故に、座を敷くに北回きにせしむ」とある。なお儒教の経典の『礼記』でも北向きを教えており、日本では『栄華物語』のなかで藤原道長(1027)が遺体を北向きにされたことが記されている。
生前の死亡広吉
江戸時代の西洋画の先覚者である司馬江漢は、76歳の文化10年(1812)8月に、チラシに自画像入りの辞世を刷って友人に配付した。その内容は「江漢先生老衰して画を求めるものありといえども描かず、蘭学天文あるいは奇器を好むことも倦み、ただ老荘のごときを楽しむ。
去年は吉野の花を見、それよりして京にとどまること1年、今春東都に帰り、先ごろ上方さして出られしに、相州鎌倉円覚寺誠拙禅師の弟となり、遂に大悟して死にけり、万物生死を同じくして無物にまた帰る者は、しばらく集まるの形なり…」しかし翌年には蘇生通知を友人宛てに送っている。
新聞に載った死亡広告としては、作家の斉藤緑雨が、明治37年(1904)4月に肺患のため親友の馬場に依頼して口述で自分の死亡広告を書いてもらった。
「僕本日を以て目出度く死去候間この段広告つかまつり候なり、4月13日斉藤賢」この広告は死亡すると同時に掲載になった。
施餓鬼 1
施餓鬼法要は障害をなす餓鬼に対して施す法会で、その典拠は『救抜焔口餓鬼陀羅尼』である。中国に施餓鬼経典が紹介されたのは唐代(618〜907)で、日本では平安時代に天台・真言宗の僧侶によって紹介された。明恵上人伝記に「上人それより施餓鬼法をぞ毎夕修し給いける」とある。
施餓鬼 2
仏教における法会の名称である。または、施餓鬼会(せがきえ)の略称。
餓鬼道で苦しむ衆生に食事を施して供養することで、またそのような法会を指す。特定の先祖への供養ではなく、広く一切の諸精霊に対して修される。 施餓鬼は特定の月日に行う行事ではなく、僧院では毎日修されることもある。
日本では先祖への追善として、盂蘭盆会に行われることが多い。盆には祖霊以外にもいわゆる無縁仏や供養されない精霊も訪れるため、戸外に精霊棚(施餓鬼棚)を儲けてそれらに施す習俗がある、これも御霊信仰に通じるものがある。 また中世以降は戦乱や災害、飢饉等で非業の死を遂げた死者供養として盛大に行われるようにもなった。
水死人の霊を弔うために川岸や舟の上で行う施餓鬼供養は「川施餓鬼」といい、夏の時期に川で行なわれる。
由来
不空訳『救抜焔口陀羅尼経』に依るものである。釈迦仏の十大弟子で多聞第一と称される阿難尊者が、静かな場所で坐禅瞑想していると、焔口(えんく)という餓鬼が現れた。痩せ衰えて喉は細く口から火を吐き、髪は乱れ目は奥で光る醜い餓鬼であった。その餓鬼が阿難に向かって『お前は三日後に死んで、私のように醜い餓鬼に生まれ変わるだろう』と言った。驚いた阿難が、どうしたらその苦難を逃れられるかと餓鬼に問うた。餓鬼は『それにはわれら餓鬼道にいる苦の衆生、あらゆる困苦の衆生に対して飲食を施し、仏・法・僧の三宝を供養すれば、汝の寿命はのび、我も又苦難を脱することができ、お前の寿命も延びるだろう』と言った。しかしそのような金銭がない阿難は、釈迦仏に助けを求めた。すると釈迦仏は『観世音菩薩の秘呪がある。一器の食物を供え、この『加持飲食陀羅尼」』(かじおんじきだらに)を唱えて加持すれば、その食べ物は無量の食物となり、一切の餓鬼は充分に空腹を満たされ、無量無数の苦難を救い、施主は寿命が延長し、その功徳により仏道を証得することができる』と言われた。阿難が早速その通りにすると、阿難の生命は延びて救われた。これが施餓鬼の起源とされる。
一方で目連「盂蘭盆経」による釈迦仏の十大弟子で神通第一と称される目連尊者が、神通力により亡き母の行方を探すと、餓鬼道に落ち、肉は痩せ衰え骨ばかりで地獄のような苦しみを得ていた。目連は神通力で母を供養しようとしたが食べ物はおろか、水も燃えてしまい飲食できない。目連尊者は釈迦に何とか母を救う手だてがないかたずねた。すると釈迦は『お前の母の罪はとても重い。生前は人に施さず自分勝手だったので餓鬼道に落ちた』として、『多くの僧が九十日間の雨季の修行を終える七月十五日に、ご馳走を用意して経を読誦し、心から供養しなさい。』と言った。目連が早速その通りにすると、目連の母親は餓鬼の苦しみから救われた。これが盂蘭盆の起源とされる(ただしこの経典は後世、中国において創作された偽経であるという説が有力である)。
この2つの話が混同され、鎌倉時代から多くの寺院において盂蘭盆の時期に施餓鬼が行われるようになったといわれる。
施餓鬼法
不空訳『救抜焔口陀羅尼経』に基づく修法で、池の畔、樹木の下などの静かな場所で東方に向かい3尺以下の壇を儲けて修する。陀羅尼と五如来(宝勝・妙色身・甘露王・広博身・離怖畏)の名号念誦の加持力によって、餓鬼の罪障を滅し、飢渇を除き、天人道や浄土へと往生させる。 なお餓鬼は夜間に活動するとされるので、日没以降に行う。また吉祥木である桃・柳・石榴の側では行わない。本堂内陣では行わない。灯明をともさない。香華を供えない。鐘を鳴らさない。数珠を摺らない。声高に真言を唱えない。作法終了後は直ちに後ろを向いて振り返らないなど独特の禁忌のある作法を本義とする。これらの決まりは餓鬼が吉祥木や灯明、香華、鐘や数珠の音、大声や人の視線を嫌うことに由来する。 このような施餓鬼法は密教系の修行道場では、行者の修行が円満に成就するようにと毎夜行われる。
ただし中世以降は盂蘭盆行事等と習合したことで施餓鬼は日中に盛大に行われるようになり、上記のような禁忌のない作法が行われるようになる。このような法会には餓鬼は直接列することができないので、供養した食物は本義に従って水中や山野に投じて餓鬼等に施すのを常とする。 施餓鬼は多大な功徳があるとして、その功徳を先祖へと回向する追善として行われるようになり、これらから盂蘭盆行事となっているが、両者は混同してはならないとされる。
石棺
石で棺をつくることを伊志岐(いしき)というが、第11代垂仁天皇の32年に、皇后が死去す。このとき和泉の人が石棺を作って献上した。天皇はこれをほめて石作りの大連公の姓を与える。石棺は天皇及び皇親以外は用いなかった。そして第36代考徳天皇(596〜654)の時に臣下の棺は木を使用し、漆を塗るべしと定められる。また645年、石作大連公の石作部を監督することをやめ、喪事があれば朝延が工人に石棺を作らせるようになる。
石碑
石碑は功を石に刻んで後世に伝えるものだが、第21代雄略天皇の時代に、小子部栖軽という者がいた。天皇は栖軽の功績を賛えて墓を作り、その上に碑を立て功績を刻んだ。これが日本で墓上に碑を立てる始まりである。
葬儀社
明治6年9月に東京神田美倉橋辺りで貸車業を営んでいた上林某が葬送用の人力車19輛を作ったのが始めという。
卒塔婆
卒塔婆は遺体や焼骨を供養するためのもので、長い板に5つの刻みを入れ、戒名を入れたものである。『日本紀略』の康保4年(967)に「5畿内並びに伊賀・伊勢国等26ケ国、卒塔婆6千基を立てるべし。宣旨下され高さ7尺、径8寸、天皇御悩みによるなり」とある。
尊厳死協会
日本で安楽死問題を始めて紹介したのは、公法学者の市村光恵博士で、明治39年(1906)『医師の権利義務』のなかで「安死術の如きも決して医術に属することなし。安死術とは臨終に際し非常に苦痛に悩む患者をして苦痛なくして早く死せしむる術をいう」とある。昭和51年、日本安楽死協会が設立され、昭和58年に日本尊厳死協会と改称された。
中陰供養
人が死んで次の生を受けるまでの四十九日間を中陰といい、この間七日ごとに供養を行う。この供養は仏典の『梵網経』『地蔵菩薩本願経』などにある。『梵網経』には「父母兄弟…亡滅の日、及び三七日ないし七七日には、また本乗経律を読誦講説すべし」とある。日本では十世紀項から四十九日の法要が盛んとなった。
剃髪
剃髪は、僧になるための得度式の一部であるが、この目的は煩悩を断ち、騎慢な心を除くためである。仏典では『過去現在因果経』『華厳経』『遺教経』などに記されている。天皇の剃髪は大仏殿を建てた聖武天皇(701〜756)から始まった。
デスマスク
一デスマスクの起源はギリシャ、ローマ時代からあったが、日本では明治14年(1881)の新聞集138号に「大鳥圭介君の夫人の像はいまだ収斂ならざる前に石膏泥をもって、その面に冒して範となしつくりしゆえ、分毫も生身にたがわず出来ると申す噂なり」とある。これが始めか。
天冠
死者の額に三角の布を着ける風習が各地に残されているが、この由来は禅宗の道忠がまとめた『小叢林清規』(1653)の「在家送亡」に記されている。「布帽に卍字を書き、亡者の額に結ぶ」とある。
動物霊国
府中市にある多摩動物霊園は、大正12年、禅宗系の宗教法人慈恵院の開山が、動物好きということから、遺体をあずかり供養したことから始まった。なお動物の供養は『円満本光国師見灯録』(1516)に小鳥に対する回向文が収録されている。
納骨時の散水散土
納骨の時、遺族は各自土を少しづつかけたり、水をかけたりする。この由来は『臨終方法』(701年唐の義浄訳)に「無虫の水を亡者の上に注ぐ。また黄土を亡者の上に散ずること三七遍」とある。
埴輪
662年、垂仁天皇の皇后死す。出雲の野見宿禰は出雲の士部(はしべ)により埴(黄赤色の粘土)をとり、人馬の形を作って墓陵の周囲に並べ立てた。これが埴輪の始めである。
風葬
聖武天皇の皇后で、仏教の篤い信仰者である光明皇后(760没)が崩せられたとき、遺言によって遺骸は野辺に捨てさせ、雨露にさらさせたという。
仏壇
仏壇とは仏像を安置する須弥壇のことであるが、在家に仏壇を安置することは、天武天皇の14年(686)3月27日の詔勅に、『日本書紀』に「諸国家ごとに仏舎を作り、すなわち仏像および経を置き、もって礼拝供養せよ」とある。平安以降は持仏堂と称して住宅の1室に仏像を安置する家があったが、一般の庶民は寺院が発行した刷り仏を壁に貼る程度であった。
法事
○ 百ケ日法要
「百ケ日」法要はもともと儒教の「卒哭忌」を仏教で採用したもの。『礼記』(BC402〜221)に「士は3月にして葬る。この月や卒哭す」これまでは喪祭であったが、卒哭忌をもって吉祭とする。日本では687年9月9日に崩御された天武天皇の百ケ日法要が12月19日に行なわれた。
○ 一周忌・三回忌
一周忌は中国で行なわれた小祥忌が、仏教に取り入れられたものである。また大祥忌は仏式の三回忌に当たり、死亡より25ケ月目に行なう祭儀である。一周忌は757年の聖式天皇のものが始めで「僧千五百余人を東大寺に議して、斎を設ける」とある。三回忌は鎌倉時代に入ってからで、1186年の平重衡の3回忌が始めである。
埋葬法
大化2年(646)3月22日に諸王諸臣の墳墓の制が定められ、畿内より諸国にいたるまで葬地を限り、ところどころに散埋することが禁じられた。大宝1年(701)に作られた律令が制定され、郡および道路の付近に埋葬することが禁じられた。
喪章
明治2年(1869)版の西洋見聞録に「黒服を用い、黒色の布片をもって帽子のまわりを巻き、また書簡袋の周辺を黒くするなどをもって喪人たるを示す」とあるように、西洋の喪章についての紹介がなされた。喪章が日本で用いられたのは明治14年3月13日、ロシア皇帝アレクサンドル2世の死亡のときで、大礼服の左袖に黒い綬をつけて服喪の意を表すことが決められた。これがやがて一般にも普及していった。
湯灌
死者の身体を清める湯灌の作法は、701年唐の義浄が訳した『仏説無常経』の付録に臨終方法という経がある。そこに「信男、信女、もしくは人あり、まさに命終せんと欲せば…香浴にて操浴し清浄にし、新浄衣を着ず」とある。
霊柩車
世界最初の霊柩車はアメリカで、1905年のことである。日本では大正6年(1917)大阪の「駕友」が「コビム号」を作り上げたのが最初である。これが普及したのは大正12年に起きた関東大震災以降のことである。
六道銭
死者に六道銭を持たせる習慣は、三途の川を渡る時の渡し賃であるといわれており、れは中国から伝わった風習である。貨幣が出来てから貨幣を棺に納めたが、後漢時代に紙銭が発明されてからは紙銭を用いるようになった。日本では紙銭ではなく、金属貨幣が用いられた。穴あき一文銭を使う伝承は、江戸時代初期の寛永通宝以後のことで、六枚使うのは六地蔵に一枚づつ捧げたという説がある。 
 
十王信仰

 

十王信仰(じゅうおうしんこう)は、地獄を統べる10人の裁判官に対して慈悲を乞う信心の一種である。生前は十王を祭り、死して後の罪を軽減してもらうという意図があった。十王は死者の罪の多寡を鑑み、地獄へ送ったり、六道への輪廻を司るなど畏怖の対象であった。一般に閻魔に対する信仰ととる向きもあるが、閻魔以外の裁判官の知名度が低いせいである。 
十王とその本地 
秦広王(しんこうおう)=不動明王  
初江王(しょこうおう)=釈迦如来  
宋帝王(そうていおう)=文殊菩薩  
五官王(ごかんおう)=普賢菩薩  
閻魔王(えんまおう)=地蔵菩薩  
変成王(へんじょうおう)=弥勒菩薩  
泰山王(たいざんおう)=薬師如来  
平等王(びょうどうおう)=観音菩薩  
都市王(としおう)=勢至菩薩  
五道転輪王(ごどうてんりんおう)=阿弥陀如来  
経緯 / 仏教が中国に渡り、道教と習合していく過程で偽経の「閻羅王授記四衆逆修生七往生浄土経(略称「預修十王生七経」)」が作られ、晩唐に十王信仰は成立した。道教経典の中に、「元始天尊説鄷都滅罪経」「地府十王抜度儀」「太上救苦天尊説消愆滅罪経」という同名で同順の十王を説く経典が存在する。 
「預修十王生七経」が説くのは、生七斎と七七斎という二つの仏教儀礼の功徳である。生七斎は、生者が自身の没後の安穏を祈願して行う儀礼で、その故に「預修」(または「逆修」)という用語が用いられる。本来の「十王経」は、生七斎を主とした経典であった。生七斎の場において、十王の位牌を安置し、十王を媒介して天曹・地府・冥官への上表文を奉るための紙と筆が、その位牌の前に供えられた。文書を送るための作り物の馬が並べられる。七七斎では、亡者のための追福・修功徳として、遺族が執行する儀礼である。二つの儀礼を合揉した「十王経」の主体は、次第に七七斎の方へと力点を移して行く。しかし、回向による功徳の振り分けは、全体を七等分して、生者が六分、亡者には一分が割り振られると説かれている。この配分は、「預修十王生七経」のみならず、「灌頂随願往生十方浄土経(略称「灌頂経」)」「地蔵菩薩本願経」でも説かれるところである。 
日本では「地蔵菩薩発心因縁十王経(略称「地蔵十王経」)」が作られ、平安末期に末法思想と冥界思想と共に広く浸透した。「地蔵十王経」中には、三途の川や脱衣婆が登場し、「別都頓宜寿(ほととぎす)」と鳴く鳥が描写され、文章も和習をおびるなど、日本で撰せられたことをうかがわせる面が多分にある。冥界思想の浸透については源信が記したとされる往生要集がその端緒であると考えられている。鎌倉時代に十王をそれぞれ十仏と相対させるようになり、時代が下るにつれてその数も増え、江戸時代には十三仏信仰なるものが生まれた。 
他界観 / 日本では十王信仰が持ち込まれた事で他界についての情報が飛躍的に増えた。旧来は古事記に見られるような明確な定義の無い黄泉の国の他界観で、漠然と死後ただ行く世界であったのに対し、死した後の世界を詳細に定義付けた地獄の他界観は道教と儒教の影響を色濃く受けた、人一人一人に対し厳しいものであった。末法思想が流行った当時は他界観がクローズアップされ、明確な情報をもった仏教的他界である地獄が広く受け入れられた。日本の地獄の他界観はほとんどが中国由来だが、多少の差異がある、三途の川・賽の河原・奪衣婆(だつえば)と懸衣翁(けんえおう)等がそれである。 
十王の審理 / 死者の審理は通常七回行われる。没して後、七日ごとにそれぞれ秦広王(初七日)・初江王(十四日)・宋帝王(二十一日)・五官王(二十八日)・閻魔王(三十五日)・変成王(四十二日)・泰山王(四十九日)の順で審理をする。審理で問題が無いと判断されれば次の審理に回る事は無く、抜けて転生し、七回すべてやるわけではない。一般に、五七日の閻魔王が最終審判となり、ここで死者の行方が決定される。これを引導(引接)と呼び、「引導を渡す」という慣用句の語源となった。 
七回の審理で決まらない場合、追加の審理が三回、平等王(百ヶ日忌)・都市王(一周忌)・五道転輪王(三回忌)となる。ただし、七回で決まらない場合でも六道のいずれかに行く事になっており、追加の審理は実質救済処置である。もしも地獄道・餓鬼道・畜生道の三悪道に落ちていたとしても助け、修羅道・人道・天道に居たならば徳が積まれる仕組みとなっている。 
なお、仏事の法要は大抵七日ごとに七回あるのは、審理のたびに十王に対し死者への減罪の嘆願を行うためであり、追加の審理の三回についての追善法要は救い損ないを無くすための受け皿として機能していたようだ。 
現在は簡略化され通夜・告別式・初七日の後は四十九日まで法要はしない事が通例化している。  
 
享年(きょうねん)と行年(ぎょうねん)

 

「享年」「行年」も語意としては「この世に生きた年数」「死亡時の年齢」とか「没年」と訳すので、どちらが数え年で、どちらが満年齢を示すものか明確ではない。寺により、「行年」を「満年齢」、「享年」を「数え年」として取り扱っている。 
高野山にある江戸時代の石塔をはじめとする古い石塔を見てみると、殆どが「享年**歳」と刻んである。昭和20年代半ば以前は、民法の「年齢のとなえ方に関する法律」で「数え年」を使っていた。この法律の施行後「満年齢」を使うわけだが、法律施行前の仏さんの死亡時の年齢が今の時代でも同じ扱いになるよう、「享年」を「数え年」として使われている。ちなみに、出生してから数時間或いは数日から一年未満の嬰児が亡くなったときは、「行年当歳」としている。  
 
線香

 

線香と焼香 
香には、線香・焼香・塗香(ずこう・手に塗る香)など様々なものがあるが、香には違いなく、線状に作られた線香も焼香に使うチップ状の香も同じものと考えてよい。僧侶が使用する香炉には、あらかじめ灰の中に粉末状の香が固めて埋め込んである。宗派によるが三回に分けてその香をかける。線香も三本立てるが、三本でなければいけないという決まりはない。その意義は、仏部(如来部)蓮華部(菩薩部)金剛部(明王部)の仏、即ちすべての仏に捧げるということで、本尊一仏であれば一本と考えてよいことになる。しかし、この「三」という意味には「三密加持(さんみつかじ)」(身・口・意の三業を加持)をはじめとする様々な意味が備り、この見解も正しいと理解できる。線香にしろ焼香にしろ仏の供養に対する祈念があれば、何本でも何回でも良いのである。焼香の香を額の近くまで持ち上げてから香炉の炭の上に落とす人が多いが、そういった決まりもない。何故額の近くまで持ち上げるのかは、弔問の方々の亡者に対する祈りの念が自然とそのような姿になっただけである。 
お焼香の意味 
お香は、香気ある樹脂(じゅし)や木片から作られています。熱帯の地では生活臭や悪臭を防ぐ目的で使用され、その効果により、清々しい気持ちで生活が送れるようにした古くからの慣習により、供養や修行をする場所を清めるために香が焚かれました。 
お釈迦さまの弟子に富那奇(フナキ)という高僧がいました。富那奇は、兄の羨那(センナ)と共に一念発起し、力を併せて故郷にお堂を建てました。二人は一刻も早くお釈迦さまをお迎えしたく、敬慕する気持ちを込めて香を焚いたところ、その煙はお釈迦さまの下(もと)へ天蓋(きぬがさ)となって届き、二人の供養する心を悟られたお釈迦さまは、すぐさまそのお堂にお出向きになり、説法をされたという言い伝えがあります。 
この言い伝えにより、二人のように心を込めて、念じながら香を焚けば、いつ、どこへでもお釈迦さまはそのお姿をお示しになり、ありがたい法を説かれ、聞く者は安心(あんじん)を得ることが出来るという信仰が生まれたのです。 
私たちは自分以外の様々な生命の恩恵によって、自らの生命(いのち)を保っています。 
また、ご先祖さまがいなければ、私たちは人間として、この世に生を受けることはできなかったのです。 
正に得難い生命をこの世に受けながら、自らの心の運び方によって、良い心、悪い心どちらにも動いていきます。知ってか知らずか、罪を犯してしまうこともあるでしょう。お焼香は、日頃重ねている罪を謙虚に受け止め、その罪をお焼香の香りと共に滅していただき、ご先祖さまや、数々の恩恵を受けた生命や、人々に対する感謝と供養の心をこめてしてみてはいかがでしょうか。 きっと、心の中に、さわやかな贈り物が届くことでしょう。  
 
清め塩

 

不幸を払う一種の習わしが広まったものだ。「塩」は白いことから「清浄なもの」と喩えて使うことになったのか。 
「塩」は「払う」ものでなく「招くもの」という伝説がある。 
中国、秦の時代に秦の始皇帝にはたくさんの妾がいた。始皇帝は、最初は順番に妾の家に通っていたが、だんだんに妾が増え順番が分からなくなった。当時の乗り物であった牛任せで辿り着いた妾の家に行くようになった。そのために、全く行かない家もあるようになった。そうした時ある賢い妾が何とか自分のところに始皇帝が毎日来てくれる方法がなかと考えた。その方法とは、始皇帝の御殿から自分の家まで「塩」を垂らして来るという方法だった。なんと牛は「塩」を好んでなめるという。それから毎日始皇帝は牛の行くままに毎日その妾の家に通うこととなった。 
この伝説から、客商売をするお店で、お店を開ける前に玄関の前をきれいに掃除しほこりが立たないように水をまき、「盛り塩」をして客を招くという願を掛けることになったようである。 
実は、これこそが供養するときに修法する作法そのものが原点となっている。 
真言密教の作法では、まず最初に本尊に三礼(さんらい)し、着座したら「弁具」といって仏具などの点検をする。これがお客さんを招く前に行うご馳走や部屋の確認と同じことで、即ち供養の対象となる仏をを招くために行う確認行為である。次に、手に「塗香」を塗り心身を清める。これが部屋に香水などを施しお客さんをもてなす準備をすることにあたる。次に、「洒水加持」(しゃすいかじ)といって散杖(さんじょう)という棒に水を付けて三度清める、これが玄関の前に水をまく行為と同じである。次に、「声明」(しょうみょう)という節の付いた経を唱え、供養の対象となる仏を招くのである。次に、読経がはじまる。これが仏との会話の内容である。即ち、お客さんへの接待であり、話をしたり、ご馳走をふるまうことなのである。
 
布施

 

布施 1 
布施(ふせ)というとご法事のときにお寺さんへ包んでいくお布施を思い浮かべますが、一般的に金品を施すことを財施(ざいせ)といい、仏法を説いて聞かせるなど、心への施しを法施(ほうせ)といいます。他に、無畏施(むいせ)といって何ものにも怖れることのない力を与える布施があります。たとえば、施無畏者(せむいしゃ)という別名もある観音さまが与えてくださる布施がそれです。 
布施は、自分の都合を後にして他を助けることで、これは仏に近づく手段のひとつですから仏教徒の第一のつとめです。いろんな意味で、相手を助け、豊かな心にする行為は布施と言えますから、たとえば、やさしい眼差(まなざ)しや笑顔を向けること、思いやりのある温かい言葉をかけること、ちょっとした心づかいをすること、順番や席をゆずったりすることなどが立派な布施になります。 
一方、名利(みょうり)の布施という言葉があります。これは自分の欲をからめての布施で、お礼や誉められることを期待したり、どこかに名前が載ることを喜びとしたり、金額を競ったり、好い人だと思われたいとか、そんなことをチラッとでも思ったうえでの布施のことです。こういう布施は不清浄施(ふしょうじょうせ)といわれるくらいで、自分を汚してしまいます。 「貧者(ひんじゃ)の一灯(いっとう)」という話は、貧しい少女が自分の髪の毛を売ってお釈迦さまに捧げた小さな小さな灯が大風に耐えて最後まで輝いていたという話です。大金持ちが競って寄進した大きな灯篭(とうろう)の灯はみんな消えてしまったのです。 
布施に自惚(うぬぼ)れや高慢(こうまん)さは禁物です。「こんなことしかできなくてすみません」という謙虚さと「させていただく」という態度があってはじめて布施は功徳(くどく)となるのです。  
布施 2 
ケース・バイ・ケースで異なります。第一に、布施という言葉は六波羅密(六つの悟りの方法)の第1に採り挙げられているもので、「人の身になって考える」ということです。僧侶が皆様のニーズを察知し営む法要は法施と言い、皆様が僧侶の身になって金品を施すのが財施という行為です。第二に財施をしたくても無財(なにも持っていない無い)の人もおりますから、いくら包みなさいといっても実行不可能なこともあります。仏典には無財の人は、捨身施(身を捨てて人のためにつくす)心慮施(思いやりの心を持つ)和顔施(明るい表情で周囲を和ませる)慈眼施(優しい眼差しをするj愛語施(さわやかな言葉をかける)房舎施(困っている人を向かい入れる)床座施(席をゆずる)なども立派な布施であるとされています。そこで、布施とは金額に依存せず、疑心暗鬼にならず、自分の出来ること(額)を包めばいいのです。 
ところで、お布施の経済学をひとつ。これは梅棹忠夫先生によるお布施理論で、お布施の額は布施をする者と布施を受ける者の関係で決定されるそうです。布施する側に地位が高ければ高額になります、檀家総代は位の低い僧侶にも高額のお布施を必要とします。また、布施を受ける側の身分に依っても額が変わります、立派な僧侶のには高額なお布施が、駆け出しの僧侶にはそれなりのお布施が渡されることになります。 
しかし、実際に知りたいのは具体的な金額でしょう。地域にもよりますが東京周辺で私が推奨しているのは、例えば葬儀の時は年収の12分の1(1月の給料+ボーナス/12)、その他の法要の時はその10分の1を目安にしています。食事を差し上げない場合にはお食事代、遠方からお見えに成る場合には交通費としてお車代を包むのが丁寧な方法です。つまり、年収600万円の場合には、葬儀では50万円、法事では5万円のお布施になります。これは、ひとつの目安でこの通りにする必要は有りません。繰り返しますが布施とは金額に依存せず、疑心暗鬼にならず、自分の出来ること(額)を包めばいいのです。 
 
お数珠

 

お数珠(じゅず) 1 
「お数珠」は仏さまにおまいりする時に使う法具と呼ばれるものの一つですが、訛って「おずず」とも呼ばれますし、「珠数」や「寿珠」と書いたり、「念珠(ねんじゅ)」などとも呼ばれます。 
念珠という名前は、「南無阿弥陀仏」などと仏さまを念じながら、そのお名前をお唱えする時に、何回お唱えしたかという回数を計算するために使うことからきた名前です。実は、数珠という名前自体もそのことをあらわしているのです。常日頃(つねひごろ)から、数珠を繰(く)って、仏を念じていれば、煩悩も消え、仏果を得られるというわけです。 
「木槵子経(もくげんじきょう)」というお経の中には、ハリルという国の王さまが、盗賊や疫病(えきびょう)などの問題で悩み、どうしたら心の平安が得られるでしょうかと、お釈迦さまにお尋(たず)ねした時に、お釈迦さまは木槵子の実百八個で作った数珠を与え、この珠を繰りながら仏の名を唱えなさいとおっしゃったと説かれています。 
王さまが、その通りに実行し、心の平安を得たことはいうまでもありません。 
さて、数珠の形や珠の数は宗派や用途によって違うのですが、珠の数だけは百八個を基準としているのが普通です。多いものでは千八十個のもの、少ないものでは五十四個、三十六個、二十七個、十八個などのものがあります。 
もちろん、まれにはこれ以外のものもありますが、ここにあげたような一般的なものは、すべて、木槵子経の中にある百八個を基準に、十倍したり、何分の一かに略していると思っていただければよいのです。  
お数珠(念珠) 2 
数珠は通常は108個の珠からなり、その数については通説では人間には108もの煩惱があり、それを数珠になぞらえてその煩惱を一つ一つ無くしていくのだ、とされています。しかし、数珠の起源というのもよく分かっていないので、数珠と煩惱の数の関係というのも今一つはっきりしません。もともと数珠は真言や念仏を何回唱えたか数えるために使わた計算機です。この点ではカトリック教徒が持っているロザリオも同じ意味を持っています。その数珠を持つときは必ず左手に持ちます。インドでは古来、右手は清浄な手、左手は不浄な手とされてきました。その不浄な手を清めるためにも、数珠は左手に持つのです。一般の檀信徒の方も、勿論108珠の数珠を持って頂いて結構なのですが、その種類や正式な持ち方は宗派によって違いますので各菩提寺にお尋ね下さい。もしくは扱いにくい108珠の念珠を持つよりも、「半繰り」「四半繰り」といわれる、通常の半分、もしくは4分の1の長さの数珠をお持ちになるといいでしょう。 
 
塔婆

 

塔婆 1 
ストゥーパのことを漢字で表現して卒塔婆(そとば)〈率塔婆〉といっていますが、ストゥーパとはお釈迦様のお舎利(しゃり)をおまつりする塔のことをいいます。お釈迦様の入滅後、お徳を慕い、教えを心の拠りどころにしている人々が舎利〈釈迦のお骨〉を泰安する塔を建て、お釈迦様がいますがごとく塔を中心に集い、お釈迦様のこの世への出生、成道、涅槃について深く考えました。それによりますと、お釈迦様は真如(しんにょ)〈真理〉の世界からこの迷いの世界に衆生済度(しゅじょうさいど)のために現れた仏様であり、入滅して再び真如の世界に帰還されたお方で、真如そのものであると考えたのです。したがって、真如から来られたという意味で如来ともいいます。真如〈真理〉は普遍的でなければなりません。限定された時代、限られた地域だけの真理だとしたならば、真理とはいえないからです。その時その場所で正しくても、時と場所によって変わるようでは信頼をおくことができません。したがって、真理が時間と空間を超越しているように仏様も永遠なのです。そして、普遍的でありますから、どのような時にも、いかなる所にも行き渡っている存在でなければなりません。宇宙に遍満(へんまん)しているのです。そこで、卒塔婆で宇宙に遍満している姿を表そうとして、形作られたのが五輪塔です。インドでは古くから宇宙を構成しているものは、地・水・火・風・空の五つの要素であるという思想がありました。宇宙全体を示すのに相応(ふさわ)しいので、卒塔婆にその形を取り入れたのです。 
卒塔婆は宇宙に遍満している真理を表し、その真理が仏様なのだということを私たちに示そうとしているのです。ですから、いつでもどこにでも仏様はいらっしゃるばかりでなく、「一切衆生悉有仏性」(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)といって、生きとし生ける者すべてに仏性があるのです。 
皆様が墓参の折にお塔婆を墓地に立てるのは、宇宙の真理に触れ、仏性を開発させて、より良い意義ある人生を歩もうと誓い、仏の加護(かご)を祈るためなのです。そして、その祈りが自分の安楽だけでなく、亡き人の成仏はもとよりですが、生きとし生ける者の安寧(あんねい)を願うことを忘れてはなりません。  
塔婆 2 / 「戒名」と「塔婆」について(日蓮大聖人の法義) 
「戒名」生前出家者の法名 
「葬式仏教」という批判的な言葉をよく耳にしますが、実は仏教発祥の地・インドにおいては戒名・法名の習慣はなく、出家者も、とくに俗名とは別の「法名」を用いることはありませんでした。しかし、中国において、本名に「字」(あざな=生前の通称)や「諱」(いみな=死者への贈り名)をつける習慣があり、この古来の習慣から仏教界では出家者に戒名、すなわち法名が与えられるようになったのです。 
つまり、戒名は中国の慣習に基づいて生まれたものであり、仏門に帰依した人が受戒を機に与えられる「出家名」だったのです。 
中国の禅宗では僧侶が死んだ場合、位牌に出家名としての戒名を書く葬祭方式が示されていますが、その僧侶の「生前」の戒名が用いられたのであって、死後に新しく戒名を付けるのではりません。 
日本の場合 
日本では、仏教伝来の時代から中国と同じく出家名・受戒名としての戒名が用いられていました。奈良・平安時代においては、聖武(しょうむ)天皇には勝満、藤原道長には行覚というように、上流貴族が受戒すると戒名ないし法名が与えられました。あくまでも出家名としての戒名に準じたもので、今日のような死後戒名とはまったく異なります。平安時代中期以後は、寺院を建立した天皇や上流貴族の法名に、その寺号や院号を冠する例が多く見られるようになります。この慣習は武士階級の台頭とともに上級武士の間にも行われるようになります。死後戒名がつけられるようになったのは、早くても15世紀中葉以後と考えられています。一般民衆を信徒とする寺院は、応仁の乱(1467年)以後の二百年間に急増し、この間に庶民における葬送・追善の儀礼が発展したからです。 
戒名に触れられていない日蓮大聖人 
日蓮大聖人は建長5年(1253年)4月28日に立教開宗された後、御両親を正法に導かれましたが、その際に「日蓮」の一字ずつをとって、父に「妙日」、母に「妙蓮」の法名を授けられたと伝えられています。しかし、日蓮大聖人の御書全集にも「戒名」の語句はありません。日蓮門下の富木常忍の「常忍」、南条時光の「大行」など、いずれも「生前から名乗っていたもの」であって、死後戒名ではありません。つまり、大聖人の御在世当時においては、出家名、入道名としての法名ないし戒名はありましたが、死後戒名の慣習はなく、また法名や戒名の意義を教示されている御文もありません。総本山第九世日有上人(1402年-)の時代になると、死後に戒名を付ける風習が広く行われるようになりましが、それは、諸宗の葬儀・追善儀礼が民間に進出していたなかで、日蓮宗の信仰を「各家に伝承させるため」の措置であったと考えられます。 
第59世日亨上人は、「亡霊への廻向(えこう)には・其(その)導師たるもの少しも私の意志を挟(はさ)むべからず、御経の功用に任すべし、此時は蓋(けだ)し、戒名に意義ありと意得(こころう)べしとなり」と注釈され「亡くなった人に対する回向は御本尊への唱題・読経が根本であり、その功徳力があってはじめて戒名に意義が生ずる」と仰せです。以上のように現在のような戒名(死後の戒名)は日蓮大聖人や第二祖日興上人の時代にはなく、大聖人御入滅から約200年たったころに生まれた「歴史的産物」であり、大聖人の法義の上から故人の成仏には一切関係ないのです。 
塔婆 / インドの仏塔信仰に由来 
「塔婆」は、梵語のストゥーパを略したものです。釈尊が入滅し、遺言にしたがって在家の人達の手で火葬に付された後、その遺骨は八つに分骨され、それぞれの国に遺骨を収めた塔が建てられたといいます。そして、アショーカ王の時代から仏塔が盛んに建設されるようになり、釈尊の遺徳をしのぶ仏教徒の自然な感情の発露として、仏塔信仰が全インドに広まりました。この仏塔をストゥーパといったのです。中国・朝鮮・日本等でも、それぞれ独自の様式で仏塔が建造され、さまざまな変遷を経て今日の卒塔婆(そとば)に至ったのです。 
回向に不可欠のものに非ず 
日本においても塔婆は、仏塔を象(かたど)った墓標、あるいは供養塔として発達しました。今日、私達がよく塔婆供養として用いているのは五輪塔の形を一枚の木の板にかたどった板塔婆であり、これはいわゆる「一時の追善」です。日蓮大聖人は門下が娘の十三回忌に、南無妙法蓮華経の七字をしたためた六尺の率塔婆を立てたと報告したことに対して、その結語として「此(こ)れより後後の御そとばにも法華経の題目を顕(あらわ)し給へ」(御書1335ページ)と、今後とも塔婆を立てるならば、法華経の題目(南無妙法蓮華経)をしたためなさいと勧められていますが、御教示されているのは、塔婆供養という化儀が成仏、追善供養のうえで重要なのではなく、「南無妙法蓮華経という法の功徳が広大である」と教えられたのです。 
また、大聖人は「草木成仏口決」において、「有情は生の成仏・非情は死の成仏・生死の成仏と云うが有情非情の成仏の事なり、其の故は我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは死の成仏にして草木成仏なり」と、草木成仏の原理を明かされています。これは、草木成仏の原理がなければ成り立たない仏教の化儀の事例として、喩えられているのです。つまり、塔婆を立てなければ故人が成仏できないということではなく、草木成仏の原理は一念三千であり、その一念三千の当体である御本尊によって死者の成仏も可能となるということを明かされているのです。それは同抄の後半に「一念三千の法門をふ(振)りすす(濯)ぎたてたるは大曼荼羅なり」と明かされているとおりです。 
追善供養の根本は信心唱題 
その他、大聖人は、御書の随所で亡くなった方々の遺族へ慈愛の励ましをなされています。しかし一個所も「塔婆供養しなさい」と仰せになっていません。日蓮大聖人の故師であった道善房のために記された「報恩抄」にも、塔婆に関する言葉は一言もありません。「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えることこそ故人への最高の追善供養であるとされ、また、生きている遺族が仏道修行に励み、成仏してこそ、亡くなった人々への回向になると教えられているのです。 
「僧侶に塔婆供養をしてもらわなければ故人は成仏できない」「戒名をつけなければ地獄に堕(お)ちる」などと説くのは、塔婆や塔婆を「金儲けの手段」としていることになり、日蓮大聖人の御精神と法義に背く「己義」なのです。「戒名」も「塔婆」も成仏にまったく関係ありせん。成仏を決定する要因は、あくあでも本人の生前の「正法への信行」にあるのです。 
塔婆をなぜお供えするか 
塔婆は梵語のストゥーパの音写、卒塔婆の卒を略したものです。かつてインドにおいて、釈尊の入滅後、その遺骨が八分されて各地に安置され、そこにストゥーパ(塔)が建立され信仰を集めました。そして塔を礼拝供養することはもちろん、造塔供養は大変に功徳のあるものとされています。その後、塔の形、材料は国により、時代によってさまざまに変わりますが、わが国では石造りの五輪塔や宝篋印塔、また木造の五重塔、多宝塔などが各地に見られます。法事や、葬儀で供えられる板塔婆も塔の一種として、故人への追善供養や、施主が功徳を積むために建立されるのです。
塔婆に書かれている文字 
真言宗でお供えする板塔婆は五輪塔婆ともいわれ、空・風・火・水・地の五大に象って、宝珠・半月・三角・円・四角の五輪を刻み、それぞれに梵字で、その種子の「きゃ・か・ら・ば・あ」の文字が書かれます。それはまた阿閦(あしゅく)・阿弥陀・宝生・不空成就・大日の胎蔵界の五仏を表し、裏面に書かれる梵字は金剛界の大日如来を表しており、金剛・胎蔵の両部の大日如来が表裏一体であることを示しています。また、表面の「きゃ・か・ら・ば・あ」の下には各忌日の本尊の種子や真言を書き、その下に精霊の戒名を記すのは、すべての精霊が六大法界体性であり、大日如来とその分身である忌日の本尊とによって救われていることを現しています。 
裏面の梵字の下には、「はら・どぼう・おんぼっきゃん」の文字が書かれていますが、はらは大随求菩薩(だいずんく)の種子で、私たちの願いをかなえ、苦悩を取り除く功徳があり、どぼうは滅悪趣菩薩(めったくしゅ)の種子で、地獄・餓鬼・畜生などの、悪趣に苦しんでいる者たちを救って下さるという意味があります。また、「おんぼっきゃん」は浄土変の真言で、あらゆるものを浄土に変える功徳があります。 
胎蔵界五仏(たいぞうかいごぶつ) 
仏教の尊像の一種で、密教の世界観を表した両界曼荼羅のうちの1つ、胎蔵界曼荼羅(胎蔵曼荼羅)の中心に位置する5体の仏のことである。具体的には、大日如来、宝幢(ほうとう)如来、開敷華王(かいふけおう)如来、無量寿如来、天鼓雷音(てんくらいおん)如来を指す。 
密教では金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅の2つを最も重視しており、これらを合わせて両界曼荼羅(または両部曼荼羅)という。これらはいずれも7世紀頃にインドで成立した密教経典に基づいて、密教的世界観、悟りの世界を視覚化したものである。胎蔵界曼荼羅は「大日経」の所説に基づいて作られたもので、サンスクリット語の元の意味は「大いなる慈悲から生じた曼荼羅」である。つまり、原語には「界」(世界)を意味する語は含まれていないが、「金剛界」と対になる関係で、日本では平安時代以来「胎蔵界」曼荼羅と称されている。 
胎蔵界曼荼羅は全部で12の区画に分かれており、そのうち、中心になる「中台八葉院」には蓮華の中央に大日如来、周囲の8つの花弁には宝幢、開敷華王、無量寿、天鼓雷音の四仏と、普賢、文殊、観自在(観音)、弥勒の四菩薩が位置している。このうち、大日如来と四仏を合わせて胎蔵界五仏と呼ぶ。大日如来以外の四仏の位置と方角をまとめると次の通りである。 
宝幢如来 東方(胎蔵界曼荼羅では上方、金剛界では西方が上方)に位置し「発心」(悟りを開こうとする心を起こすこと)を表す。 
開敷華王如来 南方(右方)に位置し「修行」(悟りへ向かって努力を積むこと)を表す。 
無量寿如来 西方(下方)に位置し「菩提」(悟りの実感を得ること)を表す。 
天鼓雷音如来 北方(左方)に位置し「涅槃」(悟りが完成すること)を表す。 
五智如来 
大日如来が「法界体性智(ほっかいたいしょうち)」で最高の智。 
阿閦如来が「大円鏡智(だいえんきょうち)」で全てを映し出す智。 
宝生如来が「平等性智(びょうどうしょうち)」で全ての存在を平等にみる智。 
阿弥陀如来が「妙観察智(みょうかんざっち)」で全てを正しく観察する智。 
不空成就如来が「成所作智(みょうかんざっち)」で全てを救う方法を知る智。 
胎蔵界五如来 
大日如来  
宝幢如来は東方に位置し、発心(悟りを開こうとする心を起こすこと)を表す。 
開敷華王如来は南方に位置し、修行(悟りへ向かって努力を積むこと)を表す。 
無量寿如来は西方に位置し、菩提(悟りの実感を得ること)を表す。 
天鼓雷音如来は北方に位置し、涅槃(悟りが完成すること)を表す。
大日如来 1 
十三仏の13回忌導師。大日如来は摩訶毘盧遮那(マカビルシャナ)の訳で、その発達した形態。宇宙の全てを仏格化し、色も形も超越した絶対的な仏、諸仏の根本の仏として位置づけらている。それを表現する為に、何も装飾を身につけないという如来の約束を破って、五仏の宝冠や瓔珞・腕輪(腕釧)などの飾りを身につけて、一見菩薩の姿のように華やかな姿で表す。金剛界の大日如来、、金剛界曼陀羅の主尊。智拳印を結び、智慧法身。大日如来の知恵で全てを断ち切る金剛の石のような強い働きを示す。 
胎蔵界の大日如来、胎蔵界曼陀羅の主尊。理徳法身。大悲を示す定印を結ぶ。仏像の作例は金剛界の大日如来より少ない。  
サンスクリット語ではマハーヴァイローチャナ、すなわち「偉大な光照者」。空海の開いた真言宗において、最も重要なブッダ。弘法大師(空海)によると、あらゆる宗教における神や悪魔は、すべて大日如来の顕現であり、大日如来の身体は宇宙そのものである。同時に、1粒の微塵の中にも大日如来は存在する。大日如来は、白蓮華に坐して瞑想を行っている姿で、両界(胎蔵界・金剛界)マンダラの中心に描かれる。  
大日如来は、真言密教において一切諸仏諸尊の根本仏として帰依し観想されている本尊です。  
大日如来の名前は、大日の智恵の光が、昼と夜とで状態が変化する太陽の光とは比較にならないほど大きく、この世の全てのものに智恵の光をおよぼして、あまねく一切を照らし出し、また慈悲の活動が活発で不滅永遠であるところから、特に太陽である「日」に「大」を加えて「大日」と名づけられています。  
真言密教の根本経典である『大日経』と『金剛頂経』には、衆生の救済者としてそれぞれ異体的な性格をもち、特定の誓願をもった諸仏諸菩薩をはじめ諸神が説かれていますが、これらの全ての諸尊は、大日如来より出生し、大日如来の徳をそれぞれが分担し、また衆生救済にあてられている諸尊の働きも大日如来の徳の顕現であると説かれています。  
根本経典である両経には、大日如来の徳の現れ方を、多くの諸尊との関係において説かれていますが、その関係を図示したものが胎蔵曼荼羅・金剛界曼荼羅で、この両曼荼羅を総称して両部(両界)曼荼羅と呼ばれています。  
この両部曼荼羅に描かれている大日如来の姿は、釈迦如来や阿弥陀如来のような出家の姿ではなく、うず高く髪を結(ゆ)うなど、一般に菩薩形と呼ばれる姿をされて他の如来とは異なっている点が特徴といえます。菩薩形の姿である大日如来は、宇宙の神格化とも考えられる密教観から、宇宙の真理そのものを現す絶対的中心の本尊として王者の姿をされているといわれています。その姿は帝王にふさわしく五仏を現した宝冠をつけ、菩薩よりさらにきらびやかな装身具を身にまとわれています。背に負う光背は円く大きなもので日輪を表し、諸仏諸尊を統一する最高の地位を象徴するにふさわしい威厳のある姿です。  
大日如来の姿の基本は変わりませんが、両部曼荼羅に描かれる大日如来の手の結び方(印相)が異なるところから、古来より胎蔵大日如来・金剛界大日如来と区別して呼ばれています。  
胎蔵大日は、膝上で左の掌を仰けておき、その上に右の掌をかさね左右の親指の先を合わせ支える「法界定印」を結び、金剛界大日は、胸の前にあげた左拳の人差し指をのばし、右の拳をもって握る「智拳印」を結んでいます。  
密教の仏といえばその根本は大日如来で、その他の仏様は大日如来の徳の現れとされています。ですから密教の仏様を紹介するに際して、最初に大日如来について述べさせていただきます。大日如来には「金剛界大日」と「胎蔵大日」とがありますが、これは別々の仏様ではなく、この世界を智と理の二つに分けて考え、それぞれの中尊として表現されたものです。そして「智」の世界の大日如来について説かれた教典が「金剛頂経」、「理」についてのそれが「大日経」です。さらにこれを図示したものが、金剛胎蔵両部曼荼羅です。  
密教では、大日如来は宇宙の真理を表すとされ、また宇宙そのものとされます。大日如来は宇宙そのものを神格化したものであり、一切のものは大日如来から出生するとされる。つまり、一切のものは大日如来に胎蔵されるのであり(胎蔵界)、また一切のものは大日如来のなにものにもおかされない堅固な智の顕現でもある(金剛界)とも考えられる。 
さて大日如来は宇宙を神格化したものと述べましたが、そうすると私たちを含め全てのものは大日如来によって生じ、大日如来に含まれるということになります。ですから全てのものが大日如来であり、私たち凡人でも即身成仏ができるのです。  
大日如来 2 
大乗仏教から派生した密教によって生み出された絶対的な存在である。密教において大日如来は仏法そのものであり、宇宙の根本をあらわす存在。宇宙を構成する森羅万象の全ては大日如来から現出し、釈迦如来をはじめとする全ての仏様は大日如来の化身と考えられている。密教の中では大日如来は仏の中の王であり、他の如来が全て衲衣だけをまとって装飾品や宝冠などを身に付けていないのに対し、大日如来は頭に宝冠、胸には瓔珞(ようらく)、腕には腕釧(わんせん)をつけている。また、曼荼羅の中で大日如来は中央に描かれている。 
大日如来には2つの姿があり、1つは『金剛頂教』(こんごうちょうきょう)に基づく金剛界大日如来であり、もう1つは『大日経』に基づく胎蔵大日如来である。金剛界大日如来は智拳印を結び、頭には五智宝冠をかぶっている。胎蔵大日如来は法界定印を結ぶ。 
大日如来はサンスクリットで「マハーヴァイローチャナ」となり、「マハー」は「大きい」、「ヴァイローチャナ」は「太陽」の意味で、直訳すると大日如来となる。「マハーヴァイローチャナ」をそのまま音訳すれば、摩訶毘盧遮那如来(まかびるしゃなにょらい)となる。大日如来は『金剛頂教』や『大日教』で説かれているが、毘盧遮那如来はそれ以前に『華厳教』や『梵網教』で説かれており、宇宙の根本を象徴する存在とされている。つまり、宇宙そのものをあらわすのが毘盧遮那如来で、その世界観を金剛界と胎蔵界の2つの視点から見たかたちが大日如来といえる。経典によれば、毘盧遮那如来は蓮華像世界の中心にいて、その蓮台には1000枚の花弁があり、その1枚1枚に釈迦如来がいる世界があるとされる。
阿弥陀如来 
阿弥陀如来は西方極楽浄土から我々を見守るとされ、全ての者を極楽浄土に導く仏様とされる。仏の三身の法身仏の考えでは宇宙の生命力となる。『無量寿教』によれば、古代インドの国王が世自在王如来の説法を聞いて人々を救いたいと考え、王位を捨てて出家して法蔵比丘(ほうぞうびく)と名乗ったとされる。法蔵比丘は修行と思惟を重ねた末に「四十八の大願」を立て、それを成就したことによって悟りを開き阿弥陀如来とされる。この修行には気が遠くなるほど長い年月を要したとされ、その間考え過ぎていたことから頭が膨れ上がったともいわれている。これを表すのが「五劫思惟の阿弥陀如来」で、奈良の東大寺や五劫院の阿弥陀如来像がこれにあたる。四十八の大願の第十八願には、念仏往生願がある。これは、"私が仏になったときに私の教えを深く信じて念仏を十回唱えても極楽浄土に往生できない人がいるならば、仏になるのをやめよう"とのものであり、法蔵比丘が阿弥陀如来になったことからこの願いは叶えられたことを意味している。阿弥陀如来は多くの場合九品来迎印を結ぶ。五智如来の一仏。 
どんな悪行をした者でも「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽浄土に往生できる、との考え方を浄土信仰という。末法の時代に入ったとされ世の中に不安が広まった平安時代に日本でも浄土信仰が発展し、それが根付いた。現在でも阿弥陀如来は浄土宗、浄土真宗の本尊となっている。 
釈迦如来像と基本的には同じ姿で、施無畏・与願印、転法輪印、定印を結ぶが、更に極楽浄土から生けるものを迎えに来るときの来迎印が加わる。阿弥陀如来が三尊像とされる場合は、左に観世音菩薩、右に勢至菩薩を従えることとなる。また、阿弥陀如来が来迎する際、脇侍である二十五菩薩をにぎやかに引き連れている様子を描いた二十五菩薩来迎図の作例も多い。 
無限の寿命を持つとの意味から「無量寿如来」(むりょうじゅにょらい)、無限の光明を持つとの意味から「無量光如来」(むりょうこうにょらい)と呼ばれることもある。サンスクリットで「無量」は「アミタ」であるため阿弥陀如来の名前が付いたとの説もある。また、12の徳の光が全身から発せられているとされ、十二光仏とも呼ばれる。
阿閦如来 1 
十三仏の7回忌導師。左手で衣の端をにぎっているのが特徴です。少し地味な存在で、四仏または五仏のひとつとして祀られるのが一般的です。鏡のように全てを映し出すという意味で「大円鏡智」と呼ばれる智を表します。薬師如来と同じと言う考え方もあります。阿閦如來は梵名をアクキシュビヤ又はアシュクヒ、アシュク婆と云ひ、訳して不動或いは無動業といいます。又た密號を不動金剛或いは怖畏金剛と稱し、過去久遠の昔阿比羅提國に出現し、大日如來の化導を受け、修行を終わって佛果を證し、善快に淨土を建立し、説法度生せらるる佛なりといわれます。密ヘでは、大圓鏡智の徳に住し、諸種の惡魔煩惱を對破し無垢の淨菩提心を顯現する事を司り、薩、王、愛、喜の四菩薩を眷屬とします。慈恩の疏には「阿シュクヒ佛とは無瞋恚と名け、東方阿比羅提國に在り」と。聖位經には「最初に無上乘に於いて菩提心を發す、阿シュク佛の加持に依るが故に、圓滿の菩提心を證得す」と。攝眞實經には「胸臆中より光を放ち、東方無量世界を照らす」とあります。密ヘに於ける金剛界曼荼羅には、東方日輪の中央に座し、又た胎蔵界曼荼羅にありては、天鼓雷音如來と同本誓にして、大日如來の東方です。 
阿閦如来 2 
仏教における信仰対象である如来の一尊で、阿閦仏ともいう。また漢訳仏典では阿閦婆などとも音写し不動、無動などとも訳される。三昧耶形は五鈷金剛杵。種子(種字)は憤怒の叫びを表すウーン(huuM)。 
阿閦如来は密教における金剛界五仏の一で、金剛界曼荼羅では大日如来の東方(画面では大日如来の下方)に位置する。唯識思想でいう「大円鏡智」(だいえんきょうち)を具現化したものとされる。また胎蔵界の東方、宝幢如来と同体と考えられている。 
梵名のアクショービヤとは「揺るぎない」という意味で、この如来の悟りの境地が金剛(ダイヤモンド)のように堅固であることを示す。印相は、右手を手の甲を外側に向けて下げ、指先で地に触れる「触地印」(そくちいん)を結ぶ。これは、釈迦が悟りを求めて修行中に悪魔の誘惑を受けたが、これを退けたという伝説に由来するもので、煩悩に屈しない堅固な決意を示す。 
「阿閦仏国経(大宝積経第六不動如来会)」によれば、昔、この娑婆世界から東方千仏の国を経て阿比羅提(アビラッティー、妙喜・善快・妙楽と訳す)という国があり、そこに大日如来が出現した時、無瞋恚の願を発し修行して、一切の瞋恚と淫欲を断滅し成就完成して仏となり、いま現にその仏国土において説法中であるという。これを考えると、後の密教で彼の種字が怒りの声「ウーン」とされたのは矛盾しているが、ここでいう怒りとは我欲に基づくものではなく、仏道の妨げとなる煩悩などへの怒りである。我欲からくる小さな怒りを、悟りに繋がる大きな怒りに昇華したものと考えるべきであろう。 
日本における阿閦如来の彫像は、五仏(五智如来)の一として造像されたものが大部分であり、阿閦如来単独の造像や信仰はまれである。重要文化財指定品で阿閦如来と称されているものには、奈良・法隆寺大宝蔵殿南倉安置の木造坐像、和歌山・高野山親王院の銅造立像がある。
宝幢如来 
梵語名Ratnaketu で菩提心の佛で集団の統率する旗手敵存在、赤白色相、蜜号を阿閦如来と同じ福聚金剛と言い、智徳、所謂、大円鏡智、菩提心を持って悪魔を降伏させ、印は右手のひらを胸前で外に向ける施無畏印をとる、宝幢とは国語辞典に依れば法幢の美称で仏法の敵を圧倒する猛将の幢(旗ほこ)の事を言い、覚への出発すなわち発心。 
塔婆 3 
塔婆はいつごろから供えるようになった? 
板塔婆は、弘仁元年(810)8月8日、弘法大師が河内の国に高貴寺を建立されたとき、長さ4尺8寸5分、幅2寸8分、厚さ5分の板塔婆を建てられたという故事に始まり、それが一般に広まったと言われています。 
お塔婆とはなんですか? 
お塔婆とは、もともとお釈迦さまの遺骨を納めた塚、仏舎利塔を意味する「ストゥーパ」と言う言葉の音写です。ですから、「卒都婆」「卒塔婆」「率塔婆」等と表記しますが違いはありません。塔という意味から見れば、五重の塔や三重の塔など本来は同じものなのです。お塔婆の上部に刻みが入っていますが、これはその名残とも言えるでしょう。また、当初ストゥーパはお釈迦さまを初めとする高僧達のお墓に用いられました。今では、一般の方が亡くなった場合も卒塔婆を建立し供養しますが、亡くなった人も引導によって仏や高僧に近い存在になりますから、お塔婆(ストゥーパ)を建てるのは大きな功徳になるのです。(追善) 
また、宗派によっても差異はありますが、時々、お塔婆に記号のようなものが書かれているのを見かけます。それは「梵字」と呼ばれ、古代インド文字の合成語です。上から 
「キャ」(空大)「カ」(風大)「ラ」(火大)「バ」(水大)「ア」(地大) 
と書かれている場合がありますが、これは「五大」と言って、この宇宙や仏、ひいては自分をも構成している5つの元素のことです。それを軽いものから順に書いてあり、この宇宙も仏ももちろん自分も元をただせば同一である、ということを表しているのです。 
塔婆 4 
塔婆(とうば)、または卒都婆(そとば)ともいいますが、葬儀、年回法要などでお墓に立てる戒名などを書いた細長い板のことです。卒都婆とは、サンスクリット語の「ストゥーパ」(パーリー語ではトゥーパ)を漢字で写したもので、ストゥーパとは、インドにおいて、土まんじゅう型に土を盛り上げてつくった塚のことです。昔、お釈迦さまがクシナガラでお亡くなりになったとき、その遺骨を八つに分け、当時インドにあった八つの国でそれぞれ仏舎利塔を建てて供養したということです。このように、塔を建てて遺骨を供養する風習は、その後もインドで行なわれ、仏教の伝播に従って、南方諸国や中央アジア、中国、朝鮮、日本にも伝わってきました。大寺院にある五重塔、三重塔などもこうした風習から建てられたものであり、五輪塔、宝篋印塔(ほうきょういんとう)、さらにはお墓である石塔へと広まっていったわけです。このように、塔の建立は、仏法の護持につながり大きな功徳があるというので追善供養の法要に際しては、功徳を故人にめぐらす意味で板塔婆を建てるようになりました。 
塔婆 
故人のために「板塔婆」を立てて供養するというのは、仏教本来の教えではありません。日本人特有の社会習俗です。 
歴史的には、まずインドに仏塔信仰がありました。経典には、釈尊が入滅して遺骨が8カ所に分けられ、それぞれに塔が建てられたとされています。塔の成立と変遷については、諸説がありますが、やがて、釈尊の遺骨の塔(仏舎利塔)だけでなく経を埋納する経塔などが造られ、一つの信仰のシンボルとして、各地に建つようになったことは間違いありません。 
この仏塔の形が今度は、中国へ渡って、発達した木造建築の影響もあって五重の塔のような楼閣(ろうかく)に変わっていったのです。この場合、むしろ、仏塔信仰というよりも仏教寺院を象徴する建造物として建立されるようになったもので、各地に、五重、三重の塔が建ち並びました。 
この建造物としての仏塔が、さらに、日本においては供養塔としての意味に変質していき、形も変形し小型化していきました。これらはもっぱら、仏塔でも寺院建造物でもなく、先祖の追善に用いられ、墓所に立てられるようになってきたのです。大きさも、建造物をミニチュアにしたところから出発し、最初は石塔でしたが、やがて木を用いるようになって、角塔婆や、さらには、これを略した板塔婆(平塔婆)が用いられていったのです。 
今日の板塔婆は、地水火風空の五大を意味している五輪を形どったものとして、全体が五つにくびれています。これは五輪塔の名残です。したがって歴史的にみても、信仰の対象となる仏塔と、死者のために追善供養として立てる塔婆とは、まったく別のものです。 
日蓮大聖人が御書全集のなかで、広い意味で「塔婆」について言及されているものは八編を数えます。しかし、内容を見れば、まず、仏法上の意義というよりも、インドや日本の習俗として塔婆に言及したものが大半です。例えば、インドで仏塔(ストゥーパ)を破壊した話(「顕謗法抄」)とか、権教を破折するために、大地微塵(みじん)の塔婆(仏塔)を建てても法華経誹謗の罪は消えないと御指南されたり(「善無畏抄」)、率塔婆を建てた過去の故事(「上野殿御返事」)などが説かれています。 
大聖人は題目の功徳を強調 
「御義口伝」では、塔婆を宝塔の意味に使われています。法華経見宝塔品第十一の「見宝塔」とは「皆自身の塔婆を見るなり」とあります。すなわち、ここでは御本尊を受持した者は、わが身が妙法の当体であり宝塔であると悟ることをいわれているのです。この場合の塔婆とは、いうまでもなく、いわゆる板塔婆ではなく仏塔、なかんずく法華経の多宝の塔、つまり宝塔の意味です。 
結局、大聖人が塔婆による死者供養について言及されているのは、「中興入道消息」と「草木成仏口決」の二編だけです。それ以外は死者供養とは関係ありません。このうち、「中興入道消息」では、「去(みまかり)ぬる幼子のむすめ(娘)御前の十三年に丈六のそとば(卒堵波)をたてて其の面(おもて)に南無妙法蓮華経の七字を顕して・をはしませば…」と仰せです。ここで大聖人は、法界万物に広がる回向(えこう)の功徳の大きさを示されています。この御書で大聖人は「塔婆の功徳」ではなく「題目の功徳」を仰せられ、夫妻の信心を激励されているのです。 
大聖人御在世より少し前の時代には、真言や念仏の聖(ひじり)によって、塔婆による死者供養の風習が急速に普及したようです。そこには当然、真言の五輪の種子(地水火風空を表す梵字)や阿弥陀の名号(南無阿弥陀仏)が書かれていました。そのなかで、中興入道が念仏の題目ではなく法華経の題目を顕されたことを大聖人はほめられ、題目の功徳を説かれたのです。ですから大聖人は、この御書の末尾に「此より後々の御そとばにも法華経の題目を顕し給へ」と仰せられているのです。したがって、この御書は、「塔婆を立てなさい」と、他宗に基づく風習自体を奨励されているわけではありません。しかも、中興入道の場合、塔婆を立てたのは、入道自身、つまり在宅の信徒の側であって僧侶ではありません。まして、現宗門が主張していることに合わせれば、いわば信徒が僧侶抜きに勝手に立てた塔婆を大聖人がほめられたことになります。 
また「草木成仏口決」では、大聖人は「有情は生の成仏・非情は死の成仏・生死の成仏と云うが有情非情の成仏の事なり、その故は我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは死の成仏にして草木成仏なり」と一念三千・草木成仏の原理を説かれるなかで塔婆供養について述べられています。つまり、一念三千の成仏は有情・非情にわたるのであり、ここでは非情の成仏として草木成仏を取り上げられているのです。そして、この草木成仏について説明する譬えとして元天台僧の最蓮房にわかりやすく、当時他宗によって普及していた塔婆供養を取り上げたものとうかがえます。 
「観心本尊抄」で他宗の本尊の事例を挙げて、それらも一念三千・草木成仏の原理がなければ成り立たないとされているのと同じです。「観心本尊抄」の他宗の本尊も、「草木成仏口決」の塔婆供養も破折の対象として挙げられているのです。この二つの御書では、その一念三千の当体である御本尊の意義を明かされることに大聖人の御本意があるのです。そのことは、「草木成仏口決」の結論として「一念三千の法門をふ(振)りすす(濯)ぎたてたるは大曼荼羅(まんだら)なり、当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり」と仰せられていることからも明らかです。したがって、「草木成仏口決」の一節も、あくまで譬えであり、塔婆を立てなければ成仏できないと仰せられているわけではありません。 
結局、大聖人は信徒に「塔婆を立てなさい」とは記されていません。事実、御書には信徒が塔婆供養をした例は中興入道しかありません。四条金吾や富木常忍、池上兄弟、南条時光にも勧められていません。まして、大聖人御自身、亡き師・道善房のために塔婆供養をされることなどありませんでした。要するに、「塔婆は故人の追善供養のために不可欠」とする現在の宗門の論理では、大聖人の主要門下の肉親は成仏しなかったことになります。 
以上のように、塔婆供養とは、あくまでも大聖人の仏法の本質などではなく、現在の日本の社会習俗にすぎないのです。 
「乃至法界平等利益」の意義 
現在、日本で用いられている一般の塔婆には、三悪道に堕(お)ちてしまった死者を追善供養によって救済するという内容の言葉が梵字などで記されているのが普通です。日蓮正宗の塔婆では表側に「追善供養菩提也」と裏側に「乃至法界平等利益」と記されています。しかし、これらの言葉は宗門だけが使っている言葉ではありません。「追善供養菩提也」などは日蓮宗身延派の塔婆にも書いてあるし、「乃至法界平等利益」は真言宗や浄土宗の塔婆で用いられています。 
普通、仏教各派で用いられている「乃至法界平等利益」の意味は、いわゆる「タタリ封じ」です。「乃至法界平等利益」の「法界」とは森羅万象という意味ではなく、「法界霊」つまり浮かばれない「無縁霊」のことを意味する言葉です。日本人は長い間、供養してもらう人のいない「法界霊」は、生きたわれわれに災いをもたらすと考えていました。そこで、昔から「法界霊」を慰めるために塔婆を建立する習わしが日本の各地にあったのです。 
この場合の無縁霊を意味する「法界」という言葉は、古来、無縁霊をホウカイ、迎え火をホウカイ火、供物をホウカイサンノメシ(「法界さんの飯」の意)などといっていたものが、仏教用語の「法界」と重なったところから使われるようになったという説があります。いずれにせよ、法界衆生というと、無縁仏、無縁霊を指していたことは明白です。このように、今日、「乃至法界平等利益」という言葉は、現実の仏教の各宗派の塔婆にも記されており、日本独特の「タタリ信仰」の名残がある言葉であることは否めないのです。 
要するに、塔婆の形といい、文面といい、結局は、習俗の産物なのです。
塔婆 5 
卒塔婆とは、インドの「スツーパ」という言葉の音に漢字をあてたもので塔と訳されます。 
今から二千五百年ほど前、お釈迦さまがおかくれになられたとき、人々はそのお骨を八つの部族で分けてそれぞれの地区に持ち帰りました。人々はそのお骨を鉢をふせたような型に土を高く盛り上げた塔(スツーパ)の中にお納めし供養しました。この塔が今日の卒塔婆の源です。塔の型は、インドから中国、日本へと伝わり、時代がたつにつれて、土まんじゅうの型から五重塔、多宝塔から五輪塔へとその型が伝えられ現在の卒塔婆となるわけです。 
私たちが建てる卒塔婆にはお題目が書かれています。これは「法華経」のなかに「法華経が説かれる所にはつねにその教えが真実である事を証明するために、多宝如来が宝塔とともにあらわれて、釈迦如来を多宝塔の中に招かれて、多宝如来と伴に並び座られる」とあることにもとづいています。ですから、お題目の書いてある卒塔婆は多宝塔をあらわしているわけです。 
日蓮聖人は卒塔婆の功徳をこのようにおっしゃっておられます。 
「お塔婆の正面に南無妙法蓮華経の七文字を書き表しなさい。北風が吹くと北風はお塔婆にあたりその功徳をいっぱい含んで南の海に行き、大海の苦しみを受けている魚たちがその功徳を受けて救われるでありましょう。又、東の方から風が吹けば、風はお塔婆にあたりお題目の功徳をいっぱい含んで西の山に行き、西の山に住んでいる様々な動物たちが、この功徳いっぱいの風にあたり畜生道をまぬがれることでありましょう。まして、お塔婆にお戒名を書いてある仏様への功徳ははかり知れないものがあり、更に加えてこのお塔婆にふれ合掌し礼拝した人たちにも、この功徳をいただくことができるでありましょう。」 
つまり卒塔婆は多宝塔を建てる功徳と、法華経の教えを実践する功徳を、亡き人の追善供養の為にそなえることになるのです。 
無縁仏(むえんぼとけ)  
辞書によれば、弔う者のいない死者。日本の民間では死者仏を必ず供養してくれる遺族があるとみている。もしも子孫が絶えるなどして奉祀者がいないと、仏の怨念は知友や縁者や地域に祟る。そこで<三界万霊塔>を築いて祀り、慰撫につとめたり、盂蘭盆の際に無縁棚を作ったりする。  
とあります。仏教では輪廻(生死を繰り返し、迷いの世界である六道をくりかえすこと)からの脱却、悟りを得るため修行することを説いており、とりわけ浄土宗においては、阿弥陀仏の衆生救済の本願を信じ、専ら阿弥陀仏の名を唱えて、西方極楽浄土に往生できる(極楽に往って解脱する修行を積むことが出来る)と考えられているわけですから、怨念が残された者に災いを及ぼす、というのは極めて非仏教的な、むしろ日本独特の習俗と思われます。無縁仏といえば、そもそもはその土地の先祖であり、開拓者が不幸にして、その子孫を残すことが出来ず、絶えてしまったものであります。円光寺にある無縁仏については、土地の先祖ではありませんが、明治の寺院設立以来、何らかの形で関わってこられた家の方々であり、放っておくことはできません。かといって、もう誰も管理することがない墓をそのままにしておけば、いずれ風化し朽ち果ててしまいます。  
以前はこれらの墓石を集めて「無縁塚」を作っていました(これを「無縁積み」といいます)。それでも大きさ、形の異なる墓石を並んでとても整然としたものではありませんでした。先に述べたとおり、これらをまとめて新たに<無縁塔>を建立して頂いたのは、その寄進者におかれては、全くの見知らぬ人々に対する供養であり、大乗仏教の説く「利他行」の基本である「六波羅蜜」の1つである、<布施>に他ならないと思います。  
無縁塔について少しご説明させて頂くと、まずその形としては、団形・半月形・三角形・円形・方形の5つから成り「五輪塔」と呼ばれます。またこれを仏身にあてはめ頂・面・胸・臍・膝とみなし観想する行法もあります。それぞれに書かれている梵字ですが(左)、上から?(キャ)・訶(カ)・羅(ラ)・?(バ)・阿(ア)と読みます。それぞれの意味は、空・風・火・水・地であり、万物の構成要素であります。これら5つを「五大」といい、特に真言密教においては「五輪」とよぶため、この梵字が記されている塔を「五輪塔」というのです。また「倶会一処」ですが、“阿弥陀経は極楽浄土へ生まれる願いを起すことをすすめ、それは浄土の仏・菩薩たちと倶に一つの処で出会うことができるからである、と説いている。一つの処とは浄土のことである。”という意味であります。  
釈迦の入滅後、弟子達が遺骨を分骨し、塔を建てて供養したのが始まりといわれています。この塔をインドではストゥーパといい、それが日本語の「卒塔婆」となり、三重、五重の塔となりました。さらにこの形をまねて、板塔婆が作られるようになりました。  
短い塔婆については「キリーク」という梵字が記されています。これは真言で、“阿弥陀如来”を意味しています。過去久遠の昔、世自在王仏の教化を受けた法蔵菩薩が極楽浄土の建立を志し、四十八の誓願を立て、自他成仏願行を成就して阿弥陀仏となりました。阿弥陀仏の西方極楽浄土では、法を説き、この大慈の光に会う者をして、一切の苦から逃れしむと伝えられます。塔婆の裏側には、この「バン」の梵字がみられます。これは真言で“大日如来”を意味しています。宇宙の真理・実相を仏格化した根本仏で、十方の諸仏を全体的に包括する、とされます。 
 
