踊り念仏・盆踊り
踊念仏1踊念仏2踊念仏3空也1空也2念仏踊1念仏踊2能山踊念仏踊と踊念仏 
盆踊り1盆踊り2盆踊り3盂蘭盆盆踊り用語解説盆踊りと祭屋台 
組踊り以前信仰と民謡郷土芸能お盆の起源日若踊お糸地蔵延年日本人と祭り盆踊りの所作・・・

時宗・一遍 仏の世界   

 
踊念仏1・念仏踊・盆踊

「踊念仏」と「念仏踊」  
「踊念仏」と「念仏踊」の相違であるが、民俗学研究所編「民俗学辞典」によれば、「一遍上人・空也上人らによってはじめられた踊りと伝える。踊念仏ともいう」、ここでは「踊念仏」と「念仏踊」との区別はなされていない。大塚民俗学会編「日本民俗事典」では、「仏教儀礼として、念仏をとなえながら舞い踊ることで、芸能としての念仏踊と区別する」「踊り念仏は仏教儀礼として、念仏・和讃をうたいながら霊の鎮魂や鎮送のために踊るものであるから、これを芸能または娯楽のためにすると、念仏踊となる。 
しかし現今は、民俗芸能と称して大念仏・六斎念仏・盆踊などを、すべて念仏踊に入れている」、明確に区別をしているが、今日ではその区別も曖昧になりつつあるという。「宗教的な目的からはなれて芸能娯楽化したのを風流というが、その風流化が、宗教より娯楽にかたむいたとき念仏踊といわれる」 ともいう。
「念仏踊」と「盆踊り」  
「念仏踊」は「踊念仏」の芸能化によると説明したが、「踊念仏」も「念仏踊」も共に時期を選ばずに行うが、盆踊りは精霊の供養のための踊りであり、とくに決まった型(芸態)があるわけではない。かなり自由であって、念仏や和讃を唱えて踊る地方もあれば、民謡を唱和し、時には即興的にうたって踊る場合が多い。盆踊りが精霊の供養のためということ、つまり盂蘭盆会に死者の霊をなぐさめて再び送るための踊りとされ、それが地域の共同娯楽として、あるいは秋の豊年の祈りもこめられるようになった。 
本来は新盆の家から出す切子灯籠をかこんで踊る所もあるが、多くは、音頭の櫓を中心に輪が描かれている。阿波踊、広島県三原のヤッサ踊のように町を流す所もある。 ところで踊りは古くから歌垣(かがい)に起因するものであって、本来盆踊りとは関係のないものであるといわれている。しかし、民間における祖霊慰楽の供養のためとする観念が強く残っていて、盆踊りをすることによって、凶年から救われるというのである。秋の豊年の祈りと無関係ではない。また現在ははなはだしく芸能化しており、神仏両様それぞれに教義が多く付加されているので、その混交は見分けがたくなっている。
「風流踊り」  
「日本民俗事典」の「念仏踊」の項に説明されているように、「踊念仏」が芸能や娯楽のために行われ、芸能または娯楽のために行われると「念仏踊り」となり、さらに宗教的な目的からはなれて芸能娯楽化すると風流と呼ばれる。風流化は華美な服装や仮面や持物などにあらわれ、また念仏和讃ではなく、恋歌や叙景歌や数え歌などとなった。五来重氏は田楽と踊念仏の結合が平安末期に行われたことによるという。 
平安末期に佛くさい今様の法文歌を白拍子が歌い、舞ったりしたことから、念仏踊への道が開かれたという。越中五箇山のコキリコ踊や越後黒姫村女谷の綾子舞などにこの段階の念仏踊がみられるという。また雨乞踊・豊年踊・花笠踊などがあげられる。風流踊りはサギ・鶴・鹿・鳳凰などに仮装して踊る仮装風流の踊りや、背に美しい神籬(ひもろぎ)を負う太鼓踊り・鞨鼓踊り・風流獅子(鹿)踊りなどほとんどの踊りが風流踊りと称しても良いほどである。
「聖絵」に見る踊念仏の誕生  
一遍聖は弘安2年(1279)春から8月まで因幡堂に滞在、秋に信濃善光寺へ赴く。「一遍聖絵」第4巻に、佐久郡小田切の里、或る武士の館において、あまたの道俗と共に念仏しているうちに、突然一遍が踊りだし一同これにならって踊りまわったという。これは空也の先例にならって踊り念仏をはじめたともいう。その様子は、道俗多く集って結縁者が激増したので、相続して一期の行儀となったとも。さらに弘安2年(1279)冬「一遍聖絵」第4・5巻によれば、佐久郡の大井太郎という武士が一遍に帰依、その邸を寺とする。 
今の野沢金台寺がそれであるという。その姉は信心はなかったが、ある夜夢に一遍の姿を拝み、信心おこして一遍をわが家に招き3日2夜供養した。このとき「数百人をどりまはりけるほどに」板敷を踏み落してしまった。これを記念にしようといって、修繕することなくそのままにおいたという。この時の様子をもう少し詳しく述べると、「一遍聖絵」には、多数の人々が庭で円陣を作って踊り、一遍は瓢を扣(たた)いて踊っている。このとき大井太郎が鉦を鋳て差し上げたので、この鉦を扣いて踊るようになったという。 
「竹馬遊びの童子もこれをまねて踊り、きぬた打つ女もこれになずらえて声々に唱えた」と語っている。一遍の念仏が「信不信をいわず、浄不浄をきらわず、ただひたすら仏願に乗じて無心に唱え、わが申す念仏ではなく、仏と共に申す念仏、最後にはその我も仏も消え果てて念仏が念仏を申す、南無阿弥陀仏になり切ること」を以て理想とした。踊り念仏はこの境地の顕現とされたのである。 
また「一遍聖絵」は、一遍の踊り念仏の先達を市聖空也にもとめている。 「そもそもをどり念仏は空也上人或は市屋或は四条の辻にて始行し給ひけり。‥・それよりこのかたまなぶものをのづからありといへども、利益猶あまねからず。しかるをいま時いたり機熟しけるにや」と述べている。空也が踊り念仏を行なったということは、その伝記類にも記録されていないのである。しかし、そのような伝承があったものであろう。 
 また一遍は、常に空也のつぎの文を持っていたという。 
 「心に執着がないから日が暮れればとまり、身には住むべき所がないから、夜が明ければ立ち去る。耐え忍ぶ衣(心)が厚いから杖や木で叩かれても、石や瓦を投げられても痛くない。慈悲の室(思)が深いので、悪口も聞こえて来ない。口にまかせて唱える念仏三昧であるから、市中がそのまま道場である。念仏の声に従って仏を見るのであるから、出で入る息がそのまま念珠である。夜々仏のお迎えを待ち、朝々最期の近づくのを喜びとする。身と口と心の三の働きをすべて天運に任せ、行住坐臥の振舞いはあげて仏道のために捧げるのである。」 
それから後はこの踊り念仏を自然にまねするものがあったが、そのご利益はそんなにひろまらなかったのである。が、今は時節が到来し歓迎されるようになったのであろうか。と「聖絵」はいう。
「聖絵」の踊念仏  
弘安5年(1282) 相模・片瀬地蔵堂における踊り念仏(「一遍聖絵」第6巻)  
弘安7年(1284) 近江・関寺での踊り念仏/池の中島に建てられた踊り屋での踊念仏のシーンが描かれている。「はねばはねよ をどらばをどれ はるこまの のりのみちをば しる人ぞしる」守山の閻魔堂に逗留した時、延暦寺東塔の重豪という人が来て、踊りながら念仏を申されるのはけしからぬことだといって、「心駒 のりしづめたる ものならば さのみはかくや をどりはぬべき」と歌い掛けてきたのに対し、一遍は「ともはねよ かくても踊れ こころ駒 みだのみのりと きくぞうれしき」と答えている(「一遍聖絵」第7巻)。 重豪は念仏は堂内仏前で、静かに威儀を正して申すべきものであると信じていた。しかし一遍は堂内仏前の念仏を市中の群衆の中にもち出した。踊りは心の解放でもあったのである。 
弘安7年(1284) 京都・四条京極の釈迦堂(踊り屋) 釈迦堂の踊り屋の絵は、片瀬地蔵堂の作りと似ている(ただし、この場面では踊り念仏は記録されていない)。 
弘安7年(1284) 京都・空也上人の遺跡市屋の道場での踊り念仏    
名声を求め、他人を患いのままにしようとすれば、身も心も疲れ果てる。功徳を積み、善根を植えようとすれば、いらぬ希望が多くなる。一人ぼっちで何の地位もないのが何よりである。閑居の世捨人は貧しさを楽しみとし、坐禅して深い定に入る人は閑かさを友とする。藤の衣、紙の衾こそはきよらかな服。求め易くて盗賊の恐がない。 「おのづから あひあふときも わかれても ひとりはおなじ ひとりなりけり」(「一遍聖絵」第7巻)、踊り念仏の心の解放というのは、何もかも捨て去ることであるという。 
弘安8年(1285) 但馬・久美浜 海水がさして来て道場いっぱいに入りこんできたシーンを描いている(「一遍聖絵」第8巻)。 
弘安9年(1286) 淀・「うへの」の踊屋 (「一遍聖絵」第9巻) 
正応2年(1289) 淡路・二の宮での踊り念仏 「旅衣 木のねかやのね いづくにか 身の捨てられぬ ところあるべき」(「一遍聖絵」第11巻)
踊念仏の系譜  
一遍の念仏勧進は融通念仏によったものであるといわれる。だから、熊野で「融通念仏すゝむる聖」(「一遍聖絵」第3巻)といわれたのである。融通念仏は、良忍が天台教学を身につけ大原の山中にいて声明による念仏をひろめようとした。これに対して一遍は民衆の中にいて民衆とともに往生の機を得ようとしたのである。これは空也に近い。一遍は「空也上人は吾先達なり」(「一遍語録巻下」99)といっている。 
歴史的に踊り念仏のおこなわれた寺について見ると、七条金光寺・四条金蓮寺・大炊道場聞名寺・五条御影堂新善光寺・丸山安養寺・霊山正法寺・大津荘厳寺などがあり、時宗の寺僧が踊念仏をおこない、大津荘厳寺の法事には東山法国寺の僧が行っている。また四条坊門極楽寺の空也像の前では毎日踊念仏があった。その他では京極光明寺では宇津宮弥三郎朝綱持仏の阿弥陀開帳があり、大阪四天王寺の短声堂では大念仏を修していた。いま踊り念仏・念仏踊の多くは盆を中心にしておこなわれているが、京都では彼岸におこなわれることが多かったという。  
踊念仏のひろがり 
「一遍聖絵」では最初の小田切の里での踊念仏を別にすれば、念仏踊をおどっているのはすべて僧尼であり、一般民衆はこれを見ている。前述の諸寺におこなわれる踊り念仏・念仏踊も僧尼が踊ったとある。それが次第に民衆の間で踊られるようになる。「融通念仏縁起」にも念仏踊のさまが描かれているが、この方は俗人も踊っている。そして寺の本尊のまえで踊っていて、舞台はつくられていない。「融通念仏縁起」の版本は明徳2年(1391)良鎮によってつくられ、肉筆本の方は応永21年(1414)につくられ、版本にしたがって描かれたもののようである。 
両本とも室町のはじめに描かれたもので、この頃になると、俗人も踊に参加しはじめていた事がわかる。こうして僧から俗へと除々に踊が拡大浸透していったもののようである。  
 
踊念仏2

踊念仏は自然発生的に杜会の混乱期にはじめられたものらしい。戦乱とか闘争がくり返され、世の不安がつのるにつれ、人々は何かに頼ろうとする。それが神であり仏であったのだ。神や仏を求め、そして得ることが出来たとき、喜びを外面に表わし、自然と踊りだす。助けてもらえる、救ってくださるという安心感から起こったものである。 
したがって誰が始めたというものではないようだ。自然に誰かが行ったものが、次第に形を変え整えられていったようだ。ではその形を整えたのは誰なのか。それについてみてみたい。踊念仏の発生については「聖絵」では、---抑をどり念佛は。空也上人。或は市屋。或は四條の辻にて。始行し給たり。---とあることから「聖絵」が成立した当時、踊念仏は空也の始めたものだ、という伝承があったようである。 
しかし実際は、空也の伝記や、当時の記録したものの中には、空也が踊念仏を始めた、と書いてあるものはない。ただ、「空也上人絵詞伝」に載っている絵から、空也も踊念仏をしていたこはわかる。そしてそれを知っていた一遍がそれを時衆の宗風として盛んにしたのである。 「聖絵」によると、一遍が踊念仏を始めたのは、信州小田切の里である。それがわかるのが、同国小田切の里。或武士の屋形にて。聖をどり始給けるに。道俗おほく集りて。結縁あまねかりければ。次第に相続して。一期の行儀となれり。 という文である。 
この部分に、次第に相続して行儀となっていった、とあるがその過程をみようと思う。まずここの信州小田切での踊念仏にはまだ踊屋がない。武家屋敷の庭先での踊念仏である。一遍は踊りの集団に加わらず、縁側に立って鉢(修行者が常用している食器)を叩き、庭では時衆の僧尼や武土たち10数人が足を高く上げながら思い思いに踊っている。  
 
空也(くうや)

平安時代中期の僧。天台宗空也派の祖。阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人と称される。民間における浄土教の先駆者と評価される。踊念仏、六斎念仏の開祖とも仰がれるが、空也自身がいわゆる踊念仏を修したという確証はない。門弟は、高野聖など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、鎌倉時代の一遍に、多大な影響を与えた。 
「空也誄」(くうやるい)や、慶滋保胤の「日本往生極楽記」に、生存中から空也は皇室の出(一説には醍醐天皇の落胤)という説が噂されるが、自らの出生を語ることはなかったとされ、真偽は不明。 
922年ごろ、尾張国の国分寺(尾張国分寺)にて出家し、空也と名乗る。若い頃から在俗の修行者として諸国を廻り、南無阿弥陀仏の名号を唱えながら道路・橋・寺などを造り、社会事業を行い、貴賤(きせん)を問わず幅広い帰依者を得る。 
938年、京都で念仏を勧める。 
948年、比叡山で天台座主・延昌のもとに受戒し、「光勝」の号を受ける。(ただし、空也は生涯超宗派的立場を保っており、天台宗よりもむしろ奈良仏教界、特に思想的には三論宗との関わりが強いという説もある。)。 
950年より金字大般若経書写を行う。 
951年、十一面観音像ほか諸像を造立(梵天・帝釈天像、および四天王のうち一躯を除き、六波羅蜜寺に現存)。 
963年、鴨川の岸にて大々的に供養会を修する。これらを通して藤原実頼ら貴族との関係も深める。東山西光寺(京都市東山区、現在の六波羅蜜寺)において、70歳にて示寂。 
空也・彫像 
六波羅蜜寺 空也上人像空也の彫像は、六波羅蜜寺が所蔵する立像(運慶の四男 康勝の作)が、最も有名である。他には、月輪寺(京都市右京区)所蔵、浄土寺(松山市)所蔵、荘厳寺(近江八幡市)所蔵が代表的である。いずれも鎌倉時代の作で、国指定の重要文化財である。 
彫像の造形は、特徴的である。一様に首から鉦(かね)を下げ、鉦を叩くための撞木(しゅもく)と鹿の角のついた杖をもち、わらじ履きで歩く姿を表す。6体の阿弥陀仏の小像を針金で繋ぎ、開いた口元から吐き出すように取り付けられている。この6体の阿弥陀像は「南無阿弥陀仏」の6字を象徴し、念仏を唱えるさまを視覚的に表現している。後世に作られた空也の彫像・絵画は、全てこのような造形・図像をとる。
空也と源信がひろめた念仏 
「お彼岸(ひがん)」をみなさんは知っていますね。秋のお彼岸とか、春のお彼岸って言いますね。彼岸とは、何でしょうか? もとは、サンスクリットのパーラムpram、川の向こう岸という意味です。つまり、あちらの世界、あの世を指している。彼岸とは、あちら側にある宗教的な理想の地、悟りの地の「浄土」なんですね。 
私たちは現実社会の中では、ヒア(here)、「ここ」にいます。でも、いつかはゼア(there)、すなわち、あの世、浄土に行くことになります。もちろん、行いによってはダメな人もいるかもしれない。ちょっとドキドキですね。平安人たちはまさにその渦中にいました。 
京都のはずれ、加茂町には、浄瑠璃寺というお寺があります。11世紀半ばに最初のお堂が建てられましたが、寺内の西に本堂が建てられ、中には九体の阿弥陀仏が東を向いてずらっと並んで座している。寺の中心には池があって、東側から池を挟んで、西の本堂を拝む形になります。すなわち浄瑠璃寺の配置は、西は彼岸、東は此岸(しがん=この世)ですね。まさにヒアとゼアの、この世とあの世を間に池をはさんで構造化したものなんです。 
王朝の栄華が進む一方、都は「不安時代」の様相が濃くなってくる。平安京は朱雀大路を軸として、右京、左京に区分けされた都市でしたが、疫病、盗賊が跋扈(ばっこ)する平安中期には、桂川に近く、低湿だった右京が荒れ果て、人も住まなくなってしまう。朱雀大路の南の端、羅城門では鬼が出て、陰陽師が調伏しようとしても、なかなか収まらない。まさに黒沢明監督の名作「羅生門」で描かれた平安末期の荒廃した世界が始まっていたんです。 
そこで、都大路の人々は浄瑠璃寺の阿弥陀仏が表している「西方阿弥陀浄土(さいほうあみだじょうど)」に、貴賤を問わず強いあこがれをもちはじめたんですね。寺院の中では、仏を念ずる念仏が唱えられていましたが、いよいよ念仏もお寺、あるいは修行する山中で唱えているだけにはいかなくなった。10世紀ごろには都大路で人々に聞こえる形で直接念仏を唱える人が出てきます。その代表的な僧が、市聖(いちのひじり)と呼ばれた空也(くうや)上人ですね。 
京都・六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)では、今も空也踊躍(くうやゆやく)念仏が続けられています。しみじみした鉦(かね)の音に合わせて踊りながら念仏を唱える姿は、空也上人が、人が集まる平安京の東市や西市の門に立って、念仏の功徳を広めるために、念仏を唱えながら踊り、人々に念仏と浄土信仰を勧めた姿を写したものなんです。 
市に現れ、念仏を説く空也の姿は、人々にとって衝撃的なものでした。草鞋を履き、すねを出した粗末な短い衣を着て、胸に下げた鉦を撞木(しゅもく)で鳴らしながら、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱える上人は、圧倒的に人々に尊敬されたんですね。鎌倉時代の仏師康勝(こうしょう)の有名な空也像は、その口から出た「南無阿弥陀仏」の一音一音が6つの仏となったといわれる空也上人の伝説の姿をそのまま彫刻にした印象的な作品です。 
空也は若いときから諸国を遊行し、とくに当時の辺境である東北で仏教を広めていったことが、今も語り継がれています。空也がもつ強い影響力は、仏教を口で伝えるだけでなく、当時あふれていた道ばたの死者を供養して墓を立て、険しい道を平らにし、橋を架けたり井戸を掘るという、民衆の救済事業を念仏を広めるとともに展開していったことにあるんですね。こういった踊り念仏とともに社会の人々を救済する遊行僧の姿は、鎌倉時代の一遍上人と時衆(じしゅう)の人々に受け継がれていくんです。 
もう一人、念仏をより普及させたキーパーソンがいます。天台宗の源信(恵心僧都=えしんそうず)がその人です。985年、学問僧であった源信は、往生の手引書ともいえる「往生要集」(おうじょうようしゅう)を著した。そこに書かれたこの短い言葉が貴族の間で大流行します。「厭離穢土(おんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)」ですね。 
この世は汚れた穢土(えど)、苦悩や矛盾に満ちた世界で、人間はその中を輪廻(りんね)している。これを厭(いと)い、念仏を唱えることによって、阿弥陀仏が永遠の極楽浄土へ導いてくれることが説かれているんです。これが浄土教の基盤となっていきます。 
こういった現世を否定的にみる当時の仏教の観念が、絵画としてわかりやすく描かれて残されています。それが「六道絵(ろくどうえ)」ですね。仏教では、この人間世界は三界六道(さんがいりくどう)にあり、人間は生きているときに果たした善悪により、死後に六つの世界のどれかに輪廻転生(てんしょう)すると考えられたのです。 
その六つの世界とは、一番上に学問、善行を施した者の「天道」、続いて「人道」があります。ここまでが善を行ったものが行くところで、以下、悪行を重ねるにしたがってランクが下がり、いつも戦い合う「修羅道」、獣の道の「畜生道」、飢えに苦しむ「餓鬼道」、そして最後が「地獄」に落ちていく。 
人間の生きる世界とは、六道輪廻の世界で、繰り返し繰り返し続き、なかなか抜け出せない世界なんですね。でも、そこを脱出できる方法があった。それが念仏でした。阿弥陀仏を信仰することにより、これらの輪廻転生を超越した永遠の極楽に迎えられると考えられたのです。源信の「往生要集」は、のちに中国の天台山国清寺にもたらされて、宋の時代の中国仏教界にも大きな影響を与えたといわれてるんですね。  
空也・浄土信仰・念仏・六波羅蜜寺  
空也(「くうや」あるいは「こうや」)は平安時代中期に活躍した僧で、「念仏聖」「阿弥陀聖」「市聖」などとも呼ばれています。京都の六波羅蜜寺に安置された空也上人立像(重文・康勝作)で有名ですが、この像が身にまとう粗末な衣、草履、首にかけた金鼓や左手に握られた鹿の角の杖などは、そのまま空也の過ごした人生を物語っています。 
空也は、延喜三(903)年に生まれました。出生地や、両親については不明です。実は醍醐天皇の第五皇子であるとか、仁明天皇の孫にあたるとかいわれることもありますが、確かなことはわかりません。 
若い在俗のころから人びとのために道路や橋を造り、井戸や池を掘り、うち捨てられた遺体を集め火葬するなどの慈善事業に身を投じました。20歳ごろには尾張国の国分寺で出家をし、このときから「空也」の名を名乗るようになります。30代半ばからは京都に入って市中で貧しい人びとを助け、念仏を説いて暮らし、比叡山で受戒もしました。また貴族層との交流もあり、盛大な法会を催すこともあったといいます。 
天禄三(972)年、彼が創建に尽力した西光寺にて入滅しました。西光寺は、先に述べた六波羅蜜寺の前身となった寺です。 
空也の活躍した同時代に、日本の浄土思想の基礎を築いた源信がいます。天台の学僧であった源信は、「往生要集」を編纂し、貴族を中心に理知的な浄土信仰を広めました。そうした源信と対比して、おもに市井で活躍した空也は、しばしば呪術的・狂騒的な念仏をすすめていたといわれることがあります。 
六波羅蜜寺の像が粗衣をまとい、草鞋に杖の姿なのは諸国を遍歴し市井に暮らした人生を表わしていますが、首からさげた金鼓や口から出てきた六体の阿弥陀仏は、彼の念仏の呪術的・狂騒的な側面を表しているとも考えられます。そうしたことから、鉦を鳴らし鉢や金鼓などを叩いて行う狂騒的な念仏が「空也念仏」と呼ばれ、のちの一遍の踊り念仏へとつながっていったといわれるようになりました。 
空也についての史料はほとんど残っておらず、彼がどのような人生を送り、どのように人びとを勧化したのかよくわかりません。ただ、彼の死後ほどなく、貴族の源為憲によって彼を悼む「空也上人誄」が書かれたり、右大臣藤原実資の日記「小右記」に遺品といわれるものが登場したり、あるいは少しのちの鴨長明「発心集」に空也を「わが国の念仏の始祖」とする文章があったりと、彼の事績が高い評価を得、大きな尊敬を集めていたことは確かといえるでしょう。
 
念仏踊1

念仏踊あるいは踊念仏は、空也念仏・鉢叩・大念仏・六齋念仏などの名称で各地で呼ばれることもあるが、いずれも念仏や和讃の唱文を唱え、鉦や太鼓などではやしながら多くは輪になって踊ることである。空也・一遍などによって始められ念仏僧によって各地にひろめられたといわれているが、元来は古来の悪霊を追い払うための踊りが、浄土信仰の念仏の行と結びついたものであるとされる。 
したがって、古代より各地の村々で行われていた伝承的な民俗舞踊の流れの上に仏教的な理念が加えられたとみてもよい。旧仏教からは念仏踊は、むしろ仏教をおとしめるものだとの非難もあったが、中世以降は京都では鎮花祭と融合したりして代表的な民俗芸能へと発展していった。 
一遍上人絵詞などに伝えられる念仏踊は、都の人々などが集まる場所に屋台をつくって、そこでまず念仏僧が踊ってみせるという形であった。それがしだいに芸能化し興行化していくことになり、16世紀から17世紀には、鉦と黒塗笠をもって歌舞するようになり、願人坊踊・放下(ほうか)踊・みろく踊・けんばいなどさまざまな形になって全国各地に派生し発展していった。出雲の歌舞伎踊も念仏踊をもとにしたものである。 
空也と念仏踊 
空也は平安時代中期の僧で、浄土教を民間にひろめ念仏踊を民衆にすすめたといわれている。空也は若くして優婆塞(うばそく)となり修行をして20歳で出家、沙弥名を空也とした。空也は“南無阿弥陀仏”を唱えることで自らの布教をはじめ、民衆は空也のことを阿弥陀聖と呼んだ。念仏によって囚人の教化にあたったり、疫病が流行すると募財して観音像や梵天帝釈・四天王像をつくった。 
また、大般若経を書写して願をかけた。当時は念仏を唱える人は、村落などではまだ少なかった。子供や女たちなどはむしろ念仏を唱えることを忌むこともあったといわれる。しかし、空也がそうした村落の人々に念仏信仰を布教するようにすすめ、自らが念仏を唱えると人々はともに“南無阿弥陀仏”を唱えはじめたと伝えられる。 
仏の相好(そうこう)あるいは功徳(くどく)を念ずる観念の念仏から、称名念仏の教化につとめた空也にまつわる伝説は、六波羅蜜寺や空也寺などにおいて語られたが、空也の念仏布教でとりわけ重要なものは念仏踊である。空也の念仏踊は、彼が日ごろから親しんでいた鹿が、平定盛という侍に射殺され、それを悲しんだ空也が、鹿の皮をかわごろもとし、その角を鹿杖(ろくじょう)として、殺生の業を悔いて改めた平定盛とともに念仏踊を始めたと伝えられている。 
空也は天台宗の僧であったが、この念仏踊によって、民衆のなかに念仏信仰をひろめていくことにつとめた。文字も読めず、仏教・教典の知識にすがることなどまったくかなわない貧しい民衆にとって、ひたすら念仏を唱えること、念仏踊という形のなかに宗教的な救いを求めることができるのは願ってもないことであった。 
空也によって念仏踊は各地にもたらされ、日本における民間宗教の一つとして発展し、念仏踊はさまざまな地方の民俗的伝統のなかで土地の芸能となっていった。空也は963年(応和3)大般若経の書写を成就して、賀茂河畔に供養したのちにそれからまもなく69歳ないし70歳で入滅したといわれている。 
念仏講 
念仏を修する信仰者たちの会合のことである。念仏講の講は、そもそも経論の講説のことであるといわれており、仁王講や法華八講などが代表的なものである。念仏を修し唱える人々の会合・結社は、平安中期以後に、称名念仏が民衆のなかに広く受け入れられるようになり、念仏踊などが行われるようになるころに多くつくられた。往生講・迎講と呼ばれる講などがひろがって行った。 
念仏信仰の普及とともに、こうした念仏講も数を増し、その種類もさまざまになり、浄土宗における別時念仏、あるいは真宗における報恩講なども念仏講の一種であるとされている。念仏講はやがて説教を聞き念仏を唱える集りから娯楽的・習俗的になった。  
 
念仏踊り2

念仏踊り(ねんぶつおどり)と聞いて、日本史に登場する「踊念仏(おどりねんぶつ)」と当たりがつけば、大体どのようなものか想像できるかも知れない。何も思い当たらなくとも、字面から念仏を唱えて踊る類と見当は付くだろうが、日本舞踊上の念仏踊りというジャンルは、踊念仏ではないらしい。数少ないながら「念仏踊り」は現存するので、成立までの背景や現在までの流れを本筋としつつ、念仏行がどのようにして芸能に昇華したのかという辺りを探ってゆこうと思う。 
現在、一般に言われる念仏踊りとは、仏を讃え喜びを表す信仰表現として、神に奉納していた感謝の踊りに念仏を盛り込み、それが芸能化したものであるが、芸能の「念仏踊り」としての明確な枠組みは未だ定着していないようだ。大塚民俗学会編「日本民俗事典」の解釈によると、「踊念仏は仏教儀礼として、念仏・和讃を詠いながら霊の鎮魂や鎮送のために踊るものであるから、これを芸能または娯楽のためにすると、念仏踊となる。 
しかし現今は、民俗芸能と称して大念仏・六斎念仏・盆踊などを、すべて念仏踊に入れている」という。現存のものは、念仏踊りと名が付くものの概して念仏は唱えられず、内容的には雨乞踊・豊年踊・花笠踊など、どちらかというと田楽や風流を思わせる。まず曖昧になっている境界線を探ってみる。 
宗教上、集団で繰り返し踊るという行為を遡ってみると、平安時代、比叡山で行われていた「常行念仏(じょうぎょうねんぶつ)」が歴史上最初に登場する。これは比叡山施設の1つである常行堂内で、僧侶らが念仏を唱えながら阿弥陀仏の周囲をぐるぐる行道する修行であった。この念仏行を京都の街中に初めて持ち込んだのが、平安時代中期の僧で踊念仏(おどりねんぶつ)の開祖といわれる「空也(くうや)」である。 
空也が踊っていたという史実はないのだが、鉢を叩きながら一般庶民に念仏を教える馴染みやすいスタイルは、後の踊念仏の源流であると考えられている。空也は市聖(いちのひじり)、阿弥陀聖とも呼ばれ、社会事業を行いながら幅広い層に念仏行を広めた功績者として名高く、彼の踊念仏は、京都・六波羅蜜寺や空也堂に、「念仏聖(ねんぶつひじり)」の先駆となった門弟や「鉦たたき」「鉢叩き」と呼ばれた芸能者により、全国に広められていった。
 
次の流れとして、平安時代末期に天台宗の僧侶である聖応大師・良忍が起こした「融通念仏(ゆうづうねんぶつ)」がある。座行と、立行の2通りのスタイルがあったが、立行は集団で調子を合わせて念仏行を行うもので、その姿は後の踊念仏に近いスタイルといえるだろう。 
集まって一緒に念仏を唱えた人々の効験は、互いに享受されるという「1人の念仏が万人の念仏に通じる」思想に基づき、これより念仏を大勢で一緒に唱えることが徐々に重要視されるようになり、また集団行道が踊りに発展する契機になったと考えられている。口称念仏(称名念仏)の最初の流れを作り、熊野・高野を主な根拠地としていた遊行聖(高野聖など)らにより一般民衆に伝播され、民間の間で次第に風流化していったと考えられている。  
次に鎌倉時代になり、時宗の開祖・一遍による「踊念仏(おどりねんぶつ)」がようやく登場する。遊行上人、捨聖(すてひじり)とも呼ばれ、市聖・空也を師として信濃国伴野(長野県佐久市)で踊念仏を起こし、和歌・和讃による解りやすい教化と、信不信・浄不浄を問わない念仏勧進を行いながら日本全国を巡行し踊念仏を広めた。 
普及の最大の要因は一遍本人が遊行念仏を行ったことにあるが、踊念仏の救済観も普及要因の1つだと考えられている。死者の供養だけでなく、現世に生きる人々を救済するという思想、現世の自分たちが救われることで死者もまた救われるという思想に発展させた。このことが踊念仏への参加を促進し、更に念仏行の芸能化を推し進める契機になったと考えられている。広く一般に認知されたことにより、村落共同体での「念仏講」などの類の母体を獲得し、全国各地に普及・定着していった。 
この段階では、念仏を唱える本人が踊るスタイルであり、歴史的に長く踊念仏が行われた寺社は七条道場金光寺・四条道場金蓮寺・霊山正法寺・大津荘厳寺などの時宗寺院で、時宗の寺僧が踊念仏(空也念仏)を行い、四条坊門極楽寺にある空也像の前では毎日踊念仏が行われた。現在、踊念仏・念仏踊りの多くは盆を中心に行われているが、京では彼岸に行われることが多かったようだ。 
踊念仏が風流化して念仏踊りに近づくにつれ、華美な服装・仮面・持物などとなり表出し、念仏和讃から恋歌・叙景歌・数え歌などに変わり、太鼓のみが他の楽器類よりも目立つようになり、一般に念仏踊りと言えば太鼓を打ちながら勇壮に跳ねる太鼓踊りを主体とするものが連想されるまでになった。また融通念仏からの流れを汲み大勢集まった人の数だけ功徳が得られ、誰でも参加できる参加性の高さが残された。 
こうした風柳化の始まりは、田楽と踊念仏の結合が平安末期に行われたことによるという説もあり、平安末期当時の宗教色の濃い今様の法文歌を白拍子が舞い歌ったりしたことから念仏踊への道が開かれたともいわれる。越中五箇山(現・富山県南砺市)の「コキリコ踊」や越後黒姫村女谷(現・新潟県柏崎市)の「綾子舞」などにこの段階の念仏踊がみられ、いずれも国指定重要無形民俗文化財になっている。
 
現在、京都の六斎念仏(ろくさいねんぶつ)が国指定重要無形民俗文化財にもなっており特に有名である。国指定文化財のうち民俗芸能・風流の登録には全部で33件挙げられており、そのうち念仏踊りの名称が付けられたものは片手で数えるほどしかないのだが、念仏踊り系の民俗芸能は全国各地に数多く確認できる。まず、念仏踊りのルーツとして最初に挙げられる「滝宮念仏踊」に触れ、現存の念仏踊りの姿を各々から追ってみることにする。 
「滝宮の念仏踊(たきみやのねんぶつおどり)」 香川県綾川町の11地区に伝わる「雨乞い踊り」であり、その起源は、菅原道真が886-889年の4年間、讃岐国司を勤めた時に大旱魃に見舞われ、道真公が身命を捧げて雨乞い祈願を行ったところ大雨が降り、農民が滝宮神社の前で道真公に感謝し喜んで躍ったのが今に残る。「念仏踊り」となったのは、1207年に浄土宗開祖・法然上人が宗教上の争いから讃岐に流された際、この踊りを見て「念仏」を唱えるように教え、現在の振り付けになり、千年以上も住民に守り継がれている。 
毎年8月25日に、滝宮神社と近接の滝宮八幡宮で奉納されており、大団扇を持った下知が飛び跳ね舞うもので、全国に残る念仏踊りの源流として有名である。国の重要無形民俗文化財に指定されている。 
「京都の六斎念仏(きょうとのろくさいねんぶつ)」 京都府京都市内の15ヶ所に伝わる「念仏踊」で、古風で素朴な干菜系六斎と芸能化し娯楽性をもった空也系六斎の2系統があり、いずれも能楽・歌舞伎系の芸能なども多く取り入れながら発達してきたものである。仏教における月6回の斎日(8・14・15・23・29・30日)は、悪鬼が出て人命を奪う不吉な日なので、身を慎み、仏の功徳を修し、鬼神に回向し、悪行から遠離し、善心を発起すべき日として念仏・和讃などを唱え、鉦・太鼓などで囃す念仏踊りが催される。 
空也が広めた民衆教化の宗教行事であったとされ、8月に多く催されるが、12月に六波羅蜜寺で行われる念仏踊りは「空也踊躍念仏(くうやようやくねんぶつ)」と呼ばれ、京に疫病が流行した際、空也が救済を願って始めた念仏といわれている。六斎念仏は他県も含め、全国に約30カ所あるといわれるが、京都市内の壬生寺、吉祥院天満宮、桂地蔵、南区上久世などが特に有名である。国の重要無形民俗文化財に指定されている。 
「平戸のジャンガラ(ひらどのじゃんがら)」 は長崎県平戸市市内の9地区に、戦国時代以前から伝承していると考えられている念仏踊で、起源は定かではないが、祖先供養・五穀豊穣祈願の踊りとして継承され、近世には平戸藩の手厚い保護を受け、現在は毎年8月14-18日に市内各所で奉納されている。構成は各地区ごとに若干の違いがあるが、中心となる踊と太鼓が青少年により演じられるのは共通している。 
「ジャンガラ」という名称は、鉦と太鼓の音から定着したものといわれ、他県にも同じ呼称が多く見られる。念仏踊りの地域的特色を示すものとしても重要とされ、国の重要無形民俗文化財に指定されている。
 
「久多の花笠踊(くたのはながさおどり)」 京都府京都市左京区久多地区に伝わる念仏風流系の「花笠踊」で、8月24日に近い日曜日の夜、催される。起源は明らかではないが、室町小歌と呼ばれる中世に流行した歌謡の流れを汲み、また大正末期まで少年が頭に灯篭を灯した花笠を乗せて踊る「灯籠踊」だったことから、中世に流行した風流踊の様子をうかがわせる。 
また上と下の組が互いに踊りを競い、一方の踊りに対し、呼応する踊りをもう一方が直ぐに踊り返すという、中世の風流踊の掛踊(かけおどり)の様子もしのばせている。久多の花笠踊の発生が、念仏踊が風流化していく時期と、風流が更に芸能化していく時期の分岐の頃と考えられており、中世に盛んに行われた風流踊の様子とともに、芸能の変遷の過程と地域的特色を示すものとして特に重要なものと考えられている。 
現存の念仏踊りの概要を幾つか記してみたが、いずれの念仏踊りも興味深く、日本の古典芸能というより、アフリカ大陸で見た民俗舞踊に近いものを感じる。それは芸能の当初の目的が何であったにせよ、現代に伝え継がれた念仏踊りは、現代社会にあって現代人の自分が見ると、極めてローカルで原始的なものに見える。風流というジャンルは概して奇抜で独特の格好が多いのだが、格好より「踊り」という心身の開放・激しく躍動的な動きそのものが、人間の本能的な動きに近い、原始的なものとして映るのかも知れない。 
念仏が風流化して唄となったというより、多くの人間が好む、より身近なものにとって代わった結果が唄になったのだと思う。完全な娯楽目的ではなく、何かを祈願・祝福するために集団で歌い踊るという多少の宗教性、またそれを共有・共感する集団意識は、自然体の人間のあり方なのかもしれないが、昨今の大人が経験することがないものである。何やら参加してみたい衝動に駆られるのは、それ故なのかも知れない。  
 
踊念仏3・貞光町川見

徳島の夏の盆踊りといえば阿波踊りがあまりにも有名です。国内外から、毎年多くの観光客を呼び込む強烈なエネルギーをもった踊りとして知られています。しかし、阿波踊りもその歴史を遡れば、各村落でやっていた鎮魂、鎮送の踊りが原形とされます。時代とともにさまざまな音曲や芸を取り入れつつ変化し、徳島城下の盆踊りとして受容され、第二次世界大戦後に「阿波踊り」と称されるようになりました。 
では、鎮魂、鎮送を目的とする盆踊りはどのような変遷をたどってきたのでしょうか。盆踊りの原形は踊り念仏だといわれます。平安時代末期に、死者の霊を慰めるため空也によってはじめられ、一遍によって広められたという踊りです。これが風流化し、時代とともに多様な形に変化したのが、現在の盆踊りということになります。 
それでは、鎮魂、鎮送のお盆の踊りをいくつか紹介したいと思います。つるぎ町貞光川見地区には、踊り念仏といわれる踊りが伝えられています。新仏の供養のため、川見堂という四つ足堂内で、近年では毎年8月14日の夜に踊られています。堂の中央に先達(鉦打ち)が立ち、踊り手はそれを取り囲むように輪をつくって立ち、「ナムアミドーヤ、ナモーデー、ナモーデー」と繰り返し唱えながら踊ります。 
踊りの輪の中に入った人々は、両腕を伸ばし、左右へ揺すりながら左廻りに一斉に両足で跳びます。昭和20年代には輪に加わる人も多く、各家の長男だけが踊り念仏に加わって跳ぶことができるとされ、信仰上の理由から踊り念仏のときには女性が堂内に立ち入ることは禁じられていました。 
また、踊り念仏が終わると堂の外に出て、キヨメ踊りが踊られました。ドブ酒を飲みながら、夜が明けるまで踊りつづけました。若衆はこの後、ほかの地区で行われる廻り踊りという盆や八朔に踊られる踊りにも加わったといいます。このキヨメ踊りは、各地で行われる廻り踊りにも通じるものですが、川見地区では現在行われなくなっています。 
踊り念仏が、県内ではつるぎ町貞光川見、木屋の2地区だけで踊られているのに対し、廻り踊りは、徳島県西部を中心に広範な分布する踊りです。 
つるぎ町一宇の定光寺の廻り踊りでは、中央に櫓を組んで唐傘立て、櫓の四つ角には竹を立てます。その櫓には音頭出しが登って音頭をとり、老若男女の踊り手が輪になって踊ります。現在、カラオケ大会、抽選会なども同時に行われ、イベント化されてはいるものの、新仏のあった家からは初穂料が納められるなど、死者供養の性格をみることができます。廻り踊りが、八朔踊りとして盆を過ぎた旧暦8月1日に踊られる踊りであったり、集落単位から学校区単位でのイベントとして行われるようになったりと、各地でその多様な姿を見ることができます。 
その中で明治中期の変化として、広場のなかった地区では、かつて堂内で廻り踊りとしてやっていた踊りをやめ、笛、太鼓、鉦を打ちならして道中を練り歩くように変わったのだと伝えられます。また、一方で堂から広場に場所を移して廻り踊りを続けた地区もあったようです。明確な史料的根拠が乏しく、はっきりしたことはいえないのですが、どうも踊り念仏から鎮魂、鎮送の性格を受け継いだまま踊り自体は時代に合わせて変化し、踊りを担う人々の感覚に合った形につくり変えられてきたようです。  
 
