書を知る



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石田光成(1560-1600)  
 
近衛信尹(このえのぶただ・1565-1614)  
伊達政宗  
 
徳川家康  
 
崇伝  
 
本阿弥光悦(1558-1637)    
松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう・1582-1639)  
 
伊達忠宗(-1658)    

 
即非如一(そくひにょいつ・1616-1671)  
 
 
隠元隆g(いんげんりゅうき・1592-1673)  
木庵性瑫(もくあんしょうとう・1611-1684) [ 即非/隠元/木庵 ]
 
上杉家文書(江戸時代初期)  
 
   



 
出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。
 
石田光成 (1560-1600)
 
近衛信尹 (このえのぶただ・1565-1614)
安土桃山時代から江戸初期の公卿。関白太政大臣前久(さきひさ)の子。元服のとき織田信長の「信」の字をあたえられて信基と名のり、18歳で信輔(のぶすけ)とあらためた。21歳で左大臣兼左大将となる。能書家として名高く、公卿や一部の武家に追随者が出たその書風は、のちに近衛流、あるいは法号の三藐院(さんみゃくいん)によって三藐院流とよばれて流行したが、元禄、享保(1688-1736)のころにはすたれた。
摂関家の嫡男らしく自負心が強く、文禄の役に従軍して渡海をくわだてたため、1594年(文禄3)秀吉の上奏により公卿としてあるまじき振る舞いを理由に裁断され、薩摩にながされた。この地で3年間風月を友に歌道にいそしみ、また、名を信尹とあらためた。96年に帰京してのち、関白、氏長者(うじのちょうじゃ)となる。
はじめ青蓮院流(しょうれんいんりゅう)の書に練達し、薩摩から帰京してのちは定家流(ていかりゅう)に転進した。また大徳寺の春屋宗園(しゅんおくそうえん)和尚に参禅したり、古渓宗陳(こけいそうちん)や沢庵宗彭と親交をむすび、禅の修行できたえた毅然(きぜん)として高く深い魂を反映するたくましい書を生みだした。
和歌、連歌、墨絵にもすぐれ、自画賛、天神画賛を得意とした。書は書状をはじめ和歌懐紙、手本、色紙、短冊にまでおよび、その名は生前からよく知られて町人層にまでもてはやされた。本阿弥光悦、松花堂昭乗とともに寛永の三筆と称される。
  永禄8年11月1日(1565年11月23日) - 慶長19年11月25日(1614年12月25日))は、安土桃山時代の公家。近衛前久の子。母は波多野惣七の娘。初名、信基、信輔。号は三藐院(さんみゃくいん)。
天正5年(1577年)元服。加冠の役をつとめたのが織田信長で、信長の一字を貰い信基と名乗る。天正8年(1580年)に内大臣、天正13年(1585年)左大臣となる。関白の位をめぐり二条昭実と口論(関白相論)となり、菊亭晴季の蠢動で、豊臣秀吉に関白就任の口実を与えてしまった。実に藤原氏一門以外の者が関白についたのは、秀吉と甥の豊臣秀次だけである。秀吉が秀次に関白位を譲ったことに、内心、穏やかではなく、文禄元年(1592年)正月に左大臣を辞した。
