日本の美意識 [2]

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雑学の世界・補考   

「いき」

「いき」の構造 / 九鬼周造  
いき / 意気
江戸における美意識(美的観念)のひとつであった。江戸時代後期に、江戸深川の芸者(辰巳芸者)についていったのがはじまりとされる。身なりや振る舞いが洗練されていて、格好よいと感じられること。また、人情に通じていること、遊び方を知っていることなどの意味も含む。「粋」とも書くが、上方では「粋」を「すい」と読んだ。反対語は野暮(やぼ)または無粋である。
「いき」には、単純美への志向であり、「庶民の生活」から生まれてきた美意識である。また、「いき」は親しみやすく明快で、意味は拡大されているが、現在の日常生活でも広く使われる言葉である。 わび・さびには、日本の美的観念という共通部分もあるが「いき」とは大きく違う。
いきでいなせ
「いきでいなせ」という言葉がある。舟木一夫の「火消し若衆」において、「火事とけんか」や「男っぷり」と歌われており、喧嘩っ早い火消しの江戸っ子を表現している。この語をわけて『「いき」は火消しの事で「いなせ」は魚屋の事』という説もあるが、これは定かとなっていない。江戸っ子は地味な服を好むがいきなオシャレを楽しんだとされる。
『佃節』では「いきな深川、いなせな神田、人の悪いは麹町」と読まれている。
九鬼による「いき」
九鬼周造『「いき」の構造』(1930)では、「いき」という江戸特有の美意識が初めて哲学的に考察された。九鬼周造は『「いき」の構造』において、いきを「他の言語に全く同義の語句が見られない」ことから日本独自の美意識として位置付けた。外国語で意味が近いものに「coquetterie」「esprit」などを挙げたが、形式を抽象化することによって導き出される類似・共通点をもって文化の理解としてはならないとし、経験的具体的に意識できることをもっていきという文化を理解するべきであると唱えた。
また別の面として、いきの要諦には江戸の人々の道徳的理想が色濃く反映されており、それは「いき」のうちの「意気地」に集約される。いわゆるやせ我慢と反骨精神にそれが表れており、「宵越しの金を持たぬ」と言う気風と誇りが「いき」であるとされた。九鬼周造はその著書において端的に「理想主義の生んだ『意気地』によって霊化されていることが『いき』の特色である。」と述べている。
九鬼の議論では、「いき」が町人の文化であることを軽視している点、西洋哲学での理屈付けをしている点には批判もある。
故日浦日向子氏のNHK「お江戸でござる」での解説によると「宵越しの銭は要らねぇ」の後に「金なら欲しいがな」と続くのが正しく「宵越しの金は持たぬ」と言うのは間違いらしい。
いきと粋(すい)
いきは粋と表記されることが多いが、これは明治になってからのことで、上方の美意識である「粋(すい)」とは区別しなければならない。「いき」は「意気」とも表記される。上方の「粋(すい)」が恋愛や装飾などにおいて突き詰めた末に結晶される文化様式(結果としての、心中や絢爛豪華な振袖の着物など)、字のごとく純粋の「粋(すい)」であるのに対し、江戸における「いき」とは突き詰めない、上記で解説した異性間での緊張を常に緊張としておくために、突き放さず突き詰めず、常に距離を接近せしめることによって生まれると言われる。 『守貞謾稿』には、「京坂は男女ともに艶麗優美を専らとし、かねて粋を欲す。江戸は意気を専らとして美を次として、風姿自づから異あり。これを花に比するに艶麗は牡丹なり。優美は桜花なり。粋と意気は梅なり。しかも京坂の粋は紅梅にして、江戸の意気は白梅に比して可ならん」と書かれている。
「いき」と「粋(すい)」の内容に大差はないという説もある。たとえば、『「いき」の構造』において九鬼周造は、「いき」と「粋(すい)」は同一の意味内容を持つと論じている。
また、「粋(すい)」という文字と「意気」の意味とが融合して、その後の「粋(いき)」へ繋がったという説もある。 
意気地 (いくじ / いきじの音変化)
事をやりとげようとする気力。自分自身や他人に対する面目から、自分の意志をあくまで通そうとする気構え。他人と張り合ってでも、自分の思う事をやりとげようという気構え。気力。意地。いくじ。「―を立てる」「男の―」
意気地の言及【いき】… 本来は〈意気〉の漢字があてられるが、後には〈粋〉とも書かれて、より美的な理念となった。〈意気〉は〈意気地〉でもあり、人間が事に処してきっぱりとした決断を示す精神作用を称美したものであるが、江戸初期から遊里などで男女の精神的清潔さを称美する言葉として用いられ始め、以後“粋”や“通”といった理念の中の精神面を形成する重要な要素として存在し続け、江戸後期にいたって、いやみがなく、あだっぽい色気というような意味で用いられて流行語となった。とくに人情本の女性の表現に用いられるのがその代表的な例で、その内容については九鬼周造の「いきの構造」(1930)に考察がある。…
意気地がない / やりとげようとがんばる気力がない。だらしがない。しまりがない。「これしきで弱音をはくとは―」「泥溝板(どぶいた)のうえに―下駄の音が聞えて」〈万太郎・末枯〉 
この書は雑誌『思想』第九十二号および第九十三号(昭和五年一月号および二月号)所載の論文に修補を加えたものである。生きた哲学は現実を理解し得るものでなくてはならぬ。我々は「いき」という現象のあることを知っている。しからばこの現象はいかなる構造をもっているか。「いき」とは畢竟(ひっきょう)わが民族に独自な「生き」かたの一つではあるまいか。現実をありのままに把握することが、また、味得さるべき体験を論理的に言表することが、この書の追う課題である。 昭和五年十月   
一 序説
二 「いき」の内包的構造
三 「いき」の外延的構造
四 「いき」の自然的表現
五 「いき」の芸術的表現
六 結論  
一 序説

 

「いき」という現象はいかなる構造をもっているか。まず我々は、いかなる方法によって「いき」の構造を闡明(せんめい)し、「いき」の存在を把握することができるであろうか。「いき」が一の意味を構成していることはいうまでもない。また「いき」が言語として成立していることも事実である。しからば「いき」という語は各国語のうちに見出(みいだ)されるという普遍性を備えたものであろうか。我々はまずそれを調べてみなければならない。そうして、もし「いき」という語がわが国語にのみ存するものであるとしたならば、「いき」は特殊の民族性をもった意味であることになる。しからば特殊な民族性をもった意味、すなわち特殊の文化存在はいかなる方法論的態度をもって取扱わるべきものであろうか。「いき」の構造を明らかにする前に我々はこれらの先決問題に答えなければならぬ。
まず一般に言語というものは民族といかなる関係を有するものか。言語の内容たる意味と民族存在とはいかなる関係に立つか。意味の妥当問題は意味の存在問題を無用になし得るものではない。否(いな)、往々、存在問題の方が原本的である。我々はまず与えられた具体から出発しなければならない。我々に直接に与えられているものは「我々」である。また我々の綜合と考えられる「民族」である。そうして民族の存在様態は、その民族にとって核心的のものである場合に、一定の「意味」として現われてくる。また、その一定の意味は「言語」によって通路を開く。それ故に一の意味または言語は、一民族の過去および現在の存在様態の自己表明、歴史を有する特殊の文化の自己開示にほかならない。したがって、意味および言語と民族の意識的存在との関係は、前者が集合して後者を形成するのではなくて、民族の生きた存在が意味および言語を創造するのである。両者の関係は、部分が全体に先立つ機械的構成関係ではなくて、全体が部分を規定する有機的構成関係を示している。それ故に、一民族の有する或る具体的意味または言語は、その民族の存在の表明として、民族の体験の特殊な色合(いろあい)を帯びていないはずはない。
もとより、いわゆる自然現象に属する意味および言語は大なる普遍性をもっている。しかもなお、その普遍性たるや決して絶対的のものではない。例えばフランス語の ciel とか bois とかいう語を英語の sky, wood 、ドイツ語の Himmel, Wald と比較する場合に、その意味内容は必ずしも全然同一のものではない。これはその国土に住んだことのある者は誰しも直ちに了解することである。Le ciel est triste et beau の ciel と、 What shapes of sky or plain? の sky と、 Der bestirnte Himmel ber mir の Himmel とは、国土と住民とによっておのおのその内容に特殊の規定を受けている。自然現象に関する言葉でさえ既にかようであるから、まして社会の特殊な現象に関する語は他国語に意味の上での厳密なる対当者を見出すことはできない。ギリシャ語のπολισにしてもεταιραにしても、フランス語の ville や courtisane とは異なった意味内容をもっている。またたとえ語源を同じくするものでも、一国語として成立する場合には、その意味内容に相違を生じてくる。ラテン語の caesar とドイツ語の Kaiser との意味内容は決して同一のものではない。
無形的な意味および言語においても同様である。のみならず、或る民族の特殊の存在様態が核心的のものとして意味および言語の形で自己を開示しているのに、他の民族は同様の体験を核心的のものとして有せざるがために、その意味および言語を明らかに欠く場合がある。例えば、esprit という意味はフランス国民の性情と歴史全体とを反映している。この意味および言語は実にフランス国民の存在を予想するもので、他の民族の語彙ごいのうちに索もとめても全然同様のものは見出し得ない。ドイツ語では Geist をもってこれに当てるのが普通であるが、 Geist の固有の意味はヘーゲルの用語法によって表現されているもので、フランス語の esprit とは意味を異にしている。 geistreich という語もなお esprit の有する色合を完全にもっているものではない。もし、もっているとすれば、それは意識的に esprit の翻訳としてこの語を用いた場合のみである。その場合には本来の意味内容のほかに強しいて他の新しい色彩を帯びさせられたものである。否いな、他の新しい意味を言語の中に導入したものである。そうしてその新しい意味は自国民が有機的に創造したものではなくて、他国から機械的に輸入したものに過ぎないのである。英語の spirit も intelligence も wit もみな esprit ではない。前の二つは意味が不足しているし、 wit は意味が過剰である。なお一例を挙げれば Sehnsucht という語はドイツ民族が産んだ言葉であって、ドイツ民族とは有機的関係をもっている。陰鬱いんうつな気候風土や戦乱の下もとに悩んだ民族が明るい幸さちある世界に憬あこがれる意識である。レモンの花咲く国に憧あこがれるのは単にミニョンの思郷の情のみではない。ドイツ国民全体の明るい南に対する悩ましい憧憬しょうけいである。「夢もなお及ばない遠い未来のかなた、彫刻家たちのかつて夢みたよりも更に熱い南のかなた、神々が踊りながら一切の衣裳を恥ずる彼地かのちへ{1}」の憧憬、ニイチェのいわゆる flgelbrausende Sehnsucht はドイツ国民の斉ひとしく懐くものである。そうしてこの悩みはやがてまた noumenon の世界の措定そていとして形而上的けいじじょうてき情調をも取って来るのである。英語の longing またはフランス語の langueur, soupir, dsir などは Sehnsucht の色合の全体を写し得るものではない。ブートルーは「神秘説の心理」と題する論文のうちで、神秘説に関して「その出発点は精神の定義しがたい一の状態で、ドイツ語の Sehnsucht がこの状態をかなり善よく言い表わしている{2}」といっているが、すなわち彼はフランス語のうちに Sehnsucht の意味を表現する語のないことを認めている。
「いき」という日本語もこの種の民族的色彩の著しい語の一つである。いま仮りに同意義の語を欧洲語のうちに索めてみよう。まず英、独の両語でこれに類似するものは、ほとんど悉ことごとくフランス語の借用に基づいている。しからばフランス語のうちに「いき」に該当するものを見出すことができるであろうか。第一に問題となるのは chic という言葉である。この語は英語にもドイツ語にもそのまま借用されていて、日本ではしばしば「いき」と訳される。元来、この語の語源に関しては二説ある。一説によれば chicane の略で裁判沙汰を縺もつれさせる「繊巧せんこうな詭計きけい」を心得ているというような意味がもとになっている。他説によれば chic の原形は schick である。すなわち schicken から来たドイツ語である。そうして geschickt と同じに、諸事についての「巧妙」の意味をもっていた。その語をフランスが輸入して、次第に趣味についての lgant に近接する意味に変えて用いるようになった。今度はこの新しい意味をもった chic として、すなわちフランス語としてドイツにも逆輸入された。しからば、この語の現在有する意味はいかなる内容をもっているかというに、決して「いき」ほど限定されたものではない。外延のなお一層広いものである。すなわち「いき」をも「上品」をも均ひとしく要素として包摂ほうせつし、「野暮やぼ」「下品」などに対して、趣味の「繊巧」または「卓越」を表明している。次に coquet という語がある。この語は coq から来ていて、一羽の雄鶏おんどりが数羽の牝鶏めんどりに取巻かれていることを条件として展開する光景に関するものである。すなわち「媚態的びたいてき」を意味する。この語も英語にもドイツ語にもそのまま用いられている。ドイツでは十八世紀に coquetterie に対して Fngereiという語が案出されたが一般に通用するに至らなかった。この特に「フランス的」といわれる語は確かに「いき」の徴表ちょうひょうの一つを形成している。しかしなお、他の徴表の加わらざる限り「いき」の意味を生じては来ない。しかのみならず徴表結合の如何いかんによっては「下品」ともなり「甘く」もなる。カルメンがハバネラを歌いつつドン・ジョゼに媚こびる態度は coquetterie には相違ないが決して「いき」ではない。なおまたフランスには raffinという語がある。 re-affiner すなわち「一層精細にする」という語から来ていて、「洗練」を意味する。英語にもドイツ語にも移って行っている。そうしてこの語は「いき」の徴表の一をなすものである。しかしながら「いき」の意味を成すにはなお重要な徴表を欠いている。かつまた或る徴表と結合する場合には「いき」と或る意味で対立している「渋味」となることもできる。要するに「いき」は欧洲語としては単に類似の語を有するのみで全然同価値の語は見出し得ない。したがって「いき」とは東洋文化の、否、大和やまと民族の特殊の存在様態の顕著な自己表明の一つであると考えて差支さしつかえない。
もとより「いき」と類似の意味を西洋文化のうちに索めて、形式化的抽象によって何らか共通点を見出すことは決して不可能ではない。しかしながら、それは民族の存在様態としての文化存在の理解には適切な方法論的態度ではない。民族的、歴史的存在規定をもった現象を自由に変更して可能の領域においていわゆる「イデアチオン」を行おこなっても、それは単にその現象を包含する抽象的の類概念を得るに過ぎない。文化存在の理解の要諦ようたいは、事実としての具体性を害そこなうことなくありのままの生ける形態において把握することである。ベルクソンは、薔薇ばらの匂においを嗅かいで過去を回想する場合に、薔薇の匂が与えられてそれによって過去のことが連想されるのではない。過去の回想を薔薇の匂のうちに嗅ぐのであるといっている。薔薇の匂という一定不変のもの、万人に共通な類概念的のものが現実として存するのではない。内容を異にした個々の匂があるのみである。そうして薔薇の匂という一般的なものと回想という特殊なものとの連合によって体験を説明するのは、多くの国語に共通なアルファベットの幾字かを並べて或る一定の国語の有する特殊な音おんを出そうとするようなものであるといっている{3}。「いき」の形式化的抽象を行って、西洋文化のうちに存する類似の現象との共通点を求めようとするのもその類たぐいである。およそ「いき」の現象の把握に関して方法論的考察をする場合に、我々はほかでもない universalia の問題に面接している。アンセルムスは、類るい概念を実在であると見る立場に基づいて、三位さんみは畢竟ひっきょう一体の神であるという正統派の信仰を擁護した。それに対してロスケリヌスは、類概念を名目に過ぎずとする唯名論ゆいめいろんの立場から、父と子と聖霊の三位は三つの独立した神々であることを主張して、三神説の誹そしりを甘受した。我々は「いき」の理解に際して universalia の問題を唯名論の方向に解決する異端者たるの覚悟を要する。すなわち、「いき」を単に種しゅ概念として取扱って、それを包括する類概念の抽象的普遍を向観する「本質直観」を索もとめてはならない。意味体験としての「いき」の理解は、具体的な、事実的な、特殊な「存在会得えとく」でなくてはならない。我々は「いき」の essentia を問う前に、まず「いき」の existentia を問うべきである。一言にしていえば「いき」の研究は「形相的」であってはならない。「解釈的」であるべきはずである{4}。
しからば、民族的具体の形で体験される意味としての「いき」はいかなる構造をもっているか。我々はまず意識現象の名の下もとに成立する存在様態としての「いき」を会得し、ついで客観的表現を取った存在様態としての「いき」の理解に進まなければならぬ。前者を無視し、または前者と後者との考察の順序を顛倒てんとうするにおいては「いき」の把握は単に空むなしい意図に終るであろう。しかも、たまたま「いき」の闡明せんめいが試みられる場合には、おおむねこの誤謬ごびゅうに陥っている。まず客観的表現を研究の対象として、その範囲内における一般的特徴を索めるから、客観的表現に関する限りでさえも「いき」の民族的特殊性の把握に失敗する。また客観的表現の理解をもって直ちに意識現象の会得と見做みなすため、意識現象としての「いき」の説明が抽象的、形相的に流れて、歴史的、民族的に規定された存在様態を、具体的、解釈的に闡明することができないのである。我々はそれと反対に具体的な意識現象から出発しなければならぬ。

{1}Nietzsche, Also sprach Zarathustra, Teil III, Von alten und neuen Tafeln.
{2}Boutroux, La psychologie du mysticisme(La nature et l'esprit, 1926, p. 177).
{3}Bergson, Essai sur les donnes immdiates de la conscience, 20e d., 1921, p. 124.
{4}「形相的」および「解釈的」の意義につき、また「本質」と「存在」との関係については左の諸書参照。
Husserl, Ideen zu einer reinen Phnomenologie, 1913, I, S. 4, S. 12.
Heidegger, Sein und Zeit, 1927, I, S. 37 f.
Oskar Becker, Mathematische Existenz, 1927, S. 1.
二「いき」の内包的構造

 

意識現象の形において意味として開示される「いき」の会得えとくの第一の課題として、我々はまず「いき」の意味内容を形成する徴表を内包的に識別してこの意味を判明ならしめねばならない。ついで第二の課題として、類似の諸意味とこの意味との区別を外延的に明らかにしてこの意味に明晰を与えることを計らねばならない。かように「いき」の内包的構造と外延的構造とを均ひとしく闡明せんめいすることによって、我々は意識現象としての「いき」の存在を完全に会得することができるのである。
まず内包的見地にあって、「いき」の第一の徴表は異性に対する「媚態」である。異性との関係が「いき」の原本的存在を形成していることは、「いきごと」が「いろごと」を意味するのでもわかる。「いきな話」といえば、異性との交渉に関する話を意味している。なお「いきな話」とか「いきな事」とかいううちには、その異性との交渉が尋常の交渉でないことを含んでいる。近松秋江ちかまつしゅうこうの『意気なこと』という短篇小説は「女を囲う」ことに関している。そうして異性間の尋常ならざる交渉は媚態びたいの皆無を前提としては成立を想像することができない。すなわち「いきな事」の必然的制約は何らかの意味の媚態である。しからば媚態とは何であるか。媚態とは、一元的の自己が自己に対して異性を措定そていし、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。そうして「いき」のうちに見られる「なまめかしさ」「つやっぽさ」「色気」などは、すべてこの二元的可能性を基礎とする緊張にほかならない。いわゆる「上品」はこの二元性の欠乏を示している。そうしてこの二元的可能性は媚態の原本的存在規定であって、異性が完全なる合同を遂とげて緊張性を失う場合には媚態はおのずから消滅する。媚態は異性の征服を仮想的目的とし、目的の実現とともに消滅の運命をもったものである。永井荷風ながいかふうが『歓楽』のうちで「得ようとして、得た後の女ほど情なさけ無いものはない」といっているのは、異性の双方において活躍していた媚態の自己消滅によって齎もたらされた「倦怠、絶望、嫌悪」の情を意味しているに相違ない。それ故に、二元的関係を持続せしむること、すなわち可能性を可能性として擁護することは、媚態の本領であり、したがって「歓楽」の要諦ようたいである。しかしながら、媚態の強度は異性間の距離の接近するに従って減少するものではない。距離の接近はかえって媚態の強度を増す。菊池寛きくちかんの『不壊ふえの白珠しらたま』のうちで「媚態」という表題の下に次の描写がある。「片山かたやま氏は……玲子れいこと間隔をあけるやうに、なるべく早足に歩かうとした。だが、玲子は、そのスラリと長い脚で……片山氏が、離れようとすればするほど寄り添つて、すれずれに歩いた」。媚態の要は、距離を出来得る限り接近せしめつつ、距離の差が極限に達せざることである。可能性としての媚態は、実に動的可能性として可能である。アキレウスは「そのスラリと長い脚で」無限に亀かめに近迫するがよい。しかし、ヅェノンの逆説を成立せしめることを忘れてはならない。けだし、媚態とは、その完全なる形においては、異性間の二元的、動的可能性が可能性のままに絶対化されたものでなければならない。「継続された有限性」を継続する放浪者、「悪い無限性」を喜ぶ悪性者あくしょうもの、「無窮に」追跡して仆たおれないアキレウス、この種の人間だけが本当の媚態を知っているのである。そうして、かような媚態が「いき」の基調たる「色っぽさ」を規定している。
「いき」の第二の徴表は「意気」すなわち「意気地」である。意識現象としての存在様態である「いき」のうちには、江戸文化の道徳的理想が鮮やかに反映されている。江戸児えどっこの気概が契機として含まれている。野暮と化物とは箱根より東に住まぬことを「生粋きっすい」の江戸児は誇りとした。「江戸の花」には、命をも惜しまない町火消まちびけし、鳶者とびのものは寒中でも白足袋しろたびはだし、法被はっぴ一枚の「男伊達おとこだて」を尚とうとんだ。「いき」には、「江戸の意気張り」「辰巳たつみの侠骨きょうこつ」がなければならない。「いなせ」「いさみ」「伝法でんぽう」などに共通な犯すべからざる気品・気格がなければならない。「野暮は垣根の外がまへ、三千楼の色競くらべ、意気地いきじくらべや張競べ」というように、「いき」は媚態でありながらなお異性に対して一種の反抗を示す強味をもった意識である。「鉢巻の江戸紫」に「粋いきなゆかり」を象徴する助六すけろくは「若い者、間近く寄つてしやつつらを拝み奉れ、やい」といって喧嘩を売る助六であった。「映らふ色やくれなゐの薄花桜」と歌われた三浦屋の揚巻あげまきも髭ひげの意休いきゅうに対して「慮外ながら揚巻で御座んす。暗がりで見ても助六さんとお前、取違へてよいものか」という思い切った気概を示した。「色と意気地を立てぬいて、気立きだてが粋すいで」とはこの事である。かくして高尾たかおも小紫こむらさきも出た。「いき」のうちには溌剌はつらつとして武士道の理想が生きている。「武士は食わねど高楊枝たかようじ」の心が、やがて江戸者の「宵越よいごしの銭ぜにを持たぬ」誇りとなり、更にまた「蹴けころ」「不見転みずてん」を卑いやしむ凛乎りんこたる意気となったのである。「傾城けいせいは金でかふものにあらず、意気地にかゆるものとこころへべし」とは廓くるわの掟おきてであった。「金銀は卑しきものとて手にも触れず、仮初かりそめにも物の直段ねだんを知らず、泣言なきごとを言はず、まことに公家大名くげだいみょうの息女そくじょの如し」とは江戸の太夫たゆうの讃美であった。「五丁町ごちょうまちの辱はじなり、吉原よしわらの名折れなり」という動機の下もとに、吉原の遊女は「野暮な大尽だいじんなどは幾度もはねつけ」たのである。「とんと落ちなば名は立たん、どこの女郎衆じょろしゅの下紐したひもを結ぶの神の下心」によって女郎は心中立しんじゅうだてをしたのである。理想主義の生んだ「意気地」によって媚態が霊化されていることが「いき」の特色である。
「いき」の第三の徴表は「諦め」である。運命に対する知見に基づいて執着しゅうじゃくを離脱した無関心である。「いき」は垢抜あかぬけがしていなくてはならぬ。あっさり、すっきり、瀟洒しょうしゃたる心持でなくてはならぬ。この解脱げだつは何によって生じたのであろうか。異性間の通路として設けられている特殊な社会の存在は、恋の実現に関して幻滅の悩みを経験させる機会を与えやすい。「たまたま逢ふに切れよとは、仏姿ほとけすがたにあり乍ながら、お前は鬼か清心様せいしんさま」という歎きは十六夜いざよいひとりの歎きではないであろう。魂を打込んだ真心が幾度か無惨に裏切られ、悩みに悩みを嘗なめて鍛えられた心がいつわりやすい目的に目をくれなくなるのである。異性に対する淳朴じゅんぼくな信頼を失ってさっぱりと諦あきらむる心は決して無代価で生れたものではない。「思ふ事、叶はねばこそ浮世とは、よく諦めた無理なこと」なのである。その裏面には「情つれないは唯ただうつり気な、どうでも男は悪性者あくしょうもの」という煩悩ぼんのうの体験と、「糸より細き縁ぢやもの、つい切れ易く綻ほころびて」という万法の運命とを蔵している。そうしてその上で「人の心は飛鳥川あすかがわ、変るは勤めのならひぢやもの」という懐疑的な帰趨きすうと、「わしらがやうな勤めの身で、可愛かわいと思ふ人もなし、思うて呉くれるお客もまた、広い世界にないものぢやわいな」という厭世的な結論とを掲げているのである。「いき」を若い芸者に見るよりはむしろ年増としまの芸者に見出すことの多いのはおそらくこの理由によるものであろう{1}。要するに、「いき」は「浮かみもやらぬ、流れのうき身」という「苦界くがい」にその起原をもっている。そうして「いき」のうちの「諦め」したがって「無関心」は、世智辛せちがらい、つれない浮世の洗練を経てすっきりと垢抜した心、現実に対する独断的な執着を離れた瀟洒として未練のない恬淡無碍てんたんむげの心である。「野暮は揉もまれて粋となる」というのはこの謂いいにほかならない。婀娜あだっぽい、かろらかな微笑の裏に、真摯しんしな熱い涙のほのかな痕跡こんせきを見詰めたときに、はじめて「いき」の真相を把握はあくし得たのである。「いき」の「諦め」は爛熟頽廃らんじゅくたいはいの生んだ気分であるかもしれない。またその蔵する体験と批判的知見とは、個人的に獲得したものであるよりは社会的に継承したものである場合が多いかもしれない。それはいずれであってもよい。ともかくも「いき」のうちには運命に対する「諦め」と、「諦め」に基づく恬淡とが否いなみ得ない事実性を示している。そうしてまた、流転るてん、無常を差別相の形式と見、空無くうむ、涅槃ねはんを平等相の原理とする仏教の世界観、悪縁にむかって諦めを説き、運命に対して静観を教える宗教的人生観が背景をなして、「いき」のうちのこの契機を強調しかつ純化していることは疑いない。
以上を概括すれば、「いき」の構造は「媚態」と「意気地」と「諦め」との三契機を示している。そうして、第一の「媚態」はその基調を構成し、第二の「意気地」と第三の「諦め」の二つはその民族的、歴史的色彩を規定している。この第二および第三の徴表は、第一の徴表たる「媚態」と一見相容あいいれないようであるが、はたして真に相容れないであろうか。さきに述べたように、媚態の原本的存在規定は二元的可能性にある。しかるに第二の徴表たる「意気地」は理想主義の齎もたらした心の強味で、媚態の二元的可能性に一層の緊張と一層の持久力とを呈供ていきょうし、可能性を可能性として終始せしめようとする。すなわち「意気地」は媚態の存在性を強調し、その光沢を増し、その角度を鋭くする。媚態の二元的可能性を「意気地」によって限定することは、畢竟ひっきょう、自由の擁護を高唱するにほかならない。第三の徴表たる「諦め」も決して媚態と相容れないものではない。媚態はその仮想的目的を達せざる点において、自己に忠実なるものである。それ故に、媚態が目的に対して「諦め」を有することは不合理でないのみならず、かえって媚態そのものの原本的存在性を開示せしむることである。媚態と「諦め」との結合は、自由への帰依きえが運命によって強要され、可能性の措定そていが必然性によって規定されたことを意味している。すなわち、そこには否定による肯定が見られる。要するに、「いき」という存在様態において、「媚態」は、武士道の理想主義に基づく「意気地」と、仏教の非現実性を背景とする「諦め」とによって、存在完成にまで限定されるのである。それ故に、「いき」は媚態の「粋すい」{2}である。「いき」は安価なる現実の提立ていりつを無視し、実生活に大胆なる括弧かっこを施し、超然として中和の空気を吸いながら、無目的なまた無関心な自律的遊戯をしている。一言にしていえば、媚態のための媚態である。恋の真剣と妄執とは、その現実性とその非可能性によって「いき」の存在に悖もとる。「いき」は恋の束縛に超越した自由なる浮気心でなければならぬ。「月の漏もるより闇がよい」というのは恋に迷った暗がりの心である。「月がよいとの言草ことぐさ」がすなわち恋人にとっては腹の立つ「粋な心」である。「粋な浮世を恋ゆえに野暮にくらすも心から」というときも、恋の現実的必然性と、「いき」の超越的可能性との対峙たいじが明示されている。「粋と云いはれて浮いた同士どし」が「つひ岡惚おかぼれの浮気から」いつしか恬淡洒脱てんたんしゃだつの心を失って行った場合には「またいとしさが弥増いやまして、深く鳴子の野暮らしい」ことを託かこたねばならない。「蓮はすの浮気は一寸ちょいと惚ぼれ」という時は未だ「いき」の領域にいた。「野暮な事ぢやが比翼紋ひよくもん、離れぬ中なか」となった時には既に「いき」の境地を遠く去っている。そうして「意気なお方につり合ぬ、野暮なやの字の屋敷者」という皮肉な嘲笑を甘んじて受けなければならぬ。およそ「胸の煙は瓦焼く竈かまどにまさる」のは「粋な小梅こうめの名にも似ぬ」のである。スタンダアルのいわゆる amour-passion の陶酔はまさしく「いき」からの背離である。「いき」に左袒さたんする者は amour-gotの淡い空気のうちで蕨わらびを摘んで生きる解脱げだつに達していなければならぬ。しかしながら、「いき」はロココ時代に見るような「影に至るまでも一切が薔薇色の絵{3}」ではない。「いき」の色彩はおそらく「遠つ昔の伊達姿、白茶苧袴しらちゃおばかま」の白茶色であろう。
要するに「いき」とは、わが国の文化を特色附けている道徳的理想主義と宗教的非現実性との形相因によって、質料因たる媚態が自己の存在実現を完成したものであるということができる。したがって「いき」は無上の権威を恣ほしいままにし、至大の魅力を振うのである。「粋な心についたらされて、嘘うそと知りてもほんまに受けて」という言葉はその消息を簡明に語っている。ケレルマンがその著『日本に於おける散歩』のうちで、日本の或る女について「欧羅巴ヨーロッパの女がかつて到達しない愛嬌をもって彼女は媚こびを呈した{4}」といっているのは、おそらく「いき」の魅惑を感じたのであろう。我々は最後に、この豊かな特彩をもつ意識現象としての「いき」、理想性と非現実性とによって自己の存在を実現する媚態としての「いき」を定義して「垢抜して(諦)、張のある(意気地)、色っぽさ(媚態)」ということができないであろうか。

{1}『春色辰巳園しゅんしょくたつみのその』巻之七に「さぞ意気な年増としまになるだらうと思ふと、今ツから楽しみだわ」という言葉がある。また『春色梅暦しゅんしょくうめごよみ』巻之二に「素顔の意気な中年増ちゅうどしま」ということもある。また同書巻之一に「意気な美しいおかみさんが居ると言ひましたから、それぢやア違ツたかと思つて、猶なおくはしく聞いたれば、おまはんの年よりおかみさんの方が、年うへのやうだといひますし云々」の言葉があるが、すなわち、ここでは「いき」と形容されている女は、男よりも年上である。一般に「いき」は知見を含むもので、したがって「年の功」を前提としている。「いき」の所有者は、「垢のぬけたる苦労人」でなければならない。
{2}我々が問題を見ている地平にあっては、「いき」と「粋すい」とを同一の意味内容を有するものと考えても差支ないと思う。式亭三馬の『浮世風呂うきよぶろ』第二編巻之上で、染色に関して、江戸の女と上方かみがたの女との間に次の問答がある。江戸女「薄紫うすむらさきといふやうなあんばいで意気だねえ」上方女「いつかう粋ぢや。こちや江戸紫えどむらさきなら大好だいすき/\」。すなわち、「いき」と「粋」とはこの場合全然同意義である。染色の問答に続いて、三馬はこの二人の女に江戸語と上方語との巧みな使い別けをさせている。のみならず「すつぽん」と「まる」、「から」と「さかい」などのような、江戸語と上方語との相違について口論をさせている。「いき」と「粋」との相違は、同一内容に対する江戸語と上方語との相違であるらしい。したがって、両語の発達を時代的に規定することが出来るかもしれない(『元禄文学辞典』『近松語彙ちかまつごい』参照)。もっとも単に土地や時代の相違のみならず、意識現象には好んで「粋すい」の語を用い、客観的表現には主として「いき」の語を使うように考えられる場合もある。例えば『春色梅暦』巻之七に出ている流行唄はやりうたに「気だてが粋で、なりふりまでも意気で」とある。しかし、また同書巻之九に「意気の情なさけの源」とあるように、意識現象に「いき」の語を用いる場合も多いし、『春色辰巳園』巻之三に「姿も粋な米八よねはち」といっているように、客観的表現に「粋」の語を使う場合も少なくない。要するに、「いき」と「粋」とは意味内容を同じくするものと見て差支ないであろう。また、たとえ一は特に意識現象に、他は専ら客観的表現に用いられると仮定しても、客観的表現とは意識現象の客観化にほかならず、したがって両者は結局その根柢においては同一意味内容をもっていることになる。
{3}Stendhal, De l'amour, livre I, chapitre I.
{4}Kellermann, Ein Spaziergang in Japan, 1924, S. 256.  
三「いき」の外延的構造

 