能山踊り(のうざんおどり)1

南宇和郡愛南町久良に、愛媛県指定無形民俗文化財の「能山踊り」がある。天正12年(1584)長宗我部元親に破れて、この地に落ち延びた御荘の豪族勧修寺権大夫基賢を慰霊する芸能である。毎年8月1日に始まり14日に終わる。「能山踊り」の名は、基賢の法名「顕徳院殿能山祐賢大居士」にちなむものである。場所は、能山公を祭る古木庵前で、円輪になった着流し姿の男子が、扇をもち、太鼓にあわせて、裸足で踊る。扇の所作が、能に似ているので、以前から注目されていた。 
踊りは「ろくじゆう踊り」「梅の踊り」「恵美須踊り」「網引踊り」「四節踊り」「駿河踊り」「まり踊り」「買物船踊り」の八庭ある。昔は十二庭、もっと以前には四八庭あったとも伝えられている。「ろくじゆう踊り」のほかは、中世から近世初期以前の歌謡にあわせた踊りである。「能山踊り」が、近世初期以前の歌謡によっているという理由は、近世に都会で発生し流行した義太夫、長唄などにみられる「都節音階」を、含まないからである。 
14日には、古木庵での踊りに先立ち、海岸で海難者を供養して「ろくじゆう踊り」ほか二庭が踊られる。「ろくじゆう踊り」の歌詞を見ると、他の踊りと違って、阿弥陀信仰が色濃く感じられる。 
南無阿弥陀 仏の御名を 称うれば これも極楽 浄土なりけり  
二つなき この世は仮の 宿なれば 只一すじに 願いの身の世  
みな人が 法をたのみて 極楽へ まゐる姿は みな仏なる  
と和讃が歌われる。それぞれの歌詞の前後に、「南無阿弥陀」が二度繰り返される。 
これらの和讃は、一遍の和歌  
南無阿弥陀 仏の御名の いづる息 いらば蓮の 身とぞなるべき  
ひとりただ ほとけの御名や たどるらん をのをのかへる 法の場の人  
阿弥陀仏は まよひ悟りの 道たへて ただ名にかなふ いき仏なり  
などに通っており、時衆芸能集団の踊り念仏の歌と見ることはできないであろうか。また「ろくじゆう」の名も、「南無阿弥陀仏」の「六字」の転訛と言われているが、あるいは「時衆」の古い呼び方である「六時衆」の転訛とも考えられる。旋律も、主として律音階(一部呂音階)によっており近世以前のものである。  
このことは、扇の所作が、能と似ているということとも、合わせて考えなければならない。喜多流能楽職分、重要無形文化財総合指定の金子匡一師に「能山踊り」を見ていただいたところ、「「能」成立以前の舞いの所作を残していると思われる」との所見をいただいた。能の大成者世阿(世阿弥)の名が、阿弥号であることからも分かるように、時衆の中から生じた阿弥衆、同朋衆と言われたプロ集団から、能が発生したことを考えると、注目しなければならないことがらである。  
金井清光氏は「時衆文芸研究」のなかで、次のように述べておられる。  
一遍が説教にしばしば和歌を用いているのは、神託が和歌によって示される事実と結びつく。すなわち一遍は仏教の阿弥陀仏であると同時に、原始神道の神でもあった。神仏兼修の時宗教団は、修験道に酷似し、遊行聖と山伏とは親戚関係にある。世阿・世阿弥陀仏という名前は、人間であると同時に即身成仏して神仏になっていることを示す時衆の法名であり、それが猿楽能を演ずる芸能者として不可欠の資格であった。わが国古来の宗教観念にもとづく神祇崇拝や御霊信仰や融通念仏や踊り念仏などを行っていた念仏者の総体が、中世における時衆の実体なのである。 
以上の金井氏の視点から、「能山踊り」を見てみると 
「ろくじゆう踊り」の歌詞が、時衆の和讃とみられる。  
踊りの所作が、「能」成立以前の芸体を残している。  
悲劇の領主能山公を弔うという御霊信仰の要素がある。  
近くに篠山という修験道の霊場がある。  
などの特色の重要さが注目されてくる。「能山踊り」の芸態は、戦国時代より古いと思われる。当地には戦国時代以前に、中世時衆教団の芸能が存在し、後に今日の能山公慰霊の芸能に、まとまっていったと考えられる。 
能山踊り2 
愛南町久良古木庵境内 / 能山踊りは、久良、真浦の古木庵にまつられている、顕徳院殿能山祐賢大居士(常磐城主勧修寺基賢)の霊を慰めるため踊り始めたという言い伝えがある。太鼓打ちを中心に、浴衣を着た10人の男が、扇を持ち、自分で歌いながら、ゆるやかな動作で踊る。 
昔は48庭(あるいは12庭)あったというが、現在は、8庭33歌が残っている(庭は段ともいい、踊りの種類別に数える単位)。伊予出身の一遍上人の広めた「念仏踊り」の一種で、終戦までは県下各地で踊られていたが、現在では1、2の地区となってしまった。踊りの一つ「ろくじ踊り」は、「六字踊り」で南無阿弥陀仏の6字を歌うところからきている。その他のものには、歌い継がれるうちに意味をなさなくなっているものもあるが、それぞれの時代の、はやり歌の歌詞を取り入れているようである。新8月1-14日まで、古木庵などで踊っている。 
ろくじおどりの歌詞 
イヨ、なむあみだ、アア、なむあみだ、イヨ、仏のみなを、となうれば、これも極楽浄土なり。 
ふたつなき、この世はかりの宿なれば、ただひとすじに、願いたのめよ。 
あじの身が、あじのふる里、立ちいでて、またたちかえる、あじの古里。 
ただ頼め、のりの教えに、ひきかえて、今の花衣を、墨染にせよ。 
昔より、あうは別れの、道しばぞ、はかなき露ぞ、野辺にかえらむ。  
能山踊り3・久良(ひさよし) 
能山踊りは、南宇和郡愛南町(旧城辺町)久良地区に伝承される盆の民俗芸能で、戦国末期に南宇和地方(御荘)を領した勧修寺基詮・基賢の父子が土佐の長宗我部氏に敗れて久良に隠棲し、この地で没した基賢を供養して祀ったことに始まると伝える。基賢は、別名を能山公と称されたことから、小堂は能山様と称され、その供養のために始められたとされる小歌踊りを「能山踊り」と呼称している。 
能山踊りは、この境内を中心として7月31日から8月13日までの夜および8月14日の昼間に踊られる。能山様のお堂の前庭の中央部にゴザを敷いて大太鼓を据え、太鼓打ちが座る。踊り手は、その周囲を円形になってほぼ定位置で左回りに踊る。衣装は、浴衣(袂のついた着物とされる)の着流しに黒の兵児帯を締め、裸足である。足を開き加減にして止立し、上半身を30度ほど前に倒して扇子を胸の前に捧げ持つ姿勢をとる。 
この扇子には踊り歌の歌詞が記されているが、もとは毎年8月13日にこれを破って(扇子破りという)14日の縁日に新調し、翌年の8月13日まで用いる習いであった。踊りの演目は、もともとは12庭(一説では48庭ともいう)あったというが、現在では、一庭(にわ)「ろくじう踊り」・二庭「梅の踊り」・三庭「恵美須踊り」・四庭「網引踊り」・五庭「四節(しせつ)踊り」・六庭「駿河踊り」・七庭「まり踊り」・八庭「逢者(あいもの)船踊り」の8庭が伝承される。  
 
滝宮の念仏踊(たきのみやのねんぶつおどり) 
香川県綾歌郡綾川町(旧・綾南町)滝宮に伝わる雨乞いの踊り。菅原道真が讃岐の国司であった仁和4年(888)に大旱魃があり、これを憂いた道真が身を清め7日7晩祈願したところ雨に恵まれ、喜んだ農民たちが滝宮神社(当時は牛頭天王社)の前で道真に感謝し踊り狂ったのが起源とされている。 現在でも8月25日に滝宮神社と滝宮天満宮で行なわれ、全国に残る「念仏踊り」のルーツとされている。鉦と太鼓の鳴り響く中、陣羽織に羽織袴の踊り手が念仏を唱えながら大うちわを振って飛び跳ねるように舞う。 昭和52年(1977)に重要無形民俗文化財に指定された。  
 
念仏踊り(ねんぶつおどり) 
踊り手と歌い手が分かれているもので、自ら念仏を唱えながらおどる踊念仏とは区別される。 起源としては、菅原道真が886年から889年の4年間、讃岐の国司を勤めた時に行った「雨乞いの踊り」とされ、翌年から村人達が感謝の意味で踊ったのが今に残る。 「念仏踊り」となったのは1207年に法然上人が宗教上の争いから讃岐に流され、この踊りを見てセリフとして「念仏」を唱えるようにさせた事による。 
現在でも香川県綾歌郡綾川町滝宮では8月25日に「滝宮の念仏踊」が行なわれ、全国に残る「念仏踊り」のルーツとして国の重要無形民俗文化財に指定されている。  
 
念仏踊と踊念仏

伊勢音頭と願人聖(がんじんひじり) 伊勢の歌念仏である「間の山ぶし」が伊勢参りのお陰参りに伴って、お陰参りとなる。その振り付けをしたのが願人坊(道化役)であった。江戸時代の初期小歌や踊り念仏を広めた龍達(りゅうたつ)や籠斉(ろうさい)も願人坊であった。願人坊もまた「本願」と呼ばれ(橋の本願)(道の本願)としての勧進聖であった。もとを正せば女性の勧進巫女と同じであった。 
伊勢音頭は出雲の阿国のような勧進巫女の歌念仏から出て勧進聖の手にわたり全国的な伝播をみたのである。こうして民謡の多くが踊り念仏の系譜につながっているのである。念仏の囃子リフレイン(繰り返し句)を失っているが、その基は詠唱念仏から小歌念仏踊り・民謡(因幡踊り・いなばおどり)(常陸踊り・ひたちおどり)(綾踊り・あやおどり)(鎌倉踊り)とつながっていく。  
棒振りおどり/悪霊鎮魂 ・踊り念仏の主役 ・六尺の棒の両端に白紙の切り紙のふさを球状につけたもの。これを曲技のように前後、左右、に振る踊り手をサイハラと呼ばれる。正しくはサイハラ振りであろう。…(山伏のボンテン)から ・岡山県美作…法福寺の念仏踊り…吉の念仏踊り ・壬生狂言(融通大念仏)…鬼の棒振り  音頭が念仏調…(太鼓と鉦)ナムアミダーイブツ、ソコジャイ(さあそこで跳べ)ドンドンドンドンドン、ジャン 
太刀振り/棒振りの変型 ・花取り踊り ・花飛び踊りとも言った(花吹雪が舞うから) 
剣舞(踊り念仏) ・念仏剣舞(鬼面をつけない) ・鬼剣舞(鬼面をつける) ・ひなこ剣舞(少女の踊るもの)小町踊り 鬼面をかぶって剣を振りながら踊る芸能は修験道系の神楽である。剣舞は念仏と山伏神楽の結合である。踊り念仏も念仏剣舞に至っていかにも異質的な展開をしたように見える。東北地方の念仏剣舞にきわめてよく類似したのは、佐賀の(面浮立)、四国の(花採り踊り)(太刀踊り・紙吹雪が舞う)。  
 
盆踊り1

盆踊りの原点  
「踊り念仏」 
「踊り念仏」の特徴は、集団で「とんだり、跳ねたり」するという点にあります。このような踊りは、参加者に恍惚感と自己開放をもたらすものです。「踊躍」(ゆやく)と「念仏」を合一化し、心身の跳躍を通じて「法悦」を得るというのが一遍の踊り念仏の考え方です。「とも跳ねよ、かくても踊れ」と喝破した一遍の思想からすれば、この「とんだり跳ねたり」して踊るということ自体が、一遍の踊り念仏の原点と考えることも可能でしょう。「ともはねよ かくても踊れ こころ駒 みだのみのりと きくぞうれしき」(一遍)  
「踊り念仏」と「念仏踊り」 
「踊り念仏」は、もっぱら「ナムアミダブツ」あるいは「ナモデ」というような「念仏」を唱えながら踊りました。これに対し、念仏を唱えるかわりに歌を唄うようになったものが「念仏踊り」です。誰もが参加できるという参加性の高さが、「念仏踊り」の特徴になります。  
振りをそろえる意味 
同じ集団で踊る場合でも、ディスコのように個人がバラバラに踊るのとは違いますね。みんなで手振り足ぶりを揃えて踊るというのは、実は踊り念仏の大変重要な条件です。一人でも宗教的エクスタシーに入れるのは「シャーマン」です。これに対して、集団を宗教的エクスタシーに持ち込むには、みんなで一緒に振りをそろえて踊る「踊り」が重要になるのです。  
踊り念仏の源流と展開  
源流は叡山の「常行念仏」 
集団で繰り返し踊るというパフォーマンスをずっと昔に遡ってみると、平安時代に始められた比叡山の「常行念仏」(じょうぎょうねんぶつ)が、一つの源流であると考えられます。これは、叡山東塔や西塔の「常行堂」という施設の内部で、僧たちが念仏を唱えながら阿弥陀仏の周囲をぐるぐる行道(ぎょうどう)してまわるという修行の一種です。  
「空也」民衆への展開 
山上の寺院堂内で行われていた念仏修行を、はじめて京都のまちなかの民衆の間に持ち込んだとされるのが「空也上人」です。空也の踊り念仏は、京都の六波羅蜜寺や空也堂に伝えられたほか、「鉦たたき」や「鉢叩き」のような芸能者の手によって、全国に広まっていきました。  
「融通念仏」の集団性・参加性 
次に重要になるのが、平安時代末期に始まる「融通念仏」(ゆうづうねんぶつ)の潮流です。「融通念仏」は、複数の人間が念仏を唱えてその効果をお互いに享受するという考え方です。このため、"大勢で唱える"という集団性・多数参加性が、次第に重視されるようになりました。  
念仏の「行動化」 
「融通念仏」はまた、踊りという芸能へと展開する契機を含むものでした。融通念仏には、座って唱える「座行」(ざぎょう)と、立って唱える「立行」(たちぎょう)の2つのタイプがありますが、集団で行われる「立行」は、踊りにかなり近い形であるといえます。拍子を揃えて念仏したり行道しているうちに、自然に踊りへと変化していくこともあったのではないでしょうか。集団で念仏を唱えるという行為そのものが、踊りに展開する「行動化」の契機をはらんでいたといえます。  
「一遍聖絵」にも書かれているように、やはり空也の踊り念仏が一遍の踊り念仏の前身と捉えてよろしいのではないでしょうか。
 
一遍踊念仏の意義  
「踊り念仏」を全国に普及 
一遍の踊り念仏の大きな功績は、踊り念仏を全国各地に広めた点にあるといえます。普及の要因はいくつか考えられます。最大の要因は、もちろん一遍自身の全国行脚=遊行念仏により、踊り念仏が列島の隅々にまで流布したということにあります。  
一遍踊り念仏の「救済観」 
一遍の踊り念仏における「救済観」も普及要因の一つでしょう。踊り念仏のような念仏芸能は「死者供養」「死者救済」に関わる機能を持っています。例えば「迎講」などはその古い例です。「迎講」(むかえこう)/平安時代に源信が始めた念仏芸能で、彼岸などに人々が菩薩面などをかぶって行列・行進し、死者の霊を供養する行事。 
演劇的な色合いが強い。ところが一遍は、死者供養だけでなく、現世に生きる人々の煩悩からの開放=救済という側面を重視したのです。"踊り念仏によって、現世の自分たちが救われることにより、死者もまた救われる"という考え方です。このように現世の参加者自身の「自己救済」という側面を強く打ち出したことが、人々の踊り念仏への参加を促し、さらに念仏行の芸能化を推し進める契機となったのではないでしょうか。  
「踊り念仏」のブランド確立 
一遍の踊り念仏のもう一つの功績は、「平時に公の場で、一般人が跳躍の踊りを踊る」ということを広く認知させたことです。踊り念仏の「目的」(自己と死者の苦しみからの救済)と「様式」(集団で拍子を揃えて跳躍して踊る)を確立し、ありがたい念仏の行儀として世間に広く認知させることに成功しました。 
その結果、「踊り念仏」は、いつでも公の場で催すことができるものとなったのです。世間の広い認知を得た「踊り念仏」は、その後は村落共同体における「念仏講」のような母体を獲得し、全国各地に普及していきました。「踊り念仏」に目的と様式を与えた一遍は、やはり芸能のリーダー的才能を持つ存在であったのだと思います。  
室町期における「盆」  
「盆」観念の普及 
「盆」の普及ということが、一つのきっかけとなるようです。室町時代になると、死者供養に関して「盆」の観念が色濃くなってきます。「盆」は、正月とともに1年を2分する時季であり、ともに「祖霊と交わる期間」という重要な意味を持っていました。正月は、門松で祖霊を迎え、左義長(どんど焼き)で送りますが、盆には盆花で迎えて送り火で送る。同じようなことをやっているわけです。盆・正月とは「共同体のみんなが一斉に休んで、ご先祖様のおもてなしをする」時期なのです。  
盆の「集団性」 
「みんながいっしょに休み、みんなでいっしょに楽しむ」。このことは、念仏踊りや盆踊りなどの芸能の条件である「集団性」の点で重要な意味を持ってきます。踊り念仏は、時衆僧尼や、上層農民で構成される初期の念仏講などを母体として、不定期に催されていたわけです。これに比べると、村落共同体の全員が休んで参加する「盆」の行事では、はるかに多数の安定した母集団を確保することが可能になります。
 
中世「念仏風流」  
「行列」と「風流」 
室町時代になると、人々は死者の供養ということを"行列で送る"という行動で示すようになります。この「行列」というパフォーマンスを中心にして大きく開花したのが、いわゆる「風流」(ふりゅう)の諸芸能です。室町期には、正月には「松囃子」(まつばやし)、盆には「念仏風流」(ねんぶつふりゅう)などの風流芸能が盛んに行われました。「念仏風流」は、華やかな行列によって死者を供養するもので、やはり死者を弔う目的を重視しています。  
「念仏風流」 
盆の夜、ムラの人々が行列して、共同体内の有力者の家や新盆の家、特定の踊り場などを訪問していきます。目的の土地や家に到着すると、「土地誉め」「社誉め」などの歌が唄われ、これから芸能の行われる土地や家などを「祝福」します。そして庭入りとなり、青年たちのダイナミックな踊りによる死者供養が行われます。その後、老若男女が参加する楽しい輪踊り(手踊り)となります。そして最後にもう一度全員で村境や辻などに向けて行列し、死者をあの世へ送り出して「弔う」ことで完結します。  
「弔い」と「祝福」 
一般に、「弔う」(あるいはシズメル)という行為と、「祝福する」(イハフ)という行為はきびしく峻別・隔離されています。ところが念仏風流では、「弔う」ということと「祝福する」ことが、一つの行事の中で組み合わされているわけです。「念仏風流」は念仏の名を冠してはいますが、もはや念仏一辺倒ではありません。 
「弔い」もあるが、「祝福」もある。死者供養もあれば、現世の人々の楽しみもあります。これら一見相反する機能が、念仏風流では見事に重層しているのです。 例えば日本人は、当初恐ろしい存在であるはずの神様を祭ることによって、最終的にはご利益のあるありがたい神様にしてしまいます。死者供養についても、同じような見方をすることができるでしょう。  
「行列踊り」と「輪踊り」 
盆踊りにかかわる芸態の面でも、「念仏風流」は注目されます。一般に盆踊りには「行列踊り」と「輪踊り」の2つのタイプがありますが、先ほども見たように、念仏風流には「行列」と「輪踊り」の両方の要素が並行して存在しているのです。  
「念仏聖」による念仏芸能 
「盆」にはこれまで見てきたような祖霊の祭祀や身近な死者の供養(弔い)以外に、無縁仏のような恐ろしい霊たちを共同体の外へ「送り出す」ということも重視されています。無縁の霊の鎮送という場面で活躍したのが「念仏聖」たちです。戦国時代には戦争が多発し、各地で多くの戦死者が出ました。 
長篠・設楽原(三河)や三方ヶ原(遠江)などの激戦地では、戦死者たちの無縁の霊が虻や蜂と化し、地域の人々に災いをもたらしたと伝えられています。「遠州大念仏」のような念仏芸能は、こうした無縁の死霊たちを鎮め、送りだすために念仏聖によって持ち込まれました。同じようにして、全国各地で戦死者供養のための念仏芸能が広まっていったのでしょう。  
近世以降「盆踊り」 
「念仏風流」の中で重層していた「弔う」「楽しむ」という2つの機能ですが、近世以降念仏芸能が展開していく中で分離することもありました。例えば盆踊りでは、近世から近代にかけて宗教性の面が弱まり、娯楽性の面だけが正面に出るという変化が広く見られます。また「行列踊り」「輪踊り」といった踊りの芸態面でも、各地でさまざまな展開がありました。 
たとえば「阿波踊り」(徳島県)や「三原やっさ」(広島県)などは、行列踊りの要素が独立したケースと見ることができます。一方「佃島盆踊り」(東京都)をはじめ多くの盆踊りは、輪踊りの要素のみが継承されたものと言えます。そして、「新野盆踊り」(長野県)のように、現在に至るまで行列と輪踊りの両方の要素を残している盆踊りも見られます。 このように、地域ごとの条件の違いによる多様な展開の中で、次第に現在の全国各地に見られるような多様な盆踊りの姿が成立していったのでしょう。  
 
盆踊り2

盆踊りのイメージは単純明快で、お盆時期の夜、音楽にのって浴衣の集団が踊る類ではないだろうか。○○音頭と名の付いた、新民謡と呼ばれる曲で踊る民謡踊りや、子供向けにアニメキャラクターの盆踊りの曲などもあり、大人も子供も、老若男女問わず楽しめる娯楽的な踊りが多いのだが、地域性が高く、都市部発祥のものと村落発祥のものでは、本質的に目的が異なる。あまり知られていない盆踊りの話を盛り込みつつ、盆踊りの起源から現在の姿までを追ってみたい。 
盆踊りは、仏教行事の一つである盂蘭盆会(うらぼんえ)に迎えた祖霊を慰め、再び送るために大勢の人が踊る「念仏踊り(ねんぶつおどり)」が源流であり、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)の名号に節を付け、唱えつつ踊るものであった。念仏踊りについては念仏踊りの項を参照して頂けると詳細が分かるので省略する。 
盂蘭盆会はお盆の正式名称で、「盆」「盆会」「精霊会(しょうりょうえ)」「魂祭(たままつり)」などとも呼ばれ、施餓鬼や盆飾り、精霊流しを行うなど、現在でも日本古来の民族風習が色濃い行事である。斎明天皇の治世である657年に盂蘭盆会を設けたことが史実上初めて登場し、8世紀頃には夏場に祖先供養を行うという民俗風習が日本で確立したと考えられているので、それ以来1300年もの歴史を持つ。 
旧暦7月15日を中心として行われているが、この日は十五夜、すなわち満月にあたり、月明かりの下で夜通し踊ることができるほど明るかった。盆踊りの場は、あの世との境界・接点となり、その踊りには、霊と踊り手が親しみ、通じ合うことを表す所作が盛り込まれている。月明かりや篝火のほの暗い幻想の中、踊り手はあの世に行った人々の姿を別の踊り手に重ね合わせ、精霊と一緒に踊っているような錯覚に陥り、故人を偲ぶものだったという。また地獄の受難を免れた亡者達が喜んで踊る様を模したものという説もある。 
後述するが、秋田の「西馬音内の盆踊」のように覆面を着けるもの、仮面を被る仮装盆踊りの類は、このような亡者踊りとしての一面を強調させたものと考えられている。もう一方で娯楽が少なかった昔、共同娯楽、秋の豊年祈願も込められるなど盆踊りは運動会と並んで地域を挙げての一大行事であり、夜開催されることにより、若い男女が解放され恋愛活動の自由を謳歌する場であったとされる。近年では商店街や町内会が主催することが多くなり、宗教色を脱した地域の親睦を主目的とするイベント・お祭り騒ぎ的な性質を更に強めている。 
盆踊りの直接的な起源を遡ると、平安時代の頃から念仏聖(ねんぶつひじり)が行った、祖先供養のための踊念仏(おどりねんぶつ)が風流化し、そこから派生した「念仏踊り」と、古来から行われていた「風流踊り」が融合し、更に盆行事に吸収されて盆踊りとして完成したのが室町時代の1400年代と考えられている。 
各村落で祖先供養のために念仏踊りを行うようになったのは中世期以降のことで、初期の盆踊りは派手で華やかな風流の作り物が出る、「念仏拍物(ねんぶつはやしもの)」と呼ばれるものだった。元々儀式的な色合いもあったようだが、太鼓などが用いられ、娯楽的な要素が時代を下るごとに大きくなり、派手なイベントとして定着していった。室町時代から明治時代までの間、盆踊り禁止令が度々出されていることからも騒ぎの様子が伺えるのだが、それでも現代まで途絶えず存続した盆踊りが全国各地にあり、国の重要無形文化財に指定されるなどして保存・継承に努めている。 
盆踊りの系統には大別して2つの流れがあり、前述したのが伝統芸能系の「伝統踊り」で、もう一方は、戦後になって伝統踊りから発展した「民謡踊り」と呼ばれるものである。以下、その違いに触れてみる。 「伝統踊り」とも呼ばれる伝統芸能系のものは、地元の民俗風習に溶け込み、地域性が強く多様であるが、音楽面から言うと、歌のみ、太鼓のみ、笛・三味線入りなど、楽器の使用・組み合わせ如何に関わらず、昔ながらの生演奏により踊りが行われる。 
口説き(くどき)と呼ばれる盆踊り唄は、盆踊りに合わせて歌うもので、室町末期から隆盛に入ると共に、伊勢踊り・念仏踊りなどの歌の系統を引いた歌詞が作られた。口説きも各々の地区により独自性があり、それゆえ各地区ごとにご当地音頭として多く継承されている。盆行事と密接であり、初盆(新盆)を迎える各戸の家を回って踊る地域などもある。 
また古い盆踊りの歌詞は、通常の会話では敬遠されるような内容のものも多く、普段言えないことを歌に託して大人は憂さを晴らし、若人は歌・踊りの駆け引きで恋愛活動をし、子供は無邪気に音頭・踊りを楽しむ場となる、年に1度の一大行事であり、他の盆行事と共に大切に培われてきた歴史がある。村落社会において、特に娯楽とともに村の結束を強める機能的役割を果たしていたといえる。 
「民謡踊り」は、戦後に発展したものであり、歴史はそれほど長くなく、風俗習慣というより地域活性化イベントに近いものだが、盆踊りと名が無くとも同じ系譜に入り、盆踊りと言えばこちらを思い浮かべる人が現在では多いと思われる。前述の伝統踊りのような生演奏はなく、民謡カセット(レコード・CD・etc)を流して街の公園や公民館などで集団で踊るのが一般的である。 
昭和初期、中山晋平の作曲で大ヒットした「東京音頭」に代表される「新民謡」の興隆により、戦後、地域交流の場として盆踊りが見直された時、それらの最新ヒット曲が活用され、その後も「ドラえもん音頭」など次々と盆踊りのための新しい曲と振りが作られた。 
現在、民謡・歌謡民謡をはじめ、アニメ・子供向けキャラクター・バラエティ番組・テレビドラマなどから多彩な曲が用いられている。商店街や町内会が主催するものが多く、各々のグループ・組織別に浴衣・衣装を揃えたり、仮装したりと観衆を意識した見どころが多いことも特徴的である。 
いずれにしても、広場の中央に櫓(やぐら)を組み、やぐらの上で音楽方の音頭取りが音頭を歌うか、太鼓などの囃子方が拍子を取り、無い場合は櫓の上に踊り子が数人上がり、模範として踊ったりするようだ。音楽方が居ない場合は、櫓付近にスピーカーが置かれる。 
一般に盆踊りには「行列踊り」と「輪踊り」の2つの形式があり、佃島盆踊り(東京)をはじめ大半の盆踊りは、踊り手が櫓を囲む輪を作り、回りながら音頭に合わせて踊る「輪踊り」形式であるが、連(組)ごとに道路を踊り流す、阿波踊(徳島)・三原やっさ(広島)などのような「行列踊り」形式もある。またその両方の要素を併せ持つ、新野盆踊り(長野県)のようなものもある。 
服装面では、やぐらの上の太鼓方、音頭取り、踊り子は浴衣を着用することが多いが、一般参加者はカジュアルな平服で良いとされ、伝統的には、女性の場合は団扇(うちわ)を浴衣の背中の帯に差し込んだ格好、男性の場合は鉢巻を締め、腰に印籠をぶら下げた格好のようだ。地方により、伝統的に鳥獣の仮面・覆面などを着けたり、舞台化粧並の厚化粧に、華やかな衣装で踊る場合もあるようだが、近年の傾向として深夜まで行われることは少なくなっているようだ。 
盆踊りの変遷はこの辺で留めておき、歴史ある「伝統踊り」の中でも現存していて、国の重要無形民俗文化財の指定を受けている6件(2008年)について触れてみることにする。恐らく一般的なイメージの盆踊りからは、かけ離れた内容のものであろうし、日本舞踊としての、盆踊りの本来の姿を知る上で興味深いものである。
 
西馬音内の盆踊 
秋田県雄勝郡羽後町西馬音内(にしもない)に伝わるもので、郡上おどり(岐阜県郡上市)、 佐渡おけさ(新潟県佐渡)と並び日本三大盆踊りの1つに数えられ、毎年8月16-18日に催される。西馬音内はアイヌ語で「雲の湧く谷」を意味する。起源は定かではないが、1288年頃から豊年祈願として踊りが始まり、室町時代には盆踊りとして定着したものといわれている。 
「黒百合姫祭文」という山伏祭文があり、戦国の世に西馬音内城が自焼落城した時の悲劇を伝えているのだが、この盆踊りはその時に出た死者達の供養として毎年行われてきたという。篝火が焚かれる中、「輪踊り」形式の踊り手の女達の端縫(はぬい)と呼ばれる風雅な着物、編笠、彦三頭巾(ひこさずきん)の姿に風流な趣がある。彦三頭巾をすっぽり被り顔を覆った姿は亡者を模したものといわれ、供養踊としての伝承の面影を今に伝えている。 
囃子は笛・大太鼓・小太鼓・鼓・鉦・三味線などで、特設屋台(櫓)の上で賑やかに演奏され、宵のうちは秋田音頭と同じ「地口」、夜が更けるにつれて「甚句」で囃される。甚句の踊りは「がんげ踊」「亡者踊」とも呼ばれ、快活で賑やかな囃子でありながら洗練された流麗優雅な踊り・振りが際立って美しい。数ある盆踊の中でも傑出したものと評価が高く、盆踊の一典型としての価値も高いといわれている。 
毛馬内の盆踊 
秋田県鹿角市十和田毛馬内(けまない)に伝わるもので、毎年8月21-23日に催される。起源は定かではないが、少なくとも江戸時代中期から行われていたとされ、一時中断したが戦後復活した。揃いの半纏(はんてん)姿の若者たちが奏でる「呼び太鼓」の音により、踊り子が篝火を囲んで輪を作る「輪踊り」形式で踊る。 
祖先供養の意味を持つといわれる「大の坂踊り」と、娯楽的な「甚句踊り」の2つがあり、先に「大の坂踊り」、次いで「甚句踊り」を踊るのが恒例で、現在はその後「鹿角じょんがら」というじょんがら節を余興として締めに踊る。「大の坂踊り」は歌を有したが、近代は次第に歌われなくなり、戦後は太鼓・笛のみで踊る現在になった。の形式 
踊り手の衣装には決まりがあり、男性は黒紋付の裾をはしょり、その下に水色の蹴出(けだし)を付け、胴〆めを締めて飾りとしてしごきを結び、白足袋に雪駄・下駄を履く。女性は紋付・江戸褄・訪問着などの裾をはしょり、その下に鴇色の蹴出を着け、帯を太鼓結びにし、帯の下腰にしごきを結び、白足袋に草履を履く。男女とも豆絞りの手拭いで額を隠すように頭を覆い、前に折り返して口元を隠し顎の下で結ぶ頬被りは、独特の、特徴的なものである。 
新野の盆踊 
長野県下伊那郡阿南町新野(にいの)に伝わるもので、毎年8月14-16日、24日の各日の夜から翌朝にかけて催され、太鼓・笛・三味線など囃子を一切伴わない古風な踊りが特徴である。17日の早朝、鉦・太鼓を打ちながら精霊を送り出す儀礼を行う。音頭台と呼ばれる櫓を組み、その上に音頭取り5、6名が上がり、踊り手は音頭台を中心に細長い輪を作る「輪踊り」形式で、音頭取りの歌を受け、続く歌詞を歌い返し、踊りつつ進む。 
「すくいさ」「音頭」「高い山」「おさま(甚句)」「十六」「おやま」「能登」の7種の踊りがあり、いずれもゆっくりとしたものである。右手に扇を持って踊るもの、踊る方向が逆回りに進むものなどもある。「市神様」「お太子様」の和賛(わさん)、「百八タイ」と呼ばれる小さな木片を燃やす「タイとぼし」、精霊送り、切子灯籠など、盆行事との関わりが深く、祭祀的要素が強い。  
徳山の盆踊 
静岡県榛原郡中川根町徳山に伝わるもので、毎年8月15日の夜に催されており、風流踊と狂言から成る。夜、清めの踊りの後、一同行列になり徳山浅間神社の境内に設営した舞堂で、「鹿ん舞(しかんまい)」「ヒーヤイ」「狂言」の3つで構成された芸能を演じる。 
ヒーヤイは元は男性が女装して踊るものだったが、現在は菅笠に扇子と綾棒を手に踊る、少女達の優雅で美しい小歌踊であり、「神すずしめ」「桜花」「牡丹」「かぼちゃ」等の演目がある。ヒーヤイという囃詞から名が付いたとされる。鹿ん舞は、古来、作物を荒らす鹿など獣を払い、豊作祈願をしたことから始まったとされ、鹿に扮した若者が屈んだまま飛び跳ねる動物仮装の踊りで、露祓い・神輿・雄鹿一頭・雌鹿二頭・百姓役数頭・囃子方の一団で構成される。 
狂言の演目は「頼光」「昆布売」「新曽我」等がある。小歌踊と狂言を交互に演じるという特色を有する形態は、古歌舞伎踊の初期の構成を伝承するものであり、また地方的特色にも富み、芸能史上貴重とされる。 
有東木の盆踊 
静岡県有東木(うとうぎ)に伝わるもので、毎年8月14、15日の夕刻から夜中の12時頃まで、東雲寺の境内を会場として催される。起源は定かではないが、江戸時代中期以前から伝承していると考えられている。男踊りと女踊りに分かれており、曲・振りも異なり、男女が混じって踊ることはないが、いずれも締太鼓を伴奏に、踊り手も歌いながら「輪踊り」形式で踊る。男踊りに始まり女踊りと交互に演じられ、現在の踊りは、男踊りが10種、女踊りが13種の合計23種ある。 
扇・コキリコ・ササラ・小さな長刀(なぎなた)を持つものや、踊りの輪にトウロウ・ハリガサと呼ばれる飾り灯籠を頭上にかざした踊り手が繰り込む「中踊り」があるなど、多様な内容を持つ。中踊りの灯籠は、中世に京都を中心に流行した風流(ふりゅう)の灯籠踊の姿をうかがわせ、また盆踊の最後に、行列して集落の境などへ行き、切子灯籠などを燃やすなど、当時の盆行事を今に伝えているため重要なものであるが、現在は娯楽より芸能保存の動きが必要となるなど、後継者となる若者の意識改革に重点が置かれているようだ。 
綾渡の夜念仏と盆踊 
愛知県東加茂郡足助町綾渡(あやど)に伝わるもので、毎年8月10、15日の夜、平勝寺の境内を中心に催される。平笠を被り、浴衣に角帯、腰に白扇を差し、白足袋に下駄の姿で行列を作り、鉦を打ち念仏を唱和する夜念仏と、それに続いて行われる、三味線や太鼓などの楽器を使わない古風な歌だけの盆踊である。 
先頭と末尾に切子灯籠を持つ「折子」が立ち、先頭の折子の次に全体の統率者である、香炉を両手で捧げ持つ「香焚」が並び、その後ろに鉦、撞木を持つ「側衆」が並ぶ。先頭の灯籠には極楽、最後の灯籠には地獄の様子が描かれている。夜念仏は詳略し、盆踊についてのみ詳述するが、折子灯籠を中心に輪になる「輪踊り」形式で盆踊が行われるもので、「音頭とり」の歌に合わせ、踊り手も「囃詞」を歌いながら踊る。 
楽器類が一切無いので、下駄が境内の砂地を荒らす音が、唯一の伴奏である。「越後甚句(えちごじんく)」「御嶽扇子踊」「高い山」「娘づくし」「東京踊り」「ヨサコイ」「十六踊り」「御岳手踊り」「笠づくし」「甚句踊り(足助綾度踊り)」など10曲の踊りが伝えられている。
 
盆踊り3 / 折口信夫

盆の祭り(仮りに祭りと言うて置く)は、世間では、死んだ聖霊を迎へて祭るものであると言うて居るが、古代に於て、死霊・生魂に区別がない日本では、盆の祭りは、謂はゞ魂を切り替へる時期であつた。即、生魂・死霊の区別なく取扱うて、魂の入れ替へをしたのであつた。生きた魂を取扱ふ生きみたまの祭りと、死霊を扱ふ死にみたまの祭りとの二つが、盆の祭りなのだ。 
盆は普通、霊魂の游離する時期だと考へられて居るが、これは諾はれない事である。日本人の考へでは、魂を招き寄せる時期と言ふのがほんとうで、人間の体の中へ其魂を入れて、不要なものには、帰つて貰ふのである。此が仏教伝来の魂祭りの思想と合して、合理化せられて出来たものが、盆の聖霊会(シヤウリヤウヱ)である。 
七夕の祭りと、盆の祭りとは、区別がない。時期から言うても、七夕が済めば、すぐ死霊の来る盆の前の生魂の祭りである。現今の人々は、魂祭りと言へば、すぐさま陰惨な空気を考へる様であるが、吾々の国の古風では、此は、陰惨な時ではなくして、非常に明るい時期であつた。此時期に於ける生魂の祭りの話を、簡単に述べようと思ふ。 
 
日本民族の量り知れない大昔、日本人が、国家組織をもつて定住せない頃、或は其以前に、吾々の祖先が多分はまだ此国に住まなかつた頃から、私の話は、語り出される。 
其頃の日本の人々の生活は、外来魂を年に1度、切り替へねばならなかつた。其が、年に二度切り替へる事にもなつて行つた。本来ならば、尠くとも、一生に1度切り替へればよいのであるが、此を毎年切り替へる事になつた。年の暮から初春になる時に、蘇生する為に切り替へをし、其年の中に、も一度繰り返す。此後の切り替へが、聖霊祭りである。 
切り替へとは、魂を体に附ける事で、魂を体に附加すると、一種の不思議な偉力が出来たのである。例へば、さる地位にある人は、其外から来る魂を体に附けなければ、其地位を保つことが出来ないのだ。此を一生に1度やるのが、二度となり、六度行うた時代もあつた様だ。 
二度の魂祭り、即、暮と盆との二度の祭りに、子分・子方の者から、親方筋へ魂を奉る式「おめでたごと」と言ふ事が行はれたのは、此意味であつた。「おめでたう」と言ふ詞を唱へれば、自分の魂が、上の人の体に附加するといふ信仰である。正月には魂の象徴を餅にして、親方へ奉る。 
朝覲行幸と言ふのは、天子が、親の形をとつておいでなさる上皇・皇太后の処へ、魂を上げに行かれた行事である。吾々の生活も、亦同様で、盆には、鯖(サバ)を、地方の山奥等では、塩鯖をげて親・親方の処へ行つた。何時の頃から魚の鯖になつたか訣らぬが、さば(産飯)と言ふ語(ことば)の聯想から、魚の鯖になつた事は事実である。此行事を「生き盆」「生きみたま」と言ふ。 
 