信尹は、幼い頃から父とともに地方で過ごし、帰京後も公家よりも信長の小姓らと仲良くする機会が多かったために武士に憧れていたという(天正18年(1590年)に書かれた菊亭晴季あての手紙)。秀吉が朝鮮出兵の兵を起こすや否や、文禄元年12月に自身も朝鮮に渡海するため京都を出奔し肥前名護屋に赴いた。後陽成天皇は宸襟を悩ましたてまつり、勅書を秀吉に賜って信尹の渡海をくい止めようとされた。廷臣としては余りに奔放な行動であり、更に菊亭晴季らが讒言(前述の手紙には「関白が豊臣氏の世襲になるならばせめて内覧任命を希望したい」という文言が入っていた事が問題になったと言われている)したため、文禄3年(1594年)4月についに後陽成天皇の勅勘を蒙る羽目に陥った。信尹は、薩摩坊津に3年間配流となり、その間の事情は、信尹の日記「三藐院記」に詳述されている。遠い九州での暮らしは心細くもあったが、一方で島津義久から滞在中、厚遇を受けている。
慶長元年(1596年)9月勅許が下り京都に戻る。慶長6年(1601年)左大臣に復職。慶長10年(1605年)には念願の関白となる。慶長19年(1614年)11月25日薨去。享年50。京都東福寺に葬られる。信尹には嗣子がいなかったので、後陽成天皇第4皇子で信尹の妹中和門院前子の産んだ二宮が近衛信尋を名のり継いだ。
書、和歌、連歌、絵画の諸道に優れた才能を示した。特に書道は青蓮院流を学び、更にこれを発展させて一派を形成し、近衛流、または三藐院流と称される。本阿弥光悦、松花堂昭乗とともに「寛永の三筆」と後世、能書を称えられた。 
  平安時代の三筆に対して、本阿弥光悦、松花堂昭乗とともに寛永の三筆に数えられる能書家。彼らの書を写した木版刷りが書道の手本として作られ、京都の町衆の間で流行するほどの人気ぶりだった。「和歌壊紙」は信尹45歳のときの作品。濃厚な墨線で切れ目なく連綿と綴られた書体は、平安時代の書に似た力強さに満ちている。6行の和歌が懐紙の真ん中に収まるように配慮し、一字一字が個性的でありながら、全体が造形物のようなバランスを創出しているのが面白い。信尹は、寛永年間が始まる10年も前に没するが、それでも寛永の三筆の一人に数えられているのは、彼の才能がよほど優れていたからだろう。
伊達政宗  
本阿弥光悦 (1558-1637)
京都生まれ。工芸家、書家、画家、出版者、作庭師、能面打ち、様々な顔を持つマルチ・アーティスト。優れたデザイン・センスを持ち、すべてのジャンルに名品を残した日本のダ・ビンチ。特に書の世界では近衛信尹、松花堂昭乗と共に「寛永の三筆」の1人に数えられ、光悦流の祖となった。
生家の本阿弥家は京の上層町衆。足利尊氏の時代から刀剣を鑑定してきた名家だ(主なパトロンは加賀の前田利家)。刀剣は鞘(さや)や鍔(つば)など刀身以外の製作工程に、木工、金工、漆工、皮細工、蒔絵、染織、螺鈿(貝細工)など、様々な工芸技術が注ぎ込まれており、光悦は幼い時から家業を通して、あらゆる工芸に対する高い見識眼を育んでいった。その後、父が分家となり家業から自由になった光悦は、身につけた工芸知識を元に、好きで勉強していた和歌や書の教養を反映した芸術作品を創造するようになった。
やがて40代に入った光悦は、才能があるのに世に出る機会に恵まれない1人の若手絵師、俵屋宗達と出会う。1602年(44歳)、光悦は厳島神社の寺宝「平家納経」の修理にあたって宗達をチームに加え、彼が存分に実力を発揮できる晴れの舞台を提供した。宗達は見事期待に応え、この後「風神雷神図屏風」など次々と傑作を生み、30年後には朝廷から一流のお墨付き(法橋)を授かるほど成長した。
※後年、宗達は若い頃を「光悦翁と出会わなければ、私の人生は無駄なものに終わっていただろう」と回想している。