戒名

 

仏教には通常守るべき戒律があります。戒とは倫理的な目標、律とは生活上の規則です。仏教に帰依する(出家したり、僧侶の弟子になったり、仏様を信仰したりすること)ときには仏教の多くの宗派(除;浄土真宗)では戒を守ることを約束します。これを授戒と言います。授戒しますとその証拠に名前がもらえます、これが戒名です。したがって、生きている間に戒名を授かるのが本来の主旨です。浄土真宗の場合には戒名の代わりに法名が授けられます。仏教の基本的な戒は5つあります。1.不殺生戒(殺さない)2.不偸盗戒(盗まない)3.不邪淫戒(淫らなことをしない)4.不妄語戒(嘘をつかない)5.不飲酒戒(酒を飲まない)我々の日常生活を考えてみますとこれらの戒を厳密に守ることは極めて困難なことでしょう。戒とは罰則のない倫理規定ですから、守れなくとも常に意識し守ろうとする姿勢を持ち続けることが重要です。私は戒を意識し常に守ろうとする姿勢を持ち続けますと仏様と約束した象徴として戒名があるのです。檀信徒の人々に生前に戒名を授けないのは僧侶の怠慢です。少なくともこのようなことを檀信徒に知らせる必要があります。したがいまして、私は檀信徒の方々から戒名料というものをいただいたことは有りません。生前の信仰心に基づき生前に授けられなかった戒名を、今後は仏様の弟子になるわけですから進んで戒名を授けることにしております。ところで、生前の信仰心が判断できない場合にはどうしたら良いでしょうか。最近は人口流動が激しく、それまで全く縁のなかった人を極楽浄土にお送りしなければならない場合が発生します。このような場合に、ひとつの判断材料になるのがその時点で表明される信仰のあかし(布施)であります。このような事情によって戒名料というものが定着してしまったようです。出来るならばその時だけでなく、近所のお寺さんにお世話になっておくのが良いと思います。 
宗派によって戒名のつけ方はちがうのですか?また、戒名で宗派がわかりますか? 
仏教の戒名は概ね以下のような構成になっています。 
XX信士YYXX信士ZZ院YYXX居士 
XXを戒名、YYを道号、ZZを院号、居士や信士を位号と呼びます。鎌倉時代以前からあった仏教ではこれが基本でありますが、鎌倉時代に起きた宗教革命(?)以降の仏教ではそれぞれ特徴を出すようになってきました。字面から見ると以下の特徴が有ります。 
浄土宗では誉号をつくりZZとYYとの間、あるいはYYの代わりにW誉という字が入ることが多い。 
浄土真宗は戒が無いので戒名もない。そこで釈XXという法名を使う。 
日蓮宗では日蓮にちなんで日号を作った、通常はXX日信士のようになっている。 
天台宗、真言宗、禅宗等は基本形をそのまま使用しています。 
意味を申し上げれば、院号は建物を示します。ZZ院、ZZ院殿、ZZ軒、ZZ庵等ですが現在ではZZ院が一般的です。道号は現世における地位、特技、性格を示す漢字2文字です。戒名は成仏後の名前になり、漢字2文字です。位号は仏教に対する帰依心のステージ(段階)を示します。帰依心が強い場合に居士(男)・大姉(女)、一般の信者は信士・信女、子供の場合童子・童女、幼児の場合幼児・幼女、生まれて間もない場合嬰子、生まれていない場合には水子になります。 
死者の宗派がわからない場合は戒名はどうすればよいのでしょうか? 
亡くなった方の菩提寺が必ずどこかに有るはずです。新世帯で菩提寺が亡い場合には、亡くなった方が信仰していた宗派が良いでしょう。それも判らない場合には、あなたご自身が良いと思う宗派(寺院)で戒名を授けてもらうのが良いと思います。 
 
各宗派の葬儀

 

仏教葬儀の場合、一番中心になるのは死者と死者を悟りに導く宗派のご本尊である。しかし葬儀ではどうしても死者に焦点がいくので、儀式の構造が見えにくくなってしまう。そういった意味で今回は本尊を中心とした葬儀を見ていくことにする。仏教宗派の本をみると、その編集順位は大方、天台宗、真言宗、浄土宗、浄土真宗、禅宗(曹洞宗)、日蓮宗の順に取り上げられている。ここでも宗派が生まれた順に取り上げる。天台宗は806年(最澄39歳)、真言宗は823年(空海49歳)。それぞれ平安京遷都(794)のあとに誕生した。次に鎌倉時代にはいって、1175年に浄土宗が法然(42歳)によって開かれた。次に親鸞が浄土真宗を開いたが、「教行信証」を著したのは1225年頃(52歳)とされている。禅宗の一つの曹洞宗は道元が明から帰って来た1227年(27歳)から始まる。本山である永平寺が建てられたのはその16年後である。日蓮が開宗を宣言したのは1253年(31歳)で、この年道元が54歳で死亡。親鸞は80歳で更に10年生きる。法然、親鸞、道元、日蓮のいずれも天台宗の比叡山で修業をしている。日蓮正宗は日蓮の高弟日興(1246-1333)を派祖とし、1911年(大正元年)日蓮正宗と公称する。なお臨済宗は1191年伝えられている。 
天台宗の葬儀 
天台宗は伝教大師最澄(767-822)が宗祖で、その葬式には三種の儀式がある。『法華経」を読み、懺悔し、罪を滅し善を生かすもの。「阿弥陀経」を読み、極楽往生に導くもの。そして光明真言によって罪を滅するものである。何れの場合にも故人を仏の世界へ導く引導作法が行なわれる。 
(一)「阿弥陀経」を中心とした葬送作法 
これは、 
一、剃度式二、誦経式三、引導式四、行列式五、三昧式 の五つからなる。 
〔剃度〕とは髪を剃り得度することで、出家した印に髪を剃り、僧に必要な戒律を受けることを意味する。髪を剃るのは世俗の虚飾を避け、また他の宗教と区別するためである。 
〔誦経〕では、「阿弥陀経」を唱え、その功徳によって悟りに至ることを祈願する。 
〔引導式〕とは死者に法語を与えて、涅槃の世界に行くことを教え諭すことである。 
〔行列式〕は死者が西方の極楽浄土に向いて進んで行く象徴である。 
最後の〔三昧〕とは心が安定した境地に入ることをいうが、法華経を唱えて三昧になることを言う。 
儀式の構造を分離、移行、合体によって説明する学者がいるが、その図式を使うと剃度式は、世俗からの分離と言うことになる。二の誦経から四の行列までは世俗から西方浄土への移行過程となり、三昧式は法華経三昧による聖なる世界との合体である。 
さてこのプロセスを細かく見ていくと次のようになる。 
一、剃度式では髪を剃る仕草をし、この時「辞親偈」(じしんげ=親元を捨てる偈)を唱える。「流転三界中、恩愛不能断、棄恩入無為、真実報恩者」(欲界、色界、無色界に生まれた者は、愛する者との別れの情は断ちがたい。真理の道に入り、真の恩に報いる)。次に懺悔をし三帰戒を授ける。三帰戒とは仏・法・僧の三つに帰依することである。そして「衆生仏戒を受くれば、諸仏の位に入る。位は大覚と同じゅうし、これ諸仏の子なり」と唱える。 
二、誦経(ずきょう)式は、始めに仏・法・僧の三宝に礼をし、表白文を唱える、 
「…爰に新円寂(戒名)生縁既に尽きて両眼忽に閉じ一息長くて絶て露命頓零つ。悲哉生者必滅之掟。痛哉会者定離の理。如かず。執持名号之勤めて致し来迎引接の誓いを憑まんには。…」 
(ここに〔戒名〕生の縁が尽き、露の命はにわかに落ちた。悲しいかな生者必滅の掟。痛ましいかな合う者は常に別れる理屈。南無阿弥陀仏の名号を念じ、来迎の誓いを信じ、速やかにこの土地を離れて、悟りに至る。) 
三、このあと死者のために「無常偈」と「阿弥陀経」を唱え、回向を行なう。回向は、回し向ける、つまり方向を逆にすると書き、法事を営んだ功徳を一切衆生に振り向けることをいう。ここでは、「先に修めた功徳を(戒名)霊位に回向す。」とあるように、回向は死者に向けられる。また最後には「この功徳が一切衆生の悟りのために平等に向けられ、安楽国に往生しますように」と結ぶ。 
四、次に死者をあの世に導く引導式が行なわれる。ここでは丸く一円相を書いて次の下炬文が唱えられる。 
「爰に新円寂(戒名)無常の風至って閉目黙然たり。定業の時来って煖息断絶す。嗚呼。、両眼朝に閉れば閻王累劫之罪業を問い、露体夕に消ゆれば、孤魂無間の苦悩に泣く。然りと雖も安養の化主は本願広くして四重五逆の類を捨て玉わず。…観音勢至は手を垂れて導き五々の聖衆は楽を奏して迎え玉わん。願う所は幽儀疾く九品の蓮台に登り、速やかに心月の慧光を輝かさんことを。…南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」 
(ここに(戒名)無常の風が吹き、目を閉ざして沈黙する。定めの業の時によって暖かい息が途絶えた。両眼閉じた今閻魔王は数々の罪業を問い、はかない命が夕べに消えれば、孤独の魂は絶え間のない苦悩に泣く。しかしながら極楽浄土の主は衆生を救う願いが広く、どんな罪人も見捨てることはない。慈悲深く、一度でも念仏を唱えた者は見捨てない。…観音と勢至菩薩は手をさげて導き、仏弟子は音楽を奏してお迎えに来る。死者の願いは早く蓮の台に登り、速やかに心の智恵の光を輝かさんことを。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏)。 
こうして死者は彼岸へと導かれる。 
(二)光明供葬送作法 
光明供とは光明真言を念誦(ねんじゅ)して大日如来を供養し、大日如来の慈悲の光明が衆生の頂に注がれるように願うものである。光明真言を臨終作法に用いた例は古く、「往生要集」を著した源信(982-1017)は、念仏によって極楽往生を果たすという25人からなる結社を組織して、死を間近にひかえた結社員を建物に収容し、皆で集まって念仏を唱えた。また死亡したあとも、光明真言で加持した土を遺体にかけ地獄に行かないように働きかけたのである。 
荘厳の仕方
上段中央にご本尊の阿弥陀如来を、向かって右には高祖・天台大師、左には宗祖・伝教大師の絵像が掛けられます。本尊の前には茶湯器が供えられます。中段には中央に高炉、その両脇にろうそく立てなどが飾られます。左右に位牌をまつります。下段には中央に過去帳、霊供膳、左右に花立を飾ります。経机には香炉、鈴、線香さし、数珠などを置きます。
供養の心得
朝の勤めには仏飯を供え、ろうそくをともし、線香を1本か3本立てます。次に
(1)三礼 / (2)奉請 / (3)表白 / (4)懺悔 / (5)発願 / (6)開経偈 / (7)法華経「寿量品」など / (8)敬礼 / (9)結願 / (10)念仏 / (11)回向文を誦経します。
天台宗寺院の荘厳形式
仏壇の荘厳は寺院の堂内の荘厳形式に対応するといわれますが、果たしてそうなのかを確認してみたいと思います。また仏壇の配置の理由やお供物の内容もこれが基本となっていると思われます。標準的な堂内の配置は、中央正面に須弥檀を置き、本尊が置かれています。三尊形式の場合、向かって右が上座で、本尊が釈迦牟尼仏の場合、右が文珠、左が弥勒、本尊が阿弥陀如来の場合は右が観音、左が勢至菩薩とします。本尊には茶台で茶湯を献じます。尊像には生御膳を献じます。両脇侍にもそれぞれ供養を献じられます。霊には生でなく煮炊きした生身供を献じます。
須弥壇の前方左右に釣燈篭を下げて献燈します。仏前には戸帳をかけます。開帳という言葉はこれを開けることから出たものです。
須弥壇の前には前机が置かれ、上に三具足(中央香炉、右燈明、左華瓶)、五具足の場合には香炉を中心に、左右に燈明一対、華瓶一対となります。法会の時には、卓上に打敷を掛け、これらの間に三宝に盛った菓子、果物を献供します。天台宗は密教も兼ていますので、前机の前に密壇が設置せられ、そしてその上に閼伽(あか)、塗香、華鬘、供花、灯明、飯粥、汁羹、餅、菓子などが左右一対で並べられます。次に礼盤を中央に左に左脇机には香炉、香合、経本が置かれ、右脇机に磬(楽器)が置かれます。 
真言宗の葬儀 
真言宗は空海(774-835)が開いた真言密教の教えで、この身のまま仏になる即身成仏を目指している。宇宙の生命である大日如来に包まれている、弥勒菩薩の浄土である都率(とそつ)天に死者を送ることである。奥の院で入定した空海は、弥勒が地上に降りてくる時には力を合わせて人々を救済するといわれている。 
ここでは高野山真言宗の儀礼を取り上げる。まず遺体を納棺してから、棺の前で授戒が行なわれる。真言宗の葬儀の特徴は、灌頂(かんじょう)の儀式にあるといわれている。灌頂は頭に水をそそぎかけることで、密教では仏の位にのぼるための重要な作法である。如来の5つの智恵を象徴する水を、弟子の頭に注ぐことによって仏の位を継承することを意味する。葬儀の場合にはこの結縁灌頂をせず、代わりに煩悩を破り如来の五智をあらわす五鈷杵で頭に触れる。 
〔次第〕一、塗香 二、三密観 三、護心法心 四、加持香水 五、三礼 六、表白 七、神分 八、仏名声明 九、教化声明 十、取剃刀唱 十一、授三帰三竟 十二、授五戒 十三、授法名 十四、授臨終大事 十五、三尊来迎印 十六、六地蔵総印 十七、不動灌頂印 十八、不動六道印 十九、弥勒三種印 二十、成仏印 二一、理趣経印 二二、讃以上。 
式の構成はまず式場の清めから始まる。次に仏様を招いて接待し、そして仏様の力を賛え、お願いするというプロセスを取る。まず体に香を着けて清め、〔三密観〕で業の原因である身体・口・意識の三つをイメージで清める。加持香水は香水で式場を清め仏菩薩をお迎えする。 
〔三礼〕は仏法僧に帰依し、〔表白〕では仏を賛え、これから行なう儀式の成就を祈る。お願いする内容は、「今日の精霊南浮此土の往因既に尽きて、都卒浄土の託生時至れり。よって今真言加持の教風に任せて葬送呪願の儀則を調え、三密加持の法水を洒で、新たに聖霊得脱の引摂を祈る。」(今日、精霊は南にある国土での因縁も尽きて、浄土に生を託す時となった。よって今真言加持の教えに任せて、葬送の呪願の儀則を調え、三密加持の法水をそそいで、あらたに聖霊が苦しみの世界から開放されて都率浄土に受け入れられることを祈る)。 
〔神分〕(じんぶん)とは神々の身分、力ということで、諸々の仏を勧請して法楽を捧げること。「そもそも亡き魂の葬送の庭は、極楽へ往生する場であるから、閻魔法王及び五道の冥土の官吏等も降臨してきている。従ってこれら冥土の官吏たち、ならびに業を離れ道を得るために般若心経を唱え、そのあと天上世界に往生するためにそこの主宰者である如来、菩薩の名前を唱えて降臨を感謝し、死者の成仏を願う」。 
〔仏名声明〕仏名とは仏名懺悔のことで、「南無、帰命頂礼、無常呪願、聖霊引導、往生極楽」と唱え懺悔する。 
〔教化〕とは道場に仏菩薩を迎え、法楽を捧げるもの。 
次の〔取剃刀唱〕は死者を剃髪すること。この剃髪は仏や菩薩の前で行なわれる。 
〔授三帰三竟〕は仏法僧に帰依し、〔授五戒〕では殺し、盗み、姦淫、妄語、飲酒の五つをしないことを誓う。次に死者に法名を授け、〔授臨終大事〕で宇宙万物がもとから存在していたことをあらわす「阿」字が授けられる。 
〔三尊来迎印〕で三尊を来迎し、〔六地蔵総印、不動灌頂印、不動六道印、弥勒三種印〕で地獄の苦しみを抜き、〔成仏印〕で真言密教の目指す即身成仏を象徴化し、〔理趣経印〕で「理趣経」を読誦し、〔讃〕で仏を賛えて棺前作法を終了する。 
これらを通して行なうと50分かかるため、七-九、十五-二二を省略して40分に省略したり、さらに短く省略することもある。いずれにしてもこの儀式で大切なことは、お招きした仏や菩薩に五大を捧げて丁重にもてなすことである。 
荘厳の仕方
(高野山真言宗)上段中央にご本尊の大日如来を、向かって右側に宗祖の弘法大師を、左には大日如来の化身である不動明王の画像をまつります。本尊の前に茶湯器、仏飯器を供えます。中段の中央に過去帳、左右に位牌をまつりますが、真言宗のみ(インドの礼法にならって)向かって左に古い祖先の位牌を、右に新しい祖先の位牌をまつります。下段には前机を置いて内敷を敷き、香炉を中心に、ろうそく、花立などを飾ります。仏壇手前には経机を置き、香炉、ろうそく立て、花立て、鈴などを置きます。なお真言宗は分派も多く、それぞれまつり方も多様ですので、細かいことは菩提寺にたずねることが大切です。
供養の心得
朝の勤めには仏飯を供え、ろうそくをともし、線香を3本立てます。鈴を二つ打ち次に
(1)合掌礼拝 / (2)懺悔 / (3)三帰 / (4)三竟 / (5)十善戒 / (6)発菩提心 / (7)三眛耶戒 / (8)開経偈 / (9)般若心経 / (10)本尊真言 / (11)十三仏真言 / (12)光明真言 / (13)宝号 / (14)祈願文 / (15)回向で終わります。 
浄土宗の葬儀 
法然上人は1212年、頭北面西して「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨」の経を唱えて80で死去した。浄土宗の葬儀とは、法要で行なわれる序分、正宗分、流通分に授戒と引導がつけ加わったもの。 
「序文」では仏前で香を焚いて仏を供養し、次いで仏法僧の三宝に敬礼する。そして式場に仏菩薩の来臨を願い、華を散らして仏を供養する。続いて仏の前に一切の罪を懺悔し、仏の加護を祈るまでが序分にあたる。 
次に「正宗分」は死者を仏の弟子にする「授戒会」を行なう。次いで導師は高座に登り経を唱え、その功徳を仏弟子になった死者に回向するのである。次の「流通分」は、法要を終えるにあたり、仏の加護によって法要を修することができたことに感謝し、仏をお見送りするのである。 
「枕経」では来迎仏をお祭りし、弥陀世尊、釈迦如来、十方如来の三尊をお迎えする。次に懺悔文を唱える。 
剃度作法では、「報恩偈」を三度唱えながら剃刀の形をしたものを死者の頭にあてる。次に三帰三竟と戒名を授ける。 
次に開経偈そして誦経へ続く。多くは「無量寿経」のなかの「四誓偈」か、「観無量寿経」のなかの「真身観文」が読まれる。 
〔発願文〕では「願わくは弟子等命終の時に臨んで、心転倒せず、心錯乱せず、心失念せず心身にもろもろの苦痛なく、快楽にして禅定に入るがごとく、聖衆眼前したまい、仏の本願に乗じて阿弥陀仏国に上品往生したまえ。彼の国に至ってのち、六神道力を得て十方界に入り苦の衆生を救摂せん。」などと述べる。 
〔納棺式〕では、「引接(いんじょう)安養極楽界、当証菩提正覚位」と3回読む。 
通夜の差定(次第)は特に定まっていないが、念仏を主とする。 
(葬儀)一、鎖龕二、下炬三、山頭念誦四、総回向 
葬儀は入堂、三宝礼、懺悔偈に続いて鎖龕(さがん)が行なわれる。鎖龕は棺を閉ざす儀式で、その作法は棺に進み、焼香して斜め左に三歩退き、中啓(扇子)で一円相を描き、次の文を唱える。 
「華は開く稀有の色、波は掲ぐ実相の音。作麼生か起龕の一句。閉塞諸悪道、通達善趣門」(華は珍しい色で開き、波は実相の音。なぜか起龕の一句。諸悪道を閉ざし、善門を通す)。続いて棺を起こして葬場へ行くための文が唱えられる。 
下炬(あこ)は引導のことで、導師は棺の前に進み焼香してから、2本の松明を取り、そのうち1本を捨てる。これは汚れた地上を離れるという意味である。次に1本の松明で一円をかいて下炬の偈を述べる。偈の最後には餞別の辞を述べて、「南無阿弥陀仏」の念仏を10回唱える。 
最後の回向のあとにも十念を唱え、そして来臨した仏をもとの天上に送る偈が唱えられる。この儀式では死者を西方浄土に送り届けるのが主眼となっている。 
荘厳の仕方
上段中央にご本尊の阿弥陀如来、脇侍に向かって右が観世音菩薩、向かって左が勢至菩薩。さらに高祖善導大師(右)宗祖円光大師(左)の像(掛け軸)を安置することもあります。位牌は上段の左右です。中段には前机を置き、そこに四角い内敷を敷き、五具足(中央に香炉、左右にろうそく立て、花立てを一対ずつ)又は三具足を並べます。この下中央には霊供膳が置かれ、左右には生花が供えられます。経机には香炉、線香差し、鈴などが置かれます。
供養の心得
朝の勤めには仏飯を供え、ろうそくをともし、線香を立てます。次に
(1)香偈 / (2)三宝礼 / (3)三奉請 / (4)懺悔偈 / (5)開経偈 / (6)無量寿経のなかの四誓偈 / (7)回向文 / (8)一枚起請文 / (9)摂益文 / (10)念仏一回 / (11)総回向文 / (12)総願偈 / (13)三身礼 / (14)送仏偈。
浄土宗寺院の荘厳
本堂正面に須弥壇が置かれ、さらにその中央に宮殿が聳え立つています。本堂の本尊は阿弥陀仏がほとんどで、阿弥陀一仏の場合と、阿弥陀三尊形式の場合もあります。須弥壇の上の上机には本尊に供えられた茶湯器と、供物、手前に香炉を中心とした五具足が供えられ、その手前の大前机にも同じく香炉を中心とした五具足が供えられているのがわかります。こうした配置のミニチュア版が家庭の仏壇であることがわかります。  
浄土真宗の葬儀 
浄土真宗は室町時代に蓮如上人によって大きく発展した。上人は1499年の入滅に先立って、葬儀作法を細かく遺言され、その内容がそれ以後の葬儀の作法の基礎になっている。浄土真宗は往生をとげた死者に対し、生前の徳を偲び、心から礼を尽くすのである。従って死者の解脱をはかる引導作法や追善回向の作法は存在しないのが建前である。 
枕経はまず死者に法名を授け、それから「帰命無量寿如来」で始まる「正信偈」などを唱える。「正信偈」は「教行信証」の行巻にある7部120句からなる偈文である。 
(葬儀)一、先請阿弥陀二、三匝鈴三、路念仏四、表白五、正信偈六、回向 
葬儀が始まると、総礼して阿弥陀の来臨を願い、勧衆偈、念仏、回向、総礼と続く。次に三匝(そう)の鈴を小から大と打ち出し、路地念仏(南無阿弥陀仏)を詠唱する。「表白」の内容等は次のように定められている。「思うに無常の嵐は時を選ばす処を定めず、老少のへだてあることなし。しかるに恩愛の絆、いよいよ断ちがたく別離の情、また去りがたし。阿弥陀如来はかかる煩悩熾盛(しじょう)の我等を憐れみたまい、超世の悲願を立てたもう。まことにこの本願の力によらざればいかでか出離生死の道あらんや…」こうして「表白」が終わると、「正信偈」、「南無阿弥陀仏」の念仏十遍、和讃、回向というように進められる。このように浄土真宗は他の宗派と違う点は、戒名がないこと。引導がないことが上げられる。 
真宗大谷派
荘厳の仕方
仏壇の形も同じ浄土真宗でも、大谷派では宮殿にもこしがついていて二重屋根のように見えるのに対し、本願寺派では、宮殿にもこしをつけません。
さて上段中央にご本尊の阿弥陀如来の画像を掲げ、右脇に十字名号、左脇に九字名号を掛けます。上段に前方左右に華瓶(けびょう)一対、中央に火舎香炉、その前に香盒(香入れ)を飾ります。上卓の華瓶には樒(しきみ)を供えるのが正式です。中段には前卓を置き、卓の上に、五具足の場合(中央に土香炉、そして鶴亀の燭台、花瓶それぞれ一対を飾ります。三具足の場合向かって左が花瓶、右に燭台を飾ります。また燭台の鶴亀の方向は常に仏壇の中心に向かっています。過去帳は向かって左です。内敷は法事以外、平常には用いません。勤行用の備品として、鈴(りん)それから「正信偈」「三帖和讃」「御文五帖一部」が必要です。
供養の心得
仏壇の前に座り灯明をともし、ろうそく、線香の順に火をつけます。線香は香炉の大きさに合わせて折り、1・2本横に火のついた方を左にして灰の上に置きます。
(1)「正信偈」を読誦 / (2)「念仏和讃」を唱えます / (3)「回向文」を唱えます / (4)「御文」
年忌法要の荘厳は、内敷は前卓、上卓などみな掛けます。色は紅、紫、金欄いずれでもよいとされています。ろうそくは一周忌から朱蝋にします。祥月命日のろうそくは白でよいようです。 
浄土真宗本願寺派
荘厳の仕方
上段中央にご本尊の阿弥陀如来の画像を掲げ、右脇に十字名号、左脇に九字名号を掛けます。または親鸞聖人(右)蓮如聖人(左)をかけることもあります。上段に上卓を置き、中央にろうそく立て、前に火舎香炉、その左右に仏飯器、華瓶各一対を飾ります。この華瓶には樒(しきみ)をさします。中段の前卓には香炉と一対のろうそく立て(鶴亀のデザインではありません)、花瓶の五具足を飾ります。下段右に過去帳を安置します。経机(和讃卓)の上には正信偈、和讃を御和讃箱に入れて置きます。過去帳は年回法要や亡き人の命日にあたる日のみ用い、普段は引き出しのなかにしまっておきます。
供養の心得
お勤めは
(1)「正信偈」を読誦 / (2)「和讃」六首を唱えます / (3)「御文章」 / (4)「領解文」を唱和します。  
臨済宗
荘厳の仕方
上段中央にご本尊の釈迦ム尼仏、脇掛として向かって右に禅宗の開祖の達磨大師、左に観世音菩薩をまつります。また向かって右に三尊仏の画像をまつることもあります。茶湯器と霊供膳を本尊に供えます。中段には先祖の位牌をまつります。中央に過去帳、左右に位牌です。下段には前机を置き、五具足(香炉を中央にろうそく、金れんげを各一対)飾ります。仏壇手前には経机を置き、香炉、鈴などを置きます。臨済宗には多くの分派がありますので、菩提寺の住職に相談されるのが確かです。
供養の心得
仏壇の前に座り灯明をともし、ろうそく、線香の順に火をつけます。線香は2本以上立てます。それから鈴を3度鳴らして合掌、読経に入ります。
(1)「般若心経」を読誦 / (2)「消災呪」を3回 / (3)「本尊回向」 / (4)「妙法蓮華経普門品偈」 / (5)「先祖回向」 / (6)「四弘誓願文」を3回。
焼香の場合、回数は1回で、頭におしいただくことはしません。次の図は霊供膳のならべかたで、命日などの特別な日に供えます。 
曹洞宗の葬儀 
禅宗の一宗派である曹洞宗は、道元(1200-1253)が宗祖である。根本宗典は道元の「正法眼蔵」であるが、明治になって「正法眼蔵」を在家用にまとめた「修証義」が編集された。現行の在家葬法は宗の時代にまとめられた「禅苑清規(ぜんねんしんぎ)」(1103)が鎌倉時代に日本に伝わり影響をあたえた。日本では中国のように葬儀は派手でなかったし、墓も公卿でなければ認められなかった。しかし布覆、白幕、位牌、脚絆、数珠、霊膳、六文銭などは中国の風習を取り入れたものである。また禅宗の葬儀は楽器を鳴らして賑やかなのが特徴である。 
〔次第〕枕経、剃髪、授戒。(葬儀)一、入龕諷経二、大夜念誦三、挙龕念誦四、引導法語五、山頭念誦六、仏事七、安位諷経。 
枕経は「遺教経(ゆいきょうきょう)」または「舎利礼文(しゃりらいもん)」を三返読んで回向する。「遺教経」は釈尊が入滅にさいして弟子たちに最後の説法をした時の情景を説いており、禅宗では重んじられている。「舎利礼文」は釈迦の遺骨を礼拝するお経で、火葬場でも読まれる。そこに書かれているのは、 
「一心頂礼、万徳円満、釈迦如来、真身舎利、本地法身、法界塔婆、我等礼敬、以我現身、入我我入、仏加持故、我證菩提、以仏神力、利益衆生、発菩提心、修菩薩行…」 
(一心に頂礼したてまつる。釈迦如来の舎利は元々は法身、法界の塔婆である。我身をもって入我我入し、仏の加持の故に我菩提を証す。願わくば神仏の力をもって衆生を利益し、菩提心を発し、菩薩行を修めよ)という内容である。次に回向を唱える。その中身は「香、花、燈燭、水を供え、舎利礼文を諷誦す、集むるところの功徳は、新亡精霊(新しい死者の霊)に回向す。乞い願うところは四大縁謝の次いで報地(死者の仏世界)を荘厳せんことを。」 
〔剃髪〕では導師は棺の前で香をたき、合掌して偈を唱える。 
「剃除鬚髪、当願衆生、永離煩悩、究竟寂滅」(まさに願わくは、衆生とともに煩悩を離れて、煩悩寂滅を完成せんことを」。 
〔授戒〕は懺悔文を唱え、次に授三帰戒を行なう。このあと導師は用意した血脈を香に薫じて「衆生仏戒を受くれば、諸仏の位に入る。位は大覚と同じゅうし、これ諸仏の子なり」と三唱する。以上、剃髪・授戒して死者を仏教者にしてから、狭義の葬儀が始まる。 
一、入龕諷経(にゅうがんふぎん)は棺に納める儀式で、実際はすでに納棺されている。まず陀羅尼を唱し、次に回向文を唱える、「上来諷経する功徳は、(戒名)に回向す。願わくは、入棺の次いで報地(浄土)を荘厳せんことを。」 
二、大夜念誦。かって大夜は前日の夜に行なわれたが、今は入龕諷経に続いてよむ。その意味は、「(戒名)あって、生縁すでに尽きて大命にわかに落つ。諸行の無常なることを了って寂滅を以て楽となす。うやうやしく現前の清衆を請して、つつしんで諸聖の鴻名(偉大な名)を誦す。集むる所の鴻福は覺路を荘厳す。」といって十の仏の名前を読み上げ、次に「舎利礼文」を読み上げる。 
三、挙龕念誦(こがんねんじゅ)は、棺を起こして葬場に赴く前の儀礼であるが、最後の山頭念誦まで自宅などの葬儀会場で通して行なってしまう。 
四、引導法語では、導師が法炬(たいまつ)を右回り、左回りと円相を描く。次に引導法語を唱える。一字一喝で一挙に仏世界に入らせるという。 
五、山頭念誦の山頭とはもともと土葬場のことである。導師は死者に「すでに縁に従って寂滅する。すなわち法によって荼毘す。百年虚幻の身を焚いて一路涅槃の徑に入らしむ。仰いで清衆を憑んで覚霊(霊が覚る)を資助して念ず」。次に仏の名を唱えて回向する。 
禅宗は浄土を立てないが、中国から入ってきた儀式の影響を受け、涅槃とか浄土の言葉も引導の言葉の中に使われている。 
荘厳の仕方
上段中央にご本尊の釈迦牟尼仏、向かって右に道元禅師、左には太祖・螢山禅師の絵像がまつられます。この両禅師のななめ前に位牌が安置されます。中段には五具足(中央に香炉、左右にローソク立て、金れんげが各一対)が置かれます。下段は中央に過去帳、香炉、左右に高杯、左に生花、右にローソク立てが配されます。
供養の心得
朝のお勤め
(1)合掌礼拝 / (2)開経偈 / (3)懺悔文 / (4)三帰る礼文 / (5)三尊礼文 / (6)般若心経 / (7)本尊回向文 / (8)修証義 / (9)先亡精霊回向文 / (10)四弘誓願文 / (11)合掌礼拝
焼香場合、回数は2回で、最初抹香を頭におしいただき、次はおしいただかずに香炉に入れます。 
日蓮宗の葬儀 
日蓮宗の葬儀は「法華経」を信じ、「南無妙法蓮華経」の題目を受持する者は、必ず霊山浄土に行詣することができる」という日蓮聖人の教えをよりどころにして営まれている。枕経は勧請に始まって、読経、偈を唱え、回向をする。納棺に先立っては「辞親偈」を唱えて剃髪、授戒するが、これは禅宗の影響である。 
(葬儀)一、道場偈 二、勧請 三、開経偈 四、茶湯・霊膳 五、引導文 六、唱題 七、回向 八、四誓・三帰 九、退堂。 
葬儀は導師入場の後、道場偈ではじまる。「我此道場如帝珠、十方三宝影現(ようげん)中、我身影現三宝前、頭面接足帰命礼」(この道場は神々の珠のようで、十方が仏法僧に守られ仏が衆生救済のために姿を現し始めた。仏の御足の前に頭を着けて礼拝する)。三宝礼の後に〔勧請〕である。ここで招かれる大マンダラは、釈迦、菩薩、日蓮大菩薩などである。読経は「法華経二十八品」の中から「方便品第二」などを読誦する。 
次に引導文である。引導文例をみると最初に仏、菩薩の名を上げ、彼らに次のように語りかける。「まさに今この道場に棺廓を安置し、葬送の儀を修する所の一霊位あり。これは受けがたき人身を受け、あいがたき妙法にあい奉る善男子なり。然りと雖も…霊位近来病魔のおかすところとなり、医薬看護、その精を尽くすと雖も、…去る○日、逝去し了ぬ。ああ、悲しい哉。いま霊也が生前の行功を考え、法号を授与して○○と号す。仰ぎ願わくば上来勧請の仏陀諸尊、大慈大悲の御手を垂れ給うて霊也をして確かに寂光の宝土に摂取し引入したまえとしかいう。(ここで導師は松明を取り、三度円相を描く)霊也、今汝に悟道の要句を示さん。謹んで諦聴、よくこれを思念せよ。それ諸法実相の覚の前には覺体にあらざるものなし。これを捨てて何物をか求んや。常在霊山の床の上は寂光にあらざる所なし。これを去りていずこにか行かんや。然れば即ち本覚の真都は即ち葬送の場に現われ、遮那覚王は直ちにも誦経の蓆に現ぜん…」等と述べる。そのあと「南無妙法蓮華経」の題目を十から百遍唱える。 
日蓮宗では、このように仏陀が法華経をといたという霊山浄土に往生することを目的としている。 
荘厳の仕方
上段中央にご本尊の大曼荼羅または三宝尊を、その前に日蓮聖人を祀ります。三宝尊は、向かって右が多宝如来、中央に「南無妙法蓮華経」の題目、左に釈迦如来の画像をまつったものです。三宝尊をまつった場合には〈脇掛〉に大黒天(右〉鬼子母神(左)をまつることもあります。位牌はご本尊より一段低い所の宗祖の左右に安置します。
中段には前机を置き、打敷を敷いて、五具足(香炉を中央にして、一対のろうそく立て、金れんげ)を飾ります。次に過去帳を中央に置き、下段中央に線香立て、その両側に菓子や果物を乗せる高杯(たかつき)、そして左端に生花、右端にろうそく立てを飾ります。また中央の段に霊供善を供え、その左右に高杯を置き、菓子・果物を供える祭り方もあります。
仏壇手前には経机を置き、経本を置きます。そして右側に木鉦が置かれます。
木鉦は読経、唱題のときに打つもので、明治20年頃考案されたものである。
供養の心得
朝ご飯とお茶を供え、ろうそくに火をともし、線香を1本か3本(仏法僧の三宝に供養する)を立てて供えます。線香を立てる場合、図のような位置に立てます。また蓋のある香炉の場合には火のついた方を左に来るようにして寝かせます。
(1)正座、合掌 / (2)開経偈 / (3)妙法蓮華経方便品第二 / (4)欲令衆 / (5)妙法蓮華経如来寿量品第十六 / (6)自我偈 / (7)運想 / (8)「南無妙法蓮華経」を繰り返し唱える / (9)宝塔偈 / (10)一般回向文 / (11)誓願 / (12)「立正安国論」拝読 / (13)「如説修行鈔」拝読 / (14)「観心本尊抄」拝読 / (15)「報恩抄」拝読 / (16)合掌 
日蓮正宗の葬儀 
日蓮正宗の葬儀は大石寺九世法主の日有上人によって確立した。日蓮正宗の葬儀は故人の即身成仏を願い、御本尊の威光に照らされて霊山浄土に向かえるように祈念する。 
(葬儀式)一、僧侶出仕二、題目三唱三、読経(方便品、寿量品) 
仏壇の歴史
仏壇は、崇拝の対象であるお釈迦様や阿弥陀仏などのご本尊をお祭りすることを目的に準備され、古くは白鳳時代にさかのぼります。西暦686年に天武天皇の「諸国家ごとに仏舎を作り仏像及び経を置き、礼拝供養せよ」と詔が出されました。
日本の現状は、祖先信仰という風土のなかで、祖先の位牌を安置しそれを祭る役割の方が重視されているようです。現在、僧侶が仏壇の前で読経を行っていますが、こうした形が定着したのも、所によっては明治以降のことで、それまでは仏壇があっても、盆棚などに向かって経をあげたりしていました。江戸時代に普及した庶民の仏壇は、浄土真宗や日蓮宗の場合は本尊を祭るためでありましたが、それ以外では多くは位牌棚として使われていたようです。
仏壇の構造
仏壇の構造は普通上中下の3段になっています。最上段には須弥山を形どっている須弥壇(しゅみだん)があり、この須弥壇の上にご本尊を祭る空間である宮殿(くうでん)が広がっています。この中に絵像や仏像のご本尊をまつり、左右のお脇掛には、宗祖などの絵像が掛けられます。この須弥壇の上には上卓(うわじょく)が置かれ、仏飯器や茶湯器などが供えられます。
2段目は中央に前卓が置かれ、その上に三具足や五具足を飾ります。3段目は最下段で香炉や花立てなどを置きます。この他、仏壇の前に経机を置き、そこに経本、リン、香炉などを安置します。仏壇の荘厳の仕方や、位牌の位置などは、宗派や地域によって様々であるので、ここに上げたものはあくまでも参考資料と捉え、実際はその地域の宗派の寺院にご教授願うことが必要かと思います。 
 
地方の葬送 1

 