神道の進んで行くある時期に、魂の信仰が、神の信仰になつて行つた事がある。昔は、神ばかり居たのではない。精霊が居て、此が向上し、次第に位を授けられて、神になつたものと、霊魂なるもつと尊い神とがあつた。其形が、断篇的に、今日の風俗伝説に残つて居る。其時期に、古代には尠くとも、神が海なら海、河なら河を溯つて来て、其辺りの聖なる壇上に待ちかまへて居る処女の所へ来る。其時聖なる処女は機を織つて居るのが常であつたらしい。此処女が、棚機(タナバタ)つ女(メ)である。此形は、魂の信仰が、神の形に考へられたのである。 
夏に神が来る。--夏の末、秋の初めに神が来ると考へたのは、日本神道の上でも新しいものである。と言うても、わが国家組織のまとまるか、まとまらない頃のものであらう。此時期に、吾々の民間に残つて居る、注意すべき事は、処女どもの、一所に集つて物忌みする事である。今日でも、地方々々に残つては居るが大抵は形式化して、やらねば何となく気が済まぬからと言ふ様な気分で、形式だけを行うて居る。此を或地方では、盆釜(ボンガマ)と言ふ。 
地方には、其時だけ村の少女許り集つて、一个所に竈を築いて遊ぶ事が、今も残つて居る。此が実は、所謂まゝごとの初めである。日本人は、隔離して生活する時には、別な竈を作つて、そこで飯を焚くのが常である。盆釜は、うなゐ・めざし等と称せられる年頃のともがらが、別に竈を造つて、物を煮焚きして食べる。此時に、小さい男の児たちが、其を毀しに行つて喜ぶ様な事が行はれて居る。 
盆釜と同じもので、春には、男の児等が鳥小屋を作つて、籠ることがある。此は、男の児が、くなどに奉仕する物忌みなのである。盆釜とは、幼女の、処女の仲間入りする為のものである。 
此に対して、田植ゑに先だつて、処女が山籠りをする行事は、処女から、成熟した女になる式である。即、日本では、子供から男・女になるまでに、式が二度あつた。男の方では、袴着の式--謂はゞ褌始めである。女の方では、今言うた裳着の式--腰巻始めとでも言うたらよいか。其裳着の式が二度ある。少女の時と、成熟した女になる時の式とである。併し此は、1度にしたりする事があるから、一概に言へぬが、まづ二度行はれるのがほんとうである。 
此式は、田植ゑの1月前、処女が山籠りをするので、躑躅の枝を翳して来るのが其標である。此が早処女(サウトメ)となつて、田植ゑの行事をするのだ。此以前に行はれるのが、盆釜と言はれる式で、即、早処女になる以前の成女戒である。此は、別のものか同じものか訣らぬが、私は、年に二度行はれたものと考へて居る。 
盆釜に籠る間は、短くなつて居るが、実は長いものであつた。卯月の山籠りも同じで、近頃では、僅かに1日しか籠らない。かう言ふ風に段々短くなつて来て居るが、1日では意味が訣らぬものである。禊ぎをする時は1日でよいが、神に仕へる時は長かつたもので、其を形式化して行うて居るのであらう。 
室町から徳川へ入る頃ほひから、少女の間に盛んになつたものに、小町踊りがある。男の方に業平踊りがあるから、其に対立したものであると言はれて居るが、其とは別なものである。小町踊りは、少女等が手をつないで行つて、ある場所で踊る踊りである。私が大阪で育つた頃、まだ遠国(ヲンゴク)歌を歌つて、小娘達が町を練り歩いて居た。此は盆の踊りの一つである。小町踊りと言ふのが此総名で、此踊りの為に日本の近世芸術は、一大飛躍を起して来たのだ。さうして、徳川初期の小唄の発達・組み歌の発達と相協うて居る。娘達の盆釜の行事は、かうした種々のものを生み出して来た。 
 
一方、魂祭りの方面では、ちようど其頃、念仏踊りがある。魂祭りは、死んだ近い親族が帰つて来るから魂祭りであると言ふが、此だけでは、近頃の考へである。以前は、其帰つて来る魂の中に、悪い魂も混つて戻つて来ることを考へて居た。其為に、悪霊を退ける必要があつたのだ。此悪霊退散の為の踊りが、念仏踊りである。春の終り、夏に先だつて流行する疫病を予防する為の踊りであつたが、其元は、稲虫を払ふ踊りである。 
日本人はすべて物を並行的に考へるのが例で、田に稲虫が出ると、人間にも疫病が流行すると考へて居た。此踊りのもとは、平安朝になつて、俄然発達して来た鎮花祭から起つてゐる。花が散る頃には、悪疫が流行するから、花鎮めの祭りをすると言ふのは、平安以後の考へで、もとは、花を散らせまいとする、花の散る事を忘れさせる為の踊りであつた。此が平安朝になると、疫病退散の為の踊りになつた。 
日本の踊りは宗教を生み出す源となる事があるが、念仏宗も鎮花祭の踊りから発達して来て居るのだ。鎮花祭の踊りをする中に、其興奮から、一種の宗教的自覚をおこして、念仏宗が出で、其径路に当つて、念仏踊りが現れたのであつた。 
念仏踊りは、此様に、段々意味が変つて来て居るが、根本には、魂に係る祭りだと言ふ考へがなくなつては居ない。念仏踊りの直接の前の形は魂祭りではあるまいが、併しそれ以前、平安朝から、或は奈良朝の頃にも、此魂祭りを考へて居たことは見える。 
村の聖霊が帰つて来る時期に、ちようど念仏踊りを行うた。念仏聖が先に立つて踊る時もあり、念仏聖を傭つてする時もあり、村人自身がする時もあり、或は村全体が念仏聖の村である事もある。此念仏聖が鉦を敲いて、新仏の家に立つて踊り、聖霊の身振りや、称へ言を唱へて歩いた道行き芸が本筋をなして居る。途中のある場所で演芸をするのは亦、歌舞妓狂言の一部を発達させて居る。 
出雲のお国の念仏踊りは、ほんとうのものであつたか否かは、疑はしい。歌舞妓の草子を見ても、お国のは、念仏踊りの部分が、僅かで、享保の頃から、念仏踊りは既に、小唄踊りに変つて来て居る。この道行き芸が、実は盆の踊りの根本である。道を歩きながら、鉦を敲いて、新盆の家の庭で輪を作つて踊る式は、神祭りと同一で、月夜の晩に、雨傘を指したり、踊りの中心に柱をたてたりする。 
神を招く時には、中央に柱を樹てゝ、其まはりを踊つて廻はるのが型である。此神降しの様式を、念仏踊りは採り入れて居るのだ。出雲の須佐神社の念仏踊りを見ても、其中心には、傘の様に竹を割つたものを樹てゝ居る。盆踊りを歌垣の流であると言ふのは、全く謬りで、勝手な想像に過ぎない。男と女とがよれば、其結果、歌垣の終りの如くなるのは当然である。 
盆踊りの直接の原因はだから、念仏踊りであることは事実だ。行はれる時期も色々あり、踊り方にも色々あつて道を歩いて踊つて行く踊り、譬へば、阿波の徳島の念仏踊りは其代表的のもので、伊勢踊りと同様である。それから神を迎へて来る道中の踊り、即、伊勢踊りが、七夕や盆の踊りの中へ織り込まれて来た。此だけの要素は、従来の盆踊りの中に、其形式を忘れる事が出来ないものである。要するに、其は盆釜から生れて来た小町踊りと、七夕と同一の伊勢踊りと、根本の念仏踊りとの三要素があるのだ。 
中昔の頃には、盆と言ふ時期は、死人の魂が戻つて来ると共に、無縁の亡霊もやつて来ると考へた。其為、家では魂祭りをし、外では無縁の怨霊(ヲンリヤウ)を追ひ払はねばならぬ。此考へが変化して、盆の如く、聖霊も中1日居るのみで、追ひ返へされて了ふ。少しでも、亡霊を嫌がるそぶりを見せると、又戻つて来ると考へた。戻られると厄介だから、名残り惜しいと言ふ意味を口には唱へるが、実は嘘で、さう言ひつゝ追ひ払ふのである。此は、雛流し・七夕流しにつき添うた型式である。勿論、其他の無縁の聖霊・悪霊をも、一緒に払ひ捨てゝ了ふのである。
 
盂蘭盆

盂蘭盆会(うらぼんえ、ullambana、उल्लम्बन)とは、安居(あんご)の最後の日、7月15日(旧暦)を盂蘭盆(ullambana)とよんで、父母や祖霊を供養し、倒懸(とうけん)の苦を救うという行事である。これは「盂蘭盆経」(西晋、竺法護訳)「報恩奉盆経」(東晋、失訳)などに説かれる目連尊者の餓鬼道に堕ちた亡母への供養の伝説による。 
盂蘭盆は、サンスクリット語の「ウランバナ」の音写語で、古くは「烏藍婆拏」「烏藍婆那」と音写された。「ウランバナ」は「ウド、ランブ」(ud-lamb)の意味があると言われ、これは倒懸(さかさにかかる)という意味である。 
近年、古代イランの言葉で「霊魂」を意味する「ウルヴァン」(urvan)が語源だとする説が出ている。サンスクリット語の起源から考えると可能性が高い。古代イランでは、祖先のフラワシ(Fravaši、ゾロアスター教における聖霊・下級神。この世の森羅万象に宿り、あらゆる自然現象を起こす霊的存在。この「フラワシ」は人間にも宿っており、人間に宿る魂のうち、最も神聖な部分が「フラワシ」なのだと言う。ここから、フラワシ信仰が祖霊信仰と結びついた。)すなわち「祖霊」を迎え入れて祀る宗教行事が行われていた。一説によると、これがインドに伝えられて盂蘭盆の起源になったと言われている。 
目連伝説 
一般にはこの「盂蘭盆会」を、「盆会」「お盆」「精霊会」(しょうりょうえ)「魂祭」(たままつり)「歓喜会」などとよんで、今日も広く行なわれている。 
この行事は本来インドのものではなく、仏教が中国に伝播する間に起こってきたものであろう。現在、この「盂蘭盆会」のよりどころとしている「盂蘭盆経」は、「父母恩重経」や「善悪因果経」などと共に、中国で成立した偽経であると考えられている。したがって、本来的には安居の終った日に人々が衆僧に飲食などの供養をした行事が転じて、祖先の霊を供養し、さらに餓鬼に施す行法(施餓鬼)となっていき、それに、儒教の孝の倫理の影響を受けて成立した、目連尊者の亡母の救いのための衆僧供養という伝説が付加されたのであろう。 
盂蘭盆経に説いているのは次のような話である。 
安居の最中、神通第一の目連尊者が亡くなった母親の姿を探すと、餓鬼道に堕ちているのを見つけた。喉を枯らし飢えていたので、水や食べ物を差し出したが、ことごとく口に入る直前に炎となって、母親の口には入らなかった。 
哀れに思って、釈尊に実情を話して方法を問うと、「安居の最後の日にすべての比丘に食べ物を施せば、母親にもその施しの一端が口に入るだろう」と答えた。その通りに実行して、比丘のすべてに布施を行い、比丘たちは飲んだり食べたり踊ったり大喜びをした。すると、その喜びが餓鬼道に堕ちている者たちにも伝わり、母親の口にも入った。 
中国での盆会 
この盂蘭盆会の中国での起源は随分古く「仏祖統紀」では、梁の武帝の大同4年(538年)に帝自ら同泰寺で盂蘭盆斎を設けたことが伝えられている。「仏祖統紀」は南宋代の書物なので梁の武帝の時代とは、約700年の隔たりがあり、一次資料とは認め難い。しかし、梁の武帝と同時代の宗懍が撰した「荊楚歳時記」には、7月15日の条に、僧侶および俗人たちが「盆」を営んで法要を行なうことを記し、「盂蘭盆経」の経文を引用していることから、すでに梁の時代には、偽経の「盂蘭盆経」が既に成立し、仏寺内では盂蘭盆会が行なわれていたことが確かめられるのである。 
この行事が一般に広がったのは、仏教者以外の人々が7月15日(旧暦)を中元節(中元)といって、先祖に供物し、灯籠に点火して祖先を祭る風習によってであろう。この両者が一つとなって、盂蘭盆の行事がいよいよ盛んになっていったと思われる。 
南宋代になって、北宋の都である開封の繁栄したさまを記した「東京夢華録」にも、中元節に賑わう様が描写されているが、そこでは、「尊勝経」・「目連経」の印本が売られ、「目連救母」の劇が上演され好評を博すほか、一般庶民が郊外の墓に墓参に繰り出し、法要を行なうさまも描かれている。 現在でも、長崎市の崇福寺などでは中国式の盂蘭盆行事である「(普度)蘭盆勝会」が行われる。 
日本での盆会 
日本では、推古天皇14年(606年)4月に、毎年4月8日(旧暦)と7月15日に斎を設けるとあり、また斎明天皇の3年(657年)には、須弥山の像を飛鳥寺の西につくって盂蘭盆会を設けたと記され、その5年7月15日には京内諸寺で「盂蘭盆経」を講じ七世の父母を報謝させたと記録されている。後に聖武天皇の天平5年7月(733年)には、大膳職に盂蘭盆供養させ、それ以後は宮中の恒例の仏事となって毎年7月14日(旧暦)に開催し、孟蘭盆供養、盂蘭盆供とよんだ。 
奈良、平安時代には毎年7月15日に公事として行なわれ、鎌倉時代からは「施餓鬼会」(せがきえ)をあわせ行なった。また、明治5年(1872年)7月に京都府は盂蘭盆会の習俗いっさいを風紀上よくないと停止を命じたこともあった。
「お盆」について / 日本人の先祖崇拝  
「お盆」については梵語のウラバンナの音訳した「盂蘭盆(うらぼん)」(逆さ吊りの苦しみを救うの意)をその基としています。釈迦の弟子で神通力第一といわれた目連(もくれん)がその神通力で死んだ母親の姿を見たところ、餓鬼道(欲望の世界)に堕ちて苦しんでいました。そこで、釈迦の“7月15日に夏の修行(安居)を終えた大勢の僧たちに飲食を施し、彼らの功徳(力)によって供養せよ”という教えにしたがって母親を餓鬼道から救い出すことができた、という『盂蘭盆経』の故事に由来しています。これが中国で民間行事となったのち日本に伝えられました。ここでいう、母親のための供養が先祖供養として形を変え伝えられたのだと思われます。  
日本に入ってきたのは606年(推古天皇治世)といわれ、奈良時代に宮中行事となり、鎌倉時代に中国の風習にならって灯篭を掲げ、迎え火をたく習慣が定着したといいます。お盆も年忌法要などと同様に、日本古来の祖先崇拝信仰(中国の“儒教”の影響?)の色彩が強く、また亡者の霊・魂(タマ)を供養し鎮める(先祖は祟るという民間信仰)夏祭りという面もあることから、仏教行事であるとともに民間信仰の行事ともいえましょう。  
時期は7月13日から15日の3日間なのですが、一般的には13日に精霊(タマ)迎えをして、16日に精霊送りをする地域が多いようです。新暦、月遅れ、旧暦などの関係で8月に行う地方もあるが、東京では新暦7月に行うのが普通です。先祖の精霊は明かりを頼りに帰ってくると言われ、13日の夕刻に盆提灯(ぼんちょうちん)や盆灯篭(ぼんとうろう)を灯し、庭先で迎え火として麻幹(芋殻・おがら)を焚きます。またお墓で盆提灯を灯し、それを持って家まで帰ることによって、自宅に精霊を導く「迎え盆」の風習もあります。お盆の間は精霊棚と称する祭壇を設け、精霊を祀ります。この精霊棚であるが概要は以下の通りであるが、必ずしも明確な規定があるわけではなさそうです。またこれは過去1年以内の新仏(新精霊)の為に作られ、その他の精霊には仏壇をもって充てるという地域もあるようであります。  
竹の骨組みで棚を作り(四角い卓)、真ん中に新仏の位牌、左右に先祖の位牌を安置。さらに位牌の前に真菰(まこも)のゴザを敷き、根付きの里芋、昆布などをつるす。迎え団子、水、仏飯、ナス・キュウリで牛・馬をつくる。これには先祖が馬に乗って少しでも早く帰ってきてほしい、牛でゆっくり帰ってほしい、という願いが込められているとか。さらにナスを刻んで米に混ぜたもの、蓮の花を供えることもある。  
13日の夕刻に帰ってきた精霊は14日、15日は家に留まると言われます。お盆の間は家族と同様に1日3回仏壇あるいは精霊棚に膳を供えます。また棚経といって菩提寺の僧侶が檀家を訪問し読経をします。16日の夕方には再び祖先の霊を浄土に送る道しるべとして送り火を迎え火を焚いたのと同じ所で焚きます。京都の「大文字焼き」、各地の「精霊流し」「万灯流し」などもこの送り火からきています。  
49日の忌明け後、初めて迎えるお盆は新盆(にいぼん)または初盆(はつぼん)といいます。新盆には故人の好物をそなえ、白い提灯をともす風習があり、場所によっては白い提灯はお盆があけたら、菩提寺に納める。また忌明けが済まないうちにお盆を迎えた時は次の年が新盆になります。  
先に述べたとおり、7月、8月の違いはあるものの、13日に盆の入り、16日に送り、14日と15日は精霊が家に留まる、という考え方は各宗派で共通しているようです。ただし、浄土真宗では”死者は既に極楽に往生している”という見地から、お盆に精霊が帰ってくるという発想はないようです。  
以上一般的な「お盆」について解説を試みました。本来の盂蘭盆経にあるものと、現在の「お盆」ではかなり認識に違いがあるように思われます。  
そもそもインド以来の仏教の根本的立場としては霊魂(先祖霊)の存在は否定されてきました。しかしながら近年になって日本人の間で行われてきた先祖崇拝の重要性を仏教教団自体も正面から受け止めようという動きがあります。これは仏教側だけでなく、日本カトリックの司教協議会までもが先祖崇拝と協調する手引書を公表したことからも、避けては通れない問題として認識されているようであります。  
仏教伝来のときから日本では本来の釈迦の教えが正確に理解されることができませんでした。すでにインドや中国(儒教の影響)でも寺を建てたり、仏像を作ったりすることは「父母七世」への追善供養である、という観念があり、この観念は“死者の霊魂はかならず祖霊へと上昇変化する”という信仰が出来上がっていた日本人には仏教の教理そのものよりもよりストレートに受け入れやすいものだったので、そのまま浸透していったようであります。  
また日本人は古来より“人は死ぬと魂が肉体から遊離して山に登っていく”とごく自然に信じていたようであります。そしてこの霊魂は最初、危険な亡霊の状態にあり、供養と祭祀をもって清められ(和魂(わぎみたま))、その後神になる。これら山中に鎮まった神や祖霊は季節に応じて(盆、正月など)里に下りてきて村人を祝福したと考えられていました。これが氏神や田の神であります。さらに日本人にとって死ぬということが生命の完全な消滅を表すものではなく、霊のたたり、すなわち影響をあたえると考えられてきました。人間だけでなく、社会や自然にまで異変を生ぜしめるというのがそれであります。先祖の霊もまたそのような祟り霊の一つとして恐れられ、それゆえ供養を受け、祀られるようになりました。世間で知られている、平将門や菅原道真は代表的な祟り神であります。  
先祖の霊に対する供養をおろそかにする時、その先祖の霊は必ずや何らかの形で祟りをなすであろう、それが先祖崇拝を支える中心的な観念でありました。先祖の墓をたて、一定の時期に祭祀と供養をなすことが子孫たるものの務めとされ、家内安全と幸福を約束する道であるとされるようになった。家の存続と子孫の繁栄は先祖の加護によってこそ初めて可能になると強く信じられるようになりました。  
お盆とはそもそも上記のような、死者に対して鎮魂を怠ると、災いをもたらす、という考え方が強く影響しているのは間違いないように思われます。現代社会において、この一見ばかばかしいといえる祟りへの恐怖であるが、今尚”縁起でもない”とか”罰(ばち)が当たる”といった言葉が存在するように、私たちの心に残っているわけです。  
先祖供養を考える時、少なくとも自分が今存在するのは、先祖達の存在があるからなのは言うまでもありません。そのことを確認し、改めて自分と向き合い、これからの日々の生活を有意義に過ごそう、というのは、誠に大切なことではないでしょうか。お盆の休みに、帰省し家族と過ごす、というのも、日頃忙しくて、確認できない家族の絆をこの時は大切にしようという顕れではないでしょうか。 
 
盆踊り4
 盆踊文化の用語解説

伊勢踊り(いせおどり)/近世初頭に流行した「掛け踊り」の一種。伊勢音頭とは異なる点に注意。中世末以来の伊勢信仰の隆盛にともない、近世初期に伊勢から踊り始められ、全国へ踊り継がれた。  
伊勢音頭(いせおんど)/伊勢地方に唄われる音頭類の総称。伊勢踊りとは異なる。盆踊りとの関係で注目されるのは、近世中期以降に伊勢音頭をベースとする音頭が全国に広く流行し、盆踊り歌に採り入れられたことである。もともと伊勢遷宮(伊勢神宮の定期的工事)の際の木遣り歌の中で「松前音頭」「松阪音頭」などの流行歌が生まれた。 
これが伊勢参りの参拝者や芸人の手で全国に広まり、祝い唄などのほか、盆踊りの「手踊り唄」に採り入れられている。また伊勢参りの客で賑わった「古市」「河崎」などの歓楽街の座敷では、遊女たちに音頭にのせて盛んに踊らせて人気を博し、音頭だけでなく踊りの普及にも一役買った。こうして伊勢音頭は有名な郡上踊りの「川崎音頭」ほか、各地の盆踊りに普及していった。「ヤートコセ ヨイヤナ」の囃子詞が、伊勢音頭の特徴である。また踊りでは扇を用いて踊る踊りや、輪踊りでなく隊形で踊るなどの形態をとることがある。  
一向衆(いっこうしゅう)/中世の日本を席巻した民間念仏信仰集団。盆踊り初期の重要な芸能伝播者と考えられる。一向宗は念仏信仰宗教者の集まりである。「一向」は「ひたすら」とも読み、「ひたすら阿弥陀仏の救済を信じる」という意味。このため法然親鸞以来のいわゆる鎌倉仏教の「専修念仏」(念仏以外の信仰を排する信仰)の一派と考えられがちである。 
しかし、実態は密教・修験道との交流があって山伏なども含まれ、また祈祷や呪術など民間信仰の「雑修・雑行」を業とする人々もおり、けっして「専修」ではなかった。中世一般民衆は、「専修念仏」の宗教思想よりも、念仏や念仏僧のもつ「呪術力」(死霊鎮送など)を求めていた。一遍と同時代の鎌倉時代末期、一向上人といわれた 一向俊聖(1239-1283)による踊り念仏の信仰集団が形成された。しかしこれは歴史上の「一向宗」とは別である。 
歴史上の一向宗は、この一派のほか本願寺、時衆などの他の念仏教団とも同一視されるような広がりを持ち、いわば中世の民間念仏信仰集団のベースを形成するような位置にある。中世末期の「本願寺」と「一向宗」はこれまで同一視されることが多かったが、近年の研究によると両者はイコールではない。これは本願寺の蓮如は、教団構成員が「一向宗」を名乗ることを禁じていることからも明らか。 
しかしこうした本願寺指導層の思惑とは別に、実態として「一向宗」の人々は本願寺教団のベースに深く交わっていたと考えられている。盆踊りとの関係で注目されるのは、この一向宗の中に、山伏や遍歴の芸能者など、念仏芸能の伝搬者が多数含まれており、彼らが全国への盆踊りの普及に大きな役割を果たしたと考えられる点である。
 
踊り「躍り・跳り・をどり」(おどり)/「舞い」と「踊り」の区別は、日本の民間舞踊芸術の基本的な区別。運動としては、「舞い」は平面旋回運動であり、「踊り」は上下運動・跳躍運動を基本とする。「舞い」は手、「踊り」は足の動きを重視する。「舞い」は個人の芸能。神懸かりの巫女が舞うといった姿が原型にある。 
一方「踊り」は集団の芸能であり、多数の参加者が同じ芸態を揃えて踊るものであるという点が違う。踊りは、その激しい上下運動(「だだ」とよばれる)で悪霊をはらったり、未成仏霊の鎮魂を行うといった呪術性を持つ。このような「踊り」が芸能として独立・成熟するのは中世後期。当時の風流踊りの中で「薩摩踊り」などの名称が現れるが、これは「踊り」が独立の芸能として認識され始めたことを示し、こうした芸能の流行・伝搬といった現象も見られるようになる。江戸時代には、踊りは民謡とともに全国を移動し、各地の盆踊りに取り入れられて定着していった。 
踊り念仏(おどりねんぶつ)/学術用語としては、「踊り念仏」と「念仏踊り」は区別される。「踊り念仏」は踊り手自身が鉦を叩き、和讃や歌を歌う芸能。一方「念仏踊り」は、踊り手と歌い手が分かれたもの。「踊り念仏」は念仏、つまり信仰的側面が基本となるもの。一方「念仏踊り」は踊り、すなわち芸能・娯楽的側面を中心とするものという区別もある。 
一般に時期が下るほど芸能・娯楽的側面が強くなると考えられる。歴史上の「踊り念仏」には、空也の踊り念仏/融通念仏の踊り念仏/一向の踊り念仏/一遍の踊り念仏/時衆踊り念仏のようなものがある。 
踊り櫓(おどりやぐら)/盆踊りの輪の中心、または近くに立てられる非常設の櫓。「踊り屋形」「音頭台」とよぶ地域もある。現代の盆踊りでは踊り櫓はつきものだが、盆踊りへの導入の歴史は比較的新しい。踊り櫓のない時代は、音頭取りは輪の中心や外に立ったり、または臼の上などに立って唄うことが多かった。 
音頭取りと踊り手が完全に分離し、囃子方として太鼓・三味線などの楽器が導入された後、踊り櫓が登場する。芸態としても、移動型の門付けをする盆踊りが衰退し、広場などに集まって踊るようになると、踊り子が増大し、遠方まで音頭や囃子を伝達する必要から、踊り櫓が発達することになる。多くの場合、音頭取りや囃子方を二階部分に載せるが、数名の踊り子も乗って踊ることもある。 
掛け踊り 懸け踊り (かけおどり)/村や町などの共同体間で踊りを掛け合う、あるいは踊りを送り継いでいく芸能形式。踊り芸能の古い形態であり、また基本的形式の一つ。「神送り」「移動」という要素と深く関係する。代表的なのは中世に流行した風流踊り。厄神を踊りによって囃したて、村境から送り出す。次の村もこれを受けて村中を踊り廻り、また次の村へと踊り継いだ。踊り継がれた最後は海などに流してしまうこともあるが、掛けられた踊りに返し踊りが掛けられることも多かった。 
戦国時代の京都での公家・武家の盆踊りでも返し踊りが掛けられ、また江戸時代初期に流行した小町踊りでも、掛けられた踊りは返さなければ縁起が悪いものとされた。伊勢踊りも、掛け踊りの要素をもつ。踊り歌の形式からみた踊りの名称。古い盆踊りでは、男女間や音頭と踊り子の間で歌文句の掛け合いで進行する形式があり、このような踊りも別の意味で掛け踊りと呼ぶことがある。男女間の掛け合いを残す代表例に奄美大島の八月踊りがある。また音頭と踊り子の掛け合いは長野県新野盆踊りなどいくつかの土地で見ることができる。
 
門付け(かどつけ)/集落の家々を訪れて芸能等を行うこと。一般には、祝言人(ほかいびと)や万歳(まんざい)などの漂泊の芸能者が、門の前で家を誉めるめでたい文句を唱え、芸を披露し、金銭や米などの報酬を受ける芸能を指す。しかし、村人の子どもや青年が、村内の家々を歴訪し、祝い事を述べて回るタイプの民俗芸能も多く見られる。盆踊りにおいても、古いタイプの盆踊りや、近世に流行した娘達の小町踊にこの形式がみられる。 
沖縄のエイサーでは、「道ジュネー」といわれる。門付けは、共同体内の有力者の家や檀那寺などを回ることが多いが、すべての家を回る、新精霊の出た家だけを回る、新築の家をまわる、共同体内の信仰拠点をまわるなど、様々な巡回方式が組み合わされ、また時代・地域によって変遷が見られる。  
被り物・冠物(かぶりもの)/笠や頭巾、帽子などの頭にかぶるものの総称。被り物は、防寒・防暑などの機能とは別に、宗教的・儀礼的な意味を強く持っていた。現代は改まった場面で脱帽するが、昔の日本では逆に着帽した。盆踊りと「被り物」は密接な関係にある。たとえばもっとも単純な被り物として「てぬぐい」がある。 
これは単に盆踊りの風物詩というだけでなく、本来は「顔を隠す」ためのもの。誰が踊っているのかわからなくすることで、「盆に迎えた霊とともに踊っている」という意味を表現していると考えられている。よりはっきりした形態では「覆面」がある。頭からすっぽりと覆面を被って踊るもので、有名なものでは秋田県西馬音内盆踊りの黒い頭巾「彦三頭巾」、島根県津和野踊りの白い頭巾などがある。 
竹富島のアンガマも本質的には盆踊りと考えられるが、顔半分を覆面し、サングラスをかけるなどの独特の扮装をしている。より風流化したものとしては「笠」がある。おわら風の盆では、深くしなった美しい「鳥追い笠」を被って顔を隠す。花笠音頭の笠のように、笠の上に花などをつける場合もある。この場合の花は、装飾以外に盆の霊の「依り代」としての意味をもつと考えられる。  
神送り(かみおくり)/日本古来の「まつり」の儀礼の一部。神や精霊を迎え・もてなし・送り出す、というのが日本の「まつり」のもっとも根本的な形式である。「神送り」はその最後の段階にあたり、特に丁重に行われることが多い。盆踊りの最後に、迎えた精霊を送り出す行事を残すところがあるが、これは「神送り」の一種である。長野県阿南町新野の新野盆踊りの「踊り神送り」の行事は、その代表例。  
側踊り(がわおどり)/風流踊りの芸態の構成要素。風流踊りでは、輪踊りの中心を「中踊り」と呼ぶのに対し、外側を取り巻く輪踊りを「側踊り」と呼ぶ。中踊りには、風流の「造り物」や「風流傘」などが位置し、これを取り巻いて踊るという芸態が見られた。江戸時代以降、側踊りが中踊りと分離し、盆踊りの輪踊りに独立するケースが多かったと考えられる。現在中踊りと側踊りの両方を残す芸能はきわめて少ない。
 
口説き(くどき)/小歌(小唄)と並ぶ、盆踊り歌の代表的なジャンル。原型はすでに中世の「平曲」にあるとされ、近世の謡曲・浄瑠璃で大きく発展し、盆踊りにも取り入れられた。盆踊りでは、音頭取りが短い節にのせて、7・5ないし7・7の単純な形式を繰り返して、長い物語を歌っていく。踊り子は文句の合間に簡単な囃子詞を返すことが多い。えんえんと歌いつづけることができるため、夜を徹して踊る盆踊りの際に重宝した。歌詞の内容はいわゆる長編叙事詩で、「鈴木主水口説き」「那須与一口説き」などが全国的にポピュラー。 
その物語の多くは、江戸時代の流行芸能である浄瑠璃から移植されたものである。口説きは、小唄より遅れて江戸時代に入ってから発達したものと考えられる。特に江戸後期の江州音頭の登場とともに登場した「口説き祭文」が有名で、現在の河内音頭の源流となった。地域的分布は西日本を中心とし、郡上踊りなど中部地方あたりでも見られる。栃木県の八木節、東京の佃島盆踊りなども口説き形式であるが、源流は関西由来のものと考えられる。  
供養踊り(くようおどり)/盆踊りの別称として「供養踊り」という地方がある。精霊を供養し慰めるという盆踊りの宗教的側面を強調したもの。「供養踊りなので、よその人でも踊ってくれれば精霊が喜ぶ」などといわれる(和歌山県本宮町)。  
下駄(げた)/下駄は、盆踊りに一般的に見られる履き物である。「浴衣と似合う」という服飾上の理由だけでなく、盆踊りと下駄の結びつきにはいくつかの理由が考えられる。音をたてる楽器としての「下駄」の側面がある。下駄の音は、踊りの拍子を整えることができ、手拍子と同じような機能をもつ。同時に、日本の祭りでは「音」を立てることが重要な意味をもっており、そうした儀礼的な側面も考えられよう。音の演出効果もある。 
岐阜県の郡上踊りでは、夜の街に響く下駄の音が重要な演出的効果をになっている。下駄の聖性、宗教性の側面もある。 秋田裕毅「下駄」(法政大学出版会)は、下駄は「聖なる履き物」とし、悪霊除けと考えられる焼き印が刻印された下駄が出土していることや、農村ではつい数10年前まで下駄の聖性が信仰されていたことを示している。また同書は、念仏踊りと下駄に何らかの関係があったとする仮説を提示している。 
一遍聖絵にみる踊り念仏の際に踊り手が下駄を履いていること、各地の盆踊りにその痕跡を残す「ぼろぼろ」とよばれる禅宗系の中世遊行芸能者が下駄を履いていることなどがその理由である。こうした説からは、下駄のもつ宗教的機能(悪霊鎮送など)から盆踊りに採用されたと想像したくなる。しかし、前掲書によると下駄が庶民の履き物として定着するのは江戸時代中期以降、盆踊りへの取り入れは幕末あたりと推測、江戸時代の盆踊りにおける下駄使用については「現時点では否定的」としている。課題を残す問題である。  
小唄/小歌(こうた)/「口説き」と並んで、盆踊りの際に歌われる代表的なジャンル。「小歌」は中世に発達した歌謡であるが、歌詞の内容などはまだ上流階級性を残すものだった。形式も7775のいわゆる近世小唄形式にはかたまらず、自由律を残している。資料としては16世紀初頭の「閑吟集」が代表的なもの。近世初頭に、7775の近世小唄形式が確立。江戸時代を通じて全国的に普及して「小唄」と呼ばれるようになった。江戸時代後期の都々逸(どどいつ)も、同じ流れをくむ。代表的江戸民衆文化の一つであり、盆踊り歌としても大いに発達した。
 
御霊(ごりょう)/政争などで恨みを飲んで死んだ個人の霊を御霊と呼ぶ。災害や疫病などをもたらすとして、平安時代から盛んに恐れられるようになった。御霊の例としては奈良時代の長屋王の例をはじめとするが、御霊信仰が本格化するのは平安遷都以後である。そして最大の御霊と呼ばれるのが、天神様として有名な菅原道真である。平安時代以降、こうした御霊を鎮魂し送り出すための御霊会がしばしば催された。 
御霊信仰拡大の背景としては、前近代の都市人口集積地帯に特有の衛生状態の悪さによる宿命的な疫病流行がある。また平安時代初期は地震や雷などの災害も多く、いずれも御霊の祟りと考えられた。日本史上、個人の死霊を恐れる信仰はこの御霊信仰から本格化する。中世以降大流行した大念仏などの念仏芸能も、戦死者などの死霊の鎮魂を図るものであり、御霊信仰の流れをくむものである。 
御霊会(ごりょうえ)/恨みを飲んで死んだ人の霊である「御霊」を祭る儀礼。平安時代にはじめ民間で始まり、のち国家的行事としても行われた。「神泉苑御霊会」、「今宮御霊会」=「やすらい花」、祇園祭の源流となった「祇園御霊会」などが有名。  
時衆/時宗(じしゅう)/一遍上人(一遍智真:1239−1289)の開創した、鎌倉新仏教の宗派の一つ。宗派としては時宗と呼ばれ、その構成員は自らを時衆と称した。時衆の宗教儀礼である「踊り念仏」は、盆踊りの誕生にきわめて大きな意味を持つ。時衆の特徴は、宗教的儀礼として「踊り念仏」を盛んに催したことと、開祖一遍をはじめ時衆が全国を漂泊回遊(=「遊行」)する遊行聖として布教につとめことである。 
その足跡は陸奥から薩摩まで文字通り全国におよび、結果として踊り念仏が全国の念仏系踊り芸能の母体となったと考えられる。中世の教団の実態は閉鎖的なものではなく、構成員は「一向宗」とも深く交じわるものであったらしい。歴史的には、時衆は先行する融通念仏の念仏信仰をベースとしている。一遍自身「融通念仏勧むる聖」と言われ、融通念仏者であった。 
一遍はたくさんの人を集める集客手法を融通念仏から学んだ。彼が人々に配った「南無阿弥陀仏六十万人決定往生」の札は賦算札(ふさんふだ)と呼ばれるが、この賦算という方式は融通念仏が得意とする集客手法であった(この札は現在でも藤沢遊行寺で遊行上人により配られている)。一遍が取り入れた踊り念仏も、実はすでに融通念仏が芸態としていたものであった。 
しかし、中世中-後期における踊り念仏の全国的普及には、やはり一遍と時衆教団の貢献が大きいと考えられる。一遍の死後、14世紀末から15世紀に全国的に教線を伸ばしたが、16世紀には衰退して本願寺教団などに拠点を奪わることもあった。注目されるのは、中世時衆の拠点が都市的な場所であったことであり、時衆遺跡の存在は中世都市の指標の一つにもなっている。 
たくさんの人への布教を目指す時衆は、必然的に都市的な場所を拠点に選んだ。踊り念仏から盆踊りへの変化を考える上でも、中世都市問題への注目が必要となる。中世の時衆はまた、死者供養・鎮送の役割も担っていた。戦国時代、時衆はしばしば戦場に現れて戦死者の供養を行った。この際に催された大念仏や踊り念仏が、後の盆踊りに発展する契機となったと考えられる。 
江戸時代になると、時衆は幕府により統制される。全国を回国する「遊行上人」と、引退後の「藤沢上人」の両頭体制であった。一遍上人の事績を伝える史料としては、弟子聖戒と絵師円伊による「一遍聖絵」と、二祖他阿真教の「一遍上人絵伝」が有名。史料的価値が高いのは「聖絵」である。平成15年春の研究で、聖絵における一遍はもともと全裸で描かれていたことが判明、徹底した「捨聖」(すてひじり)としての姿が明らかになり、関係者に衝撃を与えた。
 
声明(しょうみょう)/仏教の声楽。節にのせてお経などを唄ういわば男声合唱。声明は、すでに奈良時代に南都(奈良)の諸寺にある程度伝来していた。平安時代になると、天台宗延暦寺の僧円仁(794-864)によって、中国で発達した「うたう念仏」といわれる声明の一種「五会念仏」(ごえねんぶつ)が伝えられ、わが国における声明発展の基礎を築いた。 
日本における声明を大成したのは、良忍(1072-1132)である。良忍は比叡山の下級僧である堂僧(常行三昧堂などの施設で声明に乗せて念仏を勤行する僧)をつとめ、親鸞の遠い先輩にあたる。のちに下山し、当時「聖」(ひじり)たちの一大拠点であった京都大原に入って来迎院を開創。各地の声明をほとんどすべて吸収しわが国の声明を大成したという。 
現在も大原は「魚山(ぎょざん)流」声明の本拠地として有名である。良忍はまた融通念仏の創始者でもある。多くの念仏聖の集まる大原で、声明のような音楽を採り入れた念仏芸能が成長し、後の踊り念仏のベースになっていったものと考えられる。後の六斎念仏などの念仏芸能の念仏歌詞には、「ゆうづうねんぶつ なむあみだぶつ」といった歌詞が含まれ、また曲調には「ユリ」「ソリ」「アタリ」などという声明由来の節回しが残されているという。このように声明は、後の盆踊り音楽はじめ日本民謡の音楽の源流となったと考えられている。 
称名/唱名(しょうみょう)/念仏の一種。「阿弥陀仏」の名前を口に出して唱えること。南無阿弥陀仏。仏教の修行法の一種だが、その簡易さにより庶民の間にも広く普及した。初期の盆踊り(念仏踊り)では、小歌を利用する前はこの「南無阿弥陀仏」を節にのせて唄っていたと考えられ、全国の念仏芸能にその痕跡を見ることができる。  
精霊(しょうろう・しょうりょう)/亡くなった人の魂を指すが、特に1年以内に亡くなった人の魂のことを新精霊(あらじょうろう)と呼び、重視する。お盆の「まつり」の中心的な祭祀対象と考えられ、盆踊りは迎えた新精霊とともに踊るものという思想が広くみられる。ちなみに、ショウリョウトンボ、ショウリョウバッタなどの名称は、お盆に霊(精霊)が虫に乗ってこの世へ戻って来るという伝承からつけられたもの。 
お盆には虫などを殺生することを戒める土地が多い。  
精霊踊り(しょうろうおどり・しょうりょうおどり)/精霊を慰めるための踊り。盆踊りの別名称として用いられる。  
新民謡/大正の末ころに盛んになった「新民謡運動」で生まれた民謡。中山晋平、野口雨情などが中心となった。地方に住む人のためにやさしく唄える「ご当地ソング」風のものをつくったもので、その数は数千曲にのぼる。新民謡の盆踊り盆踊り歌の代表が「東京音頭」。もとは「丸の内音頭」というご当地ソングだった。 
善光寺信仰/長野県にある日本有数の念仏信仰寺院「善光寺」を拠点とする念仏信仰。平安時代後期から盛んになった。特定の宗派を超えて、念仏信仰の一大拠点となっている。善光寺の本殿は日本最大の木造建築物の一つ。 
本尊は有名な善光寺如来で、百済から伝わった日本最古の仏像との伝説を持ち、誰も見たことがない「秘仏」とされる。鎌倉時代には、善光寺信仰集団は善光寺聖と呼ばれ、時衆や一向宗に先行する民間念仏信仰集団の一つであった。一遍が信州佐久・小田切で踊り念仏を始めたのは、これら善光寺聖の影響があったと見られている。善光寺信仰は現代も巨大な影響力を持つ。
 