前節において、我々は「いき」の包含する徴表を内包的に弁別して、「いき」の意味を判明ならしめたつもりである。我々はここに、「いき」と「いき」に関係を有する他の諸意味との区別を考察して、外延的に「いき」の意味を明晰めいせきならしめねばならない。
「いき」に関係を有する主要な意味は「上品」、「派手はで」、「渋味」などである。これらはその成立上の存在規定に遡さかのぼって区分の原理を索もとめる場合に、おのずから二群に分かれる。「上品」や「派手」が存在様態として成立する公共圏は、「いき」や「渋味」が存在様態として成立する公共圏とは性質を異ことにしている。そうしてこの二つの公共圏のうち、「上品」および「派手」の属するものは人性的一般存在であり、「いき」および「渋味」の属するものは異性的特殊存在であると断定してもおそらく誤りではなかろう。
これらの意味は大概みなその反対意味をもっている。「上品」は対立者として「下品」をもっている。「派手」は対立者に「地味」を有する。「いき」の対立者は「野暮」である。ただ、「渋味」だけは判然たる対立者をもっていない。普通には「渋味」と「派手」とを対立させて考えるが、「派手」は相手として「地味」をもっている。さて、「渋味」という言葉はおそらく柿の味から来ているのであろう。しかるに柿は「渋味」のほかになお「甘味」をももっている。渋柿に対しては甘柿がある。それ故、「渋味」の対立者としては「甘味」を考えても差支ないと信ずる。渋茶、甘茶、渋糟しぶかす、甘糟、渋皮、甘皮などの反対語の存在も、この対立関係を裏書する。しからば、これらの対立意味はどういう内容をもっているか。また、「いき」といかなる関係に立っているか。
(一) 上品―下品とは価値判断に基づいた対自性の区別、すなわち物自身の品質上の区別である。言葉が表わしているように、上品とは品柄の勝すぐれたもの、下品とは品柄の劣ったものを指している。ただし品ひんの意味は一様ではない。上品、下品とはまず物品に関する区別であり得る。ついで人事にもこの区別が適用される。「上品無寒門、下品無勢族」というときには、上品、下品は、人事関係、特に社会的階級性に関係したものとして見られている。歌麿うたまろの『風俗三段娘』は、上品之部、中品之部、下品之部の三段に分れているが、当時の婦女風俗を上流、中流、下流の三に分って描いている。なお仏教語として品を呉音ごおんで読んで極楽浄土の階級性を表わす場合もあるが、広義における人事関係と見て差支ない。上品、下品の対立は、人事関係に基づいて更に人間の趣味そのものの性質を表明するようになり、上品とは高雅なこと、下品とは下卑げびたことを意味するようになる。
しからば「いき」とこれらの意味とはいかなる関係に立っているであろうか。上品は人性的一般存在の公共圏に属するものとして、媚態とは交渉ないものと考えられる。『春色梅暦しゅんしょくうめごよみ』に藤兵衛の母親に関して「さも上品なるそのいでたち」という形容があるが、この母親は既に後家になっているのみならず「歳としのころ、五十歳いそじあまりの尼御前あまごぜ」である。そうして、藤兵衛の情婦お由よしの示す媚態とは絶好の対照をなしている。しかるにまた「いき」は、その徴表中に「意気地いきじ」と「諦め」とを有することに基づいて、趣味の卓越として理解される。したがって、「いき」と上品との関係は、一方に趣味の卓越という意味で有価値的であるという共通点を有し、他方に媚態の有無うむという差異点を有するものと考えられる。また、下品はそれ自身媚態と何ら関係ないことは上品と同様であるが、ただ媚態と一定の関係に置かれやすい性質をもっている。それ故に、「いき」と下品との関係を考える場合には、共通点としては媚態の存在、差異点としては趣味の上下優劣を理解するのが普通である。「いき」が有価値的であるに対して下品は反価値的である。そうしてその場合、しばしば、両者に共通の媚態そのものが趣味の上下によって異なった様態を取るものとして思惟しいされる。たとえば「意気にして賤いやしからず」とか、または「意気で人柄がよくて、下卑た事と云いつたら是計これっぱかりもない」などといっている場合、「いき」と下品との関係が言表いいあらわされている。
「いき」が一方に上品と、他方に下品と、かような関係に立っていることを考えれば、何ゆえにしばしば「いき」が上品と下品との中間者と見做みなされるかの理由がわかって来る。一般に上品に或るものを加えて「いき」となり、更に加えて或る程度を越えると下品になるという見方がある。上品と「いき」とは共に有価値的でありながら或るものの有無によって区別される。その或るものを「いき」は反価値的な下品と共有している。それ故に「いき」は上品と下品との中間者と見られるのである。しかしながら、三者の関係をかように直線的に見るのは二次的に起ったことで、存在規定上、原本的ではない。
(二) 派手―地味とは対他性の様態上の区別である。他に対する自己主張の強度または有無の差である。派手はでとは葉が外へ出るのである。「葉出」の義である。地味じみとは根が地を味わうのである。「地の味」の義である。前者は自己から出て他へ行く存在様態、後者は自己の素質のうちへ沈む存在様態である。自己から出て他へ行くものは華美を好み、花やかに飾るのである。自己のうちへ沈むものは飾りを示すべき相手をもたないから、飾らないのである。豊太閤ほうたいこうは、自己を朝鮮にまでも主張する性情に基づいて、桃山時代の豪華燦爛ごうかさんらんたる文化を致いたした。家康いえやすは「上を見な」「身の程ほどを知れ」の「五字七字」を秘伝とまで考えたから、家臣の美服を戒め鹵簿ろぼの倹素を命じた。そこに趣味の相違が現われている。すなわち、派手、地味の対立はそれ自身においては何ら価値判断を含んでいない非価値的のものである。対立の意味は積極的と消極的との差別に存している。
「いき」との関係をいえば、派手は「いき」と同じに他に対して積極的に媚態を示し得る可能性をもっている。「派手な浮名が嬉しうて」の言葉でもわかる。また「うらはづかしき派手姿も、みなこれ男を思ふより」というときにも、派手と媚態との可能的関係が示されている。しかし、派手の特色たるきらびやかな衒てらいは「いき」のもつ「諦め」と相容れない。江戸褄えどづまの下から加茂川染の襦袢じゅばんを見せるというので「派手娘江戸の下より京を見せ」という句があるが、調和も統一も考えないで単に華美濃艶かびのうえんを衒う「派手娘」の心事と、「つやなし結城ゆうきの五ほんて縞じま、花色裏のふきさへも、たんとはださぬ」粋者すいしゃの意中とには著しい隔へだたりがある。それ故に派手は品質の検校けんこうが行われる場合には、往々趣味の下劣が暴露されて下品の極印ごくいんを押されることがある。地味は原本的に消極的対他関係に立つために「いき」の有する媚態をもち得ない。その代りに樸素ぼくそな地味は、一種の「さび」を見せて「いき」のうちの「諦め」に通う可能性をもっている。地味が品質の検校を受けてしばしば上品の列に加わるのは、さびた心の奥床おくゆかしさによるのである。
(三) 意気―野暮は異性的特殊性の公共圏内における価値判断に基づいた対自性の区別である。もとよりその成立上の存在規定が異性的特殊性である限り、「いき」のうちには異性に対する措定そていが言表されている。しかし、「いき」が野暮と一対いっついの意味として強調している客観的内容は、対他性の強度または有無うむではなく、対自性に関する価値判断である。すなわち「いき」と野暮との対立にあっては、或る特殊な洗練の有無が断定されているのである。「いき」はさきにもいったように字通りの「意気」である。「気象」である。そうして「気象の精粋」の意味とともに、「世態人情に通暁すること」「異性的特殊社会のことに明るいこと」「垢抜あかぬけしていること」を意味してきている。野暮は「野夫やぶ」の音転であるという。すなわち通人粋客に対して、世態に通じない、人情を解しない野人やじん田夫でんぷの意である。それより惹ひいて、「鄙ひなびたこと」「垢抜のしていないこと」を意味するようになってきた。『春告鳥はるつげどり』のうちに「生質野夫やぼにて世間の事をすこしも知らず、青楼妓院せいろうぎいんは夢にも見たる事なし。されば通君子つうくんしの謗そしりすくなからず」という言葉がある。また『英対暖語えいたいだんご』のうちに「唄女はおりとかいふ意気なのでないと、お気には入らないと聞いて居ました。どうして私のやうな、おやしきの野暮な風で、お気には入りませんのサ」という言葉がある。
もとより、「私は野暮です」というときには、多くの場合に野暮であることに対する自負が裏面に言表されている。異性的特殊性の公共圏内の洗練を経ていないことに関する誇りが主張されている。そこには自負に価あたいする何らかのものが存している。「いき」を好むか、野暮を択えらぶかは趣味の相違である。絶対的な価値判断は客観的には与えられていない。しかしながら、文化的存在規定を内容とする一対の意味が、一は肯定的に言表され、他は否定的の言葉を冠している場合には、その成立上における原本性および非原本性に関して断定を下すことができるとともに、その意味内容の成立した公共圏内における相対的な価値判断を推知することができる。合理、不合理という語は、理性を標準とする公共圏内でできた語である。信仰、無信仰は、宗教的公共圏を成立規定にもっている。そうして、これらの語はその基礎附けられている公共圏内にあっては明らかに価値判断を担になっている。さて、意気といい粋といい、いずれも肯定的にいい表わされている。それに反して野暮は同義語として、否定的に言表された不意気ぶいきと不粋ぶすいとを有する。我々はこれによって「いき」が原本的で、ついで野暮がその反対意味として発生したことを知り得るとともに、異性的特殊性の公共圏内にあっては「いき」は有価値的として、野暮は反価値的として判断されることを想像することができる。玄人くろうとから見れば素人しろうとは不粋である。自分に近接している「町風まちふう」は「いき」として許されるが、自分から疎隔している「屋敷風」は不意気である。うぶな恋も野暮である。不器量な女の厚化粧も野暮である。「不粋なこなさんぢや有るまいし、色里の諸わけをば知らぬ野暮でもあるまいし」という場合にも、異性的特殊性の公共圏内における価値判断の結果として、不粋と野暮とによって反価値性が示されている。
(四) 渋味―甘味は対他性から見た区別で、かつまた、それ自身には何らの価値判断を含んでいない。すなわち、対他性が積極的であるか、消極的であるかの区別が言表されているだけである。渋味は消極的対他性を意味している。柿が肉の中うちに渋味を蔵するのは烏からすに対して自己を保護するのである。栗が渋い内皮をもっているのは昆虫類に対する防禦ぼうぎょである。人間も渋紙で物を包んで水の浸入に備えたり、渋面じゅうめんをして他人との交渉を避けたりする。甘味はその反対に積極的対他性を表わしている。甘える者と甘えられる者との間には、常に積極的な通路が開けている。また、人に取入ろうとする者は甘言を提供し、下心ある者は進んで甘茶を飲ませようとする。
対他性上の区別である渋味と甘味とは、それ自身には何ら一定の価値判断を担になっていない。価値的意味はその場合その場合の背景によって生じて来るのである。「しぶかはにまあだいそれた江戸のみづ」の渋皮は反価値的のものである。それに反して、しぶうるかという場合、うるかは味の渋さを賞するものであるから、渋味は有価値的意味を表現している。甘味についても、たとえば、茶のうちでは玉露に「甘い優美な趣味」があるとか、政まつりごとよろしきを得れば天が甘露を降らすとか、または快く承諾することを甘諾かんだくといったりする時には、甘味は有価値的意味をもっている。しかるに、「あまっちょ」「甘ったるい物の言い方」「甘い文学」などいう場合には、甘味によって明らかに反価値性が言表されている。
さて、渋味と甘味とが対他性上の消極的または積極的の存在様態として理解される場合には、両者は勝義において異性的特殊性の公共圏に属するものとして考えられる。この公共圏内の対他的関係の常態は甘味である。「甘えてすねて」とか「甘えるすがた色ふかし」などいう言葉に表われている。そうして、渋味は甘味の否定である。荷風は『歓楽』の中で、「其の土地では一口に姐ねえさんで通るかと思ふ年頃の渋いつくりの女」に出逢であって、その女が十年前に自分と死のうと約束した小菊こぎくという芸者であったことを述べている。この場合、その女のもっていた昔の甘味は否定されて渋味になっているのである。渋味はしばしば派手の反対意味として取扱われる。しかしながらそれは渋味の存在性を把握するに妨害をする。派手の反対意味としては地味がある。渋味をも地味をも斉ひとしく派手に対立させることによって、渋味と地味とを混同する結果を来たす。渋味と地味とは共に消極的対他性を表わす点に共通点をもっているが、重要なる相違点は、地味が人性的一般性を公共圏として甘味とは始めより何ら関係なく成立しているに反して、渋味は異性的特殊性を公共圏として甘味の否定によって生じたものであるという事実である。したがって、渋味は地味よりも豊富な過去および現在をもっている。渋味は甘味の否定には相違ないが、その否定は忘却とともに回想を可能とする否定である。逆説のようであるが、渋味には艶つやがある。
しからば、渋味および甘味は「いき」とはいかなる関係に立っているか。三者とも異性的特殊存在の様態である。そうして、甘味を常態と考えて、対他的消極性の方向へ移り行くときに、「いき」を経て渋味に到る路があることに気附くのである。この意味において、甘味と「いき」と渋味とは直線的関係に立っている。そうして「いき」は肯定より否定への進路の中間に位くらいしている{1}。
独断の「甘い」夢が破られて批判的知見に富んだ「いき」が目醒めざめることは、「いき」の内包的構造のところで述べた。また、「いき」が「媚態のための媚態」もしくは「自律的遊戯」の形を取るのは「否定による肯定」として可能であることも言った。それは甘味から「いき」への推移について語ったにほかならない。しかるに、更に否定が優勢を示して極限に近づく時には「いき」は渋味に変ずるのである。荷風の「渋いつくりの女」は、甘味から「いき」を経て渋味に行ったに相違ない。歌沢うたざわの或るもののうちに味わわれる渋味も畢竟ひっきょう、清元きよもとなどのうちに存する「いき」の様態化であろう。辞書『言海』の「しぶし」の条下に「くすみていきなり」と説明してあるが、渋味が「いき」の様態化であることを認めているわけである。そうしてまた、この直線的関係において「いき」が甘味へ逆戻りをする場合も考え得る。すなわち「いき」のうちの「意気地」や「諦め」が存在を失って、砂糖のような甘ったるい甘味のみが「甘口」な人間の特徴として残るのである。国貞くにさだの女が清長きよながや歌麿うたまろから生れたのはこういう径路けいろを取っている。
以上において我々はほぼ「いき」の意味を他の主要なる類似意味と区別することができたと信ずる。また、これらの類似意味との比較によって、意味体験としての「いき」が、単に意味としての客観性を有するのみならず、趣味として価値判断の主体および客体となることが暗示されたと思う。その結果として我々は、「いき」を或る趣味体系の一員として他の成員との関係において会得えとくすることができるのである。その関係はすなわち左のとおりである。[図省略]
もとより、趣味はその場合その場合には何らかの主観的価値判断を伴っている。しかしその判断が客観的に明瞭に主張される場合と、主観内に止とどまって曖昧あいまいな形より取らない場合とがある。いま仮りに前者を価値的といい、後者を非価値的というのである。
なお、この関係は、左図のように、直六面体の形で表わすことができる。[図省略]
この図において、正方形をなす上下の両面は、ここに取扱う趣味様態の成立規定たる両公共圏を示す。底面は人性的一般性、上面は異性的特殊性を表わす。八個の趣味を八つの頂点に置く。上面および底面上にて対角線によって結び付けられた頂点に位置を占むる趣味は相あい対立する一対を示す。もとより何と何とを一対として考えるかは絶対的には決定されていない。上面と底面において、正方形の各辺によって結び付けられた頂点(例えば意気と渋味)、側面の矩形くけいにおいて、対角線によって結び付けられた頂点(例えば意気と派手)、直六面体の側稜そくりょうによって結び付けられた頂点(例えば意気と上品)、直六面体の対角線によって結び付けられた頂点(例えば意気と下品)、これらのものは常に何らかの対立を示している。すなわち、すべての頂点は互いに対立関係に立つことができる。上面と底面において、正方形の対角線によって対立する頂点はそのうちで対立性の最も顕著なものである。その対立の原理として、我々は、各公共圏において、対自性と対他性とを考えた。対自性上の対立は価値判断に基づくもので、対立者は有価値的と反価値的との対照を示した。対他性上の対立は価値とは関係ない対立で、対立者は積極的と消極的とに分れた。六面体では、対自性上の価値的対立と、対他性上の非価値的対立とは、上下の正方形の二対の対角線が六面体を垂直に截きることによって生ずる二つの互に垂直に交わる矩形によって表わされている。すなわち、上品、意気、野暮、下品を角頂にもつ矩形は対自性上の対立を示し、派手、甘味、渋味、地味を角頂とする矩形は対他性上の対立を表わしている。いま、底面の正方形の二つの対角線の交点をOとし、上面の正方形の二つの対角線の交点をPとし、この二点を結び付ける法線OPを引いてみる。この法線OPは対自性的矩形面と対他性的矩形面との相交まじわる直線にほかならないが、この趣味体系内にあっての具体的普遍者を意味している。その内面的発展によって外囲がいいに特殊の趣味が現われて来る。さてこの法線OPは、対自性的矩形と、対他性的矩形とのおのおのを垂直に二等分している。その結果としてできたO、P、意気、上品の矩形は有価値性を表わし、O、P、野暮、下品の矩形は反価値性を表わす。また、O、P、甘味、派手の矩形は積極性、O、P、渋味、地味の矩形は消極性を表わしている。
なおこの直六面体は、他の同系統の種々の趣味をその表面または内部の一定点に含有すると考えても差支ないであろう。いま、すこし例を挙げてみよう。
「さび」とは、O、上品、地味のつくる三角形と、P、意気、渋味のつくる三角形とを両端面に有する三角※さんかくちゅう[つちへん+壽]の名称である。わが大和民族の趣味上の特色は、この三角※[つちへん+壽、読み「ちゅう」]が三角※[つちへん+壽、読み「ちゅう」]の形で現勢的に存在する点にある。
「雅」は、上品と地味と渋味との作る三角形を底面とし、Oを頂点とする四面体のうちに求むべきものである。
「味」とは、甘味と意気と渋味とのつくる三角形を指していう。甘味、意気、渋味が異性的特殊存在の様態化として直線的関係をもつごとく考え得る可能性は、この直角三角形の斜辺ならざる二辺上において、甘味より意気を経て渋味に至る運動を考えることに存している。
「乙」とは、この同じ三角形を底面とし、下品を頂点とする四面体のうちに位置を占めているものであろう。
「きざ」は、派手と下品とを結び付ける直線上に位している。
「いろっぽさ」すなわち coquet は、上面の正方形内に成立するものであるが、底面上に射影を投ずることがある。上面の正方形においては、甘味と意気とを結び付けている直線に平行してPを通る直線が正方形の二辺と交わる二点がある。この二つの交点と甘味と意気とのつくる矩形全体がいろっぽさである。底面上に射影を投ずる場合には、派手と下品とを結び付ける直線に平行してOを通る直線が正方形の二辺と交わる二つの交点と、派手と、下品とがつくる矩形がいろっぽさを表わしている。上品と意気と下品とを直線的に考えるのは、いろっぽさの射影を底面上に仮定した後、上品と意気と下品の三点を結んで一の三角形を作り、上品から出発して意気を経て下品へ行く運動を考えることを意味しているはずである。影は往々実物よりも暗いものである。
chic とは、上品と意気との二頂点を結び付ける直線全体を漠然ばくぜんと指している。
raffinとは、意気と渋味とを結び付ける直線が六面体の底面に向って垂直に運動し、間もなく静止した時に、その運動が描いた矩形の名称である。
要するに、この直六面体の図式的価値は、他の同系統の趣味がこの六面体の表面および内部の一定点に配置され得る可能性と函数的かんすうてき関係をもっている。

{1}『船頭部屋』に「ここも都の辰巳たつみとて、喜撰きせんは朝茶の梅干に、栄代団子えいたいだんごの角かどとれて、酸いも甘いもかみわけた」という言葉があるように、「いき」すなわち粋の味は酸いのである。そうして、自然界における関係の如何いかんは別として、意識の世界にあっては、酸味は甘味と渋味との中間にあるのである。また渋味は、自然界にあっては不熟の味である場合が多いが、精神界にあってはしばしば円熟した趣味である。広義の擬古主義が蒼古的そうこてき様式の古拙性を尊ぶ理由もそこにある。渋味に関して、正、反、合の形式をとって弁証法が行われているとも考えられる。「鶯うぐいすの声まだ渋く聞きこゆなり、すだちの小野の春の曙あけぼの」というときの渋味は、渋滞の意で第一段たる「正」の段階を示している。それに対して、甘味は第二段たる「反」の段階を形成する。そうして「無地表むじおもて、裏模様うらもよう」の渋味、すなわち趣味としての渋味は、甘味を止揚したもので、第三段たる「合」の段階を表わしている。 
四「いき」の自然的表現

 

今までは意識現象としての「いき」を考察してきた。今度は客観的表現の形を取った「いき」を、理解さるべき存在様態と見てゆかねばならぬ。意味としての「いき」の把握はあくは、後者を前者の上に基礎附け、同時に全体の構造を会得する可能性に懸かかっている。さて「いき」の客観的表現は、自然形式としての表現、すなわち自然的表現と、芸術形式としての表現、すなわち芸術的表現との二つに区別することができる。この両表現形式がはたして截然せつぜんたる区別を許すかの問題{1}、すなわち自然形式とは畢竟ひっきょう芸術形式にほかならないのではないかという問題は極めて興味ある問題であるが、今はその問題には触れずに、単に便宜上、通俗の考え方に従って自然形式と芸術形式との二つに分けてみる。まず自然形式としての表現について考えてみよう。自然形式といえば、いわゆる「象徴的感情移入」の形で自然界に自然象徴を見る場合、たとえば柳や小雨を「いき」と感ずるごとき場合をも意味し得るが、ここでは特に「本来的感情移入」の範囲に属する身体的発表を自然形式と考えておく。
身体的発表としての「いき」の自然形式は、聴覚としてはまず言葉づかい、すなわちものの言振いいぶりに表われる。「男へ対しそのものいひは、あまえずして色気あり」とか「言ことの葉草はぐさも野暮ならぬ」とかいう場合がそれであるが、この種の「いき」は普通は一語の発音の仕方、語尾の抑揚などに特色をもってくる。すなわち、一語を普通よりもやや長く引いて発音し、しかる後、急に抑揚を附けて言い切ることは言葉遣ことばづかいとしての「いき」の基礎をなしている。この際、長く引いて発音した部分と、急に言い切った部分とに、言葉のリズムの上の二元的対立が存在し、かつ、この二元的対立が「いき」のうちの媚態びたいの二元性の客観的表現と解される。音声としては、甲走かんばしった最高音よりも、ややさびの加わった次高音の方が「いき」である。そうして、言葉のリズムの二元的対立が次高音によって構成された場合に、「いき」の質料因と形相因とが完全に客観化されるのである。しかし、身体的発表としての「いき」の表現の自然形式は視覚において最も明瞭なかつ多様な形で見られる{2}。
視覚に関する自然形式としての表現とは、姿勢、身振みぶりその他を含めた広義の表情と、その表情の支持者たる基体とを指していうのである。まず、全身に関しては、姿勢を軽く崩すことが「いき」の表現である。鳥居清長とりいきよながの絵には、男姿、女姿、立姿、居姿、後姿、前向、横向などあらゆる意味において、またあらゆるニュアンスにおいて、この表情が驚くべき感受性をもって捉とらえてある。「いき」の質料因たる二元性としての媚態は、姿体の一元的平衡へいこうを破ることによって、異性へ向う能動性および異性を迎うる受動性を表現する。しかし「いき」の形相因たる非現実的理想性は、一元的平衡の破却に抑制と節度とを加えて、放縦なる二元性の措定そていを妨止ぼうしする。「白楊の枝の上で体をゆすぶる」セイレネスの妖態ようたいや「サチロス仲間に気に入る」バックス祭尼の狂態、すなわち腰部を左右に振って現実の露骨のうちに演ずる西洋流の媚態は、「いき」とは極めて縁遠い。「いき」は異性への方向をほのかに暗示するものである。姿勢の相称性が打破せらるる場合に、中央の垂直線が、曲線への推移において、非現実的理想主義を自覚することが、「いき」の表現としては重要なことである。
なお、全身に関して「いき」の表現と見られるのはうすものを身に纏うことである。「明石あかしからほのぼのとすく緋縮緬ひぢりめん」という句があるが、明石縮あかしちぢみを着た女の緋の襦袢じゅばんが透いて見えることをいっている。うすもののモティーフはしばしば浮世絵にも見られる。そうしてこの場合、「いき」の質料因と形相因との関係が、うすものの透かしによる異性への通路開放と、うすものの覆おおいによる通路封鎖として表現されている。メディチのヴェヌスは裸体に加えた両手の位置によって特に媚態を言表しているが、言表の仕方があまりにあからさまに過ぎて「いき」とはいえない。また、巴里パリのルヴューに見る裸体が「いき」に対して何らの関心をももっていないことはいうまでもない。
「いき」な姿としては湯上り姿もある。裸体を回想として近接の過去にもち、あっさりした浴衣ゆかたを無造作むぞうさに着ているところに、媚態とその形相因とが表現を完まっとうしている。「いつも立寄る湯帰りの、姿も粋な」とは『春色辰巳園しゅんしょくたつみのその』の米八よねはちだけに限ったことではない。「垢抜あかぬけ」した湯上り姿は浮世絵にも多い画面である。春信はるのぶも湯上り姿を描いた。それのみならず、既に紅絵べにえ時代においてさえ奥村政信おくむらまさのぶや鳥居清満とりいきよみつなどによって画かれていることを思えば、いかに特殊の価値をもっているかがわかる。歌麿うたまろも『婦女相学十躰ふじょそうがくじったい』の一つとして浴後の女を描くことを忘れなかった。しかるに西洋の絵画では、湯に入っている女の裸体姿は往々あるにかかわらず、湯上り姿はほとんど見出すことができない。
表情の支持者たる基体についていえば、姿が細っそりして柳腰であることが、「いき」の客観的表現の一と考え得る。この点についてほとんど狂信的な信念を声明しているのは歌麿である。また、文化文政ぶんかぶんせいの美人の典型も元禄げんろく美人に対して特にこの点を主張した。『浮世風呂』に「細くて、お綺麗きれいで、意気で」という形容詞の一聯がある。「いき」の形相因は非現実的理想性である。一般に非現実性、理想性を客観的に表現しようとすれば、いきおい細長い形を取ってくる。細長い形状は、肉の衰えを示すとともに霊の力を語る。精神自体を表現しようとしたグレコは、細長い絵ばかり描いた。ゴシックの彫刻も細長いことを特徴としている。我々の想像する幽霊も常に細長い形をもっている。「いき」が霊化された媚態である限り、「いき」な姿は細っそりしていなくてはならぬ。
以上は全身に関する「いき」であったが、なお顔面に関しても、基体としての顔面と、顔面の表情との二方面に「いき」が表現される。基体としての顔面、すなわち顔面の構造の上からは、一般的にいえば丸顔よりも細おもての方が「いき」に適合している。「当世顔は少し丸く」と西鶴さいかくが言った元禄の理想の豊麗ほうれいな丸顔に対して、文化文政が細面ほそおもての瀟洒しょうしゃを善よしとしたことは、それを証している。そうして、その理由が、姿全体の場合と同様の根拠に立っているのはいうまでもない。
顔面の表情が「いき」なるためには、眼と口と頬とに弛緩と緊張とを要する。これも全身の姿勢に軽微な平衡へいこう破却はきゃくが必要であったのと同じ理由から理解できる。眼については、流眄りゅうべんが媚態の普通の表現である。流眄、すなわち流し目とは、瞳ひとみの運動によって、媚こびを異性にむかって流し遣やることである。その様態化としては、横目、上目うわめ、伏目ふしめがある。側面に異性を置いて横目を送るのも媚であり、下を向いて上目ごしに正面の異性を見るのも媚である。伏目もまた異性に対して色気ある恥かしさを暗示する点で媚の手段に用いられる。これらのすべてに共通するところは、異性への運動を示すために、眼の平衡を破って常態を崩すことである。しかし、単に「色目」だけでは未まだ「いき」ではない。「いき」であるためには、なお眼が過去の潤いを想起させるだけの一種の光沢を帯び、瞳はかろらかな諦あきらめと凛乎りんことした張りとを無言のうちに有力に語っていなければならぬ。口は、異性間の通路としての現実性を具備していることと、運動について大なる可能性をもっていることとに基づいて、「いき」の表現たる弛緩しかんと緊張きんちょうとを極めて明瞭な形で示し得るものである。「いき」の無目的な目的は、唇くちびるの微動のリズムに客観化される。そうして口紅は唇の重要性に印を押している。頬は、微笑の音階を司つかさどっている点で、表情上重要なものである。微笑としての「いき」は、快活な長音階よりはむしろやや悲調を帯びた短音階を択えらぶのが普通である。西鶴は頬の色の「薄花桜」であることを重要視しているが、「いき」な頬は吉井勇よしいいさむが「うつくしき女なれども小夜子さよこはも凄艶せいえんなれば秋にたとへむ」といっているような秋の色を帯びる傾向をもっている。要するに顔面における「いき」の表現は、片目を塞ふさいだり、口部を突出させたり、「双頬そうきょうでジャズを演奏する」などの西洋流の野暮さと絶縁することを予件としている。
なお一般に顔の粧よそおいに関しては、薄化粧が「いき」の表現と考えられる。江戸時代には京阪の女は濃艶な厚化粧あつげしょうを施したが、江戸ではそれを野暮と卑いやしんだ。江戸の遊女や芸者が「婀娜あだ」といって貴たっとんだのも薄化粧のことである。「あらひ粉にて磨きあげたる貌かおへ、仙女香をすりこみし薄化粧は、ことさらに奥ゆかし」と春水もいっている。また西沢李叟にしざわりそうは江戸の化粧に関して「上方かみがたの如く白粉おしろいべたべたと塗る事なく、至つて薄く目立たぬをよしとす、元来女は男めきたる気性ある所の故ゆえなるべし」といっている。「いき」の質料因と形相因とが、化粧を施すという媚態の言表と、その化粧を暗示に止とどめるという理想性の措定そていとに表われている。
髪は略式のものが「いき」を表現する。文化文政には正式な髪かみは丸髷まるまげと島田髷しまだまげとであった。かつ島田髷としてはほとんど文金高髷ぶんきんたかまげに限られた。これに反して、「いき」と見られた結振ゆいぶりは銀杏髷いちょうまげ、楽屋結がくやゆいなど略式の髪か、さもなくば島田でも潰つぶし島田、投げ島田など正形の崩れたものであった。また特に粋を標榜ひょうぼうしていた深川の辰巳風俗としては、油を用いない水髪が喜ばれた。「後ろを引詰ひっつめ、たぼは上の方へあげて水髪にふつくりと少し出し」た姿は、「他所よそへ出してもあたま許ばかりで辰巳仕入と見えたり」と『船頭深話せんどうしんわ』はいっている。正式な平衡を破って、髪の形を崩すところに異性へ向って動く二元的「媚態」が表われてくる。またその崩し方が軽妙である点に「垢抜」が表現される。「結ひそそくれしおくれ髪」や「ゆふべほつるる鬢びんの毛」がもつ「いき」も同じ理由から来ている。しかるにメリサンドが長い髪を窓外のペレアスに投げかける所作しょさには「いき」なところは少しもない。また一般にブロンドの髪のけばけばしい黄金色よりは、黒髪のみどりの方が「いき」の表現に適合性をもっている。
なお「いき」なものとしては抜き衣紋が江戸時代から屋敷方以外で一般に流行した。襟足えりあしを見せるところに媚態がある。喜田川守貞きたがわもりさだの『近世風俗志』に「首筋に白粉ぬること一本足と号いつて、際立きわだたす」といい、また特に遊女、町芸者の白粉について「頸くびは極きわめて濃粧す」といっている。そうして首筋の濃粧は主として抜ぬき衣紋えもんの媚態を強調するためであった。この抜き衣紋が「いき」の表現となる理由は、衣紋の平衡を軽く崩し、異性に対して肌への通路をほのかに暗示する点に存している。また、西洋のデコルテのように、肩から胸部と背部との一帯を露出する野暮に陥らないところは、抜き衣紋の「いき」としての味があるのである。
左褄を取ることも「いき」の表現である。「歩く拍子ひょうしに紅もみのはつちと浅黄縮緬あさぎちりめんの下帯したおびがひらりひらりと見え」とか「肌の雪と白き浴衣ゆかたの間にちらつく緋縮緬の湯もじを蹴出けだすうつくしさ」とかは、確かに「いき」の条件に適かなっているに相違ない。『春告鳥はるつげどり』の中で「入り来きたる婀娜者あだもの」は「褄つまをとつて白き足を見せ」ている。浮世絵師も種々の方法によって脛はぎを露出させている。そうして、およそ裾すそさばきのもつ媚態をほのかな形で象徴化したものがすなわち左褄ひだりづまである。西洋近来の流行が、一方には裾を短くしてほとんど膝ひざまで出し、他方には肉色の靴下をはいて錯覚の効果を予期しているのに比して、「ちよいと手がるく褄をとり」というのは、遙はるかに媚態としての繊巧せんこうを示している。
素足もまた「いき」の表現となる場合がある。「素足すあしも、野暮な足袋たびほしき、寒さもつらや」といいながら、江戸芸者は冬も素足を習ならいとした。粋者すいしゃの間にはそれを真似まねて足袋を履はかない者も多かったという。着物に包んだ全身に対して足だけを露出させるのは、確かに媚態の二元性を表わしている。しかし、この着物と素足との関係は、全身を裸にして足だけに靴下または靴を履く西洋風の露骨さと反対の方向を採とっている。そこにまた素足の「いき」たる所以ゆえんがある。
手は媚態と深い関係をもっている。「いき」の無関心な遊戯が男を魅惑する「手管てくだ」は、単に「手附てつき」に存する場合も決して少なくない。「いき」な手附は手を軽く反らせることや曲げることのニュアンスのうちに見られる。歌麿の絵のうちには、全体の重心が手一つに置かれているのがある。しかし、更に一歩を進めて、手は顔に次いで、個人の性格を表わし、過去の体験を語るものである。我々はロダンが何故なにゆえにしばしば手だけを作ったかを考えてみなければならぬ。手判断は決して無意味なものではない。指先まで響いている余韻によって魂そのものを判断するのは不可能ではない。そうして、手が「いき」の表現となり得る可能性も畢竟ひっきょうこの一点に懸かかっている。
以上、「いき」の身体的発表{3}を、特にその視覚的発表を、全身、顔面、頭部、頸くび、脛はぎ、足、手について考察した。およそ意識現象としての「いき」は、異性に対する二元的措定そていとしての媚態が、理想主義的非現実性によって完成されたものであった。その客観的表現である自然形式の要点は、一元的平衡を軽妙に打破して二元性を暗示するという形を採とるものとして闡明せんめいされた。そうして、平衡を打破して二元性を措定する点に「いき」の質料因たる媚態が表現され、打破の仕方のもつ性格に形相因たる理想主義的非現実性が認められた。

{1}この問題に関しては、Utitz, Grundlegung der allgemeinen Kunstwissenschaft, 1914, I, S. 74ff. および Volkelt, System der Aesthetik, 1925, III, S. 3f. 参照。
{2}味覚、嗅覚きゅうかく、触覚に関する「いき」は、「いき」の構造を理解するために相当の重要性をもっている。味覚としての「いき」については、次のことがいえる。第一に、「いき」な味とは、味覚が味覚だけで独立したような単純なものではない。米八が『春色しゅんしょく恵めぐみの花はな』のうちで「そんな色気のないものをたべて」と貶けなした「附焼団子つけやきだんご」は味覚の効果をほとんど味覚だけに限っている。「いき」な味とは、味覚の上に、例えば「きのめ」や柚ゆずの嗅覚や、山椒さんしょや山葵わさびの触覚のようなものの加わった、刺戟しげきの強い、複雑なものである。第二の点として、「いき」な味は、濃厚なものではない。淡白なものである。味覚としての「いき」は「けもの店だなの山鯨やまくじら」よりも「永代えいたいの白魚しらうお」の方向に、「あなごの天麩羅てんぷら」よりも「目川めがわの田楽でんがく」の方向に索もとめて行かなければならない。要するに「いき」な味とは、味覚のほかに嗅覚や触覚も共に働いて有機体に強い刺戟を与えるもの、しかも、あっさりした淡白なものである。しかしながら、味覚、嗅覚、触覚などは身体的発表として「いき」の表現となるのではない。「象徴的感情移入」によって一種の自然象徴が現出されるに過ぎない。身体的発表としての「いき」の自然形式は、聴覚と視覚に関するものと考えて差支ないであろう。そうして視覚に関してはアリストテレスが『形而上学けいじじょうがく』の巻頭にいっている言葉がここにも妥当する。曰いわく「この感覚は他の感覚よりも我々にものを最もよく認識させ、また多くの差異を示す」(Aristoteles, Metaphysica A 1, 980a)
{3}「いき」の身体的発表はおのずから舞踊へ移って行く。その推移には何らの作為も無理もない。舞踊となったときに初めて芸術と名付けて、身振と舞踊との間に境界を立てることにかえって作為と無理とがある。アルベール・メーボンはその著『日本の演劇』のうちで、日本の芸者が「装飾的および叙述的身振に巧妙である」ことを語った後に、日本の舞踊に関して次のようにいっている。「身振によって思想および感情を翻訳することについては日本派のもっている知識は無尽蔵である。……足と脛はぎとは拍子の主調を明らかにし、かつ保つ役をする。躯幹くかん、肩、頸、首、腕、手、指は心的表現の道具である」(Albert Maybon, Le thtre japonais, 1925, pp. 75-76)。我々はいま便宜上、「いき」の身体的発表を自然形式と見て、舞踊から離して取扱った。しかし、なおこの上に舞踊のうちにあらわれている「いき」の芸術形式を考察することは、おそらく「いき」の自然形式の考察を繰返すことに終るか、またはそれに些少さしょうの変更を加えるに止とどまるであろう。 
五「いき」の芸術的表現

 

