地図

地図地図学古代地図のはじまり大地は球日時計地球に線を引くプトレマイオスローマのロードマップ中国地図史中世聖書キリスト教地図の上下ポルトラノ海図コンパスルネサンス大航海時代インドコロンブスの誤算新大陸地球儀印刷と出版メルカトル近代三角測量地球は楕円地形図時計で経度を測るキャプテンクック南方大陸メートル法誕生インドの謎アフリカ現代国際図飛行機とカメラ距離を測る宇宙から測量天体電子化された地図地図の「竹島」・・・ 
世界の古地図日本の古地図
 

雑学の世界・補考   

地図

地球などの地表、あるいは架空の世界の全部または特定の一部分を縮小表現したものである。「文化の総合的産物」ともいわれ、「文字よりも古いコミュニケーション手段」と称されることがあるように、表現手法として人類に重宝されてきた。  
地図の具備すべき条件として、(1)距離、(2)面積、(3)角、(4)形の正確さと、(5)明白さ・理解しやすさ等の要素があるとされる。実用の地図は測量の結果を紙上に展開して地形・地物・説明文字を付して完成させた実測図と、実測図の成果や各種資料により編集原図を作製し製図・製版・印刷を経て出版される編纂図に大別される。ただ、地球は回転楕円体(扁球)である。平面的な小地域を図化した実測図においては上の条件を実用的な程度にまで満足させることができるが、球面の影響の出る大地域を図化した編纂図においては投影法や縮尺などの点から上の条件を満たしきれないため読む際に注意を必要とする場合がある。  
地図の製作と収集能力を買われ、アメリカ合衆国連邦政府に登用されたイザイア・ボウマンは「地図は地理的ないろいろの象徴の中で最も普遍性のある、また最も目立ったものである」と述べ、地理学における地図の重要性を説くと同時に、地理学は単なる「分布の科学」ではないとし、地理学における地図の限界にも言及している。ボウマンの指摘した地図の役割を要約すれば、分布の明示・測定の具象化・関連し合うものを同時に表現することの3点となる。  
地図では情報の多くが地図記号で表されているが、地図の種類または国ごとに統一され決められている。ただし地形図以外のもの(道路地図やガイドマップなど)においてはこのような規格には沿っていないものが多い。さらに鉄道路線図のように接続関係のみを重視し幾何学的正確性を無視したものもある。  
現在では、地図のデジタル化が進み地図上に多くの情報をあわせて持つことができるようになっている。 
歴史  
地図は、文字よりも古くから人類に使われていたと考えられている。また、文字が存在しない文化でも、地図に類するものが使われている場合がある。  
原始時代の地図は残存してはいないものの、その名残とされるものとしてはタヒチの先住民による木片を用いた立体図やマーシャル諸島の先住民によるヤシの繊維とタカラガイを用いた航海用図といったものがある。  
社会が発展して国家が誕生すると、土地の耕作や用水路の建設など、行政のために地図は欠かせないものとなった。また、戦争ともなると地の利を活かす必要があり、軍事面でも自国や敵国の地形を把握することが重要となっていった。そのため、古今東西を問わず、為政者は正確な地図を作るために力を入れ、様々な地図が各地で作られた。  
現在、発見されているものの中で、最も古いと考えられている世界地図はバビロニアの世界地図である。紀元前600年ごろに作成されたと考えられている。ただ、世界地図とは言っても、想像や伝聞情報によると思われる箇所が多く、正確に描けているのはバビロンと周辺都市に限られている。  
日本では、平安時代初期の弘仁5年6月23日付官符に引用されている「天平10年5月28日格」に「国図」の語があり、『続日本紀』の天平10年8月の記事に「天下の諸国をして国郡図を造進させる」と見えているので、この頃には日本地図が存在していたことは間違いない。ただし、地図そのものは残っておらず、これの詳細は不明である。現在確認されている中で、日本の最も古い地図は奈良時代の行基が作ったとされる行基図である。これは、正確性に欠けるものの広く流通し、いくつかの修正は入ったものの一般庶民には江戸時代まで使われていた。  
日本人が自国の正確な形を知ったのは、伊能忠敬らが作り上げた大日本沿海輿地全図によってである。これはそれまでの地図を凌駕する正確なものであり、見たものを大いに驚かせた。 
地図の種類  
地図学上の分類  
一般図 / 一般地図製作法は、一般的な利用者に向けて作られた地図を含み、それゆえ多様な特徴からなっている。一般的な地図は多くの参照と場所系を示し、しばしば一連のものとして製作される。このような地図を一般図と称する。地形学の地図とは主に場所の地形に意識を置き、高さ方向を示す等高線を使用することにおいて他の地図と典型的に異なっている。国土地理院の地形図は一般図の代表例である。位相的な地図とはある非常に一般的な地図で、ナプキンの上に描くような種類の抽象的なものである。  
主題図 / 主題的地図製作法は、特定の利用者に適応する特定の地理的主題の地図を含む。いくつかの例を挙げると、インディアナ州のトウモロコシの生産量を示すドットマップや、オハイオ州の郡を段階的に色分けしたコロプレスマップなどである。このような地図を主題図と称する。海図、地質図、道路地図、住宅地図などは主題図の例である。20世紀に地理的なデータ量が爆発的に増加したため、主題的地図製作法はますます有用になり、空間的、文化的、社会的なデータを解釈するのに必要になった。  
作製方法による分類  
地図には広義の測量の直接的な成果として得られる実測図とこれを編集して作製される編纂図がある。このうち実測図はさらに基準点測量を基礎として細部を地形測量で測図した地形図と、単に地形測量や特殊測量のみによって測図される略測図に分けられる。書店等で一般的に入手可能な地形図は、東西南北や緯度、経度が指し示されて、等高線による土地の高低差、海、湖、河川のような水域、行政区画、道路や建物の位置などの多くの情報が網羅されている。地形図について日本では国土地理院により測量が行われている。従来使われてきた測地系(座標を決める基礎情報)が、GPSなどで使われるものと大きく異なっていたため、測量法の改正により2002年4月1日に「日本測地系」を「世界測地系」に変更した。その前後の緯度、経度は座標変換が必要になる。また、編纂図も実測図をもとに実地調査・統計・文献調査の成果を取り入れ編纂・図化した一般編纂図(地勢図や地方図など)と、特定の事象についてのみ表現を目的とする特殊編纂図(土地利用図や人口分布図など)に分けられる。  
縮尺による分類  
地図は縮尺によって、縮尺100万分の1より小さい小縮尺図、縮尺100万分の1から10万分の1の中縮尺図、縮尺100万分の1より大きい大縮尺図に分けられる。  
投影法による分類  
地図には目的に応じた投影法が用いられる。地図は投影面の種類によって、平面図法、円錐図法、円筒図法、便宜図法に分類される。また、正しく表現する対象により、正主距離図(正距図)、正積図、正角図に分類される。  
収容地域による分類  
地図は収容地域によって、世界地図(世界全図)、半球図、日本地図(日本全図)のような各国の地図、市町村図などに分類される。  
様式による分類  
地図はその様式により、調製地域となる範囲を画した上で一定の経緯度で分割し一区画ごとに作製した切図(地形図や地勢図など)、用途に応じて一葉の形式あるいは折本や掛図とした全図(世界全図や日本全図など)、地勢図などを規格を統一して一冊の形式にまとめた地図帳に分類される。  
目的による分類  
地図は一般図と特殊図に分けられ、一般図は基本図と編纂図、特殊図は地籍図(土地事業用図、都市計画図、地質図など)と土地利用図(人口密度図、交通図、統計図など)に分けられる。 
地図の要素  
地図の要素には(1)距離・面積、(2)位置・方向、(3)高さ、(4)地形・地物・地名などがある。  
距離・面積 / 地図上の距離・面積は縮尺によって定まる。  
位置・方向 / 地図上の位置・方向は投影法によって定まる。  
高さ / 地図上の高さは水準測量によって定まる。  
地形・地物・地名 / 地形は水平曲線(等高線、等深線)あるいはボカシ・ケバ・段彩などによって表現される。地物には都市・集落・鉄道・道路・河川など縮尺化して地図上で真形を表すことのできる骨格地物と、縮尺化しても地図上では真形を表すことのできない記号地物がある。記号地物はさらに、独立樹や井戸などの小物体、学校など建物の性質を示す副記号、水田や森林など地類の状況を示す地類記号などに分類される。地図上の地名とは国名、地理的地名、路線名など図形で表現することが困難なもので、日本の地図では漢字、かな、数字などで記載される。 
立体地図  
立体地図(りったいちず)、あるいは3次元地図(さんじげんちず)とは、地形の起伏(大縮尺の場合は建築物の高低を含む)を見る人に感じさせる地図の総称であり、大別すると平面の紙に記したもの、模型で起伏を表したもの、コンピュータのデータで高さの情報を持っているものがある。  
平面地図を用いた手法 / 隣接した視点からとった2枚の平面状の図を見ることによって、人間は脳内に立体的な像を再現することができるという立体視の技術によって作成された地図で、ステレオグラムとも称する。裸眼で見たり、赤色・青色の色眼鏡をかけて見る。この原理は写真測量法においては、標高が不明な2枚の航空写真から、写真内の地点の標高を求める際にも用いられる。  
模型 / 工作物で高さを表す。「浮き彫り」のことをレリーフと呼ぶことから、レリーフ地図ともいう。また、ジオラマと称することもある。児童・生徒の工作の場合など、等高線の形に切り取った厚紙を重ねて作成することもある。なお、地球儀を立体地図の一種として扱う場合もある。  
コンピュータ地図 / コンピュータ内のデータとして3次元情報を持ち、これを3次元コンピュータグラフィックスの技術によって画面上に地図として表示する。コンピュータ地図の一般として拡大・縮小・移動(スクロール)ができるほか、立体視特有の操作として空中の一点を「目」の位置として、ここから視線を上下左右に移動して見ることができる場合が多い。データは、離散的な点の3次元座標を数値標高モデル(DEM)の形式で持ち、ここから地表面をポリゴンで表すようにソフトウェア処理する場合と、はじめからポリゴン形式で持つ場合がある。カーナビゲーション用の地図などで都市の建物の3次元情報を持つ場合はポリゴン形式が多い。 
インターネットにおける地図配信  
インターネットによる地図配信は、ウェブサイトで閲覧するタイプと、専用ソフトウェアで閲覧するタイプに分けられる。2006年のGoogle日本語版検索ランキングの1位は「地図」であり、インターネットにおいて最も主要なコンテンツとなった。  
Webサイトでの地図配信 / 初期の地図配信サイトは、地図の閲覧に主を置いており、縮尺変更やスクロールの度に画面遷移が行われるなど操作性が優れたものは見受けられなかった。しかし、Google Mapsの登場以降、画面遷移のないスムーズな操作性の新世代地図サイトが登場し始めた。なお、Google Mapsの日本進出以前にMapionが実験サービス「マピオンラボ code:guriguri」としてスクロール地図の提供を行っている。新世代地図サイトは地図に属性を結びつけて表現されているものが多く、高い技術が要求されるためか、そのほとんどがベータ版である。画面遷移のない地図配信の技術には主にAjaxや、Flashが使われる。特に、Flashによる地図配信はFlash 8・Flex 2がGIF・PNGの外部画像をサポートするまでは、一部の例外を除き登場していない。最近、呼称としてスクロール地図という言葉が定着してきた。一部の地図サイトで、縮尺を表記していない場合があるが、これは基本的に誤りである。  
地図形式 / 使用される地図の形式は主に3つに分けられる。  
ラスター地図 / ラスター形式の地図をそのまま配信する方法。サーバにほとんど負荷がかからない。最も簡単でスピーディーな方法に思えるが、地図のデータ量が膨大になる・決められた縮尺の地図しか表示できない・座標計算が難しい・減色時に隣り合う地図と色合いが変わらないようにしなければならない・等、簡単ではない。空中写真(衛星写真や航空写真)はこの形式になる。  
ベクター地図(サーバでラスタライズ) / ベクター形式の地図をサーバでラスター地図に変換し配信する方法。ハイスペックなサーバでも変換に時間がかかる。変換用のソフトをサーバにインストールする必要があるが、座標と縮尺を指定するだけで地図が表示できる。地図サイト構築用ソフトとして販売されているものはこの形式が多い。  
ベクター地図 / ベクター形式の地図をそのまま配信する方法。サーバにほとんど負荷がかからない。ラスター形式と異なり、一般的なWebブラウザのための共通のベクターグラフィックスデータ形式が未だ確立していないため、ブラウザ毎に個別の実装が必要になる。実装方法としては、ブラウザがネイティブでサポートしている個別の形式(一般的にはSVGとVML)を用いる方法と、専用のプラグインを用いる方法とがある。 レイヤ合成、レイヤ切り替え、クリッカブルマップ、拡大・縮小・回転表示の実現が比較的容易に可能で、印刷が最もきれいに行える形式であり、その標準的な配信手法の確立が待たれる。国土地理院では電子国土背景地図を元にSVG形式の地図データを作成し、これを社会実験に用いることができるよう一般に公開している。  
 
地図学 (cartography)

地図または地球儀を作成するための研究である。地図製作法(ちずせいさくほう)ともいう。また地図学といった場合、工学方面では、地図を使った測量、読図などの技術を研究する測量学的な研究を指す。英語の cartography はギリシア語の χάρτες(chartis、地図)と γραφειν(graphein、記述する)に由来する。地図は伝統的に、紙とペンを使って作成されたが、コンピュータの出現と広がりが地図製作に革命をもたらした。現在、大部分の商業的で高級な地図は、3つの主な種類のソフトウェアの1つを用いて作成されている。すなわち、CAD、GIS、および地図製作に特化されたソフトウェアである。地図は空間データの視覚化のための道具として機能する。空間データは測定から得られ、データベースに保存することができる。データベースから、空間データを多様な目的のために抽出することができる。この分野における現在の傾向は、アナログな地図製作方法から、デジタル的に操作することができるダイナミックで双方向的な地図作成の方向に移り変わってきている。地図作成の過程は、客観的な現実の状態があり、抽象概念のレベルを加えることによってその現実の状態を信頼できる形で表現できるという前提に基づいている。現代の高等教育では、測量学や都市工学、地理学関係の専門課程科目として研究・教育がされている。 
歴史 / 古代  
知られているもっとも古い地図は、紀元前5千年紀にさかのぼる。もっとも古い地図は、関連する、隣り合う、含まれる地域といった、位相的な関係を強調している。  
紀元前23世紀のアッカド帝国(en)期にバビロニアで始まったとされる幾何学の出現とともに、地図製作が大きく発展した。バビロニアの歴史のカッシート人の時代(紀元前14世紀〜紀元前12世紀)のものと考えられる、聖都ニップールの彫刻地図がニップールから見つかっている。エジプト人は幾何学を用いて土地を測量し、ナイル川の定期的な氾濫のあとで不明瞭になった区画を再測量した。  
古代ギリシア人は、地図製作に多くの芸術と科学を加えた。ストラボン(紀元前63年頃 - 紀元21年頃)は「地理学」(Geographia) を著し、他の人物の作品を批判したため、「地理学の父」として知られている(彼が言及しなければ、批判された人物のほとんどが知られることはなかったであろう)。ミレトスのタレス(紀元前600年頃)は、地球が水で支持される円盤であると考えた。ミレトスのアナクシマンドロスは同じ時期に地球が円筒状になっているという理論を提唱した。紀元前288年、サモスのアリスタルコスは太陽が宇宙の中心であるとする説を歴史上初めて唱えた。紀元前250年頃、キネスのエラトステネスは2地点間の緯度差と子午線弧長の測定を基に、現在認められている値の15パーセントの誤差のうちに、地球の周長を推定した。  
イオニアのピュタゴラスが、地球が丸いと唱えた最初の著名な人物であった。アリストテレスはのちにこの考えを支持して議論を提供した。その議論は以下のようにまとめることができる。  
月食の影は常に丸い。  
船が遠ざかって地平線に消えるとき、沈んでいくように見える。  
地球の一部の地域でしか見られない星がある。  
ギリシア人も地図の投影の科学、すなわち飛行機から地球の曲面を表現する方法を開発した。エラトステネス、アナクシマンドロス、ヒッパルコスは緯度と経度の格子のしくみを開発したことでその名が残されている。紀元前200年頃にエラトステネスは正距円筒図法を発明したと見られる。クラウディオス・プトレマイオスも紀元前150年頃に正距円錐図法を含む地図投影法を発明している。 
歴史 / 中世・近世  
ヨーロッパの地図学的な進歩は中世まで眠ったままとなった。この間の時代は哲学的思想が宗教のほうに向いていたからである。ロジャー・ベーコンによる投影法の調査が行われたり、ヨーロッパの通商路を行き来するためのポルトラノ(海図)が作られたりするなど、この分野はいくつかの点で進んだものの、地図学の組織的研究や応用への刺激にはほとんどならなかった。この時代の世界の「地図」のほとんどは、キリスト教の宇宙観を示した図であって、厳密な地理的表現をもくろんだものではなかった。文字通り長方形と円で作られた、いわゆる「TO図」の様式に従っていた。この様式は地球が海に囲まれた円盤状の大地からなっていることを表現している。大規模な地図製作も同様に抽象的な図示のほうに向いていた。というのも地籍の必要性が、一般的には測定値によるよりむしろ目標の説明によって満たされていたからである。対照的に、この時代の中国では、厳密でないとはいえ実際の測量に基づいた、長方形の座標系が使われていた。中国での宇宙観が自分たちの経験の外にある土地を説明する教義を与えなかったため、中国では世界地図は生産されなかった。残された文書から、中国の哲学者は地球が平らであると考えていたことが示唆される。ラクタンティウスなどの少数意見の2、3の神学者を除き、キリスト教とイスラム教の哲学者は球面の地球というギリシアの概念を固守していた。  
ヨーロッパ人によるアメリカの発見と、それに続く統治と分割の努力のために、科学的な地図製作法が必要となった。大航海時代に始まった世界化の潮流はルネサンスまで続いた。これは、結局、科学的な正確さに対する懸念を啓蒙時代に引き継ぎ、世界を分類したいという欲求が地図製作をさらに科学的に発展させることになった。大航海時代が進展しつつあった16世紀には地理学者メルカトルがメルカトル図法を考案し、航海用の地図の重要な図法として地図製作の歴史に大きな功績を残した。 
歴史 / 技術の変化  
地図学において、新しい世代の地図製作者や利用者の要請にこたえるため、技術が継続的に変化している。初期の地図はブラシと羊皮紙を用いて手作業で作られ、それゆえ1枚ごとに品質が異なり、配布も限られたものとなっていた。方位磁針やずっと後の時代の磁気記憶装置といった磁気装置の出現によって、はるかに正確な地図が作成できるようになり、デジタル的にそれらを保存したり操作したりすることができるようになった。  
印刷機、四分儀、ノギスといった機械装置の進歩により、より正確なデータからより正確な地図の複製を大量生産できるようになった。望遠鏡、六分儀、その他望遠鏡を用いた機器などの光学的技術により、土地の正確な測量が可能になり、正午には太陽の、夜には北極星の高度を測ることで、その土地の緯度を知ることができるようになった。  
石版印刷や光化学的プロセスなどの光化学的な進歩により、細部にわたって綿密で、形がゆがまず、湿気や摩滅に強い地図の製作が可能になった。これにより、さらに、版への彫刻が必要なくなり、地図の作成や複製の時間が短縮された。  
20世紀半ば以降の電子技術の進歩は、地図学における新たな大変革に至っている。とくにスクリーン、プロッタ、プリンタ、スキャナ、分析的ステレオプロッタといったコンピュータハードウェア装置と視覚化、画像処理、空間分析、データベースなどのソフトウェアによって、地図の製作は民主化され、大いに広がることになった。  
 
古代 / 地図が生まれた時代

1.地図のはじまり  
地図に込めた思い  
人ははるか昔から自分の住む世界を知りたいと思い続けてきました。ほかの動物たちに比べて体力的に劣る人類にとっては、知恵と情報こそが生き延びる手段でした。そしてよりよい生活をするためには、情報を記録し仲間と共有することが必要だったのです。獲物が集まる場所、渇れることのない泉、対立している部族の集落、安全に山を越えるルート、など見聞きして得た貴重な情報を残しておきたい。仲間に伝えておきたい。たとえ文字がなくても絵に表わすことはできます。むしろ言葉より絵のほうが正確に伝えられたのでしょう。  
身近な素材で  
中部太平洋のマーシャル諸島には、貝殻とヤシの繊維を編んで島と航路や海流を表わした海図がありました。外洋を航海できる大型カヌーで島々を行き来していたのでしょう。アラスカに住むイヌイットは、流木を削って海岸線の目印を記録しました。狩りに出て迷わないためです。洞窟の壁面に描かれた絵地図は世界各地で発見されています。現在まで残っているものはわずかですが、人はさまざまな手段で空間を絵に表わしてきました。しかしそれは具象的な(写生のような)絵画ではありません。関心のある事物だけを記号に抽象化して描いているのです。人は地図を発明したのです。  
国の力を表わす地図  
やがて農耕がはじまると、土地を耕したり用水路を作ったりするために大勢の人々の協力が必要になりました。指導者の下で多くの人が働くようになり国家が成立します。すると、人々が争わないように耕地の境界を定めたり、公平に課税するために、土地が測量され地図に記録されるようになりました。これが地籍図のはじまりです。移動のためではなく、領地を示し宣言するための地図です。バビロニア(現在のイラク)では粘土版、エジプトではパピルス(英語の「ペーパー」の語源)という植物の葉を編んだもの、中国では絹に描かれていました。  
世界図  
国が大きくなると国王が住む町の人口が増え都市へと発展します。すると遠くからも人と物が集まるようになり、人々は遠い世界についての知識を持つようになりました。知識は伝えられ記録されて次第に増えていきました。紀元前2000年ころになると、バビロニアや中国で全ての知識を一望に表わそうとして世界図が作られるようになりました。世界といっても地球全体のことではなく、彼らの知り得る全ての土地という意味です。  
バビロニアに現存する世界最古の粘土板の世界図は、紀元前700年ころのものと推定されています。円と直線を組み合せた単純なものですが、首都バビロンを中心とする円形の陸地が海に取り囲まれています。小アジア(トルコのアジア側)の山岳地からペルシア湾までが含まれていて、ユーフラテス川も描かれています。海洋の外側に描かれている陸地は、死後の世界をあらわしていて、天空のドームを支えていると想像されていたようです。  
古代人の宇宙観  
古代の人々は世界全体についてはどんなイメージを抱いていたのでしょうか。ほとんどの民族は大地は平らであると考えていました。周囲を山で囲まれていると考える民族もいれば、海で囲まれていると考える民族もいました。大地を支えているのも、巨人であったり、象であったり、大亀であったり。神話や伝説にもとづいて想像されていました。地図の中にも不思議な生き物たちが描かれていました。現実と空想をごちゃまぜにして地図に描く行為は近代にいたるまで続いていくことになります。
古代(先史時代)の地図  
地図はおそらく文字よりも先に発明されたと考えられています。それは先史時代の壁画に描かれた山や谷などの風景が一種の絵地図でもあるからです。そして絵地図は言葉の違いにもかかわらず誰にでも理解できます。下は紀元前約1500年前に描かれたとされる「カモニカの地図」(イタリア)といわれるものです。家や畑など、彼らの生活していた範囲が詳細に描かれています。  
> カモニカ図  
 
> 太平洋のマーシャル諸島の島々を描いた海図 
文字よりも先に、海図が人々の生活に必要だった。マーシャル諸島のスティックチャートは、ヤシの小枝を組み合わせた枠の上に貝殻を貼りつけて島々の位置を示し、さらに海上の波頭の向きを、同じくヤシの小枝を用いて表している。  
 
また、地図はその描かれた時代の世界観を表わす貴重な資料でもあります。地図は実際に訪れた場所については詳しく、訪れたことがないが、人づてに聞いたことがあったり、まったく未知の世界については想像力たくましく描かれるものです。例えば、古代インド人は世界を4頭のゾウが支え、そのゾウを巨大な亀が支えていると考えていました。また、ヨーロッパでは人間が住む世界は海に囲まれ、さらにそれを4つの壁が囲んでいると考えていました。また、下は紀元前約700年前に作られた「バビロニアの世界図」といわれるものです。ここにはバビロニアの人々の世界観が表わされています。中国でも中華である自分たちを中心に、北は北狄、南は南蛮、東は東夷、西は西戎と呼ばれる野蛮人が存在するという「中華思想」がありました。この中華思想はいずれの文化圏でも見られます。エジプトでも様々な地図が作られていたと考えられています。しかしそれらはパピルスの上に描かれていたため、ほとんど現存していません。  
> バビロニアの地図   
.紀元前3000年頃・メソポタミア文明  
今からおよそ5000年ほど前、現在のイラクのチグリス川とユーフラテス川の間に、メソポタミア文明は芽生え、花開いた(メソポタミアは、ギリシア語で「川の間」を意味する)。バビロン、エリドゥ、ウルなど、川の流域では各地に都市が築かれ、互いに争い、拡大と縮小を繰り返していた。そんな中、紀元前2000年以降に新しくこの地にやってきたアムル人が、バビロニアという国を興す(紀元前1894年頃)。バビロニアは当初、一介の弱小国にすぎなかったが、6代目の王ハンムラビによってメソポタミア一帯を支配する帝国にまで、その規模を拡大する。しかしその後、紀元前1595年頃、小アジアの帝国、ヒッタイトの侵略により滅亡してしまう。  
メソポタミア文明は、チグリス・ユーフラテスの両大河による灌漑農耕に基礎をおくものであった。大河の氾濫が洪水を引き起こし、洪水による濁流が、田畑を肥沃な泥土で覆ってくれた。しかし洪水後は農地の区画が分からなくなるほか、それをめぐるトラブルも発生する。耕地の貢税を課するためにも、耕地の境界を画定するためにも、土地の測量はおこなわれた。そしてこの土地測量技術から幾何学が生まれ、のちにギリシアに伝わった。  
バビロニアの遺跡からはこうした測量の結果を図示した粘土板の地籍図が出土しているほか、他にも所領図や市街図などが描かれた粘土板が発見されている。  
バビロニアの世界図  
これら測量の地図のほかにも、バビロニア人の世界観を描いた粘土板も発見されており、その年代は紀元前700年頃と推測されているが、現存する世界図では最古のものであるとされている。バビロニア人の世界観によれば、大地は平たく、また円盤のように丸く、海の上に浮かんでいると考えた。陸と海は大小ふたつの同心円で表現されており、内側の小円を陸地、外側の大円を海とし、その大地をとりまく海は、「苦い水」と記されている。また粘土板の中心には「バビロン」と記されていることから、バビロニア人はバビロンが世界の中心であると考えた。  
さらにこのバビロニアの世界図には、世界の海の外側に7個の三角形が描かれており、これは海の彼岸に存在すると想像された別の世界の陸地を表している。これはバビロニア人が、大地の上をドームのように覆う天空を支えるための陸地が存在すると考えたためだ。このようにバビロニアの世界図は、当時のバビロニア人が抱いていた世界像を表現した図となっている。 
2.大地は球である

 

自然を理解したい  
四大文明(メソポタミア、エジプト、インダス、黄河)のころに作られた世界図を見ると、彼らはまだ大地が平面であると考えていたようです。一方、天体の運行を観測して暦を作ることは世界各地でおこなわれていました。繰り返されるリズムの中から自然にはルールがあることが理解されるようになりましたが、それはまだ神の啓示としてでした。ところが紀元前7、8世紀頃になると、地中海交易で興隆しつつあったギリシアでは、知識の交流が盛んになり、異なる考え方を比較して論じる人々が登場します。自然をありのままに受け止めるだけでなく、摂理を論理的に説明しようとしはじめました。自然哲学の発生です。  
平板な世界  
ギリシアでも初期の世界観はバビロニアの影響を受けたもので、大地は平らな円盤であると考えられていました。地理学者のヘカタイオス(550?B.C.〜475?B.C.)が製作した世界図は“全世界の地形とともに海洋と河川のすべてを掘りこんである銅板”と伝えられ、地中海の海岸線はかなり正確に描かれていたようです。けれども大地の形はやはり平らな円盤で、周囲は“オケアノス”とよばれると架空の海洋に囲まれていると考えていました。
球体説の誕生  
ところが急速に発達した天文学や幾何学(図形や空間の性質を研究する学問)を学んだ科学者が、大地について考察をはじめたとき、世界観は一変するのです。大地が平らではなく球体であると最初に唱えたのは、かの有名な数学者、ピタゴラス(570?B.C.〜497?B.C.)だとされています。太陽や月が球体であることと、ギリシア的な対称性を重んじる価値観から、球こそが完璧な形であると考えたのです。その後、自然科学の祖ともいわれるアリストテレス(384B.C.〜322B.C)が、いくつかの根拠をあげてより論理的に説明しています。南北に長い距離を移動すると星の高さが変化すること、月食のときに月面に映る地球の影は円または円弧であること、沖合いの船はマストだけが見えることなどです。この説からは、月食が太陽と地球と月の位置関係によって発生することが理解されるほど、天文学が発達していたことがうかがえます。  
とはいっても、自分の目で見たものしか信じられない人々にとっては、理解し難いことであるはずです。この大地の反対側に、足を“上”に向けて立っている人がいることになるからです。万有引力を認める現代人でさえ、理屈ではわかっていてもイメージすることは簡単ではありません。にもかかわらず、科学的な思考をするようになったギリシアの人々は、地球球体説を自然に受け入れていきました。  
3.日時計で地球の大きさを測る

 

角度で距離を測る  
論理的な思考はしても、実験や観察にあまり関心を持たなかったギリシア人は、地球が丸いことを発見しても、大きさを測ろうとはしませんでした。地球の大きさは、同じ経度上にある2地点間で、距離と同時刻の太陽の高度を測定すれば、あとは彼らが得意としていた幾何学を利用した簡単な計算で求めることができるのです。高度差すなわち緯度の差が、仮に3度であったなら、全円の120分の1だから、距離を120倍すれば地球の円周を求めることができます。  
エラトステネスの実験  
この方法を思いついて、地球の大きさを測定してしまったのは、地中海に面したエジプトの港町、アレクサンドリアの図書館長エラトステネス(276?B.C.〜196?B.C.)です。有名な話なので聞いたことがあるでしょう。このころのアレクサンドリアは、ギリシャが分裂して成立したプトレマイオス朝エジプトの都であり、ヘレニズム文化の中心でした。  
“ナイル川上流のシエネでは夏至(北半球で昼が一番長い日、6月22日ごろ)の日に井戸の底まで太陽が差し込む”旅人の話からこのことを知った彼は、あとは同じ日のアレクサンドリアでの太陽高度と、シエネまでの距離を調べるだけでした。太陽高度は日時計として使われているオベリスクと呼ばれる石の塔が作る影を測って、天頂から7度12分と求めました。距離の測定方法は記録に残っていないのですが、人にせよラクダにせよ、歩測であったことは確かでしょう。当時の単位で5000スタディオンと見積もっています。円周を計算してみましょう。  
5000スタディオン×(360度÷7度12分)=250000スタディオン  
1スタディウム(スタディオンの単数形)は178メートルと推定されているので、キロメートルに換算すると44500キロメートルになります。これは実際の値より1割程大きいだけです。現実にはアレクサンドリアとシエネには経度差もあったし、シエネの井戸は完全に垂直ではなかったようです。このように曖昧なデータしか集まらなかったにもかかわらず、幸運にも誤差が相殺されて、きわめてすぐれた結果を得ることができたのです。  
まだ地中海の外の世界については、ほとんどわかっていなかったけれども、地球の大きさを知ることはできたのです。実測困難な対象(地球の円周)を、実測可能な別の対象(2地点の緯度差と距離)に置き換えて、計算によって求める。簡単な幾何学の応用に過ぎないのですが、これこそが測地学の基礎なのです。  
4.地球に線を引く

 

エラトステネスの世界図では、地図上の諸地点の位置関係をみる基準として、いくつかの水平線と垂直線が描かれています。これは主要な地点を通る直線であるため間隔は一定ではなく、あくまでも地図上の目安でした。これを改良して、全世界を合理的に等間隔に区切る経緯線網として確立したのは、アレクサンドリア時代の天文学者であり数学者でもあった、ヒッパルコス(190B.C.〜120B.C.)です。  
経線とは北極から南極まで南北に走る線のことです。全ての経線は同じ長さです。緯線とは東西に走る線のことで赤道と平行に引かれ地球を1周しています。赤道から離れるにつれて円周は徐々に短くなります。経線によってできる円の中心は地球の中心と一致します。このような円は“大円”と呼ばれます。これに対し緯線によってできる円の中心は赤道を除いて地球の中心とは一致しません。このような円は“小円”と呼ばれます。ちなみにある地点を通る経線のことを“子午線”ということもあります。干支(えと)を使った方位表現では、“子”は1番目の“ねずみ”なので“北”、“午”は7番目の“うま”なので“南”を意味します。つまり“子午線”とは“南北線”のことです。  
地球を経線と緯線による網、経緯線網によって覆うことで、全ての地点は2つの数値で表わすことができるようになります。経緯線は球面を等間隔に区切る線なので、数値は角度で表わすようにします。東西方向の角度を経度、南北方向の角度を緯度といいます。この2つの値を使うことで、地点の位置を座標で示すことが可能になるのです。  
こうして経緯線が導入されても、地点の経緯度を測定することはできませんでした。緯度のほうは北極星の高度を測れば求めることができたのですが、実際に記録されたのはほんの数都市にすぎませんでした。ましてや経度のほうは測定する術がなかったのです。地点の経緯度が測定され、正しい位置に記入されるようになったのは、近代になってからのことなのです。 
5.プトレマイオスの『地理学』

 

投影法の必要性  
大地が平らであると考える人々はもちろん、自分が住む町や国家を地図に描くだけであった人々も、投影法を考慮することはありませんでした。縮小するだけでよかったのです。投影法は大地を球体と考え広大な地域を表わそうとするときになって初めて発生する問題なのです。  
古代学問の権威・プトレマイオス  
世界を正しい位置関係で表そうとして投影法の問題を考えたのは、やはりアレクサンドリアで活躍した、プトレマイオス・クラウディオス(2世紀ごろ)です。このころ政治・経済の中心はすでにローマに移っていましたが、アレクサンドリアはまだ文化の中心でした。彼はヘレニズム文化最大の天文学者で、大著『アルマゲスト(最大の書)』を著わしていますが、アリスタルコスの地動説(地球が太陽の周りを回るとする説)を否定して、アリストテレスの天動説(地球は宇宙の中心にあり他の天体が地球を回るとする説)を支持するという過ちを犯したことでも知られています。彼はまた地理学者でもあり、全8巻に及ぶ『ゲオグラフィア(地理学)』を著わしています。地球に関する数理地理学的な問題や地図作製の方法が論じられるとともに、当時知られている限りの地点について経度と緯度を推定して記しています。さらに世界地図と多くの地域図も含まれています。まさに古代地理学の集大成です。2つの著書はともに中世末期から近代科学が確立されるまでの間、ヨーロッパの科学に功罪含めて大きな影響を与えました。  
プトレマイオスの地図  
投影法については正しい比例で表すことを重視して、ボンヌ図法に似た一種の正距円錐図法を考案しています。ヒッパルコスが考案した経緯線も導入していました。ちなみに角度の表現に度分秒を使うことを考案したのもプトレマイオスです。しかし測量されたデータが皆無に近く、旅行者の話などから位置を推定したため、地点の位置については大きくずれています。こうしてできあがった世界地図では、西はカナリア諸島から東は中国の西安まで、北はスカンジナビアから南はナイルの源流まで、ほぼ全地球の4分の1を描いていました。経度はカナリア諸島を0度にして、西安付近が実際は130度ほどの差しかないのに、180度にされていました。このことは千年以上後の人々にまで大きな影響を及ぼすことになります。  
『地理学』の影響  
データは不正確であったものの、投影法の考慮、経緯線の導入、座標による位置付け、などがなされた最初の地図であり、近代地図の基礎と言えるでしょう。ヨーロッパ文化圏では近代になるまで、これを越える成果は現われませんでした。方法論としてだけでなく、その後の地図の多くが、大航海時代にいたっても、プトレマイオスの地図に書き加える形で描かれているのです。誤りや想像も含めて。  
プトレマイオスはまた“地理学とは、知られている全世界を、そこに介在する現象ともども絵によって表現することである”と書いています。彼がどんな現象を想定していたのか定かではありませんが、これはまさに現在の主題図の概念を表わしています。 
ギリシア、ローマ時代の地図  
紀元前2000年頃、ギリシャでは文明が発達し、地中海沿岸を結ぶ海上交通が盛んになりました。そして交易によってギリシャの人々の世界知識は大きく広がりました。紀元前6世紀の前半にはアナクシマンドロスという人が世界図を作り、これをもとにヘカタイオスという地理学者が世界地図を描きました。当時の貿易範囲である地中海沿岸やカスピ海、そしてアフリカ北部やエジプト、アラビアなどはかなり正確に描写されています。このころ世界は海に囲まれ、アジアやアフリカ中南部は存在していません。  
紀元前5世紀頃にはヘロドトスはその著書「歴史」の中で、アジアやアフリカのことを書いています。また、アリストテレス(Aristoteles:前384〜前322)は紀元前4世紀後半の「気象学」で、地球が球体であることを述べています。また、ピタゴラス、プラトンなども「世界は球体である」と、地球球体説を唱えました。しかし、地球の大きさについては誰も分かりませんでした。そして紀元前220年ごろ、アレキサンドリアのエラトステネスが地球の大きさを約4万4500キロ(実際は約4万キロ)と驚くほどの正確さで測定しました。(どうやって測定したかはこちら)  
プトレマイオスはエラトステネスの測定から、紀元前150年頃に「プトレマイオスの世界図」を描き上げました。この地図は現存しませんが、後世それを参考にした世界地図が描かれました。プトレマイオスの世界図は投影法に基づき描かれたものです。  
> プトレマイオスの世界図 
  
4世紀にはローマを中心とした実用的な道路地図「ポイティンガー図」が作られました。これは幅30cm、長さ7mの巻物で、山や川、途中の町や都市を描き込んだ現在のロードマップの原型のような地図です。  
このように、ギリシャ〜ローマ時代は地図も科学的な思考や知識、そして実用性など、様々な面から発展していきました。  
※プトレマイオス:(127頃〜151頃活躍:Ptolemaios Klaudios)エジプトのアレクサンドリアで活躍した数学者・天文学者・地理学者。生没年不詳。古代の天文学の知識を体系化し、天動説を著した。 
マクロビウスによる地図 
中世に人気が高かったローマ後期の哲学者アンブロシウス・マクロビウス(紀元後400年頃に活躍)。彼はキケロの『国家論』の一部『Commetary on the Dream of Scipio』で古代ギリシャの科学や神話に基づく地理学論を述べている。彼の写本のほとんどに分布帯地図と呼ばれる、ギリシャの伝統に従って北を上にした地図が載せられている。北部極寒帯(北極圏)、北部温帯(北回帰線)、灼熱帯(赤道)、南部温帯(南回帰線)、南部極寒帯(南極圏)に分けられていて北部温帯だけに人が住めるとしている。  
.紀元前800年頃・ギリシア文明  
エジプトやバビロニアにおいて古代オリエント文明(古代エジプト文明、古代メソポタミア文明などの総称みたいなもの)が繁栄していた紀元前2000年頃より、エーゲ海地域に文明の火が灯った。バルカン半島を南下し、地中海のエーゲ海沿岸に達したギリシア人は、先住の民族を征服、あるいは同化しつつ、エジプトやバビロニアのオリエント文明を摂取し、やがてこれまでの文明とは異なった新しい文明、ギリシア文明を開花させた。しかしホメロス(叙事詩『イリアス』の作者)の詩篇には、世界の大地はオケアノスと呼ばれる大洋に周囲を囲まれ、また天空は平たい大地の上を鉄の鐘のように覆っていると謳われている。このことから、紀元前800年頃までのギリシア人の世界観は、フェニキア人などを通じて得たバビロニア人の世界観の影響を、強く受けていたのが分かる。  
ヘカタイオスの世界図(紀元前550年頃)

