一休宗純1・一休宗純2・禅の生命観・能役者「道」・黄檗宗・・・ |
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雑学の世界・補考 |
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■浄土というは、我が心のうちにあり。地獄は我が心の内にあり。 極楽浄土や恐ろしい地獄は、死後の世界にあるように思われているが、それはいずれも生きているときの自分の心の中にあるものだ、と一休(いっきゅう)は断言する。仏にすがり、宗派の教えに帰依したとしても、死後に極楽に生れるということはない。“今を生きている心”そのものの内に極楽に生れる種や地獄に落ちる種が生じている。「貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)」の三毒に汚染された心のままであれば、その心が地獄(悪心)になり、それを払ったところに生じる心が浄土(善心)である。「我が本心を悟(さと)る人を、すなわち仏と名づくるなり」(同前)この「本心」は、三毒を超えた浄土(善心)であり、仏の心でもある。「一休仮名法語」 ■心というものは、いかに判じ申すに、かげかたちなきもの也。 一休(いっきゅう)は仏教で戒める「三毒(さんどく)」(貪(とん)―むさぼる心。瞋(じん)―怒りの心。痴(ち)―愚かな心)が、人間の輪廻(りんね)の原因になると説いたうえで、その「三毒」のために人は愛執(あいしゅう)の心が深く、人を恨(うら)む心が強いがゆえに、苦しみ悩み、涙を流すと述べている。それは、すべて心から生じるものであるが、そのような心にこだわり、とらわれていれば輪廻の原因を取り除くことはできない。では、そんな心をどう超えるのか。それは心は実体がないものとしてとらえることである。実体がないがゆえに生もなければ、死もない。三毒をもつ心にとらわれず、心に留めず、心を超える。これを一休は「大正覚(だいしょうがく)」(真の悟り)ととらえている。「一休仮名法語」 ■本来成仏は、仏の妄語、衆生本来、迷道の心。 この言葉の前に「ただ一つの心は、始めもなければ、終わりもない。仏に成ることもない。その心こそが本来の仏心である」という文がある。一休はこれに続いて、「人は本来では成仏しているというのは、仏陀の戯言であって、人は本来、迷いの心をもって生きているのだ」といっている。これは一休独得の反語である。人の心は本来は悟ることができ、成仏できる存在であると、したり顔で説く僧侶に対する皮肉とみてよいだろう。「迷悟一如」で、人間は迷いのある存在であるがゆえに、悟ることができる。それなのに悟りを安売りするような僧侶は、本当の悟りというものを知ってはいないのだ。迷いに迷い、迷いの迷路をさまよった末に、悟りがつかめてくる。いや、人間は生涯、悟ることのできない存在なのかもしれない。「狂雲集」 ■もとより生のはじめを知らざれば、死の終をわきまえず。 もとより人間は、その生がどこからきたのかを知らないのだから、その死の行き着く所も知ることはない、という意味である。人間は生も死も知ることなく、真っ暗な苦海に沈んでいる。仏はそれを哀れんで、さまざまな方便で救ってくれているが、それさえも知らずに悪道を重ねている。たまに仏の教えに従う者がいても、自分の名誉と利益の「名利」を求めて善行するだけである。そんな名利を仏は特に嫌うのだ、と一休はいっている。真実の道は、世の中の掟に背かない人にあり、公平な人が仏道を成就する。人間は、つかみ所のない生と死の間に「今」を生きている、この「今」を生きることを自覚することで、それが光り輝くばかりの生命の発現となるのである、と一休は説く。「一休仮名法語」 |
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■一休宗純1・中世禅林の異端者 | |
一休宗純と言えば、しごく日本の方に親しまれた和尚さんだと思う。いや、日本の方だけでなく、最近禅の復興やそのブームの広がりにつれて、一休は次第に世界の人々に知られるようになった。その生き方、考え方が皆に好かれたのだろう。彼が法衣(ほうえ)をまといながら、公然とお酒を飲み肉を食らい、性の自由を享受して、みずから「狂雲」「夢閨」「瞎驢」と号し、「狂客」「風癲」「妖怪」とさえ称したにも拘わらず、老若男女を問わず、時の民衆に生(いき)如来(にょらい)、生仏として敬愛されたのは何を意味するだろうか、その子供にも通ずる無邪気で自由奔放な言動・強い社会的正義感と鋭い批判精神に満ちた文学は、現代のわれわれに何を示唆するだろうか、これらの問題について、浅学菲才ながらも、外国人としての私なりの理解を皆様に述べさせていただこうと思う。 | |
■異端者とは 一休(1394-1481)は、その88歳の生涯にちょうど北山文化・東山文化の形成期に恵まれたが、そのかわり、また既存の価値観が激しく動揺する不幸極まりない中世時代に遭遇した。 乱世に始まって乱世に終わったその呪わしい中世時代は、国民がさんざん苦しめられ、文字どおり暗黒悲惨で生地獄の時代であった。数知れない人の命が奪われた飢饉、疫病の流行に、大風、洪水、旱魃、地震、津波、大火事等が加わり、おまけに酒屋、土倉(どそう)、寺院などを襲撃し、借銭(しゃくせん)の破棄、質物(しちもつ)の略奪を公然と働く諸一揆いっきの続発は、いわゆる「下克上」の風潮を各地にひき起こし、世相の混乱にいっそう拍車をかけた。従来の権威は地に墜ち、俄かもの、にせもの、インチキ者が勝手気ままに横行し、生きるよりどころを失った人々は、街頭に斃れたり、人妻が乞食のかたわらうかれ女(め)となったり、素人娼婦が随所に横行したりするありさまは、正に自由狼藉の末世であった。 しかし、そのような乱世澆季(ぎょうき)になっただけに、新しい思想・新しい精神が芽生えていたことも忘れてはならないと思う。命まで脅かされる戦乱の時代に、いかに生き抜けるか、どのようにして救われるべきかの宗教的関心が、平和の時代よりずっと高まっていたに違いない。歴史の発展に例外なく、人間が生存の危機に直面するたびに、その不撓不屈の精神が不思議なくらい燦然(さんぜん)として発光するのである。また昔も今も同じように、順境は人間をよく懶けさせたり、邪道に走らせたりして、駄目にしてしまい、逆境はかえって人間に一段と磨きをかけるらしい。逆境の生活、殊に肉体の滅びとしての死の現実を目の前にしたとき、人間はおのずから精神の面において、ひたすら死の克服を謀らなければならないし、残酷な現実は人々にいやおうなしにもっと引き締まったより高度な精神的姿勢を構えさせるからである。この意味から言うと、逆境の人生、暗黒の時代は、精神の開花や結実を促す絶好の土壌だとも言えるかも知れない。 振り返って見れば、日本の中世は正にそうである。中世には、法然、親鸞、栄西、道元、そして少し時代を下って一休、蓮如等、時代の精神をリードする優れた先覚者達が相続いで出現し、その努力によって興された、或いは受け継いだ浄土宗、浄土真宗、日本禅宗等の宗教精神は、国民の心に根をおろし、輝かしい中世文化の形成に巨大な貢献をなしたのである。今、京都に現存している東・西両本願寺、南禅寺、龍安寺等の寺院をご覧になっても分かるように、現代の日本人が中世の宗教から授かった恩恵ははなはだ大きいものである。それはただ建築物等、有形の文化財だけでなく、実は文化全般に多大な影響を与えている。中でも中世の禅的精神は、その真実味、幽寂さ、深玄さ、高古さ等を以て、時の、及び後世の能楽、絵画、連歌、俳諧、茶道、礼法、印刷等の芸術形態と国民生活の隅々に滲(し)み渡り、「幽玄」「わび」「さび」等の美的理念まで導かれたと言えるほどである。 もちろん、先に申し上げた人物の中で、一休宗純は、一番偉い和尚さんだとは思われないかも知れないが、しかしながら、古今東西の名僧中、凡そ一休ほど広く心深く民衆に親しまれた人はまたといないだろう。その生前だけでなく、彼が示寂してから今日に至るまでの500年余りの間に、人々から忘れ去られることなく、むしろ時代を下るにつれて彼に寄せる関心は、益々高まってきている。とりわけその乱世を生き抜いた反骨ぶり、ユーモア、茶目っ気、それにどんな苦しい立場に立たされても決して腰を屈せぬ社会的正義感、あの広大な包容力、高度な率直さ等は、社会統制の最も厳しい江戸時代に伝説化され、講談落語にもなっていたのである。 その後、一休についての童話、伝説、物語等が矢継ぎ早に現われたが、西田正好氏の研究によると、一番古く成立した一休伝説集は、17世紀中ごろの万治(まんじ)年間(1658-1661)に刊行された仮名草子「一休咄」である。それを皮切りに、一休伝説の作品化はあとを断たず、他に比べ物にならないほど大量の物語や戯曲となって、今日に及んで無数の出版を重ねたのである。それらの主な出版物を挙げると、江戸時代に「続一休咄」「一休関東咄」「一休可笑記」「一休諸国物語図(ず)絵(え)」「一休丸鑑(まるかがみ)」等があり、明治時代に「一休頓智談」「諸国漫遊一休頓智談」等があって、その後大正、昭和時代になってからも、一休伝説の刊行は、いっこうに衰えていない。 凡そ10年前、また中国のテレビでアニメーションの一休童話をやったことがある。その番組がある度に、子供はもちろん、大人まで一休のすぐれた処世の知恵と勇気、及び思う存分に偉そうにいばっている和尚や旦那を翻弄(ほんろう)する頓智頓才に惹き付けられて、テレビにかじりついた。利発な少年一休が人気者になって、中国の子供達はよく一休さんごっこをやった。女の子が声高く「一休さん」と呼んだら、男の子がすぐ「はい、はい」と無邪気に気持ちよく答える。そのような陽気な場面はまことに鮮やかで印象深かった。則ち、一休さんはすでに中国の子供達に「神童」と認められ、その崇拝の偶像となったようである。それにアニメーションの少年一休は、大人の童話として見事に人生の指南役をつとめており、多難な現実社会を生き抜くために欠かせない処世の知恵と逆境打開に必要な示唆をふんだんに提供してくれた。その上一休の洒脱さ、ユーモアさ、稀に見る機知に接すると、誰でも束縛された世の中の窮屈さから解放されて、人間としての本然(ほんねん)の喜びが感じられる。つまり先に申したとおり、一休はすでに国境を越えて、世界の一休さんになったのである。特に私達漢字文化圏で生活している人間にとっては、一休の存在はもっと有意義なことだ。というのは、われわれは長期にわたって儒教の繁雑な儀礼、数え切れないほどのしきたりに縛られて、個性のある人間はなかなか生れないからである。 ところが、童話、伝説の一休は禅僧としての一休宗純とは、だいぶ違っている。伝説に伝わっている一休像には、江戸時代・明治時代等、各時代人の好みによって再創造された部分が含まれるはずである。ほんとうの一休はこれよりずっと複雑であり、他の禅僧と違ってずっと個性があるし、深み、重みもあるに定まっており、また異端者と言われる以上、何かの社会的、宗教的な原因があるはずである。周知のとおり、中国から移植した初期の禅宗は、わりあい純粋で健全なものだったが、その後禅宗の最大の支持者だった武士政権の不正や腐敗に蝕まれて、次第に元の恬淡素朴さや深玄幽寂さ等を喪失した。一休の時代になると、禅宗そのものはすでに武士政権の銭箱、悪徳な禅僧らの渡世の具に変質してしまった。当時、幕府は行き詰まった財政を補■するため、かってに五山官寺の住持の任期を短くしたり、官銭を納めるだけでその寺に入住しなくても、該当の住職名義を認めてやったりして、莫大なお金をもうけた。極端な言い方になるかも知れないが、禅寺は公然と幕府に売り飛ばされたのである。 禅僧の修行する拠点地、信者の憧れる神聖なお寺まで売買される環境の内で、かれらはもはや「上求菩提、下化衆生」「見性成仏」の心境になれるはずもないだろう。お金で名誉、実利を獲得できるなら、そんなに明け暮れ、無味乾燥な座禅をしなくてもいいのではないかと思うえせ坊主は自然と増えるし、臭い銭のにおいをぷんぷんと発散する住持の説法も魅力を失ってしまう。この悪循環の中で、禅宗内部の自制力が崩れて、かなり多くの人は死に物狂いに有力な外護者を求めたり、自ら進んで自分の学問と人格を執権者に売ったりして安逸な暮らしを貪った。当初幕府の特別な援護によって発達した禅宗は、その代償を支払わなければならないように、爛熟し、頽廃してしまったのである。 もちろん、この滔々(とうとう)たる濁流の中で、すべての禅僧が、時代の歪んだ風潮に迎合(げいごう)し、節を枉(ま)げて俗化されてしまうはずはない。生涯清貧な生活を守り続けた一休は泥中の蓮(はちす)のように俗塵から抜け出して、禅宗教団の矛盾や栄衒僧に攻撃を加え、既存の権威を貶し、古い習俗を無視していろいろと自己主張を唱えたのである。それゆえ、市川白弦氏の指摘したように、禅教団の護持という角度から見ては、「この教団仏教の否定的批判者は進んで歓迎される存在ではない。権力の政治と宗教統制に参加し追随していた五山ないし諸山を非難しつづけた一休が、政権と教権の双方から歓迎されなかったことは、当然である。」そのため、真実尊重の文化人、民衆の代弁者としてあくまでも反伝統的な態度を取った一休宗純は、終始社会と教団の執権者から異端視された。同じ人に対しても見る人の立場が違ったら、その評価が自然に変わってくるというわけである。 それで、一休その人、その文学、その思想は、いったいどんな本質を持っているか、これから私達は時代を溯って、その法語類、偈頌詩集及び実弟によって描かれた肖像や年譜を頼りに、一休全体の実像を極めよう。 |
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■一休の素顔とその作品 一休の素顔を明らかにすることは、容易いことではないが、私達はまず現存の代表的な一休像をこの目で確かめ、その作品の概略を見てみよう。 一休の最も特色のある画像として、次の二点を紹介したい。一つは、東京国立博物館に所蔵されるもので、墨済の描いた一休の肖像である。墨済とは、一休の法を嗣いだ直弟子であって、久しく師匠についたばかりでなく、また絵に優れた人である。現存の一休画像の中で、この一軸は一番よく本人の性格をとらえたものと言われている。皆様は、この肖像をご覧になって、どう思われるだろうか。すぐ、えらく風変わりな和尚さんだなあと、直感されないだろうか。私なりの感想を申し上げると、何か激しい怒りのために逆立ったような髪毛が、特に印象付けられると思う。それは、針金のようなものであって、もし相手が嘘偽りをなせば、直ちにこれを突き破る勢いを見せている。髪毛だけ見ても、一休さんはかなり攻撃性を持っており、決して凡庸なお人好しではないような気がする。わりに濃密な眉が急にさがって、顔に凛々しい輪郭を描き出している。その下にある眼は炯々(けいけい)として、社会の裏側も人間の心の奥底もそのすべてを見抜く力を持っているように見える。それと同時に、意気揚々の高官やら、無闇に自負する権威やらを全く物ともしないような目つきで睥睨(へいげい)し、軽蔑している。また一方、その眼は単に峻厳な批評家の目であるだけでなく、同時に何だか情け深く暖かいものも瞳の奥に潜んでいるようである。そして、その口元をご覧あれ。いま堅く引き締まっているけれども、一旦開けると、何を浴びせかけられるか分からないほどの緊迫感を持っている。その無精ひげが生え、きつく角張った無類な顔は、絶対に瑣細な事、古い習慣(ならわし)に拘泥することなく、常に個性を生かし、新奇なものを創り出して人を驚かさないとすまないような表情と、幾分諧謔的な雰囲気が滲み出ていると思う。それから、何をも恐れず、正伝の法統を守れるような自負心もこの特別な顔からは読みとれる気がする。これは絵の上段に添えた自賛を以てしても証明できる。 華叟子孫不識禅 華叟の子孫、禅を識らず、 狂雲面前誰説禅 狂雲面前、誰か禅を説かん。 三十年来肩上重 三十年来、肩上重し、 一人荷担松源禅 一人荷(か)担(たん)す、松源(しょうげん)の禅を。 松源の禅とは、中国の和尚臨済義玄を始祖とし、楊(よう)岐(ぎ)方(ほう)会(え)、松源崇岳、虚堂智愚などをへて、これを受け継いで、日本では南浦紹明(なんぽしょうみょう)、宗峰妙超(そうほうみょうちょう)(大徳寺開祖)、徹翁(てつおう)義亨(きこう)、言外(げんがい)宗忠(そうちゅう)、華叟宗曇と伝えられた法統であって、虚堂から数えて、一休はちょうど7世になるのだが、これを臨済宗では、松源の禅、或いは松源流と言っている。右の詩は大概次の意味である。 華叟の弟子と称する連中は、誰も禅の本質をわきまえていない。この狂雲(一休)の前で、禅を説く資格などあろうか。華叟の法統は、この私だけが担っている。30年も担っているので、肩の荷は重いけれども、責任の重大なことは、いつも忘れることはない。 その一生を考察しても、一休は確かにその自賛のようにつねに自分こそが松源の禅、華叟の法統を嗣いでいるのだという強い自負と使命感を自覚しながら、活発な教化活動をしたのである。当然ながら、この画像から受けた印象は、人によって様々だが、誰でもこれを見たら、同じようになかなか忘れられないと思う。もう一点は、先の肖像より一休が少し年をとったもので、文明3年(1471)の冬に「玉垣居士」に与えた賛づきの頂像である。これは珍しく、賛の下に一休の円相像(えんそうぞう)があり、さらにその下段には和歌と森上郎の画像を配置している。森上郎とは、一休が晩年に親しく付き合った盲目の女性であり、森女、森侍者とも言う。一休が彼女と最初に出会ったのは、77歳のときで、それ以後示寂するまで共に10年間も暮らした。鼓(つづみ)を前に置いた森女の画像から見れば、その歳はおよそ40歳前後と推定される。いまの常識で判断すれば、40歳の女と80歳の老人とは、どうもきわめて危あやうく、変なカップルだと思われるが、一休にとっては、森女とのであいは、三生の新約あっての最高の結びと言えるものである。一休は森女との愛情を素材に、多くの叙情詩と艶詩を作った。まるで少年期以来の詩魂が、盲目の神女を得ることによって、一挙に花を咲かせたようである。この円相像の賛もかなり色っぽいものである。 大円相裏現全身 大円相裏に、全身を現じ、 画出虚堂面目真 画き出す、虚堂の面目の真なるを。 盲女艶歌笑楼子 盲女の艶歌、楼子を笑う、 花前一曲万年春 花前の一曲、万年の春。 少し説明すると、「大円相」は字面では丸い肖像なのだが、実際天地、宇宙を暗示し、そこから転じて、世の中を意味する。絵は確かに半身だが、円相なので全身を現わしたと言うのである。虚堂とは中国南宋末の禅僧で、日本の大応国師南浦紹明が入宋して、この人から心印を受けたため、いま日本大応、大燈法系の派祖と仰がれてきた。一休は祖師虚堂の禅風を心から慕って、しかも自(おのず)とその人の生まれ代わりと自負していた。それで、前半の意味は、大円相に私の真面目をよく描き出され、まるで私のすべてを世の中に曝け出されたようなものだという。楼子とは、本来妓楼に遊ぶ男を指すことだが、ここでは、一休がふざけて自分を言ったのである。則ち、一休は花のような盲女を前にして、彼女が「おもいねのとこに、うきしずむ、なみだならでは、なぐさみもなし」と唄った色歌を聞きながら、万年の春を迎えたように、ずいぶんいい気持ちだったに違いない。 この賛のように、一休の作品は好色的な表現が目立ち、所々に濃艶な色彩に潤色されており、これを切り離すと、一休文学の本質を的確に理解するのは、ほとんど不可能である。この特色について、一休研究に優れた業績を挙げた学者柳田聖山氏が、次のように述べた。 「一休の作品は、すこぶる色っぽい。近来、作家の注目を呼ぶ森女関係の作品は、実はその一部にすぎない。色っぽさは「狂雲集」の全体を覆うのである。仏祖をたたえ、禅の公案を歌う、すべての作品のどこかに、すこぶる屈折した色気が隠される。あるいは時事(じじ)を批判し、名勝旧跡をよむ作品にも、同じ傾きがある。それらが、実は中国の禅と文学の、ある側面を見事に継承していることは、この人の作品の特色である。」 確かに「狂雲集」は時事批判、仏祖礼賛(らいさん)、旧跡巡歴等、様々な内容が含まれ、ずいぶん豊富だが、その作品の基調は、やはり柳田氏の御指摘どおりだと思う。そのため、私はよくこの文明3年の森女づきの円相像をじっと眺めながら、これは「狂雲集」の描いた世界ではないかと、つくづくと思ったのである。この円相は、「狂雲集」の特色をよく反映していると思うのだ。 一休は62歳の時、詩偈集「自戒集」を作ったが、これは鋭い攻撃性を持つ作品集として、一休の、すべての悪と対決する反抗精神、世相是正・禅風挽回の意気込みを如実に表すものである。最初に見た墨済筆の一休像をもう一度見てみよう。この何をも恐れない顔は、「自戒集」の持つ攻撃性と、一致するものではないだろうか。則ち、「狂雲集」と森女づきの円相は、一休の、型破りの禅僧としての美意識、その色好み・風流ぶりを表現し、「自戒集」と墨済筆の肖像は、主に一休の、強い正義感をもつ攻撃性・反抗精神を再現したものである。この二つの側面、二つの特色を主軸にして、一休文学がさらに拡大され、潤色、充実されて、その複雑な人間像が形作られたと思う。 一休の88年間の文学創造はきわめて多いもので、主なものを挙げれば、詩偈集としては先に挙げた「狂雲集」「続狂雲集」「自戒集」があり、法語類としては「骸骨」「仏鬼軍」等があり、その他に「あみだはだか物語」「二人比丘尼」「水鏡目なし草」「山姥(やまんば)」「江口」等がある。 「狂雲集」は、現存する写本の中で最も古いものは、西宮市の奥村重兵衛氏の所蔵である。この奥村本の筆者は、一休の晩年についた弟子祖心紹越(1444-1519)であり、事実上の編者とも見られる。その編集事情について、「東海一休和尚年譜」の末尾に「平日述ブル所ノ頌古(じゅこ)、偈賛等、編シテ狂雲集トナヅク、巳ニ人ニ伝称セラル」と記されている。室町中期から江戸時代初期の間に、奥村本の他に、また十種ほどの写本が作られたが、いずれも雑然とした編集で、収録作品数も少なく、同じ作品が前後したりして、当初の編集に一定の方針があったかどうか、疑わしいほどである。今世紀の60年代、これらの異本を校合して得られたのが、伊藤敏子氏編の「考異狂雲集」である。これに収録された作品は1060首もあるので、いま最も理想的なテキストとして、一休研究者に広く使われている。 中本環氏の研究によると、「狂雲集」と「続狂雲集」とは、単に正集と続集という関係ではなく、前者は頌偈の集、後者は詩の集と理解すべく、両者には性格の違いが色濃く認められると言う。そのため、「続狂雲集」を「狂雲詩集」と見なすべきだと強調している。理論的には、まことに中本氏の御指摘どおりである。従来、詩は個人の思想や体験に基づく真の文学的創造と評価され、頌偈は仏徳を賛嘆したり、教理を述べたりするものだから、後者はただ宗教の弘布(ぐぶ)・禅の会得(えとく)の手段にすぎないと目されてきたが、実質的には詠去対象が異なっても、同じく韻文の形をとっているし、頌偈にも作者の感性を込めているから、これも広い意味での詩と認めるべきである。しかも、一旦具体的な作品になると、いったい詩か頌偈か、作者自信が詞書にはっきり記さないかぎり、なかなか区別できない。ジャンルに拘わるより、実際に表現された内容を重視した方がもっと有意義なことだと思う。 そして、「自戒集」。これは師兄養叟宗頤等の栄衒僧が名利を貪って、一般士女の入室(にっしつ)を許し、公案を安売りしたのを批判する詩集である。「東海一休和尚年譜」康正元年(1455)62歳の条に、「泉南ノ嘲偈、伝エテ師ニ達ス。師其ノ韻ニ次シ、編シテ一巻ト作シ、題シテ自戒ト云ウ」とある。現存の写本は一種だけで、薪の酬恩庵(俗に一休寺)に所蔵されている。原文は、漢詩文に訓読風の仮名書を混じえている。一部の学者は「自戒集」の中に一休の弟子の作が入ったのだろうと議論しているが、その詩風は「狂雲集」「続狂雲集」と一貫しているので、多少弟子の作が混入していても、一休の思想、禅風を損なうほどのものではなかろう。 それから、一休が真摯熱誠の信念を込めて書いた法語類「骸骨」等は、頗る諧謔的に、分かり易く妙法を説いているから、信者及び一般民衆によく理解され、心から喜ばれたようである。85歳、彼が住吉を去って薪村に帰る時、「老幼遮道以慕臻、攀轅曳衣、揮涙而別(老人や子供達が道いっぱいに慕い集まり、車のながえにすがり、衣にすがり、涙を流して別れを惜しんだ)」(「東海一休和尚年譜」文明10年の条)という場面によって、一休の人格と禅風の魅力はほぼ推察されると思う。 一休の作品の他に、「東海一休和尚年譜」(以下「年譜」と称す)についても、ちょっと触れてみたい。これは、一休が示寂して凡そ10年経った後、その弟子没倫紹等を筆頭とする人達によって作られたものである。そもそも、年譜というものは、伝記に似た性質を持っており、特に一休年譜の場合、弟子等の感情に左右されて、どうしても師匠美化の嫌いをまぬがれない。これに対し、平野宗浄氏は一休年譜をじっくりと読んだあと、次のように感想を述べた。 「おそらく一休門下には、あまり優れた人物が居なかったのであろう。その文章が一休一辺倒でその師一休に対してべたべたした感じは、多少同情もするが、正しい漢文を作れず、又中国の俗語か文語かもわからないくせに、やたらに出典の難しい熟語を使い、美辞麗句を並べたてることには嫌悪感から始まって終には腹が立ってしまう。」 ずいぶんきつい批判だが、肯綮に当たったものだと言わざるをえない。「年譜」に最も多く指摘された過失は、森女との交際については、一言も触れなかったことである。これは、みずから「年譜」の信用度を減じただけでなく、またその作り手がはなはだしく批評眼を持たないことも物語っている。それにしても、直弟子達が自分の日記・ノート等をもとにして作ったものだし、示寂してまもなくできたものだから、一休行実の大部分が信用できるはずだ。現在、この「年譜」は「続群書類従」「大日本史料」にも収録され 、一休研究の生資料として、彼の人間像と文学を究明するには、依然として重要な価値がある。 |
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■参禅求道の前半生 一休の前半生と後半生とは、人生態度において、かなり違うように見える。前半生は、骨身を削って修行し、求道する時代、真面目で厭世的な時代だが、後半生は、自由奔放に教化する時代、楽天的で逆行(ぎゃくぎょう)三昧の時代である。前半生は、一途に純粋な禅、まともな生き方を捜し求めたので、いろいろと苦労を重ね、至極悩んだようである。その悩みがあまり深刻なもので、一度自殺もはかったのだ。それでは、一休はどんな生まれ、どんな育ちか、これから探ってみよう。 一休は応永元年に誕生したのである。これは西暦1394年に当たり、今から凡そ600年前である。この年は、南北朝統一の3年目で、天下の寵児として、その威勢を存分に振るった足利義滿が、その栄光に飽きてわが子の義持に将軍の識を譲った年でもある。一休の出生について「年譜」には次のように載してある。 「後小松皇帝応永元年甲戌。師は刹利種なり。其の母は藤氏。南朝簪纓(さんえい)の胤、後小松帝に事(つか)え、能く箕箒(きそう)を奉じ、帝の寵渥(ちょうあつ)し焉。后宮讒して曰く、彼に南志有り、毎に剣を袖にして帝を伺うと。因って宮■(きゅうい)を出でて民家に入編し以て産む。師襁(む)褓(つき)の中に処すといえども、龍鳳の姿有り。世に識者あるなし。正月朔(さく)、日出づる時出胎。」 この記述によると、一休は応永元年正月1日、お日様の到来と同時に、昔の聖人・賢人と同じように、誰よりも先にこの世に生まれ、しかも万乗至尊(ばんじょうしそん)の血を受け継ぎ、「龍鳳」の瑞(ずい)相があると言う。その母も名門出身で、藤氏即ち藤原氏とあるが、後世に伝わる書物には、日野中納言の娘照子姫、後に伊予局(いよのつぼね)と申した方だと書かれているのもある。とにかくこの南朝に仕えた公卿の息女は、讒言によって、宮中を追われて民家で一休を産んだのである。幼名はいかにも貴族らしく、千菊丸と名付けられた。その民家の場所は、洛西とも嵯峨とも言われ、どちらも確かな根拠がない。民家での生まれと分かった以上、その出生の時刻と具体的な場所は、彼の人格形成には、それほど重要影響を与えられないだろう。肝心なのは、一休がいったい後小松帝の落胤か、それとも弟子達の師匠美化の捏造かということである。 どの民族でも貴族名門に憧れる心理を持っているだろう。布教のため昔から、仏教の教団が民衆のこの心理を利用して、その宗祖(しゅうそ)の貴種出身を唱え出すのは、珍しくない。しかし、ほかの場合はどうであろうとも、一休にかぎっては、その皇胤説は多方面の資料によって証明され、どうしても否定できないようである。 歴史的資料として、一休の実子と言われ、その弟子でもあった岐翁紹貞に学んだ少納言兼侍従、大内記(だいないき)文章博士菅原和長の書いた日記「東坊城(ひがしぼうじょう)和長卿記」明応3年(1494)8月1日の条に、「秘伝に云う、一休和尚は後小松院の落胤の皇子なり。世に之を知る人無し。」と書いてある。従来、その皇胤説を否定する学者は、「世に之を知る人無し」という記載を事実とすれば、逆に言うと、日記の記し手菅原和長だけ知っているだろう。これでは落胤の証拠にならないと主張している。御もっとも、この推論にも一理があるが、しかしながら、あの険悪な社会では、一休がほんとうの出身を世に明かすのを許されなかったことも考慮しなければならないと思う。当時、南北朝が統一されたばかりで、社会が依然として不穏なので、室町幕府と北朝は、南朝に仕えたことのある人々に、一刻も休まぬ警戒の目を光らしていた。実際にその遺臣等は、荒唐無稽な口実をつけられて殺された人も出たし、帝の命を伺うという讒言によって宮中から追い出された一休母子が、長期間にわたり監視されたかも知れない。さらに一説には、足利義満がかつて一休を殺そうと企んだこともあるという。そのため、一休の母がわが子をその魔手から免れるように、彼を出家させたのだろう。そういう事情があったので、一休が小さい時から、絶対に自分の出身を口に出してはいけないよと、母親に何度も何度も念をおされたこともあろうと、容易に想像される。 貴い出身のため、かえって暗い少年時代を強いられた一休は、大きくなるにつれて、家柄に対して極めて敏感で、時には憎悪(ぞうお)し、時には未練がましく思っているような複雑な感情を抱くようになったのである。「年譜」によると、一休は「年六歳、京都安国寺の長老像外(ぞうげ)鑑公に投じ、童子の役を執る。鑑呼んで周建と曰う」と記載してある。6歳の千菊丸は母に手を引かれて、五山派に属する安国寺に出家して、周建と安名されたのである。安国寺は天竜寺開山夢窓疎石の勧めにより、元弘以来の敵味方の戦没者を慰霊(いれい)し、天下の泰平を祈るために足利尊氏・直義(ただよし)兄弟が設立したといわれている。その授業師の号は像外、名は鑑、後に鎌倉の建長寺や円覚寺に住持した大徳である。12歳の時壬生(みぶ)の宝幢寺(ほうとうじ)の清叟に仁蔵主(じんぞうす)から、難解な「維摩経(ゆいまぎょう)」の講義を聞き、翌13歳東山建仁寺の慕(ぼ)哲(てつ)攀(はん)和尚に詩文を学び、清叟からも引き続き内典外典の講義を受けた。一休が最初に漢詩を作ったのは、13歳の頃であって、同時代の少年学僧の中で、漢詩漢文の目醒めは決して早い方ではない。 けれども、人格形成においては、いちはやく個性を出したのである。こんなことがある。16歳の年の結制(けっせい)の日に、居あわせた僧侶が互いに氏族や門閥の尊卑(そんぴ)を話題にして得意がっているのを見て、一休はその虚栄心にひどく憤慨し、耳を掩ってその場から逃げ出した。その時の心境を二首の禅詩に吐露し、師の慕哲に呈した。その中の一首は次のとおりである。 説法説禅挙姓名 法を説き禅を説きて、姓名を挙ぐ、 辱人一句聴呑声 人を辱しむるの一句、聴きて声を呑む 姓名議論法堂上 姓名を議論す、法堂(はっとう)の上、 恰似百官朝紫宸 恰も百官の紫宸(ししん)に朝するに似たり。 これは、一休が本来の求道心を失って、興味津々に世俗的な家柄を誇って、他人を軽蔑する俗悪な僧侶に極度の反感を示し、辛辣な批判を浴びせたのである。一休にとっては、お前等はこんなに卑しい生家でも自慢に値するかと憤慨するはずである。たとえ、少々言うに足りる家柄だとしても、無所求行(むしょぐぎょう)の禅僧として、厳(おごそ)かな法堂でこれを誇示するのは、なんと浅ましい醜態かと憤ったのである。この詩から推察されるように、この頃から一休はすでに俗悪な栄衒僧を憎み、高潔な正義感に燃えだしたようだが、しかし、これは単に名利に淡白で純粋な禅精神による行為ではないと思う。いくら後世に偉くなった禅僧でも、16歳の少年としては、またそんな高度な自覚、全く雑(まじ)り気(け)のない禅精神に達するはずもないだろう。たとえ、一休はすでにその純真な境地に達したとしても、彼の性来の性格ではきっと立ち向かってあの悪僧達に反論を加えるに決まっており、「掩耳出堂」(「年譜」応永16年の条)という必要は微塵もない。私に言わせれば、恐らく一休は、自分の貴くて暗い出身を触発されて、あの宮中から追い出された苦々しさと悪僧に対する憎しみとが、一度に爆発してしまって、あの強烈な反応をしめしたのではなかろうかと思う。先に結論を申し上げると、私は一休の皇胤説を信じている。さもなければ、一休のそれ以後の行動、皇室との尋常でない関係、並びに皇室とゆかりのある詩と和歌をどうしてもうまく説明できないのである。 例えば、一休が18歳の時、壬生の法幢寺では庵室に清叟和尚の寿像(じゅぞう)にひそかに禁制となっていた金襴の袈裟を着せて、清叟に格別の敬意を表そうとしたが、折悪しく禅宗の幣風を刷新(さっしん)しようと思っている将軍義持は、それを耳にすると、なんの前触れもなく同寺にやってきた。寺の和尚も弟子達も皆震え出して、どうしたらいいか全然なす術もなかったのである。偶然一休がその寺にいたので、万事まかせてくれというように落ち着きはらって、幀子(とうじ)一巻を持ち出して出迎えた。義持のすぐ側に随行の赤松滿祐(みつすけ)がちゃんとついているにも拘らず、一休は高みの式台の上に立ったまま、直接にその幀子を将軍に手渡そうとした。