そして50代になった光悦は俵屋宗達との“合作”に取り組み始めた。天才と天才の共同制作。それが「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」だ。光悦は時の将軍徳川家光に「天下の重宝」と言わしめた書の達人。彼は三十六歌仙の和歌を、宗達の絵の上に書こうというのだ。この大胆な提案を引き受けた宗達は、目を見張るほど無数の鶴を、約15mにわたって筆先で飛ばせ、これを華麗に対岸に着地させた。宗達からの“挑戦状”(下絵)を受け取った光悦は、どこに文字を置けば最高度に栄えるのか、最適の文字の大きさはどうなのか、書が絵を活かし、絵もまた書を活かす、これしかないという新しい書を探求した。そして!後に「光悦流」と呼ばれる、従来の常識を打ち破った、極限まで装飾化した文字がほとばしった!光悦の筆から生まれた文字は、時に太く、時に細く、ここでは大きく、そこでは小さく、あたかも音楽を奏でる如く、弾み、休み、また流れていった。文字を超えて絵画となった新しい「書」だった。型破りな2人の天才のセッションが完璧に調和したのだ。
1615年、大坂夏の陣の後、光悦の茶の湯の師・古田織部が豊臣方に通じていたとして自害させられる。そして57歳にして光悦の人生に大きな転機が訪れた。徳川家康から京都の西北、鷹ヶ峰に約9万坪の広大な土地を与えられたのだ。師の織部に連座して都の郊外へ追い出されたとする説もあるが、いずれにせよ光悦は俗世や権力から離れて芸術に集中できる空間が手に入ったと、この事態を前向きに受け止め、新天地に芸術家を集めて理想郷とも言える芸術村を築きあげようとした。以後、亡くなるまで20年強この地で創作三昧の日々を送る。
光悦の呼びかけに応えて、多くの金工、陶工、蒔絵師、画家、そして創作活動を支える筆屋、紙屋、織物屋らが結集し、彼はこの「光悦村」の経営と指導に当たった。文字通り、日本最初のアート・ディレクターだ。有志の中には尾形光琳の祖父もいた。風流をたしなむ豪商も住み、村には56もの家屋敷が軒を連ねていたという。光悦の友人は、武士、公家、僧など広範で、宮本武蔵も吉岡一門との決闘前に光悦村に滞在している。
茶の湯も大いに賑わい、それに関連して光悦は今まで以上に熱く陶芸(茶碗づくり)に力を入れてゆく。
作陶は楽焼の2代常慶、3代道入から指導を受け、ロクロを使用せず手とヘラで整えた手びねりで制作した。本職の陶芸家ではなく外野から参加している分、自由な発想で個性あふれる茶碗を生み出した。革命的だったのは、光悦が茶碗の箱に自分の署名を入れたことだ!制作者が名を刻んだのは日本陶芸史上初めてのことだった。それまでは陶芸家でさえハッキリと茶碗を芸術作品とは認識していなかったのを、光悦が名前を入れたことで、茶碗を通して作者の自我を主張できるようになったんだ。現在国産の焼き物で国宝に指定されているのは2つだけ。その1つが光悦の銘「不二山」だ。雪を冠した富士のような景色からこの名が付いた。他にも「雨雲」「雪峰」「時雨」「加賀光悦」などの傑作茶碗を後世に残した。
光悦は平安朝から続く伝統文化を深く愛し、それをベースに様々な創意工夫を加えて新しく甦らせた。従来の蒔絵(まきえ、漆を塗って金銀粉を蒔いたもの)についても、見た物をそっくりに描いて「ハイ、おしまい」ではなく、対象となった物をデザイン化して再構成したり、文字を絵の一部として装飾化して加えるなど、変幻自在にスタイルをかえた。その斬新な造形感覚は他に比類のない独自のもので、屏風、掛軸、うちわ、本の表紙など各種生活実用品まで多岐にわたって創作の対象とした。装飾を凝らした日用品を創ることで、光悦は美術品を観賞用ではなく、生活道具の一部として暮らしに密着させようとした。光悦村が美術史の中で日本のルネサンス(文芸復興)の地と呼ばれる由縁だ。そして特筆したいのは、そこに軽妙な遊び心があったこと。この明るさがまた人々を惹きつけた。
光悦は宗達と共に琳派の創始者となり、その精神は半世紀後に尾形光琳に受け継がれていく。光悦が日本文化に与えた影響は計り知れない。享年79歳。