大念仏(だいねんぶつ)/多くの人を集めて、念仏を合唱する念仏芸能。中世を通じて各地で盛んに催され、全国の民俗行事の母体となった。参加者からの金品の供給である「勧進」を伴う。融通念仏で大念仏を修する場合は「融通大念仏」と言われる。江戸時代に入って衰え、代わりに「念仏踊り」が盛んになった。 
大念仏が催行される時期は必ずしも盆ではなかった。しかし、江戸時代にはお盆の時期に行われる大念仏が、盆踊りとして定着していったケースが多かったと考えられる。大念仏の芸能は全国に残る。静岡県遠州地方の「遠州大念仏」などが有名。 
だだ / 足で大地を激しく踏みしめて霊を鎮める行為をさす。現在でも「地団駄踏む」というが、団駄とはこの「だだ」のことである。修験道などの鎮魂の呪術である「反閉」(へんばい)と関係が深いと考えられる。この足を使う呪術行為が、足を使う芸能である「盆踊り」の芸態の基礎となったと考えられる。  
炭坑節/炭坑での選炭唄をベースに生まれた民謡・盆踊り歌。踊りの振りに、採鉱作業の動作が含まれる。炭坑節はいくつかあるが、有名なのは北九州地域で生まれたもの。近代の新作盆踊り曲の代表的なもので、東京音頭と並んで現代の盆踊りではもっとも踊られる機会が多い。 
原曲は、明治・大正の全国的流行曲「ラッパ節」で、筑豊の炭坑に持ち込まれて「選炭節」となり、盆踊り歌となって三池にも伝えられた。戦後政府の復興政策の一環として始まったNHKラジオ番組「炭坑へ送る夕」で、「北九州炭坑節」が全国にオンエアされ、たちまち日本中に広まった。これに対抗し、北海道夕張炭田を中心とする炭坑の盆踊り歌「北海炭坑節」も登場。有名な「北海音頭」の原型となった。また福島県いわき市では「常磐炭坑節」が生まれるなど、戦後2-3年は炭坑節ブームの感がある。「炭坑節」は、産業と盆踊り歌の関係を考える上で、興味深い対象である。  
東京音頭/近代の新作盆踊り曲の代表的なもの。炭坑節と並んで、現代の盆踊りではもっとも踊られる機会が多いと思われる。西条八十作詞、野口雨情作曲。原曲は「丸の内音頭」であったが、翌年「東京音頭」と名称を変え、全国的に愛されるようになった。  
念仏/浄土信仰で阿弥陀仏の名を唱える行為。口に出して唱える場合は称名念仏、口称念仏と呼ばれる。もともと仏教における「修行」の一つであるが、わが国では密教の陀羅尼などと同じく「呪文」としてひろく受け入れられ、特にその「死霊鎮送機能」への期待が大きかった。初期の盆踊りにおいても、念仏は歌詞に採用されていた。「念仏講」「念仏踊り」など、「念仏」は人々を集団化するはたらきを持ち、結集の中心であった。 
念仏踊り/踊り念仏は踊り手自身が鉦を叩き、和讃や歌を歌う芸能。いっぽう念仏踊りは、踊り手と歌い手が分かれたものと区別される。民間芸能としては、「踊り念仏」よりも「念仏踊り」という名称で残るところが多い。 
風流(ふりゅう)/日本芸能史、盆踊り史のキー概念。「風流」は非常に古い言葉で、時代を追って意味が少しづつずれていく。平安時代は 貴族階級の美意識を表すものであった。中世は「人目を引く趣向」といった意味になり、「1回切りの趣向」が重視された。しかし江戸時代を境に1回性の趣向は失われ、芸態は定着していく。中世における代表的な風流芸能である「風流踊り」は、現在の盆踊りの初期形態の一つである。
 
風流踊り(ふりゅうおどり)/学術用語。15-16世紀に全国で踊られた芸能。芸態は、風流拍子物の造り物を中心の「中踊り」に取り入れ、外側には「側踊り」(がわおどり)と呼ぶ輪踊りを伴った。お盆に踊られるため、事実上の「盆踊り」であったといえる。ただし当時は「盆の躍り」「盆の風流」などと呼ばれており、「風流踊り」「盆踊り」とは呼ばれていなかった。 
16世紀には、風流踊りは京都で盛んに催行される。特に経済力を蓄えて勃興した京の「町衆」が風流踊りの大きな担い手となった。豊後大友氏、阿波三好氏など有力な戦国大名が風流踊りを城下に招聘し、地方への風流踊り伝播に一役買った。風流踊りは安土桃山時代にいよいよ盛んになり、その様子はいくつかの「洛中洛外図」にいきいきと描かれている。豊臣秀吉の追悼となる豊国廟祭礼の際にピークを迎え、江戸時代になると衰えた。  
暮露(ぼろ)/「ぼろぼろ」ともいう。禅宗系の遍歴宗教芸能者。中世に活躍し、全国に大念仏などの芸能を伝え、芸能の指揮者でもあった。近世(江戸時代)に入るとその活動は衰退するが、芸能を伝えた「ぼろ」の記憶は各地の盆踊りなどに残る。「暮露」と書かれた提灯が伝えられているほか、村人が「暮露」に扮して道化の役どころとして登場したりする。  
盆(ぼん)/正月とならぶわが国最大の民俗行事、およびその時期。仏教行事と日本古来の民俗が習合して成立した。かつては旧暦の7月15日を中心に行われたが、明治以降は7月盆や8月盆の地域があらわれ、盆の時期は分散した。沖縄では、現在も旧暦の盆を色濃く残すが、かつては「盆」といわず「七月」(しちぐわち)といった。仏教と盆/仏教では「盂蘭盆」(うらぼん)と呼び、盂蘭盆に行われる行事は「盂蘭盆会」と呼ばれる。正月と盆/正月と盆は多くの対応が見られる。盆の盆踊りに対応する芸能は正月には無く、大きな相違点となっている。 
盆踊り/もっとも日本人に親しまれている民俗芸能の一つ。15世紀ころ始まり、約500年の歴史を持つ。戦後あたりまでは多くの日本人にとって事実上最大の娯楽であった。幕末以来、日本人の海外移住とともに、盆踊りは海外にも大きく広がった。現在でもハワイ、南米、アジアなどで日系移民を中心に楽しまれている。このため、もはや「日本独自の芸能」とは言えない。 
盆踊り唄(ぼんおどりうた)/盆踊りの際に唄われる歌。伝承系の盆踊り歌は、大きく「小唄」と「口説」に分類される。 
やすらい花(やすらいはな)/御霊会の一つ。京都今宮御霊会の別称。「傘」が有名。  
融通念仏(ゆうづうねんぶつ)/良忍を始祖とする念仏信仰。ちなみに「融通念仏宗」は江戸時代になって成立したもので、良忍の始めたものとは別である。融通念仏とは、「うたごえ運動」(五来重)であるという見事な説明がある。融通念仏は、「一人一切人 一切人一人」(ひとりは全員のために、全員は一人のために)というスローガンのもとにつくられた念仏信仰者の共同体。 
名帳に登録されて参加者になると、過去・現在・未来にメンバーの唱えたすべての念仏の功徳を、すべての参加者が得られるというもの。融通念仏では、多数の参加者が一斉に念仏を唄う集会「融通大念仏」をしばしば開催した。このとき念仏にあわせてうたうメロディーに、良忍の得意とした声明などの音楽が導入されたと考えられる。のちに融通念仏からは六斎念仏の「うたう念仏」(居念仏)と「踊る念仏」(立ち念仏)が発展し、「うたう念仏」は盆踊り歌の、「踊る念仏」は踊り念仏や盆踊りの源流となったとする説がある。
 
遊行(ゆぎょう)/全国各地を漂泊する宗教行為。遊行する宗教者を「遊行聖」と呼んだ。一遍ら時衆が代表例だが、中世には高野聖など多くの遊行の宗教者があらわれ、念仏信仰とともに踊りの芸能伝播にも大きな役割を果たした。 
六斎念仏(ろくさいねんぶつ)/融通念仏をもとに展開した念仏芸能。鎌倉時代、民衆の間に普及していた羽目を外した融通大念仏をひきしめるため、道御上人が潔斎をとりいれた六斎念仏を始めた。六斎念仏はのちに遊行聖である「空也僧」の管理下で全国に広まり、融通念仏の芸態をベースとする「うた」や「踊り」の芸能を現在に伝える。 
輪踊り(わおどり)/盆踊りの一般的形態。踊り手が輪をつくってまわりながら踊るもので、ふつう盆踊りというと輪踊りのイメージである。 まわる方向は、時計回りの場合も、反時計回りの場合もある。同じ地域で両方混在しているケース(郡上踊りなど)もあり、方向にさほど重要な意味があるとは思えない。盆踊りの形態としては、よく「行列型」「行進型」と対比して使われる。一方向へ進んで戻ってこない阿波踊りやおわら風の盆は典型的な「行進型」と考えられる。 
しかし、同じように町方の路地で踊られるため「行進型」とされている盆踊りの多くは、道路の端で折り返してまわってくるため、実は路地で踊られる「輪踊り」に過ぎないこともある。輪踊りの中心に意味を見いだす説もある。かつて風流踊りでは、輪踊りの中心に「中踊り」があり、霊の依り代となる笠や造り物が位置した。その後音頭が中心に立つようになっても、臼や笠などの依り代が併置されることが多かった。現在は音頭や囃子の乗る「踊り櫓」が位置することが多く、宗教的意味合いは薄れている。  
   
 
盆踊りと祭屋台 / 折口信夫

盂蘭盆と魂祭り 
盆の月夜はやがて近づく。広小路のそゞろ歩きに、草市のはかない情趣を懐しみはするけれど、秋に先だつ東京の盂蘭盆(ウラボン)には、虫さへ鳴かない。年に1度開くと言はれた地獄の釜の蓋は 一返では済まなくなつた。其に、旧暦が月齢と名を改めてからは、新旧の間を行く在来(アリキタ)りの1月送りの常識暦法が、山家・片在所にも用ゐられるやうになつたので、地獄の釜の番人は、真に送迎に遑なきを嘆じてゐるであらう。 
諺に「盆と節季が一緒に来た」といふ其師走の大祓へに、祭や盆を搗(カ)て合せた無駄話しをして見たい。地獄の釜の休日が、三度あるといふ事は、単に明治・大正の不整頓な社会に放たれた皮肉だと思うてはならぬ。1月・2月・7月・9月・12月の5回に精霊が戻つて来るものと、古くから信じられてゐた。徒然草の四季の段の終りにも、此頃は都でははやらないが、大晦日の晩に、東国では精霊が来るといふ風に見えてゐる。 
五度行うた精霊会が、南北朝の頃には、社会的の勢力を失うて、唯1回の盂蘭盆会に帰趨した痕を示したのであるが、7月の盂蘭盆と12月の魂祭(タマヽツ)りとは、必古の大祓への遺風であると信じる。かういふ事をいふと、実際神仏混淆の形はあるが、諸君が心中に不服を抱かれる前に、一考を煩はしたい問題がある。  
其は民族心理の歴史的根拠を辿つて行つた時に、逢着する事実である。外来の風習を輸入するには、必在来のある傾向を契機としてゐるので、此が欠けてゐる場合には、其風習は中絶すべき宿命を持つてゐるのである。だから力強い無意識的の模倣をする様になつた根柢には、必一種国民の習癖に投合する事実があるのである。  
斉明天皇の3年に、飛鳥寺(アスカテラ)の西に須弥山の形を造つたといふ、純粋の仏式模倣の行事が、次第に平民化・通俗化せられるに従うて、固有の大祓へ思想と復活融合を来したので、半年の間に堆積した穢れや罪を、禊(ミソ)ぎ棄つる二度の大祓への日に、精霊が帰つて来るといふことになつた。死の穢れを忌んだ昔の人にも、当然有縁の精霊は迎へねばならぬとなれば、穢れついでに大祓への日に呼び迎へて、精霊を送り帰した後に、改めて禊ぎをするといふ考へは、自然起るべき事である。兼好の時分、既に珍らしがられた師走の霊祭(タマヽツ)りは、今日に於ては、其面影をも残してゐないのは、然るべき事である。  
古代に於ける人の頭には、をりふしの移り変り目は、守り神の目が弛んで、害物のつけ込むに都合のいゝ時であるとの考へがあつた。それ故、季節の推移する毎に、様々な工夫を以て悪魔を払うた。五節供は即此である。盂蘭盆の魂祭りにも、此意味のある事を忘れてはならぬ。  
魂迎へには燈籠を掲げ、迎へ火を焚く。此はみな、精霊の目につき易からしむる為である。  
幽冥界に対する我祖先の見解は、極めて矛盾を含んだ曖昧なものであつた。大空よりする神も、黄泉(ヨミ)よりする死霊も、幽冥界の所属といふ点では一つで、是を招き寄せるには、必目標を高くせねばならぬと考へてゐたものと見える。 
雨乞ひに火を焚き、正月の15日或は盂蘭盆に柱松を燃し、今は送り火として面影を止めてゐる西京の左右大文字(サイウダイモジ)・船岡の船・愛宕の鳥居火(トリヰビ)も、等しく幽冥界の注視を惹くといふ点に、高く明(アカ)くと二様の工夫を用ゐてゐる訣である。盆に真言宗の寺々で、吹き流しの白旗を喬木の梢に立てゝゐるのは、今日でも屡見るところである。
標山 
此柱松や旗の源流に溯つて行くと、其処にありありと、古(イニシヘ)の大嘗会にひき出された標山(シメヤマ)の姿が見えて来る。天子登極の式には、必北野、荒見川の斎場から標山といふものを内裏まで牽いて来たので、其語原を探つて見れば、神々の天降(アモ)りについて考へ得る処がある。標山とは、神の標(シ)めた山といふ意である。神々が高天原から地上に降つて、占領した根拠地なのである。 
標山には、必松なり杉なり真木(マキ)なりの、一本優れて高い木があつて、其が神の降臨の目標となる訣である。此を形式化したものが、大嘗会に用ゐられる訣で、一先づ天つ神を標山に招き寄せて、其標山のまゝを内裏の祭場まで御連れ申すのである。 
今日の方々の祭りに出るだんじり・だいがく・だし・ほこ・やまなどは、みな標山の系統の飾りもので、神輿とは意味を異にしてゐる。町或は村毎に牽き出す祭りの飾りものが、皆産土(ウブスナ)の社に集るにつけても、今日では途次の行列を人に示すのが第一になつて、鎮守の宮に行くのは、山車(ダシ)や地車(ダンジリ)を見せて、神慮をいさめ申す為だと考へてゐるが、此は意味の変遷をしたもので、固より標山(シメヤマ)の風を伝へたものに相違ない。 
標山系統の練りもの類を通じて考へて見ると、天つ神は決して常住社殿の内に鎮座ましますものではなく、祭りの際には、一旦他所に降臨あつて、其処から御社へ入られるもので、還御の際にも、標山に乗つて再び天降りの庭に還つて、其処から天駆(アマガケ)り給ふのである。神社が神の常在地でない事は勿論、其処へ直ちに天降らせ給ふのでもない。大阪天満の天神祭りに船渡御があつて、御迎へ船が出ることなども、祭りの際に、神は他所に降つて、其処から祭場に臨むといふ暗示を含んでゐるのである。 
祭礼には必宵祭(ヨミヤ)を伴ふ風習は、地上に神の常在しない証拠である。渡御に一旦他所に降臨して、其処から祭場に臨まれる事を示すのである。宵祭(ヨミヤ)まつりの形式が仏家に移ると、盂蘭盆の迎へ火を焚く黄昏となる。高燈籠(タカトウロウ)・切籠燈籠(キリコトウロウ)の吊されるのも、精霊誘致の手段に外ならぬのである。かうして愈本祭りとなる。本祭りが済むと、神は高天原へ還られる。此日は、現在、祭りの上に存せない地方もあるので、其の名称の標準とすべきものはない。
祭礼の練りもの 
祭礼(サイレイ)の練(ネ)りものには、車をつけて牽くものと、肩に載せて舁(カ)くものとの二通りあるが、一般に高く聳やかして、皆神々の注視を惹かうとするが、中には神輿(ミコシ)の形式を採り入れて、さまでに高く築きなすを主眼とせないものもある。地車(ダンジリ)の類は此である。一体、練りものゝ、土台から末まで柱を貫くのが当然なのに、今日往々柱のない高い練りものゝあるのを見る。練り屋台には、土地によつて様々の名称がある。ほこ・やまなどの類は、柱を残してゐる。屋台・地車の類は、柱がない。山車には、柱のあるのも、また無いのもある。 
やまは、言語自身標山(シメヤマ)の後である事を、明らかに示してゐる。ほこは、今日其名称から柱の先に劔戟の類をつけてゐるのもあるが、柱自身の名であるらしい事は、柳田国男先生の言はるゝ通りであらう。東京の山王・神田祭りに出る山車の語原は、練りもの全体の名ではなく、其一部分の飾りから移つたものらしく思はれる。 
木津(大阪南区)のだいがくの柱の天辺(テツペン)につける飾りものも、山車と称へた。また徳島市では、端午の節供に、店頭或は屋上に飾る作りものゝ人形を、だし或はやねこじきと言ふさうである。木津のだいがくのだしも、50年以前のものには、薄に銀月・稲穂に鳴子などの作り物を取り付けてゐたといふ。して見れば、出しものゝ義で、屋外に出して置いて、神を招き寄せるものであつたに相違ない。一体、祭礼に様々の作りものや、人形を拵へる事は、必しも大阪西横堀の専売ではない。 
盂蘭盆や地蔵祭りに畑のなりもので様々な作りものをするのを見ると、神にも精霊にも招き寄せる方便は、一つであつたといふ事が訣る。今日こそ練りもの・作りものに莫大な金をかけてゐるから、さうさう毎年新規に作り直すといふ事は出来ないので、永久的のものを作つてゐるが、古くは一旦祭事に用ゐたものは、焼き棄てるなり、川に流すなりしたものである。話頭が多端に亘る虞れはあるが、正月15日の左義長(トンド)も、燃すのが目的でなく、神を招き降した山を、神上げの後に焼き棄てた、其本末の転倒して来た訣である。 
何故作りものを立てるのかと言ふと、神の寄りますべき依代(ヨリシロ)を、其上に据ゑる必要があるからだ。神の標山には、必神の寄るべき喬木があつて、其喬木には更にある依代(ヨリシロ)の附いてゐるのが必須の条件で、梢に御幣を垂れ、梵天幣(ボンテンヘイ)或は旗を立てたものである。たゞ何がなしに、神の目をさへ惹けばよいといふ訣ではなく、神の肖像ともいふべきものを据ゑる必要があつたであらう。神の姿を偶像に作つて、此を依代(ヨリシロ)として神を招き寄せる様になつたのは、遥に意匠の進んだ後世の事で、古くはもつと直観的・象徴風のもので満足が出来たものである。 
一体、神の依代は、必しも無生物に限らず、人間を立てゝ依代(ヨリシロ)とする事がある。神に近い、清い生活をしてゐると考へられてゐる神子(ミコ)か、さなくば普通の童男・童女を以て神憑(カミヨ)りの役を勤めさせるので、此場合、これをよりましと称へてゐる。 
多くは神意を問ふ場合に立てるので、唯、神を招き寄せる為には、無心の物質を以てしても差支へのない訣である。 
祭礼に人形を作ることは、よりましを兼ねた依代なので、この意味が忘れられると、殆ど神格化せられた人間の像を立てる。神功皇后・武内宿禰・関羽・公時・清正・鎮西八郎などが飾られるのは此為である。
だいがくとひげこと 
さて、日の神の肖像としては、どういふものを立てるか。茲に私は、自分に最因縁深い木津のだいがくについてお話しをしたい。 
京の祇園の鉾を見たものは、形の類似から直ちに、其模倣だと信ずるかも知れぬが、だいがくと同型のものゝ分布してゐる地方の広い点から見ると、決して50年百年以来の模倣とは思はれない。先づ方一間、高さ一間位の木枠(キワク)を縦横に貫いて、緯棒(ヌキボウ)を組み合せ、其枠の真中の、上下に開いた穴に経棒(タテボウ)を立てる。柱の長さは電信柱の2倍はあらう。 
上にはほこと称へて、祇園会のものと同じく、赤地の袋で山形を作つた下に、ひげこと言うて、径(サシワタシ)一丈あまりの車の輪の様な(オホワ)に、数多の竹の輻(ヤ)の放射したものに、天幕を一重或は二重にとりつけ、其陰に祇園巴(ギヲントモヱ)の紋のついた守り袋を垂(サ)げ、更に其下に三尺ほどづゝ間を隔てゝ、10数本の緯棒(ヌキボウ)を通し、赤・緑・紺・黄などゝけばけばしく彩つた無数の提燈を幾段にも懸け連ねる。 
夜に入ると、此に蝋燭を入れて、夜空に華かな曲線を漂し出すと、骨髄まで郷土の匂ひの沁み込んだ里の男女は、心も空に浮れ歩く。其柱の先には、前に述べただしを挿すのである。 
さて此ひげこと称するものに注意を願ひたい。ひげことは髯籠(ヒゲコ)である。今日菓物類の贈答に用ゐる籠の、竹の長く編み余したものが本である。だいがくの簡単なものには、ひげこは轂(コシキ)から八方に幾本となく放射した御祖師花(オソシバナ)(東京のふぢばな)の飾りをつけてゐるものもある。今のだいがくは紙花を棄て、輪をとりつけ、天幕を吊りかけて、名ばかり昔ながらの髯籠と称へて居るのである。 
紀州粉河(コカハ)の祭りに牽き出す山車の柱の先には、偉大な髯籠をとりつける。東京の祭りに担ぎ出す万度燈(マンドウ)は、御祖師花の類を繖状に放射させてゐる。本門寺会式の万度燈には、雪の山の動き出すかとばかり、御祖師花を垂れたものを見る。 
木津の故老たちが、ひげこは日の子の意で、日の神の姿を写したものだと伝へてゐるのは、単に民間語原説として、軽々に看過すべきものではない。其語原の当否はともかくも、語原的説明を仮つて復活した前代生活の記憶には、大きな意味を認めねばならぬ。籠は即、太陽神を象(カタド)り、髯は後光を象徴したものといふ次第なのである。平安朝の貴族社会に用ゐられた髯籠は、容れ物としての外に、既に花籠の意味を持つてゐたらしく思はれる。 
正月の飾りものなる餅花・繭玉はどうかすると、春を待つ装飾と考へられてゐる様であるが、もともと素朴な鄙(ヒナ)の手ぶりが、都会に入つて本意を失うたもので、実は1年間の農村行事を予め祝ふにう木といふものゝ類で、更に古くは、祈年祭(トシゴヒマツリ)風に神を招き降す依代であつたと思はれる。それで先づ、近世では、14日年越しから小正月にかけて飾るのを、本意と見るべきであらう。地方によると、自然木、たとへば柳・欅・榎など、小枝の多い木を用ゐるほかに、竹を裂いて屋根に上げるものもある相である。 
全体、祈年祭を2月に限るものゝ様に考へるのは即神社神道で、農村では、田畑の行事を始める小正月に行うてゐる。京の祇園に削りかけを立てゝ豊作を祈るのも、大晦日(オホツゴモリ)の夜から元朝へかけての神事ではないか。大晦日と、14日年越しと、節分とは、半月内外の遅速はあるが、考へ方によつては、同じ意味の日で、年占(トシウラ)・祈年(トシゴヒ)・左義長(トンド)・道祖神祭(サヘノカミマツリ)・厄落(ヤクオト)しなどは、何の日に行うてもよい訣である。 
竹を裂いて屋根へ上げる風俗は、自然木の枝を以て、髯籠の髯を模したことを暗示してゐる。先に述べた葬式の花籠は招魂の意のもので、同時にそれが魔除けの用意をも込めてゐるものである。神の依代は一転化すれば、神の在処を示す事になる。邪神は其に怖ぢて、寄つて来ないのである。死体をねらふものは沢山ある。虚空から舞ひ下つて掴み去る火車(クワシヤ)・地上に在つて坏土(ハウド)を発く狼を脅す髯籠の用は、日の形代(カタシロ)たる威力を借るといふ信仰に根ざしてゐるのである。 
花籠(ハナカゴ)が一転して、髯が誇張せられた上に、目籠が忘れられると花傘となる。
田楽と盆踊りと 
出雲の国神門郡須佐神社では、8月15日に切明(キリアケ)の神事といふ事を行ふ。其時には長い竿の先に、裂いた竹を放射して、其に御祖師花風の紙花をつけたものを氏子七郷から一つ宛出すさうであるが、其儀式は、竿持ちが中に立つて、花笠を被つた踊り手が其周囲を廻るさうである。此は岩戸神楽と同様、髯籠(ヒゲコ)だけでは不安心だといふので、神を誘(オビ)く為に柱を廻つて踊つて見せるので、諾冉二尊の天の御柱を廻られた話も、或は茲に意味があるのであらう。摂津豊能郡の多田の祭礼にも同様な事が行はれると聞いてゐる。 
長い竿を地に掘り据ゑないで、人が支へるといふのは、神座の移動を便ならしめる為で、神が直ちに神社に降りない証拠である。切明(キリアケ)の神事は、旧幕時代には、盆踊りと混同して、7月の14日に神前で行はれて、名さへ念仏踊りと言はれてゐた。彼の出雲のお国が四条磧(シデウカハラ)で興行した念仏踊りも、或は単に念仏を唱へ、数珠を頸に懸けてゐたからだとばかりは定められまい。それには尚、かの難解な住吉踊りを中に立てゝ見る必要がある。 
住吉踊りは、恐らく祈年祭或は御田植神事(オンダジンジ)に出たものと思はれるが、江戸へは春駒(ハルコマ)・鳥追(トリオ)ひ同様、正月に来たらしい。今日でも、小さな析竹(サキタケ)やら、柳の枝を、田植ゑの時に田に挿す処があることやら、田の中央に竿を立てゝ、四方に万国旗を飾る時の様に縄を引いて、此に小さな紙しでを沢山とりつけて置く処のある事などを考へ合せると、住吉踊りは恐らく、御田植神事に立てた花竿が傘と変じて、其周囲を切明の神事同様の意味で、踊つて廻つたものであらう。此には田楽能が有力な証拠を齎して来る。 
田楽能も、田舞の流(リウ)とする学者の想像を信ずることが出来るならば、田楽法師の持つてゐる傘は、田植の時に立てられた、髯籠の一種なる花竿の観念化でなければならぬ。田楽・住吉踊り、或は念仏踊りなど、其間の隔たりは、実に天地の差である。併しながら、私は更に盆踊りといふ証人を喚び出して、私の考への保証をさせるつもりである。 
盆踊りは、何故音頭取りを中心として、其周囲に大きな輪を描いて廻るのであらうといふ事を考へて来ると、其処に天の御柱廻りの形式の遺存してゐる事を感じる。伊勢の阪の下の踊りは、盆の月夜にも、音頭取りが雨傘を拡げて立つといふ。一寸考へて見ると、不思議な様であるが、此話を最初から、注意深く読んで下さつた諸君は、ある黙会を得られた事と思ふ。即、此は花傘であり、髯籠であり、同時に田楽能の傘である。 
切明(キリアケ)の神事の花竿持ち、盆踊りの音頭とりは、神々のよりましであつたものであらう。我々の推測は、更に百万遍や、幼遊びのなかのなかの小房主にも、又御柱廻りの遺風を見るのである。盆踊りの輪形(ワナリ)に廻るのは、中央に柱のあつた事を暗示するのは勿論であるが、時代によつては、高燈籠なり切籠燈籠なりを立てた事もあつたらしい。 
此等の燈籠が我々の軒端に移つたのも其後の事であらう。踊りに被(カツ)ぐ花笠も、依代の本意を忘れて、めいめいに被いだまゝで、自然導かるべき問題は、切明の神事と盆踊りとの関係である。地方々々によつて、盆踊りに立てる髯籠系統の柱・竿は、夏祭りのものと混同せられてゐる。祭りと盆との期日の接近といふ、唯一の理由を以て判断して了へばそれ迄であるが、初めに述べた大祓(オホハラ)へと盆との関係を根柢に持つてかゝらねば、隈ない理会は得られぬであらう。 
罪と穢れの祓除が、救懸倒苦(クケンタウク)の盂蘭盆と、密接な関係を持つてゐる事は云ふ迄もない。最忌むべき精霊が、神々の守護警戒のゆるむ時を窺うて、此夜来るのは勿論で、偉大なる力を離れては、まんじりともする事の出来ない無力な人間たちは、精進・潔斎、ひたすら、邪神・悪魔のつけ入ることの出来ない様にして居ねばならぬのだ。 
庚申待(カウシンマ)ち・甲子待(カフシマ)ちなどは、恐らくこゝに起原があるのであらう。それでも単に自分の努力一つでは、目に見えぬ邪神のつけ入るのを避ける事のむづかしさを知つた時に、神仏の庭に集つて、神聖な場所で、暫くでも安心な夜を過さうとする。此は一郷(イツキヤウ)精進と称すべきもので、附属条件として、大原の雑魚寝(ザコネ)・筑波の歌会(カヾヒ)などの雑婚の風習が伴つて来る。 
が一方には、厳重に此夜みとのまぐあひを行ふ事を禁じてゐるものもある。庚申待ちの盗孕(タウヨウ)、泉北郡百舌鳥(モズ)村の暮から正月3日へかけての、百舌鳥精進のやうなのが此である。此は禁欲を強(シ)ふる仏道・儒教の影響があるのではないかと思ふ。単純に此点ばかりから見れば、地方の青年会が盆踊りを禁じたのは、祖先に対する一種面白い謀叛である。我々は歌垣或は歌会を以て、盆踊りの直系の祖といふ様な、粗忽な事を云ひたくない。たゞ其間に、遠縁の続きあひを見る事が出来れば沢山である。
精霊の誘致 
度々繰り返して来た様に、神であれ精霊であれ、対象に区別なく同じ依代を用ゐるものとすれば、様々な方向に分化して行つた痕を見る事が出来ねばならぬ筈であるが、面白いのは、彼の盂蘭盆の切籠(キリコ)燈籠である。其名称の起りに就ては様々な説はあるが、切籠はやはり単に切り籠で、籠の最(もつとも)想化せられたものといふべく、其幾何学的の構造は、決して偶然の思ひつきではあるまい。盂蘭盆供燈(クトウ)や目籠の習慣を参酌して見て、其処に始めて其起原の暗示を捉へ得る。 
即、供燈(クトウ)の形式に精霊誘致の古来の信仰を加味したもので、精霊は地獄の釜を出ると其まゝ、目当は此処と定めて、迷はず、障らず、一路直ちに寄り来る次第であつて、唯恐るべきは無縁の精霊であるが、それ将、応用自在な我々の祖先はこの通り魔同様の浮浪者(ウカレモノ)の為に、施餓鬼といふ儀式を準備して置いたものである。 
要するに、切籠の枠は髯籠の目を表し、垂れた紙は、其髯の符号化した物である。切籠(キリコ)・折掛(ヲリカケ)・高燈籠を立てた上に、門火を焚くのは、真に蛇足の感はあるが、地方によつては魂送りの節、三昧まで切籠共々、精霊を誘ひ出して、これを墓前に懸けて戻る風もある。かのお露の乳母が提げて来た牡丹燈籠もこれなのだ。「畦道や切籠燈籠に行き逢ひぬ」といふ古句は、かうした場合を言うたものであらう。 
かういふ風に迎へられた精霊は、所謂畑の鼻曲りなる牛馬の脊に乗つて来るのである。盆が済むと、蓮の葉や青薦(アヲゴモ)に捲いて、川に流す瓜や茄子は、精霊の依代となつたものだから流すので、単に供物であるならば、お撤(サガ)りを孝心深い児孫が御相伴せないではゐない筈である。 
精霊流しの一脈の澪(ミヲ)を伝うて行くと、七夕の篠(サヽ)や、上巳の雛に逢着する。5月の鯉幟も髯籠の転化である。昔京の大原で、正月の門飾りには、竹と竹とに標(シ)め縄(ナハ)をわたして、其に農具を吊り懸けたものだと云ふ。此は七夕は勿論、盂蘭盆にも通じた形式で、地方によつては、仏壇の前に二本の竹をたて、引き渡した麻縄に畑の作物を吊つて居る。 
門松ばかりが春を迎ふる門飾りではなかつた。古くはかの常盤木をも立て栄(ハヤ)した事は証拠がある。標山(シメヤマ)を作つて神を迎へるのに、必しも松ばかりに限らなかつたものと見える。但、門松に添へた梅は贅物で、剥ぎ竹は年占のにう木の本意の忘れられたものといふべきだ。近世の門松は根方に盛り砂をする。盛り砂・立て砂は、祭礼にも葬式にも、貴人の御成りに盛り立てる。実は標山(シメヤマ)の信仰の忘れられた世に残つた記念(カタミ)である。 
かう書いて来ると、神祇・釈教・恋・無常、凡そ1年中の行事は、あらかた一元に帰する様である。鬼の休みの盆から説きおこした話は、鬼の笑ふ来年の正月の事まで蔓がのびた。
 