一説によればエーゲ海文明のうち、ヘラディック文明とキクラデス文明は、ギリシア人の祖先であるイオニア人などの民族によって、紀元前2000年頃滅ぼされたとされる。またクレタ島のクレタ文明はミケーネ文明に取ってかわれ、そのミケーネ文明は紀元前1200年頃ヒッタイトを滅ぼした「海の民」によって滅ぼされたとも言われている。いずれにせよエーゲ海文明に幕が下り、再びエーゲ海地域に文明が芽生えたのが紀元前750年頃。アテネやスパルタといった都市では海上交通が発達し、人口の増加にともない植民活動が活発になる。ギリシア人は地中海、黒海の沿岸に進出し、各地に多数の植民市を建設した。本国と植民市を会場で往来する中で商業貿易も発達、結果、ギリシア人の地理的知識は豊富になり、ホメロスの時代よりもはるかに正確で、広範囲に及ぶ知識を手に入れたのである。  
紀元前700年頃になると、ギリシアに自然哲学が誕生した。そして自然哲学者アナクシマンドロスによってギリシアで初めて世界地図が作られ、さらにこの世界図を、地理学者のヘカタイオス(前550年頃)が描き改めた。  
ヘカタイオスの世界図をこんにち残っている彼の地理書にそって推定してみると、ヘカタイオスはホメロス以来の伝統にしたがって、世界の陸地の周囲はオケアノスが環状にとりまいているとみなしている。しかし地中海や黒海の沿岸についてはかなり正確なものになっており、また、インドやインダス河の存在も、ペルシア人を通じてギリシア人に伝わっていたことから、インドは世界の一番東に、オケアノスに接して位置するものとして描かれている。  
ヘロドトスの世界図(紀元前450年頃)  
  
ヘカタイオスからおよそ1世紀ほどの前5世紀には、ヘロドトス(前484〜424年頃)が、『歴史』を著した。この『歴史』に記された各地の地誌的記述に基づいて世界図を復元すると、ヘカタイオスとは大きな違いが見られる。それは、「オケアノスはホメロスなど、昔の人たちが想像したもので、それを世界図に描くとは理由のないこと」とみなし、強く否定している点である。またヘロドトスはエジプトやペルシア、スキティア(現在の南ロシア)など各地を訪れているため、地理的知識は一層正確なものになっている。  
例えばヘカタイオスの世界図と比べてみた場合、ヘカタイオスがオケアノスより湾入しているとみなしたカスピ海を、ヘロドトスは内陸海であると確定している。これは彼がスキティアやペルシアを訪れたときに得た知識があってのことである。しかし地中海沿岸を離れたヨーロッパについてはあまり知っていなかったらしく、アルプス山脈などの記述はない。またリビア(アフリカ)のナイル河が大陸の中央を東西に流れているものとみなし、そのためナイル河の源流をリビアの西方に位置するものと誤っている。  
地球球体説の成立(紀元前350年頃)  
ヘロドトス以降は、ギリシア人の地理的知識がさらに発展した。理由としてはまず、アレクサンドロス大王(前350〜323年)のアジア遠征が挙げられる。この遠征によってギリシアの宿敵であったペルシア帝国が前330年に滅亡し、ギリシア人は砂漠やステップ、ヒンドゥークシ山脈を越え、中央アジアやインダス河流域に到達、これらの地域にギリシア人による都市も多く建設され、ヘレニズム文化(古代ギリシア文化と古代オリエント文化の融合的な意味合いを持つ文化を指す)の影響がインドにまで及んだことにある。  
そしてもうひとつの理由としては、ギリシア地理学における地球球体説の成立と、地球の大きさの測定がおこなわれたことである。ギリシアでもヘロドトスの時代までは、まだ地球は平たいものと考えられていたが、前4世紀にもなると、ピタゴラス学派の哲学者たちによって、「物体のもっとも完全な形が球体であるとすれば、宇宙の中心に位置する地球は、当然、太陽や月と同じように球体をなす」と主張されるようになり、ソクラテスやプラトンといった哲学者らも、ピタゴラスにしたがって、地球は大きな球体であると考えるようになった。  
このように、地球球体説というのは当初、哲学者の理論・概念による知的認識によって求められた宇宙観だったが、これを観察という自然科学的な方法で地球が球体であることを実証したのが、アリストテレス(前384〜322)だった。アリストテレスは月蝕のさいに月面に映る地球の影が円形をなすこと、また地球上を南北に移動しただけで天空の星の位置が変化して見えることから、地球はあまり大きな球体ではないと論じた。このように地球が球体であることが明らかになると、さらに地球の大きさはどれほどであるのか、ギリシア時代の地理学者エラトステネス(前273〜192)によって測定された。  
地球の大きさの測定  
アレクサンドロス大王が没してのち、帝国はマケドニア、シリア、エジプトの三国に分裂したが、中でもプトレマイオス王朝治下のエジプトは、その首都アレクサンドリアが、地中海と紅海、またインド洋を通じてのインドとの東西貿易の拠点となっていたため、おおいに発展した。そしてアレクサンドリアには大図書館や天文台、動物園に植物園などが設けられ、ヘレニズム文化の中心地として栄えた。  
アレクサンドリアの図書館長の職にあったエラトステネスは、ナイル河上流のシェネ(現在のアスワン)と河口のアレクサンドリアとはちょうど南北の位置、すなわち同一子午線上にあるとみなし、その両地点間の距離をエジプトの地籍測量の資料から5000スタディア(スタディウム。古代ギリシアで使われていた距離の単位。スタディアはその複数形。1スタディウムの値は地域によって多少長さが違うらしいが、エラトステネスの場合、1スタディウム=180m)と仮定した。  
そしてエラトステネスはスカファと呼ばれる半球状の日時計を用いて夏至の日の正午において南中する太陽の角度を観測、アレクサンドリアでは日時計の針の作る影によって、天球上の太陽の位置は天頂から7度12分であることを観測した。この角度はシェネとアレクサンドリア間の円弧が地球の中心においてはさむ中心角と等しいので、この円弧は地球の円周の50分の1にあたることになる。したがって、地球の大きさはシェネとアレクサンドリア間の距離5000スタディアの50倍、すなわち25万スタディアという結果を得られた。  
1スタディウムを180mとして換算した場合、25万スタディアは45000kmとなり、実際の地球の大きさが約40000kmであることから、エラトステネスの測定はそれほど大きくは間違ってはいない。しかし厳密にはシェネとアレクサンドリアは同一子午線上ではないし、両地点の距離やアレクサンドリアにおける太陽の角度の測定にも誤差がある。とはいえ観測方法や測定器具が現代より発達していない古代において、ここまでの結果を出せたということは、きわめて優れたものであったと言える。  
> エラトステネスの世界図 
 

ローマ時代(前1世紀〜5世紀)  
前5世紀ごろ勃興したローマ人は、次第にその勢力を増し、前146年にはカルタゴやギリシアを、前30年にはエジプトをその支配下に置き、2世紀前半にはローマ帝国の領土はゲルマニアや東欧の一部を除いたヨーロッパ全域から、北アフリカや西アジアの地中海沿岸一帯にまで拡大した。したがってローマ時代の地理的知識も、ローマ世界の発展と共に拡大された。  
特に前1世紀頃からは、モンスーンを利用して紅海からインド洋を横断しての海上交通が発達し、インドとの南海貿易によって、ローマにはインドの産物がもたらされるようになった。また中国とローマの交易も開かれるようになり、ことに中国の産する絹は、ローマの宮廷においてもっとも珍重された高価な織物であったため、中国からの隊商交通(通称シルク・ロード)によって、内陸アジアのステップや砂漠を通ってはるばるローマまで送られてきた。したがって、ギリシア時代にはまだ知られていなかった中国に関する知識や情報は、ローマ時代にシルク・ロードを通じて、初めてヨーロッパに伝わったのである。  
プトレマイオスの地理書  
  
ローマ時代における地理的知識の拡大にともない、地理学も大きく進歩した。しかしローマ人は軍事・政治的な面では優れていたが、文化という面においては、それまでのヘレニズム文化を超えることはできずにいた。これはギリシア人が個別の中に普遍を求め、理念を見出そうとしていたのに対し、ローマ人は有用であり必要なものだけが研究に値すると考えていたためである。したがって、土木や建築技術など、実用的な分野はローマ人が優れた技術を生み出したが、科学研究の分野においては、ローマ時代であってもギリシア人が発展させていた。  
中でも、地図の発達に大きく貢献したのが、天文学者プトレマイオスである。一般に天文書『アルマゲスト(天体の運動を解説した本)』の著者として知られる彼は、2世紀頃、アレクサンドリアにおいて活躍した。またプトレマイオスは、エラトステネスにはじまる数理地理学の系統を受け継ぎ、できるだけ正しい世界図を作成する目的で、『地理学』という8巻からなる地理書を著した。  
プトレマイオスの地理書は、12世紀頃のビザンティンの写本を通じて、こんにちに伝えられている。ローマ時代の2世紀頃にヨーロッパ人に知られていた地球は、全世界のおよそ4分の1程度であったので、プトレマイオスの世界図も、経度で180度、また南緯で20度までの範囲を、円錐図法によって表した半球図である。これは世界図の作成に投影図法を用いた最初のものであり、この点において、近代地図の先駆けと言える。  
プトレマイオスの世界図に描かれた陸地の形状は、地中海や北西ヨーロッパについてはこれまでより詳しく正確になっているが、スカンジナビア半島については、その存在がまだよく知られてないようで、「スカンジア」と記されただけの小島となっている。またアフリカでは、フェニキア人やギリシア人によってもたらされた知識に基づき、赤道付近までの沿岸の形態はよく知られているが、それ以南は「未知の土地(テラ・インコグニタ)」と記され、南方に無限に広がる大地となっている。  
アジアでは、カスピ海が再び内陸海であることが認められたが、アジアの北部はアフリカ同様、「未知の土地」となっている。インドではインド半島の突出がほとんど見られず、現在のセイロン島にあたるタプロバネー島が、実際よりも10倍以上の大きな島として描かれている。これは、まだインドについての知識が不確実だったものと思われる。  
プトレマイオスの世界図で特に注目されるのは、インドより東の部分が描かれていることである。インドからヒマラヤ山脈にあたるイマウス山脈に隔てられた北東の部分に「セラ」を首都とする「セリカ」という国が見られ、また「ティナエ」を首都とする「シナエ」という国が、赤道をよぎって突出する部分に記載されている。このセリカという国は「絹の国」という意味で、シルク・ロードを伝わって知られた中国のことを意味し、首都セラは長安を指すものと考えられる。これに対しシナエあるいはティナエという名称は、前3世紀に中国を統一した「秦」の国号が、インドを通じ伝えられたものである。  
プトレマイオスの誤り  
このようにプトレマイオスの世界図では、ヨーロッパ人の地理的知識がインドよりさらに東にまで及んだことがうかがえるが、当時はクロノメーターのような正確な時計がなかったため、東西の2点の時差を知ることはできず、正確な経度の測定は不可能であった。そのため、経度の換算に必要な東西の距離は、すべて旅行者の記録や地理書などから予想して算出されたため、東西の距離は過大に見積もられ、実際の距離よりも大きく東にずれてしまっている。その上、プトレマイオスは地球の大きさをエラトステネスの25万スタディアという結論を用いずに、エラトステネスよりのちに地球の大きさを測定したポセイドニオスの18万スタディアという、地球の実際の大きさよりも2割ほど小さい数値を採用したため、陸地の形状は東西方向にいっそう延びてしまう結果となった。  
また大きな誤りとして、アフリカの沿岸が南ではなく東に長く延び、アジアに接してしまい、インド洋が陸地に囲まれた大きな内陸海となってしまっている。このような誤りがどうして生じたのかについては、明らかになっていない。  
ヨーロッパ人の地理的知識があまり及ばなかった地域については多くの誤りがある世界図だが、にもかかわらずこの世界図は、近世初頭の地理的発見時代が始まるまでは、世界の諸地域の位置や形状について、もっとも包括的でかつもっとも詳細な地理的知識を示す唯一の地図であった。すなわちプトレマイオスの世界図は、ギリシア・ローマ時代の古代地理学の集大成であり、古代地理学が残したもっとも貴重な遺産であると言える。 
6.ローマのロードマップ

 

道路地図とは  
我々が日常最も頻繁に利用する地図は、おそらく道路地図でしょう。経緯度や投影法のことよりも、目的地に迷わず到達できることに主眼をおいて作られた実用的な地図です。現在の道路地図の基礎は、ローマ時代にはすでに作られていました。  
ローマ帝国による道路地図の作成  
ローマ帝国は紀元前2世紀には、ヨーロッパのほぼ全域と北アフリカの地中海岸から西アジアにまでいたる広大な領土を支配するようになりました。ローマ人も地図を作りましたが、ギリシア人のように地点を座標に位置付けたり、投影法を考察したりすることには興味を示しませんでした。そのかわりに土木と軍事に長けていた国民性を思わせる、実用的な地図を発達させました。それが道路を基本としてローマ帝国の領土全体を描いた『ポイティンガー図』です。将軍アグリッパ(63B.C.〜12A.D.)がアウグストゥス帝に命じられて、20年の年月を費やしておこなった測量結果を基にしています。現存するものは、3世紀ころに作られ11〜12世紀頃に写本されたものです。  
『ポイティンガー図』のしくみ  
まずローマを基点とする道路網を描き、これに沿って都市・宿場・目印が簡潔なイラストで描かれています。山脈や森林など自然の様子もイラスト化されて描かれています。さらに宿場間の距離も正確に記されています。もう1つの特徴は地図の形状で、長さが7メートル、幅は30センチという極端に細長い形をしています。これは巻物として携帯できるようにするためです。そのかわり形状や方位は大きく歪められています。道路の接続関係と沿線に何があるかがわかればよいのです。ちょうど現在の鉄道路線図のような感じです。まさに旅行者のための地図です。ローマが建設した道路はよく整備され、道標なども設置されていましたから、地図を持っていれば安全に旅をすることができたのです。 
7.中国の地図史

 

古代中国で  
四大文明の1つであり、広大な領土を持つ中国では、紀元前11世紀、最初の王朝である殷の時代にはすでに天文学が発達していて、地図も作られていただろうと推測されています。紀元前の記録には地図が使われていたことを示す多くの記事がありますが、地図そのものは残されていません。中国で紙が発明されたのは2世紀なので、それ以前は絹に墨で描かれていたものと推測されています。  
漢代の地理学  
領土を広げた漢(202B.C.〜220A.D.)の時代になると地理学は大きく進歩します。天文学者の張衡(2世紀ころ)は、中国地図の特色である“方格図”の創始者とされています。これは100里(58キロ)間隔の直交する縦横線で区切られた地図ですが、中国では西洋科学がもたらされるまで、大地が平らであると考えられていたため、投影法が考案されることはありませんでした。晋の司空(土木省長官)であった裴秀(はいしゅう:224〜271)は、地理学と地図作製の手引書を著わしています。これには地図作製の要点として「分率・準望・道里・高下・方邪・迂直」の重要性が述べられています。  
 分率 … 縮尺の比率を定めること  
 準望 … 方位を正すこと  
 道里 … 距離を正すこと  
 高下 … 坂道では水平の距離を求めること  
 方邪 … 交差の角度を正すこと  
 迂直 … 曲線区間では直線距離と方位を求めること  
唐代の地図  
唐(618〜907)の時代になると、賈耽(かたん:730〜805)が『海内華夷図(かいだいかいず)』を作製しています。9×10メートルの大きさで縮尺は約1/150万、朝鮮半島からベトナム北部までがたいへん緻密に描かれています。経緯度の考え方がなかったため、距離と方位だけで地点の位置を確定しているにもかかわらずかなり正確です。現存はしていませんが、これをもとにして石碑に刻まれた『禹跡図(うせきず)』が残っています。  
元代の地図  
元(1260〜1368)の時代には、科学的地図作製法を確立した地図学者の朱思本(1273〜1335)が『輿地図(よちず)』を作製しています。ヨーロッパからアラブにまでおよぶ広大な領土を支配したため、イスラムの地図の影響も受けていて、中近東やヨーロッパまで描かれています。明の時代1555年には、羅洪先(1504〜1564)によって分割され『広輿図』と題された48図からなる地図帳にまとめられています。  
西洋地理学の影響  
このように中国の地理学は独自に発達していたのですが、17世紀になるとイエズス会の宣教師によって、ヨーロッパの近代的な全世界図が伝えられました。大地を平面とみなしていた中国地理学は通用しないことがわかり、マテオ・リッチ(1552〜1610)の協力で、西洋地理学が取り入れられるようになりました。  
清代の地図  
清の時代になると、測量技術を学んだフランスの宣教師により、1708年から1716年にかけて中国全土で大規模な測量がおこなわれました。1717年に完成し、康煕帝(こうきてい)に献上された地図が『皇輿全覧図』です。これをもとにして出版されたダンヴィルの『新中国アトラス』は、長くヨーロッパにおける中国地図の標準とされていました。  
 
中世 / 聖書と神話の時代

 

1.聖書に生きる人々  
古代文明の終焉  
繁栄を誇ったローマ帝国も、領土の拡大とともに求心力が弱まり、395年には東西に分裂しました。同じころアレクサンドリアでは、図書館がキリスト教徒に焼き討ちされ、7世紀にはイスラムに支配されたことで、ヨーロッパからギリシア文化は姿を消しました。ローマの行政と軍事システムの崩壊は、北部ヨーロッパに住んでいたゲルマン民族の侵入を許し、476年ついに西ローマ帝国が滅亡してしまいました。ゲルマン民族は文明化されていない民族の多くがそうであるように、原始的な多神教で自然崇拝の傾向が強かったのですが、ローマで公認されたキリスト教がしだいに勢力を伸ばすと、古い伝統や習慣が新しい理念に取り込まれていき、中世の宗教世界を形成していきました。厳格な宗教が科学技術を持たなかった社会と結び付くと、ギリシアの科学もローマの工学もことごとく否定され、失われていきました。  
聖書がすべて  
教会を中心とする中世の社会では、聖書こそが唯一絶対の真理であると考えられ、現実の世界を研究したり観察する自然科学よりも、聖書の世界から主の教えを学ぶ神学が重視されるようになり、神の国へ召されることにエネルギーを注ぐようになります。地理についても、創世の物語がそのまま信じられたため、地球球体説は否定され、ギリシア以前の円盤大地説が復活しました。そもそも地上界よりも天上界に関心が向けられていたので、大地の形など重要ではなかったのです。  
中世の暮らし  
科学の面から見れば中世は停滞あるいは衰退の時代であるといえます。しかしだからといって“暗黒時代”と決めつけることはできないはずです。真理を探求しようとする者にとっては息苦しい社会でしたが、多くの庶民にとっては1000年も続くおおよそ平和で安定した時代であったのも事実です。近世以降の動乱の時代と較べたとき、はたしてどちらが暮らしよい時代であるのか、一概にはいえないでしょう。かつてはサハラ砂漠以南のアフリカ大陸を“暗黒大陸”と呼んでいたこともあったように、近代西欧文明を中心とする思想ではないでしょうか。 
2.キリスト教の世界観

 

地図のいらない生活  
中世ヨーロッパでは、ほとんどの人々は領主が支配する封建的な荘園(私有の大農場)の中で一生を送っていました。騎士たちが旅をしたり十字軍に参加することはありましたが、交易や探検はほとんどおこなわれませんでした。ここではギリシア的な投影法による世界地図も、ローマ的な道路地図も必要ありませんでした。そもそも地図とは無縁の生活だったのです。しかし絵画的なタウンマップは作られていて、なかには鳥瞰図として描かれたものもありました。  
TO図  
このころ作られた数少ない世界図には実用的な価値(位置や道程を表わす機能)は全くなく、キリスト教の世界観を表わすための象徴的なものでした。代表的な世界図は“TO図”とよばれるものです。これは初期のギリシアの地図の影響を受けたもので、オケアノスの海に囲まれた円形の大地を表わす“O”の中に、地中海とナイル川とドン川(ロシア西部を南流し黒海に注ぐ)を表わす“T”が描かれて、大陸が3つに分けられています。上半分がアジアで、左下がヨーロッパ、右下がアフリカです。エルサレムが中心に配置され、上端である東の果てには“エデンの園”が想像されました。地名も聖書に記されている場所がいくつか書かれているだけのものです。  
マッパムンディ  
タペストリー(壁掛け)などに描かれた世界図は“マッパムンディ”とよばれていました。“世界の布”という意味で、英語のマップの語源です。TO図よりはサイズが大きく、地形にはローマ時代の地図の影響も残っていますが、聖書や伝説に記されている空想上の事物を表わすイラストが豊富に描かれています。エデンの園をはじめ、バベルの塔やノアの箱舟などの絵で飾られ、空いた場所は人魚・一角獣・無頭人・四目人間・グリフィン(頭と翼が鷲で胴がライオン)のような、奇異な人間や動物の絵で埋められています。地図というよりは聖書の世界を表現するための絵物語というべきでしょう。羊皮紙に美しく描かれ装飾されたマッパムンディは、宝物として教会や王侯貴族が所蔵していました。イギリスのヘレフォード寺院に所蔵されている『ヘレフォード図』が代表的なもので、1.3m×1.6mの大きさがあり、1300年ごろ僧侶によって製作されています。  
中世の地図  
紀元476年に西ローマ帝国が滅ぶと、ヨーロッパは中世の時代に入ります。この時代は聖書に書かれていることが絶対とされました。地球球体説は否定され、大地は平たいもの、という考えに戻ってしまいました。また、荘園制度に基づく封建社会は、人々の移動や交易を限られたものにし、地図の必要性も少なくなりました。当時の世界はTO図(左)とよばれる簡単な地図によって描かれています。Oは世界の周辺を取り巻くオケアノス、世界の陸地はアジア、アフリカ、ヨーロッパに3分され、地図の方位は楽園が所在する東が上とされました。地図の中心は聖地エルサレムです。  
> TO図                   > イドリーシの地図  
 
一方、イスラム教の広まった西アジアではイスラム科学が発展しました。プトレマイオスの地図にあったインドの南洋上の大陸は訂正されました。しかし、イスラム教では偶像崇拝禁止など、ものの形を具体的に描くことを戒めていたため、科学知識に基づいた地図はあまり描かれることはありませんでした。右は1154年にアル・イドリーシ(Al-Idrisi:1100〜1168)が描いた円形世界地図です。この地図は南が上になっていますが、その中に描かれている「ワクワク」という島が「倭国=日本」を描いているものという説があります。これが世界地図の中に日本が描かれた最初の例とされています。  
※地図はギリシャ時代にはフィナクス(Πιναξ)、ローマ時代にはタブラ(tabula)と呼ばれました。マッパ・ムンディ(Mappa mundi)は「世界の布」の意味で、中世の世界図をさし、英語のmapはこの言葉に由来します。また地図を意味するドイツ語のkarte、フランス語のCarte、英語には主に海図をさすchartは、ギリシア語の「紙片」を意味するカルテース(Καρτεζ)が語源です。 
イシドルスによる地図  
セビーリャ大司教イシドルス(560〜636年頃)は1598年聖人に列せられた。彼の「Etymologae(起源)」は数世紀にわたって、世界を網羅した有力な参考文献とされていた。それにつけられていた概略図がTO図だった。  
紀元前1世紀のローマ人がつくり、キリスト教の影響を受けて発達したもの。東を上にしエルサレムが中心にある。アゾフ海に注ぐドン川とナイル川を結ぶ線と地中海でアジア、ヨーロッパ、アフリカを分ける。ノアの3人の息子、長兄のセムがアジア、ヤペテがヨーロッパ、ハムがアフリカ、それぞれに住む人々の祖先となる、というもの。  
上の9世紀の写本には、それぞれの大陸の基本的情報が書き込まれている。  
下の木版画は1472年にアウグスブルクでイシドルスの著作が印刷された時のもので、印刷された地図としては最初のもの。  
海が周りを取り囲み、上端を切り落とした十字架が世界を3つの大陸に分けている。  
ベアトゥスによる地図  
リエバナのベアトゥス(730〜98頃)はベネディクト会の修道士で北スペインの山中の修道院で暮らしていた。  
711年のイスラム教徒の侵攻によって、イベリア半島のキリスト教徒は北の山中に逃れていた。それだけではなく、ヨーロッパの人々は、イスラム教徒から最新の知識を吸収してもいた。  
王室の進講役も務めていたベアトゥスは優れた学者で王室の書庫を利用することもできたらしい。766年ベアトゥスは黙示録の注釈をまとめ、布教のために宣教師たちが訪れた行き先を示す世界地図など75葉の挿絵がついた写本をつくった。  
原本は残されていないが、11世紀にサン・スヴェ修道院長の依頼を受けた地図作成者ステファヌス・ガルシアによる写しが残されている。  
イスラムの地図にそれまでのTO図を組み合わせたもので、上の東の端にアダムとイブがいるエデンの園がある。真ん中の地中海が左上に延びているのがタナイス(ドン川)、右側の少し下、2本の川が交じり合っているのがナイル川。この二つの川より東がアジア。ナイル川の分岐した河口の対岸にはROMAと書かれている。  
右側のオレンジ色の部分は紅海(ペルシャ湾、インド洋も含む)。その右にはアンティボーデ(対蹠地)未知の四番目の部分、太陽の灼熱で隔絶された地にはアンティボーディア人が住んでいる、とされている。  
紅海の東(上)の黄色い島がタプロバーネ(セイロンを指すが、スマトラ、ジャワなどの島々をまとめて表している)。  
エデンの園の南側には「宝石と象で知られ…金銀が豊富にある。この土地は年に2回収穫があるという。…山のような黄金があるのだが、ドラゴンやグリフィン、それに巨人に阻まれて近づくことができない。」と記されている。ほかにも、ゲンス・セレス(シルクの人々)、オケアヌス・セリクス(中国洋)、遊牧民や北アジアの食人種族についての記述もある。 
中世キリスト教の時代(5世紀〜13世紀)  
2世紀には繁栄をきわめたローマ帝国も、次第にその力は衰えていく。ローマ皇帝にとって、広大な帝国領の統一は非常に困難であった。そのため、コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認した背景には、帝国統一のための政治的な意図があるとも言われている。しかしそれでもなおローマ解体を防ぐことはできず、395年、ローマ帝国は東西に分裂、西ローマ帝国と東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が誕生する。このうち、コンスタンティノープルを首都とする東ローマ帝国は15世紀まで続いたが、ローマを首都とする西ローマ帝国はゲルマンの侵略により蹂躙され、476年に滅亡した。  
西ローマ帝国の滅亡と、さらにそれに続く民族大移動によって、ヨーロッパのギリシア・ローマ時代に栄えた多くの都市は破壊され、古代文化の伝統や遺産は、そのほとんどが失われてしまった。  
このような古代から中世にかけての動乱期における精神的不安により、人々は信仰に救いを求め、キリスト教の勢力は巨大なものになっていく。しかしこの時代を「暗黒時代」とすら呼ぶように、キリスト教は精神の世界だけでなく、知識の世界にまで影響を及ぼすようになっていく。それは、ギリシア・ローマ時代を通じて発達してきた古代科学の排撃と否定であり、すべての科学は聖書こそ唯一絶対の真理であり真実とする、神学のもとへの統一と支配であった。  
地球球体説の否定  
ギリシア時代からローマ時代にかけて、世界の地理的知識は拡大され、プトレマイオスの世界図のような、科学的な地図が作成されるようになったが、中世では古代科学の衰退とともに、世界図もまたギリシア時代以前の段階にまで後退してしまった。  
中世の封建社会では、交通も交易もきわめて限られた範囲でしかおこなわれなかったので、地理的知識の発達はほとんどみられなかった。なによりキリスト教の普及により、神学が発達するようになると、古代地理学のもっとも貴重な遺産である地球球体説は、聖書に説かれるものとは違う異端の説として否定され、地球は球体ではなく、平たい大地をなすものと、再び考えられるようになったのである。  
キリスト教の世界観  
聖書こそが唯一絶対の真理であるとする中世では、一般の地理学もすべて聖書によってのみ解された。その中世キリスト教の世界観とは、バビロニア人などと同じように、平たい大地は周囲をオケアノスに囲まれ、世界の中心に位置するのはキリスト教徒の聖地エルサレムであるとし、また世界の周辺には、古代の伝説ともからみあって、竜や悪魔といった怪異が実在するものとして信じられた。さらにオケアノスの外側には、ノアが洪水以前に暮らしていた別の陸地があり、その東の果てにエデンが存在するとみなしていた。  
このような中世キリスト教の世界観を描いた地図は、「TO図」と呼ばれる地図として、現在でも多く残っている。TO図は地図というよりは、アルファベットのOとTを組み合わせた形態の図式で、中世の人々の、世界に対する観念を象徴的に表したものである。  
すなわちOとは世界を取り巻くオケアノスであり、Tはアジアとヨーロッパとアフリカとの境界をなすタナイス河(現在のドン河)、ナイル河、地中海を表している。これによって世界の陸地は三分割され、中世ではエデンのある方角(=東)が上とされたので、TO図の上半部はアジアとなっている。そして地図の中心にエルサレムが位置することになる。  
中世にはTO図のほかにも、「マッパ・ムンディ」と呼ばれる、やはり聖書に記された物語や事物を世界図の形を借りて表した絵図がある。世界図の上欄には救世主イエスを中心に、最後の審判の光景を描いているほか、エルサレムの周囲にはバベルの塔、アララト山にはノアの箱船など、聖書に関係のあるものが描かれている。またアフリカでは中世の神話や伝承から想像された隻眼人、長脚人、狗頭人など、奇形な人間が一面に描かれている。世界の辺境ではこのような異形の人間や、あるいは動物が実在すると信じられていたためである。  
以上のように、キリスト教の普及により地球球体説が否定された中世では、キリスト教徒の信仰に基づく地理的世界観を、聖書の内容にしたがって世界図として表現していた。そこには、プトレマイオスの影響は見られない。  
しかし西ローマ帝国の滅亡とともに古代科学が衰退したヨーロッパとは対照的に、7世紀にアラビアにおいて勃興したイスラムでは、東ローマ帝国を通じてヨーロッパの古代科学を摂取し、また同時にインドの科学も取り入れ、イスラム科学はめざましい発展を遂げていた。イスラムでは事物の具象的な形態を示すことは、絵画であっても好ましくないとされていたためか、世界図の発達はそれほど見られないものの、12世紀のアル・イドリーシーの世界図においては、プトレマイオスにその原型をよっており、アジアの東南部分にはSin(支那)、Sila(新羅?)、Waku waku(倭国?)という名称が記載されている。ワクワクが倭国、つまり日本であるとすれば、西方の地図に初めて日本が記載された最初の地図となるだろう。 
3.地図の上下

 

英語の文章を左から右へ書くのと同じように、地図は北を上にすることが決まりごとのようになっています。北へ行くことを“北上”、南へ行くことを“南下”といったりもします。丸い地球には上も下もないはずなのですが、いつからどのような経緯で北が上になったのでしょうか。  
プトレマイオスは北が上  
プトレマイオスの『地理書』に付された地図でも北が上になっていました。これには理由があります。まず描かれていた地域が、北半球の旧大陸に限られていたので、南北に較べ東西が長かったこと。さらに地図の形状が扇形になる円錐図法を採用したため、安定感のある構図にするには、北を上にすることが左右対称を重んじるギリシアでは自然だったのです。もちろんギリシアが南半球にあったのなら南が上だったでしょう。  
中世ヨーロッパでは東が上  
TO図では上から“楽園−エルサレム−俗界”と下りてくるように表わすべきと考えられたため、楽園があると考えられていた東が上にされるようになりました。方向付けや指導を意味する“オリエンテーション”は“オリエント(東洋)”から来たことばで“東へ向ける”ことが“正しい方向へ導く”ことにつながると考えられていました。しかし中世の末期に作られた海図では北が上にされるようになりました。ギリシア時代の地図が復活し、さらにコンパスを使った航海がおこなわれるようになって、方位を合わせやすくするためです。ヨーロッパにおける中世とは、東が上にされていた時代とも言えるでしょう。  
イスラムでは南が上  
いっぽう同じころ、ギリシアの合理的な科学を受け継いでさらに発展させたイスラム教世界では、プトレマイオスの地図を元に新たな知識が加えられていきました。交易を通じて西アジア、南アジア、インド洋、北アフリカの知識が増え、この部分の地図が正確になっていきました。なかでも1154年アル・イドリーシーが地理書とともに作成した世界図はその集大成といえます。しかしイスラムの地図では、方位については南を上にしていました。おそらく南を正面と考えるアジア文化に起因するものではないかと考えられています。 
4.ポルトラノ海図

 

地中海へ  
12世紀ころから、十字軍(キリスト教の聖地エルサレムとその周辺の土地をイスラム教徒から取り戻そうとする運動)の遠征などもあってイスラム世界との接触が増え、地中海での交易が盛んになってきました。ヨーロッパの人々は、香料・陶磁器・絹織物など東洋の産物を求めましたが、それとともに、イスラムに受け継がれていた科学も戻りはじめました。さらに交易の広がりは、古代科学の復活だけではなく現実的な必要性からも地図の進歩を促しました。地中海は目測と経験だけで航海するには広すぎます。海図が必要になってきたのです。TO図を見ても航海することはできません。13世紀には、海上交易が盛んなイタリアの都市国家ベネチアやジェノバでは、船乗りや旅行者から情報を収集し、海図を作製して船乗りに売る地図制作者が誕生しました。  
海図の誕生  
“ポルトラノ”とよばれるこれらの海図では、地中海付近だけを描いていたため、投影法や経緯線は取り入れられていませんでしたが、海岸線の形状と、距離や角度は正確に描かれていました。科学的であることよりも、とにかく安全に航海できることだけを考えて作られた実用的な地図なのです。またこの海図は、一人の偉大な科学者によって作られたものではなく、プロの地図制作者が膨大な情報を収集して、地図を必要としている多くの客のために作って販売したものである点でも画期的です。  
ポルトラノ海図による航海  
ポルトラノ海図には、航海の要衝となるいくつかの地点から、方位線とよばれる32本の直線が放射状に描かれています。出発地から目的地までの方位線を組み合せて、これに沿って航海していけば、複雑な地中海でもまちがいなく目的の港に到達することができるわけです。コンパスのおかげで、地図上の方位線に船の方位を合わせることができるようになったのです。“港を出たら東南東に進み、○○岬が左に見えたら東南に向きを変え、△△島を過ぎたら東北東に向きを変え、順風ならそのまま半日進む”こんな調子で航海をしていたのでしょう。  
ポルトラノ海図の拡大  
ポルトラノ海図は、交易の広まりとともに描かれる範囲が広がっていきました。14世紀になると、北はスカンジナビア半島、西はカナリア諸島、東はインド、南はアフリカ大陸のギニア湾岸付近まで含まれるようになっていました。北イタリアにはじまった地図製作は地中海沿岸の各地に広まり、1385年にはカタロニアのバルセロナで、アブラハム・クレスケスにより『カタロニア図』とよばれるポルトラノ型世界図が作られました。従来のポルトラノでは陸地の部分には空白か想像上のイラストが描かれていましたが、『カタロニア図』では中国の都市からサハラの黒人王国まで、当時のヨーロッパが知り得たあらゆる情報が可能な限り精密に描かれていました。マルコ・ポーロの『東方見聞録』によってもたらされたアジアに関する情報や、ユダヤの商人から得た北アフリカの情報などが元になっています。 
カタロニア図  
マルコ・ポーロが7448の島があるとした東の海には多くの島が描かれている。一番下の右側が切れているのがタプロバネー、セイロン島のはずだったのが、スマトラかジャワあたりと混同されている。さらに東の世界があることを暗示してもいる。  
アラゴンの皇太子からフランス王シャルル6世(当時13歳)への贈り物。作ったのはマジョルカに住み、アラゴン家に仕えるユダヤ人で「地図と羅針盤の巨匠」と呼ばれるアブラハム・クレスケス。マルコ・ポーロやフランシスコ会の修道士フリア・オドリックなどの情報をもとにつくられた地図。神話や聖書、旅人の話などからのさまざまな事柄が描き込まれている。 
5.コンパス

 

コンパスの誕生  
コンパス、方位磁石、羅針盤。いろいろな名で呼ばれ南北を指すこの便利な道具の発明者はわかっていませんが、中国人は千年以上も前から風水の占いに使っていたといわれています。11世紀末の中国の書物には、水に浮かべた磁針が北を指すことが、さらに12世紀始めのやはり中国の書物には、航海に使用されていたことが記されています。これが元帝国によって整備された海のシルクロードを通って、インド、アラビアへと伝わり、13世紀に海運国イタリアへ達したとされています。そして1310年フラボ・ジローによって、水の代わりにピボット(方位盤に立てた軸)に磁針を乗せる工夫がなされて、航海用羅針盤が発明されると、広く普及するようになりました。  
航海と測量  
しかしコンパスを手に入れただけでは航海はできません。方位がわかっても正確な地図の上で自分の位置を示せなければ、どちらへ向かえばよいのか判断できないのです。正しい地図を作るにもコンパスが必要です。港を出て沿岸を航海しながら、コンパスで進行方向を、浮きの付いたロープで距離を確認して地図上に航路を記し、海岸の形状をスケッチしていくのです。それまでの地図は曖昧な情報で描かれた概念的なものでしたが、コンパスが使われるようになって、はじめて測量に基づく地図が作られるようになりました。  
当時の羅針盤は角度ではなく、地中海の船乗りに馴染のある12の風向き(例えばシリアの方角から吹く南東風をシロッコと呼んでいた)で表わされて、きれいに装飾されていたので“風のバラ(ウインドウローズ)”とも呼ばれていました。 
地軸と磁極  
よく知られているように、コンパスは正確には北極を指してはいません。磁針の示す極を北磁極、南磁極と呼び、北磁極は現在カナダ北部の多島海にあります。18世紀はじめ、経度の測定が課題になっていた頃には、北極星とコンパスのずれ(偏角)から求めようとしたこともありましたが、ずれの要因は他にもあり明快な関係を見つけることはできませんでした。  
偏角をあらわす地図  
経度を求めることはできなくても、航海者にとって偏角を知ることは、正しい方位を知る上できわめて重要なことです。1698年、ハレー彗星で有名なエドモンド・ハレーは、大西洋での偏角をくまなく測定し地図にあらわしました。ここで彼は実に巧みな方法をとりました。同じ値を示す測定点を曲線で結んだのです。一目で全体像を把握し、変化の傾向を読み取ることができます。これが等値線で、当時はハレー線とよばれていました。等水深線はすでにあったものの、さまざまな事象に応用できることを示し、等圧線、等温線など主題図には欠くことのできない手法となりました。  
地球磁場  
コンパスが北を指すのは、誰でも知っているように地球が巨大な磁石だからです。地球内部の流体核内でのダイナモ作用によって、磁場が発生していると考えられています。その磁力は地上十数万キロにまで達し、太陽風から生物を守る大切な役割を果たしています(太陽風は生物にとって有害であるが、より有害な宇宙線が太陽系に侵入するのを防いでいる)。  
磁極の移動と逆転  
磁軸は地軸と一致しないばかりか、常に移動しています。北磁極は千年前にはアジア側にありました。それどころか磁極の南北はときどき逆転することがあるようなのです。過去7600万年の間に171回の逆転が確認されているそうです。逆転に要する時間はわずか数千年間と推定されています。生物にはどんな影響があるのでしょうか? 地球上の岩石は、形成されるときに地球磁場によって磁化され、以後変化することはありません。したがって岩石の磁気を測定すれば、形成されたときの磁極の方向がわかります。海洋底は海嶺から押し出されるように形成されるので、磁気テープのように過去の極性を記録していきます。これを測定していくことで、逆転が確認できるのです。  
大陸移動説  
もしも大陸間で相対的な位置の変化がなかったとしたら、各大陸の同じ時代の岩石が示す磁極の方向は1点に集まるはずです。しかし実際には違っていました。そこで逆に磁極を固定して、そこから大陸の相対的位置を算出してみると、各大陸が一定の方向に移動していることを示しています。これは大陸移動説の重要な根拠となっています。 
6.ルネサンス