※1604年(46歳)から2年をかけ光悦の書を版下にした「方丈記」「徒然草」「伊勢物語」などが出版された(嵯峨本と呼ばれる)。
※光悦は名器(瀬戸の茶入れ)の購入の際、相手が値引きしようとしたのを断って、あえて言い値で買い取ったという。芸術家として、鑑定家として、自分がその価格に見合う真に価値ある作品だと思えば、それを値切ることは作者への冒涜だと思ったのかもしれない。 
松花堂昭乗 (しょうかどうしょうじょう・1582-1639)
天正10年-寛永16年 江戸時代初期の真言宗の僧侶、文化人。俗名は中沼式部。堺の出身。豊臣秀次の子息との俗説もある。
書道、絵画、茶道に堪能で、特に能書家として高名であり、書を近衛前久に学び、大師流や定家流も学び、独自の松花堂流(滝本流ともいう)という書風を編み出し、近衛信尹、本阿弥光悦とともに「寛永の三筆」と称せられた。また松花堂弁当でも有名である。
寛永の三筆のひとり松花堂昭乗が男山山中の坊内に建てた小方丈を松花堂という。
昭乗は、摂津堺に生まれ、兄が興福寺一乗院門跡尊勢に仕えたのに従い、奈良に移住した。 17才で男山滝本坊実乗につき社僧となり、寛永4年(1627)師の跡を継ぎ滝本坊の住職となる。昭乗は、はじめ御家流の書を、後に空海や定家の書を学び、滝本流といれる独特の書流を立て、近衛信尹・本阿弥光悦とともに寛永の三筆に数えられた。晩年の寛永14年(1637)昭乗は、弟子の乗淳に滝本坊を譲り、自身は里坊の泉坊の一隅に松花堂という小方丈を建て、そこに移り住み松花堂昭乗と名乗る。
昭乗は、絵画・和歌・茶の湯などにも精通した当代きっての文化人で、近衛信尋・尾張藩祖徳川義直・狩野山雪・小堀遠州・沢庵宗彭などとも親交があり、これらの人々が集う松花堂は寛永時代の文化サロンのひとつであった。
明治の排仏毀釈で男山にある坊舎堂塔はすべて取り払われ売却された。現在は、泉坊書院・玄関とともに八幡女郎花の地に移築され、松花堂庭園として公開。松花堂の建物の構造は、茅葺・宝形造、二畳の茶室には南に土間、西には水屋が配され、仏壇・床が設けられ、住居の性格をも合わせ持った茶室であり、京都府指定文化財。泉坊書院・玄関は京都府登録文化財。庭園の一部は、男山山腹の跡地とともに、国史跡指定。
松花堂庭園内には、美術館、茶室、女郎花塚などもあり、見学できる。また、吉兆松花堂店も営業している。
江戸時代初期の寛永年間(1624-1644)は、公家・武士・僧侶・町衆などの階層に優れた芸術文化が生まれ、花開きました。この文化の形成に大きな役割を果たしたのが、社僧・松花堂昭乗(1582-1639)であり、この時代の超一流の文化人でありました。
我が国では、明治維新まで神と仏を併せて祀る神仏習合で、石清水八幡宮の境内には最盛期約60近い坊(寺)があり、社僧が住んでいました。昭乗は10代半ばで石清水八幡宮の社僧となり、瀧本坊の阿闍梨実乗を師として修行に励み、真言密教を極め、後に僧として最高の位である阿闍梨となりました。
昭乗は風雅を愛で、幾多の優れた作品を今に伝えています。特に書は、瀧本流・松花堂流という書風を確立し、近衛信尹、本阿弥光悦、と共に寛永の三筆と称せられています。昭乗の生み出した書流は、江戸時代200年の間、書の手本として命脈を保ち続けました。また、画は人物画、花鳥・山水画において当代随一と高い評価を得ています。そして、昭乗の茶の湯は、寛永の文化人が集った茶会であり、小堀遠州を始めとする武家、近衛信尋などの公家、沢庵和尚・江月和尚や石川丈山、淀屋个庵など僧俗に及ぶ綺羅星のような人達と交友を持っていました。昭乗が所持し、当時坊に伝わっていた茶道具類は「八幡名物」として、今も珍重されています。