「いき」の芸術形式の考察に移らなければならぬ。「いき」の表現と芸術との関係は、客観的芸術と主観的芸術とによって表現の仕方に著しい差異がある。およそ芸術は、表現の手段によって空間芸術と時間芸術とに分け得るほかに、表現の対象によって主観的芸術と客観的芸術とに分け得る。芸術が客観的であるというのは、芸術の内容が具体的表象そのものに規定される場合である。主観的であるとは、具体的表象に規定されず、芸術の形成原理が自由に抽象的に作動する場合である。絵画、彫刻、詩は前者に属し、模様、建築、音楽は後者に属する。前者は模倣芸術と呼ばれ、後者は自由芸術と呼ばれることもある。さて、客観的芸術にあっては、意識現象としての「いき」、または客観的表現の自然形式としての「いき」が、具体的な形のままで芸術の内容を形成して来る。すなわち、絵画および彫刻は「いき」の表現の自然形式をそのまま内容として表出することができる。さきに「いき」な身振または表情を述べた時に、しばしば浮世絵の例を引くことができたのはそのためである。また広義の詩、すなわち文学的生産一般は「いき」の表情、身振を描写し得るほかに、意識現象としての「いき」を描写することができる。さきに意識現象としての「いき」の闡明せんめいに際して、文学上の例に拠よることのできた理由はそこにある。しかしながら、客観的芸術がかように「いき」を内容として取扱う可能性を有することは、純粋なる芸術形式としての「いき」の完全なる成立には妨害をする。既に内容として具体的な「いき」を取扱っているから、「いき」を芸術形式として客観化することにはさほどの関心と要求とを感じないのである。もとより、客観的、主観的の別は、必ずしも厳密には立てられないむしろ便宜上の区別であるから、いわゆる客観的芸術にあっても「いき」の芸術形式が形成原理として全然存在しないことはない。たとえば、絵画については輪廓りんかく本位の線画であること、色彩が濃厚でないこと、構図の煩雑はんざつでないことなどが「いき」の表現に適合する形式上の条件となり得る。また、詩、すなわち文学的生産にあっては、特に狭義の詩のうちに、リズムの性質において、「いき」の芸術形式を索もとめ得ないことはない。俳句のリズムと都々逸どどいつのリズムとが、「いき」の表現に対していかなる関係を有するかは問題として考察することができる。しかし、いわゆる客観的芸術にあっては、「いき」の芸術形式は必ずしも鮮明な一義的な形をもっては表われていない。それに反して、主観的芸術は具体的な「いき」を内容として取扱う可能性を多くもたないために、抽象的な形式そのものに表現の全責任を託し、その結果、「いき」の芸術形式はかえって鮮やかな形をもって表われてくるのである。したがって「いき」の表現の芸術形式は主として主観的芸術、すなわち自由芸術の形成原理のうちに索もとめなければならぬ。
自由芸術として第一に模様は「いき」の表現と重大な関係をもっている。しからば、模様としての「いき」の客観化はいかなる形を取っているか。まず何らか「媚態」の二元性が表わされていなければならぬ。またその二元性は「意気地」と「諦あきらめ」の客観化として一定の性格を備えて表現されていることを要する。さて、幾何学的図形としては、平行線ほど二元性を善く表わしているものはない。永遠に動きつつ永遠に交わらざる平行線は、二元性の最も純粋なる視覚的客観化である。模様として縞しまが「いき」と看做みなされるのは決して偶然ではない。『昔々物語』によれば、昔は普通の女が縫箔ぬいはくの小袖こそでを着るに対して、遊女が縞物を着たという。天明てんめいに至って武家ぶけに縞物着用が公許されている。そうして、文化文政ぶんかぶんせいの遊士通客は縞縮緬しまちりめんを最も好んだ。『春告鳥』は「主女に対する客人のいで立ち」を叙して「上着うわぎは媚茶こびちゃの……縞の南部縮緬、羽織はおりは唐桟とうざんの……ごまがら縞、……その外ほか持物懐中もの、これに準じて意気なることと、知りたまふべし」といっている。また『春色梅暦』では、丹次郎たんじろうを尋たずねて来る米八よねはちの衣裳いしょうについて「上田太織うえだふとりの鼠の棒縞、黒の小柳に紫の山まゆ縞の縮緬を鯨帯くじらおびとし」と書いてある。しからば、いかなる種類の縞が特に「いき」であろうか。
まず、横縞よりも縦縞の方が「いき」であるといえる。着物の縞柄しまがらとしては宝暦ほうれきごろまでは横縞よりなかった。縞のことを織筋おりすじといったが、織筋は横を意味していた。「熨斗目のしめ」の腰に織り出してある横縞や、「取染とりぞめ」の横筋はいずれも宝暦前の趣味である。しかるに、宝暦、明和めいわごろから縦縞が流行し出して、文化文政には縦縞のみが専ら用いられるようになった。縦縞は文化文政の「いき」な趣味を表わしている。しからば何故なにゆえ、横縞よりも縦縞の方が「いき」であるのか。その理由の一つとしては、横縞よりも縦縞の方が平行線を平行線として容易に知覚させるということがあるであろう。両眼の位置は左右に、水平に並んでいるから、やはり左右に、水平に平行関係の基礎の存するもの、すなわち左右に並んで垂直に走る縦縞の方が容易に平行線として知覚される。平行関係の基礎が上下に、垂直に存して水平に走る横縞を、平行線として知覚するには両眼は多少の努力を要する。換言すれば、両眼の位置に基づいて、水平は一般に事物の離合関係を明瞭めいりょうに表わすものである。したがって、縦縞にあっては二線の乖離的かいりてき対立が明晰めいせきに意識され、横縞にあっては一線の継起的けいきてき連続が判明に意識されるのである。すなわち縦縞の方が二元性の把握はあくに適合した性質をもっている。なおまた、他の理由としては、重力の関係もあるに相違ない。横縞には重力に抗して静止する地層の重味がある。縦縞には重力とともに落下する小雨や「柳条」の軽味がある。またそれに関連して、横縞は左右に延びて場面の幅を広く太く見せ、縦縞は上下に走って場面を細長く見せる。要するに、横縞よりも縦縞の方が「いき」であるのは、平行線としての二元性が一層明瞭に表われているためと、軽巧精粋けいこうせいすいの味が一層多く出ているためであろう。もっとも、横縞が特に「いき」と感ぜられる場合もないことはない。しかしそれは種々特殊な制約の下もとにおいてである。第一に、そういう場合は、縦縞と相対的関係をもっている。すなわち、縦縞にくくりを附けているようなときに、横縞は特に「いき」と感ぜられる。例えば縦縞の着物に対して横縞の帯を用いるとか、下駄げたの木目もくめまたは塗り方に縦縞が表われているとき緒おに横縞を用いるとかいうような場合である。第二に、場面全体の形状と相対的関係をもっている。例えば、すらりとした姿の女が横縞の着物を着たような場合、その横縞は特に「いき」である。およそ横縞は場面を広く太く見せるから、肥ふとった女は横縞の着物を着るに堪たえない。それに反して、すらりと細い女には横縞の着物もよく似合うのである。しかし横縞そのものが縦縞より「いき」であるのではない。全身の基体において既に「いき」の特徴をもった人間が、横縞に背景を提供するときに初めて、横縞が特に「いき」となるのである。第三に、感覚および感情の耐時性と関係している。すなわち、縦縞が感覚および感情にとってあまりに陳腐ちんぷなものとなってしまった場合、換言すれば感覚および感情が縦縞に対して鈍痲どんました場合に、横縞が清新な味をもって特に「いき」と感ぜられることが可能である。最近、流行界における横縞の復興が、横縞のうちに特に「いき」の性質を見させる傾向をもっているのは、主としてこの理由に基づいている。縦縞と横縞との「いき」に対する関係を考察するためには、これら種々の特殊な制約を全く離れて、両者の縞模様としての絶対価値について判断がなされなければならない。なお、縦縞のうちでは万筋まんすじ、千筋せんすじの如く細密を極きわめたものや、子持縞こもちじま、やたら縞のごとく筋の大小広狭にあまり変化の多いものは、平行線としての二元性が明瞭を欠くために「いき」の効果を十分に奏しない。「いき」であるためには、縞が適宜の荒さと単純さとを備えて、二元性が明晰めいせきに把握されることが肝要である。
垂直の平行線と水平の平行線とが結合した場合は、模様として縦横縞が生じてくる。縦横縞は概して縦縞よりも横縞よりも「いき」でない。平行線の把握が容易の度を減じたからである。縦横縞のうちでも縞の荒いいわゆる碁盤縞ごばんじまは「いき」の表現であり得ることがある。しかしそのためには、我々の眼が水平の平行線の障碍しょうがいを苦にしないで、垂直の平行線の二元性をひとむきに追うことが必要である。碁盤縞がそのまま左右いずれへか回転して、垂直線と四十五度の角をなして静止した場合、すなわち、垂直の平行線と水平の平行線とが垂直性および水平性を失って共に斜ななめに平行線の二系統を形成する場合、碁盤縞はその具有していた「いき」を失うのを常とする。何故なぜならば、眼はもはや、平行線の二元性を停滞なく追求することができないで、正面より直視する限りは、系統を異ことにする二様の平行線の交点のみを注視するようになるからである。なお、正方形の碁盤縞が長方形に変じた場合は格子縞こうしじまとなる。格子縞はその細長さによってしばしば碁盤縞よりも「いき」である。
縞の或る部分をかすり取る場合に、かすり取られた部分が縞に対して比較的微小なるときは、縞筋にかすりを交えた形となり、比較的強大なるときは、いわゆる絣かすりを生ずる。この種の模様が「いき」に対する関係は、抹殺を免れた縞の部分的存在がいかなる程度で平行線の無限的二元性を暗示し得るかに帰する。
縞模様のうちでも放射状に一点に集中した縞は「いき」ではない。例えば轆轤ろくろに集中する傘の骨、要かなめに向って走る扇おうぎの骨、中心を有する蜘蛛くもの巣、光を四方へ射出する旭日きょくじつなどから暗示を得た縞模様は「いき」の表現とはならない。「いき」を現わすには無関心性、無目的性が視覚上にあらわれていなければならぬ。放射状の縞は中心点に集まって目的を達してしまっている。それ故に「いき」とは感ぜられない。もしこの種の縞が「いき」と感ぜられるときがあるとすれば、放射性が覆おおわれて平行線であるかのごとき錯覚を伴う場合である。
模様が平行線としての縞から遠ざかるに従って、次第に「いき」からも遠ざかる。枡ます、目結めゆい、雷らい、源氏香図げんじこうずなどの模様は、平行線として知覚されることが必ずしも不可能でない。殊に縦に連繋れんけいした場合がそうである。したがってまた「いき」である可能性をもっている。しかるに、籠目かごめ、麻葉あさのは、鱗うろこなどの模様は、三角形によって成立するために「いき」からは遠ざかって行く。なお一般に複雑な模様は「いき」でない。亀甲きっこう模様は三対の平行線の組合せとして六角形を示しているが、「いき」であるには煩雑はんざつに過ぎる。万字まんじは垂直線と水平線との結合した十字形の先端が直角状に屈折しているので複雑な感を与える。したがって模様としては万字繋まんじつなぎは「いき」ではない。亜字あじ模様に至ってはますます複雑である。亜字は支那シナ太古の官服の模様として「取臣民背悪向善、亦取合離之義去就之義」といわれているが、勧善懲悪かんぜんちょうあくや合離去就ごうりきょしゅうがあまり執拗しつように象徴化され過ぎている。直角的屈折を六回までもして「両己相背りょうこあいそむ」いている亜字には、瀟洒しょうしゃなところは微塵みじんもない。亜字模様は支那趣味の悪い方面を代表して、「いき」とは正反対のものである。
次に一般に曲線を有する模様は、すっきりした「いき」の表現とはならないのが普通である。格子縞に曲線が螺旋状らせんじょうに絡からみ付けられた場合、格子縞は「いき」の多くを失ってしまう。縦縞が全体に波状曲線になっている場合も「いき」を見出すことは稀まれである。直線から成る割菱わりびし模様が曲線化して花菱模様に変ずるとき、模様は「派手はで」にはなるが「いき」は跡形あとかたもなくなる。扇紋おうぎもんは畳扇たたみおうぎとして直線のみで成立している間は「いき」をもち得ないことはないが、開扇ひらきおうぎとして弧こを描くと同時に「いき」は薫かおりをさえも留とどめない。また、奈良朝以前から見られる唐草からくさ模様は蕨手わらびでに巻曲した線を有するため、天平てんぴょう時代の唐花からはな模様も大体曲線から成立しているため、「いき」とは甚だ縁遠いものである。藤原時代の輪違わちがい模様、桃山ももやまから元禄げんろくへかけて流行した丸尽まるづくし模様なども同様に曲線であるために「いき」の条件に適合しない。元来、曲線は視線の運動に合致しているため、把握はあくが軽易で、眼に快感を与えるものとされている。またこの理由に基づいて、波状線の絶対美を説く者もある。しかし、曲線は、すっきりした、意気地ある「いき」の表現には適しない。「すべての温かいもの、すべての愛は円か楕円だえんかの形をもち、螺旋状その他の曲線を描いてゆく。冷たいもの、無関心なもののみが直線で稜りょうをもつ。兵隊を縦列に配置しないで環状に組立てたならば、闘争をしないで舞踏ぶとうをするであろう{1}」といった者がある。しかし、「いき」のうちには「慮外りょがいながら揚巻あげまきで御座ござんす」という、曲線では表わせない峻厳しゅんげんなところがある。冷たい無関心がある。「いき」の芸術形式がいわゆる「美的小{2}」と異なった方向に赴おもむくものであることは、これによってもおのずから明白である。
なお幾何学的模様に対して絵画的模様なるものは決して「いき」ではない。「金銀にて蝶々ちょうちょうを縫ぬひし野暮なる半襟はんえりをかけ」と『春告鳥』にもある。三筋の糸を垂直に場面の上から下まで描き、その側に三筋の柳の枝を垂らし、糸の下部に三味線しゃみせんの撥ばちを添え、柳の枝には桜の花を三つばかり交えた模様を見たことがある。描かれた内容自身から、また平行線の応用から推おして「いき」な模様でありそうであるが、実際の印象は何ら「いき」なところのない極めて上品なものであった。絵画的模様はその性質上、二元性をすっきりと言表わすという可能性を、幾何学的模様ほどにはもっていない。絵画的模様が模様として「いき」であり得ない理由はその点に存している。光琳こうりん模様、光悦こうえつ模様などが「いき」でないわけも主としてこの点によっている。「いき」が模様として客観化されるのは幾何学的模様のうちにおいてである。また幾何学的模様が真の意味の模様である。すなわち、現実界の具体的表象に規定されないで、自由に形式を創造する自由芸術の意味は、模様としては、幾何学的模様にのみ存している。
模様の形式は形状のほかになお色彩の方面をもっている。碁盤縞が市松いちまつ模様となるのは碁盤の目が二種の異なった色彩によって交互に充填じゅうてんされるからである。しからば模様のもつ色彩はいかなる場合に「いき」であるか。まず、西鶴さいかくのいわゆる「十二色のたたみ帯」、だんだら染、友禅染ゆうぜんぞめなど元禄時代に起ったものに見られるようなあまり雑多な色取いろどりをもつことは「いき」ではない。形状と色彩との関係は、色調を異にした二色または三色の対比作用によって形状上の二元性を色彩上にも言表わすか、または一色の濃淡の差あるいは一定の飽和度ほうわどにおける一色が形状上の二元的対立に特殊な情調を与える役を演ずるかである。しからばその際用いられる色はいかなる色であるかというに、「いき」を表わすのは決して派手な色ではあり得ない{3}。「いき」の表現として色彩は二元性を低声に主張するものでなければならぬ。『春色恋白浪しゅんしょくこいのしらなみ』に「鼠色の御召縮緬おめしちりめんに黄柄茶の糸を以て細く小さく碁盤格子を織出いだしたる上着、……帯は古風な本国織ほんごくおりに紺博多はかたの独鈷とっこなし媚茶の二本筋を織たるとを腹合せに縫ひたるを結び、……衣裳いしょうの袖口そでぐちは上着下着ともに松葉色の様なる御納戸の繻子しゅすを付け仕立も念を入いれて申分なく」という描写がある。このうちに出てくる色彩は三つの系統に属している。すなわち、第一に鼠色、第二に褐色系統の黄柄茶きがらちゃと媚茶こびちゃ、第三に青系統の紺こんと御納戸おなんどとである。また『春告鳥』に「御納戸と媚茶と鼠色の染分けにせし、五分ほどの手綱染たづなぞめの前垂まえだれ」その他のことを叙した後に「意気なこしらへで御座いませう」といってある。「いき」な色彩とは、まず灰色、褐色、青色の三系統のいずれにか属するものと考えて差支ないであろう。
第一に、鼠色は「深川ふかがわねずみ辰巳たつみふう」といわれるように「いき」なものである。鼠色、すなわち灰色は白から黒に推移する無色感覚の段階である。そうして、色彩感覚のすべての色調が飽和の度を減じた究極は灰色になってしまう。灰色は飽和度の減少、すなわち色の淡さそのものを表わしている光覚である。「いき」のうちの「諦あきらめ」を色彩として表わせば灰色ほど適切なものはほかにない。それ故に灰色は江戸時代から深川鼠、銀鼠ぎんねず、藍鼠あいねず、漆鼠うるしねず、紅掛鼠べにかけねずなど種々のニュアンスにおいて「いき」な色として貴ばれた。もとより色彩だけを抽象して考える場合には、灰色はあまりに「色気」がなくて「いき」の媚態びたいを表わし得ないであろう。メフィストの言うように「生」に背そむいた「理論」の色に過ぎないかもしれぬ。しかし具体的な模様においては、灰色は必ず二元性を主張する形状に伴っている。そうしてその場合、多くは形状が「いき」の質料因たる二元的媚態を表わし、灰色が形相因たる理想主義的非現実性を表わしているのである。
第二に、褐色すなわち茶色ほど「いき」として好まれる色はほかにないであろう。「思ひそめ茶の江戸褄えどづまに」という言葉にも表われている。また茶色は種々の色調に応じて実に無数の名で呼ばれている。江戸時代に用いられた名称を挙げても、まず色そのものの抽象的性質によって名附けたものには、白茶しらちゃ、御納戸茶おなんどちゃ、黄柄茶きがらちゃ、燻茶ふすべちゃ、焦茶こげちゃ、媚茶こびちゃ、千歳茶ちとせちゃなどがあり、色をもつ対象の側がわから名附けたものには、鶯茶うぐいすちゃ、鶸茶ひわちゃ、鳶色とびいろ、煤竹色すすだけいろ、銀煤色、栗色、栗梅、栗皮茶、丁子茶ちょうじちゃ、素海松茶すみるちゃ、藍あい海松茶、かわらけ茶などがあり、また一定の色合を嗜好しこうする俳優の名から来たものには、芝翫茶しかんちゃ、璃寛茶りかんちゃ、市紅茶しこうちゃ、路考茶ろこうちゃ、梅幸茶ばいこうちゃなどがあった。しからば茶色とはいかなる色であるかというに、赤から橙だいだいを経て黄に至る派手はでやかな色調が、黒味を帯びて飽和の度の減じたものである。すなわち光度の減少の結果生じた色である。茶色が「いき」であるのは、一方に色調の華はなやかな性質と、他方に飽和度の減少とが、諦あきらめを知る媚態、垢抜あかぬけした色気を表現しているからである。
第三に、青系統の色は何故なにゆえ「いき」であるか。まず一般に飽和の減少していない鮮やかな色調としていかなる色が「いき」であるかということを考えてみるに、何らかの意味で黒味に適するような色調でなければならぬ。黒味に適する色とはいかなる色かというに、プールキンエの現象によって夕暮に適合する色よりほかには考えられない。赤、橙、黄は網膜もうまくの暗順応あんじゅんのうに添おうとしない色である。黒味を帯びてゆく心には失われ行く色である。それに反して、緑、青、菫すみれは魂の薄明視はくめいしに未だ残っている色である。それ故に、色調のみについていえば、赤、黄などいわゆる異化作用の色よりも、緑、青など同化作用の色の方が「いき」であるといい得る。また、赤系統の温色よりも、青中心の冷色の方が「いき」であるといっても差支ない。したがって紺や藍は「いき」であることができる。紫のうちでは赤勝がちの京紫よりも、青勝の江戸紫の方が「いき」と看做みなされる。青より緑の方へ接近した色は「いき」であるためには普通は飽和の度と関係してくる。「松葉色の様なる御納戸」とか、木賊とくさ色とか、鶯色とかは、みな飽和度の減少によって特に「いき」の性質を備えているのである。
要するに、「いき」な色とはいわば華はなやかな体験に伴う消極的残像である。「いき」は過去を擁して未来に生きている。個人的または社会的体験に基づいた冷ひややかな知見が可能性としての「いき」を支配している。温色の興奮を味わい尽した魂が補色残像として冷色のうちに沈静を汲むのである。また、「いき」は色気のうちに色盲しきもうの灰色を蔵している。色に染そみつつ色に泥なずまないのが「いき」である。「いき」は色っぽい肯定のうちに黒ずんだ否定を匿かくしている。
以上を概括すれば、「いき」が模様に客観化されるに当って形状と色彩との二契機を具備する場合には、形状としては、「いき」の質料因たる二元性を表現するために平行線が使用され、色彩としては、「いき」の形相因たる非現実的理想性を表現するために一般に黒味を帯びて飽和弱いものまたは冷たい色調が択えらばれる。
次に、模様と同じく自由芸術たる建築において、「いき」はいかなる芸術形式を取っているか。建築上の「いき」は茶屋建築に求めてゆかなければならぬが、まず茶屋建築の内部空間および外形の合目的的形成について考えてみる。およそ異性的特殊性の基礎は原本的意味においては多元を排除する二元である。そうして、二元のために、特に二元の隔在的かくざいてき沈潜のために形成さるる内部空間は、排他的完結性と求心的緊密性とを具現していなければならぬ。「四畳半よじょうはんの小座しきの、縁えんの障子しょうじ」は他の一切との縁を断って二元の超越的存在に「意気なしんねこ四畳半」を場所として提供する。すなわち茶屋の座敷としては「四畳半」が典型的と考えられ、この典型からあまり遠ざからないことが要求される。また、外形が内部空間の形成原理に間接に規定さるる限り、茶屋の外形全体は一定度の大きさを越えてはならない。このことを基礎的予件として、茶屋建築は「いき」の客観化をいかなる形式において示しているであろうか。
「いき」な建築にあっては、内部外部の別なく、材料の選択と区劃の仕方によって、媚態の二元性が表現されている。材料上の二元性は木材と竹材との対照によって表わされる場合が最も多い。永井荷風は『江戸芸術論』のうちで次のような観察をしている。「家は腰高こしだかの塗骨障子ぬりぼねしょうじを境にして居間と台所との二間のみなれど竹の濡縁ぬれえんの外そとには聊ささやかなる小庭ありと覚おぼしく、手水鉢ちょうずばちのほとりより竹の板目はめには蔦つたをからませ、高く釣りたる棚の上には植木鉢を置きたるに、猶なお表側の見付みつきを見れば入口の庇ひさし、戸袋、板目なぞも狭き処ところを皆それぞれに意匠いしょうして網代あじろ、船板、洒竹などを用ゐ云々」。かつまた、「竹材を用ゆる事の範囲並ならびに其その美術的価値を論ずるは最も興味ある事」であると注意している。およそ竹材には「竹の色許由きょゆうがひさごまだ青し」とか「埋うめられたおのが涙やまだら竹」というように、それ自身に情趣の深い色っぽさがある。しかし「いき」の表現としての竹材の使用は、主として木材との二元的対立に意味をもっている。なお竹のほかには杉皮も二元的対立の一方の項こうを成すものとして「いき」な建築が好んで用いる。「直すぐな柱も杉皮附すぎかわつき、つくろはねどもおのづから、土地に合ひたる洒落造しゃれづくり」とは『春色辰巳園』巻頭の叙述である。
室内の区劃の上に現わるる二元性としては、まず天井てんじょうと牀ゆかとの対立が両者の材料上の相違によって強調される。天井に丸竹を並べたり、ひしぎ竹を列つらねたりするいわゆる竹天井の主要なる任務は、この種の材料によって天井と牀との二元性を判明させることにある。天井を黒褐色の杉皮で張るのも、青畳との対比関係に関心を置いている。また、天井そのものも二元性を表わそうとすることが多い。例えば不均等に二分して、大なる部分を棹縁さおぶち天井となし、小なる部分を網代あじろ天井とする。或いは更に二元性を強調して、一部分には平ひら天井を用い、他の部分には懸込かけこみ天井を用いる。次に牀自身も二元性を表わそうとする。床とこの間まと畳とは二元的対立を明示していなければならない。それ故に、床框とこがまちの内部に畳または薄縁うすべりを敷くことは「いき」ではない。室全体の畳敷に対して床の間の二元性が対立の力を減ずるからである。床の間は床板を張って室内の他部と判明に対立することを要する、すなわち床の間が「いき」の条件を充みたすためには本床であってはならない。蹴込床けこみどこまたは敷込床を択ぶべきである。また、「いき」な部屋では、床の間と床脇の違棚ちがいだなとにも二元的対立を見せる必要がある。例えば床板には黒褐色のものを用い、違棚の下前したまえにはひしぎ竹の白黄色のものを敷く。それと同時に、床天井と棚天井とに竹籠編たけかごあみと鏡天井とのごとき対立を見せる。そうして、この床脇の有無がしばしば、茶屋建築の「いき」と茶室建築の「渋味」との相違を表わしている。また床柱とこばしらと落掛おとしがけとの二元的対立の程度の相違にも、茶屋と茶室の構造上の差別が表われているのが普通である。
しかしながら、「いき」な建築にあってはこれら二元性の主張はもとより煩雑はんざつに陥ってはならない。なお一般に瀟洒しょうしゃを要求する点において、しばしば「いき」な模様と同様の性質を示している。例えばなるべく曲線を避けようとする傾向がある。「いき」な建築として円形の室または円天井まるてんじょうを想像することはできない。「いき」な建築は火灯窓かとうまどや木瓜窓もっこうまどの曲線を好まない。欄間らんまとしても櫛形くしがたよりも角切かくぎりを択ぶ。しかしこの点において建築は独立な抽象的な模様よりはやや寛大である。「いき」な建築は円窓まるまどと半月窓はんげつまどとを許し、また床柱の曲線と下地窓したじまどの竹に纏まとう藤蔓ふじづるの彎曲わんきょくとを咎とがめない。これはいずれの建築にも自然に伴う直線の強度の剛直に対して緩和を示そうとする理由からであろう。すなわち、抽象的な模様と違って全体のうちに具体的意味をもつからである。
なお、建築の様式上に表わるる媚態の二元性を理想主義的非現実性の意味に様態化するものには、材料の色彩と採光照明の方法とがある。建築材料の色彩の「いき」は畢竟ひっきょう、模様における色彩の「いき」と同じである。すなわち、灰色と茶色と青色の一切のニュアンスが「いき」な建築を支配している。そうして、一方に色彩の上のこの「さび」が存すればこそ、他方に形状として建築が二元性を強く主張することができたのである。もし建築が形状上に二元的対立を強烈に主張し、しかも派手な色彩を愛用するならば、ロシアの室内装飾に見るごとき一種の野暮に陥ってしまうほかはない。採光法、照明法も材料の色彩と同じ精神で働かなければならぬ。四畳半の採光は光線の強烈を求むべきではない。外界よりの光を庇ひさし、袖垣そでがき、または庭の木立こだちで適宜に遮断しゃだんすることを要する。夜間の照明も強い灯光を用いてはならぬ。この条件に最も適合したものは行灯あんどんであった。機械文明は電灯に半透明の硝子ガラスを用いるか、或いは間接照明法として反射光線を利用するかによってこの目的を達しようとする。いわゆる「青い灯ひ、赤い灯」は必ずしも「いき」の条件には適しない。「いき」な空間に漂う光は「たそや行灯」の淡い色たるを要する。そうして魂の底に沈んで、ほのかに「たが袖」の薫かおりを嗅かがせなければならぬ。
要するに、建築上の「いき」は、一方に「いき」の質料因たる二元性を材料の相違と区劃の仕方に示し、他方にその形相因たる非現実的理想性を主として材料の色彩と採光照明の方法とに表わしている。
建築は凝結した音楽といわれているが、音楽を流動する建築と呼ぶこともできる。しからば自由芸術たる音楽の「いき」はいかなる形において表われているか。まず田辺尚雄たなべひさお氏の論文「日本音楽の理論附粋の研究{4}」によれば、音楽上の「いき」は旋律せんりつとリズムの二方面に表われている。旋律の規範としての音階は、わが国には都節みやこぶし音階と田舎節いなかぶし音階との二種あるが、前者は技巧的音楽のほとんど全部を支配する律旋法として主要のものである。そうして、仮りに平調ひょうじょうを以て宮音きゅうおんとすれば、都節音階は次のような構造をもっている。
平調―壱越いちこつ(または神仙)―盤渉ばんしき―黄鐘おうしき―双調そうじょう(または勝絶しょうせつ)―平調
この音階にあって宮音たる平調と、徴音ちおんたる盤渉とは、主要なる契機として常に整然たる関係を保持している。それに反して、他の各音は実際にあっては理論と必ずしも一致しない。理論的関係に対して多少の差異を示している。すなわち理想体に対して一定の変位を来たしている。そうして「いき」は正まさにこの変位の或る度合に依存するものであって、変位が小に過ぐれば「上品」の感を生じ、大に過ぐれば「下品」の感を生ずる。たとえば、上行して盤渉より壱越を経て平調に至る旋律にあって、実際上の壱越は理論上の高さよりもやや低いのである。かつその変位の程度は長唄ながうたにおいてはさほど大でないが、清元きよもとおよび歌沢うたざわにおいては四分の三全音にも及ぶことがあり、野卑な端唄はうたなどにては一全音を越えることがある。また同じ長唄だけについていえば、物語体のところにはこの変位少なく、「いき」な箇所には変位が大である。そうして変位があまり大に過ぐるときは下品の感を起させる。なおこの関係は、勝絶より黄鐘を経て盤渉に至るときの黄鐘にも、平調より双調を経て黄鐘に至るときの双調にも現われる。また平調より神仙を経て盤渉に至る旋律の下行運動にあっても、神仙の位置に同様の関係が見られる。
リズムについていえば、伴奏器楽がリズムを明示し、唄うたはそれによってリズム性を保有するのであるが、わが国の音楽では多くの場合において唄のリズムと伴奏器楽のリズムとが一致せず、両者間に多少の変位が存在するのである。長唄において「せりふ」に三絃さんげんを附したところでは両者のリズムが一致している。その他でも両者のリズムの一致している場合には、多くは単調を感ぜしめる。「いき」な音曲においては変位は多く一リズムの四分の一に近い。
以上は田辺氏の説であるが、要するに旋律上の「いき」は、音階の理想体の一元的平衡へいこうを打破して、変位の形で二元性を措定そていすることに存する。二元性の措定によって緊張が生じ、そうしてその緊張が「いき」の質料因たる「色っぽさ」の表現となるのである。また、変位の程度が大に過ぎず四分の三全音くらいで自己に拘束こうそくを与えるところに「いき」の形相因が客観化されているのである。リズム上の「いき」も同様で、一方に唄と三絃との一元的平衡を破って二元性が措定され、他方にその変位が一定の度を越えないところに、「いき」の質料因と形相因とが客観的表現を取っているのである。
なお楽曲の形にも「いき」が一定の条件を備えて現われているように思う。顕著に高い音をもって突如として始まって、下向的進行によって次第に低い音に推移するような楽節が、幾つか繰返された場合は多く「いき」である。例えば歌沢の「新紫にいむらさき」のうちの「紫のゆかりに」のところはそういう形をもっている。すなわち、「ムラサキ。ノ。ユカリ。ニ」と四節に分かれて、各節は急突に高い音から始まり、下向的進行をしている。また「音にほだされし縁の糸」のところも同様に「ネニホ。ダ。サレ。シ。エンノ。イト」と六節に分けて見られる。また例えば、清元の「十六夜清心いざよいせいしん」のうちの「梅見帰りの船の唄、忍ぶなら忍ぶなら、闇の夜は置かしやんせ」のところも同様の形をもっている。すなわち、「ウメミ。ガヘリノ。フネノウタ。シノブナラ。シノブナラ。ヤミノ。ヨハオカシヤンセ」と七節に分けて考えることができる。そうしてこの場合に、かような楽曲が「いき」の表現であり得る可能性は、一方に各節の起首の高音が先行の低音に対して顕著な色っぽい二元性を示していることと、他方に各節とも下向的進行によって漸消状態のさびしさをもっていることとに懸かかっている。また起首の示す二元性と、全節の下向的進行との関係は、あたかも「いき」な模様における、縞柄しまがらと、くすんだ色彩との関係のごときものである。
かくのごとくして、意識現象としての「いき」の客観的表現の芸術形式は、平面的な模様および立体的な建築において空間的発表をなし、無形的な音楽において時間的発表をなしているが、その発表はいずれの場合においても、一方に二元性の措定と、他方にその措定の仕方に伴う一定の性格とを示している。更にまたこの芸術形式と自然形式とを比較するに、両者間にも否いなむべからざる一致が存している。そうして、この芸術形式および自然形式は、常に意識現象としての「いき」の客観的表現として理解することができる。すなわち、客観的に見られる二元性措定は意識現象としての「いき」の質料因たる「媚態」に基礎を有し、措定の仕方に伴う一定の性格はその形相因たる「意気地いきじ」と「諦あきらめ」とに基礎をもっている。かくして我々は「いき」の客観的表現を、意識現象としての「いき」に還元し、両存在様態の相互関係を明瞭にするとともに、意味としての「いき」の構造を闡明せんめいしたと信ずるのである。

{1}Dessoir, Aesthetik und allgemeine Kunstwissenschaft, 1923, S. 361 参照。
{2}「美的小」の概念に関しては Lipps, Aesthetik, 1914, I, S. 574 参照。
{3}米国国旗や理髪店の看板が縞模様でありながら何らの「いき」をももっていないのは、他にも理由があろうが、主として色彩が派手であることに起因している。婦人用の烟管きせるの吸口と雁首がんくびに附けた金具に、銀と赤銅しゃくどうとを用いて、銀白色の帯青灰色との横縞を見せているのがある。形状上では理髪店の看板とほとんど違わないが、色彩の効果によって「いき」な印象を与える。
{4}『哲学雑誌』、第二十四巻、第二百六十四号所載。 
六 結論

 

「いき」の存在を理解しその構造を闡明せんめいするに当って、方法論的考察として予あらかじめ意味体験の具体的把握はあくを期した。しかし、すべての思索の必然的制約として、概念的分析によるのほかはなかった。しかるに他方において、個人の特殊の体験と同様に民族の特殊の体験は、たとえ一定の意味として成立している場合にも、概念的分析によっては残余なきまで完全に言表されるものではない。具体性に富んだ意味は厳密には悟得の形で味会されるのである。メーヌ・ドゥ・ビランは、生来の盲人に色彩の何たるかを説明すべき方法がないと同様に、生来の不随者として自発的動作をしたことのない者に努力の何たるかを言語をもって悟らしむる方法はないといっている{1}。我々は趣味としての意味体験についてもおそらく一層述語的に同様のことをいい得る。「趣味」はまず体験として「味わう」ことに始まる。我々は文字通りに「味を覚える」。更に、覚えた味を基礎として価値判断を下す。しかし味覚が純粋の味覚である場合はむしろ少ない。「味なもの」とは味覚自身のほかに嗅覚きゅうかくによって嗅かぎ分けるところの一種の匂においを暗示する。捉とらえがたいほのかなかおりを予想する。のみならず、しばしば触覚も加わっている。味のうちには舌ざわりが含まれている。そうして「さわり」とは心の糸に触れる、言うに言えない動きである。この味覚と嗅覚と触覚とが原本的意味における「体験」を形成する。いわゆる高等感覚は遠官として発達し、物と自己とを分離して、物を客観的に自己に対立させる。かくして聴覚は音の高低を判然と聴き分ける。しかし部音は音色の形を取って簡明な把握に背そむこうとする。視覚にあっても色彩の系統を立てて色調の上から色を分けてゆく。しかし、いかに色と色とを分割してもなお色と色との間には把握しがたい色合いろあいが残る。そうして聴覚や視覚にあって、明瞭な把握に漏もれる音色や色合を体験として拾得するのが、感覚上の趣味である。一般にいう趣味も感覚上の趣味と同様に、ものの「色合」に関している。すなわち、道徳的および美的評価に際して見られる人格的および民族的色合を趣味というのである。ニイチェは「愛しないものを直ちに呪のろうべきであろうか」と問うて、「それは悪い趣味と思う」と答えている。またそれを「下品」(Pbel-Art)だといっている{2}。我々は趣味が道徳の領域において意義をもつことを疑おうとしない。また芸術の領域にあっても、「色を求むるにはあらず、ただ色合のみ{3}」といったヴェルレエヌとともに我々は趣味としての色合の価値を信ずる。「いき」も畢竟ひっきょう、民族的に規定された趣味であった。したがって、「いき」は勝義における sens intime によって味会されなければならない。「いき」を分析して得られた抽象的概念契機は、具体的な「いき」の或る幾つかの方面を指示するに過ぎない。「いき」は個々の概念契機に分析することはできるが、逆に、分析された個々の概念契機をもって「いき」の存在を構成することはできない。「媚態びたい」といい、「意気地いきじ」といい、「諦あきらめ」といい、これらの概念は「いき」の部分ではなくて契機に過ぎない。それ故に概念的契機の集合としての「いき」と、意味体験としての「いき」との間には、越えることのできない間隙かんげきがある。換言すれば、「いき」の論理的言表の潜勢性と現勢性との間には截然せつぜんたる区別がある。我々が分析によって得た幾つかの抽象的概念契機を結合して「いき」の存在を構成し得るように考えるのは、既に意味体験としての「いき」をもっているからである。
意味体験としての「いき」と、その概念的分析との間にかような乖離的かいりてき関係が存するとすれば、「いき」の概念的分析は、意味体験としての「いき」の構造を外部より了得りょうとくせしむる場合に、「いき」の存在の把握に適切なる位地と機会とを提供する以外の実際的価値をもち得ないであろう。例えば、日本の文化に対して無知な或る外国人に我々が「いき」の存在の何たるかを説明する場合に、我々は「いき」の概念的分析によって、彼を一定の位置に置く。それを機会として彼は彼自身の「内官」によって「いき」の存在を味得しなければならない。「いき」の存在会得に対して概念的分析は、この意味においては、単に「機会原因」よりほかのものではあり得ない。しかしながら概念的分析の価値は実際的価値に尽きるであろうか。体験さるる意味の論理的言表の潜勢性を現勢性に化せんとする概念的努力は、実際的価値の有無または多少を規矩きくとする功利的立場によって評価さるべきはずのものであろうか。否いな。意味体験を概念的自覚に導くところに知的存在者の全意義が懸かかっている。実際的価値の有無多少は何らの問題でもない。そうして、意味体験と概念的認識との間に不可通約的な不尽性の存することを明らかに意識しつつ、しかもなお論理的言表の現勢化を「課題」として「無窮」に追跡するところに、まさに学の意義は存するのである。「いき」の構造の理解もこの意味において意義をもつことを信ずる。
しかし、さきにもいったように、「いき」の構造の理解をその客観的表現に基礎附けようとすることは大なる誤謬ごびゅうである。「いき」はその客観的表現にあっては必ずしも常に自己の有する一切のニュアンスを表わしているとは限らない。客観化は種々の制約の拘束の下もとに成立する。したがって、客観化された「いき」は意識現象としての「いき」の全体をその広さと深さにおいて具現していることは稀まれである。客観的表現は「いき」の象徴に過ぎない。それ故に「いき」の構造は、自然形式または芸術形式のみからは理解できるものではない。その反対に、これらの客観的形式は、個人的もしくは社会的意味体験としての「いき」の意味移入によって初めて生かされ、会得えとくされるものである。「いき」の構造を理解する可能性は、客観的表現に接触して quid を問う前に、意識現象のうちに没入して quis を問うことに存している。およそ芸術形式は人性的一般または異性的特殊の存在様態に基づいて理解されなければ真の会得ではない{4}。体験としての存在様態が模様に客観化される例としては、ドイツ民族の有する一種の内的不安が不規則的な模様の形を取って、既に民族移住時代から見られ、更にゴシックおよびバロックの装飾にも顕著な形で現われている事実がある。建築においても体験と芸術形式との関係を否いなみ得ない。ポール・ヴァレリーの『ユーパリノスあるいは建築家』のうちで、メガラ生れの建築家ユーパリノスは次のようにいっている。「ヘルメスのために私が建てた小さい神殿、直ぐそこの、あの神殿が私にとって何であるかを知ってはいまい。路ゆく者は優美な御堂を見るだけだ――わずかのものだ、四つの柱、きわめて単純な様式――だが私は私の一生のうちの明るい一日の思出をそこに込めた。おお、甘い変身メタモルフォーズよ。誰も知る人はないが、このきゃしゃな神殿は、私が嬉しくも愛した一人のコリントの乙女おとめの数学的形像だ。この神殿は彼女独自の釣合を忠実に現わしているのだ{5}」。音楽においても浪漫ロマン派または表現派の名称をもって総括し得る傾向はすべて体験の形式的客観化を目標としている。既にマショオは恋人ペロンヌに向って「私のものはすべて貴女あなたの感情でできた」と告げている{6}。またショパンは「ヘ」短調司伴楽の第二楽章の美しいラルジェットがコンスタンチア・グラコウスカに対する自分の感情を旋律化したのであることを自ら語っている{7}。体験の芸術的客観化は必ずしも意識的になされることを必要としない。芸術的衝動は無意識的に働く場合も多い。しかしかかる無意識的創造も体験の客観化にほかならない。すなわち個人的または社会的体験が、無意識的に、しかし自由に形成原理を選択して、自己表現を芸術として完了したのである。自然形式においても同様である。身振みぶりその他の自然形式はしばしば無意識のうちに創造される。いずれにしても、「いき」の客観的表現は意識現象としての「いき」に基礎附けて初めて真に理解されるものである。
なお、客観的表現を出発点として「いき」の構造を闡明せんめいしようとする者のほとんど常に陥る欠点がある。すなわち、「いき」の抽象的、形相的理解に止とどまって、具体的、解釈的に「いき」の特異なる存在規定を把握するに至らないことである。例えば、「美感を与える対象」としての芸術品の考察に基づいて「粋の感」の説明が試みられる{8}。その結果として、「不快の混入」というごとき極きわめて一般的、抽象的な性質より捉とらえられない。したがって「いき」は漠然ばくぜんたる raffinのごとき意味となり、一方に「いき」と渋味との区別を立て得ないのみならず、他方に「いき」のうちの民族的色彩が全然把握されない。そうして仮りにもし「いき」がかくのごとき漠然たる意味よりもっていないものとすれば、西洋の芸術のうちにも多くの「いき」を見出すことができるはずである。すなわち「いき」とは「西洋においても日本においても」「現代人の好む」何ものかに過ぎないことになる。しかしながら、例えばコンスタンタン・ギイやドガアやファン・ドンゲンの絵が果して「いき」の有するニュアンスを具有しているであろうか。また、サンサンス、マスネエ、ドゥビュッシイ、リヒアルド・スュトラウスなどの作品中の或る旋律を捉えて厳密なる意味において「いき」と名附け得るであろうか。これらはおそらく肯定的に答えることはできないであろう。既にいったように、この種の現象と「いき」との共通点を形式化的抽象によって見出すことは必ずしも困難ではない。しかしながら、形相的方法を採とることはこの種の文化存在の把握に適した方法論的態度ではない。しかるに客観的表現を出発点として「いき」の闡明を計る者は多くみなかような形相的方法に陥るのである。要するに、「いき」の研究をその客観的表現としての自然形式または芸術形式の理解から始めることは徒労に近い。まず意識現象としての「いき」の意味を民族的具体において解釈的に把握し、しかる後その会得に基づいて自然形式および芸術形式に現われたる客観的表現を妥当に理解することができるのである。一言にしていえば、「いき」の研究は民族的存在の解釈学としてのみ成立し得るのである。
民族的存在の解釈としての「いき」の研究は、「いき」の民族的特殊性を明らかにするに当って、たまたま西洋芸術の形式のうちにも「いき」が存在するというような発見によって惑わされてはならぬ。客観的表現が「いき」そのものの複雑なる色彩を必ずしも完全に表わし得ないとすれば、「いき」の芸術形式と同一のものをたとえ西洋の芸術中に見出す場合があったとしても、それを直ちに体験としての「いき」の客観的表現と看做みなし、西洋文化のうちに「いき」の存在を推定することはできない。またその芸術形式によって我々が事実上「いき」を感じ得る場合が仮りにあったとしても、それは既に民族的色彩を帯びた我々の民族的主観が予想されている。その形式そのものが果して「いき」の客観化であるか否いなかは全くの別問題である。問題は畢竟ひっきょう、意識現象としての「いき」が西洋文化のうちに存在するか否かに帰着する。しからば意識現象としての「いき」を西洋文化のうちに見出すことができるであろうか。西洋文化の構成契機を商量するときに、この問は否定的の答を期待するよりほかはない。また事実として、たとえばダンディズムと呼ばるる意味は、その具体的なる意識層の全範囲に亙わたって果して「いき」と同様の構造を示し、同様の薫かおりと同様の色合いろあいとをもっているであろうか。ボオドレエルの『悪の華』一巻はしばしば「いき」に近い感情を言表いいあらわしている。「空無の味」のうちに「わが心、諦めよ」とか、「恋ははや味わいをもたず」とか、または「讃ほむべき春は薫を失いぬ」などの句がある。これらは諦めの気分を十分に表わしている。また「秋の歌」のうちで「白く灼やくる夏を惜しみつつ、黄に柔やわらかき秋の光を味わわしめよ」といって人生の秋の黄色い淡い憂愁ゆうしゅうを描いている。「沈潜」のうちにも過去を擁する止揚の感情が表わされている。そうして、ボオドレエル自身の説明{9}によれば、「ダンディズムは頽廃期たいはいきにおける英雄主義の最後の光であって……熱がなく、憂愁にみちて、傾く日のように壮美である」。また「lganceの教説」として「一種の宗教」である。かようにダンディズムは「いき」に類似した構造をもっているには相違ない。しかしながら、「シーザーとカティリナとアルキビアデスとが顕著な典型を提供する」もので、ほとんど男性に限り適用される意味内容である。それに反して、「英雄主義」が、か弱い女性、しかも「苦界くがい」に身を沈めている女性によってまでも呼吸されているところに「いき」の特彩がある。またニイチェのいう「高貴」とか「距離の熱情」なども一種の「意気地」にほかならない。これらは騎士気質から出たものとして、武士道から出た「意気地」と差別しがたい類似をもっている{10}。しかしながら、一切の肉を独断的に呪のろった基督キリスト教の影響の下もとに生立おいたった西洋文化にあっては、尋常の交渉以外の性的関係は、早くも唯物主義と手を携たずさえて地獄に落ちたのである。その結果として、理想主義を予想する「意気地」が、媚態をその全延長に亙わたって霊化して、特殊の存在様態を構成する場合はほとんど見ることができない。「女の許もとへ行くか。笞むちを忘るるな{11}」とは老婆がツァラトゥストラに与えた勧告であった。なお一歩を譲って、例外的に特殊の個人の体験として西洋の文化にも「いき」が現われている場合があると仮定しても、それは公共圏に民族的意味の形で「いき」が現われていることとは全然意義を異にする。一定の意味として民族的価値をもつ場合には必ず言語の形で通路が開かれていなければならぬ。「いき」に該当する語が西洋にないという事実は、西洋文化にあっては「いき」という意識現象が一定の意味として民族的存在のうちに場所をもっていない証拠である。
かように意味体験としての「いき」がわが国の民族的存在規定の特殊性の下もとに成立するにかかわらず、我々は抽象的、形相的の空虚の世界に堕してしまっている「いき」の幻影に出逢う場合があまりにも多い。そうして、喧やかましい饒舌じょうぜつや空むなしい多言は、幻影を実有のごとくに語るのである。しかし、我々はかかる「出来合できあい」の類概念によって取交される flatus vocis に迷わされてはならぬ。我々はかかる幻影に出逢った場合、「かつて我々の精神が見たもの{12}」を具体的な如実の姿において想起しなければならぬ。そうして、この想起は、我々をして「いき」が我々のものであることを解釈的に再認識せしめる地平にほかならない。ただし、想起さるべきものはいわゆるプラトン的実在論の主張するがごとき類概念の抽象的一般性ではない。かえって唯名論の唱道する個別的特殊の一種なる民族的特殊性である。この点において、プラトンの認識論の倒逆的転換が敢えてなされなければならぬ。しからばこの意味の想起アナムネシスの可能性を何によって繋つなぐことができるか。我々の精神的文化を忘却のうちに葬り去らないことによるよりほかはない。我々の理想主義的非現実的文化に対して熱烈なるエロスをもち続けるよりほかはない。「いき」は武士道の理想主義と仏教の非現実性とに対して不離の内的関係に立っている。運命によって「諦め」を得た「媚態」が「意気地」の自由に生きる{13}のが「いき」である。人間の運命に対して曇らざる眼をもち、魂の自由に向って悩ましい憧憬しょうけいを懐く民族ならずしては媚態をして「いき」の様態を取らしむることはできない。「いき」の核心的意味は、その構造がわが民族存在の自己開示として把握されたときに、十全なる会得と理解とを得たのである。