北海道
通夜・葬儀とも公民館や齋場を利用する場合が多い。通夜には弔問客が積極的に参加し、通夜が終わると、通夜ぶるまいが用意される。葬儀は午前中に行なわれ、焼香のあと出棺。火葬場で焼香の後、火葬される。そのあと、初七日や七七日の法要を行ない、「忌中引き」と呼ぶ精進落としの料理をとる。札幌市には寺院が270ケ寺で浄土真宗が多い。会館は約400。函館では通夜の前に、根室市では葬儀の前に火葬が行なわれる。
道内では、香典返しは粗供養品で、会葬礼状とともに渡すのが慣例。道内の一部では供花の代わりに「供花紙」を利用する地区がある。
青森県
県内では火葬したあとに通夜を行なう。通夜は6時から始まり、青森市では寺院などで行ない、自宅は1割くらい。自宅から遺骨と位牌、遺影の他、「いっぱい飯」と団子をもって祭壇に安置する。香典返しは受付でその場返しをする。葬儀終了後はただちに墓地に行き、埋葬する。墓地から帰宅すると初七日の法要を行ない、精進落としを行なう。忌明けは青森市では三七日、八戸市では五七日に行なうのが一般化している。
岩手県
通夜は一般に自宅で行なわれる。通夜ぶるまいの招待を受けた者は、香典とは別に「御夜食料」を包む。通夜のあとに火葬が行なわれる。その際、遺影・死花などを一人ずつ携えて行く。火葬場で僧侶の読経のあと遺族、参列者が焼香し、遺族は参列者に挨拶する。収骨のあと遺骨を祭壇に安置したら、葬儀の準備をする。火葬を先にするのは、遺体を本堂に入れることを禁じたためと考えられる。盛岡地方の葬儀は寺院で行なわれる。始めに会葬者が式場に入り、遺族が行列して入場する。会葬者は焼香をすまし遺族に挨拶して帰る。香典返しはその場返しである。埋葬は葬儀当日に行なうのが普通である。
宮城県
仙台市内では通夜は自宅で行なうが、葬儀会場は自宅より寺院が多い。仙台市ではホテルを利用して献花で葬儀を行なうこともある。通夜のあと出棺となり、霊柩車で火葬場に行く。骨あげのあと、遺骨を祭壇に安置して葬儀を行なう。葬儀のあとに埋葬を行ない、そのあと七七日法要までが行なわれ、祭壇は8日目に撤去される。香典返しはその場返しである。なお気仙沼市では、通夜の前日に火葬が行なわれる。
秋田県
秋田市では火葬のあとで通夜を行なうのが一般的である。遺体を納棺したあと釘うちを行ない、火葬場に向かう。火葬場から戻ったら遺骨を祭壇に安置し、近親者のみで通夜を行なう。市内南部では今でも近隣組織が葬儀全般をとりしきっている。通夜の翌日に葬儀が行なわれる。地域によって葬儀終了間際に、会葬者の前で遺骨の「収骨」が行なわれる所がある。葬儀あと初七日法要が営まれ、そのあと遺族は遺骨と卒塔婆をもって墓地に行き納骨を行なう。埋葬の後、精進料理を食べる。
山形県
山形県では通夜を「おつうや」と呼び、念仏講や観音講の人が集まって御詠歌を唱和する。通夜の翌朝、葬儀に先だって火葬が行なわれる。出棺には玄関以外の所から行なわれる。火葬場から帰宅すると、塩と水で清め、遺骨を祭壇に安置して葬儀を行なう。葬儀は普通寺院で行なわれるが、葬儀終了後、五七日の法要が行なわれる。埋葬は七七日の忌明けに行なわれる。香典はその場返し。
福島県
福島市内では自宅葬が3割、あとは齋場で行なわれる。福島県では葬儀前に火葬する地域と、葬儀後に火葬する地域がある。福島市では葬儀の前に火葬を行なう。葬儀のとき、親族の男性は麻のかみしも姿をする。会津若松市では、葬儀の後火葬を行なう。玄関先に竹で仮門を作り、そこから棺をくぐらせる。火葬場から帰宅し、初七日法要のあと精進落としを行なう。福島市では香典返しは告別式後に行なう。
茨城県
茨城では通夜ぶるまいに餅、おこわ、酒が用意される。火葬は葬儀の後に行なわれ地域と、通夜前に火葬する地域がある。水戸市では火葬の後に通夜が行なわれる。葬儀のあと棺を担ぐ人を「陸尺」といい、組内の者が担当する。また放生といって、鳩を放つ儀式も見られる。火葬場では読経のあと、焼香が行なわれ、骨あげとなる。県内では当日に埋葬することが多く、埋葬を終えたら塩をかけて清め、そのあとに精進落としを行なう。香典返しはその場返し。
栃木県
宇都宮市では葬儀のあとに火葬される。農村部では玄関先に竹で仮門を作り、棺をくぐらせる。火葬場で焼香のあと、火葬。骨あげのあと、塩で体をきよめてから遺骨を安置し、初七日法要のあと精進落としが行なわれる。県内には土葬を行なう地区も残っている。香典返しはその場返し。
群馬県
県内では葬式組として近隣のひとの相互扶助が生きている。県南部の前橋市や高崎市では、伝統的な習慣が失われている。通夜のあとの通夜ぶるまいは「きよめ」として刺身を出す習慣がある。郡部や農村部では告別式のあと、「ではの飯」という膳が回されることがある。葬儀の後、火葬場では遺体を荼毘にふし、骨あげののち、自宅の後飾り壇に遺骨を安置する。ここで初七日法要を行ない、精進落としをとる。これを「あと念仏」と呼ぶ。香典返しはその場返し。
埼玉県
浦和市では火葬は葬儀のあとであるが、秩父市では火葬のあとに葬儀が行なわれる。葬儀は浦和市や大宮市などの都市部では齋場で行なわれるようになった。郡部や農村部では「出立ちの膳」を回したり、玄関先で茶碗を割ったりするしきたりが残されている。火葬場から帰ると、塩や水で体を清め、遺骨が祭壇に安置されてから初七日法要が行なわれる。香典返しはその場返しが多いが、秩父市では忌明けに返す習慣である。
千葉県
館山市をはじめとして葬儀当日の朝に火葬を行なう地域が多いが、千葉市では葬儀後、銚子市では通夜の前などと同県内でも異なっている。銚子市では香典は通夜、葬儀の両方に出す。火葬後の骨あげも、千葉市では一部を骨壷に収めるが、銚子市や館山市では全部収めるという。葬儀当日に初七日の法要が行なわれ、そのあと、「忌中払い」という精進落としがあるのは共通である。香典返しは当日返し。
東京都
都心部では寺院や齋場での葬儀が多い。また通夜に参列する者が、葬儀に参列する者よりも数が多い。葬儀は通夜の翌日行なわれ、葬儀後に遺体は火葬となる。火葬後、初七日法要、精進落としの順に進められる。なお香典返しは「忌明け」に行なわれる。
神奈川県
通夜・葬儀とも自宅で行なわれる地域が多いが、都市部での齋場利用も増えてきた。相模原市は自宅葬が8割である。県内では一部、葬儀の朝に火葬を先にする地域(南足柄市)がある。葬儀のあと、火葬場で荼毘にされた遺骨を安置しての初七日法要が行なわれる。香典返しは横浜では忌明けに行なわれるが、小田原市、平塚市などその場返しがある。
新潟県
新潟では浄土真宗の檀家が多い。葬儀・通夜は自宅で行なう場合が多い。新潟市では会館での葬儀が多い。通夜は午後7時頃はじまり、通夜の後には僧侶による法話がある。翌日の葬儀が終わると、棺に釘うちをして出棺となる。新潟市内では旧来の習慣が失われているが、農村部では野道具をもって、野辺の送りを行なう地域が残されている。火葬場では読経、焼香のあと骨あげ。骨壷は使わず骨箱を用いる。遺骨は祭壇に安置し、自宅で初七日法要を営む。香典返しは葬儀後2週間前後に行なう。
富山県
富山市では通夜には「死花花(しかばな)」を用意し、祭壇に飾る。翌日葬儀が行なわれるが、高岡市では出館のさいに棺を白のさらしに巻いて霊柩車に運ぶ慣習がある。またかっては「善の綱」といって、棺につないだ白のさらし布を遺族の人たちが、手にとって行列していく習慣があったが、現在では葬儀の前に白い布を手に取ることで代用している。火葬のあとの骨あげでは、高岡市では「総骨あげ」が行なわれるので、骨壷も大きなものが用意される。帰宅すると遺骨を中陰壇に安置し、初七日を行なう。香典返しは富山市では当日返し。
石川県
金沢市内では通夜は自宅で行なうが、近くの寺院で行なうことも多い。北陸では喪主が白の装束を着る習慣がある。翌日の葬儀の後、火葬。分骨した遺骨を当日、菩提寺に納める地域もある。金沢市では香典返しはその場返しである。
福井県
福井市では通夜・葬儀会場は寺院で行なわれることが多い。納棺には、男性には剃刀、女性にははさみを入れるという習慣がある。福井県嶺南地方では禅宗の寺院が多く、葬儀は自宅で古くからの伝統的な習慣を守って行なっている。出棺時には玄関先で送り火をたいたり、茶碗を割ったりする。また喪主は白のかみしもを着ている。火葬場には位牌、遺影の他、死花を持参する。自宅に帰ってから塩で清め、初七日までの法要を行なう。福井市では香典はその場返しが多い。
山梨県
通夜・葬儀とも自宅で行なわれることが多く、また大月市など、火葬を行なってから、葬儀を行なう地域がみられる。火葬率は6割と低い。県内では友引でも葬儀を行なうことが多く、その場合には「供人形」を入れたりする。県内では出棺にさいして、念仏講の人々が御詠歌を唱えたり、庭に仮門を作ってそこから棺をくぐらせたりする。甲府市では葬儀後に火葬をし、埋葬してから初七日法要を行なう。香典はその場返し。
長野県
通夜・葬儀は自宅で行なう。近隣の人々の相互扶助で行なわれる。松本市では火葬の後、遺骨による葬儀を行なうが、長野市では葬儀のあと火葬する。このとき喪主は白の布を身につける地域がある。故人が生前善光寺詣りをした場合、納棺にさいして血脈を入れる。先に荼毘にふした松本市では、葬儀のあと初七日法要を行ない、そのあと墓地での埋葬を行なう。香典返しはその場返しにする。
岐阜県
通夜・葬儀は自宅で行なうことが多いが、高山市では寺院葬が多い。また高山市では浄土真宗が多く、その場合には枕飾りに水や鈴(りん)を供えない場合が多く、禅宗では枕飯を用意する。市内では斑が葬式の準備を遺族に代わって行なう。岐阜県では「廃仏毀釈」の影響で神式の葬儀も多く見られる。葬儀のあとに火葬が行なわれるが、郡部では土葬の地域が残されており、その際には野辺の送りが行なわれる。香典返しは忌明けに行なわれる。
静岡県
通夜は自宅、葬儀は寺院で行なうことが多い。県内各地に「弔組」が残されているが、都市部では葬儀社が行なう。静岡市、下田市では葬儀の前に出棺し、出棺にさいしては、僧侶に読経してもらう。棺はアーチ状仮門をくぐり、そのあと火葬にされ、遺骨をもって寺院に行き葬儀を行う。遺骨は葬儀の後、境内の墓地に埋葬され、そのあと精進落としが行なわれる。静岡市内では、その場で香典返しを行なう。
愛知県
通夜、葬儀は自宅が多いが、名古屋市では齋場で行なうケースが見られる。通夜には、香典の他「淋し見舞」を出す習慣がある。名古屋市周辺の瀬戸・一宮では、喪主が白装束を着ける習慣が残っている。出棺にさいして茶碗を割る習慣がある。葬儀のあと、火葬し、その日に初七日法要が行なわれる。香典返しは、忌明けに行なわれる。
三重県
自宅葬が7割以上。普通伊勢、松坂市では年中しめ縄をつけているが、喪家ではこれをはずす。通夜は「夜伽」といい、自宅で行なう。また「組」が葬儀の手伝いをする。津市や松坂市は葬儀後に火葬を行なうが、尾鷲では通夜の前に火葬を行なう。また伊勢市や熊野市では葬儀に先だって、火葬を行なっている。葬儀のあと、出棺に先だって出立ちの膳が回される地区がある。火葬の後、墓地に埋葬するが、墓地には野位牌や死花花、卒塔婆などが用意される。香典返しは忌明けに行なう。
滋賀県
葬式は近隣の人の手伝いによって行なわれる。葬儀のあと出棺。出棺は玄関以外の所から出す。また門で茶碗を割ったり、門火をたくが、浄土真宗の檀家では行なわない。彦根市では棺を、玄関から出した所で読経をする「門勤め」の式が行なわれる。火葬の後、玄関で塩をふりかけてから家に入り、還骨勤行を行なう。そのあと会食である「お仕上げ」をとる。彦根市では受付で香典を出すと引替券をもらい帰りに会葬御礼品を頂く。
京都府
京都では「枕膳」とよぶ膳を枕飾りに出すのが正式である。また「友引」には「供人形」を入れて葬儀を行なう。葬儀の準備は町内会で行ない、通夜は自宅で行なわれる。葬儀には竹祭壇が使用される。出棺時に門口で茶碗が割られるが、浄土真宗の家では行なわない。火葬後、遺骨を後飾り壇に安置して法要が営まれる。京都府では供花に樒(しきみ)を贈る。京都市内では会葬御礼に商品券が用いられる。
大阪府
大阪市内では齋場での葬儀が増えているが、それ以外では自宅での通夜・葬儀が多い。葬儀のあと出棺、門口で茶碗を割るのが一般的であるが、浄土真宗では行なわない。また放鳥といって、鳥を放つ儀式も取り入れられている。火葬のあと、自宅に帰るが、その時、塩を掛けたり、塩を踏んで家の中にはいる。初七日の法要のあと、「仕上げ」という精進料理を取る。香典返しは忌明け。
兵庫県
葬儀には近所の人が手伝う習慣がある。葬儀のあと出棺、この時門口で茶碗を割るのが一般的であるが、丹波地方では行なわない。火葬場では樒(しきみ)の枝を水に浸し、棺に振り掛ける儀式がある。火葬のあと、自宅に帰るが、その時、塩を掛けたり、塩を踏んで家の中に入る。初七日の法要のあと、「精進あげ」という料理を取る。香典返しは忌明け。
奈良県
枕飾りには、内位牌と野位牌の2つを用意する。また奈良市では逆さ屏風を行なうこともある。葬儀のあと出棺、この時門口で茶碗を割るのが一般的である。また。火葬のあと、塩をかけて家に入る。続いて初七日と三七日の法要を行ない、精進料理を取る。香典返しは忌明け。
和歌山県
県内には互助組織があり、葬儀は世話役が中心に行なう。葬儀は友引の他、三隣亡の日も避ける。喪家には「忌」と記した提灯を門口に立てる。葬儀のあと出棺、この時門口で茶碗を割るのが一般的である。また門火をたくこともある。火葬のあと塩をかけたり、塩を踏んで家に入る。初七日の法要のあと、「精進上げ」という料理を取る。香典返しは忌明け。
鳥取県
郡部は自宅葬であるが、市内は寺院葬である。葬儀は近隣組織が喪家を手伝う習慣がある。鳥取市を中心にした地方では枕飾りに、枕だんごを「送りだんご」とよび、4個の団子を供える。納棺は出棺間際で、それまでは北枕のままにしておく。通夜は「伽」とよぶ。県下では半分が火葬後葬儀を行なう。米子市も葬儀前に火葬を行ない、午後から葬儀が行なわれる。火葬のあと、塩をかけたり、塩を踏んで家に入る。七七日の法要のあと墓地に埋葬に行き、そのあと「精進上げ」という料理を取る。香典返しは忌明け。
島根県
全体に自宅での通夜・葬儀が多いが、松江市では寺院での葬儀が多い。通夜を「夜伽」といい、その時間は決まっていない。そのため、弔問客は適時喪家に訪れて焼香する。さて松江市、出雲市では葬儀の前に遺体を火葬にする。葬儀のあと、引き続き初七日の法要を行なうか、墓地に埋葬に行く。そのあと「しまい」という精進料理を取る。香典返しは当日。
岡山県
岡山県では友引は火葬場が休みのため、葬儀が行なわれない。通夜は「伽」という。葬儀が終わると出立ちの膳が回され、故人との食い別れのあと、棺に花を入れて出棺となる。門口で茶碗を割る習慣がある。火葬のあと、玄関先に用意された塩をかけて家に入る。還骨法要のあと、「仕上げ」という精進料理を取る。香典返しは当日行なうことが多くなっている。
広島県
広島県は浄土真宗の檀家の多い地区である。葬儀のあと、備後地方では門口で茶碗を割り、米をまく習慣があるが、浄土真宗の多い安芸地方では行なわない。郡部では庭で棺を3回まわす習慣がある。火葬のあと、玄関先で塩をかけて家に入る。初七日の法要のあと、「お齋」という精進料理を取る。
山口県
通夜・葬儀とも7割以上が自宅で行なわれ、寺院葬が約2割。葬儀には近隣組織が中心となって行う。葬儀のあと、門口で故人の茶碗を割ったり送り火をたいたりする。仏壇のみで葬儀を行なう地域もある。家から霊柩車までのわずかな距離でも野辺の送りの様に葬列を組んで行く。火葬のあと、塩をかけて家に入る。初七日の法要のあとには、「まないたばらい」という精進料理を取る。香典返しは忌明けに行なわれる。
徳島県
通夜を「おつや」といい、近親者が「通夜見舞い」を持参して弔問する。葬儀のあと、出棺にさいし門口で故人の茶碗を割ったり送り火をたく。この時、鳩を飛ばす儀式も行なわれる。県南地方では、徐行した霊柩車のあとを葬列を組んで1区画歩く。火葬のあと、初七日の法要を行ない、「まないた直し」という精進料理を取る。香典返しは忌明けに行なわれる。
香川県
弘法大師の生誕の地で寺院が多い。喪家では神棚封じを行なうさいに白い紙の上に「忌」という字を書く。通夜の会場は高松市内では寺院で行ない、地方では自宅で通夜、寺院で葬儀を行なう。葬儀のあと、故人の茶碗を割ったり送り火をたく。また近親者の女性が髪に三角の紙を挟んで火葬場にいく風習が残されている。火葬のあと、初七日の法要を行ない、「なぬか」という精進料理を取る。香典返しは忌明けに行なわれる。
愛媛県
葬儀の準備は近隣の組織が葬儀を手伝う。葬儀のあと、門口で故人の茶碗を割ったり送り火をたく。火葬のあと、遺骨をそのまま墓地に行き、埋葬する。そのさい野道具も一緒に持っていく。帰宅後、初七日の法要を行ない、そのあと「弔いあげ」といって精進料理を取る。香典返しは忌明けに行なわれる。
高知県
高知市では寺院での葬儀が多く、葬儀社を中心に準備が進められる。また土葬が多く、その時には土葬用の棺が用いられる。葬儀の準備は近隣の組織が葬儀を手伝う。葬儀のあと、棺の上に羽織をかぶせ、その上に茶碗を乗せ、門口で故人の茶碗を割り、羽織を三回振るしきたりが残っている。火葬の場合、遺骨を全部拾い、野道具を一緒に持って墓地で埋葬する。帰宅したあと、初七日法要を行ない、「精進落ち」といって精進料理を取る。香典返しはその場返しが行なわれる。
福岡県
全般に自宅での葬儀が多いが、福岡市内では齋場で行なう率が高い。通夜には近親者が「夜伽見舞」に菓子を持参する。葬儀のあと、出棺にさいし門口で故人の茶碗を割り、棺を左に3回まわしたりするしきたりが残っている。火葬のあと、遺骨を携え、家に入る前に体を清め、そのあと初七日の法要を行ない、「精進上げ」といって精進料理を取る。香典返しは忌明けまでに行なわれる。
佐賀県
通夜・葬儀も自宅で行なわれる。枕飾りには枕団子を供えるが、それは49個だったり地域によって異なる。葬儀の前に身内だけで「出立ちの膳」を食べる。出棺にさいしては、門口で故人の茶碗を割り、棺を左に3回まわしたりするしきたりがある。火葬のあと、遺骨を携え、家に入る前に体を清め、そのあと「三日参り」の法要を行ない、「精進落ち」といって精進料理を取る。香典返しは忌明けまでに行なわれる。
長崎県
葬儀は通夜、告別式、火葬、三日参り、初七日の順で、初七日まで祭壇を飾る。通夜には「目覚まし」のために菓子を持参したが、最近では香典に代わった。葬儀のあと、出棺は、縁側から棺を出するしきたりがある。火葬のあと、遺骨を携え、家に入る前に塩で体を清め、そのあと「還骨勤行」を行ない、「あと祓い」といって精進料理を取る。香典返しは忌明けまでに行なわれる。
熊本県
人口の7割が浄土真宗で、友引でも葬儀を行なう。従って火葬場は無休である。葬儀は「葬式組」の人たちがし、通夜には近親者が酒や菓子を「夜伽見舞」として持参し、弔問客には握り飯などが振る舞われる。熊本市では、午前中に火葬にし、午後から齋場などで葬儀が行なわれるケースが多い。出棺には、門口で故人の茶碗を割り、棺を3回まわしたりする地域がある。火葬のあと、「還骨法要」を行ない、葬儀を手伝った人をねぎらう精進料理を取る。香典返しは忌明けまでに行なわれる。
大分県
通夜は「淋し見舞」、通夜ぶるまいを「別れの膳」などといい、近親者で故人を偲ぶ。一部の地域では葬儀前に火葬をするところもある。出棺にさいしては、会葬者にだんごを配る。門口で故人の茶碗を割り、棺を3回回したりする地域がある。火葬のあと、遺骨を携え、家に入る前に塩で体を清め、そのあと「初七日法要」を行ない、精進料理を取る。香典返しは忌明けまでに行なわれる。
宮崎県
宮崎市では通夜・葬儀とも齋場で行なう所が多くなっている。葬儀の後、出棺にさいしては、門口で故人の茶碗を割る習慣がある。火葬のあと、「初七日法要」を行ない、精進料理を取る。日向市では火葬場から帰った後、神職によって祓いをうけることもある。
鹿児島県
齋場での葬儀が4割で、6割が自宅葬である。自宅で行なう場合、葬儀の後、出棺にさいしては、縁側から出すことが多く、棺のあった座敷をほうきではく習慣がある。火葬のあと、そのまま墓地に行き埋葬する。そのあと「七七日」までの法要を行ない、精進料理を取る。種子島では火葬のあと、通夜、葬儀である。
沖縄県
喪家では葬儀の前に墓を掃除し、入り口に納骨まで白の紙を貼る。納棺には膝を少し曲げるため、棺は短くて、深い物が使用される。通夜には近隣の人が集まる。那覇市を中心とする多くの地域では、火葬の後、遺骨を安置して葬儀を行なう。納骨は葬儀の当日に行なわれ、そのあと精進落としをする。夏は通夜を行なわず、すぐに火葬をする。 
死の予兆 / 病人の家の付近で烏の鳴き声がすると死が近づくという。烏は死臭を早く感じると信じているからである。 
枕直し / 病人の臨終が近くなると、井戸水を湯のみに入れてガーゼに浸し、身近な者から順に病人の唇を水でしめし、末期の水を飲ませた。息を引き取ると、「魂呼び」といって死者の枕元で大声で死者の名を呼んだり、外に出て叫んだ。 
死者は静かに納戸に移し、北枕西向きに寝かせる。死者の顔を白い布で覆い、死者の訪問着を蒲団の上に逆さにして着せかける。魔除けのために刃物を身近に置く。枕元に小机を置いて一本花・一本線香・一本ろうそくを供える。屏風を逆さに立てる。神棚には白紙を貼る。 
枕飯 / 生前使っていたお茶碗一杯の米を炊き、一粒も残さず山盛り飯にして箸を一本立てる。枕飯は死者が善光寺に参る弁当だというが、生死の境にある人の霊魂を現世に引きもどそうとしたものであろう。 
講組 / 葬儀の準備から終わるまで分担して執り行う葬儀組を「講組」という。講組は十数戸のカクラが三組をカクラウチといった。死者がでると組長に知らせる。組長から知らせを受けた全戸がお悔やみに来て、葬家と相談して分担を決めて準備にかかる。分担は次のとおりである。 
親族知らせ・買い物・葬具作り・イケ掻き(墓穴掘り)・寺迎え・受付おときの挨拶・葬列など、女は葬家をはじめカクラの人の食事、会葬者の接待、並びにおときの膳ごしらえ、後始末まで行う。葬家親族は一切手を出さない。 
親族知らせでは食事が出されるが、食事は必ず食べることが習わしである。買い物は賄いや葬式に関するものである(川辺)。葬具作りは習慣に従って長老の指示を受けて作る。紙華花・灯篭(提灯)・線香立て・ろうそく立て・天蓋・弔旗・竜・松明・卒塔婆などを作る。竜は竹で竜頭を作りビワの葉を挿して角を作る。竹を胴体にして紙を貼り、うろこを描いて蛇腹に旗をつけた。 
宗派により地域によって異なるが、真宗門徒では葬具作りはしない。七日参りは寺にて経を受けて帰り墓地に参る習しである。卒塔婆は使っていない。 
夜伽 / 近親者と講組の人が夜伽をする。講組の人には肴・酒・茶菓子を出し、夜になれば帰ってもらう。近親者は線香・ろうそくの灯を消えないように気を使う。 
湯潅 / 深夜に親類が揃ってから湯潅をした。近親者は着物を裏返しに着て縄帯を一重に縦結びし、煮しめを肴に湯潅酒を飲んだ。冷酒か焼酎を頭に吹きかけて死者を起こした。たらいの水に湯を注いでぬるめ、左柄杓で左返しにかけた。身体を吹き清め、頭髪を逆剃りにしてオコゾリをした。毛髪は紙に受けて棺に納めた。使った湯は部屋の床下に流した。湯潅が終わると、バッチョロ笠をかぶり、魔除けの鎌を腰に差して裸足でござ焼きに行った。焼き場は地区ごとに定まっている。湯潅に使った道具は一週間は使わなかった。 
納棺 / 死者の頭に三角巾を結び、白無垢の装束を着せる。一反の晒木綿から白無垢・甲掛・脚絆・足袋を作る。棺に座布団を敷いて死者を座らせて首に頭陀袋を掛けた。袋の中には六文銭の代わりに紙で作った銭四九枚と、生前に愛好した品を入れる。合掌した両手の拇指に数珠を掛ける。葬式は友引を避けたが、友引の日にしなければならない時は藁人形を棺の中に入れた。棺の正面に六字の名号(南無阿弥陀仏)を貼り、蓋の上に上等の着物と刃物を置いた。 
内葬式 / 仏壇の前に四つ折りにした莚を敷き、積んだ米俵の上にモリ(担き)棒に使う竹を二本を並べて棺を安置し、天蓋で覆う。敷米の数は家ごとに異なり大家ほど多かった。現在は敷米料となっている。枕飯・団子・生花・造花・灯明・線香が供えられ、生前の肖像(写真)に黒リボンをかけ棺の前に置く。 
死者の仏門に入る式が行われ法名が授けられる。導師が位牌を供え、死者に引導を渡す読経が行われる。導師焼香・弔辞、近親者・会葬者の順に焼香する。安牌の経を読み、葬儀の終了を祖霊に報告する。 
外葬式 / 内葬式が終われば、内葬式と同じように坪に四つ折りにした莚を敷き、敷米俵を積んで西向きに棺を安置し、供物や飾りを前に置いた。左側に親族、右側に会葬者が位置した。導師が引導の読経をして式が進められた。現在は内葬式が外葬式を兼ねている。 
出棺 / 棺は二本のモリ棒を穴に通して四人で担いだ。つぼで三回左回りをし、出棺時に門口で火を焚いた。葬列の順序は、松名・灯篭・紙華花・棺・野位牌・枕飯・天蓋・線香立て・ろうそく立てで、会葬者がその後に続いた。 
埋葬 / 松明を回して墓穴を清め、イケ掻きの合図で棺を降ろして西向きに安置し、四つ折りにした莚をかぶせた。葬式の際には莚を四つ折りにするので、平常は四つ折りにした莚には座らない。近親者に三鍬ずつ土をかけて鍬を手渡した。近親者が済めばイケ掻きに任せて帰るが、帰途は後方を振り向いてはいけない。塩水で手を洗って家に帰る。 
イケ掻きは中心にモリ棒を立てて土を盛り、左回りに盛り土をきれいにした。最後にモリ棒を抜いて枕石を置いた。枕石は予め川石を選ぶが、一度選んだものは取り替えてはならないので、足で手ごろなものを探して気に入れば手を触れた。塚の前に一対の花筒・線香立て・ろうそく立て・紙華花・枕飯を供えた。 
法事 / 葬式の翌日近親者数名がお寺への礼参をし、敷米は牛にウセ(駄載し)て行ったが、敷米料になった。寺ではご本堂で読経の後にお斎に直る。喪家はお布施・米・酒を持参する。 
逮夜は、六日目で寺から僧が来てお経をあげる。夜は講組の人と親族が集まって念仏を唱える。「淋しい見舞い」に参る。膳部をつくり会食をする。中陰の期間中は神社、他墓地に参らない。神社の祭典のあるときは不浄払いをして参詣する。 
四十九日までは毎日墓に参り、七日ごとに寺参りをするが、親族で身近いに決めた参り日と名前を書いて渡す。浄土宗の家では卒塔婆を七枚用意して、七日ごとに寺で読経してもらい法名を記した卒塔婆を一枚ずつ持って墓に参る。 
四十九日の忌み明けには四九の餅を寺に持って参る。寺から僧侶が読経に来る。満中陰の供養のため親族・知己の招宴をする。会席膳は仏事のおとき、本膳と二の膳にする。七七日の御礼返しをする。 
この日にショウバケといって、死者の形見分けを近親者に分配する。精進上げは四十九日にする。七十七日が三か月にかかるときは三十五日に取り越してする。現今は葬式の翌日にしたり、初七日にする所が多くなった。 
年忌は、一周忌をムカワレという。一、七、一三、一七、二五、三三、五〇年忌がある。年忌ごとに僧を招いて法事をし、衣替えとして木綿一反を寺に納める。五〇年忌を終えると無縁仏になる。 
墓地 / 墓地は山野や畑地の丘にあり、家ごとに墓域をもったり分家が本家の墓域を使ったりしている。近在の石材を使った角石塔形墓標が多いが、自然石のままのものもある。墓は一人の死者に一基の墓制である。夫婦墓は江戸時代には角石塔一本に夫婦連名であるが、明治期以降は石塔は別になって、夫は左、妻は右に並べている。墓標の並ぶ場所によって世代を知ることができる。 
凶事があれば墓相見にうかがいをたて、正しい埋葬の方位や敷地などを占う迷信はなお残っている。死者の供養は盆・彼岸にする。 
自殺者・戦死者・大火災・水死者・客死者などは凶死と考えられ、その霊魂は遊鬼となって放浪し、種々のいたずらをしたり、疫病をはやらせたりすると信じられている。カクラ墓地所有者で、無縁供養のため墓標の前に花・線香・ろうそく・松明を供えたり、供養踊りをすることもある。
お彼岸 
「彼岸」とは「かなたの岸」と言う意味であるが、「かなたの岸」とは理想の世界、仏の世界のことである。我々の住む世界(此岸/この世)が迷いの世界であるのに対して、生死の海(輪廻の世界)を越えたさとりの世界をさして言う。世界を境地と言い換えても良い。理想の境地。仏の境地。 
いわゆる「お彼岸」の習俗は日本のみに行われて、春分秋分に祖先の霊を祭るようになった。インドでは行われていなかったし、シナでも行われていなかったらしい。在俗信者は寺院に参詣・墓参し、僧侶に読経・法話を行ってもらい仏事を行ずる。この法会を「彼岸会」というが、「彼岸に到る法会」の意味である。即ち春分秋分の前後三日の七日間を期して行う法会を言う。お盆(盂蘭盆会)と共に最も民衆化された、生活の中にとけこんだ仏教行事である。日常の生活を反省して仏道精進する、良き機縁であるとされる。本邦に於て古来行われた行事であり、その起源は古く、聖徳太子の頃とも言われている。 
古典を散見すると、大同(上記は802年)以来既に広く行われていたのである。 
春分秋分の二季に於いて特に仏事をなし、これを「彼岸会」と称することは、恐らく「観無量寿経(観経)」日想観の説に基づくものである。 
例えば、善導(唐代中国浄土教の大成者)は「観経疏」の定善義に日想観を釈し春分秋分には、太陽が真東より出て真西に没するから、その日没の処を観じて即ち阿弥陀仏の国(極楽・安楽国)の所在を知り、以って欣慕の心を起すべきことを説いたものである。 
又、阿弥陀仏の浄土を観ずることを彼岸会と名付けたことは、同じく「観経疏」の散善義に二河白道の譬喩に基き、西岸は即ち彼岸であるから、これを波羅蜜多の義に寄せて称すようになったのである。 
阿部清明の作と伝わる内傳第三二季彼岸事には春分秋分の前後七日間は昼夜平分にして、日は正しく東方薬師の眉間の白毫を離れて西方阿弥陀の八葉の蓮台に傾くものとする説で、西方浄土を彼岸と名付けたものであるという。 
古来大阪四天王寺等に於て、彼岸会に落日を拝す風習が行われたことも、この法会は「観経」日想観の説に起原を置くべきものであろう。
彼岸会  
彼岸会とは春分の日と秋分の日を中心に前後三日間、合計七日間にわたる仏教行事である。その間、人々は先祖の墓参りをし、寺で行われている説教を聞いて自分の極楽往生を願う。彼岸という言葉は、「彼岸にいたる」という意味のサンスクリット語パーラミターから出ているもので、悩み多い迷いの世界を此岸(しがん)に、悩みのなくなった悟りの世界を彼岸に喩え、この期間に此岸から彼岸に至ることを目指す。  
この行事は日本でのみ行われているもので、文永六年(1269)に日本に来た中国の大休禅師正念は「日本で春秋二季に彼岸会を勤めるのは実に羨ましいことである」と感想を述べている。いつごろから日本で彼岸会が行われるようになったかはっきりしないが、平安時代初期、大同元年(806)に行われた法要が起源であるとする説がある。これは『日本後紀』に「崇道天皇のために、全国の国分寺の僧に春秋二回、七日の間、金剛般若経を読ませた」とあるのを根拠とする。  
彼岸会が日本にだけみられることから、日本にもともとあった太陽崇拝が仏教行事化されたとする説もある。彼岸の七日間「日の伴(ひのとも)」や「日迎え日送り」をする行事が残っている。朝は東の方のお宮やお寺、日中は南の方の、夕方は西の方のお寺やお宮に参るのである。これによって農耕の安全を祈るとともに、これを節日として祖先の霊をまつるところから墓参りや念仏に結びやすかったのであろうと考えられる。  
大阪の四天王寺では彼岸に西門に集まり、難波の海に沈む夕日を見て極楽浄土に生まれることを願う信仰がある。西門の額に聖徳太子の自筆と伝えられる「釈迦如来 転法輪処 当極楽東門中心」の文字があることから、海を隔てて四天王寺と西方の極楽浄土が向き合っている、つまり四天王寺の西門は極楽浄土の東門にあたる、というのである。春分と秋分の日に太陽は真東から出て真西に沈むので、その真西に沈む夕日は阿弥陀仏の後光であると見て来迎を拝みたいと望むのである。 
節分 
節分と聞くと、2月3日(立春の前日)の豆まきのことを思いますが、元来「節分」とは、読んで字のごとく、季節の分かれ目をあらわす言葉で、立春、立夏、立秋、立冬(の前日)の年4回ありました。 
「鬼は外、福は内」と声を上げながら豆をまく「豆まき」は厄除招福の行事です。宮中で大晦日に行なわれていた「追儺式(ついなしき)」という、災いを鬼にたとえ、悪鬼を追い払い、疫病を取り除く中国伝来の儀式に起源を発するといわれています。また、豆に災いをこめ、街角に捨てるという風習に起源があるという説もあります。「豆」は「魔滅」のことともいわれています。いずれにせよこれらの風習が合わさり、立春を新しい年(季節、春)の始まりであると考え、その前日に一年の災い、厄を取り除き、新しい年の幸福を招く、「豆まき式」になったと思われます。 
豆まきは本来自宅で行なわれるもので、家中の窓を開け放ち「鬼は外、福は内」と豆をまきながら、一家の一年の幸福を願います。地方によっては、「鬼は外」だけを連呼する場合や「鬼は内、福は内」という場合、「福は内」のみをいう場合があります。また、まかれた豆を年の数だけ食べると一年間健康に暮らせるといわれる伝承もあります。 
真言宗の寺院では、この時にあわせ、厄除追儺の護摩をたくところや、「星供」という除災招福のために、各人の生年月日にあわせた当たり星を供養する行事が行なわれます。 
「星供」とは、「星まつり」ともいわれ、人それぞれの生年による本命星、生月による本命宮、生日による本命宿、本命曜を定め、それとその人の一生の運命を支配するとされる九曜を配した、当年属星をあわせ供養する、厄除開運の行事。インド起源。 
地方の葬送 2 / 山形曹洞宗

 

団子  
A 13個、或は奇数ということであったが、一定していない。13個の数は13仏からきた数であろうか?13仏は葬儀の時には掛けず、灰寄せ供養の時に、13仏に13のお仏飯を供えるのは団子とは異なる。 尚、葬儀の団子のうち6つをすこしつぶして上げるというのは「死人のズダ袋の中には白だんご6つ、一文銭6つを入れる」という風習からきたのであろうか。すなわち、死者が六地蔵に団子を上げたり、六文銭は六道銭、俗に三途の川の渡し賃とも言われる。又、各地の伝承でも四個のところがあったり、四四の16個(四と死の相通から)という地域もあり、一定でないのは「霊供と饗供」が混同しているからである。  
Q 粉をつけるか、つけないかの区別。  
A 枕団子と葬儀の時にはつけない。(出棺後の供養でつける)。  
Q 紙の敷き方、折り方、方向。  
A 半紙の対角を3センチ位ずらして折る。折り目の方を仏側にする。  
Q 団子を供える時間。  
A 枕団子は死亡後直ちに供える、葬儀には当日の朝新たに作る。  
Q お墓に持っていくのはいつか?  
A 出棺後に火葬場に持っていき、火葬後にお墓に持っていく。  
Q 新しい団子はいつあげるのか?  
A 灰寄せ供養の準備の時に上げる。  
仏前椀について  
Q いつ供えるのか?  
A 供養が始まる前に準備する。  
Q 供えてはいけない食物は?  
A 肉、魚、匂いのする物(ニラ、ニンニク、タマネギ等)。  
枕飯について  
Q 枕飯をあげる時間?  
A 葬儀の当日朝、外で炊き葬儀前に上げる。  
Q 形?  
A 高盛飯(てんこもり)。  
Q 箸の置き方?  
A 生前使用の箸で+字に挿す。飾りが無ければ2本を挿す事もある。  
Q 枕経をあげに来られた(住職)に出すものとは?  
A お茶とお茶菓子程度。(入棺、通夜には食事の準備が必要)  
十三仏(掛軸)について  
Q 十三仏とはなにかなぜかけるのか?  
A 初七日より33回忌迄の法事の守り仏様です。  
Q いつ使うのか?  
A 灰寄せ、初七日供養の時から掛ける。  
七日七日の法要を省略して行う場合がありますが、亡くなった方えの影響はないのでしょうか?  
A 省略してはいけない。通常葬儀に引き続き灰寄せ、初七日、35日の供養をするのは対外的な予修供養です。35日の時には49日予修の忌上げ法要も同様です。しかし、予修供養が行われていても初七日より49日の7日7日には、親族は寺参りとお墓参りは当然すべきであります。  
告別式当日に持参する」もち」についての説明。  
A 葬式の日に一升の粳米で餅を作り、四つ餅を作り残りで49の餅を作るという習俗、いわゆる「ひっぱり餅」「数の餅」ほかいろいろな「霊供と饗供」があるようですが、最上地方では告別式当日に持参する」もち」の風習は聞いておりません。  
葬儀の際神棚に白い紙を貼るのはなぜか?  
A 神は不浄(忌み)を嫌われるから。(死は黒不浄といわれる)  
Q いつまで貼っておくのか?  
A 49日迄。一般的には忌上げ法要(35日)まで。  
Q 古い仏壇は開けておくのか、閉めるのか。それはなぜか?  
A ご先祖様におまいりできるよう開けておくべきです。会場の都合であれば仕方がないでしょう。  
同時に金蓮、銀蓮、白蓮3つ飾る場合、置く場所について  
A 小さい白蓮は机の上、金蓮、銀蓮に限らず奥には背の高いもので手前が低くなるように配置する。  
Q いつまで飾っておくのか?  
A 忌上げ法要(35日)まで。  
Q 3種のうちどこまでが最小限度に飾らなければいけないのか。  
A 最小限度は白蓮、一般的には金蓮も飾る。銀蓮は最近の風習です。  
納棺について  
Q 入棺の順序女性と男性の違い / 入棺の仕方  
A 逆さ水(水に湯を加える)で遺体を清め、男性は髭を剃る。女性には入棺の前に身体を洗い清め、清新な衣服を着け、化粧をほどこすほうがいい。  
Q 入棺の時用意する物?  
A 浄衣(経帷子)を着せ、頭には三角状の布帽をつけ、手足には手甲脚半と白足袋、わらぞうりを履かせる。手には数珠をにぎらせ、首にズダ袋をかける。  
Q 入棺の際、葬儀屋は立ち会うべきか?  
A 入棺は親族ですべきもの。しかし依頼されればこの限りではない。  
Q スペ−ス上、北向きに頭が向かない場合はどちら向きが適当か。  
A 西向き(西方極楽浄土のいわれ)?  
Q 入棺の際に棺の中に入れる付属品について。  
A 頭陀袋(昔のバッグ)、米、金剛杖、いわゆる死出の旅路の支度。  
Q 六文銭、米を入れる時間と理由?  
A 出棺の時に入れる。六文銭は三途の河の渡し賃、六道銭とも言われる。  
Q 狭い場所に祭壇を飾る時に仏壇が幕に隠れてしまうことがあるがいいのでしょうか?。  
A いいとはいえない。ことに歎仏供養がある時にはお寺の意向を聞く。  
Q 喪主のおゆずりの使い道、着せる時期?  
A 葬儀の始まる時に喪主の両肩に掛ける。  
Q おゆずりとは?  
A 昔の喪服(裃)は白であったことに由来しているようです。  
Q 死人に化粧するのはなぜなのでしょうか?特に女性。  
A 当然の身だしなみと親族の心配りです。  
跡払いについて  
Q どの場所に貼るか?  
A 出棺した場所の外側、柱などに糊で貼る(水で貼ることもある)。  
Q いつ貼るのか?  
A 出棺した後、座敷を掃き清めてから貼る。  
Q 理由?  
A 清めの意味と亡き仏の迷い除けの意味。  
火葬場へ行く時の、葬列持ち物について  
Q 持参するもの?  
A ちょうちん、お位牌、遺骨箱、四華花、白蓮、生花、1本花、焼香箱灯籠、松明、ロ-ソク、線香、枕飯、団子、供え物、火葬許可書(火葬中、待っている間の飲み物、茶菓子など)。  
Q 持参する品物の説明?  
A 四華花−お釈迦様が涅槃に入られる時に沙羅双樹が白色に変じたという沙羅双樹林になぞらえ、ひいては死者が涅槃に入る清浄の境界を象徴しています。  
A 白蓮−泥中にあって咲く蓮華は仏の教えの象徴でもあり、清浄の境界を象徴するものでもあります。  
A 一本花−お釈迦様が入滅される時に、お釈迦様の十大弟子の一人(大迦葉)は遠く離れた処にいて、そこで一本の花を持った人に出会い、彼からお釈迦様の入滅をしらされ、この花は彼の処より得来たったものだと語られた事によります。又、入滅の時、沙羅双樹の長い枝が垂れ下がった因縁から来ているともいわれます。  
A 松明−昔は導師がたいまつで点火し荼毘にふしましたが、現在は儀式のなかで使用します。  
A 枕飯−炊いただけ盛り切り(高盛飯)他の人には差し上げないというしるしに箸を立てる古代縁切り法でもあります。  
A 団子−お釈迦さまが亡くなられる時、弟子たちが消化の良い団子状にしてさしあげられたが、召し上がらないで枕もとに残りました。それを型どってのお供えです。  
Q 密葬との違いはありますか?  
A 葬儀の前の火葬を密葬ととらえている向きもありますが、本来密葬とは後日、本葬儀(告別式)を行う場合に、まずは親族のみで葬式をする事を言う。また葬式と告別式の意味の違いは、葬式は故人の信仰する宗派の葬儀式の事であり、告別式とは葬式であると共に、故人の生前の職業や人柄を偲ばせる(芸能人の音楽葬などの告別式)の別れの式です。したがって普通葬儀の場合「告別式を執り行います」ではなく「葬儀」或は「葬儀、並びに告別式」というのが正しい。  
告別式の際に持つ品物の種類、及びその役割、持つ人の順番は誰にするのか?  
A 喪主が位牌を持つ。遺骨、写真等は近親者で相談し依頼する。  
Q 白木位牌2枚の葬儀後の扱い?  
A 「新帰元」と書かれてある位牌は火葬場からお墓に持っていきます。もう一つは灰寄せ供養から49日までの位牌。忌上げ法事の時に黒塗りの新しい位牌に精入れ(魂入れ)をしてもらいます。  
Q 焼香する時の手順、抹香の量と回数?  
A 大きな葬儀では、喪主そして家族の焼香、葬儀委員長、市長、町長、勤務先の社長等の後、近親者を司会が案内する。一般者は備えの焼香箱。普通の葬式は廻し焼香であるが、お寺さんと確認しておく。  
A 焼香の仕方は、左手にて数珠を持ち手を合わせてから右手で香をつまみ額のところに頂いて香炉にたき、更に一回つまんで今度は額に頂かないでそのまま香炉にたくのが正しい作法とされていますが、葬儀のように沢山の方が焼香されるときには一回で済ませるのがよいでしょう。  
信士と居士の違い?  
A 信士は信仰心の篤い男の人という意味。居士は信仰心も篤く寺に功労もあり社会的にも貢献のあった人。  
ミニ段(後飾り段)の飾り方?  
A 段の上部中央に13仏を掛け、上段中央に位牌と塔婆、位牌下に写真、上段右に13仏の仏飯、写真の両側か片側に団子。他供物などは適当に配置する。  
霊柩車で棺を納めてから合掌して言う言葉  
A 特に決まっておりません、冥福を念じ合掌して下さい  
分骨はやっていいものか?  
A 本山に特に分骨希望する場合などでなければ必要ないでしょう。山寺などに伴侶がすでに分骨されている場合は仕方ないと思います。  
分骨をする場合歯骨箱を使っていいのか?  
A 分骨箱にはのどぼとけ、と頭頂骨、歯骨を入れます。当寺では35日の忌上げ法事後、分骨を納骨する場合が多いようです。分骨と納骨は寺と地域により差異があります。  
供花について(マルキ花)  
Q 飾っていけない花はありますか。たとえばバラとか・・・?  
A 一般的には、トゲや毒のある花は使いません。  
Q たむけの花の意味からして、花の正面はどちらに向けるのか?  
A 供花の正面は拝む側に向けますが、マルキ花というのは・・・?  
Q 当社の花の品質、量について満足していただいているでしょうか。  
A とくに悪い評判はありませんので満足していると思います。  
白ロ−ソクと花ロ−ソクの違い?  
A 葬儀の時には赤ロ−ソクでなければ白ロ−ソクか花ロ−ソクで問題ありません。仏式での赤ロ−ソクは一般的にはご祝儀用になります。  
白木の木魚と塗の木魚との違い?  
A 白木木魚は高価なものに多いようですが、塗りは駄目と言うものでもありません。購入は好みの問題です。  
喪主を決める際、一番に決める時の基準  
A 都会では伴侶が喪主という報道が多いようですが、当地では跡継ぎが喪主をつとめます。しかし、跡継ぎが子供の場合とか、やむを得ない場合には親族で協議して決めることがのぞましいでしょう。  
名札のとき、供花、献花どちらが適当か?  
A 献花がいいのでは・・  
のし袋の表書きについての区別  
Q 御霊前・御仏前・御悔み・また灰寄せの場合の表書きは?  
A 御霊前は宗派を問わず使える。一般的には入棺、通夜に御悔か御霊前、葬儀には御香典か、御仏前。灰寄せには御仏前と書いた肩書きに灰寄供養と書けば良い。  
数珠の選び方宗派との違いと持ち方  
A 浄土宗と日蓮宗が特殊ですが、他はほとんど違いがありません。持ち方は左手親指と人差し指の間に掛けて合掌します。  
線香の立て方、本数の決まりは?  
A 線香の本数は普通一本でいいのですが、2本或は3本上げても結構です何本でなければならないというキマリはありません。曹洞宗での正式な上げ方は左と右に2本(迎え線香)を上げ、中央に上げる1本は両手で念じてから上げます。また、地域の習慣として葬儀の前には1本、葬儀の後は2本という伝承はあります。ちなみに私は寺院の各仏様には毎朝1本づつ上げ、葬儀と法事には3本上げています。  
鉦吾、カネ、木魚の置く位置は決まっているのか?  
A 左にカネ、中央に鉦吾、右に木魚です。  
なぜ戒名が必要なのですか?  
A お血脈、戒名というと、人が亡くなった時に持たせてあげるだけのものと考えている方があるようですが、これは大変な間違いです。お血脈は本来死んでから必要なものではなく、み仏の子としての正しい生活、み仏の戒律を心として精進致しますという授戒の証としていただくものであります。修証義には「衆生仏戒を受くればすなわち諸仏の位に入る」と示されておりますが、授戒とは私どもが守るべき心のいましめ(戒法)を授けて戴き、仏教徒として自覚ある日暮らしをする事であります。それがとかく死にみやげというようにとられる一般の傾向があるのですが、認識を改めていただきたいものです。 
 
日本のお葬式

 

縄文時代(紀元前10000年〜紀元前800年前) 
縄文時代 には、素掘の穴に遺体を埋めるのが普通だったようです。また、住居の近くにまとめて掘られた穴に、土を盛って石を並べたり、川原石で棺を形作ってその中に遺体を入れたり、木棺に入れることも合ったようです。 
縄文時代も後期になると、遺体を樹皮でくるんだり、装身具を身につけたりした例もあるようです。 
弥生時代(紀元前800前〜紀元後200年) 
弥生時代を通じて素掘りの穴に遺体を入れる「土こう墓」が一般的でした。しかしどの程度の広がりを持っていたかは不明ですが、弥生時代はじめに朝鮮半島から伝えられた支石墓(直径1〜2メートルの板状の石を小さな石で支えて持ち上げた墓)が、弥生時代前期末には甕棺(やきものの甕)が使われるようになります。垂直に掘って穴に甕を入れて石などでふたをするなどのやり方が多かったようです。 
また、関西では箱型の木棺が多く、関東ではいったん埋葬した遺体を壷に入れなおす再葬墓が行われるなど、さまざまな葬制が発達したようです。 
古墳時代(紀元後200年〜紀元後700年) 
古墳時代には、溝が掘られ、盛り土がある墓(方形周溝墓)が登場します。墓地は数基から数十基の規模の物が多いのですが、滋賀県の服部遺跡のように数百もの方形周溝墓が並んでいるところもあります。 
この方形周溝墓はやがて前方後円墳に発展し、全国的な広がりを見せます。 
古墳時代の後期には、中央集権化が進み、地方の権力者が弱低下し、古墳が小型化し小型古墳や横穴式の墓が多く作られるようになりました。 
歴史時代(文字で書かれた歴史がある時代) 
大和政権が全国を掌握し、安定してくるとともに、権力者の葬儀は大掛かりになってきます。もちろん権力者の場合ですが、殯宮(もがりのみや)をつくり、近親者がそこで喪に服し遊女が鎮魂のための儀式を行ったとされています。この殯宮での通夜は今でも(昭和天皇の死去の際にも)行われているようです。 
他方、一般人については、魏志倭人伝に「その死するや棺有れども槨(木の囲い)無く、土を封じてツカを作る。始めて死するや、停喪(喪に服す)すること十余日なり。時に当たりて肉を食わず。喪主哭泣し、他人就いて歌舞し飲酒す。已に葬るや、家をあげて水中にいたりてソウ浴し、以て練沐の如くす。」と書かれています。 
(死ぬと棺に納めるが、槨(棺を覆う施設)は作らず、土を盛り上げて冢(チョウ)をつくる。死んだとき、さしあたって十余日は喪に服し、その間は肉を食べず、喪主は声をあげて泣き、他人はその周りで歌舞・飲食する。 
埋葬すると、一家をあげて、水中でみそぎをし、中国で一周忌に練絹(ネリギヌ)を着て沐浴するのとおなじようにする。) 
今でも田舎に行けば、葬式には三日間は飲み食い自由というところがあるとおもいます。一昔前まではそれが当たり前でした。こういう習慣は、廃れず続くものだと感心させられます。 
大化の改新=薄葬令 
西暦645年、律令国家を目指して、大化の改新の詔が発せられます。同じ年に薄葬の詔が出されました。殯を禁じ、身分によって細かく墓の大きさを定め、殉死や副葬品を禁止しました。詔は、大規模な葬儀を「おろかな人が行うことであり、民の貧しいことはもっぱら権力者が大きな墓を作ることによっている」と書いています。 
この薄葬令をもって、古墳時代は終わります。 
大化の改新=埋葬場所の定め 
同じ詔には、「汚らわしく処処に埋葬せず、一所に埋葬せよ」として、墓地を定めました。これは、後(701年)の大宝律令の喪葬令においても、「皇都とその道路の側に埋葬してはならない」と定められました。これは、おそらく死体の遺棄に近いことがされていたことを物語るのではないかと思われます。 
火葬 
7世紀になると仏教の影響を受けて、火葬が行われるようになります。日本における最初の火葬は、西暦700年(8世紀初頭)、法相宗の祖・道昭だったと伝えられています。(しかし実は、7世紀はじめの遺跡から火葬の跡が発掘されています。) 
703年持統天皇が遺言によって火葬されます。その後、文武天皇、元明天皇、元正天皇と火葬が続きますが、その後天皇家の火葬は途絶え、840年淳和上皇から再び火葬が始まります。 
淳和上皇は、「魂は天に昇っているのに亡骸が墓にあって、これに妖怪が住み着いて悪事を働くといけないから、火葬後骨を砕いて山の中に撒き散らせ」と遺言し、大原野西山に散骨されました。嵯峨上皇も、薄葬を実行するために、細かな遺言をしたそうです。 
化野 / 空海 
811年真言宗の開祖空海(=弘法大師)は、京都の街に打ち捨てられ野ざらしになっていた遺体を、化野(あだしの・京都市嵯峨野)に埋葬(置いただけか?)したと伝えられています。以来化野と鳥辺野(とりべの)が、京都における庶民の墓地となります。 
「往生要集」 
このころ、この世の末かと思わせる飢饉や疫病の流行にのって、末法思想が広がります。人々は救いを求めて極楽浄土を夢見ます。そこに、惠心僧都源信が現れ、極楽浄土へ行くための方法を説きます。それは具体的な例を引きながらの説法で、源信の地獄や極楽という思想は多くの人々に広まりました。源信はとことん人間を穢れたものととらえ、「南無阿弥陀仏」を念じて救いを求めるよう説きます。 
また、源信が「往生要集」に書いた臨終の作法は、後々まで葬儀に影響を与えます。今日の葬儀の作法の多くが源信に始まったといわれています。 
仏教による庶民の供養 / 僧・隆暁 
1181年、西日本を養和の大飢饉が襲います。鴨長明は代表作「方丈記」に、「道のほとりに、飢え死ぬもののたぐひ、数も知らず(4万余-長明)。・・・くさき香に満ち満ちて、変わり行くありさま目も当てられぬ・・・。河原などには馬車など行きかふ道だになし」と書いています。まさに地獄のようなありさまを、この文章は正確に伝えています。 
このとき、仁和寺の僧・隆暁が京都の町をめぐって死者を弔いました。そのことに鴨長明はよほど感動したのでしょう。方丈記には「隆暁法印という人、・・・数も知らず死ぬることを悲しみて、その首のみゆるごとに、額に、阿の字を書きて、縁を結ばしむる」と書いています。 
「阿」は、100を超える仏教上の意義を与えられ、万物の根源であり不滅であることを意味するそうです。「縁」とは死者と仏の縁を意味します。僧・隆暁は、まことに名も無き死者を供養するという、宗教者らしい志を体現した人でした。僧・隆暁は、京の町で2ヶ月間この行為に没頭し続けたそうです。 
仏教の流行・鎌倉時代 
鎌倉時代には、庶民のための仏教が隆盛を誇ります。法然の浄土宗、、その浄土宗を発展させた親鸞の浄土真宗、一遍の時宗、日蓮による日蓮宗などが開かれました。いずれも庶民の救済を掲げました。 
浄土宗は「誰でも念仏を唱えれば極楽浄土にいくことができる」、時宗も「誰もが1度の念仏で仏になることができる」と説き、特別な修行や寄進が無くても、成仏できるという考え方は多くの民衆に受け入れられるところとなりました。また、日蓮も法華経尾を通じて民衆救済を行おうとします。 
浄土真宗の開祖は親鸞ですが、さらにそれを継ぐ偉大な布教者が生まれます。1415年に大谷本願寺の8代目として生まれた蓮如がその人です。蓮如は、浄土宗の開祖親鸞の「善人なおもて往生を遂ぐ。いわんや悪人をや」(歎異抄)という言葉の思想こそが、すべての民衆を救済すると考て、その教えを広め、それが民衆の間に受け入れられます。 
また、鎌倉時代には宋から禅宗(臨済宗や曹洞宗)が中国(宋)から伝えられます。禅宗は位牌を日本に持ち込みました。もともと仏教には位牌はありませんでした。禅宗は儒教の葬儀に使われていましたが、日本にこれが伝えられると、武士の間に広がりました。 
江戸時代 / 儒葬 
江戸幕府ははじめ儒学を重用します。義や忠といった儒教思想に江戸幕府が目をつけ、封建支配の中心思想としたことは容易に理解できます。 
儒教では、人は死ねば、天に昇る魂=「魂」と地に降る肉体=「魄」に分かれる。と考えられていますから、土葬を禁じました。 
江戸時代 / 檀寺制度 
江戸幕府は、仏教寺院が軍事力を持って反乱を起こすのを避けるため、仏教寺院を民衆から引き離して、民衆を支配するための道具にしようとします。そのために作った制度が、「本山末寺制度」と「寺請け制度」です。 
「本山末寺制度」は、各宗派の本山を定めてその他を末寺として寺院の支配体系を作り、それを通じて寺院制度全体を幕府が支配するという目的で作られました。寺の建立を制限したり僧侶の教育にも規則は及びました。 
また、幕府はキリシタンを排除するために「寺請け制度」を作りました。誰もがどこかの寺(檀那寺)に所属させ、寺は「宗旨人別帳」(戸籍)をつくり、それらの人々がキリシタンではないことを証明しました(寺請証文)。人々はこの寺請け証文が無ければ、旅行や結婚、引越しはては葬儀さえ出せなくなりました。やがて1637年に起こった天草・島原の乱をきっかけに、寺請け制度は強化されていきます。徹底したキリスト教徒弾圧制作(宗門改め)や隠れキリシタンのことははよく知られているところです。 
江戸時代 / 葬式仏教の完成 
寺請け制度が作られたころは、ふつう庶民は葬儀らしい葬儀をしませんでした。しかし、寺請け制度が強化されるにしたがって、寺院の葬儀に関する力が強化され、ついには檀寺の住職が葬儀を強要する事態となりました。寺院側は「宗門檀那請合之掟」を偽作し、葬儀への寺院の関与を強化しようとします。偽作とは知らない檀家は、「宗門檀那請合之掟」によって、人が死ぬと檀那寺がそれを検分し、キリシタンでないことを証明した後、戒名を授け葬儀を行うことがが義務付けられました(と思い込んでしまいました)。 
このときに定められた寺による葬儀は基本的には現代にまで引き継がれています。葬儀に際しては、引導を渡した寺への謝礼、湯かんや葬列を取り仕切った寺への謝礼、戒名代、通夜や法要の謝礼など寺院への支払いが必要となりました。 
これにより檀寺制度が完成し、葬儀のやり方と、その葬儀によって末寺は檀家から、本山は末寺から安定的な収入を得るというシステムが作り上げられました。これらはほころびを見せながらも今に至っています。 
また、この時代には葬儀にとって重要な書物が出されます。浄土宗の僧侶である感蓮社報譽が書いた「無縁慈悲集」がそれです。「無縁慈悲集」は「往生要集」と並んで日本の葬儀に大きな指針を与えました。「無縁慈悲集」は葬儀の細部にわたって事細かに、仏式葬儀の手引きをしています。 
明治維新 / 神葬祭と仏式葬儀 
維新政府は、神道の国教化をすすめ、反仏教政策を採ります。1868年神仏分離令は、神社から仏教色を排除しようとするものでしたが、いわゆる「廃仏毀釈運動」を引き起こし、全国的な寺院破壊につながっていきます。幕府による庇護の下権力をむさぼってきた寺に対する社会の反感がこれを支えました。1872年には神官が氏子の葬儀を行うことが認められ、神葬祭墓地も都内各地につくられました。 
1873年には神道国教化政策にのっとり、火葬禁止令が出されました。「火葬は仏教徒のもので、火葬は残虐のきわみである」というのが理由でした。しかし火葬禁止令は発令後2年後には取り消されます。墓地不足などの理由があったのでしょうが、明治政府の朝礼暮改振りがうかがえます。 
しかしこのころ出された(1874年)「墓地及埋葬取締規則」によって、墓地以外への埋葬が禁止され、日本の墓地や埋葬に関する習俗に大きく影響を与えていくこととなりました。 
一時は維新政府の保護の下、神葬祭が多くおこなわれるようになりましたが、それも1882年神官教導職分離令が出されたのを契機に、下火になりました。  
 
日本における火葬の始まり

 

日本における火葬は、文武天王4年(西暦700年)3月に僧道昭を荼毘に付したのが始まりであると、続日本紀の記録にある。大宝2年12月(703年1月)には、持統天皇が歴代の天皇としてははじめて火葬にされ、天皇の孫だった文武天皇、同じく孫の元正とその母元明の両女帝もまた火葬に付された。これ以後、天皇が火葬されるのは、後鳥羽上皇や北朝の各天皇など、一部の例をのぞけば、なされなかったのであるから、8世紀初頭のこの時代は、火葬が一種の文化現象だったことが、察せられるのである。 
道昭以前の、古代の日本人が全く火葬を行わなかったといえば、そうではないらしく、防人など行路の途に倒れた者などは、火葬されていたらしい。子どもの遺骸もまた、火葬されることが多かったようである。 
道昭は遣唐使に従って入唐し、玄奘三蔵に教えをうけた高僧である。帰国後は日本の各地を歩き、土木事業などを起こしている。その弟子の行基もまた、師の教えを受けて、日本各地を歩き回る一方、民衆に火葬を進めたといわれている。彼らが火葬の普及につとめたのは、仏教思想に基づくものだと思われるが、それが日本人の間でたいした抵抗もなく受け入れられたのは、日本人の抱く伝統的な霊魂観が、火葬というものに対して、中立的に働いたからだと思われるのである。 
古代の日本人にとって、霊魂というものは、身体とは別個の存在であった。人が生まれるということは、霊魂がある者の身体に宿るということであり、人が死ぬるということは、霊魂が身体を去るということだった。霊魂は一時的に身体を去ることもあった。失神したときがそうである。だから、人びとは人が失神したり、死んだりしたときには、霊魂が再び戻ってくることを祈った。それでもなお、霊魂が何時までも戻らぬときは、霊魂がこの身体を去って、他のものに乗り移ったのだろうとあきらめたのであった。 
宗教によっては、人は生きていた時の姿であの世に迎えられるという信仰もある。そうした信仰にあっては、遺体を傷つけたり、まして焼いてしまうなどは、考えられないことだといえよう。しかし、古代の日本人たちにとっては、身体は霊魂の仮の宿りだったから、それを火葬することにおいて、異常な抵抗を感ずることもなかったのである。 
万葉歌人柿本人麻呂は、道昭の死の前後に生きた人である。その作品のなかに、火葬を詠んだ歌、あるいは連想させる歌がいくつかある。それらを読み解きながら、人麻呂の時代における火葬のイメージについて考えてみたい。 
土形娘子を泊瀬の山に火葬せる時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首 
こもりくの泊瀬の山の山の際にいさよふ雲は妹にかもあらむ 
泊瀬の山は、人麻呂の時代火葬が行われるところだったらしい。ここで貴族が火葬されたとする記録があり、この挽歌も、そうした貴族の火葬を詠んだものと思われる。山際にいざよう雲とは、火葬の煙をさしていっているのだろう。この煙に、死者の霊魂を重ね合わせ、死者との別れを強調していることが伺われる。人麻呂は、宮廷歌人として、高貴な人びとの挽歌を多く作ったが、火葬を詠ったこの歌には、暗い気分は感じられない。 
溺れ死にし出雲娘子を吉野に火葬せる時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌 
山の際ゆ出雲の子らは霧なれや吉野の山の嶺にたなびく 
この歌においても、霊魂は霧となって、山の峰にたなびくさまが詠われている。人麻呂の時代、霊魂は、身体を離れても、それ自体は存在し続け、やがて他の身体に宿って、あらたな命として生き返るであろうという、信仰のようなものがあった。それが、この歌に見られるように、火葬のイメージを前向きにとらえさせたのに違いない。 
以上2首は、道昭の死後、火葬が広がりつつあった時代の歌である。ところが、人麻呂には、最初の妻を亡くしたときに詠んだ歌があって、そこにも火葬のことが暗示されているのではないかという説がある。その歌は、定本では次のようになっている。 
柿本朝臣人麻呂の妻死して後に泣血哀慟して作りし歌 
…大鳥の羽易の山に汝が恋ふる妹は座すと人の云へば岩根さく 
みてなづみ来し良けくもぞなきうつせみと思ひし妹が玉かぎる 
ほのかにだにも見えなく思へば 
これには異本があって、それによれば、最後の部分が異なっているというのである。 
なづみ来し良けくもぞなきうつそみと思ひし妹が灰にて座せば 
生きていると思った妻が灰になっていたとは、火葬されていたという意味である。これがもし、人麻呂の詠った本来の姿だったとしたら。挽歌の対象たる妻は道昭の死以前に死んだとされているので、火葬は道昭の死以前にもなされていた証拠になる。 
人麻呂の生涯には不可解なことが多く、学者の論争の種にもなっているくらいであるから、彼を巡る考証は、筆者のような者のよくなしうるところではない。しかし、その挽歌一つをとっても、ひとびとの想像力を掻き立ててやまないとは、人麻呂はさすがに大歌人である。  
 
日本の埋葬文化

 

明治の半ば頃までは、日本人の埋葬は土葬が圧倒的に多く、火葬は一割程度だったとされる。それも京都などの既成の大都市や、真宗地帯に偏っており、殆どの人は土葬されていたのである。 
火葬が急速に普及するのは戦後のことである。これには、都市化の進展が影響したと考えられる。また、都市化に伴い従来の大家族制度が解体し、ミニ家族を単位にした家族墓が普及したことも背景にあると思われる。昭和40年ころには、火葬の普及率は30数パーセントになり、今日では実に99パーセントを超えるほどに進んだ。 
それにしても、長い歴史の中で、土葬に慣れ親しんできた民族が、かくも短期間のうちに火葬文化に染まるというのは、ある意味で驚くべきことである。戦後に整備された墓地・埋葬法令が、火葬の普及を助けたという事情があったにせよ、国民の意識のなかにそれを受け入れる土壌がなければ、ありえないことだった。 
日本人が古来脈々と抱いてきた死生観や霊魂観、その裏側としての遺体に対する感覚が、火葬に対して寛容な風土をもたらしたからだろう。一方、現代の日本人は仏教文化にどっぷりと染まり、その仏教が火葬に寛容だという事情もある。寛容というよりは、遺体そのものに対して、仏教の教義は無頓着なのである。このことが、日本古来の霊魂観と結びついて、遺体に対する民族特有の態度を強化したのではないか。 
かように、日本人は、他の民族と比較すると、死者の遺体に対して、相対的に無頓着な民族であるといえる。こうした精神的な土壌があって、そこに前述したような功利的な事情が重なった結果、短期間のうちに火葬が爆発的に普及したのではないかと思われるのである。 
そこで、もう一度歴史を遡り、日本人の埋葬文化について鳥瞰しておきたい。 
古代日本の埋葬文化については、あまり詳しいことはわかっていない。弥生時代以前に、すでに甕棺や木棺を用いて土葬していたことはわかっているが、その詳細までは明らかでない。また、古墳時代には、大小さまざまな古墳がほぼ全国規模でつくられたが、これらはみな、支配階級のものであって、民衆の埋葬とはかけ離れたものだったようだ。 
「続和漢名数」という徳川時代初期に書かれた書物によると、日本にもかつては、土葬、火葬、水葬、野葬、林葬の五種があった。 
野葬は遺体を野に捨て置くもので、曝葬とも風葬ともよばれ、また鳥の啄ばむに任せることから、鳥葬ともよばれた。林葬とは遺体を木の上に置くものである。ともに、遺体を直接置く場合と、棺に納めて置く場合とがあった。このほか、洞窟に遺体をおさめる方法などもあったようだが、土葬と火葬を除いては、徳川時代よりはるか以前になされなくなったようである。 
火葬が日本ではじめてなされたのは、前稿で述べたように、八世紀初頭である。だが、大方は上流の人々の間に行われるにとどまり、一般の民衆にはなかなか広がらなかったようだ。 
長らく日本の埋葬文化の中心をなしたのは、土葬である。土葬とは、太古のことはいざ知らず、死者の遺体を棺に収めて、地中に埋葬するものである。 
棺には、大きく分類して二形態あり、ひとつを座棺、ひとつを寝棺といった。寝棺は今日用いられている標準の棺とほぼ同様であるが、座棺は死者を座った姿勢で収めるもので、縦長の桶のような形をしたものが多かった。 
座棺に納めるにあたっては、死者の身体を強く折り曲げ、膝を両手で抱えてその上に首を垂れるような姿勢をとらせなければならない。死後硬直した死者の身体は、容易には曲がらないから、首といい手足といい、骨はぼきぼきと折れてしまっただろう。それでも頓着しないのは、日本人はキリスト教徒のようには、遺体に執着しないからなのである。 
地域によっては、遺体を荒縄でしばりあげたり、首からずた袋を提げて持たせたりした。また、三途の川の渡し賃と称して、六文銭を持たせたりもしたが、これは仏教の教義が影響しているのであろう。 
土中の棺は、数年も立つと腐食して崩れるので、その上の土が陥没して墓に穴が開くことともなる。それを防ぐために、あらかじめ墓穴より一回り大きい石を墓の上に置くこともあった。これが後になって、墓標や墓石に発展していくのである。 
沖縄など、西南日本の一部の地域では、洗骨の風習があったとされる。これは、埋葬後数年の後に、死者の遺体を取り出してきれいに洗うというものである。沖縄では、人工の石窟のなかに棺を納める風習があったので、石窟内の衛生を保つために、このようなことがなされるようになったのであろう。 
次に火葬について。徳川時代には、京、大阪などの大都市において、一般の庶民も火葬をするようになった。江戸においても、小塚原や砂村など数箇所に火葬場が設けられた。当時は、現在のように火葬炉の中で焼くというのではなく、地面に穴を掘った上に薪を積み重ね、その上に棺を置いて、さらに薪を重ね、火にくるんでやくというものであった。火力はたいしたものではなかったろうから、焼けあがるには時間を要したであろう。 
骨の収納は、関西や真宗地域においては、すべてを持ち帰るのではなく、のど仏といって、のどのあたりに、仏の姿のような形になって残った小さな骨を持ち帰るだけだったようである。こんなところにも、死者の遺体にこだわらない日本人の特徴が垣間見える。 
今日、東京近辺の火葬場の多くは、ロストル式の火葬炉を採用している。これは、炉の中にパイプでこしらえたロストルという骨組ようのものをあつらえ、その上に、棺を乗せて焼くものである。焼けた骨は、骨組みの隙間をくぐって下にある受け皿のうえに落ちる。 
一方、関西のほうでは、台車式の炉が好まれるという。これは、がらんどうの炉の中に、棺を乗せた台車をはめ込んで焼くというものである。ロストル式だと、骨が落ちる際に、のど仏が壊れてしまうのに対して、台車式では、骨の形が大きく損なわれずに、のど仏もそのままの形に残るからであろう。 
いづれの方式においても、炉の中の温度は、700度から900度に保たれる。屈強の成人でも一時間余りで焼きあがり、きれいさっぱり骨ばかりとなるのである。 
(追記 / 明治維新直後の廃仏毀釈運動の中では、火葬は仏教文化の真髄と見られ、そのあおりで火葬禁止令が出されたほどであった。しかし、都市生活者を中心に、主として実際的な理由から、火葬の需要は強く、いくばくもなくして撤回されている。)
 
子規の埋葬談義

 

