深川七福神

 
七福神の起源辯才天 
 
深川には江戸時代から有名な寺院や神社が多く、七福神詣があり、七難即滅と愛敬冨財(恵比寿神)、芸道富有(弁財天)、人望福徳(福禄神)有福蓄財(大黒天)、勇気授福(毘沙門天)、清廉度量(布袋尊)、延命長寿(寿老神)の七福即生という勝縁が授かるといわれてきた。
   
恵比須神/富岡八幡宮(とみおかはちまんぐう) 江東区富岡 
旧府社で深川八幡宮ともいう。祭神は誉田別命(ほむだわけのみこと)に天照大神(あまてらすおおみかみ)ほか三柱を配祀する。天平宝字年間(757〜765)の創建と伝えるが、『江戸名所図会』には源三位頼政(げんざんみよりまさ)が尊崇した神像を千葉・足利両氏が伝え、のち太田道灌の守護神になるという。1627(寛永4)年に永代(えいたい)島に再建、江戸下町の繁盛につれてとくに深川木場の尊崇を集める。恵比須神は、富岡八幡宮境内の西側にある恵比須宮に奉祀されている。
   
弁財天/冬木弁天堂(ふゆきべんてんどう) 江東区冬木 
冬木弁天堂は、木場の材木商だった冬木弥平次が宝永2(1705)年、中央区茅場町から、深川に屋敷を移転した際、邸内の大きな池のほとりに、竹生島から移した弁財天を安置した。そのため今でも冬木町という。その弁財天は、等身大の裸形弁天なので、毎年1回衣装の着替行事を行ってきたが、大正12年の関東大震災で焼失。現在の弁天堂は昭和28年に再建された。冬木弁天堂は古義真言宗に属している。
 
   
法乗院・閻魔堂 
「もう一度、念入りに川端に突き当って、やがて出たのが黒亀橋。−こゝは阪地で自慢する(・・・四ツ橋を四つわたりけり)の趣があるのであるが、講釈と芝居で、いずれも御存じの閻魔堂橋だから、裟婆へ引返すのが、三途に迷った事になって−面白い。 ・・・いや、面白くない。が、無事であった。・・・時に扇子使いの手を留めて、黙拝した。常光院の閻王は、震災後、本山長谷寺からの入座だと承わった。忿怒の面相、しかし威あって猛からず、大閻魔と申すより、口をくわっと、唐辛子の利いた関羽に肖ている。従って古色蒼然たる脇立の青鬼赤鬼も、蛇矛、長槍、張飛、趨雲の概のない事はない。」泉鏡花 
ご縁(五円)とお汁粉を楽しみに立ち寄り。
   
福禄寿/心行寺(しんぎょうじ) 江東区深川 
元和2(1616)年京橋八丁堀寺町に創立された浄土宗の寺で開山は観智国師の高弟である屋道上人、開基は岩国城主吉川監物の室・養源院殿であり、寛永10(1633)年現在地深川寺町に移った。関東大震災と戦災により二度も焼失したが、現在の本堂は昭和42年に再建さた。昭和50年に福禄寿が安置されている六角堂が完成した。
   
大黒天/円珠院(えんじゅいん) 江東区平野 
円珠院は、享保のころ旗本永見甲斐守の娘、お寄の方が起立した後、円珠院殿妙献日寄大姉の法名で、享保15(1730)年末にこの寺に葬られた。享保5(1720)年11月13日に画かれた大黒天の掛軸があり、木造の大黒天が安置、境内に石造の破顔大黒天が安置されている。江戸時代から深川の大黒天として有名。
   
毘沙門天/龍光院(りゅうこういん) 江東区三好 
慶長16(1611)年に馬喰町に創立され、明暦3(1657)年大火で焼失、天和2(1682)年岩井町から深川の地に移転した。移転した時鬼門除けとして東北角に毘沙門天が安置され昭和11年に毘沙門堂が建立され、戦災で焼失したが昭和50年復興した。
   
布袋尊/深川稲荷神社 江東区清澄 
寛永7(1630)年の創立、深川地区では創立の古い神社。祭神は、宇賀魂命、西大稲荷ともいう。この付近の旧町名は、深川西大工町で、昭和7年8月1日深川清澄町と改称し、その旧名から西大稲荷という。この神社の裏の小名木川は、江戸時代初期から、船の往来がはげしく、この付近一帯に、船大工が住み、船の修理、造船をしていたので、この町名が生まれたといわれる。この神社は無住社で町会によって管理運営されている。
   
寿老神/深川神明宮(ふかがわじんみょうぐう) 江東区森下 
深川において創立の最も古い神社。大阪摂津の深川八朗右衛門が、この付近に深川村を開拓し、その鎮守の宮として慶長元(1596)年伊勢皇大神宮の御分霊を祀って創建した。徳川家康が、この村に来て村名を尋ねたが 判らないので、深川八朗右衛門の姓をとって、深川村と命名せよといわれた由以来深川村が発展し、深川地区の各町に冠せられ、深川の地名のもとになった。
 
谷中七福神めぐり 
享和(1801−1803)の頃始まる東京最古の七福神めぐりと言われる。 
弁財天/弁天堂(上野)・大黒天/護国院・毘沙門天/天王寺・寿老人/長安寺・布袋尊/修性院・恵比寿/青雲寺・福禄寿/東覚寺(田端)
福神漬 
福神漬は谷中の七福神に由来する。江戸時代創業の上野にある「酒悦」の先祖が大根、茄子、なた豆、蓮根、瓜、紫蘇、蕪の7種類の野菜を使って考案した漬物。
 