組踊り以前

親友としての感情が、どうかすれば、先輩といふ敬意を凌ぎがちになつてゐる程睦しい、私の友伊波さんの「組み踊り」の研究に、口状役を勤めろ、勤めようと約束してから、やがて、足かけ3年になる。其間に、大分書き貯めた原稿すら、行き方知れずなる位、長い時の空費と、事の繁さが続いた。今日になつて、書きはじめる為のぷらんを立てゝ見ると、何もかも、他人の説でも受けつぐ様な気分がするばかり、興味の鈍つて了うてゐるのに気がついた。 
こんな無感興・認識未熟の文章が、友の本の情熱に水をさしはすまいか、と案じながら、ほんのぷらんを詞に綴つたと言ふだけの、組踊り成立案を書いて見る。さうせねば時間のない位、もう板行の時が迫つてゐるのを知り乍ら、うかうかしてゐた事は、申し訣もない。 
かうした解説文も、今6年以前なら、別に其仁があつたのである。亡くなつた麦門冬 末吉安恭さんである。大正13年の末、那覇港大桟橋の下に吸ひつけられてゐた、なき骸を発見したとの知らせを聞いて、琉球芸能史を身を以て、実証研究する学者は、これで空に帰したのだ、と長大息した事であつた。此文章が、伊波さんの本の役に立つ傍、亡き南島第一の軟流文学・風俗史の組織者--たるべき--末吉さんの為の回向にもなれば、この上なく嬉しいと思ふ。 
沖縄演劇史の探究の効果は、決して、東の海の波が西に越え、西の浪が東の磯にうち越える、と言つた孤島を出ないものではない。必、日本の歌舞妓芝居や、小唄類の発達過程を示すことになると言ふ自信だけは持つて居る。それでかうした文章も、この友の誂へをしほとして書いたのである。 
南島における演劇関係の書物は、大抵、伊波館長時代の県立図書館の沖縄部屋とも称すべき室に、1週間籠つてゐる間に、そこに蒐められてゐたゞけの物は読んだ。だがもう、其記憶も薄れて来てゐる。それが、首里・那覇の学問の権威の、この本の為に、提供せられた資料の前には、星の光りにも値せぬ事を恥ぢるし、又沖縄人の嫌ふ、他府県人のいらざる世話やきにもなつて、島の彼方で苦笑する人々の、俤の浮ぶのも堪へられぬから、さうした引用や、伊波さんから貰うた、沢山の抜き書きなどは、勝手ながら下積みにさせて頂いて、今の場合、忙しい概念だけを綴る事にした。
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沖縄の村々・島々の祭儀には、現に原始演劇的要素--世界民族一般に窺はれる--を示すものが、まだまだ沢山に残つてゐる。時を定めて来臨する神、及び、その迎へに出る神と信じられてゐるものは、皆巫女の仮装する所である。さうして又、其が巫女のやつし姿だ、とさへ知つてゐる処も、沢山ある。或は既に、巫女自身の資格において、さうした神事を行ふと考へる地方が、却つて普通になつてゐる。 
そして、此等はいまだに、演劇としての立ち場に入つたものとの自覚なしに、行はれてゐる。併し、其中から分化した演劇は、夙くから意識せられ、今も行はれてゐる。此が、都では「組み踊り」、地方(ムラ)では「村踊り」と言はれてゐる、二種のものである。 
玉城(タマグスク)朝薫の天才が、組踊りの芸能を、享保年中になつて、創造したとは信じられない。又、先進日本の能・歌舞妓が、島の宮廷の式楽に飜作せられたものとも思はれない。さうした「忽然」を考へる事の、不都合な幾多の例蹤を、私は見てゐる。猿楽能の、元曲から案出せられたものとする説などが、其である。縷説は避けるであらう。が尠くとも、長い種族生活過程の顧みを閑却したもの、と言ふことは出来る。 
首里宮廷を考へるのに、京都の禁裡を思ひ浮べてはならない。又、江戸柳営を頭に置いても、比論は成り立ち難い。まづ大々名の家庭に、将軍家の生活気分を加味した位の考へ方が、ほんとうだらうと思ふ。其ほど、気易い処があつたのを思はねば、民間風と、宮廷風との交渉ぐあひが、察せられない。 
離宮に作つた瓢を、那覇の市に売り出して、王様瓢(ワウガナシチブル)の名を伝へた王もある。城内に大穴を穿つて、そこに優人を喚んで、遊楽に耽つた城人(グスクンチユ)なる、大奥の女中めいたものもあつた。かう言つた宮廷と、里方との交渉は、首里の芸能と、地方(ムラ)の民俗芸術との間に、相互作用を容易ならしめたのである。 
宮廷において、王の為に、楽を奏し技を行ふ事を、貴族・士分の副職分といふ様に考へ、男の芸能に精出して、上流人の面目とする風をなさしめた。此が、其等貴族士分の郷貫にまで及んで、遂に所謂男逸女労の外貌を、全く整へさせる方に導いたのである。 
かうした人々の芸能と関聯してゐるものは、地方の間切々々特有の曲節・舞踊を伴うた詞章であつた。其が、次第に宮廷に這入つて行つたのである。此が所謂「ふし」なるものゝ、正式な意義である。地方の国邑名の冠するふしに伴ふ踊りが、其間切や、村の雑多な舞踊の中から、精選せられたものなることも考へられる。 
今の琉歌の発生は、速断は出来ぬが、伊波さんの研究によると、「おもろ双紙」にも、その俤はある様である。巫女の呪詞に伴ふ鎮舞(アソビ)から出て、小曲の舞踊の出来る径路は知れる。長章・小曲を踊る行事が、次第に祝言の座の余興となつて来る。この小曲が、地方の巫女の口から、相聞唱和の歌となつて出て来る。 
恩納節その他が、「恩納なびい」の発唱によるものとする説も、概念的には、琉歌成生・展開の暗示となる。古いおもろの類のあそびと、新しいふしの踊りとの区別は、踊りての上にもあつた。女性の舞踊から出たふしは、男を原則とする様になつた。女性の踊りは其伝襲に重きを置く物にのみ残つた。又男舞ひを模倣する意義に於て、遊女の間にも行はれた。 
おもろは後代程、まづ国王の果報を、次に村邑の幸福を祈る様になつてゐる。其表現法は、此あそびの首里宮廷に対する誓約を兼ねて、奏せられたものなる事を示す。此が短章となつて、恋愛味を離れて来ると、やはり国王の為の賀寿に傾くのである。さうでなくとも、恋愛詞章なら、恋愛詞章なりに、其効果は、国王を祝福すると考へる信仰があつた。 
国邑の古い神事歌以来のものだからである。かう言ふ祝賀の趣きに専らになつてゐるふし踊りに、大きな影響を与へたものは、千秋万歳を祝する芸能の渡来である。日本(ヤマト)の為政者や、記録家の知らぬ間に、幾度か、七島の海中(トナカ)の波を凌いで来た、下級宗教家の業蹟が、茲に見えるのである。 
念仏宗の地盤の、既に出来てゐた上に、袋中(タイチユウ)の渡海があつたものと見てよい。浄土宗の布教は、実に行き届いてゐた。地理的に階級的に、忘れられた未信者のありかを、追求して止まなかつた。此宗旨が純化するに従うて、他派の例を逐うて、奴隷階級の布教者が出来た。これが、浄土の念仏(ギヨウギヨク)聖である。時には、新興の禅宗の組織を移してゐた部分では、行者(アンジヤ)と言うたらしい。 
此念仏聖なる布教家も、日本古来の巡遊伝教者のとつた方法を守つてゐた。其は布教と同格に、祝福芸能を行うた事である。唯念仏になると、祝福の外に、悪霊退散を迫る舞踏を持つ様になつてゐた。だから、念仏聖とは謂へ、千秋万歳としての歌詠も、舞踏も演じるのだ。又精霊の物語や、踊り神中心の、神送りの乱舞をも行うた。浄土其他の念仏に伴ふ、成仏得道の過去生譚をも語つた。其に連れて、いつか人形を舞はす事さへ、招来した様である。 
更にくづれては、やまとの京のあはれな草子物語の筋を、語つた事もあるらしい。其上、現世の為の訓喩めいた文句さへ、唱へる様になつた。沖縄の念仏者伝ふる所の歌謡は、宗教家のものらしくないものも、だから残つてゐるのである。 
此等の語つた浄土念仏の説経語りは、やまとの神道説経を、南島までも搬んだ。釜神の話(組踊りでは、花売の縁)などが、其である。後には、継子の苦難を題材とする、京太郎(チヨンダラ)を多く演じた為に、演者自身の祖先が、やまとの京から流離した、京の小太郎だとさへ考へられた。春は、万歳・京太郎を以て、島中を祝福して廻つた。今こそ、行者村は特殊待遇を享けてゐるが、盛んに渡つて来た当時は、必、村邑の豪家に、喜び迎へられたものに相違ない。 
今日行はれる若衆踊りを見ると、凡そは万歳系統のものである。だから、一行中の若衆の演芸種目は、略、察せられる。踊るものは、主として若衆であつたのであらう。江戸期に近づくに連れて、さうした形を整へる事になつて来たもの、と思うてよい様だ。 
念仏者の行ふすべての行儀・芸能を籠めて、念仏(ギヨウギヨク)と称へ、盂蘭盆会から初つて、初春の祝言にまで、用ゐられる様になつたのを、多少、劇的の進行を備へたものであつた。貴人・士分の者まで行ふ様になつた。此が、村をどりの古形なる、にせ念仏である。 
似せと解すれば、念仏もどきの芸能といふ事になるが、私は、伊波さんの賛成を得て、若衆(ニセ)念仏だと考へて居る。これは、朝薫出現の前にも言うた語であらう。組踊りと念仏との関係を、更に内容に見る。万歳敵討の主人公が、念仏者自身なのは、意義がある。現当二世の親の慈愛や、孝養を説く二童敵討その他の仇討物や、狂女物・継母物は皆、今も念仏者の謡ふ唱文の主題だ。かうした物の原型の、村踊りを統一したのが、更に分化して、神能・蔓・修羅・祝言などに、各近づいてゐたのを、能楽が現れて、意識上の事としたのであると思ふ。
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玉城の現れてから後、その競争者及び、追随者の業蹟に到るまでの観察は、他の方々の研究に任せる。其代り、方々のお残しになつてゐる筈の、琉球演劇--歌劇と言ふ方がふさはしい--の発生を髣髴せしめてゐる村をどりを、考へて見るであらう。 
沖縄教育の先輩、名護小学校長島袋源一郎さんが、まだ県視学であつた当時、鉄道開通祝ひの村をどりが、新停車場のある、そちこちの村で行はれた。私は誘はれて、其一つの祝賀場に宛てられた大嶺村の小学校の、焦げつく様な校庭で、朝から八つさがりまで、やまとの旅人として、相伴の見物をした。さうして、今言ふ村をどりには、段々芸尽しといふやうな形で、ある時代の村人の知つた限りの芸が、持ちこまれて、複雑になつて来てゐる事を感じた。 
だから古くは、尠くとも、今よりはもつと簡単な形で、行はれてゐたもの、と思ふ外はなかつたのである。尤、この時は、村をどり以外に、相撲その他の興行もあつたが、此等臨時の添へ物をとり除けても、尚、今の村をどりは、をどり上手を、個人的に使ひ過ぎてゐるのではないか、と思うたのである。 
私の村をどりについての知識は、わづか一回のこの経験が、比嘉春潮さん・島袋源七さんなどの、生きた愛に充ちた説明によつて、生かされて来てゐるのである。あの日は幸福であつた。東島尻の広々とした田の面を、鉦・太鼓で囃し乍ら、一行が練り込んで来るはじめから、なごりを惜しませつゝ、還つて行く行列まで、見てゐたのであつた。 
この行事は、実は7月のわらびみち(童満?)のおがん(拝み>お願)に行ふ事であつた。この斎日の本義は、村の若者を作る成年戒の日に、兼ねて二度目の農作を、祝福するものであつたらしいのである。先島諸島の例を見ると、成年授戒の日と農村祝福とは、おなじ日の同じ行事の中に含まれてゐる。八重山離島をはじめとして、其風俗を移した石垣島の二三个村の「あかまた・くろまた(又、あをまた)」の所作を見ても知れる。 
遠来の神の居る間に、新しく神役--寧、神に扮(ナ)る--を勤める様になつた未受戒の成年に戒を授けて、童(ワラベ)の境涯から脱せしめる神秘を、行うて置くのであつた。この遠来神の行列は、長者(チヤウジヤ)の大主(ウフシユウ)と言ふ、仮装した人を先に立てゝ、その長男と伝へられてゐる親雲上(ペイチン)--実は、その地の豪族を示すものらしい--その他、をどりの人衆が、夫々わり宛てられた役目の服装をした、風流(フリウ)姿で従ふのである。 
此は、全くやまと本土にも、室町・戦国を頂上として、前後に永く行はれてゐて、「風流」と呼ばれた仮装行列であつた。唯役々が皆、現代人ではないが、役者は人間だ、といふ考へを持つてゐる。だが此は、八重山の盆祭りに出て来るあんがまあ群行の伝承を参考して見ると、他界の霊物だといふ意識の落ちたまでだ、といふ事が明らかになる。 
長者の大主、設けの座に直ると、改めて名のり--炉辺叢書「山原の土俗」参照--をして、祝福せられた生活を感謝し、更に多くの一行が、皆自分の子孫なることの果報を述べる。此は、遠来の神が、土地農作を祝福し、又一行の伴神の、かくの如く数多きを喜び誇る言ひ立ての、合理的変化である。かういふ変化が起ると、当然遠来の神が、別に登場せねばならぬ。 
中頭・国頭の村々では、儀来(ニライ)の大主(ウフヌシ)なる神が、次に現れる事になつてゐる処も、多いやうである。まづ長者の大主の長子親雲上が立つて、扇をあげて招くと、神の国の穀物の種を携へた、儀来の大主が出て、村・家・作物の祝言を述べて去る。 
其に次いで、定式として行はれるものは、狂言である。此は、其村々特有の小喜劇である。その後は、をどりになるので、年と場合とによつて、いろいろの変更はあるが、狂言だけは、正式に固有の狂言を守つてゐる。ひつくるめて言ふと、人事の滑稽な、争闘後の解決を意味するものから、分化したものらしい。 
此は必しも、能狂言の影響とは見られない。狂言としては、後には、歌舞妓の「物まね狂言づくし」があり、殆並行したものと思はれるものに、壬生狂言がある。南島へも渡つた念仏の、ある分派の芸能にも、狂言はあつたのである。其後が踊りになると、変遷甚しく、段々、曲目に変化があり、都会風や他村のものを模したのが、次第に殖えて行つて、芸づくしの姿をとる事になつたのである。 
儀来河内(ニライカナイ)・おぼつかぐら・なるこてるこ・まやなど称する、遥かな国から来臨する神及び伴神は、青年の扮する所であつた。が、次第に、その神に常仕する村の巫女が、神意を聴き、時としては神となると考へる様な、信仰形式の変化も、琉球国の各地の諸事由来記の伝承以前に、既に、行はれはじめた。だから、男が稀に聖役に与る事があつても、神に扮する者は、巫女となり替つた。 
琉球神道は、早く既に神を失うて、神に仕へる者を、神と仰ぐ様になつてゐたのである。かう言ふ風になると、どうしても、村々の若衆の男神(ヰキイガミ)としての神業(カミワザ)の、全部芸能に傾いて来るのは、当然である。村をどりを以て、巫女のみが神幸をまねび、神あそびを行ふ以前から、伝つた神事芸能だと見るのは、此為である。 
この村をどりが、地方的に特殊の発達をする中に、ある間切・ある村のものが、づぬけて芸能価値を発揮する様になつて来る。其には、沖縄の伝承にもある様に、地方的の天才の出現が、あつたに違ひない。さうでなくとも、さうした飛躍者を想像させるほど、ある地方のふし・踊り・狂言が、抜け駈けの進歩をする。 
首里宮廷で、巫女の神遊を定期にくり返すのは、極めて古い事である。だが、男神なる若衆の仮装群行が、王宮に練り入つて、雑技を演ずる風も、古くから盂蘭盆に接する、満月の夜には行はれてゐた。尠くとも、尚王家中山国建設以前からあつた、民間伝承に違ひない。此は、盆祭りと習合せられた形で、其前は、満月の夜を、三秋の中に択んだのであらう。宮廷の仲秋宴・重陽宴なども、盆の練道(レンダウ)に似て、而も齢高い聖者の登場を、第一としてゐる。 
かうして見ると、元からあつた村をどりの、念仏踊りに惹き込まれて行つた形が窺はれる。同時に、村踊りの、組踊りとなつた径路の見当もつく訣だ。狂言は、村の下世話の写実だから、其まゝ移して、宮廷には演じなかつたらう。それには、散文の口語を以て唱和するものを、正楽と認める事が、出来なかつた為もあらう。 
律語脈の古語で、科白を綴つた、狂言の高踏的になつたものが、現れて来ねばならぬ。即、由来記・家譜等に残る誇るべき地方伝説に、人情味を加へた物が、出来た訣である。而も、神遊(シンイウ)から出た芸能である為に、顔面表情は固より、しぐさ・ふりごとを採用するには、困難な事情が考へられる。宮廷や、按司一族との交渉が尠ければ、狂言の方の要素が、濃くなつたらう。さうすると、科白に伴ふ動作表情を主とする劇が、出来るはずであつた。だが、さうは進まないで、歌謡と不即不離の、舞踊劇の方に趨いた。 
演劇的組織の基本になるものは、有力な登場者の名のりにはじまつて、更に、あど役との対話に移り、所作あつて後、退場といふ形式である。此だけが備つて居れば、いくらでも複雑化して、劇の姿を構成して行く事が出来るのである。日本の芸能は、大なり小なり、此形だけは保つてゐる。沖縄でいふと、長者の大主・親雲上その他の控へた座へ、儀来の大主の臨んで、科白所作あつて去る形である。 
巫女の託遊したあそびばかりからは、組踊りの成立の過程は思はれない。村踊りが、組踊りの基礎をなしてゐると考へる。組踊りは、以前狂言と謂はれた事もある。此は、村踊りから、発生したものなる事を示す。だから、村踊りから出て、宮廷舞踊として行はれたふしが、実は、村をどりの間に発達した如く、其複合組織せられたものが、組踊りなのである。 
飜つて、おもろの託遊について考へても、歴史上の事実らしいものを感じさせる内容のあるものには、次第に、多少の表出らしいものを、加へて来ねばならぬ素地がある。併し、さうした方向に趣かずに、堅く無表出を守つてゐたのが、託遊であらう。此が多少、詞章の意識を持つと、舞踊劇としての道が開ける。おもろ--あそびを伴ふ--に次ぐものは、概念的には--沖縄の用例から見れば、複雑な考へはなり立たうが--こいなとあやごとに分れるだらう。一つは、祝意をこめた詞章と其群舞、一つは叙事詩によつて、--信仰的の意義を忘れた--多少ふりを交へ、又其を忘れた歌詞である。 
あやごは、今は宮古島にのみ栄えて、外には衰へたが、此は、小曲の琉歌の抒情気分が、古風な叙事詩を征服した為である。あやごは、叙事を本位としても、無表情である。琉歌は、其成立の歴史を思ふ時、直に其作者の感激が、胸に生きて来る。おもろからあやごに展開しなかつた間切・村には、伝説を背景としたふし(風)が、古人の情念を伝へるものと信じて、歌舞せられた。此ふしが次第に、琉歌形式に統一せられて行つた。あやご風に傾けば、物語歌の伴奏とも言ふべき曲節を表現する、ふりごととなつたらうが、琉歌を原則とする様になつたので、抒情的な気分を加へて行つたのである。
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村をどりの古い形式のものと、間切・村のふしとの関係を説いたが、さうした儀礼に行はれた舞踊が、其まゝ独自の発達を遂げたものであらうか。私は用意しておいた、念仏及び能・歌舞妓の影響を、説く機会に達した。 
舞踊としての鑑賞や、細部の研究は、外にふさはしい方々がある。南島本来の式と、やまとのまひの要素とが混淆してゐる事だけは、私にも言へると思ふ。沖縄のをどりと言ふ語は、やまと伝来の舞踏を意味したのが、語原らしい。従つて其踊りの、やまとに於ける評価以上に尊重して、本格の芸と見たのであらう。くみの踊りが、その後渡来すると、やはり珍重して、組踊りを最高の踊りとした様なものである。 
琉球の踊りは、概して、やまとの緩かな舞ひを、南島流の早間に踊るものである。等しく踊りと言うても、間を緩かにするものが上品だ、と考へられたらしく、さうしたものが、次第に殖えて行つたのであらう。あそびは神事、をどりは芸事と言つた区劃が、出来たのらしい。だが、此はやまとの検校流の奏楽法や、楽器などゝ共に、伝へた後のものが多からう。其以外、古く這入つた千秋万歳のことほぎ系統に属するものが、極めて多く残つてゐる。其等は皆やまとの万歳に見られぬ程の早さながら、日本の舞ひぶりが、其基調になつてゐる事は、其服装以上に、明らかである。 
念仏聖の念仏踊りや、万歳舞ひを見た事は、島人の踊りの上の、非常な擾乱であつた。茲に琉球の踊りは、在来の託遊式のあそびに近く、而もある観念と、感情とを備へたものらしくなつた。鹿児島との交渉が密になり、江戸へ朝聘使を送る様になつて、やまと音楽と共に、新しく亦、舞ひや踊りが這入つて来た。さうして、第二期の整理が行はれたものと見てよい。 
沖縄の踊りを通じて見られるものは、此三種の融合し、或は混淆したものである。が、其特色とする所は、手の使ひ方・上体の動し方・足の踏み方・踊りの間のきまり方などに、現れ過ぎる程現れてゐる。此が固有のふりである。 
支那舞踊の影響は、ありさうには思はれない。同様に、能や、歌舞妓の所作事などゝの交渉も、予断せられてゐるほどにはない、と見てよからう。 
組踊りでは、出来るだけ優雅にといふ用意を、次第に加へて来た為に、劇舞踊としての卑しさは、尠い様である。かうして、ふし踊り以来の品格を崩すまいとしてゐるのである。だから、能と所作事・景事との間にある程の違ひはない、と言うてよい。此も亦、組踊り成立の当初から、かうではなかつたと思ふ。
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組踊りの語原として信じられるのは、かうした劇舞踊を一組として勘定して、譬へば「五組」「三組」など言ふところから、演奏番組の聯想を持たれてゐる。能楽の上の番組を、模倣したと考へることである。だが其は、後の合理解で、必、語原は別だと思ふ。 
端的に言ふと、組唄の踊りと言ふ事だと考へてゐる。室町以後江戸の初期へかけて、中世以前、上流の専有であつた組歌が、民間に盛んに行はれる様になり、古い琴歌(キンカ)は、いつしか、新しい組唄を生じ、三味線にも組唄がかけられてゐた。此一続きの組唄の謡はれてゐる間に、其気分表現を主とする踊りが、はやり出したのである。 
組唄が、古来箏曲家の正式、長唄は、検校家の本格芸と考へられる様になつて、江戸に入る。三味線も、利用繁くなる程、格が低く見られて行つたが、渡来の始めは、検校家の琴の脇として、品高く用ゐられた、はいからな異国楽器であつた。異国楽譜に、名高い民間の歌謡を合せる試みは、平安初期から、盛んに行はれた事で、楽器の音色と、曲譜とから来る、耳馴れた唄の情調の変化を嬉しむ心は、今も変りはない。だから三味線には、琴の神楽風を行く古典的なのと違つて、催馬楽式に、民間の小唄を合せた。そして、琴の組唄組織を写して、小唄組を作つたのである。 
茲に一つ、考へねばならぬ事は、江戸期に入つては、三味線の演奏法が、忽複雑多趣になつたが、始めは、短章か、長くば、変化のない叙事的な物の外、弾奏する事は出来なかつたのであらう。其は恐らく、琉球渡来説の立ち場からすれば、琉歌の弾き方と共に、伝へられたものと見られる。 
さすれば、三味の本式の演奏は、投げ節その他の、短章の小唄をかけることである。だから、当然琴同様、組唄組織をとる形式が、考へられて来る筈である。来歴を重んじる芸道者流において、三味の組唄に、まづ琉球組--組唄の義--を据ゑたのは、琉球唄の調子に則つたものゝ義で、早く這入つた琉球唄の行はれなくなつて、其替へ唄が行はれ、其が固定したものを元唄ときめたのである。さすれば、此組に、最、三味線の古調を存してゐたもの、と思うてさしつかへはなからう。 
かうして、新来の楽器に、小唄の一群をうつして弾く組唄組織が、逆に、元来た琉球に戻ることになつた。さうすると、従来唯の替へ唄として謡うたふしふしの後作詞章も、此を列ねて謡ひ弾く処に、新しい芸能的興味のある事が、発見せられたであらう。 
室町の頃から盛んになつたのは、小唄・雑芸類が、著しく民俗芸術に近づいて来たことである。さうして、第一に現れたその結果は、小唄踊りである。はじめ、同形異詞の宗教唄を、続けて謡うたのである。其が次第に、多少形式に変化のある詞章をもまじへた唄を組んで、謡ひ返す様になり、小唄踊りの文句は、組唄としての自由さを持つて来た。 
小唄踊りは、はじめは信仰的なものゝ多かつたのが、其を段々芸能家がとりこんで、ふりごと・物まね・あてぶりの踊りを演ずる様になつた。念仏踊りの流だ、といはれる出雲のお国が、芸能史上、大きな領分を劃したのは、此小唄踊りを、念仏踊りの新しい芸として、挿んだ為である。 
その上、当時男性的な、華美風流生活の代表者と見られた、かぶき者の物まねを加へた新趣向が、世間の心に叶ひ、模倣者を多く出して、女歌舞妓が、根を固める事になつたのである。だが、かぶきをどりも畢竟、小唄踊りに連鎖的脚色を加へたものである。歌舞妓草子として伝へられた数種の絵巻も、皆小唄踊りを写してゐる。だから、7月盆の時期に、都邑の少女たちが行うた、団体的謹慎(モノイミ)の間の行事たる群行・群舞或は、其間の聖地礼拝などから出た民俗が、大変な結果を生んだと言へよう。 
此小唄踊り、即組唄踊りが、琉球の芸能に亦、反響せずに居なかつたであらう。 
私は、組踊りの発生が、もつと古いと信じてゐる。尠くとも、歌舞妓がまだ踊りであつて、演劇でなかつた時代にあると思ふ。唯必しも、組踊りなる語の記録が、江戸最初以前にあるかを問題にしない。五組の踊りが作られた時代には、もう組唄から脱して、早歌(サウガ)・連事(レンジ)といふ形をとつて了うてゐた。謡曲の形に近づいてゐるのである。だが、対話を主としてゐる点は、叙事の多い謡曲との間の、大きな溝である。今考へる組踊りよりも、古い形があつた。 
其は、多く独白式に小唄を列ねて、謡ひ踊るものであつたと思ふ。さうした姿でとりこまれた、楽器の伴ふ歌謡の気分を、表現する組唄(クミ)の踊りが、新しく渡来した。此は、お国の例もあるから、後れて渡海した、念仏者の業蹟ではないかと思ふ。又、薩摩・堺へ交易に来た、島人の見覚えから移した事も、考へられてゐるのである。 
組唄(クミ)の踊りといふ、優雅な音覚を持つた語を以て、此小唄踊りを示す習はしが出来て来ても、やはり此に似た組織を持つた、にせ念仏なる名は、行はれて居たのであらう。念仏の語が、次第に卑賤な聯想を伴ふ様になつて、漸く組踊りの名が、表に出て来たものと思ふ。でも、其間に、組踊りのくみなる、抒情的な組唄は、次第に律語式な会話に代つて居つたのである。 
組踊りの詞章は、南島の知識伊波さんにすら、説き難い若干の古語を含んでゐる様である。それ等の語の中には、創作当時、意義は知られてゐても、既に廃語となりかけてゐるものや、或は既に死語になつた雅言をすら、間々交へて居たのではないかと思ふ。此を伊波さんは、おもろ双紙から採つたものと言うてゐる。其もあるに違ひない。 
が其外に、前期組踊り詞章の中の、固定した語句などもありさうだ。此は習慣的伝襲や、見物の知識を利用して、劇的効果を収める方便に用ゐられた為と考へてもよい。其ほど、今残つてゐる組踊りは、言語の品位といふ点において、注意を潜めてゐる様子が見える。 
伊波さんは、組踊りに対して、羽(ハ)踊りのある事を説かれた。「くみ」と「は」との対照は、やまと移しである。端唄踊りが、正式優雅な組踊りの「くづれ」として、はをどりと言はれたらしい。さすれば、組唄踊りの説の旁証にはなる。 
渾沌時代に、劇的組織を与へたものは、序開きの神人問答の段である。之に写実味を加へ、会話の要素を交へたのは、狂言である。而も其初めから、組唄に趣くべき詞章及び、その舞ひぶりを供給したのは、ふしと称する地方的の歌舞である。其上、古くからも新しくも、組踊り展開の基礎となつて、変化させて来たのは、念仏者の万歳舞ひや、念仏踊り、ひよつとすれば、其等の人々が持つて来たかも知れない、小唄組の踊りである。之を整理したのは、朝薫を代表とする芸術家であつた。能や歌舞妓が、統一方法としては働いてゐる、とだけは言へる。
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組踊りの土台になる物は、尠くとも江戸最初には、既にあつたと見てよからう。江戸中期の、発達した歌舞妓の模倣とは言へない。謡曲は、玉城朝薫等の詞章を作る典型とはなつたらうが、其から脱化したものではない。「執心鐘入」其他、其飜案ととれるものが多い。 
が、能楽渡来以前、既に念仏者等によつて、種々の物語は伝へられて居て、根生ひの伝説らしくなつて居た事が考へられる。又、やまとの演劇の筋に酷似した、固有の狂言や、説話のあるのを、誇りに感じた事もあらう。其場合、改作・新作の脚色は、どうしても、之にひきつけられて行つた、と言ふ事があるに違ひない。 
要するに、能の影響は、組踊りの純化に役立つた位で、能を移したものではない。謡曲は、組踊り詞章の整頓欲を刺戟したが、演出法の差異が、此を模倣しきる事の出来ない事を示した。歌舞妓芝居との関係は、その若衆歌舞妓時代の影響らしいものが感ぜられるが、此とても、女形の存在や、紫鉢巻の起す幻想に過ぎない様に思ふ。 
歌舞妓との交渉の深い点は、既に述べた通り、歌舞妓踊り時代のものに在る。唯、小唄念仏の踊りが、固定した歌舞妓と認められた後に、渡つたものとは考へられぬのである。其前の渾沌時代に、念仏者か、島人かの手によつて、組唄(クミ)の踊りとして移されたものだ、と私は考へるのである。
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役者に女形のあることも、念仏者の踊りを習得した、士分以上の人々が、踊つた為であつた。女のあそびは、祭時には勿論、饗宴にも、巫女としての資格で行ふのであつた。其以外、享楽に利用する事は出来ない。旁、一種上覧の為の余興なる組踊りを踊るのは、男に限る事になつたのだらう。 
けれども、沖縄の村をどりの狂言の発端は、神・巫女の代表者として択ばれ、身に一糸をも纏はぬ若い男女の擁き踊りにあるらしい。さうした村の神事には、清い男女が出ても、芸能化した後は、女の役も、男がせねばならなかつた。さうして性的演出を、次第に恋愛の方に移して行つたものと見える。 
其よりも根本的に、村をどりは男のみの行事だから、狂言に出る女も、女形を用ゐる事になつてゐた所以を、最初に考へねばならぬ。今の儀保松男の様な美しい女形は、内地にも、東西の先輩のおやまが、皆老境に入つた今日、ちよつと見あたらない。此人を最後の光りにして、琉球劇の女形もなくなつて行くのであらう。いや、組踊り自身が、玉城重朝や、此人を伴うて、村をどりの発祥地たる儀来河内へ還つて了ふ、といふ心細さが、早、目睫の間に迫つてゐる。
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歌舞妓芝居の型の記録が要望せられてから、30年にもなる。さうして此頃、其が更めて、情熱を以て唱導せられる様になつた。太田朝敷さんの「鐘入の型」などが、夙く用意せられてゐたのを見て、茲には更に、末期の迫つた演劇があつたのだ、とくり返し感じた。かうした型の記録が、現在の組踊り全部に亘つて、もつと細密に行はれねばならぬはずだと思ふ。此が無為に苦しむ島の有識にとつて、一つの生きがひになるかも知れない。 
伊波さんの此本は、かうした組踊りの衰運を輓(ひ)き戻さう、といふ情熱から書かれたものである。だが、朝薫のやまと・うちなの古典詞章の幻を、現実の芸能の上に活して見ようとして、それの成功した、琉球劇の花の時代を、今一度、つくづくと顧みて、なごり惜しみをする事になりさうな気がする。寂しいけれども、為方がない。  
 
信仰と民謡
(富山の民謡)

踊り念佛から念佛踊りへ  
現在多くの人々は、念佛は極楽往生の願いを実現するために始ったと解している。 
日本に伝えられた初期の念佛は、中国の五台山の法照流五会念佛(ホウショウリュウゴエネンブツ)で、天台宗の僧円仁(エンニン/794-864)が行った比叡山常行堂引声(インゼイ)念佛といわれ、歌讃詠唱する音楽的念佛であった。 
これは願生(ガンショウ)浄土のためでなく、天台宗の四種三昧の実践であり、阿弥陀佛の名を詠唱して常行三昧を行ずることで摩訶止観(マカシカン)の諸法実相の理を悟るためのものであった。だから念佛は方便として用いられたのであった。この念佛の曲調を伝承して比叡山の常行堂の不断念佛に結番(けつばん)するのが堂僧であった。融通念佛の良忍(リョウニン/1072-1132)がこの堂僧の中から出たのも理のあることであった。 
この常行三昧の引声念彿が融通念佛に通ずるものである。 
融通念佛は一般に「一人一切人、一切人一人、一行一切行、一切行一行」というのは、常行堂の引声念佛に源をもつ詠唱念佛であった。その曲調を、朗詠、今様のような日本的発声法にし、民衆に歌いやすくしたものが良忍の融通念佛であり、念佛を合唱することですべての人の往生を確かにする方法であった。 
現存の詠唱念佛である六斉念佛は、先の融通念佛のうち「四編」(シヘン)「阪東」(バンドウ)「白舞」を入れているので、六斉念佛は融通念佛から出来てきたことを示している。 
この融通念佛と踊り念佛は鎌倉時代の中頃に現われる。それは円覚十万上人道御(ドウギョ)であった。道御は正嘉(ショウカ)元年(1257)壬生寺(ミブデラ)で融通念佛狂言を始め、融通念佛は大念佛の名で踊り念佛化した。 
道御は唐招提寺や法隆寺の勧進聖で10万人を勧進するごとに大念佛会を営み10万人聖といわれ、生涯に100万人勧進をしたので、百万聖人(しょうにん)ともいわれた。また、謡曲「百万」はこの聖を題材にしたものである。 
踊り念佛は空也(クウヤ/903-972)に始まる。「日本往生極楽記」に記されているように市聖(イチヒジリ)といい、阿弥陀聖というように念佛に重点をおく跳躍、足踏を中心に、鉦(カネ)や杓(ヒサゴ)を持つ程度とみられる。 
すべての芸能は神や霊に対する鎮魂、呪術舞踊に出発し、死霊や怨霊による凶作や疫病をさけるために呪文、呪声、仮面、呪具、足踏(反閇(へんばい))があるけれど、呪具はやがて風流へ発展し、呪文は歌謡や念佛へ、呪舞は舞踊や行道へ発展したものである。 
空也上人の頃も大念佛や怨霊鎮魂の御霊会が屡々なされており、踊り念佛も大念佛となったことは自然の歩みとみられる。源平争乱による怨死者を亡魂する7日間大念佛が「法然上人行状画図」(巻30)にみえる。地方では遊行聖(ユウギョウヒジリ)たちのすすめで大念佛がされている。 
大念佛の場所に供養卒塔婆が立つことが多いが、空也没30年の後に記された「拾遺抄」に「市門にかきつけて待りける」とあり、寿永3年の「拾遺抄註」に七条猪隈(シチジョウイノクマ)の市門に石卒塔婆をのせている。この市門のあとに一遍の市屋道場が建てられたのである。 
一遍上人(1239-1289)は時宗の開祖で弘安2年、信州小田切で踊り念佛を始めたという。それは空也上人のものを受け継いだので、「聖絵(ヒジリエ)」を見ればわかるように「うたう念佛」であり、融通念佛であった。一遍の配った南無阿弥陀佛の賦算札は60万人を志したが、25万人で入寂(ニュウジャク)した。世間では時宗特有のものと考えているが、実は融通念佛のものであった。 
「一遍聖絵」の踊り念佛では高台の館の庇の間に狩衣姿の主人、そして従者が座し、板縁に一遍が立ち鉢をたたく。庭では20人程の僧と俗が輪を作り、中心に鉢をたたく者がある。鉢と簓(ササラ)をもつ僧侶がいる。足拍子をそろえ、踊りに熱中している。老僧が撞木(ツエギ)をもち、若僧侶が鉢をもって、踊りの輪の中心で踊る。これが調声人物(チョウショウジンブツ)である。風流踊りの念佛では願念坊(ガンネンボウ)、願人坊(ガンニンボウ)、道心坊(ドウシンボウ)、新発意(シンボチ)に当る。 
盆踊り  
旧暦7月13日-16日、新暦で8月13日-16日を中心として孟蘭盆会にする舞踊を盆踊りという。村落で先祖を迎え、夜を徹して舞踊するものである。 
折しも日本人は正月、お盆、春秋お彼岸に先祖がこの国土へ帰り来るとの霊魂観念を持っており、その折に先祖を迎えて交歓舞踊するもので、仏教の解説によって亡魂供養が広まった。 
盆踊りは室町期の永享(エイキョウ)の頃、「看聞御記」によると風流(フリュウ)行列に念彿を囃す形が生じてくる。「経覚私要鈔」「大乘院寺社雑事記」が著された長禄から文明年間には、練り物と踊り念佛が華麗な盆踊りに変化してきた。 
永禄11年(1568)京都烏丸の盆踊りに真ん中に幟(ハタ)をもち華麗装束の50人以上の町衆が二重の円陣で盆踊りをした。4年後の元亀2年、京都室町衆によって、7月16・17・18・19日に盆踊りが行われ、73の燈籠風流(フリュウ)で賑わった。 
「多聞院日記」「実隆公記」「三藐記」「慶長日件録」を並べると、室町期、京都、奈良の盆踊りが150年程の間に公家衆、町衆に、また華麗風流(フリュウ)も踊り念佛として民間に浸透してきたことがわかる。一方踊り念佛も空也、一遍からみれば、これ又風流(フリュウ)により変化してきている。 
次に、江戸時代の幕藩体制下での厳しい取り締りの下で、どういう姿に変化したかを理解しておかねばならない。  
江戸期の風俗等を記した「風俗問状答」をはじめ、「飛州志七」「羇旅(キリョウ)漫録中」「中陵漫録巻14」「守貞漫稿巻24」「嬉遊笑覧」をみると 
盆踊りは7月夜、笛、太鼓、三味線、鉦が入り、男女が踊り、音頭取がでて七七七五調の唄で流行唄伊勢音頭、ときに僧衣で「鉦をうち地獄極楽の事など作りたるものに、節をつけて唄い」「念佛踊りと名付、盆前より男女大勢入交りて、鉦太鼓等にてはやし踊り候その唄身ぶり実に鄙(ヒナ)ぶりにて甚だおかしく、それを楽しみ盆遊びにいたし候」(奥州白川)、丹後峯山では「町方いろは音頭、在方那須の与市扇の的」などから、一般に目蓮尊者(モクレンソンジャ)の物語りも唄の中へ入ってきた。 
盆踊りの母胎は古代の鎮魂の儀礼であり、中世になつて風流(フリュウ)や踊り念佛と言われ、寺院の法会に付随してきた。近世になると、各地の様々な踊りの手ぶりが加わり、風流踊りとなり、念彿踊りになり、次第に娯楽化の方向へ転化してきたとみられる。 
ところが踊りが何度も禁止されたのは、民衆の結集が大きな脅威であったからであり、江戸期に伊勢音頭はしばしば禁止された。富山県八尾町黒瀬谷の本法寺には盆踊りの折、伊勢音頭を唄うことを禁じた文書があり、伊勢音頭の波が年を異にして入っていたのである。 
越中の盆踊りを眺めると、多種多様ではあるが大要を列挙しておく。 
下新川…はねそ/口説き/ざんざか/千代萩/鈴木主水/見真大師口き説 
黒部…はねそ/川崎/まつざか/二十八日口説/古代神/見真大師  
魚津市…はねそ/蝶六/松坂/見真大師 
滑川市…松坂/はねそ/古代神/心中物 
上市町…川崎/鈴木主水/松栄/歓喜嘆 
富山市…松栄/えんやら/やんさ/野下/鈴木主水 
大山町…サッサ/えんやら/ガラテン/心中 
婦中町…やんさ/川崎/どっとこせ−(お七くどき)/おわら/忠臣蔵/歓喜嘆 
新湊市…口説き(サカタ)/ぼんぼら貝/野下/坂田/段物/忠臣蔵/やんさ/荷下/ちょんがれ/からくち/歓喜嘆 
氷見市…青田/ぼんぼら貝/ちょんかり/鈴木主水/忠臣蔵 
福光・城端…チョンガレ/さかた/目蓮尊者/けいけいづくし/松坂/八百屋お七/鈴木主水/村づくし 
五箇山…ちょんかり/八百屋お七/草島ぶし/古代神/川崎/坂田/あさい/麦やぶし/平井権八 
高岡・砺波・戸出…さかた/本回り/栗ひろい/すすはき/石山合戦/おさ物語 けいけいづくし/鈴木主水/平井権八/ないないづくし 
庄川町…ちょんかれ/目蓮尊者/地獄めぐり/鈴木主水/石山合戦/袖しぼり/忠臣蔵/栗ひろい 
井波町…ちょんかれ/地獄めぐり/宮本左エ門/一ノ谷村づくし ものづくし/ないないづくし/坂田/綽如上人 
福野町…ちょんかれ/坂田/宮本左エ門/鈴木主水/石山合戦/目蓮尊者/釈迦一代記 
小矢部市…さんかさ/目蓮尊者/鈴木主水/袖しぼり/八百屋お七/村づくし/古代神/ないないづくし 
福岡町…坂田/さんかさ/目蓮尊者/鈴木主水/袖しぼり/すげさ/青田/ものづくし/盆踊り/チョンカレ節 
盆踊りチョンガレ  
北陸の盆踊りにチョンガレ節が広く歌われている。 
チョンガレの名は念佛聖くずれの願人坊主が鉦(カネ)をたたき諸国を歌い歩いた音曲ともいうが、チョンガレの語は「ちょろける」「ちょうける」、関西の「悪ふざけ」、関東の「ちょき者」、瓢軽(ひょうきん)の意ともいう。 
そのことばは福井市、加賀、能登、越中に分布している。特に越中の呉西では横綱、大関、関脇、小結、前頭という番付にして音頭取の美声を競い神社、寺院での大会では、その名を掲額している。 
また、音頭取の師匠の碑が呉西地区(小矢部市・砺波市)にみられる。チョンガレ流行は、特に吉崎、二俣、福光、城端、小矢部、福野、川崎、桂(五箇山)と地図上で一直線に並んでいる。一方、チョンガレ節の台本が福光、井波、戸出の各図書館に所蔵されている。特に福光町図書館には江戸末期から、明治のものが多く、県文化財に指定された。 この台本からもチョンガレの諷刺即妙の戯れの意を十分理解することができる。 
新川地方の古代神は新保広大寺節(シンボコウダイジブシ)を母胎にした口説き節で、踊りの振りは願人坊主の踊りが基本である。また魚津のせりこみ蝶六は、この古代神から分かれて出来たものである。石川県津幡町のチョンカレ盆踊りは県指定文化財になっているが、実は越中から願人坊主が訪れて伝承されたものだと伝えている。 
北陸の福井、加賀、能登半島、富山県呉西地区の分布をみると、蓮如時代と言えなくとも真宗と深い関連がみられる。 
チョンガレ節は一般に浪花節の前身とみられて、説教祭文から変化してきたと解されたが、特徴は節(フシ)が早口で軽快になり、冗談を交じえて人を笑わせ、独特の台本もできた。ときに浄瑠璃の一部を口説きにしたものが語られ、台本は古いもので、節だけチョンガレのものもあった。 
チョボクレ チョボクレ、チョンガレ チョンガレのはやし言葉も入るが、その発声法は「へばり声」と言われて、祭文も、チョンガレも、浪花節も同じとされている。また浪花節の節廻しは義太夫、祭文、歌舞伎の声色にも取り入れられ、近畿地方の盆踊り「江州音頭」にも取り入れられた。 
浄土真宗の色が濃いのは、浪花節への以前に、浄土真宗の唱導に利用されていたらしく、「綽如上人記五段次第」「釈迦八相記ちょんがれぶし」「石山合戦ちょんがれ」「目蓮尊者ちょんがれ」「童子丸」「親鸞経」等が有力なものである。こうしてみると、チョンガレ節の民謡史上の位置を理解することができる。  
 
郷土芸能

地方地域の各地で、そこに住む人々によって行われている芸能のことである。多くは古くから行われており、土地により個性が異なるなど郷土的な存在であることから「郷土芸能」の名で呼ばれたと思われるが、こうした芸能の組織的な研究が始められるようになった柳田国男らによる1910年(明治43)の郷土会の設立以後の命名だろう。 
柳田は1927年(昭和2)折口信夫らとともに民俗芸術の会を発足させ、「民俗芸術」とも呼ぶようになった。そのほか「郷土舞踊」「民俗舞踊」の名称も使われたが、1957年までは郷土芸能が主流を占めた。しかし、1958年東京の日本青年館で長年行われてきた「全国郷土芸能大会」の名が「全国民俗芸能大会」に改称され、以後「民俗芸能」の呼び名が一般的になった。このように郷土芸能の呼称が民俗芸能に改称されるようになったのは、その存在が民俗的であると認識されるようになったからである。 
つまり日本国土の自然環境のもとに生きつづけてきた日本人の信仰的な精神生活の、文化的な表出(心意伝承)として行われてきた芸能で、それが固有の生活のなかで生活の古典としての善なる仕来り(周期伝承)であり、受け継ぐべき生活的経験(行動伝承)であるとの価値観に立って論ぜられるようになったのである。 
したがって能や文楽や歌舞伎のような舞台芸術と違い、個人の芸術的あるいは技能的技倆を問うことはほとんどなく、村落共同体(郷土)的な集団性、個人的には勝手な創意を排する没個性的伝統性をもつ信仰的な芸能ということができる。なお、まったく娯楽性をもたないというわけではないが、非劇場的・非営利的芸能ということもできる。多くは祭りの場、年中行事の場で、その行事、あるいはその一環として行われるが、必要な場合には臨時にもしばしば行われている。 
その芸能を行うことによりその土地と、そこに住む人々の幸福や安寧が祈られ、保障されると考えられてきたのである。信仰的には鎮魂(たましずめ)に発しているが、古代から祝(ほかい)人・海人(あま)や山人(やまびと)・傀儡子・唱門師・念仏聖・山伏・御師(おし)願人・万歳など、さまざまの遊行神人たちによって村落に唱導されてきた結果と思われるが、そのため郷土(民俗)芸能は必ずしも非職能的芸能と規定することはできない。 
盆踊りのような非職能的芸能とは違って、伊勢大神楽のように専業の神楽師による職能的芸能をも含むからである。以上のような経緯と性格をもつが、おもに人間の社会的に多岐にわたる年中の生活に対応して、長いあいだにさまざまな郷土(民俗)芸能を分化させ発展させてきたのである。その種別的分類は、幾人かの先学によってなされているが、まとめて再構築してみると、およそ次のようになる。 
[1]神楽(かぐら) 神座に神を勧請して行う鎮魂の芸能。巫女神楽・採物および能神楽(出雲流神楽)・湯立神楽(伊勢流神楽)・獅子神楽、 
[2]田楽(でんがく) 耕田・稲作に関する芸能。田遊び・田植神事・田楽躍り・田楽能・田楽舞・田植踊り、 
[3]風流(ふりゅう) 飾装仮装して御霊の鎮送念仏などを行う芸能。盆踊り・念仏踊り(踊念仏・念仏踊・虫送り・雨乞踊り・太鼓踊り・けんばい・念仏狂言・迎講・仏舞)・小歌踊り・綾踊り・捧踊り・奴踊り・万作踊り・つくりもの風流と祭礼囃子・太鼓打芸・和花火、 
[4]獅子舞 獅子の仮装をする芸能。二人立(獅子神楽)−お練りの獅子・大神楽獅子(だいかぐらじし)、一人立(風流獅子舞)−三頭獅子舞・鹿踊り(ししおどり)、 
[5]祝福芸 祝言を行う芸能。翁舞・三番叟・万歳(まんざい)・松囃子・春駒・七福神(とくに恵比須と大黒の舞)・鳥刺し・猿まわし、 
[6]人形呪戯 人形を神に仮託して鎮魂や祝言を行う芸能。おしら様あそび・傀儡子の神人形・翁まわし・三番叟まわし・夷まわし・山車(だし)からくり、 
[7]語りもの(祭文) 鎮護詞(いわいごと)として唱えられたりする文芸的な芸能。いたこや瞽女など巫覡(ふげき)の祭文・絵解き・貝祭文・説経節、 
[8]民謡 自然発生的な民衆歌謡、(A)唄・節・音頭・甚句、(B)松坂・ハイヤ節・新保広大寺節・追分節の各系譜、 
[9]狂言(芝居)戯 たわむれごとを主体とするものまねの芸能。にわか・万作芝居・茶番狂言・面芝居。 
以上の9種類はおおむね郷土(民俗)芸能固有のもので一次的な存在であるが、宮中や大社寺、また武門のような中央の芸能、あるいは都市の興行的な芸能を模倣移転したものもかなりあり、これを二次的な郷土(民俗)芸能として、頭に「地(ぢ)」を冠してみたが、 
[10]地舞楽大人の舞楽・稚児の舞楽、[11]地延年、[12]地能と地能狂言、[13]地歌舞伎(地芝居・地狂言とも) 素人芝居・買芝居(玄人によるもの)[14]地人形芝居 淡路系・文楽系・江戸系などの三人遣いと糸あやつり。このほかに江戸前期(古浄瑠璃期)の、また後期以降に多発した一人遣いの人形芝居がある。 
 