正岡子規の随筆に、「死後」と題する一篇がある。死の前年、明治34年の2月に書かれた作品である。晩年の子規は、20台半ばにかかった結核がもとで脊椎カリエスを患い、常に死と向かい合った毎日を送っていた。カリエスが悪化して、腰に穴が開くほど苦しい目にあいながら、結核菌が頭脳を明晰にしたためか、創作意欲は衰えることなく、「病床六尺」を始めとして、死に至るまで名品を生み出し続けた。そんな子規が、自分の死を、埋葬に事寄せて語ったのがこの作品である。全篇に子規持ち前のユーモアがあふれ、実にすがすがしい読後感をもたらしてくれる。 
一篇は、死後棺に入れられることの窮屈さを嘆くことから始まり、土葬、火葬、水葬、風葬、ミイラという具合に、埋葬の各形態について、それぞれの長短を詳細に分析している。死を間近に控えた者がいうだけあって、その言い分には、当事者としての迫力がこもっているのである。 
まず、棺は窮屈でいやだという。ただでさえ狭い空間の中に寝かされたうえ、身体のまわりにおが屑やら樒やらを詰められて身動きできなくなり、あまつさえ釘まで打たれたのでは、生き返ったときに手足を動かすことができぬ。願わくは、蓋のない棺に寝かせてほしいという。これにつけて思いなされるのは、今日の葬儀においても、死者は棺の中に寝かされ、あの世に旅立つ準備をすることにおいては、子規の時代と変わっていないということだ。さすがにおが屑を詰められることはなくなったが、愛する者たちとの最後の別れを告げた後には、やはり棺の蓋に釘を打たれる。すぐに火葬場の炉の中で焼かれてしまうのであるから、なにも釘を打つことまでは必要なかろうと思われるのだ。 
埋葬の中で、子規が最初に取り上げるのは土葬である。土葬は今でも、地方によってなされている。日本の法律で埋葬について取り締まっているのは、旧厚生省所管の「墓地及び埋葬に関する法律」というものであるが、そこでは火葬が原則とされ、土葬は前時代の遺物のような扱いを受けている。衛生上土葬は好ましくないという理由からである。しかし、子規の時代にあっては、土葬が広範に行われていたであろう。子規がいうように、寝棺で葬られるものもあり、座棺といって、足を折り曲げて座った姿勢のまま、縦に長い円柱様の棺に籠められて葬られる方法もあった。 
この土葬というものについて、子規は一種恐怖感のようなものを以て語っている。 
「寐棺の中に自分が仰向けになってをるとして考へて見玉へ、棺はゴリゴリゴリドンと下に落ちる。施主が一鍬入れたのであらう、土の塊が一つ二つ自分の顔の上の所へ落ちて来たやうな音がする。其のあとはドタバタドタバタと土は自分の上に落ちて来る。またたく間に棺を埋めてしまふ。さうして人夫共は埋めた上に土を高くして其上を頻りに踏み固めてゐる。もう生きかえってもだめだ、いくら声を出しても聞こえるものではない」 
生きたまま埋められたらどうしよう、埋められた後に生き返ったらどうしよう、この問は、古来人類に共通した煩悩であった。人は死んでしまった後でさえ、この世の未練が捨てがたい生き物らしく、その未練が幽霊ともなって現れるのであろう。こうした心情をテーマにしたものに、エドガー・アラン・ポーの有名な小説「早すぎた埋葬」がある。死んだと思われて地中に埋葬されたものの、何かの拍子に生き返ってしまった者の恐怖と絶望を描いた作品である。子規がこの作品を読んでいたかどうかについては確証がないが、子規の文章には、変人ポーに通ずる、人間の煩悩を突き放してみているようなところがある。 
次に、子規は火葬について語る。日本の火葬は伝統的に野焼きとよばれ、屋外にうず高く組んだ薪の上に棺を載せ、時間をかけて焼くというものであった。またの名を、穏坊焼きともいった。ところが、子規の時代には火葬炉というものが導入され始め、東京など都会においては、火葬場の炉の中で焼かれるものが増えてきていた。それが子規の気にはいらなかったらしく、次のように鬱憤を吐いている。 
「煉瓦の煙突の立ってをる此頃の火葬場といふ者は棺を入れる所に仕切りがあって其仕切りの中へ一つ宛棺を入れて夜になると皆を一緒に蒸焼きにしてしまふのじゃさうな。そんな処へ棺を入れられるのも厭だが、殊に蒸し焼きにせられると思ふと、堪まらぬわけじゃないか。手でも足でも片っぱしから焼いてしまふといふなら痛くてもおもひ切りがいいが蒸し焼きと来ては息のつまるやうな、苦しくても声の出せぬやうな変な厭な感じがある。其上に蒸し焼きなんといふのは料理屋の料理みたやうで甚だ俗極まってをる。火葬ならいっそ昔の穏坊的火葬が風流で気が利いてゐるであらう」 
子規は、火葬炉で焼かれることについて、かなり混乱した認識を持っていたようだ。少なくとも現代においては、火葬炉の中の温度は、摂氏700度から900度に保たれ、棺は無論遺体もまた速やかに衛生的に焼却される。じりじりと蒸し焼きになるということはもちろんなく、子規のようにあれこれと愚痴をこぼしたり、洒落をいったりするまもなく、人間はごくあっさりと骨ばかりになれるのである。むしろ、現世への未練を瞬時のうちに断ち切ってくれ、さばさばとして骨になることができるのであるから、こんなにあとくされのないことはない。 
子規はこのほか水葬、風葬について語り、自分はできたらミイラにしてほしいというような口吻をもらしている。(実際、同時代人の中には、福沢諭吉のように、色々な事情が幸いして、ミイラになれたものもあったのである。) 
これらの埋葬法は、大昔においては行われていたかもしれないが、子規の時代にあっても、すでに認められるものではなかった。 
子規は、この文を書いた翌年の秋に亡くなった。享年36であった。その遺骸は、友人たちに見守られつつ、田端の大龍寺に土葬せられた。しかして埋葬から数年経て後、その墓の上に、陸羯南の手になる石碑が立てられた。子規は土中の棺の中で、果たしてどのように感じたであろうか。
 
閻魔大王と死者の蘇生(中世人の仏教的死生観)

 

誰しも子どもの頃に、「うそをつくと閻魔様に舌を抜かれる」といって、親や兄弟から脅かされた経験があることだろう。人は死ぬと閻魔大王の裁きを受けて、極楽へ行けるか地獄へ落ちるか、振りわけられる。その際に、人の罪状のうちにも、うそというのはもっとも罪が重いもので、たんに地獄へ落ちるにとどまらず、舌まで抜かれてしまうというのである。 
日本の民衆に仏教が浸透するのは、鎌倉時代以降のことである。親鸞や日蓮はじめ、新しいタイプの仏教者が民衆の中に入り、念仏や法華経の教えを広めたおかげで、民衆の間に仏や浄土への希求が高まった。また、それに伴って、仏教的な考え方も広がっていったのである。 
仏教の教えの中でも、中世の日本人にとって、もっとも判りやすかったのは、輪廻転生、因果応報の観念ではなかったろうか。 
日本人には古来、あらゆる生き物には霊魂があり、それは形が滅びても生き続けるという、アニミズム的な心性があった。とくに、人間の霊魂は、肉体が滅び去っても消滅することはなく、生者の周辺を漂いながら、ついには神となって天空に上ると考えられていた。場合によっては、霊魂はほかの姿を借りて生き返ることもあった。とくに子どもの場合には、ほかの子に生まれ変わることが、期待もされ、信じられてもいたのである。 
この古代的な観念に、仏教の教えが結びつくことによって、死者の再生や、前世の因縁といった、新しい考え方が生じてきた。それらは、人間の罪業に深くかかわることであったから、民衆の仏教理解の中で、閻魔大王の果たした役割は、非常に大きなものであった。閻魔大王こそは、人間の罪業に最後の裁きを下すものだったからである。 
中世に流行した民衆芸能・説経のなかに、閻魔大王の裁きによって、死者が甦るという話が出てくる。 
説経「をぐり」は、別名を「餓鬼阿弥蘇生譚」というように、非業の死を遂げたものが生き返って、ついには神となる物語である。生き返りは、閻魔大王の慈悲によって果たされるのである。この場面を、説経は次のように語っている。 
10人の従者とともに殺された小栗判官が、閻魔大王の前に引き立てられてくると、閻魔大王は「さてこそ申さぬか、悪人が参りたは、あの小栗と申するは、娑婆にありしその時は、善と申せば遠うなり、悪と申せば近うなる、大悪人の者なれば、あれをば、悪修羅道へ落すべし、十人の殿原たちは、お主に係り、非法の死にのことなれば、あれをば、今一度、娑婆へ戻いてとらせう」と宣言する。 
ところが、従者たちが、自分らはともかく、主人の小栗を娑婆に戻して欲しいと懇願するのにほだされて、11人ともども戻してやろうといい、「見る目とうせん御前に召され、日本にからだがあるか見てまいれ」と命ずる。日本を見ると、従者たちは火葬にされて体がないが、小栗は土葬にされたために体があることがわかる。 
そこで、閻魔大王は、次のように、小栗一人だけを戻すことに決するのである。「さても末代の洪基に、十一人ながらも戻いてとらせうとは思へども、からだがなければ詮もなし、なにしに十人の殿原たち、悪修羅道へは落すべし、我らが脇立に頼まん・・・さあらば小栗一人戻せ」 
また、「愛護の若」という説経の中では、死んだ母親が、自分の子が死にかかっているのを助けようと、閻魔大王に懇願する場面がある。 
閻魔大王は、その真心にひかれて、母親を娑婆に戻そうとし、戻すべき体があるかどうか調べさせる。ところが、この場合にも、母親は火葬にされて体が残っていないのだった。そこで、ほかに戻すべき死骸がないかどうか、調べさせると、「今日生まるる者は多けれど、死する者とてござなく候、死して三日になり候いたちの体ばかり」あることがわかる。 
「大宮聞こしめし、いたちに生を変へるか、御台きこしめし、我が子に会はんうれしさに、それにても苦しからず、はや御いとま、と申さるる、大宮善哉と打たせたまへば、いたちに生が変り、刹那が間に二条の御所に出で、花園山へぞ参りける」 
これらの話に伺われるのは、霊魂がふたたび目に見える形をとって蘇生するということである。蘇生するのは、自分の体としての場合もあれば、いたちのような動物の形を借りる場合もある。火葬されて形が残っていないと、自分自身の姿では、生き返ることができないということも、いわれている。 
これらの話の背後には、さまざまに屈折した仏教理解があったのであろう。屈折させる原動力となったものが、日本古来の霊魂観や死生観であったことは、想像に難くない。
 
日本人の死生観と他界観

 

死者をどのように埋葬するかは、民族の死生観や他界観にかかわることであり、その民族の文化の根本をなすものである。肉の復活の思想を根底に置くキリスト教文化においては、遺体は丁寧に飾られて、来るべき復活に備える。遺体を損傷するなど許されざるタブーである。一方、輪廻転生のなかで魂の実体を信ずるインド文化においては、遺体そのものは重大な関心事にならない。 
遺体の扱いという点では、土葬と火葬は両極端に位置する。したがって、この両者が同一の文化の中で共存することは、通常は考えがたいことである。しかし、日本においては何故か矛盾、対立を伴わずに共存してきた。先稿で述べたように、日本の長い歴史の中では、土葬が主流であったといえるのだが、それでも、火葬が忌むべきものとして、排除されたことはなかったのである。 
これには、日本人が古来抱いてきた死生観や、その背後にある霊魂と肉体との関係についての見方が、背景にあったものと思われる。 
日本人本来の宗教意識の中では、魂というものは、肉体とは別の、それ自体が実体をともなったものであった。魂は、肉体を仮の宿りとして、この、あるいは、あの、具体の人として現れるが、肉体が朽ち果てた後でも、なお実体として生き続け、時にはこの世にある人々に対して、守り神にもなり、また、厄病神にもなった。しかして究極においては、ご先祖様として、神々の座に列することともなるのであった。 
古来、日本人にとっては、人の死とは、霊魂が仮の宿りたる肉体を離れて、二度と戻らない状態を意味した。霊魂はまた、一時的に肉体を離れることもある。であるから、人が失神したときには、必死になって霊魂を呼び戻そうとした。近年まで各地で広範囲に行われていた、魂よばいといわれる一連の儀式は、日本の葬式文化の特徴をなすものであったが、それはこのような霊魂観に裏付けられていたのである。皇室において、「もがりの宮」という儀式が伝統的に催されてきたが、これも、魂よばいの洗練された形態と考えられるのである。 
霊魂がなかなか戻らず、遺体が形を崩し始めると、人々はいよいよ死というものを受け入れざるをえなくなった。こうなると、残された亡骸は、生きていたときのその人の、今の姿なのであるとは感じられず、たんなる魂の抜け殻に過ぎなくなる。抜け殻になってしまった遺体は、一刻も早く埋葬する必要がある。そうでないと、悪霊が乗り移って、災厄をもたらさないとも限らないのである。 
日本人は、どうも死者の遺体に無頓着なところがあるといわれ、それがまた火葬が普及したひとつの背景ともなっているのだが、その理由の大半は、以上のような霊魂観にある。 
ところで、霊魂のほうは、肉体を離れた後、すぐに遠くへといなくなってしまうわけではなく、死者の墓や遺族の周辺に漂っているものと考えられた。遺族が供養したのは、死者の亡骸そのものというより、この漂う霊魂を対象としていたのである。 
この漂う霊魂が、いかに実体を伴ったものとして考えられていたかは、菅原道真の例によく現れている。平安時代の人々は、道真の怨霊が仇敵らにたたって、その命を奪ったのだと、真剣に受け取ったのである。 
しかし、霊魂もいづれは、この世を去ってあの世に行くものと考えられた。あの世とは、古代人の意識の中では、おそらく天空であったと考えられる。そして、あの世とこの世の接点になるのは、だいたい山であった。霊魂は、折節につけ、あの世から山を伝わってこの世に戻って現れ、人々の生き様を見守るのである。 
日本各地に古くから行われている、祭りや年中行事の殆どは、神となった霊魂を山中あるいはその代替としての依代に迎えいれ、ねぎらうという体裁をとっている。神道の諸行事は、それを体系化したものにほかならない。 
死者の霊魂があの世に移るのは、死後33年たった頃か、長くとも50年後のことなのだろうと考えられた。遺族による祭祀も、このあたりが節目となるし、またこの頃にもなれば、霊魂も安らぎをえて、あの世に上り、ご先祖様として、神になることができただろうと考えられたのである。
 
殯(もがり)

 

日本の古代に行われていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認すること。その棺を安置する場所をも指すことがある。殯の期間に遺体を安置した建物を「殯宮」(「もがりのみや」、「万葉集」では「あらきのみや」)という。 
古文書にみる殯 
「古事記」「日本書紀」では殯、「万葉集」では大殯とされ、貴人を殯にした記録や、それを連想させる記録が散見されるが、具体的な方法などは記録されていない。 
「日本書紀」においては、一書の九でイザナギがイザナミを見た際「伊弉諾尊欲見其妹乃到殯斂之處」の殯斂や天稚彦(アメノワカヒコ)の殯「便造喪屋而殯之」(一書の一「作喪屋殯哭之」)、巻8の仲哀天皇の崩御後にその遺体を武内宿禰による海路に穴門を通って豊浦宮におけるもの「竊收天皇之屍付武内宿禰以從海路遷穴門而殯于豐浦宮爲无火殯斂无火殯斂此謂褒那之阿餓利」があり、その後数代してに欽明天皇(欽明天皇32年4月15日(571)崩御)32年5月に河内古市に殯し、秋8月に新羅の未叱子失消が殯に哀悼した「五月殯于河內古市秋八月丙子朔新羅遣弔使未叱子失消等奉哀於殯是月未叱子失消等罷九月葬于檜隈阪合陵」と記述される。なおこのときは1年に満たない殯である。 
隋書に記録された殯 
卷八十一列傳第四十六東夷俀國には、死者は棺槨を以って斂(おさ)め、親賓は屍に就いて歌舞し、妻子兄弟は白布を以って服を作る。貴人は3年外に殯し、庶人は日を卜してうずむ。「死者斂以棺槨親賓就屍歌舞妻子兄弟以白布製服貴人三年殯於外庶人卜日而及葬置屍船上陸地牽之」とあり、 また卷八十一列傳第四十六東夷高麗(高句麗のこと)には、死者は屋内に於て殯し、3年を経て、吉日を択(えら)んで葬る、父母夫の喪は3年服す「死者殯於屋内經三年擇吉日而葬居父母及夫之喪服皆三年兄弟三月初終哭泣葬則鼓舞作樂以送之埋訖悉取死者生時服玩車馬置於墓側會葬者爭取而去」とある。これらの記録から、倭国・高句麗とも、貴人は3年間殯にしたことが窺える。 なお、殯の終了後は棺を墳墓に埋葬した。長い殯の期間は大規模な墳墓の整備に必要だったとも考えられる。 
殯の衰退 
殯の儀式は大化の改新以降に出された薄葬令によって、葬儀の簡素化や墳墓の小型化が進められた結果、仏教とともに日本に伝わったと言われる火葬の普及もあり、急速に衰退する。 
大喪における「殯宮」 
殯宮は「もがりのみや」という名で天皇の大喪の礼に、また「ひんきゅう」という名で皇后・皇太后・太皇太后の斂葬の儀までの間、皇居宮殿内に仮設される遺体安置所の名として使用されることになっており、戦後に於いては昭和天皇や貞明皇后、香淳皇后の崩御の際に設置されている(ただし、太皇太后は現在の皇室典範にも定められているものの、実際には平安時代末期以降、現れていない)。崩御後13日目に遺体を収めた棺は御所から宮殿内の殯宮に移御され、崩御後45日目を目処に行われる大喪の礼や斂葬の儀までの間、殯宮拝礼の儀を始めとする諸儀式が行われる。 
殯の名残 
通夜は殯の風習の名残で、殯の期間が1日だけ、あるいは数日だけに短縮されたものとする説もある。沖縄でかつては広く行われ、現代でも一部の離島に残る風葬と洗骨の風習は、殯の一種の形態と考えられる。 
魂呼ばい(たまよばい) 
日本および沖縄の民間信仰における死者の魂を呼びかえす呪術行為である。死を不可逆的なものと見なさず復活の可能性が信じられたところからくる。現代では火葬に付されるのが一般的で復活の観念は生じにくいが、後世火葬が完全に定着するまでには長い時間を要し、それまでは土葬が主流であった。特に古代では埋葬する前に殯(もがり)という一定期間を設け、復活への望みを託したとされる。具体的なものとしては、死者の出た家の屋根に登って、大声で死者の名を呼んだりする風習があった。 
魂呼ばいが記録に残っている例としては、平安時代の「小右記」万寿2年8月に藤原道長の娘尚侍が死亡した夜行われた例が見える。このことからも当時の貴族の間にも儀式の慣習が残っていたことがうかがえる。 
沖縄では「魂込め(マブイグウミ)」「魂呼び(タマスアビー)」などの呼称があり、久高島では「マンブカネー(魂を囲い入れる、というような意味)」と呼ばれる。マンブカネーで興味深いのは、儀式から魂の出入り口が両肩の後ろ辺りに想定されていると思われる点である。
 
日本人の墓

 

今日われわれ日本人の間に普通に行われている墓の形式は家族墓と呼ばれるものである。寺院あるいは公共の墓地の一角に墓石を立て、その表面に○○家の墓と標すのがもっとも一般的だろう。墓石の下には納骨用のスペースが設けられていて、そこに壺に収めた骨を埋葬する。数世代が眠るには適した空間だ。 
こうした家族墓の形式が一般化したのはそう古いことではない。家族の成員が家単位で葬られること自体徳川時代中期以降のことであるし、まして今日のような墓が現れるのは比較的最近のことなのだ。 
これには、火葬の普及という事情があるだろう。また家族墓が主流になることの背景には、家族の中における妻=母の地位の変化と、それにともなう妻の葬儀のあり方の変化も作用していると見られる。 
妻が夫の姓を名乗るのは明治時代以降のことである。それであるから、妻が死ぬとその遺骸は里方の墓地に葬られることが多かった。夫方の墓地に葬られても、その名は里方のものを記されたのである。幕末・明治の碩学依田学海の日記に母親の死を記したところがあるが、それを読むと、学海の母親の墓には里方の姓を付して、「斎藤孺人墓」と銘されているのがわかる。 
この例にみられるように、明治以前の日本人は、個人墓に葬られることが多かったのである。古い墓地に行くと、個人の名を銘した墓が多いことに気づく。寺によっては、無縁の墓を寄せて一箇所に積み上げているところがあるが、それらの墓は殆どが個人墓である。都立墓苑のような明治以降に始められたところでも、個人墓は圧倒的に多い。 
だが、これらの個人墓についても、せいぜい中世に遡れる程度で、そんなに歴史が古いとも思えない。それも位階の高いものは別として、庶民が個人墓に葬られたことを裏付ける歴史的な資料はほとんど存在しないといっていいほどである。 
日本民族の間で行われていた埋葬と、その目に見える形としての墓について、簡単に振り返ってみよう。 
縄文時代の遺蹟をよく調べてみると、数個の竪穴式住居からなる集落が生活の基本単位だったことが推測される。この集落は中央部分に墓地を擁していて、成員が死ぬとそこに埋葬された。埋葬の形式は直接埋めるものから、土棺に納めて埋めるものまで、経済力に応じてさまざまだったようだ。土棺の中でももっともよくみられるものは、丸い蚕のような形をしたものである。いづれにせよ、死者たちは集落の中心に眠り続け、生けるものとの精神的なつながりを失ってはいなかったようなのだ。 
弥生時代になると集落の規模は大きくなり、回りに壕をめぐらした環濠集落が登場する。共同墓地は集落の外に作られることが多くなった。 
古墳時代には、原子的な共同体は分裂して、一般民衆の上に君臨する首長層が登場する。これに伴い、首長の墓が独立した古墳として造営され、見晴らしの良い場所から集落を見下ろすような形になる。多数の民衆は集団墓地に、中間層は低墳丘の墓地に葬られた。首長以外は個人としてでなく、集落の成員として集団的に葬られたと思われる。 
平安時代後期、火葬が普及するようになると、都の貴族たちは一族門流ごとに火葬場を持ち、墓堂や納骨堂を建てるようになった。その場合でも、妻の葬儀は夫方ではなく里方で行われたようである。夫婦別墓は古墳時代以前からの、日本民族の古い慣習を引き継いでいたのだと思われる。 
仏教者たちの間では、同じ信仰を通じて堅い契りで結ばれ、仲間が臨終を迎えると皆で葬儀の準備にあたり、死後は共同の墓地に葬った。 
一般民衆についてはくわしい記録がないが、律令制では所定の墓地に即日土葬することが定められていた。夫婦や家にはこだわることがなかったようである。 
中世以降近世に至るまでは、墓地は位階の高いものをのぞけば、集落ごとに所定の場所に用意された共同のものだったようだ。民衆は集落の成員としてのみそこに眠ることができた。眠るものの墓の上に、主の名が記されるようになるのは近世以降のことだと思われる。まして今日のように、家族単位で葬るようになるのは、ずっと時代を下って、ごく最近のことに属するのである。  
古代の墓制
はかとははぶり(葬り)の「は」と、場所を表す「か」の合成語で葬所をあらわす。塚は土を盛りそこに木を植えた葬所であり、墓は地下に埋葬して墳丘のないものをさすが、一般には死者を葬る目的で作られた場所全てをふくむ。
さて古代の集落では中央広場の一画を死者の埋葬地にあてるのは、縄文時代の特徴である。紀元前4000年前から紀元前200年ころまでは、死者は住居の近くに埋葬されたのである。そこには死者は身分の区別なくが並び葬られている。葬法は大半が土葬で、時には火葬された幼児骨を納めた土偶形容器も発見されている。風葬も何らかの理由から、広場に葬れない者に適用されたことが考えられる。
さて、縄文時代の土葬の場合、死者は伸展葬か屈葬の姿で葬られている。そして両方ともに遺体を強く緊縛しているのである。こうした処置は、おそらく死者の体に悪霊がとりつき、それが動き出して住民に悪さをすることを恐れての処置であろう。胸に石を抱かせたり、頭に甕をかぶせたりする処置も同じような配慮が感じられる。
死者と一緒に副葬品を埋葬する風習は、縄文時代には北海道を除くとその例は少ない。もちろん耳飾りや、腕輪をはめた遺体は多いが、これは生前身につけていた装飾品がそのまま持ち込まれたものである。
弥生時代
死者と生者が密接に関わりあった時代である縄文社会に続く弥生時代は、「死者観」が大きく変化した。大陸から来た民族が、新しい論理と制度を携えて渡つてきたとき、縄文文化の風習は終焉に向かったのである。
弥生式文化は近畿地方に新しい墓制をもたらした。畿内では方形周溝墓と呼ぶ、四方を溝で区画し内部を盛り土した墳墓が登場した。この墓には、中央に戸主を葬り、脇に妻、周囲にその子といつた「家族墓」の形をとつている。2代目は先代の方形周溝墓の一辺を借りて一段と小さく営むといつた特色をもつ。その規模は1辺10メートルを超える例が多く、生者の生活空間よりも広い空間を死者に与えている。
同じ時期、北九州では支石墓や甕棺が発見されている。甕棺は弥生中期から後期にかけて九州各地に分布している。この葬法は古墳時代中期まで行なわれているが、その後、減少している。
古墳時代
3世紀から7世紀には古墳時代が登場する。その前半期に見られた雄大な規模の前方後円墳は、その大半がただ一人の豪族を葬るのみである。それは前方後円墳の機能であるといわれる践祚、即位といつた王権の授受、継承にかかわる祭政の舞台といった機能が強く現われている。棺を納めた石室は、遺体や副葬品を守るために造られており、中には銅鏡や多くの碧玉製宝器などが置かれ、身の両脇には太刀や剣、鉾などが並ベられた。こうした副葬品は、単に高貴な身分を示すだけでなく、宗教的な意味合いをもったものと考えられる。
仏教を日本に導入するのに貢献をした聖徳太子は、「聖徳太子伝暦」によると、推古26年(618)に、自らの墓を科長(しなが)に築いたとある。生前に墓を営む習慣はこのように古くからあり、これを「寿陵」あるいは「寿蔵」とよんでいる。
古代との分水嶺
葬制が大きく変化したのは、646年に出された「薄葬令」からである。このときには、墓の大きさや築造期間、人員などが細かく規定された。また殉死の風を禁止させている。薄葬の理由は、墓地造営に費用がかかりすぎる現状をいましめるものと、もうひとつには、中国の風潮を導入したものである。王以下小智以上の者は小石を用いて墓を作り、庶民は一定の葬所を収めて、散埋することが許されなかった。大宝(701)以後は三位以上の者だけが造墓を許された。
高松塚古墳
この時期には、巨石を用いた豪放な石室、あるいは精微な石室が登場した。その典型が1972年発掘された高松塚古墳である。墳頂に1本の松があったので高松塚とよばれる。この古墳は7世紀末から8世紀初頭のものとされ、漆喰塗りの四壁には玄武・朱雀・白虎・青竜といつた四神、近侍の男女が描かれ、天井には星宿、東西両壁に日月が描写されている。この墓室内には、貴人ただ一人が埋葬されている。時には夫婦合葬墓もあるが、その場合は高位の女性として夫の墓に同伴されたものである。一方、壁画に飾られた墓室に関連して、丁寧な作りの棺が作られ、前例のない玉枕、あるいは随唐からもたらされた鏡などの副葬品が現れる。さらに死者の「伝」や時にはしのびごとを記した墓誌がこの時期に生まれた。
日本での基誌は、中国からの影響で、7世紀の後半から8世紀の後半の頃に行われた。はじめ土葬墓に採用されたが、その後、火葬の流行にともない、火葬墓にも取り入れられ、火葬墓特有のようになつた。しかも、火葬墓の場合は、火葬骨を納めた銅製椀に直接刻されたものも発達した。もつともこれらが、8世紀の初頭にのみ限定されているのである。墓誌銘には、これら銅製骨壷に直接刻されたもののほか、長方形または短冊状の細長い青銅・金銅・銀製のものがある。
火葬の影響
『続日本紀』に、入唐僧である道昭が西暦700年、死に際して火葬を遺言し、弟子が粟原寺で荼毘に付し粉にして散骨した事を述べ、「天下の火葬ここに始まる」と記している。道昭の火葬以後、仏教の普及と平行して、火葬が天皇をはじめ貴紳の間に急速に普及していった。それにともない、それまでの横穴式石墳や石棺墓は姿を消し、代わって、骨櫃、骨壷、骨袋に火葬骨を納める新しい墓制が登場してくるのである。
『古事記』を筆録した太朝臣安万呂(723没)の墓と墓誌が話題となつたことがある。墓誌は火葬した骨を納めた木櫃の下の、木炭を敷いた上に裏向けに置かれていた。なお遺骨と一緒に4粒の真珠が見つかっている。この真珠は冥界に輝く珠であり、4は冥数といわれる。
庶民の葬送の地
すでに奈良時代(710〜784)から、首都の内部に墓を造ることは法律で禁止されており、平城京内からは当時の墓は一つも発見されていない。平安京でもこの方針は貫かれており、天皇・貴族の墓はいずれも郊外に造られていた。では一般庶民の墓はどうだつたか。『三代実録』861年の条に、百姓葬送・放牧地に5箇所が定められていることが記されている。また『梧庵漫記』に京の周辺の山野・河原が、彼ら庶民の葬られる場であつた。京の西北のあだし野、舟岡、東南の鳥部山、鳥部野一帯が、すでに平安時代からの葬場だつたのである。
平安時代(794〜1185)
貴族の墳墓には卒塔婆が立てられた。850年の仁明天皇の深草陵である。921年、天台宗の僧・良源の遺告に、「生前に墓地をきめ、万一その前に死んだら北方の勝地にしてほしい。棺も生前に準備する。間にあわなければ、その日の中に入棺し、3日以内に埋葬する」などといい残している。石塔に関しては「石卒都婆を生前に作り運んでほしい。もし運ばざる前に命が終われば、しぱらく仮卒都婆を立て、その下を掘り、骨を穴底において上に土を満たずベし。四十九日のうちに石卒都婆をつくりて、立て変えるべし。これは遺弟らがとぎどぎ来礼の標示なり。卒都婆に、光明、五宇、阿弥陀などの真言を安置す」とある。
藤原氏の氏寺は、平城京になってからは興福寺に変わった。承平6年(936)に太政大臣に就任した藤原忠平は、先帝の醍醐天皇と父基経の墓に詣つている。その彼も、義埋の祖父や高祖父の墓がどこにあるのか知らなかつた。平安貴族の葬儀は多く火葬で、火葬場までは着いていくが、茶毘には立ち会わず、鴨川で清めをすませて家へ帰り、骨上げは故人の乳母の子など、身分の下の者が骨壷に納めて墓所に納めたのである。
938年、市上人空也は、念仏を唱えて京で庶民を教化、亡骸を拾い「南無阿弥陀仏」と唱えて火葬している。
高野納骨の流行
1085年、性信法親王が崩御、遺骨を高野山に納め、墓の上に阿弥陀堂を建て、念仏僧を置く。1108年、堀河天皇の遺髪を高野山に納める。このように12世紀に入ると弘法大師入定の地ー高野山に、火葬骨や遺髪を納める高野納骨がさかんとなる。仁平3年(1153)に死去した覚法法親王の場合には、嵯峨野御所から遺骨を西林に移して火葬し、法橋寛深が御骨を頚にかけてただちに高野山に登り、その地で殯葬したと、『兵範記』は記している。弥勒の浄土としての高野山へ納骨することは、末法の時代の天皇や貴族の願いだったのである。また高野山納骨を鼓舞し、それを全国に広めた高野聖の力もあった。
聖地納骨の風潮は高野山をこえて各地に拡散していった。『兵範記』の1167年には「地中に納骨しその上に五輪石塔」を立てる」という記事がある。こうした五輪塔を用いた納骨は、中世納骨慣行の端緒として、やがて鎌倉・室町時代を通じて諸寺でおびただしく見られるようになる。
鎌倉時代(1185〜1333)
鎌倉時代、鎌倉では武将・僧侶の埋葬方法に平地とやぐらの二つがあった。寺院等での平地埋葬では、五輪石塔の墓標を立て周囲に墓域を区別するための土居をめぐらしている。もう一つの形態は他地方では見られない「やぐら」である。町の三方を取り囲む山々の裾や山腹に、無数の岩穴を開き、中に五輪塔などが納め、岩壁に金箔で極楽浄土が描かれた。内部に壙穴がうがたれ、そこに火葬骨が納められた。
平安京の制度をとり人れながら、都市化を進めていた鎌倉幕府にとつて、平地の少ない鎌倉の周囲の山々に、特殊なやぐらがつくられたものと思われる。やぐらに葬られたのは、中世の鎌倉ぴとの一部で、一般庶民は、平安京の場谷と同じく周辺地の谷間の葬地に送られたり、あるいはその付近で火葬され、共同の納骨穴などに埋葬されたのであろう。
親鸞の分骨
1262年、浄土真宗の開祖親鸞が歿したが、その分骨について『親鸞上人絵詞伝』には、「その歯骨9粒と総骨を東山の大谷に納め石碑を立て、高田に墓を築き歯骨9粒を納める」とある。
鎌倉の南側の砂浜一帯からは、多くの人骨が埋葬され、骨に残された刀傷などから、元弘3年(1333)、鎌倉幕府滅亡の際の戦死者がまとめて葬られたものとさえた。しかしその後その付近からもかなりの数の人骨が発見され、幕府滅亡時だけではない、中世の墓地地帯であつたことが判明した。鎌倉の町を取り巻く境界はいずれも葬地・墓地が広がっていたのである。
関東中心の板碑
武士の墓には卒塔婆が多いが、阿弥陀の種字などを刻む板碑は武蔵武士が13世紀初頭から立てたもので、関東地区に多く見られる。板碑は生前にあらかじめ、死後の往生を願って立てられる場合が多いという。それは死後に墓を立て追善供養するよりも、7倍も効果が高いと言われているからである。
室町時代(1336〜1573)
応仁の乱(1477)以後は、洛中の寺院で境内に墓地を設けている例がいくつも出ている。16世紀半ばすぎには、阿弥陀寺や知恩寺に対し、墓府が特例として境内地への土葬を許可しているが、それは「無縁所」であつたり、すでに既成事実となっていたための例外措置であり、幕府の基本姿勢としてはあくまで京中寺院での葬送禁止であつた。また当時なお大きな力を握っていた比叡山延暦寺も同様の立場から、京中寺院の境内墓地に圧力を加えていた。しかし住人たちの「寺院の本堂近くに墓を立て、そこで将来にわたって追善供養を受けたい」という願いを押しとどめることはできなかつた。こうして都市内の寺院と境内墓地への埋葬という、近世から現代にまで連続している墓地のあり方が登場した。
江戸時代(1603〜1867)
石造墓塔は鎌倉時代から作られ、近世に入っても引き続き造立された上、江戸時代末期にまで及んでいる。ところがこれと並行して、江戸時代初期から、墓塔に新しい形態が取り入れられるようになる。それは尖頭型と角碑型(四角柱状)とで、尖頭型のものは、頭部が山形をしている。角石塔では頭部に位牌形といってよい屋根のついたものもある。こうした形は位碑の影響を受けたものと考えられ、元禄時代を境にしてあらたに建立されるものの多くは方柱式である。この石塔に、戒名、没年月日、年齢、氏名などを彫ったり、「先祖代々之墓」とする場合なども少なくないが、本来塔は死者の霊が宿るものと見倣されていたのである。宗派や地方によっても異なり、浄土真宗のさかんな北陸地方では、表面に「南無阿弥陀仏」とのみしるし、側面に故人の姓名をしるすことが普通であった。
一方、中世末から近世にかけ、貴族や大名、城主などのための大きい五輪塔が多く造立されている。こうした五輪塔や宝篋印塔も、わずかながら依然として造立されている。これらの五輪塔には、前代と同じくその内部に火葬骨を埋納したものもあるが、多くは基壇下に埋葬施設が設けられている。石造が普通である。
江戸時代は檀家と寺院との関係が確立し、寺院の境内に墓が営まれた。東京の自證院は1640年に造営されたが、改葬のさいの調査で、遺体は甕棺に納められたものが多く、甕は常滑焼きの大甕であった。木棺の場合には座棺と寝棺で、ほとんどが座棺であった。
土葬の場合に最も普通には木棺に遺体を納めこれを埋葬したものである。また火葬も広く行なわれ、火葬した人骨を蔵骨器や布袋に納めて埋葬したり、単に火葬骨のみを埋めたものもある。
徳川将軍の墓
1958年、東京の増上寺の徳川将軍の改葬に伴い、大規模な調査が行なわれた。そこに埋葬されていたのは、二代将軍徳川秀忠・六代家宣・七代家継・九代家重などである。将軍墓の墓標は、家宣の銅製宝塔のほか、家継・家重・家慶・家茂等の石製宝塔である。
徳川家墳墓の場合には、宝塔を墓標とし、その下に石室が設けられている。石室には、将軍は銅棺と木棺を、夫人・子女の場合には木棺が用いられている。将軍墓の宝塔は、家継のものは3mを超え、石室の大きさは1辺2m、深さ2mであつた。将軍たちの石室は、夫人墓及び子女墓のものに比べ堅牢で大きく、将軍墓にのみ銅棺の中に木棺を収め頑丈のものであった。
これらの墓には、将軍の場合、官職名・生年月日・在位期間・薨去年月日・没年齢・勅旨贈位・賜諡号が刻まれていた。
伊達政宗(1636没)の霊廟・瑞鳳殿の地下遺構の調査によると、主体部は石室で、内部の大きさは1.8m、1.2m、深さ1.45mであつた。この政宗の墳墓は、近世初頭の大名墓の構造を知るうえで重要であり、本格的な近世石室墓のはしりと考えられる。
東京都渋谷区に日蓮宗の寺院で仙寿院がある。1644年立てられたものであるが、道路計画のため、改葬された。その対象となった面積は1,800平方mで、墓標400基、遺体約2,200体、うち土葬が7割であった。このなかに紀州徳川家関係の墓が9基あり、墓標の下には石の蓋がしてあり、遺体を納めた箱の上には、銅板の墓誌が納められていた。
副葬品には、孝晴院の墓所から、青銅の手鏡、鼈甲の櫛、洋銀のかんざし、瀬戸物の水さしなどが発見された。他につげの櫛、皮の袋などがあった。遺体の回りには、湿気よけのための木炭が入れてあり、棺には錠前がかけられていた。(河越逸行『掘り出された江戸時代』雄山閣)
四六士の墓
徳川五代将軍綱吉の時代、1702年12月14日、赤穂の義士たちが吉良家に討ち入り、討ち入りのあと大石良雄らは、吉良の首を持って泉岳寺の主君の墓に報告に訪れている。翌年2月2日義士全員が切腹して泉岳寺内の旧主の墓側に葬られた。初七日には先君の後室である瑶泉院が施主となって法要が行なわれた。そこには浅野内匠頭の忠臣誰々という肩書きをした石碑を立てるはずであったが、寺社奉行がこれを禁じて、単に家来と書いて立てるようになった。それから三回忌には46人が埋められている墓の中央に、石の地蔵様が立てられた。その台石には冥福を祈ることが記されている。なおご存じのように彼らの戒名はすべて、刃と劔の文字が入っている。
遊女の墓
吉原の遊廓では、1750年以後、だいたい2〜3千人の遊女をかかえ、年間70人死亡している。いつたん死亡すると夜中に廓より逆さづりにして運び出され、浄閑寺、西方寺あるいは大音寺に運ばれる。これを吉原の西と東と南の3カ所の投げ込み寺といっていい、この投込み寺に、無緑仏として投げすてられた。浄閑寺墓地中央にある「新吉原総霊塔」には2万数千人の遊女が葬られている。台座には「生まれては苦界死しては浄閑寺」と刻まれている。
新宿の遊廓では、北町の成覚寺が投げ込み寺に当たり、1年平均15人葬むられ、明和9年から大正12年に至る152年間に2,200人が投げ込まれている。山門をくぐって左手に「子供合埋碑」があるが、「子供」とは遊女のことである。(葛岡敏『ドン底より』)
刑死者の墓
江戸の北小塚原は刑場で、死者を弔う役目はもっぱら浄土宗の回向院で、本尊は阿弥陀如来である。この寺院の境内には刑死者がおよそ20万人余りが埋葬されたといわれる。その中には、鼠小僧次郎吉や八百屋お七などもいる。また政治犯人として、小塚原で処刑をうけた吉田松陰、橋本左内などもある。
大坂の千日墓地
江戸時代の大坂には大坂7墓があり、この中で規模の大きいのが千日墓地である。現在の千日前は、明治に入るまでは千日寺、刑場、火葬場を中心とした千日墓地があった。明治3年に刑場が廃止され、火葬場と墓地が阿倍野に移されたのである。
現代
明治5年に法律によって自葬祭が禁止され、葬儀はすベて神主・僧侶によるベきことになった。明治3年に寺院墓地はすベて国有地となつていたので、排仏段釈による神葬祭観念が離檀思想をおしすすめ、神葬祭地として明治5年に東京市営基地として青山・谷中・雑司ケ谷・染井の各墓地が開設された。市営墓地は、はじめは神葬墓地として出立したが、火葬を否定する神葬墓地は実情にあわなくなり、やがて共葬墓地としての性格を帯びた。明治22年に、市街地に散在する墓地の移転方針が提案され、明治36年に、寺院の境内墓地を移転改葬した場合には、その跡地を無償下付する旨が告示されて改葬を奨励した。
大規模な寺院墓地の移葬は、大正12年9月の関東大震災の復興作業に伴つて行なわれた。こうした状況のなかで、多磨基地は、大正12年4月に開設された。東京都営の多磨墓地は日本初の公園墓地で、都心から西へ約29キロの地に面積133ヘクタールを占め、その4割が葬地で、残リは通路、庭園緑地になっている。ここには軍人の東郷平八郎、作家の永井荷風、夏目漱石などの墓があり、その総数6万2000基といわれる。この種の公園墓地はその後各地で続いて作られるようになり、昭和10年6月4日には松戸市に八柱霊園が開設された。しかし年ごとに膨張し続ける大都市にあっては、墓不足の実情を解消する対策をうつことは困難で、今日ますますそれが問題化している。 
 
お葬式

 

お葬式は死者を弔うための儀式です。その時まで息をしていた人が、臨終を迎え人間としての実体(リアルな)は無くなる訳です。これは大変な変化であり大きな感情的・心理的影響をもたらします。存在していたものが無くなるわけで、昨日まで語りかけていた人がもう頷いてくれなくなるのです。このような変化に対処するために生きている人間に対して「いやし」の儀式、事態を画するためのイベントが必要です。これがお葬式です。お葬式は、宗教を越え、宗派を越えた人間としての行為です。だから、お葬式は絶対行うべきです。浄土宗では阿弥陀様のお力によって、死者は極楽浄土という世界に生まれ変わります。その儀式を執り行うのが僧侶です。この儀式を行えば必ず、絶対に極楽へ送り届けることができます。そう考えることが信仰というものです。最近は信仰もないのに儀式として葬式を営むことがあるかと思います。しかし、このような場合でもお葬式は営むべきです。無くなった方の遺言で葬儀をしない場合も見受けられます。しかし、遺言を破ってもお葬式を行うべきです。葬儀は亡くなった方のものではなく、後に残された死者に関係する全ての人のためのものです。葬儀の方法はご自由ですが、なるべく生前関係のあった人を大勢集めて別れの儀式を営むべきだと思います。 
お経 
お経は、そのまま聞いていても何を言っているのかわかりません。それは漢訳された漢字の羅列をそのまま読んでいるからです。そもそも「お経」とはサンスクリット語の「スートラ」の漢訳語で、織物などの「(縦)糸」を意味し、縦糸と横糸とで織物が出来上がりますが、筋の通った縦糸がなければ完成し得ません。そこから転じて「簡潔な決まり事、規則」という意味となり、仏教にも取り入れられました。しかしながら、仏教のお経は簡潔なものは少なく割合に説明が長くなっています。お経とは基本的にお釈迦さまの数々の説法の言葉を書き記したものだと言われていますが、実際にはどんな古いお経もお釈迦さまの死後数百年ほど経ってから編纂されたものなのです。それは何故かと言いますと、当時のお坊さん達は、文字を使うことをせずに、お釈迦さまから授かった教えを記憶し、暗唱に頼っていたのです。その暗唱をする時には、皆、「如是我聞」(私はこの様に聞きました)とはじめに述べたのです。ですから、大概のお経は「如是我聞」から始まっています。この様に暗唱されて伝わってきたお釈迦さまの説法も、それを伝承したお弟子さんや地域や年代によって少しずつ内容が異なり、増大して伝えられていきます。そしてついには、内容が似通ったいくつもの違うお経が誕生することになるのです。その他にも、寺の中でのお坊さんの生活のあり方を書かれたもの(律)、そうした数々のお経の註釈を書いたもの(論)があり、前述の「経」を併せて、「経」「律」「論」の「三蔵」と言います。かの西遊記で有名な中国の唐時代のお坊さん、玄奘はその三部の仏教学を修めた者として「三蔵法師」という称号を貰ったのです。 
仏像 
もともとは仏教を始めた釈迦の姿のことです。今から約2500百年前、釈迦はさまざまな修行ののち、悟りを開いてブッダ(Buddha)になりました。ブッダとは「悟りを開いた人」という意味です。中国で、「ブッダ」を当時の中国語に訳さず、「ブッダ」という音を「仏陀」という漢字に写したのです。この「仏陀」が省略されて「仏(ぶつ、ほとけ)」という言葉になりました。ですから「仏像」とは、「ほとけの像」のことで、狭い意味では悟りを開いた釈迦のことを指します。 
お寺 
ひとことで寺院といっても、これがなかなか複雑で、簡単に説明するのはちょっと難しいのです。一般的には「仏像を安置したり、お坊さんの住む建物があるところ」という意味ですが、まだ奥があります。そこで、まずは言葉の解説からすることにしましょう。寺という語は、中国では「役所」を意味しました。後漢の明帝(めいてい、在位57-75年)の時代、迦葉摩騰(かしょうまとう)と竺法蘭(じくほうらん)というインドの僧が、はじめて中国に仏教を伝えたとき(異説アリ仏像と経典をもたらしたとき)、二人は鴻臚寺(こうろじ)といういわば「迎賓館」に滞在しました。いつまでも役所に泊まっているわけにはいきませんから、二人の住む場所を建て、白い馬に乗ってやってきたことから、白馬寺(はくばじ)と名づけられました。これ以後、お坊さん(僧侶)の住む場所を「-寺」というようになったのです。日本語で「寺」をてらと発音するのは、朝鮮語に由来するという説(chy*ol<礼拝>、あるいはchar<刹>)やパーリ語のテーラ(thera<長老>)の音訳語とする説などがありますが、はっきりしたことはわかっていません。院は、元は周囲の土塀(どべい、垣)のことでしたが、囲いのある建物などを意味するようになり、役所などにも使われました。現在では、寺のなかの別棟(別舎)のことで、寺と合わせて寺院というようになったのです。 
 
子どもの死と葬送

 

子どもの死ほど悲しいものはない。また、子どもの葬儀ほど、みて痛々しいものはない。火葬に付しても、七つ八つくらいまでの小さな子は、骨が十分に発達していないから、あっという間に焼けてしまい、あとには灰しか残らないこともある。それでも、子を失った親たちは、遺灰を小さな壺に収めて家族の墓に葬り、やがては自分たちも一緒に入るよと、その冥福を祈るであろう。 
そんなに遠くない時代まで、子どもの死は珍しいことではなかった。徳川時代から近代の夜明けにかけては、七人八人と産んだ子が、全員無事に育つことのほうが珍しかったくらいで、子どもの死亡する確率は高かったのである。また、農村では、苦しい時代の口減らしとして、嬰児殺しが組織的に行われたという記録もある。 
死んだ子を、昔の日本人は、どのように葬送していたのだろうか。 
日本人は、古来子どもというものに対して、特別な感情を持っていたと考えられる。中性のヨーロッパ人が、子どもを特別視せず、未熟か、あるいは出来損ないの大人としか見ていなかったことは、アリエスが「子どもの誕生」という本の中で、力説したところである。このような文化にあっては、子どもの死も、特別なものではなく、その埋葬も無頓着に行われただろう。 
しかし、同時代の日本人は、子どもの死を特別のこととして受け止めていた。子どもも、大人と同じく霊魂を持つ存在であったが、大人と違い、その霊魂は、まだ十分に発達せず、いわば、花が開いていないものであった。そうであるから、その霊魂は、慰められ、いつくしまれるべきものであった。 
大人が死んだ場合、遺体は霊魂の抜け殻であり、たんなる「もの」に近いものとして扱われた一方、遊離した霊魂は敬して遠ざけられ、やがてご先祖様として、神になることを期待された。 
ところが、子どもの霊魂は、親たち遺族のもとに戻ってくることを、強く期待されたのである。 
まず、子どもの遺体は、大人の場合におけるような無頓着な扱いは受けなかった。その墓も、子どもが生き返ったときに、容易に出てこられるような工夫がされた。遠く離れた墓地ではなく、家の敷地の中に埋めるようなこともあったようである。 
死んだ子どもの霊魂が、別の生を受けて、生まれ変わることも、強く期待されていた。ある子どもの霊魂が、ほかの子どもの形をとって生まれ変わるという信仰は、仏教の輪廻転生とも係わりがあるだろうが、日本古来の霊魂観に深く根ざしていると思われるのである。 
死んだ子どもが生まれ変わったときに、すぐそれとわかるように、子どもの遺体にしるしを付ける風習が広く見られたのは、このような霊魂観の現れである。同じようなしるしが認められる子どもが生まれてきたならば、それは死んだ子の生まれ変わりに間違いないのであった。 
今の子どもたちは、昔の子どもに比べ、死ぬ確率は限りなくゼロに近くなった。それでも、不幸にして死ぬ子どもはいる。だが、今の親たちは、昔の親のようには、子どもの霊を慰めるための十分な余裕をもてないようだ。今の子は、大人と同じように火葬にされ、殆どが大人と同じ墓に入る。彼らは、ほかの姿に生まれ変わるよりも、天国にやすらうことを期待されているようだ。  
 
火葬と遺骨尊重
 

 

近世以降の日本人は、死者の遺体を火葬したうえで、その遺骨を大事に保存して敬意を払うということを基本にしてきたが、これがヨーロッパ人の目には奇異に映るのだと民俗学者の山折哲雄はいう。(「死の民俗学」)  
というのも、火葬とは遺体損壊の究極の方法であるとの見方が前提にあるからだろう。損壊と保存とは相矛盾する。事実、火葬の本家たるインドでは、遺骨は川の水に流されて、保存されることはない。遺体にこだわることは全くないのである。これに対して、遺体にこだわる文化では、キリスト教圏を含めて、形を残したままで埋葬するのが普通である。  
日本で火葬が導入されたのは文武天皇の時代、西暦700年のことである。その後持統天皇が、天皇としては初めて火葬され、それを契機にして皇族や貴族たちの間で火葬が広まっていったとされる。その際、遺骨がどのように取り扱われたかが問題となるが、山折は初期の火葬においては、遺骨は必ずしも大事に扱われなかったと推論している。  
山折は、柳田国男を援用しながら、古代の日本人にとっては、死後の霊魂のあり方が関心の中心であって、遺体そのものはあまり問題とならなかったのではないかとも言っている。こうした文化にあっては、火葬後の遺骨についても、あまり問題とすることはなかっただろうと推論する理由は十分にある。  
遺骨が尊重されるようになるのは、藤原道長の時代の前後からだと山折はいう。道長自身藤原氏の墓地であった木幡の地に浄妙寺を建立し、一族の諸亡霊を弔うために、その遺骨を丁寧に埋葬した。また、一条天皇は寛弘8年(1011)に火葬されたうえで、その火葬骨が円城寺に安置されたといい、次いで堀河天皇も火葬骨が香隆寺に安置され、その御骨所に詣でるものが多くなったとある。  
このように、11世紀を境にして、遺体を火葬したうえで、その骨を寺の墓地に安置して詣でるという、今日と同じような遺骨尊重の葬送文化が、庶民の間でも定着していったと山折は推論している。  
面白いのは、このような遺骨尊重文化の定着に、高野山が深くかかわったということである。納髪、納骨といって、身体の一部や遺骨を高野山へ収める風習が12世紀ころから貴族社会を中心に広まった。それは、高野山が、真言密教の根本道場であるとともに、来世往生を約束する山岳信仰の霊場であったことと関連している。高野山へ納骨することで、極楽浄土に生まれ変わるという信仰が、こうした行為を普及させたわけである。  
高野山への信仰を広く説いて回ったものに高野聖があったが、彼らは全国津々浦々を歩き回りながら、庶民にたいして高野山への結縁を進めて歩いた。納骨は結縁の象徴的な形態と考えられたのである。  
以上の過程を、山折は次のように総括する。「まず第一に、11世紀ころを境にして、とりわけ貴族の間に遺骨(火葬骨)に対する観念や態度に変化が認められるようになり、それが12世紀の高野山納骨の一般化とあいまって、しだいに遺骨の保存ひいては遺骨の尊重という観念を生み出した。そして第二に、そのような観念の一般化を推し進めるうえで大きな役割を果たしたのが、浄土教の信仰と来世信仰の流布であったということになるのであろう」  
この議論を大局的にみると、火葬といい、遺骨尊重といい、日本古来の風習に根をもったものではなく、外来の文化に染まった結果だという印象を与える。しかし、そもそも日本には、洗骨の風習に象徴されるような、遺骨を尊重する文化が存在したという事実もある。  
洗骨は、沖縄や奄美などで、近年まで行われていた風習で、二次葬あるいは複葬と呼ばれる。一時的な埋葬の結果白骨化した遺体の骨を洗い、それを本格的な墓に埋葬するというものであるが、これが遺骨尊重の原点だと考えることには、それなりの理由があるといえる。  
山折はまた、遺骨尊重は、古代において行われていたもがり(風葬)の儀礼に原点があるのではないかとする五来重の説を紹介している。もがりにおいては、死者を一定期間風葬し、その遺体が白骨化した後で、それを埋葬するということが行われた。この儀式の精神が仏教化したもの、それが遺骨尊重だとするのである。  
洗骨といい、もがりといい、死者をいったん白骨化の過程にさらし、その後に遺骨を埋葬するという点では共通している。   
 
日本霊異記における游離魂の蘇生説話 

 

山折哲雄氏は「日本人の霊魂観」という著作の中で、「日本霊異記」を取り上げながら、古代日本人の霊魂観の変遷を分析している。それは基本的に言えば、日本古来のシャーマニズム的な霊魂観と、仏教的な世界観とが融合していく過程としてとらえられることになる。  
日本霊異記は、弘仁年間(810−823)に奈良薬師寺の景戒沙門が撰述したものとされている。奈良から平安初期にかけての霊異に関する民間流布の説話を集めたものであるが、そこには記紀に現れているような我が国固有の霊魂観と、外来思想としての仏教的応報観念とが、独自の融合反応を見せていると氏は特徴づけている。  
我が国固有の霊魂観とは、シャーマニズム的な特徴を帯びている、と氏はいう。人間の霊魂というのは肉体から遊離するものであるというのが、その基本的な前提である。この游離魂を巡って、それが生きている人間にとりつくと、取りつかれた人間はいわゆる神がかりの状態になる。これを憑霊と言い換えることができる。一方、遊離魂が文字通り遊離徘徊して、異界をさまようことがある。これを脱魂と言い換えることができる。このように、遊離魂を巡る憑霊と脱魂の体系が、シャーマニズムとしての日本古来の霊魂観を形成していたとするのである。  
憑霊現象についての言及は、記紀に四箇所見られるという。1アマテラスオオミカミが天の岩屋隠れをしたときのアマノウズメノミコトの神がかり、2神武東征の際に神武天皇がタカミムスビノミコトの霊によって神がかりすること、3崇神記における、ヤマトトトビモノソヒメの神がかり、4仲哀記における神宮皇后の神がかり、の四つである。  
記紀におけるこれらの神がかりを特徴づけるとすれば、いづれも憑依する遊離魂よりは、憑依される巫女的な人格の方に関心が向いているということだろう。ということは、古代日本においては、シャーマンとしての巫女の社会的な地位が非常に高かったことを反映しているからだ、と見ることもできる。これに対して霊異記における憑霊は、遊離魂の方に重点が置かれている、と氏はいう。  
記紀における脱魂現象についての記述としては、イザナギやスサノオの黄泉の国訪問があげられる。イザナギもスサノオも死んではおらず、したがって彼らの遊離魂ではなく、肉体を備えた生き身の人間としての彼ら自身が異界訪問をするわけなのだが、しかし内容からして、脱魂的シャーマニズムの異界訪問譚のバリエーションとみなすこともできる。  
イザナギの異界訪問譚においては、イザナギはイザナミを求めて異界を訪れる。それに対してイザナミは、自分はすでにヨモツヘグヒをしてしまったので、もはやもとには戻れなくなったけれども、あなたが一つだけタブーを守れば、私を連れ戻すことができるという。そのタブーとは、決して妻たるイザナミの姿を見ないというものであった。しかしイザナギは黄泉平坂に向かって逃げる途中、誘惑に負けて後ろを振り返りイザナミの姿を見てしまう。そのためにイザナギはイザナミを連れ戻すことができなかった、というのがこの説話の骨格である。  
このイザナギの異界訪問譚の骨格は、日本霊異記に出てくる遊離魂の異界訪問譚にそっくり取り入れられている。その場合注目すべきなのは、この異界訪問が仏教でいうところの六道輪廻のアナロジーに重なっていることだ。そこに、霊異記の時代の民衆が、日本古来の霊魂観の上に、仏教的な世界観を重ね合わせ始めていたことが伺われるというのである。  
日本霊異記の説話は全部で百十六縁あるが、そのうち遊離魂の蘇生をテーマにしたものが十五縁ある。これらに共通してみられる要素としては、まず、遊離した魂が異界を訪問し、そこで見聞した事柄を蘇生した後に物語るということ、もう一つは、生き返った時に宿るべき身体が残っているように、一定期間その身体をそのまま保存しておくようにと、遊離魂の主体たる人物が言い残しておくことである。  
遊離魂の異界訪問が脱魂的シャーマニズムの信仰を、遺体の一定期間の保存が殯の風習を、それぞれ表していることはいうまでもないだろう。  
ここで興味深いのは、游離魂の異界訪問である。一例として上巻第三十話を取り上げる。膳臣広国が慶雲二年乙巳秋九月十五日に死んで、黄泉の国の閻羅王のもとに行き、三日を経て蘇ったという物語である。  
広国の遊離魂は冥界からの使者二人に導かれて大河を渡り度南国に至る。度南国とは黄泉の国のことである。その黄金の宮殿には閻羅大王がいる。閻魔大王のことである。そこで広国は、亡妻が鉄の釘を打たれ鉄の縄に縛られて苦しんでいる様子を見せられる。さらに南の方に行くと、亡父が同じようにして苦しんでいるのを見せられる。その上で、彼ら亡者たちの生前の罪と、冥界における因果応報の道理を聞かされて、広国の遊離魂は、来た時と同じ道をたどってこの世に生き返る。  
この話の中に出てくる度南国が仏教で言う地獄のイメージと重なっていることは容易にみてとれるが、仏教で言う地獄が天〜地〜地下という垂直的な構造の中で地下に位置付けられているのに対して、ここで描かれた地獄は、この世と連続した地平にあることを感じさせる。イザナギは訪問した黄泉の国もまた、そのようなものであった。  
日本霊異記のこの説話においては、日本古来の黄泉の国のイメージに仏教的な地獄のイメージが重なって、今日の目から見れば中途半端な地獄として描かれているように感ぜられる。  
この他の物語においても、遊離魂の異界訪問は、ほぼ同じようなイメージで語られている。この第三〇話では表面に出ていないが、多くの物語では、死者が自分の遺体を残しておくようにと遺言したうえで、数日後に生き返ったという風に語られている。  
また、他の多くの物語では、この世に戻るにあたって、遊離魂は閻羅王から、黄泉の国で見聞したことを決して語ってはならないと、タブーを課せられている。それにも拘わらず、蘇った遊離魂は、自分が黄泉の国で見聞したことを人々に物語ってやまない。だからといって、タブー破りを咎められることもない。  
というわけで、日本霊異記に記された日本人の霊魂観には、日本古来の相と外来文化としての仏教とが、ぶつかり合い、溶け合うというふうに、ダイナミックな展開を見せているということができる。  
(参考)  
日本霊異記上巻第三十 非理奪他物為惡行受惡報示奇事?  
膳臣-廣國者,豐前國宮子郡少領也.藤原宮御宇天皇之代,文武朝.慶雲二年乙巳秋九月十五日庚申,廣國忽死.逕之三日,戌日申時,更甦之而語之曰:「使有二人,一頂髮舉束,一少子也.伴副往程,二驛度許,路中有大河.度椅之以金塗嚴.自其椅,行至彼方,有甚慈國.問使人曰:『是何國矣?』答:『度南國也.』至其京時,有八官人,佩兵追往.前有金宮.入宮門,見有王,坐乎?金之坐.王詔廣國曰:『今召汝者,依汝妻憂申之事.』即召一女.見之,昔死妻.以鐵釘打頂通尻,打額通項.以鐵繩縛四枝,八人懸舉,而將來.王問之言:『汝知是女耶?』廣國白言:『實我之妻也.』復問:『汝知鞫罪耶?』答:『我不知.』問女之,答:『我實知之.擯吾自家出遣.故,?惻厭媚.』王詔廣國曰:『汝實無罪,可還於家.然慎以?泉之事,勿妄宣傳.若欲見父,往於南方.』往而見之,實有我父.抱甚熱之銅柱而立.鐵釘卅七於其身打立,以鐵打.夙三百段,晝三百段,夕三百段,合九百段,?日打迫.廣國見之,悲而言:『鳴呼!何圖之受是苦也?』父言:『我受是苦,吾子,汝知不也.我為養妻子故,或殺生物,或貸八兩綿強倍十兩?,或貸小斤稻而強大斤取,或人物強奪取,或他妻奸犯,不孝養父母,不恭敬師長,不奴婢者罵慢.如是罪故,我身雖少而卅七鐵釘立,?九百段鐵鞭打迫之.痛哉!苦哉!何日免吾罪?何時得安身也?汝忽為我造佛寫經,贖罪苦.慎慎莫忘矣.我飢七月七日成大蛇到汝家,將入屋?之時,以杖懸棄.又五月五日成赤狗到汝家之時,喚犬而相之,唯追打者飢熱還.我正月一日,成狸入於汝家之時,飽供養宍種物,是以繼三年之糧.我無兄弟,上下次第而失理,成犬?白出汁.我必可成赤狗.』凡布施米一升之報,得卅日之糧.布施衣服一具之報,得一年分衣服.令讀經者,住東方金宮後,隨願生天.造佛菩薩者,生西方無量壽淨土.放生之者,生北方無量淨土.一日齋食者,得十年之糧.乃至見造善惡所受報等出.廣國暫徘徊,少子出來.時守門人,見其少子而長跪禮.少子喚廣國,將至片方脅門,押其門而開之.將出,告曰:『速往.』廣國問少子云:『汝誰之子?』答:『欲知我者,汝幼稚時,奉寫觀世音經是也.』還之焉,即見甦還.」廣國至?泉見善惡之報,顯?流布也.作罪得報之因?者,大乘經如廣?,誰不信耶?所以經云:「現在甘露,未來鐵丸也.」者,其斯謂之矣.廣國奉為其父,造佛寫經,供養三寶,報父之恩,贖所受罪.自此以後,迴邪趣正.  
 