七福神 
福徳の神として、七難を除き七福を与える神々として信仰されている七神の組合せ。 
七福とは寿命(寿老神)有福(大黒天)人望(恵比須神)清廉(布袋)威光(毘沙門)愛敬(弁財天)大量(福禄寿)といわれる。七難とは日月の難、星宿の難、火災の難、水害の難、風害の難、早魃の難、戦乱盗賊の難といわれる。中世商人社会で福徳施与の神として流行的に信仰され、近世以後に及んだ。七福神は瑞祥(ずいしょう)の象徴として絵画・彫刻の好題材となり、またその影像を家に飾って拝礼し、あるいは七福神詣でや初夢の宝船などの信仰習俗を広く生じ、一方 で七福神舞などの芸能もでき現在に伝わっている。
 
 
恵比須神(夷、蛭子/えびすじん) 
生業を守護し福利をもたらす神として、わが国の民間信仰のなかで広く受け入れられている神霊。語源はさだかではないが、夷、つまり異郷人に由来すると考えられ、来訪神、漂着神的性格が濃厚に観念されている。現在一般にえびすの神体と考えられている烏帽子をかぶりタイと釣り竿を担いだ神像によってもうかがえるように、元来は漁民の間で、より広範に信仰されていたものが、しだいに商人や農民の間にも受容されたと考えられる。
 
弁財(才)天(べんざいてん) 
仏教における智慧、弁舌、技芸の女神。略して弁天。また妙音天、美音天、大弁才功徳天ともいう。もとはヒンドゥー教の神。サラスバティーは「水を有するもの」を意味する女性名詞で、アーリア人が東漸するとき、各地の川をよんだ名であり、アフガニスタンのカンダハル地方の古名アラコシアもそれに由来するとされ、インダス平原やガンジス平原にもこの名の川があった。ブラーフマナ文献ではことばの神とされ、ウパニシャッドでは音楽神とされた。ヒンドゥー教のこれらの概念を受けて仏教に弁才天を登場させたのが「金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)」で、弁才天はこの経を説く人や聞く人に知恵や長寿や財産を授けると述べている。
 
福禄寿(ふくろくじゅ) 
福禄人ともいう。幸福と封禄と長寿を兼ね備えるという中国の福神。短身長頭で経巻を結んだ杖を持つ姿に表現される。南極星の化身という説もあり、また寿老人と混同されることもままある。日本に導入されたのは、おもに禅宗の流布と関連する水墨画の題材としてであり、やがて七福神の一つに数えられるに至ったが、独自の福神としては一般の信仰対象にならなかった 。
 
大黒天(だいこくてん) 
元来ヒンドゥー教の主神の一つで、青黒い身体をもつ破壊神としてのシバ神(大自在天)の別名であり、仏教に入ったもの。摩訶迦羅(まかから)と音写。マハーカーラは偉大な黒い神、偉大な時間(=破壊者)を意味する。密教では大自在天の眷属で三宝を愛し、飲食を豊かにする神で黒色忿怒相を示し、胎蔵界曼荼羅の外金剛部に入れられている。中国南部では床几に腰を掛け金袋を持つ姿になり、諸寺の厨房に祀られた。わが国の大黒天はこの系統で、最澄によってもたらされ、天台宗の寺院を中心に祀られたのがその始まりといわれる。その後、台所の守護神から福の神としての色彩を強めた。
 
毘沙門天(びしゃもんてん) 
仏教の護法神。サンスクリット語バイシュラバナで、転じて毘沙門天となる。多聞天、遍聞天とも称する。インドのベーダ時代からの神で、ヒンドゥー教ではクベーラの異名をもつ。もとは暗黒界の悪霊の主であったが、ヒンドゥー教では財宝、福徳をつかさどる神となり、夜叉、羅刹を率い、帝釈天に属して北方を守護する神とされた。仏教では四天王の一尊で須弥山(しゅみせん)の北方に住し、多数の夜叉を眷属として閻浮提(えんぶだい)州の北方を守る護法の善神とされた。その形像は甲冑を身に着け、憤怒の相をし、左手に宝塔を捧げ、右手に宝棒または鉾を執り、二夜叉(鬼)の上に座る。十二天の一とされるが、わが国では単独でも古来から信仰された。
 
吉祥天(きちじょうてん) 
仏教の福徳の女神。「きっしょうてん」とも読む。サンスクリット語シュリーマハーデービーの訳。功徳天ともいう。ヒンドゥー教のラクシュミー(別名シュリー。吉祥の意)が仏教に取り入れられたもので、ヒンドゥー神話においてはビシュヌ神の妃であり、「大海から生まれたもの」の異名をもち、愛欲神カーマの母である。仏教では毘沙門天の妃とされる。日本では古代に、彼女を本尊として福徳を祈願する吉祥天女法(てんにょほう)が大極殿(だいごくでん)や国分寺で行われたが、後世には、彼女への信仰は庶民的な福徳の神、弁才天の人気の陰に隠れたようである。薬師寺の画像や浄瑠璃寺の彫像が有名で、左手に如意宝珠(にょいほうしゅ)をのせている。
 