 

世界が動きはじめた  
中世のヨーロッパは、内部ではのんびりした時代でしたが、周辺部では外敵におびえる時代でもありました。ヘレニズム文化を受け継いだイスラム教国やアジアの遊牧騎馬民族は、文化・科学・軍事力のいずれにおいても、ヨーロッパをはるかにしのぎ、脅かす存在になりはじめていました。8世紀にはイベリア半島がイスラム教徒のサラセン人に征服されています。マッパムンディに描かれている怪物などの奇怪なイラストは、伝説や空想だけでなく、異民族に対する恐怖を象徴している場合もあるのです。  
十字軍がもたらしたもの  
宗教的情熱に燃える教皇や騎士たちは、1096年以来1291年まで、8回にわたって十字軍を結成し、聖地エルサレムをイスラムから奪還しようと遠征しましたが、結局失敗しました。しかしこの結果、イスラム文化との接触がおき、海上と陸上の交通の発達し、ジェノバやベネチアなど交易都市国家が繁栄した結果、教皇の権威がしだいに低下し、教会を中心とする封建社会に大きな刺激を与えることになりました。またアラビア商人を経由してもたらされるようになった東洋の香料は、肉食文化のヨーロッパ人に大きな需要を引き起こしました(肉の腐敗を防ぎ、臭みを消すために)。  
プレスター・ジョンを探して  
12世紀、不思議な伝説がヨーロッパ中に広まりました。プレスター・ジョン(プレステ・ジョアン)とよばれる国王が治める豊かなキリスト教国がアジアにあるというのです。イスラム教徒の大国であるペルシアを倒したモンゴル軍の大汗にプレスター・ジョンの姿を重ねる噂もありました。十字軍の成果が上がらない中、この国と同盟を結めばイスラムを倒せるかもしれないと、考えられるようになり、教皇や国王たちは相次いでアジアに使者を派遣しました。1145年には修道士カルピニ、1253年には同じく修道士リュブリュキがアジアへ向かいました。彼らはカタイ(中国北部)までたどり着くことはできませんでしたが、その旅行記はヨーロッパにアジアの情報を伝えることになりました。こうして大汗がプレスター・ジョンではないことはわかってきたのですが、地図製作者たちはまだ希望を捨てることができず、1459年フラ・マウロの世界図では、キリスト教徒がいると伝えられていたアフリカのアビシニア(現エチオピア)が、プレスター・ジョンの国であると記しています。  
マルコ・ポーロの『東方見聞録』  
1271年ベネチアのマルコ・ポーロが、商人の父と叔父に連れられて、モンゴルの都カンバルク(北京)へ向かいました。モンゴルが中国からペルシアまでの広大な領土を支配していたからこそ可能な旅でした。フビライ汗の信任を得た3人は17年間仕え、各地で重要な任務に就いたり、商売に励んだりしました。95年にようやく海路で帰国するのですが、ジェノバとの戦争で捕虜になり、獄中で作家のルスティケロに旅の様子を話して書かかせたのが『東方見聞録』です。16世紀にポルトガルが中国へ進出するまで、唯一の中国情報として重宝されました。  
地図に表れた変化  
こうして少しづつアジアの様子が伝わりはじめると、地図にも変化が現われてきました。イスラムの地図から陸地の形を取り入れ、アジア・アラブ・北アフリカの地名が記され、『東方見聞録』から想像されるイラストが描かれるようになり、その分宗教的あるいは伝説上の産物は減っていきます。さらに商業活動の活発化にともない地図の需要が高まってくると、ポルトラノ海図をはじめ、実用になる地図が数多く作られるようになりました。  
移動する社会へ  
人・物・金、そして情報が動きはじめたとき、人々はゆっくり聖書の夢から目覚め、現実の世界に関心を持つようになりました。これに加えて1338年にはじまった英仏の百年戦争やペストの流行により、閉鎖的な荘園社会はしだいに崩れていきました。交易を通じて豊かになったイタリアの市民は、進んだイスラム文化とアジア文化に衝撃を受けるとともに、その中にかつて自分達の先祖が持っていたヘレニズム文化(ギリシャ風の文化)の影響があることに気付き、ギリシア・ローマ時代の文化を見直そうとする気運が起こりました。ルネサンスのはじまりです。1445年ドイツでグーテンベルクが活字印刷術を発明すると、『東方見聞録』や1406年にヤコブス・アンゲルスによりラテン語訳されたプトレマイオスの『地理学』が出版されて多くの人に読まれるようになり、世界観が変わっていったのです。 
中世から近世へ  
1096年になるとヨーロッパの国々が十字軍をエルサレムに遠征させました。1096年から1270年にかけて7回(ないし8回)にわたる遠征によりヨーロッパの支配階級の資金力は疲弊し、支配力の低下をもたらすと同時に、イスラムからの知識はヨーロッパ人の世界観に大きな変化をもたらしました。また1275年、イタリア人のマルコ=ポーロが中国(当時は元)へ旅をし、その旅行記「東方見聞録」によって、アジアへの興味が大きくふくらみました。この頃の陸路は大変危険なため、遠距離は主に海路が使われました。そこで、海図が発展したのです。この頃発明された羅針盤によって、航海術は大幅に進歩しました。下の図は「ポルトラノ型海図」とよばれるもので、羅針盤を用いて都市と都市とを結ぶ方位線がたくさん描かれているのが特徴です。また、1385年に作られた「カタロニア図」とよばれる地図は、8枚構成で幅69cm、長さ3.9mの色彩豊かな世界地図です。この地図には航海に関係のない陸地部分にも様々な絵が描かれています。14世紀になるとイタリアでルネッサンスがおこりはじめました。1459年にヴェネチアのフラ=マウロが作った世界図(直径1.96m)には中国の南どなりに小さな島が描かれています。これがマルコ=ポーロの東方見聞録に記されていた「ジパング」です。ヨーロッパの地図に初めて日本が描かれたのはこの「フラ=マウロの世界図」といわれています。  
世界観の大変革  
ルネッサンスの時代にはいると、世界観に大きな変革を与える大業績が立て続けに起こりました。1445年にグーテンベルクが活字印刷を発明し、印刷術が進歩すると、世界地図もヨーロッパ中に広まるようになりました。プトレマイオスの地理の本が広まり、地球が丸いことが知れ渡ると、地球儀が作られるようになりました。左の図は最古の地球儀といわれる「マルチン=ベハイムの地球儀」(1492年製作:ニュルンベルク国民博物館蔵)です。直径は50.7cm。既にアフリカは大陸として描かれています。この地球儀に描かれたチパング(日本)はマルコ=ポーロの大陸から1500マイル東の海洋にあるという記述に従ってカタイ(中国)から経度で25度というメキシコに近いところに位置しています。  
アングロ・サクソン地図  
1066年のノルマン征服以前にイングランドかアイルランドで作られていた地図。作者は分らない。サー・ロバート・ブルース・コットン(1571〜1631)が収集した写本に含まれていたことから「コットン地図」とも呼ばれる。東が上。タプロバーネ(セイロン)からジブラルタル海峡までが描かれている。使われている言葉はアングロ・サクソン語(古英語)とラテン語。北東アジアには雄ライオンが描かれ「ここには多くのライオンがいる」と書き込まれている。  
イドリースィーの地図  
シャリーフ・イドリースィーは名門の出身で、コルドバで教育を受け、小アジア、モロッコ、イギリスなどを訪れていた。  
ルッジェーロ2世に招かれ、パレルモに来たのは1138年。王は宗教や民族の区別なく、学者や旅行経験者を集めて世界図の制作を行なわせた。7つの気候帯の描出も求めたとされている。  
15年にわたる議論の末まとめられたのが、350×150cmの純銀の板に描かれた世界地図で、1154年に完成した。  
また王は世界地図の内容を説明する書物の執筆をイドリースィーに命じ、「世界各地を深く知ることを望む者の慰みの書」(ルッジェーロの書)が書かれた。  
しかし完成した年にルッジェーロ2世が亡くなり、銀板世界地図は破却された。「ルッジェーロの書」の写本に付された写図によって、簡略なイドリースィーの地図が伝えられている。 
エルサレムの十字軍の図面  
地図というより概念図。丸い壁の中には旧約聖書からソロモンの寺院(右上)、ダヴィデの塔(右下)、新約聖書からカルヴァリや聖墳墓(左下)などが描かれている。壁の外にはシオンの山、オリブ山、ベタニヤなど、エリコは右上、ベツレヘムは右下にある。  
画面下のイスラム教徒を追うキリスト教徒の騎士にはゲオルギウスと書かれている。 
プトレマイオスのラテン語訳  
1406年イスラム教徒に伝えられていたプトレマイオスの地理書がヤコブス・アンゲルスによってラテン語に訳された。手写本で広まっていたが、印刷術によってさらに読まれるようになり、改訂版として新たに書き換えられた地図も加えられていった。  
プトレマイオスはヒッパルスに従って地球を360度に分ける経緯線を設定し、球面を平面に描くために球面に接する円錐面に投影する円錐図法を考えている。  
それまでに知られていた地点8000の経度と緯度を推定している。緯度は太陽の高さなどで比較的容易に分かるが、経度を正確に知ることは無理で、旅行記などを資料とした推定値は大きくなっていった。またプトレマイオスが地球の大きさをポセイドニオスに依ったことで20%ほど小さいと考えていた。現在の地図と比較すると、ヨーロッパを基準として中国は太平洋の真ん中あたりにあることになっている。カナリア諸島とセラ(西安)の経度差は130度だがプトレマイオスでは180度。プトレマイオスが描いたとされる地図は残されていないが、8000の地点を繋ぐことで彼の地図と大差ないものが描ける。   
フラ・マウロの地図  
1459年にヴェネツィアのフラ・マウロが作った地図。南が上になっていて、右下にヨーロッパ、右上にアフリカがある。アジアの島にSiometra(スマトラ)とisola de Zimpagu(おそらく日本)と書かれている。Zimpaguが日本だとするとヨーロッパの地図で最初のもの。アフリカの南の海がつながっていることにも注目してほしい。地図としては中世のTO図を発展させたもの。 
 
大航海時代 / 探検と発見そして征服の時代

 

1.インドへの道 
イベリアの勃興(ぼっこう)  
アラビア系のイスラム教徒であるサラセン人に支配されていたイベリア半島(現在のポルトガルとスペイン)では、13世紀ころから国王を中心とした“レコンキスタ”とよばれる国土回復運動が起こります。ジェノバの影響で海運が盛んになって国力を増したポルトガルでは13世紀後半に、スペインでも15世紀後半に最後の砦であったグラナダを陥落させ、サラセン人を追放し、国家統一を成し遂げました。絶対君主(強大な権力をもつ国王)を中心に国力を高めたい2つの国は、膨大な富をもたらす黄金と香料を求めるために、さらに国王と教会の権威を高める布教活動をするために、アジアとの交易を望んでいました。しかし地中海の制海権は、ベネチアやジェノバなどイタリアの都市国家に握られていました。また1299年に成立したオスマン・トルコは、1453年にはコンスタンチノープル(現イスタンブール)を落としてビザンチン帝国を滅亡させ、東欧を支配してしまいました。アジアと接触するためには新しいルートを開拓する必要に迫られていたのです。  
エンリケ航海王の野望  
ポルトガルは、航海王(過大評価されているとの説もありますが)ともいわれるエンリケ王子(1394〜1460)の指揮で、1422年以降国家事業としてアフリカ西岸を南下する艦隊を次々と派遣しました。2世紀にわたる大航海時代の幕開けです。プトレマイオスの地図では、アジアとアフリカは南半球でつながりインド洋が内海として描かれていますが、アラビア人にはアフリカ南端が航海できるとする説があり、彼はこれを信じて賭けたのです。アフリカにあるとされたプレスター・ジョンの国へ到達する目的もあったようです。エンリケの没後は、跡継ぎのジョアン2世が事業を引き継ぎました。1473年ゴンサルベスが赤道を越え、1487年バルトロメウ・ディアズ(1450?〜1500)が南端に近い喜望峰を発見、1498年バスコ・ダ・ガマ(1469?〜1524)がついにインド洋に抜けてインドのカリカットに到着、ようやく直通航路が開かれました。ポルトガルは莫大な利益をあげるのですが、これはとても日数がかかり、また危険も多い航路でした。インドに拠点を置いたポルトガルは、香料の独占を狙って、マラッカ(マレー半島)に進出し彼らの王国を滅ぼすと、“香料諸島”ともいわれるインドネシアを手中にしました。さらに北上し1557年にはマカオを占領して明王朝との通商をはじめ、日本にも渡来しています。  
いっぽうアフリカ沿岸では奴隷狩りをおこない本国へ送ることもはじめました。それまで奴隷といえばスラブ地方などヨーロッパからアラブへ送られていたので、初めて関係が逆転したことになります。大航海時代は発見の時代であるとともに、植民地時代の幕開けでもあったのです。  
外洋船の発達  
外洋に乗り出すには意志と勇気だけでなく技術も必要です。地中海で発達したそれまでの船と航海術では、沿岸を離れることができませんでしたが、15世紀になると地中海を出て北ヨーロッパへも交易圏が広がり、新しい技術が発達しつつありました。従来のガレオン船は大型で大量の物資を運ぶことができますが、横帆だけであったため順風以外は大勢の漕ぎ手によりオールで航行していました。これに対して1440年ころにあらわれたカラベル船は、イスラム船の影響を受けた大きな三角帆と複数のマスト、船尾固定式の舵を持つ比較的小型のスマートな船です。風上に向かって斜めに進むことができ、安定性がよく速力も速くて、外洋探検航海に適しています。その後植民地からの物資輸送が増えてくると、前と中央のマストに横帆、後ろに縦帆を付けた大型のナオとよばれるタイプが登場します。またコンパス・機械時計・クロススタッフとよばれる緯度測定器なども使用されるようになりました。こうしてはじめて外洋に出ることができるようになったのです。またこれらの器具を用いることによって、船上から海岸線を測量して、すばやく地図が作られるようになったことも重要です。 
パレトの海図  
1455年のバルトロメオ・パレトの海図。大西洋の部分。下にマディラ諸島とカナリア諸島。中央の文字(聖ブランダヌスの幸福の島)の上にアゾーレス諸島、その周りに伝説の島ブラジルやアンティリャが描かれている。  
聖ブランダヌスは6世紀、大西洋で島々を発見したとされるアイルランドの聖人。  
マルテルスの地図  
1490年のヘンリックス・マルテルスの地図 / 北欧のスカンディナヴィアとグリーンランドが細長い半島として描かれている。  
バルトロメ・ディアスによる喜望峰の発見によってアフリカの南に海があり、C de Spelanza(喜望峰)と書き込まれている。アフリカ大陸の大西洋岸には多くの地名が書き込まれているのに、インド洋側には見られない。つまりイスラム教徒からの情報伝達はあまり行なわれていないことを示している。  
プトレマイオスの地図と比較すると、地中海の東西が狭くなり、イタリア半島の傾きがあまり目立たない。東アジアの彼方の太平洋が一部描かれている。しかし巨大なインディアス半島は残っている。  
2.コロンブスの誤算

 

大西洋横断  
ジェノバ生まれの有能な航海者、クリストファー・コロンブス(1446?〜1506)は当時の地図を見て、大西洋を西へ進めば短期間でアジアに到達するはずだと考えました。そこでポルトガルとスペインに計画を売り込んだ結果、8年もかかった末に、ポルトガルに遅れを取っていたスペインのイザベラ女王の援助を得て実現することになりました。1492年サンタ・マリア号ほか2隻を率いてパロス港を出発すると、カナリア諸島を経て北東貿易風に乗り、わずか2カ月で小さな島(現バハマ諸島のウォトリング島)に到達しました。彼はそこをインド周辺の島々と信じ、インディアスとよびました。香料や大量の黄金を持ち帰ることはできませんでしたが、西回り航路を発見したことで大歓迎を受け、国王から「インド副王」の称号を与えられました。その後も3度大西洋を渡り、カリブ海周辺にカタイ(中国)とジパングを探し続けました。しかしアジアの王国も黄金も見つからず、植民地経営にも失敗し、第4回航海から帰国した2年後、失意のうちに亡くなりました。  
インドか新大陸か?  
コロンブスは、亡くなるまで自分が到達した場所がアジアの一部だと信じていたようです。カリブの島々は彼が計算した東洋の島々の位置にあったからです。なぜ1万5千キロもの誤算をしてしまったのでしょうか? 当時の世界地図では、東の端はジパング、西の端はさほど広くない大西洋でした。彼は地理学者のトスカネリとも相談し、地図の両端をつないでみて、ヨーロッパから中国までは6千キロに満たないと算出したのです。これならば東回り航路よりも近いはずでした。このような地図ができてしまった原因は2つありました。  
旧大陸だけの世界地図  
1つは地球の大きさがかなり小さく見積もられていたこと、もう1つは経度を知る術がなかったことです。距離は移動に要した日数から推測するしかありません。旅行者の話は概して大げさになりがちです。海上でも、ロープをつけた丸太を流して、繰り出された長さで測っていたのです。風や海流のために大きな誤差がでる方法です。これを小さく見積もった地図の上に書き込んでいったので、アジアは異常に長く東へ引き延ばされてしまっていたのです。すでにかなりの遠方航海がおこなわれるようになっていたにもかかわらず、このころの地図はプトレマイオスの地図に描き足した程度のものだったのです。もう1つ理由をあげられるかもしれません。それは地図制作者の心理です。空白を隠したいがために、すでにある材料だけで全体を埋めようとして、ずらしたり引き伸ばしたりしてしまったのです。  
発見ではない  
しかし新大陸に最初に到着したヨーロッパ人はコロンブスではありません。10世紀にバイキングとして知られるノルマン人がグリーンランドを植民し、そこからアメリカ北部のノバスコシア付近に達していたことがわかっています。彼らの船は甲板のない大型の手漕ぎボートで帆走も可能でした。厳しい北の海で鍛えられた彼らにとって、北大西洋を渡ることはそれほど困難なことではなかったのでしょう。しかし気候が寒冷化してグリーンランドに住めなくなると撤退してしまったようです。文献にはっきりとした記録が残されていないうえ、当時のヨーロッパ文明の中心であったスペインやイタリアへは全く情報が届いていませんでしたから、大航海時代の探検家たちはそのことを知りませんでした。しかしそもそも先住民が居るのですから“発見”ではなく“到達”とすべきでしょう。  
世界を2分割  
ポルトガルとスペインによる領土拡張争いが激化する中、コロンブスの成功を受けたスペインは、1493年、ここで発見した土地を独占すべくローマ教皇にある提案をしました。それは西アフリカ沖にあるベルデ岬諸島の西約550kmを通る子午線(西経31度8分付近)で世界を2つに分け、新たに発見された非キリスト教徒の土地を、境界線の東側はポルトガル、西側はスペインに権利を与えるというものでした。これは教皇子午線とよばれ、いったんは決定されましたが、大西洋の西側で将来発見される土地の権利を持てなくなるポルトガルが抗議して、94年に境界線を1500km西へ移動させた(西経46度30分付近)トルデシーリャス条約が結ばれました。この結果、南米で唯一ブラジルだけがポルトガル領になったのです。またポルトガルがアフリカ周りでアジアへ進出し、スペインが新大陸に集中することにより衝突が避けられました。発見された土地の住人の意見はもちろん、他のヨーロッパ諸国の意見もまったく無視した実に身勝手な条約ですが、当時のポルトガルとスペインの力をよく示しています。  
大航海時代の地図  
ヨーロッパではコショウなどの香辛料がもてはやされていましたが、その値段は同じ重さの銀と同額という非常に高価なものでした。そこで、ヨーロッパの人々はイスラム圏を回避して香辛料の産地であるインドへの直接の進出を目指すことになりました。1498年、バスコ・ダ・ガマがアフリカの喜望峰を通ってインドに到着。逆にイタリア人トスカネリはインドに行くには西に向かえば行き着くはずだと考え、コロンブスはトスカネリの地図(下の図は後世の偽作という説もある)をもとに1492年に大西洋を西に向かって出発し、新しい島を発見しました。彼は自分が到達した島を最後までインドの一部だと信じていましたが、これは新大陸だったのです。  
> トスカネリの地図   
 
太平洋の発見と世界  
大航海時代の様々な発見によって、世界は考えていたよりも大きなものであることがわかりました。そしてコロンブスの発見によって新しい島がアジアの一部なのか、そうでないのかという興味が高まりました。このことに決着をつけたのがアメリゴ・ヴェスプッチ(1451〜1512)です。  
彼は1503年に「新世界」、その後「四航海」という冊子を出版し、その中で、新しく発見された土地はこれまで知られていなかった世界の第4の大陸であることを明らかにしました。このことが知られると、この未知の大陸の富を獲得するためスペインによる探検と征服が進められていきます。  
さらに、1519年、ポルトガル人マゼランは新大陸の南の端をまわって太平洋に出てアジアに向かいました。しかし、太平洋はマゼランの予想よりも広く、途中マゼランは原住民との戦いで死亡しました。残った船員はポルトガルにたどり着き、世界一周をなしとげました。この時期、1517年にはルターが宗教改革をとなえ、カトリックとプロテスタントの対立がはじまりました。1588年、イギリス艦隊がスペインの無敵艦隊を破り、ヨーロッパ諸国のアジア、アフリカへの植民地支配が本格化したのもこの頃です。
ラ・コーサの地図  
1500年にホアン・デ・ラ・コーサが描いた地図。ラ・コーサはコロンブスの第二次航海に参加し、その後三度アメリカへの航海をしている。スペインの資料によって作られていてアジアの部分はプトレマイオスに依っている。 
3.新大陸と太平洋

 

新大陸はアメリカと命名された  
コロンブス以後、探検家は次々と大西洋を渡りました。1497年にはイギリスの援助を得ていたイタリア人カボットが北米に到着、1500年には漂流の結果ではありますがポルトガルのカブラルがブラジルに漂着し、後に新大陸に唯一ポルトガル領を成立させることになりました。こうしてまず南アメリカが新しい大陸ではないかと考えられるようになりました。そして1497年から1503年にかけて、中米から南米を探検したアメリゴ・ベスプッチ(1451〜1512)が、この土地はアジアではなく新大陸であると明言したのです。これを受けて1507年ドイツのバルトゼーミュラーの世界図では、おぼろげながら新大陸の存在を認め、南アメリカの部分に“AMERICA”と記されています。  
植民地主義  
ベスプッチ以後、新大陸を訪れた者は探検家というより征服者でした。アステカやインカの文明は滅ぼされ、ヨーロッパよりはるかに広大な新大陸は瞬く間に、スペインの植民地にされてしまいました。奴隷化された原住民は強制労働と殺戮、さらにヨーロッパから持ち込まれた病気のために、著しく人口が減少してしまいました。特にカリブの島々ではほとんど絶滅してしまったために、プランテーション(植民者が経営する商品作物農場)の労働力として、アフリカから黒人奴隷を移送しなければならなくなったのです。新大陸は領土拡張欲を満足させましたが、香料は産せず、金銀を奪い尽くしてしまえばほかにめぼしい産物もありませんでした。また人口も少なかったため、市場としての魅力も乏しかったのです。ただ南米産の作物である、ポテト・トウモロコシ・トマト・チョコレートなどは、ヨーロッパの食糧事情を一変させました。特にポテトは寒冷地でも育つためアルプス以北の人口を急増させ、後に北部ヨーロッパ諸国を発展させる原動力になりました。  
征服欲に目覚めたヨーロッパは、もはやとどまることを知りません。大西洋の対岸がアジアでないことがわかると、今度は新大陸を迂回してアジアへ到達するルート探しがはじまりました。  
マゼランの世界一周  
南のルートを開拓したのはフェルディナンド・マゼラン(1480?〜1521)です。1519年スペイン国王の援助を得て、265名を乗せた5隻の艦隊を率いて出発しました。極寒のパタゴニアで越冬し、迷路のようなマゼラン海峡を抜け、想像を絶するほど広大な太平洋を横断し、ようやくフィリピンに到着するのですが、マゼラン自身は島民との争いで亡くなりました。最後まで残ったエルカノ以下わずか18名の乗組員がスペインにたどり着き、史上初の世界1周を成し遂げたのは、出発してから3年後のことでした。航海日誌が1日ずれていたこともあって、地球が丸いことが完全に証明されたのです。  
激動の世界地図  
こうして太平洋の広さが認識されると、地図制作者たちは大混乱に陥ってしまいました。空白がなかったはずの世界図に新大陸と太平洋を割り込ませなければなりません。これまでに知られていた場所の経度は、ほとんどが信用できなくなってしまったのです。1502年イタリアのカンティノが製作させた世界図では、西インド諸島は見られるもののヨーロッパとアジアの距離はコロンブス以前と変わっていません。1506年イタリアのコンタリニの世界図では、カリブの島々と南米大陸の北岸が描かれ、南方に広がるように推測されていますが、北米大陸は存在していません。1515年シェネールの地球儀では、南米ははっきりとした大陸、北米はジパングの近くにある島として描かれています。1542年アグネスの世界図ではマゼランの航路が描かれ、南米とインドの経度はほぼ正しくなっていますが、北米とアジアの関係は不明になっています。1570年オランダのオルテリウスの世界図になると、各大陸はほぼ正しい経度に位置付けられカリフォルニア半島まで描かれているのです。  
> コンタリニの地図  
1506年にイタリアで刊行されたジョヴァンニ・コンタリニの世界図。カナリア諸島を中央子午線とする極投影による円錐図法の地図。インドは細長い半島とされ、アジアの北東部は大きく延びている。ジパングやコロンブスが発見した島々が連なり、南米大陸が「サンタ・クルス(terr. S.Crucis)の土地」として広がっている。  
北回りでアジアへ  
北のルートも探検されました。海外進出に大きく遅れをとったイギリスは、スペインなどとの摩擦を避けるには東回りでも西回りでもない新しいルートを開拓するしかありませんでした。北アメリカとアジアは“アニアン海峡”(ベーリング海峡)で隔てられているという説が広まっていたため、ロシアの北岸を進むか、あるいは新大陸の北岸を探して迂回すれば、まだ手を付けられていない中国や日本への最短ルートになる可能性があるのです。1527年貿易商であったロバート・ソーンの提唱する3つの“北方への道”の開拓が開始されました。  
氷の壁  
まず北東ルート(North East Passage)つまりロシア北岸が、ウィロビー・バロー・バレンツなどによって探検されましたが、北極海の嵐と流氷に阻まれ、多くは悲惨な結果に終わりました。特に越冬に追い込まれた場合、当時の技術で生き延びることはほとんど不可能でした。やむなく白海で上陸して南下するとモスクワへ向かうことができたため、このルートでの貿易がおこなわれるようになりました。ついで北西ルート(North West Passage)つまり北アメリカの北岸、もしくは西へ抜ける海峡探しがはじまりました。1524年イタリアのベラツァノはニューファンドランドまで到達していましたが、ここから先をフロビッシャー・デーヴィス・ハドソンらが探検し、1616年にはウィリアム・バフィンがランカスター海峡まで達しますが、太平洋への海峡を発見することはできませんでした。一連の探検航海は多くの犠牲を伴い、結局アジアへのルート開拓には到りませんでしたが、ロシア北岸と北アメリカ北東部の状態を明らかにし、地図には大きな足跡を残しました。  
現在の北極航路  
はじめて北東ルートの通過に成功したのは、1878年スウェーデンのノルデンシェルドで、ベガ号によるものです。北西ルートの通過に成功したのは1906年ノルウェーのロアール・アムンゼンで、フラム号によるものです。現在ではロシアの砕氷船が、毎年夏季に北岸の港を結ぶ航路を開いています。ソーンの提唱した第3のルート、北極圏直行ルートは、1958年アメリカの原子力潜水艦ノーチラス号が氷の下を通ることによってようやく実現させました。いずれも通過できる期間が限られている上、流氷などの危険が伴うため、ヨーロッパとアジアを結ぶ貿易ルートとしては活用されていません。その代わりに大陸間を結ぶ航空機が極圏を盛んに利用しています。  
4.地球儀

 

地球儀は地球の模型  
地球球体説を信じる者であれば、地球儀を作ってみたいと思うのは自然なことでしょう。投影法のことを考慮しなくてもよいし、なによりも手の中で地球を回すのはよい気分ではないか。  
ギリシアの地球儀  
世界最古の地球儀は、ギリシア時代の紀元前160年ころクラテスによって作られたと伝えられています。けれど当時知られていた地域は、全世界の4分の1にも満たなかったため、残りの地域には3つの大陸を想像で描いてしまいました。その後アルキメデスやヒッパルコスも地球儀を愛用していたとされていますが、現存していません。アルキメデスが作ったものは、ガラス製の天球儀の中に地球儀を組み込んだ精巧なものだったといわれています。  
地球儀を生産する町  
地球球体説を否定した中世には、もちろん地球儀は作られていませんでしたが、イスラムでは地球儀も天球儀も作られていました。15世紀になってルネサンスがおとづれると、球体説が復活して地球儀も作られるようになりました。ドイツのニュルンベルクは地球儀製作の盛んな町でした。直径10センチに満たない携帯用から、直径が4メートルもあって、中に入ると天球儀になっている巨大なものまで作られていました。いずれも手間のかかるものですからたいへん高価で、実用品ではなく工芸品として扱われていました。購入者は王侯貴族クラスに限られていたため、彼らの気に入るように装飾がほどこされ、ますます高価になっていったのです。  
ベハイムの地球儀  
現存する最古の地球儀は、1492年にニュルンベルクでマルチン・ベハイム(1459?〜1507)が製作したものです。直径50.7センチの金属製で、羊皮紙でできた12片の舟型世界図が貼られています。6色の絵の具を使って画家に描かせた、たいへん美しく緻密なものです。描かれている世界図は当時としては標準的なもので、コロンブスが使用していた地図と似かよっています。新大陸はまだなく、アジアが東方へ極端に引き伸ばされることによって、太平洋とアメリカ大陸のスペースを埋めています。アフリカの南端は周航可能に描かれています。カタロニア図と同じように、事物にちなんだたくさんのイラストが散りばめられていて、不明な地域には想像上の動物なども描かれていますが、聖書に由来するものはかなり少なくなっています。
ベハイム地球儀 
 
1492年マルティン・ベハイムが作った地球儀。現存する最古の地球儀でもある。この地図を現在の地図と重ねるとジパングはメキシコあたりにあることになっている。トスカネリの地図と合わせてみるとコロンブスの世界観は当時の最新のものだったといえる。  
シェーナーの世界図  
シェーナーの1523年作成による木版刷地球儀ゴアの世界図であり、マゼランの世界周航(1519〜22年)の航路が描かれています。南半球の大部分は依然として不明で残されています。北半球の大陸と対応して、南半球にも巨大な大陸が存在すると想像されたギリシア以来の考えが復活して、この世界図には南半球に架空の「南方大陸(テラ・アウストラリス)」が大きく描かれています。しかし18世紀には、クックの3回にわたる太平洋の探検航海によって、南方大陸は幻想の大陸として消失し、それにかわってオーストラリア大陸の実在することが明らかとなりました。  
カンティーノの地図  
1502年にカンティーノがポルトガルの地図制作者に描かせ密かにリスボンから持ち出した地図。インドは半島として描かれ、セイロン島の位置や大きさも正しくなっている。  
アフリカの地図にはエル・ミナの砦が記されている。  
新大陸の部分では、トルデシーリャス条約による境界線が書かれている。ブラジルにあたる部分にポルトガルの国旗と森林、オウムが描かれ、北ではグリーンランド南岸とラプラドールかニューファウンドランドにあたる部分が描かれている。  
ヴァルトゼミュラーの地図  
1507年にサン・ディエで刊行されたプトレマイオスの「世界誌」ラテン語版に付けられたヴァルトゼミュラーの地図。マルテルスの地図と大差ない世界図にアメリカが書き加えられている。コロンブスが着いたと考えたのは地図の右にある大きな半島。この北の地域に中国があるとされていた。左の奇妙な形が新大陸。南米の部分をヴァルトゼミュラーは「アメリゴ」の名にちなんでアメリカと呼んでならない理由はない」としている。当初アメリカと呼ばれたのは南米の部分、メルカトルによって北の部分もアメリカと呼ばれるようになった。結果としてヴァルトゼミュラーは地球の大きさを従来よりも大きくした。  
ルイシュの地図  
1508年にイタリアで刊行されたプトレマイオスの地理書に付けられたヨハン・ルイシュの世界図。インドは三角形で表され、延びているアジアの北東部の先端にグリーンランドと記されている。その南にはテラ・ノヴァ(新しい土地)の半島とバッカラウラス(Baccalauras)の島。ロマンシュ語でタラを意味する言葉にちなむ名前でタラ漁が盛んだったことを表している。現在のニューファウンドランド。キューバは大陸の一部とし、ジパングはエスパニョーラ島と同じとしている。南米大陸は「サンタ・クルスの土地あるいは新大陸」として大きく描かれている。 
ミュンスターの地図  
1540年にセバスティアン・ミュンスターが描いたアメリカと東アジアの地図。黄色い島がジパング(Zipangri)。その下の船はマゼランの旗艦ヴィクトリア号。プトレマイオスの「カティガラ(インドシナ)」はペルーに移されている。 
5.印刷と出版

 

地図は銅板彫刻  
ポルトラノ海図のころの地図は羊皮紙に手書きされたものでした。12世紀に中国から製紙技術が伝えられても、痛みやすいためにまだ羊皮紙が中心でした。1454年グーテンベルクが印刷術を発明しても、地図は活字のようにはいかないので、しばらくは手書きの時代が続きました。地図はとても貴重なものだったのです。16世紀になると木版や銅版彫刻による印刷がはじまります。銅版にニードルで彫刻し、墨を塗り、プレス機によって型押し印刷するのです。しかし印刷でできるのは黒1色だけです。このあと絵師たちが絵の具を使って彩色するのですから、地図が高価になるのは当然です。印刷技術を導入したといっても大量生産はできなかったのです。  
地図は国家機密  
大航海時代の先鞭をつけたスペインやポルトガルは、発見した土地を地図に描いていきましたが、彼らの航海は国家事業としておこなわれることが多く、地図が印刷・出版されることはほとんどありませんでした。特にポルトガルでは国家機密扱いになっていたうえ、1755年の地震で多くが失われてしまいました。  
オランダの地図工房  
16世紀になると、海の主役はスペインから新興国家オランダに移っていました。それとともに地図出版の主役もイタリアからオランダに移っていきました。自由な貿易と手工芸が盛んな土地柄であったことが背景にあったのでしょう。メルカトル、オルテリウス、ブラウなど多くの地図制作者が工房を構えて、絢爛豪華な地図を出版するようになりました。  
地図出版業の発展  
地図の形態も変化していきました。もはや地中海を中心にした1枚刷りだけでは、要求を満たすことはできません。全世界図、地域図、都市図など多種多様の地図が出版されるようになりました。1570年にはオルテリウス(1527〜1598)が、70図からなる初の世界地図帳『地球の舞台』を出版し、ヨーロッパ中で大好評を得ました。1595年にはメルカトルも『アトラス』を出版しています。世界図の投影法についてもいろいろ考案されるようになりました。コンタリニは極投影による円錐図法、1538年のメルカトルの世界図は復心臓型図法(南北両半球を多円錐図法で投影したものを横に寝かせて並べた図法)、1542年のアグネスは長円形のアピアヌス図法(エイトフ図法に近いが平極)、1700年のドゥリールは両半球型の平射方位図法を用いています。
 
オルテリウス刊行「マケドニアのアレクサンドロス大王の探検」(1595年)手彩色銅版画。
装飾地図から科学的地図へ  
大航海時代の地図制作者は、探検からもたらされる新しい情報を取り入れ、陸地の形を変化させていきました。しかしまだ中世以来の伝統や宗教観から完全に脱却したわけではありませんでした。さすがに“エデンの園”は姿を消していきましたが、装飾のためのイラストは残っていました。また実際に確認された情報と古い時代の地図から引用した情報を区別することなく描いていました。地図制作者が完全に科学的な態度で臨むようになったのは、18世紀になってからのことです。この変化は地図製作の中心地、つまり海上の支配圏を握っていた国の移り変わりから見ることもできます。13世紀、異教徒に囲まれた地中海で交易をしていたイタリアの時代は、地中海の外はイラストで埋められていました。15〜16世紀、黄金や香料の獲得と布教に熱心なスペインとポルトガルの時代には、想像の大陸が描かれていました。17世紀、貿易で富を成したオランダの時代になると、投影法の考慮など科学的な態度が見られるようになりました。17世紀末、国家と教会を分離して科学を振興したフランスとイギリスの時代になると、非科学的な要素は一掃されてしまいました。  
6.メルカトルの発想

 

国際貿易国家オランダ  
16世紀なかば、スペインの支配下にあったオランダは、毛織物産業と北欧貿易で豊かになり、海外へも進出してアジアやブラジルのポルトガル植民地を奪いつつありました。1560年代になるとスペインに対する反乱がはじまり、1581年独立を宣言すると、海外進出はさらにはずみがつきました。1602年になるとインドネシアを支配する東インド会社が設立され、香料貿易を独占しました。オランダはかつてのベネチアに似たところがあり、小さな国土でありながら貿易と工業製品の輸出が盛んで、市民階級が力を持ち、ヨーロッパで最も豊かな国になっていきました。学問や芸術も盛んで、地図製作工房もたくさんあり、実用化されたばかりの銅版彫刻印刷を駆使して、豪華な地図が出版されていました。  
地図を見て航海できるか  
大洋を渡って対岸の目的地にぴたりとたどり着くことは容易なことではありません。とにかく対岸に到着し、それから海岸線に沿って進むしかありませんでした。地中海の航海では、ポルトラノ海図に引かれた各地からの方位線の中から、目的地までの線を選び、コンパスによって方位を一致させれば、確実に到着することができました。この頃の世界地図では、両極を赤道の半分程度に収束させた擬円筒図法、西半球と東半球に分けた方位図法、北極を頂点にした円錐図法などが使われていました。しかしいずれも使う側の利便性は、ポルトラノ海図ほどには考えられていなかったのです。  
地図製作者メルカトル  
オランダが海外へ進出しはじめたころ、フランドル地方出身のゲラルドゥス・メルカトル(1512〜1594)は、幾何学・天文学・地理学を学び、地図彫版師になりました。彼は新しい情報を整理し、パレスチナやフランドルの地図を出版し、1541年には地球儀も製作しています。  
メルカトル図法  
メルカトルは大洋でもポルトラノ海図のように、コンパスだけで航海できないものだろうかと考えました。地図の上に目的地までの直線を引き、その角度に船の進行方向を常に合わせるだけですむように地図を描くことができれば、遭難も減るにちがいない。しかしそれは、円錐図法でも、半球形の図法でも、楕円形の図法でも不可能でした。結局メルカトルが導き出した方法は、円筒図法をベースにして、緯線間隔を緯線の拡大率に合わせて徐々に広げていくことでした。メルカトルの地図に引かれた直線は航程線といわれ、地球儀上では直線でも最短距離(大圏コース)でもありません。1569年この画期的な投影法を用いた世界図は“航海者に最適の新世界地図”と題され、遠洋航海の安全を目的としていました。彼はこの複雑な緯線間隔補正の数学的根拠を明らかにしませんでしたが、1599年にエドワード・ライトが積分法を用いて解決しています。メルカトル図法は、特定の目的のために作られた最初の投影法であるといってもよいでしょう。  
アトラス  
1585年から1589年にかけて、メルカトルは地図帳を出版しました。新しい情報をできる限り取り入れ、アジアを従来より小さくし、北米とアジアの間に未確認の海峡を描いています。しかし南方大陸は残されたままです。高緯度での極端な拡大のためか、理解されるまでにしばらく時間がかかりましたが、コンパスによる航海が可能であることがわかると、徐々に航海者の間で支持を得ていきました。近代以降、ほとんどの海図がメルカトル図法で描かれるようになったのです。メルカトルの没した翌年の1595年、ついに107図からなる全世界地図帳が完成しました。表紙にはギリシア神話の天空を支える巨人が描かれ、表題はその名をとって『アトラス』と名付けられました。その後『アトラス』は地図帳の代名詞となりました。 
 