平安時代末期の葬送風景
 

 

鎌倉時代の初めに制作された「六道絵」の一つに「餓鬼草紙」がある。餓鬼とは人が死んだあとの、成仏できないでいる霊魂のあり方をあらわすものだが、この餓鬼の様々な様相を絵に現したのが「餓鬼草紙」だ。このうち、「塚間餓鬼」と称されている一枚は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての、埋葬場所の有様を伺わせる貴重な資料ともなっている。  
絵には五体の餓鬼が描かれている。彼らがいるところは死体の埋葬場所=墓場である。墓場には、三つの盛土塚、二つの石積塚があるほか、四人の死体と、散乱した骨が描かれている。  
盛土塚は貴族などの身分の高い者を土葬したもの、石積塚は火葬または改葬後の墓だろうと思われる。死体のうち一体は木棺に納められ、二体は蓆の上に寝かせられ、一体は白骨化した状態で地上に横たわっている。これらの遺体は、風葬のさまを描いたものと考えられる。平安時代の末までは、身分の低い者の間では、遺体を野ざらしにする風葬が一般的だったのだろう。  
塚や死体の合間を縫うように餓鬼がうろついている。彼らはこの墓場に葬られた遺体から抜け出てきた亡霊なのである。その餓鬼のひとりが、膝の上に髑髏を抱えているのが見える。その髑髏は、餓鬼にとっての、かつての自分自身の亡骸なのかもしれない。彼は自分自身の亡骸と対面することで、何を感じているのだろうか。  
この絵は、我々に多くのことを教えてくれる。まず、平安時代の終わりころまでは、庶民の間では風葬といって、遺体を野ざらしにすることが普通だったらしいこと。そのことは、当時の庶民が遺体に特別な価値を認めていなかったことを物語っているのだろう。  
次に、死んだ後の霊魂を餓鬼と言う形で表象するということは、当時の人が人間の死後のあり方に深い関心を抱いていたことを伺わせること。餓鬼という観念は仏教伝来のものと考えられるが、それに、この絵にあるような姿をとらせたのは、当時の日本人の感性だったと思われる。  
仏教の教えでは、餓鬼とは六道の一つであり、死んだ人の霊魂の一部はそこでさまようこととなっていた。霊魂が墓場のまわりをさまよい、なおかつ、自分の亡骸と対面するなどというイメージは、当時の日本人が作り出したユニークな営みだったと考えられる。恐らく、日本人の霊魂観が、そこに深くかかわっているのだと思われる。  
また、この絵では土葬と火葬とが相並ぶイメージとして並置されている。土葬が風葬の進化した形態だとすれば、火葬はそれとは断絶した葬送形態である。この互いに断絶しあったものが、同じ画面に共存しているところが、この絵のもっとも考えさせるところだ。  
ともあれ、この絵に描かれた光景は、鳥野辺や木幡といった京都周辺の葬送場所のイメージそのものと考えてよいだろう。人々は死者の亡骸を葬送場所に放置したあとは、殆ど顧みることがなかった。そこは死者と餓鬼の世界であって、生きている者が近づくべき場所ではなかったのである。  
 
勘違いが生んだ「黒い喪服」

 

壁画からよむ、古代ニッポン 
私は時代劇や歴史ドラマが好きでよく見るのですが、当時の人々の服装をどうやって再現するのか、いつも不思議に思って見ています。写真や現物が残っている時代ならまだしも、何世紀も前のこととなるとほとんど手がかりがなさそうに思えるのですが…。先生は、服飾史のご研究をされている数少ない専門家の1人でいらっしゃいますが、服飾史の研究とはどういう手法でされるものなんですか? 
文献、遺品、壁画・絵巻物といった絵画類など、手がかりはいろいろあります。私は古代が専門なので文献や遺品が中心ですが、何といっても一番参考になるのは壁画ですね。 
そういえば、先生は高松塚古墳壁画の製作年代決定に関する論文を書かれていらっしゃいますね。 
はい。壁画に描かれている人物の服装から製作時期を割り出してみたところ、日本が中国の服飾文化を取り入れるようになった後のおよそ20年間に絞ることができました。 
なぜ、そんなことが分るのですか? 
日本は、7世紀初頭の遣隋使派遣頃から中国と交流し始めますが、服飾が唐風化し始めるのは7世紀後期の天武朝からです。あの壁画の服装は、中国式を取り入れつつもまだ完全ではないからです。 
例えば、どんなところが? 
1つは襟の合せ方です。日本はもともと左袵(おくみ)だったのを、719年に中国に倣って右袵(おくみ)に変えるのですが、この壁画ではまだ左袵(おくみ)のままです。また、上衣の裾が下衣の中に入っていないのも、旧来の着方です。しかし、上着の裾に襴(らん)<横布>が付いていたり、袖が長いのは、明らかに唐の影響です。 
日本式と中国式が混ざり合っているのですね。 
そうです。これらを文献と照らし合せて考えると、恐らく684年から703年頃の間に描かれたものだと推測できます。 
なるほど。ちなみに、中国文化を取り入れる前は、日本はどこの国の影響も受けていなかったのですか? 
私は朝鮮半島の高句麗系文化の影響を受けていたのではないかと思っています。朝鮮半島で発見された高句麗時代の壁画には、高松塚古墳壁画とそっくりなものがあるんですよ。 
古代日本と朝鮮半島には、私達が考えている以上に深い関わりがあったのかも知れませんね。 
「表示」から芸術へ表情豊かな人物埴輪 
先生は「埴輪展」などで講演をされるなど、人物埴輪のご研究でも活躍されていらっしゃいますが、そもそも人物埴輪はどういう目的で作られ、何に使われていたのですか? 
それにはさまざまな説があります。殉死の代用としたとする説や、殯(もがり)の儀礼<死者の魂を安らげるための儀式>を表現したという説など…。ただ、いずれにしても何らかのものを表示する意図で作られるようになったのは確かです。襷(たすき)をかけていたり、器を捧げ持っていたり、合掌していたりと儀礼的なものが多いです。 
以前、どこかの博物館で「踊っている埴輪」を見たことがありますが。 
それは後期の頃のものでしょうね。時が経つにつれ、儀礼的なものから「飾り」や「芸術」としての意味合いが強くなっていったようで、さまざまな形の埴輪が作られるようになりました。踊っていたり、子守をしていたり、相撲をとっていたりと、しぐさも表情も本当に豊かなんですよ。 
服飾史を研究する上でも、貴重な資料ですね。 
当時の人々の服装や生活がそのまま表現されていますから、これほど良い資料はないというくらいです。特に関東で見付かった人物埴輪は数も多く、バラエティに富んでいるので、非常に参考になります。 
地域によって特色があるのですか? 
もともと人物埴輪は5世紀に畿内で作られるようになりましたが、そこで繁栄・衰退していく一方で関東にも伝搬し、関東では6世紀頃最盛期を迎えました。 
ですから畿内では初期、関東では後期のものが多いのです。しかし畿内はその後、土地開発が盛んに行なわれたということもあり、土中に埋まっていた埴輪が壊されたり、どこかへ行ってしまった可能性が高く、あまり数が残っていません。一方、関東は田舎だったこともあり、土地開発の影響をさほど受けず、無事発見される数が多いのでしょう。 
勘違いが生んだ「黒い喪服」 
先生は文献と遺品を照らし合せて研究をされるとのことですが、文献の方でも何か面白い発見があったそうですね。 
喪服の色の話ですね? 
ええ。日本の喪服はもともと白で、それが黒、白、黒と変っていったと…。 
そうなんです。古代の喪服が白かったということは「日本書紀」や「隋書倭国伝」などで知っていたのですが、平安時代になるとなぜか黒に変ってしまうのです。どうしてだろうと思って調べ始めたら、いろいろと面白い理由があったんですよ。 
では、最初に白から黒へ変化したのはどんな理由だったのですか? 
718年に養老喪葬令が出されて、「天皇は直系二親等以上の喪には「錫紵(しゃくじょ)」を着る」と定められたのがきっかけです。当時の注釈書によると、「錫紵」とは「いわゆる墨染めの色」のことです。これは中国の 「唐書」に「皇帝が喪服として「錫衰(しゃくさい)」を着る」と書いてあり、この中国の制を真似して定めたものと考えられるものです。ところが、実はここで大きな勘違いを犯してしまったんです。 
といいますと? 
唐でいう「錫」とは、灰汁処理した目の細かい麻布のことで、それは白い布のことなのですが、どういうわけか日本人はこれを金属のスズと解釈し、スズ色、つまり薄墨に染めてしまったというわけなんです。 
本当ですか? それまた大きなミスですね。 
間抜けな話ですが、その当時に書かれた文書にはっきりと書いてあるのですから、間違いありませんよ。 
それでは文句はいえませんね(笑)。 
はい(笑)。 この「錫紵」の色は、平安時代になると貴族階級にも広まって、薄墨だった色合いも次第に濃くなっていきます。これはより黒い方が深い悲しみを表現すると考えられたからで、あの 「源氏物語」でも、妻を亡くした光源氏が「自分が先に死んでいたら妻はもっと濃い色を着るのに、自分は妻の喪だから薄い色しか着られない」と嘆く場面があります。 
黒を着てはいけなかったのですか? 
養老喪葬令の時、喪に重い軽いが定められ、平安になるとこれによって着る色が決められましたからね。その後平安後期になると、一般的に黒が着られるようになりました。 
ところがその後、白が復活し、そしてまた黒に変ったんですよね? 
そうなんです。白が復活したのは室町時代で、途中江戸時代に水色が登場したりしますが、基本的には白が続きます。そして、明治維新を機にヨーロッパの喪服を取り入れて黒になり、現代に至っています。 
室町時代に白が復活した理由は、何だったんですか? 
まだはっきりとは分っていませんが、私が思うには養老喪葬令以降、喪服を黒くしたのは上流階級だけで、庶民は一貫して白のままだったのではないかということです。 
といいますのは、白い布を黒く染めるには染料もいりますし、手間もかかります。昔は人の死を「穢れ(けがれ)」と考えていて、一度着用した喪服を処分していたようですが、そんな手間をかけたものを庶民が簡単に捨てたとは考えにくい。 
それに、先祖代々受け継いできた伝統を変えるには、相当勇気がいるはずです。現代よりもはるかに信心深い時代ですから、伝統を変えることによってたたりや災いが起こるのではないかという"恐れ"が相当強かったと思います。 
確かに、食事の作法ならともかく、お葬式の形式を変えるのは抵抗がありますね。 
実は、養老の喪葬令で喪服が黒とされて以来、室町以降も宮中ではずっと黒のままだったんです。格式や形式を重んじる宮中では、一度決めた決まりを頑なに守り続けました。それと同じように、庶民は貴族の「黒」におされながらも、「白」という色を守り続けていたのではないでしょうか。そして、貴族の影響力が薄れた室町時代に、その"白文化"が盛り返したのではないかと考えています。 
上流階級は「決まり事だから」という理由で黒を、庶民は形式を変えることへの恐れや経済的理由などから、白という色を代々受け継いでいたわけですね。 
そうです。先程も申しました通り、「死」に関する儀式や死生観というものは、そう簡単には変らないと私は思います。前述の殯(もがり)の儀礼のように、お酒を飲んで踊ったり、あるいは泣き続けたりするしきたりが古代にもありましたが、この伝統は現代のお通夜に見られます。泣いている人もいれば、その傍らでお酒を飲んで騒がしくしている人もいる…。このように私達は、古代の風習を当り前のように受け継いでいるのです。 
「△」マークの謎を解く 
ところで、次の研究のテーマは? 
亡くなった人の額に付ける△の白い布がありますよね? 「額被り」「紙被り」といわれていますが、あの起源をぜひ解き明かしたいと思っています。 
絵に描かれた幽霊が必ず付けているというほどポピュラーなものですが、そういわれてみると、何のためのものか分りません。 
実は、あれも随分前からある風習で、鎌倉時代の「北野天神縁起絵巻」にも描かれていますが、喪主や棺を担ぐ人も付けていたようです。ところがなんとこの△マーク、古墳時代の埴輪や壁画にもたくさん描かれているんですよ。なぜか古代からずっと歴史上に登場しているマークなんです。 
先生は、それが額被りと関係があるとお考えなのですね? 
そうなんです! 額被りの由来はまだはっきりしていませんが、△マークの持つ意味が分ればその起源も分るのではないかと思って、今、研究を進めているところです。必ずどこかで結び付く--そんな予感がするんですよ。 
それを発見された時の先生の喜ぶお顔が目に浮かぶようです(笑)。 
今後はこの△マークを中心に、喪服史の研究を続けていこうと思います。喪服の研究を通して、日本人の死生観が見えてくるのではないかとも期待しています。  
  
冠婚葬祭

 

日本において共生した神道・仏教・儒教の三宗教は、冠婚葬祭の中で合体を果たした。 
冠婚葬祭とは何か。 
それは、結婚式や葬儀といった人生の二大通過儀礼を中心として、人々の心に共感を生み出す装置である。もちろん、結婚式という「婚」と葬儀という「葬」の葬儀だけが、「冠婚葬祭」のすべてではない。 
「冠」はもともと元服のことで、一五歳前後で行われる男子の成人の式の際、貴族は冠を、武家は烏帽子(えぼし)を被(かぶ)ることに由来する。現在では、誕生から成人までのさまざまな成長行事を「冠」とする。 
「祭」は先祖の祭祀である。三回忌などの追善供養、春と秋の彼岸や盆、さらには正月、節句、中元、歳暮など、日本の季節行事の多くは先祖を偲び、神を祀る日であった。現在では、正月から大晦日までの年中行事を「祭」とする。 
冠婚葬祭の意義についても、いろいろな見方がある。民俗学者の宮田登は、著書『冠婚葬祭』で次のように指摘した。人々はハレの日と心得ていて儀礼に参加するわけだが、その際には必ず前提としてケガレの状況が、それぞれ個人のレベルでともなっている。すなわち、「ケガレの排除」ということが冠婚葬祭の一つの目的だというのである。 
文芸評論家の斉藤美奈子氏は、著書『冠婚葬祭のひみつ』で次のように推測した。冠婚葬祭とは「生物としてのヒト」を文化的な存在にするための発明品だったのではないか。冠婚葬祭という儀礼の衣を剥(は)ぐと、その下から現れるのは生々しい身体上の諸現象である。結婚とは一皮むけば性と生殖の公認に他ならず、葬儀は肉体の死。元服を迎える一五歳前後は第二次性徴である。すなわち冠は「第二次性徴の社会化」、婚は「性と生殖の社会化」、葬は「死の社会化」、そして祭は「肉体を失った魂の社会化」である。儀礼とは生理を文化に昇格させる装置だったのではないかというのである。 
もちろん、冠婚葬祭とは人間の魂の営みであるという見方もある。冠婚葬祭会社の中には、結婚式とは新郎新婦の魂を結合させる「結魂」式であり、葬式とは死者の魂を彼岸に送り届ける「送魂」式であるとして、冠婚葬祭業を「魂のお世話業」としてとらえているものもある。 
そういったさまざまな見方をふまえながらも、やはり、共感を発生させることこそ冠婚葬祭の大きな意義であると言えよう。現代でも、結婚披露宴で花嫁が声をつまらせながら両親への感謝の手紙を読む場面や、告別式で故人への哀惜の念が強すぎて弔事が読めなくなる場面などでは、非常に強大な共感のエネルギーが生まれている。また、小さな子どもの七五三や先祖の墓参りのときなどにも、集まった家族の心には、おだやかながらも確実に共感というものが芽生えている。これはかつてイギリスの人類学者ヴィクター・ターナーが「コミュニタス」と名づけたものに通じていると言える。 
コミュニタスとは、身分や地位や財産、さらには男女の性別など、ありとあらゆるものを超えた自由で平等な実存的人間の相互関係のあり方である。簡潔に言えば、「心の共同体」ということになるだろう。ターナーは主著『儀礼の構造』において、ユダヤ人哲学者マルティン・ブーバーの「我と汝」という思想、フランスの哲学者アンリ・ベルグソンの「開かれた道徳」「閉ざされた道徳」という考え方を援用してコミュニタスを説明する。 
コミュニタスは、まず宗教儀礼において発生する。一般に儀式とは、参加者の精神を孤独な自己から解放し、より高く、より大きなリアリティと融合させることを目的にしている。特に宗教儀式においては、一般の信者には到達することができないような宗教的な高みを彼らに垣間見させるという意味合いが大きい。カトリックの神秘家の目的は「神秘的合一(ウニオ・ミスティカ)」の状態に達すること、すなわち神の存在を実感し、一つになるという神秘体験をすることにあるし、熱心な仏教徒が瞑想をする目的は、自我がつくり出す自己の限界を打ち破り、万物が究極的には一つであると悟ることにある。けれども、稀代の高僧ならいざ知らず、誰もが独力でこうした高みに到達できるわけではない。そこで、一般の信者にも参加できる効果的な宗教儀式というものを考案して、彼らにもおだやかな超越体験をさせ、その信仰を深めさせようとしたのである。 
これは、キリスト教や仏教といった大宗教に限らない。これまで地球上に登場した人類文明のほとんどすべてが、何らかの宗教儀式を生み出してきた。もちろん、すべての儀式が宗教的であるわけではない。政治集会から、裁判、祝日、求愛、スポーツ競技、そしてロック・コンサートや個人の冠婚葬祭に至るまで、いずれも立派な社会的かつ市民的な「儀式」である。こうした世俗的な儀式にも、個人をより大きな集団や大義の一部として定義しなおすという意義があると言えよう。個人的な利益を犠牲にして公益に奉仕することをすすめ、社会の団結を強めるためのシステムとしては、世俗的な儀式は、宗教的な儀式よりもはるかに実践的である。この機能を軽視することはできない。そもそも社会に利益をもたらすからこそ、儀式的行動が進化してきたとも考えられるのである。 
ターナーも、コミュニタスは何よりまず宗教儀式において発生するとしながらも、それを大きく超えて、広く歴史・社会・文化の諸現象の理解を試みている。そしてターナーは、この「心の共同体」としてのコミュニタスに気づくことにより、「社会とは、ひとつの事物ではなく、ひとつのプロセスである」という進化論的な社会観に到達したのである。 
そして、「心の共同体」は「共同知」を生む。もともと儀式にはメンバーがある知識を共有するための、いわば「ナレッジ・マネジメント」としての側面がある。企業において、毎日の朝礼にはじまり、新年祝賀式典、創立記念式典、各種進発式あるいは社葬などは、いずれも社員間に「共同知」を生み出すための文化装置であると言えよう。 
伝統的共同体においては、「共同知」は儀式のみならず、しきたり、言い伝え、あるいは老人の知恵、民話や童謡、そして祭という形で蓄積され、伝承されてきた。かつてグリム兄弟が採集し、柳田國男が調査してきたのは、このような「共同知」の全貌だったのである。そこには、昔話のようでいて、実はコミュニティを維持し運営するための問題解決の方法や、利害対立が起こったときの対処のノウハウなどが語られていることが多い。逆に、そのような意図があることを忘れてしまった地域や都市において、祭も伝説も形骸化してしまったのである。 
もちろん「共同知」は、伝統的共同体の専売特許ではない。情報共有を原則とするインターネットの世界にもよく見られる。しかし、インターネットにおいて共有されるものは記号化された知的情報であり、伝統的共同体のそれは主として記号化されない心的情報であると言えるだろう。当然ながら、冠婚葬祭も心的情報の発信装置である。
社葬や国葬のように残された社員や国民の心を結束させる目的を持つ儀式も存在するが、現在の地球上で最も巨大な共感を生み出す心的情報装置といえば、やはりオリンピックに尽きるだろう。オリンピックはその開閉会式、数々のスポーツ競技、そして他の国の人々との交流によって共感を絶え間なく生み続けるイベントだ。二00四年のオリンピックは、五輪発祥の地アテネで開催されるということでかつてない盛り上がりを見せた。古代ギリシャにおけるオリンピアの祭典競技は、勇士の死を悼む葬送競技として発生したという。その意味で、二一世紀で最初に開催されたアテネ・オリンピックとは、9・11同時多発テロやアフガニスタン、イラクで亡くなった人々の霊を慰める壮大な「人類葬」であったのかもしれない。 
オリンピックのみならず、ワールドカップや万国博覧会といった国際的なイベントや、その開会式・閉会式に代表されるように、儀式や祭典とは、人類にとって万国共通の民族感情であり、人間の本能的欲求の集団的なシンボルといってよい。そうした人間感情の最も素朴な欲求として、結婚式ならびに葬儀をあげることができる。 
その生涯において、ほとんどの人間が経験する結婚という慶事には結婚式、すべての人間に訪れる死亡という弔事には葬儀という形式によって、喜怒哀楽の感情を近隣の人々と分かち合うという習慣は、人種・民族・宗教を超えて、太古から現在に至るまで行われている。この二大セレモニーはさらに、来るべき宇宙時代においても当然継承されることが予想される「不滅の儀式」であり、おそらく人類の存続する限り永遠に行われるであろう。 
しかし、結婚式ならびに葬儀の形式は、国により、民族によって、きわめて著しく差異がある。これは世界各国のセレモニーというものが、その国の長年培われた宗教的伝統あるいは民族的慣習といったものが、人々の心の支えともいうべき「民族的よりどころ」となって反映しているからである。 
日本の儀式も例外ではない。結婚式ならびに葬儀に表れたわが流礼法に代表される武家礼法に基づくが、その武家礼法の源は『古事記』に代表される日本的よりどころなのである。すなわち、『古事記』に描かれたイザ、今日の日本的儀式の基調となって継承されてきたのである。 
太平洋戦争以後、わが国の社会形態は大きな変革を遂げ、欧米文化の著しい影響を受けた。それにもかかわらず、また、神前・教会式・仏式・人前式といったスタイルの別なく、今日の結婚式の中に、花嫁が白無垢(打掛)から振袖(色直し)にかかわる形において、日本人としての陰陽両儀式の踏襲が見事に表現されている。 
現代日本の結婚式を見ると、従来のスタイルのハウスウエディングやレストランウエディングなどの新興勢力が入り乱れて、一種のカオスの状態となっている。このようなカオスの中で、「日本で昔から行われてきた神社での神前式を見直せ」という声も起こっているが、神前式とは決して伝統的なものではなく、その歴史は意外にも新しいのである。それどころか、キリスト教式、仏式、人前式などの結婚式のスタイルの中で一番新しいのが神前式なのである。 
もちろん古くから、日本人は神道の結婚式を行ってきた。でもそれは、家を守る神の前で、新郎と新婦がともに生きることを誓い、その後で神々を家に迎えて、家族、親戚や近隣の住民と一緒にごちそうを食べて二人を祝福するものであった。つまり、昔の結婚式には宗教者が介在しなかったのである。神道もキリスト教も関係ない純粋な民間行事であったわけだ。 
しかし、日本における冠婚葬祭の規範であった小笠原流礼法は朱子学すなわち儒学を基本としていた。昔の自宅結婚式の流れは当然ながら小笠原流が支配していたから、その意味では日本伝統の結婚式のベースは儒教であったとも言える。 
現在も小倉に伝わる小笠原流礼法のルーツは二つあり、一つは、源頼朝の家来だった小笠原長清を祖とする鎌倉時代以来の弓道と馬術の礼法である。もう一つは、足利義満の礼儀作法の師だった小笠原長秀を祖とするもので、室町時代以来の冠婚葬祭や日常のマナー全般の規範としての礼法である。 
小笠原流礼法の影響下のもと、日本の結婚式は本来、家の中で完結する行為だったが、明治以後に神社で行う神前結婚式が盛んになった。当時導入されだしたキリスト教式の結婚式に影響を受けて登場し、明治三三年(一九〇〇年)に宮中の賢所で行われた皇太子(のちの大正天皇)と節子姫との婚儀がきっかけである。そのありさまが報道され、民衆の間に、「皇太子殿下のようにおごそかに神前で結婚式をあげてみたい」という声が広まる中で、翌三四年に日比谷大神宮(現在は飯田橋にある東京大神宮)が一般国民を対象に、大神宮の神前で模擬結婚式を行った。さらに翌三五年、アメリカ帰りの高島ドクトルと仙台の豪商の娘、金須松代のカップルによって、実際に民間での神前式第一号が行われたのである。九月二一日、午後四時三0分から三〇分間の挙式、その後は帝国ホテルに移動して披露宴。初の民間神前式はナイト・ウエディングでもあった。 
この神前式について、当時の新聞は「立礼である点、簡易軽便にして」と三0分式をほめたたえている。この日比谷大神宮の「仕掛け」がヒットして、全国各地の神社が神前結婚式を行うようになったのである。なお、ホテルの中に初めて神前式場をつくったのも帝国ホテルで、大正一二年(一九二三年)の関東大震災で日比谷大神宮が崩壊したためであった。 
神前結婚式の歴史はたかだか百年にすぎず、それもキリスト教式の導入がきっかけという、いわば外圧によって生まれたものであるという点が興味深い。キリスト教の外圧は、仏教にさえも影響を与えた。日本で仏前結婚式がはじまったのも明治時代の末期で、曹洞宗を皮切りに各宗派が結婚式に参入した。増上寺や築地本願寺でも婚礼が行われている。 
結婚式には大きな影響を及ぼしたにせよ、日本におけるキリスト教の布教は不振と言う他はない。鎖国時代は致し方ないとしても、明治六年の切支丹禁制高札撤去から百三〇年たって、いまだに信徒数は百万ほどで、人口比は一%にも満たない0・九%にとどまっている。これでは宗教界の世界シェア三0%の看板が泣くというものだ。 
一方、隣の韓国を見ると、日本とは大違いで、二五%である。この二〇年間で大幅に信徒が増えたそうだが、同じ漢字文化圏に属しながら一%と二五%、この違いはどこから来たのだろうか。いろいろな理由が考えられるが、一つには、キリスト教から見て「入りやすさ」の違いがあったのではないかと言われる。韓国は伝統的な宗教風土として儒教の影響が強いことが知られている。儒教は一五、一六世紀に朝鮮政権と結びついて強い影響力を持ったが、逆に一七世紀以降は王朝とともに衰退する。入れ代わりに、近代化とともにキリスト教が入ってきた。儒教とキリスト教はいずれも「天」という共通のコンセプトを持っていたがゆえに、スムースに交代が行われたのではないかという見方がある。 
日本には何があったかというと、基本として古神道に代表されるアニミズムである。自然界のあらゆる事物を霊的存在とみなす「やおよろず」的な宗教観で、キリスト教とは到底かみ合わない。アニミズムに「天」は存在せず、「天」の文字は古代から天皇という最高権力者のものだったのである。そのため日本ではキリスト教伝来の当初から「天」あるいは「天にいます神」という概念を受け取るのに苦労したのだ。キリスト教側から見れば、非常に教義が入りにくい、伝えにくい土地であったのだろう。 
その日本で布教が奮わなかったキリスト教が、なぜか教育界とブライダル業界では大成功を収めた。ともに女性のニーズをつかんだことが大きいとされるが、聖心や白百合に代表される女子のミッション・スクールや、上智・立教・青山学院といったキリスト教系大学のイメージは高く、チャペル・ウエディングは今日に至るまで大人気である。神前式の誕生によって後退した教会式も、一九八0年代に三浦友和と山口百恵、神田正輝と松田聖子、郷ひろみと二谷友里恵などの芸能人が教会で結婚式をして以来、現在にまで続く大きなブームとなった。 
皇室や芸能人といった「セレブ」の儀式やライフスタイルを一般の人々が真似るという、スノビズムを媒介とした一種のシミュレーションをそこに見ることができる。それ以前にも、昭和を代表する結婚式である皇太子(平成天皇)と美智子妃の婚礼の儀によってウエディングドレスが定着したり、石原裕次郎と北原美枝の結婚披露宴が日活ホテルで行われたことによってホテル婚が流行したりという現象があった。 
このシミュレーションは、結婚式のみならず葬儀も同様で、一九八七年の石原裕次郎と八九年の美空ひばりの葬儀はさまざまな形でその後の日本人の葬儀に影響を与えたと言われている。日本においては「神」「仏」「人」の三位一体があると思われるが、ここでは「人」が儀式のトレンドを作っているわけである。
日本人の葬儀について見てみよう。結婚式における神前式と同様、多くの日本人は昔から仏式葬儀が行われてきたと思っている。たしかに、葬儀や法要に仏教が関与するようになったのは仏教伝来以来早い段階から見ることができる。また、日本に至るまでのインド、中国、朝鮮といった各地の仏教にも見ることができる。しかし、仏教の機能は葬儀や法要を主とするようになったのは、日本のみの現象であり、それも江戸時代にまで下る。 
すでに室町時代の禅僧の語録には葬儀や法要での法語が多く含まれ、葬式仏教化が少しづつ進む様子がわかるが、仏式葬儀の普及を決定的にしたのは徳川幕府による寺請(てらうけ)制度であった。キリシタンの追放を決めた幕府は「キリスト教禁止令」を出したが、人々がキリシタンでないことを証明するためにはいずれかの寺の檀家になるしか方法がなかった。これが寺請制度である。住民がキリシタンでないことを証明するためには「宗門人別帳(しゅうもんにんべつちょう)」を作成し、それが同時に戸籍の役目を果たした。 
寺院を末端の行政機構として使おうという幕府の企みだが、実際その機能は有効に果たされ、それによって寺院は存続していくことが可能になったのである。その中で、寺院が墓地を管理し、「過去帳」という死者の戸籍を管理することになった。死者との接点という役割も寺院に与えられ、死者を送る葬儀も僧侶による仏式が定着していくわけである。 
一方、明治維新後、神道が復興するにつれ、神道式の葬儀を見直す動きがはじまり、仏式とは異なる神葬祭(しんそうさい)が登場した。この神葬祭の主な行事は、帰幽奉告(きのうほうこく)、通夜祭(つやさい)、葬場祭、霊前祭などである。しかし、神葬祭は広く普及するには至らなかった。神道家たちは、葬祭儀礼が仏教に任されている限り、ライバルである仏教の力は弱まらないと見て神葬祭運動を推進したわけだが、結局一部に採用されたのみに終わったのである。葬式仏教はそれほど強固に日本に定着していたのだ。 
しかし、その葬式仏教の根底には儒教の存在があった。仏式葬儀では、寺院の本堂集王に安置されている本尊の他、真言宗系なら「南無大師遍照金剛」、浄土宗・真宗系なら「南無阿弥陀仏」、禅宗系なら「南無釈迦牟尼仏」、日蓮宗系なら「南無妙法蓮華経」といった、その宗派のシンボルとなっている重要な言葉を記した掛軸を本尊とする。この掛軸の前に柩を置くが、崇め拝む対象は、あくまでも本尊としての掛軸である。掛軸への拝礼が終ってから柩に対して思いをいたすということが、仏式葬儀における最重要ポイントである。しかし、仏式葬儀参列者のほとんどは、故人の写真を仰ぎ、柩に向って礼拝する。そして故人を想っては泣き、何回も香をつまんで焼香し、遺族に重々しく挨拶するばかりで、本尊をまったく無視して退場する。 
また葬儀が始まり、本尊に対する読経が終ると、導師はさっさと退場する。その後、遺族たちによって柩に別れ花が入れられ、次いで彼らが柩を持って出棺となる。このとき、本尊に読経して死者を導いた導師が先に退場してしまい、出棺には立ち会わないことに疑問を持つ人もいる。しかし、その理由は簡単だ。死者は成仏したのであり、仏教では、死者の肉体はもはや単なる物体にすぎないからである。あるいは、成仏しておらず、死者は「中陰(ちゅういん)」と呼ばれる生と死の中間領域に入ったのかもしれない。その場合も、残された肉体には何ら仏教的意味はない。 
しかし、儒教は違う。中国哲学者の加地伸行氏は、著書『儒教とは何か』に書いている。 
「儒教では、その肉体は、死とともに脱けでた霊魂が再び戻ってきて、憑(よ)りつく可能性を持つものとされる。だから、死後、遺体をそのまま地中に葬り、墓を作る。それがお骨(こつ)を重視する根本感覚となるのである。そうした儒教的立場からすれば、死者の肉体は、悲しく泣くべき対象であり、家族(遺族)がきちんと管理すべき対象なのである。出棺のとき、仏教的には僧侶は関係がなく、儒教的には家族が関係し、その柩を運ぶのは、当然なのである」 
儒教学の第一人者である加地氏によれば、 
儒教では死者を悼んでいろいろな儀式を行う。始めにまず北窓の下にベッドを設けて、そこに遺体を安置する。これは儒教の規定である。このあと順を追って実にこまごまとした規定の下に儀式を進行する。そして出棺となり、墓地に葬る。死から葬るまでのその間、遺体を家に安置しておくが、このことを殯(ひん)(もがり)という。死後すぐに遺体を葬るわけではない。今日の葬儀において、お通夜をしたり告別式がすむまで柩を安置しているのは、医学や法律の時間制限は別としても、また日本古来の習俗とも融合しているとしても、それは儒教における殯の残影なのである。 
儒教では、死から殯の儀式を経て、遺体を地中に葬り、さらにその後の儀式が続くが、そういう一連の儀式全体を「喪」という。遺体を埋める「葬」は「喪礼」の一段階にすぎない。だから儒教的に言えば、「葬式」ではなくて「喪式」である。また、婚礼は昏(くら)い間に行われたことから、日本語の「冠婚葬祭」は儒教では「冠昏喪祭」が正しいという。 
仏式葬儀の中には、このように儒式葬儀の儀礼が取り込まれているのである。加地氏によれば、インドにおける本来の仏教に、果たして今のような葬儀の儀礼があったのかどうかさえ疑問であるという。たとえば、明代の儒者である丘濬(きゅうしゅん)が「仏教は中国伝統の喪礼や祭祀の仕方を盗んで葬儀や法要の諸儀礼を作っている」と語ったと、『文公家礼儀節(ぶんこうかれいぎせつ)』の序に出ているのである。しかし加地氏は、「誤解なきようにあえて記すが、日本仏教はもちろんすぐれた宗教として存在する。私は仏教信者でありつつ、儒教的感覚の中で生きている」と述べている。この言葉は、多くの日本人にも当てはまるものだろう。 
さて仏式葬儀には、儒教以外の宗教の影も隠れている。葬儀の帰路、会葬者に対して遺族側は答礼として御挨拶をする。そのとき、「清め塩」の小さな紙袋がよく渡される。葬儀が終って帰宅して家に入る前、この清め塩を身体にふりかけるためである。なぜ、そんなことをする必要があるかというと、葬儀で死者と関わり、死の穢(けが)れがついたであろうから、それを除いて清めるための塩なのである。
「死者の穢れ」という発想は、仏教でも儒教でもない。これは日本古来の死生観であり、神道につながっている。日本人は、インド人や中国人と異なり、死者を穢れたものと考えてきた。日本人は人が死ぬと、「不幸があった」などと言うが、死なない人間はいないわけだから、人の人生そのものがすべて不幸で終ることになってしまう。マゾヒズム的というか、非常に奇妙な考え方であり、仏教や儒教では「死」を「不幸」などとは絶対に表現しない。「死」を「帰天」ととらえるキリスト教徒の中には、死者への礼に反するとして「清め塩」を否定する信者もいる。 
しかし、いくら世界的に見て奇妙キテレツな死生観であっても、古来の習慣の伝統は簡単には消えない。日本古来の死生観は、仏式葬儀の中にも取り込まれ、ちゃんと生きているのである。 
また、儒式葬儀と日本人の死生観とも重なり合う部分がある。仏教ではお骨に何の意味もない。しかし、私たち日本人は依然としてお骨を単なる物体として考えることができない。飛行機や船などの事故の犠牲者の遺体は、たとえ白骨になっていても探し求めようとする。あくまでも霊魂とお骨とを同一視するという意識がある。この感覚は日本人独自の祖霊観、祖霊意識であり、かつまた古今東西、世界中に見られるものである。もちろん、中国にも存在したし、今もある。そして、この感覚を見事に理論化して、さらに体系化したものこそ儒教なのである。加地氏いわく、おそらくそれは世界で唯一の理論体系であるという。 
日本人の祖霊感覚は仏教よりも儒教に近いわけである。このように、仏式葬儀の中には、実は神道も儒教も入り込んでいるのだ。武士道や心学と同じように、葬儀においても神道、仏教、儒教が混ざり合っているのである。 
こうして見ると、日本人の生活に密着した冠婚葬祭とは、さまざまな宗教の受け皿となっていることがよくわかる。だからこそ、本書の冒頭にも出てきたような、神社と教会と寺を使い分ける日本人のエピソードが多用されるのである。 
結婚式場や葬祭会館といった現代的な冠婚葬祭施設においても、さまざまな宗教の共生は日常的に見られる。結婚式場には、神殿もチャペルもあるのが普通だし、創価学会の会員用に仏壇をしつらえた会場を持つ式場もある。最近では、古代ローマ帝国が人類史上で最も離婚が少なかったことから、古代ローマ式結婚式場というのもある。さらには、ギリシャ神話のオリュンポス一二神の神像に囲まれた結婚式、いわば多神教ウエディングなるものも登場して話題を集めている。 
葬祭会館においても、日本最大の「北九州紫雲閣」のように、仏式の葬儀会場はもちろん、神葬祭用の神殿や、キリスト教式葬儀用のチャペルまで備えたものもある。葬儀を最後の「自己表現」であり「自己実現」ととらえる人々のために、宇宙葬、月面葬、海洋葬、樹木葬、ガーデニング葬などを実現できる設備も整っている。まさに、何でもあり。宗教的に寛容な日本ならではの施設かもしれない。 
最後に、冠婚葬祭を日本最大の宗教であると言う人がいる。宗教嫌いの人間でも、信仰心のまったくない人でも、身内や知人、友人の結婚式や葬儀には必ず参列する。「冠婚葬祭」の四文字こそは、神道も仏教も儒教もキリスト教も超越した日本最大の宗教なのだというのである。 
しかし、冠婚葬祭は「宗教」そのものというより、「宗遊」とでも呼ぶべきものだろう。宗教の「宗」という文字は「もとのもと」という意味で、私たち人間が言語で表現できるレベルを超えた世界である。いわば、宇宙の真理のようなものだ。その「もとのもと」を具体的な言語とし、慣習として人々に伝えることを「教え」という。 
だとすれば、明確な言語体系として固まっていない「もとのもと」の表現もありうるはずである。音楽やダンスもそうだろうし、儀式というものもそうだろう。つまり、広い意味での「遊び」だと言ってよい。「遊び」についての不朽の名著『ホモ・ルーデンス』を書いたイタリアの文化史家ヨハン・ホイジンガは、「遊びは文化よりも古い」と述べたが、私は拙著『ロマンティック・デス』の中で「葬儀は遊びよりも古い」と書いた。実際、世界史を見ても、相撲・競馬・そしてオリンピックなどの来歴の古い「遊び」の起源はいずれも葬儀と深い関係がある。 
そもそも、約一0万年前にネアンデルタール人が死者を埋葬した瞬間、サルがヒトになったとも言われ、葬儀とは人間の精神的営みにおけるビッグバンであり、人類の存在基盤そのものである。 
古代の日本では、天皇の葬儀にたずさわる人々を「遊部(あそびべ)」と呼んでいた。冠婚葬祭と「遊び」のつながりをこれほど明らかにする言葉はない。 
二一世紀は「宗遊」の時代である。「宗遊」とは、「死」を見つめ、心を純化する営みとしての哲学・芸術・宗教が統合された大いなる精神の世界である。そして、それは冠婚葬祭そのものでもある。「宗遊」が真に実現されるとき、日本人はもはや、人が死んでも「不幸」とは呼ばないであろう。
  
法要のしきたりと心得

 

年忌日や法要・法事について  
一周忌までの法要  
初七日 主に葬儀の時にお世話になった方達を招きます。  
二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、臨終から七七日(四十九日)までは、祭壇に巻線香或いは、長寸線香を焚き、白木の位牌を安置します。後に述べますが、七七日(四十九日)が三ヶ月にわたる場合、五七日を忌明けとする地方もあります。お仏壇も忌明けまでには用意した方がよろしいでしょう。  
七七日 この日を満中陰といい、忌明け法要を営みます。  
百ヶ日 身内の者、友人、知人を招きます。  
初 盆 盆提灯、盆灯篭をととのえ、精進料理を供えます。併せて墓参りをします。
年忌法要の一般知識  
四十九日の法要で一段落しあとは初盆と年忌になります。死亡した翌年の祥月命日を一周忌と云い、死亡して二年目が三回忌となります。(これは、かぞえ年のためですが人が母親の胎内に宿った日からという意味で欧米式に数えれば0才となりますが昔から私たちの生活のなかでは0才とは数えませんでした。この習慣が入ってきたのは、戦後からだと聞いております。)このあと7、13、17、23、27、33、50回忌と続きます。熊本では、23、27をやめて25回忌を営むことが多いようです。また年忌法要は命日にするのが理想ですが、都合により命日の前でもかまいません。  
日取りは、早めに関係者へ連絡します。  
1) 年忌法要は、祥月命日に営む習わしですが、直前の休日に営む場合が多くなっています。  
2) 僧侶の予定を尋ね、日時、場所を決定します。決定後、早めに関係者に連絡します。  
(連絡は電話または、ハガキ封書にて)電話や口頭ではどうしても失礼にあたると思われる方へは案内状を出します。また会食などの場合人数が決定しないと困りますので返信用葉書を同封するか往復葉書を使用します。  
白木の位牌を本位牌(過去帖)に替えます。  
忌明け法要までに、漆塗りや唐木の本位牌、あるいは、過去帖を用意しておかなければなりません。忌明け法要(三十五日、四十九日、満中陰ともいう)では、葬儀に用いた白木の位牌は、本位牌と取り替えることになっておりますので、ご案内をさせていただきます。本位牌は、漆塗りまたは唐木のもの、あるいは繰り出し式になっているものです。なお、浄土真宗では法名軸を用いますが、しきたりにより位牌を用いることもあります。白木のお位牌はあくまで野辺送り用の仮位牌です。 忌明けを過ぎた白木の位牌は、菩提寺と相談して処置します。  
法要の後、会食を行ないます。  
1) 列席者の方々を、料理や酒などでもてなすのが通例になっております。  
2) 施主は、ここで挨拶をし、お布施は、あらかじめ用意しておきます。  
3) 僧侶が会食に参加されない場合の「御膳料」、交通費としての「御車代」を別途に包むこともあります。  
帰りに引き物をお渡しします。  
1) 会食には、引き物を付けるのが一般的です。  
2) お供え物を、皆さんに分け一緒にお持ち帰りいただく場合もあります。  
3) 手提げ袋や風呂敷を人数分用意し、持ち帰りに便利なようにしておきましょう。  
ご先祖の位牌を参考にします。  
1) 初めて位牌を選ぶ場合は、仏壇の様式やサイズに合わせます。また、ご先祖の位牌がある場合は、大きさ、形などを参考にします。  
2) 本位牌は、漆塗りまたは黒檀等の唐木のものが正式です。また、戒名を書いた位牌板を何枚も入れられる繰り出し式のものくりだしいはい回出位牌もあります。  
本位牌に、精(しょう)を入れます。  
1) 本位牌に、戒名(法名)、死亡年月日、俗名、死亡年齢などを書き込みます。  
2) 僧侶にお願いして精を抜きます。この事をはっけんほう撥遺法といいます。次に戒名(法名)を書き込んだ位牌に精 を入れます。これをてんがんほう点眼法といいます。  
分家にも、位牌を置く場合があります。  
1) 位牌は、本家のほか分家にも用意し、それぞれのご家庭で供養される場合もあります。  
仏壇と仏具の準備  
1) 仏壇をお求めになる場合は、年忌法要までにご用意されるとご供養に便利です。すでにご先祖からの仏壇がある場合は、仏具のお磨きを済ませておきます。  
2) 法要の機会に、仏壇・仏具の手入れ点検を行ない、取り替えや不足品の購入をされる場合も多いようです。  
3) 仏壇の補修は、「おせんたく」と呼ばれています。各部を丁寧に取り外して洗濯し、金仏壇では金箔の直しも行ないます。  
4) 「おせんたく」の時、ご本尊や位牌は菩提寺に預ってもらうのが正式です。この場合も僧侶にお願いして「お精抜き」と「入仏」を行なうこともあります。
法要の基礎知識  
法要の進め方は、宗旨宗派などにより異なりますが、自宅、会館、寺院などで行なう場合は、おおむね次のとおりです。  
1.一同入場・着席 2.開式の挨拶(省略可) 3.ろうそく、線香に点火4.僧侶にあわせて礼拝 5.読経 6.焼香 7.法話 8.閉式の挨拶、会食の案内9.お斎(会食) 10.お開きの挨拶  
上記順序補足説明  
1.自宅、寺院に関わらず法要前に茶菓などの接待を行います  
2.法要を始めるにあたり施主が挨拶をします。「本日はお忙しいところ、お越し下さいまして誠に有り難う御座いました。ただいまより****(故人名)の++年忌法要を執りおこなわせていただきます。」というような挨拶をのべ僧侶の方に「よろしくお願いいたします」とのべ深く一礼します。寺院での場合あらためて挨拶はせず茶菓にての接待の後、本堂で読経が始まることが多いようです。  
3.寺院での場合、僧侶にお任せします。  
4.僧侶から特に指示がない場合、僧侶に合わせて礼拝します。  
5.なるべく正座にて拝聴します。やむを得ない場合、見苦しくない程度に足を崩して結構です。足腰の弱い方、年輩の方がおられる場合、いすなどを準備しておく心配りも必要です。  
6.読経の途中、僧侶から合図がありましたら施主側の代表から順に焼香をいたします。順序は葬儀の時ほど厳密に考える必要はありません。仏前に進み合掌をし深く一礼、香をひとつまみ香炉に落とし、もう一度合掌の後、一礼して席に戻るという方式です。  
7.ふだん知る機会が少ない仏教に関する話を心に刻みながら、静かに拝聴します。  
8.施主は僧侶に御礼を述べた後、会食の予定があることを参会者に伝えます。  
9.会食が始まる前に参会者に御礼を申し述べます。このときに故人とのエピソードなどを交えながら挨拶をされるとよいでしょう。  
10.引き出物などの忘れがないよう心配りをしたいものです。  
参列者の席位  
法要の席位は、葬儀ほど神経質になる必要はありませんが、目上の方、遠方の方、故人と親しかった方は、なるべく上座になるようにします。施主は、法要の進行役をつとめます。  
祥月命日(しょうつきめいにち)月忌法要(がっきほうよう)  
祥月とは死亡した月をいい、命日はなくなった日の事をいいます。「祥」というのは、もともとおめでたいしるしという意味があり、故人が亡くなってから十三ケ月目を忌明けのめでたい月とした、中国の儒経の教えからきています。  
祥月命日以外の月々の命日(死亡した日と同じ日)にも、僧侶にお経をあげていただいたりして法要を営むことを「月忌」といいます。  
そもそも四十九日(満中陰)とは? 
死亡してから七週間(四十九日)は、「中陰」といいます。その間、縁故者が供養する事によって初めて、死者の霊は無事に極楽浄土に成仏すると考えられています。この供養は、亡くなられた日から数えて七日ごとに、初七日(しょなぬか)二七日(ふたなぬか)三七日(みなぬか)四七日(よなぬか)五七日(いつなぬか)六七日(むなぬか)七七日(満中陰、四十九日)と行なわれます。  
これは、人が死亡して冥土へいきますと閻魔様(えんまさま)の前で裁きを受けるといわれていますが、その審判が七日ごとにされると信じられていることから、その日を忌日として法要を行なうわけです。最近では、初七日の法要と、五七日か七七日かどちらかの法要と、計二回に省略することが多くなり、そして、四十九日の法要をしてそれで忌明けとするというのが一般的な習慣となっています。そのあとは、百ケ日の法要をしますが、このとき地方によっては、無縁ぼとけのための供養である「施餓鬼会」(せがきえ)をあわせて行なうところもあります。百ヶ日がすむと、1周忌からの年忌法要になります。また、熊本では三ヵ月にまたがってはいけないとの言い伝え(「始終、苦が身に付く」の語呂合わせ)で、四十九日目が三ヵ月にまたがる場合は三十五日で忌明けの法要をする地区、遺族もあるが、根拠はございません。特に真宗は気にしませんが菩提寺の僧侶にご相談されたら尚、良いでしょう。
お盆とお彼岸  
お盆の行事  
お盆は正式には、「うらぼんえ盂蘭盆会」と云い、一年に一度この日には死者の霊が家に戻ってくると云われ、各家では精霊棚を作り、迎え火を焚いてお迎えします。このお盆の行事は、仏教的な行事ですが宗派による決まりのようなものはなく、それぞれの地方で古くから伝えられてきたしきたりで行なわれています。一般的には、七月十三日をお盆の入りとして十六日までの四日間に、お盆の行事が行なわれます。ところによっては、旧暦の七月や一ヵ月遅れの八月十三日から十六日に行なうところもあります。  
盂蘭盆会(うらぼんえ)  
お盆は正しくは「盂蘭盆会」といいます。この盂蘭盆会の由来については、「盂蘭盆経」(うらぼんきょう)というお経の中に書かれている「目連伝説」(もくれんでんせつ)から出ています。「釈迦の十大弟子である目連が、ある時亡き母が地獄の餓鬼道で苦しみもだえているのを知りその救われる道を泣いて釈迦に尋ねたところ、『お前の母は、生前欲が深く他人に冷酷であった罪業によって地獄にいるのだから、かわりにお前が施しをせよ』といわれました。そこで釈迦に教えられたとおりに、七月十五日に夏の修業を終えた僧侶に、百味の飲食を供養したところ、その功徳によって母は地獄の餓鬼道の苦しみから脱し天上界へ上がることができました。」この餓鬼に苦しんでいるありさまを、梵語(サンスクリット語)でウランバナ(逆さづりにされたような苦しみ)といい、盂蘭盆会はその音が転じて略して盆というようになったといわれています。つまり、盂蘭盆会とはあの世へいってからこの世での業によって苦しんでいる先祖にかわり、生きている者が功徳をして回向して救ってあげたいという願いが込められている行事です。  
「盆踊り」  
釈迦の弟子目連が母親の苦しみを救ったことで、大変喜んで三日間踊って喜びを表わしたのが始まりとされています。  
「お盆帰り」とは?  
お盆は先祖の霊が肉親と会うため、一年に一度あの世(彼岸)からこの世(此岸)に現れるといいます。その時、この世に現れる乗り物が、藁やあるいは、キュウリや茄子で作った馬で、帰る時に乗るのが牛といわれています。これは来る時、馬なのは昔いた現世を早く見たいから、帰りに牛なのは、この世の名残をゆっくり楽しみながら帰りたいからという説と後で述べます二つの説があります。  
この為、お盆の準備をしなくてはなりません。先祖の霊が帰る場所として「お仏壇」や「精霊棚」をお飾りし、親族で真心をもってお迎えするのがご供養です。  
精霊棚(しょうりょうたな)  
十三日の朝には、まず仏壇を清め、次には先祖の霊を迎えるための「精霊棚」を作ります。この精霊棚は、盆棚、先祖棚、たまだな霊棚、霊祭り棚などといわれ、必ず迎え火をたく前に仏壇の前や縁先などに飾ります。昔は、仏壇の前などに、天井から縄で板を吊ったり、4本のしの竹や木組などを柱として、その上に棚を作り、真菰で編んだござを敷いてりっぱな棚を作ったものです。棚には、仏壇から移した位牌や樒(しきみ)、香呂、燭台、花立て、リン、線香などをおきます。さらに、蓮の葉を器にして、初物の農作物を飾り、水を入れた鉢、団子などを供えますが、なるべく香りの強いものや、花の頭の取れるものは避けましょう。  
また、割り箸で四本の足を付けた茄子の牛やキュウリの馬なども飾ります。これは、先祖の霊が牛に荷を引かせ、馬に乗って帰ってくるという説と、馬に乗り帰ってきて、戻りにはゆっくり牛に乗って帰るという、二つの言い伝えが信じられていたところから作られるものです。そして、この牛馬のためにも水や供物をあげます。最初は内側に向けてお迎えし、送り火をたく火には、霊を外に送りだすために外側に向けておきます。  
しかし、今日ではこうした特別な精霊棚は作られなくなって、仏壇の前に小机などをおいて、この上に真菰か簀子を敷く程度のものが多いようです。ところによっては、仏壇の引出しを精霊棚にしつらえてすませることもあります。仏壇の扉を閉めて、位牌を精霊棚に置く場合と扉を明けたままで位牌も仏壇に置いたままにする場合とがあります。  
新盆の供養  
ご不幸があった後、初めて迎えるお盆の事を「新盆」とか「初盆」といって、特に丁寧に供養するのがしきたりになっています。このときは、決まったお供え物のほかに、故人の好物などを出来るだけたくさん供えます。そして親族や故人にゆかりのあるかたがたを招いて、僧侶にお経を上げていただいてから、精進料理でもてなします。  
また、新盆には親族などから盆提灯が贈られることがありますが、普通のお盆のための盆提灯は秋草模様など美しい彩色で描いた岐阜提灯などを選びますが、新盆の場合の提灯は白一色の提灯を用いることになっています。お盆の最後の日には、送り火をたいて、霊を送りだして新盆の行事を終わります。自宅の近くに墓地がある場合には、提灯で案内するようにして霊を墓地まで帰らせ、この後お寺にその提灯をおさめる習わしがあります。  
また、お供え物などは、白木の盆や精霊舟などにのせて、川や海に流しますが、宗派によってはこの様な霊を送迎する行事をいっさいしないところもあります。  
ところで、「盆供養」とは、成仏している霊を、年一回あの世からお迎えして供養することですから、七七日忌(四十九日)を過ぎてから初めて迎えるお盆が、本当の意味での「新盆」となります。つまり、亡くなられた日が六月末などで、七七日忌(四十九日)の終えていない新仏の霊は、まだ成仏されておらずお迎えできないわけですから、盆供養はしないで、翌年を待って新盆とします。一部の地方では、こうしたことを気にせずに、初めて迎えるお盆をすべて新盆とするというところもあります。  
お彼岸  
三月の春分の日と、九月の秋分の日を「中日」として、その中日の前後三日ずつをあわせた一週間を「ひがん彼岸」といいます。この彼岸という言葉は、極楽浄土という真実の理想の郷(悟りの世界)を意味しており、迷いや苦悩に満ちたこの世の「しがん此岸」に対して、理想の彼方のところ(岸)をさす言葉です。仏教では、水平線の彼方の岸にその「彼岸」があるとされており、悟った人はそこにたどり着くことが出来るとされております。そして、この悟りの「彼岸」到着するために実践しなければならない六つの実践方法の事を「ろくはらみつ六波羅密」といいます。  
これは、自分のもっているものを他人に分け与える「ふせ布施」、戒めを守る「じかい持戒」、耐える「にんにく忍辱」、努力する「しょうじん精進」、自己反省をする「ぜんじょう禅定」、真理にもとづく考え方や生き方をする「ちえ智慧」の実践をすすめているものです。  
お彼岸に仏壇やお墓に供える花や水、線香、灯名、おはぎなども、実はすべて六波羅密を実践していることになるのです。これらは本来、毎日に生活の中で常にこころがけて実践しなければならないことですが、実際にはたいていの人が、一年中これらを守って生活するわけにはいかないものですから、せめて気候のよい春と秋の彼岸の七日間ぐらいは実践しましょうというのが「彼岸」の始まりです。  
お彼岸の時には、お盆の様にいろいろと飾ったりする必要はありませんが、三月と九月の彼岸の入りには、仏壇をきれいにお掃除して、新しい水や花、故人の好物、季節の果物やおはぎ、彼岸だんごなどをお供えします。  
さて、彼岸につきもののおはぎですが、呼び名が二つあります。もちコケを蒸したものを丸めて、それに甘く煮た小豆をまぶした形が、萩の花の咲くように見えたので「おはぎ」とよび、牡丹の花が咲いたようにはなやかだったので「ぼたもち」とも呼ばれたと云うのが古くからのいわれです。
Q&A 
法要の服装  
少なくとも三回忌までは、遺族は男女とも正式喪服を着用します。それ以降は少しづつ略式にしてもかまいませんが、どんな場合でも参列者より軽い装いにしないように注意しましょう。  
お仏壇の安置場所 
特に定まりはありません。いろいろ迷信や珍説がありますが、こだわらず何よりも祀る気持ちが大切です。静かで清潔な場所であれば、落ち着いて礼拝できますし、湿気や直射日光を避けて、なるべくご家族揃って礼拝しやすい所に安置するのが良いでしょう。向きについても同様に定まりはありませんが、仏教では、「本来無東西(ほんらいとうざいなく)」「何処有南北(いずくんぞなんぼくあらん)」という教えがあって「わだかまりやこだわりを捨ててしまえば東も西もなく、どこを探しても南も北もない。あるとすれば自分の心のとらわれやこだわりからあると思うだけのことだ」という意味です。  
俗に一般的なものは次のとおりです。  
南面北座・・・お仏壇が南を向くように安置し、北向きは避けるようにします。(京都の神社仏閣のほとんどが南を向いております)  
西方浄土・・・西方浄土を礼拝するために、お仏壇を東向きに安置する。  
四月八日の花祭り 
お釈迦様の誕生をお祝いするものです。古代インド・カビラ国の王子としてお生まれになったお釈迦様は、左右の手で天地を指し、「天上天下唯我独尊(世の中で最も尊いものは我=仏陀である)」と宣言されたといいます。わが国では推古天皇十四年に花祭りの行事が始まったと伝えられています。以来全国のお寺で毎年四月八日、花御堂を飾り、お釈迦様の誕生のお姿に甘茶をかけて祝うようになりました。甘茶をかけるのは、お誕生の時、龍王が甘雨を降らしてお身体を浄めたという故事に由来します。  
娘の嫁入りに先方のご先祖へおみやげを持っていくと聞きますが何がよいでしょうか?  
一般的に進物用のお線香を、金銀か紅白の水引で結び、「ご先祖様」その下へ新婦の名前を表書きして持って行きます。地方によっては"おりんぶとん"の場合があります。  
墓に水をかけるわけは?  
墓石にかける水や、墓石の前の水ばちなどに入れる水の事を「閼伽」(または阿伽)といいます。閼伽は、梵語のアルガ、アルカから転じたもので、供養とか功徳を意味し、のちには「煩悩の垢を洗う」というような意味付けもなされました。  
兄弟は三人 誰がお仏壇をまつればいいのか?  
亡父の法事の相談で兄弟三人で菩提寺に行かれた時、住職の前での言い争いです。  
家を継いだ長男の言い分は「亡父の四十九日までお仏壇を買うことにしているのだが、その費用を兄弟三人で三分の一ずつ出すようにと言ったら、三男が反対した」  
三男の言い分は当然のように「兄の長男は家を相続したのだから、先祖や親の霊を供養するのは長男のつとめであり、三男の自分がする必要はない。それに次男の兄は、自分は自分で仏壇を買ってまつるからいいと言っている」  
次男の言い分は「別に長男のところでなくて、次男の私がお仏壇をまつって父の供養をしてもいいわけで、自分は自分でやるから実家のお仏壇には金を出さない」  
それに対して長男が「父に供養をあっちこっちでするのもおかしい。だいいち、あっちこっちに仏壇があれば先祖や親の魂が迷うから良くないと聞いている。だから本家に立派な仏壇を置けばいい」  
三人三様の意見が出たところで住職が三男へ語りかけました。  
「あなたは先祖や親の供養は長男のつとめであり三男の自分は必要ないと言われましたね。」「ところであなた、遺産の相続はしたのですか?」  
三男「そうです。遺産は三人平等にもらうのが当然ですから」  
住職「それならご供養も長男まかせでなく、三人で平等で行うべきです。供養は長男まかせ、遺産はいただきますではムシがよすぎます。それなら遺産をお返しなさい。」  
長男「そうだ、遺産を返せ」の言葉に対し住職は「あなたも先ほどおかしな事を言いましたね。あちこちにお仏壇をおまつりするとご先祖やご両親の魂が迷うからよくないと、とんでもない。ご供養とは亡き人と深いご縁に結ばれた人こそが出来るおもてなしです。いつでもどこでも、今いますがごとくに思って、お水やお花やご飯を差し上げるという尊い行いです。お仏壇を兄弟一人一人がおまつりしご供養なさったらいかがですか?より多くの方々がご供養して下さるのですから、ご両親も大喜びですよ」  
更に続けて住職は「(次男へ)ご自分でお仏壇をおまつりされることはとてもよいことです。と同時に、実家でも三男さんのご家庭でもおまつりするにはどうすればいいかよく話し合って下さい。頂いた遺産を考えればわずかな出費ではありませんか」  
ひとりごと  
お仏壇と贈答品という仕事を生業としているからでしょうか、ふと思うことがございます。先にも説明しておりますが、毎年四月八日は花祭りです。この花祭りを潅仏会(カンブツエ)というのを最近の若年層の方々はあまりご存じないようです。  
よく思うのですが、教会で結婚式を挙げ、子供が産まれたら宮参り、クリスマスを祝ったかと思うと、年が改まれば初詣、で最後にお世話になるのがお寺でお葬式です。お正月の初詣も神社にお参りしてお墓参りと初詣のハシゴをしているようです。  
いわば信仰に無節操な日本人ですが神や仏が罰をあてたという話は聞いたことがありません。日本人は多神教、いくつもの神様や仏様を信じることが出来るということです。これはアジア、モンス−ン地帯の農耕民族の特徴で、山の神、木に宿る神、たんぼの神というように、どこにでも神様がおいでになると信じてお祀りしていたそうです。  
これは、とても平和なことであり素晴らしいことです。よくお仏壇と神棚を同じ部屋でおまつりしたら神さんと仏さんの喧嘩さすとか、罰の当たると聞きますが、一つ考えられるのが、神棚とお仏壇を同じ部屋でおまつりした時、両方を大切にしなければならない。一方だけを大切にせず、ともするとどちらかにかたよりがちになるのを戒めて神棚とお仏壇を同じ所にまつってはいけないと昔の人は言ったのかもしれません。  
また、「うるう年にお仏壇やお墓を買ってはいけない」と耳にします。なぜこんな事が言われるようになったか・・・このル−ツは九州地方から言われ始めたものです。昔、九州のお殿様がうるう年の仏壇購入禁止令を出したことによります。  
なぜこんな布令を出したかというとこの頃の暦は旧暦で、一年十二ヶ月のところをうるう年は十三ヶ月になるわけです。つまり一ヶ月増える訳ですからお殿様には困ることが起きる。それは、家来たちの給料を一ヶ月よけいに払わねばならない。しかし、藩の財政は苦しい。家来たちには十二ヶ月分で十三ヶ月くらさせたい訳で、お殿様は様々な節約を進めたわけです。そのひとつが仏壇購入禁止令で家来たちの家計の出費を押さえたという事です。これが根拠と言うわけです。  
以前こんな質問を受けました。「我が家は毎朝パン食ですがおばあちゃんが仏様に供えるご飯がないからパンからご飯に替えるように・・・しかし子供達は反対でパンを供えたらいいと言います。お供えにパンでもかまわないでしょうか?」これはうれしい類の質問でした。  
なぜなら、このご家族は、ご飯にしろパンにしろお供えする事についてはご意見がまとまっています。さて答えですが、おばあちゃんはご不満かもしれませんが、パンでもかまいません。真心のこもったお供え物ならば仏様、ご先祖様がお嫌いなはずがありません。お花もいきいきしたものをお願いいたします。  
家族が仏壇にお参りすることによって子供達も仏様やご先祖様へ手を合わせるという気持ちが育ちます。  
 