布袋尊(ほていそん) 
中国の明州奉化県(現浙江省)出身の禅僧。腹が大きく膨れた肥大な体躯であった。いつも大きな袋を持ち、杖をついて市中に喜捨を求め、食物その他もらい物などいっさいを袋の中に入れて歩いたという。わが国には室町時代からこの奇僧のことが知られるようになり、その福徳円満な風貌と、よく子供に取り囲まれていることが多くの人の話題となり、絵画や詩文に描かれるようになった。布袋がどうして七福神の一つとして加えられたかは明らかでない。中国の後梁の貞明2(916)年に没したと伝えられ、弥勒菩薩の化身ともいわれている。
 
寿老神(人)(じゅろうじん) 
福神の一つで長寿を授ける神。中国の宋代、元祐年間(1086〜93)の人物と伝えられ、その偶像化といわれている。小柄な老人が鹿を伴い、巻物をつけた杖を携えるというのが定型の姿である。日本には禅宗伝来後における水墨画の発達に伴い、その画題の一つとして移入されたものらしい。布袋、福禄寿とともにのちには七福神の仲間入りをして福徳神の一つともされた。しかし寿老人は瑞祥(ずいしょう)の象形とはされたが、個別に福神として信仰されるには至らなかった。
 
七福神の起源
私たちが知る七福神は、恵比須、大黒天、毘沙門天、布袋和尚、福禄寿、寿老人、そして紅一点の弁才天、という七人の神様集団。でも、神様というより感覚的には招き猫や達磨、福助といった福を招く縁起物という感じがしませんか? 
もちろんそれぞれの神様はちゃんと立派な神社に祭られている由緒ある神様なのですが(毘沙門天を祀った鞍馬寺、大阪の今宮恵比寿神社などが有名)、なぜか七人まとめてしまうところに、沢山の福が欲しい!というちょっと欲張った、いかにも庶民的な思いが見えてくるのです。 
七福神の起源は、「庶民の間にまず恵比寿と大黒天への信仰が始まっていた」平安時代末期といわれています。が、まだこの時代には神仏に祈る事柄は国や村の五穀豊穣を祈るという共同体の祈願が中心であり、個人の願いを神社や仏閣に祈願に行くという「個人の祈願」の習慣はほとんどなかったと考えられます。 
庶民は、自然発生的に建立されたお地蔵さまや地域を守る神様、前述の「恵比寿」「大黒天」といった神様への祈願が中心となっていました。 
しかし、貴族が国の実権を握っていた時代が終わり、戦乱で世の中が混乱していた室町時代、特に室町後期になると、京都の庶民の間に急速に福の神信仰が広がりを見せ始め、さらに全国へも広がっていきました。 
室町時代といえば、応仁の乱(1467-77)などの戦乱の時代であり、貴族階級が経済面で疲弊していた反面、社会的には商業が形を持ち始めた頃でもありました。このころになると庶民の間には蓄財観念も芽生え始め、福徳という現世のご利益を求めようとする意識が生まれてきたのです。 
妖怪・七福神・絵馬という「苦しい時代を乗り切る三点セット」のなかで、七福神が絵馬と決定的に違うところは、七福神の信仰が一般庶民から始まったという点にあります。絵馬の奉納が都の平安を願う、地域への平安を願う「共同体の祈願」として時の帝によって始められた、という起源を持つのに対して、「七福神信仰」は共同体の祈願ではなく、「個人の祈願・信仰」として登場してきた、という点で大きく異なるといえるでしょう。 
「絵馬」が「共同体の祈願」から「私のお願いを聞いて欲しい」という「個人の祈願」へと移り変わっていったのとほぼ同時期に、初めて庶民の個人的な願いを託せる信仰として、七福神信仰が生まれてきたのです。 
 
最初から七福神は七人だったのかといえばそうではありません。平安時代後期のころは、すでに記したように、まず海からの恵みをもたらしてくれる神様・恵比須と寺院の食厨(台所)の守護の神様・大黒天を共に福の神としてペアで祀ることから始まりました(大阪や京都では、今も恵比須と大黒天のみを祀る風習が残っています)。 
次に女性の神で、古事記にも登場する神様・天細女命(あめのうずめのみこと)がここに加わりますが、京都では同じく女性の神様、弁才天のほうが人気があったために、天細女命に代わって芸能と財福の神様・弁才天が七福神に加わったとされています。 
さてこれからがいかにも庶民が生んだ信仰らしく、いろいろな福をもらおうと考えたのか、知恵と武闘の神様・毘沙門天と、開運・良縁・子宝の神様・布袋和尚を加え、五福神としたあと、さらに長寿の神様・福禄寿、長寿と幸福の神様・寿老人を加えて七福神としたといわれています。 
本来は五福神でもよかったはずなのですが、当時の庶民が「七福神」にこだわったのには、仏教経典・仁王般若波羅密経にある七難即滅七福即生にちなんだといわれています。この言葉は本来、仏の教えを守っていれば七つの大難(太陽・星の異変、火災、水害、風害、旱害、盗難)は消滅し、七つの福がえられるという意味なのですが、当時の人々は福を得るために、この七という数字にこだわっていたのかもしれません。 
こうして生まれた七福神は、江戸時代に入ると全国規模で爆発的な人気を博することになります。そのきっかけを作ったのは徳川家康に仕えた政治指南役・天海僧正で、天海僧正が家康に「上様は寿老人の長寿、大黒の富財、福禄寿の人望、恵比寿の正直、弁才天の愛敬、毘沙門の威光、布袋の大量という<七つの徳>をお持ちです。この七神には七難即滅七福即生の功徳があります。」と言ったのに家康が喜び、狩野探幽に七福神の絵を描かせて尊崇したところ、これを各大名がまねをし、全国に広まったといわれています。 
 