赤松は、一休のこのあまりに無礼な態度を叱り、自ら進んでその幀子を受け取ろうとしたが、一休はいきなり赤松にアカンべをして、幀子をうしろに引っ込めた。お前なんかにやるもんかといった不敵な軽蔑の姿勢をとったのである。将軍も随行の武士達も一休のこの傍若無人の豪胆さにあっけにとられ、肝心の寿像検閲もそこそこに、すぐ帰ってしまった。 言うまでもなく、18歳はすでに成人になったのである。これは成人のやったことだから、何も珍しくはないし、別に取り立てて議論する必要もないと言われるかも知れないが、同じ成人でも、一休のほかに誰が、あの咳払いをしただけで天下を震え上がらせるほどの権威を持っている将軍の前でアカンベをすることができるだろうか。当の一休でも、もし至尊の血を受け継がなかったら、たぶんこれほどの魂胆も持てないだろう。それに面白いことに、大人だった一休は、おどけた子供のまねをして、あの偉そうな将軍をからかい、寺の一同を助けて重大な危機を乗り越えたのである。ちょっとくどいようだが、もし精神的にあの天降(あまくだ)りの余裕がなければ、武士どもに物々しく警固され、息もできないほど圧迫される雰囲気の中で、あの軽々しく剽軽(ひょうきん)な演技は、どうしてもできないと思われる。恐らく一休は、自分の皇族出身を意識し、それによる潜在的な自負、自尊を持ちながら、お前はいくら将軍でも、天皇の臣民だとうそぶいたのかもしれない。とにかく、この頃から一休の尊王(そんのう)思想、幕府批判、佯狂(狂人のふりをする)精神は、すでに芽生えたと言えるだろう。 一方、社会の趨勢が変わり、一休の名声が高くなるにつれて、自分の出身をこれ以上隠す必要がなくなったと判断したのだろうか、一休自作の和歌や漢詩でも、その落胤説を裏付けることができる。いま大徳寺真珠庵に「天の沢、東の海を、渡り来て、後の小松の梢とぞなる」という歌が伝えられている。「天の沢」とは、中国の名僧虚堂智愚のすごした径山(きんざん)天沢(たく)庵を言うのである。先にも触れたように、虚堂に私淑した一休は、よく虚堂の直系であることを誇って、自分がその「七世の孫」だと、よく口にした。歌は中国の虚堂和尚が東の海を渡って日本に来て、生まれかわったのが自分で、後の小松の梢になったというのである。「後の小松の梢」とは、後小松天皇の庶子(しょし)を暗示することであろう。その皇胤について、一休の漢詩にもわりあいはっきりした告白がある。文明3年(1471)一休が森侍者との邂逅(かいこう)について、まず「余、薪園(薪村の屋敷)の小舎に寓すること年有り。森侍者、余が風彩を聞きて、己に嚮慕(きょうぼ)の志有り。余も亦(また)これを知る」という詞書を記した後、次の一詩を詠んだ。 憶昔薪園居住時 憶ふ昔薪園居住の時、 王孫美誉聴相思 王孫の美誉聴いて相思ふ。 多年旧約即忘後 多年旧約即ち忘じて後、 更愛玉階新月姿 更に愛する玉階新月(しんげつ)の姿。 詞書で分かるように、「王孫」は明らかに一休自身を示すのである。森侍者は一休の「風彩」(ここでは人格その意味だろう)と「美誉」を聴いて、かれに恋慕の情が涌き上がり、一休もそれを知ると言うのである。中国語の中で、「王孫」とは王子とも貴公子とも理解できるので、この一首だけでは即座に王子の意味として使われたとは断定できないが、後小松天皇が崩御なさった後、泉涌寺(せんにゅうじ)雲龍院に祭ってあるから、一休が後小松帝の廟に参拝して、しきりに先帝を思慕する心情を詠まれた詩は5首もある。どれも真摯で切々とした追慕の情が満ち溢れ、その純情は、とうてい普通の尊皇者にはできないものである。次は「泉涌寺雲龍院の後小松院古廟の春遊」と題した連作の一首である。 古寺残僧忘是非 古寺の残僧、是非を忘れ、 雲龍風月帯皇畿 雲龍の風月、皇畿(こうき)を帯びたり。 庭前知有王孫草 庭前に王孫草のあることを知り、 猶到斜陽不得帰 猶(なほ)斜陽に到(いた)りて帰るを得ず。 一休が日暮れになっても、依然と廟前を立ち去りがたく、あまりの慕情に駆られて、ついおのずと自分が「王孫」であることをはっきりと漏らしたのである。また、後小松天皇の生前一休に対する思いやりも並大抵のものではなかった。表向きではないが、一休はときどき宮中に召されて、親しく語り合われ、とりわけ「後小松帝、神器を称光帝に付して以降、聖念特に師に在り、鍾愛(しょうあい)愈々篤し」と「年譜」応永34年(1427)の条に明記している。同じ条によると、後小松院から譲位された称光天皇に世嗣の皇子がなく、新君が定まらない中(うち)に病気になられた。当時、伏見・常盤井等の四家があって衆議がまとめられないから、後小松院はすごく心配なさって、ひそかに一休の意見を求めた。彼は、伏見家の彦仁(ひこひと)王を推挙し、「咨(ああ)、天の歴数、正に彦仁之躬に在り」と述べ、次の歌を詠んだ。 常(とき)盤(は)木(ぎ)や、木寺(こでら)の梢つみすてよ、代(よ)をつぐ竹の園は伏見に 一休の建議によって、伏見宮彦仁王が第102代の後花園天皇になり、一休自筆の書は、いまも伏見家に大切に保存されているという。中世時代、天皇の信頼を得て皇室と密接な関係を保たれたり、幕府の顧問となったりする名僧は少なくはなかったが、一休のように皇位相続(そうぞく)という極内輪の問題にまで参与し、しかも申した意見がそのまま採用されるケースは、またとあるのだろうか。血の繋りがなければ、そこまで信用されるはずはないと思われる。 花園天皇が即位されてから6年の後、一休は「年四十。後小松帝不予なり。登遐数日前宣(みことのり)を降して師を召す。」(「年譜」永享(えいきょう)5年の条)つまり、後小松院がなくなる数日前、一休を病床のすぐ側に召されたのである。この時、後小松院は侍臣に命じて平生愛用された箱をとりよせ、その中から先朝の宝墨(ほうぼく)や自分の手蹟を出して、一休に賜った。一休は生涯、まさに狂雲子の如く、あちこちを転々として、無欲恬淡な生活をおくり続けたけれども、ただ後小松院からいただいたものだけは、始終身から離さなかったと言われている。もし実の親子でなければ、愈々この世を去られるような大病をおして、普段大事にした宝物を形見のように与えたりするであろうか。 要するに、公私両方から考察しても、一休と後小松天皇との親交は、とうてい普通の禅匠と入信者との関係に見えそうもなく、その皇胤説を度外視しては、とても説明がつかないのである。現在京都府綴喜郡田辺町に酬恩庵があるが、開基・開山ともに一休宗純なので、俗に一休寺と言われている。そこに一休の座像・画像、骨塔等があり、いずれも国宝とされている。特に申し上げたいのは、同境内(けいだい)にある一休の墓は、いま宮内庁陵墓課で管理されている。門の扉には菊の御紋章がすかし彫にしてあり、すぐ横に「後小松天皇皇子宗純王の墓」と、宮内庁の立札が立てられている。かつて、作家の水上勉氏が「人を介して宮内庁にその根拠を訊いた」ことがあるが、その答えは「宗純王皇胤説はまちがいない」というのである。宮内庁はいろいろと綿密な調査を行ったはずである。またいままでの諸先学の研究成果を以て判断すれば、別によほど有力な証拠が見つからない限り、一休の皇胤説を否定できないと思う。むしろその方がいい、いつまでもそのように願いたいのである。 一休の皇胤説については、これぐらいにして、これから引き続き、その前半生の修行生活を述べさせていただこう。 一休は13歳で安国寺を離れ、五山に列された建仁寺へ行き、そこの師匠慕哲公について、作詩を学び始めたが、毎日一首づつを課業としてその技法を練ったので、一休は詩人としての素質と情操を着実に蓄えていった。また一方、先に申し上げたように、建仁寺の禅僧等は、公然と法堂で氏族や門閥を自慢げに吹聴(ふいちょう)したので、かれは五山禅林の堕落に厭きてしまった。それで、一休は林下(五山官寺に加わらない在野の禅寺)の西金寺(さいこんじ)へ行って、開山派の宗風しゅうふうを唱導づる謙翁宗為に参じた。この和尚は学徳共にすぐれ、その師無因禅師ぜんじから左券(印可状)を授けようとされる時、真実に「謙遜してこれを受けなかったので、謙翁の号を以て称せられたということである。一休が形式的な左券の授受を蔑視し、これに恋々たる僧侶を終生罵り通したのは、おそらくこの謙翁の感化が大きいと思われる。」 このように、一休は清貧な生活に甘んじ、この師について真剣に修行し、甚大じんだいな薫化(くんか)を受けて、師の名の一字さえもらって、6歳から呼ばれてきた周健を宗純と改名されたのである。 ところが、名利を断固と拒絶し、純粋禅を堅く守りつづけたこの正法(しょうぼう)の師は、一休21歳の年に突如として世を去られた。葬儀のお銭もないため、師に簡素な式をあげた一休は、あまりの悲歎と絶望に人生の重大な危機に直面した。かれは、いったん慈母のもとに戻り、さらに大津に出て石山観音に祈願をかけて一七日の参籠をしていたが、その不安と絶望が益々募ったので、ついに湖水に身を投じて自殺をはかろうとした時、幸いに母の遣わした使者にさしとめられた。 一度深刻な危機から救われた一休は、翌22歳、江州堅田(こうしゅうかただ)の大徳寺禅興庵(現在の滋賀県大津市堅田にある祥瑞寺)の華叟宗曇(そうどん)(1352-1428)の門を敲いた。当時、大徳寺派に屈指の高僧として名声を博した華叟は、峻厳無比の禅風と純粋的な禅精神を持っている大徳な善師なので、信者の入門に格段に厳しかった。当然ながら、一休の請いに対しても、冷淡きわまりなく振り向きもせずに一蹴した。この入門関も実に辛い試練の一つだが、一休は何日も門前にへばりつき、追っ払いの水をぶちかけられても、じっと我慢して一歩もそこを離れなかった。それで、華叟はようやく一休の堅い信念と動かせない求道心を認め、その入門の嘆願を聞き入れたのである。 一休は、そこの修行生活をしてはじめて、師の華叟が聞いたことよりも辛辣峻厳であって、弟子達に聯かの情容赦もないことが、身に滲みるまで分かった。実際にこんなことがあった。ある日、一休は薬草を刻んでくれと命じられて、ちょっとした油断で指を切ったのである。鮮血は絶えず滴り、薬皿まで染めたが、それを見た華叟は、慰めてくれるどころか、かえっていきなり「お前は若いのに、何という軟弱な指をしているのか」と怒鳴った。もちろん、華叟は一休を嫌うのではなく、将来を期待できるからこそ、徹底的に鍛え上げなければならないと思って、あの酷薄・非情な教育方針をとったのである。 それに、華叟は謙翁よりも名利に淡泊で禅の修証以外に思うことも考えることもなかった禅僧なので、名目上大徳寺の住持だが、そこに入住せず、もっぱら地方の小庵を転々として、最後に禅興庵に住み付いたのである。そのため、禅興庵の生活は、極めて清貧なものであり、朝晩の食事にも冬の寒さを凌ぐ寝具、衣類にも事欠く有様なので、一休は度々京都へ帰って香包(こうづつみ)作り、雛人形の衣装に絵付けなどの内職をして、衣食の資(もと)を稼ぎ出さなければならなかった。そのおかげで、一休は内職の群に投じたり、漁民の舟に泊まって、その喜捨をもらったりして、生活の苦しいどん底で■く庶民達の喜怒哀楽を十分体験したはずである。一休生涯の付きあいは、皇室を除いては、ほとんど農民、旅芸人、連歌師、町人等の一般民衆であり、たとえ金持ちでも身分の低い商人であった。彼のこの貴顕嫌(きけんぎらい)の庶民性質は、紛れもなく禅興庵修行の時期に培われたものである。 一休は、そのような苛烈な修行生活に3年間専念して、応永25年(1418)ある日盲目の法師が平家琵琶を語るのに出会った。その白拍子祇王が平清盛の寵を失って尼となる一段を聞いて、忽然と師から与えられた公案「洞山三頓(とうざんさんとん)の棒」(「無門関」第15則)を悟った。一休がどういうわけでこれを氷解したかは、はっきりと分からないが、あえて推し量って見れば、洞山がうろつき回っている状態は、白拍子が現世の栄達を求めて、寵を競い合う状態、さらに言うと、普通われわれ世人(せじん)が煩悩に迷わされて貧富得失に執着し、徒らに心を労し身をやつす状態にも似ている。しかしながら、人生は究極束(つか)の間、仮の宿と思えば、その浮沈栄落への拘わりなどを放棄すべきものである。その悟境になった一休は、さっそく自分の会得を和歌に詠み入れて、師匠に呈したのである。 有漏路より無漏路へ帰る一休み 雨降らば降れ風吹かば吹け 漏とは、自我を中心として生存している世の中の煩悩であり、有漏路とはその煩悩妄想の境涯を言うのである。これを除ききった悟達の境地は、無漏路であり、我無しの真空実相の世界である。一度有漏路から飛び出した一休は一休みの悟達人として、進退出没、自由自在にできて、風雨変幻の世の中はどう変ろうと、びくともせずに平気だというのである。 それから一度悟りを得た一休は、もっと高次元の悟達を目指して、より一層必死な修行に励んでいたが、2年後の応永27年5月20日「師(一休)、27歳。夏の夜、鴉を聞いて省有り。即ち所見を挙(こ)す。先師曰く、此は是れ羅漢の境界なるのみ、作家(さっけ)の衲子(のうす)に非ず。師曰く、某(それがし)は只だ羅漢を喜んで作家を嫌うのみ。先師曰く、汝は是れ真の作家なり。」と「年譜」に書かれている。 禅家(ぜんけ)における悟りは、大悟(たいご)三度、小悟その数を知らずと言われている。一休の場合、もし25歳の悟りが中悟だと言ったら、今度は正真正銘の大悟である。それで大悟した一休は、夜の明けるのを待ちかねて、華叟の室に入ってその所見を示したが、華叟は黙って聞いた後、冷ややかに、「それは羅漢の境地だ。作家の境地ではない。」と言った。羅漢とは、煩悩を断ち尽くした小乗の覚者だが、作家に及ばない。作家とは、ずばり大悟の人、深玄の真理を説き、利他主義のすぐれた技量の持ち主である。しかし、一休はこれ以上何も望むことなく、「只だ羅漢を喜んで作家を嫌うのみ」と決然と師の華叟に答えた。この決然と未練のない応対こそ真に悟った境地だと華叟の意にかなったのである。この時、一休が師の華叟に呈した投機の偈(開悟の詩)と言われるものは、次のとおりである。 十年以前識情心 十年以前、識情の心、 瞋恚豪機即在今 瞋恚(しんい)豪機(ごうき)即ち今在り。 鴉笑出塵羅漢果 鴉は笑ふ、出塵の羅漢果、 昭陽日影玉顔吟 昭陽日影玉顔の吟(ぎん)。 この偈は「年譜」に記されたもので、奥村本の「狂雲集」に載せたものと多少の違いが見られる。その違いの究明は別のチャンスに譲って、さしあたり、右の偈を説明すると、その意味は大概次のとおりである。 この10年ほで我執(がしゅう)や分別に囚われ、凡夫の迷いから脱けきれなかった。また怒りや傲慢等を捨てきれず、とうとう今日に来てしまった。しかし、今やこれらの世界を離れて、羅漢の境地に入ってみれば、鴉さえも会心の笑いで私を迎えている。実に照り輝く朝日の中で、うるわしい面目をもって詩を吟ずることができるのだ。 師の華叟は、一休の大悟を証明すべく、印可状を授けようとしたが、一休は「これは馬をつなぐ棒杭と同じく、邪魔物でしかない」と言って、師の前で投げ捨ててその室を出ていった。 元来、禅宗では大悟の証明として、師匠より弟子に愛用の品物や筆蹟を、特にこの大切な時に与える慣例があって、これを左券、左証、印可状、印書等と呼んでいる。禅は嫡(ちゃく)々相承だから、正伝(せいでん)の師家が直接に有力の弟子を点検して、誠に大悟の境地に達した者にだけ証明を与え、衆生済度(しゅじょうさいど)の権能を記すのである。とにかく印可状は、頗る厳重にして真にその資格ある師弟間の誠実な認証であり、この上もない名誉で、神聖なものである。そういう大切なものは、決して私情による授受を許さないのだが、しかし、当時の禅界ではこれまでも形式になってしまい、偽物が多く出され、いわゆる盲判(めくらばん)が横行した。師匠はこれを安売りして、利益を獲得し、印可状を得た弟子は、さらに大きな顔をして世渡りの道具にする。一休は、この悪質で偽善的な行為を骨髄から憎んでいたから、禅宗の慣例に抗して、師からせっかく授かった印可状を投げ捨て、敢えて無礼なことをしたのである。印可状に対する一休のこの態度は、恐らく実質重視を唱える謙翁に深く感化されたためである。 ところで、師の華叟は、おもむろに一休の捨てた印可状を拾い上げ、大切にしまっておいた。それから数年、死の近いのを知った華叟は、持病の腰痛を堪えて輿に乗って、京都の華林宗橘(そうきつ)夫人(一休と同門の女性)をたずね、自分が死んだら、おりを見て、この印可状を一休に渡してほしいと頼んだ。その印可状の終わりに、「正法もし地に堕ちなば、汝出世し来(きた)ってこれを扶(ふ)起(き)せよ。汝はこれ我が一子なり。これを念(おも)い、これを思え。」と書き添えたという。 この印可状が宗橘夫人から久我清通(こがきよみち)(源宰相)に託され、華叟の没後10年、一休は久我を訪れる時、思いがけなくこれを手渡されたのである。恩師から大事を託された一休は、師の手蹟を手にして懐かしく感慨無量であったが、禅界の腐敗への痛憤から、次のように語ったのである。 「現在仏法が混乱し、真に仏眼を具える者はなく、良いのも悪いのもごちゃまぜで、わけがわからぬ。一枚の印書を獲得すると、吾は誰それの法を嗣いでいると吹聴して回る。それは浩々と麻の乱れのようにどうしようもなく、贋坊主の轍(てつ)を踏まぬよう戒めなければならぬ。」(「年譜」永享9年の条) そう言ってから、一休はこの印可状を引き裂いて炉に投じてしまった。これは禅風の堕落に対する反撃であって、師匠を蔑(ないがし)ろにしたつもりは毛頭なかった。実際、一休は生涯に終始師の門弟だったことに誇りを持ち、死に物狂いに法兄養叟の「得法を売る」悪行(あくぎょう)と戦い、師の法統と精神を固く守ろうと、教化専一に努力したのである。 一休が大悟を得たのは27歳の時だったが、その2年後の10月19日大徳寺の如意庵で言外(ごんがい)宗忠の33回忌が営まれた。言外は華叟の師だから、華叟も病■をおして参会していた。その法要に一山の僧侶は、それぞれ盛装をととのえて参列しているのに、一休だけは色のあせた墨染めの衣に尻切れ草履という見すぼらしい服装でその席につらなった。燦然と輝く錦衣(きんい)の中にこの粗衣が混じったため、極めて目を惹いたのだろうか、さすがの華叟も思わず「汝何ぞ威儀無きや」(「年譜」応永29年の条)、つまり「お前はなぜ威儀をととのえないのか」と問い質(ただ)した。すると、一休は「余独り一衆を潤色す」と答えた。言外にあのニセ坊主等の仲間入りはごめんだと匂(にお)わした。法要のあと、華叟は如意庵の西軒に席を移して休息しているところへ、華叟の法弟で、一休にとって法の叔父に当たる光日照という禅師が来て、「和尚百年ののち、誰に法を伝えるのですか」とたずねた。これに対して、華叟は「風狂と言えども、この純子(一休)あり」と答えたというのである。「年譜」では風狂という文字の出現は、これが最初である。実際にもそうだが、一休はこの頃から師の元を離れて自立し、強い個性を出しはじめたのである。それだから、この前後は一休の前半生と後半生との境目とも言える。 一休の前半生を通観すれば、それは人生にいろいろと悩まされたが、これを乗り越えるために純粋禅に心魂を打ち込んだ求道の半生であり、霜辛雪苦等種々の試練に耐えて、すっかり一個の禅者として独立独歩の身となり、いよいよ師にかわって大法を挙揚するようになったのである。いままで一休は数多くの人々と付きあったが、その中で彼の思想や人格形成に最も強く影響を与えたのは、師の謙翁、華叟と母である。師に残された最大の遺産は、ほかでもなく清貧主義そのものである。「狂雲集」には、しばしば「風■水宿(ふうさんすいしゅく)」という言葉が出て来るが、これは正に風を食い水辺に宿るような、潔く、またこの上もない清貧の境涯を表した言葉である。一休は最晩年に大徳寺の住持となったにも拘らず、そこに入住せず、生涯一鉢一衣(いっぱついちえ)の貧乏暮らしを誇りとして、もっぱら正法(しょうぼう)のための修行に専念した生き方は、正しく謙翁と華叟の二師から徹底的に学びとったと言える。彼は「新たに仏寺を建立す」と題して、この宗旨について次のように詠ったのである。 一生破屋廃庵居 一生破屋廃庵(はおくはいあん)の居、 這里栄華也不虚 這里(しゃり)の栄華、また虚しからず。 清浄佛寺利欲地 清浄(しょうじょう)の仏寺、利欲の地、 楊岐屋壁古来疎 楊岐の屋壁、古来疎(おろそ)かなり。 一生破れ屋(や)や廃庵の住居にすむような赤貧生活に甘んじるからこそ、心が湖のように穏やかになり、無心無欲な境地に達せるものである。この身心超脱の境地は、紛れもなく頼もしい精神的な栄華で、決して虚しいことではない。松源禅の祖楊岐方会の屋壁も昔から隙き間だらけであった。豪華な仏寺は、うわべでは清浄であっても、実質的には利欲の入り乱れる巷(ちまた)であるという。 一休はあくまでも、物質的な享受を警戒し、極貧な暮らしを理想として、「百味(ひゃくみ)の飲食(おんじき)、一楪(いっちょう)の裏(うち)、淡飯麁茶(だんぱんそちゃ)は正伝に属す」とも述懐した。つまり、破れ屋にすむ、粗末な飯を食べる、番茶を啜(すす)る、これこそ欲得を離れた仏法正伝のもので、仏者(ぶっしゃ)のもっとも正統な日常態だと、彼は確信していた。しかも生涯を通して実践したのである。 師の他に一休の母が彼に与えた影響も無視できない。その母がいつ亡くなったのか、はっきりした記載はないが、「年譜」によって推測すれば、ほぼ彼が30歳になった頃である。現在一休に与えた遺書は房州の館山寺(たてやまでら)に伝わっている。これはたいへん格調の高い文章で、わが子への期待が甚々大きなものである。 我(われ)今娑婆(しゃば)の縁(えん)つき、無為の都におもむき候。御身よき出家と成り玉(たま)ひ、仏性(ぶっしょう)の見をみがき、そのまなこより、我々地極に落ちるか、落ちざるか、不断添(そ)ふか、そはざるかを見玉(みたま)ふべし。釈迦・達磨(だるま)をも、奴(やっこ)となし玉ふ程の人に成り玉ひ候(そうら)はば俗にても苦しからず候。仏四十余年説法し玉ひ、つひに一字不説とのたまひし上は、我と見、我と悟るがかんえうに候。何事も莫妄想(もうそうするなかれ)。あなかしこ。 九月下旬 不生(ふしょう)不(ふ)死(じ)身(しん) 千菊丸殿へ かへすがへす方便のせつをのみ守る人は、くそ虫と同じ事に候。八方の諸聖教(しょしょうぎょう)をそらによみても、仏性の見をみがかずんば、此文(このふみ)ほどの事も解しがたかるべし。これとてかりそめならぬ、分れては、かたみとも見よ、水茎みずくきのあと。 その意味は、おおかた次のようである。 わたくしは、運命のいたすところ、ただいまこの世を去っていきます。あなたは、立派な出家になられて、真に仏法の本質を見きわめ、そのすぐれた眼をもって、わたくしが地獄に落ちるか落ちないか、また、迷うか迷わないかよく見守ってください。また、お釈迦さまや、達磨大師をも弟子とするほどの人になってくだされば、在家でもさしつかえありません。お釈迦さまが、四十余年のあいだ説法されて、その結果、ついに一字も説かなかったと言われたことを、よく考えてみれば、悟りの道に到達するのは、あなた自身のお力によるほかありません。なにごとも、誤った考えをしないよう、くれぐれも祈っています。わたくしも、不生不死のことわりを悟っています。だから、死別といっても悲しんでおりません。かえすがえすも肝要なことは、方便の説法のみを守っている人は、くそ虫と同じことです。万巻の経典を暗記しても、仏の説かれた真実のものを求めることができなくては、この文のことも解することはできないでしょう。仏の永遠につながる生命のなかから見れば、この世から消えるということは、仮の別れであります。その遺書と思ってください。 この遺書から見れば、一休の母はまことに教養が高くなかなか見識のある婦人である。あの「方便のせつをのみ守る」俗僧を、当たるべからざる意気込みをもって糾弾し、一休に「お釈迦様や達磨大師をも弟子にするほどの人になってくだされ」と、禅僧の母としての最大な期待を寄せていた。恐らく一休が生まれてから、ずっとこの偉大な母に守られ、精神的な柱として支えられてきただろう。一休の後半生に、身の危険をも顧みずにすべての悪と対決するあの不撓不屈な精神と、たとえ達磨大師が生き返っても予想できないほどの非凡な道心、絶倫的な布教手段は、皆この慈母の諄(じゅん)々たる教育によって芽生え、すくすくとそだてられたのではなかろうか。 |
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■社会的正義感 一休が大徳寺の如意庵で営んだ言外和尚の33回忌に出た後、華叟の許を離れて、聖体(しょうたい)長養(悟後の修行)の行脚の旅に発ったらしい。その居住の跡を詳しく捜し求めるのは、きわめて困難なのである。「年譜」にたよって探索すれば、江州堅田の禅興庵を去ってからの10年間については、何等の記載もないが、30代後半からの主な行実を挙げると、39歳泉州に巡錫(じゅんしゃく)し、47歳大徳寺山内の如意庵に移り、49歳丹波の譲羽山に入って 尸陀寺(しだでら)を創建した。63歳の時、山城薪村の妙勝寺を復興し、それを酬恩庵と改称して、老後の棲居にしたかったようだが、そこでも長く足を止めずに和泉、大和等を巡り、81歳にして不本意ながらも、勅請によって大徳寺48世の住持となった。けれども、そこに入住せず、依然として薪村の酬恩庵等の所に住んでいた。彼はその88歳の生涯に、始終権力者と大伽藍(だいがらん)を斥けて、一杖一鉢の姿で時には気の向くままに、時には戦乱を避けるため、京都を中心に巡錫したのである。後半生の長い巡歴生活の中で、一休はつねに次の詩を座右の銘にしたようである。 李下従来不正冠 李下従来冠を正さず、 奔馳世上豈諛官 世上に奔馳(ほんち)して豈(あに)官に諛(へつら)はんや 江山風月我茶飯 江山風月我が茶飯(さはん)、 自咲一生吟味寒 自ら咲ふ一生吟味寒(すさ)まじきことを 政権を握る者と結び付いたら、自由を売ったと同じく、真の宗教家になれず、その微々たる追従(ついしょう)者にならざるを得ない。これは鉄則の如く、古今東西の文学者、芸術家を含めて、誰でも官権との結託にもたらされた罰を遁れないものである。だから、僧侶は僧侶らしく暮らしを立て、官に阿諛(あゆ)しないのはもちろん、世上の誤解を招くような行為は避けるべきだというのが、一休の信条である。 彼が、一寒僧として60年近く諸方巡歴した中で、「出会い交わった人々は、さまざまな階級にわたっていた」。しかも「そのあいだに戦乱、天災、疫病、諸一揆が相かさなり相ついだのである。こうした多難な歳月のなかで、彼の大きな振り幅の人間形成がすすめられた。教界に対するいきどおり、底辺の民衆への深い関心と理解、時世に対する慷慨、芸道に対する関心と理解、諸学諸宗への理解と寛容、女性に対する恋愛と性愛など、多彩な多情多感な人間一休が成熟した。」それで、これから一休のこれらの性質を社会的正義感、栄衒僧に対する批判、風狂な逆行三昧、一休の禅思想、大衆文化への指道などにわけて、述べさせていただこうと思う。 一休は、その生涯をほとんど市の郊外または地方ですごし、百姓町人とともに、あの戦乱の時代を生きぬいた。彼は、絶えない戦争と天変地異等の災害に苦しめられた民衆の相(あい)食(は)むような社会惨状を身にしみるほど体験したし、また餓死のむくろが累々と横たわっているのも顧みず、「天下破れば破れよ、世間滅べば滅びよ、人はともあれ、我身さえ富貴ならば、他より一段瑩羹様(えいようざま)に振る舞はん」(「応仁記」)という心理をもった上層社会の荒淫無恥な生活もこの眼で確かめた。そのような苦難に満ちた社会現実、腐敗しはてた時世を目の前にして、一休はもはやあの簡素な「淡飯麁茶」の日々でさえ独り楽しみ続けられなくなった。彼は刻々に流血と飢餓に迫められた社会現実との違和感を次第に強めて行く中で、自然に「堯帝の玉階三尺高し」という理想的為政者と治世理念を思い起こし、時世に対する限りない嘆きと憤りを噴き出し、餓死寸前の人々に深い同情を寄せていた。 禅僧雲泉大極の日記「碧山日録(へきざんにちろく)」によると、長禄3年(1459)3月京六条の路傍に倒れ臥す母子があった。通りがかった大極が近付いてみれば、子供はすでに死んでおり、母は地に倒れ、慟哭しているのだった。路人(ろじん)がそのもとを尋ねたら、「三年の大旱に、稲梁みのらず、県官の酷虐(こくぎゃく)、租を求めて少しも貸さざるなり。もし出さざれば刑戮(けいりく)にあう。ここによって他州に流離(りゅうり)し餬口乞食す」と、わが子の死を嘆きながら、答えたのである。またその翌々年、「四条坊橋上よりその上流を見るに流屍無数。塊石磊落(らいらく)の如し、流水壅塞(ようそく)してその腐臭あたるべからざるなり」。それを見るに見かねた一休は、「寛正二年餓死」(3首)と題して、「寛正年無数死人、輪廻万劫旧精神」(其一)、「極苦飢寒迫一身、目前餓鬼目前人」(其2)等と詠んで、民衆の苦しみを訴えた。 「官は逼めすぎて民は反抗す」と言われるように、戦争や災害に生活の基盤を奪われた人々は、野たれ死を恐れて群盗となったり、少しぐらい財産を持つ町人百姓も目醒めて、苛(か)酷(こく)な貢(こう)租(そ)をのがれようと一揆をおこしたりしたので、運悪く幕府に捕らえられて、六条河原で処刑された人も少なくなかった。一休は、これらの悪政の犠牲にされた人間に対しても、そのやむなき行為を正しく判断し、哀しみ深く「断頭の罪人に代わって」(2首)と言う断魂歌をおくった。 其一 六条河畔断頭場 六条河(か)畔(はん)の断頭場(だんとうじょう)、 逼面殺人三尺鋩 逼面(ひつめん)に人を殺す、三尺の鋩。 伎窮情尽魔途失 伎(ぎ)窮(きわ)まり情尽きて魔途失す、 空断春閨夢裏腸 空しく断つ春閨(しゅんけい)夢(む)裏(り)の腸。 詩の大意はこうである。六条の河岸の首切り場で、三尺の刀で首をはねられ死刑となる。ここにいたっては、今までのわざは役に立たず、心も尽きはて、悪魔の人生もおしまいだし、春のねやの夢も今は空しく、はらわたを断たれる思いであるという。 其二 或人瞠目或低頭 或る人は眼(め)を瞠(みは)り或いは頭(こうべ)を低(た)て、 各是波旬之道流 各(おのお)の是れ波旬(はじゅん)の道(どう)流(る)。 多年風月即今剣 多年の風月、即今(そっこん)の剣、 大地山河満目愁 大地山河、満目の愁(うれ)ひ。 処刑場では、ある人は目をみはり、ある人は頭を垂れている。それぞれ悪魔の仲間達だ。長らく辛い風月に耐えてきたが、今はさらに剣が迫っている。大地も山河も、目に入るものすべて悲しみだという。これらの処刑された「悪魔」は、ほとんど過激な反社会的行動に参加した人達だろう。一休は彼らに同情やら難詰やら、かなり複雑な気持ちを抱いたようだ。このような悲愴な場面は、やはり末世の反照にほかならない。一休の最も憂慮したのは、乱れた世相であり、悪化した社会風俗であった。 水上勉氏の「一休」によると、「辻女や遊女がふえだしたのは、応永末年から応仁にかけての下克上の前夜、暗黒時代といわれる時期である」という。これはちょうど一休の中晩年にあたる。あの残酷な時代では、生命の保証が全くないためか、一時享楽の風潮が流行し湯屋や妓楼の繁昌をもたらした。あくどい楼主は、凶作の年や飢餓の季節に乗じて諸国の貧農、小作農、下層民の婦女子を集め、苛酷な監視のもとにこき使った。その酷使に堪えられず、公許の妓楼を逃げ出して、辻に立つものもあった。一休はこのような京の風俗の頽廃を憂え、長い詞書きをしたあと、二偈(げ)一詩を作った。ここにその詞書と一偈だけ挙げておく。 洛(らく)下(か)に昔、紅(こう)欄(らん)・古洞の両所有り、地獄とも曰ひ、加(か)世(せ)とも曰ふ。又安衆坊の口(ほとり)に、西洞院(にしのとういん)有り、諺(ことわざ)に所謂(いはゆる)小路なり。歌酒の客、此処に過(よぎ)る者、皆風流の清事を為す。今街坊の間、十家に四五は娼楼なり。淫風(いんぷう)の盛んなること、亡国に幾(ちか)し。吁(ああ)、関■(かんしょ)の詩を、思ふべきかな。嗟嘆(さたん)するに足らず、故に二偈一詩を述べ、以て之(これ)を詠歌すと云う。頌に曰く、 同居牛馬犬兼鶏 同居す牛馬と犬と鶏と、 白昼婚姻十字街 白昼婚姻す、十字街。 人道悉是畜生道 人は道(い)ふ、悉(ことごと)く是れ畜生道と、 月落長安半夜西 月は落つ長安、半夜の西に。 詞書の「関■の詩」は、「詩経」国風の詩である。偈の結句(けっく)は、李白の詩「子(し)夜(や)■(ご)歌(か)」から借用したものである。両方とも夫婦のあるべき姿を説いて、京の「淫風の盛んなること、亡国に幾し」と嘆いたのである。 「子夜■歌」は、もともと■の民謡として歌われていたもので、子夜という女性が作ったと言われている。李白はこの民謡を四季に配して4首作ったが、その三秋の句に「長安一片の月、万戸衣を擣(う)つ声。秋風吹いて尽きず、総て是れ玉関の情。何れの日か胡(こ)虜(りょ)を平らげて、良人遠征を罷(や)めん」と歌われたのである。これは、遠征にでかけた夫の身を案じながら、けなげに留守を守っている妻の純情を詠んだ詩である。それに引きかえ、一休は当今の有様はなんと頽れているかと慨嘆(がいたん)したのである。 言うまでもなく、どの国、どの時代の国民でも、良風美俗に憧れ、豊かで安らかな暮らしをしたいに違いない。悪いのは飢餓線をさまよってこき使われた遊女ではなく、あの畜生にならなければ生きてゆけない時代である。いや、あの時代の為政者である。彼らこそ、国民を苦しめる張本人であり、永遠に許せない罪人である。これは、当時の為政者の施政(しせい)ぶりを見たら、すぐ分かると思う。 寛正2年正月から2月にかけて、京都の餓死者は82000に達したという。さらに「碧山日録」によると、願阿弥(があみ)という時宗の和尚さんが、粟粥をたき出し、難民に施与をした際、食べる力が尽きて死んだ人もあった。死体をつぎつぎと賀茂川に運び、草むらに葬ったと記されている。国民がこの地獄の苦しみに突き落とされている非常時に、幕府は手を拱(こまぬ)いて、何もしなかった。あの願阿弥の救済活動に、百貫文の援助を与えただけであった。実際、幕府は何もしない方がまだよいのだが、あの無神経な将軍義政は、大飢饉の蔓延(はびこ)る真最中だというのに、寺参りや土木工事に熱をあげて、瀕死の庶民をさらに一歩地獄に追いやった。 寛正3年(1462)例の義政は生母重子のために新邸高倉第の造営に贅沢を極め、その居間の障子一枚で二百貫文をかけた。つまり、障子一枚で願阿弥の救済活動への援助に倍のお金を費やした。将軍は政治的危機、民衆の死活をほったらかして、新邸建築、庭作りのほか、猿楽、花見、寺院遊覧等に出かけ、風流享楽に耽っていた。