 

(かん、ひつぎ(柩))とは、遺体を納めて葬るための容器。木製の場合は木棺(もっかん)、石造の場合は石棺(せっかん)と称される。  
今日の日本では火葬がほとんどであるため、それに適した棺が使用されている。大きく分けて天然木棺と合板製のフラッシュ棺に分けられる。 天然木棺は、主材が檜(ヒノキ)、樅(モミ)、桐(キリ)などの無垢材が用いられ高級品である。一方フラッシュ棺は、薄いラワン合板の間に芯材を入れて貼り合わせ、表面に天然木(桐が主流)を薄くスライスしたものを貼った突板貼り合板棺、木目を紙に印刷したプリント合板棺、布を貼った布張り棺がある。 最近は熱帯雨林の保護や地球温暖化そして地球資源の有効活用から、環境に配慮した特殊段ボール製のエコ棺も出始めている。 また、形状はそれぞれ箱型、カマボコ型、山型、舟型などがあり、外観には彫刻を施した総彫刻、五面彫刻、三面彫刻、二面彫刻などの彫刻棺もある。サイズは火葬場により入れられる寸法が異なる。一般的に関東は大きめの棺が使われている。蓋には遺体の顔を見られるように専用の蓋で開く小窓がついている事が多い。  
内装のほとんどは白が主流で、素材としてはポリエステルが用いられているが、価格により高価な素材が使われ、レース等の装飾が施されている。  
棺の価格は安いものでも数万円は珍しくなく、高いものでは数十万〜100万円以上するものもある。遺体と共に愛用品やお気に入りだった衣服・書籍などを副葬品として納め、そのまま火葬する事もあるが、最近は環境問題から火葬場側ではそれを自粛するように呼びかけられている(特にプラスチック類など)。しかし現状では社交的・風習的な事情からもそれが難しい側面がある。  
棺の歴史  
弥生時代には、甕棺や憤丘墓に棺が使われた。弥生憤丘墓の棺は短く、内法で2メートル程度の組み合わせ箱形木棺が主流であった。中には底がカーブしており割竹形木棺のような棺もあり、組み合わせ石棺も北九州などにある。  
古墳時代には、木棺や石棺が使われた。その形は様々で、木棺では刳り抜き式の割竹形(わりたけがた)、組合せ式箱形、長持形(ながもちがた)などがあり、石棺には割竹形、長持形などがある。  
古墳時代に盛行した割竹形木棺(わりたけがたもっかん)は、直径1メートル前後のかなり太い丸木を縦に割り、内部を刳り抜いて大人1人の遺骸を収納できるようにした棺である。この名の由来は、竹を縦にわってつくったように見えることに由来するものと考えられる。舟形木棺(ふながたもっかん)も同じような造り方。棺の長さは平均でも5メートル前後、長いものは8メートルにもおよび、1人の遺骸を納めるには長すぎる。副葬品を入れるためとも思われるが、そればかりではないという意見もある。しかし、3分割して頭部上と足部下に各種品を納めている例もある。材質はコウヤマキが圧倒的に多い。  
鎌倉時代からは樽型の棺(座棺)が主流となった。現在も使用されている「棺桶(かんおけ)」という呼称はこの形状に由来する。座棺はまだ火葬が主流になる前、土葬をする際に多く用いられた。戦前の瀬戸内地方を舞台とした映画の『カンゾー先生』でも、遺体を樽状の棺に入れて棒をわたし、男2人で棒を担いで運ぶシーンが登場する。火葬も可能であったがこの棺に対応する火葬場が少なく、薪木を燃料としていた場合は火力も弱かったので、実際に火葬が普及するのは戦後を待たなければならない。今日では土葬の減少もあって、主に寝棺が使われている。  
「棺桶」と「柩」  
人間、誰でも死んだら必ず入るものが棺桶だ。ちなみに棺桶と柩(ひつぎ)には明確な違いがある。遺体の入っていないあくまで物としての段階を「棺桶」といい、遺体が入って物と呼ぶことができなくなったものが「柩」になる。  
 
「死」喪葬 1

 

「死」 1
1、死の知らせ  
人生50年との言葉がありますが、この年代になると大抵の人が、祖父母、伯父伯母達の死、親兄妹の死と言う形で、死について考え、また何らかの形で死者からの知らせをうけるとともに、死の儀礼もまた体験している人が多くなっていると思います。  
第87回で、死を知らせるカラスについて書いていますが、死を知らせる使者としてのカラスの姿は、全国の一般社会で知れわたっているようです。そのほかにも、死者との媒体やくとして、動物、植物、火の玉(人魂)、天体、夢、などを通して日常生活の中で、様々な形体で体験した事例は数多くあります。これらの体験は、日本全体に共通するようです。中でも神々、仏たちの住む土地とされる所で生活する人達は、生活の中で自然に身に着くのでしょうか、特に敏感に死の知らせをキャッチする能力を備えているように思います。  
和歌山に嫁いで15年余りになる娘へ「カラスの鳴き声で命の果てる日を当てる人がいる」と言う話をした所、「和歌山の人は知っているよ」と言って、カラスの鳴き方やカラスの行動による死に関する知らせの伝授を受けたのですが、こうした知識は、和歌山に限らず農耕民族である日本人にとっては昭和2、30年代までは、(注1)嫁の常識として備えられていたのでないかと思います。それが儀礼の喪失や文明と引き換えに、そうした能力を失ったのではないかと思われます。また、村落共同体の生活から個人独立体制の文化的生活の中で、不必要となり消えて行ったと思われます。都会の文化的生活が身に着いた人々にとっては俗に言う虫の知らせや、第六感などをキャッチする能力に頼らない日常生活によって、そうした能力は喪失していったように思います。そして先祖代々が伝えてきた諸々の事を、迷信として伝承されなくなり、消滅や無関心の道をたどっている気がします。  
地震や火山噴火などの天災の予知は学問の世界でも難しいと聞きますが、野生の動物たちは予知を察知して逃げる事が出来るようです。私の体験では昭和2、30年代には、海の男性達は地震、山火事、数日間の天気を(注2)白い太陽の光、雲や夕焼けで予測できました。死も同じで、医学の専門知識を持たない人達が、死の3日程度前から、たいていは予測して時を見つめて丁寧に別れの日数と時間を過ごしていたように思います。  
ついては、当時はなぜ、命日となる日を知る事が出来たのかと疑問が生ずると思いますが、色々な形態で、周りの人達に死を迎える者からの知らせをキャッチし、だれもが土地の伝承を信じ受け止めて時を過ごしたからと思います。このよう人間の尊厳の中で時を見つめる事の出来たのは、自宅でゆっくりとあの世へ向かって歩く事の出来た時代の恩恵かもしれないと思います。  
(注1) 嫁の常識…村落共同体の中で生きる嫁は、家、夫、姑の下で働くのが常でした。例えば、村落の者が死を迎えると、すぐに家族の葬儀前の服装、葬儀の服装、葬儀の食事作りの手伝い、子供達に配る菓子作り、座布団、配膳の膳、と同行と呼ばれる組織で、夫、姑がすぐに滞りなく取りかかれるための用意をしました。こうした事が出来るために、嫁には嫁の常識、教養がありました。特に儀礼にはこの常識は大切であったようです。松原の唄に♪♪前略―衿もおくみもようつけん/そんな嫁ならいんどくれ(帰ってくれ)―後略♪♪これは嫁の非常識を唄ったものです。着物が縫える事は、嫁の常識で、死者の着物を同行の女たちの手で縫って行きます。これが出来ないと村落の笑い物になると言う唄です。(同行…村落の小グループで、葬儀など互いに助けあって生きていくシステム)  
(注2) 白い太陽…朝登る太陽は『あかい』沈む太陽は『白』です。白く丸い太陽のまわりに雲が赤や鼠色になります。松原地区内で、夕方に美しく見える白い太陽は近鉄電車に乗って大和川を渡る陸橋から見えます。大和川へ沈む白い太陽。天美許曽神社の森から布忍神社の森とその向こうの元庄屋の楠木の上を太陽が走ります。  
2、死と迷信(死を忌み恐れて、逃れる行動)  
(1)家人へ死の知らせ(家人の誰かが死を迎えるかもしれないという知らせ)  
○梅干しにカビが生えると死者が出る。(このいわれは広く分布をしている。梅干しにカビが生えた年度に父親と死別した。以来梅を付けた事がないなど事例は多い)  
○味噌の味が変わると人が死ぬ。(どこの家庭も梅干しや味噌は主婦が家庭でつくった。)  
○元気な木が急に枯れるとか、近所では柿などの実の物が不作の時、木がしだれるほど、たっぷりと実を付けると、その家の人が死ぬ(このようないいつたえがあることからか、実のなる物、柿。いちじく。枇杷。などを庭に植えたらいけないと言う。たくさん実がなり過ぎると、厄と同じで、出来るだけ多くの人に食べていただく。近所や知人へ配る)  
(2)死を呼ぶタブーとして、忌(いみ)嫌い、そうした行動を避ける  
○夜に爪を切ってはいけない…親が早く死ぬ。親の死に際に、会えない  
○夜に髪を切ったり、髪を火にくべてはいけない…親が死ぬ  
○お手洗いで転ぶ。お手洗いに落ちる。と神様に呼ばれる(死ぬ)…名前を変えなければいけない。(名前を変えることによって、落ちたり転んだのはこの子ではありませんと神様に知られないようにする。戸籍の名前の変更は分からないが、日常の呼び名、記名全て変更。学校も新しい名前で通用したが、現在はどのようにするか知らない)  
○北まくらに寝ると死ぬ…死人は北枕に寝さすので、忌み嫌ったのだとおもう。  
○鏡が割れると人が死ぬ…鏡は女の魂だから人に貸してはいけない。  
(事例)娘が親の大切な鏡を割ってしまった。親は普通に歩いていると、足をこねてしまった。鏡が割れた時刻と転倒時刻がおなじだった。命があったのでよかったと村落の者達は、親をなぐさめていた。村落の者は鏡の霊力に畏れた。櫛と鏡は女の魂だから大切に扱わなければいけない。
「死」 2

 

世にも奇妙な物語といったテレビ番組があるらしく、ありえないとおもわれる体験話などをドラマ風に仕立てた番組があるらしい。孫が本当の話だと活き活きと報告してくれるが、私はその報告を聞いて類話の話をするなど、また感動するなりしています。  
今から書く事もそうですが、私達の時代は科学が解明できない事が多かったからでしょうか、不可解なお話や不思議な出来事が色々な形態で見聞きする事がありました。そして、それら一つ一つを手のひらに乗せてしっかりと受け止めて、子供も大人も信じる姿がありました。その信じる心に加えて人間が少しずつ衰えて行く姿や死、そして自宅葬儀と、人生最後の独特の空気、厳粛な葬儀儀礼を体験し、真剣にしっかりと受け取り、生きてきました。その年代は、終戦を少し過ぎたあたり迄に生まれた人達で、一つの区切りとなるのでないかと思います。現代を生きている人には、やはり摩訶不思議な事。信じられない事かもしれません。このシリーズは結婚からではなく出産から始めています。人は皆人間として尊厳を持って生まれ、死もまた尊厳をもって御浄土へ行かねばならない。こうした日本の風俗習慣、儀礼心情から培われた心の伝承を真摯に受け止めていただければ幸いです。  
1、病人が死を知らせる、別れを告げる姿や行動(摩訶不思議な現象)  
生死の境、死直前におきた現象  
影が薄くなる・・・友達と二人で帰宅の途中の事、語り手の影が急に薄くなって長くなったそうです。2人でどうしたのだろうと言っていると、「もしかすると、誰かに不幸が起きたのかもしれない」って言うので、あわてて帰ったところ、元気に職場へ出かけた父が、病院で生死の時だったそうです。幸い助かったそうですが、父の耳元にずうっと私(語り手)の声が聞こえていたって。死者や幽霊の影が薄かったり、なかったりするのは聞いたけど、こうした事もあるのねと、話した。一度死ぬと長生きすると言うけれど父はまだ生きています。とのこと(平成2年ボランティア教室にて、4、50歳代中心雑談。20名程度の中で、多数の人が似た経験及び聞いた経験有りとかで、教室が盛り上がったが、場所が病院のため縁起悪いのでそこで中止)  
自然現象の変化。訪問者が戸をたたく音・・・真夜中の事、玄関の戸をたたく音がするので、夫婦で外に出た。誰もいなかったが後で考えると闇夜であったはずなのに、月夜のように明るかった。ふと夜空を見るとビックリするほど美しく空が輝いていた。全てが一等星の輝きであった。後で考えるとその中で一つだけ大きくて一層の輝きの星があった気がする。あれ程の美しく輝く真っ青な空と星は見た事がない。「綺麗だねえ」と眺めていたが「明日に支障があってはいけないので寝よう」と布団に入ったが星が美しすぎて寝られず、星の話をしていると、主人の『父死す』の電報が来た。当時、電話は一般家庭にはそれほどの普及はなかった。電報が一般であったが、翌年大阪万博で、地方出身者が親や親戚のためにと購入の波があった。(昭和44年私達夫婦の経験)  
その他・・・ 
火の玉をみた。火の玉が出ると聞いた。人が戸を開けて入ってきた気配を感じた。仏壇のお灯明が消えた。位牌が倒れた。茶碗がひびも入ってないのに、ポロリと二つに割れた。鶏が騒いだ。犬の遠吠えは人が死ぬといって嫌った。夜なか(夢の気がしない)に、すーと枕元に会いに来た姿を見た。学校時代、隣の家に住む同級生で、仲の良かった異性の友達から50年ぶりに電話がかかり、学校時代の楽しい思い出話をしきりに(一生懸命追求した形)話し、なんで今頃にと思っていると、死を知らされた。主人や子供がいたので、じゃけんに応対したが、一緒に勉強した事など今更青春ぶってもと早々に切った事を今も悔やんでいる。一生の別れだったと知った。  
2、病人の死期の前  
(昭和21年頃、体験者40歳半ば。採集30年頃、語り手小学校級友。採集私。これは愛媛県の小学校時代の話で、松原では有りませんが、松原にも死期の姿で書いているように、同類の話を聞く事があります)  
死期前の姿を聞いて一番多いのが、仏顔になる回答でした。そうした中で、小学校時代、学校帰りに聞いた話です。私は、よほど怖かったのか、「怖いねえ」と言うと「悲しい話なのよ」と誰かが言ったのを覚えています。自宅で最期をみとる時代で、このような死期前におこる現象をいくつか体験した後、病院へ医師を呼びに行き、誰かがお寺に走って行き、臨終を迎えたように思います。  
「私(語り手)のお母さんが、おばあちゃんはもうあかんと思ったので、お寺さんのお地蔵さんの所へ走ったそうです。お地蔵さんの前に行くと、体中の涙がドォーーって一気に出たそうです。死ぬ前には、お地蔵さんの顔になると言われるが、お地蔵さんの所へ行ったら、お地蔵さんが母と同じ顔でお母さんを迎えてくれて、「アトをよろしゅうにな」って言ったそうです。声は聞こえなかったけど、心の声って言うのか、頭や耳で聞こえるのと違って、体中(からだじゅう)にふわぁーんとしてつかみどころのない、声だったそうです。あわてて、走って帰ったら、息を引き取ったところだった。と言う意味のお話を聞きました。恐ろしくて、今もはっきりと聞きおぼえています。
「死」 3

 

1、死の間際(しのまぎわ)  
顔が仏様になる。  
顔が膨れる。  
顔がどす黒くなる。  
手鏡と言って、手の平を鏡に見立てて顔を見る。  
目が見えなくなる。目を動かさなくなる。  
黒目に幕が張り白い所が大きくなる。  
のどが渇く。水を欲しがる。  
こうした症状が出てくると、誰が言うともなく「良い人だった」「世話ばかり掛けて何もしてあげる事が出来なかった」等、ぼそり、ぼそりと話が出てくると、やがて、目の力がなくなると、魂呼びといって、男の人が屋根の上にあがって、死に際(しにぎわ)の人の名前を大声で呼ぶのだそうですが、「昔は、そのようなことをしたらしい」ということで、残念ながらそうした儀礼を行った人、見た人には、出会っていません。次の事例は、松原ではありませんが、これも魂呼びのひとつでないかと思います。  
(1)魂呼び  
採集地と採集年。現愛媛県愛南町。昭和33年、34年頃、南宇和高校級女友達。ここでの魂呼びの風習は、稲の持つ霊力にすがった術のひとつのようですが、病人が生死を、さ迷う時に竹づつへ米をいれて、『これが米の音やぞー』と言って、病人のもとで米を振る風習があったそうです。  
(2)どんな時に魂呼びをするか  
末期の水の前で死の直前になると魂よびを屋根に上がって名前を呼んだりしたと言う。  
昔は出産で、産死の人が多かったので、難産で気を失った産婦。  
子供が死にそうになった時。  
大けがをして気を失う。失いそうになった時。  
子供が井戸やお手洗いや川、池に落ちて気を失った時は、近所の人もあつまって、名前を呼び続けた。そうです。  
(3)魂呼びで生き返った人 
採集地:堺市土塔町にある行基墓の近くの御風呂屋さん風k温泉。採集日:平成22年10月31日。年齢昭和9年生まれ  
[事例] 三途の川は淵でした。私は11時間の手術をしたのです。胸を鋸で切って、心臓を出して、悪いところを治すのです。ここのケロイドが(乳房と乳房の間)切ったあとです。この手術中に、私は「三途の川」と「あの世」を見ました。  
三途の川がありましてね、その向こうが花畑になっていました。ちょうどコスモス畑のようでした。私は三途の川の中にいました。水がどんどん、どんどんふえてきて、その水がまた冷たいのです。足が氷のように冷たいのです。水が増えればその水が氷のように冷たいのです。そのつめたい水が、足元からどんどん冷たい、冷たい、水があがってくるのです。私は、ああ、この水が首まで来たら死ぬのだなあって、どこかで感じていましたが、動く事も出来ません。すると「なにしているのや、こっちにおいで」ってあっちこっちから聞こえるのです。  
まわりは真っ暗です。声だけが聞こえて、かえってこいとワイワイと声が聞こえるのです。そして皆が私を川の淵の所まで、連れて行き、川からあげてくれました。  
私は三途の川とは、川だから水が流れている川と思っていましたが、淵でした。そこで私は、ふちからあげられて、水からあげられました。すると、冷たい水で、足が氷のようになっていたのが暖かくなりました。  
目を開くと、私は昔、昭和33年から中学校の数学の先生をしていまして、生徒達が、私をずうっと、呼び続けてくれていたのです。この手術の日の一週間前に、還暦の同級会をするといって、私を呼んでくれていました。その子達が皆で来てくれていたのです。  
あれからもう5年たちました。今はこうして温泉へ来ていますが、山登りもするほどに元気なりました。  
2、末期の水(まつごのみず).死に水  
末期の水とは、一般に言う「死に水」です。死に水は、近親者の最後の別れです。一般には、肉親と兄弟姉妹のようになかよくし、生前には互いに、「死に水は取ってやるからな」等と話し合っていた仲の者などが行います。  
(1)いつするか  
死の直後病人が、水が飲みたいと言う。それで「ああ、と思って病人が日ごろ使っていた茶碗にみずを入れて持っていくと、だいたいその時刻となる。息のきれる間際。虫の息で、唇が少し開いて、目が一方方向へ向くと死が訪れたとして、死に水の用意となった。  
(2)誰が  
連れ合い(死者が夫なら妻)長男それから血の濃い順に身内がする。そのあと生前、特別に助け合って生きてきた人で、死に水をとると、お互いに話していると生前に身内の者に話していた人がする。臨終に立ち会った人が血の濃い人から、縁の濃いひとへとする。  
(3)どのように  
日常使用した御茶碗に家のあるじか、跡取りが水を入れる。割れ箸に脱脂綿を挟んで箸にまき、白木綿糸でくるくるとしばって、唇を浸す。残った水は御墓へ戻す。  
(4)その他  
息を引き取ると、死者が硬直するので、体が柔らかいうちに座管へ入ってもらわないと入れなくなるので、この辺りから儀礼がてきぱきと手分けしてすすめた。
戦争と死

 

「死」を書いていて、どこか心の中で、書いておかねばならない事が胸につかえて、はなれませんでした。死には、事故は別として、いまここで書いているのは、自宅での「死の儀礼」です。死には、自宅での死、病院での死、事故死の三つに大別されますが、儀礼ではありませんが、もう一つ私達が忘れてはいけない、「戦争と死」があります。  
今回「松原の人々の一生」を書き始めて94回になります。日本人は9と4を好みません。  
9は苦に通じ、12月29日に正月の餅をつかない地域の伝承や、4は死に通じ、今でも松原の駐車場は4番が欠番になっている所を、見る事があります。94は「くじゅうし」とも読む事が出来10は重に通じ、余り好のまれない数字でした。こうした意味をふくめて、今回のみ特別に儀礼ではありませんが、胸に仕えていたものを少し書く事にしました。  
しかしながら、戦争と死については、儀礼ではない事と、語り手達が戦時中の事は「墓までもっていく」「思い出したくない」と言う人達の出会いから、丁重に最終の章で次代へ受け継ぎの予定をしています。今回は無垢の時代である小学生、女学生時代の記憶の呼び起こしてもらい、体験を書きました。なお、松原の人からの事例は控え、近郊地にしました。  
さて、この時代は生まれた年齢が1才違うと、その時の記憶や体験は、信じられない程の違いがありました。昭和17年4月生まれの私の夫は、空襲で昭和19年生まれの弟を背たろうて(背負って)逃げた。昭和18年1月生まれの私は、全く覚えていないが、戦争が終わっても当時、時を知らせるサイレンがひびくと、逃げると言って泣き、姉が其の度に避難地であった僧都川(そうずかわ)迄連れて行ったと、まわりの人が話していました。このように、この年代の人達は戦後の復興と共にめまぐるしく、生きました。現在70歳くらい。  
大阪大空襲と死体  
事例1 (語り手80歳代前半女性。採集日平成23年5月。採集地高見の里)  
あじ川の方です。小学校四年生でした。空襲でねえ、夜です。真っ暗な空でした。その空がまあ綺麗に光り輝くのです。次々とまあ、本当にきれいでした。ところが後で知ったのですが、空から輝いて落ちてくる光は爆弾だったのです。初めての大阪大空襲体験です。あくる朝、私は昨夜の光の正体を知ったのでした。私達は川へ向かって歩いて行きました。あのとき私の目に映ったのは、ぎっしりと横たわった人の死体でした。川の近くもずぅ-と死体、死体、死体だったのです。それから、川には水がなく死体が横たわっていました。川の水は、なくなったのではなく、死体で水が見えなくなっていたのです。それから、死体は、重なるように横たわっていました。川の中で折り重なった人も死体でした。私は川の水に手を入れていませんが、川はお湯になっていたとあちらこちらで聞かずとも聞こえました。冷たい水の川が、お湯の川になっていて、その川が死体の川になっていました。信じれない事です。現実ではありえない事ですが、あれが戦争と言うものですかねぇ。竹やりも、ばけつも、何も持たず、美しい光を眺めた次の朝の出来ごとです。真っ暗の中に輝く光は、今も覚えています。  
生と死の谷間で生き残った事例  
事例1 (昭和の終わり頃。福祉会館手工芸教室にて)  
女学校の時、工場動員で(森ノ宮と言われたと思う)大空襲にあいました。先生が逃げなさいと言って皆そとへ出ましたが、私は足が不自由なので出ませんでした。静かになったので工場を出てビックリしました。沢山の人が死んでいました。大阪城だけ残っていました。大阪は全部焼け野原でした。私は一生懸命焼け野原の中を歩いて帰りました。生と死は紙一重。つくづく思いました。  
事例2 隠れ場所をとりあげられても生き延びた  
次の事例3と4も、婚家先の和歌山で私の娘が採集したものです。(採集日平成22年8月)  
和歌山城とその近くでの出来事です。和歌山には住友がありましたので、アメリカは、和歌山城を目印にして、やってきました。城の周りは焼け野原で、身寄りのない人は山へ逃げて、木々で人に見つからないようなところへ隠れようと、探しました。そうした場所を見つけてホッとしていると、兵隊さんが来て「どけ」と言って兵隊さんへ渡さねばならなかった。よく生き延びたものだと思います。  
事例3 和歌山城の掘りと死体  
上から次々と爆弾が降るように落ちたそうです。それで、お堀に飛び込んだそうです。飛び込んで、息が苦しいので顔をあげると、周りは死体でいっぱいだったそうです。するとまた、爆弾が流れるように落ちてきて、苦しいので顔をあげると、また周りは死体の繰り返しで生き延びたそうです。人間はギリギリになると、怖いと言う感情は消えるし、流れるように落ちてくる爆弾は赤いきれいな火に見えた。死体もその時は物体でしかなかった。  
事例4 麦畑をはいずって生きのびた  
空襲になって、妹を背中にくくりつけてにげた。山の木の下へ逃げるつもりだったけれど、山へ着く前に爆弾が落ちてきた。麦畑があって、身長より高い麦だったので身を地べたにつけて這いずり回って、爆弾の雨から必死でかくれ、隠れして逃げて助かった。そうです。  
事例5 人間って、その気になれば生き延びるものや  
松原市内のお風呂屋さんにて採集。80歳代、4人の雑談(採集日平成23年6月29日)  
終戦後、小学校の時の買い出しはきつかった。腰に米を巻くよって、腰がいたかった。電車で、闇の取り締まりが来ると、窓から掘りだして、次の駅で降りてひろった。必死やった。煙草ひらいもした。煙草の吸いがらを拾って、それをほぐし、新しい紙で巻いて売った。あの頃はなんでも売れた。生きるのに必死だった。よく生きのびたものや。
同行と知らせ人

 

1、同行  
末期の水が終わると、同行へ知らせに走ります。同行とは「講」のような組織で、同行によって葬儀も全てをとりはからう組織がありました。この組織はもう名前すらも知らない人が多くなりましたが、昭和40年代は残っておりました。  
松原へ移住して、同行組織を知らず近隣だからとお手伝いへ行って、「同行で致しますので」とお断りになり、戸を閉められ御焼香の時間を教えていただく形式に戸惑う姿もありました。  
昭和50年代に入ると、松原もこの土地で代々生活した人だけでなく、外部の人達もどんどんふえる状況の中で、葬儀が、同行と町会の世話で寺や公民館で行われ、自宅で行う風習が薄らいでいきました。  
同行組織が気薄となるに従って、町会が同行のような形で関与されるようになり、やがて、同行の崩壊により今まで同行が守っていた儀式を町会と肉親、寺がになう形へ移行し、どんどん儀式、儀礼が簡素化されることによって、葬儀屋さんと呼ばれる職業のところへ葬儀の手伝いをお願いする形式となったようです。  
こうした町会の関与もどんどん気薄となっていき、平成10年代頃になると葬儀屋さんが全てを取り計らう形式が広がり、現在の形態へと進んだように思います。  
もちろん同行の衰退は、外部からの人々の移住だけではなく、時代の流れ、考え方、戦後生まれの人達が主婦の座にすわる時勢になった事などあらゆる要因はありますが、儀式、儀礼が大きく変わった所にも関与しているように思います。  
葬儀の方法に(注1)座棺が消え、焼き場が消え、行基さまのお墓へのこだわりが消え、墓も地域(町会)の墓にこだわることも薄れ、講のような組織の必要性が無くなったことにも大きく影響していると私は考えます。  
(注1) 昭和30年前後辺りまでは、座棺の風習が松原には残っている所がそれなりの件数で残っていました。座棺とは、桶形の棺でした。長方形の棺で寝かされるのではなく、体を折るように座り桶の棺に体を抱えるように座ります。松原は行基七墓でなくても、墓の中に焼き場がありましたが、土の中に埋める方法も残っていたようです。  
2、しらせの人の呼び名と行動  
『しらせ』『てったいさん』とは、松原の人達から聞いた言葉で、学問ではどのように表記されているのか知りませんが、死亡を親戚縁者はもちろんですが、近所、寺、同行などへ手分けして知らせて走る人の事を、「しらせ」「しらせさん」「しらせ人」「てったいさん」というような言い方で私は聞いておりますが、このような時の言葉は難しいので松原では「これ」と決める事は、私にはできません。  
他にも「使い」という人もいましたので、きっちりと松原の統一単語ではなく、行動をそのままに表現した自然発生的に、使用されている言語が、松原の日常用語として、松原の人々が使用している言葉になったと思います。  
しらせの人の行動  
(採集地:松原市総合福祉会館にて雑談をちょっと走り書きノートなど。昭和の終わり頃から平成のはじめ頃書きためたノートより)  
しらせさんは何人か。その家に順応した人数で、知らせに走ります。昭和2、30年代はまだそれほど電話が発達していなかったので、遠方は電報、電話、それから2、3時間程度なら歩いて行きました。霊のとりつきや、霊の同行を防ぐため必ず2人で行きました。  
一般では、同行のひとが大抵枕元で死者を見守っていましたので、死亡が確認されると何人かのしらせさんをお願いします。しらせの人数はその家の親戚縁者や、しらせる家の距離、人数などで決められます。死者に縁の遠い人、生前親しみの少ない人が行ったようです。どのように知らせるかと申しますと、  
まず同行に知らせます。同行はすぐに集まり死者にまつわる関係の手伝いにかかります。隣に知らせます。隣の人は隣組や講の組織の人達へ口で伝えます。受けた隣の人がまわるのではなく回覧板を回すように口で伝えて行きます。伝える人は、必ず玄関から出ません。縁側からでたり、普段出入りしない木戸などから出ます。裏口は使用しません。裏口は閉めておくそうです。隣へ行く程度でも、日が沈むと提灯を持って出ます。霊にとりつかれないためだそうです。  
寺へ知らせます。寺へは喪主が行きますが、その時に死人に悪い霊がつくなどしてはいけないので急いでいきます。悪い霊を寄せ付けないために透き通ったガラスのコップか牛乳瓶などに水を入れて、死者の枕元に置くと言う人もいました。他に死人の霊が喪主と一緒について行ってお願いするのだと言う人もいました。悪霊に邪魔されないように、お寺さんはすぐ用意して経をあげに死者の所へ来て下さったとの事でした。  
本家や身内に、急いで知らせます。通夜は普段着で駆けつけます。喪服で行くと死をまっていましたと用意をしていた事になるからです。最近は通夜も喪服が通例になりました。  
しらせの人は、必ず2人で行くそうです。普通の生活と反対の行動で行います。家を出る時は、使わない出口や、縁側から出て、日が沈むと必ず提灯に灯りを付け、しらせの家へ着くと、家の外から伝えて玄関内には入らず、外から知らせ、帰りの挨拶は交わさないようです。知らせを受けた家は「ひだる」が取りつかないように、食事を出すようです。
死から納棺まで(1)

 

1、松原の墓の特色  
松原の墓の特色は、墓には必ず六地蔵さんと焼き場がありました。  
古い村落の8、90代の女性達の回答からすると、お迎え地蔵さんがお墓の正面にいらっしゃって、六地蔵さんが屋根つきの箱型の中に六体並んでお墓にいらっしゃいました。そして、お墓には、人焼き場と呼ばれる、焼き場がありました。現在(平成23年)焼き場で、死者を焼いているのはA地区の墓ともう一墓(ひとはか)の二か所と聞いていますけど(迷惑をかけてはいけないので場所名は省きます。)他はどことも大阪市の平野(ひらの=地名)で焼いてもらっていると聞いていますが、お墓の事ですから、そない(追求して)聞けるものでありませんので、まちがっていたら、かんにん(ゆるして)です。との回答でした。  
また、行基七墓といって、松原には行基さんがお造りになったお墓が七墓あります。この部分はインターネット「松原の民話」で河内行基七墓と松原の行基七墓の場所や行基のお墓に関する事で松原の人達と行基墓のかかわりを平成20年度から21年度にかけて民話第92話から第95話4回連続他、諸所に書いておりますので、ここでは省略いたします。  
また、お墓のことですので、見学で迷惑や不謹慎は無いと信じますが、もしあってはいけないので、場所は申せませんが、きっと無意識に通過している場所にこうした特色と、そういえば、なぜ墓場のごみを焼くのに、なんで、あのようなずんぐりむっくりの煙突なのかしらと、不審に思った記憶のある人もいらっしゃるのでないかと思います。  
さて、話は変わりますが、現在80歳代後半から90歳代の方々を中心に葬儀の採集確認をしていますが、私が若くて相手の心根より次代へ受け継ぎ、残さねばと意気込み採集をしていた時代、この方達の年齢は、4、50歳代の人生最高の働きざかりの人達で「そんなこと聞くものでない」と叱られつつの採集でした。しかし現在、同じ人からの採集で「あの頃は隣人(となりびと)あっての自分だった。生かし生かされての生活だった」と目を細めて語って下さいました。私は戦争が日本民俗の内面をごっそり持っていったと思っていましたが、そうではないことに最近気がつきました。松原に「文明開化と(注)やたけ」の民話がありますが、この年代になると毎日が文明開化(IC開化?)になりました。そして若い頃のような「残さねばならない」意気込みよりも、IC開化の中でも日本民族の心は、時代を超えて月日が流れ、形式が変わっても、受けつながれると信じるようになりました。  
(注)やたけ・・・一休さんのとんち話とは少し違いますが、九州では「きっちょむさん」。四国では「とっぽ話」に類し、物事をオーバーに話すが笑って許せる話をする人を「やたけ」「やたけた」と言います。笑い話に属しますが、世相を突いています。インターネットの「松原の民話」でも活躍します。二上山から文明開化の国アメリカへ渡った男の話等。  
2、葬儀の準備――死から納棺まで  
『死』の判断が下りると、同行(どうぎょう)と呼ばれる組織が、手早く動いて進行して行きました。この組織は、前回も書いていますが、土地に生きる先祖達が民俗風習の中でつくり上げた隣組的な葬式の互助会組仲間のような人達です。親戚の者達は、喪中の用意でご飯炊きや紙貼りなど仏事の用意にかかりますが、同行だけで手早く別の部屋でしなければならない仕事がありました。身体調べと納棺です。これが終わると通夜となります。  
昔、昔のことですが、村落には村落の掟(おきて)がありました。掟にそむいた者は村八分と言ってその家は村落共同体の中から阻害されても文句の言えない掟がありましたが、火事と葬儀はその掟が外されました。人の死とは、私が思いますには、「人間は誰でも最高に尊ぶべき存在であるから、人の死は村落をあげて誰もが厳粛に行わなければならない」とした精神が何事にも勝って第一に掲げられていたのでないかと採集して思いました。  
こうした精神が、末期の水から通夜までの村落の人々の手早い動きの中にありましたし、通夜までの手早い仕事が出来てはじめて村落の嫁であって、出来ないものは資格がないとされた唄が松原にはあるほどです。  
松原市松寿園もの知り副会長と呼ばれる女性によると♪♪前唄略/衿もおくみもようつけん/そんな嫁ならいんどくれ(かえってくれ)/いぬもいなんも(帰るも帰らないも)道知らん/後唄略。教えて下さった女性の話では、村の葬儀の手伝いで、衿もおくみも縫う事の出来ない嫁では、村の葬儀の時は役立たずで、迷惑をかけ、恥ずかしい事だ。そんな嫁さんではだめだ。出直して来なさい。という意味だそうです。  
ちなみに死者の旅立ちの着物は、手伝いの人数にもよりますが、二人以上で縫います。白のさらし木綿を一反渡され、てんでに縫い始めます。誰かが背縫いを縫い始めると別の人はおくみを縫い、袖をつくり、衿を付ける。前身と後ろ身を併せると袖を付け、衿下、裾ぐけ、で出来上がります。死者の着物は縫う順番が反対になるように、手分けしてぬっていきます。縫い場所がかち合わないように相手の速度に懸命について行きます。常識として相手を待たす事もしません。  
これが出来るのは、毎日学校から帰ると仏壇に手を併せ、そこに置かれた運針布で縫う練習をさせていた親の躾おかげです。縫物が縫えない程度で?と思いますが、村落共同体の中で共に生きていける事、子を産み、子を育てる能力(元気で衣食が作れて、子供の病気怪我を即座に対応出来る事)は大切な事でした。
死から納棺まで(2)

 

納棺のため死者へする事  
死から納棺まで同行の人や近所の人によって次のような行動が、てきぱきとおこなわれました。だれがどのようにすると言う決まりはありませんが、それぞれに自分に見合った事を手伝います。また、これから順番にという決まりはありませんが、Aをするには、Bが出来あがっていないと、Aをする事が出来ない事があります。することは決まっているので、自分に出来る事を「あ!あれがまだしてない」と気がついた時、「あ!あれでは人手が足らない」そう感じた時、それを行い、またそこへ行って手伝う方法です。例えば死に装束を着せるには、着物を縫う人、足袋を縫う人、帯紐を縫う人、頭の△を縫う人、とそれぞれ、女性達が腰紐の様に小さいものでも、二人以上で縫います。このとき、たいせつなのは、糸に結び目をつくりません。着物になると5、6人で縫っていきます。どうして、死の前に用意していないのかと聞かれますが、用意すると言う事は、死を待っている事になるからです。同様に今はお通夜へ喪服で行かれますが、これも同じで、普段着で駆けつけたと言う形、亡くなる歳でもなく、こんなに早く冥土へ旅立つなど、思いもよらぬ事でした。といったお悔やみの気持ちで、喪服では行きませんでした。  
さて、この着物が縫い上がる前に死者の「おきよめ」が出来ている必要があります。死者の体を同行の人が別座敷に連れて行き、体をきれいに洗い清めます。この時、たいせつなのはたらい、に水を入れて湯を足します。これを『逆さ水(さかさみず)』といいます。  
体を清めた後、体の穴を全部脱脂綿で塞ぎます。(耳、口、臍、肛門、性器、目が開いていると閉じさせます。硬直して開いたままの時は、脱脂綿を置いてその上を目の幅に切った布を、鉢巻の結び目なしで巻きます。この時2、3名の人が「お確かめ」で立ち会います。{お確かめ}とは、暴力あざはついてないか、毒を飲まされた、形跡はないかを調べます。こうして着物がきせられます。  
納棺  
納棺は、松原は座棺でした。田井城の男性(平成23年60歳)の話によると、昭和27年頃、足を折りたたんで、くくって座棺に納めた、事を覚えている。との事でした。  
(昭和時代からの知人にて折々に聞きためノートより。平成19年記。採集地、話者自宅。上田在住。平成23年現在80歳後半。男性。自称万年青年にて面会時20年前生らしい)  
納棺の時は身内の者は離れた所へ行かせて、同行の男たちでおさめた。座棺だったので、死んで時間が経つと硬直して座棺に収まらないので、どうしても骨がポキン、ポキンという折れる音がする。その姿や、音を聞くのは身内の者にはつらい事なので、離れた所で行ったそうです。寝棺になったのは、同行の組織が崩れた頃からで、昭和30年の終わりから40年になりますかなぁ。墓で焼かず、大阪の平野に連れて行って、焼くようになってからです。業者が入って手伝うようになってからです。大阪にそうした業者がありました。墓には何処でも焼き場がありましたから、それがなくなったあたりからですわ。夜にボーン、ボーンって骨が焼けてはじけると言うか、跳ねるのですかねぇ、その音が何とも言えないのですわ。それに臭いもけっこうありましたからその辺りからと思います。  
あれこれ雑談(戒名。墓や納骨の祝儀、不祝儀袋の使い方)・・・知っているようで知らない常識・・・  
(採集地高見の里の小さな喫茶店で四人が雑談。平成23年9月9日。)  
○通夜の日には戒名はもう和尚さまから頂いていますか。  
戒名はつけてもらって、御位牌にも書いてもらって、お通夜のご焼香をしてもらう。  
名前は、私(Aさん)は夫が死亡した時はね、過去帳には書いてもらったけど、位牌では書いてもらってない。夫婦位牌にしてもらいたいと思って。  
主人の戒名はね、和尚様が「どんな人やった」と聞きはったので、「おもしろい、楽しい人だった」と言ったものだから『釈吉慶』と入れて下さった。  
私(Tさん)は過去帳も位牌も書いてもらった。私の夫は五月に亡くなったので、『皐(さつき)』という字が入れてくださったの。だから、さつきが咲くと「ああ、主人の命日が・・・」って、おもうわなぁ  
(Aさん)御位牌は49日まで白木(しらき)で、その後は色がついて良いって和尚さんが言って下さった。  
○ええ!御位牌って白木と思っていた。  
お墓、仏壇の祝儀、不祝儀について  
生きている時に墓を作る時は、祝儀袋。  
死んだときに、納骨で墓を作る時は、悲しみの不祝儀の袋で持って行くのだって。  
仏壇を始めて使う時は、赤いローソク立てるのだって。その時、紅白のおまんじゅうをそなえる。へぇ、こんなん聞く事もできへんし、こない、してしゃべっていて、教えてもらわないとなぁ。お寺さんが(精神的に)遠くなったし、地域との一体感が消えたからなぁ。  
雑談ガヤガヤ部分  
御位牌も今頃は御仏壇の中とは限らないから、格好よく色々な姿で置いてはる人もあるからねえ。テレビの日本の常識、あれもなぁ。北海道から九州まで同じなら苦労せえへんわなぁ。お寺さんの常識かて、宗派によって違うのやから。どない、なるのかねえ。よぉ-く考える、となるほどと思うけど、『祝儀、不祝儀』これも一つ間違えると偉い事(大変な事)になるよ。この様な事伝えたいけど、今は、病院から直接焼き場へ、業者が連れて行って、そこで葬式も何もかもする方法もあるって。家に帰らないで?そう思うよ。
死から納棺まで(3)・・・葬儀の準備

 

忌中(きちゅう)紙の意味と忌中のお知らせ  
現在は葬儀の日、又は通夜と葬儀の2日間、戸口に忌中と半紙に書いて貼ってある家を見る程度となりましたが、この形式は同行等による葬儀ではなく、業者による葬儀になってから、葬儀の当日、又は通夜と葬儀の日の2日間に略されて、貼っているようですが、家から棺を出さず業者にお願いする、また町会の会館などで行われるようになると、一層「忌中」の紙を貼らない家も多くなりました。  
しかし、だいたい昭和の時代迄は、業者もまだ葬儀は業者の会館でなく、自宅、寺、会館、でおこなわれる事が一般でした。それゆえに自宅の戸口や門に『忌中』の紙は貼られていました。こうしたことから、現在はまだ、「忌中の紙をみたことがあるか」に対して、あると言う人は、昭和の後半迄に生まれた人は、多くの人が体験者と思います。  
そもそも半紙に墨で『忌中』と書いた紙は、通夜、葬式日を知らせる紙だけの役目ではありません。『忌中』と書いた紙を、門に又は、戸口など家への入り口に貼ってある家は、「家族に死人があって現在、家にこもり謹みの期間を過ごしております」と言う意で表示している紙です。「忌中」の紙が貼られる日数は、現在の様に半日から一日程度ではなく、大正生れの人達の記憶によりますと、昔は、忌中期間は忌中の紙が期間中ずうっと貼ってあったと思うとも言っていました。忌中期間は、7日(なのか)、または49日(しじゅうくにち)との回答を受けています。忌中の紙はいつまではっていたか不明。  
忌中期間生活(忌中火から火明け)  
(ちょっと走り書きノートより。採集日平成23年8月1日。堺博物館案内ボランティア同窓会にて、最高齢90歳の噂から50歳代でもちょっと採集)  
(忌中)のあいだの生活は、近所との付き合いや、化粧やひげそり、爪切り、髪の手入れ(床屋、髪結い屋=パーマ屋へ行く)、俗に言う『やつし』事はさけたようです。  
期間は男性が死亡した時の方が、女性の死亡した時より長い忌中であったが、いつ頃か昔の事で分からないけど、忌中の重要性が薄らいできているように思います。  
忌中の家では、子どもは学校へ登校、勤めている人は仕事場へ出社を、死者との関係の深さによって、何日か決められた日数があり、その間は休んでも欠席にならない時代がありました。本になった暦が売っているが、最近の暦には忌中休みの日数を見ないから、もうこのしきたりは、なくなったのかな。と話しました。  
忌中火と火明け  
(火明けは忌中明け(いみあけ)と同じでないかと思っている。故人にて確かめ不能)  
どの家にも、神様と仏様を祀っていますが、神様を半紙で見えなくします。  
松原全体かどうかわかりませんが、新堂のA家では、神棚を隠すことを『ふさぐ』と言っておられたと思います。神棚は天井に、半紙に『雲』と言う字が書いて、貼っていました。その下に壁につけて神棚がありました。写真を撮ってなかったので、思い出しの説明ですが、神様の前に立って見上げた時、雲と言う字がはっきり見え、神棚の正面も半紙の裏側と少し空間があった気がします。たしか、天井から何も書いていない、白の半紙をつるしていたと思います。  
こうして、神の世界はふさがれて仏の世界となったと考えたようです。ここで煮炊きものをする時の火の使い方があります。くど(薪でご飯を炊くために築づかれた設備)の灰を塩できよめて(灰の上に塩をまく)から忌中の生活圏で火を使用します。  
忌中が7日なり、49日なり、その家が定めた忌中が終わると氏神様へ行って宮司さんに、清められた火をいただいて、かまどの灰を清めてかまどに火をいれて、食事を作る炊事場と呼ぶ現在のダイニングをお払いしてもらい、清めてもらって、普通の生活へ戻ります。  
宮司さんに火を頂いたことで『火明け』となり忌中の生活から普通の生活に戻ります。  
(注) 松原でも忌中の時の生活の方法は全体的に早めに風習が消えたのか、また採集が女性ばかりであることもあり、十分な採集が出来ていません。書いていますが、十分理解できていませんが、語り手は20年ほど前他界。今回高齢者をまわったが、採集不能にて、当時の採集を書きました。採集量が少ないのですが、「火」は神から与えられる領域の部分で、聖火として見ている部分。人間と仏と神の持つ領域のありかた。日本全国同じかもしれませんが、記紀の時代からの風習、習慣が、根づいていた松原らしい風習と思い書きました。  
『火』は神のもの。死によって不浄となった所で使用する時、その場(くど)をきよめて『火』を使用しています。忌中が終わり、宮司さんから、神からの『聖火』を貰う事に興味を持ちました。これによって、神棚をふさいでいた半紙が外され神様は坐られ、仏の世界も忌中で清められます。松原の民話の語りはじめの枕言葉で「人間も神さんも、動物もみぃーんな、仲良ぉー、暮らしていた頃の話ですよってに」と言って古代民話(反正天皇の話。神社仏閣の話)の語り始めを明治生まれの女性から聞いています。この事からもわかるように、考古学や民俗学をしっかりと勉強していないと、理解出来ない民話や生活伝承行事が多くあるのが松原です。忌中火と火明けもそうした伝承の一つでないかとおもっています。
死から納棺まで(4) ・・・地方から来た人の葬儀と孤独死

 

いよいよ納棺迄の最後の仕上げとなりました。ここまでになると、大抵の肉親は集まってそれぞれ自分のするべきことが仕上がる時間となりました。こうして、儀礼が滞りなくできるように着物は縫い終わっているか。枕元の置く品々はそろったか。屏風、枕だんご、枕飯は、としっかりと見回ります。寺へ走った人は戒名を頂いたか、家の周りのシキビの手配はと気働きがはじまります。そして肉親の手で湯灌となります。  
しかし、この儀礼は松原では、座棺と寝棺がありますが、寝棺の場合は湯灌によって身体を清めます。座棺の場合は、体を虐待などの後はないかなど縁者に調べてもらい、OKが出ると、身体が硬直する前に、出来るだけ早く手足をくくり座棺に納めますが、寝棺の場合は、生きていたと同じように、黄泉の国へ旅立つために、万全の最後の死者へ対する心使いをもって、身体をきれいにして(湯灌)、着物も着せてもらい口紅(魔除けになります。)もさして、身繕いをしてもらいます。人生最後の儀礼である葬儀は、家庭を持ち家族に囲まれて辛苦、喜び悲しみを共に分け人生を乗り越えた同士としての松原の儀礼です。  
こうした儀礼の一方で地方から働きに来て、この地で冥土へ行く人もありました。そのときこの地で生まれ育っていなくても、その地方の肉親縁者、山や川、野辺を想いながら黄泉の国の迎えに従う人もいました。  
そうしたとき、死者を知るまわりの人達は、通夜に戒名だけはと思うのは、日本人の儀礼を大切にして生きた歴史と心根から湧いてくるのは当然の心情でした。しかし戒名は、たいてい檀家となっている寺へたのむのです。  
そこで地方から来られた人は故郷の寺へお願いするか地域の寺へお願いすることになります。事情によっては、宗派を問わない高野山へ走る人もいました。最近は業者が全て滞りなくして下さいますが、昭和4、50年代迄は地方から大阪へ来た人は、会社や商店などへ勤め、当時は住みこみや会社の寮に入居が一般でしたが、転職や新入社員へ部屋の明け渡しなどにより、1人から3、4人でアパート、文化住宅と呼ぶ住居で生活していました。たいていは、死者の故郷へ連絡し、勤務先、又は住居の持ち主、共同生活仲間が地方から駆けつけた親と共に仮葬儀をとり行っていたようですが、戒名は宗派があり、生家及び婚家の宗派の寺でいただくもので、あわてたようです。(四天王寺さんもお願いすると宗派を問わないから引き受けてもらえると聞きました。聞いていないが、一心寺さんも同じかもしれません。(事例は持っていません)困った時は、(調べていませんが)高野山へ走れば宗派に関係なく戒名がいただけると一般常識的心得として伝わっている話を聞いています。  
昭和40年代、大阪万博の頃も、地方から大阪へきた人の孤独死もあったようで、事例として適格かどうかわかりませんが、地方から働きに来たがいつしか音信不通になり、行方知れずとなった夫や子供を探しに、四天王寺に来ていたようです。  
四天王寺では、盆に入ると先祖や関係者の回向を願う御札を持ってくる人々の中に、遠くから、大阪へ出てきたが、いつの間にか行方知れずになった子や親の姿を求めて、やってくる人達の姿もあったようです。  
そうした生活を見聞きした年代を生きた人達は、今の時代になって戒名についての心得、自分の死に方の心得を身につけた人も多くいらっしゃいます。  
ついては、孤独死の事例は松原の事例でなく大阪天王寺ですが、日本人の心を感じる姿ですので、その事例を書きます。  
[孤独死の事例1]  
昭和時代の四天王寺では、今以上に盆になると全国から多くの特産品や古着古道具の売店のテントがひしめくように張っていましたが、ひときわ大きなテントがありました。テントの中は、探し人コーナーがあり地方からの行方不明者を調べてもらっていました。そこには、すがる思いの真剣なまなざしで順番を椅子に座って待っている姿がありました。「死亡者台帳の写真に乗ってない事は、生きているかもしれない」と言って、生活しているかもしれない場所を聞き、知人宅に泊まり、探し歩く人もいたようでした。しかし、何処をどのように生き方を間違えたのか、故郷の人も、共に生きてきたはずの周りの人も知らず、会えず、語ることも出来ずに、一人であの世へ行く道しかなかった、孤独死の道をあるくことになった人も、それなりの人数でいたのでないかと思います。  
[事例2]  
(高野山で戒名を頂く場合。私が教えている個人教室のUさん88歳)  
(私が)四国生まれなら高野山へ行って戒名を書いてもらえばいい。生前でももらえるのや。あの世は故郷で暮らしたいのならそうしとき(そのようになさい)。もし、生前貰ってないかもしれないなら、娘にたのんでおくのやよよう聞いときや、そいで死んだ時娘さんに貰ってきてってたのんでおくといい。その時は必ず2人で行くのやで。魔物におそわれないように、な。そのときに、亡くなって(私)がお腹をすかしていたり、高野山へ着くまでに藁草履が切れて難儀してたらあかんので、おにぎりと藁草履を高野山の道にある谷の所の木へくくりつけて絶対にふり向かずに帰らんならん(帰らなければならない)よ。そのときカラスがア―アー、と鳴いて、呼びとめても、戒名の人の死とは関係ないことをしっかりと伝えとかならんよ。覚えときや。三日後に死を迎える人のカラスの鳴く声だからよそ見せずひたすら帰ることだけ考えて帰ると間違いはない。そうでないと、おにぎりも、藁草履もひとのものになるからね。戒名の人の死を見送る鳴き声は、聞こえないのだから、カラスがどんな鳴き声しても、振り向いたりせず、ひたすら帰る家の方向以外は見ずに前を向いて帰るのだと教えていただきました。  
豊かになった日本で生きている私ですが、死に対する日本人の心得でしょうか、こうした教えを最近頂きました。
死から納棺まで(5)・・・葬儀の準備

 

納棺前、最後の別れ通夜(夜伽(よとぎ))の準備  
通夜の準備  
葬儀の準備も終わる頃になると、最後の別れをと近親縁者が通夜へとやってきます。  
通夜の事を夜伽と言うように、通夜の客は一人一人が死者と最後の別れを惜しみ悲しんで、一夜を死者と共にします。死者の肉親は、死者の傍を離れることなく、客達が酒を酌み交わしながら死者を偲びます。こうした中で、葬儀の準備手伝いの人達は、通夜へ来た客達がゆっくり死者と、死者の関係者同士が気持ちよく対面できるように、悲しみを癒やすゆとりの心を持つことができるようにと、心くばりに気をつけて、いろいろと準備をしていきます。  
死者をどこでどのように寝させるか。その方法  
1、仏間へ運び枕経を受けて、北枕で寝かせる  
死の知らせがくると仏壇を開け、お灯明をつけて消えないように灯明の守を一人置く。(死者が帰って来るまで、ここで目立たない仕事をする。新聞紙や本などの紙で、風船、船、四角い物入れ、などを折る。これは近所の子供達に折り紙のおもちゃや、干し芋などを紙の物入れにいれて葬儀の時に配る)通夜の床が敷かれると灯明を消し仏壇の扉を閉めて西向きに寝させ、和尚さんに枕経をあげてもらい、特に身近な人と死者に御説教をしてもらってから北向きの方向へ寝かせる。これは心臓が止まり、医師が臨終を伝えても、和尚さんの枕経を受けてからでないと、死の世界の人にはなっていないので、西枕で和尚さんを迎えて、枕経を受けてから北枕に変える。  
2、逆さ着物、逆さ蒲団  
死者の蒲団の上から、蒲団の代わりに逆さに掛ける所もあるようですが、私の採集では、聞いたことはある。ていどでした。(逆さ着物(蒲団)とは、着物の衿の部分が足元に、裾の部分が首元へくるように、着せるのでなく打ち掛けます)  
3、逆さ屏風  
逆さ屏風は良く聞きますが、私の採集では「逆さ屏風をした」という採集は持っていません。松原ではしていなかったのかなと思って、今回周りの人に聞いたところ、回答者の周りでは、していないが、聞いたことは「ある」の採集は、けっこうありました。また、「お茶の時の風炉先、程度で高さがもう少し低い二枚屏風(一双)を頭の所へ置いたけど、さかさだったかなぁ、気にかけてなかったから」等の回答を受けていますので、この風習は松原にもあったと思います。採集対象者が私の場合常民を対象にしぼっている所にもあるので、しきたりを重んずる格式高い家ではあったかもしれません。  
4、魔除け  
「魔よけの刃もの」といって、包丁、はさみ、小刀、竹(竹の先の一方を三角にしたもの(斜めに切ると三角になる)等を枕元に置く。胸に置くと言う人もあったが、胸には伽人形(とぎにんぎょう)を抱かせるので、魔よけの刃物は枕元に置きます。  
伽人形は正方形の布1枚の白木綿を用意します。  
(1)4枚に切ります。正方形が4枚出来ます。(2)4枚の内2枚を半分にして4枚にします。これが手足。(3)正方形二枚のこっています。1枚が胴になります。もう一枚を4等分にしてその一つが首になります。残りが顔になります。それぞれを手足、首とくっつけて人形が出来あがります。全て4(しの数字=死)です。  
作り方は西洋の技術が導入されたものでなく、明治から大正初期の日本独特の、人形作りの方法です。(葬儀の同行組織があった頃の髪結さんパーマ屋さん(現美容師)作れるかも)  
5、御供えの花  
枕元にお供えの花をおきます。ガラスの花瓶(水の中に花の茎の部分が見える、透き通ったもの)なければガラスのコップに花を一輪、入れる。  
花は、枝もの(わび助、蝋梅)、草もの(コスモス、なでしこ)、庭もの(紫陽花、かきつばた)などで、日本の一般家庭では何処にでも植えてあるもので、香りのきつく無いもの、茎の長いもの、目立たないもの、で紫陽花は大きいが、御寺には何処の寺にも植えてあり出来るだけ小さいものをもらってくる。コップなどに入れる。  
ダメな花は・・さかきは神様の木で、シキビは仏様の木でどちらも使わない。かおりのきついもの(すいせん)、華やかなもの(ぼたん、しゃくやくは寺に植えているが控えるべきと思う)。御供え花には赤い花、木のものはこのまれない。但し冬は草花が少ないので、蝋梅、わび助が許されているのだと思っている。  
ちょっと一言  
常民の土着のみによる口頭伝承話の採集の道を歩いていますが、松原は「記紀民話の里」で「百を超える神社仏閣の地」で「古代民話の宝庫」です。そうした伝承の地松原では神様の領域、仏様の領域、人間、動物、草、低木、藪と土着の人達の生活の中で、しっかりと守られています。仏の世界も、行基の世界と仏教の世界がかっちりとわかれています。松原の特殊性は、松原行基七墓。神社の中に行基の墓がある。現在は2か所になりましたが、墓に焼き場がある。かみと人間達の領域の地がしっかりしている。民俗学の好きな方は松原の地を10分歩いて下されば、病みつきになる土地です。人の一生も今年末では10年になりますが、輪廻思想のかっちりとした松原では、まだまだ年月がかかる程しっかりと語り伝えられております。なお松原は土葬と火葬がありますが、今回は土葬を紹介します。行基が火葬を広めました。墓の所で何故行基七墓が残っているかを紹介します。また、一般的に木の物は神様の物。草は人間動物の物として語られています。
死から納棺まで(6)・・・葬儀の準備

 