 
 
 
map 1枚ものの地図、地域図を意味する。「map out」計画を立てるの意味。  
 atlas 地図帳。世界地図帳だけでなく国内地図帳、道路地図帳にも使われます。  
 chart 海図や航空路線図を意味します。図表の意味もあります。  
 globe 地球、あるいは地球儀。地球儀は厳密には、terrestrial globe といいます。  
 
大航海時代(15世紀)  
キリスト教が支配した中世ヨーロッパでは、古代科学の衰退により世界図の発達は停滞したが、中世も後半期に向かうにつれ、近代地図への進歩の契機が現れ始めた。それにはまず、1096年から始まった、キリスト教による聖地奪回運動「十字軍遠征」が挙げられる。  
当時、エルサレムを支配していたのは、トルコ人のセルジューク朝で、遠征のきっかけはこのセルジューク朝が、聖地巡礼に訪れたキリスト教徒を迫害したことに始まる。キリスト教側は安全に聖地巡礼ができる自由を取り戻す必要があるとし、セルジューク朝の小アジアでの進出に悩んでいた東ローマ皇帝の要請もあって、十字軍が派遣されることとなった。しかしこれには政治的な思惑もあったとされる。というのも、当時のキリスト教社会は、聖職者の堕落や腐敗、それによる政権の弱体化が著しく、さまざまな不安要素を抱えていた。そうしたキリスト教社会をまとめあげるには、「聖地奪回」という宗教的大義が何よりも効果的だったのである。  
宗教的動機から始まった十字軍遠征だったが、教皇が「十字軍のために戦う者はすべて免罪される」としたことから、キリスト教徒の異教徒へ向けられる敵対心は凄まじく、聖戦の名のもとに何万人ものイスラム教徒が虐殺され、その性格は次第に宗教性を失い、教皇の政治的野心や諸侯の領地獲得の性格が強まっていく。これによりイスラム教徒側は結束を強め、激しく抵抗。十字軍遠征は当初の目的である聖地奪回は達成されず、1291年に幕を閉じる。それまでの十字軍の蛮行は教皇の権威をますます失墜させ、キリスト教の力は衰退していった。  
しかし他方で、十字軍の遠征により起こったイスラム世界との接触が、古代以来久しく閉ざされていた東方世界との交通や交易が再び開かれるきっかけともなり、東方貿易が盛んになるにつれ、ヴェネチアやジェノバなどのイタリアの諸都市をはじめ、ヨーロッパ各地の商業都市に繁栄をもたらした。また商業の発達は、これらの都市に新興の市民階級を台頭せしめ、中世の封建社会を崩壊させる原動力となった。  
このような時代の趨勢が、キリスト教では異端の説として排撃・否定されていた古代科学もイスラム科学を介して復活し、地球球体説も再び認められるようになった。中でもイギリスの哲学者ロジャー・ベーコン(1210〜1292年頃)はアリストテレスにしたがって「地球は球体であり、ヨーロッパとアジアを隔てている海洋はそれほど広くない」と論じ、アジアへの西回りの航海の可能性を示唆している。このベーコンの見解はのちにコロンブスに影響を与え、彼の西方航海計画のきっかけとなった。  
東方見聞録(13世紀)  
中世の後期から東方との交通が開けるにつれ、ヨーロッパ人の世界観も拡大していき、アジアはイスラム世界ばかりではなく、モンゴルや中国を訪れる者も現れ始めた。特に13世紀の初め、モンゴルの草原に興ったモンゴル帝国はたちまちアジアの大半を席巻し、ヨーロッパの世界と接触するようになった。その頃ヨーロッパではプレスター・ジョンという国王が治める富強なキリスト教国がアジアにあるという伝説が広く流布しており、この伝説ともからみあって、ヨーロッパのキリスト教国は新興のモンゴル帝国こそ東方からイスラム勢力を脅かす巨大な存在と考えた。  
そこで教皇インノケンティウス4世はモンゴル人にキリスト教を布教する目的も兼ねて1245年に、フランスのルイ9世は1253年にモンゴル帝国に使節を派遣した。その旅行記はヨーロッパ人にとって中央アジアやモンゴルについての最初の貴重な知識となった。  
また1271年にはマルコ・ポーロがヴェネチアの商人であった父と叔父ともに東方の旅行へ出発した。一行は1274年に中国に達し、フビライ・ハーンの信任を受け、17年もの間、中国に留まることになる。その間マルコは中国の各地を訪れ、ヨーロッパ人としては初めて、中国についての豊富な知識を得ることができた。その後1295年に一行は故郷ヴェネチアに帰国するも、マルコはヴェネチアとジェノバの戦争にて捕虜になり投獄されてしまう。その獄中にある中でアジアにおける見聞録を記したものが、かの有名なマルコ・ポーロの『東方見聞録』である。  
これによって中国の文化や制度を始め、カンバルク(北京)やヤンジュー(揚州)など、中国の繁栄する多くの都市が紹介されたほか、黄金国ジパングの名をもって、日本も初めてヨーロッパに紹介されることとなった。ほかにも、東南アジアやインドの諸国・諸島の知識も伝えられ、これらの驚異に満ちた物語が、ヨーロッパでは広く愛読され、ジパングはヨーロッパ人の憧憬の的となった。  
プトレマイオスの復活(15世紀)  
イスラム世界に引き継がれていたギリシア文化は、十字軍の遠征を契機にして再びヨーロッパで見直されるようになった。そして14世紀から15世紀にかけ、イタリアを中心に起こった古典復興(ルネサンス)は、キリスト教に排撃・否定されてきた古代ギリシア・ローマの研究をいっそう盛り上げ、古代科学は神学の絆から解放された。  
1406年にヤコブス・アンゲルスによってプトレマイオスのギリシア語本地理書のラテン語訳がおこなわれ広まると、これまでキリスト教的世界観に支配されていたヨーロッパ人に大きなセンセーションを与えた。そして1445年にグーテンベルクによって活字印刷術が発明されると、プトレマイオスの地理書と地図は版本によっていっそう広く流布するようになり、ヨーロッパの各地で刊行された。プトレマイオスの地理書や地図は、そのままの復刻だけでなく、新しい地理的知識や地理的発見を加えられて改訂、増補されたものも多く出版され、そのようなものを「新図」と呼んだ。  
大航海時代  
15世紀後半から17世紀初頭にかけてのおよそ2世紀の間に、ヨーロッパ人の大航海が相次いでおこなわれ、東方への新航路や、新大陸の発見によって、ヨーロッパ人の地理的知識は一躍全世界にまで拡大された。これによりヨーロッパ人の植民地開発や通商貿易、あるいはキリスト教の布教活動が全世界にわたっておこなわれ、ヨーロッパ人による世界的支配の時代が始まる。  
こうしたヨーロッパ人を海上の探検に乗り出させた大きな動機については、さまざまな要因が挙げられる。例えばそれはマルコ・ポーロに伝えられた、中国やジパングに到達したいという願望もあったし、キリスト教の布教という、宗教的情熱もきわめて強かった。しかしヨーロッパ人を動かした最大の理由は、香料貿易であった。  
アジアからヨーロッパにもたらされた東方産物のうち、胡椒、肉桂、丁字などの香料は、肉料理を中心とした食文化を持つヨーロッパ人にとっては、欠かせない必需品としてもっとも重要な産物であった。当初、香料はインドや東南アジアの原産地からイスラム商人によってアレクサンドリアなどに運ばれ、さらにこれをヴェネチア、ジェノバなどの商人が独占的に買いつけていたため、イスラム商人とイタリア商人は莫大な利潤を独占した。そのため、ヨーロッパでは香料は等量の銀と交換されるほど、きわめて高価な品だった。  
したがって、ポルトガルやスペインの国王たちがこの香料貿易の利益を見逃すはずがなく、競うようにアジア進出のための新航路を開発したのだった。またこのとき、オスマン・トルコの勃興により、近東経由の東方貿易ルートが遮断されたことも、ポルトガルなどにとっては、かえって発展の好契機となった。  
未知の南方大陸  
 
16世紀の後半より、イギリス人による北東航路の探検が開始される。しかし北方は一年の大半は激しい風雪や厚い氷に閉ざされており、しかも北へ向かえば向かうほど羅針盤の偏差が著しくなって正確な方向を定めがたいなど、航海はきわめて困難であった。現に、寒気と壊血病によって船員が全員死亡したり、夏でもおびただしい流氷群によって航海を阻止されるなど、簡単にはいかなかった。北極海の気候についての知識が乏しく、また当時の船舶の構造からしても、北極海の航海は不可能だったのだ。  
16世紀末には北方航路の開発には失敗したとはいえ、その地理的事情は広範囲にわたって解明された。これに反して南半球は16世紀でも大西洋から太平洋やインド洋にまたがる南方の広大な海域は、未だ不明のままであった。しかしプトレマイオスの世界図に見たように、ギリシア時代よりヨーロッパ人は北半球の大陸に対し、南半球にもこれと均衡する広大な陸地が存在するものとして想像していた。このような考え方は中世を通じ、大航海時代に入るといっそう強く信じられるようになり、世界図にも南半球に巨大な、南方に無限に広がる大陸が出現するようになった。  
このような幻想的な南方大陸は現実的なものとみなされ、メルカトルやオルテリウスの世界図など、16世紀の地図にはすべてマゼラン海峡から南方に延々とつながる大陸が描かれた。南方の大陸は「未知の南方大陸(Terra australis incognita)」、あるいはマゼランの名にちなんで、「Magallanica」などと記され、我が国にも江戸時代に、「坤輿万国全図」を通じて「墨瓦臘泥加(メガラニカ)」の名をもって伝えられた。  
メルカトル  
ゲルハルドゥス・メルカトル(1512〜1594)は、16世紀のもっとも傑出した地図学者である。メルカトルは1538年に複心臓型図法による世界図を刊行し、また1541年には地球儀を作成している。  
メルカトルの世界図でもっとも特色とするところは、経緯線のほかに、海洋の部分は方位盤から放射状に派生する多数の方位線、すなわち等角航程線が直線をもって引かれていることである。メルカトルは方位線と経線とのなす角が常に正しい舵角を示す正角円筒図法を考案し、海図に最適の図法、「メルカトル図法」と呼ばれ、こんにちでも利用されている。  
メルカトルは早くから世界各地の地図を統合した世界地図帳を編纂する計画を持っていたが、原図となるような信頼しうる各国の地図を入手し難いことや、地図の銅板彫刻に多大の時間を要するため、計画は容易に実現されなかった。  
しかし1585年、その第一集としてフランス、ベルギー、ドイツの51図が、また4年後の1589年には第二集としてイタリア、スラヴォニア、ギリシアの23図が出版されたが、1594年にメルカトルは没した。翌年1595年、息子のルモルドによってイギリス、その他ヨーロッパ諸国と、アフリカ、アジア、アメリカの諸図を加えた107図よりなる地図帳が完成し、メルカトルの遺志に基づいて、ギリシア神話の天空を支える巨人の名にちなみ、「アトラス(Atlas)」の表題をもって出版された。このメルカトルのアトラス以降、地図帳はアトラスと呼ばれるようになったのである。  
   
近代 / 科学の進歩と地道な測量の時代

 

1.三角測量 
角度で距離を測る  
長い距離を正確に測量するためには三角測量が必要です。三角法の正弦比例の法則を応用したもので、三角形の1辺を基線として距離を測量し、他の2辺の長さは角測量によってもとめる測量法です。角度の実測は光学的測定により、距離の実測よりはるかに短時間でしかも精密な値を得ることができます。三角形をつないでいけば、1辺の距離と各交点の角度を実測するだけで、全ての辺の長さを算出することができるのです。三角測量の基本的な原理は、メルカトルの師である数学者のヘンマ・フリシウスが著わしています。  
測量器具  
1つの三角形だけならまだしも、いくつもつないでいく場合、基線の長さと角度の測量には高い精度が要求されます。距離は簡単に測るときは車輪を使った走行距離計を用いましたが、正確に測るときは測鎖とよばれる精密な鎖を用いました。角度の測定には水平な目盛り盤に照準器をつけた経緯儀(トランシット)とよばれる道具が用いられるようになりました。“経緯”といっても経度と緯度が測れるわけではなく、水平角と仰角が測れるだけです。  
1度の長さ  
ルネサンスで古代科学が復活し、大航海時代で大陸の形が明らかにされていった16世紀になっても、意外なことにヨーロッパ文明圏では、エラトステネス以来地球の大きさが測量されたことはありませんでした。コロンブスは1度を83キロメートルと勝手に推定しまう有様だったのです。ヨーロッパで最初に子午線1度の長さを測ったとされているのは、フランス生理学者ジャン・フェルネルです。  
1525年馬車の車輪と四分儀を使った初歩的なものですが、それでも誤差は0.1パーセントでした。三角測量による最初の測定は1615年オランダのスネリウスです。ところが角度の測定技術が劣っていたため3パーセントも誤差を出してしまいました。三角測量は誤差が累積されていくため高精度の測定器と細心の注意が必要なのです。本格的な三角測量を実施したのはフランスの天文学者ジャン・ピカールです。1669年、望遠鏡付きの経緯儀や大型望遠鏡付きの緯度測定器を使い、13の三角形をつないで測量した結果、子午線1度を110.46キロメートルと極めて正確に算出することに成功しました。 
 
三角測量の方法  
実測する項目は、基線BCの距離、∠ABC、∠ACBです。実測結果は、基線BC=300メートル、∠ABC=58度、∠ACB=42度でした。辺ABと辺ACは次の式で求められます。  
辺AB=辺BC×sin(∠ACB)÷sin(180−∠ABC−∠ACB)  
    =300×sin(42)÷sin(80)  
    =300×0.66913÷0.98481  
    =300×0.67945  
    =203.836メートル  
辺AC=辺BC×sin(∠ABC)÷sin(180−∠ABC−∠ACB)  
    =300×sin(58)÷sin(80)  
    =300×0.84805÷0.98481  
    =300×0.86113  
    =258.339メートル  
三角鎖  
三角形をつないだものを三角鎖といいます。このような三角鎖でも1辺、たとえばACの長さを測鎖などで測れば、あとは各三角形の内角を精密に測定するだけで、全ての辺の長さを求めることができます。そしてA地点の経度と緯度を天体観測によって測定すれば、他の地点の座標も算出することができるのです。  
日本の三角点網  
現在の日本では、国土全体が三角鎖の網で覆われていて、座標と標高が精密に測定されています。三角形の頂点である三角点は、山の頂上や平野の中など見通しの効く場所に設置されています。現地に行くと標石が埋められていて、やぐらが組んであるところもあります。三角点には1等から4等まであって、順に編み目が細かくなるように配置されています。1等三角点網の1辺は約45キロ、2等は8キロ、3等は4キロ、4等は2キロです。1等三角点の数は全国に約1000、2等は5000、3等は33000箇所設置されています。 
2.地球は楕円か?

 

地球は楕円か?  
ピカールとそれに続くカッシニの測量によって地球の大きさはかなり正確に測量できるようになりました。ところが肝心の地球の形について重大な疑問がだされたのです。1687年アイザック・ニュートンが万有引力の法則を発見すると、地球の形も遠心力の作用で赤道が膨らむ楕円体ではないかと考えられるようになったのです。本当なのか? 本当であるならどの程度なのか? ニュートンの理論だけでは扁平率まで予測することはできません。  
測量により証明する  
1735年、フランス王立科学学士院は、極地付近と赤道付近の2箇所で、子午線1度の長さを精密測量することにしました。赤道での距離が短ければ楕円であることが証明されることになります。これには科学的な興味だけではなく実質的な要求がありました。地球の形と大きさについて正確に知ることができなければ、地図に記される座標と距離は全て不確かなものとなってしまい、安全な航海もできなければ、国土の面積を算出することもできません。国境線の位置をめぐって紛争が起きることもあり得るのです。  
北と南で  
北極探検隊長にはピエール・ルイ・モロー・ド・モーペルチュイが選ばれ、スウェーデンのラプランドへ出発しました。山頂に目印を建て、森と沼地の中にいくつもの観測所を設営し、全長100キロメートルを越える三角鎖を設営しました。厳寒の冬期も含め1年をかけて測量した結果、極地での子午線1度の長さを111.094キロメートルと算出しました。もういっぽうの赤道探検隊長にはピエール・ブーゲが選ばれ、スペインの植民地であったペルー(現エクアドル)のキトへ出発しました。ペルー側の理解を得るのに手間取り、アンデス山中での作業は困難を極めました。その上、事故・病気・暴動などの不運が重なって多くの隊員を失い、9年半もの歳月をかけてようやく帰国できたのです。なかにはアマゾン川を下って港にたどり着いたものさえいたのです。それでも観測結果は満足できるもので、109.92キロメートルと算出しました。  
わずかに偏平  
このようにたいへんな苦労の末、地球が扁平楕円体であることが証明されましたが、扁平といってもごくわずかなものです。現代の測量によれば(測地系WGS-84の場合)、経線に沿った地球の円周は赤道に沿った円周より、134.37キロメートル短いことがわかっています。比率で表わすと、1/298.257になります。 
3.地形図を作る

 

経験的地図から実測地図へ  
16世紀になると、大航海時代を経て、世界の大地のおおまかな形は知られるようになってきました。地上についても、経済活動の活発化や絶対王政国家の成立によって、多くの地図が作られるようになりましたが、中世以来の古い地図に描き足すような形で発展してきたため、極めて不正確で地形図として使えるような代物ではありませんでした。これでは、道路や橋や軍事施設の建設も、農地の開発も思うに任せません。近代国家に脱皮するためには、科学的に測量された地形図が必要なのです。  
近代国家フランスの成立  
このころのフランスは、ルイ王朝のもとで国内を統一し、重商主義政策で産業を発展させ、強大な軍隊を整え、ヨーロッパ随一の強国となりました。政府は科学と文化の振興にも熱心で、人材の育成や政府機関の設立を進めました。こうして文化の面でもヨーロッパの中心として繁栄することになったのです。  
フランス全土測量計画  
1669年ルイ14世の財政総監コルベールは、イタリア出身の天文学者ジョヴァンニ・ドメニコ・カッシニ(1625〜1711)に、フランスの地形図作製を依頼しました。彼は、木星の衛星の掩蔽(えんぺい=天体が他の天体の陰に隠れたり現れたりする現象)を観測することにより経度を測定する、ガリレオが考案した技術を実用化していたのです。三角測量はどんなに正確に実施しても、三角形の数が増えていけば誤差が累積されてしまうため、ところどころで天体観測により正確な経緯度を測定して誤差を消していく必要があるのです。ジョヴァンニはこの遠大な事業に取り組むため、王の臣下となり、ジャン・ドミニックと改名しました。ピカールから受け継いだ構想は、まずフランス全土を三角点網で覆いつくし、主要な三角点の経緯度を測定し、地図の外枠を作ります。次に地形や構造物を実測とスケッチにより、枠の中に描いていくのです。  
カッシニ一族の偉業  
ジャン・ドミニックと息子のジャックは、ピカールの測量を延長して、パリを通ってフランスを南北に縦断する三角鎖を設置して測量しました。この事業だけで1683年から1718年までを要しています。次にジャックと三代目のセザール・フランソワが、東西に横断する三角鎖を測量し、さらにこれを基礎にして、総数800個の三角形でフランス全土を覆ったのです。ようやく1745年外枠としての地図が完成、第一段階を終了しました。セザールと測量隊はただちに地形測量を開始しましたが、1756年になると戦争により財政援助が打ち切られてしまったため、出資者を募って測量会社を設立して事業を継続しました。セザールの死後、四代目のジャック・ドミニックに引き継がれ、1793年に一世紀以上の年月をかけてついに完成したのです。カッシニ家四代の功績をたたえ『カッシニ図』とよばれるこの地図は、182図からなる縮尺1/86400の大縮尺地形図です。これは科学的測量にもとづく世界最初の地形図で、道路や運河、建物からブドウ畑まで、あらゆる事象が網羅されていて、数多くの地図の基礎になったのです。 
4.時計で経度を測る

 

座標を知りたい  
経度と緯度は地球上の位置を表す座標です。あなたは自分が今いる場所の経度と緯度を計ることができるだろうか? 緯度なら南中した太陽の高度か、北極星の高度を計れば簡単に求めることができます。これはギリシア時代から理解されていたことです。では経度はどうすればよいか。経度を計るということは、自分がいる場所を通る子午線と本初子午線の角度を計ることです。  
本初子午線を決める  
緯度が天文学的な性質であるのに対して経度は人為的なものです。基準となる本初子午線は人間が決めなければなりません。プトレマイオスは、既知の世界の最西端であったカナリア諸島を0度としました。近代になって各国が地図作りをはじめるようになると、自国の中央天文台などを0度とするようになりました。航海者など複数の国の地図を使用するものにとっては不便なことです。けれどどの国も譲ろうとはせず、ようやく意見が一致したのは、なんと1884年にワシントンで開催された、第1回国際子午線会議においてでした。多くの海図を出版していたイギリス案が認められ、ロンドンのグリニッジ天文台を通る子午線が本初子午線に決められました。  
経度を知りたい  
経度の問題に人びとは悩み続けました。航行した距離から経度を求める推測航法はほとんど充てになりません。16世紀に世界一周に成功したマゼラン隊はフィリピン群島の経度で35度もの誤差を出していたのです。18世紀になってもまだ解決できず、位置を誤認したことが原因と考えられる海難事故が絶えませんでした。世界の海へ進出し正確な地図の必要性が高まっていたイギリスの議会は、1714年に経度測定法を発見した者に賞金を出すことを決めます。2つの方法が候補にあがっていました。  
星で測る  
1つは予測可能な天文現象を観測することです。標準時で書かれた予測表と、現象が観測された地方時を比較すればよいのです。現象としては、ガリレオが考案しフランスの地図を作ったカッシニが実用化した、木星の衛星の隠蔽(えんぺい:天体が他の天体の背後に隠れること。この場合は木星と4つの衛星の位置関係)、月と星との位置関係が考えられました。しかし大がかりな観測器具と長い観測期間が必要なため、都市の経度測定には使えても、船上では使えません。  
時間で測る  
もう1つの方法は、長期間にわたって狂うことのない時計を作ることです。天文測量で経度のわかっている港を出るときに時計を合わせれば、天体観測によって求められる現地時刻との差で経度を算出することができます。航海の間狂わずに時を刻み続ける時計ができれば簡単に短時間で測定できます。しかし単純で精度の低い振子時計しかなかった当時、過酷な船上で耐えられる時計を作ることは不可能と思われていました。  
時計技師の挑戦  
この難題に挑戦したのが、ヨークシャー生まれの時計技師、ジョン・ハリソン(1693〜1776)でした。ハリソンは、温度に影響されない振子、バッタ式脱進機、これまでの振子に代わる釣合錘、などを次々に発明していきました。1735年に第1号を提出し、よい成績を上げたのですが、これはまだ認められませんでした。第2号の試験は戦争で中止されました。しかしハリソンはさらに工夫と改良を重ねます。1761年になると精密加工技術を結集し宝石軸受まで用いて、現在の懐中時計のような直径わずか12センチの第4号を完成させました。7週間の航海で誤差38秒(クオーツではなくぜんまいです!)、経度にして9分30秒です。経度委員会(議会の要請により設立された、科学者と海軍の高官からなる委員会)の要求した経度誤差30分をはるかに下回る驚異的な精度でした。同じころ天文学者は月の運行を利用した測定法を完成しつつあり、権威を重んじる委員会は、階級の低い彼の業績を認めようとしませんでしたが、国王ジョージ3世の支持もあり、1773年にようやく2万ポンドの賞金を受け取ることができました。ほとんど一生を時計作りに捧げた人物でした。  
クロノメーターとよばれる船乗りの時計のルーツはここにあります。ハリソンの時計は、彼が亡くなった年にジェームス・クックの第2回航海に用いられ、正確な海図作製を可能にしました。彼の開発した技術は、懐中時計や腕時計など携帯可能な時計の開発にも大きく貢献しています。 
5.キャプテン・クック

 

覇権争いは太平洋へ  
18世紀、世界の海の主役はイギリスとフランスで争われていました。イギリスは北アメリカ・南アフリカ・インドなどを確保し、さらなる領土を求めて、太平洋と未知なる南方大陸の探検に乗り出そうとしていました。すでにいわゆる“大航海時代”は終わっていましたが、太平洋についてはまだほとんど何もわかっていなかったのです。  
イギリス海軍士官ジェームズ・クック  
キャプテン・クックとして知られるジェームズ・クック(1728〜1779)は、水夫としてイギリス海軍に入隊し、堅実で優秀な仕事ぶりによって階級の壁を越えて艦長にまで昇進した人物です。測量術と天文学を学ぶと、1763年カナダのニューファウンドランド島の地図作製を任命されました。ここで彼は従来の船乗りとは違う、最新の科学的測量を実行しました。従来はコンパスで方位を確かめながら沿岸を進み目測していただけでした。一方彼は四分儀と経緯儀と測鎖を使って、三角測量と天体観測をおこないました。船で移動しながらボートで上陸を繰り返し、船も頂点の1つに利用して三角鎖を作り測量したのです。できあがった地図はイギリス本土の地図にも遜色のないほど精密なものでした。こうした科学的業績が評価され王立協会の会員にも選ばれています。  
太平洋探検航海  
1768年クックはニューファウンドランドでの功績が認められて、太平洋探検航海の指揮官に任命されました。任務は、太平洋を広く探査して島の位置を確定すること、太平洋側から北西航路(大西洋と太平洋を結ぶ北回り航路)を探すこと、未知の南方大陸を探すこと、の3つでした。エンデバー号による第1回航海では、タヒチの位置を確定し、ニュージーランドが南方大陸でないことを確認した上で測量して地図を作製、さらにオーストラリア東岸も測量しました。1772年レゾリューション号とアドベンチャー号による第2回航海では、南方大陸を確認すべく氷山の浮かぶ南極圏まで達しますが発見することはできず、事実上存在しないと断定しました。またこのときからクロノメーターを使用して、発見した島々の経度を測定しています。1776年レゾリューション号とディスカバリー号による第3回航海では、北米大陸西岸を測量して地図にしましたが、航行可能な範囲には北西航路がないことを確認しました。しかし惜しくも帰途ハワイで原住民に殺されてしまいました。クックは非常に短期間に太平洋を調査し、しかも科学的な測量にもとづく正確な地図を多数作製しました。なお彼が有名に なったのは、その業績だけでなく、出版された航海日誌がベストセラーになり、タヒチのブームをまきおこしたことにもよります。  
宇宙船の名前  
話はそれますが、エンデバー号とディスカバリー号の船名はスペースシャトルにも使われました。アトランティス号は伝説の大陸の名前です。さらにコロンビア号はコロンブスから、事故を起こしたチャレンジャー号は19世紀後半のイギリスの海洋調査船の名前から付けられています。地図の歴史にかかわりのある名前ばかりなのです。私としては、これらの名前は単なる軌道往復船であるスペースシャトルよりも、惑星探査機とか将来建造されるであろう外宇宙探査船にこそふさわしい思いますが .... たぶんまた付けられるでしょう。 
6.南方大陸を探して

 

ギリシア人の想像  
“コスモス”には“宇宙”のほかに“秩序”の意味があります。古代ギリシア人は、宇宙は基本的で完璧な原理に従っていると信じていました。ゆえに人間の住むこの大地も、完璧な形状である球体であろうと推察したのです。秩序の重要な要素として対称性を重んじた彼らは、大陸と海洋の分布についても対称性を求めました。北半球に温和で広大な大陸が広がっているのだから、南半球にも同じような大陸があるにちがいない。もしかしたらアフリカとアジアはこの大陸によってつながっていて、インド洋は内海かも知れない。“未知の南方大陸(Terra Australis incognia)”はこうして想像されたのです。  
古代地図の復活  
中世の長い眠りから覚めたヨーロッパ人はギリシア文明の復興を理想とし、イスラム圏に受け継がれていた書物を学び始めました。地図もそのひとつで、想像の産物でしかない南方大陸も事実として受け止められ、新しい地図に描かれてしまいます。地図制作者自身でさえ、事実と想像の区別はできなかったのですから、もはやその存在を疑う者はいません。  
冒険者たちのもう一つの夢  
15世紀の地図にはインド洋の南方にぼんやりと描かれていた大陸も、大航海時代になると期待と誇張が入り混じり、想像された情報が加えられて、次第に大きく詳細になっていきます。1569年のメルカトルの地図にも大きく描かれ、翌年のオルテリウスの地図では岬や川に名前まで付けられているのです。マゼラン海峡は南米大陸と南方大陸を分ける海峡にちがいない、マレー半島沿いに行けるかも知れない。冒険者達が求めていたのは、黄金と香辛料だけではなかったようです。17世紀になると、植民地から略奪していただけのスペインやポルトガルに代わって、強大な産業に支えられたオランダやイギリスが世界の海を支配しました。オランダの東インド会社は、インドネシアの南方に大地を見つけます。しかし西岸から南岸を回ったアベル・タスマン(1603〜1659)は、太平洋に抜けてしまい、また海岸線があまりに荒涼としていたので、南方大陸ではないと判断しました。彼らはこの大陸の価値を見過ごしてしまったようです。  
キャプテン・クックに消された南方大陸  
1768年、エンデバー号で最初の太平洋探検航海に出発した、ジェームス・クックに与えられた使命の1つは、南方大陸の発見でした。しかし陸地であろうと考えられていた、南緯40度まで進んでも島影1つありません。南方大陸の一部ではと思われていたニュージーランドも、島であることが確認されました。こうして南方大陸は小さく描き直されていきました。そして1772年の第2回航海で、レゾリューション号は、氷山の浮かぶ南緯71度10分の南極圏まで達しますが、やはり発見することはできませんでした。たとえこれより南に存在するにしてもあまりにも寒冷な土地であろう。希望は一気に絶望へと変わってしまいます。こうしてついに南方大陸は、地図の上から完全に姿を消されてしまったのです。  
本当にないの?  
行き場を失ったアウストラリスの名は、やがてもう1つの新大陸に与えられることになります。それがオーストラリアです。19世紀になって南極大陸が発見されますが、それは長い間人々が探し続けた南方大陸よりも小さく、クックの想像どおり人が住むことは叶わぬ土地でした。しかし現在の研究では、はるか太古には今よりもずっと暖かい位置にあり、森林も存在していたことが証明されています。もしかすると... 
7.メートル法誕生

 

ばらばらな単位  
地球上の地点は経緯度座標によって表現できるようになりましたが、地図を作るための測量でも、また実用においても、より重要なことは距離を表わす単位でした。距離を表わすこと自体は、地球の形や大きさとは関係ないため、古来より、国によって、時代によって、業界によって、それぞれに由来のある単位が使われてきました。  
古代ギリシア時代、地球の大きさを測量したエラトステネスが使った長さの単位は、スタディオン(諸説あるが、約0.178mとする解釈が多い)でした。航海者の使う海里(1nautical mile=1852m)は、陸上のマイル(1mile=1609m)とは異なります。アメリカでは未だにヤード・ポンド法が主流で、コンピュータでもインチが用いられています。位取りもさまざまです。10進法はむしろ少数派で、1フィートは12インチ、1ポンドは16オンスといった具合です。  
地球の大きさを基準にする  
近代ヨーロッパでは、国家の統一が進むとともに言語の統一も図られましたが、度量衡(長さ、体積、重さ)は相変わらず混沌状態のままでした。1792年、革命の最中にあったフランスで、普遍恒久的で科学的な裏付けのある、度量衡の制定が課題になりました。国内でさえばらばらな状態は商工業の発展に妨げとなっていたのです。基準となるのは長さで、その大きさは自然界に根拠をおくべきだと考えられ、地球の極から赤道までの距離の1千万分の1と決められました。すでにカッシニの測量などによりかなり正確に判ってはいましたが、より正確を期するため改めて測量することになりました。革命政府が設立した度量衡委員会は、二人の天文学者、ピエール・メシェンとジャン・パブディスト・ドゥランブルを任命しました。化学者のラボアジェ、物理学者のボルタ、哲学者のコンドルセも支援していました。  
子午線の精密測量  
子午線の長さは、同一子午線上にある2つの地点の距離と緯度によって求められます。できるだけ長い方がよいので、彼らはフランス北海岸のダンケルクと、地中海に面したスペインのバルセロナを選びました。見晴らしの効く山や建物を頂点とする三角点網を設定し角度を測ります。最後にその中の1辺を実測すれば、他の全ての辺の長さを三角関数により求めることができます。正確さを求めないのであれば、簡単な道具で数カ月もあればできたはずです。しかし彼らは限界に臨みます。大型の測角器を測量台に運び上げて地点間の角度を秒単位まで求め、天文測量もおこなって位置を確定しました。よい観測点がなければやぐらを建設し、山岳地帯でも手抜きはしません。数十回も測り複数の人間が署名するという厳密さでした。  
けれども本当の困難は社会状況でした。革命を恐れる周辺国との戦争が起こり、国内でも革命派と反革命派がせめぎあっていました。身分を証明することすら容易ではなく、スパイと疑われ投獄されたり、スペインへ渡ったメシェンは帰国すら許されません。政権が代われば突然中止させられることもありました。それでも彼らはあきらめませんでした。科学者としての使命感、知的好奇心、新しいものを作りだすことへの夢なのか。  
メートル法  
支援者たちもすでにこの世の人ではなくなった7年後、白金とイリジウムの合金によるメートル原器は完成しました。しかしこの年、ナポレオンが政権を握り、戦争、王政復古、7月革命、と時代は激変します。そして人々の慣習もすぐには変わらなかったのです。メートル法が正式に採用されたのは、1840年のことです。1875年になると、メートル法度量衡は国際条約として締結されます。現在ではより普遍的な定義として、1メートルは“光が真空中で 299,792,458分の1秒間に進む距離”と規定されています。正確な地図作りにも、統一された度量衡は欠くことができません。 
8.インドの謎

 

支配の手段としての測量  
18世紀後半から、イギリスは植民地にしていたインドの測量を始めました。初期の頃は、行政上、軍事上の必要性から、道路に沿って距離を測り、目標物を丹念に調べる方法でおこなわれていましたが、19世紀になると、海洋で養われた測地学をさらに発達させようとする科学的な目的も加えられ、精密な三角測量が開始されました。  
距離と緯度が合わない  
ところが北部の山岳地帯に近付くにつれ、三角測量と天文観測の結果のずれが次第に大きくなってきたのです。ずれかたがランダムではなく、一定の傾向を持っていたので、誤差や間違いではなさそうです。これが当時“インドの謎”と呼ばれ、多くの科学者が解明に取り組んだ課題です。  
鉛直線偏差  
水平角度の測定にも基線の測定にも問題はありませんでした。残るのは緯度の測定でした。緯度は天体観測によって求められます。そのためには基準線として、おもりを吊した紐が使われました。これを基準として星の角度を測るのです。紐は地球の中心を指すわけですが、地下の密度の差のために、質量の大きい側にわずかに傾くはずです。この理論はすでに知られ、鉛直線偏差とよばれていたたため、彼らはヒマラヤ山脈の巨大な質量を考えて、最大で15秒の補正をしていました。  
アイソスタシー  
しかし偏差を過大に評価し過ぎていたのです。1855年のイギリスの科学者ジョージ・ビッテル・エアリの説によれば、地殻は海に浮かぶ氷山のように、マントルの上に浮いています。標高が高ければ地下にも大きな質量を持っています。地殻は地球楕円面に対して上下対称のような形をしているのです。したがって標高が高いところの下では、マントルはくぼんだかたちになるのです。地殻の質量は小さく、マントルの質量は大きいわけですが、このような形状の結果、地球の中心から地表までの全体の質量は、どの部分をとっても大きな差はありません。鉛直線の偏差としてはせいぜい5秒程度にしかならないのです。この状態は“均衡状態”を意味するギリシャ語から“アイソスタシー(isostasy)”とよばれることになりました。  
地殻は軽い物質、マントルは重い物質でできているが、このように地殻が上下対称の構造をしているため、各部分(A〜H)にかかる重さはほとんど変わらない。  
地下探査  
地表を精密に測量することによって、地球内部の構造を知る手がかりを得ることができたのです。重力をさらに精密に測定すると、地殻の構成まで推定することができます。また地震波の伝わりかたを調べると、地質構造の変化面の深さがわかります。こうした技術は鉱物資源や油田の探査に利用されています。 
9.アフリカ探検

 