江戸時代も中期に入り、元禄文化華やかなりし頃になると、庶民文化が爛熟期を迎え、芝居小屋などの「レジャー施設」も盛んに作られるようになりました。そんな中で生まれたのが、今も全国各地に残る七福神めぐりという、七福神にちなんだ社寺を巡り、福を願うというツアー。願を掛けながらお寺を巡り、ご当地の名物も食して…という、実益をかねたレジャーとして人気を博したという記録が残されています。 
しかし、このころ七福神から福禄寿と寿老人を除外すべきという意見が出始めていました。もともと福禄寿と寿老人は神様ではなく、はっきりした由来なども不明確であり、いわば頭数をそろえるための存在であるなら「五福神」でもいいのでは?という評価があったためです。現に当時の京都では七福神ではなく、「五福神」が一般的だったといわれています。 
また逆に、景気が低迷していた文化元年、江戸吉原の「桔梗屋」が考えた福助人形が売り出されました。桔梗屋の目的はこの福助人形を七福神に加え、末広がりの八福神にしようと画策したのですが、そうはうまくはいきませんでした。しかし、「福助」の人形は好評を博し、現在でも招き猫や七福神と並ぶ「縁起物」として愛されているのはご存知のとおりです。 
こうして「七福神」はかろうじて「八福神」や「五福神」になることもなく、現在まで庶民のささやかな願望を託す神様として愛されています。現在も残る「七福神めぐり」も、近年は「町おこし・村おこし」の目的に使われることなどもあり、全国で110箇所以上の七福神めぐりが存在しています。 
「七福神めぐり」もまた「絵馬」と同様、苦しい状況を変えていきたい、乗り切りたいと思った時に、真摯に神や仏に祈願し、自らの祈願を聞き届ける神様を欲していた庶民のための、今も昔も変わらぬ身近な霊場としての役割を果たしてきたといえるでしょう。

  
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大辯才天女尊 / 弁財(才)天・補考
 
 
聖典「リグ・ヴエーダ」 
インド最古の宗教文献で、バラモン教の根本聖典の総称である「ヴェーダ」のうち、「リグ・ヴェーダ」は最も古く、重要な位置を占めています。高校の世界史の教料書にもその名が見えるこの文献は、アーリア人が初めてインドに侵入したとき残した第一級の歴史的遺産として名が知られていて、ここには、さまざまな神への讃歌1028編が収録されています。 
辯天さまの信仰は、アーリア人がこの「リグ・ヴェーダ」のなかで賛美された女神「サラスヴァティー」にその源流を見るのです。私たちがお唱えする御真言「おんそらそばていえいそわか」のうち「そらそばていえい」にあたる「サラスヴァティー」。 
この「サラスヴァティー」とは、どういう性格の神だとされているのでしょう。またどういう理由で信仰され始めたのでしょう。信仰されるには、されるだけの理由があったはずです。 
これらをお話しするにはまず、「リグ・ヴェーダ」がどのようにして作られたのか、その歴史的背景をご理解いただかねばなりません。そしていつの時代のインドにあっても、その文化の形成に一番主導的な地位を占めてきたのがアーリア人という民族であったことも記憶に留め置いてください。彼らのインド侵入は今から3500年も前のことでした。そこで、しばらくは太古の昔にさかのぼって、はるかなユーラシア大陸に思いを馳せてみましょう。 
アーリア人の侵攻 
アーリア人の原住地、つまりふる里はいまだに不明で定説はありません。一般にはカフカズ山脈の北方(カスピ海と黒海に挟まれた地域)であったといわれています。彼らは家畜の群れを引き連れて、こちらの草原からあちらの草原へと遊牧する生活を送っていたのですが、時代の経過とともに一定地域の草原を出て、他の地方に向かって民族大移動を開始します。それは“ 水” を求める旅でもありました。 
このうち、西に向かった部族はヨーロッパに定住してヨーロッパの諸民族、すなわちゲルマン人、イタリア人、ギリシャ人などとなりました。また東方に向かって移住した部族の一部が、5000メートル級の山々が連なるヒンズークシ山脈を越えてアフガニスタンからインドの西北部に入り、インダス河上流のパンジャーブ( 五河)地方を占拠していきました。彼らをインド・アーリア人と呼びます。 
この侵入はだいたい紀元前1500年から1200年頃にかけ、波状的になされたと推定されます。 
彼らの侵入以前のインドには、ドラヴィダ人やムンダ人といったいくつかの民族がそれぞれの文化を築いていました。この代表がインダス文明だったのですが、アーリア人は圧倒的な武器と戦術をもってこれを征服しました。こうして、先住民は人口ははるかに多かったにもかかわらず、まったくアーリア人の支配下に隷属し、社会最下の隷民階級を構成することになったのでした。ここに「カースト制」と呼ばれる体制の萌芽がみられ、以後これが維持されることになります。 
4つのヴェーダ 
当時のアーリア人は非常に宗教的な民族でした。彼らは各家庭の祭壇に供物を捧げ、大規模な祭祀をたびたび行っていたようです。その都度彼らは神々に讃歌を捧げ、神々を喜ばし、それによって現実の生活の上での幸福を得ようとしました。 
この神々の大部分は自然現象をはじめとした抽象的概念などを神格化したもので、天・空・地の三界に住むと信じられていました。たとえば、太陽を神格化したスールヤという神は天界に属し、風を神格化したヴァーユという神は空界に、火の神格化であるアグニという神は地界に属するといった具合です。ほかにも雨を降らせる神、地面を司どる神をはじめ、概念として、契約を守護する神、信念を支配する神、激情を司る神などが、広く祈りの対象となっていました。 
こんな神々に対する儀式が複雑化すると、祭祀に関係のある語句や文章が集められて、「聖典」が編纂されていきます。神々に対する讃歌を集成した「リグ・ヴェーダ」、祭祀にあたって詠唱する詠歌を集成した「サーマ・ヴェーダ」、祭詞を集成した「ヤジュル・ヴェーダ」、呪法句を集めた「アタルヴァ・ヴェーダ」の四つのヴェーダがそれです。なかでも「リグ・ヴェーダ」がもっとも古く、かつ重要視され、インドに侵入したアーリア人の宗教、文化、生活を今に伝える根本資料となっています。 
3000年の変遷経て 
「ヴェーダ」文献にみるアーリア人の宗教は、一般に「バラモン教」として知られています。 
「ヒンズー教」というのは、ふつうこのバラモン教を土台とし、アーリア的要素とインドの土着的要素とが複雑に融合して形成された宗教ですが、「リグ・ヴェーダ」はさまざまな変遷を経て、3000年後の今日に至るまで主として暗唱によって伝えられました。現代もヒンズー教の人々が最も重んじ、生活や信仰の中に生かしているのです。
 