将軍が世情に背をむけて逸楽(いつらく)を貪れば、その高官も「高歌爛醉」、遊楽三昧をしてはばからなかった。一方は餓えに餓えて死にかけ、一方は風流をきそい、豪華贅沢はとどまる所を知らなかった。一休は幕府のこの暴政、悪政を目にして、早くも寛正元年8月晦日に、「大風洪水、万民憂う、歌舞管弦誰(た)が夜遊ぞ」という偈を作って、時世を強く糾弾した。また、中国の唐の明皇の淫楽によっておこった大悲劇を素材に、次の詩を詠んで、風流将軍義政等の苛■誅求(かれんちゅうきゅう)を諷諭した。 暗世明君艶色深 暗世の明君、艶色(えんしょく)深し、 崢■宮殿費黄金 崢■(そうこう)たる宮殿、黄金を費す。 明皇昔日成何事 明皇昔日何事をか成す、 空入詩人風雅吟 空しく入る詩人風雅の吟。 当時、後花園天皇も義政の豪奢(ごうしゃ)ぶりをまともに批判した。 残民争採首陽蕨 残民争ひて首陽(しゅよう)の蕨を採る、 処々閉炉鎖竹扉 処々炉を閉ざし竹(ちく)扉(ひ)を鎖(とざ)す。 詩興吟酸春二月 詩興吟は酸なり春二月、 満城紅緑為誰肥 満城の紅緑誰の為に肥ゆる。 皇に諫められた義政は、一時新殿の造営を中止したが、結局は世の指弾を無視して、寛政5年に完成した。それに同年の4月5日、7日、10日と3回にわたり、糺河原(ただすかわら)の勧進猿楽能をおおがかりにやって、莫大(ばくだい)な勧進料を集めた。将軍一味は享楽をすると同時に、大もうけもした。 そして、権力、金銭に最も貧欲な人と言ったら、将軍義政の妻日野富子(1440-1496)であろう。応仁の乱の元凶と言われるこの悪女は、将軍を権力の隅っこにおしやって、威勢をほしいままにふるった。京都に七口(しちこう)の関所(せきしょ)を設置したのは、名目上禁(きん)裡(り)の修理費、諸社祭礼費の捻出のためだが、実際徴収した関銭は、全部自分の懐に入れた。また富子は米倉(こめぐら)を建て、米穀(べいこく)を蓄えて、米相場に手を出し収入の増加をはかったりもしたし、東西両軍の大名、小名に利子をとって金を貸したりもした。もっと驚くことは、敵方(てきがた)の将、畠山義就(はたけやまよしなり)に一千貫文の金を貸したそうだ。高利貸にまで手を出した将軍夫人は、天下の大小支配者から賄賂をとるのが公然の秘密だった。富子の実兄勝光は、幕府を裏面から操る黒幕的な存在として、もっと破廉恥で「何事も現金をもって頼みにこないようなものは、一切口をきかない」と、少しもはばからずに放言した。彼が、45歳の短い生涯に残した遺産は、八万貫もあったと言われる。とにかく富子は金儲けに抜け目のない貧欲のかたまりとして、わが一族の栄達と富の蓄積に渾身の力を尽くした。それを見た一休は、歴史の教訓を借りて、「婦人の多欲を罵る」と題して、日野富子を嘲罵した。 美人得寵美人珎 美人寵を得るは美人の珎(ちん)、 珠玉青鞋脚下塵 珠玉青鞋(せいあい)、脚下の塵(ちり)。 秋満驪山宮樹月 秋は満つ、驪(り)山(さん)宮樹の月、 栄華可悔馬嵬春 栄華悔ゆべし、馬(ば)嵬(かい)の春。 詩の意味はおおよそこうである。美人で寵愛されるのは、美人の中でも珍しい。だが、その珠玉のような美人も、最後は草鞋(わらじ)を履いた脚の下の塵と消え果てるのだ。今年の秋も驪山下、華清宮の樹に、月は光を投げかけているが、栄華の喜びは必ず後悔せねばならない。美貌の楊貴妃もついに馬嵬に消えたのではないかという。 一休は、唐の玄宗、楊貴妃をめぐっての詩を数多く作った。彼は、ただ二人の熱烈で華々しい恋愛物語を賞賛するのではなく、「風流の聖主馬嵬の涙、亀(き)鑑(かん)明々として今日新たなり」とも歌った。歴史が明々たる鑑なので、今日の執権者は新たに玄宗の轍を踏むのではないかと、一休は考えた。驕る者は久しからず、これは古今東西の歴史によって証明されたものである。それで、一休は楊貴妃のむざんな死がきっと日野富子の末路に違いないと信じて、次の詩を作った。 風流脂粉又紅粧 風流の脂粉(しふん)、又紅粧(こうしょう)、 等妙如来奈断腸 等妙(とうみょう)如来、断腸を奈(いかん)せん。 知是馬嵬泉下魄 知りぬ、是れ馬嵬泉(せん)下(か)の魄(たましひ)を、 離魂倩女謫扶桑 離(り)魂(こん)の倩女(せいじょ)、扶桑に謫(つみ)せらる。 詩の大意はこうである。べにとおしろいで化粧した風流な美人。いかに等妙如来でも彼女の断腸の思いをどうすることもできない。この美人の断腸の思いこそ、馬嵬で冥土へ行った楊貴妃のたましいであることを私は知っている。あたかも離魂の倩女のように、もう一人の楊貴妃(日野富子?)は、日本で罰されるであろう。 結句の「離魂倩女」については、「無門関」第35則に、五祖法演が扱った公案として記載されているが、そのたねは「剪燈新話」に見られる物語である。あらすじはこうだ。興陽の張鑑の末娘である倩女は、ある時その魂と肉体が分離してしまった。一人の倩女は、王宙と結婚し、もう一人の倩女は病床に臥ふしていたが、その後あるきっかけで、二形の倩女が一つに合体(ごうたい)するという。右の詩で、一人の倩女(楊貴妃)は、すでに馬嵬の冥土に葬られたから、合体されるはずのもう一人の倩女(日野富子)も、きっと扶桑で罰されて、同じく民衆のいかりに葬られるだろうと、一休は詠ったのである。 また、富子はあの手この手を尽くしてお金をかき集め、それによって政治を動かしたのである。わが子義尚(よしひさ/1465-1489)を将軍の座に即かせるため、苦心惨憺(さんたん)に策略をめぐらして、混乱な幕政にさらに混乱をもたらした。そういう折から、将軍家をはじめ管領の畠山・斯波両家の継嗣問題に端を発した争いが、やがて細川(東軍)・山名(西軍)の二つの有力守護大名の対立にまで発展し、ついに応仁元年(1467)には、天下を二分する大乱となって爆発した。それ以後10年間の長期戦となり、その上大風と洪水と疫病による被害が相続く中で、一休は幾度となく住居を変え、生と死のあわいでかろうじて一命をつなぎとめることができた。だが、すさまじい戦場と化した京都の大半が、すっかり焦土に変わりはて、もと諸一揆や動乱によって創(そう)痍(じ)にまみれた都は、さらに壊滅的な打撃を蒙った。人々は、この無に帰した廃墟にたたずんで、これからは国が滅びてしまうだろうというほどの悲哀を、いつまでもかみしめるほかなかった。当時の無惨さについては、「応仁記」に痛々しく記された。 万歳ヲ期セシ花ノ都、今何ンゾ狐(コ)狼(ロウ)ノ伏(フシ)土(ド)トナラントハ。適々(タマタマ)残ル東寺・北野サヘ灰土トナルヲ。古(イニシヘ)ニモ治乱興亡ノ習ヒアリトイヘドモ、応仁ノ一変ハ、仏法・王法トモニ破滅シ、諸宗ミナ悉ク絶エハテヌルヲ感歎ニ耐エズ飯尾彦六左衛門尉、一首ノ歌ヲゾ詠ジケル。 汝ナレヤ知ル都ハ野辺ノ夕雲雀アガルヲ見テモ落ツル涙ハ 10年戦乱の間、一休は文字どおり行く方も知れない一流民となって、死線をさすらいながら兵乱に堪えてきた。民衆と共になめさせられた辛酸はまことに想像を絶するものであった。その体験と見聞をもとに、一休は「童謡」(2首)を詠じた。 其一 童謡逆耳野村謳 童謡(どうよう)耳に逆らう野(や)村(そん)の謳(うた)、 唱起家々亡国愁 唱起す家々亡国の愁(うれ)い。 十年春雨扶桑涙 十年春雨、扶桑の涙、 稼穡艱難廃址秋 稼穡(かしょく)艱難、廃址の秋。 第二句の「亡国愁」は、「礼記」楽記第19に「桑間濮上(そうかんぼくじょう)の音(みだらな音楽)は亡国の音なり。其の政は散じ、其の民は流す。」とある。一休は詩の中でこう詠っている。童謡を聞いていると、田舎の野卑な歌声がうるさく邪魔になる。あちこちの家で国を滅ぼすような淫靡な歌をうたい始めた。ここ10年ほどの間、降る春雨は日本の国の涙にほかならない。かせぐのも困難な日々、廃墟の秋は淋しいものだという。 其二 皇城山野々皇城 皇城は山野(さんや)の野皇城(やこうじょう)、 変雅変風人不平 変(へん)雅(が)変風(へんぷう)、人不(ふ)平(へい)。 骼皮秋痩山骨露 骼(かく)皮(ひ)秋痩せて山骨(さんこつ)露(あらわ)る、 狂雲一片十年情 狂雲の一片、十年の情。 詩の大意はこうである。皇居は山野の中の田舎家と同様のものとなってしまった。正しい秩序のない時代をうたった変雅、変風は、人の不平不満を述べているが、まるで秋になって木の葉がすべて落ち、山の骨骼まであらわになってしまったように、荒れはててしまった。一休のこの一片の詩は、最近10年間の心を吟じたものである。 一休は、「狂雲子」と号したように、きわめて陽気な人柄で、何に対してもあまり気にせず、特に暗く考えない性である。だが、さすがの一休でも56字で綴った2首の絶句には、「扶桑涙」「廃址秋」「野皇城」「人不平」等、皆涙を催すほどの荒涼たる世相を表すものである。■達な一休の目に映した戦後の京都は、実に手に取るばかり悲惨のきわみであった。 疑問の余地がなく、民衆を塗炭の苦しみに陥(おとしい)れたのは、為政者である。無能無責任な義政は、名ばかりの道楽将軍であって、乱世を収拾するとか、死に瀕する貧民や流民等を救済する意志がまったくなかった。実際、たまにその気持ちになったとしても、「憂き世ぞとなべていへども治めえぬわが身ひとつに なほ歎くかな」と、彼が歌ったように、そのような政治的能力がなかった。義政は、将軍の座についていながらも、治世には超低能児であるかわりに、遊興享楽、贅沢三昧においては天下一であった。将軍一味、大小様々な支配者等、いわゆる上層社会は、「わが身さえ冨貴ならば」と、先を争って享楽的な生活を無節制に追い求めた。彼らは、厚顔無恥な我利我利亡者となって、手段をえらばずに国民から財産をしぼりあげて、つかも間の享楽に使わした。そのため、苦しい民衆をいっそう苦しめた。これが目に余った一休は、社会的正義感に燃えて、生活難に喘ぐ民衆に心を寄せ、頽れた世相に限りない憂えと重大な危機を感じ、悪徳非道の幕府に批判のほこ先を向けたのである。一休は、執権の幕府に猛烈な攻撃を加える一方、また熱烈な尊王思想、勤王思想の持主として、皇室と密接な関係を持っている。 |
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■熱烈な尊王思想 一休と皇室との関係については、先ほどその皇胤説を述べる時に少し触れたが、実は後小松天皇の他、彼はまた称光天皇、後花園天皇、後土御門天皇からも帰依され、深い信頼を受けた。 御花園天皇との親交にはこんなことがあった。彼が54歳の時、大徳寺の僧が一人自殺した。ある人が下心をもってこれを官にざん訴したため、大徳寺の僧は35人も投獄された。一休は大徳寺と無(む)■(こ)の僧侶達を救うため、丹波の譲羽山に入り、食を断ち、餓死をもって抗議しようとした。これを聞かれた後花園天皇は、勅使に「和尚若し此挙あらば、仏法王法倶に滅せむ、師豈(あ)に朕を舎てむや、師豈(あ)に国を忘れむや」という親書をもたせて自重をすすめられた。一休は感激のあまりに断食を思いとどめ、「上古の道光今日明らかなり」と、当時の感慨を詠った。 御承知のとおり、室町時代における皇室の政治的発言権が縮少され、天皇の権力も甚々しく衰微したとは言え、一休は依然として昔と変わらず、天皇を神聖な国のシンボル、正義の代表者として、心から崇(あが)め、敬(うやま)ったようである。天皇は、権力が衰えても、権威を依然と保ち続けている。現実にも、後花園天皇は漢詩をもって将軍義政の驕奢を戒められたのではないかと、一休は考えたのである。 かって建武新政を迎えた際、勤王精神に燃えた禅僧中岩円月は、上表文をはじめ「原民」「原僧」を後醍醐天皇に献呈し、国の再建に力を尽くそうとした。一休の時代になると、皇室は天運に恵まれず、天皇は幕府にとってかわって親政するほどの力を持っていないが、少なくとも国民を精神的に統率して、当面の淫靡な風潮をとどめていただこうと、一休は思っただろう。それで、彼は「主恩」を忘れない勤王の志士を慕い、中国の詩人杜甫を「忠義」の「英雄」として詠いあげて、尊王の思いを吐露したのである。次にその詩「杜詩を見る」(2首)を味わってみよう。 其一 古今詩格旧精魂 古今(ここん)の詩(し)格(かく)旧精魂、 江海飄零亦主恩 江海(こうかい)に飄零(ひょうれい)するも亦(ま)た主恩。 仰叫虞舜一生涙 仰いで虞舜(ぐしゅん)を叫ぶ一生の涙、 涙痕濺酒■乾坤 涙痕(るいこん)を濺酒(せんしゃ)して乾坤(けんこん)を■(つつ)む。 杜甫の詩の風格は古今に通じ、その精神が尭・舜を理想とするため昔を思う。都落ちしておちぶれても主の恩を思い、一生の間、尭・舜に帰れと涙ながらに叫び通した。その涙の流れ注いだ痕が天地いっぱいになっている と、一休は詠じたのである。 其二 涙愁春雨又秋風 涙愁(うれ)ふ、春雨又秋風、 食頃難忘天子宮 食頃(しょくけい)も忘じ難し天子の宮。 詩客名高天宝事 詩客名高し天宝の事(じ) 寒儒忠義也英雄 寒儒(かんじゅ)の忠義也(ま)た英雄 詩の意味は、たいがいこうである。春雨にもまた秋風にも、涙を流してうれい、かたときも玄宗天子の事を忘れることはできなかった。そして天宝時代の真実の姿を詩にうたった杜甫の名は天下に高い。この貧しい学者は忠義な英雄であったという。 杜甫は、一休の最も尊敬する詩人の一人である。古来中国の知識人には、ほとんど同じく救世済民の悲願があった。とりわけ杜甫は小さい時から貧しい環境の中で育てられたので、大きくなるにつれて、「悪を疾(にく)んで剛腸を懐(いだ)き」、官に阿(おもね)り腰の弱い時輩を蔑視するような気高い性質を備えた。杜甫は生涯機運に恵まれず出世できなくて、赤貧の生活を送りつづけた。それにしても尚自分より不幸な人達の身の上を思い、彼らのために平和な社会を捜し求めたのである。そのような理想な社会を作り上げるには、当代の君主が聖天子 尭・舜のように治世し、朝廷に立つ為政者が皆天子の心を休し真剣にその責任を果たさなければならない。それが実現できなくても、せめて愛情のある政治が望ましいと、杜甫は主張したのである。だが、現実社会はむしろその反対である。そのため、国と民衆の運命を憂慮した杜甫は、目に余る社会の矛盾を厳しい眼で批判し、飢饉と戦乱に喘ぐ民衆のために怒号し、もとは王臣でいまは賊となって国を荒らしている安禄山一味をするどく糾弾した。一休から見れば、このような杜甫は正真正銘の民衆詩人であり、国や天子に「忠義」を尽くした真の「英雄」である。 国と時代は変わっても、一休は杜甫当時の願いと心情とは少しも違(たが)わなかったのである。乱世に遭った後は、何よりも平和の世の中に戻ってもらいたかった。応仁の乱には、東軍も西軍も、厳密にいえば、官賊の区別がなく、皆民を害する乱軍賊党である。ただ東軍は名目上正統な旗を掲(かか)げ、皇室とも一脈通じるので、天下の太平を熱望する一休は、性急にも東軍を朝廷の見方に見たて、応仁2年(1468)の元旦、夜半から西軍を攻めた勝利を祝って、「元日官軍の凶徒を敗るを賀す」という詩を作った。 元正先破豪 元正(がんしょう)、先(ま)ず豪を破る、 処々凱歌高 処々凱(がい)歌(か)高し。 百万朝廷卒 百万の朝廷の卒、 不能損一毛 一毛を損すること能わず。 一休の詩作は、ほとんど七言絶句であり、五言絶句は極わずかである。右の詩はきわめて簡潔で、ひびきがいい、上乗(じょうじょう)の出来ばえと言える。詩の中で一休はこう歌ったのである。元旦にまず強固な西軍を攻め破った、いたる所で凱歌があがっている。おまけにたくさんの朝廷方の兵卒は少しも損害をうけなかったという。そして一休は夢でも尭・舜の聖天子を迎えたいらしく、当代天皇に大きな期待と熱い感情を抱き、機会があるたびに、この上もない景仰(けいぎょう)と忠誠を表白していた。文正元年(1466)12月後土御門天皇の大嘗会(だいじょうえ)に対して、彼は「乱中大嘗会」と題し、次のように詠んだのである。 当今聖代百王蹤 当今の聖代、百王の蹤(あと)、 玉体金剛平穏客 玉体金剛平穏(へいおん)の客(すがた)。 風吹不動五雲月 風吹けども動ぜず、五雲の月、 雪圧難摧万歳松 雪圧(お)せども摧(くだ)け難し、万歳の松。 第三句の「風吹不動」は、「五燈会元」巻20、士珪禅師の章に見られる「雪圧せども摧け難し澗底松、風吹けども動ぜず天辺の月」を踏まえている。詩の大意はこうである。現在今上(きんじょう)の御代は、歴代の帝王の後裔によるが、その帝のお体は金剛石のごとく不動で安らかである。この皇位は風が吹いてもびくともせぬ五色の雲中の月のごとく、雪が積もってもくだけることなく、万年の寿(ことぶき)を保つ松のようであるという。すなわち、一休は心から後土御門天皇の大嘗会を慶賀し、「当代聖代」を賛えたのである。 市川白弦氏の労作「一休−乱世に生きた禅者」のあとに「関連略年表」が付けられている。その文正元年の条に次のように記されたのである。 四月義政宴楽にふける。費用巨額。加えて大嘗祭挙行。諸国の疲弊甚しく諸将臨時の課(か)役(えき)に堪えず、しきりに民戸に強要(きょうよう)し富(ふう)家(か)に借り、徳政を行って返却せしめず。四民蜂起売米売酒を劫掠(ごうりゃく)。「悪党」ら酒屋・土倉に乱入、所々に放火、馬借(ばしゃく)、下層町人ら加わる。奈良馬借一揆。興福寺等の学侶ら武装出陣。 これは応仁の乱の前夜で、乱世を作る物騒(ぶっそう)な世の中である。だから皇位も世相も決して一休の詠んだように「風吹けども動ぜず」「雪圧せども摧け難し」というものではない、しかも大嘗会と勧進猿楽とは性質は違っても、同じくお金がかかる。もし幕府が大嘗会に類することをやったら、一休は少しもたゆたわずに、「時節をわきまえぬ為政者の奢りとして、たちどころにやりこめられたろう。」けれども、これは皇室の権威をできる限り取り戻そうとする大事な行事だから、一休は口を極めて賛美したのである。彼が賛美してやまないのは、現実の世の中ではなく、幻の古代帝国かも知れない。その古代帝国はおそらく平安時代であろう。一休の目で見れば、あの天皇親政の時代は、ずっと目下の百鬼夜行(ひゃっきやこう)、悪党跋扈(ばっこ)の乱世より理想的ですばらしかったのである。当今の世が混乱すればするほど、彼は平安朝への思慕がつのり、皇室を尊崇する気持ちが高まったようである。それゆえ、国の安泰を切実に願った一休は、エスカレートする一方の大乱に直面して、ますます焦燥の念にかられ、ついに皇室への燃えるような熱誠と朝廷のために「悪魔」となっても惜しまぬ赤心を、詩句に託して、いまにも「五逆の輩」を悉く蹴り殺すような勢いで、次の「日旗地に落つるを歎ず」という詩を詠じたのである。 錦旗日照動竜蛇 錦旗日照して竜蛇を動かす、 聖運春長救国家 聖運の春長じて国家を救う。 化雷■殺五逆輩 雷と化して五逆の輩を■殺(てきさつ)し、 誓為朝廷作悪魔 誓って朝廷の為に悪魔と作(な)らん 中世禅僧の中に天皇に忠誠を表白するものは、少なくなかったが、一休ほど皇室の権威を守り、その復興に身命を惜しまず奮励突進する人は、極まれである。彼は、禅僧の身でありながら、殺気の漲(みなぎ)った凄まじい気迫で、朝廷のために逆賊を討滅する雷神とも魔神ともなろうと、心底(しんてい)を明かしたのである。 このように、一休の強烈な尊王、勤皇思想は、その高貴な血筋とまったく無関係だとは言えないが、実質的には主として民衆を愛する気質、厳正な批判精神と動かせない社会的正義感に根ざしたものである。彼は乱れた世相、無力で享楽にふけった将軍一味への反感が昴(こう)じるにつれて、その尊王思想が次第に強くなり、盛んになったのである。いままで多くの学者は、一休は思想家ではなく、実践を重んずる禅僧だと論じたが、実際そうではない。その主著「狂雲集」をざっと読めば、かなりばらばらなもので、矛盾する所も見られるけれども、よく吟味すると、その数々の作品から、民衆を愛し、民衆に愛され、しかも民衆を超越する大衆思想家、烈々たる闘志をもつ勤王思想家のイメージが、だんだん浮かんでくるものである。いまひとつ、祖師の鴻(こう)大な恩徳にそむいた贋坊主と必死に戦う宗教家のイメージも浮かび上がるに違いない。これから、われわれは禅宗界に目を向けて、一休の栄衒僧への批判ぶりを見よう。 |
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■栄衒僧への批判 御存知のとおり、日本の禅宗は道元に発する曹洞宗と、栄西に始まる臨済宗との二つの系統がある。道元が政治に対して徹底した拒絶の姿勢を示したので、曹洞宗は祖師の意志をよく受け継いで、主に地方に根をおろし、布教活動を行った。臨済宗は中国の宋朝禅の文化的傾向を継承し、中央の武士政権との関係を深めながら、急速な発展を遂げたのである。そのため、幕府は中国から五山十刹の制度を導入し、これらの寺院を官寺として、それぞれの寺格を定め、統轄するようになった。同じ臨済宗の大徳寺、妙心寺等は、官寺の盲目的な権力追従を喜ばず、五山に加わらなかった。それ以降、五山官寺を「叢林」と呼び、大徳寺等、在野の寺院を「林下」と呼ぶようになった。一休は大徳寺の系統に属し、その禅風を受け継いだのである。 実際、五山十刹制度の実行当初は、十方住持の宗旨を堅持し、高徳有能の禅僧なら、誰でも諸山十刹を経て、最高位の五山の住持になれるから、一時とは言え、大いに禅宗の発展を促進した。しかし、15世紀に入ってからは、禅僧らは俗世の名利に誘惑されて、次第に修行を怠(おこた)り、趣味的・享楽的なえせ坊主に堕落してしまった。ことに、将軍義政(1449-1473在職)の治世になると、五山の腐敗、凋落はもちろん、いままでずっと政治や権力者を遠避けた林下でも、急に俗化し、頽廃の色を濃くしていった。すなわち、叢林も林下も争って名利を漁(あさ)り、禅宗そのもの全体はすでに腐りはてたのである。禅僧らは出家得度の仮面を掻(か)き捨て、まったく俗人、武士と同じように、いやそれ以上に栄利心にかられて、「ひたすら京都、堺の町衆や豪商と交わり、茶坊主となり、財政の基盤を得るに血眼になった。商人も、高僧らと交わることで、権威がついた。積極的に「道交」をもとめる俄(にわ)か居士がふえた。居士は漢詩をひねり、茶を喫し、座禅をなし、公案解説を競い、ある時期がくると、印可さえほしがった。偽証書や真証書がばらまかれた。また明との貿易がさかんで、禅を早わかりすることは商道に必要となった。高僧は商船にのり、貿易顧問をかねて明へ渡った。売(まい)僧(す)といわれる商僧のはしりである。高僧は明国にゆくと青楼や妓院を遊歴した。帰国すれば花柳の通人(つうじん)だ。のちのことだが、応仁の乱後、京都に設けられた遊里の構図と廓規則なるものは、帰朝の高僧らの助言でできたという。つまり、僧たちは、口では高邁こうまいな祖師語録を唱じ、無功徳三昧の生活を説きながら、妓娼街の建設に力を貸していたのである。これでは禅林に男色も流行しよう。本来なら、監視の目を怠らず、修行徹底させねばならぬ■食、童行にも華美な衣装をつけさせ、前髪をたれさせ、白粉をぬらせ、寵愛用の少年にしたてた。頂上腐敗が、童行、■食、沙弥のあいだに、名利の競争心をおこさせ、庫裡王国に隠花を咲かせた伝統はここに根がある。高僧たちは、ひまがあると連句の会だ。池に舟をうかべ、月下の庭を散策し、寵愛の■食をともない、酒宴を催す。詩会は放歌乱舞、美少年への艶書がとびかい、「啓札」などとよばれて、その文集が出版される。中には、詩を捨て、商道に徹し、明との交易で巨利をおさめ、■堂銭、酒の醸造権などで財政をふやし、高利貸しを営む寺院があった。幕府の財政窮乏をみこんで、妻侍の権利さえ買う禅僧がでた。」 水上氏はよく当時の禅宗界の様子をまとめているので、その引用が少し長くなった。氏の指摘したように、その頃の禅宗界は、想像以上に頽れ、卑劣下品に変質してしまった。これらの弊害を憂慮した一休は、少しでも是正しようと思って、筆を槍にして、「みな人は慾をすてよとすすめつつ、後で拾ふは寺の上人」と歌って、高雅で偉そうにいばりながら、かげで巨利を貪る高僧等を辛辣に風刺した。「天下の禅師人を賺(たん)過(か)す、黒山鬼(き)窟(くつ)精神を弄(ろう)す(世間の禅師方は皆人々をだまし、寂静一辺倒にはまり込み、精神をもてあそぶばかりで、はたらきがない)」と詠じて、えせ坊主の利益獲得の巧妙さと欺瞞性をまるだしに摘発した。また「道に迷ふ衆生は劫外の愚、人々の涙窮途を識らず。官に諛(へつら)って只佳名の発するを願ふ、真の苦提心一点無し」と、官に追従(ついしょう)する徹頭徹尾の虚栄僧を強く批判した。そして禅宗界の堕落に憤慨のあまりに、一休は「婬坊の頌を以て得法の知識を辱しむ」と題し、次のように詠じた。 話頭古則長欺謾 話(わ)頭(とう)の古(こ)則(そく)欺謾を長ず、 日用折腰空対官 日用(にちゅう)腰を折って空しく官に対す、 栄衒世上善知識 栄衒世上の善(ぜん)知(ち)識(しき)、 婬坊児女着金襴 婬坊の児女も金襴を着く。 「話頭」は、ほとんど公案と同じ意味であり、「善知識」は、正法を説いて人を正しく導く禅師或いは禅師家である。この頌の大意はこうである。古則公案は、欺謾を増すばかり、日常はペコペコ腰を折り、頭を下げて空しく官吏に応対している。この世間にこびへつらう善知識も、娼楼の遊女と同じく金襴を着ているという。遊女は身をひさいでお金をとるが、善知識らは、法を安売りし、官にへつらって人格を売るのである。それだから、どんなにうまい言葉や上手な手口で自分をきれいにかざっても、本質的には全く遊女と同じく卑劣なものだと、一休は激しく栄衒の禅師やその師家等を難詰したのである。 「狂雲集」「続狂雲集」、特に「自戒集」には、一休の栄衒僧批判の作品が夥(おびただ)しく見られる。栄衒とは、字面の意味として、恐らく栄えて世に衒うであろうが、字引で調べても見つからない単語である。その出所は大徳寺の二世住持徹翁和尚の訓戒によるものだと言われる。 「仏法を以て渡世の謀(はかりごと)と為す是れ世上栄衒の徒なり。凡そ身あれば着ずということなく、口あれば食わずということなし。もしこの理を知らば豈(あに)世に衒わんや。豈(あに)官家に諛らわんや。是の如きの徒は三生六十劫餓鬼に入りて出期(しゅつご)なかるべし。或は人間に生るるも癩病(らいびょう)の苦を受け仏法の名字を聞かず。懼(おそ)るべし。」 一休は、徹翁のこの訓戒に心から共鳴した。しかも、諸祖師のように清貧な生活に徹し、淡白質素な大徳寺の禅風を堅持し、さらに発揮するのは、自分の使命だと思いつづけた。だが、師兄養叟宗頤(そうい/1376-1458)が、経営型の禅僧として大いに大徳寺を復興した反面、師華叟の枯淡清浄、孤絶峻厳の遺風に背き、禅を渡世の道具にして最大限に利用し、すっかり名聞利養(みょうもんりよう)の奴隷になってしまった。それゆえ、一休は彼を、仏法を毒する栄衒僧、あらゆる悪智悪覚の総代表として、罵詈雑言(ばりぞうごん)を尽くすほど猛烈に攻撃し続けたのである。 養叟は、一休よりも18歳年上である。彼にとって、確かに大師兄にあたるものだった。けれども、一休童話には、白い眉毛の養叟が6、7歳の小坊主一休を相手にして、鯉や鮹の引導について掛合をしたなどのように記されているのは、とんでもない間違いであり、一休さんにとって、甚々迷惑な作り話である。 それはともかく、「年譜」によると、養叟の虚栄心は、一休26歳の頃、すでに露呈されたという。その年、養叟が師華叟の肖像を描いて讃を求めた際、華叟は「口は仏祖を呑み眼は乾坤、手裡の竹箟は天魔の魂、一句語に三要の印を提し、頤(やしな)い来って的的児孫に付す」という偈を書いてやった。しかし、養叟宗頤は最後の「頤い来って的的児孫に付す」という句を印可の語と考え、次第に人々にそういった。「華叟はそれを伝え聞いて激怒し、その掛物を火にくべようとした。そこで師(一休)は進み出て申し上げた。「宗頤兄はもういい年をしており、永らく和尚の門下で修行して来たことを人々は皆知っています。今この掛物を燃やしてしまったならば、彼はそれこそ人々に逢わす顔がないでしょう。和尚がなくなられた後、彼が若しこの賛語を印可の証であるなどといったならば、私はきっと手荒くこれを破ってしまいます。どうぞ御心配なさらぬように。」華叟和尚はそれで少し怒りも冷めたので、師(一休)はその掛物を頤兄にわたし、「兄よよく肝に銘じて忘れないで下さい」といった。」(「年譜」応永26年の条) 右の引用は平野宗浄氏の訳文である。私はその原文「和尚百年之後、彼若漫称券開口則吾必横身破斥之、勿為慮也。」という所が特に気になる。つまり、一休が「和尚百年の後、彼が若しこれを漫(みだ)りに左券と称したならば、則ち吾が身を捨てても破斥してみせますから、憂慮しないで下さい」と言った時の意気込みと覚悟に注意していただきたい。二人はこの時から、すでに仲違いの兆しが見えたのである。しかも、かりにとは言え、一旦それが事実となると、一休はとっくに法兄との戦いに心構えができたのである。それで、華叟師に向かって、「私にまかせてください。ちゃんと監督をやりますから。」と胸を張って保証しただろう。 養叟は、ただその経歴だけ見ても、なかなか修練の重なった禅僧で、世渡りの上手な辣腕家だということが分かる。彼は8歳にして出家し、その後東福寺、建仁寺における修行を経て、さらに華叟に16年間も師事した。応永26年(1419)華叟から印可状を授けられ、叟の一字も譲られた。その印可状は、いま大徳寺に保存されている。文安2年(1445)8月後花園天皇の勅旨により、大徳寺に入院して、第26代の住持となったのである。入院当初、大徳寺はきわめて頽勢になっていた。その「振興」のために、彼はずいぶん力を注いだようである。彼は、大徳寺の「経営」に、印可状の安売りや権力者への阿(あ)諛(ゆ)を含め、商人みたいな気質を最大限に発揮したのである。これこそ、養叟の人生であり、生涯の宗旨である。このような人が、簡素な生活を讃美し僧院の贅沢を攻撃する一休と衝突しないのは、絶対に不可能である。 一休は61歳の時、養叟と「百丈餓死」「霊山(徹翁)和尚示栄衒徒法語」及び印可状をめぐって激しく論争したことがある。これは、大徳寺の正統な禅風と法統に関わるもので、最も根本的な問題についての大論争である。「年譜」享徳三年の条によると、その時、一休は養叟のところへ行ったら、「おまえさんは、聞くところによると、百丈餓死と徹翁和尚栄衒の徒に示す法語を徒弟に教えているらしいが、華叟師はおまえのいうようなことをいわれなかったぞ」と養叟に怒られた。それに対し、一休は「私は百丈餓死の話をべつに作り上げたわけではない。一日作さざれば一日食わずという事は、はっきりと虚堂和尚の普説に見られるではないか、又徹翁和尚の法語は、先師が毎日口が酸っぱくなるほど話されたではないか。貴公は物忘れのお方じゃ」と応対したところ、養叟は色をなして「私には印可証明がある。貴公にみだりに抗議されることはない。」と言った。一休は「私にも印可はある。しかし貴公の印可とはくらべものにならない。」と嘲った。養叟はさらに「私は貴公が印可のないのを助けようとはしないよ。」と言ったが、一休は相手にせず大いに笑って退出した。そのため、二人は徹底的に決裂したのである。それ以来、養叟はひきつづき、大徳寺山内の大用庵や堺に新しくできた陽春庵を拠点にして、法の重示や入室(にっしつ)を盛んにやり、男女を誑(たぶら)かすのに忙殺した。 実際、養叟は当時の林下だけでなく、叢林を含め、全禅宗教団においても、まれに見る有能な経営者として数えられる。彼は、財力のある檀家も獲得したし、信者もたくさん集められて、大徳寺派の勢力の普及に大成功をおさめたのである。その再興した盛況ぶりは、五山官寺をも圧倒する勢いをみせた。これについて、一休は「題養叟大用庵」と題し、次の2首を詠んだ。 其一 叢林零落殿堂疎 叢林零落(そうりんれいらく)して殿堂疎(そ)なり、 臨済宗門破滅初 臨済の宗門破滅の初め。 大用栴檀仏寺閣 大用(だいゆう)は栴檀(せんだん)の仏寺閣、 崢■林下道人居 崢■(そうこう)たり林下道人(どうにん)の居(きょ)。 詩の中で、一休はこう詠っている。禅道場は皆おちぶれて、仏殿法堂の諸伽藍は、まばらである。臨済宗の宗門は、いよいよ破滅し始めた。しかし、大用庵のみは立派な伽藍を保っている。ここは、一段と高くそびえたわが大徳寺内の求道人の住いなのだという。 其二 山林富貴五山衰 山林は富貴、五山は衰ふ、 唯有邪師無正師 唯だ邪師のみ有って正師無し。 欲把一竿作漁客 一竿(いっかん)を把(と)って漁客と作(な)らんと欲す、 江湖近代逆風吹 江(ごう)湖(こ)近代逆風吹く。 詩の大意はこうである。この頃、山林派は富貴となり、五山は衰微している。ただよこしまな師家ばかりおって正しい師家はいない。そこで、自分は竿をかついで釣人となろうとするのだが、川や湖ではこの頃逆風が強く吹くので、釣人もなかなか思うようにゆかないというのである。 五山に対して、林下も山林も大徳寺一派を指すのだが、そこを「逆風」が強く吹き捲っているので、一休は「邪師」横行のその俗悪な世界からぬけだして、釣人になろうと思ってもなかなかうまく行かないようである。その後、政治的手腕に恵まれ、渡世(とせい)の才幹(さいかん)にも人一倍たけていた師兄養叟は、さらに商業的教団演出者としての離れ技を出して、康正3年(1457)9月20日「宗恵大照(そうえだいしょう)禅師」という号を手に入れた。没後の追賜は別として大徳寺の住持に禅師号を特賜されたのは、養叟が初めてである。すなわち、彼は極度に衰微した大徳寺を紫(し)衣(え)勅許の出世道場にしあげたのである。あくどい手段で獲得した虚名に対し、一休は「大用庵養叟和尚、宗恵大照禅師の号を賀す」という詩を以て、次のように吟じた。 紫衣師号奈家貧 紫衣師(し)号(ごう)、家の貧を奈(いか)んせん。 綾紙青銅三百緡 綾紙(りょうし)青銅三百緡(みん)。 大用現前贋長老 大用現前の贋(がん)長老、 看来真箇普州人 看(み)来(きた)れば、真(しん)箇(こ)普州(ふしゅう)の人。 「緡」は、お金を通す糸である。「普州人」は、昔四川省の普州には盗人がたくさんいたと言われる。一休から見れば、紫衣や禅師号をいただいたのはいいが、肝心の養叟一家の禅風の貧しいことはどうだ。禅師号の綸旨(りんじ)は、青銅の三百緡にも等しい価値があるそうだなあ。にせ住職のこのたびのはたらきは、面目躍如たるものがある。よく見たら、この老師は本物の普州の盗人である。それだから、一休は養叟の号「宗恵大照」の発音を似せて、彼を「宗穢大焼」禅師と称した。 一休が、これほど師兄養叟を痛烈に攻撃するのは、その旺盛な名誉心への反感だけでなく、またその悪劣な商法を髄から悪むからである。