寛永14年(1637年)、昭乗はそれまで住職であった瀧本坊を弟子に譲り、泉坊に「松花堂」と名付けた方丈を建て、侘び住いの境地に入り、寛永16年(1639年)に生涯を閉じました。
松花堂弁当
普段は絵の具いれ、絵の道具(パレツト)として使つていました。茶会の折りには たばこ盆などに 利用していたと伝えられています。又 茶会席の折、季節の料理なども盛り付け、茶客をもてなした事もあつたでしょう。時代が移り 大正の末になり、その言い伝えからヒントを得て、懐石料理を盛り付け、弁当として世に売り出したものが、今日、松花堂弁当として全国的にひろがりました。 
伊達忠宗 (-1658)  
即非如一 (そくひにょいつ・1616-1671)
江戸時代前期中国の明から渡来した臨済宗黄檗派(黄檗宗)の僧。福建省福州府福清県の出身。俗姓は林氏、字は即非。
  父は林英、林氏は、宋代の儒者林希逸の末裔を名乗っていた。
18歳の時に龍山寺の西来の許で出家し、費隠通容が黄檗山に晋住したため十戒を受けて沙弥となった。1637年中国福州黄檗山萬福寺の隠元隆gに師事して菩薩戒を受戒し、1651年その法を継いだ。雪峰の崇聖寺に移った。
1657年隠元に招かれて来日し、長崎崇福寺に住して伽藍を整備し、その中興開山となった。1663年山城国宇治の萬福寺に移り、法兄の木庵性瑫とともに萬福寺首座となった。最初の黄檗三壇戒では教授阿闍黎の任を務めた。翌1664年帰国の途中、豊前国小倉藩主小笠原忠真らに招かれ、1665年福聚寺を創建してその開山となった。その後、崇福寺に隠居してそこで没した。享年56。
能書家としても知られ、隠元隆g、木庵性瑫とともに黄檗の三筆と称される。 
隠元隆g (いんげんりゅうき・1592-1673)
特諡/大光普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師、勅賜として真空大師、華光大師師
中国明末清初の禅宗の僧で、福建省福州福清県の生まれで俗姓は林。 
  隠元隆g(いんげん りゅうき、特諡として大光普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師、勅賜として真空大師、華光大師、万暦20年・文禄元年11月4日(1592年12月7日) - 寛文13年4月3日(1673年5月19日))は、中国明末清初の禅宗の僧で、福建省福州福清県の生まれで俗姓は林である。
独特の威儀を持ち、念仏禅を特徴とする明朝禅を日本に伝え、やや先に渡来した道者超元(? - 1660年、 1651年来朝、1658年帰国)と共に、当時の禅宗界に多大な影響を与え、臨済・曹洞二宗の復興運動にも大きな影響を与えた。また日本における煎茶道の開祖ともされる。
隠元隆叙ゥ(いんげん りゅうき、特諡として大光普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師、勅賜として真空大師、華光大師、万暦20年・文禄元年11月4日(1592年12月7日) - 寛文13年4月3日(1673年5月19日))は、中国明末清初の禅宗の僧で、福建省福州福清県の生まれで俗姓は林である。
独特の威儀を持ち、念仏禅を特徴とする明朝禅を日本に伝え、やや先に渡来した道者超元(? - 1660年、 1651年来朝、1658年帰国)と共に、当時の禅宗界に多大な影響を与え、臨済・曹洞二宗の復興運動にも大きな影響を与えた。また日本における煎茶道の開祖ともされる。
生い立ち-渡来前
福建省福州府福清県万安郷霊得里東林に生まれる。俗名は、林曽炳。
10歳で仏教に発心する(16歳という説もあり)が、出家修道は母に許されなかった。
23歳の時、普陀山(浙江省)の潮音洞主のもとに参じ、在俗信者として奉仕した。