 
アーリア人の「水の信仰」 
「北インドでは6-9月が雨季で、雨が降るのはほぼこの季節に限られる。炎暑の5月になると人々は雨季の到来を待ちこがれる。ある年の5月中旬、西ベンガル州を旅行中に雨季入りにぶつかったことがある。空の片隅に黒雲が見えたかと思うと、たちまち大粒の雨が降りだした。人々は雨だ雨だと大さわぎ。話には聞いていたが、この感激ぶりは予想を絶するものがあった」。これは「ガンジスの聖地」の一節です。改めていうまでもなく、私たちは原始の昔から生活の細部にわたって「水」に依存しています。世界を構成し、生命を育む母なる水は、私たちの生命の源であり、生活の基盤であるといえます。 
水が土地に潤いを与え、さまざまな動植物を育んでくれるからこそ、私たちも生命を維持していくことが可能となります。あまりにも尊い「水」。喉がカラカラに乾ききったとき口にする一杯の水のうまさを言葉で表現することができるでしょうか。とりわけ、雨季と乾季との区別が明確なインドに住む人々にとって、水に対する畏敬の念は、私たちには想像もつかないほど強烈です。 
ヒマラヤ山脈の南方に大陸を形成する酷暑の国インドでは、10月から翌年の5月までが乾季。この間、雨は全くといっていいほど降りません。ところが、南西モンスーンの季節が始まる6月から9月までの4カ月に、ほとんど1年分の雨が降るといいます。ひとたび豪雨となれば、大洪水となり、田畑は崩壊して尊い人命が多数失われました。しかし、それでもインドに住む人々は、生命をよみがえらせる直接の偉大な力として、「水」を何より尊んできたのです。 
長い旅路の末に 
このような水に対する特別の感情が、古代インドのアーリア人にはありました。アーリア人がふる里を離れ、民族大移動を開始したのは水不足が直接の原因でした。牧草が次第に疲弊して、主要な食料源である畜牛とその所有者たる彼ら自身を支えるのに不十分になったためだと学者は指摘しています。 
水を求めて移動を始めた彼らは、乾燥した草原や砂漠を通過しながら、水の尊さを身をもって知るようになったのでしょう。待ちこがれるのは水の恩恵ただ一つだったのです。苦難の旅の末にパンジャーブ地方に侵入したとき、彼らの水に対する畏敬の念は「信仰」にまで昇華しました。 
そして、水の恩恵への切実な願いと水に対する畏敬の念から、水の背後にあって水を支配する「偉大なるもの」の存在に思いを来たし、それを「神」としてあがめ奉るようになったのです。長い長い旅の果てにここに行き着いた彼らの心理は当然といえるでしょう。その証拠に、水の恩恵を支配する神が「リグ・ヴェーダ」にしばしば登場しています。 
二、三の例をあげましょう。のちに仏教に取り入れられ、「帝釈天」として広く一般の信仰を受ける神「インドラ」は、「リグ・ヴェーダ」のなかの讃歌の四分の一を占めています。 
この神は悪魔を退治して水流を解放し、人間界に待望の雨と光明をもたらすとしてアーリア人の尊敬を一身に集めますが、その従者「マルト」もまた悪魔退治に従事したとして、雨水による恩恵を支配する神として崇拝されているのです。 
雨雲の神格化である「パルジャニア」という神は、雷鳴、電光、疾風を伴う降雨の現象を支配し、草木を潅漑し、人間、家畜の増殖を司り、豊饒の恩恵を施す神として信仰の対象となりました。 
畏敬の念の芽生え 
さて、アーリア人が移ってきたパンジャーブ地方は土壌が沖積土で比較的肥沃なため、降雨量は決して十分でなくても多くの収穫が期待できました。彼らが好んでこの地を選んでいたことからみて、おそらく、当時のパンジャーブ地方は現在より穏和な気候と居住に適した条件を備えていたと思われます。 
そんな自然環境のなかで、ようやく牧畜や農耕を中心とした生活を営みはじめた彼らにとって、生活を保証するカギとなったのが「河川」でした。ふだん「河川」は彼らに限りない豊饒を約束し、生活を根底から支えていました。しかし、ときにはそんな期待を覆し、大洪水を巻き起こし、すべてを情け容赦なく奪い取るのも「河川」です。文字どおり、彼らの生殺与奪の権は「河川」にゆだねられていたと言ってよいでしょう。自分たちの力で「どうすることもできない」ものに対して畏敬の念が芽生えるのは、今も昔も変わりません。 
彼らは祈りました。彼らは大いなる流れの河畔に集い、供物を供え、河川を司る何者かに対し、ひたすら加護を願って讃歌を唱え、祭式を執り行うほかありませんでした。「河川」は、彼らにとって、地上における最も典型的な水の現われだったといえるでしょう。こうして「河川」に対する畏敬の念はやがて「信仰」へと姿を変えていったのです。 
河川が神格化して 
辯天さまの信仰は、アーリア人が古代インドの文献「リグ・ヴェーダ」において賛美した女神「サラスヴァティー」にその起源を求めることができますが、この女神こそ、アーリア人が「サラスヴァティー河」と名付けた河川が神格化されたものなのです。
 