「得(とく)果(か)投(とう)機(き)多く人に教ふ、青銅の定価両三緡(古則公案を種々人に教え、その代償として定価二、三緡をとる)」「金を擢(つか)む手段機輪転ず、君子果(か)然(ねん)多く財を愛す(養叟の金をつかむ手段は、あたかもバネの輪が転ずるようにすばやい。君子ははたしてたいそう財を愛せられるわい)」等と、一休はその悪行(あっこう)を次々に摘発し、糾弾した。彼は、すっかりお金に目がくらんで、その儲けに疾(と)うに手段を選ばない牛馬のような人非人に堕落してしまったため、一休はさらに、「栄衒(えいげん)の悪知識(あくちしき)に示す」(2首)をもって、その憤慨を噴き出した。 其一 参禅婆子楊花帳 参禅の婆(ば)子(す)楊花の帳(とばり)、 入室美人蘭■菌 入室(にっしつ)の美人、蘭■の菌(しとね)。 近代箇邪師過謬 近代箇(こ)の邪(じゃ)師(し)の過謬(かびゅう)、 馬牛漢不是人倫 馬牛(ばぎゅう)の漢是れ人倫(じんりん)にあらず。 「楊花」とは、柳絮(りゅうじょ)と同じく、中国の柳の花であるが、ここではまっ白な幔幕を形容したものである。蘭・■とは、元来二種の香りのいい草で、それを一語にすると、漢詩文では、よく女性のイメージとして使われる。これは、第一句・第二句で示されるような、女性を参禅させることに対して、養叟を痛烈に攻撃している詩である。その意味はたいていこうである。女をまっ白なとばりの中に入れて参禅をさせ、香りのいい美しい敷物をしいた室に美人を入れて、これまた参禅をさせる。近頃のこの邪悪老師の間違ったやり方は、馬や牛と同じであり、人間ではないと吟じたのである。 其二 捧心自称法王身 捧心自(ほうしんみずか)ら称す法王身(ほうおうしん) 世上弄嘲徒怒嗔 世上(せじょう)の弄嘲(ろうちょう)徒らに怒(ど)嗔(しん)す。 一箇■■没巴鼻 一(いっ)箇(こ)の■(こ)■(そん)没(もっ)巴(は)鼻(び)、 出頭大用現前人 出頭(しゅっとうす)、大用現前(だいゆうげんぜん)の人。 人の真似をすることしか知らぬのに、自分は一番偉い僧だといっている。世間がそれをあざけり笑っているのに対して、ただぷんぷん怒っているのみだ。とりえのない一匹の猿がしゃしゃり出て、大機大用のお師(し)家(け)様だといばっていると、一休は詠んでいた。 このように、一休の養叟批判はますます激しく、康正元年(1455)そのピークに達したのである。「年譜」によると、その年の「正月、泉南の(養叟に対する)嘲りの偈が京まで伝え届いた。師(一休)は、それに和韻をし、二百首余りの偈を作り、編集して一巻となった。それに題して「自戒」という。」「自戒集」には、漢詩のほかに、また仮名交じりの散文もかなり集録されている。「年譜」に記されたように、これはもっぱら養叟を論難するために作った作品集だから、その数々の作品は、ほとんど具体的に養叟の悪事をいちいち指摘して、難詰したのである。 この頃、養叟は堺の納屋衆(なやしゅう)の貿易船の布施によって、豪奢な生活をしていた。これに対して、一休は次のように批判したのである。 堺繋養叟布施船 堺は繋(つな)ぐ養叟が布施の船、 一句商量市町禅 一句商量す市町の禅。 垂示参禅又入室 垂(すい)示(じ)、参禅、又入室、 一生功夫在米銭 一生の工夫、米銭にあり。 同じ「自戒集」によると、養叟が「比丘尼商人ナンドニカナヅケの古則ヲヲシエテ、得法ヲサセラレ」たため、「アキヒト、イチビトアルモノハ云、十日ノテマニテ得法ス。又(また)アルモノハ云、我ハハツカノテマニテ得法ス」などというありさまである。これを憎んだ一休は、「今ヨリ後ハ養叟ヲハ大胆厚面禅師ト云ベシ。……面皮厚シテ牛ノ皮七八枚ハリツケタルガ如シ。紫野ノ佛法ハジマッテヨリコノカタ、養叟木トノ異高ノヌスビトハイマダキカズ」と、養叟を痛罵した。そして、事の真偽はわからないが、養叟の死について、一休は「自戒集」にこうまざまざと記している。 養叟ガ癩ノ記 長禄二年三月廿三日ヨリ発病、病相常ノ病気ニハアラズ、眉(び)鬚(しゅ)漸(ぜん)々ニ堕落ス。同キ五月十六日ヨリ、腰ヨリシモクサリ死ス。ソノ後全身フチャウランマンス。或医師此病相ヲツタエキキテ、コレハ癩病也、後ニハノドヨリ膿血ヲ吐却セントアリ。同六月五日ヨリ、ノドヨリ膿血昼夜間断ナク流出ス。弟子メラ此ヲ癩病トモシラズシテ、寺中ノ僧達又(また)ハ行力(ぎょうりき)ナンドニ雑談ス。諸方ノ人々ニモノガタリス。サテコソ癩病ニハ一定シケル。同六月二十七日死了也。シカルヲソノ夜半バカリニ大用庵ノ後園ニテ火葬ス。癩病ヲヤクコト無法ナリ。シカモ大徳寺勅 願ノ在所也。コレシカシナガラ天下ノ表事(おもてごと)也。 癩病は、まことに恐ろしくいやな病気である。けれども、錚々たる正義感を持つ一休から見れば、養叟は人を騙す罪がきわめて大きいため、天罰として癩病にかかったと見たのも、当然なことである。彼は「狂雲集」に「栄衒の徒に示す」という詩を以て、次のように述懐したのである。 人家男女魔魅禅 人(にん)家(か)の男女魔(ま)魅(み)の禅、 室内招徒使悟玄 室内に徒を招いて玄を悟らしむ。 近代癩人頤養叟 近代癩人の頤(い)養叟、 弥天罪過独天然 弥(み)天(てん)の罪(ざい)過(か)独(ひと)り天然。 「法罰養叟成癩人」(「自戒集」)、これは一休の持論である。その論拠は恐らく前述の、徹翁和尚が栄衒の徒をいさめる時の訓戒によるものであろう。すなわち、そのようなえせ坊主は「人間に生るるも癩病の苦を受け仏法の名字を聞かず」というのである。それだから、養叟が癩病ぐらいの業(ごう)苦(く)を受けても、あたりまえのことである。 養叟が死んだあと、一休は同じ嘲罵をその嗣法春浦宗煕にも向けた。宗煕という青坊主が「文字ハ一文不通、道眼ハメクラニテ、欲フカク名聞多シテ、畜生ノ如シ。」とやりこめ、また同じ「自戒集」で、宗煕の鷲尾の新造寺の落慶にあたり 大燈門下単于境 大燈門下、単(ぜん)于(う)の境、 姦賊此時開法筵 姦賊(かんぞく)此の時、法筵(ほうえん)を開く。 厚面無慚唯畜類 厚面無慚(こうめんむざん)、唯だ畜類、 古今無若此邪禅 古今に此(かく)の若きなる邪禅なし。 と痛罵した。大燈は、大徳寺開山宗峰妙超の国師号である。「単于」は匈奴の王であり、夷(い)狄(てき)を代表して言ったようである。「単于境」は、野蛮国という意識で、正系に対する傍系を意味するであろう。すなわち、大燈の門下にも野蛮人のようなものがいる。そこの悪い賊が、ちょうど説法説禅の場を開いた。面(つら)の皮が厚く恥知らずなこの男は、ただもう畜類ともいうべきであろう。古今を通じてこんな邪禅はちょっとないのではないかと、一休は詠んだのである。春浦宗煕は養叟悪党の一員であり、そのまま彼の衣(え)鉢(はつ)を受け継いだ悪玉(あくだま)である。そのため、一休が春浦宗煕に対しても、批判の厳しさを少しも緩めなかったのである。 詮(せん)ずるに、一休の「自戒集」は、「宗穢」たる養叟一味を討伐する檄文(げきぶん)であり、栄衒僧批判の集大成である。彼は尽きないエネルギーを傾けて、最大級の罵詈雑言を養叟らに浴びせつづけた。一休にとって、師兄の最も許せない所は、その露骨で旺盛な名利心である。彼は、にせの印可状を人に衒ったり、手を尽くして禅師号をもらったり、公然と利を貧って「古則話頭」をやったりして、徹底的に名聞利養のとりこになったのである。俗人でも名利に執着すれば、必ず人格を失ってしまう。まして禅僧なら、なおさらである。これは、禅そのものを根本的に否定することになる。一休の「狂雲集」には、「会裡の徒に示す法語」がある。かつて彼がその中で、「凡そ参禅学道は、須(すべか)らく悪知悪覚を勦絶(そうぜつ)して、正知正見に至るべきなり。悪知悪覚というのは、古則話頭、経論要文(ようもん)なり。」と弟子達に訓示し、「悪知悪覚を勦絶」する決意を表明した。さらに彼は「漁父」詩を以て、「本心を失った」参禅者を攻撃し、自分の憧れは漁父樵夫(ぎょふしょうふ)の生活だとも明言した。 参禅学道失本心 参禅学道、本心を失す、 漁歌一曲価千金 漁歌一曲、価(あたい)千金。 湘江暮雨楚雲月 湘江の暮(ぼ)雨(う)楚雲の月、 無限風流夜々吟 無限の風流夜々の吟。 すなわち、一休が生涯に追求しているものは、名利と絶縁した清貧な生活と潔白な人格である。彼は、養叟の行為を心底から蔑視し、その悪劣な一派を最大な敵として撲滅し、禅宗界の弊風をとどめようとした。だが、不思議なことに、彼が討伐すればするほど、養叟一派はかえって大繁盛となって、もとより一段と大きな顔をして偉そうにいばっていた。このありさまを見た一休はきっと、これはおかしい、禅宗界も世の中も狂ったのではないかと思って、いっそう憤ったに違いない。そのため彼は、抑えられない焦燥感にかられて、あんなに激しく執拗に養叟等を攻撃したのであろう。ただ一休の悪を憎む気持ちが十分理解できるにしても、あの驚くほど魔力の付いた悪罵痛罵ぶりは、やはり異常に感じ、ときには風狂にさえ思われる。これは彼の一貫した主張や主義によるものだけでなく、また何かその美意識や型破りの性格にも関係があるらしい。それゆえ、これから一休の狂気や風流について述べてみよう。 |
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■風狂な逆行三昧 中国の孔子は「悪称人之悪者」と言ったことがある。俳聖松尾芭蕉も「人の短をいうことなかれ、己が長をとく事なかれ。銘に云、ものいへば唇寒し秋の風」を座右銘にし、また「好んで酒を飲むべからず。饗応により固辞しがたくも、微(び)醺(くん)にして止むべし。」「女性の俳友に親しむべからず。師にも弟子にもいらぬ事なり」等を「行脚の掟」としたと言われる。中国も日本も従来これらの哲人の教え、即(すなわ)ち克(こっ)己(き)、禁欲、義務等を重んずるのを美風としてきた。けれども、一休はこれらの俗人のしきたりに従わず、禅僧でありながらも、女犯、男色、飲酒、肉食等を平気にやったのである。彼は、戒律など全く無視して、自由気ままに生きていた。だから、俗世界から見ても宗教界から見ても、一休はきわめて異色な存在である。彼が自ら狂雲、夢閨等と号したように、古いならわしに拘わらず、周りの目も気にせず、自然な風やその風に吹かれた雲の如く天真爛漫で愛嬌のある狂態を尽くして我々の目の前に現れたのである。 「風狂」という語は、まことに面白い言葉である。中国の古語なら、精神的に狂った場合は、「風狂」とも「瘋狂」とも書けたが、いまでは前の方が捨てられ、ただ後者だけ残された。つまり現代中国語では、「瘋狂」という語はその風に病垂(やまいだれ)をつけることによって、はっきりと精神的な病気に限定したのである。それに対して、日本語の「風狂」は病垂にしばられず、使う道がずっと広くなる。風の字は、狂人を意味する「風子」「風漢」の他に、「風湿」「風邪」「中風(ちゅうぶう)」「風疹」等、体の疾患として使われるし、「風雨」「風景」「風光」「風雪」等、自然景物としても使用される。また詩歌、芸術に使われる「風雅」、「風流」「風韻」等の語もある。 一休の風狂ぶりを吟味すると、大きく狂気と風流との二つの方面に分けられる。彼が出家したにも拘わらず、俗世との縁を切らずに世相や宗教界の現状にかんかんに怒ること、同門の人を「姦賊」や「畜類」等と意地を張って悪罵すること、普段よく人をびっくりさせるような数々の奇嬌なふるまいや美少年を愛し酒肆婬坊に遊ぶこと等は、弁解の余地がなく、皆狂人の沙汰であり、破戒僧の狂態である。そして、その一簑一笠、自由自在の飄逸さ、歌舞管弦に関しての通達さ、恋坊主として吟じた赤裸々な艶詩等は、皆一休の風流ぶりの熱演である。 だが、一休の狂人ぶりにせよ風流ぶりにせよ、いずれも他人には模倣のできない非道、逆行(ぎゃくぎょう)の行為である。逆行とは、禅僧の指導の手段として、相手を反面から教化することである。さらに分かりやすく説明すると、戒律を忠実に守り、これに従って営む生活実践は順行と言い、あえてこれを破る行動を逆行と言う。その思想的根源は、大乗仏教の「煩悩を断せずして涅槃に入る」「破戒の比丘、地獄に落ちず」などの知見によるものであり、また「維摩経」仏道品第8の「その時、文殊師利、維摩詰に問うていわく、菩薩いかにして仏道に通達せん。維摩詰いわく、若し菩薩、非道を行(ぎょう)ずれば、これを仏道に通達すとなす」という提示にもよるものである。 一休は気骨の高い性格の持主であり、常に個性を生かし、又また常に進んで止まなかった大悟徹底の傑僧である。だから、その逆行三昧は大機大用だいきだいような境地に達したと言えるものである。彼は決して、単に座禅公案による悟りを重んずることなく、実地修業に心を傾け、布教の手段を工夫し、当の社会生活における臨機応変、融通無礙な活禅を重視したため、早くも一般民衆から生如来いきにょらいとして尊敬され、慕われたのである。 「年譜」永享7年(1435)の条によると、「師(一休)42歳。曽つて泉南に在り。出でて街市に遊ぶ毎に、一木剣を持って鋏(さや)を弾ず。市人争って師に問う、「剣は殺を以て功と為す。師が此の剣を持つは、是れ甚(な)麼(ん)の用ぞ。」答えて曰く、「汝等、未だ知らずや。今諸方の贋知識、此の木剣に似たり。室に収在するときは殆んど真剣に似たれども、室より抜き出だすときは、只だ木片(もくへん)なる耳(のみ)。殺すことすら猶お能くせず。況んや人を活すことをや。」人皆之を咲う。瑞子、師の像を絵き、曲■牀角(きょくろくしょうかく)に長剣に■(よりかか)りて以て烏(う)藤(とう)に代る。讃して「吹毛三尺、煙塵(えんじん)を発動す」の句有り。」 最後の所に、「吹毛三尺、煙塵を発動す」という讃の一部があるが、これは吹きかけた毛をも両断するほどの切れ味のよい三尺の剣をひっさげて、俗悪な煙や塵にも等しい偽坊主どもを一掃してしまいたい、という意味である。 一休は四十すぎから木剣を携えていたと言われる。その朱(しゅ)太(だ)刀(ち)の付いた画像は、よく保存されたので、現在にも伝わっている。当時町民らは、一休の朱太刀携行の奇行に対して、僧侶ともあろうものが、どうして人を殺す道具を持っているだろうと、不思議がってたずねたが、一休は、「今の諸方のえせぼうずは、この木剣に似ている。寺で見性をやっているふうに見えるけれども、一旦信者の間に出れば、その本性がすぐばれて、何の役にも立たない木で偶くの坊になってしまう。自分の心の煩悩を断つ力さえないのに、迷っている人々を救えるのだろうか」と答えたのである。それで、町民等は一休の禅実践の巧みさを讃嘆して、快心の笑いをしたのである。すなわち、一休は笑いのうちに、純真な町民等に贋知識の仮面をはがし、善への引導をわたして、ユーモアに軽々しく禅僧たる重大な責任を果たしたのである。 一休の風狂禅には、奇抜な一面もある。実際、こんな行実がある。めでたい正月なのに、一休はどこからか髑髏(どくろ)を探してきて、それを竹の棒の先につけ、「このとおり、御用心。このとおり、御用心」と声高らかに叫んだ。道を歩く者は、いやな顔をして彼を避けたり、どくろを忌み嫌って門を閉じたりしたが、一休はいそ人の門口(かどぐち)まで差し出して、「このとおり、このとおり」「御用心、御用心」と叫びつづけた。 ある人は堪えかねて、一休に大真面目にいった。 「お師匠さん、いいかげんになさいませんか。皆不愉快です。せっかく迎えたお正月ですから、今日だけは楽しく喜ばせてあげるべきだはありませんか。」 「いや、わしも正月を祝うからこそ、この髑髏を見せて歩いているのだ。およそ天地のあいだに、このどくろほど目出たいものはない。」と、一休は答えてから、一首の歌を詠みあげた。 にくげなきこのされかうべ あなかしこ 目出たくかしこ これよりはなし その人は少し分かったらしく、さらに一休にたずねた。 「それでは「このとおり」「御用心」というのは、どんな意味ですか。うかうかしていると、このようになるから、気をつけろとおっしゃるのですか。それにしてもお正月では、ちょっと薬がきき過ぎるではありませんか。」 一休は笑って、 「薬はきき過ぎるほうが良くはないかね。こうしゃれこうべを見たまえ。目が出て穴ばかり残っている。これほど目出たいものはない。誰でも、こうならなくては、ほんとうに目出たくはない。」と言って、一休はまたどくろを肩にして、町を回ったのである。 これは、なかなか人の意表に出た大胆で、深みのある説法であった。かれはどくろをつきつけることによって、人々に世の無常の冷厳な事実を認識させ、生死(しょうじ)を超える一大事を悟らせようとした。これほど新鮮で刺激性の強い方法を、一休はよくも考え出したのである。私達は普段、よく偉人と狂人とが隣り合って紙一枚というが、一休は正にこれにあてはまるだろう。 一休の風狂ぶりに関して、文字として最初に記載されたのは、前に述べた言外和尚の33回忌の際である。ときに、一休は29歳、即ち20代後半からその特別な考え方、異様な行動ぶりは、すでに目立ったのである。その後時間の経つにつれて、一段と顕著になり、囲りから変人、狂人と見られ、一休自身もそれを進んで受け入れ、自ら他人に追従のできない非道な破戒僧の狂態を演じたのである。 だが、僧侶として仏門の荘厳な戒律を破ってその逆行三昧を実行するのも、そんなにた易いことではないようである。一休は47歳になってはじめて、破戒宣言をなした。これは、永享12年(1440)6月のことである。 彼は、大徳寺の老宿(ろうしゅく)達の再三の要請に応え、やむなく山内の如意庵に止住することになった。たまたま同月27日は、先師華叟の13回忌にあたり、一休は如意庵で心を込めた法要を地味に行ったが、師兄養叟が同じ大徳寺山内の大用庵でも華叟第一の法弟を気取ってその法要を派手に営んでいた。それに参列した人々も、ついでに一休を訪れたので、がやがやとやかましくうるさかった。そのため、翌々日の29日、一休は養叟に「如意庵退院、養叟和尚に寄す」という偈を残して、如意庵から姿を消した。その偈は、つぎの通りである。 住庵十日意忙々 住庵十日、意忙々(いぼうぼう)、 脚下紅糸線甚長 脚下の紅糸線(こうしせん)甚だ長し。 他日君来如問我 他日君来りてもし我(われ)を問わば、 魚行酒肆又婬坊 魚行(ぎょこう)酒(しゅ)肆(し)また婬坊(いんぼう)。 「紅糸線」とは、「赤ん坊が生まれてから、また土を踏まない時は、足の裏に線のように血の筋があるが、成人して足の皮が厚くなると、その血の筋が見えなくなる。諸方を遍歴して大悟した者はそれだけ足の皮が厚くなり血の筋が見えなくなるので、大悟の人を「紅糸線断」といい、未悟の人、すなわち煩悩のまだ残っている人を「紅糸線不断」と言う。」一休は詩の中でこう詠ったのである。如意庵の住職をつとめた10日間というも、ずいぶん気ぜわしかった。私はなまざとりのせいか煩悩が少し多すぎるようだ。後日、この一休を訪ねられるようなことがあるなら、拙僧は魚屋か居酒屋か娼家をうろうろとしていることだろう、というのである。 言うまでもなく、絶対に戒律を守るべき僧侶の身として、魚屋や飲屋、女郎屋等に立ち寄ってはいけないことになっている。若しそんな場所に出入りするなら、あれはいわゆる不殺生戒(ふせっしょうかい)、不飲酒戒(ふおんじゅかい)と不邪婬戒を犯して、即座に極悪非道の破戒僧に転落してしまい、皆に白眼視されるようになる。それにも拘わらず、一休はあえて平気にこのおそるべき「破戒宣言」を如意庵退去の辞として養叟に出したのである。たとえ、こそこそと戒を破る坊主がいるにしても、誰がわざと自分の恥をさらすだろう。当時の禅宗界を御覧なさい。法の安売り、高利貸しの営み、女郎遊び等、様々なえせ坊主が溢れていたのに、誰一人も堂々とおれが悪いと認めなかったし、恥じらう色すら見られなかった。それだけでなく、一旦人の前に出ると、依然として高雅な口振りを操って、もっともらしく説法説禅をしていたのである。それらの二重人格をもつ偽善者より、一休の偽悪ぶりは、ずっと誠実で愛嬌がある。いいも悪いも事実なら事実として認め、しかもありのままに大胆に告白する、これこそ、一休の人格の貴さと言えよう。 中日の歴史には、かって多くの風狂禅が現れたことがある。例えば、中国の伝説化された寒山、神異性をもつ普化、樹上に座禅した鳥■道林(ちょうかどうりん)等がその代表である。禅僧にかぎらず、文学者としての竹林七賢もかなりの風狂ぶりを見せた異人、奇人である。日本中世の一休は、彼らと大きな共通点を持っている。これは、政治を遠ざけ、名利を糞土と見なしたのである。ただ違うのは、一休が女性を離せなかった。彼は真実に女性を愛した。そのかわり、女性も彼を若返らせ、その文学創造を促し、その作品を潤したのである。それで、われわれはまず「婬坊に題す」という詩を以て、その好色ぶりを味おう。 美人雲雨愛河深 美人の雲雨、愛(あい)河(が)深し、 楼子老禅楼上吟 楼子の老禅、楼上の吟(ぎん)。 我有抱持■吻興 我に抱持■吻(ほうじしょうふん)の興(きょう)あり、 意無火聚捨身心 意(つむ)に火聚捨身の心(しん)無(な)し。 いっしょに寝てくれた美人の愛は、まるで深い河のようにすばらしく、私はうっとりとして、思わず楼上で歌をうたった。私には抱擁とか接吻とかの楽しみがあって、いまや命がけの求道心など全くない、というのである。西田正好氏の研究によれば、一休が「狂雲集」で「婬」の字をしきりに用いるようになるのは、凡そ養叟との対立が次第に激化する40代後半からのように思える。おそらくそのころ一休は平然として婬坊に通っていたと推測される。 むろん、物事を事実以上に、つまりよく誇張して書くのが、一休作品の特色の一つである。だから、その作品に表現されたことをすべて真実だと思ったら、きわめてうい結論になりかねないが、その行実と数々の艶詩をよく探ってみると、一休は確かに早熟な詩人で、したたかな好色漢だと言わなければならない。彼が15歳のときに、「春衣宿花」という詩を作ったのだが、「じつはこれは色歌なのです。」 吟行客袖幾詩情 吟行の客袖幾(いく)ばくの詩情ぞ、 開落百花天地清 開落百花、天地清し 枕上香風寐耶寤 枕上の香風、寐(み)か寤(ご)か、 一場春夢不分明 一場の春夢、分明(ふんみょう)ならず。 表題の「春衣宿花」とは、花見の新しい晴れ着をつけて、花の下に眠ることだが、そこにまずなまめかしい感じが出ている。中国文学には、解語花という言葉がある。ものを言う花、つまり美しい女性のことである。春といえば、よく男女の恋を譬える。だから「開落百花」「枕上香風」「一場春夢」等、どちらも艶めいて、15歳の鼻たれ小僧が女性への強い関心を示し、早くも艶詩を作る素質を見せたのである。一休自身もかって詩の詞書で「同門の老宿、余の婬犯肉食(いんぼんにくじき)を誡む。会裡の僧、之を嗔(いか)る」と書いたことがある。「同門の老宿」は具体的にだれだったのかはっきり分からないが、その人は無実のことを以て一休を非難するはずはありえない。というのは、いままで一休はあれほど養叟一党を攻撃したのに、相手からの反撃は全く見られないし、一休が他人に中傷されたこともなかったようである。だから、女郎買いのため誡められたのは、恐らく事実であろう。その短い詞書にまた一つ注目に値するのは、「会裡の僧、之を嗔る」という点である。これは無理もない。一休は善悪の彼岸に立っていた純粋な人間である。無心な彼は、性愛に関しても人間の自然の要求に根ざしたもので、ことさら隠しだてをするようなうしろめたさがないし、陰湿なかげも一いっ糸し見られない。会裡の僧侶達は一休のこのような素直な性愛を純粋な自然感情のあらわれとして受けとめ、いささかも醜いものと思っていなかったため、老宿の師への難詰を嗔ったのだろう。 そして、禅宗では「折中録(せっちゅうろく)」や「道樹録(どうじゅろく)」等に出ている有名な公案「婆(ば)子(す)焼庵(しょうあん)」がある。一休のこの公案についての見解も彼の色好みの性格を証明できるし、また一休禅の究極のあり方は自然そのものであり、無理やりに性愛を束縛するのは真の悟りではないことも物語ったのである。「婆子焼庵」の梗概はこうである。 昔、ある所に禅に深く帰依した老婆があった。この老婆は草庵を建てて一人の僧侶を宿らせ、20年もの間その僧侶をうやまい供養した。ある日、老婆はこの僧侶の悟りを試してやろうと思いたって、妙齢の女子をやとい、食物を庵に運ばせ、ねんごろに給仕させた。そして、ある雨の降るたそがれ時、この女子に言いふくめて庵に行かせ、僧侶に抱きつかせて「私がこうした時、あなたのお気持ちをお聞かせください」と言わせた。しかし、僧侶はじっとすわって瞬きもせず「枯(こ)木(ぼく)、寒厳(かんがん)による。三冬(さんとう)、暖気なし」と答えた。すなわち、美人に抱かれても、わが心は枯木が冷たい岩によったごとく、冬のさかりに暖気が少しもないのと同じように、心を動かすことはないというのである。この女子は老婆の所へ戻ってこの事を話した。老婆は深くため息をつき、「ああ、私はばかなことをした。20年もこの俗物を供養したかと思うと腹が立つ」と言って、すぐさま僧を追い出し、庵まで焼き払ってしまったという。 いったい老婆はなぜ怒ったのか、これについて一休は次の詩を作って自分の見解を述べたのである。 老婆心偽賊過梯 老婆心(ろうばしん) 賊のために梯(かけはし)を過(わた)し、 清浄沙門与女妻 清浄(しょうじょう)の沙門(しゃもん)に女妻(にょさい)を与あたふ。 今夜美人若約我 今(こん)夜(や)美人若し我れを約せば、 枯楊春老更生■ 枯(こ)楊(よう)春老いて更に■(ひこばへ)を生ぜん。 老婆の親切心は、まるで賊のために手引きをしてやったようなものだ。清浄面(づら)をさげた坊さんに娘を与えたのだから。今夜は、もし美人がわしのところへ来ると約束するなら、わしは喜んで待っているよ。枯れたように見える柳でも、春の末には若い芽をふくのだから、わしも若返るに違いないと、一休が詠ったのである。これは一休の性愛についての主張であり、誠実な告白である。この主張によって、一休は逆行三昧に入り、酒肆婬坊に逍遥し、はなやかな風流ぶりを展開したと言えるのである。 文明2年(1470)仲冬14日、一休が薬師堂に遊んで森女の艶歌を聞いてから、二人はかねての願いを成就し、いっしょに暮らし始めた。ときに、一休は77歳であって、文字どおり白髪老残の身だったが、その時から示寂するまでの10年間は、一休にとって人生の最も充実な時期であり、またその風流ぶりが極致に達した時期でもある。その間、彼はまさに「枯楊春老いて、更に■を生ぜん」というように若返り、森女をめぐって数多くの作品を作った。その作品群は、時に肉体描写に赤裸々で艶(なま)めかしく、時には愛の讃歌のようにみずみずしく婉曲に詠われて、色あざやかな結実になったのである。それで、次の「森美人の午(ご)睡(すい)を看る」「森公が深恩を謝するの願書」を吟味しよう。 一代風流之美人 一代風流の美人、 艶歌清宴曲尤新 艶歌清宴曲尤(もっと)も新(あらた)なり。 新吟腸断花顔靨 新吟腸断す花顔の靨(えくぼ)、 天宝海棠森樹春 天宝の海棠森樹の春。 「海棠」が、天宝の乱に馬嵬の駅に殺された楊貴妃の美称なので、一休は森女を絶世の美人としてたたえ、しかも彼女は人を回腸させるような歌の名人だとも讃美していたのである。 木凋葉落更回春 木凋(しぼ)み葉落ちて更に春を回(かえ)す、 長緑生花旧約新 緑を長じ花を生じて旧約新なり。 森也深恩若忘却 森(しん)也(や)が深恩(じんおん)、 もし忘却せば、 無量億劫畜生身 無量億劫(おくごう)、畜生の身。 一休は、自分を若返らせた森女の絶大な恩を忘れてはいけないと誓っており、さもないと、永遠に畜生に転落してしまうよ、とも自分に言い聞かせた。また最晩年の戯作と思われるが、一休は「辞世の詩」を作った。その中で「十年花の下、芳盟を理(おさ)む、一段の風流、無限の情。惜別す枕頭児女の膝、夜深うして雲雨、三生を約す」とも歌った。これらの詩は、皆森女との清純な愛、深い契りを告白したが、それに対して「美人の婬水を吸う」「婬水」等の作品は、彼の森女との旺盛な情事、性愛として、何のはばかりもなく、いくぶん野性的でありながらも、愛の信実を如実に描く。その露骨で肉感的な描写は、若し他人の筆によって再現されたら、きっと俗悪極まりないものになってしまうだろうが、体面意識にとらわれることなく純真な自然児として生きて来た一休が、酒(しゃ)々落(らく)々たる心境、誠直(せいちょく)な創作態度をもって作り出した数々の艶詩は、聊(いささ)かの下品卑劣さ・汚らわしさを感じないどころか、むしろ本然(ほんぜん)の人間性に根ざした生き方の美しさ、あくまで仮面を被る偽善者への批判の痛快ささえ感じられるものである。 これこそ、一休の風流ぶりの魅力である。この魅力から、また一種の測り知れない深さも感じられる。大徳寺53世の住持沢庵宗彭(1573-1645)は、一休を「虚堂七世の老禅師、曲■木牀(きょくろくもくしょう)に艶詩を吟ず。自ら狂雲と号して狂客ならず、実頭(じっとう)(まじめ、着実)の人また知りがたかるべし」と評したことがある。確かに、一休の風狂、風流ぶりの本質を徹底的に明かすには、とても容易なことではない。それは、まるで宝庫のようなもので、掘るたびに、必ず何か光るものが出てくると思う。 |
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■結び 一休の、世相の頽廃と宗教界の堕落に対する痛憤、幕府の豪奢・悪政に対する攻撃、皇室に対する景仰(けいこう)忠誠、利他行を実践する風狂風流ぶり等について、ひととおり述べてきた。要するに、一休は古い因習や虚礼に拘わることなく、常に個性を生かしつつ、真の大悟を求め、普通の高僧と趣を異にした禅実践を行った。その半生は、熱嘲悪罵に富み、奇言奇行も多いけれども、決して権力者に頭をさげず、聊かの虚飾、偽りも許さなかった。彼は真実尊重の禅師、人間味の溢れる詩人として、素っ裸の人間を愛し、自分も人の意に介せず、風狂な逆行三昧をやり、自由奔放に生きた。その行実は型にはまった葬式仏教ではなく、いつも人々を真善美に導こうとする生気はつらつの活禅である。また表面の滑稽、諧言虚をこえて、内部には民衆の代弁者としてすべての悪と対決する緊張感が漲っている。 一休は罵詈雑言を吐きつづけ、淫犯肉食を進んでやり、赤裸々な艶詩も詠むなど破戒行為をさんざんやったにも拘わらず、その孤高超越な姿勢をみじんも崩さなかったし、民衆に依然と広く慕われたのはなぜかということだが、それは彼のすっかり名利を放棄した潔い品格によるものであろう。「無欲則ち剛(つよ)し」、そのうえ高潔になる。あれほどの大和尚でありながら、大徳寺の住持となったのは81歳の高齢であり、しかも勅請によってやむをえぬことだったのである。彼の禅実践は正にこの無私無欲の原点に立って展開され、はなやかな花を咲かせたのである。 一休は、また詩人的宗教家であり、禅僧たる芸術家である。彼の詩はほとんど七言絶句であり、五言は極めて少なく、律詩もほとんど見当たらないように思われる。七言絶句は日本の作家には手がけやすく、読者にも親しみやすい様式といえる。この詩形、起承転結とよばれる4句の関連は、第三句を軸とする。転句は絶句の生命である。一休はこの切りつめられた短句のうちに、無限の感情を盛り込み、自己自身の禅と文学の新しい可能性を探りつつ、それを表現したのである。その社会凝視、政治批判、弊風是正に関する作品は、絶句作りの妙を得て、はぎれがきわめてよく、読者を震撼させる力がこもっている。その艶詩は、明らかに「三体詩」の影響を受けたのである。「三体詩」は、中国の南宋の淳祐10年(1250)、■陽の周弼(しゅうひつ)が編した唐詩の選集である。その特色は、白居易をはじめとして、杜と枚ぼくや許渾、李商隠という中晩唐の作家に目をつけ、繊細幽艶の美を求めるところにある。一休は若い時、師慕哲に「三体詩」をたたきこまれ、後年の創作に大きく投影されたと思われる。 そして、一休が後世文化の発展に偉大な功績を残し、日本ルネッサンスの先駆として大きい役割を果たしたことも忘れてはならない。茶祖として名高い村田珠光(1422-1502)らによって始まる「わび茶」の道統は、一休のもっとも直接な感化からはぐくまれたということができる。 猿楽の能も一休とは切っても切れない関係があり、金春禅竹(ぜんちく/1405-1470頃)は一休への熱心な帰依者だったし、酬恩庵に墓碑をとどめる世阿弥の甥の音阿弥元重(もとしげ/1398-1467)も、おそらく一休の禅に魅せられた猿楽師であったろうと推測される。連歌の分野では、柴屋軒(さいおくけん)宗長(1448-1532)は大徳寺山内瞎驢庵(かつろあん)の辺に梅屋軒を構え、又酬恩庵境内にも仮寓(かぐう)紫屋軒を営んで一休に長く師事したことがある。当時、一休に師事した人、或いは親交のあった人は、一つの文化圏を形成し、一休はその中心的な地位に立ってたくましいリーダーシップを発揮したのである。 とにかく、一休は尋常一様の人物ではなく、見る人によってさまざまの説が立つが、すぐれた傑僧、異色のある詩人として高く評価されることは間違いなかろう。 瘋狂狂客非狂人 撃貧刺衒詈将軍 喜笑怒罵風流主 名馳 天下傲古今 |
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■一休宗純2 | |