{1}Maine de Biran, Essai sur les fondements de la psychologie(Oeuvres indites, Naville, I, p. 208)。
{2}Nietzsche, Also sprach Zarathustra, Teil IV, Vom hheren Menschen.
{3}Verlaine, Art potique.
{4}ベッカー曰いわく「美的なものの存在学は、美的(すなわち、芸術的)に創作する、また美的に享楽する現実存在の分析から展開されなければならぬ」(Oskar Becker, Von der Hinflligkeit des Schnen und der Abenteuerlichkeit des Knstlers; Jahrbuch fr Philosophie und phnomenologische Forschung, Ergnzungsband: Husserl-Festschrift, 1929, S. 40)
{5}Paul Valry, Eupalinos ou l'architecte, 15e d., p.104.
{6}Jahrbuch der Musikbibliothek Peters, 1926, S. 67.
{7}Lettre Titus Woyciechowski, le 3 octobre 1829.
{8}高橋穣『心理学』改訂版、三二七―三二八頁参照。
{9}Baudelaire, Le peintre de la vie moderne, IX, Le dandy. なおダンディズムに関しては左の諸書参照。Hazlitt, The dandy school, Examiner, 1828./Sieveking, Dandysm and Brummell. The Contemporary Review, 1912./Otto Mann, Der moderne Dandy, 1925.
{10}Nietzsche, Jenseits von Gut und Bse, IX, Was ist vornehm? 参照。
{11}Nietzsche, Also sprach Zarathustra, Teil I, Von alten und jungen Weiblein.
{12}α ποτ’ ειδεν ημων η ψυχη(Platon, Phaidros 249c).[最初のαに帯気+鋭アクセント。ειδενのιに平息+曲アクセント。ημωνのηに帯気、ωに曲アクセント。単体のηに帯気。ψυχηのηに鋭アクセント]強調はημωνの上に置かれなければならない。ただしαναμνησισ[最初のαに平息、3文字目のαに鋭アクセント、σはファイナルシグマ]はこの場合二様の意味で自己認識である。第一にはημωνの尖端的強調による民族的自我の自覚である。第二にはψυχη[ηに鋭アクセント]と「意気」との間に原本的関係が存することに基づいて、自我の理想性が自己認識をすることである。
{13}「いき」の語源の研究は、生、息、行、意気の関係を存在学的に闡明することと相俟あいまってなされなければならない。「生」が基礎的地平であることはいうまでもない。さて、「生きる」ということには二つの意味がある。第一には生理的に「生きる」ことである。異性的特殊性はそれに基礎附けられている。したがって「いき」の質料因たる「媚態」はこの意味の「生きる」ことから生じている。「息」は「生きる」ための生理的条件である。「春の梅、秋の尾花のもつれ酒、それを小意気に呑のみなほす」という場合の「いき」と「息」との関係は単なる音韻上の偶然的関係だけではないであろう。「いきざし」という語形はそのことを証明している。「そのいきざしは、夏の池に、くれなゐのはちす、始めて開けたるにやと見ゆ」という場合の「意気ざし」は、「息ざしもせず窺うかがへば」の「息差」から来たものに相違ない。また「行」も「生きる」ことと不離の関係をもっている。ambulo が sum の認識根拠であり得るかをデカルトも論じた。そうして、「意気方」および「心意気」の語形で、「いき」は明瞭に「行(いき)」と発音される。「意気方よし」とは「行きかた善し」にほかならない。また、「好いた殿御へ心意気」「お七さんへの心意気」のように、心意気は「……への心意気」の構造をもって、相手へ「行く」ことを語っている。さて、「息」は「意気ざし」の形で、「行」は「意気方」と「心意気」の形で、いずれも「生きる」ことの第二の意味を予料している。それは精神的に「生きる」ことである。「いき」の形相因たる「意気地」と「諦め」とは、この意味の「生きる」ことに根ざしている。そうして、「息」および「行」は、「意気」の地平に高められたときに、「生」の原本性に帰ったのである。換言すれば、「意気」が原本的意味において「生きる」ことである。 
 
偶然の産んだ駄洒落 / 九鬼周造

 

駄洒落だじゃれを聞いてしらぬ顔をしたり眉をひそめたりする人間の内面生活は案外に空虚なものである。軽い笑わらいは真面目な陰鬱いんうつな日常生活に朗ほがらかな影を投げる。ある日、私がパリで散髪をしていると理髪師が私に向ってデ・ジャポネー(日本人)は騎兵は要らぬそうですねといった。何のことかと聞くとデジャ(既に)ポネー(小馬)だからといった。人を馬鹿にしているこの駄洒落は異郷の旅愁をかえって慰めてくれた。旅愁は人生の旅にもおそいかかってくる。軽い駄洒落も時には悪くない。ポール・ヴァレリイは同韻の二つの言葉を双児ふたごの交わす微笑に譬たとえている。偶然の戯れが産んだ三つ児を二組紹介しても別に誰も咎とがめる者はないだろう。
その一つは既に新聞に載ったこともあるからある人々には旧聞に属するかも知れない。和辻哲郎君がまだ京都にいた頃のことである。西田幾多郎にしだきたろう先生をお誘いして貴船きぶねへ遠足してアマゴでも食べようということになった。天野貞祐君が西田先生のところへ行ってアナゴを食べに貴船へお出になりませんかというと、先生はアナゴのような脂ッこいものはおれはいやだと答えられた。天野君が和辻君にその由を伝えると和辻君はアナゴではなくてアマゴであることを説明した。西田先生もアマゴなら食ってもいいといわれて貴船行の計画がめでたく成立った。これはアマノがアマゴとアナゴを間違えた話である。関東育ちでカントの『純粋理性批判』の訳者である天野君はアナゴは知っていたがアマゴを知らなかったのである。
今年の歳末にその天野君と落合太郎君と私とで寒い晩に四条通の喫茶店へ茶を飲みに行ったことがある。給仕の少女に九鬼は紅茶とビスケットをくれないかといった。ビスケットってクッキーのことですかと少女が尋ねた。九鬼は「クッキーなら貰もらわないでもこっちから上げるよ」といって笑ったが、何かしら胸にグキット感じた。ビスケットという古い言葉がクッキーという新しい言葉に代ってしまっているのを初めて知って、自分の住んでいる古い世界と少女の住んでいる新しい世界との間隔に軽い目まいを感じたのである。これはクキがクッキーでグキットした話である。
この二つの場合で、クキがクッキーでグキットしたとはいいやすいが、アマノがアマゴとアナゴを間違えたといおうとするとうまく口が廻らないで多少の努力を要する。前者は同一性に基くものとして単に量的関係に還元され得るのに反して、後者は類似性の基礎に質的関係を予想しているためであろう。 
 
九鬼周造の随筆

 

(一) 小伝 
『いきの構造』を書いた哲学者、九鬼周造は、男爵九鬼隆一の四男として明治廿一年二月十五日に、東京の芝で生まれた。
周造の父の九鬼隆一は、明治政府の高官で、特に美術行政に大きな足跡をのこした人物として知られているが、周造が生まれた時はまだ男爵になっていない。男爵になったのは周造が八才の時という。
隆一の妻のはつが周造を身籠った時、隆一は駐米全権公使としてワシントンに駐在していた。
隆一は、はつを日本で出産させるため、岡倉天心に頼んで、天心と同じ船で帰国させた。
その天心について周造の随筆『岡倉覚三氏の思出』に、次のようにある。覚三とは、天心の本名である。
「私が八、九歳で小学校の一、二年の頃、父は麹町の三年町に住んでいたが、母は兄と私を連れて下谷の中根岸の御行の松の近所に別居していた。そのころ岡倉氏の家は上根岸にあったがよく母を訪ねて来られた。上野の美術学校の校長の時代である。当時、母は凡そ三十六、七歳で岡倉氏よりは一つ二つ年上だった筈だ」
また、『根岸』という随筆にも、同様の記述があり、続けて、
「父が米国で公使をしている時に岡倉氏に托して母を先に日本へ帰らせた。母と岡倉氏とはそれ以来の親しい間柄である」
と出ている。
天心が東京美術学校の校長になったのは、明治廿三年である。
はつと天心は、やがて恋に陥り、大きなスキャンダルとなる。
はつは離縁となり、天心も明治三十一年、美術学校での排斥運動により、校長の職を退く。
はつとのスキャンダルが、それにどれ程影響していたのかは知らない。
隆一は天心について、
「父は岡倉氏に関して、公には非常に役に立ってもらった人だが、家庭的には大変迷惑をかけられたという風に云っていた」(『岡倉覚三氏の思出』)
と周造は書いている。
後先になったが、周造の母のはつは、京都の花流界にいた女性で、それを隆一が引かせて妻としたのである。
はつは様々な面で、周造に大きな影響を与えたようだ。
大正の末頃、留学先のパリで詠んだ短歌に、
母うへのめでたまひつる白茶いろ 流行はやりと聞くも憎からぬかな
というのがある。周造は『いきの構造』の中で、いきな色として白茶いろを挙げている。
彼の書いたものには、時折、母が影が見え隠れするようだ。
天心について委しく触れている間はないが、明治三十七年にボストン美術館の顧問として渡米、翌年、同館の東洋部長に就任、日米間を頻繁に往来する。明治四十三年、天心は帝大の講師となり、東洋美術史を講義することになる。
周造は明治四十二年に帝大の哲学科に入学して、当時、帝大に在学していた。
たまたま、校内で、天心と出会ったことがあった。周造が天心に会うのは十年ぶりだったが、すぐに天心とわかった。しかし、子供の頃の周造しか知らない天心には周造のことはわからなかったようだ。周造は下を向いたまま、お辞儀もしないで、天心と行き違った。
それについて、周造は、
「私がいったいひっこみ思案だからでもあるが、母を悲惨な運命に陥れた人という念もあって氏に対しては複雑な感情を有っていたからでもある」
「岡本氏が非凡な人であること、東洋美術史の講義も極めて優れたものであることはきいていたが、私は私的な感情に支配されて遂に一度も聴かなかったのは今から思えば残念でならない。西洋にいる間に、私は岡倉氏の『茶の本』だの『東洋の理想』を原文で読んで深く感激した。そうして度々西洋人への贈物にもした。やがて私の父も死に母も死んだ。今では私は岡倉氏に対して殆どまじり気のない尊敬の念だけを有っている」(以上、『岡倉覚三氏の思出』)
これに続いて、五浦在住時代の天心から隆一に当てた書簡が出ていて、それについて、「家庭上複雑な関係があったにも拘らず、父と岡倉氏とが終始親交を続けていたことを如実に語っている点に私は喜びを感じている」
と周造はいっている。
はつとの不倫騒動があった後も、隆一と天心との付き合いは、喧嘩別れすることもなく、ずっと続いていたようだ。
後年の美術行政のやり方をみると、隆一という人は、強引頑固で柔軟性に欠ける性格のように見受けられるが、こうした天心との関係からみると、案外、懐の広い、大きい人物だったのかもしれない。
大正元年に、周造は帝大を卒業して、大学院へ進む。
大正七年、周造は次兄一造の未亡人、九鬼縫子と結婚する。時に、三十一才。
周造の女性関係については、旧制高校から大学まで一緒だった親友の岩下壮一の妹とのことが知られている。
熱烈に恋して結婚まで考えたというが、後にカトリックの神学者となった兄の壮一同様、信仰心の厚い彼女は修道院に入ってしまい、周造の恋は終わった。
大正十年から、周造は足掛け八年に及ぶ西欧留学へ旅立つ。
大正十一年から、ハイデルベルク大学でリッケルトに学ぶ。
大正十三年秋にパリへ移り、約三年間滞在。
大正十四年、短歌集『巴里小曲』などを『明星』に発表する。
大正十五年(昭和元年)、詩集『巴里心景』などを『明星』に発表。  昭和二年、四月よりフライブルク大学でフッサル、オスカー・ベッカーに学ぶ。十一月にマールブルグ大学に移り、ハイデッガーに学ぶ。
昭和三年、六月にパリへ帰り、この年の暮にアメリカ経由で帰国の途につく。その間、パリでベルクソンを訪問。
昭和四年、帰国した周造は西田幾太郎の招きにより、京大哲学科の講師となる。
昭和五年に主著『いきの構造』を刊行。
昭和六年、八月に父隆一が逝去。行年、八十才。次いで、十一月に母はつが他界。行年、七十二才。
昭和八年、京大助教授となる。周造、四十七才。
昭和十年、京大教授となる。周造、四十九才。
九鬼周造は、昭和十六年に、ガンのため死去。五十四才だった。(年令はいずれも数え歳とした)
周造は結婚生活では九鬼縫子とはうまくいかずに離婚。後に祇園の芸妓、中西きくえを入れて伴侶とした。
九鬼周造には、京大での講義の時に微醺を帯びて教壇に立った、という伝説めいた話が伝わっている。
今そんなことをしたら大変である。忽ち糾弾され、首になりかねないだろう。
本当だとしたら、時代がよかったのか、或いは京大という所は細かいことに拘らない大らかで自由な校風だったのか。
『いきの構造』については、『ダンデイズム東西』のところでとりあげて書いたが、読んでみると、周造の広範囲にわたる江戸に関する造詣の深さに驚かされる。
邦楽についても、ただ知識として持っているだけでなく、自身でも何か邦楽を実際に習っていたに違いない、そう思って気をつけて見ていたら、次のような短歌を見つけた。
大正十四年、『明星』に発表した短歌集『巴里小曲』の中の「ノクターン」と題した短歌の内の一首である。先に挙げた「母うへのめでたまひつる——」の歌も此処に出ている。
ふるさとのしんむらさきの節恋し かの歌沢の師匠も恋し
同じくパリでの詠草を集めた『巴里心景』(短歌集。同名の詩集もある)に、
「うす墨」のかの節廻し如何なりけん 東より来て年経たるかな
「しんむらさき」、「うす墨」共に、歌沢節の曲名である。
これらの歌から、他の邦楽を習ったこともあったかもしれないが、少なくとも歌沢を師匠について稽古していたことがわかる。
歌沢節は最近はあまり耳にしなくなったが、幕末から明治、大正、昭和の初めにかけて、大変に流行った音曲である。
九鬼周造の話から少し脇道へ逸れることになるが、たまたま歌沢節が出て来たので、次回は、その歌沢節について——– 
(二) 歌沢節

 

歌沢節は端唄から出たものである。
抑々短い唄を端唄とか、小唄というのだが、今使われているような邦楽の一ジャンルとしてそれを説明するのは難しい。前に長唄について書いたことがあったが、長唄も元々は長い唄という意味で使われていたものが、邦楽の一ジャンル名になったのと同じで、言葉は同一でも意味は全然違っている。江戸時代の端唄、小唄は、短い流行り唄と考えていいだろう。
その端唄について、『守貞漫稿』に、
「端唄 はうたと訓ず時々変化流布する小唄の類を云惣名長唄に対する名目歟 嘉永の頃より歌沢某なる者初めて師匠となり一家をなし種々の小唄を三絃とともに教授す是亦浄瑠璃の類と同く名取と云て免許を受たる門人出来り江戸諸所に歌沢某と云う表札を掛けて稽古所を構ふ此行嘉永以前更に無之是亦今世一種遊民の業となる」とある。
幕末(天保の終わり以後 1840〜 )、本所割下水に笹本彦太郎という旗本の隠居が住んでいた。
彦太郎は俗名を金平、寉賀と号したという。
本所の割下水というのは南北あって、今は両方とも埋め立てられてないが、北の割下水というのは今の春日通りに当たり、南の方は両国の江戸博物館の前から東に伸びる北斎通りがそれである。
ただ割下水といった時は南割下水を指し、北の場合は必ず北をつけて北の割下水と呼んだという。
彦太郎というのは笹本家代々の名で、金平は隠居して笹丸と名乗ったというが、その他にも隠居する前は金十郎といったと書いてある本もある。
以下は『伝衢事記』という本の記述によるが、
——金平は老娼妓二人を妾として暮らしていた。端唄が好きで江戸中の端唄上手を聞いて廻り、その者達を自宅に招いて馳走をしたりして隠居生活を楽しんでいたが、少しもおごりがましいところがなかったので、金平の隠居所に出入りする者は数十人に及んだ。声が自慢の端唄好きの連中ばかりで、興に乗って深更に及ぶと、金平は彼等を泊めてやり、翌朝、歯みがき一袋、楊子一本(歯ブラシ)、湯銭一人前分を渡し、朝食を振る舞った。その朝食の時、夫々の名を書いた紙の箸入れを渡した。食事の後、その箸入れを台所の箸さしに並べて差して置くので、後日来た者がその箸さしの名前を見て、あいつも来たのか、こいつも来たのか、と此の家に自分の名を書いた箸入れがあるのを、端唄自慢の連中は栄誉にした、という。
やがて彼等は金平を盛り立てて歌沢節の始祖とした。即ち、歌沢笹丸である。
金平には自分が家元になろうなどという気は更になかったようなのだが、公の認可を得る手続きの都合上、家元として届け出たという。安政四年(1857)、大和掾という掾号が下り、金平は歌沢大和掾となったが、すぐ家元を平虎といわれた畳屋の寅右衛門に譲り、その年に死んだ。享年、六十一才。『伝衢事記』には、金平は金十郎となっていて、金十郎は役職にある時の名、と割注がある。
十九世紀初頭の文化、文政の頃から端唄、俗曲などが盛んになり流行した。都々逸が出来たのも此の頃である。
水野越前の天保の改革の後も端唄ブームで、××連と稱する端唄愛好者のグループが多数あったが、その中でも歌沢節のグループが一番だったといわれている。
そのメンバーというのは、いわずと知れた笹本の隠居所に出入りの連中で、主だった者には歌沢節の二代目家元となった平虎の畳屋寅右衛門の他、御家人の柴田金吉、は組の火消しの辻音、同じく稲荷の滝、木挽町の船宿の息子の吉川の藤七、い組の火消しの蛇の茂兵衛等、いずれも江戸で端唄の上手として知られた面々だった。
この内、柴田金吉(金之丞とする書もある)の通稱芝金は、平虎が二代目家元となると、別れて哥沢芝金と名乗り、文久二年(1862)に土佐掾を受領して哥沢土佐掾となった。
芝金は「歌沢」ではなく「哥沢」と稱したので、双方を総稱する時には「うた沢」というようになり、夫々の家元の名をとって、寅右衛門の方を寅派、芝金の方を芝派と呼ぶようになった。
その他のメンバーの内、船宿の悴の吉川藤七は後に一中節の太夫、都以中となった。小唄の作曲もあり、「空や久しく」という唄は今でもよく唄われている。
蛇の茂兵衛は明治になって小唄政寿と名乗って芸人の鑑札を受けた。
初代歌沢節の家元笹本彦太郎については、旗本の隠居としか書いていない本が多いので、書き加えて置く。
笹本彦太郎は五百俵取りの旗本で、御書院番だった。
御書院番とは御小姓組とともに両御番といって、将軍の親衛隊ともいうべき役柄で、家柄の良い武士しかなれなかった。
笹本家では、当主は代々彦太郎を名乗ったようで、金平の父の彦太郎は西丸の御目付を勤めていた。
金平の彦太郎が家督を譲って隠居したのは天保十一年(1840)で、次代の彦太郎は嘉永三年(1850)十二月に御番入りして、西丸御書院番を命じられている。
この新彦太郎は養子で、実父は大番を勤めていた戸田大次郎とある。
禄高五百俵といえば、決して大身の旗本とはいえない。
五百俵というのは所謂俵とりで、石高に直すと、大体一俵一石と換算して五百石取りの知行とりと同じと考えていいだろう。
その旗本の隠居が、二人の妾を持って、大勢の連中を毎晩のように自宅へ呼んで馳走する程の余裕があるとは思えない。
もしかしたら、旗本の株を自分の老後の保証を条件に売ったのかもしれない。
つまり、新彦太郎は、侍になりたい裕福な町人の悴か何かで、金平の彦太郎は自分の老後を保証してくれる約束で、彼を戸田大次郎の息子ということにして養子にしたのではないか、ということである。
これらは推測だが、金平の優雅な隠居生活には何か裏がなければ、とても五百俵という禄高だけで出来ることではない。
笹本家は本所緑町に五百五十坪の屋敷を与えられている。
緑町の北側は武家屋敷になっていたとあるから、その一部は南割下水に接していたと思われる。
金平は南割下水に住んでいたというが、金平の隠居所は笹本の屋敷の外にあった訳ではなく、屋敷内の一隅にあったのだろう。
九鬼周造が誰から歌沢節を習ったのか、調べればわかることかもしれないが、大体の想像はつく。
周造の家の環境からみて、一流の師匠についたに違いない。
又、その時期は、学生時代の明治の末年から洋行する大正十年までの間と考えられる。
周造は、短歌の中で「歌沢」といっているので、そのまま受けとれば寅派の師匠についていたことになる。
しかし、一般的な「うた沢」のつもりで、そう書いたとすれば、芝派の師匠だった可能性もある。
そこで、派にとらわれず、以上に該当しそうな師匠を捜すと、次の三名になる。
寅派ならば、明治三十八年に家元を襲名した三代目歌沢寅右衛門、芝派ならば、明治四十一年に四代目を相続した哥沢芝金か、或いは、その姉の芝勢以。
明治から大正にかけて、盛んだったのは芝派の方で、寅派の方は二代目寅右衛門が一時その活動を止めていたこともあって、芝派に遅れをとっていた。
そう考えると、普通には芝派のうた沢を習ったと思われるのだが、「歌沢の師匠も恋し」という文句から、ただ過ぎし日を懐しがっているだけでなく、妙に艶っぽい女性を想像してしまう。
三代目寅右衛門については、よくは知らないのだが、美和といった二代目(三代目の母)は大変な美人だったというから、三代目も美人だったと思われ、何か周造が短歌に詠んだ歌沢の師匠は三代目寅右衛門ではなかったかという気がしないでもない。
周造が短歌の中に挙げている「しんむらさき」、「うす墨」という曲名からも、筆者よりうた沢に委しい人なら、彼が何派の師についたのか、わかるかもしれない。曲がその派固有のものであればの話だが——–。残念ながら、私にはわからない。
うた沢節は端唄から出たもの、と此の章の冒頭に書いた。
初期の頃は、普通の端唄とそれ程唄い方に大きな違いはなかったと思われるのだが、今では聞けばすぐ分かる程違っている。
テンポがゆっくりで、息を長く、節を細かに唄うのがうた沢節の特徴である。
三味線はあしらいで、唄が主の音曲である。 
(三) 煩悩の色

 

九鬼周造には、哲学の論文以外に、随筆や詩、また前稿に挙げたように短歌の作もある。
個人的な好みでいうと、短歌はいいが、詩はあまり好きではない。
好みの問題だから別に理由など要らないのだが、強いていえば、短歌には、周造の哲学者としての表の顔の知とは対稱的な情の面が、勿論全部が全部ではないが、素直に出ていて共感を覚える。しかし、詩はそれと比較して、饒舌で理屈っぽく、あまり好きになれない。
彼の短歌集から、いくつか挙げると、
世に反く癖を見つめてさびしくも つむじまがりが笑ふ一時
書棚(ふみだな)の認識論を手にとりて いつしか積みし塵を払ひぬ
灰色の抽象の世に住まんには 濃きに過ぎたる煩悩の色
範疇にとらへがたかる己が身を 我となげきて経つる幾とせ
現実のかをりのゆえに直観の 哲学を善しと云ふは誰が子ぞ
「悪の華」と「実践理性批判」とが せせら笑へり肩をならべて
時にまたヅアラトゥストラの教へたる のどけき笑ひ内よりぞ湧く
以上七首は『巴里小曲』の「スケルツォ」の中から、哲学的な歌を撰んだ。
若盛りもえつつ匂ふ恋をせし その日を今日になす身ともがな
加特力(カトリック)の尼となりにし恋人も 年へだたりぬ今いかならん
—同じく「セレナード」の中の二首だが、後の歌は修道院に入ってしまった初恋の人、親友の山下壮一の妹のことを詠んだものである。
別な『巴里心景』という歌集から四首。
老いたまふ父を夢みし寝ざめより 旅の枕のぬるる初秋
とぼとぼとわが辿る道ひとすぢの 真理に喘ぐ心は寂し
ドン・ジュアンの血の幾しづく身のうちに 流るることを恥かしとせず
かぎりなき矛盾のなかに悩みつつ 死ぬ日の鐘や哀しからまし
これらの中の「灰色の抽象の中に住まんには濃きに過ぎたる煩悩の色」という歌は、九鬼周造について書かれたものには大抵載っている。歌の巧拙は別にして、彼の心の奥が覗いてみえるからかもしれない。
九鬼周造を評して、文学的哲学者といった人がいるが、彼は冷徹な哲学者たりえず、生涯、知と情の葛藤に悩んでいたようにみえる。それだけ感情が豊かだったのだろう。
周造に『小唄のレコード』という随筆がある。四百字詰めの原稿用紙で三枚程の短文だが、今迄目を通した彼の随筆集にはどれにも載っていた。彼の随筆の代表作とはいえないが、哲学者でありながら、また情の人でもあった九鬼周造の一面がよく出ている作品である。
その『小唄のレコード』の初めに、
「林芙美子女史が北京の旅の帰りに京都へ寄った。秋の夜だった」
とある。林芙美子は作家で、『放浪記』や『浮雲』の著者である。彼女は、ドイツ文学者の成瀬無極と同道して、周造宅を訪れた。
この訪問を昭和十六年のこととした本を見たが、九鬼周造はその年の五月に亡くなっているので、十六年の秋である筈がない。
『小唄のレコード』の、その後に続いて、
「(林芙美子は)日本の対支外交や排日問題などについて意見を述べたり、英米の対支文化事業や支那女性の現代的覚醒を驚嘆していた」
とあるので、日支事変の後であることは間違いない。しかも、排日問題などとあるところを見ると、事変勃発直後というより、もう少し後のことのようだ。
この『小唄のレコード』の執筆時期は不明となっているが、以上のことからすると、林芙美子が周造宅を訪ねたのは昭和十四、五年頃の秋のことで、筆を起こしたのはその後になるから、周造の最晩年の作といってよさそうだ。
その時のことである。
林芙美子が何かの拍子に小唄が好きだといったので、小唄のレコードをかけて三人で聴いた、とある。勿論、当時はまだ、CDやLPもない、SP盤の時代である。
以下は、原文を引用させて貰う。
「小唄を聴いているとなんにもどうでもかまわないという気になってしまう」
と女史(林芙美子)がいった。私(周造)はその言葉に心の底から共鳴して、
「私もほんとうにそのとおりと思う。こういうものを聴くとなにもどうでもよくなる」
といった。すると無極(成瀬)氏は喜びを満面にあらわして、
「いままであなたはそういうことをいわなかったではないか」
と私に詰(なじ)るようにいった。その瞬間に三人とも一緒に瞼を熱くして三人の目から涙がにじみ出たのを私は感じた。男がつい口に出して言わないことを林さんが正直に言ってくれたのだ。
無極氏は、
「我々がふだん苦にしていることなどはみんなつまらないことばかりなのだ」
といって感慨を押え切れないように、立って部屋の内をぐるぐる歩き出した。林さんは、黙ってじっと下を向いていた。私はここにいる二人はみな無の深淵の上に壊れやすい仮小屋を建てて住んでいる人間たちなのだと感じた。
私は端唄や小唄を聞くと全人格を根底から震撼するとでもいうような迫力を感じることが多い。(中略)私は端唄や小唄を聴いていると、自分に属して価値あるように思われていたあれだのこれだのを悉く失ってもいささかも惜しくないという気持になる。ただ情感の世界にだけ住みたいという気持になる。
この昭和十四、五年頃といえば、戦争の足音がヒタヒタと身近に迫っていた時代である。そうした背景を想定しながら、この『小唄のレコード』に書かれた場面を心に思い浮かべると、何ともいえない感慨に打たれる。
三人が聴いた小唄がどういう唄だったのか、わからないのが残念だ。
文中には、それを捜す手がかりらしいことは何も書かれていない。
小唄の流派は今でこそ何十とあるようだが、戦前は数える程しかなかった。
そのレコードといえば、蓼胡蝶とか、春日とよとか、いった人達のものと思われる。
SPの小盤は片面三分位しか入らないが、小唄は短いので片面に二、三曲入っていた。SPプレヤーの大きなものは電気蓄音機、通稱[電蓄]といった。針は金属製で片面をかける度に交換した。
戦争が激しくなった昭和十八年頃以降は、金属はすべて軍事用に供出となり、レコードの針も竹針となったのを覚えている。
音質も今のCD、MDなどとは勿論、LPなどよりも比較にならない程悪く、特に針の音がひどかった。
そういう悪条件の中で聴いた小唄に三人は感動したのである。
そのことについて、周造は、
「(小唄を)肉声で聴く場合には色々の煩わしさが伴ってかえって心の沈潜が妨げられることがあるが、レコードは旋律だけの純粋な領域をつくってくれるのでその中へ魂が丸裸で飛び込むことができる」(『小唄のレコード』)といっている。
小唄のレコードを聞いて、ただ情感の世界にだけ住みたいという気持になる、と書いている周造は、灰色の知の抽象の世界より、むしろ情の流れに身を任せたいと思っていたのだろう。
九鬼周造は『小唄のレコード』の最後を、誰かの詩の一節かもしれないが、次のようなフランス語で結んでいる。
Avalanche, veux – tu mユemporter dans ta chute?
( 雪崩よ、汝が落下の裡に我を連れよかし ) 
 
九鬼周造

 

(くき しゅうぞう・1888-1941) 日本の哲学者。東京都生まれ。
父は明治を代表する文部官僚で男爵の九鬼隆一。祖先は九鬼嘉隆。母は周造を妊娠中に岡倉天心(隆一は岡倉のパトロンであった)と恋におち、隆一と別居(のち離縁)するという事態となった。生みの父・隆一、精神上の父・天心、そして喪われた母という、この3人のはざまで幼少期・青年期の周造は成長していくこととなり、それは後の精神形成にも大きな影響を与えることとなったと考えられる。九鬼は子供の頃訪ねてくる岡倉を父親と考えたこともあったと記している。
1904年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。第一高等学校独法科に進むも文科に転じる。東京帝国大学文科大学哲学科卒業後、ヨーロッパ諸国へ足かけ8年間ものあいだ留学。はじめドイツに渡り、新カント派のハインリヒ・リッケルトに師事するが、彼はそれでは満たされず、のちフランスに渡り、アンリ・ベルクソンと面識を得るなどし、彼の哲学から強い影響を受ける。その後ふたたびドイツに留学すると、今度はマルティン・ハイデガーに師事し、現象学を学んだ。九鬼は三木清や和辻哲郎などとともに日本でハイデガーの哲学を受容した最初の世代にあたり、「実存」といった哲学用語の訳語の定着をはじめとして、日本におけるハイデガー受容において彼が果たした役割は少なからぬものがあるといえる。また、ハイデガーの方も九鬼を高く評価している。
帰国してからは、1941年に没するまで京都帝国大学文学部哲学科教授として、デカルト、ベルクソンをはじめとするフランス哲学や近世哲学史、現象学を中心とした(その当時の)現代哲学などを教えた。
ヨーロッパの長期滞在の中でかえって日本の美と文化に惹かれていく自分に気づいていった彼は、帰国後、その洞察を活かして『「いき」の構造』(1930) を発表する。これは、日本の江戸時代の遊廓における美意識である「いき」(粋)を、現象学という西洋の哲学の手法で把握しようと試みた論文である。この著作が生まれた背景には、彼の生い立ちや独特の美意識、ヨーロッパという異文化体験、思想遍歴といったものが幾重にも交錯しており、そのことによってこの著作は、哲学書・美学研究書・日本文化論そのいずれの枠にも収まりきらない異色の書として、日本思想史上、際立った存在となっている。
九鬼は1941年に腹膜炎で死去し、京都の法然院で、谷崎潤一郎や内藤湖南らとともに眠っている。墓石の揮毫は同僚の西田幾多郎によるもので、側面には西田が翻訳も行ったゲーテの「さすらい人の夜の歌 "Wandrers Nachtlied"」の一節が刻まれている。

九鬼は留学中、フランスで若きジャン・ポール・サルトルから個人的にフランス哲学・フランス語を教わっていた、という逸話がある。一方でサルトルの方も、この時九鬼から現象学などの哲学についての影響を受けたのではないか、という説がある。
九鬼が二度目に結婚した相手は祇園の芸妓であった。これには彼の生い立ちや独特の美意識が影響していたのではないかと思われるが、周囲では「九鬼先生が講義にたびたび遅刻してくるのは、毎朝祇園から人力車で帝大に乗り付けてこられるからだ」という噂がまことしやかに話されていたとのことである。
主な弟子に、日本で最初に、医学を主題に哲学講座「医学概論」を開いた澤瀉久敬(おもだか・ひさゆき、大阪大学名誉教授などを歴任)がおり、全集編集委員(他に天野貞祐ら)でもあった。 
 
「いき」の構造 / 書評

 