 
「サラスヴァティー河の歌」にみる辯才天  
ヴェーダ讃歌より 
1. 奔湍と滋養とをもってこのサラスヴァティーは流れいでたり、[敵に対する] 要害として、金属の防壁として。車道によるがごとく、大河は[その]威力により、他のあらゆる水流を[後に] 推しやりつつ進む。 
2. 諸川の中にただ独り、サラスヴァティーはきわだち勝れり、山々より海へ清く流れつつ。広大なる世界の富を知りて、ナフスの族(人類) にグリタと乳とをいだしきたれり。 
3. 彼は、若き女性のあいだの男子として、祭祀にふさわしき[女神] のあいだの若き牡牛として成長せり、彼は寛裕なる人々に勝利の賞をかちうる馬を授く。願わくは、彼が勝利のために身を洗い清めんことを。 
4. またかの名高き・恵み深きサラスヴァティーは、この祭祀において、快く享けてわれらに耳傾けんことを。膝を直ぐ立てたる頂礼者により祈願せらるる[女神]は彼女は富を伴侶とし、[あらゆる] 友(他の河川) に勝る。 
5. これらの[供物]を、汝ら( 詩人の庇護者) よりの[ものとして] 頂礼もて捧げ、サラスヴァティーよ、[ この] 讃頌を嘉せよ。最も好ましき汝の庇護のもとに身を置き、われら願わくは、[この]避難所に達せんことを、あたかも木[蔭に入る] ごとくに。 
6. ヴァシシュタ(本篇の詩人) はここに汝のため、サラスヴァティーよ、天則(讃歌) の両扉を開けり、恵み深き[神] よ。うるわしき[神] よ。讃美者に増し与えよ。勝利の賞を授けよ。汝ら神々は常に祝福もてわれらを守れ。 
この讃歌によると、女神「サラスヴァティー」は他の河川に勝り、常にその中心的存在であって、富を与え、勇気と勝利を与える恵み深き慈悲の神として、信仰の対象となっています。この点について、原初の姿からとらえるために、語源的に吟味してみましょう。 
特定しない河川名 
「サラスヴァティー」(sarasvati) を「サラス」(saras) と「ヴァト」(vat) に分解して解釈すると、サラスは「池、湖、貯水池」を、ヴァトは「- を有する」ということをそれぞれ意味します。したがって、「サラスヴァティー」は「池に富める、湖をもてる」という意味のサンスクリット語の女性形で、水池一般を指すものと考えられます。 
アーリア人は水=河川の恩恵を求めて絶えず移動しましたから、それにつれて河の名前もしばしば移り変わっています。移動の所々に、その地を流れる河に対して「サラスヴァティー」の名を使ったというわけです。事実、彼らが通過してきたアフガニスタンには「ハラフヴァイティ」という河があったことが、学者の研究で分かっています。いわば「サラスヴァティー河」という名は彼らとともに旅したのでした。 
こういった事情をふまえて結論的に言えば、サラスヴァティー河というのは特定の河を指し示していたわけではありません。しかし、太古の昔、彼らがパンジャーブ地方を占拠したとき、サラスヴァティー河と名づけられた河が確かに存在していたはずです。 
その河は、山々より海へ流れると讃歌に歌われているように、古代には相当な大河だったと推測されるのですが、それではその河川は現在、どうなっているのでしょうか。もし存在するのなら、どの河なのでしょうか。 
3500年の歳月 
この点、大方の学者の見解は悲観的です。それによると、パティアラという町で砂漠に没するサルスーティー河がサラスヴァティーの名を継承する河川だとのことですが、1965年にインド政府が発行したパンジャーブ地方の地図を調べても、そのような河はどこにも見当たりません。 
ところが、昭和53年2月以来、3回にわたって現管長猊下はインドを旅し、サラスヴァティー河の存在を立証しようとされました。その旅行記は「私のインド紀行」として上梓されていますが、管長猊下の指摘によれば、デリーの西北約160キロに位置するペホワという町のはずれを流れる「サラスワティ(saraswati)河」がそれだということで、地図にも確かにその名をみることができるのです。 
その河は麦畑の中に池のように水をたたえ、ひっそりと流れていたそうです。ここが大昔、サラスヴァティーが流れていたところだと街の人は答えたといいます。川岸には古めかしい寺院や礼拝所、それに沐浴用のガート( 階段) があり、それらしい雰囲気が感じられたそうですから、間違いはないでしょう。 
太古の昔、多くの支流を集め、とうとうと流れつつ、人々に限りない豊饒を約束した聖なる河サラスヴァティー。3500年という長い歳月はサラスヴァティー河の姿を大河から小さな流れに変えてしまったのでした。とはいえ、インドではサラスヴァティーの名を知らぬ人はいないといわれるほどこの女神の名は一般的です。いつの時代にあっても、インドの大地に生きる人びとにとって、「水」は畏敬の対象であり続けたからだと言えなくはありません。たとえサラスヴァティー河が小さな流れに姿を変えていたとしても、その名はインド人の思想体系の中で、決して輝きを失うことはないのです。
 