明徳5年-文明13年(1394-1481) 室町期の禅僧(臨済宗)。別号、狂雲子。幼名千菊丸。父は南朝方から神器を受け取り南北朝統一の象徴となった北朝の後小松天皇。母は藤原一族、日野中納言の娘・伊予の局(つぼね)。母が一休を身篭ると、皇位の継承権を妬んだ人々の謀略で、彼女は南朝方と通じていると誹謗され、宮廷を追われることになった。そして南北統一から2年目の元旦に、嵯峨の民家でひっそり一休を産んだ。母は子が政争に巻き込まれぬよう、その身を保護する為にも、1399年、5歳の一休を臨済宗安国寺に入れ出家させた。 「周建」の名を与えられた一休は成長と共に才気を育み、8歳の時に有名な「このはし渡るべからず」や、将軍義満に屏風の虎の捕縛を命じられ「さぁ追い出して下さい」と告げ、ギャフンと言わせたトンチ話を残したとされている。 1410年(16歳)、11年間修行した安国寺を出て、学問・徳に優れた西金寺の謙翁(けんおう)和尚の弟子となる。謙翁は自身の名前・宗為から一字を譲り「宗純」の法名を与えた。一休はこの謙翁和尚を心底から慕っていたらしく、1414年(20歳)に和尚が他界した時は、悲嘆のあまり、来世で再会しようとして瀬田川に入水自殺を図っている。 運良く助けられた彼は、翌年から滋賀堅田(かただ)祥瑞庵の華叟(かそう)禅師に師事した。華叟は俗化した都の宗教界に閉口し、大津に庵を結んでいた。志は高かったが餓死しかねないほど師弟は貧しく、一休は内職をして庵の家計を支えたという。 1418年(24歳)、ゴゼ(盲目の歌方)の平家物語を聞いて、無常観を感じた彼は「有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)に帰る一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と詠んだ。有漏路の“漏”は煩悩の意味。つまり「人生は(煩悩溢れる)この世から、来世までのほんの一休みの出来事。雨が降ろうが風が吹こうが大したことない」とした。これを聞いた華叟は、歌の中からとった「一休」の号を彼に授けた。 1420年(26歳)5月20日の深夜、一休は琵琶湖岸の船上で座禅をしていた際に、カラスの鳴く声を暗闇に聞いて「カラスは見えなくてもそこにいる。仏もまた見えなくとも心の中にある」と悟りに至ったという(後の行動から、“禅僧は悟りへの欲求さえも捨てるべき”“悟る必要はないということを悟った”とも言われている)。華叟は一休を後継者と認め、印可(いんか、悟りの証明書)を授けようとしたが、権威を否定する一休は、これを頑として受け取らなかった。28歳、大徳寺7世の追悼法要にボロ布をまとって参列し、この頃から奇人和尚と噂され始める。 1428年(34歳)、師の華叟が没したことをきっかけに、一休は庵から出て庶民の間に飛び込んで行く。1人でも多く、そしてあらゆる階層の人に仏教の教理を易しく説く為に、彼は一ヶ所の寺に留まらず、一蓑一笠の姿で近畿一円を転々と説法行脚して回った。 38歳、崩御する直前の実父・後小松天皇と初めて対面する。 ※ この頃、一休は堺・南宗寺に庵を結び、弟子であり実子の紹偵(しょうてい)と住んでいる。 1437年(43歳)、17年前の印可状がまだ保管されていたことを知り、一休は火中に焼き捨てた。1447年(53歳)、二度目の自殺未遂。大徳寺内の派閥争いから僧侶数人が投獄され、自殺者まで出たことに胸を痛め、そして堕落した僧界に失望し、山へ入って断食死を試みる。この時は天皇自らの説得(親書)を受けて思い留まった。 1456年(62歳)、これより200年前に尊敬する大応国師(臨済宗の高僧)が創建し、その後兵火に焼かれ荒廃していた妙勝寺を、一休は恩返しの為にと約20年以上かけて修復。新たに酬恩庵として再興した。以後、この庵が一休の活動の中心地となり、これを知った多くの文化人が一休を慕って訪れた。 1461年(67歳)、浄土真宗の中興の祖、蓮如が営む親鸞200回忌に参列。一休は19歳年下の蓮如と、宗派の違いや年の差を超えて深く親交を結んでいた。互いの思想に敬意を払い、教えを学び合っており、一休はこんな歌を残している。「分け登るふもとの道は多けれど同じ高嶺の月をこそ見れ」(真理の山に向かう道は違うけれど、同じ月を我らは見ているのう)。他宗と見れば排斥しあう風潮の中で、一休の器の大きさが感じられる歌だ。 1467年(73歳)、京都で応仁の乱が勃発。一休は戦火を避けて奈良、大阪へと逃れ、1470年(76歳)、住吉薬師堂で鼓を打つ盲目の美人旅芸人・森侍者(しんじしゃ)に出会う。彼女は20代後半。2人は50歳の年齢差があったが、一休は詩集「狂雲集」に「その美しいエクボの寝顔を見ると、腸(はらわた)もはちぎれんばかり…楊貴妃かくあらん」と刻むほどベタ惚れし、彼女もまた彼の気持を受け入れ、翌年から一休が他界するまで10年間、2人は酬恩庵に戻って同棲生活を送る。 長年にわたって権力と距離を置き、野僧として清貧生活を送っていた一休だが、1474年(80歳)、戦乱で炎上した大徳寺復興の為に、天皇の勅命で第47代住職(住持)にされてしまう。「さて、再建費用をどうしたものか」。一休が向かったのは豪商が集まる堺。貿易が盛んで自由な空気の堺では、破戒僧一休の人気は絶大だったからだ。「一休和尚に頼まれて、どうして断わることが出来ようか」。商人だけでなく、武士、茶人、庶民までが我れ先にと寄進してくれ、莫大な資金が集まった。5年後、大徳寺法堂が落成。一休は見事に周囲の期待に応えた。 ※ 一休は大徳寺の住職となっても寺には住まず、酬恩庵からずっと通っていた。(たぶん彼女と離れたくなかったからと思う) 一休は死の前年に等身大の坐像を弟子に彫らせて、そこへ髪や髭を抜いて植え付けた。これは、髪や髭のある像を残すことで、「禅僧は髪を剃るもの」などといったつまらない形式に捉われず、精神を大切にしろという目に見えるメッセージだった。「一休の禅は、一休にしか解らない」「朦々(もうもう)淡々として60年、末期の糞をさらして梵天(ぼんてん、仏法の守護神)に捧ぐ」と辞世を残し、当時の平均寿命の倍近い87歳まで長寿して、マラリアで亡くなった。 臨終の言葉は「死にとうない」。悟りを得た高僧とは到底思えない、一休らしい言葉で人生を締めくくった。 一休は他界する直前、「この先、どうしても手に負えぬ深刻な事態が起きたら、この手紙を開けなさい」と、弟子たちに1通の手紙を残した。果たして数年後、弟子たちに今こそ師の知恵が必要という重大な局面が訪れた。固唾を呑んで開封した彼らの目に映ったのは次の言葉だった--「大丈夫。心配するな、何とかなる」。 現在、酬恩庵は一休寺の名で親しまれている。一休が死の前年に建てた墓(慈揚塔)は境内にある。しかし!彼が天皇の息子であったことから、その敷地だけが宮内庁の管轄にあり、内部の墓は見ることができない。菊の紋章の門から先は立入禁止なんだ。常に庶民と共に生き抜いた一休としては、庶民から隔離されている今の状況は不本意だろうなぁ。 境内には小僧版一休像もある。こちらは参拝者が自由に触れるとあって、誰もが頭を撫でていくので、目を細めないと直視できないほど頭部が光り輝いている。手にホウキを持っているのは、世の中の汚れを一掃して明るい世界にしたいとの願いが込められているという。 高価な法衣を着て大伽藍の奥に鎮座し、貴族のような扱いを受けていた当時の高僧たち。印可状を乱発し、金さえ積めば高僧と呼ばれる腐敗した宗教界を一休は痛烈に批判した。彼は印可状など無用と焼き捨て、禅僧でありながら酒を呑み、女性を愛し、肉を食し、頭も剃らず、戒律なんかどこ吹く風だ。一貫して権威に反発し、弱者の側に立ち、民衆と共に生き、笑い、泣いた。庶民と一緒になって貧困や飢餓にあえぎ、贅沢に溺れる権力者や、人々から偶像視され得意になり、地位を上げることしか眼中にない宗教者たちを口を極めて痛罵した。 戒律や形式に捉われない人間臭さから、庶民の間で生き仏と慕われた一休。権力に追従しない自由奔放な生き方は、後世の作家を大いに刺激し、江戸時代には「一休咄(ばなし)」というトンチ話が多数創作された。 禅の民衆化に大きく貢献した一休はまた、仏法を説くだけでなく、歌を詠み書画を描く風狂の人でもあった。 ■一休の歌 その書「自戒集」「狂雲集」「仏鬼軍」は戒律を守る真面目な僧侶にとっては、読めば読むほど恐ろしいものと言われている。「続狂雲集」には「淫」「美人」といった言葉が30回以上も登場する。こんな禅僧はいない。とはいえ、美しい歌も多いので幾つか紹介。 「白露の おのが姿は 其のままに もみじにおける くれないの露」(白露はありのままの自分でいながら紅葉の上では紅の露になる) 「持戒は驢(ろば)となり 破戒は人となる」(頑固に戒律を守るのは何も考えず使役されるロバと同じ。戒律を破って初めて人間になる) 「生まれては死ぬるなりけり おしなべて 釈迦も達磨も猫も杓子も」(世の中のものは全て生まれて死んでゆく、釈迦も達磨も何もかも) 「釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな」(釈迦という悪戯者が世に生まれて皆を迷わしたよ、爆) 「花を見よ 色香も共に 散り果てて 心無くても 春は来にけり」(花から色も香りも消えてもちゃんと春は来るんだよ) 「秋風一夜百千年」(こうして秋風の中で貴女と過ごす一夜は、私にとって百年にも千年の歳月にも値するものです) アニメに出てくる“しんえもんさん”は蜷川新右衛門と言って実在する一休の弟子。初めて一休を訪れたとき、彼は「仏法とは何ですか」と質問し、一休はこう答えた。 「仏法は 鍋の月代(さかやき) 石の髭 絵にかく竹のともずれの声」 (石のヒゲや絵の中の竹の葉ずれの音と同じで、そんなの見たことも聞いたこともないわい) この人をくったような返事に新右衛門はシビレたという。 ※おまけ「骨かくす皮には誰も迷いけん 美人というも皮のわざなり」(蜷川新右衛門) ■奇行伝説 一休は町に出る時、よく美しい朱塗りの鞘(さや)に入った刀を持っていた。ある時不思議に思った人が「なぜ刀を持っているのですか」と質問したら、一休が抜いた刀は偽物の木刀だった。そして「近頃の偉い坊さんどもはコイツと同じだ。派手な袈裟を着て外見はやたらと立派だが、中身はホレこの通り、何の役にもたたぬわ。飾っておくしか使い道はござらん」と言い放った。 またある年のお正月には、一休は杖の頭にドクロを載せて、ズタボロの汚い法衣でこう歌い歩いた。 「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」(元旦が来る度にあの世が近づいているのをお忘れなく)。 ■茶 侘び茶を創始し、茶室を考案した茶道の祖、堺の豪商・村田珠光(じゅこう)は一休の禅弟子。座禅の時の眠気防止に一休から茶を薦められたのが、そもそもの茶との出合いだったが、座禅を繰り返すうちに“茶禅一味”(いちみ、茶も禅も同じ)の悟りに達した。彼が始めた「侘び茶」は、従来の派手で形式中心の「大名茶」とは全く異なるもの。小さな四帖半の茶室の中では、人に身分など関係なく、そこにあるのは亭主のもてなしの心だけ。この心が仏だとした。まさに一休から学んだ「仏は心の中にある」であり、珠光は仏の教えをお経を通してではなく、日常生活(茶の湯)を通して具現化した。この思想は武野紹鴎(じょうおう)を経て千利休へと受け継がれてゆく。 ■トンチ話 足利義満は周建(一休)を邸に招き、困らせてやろうと魚を食事に出した。周建がパクパク食べるので「僧が魚を食べていいのか」と義満が問いただすと、「喉はただの道です。八百屋でも魚屋でも何でも通します」との返事。義満は刀を突き出し「ならば、この刀も通して見よ」。周建は「道には関所がございます。この口がそうです。この怪しい奴め。通ることまかりならぬ」。そう言って平然としている周建に対し義満がさらに言ったことが「あの屏風の虎を捕らえよ」だった。一休の生涯を見ていると、「渡るべからず」の物語は、ただのトンチの披露ではなく、世間の束縛やくだらない慣習は無視して「堂々と橋の真ん中を渡って行け!」とメッセージを込めたエールのようだ。 ※ 能楽には一休の詞に金春禅竹が作曲した「山姥」「江口」がある。 ※ 一休像の“髪”は500年が経ち風化して、今は代わりに動物の毛が植えられている。 ※ 一休の残した言葉で一番有名なのは、アントニオ猪木が引退セレモニーで朗読したこれだろう→「この道を行けばどうなるものか 危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし 踏み出せばその一足が道となる 迷わず行けよ 行けばわかるさ」。(一休ではなく清沢哲夫の詩「無常断章」という説もあります) |
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■禅心理学的生命観 | |
禅あるいは仏教における生命観を探ってみる時、それは初期経典の仏説から後代の論書とその注釈書に至るまで、数多くの論説のなかにみることができます。そして禅宗における論書で説明している生命観もまた、多くあります。なぜなら、仏教という宗教そのものが人間のための宗教であると同時に、哲学であり思想でもあるからです。 しかしそのような幅広い問題をいまここで全般的に探ることはできませんので、今回のフォーラムでは「禅心理学的生命観」という論題で、仏教において仏陀の覚りとその覚りの思想を背景に展開される人間の生命現象を中心に、その生命の展開現象の要点を簡略にご紹介したいと思います。 ■禅心理学とは 仏教において禅心理学とは何であるのでしょうか。ふつう、宗教といえば神・仏を中心に信仰する姿勢をとるものであるといえます。学問は少なくとも仏教学に関する限り、教法を中心に研究する姿勢を取るものであります。そして、禅は自覚を中心に修行する姿勢を取るものであるのです。それ故に禅心理学とは、自覚すなわち覚りの問題に立脚して論説する教法を基に心理学的次元で研究する、覚り中心の心理学であるといえるでしょう。加えてそれは狭義の意味では禅宗系統の禅思想を中心にアプローチすることが考えられますが、広義の解釈では仏陀の大覚思想を中心に展開される仏教における人間の覚りと関連する全ての理論が含まれるべきものであります。 |
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■「生」についての禅心理学的見解 ■有情と四生 生というのはただ遍く摂します。したがって有情と説くのです。ここでまず“有情”についての意味を探ってみます。この“有情”について仏教辞典では次のように説明しています。 有情とは、草木、山河、大地などの非情に対する語で、感情や意識をもつ生きものをいう。これは梵語 Sattva の訳で薩多婆、薩■と音写され、「衆生」とも訳される。羅什訳「阿弥陀経」には衆生、玄奘訳「称 賛浄土仏摂受経」には有情とあるように、衆生は旧訳、有 情は新訳とされる。「相応部経典」三には「有情、 有情と言われるのは、何故、有情とい われるのか。色(受・想・行・識)において、欲あり、貪あり、喜あり、渇愛あり、執着 し染著せるが故に有情と言わる。」とある。貪・瞋・痴の煩悩をもつ人間一般を意味するが、この点からは浄土教で人間を凡夫とよぶことと同じである。(浄土宗大辞典) また西藏語 sems-can は心を有するという意味で、望月仏教大辞典ではその有情について次のように説明しています。 成唯識論述記第一本に「利楽有情に乃ち多義あり、梵に薩■と云ひ、此に有情と言ふ。情識を有するが故 なり。今衆生に此の情識ありと談ずるが故に有情と名づく。別の能有なし。或は假者能く此の情識を有するが故に亦有情と名づく。又情とは性なり、此の性を有する が故なり。又情とは愛なり、能く愛ありて生ずるが故なり。下の第三に云はく、若し本識 なくば、復何の法に依りてか有情を建立せんと。有情の體は即ち是れ本識 なり。」と云へり。是れ有情の名は単に情識を有するものに限る。然るに倶舎論宝疏第一には「衆生とは即ち有情の異名なり。梵に薩■と名づけ、此に有情と名づく。梵に社伽 jagat と名づけ、此に衆生と名づく。即ち有情と體一にして名異なるのみ。」 そして“衆生”の語義に関しては多くの説がありますが、この“衆生”については望月仏教大辞典にても引用しておりますように倶舎論光記第一では次のように説明しているのです。 「衆多の生死を受くるが故に衆生と名づく」と云へるは、即ち衆多の生死を受くるが故に衆生と名づくるの 説なり。又大智度論第31に「但だ五衆和合の故に強いて名づけて衆生と為す」と云ひ、大乗同性經巻上に「衆生とは衆縁和合するを名づけて衆生と曰ふ。所 謂地と水と火と風と空と識と名色と六入との因縁より生ず」と云へるは、五蘊等の衆縁假 りに和合して生ずるを衆生の義となすの意なり。 さて、この“有情”には四生があり、“四生”(catasro-yonayah)とは有情、すなわち人間や動物などの心 あるいは感情をもつものの出生に、胎生・卵生・湿生・化生の四種があることをいうのです。この四生についての説明は仏教大辞彙にても引用して説明していますように、「集異門足論」の意によりますと、卵生とは例えば鵝・雁・孔雀・鸛鵠・鸚鵡のように、最初は卵殻で纏裹(てんか)され、その後卵殻を破って出産する場合を言います。胎生とは胞胎から生まれる場合で、例えば人間を始めとする象・馬・駝・牛・羊・鹿・猪のように最初は胎臓に纏裹され、その後胎盤を破って生まれる場合を言います。湿生とは、湿気から生まれる場合で、注道・穢厠・陳粥・叢草・稠林・草庵・葉窟・潤湿地などにおいて生まれる蟋蟀・飛蛾・蚊■・■蚋・麻生蟲などを言います。化生とは、頼るところなく■爾として生まれるすべての天衆・地獄の有情・中有の有情のことであると言っています。そして「大毘婆沙論」等によりますと、人の卵生について、世羅■波世羅の因縁を詳しく説しているのが見られます。それは即ち「その昔此洲に二商人がおり、海に入って二匹の雌鶴を捕獲した。その姿はとても美しく、すぐに此と合会して二卵を生み、卵中から二童子を出した。今の二人はこれだ」とあるのです。これはすなわち、人間の原初的な始祖は卵生から生まれたというのを言うもので、進化論的な論説をしているのです。また倶舎論寶疏巻8には四生の順番を次のように論じています。「卵は必ず胎あり、これの故に先に説く、胎に卵なきものあるが故に卵の後に在りて説く、胎は必ず濕なるが故に濕生の先に説く、所託あるをもっての故に化生の前に在り、濕にして胎なきものあるをもって胎生の後に在りて説く、無にして而も忽ち有るを名づけて化生と為す、此は縁最も少きが故に後に在り」と言うのです。そして上にあげた四生の中で、最も強く最も大勢なのは化生であると説明しています。 “化生はすでに余生に勝っていますが、後身の菩薩はこの化生を受けないで、現生に胎生 を受ける理由は なぜかというと、仏教大辞彙によりますとそれは大親属を示してその種性の勝を顕して、敬慕の心を生じさせ、諸親属を引導し、外道の謗言を未然に防いで、後に舎利をとどめて後昆を益するためであると言っているのです。すなわち化生の次には胎生 が勝り、卵・湿の二生は性多く愚昧で悪意樂が多く、苦海に沈溺して傍生類の生とするというのです。また無量壽經巻下には天上極樂に往生する者に胎生・化生の二類あることが示してあり、信疑の得失を顕しているのです。”(龍谷大) ■生と死 人間の生命や死についての考え方はさまざまでしょうが、究極的には人間の生と死という一つの存在様式についての問いが考えられるだろうと思います。すなわち、生命とはなにか、私がこの世の中で存在することの意味はどこにあるのか。死とはなにか、そしてこの生と死の束縛から解放されるというのはいかなるものであろうかなどの問題が考えられます。さて、仏教で生死というときには梵語の samsara を言うもので、これは輪廻を意味するものです。そしてこの輪廻説の現世的表現で私たちは迷いの果てしないことの生死海とか、苦しみの世界としての生死の苦海と言っているのです。ですから私たちはいつかは悟りの彼岸に渡らなければならない存在であるにも拘わらず、それが 困難ですから難度海ともいうのです。では人間にとって生と死とは何であるのでしょうか。仏教大辞彙ではこの生と死について次のように説明しています。生と死(jati-marana)とは有情存続の一期における始終を言うのであります。具さに分けてまた、生・老・ 病・死の四相とし、十二因縁にては生・老死の二としています。勝鬘經においてはこれを次のように説しています。 「死とは謂く根壊するなり、生とは新に諸根起るなり」とし、また「二乗は生死の畏れを度し(中略)生死 の恐怖を離れて生死の苦を受けず」ともいうのです。すなわち、諸經論によると生死の問題とともに凡夫有漏の生死界を離れて不生不滅の大涅槃を得るべきことを教えているのです。夫れ生あるものは必ず死し、因あるものは必ず果を尅するのです。これをもって生死輪廻して窮止することがないのです。大佛頂首楞嚴經巻三には「生じては死し、死しは生じ、生々死々して旋火輪の如く未だ休息あらず」と説き、成唯識論巻7には「未だ眞覚を得ざる時には恆に夢中に處す、故に佛説きて生死の長夜となす」ともいっているのです。このために世尊は大覚を證して群生を警覚し、生死海をわたすようになさったのです。即ち心地觀經巻一には「常に生死の苦海中において大船師となさって群品を濟ふ」とあり、また倶舎論巻一には「衆生を抜きて生死の泥より出でしむ」とあるのを解して「彼生死はこれ諸の衆生■溺の處なるによるが故に出づべきこと難きが故に所以に泥に譬ふ、衆生中において淪沒して救ふものなし、世尊哀愍して随つて所應の正法の教手を授け抜濟して出でしむ」と論じているのがそれなのです。そしてこの生死の苦痛なることは四苦・八苦の一に数えられ、あるいは生相をその形状から分けて、胎・卵・湿・化の四生とし、死相をあるいは命盡死・外縁死の二種、あるいは壽盡福不盡等の四句分別に分けて説明することがあります。生死を広義に解して分段・變易の二種に分け、二乗は分段生死を離れてもいまだに變易を離れず、菩薩は二種の生死を離れることによって大覺の果を證するというのです。 さて、このような生と死には七種の生死があると論じています。この七種の生死を仏教大辞彙では次のように説明しています。それはすなわち、“一切の生死を七種に分けるもので、世親釋攝大乗論巻14に七種生死の語が見えております。これを止觀輔行巻七ノ一においては攝大乗師の所立として、分段・流来・反出・方便・因縁・ 有後・無後の七種としたのであります。では、その七種の生死についての意味を探ってみます。一に分段生死とは壽に長・短の別あって身に大・小の異ある三界の果報についていいます。二に流来生死とは真に迷い、妄を追って生死に流来する衆生有識の初についていいます。三に反出生死とは発心修行して生死を反出する背妄の初についていいます。四に方便生死とは方便道を修して見思の惑を断じて三界の生死を離れ、更に界外の生を受ける入滅の二乗等についていいます。五に因縁生死とは無漏業を因とし、無明を縁として受生する初地已上の菩薩についていいます。六に有後生死とはまた有々生死ともいい、いまだに最後一品の無明を断ずることのできないことをもってやはり一番の變易生死を受ける第十法雲地の菩薩についていいます。七に無後生死とはまた無有生死ともいい、已に最後品の無明を盡ずるが故に後身を受けない等覺の菩薩についていいます。以上七種の生死の中で、方便生死以下の四種は等しく變易生死の分類であるので、これを四種變易と呼ぶこともあるのです。” |
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■人間の生命現象 仏教では人間の生命現象がどのように現れるとみているのでしょうか。仏教経典のあり方には多分に要素還元主義的な側面があります。それは五蘊無我という概念です。ここで五蘊の蘊(skandha)とは積集の意で、五つの集まりの意味であって、われわれの存在の五つの構成要素、即ち色・受・想・行・識の五つの要素の集合体をいいます。そして色(rupa)は物質性で、われわれの身体を、受(vedana)は感覚機能を、想(samjna)は表象機能を、行(samskara)は過去からの業力による情動機能を、識(vijnana)は精神的な面の主体性をそれぞれ意味するのです。そして我々人間の生命体は縁に依って、この五蘊の要素で構成されているのです。したがって縁が尽きると“ 我”といえるものが何もない、という意味になります。仏教経典の中にみられる生命観に一つの有機体としての人間個体、そしてその個体としての生命体を見出すことは難しいといえるでしょう。あくまでも多元的なダルマ(法)が縁起の中に刹那刹那、組み合わせを変えつつ生起してくる、その相続があるのみなのです。 |
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■縁起説 人間の生命現象はどういうふうに現れているのでしょうか。人間の生命発生についての仏教的な論説は第一に縁起説であります。それでは、仏教の経典で人間の生命現象を論説している縁起説を中心に探ってみましょう。 ●縁起と縁起説 まず、縁起とはなにかを探ってみます。この縁起の語意について仏教大辞彙では“縁起とは梵語、Pratityasamutpadaの訳語で、因縁生起の義にして縁となって果を生起するもの”であると説明しています。ですからこれはまた因縁というのです。この因縁について仏教大辞彙では次のように説明しています。 “因と縁との義。因は結果を招くべき親しき原因。縁は因を助けて結果を生ぜしむべき疎なる助縁をいう。業 を因とし煩悩を縁として迷界の果を感じ、智を因とし定を縁として悟界の果を感ずるが如き是です。縁のみを以って果を生ずることを得ざるは無論なるも、因のみを以ても亦果を生ぜず、必ずや因縁和合して果あり、故に一 切の有為法は悉く因縁の所生なりと云へり。因は恰も穀物の種子の如く、縁は恰も種子の発生を助くる雨露水土等の如し、種子の親因は雨露水土の助縁を借りて此に初めて果實を結ぶ、之を因縁和合と云ふなり。此の如く一切の萬有は因縁和合の上に假に生ずるもの”であるというのです。 このような説明は具体的に人間においては十二因縁説で表われております。これはすなわち、十二因縁における“無明は行の縁となり、行は識の縁となり、乃至生は老死の縁となり、此れ有るが故に彼れ有り。此れ起るが故に彼れ起りて、生死相続止まざるの理を明かにし、同時に亦此れ無くんば彼れ無く、此れ滅すれば彼れ滅するの理に由り、無明を断除して以て涅槃を求むべきことを説けるものなり”(望月)。とするものです。ですから印度の諸外道が個我及び諸法の自性實在を主張しているに対し、佛陀は凡べて之を否定し、萬有は唯だ相互に依存するものにして、独立的自性を有するに非ずとし、以て特殊の人生観世界観を建立せることになったのです。また縁起の語義に関しては、大毘婆沙論第23に次のように説明しています。“縁起とは是れ何の義ぞ。答ふ、縁を持って起るが故に縁起と名づく。何等の縁をか持つ、謂はく因縁等なり。或は有説は縁より起るべきことあるが故に縁起と名づく。謂はく性相ありて縁より起るべし。性相なきに非ず、 起るべからざるに非ず。復有説は有る縁より起るが故に縁起と名づく。謂はく必ず縁ありて此れ方に起ることを 得るなり。有は是の説を作す、別別の縁より起るが故に縁起と名づく。謂はく別別の物、別別の縁より和合して起る。或は復有説は等しく縁より起るが故に縁起と名づく。” しかし説一切有部等においては、この如く十二縁起説に基づいて次のような発展的な論説を展開させているのです。“延いて一切有為の諸法の縁起相生を論じたるも、単に六識建立なるを以て、生死の苦果は唯即ち煩悩及び業の招く所なりとし、此の他に別に相続の主あることを認めず。然るに大衆部等に於ては根本識の存在を認め、尋いで唯識大乗に及んで七八二識を説き、萬有を以て第八阿頼耶識中の種子の開発となし、■に頼耶縁起の説を構成すると同時に、一面に於ては亦分別論者等が主唱せし心性本浄説より転じて如来蔵の教義を生じ、如来蔵心より一切の万有を発生すると説き、これを如来蔵縁起と稱するに至れり。思ふに此等は六識の外に一種の根本識體を認むるものにして、原始佛教の教義と径庭あるが如きも、而も同じく皆無明を以て迷界発現の元本となせるは即ち十二縁起説より発展せしものなるを證するものといふべし”(望月)。 そして十二縁起においてこれを旧訳では十二因縁と言っていますが、縁起という言葉は勿論新訳の語です。倶舎論巻十には「諸支の因分を説きて縁起と名づく、これ縁となって能く果を起すによるが故に」とあります。次に探ってみる十二縁起・業感縁起・頼耶縁起をはじめとする、眞如縁起・法界縁起等もまたこの因縁生起の義なのであります。では縁起論とはなにかについて見ていきましょう。これについて仏教大辞彙では次のように説明しています。 “縁起論とは実相論に対比される言葉であります。縁起論は宇宙万有の諸法が因縁によって生起し来る相状及び所以を明かにすることをその教理としているからこの名があるのです。実相論はまた実体論ともいうもので、諸法の実相本体を審かにしてその教理とするものであります。縁起論は諸法の因縁生起を論じてその研究は概して時間的にして、ある本源より諸法が開展することを論理的に説明しようとする態度に出て行き、実相論は諸法の本体実相を研めようとするが故に空間的でしかも直覺的に 実践主義の態度を取るのです。その縁起論系に属するものの中で、教理によって分別すると業感縁起・頼耶縁起・眞如縁起・法界縁起・六大縁起の説があります。業感縁起は倶舎等の説にして、諸法の縁起する所以、業力の所感にして、即ち善悪の業力 は善悪の果報を感じ、果報の所にまた業あって更に果を感じ、因果循環尽きないものとするものです。そして頼耶縁起は深密經・瑜伽論・唯識論等に基づく法相宗の説で、万法開発の本源は、衆生の心識である阿頼耶識中にあり、業力また此識中に種子として執持させられ、諸法その物の種子に力を与えて縁起させると言うのです。眞如縁起は諸法とは眞如が無明の縁によって起動して、恰も湛然たる海水が風の縁によって千波万波無量なるようで、頼耶縁起においてはなお各個人の頼耶識あって発現の本となります。しかるに眞如縁起に至っては絶對 なる眞如より発現するとなしているもので、これは主として起信論にはじまる説です。法界縁起は法界の諸法塵々ことごとく諸法を具して縁起し、その關係無盡で、啻に眞如の一法のみ縁起の本源であるとするのではないとみなしているものです。華嚴經に基づく華嚴宗の説はこれを言っているのです。そして六大縁起は諸法は地・水・火・風・空・識の六大より縁起し出でたるものであるとする説にして、これは眞言宗の説です。一方、実相論においては成実論は萬有に仮有・実有・真空の三方面があると立て真空をもって究竟第一義となし、中論・百論・十二門論等の論、般若經等に基づく三論宗は諸法皆空、不可得を主張し、絶對的空論をなし、法華經を宗とする天台宗に至っては即空・即仮・即中、三諦円融と談じて諸法存在がそのまま眞如實相であるとし、吾人の情想にあるようなものでなければ空であり、その空をそのままにして諸法は苑然として存し、柳緑花 紅、ことごとく実相真如の妙相であるが故に即ち中道であるとの現象、すなわち実在論をなしているのです。ただしこの二大教系は本来相反する説ではなく、その教理構成の要点を異にするまでにして互に相資くべきものなのであります。” それでは人間の生命発生の現象についての縁起論的論説を探ってみましょう。 ●十二縁起説 生命の発生現象については、縁起説、特に十二縁起説について、発生心理学的次元で解明する必要があります。また、釈尊の覚りもこの十二縁起についての内容である、と伝えられております。十二縁起論とは、過去の惑・業の結果、現在の世界に生を受け存在した後、また未来の生を引き入れる原因の業を作り、絶え間なく因果相続する理致を説く縁起論です。これについて仏教経典では次のように記されています。 十二因縁:十二種の因縁生起の意。十二支縁起 dvadasanga-pratitya-samutpada(巴梨語 dvadasanga-paticca-samuppada)といい、また十二縁起、十二縁生、あるいは十二因縁起とも名づく。即ち衆生が生死に流転する因果相依の関係を十二支に分類したもの。十二支とは1無明、2行、3識、4名色、5六処、6触、7受、8愛、9取、10有、11生、12老死なり。長阿含第十大縁方便経に「阿難、此の十二因縁は見難く知り難し。諸天魔梵沙門婆羅門の未だ縁を見ざる者、もし思量観察してその義を分別せんと欲せば、即ち皆荒迷しく能く見る者なし…(中略)…、是の如く癡を縁として行あり、行を縁として識あり、識を縁として名色あり、名色を縁として六入あり、六入を縁として觸あり、觸を縁として受あり、受を縁として愛あり、愛を縁として取あり、取を縁として有あり、有を縁として生あり、生を縁として老死憂悲苦悩大患の所集あり。これを此の大苦陰の縁となす。」と言い、また雑阿含経第十二に「仏比丘に告ぐ、縁起の法は我が所作に非ず、また余人の作にも非ず。然るに彼の如来出世するも、及び未だ出世せざるも法界常住なり。彼の如来は自ら此の法を覚して等正覚を成じ、諸の衆生の為に分別し演説し、開発し、顯示す。… (省略)」(「望月」) そして以上の論説については、各経典の説と現代の発生及び発達心理学的知見を総合してみますと、次のように論ずることができます。 (1)無明(avidya)-過去のすべての煩悩位から現在の果が熟れるまでの顛倒心の状態をいいます。これは無明惑すなわち法性を陰蓋し(善・悪業含有)、明に反する状態で、これは痴に同じです。ここで、顛倒とは自性に闇い、妄に随って真に迷い、妄惑に随順して妄業を作り、この妄業に依って展転相生し、三界に輪伝して妄を捨てて真へ帰る能力がないことをいいます。こうして生命の「主人公」は無明の心と無常を常という想と所取中に分明の執見のいわゆる三顛倒を起こしつつ入胎処へ尋ねて行くのであります。 (2)行(samskara)-過去のすべての業の作用で、無明が発する福・非福、不動の三業で働き、無明とともに種子及び現行に通じることになります。過去の業には<1>牽人の業-人生の身を受けるべき業と<2>円満の業-他の一切の造業したものがあります。 (3)識(vijnana)-受胎には三事和合、すなわち母体の快適さ、父母の交合、縁のあるgandharvaの現場に来ているべきです。-心王識:結生の種子識(入胎時の種子)→ gandharva(尋香行)→先体反応→透明帯通過→受精能獲得(性の決定)→相続心(愛・憎)をもって妊娠します。 (4)名色(nama-rupa)-受精された受精卵は卵割を続けつつ、子宮に入り胞胚の状態になります。胞胚は胚盤胞の状態になって子宮内部組織に結着→着床をし、胎盤を形成します。心王識の指示で manas 識の萌芽え(開導根-神経の最初出現は受精3週間後)→alaya 識と manas 識の共同作業で-等無間縁依(alaya 識の遺伝情報伝達)、倶有依(manas 識の遺伝情報相続)→身体を形成していきます。 1週:胎中のkalala(和合)-受精後着床までをさします。4日目に男女性判別ができ、7-8日目に着床します。 2週:arbuda(泡)-胚芽の幹細胞(受精後2週)が形成されます。司令塔の役割をする心王識の指示に依ってpesi,ghana 段階へ発達します。 