29歳で、生地である福清の古刹で、黄檗希運も住した黄檗山萬福寺の鑑源興寿の下で得度した。
33歳の時、金粟山広慧寺で密雲円悟禅師に参禅し、密雲が萬福寺に晋山するに際して、隠元も随行した。
35歳で、大悟した。
38歳の時、密雲は弟子の費隠通容に萬福寺を継席して退山したが、隠元はそのまま萬福寺に残り、45歳で費隠に嗣法した。
その後隠元は萬福寺を出、獅子巌で修行していたが、費隠が退席した後の黄檗山の住持に招請されることとなり、明崇禎10年(1637年)に晋山した。その後、退席したが、明末清初の動乱が福建省にも及ぶ中、順治3年(1646年)に再度晋山した。
渡来以降
江戸初期、長崎の唐人寺であった崇福寺の住持に空席が生じたことから、先に渡日していた興福寺住持の逸然性融が、隠元を日本に招請した。当初、隠元は弟子の也嬾性圭を派遣したが、途中船が座礁して客死したことから、やむなく承応3年(1654年)に、隠元自ら、鄭成功が仕立てた船に乗り、多くの弟子を率いて来日した。
渡日当時、中国は明末清初の騒乱期であったことから、この騒乱を避けて来日したとされているが、残されている書簡や記録等からは、そのように判断する根拠は乏しい。
隠元が入った興福寺には、明禅の新風と隠元の高徳を慕う具眼の僧や学者たちが雲集し、僧俗数千とも謂われる活況を呈した。
明暦元年(1655年)、妙心寺元住持の龍渓性潜の懇請により、摂津嶋上(現在の大阪府高槻市)の普門寺に晋山するが、隠元の影響力を恐れた幕府によって、寺外に出る事を禁じられ、また寺内の会衆も200人以内に制限された。
隠元の渡日は、当初3年間の約束であり、本国からの再三の帰国要請もあって帰国を決意するが、龍渓らが引き止め工作に奔走し、万治元年(1658年)には、将軍徳川家綱との会見に成功した。その結果、万治3年(1660年)、山城国宇治郡大和田に寺地を賜り、翌年、新寺を開創し、旧を忘れないという意味を込め、故郷の中国福清と同名の黄檗山萬福寺と名付けた。
寛文3年(1663年)には、完成したばかりの法堂で祝国開堂を行い、民衆に対しては、日本で初めての授戒「黄檗三壇戒会」を厳修した。
以後、中国福清の黄檗山萬福寺は「古黄檗」と呼ばれる。
黄檗宗開教以降
これによって、隠元は日本禅界の一派の開祖となったが、当初から黄檗宗と名乗っていたわけではない。本人は歴とした臨済宗を嗣法している自負があったので、臨済正宗を名乗っている。もっとも、宗風や叢林としての規矩清規は当時の中国・明時代の臨済禅に倣っていたことから、既に日本に根付いていた臨済宗とは趣を異にし、その違いにより、自ずから一派を形成する方向に向かったものである。
隠元の「黄檗清規」は、乱れを生じていた当時の禅宗各派の宗統・規矩の更正に大きな影響を与え、特に卍山道白らによる曹洞宗の宗門改革では重要な手本とされた。
隠元には、後水尾法皇を始めとする皇族、幕府要人を始めとする各地の大名、多くの商人たちが競って帰依した。
萬福寺の住職の地位にあったのは3年間で、寛文4年(1664年)9月に後席は弟子の木庵に移譲し、松隠堂に退いた。
松隠堂に退隠後、82歳を迎えた寛文13年(1673年)正月、隠元は死を予知し身辺を整理し始め、3月になり、体調がますます衰え、4月2日には後水尾法皇から「大光普照国師」号が特諡された。翌3日に遺偈を認めて示寂。世壽82歳。
能書家としても知られ、木庵性叙ト、即非如一とともに黄檗の三筆と称される。 
木庵性瑫 (もくあんしょうとう・1611-1684)
江戸時代前期に中国の明から渡来した臨済宗黄檗派(黄檗宗)の僧。俗姓は呉氏、福建省泉州府晋江県の出身。勅諡号は慧明国師。  