郷土(民俗)芸能が民俗的に最も大きな意味をもつ鎮魂には、外来魂を招着させる招魂と、自分のもつ魂を捧げる奉魂と、悪魂を抑える抑魂の三方式があげられ、ときには複合的に行われてもいるが、鎮魂の目的を比較的端的に表している数種について概説しておく。そして、それは同時に郷土(民俗)芸能の主流的存在でもある。 
「神楽」は招魂芸能である。宮中の御神楽(みかぐら)に対して郷(里・さと)神楽ともいうが、前者が歌謡中心なのに対して後者は歌舞・能ぶりなどを軸としている。巫女神楽は神に奉仕する巫女が行うもので、本来は神の託宣を告げるシャマニズムに発していた。おもに採物(とりもの)の鈴を打ち振って舞うが、平安朝以降儀礼化が著しく、神懸りにいたるものはない。 
採物および能神楽は島根県の佐陀神社に発するといい、出雲流といわれるが、前段は鎮魂の呪具たる榊・幣・剱などの採物をもった舞を舞い、後段として神々の物語を仕組んだ演劇的な能を演ずるもので、全国的に広く分布する。 
湯立神楽は神楽の舞庭に湯釜を据え、舞人が笹・藁束・幣などで神に湯を献じ、見物人にもかける。神聖な湯によって祓えを行うもので、伊勢神宮に源流をもつ。 
愛知・長野の県境地帯の霜月神楽の中心行事である獅子神楽は、二人立ちの獅子舞を中心として、さまざまの余興の芸を併せ演じる。 
東北に多い山伏神楽・番楽系では古風な能を、中部近畿方面を巡る伊勢大神楽では放下(ほうか―曲芸)を演じている。 
なお、「獅子舞」であるが、頭と前脚、尻と後脚を一人ずつ受けもちがいるのを二人立ちといい、6世紀の大陸渡来の伎楽以来のもので伎楽系ともいう。全国各地に分布している。東日本に多い一人一頭で腰鼓を打ちつつ演じるものを一人立ちという。日本固有のものとみられているが、関東では三頭一組、東北では八頭一組の形式が多い。西日本には一人立ちはなく、風流の太鼓踊りである。 
日本では田は古来から最大の命題で、耕田には田の神の招魂芸能が欠かせなかった。一般に「田楽」と総称しているが、正月には豊年を祈って予祝の田遊びが演じられたり、華麗な田植踊りが踊られたりする。実際の田植えにさいしては中国山地にみられるように太鼓囃し入りの田植えが演じられたりもする。この田楽がおかに上がったのが田楽躍りであり、余興として田楽能が行われたりする。 
いずれも平安末期以降の古習の面影を残すものである。先人たちは春から夏にかけてとくにはやった疫病に悩まされ、疫神の抑魂芸能を行った。おもに鎮送という方法をとるが、悪霊に祟られないようにおだて上げようと華美に飾り立て賑やかに囃し立てて踊った。 
こうした華麗で浮き立つ芸能を「風流」という。平安朝末ごろ京都紫野の今宮神社に発したもののようだが、こうした飾装の郷土(民俗)芸能を広く風流と呼ぶようになった。したがって範囲も広くほかのジャンルと重なることもあり、疫病祭りに発するもののほか、田楽に発するもの、念仏踊りに発するものなどがある。 
念仏踊り系のものは、己の来世の幸福を祈るのが主眼の踊念仏が元で、平安朝中ごろの空也上人によって始められ、鎌倉期の一遍上人によって普及することになる。これがのちに亡者の霊を慰めたり、雨乞いに転用されるなど、さまざまに分化して多様になっている。中世末から近世初頭に流行した小歌踊りは、念仏踊りとともに初期の歌舞伎、すなわち女歌舞伎を誕生させている。新潟県柏崎市の綾子舞はその当時の小歌踊りをよく残している。盆踊りは来臨した霊を再びあの世に送り返す踊りである。
獅子舞の歴史  
全国の獅子舞を調べてみると、日本の獅子舞には、2種類があのます。  
1つは、「二人立ちの獅子」で、このあたりでみれるように、獅子頭にほろを付けた複数の人が中に入り獅子頭を手に持って舞ったり歩いたりするもので、中国から踊りや音楽といっしょに伝わった獅子といわれます。西日本ではこのようなものがほとんどです。  
もう1つは、「一人立ちの獅子」で、小さな獅子頭を頭に被り胸に小さな太鼓をつけて一人で舞うもので、鎌倉時代ごろからおこり、江戸時代に広まった獅子で、これは東日本にしかありません。  
日本でいつごろから獅子舞が始まったのかはよくわかりませんが、飛鳥時代ごろには、中国から伝わったといわれます。  
日本には古くから、年が変わる季節になると、神様が村里を訪れ、土地と人に新しい年の生命と穀物の実りをさずけてくださるという信仰があり、そのためやってくる神様を、昔の人はいろいろな姿で想像したようです。獅子舞もそんななかから考えられてきたものだと思われます。もともと「しし」という言葉は、シカのことだという意見と、いろいろなけものやその肉のことで、「かのしし」「いのしし」などといっていたという意見があります。映画「もののけ姫」には「ししがみ」というのが出てきますが、姿はシカのようですが、「ししがみ」とは、「けものの神」という意味で名付けたものだと思われます。  
「しし」と「ライオン」が結びついたのは、中国が伝わったおどりや音楽の中にライオンをもとにしたものがあって、日本でも広まっていったようです。もともと日本にはライオンはいなかったのですから、中国から伝わったものから創造して取り入れてきたものです。獅子舞の獅子の体の布が緑色なのはインドでから中国へ伝わった絵が緑色だったからだということや、全身に描かれるもようは「うずまき」で、これは若いライオンに一時的に現れる「つむじ」をもようにしたものがだんだん全身に描かれるようになったらしいということです。このことから、「しし」はライオンそのものでなくて、ライオンをモデルにした動物の神様であったものだったと思われます。今各地に伝わっている獅子舞の頭をみても、ライオン的なものもあれば、リュウ・トラ・イヌ・シカ・イノシシ・ウマなどににているものもあっていろいろです。  
でも、これらの獅子が舞うと悪魔が払われる、火事がさけられる、亡霊が成仏する、雨ごいが果たされる、五穀が実るなどという力もっている動物の神として、それぞれの獅子がつくられていったということです。
稲生の獅子舞  
1 伊奈富神社の由来  
伊奈富神社は、神代に東ケ岡(鈴鹿サーキット地内)に御神霊が出現せられて、夢のおつげによって崇神天皇五年に、神路ケ岡に大宮・西宮・三大神をお祭りされました。さらに、平安時代に弘法大師がこられた時に菩薩堂を建立し、七島池を一夜にして造られたと伝えられています。900年頃には、領地は東は白子、西は国府、南は秋永、北は野町に及ぶ広大な面積でした。その後、鎌倉時代には幕府の将軍、江戸時代、紀伊の徳川家からも寄進をうけたという記録が残っています。  
2 稲生の獅子舞について  
稲生の獅子は、1300年前にできて、鈴鹿市で最も古い獅子舞といわれています。昭和38年に三重県から無形文化財に指定されています。  
稲生の獅子は3年1回舞い、4頭が保存されています。昔は大宮さん、西宮さん、ぼさつどう、、三大神に一つずつおさめられていたが今は、宝物庫にしまってあります。それぞれの獅子には特徴があり、大宮さんは最も大型、菩薩堂は最も小型、西宮さんは耳が垂れている、三大神は目が大きいという違いがあります。  
獅子舞は、神役1人、、お先4人、お頭4人、口取り4人、後舞4人、笛3人、太鼓1人、荷物1人の計21人で舞います。舞い年は、次のようなことが行われます。  
1月4日 / 社家株(30戸)の人たちが、お汁(総会)で神役を決め、2,3日後から練習を始める。毎晩2時間、2月5日ごろまで猛練習する。  
2月1日 / 本殿より出て、大宮・西宮・三大神の拝殿とぼさつ堂にお祭りする。  
2月6日 / 夜に、神役が社務所で鏡もちをつき、オロクロシメ(獅子の耳・舌をはずれないように止める)  
2月7日 / 午前6時ごろ、白衣すがたの神役は、拝殿とぼさつ堂に分かれてお神楽を奏し、お頭をかついでみちゆきの楽でくり出す。ぼさつ堂の鳥居の前で、大宮・西宮・三大神の神役とぼさつ堂の神役があいさつをかわし、行列して社務所へ練りこむ。社務所で4頭を床の間におまつりし、鏡もちを各頭に1かざりずつお備えして奏楽する(宮降り)。昼過ぎまでに獅子のお衣つけをして、午後境内で舞初めとなる。(清めの舞・衣(きぬ)つけの舞)その後、神宮寺(調べの舞)・中瀬古の福田寺(再調べの舞)・塩屋の福楽寺(セチの舞)・極楽寺の順で舞う。そして、稲生各地で舞う。  
稲生の獅子の舞い方 
1ダンチョの舞 2なかおこしの舞 3おうぎの舞 4かみおうぎの舞 5とりとびの舞 6オイタチの舞 7花の舞 8おこしの舞 9田植えの舞 (詳しい内容は、「稲生郷土誌」に以下のようにまとめられています。)  
ダンチヨ(濫觴(らんしょう)の舞) / 神主が祝詞(大祓の詞)を奏上し始めると4頭の獅子が、いっしょに立ち上がって舞い初め、時計まわりに一回転する。口取はささらをすって後へつく。  
中起こし / 口取が常座でささらをすりながら飛び跳ねる。やがて獅子は体をゆすり口取のほうを振り返った後に立ち上がり2頭ずつ相対して舞う。次に口取りが長机の前に正座して頭を左右に振りながらささらをすり、獅子は速いテンポのはやしでいさましく舞う。これを乱舞という。  
扇の舞 / これは一頭で舞う。舞う場によって、次のように決まった獅子が舞う。  
・ 大宮・・・・塩屋・一色・市場・野村・野町  
・ 西宮・・・・中瀬古・極楽寺・御崎・慈恩寺・北町  
・ 三大神・・西瀬古・中町  
・ 菩薩堂・・神宮寺・釈迦堂  
最初をマイカケといい、獅子と口取りが背を向けて舞い始め、次に相対して口取りが扇で獅子をあやしながら北・南・東・西と同じ動作を繰り返して最初にもどる。次に日取りは2本のつぼめ扇を弓矢に見立てて獅子を射る。次にお頭が後舞を倒す。次に口取りが扇で四隅をさして獅子をあやす。次に扇を下においてあやしたり、見せたり、かくしたりして獅子をじらせる。獅子は怒ってかみつくこともあるが、最後に扇をくわえる。  
紙扇 / お先の1人が<獅子に水引のかかった扇1本と半紙1帖を重ねたものをくわえさせて舞う。  
カラスとび / 獅子は2頭ずつ相対したかたちで舞場にねそべり、口取りは尾の位置でささらをわきにかかえて上半身を大きく回し、次にささらをすりながら飛びはねた後、獅子とともに全身して位置を入れかわり向き合って舞う。  
オイタテ(お湯立て) / 扇の舞をした口取りが、白幣をもって3人の口取りを1人ずつおはらいし、次に笹竹を両手にもって円形の一斗ますにつけ、四方を清めるために振り回し、最後に後ろに笹竹を投げて終わる。  
花の舞 / お先が舞場の中央に4m程度の笹竹を立ててすわる。笹竹には細かく切った五色の紙を白紙に包んでぶらさげる。4頭の獅子が笹竹のまわりで舞い始めると、お先は笹竹を静かにゆり動かす。紙包みから五色の紙ふぶきが乱れ落ち優雅な舞となる。  
起し舞 / 扇の舞をした獅子が、南東の角から時計回りの方向へ舞い始め、中央に寝ている獅子を起こす。最後に長机で休んでいる獅子も起きあがり、4頭が上座に向かった形で終わる。  
田植 / 古里の福楽寺に出向いた時だけ、オイタテの後に行われる。これに用いる道具は、くわ4丁・かま4丁・たかきマンガ1つ・イシカゴ1荷と石1個・たばこ用ドウラン1つ・火縄1本・にないさお1本・牛のくらなどである。4人の口取りは、田起し・田すき・苗くばり・田植・休息・収穫の順に演ずる。 
 
お盆の起源

日本では、夏に「ご先祖様が帰ってくる」として「お盆」の風習がある。このときには、先祖のお墓参りを口実にして実家に帰省するのが日本の風習となっている。 
そして、お盆というのは「盂蘭盆経」というお経がもとになっている仏教の風習だと思っている人が多い。確かに語源はそうなのだが、この「盂蘭盆経」というお経自体が中国で儒教道徳の影響のもと作られた偽経であり、「お盆」という風習はさらに日本古来のアニミズム信仰が混じって成立した、お釈迦様とは何の関係もない風習なのである。 
日本では儒教道徳の影響を受けて、「親孝行」は無条件に「善」であるとされることが多いが、仏教にはそのような思想はない。また、死んだ人は49日の間に次の世界に生まれ変わるため、「先祖霊」「先祖供養」とか「水子霊」といった発想は仏教のものではないのである。 
「盂蘭盆経」 
「お盆」の名前の由来は、「盂蘭盆経」というお経にある。このお経に基づいて行なわれるようになった行事「盂蘭盆会(うらぼんえ)」が「お盆」と呼ばれるようになった。 
盂蘭盆会は七月十五日に行なうと指定しているのも、この「盂蘭盆経」である。ちなみに、現在の日本では、お盆は旧盆(旧暦7月15日)またはそれに近い新暦8月15日に行なわれることが多く、通常の「お盆休み」も8月15日を中心として設けられることが多い。ただし、新暦7月15日に行なわれることもある。 
というと、お釈迦様がお盆の起源のように思われるかもしれないが、決してそうではない。「盂蘭盆経」は中国で作られた偽経なのである。登場人物こそ仏弟子であるが、インド仏教の思想とは何のゆかりもなく、中国の親孝行の思想が盛り込まれている。大体において、親孝行とか先祖供養とか言い出すのは、本来の仏教ではなく、中国や日本の思想が入り込んだものである。 
「盂蘭盆経」全訳 
このように聞いた。あるとき仏陀は舎衛国祇樹給孤独園(シュラーヴァスティーのジェータヴァナ・アナータピンダダシャ・アーラーマ、いわゆる祇園精舎)にいらっしゃった。仏弟子マハーマウドガリヤーヤナ(大目犍連、目連)は初めて神通力を得て、育ててくれた恩に報いるため父母を済度しようと望んだ。そこで道眼をもって世界を見ると、死んだ母親が餓鬼に生まれ変わって、食べるものも得られず苦しんでいるのが見えた。目連は悲しみ、鉢にご飯を盛って持って行くが、母親が右手でご飯をつかんで口に入れようとすると、燃えさかる炭と化してしまい、食べられなかった。目連は号泣して仏陀のところへ言って話す。仏陀は語った。 
「お前の母の罪は深い。お前一人の力ではいかんともしがたい。お前の孝順の声が天地、天神・地神、魔や外道道士、四天王神を動かしたとしても、どうしようもない。まさに十方の僧の威神の力をもってのみこの苦しみから脱することができるだろうい。これからその救済方法を教える」 
仏陀は目連に告げた。 
「十方の僧たちが7月15日に僧自恣(僧たちが自ら懺悔を行なう会)を行なうとき、厄難に苦しんでいる七世の父母から現在の父母のために、百味の食事・五果を盆器に汲み注ぎ、香油・燭台・敷物・寝具を供えよ。この世の素晴らしいもので盆の中を見たし、十方の大徳ある僧たちを供養せよ。この日、一切の聖なる人々は、山間で禅定している者も、四道果という4つの修行の成果を得た者も、樹下で歩く修行をしている者も、六神通が自在で声聞・縁覚を教化している者も、十地菩薩という大いなる人でありながら比丘として現われて大衆の中にいる者も、みな心を一つにし、鉢和羅飯(自恣飯)を受ける。清浄な戒、聖なる人たちの道を備えており、その徳は大きい。これら自恣僧に供養する者は、現在の父母、七世の父母、六種の親族も三途(地獄・餓鬼・畜生)の苦しみを出ることができ、時に応じて解脱し、衣食が足りるようになるだろう。まだ父母が生きている者であれば、百年の福楽となるだろう。亡くなっても七世の父母まで天に生まれ、自在に生まれ変わり、天の華光に入り、無量の快楽を受けるであろう」 
仏陀は十方の僧に命じた。 
「皆、まず施主の家のために祈願しなさい。七世の父母の幸せを願い、禅定をして意識を定めてから食を受けよ。初めて盆を受けるときには、まず仏塔の前に置いて、僧たちは祈願をし終わってから食を受けるようにせよ」 
そのとき、目連・比丘およびここに集まった大菩薩衆はみな大歓喜し、目連の悲しみの泣き声はたちまち滅した。そして、目連の母はこの日、一劫(1カルパ)に及ぶ餓鬼の苦しみから脱することができた。 
そのとき、目連はまた仏陀に言った。 
「弟子たちを生んだ父母は三宝の功徳の力を得られます。それは僧たちの威神の力のためです。もし未来世の一切の仏弟子が孝順を行ない、またこの盂蘭盆を奉るならば、現在の父母から七世の父母までが救度されるのですか」 
仏陀は言われた。 
「大変よい質問である。わたしが言いたかったことを、お前は問うてくれた。善男子よ、比丘・比丘尼・国王・太子・王子・大臣・宰相・三公・百官・万民・庶人が孝・慈を行なう者は、みな、生んでくれた現在の父母、過去の七世の父母のために、七月十五日、仏陀が歓喜する日・僧たちの自恣日に、百味の飲食を盂蘭盆の中に置いて、十方の自恣僧に施して、現在の父母の寿命が百年無病であって一切の苦悩の患いがないように、また七世の父母が餓鬼の苦しみを離れ、天人の中に生まれて福楽極みないことを祈ってもらうように」 
仏陀は諸々の善男子・善女人に告げた。 
「仏弟子であって、孝順を修める者は、思念の中で常に父母供養あるいは七世の父母のことを思う者は、毎年七月十五日に、常に孝順をもって、生んでくれた父母または七世の父母への慈しみの思いをなし、盂蘭盆を作って仏陀と僧に施し、それによって父母が養ってくれた慈愛の恩に報いよ。また、一切の仏弟子は、この法を奉れ」 
そのとき、目連比丘、四輩弟子は、仏陀の説かれることを聞いて歓喜し、実行した。 
「盂蘭盆」の意味 
この経典を文字通りに読めば、「盂蘭盆」とは要するに「盆」のことであり、僧たちへの捧げものを乗せた「盆」そのものであるということになる。しかし、伝統的に、盂蘭盆とはサンスクリット語の「ullambana(ウッランバナ)」の音写という説が唱えられてきた。ウッランバナとは「倒懸」と漢訳される言葉で、逆さづりの苦痛という意味になる。最近になって、ペルシア系のウルヴァン(urvan=「霊魂」)が原語という説も出ているようである。 
ただ、いずれにせよ中国で初めて作られた偽経なので、そのあたりはどうでもいい。とりあえず「盂蘭盆会(うらぼんえ)」が日本で「お盆」と呼ばれているということは確認できる。 
中国の「盂蘭盆経」によるお盆 
この盂蘭盆経に基づいて考えると、実は、今の日本で行なわれている「お盆」とはまるで違ったものになる。 
仏陀の二大弟子の一人である目連が直接、餓鬼道の母親に食事を与えようとしても無理だった。ところが、自恣日(懺悔の会)に参加している仏弟子たちを供養すると、母親は救われた。日本のお盆では、直接ご先祖様に食事などを供える。自恣日などは関係ない。 
盂蘭盆経においても、死者が霊界から帰ってくるとか、死者の霊をそのまま供養するという考え方は存在していない。 
あと、七世の父母というのは、自分の親からさかのぼって七代という意味ではなく、自分が輪廻転生してきた過去七世のそれぞれの父母ということではないかと思われる。先祖代々と読み取ってはいけない。 
したがって、日本の「お盆」は「盂蘭盆経」+アルファであると考える必要がある。 
中元との習合 
旧暦7月15日。半年間無事に暮らせたことを祝い、祖先の霊を供養する日。元々道教では、中元は人間贖罪の日として、一日中火を焚いて神を祝う風習があった。これが日本に伝わると盂蘭盆(うらぼん)の行事と習合し、祖先の霊を供養し、両親に食べ物を送るようになった。この習慣が、目上の人、お世話になった人等に贈り物をする「お中元」に変化した。 
「祖先の霊」という話が出てきたら仏教ではないと思えばよい。さあ、こうして日本の「お盆」に一歩近づいた。 
日本の「魂祭り」「盆踊り」 
日本の民俗学的には、折口信夫の論考を参照する(「盆踊り3」)。日本の伝統では年二回(年末と夏)に「魂祭り」が行なわれた。これは「生魂の祭り」と「死霊の祭り」であり、「お盆」は死霊の祭りに当たる。「祭り」とは本来、死んだ霊をまつるのではなく、死んだ魂をこの身に受けることであった。 
もともとは「鎮花祭」で、平安時代には疫病を避けるための踊りになっていった。そこから、空也上人の踊念仏が生まれ、時宗の一遍に受け継がれていった。 
盆踊りの起源は、空也の「踊念仏」だというのは歴史上の定説である。そのため、盆踊りは仏教起源のものとされることが多い。しかし、空也が踊念仏を始めたのは、日本の伝統(言い換えれば神道的な起源)に根ざしたものであり、決して仏陀の教えに踊念仏があるわけではないという意味では、これも仏教とは関係ないということになる。 
 
このように見てくると、「お盆」というのは今では仏教行事のように思われているが、そのほとんどすべてが仏教とは関係ない起源を持っており、極めて中国・日本的な行事であるということになる。 
 
直方・日若踊

日本全国津々浦々、様々な盆踊がある。昔ほどではないが、幾多の変遷を経て、今でも盆踊は各地で踊られている。 
盆踊と盆踊唄について、山近は「盂蘭盆の季節に盆踊をするということは日本にだけある行事である。それで盆踊の唄は他の国にはない。盆踊唄のある事は日本民謡(うた)の一大特色のひとつとなっている」と述べている。 
このように盆踊は、伝統的な祭礼行事や民俗芸能であり、民俗文化財の一つとしてみなすことができる。そのため各自治体では、盆踊などの伝統芸能を地域性の表出の一手段とし、地域の活性化を図ろうとする動きが見られる。この背景について大島は、「無形民俗文化財はそれぞれの伝承母体の精神文化を象徴するものであるという象徴性と、無形民俗文化財の持つ現在性などが、文化の多様性の確認を求める動きと相俟って、改めて評価されるようになってきた流があると言うことができるだろう」としている。 
だが同時に、グローバル化に伴い、伝統的な地域社会の存続が危ぶまれている。その結果、地域社会の急速な変化による、伝統芸能の伝承・保護の危機、伝統芸能自体の存続の危機が懸念されている。この原因を大島は、伝統芸能や祭り・行事なども行為そのものが単独で評価され保護されていることにあると、指摘している。つまり今までは、伝統芸能そのものの重視だけに留まり、それを支える地域共同体などの伝承集団の存在と継続に関わる問題については、直接的な保護対象外であるとされてきた。そのため、伝統芸能の保護が難しくなっていたというのだ。 
このことは、地方に伝わる民俗文化の伝承危機により顕著に見られる。それは踊りという保護対象そのものの問題ではなく、それを成立させる地域社会の存続が危機に陥っているという大きな問題が横たわっているためだ。逆に言えば、伝統芸能が活発に存続している地域では、地域独自の工夫や集団努力がなされていることになる。
1.1 盆踊とは 
盆踊にはある種のイメージが付きまとう。それは、櫓を中心に、人々がその周りを輪になっておどり、櫓の上では太鼓が演奏され、またはスピーカーから音楽が流れるというものではないだろうか。一般的に「盆踊」とは、「手踊りの芸能で輪踊や列踊、巻踊の隊形をとるもの」を盆踊という場合が一般的である。ここで挙げた一般イメージは、輪踊の一つの形態である。広義では、新精霊(新仏)の供養を主な目的とし、盆の期間に演じられる風流太鼓踊や風流踊のことを言う。 
この風流とは、平安時代以降に和歌や漢詩、物語などの心を表現した風情ある造り物(意匠)のことである。趣向を凝らした造り物や仮装、物真似、囃子(はやし)(拍子)物などをいうが、後世ではもっぱら踊りそのものを指すようになった。さらに大森は次のように述べる。「風流という芸能は、田楽や猿楽などのように芸態がはっきりした芸能の種類を呼称するものではない。つまり風流系芸能の特色は、人の目を驚かせる趣向、創造性にあり、型の継承に関しては皆無といっても過言ではない。修練による型の継承を拒否したところに風流の生命力がある。素人がそれぞれ工夫を凝らすことによって、風流系芸能は成り立つのである」。 
つまり盆踊とは、型が決まっているとは言い難い風流という芸能を盆に踊る、風流踊の一つなのだ。それにもかかわらず、今日各地の「盆踊」は文化財として「保存」され、伝承されているものが多い。
1.2 盆踊の広がり 
盆に風流踊が行われるようになった時期について、山路は、「死者供養として念仏踊は、空也、一遍などを祖とする念仏聖によって早くから行なわれていたが、共同体が自分たちの手で先祖供養のために踊りを行なったのは、中世後期以降と考えられる。その姿は念仏(ねんぶつ)拍物(はやしもの)として見え、まだ踊りとはいえず、風流の拍物(囃し物)を転用し、念仏で囃したところに特色があった。16世紀に入ると、京都を中心に地方の郷孫へも伝播した。この時期の踊りは盂蘭盆会(うらぼんえ)以外にも踊られ、一般に風流踊の名で呼ばれる」。 
江戸時代に入り自由な気風が薄らぐと、大がかりな風流や新しい趣向がなくなり定型化が進む。伴奏楽器に三味線が加わったことにより、歌も近世流行歌(はやりうた)に変わるが、さらに江戸時代後期には7・7・7・5調の民謡(うた)や俗謡(うた)、浄瑠璃口説、祭文などが盆踊歌の主流となり、踊りの手も繰り返しの多い単純なものへと変化して風流の趣向も見られなくなる。 
山近は盆踊について「盂蘭盆(うらぼん)は1300年の古い歴史を持っているものである。しかし盆踊の形の整ったのは室町時代か豊臣秀吉の頃と見られるが、全国的に広まったのは江戸時代である。そうすると約400年位になる。明治時代には盆踊が盛んであった。それは大衆の娯楽が貧しかったためであろう」と述べている。 
つまり、盆踊が全国的に広まったきっかけは、参勤交代が行なわれることで交通が整備されたことにある。街道を通って、役者が行き来し、人から人へと流行の歌が広がった。これらとともに、踊りも広がっていったのだ。江戸時代、流行として伝わった風流は、地域ごとに形を変えて根付き、明治時代には伝統として、地域のアイデンティティの一つとして成立した。それらは現在、無形文化財として、保存されているものも少なくない。
1.3 福岡県の盆踊 
調査地である福岡県へは盆踊がどれくらい伝わっているのだろうか。以下は、福岡県民俗芸能として調査されたものから、盆踊の値を抜粋したものである。この中では大きく、神楽、田楽、風流、語り物、舞台芸・渡来芸、見せ物・その他と分類されている。神楽はさらに @神楽 A獅子舞に、風流は @太鼓踊り A盆踊り Bその他の風流踊り Cつくりもの風流 D行列風流 E祭り囃子(はやし)、舞台芸・渡来芸は @能・狂言 A人形戯 B歌舞伎 C渡来芸 に分かれる。この分類は、福岡県の民俗芸能(総説)により、盆踊は風流の一つとされている。 
表中の筑豊地方とは、現在の飯塚市・嘉麻市・嘉穂(かほ)郡・直方市・宮若市・鞍手郡・田川市・田川郡にあたる。この表では、1970年代まで筑豊に組みこまれていた中間市・遠賀郡を含めている。地名の由来は、筑前国と豊前国の頭文字をとったものであり、明治時代以降、石炭資源を背景にして新しく生まれた地域区分である。 
表1を見ると、筑豊地方には、福岡県全体にある盆踊の6割を占めており、その約半数が直方市のものとなっている。また、直方市の民俗芸能の内、4分の3は盆踊となっている。 
以上より、盆踊は直方市の地域アイデンティティの一つであると考える。直方市で有名なのは、「直方日若踊」「植木の三申踊」の二つあり、どちらも県の無形民俗文化財に指定されている。だが本論文では、直方市の中心地として江戸時代から栄えていた市街地を調査地とすることとし、そこの盆踊「直方日若踊」を取り上げている。
2.1 直方市概要 
直方市は、福岡県の北部、筑豊地方の北端部に位置する。東西11.56km、南北9.45km、その面積は61.78kuであり、人口は約6万人の市である。この地域は、福岡県北部を南から北に流れる遠賀川の中流域であり、彦山川・嘉麻川の2大河川の合流地点でもある。この川は水運に利用されていた歴史がある。本市の東部には福智山(900.8m)を主峰にその支脈(平均標高600m)が南北に走っている。西部には六ヶ岳(むつがだけ)(339.0m)の丘陵が北西に広がり、中央は、比較的平らな地域である。 
遠賀川を境にした西部地域は、江戸時代から続く市街地が形成されている。近年は北九州市と福岡市のベットタウンとして駅前にマンションが立ち並んでいる。東部は新興住宅地が広がり、団地が立ち並ぶ。南部地域は工業地帯、北部地域は農村地帯が広がっている。今回の調査地は、西部の市街地である。 
図1、図2は、全国と調査地である直方市の、男女別年齢別人口である。直方市の男女別人口は、男性27,569人、女性31,354と、女性の割合が多く、80代以上では女性が男性の2倍近くが住んでいる。二つを比較すると、直方市は60〜80代の女性の割合が多く、20代後半から30代後半の働き盛りの年齢について、男女供に割合が低くなっている。以上から、深刻な少子高齢化が進行していることが分かるだろう。 
統計資料からだけでなく、高齢化の進行は市街地の変化にも現れている。かつて、直方市の中心地として栄えた市街地は、多くの店が閉められ、シャッター街となってしまった。だが店舗が閉店した一部では、大きな高齢者向けの福祉施設が出来きており、対高齢者の町として進まざるを得ない現状が垣間見える。
2.2市街の概要 
直方市の西部に位置する市街地は、資料3の直方市市街地地図のように遠賀川とJR福北ゆたか線(筑豊本線)との間にある。現在は以前のような活気が見られなくなってしまった市街地ではあるが、江戸から昭和にかけて、遠賀川の水運と長崎街道によって、県内随一の活気が溢れていた場所であった。また市街地には、多賀神社を中心に、多くの寺社が広がっている。 
資料2は江戸時代における直方市街地の地図である。江戸時代以降、市街地は北から、古町・外町・殿町・新町に区分されている。この区分は、当時の城下町の形成と関係が深く、それ以降の文化的及び経済的発展は、各々の地域で繰り広げられることになる。 
資料2・3を参考に、市街地の成立を見ていく。 
江戸時代以前、市街地の中心部である古町は、家が9軒ほど建つのみであった。このような場所が市街地として発展したのは、直方城ができ、常駐する武士の家が立ち並んだことによる。 
江戸時代、1623(元和9)年、福岡藩の藩主黒田長政の四男高政が東連寺藩藩主となり、4万石を分領した。1626(寛永3)年、現在の殿町、双林院の位置に居館を造営し、現在の古町・津田町にあたる場所に商家を110軒建て、市を開いて城下の形を整えた。これにより武士の家は現在の殿町にあり、古町には卸売り・小売店が立ち並ぶようになった。資料2の殿町・古町がその地域にあたる。 
その後、直方藩は三代まで続いた。しかし、三代目が福岡藩を継いだことから、1676(延宝4)年から四代目長清が藩主となる1688 (元禄1)年まで、直方藩は一時中絶をやむなくされた。 
1688(元禄1)年、長清は4万石から1万石足した5万石を分領した。1692(元禄5)年、妙見山に新しい館を造営し、現在の新町の場所に110軒の商家を建てた。新町が作られた際、新しい町=新町と呼び、それまでの町を古町と呼ぶようになった。これによって、資料2のように武家屋敷が立ち並ぶ殿町の両側に、古町と新町という二つの町が栄えることになった。 
1720(享保5)年、長清の死後、直方藩は廃絶となり、殿町に住んでいた直方藩士は福岡に転出したため空き家が増えた。直方は寂れる一方だった。町の衰退を懸念した古町・新町といった直方町内の商人達は、遠賀川の東岸を通行していた長崎街道を、西岸の町に誘致することを藩に願い出た。 
1736(元文1)年、誘致に成功し、遠賀川西岸に船着場ができた。ここから町場までの間が市街地化し、土塁の外側であったため、外新町と呼ばれ、後に外町となった。資料2では、古町の東側にある、渡し場と古町とを結ぶ街道沿いに発展した箇所である。廃藩により、武士相手の商売から、旅行者相手の商売に切り替わったと見られる。 
城下町が廃止された後、畑や水田になっていた殿町は、大きく発達した。この時期、西殿町に町役場などの官庁が置かれ、さらに筑豊最大の炭坑である貝島炭坑の本社及び社宅が置かれた。このことにより、周辺には銀行・病院などが集中することとなった。明治期には、炭鉱開発の発展とともに直方がその中心的役割を果たし、商業地としても成長した。この当時の商業の対象は、増加する炭鉱関係者が中心であった。 
明治後期には地の利を活かし、筑豊一円の炭坑マーケットと特約する卸売り業者も増加し、古町は問屋街となった。遠く久留米の方まで品物を卸していたという話があるほど、勢いのある町へと成長した。戦時中・戦後の混乱を経て、昭和30年代初頭までは、こうした発展が続き、1957(昭和32)年には、当時九州一の長さを誇る、延長440mのアーケードが作られた。 
現在、市街地は古町北区・古町中区・多賀区・新町区の4つの区に区分されている。資料3を参考にすると、次のようなものである。駅から延びる大通りが古町の始まりとなり、ここが市街地の北端である。古町は資料3のふるまち通りを中心に、長いアーケードのある商店街が形成されている。古町北区と中区はその商店街が二つに分けられたものであり、その境は地図上の「ふるまち通り」のほぼ中央にあたる。北が古町北区、南が古町中区である。その南側、多賀神社から延びた旧多賀町にあたる近辺は、殿町である。過去、武家屋敷が立ち並んでいた地域で、現在は多賀区と呼ばれる。勘六橋より南側、南小学校や裁判所が建つ地域までが新町区となっている。
3 直方日若踊の歴史 
「直方日若踊」は、直方の伝統芸能として受け継がれている。これについて村上は、「由緒古く地方舞踊としては一段の出色を有し極めてしこやかに且つ高雅なものとして世に認められていた」と述べている。また半世紀を経た後にも、山近は「日若踊は優雅な踊で情緒にみちみちた歌と節と手振手さばきの美しさは実に九州盆踊の花形で、三百年の由緒の深い歴史的の純真な郷土芸能である」と記述している。 
このように直方日若踊は、地元の人にとって九州随一と言っても過言ではないほど、誇り高い踊りであるようだ。では、日若踊はどのように成立したのだろうか。
3.1 二つのおどり 
日若踊は、二つの流れがあるといわれている。それぞれを思案橋踊と本手踊と呼び、二つ併せて直方日若踊と呼ばれる。 
思案橋踊とは、ある型をくり返し踊る踊りである。ここでは、型を、思案橋おどりにおける一連の手のまとまりとする。2008(平成20)年現在、古町中区や新町では、手の数が明確ではないが、古町北区では七手で一つの型を形成することが正統と見なされている。このように区によって伝承内容に違いはある。しかし、思案橋の唄と伴奏が流れている間、決まった型をくり返し踊ることは、昔から同様である。一般的にイメージされる盆踊は、これに近いものであろう。この踊を踊る際に重要となるのは、伴奏や周りの踊り手に合わせ、全体でそろえることである。 
一方本手踊は、歌詞に合わせて手振がついている。例えば古町北区「加賀の千代」を例にあげると、「神さんに頼むの〜」では、拝み手をする。また、「月の船」では船を漕ぐ動作、「多賀の宮」では山の上にある多賀神社を見上げる動作となる。踊る際は、歌詞をよく聞き、その一つ一つの手の意味を考えて踊るようにと言われる。 
思案橋と本手の唄と踊りの関係の違いは、それぞれの成立の違いが原因である。資料4は、直方日若踊の歴史を時間軸に沿ってまとめたものである。これによると、起源は多賀神社に伝わっていた日若謡(うた)・日若舞であることが分かる。これは敬神のための神楽舞であったそうだ。延宝6年、直方侍の一人、大塚次郎左衛門が江戸・大阪に登った際に持って帰ってきた、藩主仰敬思想が入った唄とこの神楽舞が融合し、思案橋となったとされている。盆供養や豊年祭の際に踊るようになったのはこの時期であるようだ。江戸時代末期には、芸能人による振付で、日若踊本手が作られ、踊りは芸能化した。弾圧と復興を経て、現在のような直方日若踊の形で伝わっている。 
資料4中に記述されている日若踊音頭とは、1940年代に、思案橋を一般大衆向けに踊りやすく作り変えたものである。復興当時、婦人会を中心に市街地に広まることとなった。しかし今日、日若踊音頭は正統の伝統芸能から外され、思案橋踊と本手踊の二つの踊りのみが民俗文化財として保存・伝承され、残す努力が行なわれている。 
3.1.1 思案橋―遠賀川流域の唄− 
山近は、思案橋について次のように述べている。 
思案橋は筑豊一円に三百年まえから広く歌われている盆踊唄で、植木役者や芦屋役者また遠賀川を上り下りする石炭運送船の「川ひらた船」の船頭等によって伝えられたものといわれている。それで歌詞は同一のものが非常に多い。しかしその踊り方、歌い方は時代の変遷につれ、また地域によって相違している。節はゆるやかで高低が少なく、歌い方は極めて難しい。どの踊も優美でテンポが遅いのが特徴である。 
このような「思案橋」という盆踊唄が遠賀川流域に伝えられ、分布していることを示すのが以下の遠賀川流域地図である。丸で囲まれている地域は、「筑豊の民謡」において、山近が「思案橋」を紹介している箇所である。だが、歌詞の相違しているものや、囃子(はやし)の変わっているもの等が中心となり、同一の歌詞のものは省略されている。そのため、山近が記述しているのは、すべての思案橋ではないことを先に断っておかなければならない。 
資料5によると、思案橋は、遠賀川上流にある、嘉穂町や穂波町、中流域の直方市、そして下流域の岡垣町と、筑前地方を中心とする遠賀川全域に広まっていることが分かる。思案橋という盆踊唄を一つ取ってみても、遠賀川が人と文化の交通の要所となっていたことが分かる。筑豊地域に県下の半数の盆踊が存在し、直方市だけで全体の4分の1を占めているのは、遠賀川という水運によるものであろう。 
この盆踊唄が直方へ伝わり、広まった経緯について、次のような記録が残っている。 
黒田藩政時代、就中直方藩ができて1678(延宝6)年の頃に登場する。直方侍大塚次郎左衛門ほか数名が君命によって江戸に登り、その帰途大阪において、当時の民謡であった 
思案橋超えて ゆこかな戻ろか思案橋 
思案橋超えて 来るは誰ゆえそさま故 
という唄を基に日若謡(うた)・舞の手振りを加えた上で、 
殿様繁盛 国も豊かに栄えゆく 
などの替歌をも作り、多賀宮の祭豊に境内で歌ったり、或いは市中(当時の古町)を踊りながら練り歩いたのが始まりであった。これが、現在の「次郎左(踊)」「思案橋(踊)」の謂れである。 
このように日若舞と流行歌が融合したのには、日若舞の歌詞が難解だったからだとされている。そのため庶民は、日若舞から遠ざかっていた。そこに親しみやすい当時の流行音楽が取り入れられたところ、現在まで伝わることとなったのだ。日若舞は古文書にその謡(うた)を残すのみとなっている。 
今現在、伝統芸能として伝わっている思案橋踊は、遠賀川を伝わってきた流行歌と、既に地域にあった由緒正しい舞とが組み合わされた、新しい踊りだったのだ。 
3.1.2 本手―歌舞伎役者による振付− 
日若踊を構成するもう一つの踊りは本手踊である。本手踊の始まりは、直方藩藩主、黒田長清の時代に遡る。「二上がり浦島」「加賀の千代」「梅の春」の長唄を基にした替歌を台唄とし、当時の歌舞伎役者から手振を習い、本手踊が成立した。本手踊は地域ごとに異なった台唄と手振が伝わっている。以下は本手踊の成立年代順位に並べたものである。 
新町:安政(1854年〜1860年にかけての江戸末期)の頃、新町の若衆は、替唄「二上がり浦島」を基唄として、大阪の俳優あやめ一座の中村吉太郎(一調)について新たに艶麗な手振を習い、以来この手振を本手として今日の新町に伝わっている。 
古町:1864(元治1)年、当時古町の若衆は、長唄「加賀の千代」を基唄として、「末長き芦川の音頭」という替唄を作った。鬼丸について新に幽雅な手振を習い、古町の本手踊として成立した。 
外町:古町から分離していた外町の日若踊は、慶應年間(1865年〜1868年明治天皇朝の年号)に入り伝わることとなった。越後役者の登龍が、外町の若衆に替唄「梅の春」を基唄とし、登龍について練習に練習を重ね、面目を回復することとなった。 
本手踊が作られた当時の様子について、「坂田利平稔吉履歴」を残した坂田は、次のように描いている。 
「寿拾六歳 元治元年 事珍らしき当年、六十一年目の奉幣使京都梅渓公様、香椎(かしい)宮に御下りて奉幣使拝し群集せり。既に木屋瀬(こやのせ)駅泊に相成。自分は植木にて奉拝し、壱上大万作当町盆踊の新手が出来、手附大阪役者鬼丸を雇い入、台歌に、 
賑わいや 日若祭も秋過て 人のこころも神さんに 
たのむの雁の一円にいつしか是に芦川の 流れも清き水の面 
エェエェ 賑わしき多賀の宮  
後の仰せを待つ斗り 願うこころを残すらん 
此歌手附鬼丸の作 
七月の入方より老若男女稽古して、我を忘れて盆会となり、我を忘れて賑わいけり。何国の里も盆踊豊かなる世の秋ぞかし」。 
成立当初は、各地域及び各々が、自分達の盆踊に対して、熱意と愛着を持ち踊っていたことが伺える。
3.2 神社の盆踊 
江戸時代に流行った流行歌、そして歌舞伎役者による振付によって現在の日若踊の思案橋と本手は成立したことを見てきた。だがその原点には、多賀神社に伝承され、敬神を目的に奉納されてきた日若舞・日若謡がある。そのため、流行歌が取り入れられた後も、豊年祭で奉納する「奉納踊」という役割が備わっていたものと考えられる。それは、日若踊が伝わっている古町・新町・外町が多賀神社の氏子にあたることにも関係する。 
「直方日若踊」によると、神社への奉納踊が廃れ、盆踊に重点が移ってきたのは明治時代に入ってからのことだそうだ。 
「多賀宮に奉納された日若踊は、その年の奉納のときに定めた手振りや替歌は、豊年祭、盆の供養の時に用いられるが、翌年の奉納までその手振や替歌の新作変更は許されないという不文律があったようです。しかるにこのような奉納日若踊りの諸慣例も、明治時代に入って、若者衆の団体が崩壊するとともに、次第に影を失って、奉納踊はただ盆踊にその隆盛を奪われてしまい、名も盆踊の方が一般的な呼名となっていたのであります」。 
江戸時代、市街地のほぼ中心にある多賀神社では、頻繁に宮芝居が行なわれていた。それは当時、能役者を招待してその演技を楽しむのは、一般各地領主の娯楽や趣味であったからだ。また能興行に限らず、奉納の形式で踊興行が行なわれていたからである。この踊興行の際、日若踊は奉納踊として奉納されていたようだ。 
当時、多賀神社の宮司は興行の出願権を持っており、直方での興行の際には他の芝居を中止に出来るほどの力関係が成立していた。そのため近隣の人々は、直方の芝居が田園娯楽の最高峰だとして集まってきていたのだ。 
このように、日若踊との関わりが深い多賀神社とは、どのような神社であろうか。多賀神社の創設、その年代は不詳だが、「古事記」に記されている伊邪那(いざな)岐(ぎ)大神・伊邪那(いざな)美(み)大神の時代に遡る。古代において多賀神社は、「日若宮」「多賀宮」と崇められ、人々の信仰を集めていたようである。 
このように、元は神教的な奉納踊も備えていたのだが、現在は仏教的な盆踊へと変化したのだ。だが一方で、多賀神社と日若踊との関係の深さは現在でも見ることが出来る。1990(平成2)年の多賀神社の宮司の結婚式には、披露宴で日若踊が演舞されている。2008(平成20)年には、日若踊保存育成連合会の結成50周年記念行事を多賀神社で行っている。このように多賀神社、日若踊双方の関係性は強い。 
また、直方の市街地に建立している仏教寺院の日若踊に対する対応も興味深い。ここの子供達は小学生の間だけ、地域の伝統芸能として「直方日若踊」を習っていたそうだ。しかし大人になった現在は、日若踊はあくまでも多賀神社の踊りであるとして、参加しないという方針を採っているという。 
盆踊という位置づけの日若踊だが、神社との関係の中で成立、存続してきた、「神社の盆踊」であるのだ。
4 日若踊の変遷 
日若踊は、江戸時代に本手と思案橋の二つの踊りから成立した。以来、その踊り手や衣装などに少しずつ変化してきたはずである。だが、盆踊という風流としての位置づけによって、芸能としての記録は十分に残されていない。日若踊の記録として目立つのは、1928(昭和3)年のことである。1928(昭和3)年、地元の伝統文化を復興し、伝え保存しようとする動きが、昭和天皇即位記念事業の一つとして始まった。そのため、踊りについての詳しい資料はこれ以降に残されている。 
復興の経緯は、次のようなものである。「これ(江戸末期から明治)以来三ヶ町の日若踊は、明治二十六七年頃までよく継続されて来たものでありましたが、(中略)一時衰頽(すいたい)の已(や)むなきに至り、只老媼(おう)の話柄によつてのみ昔日の面影を偲ぶ便(よすが)となりましたが今年御大典奉祝の佳辰に当つて、直方商工曾の日若踊再興の提唱と、当町人士の冀望とは相俟つて茲(ここ)に(中略)日若踊の再演を復活することになりました」。この際、各組の世話人、青年婦人会等総勢1025人が、練習に練習を重ねて、直方の郷土芸術として押しも押されぬまでに磨き上げてきた。この努力により、直方日若踊は直方の伝統芸能として蘇ったのだった。 
そして戦後の1958(昭和33)年に保存育成連合会が発足し、福岡県無形文化財に指定された。これを記念して、直方市教育委員会で日若踊についての文献を作成している。その25年後には、井上弘氏によって、当時の日若踊についての資料が残されている。唄や踊がどの程度変化したかははっきりと分かっていない。しかし、当時の様子やそこで関わる人々、唄われている唄等を通して、現在の直方日若踊への軌跡を見ることはできるのではないか。
4.1 担い手たち 
復興記念行事以前、日若踊が伝承されてきた理由として忘れてはならないのは、若者衆という社会制度の中にある、年齢集団があったことである。彼らが庭割方、庭触方、音頭方、踊仕立方の4つの役割に分かれてお世話をしていた。彼らは、盆踊青年団などと悪口を言われながらも、盆踊を村の年中行事として一手に引き受けて、ほとんど一ヶ月にわたる期間を喉を潰すまで唄を練習し、花笠を作り、踊大傘の作成から、踊子の世話等をやって、盆踊を遂行するのであり、まさに民俗芸能、文化の伝達者であるといえましょう。 
表2は、1928(昭和3)年以降担い手の人数の変遷を表にまとめたものである。1928(昭和3)年の時点で古町組という地域は、1958(昭和33)年までに3つの地区に分かれている。古町北区と古町中区については、古町組の人口増加が原因とされている。古町組に携わる人口も、1958(昭和33)年の時点で一度増加し、そこから減少している。それ以前には、古町南区・新町北区があったという記述も見られることから、当時の活気が見られる。 
古町組から派生した貝島組とは、筑豊炭坑で直方が栄えた時期、貝島炭坑で働く人々を中心とする組織にあたる。明治から大正にかけての直方の発展に最も寄与した人であり、炭坑王と言われる初代社長、貝島太助氏は日若踊が大好きだったためだという。ここは現在、多賀区と見なされる地域と同一であるが、日若踊は行われていない。 
現在の多賀区公民館の館長である武谷尚俊(68)さんの話によると、多賀区公民館が新しく立て替えられた際、日若踊の道具一式も捨ててしまったそうだ。踊りはこれ以前から廃れていたという。柴木晴幸(80)さんは、若い頃ほんの数回練習に出ただけで、踊りの手も何も覚えていないそうだ。「昔は多賀神社の境内で練習しよった。先先代の多賀神社の宮司さんが教えよんなった。終戦後も一時やっとったけ、「行け」っち言われて行きよった。貝島太助さんがやっとんなったとこやけ、日若踊の元祖みたいなもんやろう。北区や中区の人からも、「しない!」[2]って言われるけど、先生もおらんし、伝承もないし、する人もおらんしね」と話した。 
外町については、記録には残っているものの、いつ頃まで活動を行い、どのような踊りであったかという記述や語りを見ることはできなかった。 
表2を見ると、日若踊は地方(じかた)・踊り手と世話人の3つの役で構成されていることが分かる。それぞれが、現在の世話人に繋がっているが、役職としては消滅した。現在の世話人とされる人は、保存育成会の理事及び役員、スケジュール調整など世話する世話役、踊りを教えている先生、そして衣装の準備や着付けを担当する方を含めた裏方としている。また地方(じかた)とは、唄や演奏を担当する人の総称である。踊り子は10歳以下を花笠組、それ以上15歳までを花櫛組、16歳以上は妻折組として3つに分けられた。 
西欧化という時代の移り変わりを反映しているのは、笠の変化である。1958年の時点で、花櫛がなくなった理由は、ヘアースタイルの変遷である。つまり、流行に押し流されたということなのだ。また、外町で見られたとされる禿姿や奴姿も同様である。現在はどの区も花笠と妻折、そして編笠が残るのみとなっている。古町北区では、次郎左踊で編笠を被っている。 
楽器の変化も表2から見ることが出来る。現在使用されているのは、主に三味線・太鼓であり、新町には鼓が伝わっている。だが、以前には胡弓や琴、尺八といった楽器が使用されていた。どれも、弾き手がいないため使用されていないという理由と、正統でないため入れたくないという理由とがある。何を受け入れるかということに関しては、その時代の流行や関わる人によるようだ。時代の流れに即した変化そのものに、風流踊の名残を見ることもできるのではないだろうか。 
関わる人数の合計が、この80年で大きく減少しているのがわかる。2008(平成20)年現在では、古町北区が一番多く80名となっている。だがこの多くが、名前だけで実際の活動に参加していない人であるため、実質は40名程と他の区と変わらない。
4.2 変わる配置 
写真2と3はそれぞれ、1958(昭和33)年、2008(平成20)年のものである。50年前の写真2では、地方(じかた)は板で作ったバンコと呼ばれる台の上の上で演奏していた。中心には柄の長さ3メートル、傘の直径3メートルもある大傘を挿げ、傘持ちはその柄を支えていた。傘の周りには主旋律となる唄い手が一人、つけと呼ばれる歌い手が両脇に立ち、3-4名の唄い手が唄っていた。バンコの前に三味線が並び、太鼓はバンコの隣に位置する。写真2の当時、これら地方(じかた)は、輪の中心で演奏し、その周りに提灯を配置し、踊り子がその周りに円を作って踊った。 
ところが現在、写真3のようにバンコはなくなり、演奏が円の外で行われるようになっている。つまり、提灯を配置しその周りで踊る。バンコの意味やなぜ消失したかについては不明である。バンコは使用しなくなったが、大傘とそれを支える傘持ちがおり、唄い手がその下で唄うところは変わっていない。日若踊は盆踊等神仏の前で踊られていたため、この大傘が立てられたところは、神仏の霊が寄るとされ、清浄の地であるということを標示するためのものであるといういわれがある。
4.3 衣装の変化 
1928(昭和3)年の復興以前、「本踊漂布」と呼ばれるさらしで作られた浴衣を着た時期があった。その後、各々の衣装で踊られるようになり、1958(昭和33)年の文献によると、当時の踊子の服装は各区・組ともにそろいのものになっている。その多くは、御殿勤女風の着物を着、黒帯を締め、カッポンといわれる履物を履くというものであった。また地方(じかた)については、男女ともそろいの浴衣で・角帯・裏無草履とされている。貝島組だけは、踊子・地方(じかた)を問わず、男性は紋付・袴、女性は裾模様紋付・振袖であり、裏無草履を履いていたそうだ。 
写真4の帯は、北区でされていた矢立結びと呼ばれる、ちょう結びにした帯をわざと斜めにしたものである。現在、各区でどのような衣装が用いられているかは、次のとおりとなっている。基本的に夏は浴衣、冬は着物であるため、生地が異なっているのはもちろん、区ごとにデザインが異なっている。 
50年前、区ごとに衣装が統一されて以降、各区の名前が入った着物及び、帯の結び方が引き継がれている。写真5のような、矢絣と矢立の組み合わせは、昔の御殿勤女中の格好だそうだ。写真4の着物は矢絣でないことから、古町北区については、正統に戻るということを意識しているようだった。 
古町中区の60代の女性に、「帯はいつからこの結び方なのか」という質問を行なったところ、「昔から」と答えてくれた。つまり、現在は各区の決まった衣装として定着してしまっており、どのような経緯で採用されたかは分からない。だがこれも、続けていくと伝統になるだろう。たとえ続かず、新しいものを採用したとしても、風流的伝統となる。
4.4 変わりゆく唄 
西田幹子(83)さんは、「昔はもっとゆっくり踊っていたのよ」と現在の踊を見ながら話していた。これから、唄や踊りのテンポも変化していることがわかる。唄う唄、残っている唄についても年代ごとの違いが見られる。1864(元治1)年に書かれた「末長き芦川音頭」が、庄野直義によって1915(大正5)年に書写されたものが残っている。この中には、本手の唄が16入っていた。また、1928(昭和3)年に村上福太郎の監修によって書かれたものの中には、思案橋が8、本手が11残っている。 
現在、外町区・貝島組は廃れ、古町区は北区・中区に分かれているが、それぞれに違いがある。表4は、記録されている唄の数の変遷を示している。どの区にも、思案橋と本手が伝わっている。古町組は、1958(昭和33)年の時点で北区・中区・貝島組に分かれているが、本手の基唄は「加賀の千代」である。この年の文献には、古町北区及び中区はまとめて記述されている。この三区は、基唄が「加賀の千代」という一つの唄であるにもかかわらず、唄の数が異なっている。「直方日若踊」によると、貝島組の本手として残っている16の唄は、「末長き芦川音頭」に記録されている唄とは異なる唄で構成されているようだ。 
1958(昭和33)年、1983(昭和58)年については、それぞれの文献に残っている唄の数である。実際にどの唄が日常的に唄われていたのかについては分からない。また、2008(平成20)年においては、台本に残っている唄の数を記述している。実際に唄われている唄については、資料7に記載されているとおりである。その外、貝島組と外町組は、廃れてしまっている。 
唄について、3つの地区を比較すると次のことがわかる。 
まず、1つの区切りを呼ぶ名称に違いが見られる。一節や一調と表現されるが、どちらの範囲も変わらない。本手・思案橋、どちらにおいても1つの固まりを節や調で表すのだが、踊る範囲や量は異なっている。どの唄をどのくらい唄うかには、区ごとのこだわりが見られる。例えば資料7にある、古町北区の思案橋おどりの中の(祝い)(盆)の区別は、唄の内容が異なるからだ。「若松様〜」の唄は、基本的にお祝いの席で唄われるもので、死者供養には似つかわしくない。そのため、盆には「北山時雨〜」を唄うということにしているようだ。 
本手は、基唄が異なるため、地区によって唄われる唄や譜面が大きく違っている。一方思案橋は、先で触れたように起源が同じで、同一の歌詞を使っている。にもかかわらず、資料8・10によると、2つの思案橋の譜面は若干の違いが見られる。現在の三味線の楽譜については、に記載してある。具体的には、始め方、終わり方、本手とのつなぎ方などが異なる。例えば古町は思案橋と本手をそれぞれ区切って踊る。思案橋には始めと終わりがつくことになる。それに対し新町は、思案橋・本手とそれぞれ区別せず、1つの流れとして踊る。そのため始めと終わりがなく、思案橋と本手がつながる1つの唄となる。 
唄がどのように唄われ、変化していったのかについては記録として残すことが難しく、残っていない。だが、古町組という1つの地区の唄「加賀の千代」は、北区と中区に別れた現在、それぞれの唄い方というのがあるようだ。簡単に言うと、北区は低い声が主旋律となり、中区は高い声が主旋律となる。この違いは、一世代上でそれぞれ主旋律を唄っていた唄い手の、唄い方の違いによるものである。この違いがそれぞれの区の特長として引き継がれているのは、区の年配者が「北区の唄い方は低いのが本当なんよ」と言った言葉によるものであろう。 
また音の変化には、他にも理由が存在する。それは古町北区の三味線の皆さんの、「今は譜面として残っているが、昔は手写しだった」という語りから見られる。毛利良幸(52)さんによると、資料8・9の現在古町北区に伝わっている太鼓と三味線の譜面は、元々中区のものであったそうだ。それを引き継ぎ、古町北区に伝わる練習用テープを聞いて手を加え北区のものとして使用しているそうだ。このような譜面として起こされたのはここ十数年程で、それ以前は手写しで習い、口三味線で覚えていたという。口三味線とは、三本の線をそれぞれチン・ツン・テンと呼び、全部を弾く時はシャンと表現して音を口ずさみ覚えるものである。その為、音の取り入れ方に銘銘の違いがあり、少しずつ変わっていく可能性のあるものであった。
 