3週:pesi(血肉)-2.5oの大きさになります、神経板、神経溝が形成されます。そして脳胞、心胞が生起します。 4週:ghana(堅厚)-4oの大きさ。神経管、心臓板が発生します。五臓六腑の根が生起しますが、まだ支相はありません。 5週:prasakha(支節)-8oの大きさ。5週頃上形相ができます。着床はこの時までをいいます。(大毘婆沙論第23) (5)六処(sad-ayatanani)-第五 prasakhaの後続発達段階です。六根は六境と相互渉入して六識の発生が始まります。そして胎生3週頃視覚器(眼胞)が生起し、6週頃神経節細胞出現、胎生4週頃聴覚器(耳胞)発生、7週頃蝸牛管発生、6週頃耳、鼻、手足が発生します。6週-10-12oの大きさ。羊水に浮かび、視神経、頭蓋骨の発達現象が見られます。7週-17-18oの大きさ。性分化徴候が見られ、胃が整立します。さらに肛門が開かれ、尾部が退化します。8週-25-30oの大きさ。人間としての基本的な器官とシステムが整備されます。このとき身長の1/2が頭部です。 (6)触(sparsah)-六根が対象との接触のため所依機能が発揮されます。根、境、識がまだ倶生していなくてもその結果が同じであることから、これを和合といい、これが和合して生じる感覚が触です。2ヶ月-25-30oの大きさ。2ヶ月を過ぎつつ神経系、循環系の外界刺戟に対する反応を見せます。3ヶ月-7-8pの大きさ。内臓器官の顕著な発達が見られます。心拍動が活発になり、内外性器も区別が可能になります。 (7)受(vedana)-第六意識相応の貪愛、眼耳鼻舌身意の六対境について、外界のものを受け入れる機能(感覚受容器)が発達します。触と受の生起は倶時に起こるのです。(倶舎論、大毘婆沙論)六触より六受-5は身受、1は心受です。(阿毘達磨蔵顕宗論)4ヶ月-16-18pの大きさ。胎盤が完成し、四肢が発達します。胎児は運動を始め、手足と身体を活発に動かし、指をしゃぶります。さらに口で羊水を飲み、排泄をします。 (8)愛(trsna)-貪愛、婬愛、資具愛が発生されるとこのために四方に探って労倦をきらうことがありません。(大毘婆沙論第23)そして随触を領納し、(倶舎論巻1)そして欲望の発生現象が現れます。5ヶ月-24-26pの大きさ。頭部は全体の1/3になります。そして爪が発生します。さらに胎動が活発化します。6ヶ月-30-32pの大きさ。脳のしわが寄り始まり、筋肉と骨格の発達現象が顕著になります。 (9)取(upadana)-煩悩の別名をさします。すべての存在への関係結びが発生します。愛欲の対象に意を傾けます。そして外部世界の分別が始まります。すべての資具をもらうために忙しく動作し、自発的活動を見せます。取は有情をして業火を起こし、行相に勇健な姿を見せます。7ヶ月-35-40pの大きさ。老人のような姿になります。28週より歩行運動のような兆候が見られます。そして胎便が認定されます。8ヶ月-40-43pの大きさ。大脳皮質が完成されていきます。 (10)有(bhava)-生成-存在を意味します。これは人間の人格体が完成されたことを意味します。それと同時に生死の苦果がある迷界の存在を示します。生を受ける業を作り(倶舎論)-母体からの影響を受け-次生を受ける業を集積するのです。9ヶ月-45-48pの大きさ。体重2300-2700g。皮下脂肪の発達によって、老人のような姿はなくなります。10ヶ月-49-51pの大きさ。体重2600-3400g。こうなりますと成熟児と呼ばれます。 (11)生(jati)-母体に托して前生より相続する識心によって五蘊和合した身を生起するものが生有です。したがって、当有の生支は現在の識と同じです。(倶舎論第9)-これは憂・悲・苦・悩を同伴します。 (12)老死(jara-marana)-生の刹那から名色、六処、触、受は老死していきます。老-五蘊すなわち色(身)、受(感覚)、想(取像)、行(造作)、識(種子の了別識)の分離過程をいいます。死-生来の五蘊の解体現象をさします。→命尽、福尽、現世の外縁に依り-自身愛、眷属愛、財産愛、後有愛が生起します。→そして主人公はこの身体を離れていきます。 ●業感縁起説 惑に基づく業を原因とし、その結果として苦なる生存の流転があるという「惑-業-苦」の業感縁起論では自らの行為に対する「果」をうけとるということが挙げられます。そしてこの業感縁起説では生命の主体である“ 有”で論説され、この“有”は次のような四有説として説明されています。ではまず業感とは何かを探ってみます。仏教大辞彙では次のように説明しています。 “業感とは、善悪の業力によって苦楽の果を感じることをいうのです。苦楽等一切の事は偶然にして存するものにありません。必ず原因があります。その原因は善悪の業力にして、苦楽はそれに由って感じる果報なのであります。だからこれを業感というのです。また順正理論巻33では次のように論じています。 「世現に見る愛非愛の果の差別生ずる時は定んで業用による、農夫の類の如き正業を勤むるによって稼穡等の可愛の果を生ずることあり、諸の愚夫、盗等の業を行ずること有れば便ち非愛の殺縛等の果を招く、また見るまた初、胎に處するより現因に由らずして樂あり苦あるあり、既に見る現在要ず業を先と爲して方に能く愛非愛の果を引得す、前の樂苦必ず業を先となすを知る、故に因無きに非ず」 以上のようにその業感の理致を説明してあるのです。ですから、業感縁起というのは有情業力の所感によって世界の一切現象を縁起するとする説をいうのです。仏教大辞彙によりますとその縁起説は次のように説明されています。倶舎論巻13に「世の別は業によって生ず」とあるように、この世間には有情の正報があり、依報があります。そして正報に妍醜智愚の別があり依報に山川草木の差があります。そしてその果報は苦にして厭ふべきものがあり、楽にして愛すべきものがあり、千態万状ですといえども、ことごとく一に業力の所感によるのです。 また業とは有情の身語意に昼夜造作する所の善悪の事を言うのです。業とは一時あるといっても、その力用は 消滅せずして必ず結果を招いて来るのです。善業には可愛の果があり、悪業には非愛の果がある。人天鬼畜等の總果を受くべきものを引業といい、その上に妍醜智愚の差別を存在させるものを満業という。現在世において果を感ずべきものを順現業といい、次生において果を感ずべきものを順生業といい、その已後において果を感ずべきものを順後業といい、感果及びその時の不定なるを順不定業といいます。そしてこれらの業の複雑なる関係によってこの差別ある世界の一切現象を縁起するというのです。それでは四有においての“有”とはなにかを仏教大辞彙から探ってみます。 “有(bhava)とは迷の果の名で、三界を三有といい開いて二十五有・二十九有となして、また生有・本有・ 死有・中有を四有というようなことはこれをいうのです。迷界苦樂各別の果、善悪各別の原因によって感じ、生死相続し因果ほろびないため“有”というのです。そして四有(catvara bhavah)とは即ち有情の輪廻転生における一画を四期に分けたもので、中有・生有・本有・死有と称するものです。この四有の中で中有とは前生と今生、もしくは今生と来生との中期においてある身をいい、生有とは今生托生の初の身をいいます。そして本有とは生れ畢りて死ぬまでの身をいい、死有とは今生最後の生命体が完全に抜けて行く間の身のことをいいます。これらを四有と総称することは有は不亡・存在の義で有情流転の因果、展転相続して滅亡せず、五蘊和合の有情生死輪廻しつつ常に三界に在るので、その一期を画して四とするを四有と称するのです。” そしてこの有説については小乗家と大乗家の説がありまして、その内容を仏教大辞彙では次のように説明しているのです。 “小乗家の説:四有の中で、生有・死有はおのおの生・死の一刹那をとり、本有は長短一ならず、然るに四有を立つる中で染汚・不染汚を分別し、或は欲界・色界・無色界の三界に■属するかどうかを論ずるについて、雑心論巻九・倶舎論巻十によれば生有は唯染汚性、本有・死有・中有は両者に通じるとし、三界の中には欲界・色界に四有あり、無色界には中有なしとしています。 大乗家の説:唯識家においては四有を立てても、涅槃經においては一定せず、乃ち大乗義章巻八に有部・成實 論等の偏へに中有の有無を断じているのを貶して諍論の起る所以と爲し、涅槃經の文に「我が諸の弟子、我が意を解せずして唱へて言ふ、如来、中陰(中有)は一向に定んで有り、一向に定で無しと宣説す」とあるのを引いて、大乗の所説はこのように偏執がなく、有無宜しきに随ひて上善・重悪のようなものは牽引力強く果報を招くことが速いので中有なく、余の業は遅鈍の故に中有あって、故に偏へに定めるべきではないとしました。” こうして結生相続せしむる無明煩悩について瑜伽論ではその他の一切煩悩全てがそうであるとし、雑集論では 倶生の愛及びその相応法を論じています。そして成唯識論巻8にこの二説を会して後者は正しく潤生するものに対し、前者はその助力するものを出すためであると論じているのです。 ●■耶縁起説 ■耶縁起とは法相宗にて立てる説で、諸法は阿■耶識より縁起するという説をいうのです。これをまた阿■耶縁起・唯識縁起ともいいますが、これは人間における生命の主体性を第八阿頼耶識に求めているのです。凡そこの第八阿■耶識は仏教大辞彙の説明によりますと、“有情各箇に存在し無始已来相続しつつあるものです。これらの識には一切法の原因即ち種子を攝蔵し、乃ち適当の生縁が具する時は色心萬差の諸法を現起し来る、実にこれは能縁起中の能縁起というべきもので、前六識所縁の六境の本質も、前七轉識その者も悉く此識の縁起に係らないものはなく、故にこれを■耶縁起と呼ぶのです。その縁起の根本を第八識に求めて色心諸法の実有を認めず、而も業によって撃発される実体と恆時に業感の勢力を保持する実体とを明かにしたる点は小乗の業感縁起とは異なります。” さて、瑜伽師地論巻一では“中有”とは“健達縛”という概念と共に“中有”の概念の代わりに“阿■耶識” (alaya-vijnana)という全く禅心理学的な概念としての用語を導入し始めています。このalaya 識の意味は識を貯蔵するもののことで、蔵識とも訳され、生命の種子という意味での種子識ともいいます。この“阿■耶識”は「唯識説で説く最も根元的な識のはたらきであり、覆われて潜在している意識を表します。そして心の奥底に蔵されている識であり、現にはたらきつつある識(Pravrtti-vijnana 七識)が生じるための 根底・基盤となるものであります。これを根本識(mula-vijnana)ともいうのですが、またこれは非可視的、非 現象的で、意識下の意識のようなものであります。これは前の瞬間の心作用の印象(習気・種子)をたくわえ、次の瞬間の心作用をひき起こします。一切現象の直接原因である種子をうけこみ、それを自らに貯蔵する精神的 原理でもあります。アーラヤとは貯蔵所の意味なので、何か実体的・場所的な解釈をひき起こしやすいが、その本性は空であるといえます。唯識説では個人存在の主体、さらに輪廻の主体であり、身体の中に存する微細なものであると考えられています。」 このようなalaya 識は母胎に入胎して現世にて新しい生命体を形成する生命の主人公として、説明されてい るのです。そして以上のような阿■耶識は、中有から生有へ、生有から本有へ、本有から死有へ、死有から中有への状態へ、無始以来の過去より大覚による解脱の瞬間まで、その生命の出没現象は決して断切されない識神として、生命の主人公になります。この識が自体内に善と悪と無記というすべての業(karma)の種子を貯蔵したまま、過去の生より現在の生へ転移されて、新しい生命体を形成するのであります。すなわちこの阿■耶識が托胎することによって、一つの生命体の発生現象が始まるのです。 では、生命の種子としての阿■耶識の意味を総合仏教大辞典からより詳しく探ってみましょう。ここで生命の 種子とは梵語bija の語訳で、その種子の意味は次のようなものです。 (1) 穀類などがその種子から生じるように、物心すべての現象を生じさせる因種となるものです。また種ともいい、穀類などの種子を外種または外の種子というのに対して、唯識宗ではこのような種子は阿頼耶識の中に蔵されるとし、これを内種または内の種子ともいいます。この内の種子は生果の功能(結果を生じるはたらき)を指し、これは現行の諸法(現在に顕われてはたらく諸現象)によって、あたかもものに残り香がしみこむように、阿頼耶識に熏習(においづけ)された慣習の気分であるから習気とも名づけます。 (2) 唯識宗では、種子は阿頼耶識中に蔵されるとします。その関係を成唯識論巻2には、 阿頼耶識は体、種子は用、あるいは阿頼耶識は果、種子は因の関係にあり、不一不異であると論じています。また同巻2では、種子は次の六種の特質を具えなければならないとされており、これを種子の六義といいます。(法藏館)種子六義とは即ち成唯識論巻ニと攝大乗論(上)において次のように説明しています。 1.刹那滅。刹那ごとに生滅変化するものであること。常住不変のものは結果を生ずることができないので、必ず刹那刹那に生じては滅すべきこと。 2.果倶有。生起した結果(現象)と同時に離れずに存在すること。 3.恒随転。必ず同一種類のものとして連続して起こり、乱れることがなく、前後が異種類とはならないこと。識が生起する時、種子もまたしたがってはたらいていて、連続して間断のないこと。 4.性決定。種子とその種子のあらわした現象とは、性において決定していて変わらないものであること。たとえば、善の種子から悪の結果が出るということはありえない。善悪の性が決定していて、まじらないこと。 5.待衆縁。種子という一つの原因のみで現象を生起するのではなくて、必ず多くの縁によって現象を生起するものであること。衆縁の和合をまって結果を生ずること。 6.引自果。種子は必ず自己の結果を引生して他の種子の果を引生しないこと。物質と精神とについて、それぞれ別々に因果関係が存するということ。 種子は、以上の六種の条件を具備すると論じているのです。そして種子がいかにして起ったかについては、総合仏教大辞典で次のように説明されています。 “種子の生起説には本有説・新熏説・新旧合生説の三説があり、これらを主張する学流をそれぞれ本有家・新熏家・新旧合生家と称するが、法相宗では第三説を正しいと見ています。即ち、種子には無始以来阿頼耶識中に先天的に存在する本有種子(本性住種)と、後天的に現行の諸法により熏じ付けられた新熏種子(習所成種)とがあり、この二種の種子が合わせて現行法としてすべての現象を生じると見るのです。ところが本有説では本有種子のみを立てて新熏種子を認めず、現行の熏習は新熏種子を生じるのではなく、ただ本有種子を増長させるだけであると主張し、新熏説では新熏種子のみを認めて本有種子を認めないのです。 一般に種子には、有漏の諸現象を生じる有漏種子と、菩提の因となる無漏種子と言う二種の種子があり、有漏種子にはまた名言種子と業種子との二種の種子があると説明しています。名言種子は、名言(言語的表象)によって阿頼耶識中に熏じ付けられた種子であって、物心すべての現象が現在に顕われはたらく(現行の)ための直接の因であります。これにはまた表義名言種子と顕境名言種子の二種があります。表義名言種子は、意味を表す言語(表義名言)を第六意識が縁じて(認識して)、その言語に随って諸現象を変現するときに熏習される種子であり、顕境名言種子は、心・心所法である前七識の見分(主観)など(顕境名言)が対境を縁ずる(認識する)際に熏習される種子であるのです。” ここで唯識論でいう心と心所法とは心の主と客の働く法則としての概念を意味するものであります。この心・ 心所法は総合仏教大辞典によりますと、名言ではありませんが、名言がそれぞれの存在を表すように、心・心所 は対境を変現するから顕境名言といわれます。すべて名言種子は種子と同じ種類の現行(現象)を生じるので等流習気ともいわれます。次に業種子は、果熟(果報)を生じる直接の因である名言種子を助けて、善悪業による異熟を生じさせるはたらきのある種子であり、第六意識と相応する善悪の思(意志の精神作用で業の体)によって熏じ付けられます。異熟とは仏教語大辞典によりますと、善悪行為の因が異類・異時に成熟することの意で、行為の結果を言うものであると説明されています。 |
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■三事和合説 仏教と現代生命科学説における生命観についての1つの差異点は三事和合説です。現代の生命科学では、個体の生命の誕生は精子と卵子との出会いだけを注目していますが、仏教では次のような3つの因縁があることによって、生命体の主人公である識神がくることによって受胎ができる、と論じています。その3つとは何かというと、「増一阿含経」巻12では、父母が身を共にするに無病であること。そしてその場所には生命体の主人公である“識神”がきているべきである。そしてまた、父母になろう人々に、子を持つ縁があるべきである。この3つの因縁があれば受胎が成り立つ”と論じています。これを「同経」巻12では次のように説明しています。 “ある時佛、舎衛國祗樹給孤獨園にいました。爾の時世奠、諸比丘に告げなさって、三因縁有りて、識来て受 胎する。云何が三と爲すや。これにおいて比丘、母に欲意あって父母共に一處に集り、與に共に止宿するも、然もまた外識まだ来り趣かないので便ち胎を成じない。もしまだ識来り趣かんと望んでも、父母集らざれば則ち胎を成ることがない。もしまた母人欲なく、父母一處に集るも、爾の時父の欲意盛んで、母大に慇懃でなければ、則ち胎を成じない。もしまた父母一處に集在するも、母の欲熾盛にして、父大に慇懃ならずば、則ち胎を成じない。もしまた父母一處に集在するも、父に風病あって、母に冷病有れば則ち胎を成じない。もしまた父母一處に集在するも、母に風病有り、父に冷病有れば則ち胎を成じない。もしまた時あって父母一處に集在するも、父の身に水氣偏多にして、母に此の患ひなければ則ち胎を成じない。もしまた時あって父母一處に集在するも、父の相に子有りて、母の相に子なくば、則ち胎を成じない。もしまた時あって、父母一處に集在しても、母の相に子あって、父の相に子なくば、則ち胎を成じない。もしまた時あって父母倶に相に子なくば則ち胎を成じない。もしまた時あって識神胎に趣くも、父行いて在らざれば、則ち胎を成じない。もしまた時あって、父母一處に集るべきに、然るに母遠く行きていない場合は、則ち胎を成じない。もしまた時あって、父母一處に、集るべきに、然るに父の身重き患ひに遇う時識神来り趣けば、則ち胎を成じない。もしまた時あって父母一處に集るべきに、識神来り趣くも、然も母の身に重き患ひにかかれば、則ち胎を成じない。もしまた時あって父母一處に集るべきに、識神来り趣くも、然もまた父母の身倶に疾病を得ば、則ち胎を成じない。もしまた比丘、父母一處に集在し、父母に患ひなく、識神来り趣き、然もまた父母倶に相に兒有れば、此れ則ち胎を成じることができる。これを此の三因縁あって来れば、胎を受け、結生することになる。” では結生とは何かを探ってみることにします。結生とは輪廻転生の間、中有を沒して次の生を得ることをいうのです。人間においていわば母胎に托生することです。このとき身をもつ瞬間の主人公は言うでしょう。「母上、よろしくお願い致します。父上、よろしくお願い致します。」と。しかし、この結生の瞬間、極微的な存在である主人公は母の子宮の壁にぶつかりながら大きな衝撃を受け、気絶というか失神することになります。子宮の壁にぶつけられる衝撃と母の■水の影響で主人公は過ぎた中有の生をはじめとするすべての過去の記憶をほとんど忘れてしまうことになるのです。こういう状態ですので、受精後の一つの受精卵は二つに分割されるのにおおよそ31時間〜36時間の時間がかかり、おいおい気が付くことになりつつ、細胞の分割はその速度がはやまることになって3日目には16分割までなされます。そしてまた約1日〜2日後には子宮に入ることになるのです。ですので、結生してから子宮に入って胞胚の状態になり、この胞胚の状 態で数日間子宮内を自由に漂った後、遂に7日〜8日目に着床をすることになるのです。そして男児も女児も結生するときに父と母の遺伝因子が伝えられることによって、父母と子女の関係は第二の我(ぼく)という関係になることになるのです。 しかし日本の諺にも「形は生めども心は生まぬ」(子息表生むけれど裏は生まぬ)という言葉がありますように、これこそその意をよく表しているといえるでしょう。すなわち形は父母が生んでも心は別の主人公である識神の gandharva(健達縛)があるからであります。ですから、父は父、母は母、子は子なのです。そして、その個性の差異は過去からの業識の差異に起因するものであるとみなすべきなのです。 また「大宝積経」では、縁起説とこの三事和合説、そして輪廻説を中心に受胎される状況から生まれるまでの発達過程を詳しく論じています。しかし「大宝積経」では“中陰”あるいは“中有”という言葉を使用していますし、後代の「阿毘達磨大毘婆沙論」巻70では、“健達縛”という言葉を使っています。ところで「阿毘達磨倶舎論」では、その巻8で、三事和合説を論ずる中で、特に母の身体的な健康を強調して次のように論じています。 “経典に説く如く、母胎に入る為には次のような三事が倶現されるべきである。第一に母の身体が健康であるべきであり、第二に父母が交愛和合すべきであり、第三にこの時、健達縛がその場に現前すべきである。” また大毘波沙論の中には次のような説をもあります。 “三事和合して母胎に入ることを得、即ち父母倶に染心あって和合し、母身調適にして無病なる時、そして健達縛正に現在前するとき、この健達縛、爾の時、二心展轉して現前に母胎蔵に入る。”阿毘達磨大毘婆沙論巻第70によりますと、この中、三事和合すとは、父と及び母と、ならびに健達縛との三事和合することをいい、父母倶に染心あって和合すとは、父と及び母と倶に婬貪を起して、共に合会するをいい、母身調適にして無病なるこれの時とは、母、貪を起して身心悦豫して、身、調達と名くるときをいうのです。此によって、9ヶ月、或は十ヶ月の中、胎子を任持し、損壤させないというのです。 以上のように、仏教の経論では妊娠の成立条件として三事和合説を論じているのです。それ故に、受胎時の受精卵は単純な有機体ではありません。そこにはすでに、生命の主人公である“まことのぼく”すなわち“真我”が宿っているのが分かるのです。 |
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■輪廻説 仏教における輪廻思想を取り扱う時にはいつも縁起説と業説を背景にして説明しなければなりません。そして輪廻において問題になってきますのは、その輪廻の主体が何であるのかということです。それは各経典によってその主人公の名が違っておりますが、しかしそれは名の違いのみであり、実は同じ内容のものをいうのです。例えば、瑜伽師地論の gandharva とか倶舎論破我品の pudgala、または唯識論の識、というものがそれです。仏教において輪廻(samsara)とはその主人公が生死を経て三界六道を循環すること恰も車輪の廻転して窮りないようなことをいいます。これを六道輪廻とも生死輪廻とも称しますが、流転・輪転というのもまた同じです。心地觀經巻三には「有情輪廻して六道に生ずること車輪の始終なきが如し」とも「我れ輪廻に處して所依なし」とも説き、觀佛三昧經巻六には「三界の衆生、六趣に輪廻して旋火輪の如し」とあります。また成唯識論巻4には「有情、此れ(四根本煩惱)に由て生死に輪廻して出輪すること能はず」とあり、同じく巻8には生死輪転・ 生死輪廻・生死相続等の語があります(龍谷大)。結局輪廻とは輪廻転生と元々言うとおり、死後、別の生命体に生まれ変わり(転生)、さらには永続的に生死が繰り返されることをいうのであります。では輪廻の根拠について探ってみることにします。上のように生老死の生存をくりかえしていく姿を輪廻としておりますが、しからば、かかる輪廻のよってきたる根拠・理由は何でしょうか。前述した縁起論によりますと、輪廻の帰趣・始源は無明(avijja)に在ると説いています。「この状態からかの状態へと、くりかえし生死・輪廻をうける人びとは、その趣く境界が無明にのみ存する」ということです。そして初期仏教における輪廻思想が説されている経典の一つで「スッタニパータ」というものがありますが、この「スッタニパータ」の偈では愛執(tanha)が輪廻の根拠であると言っております。こういうふうな輪廻の根拠についての論説は結局無明が愛執のものであり、愛執が無明のものであることをいうのであるといえます。ですからこれら無明とか愛執とは、実に大いなる迷妄であり、それによってこの永い輪廻が始まっているといえます。早島先生もおっしゃるように、“ブッダが当時の輪廻説を採用した所以は、われわれの存在が愛執や無明などの惑に基づくものであることを明らかにしようとするものであったといえるのです。愛執は情的煩悩の最たるもの、無明は知的煩悩の最たるものなのです。そして、惑によって業がなされるのです。すなわち、我々は業の相続者なのであります。輪廻する人は自己の業によって輪廻するということです。”「増支部経典」では次のように説しています。「修行者たちよ、生けるものたちは業を所有し、業を相続し、業を母胎とし、業を親族とし、業を依所とし、善悪の業を作ってそれの相続者となる」。それ故に、まず、われわれはこの世が輪廻の生存界であり、わたし自身は輪廻の存在者であるのを自覚しなければならない存在であるのです。一方、唯識思想では、輪廻の主体を「アーラヤ識」に求めております。アーラヤ識とは別名「一切種子識」と 呼ばれるように、その中に過去の業の影響が種子として貯えられ、同時に現在、未来にわたって、自己の身心さらには自然界を生み出す根源体であり、過去の習慣や行為を内に攝する潜在意識とも理解されるものです。そしてその上に自我的で主客の対立した現象世界が作り出されると見ています。このような論説を主張するものを識転変説と言いますが、これによって苦に満ちた輪廻世界が展開されるとみるのです。唯識思想はこの「識」のあり方を修行によって、汚れた状態から清らかな状態へと変革されることを目指しています。つまり、汚れた識が転じて清らかな智慧を得る転識得智とはすなわちアーラヤ識中のあらゆる汚れた部分が除去され、清浄な部分のみで満ちることになるのです。これは「迷い」の心の状態から「悟り」の心の状態への転換でもあるのです。そして倶舎論の破我品ではその主体としての“プドガラ”(pudgala)という名を挙げておりますが、これまた、生命の主人公を語っているのです。しかし、阿部先生も論じられたように破我品中において有であると主張されるプドカラは犢子部の立場では我とは別であり、我は無であるけれどもプドガラは有るとなすのです。すなわち犢子部は我は仮有であるが、プドガラは実有であるとするのです。そして輪廻の主体としてプドガラをたてています。その部分の記述を探ってみることにしましょう。まず、プドガラは実に有る、と主張し「定めて我 は無いとするのは誤った見解である。」という経文を挙げています。これに対し「定めて我は有るとするのも誤った見解である。」とも説かれていると反論し、我無しとするのは断見、我有りとするのは常見の誤りであると非 難しています。この問答の次に輪廻に関する問題が次のように論じられています。ちょっと長くなりますが阿部先生の文を引用してみます。 犢:もしプドガラが無いならば誰が輪廻するのか。輪廻そのものが輪廻するというのは正しくない。また世尊は「無明に覆われた衆生は流転し輪廻す」と説かれた。反:プドガラは如何にして輪廻するのか。犢:他の蘊を捨ててから受け取ることによって。反:この宗[主張]は答えが出された。例えば刹那滅な火が相続によって移転していくように、衆生と呼ばれる蘊の集まりも、渇愛と執着をもって輪廻する。 ここでは輪廻の主体と輪廻の仕方が問題となっています。犢子部は、プドガラすなわち主体なしの輪廻はあり 得ない、といいます。対して論主は、どの様にして輪廻するのか、と問い返します。その問いについて、刹那滅である火が相続によって流転していくように、五蘊仮和合である衆生も渇愛と執着をもって相続によって輪廻するというのです。そして問答は次のように続きます。 犢:もしこの蘊だけならば、なぜ世尊が(次のように)説かれたのか。「私こそが、かの時にスネートラという師であった。」反:なぜ(そう)説かれてはならないのか。犢:諸蘊[心身の構成要素の諸集合体]が(前と今とでは)異なっているからである。反:それでは(前と今とで異ならない存在とは)何か。犢:それは同じプドガラである。 上の話は輪廻転生につながっている世尊の前世の話でありますが、犢子部の説によるならば、輪廻の主体であ るプドガラが、この世にスネートラとして生じ、また、世尊として生じるといいます。しかし、論主(ヴァスバンドゥ)の説はそうではありません。アートマンすなわち輪廻の主体とされるものは仮に施設されたものであるといっているのです。犢子部が引用している経文は、五蘊の相続においてある時はスネートラと呼ばれ、またある時は世尊と呼ばれる、ということです。要するに、我とは五蘊の相続において仮に施設されたものであり、我であると執着するものは我にあらざるものである、ということです。以上が破我品中において説かれる輪廻説で、 その根底にあるのは縁起説であるようにみえるのです。 さて、仏教における業はすなわち行為の概念としてこれには相即する三側面があるもので説明されます。即ち それは、規範としての行為、その規範に沿うように行動する行為・完了した行為によってある効果作用をもたらすもの(輪廻へ向かわせる一種の力として「果報」をともなう潜在的な力を指すこともある)にまとめられています。そしてそれらは行為者自身にのみ付着するとされ、これらの行為はその主体者の未来に影響を及ぼし、その人の再生のありようを決定する要因とみなされました。そこには、自らの行為によって生じた効果作用を自ら受け取る法則(いわゆる因果応報)が成立しているのです。 仏教経典にみられる生命観は、以上のような輪廻説を基本にして展開されています。従って妊娠という事情は、何もない“無”の状況から一つの生命が新しく生じたものではなく、輪廻の過程のなかで、一つの生命体の主人公が現在という時間と空間の中で、父母との因縁で結ばれることによって新しい生が始まるとみなすのであります。このような視点が、まさに仏教的生命観と現代生命科学的生命観におけるもう一つの根本的観点の差異点でもあるのです。ところでこの輪廻の生は三世に渡って絶え間なくなされております。ではこの三世について探ってみます。三世のことを仏教大辞彙では次のように説明しています。 “三世(trayo-dhvanah)とは時間を分けて過去と現在・未来のことをいいます。また前世・現世・来世とも いい、また前際・中際・後際の三際(trayo ntah)とも称します。過ぎ去れる時を過去といい、現に在る時を現 在といい、未だ来らざる時を未来というのは言うまでもないでしょう。阿毘達磨集異門足論巻3では次のように論じております。 「過去世とは諸行の已に起り、已に生じ、已に轉じ、已に聚集し、已に出現し、過去に落謝して盡く滅し離變 せしは、過去性・過去類・過去世の攝にして、これを過去世といふ。諸行の未だ起らず、未だ生ぜず、未だ轉ぜず、未だ聚集せず、未だ出現せざるは、未来性・未来類・未来世の攝にして、これを未来世といふ。諸行の已に起り、已に生じ、已に轉じ、已に聚集し出現して住し、未だ謝せず、未だ盡滅せず、未だ離變せず、和合して現前するは、現在性、現在類、現在世の攝にして、これを現在世と謂ふ」 以上のように仏教においてはどのような宗派であろうと生死の問題について、さまざまな形で論説し、またその解脱の道を論じているのです。 では、禅宗では人生問題をどうみているだろうか、これについて少し探ってみることにします。“禅宗では、他宗とは異なり、理論的な方法で生死という問題にふれることよりも、座禅実践に依り、単刀直入、解脱の道を体得することに重きを置きます。鈴木先生もおっしゃるようにいくら論理がたけていようと、実地に生死、解脱を体得しないかぎり、三界の生死輪廻を続けるのみであるとするのが、禅宗の考え方です。それ故に禅は見性悟道することが宗旨の根本になっているのです。それは、「無門関」の中には「撥草参玄は只だ見性を図る」と言う語がありますけれども、これをみても、禅宗は見性成仏することを第一義としていることが、はっきり理解できます。この見性とは、自己の本性を明了に看取することであります。また鈴木先生の引用文の中の臨済の師である黄檗希運の「宛陵録」には次のような言葉があります。 “達磨は西天より来って、唯だ一心法をのみ伝え、一切衆生本来是れ仏にして、修行を仮らざることを直指す。但だ如今こそ自心を識取し、自らの本性を見て、更に求むること莫れ。” とありまして、人々具足の本性を看取することが述べられています。この見性が臨済禅の家風であり、標的であります。そしてまた、鈴木先生の引用文の中の「六祖壇経」では、次のように説いています。 “若し自性を悟れば、亦た菩提涅槃を立てず。亦た解脱知見を立てず。一法の得べき無くして、方に能く万法を建立す。是れ真の見性なり。若し、此の意を解れば、亦た仏身と名づけ、亦た菩提涅槃と名づけ、亦た解脱知見と名づけ、亦た十方国土と名づけ、亦た恒沙数と名づけ、亦た三千大千と名づけ、亦た大小蔵、十二部経と名づく。見性の人は、立つるも亦た得し、立てざるも亦た得し、去来自由にして無滞無礙、用に応じて随って作し、語に応じて随って答え、普ねく化身を見して、自性を離れず。即ち自在神通、遊戯三昧の力を得るを、此れを見性と名づく。” 以上で分かりますように、自己の本性をつかみ取ることが見性であり、これが仏教における人間性の実現であるといえるのです。 |