  16歳で出家して開元寺の印明の門に入った。1629年に得度し、杭州や天童山、西湖等を歴参して、28歳の時には、金粟山の費隠通容に参禅した。費隠の許で、副寺・侍者から知賓を経て維那にまでなった。その後も、紹興や天台山等を遍歴した。
1648年には、天童山の費隠の許に行こうとするも戦乱のために果たせず、中国黄檗山に登り隠元隆gからその法を受けた。1650年より剣石の太平寺に晋住した。1653年には太平寺の住持を即非如一に譲った。
1654年に来日していた隠元に招かれ1655年に来日、長崎の福済寺の住持となった。1660年に摂津国の普門寺、1661年山城国宇治の黄檗山萬福寺に入り、1664年9月4日、隠元の法席を継いだ。翌1665年江戸にくだり4代将軍徳川家綱に謁見し、優遇された。江戸紫雲山瑞聖寺を初め10余寺を開創し、門下も50余人に及んだ。1669年、将軍より紫衣を賜った。
1680年2月、黄檗山の法席を第3代の慧林性機に譲り、山内の紫雲院に隠退した。1684年1月20日、病により没した。享年74。
能書家としても知られ、その書風は中国人ならではのものがあり、隠元、即非とともに黄檗三筆と称されている。三人には共通した書風があり、隠元の「穏健高尚な書」、木庵の「雄健円成の書」、即非の「奔放闊達な書」と評され「唐風」あるいは「黄檗風の書」として珍重されている。 
松尾芭蕉   (1644-1694)
徳川家康が天下を平定して世の中が落ち着いてきた貞享、元禄の時代には「武士無用論」を唱える者もあるほど平和が続き、武芸の代わりに学問が奨励され、庶民の暮しも楽になる。
畳が作られ、一日二食が三食になり、珍しい菓子や蕎麦などができて人々を喜ばせた。町人の子も寺子屋で学び、読み書きを覚えるようになった。文字を書けるようになると、人間は「表現欲」に目覚める。「俳諧」という 短詩型文学が江戸大坂を中心に流行しはじめたのもこの頃である。
俳諧は「連歌」より独立したもので、松永貞徳の「貞門派」、西山宗因の「談林派」の二派に分かれて広まっていった。「俳句」の称号は明治に入り、子規によって用いられた。元禄文化は急速に花開き、小説では井原西鶴(1642-93)人形浄瑠璃では近松門左衛門(1653-1724)が名声をあげた。同時代人として松尾芭蕉(1644-94)が俳諧で蕉風を確立、大衆文学にすぎなかった俳諧を純文学、芸術の境地へまで高めていったその功績は大きい。
寛永21年家光の時代に、伊賀上野の郷士、松尾与左衛門の二男として生れる。19才の時、俳諧好きの藤堂良忠(号、蝉吟)に仕えたのが、俳諧の道に進む大きなきっかけとなった。芭蕉に蝉の句が多いのも良忠への追慕だと言われるほど仲が良かったが、良忠が若くして病死したため致仕する。29歳のとき、俳諧師を志して単身、江戸へ出る。やがて頭角を現わし、桃青と号して名が知られるようになる。古くさい談林俳諧に飽き足らず、この道に新風を吹き込むことを決意、弟子も増え、深川に居を構え、以来「芭蕉」と号して意欲を燃やす。
芭蕉の俳諧
軽み/軽く浅いという意味ではなく、表は軽く見えながら奥に深い味わいを秘めたもの。「秋深し隣は何をする人ぞ」はその軽みの代表作と言われているが、蕪村の「我をいとう隣人、寒夜に鍋鳴らす」の句と比較すると理解できよう。「重み」と「甘み」を廃することを説いた。
不易流行/不易は不変。流行は変化の意。時代を越えて永久に変わらないものと、流行、即ちその時代々々に対応して流れ動く。それが互いに調和することで俳諧は芸術として生き得る。「おくのほそ道」の旅を終えたあとに生れた芸術論。
わびさび/大げさでない自然体であること。従来の型にはまったステレオタイプの談林・貞門俳諧から脱却し、新鮮な気風を確立すること。
芭蕉の紀行