暗黒大陸  
アフリカ大陸の輪郭については、ポルトガルがインド航路を開拓したことで、ほぼ正確に把握されるようになりました。ところが内陸についてはほとんど調べられていませんでした。北部はイスラム圏であるため、彼らの地図にはおおまかには描かれていましたが、キリスト教徒は入ることができません。サハラ以南では地図を作るような強大な国家が成立したことはないし、熱帯の気候はヨーロッパ人には耐えられません。豊かな文化が存在しているにもかかわらず、彼らにとっては未知で困難な土地という意味で“暗黒大陸”と呼ばれてしまいました。この結果、ローマ時代以来アラブの商人から伝わった数少ない噂が、誇張されたり誤解されたりして、想像だけで地図に描かれていました。  
大河を手がかりにする  
アフリカの地図を作る場合、まずナイル川・ニジェール川・コンゴ川などの大河の水源と流路を正しく把握することからはじめなければなりません。ニジェール川が中流域で東流するのを見て、ナイル川あるいはコンゴ川につながっているとする説や、内陸の湖に流れ込むとする説もありました。中でもプトレマイオスが言及したナイル川の水源“月の山脈”は、長い間ヨーロッパの地理関係者の関心を集めた謎でした。17世紀になってようやく、探検隊がニジェール川やガンビア川を遡るようになりましたが、正しい地図を作ることはできませんでした。1788年にはイギリスで『アフリカ内陸部発見協会』なるものが設立され、各地へ探検隊が派遣されました。ニジェール川がベニン湾に注ぐことが最終的に確認されたのは1830年のことです。  
リヴィングストンの探検  
宣教師にして探検家であるデイヴィッド・リヴィングストン(1813〜1873)が、はじめてアフリカに渡ったのは1841年のことです。南部のカラハリ砂漠やザンベジ川を探検するうちに、東アフリカと中央アフリカの水系を明らかにし、伝道と交易の基礎を築くことを決意しました。1854年にはヨーロッパ人としてはじめてザンベジ川のビクトリア瀑布を発見、59年にはニアサ湖(現マラウイ湖)を発見しました。66年からはナイル川の水源探検をおこない、タンガニーカ湖やルアラバ川を調査している途中、熱病のために消息不明となり、71年新聞記者のH・M・スタンリー(1841〜1904)に静養中のところを発見されました。しかし2年後に赤痢で亡くなっています。天体観測をして経度と緯度を測定するなど優れた測量者でもあり、多くの地図を残しています。  
探検から開発へ  
ナイル川の水源は、J・H・スピークらによって、ブルンジ南部の高原であることが確認されました。またスタンリーは、1877年タンガニーカ湖を水源の1つとするルアラバ川を下り、コンゴ川を経て大西洋へ到達しました。こうして内陸の様子がしだいに明らかにされていきましたが、南部の河川は急流や滝が多く、輸送路としてはあまり有効ではありませんでした。本格的な開発がはじまったのは鉄道が建設されてからのことです。とうぜん植民地としての開発ですが。 
日本の古地図  
最初の日本地図?  
日本で最初に作成された地図として記録が残っているものは、大化の改新(645年)で土地の測量を行なった時の田や国有地を記したといわれる「田図(でんず)」だといわれていますが、残念ながら実物は残っていません。  
現存しているもので最も古いのは、天平勝宝3(751)年の「東大寺領近江国水沼村墾田図」という地籍図です。これは絵地図で、必ずしも正確なものではありませんが、以降の村地図に大きな影響を与えたといわれています。  
平安時代になると、「行基図」と呼ばれる筆で書いた日本地図が作られるようになります。行基は奈良時代の僧で、全国をまわって地域の開発につくした人といわれていますが、彼が本当に行基図を作成したかどうかは証明されていません。  
この行基図は正確な測量に基づいたものではなく、日本列島の形や国の形も非常に大ざっぱです。それでも、それぞれの国の位置関係がわかるだけでなく、一目で日本のどの辺りにあるのかがわかる大変貴重な情報で、江戸時代初期まで何枚も作られました。  
伊能忠敬  
江戸時代になると、西洋からもたらされた天文学と測量技術が、地図の発展に大きく役立ちます。その代表が文政4(1821)年に完成した「伊能図」です。  
伊能忠敬(1745〜1818)は、50歳になってから家業の酒屋を隠居して天文学と測量学の勉強をし、56歳になって奥州街道から蝦夷地(今の北海道)南部の測量を行いました。彼は緯度経度を天体測量ではかり、地図の上に基準となる位置を正確に書きこみ、更に実測によって距離をはかり記録して行きました。こうして、日本最初の科学的で正確な地図ができました。  
その後、彼は幕府の要請を受けて、20年近い歳月をかけて日本全国の海岸を歩き、最初の本格的な日本地図を作成しました。測量日数は3736日、歩いた距離は約4万キロ(なんと地球一周の長さ!)近くにも達します。  
しかし、一部未完成の地域を残したまま忠敬はこの世を去り、その後は彼の測量術の先生の息子でもある高橋景安が受け継ぎ、文政4(1821)年に「大日本沿岸輿地(よち)全図」と「実測録」が完成、幕府に献納されました。これが後に「伊能図」と呼ばれるものになります 。  
この「伊能図」は、3万分の1、21万6000分の1、43万200分の1の3サイズあり、大きい縮尺のものは214枚、中で8枚、小で3枚に描かれており、すべてが手描きの彩色付き。海岸線が克明に描かれ、街角や町村名も精密に記入されていて、山頂や島など遠方に至っては方位線まで記入されているという正確なものでした。  
江戸城に納められた「伊能図」は、その後、たび重なる火災で正本・副本を焼失しましたが、写本(もとの正本を写したもの)が残っていたり、イギリス・フランス・イタリアなど外国で偶然発見されるものもあり、「伊能図」はその大半を今でも見る事ができます。つい最近、このうちの小図3枚が発見され話題になりましたね。  
江戸の末期に作られた「伊能図」でしたが、明治以降になっても日本地図作成にたびたび利用され、最後の版はなんと昭和4(1929)年まで陸軍などで測量に利用されていました。「伊能図」は江戸・明治・大正・昭和と時代を超えて活用されたのです。  
> テイセイラの日本図  
 
1595年のオルテリウスの地図帳所蔵のテイセイラの日本図は、ヨーロッパで刊行された日本のみを単独に示した最初の日本図です。日本の太平洋岸に架空の島が描かれています。西方の世界に日本が知られるようになったのは、9世紀に世界のいちばん東にワクワク(倭国)という国があるとアラビア人によって伝えられたのが最初であるとみなされています。またヨーロッパに日本のことを黄金国チパングとして伝えたのはマルコ=ポーロです。やがてアジアに進出したポルトガルは、中国人を通じて中国の東にジャパンという国が存在することを知るようになります。そして1543年のポルトガル人の種子島渡来をさきがけとして、ポルトガル船の来航やキリスト教宣教師の来日によって、実際の日本についての知識がヨーロッパに伝えられました。また実測による正確な形状の日本がヨーロッパにも知られるようになったのは、高橋景保から贈られた伊能図を基礎にしてシーボルトが作成した日本図です。 
日本図  
測量技術の未発達であった時代にも、ときの中央政府は、国家の版図を把握する必要から、正確さはともかく日本全図の製作をおこなってきた。国土全域を網羅する地図調達は、もはや個人の作業範囲を越えており、官主導の国家的事業としておこなわれたのである。日本の地図作成を文献上で確認するならば、大化2年(646)にまでさかのぼることが可能であるが、その現存を確認することはできない。現代人の眼からは不正確きわまりないこれらの官撰日本図であっても、その時々においては国家的な重要機密とされて官庫に秘蔵された。オランダ商館医シーボルトが、「伊能図」入手の発覚によって国外追放となり、伊能忠敬の全国測量の理解者であった高橋景保がその斡旋をしたために獄につながれて死を迎えたことはよく知られるところである。  
「拾芥抄」(しゅうがいしょう)14世紀成立  
 
本書は、14世紀初頭の成立と推定される百科全書。展示箇所「大日本国図」には、行基の作になる旨が示されている。いわゆる「行基図(ぎょうきず)」を掲載した書籍。ところで本図のように、楕円形に描いた国々をつなぐかたちの日本図を「行基図」という。行基図とは、奈良時代の僧、行基(668〜749)のつくった図という意で、その後、内容の正された官撰の日本図が作られていく中にあっても、江戸時代初期まで地図としての命脈を保った。こんにち江戸期以前の日本図の伝存がほとんど確認できない中、本書「拾芥抄」は、14世紀の行基図を知ることのできる資料として貴重。また、同書の慶長期の刊本は、刊行された行基図としてはもっとも古い。  
「大増字宝節用連玉」(だいそうじほうせつようれんぎょく)江戸後期刊  
本書は「節用集」、すなわち江戸時代の辞書である。現代風にいえば、本図は辞書についている付録といったところであろうか。もちろん実測によった図ではなく、もはや使用した原図のかたちも判別できぬほどデフォルメされている。江戸時代、「節用集」は比較的庶民の眼にふれやすい書籍のひとつであった。その意味ではおおむねこのような日本図こそ、一般に認識された国土のかたちであったといえよう。紙の供給が増大し、複雑な線描にたえる地図刊行の技術が発達してきた江戸時代にあっても、最新の情報による日本図は、庶民に無縁のものであったのである。  
「ヒロート之法加留多」(ひろーとのほうかるた)寛文11年頃(1671)原図成立  
文化8年、鷹見泉石が書き写した図である。本図のように、方位線を八方に示し内陸部の情報を省き海岸線を強調した表現形式の図を「ポルトラーノ(方位線海図)」という。江戸時代の日本では、とくにこの図法の地図を「加留多(カルタ)」と呼んでいた。ポルトガルやスペイン船が日本に渡航していた16世紀、その航海で実践的に使用された海図である。原図成立年は寛文11年頃、徳川家康が将軍就任2年後に全国へ命じた「慶長国絵図」を集成して作られた日本図ではないかと推定されている。「行基図」形式の図などと比べてもわかるように当時、国内最高の精度をもった地図であった。現在、同系統の「カルタ」は、展示図を含めて国内に8点しか確認されておらず、学会でも注目される本図の資料的価値はきわめて高い。図右下は縮尺の表記であるが、興味深いことに緯度1度の距離を「四十三里七合半」と表記している。というのも伊能忠敬が全国測量をおこなう契機となったのは、緯度1度の数値を正確に算出することであった。もとより本図のこの数値は不正確である。  
「日本国絵図」延宝6年(1678)  
いわゆる「行基図」形式の日本図。延宝6年(1678)刊行。行基図とは、奈良時代の僧、行基(668〜749)によって描かれたと伝えられる図のことで、記載内容を改訂・変更しながらも本図のように江戸時代初期まで使われていた。この図によれば、新たに吟味した全国大名・城主名とその石高を記載する内容が斬新であるとうたっている。江戸初期、日本図としてもっとも流布した形式の図といえよう。  
「新版大図日本海山湖陸図」石川流宣作 元禄7年(1694)刊  
浮世絵師の石川流宣(いしかわとものぶ)が製作した日本図。本図は、江戸初期まで日本図の主流として普及した「行基図」にかわり、17世紀末から18世紀中頃までのあいだ代表的日本図として流布した。石川流宣による日本図を通称して「流宣図(りゅうせんず)」と呼ぶ。この「流宣図」は、初版が「本朝図鑑綱目」の名で貞享4年(1687)に登場、以後、改版を重ね展示図の初版にあたる大型版「日本山海湖陸図」の刊行されたのは元禄4年(1691)であった。図をみると、それまでの図に比べて、情報量の多いことが特筆されよう。山々と海には波まで描かれ、絵画的要素によって装飾されている。また城主やその石高、諸街道の里数などのデータを余白のなくなるほど盛り込んでいる内容は、それまでの日本図にない特徴といえよう。元禄という時代の趣向にあわせて刊行されたこの図は、華麗な色使いと詳細な内容に特徴があるのである。ところで、この原図は、「ヒロート之法加留多」と同様、幕府官撰の「慶長日本図」であった。石川流宣が官庫に秘蔵された「慶長日本図」の情報をどのようなルートで入手したかつまびらかにできないが、「ヒロート之法加留多」に比べるとき、その図のかなりの変形利用であることがわかる。  
日本東半分沿海地図(部分)伊能忠敬作 文化元年(1804)   
佐原(現千葉県佐原市)の酒造家伊能忠敬は、寛政6年(1794)49歳で隠居、翌年江戸に移り住み幕府天文方の高橋至時に入門する。そのわずか5年後、手弁当で蝦夷地・奥州街道の測量の旅に出発した。この第1次測量以後、忠敬は、10次17年間ににわたって根気強く「国土の正確な形」を把握する測量を実行し、文化14年(1817)江戸の実測でその作業を完了している。本図は、忠敬が、第1〜4次測量の成果を表現するため製作した図の写しで、書写者は鷹見泉石。この伊能図は、11代将軍徳川家斉の上覧するところとなり、その完成度の高さがおおいに評価された。以後、忠敬の測量事業は、幕府直轄事業に格上げされて、彼自身、幕臣に登用されることととなったのである。江戸時代、伊能図は、幕府の占有地図として秘蔵され刊行はおろか書写さえも制限されていた。また、幕府に上呈された伊能図はそのすべてが罹災していまっているため、書写ながら本図の資料的価値は高い。  
「新刻日本輿地路程全図」(しんこくにほんよちろていぜんず)長久保赤水作 天保4年(1833)刊  
18世紀半ば、それまでの代表的な日本図「流宣図」にかわり、その主流の位置についた図。展示図は天保4年版であるが、安永8年(1779)初版刊行。鷹見家歴史資料には、初版図も確認される。この図の特徴は、それまでの普及版日本図に比して図形が飛躍的に正確となったことであり、また、「一寸十里」(1296000分の1)という縮尺をそなえ、刊行図としてははじめて経緯線を取り入れたことなどであった。原図は、幕府官撰の「享保日本図」。作者の長久保赤水(1717〜1801)は、水戸徳川家の儒官として江戸に出仕した人で、晩年『大日本史』の「地理志」稿本を執筆した地理学者でもある。原図利用を可能にしたのは、そうした地位あってのことと推定できよう。幕府の重要機密扱いをうけた「伊能図」にかわり、赤水図は、明治期を迎えるまで日本図の主流として刊行されつづける。実測と天体観測によって赤水図とは比べものにならぬ正確な図形と経緯線を示した伊能図が、江戸時代において代表的日本図となりえなかったのは、幕府が伊能図を秘蔵し続けたからであった。  
「日本輿地全図」(にほんよちぜんず)中島翠堂作 嘉永7年(1854)刊  
嘉永7年(1854)刊行。本図の特徴は、地図としての正確さではなく、千島列島・樺太・北海道、すなわち北方地域を図中に取り入れていることである。北方部分の図を張り付けしていることが確認できよう。それまでの日本図では、一部の描写はあっても蝦夷地全域を描き出すものがなかった。こうした北方地域を加えた地図は、第1次ロシア使節ラックスマンの根室来航以降、有識者の危機意識の高まりにともなって徐々に目立つようになる。鷹見泉石もそうした危機感をいだいたひとりで、彼の収集した地図や情報には北方関係のものが少なくない。なお、彼の収集した北方情報は、ほぼ散逸することなく伝来しており、その一端を当館常設展示室Tで観覧することができる。身分上、一介の百姓であった伊能忠敬が、国家事業の中心となって全国測量を許されたのは、こうした北方問題の深刻化と蝦夷地が未踏査地域のまま残されており、幕府がその正確な地理的情報を欲したからであった。  
「大日本分国輿地全図」(だいにほんぶんこくよちぜんず)明治10年刊 宮脇通赫作  
本図は、江戸時代を通して幕府秘蔵図とされていた伊能図が、明治以降、刊行図に利用された一例。著作者は、愛媛県出身の宮脇通赫で、図左下の凡例にあるとおり「猪能氏実測図(いのうしじっそくず)」を利用して内陸の情報を補填した図である。伊能図がはじめて刊行されたのは、維新の前年、慶応3年(1867)のことで、幕府開成所から出版された。その後、明治中期頃まで伊能図は実践的に活用されつづけたのである。 
 
現代 / リモートセンシングの時代

 

1.国際図 
空白が消えた現代  
18世紀のイギリスには“地図の空白は目障りなのだ”といって、測量に打ち込んだ測地学者もいたそうですが、彼も今では安心して眠っていることでしょう。もはや空白域は、地球上のどこにも、それどころか月にも火星にも存在しません。すでに標高まで含んだ精密な地図が完成しています。銀河の座標を測定した宇宙の地図作りさえ試みられるようになっています。足跡をしるす以前に地図が作られる時代なのです。  
世界図の統一規格  
しかし空白域がなくなっても地図作りは終わりません。かつては各国政府が独自のルールを設けて、ばらばらに地図作りをおこなっていたために、いくつもの国にまたがる問題を検討しようとするとき、ひどく不便な状態にあったのです。1891年ベルンで開催された第5回国際地理学会議において、ドイツの地理学者、アルブレヒト・ペンク(1858〜1945)は、統一された国際図の作成を提案しました。1913年のパリ国際地理学会議で決められた規格は、『国際100万分の1世界図』とよばれ、縮尺は1/100万、図法は変更多円錐図法、図幅は経度が6度で緯度が4度として国境線で図葉を区切らない、長さの単位はメートル法、地形は等高線による段彩などの内容でした。  
このほかに国際水路局(IHB)や国際民間航空機関(ICAO)(これは書店でも入手可能)も統一規格の地図を刊行しています。  
あらゆる情報を地図に  
主要国が分担して作成することになったのですが、戦争により何度も中断されたり、支援を渋る政府も多かったため、1962年からは国際連合が情報交換と調整をおこなっています。1970年代初頭には、全ての図葉ができあがりましたが、古い地図を編集しただけの地域や精度が十分でない地域も多いため、現在も改訂作業が続けられています。さらに一般図とは別に、より多様な情報についても地図化されるようになってきました。自然・社会・経済・文化など、地図に描くべきこと、描きたいことは無限にあるのです。 
2.飛行機とカメラ

 

空から見たい  
ローマ時代のアグリッパの測量士たちも、広大な帝国を測量棒とロープを持って歩き回りながら、空を飛ぶ鳥に憧れたに違いありません。空から見ればたちどころにわかるのに。いつの時代でも測量士は空から見ることを望んでいました。塔や山に登っても測量に取って代わることはできません。視線が斜めであるし、スケッチでは正確に写し取ることはできないからです。2つの道具、航空機とカメラが必要なのです。  
カメラの登場  
19世紀、写真術が発明されると、さっそく地図作りに利用する試みがなされました。気球から撮影したり、高い塔からステレオ撮影して建物の位置を割り出したりしていました。しかし広い地域にわたってくまなく実施することが難しかったので、地形図を作ることはできませんでした。  
偵察写真  
第1次大戦がはじまると、発明されたばかりの飛行機にカメラを搭載して、偵察写真が撮影され、威力を発揮しました。高度や方位それに傾きのデータが記録されていなかったので、そのままでは地形図に起こすことはできませんでしたが、一瞬にして地上にある全てのものを写してしまう航空写真は、臨時あるいは簡易の地図としてさまざまな目的に役立ったのです。  
写真から作られたアメリカの地図  
航空写真を地形図の作製に利用しようと熱心だったのはアメリカです。広大な国土はまだ英仏のように精密に測量されていませんでした。政府も民間も第1次大戦で大量に生産された飛行機を利用して、航空写真による地図製作に乗り出しました。初期のころは無蓋(操縦席の天井がない)の復葉機を使い、コックピットの底に穴を空けてカメラをセットし、震動を押さえるためにエンジンを切って撮影していました。やがて、連続撮影した航空写真を販売する者も現われるようになり、正規の地形図ではないものの、写真から平面地図を描くことがおこなわれるようになりました。  
触れずに測る  
最近では、可視光による通常写真の他、雲や昼夜に影響されない赤外線写真やレーダー写真も利用されています。これらの機器を使って、離れた場所から手を触れずに情報を収集する技術を“リモートセンシング”といいます。20世紀は、情報を収集する機械(センサ)、それを乗せて行く機械(飛行機や宇宙船)、集めた情報を処理するコンピュータが著しく発達した時代といえます。  
実地調査も必要  
航空写真技術がいくら進歩しても、それだけで地形図を作製することはできません。地形図は絵ではなく記号と文字によって抽象化された図面だからです。基準になる三角点の経緯度と標高を精密に測定することや、写真に写っている事物を実地調査して判別していく作業などが必要です。全ての情報が揃ったら、記号化して製図します。これを色分けして製版し、印刷すると地形図が完成します。  
スピードアップとコストダウン  
測量に航空写真を利用できるようになったおかげで、地形図作製に要する期間とコストは桁違いに小さくなりました。アメリカで発達したこの技術は、第2次大戦後になると、正確な地形図を持っていなかった多くの途上国でも導入されるようになり、短期間で地図を完成させました。基準点の測量と実地調査が不十分な地域はまだかなり残っているものの、世界の陸地はようやく地図の上に正しく描かれるようになったのです。 
航空写真による高度測量  
地上の三角測量では、平面の測量だけでなく標高の測量もおこなわれています。現代の地形図では等高線が描かれていることでもわかるように、標高の情報は非常に重要です。航空写真では平面の測量は簡単におこなえますが、標高はどのように調査するのでしょうか? 原理は立体メガネと同じです。位置を変えて撮影した2枚の写真の位相差から相対的な高度差を求めるのです。そして地上で厳密に測量された三角点の標高に加算することで全ての地点の標高を求めることができます。この面倒な処理は機械でおこなうことができます。ドイツのカール・プルフリッヒとオーストリアのエリッヒ・フォン・オーレルが、立体投影視することによって高度差を読み取る実体座標測定器と作図機を開発したので、容易に等高線を描くことができるようになったのです。 
3.距離を測る

 

測量の基本は距離  
地図を作るための測量では、緯度・経度・方位角・仰角・距離、などさまざまな項目を測定しなければなりません。この中で最も基本的でなおかつ最も難しいのが「距離」です。  
距離計測の歴史  
エラトステネスが地球の大きさを計算したときには、おそらく人かラクダで歩測したと考えられています。ローマ時代のころからは、短距離であれば巻き尺、中距離であれば車輪の回転数を数える方法が使われるようになりました。近代になると、角度のほうは経緯儀や六分儀などの光学的測定器が発明されましたが、距離は測鎖とよばれる数十メートルの重い金属製のチェーンが、測量技師の必携の道具になりました。  
三角測量時代の基線計測  
三角測量が考案されてからは、基線だけ測定すればよくなりましたが、大きな三角点網の基線を測るときには高い精度が求められるため、手間のかかる方法が実行されることがあります。1790年代のドゥランブルは、林を伐採して数キロにもおよぶ完全にまっすぐな道路を作り、材木で高架橋のような構造物を建設し、温度や湿度の影響も考えながら慎重に定規を当てて、2カ月近くもかけて測りました。20世紀前半になっても国家の地形図を作るようなときにはこの方法以外になく、基線測量は測量技師にとって最も困難な仕事とされてきました。  
光学計測  
精密光学機器が作られるようになると、短距離の測定は光学的方法で測定できるようになりました。スタジア測量は、目標地点に立てた標尺を望遠鏡で覗いて、レンズに写る目盛りの大きさとの比率から距離を計算します。測距儀は、2本のレンズからはいる像を回転式のミラーで合成することができるようになっていて、目標物の像が重なったときのミラーの角度とレンズ間の距離から三角法で距離を算出します。これらは操作が簡単で持ち運びも容易なのですが、有効距離が短く地籍図作製や土木工事の測量程度にしか使えません。  
電子計測  
長距離の測定には電子技術の発達をまたなければなりませんでした。1947年スウェーデンの科学者によりジオジメーターが発明されました。目標地点に置いた反射鏡に光を当てて、戻ってくるまでの時間から距離を計算するのです。5〜20キロ程度を測定できますが、夜間しか使えず気象条件によって精度が落ちることが欠点でした。55年には光の代わりに電波を使うテルロメーターも開発されました。昼間でも使え、測定距離も伸びましたが、湿度の影響を受ける欠点がありました。66年にはレーザー光線を使ったジオジメーターが開発されました。昼間も使えることはもちろん、気象条件による影響も小さく、空気が澄んでいれば80キロまで測定できます。現在はこのレーザー式ジオジメーターが主流になっています。これら電子式測距儀のおかげで、測量技師は地上の土木工事から解放され、せいぜい観測用のやぐらを組む程度で、1/100万の精度を得られるようになったのです。 
4.宇宙からの測量

 

地球を丸ごと測る人工衛星  
航空写真によって、正確な地形図を短期間で作製できるようになりましたが、人工衛星の登場は測地学の分野にも革命的な変化をもたらしました。地図を作製するための地形の測量ではなく、地球そのものを測量してしまいます。  
地球を精密測量する  
まずはじめは、衛星の軌道測定がおこなわれました。衛星の軌道は地球の重力や形状の影響を受けて微妙に変化します。これを電波で追跡すれば地球の形を測定できるのです。この結果、地球の形は回転楕円体ではあっても、さまざまなゆがみを持っていることがわかりました。北極は20メートルほど突き出ていて、反対に南極はへこんでいました。赤道面でさえ完全な円ではなかったのです。  
人工衛星で可能になったジオイド測量  
ジオイドの測量も衛星を利用することによって、ようやく十分なデータを得ることができるようになりました。ジオイドとは仮想される海水面のことです。標高を測るときの基準面でもあります。海上では平均海面を用い、陸上ではもしその場所が海であったら(運河を掘って海水を引き入れたとしたら)海水面の高さはどこにあるのかを算定します。海水面は重力にしたがって高さを変えるため、ジオイドは重力と遠心力のバランスした位置を表わします。地球の質量は均一ではないため、回転楕円体に対しては起伏があります。これはかなり大きくて、インド洋モルジブの付近では110メートルものへこみがあり、ニューギニアには80メートル、ニュージーランド南東やカリフォルニアには60メートルのこぶがありました。この原因を解明すれば、やがては地球の内部構造も、摸式図ではなく地図として表わすことができるようになるでしょう。  
地球をモニターする  
人工衛星に搭載するセンサーが発達してくると、地球の状態をリアルタイムに常時モニターすることもできるようになりました。可視光線・赤外線・重力・磁気などを測定することができます。測定したデータはコンピュータで解析することによって、まさかと思うような情報さえ引き出すことができます。たとえば可視光線の写真を肉眼で視ると緑としか判別できない地域でも、異なる波長の写真を組み合せて解析すれば、畑と森林の区別はもちろん、針葉樹林と広葉樹林の区別、成長度合、そして大気汚染により痛んでいるかまで知ることができるのです。人工衛星ならではの特徴は、わずか数日から2、3週間(軌道傾斜角と高度による)の間に、地球全体を同じ条件で測定できることです。航空機では真似できません。この結果たとえば“ある年のある月の積雪量を描いた世界地図”というような、これまでは絶対に作ることができなかったテーマの地図を作製できるようになったのです。地球を観測する代表的な人口衛星には、1972年から打ち上げられ、高度700〜900キロのほぼ極軌道(地球を縦に回る)を周回して、可視光線と赤外線の写真を撮り続けているランドサットシリーズ、気象監視衛星ニンバス、フランスのSPOT、ヨーロッパのレーダー観測衛星ERS、ノアをはじめとする各国の気象衛星などがあります。  
人工衛星で座標を知る  
地上で衛星の電波を受信すると、位置や距離の測定も可能です。衛星を頂点とした三角測量ができるのです。地上の2点は互いに見えないほど離れていても構いません。この方法は島の位置の確定などに威力を発揮しています。反対に複数の衛星を使えば、地上を頂点とした三角測量もできます。条件さえよければ標高を測ることさえ可能です。このシステムはGPS(Global Positioning System)とよばれ、移動体が他の地上設備の助けを借りずに位置を知ることができます。受信と演算をおこなう装置は、電子機器の進歩により船舶や航空機に搭載できるほど小型化され、衛星航法を可能にしました。最近では一般向けの携帯型や、自動車に搭載してディスプレイ上の道路地図に現在位置を表示するカーナビゲーションシステムも実用化されています。  
大陸間の距離  
衛星ではありませんが、電波天文学を応用した測量もあります。クエーサーのような電波を出す星に2地点からアンテナを向けて、受信した電波の時間差から、距離を求めるのです。この方法では大陸間の距離も、センチメートル単位で求めることができます。数十年間にわたって測りつづけることで大陸移動の実測も可能になったのです。 
5.他の天体へ

 

宇宙を航海するキャプテン・クック  
宇宙からの測量技術は、地球だけでなくほかの天体へも応用することができます。1950年代になると、地球を飛び出した探査機は測量者の目となって太陽系の天体の測量を開始しました。高性能の探査機器とコンピュータを装備したロボット探査機は、現代のキャプテン・クックといえるでしょう。  
月の表は見たままが地図  
月の場合は、望遠鏡で表面を観察することができるため、ガリレオ・ガリレイ(1564〜1642)の時代から、多くの観測者がスケッチを残してきました。地球上から月を観るということは、静止衛星から地球を観るのと同じことなので、かつての地上の測量者のような探検と実地測量の苦労はありません。17世紀のアマチュア天文家ヨハネス・ヘヴェリウスは、緻密な月面図を作製し、影の長さから山の高さの測定を試みています。19世紀末になると写真による測量もおこなわれるようになりましたが、本格的な科学測量は1950年代、月旅行をめざすようになってからのことです。  
アポロに積まれた月面図  
まず立体写真により地形図が作製されましたが、地上にいる限り“表側”しか観ることができません。完全な地図を作るためには探査機を打ち上げて、あらゆる方向から撮影するしかありません。1959年、史上初めて月の裏側を見せてくれたのはソ連のルナ3号です。それから米ソの探査競争がはじまり、突入型、軟着陸型と進歩し、1966年からのアメリカのルナオービターは、月軌道を回って多くの写真を電送してきました。こうして精密な月面図が作製され、アポロ宇宙船の飛行士は、1/1100万〜1/5000までの何種類もの地図を持参していきました。現代の探検は到達する前に地図ができているのです。  
運河が見えた火星の場合  
火星は大型の望遠鏡で見てもせいぜい指先程度の大きさにしか見えません。しかも大接近するのは2年に1度だけなので、19世紀末になってようやく表面の様子が観測されるようになりました。火星人伝説を生む原因となった“運河”は、1877年イタリアのジョヴァンニ・スキャパレリや、94年に私設天文台を設立したアメリカの富豪パーシバル・ローウェルによって“発見”され、詳しくスケッチされると、多くの科学者が信じてしまいました。1971年火星に到達したアメリカのマリナー9号は、1年にわたって軌道を回り、映像と測定データを地球に送り続けました。地図制作者は、豊富なデータを駆使してあっと言う間に地形図を完成させてしまいました。巨大な峡谷はいくつも発見されましたが、それはかつてスケッチされた運河とは全く別のものでした。彼らはクレーターや山の影、それに雲を線と見誤り、これがきっかけとなって、頭の中で想像したものが見えるようになってしまったのでしょう。  
金星の雲の下  
さらに人類が直接降り立つことはないであろう金星(表面温度は470℃)でさえも地図が作られています。厚い雲に多い尽くされているため、外から地表を見ることはできないのですが、ソ連の探査機ヴェネラシリーズとアメリカのパイオニア金星1号が、軟着陸に成功し写真撮影をおこないました。さらに1989年に打ち上げられたアメリカの探査機マゼランが、開口合成レーダーを使って地表の凹凸を精密に測定したのです。地形図を作製した結果、クレーター・断層・山脈・平原・火山などの存在が確認され、内部の状態や成因を推測する重要なデータを得ることができました。  
はじめに地図ありき  
かつて地球上では、地図のない場所へ行き、測量をして地図を作ってきたのですが、今後人類が他の天体へいくときは、降り立つ前にすでに精密な地図ができているはずです。“はじめに地図ありき”、我々はもう地図に描かれていない場所へ足を踏み入れることはないでしょう。こうして今では、生物のいない天体であれば、1機の探査機で簡単に地形図を作製することができるようになりました。しかし人類の住む地球ではそうはいきません。人工的な事物が満ちあふれ常に変化する地球では、地図が完成することはなく、地道な測量を永遠に続けていくしかありません。住宅地図の出版社では、建物の更新や居住者の変化に対応すべく、調査員が足で調べつづけています。 
6.電子化された地図

 

製図と製版の技術  
地図は、測量・製図・製版・印刷の過程を経て出版されます。20世紀になると、測量には写真や高度な電子機器などのリモートセンシング技術が使われるようになり、印刷では多色図版を高速に印刷できるオフセット印刷が導入されました。ところが製図と製版は、便利な道具が使用されるようになったものの、基本的には手作業でおこなわれています。たとえばスクライブペーパーは、カラーコーティングされたフィルムのことで、製図された地図の上にスクライブペーパーを重ねて透けて見えるようにして、スクライバーとよばれる道具で必要な線や記号の形にコーティングを剥していくのです。修正液を使えばやり直すこともできます。できあがったら露光して写真版を生成します。銅板をけずるよりは楽ですが、熟練した技術が必要なことに変わりはありません。地形図はただ正確なだけでなく、見やすさと美しさが必要で、高度な技術と経験を持ったカートグラファ(地図製図者)の仕事を欠くことができないのです。基本的な地形図ならこの方法でもよいのですが、現代ではさまざまな分野で、特定の用途に向けた多様な地図を短期間で作ることが求められています。  
コンピュータによる自動製版  
1970年代になると、海図の作製にコンピュータが利用されるようになりました。コンピュータは、船に積まれた音響測深機(超音波の反射を利用する)で測定した水深を記録し、水深別にクラス分けして連続線のリストを生成します。このデータをプロッタに出力すると等水深線が描かれるのです。コンピュータを利用すると何が変わるのでしょうか。まず測定し直したときの改訂を素早くおこなうことができます。また基本図と縮尺や敷居値、あるいは投影法を変えた地図を簡単に作製することができます。たとえば基本図では10メートル刻みだった水深を、20フィート刻みに変更することもできるのです。このように地理的なデータを数値化してコンピュータに記録しておくことで、望みどおりの地図を得ることができるようになります。70年代後半から80年代になると、コンピュータグラフィック技術の進歩により、スクリーン上で設定を変えながら最適な図式を探したり、図形を編集することもできるようになりました。  
統計データを地図化する  
コンピュータ地図のもう一つの役割は主題図の作製です。はじめは統計データを等値線図やコロプレスマップの形で地図の上に描くだけでしたが、統計データの性質に合わせて地図そのものを変形してしまうことも考えられるようになりました。従来の地図では、地点間の位置関係は、距離と方位を表わしていますが、たとえば地点間の移動に要する時間とか交通量を表わすように変形してしまうのです。知識としてわかっていたことでもイメージ化することで理解が容易になるし、新しい発見をすることもあるでしょう。経済学者も歴史学者も植物学者も、関心のあるテーマを地図化して研究できるようになりました。地図は大地の状態をミニチュア化して表現したものではなく、空間に広がる問題を考えるための道具になったのです。  
値の大きさによって地区(国)の面積を変えてしまうカルトグラムは、専用のソフトがなければ作れないのですが、この例のように矩形ブロックの数に置き換えれば、作図ツールでも作れます。  
空間シミュレーション  
さらに新しい使い方として、空間のシミュレーションもおこなわれるようになりました。気象の数値予報が代表的です。地形のデータと気象のモデル、それに現在までの気象データを入れて、将来の変化を予測するのです。時間を進めたり遡ったり、別の時間へ飛んだりすることができるのです。ほかにも大陸移動のシミュレーションや交通渋滞のシミュレーションなどがおこなわれています。  
コンピュータの中の地球  
地図を電子化することで、コンピュータの中に地球が再現されようとしています。そしてソフトウェアの進歩によって、表現方法も多様になってきました。プトレマイオスが述べていたように、世界のあらゆる現象を絵によって表わしたものが地図であるなら、コンピュータは地図を作る最適な道具になっていくでしょう。  
 
地図の「竹島」

 

「独島の真実(Truth of Dokdo)」について 
2011年10月の聯合ニュースで、歌手のキム・ジャンフンと世宗大学の保坂祐二 (韓国に帰化した日系韓国人)が立ち上げた独島を紹介するウェブサイト「独島の真実」の日本語版がオープンしたという記事を見たので、視聴した。  
日本政府が作成した大部分の公式日本地図には鬱陵島と独島が現われません  
まず、「01日本の公式地図に独島は存在しない。」という最初に登場した日本地図がこれ。ふむ、確かにこの地図には「竹島」は見えない。しかし、この地図は、  
日本地図(都道府県別)から地図を検索 :マピオンという検索サイトの地図で、日本地図(都道府県別)から見たい場所の地図を検索できます。また人気のスポット情報なども探すことができます。というものだが、北海道を見てください。カーソルを合わせると赤い四角で表示されます。しかし、この地図は選択出来るのは名前があるところだけ、それに東京の真下には沖縄がある。本来なら東京から南に三宅島など小笠原諸島がある。マピオンの地図には描かれていない。しかも、・・・という事です。つまり、この地図は単なる概要地図。「人気のスポット情報なども探すことができます。」という様に、東京ディズニーランドやキッザニア東京、お台場、東京タワーなどのおすすめスポットなども検索出来るようになっている。「竹島」は日本の領土ですが、「日本地図(都道府県別)から見たい場所の地図を検索できます。また人気のスポット情報なども探すことができます。」というこのサイトの趣旨を考えれば、「韓国経由」でなら「竹島」に観光に行けたとしても、韓国に不法占拠されていて日本から自由に行けない「竹島」は地図に入れてもあまり意味が無いような気もする。先にも述べた通り、この地図は単なる概要地図。これで、保坂祐二は「日本地図に独島(本名・竹島)が描かれていない!」と言い出すのは滑稽です。さらに「だから独島は韓国領土だと日本も認めた!」というような発想をするなら荒唐無稽である。しかも、「日本の公式地図」という位置付けがそもそもおかしい。マピオンは日本の一会社に過ぎない。マピオンの事業内容はWeb広告事業、「地図情報サイト『マピオン』は誰もが簡単かつ快適に利用できる地図サービス」や「各種ASPサービス(インターネットを通じて顧客にビジネス用アプリケーションをレンタルするサービス。)やAPI(簡単にいえば、アプリケーションをプログラムするにあたって、プログラムの手間を省くため、もっと簡潔にプログラムできるように設定されたインターフェースの事。)のご提供」等なわけで、領土問題ではないのです。さらに、上記のマピオンの日本図では「小笠原諸島」や「竹島」や「尖閣諸島」は記載されていない。が、しかし、「保坂祐二」がこの地図で、「独島(竹島)は存在しない。」は大嘘です。  
まず島根県をクリック。島根県の地図に「竹島」ありますよね?では、東京、沖縄、北海道もクリックしてみる。小笠原諸島や尖閣諸島や北方四島も、実はあるのですね。ちなみに「竹島」の東、西島をクリックすると・・・「竹島」が拡大されます。ちなみに、この図の「竹島」の文字は私が入れたわけではなく、元からですよ。と言う事でこの地図においては、「日本の公式地図に「竹島/独島」は存在しない。」は大嘘です。しかも、“日本地図には「鬱陵島」が現れません”、と言っているが「鬱陵島」が記載されないのも当たり前です。マピオンのこの地図は、「日本地図(都道府県別)から地図を検索。」ですから、「鬱陵島」が日本の都道府県ではない。それに公式地図と言うのなら、「海上保安庁の日本の領海等概念図」には・・・「竹島」は描かれている上に、日本のEEZの中に入っていますからね。それと、「国土交通省」の「国土地理院」の地図閲覧サービスにもあります。 
8世紀に作成されて16世紀まで使われたという「行基図」  
それでは、次に8世紀に作成されて、16世紀まで日本の公式地図として使われた行基図を見てみましょう。ところで、韓国は「歴史的に見ても対馬は韓国領土だ!」と捏造主張しているが、日本の公式地図と位置付けているこの日本で一番古い歴史的な地図に「対馬」が描かれている事には気にならないのだろうか?8世紀ついでに、2010年04月16日の朝鮮日報の記事で「新羅の時代から独島は韓国領土。」と韓国ハンナラ党のチョン代表が慶応大で講演したという記事を見たが、4世紀から10世紀までの「新羅」、「新羅の時代から独島は韓国領土。」新羅が倭国(日本)の属国なら鬱陵島から約92kmも離れている「竹島」が韓国領土だったという事はあるのだろうか?無いだろう。 
「新羅は倭の属国」との記述が韓国の古代史研究の第1級資料から見つかる 
「梁職貢図」から新羅・高句麗題起が発見。新しくあらわれた梁職貢図新羅題記。青黛文集から捜し出して、ユン・ヨング博士公開。「新羅は倭の属国」論議予告。(新羅(しらぎ/しんら、356年4世紀〜935年10世紀)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。)(倭(わ、やまと)紀元前から中国各王朝が日本列島を中心とする地域およびその住人を指す際に用いた呼称。)(ソウル=聯合ニュース)キム・テシク記者。韓国古代史研究の第1級資料の中の一つと見なされる梁職貢図から永遠に消えたと見なされた新羅と高句麗に対する簡略な説明の題記が最近発見された。「特に今回発見された新羅に対する題記には新羅が倭の属国という一節があっていわゆる任那日本府説とかみ合わさって論議がおきる展望だ。」  
韓国古代社専攻の仁川(インチョン)都市開発公社ユン・ヨング博士は去る20日西江(ソガン)大茶山館で行われた新羅史学会(フェチャン、キム・チャンギョム)第107回学術発表会を通じて中国で最近発見報告された梁職貢図題起を分析、紹介した。  
ユン博士は今回公開された梁職貢図題記を南京博物館旧蔵本の梁職貢図版本と比較した結果、「新羅と高句麗を含んだ7ヶ国の題起は完全に新しく出現した資料で、合わせて百済と倭国をはじめとして既に知らされた9ヶ国の題起も内容で差が小さくない」と話した。(中略)ユン博士はこの内容中でも新羅が倭国に属したりもしたという言及が新しく現れた大きな課題であり、これをどのように受け入れるかによって歴史学界で論議が広がることがありうると付け加えた。(以下略)聯合ニュース  
 