碁敵の別役実に勧められて読んだとき、つまらなかった。こんなことで「粋」が説明されてたまるもんかよと、すぐに思った。早稲田小劇場が生まれる前後のころである。
いまとなってはそのときの読感を正確に思い出せるわけではないが、薄っぺらなんじゃないかとか、和の美学の頓珍漢のほうに入りこんで理屈っぽいという感じだったのだろうと憶う。それまでぼくが生意気に感じてきた「粋」とは違うのだ。
それがいつだったか、九鬼の『偶然の諸相』を読んで、格段の新鮮なものを感じた。あいかわらず定言的偶然とか因果と目的によって偶然を分類しているところなど、少しうるさいのだが、ここまで「偶然」にこだわることが一筋縄ではないというのか、只事ではないと気がついた。
そこで、岩波の全集をとりよせてあれこれ拾い読んでみると、おお、おお、なんだ、胸が詰まるほどに、いい。最初に『風流に関する一考察』や『日本詩の押韻』を読んだのだったと思うが、これはどうも日本人がなんとなく了解していながら、ついに誰一人として説明を省いてきたことにさしかかっている。
気持ちがしゃんとした。
ふたたび『「いき」の構造』に戻った。目に活字が入ってくるところがまったく違っていた。ぼくは何も読んではいやしないのだと愕然とした。
たとえば着物の「抜き衣紋」。本式ではなくちょっと略式に結った「髷ぐあい」、舌ざわりなどの「さはり」‥。こういうものが粋の意味体験をつくっていて、それが心の糸にふれるということ、だからこそ三味線の一の糸の「さはり」が粋に聞こえてもくるということ‥。
そういうことか。
こんなことが書いてあるとは思わなかった。そしてそのうえで、ぷいっと「赤勝の京紫よりも、青勝の江戸紫のほうが“いき”と看倣される」なのである。うーん、京紫と江戸紫のちがい、ねぇ。
もっと感服したのは、これはもっとあとになって気がついたのであるが、浮世絵で粋を持ち出すのなら鈴木春信は欠かせないだろうに、九鬼は春信の「いき」については触れてはいない。どうしてだろうと思っていたところ、草稿にはちゃんと春信のことを書いていたと安田武が言っていた。
ということは、本番で春信をきっぱり捨てたのだ。こういうことをする人だったのである。
これでは何も読めていなかったと言われても仕方がない。
いつもこういう体験をするのも困ったことだが、一冊の本というもの、読み方ひとつでどうにもならなくなってくる。帯の締め方、筆の持ち方、「かな」か「けり」かの選び方なのだ。『「いき」の構造』については、ぼくはあきらかに失敗の巻。もっとも、だからこそ再読が身に染みた。
白状すれば、ぼくにはそのころもっと決定的な欠陥もあった。東京には来ていたものの、「江戸」がほとんどわかっていなかったのである。たとえば「婀娜(あだ)は深川、勇みは神田」なんて、そんなカッコいい風情があつたことが、まったく見えていなかった。
実は「浮世」も「浮世絵」もわかっていなかった。
さきほどの春信云々を引きとっていうのなら、『「いき」の構造』には「意気地や媚態の霊化が粋なのである」と書いてあるところがあるのだが、春信のあの時代の絵では、たしかに浮世絵のもつ意気も媚態も、まだ霊化までには進んでいなかったのだ。
それにしても、媚態の霊化、なのである。
こういうことがわかるまでに、ざっと二〇年くらいの損をした。とくに九鬼がパリで詠んだ「ふるさとのしんむらさきの節恋し、かの歌沢の師匠も恋し」という歌が、なんともせつないと思えるにいたるまで――。でも、それが損じゃなかったのだ。
では、あたらためて九鬼周造を評価しておきたいのだが、この人はよほどの人である。異例の人である。
まずわかりやすくは、おおざっぱな文化地理上のことだけをいうと、東京は芝に生まれて江戸の花柳界や俗曲によく遊んだうえで、ドイツではリッケルトやフッサールやベッカーに影響をうけ、フランスではベルグソンに学んで、その文化の風土にひそむ感覚、たとえば“シック”を哲学したのち、天野貞祐や西田幾多郎に誘われて京都帝国大学に招かれ、その後はずっと京都に暮らした。二度目の夫人は祇園の芸者である。
ようするに九鬼は、「江戸の鉄火」と「ヨーロッパの形而上学」と「京のはんなり」を、その土地からもその言葉からも吸いこんでいた。
次は血の遍歴のこと。
周造の父は九鬼水軍の流れをくむ九鬼隆一で、近代日本の最初の文部官僚であって、最初の駐米特命全権公使だった。フェノロサと岡倉天心の東京美術学校の開設を後押した。
母は祇園出身の星崎初子(はつ・波津)。アメリカ滞在中にその初子が身ごもったので、隆一は同行していた若い天心に付き添わせて、日本で出産できるようにはからった。けれども横浜までの船旅はあまりに長い。どうやら二人は交わるようになり、これがスキャンダルとして発覚し、天心はつくったばかりの東京美術学校の校長の座を追われた。
もっともそれがため天心は孤立しながらも奮起して、大観・春草らと日本美術院をおこすのだが、この事件によって九鬼夫婦は別居する。そのスキャンダルの渦中で生まれた周造は、幼年期を天心に“父”を感じて育っていった。母の初子はやがて発狂、精神病院に入っていく。
さらに九鬼その人の境涯について言っておく。そのほうが九鬼のいう「いき」がよくわかる。今度は知の遍歴だ。
日露戦争のさなか、九鬼は一高に入って天野貞祐・岩下壮一・和辻哲郎・谷崎潤一郎と知り合い、最初は植物学をめざしていたのだが、やがて哲学に向かい、東京帝大の哲学科に入る。途中、キリスト教の洗礼をうけ、岩下壮一の妹に痛恨の失恋をして、大学院に進んでいく。卒業論文がすでに九鬼らしい。名付けて「物心相互の関係」というものだった。
しかし、大学院は途中で放棄、九鬼は颯爽とハイデルベルク大学に留学して、リッケルトや新カント派に師事をする。ところがその哲学があまりに「同一性」を確信しすぎていることに苛立って、フランスへ飛んでサルトルにフランス語を習い、かつベルグソンを知ると、直観的な純粋持続の可能性こそ思索を深めるものだと了解して、むしろ「異質性」の重要性に向かうようになる。
ヨーロッパで九鬼がしきりに考えたことは、「寂しさ」と「恋しさ」とは何かというものだった。
「寂しさ」とは他者との同一性が得られないという感覚、「恋しさ」は対象の欠如によって生まれる根源的なものへの思慕である。これらはすなわち「異質性」への憧れを孕んでいる。つまりは清元なのである。
九鬼はそのような感覚が「何かを失って芽生えること」「そこに欠けているものがあること」によって卒然と成立することに思いいたり、ついに東洋的な「無」の大切を知る。
ふたたびドイツに戻ってハイデガーをしばしば訪れるようになるのは、この大切な「無」をめぐる東西の橋梁を求めてのこと、このあたりから九鬼には何かのミッションが芽生えていた。
九鬼はこうして、人間という存在がすでに何かを失ってこの世界に生をうけているという「被投性」をもっていることに深い関心を寄せた。
では、どうすれば生きられるのか。何かに出会う必要がある。出会ってどうするか。恋をする。どのように恋の相手に出会えるか。そして恋だけを持続できるのか。そんなことばかりを考えた。こんな思索がのちにやがて、ぼくが瞠目した「偶然性」の問題にとりくむあの九鬼周造になっていく背景になっている。
しかしここまでのことは、九鬼周造という一個の存在が「二人の父のあいだ」と「不在の母」によってこの世に投げ出されていたという「血の事情」を、どこかで暗示するような「知の行方」そのものだったように思われる。
8年におよんだヨーロッパの日々を終えて日本に戻った九鬼は、いまのべたように、「寂しさ」を本質的に抱えた者こそが、その喪失感覚がゆえに何かに出会うことで、きっと新たな異質の快感を得るのではないかという期待をもちはじめる。
その期待の思いを結実させようとしたのが、帰国後1年にして書きあげた『「いき」の構造』なのである。どうだろうか、これで何が「いき」になったのか感得できるのではないだろうか。
そもそもヨーロッパでは、哲学においてすら、恋愛の基底に自己同一性や自己発見をおいている。せっかく「無」に到達したハイデガーの哲学ですら西欧の論理に邪魔をされ、来たるべき相手を求められないものになっている。
そこでは美の堪能が塞がれている。
九鬼はそれがおかしいと考えていた。男女の関係はもっともっと自由でなければならないのではないか。そこからはもっと新たなものが創発してもよいのではないか。そう考えた。それが見えれば、恋愛によって精神と肉体を分断する必要はなく、結婚と結びつける必要もない。
では、その美の堪能をどこに求めるべきか。それでいて「無の堪能」にもなるものを、では、どこに求めるか。
日本の美が浮世の片隅において磨きに磨いた「いき」こそが、あるいはその「いき」の感覚を交わしうる相手との出会いこそが、美の堪能であって、無の堪能だったのである。九鬼の新たな哲学は、いや存在学は、こうして一気に「婀娜な深川、勇の神田」に向かっていく。
九鬼が持ち出した「いき」は、既存の男女の関係を超越する自由のための根拠の概念であり、そのアクティヴィティだったようだ。だから九鬼は、「いき」は恋愛をさえ越えるものではないかと考えていた。
この結論は、かなりおもしろい。「いき」がそういうものなら、ぼくだって粋がりたい。けれども多少残念なことに(そして、そこが最初にぼくが感じた『「いき」の構造』の読感印象だったのかもしれないが)、九鬼の「いき」論は“論理”であろうとしたそのぶん、どうも「いき」の本来からずれていったようにも見える。ハイデガーだって、ヘルダーリンの詩には「無」と「美」の両方を見いだしていたはずなのだ。
ただしすぐさま付け加えなくてはならないが、九鬼その人は「いき」の何たるかを、これ以上のかたちでは身につけるのは不可能であろうとおもうほど、身につけていた。けっして論理で生きている人ではなかったのである。
そこが哲学者としての九鬼周造が「異例の人」であったという理由になってくる。
さて九鬼の言葉によると、「いき」の契機は「媚態」「意気地」「諦め」によって成立しているという。
それらは、わが国の道徳的理想主義と宗教的非現実性によって支えられ、前者は武士道によって、後者は仏教によって育まれてきたという。九鬼はこの見方にもとづいて「いき」の説明に緻密に入っていこうとしてしまう。
先にも書いたように、九鬼にとっては人間が「自己」であるのは「寂しさ」や「恋しさ」のせいである。けれどもそのような自己はいまだ「一元的の自己」であって、それを脱するには異性との出会いによって二元的な関係に入らなければならない。
それを九鬼は「可能的関係」とよぶ。
この可能的関係は、当初はきっと互いの「媚態」のうちに予想しあったものである。もし、両者が媚態を感じつづけ、可能的関係を持続できれば、人間はかなり自由になれるはずである。
しかし、ここで異性との「合同のこと」を求めすぎると、そこから媚態がたちまちなくなっていく。そこで媚態をぎりぎりにさせつつ、共同的な二元関係を感じあっていくには、いくら男女が快楽を交わそうとも、そこには適当な「距離」が必要になる。この媚態と距離との両方をキリリと表象しているのが、どうやら「いき」なのだ。
わかったような、虫のいいような、男女の身体性を度外視したような、いかにも男っぽい説明に聞こえるのだが、しかしこれらがそもそも「寂しさ」を決定的な端緒として生じていることに気がつくと、やはりこの説明には初期の九鬼周造がまるごと表出されているということになる。
次の「意気地」は、一言でいえば媚態のテンションを持続させ、距離をおいても媚態が朽ちないために、そこにさらに磨きをかける「心の強み」のことをいう。こう説明している。
「意気地」は理想主義のもたらした心の強味で、媚態の二元的可能性に一層の緊張と一層の持久力とを呈供し、可能性を可能性として終始せしめようとする。
この「心の強味」としての意気地は、おそらく養って絞って削って身につくものだろう。だから九鬼は、日本においては意気地が生まれてきたのは武士道によっていると見た。
もっとも九鬼のいう武士道は、新渡戸稲造や奈良本辰也が解説してきた武士道とはずいぶん異なっている。献身や礼儀の武士道ではなくて、とうてい実現することのない理想を求める心意気を武士道とよんだ。そこを九鬼は、「無際限」の中に「真無限」を求めよ、というふうに書いた。
けれども男女のあいだに、こんな武士道を重ねていくなんて、これはよほどのことである。まず、できまい。そこで九鬼は、むしろ「いき」の振舞や「いき」な存在をまっとうしようとする心意気こそが、意気地をつくっていくとみなしていった。ふつうは、これを「はり」(張り)という。
かくて「いき」を心意気にしつづける最後の契機として、九鬼は「諦め」を持ち出した。
これは諦念というよりも「恬淡無碍の心」というもので、意気地や張りの対極にありながら、それを対角線で重ねるものである。それゆえにこそそこを、大胆にも「諦めと意気地とは、無力と超力として、唯一不二」とも書いてみた。つまり二つは反しあうようでいて、どこかがつながっているひとつの覚悟というものなのだ。そうそう、春信をきっぱり諦めるのも、張りのうちなのだ。
エッセンシャルには、『「いき」の構造』の構成要素はこういうものなのだが、こんなぼくの拙(つたな)い要約でもなんとなく予感ができるだろうように、このような「論理」だけでは、なかなか「いき」は説明しきれない。
九鬼もそれは重々わかっていて、そこで随所に具体例を入れていく。それが抜き衣紋や江戸紫の例だった。しかしぼくが読み返してさらに気がついたのは、「いき」を「苦界」(くがい)と結びつけていること、そこにこそこの時期の九鬼周造の最も哀しい「いき」の存在学が吐露されていたということである。
端的には、次のような文章に九鬼が最も言っておきたい「いき」の発生がひそんでいる。
「いき」は『浮かみもやらぬ、流れのうき身』といふ「苦界」にその起源をもつてゐる。
苦界。そこは遊郭であって、この世に戻るために出遊してきた彼岸の場所である。芸も身もやりとりする曲輪であって、心は売れない岡場所である。
流れているから、止まり、抜けられないから、何かを抜いてみせる意気の帳場である。冬でも黒塗の下駄を裸足で履いてみせ、野暮を蹴散らし、左褄(ひだりづま)とって、まるで瞬時だけにしか恋が生きない伝法を引き立たせる花街なのである。
九鬼は、結局、そのようなところでしか「いき」は授受できないのではないかと考えていたふうなのだ。
しかし、それでは九鬼の哲学者としての行方を、あまりに「小指の反り」のような極点へ向かわせてしまうのではあるまいか。西田幾多郎や和辻哲郎や友人たちが心配しはじめたのも、当然だった。けれども九鬼はすでにミッションを意識していたようだ。敢然と、こう言い放ちたいというところまで、進みすぎていた。
私は端唄や小唄を聞くと、全人格を根底から震撼するとでもいうような迫力を感じる。
この言葉はのちの『小唄のレコード』から採ったものだが、まさに九鬼の気持ちはそこまで進みすぎていたようなのだ。
友人知人たちが、それならおまえがいるところは、すでに都であることをもぎ取られた京都なんじゃないか、京都に来たらどうだと思ったのも当然だった。
ここから先、九鬼周造は一気に異例の人となり、伝説の人となっていく。
最初の妻を捨て、二度目に選んだのは祇園の芸妓の中西きくえであった。失った母を近づかせたとはいえないだろうものの、京都帝国大学の教授としては、かなりきわどい選択だ。祇園から人力車で帝大に乗り付けているという噂も、しきりにとんだ。
むろん、そんなことは覚悟のうえのことである。
こうして九鬼は「偶然性」の解明にとりくんでいく。「もののはずみ」や「たまたま」の問題にとりくんでいく。「ふと」や「それから」の世界に入っていく。いったいそんな覚束(おぼつか)ないものばかりをあげて、どうしてそこまで真剣に賭けられるのかというほどに。
それは『「いき」の構造』にはまだ残っていた原因と結果をめぐる「因果の理屈」さえ打擲しようというほどの、そういう「せつなさ」がいっぱいの考察である。ぼくにはそういう覚悟が痛いほど伝わってきた。満州事変は悪化して、日本はどんどん泥沼に突っこんでいった時期である。昭和10年、1935年、そういうときに九鬼周造は『偶然性の問題』という結晶を発表する。
ここまでくると、その九鬼周造独得の偶然の存在学をあえて説明するのは、どうもその香りが伝わらない。
それほど九鬼自身が自分が遣った言葉をも、その葩(はな)から揮発させていくような気分になっている。実際にも、そこには重たい言葉もひしめいていて、それを引用しなければその九鬼の推理の説明もつかないのだが、その言葉をすぐに揮発させ、投企しなければ、やはり九鬼の推理を感じさせることはできないという、そういうものなのだ。
そこでかえって、次のような文章こそが、その偶然の存在学を告示しているようにぼくには思われる。『日本流』にもそこを引いたのだが、また引いてみたい。
松茸の季節は来たかと思ふと過ぎてしまふ。その崩落性がまたよいのである。(中略)人間は偶然に地球の表面の何処か一点へ投げ出されたものである。如何にして投げ出されたか、何処に投げ出されたかは知る由もない。ただ生まれ出でて死んで行くのである。人生の味も美しさもそこにある。
これが、偶然であり、「いき」なのである。
未練はもたない。鼻緒が切れれば、紬(つむぎ)の袖だって破るということなのだ。
しかし、そんなところへひたすら突進していく哲学などというものが、あっていいのだろうか。それが芝とハイデルベルクとパリと祇園を学んだ末の結論なのか。
そうなのである。よござんすか。
九鬼周造はそれを断固として選びきったのである。それが哲学というものなのだ。そしてこの人は、その後、『日本的性格』や『風流に関する一考察』のほうへと、どんどんと一人で歩いていってしまったのである。そこは「逢ひ見てののちの心にくらぶれば」の方角、だからこそ「昔はものを思はざりけり」の、その「ざりけり」の哲学の彼方というものだった。
それを九鬼の大好きな言葉でいえば、「可能が、可能の、そういうふうになるところ」という彼方だ。そこはもとより寂しくて、恋しいところではあるけれど、だからこそ、どこよりも「いき」で、「粋」(すい)なところなのである。
では、諸君、こんな文章で終えてみる。
私は秋になって、しめやかな日に庭の木犀の匂を書斎の窓で嗅ぐのを好むやうになつた。私はただひとりでしみじみと嗅ぐ。さうすると私は遠い遠いところへ運ばれてしまふ。私が生まれたよりももつと遠いところへ。そこではまだ可能が可能のままであつたところへ。 
 
九鬼周造における偶然性と宗教 / その展開と震災後の意味

 

はじめに 
本論文は、「偶然性」とは何かを極めようとした一人の哲学者・九鬼周造(1888〜1941)が、その思索の先に何を見たのかを、今日的な問題に引きつけて探ることを目的とする。偶然性は、とりわけ近代以降、人間が知性を駆使して世界を理解しようとし、それでも把握することができないような事態を最終的に引き受け、回収する役割を果たしてきた。九鬼は偶然性を「独立なる二元の邂逅」と定義する。それは、九鬼が『偶然性の問題』に先立って展開した『「いき」の構造』における人と人との(運命の)「出会い」という認識をさらに抽象化し、事象一般の原理として考え抜いた試みの、一つの帰結であったともいえる。
例えば、見知らぬ者同士による不慮の事故や、「相手は誰でもよかった」と加害者が語るような事件に巻き込まれてしまった時、とりわけ被害者となってしまった場合、「なぜ、それが我が身に起こらなければならなかったのか」という問いの桎梏に、人は往々にしてさいなまれる。そして、その理由を探し求めた末に、「たまたま」「運が悪かった」としかいいようのない偶然性にたどり着くに至り、人間の思考はようやく立ち止まる。2011年3月11日に起きた大震災と原発事故も、その典型だといえるだろう。
この震災は、たまたま被災した人(たち)と、たまたま助かった人(たち)とを生み出した。震災以前、偶然は、他者と自己を根本的に差異化するというその性質から、「アイデンティティ」の根源として、積極的にとらえ直されようとさえしていたが、震災により、偶然性をめぐる状況は一変してしまったといえる。生き残った者が、「なぜ自分だけが生き残ったのか」と呻吟する「サバイバーズ・ギルト」が問題として指摘され、偶然性を、「震災でぼくたちはばらばらになってしまった」と社会が分断される契機として指摘する論者も現れた。震災後の哲学に求められるのは、偶然性によって分けられてしまった人々がつながり得る社会を見すえ、そうした社会の中で生きる人間の自由をいかに回復するかといった構想力だろう。哲学が現代において扱うべき最大級の問題として、偶然性が立ち現れるようになったといえるのである。
偶然性は、それ以上の「なぜ」の問いを許さない性質だからこその偶然性なのであり、それ以上は意味や理由を遡れない「ブラックボックス」として扱われることが多かった。もともとこうした領域は、応報思想に代表されるような、「神の思し召し」や「縁」といった宗教的な文脈で扱われることが多く、もちろん現代に至ってもなおそうした傾向は残っているのだが、九鬼はそうした信仰などの解決策へと目をそらすことなく、あくまで偶然性を偶然性のまま追究しようとした。九鬼は、哲学者の鷲田清一がいうように「偶然性の分析をつうじて、語りえないもの、つまり語ることの外部だけでなく、論理的に収容できないもの、つまりは論理の外部にふれようとした」希有な日本の哲学者の一人であった。九鬼の偶然論はともすると、神学者の側から、宗教の不在との批判も投げかけられてきた。
しかし、本論文ではそうした見方に一定の理解を示しつつ、九鬼の偶然論の底流には、実は宗教や神をめぐる問題意識が通奏低音のように流れており、避けがたく、しかも時折、抗いがたく顔を出していることを指摘する。筆者は、九鬼の偶然論が、宗教を回避しているというよりむしろ、宗教との葛藤やその超克の中にこそ独自性があるのではないかととらえている。九鬼の生い立ちにおける宗教との関わり、すなわち個人史としてのキリスト教への入信や離脱などの経緯がその思索に与えた影響などについては、これまで様々に紹介されてきた。しかし、九鬼自身が宗教論として自らの考えをまとまった形で論じた機会が少ないことや、1928年にはすでに「個人的には私は仏教の輪廻を信じていない。同様にキリスト教の意味での死後の生も信じていない。私はただ輪廻を想像する可能性を確かめたいと思っただけである。輪廻の観念の中にあるのは、キリスト教の来世の観念と同様、仮想的なものである」と、信仰について否定的に述べていることも手伝い、九鬼の偶然論を宗教論として扱った論考はほとんどない。九鬼が偶然論の中で宗教とどのように対峙したかを検討することは、九鬼の偶然性の哲学の独自性の輪郭をより明確にするだけでなく、一般論としての偶然性と宗教との関係を探る上での一助にもなると考えている。 
第一章『偶然性の問題』への系譜と「宗教」

 

第1節未完の大作『偶然性の問題』
九鬼の偶然性の議論の系譜は、1929年の大谷大学での「講演」、1930年度の京都大学での「講義」、1932年の「博士論文」を経て、1935年の『偶然性の問題』に結実する。しかし、まず指摘しておかなければならないのは、『偶然性の問題』の「序」で、九鬼自らが「この(偶然性という:引用者注)問題は実存の中核に触れている問題であつて、いつかは何等かの究竟的な形を取らなければ、私を休息させないものである。一先づこの位の形で公けにして置かうと思ふ」と述べているように、九鬼の偶然論の完成作品ではなかったということだ。九鬼は『偶然性の問題』刊行後も、1936年「偶然の諸相」「哲学私見」、1936年以降のものと思われる「偶然化の論理」、1937年ラジオ講演「偶然と運命」、1938年「人間学とは何か」、1939年「驚きの情と偶然性」、ラジオ講演「偶然と驚き」と、偶然性に関する論考の発表を精力的に続けている。では、『偶然性の問題』刊行後、九鬼の中で深化した偶然性の議論があるとすれば、どの部分なのか。それこそが宗教論だったのではないかとの仮説を念頭に、以下、九鬼の偶然論の変遷を見ていくことにする。
まずは、『偶然性の問題』に至るまでの、九鬼の偶然論の中において、宗教がどのように取り扱われていたかを概観する。
最初に注目するべきは、何といっても、九鬼の偶然論の嚆矢とも言える大谷大「講演」であろう。ここで九鬼は偶然性と宗教との関係について、実は独立の章も設けて正面から論じている。「偶然性と宗教との関係に就て考へて見るのに、今述べた偶然性に関する学的認識の限界がやがて宗教の起始となる。宗教の本質は不可知に対する帰依である。さうして偶然に対する驚異はやがて不可知に対する絶対的帰依の形を取るのである」とし、「偶然性の存在する限りに於て、宗教は其存在の哲学的理由を有つている。併しながら此哲学的理由は同時にまた宗教が一切の概念的思弁を断念して単に不可知に対する帰依の形で存在すべきことを要求するのである。〔哲学は単に合理的認識に立脚して認識の限界を限界として示せばよいのである。〕」とする。ここでは、宗教を哲学に接近させつつ、哲学はあくまで「合理的認識」の範囲内で議論するべきであり、偶然性の問題を論じる際には限界があるとの予感を示唆している。
1930年度の京大での「講義」にも、「宗教と偶然性」の節が存在する。ここで九鬼は、科学、宗教、芸術と偶然性の問題との関係に触れた上で、「哲学の問題としての偶然性」と節を改め、こう宣言する。「偶然性の問題も無に対する問ひと離すことが出来ないといふ意味で厳密に形而上学の問題である。又従つて形而上学としての哲学以外の学問は偶然性といふことを問題としない。問題とすることを欲しない。強ひて此問題を除外しようとする。(中略)偶然を偶然として問題とし得るものは形而上学としての哲学のみである」
この、九鬼のいわば「哲学宣言」に至った理由は必ずしも明確にされてはいないが、科学、宗教、芸術の観点からは偶然性の問題を最終的には追究することはできず、哲学の問題として偶然性を論じていくという九鬼の覚悟の表れを読み取ることができる。そして、結論部分では「偶然性は普遍的思惟によつて法則の必然をのみ追ふ学問にとつては恐らく一顧の価なき非合理に過ぎない。(中略)偶然性は学的認識に対して限界を形成している。さうして、認識の限界に思索を透徹し、潜匿した問題を注視して『驚異』することは哲学に与へられた自由であり特権である」として、偶然性の問題をめぐって認識の限界に迫ることを、哲学の、そして自らの使命としてとらえるようになったと考えられるのである。
ただ、先回りすれば、『偶然性の問題』に至って、大きな相違が生じることになる。『偶然性の問題』では、「偶然性は学的認識に対して限界を形成している」と認めた後で、哲学の自由や特権を語る代わりに、「他者」の議論を持ち出してくるのである。九鬼の偶然論の中に社会論が見出されたのはこのころからで、こうした視点が提示されたことにより、『偶然性の問題』は、九鬼のそれまでの偶然論とは一線を画する著作となったといえるだろう。  
第2節田邊元との往復書簡と「広義の宗教」

 

偶然性と宗教との関係では、九鬼は「博士論文」(1932年)においては、独立した章や節を設けて宗教へ言及することはしていないが、この時期、九鬼における偶然論と宗教論との関係を考える際に、注目するべき記録がある。それは、「博士論文」をめぐる田邊元との往復書簡だ。
2通ずつ送り合った記録が残るこの往復書簡の最後で、九鬼は田邊に対し、1932年10月26日の日付で、このようなことを述べている。
「私は大兄のおつしやるやうに『刹那々々を生の充実に由つて生かすAesthetizismusの立場』を偶然論の中に取入れ度い願望を有つて居るのは事実で御座いますが、それと同時に偶然性の問題は結局は宗教(広義の)へ行くべきものと考へて居ります」
ここで、九鬼が偶然論における宗教に言及し、その際、あえて「広義の」と限定したことは注目に値する。すなわち、「哲学宣言」をした時期にすら、九鬼は、偶然性の問題の目指す方向性が宗教であることを否定していたわけではなかった。それどころか、宗教を「広義の」と限定させた上で、その必要性の認識を告白しているのだ。
九鬼自身、「広義の」の意味を明確に示してはいない。そのため、宗教学における一般論を基にすれば、九鬼も随所に言及している神学者のティリッヒの考え方を援用すると、「人は『宗教』という言葉の意味を狭めて神々への祭儀にすることができる」一方で、広く宗教の概念を理解する場合には、「世俗的な諸運動を含めることができる」。ティリッヒ研究者の芦名定道は、「狭い意味における宗教については、現代の我々の持つ常識的な宗教理解と説明することができるであろう。つまり、これはキリスト教、イスラム教、仏教、神道などの制度化された伝統的な諸宗教を宗教と規定するということである」とした上で、「人間の形成する世界は必然性をもたない恣意的な世界であると言わねばならないのである。(中略)根本的に恣意的な意味世界に究極的な根拠を与え、正当化するのが、広義の宗教の役割なのである」と、広義と狭義の宗教を区別して説明する。これらの解釈に従うならば、「恣意」性、すなわち偶然性に満たされているこの世界に意味を与えようとする際、帰依や信仰の対象としての神仏等を基礎にする「狭義の宗教」に対し、「広義の宗教」は、そうした対象としての絶対的なものを必ずしも介在させることなく、人間同士の関係性の中から意味世界を生み出すことをも含む概念であると考えられよう。  
第3節神学者からの批判

 

九鬼は、『偶然性の問題』の刊行後も引き続き、「狭義の宗教」には距離を取り続けてきた。『偶然性の問題』の1年後の1936年に発表した「偶然の諸相」でも、「偶然などといふものはなく、すべては神霊の意によつてもたらされたのであると信ずる原始人の心理と、偶然などといふものはなく、すべては自然によつて決定されたのであると信ずる自然科学的決定論者の心理とは不思議な類似を示している」と、「狭義の宗教」や自然科学的決定論をまとめて相対化している。また、同じ1936年の「哲学私見」でも、「宗教の独自性はむしろ『不合理なるが故にわれ信ず』とか『信ずる者は判断せず』とかいふ絶対帰依になくてはならない。(中略)宗教にとって存在の会得はどうでもいい事柄である。否、むしろ存在会得と存在礼拝とのいづれを選択するかの弁証法的危機におとしいれるのが宗教の権威である。人間の判断を中止することによつて神仏の栄光を拝すればいいのである」として、自らの哲学と、帰依や礼拝に基づく宗教との距離感をなお強調する。しかも、1939年発表の「驚きの情と偶然性」においては、九鬼の偶然論における有名なキリスト教批判を展開した。すなわち、「西洋の哲学がキリスト教の影響の下に立つている限りは、純粋な偶然論、純粋な驚きの形而上学は出来て来ないのである。(中略)純粋な偶然論はキリスト教と関係のないギリシア哲学や東洋の哲学の中に見出されるのである」といった物言いをするのである。
こうした態度が、神学者の側からの反感を買ったことはある意味で必然であろう。例えば大木英夫は、1935年の『偶然性の問題』から九鬼が亡くなる1941年までの期間を取り上げ、「その間六年、九鬼哲学はかなり約束にみちたプログラムを示しながらも、偶然性の解明においてはほとんど進展していない」と断じる。確かに、九鬼の偶然論は、「狭義の宗教」との関係のみに注目してみれば、帰依や信仰などとは一貫して距離をとり続けており、「進展していない」と見えるかもしれない。しかし、「その間六年」には、田邊への告白通り、「広義の宗教」をめぐっては、大いに議論が進んでいたと考えることができるのである。 
第二章『偶然性の問題』後の展開と社会論

 

第1節 社会論へのステップ
「広義の宗教」をめぐる展開は、『偶然性の問題』の1年前に発表した「人生観」(1934年)に、すでにその萌芽がうかがえる。ここでは、「形而上学の根本問題」がテーマとされた。この時期は、これまでに論じたとおり、「講義」や「博士論文」といった、形而上学としての哲学により偶然性を論じる決意を明らかにした時期でもあり、「人生観」は偶然論の系譜とは異なるものの、同じ「形而上学」を扱う意味において、九鬼の中では偶然論ともつながる議論であったと考えられる。
九鬼はここで、形而上学の根本問題を「霊魂不滅」「意志自由」「神」に関するものの三つに要約できるとして、この順に「死」「実存性」「共同的世界内存在」と言い換える。ここで、「霊魂不滅」=「死」は「人生の全体性すなはち人の一生」、「自由」=「実存性」は「人生の原本性すなはち人の本当の生き方」に関係しているのに対し、「絶対的統一としての神」=「共同的世界内存在」は「人間の相対性、従つて甲の人生と乙の人生と丙の人生の相互関係といふことに目を附け」た場合に問題となってくる、としている。
ここで「共同的世界内存在」と言い換えられた「神」は、人生そのものではなく、個々の人生相互の関係性の問題としてとらえられていることが特徴だ。「死と自由の問題は独在論的立場の相対性を認識することによつて他我の領域を開拓し絶対者としての神の問題へ移つてゆく」とも述べており、自我と他我の相対性や関係性を成立させる基盤として「神」が取り扱われている。これは、個人による帰依や信仰というより、人間同士の関係性が生む社会や世界という意味での宗教という考え方、すなわち「広義の宗教」の見方を示したということができるだろう。九鬼は、偶然性を形而上学ととらえる「哲学宣言」の決意とともに、社会性へとつながる「広義の宗教」の芽を内にはらみながら、『偶然性の問題』の執筆に取り組んだといえるのである。
その『偶然性の問題』で九鬼は、「経験に斉合と統一とを与へる理論的体系の根源的意味は他者の偶然性を把へてその具体性において一者の同一性へ同化し内面化することに存している。真の判断は偶然―必然の相関に於て事実の偶然性に立脚して偶然の内面化を課題とするものでなければならぬ。(中略)判断の本質的意味は邂逅する『汝』を『我』に深化することでなければならない」とした上で、こう述べる。「偶然を成立せしめる二元的相対性は到るところに間主体性を開示することによつて根源的社会性を構成する。間主体的社会性に於ける汝を実存する我の具体的同一性へ同化し内面化するところに、理論に於ける判断の意味もあつたやうに、実践に於ける行為の意味も存するのでなければならない」
「相対性」はすでに見てきたように、九鬼が「人生観」の中で、「神」が担う役割として位置づけていた概念だ。とするならば、九鬼は『偶然性の問題』では明示的に示してはいないが、「二元的相対性」を結びつける社会性の根源に「神」を想定していたと考えることは十分に可能だろう。九鬼が偶然性を「独立なる二元の邂逅」と定義しているならば、「二元的相対性」による偶然がどのような地平で「成立」するかという検討は、九鬼の偶然論においては、まさに根源的な問いかけであったはずだ。そして、この問いかけへの回答として、『偶然性の問題』に至って九鬼は、間主体的社会性を提示するのだが、「広義の宗教」とこうした社会性との関連への言及は、後の著作への課題として残ることになった。
1936年発表の「偶然の諸相」において、九鬼は「偶然性を原理として容認する者は『我』と『汝』による社会性の構成によつて具体的現実の把握を可能にする地盤を踏みしめているのである」と、「我」と「汝」との関係として社会性を示すようになる。また、1938年の「人間学とは何か」では、学としての社会学への接続も明示するに至る。すなわち、「人生観」ですでに「神」と同一視していた「共同的世界内存在」を取り上げ、ハイデガーを引き合いに出しながら、九鬼は「人間の在り方としての『世界内存在』は『共同的世界内存在』にほかならない。世界への内在は他者との共同存在であり、現存在は共同相互存在(Miteinandersein)の在り方を有つているのである」と述べる。さらに、「中世の神学からの解放としての人間学は、十六世紀にモンテーニュによつて基礎が置かれ、由来フランス哲学の伝統となつた」ことを前提に、「モンテーニュの『人間学』からコントの『社会学』への発展は必然的である」とし、哲学が社会学に発展する必然性を指摘するのである。
しかも、この「人間学とは何か」では、社会学への接続と同時に、主題である「人間」を神と同一視する視点が示されていることが興味深い。すなわち、人間を「自然的」「歴史的」「形而上的」の3層へと要素化しつつ、それらを統一した「全人」としての「人間」を、「神」と同一視するのである。「人間は動物と神との中間者であるとは屡々言はれることであるが、それは、人間は動物でも神でもなくて人間であるといふ意味ではない。動物でもあり、神でもあるところに人間の人間性が成立しているのである」として、最後にこう締めくくる。「人間は神のやうな獣である」
これらを総合すれば、九鬼にとって人間学が社会学へと発展するのが必然というのであれば、「人間」学=「神のやうな獣」学こそが社会学になるということになる。つまり、社会学は、「獣」学であるとともに、人間同士の関係性を可能にする根拠としての「神」の学でもあり、その際の「神」とは「広義の宗教」の意味に解することができるのである。 
第2節「ヨブ記」をめぐって

 

多少注釈的な指摘になるが、九鬼の宗教観をとらえる際、九鬼が用いる「宗教的情緒」や「宗教的情操」といった概念の検討は欠かすことはできない。九鬼が旧約聖書の「ヨブ記」を「偶然に対する驚異が直ちに宗教的情緒の発露に移つて居る」と解釈した箇所は、特に注目に値する。ヨブ記は、自らの義を信じるヨブに神が多くの試練を与え、ヨブが「なぜ私にだけ厳しい試練が与えられるのか」と問う「苦難の神義論」(ウェーバー)を主題にしているとされる。九鬼のヨブ記解釈は、講義「偶然性」(1930年度)では「偶然性は神の意志と考へられている」とするなど、偶然論を展開した当初はあくまで、神が実存に対して、(罪を犯したから罰を与えるというような)ある意志を持って災厄などを与えるといった応報思想の範囲内でとらえる一般的な解釈にとどまっていた。このころは、「哲学宣言」はしたものの、偶然性を「狭義の宗教」と完全には切り離すことができずにいた時期と考えられる。
それが、例えば「情緒の系図」(1938年)では、「疑」や「怪」という(否定的な)感情が宗教の成立には不可欠だとする論じ方をするに至る。すなわち九鬼は、絶対的な神の意志を畏れる人間ではなく、神の意志に対して疑問を呈し、「怪しい」との感情を持つ人間が宗教を生むと考えるに至ったといえるのである。偶然性を絶対的な神の意志から切り離し、あくまで哲学として追究した九鬼ならではの宗教観であるが、この時の九鬼にとっての宗教とは、やはり「広義」の意味を強く帯びるものになってきていたのだろう。すなわち偶然性の存在を、信仰の対象としての神を批判する契機とし、新たな宗教理解の思考へと展開していったのである。
例えば、ラビのH・S・クシュナーは「私たちがたびたび問うのは、それほど善人でもそれほど悪人でもない、ごくあたりまえで、近所づきあいのよい人が、どうしてこんな突然の災難や苦しみに直面しなければならないのか、という問いなのではないでしょうか。もしも、世界が公正であるのなら、彼らはそのような災難や苦しみを受けなくてもいいはずです」という、今日の震災後の状況にもそのまま当てはまるような問いを神との関係で論じた。その時、神は完全な存在ではなく、その災難や苦しみに神の意志は反映していないとの見解を示すに至る。そして、「なぜ私にだけ」という問いを「無意味な問い」ととらえ、「より良い問いは、『すでに、こうなってしまった今、私はどうすればいいのだろうか?』というもの」だとし、「目を未来に向ける問いを発すべき」という、応報思想を克服する神学を提示したのだが、九鬼の宗教理解もこれと共鳴する方向性を持っていたといえる。後述するように、九鬼は暗に、クシュナーのいう「無意味な問い」から「良い問い」へと人間の発想をリセットするような手段として、「笑い」を提示していたと考えられるのである。 
第3節 ウェーバーと九鬼の眼差し

 

九鬼は偶然性を抱え込んだ「我」と「汝」とが構成する社会の可能性を示唆したのであるが、そうした社会とはどのようなものなのか。残念ながら九鬼が明確に示すことはなかったため、類推を交えて考察するしかないのだが、なんらかの偶然が現実化した場合、通常その偶然はその個人の身にのみ降りかかった個別的な出来事であり、本来的に偶然とは、「我」と「汝」との分断を招く方向に働くものと考えられる。震災で「ぼくたちはばらばらになってしまった」という時も、この分断が強調されたとみることができよう。では、信仰の神を想定しない偶然性を前提にした社会とは、いかにして成立するのか。その一つの答えが、偶然が未だ現実化していない段階の地平でこそ「我」と「汝」はつながり得るとする考え方であろう。ここでは、誰にどのような偶然が降りかかるか分からないという不安を共有することで、そうした不安を解消するためのルールや制度、さらには社会を作るといった必要性や可能性が生まれてくるのである。
この点で、宗教と社会とを端的につなげて論じた例が、先にも挙げた社会学者ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』であろう。ウェーバーは、プロテスタントという「狭義の宗教」に対して、平等かつ抽象的な偶然の要素を付与することで、それが社会的に共有されて「イズム」となり、宗教が「広義」化するというダイナミズムを論じた。こうした点について、キリスト教思想研究者の小原克博は「根元的な偶然性に由来する不安が、能動的かつ合理的な禁欲を生み出し、それが産業資本主義社会を到達させたというのである」と解説する。小原によれば、ウェーバーはここで、自分が選ばれているかどうかはすでに決められてしまっているにもかかわらず、それを知ることはできず、どのような選択や決定をしても救済される確率を高めることはできないという「根元的な偶然性」を根拠に成立し得る社会を論じた、とする。すなわち、偶然が何らかの現実として表れる前の抽象的な可能性の次元においては、人間は偶然の前では平等であり、ここにこそ社会が生まれる根拠が見出され得るというわけである。
ただ、抽象的な可能性の次元において人間は偶然の前に平等であるとしても、現実には瞬間ごとにそれぞれの偶然の結果が具体的な各人の身にふりかかってくることは避けられない。そのため、偶然がこうして現実化した後に果たして人間は社会を構成できるのか、という問題は依然として残る。むしろ、九鬼の眼差しはこうした、とりわけ好ましくない偶然の結果が身に及び、打ちひしがれた具体的な実存へと向けられていたと筆者は考えている。「不公平な」偶然がその身に現実化した人々によって構成される社会のあり方の可能性を問題にしていたのだ。その回答への重要な手がかりを、九鬼は『偶然性の問題』の中で、すでに次のように準備していた。
「人間的立場に於ける偶然に対する驚異は、神的立場に於ては偶然に対する可笑味となり得ることである。さうして立場の相違は主として主体と客体との大きさの相対的関係によって決定されるから、実存的意義の小さい偶然に対しては主体は相対的に大きいものとして神的叡智の可笑味を感じ(中略)、実存的意義の大きい偶然に対しては主体は相対的に小さいものとなつて人間感情としての驚異を感ずるのが普通である」
九鬼が同じ『偶然性の問題』で、「偶然が人間の実存性にとつて核心的全人格的意味を有つとき、偶然は運命と呼ばれるのである」と述べていることも考えると、「人間的立場」とは、「実存的意義の大きい偶然」すなわち「運命」に対して「驚異」する立場であり、「神的立場」とは「実存的意義の小さい偶然」すなわち「運命にならない偶然」に対して可笑しみを感じる立場である。ここでは、「神」が成立させる社会とは、実存的意義の小さい偶然、すなわち従前の意味世界の中で概ね理解が可能な偶然が実現化した場合、つまりは「我」と「汝」とをこれまで通り比較的容易に結びつけられる場合に限定されていると考えられる。一方で、ひとたび人間が、これまでの意味世界が機能しないほど実存的意義の大きい偶然に見舞われ、「我」と「汝」とが大きく分断されてしまった場合には、こうした媒介者としての「神」は後背に退き、人間が一人の実存として生々しい現実の中に投げ出されて「驚異」するしかない、というのである。
ここでは、それらの象徴として、それぞれに質の異なる「笑い」が挙げられている点が特筆に値する。すなわち、「神的立場」における「笑い」は「駄洒落の可笑味」を笑うようなものとされ、駄洒落という意味を媒介に「我」と「汝」が笑い合い、その瞬間に両者が結びつくというような社会が想定されている。一方で、「人間的立場」における「笑い」は、「超人ツァラトゥストラの笑ふ明朗な笑」であり、しかも「驚異する人間性の陋小を笑ふのでなければならない」という。こうした「笑い」の落差は、九鬼が、「運命」を前にした実存としての人間にとっては、神や意味世界ではなく、「ツァラトゥストラの笑」こそが重要な意味をもつと考えていたことを示唆していると思われる。この「笑い」の議論こそが実は、「狭義の宗教」から距離を取り得る、しかも「広義の宗教」としての「神」が成立させる社会においても救われない、「実存的意義の大きい偶然」すなわち「運命」が現実化した実存をも射程に入れた、九鬼の偶然論の隠れたテーマであったと考えられるのである。 
第三章「笑い」への跳躍