土葬埋葬の湯灌と納棺と焼き場埋葬の湯灌と納棺  
松原の埋葬方法は土葬用と墓地内にある焼き場焼却の二種類の埋葬方法が伝承されています。地区によって違いますが、同じ地区の同じ墓でも土葬埋葬と焼却埋葬の二種、を語られる事例もあります。私の採集で、しっかりとしたこの形態での土葬の採集は上田地区の平成24年で80歳代の男性からの土葬埋葬ですが、この地区の墓は平成に入った頃前後と思いますが、それ迄焼却場が使用の有無は別として存在していました。採集品を調べて想像しますと、昭和20年あたり迄、土葬はあったのでないかと思います、埋葬の方法の採集を深く読み解いて見ますと、その方法に戦後を感じるものが独断ながらあります。  
そこで、松原の生活者(語り手が三代以上の松原居住生活者)に土葬埋葬経験を尋ねたところ松原は全体的に7、80歳代以上の年齢の方によると、「そうだったらしい。身内ではないが、覚えている」などがあります。現在は、土葬はありません。また、はっきりと語り、体験や見た経験者から採集出来るのはアトぎりぎり10年だろうと推測しています。松原は古代から百済などからの大陸文化導入の文化文明に豊かな地であります。最近韓国のテレビで百済、高句麗の言葉、儀礼をてらして、同じ文化を感じています。湯灌する人が肩袖を落としたり、帯を荒縄で巻いたりすることは、少し違うにしても、源流を感じています。又松原ではこうした風習が残っていた事を体験した。又、知っている人がいることは、土着民話、民俗学に留まらず、消えて行く文化財として大切に思っています。  
そうした意味で死については、丁寧に消える文化(カラスの鳴き声で死の予言を知る等これも百済からのものとこじつけかもしれませんが)を残すように大切にしています。  
土葬埋葬の湯灌と納棺  
湯灌は死の診断が下ると出来るだけ早く湯灌をして棺桶にいれます。時間がたつと死者が硬直して棺桶の中に入らないからです。そのために寝棺の様に丁寧にはしません。親戚達等、親しい者が湯で体を拭き清めながら体を調べます。虐待などの傷跡はないか、など見ます。棺桶の中には干したヨモギやお茶の葉が敷いています。そのうえに布、又は藁を敷いています。死者は硬直しないように手足を体につけてくくって入れます。くくらずに入れると無理して入れるので骨を折って桶に押し込むので、ポキン、ポキン骨の折れる音がします。こうした音や、棺桶へ入れる時の作業の声を肉親に聞かすのを防ぐために肉親は別の部屋にいます。お坊様が、ずうっと納棺の時は体をさすり、手足肩をさすりながら経を唱えて下さるそうです。すると硬直していても、やさしい感じのする骨になり、頭をさすって経を唱えて下さると、硬直した顔が、赤子の様に無心の柔らかい顔になるそうです。  
こうして棺桶に入れてもらって、着物を着ているように肩から下を覆い、上から蓋をします。面会を望む人は蓋を開けてもかまわないそうです。出棺の前にきっちりと蓋を閉め、太めの荒縄で棺桶をくくり、棒を差し込みます。こうして死者は墓場への出棺をまちます。  
焼き場埋葬の湯灌と納棺  
昭和50年代にはいると松原も同行組織(講とは別の形態で、お互いに手伝いあう仲間組織)がどんどん消えて同行組織の葬儀関係を行う葬儀儀礼を業者が請け負うようになりました。  
それ迄、同行組織で行われ葬儀の道具は地域の公民館の倉庫や墓の脇に造られた物入れの中に保管されていて必要な時に管理担当者へ言って借りる事が出来ました。湯灌の用具は、古くから続く家系の家は別ですが、大きなたらい桶などは場所も取りますし、新しく作っても、縁起上それを日常の洗濯たらいとして使用しないからです。日本の儀礼は、『縁起』をよくかつぎ、現在でも(注1)葬儀の儀礼は日常の生活とは反対の行動をしていました。  
湯灌の用意と湯灌をする人。湯灌の仕方。  
納戸など(畳の部屋でする時は、畳をあげて藁とござをしいてするが、一般では、水がこぼれてもよい所で板の間の部屋など)適当な場所に筵(むしろ)を敷いて、屏風をたてて、その下に刃もの(包丁でも鎌でも光って切れるもの)を魔よけに置いて、線香を束にしてつけ、部屋が煙るほどたく。ここへ湯灌を置いて逆さ水と言って水の中へ湯を入れる。湯がぬるむと湯を外柄杓と言って手前から外へ向けて(向こうに向かって)湯をくんでいれました。  
湯灌をする人は、通常は3人で行う。たいてい身内の人男女二人と死者が死亡後この家を守る人(妻はしない。長男など)でしました。服装は、男は裸で(注2)6尺のつなぎふんどしで、女は膚襦袢に腰巻。冬は着物に帯は荒縄を巻いた。荒縄のたすきに、頭は手拭いで鉢巻、姉さんかぶりの後ろをくくらず、交差して上にあげてたたむ。死者は全裸で白い紙を額に三角に切って貼る。  
湯灌に入るとまず3人は一杯、力酒をグーと飲みほしてから始めます。死人を湯灌の淵に坐らせ、湯の中へ足を入れて洗うと、手、顔、体を丁寧に洗います。その後頭から湯をかけて髪を洗います。全身洗って終わると、髪を丁寧にとかして、手拭いで何度も水分をとります。次に丁寧に体をふきます。この時綺麗に拭かず水が残っていると、生まれ変わった時、痣(あざ)になると言われています。男は顔をきれいにそってもらいます。女性は顔を化粧してもらいます。こうしてきれいにしてもらって、死に装束を着せてもらいます。  
(注1) 日常と反対の行動・・・着物を左前に着る。仏様の一本箸。食べ物を箸で渡し、箸で取る。など忌み嫌う生活習慣は今も残っていますが、昔の道具展?で居合わせた女性が「気持ちの悪いものを見てしまった」と話している所へ、出会いました。気がつかぬ私は何を見たのかと尋ねると、たらい桶の展示方法で、一緒にこの場に展示してはいけないと言って、洗濯のたらい桶と湯灌のたらい桶の違いを学びました。『タガ』の違いでした。イベント場展示で学芸員の監査なく気軽く置いたものでしょうが『日本人だなぁ。』と儀礼を重んじる高齢者に頭を下げました。  
(注2) つなぎふんどし・・・途中で継ぎ目のない褌。褌は1mくらいの長さで通常は、つがない。
棺(ひつぎ)の事あれこれ

 

1、棺の材料と寸法  
松原は山がないので木材は大変貴重でした。木材は松原の人は大抵が大和へ買付に出ました。家を建つ時は山持ち主へ、この木とあの木それとあれと・・・と言った具合に購入します。  
庄屋筋ではないが、現在も保存されているが高見の田中家に長男が生まれた時も大和で天まで届くような鯉のぼりの棒を購入したと聞いた記憶があります。このように遠くからの購入ですので、(注1)木材は大層な貴重品であったと思われます。  
そのような貴重品ですから時代によりますが、映画や絵に描かれたような棺をどの家でも現金購入とはしていなかったようです。採集ノートにある現在80歳代後半の男性の話では。同行仲間で器用な人が、手作りで竹や雑木で作る人もいたとか。又は代用品を使用する家もあったとか。酒樽と言う人もいました。1斗樽も昔は2斗、3斗と色々と大きさがあったようです。別にどの木との決まりはなかったが、松の木は死を待つ(松)に通じると言って好まれませんでした。又松はヤニの油があるので、焼き場で焼く時は良いが土葬では敬遠していたようです。  
杉は腐りやすいから土葬の時は早く土へ戻れる」と言って杉を好む人もいました。きっと戦前から戦後の時代が落ち着くまでは、死者の家庭を良く知っている同行たちによって、この様にするのが一番良いと、冥土への儀礼をつつがなくおこなっていたと思われます。  
棺の寸法の数字は、色々あるようですが、42尺(しにじゃく)と言って、偶数の2と4の数字が基本のようでした。高さ2尺4寸。幅1尺4寸が一般的であったようです。  
この数字は、誰が言ったのか、どうして広まったのか分かりませんが、誰が言うともなく人は生まれた時と死ぬ時の音を、「あうん、」と言うのだ、と言う事は広く知られています。  
“『あ』と口を開けて生まれ、『ん』と口を閉じて死ぬ”言うといわれますが、同様に人間は“幅2寸縦4寸の所から生まれ、深さ2尺4寸幅1尺4寸の穴へ帰る”と言われるところからこの寸法出されているのだそうです。  
(注1) 古くからの家も多くが建て替えられて、松原だからの様式を持った家がどんどん消えてしまいましたが、大抵の庄屋筋、大百姓家には煙り出しがありました。天美我堂に文化財指定の大和棟(元禄時代は切り妻の家だったが江戸時代から大和棟=飛鳥時代の形式に改造)門長屋形式の西川邸があります。この家には三列の立派なうだつがあり、一段下がって「かまや」があります。ここにりっぱな「煙り出し」があります。これ程の立派な煙り出しがあるのは、燃料が河内は木でなく藁が中心でしたので、火の粉が飛ぶのを防ぐ防火の役目を背負っているためでした。  
2、棺の中に入れる物  
棺の中に死者が収められると、あの世へ行って苦労する事がないようにと棺の中へ色々なものを入れました。まず伽人形です。六文銭。刃のもの。枕飯。臍の緒。その他趣味のものなどを入れました。  
1、伽人形(とぎにんぎょう)  
親が死ぬと長女が作ります。子が死ぬと親がつくります。この構図では作れない場合は、血の濃い者、友人等によってつくられます。一人で淋しいので、この世に住む者をあの世へ呼び入れないように、話しあい手(伽)として人形を入れます。一枚の正方形の布をそれぞれ4枚に切ってその半分の2枚を手足4枚に切り、残りで顔と体を作り仕上げます。  
2、三途の川の渡し船の船賃に六文銭として、今は一文銭がないので銅貨(10円)を6枚  
3、魔よけ(かがみ、刃のものかみそりなど。櫛、かんざしを言う人もいる)  
4、臍の緒  
親に出会った時に確かめるため親に見せる。  
5、土産(六地蔵へ枕団子)  
6、その他に死者の個人のものとして  
数珠、趣味の品(絵の好きな人は絵具など)半紙。五穀(飢えないため種子として植える)  
3、『人々の一生』採集手帳  
葬儀関係は、現在はすべて業者任せとなり村落共同体での行動は平成に入って希薄になり、それでも町会の公民館及び町会内にある寺や墓等の世話を受け入れている町会もあるが、個別の介入はどんどん消える運命を持っているように思います。そうしたこともあり採集に歩いてもホームへ入居やホームステイへとなかなかお会いする事が難しくなりました。  
そうした事から、最近は昭和時代からの採集ノートを開く事が多くなりました。ついては、出来るだけ松原を大切に、より深く知り、後の参考及び比較対照可能にと、次の三地点でも採集し保管を始めています。近郊の採集によって一層、松原の素晴らしさに感動しています。  
1、松原の温泉では松原、羽曳野、布施。2、金岡の温泉では松原、金岡。3、土塔町の温泉では、松原、三国、と松原近郊の人達からの採集です。全て私が(年齢、昭和18年生まれ現在平成24年)自転車に乗って30分以内で行ける範囲の温泉よりの採集ですが、採集すればするほど松原ってすごいなぁ、さすが古代から栄えた土地、反正天皇が御在所あそばされ、行基菩薩が終の住み家とし、池や橋を造り松原の地に行基七墓をおつくりになって、終焉を迎えられた土地であることを実感しています。
納棺と通夜

 

1、納棺の様子  
死者の納棺準備が終わると、気がついた人が「最後のあいさつへどうぞ」「お別れに行ってらっしゃい」とか、「待っていらっしゃいますよ」「最後のひとこと交わしていらっしゃい」など心をこめた言葉で、肉親や特別の親交が深い人の所へ、納棺準備が終わったことの知らせが入ります。声をかけられた人達は、納棺によってもう一つの世界に行ってしまう死者にたいして、お別れの挨拶へいき、死者の前に坐ります。最近の棺(ひつぎ)は、蓋に顔の位置が、開き窓になっているようです。しかしながら業者にお願いせず村落共同体で冠婚葬祭がとり行われていた頃は、蓋に死者の顔を覗く開き窓はありませんでしたので、当時は納棺がこの世での実際の姿を見る最後でした。  
「早くこの世へ帰って来るのやで」「帰って来る時、迷子にならないでね。知らない所へ行っちゃあだめよ」などと輪廻を信じたあいさつや、「世話になったなぁ、有難う」「苦労させたなぁかんにんやで」と、この世での心の交流などに加え、「私も呼ばれたらすぐに行くから待っていてや」など、それぞれが死者との関係に合わせた言葉で話しかけて、部屋を出て行きます。このように、納棺前に最後の声掛けをしていた儀礼の時代は、村落共同体で冠婚葬祭を行っていました。また、棺も、死者がでてから仲間内で取り急ぎ寝棺を作りました。座棺の場合は、通常樽が棺でした。樽は、松原のように農耕を専業としている家庭には、たいていはありました。醤油も漬物も1斗樽から4斗樽迄は何処の家にもありました。そこで、死者に合う大きさの樽を、誰かが持参しました。もちろん、同行組織がまだあったころですので、だれかが家庭にある樽を持参したようです。  
死は準備して迎えるものではないので、今日、明日の命と分かっていても、死の確認をいただくまでは、決して葬儀の話や用意はせず、平常心を貫きます。やがて床についている者が、死へ旅立ったと知らされると大急ぎで棺作りや、どの部屋をどのように使うか、などきめながら、部屋のかたづけ、食料と走り始めます。  
死者の白装束もあわてて縫いあげます。棺(ひつぎ)は男達の手で、白装束は女たちの手で作られます。♪♪衿もおくみも/ようつけん/そんな嫁なら/いんどくれ(帰ってくれ)♪♪このような唄があります。同行で白装束を仕立てる時、仲間の足手まといにならない女性として嫁に行かねばならないと言う意味の手まり唄です。村落共同体の中で女性として主婦としてしっかりと生活のやりくりから、人付き合い、常識、儀礼とあらゆる事が出来るよう躾けられて嫁に行くのが一般の女性であった頃の事です。  
「隣は何をする人ぞ」の時代となった現在では、少なからず理解に苦しむ事と思いますが、昭和30年代位迄は、同行はもとより冠婚葬祭や講、祭りなど村落共同体で生活してきました。こうした土壌で葬儀も行われました。それゆえに、死も出産も共に協力して哀しみ、喜びあうことが常識でした。  
こうした周りの人達の協力により、寝棺は男たちの手で棺へ入れてもらいます。坐棺は、死亡がわかると、すぐに取りかかります。体が硬直する前に、出来るだけ早く死者を桶の中に坐らせます。褌(ふんどし)はしません。その代わりその部分に白の布をかぶせます。また、着物は着せず上から肩に掛けるようです。ゆかた、だったと思うとの事でした。  
寝棺の場合は、私の体験では棺の下に白い布を敷きその上に足をのばして寝させます。手はみぞおちあたりで手の腹を下にして組みます。頭に三角布を付けたハチマキをしめ、白い着物を左前に着付け、幅1寸4分(3寸幅の布を二つに折り、2分の縫いしろ)の白い帯を前結びに締める。肩から下の両横の隙間にまず伽(とぎ)人形。六文銭(5円は紐を穴に通して輪にくくる。10円は紙にくるむ。どちらでもよい)。臍のう(白い紙につつむ)。枕元にそなえていた団子又は枕飯を入れます。他に入れてもよいが、だいたいこれだけは必ず入れていたように思います。それ以外に特別大切にしていたものをいれました。  
ところで、水盃(さかずき)を酌み交わすということばがありますが、この意味を旺文社の国語辞典でしらべると、『再び会えないかもしれない別れのときなどに水を杯についで飲みかわすこと』とあります。つきましては、納棺にかかわる人は、死者を運び棺に寝させ、蓋をして縄でしばる。または釘打ちをして死者の魂が出たり、魔物がはいったりしないように蓋をしっかりとめた後、仏間又は座敷の通夜を行う部屋へ棺を運ぶまでを行います。釘打ちは、カナヅチを使わず石でたたきます。この時納棺する人は、始める前に、お酒を酌み交わすように水をお燗に入れて、水を酌み交わしてから納棺を始めました。この時の水を酌み交わすことを、『水盃(みずさかづき)を交わす』といいました。納棺に携わった人は、体に塩を振りかけて、水をかけて清め、その後風呂に入り、体を温めてから、通夜の席へ入りたいていは夜伽を務めます。  
2、通夜  
通夜は死亡したその日一日から三日位迄が一般のようですが、戦前は、葬儀も終わって初七日まで、通夜だといって仏間で寝泊まりする人もいたようです。最近は死亡した日の夜に通夜をしてあくる日に葬儀となるところが多いようです。また、通夜から喪服を着る事が最近の儀礼のようです。本来の通夜は、知らせを聞いてとるものもとらず、あわてて通夜へまいりました。ということで、小奇麗な普段着を選び通夜の席に着くことが、儀礼であったようです。最近は死亡と共にあれこれと走り、三日ですべて終了となっているようですが、昭和の終わりごろから昨今に於いては(現、平成24年)の一般としては、  
(第一日)死亡日枕飯、枕団子(死者の頭より上の所に枕飯、枕団子どちらかを置く)  
(第二日)湯灌死装束を同行の人に縫ってもらってそれを着て、通夜の客を迎える。  
(第三日)葬儀焼き場で土にかえり、戒名を付けてもらって、この世からあの世へ。
通夜・夜伽(よとぎ)

 

通夜(つうや)とは一般には葬式の前夜に行われる儀礼です。例外として葬式日の日暦をひも解き(注1)六曜星をみて『友引(ともびき)』に当たると、この日は葬儀を忌み嫌い、葬儀を一日延ばし、通夜を二晩行います。『友引』の日を終えてから葬儀になります  
通夜は一晩ですが、葬儀日が『友引』にかかると通夜は二晩なります。また、親族肉親が遠距離の場合、葬式前夜と葬式が終わった晩とで二晩おこなう家もありました。この時、友引にかかると三晩になります。通夜の事を一般に言葉で言う時は『お通夜』又は『夜伽(よとぎ)』といいます。  
お通夜と夜伽は同じですが、死者へ対する気持ちが違います。お通夜へ行くはお通夜の儀礼に参加する、の感覚がありますが、夜伽へ行く時の心は、一人で冥土へ行くには淋しかろう。その気持ちで夜更けになっても帰らず、皆と雑魚寝したり、添い寝したり、思い出話をしたりしながら、線香や蝋燭を絶やさないように番をする。肉親や肉親のように接していた友や助け合って生きてきた仲間等が別れを惜しんで寄り添い、朝を迎えます。  
(注1) 六曜星…六輝ともいう。中国から伝わった。その日の暦からその日の吉凶を占う。  
先勝―午前吉、午後凶。  
友引―朝夕吉、正午凶、葬儀は忌(友を引くの語呂で忌)。  
先負―午前凶、午後吉。  
仏滅―最大の凶日。  
大安―万事吉。  
赤口(じゃっこう)―正午吉、朝夕凶。  
(1)通夜の様子と夜伽に入る迄 
通夜が始まる8時を少し前にお坊様がお経をあげに来られます。読経の声が聞こえると一人二人と集まり、お線香をあげて帰る。残っている人達にお坊様が法話をする。近所の人や知り合い、友人、仲間等が次々来て線香あげて帰る人、念仏をあげる人、御詠歌をあげて帰る人等も、9時から10時頃で一般の人はほとんど帰宅し12時になると喪主が挨拶して、夜伽をする人以外は皆帰ったようです。お坊様もお帰りになります。(時間は、きまってはいませんが、だいたいこの程度の時間だったようです。)読経はお坊様だけでなく観音講や御詠歌の会などの女性達がグル―プで唱えて下さるなどもありました。この後は夜伽になりますが、儀礼が次へ移るのでなく、だいたい肉親だけとなり、朝まで死者を偲ぶの姿を、夜伽をする。という言い方をします。  
(2)死者の扱いなどの葬儀雑談  
○死と棺桶入れ  
語り手昭和8年(?)生まれ。男性。Iさん。平成21年9月採集  
昔の棺桶は丸い桶型だった。死者を入れる時、時間がたつと、すぐ入らなくなる。脛を曲げて入れるので、硬直すると骨を折らないと入らないので、ポキ―ンポキ―ンって骨が折れる音があったので、親戚の者は、音の聞こえない場所へ行かせた。(上田地区の墓)  
○死の硬直を治すまじない  
語り手昭和10年生まれ。男性。MAさん。平成21年11月9日採集  
昔は硬直すると、硬直を治すまじないがあった。誰も見る事は出来なかったが、村には、それを伝承して知っている人がいて、その人が呼ばれて、まじないをした。  
○死者の扱い  
語り手昭和10年生まれ。男性。MAさん。平成21年11月9日採集  
昔は死者が出ると「友を引く」というて、あの世へ一人で行くのは、淋しいから嫌だといって、伽(とぎ)を探しているから引き込まれると大変なので、近寄らないようにした。  
語り手昭和10年生まれ。男性。MAさん。平成21年11月9日採集  
死者が出ると、親戚の者が出てきて、体をあっちこっち調べたわ。せっかんして、殺したのでないかってなぁ――昔は貧しかったから、長患いは、看病人はつらかったわなぁ  
語り手昭和18年生まれ。女性。SAさん。昭和59年2月採集  
子供の時だけど、友達のお母さんが結核で死んだって。私は見てないけど目、耳、鼻、お、臍、肛門に綿花を詰めて、体外へ結核菌が飛ばないように、ってふさいで、それから身体を頭から足の先まで晒し布でまいたってきいたよ。  
○行基墓  
語り手昭和10年生まれ。男性。MAさん。平成21年11月9日採集  
昔は死人を焼かなかった。行基は、墓にやきばがあって、そこで焼いた。  
○墓  
語り手昭和15年生まれ(?)。Sさん。女性。昭和56年採集  
河合は行基墓でないけど、堺から合併して松原に入って、河合の墓が出来た。焼き場もあったから、夜に焼くとすごいにおいがして、骨がぽぉーん。ぽぉーん。って跳ねる音がして、きしょくは悪いし、余りいいものではなかった。  
語り手昭和18年生まれ。男性。MYさん。平成21年11月9日採集  
昔は共同墓だったから、今のように、一坪と言うて、墓地を区切って土地を売ってなかった。勝手に埋める事が出来たので、そこに埋めた。
土葬(墓穴掘りと同業)

 

いよいよ出棺が近づいてきました。松原では土葬でする地区と火葬の地区がありました。もともと松原全体は土葬であったのか、それとも土葬であったが、行基信仰から火葬になったのか、それとも同行の衰退なのか、回答出来る人には残念ながら出会っていません。土葬は、火葬においてもですが、松原は「同行(どうぎょう)」という互助会的な役割を持つ組織があり、すべて同行によってとりおこなわれておりましたので、この組織の解体により葬儀の儀礼も大きく変わったような気がします。  
特に火葬とは異なり、土葬地区での採集はむずかしく、現在、私へ土葬について教えて頂ける人は80歳代後半の男性一人のみとなっています。女性は『私等の時は同行で、していましたから、まぁここだけ(同行内のみ)のことで、わからしましぇン』と言った形態でやんわりと断られます。そうしたことから、十分な採集ではありませんが、次のような採集をしています。  
つきましては、余談ながら、現在『死』についてずうっと、ノートをめくり、また採集をして常に『死』を頭に入れて、追いかけておりますと、下記のお話が何と表現すべきかわかりまんが、民話的で現実から離れて、ほっとした採集に出会えました。  
(これは平成24年現在、60歳代後半の女性の雑談を語りにまとめました)  
たしか、随筆だったと思うのだけど読んだ事があります。記憶違いだったらごめんなさい。とっても美しい文体だったので覚えているのだけど、筆者の祖母が桜の花が美しいのは「人間の死体を食べて育っているからだ」って、語るのね。  
その家の職業は墓穴掘りの職業だったの。この家の主人は、墓穴掘りの依頼が来ると、必ず桜の花の下を掘ってそこへ死者を埋めたのだって。  
そうしたある日、祖母が体調を崩して床に伏していた時のこと、電話の無い時代、要件を伝達するしごとが入ったので、祖母の替わりに筆者が伝達に走る事になったらしいのね。  
その伝達の帰りの出来事がとても美しく書いてあったのね。夜空の下を白いかすみが覆うように桜の花が咲いていたの。夜桜の桜は昼間とは全く違って、妖艶で、この上なく美しいのに、どこかで人を寄せ付けないほどの、どのような表現がマッチするか表現がないのだけれど、怖いほどの美しさなの。この時。筆者は『桜は人間の死体を食べて育ったから美しい』と言った祖母の言葉が全身を通して伝わった。  
と言った意味の事が書いてあった。語り手もまた筆者と同じ気持ちになる事が出来たほどのすばらしい随筆だったと語って下さった。  
○墓穴掘りの言葉  
土葬の場合、墓穴掘りはどのようになっているのか。について採集に取りかかったが、「そんなんわからない」と忌嫌って(いみきらって)逃げられるので、上記の語りをヒントに不特定にあたってみました。  
松原の場合、私が調べたところでは時代もあろうが、「墓穴掘り」の言葉はあった。火葬場で、(松原には市営の火葬場がないので大阪市の火葬場へ行く)人焼き場の係りの人をどのように言ったかわからない。この言葉は大阪府下では調査でないが知人達無差別に聞いたところ、70歳前後からの高齢者は「人焼き場の人」と言う回答が一番多くありましたが、土葬の衰退と共に、「墓穴掘り」の言葉も消え、人をそのままの形で埋葬する事すら想像できず、火葬場しか想像できない時代になっていることに気がつきました。  
そうした中で「ああ、私も歳でそうそう(何度も)、帰れないから、郷里に帰って相談へ行こうと思っているのだけど、との回答が地方出身者からありました。墓穴掘りとは関係ありませんが、地方出身者にとって「墓」と聞けば儀礼よりも、「一度帰って云々」と脳裏をよぎる時代かもしれません。きっと同行組織が残っていれば、頼りになる存在になったかもしれませんが。  
○墓穴掘り  
出棺が近づくと、急いで墓を掘らねばなりませんでした。誰が掘るかの問題ですが、松原では、やはり同行組織で行われたと思われます。この中で決められた掟に従って、行われたと考えられます。(例えば順番制、身内など)また、一人ではしんどいので3、4人程度であろうと思われるがあくまでも推測ですが、松原の土葬は座棺ですので同業の範囲で墓穴掘りの当番などもあったのでないかと思われます。今回、土葬の採集をして、消えた儀礼の採集は、一年の採集遅れは10年の採集遅れよりも大きい事を思い知りました。私も経験のかけらも持っていず、採集帳を頼りに、一応下記のようにまとめました。  
○土葬の墓穴掘り墓穴掘りと同業の人達  
呼び名も単に『墓穴掘り』と呼ばれたようです。  
墓穴を掘る人は同行組織によるのでないかと推測しています。  
墓穴掘りは土葬及び同行組織が無くなった時点で、業者で行われるようになったと思う。  
墓穴掘りの人数や参加者は同行仲間で、掟が決まっていたと思われる  
○神仏一体行動(墓を神様から買う)  
松原ではありませんが南大阪には、お墓を作る時神様から土地を買う儀礼がある発表を聞きました。喪の家の人が墓を掘るところを決めると。四隅にサカキとシキビをたてて、お酒、米、塩、味噌、線香、お金(1文銭など神様への土地代金)を中央におき、和尚さんに祀ってもらい経を読んでもらってから墓穴を掘り始めた。  
また、松原では、廃仏毀釈を超越した秋祭りの儀礼があります。秋祭りになると、地車(だんじり)をお寺の収納庫から出します。秋祭りの当日、寺の門前で、地車と参加者へお経を読んでもらいます。寺から神社まで、地車の綱をよちよち歩きから高齢者まで一同に掛け声と共に、引いて行きます。現在中学2年の孫が、幼稚園入園前の年齢でしたが、そこの地区の法被を孫にも貸して下さり、地区を超えた神仏一体の祭りに参加の経験をしました。
火葬

 

1、墓地の火葬場とその周辺  
今回は、土葬の採集に続き、松原において火葬は、昭和30年代はまだ墓の焼き場も健在で、墓の火葬も行われていたようです。昭和30年代、40年代初めの頃は、松原はまだほとんどが、松原の土着の人達で、占められていました。また天美、高見の里など近鉄沿線には近鉄住宅がゆったりとした一階建ての庭付きで『かいづかいぶき』の垣根の家や、油がしみこんだ、まくら木を立て、その木を鉄線でつないだ塀で囲まれた近鉄の空き地などが目につきましたが、このころから人口も、昭和30年4万6千人。同40年7万1千人。同50年13万1千人とウナギ登りに増加し、空き地や池がつぎつぎと消えました。それに伴い、墓の姿も焼き場が消え、迎え地蔵の場所が変わり、墓石が整備されていきました。  
つきましては、墓にある焼き場ですが、松原の人達が簡単に目にする焼き場のあるお墓、又は面影を残すお墓は、今はもうほとんどありません。みなさんが出会っている所では、『いづみや』の西入り口の所のお墓です。古くから住んでいる人は、あれが焼き場だったのかと思う人もあると思いますが、それだけに、まだ面影の残っているお墓です。墓地内に入いると面影は感じられません。必ず道から見えるので、道から見て下さい。墓地はこの地に眠られた人達のお家です。道から見るだけのお約束をして下さい。必ず必ずお約束を守って下さい。お約束を守って下さる事を信じて、もう一つを紹介します。こちらはまだ残っています。西除け川の土手を歩いていますと出会う事が出来ます。場所のご紹介はここ迄、で許して下さい。ゆっくりと散歩して下さると出会う事が出来ます。  
ご紹介に迷いましたが、民話も同じですが松原の人々は記紀の時代からの伝承や遺跡、風習など多くの物を歪めたりすることなく今の時代迄大切に受け継いで下さっています。私はこうした松原を誇りに思っています。他事ですが、松原はゆっくり歩いていると、この土地で生まれ育った人でないと見過ごしてしまう、30cm程度の古く小さい道標との出会いや、反正天皇の産湯にひらひらと舞って降りたと伝えられる丹比の花との出会い、民話として伝えられている、「狭山池の、大蛇の約束」の祠かもと民話の世界に浸る事の出来る祠など、焼き場に出会えずとも、松原は決して夢を、歴史を裏切らない松原の地であると信じています。  
さて、松原は市営の火葬場がありません。そこで、大阪の瓜割霊園で火葬をおねがいするようになりました。昭和49年であったと思います。たまたま喪主が松原生まれでなかったことから、親しい知人仲間で葬儀が行われ、友人として手伝った経験をもとに市営の火葬場での経験を紹介します。  
2、自宅葬儀の後、市営の火葬場での経験  
まず、葬儀社の車が葬儀場である死者の自宅へ、お棺を預かりに来られました。焼き場へお棺のお伴をする人達10名ほどが葬儀社の車の後ろの小型バスに乗るのですが、葬儀場の自宅からバスに乗る迄に近所の人や子ども達、通行者へお菓子を配りました。(通常は子どものみだそうですが、見送りの子ども達が少なかったので出会った人皆さんに配りました)  
火葬場に着くと、お棺のお伴の人達は何基か並んである人焼きのお棺を入れるケース式に造られた場所へ行きました。やがて、寝台車が、お棺を乗せてくると、焼き場のケース式部屋へ入れられ、入口が閉められました。すると係りの人が、焼き終わり時間が告げられ、骨拾いの場所(同じ所でした)と時間が告げられ、その時間に来て下さいと言われ、長時間であったので、帰る人もいました。  
係りの人の指示した場所で待っていると、灰もきれいに除かれて、白いお骨だけになって寝台に寝かされた姿で、焼き場から出てきました。私達はこうした儀礼ははじめてでいわれるままに、割れ箸でお骨を一ついれてとなりへわたして行きました。誰か儀礼の経験者らしい人が「一心寺さんの、『のど仏』は、一番上に置いてや」仏の前で手をふるわせ偲び泣いて、こつ壺に入れる骨が拾えない人に「次の人が待ってはる(待っていらっしゃる)よ」と、注意されながら、スケジュールに沿うて、進みました。大分昔の事で、またその時の様子など、メモする事をしていませんでしたので、うろ覚えですが、こうして骨壺に骨を治めると、死者の自宅への帰りは葬儀社のバスでなかったと思いますが、どのように帰宅したか忘れました。たしか死者の自宅では、食事の用意をしているから食べて帰るよう言われたと思いますが、子どもを置いてきていました事と、日が暮れていたことから、誰かに全身に塩を振って清めて頂いて、私は帰宅しました。  
一心寺さんの『のど仏』については、大阪の人達は、人が死を迎えると、天王寺にある一心寺さんへ『のど仏』を納めます。七年に一度と聞いたように思いますが、その『のど仏』で一体の大きな仏様が造られ、なん体かの小さな仏様も作られ、のど仏を治めた人達へ授け渡されると聞きましたが、一心寺さんからは伺っておりません。ちまたの話です。一心寺さんは四天王寺さんと同様に大阪の人々にとっては大変親しみのあるお寺さんです。  
お盆には地方からきて、大阪人になったものにとっては、宗派の無い四天王寺さんは有難く、お参りし回向を頼むと体がすっかりと荷物を下ろしたときのように軽くなり、『かみこさん』や『亀石』辺りでは、不思議と故郷の人に逢い「あの世の者が導いて下さったのかも」などと話し、懐かしい喜びを頂いたりします。  
次回は墓地火葬です。死の儀礼は、どうしても高齢者へ聞く事となり不快な気持ちをお感じになった事も多々と思います。そうした中で色々教えて頂ける事を感謝しています。有難うございます。私も御蔭さまで同行組織→町会→業者→個人と各組織の中で体験させていただき、その過程の中を生きて参りました。大切に受け継がせていただきます。合掌。
墓地火葬の葬式 1

 

(語り手)松原市内。Mさん。昭和4年生まれ。女性。(採集地、採集日)阪南中央病院で手工芸ボランティアにて平成7年前後。 ・・・語りをそのまま文字に変えています。話しが前後や意味不明をご了承ください。・・・  
普通の日のことですよ、新しい(注1)下駄や靴を下ろした時、上から履いて降りてはいけないのは(座敷側から履物を履いて土間側へ降りていけないのは、)死んだ時だから。(死の儀礼だから)まあ、死んだ時の特別のこと(儀礼や死につながる慣習)は普通の生活ではしませんわ。葬儀に出る時は新しい草履をはくから、昔は泳ぎに行く時も、山へ行く時も新しい履きものを下ろしたりしなかったし、葬式でお棺を出す時茶碗を割りますわなぁ。もう帰りませんって、な。仏さまになるからって、な。だから日々の生活で、茶碗が割れたり欠けたりすることも嫌いました。だからかけたところを元に戻してもらいに(注2)唐津物屋(茶碗屋)へ持っていくと、どこで(修理)するのか、きれいに継いでもらえました。  
(注1) 履きものは、一般には夜に新しいものを下ろすことは忌(いみ)嫌う。どうしても、下ろさねばならない時は、『くど』の炭灰[日本には炊事場にはご飯を炊く釜の部、湯沸かし、鍋もの、などを調理する個所に、それぞれのものをおいて、下から薪をくべて調理をする窯が築かれていた。これを『くど』といった)『くど』の薪をひいた(退けた)後に残る炭や灰の部分で下駄や靴の底を汚し、魔よけ、とした。]で下駄や靴の底を汚して履いた。  
(注2) 実家で大切な茶碗を割った事があります。その時土鍋でご飯を炊いてそれを半日木の台の上で刃物を研ぐように木の板で下の台に平行にすりつぶすように平行に上下し続けました。お餅のようにきめ細やかでねっとりとなりました。正月の抹茶碗であったが、特別日でも人様の前で使用できました。Mさんの言う唐津物屋さんの修繕方法と同じかもと思います。  
墓地の火葬場は6地蔵さんのお墓にある。御迎え地蔵さんの所でお棺を置きます。迎え地蔵さんはお墓の正面におられます。  
誰かがおなくなりになりますと、今の隣組(同業)の人達が手伝います。  
家族の人達や、隣組の人達や手伝いに来てくれた人達に、大きなお釜に「かやくごはん」を焚きます。お葬式の方法は、新(さら)の藁草履を座敷から履いて、そのままでお棺を担いで、家を出ます。墓に行く時、頭に三角の白い布をします。幽霊がしている白い三角の布を額の所に締めて、お墓に行きました。お墓へいく道には、茄子とか大根、ニンジンなどを通り道の両側へ竹に突き刺して、道端だから墓の入り口まで竹に刺した野菜の通り道が続きます。たけは一本の竹を6、7枚位に(縦に)割って、それに突き刺すのです。  
墓の入り口にお地蔵(迎え地蔵)さんがいらっしゃいます。ここまで竹に刺した野菜があります。お地蔵さんの所にお棺を置いて墓標をたててきっちりしたら住職さんが来て下さいます。迎え地蔵さんの前のお棺に御経をあげてもらいます。住職さんは御経が終わると帰ります。そして私達も帰ります。帰ると火薬ご飯をいただきます。  
家を昼過ぎに出ても、歩いて行って迎え地蔵さんに着いてお経が終わる頃はちょうど日が沈むころだったと思います。夕日を背にして家にたどり着くと日が沈んで、火薬ご飯を頂く頃は夜だったと思います。ボーン、ボーンってお墓の焼き場から、骨がはじける音がします。その音へ、お見送りの手を自然に合わせました。  
一、七日。二、七日。(ひとなぬか。ふたなぬか)とします。・・・この意味はなにをどうするのか、わかりませんが、これでこの時の採集は終わりです。  
余談 
一緒にいた人達と、夏になると仏様のご飯をどのようにしようかとおもうの。ご飯を下げるのが外出などで夜になった時、仕方ないからちょっと黄色くなっていても捨てるわけ出来ないから洗って冷たい水を入れてかきこむわけなんだけど、困るのよねぇ。私の家は一番初めに次ぐでしょう、そして私が食べ終わったらすぐ下げるの。それならご飯も柔らかいし、など女ならではの雑談に花を咲かせておりましたところ、次のような採集が出来ました。  
(1)寺のお供え  
(語り手)松原市内。Fさん。昭和23年前後生まれ。男性。(採集地、採集日)松原市役所で雑談にて平成22年頃。  
僕の生家は寺なんですけどね、毎日の仏様のご飯は、私が食べるのですが、冷蔵庫に父と母の二人分ですが、仏様のご飯は山盛りだからけっこうたまるので、タッパーに水を入れて、その中に毎朝ご飯を入れて、仏様に新しいご飯をあげるのですが、水でふやかすので、美味しいおかずが続くとタッパーの母が作るおかゆを食べないで、ごはんをたべるのですよ。するとお粥さんがどんどんできて、お粥さんばかりを食べることになるけど、お粥さんだからすぐ空腹になるので、食間に数回食べるので、かえってこえちゃうのですよ。  
兄の寺では本堂に供えるご飯だけでも一升ですから、それが毎日ですから。それで、わっぱ(皿)に山盛りしていたら、それでは済みませんから。  
(2)霊と話す  
(語り手)孫。同居。平成9年生まれ。女性。(採集日)平成24年8月。  
おばあちゃんは、死の事ばかり書いているから、不思議な事がおきるの。と孫と話していると、○○チャンの家はお寺だから、お盆になるとおばあちゃんと同じみたい。家の中をおばあさんが歩いているのに出逢うのだって。それから寝ていたら昼間に会ったおばあさんが話に来る時もあるって聞いた。おばあちゃんも、同じだから信じたよ。
墓地火葬の葬式 2

 

(1)高見の墓地と蓮花形棺台と野辺送り  
(採集日、語り手。昭和56年、57年郷土史学級仲間より聞き書き帳より。蓮台は平成24年9月確認のため高見の墓へ行って確認。棺台の中央にと南無阿弥陀仏と彫ってあった)  
私の記憶では、確かあれは大型のレンガを積んで出来ている、大きな四角い煙突のある立派な火葬場を持つ墓地でした。整備を機会に棺台(ひつぎだい)の場所も変わりましたが、棺台はきっちりと残してありました。火葬場が無くなると、儀礼を受け継ぐ伝承の語りの消失は、加速すると思いますが、親から子へ人間の尊厳と死の儀礼を、松原の行基七墓伝承や行基と火葬伝承などは、焼き場が無くなっても、継承して欲しいと思っています。  
○棺台  
さて、蓮花の形をした棺台とは、第107回(前回)で『棺を六地蔵(迎え地蔵)の所に置いて帰る』と紹介しましたが、高見ではこの蓮花形棺台に乗せます。この台を松原では棺台や蓮台と言ったようです。この蓮台は、当時高見村の庄屋をしていた信田家が、安政4年丁巳、9月9日に施主したとあります。大変立派な強度の高い石なのでしょう、破損し欠ける所もなく長年風雨にさらされた事を感じさせないで残っていました。  
○野辺送り(棺回しとも言う)  
葬儀の列の先頭が墓へたどり着くと、蓮台の周りを三回左回りにまわります。(家を出た時も廻ると言う回答事例もあります)これは、死者の霊が死にたくない、など現世を離れあの世へ行く事を嫌だという思いが、霊となって家へ帰ろうとすると困るので、帰る道を死者にわからないようにするためだと言われています。これを野辺送りというのだそうです。また、棺回しとも言うようです。  
○信田の墓  
高見の墓を信田の墓と言う人もいます。これは信田家の墓のある墓場の意味と思います。「蓮花形棺台」の名称は便宜上私が名付けました。松原では、棺台、蓮台、石台、台、と親しみのある名称がありますが、今後名称でなく多くの人に出会って名前を調べます)  
(2)立部地区  
(採集。平成24年8月。松原駅前から立部公民館車中。昭和22年立部生まれ在住。男性)  
採集としては短すぎるのですが、立部地区でも第107回と同じ採集が出来ました。お地蔵さんの所へ棺(ひつぎ)を置いて帰るそうです。65歳で回答が即座に出来るのは、さすが立部地区です。事例は少ないのですが、墓地における棺まわし等の儀礼も行われていたのでないかと次の機会を期待しています。ついては私にとって立部は聖地ですので、儀礼の採集特記として人の一生をトータルとして書く事が出来ればと希望を持っているほどの地です。それゆえ、こうした一行一行の採集品を継ぎ合わせて長い年月の積み重なりで、出来上がりますが、松原はその土地で、その土地の文化歴史を安易におもしろおかしく作り変えることなく、大切に土地の人達が守り伝えていく姿勢があり、そうした姿勢が火葬や座棺の葬儀も完全に消えてもなお採集出来る地域がある事を心から自慢に思っています。  
市史3巻P649に次のような文面があります。  
『立部村、天保14年(1843)春・秋・冬ハ男共夕なべハ、草履併せ草鞋(わらじ)・縄・たわら作り、女ハ耕作透間(すきま・農閑期の事)・夕なべ共、木綿織りのみ仕候』とあります。立部はもちろん松原は綿の実がはじける頃は、雪が降り積もった程、田畑が綿花で真っ白になったと言われるほどの綿生産地であり、綿作、木綿織りは農業経営の基盤がつくり上げられた豊かな土地であるから儀礼や伝承が守る豊かな生活と精神のゆとりが自然体の中で育ち、存在しているからと、信じています。  
余談 
人が死んだ時  
○人が死んだら、そない(それほど)深い付き合いがなくても、隣近所で炊き出しの手伝いなり、なんなり(なんでも)、それぞれてんでに(勝手に)、前掛けなり持って行って、なんなりと手伝ったわなぁ。  
○最近はなくなったけど、「何丁目の何々さん。いついつお葬式です」って書いた回覧板が、まわったなぁ。あれはいつ頃から無くなったのかなぁ  
○色々な事が無くなったなぁ。亡くなったら『魔よけ』や言うて、小刀を入れたなぁ。今は飾りで、木で作ったのを入れるらしいよ。  
○あのね、聞いた話だけど、お葬式の時6文銭を入れるのに、用意してなかったのだって、それでね、あわてていると、葬儀社の人が印刷した6文銭出して、いくらいくら(金額)しますけど、棺に入れますかって言われたって。葬儀屋さんはなんでも用意しているらしい。もう20年ほど前らしいけど。便利と言うか、淋しいと言うか、わからんけどぉーなぁ  
○火葬の時やけど、お墓で特別に薪組んで焼く時な、途中見に行くと焼けてなかったら、硬直していたって言っていた。昭和の初めころは信田の墓(高見の墓の事)、それに新堂にも河合にも人焼き場の煙突あったよねぇ。けっこうその頃は多かったと思うよ。  
○昔は医者の診断なしだから、火を付け焼き始めると棺の中から熱い熱いって声がした話。
墓地の火葬の仕方

 

(語り手、採集日。昭和50年代を中心の採集メモを拾い集めました。)  
夕方になると、火葬が始まります。昼間に迎え地蔵、蓮台など地域によって異なるが、置かれた棺桶を火葬することになります。火葬をする人は同行の組織がある頃のことですから、同行組織のしきたりで行いますが、(同行や肉親及び死者に近い人や火葬の専門業者によって行われていたようです)これらの経験者が少なくなり、採集していてもほとんどが子どもの頃で、実際にとりおこなった人がいなくなり、『人の死』の儀礼は村落共同体で、親戚・仲間(同行など)などでとりおこなった経験者と出会えなくなりました。  
○火葬場の無い墓での火葬(火葬場を作る)  
今はもう無くなりましたが、昭和の時代頃迄は、どの墓にも火葬場がついていましたが、無い所もありました。私はどこだったか、どうしてもお思いだせないのですが松原の火葬場で、白い晒布をまいた煙突を、昭和40年代後半ごろ見た事があります。それでしらべたのですが、やはり、死者が出た時に火葬場を造る方法があったようです。  
これは松原近郊のできごとですが、人をいとおしむ心は、大小あったとしても同じでないかと思い松原ではないのですが、その事例を出します。  
[事例] (語り手、墓の場所、松原の近郊で、松原行基七墓と同じく、河内行基七墓があります。大正前期は知りませんが、大正後期の時、高齢になると河内七墓を一度出回るのではなく、親戚の者とグループで、まわった事がある人に出会っています。その河内七墓の一つと言われる。墓の話。平成10年代後半採集。語り手当時70歳代。男性)  
そうですなぁ。やはりここで生まれて、ここで育ったものは、死ぬときはやはり行基さんのお墓にはいりたいのですわなぁ。このあいだそれで偉いもめましたんや。行基さんの墓がいっぱいになって、地続きの土地がないのですわ。それで、道を渡ってちょっと向こうに墓ができることになったのですわ。すると本家の者は墓がありますわなぁ。新しい分家になると墓を造らんならん。(造らなければならない)そこですわ。という事でいろいろな問題があったようです。そんなこんなで、火葬場の無い墓(行基さんの墓以外)へは行きたくない。って言うて、もめた話と、火葬場の作り方と、火葬の仕方をしりました。  
しかし、語り手は松原ではなく近郊です。  
○火葬場の作り方  
つくる人は同行又は地域の人で作るらしいのですが、私は知識がないのでよくわからない。はじめに死体焼き場の土地面をつくって、9尺の丸太の棒がきっと煙突になるとおもいますが、立てられ、4本の丸太を立てて藁を巻いて屋根も作り筒型の中に入れるのだと思います。  
それから、藁で巻いたり、白い布でまいたり、屋根を造ったりとするのですが、説明を理解することができず、よくわからない。沢山の藁や薪、炭などが沢山必要のようでした。もうだいぶ前おしえていただいたのですが、同行の組織の重要を感じました。  
親戚一同で出来るものではないと思います。いま一つ一つていねいに理解するように何度もメモ帳を見て書こうとしたのですが、私には無理でした。わかった事は、一人の死に対して、地域の人達全員の協力が必要であろうと思った。もちろん人手もですが、藁や炭、薪の量の多さ。また人焼きは太陽が沈んでから焼き始めて翌日の朝に焼きあがっている状態のようです。夜中は、身内が見に行くそうですが、時々火のまわりを見に行って、棒でひっくり返しながら焼くのだそうです。一晩中お酒を飲みながら焼くのだそうです。  
余談 
葬儀は人の一生の中でも、一番大切ですが、儀礼の復活をしましょうといって出来るものでもないし、葬儀の儀礼においても、業者へ行って教えてもらう事ではない。現在7、80歳代の人も業者に手伝っていただいた経験者がほとんどとなり、ここまではわたしたちでしたけど、ここからは業者にたのんで、してもらった。などと、なって経験者が急速にいなくなりました。原稿が書き終わったその日から次の採集にとりかかって、自分でも死霊がついたと思うほど「消えてはなら、じ」と、精力的に採集をしていますが、昭和40、50年代あたりの採集品の頁をめくる事が多くなりました。そんなわけで、あ!納棺では釘を打たない。鉄ものは使用しない。などが出てきてもその章は終了しているなど、しています。  
こうしたことから、書くことなく消えるだろうなぁと思う時、採集が間に合わず、書きそびれたこと残念に思っている儀礼を、「死と人の心」など『ちょっと余談、人が死んだ時』の項目を毎回入れることに致しました。『松原の人々の一生第107回』から、シリーズとして入れますので、ご愛読下さい。  
そのためこのシリーズでは、これはずうっと前の項目だとか、まだ先の項目だとか有りますが、この項目では、落ちこぼれた、落ちこぼれそうだ、「まさか」と思って書く事を拒んだもの。そうしたものを書いていきます。もちろん『逆戒名』など、今から戒名だけでも用意しておかねばと思っている、年齢の人達にも参考になる事に出くわすかもしれません。  
○死を待つ者が大切にしていたもの  
(話者昭和4年生まれ、男性の妹)  
兄は小指の爪を大切にしている。爪の根の所から5分(ごぶ。2cm)伸ばしているの。戦争に行っている時、皆、小指の爪を伸ばしているのだって。死んだときに、骨壺の骨の替わりに、爪を入れて、軍から親に送ってもらうのだって。戦地で、それを信じて大切に誰もが爪を鍛えて、磨いていたって。終戦後今でも鍛えて磨いているって。
土葬

 

(1)簡単な葬儀  
出棺は、最近は朝10時と書いてあるのを見るようになり、朝から葬儀と驚いていましたが、だいたい2時から3時が、一番多いように思います。昔は、松原は墓の焼き場で焼くので日没の後が一般的でした。土葬の場合は、帰りが遅くなってはいけないので、季節にもよりますが、やはり2時から3時が妥当と思います。しかし、最近はこうした葬儀の張り紙をみなくなりました。  
葬儀は2回するわけではないが、地域の人の場合は出棺から墓迄付き合って、食事をする。  
親戚縁者や地域でも特に親しい人や同業の人達は、食事が終わると墓へ棺を納めてから葬儀者の家に帰り、寺の僧を呼び経をあげてもらって、酔いつぶれる頃迄飲み食いして、仏の相手をする。そのまま雑魚寝となるひともいるが、重箱にごちそうのみやげをもらってかえるひともありました。昔は、結婚式と葬儀は同じくらい盛大に行われました。それゆえに簡単にと言え、地域全体が顔だけでも見せて来なくてはと、それなりに大変でしたが同業組織と共に土地に住む者の義理、人情も含め、互助的形態を含め大変でした。  
(2)きっちりとする葬儀  
1.忙しい人達や遠くからきて、葬儀が終わるとすぐ帰る人など  
昭和4、50年代になると核家族も増え始め、兼業農家や休耕田が増えていくようになりました。そうした事もあってか、夜更けまでのだらだらした葬儀も少なくなってきました。  
12時から1時頃軽い食事代わりにおにぎりを食べます。  
このおにぎりは、御産の人が下さいと言ってくるらしい。食べると安産だと言う言い伝えがあるらしい。  
○出棺から墓へ  
松原の場合は、墓は地域、地域にあるので、どの家からも歩いてもさして時間のかからない所に寺も墓もがあるので(寺と墓が一緒の所もあるが、少し離れた所にある所もあるが余り離れていない。)出棺して、墓へ着くと、迎え地蔵さんの前や、蓮台の上に棺を置いて、その周りまわりにある、墓の休憩所の様な部屋、又は寺のそうした部屋に上がって、喪主が墓迄来て下さった人にお礼を言って、生前世話になったエピソードなどを語った後料理を食べて、1時間から2時間飲み食いして自由解散で帰って行く。  
2.出棺  
○家を出る時  
棺はだいたい座敷に置いてありますので、座敷から出すのが一般的ですが、出口はだいたい玄関以外から出していたようです。玄関以外出棺出来る所がない場合は、窓からでもよいから、玄関は控えた方がよいと聞きました。  
出口を出る時は出口の敷居にゴザを敷いて、敷居をまたいだ。決して踏んではいけないと言われる。  
死の儀礼は日常とは反対の事をするのが常識で、着物も左前に着付け、食事も一本箸、などいろいろあるが、敷居を踏まないのは日常生活でも敷居を踏むと「親の頭を踏むのと同じ」だとしかられた経験者も多いと思いますが、敷居は「死出の山」といって敷居の上に棺を一旦おいてから運び出すところもあるらしいが、松原は踏んではいないと言うから、またいだのだろうと思います。  
棺が出ると、死者が生前使用していた茶碗を、門を出る前の所でわります。投げつけるようにして割ります。茶碗を、音を立ててバシャーンとわるのは、霊が帰って来ても、もうここで食べるものはない。あの世で食べるのだと死者へ教えるのだとの事です。  
また、送り火、門火、あと火などという呼び名で火を燃やす所もありました。この儀礼も霊が帰ってこないためと言う人もありますが、死者が行く道を照らすのだと言う人もあります。  
○墓地への道  
墓地への道は、以前書いているように、墓への道には青竹に茄子など食べ物などが道の両端に差し込まれている。蝋燭、線香などをさしている所もあったようです。またお金を道道、落したりもしていたようです。墓地への道では話をしたり振り向いたり、してはいけない。霊がつくとも言いました。また、棺を運んだ人には食事を頂く前の「キヨメ」など、それぞれにとくべつがあり大変だったようです。  
余談 
(1)位牌の上座はどこか  
○位牌の上座は仏さんへ向かって右側が上座。だそうです。  
語り手の話  
主人は長男。私も長女。結婚して二所帯の位牌がありました。  
嫁ぎ先の先祖代々の位牌。自分の先祖代々の位牌。主人の位牌。私の位牌  
(2)生前戒名(逆戒名)  
語り手の話  
主人が亡くなった時、私の戒名も作った。証書があって、それを持っていくとそれが宗派の証明証になる。『逆修之証』これを持っていると私が亡くなった時、檀家でなくても大丈夫なんだって。
葬のいろいろ1 ・・・此の世での終着

 

この世に生を持っていた人が死を迎えると、共に暮らした同じこの世に生を受けた人との血肉と心をもってのつながりは、葬儀が終わるとあの世とこの世に分かれて、互いに別世界に存在し、いかなる努力を持っても、互いが血肉と心をもってつながる事は出来なくなります。このように一人の人生がこの世から消え去る儀式を『葬儀』と言います。  
ついては、この厳粛なる儀式に対して、私は松原では、業者が行う、葬儀出席経験しか持っていません。松原の住民からの採集を集めていたのですが、この厳粛なるものを、もう業者さんの儀式しか出会えないとしても、不謹慎な気がして、また体験内容もどこか他人事で、どうしても心がすすみません。そこで、愛媛県南部での葬儀体験を置き換えて紹介します。なお、松原での体験は、葬儀社のパンフレットと同じ形態ですので省きます。  
野辺送り  
私の経験では小さな村落ですので、村民各戸からの戸主が全員参加します。出棺すると、棺を担いだ人を先頭に肉親から親戚村落の人が続きます。棺を先頭に、次のようなものを持って焼き場まで行列が続きます。  
○死者の写真・・・黒枠の木の台付きの写真立てに入れていました。土地の写真屋さんが息を引き取っていても、きれいに写して下さいました。  
○仮位牌(位牌はまだできていないので、=早々に死を待っていたように死の前からは、用意しません。これは、死に装束も作り置かず、あわてて何人もの人が急いで作るのと同じ精神です。そこで、未だ戒名をいただくには早すぎるという気持ちで、仮位牌にします)  
仮位牌の作り方は、「ひご」とよばれる竹を細く縦割りにした竹を、U型に曲げ、板の上に竹ひごをたて、白い紙をかぶせて、戒名を書いて、仮位牌をつくります。  
○その他に農協と、御寺にそれぞれの用途によって保管されている村落共有の物を使用していました。保管されていないものは、地域の者によって急いで作ります。  
○幡(はた)、4本幡(しほんばた)といって『諸行無常』『生滅滅法』等の四字熟語の仏法を書いたものを4本持ちますが、白旗もあります。  
(1) 四花・・・(朱白紫黄の4色を、それぞれの色分けをして細長い竹串にかざり切りで、ひらひらするように巻き付けたもので、作り方は、細長い紙に左右横から切れ目を入れて、細長い竹串に斜めに螺旋形に巻きつけると、独得の斜線巻きでひらひらと出来ます。  
(2) 四華・・・(金の紙と銀の紙を細長い竹串に巻いて4本作って、牛乳瓶か細長いコップを花ビンにしてさします。これを紙花と言います)  
(3) 紙花・・・白い紙を四弁に切って花を作り、ヨシをくきにして、これを輪切りの大根に刺します。  
―幕(まく)や幡(はた)などの色は、仏事は5色。神様は7色だそうです。昔はその地域、地域に神社と御寺があり、生まれる時は神社で祝福をいただき、一生を終える時は御寺さんで仏様になるために、その地域のお墓にいれていただきます。つまり、生活の中に神と仏が同等に存在していました。例えば12月31日の夜に仏壇の戸を閉めて御正月さんを迎えます。盆になると今度は神様の神棚に半紙で幕をひき、そして仏様を迎えます。つまりこのエリアは神、又は仏の地域です。と幕を張り共有するのです。―  
○龍立つ(りゅうたつ)・・・竹に赤い舌に枇杷の葉のみみをもつ龍立。そのほか辰頭などがありました。また五色(仏事の色)の吹き流しや緑色の笹のついた竹などがありました。  
出棺時間はお昼ごはんがおわったころで、一時頃になると次々と集まってきます。だいたい集まると「○○さんとこは来てるか」「呼びに行ってやれ、子がむずかっていると、手はたくさんあるから子も連れて来いや」というのや、と気を使いあい、助け合います。(野辺送りへ行かず後片づけや、野辺から帰って酒を出し死人の昔話などして、偲ぶ席や帰宅の時のお土産作りなどをする人達を人手、手伝い者の意味をもって「手」と言う)といったりした、こころくばりをもって、地域全体で、見送りました。  
焼き場の墓へ着く  
焼き場へ着くと中央が、円形古墳のようになっていて、そこを三回左周りにまわり、棺を棺台に置き10坪足らずの家があって、ここに食事と、御酒が用意してあって、ここで死者が焼き終わるまで、待ちます。そこで、喪主が、死者と喪主がかかわった病状、介護の話をとうして、死者が安らかに昇天した事や、地域の人達の御蔭で、こうしてあの世へ安らかに行ける事はみなさんのおかげである事、これからもよろしくと挨拶をして、食事と酒を酌み交わし、死者の生前の徳をたたえながら時が立つと、肉親は席を立ち、骨を拾いに席を立ちます。ここで、お開きとなり、御土産のすしなどの入った折り詰を持って、自由に帰宅していきます。  
帰る時の注意  
帰り道は子どもでもよいので、男性と一緒に帰る。女性だけでは帰ってはいけない。来た時と同じ道を通ってはいけない。必ず別の道を変える。一人では帰ってはいけない。振り向いてはいけない。転んではいけない。と言い伝えられています。これを破ると、霊がついて来ると恐れ、忌み嫌います。  
家に帰ると  
家を出た時の出口から入ってはいけない。家に入る前に塩を体全体に掛けて清める。  
香典  
香典は、「お悔やみ」とも言いました。現金は農耕生活者にとって大変でしたので、御米や、小麦粉、うどんなどの物品を持参したようでした。どの家でも一升袋は代々使用するので継ぎを当てたものがありました。一升袋、三升袋、が一番多く使用していたようです。
葬のいろいろ2 ・・・土葬・水葬・火葬・風葬

 

佛教での御葬式には土葬(地)、水葬(水)、火葬(火)風葬(風)、の4種類の方法があるのだそうです。これは、いつもの私の採集品ノートからではなく、会員へ発行されている泉南市歴史研究会歴研通信(「話の種に、6」H20年4月1日発行。浄土宗勝楽寺住職・前原英彦著)に載っていました。それによると人が死ぬと、4種類のかたちで葬儀が行われるそうです。これを四大(しだい)と言い、佛教用語(?と思います)で、私達の周囲にあるものは、『地、水、火、風』の四大から出来ているという意味で「お坊様が病気」と言う事を表す言葉を「四大不調(しだいふちょう)」と言うのだそうです。  
私達の身体は四大で形成され、死ぬと、土葬(地)、水葬(水)、火葬(火)風葬(風)、の4種類の方法で葬儀が行われるのだそうです。  
仏教系葬儀について―土葬(地)、水葬(水)、火葬(火)風葬(風)―  
(1)地…土葬。  
地は土の事ではなく「形があること」をさすのだそうです。人間の持っている形ある物とは「身体が形」と言うことに、なるようです。  
松原の土葬の棺は、私の採集では、埋葬(まいそう)と火葬がありますが(松原は土葬も埋葬も同じ土に埋める方法ですが、内容により言葉を選びます。表現詳細略)座棺は埋葬の墓で使用していました。採集を振り返って考えますと、土葬の方が古く、火葬の方が新しい葬儀法であろうと思いますが、火葬の場合は行基墓と言い、墓場に焼き場があります。となると、行基墓がいつ頃から出来たかのもんだいになりますが、現在私の採集からは回答が出来ていません。私の採集によると座棺葬儀体験者は昭和10年以前生まれの男性で、以後は寝棺です。座棺とは樽の中に前かがみに手足を身体が硬直する前に急いで胸前に折たたみ、御尻を下にして樽の中へ死者を裸で入れ、顔を出して着物を着たように、上から白い布を掛けました。座棺も、寝棺も共に月日が、自然に土にかえしてくれる埋葬方法です。  
ただし、私が採集始めた昭和40年代前半の使用はなく、大阪市瓜破でしたが、まだどの墓にも火葬用焼き場が残っていました。松原の火葬、土葬の儀礼については、両儀礼とも深く、長期に多く取り扱って説明していますので、ここでは省略しますが、私は民間口頭伝承話の採集に力を入れている体験からしますと、松原には火葬と土葬を題材にした民話は数多く残っています。火葬は当然ながら行基民話です。もう一方は全国的に分布している土葬墓を示し「飴買い幽霊…胎児を身ごもったまま死んだ母が、毎夜墓を出て飴を買いに行った話」も、同様な形態で松原でも伝承されています。この御話を彷彿させる土葬の方法で、死者は埋葬されます。その埋葬は次のような方法です。  
墓穴を掘る前に、まず棒を地面に刺して掘る所に前任者の棺がないか調べてから地面にお金を(四方と思う確認していない)置いて、4尺から7尺くらい土の下で、苦しくないように空気穴を作ります。作り方は細い竹の棒から節を除いて立てます。ついては松原ではありませんが、土葬にもいろいろあって次のような形式のものもあるようです。埋葬後、3年程度で再度発掘し、その骨を壺に入れてお墓に納める方法があるそうです。この時、所によると掘り出した骨を水でよく洗って納める方法をもつ風習があるそうです。  
そのほかに、特殊な土葬になりますが、エジプトのピラミットで知られている「ミイラ」葬も、日本でもあったようです。私は残念にも知らず、説明できませんが、東北地方に「藤原3代」のミイラがあるのは有名だそうです。次の事例は、出羽三山の「木食上人」の事例です。上人は生前から木の実やソバ粉を食べ、生きている時から土中の棺に入り、死後ミイラになるよう努力された事例もあるそうです。(松原の事例で、土葬座棺の儀礼がおこなわれた事例は同行の組織が残っていた頃の事例(私の同行で実際体験採集は昭和48年が最終)  
(2)水…水葬。  
現在はほとんど行われていないそうです。古い記録に紀州の御寺の住職(寺の名前がすれて見えず)が、亡くなった時、遺体を小舟に乗せて沖に放つ葬法があったと書かれているがこれも一種の水葬でしょうとありました。現在は航海中に死人が出、故国に、遺体を連れ帰れない時のみ、水中へ沈め、汽笛を長く鳴らして3周して去る儀礼もあるそうです。松原の水葬儀礼の採集はないが、形と川の用途からないと考えます。  
(3)火…火葬。  
死体を焼いて「お骨」にして祀る方法で、日本では仏教とともに火葬の方法が輸入された。死を「けがれたもの」と考えた日本人に火葬は素直に受け入れられ、現在では都会はもちろん、田舎でも火葬が多くなったとあります。  
○火葬と土葬は松原の葬儀方法として、採集がありますので、事例と共にのせていますが、この時書いておりました通り、松原は行基七墓の風習が最近まで残っております。行基墓には、焼き場がありました。松原の風習で、河内七墓参り、松原七墓参り、地域七墓参りの風習は大切に思っています。私の採集では、昭和15年生まれの女性で、地域七墓を、経を読むように一気に話して下さり、母親と歩いた七墓まいり、七墓のおかげと手を合せて語る人などに出会って、民話部門で書いておりますが、行基を信仰しているのではなく、行基を自然体で受け入れる姿は、松原を私製用語『記紀の松原』と言わしめる土壌の力かもしれません。また死を「穢れたもの」と考えた日本人を云々と考えるのも、なるほどと思いますが、松原には女性が「穢れたもの」の思想の原点と考える血盆経(コツコツと30余年研究していますが、裏経と言うだけ五里霧中です。しかし、高見地区に伝承する民話や唄に隠された言葉の解読の完成で「女性と穢れ」の回答を毎月の月経とつなげずに回答を得ると思っています。  
(4)風…風葬。  
最近は「鳥葬」の語がつかわれているそうです。死体を野外に置き、鳥や獣の飼食にし、風化するのに任せるそうです。日本でも古くは風葬が行われていたらしく、「餓鬼草紙」にはその様子がかかれているそうです。  
―四大(しだい)についての学問部分は上記氏の寄稿を参考資料としています。―
生の儀礼と死の儀礼