行基図(ぎょうきず)とは、奈良時代の僧侶・行基が作ったとされる古式の日本地図。ただし、当時に作成されたものは現存しておらず、実際に行基が作ったものかどうかは不明である。ただし、この図が後々まで日本地図の原型として用いられ、江戸時代中期に長久保赤水や伊能忠敬が現われる以前の日本地図は基本的にはこの行基図を元にしていたとされている。このため、こうした日本地図を一括して「行基図」あるいは「行基式日本図」と呼ぶケースがある。  
同じ地図は見付からなかったが、発見出来た「行基図」。江戸時代模写。まだ北海道は表示されていない。これは下図と似ているが同じ物だろうか?行基図『拾芥抄』写本。明暦2年(1656年)村上勘兵衛刊行。これは上2つの地図とはまた違うようだ。いくつも作られているのですね。  
当時に作成されたものは現存していないという事ですので、どれも後の「行基図」の日本地図は基本的には最初の奈良時代の「行基図」を元にしていたのでしたね。では、当然地図もそうですね。では地図で見てみます。  
確かにこの地図には「竹島」らしい島は無い。最初に書いてあったが、「8世紀(8世紀は、西暦701年から西暦800年までの100年間を指す。)に作成されて」とあります。先にも記載した通り奈良時代ですね。いつ竹島を発見したかは定かではないが、幕府は松島(現・竹島)への渡航許可を1656年(17世紀・江戸時代)に出しているので、少なくともそれ以前に竹島(旧・松島)は日本人の経営支配下に入っていたのかもしれないが、8世紀に竹島を知っていたかどうかが疑問です。  
「安龍福密航事件」が1696年だが、当時の朝鮮は鎖国政策の中にあり、違反した者は死刑を科せられたのだが、安龍福は、日本に竹島(旧・松島)の朝鮮領有を認めさせたとの嘘の発言をすることによって、自らの功労をでっち上げて死罪を逃れようとした。実際彼は死罪はならずに流罪を言い渡されるという出来事がありますが、これを根拠に韓国側は、竹島に対する韓国の主権を当時の江戸幕府に認めさせたと主張する。「安龍福は、日本に竹島の朝鮮領有を認めさせたとの嘘の発言をする。」、つまり1696年の17世紀には朝鮮人も竹島(旧・松島)の存在を知っているという事なのですが、1913年に于山島は発見出来ず、謎の島だったと報道されていた。  
韓国の新聞『毎日申報』の1913年(20世紀)6月22日付け記事には、鬱陵島の島民が10数年前に于山島を探索しようとしたことが書かれている。1696年の17世紀には朝鮮人も竹島(旧・松島)の存在を知っている、竹島の編入は1905年02月22日決定。また編入はマスコミによっても知らされた。1913年には、鬱陵島の韓国人が竹島を知っていたのは確実です。韓国の主張『于山島は独島(竹島)の事である。』于山島が現在の竹島なら、探索するまでもなく鬱陵島民は知っていて当然のことであるが、結果于山島は発見出来なかった。彼等が于山島を発見できなかった理由はもちろん、それが単なる竹嶼の忘れ去られた古名に過ぎないからなのです。鬱陵島民の竹島に対する知識は、海禁政策が実施されて20年近く経てもこの程度しかなかった。  
無人島の探検中止 [毎日申報 1913.6.22] / 鬱島郡西面在住の金元俊さんが、鬱島(=鬱陵島)東北40-50里の位置にある無人島の于山島へ移住するために移住民を募集して、その島を探すことにしました。しかし、彼によると鬱陵島の島民が、10数年前にその于山島を共同で探索しようとしたものの、発見できなかったということです。また、その島は海図に記されておらず、何度か探索船を出したものの発見できず、中止したそうです。  
20世紀の韓国人の「竹島」の知識がこれなら、8世紀の人達が「竹島」を知っていたかどうかが疑問、と言うより知らないでしょう。現在の「竹島/独島」を、「1880年(明治13年)代(19世紀)」になっても認知していなかった。  
それに知っているだけで韓国の領土に自動的になるというわけではない。日本人でも8世紀に知っていたかどうか解らない。この8世紀に作成されたという、「行基図」で「独島はありません。」と言っているのは外務省の「竹島は、歴史的事実に照らしても、かつ国際法上も明らかに我が国固有の領土です。」の「歴史的事実」という部分に反論するために、日本の歴史的な古い地図を探したのでしょう。それで「日本で一番古い行基図に独島は無い!日本の言う歴史的事実は虚偽だ!」と主張したいのだろうと思いますが、何が何でも「竹島」が描かれていない古地図を探すために8世紀にまで戻るのはさかのぼり過ぎる。それに、16世紀(16世紀、1501年から1600年までの100年間。)まで使われたという「行基図」。16世紀と言うと室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代にあたる。一枚目と二枚目の「行基図」は同じ物だと思いますが、これは江戸時代に模写した地図。三枚目の行基図は『拾芥抄』(拾芥抄は、中世(日本史で、鎌倉時代(鎌倉時代、1185年頃〜1333年)・室町時代をさす。)日本にて出された類書・百科事典。)写本。1656年17世紀・江戸時代の物。幕府は松島(現・竹島)への渡航許可を1656年(17世紀・江戸時代)に出しているので、その当時は竹島は知られているが、元が8世紀に作成された行基図、この図を後々まで日本地図の原型として用いられているなら「竹島」が無いのは当たり前。1656年の行基図も中世の写しですからね。  
「保坂祐二」は以前も「1837年の日本の地図帳に独島はない」と、地域別に岩礁まで表記された『国郡全図』を公開した事がある。ちなみに、保坂祐二の公開した『国郡全図』は、江戸時代末期の天保8年(1837年)に民間人の河内屋喜兵衛ら6人が制作した『国郡全図』とある。これは、市川東谿の江戸時代、文政11年(1828)序の後刷。  
「国郡全図」 / 「国郡全図」を見てもらえれば解りますが、これは例えば「山城国」(かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、畿内に含まれた。現在の京都府南部にあたる。)とか「尾張国」(日本のかつての地方行政区分である国の一つで、東海道の西部に位置する。現在の愛知県西部に相当する。)とか「陸奥国」(明治以前の日本の地方区分である国の一つである。)とか「隠岐国」(かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、山陰道に位置する。別称は隠州。現在の島根県隠岐郡にあたる。)等々、かつて日本の地方行政区分だった国の拡大図です。「国郡全図」は、「一国」一紙で諸国を表して2冊の図帖にまとめた江戸期の地図帳のことで、特長として、これまでの地図と異なり「一国」を見開きに描き、郡名、郷村、河川、寺社仏閣に至るまで記載している点が挙げられる。要するに「国絵図」と同じです。「国絵図」とは江戸幕府が主要大名に命じて作らせた旧国単位の地図を「国絵図」と言います。  
『隠岐国図』 / 保坂祐二は『日本政府は現在「独島は隠岐島の所管地域」と主張しているが、隠岐島の地図にも独島は描かれていない。』と、この下巻の『隠岐国図』を見せていたのだが、何を言っているのか、相も変わらずです。これは、「隠岐国」の地図です。「独島国」など存在しません。しかも、“日本政府は現在「独島(竹島)は隠岐島の所管地域」”です。「現在」です。「竹島の島根県編入」は「1905年」です。この隠岐国図、国郡全図は「江戸時代」です。隠岐国の拡大図なら、保坂祐二の『隠岐島の地図にも独島は描かれていない。』は当然です。竹島までの距離は、隠岐諸島の北西約157kmです。それに、「隠岐国」の地図ですから、「竹島国」でも、旧名の「松島国」ではありません。「竹島国」もしくは旧名「松島国」なんてありませんから。  
しかし、上巻の画像の『日本国総図』には隠岐の北西方向に竹島と鬱陵島と見られる島があります。  
地図を見ての通り、隠岐の北西のあのポイントには鬱陵島を除けば「竹島」しかないのですよ。「竹島」しかない所に『日本国総図』には「竹島」がありますから、保坂祐二の『独島に関する言及は全くない。』は当然、間違いです。朝鮮半島を描き込むスペースがあるのに描かれていない。でも竹島が描かれているのは、江戸時代は日本国土としての認識が有ったのでは?幕府は松島(現・竹島)への渡航許可を1656年には既に出している。竹島の島根県編入。日本は1905年1月28日の閣議において、江戸時代には松島と呼ばれていた島を正式に竹島と命名し、島根県隠岐島司の所管する旨を決定した。保坂祐二は、『日本が1905年まで独島を領土として認識していなかったことを示す、もう一つの事例。最近の日本政府は、歴史教科書などを通じ、独島が歴史的に固有の領土だったと主張しているが、この地図帳を見るだけでもそれが虚偽であることが分かる。』と語った。でも、編入する前なんだから領土だって認識していなくても不思議ではない。保坂祐二の見せていた『国郡全図』は「1837年」の地図ですが、「1807年」には、江戸幕府は全ての蝦夷地(蝦夷地・明治以前の北海道・千島・樺太の総称。特に北海道のこと。)を直轄地とし、蝦夷地全体が幕府の直接の支配下となっていますが(1821年に幕府は蝦夷地の直轄をやめ、松前藩に戻す。)、国郡全図の日本国総図は北海道は不完全です。でも、それも不思議ではない。元々「国郡全図」は、「一国」一紙で諸国を表した地図帳のことで、これまでの地図と異なり「一国」を見開きに描いたのです。「蝦夷国」(蝦夷地、北海道)は正式な令制国ではなく俗称です。 つまり、この『日本国総図』の地図も支配下の場所を全て描いた完全とまでは言えない上に「竹島(旧・松島)」は漁場でも「国」ではないなら、描かなくても不思議じゃない。ちなみに蝦夷地を北海道と改称したのは1869年です。江戸時代ついでに「竹島」を描いた他の地図を少し。  
1768年(明和5年)に作られた「改製日本扶桑分里図」。  
1760年(宝暦10年)日本図。  
米子市立山陰歴史館が所蔵する「松島絵図」(1656年)の複写(左)と、韓国・国立海洋調査院が刊行した現代の竹島の海図。  
これも鳥取県米子市立山陰歴史館で、村川家所蔵と伝えられる江戸時代の「松島絵図」。  
ついでに、「対馬島」(旧字体は對馬嶋)は『国郡全図』の下巻にあるのだ。この時点では「對馬嶋」、「嶋」となっているが、対馬も「対馬国」と、かつて日本の地方行政区分だった国の一つである。  
話を戻しますが、8世紀に作成されたという、「行基図」、古過ぎるので無意味。それに日本の古地図に「竹島」が無くても「日本地図に竹島無い=韓国領土になる。」というような領土に関する国際法でもあるのか?無いだろう。 
17世紀から作成されたという日本のポルトラーノ地図  
17世紀なら江戸時代ですね。竹島との位置関係を示す目印として○付けたのだろうけど、これも「対馬」に○付けているが、「日本の公式地図」と言うなら、韓国人は自分で対馬は日本と認めているようなもの。「対馬は歴史的に見ても韓国の領土!」などと言われても困る。見付けた他のポルトラーノ型日本図、江戸初期。  
西洋の航海図ポルトラーノ(portolano)の作図法にならって作成されたものである。図上に数カ所の方位盤を設定し、それより放射状の線を引いて航路の方向を確認できるようにしている。日本人は、16世紀から17世紀初期にかけて、東南アジア諸国へ出かけるようになって、西洋人と接触して、航海図を入手して活用するとともに、それをもとにした日本図を作成したのである。方位線が、西洋の32線から東洋古来の12支分割法による24線に改められており、和風作りとなっている。後、もう一つ。  
「ポルトラーノ 朱印船貿易の日本地図」寛文11年頃(1671)原図成立。文化8年、鷹見泉石が書き写した図である。本図のように、方位線を八方に示し内陸部の情報を省き海岸線を強調した表現形式の図を「ポルトラーノ(方位線海図)」という。江戸時代の日本では、とくにこの図法の地図を「加留多(カルタ)」と呼んでいた。ポルトガルやスペイン船が日本に渡航していた16世紀、その航海で実践的に使用された海図です。16世紀に入ると、貿易とキリスト教布教を目的とするポルトガルやスペイン船が日本にやってきました。「海図」、長い航海を無事に乗り切るために、正確な方位・縮尺・緯度を明示する航海のための地図がもたらされたのでした。これらの図を「ポルトラーノ」と呼びます。 日本人の朱印船貿易家たちもこの「ポルトラーノ」を用いるようになり、やがて自分たちでも制作するようになりました。しかし、江戸時代、鎖国によって日本人が海外に行くことが許されなくなると、その図が制作されることもなくなります。ポルトラーノは、その用いられた期間がとても短いものであったのです。これは色が薄くて解り辛いですね。同じ地図は見付かりませんでした。では、地図と和風のを見ます。  
どちらの地図も「竹島」らしい島は無いですね。ついでに「鬱陵島」も無いですね。蝦夷地(北海道)も不完全ですね。竹島を描いた日本の地図は他にいくつかあるのに、わざと描かれていない地図を選んで「公式地図」などと言っていますね。両方とも左上の半島が有り得ない形状していますね。地図は複数のポツポツと存在しない小島がありますね。先の「行基図」よりは上手く出来ていますけど、これに「竹島」が描かれていないからといっても、それが「韓国の領有権」の何等の証拠にはなりません。最後に「結論。日本は長い間、独島を韓国領土として地図に描き、日本の公式地図からは除いて、独島を韓国領土として認めて来ました。」とある。根本的に主張がおかしい。この「ポルトラーノ」地図は元々、長い航海を無事に乗り切るための貿易の海図であり、領土を確定する地図ではない。どうしてこれで「竹島」が無いと「韓国領土として認めた」という発想になるのか?それに「独島を韓国領土として地図に描き」とあるが、自分で「地図に独島は全く現れません。」と言っている。「地図に描き」と言い「地図に無い。」とはどういう事か?「独島を描き」と言うなら描かれているはず。しかし、描かれていない。荒唐無稽です。多分、「竹島」の描かれていない地図だけをわざと選んで、「公式地図」と勝手に位置付け「独島は無い!日本は独島(竹島)を日本領土と認識していない♪」と喜んでいるのだろうけど、「竹島の島根県編入」は「1905年」です。編入以前なのだから例え認識していなくても不思議ではない。もはや保坂の主張はこじ付けでしかないのです。 
「慶長日本図」  
1612年(17世紀)に作成とありますね。「慶長国絵図」・「国絵図」・豊臣政権および江戸幕府の命で、諸大名らにより作成・提出された一国ごとの絵図。「1591年」豊臣秀吉が全国の国絵図と御前帳(検地帳)の作成・提出を命じたのが最初で、これにならって「1604年」(慶長9年)には徳川家康が国絵図「慶長国絵図」・御前帳(検地帳)の作成・提出を命じている。「検地帳」・検地(年貢の徴収と農民支配を目的に、幕藩領主が行った土地の測量調査。)の結果を書き記した土地台帳。  
これは「国立国会図書館」の慶長日本図。刊年・江戸初期(1596年〜1615年)。江戸幕府が最初に提出を命じた「国絵図」が「慶長国絵図」であるが、今は「慶長日本図」の部分としてしか伝わっていない。元の「国絵図」はもっと詳細なものだったと考えられる。斐伊川がすでに東流していることを示していて興味深い。出雲から伯耆・美作を経て上方へいく出雲街道や、石見の山間部を進んでいく中通り街道が重要な道として示されている。  
いつ竹島を発見したかは定かではないが、幕府は松島(現・竹島)への渡航許可を「1656年」(17世紀・江戸時代)に出しているので、少なくともそれ以前に竹島(旧・松島)は日本人の経営支配下に入っていたのかもしれないが、「1612年」とある。上記は最高でも「1615年」です。「44年前」、上記は「41年前」です。その当時に現・竹島への渡航許可が出ていたかどうかも解らない上に、竹島も発見されていたかどうか解らない。見て解る通り、北海道は描かれていません。北海道の歴史に少し触れます。  
 
鎌倉時代(鎌倉時代、1185年頃〜1333年)〜室町時代ごろ。和人(日本人)、函館(北海道南西部の市。)〜江差(北海道檜山郡の地名。)の海岸線付近地域に進出。(17世紀半ばごろまでは、これ以遠の和人の進出はない)  
「1443年」・安東盛季が南部氏に破れ、津軽十三湊を放棄し、蝦夷島に逃げ渡る。この後、多数の豪族が渡来、和人の本格的な蝦夷地(北海道)移住始まる。  
「1514年」・このころ、上ノ国(上ノ国町は、北海道南西部、檜山振興局管内最南端にある町。)の花沢館主蠣崎氏は、他の館主を被官化して勢力を伸ばしていた。1514年、蠣崎氏は松前の大館に移城して蝦夷島における和人勢力の唯一の現地支配者の地位を確保する。  
「1604年」・幕府(徳川家康)、松前藩主に蝦夷地(北海道)での交易の独占権を与える。  
「1624〜28年頃」・松前藩、厚岸(アッケシ・北海道東部、釧路(くしろ)総合振興局管内にある町。)に「場所」を開く。  
 
「1612年」とある。もう一つは「1615年」です。鎌倉時代から日本人は北海道「函館」と「江差」に進出しています。地図が作成された時代には蝦夷こと北海道には既に日本人の支配が及んでいる地域があります。しかし、「慶長日本図」には「蝦夷」は描かれていない。不思議ではない。「蝦夷国」(蝦夷地)は正式な令制国ではなく俗称である。1615年の地図の説明に「元の国絵図はもっと詳細なものだったと考えられる。」とあります。「国絵図」です。「国絵図」とは江戸幕府が主要大名に命じて作らせた旧国単位の地図を「国絵図」といいます。「慶長国絵図」(1604年)、「寛永国絵図」(1633年)、「正保国絵図」(1644年)、「元禄国絵図」(1697年)、「天保国絵図」(1835年)などです。国の例「隠岐国」や「対馬国」や「伊賀国」等々。「竹島国」もしくは旧名「松島国」なんてありませんから。「江戸幕府が最初に提出を命じた国絵図が慶長国絵図であるが、今は「慶長日本図」の部分としてしか伝わっていない。元の国絵図はもっと詳細なものだったと考えられる。」つまり、この地図も日本人の支配地域を完全には描いていない上に「国絵図」なら「竹島」が描かれていないのは不思議ではありません。やはり、これも「独島は現れません。」とこじ付けても韓国の竹島の不法占拠を正当化できるわけではありません。韓国の竹島の領有権の証拠にもなりません。 
「正保日本図」  
「1655年」とありますが、幕府が、「正保御国絵図」を作成したのは、「1644年」(正保元年)です。正保元年、幕府は諸大名に対して地図及び郷村高帳(江戸幕府の命令で諸大名らにより国絵図とともに作成・提出された1国単位に各村の村高を書き上げた帳簿。)の作成を命じた。これも、「国絵図」ですね。  
これにも「竹島」はありません。先にも述べた通り幕府が、「正保御国絵図」を作成したのは、「1644年」(正保元年)です。竹島(旧・松島)への渡航許可は「1656年」ですから、12年前です。「1655年」としたのは、単なる間違いなのか、それとも渡航許可の「1656年」にわざと近付けたのでしょうか?いずれにせよ、いつ竹島を発見したかは定かではない以上、12年前の「1644年」の竹島の状況ははっきり解りません。先にも述べた通り、「国絵図」なら無くても不思議ではありません。これも「独島は現れません。」と言ったところで何等、証拠にはなりません。この地図においても「描かれていないから日本は認識していない。」と言いたいのか「歴史的事実」という部分に反論するために、日本の歴史的な古い地図を探したのでしょうか?竹島を描いた古地図は他にあるのに、こんなのばかりですね。しかも、「編入以前」です。もしも、「国じゃない小島だって描いているのがある!やはり独島は現れていない!」などと言うのなら、幕府が国になっていない小島を絶対に描いてはいけないと、いつ命じたのですか? 
「元禄日本地図」  
「元禄日本図」元禄(1688年から1704年までの期間を指す。)10年(元禄10年の1697年時)、幕府は諸大名に対して再度地図及び郷村高帳(江戸幕府の命令で諸大名らにより国絵図とともに作成・提出された1国単位に各村の村高を書き上げた帳簿。)の作成を命じた。元禄15年、諸藩の国図を元に井上正岑・狩野良信(御用絵師)らによって全国地図も作成された。正保以後の変動については詳細に記述されているものの、地形の正確さにおいては正保日本図より後退している。  
これは見た限りでは同じですね。もはや、お約束で北海道は不完全で対馬はありますな。上記にあるように、元禄、「1688年」・17世紀から「1703年」・18世紀です。「1688年」には松前藩、キイタップ(キイタップ場所は後の霧多布。霧多布湿原は北海道厚岸郡浜中町にある湿原である。)に「場所」を開いています。「1702年」には江戸に基盤を持つ材木商飛騨屋、蝦夷地の蝦夷檜(蝦夷松・エゾマツ)に目を付け進出して、松前藩よりエゾマツ伐採の独占権を獲得している。もうこの時代も日本人が北海道にて活動していますね。上記の地図は北海道が残念な事になっています。現・竹島への渡航許可が「1656年」ですから、もう知られている時代です。鬱陵島は西暦512年以来、韓国の支配下にある。しかし、李氏朝鮮(1392年-1910年)は、鬱陵島への渡航を禁じた。これには大きく分けて二つの理由があり、国内的には税金を逃れて島に渡るものが後を絶たなかったことと、対外的には倭寇による襲来から島民を守る為であった。この無人島政策は1438年から1881年まで続けられた。17世紀初頭、伯耆国(ほうきこく=現・鳥取県)米子の海運業者だった大谷甚吉(おおやじんきち)が、航海中に暴風に遭い、無人島になった鬱陵島に漂着した。彼は、新島の発見と考え、帰国後、同志の村川市兵衛とはかり、「1618年」に江戸幕府(1603年-1868年)から鬱陵島への渡航許可を受ける。鬱陵島はその発見から「竹島」や「磯竹島」と呼ばれるようになった。大谷、村川両家はその後毎年交替で鬱陵島に渡り、アシカ猟やアワビの採取、木材の伐採などを行い、両家の鬱陵島経営は「78年間」続けられた。鬱陵島への渡航許可を受けた「1618年」から数えたとしても、鬱陵島経営は「78年間」続けられたので、「1696年」くらい。(元禄10年(1697年)幕府は諸大名に対して再度地図及び郷村高帳の作成を命じた。「元禄15年」(1702年・元禄15年が1702年なのは元禄14年11月の中頃から元禄15年11月の中頃まで)諸藩の国図を元に井上正岑・狩野良信(御用絵師)らによって「全国地図」も作成された。)当時鬱陵島へ渡るコースは、隠岐島から松島(現・竹島)を中継地にしていた。大谷、村川両家は、この松島(現・竹島)の経営をも手がけていた。松島が航路中の寄港地、漁猟地として利用されアシカ猟を行っていた。つまり、鬱陵島経営が大体「1696年」くらい迄、「全国地図」の作成が「1702年」くらい。 鬱陵島も既に知られている上に竹島も知られていますね。「竹島」も「鬱陵島」も見られない。「全国地図」作成の「1702年」は経営が終わっている頃。現・竹島でのアシカ漁は島根県隠岐の島町の漁師が昭和初期くらいも行っていた。「1688年」には松前藩、キイタップに「場所」を開いている事から、「全国地図」作成の「1702年」はもうこの時代も日本人が北海道にて活動していますが、北海道こと蝦夷地が不完全で描かれなくても不思議ではなかったりする。  
 
根室港は、「北海道根室市」の港湾。キイタップ場所(霧多布場所)の番小屋があった。  
「松前藩」は、渡島国津軽郡(現在の北海道松前郡松前町)に居所を置いた藩である。藩主は江戸時代を通じて松前氏(蠣崎氏/松前氏(かきざきし/まつまえし)は戦国時代に蝦夷地を本拠とした戦国大名。江戸時代に松前氏と改姓した。出身地・安芸国、かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、山陽道に位置する。現在の広島県の西部にあたる。)であった。  
 
この「元禄日本地図」も正確には元禄10年の「元禄国絵図」(1697年)、要するに「国絵図」でさらに地形の正確さにおいては前回の正保日本図より後退している。この地図には「朝鮮」の一部が描かれている。この点で「国絵図なのに日本の国ではない朝鮮の一部が描かれている!やはり独島は現れない!」と言い出しそうですが、幕府は作成を命じてはいますが、幕府が国ではない所を絶対に描いてはいけないと、いつ命じたのですか?先に述べた通り、「竹島」も「鬱陵島」も見られない。そればかりか、「隠岐国」や「対馬国」も解り辛い。さらに、正確さも後退している。「独島は現れない。」は無意味です。最初の辺りに「日本政府が作成した大部分の公式日本地図には鬱陵島と独島が現れません。」とありましたが、「海上保安庁の日本の領海等概念図」では「鬱陵島」は日本のEEZの外ですし、「国土交通省」の「国土地理院」の地図閲覧サービスにも「鬱陵島」は無いでしょう?大谷・村川両家が鬱陵島への渡海許可を幕府から受けて、鬱陵島の経営をしていた時代もありますが、「竹島」は「不法占拠」ですが、「鬱陵島」まで「不法占拠」と言いましたか?しかも、最初に登場した日本地図、「日本地図(都道府県別)から地図を検索 :マピオン」という検索サイトの地図で「鬱陵島」が現れないのは当たり前です。 
「享保日本地図」  
「享保」(1716年から1736年までの期間を指す。)「享保日本図」は「1719年」(享保4年)から「1723年」(享保8年)に完成。(18世紀)8代将軍徳川吉宗が建部賢弘(建部賢弘・1664年〜1739年。江戸時代前期から中期の和算家(日本で独自に発達した数学)。寛文4年6月生まれ。)に命じて作成した。なお、この時には諸大名からの国図の提出は求められなかった。  
この時には「国図」の提出は求められていないので、「国絵図」ではないようですね。蝦夷地こと北海道は気の毒な形状ですね。「1715年」には松前藩主が幕府に提出の上申書の中で、「北海道本島・千島・カムチャツカ・樺太は松前藩領で自分が統治している。」と報告しています。「1731年」には国後島・択捉島(北方四島の2つ)の首長らが松前藩主をたずね献上品を贈っている。ちなみに、この地図が完成した「1723年」の1年後の「1724年」には、「竹島松島之図」が製作されている。松島の2つの主島(西島と東島)が描かれ、その周りに幾つかの岩礁が書かれている。小笠原諸島について少し触れます。  
 
「1670年」紀州(紀伊国はかつて日本の地方行政区分だった令制国の一つで、南海道に位置する。別称は「紀州」。現在の和歌山県と三重県南部の一帯に当たる。)の蜜柑(みかん)船(長右衛門ら7人)が母島に漂着し八丈島経由で伊豆(伊豆国はかつて日本の地方行政区分だった国の一つ)下田に生還、島の存在が下田奉行所経由で幕府に報告された。現在ではこの報告例が最初の発見報告と考えられている。  
「1675年」江戸幕府が漂流民の報告を元に調査船富国寿丸を派遣し島々の調査を行い「此島大日本之内也」と書かれた石碑を設置する。これは立派な日本の領有宣言なのです。当時は無人島(ブニンジマ)と呼ばれた。調査結果は将軍はじめ幕府上層部に披露された。  
「長右衛門」は江戸時代の確実な記録に残っている中では最初に小笠原諸島に上陸した日本人の一人である。  
 
「享保日本図」は「1719年」(享保4年)から「1723年」(享保8年)に完成。既に述べた通り、「1688年」には松前藩、キイタップ(キイタップ場所は後の霧多布。霧多布湿原は北海道厚岸郡浜中町にある湿原である。)に「場所」を開いています。「1702年」には江戸に基盤を持つ材木商飛騨屋、蝦夷地の蝦夷檜(蝦夷松・エゾマツ)に目を付け進出して、松前藩よりエゾマツ伐採の独占権を獲得している。もうこの時代も日本人が北海道を支配していますね。「1715年」には松前藩主が幕府に「北海道本島は松前藩領で自分が統治している。」と報告している。「1731年」には国後島・択捉島の首長らが松前藩主をたずね献上品を贈っている事から、地図完成の「1723年」はまだ統治している。「1675年」には小笠原諸島に石碑を設置している。地図完成の「1723年」には幕府は北海道も小笠原諸島も既に認識している。地図を見ての通り、北海道はもはや言うまでもなく、小笠原諸島も無い。これも支配地域を完全には描いていない。これにおいても、決め台詞の「独島は現れません。」は無意味です。韓国の「竹島」の領有権の証拠にもなりません。これも日本側の「歴史的に・・・」と言う主張に反論したいのでしょう。しかし、「竹島」も「鬱陵島」も無くても不思議では無い地図。何故に保坂祐二は地図に固執するのか?この時代にどれだけ知られていたかまでは知りませんが、そもそも日本に島はいくつあるのか知っていて言っているのでしょうか?  
「6,852島」です。全て描けるはずがない。竹島が無い地図をわざと選んで「独島は無い!」と言ったところで、何等の証拠にもなりません。 
「大日本沿海輿地全図」  
この「1821年」の「大日本沿海輿地全図」と言えば、この地図は違います。「伊能忠敬原図」の「高橋景保」編です。文政10年「1827年」頃。「伊能忠敬が作成した日本地図の写し」。幕府に提出された伊能図は、江戸城紅葉山文庫に秘蔵され、一般の目に触れる事はなかった。あまりに詳細な地図のため、国防上の問題から幕府が流布を禁じたためである。これは蝦夷図、東日本図、西日本図の3図から成る。「高橋景保」が部下に作成を命じ、長崎オランダ商館付の医師である「シーボルト」に渡したもの。細密に描かれ、大部分の地名は読みやすいようにカタカナで記されている。景保が国禁の地図をシーボルトに渡したのは、ロシア提督クルーゼンシュテルンの『世界周航記』等をシーボルトから得るためだった。19世紀初頭から、日本の沿岸をロシア、イギリス等の船が侵犯する事件が続いており、最新の世界事情を知ることは国益に資すると考えての行為だったが、判決は死罪という厳しいものだった。本図には、幕府による押収後、昌平坂学問所で所持していたことを示す「昌平坂」「編脩地志備用典籍」の印記がある。「大日本沿海輿地全図」とは、江戸時代後期の測量家「伊能忠敬」が中心となって作製された日本全土の実測地図。「伊能図」とも称される。この地図だと思います。伊能は「1818年」に完成を待たずに死去する。地図は伊能忠敬が73歳(1818年)没した後の3年後(1821年)に、彼の弟子達によって「大日本沿海輿地全図」として完成しました。  
「1821年」、「大日本沿海輿地全図」伊能忠敬が没した後の3年後、弟子達によって完成。ちなみに、「1821年」は幕府は蝦夷地の直轄をやめ、蝦夷地の大半を松前藩に戻した頃です。この地図は今までと違い、北海道は残念な事になっていませんね。もう少し細かく言うと、伊能忠敬の亡き後その偉業を引き継いだ、久保木清淵や暦局の吏員(吏員・りいん・公共団体の職員)・門弟が協力して、大日本沿海実測全図(225枚)と大日本沿海実測録(14巻)を完成させ、文政4年(1821年)7月に幕府に上呈しました。利用上の便宜のため3種類の縮尺の地図が作製された。「大図」(縮尺1/36,000、全214枚)、「中図」(縮尺1/216,000、全8枚)、「小図」(縮尺1/432,000、全3枚)。  
 
「大日本沿海輿地全図」 作製の経緯。上総国出身で商人だった伊能忠敬は隠居後に学問を本格的に開始し、江戸で幕府天文方の高橋至時に師事し、測量・天体観測などについて修めていた。当時、地球の緯度1度に相当する子午線弧長について、30里、32里あるいは25里などと諸説があったなか、高橋・伊能師弟はこれを正確に測定するという目標を有していた。そこで高橋は幕府に伊能を推薦し、当時ロシア南下の脅威に備えて海岸線防備を増強する必要があった蝦夷地(北海道)の測量を兼ねて、その往復の北関東・東北地方を測量することで子午線1度の測定を行わせるよう願い出た。こうして幕府の許可を得た伊能は寛政12年(1800年)、私財を投じて第1次測量として蝦夷地および東北・北関東の測量を開始した。各地の測量には幕府の許可を要したが、幕府も西洋列強の艦船が頻繁に日本近海に現れるようになったため国防上、全国沿岸地図の必要を痛感しており、伊能の事業を有益だと判断したため、測量許可のみならず、全国各藩にも協力させた。  
忠敬は3年間をかけて東日本の測量を終え江戸に戻ると、さっそく本来の目的であった地球の大きさの計算に取り組んだ。  
伊能忠敬の本当の目的は地図製作のための測量ではありませんでした。地図製作というのは、地球の緯度1度分の長さを正確に測るという真の目的を果たすための、幕府の対する方便であったのです。以後、忠敬は五回17年間にわたりほぼ全国の測量を成し終えます。伊能忠敬は日本全土約4万kmを歩いて実測した。  
 