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■結語 私は結論として、私たち人間の生命体の存在である“我”という概念を探ってみることで、今日の話題を終わらせたいと思います。 仏教大辞彙によりますと我(atman)とは体常一にして自在なる作用を有する個人または宇宙的のもの、また は他に対して自己を呼ぶ名です。前者の我は印度の宗教・哲学上において常にその思索研究の中心となるものですが、仏教経典に出ている“我”の説には分析的に説明する理論を大別するに仮我と実我と真我との説があります。 仮我は普通の称呼に用いられるものであります。実我は印度在来の外道(宗教家・哲学家)の主張する所のもの、または凡夫の妄情に自ら存する我の思想があり、これに対しては厳然として無我を主張して仏教の一特長としています。そして真我は涅槃の妙徳の上に存するものです。しかしただ、真我は涅槃の妙徳にして小乗の如き空寂の涅槃を説く者を談ぜない所、唯大乗においてのみこれを談じ、仮我・実我の二は通じて談じる所です。こ れについて現実的な生命の構造をもっと詳しく探ってみましょう。 まず“仮我”とは実に我は存在しなくても、五蘊仮和合して因果相続しつつあるものを他の相続に対して仮に我と称せしことをいうのです。諸経の初めに“如是我聞”といい、天親の浄土論に世尊我一心といえるようなものがこれです。これを現代の心理学では“自我”といっています。“実我”は薩迦耶見(身見)を本として凡夫迷妄の執情の前にあるものを言います。その我の意義は常一主宰を義となすとするのです。常一とはその体常住獨一にして主宰はその作用がまるで国王の如く宰相の如く自在なるをいうのです。これは現代心理学でふつう無意識的な世界として情動的な本能の世界あるいは個性の世界を意味するものです。 そして“真我”とはまた大我ともいうもので、涅槃の妙徳にして常楽我浄の四徳の中の我徳を意味しています。慧遠の「大乗義章」の意に依りますと涅槃の体としての真実なるについて我というと、その用としての自在なるを我というとの二義があります。体についていうとは南本涅槃経巻二“哀歎品”に「説いて諸法無我と言ふも実は我無きに非ず、何者かこれ我なる、もし法これ実これ真これ常これ主これ依にして性変易せずばこれを名づけて我と爲す」とあるのがこれです。そしてこの涅槃はこれ仏性にして衆生心中に在つては如来蔵と称せられるものであり、それ故にまたこれを我と称すのです。すなわち真我とは生命の“主人公”を指しているのです。 以上のように見るとき、私たちの生命体の主体である“真我”は縁起の法則に従って身をもらい、業と遺伝因子と胎内環境の影響によって Manas 識を発生させ、その Manas 識は、生まれつつ意識水準の自我を形成させる、ということが分かります。故に自我は死滅しても、生命体の主人公である“真我”は身だけを変えるにすぎないのです。 最後に私が申し上げたいのは、我々の生命は刹那刹那に生滅しつつ70年とか80年において更に大いに生まれ死ぬものであるのですが、そのような生と死はつまり一時的なものに過ぎないということです。その生命の真相は生まれては死ぬし、死んでは生まれ、永遠に生々し、絶え間なく死々して連綿として永遠に存在するということです。これは意識的なものではなく無意識的な存在であり、それが無明としての衆生であり、衆生としての人間の生命の真の姿なのであります。即ち、生と死は一つの体に二つの用の現われであるといえるものです。 最近の生命科学は遺伝科学的に永遠の生命は認めておりますが、これもまた無意識界の永遠の生命の姿なのです。これに反して仏教の禅心理学は、無意識界の意識化、無自覚の自覚化、あるいは無明から明るみへの永遠の生命を志向するものであります。このような生命というのは衆生としての無明的生命ではなくて、すでに暗黒の世界を脱した明るみの世界で存在している生存そのものなのです。 |
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■能役者が歩むべき「道」 | |
■道という概念 本日、中世能楽論における「道」の概念をテーマとしてお話しますが、まず初めに、なぜ、「道」という側面から考える価値があるかということについて少し話そうと思います。 比較宗教学の分野において、世界の宗教を比較するには、「教義」を中核とした論議をすることが普通です。しかし、最近、「教義」の観点から論じるよりは、いわゆる「マルガ」の観点から考えた方が良いのではないか、という意見が、BuswellやGimelloなどの宗教学者の間で持ち上がっています。このマルガという言葉は梵語ですが、英語でいうと「the path」になり、日本語で「道」と訳します。Buswell等がこの言葉で指そうとするのは、信者はどう生きるべきかという道です。彼らの考えでは、例えば、キリスト教や回教などの宗教では、信仰上の教えを信じること、「教義」は、非常に大切です。が、一方、他の宗教、例えば、道教、神道などでは、教義は別に問題にされず、「行なうべきこと」に重点が置かれるのです。 宗教において、「信じること」に対し、「するべき、生きるべき」という対比があると同様に、芸術思想にも、「美の概念」と、いわゆる芸術家の歩むべき「道」という対比の問題があります。「美の概念」は特に古代ギリシャで問題にされましたので、ヨーロッパでは、芸術思想を美学論という観点から考える傾向が強くあります。美学論とは、「何が美しいか」「美しさとは何であるか」という話です。日本の中世芸術論も、この「美学論」的側面から分析されたことはよくありますが、それがどこまで適切であるかは問題です。中世芸術論には、例えば、能楽論、連歌論、歌論などには、確かに色々な美学的な概念を表す表現が使われています。特に、能楽論では、「幽玄」「花」などという言葉が有名です。しかし、それらの言葉が使われた時、その言葉が表す美しさの種類を分析し、定義する目的をもって使っている訳ではないことは、明確です。しかし例えば幽玄という言葉が、一般的にはどのような意味をもって使われていたかという問題は、非常に難しい問題です。それぞれの芸術論を書いた作者によって、そして、その書かれた時によって、その意味は異なっているからです。 この美に関する用語の不確定さの理由は面白い問題ですが、ここで私が指摘したいことは、中世芸術論を書いた人々の目的は、美を論じることというよりは、連歌であれ、雅楽であれ、和歌であれ、その芸術における最高の美を創り出せるようになる為に歩むべき「道」を説明し、保存しようとすることです。 これら中世芸術の道々はそれぞれ違ったものであるはずです。が、興味深いことには、伝統的な芸道は、それぞれ異なる道であるけれども、共通して、その深い根本的なところに独特の同じ性格を有している、と指摘される学者の方々がおられます。では、この共通点がどこにあるか、一体何であるかは、その道の構造なのか、またはその道が養う感性なのか、あるいはその道で創る品の美しさなのかは、曖昧です。道々の中の共通点の存在を講じる学者は、日本的な「道」に見出される共通点の存在を示唆していると考えられる、有名な文章を例に上げています。徒然草で吉田兼好が様々の伝統的な道を比べるところや、芭蕉の名言「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の画における、利休の茶における、その貫く者は一なり」などが、その例です。小西甚一先生は、日本の中世の芸道の共通点には四つの要素があるとおっしゃっています。その四つは、専門性、継承性、軌範性、普遍性です。 もちろんこういう道があったなら、その歴史的成り立ちが研究の的と成ったでしょう。が、どんな共通性を有する道であれ、道というもの自体がいつかの時点で作り上げられ、発展してきているはずでしょう。実際に歌論、連歌論などを見ると、少なくとも中世時代には、違った分野での道は違った性格を有しているということは、はっきりと認識されていたようです。例えば、二条良基は、彼の連歌論で、連歌の師匠のもとで勉強する必要もないし、古い句を模倣する必要もない、と言い切っています。この考え方は、他の道、例えば短歌の道と根本的に異なります。 このように考えてきますと、世阿弥が描写した能楽の道は、特別に面白みを増します。世阿弥の描写は非常に詳細であり、かつ、世阿弥の描写した芸道を見ると、人々はこれこそが典型的な日本の「道」であると感じるようです。恐らく、そのような道を初めて完全に描写したのは世阿弥であると言っても過言ではないでしょう。もちろん、世阿弥の能楽論を研究すると、その能楽論の中において、世阿弥が年を重ねるにつれ、世阿弥の持つ道の概念が発展していっていることがわかります。また、世阿弥が能楽論を描写していく上で、他の道や、文学、宗教、哲学、武芸などの道から、広く、用語と観念を借り入れたことも顕著です。 さて、本題の世阿弥の道を調べる前に、中世の「道」が発展する以前の、東洋一般にある道の概念に少し注目しておきましょう。世阿弥は頻繁に禅宗の用語を使っていますが、仏教を通じて悟りへの道は幾つかの体系に依って説明されています。これらの道は、勤勉を経て無知から知恵へ、自我から無我へと導くのが基本的な特徴です。中国の思想の中でも、道の概念は詳しく論じられています。孔子と孟子などの場合には、道は社会と天に繋がっている、道徳的なものです。老子と荘子の道は、宇宙と深く関わりがあり、社会より個人を中心にし、言葉でも意志でも掴むことはできない存在です。このような一般的な道のイメージは、きっと中世の芸術論にも影響を及ぼしたでしょう。 |
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■風姿花伝からの「年来稽古条々」 世阿弥の秘伝書の中で猿楽役者が歩むべき道が最初に描かれているのは、最初に書かれた「風姿花伝」の冒頭の部分、「年来稽古条々」にあります。この「風姿花伝」は、世阿弥が父親観阿弥から受けた教えの記録として書いたものなので、その中に描写した道は世阿弥が教わったままのはずです。 「年来稽古条々」という文章では、猿楽役者の6歳から50歳以上までの間を、七つの時代に分けて、そのそれぞれの時代の稽古の要点を論じています。左には七つの時代の稽古の要点のうち、主要な部分を抜粋して表にしてあります。 七歳 気のままに せさすべし。さのみの物まねは教ふまじきなり。 十二、三より 童形なれば幽玄なり。 声も立つ頃也。この花、まことの花にはあらず、時分の花なり。 十七、八より 声変わりぬれば、第一の花失せたり。 一期の境ここ也と、生涯にかけて、能を捨てぬ、 二十四、五 この道に二つの果報あり。声と身形也。 この時分に定まる也。この頃の花こそ初心と申す。真の花にあらず。 三十四、五 この頃天下のゆるされを得ずば能を極めたりとは思ふべからず。 上がるは三十四五までの頃下がるは四十以来なり。 四十四、五 この頃よりは、能の手立、大かた変わるべし。 身の花も失する也。似合いたる風体をやすやすと、骨を折らで 五十有余 せぬならでは、手立あるまじ。「麒麟も老いては駑馬に劣る」 まことに得たりし花が故に能は花は散らで残りしなり。 上欄は、各時代の年齢ですが、皆さんお察しの通り、年は数え年で記されてあります。ここに抜粋した文章に聞き覚えがある方もおられると思います。 最初の段階では、子供が自然にしだす個性的な演じ方を、正さずに、自由にやらせます。基礎の謡、舞の稽古をさせてもいいけれども、物真似に関して教えることはいけないといっています。物真似というのは登場人物の姿と行動を再現する技術です。 二番目の時代には、子供の謡はちゃんと音階に合うようになり、その上子供の姿は幽玄なので、演じ方は魅力的になります。このときに基本的演技を育てなければなりません。 つぎは、青春期に入りますが、このころは子供の魅力を失います。声も姿も変わってしまい見物衆にも馬鹿にされてしまいます。役者はこの時期に諦めないように頑張るしかありません。 第四段階は生涯の芸が確立する時期です。この道に成功するためにいい声と姿は必要ですが、この時期に声も姿も定まるので大人の演じる芸能の基盤となります。このときに立合勝負に勝ったりすることがありますがそれはただ単に年の盛りからであり、真の花ではないことは自分で理解すべきです。その為に物真似を確実に体得し、有名な役者から指導を仰いだり、もっと稽古に励まなければなりません。 次は34歳の後の時期ですが、これは役者の盛りです。このときまでに京都で名人として認められないといけません。この時期以降は肉体的に衰えていくことは決まっているからです。 第六段階は、その体の衰えにふさわしい能に限って、演じてもよろしい。最後に、五十歳以降は演じることをやめる以外の手だてはありません。観阿弥のような真の花と言う奥義を体得している達人の場合のみ、花は残っているはずである、とのべています。 さて、それでは、この「年来稽古条々」を分析し、その幾つかの特徴を上げてみたいと思います。第一に、芸人の一生全体をカバーしているという性格ですが、「年来稽古条々」では、七歳という幼年期から、五十有余という老年まで、つまり役者の一生全体が取り上げられています。修練を行うべきある一定の期間のみに焦点を当てたわけではありません。これは、中世の典型的な「道」です。第二に、ここでの人生は、一連の段階が連続し繋ぎ合わされたものです。つまり、階段的なシステムであると考えて頂ければわかりやすいでしょう。幼年時から設定されたそれぞれの段階を、とばすことなく、一つ一つ順番にこなし、経ていかねばならない、という考え方です。このような段階的な修練の方法は、和歌論にも見受けられます。ただ、和歌論では、年齢は関係ありません。人生を段階的に年齢によって分ける考え方は、いつごろ発生したかは判断しにくいことですが、面白いことは、中国の孔子は、論語で人生の道を語る際にこれと同様の考えを示します。ご存じの一節だとおもうのですが、「子の曰く、吾れ十有五にして学にこころざす。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳従う。七十にして心の欲するところに従って法を超えず。」ということです。ちなみに、この構造を欧州の伝統と比較すると、例えば、欧州の伝統芸術であるオペラの習得法には、異なる技術をそれぞれ区別し、分けて説明することが普通で、順に踏むべき段階的な説明は顕著ではありませんし、ましてや、時系列な年齢ごとの習得方法も見当たりません。 「年来稽古条々」の特徴は、ここで描写されている人生に、技術、経験が増加する一方、容姿と肉体的能力が衰えてくるという矛盾(または板挟み)が潜んでいるところです。技術・経験と、容姿と肉体的能力というこの二面を合わせて、様々な「花」が描写されています。現代の私たちにとっては、年齢の増加にともなう美しさの減退という矛盾は、当然、かつ至極自然なことだと思われるかもしれません。ハリウッドの女優達がこの問題に随時悩まされていることが、良い例の一つです。この矛盾を題材にした映画も幾つも作られています。しかし、この矛盾は、自然なことであっても、必然的、つまり絶対に存在するべき事であるとはいえません。なぜなら、例えば、ハリウッド映画であれば、この問題に直面するのは、通常、男性の俳優ではなく、女優です。男性にとって、この問題は、絶対的かつ必然的問題ではありません。能楽役者である、世阿弥の場合には、この矛盾は、歴史的かつ社会的なルートから発生しており、興味深い問題だと思います。 鎌倉時代に、大寺院は、猿楽役者達を統制し、座という組織を組みました。座では、仏教の年功序列の概念を同様に用い、最年長の者が、座長となりました。僧侶にとっては、身体的な容姿と僧侶の仕事には何ら関係がないため、この年功序列の概念から定められた制度は、適切な制度でした。座の規則である壁書にも、年をとるにつれ、役者の有する権威が大きくなることが示されています。最も多額の禄が、座長に支払われ、能の為手(いわゆる太夫)は劣位のものとみなされていました。足利義満の時代に入り、義満をはじめ他のエリート武士達は、猿楽の魅力に引き入られ、これまで保護してきた田楽と同様、猿楽に対しても金銭的な援助を始めとする保護を与えるようになりました。田楽と同様、武士達は、演技において身体的な魅力に重点を置きました。実際、武士達にとって、身体的な優れた能力と、年齢による権威との矛盾は、大きな問題であり、軍記物語に取り上げられた一つのテーマでもあります。猿楽役者は、寺院から武士へと、その保護が変わることで、価値観の変更を余儀なくされました。奈良では最上位の座を獲得してはいなかった観阿弥の座は、立合勝負(つまり競演)に勝つことで、大いなる利益を上げることに成功しました。しかし幕府が支配する京では、最上位の位置を勝ち得たわけです。この過程を通して、同時に、観阿弥、世阿弥は、年長の長老的役者の支配からの拘束という古くからの制度を廃止することに成功しました。しかし、保護主体が変わり、経済的な基盤が変わったことは、また、新たな不安定要因でもありました。観阿弥の時代から、引き続いて後援、保護を得るためには、立合勝負に繰り返し勝つ必要があり、そのためには、継続して、観客の賞賛を得ねばなりませんでした。 鑑賞者の賞賛を得ることがますます重要となる中、世阿弥、観阿弥は、この問題に対処するために、「花」という概念を発展させました。「花」の概念では、一時的な花である「時分の花」と、「まことの花」が区別されています 。 「一時的」に対して「真」という区別の方法は、大昔のインドの形而上学を深いルーツとし、仏教により一般に広まりました。仏教の開祖である、釈迦牟尼の時代、インドの哲学では、事実と幻を区別する時には、事実は、不変のことであり、幻、事実でないことは、変化し常住しないことであると定義されました。故に、「無常」は変化するものであり、事実ではないという考え方が発生しました。このため、世阿弥の所論である「まことの花」と、「時分の花」の区別は、この仏教の概念に帰するものであるわけです。一時的なものと、永久のものに関して、事実と幻を区別することは、インドでは、瞑想の一つの道具として使われました。が、世阿弥の場合は、一時的な観客の賞賛を得ることよりも、得た賞賛を永久的に保持することが重要であると理解し、仏教にある事実と幻の構造が似ているため、この仏教の概念を、時分の花とまことの花に適用させました。 |
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■花鏡の「上手の感を知る事」から ここまでは、「年来稽古条々」と呼ばれる能役者の道について話してきました。この年来稽古条々は、世阿弥が最初に書いた伝書である「風姿花伝」の、第一番目の部分であり、父親の観阿弥や、年長の役者から習得した教えを保存しようという試みが見られます。 これから、世阿弥が成熟してからの傾向をみていきますが、この時期には、長年にわたる能役者としての経験の中で得た、そして培った知識を表現しようという試みが現れています。ここで、世阿弥の伝書「花鏡」の中から「上手の感を知る事」の章を例として取り上げます。この文章に表現している考えの構造は、態(わざ)、心、無心という三つの要素から成り立っています。この三要素の概念は、能役者の七時代のように、一段階を終えたら、次の段階に移るというように、順々に養成していくという段階的な性質をもつわけではなく、態の研究をしながら、同時に心の研究もする、または、心の研究をしながら、同時に無心の研究をすることもありえます。とは言いましても、演技を行う際には、心は態を、無心は心を上回ると考えられます。態よりは心が、そして心よりは無心をもって行う演技が、より洗練された演技の状態であるわけです。この構造がどこから出てきたのか、ですが、世阿弥は、もともと基本の技術的な習道、いわゆる二曲三体、物真似などといった技の習得に、非常に重きを置いていました。しかし、演出する者が、いかにして観客を感動させるかを考えると、態だけの問題ではなく、それは、心というものがあることに気づきました。また、こういう心、「面白さ」という意識的な感動というよりは、無意識な感動があるはずで、この無意識の境地での感動が、無心であると、世阿弥は考えました。 世阿弥の成熟してからの傾向であると云いましたが、しかしながら、実際には、世阿弥は、態と心の関係について、最初に書いた秘伝書の「風姿花伝」で既に取り扱っていました。「花は心、種は態なるべし」という有名な一節があります。これは、もちろん、種と花という因果関係を用いています。種は、養育され、いつか花になります。故に、能では、技を繰返し練習し、身につけることで、ひいてはある理解に到達します。つまり、いかに新しい、新鮮な芸を見せるか、いかに、観客に、面白みを伝えるか、という原理を理解するに至るのです。この「風姿花伝」に現れる心を、能勢朝次博士は次のように解釈しています「この心の働きに関しては、主として演出効果を完全ならしめるための工夫、考案として考えられていた。花を咲かせるための機転の働きであった」。 このように、世阿弥は、「風姿花伝」では、種と花の関係を使って、態と心の関係を説明しましたが、「花鏡」では、この関係をさらに発展させ、心の意味を拡大しました。世阿弥は、「花鏡」のなかの文章で、心は、態とは独立した関係にあり、また、心は態よりも優れた上の位にあるものと論じています。ここでその文章の前半をまず引用いたします。 音曲・舞・はたらき足りぬれば、上手と申也。達者になければ、不足なる事是非なけれども、それにはよらず、上手は又別にある物也。そのゆへは、声よく、舞・はたらき足りぬれ共、名人にならぬ為手あり。声悪く、二曲さのみの達者になけれども、上手の覚え天下にあるもあり。是則、舞・はたらきは態也。主に成る物は心なり。又正位也。さるほどに、面白き味わいを知りて、心にてする能は、さのみの達者になけれ共、上手の名を取る也。しかれば、まことの上手に名を得る事、舞・はたらきの達者にはよるべからず。是はたゞ、為手の正位心にて瑞風より出る感かと覚えたり。此分目を心得る事、上手也。しかれば十分に極めたる為手も、面白き所のなきもあり。初心より面白き所のあるもあり。しかれば、初心より、七八分、十分になりぬれば、次第■に上手の位に至れ共、面白きと思ふは、又別也。 この中から、次の文を考えましょう。 「面白き味わいを知りて、心にてする能は、さのみの達者になけれ共、上手の名を取る也。」 ここで、達者は技を身につけた人ですが、技と心は、異なる別のものであることがわかります。また、次のようにも言っています。 「舞・はたらきは態也。主に成るものは心なり。」 ここでは、心は態より、上に位置するものとされます。 「花鏡」では、既に心という概念は、より一層豊かな意味合いを持つようになりました。心には二つの新しい側面があり、一つは、反省、自戒の心、二つ目は、芸に生命を付与する根源力としての精神であること。このように、世阿弥は、心という概念を発展させました。 さて、「上手の感を知る事」の後半を見てみましょう。 又、面白き位より上に、心にも覚えず「あつ」と云重あるべし。是は感なり。これは、心にも覚えねば、面白しとだに思はぬ感なり。爰を「混ぜぬ」とも云。しかれば、易には、感と云文字の下、心を書かで咸ばかりを「かん」と読ませたり。是、まことの「かん」には、心もなき際なるがゆへなり。為手の位も如■此。初心より連続に習上がりては、よき為手と言はるゝまでなり。是は、はや上手に至る位也。その上に面白き位あれば、はや名人の位なり。その上に無心の感を持つ事、天下の名望を得る位なり。此重々を能々習て、工夫して、心を以て能の高上に至り至るべし。 ここで、考えの構造の中の、もう一つの要素が現れます。それは、心を超越するもの、最初に言いました「無心」にあたります。世阿弥は 「また面白き位より上に、心にも覚えず「あっ」と云重あるべし。是は感なり。これは心にも覚えねば面白しとだに思はぬ感なり。」 と述べています。ここで世阿弥は、無心という言葉は使っていませんが、この文章にある基本的な概念が「心がない」ということは明瞭です。世阿弥は、この「心がない」ということを、中国の易経を使って、おもしろい説明をしています。易経の六四卦というシンボルの一つは、感ですが、その感の意味は、大きなショックを与えることです。 世阿弥は、 易には、感と云文字の下、心を書かで、咸ばかりを「かん」と読ませたり。是、 まことの「かん」には、心もなき際なるがゆへなり。 と説明しています。三番目の要素を説明した文章の中で、最も重要なことは、心がない、ということです。つまり、いわゆる普通の心や頭の働きを超越した、境地です。 さて、心に関して、最後にもう一つ指摘したいことは、「心」が誰の心にあるか、心の位置が移動するということです。この文章の最初には、心は、役者の心(=理解)を指していますが、後に、心は役者の演出の中に移動しているように思われます。心がない、という話になると、これは観客の心のなさ、つまり無意識を指しています。心が誰に属するかという、心の持ち主に関する問題は、おもしろい問題ですが、複雑であるためここでは一つの考えだけを言いましょう。中世の時代には、現代に比べ、心とその持ち主の関係、心が個人に属するという考えは希薄だったということです。 |
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■禅の枠組みを借りた道 これまでの二つの例では、最初の例で、能役者の生涯である七つの時代を考えましたが、そこでは、熟練さと、年齢による身体的な才能の衰えが対照的に描れていました。次の二番目の例では、身体的、精神的、そして精神を超越する技術を習得する様子に注目しました。 これから、世阿弥が猿楽の道を話す時のもう一つの側面である、禅独特の用語の使用について考えていきます。実際、世阿弥は年をとるにつれ、ますます、禅の用語、名言などを使いました。この理由は、世阿弥が猿楽の道と、禅の道には、共通点があると考えたためだからと、当然想像できます。また、世阿弥が禅用語を使った理由は、世阿弥が禅の影響を受けたためであるという解釈もあります。そこで、これから、この点、禅と猿楽という関係について、詳しく見ていきたいと思います。世阿弥の使った禅の用語全てを取り上げ、検証していくことは、時間的に不可能なので、役者の道を描写するために使われた、二つの重要な禅用語に注目します。 一つは、得法という言葉です。世阿弥がこの得法という言葉を使う時には、得法は、つまり、役者が基本の訓練過程を完成した時点を指しています。二つ目の言葉は、却来です。この却来は、役者の人生でも相当後の時点を指し、修練中の若者には使うことが禁止されている技術を、自由に使えることを許可された段階を意味します。世阿弥から、所謂「きやからの」、禅竹に宛てられた手紙の中に、得法という言葉を使った良い例がみられます。 世阿弥がこの手紙を書いたのは、かなり年をとってから、恐らく70歳くらいの時です。世阿弥にとっては、最愛し、全ての期待をかけていた息子、元雅が早世した、悲惨な時期の最中でした。禅竹は世阿弥にとっての娘婿で、他の流の跡継ぎでしたが、世阿弥は、世阿弥の流派の大切な伝統が途絶えてしまわないように、必死になって、禅竹に伝授しようとしました。この手紙は、禅竹からの手紙に対しての返事であったようですが、世阿弥の手紙だけが現存しています。手紙の一部分をここに抜き出してみます。 はや■御能に安堵の分は、印可申候也…(中略)…さるほどに、御能ははや得法の見所は疑いなく候。 ここでの、「安堵の分」ということは、易き位に近い意味を示しているようです。易き位は、基本的な技を自由に行うことができる位です。この安堵の分には、世阿弥が禅竹に印可を与えた、つまり一種の免許、許しを授与したことになります。世阿弥の文書では、「見所」という言葉は、使われる場所により、異なる意味で使われています。が、ここでは、見える証拠という意味で、禅竹の御能を観ると、易き位に達したことは、はっきり見えるという意味で使っていると考えられます。ですから、 ここで世阿弥は、「あなたの演技は易き位に達したとみなし、既に免許を授与しました。ですから、あなたの演技には、既に、得法の証拠が見えるということは疑いありません。」と言っているわけです。ここで、世阿弥が禅の用語を使った理由は、きっとそれは、禅と猿楽の道に類似点があるからでしょう。では、その類似点とは何でしょうか? 私が思うに、この類似点は、師匠が弟子の修練の度合い、位を認める状況である、と思います。禅では、弟子の得法というと、教えられた、または本から学んだ真理を、弟子が直接に体験することを意味します。得法では、師匠が、本当に、弟子のお坊さんの経験が、真理を体験したものであるかどうかの正当性を確かめて、それが正当であると認められれば、印可が授与されます。同様に、猿楽の役者が、自らの位を実際に演技で見せ、師匠がこれを正当に達したと認めれば、許しを与えます。ここで、世阿弥が禅林の専門用語を使う理由は、その正当性を確かめる試験と、印可にいたる過程の類似によるためであると考えます。 次に、「向去却来」という言葉を世阿弥がどのように使ったかをみてみましょう。実は、この「向去却来」または「却来」という言葉の世阿弥の使い方には、いろいろな複雑な問題が含まれていますが、「五音曲条々」という謡いの伝書には、最もはっきりと使われています。世阿弥が音曲、または謡いの習道を分析した五つの段階が、五音曲条々に、描写されていますが、五番目の位は、闌曲といいます。世阿弥は次のように述べています。 万曲の習道を尽くして、已上して、是非を一音に混じて、類して斉しからぬ声のなす位なり…(中略)…是は、向去却来して、イヤ闌けて、謡う位曲也。 ここで、謡い手は、全部の謡い方を習得し終えた時に、是という良い事と、非という悪い事を一つの音に混ぜて特別の音を作ります。この是と非の音を混ぜる事が、「向去却来」であると言っています。 この例では、世阿弥は、謡いを習う道に対して、「向去却来」という言葉を使ったのですが、他の部分では、世阿弥はこの言葉をどう使ったでしょうか。一般的にいえることは、この用語は、劣った、やってはいけないまたは俗っぽい技術を、年がいった、経験を積んだ役者が使うことを指しています。このような技術、または要素は、若い時の修練を積む役者は使ってはいけず、かえって、その排斥につとめなければなりません。若い役者は、完璧に正当な声と動きのみを使い、そしてその正当な技術しかつかわないように、毎日励まねばいけません。しかし、爛熟した役者は、珍しさを見せるために、このような不正当な技術を混ぜて使っても良いということです。これが猿楽で使う「向去却来」の意味です。では、禅では「向去却来」はどのように使われるでしょうか。「普灯録」という禅の語録には、二つの言葉として問答の形で説明されています。 僧問、如何是「向去」底人。曰、白雲投■壑尽、青嶂倚■空高。僧問、如何是「却来」底人。曰、満頭白髪離二岩谷一、半夜穿■雲入二市一。 「向去」は、俗から出、山深く修業に入ることであり、「却来」は、白髪となった僧が山を降り、麓の市にもどってくることだそうです。簡単に言えば、禅の道では、若い僧が、厳しい拘束の中で修業することに対して、年おいた師匠が自由に動き回ることが許される状態を描写しています。前の例と同様に、世阿弥が向去却来という言葉を使った理由は、禅と猿楽の道に、共通の構造があるからです。それは単なる枠組みが共通しているのであって、禅と猿楽の間に、それ以上の深い共通点があると主張する必要は、何らないわけです。 実は、この構造の共通点は、もう一つの社会的背景を考えると、理解しやすくなります。これは、社会的組織の中の先任順位の問題です。禅には禅寺、猿楽には家という組織があります。猿楽の家に生まれた役者の生涯の道において、特に家の跡取りである役者の道においては、必然的に、拘束の時期と、自由の時期が明確に区別されます。中世の家では、通常、相続者は、実力次第で選任されましたから、息子達は、家元の寵愛を得るべく競争せねばならなかったわけです。一旦相続権を得、実際に家を継承すると、役者は突然、格別の権利と自由を手に入れることができました。この俗的な地位の昇進は、中国の禅寺でも似たようなことがありましたが、能楽における爛熟した為手が芸術的な自由を得ることについての、重要な背景だと思います。世阿弥が、向去却来という禅の言葉を使って、爛熟した役者の芸術的な自由の一側面をうまく表現しました。 |
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■結論 さて、これまで世阿弥の作品を読んできましたが、その中で上がった幾つかの問題点をまとめ結論としたいと思います。 先ほど申しましたように、世阿弥が描いた道は、日本の伝統的な芸道を代表し、中世の理念も表すと、人は感じるようです。そうすると、世阿弥の「風姿花伝」に現われる、50歳になって「せぬならでは手だてあるまじ」という要素が、面白いのです。世阿弥の秘伝書の中でも、この要素は、「風姿花伝」以降、消えてしまいます。そして、「せぬこと」は、一種の神秘的な技として、後に書かれた秘伝書に再現されます。実は、世阿弥の甥、音阿弥の時代には、相当年上の役者が能を演じるよう命令されて、賞賛も受けるようになりました。これは、きっとその保護・贔屓の問題が、世襲的な制度に収まったことと関係があると思います。これまで立合勝負に勝つことで経済的保護を得てきていたのが、足利義満の時代からは、世阿弥の家は世襲的に、代々将軍から贔屓を受けるようになりました。このために、勝負に勝つか否かという不安定要素や、年の問題に関する記述は、「風姿花伝」以降、見当たりません。この、一種の実力主義ともいえる、年寄りより、元気な若い俳優が良いという考えは、日本の伝統には、どこまで存在するであろうか、というのが最初の問題です。 次は、無心の問題ですが、世阿弥が考えた技、心、無心という体系は、きっと他の日本の伝統的な道によくあると思います。特に、最初に技を徹底的に身につけてから、その心、その意味がだんだんと解るようになる概念は、共通してあると思います。実は西洋でもこれは問題ですが、私の子供の頃は、例えば数学でも、このように考えるのが当然だと思われていました。まず、 九九を習ってから、後でその九九をどう適用するかという順番でした。つまり、この場合、九九がいわゆる技で、九九の適用がいわゆる心です。しかし、その後の1960年代には、理解できる部分だけを習うというような教育理論が急にはやりだしました。これは、技の前に心を教えようというやり方です。 この技と心の対比は自然と受け止められますが、無心と心の対比は、どうでしょうか。この無心という考えは、あるときに、禅や道教による影響だと思われましたが、実は歌論には長い歴史が新古今和歌集の時代からありました。世阿弥は、無心と心という対比を使いましたが、それは中世の言葉を使って彼が実際に体験したことを表現しようとしたわけです。が、今の世界には、この区別、対比は、存在するでしょうか?我々も何かを経験する時に、その区別を体験し、他の言葉で表しているのでしょうか?または、ただの中世的なことで今の我々には、とうてい理解できないことでしょうか?私の意見では、世阿弥が使う言葉、言うことには、いつも実用的な意味が含まれていると思います。世阿弥は、何かを論じるために論じたわけではありません。 最後の質問は、世阿弥の道と、仏教との関係です。世阿弥は確かに禅林用語を使いましたが、これは、ただ単にその禅林用語を使って芸道を歩みながら経験したことを、体系だてて表現しようとしたのでしょうか?今まで、読んできたことを考えると、このように理解できます。あるいは、禅の悟りという境地を体験して、その体験が自分の芸能に影響を与えたのでしょうか?もしそうなら、それはどういうふうに、私達にわかるのでしょうか? |