お糸地蔵物語1 / みたままつり(御霊祭り)

月おくれのお盆、八月二十四日の晩、ここは呼野 大泉寺本堂前の広庭、語り伝えそれを受けついで二百七十年、今もなお行き続けている「お糸地蔵さんの盆踊り」が、今宵にぎやかに繰りひろげられている。時々、打上げ花火が夜空にはじける。はやし太鼓と鉦(かね)の音にのって、音頭が流れる。そして、踊りがはずむ。 
語り口調の口説の音頭は、高いやぐらの上から鉦と太鼓のリズムにのって、大きな踊りの輪になげかけられ、踊り子のはやしことばは団扇手拍子にさえて、寺の広庭にこだまし、踊りをもりあげる。 
お寺の本堂には香煙ただよい、万燈おぼろにゆらめく中、年に一度のご開帳と、お糸地蔵尊縁起書の披露とあって、本堂いっぱい、ぬれ縁までぎっしりと、殊勝にぬかずく善男善女の前に、お糸地蔵菩薩のご開帳とともに、お糸地蔵尊縁起書の朗読が、正装の当寺住職によって、朗ろうと読み上げられ、その声が信徒の唱和するお念仏の声に和して、厳かに流れ、ありし遠い昔の哀史を彷彿と呼びさますにふさわしい情景である。 
「そもそも壇上に安置し奉る、お糸地蔵菩薩の縁起を尋ね奉るに、その昔当所に在る所の日会合の池と申するは、もとは冷井川と申して池には非ず、しかるに小森村と当村の願いによって、これを築き止めしものにして、その時の役人大庄屋と申するは、頂吉にありし人がここに堤を築かんことを願い出でたるところ、これもっとものことなりとて、それより小倉郡役所に願出でたるところ、お上においても速にお聞きずみに相成り、時の御手代に北谷勇蔵と申す人、検分に参られ相済みければ、両村の人々大いに喜び、さらばこれより土僕に頼み築かんと同郡伊川村に平蔵と申す者あり、この者は元は長州大島郡の人にして、土木構築の技術士(わざし)なり、これを頼み棟梁として、二千人の人夫にてついにこれを築き止めたり。 
しかるところはるか星霜を経て、洪水にて土堤度々切れその度毎に穀物実らず大飢饉となり、両村の人々大いに嘆き、この度は如何せんと評定の折柄、当村に文次朗という人あり、この者に一人の娘あり、その名をお糸と申す、この娘八才の時に父文次朗に死に別れ、その後母の養育にて日を送りける。 
しかるに右の池の土堤度々切れけるに、更に築き止め難し 
その時この文次朗の女房、両村の人々にもうしけるは、わが夫文次朗生存の時の物語に若き時より詰所の方々に、土僕として雇われ行きしが、池の土手と言うものは築止め難きその時は、人柱をもって築く時は必ず築止まる者也、すでに先年筑前遠賀の郡がん田が池というは人柱を立てて築止めたりと、夫の語りしこと耳底に止まり、よって当所の日会合の土堤にも人柱を立てて築いては如何ならん、と言われければ両村の村長はじめ人々これを聞き、如何にもそれはもっとものことなれども、もし人柱のくじびきにでも致せば、一人の娘、一人の悴(せがれ)ある者は、たとえ池がかりの田は作らずとも、われわれはこのことは止める。 
と言ってそのまま打ち過ぎけるが、ある時お糸、母に向って申し受けるは、両村のためになる池の人柱、何卒わたしを立ててくだされと申しければ、母は聞くより唯(ただ)呆然として夢地を歩く心地にて、只いとし娘のお糸の姿を見られしが、なおもお糸は母に向かい、そなたが申し出たる人柱のことなれば、是非に一人は立てねばならぬ、この役目多くに人の名代に是非にわたしを立たせておくれと、しいて申しければ、母も自分より申し出したることなればと今は致し方なくこの旨、両村の村長に申しいでければ、すでに両村一致し、あわれなるかなお糸は「当年、十四つぼみの花・」 
縁起書の朗読は なお つづく 
なみいる信徒の肩がゆれて大きな吐息がもれ、「いとしお糸の面影をしのび」、ありし昔の人々が、「人柱を立てねばならぬほどまでも、追いつめられて生きていた、くらしの情景が廻(かい)灯(とう)篭(ろう)」のように、「人々の瞼のおく」に、展開される。
お糸地蔵物語2 
やがて輿が斎場に着き、入寂の儀は僧侶の読経によって始り、そのおごそかな読経の声は、群衆のとなえるお念仏の声と、それにまじって聞こえるおえつの声にかき消され、人々の視線は涙にかすむ。その中に、おぼろに見ゆる菩薩の姿、しずしずと僧侶に付き添われ、土堤底に安置された入寂の棺に消えていった。 
しばらく読経が続いた。それよりも群衆の唱える南無阿弥陀仏のお念仏の声は、次第次第に高まっていくばかりであった。 
縁起書に「ただ念佛の声ばかり、誰一人土をかける者もなく哀を催しけるに斯(こ)くてはならじと役人より、一番の土をかける者は土堤築き棟梁の平蔵他と、申されしかば、平蔵は涙ながらに南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏を唱えて声詰らせて、今日の役目なれば詮方も無しと、一番土をかけにけり、その時母親おたねは、真向の豊前坊山に登り岩の上より是を見て、お糸お糸いとしと泣き明しけるは哀れの次第也、依って、今に至るまで其処を呼石と云うは此謂也」 
それからおたねは三晩三日、お糸、お糸と呼び続け、その三日目の夕方、西の空に瑞雲たなびき、その雲の上に菩薩のお糸。 
あっ、お糸が、お糸が、お地蔵菩薩さま、お糸が地蔵菩薩に・・・と叫んだ。 
その時、母親おたねの眼に映ったお糸、それは紛れもないお糸地蔵菩薩のお姿。 
おたねは両手を合わせて伏し拝み、かけたお数珠が切れよとばかりもみ合せ、眸の奥の瞳がすずしく開き、やつれ顔がほころびて、晴ばれと天を仰いだ。 
それはその時、お糸が昇天した時であったであろう。 
時に、享保二年旧暦七月二十四日(1717)のことであった。
お糸地蔵物語3 
池の復旧工事は始まった。 
恵日比野、小森両村の村人総出、それに下流の百姓たちも、上流に池があれば、間接的に恩恵のあることを承知していたから、なるべく暇をつくって応援した。 
今度こそ絶対切れぬ土堤を築こうと、土堤築工事の棟梁、伊川の平蔵を招いて監督を依頼した。 
村人も土方工事が度々重なったこともあって、仕事の段取りも中々うまくなった。土堤築棟梁平蔵との意気もよく合った。 
まず池に流れ込んだ土砂の運び出しから、切れた土手の底堀から始まって、工事は日に日に進んだ。 
お糸も毎日のように仕事に出て、もっこに土入れなどして働いた。 
母親のおたねは、力仕事は慣れぬため、大層の仕事は出来なかったが、家で機織りばかりもしておれず、時々現場に出て来て、もっこや、えぶしょうけの破れなどを修繕したり、出きるだけの加勢をした。 
ある日のことであった。昼飯休みの雑談のとき、おたねが何気なしに、 
池の土手というものは、築き止めがたいその時は、人柱をもって築けば、必ず築き止まるものである。それが証拠に、筑前遠賀の神田が池は、人柱をもって築き止め、近くは蒲生の土手も、大水の度毎に切れていたものが、人柱で築き止めたと、このことは、今は亡き夫文次郎が若い時、詰所の方々に土僕として雇われて働いたときのことこの物語りが今も耳底に残っている。この日会合の池も人柱を立てたらよかろうに・・・両村の村長はじめ、その場に居合わせた村人はこれを聞いて 
そりゃもっとものことだ、おれもその話は聞いちょった 
おれもその話は知っちょった、だがよ、その人柱にだれが立つるんかよ 
くじ引きでもするんか、おら、そんなくじは引かねえど 
そうだ、そうだ、くじ引きでもして、一人娘や、一人の息子しかおらんものはなあ、どうすりゃええか 
そんな人柱なんど出来ねえ、たとえ池がかりの田は作らずとも、なんぼ田畑が茅野になろうとも、そんなこた出来ね 
そだそだ、わしどもそんなことは反対だ、でけんでけん 
けんけんごうごう、まるで蜂の巣をつついたようであった。 
生き物が育つこと、それを培(つちか)いはぐくむものが百姓であり、自然に忠実に仕え、そして自然の恩恵を素直に喜び、つねに感謝しながら働くのが耕し人であると考え、自ら神をあがめ、それを敬(うやま)って生きていくのが、百姓である。そのあかしとして、春耕に始まる、苗代田選びの祈りに始まり、苗代ふみの種播きに祈り、早苗をとりわさ植に祈り、田植がすんでさなぼりに祈る。 
そして、秋穫の感謝のお祭り、それこそ、春夏秋冬天に祈り、土神水神を祭り、祈りから感謝へ、何時もいつも敬けんに、ひたすら神を信じて生きる純朴な信仰に生きる、農民は、人柱を信じる心もまた、やぶさかではない。しかし、人である。肉親の情もだしがたくわが身にふりかかれば災難である。とまどいつ村人はなやんだ。 
でも度々つづいた災害のもたらした飢餓のため、多くの栄養失調者がでて、そのための病人、年寄り、子供の弱りよう。わけても乳舌子を抱えた母親は、父も止まり、母子共々やせほそり、何十人かは完全に餓死者であることも、わかっていた。 
穀物といえば、畑に出来る、麦、あわ、きび、ひえの粉まで食った。野を、山をかけずり回って、よもぎ、ふき、せり、つくし、川たけ、だらの芽は言うに及ばず、椎、栗、どんぐりを争い拾うあさましい姿を思い浮かべ、今でさえ食うや食わずの明け暮れに、ずうっと食べ物不足が続くかと思えば、たった一人の生けにえの人柱で、村に人みんなが救われるものならと、あやしく人々の心はゆれうごくまま、何日かたったある日、誰が言うとなく、この堤の仕事に出て来ている人の中で着物のほころびや、やぶれのそくらい(修理)に、横布を当ててそくらったものを着ている者が、人柱に立つと、いうことにしたらどうだろう、そんなことを言い出した人があった。 
そないなと、決めてみるかのう、誰かがそんな相づちをうった。 
それに反対を唱える人はなかった。また、賛成という人もなかったから、どちらに決めたわけでなく、何日か過ぎた。ある日のことであった。山ではがね土を掘ったり、粘土を掘ってもっこに入れたり、そのもっこをかついだり、村人は汗びょしょり働いていた。そのうち異様などよめきが起った。 
腰巻の裾のほころびに、横布を当てた人がいると、誰がそれに気づいたのか、見つけたのか、ワ−、とも、ウ−ともつかぬどよめきであった、一人二人と仕事の手が休みだした。三人四人と寄り合って顔を見あい、ひそひそささやきあっては、盗み見るように、その視線はお糸に注がれた。 
最初どよめきが起ったとき、お糸はなんのことやらと、ポカンとした様子だったが、お糸一人が取り残されて、みんなの視線が注がれていると気付いて、愛らしく、美しいお糸の顔色が、さっと変わった。瞬間両手で顔をかくしながら、一散に走り出した。 
働いていた村人は、誰一人声を出す者もなく、じっとお糸の後姿を見送った。 
かあさん、いのう(かえろう)
お糸池物語4(人柱「お糸」伝説/稗粉池・小倉南区・呼野) 
北部九州は豪雨災害、梅雨明けの大幅な遅れ、日照不足、そして短い夏だった。 
標高350〜700mにかけて広がる雄大なカルスト台地・平尾台の麓にある、北九州市小倉南区呼野の大泉寺で8月24日、伝統行事の「お糸祭り」が行われた。 
今を去る291年前、江戸の中期、享保の時代。この地の稗の粉池の堤が、度々決壊し、住民の嘆きを知った、当時14歳、花なら蕾の娘「お糸」が、自ら進んで人柱になることを申し出て、尊い犠牲となり堅固な堤が築造され村落を救った。以来、人々はお糸地蔵尊と崇め、両親のお墓のある大泉寺で、「おいとまつり」が行われるようになり、彼女の霊を慰める。池を見下ろす高台にある寺には、この哀話を伝える「於糸地蔵縁起」が伝わる。 
これを基にした「お糸地蔵口説」や盆踊りも伝えられている。戦後に「おいと地蔵音頭」(阿南哲郎・作詞 永田よりまさ作曲)もできて、お糸の伝承は時の流れに忘れ去られることなく、地域の人々の努力で、今では伝統芸能として、脈々と里人の心に受け継がれ、生き続けている。これらは、年に一度の、夏の終わりの供養の祭りで披露される。 
祭りの日の正午過ぎ、稗粉池(お糸池)の端に、数十畳敷くらいの広さに突き出た、小さな緑の中島の水神様の前に、村人相集い、宮司の祝詞や直会(なおらい)の神事もある。カルスト台地から流れ込む清水をたたえた池に浮かぶ緑の小島での、村人のささやかな集いは、遠く神と人とが一体であった、自然の中の暮らしの一幕を垣間見る思いがする。夏でも、谷すじの日暮れは早い。夕映えの残る空に三ヶ月がかかり、大泉寺では、お糸地蔵供養の読経と「於糸地蔵縁起書」が寺の方丈(石橋隆典・住職)の朗読によって奉納される。仏事も終わる頃には陽も落ち、狭いお寺の境内に櫓が組まれ、飾り提灯の灯りの下で盆踊りの輪ができる。冒頭の「お糸地蔵音頭」は哀話が内容であるだけに、しんみりと哀調を帯びた曲調、しっとりとした振り付けが特徴で、この東谷(呼野、石原町)地区だけにしかない盆踊りである。一方、口説による盆踊りは、広く旧企救郡(ほぼ現在の小倉南区)一帯に伝わっている踊りの中でも、長行(おさゆき)地区の「能行口説」を手本に、その七五調を取り入れて作詞されたという。民謡調盆踊りで、歌詞にはお糸物語が叙事詩的に歌いこまれ、大人も子どもも夜の更けるのを忘れて踊る。 
今年のような気候不順な年の祭りは、ひとしお、天神、地神に雨乞い、日乞いの祈りを捧げなければならなかった遠い昔へ、人の心を遥々と導いてくれる。仏教が伝わってからも、全国、津々浦々の祭りの中に仏教的要素も取り入れられ、豊葦原の瑞穂の国といわれた豊かな自然の中での暮らし、信仰、習俗が営々と積み上げられて今日があることを、あらためて思い起こさせる。私たち稲作民俗の先祖の時代は、収穫したお米は、まず神にお供え(神饌)してから頂く、神聖な食物だった。誰でも食べられるようになってからも、天つ神に感謝と畏怖の気持ちをこめた、五穀豊穣、万民安穏の祈りと願いが、こうした祭りに流れていることを教えてくれる。人柱や生け贄(にえ)は、決して架空の物語ではない。 
ふる里の祭りは、ありがたきかな。盆が終わり、夏が行く。いわし雲が美しい秋がくる。 
   枯れることなく稲穂はのびる 村も栄える 村も栄える人柱
お糸地蔵尊「人柱」5 
豊前の国、小倉の、城下から南に、五里半程行った所に、 
企救の郡、呼野と云う所がある。此処に一つの、堤がございます。 
呼野、小森の、田畑に、水を引く、大事な、堤で、ございます。日会合川を、 
堰止めて、作った、人工の池でございます。 
   或る年、大洪水で、堤防が、決壊して、田畑が、流されて、しまいました。 
   あくる年、田植えが、終わって、さなぼり「農閑期」に、入って、居ました。 
   夏至も過ぎた頃、又、大雨に、見舞われて、堤防が切れて、しまいました。 
   人々は、その都度、直しに、行きましたが、翌年も、翌翌年も、切りがない。 
そこで、村人は、評定「会議」を、開きました。 
昔、呼野に、文次郎と云う、男が、住んでいました、妻おたねとの間に、 
お糸、と云う、一人娘が、いました。きりょう、が良くて、心も、良い。 
日々楽しく、暮らして居たが、お糸が、八つの時に、父の文次郎,亡くなってしまう。 
   母と、寂しく、暮らしていた。文次郎が、生前、筑前の国、遠賀の里の、 
   がんだが池は、人柱を、立てて、その後、切れなく、成ったとか、 
   誰かが、云うた。人を、生きたまま、埋めるのである。 
   そのころ、人々は、野山の物をちぎり、飢えを、忍んで、いた 
母に、付いて来ていた、お糸は、傍で聞いていた、 
私を、柱に、してください。母は、驚き、何を云うか、これお糸。 
六年前に、夫を、亡くし、一人暮らすも、お前の、為よ、 
いままた、お前を、亡くしたら、母さん、どうすれば、良いのか。 
   お願いだから、そんな事、云うのは、やめてくれ、 
   だけど、父さん、死ぬ時、私に云うた、人間、何時かは、死ななけゃならぬ、 
   どうせ、死ぬなら、人の為に、なりなさい。お糸の、決心は、固かった。 
   母は、泣く泣く、願いを、聞き入れる。お糸地蔵に、成るように、決まる。 
地蔵姿に、改めまして、髪に、瓔珞、白無垢姿、白い、笈摺、手っ甲、脚絆 
右手に、尺杖、左手に、お数珠、輿に、乗せられ、村中を、回ります。 
廻り廻って、土手に、着いて、紅葉の様な、両手を合わせ 
西に、向かって、念仏を、となえ、もし皆さま、死んで行く身に、望みは、無いが、 
   後に、残った、母さまを、御頼み、致します。これを、きいた、村人はじめ、 
   係り役人、ただ泣くばかりでした。これじゃ、ならんと、役人さんが、 
   早く、土を、掛けろ、と、命ずる、それで村人は、土を、掛け始める。 
   この時、母は、その場が見下ろせる、岩山の上から、お糸、お糸と、泣き叫んでいた。 
3日3晩、泣き明し、ふと下を、見れば、「アッ、お糸が、お糸の、お地蔵様だ」 
お糸が、地蔵様に、なって、昇天するのが、見えた、母親の目に見えた、地蔵尊。 
母は、それを、ひれ伏し、拝み、晴れ晴れと、天を、仰いだ。 
お糸十四歳、享保三年旧暦の七月二十四日の事である。
 
延年

延年(えんねん)を一言で言えば、中世の寺院で、法会の後の法楽として演芸大会のようなものが催され、その余興として演じられた芸能である。1つの芸能ではなく、舞楽・散楽・風流・風俗歌舞・猿楽・白拍子・小歌など、演じられた芸能の総称であり、雅楽風の演出・演目の中に庶民的な芸能を混ぜた、いわゆる貴族芸能と庶民芸能の混合体である。法楽として行われた芸能の歴史はかなり古いと考えられているが、延年という語が文献上登場するのは平安時代中期頃からであり、延年が定着・普及を見せるのは鎌倉時代に入る頃、興隆期は室町時代のことである。 
延年の語源は「遐齢(かれい)延年」という延命長寿の意味を持つ語から派生したもので、芸能により心を和らげることが寿福増長に通じることから、長寿を祈願し、福を求める芸能とされる。室町時代初期に成立した初等教育用の教科書「庭訓往来(ていきんおうらい)」の二月の条に「詩歌管弦者遐齢延年方也」とあり、ここから遐齢延年の語が採られ、後に遊宴芸能を指す言葉となった。延年は、時代に応じて内容的に変遷をみるため、初期から興隆に至るまで、時代に沿って説明を試みることにする。 
初見される平安中期の延年は、延暦寺・東大寺・興福寺などの京都・奈良の都周辺にある大寺院で、賓客・貴族接待の際や大法会の後に、下級の僧や稚児により遊宴歌舞が披露された。当初は寺院芸能の本質といえる美童観賞、平たく言えば稚児(美童)の舞事が主体であり、「遊宴」「乱遊」などとも呼ばれた記録があるので、この頃は余興的色合いが濃く、公演というより内部的に催されたものと思われる。これが法会とともに周知のものとなり、人気を博し始めると、芸能として次第に確立し、観衆を楽しませるためのものに変容していった。 
鎌倉時代初期には、遊僧(ゆそう)と呼ばれる諸芸能に優れた専業僧が現れ、中国故事を題材とした、劇としての構成を持つ「風流」「連事」「開口」「当弁」の新趣の芸能を演じ、この4演目が主体となる。 
「風流(ふりゅう)」とは、華美な装束や舟・山などの大きな作り物を用いて説話の舞台化を図ったもので、一般に風流といえば、趣向を凝らした風情のあるもの、その心(美意識)を用いた踊・祭礼の造り物・練り物などの総称である。登場人物の問答の後、歌舞を行っていたが、後にこれが発展して仏教故実を多く扱った「延年風流」になり、大風流と小風流を一日に1つずつ披露する形式に変わってゆく。大風流は魚・鳥・獣・虫などに扮した「走り物」と呼ばれる着ぐるみが出る演出が特徴的で、特に魚が人気だったという。 
「連子・連事(れんじ・つらね)」とは、言葉や歌を双方の遣り取りで連ねてゆくもので、舞台上の位置の変化を伴いつつ対話と歌謡を交錯したもの。当初舞は加わらなかったようだ。 
「開口(かいこう・かいこ)」とは、一山(寺院)を賞賛し、その延年のいわれを述べるもので、一山の頂点に立つ長吏が入寺・拝堂の際に催された最初の演目の類である。能の「翁」と同様の姿で司会のような役割をするものが多い。 
「当弁・答弁(とうべん)」とは、当意即妙に秀句を述べる、洒落を中心とするもので、特に開口の翁と対になり、問いに対しアドリブで受け答えをする類が多い。後には形式化して唱え事をしながら優雅に舞うものになったようだ。 
これらは現在、各地の寺院に細々と残る延年の演目の中にも散見することができる。 
前述の延年専業者である遊僧・濫僧(狂僧)らにより、次第に猿楽・田楽・白拍子・舞楽・風流・今様・朗詠・小歌など、様々な雑芸が取り入れられていった。演目はその時々の流行により変じて演じられ、そのうち寺院内の遊僧・稚児の他、専門芸能者である猿楽者・田楽者らも加えて行われるようになった。興隆期である鎌倉〜室町時代には規模も大きくなり、更に演目も多くなり、数日に渡って行われるものもあった。雑多な演目の中で、特に舞の要素の強いものは「延年の舞」、演劇的な要素の強いものは「延年の能」と呼ばれた。 
「延年の舞」は、他の芸能の中に吸収されているものもあり、そこから往事の延年の様子を伺い知ることができる。能の謡曲「安宅(あたか)」に、弁慶が踊る男舞としての延年の舞が特殊演出として踊られることがある。「安宅」を原作として作られた歌舞伎十八番の「勧進帳」にも、見せ場の一つとして弁慶役が延年の舞を踊る場面がある。弁慶が元々比叡山で延年舞の芸能僧であったという、「安宅の関」の故事に因るものである。寺院の延年芸能が能楽や後の歌舞伎に影響を与えた痕跡を見ることができる。 
「延年の能」は、能の原型である猿楽の能と最も似ており、関連が深く、互いに影響し合ったことは間違いない。その形式などは猿楽に吸収され、後に世阿弥によって能楽として大成されてからは幕府の庇護を得たため、延年の能から遠ざかってしまった。起源としてどちらが先かは諸説あるが、能楽先行とする意見が主流である。延年の能は、現在継承されている能楽には見られない、古い形式の猿楽能の面影を現代に伝えているといえる。 
最盛期の頃の延年は、「延年風流」と呼ばれる演劇的な出し物が主体であった。延年の見せ場の中心が、華々しく装飾された舞台装置や仮装した登場人物にあったためで、「大風流」と呼ばれた曲(演目)には、「風流」で前述したように鳥獣の被り物の「走り物」が登場して舞い、最後は舞楽で締められた。「走り物」は、延年が能の演出を採り入れて成立させたものと言われている。「小風流」は登場人物の台詞の遣り取りの後、歌謡により引出された稚児が白拍子舞を演じた。どちらも舟・山など大きな作り物が舞台装置として出され、華美な衣裳が用いられた派手な見世物として定着していた。二階建ての大きな装置、可動式の山車のような装置など、大掛かりな舞台装置が使われることもあった。この派手な舞台装置の発想は、後の歌舞伎に吸収されていったと考えられている。 
さて、話の舞台は場所に移る。奈良県桜井市多武峯(とうのみね)にある談山神社(たんざんじんじゃ)が所蔵する延年諸本は、室町時代に成立した最古の演劇台本として有名で、県の文化財に指定されている。多武峯大明神を改称して談山神社となったのだが、多武峯は古くから猿楽(能楽)史上にも登場し、八講猿楽(はっこうさるがく)の神事は今日も有名である。ここでの延年は全国最大規模を誇る盛大な(紅白歌合戦のような)演芸大会であったという。大和猿楽四座の観阿弥が所属していた山田座(寺)は談山神社の末寺であり、世阿弥が残した著述の中に「年に一度、多武峯で演能しない者は芸能者としての資格を失う」と記されるほど、芸能者にとって大切な場であったようだ。談山神社は携帯電話の電波も届かない山間にあり、現在は紅葉の名所として知られている。 
能楽が観阿弥・世阿弥父子により大成された後、支配者層である武家階級が能楽を式楽として手厚く保護したことなどが要因となり、延年は徐々に衰退してゆき、江戸時代にはほとんど演じられることがなくなった。現存する延年は40曲余りであるといわれ、現在では、岩手県平泉毛越寺、栃木県日光輪王寺など、幾つかの寺社で行われているのみであり、それらも延年のごく一部が残っているに過ぎない。その中で最も整った形で伝承され、内容的に豊富なのが、毎年1月20日の夜に行われている「平泉毛越寺の延年」であり、国の重要無形民俗文化財に指定されている。祝詞(のっと)に始まり、田楽躍・若女(坂東舞)・路舞(唐拍子)・児舞(立合)・老女・勅使舞(京殿有吉舞)・舞楽などが演じられている。これら以外に延年の能と呼ぶべきものが数十番あったと言われているが、近年まで残されたのは「留鳥(とどめどり)」「卒都婆(そとば)小町」「女郎花(おみなえし)」「姥捨山(うばすてやま)」の4番のみで、これを2番づつ交互に演じられていたが、舞まで完全に残されておらず、現在「留鳥」のみ復興された。このように能楽大成以前の古い能の謡曲が4番まとめて伝承されているのは貴重である。 
毛越寺の延年は摩多羅神祭(またらしんさい・またらじんさい)とも呼ばれている。中世期に摩多羅神信仰が高まったといわれ、様々な摩多羅神祭が各地に伝えられているが、秘仏(秘神)であるためか実態が明らかにされておらず、この神の出所も由来も不明のままである。天台宗の僧・円仁が中国(唐)から日本へ請来したものとされるが、道祖神・道教・密教など、その神のとらえ方も様々で、多様な位置付けがされている。猿楽をはじめとする諸芸能者にとって、何故か古の芸能神として信仰され、一部には申楽の祖・秦河勝(はたのかわかつ)と同一視されている。烏帽子を被り、狩衣姿でにこやかに鼓を打つ姿で描かれる摩多羅神は何者なのか。中世芸能を扱っていると時々目にするのだが、未だ実態が掴めぬままである。 
上述の摩多羅神に関して結論が出ぬままですっきりしないのだが、まとめに入ることにする。 
芸能とは観衆があってこそ発展してゆくものであり、また理解者があってはじめて存続が許される。現在まで延年が細々としか残されなかった背景として、この芸能を要望する声の減少・衰亡を思うのである。能楽が大成して以来、延年と同様、衰亡した芸能は数多くあるが、生き延びる術は無かったのだろうか。国として宗教や芸能の統一化を図るのは、現世の日本では想像できない。経済大国として現在の国の姿が出来上がる過程で消失してきた無形文化遺産の価値は大きい。今更ながら復活を試みても時既に遅し、当時の姿は蘇らない。 
次世代が培うであろう新たな文化を生み出す力同様、既存の文化を保存・継承してゆく意識を持たねば無形文化の生き残る道はないことを再認識している。  
 