という事は伊能忠敬の本当の目的は「地球の計算」なら、「公式日本地図には鬱陵島と独島が現れません。」と言っていますが、「本当の目的が地球の計算、測る」という事ですから「鬱陵島」や「竹島」まで念頭にあったとは思えない。外国の艦隊がやって来ても、幕府には国防に欠かせぬ正確な地図が無かったので、幕府は「蝦夷地、東日本全体を測量しても良い。」という許可を与えたのだった。東日本の地図を披露した際に、そのあまりの精密さに、立ち会わせた幕閣は忠敬には「続けて九州、四国を含めた西日本の地図を作成せよ。」と幕命が下る。  
完成させた弟子達は地球の事まで念頭に入れていたかは知りませんが、この「大日本沿海輿地全図」にも「対馬」は描かれている。対馬も「対馬国」と、かつて日本の地方行政区分だった国の一つだし、対馬は地政学的にはチョークポイント (地政学上、シーパワーを制するに当たり、戦略的に重要となる海上水路である。)にあたるところから古代より国防上重視されているようだ。「幕府も国防上、全国沿岸地図の必要を痛感しており」なので、「鬱陵島」や「竹島」まで描く重要性があったのだろうか?「当時ロシア南下の脅威に備えて」とあるように、「1821年」になる頃には「ロシア皇帝アレキサンドル一世、勅令により、アメリカ西海岸からロシア領の北の島々近海での、外国人の捕鯨や漁業を禁止。」禁止区域に、得撫島以北の千島諸島が含まれていた。この頃、ロシアでは得撫島(択捉島の上・択捉は北方領土の一つ)以北がロシア領であるとの認識が確立しつつあった事が解る。北からロシアが近付いて来ている。「鬱陵島」の無人島政策は「1881年」まで続けられたという事なので「1821年」はまだ続いている。「1618年」に江戸幕府から「鬱陵島」への渡航許可を受けて、大谷、村川両家はその後毎年交替で「鬱陵島」に渡り、アシカ猟やアワビの採取、木材の伐採などを行い、両家の「鬱陵島」の経営は78年間(1696年頃まで)続けられた。当時「鬱陵島」へ渡るコースは、隠岐島から松島(現・竹島)を中継地にしていた。大谷、村川両家は、この松島の経営をも手がけていた。松島が航路中の「寄港地」、「漁猟地」として利用されアシカ猟を行っていた記録も残っている事等から「猟場」ではあるものの、地図の趣旨を考えた場合、やはり「鬱陵島」や「竹島」まで描く重要性はあまり無いのではなかろうか?それに既に述べた通り最後に「結論。日本は長い間、独島を韓国領土として地図に描き、日本の公式地図からは除いて、独島を韓国領土として認めて来ました。」とある。この地図にも決め台詞の「独島は現れません。」を言っている。「日本は独島を地図に描き」と言い放ち「独島は現れません。」の決め台詞は何なんだか?やはりこれにも無理があるだろう。  
「最上徳内」の『蝦夷風俗人情之沙汰付図』(1790年)  
「最上徳内」は、日本で最初に択捉島を探検した。この時、ロシア人、イジョヨ・ゾフに出会い、「択捉島」や、「得撫島」より北の知識を得ている。登場しないけど、「蝦夷風俗人情之沙汰付図」はこの地図は、徳内自身の調査と、アイヌやロシア人から聞いた知識によって描かれたものと思われる。「大日本沿海輿地全図」に比べれば正確さは劣るけどこの地図には、描かれていたりする。 
「大日本輿地全図略」  
これも登場しない地図。「1853年」・嘉永6年。  
ブログの内容からすると韓国人の方のブログだと思いますが、この地図でこうコメントしていました。  
「鬱陵島を「竹シマ」と表記してその下に「独島」を表記した。やっぱり、「鬱陵島」と「独島」を韓国半島のような彩色にして、「韓国領土」なのを確かにしている。」  
竹島はむかし松島と呼ばれ、鬱陵島は竹島と呼ばれていた。上記の地図には鬱陵島と見られる島に「竹シマ」とある。その下に小島があるが、「独島」を現在の問題となっている「竹島/独島」と言うのであれば、どう考えたらあの「竹シマ(鬱陵島)」の下の島が現・竹島と思えるのだろうか?位置こそズレているものの、鬱陵島に隣接する小島を考えれば「竹嶼(チュクド)」であると思うんだ。あれを現在の竹島と言うには位置がおかしいだろう。  
位置で言うなら大体、あの辺りでしょう。しかも何処に「松島」と書かれているのか? “「独島」を韓国半島のような彩色にして” 「竹嶼」であるなら鬱陵島と同色なのは不思議では無いのだけど、地図を見ての通り、朝鮮と鬱陵島は黄色く色付けされているが、日本の大部分も黄色く色付けされている。 “彩色にして「韓国領土」なのを確かにしている。” それを言ったら「對馬(対馬)」は九州と同じく緑色で色付けされている。韓国は「対馬は歴史的に見ても韓国領土!」と対馬に訪れる韓国人観光客も「対馬は韓国のもの!」と捏造主張しているが、それは気にしていない様だ。地図には、「出雲(出雲国は、かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、山陰道に位置する。現在の島根県東部にあたる。)」や「對馬(対馬(旧字体は對馬)は、日本の九州の北方、玄界灘にある長崎県に属する島である。)」とか「加賀(加賀国は、かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、現在の石川県南部にあたる。)」等々、国名が記載されているが、これも国絵図と同じ類の地図なのでしょうか?これで “「韓国領土」なのを確かにしている。” と言うのは見当違いです。元の上記の地図でも上部が途切れているように、この地図には上部にも地図が付いている。  
「萬国地球全図、大日本輿地図略」(1853年・嘉永6年)というようだ。見て解る通り日本や朝鮮の領土を確かにするような地図ではないでしょう。 
「大日本全図」  
この地図は陸軍参謀局の「木村信卿」が表した「大日本全図」(1877年)  
「木村信卿」 日本で最初の陸軍図式「路上図式」を作成。幼名、長信。通称、大三郎。号、柳外。現、仙台市青葉区柳町通の武士出身。8歳で藩校養賢堂に師事。その後、仙台藩に出仕し洋兵学などを学び、安政4年(1857年)に江戸へ出て洋兵学、蘭学、仏学などを学び、慶応2年(1866年)には横浜でフランス公使館書記官に会話・翻訳を学んだ。明治のはじめ横浜太田町で高橋是清と同居。漢学を安積艮斎(あさかごんさい)に、蘭学を大村益次郎・戸塚静海に、フランス語を村上英俊・入江文郎に学ぶ。仏国公使館書記官。兵部省出仕。明治5年(1872年)陸軍省7等出仕。明治6年(1873年)少佐、編纂課長兼地図課長となり、兵語辞書編纂。築造書翻訳。明治8年(1875年)陸軍参謀局第5課地誌課長。明治10年(1877年)渋江信夫と共に「陸軍参謀局」から発行された百十六万分一「大日本全圖」を完成。しかし、明治11年(1878年)地図密売疑惑事件が起き職を解かれる。明治14年(1881年)1月非職であった木村信卿と参謀本部職員地図課職員渋江信夫、木下孟寛、他二名は、日本全図を清国公使館に密売した容疑で拘引される。また、同年5月3日の参謀局で西洋画の指導をしていた川上冬涯が熱海で謎の死をとげ、更に、拘留中の渋江信夫が自殺する。信卿は、晩年を石巻で過ごした。  
これは登場しないけど、これも「大日本全図」 「1877年」・明治10年2月16日 大崎正 石川県士族(作者名)  
まず「陸軍参謀局」の「木村信卿」が作成した「大日本全図」(1877年)ですが、日本の「陸軍参謀局」は「1875年」に「亜細亜東部輿地図」を作製したのですが、「1875年」には「サンクトペテルブルグ条約(いわゆる、千島・樺太交換条約)」により、日露国境確定。これまで「得撫島以北の千島は露西亜領、樺太は日露国境未確定」となっていたものを、「樺太の全権利をロシアに渡す代わりに、得撫島以北の千島も日本領とした。」千島・樺太交換条約の正文はフランス語です。日本語訳文とフランス語正文との齟齬は「日露和親条約(1855年2月)」において得撫島より南、択捉以南のいわゆる北方四島はすでに日本領として確定していたため、千島・樺太交換条約においてこの誤訳が問題となる事はなかったそうだ。  
「1875年」(明治8年)5月「千島・樺太交換条約」を締結しました。  
「陸軍参謀局」が「1875年」に作製した「亜細亜東部輿地図」。(←大サイズ)この図には「千島」どころか、「北方四島」も「北海道」もこの有り様(下左)。この図には昔、「竹島(もしくは磯竹島)」と呼ばれていた島が「松島」という島名で書かれ、この「松島(鬱陵島)」と朝鮮半島の間に存在しない島が「竹島」という島名で書かれている。その一方、「鬱陵島」と隠岐の間にあるはずの「現・竹島」は描かれていないのが解る。  
上記の「竹島」と「松島」を見てみましょう。上記で述べた通り、この「竹島」は存在しません。下図を見ての通りこの「松島」は「鬱陵島(旧・竹島)」ですね。「陸軍参謀局」のこの地図は明らかな認識の間違い地図ですね。これは1875年時。  
「陸軍参謀局」は同年11月、朝鮮八道全図、大清一統輿図、及び英米が刊行した測量海図などを基に「朝鮮全図」を作成して、後年、農商務省図書館にも所蔵された。この図の「竹島・松島拡大図」を見てみましょう。  
見ての通りです。「陸軍参謀局」が「1875年」に作製した地図です。では、「陸軍参謀局」の「木村信卿」が作製した「1877年」の「大日本全図」。  
この地図では北海道や千島は描かれるようになった。しかし「竹島」も「鬱陵島」は見当たらない。先の地図は「1875年」で間違い図ではあるものの、「松島」と記載されてしまった「鬱陵島」だがそっくりに描かれている。そして存在しない「竹島」。「1877年」の太政官の内務省の通達「竹島外一島」の件。この当時は「鬱陵島」が「竹島」、「松島」と一島二名の混乱があり、「松島」は「鬱陵島」を指す記述、「2つの鬱陵島」が記述されている等がある。後の「1880年」に日本政府は、混乱した鬱陵島の周辺を調査し確認し、当時誤って「松島」と称せられていたのが、古来の鬱陵島であることが確認された結果、その後の刊行にかかる海図では、「鬱陵島」に該当する島を「松島」、今日の「竹島」に該当する島を「リアンコールト岩」と称した。この「1877年」の「大日本全図」の時以前から正確に認識されていなかったのです。混乱したのには原因があるからです。「竹島」「鬱陵島」は描かれてはいないが、だからと言って最後にあるような「結論。日本は長い間、独島を韓国領土として地図に描き、日本の公式地図からは除いて、独島を韓国領土として認めて来ました。」という事にはならない。既に述べた通り、日本の島数は「6,852島」です。全て描けるはずがない。認識に混乱がある「1877年」に「陸軍参謀局」が制作した「大日本全図」を持ち出して来るのも、現在の竹島が描かれていない事から、韓国は「1905年以前にも日本が竹島を領有していたとする日本政府の主張は虚偽である。」と言いたいのでしょう。でも、幕府は松島(現・竹島)への渡航許可を「1656年」に出しているので、少なくともそれ以前に竹島(旧・松島)は日本人の経営支配下に入っていたことを意味する。つまり、韓国は竹島に対して実効支配をしていないのである。最初に現・竹島を実効支配したのは日本です。そもそも竹島が韓国領であった事を証明するものは何もない。「1905年」に編入され日本領となった竹島が、1905年以前に制作された日本地図に存在しないのは当然でもある。でも実際は「江戸時代」の「国郡全図」の「日本国総図」や「江戸時代」の「松島絵図」や「最上徳内」の『蝦夷風俗人情之沙汰付図』(1790年・寛政2年)など他にも描かれている古地図はあったりする。この「大日本全図」のように描いていない地図をどんなに収集しても、「竹島」が「韓国領であった証拠にはならない」。竹島を韓国領とする実証ができない韓国が、「日本政府の主張は虚偽である。」と言うのは、「竹島の不法占拠」を正当化するための宣伝工作でしかないのです。もう一つのカラフルな「大日本全図」 「1877年」・明治10年2月16日 大崎正 石川県士族(士族・明治維新後、もと武士階級に属した者に与えられた族称。華族の下、平民の上に置かれた。第二次大戦後に廃止)(作者名)。この「大崎正」という作者は詳細が見付からないので解りませんが、あの「大日本全図」に「竹島」が描かれていなくても同様の事が言える。あれで日本が「韓国領土として認めた。」という意味は無いのです。くどい様ですが、「陸軍参謀局」の「木村信卿」が作製した「大日本全図」においてもやはり決め台詞の「独島はありません。」と言う。しかし、最後に「日本は独島を韓国領土として地図に描き」と言う。「地図に独島はありません。独島を地図に描いている。」なんのこっちゃ・・・。「1877年」に文部省が発刊した「日本全図」には現在の竹島はなく、「アルゴノート島(竹島)」と「ダージュレー島(松島)」があるのみです。  
上記の2島を拡大しますと、見ての通りこの「松島」は「鬱陵島(旧・竹島)」ですね。「陸軍参謀局」の地図と同じですね。「陸軍参謀局」の図も「アルゴノート島(竹島)」と「ダージュレー島(松島)」なのです。では、「アルゴノート島」「ダージュレー島」という島について。 
「ダージュレー島とアルゴノート島」  
「1787年」、フランスの航海家ラ・ペルーズが「鬱陵島」を発見して、これを「ダージュレー(Dagelet)島」と命名しました。「1789年」には、イギリスの探検家コルネットも「鬱陵島」を発見しましたが、彼はこの島を「アルゴノート(Argonaut)島」と名付けました。アルゴノートは彼が乗っていた船の名前です。このダージュレー島とアルゴノート島はそれぞれ違う緯度と経度だった為に、後の欧米の地図では2つの「鬱陵島」が描かれる事になるのです。ジョン・トムソンという人が「1815年」に作製した「朝鮮と日本」の図にも、「2つの鬱陵島(ダージュレー・Dageletとアルゴノート・Argonaut)」が載っている。欧州の探検家や地理学者は、完全に日本海周辺の島を間違って認識していることがうかがえる。  
「John Thomson 「朝鮮及び日本図」(1815年)」  
2つの鬱陵島(DageletとArgonaut)が載っている。  
「J・C・ウォーカー「日本図」(1835年)」  
「1840年」、長崎出島の医師シーボルトは「日本図」を作成しました。シーボルトは江戸時代の最も有名なヨーロッパ人であるが、彼が日本地図を作製するときに、隠岐島と朝鮮半島の間には西から「竹島」(現在の鬱陵島)、「松島」(現在の竹島)という2つの島があることを日本の諸文献や地図により知っていました。その一方、ヨーロッパの地図には、西から「アルゴノート島」「ダジュレー島」という2つの名称が並んでいることも知っていました。このため、彼の地図では「アルゴノート島」が「タカシマ」、「ダジュレー島」が「マツシマ」と記載されることになりました。これにより、それまで一貫して「竹島」又は「磯竹島」と呼ばれてきた「鬱陵島」が、「松島」とも呼ばれる混乱を招くこととなりました。  
「フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト 「日本図」(1840年)」  
という事です。地図に載っていないだけで「独島は無い!韓国領土として認めた!」とか、現在の「竹島」はむかし「松島」と呼ばれていたからと「鬱陵島」に「松島」と記載されている地図を見て、「独島に松島と書いてある!」とそれだけで判断するのは短絡的なのです。 
「新選 朝鮮国全図」  
「新選 朝鮮国全図」この「松島」も「鬱陵島(旧・竹島)」ダージュレー島ですね。朝鮮半島の間にある「竹島」も幻のアルゴノート島でしょう。  
この地図の白い日本の部分の「對馬(対馬)」と「沖島」と「小倉」の所と幻の「竹島(アルゴノート)」と「松島(ダージュレー)」と記載された「鬱陵島」にも、先のシーボルト図の座標からマーカーを付ける。ダージュレー島は現在の「鬱陵島」と殆ど同じなんですね。そして現在の「日本領の竹島」です。  
「対馬、沖ノ島、小倉」をポイントにラインを引く。と、こんな感じです。小倉は「ダージュレー島」や「現・鬱陵島」と殆ど一直線ですね。「新選 朝鮮国全図」と「陸軍参謀局」が「1875年」に作製した「亜細亜東部輿地図」と「1877年」に文部省が発刊した「日本全図」にも同じポイントからラインを引いてみる。  
先で紹介した通り、「1875年」の「陸軍参謀局」のこの地図は「松島」は「鬱陵島(旧・竹島)」です。「1877年」に文部省が発刊した「日本全図」にも現在の竹島はなく、「アルゴノート島(竹島)」と「ダージュレー島(松島)」です。昔の地図なので多少の位置のズレは解りますが、位置関係を見れば「新選 朝鮮国全図」の「松島」「竹島」も「アルゴノート島・ダージュレー島」でしょう。現・竹島は「東経131度」です。アルゴノート島は「東経129度」です。鬱陵島は「東経130度」です。ダージュレー島も「東経130度」です。ついでにポイントの「小倉」も「東経130度」です。言っている「現・鬱陵島」「現・竹島/独島」ではないでしょう。「独島が韓半島と同じ色で韓国領土として描かれました。」と言っているけど、それを言うなら・・・ 
唐土歴代州郡沿革地図 
中国の地名を時代ごとに綴った地図帖。寛政元(1789)年に長久保赤水が刊行したこの地図帖は、はじめて歴史地図帖という形式がとられたことと鮮やかな彩色で人気を集めた。その模倣版のひとつで1835(天保6)年に刊行されたもの。「松シマ」「竹シマ」を「ヲキ」や日本と同じ赤褐色に彩っている。「同じ色で韓国領土」なら「同じ色で日本領土」になってしまいますよ?ちなみに、もちろん出てきませんけど、  
「朝鮮常識問答」(1946年初版)  
鬱陵島を極東とする大韓帝国以来のこの「領土認識」は、「日本の統治時代が終わった後も」変わりが無かった。「崔南善(チェ・ナムソン)」の「1947年」刊行の「朝鮮常識問答」、要するに「朝鮮の常識Q&A」ですね。  
赤文字の訳「朝鮮의 지도상에 있는 위치는 어떠합니까(朝鮮の地図上に於いて位置はどの様なのか)」「반도만으로는(半島だけでは)」「동경130도41분22초 로부터 124도18분35초 까지(東経130度41分22秒から124度18分35秒まで)」「북위 34도 17분 16초 로부터 43도 0분 36초 까지요(北緯34度17分16秒から43度0分36秒まで)」「도서를 넣으면(島嶼を加えれば)」「동경130도 56분 23초 로부터 124도 11분(東経130度56分23秒から124度11分)」とある。「朝鮮常識問答」の和訳版もあるようです。「島嶼を入るれば、東経130度56分23秒から124度11分00秒まで」「北緯33度06分40秒から43度0分36秒まで」  
島嶼を加えた場合の「130度56分23秒」は、見ての通り島嶼を入れても韓国の東側は「鬱陵島・竹嶼(チュクド)」までで、「現・竹島」を入れていませんね。先に述べた通り「日本の統治時代が終わった後。」です。8月15日。韓国では、1945年8月15日の日本の統治時代からの解放を記念し、また、1948年8月15日の大韓民国政府の樹立を祝う日である。光を取り戻した日、また失った国権を回復したという意味で「光復節 (クァンボッチョル)」と呼んでいる。韓国にとっては独立記念日になる。  
「朝鮮常識(1948年)」  
「島嶼를 넣어서(島嶼を入れて)」「極東 東経130度56分23秒(慶尚北道 鬱陵島 竹島)」とある。この「竹島」とは日本領の竹島の事ではなく、鬱陵島の隣接島の「竹嶼(チュクド)」の事です。韓国での通称は「竹島(チュクド)」。日本の「竹島」と同じ名称になるため混同され易いが、別の島である。要するに「朝鮮の最も東は竹嶼」という事ですね。  
「東経130度56分23秒(慶尚北道 鬱陵島 竹島)」上図のように「竹嶼(チュクド)」の東経は「130度」です。下図の「竹島」の東の所にマーカーを置いてみる。「竹島」の東経は「131度」です。「竹嶼(チュクド)」の東経は「130度」で、「竹島」は「131度」ですから「慶尚北道 鬱陵島 竹島」が現在の日本領土「竹島」の事ではないと解ります。「鬱陵島」から「竹島」までは、約92kmくらい離れていますので、「1度」違うだけで100km近くの違いが出ます。  
1899年『大韓地誌』 (大韓帝国の最初の地理の教科書)  
韓国は「日本海」ではなく「東海」とか「朝鮮海」と主張する。「日本海」の名前は日本が命名したわけではない。日本列島がなければ、この閉鎖性海域はそのまま太平洋ということになる。韓国は以前から特定の国の名前をつけるのはふさわしくないと主張しているが、「東シナ海」や「メキシコ湾」、「インド洋」の例があるでしょう。しかも、韓国は「対馬」は歴史的に韓国領土と主張するが、「日本對馬島」とある。今は「対馬」(旧字体は對馬)日本の九州の北方、玄界灘にある長崎県に属する島です。 
「結論・日本は長い間、独島を韓国領土として地図に描き、日本の公式地図からは除いて、独島を韓国領土として認めて来ました。」  
散々、日本の公式地図に「独島はありません。」と言いながら、最後に「日本は独島を地図に描き。」と言い出す。しかも、「新選朝鮮国全図」においては「日本が作成した「新選朝鮮国全図」には、独島が描かれました。」と持ち出す。相も変わらずデタラメですよ。「公式地図」と言うのなら、最初に登場した日本地図の日本地図(都道府県別)から地図を検索 :マピオン という検索サイトの地図を持ち出すのはおかしい。マピオンの地図は現代の一企業のサイトです。現代の地図を「公式地図」と持ち出すのなら、しっかりと「竹島」が掲載されている、「国土交通省」の「国土地理院」の地図閲覧サービスに「公式地図」とは言わないで、マピオンの地図を持ち出す。私がGoogleの画像検索で「日本地図」と検索したら一回目で上部に出ました。簡単に見付かる地図です。この「独島紹介サイト「独島の真実」、日本語版開設」という記事を見た時、「保坂教授が長期にわたる研究結果に基づき資料の整理と監修を行った。」とあるが、保坂祐二の長年の自由研究の成果が辿り着いた所が「マピオン」のサイトなのですか?保坂祐二は韓国に帰化した日系韓国人であるが元々、日本人だし日本語でサイトを開設している事からまだ日本語が解ると言える。マピオンのサイトに行ったのならどんなサイトかは解るはずです。既に述べた通り「竹島」があるか知りたければ、島根県をクリックすれば島根県の地図に「竹島」がある事は知り得るはずです。それで「独島(竹島)は存在しない。」と言う。それを言うならこちらも同様の事が言える。所在地が「ソウル特別市 麻浦区」にある、韓国の韓国旅行サイト「株式会社コネスト」というサイト。ここの「韓国地図」をクリック。こんな地図が出る。  
「韓国全体地図」をクリック。「韓国の「公式地図」の全体地図」に鬱陵島迄で「竹島」が無い!何て事は言わないように。鬱陵島の「エリア詳細地図を見る」をクリックする。拡大する。気の毒な「日本領・竹島」。しかし赤マルの部分。「竹島」「独島(독도)」  
まぁ、日本語版のサイトなので日本人への配慮でしょう。でもマピオンと同じです。この地図を持ち出して日本人が「韓国は竹島を日本領土だと認めている。」と言い出したら保坂祐二や韓国人は納得しますか?しないでしょう。どうして「日本の公式地図からは除いて、独島を韓国領土として認めて来ました。」という不思議な解釈に至るのかワケわからん。しかも、地図には「正保日本図」は拡大されていて「対馬」は見えませんが、「対馬」と記載して○を付けている。マピオンの地図まで何を持って「公式」と結論付けたのか今一つ不思議ですが、保坂祐二やこの彼の自由研究の「正しい物」として認めている韓国人にとっては「日本の公式地図」なのですね。「日本の土地の図」に「対馬」が描かれて○印も付けている。なら、「対馬」は「公式に日本の土地」と認めている事と同じです。韓国が制定した「対馬の日」などというものもある上に、「対馬」に訪れる韓国人の観光客も「対馬は韓国のものだ!」などと言っていますが、「大嘘でした。」と自爆していますね。日本人からして見れば、最初から捏造なのは解っていました。  
保坂祐二や韓国人は「独島」のみの一点に全力で集中して、「日本の地図に独島が無い!」とその他の状況は瞬殺で「日本は韓国領土として認めている!」と判断するとおかしくなる。  
登場する、「マピオン」「行基図」「ポルトラーノ」「慶長日本図」「正保日本図」「元禄日本地図」「享保日本地図」「大日本沿海輿地全図」「大日本全図」「新選 朝鮮国全図」は全部、日本側の地図です。韓国に「現・竹島」を描いた古地図は存在しないのですね。捏造地図は駄目ですよ?韓国は古地図の「于山島」は「独島」つまり、現・竹島の事だと主張していますが、それは残りで出てきますのでその際の検証で触れましょう。 
「1905年、日本の独島編入は無効。」  
鬱陵島が問題となるのは1881年5月22日、江原道監詞が鬱陵島捜討官(朝鮮は1696年以後、3年に一度巡察使を、当時無人島であった鬱陵島に派遣)からの報告を受け、日本人7名が鬱陵島で木材を伐採していると、報告した事から始まっている。この時朝鮮は日本の外務省に抗議し、併せて副護軍の李奎遠を鬱陵島検察使に任命して鬱陵島に派遣する事になった。  
李奎遠が鬱陵島を探索した時の調査報告の内容を概観しておきましょう。彼ら一行は、鬱陵島の最高峰聖人峰(984m)に登り、四方を見回しましたが、現「竹島/独島」を発見しておりません。そのことを検討し、更に、その時に描かれた「鬱陵島外図」を紹介しておきます。また、「竹嶼」の横にある「観音島」を「島項」と呼称していることに、留意しておきたいです。(「観音島」には「島項」という名前が・・・、とある。)  
朝鮮政府では、1882年の時点で鬱陵島の調査を行っている。ここで、高宗は李奎遠に鬱陵とともに于山島も調査をするように指示をした。副護軍・李奎遠は鬱陵島検察使に任命されて、1882年4月10日鬱陵島に向かった。その時の彼の書いた記録、「鬱陵島検察使日記」、「鬱陵島内図」、「鬱陵島外図」が残っていて、当時のことが解る。  
「鬱陵島検察日記」によると、4月30日から5月11日の間に、百名ほどで鬱陵島の調査をしていて、最初は内陸部を調査し、後は船で鬱陵島を一周して帰ってくる。5月4日に鬱陵島の最高峰聖人峰(984m)に登り、「四望し、海中の先に一点の島嶼の見形無し」と記している。調査隊は、「竹島(竹嶼)」や「島項(観音島)」以外に「周りに島がない」ことを報告しています。鬱陵島の最高峰である聖人峰(984m)の頂上に立ち、それでも四方を望見した結果、そこからは島影らしきものは何も発見できなかった。これは、「1880年(明治13年・19世紀)代の朝鮮の人々には、「現在の竹島」がその視野の中に入っていなかった事実を証明するものである。  
「鬱陵島検察使日記」5月4日  
李奎遠의 ꡔ鬱陵島檢察日記・全文(7, 계속)  
初四日 己丑 晴. 晨朝 山祭祈祷. 朝飯後 離發之路 人云 此洞有大小澤 故向往則 所謂大澤者 在於洞内乾方 而長不過百歩 廣不過五十歩 池中則永無恒儲之水 而旱乾霖儲 只不過平原陷 洿之地也 所謂小澤者 在於洞内坤申方 而長廣爲二三十歩 而水之乾儲 與大澤相洞焉. 脹辛穿林 攀登于東便上上峰 峰名聖人 不知幾萬層幾萬丈也 登第一層 四望 海中都無一點島嶼之見形矣 絶頂臨日 高峰半向天之詩句 正以此謂也. 周察洞内之形便 則石葬古痕 間間有之 而其西南諸峰 林壑尤美 望之蔚然 而深秀者 有若環滁皆山 而其中間平濶開野 果是天藏別世界也 暫憩峰巓 向東行十里許 有一草幕 主人乃咸陽居士人 全瑞日 詩號採隱者也. 仍爲中火 菜蔬之甘香 棗栗之饒貴 眞可謂山中無別味 藥草兼漁果者也. 仍發 從泰山嶝上 次次下臨 石壁之危 石逕之中斷 極有危於心神 攀崖攀木 到于苧浦. 此浦 以庚酉作局 而有大小浦 東曰小苧浦 西曰大苧浦 無結幕人 但有倭人古幕之痕矣 即爲構木結幕 而經宿一夜 適其夜 東風大作 海波迫岸 則夜凉人未眠之句 正謂此夜道也. 大浦東南隅洋中 有鎗岩 高爲數百餘丈 而兩浦合作一浦 浦口阻三面而爲好 然但最忌者 東風也 山麓逶迤 海岸平廣 量其人居 則麓内麓外 苧草叢生 刈取爲績 則似爲幾十戸資活處也. 中有大川 長流不息 此亦成局之格也.  
「鬱陵島検察使日記」5月9日  
李奎遠의 ꡔ鬱陵島檢察日記ꡕ 全文(10, 계속)  
初九日 甲午 晴. 晨朝 山祭祈禱. 海雲薄掩 山嵐濕濕 朝飯後 乗船離發 以櫓力 越一湫水宗 次次向東而行 十餘里 至香木邱尾 則名雖爲浦 風波衝突 臨海岩形 多有奇怪 其中 紫丹香木最多. 仍而櫓力 次次前進 至一浦 此浦即前日山行時 一宿 大黄土邱尾也 今不必疊床 而 即爲放船 行幾里許 到待風浦 浦形亦與香木浦 略同矣 待風之稱 由於以待順風而稱名 此實不符之名也 浦邊岩石之寄 珍貴之材 鬱密崎嶇之難行 書不可盡記 仍爲放船 以櫓力 進下 經玄斫支 到倭船艙 則 此等浦即前日入于羅里洞時 所經中火之處也 亦不可更錄矣 仍爲放船 漸下 其傍 有一峰 高爲數百丈 形如蒜稜 名曰蒜峰 其下幾里許 有大岩 高爲數百丈 而屹立 亦一奇觀也 其後山麓 有大川 其内 峰巒數疊 爲屏 而其下 又有瀑布一線 層層落海者 亦一壯觀也. 其下山形 石壁層稜 其洋中 有竹岩名色 只有竹叢生 高爲數十丈 而山麓イ● 又有無名大岩 高爲數十丈 又有廣平盤石 可容數十人 其下山足 有東西雙立岩石 東岩則一根兩頭 高爲數百丈 西岩則形容險惡 高爲近百丈 形如兄弟雙立 其傍 又矗石直立 數百丈 名曰燭臺岩也 其傍 又有一石浮立 形如彌勒佛 而其海邊有石穴 色紫 流水細滴 其名石間赤穴 而不足爲石朱也 其下 有一小浦 名曰船板邱尾 西有結幕痕 其後 有長谷曳木痕矣 南便洋中 有二小島 形如臥牛 而一爲右旋 一爲左旋 各其一便 則稚竹有叢 一便 則雜卉腐生 高爲数百丈 廣爲数●之地 長爲五六百歩 人云 島項 亦云竹島也 周可十里許 危険不可攀登 其内 浦名臥達雄桶邱尾 而水勢太强 船路難進 雖無風無波之日 船之搖動 如瓢子輕漂之像 極其操心處也 仍察左右石壁 大小層岩則形容 危險奇怪 潮汐進退緩急 箇中 自有鼓鼓然錚錚然 音楽之節奏矣 乗船而下 宛如杭州石 鐘山絶壁也. 此日 周回之各浦沿邊 有九窟 海狗水牛之産育處 而入島造船之海民 以銃捕捉食肉矣 日已當暮 仍欲止宿 則無處可留 更欲漸進 則水路未詳 故不得還 向竹岩而下陸 結幕留宿.  
 
「鬱陵島検察使日記」では、5月9日の項で「竹島」は「雑卉腐生し、高さ数百情丈と為す。広さ数●之地と為し、長さ五六百と為す」、「島頂」(観音島)は「稚竹叢有り」とある。(ここでいう「竹島」は、「観音島」の横にある「竹島(竹嶼・チュクド)」を指す。)つまり、韓国では、「1882年」の時点では、「竹島/独島」を発見していない。  
また李氏朝鮮の第26代国王・高宗は、李奎遠に下問している。「松竹島、芋山島は鬱陵島の傍らに在り、しかしてその相距たる遠近いかん。また何れの物有りや否や」。李奎遠は、この質問に「芋山島は即ち鬱陵島にして、芋山は古の国都の名なり」、于島とは于山島のことであるが、于山島は鬱陵島の別名であることが解る。  
「松竹島は即ち一小島にして鬱陵島と相距たること三数十里となす。その産するところは即ち檀香(檀香・だんこう・香木の栴檀(せんだん)・白檀・紫檀などの総称)と簡竹(大竹)」と答えている。その高宗の不確かな鬱陵島理解に対して李奎遠は、「或いは松島、竹島と称して鬱陵島の東に在りとす。而(しか)してこれ松竹島以外に別して松島、竹島あるに非ず」と答え、松竹島以外に松島や竹島と言う島は存在しないと、高宗の誤りを正している。  
ここで解ることは、鬱陵島から松竹島までの距離は三数十里(約1.2km〜約4km)であると言うこと。李奎遠のいう小島には、檀香と簡竹(大竹)が生えているわけで、「竹島/独島」ではない。元々「竹島」の「土壌」は「枯れている」、「木は1本も無い」わけなので、「竹」も「木」も育たない。  
つまり、現在の「竹嶼」のことである。それと、「松竹島(竹嶼)以外に松島や竹島と言う島は存在しない」、これらのことから、現在の「竹島/独島」を、「1880年(明治13年)代(19世紀)」になっても認知していなかった事が解る。  
「鬱陵島外図」 1882年朝鮮王朝により鬱陵島検察使として派遣された李奎遠によって作製された絵図です。この絵図は官製地図といえます。絵図とともに作成された「鬱陵島検察使日記」に「松竹于山等の島、僑寓の諸人、皆傍近の小島を以て之に当てる」とあり、「松竹于山等の島」は鬱陵島の近くの小島にあてていたとしています。しかしながら「鬱陵島外図」に記載されている属島は東側の「島頂」と「竹島」のみであり、現在の地図に比定すると「島頂」は「観音島」、「竹島」は「竹嶼(竹島・チュクド)」となります。つまりこの絵図には、鬱陵島とその属島しか描かれておらず、李奎遠は「現在の竹島」を調査していなかったことが分かります。1882年に朝鮮王朝は、長年の鬱陵島の空島政策をやめ、鬱陵島の開拓を始めます。つまり、鬱陵島の開拓を始める時期に至っても、朝鮮王朝は現在の竹島を地理的に認識せず、さらには自国領として認識しなかったと言えます。  
口語訳。  
「松竹于山等の島を、現地へ渡った人たちは皆、近傍の小島をこれに当てている。しかし根拠となる地図はなく、又これを案内する人もいない。晴れた日に高く登り遠くを眺めると、千里をうかがうことができたが、一かけらの石や一つまみの土も無かった。よって、于山を指して鬱陵と称するは、耽羅を指して済州と称するようなものだ。」  
 
十三日 亥時量 直向蔚珍界 風濤大作 不得止泊 以櫓力制船 還泊於平海邱山浦 下陸層溟 險濤 得此利渉 莫非王靈攸曁 是白矣所 島之地形險夷 山勢起落 圖繪以來 是白遣 土理沃瘠 民生可居 與島産海錯 一一區別 開録于後 爲 白在果環島千峰 聳于雲霄 壁立如削 疊若園屏 雖有海岸 而終無藏舟之穩港 是以殉利潜入者 皆齷齪下戸 僅採鰒採藥 斫木造船而己 鳥獣 無久居之計 故率結幕棲居 而尚無築室営生之類 是白如乎 島之中心地 羅里洞者 山中開野 平蕪沃衍 可居千戸 其餘数三百戸之地 難以枚挙 而地方約可五六十里 桑柘苧楮 不種自生 足可爲一縣之地 今焉 千章之木 參天蔽日而已 珠豪v損 誠亦無謂 今若募民 許墾 則歓如需土 従若帰市 数年之後 宜有成効 是白乎矣 披荊剪菜難得身率者是白乎●倭人之占幕一隅 積有年所 課日伐木 輸之本國 有若外府然 甚至有立標之擧 適其時 無安龍福其人 任其恣行無憚 然臣於盤詰之際 察其色辭 動輒誘人 其辭多慙 是必渠自犯科 非由指使耳 所謂立標 姑不抜去 以爲憑実之計 是白乎 乃檢察之前 自來聞曠 猶無綸己 今於檢察之後 若又不問 是無異默許 狡倭之偸作矣 移書致詰 恐不可己 是白乎● 松竹于山等島 僑寓諸人 皆以傍近小島 当之 然既無圖籍之可據 又無ク導之指的 晴明之日 登高遠眺 則千里可窮 而更無一拳石一撮土 則于山之称鬱陵 即 如耽羅之称済州是白如乎 臣於入島之後 既歩履其高顛 復舟駛其山麓 包日之間 足跡無所不到 全島形勝 瞭然在目 而惟其拙於文辭 尚多掛漏是白乎●縁由馳啓爲白臥乎事 云云 各處商船 春間入島 伐木造船 採得魚藿而去 薬商輩 隨商船而入 結幕採薬 亦隨船而出去是白斉 羅里洞 山上開野 平衍十里 土品肥沃 假使起墾 可作近千戸民生資活之地 而但水泉伏流 莫可儲水 以今所見 宜田而不宜●是白遣 其外 大黄土邱尾・黒斫之・千年浦・倭船艙・大小苧浦 ・道方廳・長斫之・谷浦等地 宜田宜● 無非沃壤可居之地是白斉 有浦口十四處 曰小黄土邱尾・大黄土邱尾・待風所・黒斫之浦・千年浦・倭船艙・大巌浦・楮田浦・苧浦・道方廳・長斫之・玄浦・谷浦・桶邱尾 而石角磊落 波濤怒激 且無山麓之遮護蔵抱 毎患泊船之不穏是白斉 土産 紫丹香・梧桐・栢子・冬栢・黄栢・桑木・柿木・厚朴・槐木・檜木・馬柯木・老柯木・朴達木・楮木・苧草・山蔘・麥門冬・黄精・前胡・玄胡素・葳霊仙・百合・獨活・南星・木賊・貫衆・覆盆子・山葡萄・春菩・尼実・獮猴桃・鳥多・●鴿・鷹鸇・霍鳥・水牛海狗・猫・鼠・蜈蚣・甘藿・全鰒・海三・紅蛤等種 是白斉 周廻 假量爲一百四五十里是白遣 距陸地遠近 則水路浩浩茫茫 莫測里数是白斉  
 
このように、この当時の朝鮮政府の認識は于山島が鬱陵島であり、調査した結果も検察使の李奎遠は于山島を鬱陵島の別名だと解している。 
“「1877年」には独島を日本領土の外と定めた公式文書を残しているからです。”  
この「1877年」の公式文書というのは、「古文書を見ても独島は韓国領土」で取り上げていた、“「1877年、当時日本の最高権力機関であった太政官は、鬱陵島(竹島)と独島(松島)は、日本領土ではないと内務省に通達しました。」「主要内容 <鬱陵島(竹島)と外一島(独島)の件は、本邦(日本)と関係がないということを肝に銘ぜよ。>」” と、この事ですね。「1877年」の内務省の通達「公文録 内務省之部 一 明治十年三月」、「竹島および外一島の放棄」のいわゆる「竹島外一島」問題ですね。  
「書面(伺之趣)「竹島外一嶋」之義本邦関係無之義ト可相心得事」  
韓国は、ここに載っている、「竹島外一島」の「外一島」を「竹島/独島」であると主張しているが、これは現在の竹島ではない。結果的には明治政府が「竹島外一島」無関係としたのは「鬱陵島」だけのことで、現在の日本領土の竹島には論及していないという事です。 
 

 

“日本は「竹島/独島」強制編入”  
そして、「1905年(明治38年)」の「竹島の島根県編入」。日本は1905年1月28日の閣議において、江戸時代には松島と呼ばれていた島を正式に竹島と命名し、島根県隠岐島司の所管する旨を決定し、島根県知事は同年2月22日付の島根県告示第40号をもってその内容を公示した。翌年の「1906年」、島根県隠岐島の一行が鬱陵島を訪れ、鬱陵郡の郡守・「沈興澤」に「竹島が日本領になり、その視察の序(つい)でに鬱陵島を訪れた」と来意を告げた。  
「鬱島郡守沈興澤の報告書(1906年)」  
領土編入後、同年すなわち「1905年(明治38年)」、松永島根県知事が「竹島」を視察したのに続き、翌年「1906年(明治39年)」、神西島根県第三部長が漁業、農事、衛生、測量等の専門家を含む視察団を率いて「竹島」へ赴いた。神西部長の一行は、「竹島」踏査後「鬱陵島」へ立ち寄り、郡守「沈興澤」に面会して「貴島と我が管轄に係る竹島は接近せり・・・万事につき懇情を望む」云々と述べて「竹島」が日本に編入されたことを告げた。日本側同行者の回想によればこのときの会談で郡守の側から「竹島」についてとくに意見は述べられなかった(奥原福市(碧雲)『鬱陵島及竹島』報光社, 1907年)。しかし、「1906年3月29日」、郡守は江原道の観察使(知事)に報告書を送り、その中で、「本郡所属独島は本郡の外洋百余里にあるが・・・日本官人一行が官舎に到来して、独島は今日本領地である、故に視察の途次に来島した、と自ら語った。云々」と述べていた。報告を受けた道は政府に報告し、政府は更に調査するよう道に指令した(愼纛(シン・ヨンハ)前掲論文)。韓国政府はこうして「竹島」の「日本編入」を知ったのであるが、不思議なのは「沈興澤」鬱島郡守がこの時点で「竹島」を自郡の所属と認識していたことである。しかし、韓国政府は道に更に調査せよと指令するのみで日本政府に対して「抗議をした記録はない」。この点につき、国全体が併合されようとしていた折からそれどころではなかったとか、外交権が日本に奪われていて(第二次日韓協約=保護条約1905.11.17)仮に抗議しようとしたとしてもできなかったであろうといった議論もある。  
「鬱陵島」の朝鮮人は、日本人が現地の朝鮮人を雇って「竹島/独島」に漁に出かけていたので、(1903年5月、隠岐島に住む中井養三郎が竹島でアシカ漁を始めた。1904年には山口県の岩崎という人物らが鬱陵島の朝鮮人を雇って、竹島でのアシカ漁に参入した。「りゃんこ島領土編入並に貸下願」)推測としては、郡守沈興澤も当然そういうことを知っており、鬱陵島の住人が行き来するのだから「竹島/独島」は鬱陵島の附属島なのだと漠然と考えていたのではないか、と考える。個人が韓国領であったと信じていたとしても、その事実は国際法上、意味があるものではない。  
本当に韓国政府が言うように、「竹島」は、「強制」によって日本に編入されたのだろうか?  
韓国政府は「外交権が奪われた状態だったため、外交的抗議の提起ができなかった」と主張する。  
「竹島の編入」は「1905年02月22日」。その頃「1905年2月22日」の韓国は歴然とした「独立国」、「大韓帝国」です。「大韓帝国」は李氏朝鮮が、「1897年」〜「1910年」の間使っていた国号。「1895年」の日清戦争後の「下関条約」よって、李氏朝鮮が、清国との属国関係から切り離され、大日本帝国は清国に朝鮮が「独立国家」として認めさせた。「大清帝国」、「大日本帝国」と対等の国家であると言う事を示すために帝国を名乗る必要性が発生し、この改称を行った。  
「第二次日韓協約(日韓保護条約)」  
「第二次日韓協約」は、日露戦争終結後の「1905年(明治38)」11月17日に日本と韓国が締結した協約。これにより韓国の外交権は、ほぼ日本に接収される事となり、事実上保護国となった。  
「第二次日韓協約(日韓保護条約)」によって、日本が韓国の外交面を担当するようになったのは、「1905年11月17日」。従って「強奪」でも「強制」でもなんでもない。大韓帝国は主張できる立場にあった。  
「大韓帝国、日本海軍省の日本人への土地払下げに抗議する」  
「1906年02月 26日」〜「4月17日」-「内部来去案 第一冊」 大韓帝国、「統監府(日韓併合前の日本の韓国の(大韓帝国)設置機構)」に抗議し日本人による韓国の領土収奪を阻止する。「内部来去案」は、「1906 年(光武10)2月」から「1910 年(隆煕4)8月」まで各部と内部の間に往来された公文書を集めた大韓帝国の公文書綴である。日本や清との間に起こった様々な事案の報告・照会などの文書が含まれている。4冊で構成されている。この第一冊に、鬱陵島の半島側対岸に近い「江原道蔚珍郡近北面竹邊浦」にあった、日本海軍望楼の跡地を巡る日本人同士の土地取引を巡る一件が記録されている。  
大韓帝国内部(内務省)の「1906年」における公文書で、蔚珍(蔚珍郡(ウルチン)は、韓国慶尚北道東北部の郡。朝鮮王朝時代・統治時代には江原道に属していたが、1963年に慶尚北道に属した。)郡竹邊(チュクビョン)浦に日本海軍が建設した望楼(望楼・ぼうろうとは、遠くを見渡すためのやぐら)を撤去した際にある日本人(個人)がその土地を取得して公文書を発行して貰うように申請して来た時に、これを日本人による韓国の土地の不正取得であるとして、統監府に照会して阻止した際のやり取りがある。  
「内部來去案」第1冊、光武10年2月26日條(内部大臣の議政治参政大臣への報告)  
 
제목(タイトル)울진의 근북면 죽변포 망루를 일본인이 사적으로 매매한 것은 불법이니 금지시킬 것  
문서번호(文書番号)照會 第三號  
발송일(発送日)光武十年二月二十六日(1906년 02월 26일)  
발송자(発送者)內部大臣勳一等 李址鎔  
수신자(受取人)議政府參政大臣 朴齊純 閣下  
現接江原道觀察署理春川郡守 李明來의 第十六號 報告書內開 頃於上月十三日에 接閱蔚珍郡守 尹宇榮 報告書즉 內槪 本郡近北面竹邊浦望樓留駐之日本海軍이 今爲撤歸이온 바 今陰曆十二月二十七日日本商人 高賀者 來到郡廳曰 竹邊浦所在望樓與地段을 並爲買得於望樓長인즉 自郡으로 認許公文成給이라 온 바 郡守가 不可自下擅便故로 玆에 報告等因이기 高賀者居住姓名과 何月日에 給價幾許買得과 望樓長之姓名居址을 幷即詳探報來야 以爲轉報케  事로 指飭以送이더니 即接該郡守報告內開 即到指令를 承準와 招致高賀詳問事狀인즉 自己 日本佐賀縣三養基郡鳥棲洞二百十三番戶 而姓은 佐賀오 名은 亦次오 望樓長은 高橋오 名은 C重이오 居住 日本佐世保海兵團詰兵所오 居址 不知이온 바 上年十月日駐箚撤歸之時에 給一百八十圓 買得望樓 而址地 不爲買賣이온니 基址之隨家 意有常例야 地段幷買之意로 前有所告이다 故로 緣由報告等因을 據査온즉 蔚珍郡竹邊浦望樓은 日本海軍이 軍用暫駐타가 已爲撤歸이온 今此日本商民高賀亦次가 望樓長高橋C重에게 私相賣買云者가 非徒違越定章이오라 萬不近理이기 玆以仰佈오니 査照신 후 迅辦交涉시와 即行禁止케 시고 示明시믈 爲要.  
內部大臣勳一等 李址鎔 議政府參政大臣 朴齊純 閣下 光武十年二月二十六日  
 