 

第1節ニーチェへの共感
「実存的意義の大きい偶然」が現実化し、人間が帰依や信仰という「狭義の宗教」にも、意味世界や社会という「広義の宗教」にも頼ることができなくなった時、「驚異」した実存の前に「ニヒリズム」が立ち現れてくるのは、ある意味で必然であろう。哲学者の西谷啓治は、「ニヒリズムの場合には、生きていることの本質的な必然性は一応すべて見失はれる。即ち生の偶然性は頗る克服し難いものになる。(中略)生きているさなかに、無意味の感を底から吹き上げるその虚無は、人生といふものの根拠への懐疑であり、それゆえまた、人生に意味づけを試みるすべてのもの、特に倫理や宗教への懐疑である」として、偶然が生んだニヒリズムにおける倫理と宗教の有効性を丸ごと批判し、「その限り、ニヒリズムは本質的に哲学への方向を含んでいる。倫理と宗教の路線へ一足飛びに入る方向から逸れて、哲学へ迂回する方向である」と続ける。こうした見方は、「実存的意義の大きい偶然」すなわち「運命」にとらわれた実存の問題をあくまで「人間的立場」の哲学として論じようとした九鬼の姿勢に重なるものがあるだろう。
西谷はニヒリズムの典型に、「神は死んだ」と述べたニーチェを挙げるが、事実、九鬼も、ニーチェの偶然論への大いなる共感を隠さない。「偶然化の論理」でも「ニイチェも偶然に対する感覚の所有者であった」と、端的に共感を述べている。特に「ツァラトゥストラ」への共鳴を込めた言及は数多く見られ、『偶然性の問題』手沢本への書き込みでも、「ニイチェも偶然と運命との関連に深い洞察を有つていた。(中略)ツァラトゥストラが民衆の絶対的信仰を獲得するために最後に忘れてならぬことは、運命の重荷を負う畸形の傴僂にとつて『謎を解く者』(中略)となり『偶然の救主』(中略)となることである」と記している。
もちろん、九鬼のニーチェへの共感は、ひとまずは、その偶然を私が欲した、という思考法にあったといえるだろう。ニーチェは、ツァラトゥストラにこう語らせる。「こうした断片であり、謎であり、残酷な偶然であるところのものを、ひとつのものに凝集し、総合すること、これこそわたしの努力の一切なのだ。/もし人間が、創作者でもあり、謎の解明者でもあり、偶然の救済者でもあるのでなければ、どうしてわたしは人間であることに堪えられよう!/過ぎ去った人間たちを救済し、すべての『そうあった』を、『わたしがそのように欲した』につくりかえること――これこそわたしが救済と呼びたいものだ」。この点について、九鬼はラジオ講演「偶然と運命」(1937年)でも、「『意志が引返して意志する』といふことが自らを救ふ道」という「ツァラトゥストラの教は偶然なり運命なりにいわば活を入れる秘訣であります」と述べ、ニーチェのこの思考法を偶然論における自らの方針としていたのも確かだ。
ただ、前章で指摘しておいたように、九鬼のニーチェへの共感に、「ツァラトゥストラの笑」があったことも見過ごしてはならない。坂部恵は、九鬼が1920年代のヨーロッパ滞在中に詠んだ短歌「時にまたズアラトゥストラの教へたるのどけき笑ひ内よりぞ湧く」を取り上げ、「笑いについてとりたてて独立の論稿で論ずることのなかった九鬼ではあるが」としつつ、「九鬼のニーチェへの共感がなみなみならぬものであることが、あらためて想い起こされる。ここにあるのは、肯定の笑い(カーニバル的哄笑、あるいはボードレールのいう『絶対的笑い』に通じるもの)、である」と指摘する。偶然性の問題と本格的に格闘する以前から、九鬼が「笑い」に対して抱いていた関心の高さを示していたのは確かだろう。 
第2節 ニヒリズムから「笑い」へ

 

ニヒリズムと笑いとの関係を探る際、哲学者の梅原猛の議論は大いに参考になる。梅原は志賀直哉などを分析しながら、笑いが苦難の価値を無化し、逆転させる作用を持つことを指摘する。すなわち、「苦難や死がおそってくる。彼はもちろん悲しみ悩む、しかし、その苦難や死が運命であると諦めたとき、悲しみ悩む自己はその苦難を喜んで迎える自己に転化する。運命に対する深い諦観から生ずる笑いにより、苦難の価値が低下する。さらに、無の思想は、このような価値転倒と価値無化に効果的である。人間が本来無であり、何一つもっていないとすれば、人間からすべてを奪う苦難や死は、人間をその本来の故郷につれもどすものではないか。ここで苦難や死のマイナス的価値は否定され、かえってプラス的価値をもつかのごとく見られる」と唱える。
「笑いは本来極めて社会的な生理現象であり、その発生から機序・機能に至るまで密接に『他者』と結びついている」とする社会学者の木村洋二も、笑いには人間を結びつける作用があり、「《笑い》が『世界図式』=『意味世界』を他者と共有していること、つまり《相互主観性》の存在を端的に実証する」と、九鬼が「神的立場」において「我」と「汝」を結びつけるとした社会のあり方と符合する考えを述べる一方で、笑いは「世界構成の真実性(リアリティ)を間主観的に崩壊させうる」とも指摘する。すなわち、笑いの無化機能は、一個人によってではなく間主観的に可能になるのであり、そうであるとしたら、まさにそれは、個人を超越したツァラトゥストラの笑いのなせる業ということなのだろう。
話を九鬼の偶然論に戻せば、この考え方は、田中久文の次のような九鬼理解とも大いに共鳴する。「九鬼は『偶然性の問題』の中で、意味の世界というものが必然性の世界であるとするならば、偶然性の世界とは『無意味』、『ナンセンス』の世界であるとし、(中略)意味のないナンセンスな歌を取り上げ、それが意味を作り出すという言葉の働きを徹底的に攪乱することによって『出世間的な遊戯と超現実的な笑』をもたらしていることを指摘している」。笑いによりもたらされた「無意味」「ナンセンス」こそが、偶然論において「広義の宗教」をも乗り越える「秘訣」だったということが見えてくるだろう。笑いが運命の文脈を無化し、「その本来の」偶然に「つれもどす」時、そうした偶然を新たな文脈へと接続し得る余地が生まれ、「より自由でしなやかな世界構成」という人間の自由な行為が可能になるということなのだろう。ツァラトゥストラが、偶然に「そうあった」ことを、「わたしがそのように欲した」と「肯定」する時、そこに「明朗な笑」が介在しているとすれば、ニヒリズムを生み出すはずの「運命」の文脈を「笑い」によって無化し、新たな文脈の中へとその偶然を接続し直すという「肯定」の方法をも、九鬼は見通していたのではないだろうか。ここに至り、笑いは「ゆるぎない確信の囚人ではなくなった、きわめて自由な精神のメルクマールである。一切の絶対的価値を相対化し、認識者にその自由を確保するために、ツァラトゥストラの笑いは存在する」との指摘も理解できるようになる。こうした一連の着想が、あくまで哲学として追究してきた九鬼の偶然論の、一つの最終的な到達点ともなり得たのではないだろうか。
ニーチェもツァラトゥストラに、こう語らせていた。「『偶然』――これは、この世で最も古い貴族の称号である。これを、わたしは万物に取りもどしてやった。わたしは万物を、およそ目的にしばられた奴隷制から救いだしてやった。/わたしは万物の上に、こうした自由と天空の晴れやかさを、さながら紺碧の鐘のようにはりわたした」 
おわりに

 

これまで九鬼の偶然論の方向性を、「博士論文」をめぐる田邊元との往復書簡で記した「宗教(広義の)」という言葉を糸口にたどってきた。人間が、それまで蓄積してきた文脈や意味が崩れ去るような出来事に接した時、人はその意味を宗教(帰依や信仰という「狭義」であれ、偶然性を前提とした社会を志向する「広義」であれ)に基づいて再構築しようとする。しかし、そうした宗教でさえも意味を与えることができず、だからこそ実存的意義が大きくなってしまった偶然すなわち「運命」に対して人間は「驚異」するしかないとの現実に、九鬼の視線は注がれていた。宗教との関係でみれば、人間はどちらかといえば、「判断を中止」し、意味を与えられる受動的な存在と見なされがちだが、宗教への依存が必ずしも功奏しない事態、すなわち「運命」が身にふりかかった時にこそ、むしろ人間の主体的な自由が発揮され得るということなのではないか。すなわち、「驚異」のただ中で人間は、「笑い」に象徴されるような「運命」の文脈を無化させる行為を取り得るのであり、偶然を新たな文脈に接続させるだけの自由を持ち合わせているということである。
九鬼が「実存の中核に触れている」と位置づけた偶然性の問題を震災後の哲学として構想するにあたり、「笑い」の可能性をもって結ぶのはいささか不謹慎と取る向きもあるかもしれない。しかし、人間が「運命」の意味をリセットする形で受け入れ、再び偶然性という逃れがたい桎梏の中に自ら帰っていくような再生の契機を見逃してはならないことは、どんなに強調しても足りないであろう。偶然により実存的な困難を抱えることになった人間たちが、クシュナーのいう「より良い問い」の回路へとつながり得る、せめてもの希望の「裂け目」として、哲学としての「笑い」を位置づけたい。 
 
東洋美術図譜 / 夏目漱石

 

偉大なる過去を背景に持っている国民は勢いのある親分を控えた個人と同じ事で、何かに付けて心丈夫(こころじょうぶ)である。あるときはこの自覚のために驕慢(きょうまん)の念を起して、当面の務(つとめ)を怠(おこた)ったり未来の計を忘れて、落ち付いている割に意気地(いくじ)がなくなる恐れはあるが、成上(なりあが)りものの一生懸命に奮闘する時のように、齷齪(あくせく)とこせつく必要なく鷹揚自若(おうようじじゃく)と衆人環視の裡(うち)に立って世に処する事の出来るのは全く祖先が骨を折って置いてくれた結果といわなければならない。
余(よ)は日本人として、神武(じんむ)天皇以来の日本人が、如何なる事業をわが歴史上に発展せるかの大問題を、過去に控えて生息するものである。固(もと)より余一人の仕事は、余一人の仕事に違いないのだから、余一人の意志で成就(じょうじゅ)もし破壊もするつもりではあるが、余の過去、――もっと大きくいえば、わが祖先が余の生れぬ前に残して行ってくれた過去が、余の仕事の幾分かを既に余の生れた時に限定してしまったような心持がする。自分は自分のする事についてあくまでも責任を負う料簡(りょうけん)ではあるが、自分をしてこの責任を負わしむるものは自己以外には遠い背景が控えているからだろうと思う。
そう考えながら、新しい眼で日本の過去を振り返って見ると、少し心細いような所がある。一国の歴史は人間の歴史で、人間の歴史はあらゆる能力の活動を含んでいるのだから政治に軍事に宗教に経済に各方面にわたって一望(いちぼう)したらどういう頼母(たのも)しい回顧(かいこ)が出来ないとも限るまいが、とくに余に密接の関係ある部門、即ち文学だけでいうと、殆んど過去から得るインスピレーションの乏しきに苦しむという有様(ありさま)である。人は『源氏物語』や近松(ちかまつ)や西鶴(さいかく)を挙げてわれらの過去を飾るに足る天才の発揮と見認(みと)めるかも知れないが、余には到底(とうてい)そんな己惚(うぬぼれ)は起せない。
余が現在の頭を支配し余が将来の仕事に影響するものは残念ながら、わが祖先のもたらした過去でなくって、かえって異人種の海の向うから持って来てくれた思想である。一日余は余の書斎に坐って、四方に並べてある書棚を見渡して、その中に詰まっている金文字の名前が悉(ことごと)く西洋語であるのに気が付いて驚いた事がある。今まではこの五彩(ごさい)の眩(まば)ゆいうちに身を置いて、少しは得意であったが、気が付いて見ると、これらは皆異国産の思想を青く綴(と)じたり赤く綴じたりしたもののみである。単に所有という点からいえば聊(いささ)か富という念も起るが、それは親の遺産を受け継いだ富ではなくって、他人の家へ養子に行って、知らぬものから得た財産である。自分に利用するのは養子の権利かも知れないが、こんなものの御蔭を蒙るのは一人前(いちにんまえ)の男としては気が利(き)かな過ぎると思うと、あり余る本を四方に積みながら非常に意気地(いくじ)のない心持がした。
『東洋美術図譜』は余にこういう料簡(りょうけん)の起(おこ)った当時に出版されたものである。これは友人滝(たき)君が京都大学で本邦美術史の講演を依託された際、聴衆に説明の必要があって、建築、彫刻、絵画の三門にわたって、古来から保存された実物を写真にしたものであるから、一枚一枚に観て行くと、この方面において、わが日本人が如何なる過去をわれわれのために拵(こしら)えて置いてくれたかが善(よ)く分る。余の如き財力の乏しいものには参考として甚だ重宝(ちょうほう)な出版である。文学において悲観した余はこの図譜を得たために多少心細い気分を取り直した。図譜中にある建築彫刻絵画ともに、あるものは公平に評したら下らないだろうと思う。あるものは『源氏物語』や近松や西鶴以下かも知れない。しかしその優(すぐ)れたものになると決して文学程度のものとはいえない。われわれ日本の祖先がわれわれの背景として作ってくれたといって恥ずかしくないものが大分ある。
西洋の物数奇(ものずき)がしきりに日本の美術を云々(うんぬん)する。しかしこれは千人のうちの一人で、あくまでも物数奇の説だと心得て聞かなければならない。大体の上からいうと、そういう物数奇もやはり西洋の方が日本より偉いと思っているのだろう。余も残念ながらそう考える。もし日本に文学なり美術なりが出来るとすればこれからである。が、過去において日本人が既にこれだけの仕事をして置いてくれたという自覚は、未来の発展に少(すくな)からぬ感化を与えるに違いない。だから余は喜んで『東洋美術図譜』を読者に紹介する。このうちから東洋にのみあって、西洋の美術には見出し得(う)べからざる特長(とくちょう)を観得(かんとく)する事が出来るならば、たといその特長が全体にわたらざる一種の風致(ふうち)にせよ、観得し得(え)ただけそれだけその人の過去を偉大ならしむる訳である。従ってその人の将来をそれだけインスパイヤーする訳である。 
 
後世 / 芥川龍之介

 

私は知己を百代の後に待たうとしてゐるものではない。
公衆の批判は、常に正鵠を失しやすいものである。現在の公衆は元より云ふを待たない。歴史は既にペリクレス時代のアゼンスの市民や文芸復興期のフロレンスの市民でさへ、如何に理想の公衆とは縁が遠かつたかを教へてゐる。既に今日及び昨日の公衆にして斯(か)くの如くんば、明日の公衆の批判と雖も、亦推して知るべきものがありはしないだらうか。彼等が百代の後よく砂と金とを弁じ得るかどうか、私は遺憾ながら疑ひなきを得ないのである。
よし又理想的な公衆があり得るにした所で、果して絶対美なるものが芸術の世界にあり得るであらうか。今日の私の眼は、唯今日の私の眼であつて、決して明日の私の眼ではない。と同時に又私の眼が、結局日本人の眼であつて、西洋人の眼でない事も確である。それならどうして私に、時と処とを超越した美の存在などが信じられやう。成程ダンテの地獄の火は、今も猶東方の豎子(じゆし)をして戦慄せしむるものがあるかも知れない。けれどもその火と我々との間には、十四世紀の伊太利なるものが雲霧の如くにたなびいてゐるではないか。
況んや私は尋常の文人である。後代の批判にして誤らず、普遍の美にして存するとするも、書を名山に蔵する底の事は、私の為すべき限りではない。私が知己を百代の後に待つものでない事は、問ふまでもなく明かであらうと思ふ。
時々私は廿年の後、或は五十年の後、或は更に百年の後、私の存在さへ知らない時代が来ると云ふ事を想像する。その時私の作品集は、堆(うづだか)い埃に埋もれて、神田あたりの古本屋の棚の隅に、空しく読者を待つてゐる事であらう。いや、事によつたらどこかの図書館に、たつた一冊残つた儘、無残な紙魚(しみ)の餌となつて、文字さへ読めないやうに破れ果てゝゐるかも知れない。しかし――
私はしかしと思ふ。
しかし誰かゞ偶然私の作品集を見つけ出して、その中の短い一篇を、或は其一篇の中の何行かを読むと云ふ事がないであらうか。更に虫の好い望みを云へば、その一篇なり何行かなりが、私の知らない未来の読者に、多少にもせよ美しい夢を見せるといふ事がないであらうか。
私は知己を百代の後に待たうとしてゐるものではない。だから私はかう云ふ私の想像が、如何に私の信ずる所と矛盾してゐるかも承知してゐる。
けれども私は猶想像する。落莫たる百代の後に当つて、私の作品集を手にすべき一人の読者のある事を。さうしてその読者の心の前へ、朧げなりとも浮び上る私の蜃気楼のある事を。
私は私の愚を嗤笑(しせう)すべき賢達の士のあるのを心得てゐる。が、私自身と雖も、私の愚を笑ふ点にかけては、敢て人後に落ちやうとは思つてゐない。唯、私は私の愚を笑ひながら、しかもその愚に恋々たる私自身の意気地なさを憐れまずにはゐられないのである。或は私自身と共に意気地ない一般人間をも憐れまずにはゐられないのである。 
 
「求道(ぐどう)」

 

「求道」論  
序章 世界と国家と人生、そして道 
第一節 心世界
世界には、たくさんのものが在って、色々なことが起こります。
世界という言葉は、仏典にはじまり、衆生の住む所をさします。「世」は過去・現在・未来の三世の時間、「界」は東西南北上下の空間をさします。宇宙という言葉も、「宇」は空間、「宙」は時間をあらわしますから、世界は宇宙という語に近い意味を持っています。一般語としての世界は、人間や生物が暮らしている範囲や、知識の届く範囲の総体を意味します。
世界の認識は、心によって可能となります。それゆえ、心そのものは一つの世界です。日本臨済宗の祖である栄西(1141~1215)は、心について、〈それ太虚か、それ元気か、心はすなはち太虚を包んで、元気を孕むものなり(『興禅護国論』)〉と述べています。太虚とは宇宙空間のことで、元気とは万物を生み出す根本エネルギーのことです。
心は、身体を通じて言葉を発します。その心が、言葉を通じて他の心と交流することにより、心は世界の中の一つの作用であることを認めます。幕末の志士である吉田松陰(1830~1859)は、〈然れども人は人の心あり、己れは己れの心あり。各々其の心を心として以て相交はる、之れを心交と謂ふ(安政三年の『書簡』)〉と述べています。
心とは、世界そのものであり、世界において相交わることなのです。
江戸後期の儒学者である佐藤一斎(1772~1859)は、〈満腔子是れ惻隠の心なるを知れば、則ち満世界都(すべ)て惻隠の心たるを知る(『言志後録』)〉と述べています。満腔子とは体全体のことであり、惻隠の心については、『孟子』の[公孫丑上篇]に、〈惻隠の心は仁の端なり〉と記されています。つまり、体全体が惻隠の心になっていることが分かれば、世界全体が惻隠の心で満ちていることが分かると語られているのです。
心に対する考え方として、心が世界そのものであるという観方があり、また、ある心は世界の中にたくさん在る心の中の一つだという観方もあります。それぞれの観方は、世界に対する異なる角度であり、双方ともに、それぞれの視点で成り立ちます。そこで、様々な視点を取り込んだ、包括的な観方というものが考えられます。包括的な観方によって、世界を観ることは大切なことだと思われます。
世界とは様々な角度から観ることができるものであり、色々な角度から観ることなのです。
色々な角度から世界を観ると、世界の成り行く勢いは状況を生じさせ、そこにおいて心に選択肢が現れます。選択肢は複数あり、心はその中からどれかを選び取ります。そこでは、「選択しない」ということも選択肢の中の一つであり、「選択しない」という選択を選んでいることになります。「選択を誰かに委ねる」というのも、「選択をまわりの雰囲気に合わせる」というのも同様に選択の一つです。常に何かを選び続けることは、心の前提条件なのです。
心は何かを選択し続けていきますが、その心がどういう世界に立っているかにより、選択肢の現れ方が決まります。別の言い方をすると、心が、自身の居る場所を解釈する仕方によって、出会う状況による選択肢がもたらされるのです。
選択肢に応じて、心は自身の人生における「その選択」を選び取ります。江戸前期の儒学者である伊藤仁斎(1627~1705)は、このことを「意」と表現しています。〈意とは、心の往来計較する者を指して言う(『語孟字義』)〉のです。往来計較とは、あれこれくらべあわせて考慮することです。複数の選択肢の中から、その選択を選び取る「意」は、人生の為し方に関わります。
人生とは、死を迎えるまでの期限付きの期間であり、選択肢と決断を導くものであり、その決断を伴う状況へと世界を繋げることなのです。
公卿である北畠親房(1293~1354)は『神皇正統記』において、〈正直慈悲ヲ本トシテ決断ノ力アルベキ也〉と言い、〈決断ト云ニトリテアマタノ道アリ〉と述べています。どのような世界を成しているか、どのような人生を為しているかによって、決断の仕方が決まるのです。複数ある選択のそれぞれの意味を考慮し、それらを比較することで、選択肢の中から決断が行われるのです。
第二節 境界線
では実際に、どう世界を成し、どう人生を為すのでしょうか。つまり、何故その選択肢になり、何故その基準での選択を決断するのでしょうか。
そこには、「分かるということ」と「知るということ」、この二つの働きが必要になります。この二つの働きに関わってくる要素が、境界です。境界という要素は、世界と人生に影響を与えると同時に、世界と人生から影響を受けます。
日本語では、「わかる(分かる)」は分別することによって、その異同を知ることです。「しる(知る)」は全体的に所有すること、つまり、「領(し)る」ことによってその全体を把握することをいいます。分かるには、境界線を引いて分けることが、知るためには境界線を引いて領有することが必要になるのです。ですから、世界による選択肢の成し方とか、人生による決断の為し方というものが、境界線を引くことによって形成されるのです。その働きにより、世界と人生の関係が展開されていくのです。
最初は、世界も人生も曖昧なままです。何だか、グチャグチャしています。そこで、まずはひたすらに「分かる(分ける)」と「知る(領有する、自分のものにする)」を行うのです。赤ん坊が、ひたすら目にするものを手にし、口に含むように、です。あの行為は、手に取ることで世界を分け、口にすることで世界を知る行為なのです。
そういった行為の先、時空における時間意識により、考え方に連続性・一貫性・持続性が獲得され、空間意識により限定性・限界性・特異性が芽生えてきます。それに伴い、物事の境界線が明確になっていきます。それは秩序の生成というべき推移です。秩序が整うにつれて、世界による選択肢の成し方とか、人生による決断の為し方に基準が仄見えてきます。そこには「世界⇔境界⇔人生」という関係があり、次に示すような相互作用が働いています。
[図0-1] 世界と境界と人生
様々な境界により、世界の成し方、および人生の為し方がはっきりしていきます。同様に、様々な境界は、世界からその在り方を、人生からその有り方を、つまりは意味を獲得します。これは心に関する、一連の物語です。
境界は、心が世界と関係し合い、認識と共に成立するのです。心は感覚器官によって、今の現象を感覚として受容します。それぞれの感覚に対する識別により境界線が引かれます。その上で意識は、過去・未来・現在を対象とし、言語活動を行います。そこに深層心理が関わり、慣習・法律・不文律・道徳・文化・宗教・言語・民族などの境界線が引かれ、個々の領域を判別することが可能になるのです。私達は境界線を引くことで、物事が分かり、物事を知るのです。
ちなみに仏教の唯識派は、心の存在も夢や幻として否定しますが、ここではそれも一つの観方であることを指摘しておきます。心の存在だけが確かであるという観方も、心の外に確固たる物が在るという観方も、同様に成り立ちます。これらの観方は、同時に成り立ち、それらを包括的に観る観方も生まれます。それぞれの観方は、互いに関係し合って世界を紡いでいきます。
第三節 垣領域
心が世界において相交わることで、世界の観方において、心は自身の領域を持ちます。自身の領域を確定するために、外界と隔絶するために設けられるものを「垣(かき)」といいます。その垣によって区切られた領域を守るために、生物は己の命をかけることもあります。
私たちは、他に対する境目によって垣を定めます。垣は、様々な境界を考慮した上で、内と外を隔てる区切りとして立てられます。その垣は、心に「こちら側」と「あちら側」という境目の意識を生じさせます。なぜなら、我(もしくは我々)は垣に囲まれた内側である「こちら側」の境界に居るのであり、垣の外側である「あちら側」の境界には居ないということが意識できるからです。あちら側に居るのは他であり、その他に対するものとして、こちら側に自分(たち)が居るのです。こちら側とあちら側を分ける境目が、垣によって生じるのです。その垣による境界ごとに、異なる思想が想定され、人間はその境涯に生き、そして死ぬのです。
人間の生活の複雑さから、いくつもの「垣」が生じます。例えば、「家(いえ)」・「村(むら)」・「里(さと)」・「都(みやこ)」・「国[國](くに)」などです。
漢字の成り立ちから見た場合、家は建物に、村は多数の人が集まり住む聚落に、里は耕作地に、都は城壁をめぐらせたところに、国は武装に関係しています。国家は邦家ともいい、国は軍事的、邦は宗教的な性格をもつ文字です。
日本語では、家とは、自分や家族が生活を営み住んでいるところを意味し、先祖から代々伝えられてきたもの、また、それにまつわるものという意味を持ちます。村とは、地形・水系などによって人の居住に適し、人家が群がり生活圏を形成している区域・地域のことです。古代から国家機構の末端に組織され、行政・納税の単位とされてきました。里とは、人の住まない山間に対して、人家があつまって人が住んでいる所です。都とは、皇居のある地を意味しています。国とは、統治・人民・領土を合わせた一つのまとまりをいう語になります。故郷のことをいう場合もあります。太宰春臺(1680~1747)の『経済録』には、〈国ト云ハ、人ノ領スルニ由テ名ヅクル也〉とあります。
これらの「垣」を築いて境界を確定するということは、心と世界が相互に働きかけ合うということです。それゆえ、選択肢における選択の基準、つまりは真善美と偽悪醜を形成する要因となります。単なる世界、単なる人生だけでは、意味のある基準は生み出されないのです。様々な境界の線引きを通して、意味と価値が生み出されるのです。
この中でも「国家」は非常に重要です。国家は、統治・人民・領土という要素を持ちます。この三つのまとまりの線引きは、神意説、契約説、実力説など多岐にわたりますが、様々な境界(慣習・法律・不文律・道徳・文化・宗教・言語・民族)を統合した伝統によって築かれています。
[図0-2] 様々な境界の統合としての国家
様々な境界を考慮し、国家の境界線が引かれ、国家の領域が形成されるのです。その伝統を通して国家を見た場合、統治は政府であり、人民は国民であり、領土は国土となります。歴史は国史となります。
国家とは、政府・国民・国土を合わせたものであり、国史の伝統を紡いで来た・紡いで居る・紡いで行くことなのです。
自分の帰属する国家を故郷だと思えるとき、自国は我々の居る場所だと想えます。そのとき国家は、世界と人生に対して大きな影響を及ぼします。
ここで、日本という特定の国家からの眺めを考えてみます。日本語では、国のありかたを「国柄(くにがら)」、地形を「国方(くにかた)」、住民を「国人(くにひと)」、その全体を支配する儀礼を「国見(くにみ)」と言います。国史は、「日本史」になります。そのため日本は、日本史による国柄により、国見・国人・国方という要素を合わせた国家だと言えるのです。
[図0-3] 国家の構造
あらゆる要素の統合として国家は成り立ちます。その性質上、国家は現に在るものでありながら、常に曖昧さが付きまといます。その曖昧さ故に、その国家の正当性が問われます。つまり、時代の変遷により、その国家は、なぜその境界線により、その国家なのかが常に問われ続けます。何故この国家は、この境界線が引かれているのか。何故あの境界線ではないのか。その問いは常に問われ続けます。その答えは、国家の内側(国民)および外側(外国人)から求められます。国家は、内側からの力と外側からの力の平衡状態として成り立ちます。国家における政府・国民・国土という各要素は、こちら側とあちら側という国家間を意識した国史の伝統の上において、現(げん)にそこに現(あらわ)れてくるものなのです。そこに作用する力は、精神的および物理的なものの両方です。つまり、国家の内側と外側に対して、権威および権力が必要になるのです。その正統性の答えに完全はありえませんが、答えの妥当性がある程度保たれていれば国家は続きますし、保てなくなると国家は崩壊したり、他国に併合されたりします。
第四節 国家間
心は、世界を完全に把握することはできません。また、真善美および偽悪醜を思ってしまうがゆえに、心が世界そのものを全肯定することは不可能です。なぜなら、世界の全てが真と善と美だけであり、偽と悪と醜が一切ないという考えを受け入れることはできないと思われるからです。
その上で、心は何かを選択し続けて行きますから、そこには何らかの基準が働いているはずです。その基準が完全・完成・完璧に至ることは、世界の複雑さからいってありえません。それにも関わらず、人生には何らかの正しさの基準が必要になります。なぜなら、差し出された手が私に握手を求めているのか、私を殺そうとしているのか、それらがどちらでもよいとは思えないからです。そのため、選択を判断するために、言葉が必要になります。
この言葉というものの性質上、正しさは私(わたくし)の正しさではなく、公(おおやけ)の正しさになります。公とは共有すべき正しさ(公正)のことで、私とは身勝手なわがまま(私欲)のことです。国家における正しさとは、その国家の公の正しさのことなのです。国家は、内側から国家を見たときに、その国家の公が必要となるのです。ですから、国家の数だけ公があるのです。
『十七条憲法』の十五番目には、〈私(わたくし)を背(そむ)きて公(おおやけ)に向(ゆ)くは、これ臣の道なり〉とあります。貝原益軒(1630~1714)は『大和俗訓』で、〈義とは我が行ふべき公の理なり。私なくして我が為にせざるなり。わが身のためにするは義にあらず。利とはわが身のためにする私の心なり〉と言い、『大疑録』では〈「天下仁に帰す」とは、ただ公なれば、己私の間隔なく、天下広濶なりといへども、愛せざる所なきを言ふなり〉と述べられています。荻生徂徠(1666~1728)の『弁名』には、〈公なる者は私の反なり。衆の同じく共にする所、これを公と謂ふ。己の独り専らにする所、これを私と謂ふ〉とあります。その上で、〈公・私はおのおのその所あり。君子といへどもあに私なからんや。ただ天下国家を治むるに公を貴ぶ者は、人の上たるの道なり〉と述べられています。上田秋成(1734~1809)は、〈わたくしとは才能の別名也(『胆大小心録』)〉と述べ、私の才能面からの有用性を示しています。上杉治憲(1751~1822)は〈国家は先祖より子孫へ伝候国家にして、我私すべき物には之なき候(『伝国の詞』)〉と述べています。ここで示されていることが、国家を内側から見たときの基本となります。
次に、国家を外側から見ることを考えてみる必要があります。それは世界から国家を捉えるということであり、他国から見た自国というものを意識させます。ここにおいて国家は、複数性を必要とします。国家は他の国家を必要とするのです。なぜなら、世界はこの自分の心における世界ですが、たくさんの心の共通の世界としても捉えられ、自分の心はその中の一つとしても考えられるからです。たくさんあると考えられる心は、国家という垣によって隔てられ、それぞれにおいて歴史と伝統を紡いでいると考えることができます。ここで、ある正しさが完全・完成・完璧に至ることはありえないということに注意が必要です。世界はその複雑さから、単一の思想体系では安定的に対応できないのです。そのため、自身の正しさの有り方は当然必要ですが、その上で、自身とは異なる正しさの在り方も必要なのです。自身の正しさのために、自身とは異なる正しさの在り方が必要なのです。世界に完全・完成・完璧がありえない以上、各々の正しさは、他の正しさによる掣肘が必要であり、それによって安定を得る必要があるからです。それゆえ、他との比較において独自の思想を持ち、かつ、それを維持できる国家というものが、非常に重要になるのです。なぜなら、国家との関わり、および国家間の捉え方が、世界と人生に息吹を与えるからです。
このことを福沢諭吉(1835~1901)は『文明論之概略』で、〈自国の権義を伸ばし、自国の民を富まし、自国の智徳を脩め、自国の名誉を燿かさんとして勉強する者を、報国の民と称し、其心を名けて報国心と云ふ。其眼目は他国に対して自他の差別を作り、仮令ひ他を害するの意なきも、自から厚くして他を薄くし、自国は自国にて自から独立せんとすることなり。故に報国心は一人の身に私するには非ざれども、一国に私するの心なり。即ち此地球を幾個に区分して其区内に党与を結び、其党与の便利を謀て自から私する偏頗(へんぱ)の心なり。故に報国心と偏頗心とは名を異にして実を同ふするものと云はざるを得ず。此一段に至て、一視同仁四海兄弟の大義と報国尽忠建国独立の大義とは、互に相戻て相容れざるを覚るなり〉と見事に述べています。
ですから『丁丑公論』で、〈公論と名けたるは、人のために私するに非ず、一国の公平を保護せんがためなり〉と語られながら、『痩我慢の説』では、〈立国は私なり、公に非ざるなり〉と語られているのです。これらの文章は、矛盾せずに成り立つのです。〈忠君愛国の文字は哲学流に解すれば純乎たる人類の私情なれども、今日までの世界の事情においてはこれを称して美徳といわざるを得ず。すなわち哲学の私情は立国の公道にして、この公道公徳の公認せらるるは啻に一国において然るのみならず、その国中に幾多の小区域あるときは、毎区必ず特色の利害に制せられ、外に対するの私を以て内のためにするの公道と認めざるはなし〉というわけです。つまり、国家という存在は、内側からみれば公に見え、外側からみると私に見えるものなのです。
[図0-4] 国家への視点
国家を外部から見るなら、立国のために私を通すものとして現れます。国家を内部から見るなら、規範や規律の基となる公をもたらすものとして現れます。世界の中の国家として国家を見るか、人生を包む国家として国家を見るか、その視点の違いにより、国家は異なった姿を現すのです。
[図0-5] 国家の立場
国家が、国家間における国際関係を考慮するということは、複数の思想体系の均衡状態をもたらします。そして、ある国家は、国際関係において、他国を参照しながら、自身の思想を調整して、自身を安定させます。ある国家が連続した歴史を持つということは、試行錯誤して調整された思想を持つといった観点から、その国家にとって有利に働くことがあります。
以上のことから、ある国家が己の絶対性を唱え押し付けることは世界を不安定化させます。国家の廃止や国家の乗り越えを実行することも、世界を不安定化させます。また、国家の数があまりに多すぎても、複雑化し過ぎるために不安定化します。考慮すべき国家の数は、それなりの数である必要があるわけです。
つまり、国家は関わりにおいて捉えられるのです。ある国家の人間から見ると、みずからの属する国家の正しさの体系、および、それとは異なっていたり対立したりする他国の正しさの体系があるのです。変遷する時代に際し、それらの相違において「国家」が強く意識されます。その認識の上において、国家間の関わりにおいて、国家は自らの内部に対して国内法を定めると同時に、国家間の取り決めである国際法の調整に努めるのです。各国家は、国際法によって便益を得ると同時に、国際法によって制約を受けるのです。
その国家の状態は、状況によって揺れ動きます。その揺れ動きの中から、国家の分裂や国家の統合などが起こります。歴史において、時代の状況が直面する関わりが、国家という境界線を引くのです。また、引き直すのです。
世界の成し方における選択肢、それに関わる国家の在り方、選択の仕方としての人生の為し方、それに関わる国家の有り方。この一連の歴史の流れから、この世界・この国家・この人生が立ち現れるのです。
[図0-6] この世界とこの国家とこの人生
この関係を基にして、世界・国家・人生は時代の変遷により変化していくのです。時代ごとに、それぞれは特色を持ちます。その上で、その諸々の変化を貫通するものとして、つまりは歴史観として、この世界・この国家・この人生が再度、捉えられます。それぞれの時代は、それぞれの時代において、この世界・この国家・この人生を捉えるのです。
第五節 言乃葉
国家の持つ思想体系は、多くの要素を統合した歴史と伝統から構成されています。この中で言葉は、非常に重要な要素の一つです。
心は言葉によって、世界に対して作用します。言葉は、感情、意志、考えなどを伝え合うために必要な共有財産です。意見の同意どころか意見の対立のためにも、共通で共有の通約可能な言葉がなければならないのです。世界を構成するものは、言葉によって構成されるのです。ですから、国家を構成するものも言葉によって構成されます。この言葉を用いて、人間は関係を築いていくのです。言葉は、それ自体で一つの思想の様式なのです。
そこで、国家間で言葉が異なれば、それは思想の様式自体が異なるということになります。これは大きな違いです。それゆえ、ある国家が、その国特有の言語体系(ただ一つの言語にしろ、ある複数の言語群で構成されているにしろ)を備えているということは、その国家が、明確で特異な様式を持ち、その様式によって国際関係、つまりは世界に臨んでいるということになります。言葉は、国家の境界線に強く作用する要因の一つなのです。
ただし、仮に世界が単一言語、例えば日本語しかない状況や、英語しかない状況、あるいは中国語しかない状況や、エスペラント語だけしかない状況だったとしても、国境線が引かれ、世界に複数の国家が存在するようになることが予想できます。同一言語を母国語とする人同士でも、あらゆる要素で関係したり無関係になったりするのですから。さらに、関係した上で敵になったり、友になったりもするのですから。
例えば、同一言語内における二つの異なる集団が、「正しい」という言葉が指し示す状況を別様に見なしているならば、それらの集団が共に生活することは極めて困難になります。ですから、国家間の相違が言語の相違性に及ぶ場合、国家の境界線が強く作用する傾向がある、とは言えると思います。ですが、もっと根本的なことは、人間は言葉によって様々な境界線を引くということです。その中でも、いくつもの境界を統合した大枠の境界として、国家という重要なあり方が考えられるのです。国家はそれぞれに、各々の正しさを持ち、それは他国の正しさとの関係の間で調整されるのです。
第六節 日本国
ここで国家について考えるために、日本史における国という言葉の変遷を見ていきます。
『古事記(712)』や『日本書紀(720)』などの日本神話には、神々の住む天界の「高天原」や、日本の別名である「大八洲国(葦原中国)」、死者の住まう「黄泉の国(根の堅州国)」などが記されています。高天原と大八洲国の表現の違いから分かるように、「国」は「天」に対して「地」にあるものを指し示しています。
『大宝律令(701)』では、「国家」という語で「天皇」を表しています。天皇の尊号を、直接的に称するのを憚ったためだと言われています。日本という国家にとって、天皇という存在が重要な意味を持つことが分かります。
天台宗の最澄(767~822)は、『内証仏法相承血脈譜』において「三国」という表現を使用しています。三国とは、日本・唐土(中国)・天竺(インド)のことです。昔の日本人にとっては、この三国がそのまま世界として捉えられていたのです。この考え方は、長いあいだ日本人の思想に影響を与えました。
紀貫之(870頃~945頃)の『土佐日記』には、国という言葉がいくつかの意味に使い分けられています。〈唐土とこの国とは、言異なるものなれど、月の影は同じことなるべければ、人の心も同じことにやあらむ〉という文章では、「この国」が「日本」を意味しています。唐と日本とは言葉は違いますが、月の光は同じはずですから、人の心も同じなのだと語られているのです。また別の箇所では、国が郡の意味で使われたり、故郷の意味で使われたりもしています。
慈円(1155?1225)は、〈日本國ノナラヒハ、國王種姓ノ人ナラヌスヂヲ國王ニハスマジト、神ノ代ヨリサダメタル國ナリ(『愚管抄』)〉と述べています。日本国は、天皇家の血筋によって保たれていることが分かります。
浄土真宗の親鸞(1173~1262)は『高僧和讃』において、〈日本一州ことごとく 浄土の機緑あらはれぬ〉と述べ、日本における浄土を願っています。
日蓮宗の日蓮(1222~1282)は、『立証安国論(真筆)』で「くに」の文字の書き分けを行っています。「国」の使用回数が十五回、「國」の使用回数が一回で、「口」の中に「民」で「くに」とする文字が五十二回です。「口」の中にどのような文字が入るかで、「くに」という言葉によって強調すべき要点を表しています。「くに」という言葉の使い分けの比較から、日蓮が「くに」と「民」を密接に結び付けて論じていることが分かります。また、『報恩抄』では、〈日蓮は日本国のはしらなり。日蓮失うほどならば日本国のはしらをたをすになりぬ〉と述べています。自分が日本を支えているのだという自負が伺えます。
北畠親房(1293~1354)は、〈大日本者國也。天祖ハジメテ基ヲヒラキ、日神ナガク統ヲ傳給フ。我國ノミ此事アリ。異朝ニハ其タグヒナシ。此故ニ神國ト云也(『神皇正統記』)〉と述べています。受け継がれてきた伝統によって、日本と他国を区別していることが分かります。
戦国時代では、戦いの単位である大名の領土が「国」として用いられる場合があります。このことは、時代の状況によって、国の意識の範囲が揺れ動いていることを示しています。朝倉孝景(1428~1481)は家訓『朝倉栄林壁書』において、〈国を見事に持成も、国主の心づかひに寄べく候事〉と述べ、越前守護大名の領有する地域に対して国という字を用いています。また、毛利元就(1497~1571)は子息(隆元・元春・隆景の三人)にあてた『毛利元就書状』において、〈誠手広く五ヶ国・十ヶ国之操調にて候〉と述べています。ここでも、戦国大名の領有する地域に対して国の文字が用いられています。安芸の領主から身を起こして、安芸・備後・石見・長門をはじめその周辺の諸国を征服して支配・介入できるようになった状態について語られています。
江戸時代に入ると、幕府の海禁政策(いわゆる鎖国)の影響から、国の文字が藩単位で用いられることが多くなります。海禁政策とは、外交・貿易の権限を幕府が制限・管理することを指します。本多正信(1538~1616)は、〈国家ヲ治メントスレドモ治メル可キ本ナケレバ治ラズ。其本ト云ハ国主郡主ノ御心ナリ(『治国家根元』)〉と述べています。ここでいう国家は徳川幕府や藩を指し、国主は国持大名であり、郡主は小大名や上級旗本などを指しています。また、山本常朝(1659~1719)は、〈御国家を治め申上えの忠節、何か有る可きや(『葉隠』)〉と述べ、国家を佐賀藩とし、選び出されて佐賀藩を治めるという忠節よりほかになにがあろうか、と語っています。
海禁政策下でも、オランダなどを通じて諸外国の情勢や学問を研究することはできました。しかし、庶民に情報が制限されていたのも事実です。そのため、日本という単位を「国」とすると、日本の正しさを他国と比較することが難しくなります。正しさは、比較対照を失うと暴走するか、脆弱化します。そのため、「国」が藩という単位で認識されたのだと思われます。そうすると、その藩(国)の掲げる正しさが、他の藩(国)と比較可能になります。正しさは、比較すべき他の正しさがなければ、自身の正しさを保てないのだと思われます。
例えば福沢諭吉(1835~1901)は、〈各国の交際と人々の私交とは全く趣を異にするものなり。昔し封建の時代に行はれたる諸藩の交際なるものを知らずや、各藩の人民必ずしも不正者に非ざれども、藩と藩との附合に於ては各自から私するを免かれず。其私や藩外に対しては私なれども、藩内に在ては公と云はざるを得ず。所謂各藩の情実なるものなり。此私の情実は天地の公道を唱て除く可きに非ず、藩のあらん限りは藩と共に存して無窮に伝ふ可きものなり。数年前廃藩の一挙を以て始めて之を払ひ、今日に至ては諸藩の人民も漸く旧の藩情を脱するものゝ如しと雖ども、藩の存する間は決して咎む可らざりしことなり。僅に日本国内の諸藩に於ても尚且斯の如し(『文明論之概略』)〉と述べています。福沢諭吉は、封建時代では藩が基本単位であり、廃藩の後は日本が基本単位だと考えているのです。
ただし、江戸時代には藩を「国」とする考えと同時に、日本を「国」とする考えも当然ながら見られます。
水戸藩の第二代藩主である水戸光圀(1628~1700)は、〈毛呂(もろ)己(こ)志(し)を中華と称するは、其の国の人の言には相応なり、日本よりは称すべからず。日本の都をこそ中華といふべけれ。なんぞ外国を中華と名づけんや。其のいはれなし(『西山公随筆』)〉と述べ、日本人は日本を中心に考えるべきことを説いています。
井原西鶴(1642~1693)の『日本道にの巻(西鶴独吟百韻自註絵巻)』には、〈和歌は和国の風俗にして、八雲立御国の神代のむかしより今に長く伝て、世のもてあそびとぞなれり〉とあります。また、〈日本道に山路つもれば千代の菊〉とあり、日本の街道の里程に山路の里程までを加えるなら、千年も保つという菊の寿命のように尽きることがないと述べています。
近松門左衛門(1653~1724)の『国性爺合戦』には、〈日の本とは日の始、仁義五常情有り〉とあります。
荷田在満(1669~1736)の『国歌八論』には、〈日本はわが万世父母の国なれども、文華の遅く開けたる故に文字も西土の文字を用ゐ、礼儀・法令・服章・器財等に至るまで悉く異朝に本づかざるはなし。ただ歌のみわが国自然の音を用ゐて、いささかも漢語をまじへず〉とあります。
学者である富永仲基(1715~1746)の『出定後語』には、〈道を説き教へをなすは、振古以来、みな必ずその俗によつて、もつて利導す〉とあります。振古以来とは、昔からという意味です。その上で、〈竺人の、幻における、漢人の、文における、東人の、絞における、みなその俗しかり〉とあります。印度人が「竺人」であり、「幻」とは化幻性、神秘的性癖のことです。中国人が「漢人」であり、「文」は文辞性、修飾的性癖のことです。日本人が「東人」であり、「絞」は絞直性、秘密的性癖のことです。仲基は、〈言に物あり。道、これがために分かる。国に俗あり。道、これがために異なり〉と述べています。言語思想の形成条件の相違によって思想に違いがあり、地方固有の風俗習慣が行なわれることで風土的差異が思想に影響するというのです。
本居宣長(1730~1801)の『鈴屋答問録』には、〈國とは、上代には一縣一郷ほどの所をもいひつれば、其地、其地に、國生ノ神は有べし〉とあります。国には、国ごとに根付いた神が居るというのです。その上で日本については、〈皇統の動きたまはぬを本として、其外にも他國にまされることの多きぞ、天照大御神の御本國のしるしにして、他に異なる也〉と語られています。
上田秋成(1734~1809)は、〈他国の聖の教も、ここの国土にふさはしからぬことすくなからず(『雨月物語』)〉と述べています。ここでの他国は漢土(中国)であり、ここの国土とは日本のことを指しています。
以上のように海禁政策下では、日本という単位と藩という単位が、それぞれの立場に応じて国という言葉で使い分けられていました。海禁政策が緩和(いわゆる開国)されると、国の使用例も日本という単位で統一されていきます。
佐久間象山(1811~1864)は『省ケン録(せいけんろく)』において、「一国」で松代藩を指し、「天下」で日本全体を意味し、「五世界」で五大洲、つまり地球全体を表現していました。しかし、後の『象山書簡』では「国」という言葉を日本全体の意味で用いる傾向がきざしています。国ないし国家を藩の意味で用いる傾向と、日本全体の意味で使う新しい傾向とが、時代の変遷により変化していくのが分かります。
江戸末期の政治家である横井小楠(1809~1869)は、〈我国の万国に勝れ世界にて君子国とも称せらるるは、天地の心を体し仁義を重んずるを以て也。されば亜墨利加(アメリカ)・魯西亜(ロシア)の使節に応接するも、只此天地仁義の大道を貫くの条理を得るに有り(『夷虜応接大意』)〉と述べています。日本を我国とし、新しく登場したアメリカ(嘉永六年六月三日浦賀に入港したアメリカ使節ペリー)やロシア(同七月十八日長崎に来航したロシア使節プチャーチン)と対峙させています。
哲学者の西周(1829~1897)は、〈国とは何等を指して国と云ふべきものなるや。徒に土地あるを以て云ふ語にあらず。土地ありて人民あり、人民ありて政府ある之を国と云ふ。則ち英語state.国の字は元と或の字なり。其を境界して国と為すの字なり(『百学連関・総論』)〉と述べています。日本語の「国」と英語の「state」との通約が見られます。
評論家の山路愛山(1865~1917)は、〈今日において日本は世界の日本なりというはなお徳川時代において薩摩は日本の薩摩なりというがごとし。世界は一の完璧なり。日本はその一部分なり。二者決して分つべからず。世秋を知らずして日本を知らんとし、世界の歴史を解せずして今の日本に処らんとするは、なお昔の日本を解せずして薩摩に処らんとするがごとし(『日本現代の史学および史家』)〉と述べ、国と世界との関わりについて言及しています。
哲学者の西田幾多郎(1870~1945)は、〈外国の事物を研究しても、そこに日本精神が現れると云うことを忘れてはならない。そしてそれが逆に日本的事物に働くのである(『日本文化の問題』)〉と述べています。また、〈歴史的世界には、自己自身を形成する自覚的世界が含まれて居るのである。これが国家と云うものである。歴史的世界は、国家として自覚するのである。国家形成と云うものを予想せないで、歴史的世界と云うものなく、歴史的世界と云うものを前提とせないで、国家形成と云うものはない(『国体』)〉とも述べています。国家は歴史の上に形成されることを強調しています。
以上のように、日本史において、「国」および「日本という国」の姿が示されています。国については、歴史的伝統的な相違によって、自国の正しさと他国の正しさを比較することが必要となります。その必要性の関係性において、国家の境界線は引かれるのです。
第七節 日本人
自国とは、精神の奥底で、自分の思考・志向が基づいている様式です。それに自覚的になることは大切なことだと思われます。自覚的になった上で、その様式を引き受けるにしろ、はねのけるにしろ、意識的な関わりをどのように処するかを判断するために、日本というこの国家についての考察が必要になります。
私は、日本という国家に属する日本人です。そのため、私が日本国の日本人であるということが大きな意味を持ちます。そのため、「日本とは何か」、「日本人とは何か」という問いが問われます。まずは「日本とは何か」という問いに答えたいと思います。私なりに考えた上で、その問いに思想的に答えると、次のようになります。
問:日本とは何か?
答:日本とは、
 日本政府(国見)・日本人(国人)・日本列島(国方)を合わせたものであり、
 神道と仏教と儒教の間において、
 日本史の伝統を紡いで来た・紡いで居る・紡いで行くことです。
日本は、土着の自然信仰を含めた広い意味での神道を基盤として、長い歴史を紡いで来ました。日本の基礎に、自然崇拝や祖先崇拝という「神道的なもの」があるのは間違いのないところです。その神道を基にして、様々な思想を受け入れ、取り入れてきました。
その中でも、日本を基にして、日本に受け入れ、日本風に取り入れ、日本化したものとして仏教と儒教が考えられます。誤解を恐れずに言ってしまえば、「日本の仏教」は「本来の仏教」とは別物であり、「日本の仏教」は日本のものとなっています。儒教も、朱子学の硬直性へと進んだ大陸の儒教とは異なり、孔子の教えを受け継ぎながらも日本独自のものとして、つまりは「日本の儒教」として展開していきました。「日本の仏教」も「日本の儒教」も、既に日本のものと言っていいでしょう。言ってしまいます。ですから、日本の思想は「日本の神道」と「日本の仏教」と「日本の儒教」という基本思想の調和の上に築かれているのです。
そこでは、三つの思想がただ「在る」というよりも、三つの思想の間に「居る」とか、「住んでいる」とか、「馴染んでいる」などの表現が似合います。ですから、日本が他の思想からの影響を受けた際にも、これら神道・仏教・儒教の間において取り入れているように思われます。それは、日本の永く連続した歴史の流れの中で、磨かれ洗練された膨大な財産に基づいているということです。日本史の伝統は、神道と仏教と儒教の間において紡がれているのです。逆に、これらの埒外で取り入れた思想は、どこかに歪みがあるように私には感じられます。それは、日本の歴史という財産を不当にも無視した、日本人ならぬ列島人(劣等人)の浅知恵だと思われるからです。
このことを踏まえた上で、次に「日本人とは何か」という問いに答えたいと思います。まず、三つの思想の間で伝統を紡ぐとき、その場所は、「無常」と呼ばれうると思われます。日本人は「無常」に居るのです。「儚(はかな)い」と称される、神道や古来の自然観に基づく世界の観方があります。本居宣長(1730~1801)は人の情について、〈さて人情と云ふものは、はかなく児女子のやうなるかたなるもの也(『排蘆小船』)〉と述べています。かたなる(片生る)とは、未熟なさまのことです。人の情とは、未熟で儚いものだというのです。「儚(はかな)い」の「はか(計・量・捗)」は、範囲や量の単位であり基準のことです。つまり基準が無いということが、儚いということなのです。その儚(はかな)しが、仏教の持つ無常と強く結びつきました。儚く無常な世の中は、日本人の心の世界です。このことは、天を不可知的なものと見るように、儒教の需要の仕方にも影響を与えています。この無常の場所において、神道と仏教と儒教が築かれてきたのです。
では、この無常の場所において、神道と仏教と儒教は、何を為すのでしょうか。神道は、天皇を祭祀とする惟神(かんながら)の道です。仏教は、仏陀の教えを正しい道としています。儒教は聖人の道を学びます。神道・儒教・仏教は、どれも道を行うという営為です。神道は神の道であり、仏教は仏道とも呼ばれ、儒教は儒道とも称されます。神道・仏道・儒道の三つから影響を受けながら、日本独自の思想展開を魅せた武士道や町人道、芸道や政道なども、やはり道という言葉で表されています。つまり、日本人は、道を行くのです。
この道を行くという営為は、日本語(大和言葉)によってなされます。日本人にとって日本語は欠かせません。特に、和歌は必須です。日本語により歌を詠うのが日本人です。大和言葉(やまとことば)がそのまま大和歌(やまとうた)を意味することからも、日本人にとって歌を詠うということは、狭義には和歌を指し、広義には日本語による言語活動全般を意味します。
例えば、『古今和歌集』の[仮名序]には、〈やまとうたは、人のこころをたねとして、万の言の葉とぞなれりける〉という美しい言葉ではじまります。和歌は、人の心に基づいて、たくさんの言葉となるのです。続いて、〈世の中にある人、事・業しげきものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひいだせるなり〉とあります。人は、為したり行ったりすることが多いため、心の中で思うことを、見たり聞いたりすることに託して言うのです。そして、このことは人間に限りません。〈花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生きるもの、いづれか歌をよまざりける〉と詠われています。日本では、生きとし生けるもの、そのすべては歌を詠うのです。歌の言葉は、言霊であり力を持ちます。〈力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をもなぐさむるは、歌なり〉というわけです。
つまり、無常において道を行くという営為は、和歌などの日本語を用いて行われるのです。日本人は歌を詠うのです。日本には様々な道があり、当然、和歌の道もあります。本居宣長の歌論『石上私淑言』には和歌の道について、〈たゞ物のあはれをむねとして、心に思ひあまる事はいかにもいかにもよみ出づる道也〉とあります。歌の道には、もののあはれがあるのです。日本では和歌の道を「八雲の道」や「敷島の道」と呼びます。八雲の道は、日本神話に基づいた表現です。『続古今和歌集』には、〈雲居より馴れ来たりていまも八雲の道に遊び〉とあります。日本人は八雲の道に遊び、歌を詠うのです。一方、敷島は大和あるいは日本を意味しますから、敷島の道は「日本の道」になります。日本人は、和歌の道を行き、日本の道を行きます。『新古今和歌集』の[仮名序]には、〈大和歌は、昔天地開けはじめて、人のしわざいまだ定まらざりし時、葦原中国の言の葉として、稲田姫素鵝の里よりぞ伝はれりける。しかありしよりこの方、その道盛りに興り、その流れ今に絶ゆることなくして、色に耽り心を述ぶるなかだちとし、世を治め民を和らぐる道とせり〉とあります。日本の歌は古代から日本の言葉として伝わった歌の道であり、盛んに興って今に至るまで絶えることなく続き、色や心を伴って世を治めて民を和らげる道だというのです。和歌を詠わなくなったら、日本語を話さなくなったら、それはもう日本人とは言えないでしょう。日本史において、和歌などに代表される日本語(大和言葉)は、圧倒的な存在感を誇っています。
さて、ここまでで、日本人とは何かという問いに対する準備は整いました。日本人とは何かという問いに答えたいと思います。
問:日本人とは何か?
答:日本人とは、儚く無常な世の中で、日本語の歌を詠い、道を行く者たちです。 
第一章 道の場所