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■日本における禅浄双修 / 黄檗宗 | |
禅行と浄土行の双修を考える際には、ある程度、時代と思想背景を含めて検討する必要がある。そして、禅と浄や自力の仏教・他力の仏教というのは、あまりにも広いテーマであり、いくつかの時代に亘って非常に多くの経典や人物を含んでいる。したがって、ここでは、いくつかの人物や経典などを取り上げることで、日本における禅浄双修言説の輪郭を把握していきたい。 最初に問わなければならないのは、禅と浄土教は、一体どういうものなのか、そして、なぜこの二つの宗教表現が相容れない、別々の修行法として考えられてきたのか、という点である。 禅は、仏教の根本義としての戒・定・慧の三学の一つ「定」をいう。「定」は、瞑想や心の安らぎのことで、精神を統一し、心を一点に集中すること、つまり、三昧のことである。これによって、煩悩の穢れや束縛を絶ち、真理に到達しようとする。禅と浄土という修行法、宗教現象としての一般的な見解としては、禅は自力で、自分の力で、悟りを開こうとする修行法である。これは、より難しいので、「難行」ともいう。それに対して、浄土は、仏・菩薩(おもに阿弥陀仏)の住む穢れのない、純粋なところをいい、浄土教は、念仏を唱えることによって我々のような凡夫でも阿弥陀に救われ、西方極楽往生を遂げられる、とする。これは、阿弥陀仏という「他」の救済力に頼ることであり、より易しい修行法であるので、「易行」という。以上が、禅と浄土についての基本的な事項であるが、次に具体的に、日本の禅浄、自力・他力の言説において、大いに貢献した人物を見ていこう。 ■親鸞と禅浄・自力、他力思想 親鸞(1173-1262)は、浄土真宗の開祖であり、日本仏教史においては大きなな位置を占める。師である法然と違い、念仏を唱える回数は一切関係ないと主張したのにとどまらず、念仏を唱えることによって自分自身の救済の保証ができるのではなく、念仏を唱えること自体が感謝の表現に過ぎず、すべての救済力が阿弥陀仏の働きによるものであるとした。言い換えれば、親鸞によって完全なる他力思想ができたということである。親鸞の著作である「教行信証」や「歎異抄」そして彼の消息の中で、他力と自力、浄土行と禅行とをはっきりと分けている例が多く見出される。消息集である「末燈鈔」から親鸞自身が直接述べた言葉をあげておく。 「末燈鈔」 かさまの念仏者のうたがひとわれたる事 それ、浄土真宗のこゝろは、往生の根機に他力あり、自力あり。このことすでに天竺の論家、浄土の祖師のおほせられたることなり。まづ、自力と申ことは、行者のおのおのの縁にしたがひて、余の仏号を称念し、余の善根を修行して、わがみをたのみ、わがはからひのこゝろをもて、身・口・意のみだれ、こころをつくろい、めでたうしなして、浄土へ往生せむとおもふを自力と申なり。 また、他力と申ことは、弥陀如来の御ちかひの中に、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申なり。如来の御ちかひなれば、他力には義なきを義とすと、聖人のおほせごとにてありき。義といふことは、はからうことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して、往生必定なるゆへに、さらに義なしとなり。しかれば、わがみのわるければ、いかでか如来むかへたまはむ、とおもふべからず。凡夫はもとより煩悩具足したるゆへに、わるきものとおもふべし。また、わがこゝろよければ往生すべしとおもふべからず。自力の御はからいにては、真実の報土へむまるべからざるなり。行者のおの おのの自力の信にては、懈慢・辺地の往生、胎生・疑城の浄土までぞ往生せらるゝことにてあるべきとぞ、うけたまはりたりし。 以上の例からは、親鸞の自力、他力観がよく窺える。自力と他力の定義を提供した後、その位置付けについて、他力だけで往生できるとし、自力で救済されようとも、疑城の浄土にしか往生できず、甲斐のないことである、としている。日本仏教の自力・他力、禅行・浄土行の言説においては、親鸞がその第一の先駆者だと言っても過言ではないだろう。 一般的に言えば、自力・他力の言説を支えている一つの観念は、いわゆる末法思想である。少し時代背景について述べると、仏教の発展説には、三時説があり、それは、正法(しようぼ)・像法(ぞうほう)・末法(まっぽう)という時代区分を指すものである。正法は、釈尊の教えが正しく世に行われている時代のことで、その時限として、一般的には500年続くとされたのである。この時代には、教説(教)とその実践(行)が完全に行われ、その最終の結果である悟り(証)に帰着することができる。その後、正法に似ているという意味の、像法の時が到来する。この時代には、教説とその実践だけが残っているが、その結果としての悟りを欠く時代である。つまり、修行を行う人はいるが、真実のないもので、悟りを開くことがまったくない。これは千年も続くとされた。そして、1500年を経過すると、仏説のとおりに修行できなくなり、悟りを開く人がまったくいなくなる。これは「世の末」のことであって、これを、末法の時代という。信者に危機意識を起こさせるために説かれたといわれている。 日本において、末法思想にもっとも貢献した文献は「末法燈明記(まっぽうとうみょうき)」で、一部で伝教大師最澄(767-822)の作とされているが、疑わしく、おそらく平安末期あるいは鎌倉初期の偽作であるという説が有力である。平安末期は武士の勃興や僧兵の横暴などの貴族社会を揺るがす出来事があり、不安定な世の中で益々浄土教が有力となり、多くの人々が帰依した。末法の始まりについては、釈尊の入滅を紀元前949年とし、正法・像法二千年とする説により、永承7年(1052)が末法を迎える年とされていた。 通説では、浄土教徒であった法然と親鸞は末法思想を積極的に受け入れ、道元や他の禅僧は否定した、とされる。しかし、実は、そうではなく、浄土教にとっても、禅にとっても末法思想は衆生を導くための大切な方便であったのだ。 ■道元と一休 浄土教の親鸞と並んで、日本曹洞宗の開祖である道元(1200-1253)は鎌倉仏教における画期的人物の一人である。道元も比叡山延暦寺で天台宗の教学を学んできたが、その教学には、どうも腑に落ちない所があり、完全に受け入れることができなかった。その疑点は、一切の衆生(つまり、すべての生き物)には元から仏(仏性)が備わっているということであるならば、なぜ修行しなければならないのか、ということだった。その疑問に駆られて、いくつかの寺を廻ったが、解決できなかった。その精神的な縺れを解くためには、本物の仏教が存在している中国に行くしかないと考え、宋代の中国に渡り、天童寺の如浄(1163-1228)の下で厳しい坐禅修行をした結果、大悟をしたという。その時点から、坐禅一点張りの仏教を主張し、坐禅は「大安楽の法門である」とした。道元は末法思想や浄土教に対して批判的態度を見せたと言われているが、道元自らの言葉を通して、その見解を検討しよう。仏教の三時説について、道元は次のように述べている。 「正法眼蔵随聞記」 仏法に正像末を立事、しばらく一途の方便也。真実の教道は、しかあらず。 明らかに、道元にとって、末法思想はただの方便に過ぎない。末法思想により、危機意識を高揚させ、益々学道、修行に励まなければならないという気持ちになるのなら、末法思想がそれなりの役割を果たしたということだろう。末法だからこそ、阿弥陀仏のような他力的媒介に頼ることなしに、自分の努力で究極の目標である悟りへ到達せよということだった。次は道元の傑作である「正法眼蔵」を見よう。 「正法眼蔵」弁道話 又、読経念仏等のつとめにうるところの功徳を、なんぢしるやいなや。ただ、したをうごかし、こゑをあぐるを、仏事功徳とおもへる、いとはかなし。仏法に擬するに、うたたとほく、いよいよはるかなり…おろかに千万誦の口業をしきりにして、仏道にいたらんとするは、なほこれ、ながえをきたにして、越にむかはんとおもはんがごとし。口声をひまなくせる、春に田のかへる<蛙>の、昼夜になくがごとし、つひに又益なし。 道元の非難の対象は、阿弥陀仏や念仏行そのものではなく、むしろ、意に介することなく念仏を唱えることである。このような人々は、春の田んぼの蛙に譬えるほど甲斐のないことのように表現している。道元にとっては、念仏も、末法思想も、方便の範疇に入るものだったが、仏道や悟りのための修行法としては、坐禅が第一であったということである。 次は、日本の有名な禅僧である一休宗純の念仏観、禅観について見てみたいと思う。一休宗純(いっきゅうそうじゅん/1394-1481)は、室町中期の臨済宗の僧である。大徳寺の住持にまで登り、当時の禅界においては屈指の禅師だった。一休は、真面目な修行僧でありながら、狂乱な行動も取ったことが特徴であり、自らの詩集に「狂雲集」(狂った雲の集)と名付けたほどであった。 あまり知られていないが、一休には、「阿弥陀裸物語」という作品があり、念仏行についての一休の見解が述べられている。 タイトルの「阿弥陀裸物語」だが、「物語」というよりも、むしろ、正式には「仮名法語」の範疇に入る。「仮名法語」は、師が弟子に仏法を教えるための語録である。タイトルの「裸」は阿弥陀仏のありのまま、本来の姿を表していると解釈されている。まず疑問となるのは、なぜ一休のような禅師が阿弥陀仏を取り上げる作品を書いたのかということだろう。一休は、黄檗僧の到来の百年以上前に生きていた人なので、いうまでもなく黄檗僧の影響を一切受けていなかった。にもかかわらず、この作品の主題は一休の念仏や浄土観においての「正しい」修行法である。作品の設定は、小笹(おざさ)の少将為忠(しょうしょうためただ)という人が称名念仏の効果について疑問を抱き、一休からの説法をお願いする、という問答形式を取る。小笹の少将為忠は阿弥陀と念仏についていろいろと合理的に考え、もし阿弥陀仏の極楽浄土が十万億土(世界)離れているのであれば、声で念仏を唱えても、阿弥陀仏の耳まで届くのだろうかという疑問を抱く。原文は次の通りである。 昔、小笹の少将為忠といふ人、大徳寺の一休和尚へ、詣で給ひて申されけるは、我、無智愚鈍の身なれば、坐禅参学の道にも、至り難し。只一向に、弥陀の他力を願ひて、名号を唱ふる外、またもなし。されども、愚案に不審はれ難く候へば、尋ね申さん為に参りて候也。弥陀仏は、西方十万億土に住み給ふとなれば、その十万億土にまします仏を、居ながら、名号を唱へ候ても、十万億土へ通じ申すべきいわれ候やらん。 「浄土」とは、「浄き土」と書きたり。悟りの人の肉身体なり。是れを、欣び求めよと、確かに教へ給ふなりと雖も、是れを悟る人稀なり。総じて、此五尺の身の中に、大千世界を引き集め、約め持ちたる、此の身なり。法界と平等にして少しも違ふことなし。法界の虚空に、色形なくして、一心失せず、即ち弥陀仏なり。形なき仏を法身仏と名付け、形を顕す仏を報身仏と名付け、八相成道して、衆生を利益し給ふ仏を応身仏と名付けて、是れを三身と言ふ。是の如く観ずるときんば、三身の外に、浄土も仏も有るべからず。此の故に、「唯心の浄土、己身の弥陀」とは、教へ給ふなり。 一休の説法の裏には、不二法門という思想がある。不二法門は、二項対立的思考を離れ、相対の差別を超えた絶対平等の真理をいう。「維摩経」には、維摩居士が、「不二法門とはなにか」と聞かれた時に、何も返事せず、長く続いた沈黙を通じて、不二法門のなんともいえなさやその表現不可能であることを伝えようとしたことが書かれている。「阿弥陀裸物語」では、これに従って、一休も煩悩・涅槃、この世・西方極楽浄土、自力・他力という二元論的思索に基づいた分類を一切否定し、阿弥陀仏は、宇宙の至るところに--特に人間の心に--内在し、衆生と阿弥陀仏との間に何の隔たりもないという意味を表そうとする。これは、唯心の浄土、己身の弥陀と表現されるのである。心の中に存在する阿弥陀仏、「唯心の浄土」に対して、指方立相(しほうりつそう)というものがある。これは、我々の住んでいる世界から無限に遠い実体のある西方極楽の存在を設定する観念なのである。 一休の解釈によれば、阿弥陀仏とその浄土自体は、心の外に存在するものではないのである。勿論、この思想は、一休が初めて作り出したのではなく、実は、浄土三部経の一つである「観無量寿経」にこのような解釈が立証されている。「観無量寿経」には次の節がある。 仏告阿難及韋提希、見此事已、次当想仏。所以者何。諸仏如来、是法界身、入一切衆生心想中。是故汝等、心想仏時、是心即是、三十二相、八十随形好、是心作仏、是心是仏。諸仏正徧知海、従心想生。 (仏、阿難および韋提希に告げたもう、この事を見おわらば、つぎに、まさに仏を想ふべし。所以はいかに。もろもろの仏・如来、これ法界身にして、一切衆生の心想の中に入りたもう。このゆえに、汝らよ、心、仏を想う時、この心、すなわちこれ、(仏の)三十二相・八十随形好なれば、この心、仏と作し、この心、これ仏なり。諸仏の正徧知海、心想より生ず。) 以上の引用が言わんとしているのは、心が仏となし、この心が仏そのものであるということである。「阿弥陀経」が、実体ある西方浄土の功徳を述べるのに対して、「観無量寿経」は文字通り、観想法なので、そのような観想過程の中で、心の果す役割の重要さを認める。一休は、阿弥陀仏の名前を唱えるという行を否定せず、精神統一や内観法のためには、立派な方便のひとつであると説いているのである。 ■明末の仏教 さて、黄檗宗は、中国に生れ、日本に移植されたので、黄檗の禅風を検討する前に、大陸の仏教の状態を考慮する必要があるように思う。 日本禅宗の場合、栄西と道元が宋代の中国に渡り、当時の仏教思想や修行法を取得し、帰朝ののちは、斬新な大陸仏教の修行法を日本に広めようとした。鎌倉時代の間は、大陸との交流が続いたが、室町時代から江戸初期にかけては、大陸との交流が完全に途絶えることはなかったものの、中古、中世の時代ほどさかんに行われなくなり、中国からの影響力が少し弱まり、仏教が完全に日本風へと完成された。 室町時代、大陸では、百年近く中国を支配したモンゴル(元)が倒され、1368年に明が建国された。朱元璋(しゅげんしょう/1328-1398)が明初代の皇帝(在位1368-1398)となったが、彼の宗教観は非常に折衷的で、マニ教、道教、儒教、そして民間宗教からのいろいろな信仰要素が入り混じっていた。皇帝の影響で、明代には三教一致、つまり中国の思想の主流となす儒教、道教、そして仏教が一致しているという思想が益々有力となり、また、更に仏教の中でもこの融合傾向が顕著となった。宗派意識の強い日本に対して、中国の仏教は、総合的な傾向が特徴であり、華厳、律宗、浄土行、密教、そして禅行が一般化された「仏教」に網羅されていた。明代までに、特に禅(臨済系)が中国仏教の基盤となり、すべての仏教の受け皿として、仏教の諸形態を保存する役割も果たした。基本的に、明の仏教は宋代、元代の仏教の継承で、教学的にもそれほど変化していないのだが、折衷的、融合的仏教という色彩が一段と顕著になり、庶民の間に広まっていた。明末、清初の仏教の明らかな特色の一つは、禅浄がともに行われていることである。この時代には浄土教関係の寺院には禅の修行者が多く入門したし、禅の寺院には禅堂--坐禅を修行する堂、建物--に加え、更に念仏堂もあった。これらのことは、明・清の仏教における禅・浄の融合程度を物語っている。 黄檗宗となった教団は明末清初のころに形成されたので、もう少し明末清初の仏教の姿勢を探ってみよう。明末の四大師は、明仏教・黄檗宗を通じて日本仏教に多大な影響を与えることになった。その四人の禅師は、雲棲袾宏(うんせいしゅこう/1535-1615)、紫柏真可(しはくしんか/1537-1603)、憨山徳清(かんざんとくせい/1546-1623)、藕益智旭(ぐえきちぎょく/1599-1655)である。その中の一人雲棲袾宏は、明末の仏教の形成において非常に重要な役割を果たし、黄檗宗にも大きな影響を与えた。雲棲袾宏は禅を主張したが、禅浄一致を唱え、浄土宗の僧とされることもある。あまりに禅浄を強調したことから、後年、日本禅の復興者といわれる白隠禅師から非難されることもあった。白隠の方は、後で触れることにしたい。 ■黄檗宗 周知のとおり、日本の三大禅宗は、曹洞宗、臨済宗、そして17世紀の半ばに入ってきた黄檗宗である。黄檗宗の開祖は中国の福建省から日本に来た隠元隆g(いんげんりゅうき/1592-1673)で、隠元は将軍徳川家綱と後水尾天皇の帰依を受け、彼らの大きな支えにより、黄檗宗は一時的に有力となり、日本中に広がっていった。 黄檗の禅風への一般的な見解とは、禅宗であるが、浄土行(念仏を唱える)もその禅行に含まれており、禅宗と浄土宗との折衷体であり、いわゆる「禅浄兼修」または「禅浄双修」の禅宗である、というものである。禅学者の座右の書である「禅学大辞典」にも、黄檗宗について「その禅風の特徴は念仏禅である」と書かれている。 だが、黄檗禅風をそのように捉えていいのだろうか。禅行と念仏行とは実習の上、必ずかけ離れる、相互排他的なものなのだろうか。黄檗宗の三開祖、隠元隆g、木庵性瑫(もくあんしょうとう/1611-1684)、そして、即非如一(そくひにょいつ/1616-1671)の言葉を検討することによって、黄檗の禅は、浄土との折衷ではなくて、むしろ、念仏も禅修行の範疇に入り、禅浄というのは、相反するものではないことを明らかにしたいと思う。 ■隠元隆g 少し隠元の背景について述べておきたい。隠元隆gは福建省生れ、62歳まで中国に住んでおり、来日以前も明末の中国で屈指の名僧であった。17世紀の半ばまでに、長崎は大陸との接点だったので、多くの中国人が住み、幕府に指定された唐人屋敷ができたほどである。その長崎には、仏教の信者のための寺院が三つ作られたが、その一つに興福寺がある。その住持の逸然性融(1601-1668)が、1652年に隠元に招請状を出したが、断られ、4回目の招請で漸く来日することとなった。長崎で3年過ごしたが、1659年、京都近郊に寺院を建立したいという徳川家綱の願いにより、1663年、宇治に黄檗山万福寺が完成した。 今日と同じく、妙心寺が江戸の臨済禅のもっとも有力な寺院であった。実は、隠元を妙心寺の住持(住職)に迎えようとする運動があったが、妙心寺の高僧により反対された。その理由として挙げられたのが、浄土行を取り入れた零落した禅風であるという点である。ここで、隠元の言葉から、その禅浄についての思想の有り様を考えよう。 最初に挙げたものは、典座、つまり寺の料理長が、隠元に念仏の本当の意味を尋ねた場面である。二人の対話は次の通りである。 典座問、出声念仏不為正念、黙念弥陀不為正念、如何為正念。師云、破木杓。僧礼拝。師云、還我木杓来。僧無語。師便打、乃云、欲識仏性義、当観時節因縁、時節若至、其理自彰。 (典座、問ふらくは、声を出して念仏することは正念と為らず、弥陀を黙念することは正念為らず、如何ぞ正念と為さんや、と。師云く、破った木杓、と。僧は礼拝す。師云く、我に木杓を還し来たれ、と。僧、語ること無し。師、便ち打ち、乃ち云く、仏性の義を識らんと欲せば、当に時節因縁を観る。時節若し至れば、その理は自ら彰らかとなる。) 隠元と典座との対話は、確かに公案のような響きがある。公案は、一種の謎のようなもので、合理的思考を絶つことに目的がある。「禅学大辞典」によると、公案の定義は:「公の法則条文をいい、私情を容れず遵守すべき絶対性を意味する。転じて禅門では、仏祖が開示した仏法の道理そのものを意味し、学人が分別常識を払って参究悟了すべき問題とされる。」である。分別常識を払う方法として、出鱈目や理性で解決できない問題が出され、それと取り組んでいる過程で、自分の理性や識別が無力であることに気付き、直感的な悟りに導かれる、という悟りに至るための手段のひとつである。上記の例では、念仏の本当の意味は何か、という問いに、「正しい念仏法は破った木杓です」と隠元が答え、さらに、棒の一発をその僧侶に与え、最後に、タイミングと条件がちょうど良いものになれば、自らその理が明らかになると述べている。このような対応から、隠元の目的は合理的な思索、分別常識の働きを断ち、直感的な悟りに導入しようという点にあることがわかる。 ■念仏公案 公案の話が続くが、念仏自体が公案として使われることもある。いわゆる「念仏公案」という。修行者が坐禅をしている時に「南無阿弥陀仏」を唱えながら、「誰が念仏を唱えているのか」と自分に問うものである。勿論、合理的な解答に到達することが目的ではなく、むしろ、唱えている自分も「空」であること、自分と阿弥陀とが一体であることを自覚できたら、公案の解決となる。もう一つの目的は、念仏を唱えることによって、精神を統一し、深い瞑想に入るという点にある。隠元の嗣法の弟子である独照性円(1617-1694)の語録には、以下のような解釈が見られる。 山僧、汝に念仏の公案を授く。此れに依って工夫を做せ。南無阿弥陀仏の六字の聖号を以て行も亦念じ、住も亦念じ、坐も亦念じ、臥も亦念じ、以至飯裏・茶裏、坐禅昏沈の時、心緒散乱の時も亦念ぜよ。念じ来り念じ去って、行、行を見ず、住、住を見ず、坐、坐を見ず、臥、臥を見ず、飯を喫して飯を知らず、茶を喫して茶を知らず、全体只是れ一箇の阿弥陀仏。更に精彩を著けて念ずること一声・二声・三声して看よ、畢竟念ずる底是れ誰そと。忽然として誰の字に撞着せば、始めて知らん、自己本来是れ仏なることを。 禅浄兼修というのは禅行と浄土行(念仏)を同時に行うことではない。むしろ、念仏を禅行の一種として考えていたのだろう。念仏行の最終的な目的は合理的な思考を絶つことにあるので、公案と同じ効果があり、公案の一つとして扱われた。このように念仏行を行い、念仏を唱えている人は一体誰であるかと自問自答することで、疑情を起こすことになる。そして、この疑情や疑いのもつれを解くことによって悟りへ至ることになる。禅においては、このような疑団を起こし、そして、乗り越えようとする過程が禅修行の非常に重要な一部である。 上記の例に見られるように、念仏はただの手段であり、集中力を高めることにその目的がある。隠元は禅僧なので、もちろん坐禅は第一の修行法であり、念仏は補佐的な役割を果すものとしている。しかし、仏教の基本的な教化、衆生を導く方法は、対機説法であり、教えを聞いている人の能力、性質を考慮し、相応しい方法を説く、としている。言い換えれば、方便や手段を選ぶということである。以下の文で隠元は念仏の方便としての役割をはっきりと述べている。 老僧、自東来此土迄今十載、専行済北之道。奈何、時輩根劣気微無能担荷。至不得已、亦教人念仏。正応病与薬之意也。誰謂不宜。 (老僧、此の土に東来してより今迄、十載、専ら済北の道<臨済宗>を行ふ。奈何せん、時輩、根劣気微にして、能く担荷するもの無きを。已むを得ざるに至り、亦人をして念仏せしむは、正に病に応じて薬を与ふるの意なり。誰か宜しからずと謂わん。) 隠元が来日して10年が経った頃、努めて臨済の禅風を伝えようとしてきたが、当時の日本人が臨済禅の厳しい修行に十分に付いていけないことを心配して、仕方なく方便として念仏を使用したということを言っている。隠元のこのような言葉から見られるように、黄檗の禅は、念仏禅や、零落した禅浄折衷体であるとは言えない。はっきり明記されているように、隠元の禅風では、念仏は修行手段、方便であり、説法法の一つに過ぎない。 ■木庵性瑫 万福寺第二の住持は木庵性瑫である。木庵は広く活動し、黄檗宗を関東まで広めたこと、嗣法の弟子の多いことが知られる。木庵自身も、隠元から悟りの証明である印可を受けたので、木庵の禅風が隠元に似ていることは当然かもしれない。出家や在家を教化している時に、木庵も念仏公案を使用し、また、修行者と阿弥陀仏とが一体であり、往生する極楽浄土が心に存在するなどの禅的解釈を使用する。いくつかの例をあげておく。 極楽寺善阿上人以念仏為本分問老僧即説偈示之 是心念仏不離心。念到無心弗外尋。体悟弥陀元自性、灼然越古復超今。 ( 極楽寺善阿上人念仏を以て本分と為す。老僧に問いて即ち偈を説きて之を示す。是の心、念仏して心を離れず。念じて無心に到り、外に尋ねる弗れ。弥陀元より自性なること体悟すれば、灼然として古を越えまた今を超える。) 示念仏善人 参禅念仏不離心。忽悟自心休外尋。刹刹塵塵元浄土(下略) 念仏之人心要切心心念念無休歇。忽然念到念忘時迸出蓮花香満舌。 ( 念仏善人に示す参禅し念仏して心に離れず。忽ち自心を悟り外に尋ねること休めよ。刹刹塵塵元より浄土なり。念仏の人、心に要切し、心心念念にして、休歇無し。忽然に念じて念を忘れる時に到らば、蓮花迸出し香り舌に満つ。) 一つ目の引用だが、善阿上人は念仏を通して本分--自分の心の本来の姿--を究めることについて、木庵に訊ねる。木庵の解答に見られるように、念仏は精神統一のための手段であり、一心に唱えることにより、無心の心境に到達すれば、自分の本性、本来の心が阿弥陀仏であることを自覚する。 二つ目の引用も同じことを主張する。悟りを得ようとするのであれば、自分の心の外に求めるのではない、悟りが心に内在しているように、浄土も人間の心にしか存在しないという。隠元は黄檗宗の開祖、木庵は黄檗宗の中でもっとも広く活動した僧であり、この二人の禅観、説法、教化は黄檗の主流をなし、明末清初仏教の代表的なものであると言っていいだろう。次は、即非禅師をみることにする。 即非如一 即非は隠元・木庵とは違い、万福寺の住持の座までのぼらず、地方(主に九州)において日本での14年間の殆どを過ごした。即非の日本黄檗宗への影響は隠元や木庵ほど多大なものではないが、彼は説法と教化の多彩なことで知られている。次の例のように、相手が出家でも在家でも、禅らしい念仏行を教えた。 示念仏緇素 有念鋳無念。無念即浄念。念念念不生。弥陀全体現。自心即浄土。仏不離自性。看破念仏誰是真為究竟。 ( 緇素に念仏を示す有念は無念を鋳す。無念即ち浄念なり。念念不生を念ず。弥陀全体現す。自心即ち浄土なり。仏は自性を離れず。念仏誰と看破すれば是れ真の究竟となす。) そして、次に、 念仏須心念。念念仏不忘。念頭都打断何処不西方。 (念仏はすべからく心に念ずべし。念念仏を忘れず。念頭すべて打断せば、何処、西方にならざるや。) 上述の如く、日本黄檗宗の中心的人物である隠元、木庵、即非の教えの中の念仏行は、極楽浄土への往生を目的としていない。むしろ、極楽浄土も、阿弥陀仏も心に内在するとしている。そして、一心に称名念仏をすることによって、無心なる心境へ到達する、そのための方便として念仏行が使われていることは明らかである。 ■白隠慧鶴 白隠慧鶴は力強い書や親近感のある絵画を数多く残し、多才な禅僧としてよく知られている。画家としての白隠はともかく、彼が江戸臨済禅における第一人者であると言っても過言ではない。現在の禅の実態は、日本臨済禅(黄檗も含む)が白隠系統のものとなっている。 白隠の数多い仮名法語から、その禅風をはっきりと窺うことができる。道教に影響された内観法、念仏、戒律など、いろいろな要素が含まれている。彼の念仏における観念を検討するには、「遠羅天釜続集」に収録されている説法を見る必要がある。次の引用から、白隠の念仏観を垣間見ることができよう。 悲シム所ハ、今時浄業ノ行者、往々ニ諸仏ノ本志ヲ知ラズ、西方ニ仏在リトノミ信ジテ、西方ハ自己ノ心源ナリト云事ヲ知ラズ。念仏ノ功課ニ依テ、虚空ヲ飛過シテ、死後、西方ヘ行ントノミ覚悟ス。一生苦吟シテ、往生ノ素懐ヲ遂グル能ハズ。真正浄業ノ行者ハ即チ然ラズ。生ヲ観ゼズ、死ヲ観ゼズ、心失念セズ心顛動セズ、トナヘ唱ヘテ一心不乱ノ田地ニ到ッテ、忽然トシテ大事現前シ、往生決定ス。 (残念なのは、今時の念仏行者は、ややもすると、仏様のおられる浄土は西方にあるものと信じ、自己の心源こそが真の西方浄土だという、本当の教えが分かっていないことである。念仏の功徳によって、死後には空を飛んで西方に行きたいと願っているのだが、そういうことでは一生、往生の素懐を遂げることはあるまい。しかし、真正しんせいの念仏行者はそうではない。生も死も思わず、ひたすら唱えて一心不乱の境地に入るならば、そこに忽然として仏法の大事(意味)が現前し、往生するのである。) 須ラク知ベシ、話頭モ称名モ、総ニ是レ開仏知見道ノ助因ナル事ヲ。開仏知見ハ、諸仏出世ノ本志ナリ。後来シバラク方便ヲ設ケテ、往生ト名ヅケ見性ト云。豈ニソレ両般有ンヤ。 (大切なのは、公案も念仏も仏知を開くための手段だということである。仏知を開くこと、これこそ仏教の目的であり、諸仏が出世されたのも皆このためである。仏教が発展していろいろに方法が分かれたから、あるいは往生と言い見性と言うが、別物ではない、ということである。) 最終的に、黄檗の念仏行・念仏思想と白隠の述べたものとは同じである。 「南無妙法蓮華経」を唱えることも精神を統一し、心の本来の姿を見つめ、深い瞑想に入るための手段である。念仏にしても、題目にしても、自分の心を参究するための修行法は沢山あり、どんな修行法でも、一心に唱えれば、一心不乱の心境に到達し、そこで主観や感情、自我に基づく「自分」がなくなる。これこそ修行の目的達成の状態だろう。 白隠は念仏そのものに反対したわけではない。むしろ、坐禅せずに、念仏に頼り、極楽往生ばかり考えるという禅の僧こそが腑に落ちないものだったのだ。在家となると、僧侶とは期待と基準がまったく異なる。お寺に住み込んでいない在家の人が毎日厳しい禅修行ができるはずがないので、修行として念仏だけを唱えることは、何の問題もない。その修行法によって、「自我」を忘れる心境に到達できるのであれば、それはそれでよかろう。禅僧である場合も、念仏でも公案でも、大切なのは、一心から無心の状態へ達することであり、そこでは念仏も、坐禅も同一のものである。 以上、黄檗禅は「禅」という範疇に入ること、また白隠禅師の念仏行についての教えと黄檗禅とは、ほぼ同じであることを述べた。 時代が前後するが、黄檗は「念仏禅」だという考えが本格的に根付いたのは、明治時代の時であった。江戸時代、黄檗宗は、徳川家の特別な庇護があったからこそ、一時的に栄えたのだが、明治時代になると、徳川の庇護が却って負担となったのだ。それに、新政府の取った姿勢は、神道を立てる王政復古、祭政一致であり、廃仏毀釈がその結果であった。そのため、黄檗宗が、二重の困難に直面しなければならない時代となったのだ。 明治政府のとった宗教政策は、宗派や宗旨を明確にし、組織化された特定団体のみを認めようというものであった。従って、各宗派は教義を明確にする必要に迫られていた。しかし、禅は、これまで不立文字、教外別伝を述べてきたが、ここに至って言葉での表現を超越するということを標榜し続けるわけにいかなかった。 その時、黄檗宗の38代住持である林道永は教義を分かりやすく解説した書物を著し、それは「黄檗在家安心法語」という著作となった。しかし、林道永は、典型的な黄檗僧とは言えない。林は、元来浄土真宗の家に生れ、浄土真宗の教学を熱心に研究した。彼の浄土真宗からの影響が「黄檗在家安心法語」を貫いている。以下、いくつかの例を挙げておく。 コレニ因ッテ此ノ六字ノ名号ハ禅ニコモリ禅ハ又此ノ六字ニコモリタルガ故ニ、参禅ト浄土ノ法門ト全ク差別アルベカラズ、是レ即チ教外別伝ノ所談ナレバ他流ノ人ニ対シテ沙汰アルベカラズ、只佛心宗ノ門徒タルモノ、カカル道理ヲ会釈シテ更ニ六字ノ禅ニ参シテ悟道スル、コレヲ佛心宗特別ノ心得ナリト思フベキ者也。 夫レ熟ラ思フニ禅宗念佛公案ノ大意ト云ヘルハ、唯心ノ浄土自性ノ阿弥陀佛ト心得ベキナリ。先ズ唯心ト云ルハ、衆生ノ妄心ニハ非ズシテ一心無安ノ佛心ヲ云ヘルナリ。コノ心ト云ルハ、一法界性ナルガ故ニ、タダ衆生ノ色身ニノミ住スルニハ非ザル者也。サレバ西方極楽世界ト云ヘルモ此ノ娑婆ト同ク唯心ノ法界ナリト知ルベシ。又自性ノ阿弥陀佛ト申スハ、此ノ佛ノ法身ハ過去ニモ非ズ現在ニモ非ズ、又未来ニモ非ズ、常ニ十方ニ遍満シ玉ヒテタダ衆生ノ志願ニ随ッテ応化シ玉フ者ナルガ故ニ、経ニモ是心作佛是心是佛ト説ケリ。 確かに、「黄檗在家安心法語」に見られるようなテーマ--唯心の浄土、禅浄の一致、念仏公案--というのは、隠元、木庵、即非、そして白隠の言葉にすでにうかがえたのだが、林道永になると浄土的色彩が一段と顕著になってきている。しかし、基本的には、林でも、西方に実体としてある極楽浄土への往生を説くのではなく、むしろ、この世界と浄土とは同一のもので、「観無量寿経」に説かれているように、心から仏も浄土も発するものなのである。道永の禅には、浄土的色彩が色濃いが、零落した禅浄雑体とは言いがたいものである。 あくまでも、黄檗宗は中国からやって来たので、当時の中国の仏教界の情勢を反映していることは言を俟たない。黄檗を批判した日本の僧たちがもし、隠元・木庵・即非らの語録を検討したならば、同じ結論に至っただろう。つまり、黄檗禅の念仏行は主に方便として使われ、黄檗は曹洞宗や臨済宗と同じように禅行、つまり、坐禅を第一に挙げる禅宗なのである。 |
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