蔚珍の近北面竹邊浦の望樓を日本人が私的に売買したのは不法なので禁止させること  
照会第3号   
1906年2月26日  
内部大臣李址鎔  
議政府參政大臣朴齊純  
江原道觀察署理春川郡守李明來から「第16号報告書」を受けた。その内容は次の通り。  
先月13日に蔚珍郡守尹宇榮の報告を受けた。それによれば、蔚珍郡近北面竹邊浦の望楼に駐留していた日本海軍が最近撤収したが、12月27日(書き起こし文には陰暦とあるが、新暦では1906年1月21日に当り、この日は日曜日で、しかも1月13日に蔚珍郡守尹宇榮から江原道觀察署理春川郡守李明來へこの件に関して報告がすでになされているので、新暦12月27日の誤りと推測される。)に日本商人高賀という者が蔚珍郡庁に来て、「竹邊浦所在の望楼とその土地を望楼長から買得したので、蔚珍郡庁からその認可する公文書を交付してほしい」ということである。郡守としては、自分の一存で処理することが出来ないので、報告するということであった。  
そこで、高賀という人物の住所・姓名、ならびに何月何日にいくらで買得したのか、さらに望樓長の姓名・住所を速やかに詳しく調べて報告せよと指示したところ、蔚珍郡守から次の報告があった。  
指令を受けて、高賀を招致して詳しい事情を聞いたところ、「自分は、日本の佐賀県三養基郡鳥棲洞213番地の、佐賀亦次という。望樓長は高橋C重と言い、その居所は日本佐世保海兵団の詰所であるが、住所は知らない。去年十月、駐屯していた日本海軍が撤収する時に180円を出して望楼を買った。しかし、土地は買っていない。土地は、その上に建っている建物の持ち主のものであるのが普通なので土地も併せて買いたいと思い、前所有者に申し入れた。(もしくは ”以前そう告げていたので、土地も併せて買いたい”の意か。)」ということである。  
(李明來もしくは李址鎔の言葉)この報告に基づき調査をしたが、蔚珍郡竹邊浦の望楼は、日本海軍が軍用に暫く駐屯していて既に撤収したのであるが、今、日本商人の高賀亦次が望樓長の高橋C重から私的に買い取ったというのは法律に違反するものでいかにも理に合わないことなので、(李址鎔は)ここに報告するので内容確認のうえ速やかに交渉され、即刻禁止させてそれを明示されるよう願う。  
內部大臣勳一等李址鎔より議政府參政大臣朴齊純閣下へ 1906年2月26日  
 
この文書を受け、朴齊純は以下のように統監へ照会を行う。『內部來去案』第1冊、光武10年4月17日條(議政府照會第56號)  
제목 울진의 근북면 죽변포 망루 및 부속건물을 일본인에게 매각함을 조회  
문서번호 議政府 照會 第五十六號 內部  
발송일 光武十年四月十七日(1906년 04월 17일)  
발송자 議政府參政大臣 朴齊純  
수신자 內部大臣 李址鎔 閣下  
결재자 議政大臣 參贊 秘書課長 文書課長參政大臣 局長 調査課長 一課長  
貴第三號 照會H 接到와 以蔚珍郡竹邊浦所在望樓與地段私相賣買禁止一事로 準即行文日本統監고 業經照覆在案이온 바 現樓該統監照覆內開 去月十四日 以蔚珍郡竹邊浦望樓賣却一事 接到貴第十三號照會 當經閱悉 準即行文我佐世保海軍鎭守府 調査事實 仍接復開 該望樓所用建物 及營造物以代金收納後 擧越他人之意 賣却於佐賀縣人古賀亦次 去年十二月二十七日 業經受領代 金然該敷地決無賣却等因 準此照覆 照亮爲盼等因이기 玆에 照會오니 照亮심을 爲要.  
議政府參政大臣 朴齊純 內部大臣 李址鎔 閣下 議政大臣 參贊 秘書課長 文書課長參政大臣 局長 調査課長 一課長 光武十年四月十七日 光武十年四月十一日 裁定 課員  
蔚珍郡近北面竹邊浦の望樓及び付属建物を日本人に売却したことについての照会  
議政府照会第56号 内部(内務省)  
1906年4月17日  
議政府參政大臣 朴齊純  
内部大臣 李址鎔  
議政大臣 參贊 秘書課長 文書課長 參政大臣 局長 調査課長 一課長  
貴第3号照会を受けて、蔚珍郡竹邊浦の望楼と土地の私的売買禁止の件について、統監に照会し回答を得た。回答は次のとおりである。  
先月14日、蔚珍郡竹邊浦の望楼売却について貴第13号照会を受け取ったが、その照会に基づき日本の佐世保海軍鎭守府に文書を送って事実を調査したところ、その報告によれば、その望楼用の建物と設備は、代金收納後に全て他人に譲渡することとし、佐賀県人である古賀亦次に売却した。昨年12月27日に既に代金を受領したが、その敷地は売却していない。以上回答するので承知されたい。  
このような照会結果であったので、内容を確認されたい。  
議政府參政大臣朴齊純より内部大臣李址鎔閣下へ 1906年4月17日  
 
このように、韓国政府から抗議を受けた統監府は、佐世保の海軍に文書を送り調査を行った結果、望楼跡地の売却は阻止されている。この一件について、慎纛は、次のように述べた。「慎纛(シン・ヨンハ)」独島学会会長・ソウル大名誉教授。  
 
6. 일본 해군의 독도(獨島) 망루(望樓) 설치와 철거  
일본 해군은 이와 같이 망루 설치를 직접적인 목적으로 하여 한국의 영토인 독도(獨島)를 침탈해서 해군 통신시설 기지의 하나로 사용한 것이다. 일제는 러ㆍ일 전쟁 종결직후 강원도 울진군ㆍ죽변포에 설치했던 망루를 철거할 때 망루장(望樓長)과 일본 상인이 결탁하여 망루토지(望樓土地)를 침탈하려고 시도했으며, 36) 6개월간이나 분쟁과 교섭이 진행되다가 한국 의정부(議政府)의 노력에 의해 저지된 예도 있었다. 37) 여기서도 일제가 러ㆍ일 전쟁을 전후하여 독도(獨島)는 물론이고 한반도 내륙의 토지까지 침탈하려고 얼마나 혈안이 되어 있었는가의 일단을 볼 수 있다.  
6.日本海軍の独島望楼設置と撤去  
日本海軍はこのように望楼の設置を直接的な目的にして、韓国の領土である独島を侵奪して海軍通信施設基地の一つに使ったのだ。日帝は、露日戦争終決直後、江原道蔚珍郡・竹邊浦に設置した望楼を撤去する際、望楼長と日本商人が結託して、望楼土地を侵奪しようと試み 6 ヶ月間にわたる紛争と交渉があったが、韓国議政府の努力によって阻止された例もあった。ここでも日帝が露日戦争を前後して、独島はもちろん韓半島内陸の土地まで侵奪しようと、どれくらい血眼(ちまなこ)になっていたのか、その一端を見る事が出来る。  
 
(愼纛「日帝の1904〜5年、独島侵奪試図とその批判」)  
日本が韓国の外交面を担当するようになったのは、「1905年11月17日」。大韓帝国が、「統監府(日韓併合前の日本の韓国の(大韓帝国)設置機構)」に抗議したのが「1906年」。 大韓帝国は抗議、主張できる立場にあった。また編入はマスコミにもよっても知らされた。  
島根県知事は、閣議決定及び内務大臣の訓令に基づき、「1905年(明治38年)2月」、現在の竹島が「竹島」と命名され隠岐島司の所管となった旨を告示するとともに、隠岐島庁に対してもこれを伝えました。なお、これらは当時の新聞にも掲載され広く一般に伝えられました。『山陰新聞 in 1905年2月24日』、「隠岐の新島。北緯37度9分3秒、東経131度55分、隠岐島を距る西北85浬に在る島嶼を竹島と称し、自今、隠岐島司の所管と定めらると県知事より告示せり。右島嶼は周囲15町位の二島より成る。周囲には無数の郡島散在し、海峡は船の碇泊に便利なり。草は生え居たるも樹木は無しと云う。」  
また韓国においても現地語で報道された内容などから、「旧リャンコ島が竹島という日本領土となった事実を韓国人が全く気付かなかったために日本政府に抗議できなかった」等ということはありえなかったでしょうし、「1906年」に気がついた後も抗議はおろか、今回明らかになったように抗議可能であったにも関わらず統監府への抗議どころか照会さえ行っていないことから、大韓帝国政府は「1906年」の時点で「竹島」を「自国領土外」であると考えていた事は明白です。  
「1905年(明治38年)6月2日-皇城新聞」  
日艦隊의 公報 日本聯合艦隊司令官의 公報를 槪據한 則 聯合艦隊의大部隊가二十八日後에는 안고후島 附近에셔敗殘한俄國艦隊의 主力隊를包圍攻撃하야 其降服을 受한 後에 追撃은 中止하고 此艦을 措處하는中이오  
口語訳  
日艦隊の公報。日本聯合艦隊司令官の公報の概拠。すなわち聯合艦隊の大部隊が28日午後には竹島の(안고후島・アンゴフ島・韓国は竹島をジウンコールド岩やアンゴフ島と呼んでいました。)付近にて敗残した敵を、我国艦隊の主力隊が包囲攻撃して、その降伏を受け、後の追撃は中止してこの艦を措置に従事中。  
韓国が「日本の植民地支配だから言えなかった。」と言うのであれば、では、「日本の植民地支配でなければ言える。」はずです。「古文書を見ても独島は韓国領土」の検証でも述べましたが、韓国は、「1945年」の日本の統治支配からの解放の後、「崔南善(チェ・ナムソン)」の「1947年」刊行の「朝鮮常識問答」で「130度56分23秒」、また「1948年」は「大韓民国政府」の樹立、「1948年」の「朝鮮常識」でも韓国の領域は「極東 東経130度56分23秒(慶尚北道 鬱陵島 竹島(チュクド・日本名・竹嶼)」とある。「竹島」の東経は「131度」です。「竹嶼(チュクド)」の東経は「130度」です。 
「日韓議定書」  
韓国は「ロシアとの日本海海戦をスムーズに遂行するため、竹島に望楼(ぼうろう・遠くを見渡すためのやぐら。)建設の必要性が浮上し、日本政府は竹島を強引に編入した」と主張する。しかし竹島編入をするまでもなく、日韓議定書では軍事施設を作る事が許されている。  
「第4条」 第三国の侵害に依り若くは内乱の為め大韓帝国の皇室の安寧或は領土の保全に危険ある場合は大日本帝国政府は速に臨機必要の措置を取るへし而して大韓帝国政府は右大日本帝国の行動を容易ならしむる為め十分便宜を与ふる事。 大日本帝国政府は前項の目的を達する為め軍略上必要の地点を臨機収用することを得る事。  
つまり竹島編入と竹島望楼建設は関係が無いのである。  
「日本外務省の独島領有権主張に対する反駁文」  
「独島編入出願を出した中井養三郎は最初、独島が韓国の領土であることが分かり、日本政府を通じ韓国に賃貸請願書を提出しようとした。しかし、海軍省と外務省官吏(肝付兼行、山座円次郎)などにそそのかされ、領土編入出願を出したのである。」  
と言う韓国側の主張がある。しかし、中井養三郎は「1903年(明治36年)05月」から2年間、現在の「竹島」(当時はリャンクール島、リャンコ島と呼ばれていました)でアシカ漁をし、外務省、内務省、農商務省に「りやんこ島領土編入並ニ貸下願」を提出して、竹島の島根県の所属の道を開いたのですが、中井養三郎が「竹島」でアシカ猟を開始したのは「日露戦争(日露戦争は「1904年」〜「1905年」)」よりも前です。竹島の編入に中井養三郎が意図的に加担したというのは事実無根であることが解る。 
“日本は「竹島/独島」強制編入”  
全く、「強奪」でも「強制」でも何でもない。韓国は抗議、主張できる立場にあった。日本が、「竹島」を「強制編入」というのは歪曲です。  
「報告書号外」 観察使署理春川郡守李明來が、4月29日付で議政府参政大臣に提出した。内容は3月29日に江原道観察使に報告した内容と同文。  
 
제목 울릉도에 입항한 일본인의 독도 영유권 주장과 인원 및 행태 보고  
문서번호 報告書 號外  
발송일 光武十年四月二十九日(1906년 04월 29일)  
발송자 江原道觀察使署理春川郡守 李明來  
수신자 議政府參政大臣 閤下  
鬱島郡守 沈興澤 報告書內開에 本郡所屬獨島가 在於外洋百餘里外이살더니 本月初四日辰時量에 輪船一隻이 來泊于郡內道洞浦 而日本官人一行에 到于官舍야 自云獨島가 今爲日本領地故로 視察次來到이다 이온바 其一行則日本島根縣隱技島司 東文輔及事務官 神西田太カ 稅務監督局長 吉田平吾 分署長警部 影山巖八カ 巡査一人 會議一人 醫師技手各一人 其外隨員十餘人이 先問戶總人口土地生産多少고 且問人員及經費幾許諸般事務을 以調査樣으로 錄去이기 玆에 報告오니 照亮시믈 伏望等因으로 準此報告오니 照亮시믈 伏望.  
指令 第三號  
來報 閱悉이고 獨島便地之說은 令屬無根니 該島形便과 日人如何行動을 更爲査報 事.  
五月十日  
江原道觀察使署理春川郡守 李明來 議政府參政大臣 閤下 光武十年四月二十九日  
 
タイトル 鬱陵島に入港した日本人の独島領有権の主張の人員および動作報告  
文書番号 報告書号外  
発送日 光武十年四月二十九日(1906年04月29日)  
発送者 江原道観察使署理春川郡守 李明來  
受取人 議政府参政大臣 閣下  
鬱島郡守 沈興澤 報告書を内開するに、「本郡所属独島」は外洋百余里の外にあるが、本月初四日辰時量に輪船一隻が郡内道洞浦に来舶した。そして日本人官人一行が官舍に到り、独島が今日本の領地故に視察に来到したという。その一行とは日本島根県隠岐島司の東文輔及び事務官の神西田太カ、税務監督局長 吉田平吾、分署長警部 影山巖八カ、巡査一人、会議一人、医師、技手各一人、其外隨員十余人が、戸数や人口、土地、生産の多少についてまず質問し、さらに人員及び経費が幾らかについて質問したという、諸般事務を視察して記録したことを報告し、照会します。  
指令第三号  
来報●閲悉(「閲」は書き物の内容などを調べる、読むの意。「悉」は事々の意。)で独島領地の説は令属無根である。該島の形便(地理的状況)と日本人の行動を更に捜査し報告する事。  
五月十日  
江原道観察使署理春川郡守 李明來 議政府参政大臣 閣下 光武十年四月二十九日  
 
沈興澤報告は大韓帝国が「勅令第41号」に基づいて「独島」を「正確に統治範囲内として認識・管理」していたことを示す証拠だ、とする主張。しかし、「大韓帝国勅令41号」に「鬱陵島を鬱島と改称し・・・区域は鬱陵全島と竹島、石島を管轄する事」とあるが、「石島」を「独島」と主張しているが、たとえ現地呼称が「独島」であっても「石島」が「独島」なら政府への報告には法令上の名称である「石島」を用いるはず。「外洋百余里」と位置についての説明も要らないはず。それなのに「独島」という呼称を用い、「外洋百余里」にあるとわざわざ説明しているところをみると、沈興澤報告は勅令とは無関係だ。勅令の「石島」は「竹島/独島」ではない。  
この「本郡所属独島」が現在の「竹島/独島」であるなら、前ページでも述べたように、不思議なのは「沈興澤」鬱島郡守がこの時点で「竹島/独島」を自郡の所属と認識していたことである。やはり、日本人が現地の朝鮮人を雇って「竹島/独島」に漁に出かけていたので、鬱陵島の住人が行き来するのだから「竹島/独島」は鬱陵島の附属島なのだと思っていたのだろうか?しかし、個人が韓国の領土であったと信じていたとしても、その事実は国際法上、意味があるものではない。  
「1903年」5月、隠岐島に住む中井養三郎が竹島でアシカ漁を始めた。「1904年」には山口県の岩崎という人物らが「鬱陵島」の朝鮮人を雇って、竹島でのアシカ漁に参入した。  
思っているだけでは領地にはならない。元々、韓国は竹島に対して実効支配をしていないのである。最初に竹島を実効支配したのは日本である。いつ竹島を発見したかは定かではないが、幕府は松島(現・竹島)への渡航許可を1656年に出しているので、少なくともそれ以前に竹島(旧・松島)は日本人の経営支配下に入っていたことを意味する。  
それに、既に述べたように「1906年(明治39年)」3月、島根県官吏による竹島視察団により、鬱陵島郡守を通じて「竹島編入の事実を知らされた」にも関わらず、大韓帝国は状況を調べるよう指令を送ったきり「抗議した形跡がない。」しかも、直後の同年7 月頃、「統監府」から鬱島郡に所属する島嶼と郡庁設置年月を照会された際に「その郡の所管島は「竹島」「石島」で、「東西が六十里」で「南北が四十里」で、合わせて二百余里だという。」など「該郡所管島는竹島石島오東西가六十里오南北이四十里니合二百餘里라고하였다이다」と鬱陵島から約92km程離れた「竹島」を「鬱島郡の範囲から除外」する形で公式回答した。回答で、「その郡の所管の島は「竹島」・「石島」で、「東西が六十里」、「南北四十里」。合わせて二百余里。」とした事実は、「沈興澤」が「本郡所属の独島は、外洋百余里の外に在る。」とし、「独島」を鬱島郡所属とした報告を全面的に否定するものであった。  
 
当時、韓国が日本に直接抗議をしなかったので、韓国は結局日本の独島編入を「黙認」したのだと日本は主張しています。しかし1904年以降、韓国は日本の侵略を受けており、直接抗議ができない状況に置かれていました。  
 
「乙巳勒約」 「第二次日韓協約」は、日露戦争終結後の「1905年(明治38年)」の11月17日に日本と韓国が締結した協約。これにより韓国の「外交権」はほぼ日本に接収されることとなり、事実上保護国となった。日韓保護条約ともいい、乙巳年に締結したという意味で乙巳條約、乙巳五條約、乙巳保護条約、また、日本によって強制で結んだ条約という観点からは「乙巳勒約」とも呼ばれる。締結当時の正式名称は日韓交渉条約。  
「英の学者ら「日韓併合不法論」支持せず 韓国主張崩れる」  
以下は、東アジア「反日」トライアングル、古田博司著 文春新書より引用。  
 
日韓の間で歴史をめぐってどんな論争があったかということは、意外と一般には知られていない。  
たとえば、韓国側はいまでも日韓併合は不法だったといい、これを学会では「日韓併合合法不法論争」と評している。  
そこでこの問題をめぐって岩波の『世界』誌上で日韓の学者がかつて争ったことがあったが決着がつかず、2001年の11月16日に、アメリカのハーバード大学のアジアセンター主催で国際学術会議が開かれることになった。  
これは韓国政府傘下の国際交流財団の財政支援のもとに、韓国の学者たちの主導で準備されたものだった。  
韓国側はもちろん、国際舞台で不法論を確定しようと初めから企図し、そのために国際学術会議を持ったのであり、それを謝罪と補償の要求の根拠にしたかったことは明白であった。  
そしてそこにはアメリカ、イギリス、韓国、それから日本の学者が集まり、日韓併合の歴史をどう考えるかということで論争が行なわれたのである。  
この様子は、当時、『産経新聞』の2001年11月27日の記事ぐらいでしか公表されず、一般の目にはほとんど触れなかった。が、これはとても大きな、重要な会議だったのである。  
韓国側はまず、いかに日本が不法に朝鮮を併合したかということを主張した。ところが、国際法の専門家でケンブリッジ大学のJ.クロフォード教授が強い合法の主張を行なったのである。  
それは当時の『産経新聞』の記事によると、「自分で生きていけない国について周辺の国が国際秩序の観点からその国を当時取り込むということは当時よくあったことであって、日韓併合条約は国際法上は不法なものではなかった」という主張であった。  
当然、韓国側はこれに猛反発し、日本に強制されたということを主張したわけだが、同教授は、「強制されたから不法という議論は第一次大戦(1914〜18年)以降のもので、当時としては問題になるものではない」と、一喝した。  
その会議に参加した友人の学者によると、この結果、韓国側は悄然と肩を落として去っていったという。  
韓国側のもくろみは失敗に終わったのだが、日本では当時この様子はほとんど報道されることがなかった。  
そして、この会議に出席した県立広島大学の原田環教授が、最近、この点に関して非常に新しい実証的な研究成果を上げられた。  
それは、「青丘学術論集」という論文集の2004年の第24集に掲載されたもので、「第二次日韓協約調印と大韓帝国皇帝高宗」という題の論文である。  
この論文によれば、第二次協約の調印のときに高宗という王と、その周りに5人の大臣たちがいたが、その5人の大臣たちが、すべて終わった後に王に上奏文を提出した。  
その史料はこれまで埋もれていて、研究されたことがあまりなかったのだが、原田教授はそれを初めて評価され、同協約の締結に関して韓国の高宗皇帝が、日本側の協約案を修正し調印する方向に、すなわち交渉妥結ということで一貫した行動をとったということを実証された。  
したがって、第二次日韓協約は韓国の高宗皇帝の意図に沿って行なわれたものだったということが分かってしまったのである。  
これは朝鮮史研究上の非常に大きな成果であって、これからこの線に沿って研究も行なわれていくと思われる。  
 
英の学者ら「日韓併合不法論」支持せず。韓国主張崩れる  
産経新聞2001年11月27日 【ソウル26日=黒田勝弘】  
日韓の歴史認識問題で大きな争点になっている。  
日韓併合条約 (一九一〇年)について合法だったか不法だったかの問題をめぐり、このほど米ハーバード 大で開かれた国際学術会議で第三者の英国の学者などから合法論が強く出され、国際 舞台で不法論を確定させようとした韓国側のもくろみは失敗に終わったという。  
会議参加者によると、合法論は国際法専門のJ・クロフォード英ケンブリッジ大教授らから出され「自分で生きていけない国について周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むということは当時よくあったことで、日韓併合条約は国際法上は不法なものではなかった」と述べた。  
また韓国側が不法論の根拠の一つにしている強制性の問題についても「強制されたから不法という議論は第一次世界大戦(一九一四−一八年)以降のもので当時としては問題になるものではない」と主張した。  
この学術会議は米ハーバード大アジア・センター主催で十六−十七日開かれたが、韓国政府傘下の国際交流財団が財政的に支援し韓国の学者の主導で準備された。これま でハワイと東京で二回の討論会を開き、今回は韓日米のほか英独の学者も加えいわば 結論を出す総合学術会議だった。  
日本からは海野福寿・明大教授や笹川紀勝・国際基督教大教授、原田環・広島女子大教授ら五人が参加したが、海野教授の「不当だが合法」論や笹川教授の不法論など見解 が分かれた。  
韓国側は「条約に国王の署名がない」ことなどを理由に不法論を主導している李泰鎮・ ソウル大教授はじめ全員が不法論で、会議をリードしようとした。  
しかし日本の原田教授は併合条約に先立ち日本が外交権を掌握し韓国を保護国にした日韓保護条約(一九〇五年)について、皇帝(国王)の日記など韓国側資料の「日省録」や「承政院日記」などを分析し、高宗皇帝は条約に賛成し批判的だった大臣たちの意見を却下していた事実を紹介し注目された。  
併合条約に国王の署名や批准がなかったことについても、国際法上必ずしも必要なものではないとする見解が英国の学者らから出されたという。  
日韓併合条約については韓国や北朝鮮からはいまなお執ように不法論が出され謝罪や補償要求の根拠になってきた。  
日韓国交正常化の際も激しく対立したが、合法・不法の結論は出さず「今や無効」との表現で国交正常化(一九六五年)にこぎつけた経緯がある。  
協約締結時の高宗皇帝  
李完用らが上疏した「五大臣上疏文」では、締結交渉自体を拒否しようとした強硬派大臣たちに対し、高宗自らこれを戒め「交渉妥協」を導いた様子が報告されている。また、高宗は少しでも大韓帝国に有利になるように協約文の修正を行うこととし、李らの修正提案を積極的に評価している。日本側も大韓帝国側からなされた4カ所の修正要求を全て受け入れ協約の修正を行った。(原田環「第二次日韓協約調印と大韓帝国皇帝高宗」青丘学術論集24, 2004年4月)  
協約締結後の高宗皇帝  
協約締結時に「交渉妥協」を主張した高宗であったが、締結後に無効論に転じた。第二次日韓協約の無効を訴えるイギリス宛親書後、高宗は第二次日韓協約締結の不当性を国際社会に訴えようと努力したが、当時の国際情勢によって皇帝の密書などは支持を得られなかった。高宗の第二次日韓協約無効を主張する書簡には1906年1月29日に作成された国書、1906年6月22日にハルバート特別委員に渡した親書、1906年6月22日にフランス大統領に送った親書、1907年4月20日ハーグ特使李相卨への皇帝の委任状などがある。  
「ハーグ密使事件」 1907年、韓国の李太王が、ハーグで開かれた第2回万国平和会議に日本の侵略だ、と訴えようとして密使を送った事件。しかし、会議への参加を拒否された。  
「親書の内容」  
事件に先立つ1907年1月16日、『大韓毎日申報』は前年ロンドン・トリビューン紙に掲載された高宗の親書を転載する形で改めて報じた。その内容は次のようなものであった。  
 
1905年11月17日に日本使臣と朴斉純が締結した条約を認めていないし、国璽(国璽(こくじ)とは、国家の表徴として押す璽(印章または印影)である。外交文書など、国家の重要文書に押される。)も押していない。  
この条約を日本が勝手に頒布することに反対した。  
独立皇帝権をいっさい他国に譲与していない。  
外交権に関連した必要の無い条約は強制であり、内政に関連したものも全く承認していない。  
韓国統監(韓国統監府は、第二次日韓協約に基づいて大韓帝国の外交権を掌握した大日本帝国が、漢城(現・ソウル特別市)に設置した官庁である。正式名称は統監府。)の駐在を許しておらず、皇室権を外国人が行使することを寸毫たりとも許諾していない。  
世界各国が韓国外交権を共同で保護することを望む。  
 
「独立権」 国家が他国の干渉・拘束を受けないで内政・外交を処理する国際法上の権利。  
この「独立帝権を他国に譲歩したことはない」という所で、「独島も独立帝権、“主権の範囲”」に入っていると言うのは、「石島=独島」を管轄する、「日本は1870年に独島を朝鮮の付属」と言っていた「1870年」の「朝鮮国交際始末内探書」の事や「1877年には独島を日本領土の外と定めた公式文書を残しているからです。」と言っている、「竹島外一島」の事などを前提として言っているのだろうけど、既に説明した通り、「石島」は明らかに現在の「竹島/独島」ではない。「朝鮮国交際始末内探書」でいう「松島」は「現在の竹島」とは違う島である。明治政府が「竹島外一島」無関係としたのは「鬱陵島」だけのことで、現在の日本領土の竹島には論及していない。「統監府」から「鬱島郡に所属する島嶼」を照会された際の回答が「独島」を「鬱島郡所属」とした報告を全面的に否定するものであった。  
なので、「竹島/独島」は韓国の主権の範囲ではありません。  
「委任状(親書)の偽造疑惑」  
「ドゥ・ヨン」ホテルの位置には現在「李儁烈士記念館」が建てられており、皇帝高宗の「委任状」の写真が飾られている。これには「大皇帝」という文字の下に自筆署名と、その下に「皇帝御璽」の印が押されている。しかしこの署名や印について、イ・ヤンジェ(李儁烈士殉国100周年記念事業推進委員会総務理事)や印刻専門家のチョン・ビョンレ(古岩篆刻芸術院院長)は「偽造された可能性が高い」と指摘している。ソウル大国史学科の李泰鎮は、「任務を口頭で伝え、後で書き入れるようにした委任状ではないか」と推測している。オランダ国立文書保管所の担当者によると「3人がハーグで皇帝の委任状を提示したという記録はまったく存在していない」と語っており、委任状の存在自体の確認が正式には取れない状態である。  
 
「ハーグ密使事件100周年 まともな「信任状」もない旅立ち」  
2007年7月8日 朝鮮日報より抜粋。  
ハーグ密使事件  
万国平和会議は既に10日前に開幕していた。彼らの足取りは重かったが、取り急ぎ、みすぼらしい「ドゥ・ヨン」ホテルに宿所を定めた。そして、その翌日に彼らは「皇帝の玉璽が押された信任状」を手にし、会議への出席を要求したとされている。  
しかし、今回の取材で会ったオランダ国立文書保管所の担当者・ハイデブリンク氏は、本紙とのインタビューで意外な事実を指摘した。  
「3人がハーグで皇帝の信任状を提示したという記録はまったく存在しない」  
「ドゥ・ヨン」ホテルの位置に建てられた「イ・ジュン烈士記念館」。訪ねる人もほとんどいないこの場所には、「信任状」の写真がきれいに飾られている。この写真は、イ・ジュンがこのホテルの部屋で亡くなってから1カ月後の1907年8月、米ニューヨークで発行された雑誌『インディペンデント』に掲載されたものだ。4月20日付となっているこの信任状には、3人の特使を派遣し、韓国の外交権回復に当たらせるという内容が記されている。左側には「大皇帝」という文字の下に手決(自筆署名)があり、その下に「皇帝御璽」の印が押されている。以来、この写真は多くの書籍に転載された。  
信任状の御璽を偽造 / しかし、この信任状に押された皇帝の印章は、偽造の可能性があるとの主張がソウルで提起された。書誌学者のイ・ヤンジェ氏(イ・ジュン烈士殉国100周年記念事業推進委員会総務理事)は「信任状に押された皇帝の印章である御璽が、本物ではないことは明らかだ。皇帝のほかの親書と比べて見ると、印刻の字体が大きく異なり、印章を押したのではなく、筆で描かれたもので、にじんだ跡が見える」と指摘した。また、印刻専門家のチョン・ビョンレ氏(古岩篆刻芸術院院長)も写真を見た後、「“帝”の字は、上の部分の画の長さや間隔がそろっておらず、“璽”の字も真ん中の文字の切れ目がないことから見て、ほかの文書にある御璽とは完全に異なっている。非常につたない実力で作成した模作に過ぎない」と断定した。だが、御璽が偽造とは一体どういうことなのだろうか。ソウル大国史学科の李泰鎮(イ・テジン)教授は「わたしが見ても信任状の御璽や手決に違和感が感じられる。しかし、皇帝の命もないのに特使として活動することはできない。そのため、信任状には高宗の意中が込められており、任務を口頭で伝え、後で書き入れるようにした委任状と見るべき」と推測した。  
つまりこれは、日本軍が宮中を取り囲んだまま、水も漏らさぬほど厳重に皇帝を監視していたため、白紙の信任状を渡したということだ。事をしくじった場合、善後策を講じることのできなかった高宗としては最善の防御策であり、目前に迫っていた万国平和会議を前に焦っていた密使らにとっても、ほかに選択肢がなかったのだろう。  
 
ところで日本帝国主義は、1907年7月に高宗を強制退位させ、韓国軍を強制的に解散させました。このような強圧的な日本の政策により、韓国は日本に直接抗議することができなかったのです。  
 
「第三次日韓協約」は、「1907年(明治40年)」7月24日に締結された協約。  
ハーグ密使事件をうけて、日本は1907年7月18日に高宗を退位させた。第二次日韓協約によって日本の保護国となりすでに外交権を失っていた大韓帝国(朝鮮王朝)は、この条約により、高級官吏の任免権を韓国統監(韓国統監府は、第二次日韓協約に基づいて大韓帝国の外交権を掌握した大日本帝国が、漢城(現・ソウル特別市)に設置した官庁である。正式名称は統監府。)が掌握すること(第4条)、韓国政府の官吏に日本人を登用できること(第5条)などが定められた。これによって、朝鮮の内政は完全に日本の管轄下に入った。また非公開の取り決めで、韓国軍の解散・司法権と警察権の委任が定められた。  
 
強圧的に行われた日本の独島侵奪は、基本的に無効です。  
「伊藤博文」は、明治期の政治家。元長州藩士、松下村塾出身。1841年生まれ。明治18年(1885年)には初代内閣総理大臣、初代枢密院議長、初代韓国統監などを歴任。1909年10月26日、ハルビン駅で朝鮮独立運動家の韓国人「安重根(アン・ジュングン)」に暗殺された。  
「ハルビン市」鉄道によりシベリアへ通じる東北アジアの交通の枢軸であるハルビンは、中国でもっとも北部に位置する黒龍江省の省都。  
韓国は日本の総理大臣だった「伊藤博文」を暗殺した「テロリスト」の「安重根」を「英雄」扱いしている。  
2011年10月26日、安重根が伊藤博文を暗殺した日、「反日の英雄」安重根が拳銃で伊藤博文を暗殺する記念造形物の除幕式が行われた。  
 
「安重根は「テロリスト」だった〜しかし、すべてのテロが悪というわけではない」 2011/12/23(金) 韓国時事IN  
ハンナラ党が韓米自由貿易協定(FTA)を突然批准すると民主労働党キム・ソンドン議員が国会本会議場で催涙弾を爆発させた。ハンナラ党と御用メディアは調子に乗って彼に「テロリスト」というラベルを貼った。催涙弾一つで韓米FTA批准を防げるとはキム議員自身も考えなかったろう。  
それなら何の実益もないことを知りながら民主労働党(今は統合進歩党)に‘過激’なイメージを植えつけたキム議員の行動は愚かだった。彼はやりすぎた。ところが彼が国会で行ったことは果たしてテロだろうか?その催涙弾のため涙を流した国会議員はいたが、ケガしたり死んだ議員はひとりもいなかった。もしその行為がテロならば、夜道を歩いた女性が路地であった痴漢の頬を叩いてもテロであろう。実際、零下の天気で市民に水大砲を撃った警察の行為こそテロに近かった。  
テロは本来、国家暴力と密接な関係にある。この言葉が広く使われ始めたのはフランス革命期にロベスピエールらが‘恐怖(=テロ)政治’を実践した後だ。今日、テロは政治的・軍事的弱者が大義のために行使する暴力を主に示す。地球的次元で見れば、この頃のテロの主体はたいていイスラム原理主義者などで、その対象は米国をはじめとする西側国家の政府機関や市民らだ。  
2001年9・11事件がちょうどこの脈絡の代表的テロだ。そのようなテロは当然批判されなければならず、その主謀者ビン・ラディンが隠れて生きたアフガニスタンだけでなく、そのテロと何の関連がないイラクもその何百倍もの代価を支払った。  
ところがすべてのテロは悪だろうか?テロという言葉が否定的ニュアンスを持ちテロの主体、すなわちテロリストや彼を支持する人々もこの言葉を好まない。例えば伊藤博文を暗殺した安重根(アン・ジュングン)をテロリストと呼べば、韓国人は大きな拒否感を示す。ところが、アン・ジュングンがテロリストでなければなんであろうか?自由の闘士?そうだ。安重根は自由の闘士であった。その一方、彼は民族の自由のためにテロという手段を使ったテロリストでもあった。  
「片方のテロリストは他方の自由闘士」という格言がある。この格言もやはり‘テロリスト’という言葉の否定的意味を前提にする。しかし‘テロ’や‘テロリスト’という言葉自体を価値中立的に受け入れることもできる。アルベール・カミュはある戯曲で帝政ロシアの暴政に反してツァー政権の‘人間屠殺者’を殺害したテロリストを‘正しい人々’と呼んだ。テロリストはお金を目的にする‘キラー’や‘ヒットマン’でない。職業的‘キラー’は大金を儲けようと人を殺すが、‘テロリスト’は民族や民衆の解放または、どんな理念の実現に献身しようと人を殺す。  
もちろん大義の実現が目的でもすべてのテロが容認されるわけではない。例えば9・11事件のように一般市民を無差別に殺害するテロは容認できない。しかし、ここにも一線をひくことの困難が作用する。米国の軍事主義・帝国主義政策は米国市民の同意と黙認の下なされているからだ。戦争行為、すなわち軍事的侵略こそ最も残酷で巨大なテロだ。  
安重根のテロは対象が明確だった。一部論者らは伊藤が朝鮮侵略と併合問題で穏健派であったとし、彼を殺したのは賢くなかったと主張するが、伊藤が殺害されなかったとしても日本は朝鮮併合をあきらめそうになかった。その上、安重根は東アジア平和を成し遂げるための方策を構想した知識人テロリストであった。彼が伊藤に行ったテロは平和主義・反植民主義という普遍的大義次元でも正当なことであったし、特に当時の朝鮮人の立場から見ればより一層正当なことだった。  
安重根を‘テロリスト’と呼ぼうが‘自由の闘士’と呼ぼうが、彼はカミュ戯曲の主人公らのように‘正しい人’だった。もしも10万ウォンの紙幣が出きれば、私は彼の肖像画こそ刷り込まれるよう願う。この国の貨幣はすべて李氏一族の人々(申師任堂を含む)で満たされている。私たちの境遇では侵略の元凶である伊藤博文も一時、日本の円紙幣の肖像になったというのに、安重根義士の肖像を韓国ウォン紙幣に入れない理由は何か? コ・ジョンソク(ジャーナリスト) 
“「1904年」以降、韓国は日本の侵略を受けており、直接抗議ができない状況に置かれていました。韓国は日本に直接抗議することができなかったのです。”  
前ページでも既に述べていますが、「竹島の編入」は「1905年02月22日」。日本が韓国の外交面を担当するようになったのは、「1905年11月17日」。大韓帝国が、「統監府(日韓併合前の日本の韓国(大韓帝国)支配機構)」に抗議したのが「1906年」。 外交権が奪われて抗議することが出来なかったと言うが、日本が韓国の外交面を担当するようになった「1905年」以後の「1906年」に、「江原道蔚珍郡近北面竹邊浦」(現在の蔚珍郡(ウルチン)は、韓国慶尚北道東北部の郡。)にあった、日本海軍望楼の跡地を巡る日本人同士の土地取引を巡る一件では「大韓帝国」が、「統監府」に「抗議して、阻止されている」。  
「竹島/独島」から韓国まで「約215km」、「鬱陵島」までは「約92km」なのだが、外交権を奪われた後で、韓国国内の土地に関しては「抗議」「主張」して「阻止」出来るのであれば、外交権が奪われる以前の、韓国から「約215km」離れている、「鬱陵島」からは「約92km」離れている小さな島で中井養三郎の「りゃんこ島(竹島)領土編入並に貸下願」に「俗にりゃんこ島と称する無人島有」とあるように、「無人島」の「竹島編入」に抗議できないわけがない。  
韓国は、「1945年」の日本の統治支配からの解放の後も、「大韓民国政府」の樹立と同年「1948年」になっても韓国の領域は「極東 東経130度56分23秒(慶尚北道 鬱陵島 竹島(チュクド・日本名・竹嶼)」とある。「竹島」の東経は「131度」です。「竹嶼(チュクド)」の東経は「130度」です。「竹島/独島」を韓国の領域に入れてはいません。  
侵略を受けていたから抗議出来なかったと言うのなら、解放された後で言える。元々、韓国は竹島を実効支配はしていないのです。
“強圧的に行われた日本の独島侵奪は、基本的に無効です。”  
結論 全く、「強奪」でも「強制」でも何でもない。韓国は抗議、主張できる立場にあった。 
 

 

 
 

 

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