 
仏教経典にみる女神・辯才天 
辯才天について述べられている経典として、忘れることのできない仏教経典が二つあります。一つは「金光明最勝王経」(こんこうみょうさいしょうおうきょう)、いま一つは「大日経」(だいにちきょう)です。 
両経典とも、仏教史のうえでは重要な位置を占める貴重なものではありますが、「大日経」の場合は「辯才天」ではなく、妙音天、美音天といった名前で辯天さまが紹介され、辯舌の神、智恵の神としてよりもむしろ、音楽の神としての性格が強調されています。私たちがお唱えする御真言「おんそらそばていえいそわか」も「大日経」で説かれているのですが、辯才天のお働きをより詳しく伝えるものとして、「金光明最勝王経」を主たる経典と考え、お話を進めることにいたします。 
「金光明最勝王経」は、もともと「金光明経」というお経でした。紀元前1500年のヴェーダ時代から、下ること1800年ほどたった4世紀のインドでは、すでに大乗仏教が興り、民衆の支持を得つつ多くの大乗経典が編纂されていました。そのころ編纂されたとされる「金光明経」は、代表的な経典の一つであった訳です。 
伝来は奈良時代 
この「金光明経」がわが国に伝えられたのは、仏教伝来とほぼ同時期の7世紀ごろだと推定されます。 
聖徳太子は「金光明経」の精神に準じて四天王寺を創建されました。持統天皇もこのお経を諸国に奉安して毎年正月に講義させましたし、聖武天皇の時代になって諸国に建立されていった国分寺が、このお経の説く教義を基とされたといわれています。このように、「金光明経」が奈良時代の仏教流布に及ぼした影響は、大きなものがあったのです。 
「金光明経」は時代とともに増広され、仏教の発達に伴って内容も豊富になってゆきます。そして、ずっと後に完成された経典として「金光明最勝王経」が編纂されたのです。これを、唐の時代の長安3年(703)に、義浄というお坊さんがインドから中国に持ち帰って翻訳しています。 
「金光明最勝王経」は全部で十巻三十一品からなる大部のお経ですから、辯才天に関する記述も「金光明経」よりはるかに詳細になり、それまでになかった新たな性格付けがなされるなどの変化がみられます。そのうち、辯才天について説かれるのは巻七から巻八の「大辯才天女品第十五」においてで、巻十には「大辯才天女讃歎品第三十」があります。 
長文の賛辞続く 
まず、「大辯才天女品第十五」全体の流れを概観しておきましょう。 
はじめにお釈迦さまの前に辯才天が立ち、バラモン教の僧侶である僑陳如(きょうちんにょ)の要請をうけて教えを説きます。このあと、ふりかかる災害や悪鬼、悪霊のもたらす諸悪などを滅する「呪薬洗浴の法」という呪法を説いています。 
これは、インド古来の世俗的な呪術を仏教思想をもって換骨奪胎したものと思われ、壇をこしらえ、32種類の香薬を使い、呪文を唱えるなど、仏教史、文化史の上からはもちろん、本宗の施薬との結びつきをも想起させて興味深いものがありますが、辯才天の性格については直接言及されているわけではありません。つづいて、バラモン僧の求めるままに「陀羅尼」(ダラニ)=もともとは精神統一のために用いられる呪文。転じて、除厄招福のための呪文=が授けられ、そのあと辯才天の御誓願ともいうべき詩が続きます。 
この詩を聞いたバラモン僧は一段と感激し、このあと長文の辯才天の賛辞が続くのです。「大辯才天女讃歎品第三十」では、お釈迦さまと辯才天が互いに詩をもって相手を讃えあうという内容になっていますから、中心の記述は「大辯才天女品第十五」にあると考えてよいでしょう。 
それでは、経文を引用しながら辯才天の性格を調べてみることにしましよう。 
経文の記述 
冒頭でまず、辯才天は本経を受持する者を守り、またこのお経を聞く者に辯才とこの上ない智恵を与え、かつ現世において寿命を増すとの誓願を説いています。「金光明最勝王経を説く者は、我まさにその知恵を益し、言説の辯を具足荘厳すべし」 
また、 
「この経典を聞く者をして、皆不可思議の捷利辯才と無侭の大恵とを得せしめ」 
「現世の中においては、寿命を増益し」 
などとあるところがそれにあたります。 
辯才天の辯舌の神、智恵の神としての性格を説く記述は、冒頭の御誓願以外にも各所にみることができます。 
経文では 
「言を出すこと猶し世間主の如し」 
とか 
「辯才勝れて出ずる高峯の若く」 
とあり、また 
「聡辯にして聞持を具せしめ」 
「能く智光明を放つ」 
などとあります。 
これに対して 
「五音の楽声絶えず」 
とか、 
「天の伎楽を作し、その所に来詣して擁護す」 
との記述も見えるところから、辯才天が音楽の神としての性格を有するものであることも分かりますが、これに類した記述はこのほかには見当たりません。 
このことから、「金光明最勝王経」では音楽の神としてよりも、辯舌の神、智恵の神としての性格を前面に、押し立てた記述が中心になっているようです。 
 