 

日本史には、無常観が流れています。
『古事記』の天孫降臨において、邇邇芸能命(ニニギノミコト)は美しい木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤビメ)と結婚し、醜い石長比売(イワナガヒメ)とは結婚しませんでした。そのときのことが、〈天つ神の御子の御寿(みいのち)は、木の花のあまひのみ坐さむ〉と記述されています。そのことが、〈今に至るまで天皇命等(すめらみことたち)の御命(みいのち)長からざるなり〉とあるように、天皇の寿命がそれほど長くない理由とされています。命が長くないことが、岩の強固さに対する花の儚さとして示されているのです。
日本では、儚さが心に届いて無常観が現れます。日本人は、厳しい無常を見据えた上で、優しく美しく無常を記します。人生や世の中(世間・世界)をはかないものとみる無常観は、日本人の意識に深く染み込んでいます。人生は常ならず、世の中は常ならず、すべてのものは常ならず。栄えるものも、驕れるものも、義に殉じるものも、すべては滅び行くのです。この世はまるで夢幻(ゆめまぼろし)・・・・・・・・・。
大事な点ですが、日本人にとって無常は落胆のみをもたらすものではありません。なぜなら、人生や世の中は常では無いけれども、それを見据えて諦観し、その上で無常を無常ながらに生きる覚悟を決めているからです。儚い世の中の儚い命だからこそ、懸命に潔く生きるのです。人生を無常と思うこと、世の中を無常と思うこと、このことは、日本人の生き方や死に方に深く関わっています。
無常な世の中で、無常な人生は、どこへ向かうのでしょうか。無常において、日本人は道に出会いました。無常の上で道を歩むという営為、無常において道を行く、このことを私たちは日本史の中に見ることができます。日本における道の場所は、「無常」です。
本章では、日本史の中における、無常という場所において道を行くという営為を見ていきます。和歌と随筆と物語の中から、これぞ日本の代表作と言えるものを選んで見ていきます。
第一節 和歌
日本人は、歌が大好きです。感情を歌にあらわすことは、日本の歴史において「和歌」として結実しました。和歌は、日本の心だと言えるでしょう。
和歌には、様々な主題が詠われています。四季の歌や恋の歌など、実に彩り鮮やかです。その中には当然、「無常の歌」と「道の歌」もあります。本節では、和歌の三大歌風である『万葉集』、『古今和歌集』、『新古今和歌集』の中から、無常と道の関係を見ていきます。
第一項 万葉集
『万葉集』は、二十巻におよぶ日本最古の和歌集です。数度におよぶ編集を経て、現在の形になったのは奈良時代末頃と言われています。歌数は約4500首、形式も多様であり、作者も天皇・皇族・農民・遊女など多岐にわたります。
万葉集の特徴は、「ますらをぶり」と言われます。「ますらをぶり」とは、賀茂真淵(1697~1769)の『にひまなび』に、〈万葉集の歌はすべて丈夫(ますらを)のてぶり也〉とあるように、古代の素朴で力強い男性的な歌風を意味しています。
万葉集の歌の中には、はかなさや無常観を詠ったものがたくさんあります。特に、四一六0首~四一六二首は、題名が「世間の無常を悲しびたる歌」と云い、注目に値します。四一六0首は、〈天地の 遠き始めよ 世の中は 常なきものと 語り継ぎながらへ来れ〉という言葉で始まります。天地の遠い昔から、世の中は無常だと語り継がれて来たというのです。
万葉人の無常観には、命のはかなさに関する場合と、世の中のはかなさに即していう場合があります。次に、いくつか挙げてみます。
 うつせみの世は常なしと知るものを秋風寒み思ひつるかも〔巻第三・四六五〕
 世の中は空しきものと知る時しいよよますますかなしかりけり〔巻第五・七九三〕
 世間を常無きものと今そ知る平城の京師の移ろふ見れば〔巻第六・一0四五〕
 隠口の泊瀬の山に照る月は盈昃しけり人の常無き〔巻第七・一二七0〕
 世間も常にしあらねば屋戸にある桜の花の散れる頃かも〔巻第八・一四五九〕
 言問はぬ木すら春咲き秋づけば黄葉散らくは常を無みこそ〔巻第十九・四一六一〕
 うつせみの常無き見れば世の中に情つけずて思ふ日そ多き〔巻第十九・四一六二〕
 世の中は常無きことは知るらむを情尽すな大夫にして〔巻第十九・四二一六〕
このように『万葉集』では、世の中のはかなさ、人の命のはかなさをうたった無常の歌がたくさんあります。そして、無常を詠った歌がある一方で、道に関する歌もたくさんあります。謡われる道も、様々な「道」があります。
例えば、〔巻第五・八00〕では〈道理〉が語られています。〈父母を 見れば尊し 妻子見れば めぐし愛し 世の中は かくぞ道理〉とあります。両親は尊く思われ、妻子は愛しく感じられるというのが、この世の道理だというわけです。〔巻第六・九七四〕では、雄々しい男子のための〈丈夫の行くといふ道〉が語られています。〔巻第十一・二三七五〕では〈恋する道〉、〔巻第十七・四00九〕では、路傍の神である道祖神が〈玉桙の道の神たち〉と示されています。道についての歌で特に注目すべきは、〔巻第二十・四四六八〕と〔巻第二十・四四六九〕でしょう。この二首では、無常において道を行くという構成を示しています。
 うつせみは数なき身なり山川の清けき見つつ道を尋ねな〔巻第二十・四四六八〕
 渡る日の影に競ひて尋ねてな清きその道またも遇はむため〔巻第二十・四四六九〕
〔巻第二十・四四六八〕では、この世は儚いという認識の上で、自然の清らかさを眺めながら道を尋ねることが述べられています。〔巻第二十・四四六九〕は、来世もまた清らかな道に巡り逢うために、太陽と共に道を尋ねることが述べられています。〈渡る日の影に競ひて〉とは太陽の光と時を争うことで、無常な時の移ろいに遅れないようにということが意図されています。ちなみに、この時代での「影」は現代でいう「光」を意味しています。
以上のように、『万葉集』には、命や世の中を無常と観る歌や、道を求める歌が詠われているのが分かります。
第二項 古今和歌集
『古今和歌集』は、醍醐天皇の命による二十巻におよぶ勅撰和歌集です。成立は905年(延喜5年)のほか諸説あり未詳です。国風文化の興隆を象徴する成果であり、平安王朝の貴族の美意識が反映されています。歌数は約1100首、作者は127人以上で時代は100年以上にわたっています。
古今和歌集の特徴は、「たをやめぶり」と言われます。「たをやめぶり」とは、賀茂真淵の『にひまなび』に、〈古今和歌集の歌はもっぱら手弱女(たをやめ)のすがた也〉とあるように、繊細優美で女性的な歌風を意味しています。万葉集の「ますらおぶり」と対比される概念です。
古今和歌集にも、無常観を基にした歌がいくつもあります。
 空蝉の世にもにたるか花ざくらさくと見しまにかつちりにけり〔巻第二・七三〕
 ねても見ゆねでも見えけりおほかたは空蝉の世ぞ夢には有りける〔巻第十六・八三三〕
 夢とこそいふべかりけれ世の中にうつつある物と思ひけるかな〔巻第十六・八三四〕
 もみぢばを風にまかせて見るよりもはかなき物はいのちなりけり〔巻第十六・八五九〕
 世の中はなにかつねなるあすかがはきのふのふちぞけふはせになる〔巻第十八・九三三〕
 世の中は夢かうつつかうつつとも夢ともしらず有りてなければ〔巻第十八・九四二〕
このように、古今和歌集には無常をうたった歌がたくさんあります。無常を詠うことが和歌の特質だとすら思えてきます。
『古今和歌集』の〔真名序(撰集論)〕では、〈仁、秋津洲の外まで流れ、恵、筑波山の陰より茂し〉と語られています。天皇の仁徳は国外まで及び、その恩恵は筑波山の木陰の茂りよりも深いというのです。文章からは平穏な太平の雰囲気が感じられます。それに続いて、〈淵変りて瀬と為るの声、寂々として口を閇し、砂長けて巌と為るの頌、洋々として耳に満つ〉と語られています。深い淵が浅瀬に変わってしまうような無常を感じさせる声は、ひっそりと静まりかえり、小さな砂が成長して大きな岩石となるようなめでたいことを祝う声ばかりが、いたる所で絶えず耳に聞こえて来るという状況です。安らかな気持ちになれる描写です。この状況において、〈既に絶えたるの風を継がむと思ひ、久しく廃れたるの道を興さむと欲ふ〉と続くのです。陛下は、すでに絶えてしまった和歌撰集の風習を継承しようと思われ、久しく廃れていた歌の道を再興なさろうとされたわけです。そして歌集が編纂され、その中には無常の歌も数多く詠われているのです。和歌の道とは、無常を詠うということでもあるのです。
このことには注目すべきです。世の中が混乱し、栄えしものが滅びる中で無常を詠うというのは分かります。実際に日本史の中では、窮まった状況で無常を詠って心を慰めるという実例がたくさんあります。ですが、日本人は太平の世でも無常を感じ、無常を詠うのです。桜が散る情景を見ては、無常を感じるのです。あたかも、終わりを想うことなく、美しさがありえないかのように。
例えば『北条重時家訓』には、〈たのしきを見ても、わびしきを見ても、無常の心を観ずべし。それについて、因果の理を思ふべし。生死無常を観ずべし〉とあります。日本人は、楽しいときも、侘しいときも、無常を観ずるのです。
そして、この無常観は、潔さに繋がります。美しさとは、究極的には、死や滅びの間際の潔さにあるのです。日本においては、無常を詠うことが和歌の道を求めることに連なり、美しさに繋がるのです。
第三項 新古今和歌集
『新古今和歌集』は、後鳥羽院の命による、二十巻におよぶ第八番目の勅撰和歌集です。1205年(元久2年)に成立後、院の意向により改訂が続けられました。『古今和歌集』を継承しようとの自負が伺えます。歌数はすべて短歌で1978首、武士の支配が強まった時代の王朝貴族の危機感が背景にあると言われています。
〔仮名序〕には、〈大和歌は、昔天地開けはじめて、人のしわざいまだ定まらざりし時、葦原中国の言の葉として、稲田姫素鵝の里よりぞ伝はれりける〉とあります。和歌は、天と地が始まり、まだ人間の営みが定まらないくらいの時期から、日本の言葉として、神々の住む里から伝わったものと語られています。続いて、〈しかありしよりこの方、その道盛りに興り、その流れ今に絶ゆることなくして、色に耽り心を述ぶるなかだちとし、世を治め民を和らぐる道とせり〉と語られています。言葉が神々より伝わって以来、歌の道は盛んになり、その伝統は現在に至るまで絶えることなく、個人的には恋愛において心情を表現する形となり、社会的には世の中を治め国民を安心させる道となったと記されています。
このことから、日本という国は、歌を謡うことによって安定・繁栄する国だということがわかります。特に、和歌の道が〈世を治め民を和らぐる道〉だという点は重要です。この〈世を治め民を和らぐる道〉において、新古今和歌集でも無常が詠われるのです。〔巻第八・八三一〕や〔巻第八・八三九〕などは、「無常の心を」という題名です。〈世を治め民を和らぐる道〉ならば、無常の歌など詠わない方が良いと思われるかもしれませんが、それは浅はかな考えだと思われます。〈世を治め民を和らぐる道〉ならばこそ、無常の歌が詠われる必要があるのです。無常ゆえの諦観、無常ゆえの覚悟、それこそが必要なのです。次に示す無常の歌を詠んでみてください。
 はかなさをほかにもいはじ桜花咲きては散りぬあはれ世の中〔巻第二・一四一〕
 世の中は見しも聞きしもはなかなくてむなしき空のけぶりなりけり〔巻第八・八三〇〕
 いつ歎きいつ思ふべきことなればのちの世知らで人の過ぐらむ〔巻第八・八三一〕
 つくづくと思へばかなしいつまでか人のあはれをよそに聞くべき〔巻第八・八三九〕
 暮れぬまの身をば思はで人の世のあはれを知るぞかつははかなき〔巻第八・八五六〕
 思へども定めなき世のはかなさにいつを待てともえこそ頼めね〔巻第九・八七九〕
 夕暮れに命かけたるかげろふのありやあらずや問ふもはかなし〔巻第十三・一一九五〕
 過ぎにける世々の契りも忘られていとふ憂き身のはてぞはかなき〔巻第十五・一三九三〕
 心にもまかせざりける命もて頼めもおかじ常ならぬ世を〔巻第十五・一四二三〕
 世の中を思へばなげて散る花のわが身をさてもいづちかもせむ〔巻第十六・一四七一〕
ここには、圧倒的な美しさがあります。『新古今和歌集』においても、このように美しい無常の歌があり、道を求める歌があります。詠われる「道」も様々です。〔巻第七・七三九〕では〈わが道〉として、わたしの奉ずる歌の道が、〔巻第七・七五三〕では正しい政道として〈道ある御代〉が、〔巻第十・九八五〕では悟りの境地に達する〈まことの道〉が、〔巻第十六・一五七八〕では畏れ慎むべき臣下の道である〈君に仕ふる道〉が、〔巻第十八・一七六三〕では家芸である蹴鞠と歌の〈君が代に逢へるばかりの道〉が、〔巻第十八・一八一四〕では我が子への恩愛を詠う〈子を思ふ道〉があります。
 わが道を守らば君を守るらむよはひはゆづれ住吉の松〔巻第七・七三九〕
 近江のや坂田の稲を掛け積みて道ある御代の初めにぞ春く〔巻第七・七五三〕
 悟りゆくまことの道に入りぬれば恋しかるべき古里もなし〔巻第十・九八五〕
 朝ごとに汀の氷踏みわけて君に仕ふる道ぞかしこき〔巻第十六・一五七八〕
 君が代に逢へるばかりの道はあれど身をば頼まず行末の空〔巻第十八・一七六三〕
 位山跡を尋ねて登れども子を思ふ道になほまよひぬる〔巻第十八・一八一四〕
以上のように和歌における道を見てきましたが、最後に次の歌を挙げて締めとしたいと思います。
 奥山のおどろが下も踏み分けて道ある世ぞと人に知らせむ〔巻第十七・一六三五〕
第二節 随筆
随筆とは、自己の見聞・体験・感想などを筆の任すままに書いた文章のことです。
日本三大随筆の中から『方丈記』と『徒然草』を選んで、無常と道の関わりを見ていきましょう。
第一項 方丈記
『方丈記』は、鴨長明(1155~1216)による鎌倉時代初期の随筆です。
鴨長明は、賀茂神社の社家生まれの歌人です。遁世し、その生活と心情を記した随筆である『方丈記』は、世と人の無常を説きます。多くの古典を踏まえ、和漢混淆文で書かれています。日本人の人生観・世界観に多大な影響を与えました。無常観を表現した文章の代表的な古典とされています。
その無常観は、圧倒的な美しさをたたえています。『方丈記』は〈行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくの如し〉という流麗な文章から始まります。うたかた(泡沫)とは、水面に浮かぶ泡のことです。世の中の人や住処は、泡沫のようにすぐ消えてしまうというのです。
人間そのものに対しては、〈朝に死に、夕に生るる習ひ、(ただ)、水の泡にぞ似たりける〉と語られています。朝に死ぬ人もいれば、夕べに生まれる人もいます。まさに人間は水の泡ごとくです。それに続いて、〈知らず、生れ・死ぬる人、何方より来りて、何方へか去る〉と問われます。この問いは実に重要です。生まれるということと、死ぬということは、究極的には知り得ないものなのでしょう。どこから来て、どこへと去って行くのか。問いは発せられども答えはなく、〈また知らず、仮の宿り、唯が為にか、心を悩まし、何によりてか、目を悦ばしむる。その主と栖と無常を争ふさま、言はば、朝顔の露に異らず〉と続きます。無常の世における仮の住処は、誰のために心を悩ませ、何によって楽しみ得るのでしょうか。その主人と住処が争うように変遷するさまは、あたかも朝顔とその露との関係と同じだと語られています。
無常の修辞の末、最後には〈自ら、心に問ひて曰く、世を遁れて、山林に交はるは、心を修めて、道を行はむとなり。しかるを、汝、姿は聖人にて、心は濁りに染めり〉とあります。自らの心に問いかけてみると、世を逃れて山林に入るのは、仏道を修めるためだといいます。しかし、風采は聖人のようでも、その心は煩悩にまみれているではないか、と。そして自問は続き、終わりをむかえたとき、〈その時、心、さらに、答ふる事なし〉と、幕が閉じられています。
第二項 徒然草
『徒然草』は、吉田兼好(1283頃~1352頃)による鎌倉時代末期の随筆です。
吉田兼好は、歌人であり、随筆家でもあり、遁世者でもありました。随筆『徒然草』の内容は多岐にわたり、世と人の無常を論じ、仏道修行の重要性を説いています。中世の知識人の思索の跡が、多彩な文体で表現されています。
〔第七段〕では、〈あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の烟立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかに、もののあはれもなからん。世はさだめなきこそ、いみじけれ〉と語られています。無常だからこそ、この世は素晴らしいのです。それゆえ、〈飽住み果てぬ世に、みにくき姿を待ちえて何かはせん〉と語られています。〔第四十九段〕では、〈人はただ、無常の身に迫りぬる事を心にひしとかけて、つかの間も忘るまじきなり。さらば、などか、この世の濁りも薄く、仏道を勤むる心もまめやかならざらん〉とあります。人はただ、死が身に迫っていることを意識し、つかの間もそれを忘れてはならないとされています。そうすれば、この世への未練も薄れ、仏道へ専心する心も強くすることができるのだと語られています。
仏の道に関して〔第五十八段〕では、〈心は縁にひかれて移るものなれば、閑かならでは道は行じがたし〉とあります。心は縁というものに導かれて移るものなので、閑かさの中でなければ道を修めるのは難しいとされています。そこで〔第七十五段〕では、〈いまだまことの道を知らずとも、縁を離れて身を閑かにし、事にあづからずして心をやすくせんこそ、しばらく楽しぶとも言ひつべけれ〉と語られています。まだ道を悟っていなくとも、俗縁を離れて閑静に身を置き、世事にかかわらず心の安定を得るとすれば、一時的にせよ、心が満たされるというのです。さらに〔第九十二段〕では、〈道を学する人、夕には朝あらん事を思ひ、朝には夕あらんことを思ひて、かさねてねんごろに修せんことを期す〉とあります。仏道を学ぶ人は、夕には翌朝を思い、朝になると夕方を思って、その時にあらためてじっくり修行しようと心に期す必要があるというのです。
武の道についても言及されています。〔第八十段〕では、〈兵尽き、矢きはまりて、つひに敵に降らず、死をやすくして後、始めて名をあらはすべき道なり〉とあります。兵力は尽き果て、矢を射尽くし、最後まで敵に降らず、平然と死を迎えてから、はじめて名声が得られるのがこの道なのだというわけです。
道全般についても〔第百五十段〕で、〈天下の物の上手といへども、始めは不堪の聞えもあり、むげの瑕瑾もありき。されども、その人、道の掟正しく、これを重くして放埒せざれば、世の博士にて、万人の師となる事、諸道かはるべからず〉と述べられています。名人もはじめは下手と噂されて欠点もあるものです。ですが、道の掟に正しく重んじて勝手なことをしなければ、皆の師となれると語られています。これはどの道でも同じことだというのです。
第三節 物語
物語は、「ものがたる」ことです。つまり、はじめは口承文芸でした。語るという形式を取って口から口へと伝承していくものでしたが、文字の発達とともに文章として綴られて行きました。日本の物語は、口承文芸から文字文芸へと続いています。
日本において、人生の雅を叙述する物語の系譜は、『竹取物語』、『宇津保物語』、『落窪物語』、『源氏物語』という作品に見られます。特に、その頂点に立つのが『源氏物語』です。
また、武士の合戦を通して、勇ましさを叙述する物語は軍記物語と呼ばれます。その系譜は『保元物語』、『平治物語』、『平家物語』、『太平記』、『源平盛衰記』といった作品に見ることができます。この中でも、『平家物語』と『太平記』は特に有名で秀逸です。
第一項 源氏物語
『源氏物語』は紫式部(973頃~1014頃)の作品です。『紫式部日記』によれば1008年(寛弘5)には途中まで成立し、1021年(治安1)には流布していたことが分かっています。
本居宣長(1730~1801)は「もののあはれ」を表現したものと言い、折口信夫(1887~1953)は「いろごのみ」と述べました。思想的には、神仏習合を含めた仏教信仰との関わりも重要です。
『源氏物語』における無常は、例えば〔葵〕に〈とまる身も消えしもおなじ露の世に心おくらむほどぞはかなき〉とあります。生き残っている身にも死んだ者にも、同じく露のように儚い世なのに執着の心を持つとは儚いことだという意味です。〔総角〕では〈桜こそ思ひ知らすれ咲きにほふ花ももみぢも常ならぬ世を〉とあります。桜が悟らせてくれるというのです。咲き誇る花も紅葉も、世は無常だということを。
また、道については、〔絵合〕で〈道々に物の師あり、まねび所あらむは、事の深さ浅さは知らねど、おのづから移さむにあとありぬべし〉とあります。諸道にはそれぞれの師匠が居ます。学ぶところがあるのは、深さ浅さは別として、自然と伝承された中で残ったものがあるからだというのです。
このように、『源氏物語』の中でも無常や道について語られています。その中でも特筆すべきは、〔御法〕における、光源氏が無常と道の関係について述べた箇所です。
臥しても起きても涙のひる世なく、霧りふたがりて明かし暮らし給ふ。いにしへより御身のありさま思し続くるに、「鏡に見ゆる影をはじめて、人には異なりける身ながら、いはけなきほどより、悲しく常なき世を思ひ知るべく、仏などのすゝめ給ひける身を、心強く過ぐして、つひに来し方行く先もためしあらじと覚ゆる悲しさを見つるかな。今はこの世にうしろめたきこと残らずなりぬ。ひたみちにおこなひに趣きなむに、さはり所あるばじきを、いとかくをさめむ方なき心惑ひにては、願はむ道にも入り難くや」とやゝましきを、「この思ひ少しなのめに、忘れさせ給へ」と、阿弥陀仏を念じ奉り給ふ。
<現代語訳(玉上琢弥 訳)>
寝てもさめても涙はとめどなく流れ、目も涙に霧りふさがって日を暮らしておいでになる。昔からの御自分の有様を考えつづけて御覧になると、「鏡にうつる顔だちを始めとして、皆とは違うわが身ながら、幼い時に母親に死に別れる不幸に会って、この世の無常を悟れよと、仏などが手引きしてくださっている身なのに、気強くも押し切って、とうとう最後に、過去にも未来にも例はあるまいと思われる悲しみに会ったことだ。もはやこの世には何の心残りもなくなってしまった。一筋に仏道を修行するのに邪魔はないはずだが、こんなにまでしずめようのない惑乱状態では、仏の道にも入れないであろう」と気がとがめるので、「この悲しみの心を少しはやわらげて、忘れさせてください」と、阿弥陀仏をお念じになる。
第二項 平家物語
『平家物語』は、13世紀前半に成立したと推定されています。作者は未詳です。仏教の影響が強く、仏教的な因果論が語られています。日本人の無常観を代表するものとして、『平家物語』の冒頭〔祇園精舎〕の言葉はあまりにも有名です。
 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。
 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
 おごれる人も久しからず、唯春の世の夢のごとし。
 たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。
祇園精舎は、古代インドの舎衛城郊外にあった仏教の寺院のことです。沙羅双樹の花は、釈尊入滅のとき、いっせいに色を変えたと言われています。この文章は、日本人の無常観を表現したものの中でも最高峰でしょう。『平家物語』では、ここ以外にも素晴らしい無常の表現があります。
例えば、有名な〔先帝身投〕の場面における無常があります。敗北が決定的であることをみてとった二位尼が、神器を身につけ、安徳帝を抱いて、悲壮な最期を迎えます。〈悲しき哉、無常の春の風、忽ちに花の御すがたをちらし、なさけなきかな、分断のあらき浪、玉体を沈め奉る〉と詠われています。春の風で花のようなお姿は散りゆき、荒波により天子のおからだは沈んでしまわれました。
そしてまた、寂光院の寂寞さと、女院の転変を表現した〔大原入〕における無常があります。〈無常は春の花、風に随って散りやすく、有涯は秋の月、雲に伴って隠れやすし〉と詠われています。無常は風で散りゆく春の花に例えられ、限りある人生は雲に隠れてしまう秋の月に例えられています。
このように『平家物語』には、栄えるもの、驕れるものの滅びがあります。それどころか、義に殉じるものの滅びも語られています。そこには、すべてのものの滅び行く悲哀感が流れ、滅びの倫理が浮かび上がります。この悲哀感には、仏教の影響が見られます。それゆえ、この無常の物語における「道」には、仏教と無常が強く作用しています。
例えば〔祗王〕では〈かやうに穢土を厭ひ、浄土をねがはんと、ふかく思ふいれ給ふこそ、まことの大道心とはおぼえたれ〉とあり、現世を厭い、極楽浄土への往生を願うことが大いなる道心であると語られています。しかし、人の心は複雑なものです。〔物怪之沙汰〕では〈うき世を厭ひ実の道に入りぬれば、ひとへに後世菩提の外は、世のいとなみあるまじき事なれども、善政をきいては感じ、愁をきいてはなげく、これみな人間の習なり〉と語られ、出家しても、人の世の出来事に一喜一憂するのは人間として当然の習いだと述べられています。〔熊野参詣〕でも、〈うき世を厭ひ、まことの道に入り給へども、妄執はなほつきずと覚えて、哀れなりし事共なり〉とあり、出家しても妄執を断つことができない様が語られています。〔女院出家〕でも、〈浮世を厭ひ、まことの道にいらせ給へども、御歎はさらにつきせず〉とあり、出家したところで嘆きは尽きることがないというのです。
〔僧都死去〕では〈人の親の心は闇にあらねども、子を思ふ道にまよふ程も知られける〉とあります。親の心は闇ではないけれども、子を思う道は迷うものだということが語られています。〔維盛入水〕にあるように、〈たかきも賤しきも、恩愛の道は力およばぬ事なり〉ということなのでしょう。身分の上下によらず、恩愛の道はどうにもならないとされています。〔六道之沙汰〕で〈ただ恩愛の道ほどかなしかりける事はなし〉とあるように、親子の情愛ほど悲しい物はないのかもしれません。〔一門大路渡〕にも〈あはれたかきもいやしきも、恩愛の道程かなしかりける事はなし。御袖を着せ奉りたらば、いく程のあるべきぞ。せめての御心ざしのふかさかな〉とあります。御袖をおかけしたからといって、どれほどのことがあるのでしょうか。まことに切実な親の愛情の深さだと語られています。この語りの後、〈たけきもののふどもも、みな涙をぞながしける〉と続きます。勇猛な武士も皆、涙を流すのです。
また、〔宮御最期〕では、死に際において無常を詠うという和歌の道が美しく語られています。〈埋木のはな咲く事もなかりしに身のなるはてぞかなしかりける〉と、自身の生涯が埋もれ木に花が咲かないことに例え、我が身が埋もれたまま最期を迎えるのを悲しみます。そして、〈これを最後の詞にて、太刀のさきを腹につきたて、うつぶさまにつらぬか(ッ)てぞうせられける〉と、最後に和歌を詠い、太刀にて自害します。〈其時に歌よむべうはなかりしかども、わかうよりあながちにすいたる道なれば、最後の時も忘れ給はず〉と、このような時に歌を歌うことなどできなさそうなものですが、若いときから親しんだ道だったので最後のときにも忘れることはできないと記されています。
〔願書〕では、〈運を天道にまかせて、身を国家に投ぐ。試に義兵をおこして、凶器を退けんとす〉と、天道という観念が出てきます。物事の趨勢は運に左右されます。運は天道に左右され、そこに無常による諦観が仄見えますが、同時に無常による覚悟も見られます。
最後に、〔鏡〕の一説を取り上げます。〈道をうしなはじとおぼしめす御心ざし、感涙おさへ難し〉とあります。ここでは、芸道を絶やすまいとお思いになった天皇の御志に対し、感動の涙をおさえがたいことが語られています。
第三項 太平記
『太平記』は、応安・永和(1368~79)頃に成立したと推定されています。作者は諸説ありますが不明です。元弘・建武の内乱から南北朝内乱までの半世紀を描いた軍記物語で、全40巻で構成されています。『平家物語』の仏教的な因果論と比較し、『太平記』では儒教の影響が強いことが特徴です。物語の中で、儒教的な名分論が語られています。
『太平記』の〔序〕には、「天の徳」と「地の道」という概念が出てきます。〈蒙窃かに古今の変化を採つて、安危の所由を察るに、覆つて外無きは、天の徳なり〉とあります。古から今にいたる世の移り変りのにおいて平和と乱世の由来を考えると、万物を覆うものが天の徳になります。天の徳は、〈明君これに体して国家を保つ〉と言われ、明君がこの徳を身に備えて国を治めるものとされています。一方、〈載せて棄つること無きは、地の道なり〉とあります。国家の運営を任せて疎んずることのないものが地の道になります。地の道は、〈良臣これに則つて、社稷を守る〉と言われ、臣下が道理に従って、国家の祭祀を守るものとされています。天の徳は〈もしその徳欠くる則は、位有りといへども、持たず〉と、それがなければ帝位を維持することはできないと語られています。地の道は、〈その道違ふ則は、威有りといへども、保たず〉と、それがなければ、権勢があっても保つことができないとされています。ゆえに、〈後昆顧みて、誡めを既往に取らざらんや〉とあり、後世の人たちは歴史を顧みて、過去から教訓を学ぶべきことが説かれています。
徳性によって政治を行うという徳治の思想が見られるように、『太平記』は儒教色の強い作品です。仏教色の強い『平家物語』とは対照的ですが、『太平記』にも無常観があります。
〔巻第三〕では、〈実を結んで陰をなし、花落ちて枝を辞す。窮達時を替へ、栄辱道を分つ〉と無常が詠われています。樹木が実を結んで葉陰をつくるようになると、花は散って枝から離れていきます。困窮と栄達は時とともに移り変り、栄光と恥辱は道を分かつものだとされています。〔巻第六〕では〈この世の中の有様、ただ夢とや謂はん、現とや謂はん〉とあり、〔巻第九〕では、〈栄枯地を易へたる世間は、夢幻とも分けかねたり〉と述べられています。栄枯の交わる世の中は、まるで夢まぼろしだと語られています。〔巻十五〕では〈うたたねの夢よりも尚あだなるは此比みつるうつつ也けり〉とあり、夢よりも現実の方がはかないと嘆いています。ここから分かるように、徳治を説きながらも無常観が下敷きにされているのが、『太平記』の面白いところです。
最終巻である〔巻第四十〕では、〈治まれる代の音は安くして楽しみ、乱れたる世の音は恨んで忿ると云へり〉とあります。平和な時代の音楽は心安らかで楽しく、乱世の時代の音楽は心に背いて憤らせるというのです。その上で、〈日本の歌もかくの如くなるべし〉と述べられています。ですから、〈政を正しくし邪正を教へ、王道の興廃を知るはこの道なり〉と語られているのです。つまり、政治を正して、何が誤りで何が正しいかを教え、徳による王道の興廃を知るのは、日本の和歌の道なのだと説かれているのです。 
第二章 神道