「野ざらし紀行」(41才、1684年、貞享元年8月から翌4月迄) 江戸を発ち、郷里伊賀上野へ帰り、前年亡くなった母の墓参をし、あと関西各地をまわり、江戸へ戻る。
野ざらしを心に風の沁む身哉
古池やかわずとびこむ水の音
猿を聞く人捨て子に秋の風いかに(富士川のほとりで三才児の捨て児に会う)
おもしろうてやがてかなしき鵜舟哉(長良川)
「鹿島紀行」(45才) 貞享4年8月、鹿島へ月見に出掛ける。
「笈の小文」(45才)別名、吉野紀行。貞享4年10月から翌4月迄、上方旅行、吉野、高野山、須磨、明石と遊び、京に入る。
旅人と我名呼ばれん初しぐれ
ちちははのしきりに恋し雉の声(高野山)
蛸壺やはかなき夢を夏の月(明石)
「更科紀行」(48歳)貞享5年 信州更科に名月を愛でる。
悌や姥ひとり泣く月の友
「おくのほそ道」(46才)今までの旅の集大成。元禄2年曽良を供に江戸を発ち、奥羽、北陸を旅。その間五ヶ月。道のりは六百里。芭蕉の代表的紀行文学。
田一枚植えて立ち去る柳かな(西行柳)
しずかさや岩にしみ入る蝉の声(立石寺)
むざんやな甲の下のきりぎりす(多田神社)
夏草やつわものどもの夢のあと(平泉)
松島や鶴に身を借れほととぎす(曽良)(芭蕉は松島では一句も詠み得なかった。あまりの美しさに絶句したためで「松島やああ松島や松島や」は後世の人の偽作)
象潟や雨に西施がねぶの花
芭蕉には、この他「幻住庵記」「嵯峨日記」などが残されている。元禄7年最後の旅に出、9月9日大坂に着いたところ、翌晩から発病、10月12日死去。51才。遺言により義仲寺に埋葬、辞世とされる旅に病んで夢は枯野をかけめぐる
芭蕉が死んで22年後に生れた蕪村の句に「芭蕉去りてそののちいまだ年暮れず」とある通り、芭蕉を凌ぐ俳諧師はその後、世に出なかった。蕉門十哲といわれる其角、嵐雪らも到底、師に及ぶものではなかった。 西鶴は一日千句を目標にして作句したが、質において劣っている。芭蕉は量を問題にせず、あまた詠んだ句の中から気に入らぬものは惜しげもなく捨て去り、一千余句だけを世に残した。
西行は「一首詠みいでる毎に一体の仏像を彫るが如し」と言ったが、芭蕉もまた然り「わが言い捨てし句々、一句として辞世ならざるはなし、遂に無能無才にしてこの一筋につながる」と言い放ったその気魄に打たれる。俳聖と呼ぶにしかるべき俳人は、一茶でもなく蕪村でもなく、松尾芭蕉只一人と言えよう。
芭蕉はもともと「書斎の人」ではなく、読書だけに頼らず、自己の体験によってまことの風雅を知り、足で歩いて眼で確かめ、実践によって句作をしようとした。芭蕉が俳文を書いたのは、五,七,五だけでは十分に自分の意を尽くせないのを知ったからで、また地方に散らばる俳壇をじかに指導し、蕉風をアピールしようとする目的があった。それに、能因法師や西行を深く敬愛していたので、奥羽地方の歌枕を探訪したいという願いもあった。その意志は旅によって十分に達せられている。頑強な肉体でもないのに旅を達成することができたのは、到る所に芭蕉を崇拝する弟子たちが待っていて、何日も歓待を受け骨休めができたためだろう。一茶と異なって、強烈なカリスマ性があったのも伺える。
自分の人生哲学を実地に体験し徹底させようとした強靭な意志の持主であった芭蕉の旅の句の中にフィクションがあると問題にするむきもあるものの、「自分は風狂の人である。事実を事実として書くのではなく、風狂の人が風雅の道をさ迷い歩いた姿を描きたかった」と芭蕉は言い切る。近松門左衛門の有名な「虚実皮膜」「の間に真実があるという芸術論は言い得て妙である。
芭蕉の紀行文「おくのほそ道」は究極の芸術文であり、寿貞尼の存在とか忍者説とか、とかく様々な臆説が飛び交うが、芭蕉はそんな俗な人ではない。晩年の句に「さびしさや」という文字が沢山見えるのは、天才は常に孤独だという証しであろう。