日本人と祭り

部分部分がデフォルメされて多種多様に 
日本には一年を通じて、実に多種多様な祭りが各地にあります。祭りには、本来の伝統的なものもあれば、地域のイベントとしての祭りもありますが、本日は伝統的な祭りについて、先生のお話を伺いたいと思います。 
まず初めに、そもそもいわゆる「お祭り」とは一体何なんでしょう? 
大石 全国にはさまざまなお祭りがあります。しかし、多種多様に見える祭りであっても、本来はどれも同じものなんです。元々の語源は神様を「祭る」という意味で、神をお迎えし、もてなし、喜んでいただいて、お送りするというのが原点ですね。 
いろいろな祭りがあるように見えるのは、そうした祭りの儀式全体の中から、ある部分だけが切り取られ、時代とともにデフォルメされていったからです。 
祭りの儀式の一部だけを切り取るとは、例えば? 
大石 儀式とは、「精進潔斎・お迎えの儀礼・直会(なおらい)・宴会」という部分から成り立ち、一連のものになっています。 
例えば、「精進潔斎」とは、この中で、神をお迎えする前に身を清めることですが、これが特に強調されたものが、裸祭りといわれるものです。 
次に、神様にお供え物をしてもてなす「お迎えの儀礼」が続きます。これで有名なのは、香取神宮の大饗祭ですね。 
また、神を喜ばせるためにできたのが「芸能」です。芸能を神に奉納したり、逆に神の姿に扮して芸能を見せて、祝福したりする。この部分が多彩な種類に分れて、日本全国のバリエーション豊かな祭りが生み出されました。 
お神輿(みこし)を中心とした祭りも全国各地に多いと思いますが、あれは…? 
大石 はい。お神輿とは神様をお社からお神輿にお乗せして、村の中を渡り歩いていただくという意味があるんです。そして、最後には神様を神社にお送りし、御魂をお戻しし、帰っていただきます。 
関東で有名な、浅草・三社祭のお神輿などもそういうことだったんですね。ところで、「直会」と「宴会」は? 
大石 直会は、神様と一緒か、お帰りになった後か、いろいろ形はありますが、神に供えたお供え物を人々が食べることをいいます。それを「神人共食」といいますが、昔の祭りでは、本来この直会や宴会が重要な意味を持っていたのではないかと考えています。 
祭りは人々を結び付ける 
祭りの本来の意味が、分ってきました。 
ところで元来、祭りは人々の生活の一部というか、生きていくための拠り所でもあったと思うのですが、現代では、そうした意味合いが変化してきているように思います。ともすれば、観光のための祭りになっている感もある…。 
大石 観光化が進むこと自体は、多くの人が祭りを喜んでくれることなので、決して悪いことではないと思います。大きな祭りを見物することは、盛り上がりもすごいですし、熱気も楽しめますからね。でも、自分の住んでいる地域の伝統的なお祭りに参加すると、もっと楽しめると思いますよ。 
祭りの縁起やいわれを知っていれば、もっと心で感じ、感動も深まると思います。さらに、自分が歌や踊りなどに参加すると、伝統芸能への興味も自然に生れるのではないでしょうか。 
たしかに、地域の伝統的なお祭りを見ていると、みんなで稽古などをするうちに、世代を超えたコミュニケーションも生れ、地域の人々の繋がりが強まっている様子が感じられますね。 
大石 そうなんです。祭りの芸能や神輿などを通して、人間が繋がっていくのです。そうした意味でも祭りを理解し、祭りに親しんでいけるような環境が大事です。例えば、小・中学校でそうした教育環境をつくることができるといいですね。 
そういえば日本の学校では、あまり邦楽や芸能は教えていないですね。 
大石 はい。明治政府は日本の伝統的な音楽や体育を捨て去って、西洋のものを取り上げたわけです。例えば、五線譜の楽譜や海外民謡のフォークダンスのように。 
しかし、今は、教育の現場も固有の文化を見直す風潮が出てきていて、独自の授業を創出している学校も増えてきています。体育や音楽の先生が、日本の伝統文化を教えられる日が来ることを望んでいます。 
ちなみに岩手県では、小学校の6割、中学校の3割で、例えば地域のお年寄りに頼んだりして、課外授業で伝統芸能を教えているのですよ。県民性もあるのではないでしょうか? その中から、祭りを心から好きになる子供が出てくればいいですね。 
万葉集にも垣間見られる祭り像 
そうした中で、いわゆる郷土愛とか、愛国心みたいなものも自然に育っていくのだろうと思います。ところで、先生はもともと国文学がご専門で、特に万葉集のご研究をされていると伺ったのですが、祭りと万葉集はどうつながるんですか? 
大石 万葉集の中に描かれている世界の多くは、生活の場に根ざしていると考えられます。読んでいると、万葉の風景や人々が生き生きと浮かび上がってくる。その中で、当時は神と人との結び付きが強く、生活の中に祭りがあったんですね。そこで祭りに関心を持ち、研究をするうちに、のめり込んでしまったのですが、私自身も元々お祭りが好きでした 。 
ご研究ばかりでなく、ご自身もお祭りに参加されるとか? 
大石 はい。盛岡の「さんさ祭り」では、盛岡大学からも今年は500人が参加して踊るのですが、私が先頭に立って、提灯をもって先導しながら踊るんですよ。
 
盆踊りの所作

T 研究目的  
「盆に招かれてくる死者の霊を慰め、また送る踊」1)である盆踊りは、「平安時代に空也上人によって始められ、鎌倉時代に、一遍上人に受け継がれた踊躍念仏が、時宗とともに、民間に広まり、室町時代に盆踊りに展開したものとされる。」2)  
念仏踊りの動きの特徴について、三隅3)は次のように述べている。  
念仏踊りはとんだり跳ねたりで、足を上げ、そして合掌する。手を合わせたものからその手をすり上げたり、下へおろす。そして前へ進むときにはものをつかむようにこぶしを握り、ついでそのこぶしを開いて、ものを払うような、投げるようなかたちをする。そのときは、うしろへ半歩退くような動きをし、それからまた前へ向いて、また合掌したり、手を前に振り込んだりする。そしてまた集団で踊りますから、どこかでけじめをつけないとみんながそろいません。ですから、動作が一巡したところでチョチョンガチョンというふうな手拍子を打ったりします。大体ワンフレーズが六つくらいの動作です。  
また標準日本舞踊譜4)では、日本舞踊5)の所作を、A:基本ノ姿勢ト動作、B:本来意味ヲ持タナイ姿勢ト動作、C:主トシテ意味ヲ伴ッテイル姿勢ト動作、に分類している。盆踊りは、Cのなかの、CT:人間ノ姿勢ト動作ヲモトニシタモノ、さらにその中の、CT3:信仰・芸能・遊戯ナドに分類され、動作番号「794」として示されている。(図@6))その所作は片手を顔の横斜め上に伏せかざし(ながめ)(図A7)参照)、片手はかざした手の袖口に添えた動きである。盆踊りという意味を示す所作がなぜこのような動きなのであろうか?  
 図1  
 図2 ▲かざす / 反らした手を上にあげること。  
 図2 ▲ながめ / 手のひらを内側に少し曲げるようにする。  
筆者は今までに、土佐を起点として、四国、近畿地方における盆踊り以外の念仏・風流系芸能を対象に、「祈る」という表現がどのような足の所作によって行われているのかを明らかにしてきた。8)それは、A:三歩歩く、B:両足を揃えて膝を屈伸する、C:片足を軸足の前で交差させる(× 綾をつくる)を基本的な足の所作とするものであった。  
念仏・風流系芸能である盆踊りの中で、「祈る」という心象はどのような所作によって表現されているのであろうか?これまでに明らかにされてきた念仏・風流系芸能にみられる足の所作とどのようなかかわりを持っているのであろうか?  
また、盆踊りは、団扇、扇子、あるいは手ぬぐいを持って踊ることもあるが、ほとんどは、手に何も持たずに踊る<手踊り>である。歌舞伎踊りのなかの<手踊り>について、郡司9)は次のように述べている。  
物真似の振りに対して、解釈すべき意味をもたない体操的な踊りで、しかも扇や手拭などの持物も使わない踊りに<手踊>がある。これはかぶき踊りが民俗舞踊から採り入れたもので、能にはない躍動美をもち、一人でおどっても、大勢のなかの一人という意味をもっており、解放感をともなった、ひなびた美しさをもつものである。  
郡司の言う民俗舞踊とは盆踊りのことであろう。歌舞伎舞踊に採り入れられたとされる盆踊りの手の所作には、どのようなものがみられるのであろうか?本論は、盆踊りの中に見られる手・足の所作を分析し、三隅の指摘しているような念仏踊りの所作がどのような形で伝承されているのかを明らかにし、それらの特徴を見出そうとするものである。 
U 研究方法  
盆踊りの所作の共通性を見出す為には、できるだけ多くの地域、種類の盆踊りを対象にしなければならないが、盆踊りは、各地域で旧・新暦の盂蘭盆会を中心として、1年に1回だけ、踊られるものであり、数多くの盆踊りを個人が直接収集することは難しい。そのために、本論では、社団法人日本フォークダンス連盟が全国の民踊を対象として収録、分類し、踊り方・歌詞・楽譜を示した「ふる里の民踊 T〜Y」10)のなかの盆踊りにみられる共通な手・足の所作を分析、整理し、盆踊りに共通な「祈る」身体表現を明らかにしようとするものである。  
踊りは、具体的な動き、リズム、歌詞、装束の総合的な表現であるので、それらを総合して分析する必要があるが、これらの考慮しなければならない条件は当然のこととして認識した上で、今回は、手・足の所作に関する記述のみを対象として、上半身の動き・下半身の動きと別々に分析することとした。11)  
民踊とは民謡舞踊のことであり、昭和23年から用いられるようになった用語である。もともと振のない民謡「ソーラン節」、「炭坑節」などに振をつけたものや、レコード会社によって発表された新民謡に振付けたもの等があり、擬似民俗舞踊として踊られているとも言われている。12)今回対象とした文献X・Yに掲載されている高知県の民踊8種類をみてみると、古来から伝承されてきている盆踊りが6種類掲載されていた。このことをふまえて、対象文献T~Yに掲載されている334種類の民踊を以下の基準で分類し、本論で分析対象とする盆踊りとして124種類を抽出した。  
分類基準  
1、明治以降に振付けられたことが明記されているものは省く   
2、現在、盆に踊られているものである  
3、手踊りである  
抽出された盆踊りは資料1に示すとおりである。資料1は、各々の盆踊りの解説書に記述されている内容から読み取ることができた、ア、踊りの手の数 イ、踊りの隊形 ウ、踊りのはじめ方についてまとめたものである。  
資料2、3は踊り方の解説書に示されている所作の用語を、足の所作、手の所作に分けて分類したものである。解説書は、各々の踊りによって書き方、使用用語が異なっているが、できるだけ使用されている用語をそのまま用いて分類することとした。  
足の所作の分類は、先行研究で見出された念仏・風流系芸能にみられる共通な足の所作に従って次のように分類した。(資料2)  
「A:三歩歩く」は、「足を出す、引く」という単純な表記のものを対象として分類した。  
@半歩出す・引く(前後、左右)  
A一歩出す・引く(前後、左右)  
B二歩歩く(前後、左右)  
C 三歩歩く(前後)  
「B:両足を揃えて膝を屈伸する」は、大地と足のかかわり方ととらえることができる。基本的には、踏む所作を対象としたが、Aで対象とした、単純に足を「出す、引く」と表記されているものに対して、特徴のある足の出し方、引き方を、大地とのかかわり方を示すものとして分析の対象とした。  
D両膝を軽く曲げる、腰を落とす  
E横にひきつける、引き揃える、横に踏む、踏み揃える、束  
F踏み出す、踏み下ろす、その場足踏み  
G爪先を立てる、トンとつく、爪先を出す  
H踵を立てる  
I蹴りだす、蹴りこむ、(2度蹴り出し)  
Jすり出す(引く)  
K割り足  
「C:片足を軸足の前で交差させる(×印 綾をつくる)」は足を交差させた状態が、両足が大地についている状態から、片足が大地を離れ、さらに、両足が大地を離れる状態(跳ぶ)までを対象とした。  
L入れ込み  
M 片足を、もう片足の前に出す、踏み込む( 踏み出し)、体重をかける    
N膝を曲げて前にあげる(浮かす)  
O足を後ろに上げる  
P跳ぶ  
手の所作は次の基準で分類した。(資料3)  
a:音を出さない合掌をする手を基本として、音を一回出す手拍子から発展した手の所作、及び手の所作を繋ぐ動き等を対象とした。  
1、手を合わせる、合掌  
2 、胸( 膝、腰横) 前でチョンと手拍子、上下に打つ(重ね打ち)  
3 、チョチョンがチョン( はずみ打ち)、チョンチョンチョン、チョチョン、  
4、打ち開く(放す)、打ち上(下)げるさらにこの合掌類の手が、踊りのなかでどのタイミングで行われているかを、踊りの一フレーズのはじめ(◎)、なか(○)、終わり(●)で行われていることがわかるように区別して分類した。  
5、膝を打つ、膝につける、腿につける  
6、かいぐる(手先をまわす、手首をかえす)  
7、軽く握る  
b:両手を同じように動かしているもの  
8、両手を上方(右、左)に(振り)あげる  
9、体前に(伏せ、あけ)伸ばし、流し  
10、両手横(左右)に(振り)流す、伏せ伸ばす  
11、両手、下方(右、左、後方)に振り下ろす  
12、山開き、下方に開く  
13、あけかざす、左右に開く  
14、自然に下ろす、  
15、両手交差させる  
16、両手体前(左右の肩上に)寄せる(伏せる)  
c:片手ずつ違う動きをするもの  
17、前後(上下)に伸ばす、(開く)ように大きく振る、自然に振る  
18、「かざす:」片手立てかざし、片手前(横、下) に伸ばす、さしかざし、眺めかざす、片手挙げた手の下(袖)に添える  
19、両手、顔前にたてる、立てかざす、顔前にあげる 
V 研究結果及び考察 
1、踊りの手の数  
資料1に示してある踊りの手(動作)の数と盆踊りの種類を対応させたものが資料4である。  
124種類の盆踊りの手の数は、二〜四十手までと幅があった。そのなかで、36種類と一番多くの盆踊りで踊られている手の数は六手であった。ついで、6の倍数の十二手は12種類の盆踊りで踊られている手の数である。  
踊りの手の数は少ないほど、素朴で原始的であると考えられるが、二〜六手の盆踊りは計43種類であり、本論で対象とする盆踊り124のうち約34.7%を占めていることがわかる。  
念仏踊りが「ワンフレーズが六つくらいの動作」と述べている三隅は、盆踊りの手の数について次のように報告をしている。13)  
盆踊りなどの集団舞踊に六動作が非常に多いということは、宝塚歌劇団の有名な振付師であり演出家の渡辺武雄さんが、色々各地の民俗舞踊を研究した上で指摘されています。  
盆踊りに六動作が多いことは、念仏踊りに六動作が多いことの影響だと考えるのであるが、念仏踊りにはなぜ六動作が多いのであろうか?  
それは、念仏踊りが、念仏を唱えながら踊っていたことが大きな原因ではないかと考える。念仏踊りのリズムについて武智14)は次の興味深い論を提示している。  
それでははたして念仏踊は、三拍子に叶うものであったであろうか。  
「ナ○ムア●ミダ●ブナ○ミア●ミダ●ブ」  
という念仏は、まさしく三拍子を形成している。その変形である  
「ナ○ンマ●イダ●アナ○ンマ●イダ●ア」  
も三拍子である。  
今日、僧侶が木魚をにぎやかに叩きながら「ナンマイダアナンマイダア」と唱えるとき、木魚が四拍子で叩かれ、念仏が三拍子で唱えられていることが多いが、この三拍子と四拍子の奇妙な混合がなんでもなく行われているところに、いかに  
も日本人らしいリズムの混合、交換をみることができる。・・・<中略>・・・  
とにかく、このようにして三拍子の浮かれ拍子は次第に日本の芸能のなかに定着し、また本質的に私達が持っていないものを珍しがる観客によって支持されて、はじめの宗教的熱狂の場から次第に芸能の中に移され、念仏踊→ ややこ踊→ 歌舞伎舞踊というように変化しながら受けつがれていくことになった。  
武智の示す「念仏踊→ややこ踊→歌舞伎舞踊」はまた、「念仏踊→盆踊り→歌舞伎舞踊」とも置き換えることができるであろう。  
本論で対象とした盆踊りの手の数の数え方は、「一つので一動作」、「二呼間で一動作」、または、「一呼間で一動作」と解説書の書き方が多様であった。動きと動きの繋ぎ方の「間」をも考慮すると、武智の指摘する「木魚が四拍子で叩かれ、念仏が三拍子で唱えられている」ことにも通ずる数え方ではないだろうか?その意味で、踊りの手の数は、解説書に記述されている五〜七までが六と同じ手の数ともとらえることができよう。  
例えば、岡山県の「宮内踊り」は10呼間で五手の所作が示されているが、リズムは、6拍である。15)念仏を唱えながらの所作が一フレーズ六動作となったのだと考える。  
また、盆踊りが一フレーズ六動作という少ない動きを単位としていることは、単純な動きを繰り返すことによって、共に唄い、踊る人々の共感・共振を高めるための重要な要素であろう。その意味で踊りの手の数が少ないほど、その効果は増す。「踊りの型が定まる前の原始的舞踊では、一定のリズムに乗ってさえいれば、あとは自分で創作しながら自由に踊る」16)といわれる自由型の踊りは、踊りの手が二手と一番少ない「阿波踊り(徳島県)」であり、「沖縄の『カチャーシー』、奄美大島の『八月踊り』、鹿児島の『三下り』と同様に自由型の同系である。」17)また、踊りの手が六手の秋山のよさ節(長野県)でも、踊りの自由さについて、「踊りはかなり自由である。『人によって振り手の方向が違うが、どっちへ振るのか』などと質問しようものなら『型はない』とはねつけられる。」18)と解説している。  
念仏踊りが、リズム主体の舞踊であり、短いフレーズを繰り返すことによって成り立っていることは、時実のいう「リズムの魔力の宗教的利用」19)であろう。祖霊を祀り、新仏を迎え、送る集団の踊りである盆踊りの中に、共に踊る人々に共有される宗教的感覚が惹き起こされる、短いフレーズの繰り返しという念仏踊りの特性が濃厚に伝承されていることが明らかである。 
2、踊りの隊形  
踊りの隊形は一定の広場で櫓を組みその周りで踊る輪踊りの形態が、124種類中118種類で約95.1%とほぼ全体を占めている。列や正面の隊形は、新仏の家の庭で位牌に向かって踊ったり、「流し」で列をつくって移動する踊りである。輪踊りの方向は、時計方向が64種類、反時計方向が46種類であり、踊りのはじめ方は、進行方向に向いているものが62種類、円心向きが47種類であり、逆進行方向を向いて始まるのは6種類と少ないことが分かる。  
この結果より、本論で対象とした盆踊りはほとんどが輪踊りであり、進行方向、踊り始めの方向については、二分されていることが明らかとなった。「輪踊とか集団の踊りは、本来的に何かその中心を必要としていたといえるのではないか。しかも、その踊りの全体を一つに束ねるものが必要であるということを無意識のうちに表明しているのかもしれない。」20)と指摘されているように、盆踊りが何故輪踊りなのかについても考究する必要があるが、本論では省略する。 
3、足の所作  
(1)基本的な足の所作  
A−1:「一歩出す・引く」足の所作は、124種類中109種類の盆踊りで用いられている足の所作であり、一歩出したり、引いたりしながら手の所作を行うのが盆踊りの基本的な踊り方となっていることが伺える。  
次に共通に見られる足の所作は、B−6:「横にひきつける、ひきそろえる、横に踏む、踏み揃える、束」で、87種類の盆踊りのなかで用いられているものである。A−1の「一歩出したり、引いたり」しては、B−6の「両足を揃える」という足の所作を連続させるものが多い。  
次に約半分以上の盆踊りのなかで用いられている足の所作を見てみる。B−7:「踏み出す、踏み下ろす、その場足踏み」は64種類の盆踊りで使われている。C−13とC−14は同じ足の所作であるが、解説書で表記されている語を用いたので区別して示している。合わせると54種類の盆踊りのなかで用いられている。C−15、16の片足を前や後ろに挙げて×印(綾)をつくる足の所作は、60種類の盆踊りで用いられている。  
これらの結果より、念仏・風流系芸能で見出した基準となるA〜Cの足の所作は、盆踊りのなかでも同様に、基本的な足の所作として、共通に用いられていると判断することができると考える。盆踊りで用いられる足の所作は、A:「一歩出す、引く」、B:「横に踏む、踏み揃える」、「踏み出す」、C:「入れ込み」、「片足を前(後ろ)に浮かす」が代表的なものであるといえよう。  
(2)「踏む」足の所作  
「踏む」足の所作について郡司21)は次のように述べている。  
<踏む>ということが、大地の精霊に対する鎮魂と蘇生を意味する動作として、日本舞踊では特に重要な位置を占めたのである。踏むとき太鼓や鼓の調べに合わせるのも、古い宗教的表現であった。これを踏むのに、爪先で踏むのと、踵で踏む方法がとがある。舞楽では多く踵をつき、能では爪先をふむ。  
盆踊りの中に見られた「踏む」足の所作(B−6:「横にひきつける、ひきそろえる、横に踏む、踏み揃える、束」、B−7:「踏み出す、踏みおろす、その場足踏み」)は、単に「踏む」という記述で示されているものが多い。郡司の指摘する、「爪先を立てる」は34種類と約三分の一の盆踊りで用いられている足の所作であるが、「踵を立てる」足の所作は、「江刺甚句(岩手県)」と「エイサー(沖縄県)」の二種類のみであった。  
「三春盆踊り(福島県)」では「膝を屈すること、地面を踵でする」22)ことを重視していたり、「神湊の盆踊り(福岡県)」では、「中町地蔵の前野広場に浜の砂を三尺ほどの高さに積んで、その土地を浄め、参加者は六部行者の如く白衣、白足袋姿で鉦を打ちならして念仏を唱え、村の老若男女がその砂をもとの地に踏みならし固めてまわって踊っていたのである。」23)と踊る大地を強調していることが伺われる。  
大分県の姫島の盆踊りの足の所作が「ボンアシ」と呼ばれていることを指摘した吉川24)は、ボンアシの所作を次のように記述している。  
@左足を前に出してすぐ引き戻し  
A左足を前に出して進み  
B右足を前に出してすぐ引き戻し  
B右足を前に出して進み  
というもので、これを何回繰り返してもよい。  
この足の所作は、本論で抽出したB−10「蹴り出す、蹴り込む、(2度蹴りだし)」の二度蹴りだしに相当する。この足の所作を用いている盆踊りは、「江刺甚句(岩手県)」(右斜め前に手と足出し入れ2回)25)、「設楽さんさ(愛知県)」(左足を二度蹴りだしながら)26)、「七山盆踊り(佐賀県)」(左足を二度蹴りだしながら)27)等8種類の盆踊りであった。  
また、「踏む」ことをより強調する履物の下駄についての記述がみられる。  
「舟寄踊(福井県)」は「下駄ばやし」28)と呼ばれていたり、「蹴り足が多いので、朝まで踊ると下駄の歯がなくなる」29)のは、「十三の砂山(青森県)」である。同様に「おろしたての下駄が一晩ですりつぶれてしまうほどである」のは「津軽盆唄(青森県)」30)である。  
下駄を踏む音を伴奏音として用いる盆踊りは、拝殿や橋の上で踊ることで、より効果を高めている。  
「根尾一円は新暦15〜16日の2日間、提灯で飾った氏神の拝殿で、新しい下駄を履き、夜を徹して踊る。伴奏楽器を使わず、音頭取りの高らかな歌声と、踊り手の下駄で拝殿の板を踏み鳴らす音が和して<・・・中略・・・>」31)と解説されているのは、「素朴で原始的な踊りがそのまま今日に伝承されている」32)といわれる「根尾踊り(どんどいつ)(岐阜県)」である。  
「新潟甚句(新潟県)」33)は橋の上で踊る。  
実は町の四つ角よりも、むしろ橋の上が格好の踊り場であった。<・・・中略・・・>踊り手は皆低い下駄をはき、それで橋板を踏むから、リズミカルな下駄の音が橋板に快くひびく。またその下駄の音と樽太鼓の音とが微妙にひびき合った。<・・・中略・・・>亡者は海のかなたに立ち去るという全国的な信仰が越後や羽前では特に強く<・・・中略・・・>この信仰に基づいて水の上の踊り場すなわち橋の上を選んだものであろう。  
中国少数民族の輪踊りを調査している星野34)は、屋内で踊られる盆踊りを「躍堂形式の輪躍り」と呼んでいる。  
足踏みに力を入れた輪踊りが山間部を中心としてわが国にも残存しているのである。それは中国側のものが多く野外で踊られているのに対し、こちらは屋内で踊られるものである。それを私は躍堂形式の輪踊りとでも名付けたいと思う。  
具体的な「躍堂形式の輪踊り」として、「根尾踊り」と同様の岐阜県白山麓一帯の山間部をはじめ、富山県、高山市、京都市などの例をあげ、能では、舞台下に甕をいけて床踏む音の音響効果を良くするという工夫がほどこされているわけだが、これと同様に民間の舞踊の中でも床踏む音に神経を払ってきたことが察せられるのが、躍堂である。  
と指摘している。35)  
神のはきものとしての下駄を研究している秋田36)は、念仏踊りと下駄の関係について、「一遍聖絵」を通して次のように述べている。  
一遍たちが踊る舞台に、下駄をはいた僧・尼はいない。すべて裸足である。舞台上で踊る彼ら彼女たちは、首から吊り下げた鉦鼓を打ち鳴らし、その軽快なリズムにあわせて踊っている。しかし、一遍一行の旅姿をみると、誰も鉦鼓などを持ち歩いていない。絵画という性格を考慮しても、念仏踊りの必需品である鉦鼓を持ち歩かないというのは問題がある。おそらく、念仏踊りに必要な道具は、「俗時衆」や「結縁衆」とよばれた人たちが現地で調達したのであろう。とすると、予定外の場所で念仏踊りを行う必要が生じた場合、鉦鼓に変わってリズムをとる道具として、何を使用したのであろうか。鉦鼓に変わるその道具、それが下駄であったと私は想定している。  
盆踊りについては次のように指摘している。36)  
下駄の音は、ステップの踏みかたによっては、音楽とまではいえないまでも、踊りにあわせてリズミカルな拍子を打ち響かすこともできた。下駄と踊りといえば、直ちに盆踊りを連想する。盆踊りは、すでに15世紀前半には成立していたようであ  
るが、いつ頃から下駄をはくようになったのかは明らかでない。<・・・中略・・・>  
盆の行事である脊精霊迎え・精霊送りは、その一方で、カミ迎え・カミ送りでもあることから、カミの心意にかなうものとして、音を出す聖なるはきものである下駄をはいて踊ったとみるものである。  
盆踊りの、下駄をはきリズムを刻み、大地や床を踏む足の所作の中に、念仏踊りの特性を見出すことができる。 
4、手の所作  
歌舞伎踊りの<手踊り>のもとになったとも考えられる盆踊りの手の所作の種類の結果は資料3に示したとおりである。  
手の所作には、人間の動作や職業を基にした意味のあるものと、リズムや流動を主とする意味のないものがある。  
本論で対象とした盆踊りの手の所作の中で、意味のある所作は、「麦わら音頭(兵庫県)」の「麦を扱う動作にやや似ている部分もある」38)や、「川俣盆踊り(福島県)」の「稲の借り上げを表現している。労作豊年踊りとして力強く踊ることが特徴」39)という農作業に関するものや、「櫓こぎ」、「壁を塗る動作」、「泥をすくう」等、合計6種類の盆踊りに記述されているだけであった。  
これは、盆踊りがリズムを主体とした踊りであり、唄は時代時代の流行り歌を採用し、その歌詞の意味を表現するということはないという特性を示しているものである。  
本論で対象とした盆踊りに共通に見られる手の所作は、a:手を合わせる・合掌系、b:両手が同じ動き、c:片手ずつ違う動きと、大きく三種類に分類することができ、個別の手の所作は19種類であった。  
多くの盆踊りに共通に用いられている手の所作は、a−2:「一回の手拍子」が73種類と最も多く、次は62種類の盆踊りに用いられているc−18:「かざす」である。a−6:「かいぐる」(47種類の盆踊り)、b−17:「両手を上に挙げる」(46)、b−12:「山開き」(45)、c−17:「前後に振る」(44)は約三分の一の盆踊りで用いられていることがわかる。足の所作は109種類、あるいは87種類の盆踊りで、共通に用いられる所作があるのに比べ、手の所作は、各々の盆踊りで固有に用いられているといえよう。その中で、盆踊りの手の所作として共通に用いられているものとして「手拍子」と「かざす」をその代表とすることが可能だと考える。  
(1)合掌・手拍子  
念仏踊りには、集団舞踊として、皆で揃って動けるための合図として用いられる手拍子があると三隅は述べているが、盆踊りのなかに見られる手拍子は、a−1〜4に示している通り、73種類以上の盆踊りのなかに見られる手の所作であり、盆踊りの手の所作として代表的な所作であると言えよう。  
手拍子は「チョン」と一回打つもの(a−2)から、「チョチョンガチョン」、「チョンチョンチョン」等の3回以上打つ手(a−3)、また、打ち方(掌の重ね方)によって両手を上下に開く手拍子(a−4)などがみられる。  
みんなの気持ちを合わせるための、踊りの一フレーズの区切りの合図としての手拍子だけでなく、音を出さずに両手を合わせる手の所作は、16種類の盆踊りの中で見られる。躍りの解説書では、「手を合わせる、両手合わせ」(「十三の砂山(青森県)40)」、「木崎音頭(群馬県)41)」、「岩国音頭(山口県)42)」)、「両掌軽く合わせる」(「富倉エットコナ(長野県)43)」、という記述や、手を合わせる場所を指定している「胸前に両手をあわせ伸ばし」(「白石踊り(岡山県)44)」)、「束立ちで胸前で手を合わせる」(「安田踊り(香川県)45)」)があり、明確に合掌と示しているのは、「音なし合掌」(「東盆踊り(大阪)45)」)、等である。  
これらの合掌の手の所作があることを考えると、念仏踊りの時の合掌が一方ではそのまま残り、また、一方ではリズムを強調するために、音を出す手拍子として変化してきたのではないかと考えられる。盆踊りの中で見出された「合掌・手拍子」は、歌舞伎舞踊の中では、「手拍子」の仕方で、「回シ打チ」、「三段打チ」、「天地打チ」、「左右打チ」、「耳脇打チ」等と細かく分類されている。  
手拍子が一フレーズのなかのどのタイミングで打たれるのかを分析してみたが、顕著な特徴は見出せなかった。  
(2)かざす  
片手ずつが異なった動きをする手の所作は、両手が同時に同じ動きをするものに比べてより複雑であると思われるが、盆踊りの手の所作の中で、「手拍子」の次に多くの盆踊りに見られるのが、c−18:「かざす」で62種類の盆踊りで用いられている。これは、解説書の中で、「片手立てかざし、片手前(横、下)に伸ばす」、「さしかざす」、「眺めかざす」、「片手挙げた手の下(袖)に添える」等と表記されているものをまとめて「かざす」として分類したものである。  
目的の項で述べたように、歌舞伎舞踊のなかで「盆踊り」を示す所作は、標準日本舞踊譜で分類されている「本来意味ヲ持タナイ姿勢ト動作」のなかの、「本来リズムヲ主トスルモノ」である「鬢浮カレ」、「鍵(横・前)浮カレ」、「額浮カレ」、「サシ浮カレ」等を象徴したものだと思われる。(図B)47)  
 図3 ▲前かぎ浮かれ▲横かぎ浮かれ  
「浮カレ」は「受け手と伏せ手を同時に小手返しする」ものであり、両掌を同時に翻すことによって躍動感を作り出すものである。(解説書にはそれぞれの盆踊りにおけるあげた手の伏せ、明けが区別されて記述されていたが本論では一括して「かざす」として扱っている。)  
「かざす(鬢浮カレ)」のみの繰り返しである「阿波踊り」の解説書には次のような記述がある。48)男は手を下げようとどうしようと、全く制約がないが、女は手を肩の高さに上げて腕と手首と指先で踊らなければならんという制約がある。これは女踊りの美もさることながら、おそらく女を不浄と見て神や優位霊魂の憑依する肩より上で招き手を主とする動作を強いた遺習であろう。この点から見ても、阿波踊りは唄や曲こそ変化したが、踊りはかなり古代のままを伝承しているといえる。  
「踊るとき手が目の高さより上にあることを特色としている。沖縄のカチャーシーと共通するものであろう。」49)といわれる「三原やっさ(広島県)」や「盆踊りも夜明かしで先祖などの霊魂と踊っている間は、両肘を肩より下におろしてはいけないが、夜明けの太鼓が鳴り響くと霊魂がその音にのって別れを告げ、開放されたこの世の人間だけになり、手を下におろして軽々と踊る。肩より上は神や優位霊魂の憑依する所、肩より下は人間の不浄体と考えられていた。」50)と記述されている「夜明け音頭 (大阪府)」もある。  
盆踊りの象徴として用いられている「鬢浮カレ」の所作のなかに宗教的含意を伺うことができる。 
W まとめ  
以上の結果より、念仏・風流系芸能のひとつである盆踊りの所作の特性は、次のようにまとめることができる。  
1)本論で対象とした124の盆踊りの手の数は、一フレーズ六手が最も多く(36種類)、二〜六手の踊り(43種類)が約34.7%を占めている。  
2)踊りの隊形は輪踊りがほとんどである。(124中118種類、約95.1%)  
3)足の所作は、先行研究で見出された、念仏・風流系芸能の基本的な足の所作と共通な足の所作であることが明らかとなった。特に「踏む」足は、踏む場所、下駄との関係に念仏踊りとの関連性が伺われる。  
4)手の所作は、「合掌・手拍子」、「かざす」が代表的な手の所作である。盆踊りはリズムを主体とした踊りであるということが通説であるが、一フレーズ六手という単純な動きの繰り返しのなかで、一歩出したり、引いたりしては踏んだり、綾(×印)をつくったりする呪術的な足の所作をしながら、手の所作で祈り、リズムを刻み(合掌・手拍子)、流動感を漂わせながら(かざす)、祖霊を向かえ、送るという宗教的心意を表現しているのだと考える。  
盆踊りは、念仏・風流系の民俗芸能であるが、他の芸能とは異なる次のような盆踊りの独自性がある。51)盆踊りの原形が、仏教以前の精霊の来訪に発し、のち盆供養に新しい死霊を祀る場として、特に中世に至って盛んになるが、全国的に庶民生活とつながりをもつ点で、他の民俗芸能とはその性格を異にする、一般性をもつものである。  
「地踊り」、「草踊り」ともいわれるように誰もが参加して踊れる踊りの所作は単純で、素朴である。時代を超えて伝承されている、地域ごとの固有な、古風な所作の中に、盆供養への参列者が共に踊ることで死霊を祀る優しさを見出すことができる。わが国独特の死生観と直結した踊りは貴重な文化である。  
本論は、盆踊りの所作を上半身と下半身に分けて分析考察したものであるが、本田52)が「舞踊は足の動作だけではなく、手の振りもある」と言及したように、踊りは全身運動である。本論で明らかになった手と足の所作が一体となって用いられている全身の所作を分析することによって、「ナンバと通」53)をはじめ、「三」の繰り返し、「左と右」等わが国の「踊り」にみられる特有な性質を浮きあがらせることができるのではないかと思われる。さらに、その音楽性(テンポ、リズム等)の分析を加味することで、盆踊りの特性はより明らかにすることができよう。  
消えつつある民俗芸能の所作の中に、文字には記録されていない素朴な宗教観が伝承されていることを思う時、その芸態の収録と保存、分析が急務だと思われる。 
(註)  
1)郡司正勝 編 『日本舞踊辞典』東京堂出版  1977 p.373  
2)平安時代に空也上人によって始められ、鎌倉時代に、一遍上人に受け継がれた踊躍念仏が、時宗とともに民間に広まり、室町時代に盆踊りに展開したものとされる。( 前掲書1) p.374)  
3)三隅治雄 『日本の民謡と舞踊』大阪書籍 1990 p.138  
4)東京国立文化財研究所編 『標準日本舞踊譜』1966  
5)西洋舞踊に対して用いられ、「邦舞」といわれる語と同じく行われているが、この言葉のもつ概念は、普通は歌舞伎舞踊をさしていっており、日本の舞踊の全体をさすものとはなっていない。したがって、日本舞踊のもつ意味は、日本舞踊の代表としての歌舞伎舞踊をさす語だといっていい。( 前掲書1) p.302)  
6)花柳千代 『実技 日本舞踊の基礎』東京書籍 1981 p.58  
7)前掲書4)p.142  
8)山田敦子 『念仏・風流系芸能の足の所作−中国貴州省銅仁地区松桃村苗族の儺堂儀の禹歩と反閇を分類基準として−』舞踊学会紀要 舞踊学第24号 2001山田敦子 『念仏・風流系芸能の足の所作−ふむ・はねる−』高知大学教育学部研究報告第68号 2008  
9)郡司正勝 『おどりの美学』演劇出版社 1959 p.211  
10)社団法人 日本フォークダンス連盟編 『ふる里の民踊 T〜Y』2000  
11)民俗芸能研究の芸態の研究について、その方法論が確立されていないことを山路は次のように述べている。「民俗音楽研究はさておき、民俗芸能研究はこれまでの多くが調査報告に留まっており、その本格的研究となるとそう多くの成果が挙がっているわけではない。わが国芸能史研究の傍証資料として活用されたり、その芸能の歴史については論究されるが、芸態研究ということになると、そのその方法論を含めて確立しているとはいえない。」(山路興造 「本格的民俗芸能研究が始まる予感」館報 池田文庫 第32号 2008、4 p.19)民俗芸能の芸態研究のこのような現状の中で、本論では、記述されている所作の用語を分析するという方法を試みるものである。  
12)民踊:郷土を喪失した都会の婦人会、日本民謡協会の舞踊部内に所属する人々によって、擬似民俗舞踊として踊られる。( 前掲書1) p.401)  
13)前掲書3)p.138  
14)武智鉄二 『舞踊の芸』東京書籍 1985 pp.231〜233  
15)カッ・カッ・カー・(オイ)・ドンという単調な6拍のリズムに乗せて、踊りの効果を発揮している ( 前掲書10) W p.79)  
16)-18)前掲書  
19)リズムという要素は、理性、知性の座である新皮質に対して、鎮静的、麻痺的な効果を及ぼす。<・・・中略・・・>このような状態になると、一方では、抑圧されていた大脳辺縁系に宿る本能や情動の心が解放され、本能や情動の行動としてあらわに出てくる。<・・・中略・・・>コマーシャル・ソングや映画の主題歌やお休み前の音楽はリズムの魔力の文化的利用、コーラス−アジ−カンパは政治的利用、お経−お説教−お布施は宗教的利用といったところであろうか。(時実利彦 『人間であること』岩波新書 1970 pp.142〜143)舞踊のなかの短いリズムの繰り返しについて三隅は、次のように述べている。生理的に言っても、短いフレーズの歌を繰り返していくと、あるいは短いフレーズの音にのって単純な動作を繰り返していくと、人間はだんだん興奮状態になり、さらに恍惚状態、すなわち自分が自分でなくなるエクスタシーの状態におちいり、やがて、魂のぬけた、いわゆるトランスの状態になります。これを古い日本語でいえば、エクスタシーがものぐるいで、トランス状態が神がかり、ということです。( 前掲書3)p.139 )  
20)星野 紘 『世界遺産時代の村の踊り』雄山閣 2007 pp.165〜166  
21)郡司正勝 『おどりの美学』演劇出版社 1959 p.195  
22)-23)前掲書  
24)吉川周平 「ボンアシ −盆踊りにおける足の運びが意味すること−」体育の科学 Vol.47、8 1997 p.608  
25)-33)前掲書  
34)星野紘 『歌・踊り・祈りのアジア』勉誠出版 2000 p.14  
35)前掲書  
36)秋田裕毅 『下駄 神のはきもの』法政大学出版局2002 p.216  
37)-51)前掲書  
52)吉川周平 「日本伝統芸能学の構築のために−身体のウゴキの観察と分析の方法−」p.31(森永道夫編 『芸能と信仰の民族芸術』和泉書院 2003)  
53)ナンバと通について、本論の対象文献に記されていたものを示す。古調かわさきは、縷々述べたように、郡上踊りの中核であり、その存在価値は専らナンバの表現にかかっている。まして、農民踊り−念仏踊り−歌舞伎踊りという系譜におけるナンバの重要性と純粋性を保持しているのが「古調かわさき」であるから、今後とも大いに尊重さるべきである。( 前掲書10) V p.66)彦山踊り(福岡県)は彦山村独特のものであって、近隣の盆踊りなどとは趣を全く異にする。踊りは優雅な通(南蛮の反対)で、手足が休むことなく、しかも、編み笠の後部に御幣をつけて、神とともに踊る清潔さが感じられる( 前掲書10) X p.76)  
 


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