 

第1回平成15年「懐妊」から始まった『人々の一生』も平成25年の3月、今回で終了となりました。還暦の年から始まって古希の年で終了とは誠に有難く幸せ者とつくづくと喜び、今までご愛読いただき支えて下さった皆様へ心より御礼申し上げます。  
さて、人はこの世に生をうけて誕生し、死によってこの世からあの世へ、霊魂として黄泉の国へ送られ、この世も、あの世も定められた年齢、年数によって命が重ねられ、そこで作られた儀礼を重ね、一つ一つその節目をクリアーしながらあの世とこの世で一生を終えると考えられているのでないかと、人々の一生を書きすすみながら感じ取りました。  
(下記の儀礼は松原で明治、大正、昭和10年代の戦前生まれの人から、明治以前から先祖が在住者で、過去は別として通称偉い人、ええしいの家(旧家、元庄屋など)等を除き、知人仲間の方々からの採集です。)  
   生の儀礼と死の儀礼  
誕生(出産)  
産気づくと神棚、仏間、二階(神棚、仏壇の上にあるので)等を除く)納戸、土間等に藁を敷き地域の産婆さんによって出産。  
死亡(死)  
死を確認する同行へ知らせ同行は寺へ知らせ、葬儀関係は同行の互助組織で全て執り行なう。  
産神と産飯  
生まれるとすぐ、ご飯、酒魚に川原の石を産神様へ供える。(3)、5、(7)、(8)、11日目に赤飯を供えます。()がある日はだんご、魚、小石、御酒等のどれかを加える日33日にご飯と小石を供えてこれを枕下げの膳と言います。産婦は、分娩直後分娩室で砂糖湯を飲む。それから粥や柔らかいご飯を3日くらいその後はご飯に湯をかけたものを一杯から。  
枕飯  
枕飯、おっぱん、屏風飯など呼び名あり。死ぬとすぐ手でひとすくい、米をとがないで焚く。焚く人はたいてい湯灌をした人や身内の者が焚く。ご飯は使い捨てのしゃもじに一粒も残さず生前使っていた茶碗に盛る。ひつぎが家を出る時、玄関でわる。茶碗には箸を一本立てる。  
産湯  
産湯は大根の葉、塩、酒、松原でも地区に、家によって違うが、産婆によって行われる。産婆は腰かけに坐って足をたらいに入れ、足の上に赤子を置いて洗う。湯の処理は便所、肥料溜めなどへ捨てる。  
湯灌  
湯灌の湯は日常のかまどを使用せず外か土間で逆さ水で湯を沸かしシキビや塩をいれ、墓場小屋のたらいは借りる。湯灌が済むと産婦以外は死に化粧をする。  
三日祝い  
三日目(みっかめ)祝い。湯始め(ゆぞめ)の祝い。等と呼ぶ。新生児に湯をつかわせ髪をそる。女児は紅で額に○を三つ、男児は大と墨で書く男女とも産着を着せ、まゆ毛と頬紅を付ける神社へ行って御幣をもらって清め便所産室等を清めたり、ごはんを供えるなど、寺からは火を貰う家もある。  
三日忌(葬式の翌日)  
葬儀は同行以外の人の手伝いはなく同行と身内のみでとりおこないますが、三日の朝になると、村落の人達が野菜や米を持ってきて邪魔しないよう手伝って帰る。翌日参りで墓へ行き僧侶や親戚知人で法事をする。49日迄のくり上げ法事をしてよい。  
お七夜――おひちや  
ウブヤイワイ・マクラヒキなどとも呼ばれます。出産前から子どもの名前を考え、七日に子どもの名前を付け朝に祝い膳の時に発表されます。膳には団子3つと赤飯・酒・魚・小石を産神様に供えます。  
初七日  
儀礼はたいてい七の倍数で行われます。ひと七日(初七日)、三十五日、四十九日と続いていきます。これらの日は、僧侶を呼び法要をしてもらいます。  
三十三日の宮参り  
七日ごとに百日前後に何度も産土様(うぶがみさま)へ宮参りをします。男女とも三十三日に初参りが行われます。この日は、地域により二〜三日ずれますが、この日が初参りで神の子として、あいさつに参ります。  
三十五日の忌明け  
三十五日までに墓前に灯明をつけて、親戚縁者を呼び、墓前で供養の読経をあげて法事をします。この日を忌明けといい、精進落としで魚肉を食べます。三十五日が終わると、家の神棚にオヒカリをあげます。  
その他
百日のお食い初め、初節句、初正月、初誕生として一年となります。七歳で神の子から人間として独立され七五三の儀礼があります。神の子と人間との界の唄として「とうりゃんせ」の童謡に♪行きはよいよい♪(神の子なので、大丈夫)♪帰りはこわい♪(人間になって、魔物が怖い)という一節があります。七歳から奉公に出る子もいました。(例:おしん)
四十九日の忌明け
マンチュウインといい、死者の霊魂は、この法事の鉦の音と共にあの世に旅立つといいます。続いて、百ケ日、初盆、一周忌、年忌があります。一般には三十三年の弔上げでおわりますが、五十回忌があります。これは祝いとなり、喪服は着ないで祝いの着物を着ます。五十回忌までは仏で五十回忌が終わると昇天します。  
 
「死」喪葬 2  

 

臨終から通夜まで
末期の水
かっては人が意識が失われ、臨終になると、その人の魂を呼び戻すために、男子が屋根に登り大声で叫び続けたり、水を飲ませたり、顔にかけたりした。大声で死者の名前を呼んで魂を何とか戻そうとすることを「魂よばい」という。また顔に水をかけたり、水を飲ませることで、何とか生き返ってほしいと願う遺族の切実な気持ちの現われである。「死に水」あるいは「末期の水」は、筆、綿、櫁の葉を水に浸し、それで死者の口をうるおし、水の力で生き返らせようとしたのである。この死に水は、死の直前に行なわれるものと、死んでから行なわれる場合がある。また死期の近づいた病人が、水を飲みたいということを「願い水」という。
遺体の安置の儀式
遺体はほとんどの場合に北枕にする。ところによっては息を引き取った時には西枕、僧を呼んで枕経をするときには北枕にする。また北枕と同時に、顔を西向にさせるところもある。これは「頭北面西」といって、西方十万億土に極楽があるという西方浄土信仰や、釈迦が涅槃に入った時に取った姿勢に倣うものである。顔にはさらしをかけ、手は胸の上で合掌させる。布団や屏風は上下さかさまにする所がある。これを「サカサゴト」という。また遺体を清める(湯かん)ときに用いる湯は、先にたらいのなかに水を入れてから湯を加える(サカサミズ)方法を取る。これらは儀式や呪術を行なうときの特徴で、超自然の力が働きやすくする場をつくるために、日常で行なわれる習慣を意識的に排除するわけである。俗説には、死者の国は現世とことごとく反対になっているため、死者の世界にかたちを合わせたものという。かって夜間に葬列を行なったのも、死者が昼間に冥土に着くように配慮したものという。
枕飾り
死者の枕元に台を置き、そこに線香、一本花(死者の招代)、ローソクなどを供えることを「枕飾り」という。枕飾りに用いる線香やローソクはそれぞれ1本ずつ立て火をつけておく。これが2本だと死者の霊がどちらに行ったらよいか迷うといって嫌う。また邪霊を払うために用いるカミソリや短刀のことを「守り刀」という。置く位置は枕元や胸の上など土地によって違いがあるが、一説によるとこの「刀」は住職が故人の髪を剃った名残りであるという。次に枕飯(死者の使った茶碗に山盛り飯にし、ご飯の上に招魂のために箸を1本を立てる。所によっては死者の使用した箸を2本立てる所もある)や枕団子を供える。モクレン科の常緑樹であるシキミは神の意志の先触れをするとされる木で、その実は毒であるため、「あしき実」からシキミと呼ばれるようになった。「一本花」ともいい、死者の枕元に一本花を立てるのに用いる。死者の復活を願ってシキミを立てるのは、正月の門松と同じで祖先の霊、歳神を宿らせて門に立てるのと同じ発想である。「枕飯」については、食物が肉体を養うならば、魂も養うという考えから、魂の形である丸形にして供えた。出棺の際には、これを茶碗ごと枕飯を投げて割ったり、メシモチが先頭に捧げ持って墓地に供える地域もある。また枕団子は、死んでから善光寺に行くための弁当であるという信仰もある。こうした「丸い」形のものに、月見団子がある。これは月に宿る祖先の霊を、すすきの穂で招き、団子のなかに宿ってもらい、それを食べることで祖霊に祝っていただく行事である。枕飾りには、枕飯と枕団子の両方を供える地方が多いが、枕飯だけ、あるいは枕団子だけという地域もある。また柏崎市笠島では、枕飯に箸2本を立てて供え、住職が「カミスリ経」をよんで死者の髪を剃り、お経がすんだあと枕飯の箸を抜くという。仏壇は開けて打敷(三角の布)を裏向けて白い方に替え、線香・ローソクに火をつける所、仏壇を閉めてしまう所とがある。神棚は死の汚れを忌み、みすをさげるか白い半紙を用意し扉の前を隠すようにして貼る。これを神棚封じといい、忌が明けるまでそのまま貼っておく。所によって半紙にメ(しめ)と書く。
通夜
通夜はもともと死者の蘇生を願うためのもので、墓地の近くに仮の小屋を立て死者の名を呼び、遺体をゆすり、火を焚いて死者が生き返るようさまざまな努力や呪術が用いられた。こうした蘇生のための期間を通夜という。蘇生行事を葬式のスケジュールに入れていたわけは、それによって蘇った例があったということである。それを裏付けるように、全国に死んでから生き返ったという伝承が数多く残されている。その多くは三途の川を渡った話や美しい花園を見てきたというものである。これは今でいう「死後の世界」を見てきた話と共通点があって大変に興味深い。現在は死者の蘇生儀礼は行なわないが、交通事故が増大し、それと同時に救急医療が進歩したため、死にかけた人が息を吹き返す例が大変に多くなっている。「臨死体験」が注目を集めている訳である。この通夜は普通亡くなった夜の一晩だけだが、翌日が友引の場合には葬式を出さないので、二晩になることもある。その時には最初の晩はごく内輪で行ない、2日目の夜は正式の通夜として行なうのである。通夜は僧侶が仏前で通夜勤行をし、そのあと家人・親族が一晩中、ローソクと線香が絶えないように番をする。通夜は別名「ヨトギ」と呼ばれ、通夜に出されるせんべいをお伽せんべいといったり、「さみし見舞い」「忌中見舞い」という形で、身内や親しい人から菓子やボタ餅が届けられる。
供花
葬式にはかかせない花篭・花輪は、死者の霊が蘇生するようにとの招代であり、同時にそれは魔除けの呪力をもつと信じられた。壱岐・北九州では、独身の者が死ぬと、あの世で結婚できるようにと、葬列の先頭の人が「花摘袋」を持ち、行き交う人が花をその袋の中に入れてやるという風習があった。これは花がなければ、先祖のいる世界に行けないと考えていたためである。もともと花は、季節の霊を迎える依代(霊が来て宿る)の一つなのである。かっては季節の変わり目に、祖先の霊を迎えて行なう「ハナ」と呼ばれる行事が行なわれていた。葬儀に多く用いられている菊の花は、平安時代の頃から貴ばれていた。特に9月9日の重陽の節句には、菊酒を飲み、菊の花に綿をかぶせて、その綿に肌が触れると長命を保てると信じられていたのである。
死装束
納棺に先だって、死者に白いさらしの経帷子を着せるのが一般の風習である。経帷子、つまり経文を書いた衣を着せる起源は、もともと真言密教の説に基づくものである。ダラニ(梵語の文句)の威力によって、これを身に帯びるなり衣に書けば、死を迎えるときにも心が乱れず、一切の仏が現われて慰めるという「ダラニ経」の一説から来ている。経帷子は手甲や脚絆、そして白の頭陀袋が組み合わされている。経帷子は巡礼の装束であり、死後は西方浄土に向けて巡礼に出発するという発想がある。足袋をはかせるときには、こはぜをとり、頭には白の三角布をつけ、手に数珠を持たせ、首に六文銭の入った頭陀袋をかける。白の三角布はお化けを連想させるので、余り格好のいいものではないが、三角布はかって子供が付けたものであるため、これをつけることで死者が生まれ変わって子供に返ることを願っておこなうという説と、もう一つは三角は蛇の頭を連想させるので、その蛇に返るという説がある。さて死装束の色であるが、白は忌みの着物に関係の深い色である。また神仏の使いが白犬、白鳥、白狐、白蛇であるのも、白が霊界の象徴だからである。さて婚礼にも葬式にも白を着るというのは、つまり白が物忌み籠りのための色だからである。神前結婚式のあとでの披露の席には、花嫁は俗世間に戻ることを示すために色直しをしなければならないのである。
納棺
死者を納棺するときに一緒にもたせるものに、頭陀袋、杖、経典あるいは生前愛用したタバコ、酒、そして生花などがある。死者にもたせる杖は、ふだんとは逆に、太いほうを下に細いほうを手元にする(資料2)。頭陀袋のなかには六文銭、へその緒、血脈。また半紙に糠、灰、山椒の実、石3個を別々に包みオヒネリにしたものを入れるところがある。この灰は目ツブシに、石は悪魔に投げ付けるためだというからブッソウな話である。女性の副葬品として櫛、カンザシ、手鏡などがあるが、火葬が普及してからは燃えないものは禁じられるようになった。
出棺から埋葬まで
出棺
葬儀のあと、出棺は霊柩車までということで、現代では出棺に伴う儀式が大変に少なくなった。葬儀のあと家から出棺するときに、頭の方から先に出すところと、足から先に出すところとがある。足から先に出す場合には、頭を北にすることを優先にする場合である。さてこの棺を担ぐのは男性で、孫とか甥が多い。これは「オイトマゴイ」という語呂合わせから来ている。縁側から棺を庭に出すときに、竹で作った「仮門」をくぐるという作法がある。この門は冥土への入り口をあらわし、儀式のあとには燃してしまう。これは死者の霊が戻って来ようとしても、門がなくなっており、2度と帰れないようにするための呪術である。次に棺を庭の台の上に置き、その回りを参列者が左に3度回るという儀礼を行なう地方がある。これは三匝(さんそう)の礼といい、インドでは最敬礼にあたる。回る方向は縄のゆい方と同じように右左がある。左回りをとむらい回りといい、葬儀の時に行なう回りかたである。縄もまた左右があって、普通の縄は右に凶事には左になう。左は神格の位置するところで、普通の人にとって忌む所となる。手前でなく外に向けてひしゃくの水を注ぐのを左ひしゃくといい、野辺のおくりの時にはそのようにして手を清める。こうした回る動作をすることによって、中心を作りその中を聖別する働きをするのである。葬列の始まりにあたり、家の門で死者の茶碗を割ったり、わらに火をつけて燃すところがある。これもまた死者の霊がもどらないための呪術とされている。
放鳥の儀
最近出棺にさいして、白いハトを飛ばす「放鳥の儀」が復活してきている。鳥は昔から人間の魂を運び移すものとされた。「古事記」にも「ここに八尋千鳥になって、天にはばたいて、浜に向かって飛び立った。」とある。チベットで有名な鳥葬では、人間の遺体を鳥に食べさせる。非常に残酷にみえるこの風俗も、実は鳥は天の使いとして、魂を天に運んでいくという意味をもっている。従って肉がそのまま地上に残されていることは逆に不吉なことなのである。出棺をデダチといい、出棺が何かの事情で遅れると「死んだ人が善光寺詣りをしています」という地方があるという。
野辺の送り
野というのは山の緩やかな傾斜面で、そこに死体を運ぶことを野辺の送りといった。道案内役は、先にローソクを曲がり角などに立てる。松明は死者の霊をあの世に転生させるための火である。杖は死者の孫が、位牌は相続人、膳はその妻がもつ。シカバナは4本ずつ2個の台に立てる。シカバナを持つのは親族で、死霊の招代となる。葬列は神社の前は避けて通る。葬列は死者を蛇に化するための呪術であるという説がある。吉野裕子の「日本人の死生観」(講談社)の中で、古代日本人は生まれることは、蛇から人になることであり、死ぬことは再び蛇に帰ることであると言っている。そして死者への変身儀礼のため、「葬列の順は、先頭が燈火、2位がほうき、あるいは竜蛇であるが、ほうきと竜蛇の一致は、両者の本質の一致を暗示する。つまりほうきは竜蛇なのである」(99頁)。そして「葬列のなかで先頭だった竜蛇は、埋葬地に到着すると墓穴の周囲をめぐり、ところによっては、死者とともに埋葬される。」(同頁)とある。これは一見奇抜な説に思われるが、原始の民族はほとんどが蛇を神として信仰してきており、人間に備わってない蛇の神秘的な力を得るために、自分たちを蛇の末裔と考えたのである。また葬列の進み方で、3歩進んで1歩下がるという足の運びを行なった所もある(青森)。さて野辺送りの役割と順序を兵庫県の例でみてみる。最近は野辺送りは霊柩車の発達で見ることが少なくなったため、葬儀の意味を探るためにも葬列の役割を把握しておくのも無駄ではあるまい。
例は津軽半島のもので昭和42年の葬式行列帳からの記録である。
一、花籠 / 一、燈籠2ヶ / 一、龍幡2 / 一、花輪4 / 一、盛花2 / 一、六具6 / 一、盛物4 / 一、点湯点茶1 / 一、追膳1 / 一、野膳1 / 一、朱蝋1 / 一、四花 / 位牌棺天蓋女龍幡燈籠
これにはそれぞれ役割をする人の名前が記されており、開始前にその名前と役割が告げられるのである。
愛知県でみると、次の例がある。最先端は「案内」で、ローソクを竹さおに6本立てた「六道」を持つ。次が先燈篭あるいは先旗。花篭やタツガシラがある場合には、この前後に位置する。以下、花、シカバナ、僧侶、死者の着物、霊供、水、位牌(喪主が持つ)、棺、続いて後提灯か後旗の順である。本来は四本幡で、書式は各宗派によって異なる。このあと生花を持った一般会葬者が続く。
埋葬
埋葬とは死者を土のなかに埋めるように考えるが、かっては蘇生・復活を願って、地面に寝かせ、その上に木の葉をなどをかぶせただけであるという。葬列が墓に着くと、棺台に棺を置き、棺の回りを左に3回まわるとか、墓の回りを3回まわるなどの所作を行なうところが多く見られる。埋葬のときは近親者が参列し、僧侶が読経する。はじめに棺を縄で吊るして穴に入れる。この時、血の濃い順に土を一つかみづつ入れる。野辺送りの帰りは、行きの道を通らないのが普通である。死者が戻って来ないようにという呪法である。葬式の帰りには人の家に立ち寄るものではないとされていた。次に埋葬を終えて家に入るときの作法を「野がえり」といっている。家に帰ったらまず入り口で体に塩をふりかけたり、塩を手の甲に受けて清めた。また海に近い地域では、浜に行き海水を体にかけたり、海で手を洗い、各自持参した笹に海水を浸し、それを体にふりかけたりした所もある。これは客商売の店先に塩を盛る「塩花」と同じで、海水でケガレを払うことを省略した形であると柳田国男は言っている。
骨あげ
火葬したあとの骨を遺族が灰のなかから拾いあげる作業を「骨あげ」あるいは「拾骨」という。かっては導士がたいまつに火をつけ死者に引導を渡し、最も暗い丑(うし)三つ時に火を入れて火葬しため、骨あげは翌朝に行なわれた。大体が近親者のみで、跡取りが最初に始める。まずノドボトケ(おシャリさん)又は歯から拾うところが多い。一般に足から先に拾って骨壷に入れ、次に上の骨へと順に拾って最後に頭部を骨壷に入れるようにする。「人間の体は骨によって頭、胸、腰、両手、両足の七つ、さらにそれぞれが七つの骨に分けられ、計49になる。忌中の四十九日はここからきており、一つでも欠けると供養にならない」という説がある。
忌明けと年忌
「忌」とは日常と異なる状態にあるため、避けなければならない状態をいう。従って「汚れ」だけでなく、「清さ」も忌であり、これを冒すと罰や祟りを受けた。儀式を行なう前には身を清め、儀式がすんだあとに、「精進落とし」を行なう。その時には普段の箸でなく、精進箸で海のものを食べると、忌が落ちるとされる。魚は水霊の宿るものであるため、「精進落とし」に役立つのであるという。忌と対象的な言葉に晴(ハレ)がある。晴は霊的な力によって満たされた状態をいい、ケとはそうした状態が衰え、失われた状態をさす。普通晴は、聖なる祭りや儀礼を行ない、物事を開始することをいう。また祝宴には供物を食べるが、特に予祝の祭に供える魚類はヒラキにしている。開始をヒラキであらわしているのだ。なお祝宴で「おヒラキ」というと、終わりにしようという意味に使われるが、これは祝宴では「終わり」という言葉は忌むので「オヒラキ」という言葉を用いるのである。
中陰
さて死後49日の間は、死者の霊は家にいると信じられていた。また仏教では、49日までは中陰の期間といって、六道輪廻の間をさまよっているとされた。そのため盆過ぎに死亡した場合はもちろん、盆以前の49日以内に亡くなった場合でも、新盆を翌年行なうという地域がある。また一般に四十九日が3カ月にまたがるとよくないといって、35日目に四十九日の法要を合わせて行なうところが多い。これは「しじゅう苦が身につく」という語呂合わせから来ている。
形見分け
形見とはそのものを思いだすきっかけになるもので、現在では死者の衣装や持ち物を、親族縁者らに配ることを「形見分け」といっている。かっては血筋を継承するため、あるいは故人の力にあやかるために、故人の力が封じ込められた衣装や持ち物が伝えられた。形見分けの時期は忌明けから一周忌までが多い。
年忌
死者供養のための仏事を年忌といい、1・3・7・13・17・23・27・33年に実施し、三十三回忌で終わりとするが、神事関係に仕えた者は、三年忌で祖霊神となるという。反対に五十・百年忌を弔い上げとしているところもある。年忌ごとには、寺の住職を招き供養していただく。人は死ぬとホトケになるが、このホトケはまだ汚れていて神棚に祭ることはできない。しかし三十三回忌のとむらいあげでホトケは個性を失い、神となって先祖の仲間入りして、今度は家の守り神となるといわれている。従って三十三回忌までの間は、子孫が死んだホトケの面倒を見ないといけないのである。年忌を行なうのは、死者の祟りを鎮めるのが本来の目的だったのである。最終の年忌である、「弔いあげ」「問い切り」には、位牌を墓地や寺に納め、「うれつき塔婆」や「太い角塔婆」を、墓地に立てて神に祀りかえるのである。うれつき塔婆とは、枝つき木の皮を削って表に戒名を書き、裏に経文を書いたものである。塔婆は普通墓に立てるもので、新しく墓を設けるのは一周忌、三回忌などの年忌の時が多い。  
 
遺書

 

ノーベルの遺言
ダイナマイトの発明者アルフレッド・ノーベル(1833〜96)は、ノーベル賞を創設したことで世界的に知られているが、その賞は彼の遺言にしたがって生まれたものである。つぎは、彼の遺言書のノーベル賞に関する部分である。
全財産はつぎの通り処理すること
遺言執行者は基金を安全な有価証券に投資し、毎年その前年度に人類に最も貢献をした者に、その利子を賞金の形で与える。
右の利子は5等分し、物理学の分野で最も重要な発見または発明をした者、化学の分野で最も重要な発見または改善をした者、生理学または医学の分野で最も重要な発見をした者、文学で最も傑出せる理想主義的傾向の作品を書いた者、諸国間の融和・常備軍の廃止もしくは削減・または和平会議の開催および推進に最も貢献せる者に、それぞれ一部を与えること。
右の賞は、候補者の国籍を問わず、最も賞すべき者に授与するのが自分の希望である。1895年11月27日
ナポレオンの遺書
ナポレオンの遺言書は、1821年8月15日、セント・ヘレナ島で書かれた。つぎはその最初の3か条である。
1.われはローマ教会の信徒として死す。50余年前、その胸に抱かれて生れたからである。
2.わたしの遺体はセーヌ河畔に葬ってほしい。わたしが深く愛するフランス国民の中にありたいからである。
3.わが最愛の妻マリー・ルイズは常にわたしに満足を与えて来た。そこで世を去るにあたって心からの愛情を捧げた。わが息子は未だ幼少のため、願わくば世のさまざまの誘惑に陥らないよう守りたまえ。
フランクリンの形見分け
アメリカの紙幣にもなっている政治家、ベンジャミン・フランクリン(1706〜1790)は、遺言書に次の様に書いている。
握りの部分を、黄金で自由帽の形に細工したステッキを、わが友にして人類の友であるジョージ・ワシントンに贈る。もしこのステッキが王位を象徴するとしても、彼はそれに値し、それにふさわしい人物でもある。
ホアン・ポトマーキ、骨で舞台に
アルゼンチンの実業家ホアン・ポトマーキは、1955年に死亡したが、彼の遺言書には、財産の一部を市の劇場に遺贈するとあった。ただしそれには条件が付いていた。
私は以前より俳優を希望していたが、才能がないため望みがかなわなかった。私は後年には市の実業界に重要な地位を占め、舞台に立つことは不可能となった。20万ペソ(500万円相当)を遣贈して基金とし、才能ある若き俳優に毎年奨学金を与えることとする。ただし、私の頭蓋骨を保存し、シェイクスピアの『ハムレット』を上演する際には、ヨリックの頭蓋骨として使用することを条件とする。
シェイクスピアの『ハムレット』には、王子ハムレットが墓場で道化師ヨリックの頭蓋骨を持って感慨にふける場面がある。ポトマーキは、死んでからその骸骨となって舞台に立つことを望んだのだ。
ピュリツアーの寄贈
アメリカのジャーナリストであり新聞王のジョセフ・ピュリツアー(1847〜1911)は、1903年に文学とジャーナリズムに活躍した人に贈るピュリツアー賞を制定、またコロンビア大学にジャーナリズム講座を設立するために100万ドルを寄付した。彼は遺言のなかで、息子と子孫に対し次のお願いをしている。
「ワールド」という新聞を維持し完全なものとし、永続させる義務を申し付ける。この新聞を保持し発行するために、わたしは自分の健康と体力を犠牲にした。そこで単なる金儲けより高い動機から、これを公共機関として育成したわたしと同じ態度でその経営に臨んでほしい。
なお「ワールド」は彼の死後19年にして廃刊された。
ヒトラーの死と結婚の宣言書
ドイツの政治家ヒトラーは、1945年、自らその幕を閉じることになった。彼の遺言書には、ボルマン、ゲッベルス、そしてフォン・ビュローが証人として署名している。
闘争の年月を通じて、私は結婚の責任を負うことは出来ないと信じていたが、今日わが生涯の終わりを目前にして、私は長年真の友情を誓いあった一人の女性をわが妻とすることに決意した。彼女は、私と運命をともにするため、自らの自由意思で、敵の包囲下にあるこの都市の私のもとにやってきたのである。彼女は私の妻として、自身の意思で私とともに死ぬことを選んだ。彼女の行動は、私が国民のために働いていた年月の間に、われわれ二人が犠牲にしたものを償ってくれるだろう。私の財産は、なんらかの価値あるものはすべて、わが党に寄贈し、党が存在せぬ場合は、国家に寄贈する。国家も消滅していた場合は、私がなんら指示を与える必要はない。
(中略)妻と私は、敗北や降伏の屈辱を免れるため、死を選択した。われわれ二人の遺体は、私がこの12年間、国家のために毎日の大部分を捧げて働いたこの場所で、直ちに火葬にしてもらいたい。
バーニス・ビショップの夢
ハワイのカメハメハ王家の最後の王女バーニス・ビショップは40万エーカーを越える土地を相続したあと、遺言書に学校の設立・維持のための信託財産を残すように指示した。
私はハワイ諸島にカメハメハ学園と称する全寮制の学校を設立し、維持を目的に、その信託財産に当てるため、残余の私の動産および不動産のすべてを、下記の受託者とその相続人、権利譲受人に遺贈する。私は受託者に対し、信託財産から入る収入の2分の1を越えない範囲で、用地の買収、学校の建築、必要設備の購入に至当と判断する金額を支出するよう指示する。また、受託者が遺産の残余を、至当と考える方法で投資し、その年間収益で、教師の給与、建物の補修費、その他の臨時費を支出し、またその一部で、孤児その他の貧困学生の育英資金に当てるよう指示する。育英学生の選定については、純血あるいは混血のハワイ人を優先とする。
スミスソンが贈ったアメリカの宝
ワシントンDCに行くと必ず訪れる場所にスミソニアン博物館がある。この博物館はアメリカで最も由緒あるもので、その基礎はイギリス人の遺産による。
ジェームズ・スミスソン(1765〜1829)は、裕福なイギリスの科学者で、成人してからをヨーロッパで過ごし、一流の科学者たちと交わった。彼はイタリアのジェノァで死亡したが、アメリカには一度も訪れていないのに、全財産を甥のヘンリー・ジェームズ・ハンガーフォードに、次のような条件をつけて遺贈した。
ハンガーフォードが子供を残さずに死亡した場合、あるいは、子供が遺言を残さずに、または21歳に達する前に死亡した場合、相続した遺産は、ワシントンDCに、スミソニアン・インスティチューションを設立するため、アメリカにそっくり寄贈すること。
ハンガーフォードは、1835年、子供を残さずに死亡し、その金がアメリカに贈られた。そして1846年スミソニアン・インスティチューションが作られた。
安藤広重の遺書
浮世絵の「東海道五十三次」で有名な安藤広重(1797〜1858)は、61歳のときに流行したコレラにかかり、死を覚悟して遺書をしたためた。
居宅を売って久住殿の借金を返済してほしい。
本や道具類を売り払って現在の場所の立ち退きを、人に相談のうえ決めてほしい。何事も金次第であるが、その金がないので、どうとも自由次第の身であるので、どうぞ納まりよい方法を考えて下さい。絵の道具や下絵のたぐいは弟子たちに形見分けとしてやってほしい。撰舎とおりんにはあり合わせの着物を分け、重宣には長い間一緒であったので、脇差し二本のうち一本どちらでもやるつもりである。
毛利元就の遺戒は神仏への祈り
山陰・山陽10ヵ国を治めた毛利元就(1497〜1571)は、還暦を迎えるにあたって、3人の息子に、協力して毛利家を繁栄させることを願って遺戒をしたためた。
私が11歳の時、猿掛城のふもとの屋敷にいた時、井上河内守光兼の所へ旅の僧が訪れ、念仏の講を催された。そのとき大方殿もその座に出席された。私も同様に伝授を願い、11歳の時以来、今日まで毎朝のように念呪の行を続けている。これは、朝日を拝み、念仏を十遍ずつ唱えるのであるが、この行によって、来世のことは申すまでもなく、現世においても霊験あらたかであると聞いている。また、私自身もこの先例にならって、今生の願いをお祈りしている。もし、こうした祈願が元就一身の守りとなればと考え、特別な事と思われるので、御三方においても、毎朝この拝みをおこなうのがよいかと思う。これは朝日か月のいずれを祈っても同じと思う。(毛利元就の遺戒12条)
島井宗室遺書にある財産の使い方
博多商人の島井宗室(1539〜1619)が、養子徳左衛門にあてて残したもの。彼は本能寺の変の夜に信長に茶会に招かれ本能寺に泊まっていた。火が本堂にまわったが無事脱出している。
一、朝ははやばやと起き、日が暮れればすぐに床につくように心がけよ。さしたる仕事もないのに灯油を使うのは無駄なことである。また用もないのに夜歩きしたり、他人の所に長居をするのは昼夜とも無用である。さらに、さしせまった用事は一刻も延ばすことなくすぐに済ませてしまうように。それを後でやるとか、明日にしょうなどと考えてはならぬ。時を移さずすぐにすませることである。
この遺訓は17条からなり、宗室はこれを養子徳左衛門から誓詞をとり、おのおの棺のなかに入れたという。
板倉重矩の遺書
下野烏山の城主板倉重矩(1617〜1673)が、あと取りの重道にあてた遺言。
あなたは生まれつき飾りけがなく、真面目でありすぎて、素直でないところがある。そこで、よく人と親しみ、意見を聞き、下々の者までねんごろに言葉をかけ、自分に話しやすいように心がけ、身の上話をさせ、その人の才能を知るべきである。
家老や自分の気に入る者だけをひいきにしたり、自分の縁者をとりもち、本人に合わぬ役につけ、欲におぼれ贈物を好むような家老は、逆心同様に心得ること。そのような場合、自分にも私欲があれば、身をほろぼす敵と思い知るべきである。世間の主人は、このことをわきまえず、家に長く仕える者、あるいは家柄のよい者の子であるからと、当人に相応しくない役目に取りたて、同じように奉公をさせながらひいきの心によって使うため、下の者にこれを知られ、奉公を怠る者が多い。もっぱら、人をよく見て使うことが肝要である。
豊臣秀吉の子煩悩
秀頼は、秀吉が57歳のときにもうけた子供で、当時6歳であった。秀吉の名前の後、五大老の家康、筑前、輝元、景勝、秀家が証人として記されている。これは現在でいう「緊急遺言」といえる。
秀頼が無事に成長するようにこの書き付けの衆としてお頼み申す。これ以外には何事も思い残すことはないので。
8月5日秀吉
明智光秀の依頼状
明智光秀が敗戦の4日前に細川藤孝にあてて書かれた手紙。遺書というよりも勧誘の手紙であるが、絶筆となった。
一、(細川)御父子とも、信長の死をいたんでもとどりを切られたそうだが、いたし方もないことである。自分も一度は腹も立ったがよく考えてみると当然と思った。しかしこうなった以上は、わたしに味方してもらいたい。
一、御父子に進上すべき国として、内々摂津(津の国)をと考えながら上京をお待ちしている。しかし但馬、若狭を望まれるなれば、それもまたお望み通りにする。
一、わたしが今度このような大事をあえて敢行したのは、婿の忠興などをひきたてたいためであって、さらに目的があるわけではない。ここ五十日か百日のうちには近畿を平定するから、それからは十五郎や与一郎などに天下を譲り、隠居するつもりでいる。
山口重克の遺書
徳川秀忠の御子姓であった山口重克は、大阪夏の陣(1615)に加わる前に、妻に遺書を残している。それは細かな指示を与えている。
一、そなたの古い着物にかびがはえないように、解き放して、時々干すなどして、何事も油断のないように。
一、どこか財布に50文入っているから、そなたの方で使って下さい。
一、猫を目の前に置いて、よく飯、水を与えて養って下さい。
一、子供には2日に一度ずつ湯あびをさせ、八日から十日に一度は髪を洗い、毎日髪をゆうようにしてほしい。きたない遊びはさせないように。
(また自分が死んだあとには再婚を勧めている。)
一、その方のこと、似つかわしいところがあれば再婚してほしい。二人のこどものためにも、無理にでも縁につき、その助けによって子供を育ててほしい。男の身分にはかまわないが、心の頼もしい人を選んで、縁についてほしい。
宮本武蔵の遺書
無敵の剣豪であり、『五輪書』の著者の宮本武蔵(1584〜1645)は、死の7日前に「独行道」と題した一種の遺書を残している。
一、世々の道をそむく事なし
一、身にたのしみをたくまず
一、よろずに依怙(えこ)の心なし
(途中略)
一、仏神は貴し仏神をたのまず
一、身を捨ても名利はすてず
一、常に兵法の道をはなれず
江戸時代の遺書
江戸時代の庶民は遺書など書かなかったのではないかと思うが、さにあらず。実はみんな書いていたのである。それは今日の法律のように遺産分割の基準が定められていたわけではないので、逆に遺書を残して事前に問題の起こるのを防いだのである。
慶安4年(1651)の「町中跡式の定め」に次のような規定がある。
一、町中跡式は、生存中に遺言状を作成する。諸親類、名主、五人組が立ち合い、町年寄3人が帳簿につける。
一、また存命でも病気をして書置きが出来ない場合には、諸親類や組の者が立ち合って、病人に言って書置きをするようにする。
もし書き置きがないままに亡くなった場合には、親類や町の者が立ち合って相続手続きを行った。
井原西鶴の『万の文反故』という小説に、
「将又甚六郎は臨終となったが、生前に確かに自筆で書置きを残したあと、年寄五人組に証人として加判をたのんだ。死後一七日過ぎてから蔵を開き、親類中が立ち合ってこれを確かめると、それぞれが取り分をわたしてほしいとの意見が出た。そこで目録の通り書き記して、あなた様にもこの飛脚にて所務分(指定された財産)を送りました。どうぞお受取りください」とある。
本居宣長の遺言
江戸中期の国学者である本居宣長(1730〜1801)は大変に几帳面な性格で、それが遺言のなかにもあらわれている。普通の遺言書では、家督や財産の指示が中心だが、彼の場合葬儀と墓についての細かい指示を残している。次は自分の墓についての指示である。
一、墓地7尺四方、真ん中を少し後へ寄せて塚を築くように。そのうえに桜の木を植えるように。塚の前には石碑を建てること。塚の高さは三四尺ばかり。芝を植え土を固くして崩れないようにする。のちのち、もし崩れているところがあれば、ときどき見回って直しておく。植える桜の種類は山桜の花のよいのを選んで植えてほしい。
伊能忠敬の遺言
伊能忠敬(1745〜1818)は、江戸に出て当時の天文の第一人者である高橋至時に測量を学んだ。51歳の時である。それから72歳までの17年間に、測量のため3万5千キロを歩いた。彼は病の床で次のような遺言を残した。
「余のよく日本測量の大事業をなすを得たるは、まったく先師高橋先生のたまものなれば、よろしく先生の墓側に葬り、もって謝恩の意を表すべし」
彼は、遺言通り下谷源空寺の高橋至時の墓の隣に納められた。
佐久間勉の遺言
海軍軍人佐久間勉(1879〜1910)は、1910年初の国産潜水艇の一隻の艇長として乗り込み、呉に向かう途中で沈没、全員死亡した。残された遺品のなかに艇長の手帳があり39頁にわたって言葉が残されていた。
「小官の不注意により陛下の艦を沈め部下を殺す、誠に申し訳無し、されど艇員一同死に至るまで皆よくその職を守り沈着に事を処せり…謹んで陛下に申す、我が部下の遺族をして窮する者無からしめ給わらん事を、我が念頭にかかるものこれあるのみ」
(ひらがなの部分、原文カタカナ)
青木繁の遺言
明治後期の画家青木繁(1882〜1911)は故郷の久留米に帰り、窮乏のなかで生活を送った。死の4か月前に書いた手紙のなかに、
「当地にて焼き残りたる骨灰はついでの節高良山の奥のケシケシ山の松樹の根に埋めてくだされたく、小生は山のさみしき頂きより、思い出多き筑紫平野を眺めてこの世の怨恨と憤まんと呪そとを捨てて、静かに永遠の平安なる眠りにつくべきそうろう。」とある。
辻村伊助の遺言
日本人登山家のパイオニア辻村伊助(1886〜1923)は、38才の時に関東大震災で死亡した。焼けあとから発見された彼の遺書には、
「遺骨または灰をなるべく保存せざること。万一遺灰を保存するときは、ごく小量に留め、適当の時期に、スイス国内高山の頂きに埋めるか、あるいはいずれかのクレバスに投ずること」とある。なお遺骨は比叡山延暦寺に納められた。
菊池寛の遺書
雑誌『文芸春秋』の生みの親で、作家の菊池寛(1888〜1948)は、新年を迎えるたびに遺書を書き直していたという。そのなかの一節
「私はさせる才分無くして文名を成し、一生を大過なく暮らしました。多幸だったと思います。」  
 
古代ギリシャ・ローマの葬儀

 

小泉八雲によれば、日本の古代の信仰は古代ギリシャのそれと大変に似ているという。そこで、本当にそうかどうかを調べてみることにした。資料はウイリアム・テグの「ラスト・アクト」によった。
古代ギリシャ・ローマ人の信仰に従えば、霊魂は現世と異なった世界へ行って死後の生活を営むのでなく、地下において生活を続ける。そこで埋葬は大変に重要な儀式であった。埋葬の儀式は遺体を墓所に葬ると同時に、魂も同じように葬ることと信じられていた。そのため、葬儀の終わりには、故人の俗名を3度呼び、そして「おすこやかに」と3度繰り返した。墓石にも、「誰々がここに憇う」と書かれた。また、故人のために衣類や武器などを一緒に埋葬した。そして、死者のためには食物が供えられた。墓をもたない霊魂には安住の地がなく、ついには怨霊となってしまうという信仰があった。
しかし単に遺体を埋葬するだけではなく、伝統的な儀式を行う必要があった。カリギュラ皇帝の遺体は儀式なしで埋葬されたため、霊魂が迷い出た。そこで遺体を掘り返し、改めて葬儀を行うまで日本の言葉でいう「成仏」しなかったという。こうした信仰があるため、当時の人々は葬儀を型通り行うことがとても大切であった。人々は「死」よりも、葬儀を行われないことを案じたのである。
戦死した兵士たちを葬ることを怠った将軍達を、アテナイの人々が殺してしまったという事件も起こっている。また重罪の犯人を罰する方法として、処刑したあとにも葬儀を行わないという刑があった。これは肉体だけでなく、魂をも罰するという方法と言えるだろう。
葬儀の法律
ギリシャの立法家であるソロン(前640〜未詳)は、葬式に種々の贅沢禁止の規定を設け、死者の氏族崇拝に対して、アテネ特有の国家崇拝を導入した。「プルターク英雄伝」によると、ソロンは、「女たちの外出や服喪や祭礼についても法律を定め、無規律と放縦とを戒めた。外出には3枚以上の着物を付けることや、葬列には高価な食物や、高い篭を用いることを禁止し、また女性は夜間外出するときには燈火が必要であった。また悲しみを表すために自分の体をかきむしったり、激しく泣いたり、また他人の葬儀に号泣することも禁じられた。また死者のために牛を犠牲にしたり、3枚以上の服を副葬すること、葬送の時以外は他家の墓に行くことを禁じた」とある。またその後、プルターク(?〜431)の時代には、男子がこうした法に違反した場合には、男子として女々しい感情に陥っているとして、婦人監督官より罰せられたという。
ギリシヤ人の葬儀
ギリシアとローマ人は、死者に尊敬をはらい、死者を、神聖で侵してはならない状態に保った。最も野蛮な人々の間に尊敬をはらい、違反者が不名誉と悪評をこうむるだけでなく、ソロンの法律によって罰せられた。死者に払われた名誉は、彼らの葬儀の大きさにあらわされた。次いで死者の埋葬によって、死後楽園に行くことができ、これがかなわぬときには何年も冥界を彷徨うという運命観が彼らを支配していたからである。
遺体安置
彼らは死者の目を閉ざし、また口を閉ざした。このあと彼の顔は覆われた。ほとんど全ての死後処置は、近親者によって行なわれ、その費用も身内によって捻出された。
次に体が冷たくなる前に、全身を伸ばし、遺体を洗った。このあと、体に軟膏を塗り、生前愛用した衣服を着せて全身を包んだ。
有力者が外国で死んだ場合、現地で火葬され遺骨を壷にいれ、あらためて葬式を行って栄誉を授けられた。
埋葬の前に、死者の口に、地獄の河を渡す渡し守のための貨幣が入れられた。このほかに死者の口に、小麦粉で作ったケーキが入れられた。これは地獄の番犬の激怒をなだめることが目的であった。また遺体を送り出すまでの間、死者の髪がドアに掛けられた。これは家族が悲嘆にあることを示した。また、死者が自らの体を清める水の入った容器がドアの前に置かれた。
古代人にとって、死者が空気を汚すと思われていた。それ故、葬式が終わるやいなや、すべての家財道具は浄化された。
埋葬と弔意
当時、埋葬の期間は、限られていなかったようである。古代の埋葬は、荘厳に行う以外は、死後3、4日目に行なわれた。特に貧しい人は、翌日行われた。セルビウスの意見では、火葬は死後8日目、埋葬は9日目が望ましいとされた。しかしこれは実力者に限られた。いずれにしろ特別な準備なしでは、荘重に行うことが出来なかった。ある例では、遺体を17日間安置した。そして式典は日中に行なわれた。悪霊は光に弱く、夜は活躍する時間とみなされたからである。
ときに公の行政長官が死亡したり、公の災害も起きた場合にも、公の会合が中断され、店、寺院、学校が、閉ざされた。そして、すべての都市は、弔意を表した。我々はソクラテスの死を深く嘆き悲しんでいるアテネ人を知っている。
国葬
アテネの軍人ペリクレスは、サモスを平定してアテナイに帰ると、この戦争で死んだ人々の葬儀を盛大に行い、慣例によって墓前で追悼を演説して感銘を与えた。この葬儀の模様は、ツキジデスの『歴史』の中に述べられている。
「葬儀の行われる2日前に、式幕を張った霊壇に戦士者の遺骨を祭り、遺族の者たちはそれぞれ心ゆく捧げものを供えた。埋葬の時が来ると、葬列は部族別に糸杉の柩に遺骨を納め、これを車にのせて引いて行く。死者は同じ部族の者たちの骨と一緒に納められるのである。さらに覆いのかけられた柩架が、空のままこれに続く。これは行方不明となって遺体が収容されなれなかった者たちのためである。葬列への参加は市民、他国人の別なく許可される。また遺族の女達は墓地に集まって追悼の嘆きをあげる。行列は国家の墓地につくと、柩を安置し、棺が埋葬されたあと、戦死者に追悼の言葉が述べられる。」
音楽は、死者を天界に導くため、あるいは悪霊を慰めるため、あるいは死者の遺族の悲しみを転換することが目的であったと言う。
埋葬と火葬
埋葬と火葬はギリシア人によって実地された。後のギリシア人が、火葬により影響を受けたが、原始的時代の習慣は、死者を埋葬することであった。哲学者が、火葬に関する意見を持っていた。人間の体が地水火風の4要素で構成されていたと考えられ、最初の原理である火に帰すために火葬が行われたという意見。また死者の魂の出発するため、肉体は汚れていると思われていて、それゆえに火によって浄化される必要があったという説。また魂が粗く不活発な物質から切り離されて、天の住まいへ飛翔するために、物質を魂から切り離すために行われたなどの意見であった。
彼らが遺体を燃やした薪は、一定の形式はなく、材料もさまざまであった。遺体が、積み重ねられた薪の上に置かれたが、滅多に単独で火葬されなかった。薪の上に種々の動物のほか、貴重な軟膏と香などが炎に注がれた。
大抵軍人は彼らの武器と一緒に燃やされた。同様に、彼らが着古した衣服もあった。彼らがそれを実施してもらうために、遺言の中に指示をした。火葬の火は、死者の近親者か友人によって点火された。彼らは遺体が早く燃えるように風に祈った。
将軍と偉大な役人の葬式では、死者に尊敬を表明するために、軍人とその一員は、薪のまわりを3回回った。薪が燃えている間に、死者の友達が、そばに立ってワインを注いで故人の名を呼んだ。薪が全焼して炎が消えると、彼らはワインで火の残りを消し、骨と灰を集めた。遺骨はワインで洗われ、そのあとオイルを塗り、遺骨と灰は壷に納められた。壷の材質は様々で、故人の特質にあった木材、石、陶器、銀、金が使用された。
埋葬の場所
特別の人が死んだ場合、その骨壷は、花と花輪で飾られた。一般的習慣で、骨壷が大地に埋葬されるまで布で覆い、光があたらないように保護した。
埋葬に関して遺体が上向きに棺に横たわったことが観察された。天に顔を向けることが、より故人の幸福のためになると思われた。原始ギリシア人は、遺体を自分たちの家に用意された場所に埋めた。かってテーベ人は、死者の容器を備えていない家を建てるべきでないという法律を持っていた。そしてより後の時代においても、都市の領域内の、公けの場所に、記念物と共に埋められたようである。
古代には、寺院が死者のための建物であった多くの例がある。死者に名誉を与えることが、寺院を建てる最初の起源であった。それより後の時代になって、一般的習慣により、死者は都市の外や幹線道路の端に埋葬されるようになった。これは主に都市に伝染するかもしれない有害な匂いから守るためである。或いは、葬式の薪が、彼らの家に燃え移る危険を防ぐためということもある。
どの家族も、適当な墓場を持っていた。原始的ギリシャの共通の墓穴は、地下の洞穴であった。そしてのちの時代には、いっそう細工されていった。墓は一般に石で整備され、アーチが上に建てられた、そして人家よりも芸術的で、遺族は、その穴で暮らした。石柱に家族、徳、死者の業績を詩の形式で刻まれた。軍人の墓穴が、彼らの武器で飾られた。これは記念物として彼らの記憶を保つために置かれたのである。
ローマ人の葬儀
ローマ人は、葬儀に大きな注意を払った。ギリシア人と同じく、埋葬されない死者は、楽園に入れないと信じていたからである。それをしないと、冥土の河を渡るまでに100年の歳月が必要であった。
従って遺体が、発見できない時も彼らは墓を建て、葬式を行なった。また偶然死体を発見したときには、遺体に土をかけ、そうしない者は罰せられた。そのため、どんな種類の死も恐れなかったのである。
死の準備
人が死を間際に迎えるとき、彼らの近親者は、口で最後の息を捕えようとした。魂は口から出ていくことを彼らは信じたからである。そのあと死者の指輪を外し、火葬用のまきに上げる前に、再びつけた。そのあと遺体を地面に置き、門に病人を置くことは古代の習慣で、死が確実かどうかを確認した。遺体は、次に湯で清め、葬式の面倒を見る奴隷によって香が塗られた。
さて遺体には、故人が生前着た最も良い服を着させ、最後の出発をに相応しく、足を外に向けてソファーに乗せて玄関に置かれた。そこで哀悼の辞がなされた。ソファーは、葉と花で飾られた。故人が栄誉の王冠を受けていたら、それは頭上に置かれた。小さい硬貨は、ギリシャ人と同じように、地獄の渡船業者のために死者の口に入れられた。またイトスギの枝が、家のドアで置かれた。
火葬の流れ
ローマ人は、初め死者を埋葬した。埋葬は古代の、そして最も自然の方法であるが、彼らがギリシア人から火葬の習慣を早くに採用した。これはローマ第2の王ヌマの法律、およびローマ最古の法典十二表で言われている。しかし、共和国の終わりまで火葬は一般的にならなかった。しかし遺体が敵によって掘り返されたのを知った皇帝の判断で世界的となった。それもキリスト教の浸透とともに火葬が減っていった。そして4世紀の終わりには見られなくなった。
7才以前の子供は火葬せず埋葬された。同様に稲光に打たれた人は、それが落ちた場所に埋められた。それに羊をいけにえに捧げて神聖にした。
葬式は一般市民と兵卒の2種類があった。初代皇帝アウグストス(前64〜14)が、公の葬式を認めることに非常に寛大だった。個人的葬式は、Taciturnと呼ばれた。幼少で、または若年で死んだ葬儀はAcerbicと呼ばれた。幼児と若者は成人より早く埋められた。公の葬式が意図されたとき、大抵死体が、監視人によって見守られて7、8日の間保たれた。そして男子がむらがる蝿を追い払った。
個人的葬儀では、遺体は長く安置されなかった。葬式の日に人々が集まり、死体は、足から運び出された。ソファーは金と紫色の豪華な布に覆われ、故人の近親者の肩に支えられた。
シーザーの死
シーザー(前102〜44)がブルータスに暗殺されたことは、あまりに有名で、シェークスピアの『ジュリアス・シーザー』には、その顛末が生き生きと描写されている。「プルターク英雄伝」をみると、シーザーが暗殺された(3月15日)後、遺言状が公表され、ローマ市民の一人一人に相当の贈り物が与えられることがわかった。しかも無残な遺体が中央広場に運ばれていくと、群衆は腰掛けや椅子や机を持ってきて、遺体のまわりに積み上げ、それに火をつけて遺体を火葬にした(3月20日)。
ウェイゴールによると、遺体は広場に5日間ばかりおごそかに安置され、葬儀は3月20日にいとなまれることが決まり、その日の夕方アントニウスは、シーザーを褒め賛える歌を歌い、そのあと名高い哀悼演説を行ったあとで、遺体を火葬にした。
葬列
貧しい市民と奴隷は、簡素な棺台で火葬用のまきの山へ運ばれた。離乳前に死んだ子供は、母によって火葬台へ運ばれた。全ての葬式が、夜間に執行されるために松明が使われた。しかしその後、公の葬式は日中に行われるようになった。個人の普通の葬式は、常に夜に行われた。葬列に規制がされ、それぞれの役割を割当てる人を引受人、あるいは式司祭と言い、黒衣を着ていた。
葬列の最初に管楽器奏者が行き、男女がこのために雇われていた。十二表によると、葬式のフルートの数は、10に制限されていた。次におどけ者が歌い踊った。彼らの一人は、生きていた故人の言葉と行動を模倣した。これらの俳優は、劇作家から適切な言葉を紹介した。続いて自由奴隷が続いた。彼らの主人が奴隷を自由にしたのである。
遺体の前に故人、および彼の祖先の像が運ばれた。これらの像は、葬式の後に再び広場に安置され、故人が戦争で名をあげたなら、栄誉の王冠や強奪品と共に展示された。
有力者の葬式では、彼らが征服した国を示す像が運ばれた。シイラの葬式では、勝利した多くの都市から送られた2,000もの王冠が運ばれたと言われている。死者の後に故は、人の友人や喪に服して頭を隠した息子と、頭をぼさぼさにした娘が続いた。近親者は衣服を引き裂き、そして髪を灰で覆うか、髪を引き抜いたりした。葬式に出席した女性のなかには、彼女らの胸を続けざまに打ち、頬を引き裂いた者がいた。しかしこれは法律によって禁じられていた。
追悼演説
有名な市民の葬式では、死体が広場まで運ばれた。そして演壇から追悼演説が、彼の息子、近親者や友人、行政長官によって行われた。追悼演説の名誉は、女性にも上院によって定められた。シーザーは彼の妻の死に、若い既婚婦人を賞賛することの習慣を導入した。ただそれの後に老若や既婚・未婚を問わず、追悼演説により栄誉を授けられた。演説の間、遺体は演壇の前に置かれた。
シーザーの死体は、金箔をかぶせた小さな寺院のようなパビリオンで置かれ、殺害された時の衣服は棒かトロフィーによって掲げられた。そして彼の像は、彼が受けた怪我の痕跡と共に移動できる道具によってさらされた。アウグストス帝の時代に、同じ人をほめたたえる追悼演説が、異なる場所でも行うことが慣習となった。
埋葬について
古代人は、祖先崇拝によって、自分の家に死者を埋めたと言われている。アウグストスは、アクチウムの戦闘の前に軍人への演説で、「エジプト人は、彼らの不死に関する考えを確立するため、遺体に防腐処理を施した。」と言った。防腐処理についてはヘロドトスが述べている。ペルシャ人は、遺体をできるだけ長く保存するためにろうを彼らの遺体に塗った。ローマ人は神聖と市民の考慮から、都市での埋火葬を禁じた。家が火葬によって危険にさらされたり、空気が悪臭によって汚染するなどの理由である。またジュピターの神に仕える祭司は、遺体に触れたり、墓地へ行くのを許さなかった。そこでユダヤ人の間で大祭司や司祭が、葬式演説を述べ、そして視野にふれないよう遺体に覆いが置かれた。
埋葬と火葬
埋葬の場所には個人と公とがあった。兵卒の墓は、目立ちやすく、死すべき運命を自覚させるために、野原か庭、大抵道路のそばにあった。そして莫大な数の骨が共同墓地に堆積し、隣接地を不潔にした。
当時より墓地は売買された。有力者の子孫は、墓を維持する権利を持った。
城壁内に墓を設ける権利が、並外れた特権として、シーザーに与えられた。人が火葬され、同じ場所において埋められる形式をBustum(バスタム)といった。火葬用のまきの山が、四方等しく祭壇の形に組立てられた。薪は容易に火がつくモミ、松、オーク材が使われた。また紙と樹脂が補助に使われた。
火葬の薪は、故人のランクによってより高低があり、有害な匂いを止めるイトスギの木が置かれた。そして危険防止のために家から60歩の距離を置いた。火葬用の薪に台に乗せた遺体が置かれた。故人の目は開かれた。近親者が遺体に最後のキスをし、たいまつで点火した。彼らは炎を強くするため、風に祈り、そうなった時は幸運であると思われた。火に香料を投げこみ、またオイルの入ったカップや皿、彼らが戦ったことを記念する勲章、衣服と装飾、また故人のものだけでなく自分たちの物も燃やした。それらは、故人が生きているとしたら快いものが選ばれた。
死者が軍人の場合、薪の上に彼の武器(報酬と強奪品)が乗せられた。皇帝や有力者の葬式では、軍人が火葬台のまわりを3回右に回った。旗を逆さまに持ち、そしてトランペットの音に合わせ、お互いの武器をぶち当てた。この習慣はギリシア人から借りたようである。これはときには毎年墓で行なわれた。種々な動物、特に故人が好きであった動物も火葬台に投げこまれた。
古代では捕虜は奴隷か剣闘士とされる。ガリアの間では、奴隷が彼らの主人の薪で燃やされた。そしてインド人とトラキア人の間では、妻が夫の薪の上に犠牲となった。
骨と灰は最も高価な香りが振りまかれた。誰もが富のランクに従って、陶器か真鍮か大理石か銀か金の骨壷に入れられた。土葬では、全ての装飾と共に遺体が棺に入れられた。棺大抵は石から作られた。ローマ人がどの方向に向けられたかわかっていないが、アテネ人は西方を向けて埋葬された。
故人の遺体が墓に置かれると、聖職者によって浄化するために、オリーブか月桂樹の枝で聖水が3回ふりかけた。それから荘重に「出発してもよい。」という合図で何度も『別れ』をくり返した。
火葬後3日間、遺骨は土に埋葬させられなかった。会葬者は心身を浄めるため家に戻り、水をふりかけたあと、火の上に歩いた。家も浄めるため、箒か竹箒で掃き清められた。それを行なう人をEverriatorと言った。
追悼の習慣
葬式の後の9日の間、家族は喪につき、墓での儀式が行われた。この間、法廷に相続人や故人の関係者を呼び出すことは、不法であった。9日目に生贄が捧げられた。それで儀式は終ったが、死者への奉納は以後何度も行われた。こには、酒と生贄と花輪が捧げられた。墓の前には小さい祭壇が設置され、そして香が焚かれた。番人が墓を見守るため、ランプが灯された。饗宴は、死者と生者のために行われた。墓には一般に豆、レタス、パン、卵などが供えられ、死者の霊が来て食事すると思われた。
有力者の葬式の後には、故人を慰めるのための饗宴だけでなく、会葬者に生肉の配分が行われた。剣闘士のショーやゲーム。それが何日間も続いた。シィラの息子のファウストタスは、父の死後何年かして、亡き父の敬意を表した剣闘士のショーを表した。また父の遺言に従って饗宴を催した。
喪の期間は、ヌマによって定められていた。葬儀式をして祖先霊をなだめるため、女性は夫や親の死に10カ月間、或いは1年間喪に服した。災害の場合にも公の喪として、自発的あるいは公の指示で、仕事全体が停止し、法廷や店は閉じられた。過度の悲しみのこうじると、寺院の神像が石で打たれ、祭壇はひっくり返された。このような極端な悲しみは、祖先霊にとって不快であった。喪の間、ローマ人は家で自活した。どの娯楽も避けられ、彼らが黒衣を着たのはエジプト人の習慣から来たものである。
家の飾りとなると思われ火も点けない。女性は金と紫色の装飾を取り外し、男性と同じく黒衣を着た。公の喪で、議員は指輪を外し、行政長官はバッジを、そして領事は、上院で普段の椅子に座らず、共通のベンチに座った。
墓のはなし
ローマ人は、一生の間に彼ら自身のために墓を建てたり、遺言によって墓を建てることを指示した。その費用は自分で負担した。金持ちの墓は、一般に大理石で造られ、ギリシャ風に回りに木が植えられた。
大抵共通の墓は地下に建築された。その多くが、地下墓地(カタコーム)の名前でイタリアにまだ存在している。壁で切り取られた窪みに骨壷が置かれた。これらの鳩小屋の中の窪みとの類似点から、コロンバリアと呼ばれた。墓は種々の彫刻と柱で飾られ、献呈の言葉や墓碑銘が刻まれている。
遺体がを単に埋葬する場合、献呈の言葉が、石の棺に刻まれた。墓は迫害されたキリスト教徒のために隠れ家の役目を果たした。  

 


  
出典「マルチメディア統合辞典」マイクロソフト社
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