「貧窮を解脱し財宝足り」 
「威神もて擁護し延年を得て吉祥安穏にして福徳増し災変厄難皆除き遣らん」 
また、 
「能く一切衆生の願を与う」 
「若し財を求むるものは多財を得る名称を求むるものは名称を得る」 
などという記述がまず見られます。 
これらから、辯才天は寿命、福徳を始めとする、私たちのあらゆる願いを叶えてくれる慈悲の女神として讃えられていることが分かるでしょう。 
さらに本経で特徴的なことをあげますと、戦勝の神としての性格を有する記述がみられるということです。 
経文に 
「軍陣の処において戦いて恒に勝ち」 
などとあるのを見ると、私たちがもつ「辯天さま」のイメージとは、ずいぶん異なるようですが、この性格こそが本経で説かれる辯才天のお姿を決定づけているのです。 
すなわち、一面八臂( いちめんはっぴ)。つまり八本の手があり、それぞれに弓・矢・刀・鉾・斧・楯・鉄の輪・綱を持つとされます。 
これには、美しいというよりむしろ、威厳のあるりりしい風貌が感じられます。 
もっともお顔は 
「面貌は猶盛満月の如く」 
「面貌容儀人観んことを願う」 
とあるように、美しい女神として描かれてはいるのですが… 
よく、辯才天が両の手に「琵琶」という楽器を持っている姿を見かけます。有名な江ノ島の辯才天の像などで、むしろ一般にはこちらの方がよく知られているのかもしれません。が、こちらは「大日経」で説かれるお姿です。 
以上、主として「金光明最勝王経」に登場する辯才天について、経文の骨子たる部分を紹介してきました。 
「金光明最勝王経」および「大日経」以外にも、他の仏、菩薩にまじって辯才天の名が散見される仏典は数多くあります。しかし、その性格等について言及した経典となると、ほかに二、三あげられるのみで、いずれも辯舌の神、または知恵の神としての性格が、いたって簡潔に規定されているにすぎません。 
「頓徳如意宝珠陀羅尼経」 
「即身貧転福徳円満宇賀神将白蛇示現三日成就経」 
「大宇賀神功徳辯才天経」 
「宇賀神王福徳円満陀羅尼経」 
「大辯才天秘密陀羅尼経」 
といったそれぞれの経典の中でも、辯才天についてはいろいろ描写され、宇賀神と辯才天が混合されたり、蛇が辯才天の使いだと説かれたりしています。辯才天の従者として私たちになじみ深い「十五童子」が示されるのも、上記のお経に基づくものですが、これらの経典はわが国で編まれたお経であるため、記述内容の起源をインドに求めることはできません。 
なお日本では、室町時代の末期ごろからしばしば、辯才天は「辯財天」と書かれるようになり、七福神にも加えられました。 
これは、「若し財を求むるものは多財を得る」との「金光明最勝王経」の記述をもとに、財宝の神としてのイメージのみを強調するあまり「才」を「財」におきかえたことによるもの。この点であくまで「辯財天」と書くのは間違いだとの指摘があります。 
 
すでにみたように、辯才天は「リグ・ヴェーダ」で讃美された女神サラスヴァティーがそのルーツでした。 
河が土地に潤いを与え、さまざまな穀物を育ててくれるからこそ人間が生きてゆくことができるのであり、それに対する畏敬の念からサラスヴァティーの信仰が生まれてきました。 
仏典でも「金光明最勝王経」によれば、辯才天は辯舌、智恵をはじめとする種々の幸福をあたえる慈悲の神としてのお働きを中心に描かれていますので、文献上の事実から考えると、辯才天がただ単に財宝の神としてのみ祀られるのは、やはり本来の神格としてはそぐわないようです。 
しかし、サラスヴァティーの性格にも「富」の要素が見られましたから、まったく根拠がないわけではなく、「才」と「財」を結びつけた民衆の切実な願いに思いを寄せるなら、これを単なる当て字だと決めつけられないのではないでしょうか。 
辯才天の性格やお働き、お姿などを詳細に描いて余すことない「金光明最勝王経」。 
わが国における辯才天信仰の流布は、本経の伝承なしにはあり得ませんでした。 
辯天さま 
辯天さまに対する信仰は、時代や地域やそれぞれのお国柄に溶け込み、その状況に応じた特有の形態をとってきました。 
わが国でも、広く親しみをこめて辯才天がお祀りされ、「辯天さま」として多くの人々の信仰を集めています。その代表が、近江の竹生島、相模の江ノ島、安芸の厳島の辯天さまで、三辯天といわれています。これに陸前の金華山、大和の天川を加えて五辯天ということもあります。 
こんなところからも、辯才天のお徳がいかに広く深いものかということが分かるのです。