 

神道は、天皇を祭祀とし、日本固有の神々を崇拝する信仰名です。日本土着の民族的な信仰を加えて広くとらえる場合もあります。無土器文化や縄文時代の信仰を基盤とし、稲作文化の伝来に伴って多様化した神々の神話を統合することによって誕生しました。それが神道であり、本居宣長(1730~1801)が『古事記伝』に示した「物にゆく道」なのです。『鈴屋答問録』には、〈神道に教への書なきは、これ眞の道なる證(シルシ)也〉と語られています。
神道では、自然も人間も神々から生まれたと考えられています。神道は、あらゆる万物自然は神々であるという八百万神を信仰する道です。神道は文字通りに「神の道」ですから、神道関連の書物には、「物にゆく道」としての「神の道」の伝統が展開されています。日本語の古語では、「道(ミチ)」の「ミ」は神のものにつく接頭語であり、「チ」は方向を意味しています。古代には、人の通路にあたる道には、それを領有する神や主がいると考えられていました。悪霊が侵入するのを防ぎ、通行人や村人を災難から守るために祭られる神を道祖神と呼びます。『万葉集』の〔巻第十七・四00九〕では、〈玉桙の道の神たち〉と、道祖神の存在が示されています。
本章では、日本の神道における神の「道」の伝統を見ていきます。
第一節 日本書紀
「神道」という言葉が日本史上で初めて登場するのは『日本書紀』(720)です。『日本書紀』は、日本国家における最初の歴史書であり、「神道」の文字を三箇所で見つけることができます。
(1) 天皇、仏法を信けたまひ神道を尊びたまふ。[巻第二十一 橘豊日天皇 用明天皇]
(2) 天万豊日天皇は、天豊財重日足姫天皇の同母弟なり。仏法を尊び、神道を軽(あなづ)りたまふ。[巻第二十五 天万豊日天皇 孝徳天皇]
(3) 惟神は、神道に随ふを謂ふ。亦自づからに神道有るを謂ふ。 [巻第二十五 天万豊日天皇 孝徳天皇]
ただし、最後の惟神は分注で、平安時代の竄入とする説や義注か訓注かの議論があります。ここでいう「神道」とは、日本において古くから伝えられて来た民族的風習としての宗教的信仰を指しています。
第二節 神皇正統記
北畠親房(1293~1354)は、鎌倉末期から南北朝時代にかけて活躍した公卿です。著書である『神皇正統記』は、日本の神代から後村上天皇までを叙述した史書です。
『神皇正統記』の〔神代〕では、〈唯我國ノミ天地ヒラケシ初ヨリ今ノ世ノ今日ニ至マデ、日嗣ヲウケ給コトヨコシマナラズ。一種姓ノ中ニヲキテモヲノヅカラ傍ヨリ傳給シスラ猶正ニカヘル道アリテゾタモチマシマシケル〉とあります。ただ我が国のみが天地開闢の初め以来今日に至るまで、天照大神の神意を受けて皇位の継承はすこしも乱れがなく、時として一種姓のなかで傍流に伝えられることがあっても、またおのずからに本流にもどって連綿と続いて来ていると語られています。
[天津彦々火瓊々杵尊]においては、〈應神天皇ノ御代ヨリ儒書ヲヒロメラレ、聖徳太子ノ御代ヨリ、釈教ヲサカリニシ給シ、是皆権化ノ神聖ニマシマセバ、天照大神ノ御心ヲウケテ我國ノ道ヲヒロメフカクシ給ナルベシ〉とあります。天照大神から受け継がれてきた日本の道には、儒教や仏教も含まれていることが分かります。
〔人徳〕では、〈天地アリ、君臣アリ。善悪ノ報影響ノ如シ。己ガ欲ヲステ、人ヲ利スルヲ先トシテ、境々ニ對スルコト、鏡ノ物ヲ照スガ如ク、明々トシテ迷ハザランヲ、マコトノ正道ト云ベキニヤ〉とあります。天あって地あり、君あって臣があるというのです。善悪の応報は影響として確実に現れるというのです。己の欲を捨て、人を利することを先とし、外物に対しては鏡が物を照らすように、清明で迷わぬ境地こそ、真の正道というべきだと語られています。
〔嵯峨〕では、〈且ハ佛教ニカギラズ、儒・道ノ二教乃至モロモロノ道、イヤシキ藝マデモオコシモチヰルヲ聖代ト云ベキ也〉とあります。仏教にかぎらず、儒教・道教をはじめ様々の道、卑しい芸までも盛んにし、取り上げてこそ聖代と言えるというのです。ですから、〈サマザマナル道ヲモチヰテ、民ノウレヘヲヤスメ、ヲノヲノアラソヒナカラシメン事ヲ本トスベシ〉となります。さまざまの道を取り上げ、人民の困苦をなくし、お互いに争いごとのないようにするのが国を治める根本であるというわけです。また、〈一氣一心ニモトヅケ、五代五行ニヨリ相克・相生ヲシリ自モサトリ他ニモサトラシメン事、ヨロヅノ道其理一ナルベシ〉とあります。天地の根源たる一気一心にもとづき、五大(地・水・火・風・空)五行(木・火・土・金・水)が相互にかかわりあっている世の中の法則を解し、人にも悟らせることは、よろずの学芸すべてに通ずる道の理だとされています。
〔後醍醐〕では、〈オヨソ政道ト云コトハ所々ニシルシハベレド、正直慈悲ヲ本トシテ決断ノ力アルベキ也〉とあり、政治の道では、正直や慈悲を根本として、決断力が大事だと説かれています。
第三節 唯一神道
吉田兼倶(1435~1511)は、卜部兼倶ともいい、室町時代後期の神道家で、吉田神道(唯一神道)の創唱者です。
吉田兼倶の『唯一神道名法要集』は、唯一神道の根本教理書です。その中で〈吾国開闢以来、唯一神道是れ也〉と述べられています。吾国開闢以来とは、日本国が始まって以来という意味です。
道については、〈道トハ、一切万行の起源也。故ニ道ハ常ノ道ニ非ずト謂ふ〉と述べられています。ここで〈道ハ常ノ道ニ非ず〉という部分は、『老子』の冒頭で見られる言葉であり、老荘思想からの影響がうかがえます。
兼倶は、吉田神道に儒教・仏教・老荘思想の要素を巧みに取り入れ、この神道こそが万教の根本であり、儒教・仏教は神道の分化であるとする説を唱えました。〈吾ガ日本ハ種子を生じ、震旦は枝葉ニ現はし、天竺は果実を開く。故ニ仏教は万法の果実たり。儒教は万法の枝葉たり。神道は万法の根本たり。彼の二教は皆是れ神道の分化也〉というわけです。震旦は中国で、天竺はインドのことです。この考え方は、三教枝葉果実説と呼ばれます。この説からも分かるように、兼倶の考えでは、日本国は神が基本とされています。そこで、〈国は是れ神国也。道は是れ神道也。国主は是れ神皇也。太祖は是れ天照大神也〉という基本原則が立てられています。
第四節 国学の系譜
国学は、記紀(古事記、日本書紀)などの古記や古文献に新たな方法意識をもって対した学問的立場と、それに伴った思想運動をいいます。江戸中期に成立し、日本という自覚を巡る言説が展開されています。国学の代表者は、「国学の四大人」として荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤の名が挙げられます。この系譜の先駆者として契沖がいます。この五名の思想をたどることで、神道と国学における「道」の伝統を見ていきます。
第一項 契沖
契沖(1640~1701)は、真言宗の僧で、古典学者です。徳川光圀の依頼により、『万葉集』の注釈を執筆し、『万葉代匠記』を献上しました。その研究態度は、古書によって古書を証するという方針が貫かれていて、後の国学者たちに大きな影響を与えました。
契沖は『万葉代匠記総釈』において、〈本朝ハ神国ナリ。故ニ史籍モ公事モ神ヲ先ニシ、人ヲ後ニセズト云事ナシ〉と述べています。神国とは、神意によって開かれた国のことで、日本の美称です。日本は神意によって開かれた国であることが述べられています。史籍とは、日本書紀以下の六国史などを指します。公事とは、神祇官が太政官に優先している管制などを指します。日本では、史籍も公事も、神が先で人が後なのだとされています。
続いて、〈上古ニハ、唯神道ノミニテ天下ヲ治メ給ヘリ。然レドモ、淳朴ナル上ニ文字ナカリケレバ、只口ヅカラ伝ヘタルママニテ〉と述べられています。昔は神道のみで治まっていたことが述べられ、ただ文字がなかったので、口による伝承だけだったということが語られています。そこで注目すべきが、文字として残された『万葉集』になるのです。この『万葉代匠記総釈』の中では、「此道」として和歌の道が、「此集」として万葉集が捉えられています。『万葉集』の研究において、日本という自覚をうながした国学の伝統が始まります。
第二項 荷田春満
荷田春満(1669~1736)は、江戸時代前期の和学者にして神道家です。国学の先駆者の一人です。
『創学校啓』では、〈痛ましいかな、後学の鹵莽(ろもう)、誰か能く古道の潰たるを嘆かん〉と語られています。鹵莽とは、軽卒、不用意で、事を為すに疎略であることを指します。後世が至らないために、古学の道が潰えないかと嘆いています。
続いて、〈この故に異教彼の如くに盛に、街談巷議至らざるところなく、吾が道かくの如く衰へ、邪説暴行虚に乗じて入る〉と述べています。街談巷議とは、市中に行われている低級な論議のことで、いにしえの教えを知らない者のために、古学の道が衰えていることを憂いています。虚とは、古学の行われぬ隙のことで、その隙に乗じて虚言や暴言が幅をきかせているということです。そこで、〈臣が愚衷を憐み、業を国学に創め、世の倒行を鑑みて、統を万世に垂れためへ〉と述べています。愚衷とは、自分の真心をへりくだっていう語で、臣下として対策を提言しています。〈統を万世に垂れためへ〉とは、万世の後まで子孫が継承すべききっかけを残すことです。そのためには、世間で間違って行われていることを考慮して、国学を創るということが必要なのだと語られています。
第三項 賀茂真淵
賀茂真淵(1697~1769)は、江戸中期の国学者です。荷田春満に入門し、荷田門の有力和学者として活動を行いました。晩年までに、『文意』・『歌意』・『国意』・『語意』・『書意』の五意が著され、真淵学が成立します。
『歌意考』では、〈なほく清き千代の古道には、行立がてになむある〉と、唐土の思考や文化にゆがめられていない日本古来のもののよさを正しく伝える道が語られています。〈皇神の道の、一の筋を崇むにつけて、千五百代も、やすらにをさまれる、いにしへの心をも、こころにふかく得つべし〉とあり、日本では天照大神以来の道を一筋に崇めることで、長い間、心安らかに治まったのだと語られています。ですから、古道の心を深く自得すべきだとされています。
『国意考』では、〈凡世の中は、あら山、荒野の有か、自ら道の出来るがごとく、ここも自ら、神代の道のひろごりて、おのづから、国につきたる道のさかえは、皇いよいよさかえまさんものを、かへすがへす、儒の道こそ、其国をみだすのみ、ここをさへかくなし侍りぬ〉とあります。荒山や荒野におのずから道が出来るように、日本にも神代の道がおのずから広がって国が栄えていることが語られています。ですが、儒教は国を乱し、日本の繁栄を乱してしまうと述べられています。
さらに、〈唐国の学びは、其始人の心もて、作れるものなれば、けたにたばかり有て、心得安しと〉あります。儒教は人の心が作るものなので角張っていて理屈っぽいことばかりなので心得るのは簡単だとされています。ですが、〈我すべら御国の、古への道は、天地のまにまに丸く平らかにして、人の心詞に、いひつくしがたければ、後の人、知えがたし〉と、日本の古道は天地のままに丸く平らで言葉に言い尽くすのが難しいため、後世の人には概念としてとらえにくいのだと語られています。ですが、〈されば古への道、皆絶たるにやといふべけれど、天地の絶ぬ限りは、たゆることなし〉とあります。日本の古学が知りにくいものなら絶えてしまいそうですが、天地の終わらない限り、絶えることはないのだと語られています。
第四項 本居宣長
本居宣長(1730~1801)は、江戸時代中期の国学者です。京都に出て医学を勉強する一方、源氏物語などを研究しています。34歳のとき、「松坂の一夜」として知られる賀茂真淵との歴史的な出会いをします。真淵の手引きで、宣長は『古事記』の注釈作業を開始し、国学史上最大の業績『古事記伝』を著します。
本居宣長の著書である『直毘霊』、『玉勝間』、『うひ山ぶみ』では道について詳細に言及されています。これらの著作から、道の記述を見ていきます。
『直毘霊』
本居宣長が41歳のときの作品である『直毘霊』において、神の道が語られています。〈神の道に随ふとは、天の下治め給ふ御行為は、ただ神代より有りこしまにまに物し給ひて、いささかも賢しらを加へ給ふことなきをいふ。さて、然神代のまにまに大らかに治ろしめせば、おのづから神の道は足らひて、他に求むべきことなきを、「自づから神の道有り」とはいふなりけり〉とあります。人の小賢しい浅知識の交わらない、神代から続く大らかな、おのずからの神の道で十分だと言うのです。
ですが、『古事記』について、〈古の大御世には、道といふ言挙げもさらになかりき。故れ、古言に、葦原の瑞穂の国は、神ながら言挙げせぬ国といへり。其はただ物にゆく道こそ有りけれ。美知とは、此の記に味し御路と書ける如く、山路野路などの路に、御てふ言を添へたるにて、ただ物に行く路ぞ。此をおきては、上つ代に、道といふものはなかりしぞかし〉とあるように、日本の古代には道を特別視する見方は希薄でした。それは、〈かの異し国の名に倣ひていはば、是ぞ上もなき優れたる大き道にして、実は道あるが故に道てふ言なく、道てふことなけれど、道ありしなりけり〉とあり、秩序が実現されていたが故に、道を道々しく説くことがなかったというのです。
では何故、わざわざ言う必要のなかった道を、道として述べる必要が出てきたのでしょうか。それは、〈然るを、やや降りて、書籍といふ物渡り参ゐ来て、其を学び読む事始まりて後、其の国の手風をならひて、やや万づのうへに交へ用ゐらるる御代になりてぞ、大御国の古の大御手風をば、取り別けて神の道とは名づけられたりける。そは、かの外つ国の道々に紛ふがゆゑに、神といひ、また、かの名を借りて、ここにも道とはいふなりけり〉というわけです。つまり、海外からの書籍に習い、古の神々の御代を神の道と名付けたのです。
その神の道に対し、どう接するのかというと、〈故れ、古語にも、当代の天皇をしも神と申して、実に神にし座しませば、善き悪しき御うへの、論ひをすてて、ひたぶるに畏み敬ひ奉仕ふぞ、まことの道にはありける〉と、善悪に関わらず、ひたすらに神の道に従うことがまことの道だと説かれています。これは一見すると暴論のようですが、中国の王道が覇道に転落した歴史を鑑みると、この皇道にも大きな知恵が含まれていることが分かります。天皇の権威により、歴史の連続性を保つことができるからです。
この日本の神の道は、〈そも、此の道は、いかなる道ぞと尋ぬるに、天地のおのづからなる道にもあらず。是をよく弁別へて、かの漢国の老荘などが見と、ひとつにな思ひ紛へぞ。人の作れる道にもあらず。此の道はしも、可畏きや高御産巣日の神の御霊によりて、世の中にあらゆる事も物も、皆悉に此の大神の御霊より成れり。神祖伊邪那岐の大神・伊邪那美の大神の始め給ひて、世の中にあらゆる事も物も、此の二柱の大神より始まれり。天照大神の受け給ひ、保ち給ひ、伝へ給ふ道なり。故れ、是を以て神の道とは申すぞかし〉と語られています。神の道は、天地自然の道でもなく、老荘思想の道でもなく、人の作った道でもないのです。神の道は、日本の神々によって現れ始まった道なのです。天照大神により受け継ぎ、保ち、伝え行く道なのです。
この神の道は、〈其の道の意は、此の記を始め、もろもろの古書どもをよく味はひみれば、今もいとよく知らるるを〉と述べられ、『古事記』や『日本書紀』などの古書を見れば分かる道だとされています。
そこでは、臣下が天皇の道に従うことが説かれます。〈あな可畏、天皇の天の下治ろしめす道を、下が下として、己が私の物とせむことよ〉と、私心が否定されています。〈下なる者は、かにもかくにもただ上の御趣けに従ひ居るこそ、道には叶へれ〉とあり、私心ではなく道に従うことが諭されているのです。〈貴き賤しき隔ては、うるはしくありて、おのづからみだりならざりけり。これぞこの神祖の定め給へる、正しき真の道なりける〉というわけで、貴賤は麗しく、おのずからあるのです。貴賤が麗しくあるということから、貴賤が単なる階級意識なのではなく、神々への信仰を基にした概念であることがわかります。
その神髄は、〈程々にあるべき限りのわざをして、穏(おだ)ひしく楽しく世を渡らふほかなかりしかば、今はた其の道といひて、別(こと)に教へを受けて、行ふべきわざはありなむや〉と表現されています。程々にあるべき限りを尽くして、穏やかに楽しく世を渡ればよいのだとされています。それが、日本の道なのだというのです。
『玉勝間』
本居宣長が63歳のときの作品である『玉勝間』においても道が語られています。
まずは学問にて道を知ることについて、〈がくもんして道をしらむとならば、まづ漢意をきよくのぞきさるべし、から意の清くのぞこらぬほどは、いかに古書をよみても考へても、古の意はしりがたく、古のこころをしらでは、道はしりがたきわざになむ有ける〉とあります。中国的なものの考え方を取り除かなければ、学問をして日本の古書を読んで考えてみても、日本古来の心や道は知ることができないのだと語られています。
続いて、〈そもそも道は、もと学問をして知ることにはあらず、生れながらの真心なるぞ、道には有ける、真心とは、よくもあしくも、うまれつきたるままの心をいふ〉とあり、道とはそもそも学問で知るものではなく、生まれたままの真心にこそ道が有ることが述べられています。ここでいう道とは、人智による浅知恵を行わずに、人々が素直に神々を信頼することで偽善的な教えがなくとも世の中が治まるという日本古来の考え方です。
ですが、〈然るに後の世の人は、おしなべてかの漢意にのみうつりて、真心をばうしなひはてたらば、今は学問せざれば、道をえしらざるにこそあれ〉と述べられています。中国的なものの考え方が蔓延したために、日本古来の真心を失ってしまったため、学問により道を知るしかないのです。この状況は、西欧近代の考え方に毒された現代日本の現状に似た側面があります。
この日本古来の道は、〈そもそも道は、君の行ひ給ひて、天の下にしきほどこらし給ふわざにこそあれ、今のおこなひ道にかなはあらむからに、下なる者の、改め行はむは、わたくし事にして、中々に道のこころにあらず〉とあります。道に対して、下々の者が勝手に改革してはならないものなのです。そこで『直毘霊』でも言及されてたように、道の心は、下々の者が善悪に関わらず従うべきものとされているのです。〈下なる者はただ、よくもあれあしくもあれ、上の御おもむけにしたがひをる物にこそあれ〉と述べられ、〈古の道を考へ得たらんからに、私に定めて行ふべきものにはあらずなむ〉と、私心の否定が述べられています。
宣長にとって〈道は天照大神の道〉なのです。遡ると〈道は、高御産巣日神産巣日御祖神の産霊によりて、伊邪那岐伊邪那美二柱の神のはじめ給ひ、天照大神の受行はせ給ふ道なれば、必万の国々、天地の間に、あまなくゆきたらふべき道也、ただ人の、おのがわたくしの家のものとすべき道にはあらず〉という系譜を辿ります。つまり、神々の道は、個人的なものでも、私的なものでもないのです。
その道は、宣長の時代においても希薄なものとなってしまっています。〈神の道は、世にすぐれたるまことの道なり、みな人しらではかなはぬ皇国の道なるに、わづかに糸筋ばかり世にのこりて〉いると語られています。神の道は、優れたまことの道です。それは知らないではいられない日本の道ですが、僅かに糸のように細い一筋だけが世に残っているのだと語られています。
『うひ山ぶみ』
最後に、本居宣長の68歳のときの作品である『うい山ぶみ』における道を見てみます。
道について、〈まづ神代紀をむねとたてて、道をもはらと学ぶ有、これを神学といひ、其人を神道者といふ〉とあります。神々の時代を学ぶことを神学と言い、学ぶ人は神道者と呼ばれます。
学ぶべき道は、〈そもそも此道は、天照大神の道にして、天皇の天下をしろしめす道、四海万国にゆきわたりたる、まことの道なるが、ひとり皇国に伝はれるを、其道は、いかなるさまの道ぞといふに、此道は、古事記書紀の二典に記されたる、神代上代の、もろもろの事跡のうへに備はりたり、此二典の上代の巻々を、くりかへしくりかへしゆおくよみ見るべし〉とあります。日本に伝わる天照大神の道は、『古事記』と『日本書紀』を繰り返し読むことで得られるのだとされています。
道を学ぶことについては、〈さて道を学ぶにつきては、天地の間にわたりて、殊にすぐれたる、まことの道の伝はれる、御国に生れ来つるは、幸とも幸なれば、いかにも此たふとき皇国の道を学ぶべきは、勿論のこと也〉とあります。日本にはまことの道が伝わっている幸運があるのだから、道を学ぶのだと宣長は言います。
道について、『直毘霊』や『玉勝間』と同様に、下の者が善悪によらずに従うことと私心の否定が語られています。〈そもそも道といふ物は、上に行ひ給ひて、下へは、上より敷施し給ふものにこそあれ、下たる者の、私に定めおこなふものにはあらず〉ということです。ただしそこでは、〈されば神学者などの神道の行ひとて、世間に異なるわざをするは、たとひ上古の行ひにかなへること有といへども、今の世にしては私なり〉と述べられています。昔をそのまま、今に適用するということではないのです。ここで、道は私心ではなく公心であるという考えが述べられています。〈道は天皇の天下を治めさせ給ふ、正大公共の道なるを、一己の私の物にして、みづから狭く小く説なして、ただ巫覡などのわざのごとく、或はあやしきわざを行ひなどして、それを神道となのるは、いともいともあさましくかなしき事也〉とあり、道は正しく公共のもので、巫女などの怪しい業などを神道というのは間違いだと語られています。正しい公共の道は、その時々に適う必要がありますから、〈すべて下たる者は、よくてもあしくても、その時々の上の掟のままに、従ひ行ふぞ、即古の道の意には有ける〉とあり、時代ごとの上のおきてに従うべきことが語られています。そこにおいて、〈学者はただ、道を尋ねて明らめしるをこそ、つとめとすべけれ、私に道を行ふべきものにはあらず〉という牽制がかかります。上のおきてには、私心が入ってはならないのです。
要は、〈古をしたひたふとむとならば、かならずまづその本たる道をこそ、第一に深く心がけて、明らめしるべきわざなるに〉ということです。古に親しむなら、その本当のところを追求して明らかにするべきだと宣長は言うのです。
第五項 平田篤胤
平田篤胤(1776~1843)は、江戸時代後期の国学者です。江戸へ出て独学で国学を学び、本居宣長の没後門人となっています。当時伝来してきた洋学などの知識や在来の儒教・道教・仏教を援用して皇国の優越性を主張し、復古神道を鼓吹し、幕末の尊王攘夷運動に影響を与えました。
平田篤胤は『古道大意』において、〈一体此方ノ説ク古道ノ趣ハ、謂ユル天下ノ大道デ、則人ノ道デアル故ニ、実ニハ此ノ大御国ノ人タル者ハ、学バズトモ、其ノ大意グライハ、心得居ベキハズ〉と述べています。古道とは、天下の道であり人の道でもあるのですから、日本人なら学ばずとも、その大まかなところは心得ているというわけです。
古道は、〈一体真ノ道ト云モノハ、事実ノ上ニ具ッテ有ルモノ〉とあるように、事実の上に具わって有るものが真の道なのです。具体的には、〈真ノ道ト云モノハ、教訓デハ其旨味ガ知レヌ。仍テ其古ヘノ真ノ道ヲ知ルベキ、事実ヲ記シテアル。其書物ハ何ジヤト云フニ、古事記ガ第一〉とあり、事実が記してあるとされる『古事記』に、その根拠が求められています。
では何故、道は道でも古道なのでしょうか。それは、〈真ノ道ヲ行ク人ト云モノハ、其ノ先祖ノ美ヲ撰ビ論メ、其事ヲ明カニシテ、後世ニ著レルヤウニ為モノジヤ〉との理由からです。つまり、先祖の美しいところを後世につなげるためです。ここに、道が古道であり、古道でなければならない理由があります。
さらに、真の道が、人間の真の道であることも語られています。〈人間ニ生レルト、生レナガラニシテ、仁義礼智ト云ヤウナ、真ノ情ガ、自ラ具ッテイル。是ハ天ツ神ノ御賦下サレタ物デ、則是ヲ人ノ性ト云フ。此ノ性ノ字ハ、ウマレツキト訓ム字デ、扨夫ホドニ結構ナル情ヲ、天津神ノ御霊ニ因テ、生レ得テイルニ依テ、夫ナリニ偽ラズ枉ラズ行クヲ、人間ノ真ノ道ト云フ〉とあります。人間には生まれつき仁義礼智という情が具わっているとされています。これは、天津神から授かったもので、人の性質だと語られています。その生まれ持った性質を天津神によって、それなりに偽らずに曲げず行くことを人間の真の道だというのです。それに加え、〈自分バカリデモ無ク、人ニモ語リ聞スノガ、是モ人間ノ真ノ道〉と語られています。自分だけではなく、他人にも語って聞かせることで、はじめて人間の真の道がありえるというのです。
『玉襷』では、〈皇神の道の趣は、清浄を本とし汚穢を悪み、君親には忠孝に事へ、妻子を恵みて、子孫を多く生殖し、親族を睦び和し、朋友には信を専らとし、奴婢を憐れみ、家の栄えむ事を思ふぞ、神ながら御伝へ坐せる真の道なる〉とあります。皇神の道は、清浄を基にして汚穢を悪とします。その上で、皆が仲良くすることで共に栄える真なる道なのです。
最後に、『霊の真柱』にある道の賛歌を二つほど載せておきます。
うべなうべな我が皇大御国の、古伝の正実にして、真の道の伝はり、また古語の麗く、世人の声音も言語も雅にして、万国に比類なきことよ。
青海原、潮の八百重の、八十国に、つぎて弘めよ、この正道を。
第五節 幕末の国学運動
本居宣長・平田篤胤らの門人、あるいはそれらの学統に属する人たちによって、幕末以降も国学の運動は続きます。そこでは、神の「道」の伝統も続いて行きます。
第一項 鈴木朖
鈴木朖(1764~1837)は、江戸時代後期の国学者です。本居宣長に入門しています。
『離屋学訓』では、〈道ハ一ツ也〉と述べられています。具体的には、〈是ヲ身ニ行フヲ徳行トシ、是ヲ口ニ述ルヲ言語トシ、是ヲ敷キ施シテ人ヲ治ルヲ政治トシ、是ヲ明ラメ知テ人ヲ教ルヲ文学トス〉と語られています。道を身に行うとは徳を行うことで、道を口にするのが言葉であり、道をもって人を治めるのを政治とし、道を明らかにして人に教えるのを文学とするのだとされています。つまり、〈道トイフ名ノココロハ、俗ニイフ為方(シカタ)也〉ということで、道は物事の仕方なのだと語られています。そこで、〈凡テ、内外古今ノ道、皆ソノ道理ヲ以テ主トスル事ナガラ、ソノ道理ハ皆事実ノ中ニコモレリ。事実ヲ疎ニシテ、理ヲノミ好ム者ハ、其理必アヤマリアリ〉と述べられています。道には道理があり、その道理は事実の中にあるとされています。事実や現実をおろそかにして、理屈を好むだけでは誤りがあるというのです。
第二項 和泉真国
和泉真国(1765~1805)は、江戸時代後期の国学者です。本居宣長に師事しました。
和泉真国の『明道書』では、〈道といふ物は、天地に自然に有物にて、天の覆ふ所、地の載する所、人の生る所は、何れの国にても、必、自然に、其道は有物也〉とあります。道は天地自然にあるものとされ、どこの国でも自然と道は有るものだと語られています。そこで、〈天地の間、国として道路有らざる国はなく、人として人道あらざる人はなき也。此理をもて、万国とも、各其国には、必、自然に、其国に付たる道ある事をさとるべき也〉と説かれています。道路がない国がないように、人には人の道があるのであり、この理によって、すべての国に、自然と国ごとの道があるのだと語られています。
第三項 大国隆正
大国隆正(1792~1871)は、幕末・明治初期の国学者です。平田篤胤などから国学を学んでいます。
『本学挙要』においては、〈人の道は、天之御中主神の「中」よりおこりて、「ト」「ホ」「カミ」「エミ」「タメ」の「タメ」となり、わかれて「本による」「あひたすく」といふことばとなり、「本による」は、忠・孝・貞の本となり、「あひたすく」は、家職・産業の本となりて、本教のこころはとほるものになん〉と語られています。「ト」は人の立つところです。「ホ」は稲が穂となるところです。「カミ」は穂を噛むことで、消化器官の循環や食物連鎖を意味します。「エミ」は稲の種が笑割れ(熟して自然に割れ)て、芽を出すところです。「タメ」はためになることです。その穂は人の「ため」になり、その糞は稲の「ため」になるという言葉です。道はこれらの作用を持ち、忠・孝・貞の本となって家職・産業を助けるものだと語られています。
また、『学統辨論』では、〈皇統の長くつづき給ふわが国の国体を主張し、これをわが大道の基本〉とすると述べられています。天皇の皇統が長く続いていることが日本の国体であり大道の基本だと語られているのです。
第四項 宮負定雄
宮負定雄(1797~1858)は、平田篤胤の門人です。
『国益本論』では、〈国益の本は教道にあり〉とあります。国益は、道を教えることにあるのです。そこで、〈其道とは、人倫の所行、常に天地の鬼神に質して、聊も愧る事なく、専善行善心正直なるをいふなり〉と、道について述べられています。道とは人の倫理であり、鬼や神に少しも恥じるところはなく、善を行い、善を心懸け、正直であることだと語られています。
第五項 鈴木重胤
鈴木重胤(1812~1863)は、幕末期の国学者です。平田篤胤に書信にて入門しました。大国隆正にも親しく学んでいます。
『世継草』では、〈学びて此道を明かに為るを神習と云ひ、務て此道を行ふを神随と云ふ。此即、天下公民の道と為べき道なる者なり〉と述べられています。此道とは、神皇の大道です。道を明らかにするには神に習い、道を行うには神にしたがうのです。そうすれば、公民の道となると語られています。
第六項 長野義言
長野義言(1815~1862)は、江戸後期の国学者です。
『沢能根世利』では、〈儒仏両道をわが正道の枝葉とし給ふ事、貢献の具なればさもあるべし〉と語られ、吉田兼倶の三教枝葉果実説の影響が見られます。その影響下において、〈皇神の正道(ノリ)をおきて、他に幸ひもとむべからぬ和魂(ヤマトダマシヒ)だに定まれば、ものにまぎるる心もあらじ〉と述べられています。ここで正道を「ノリ」と読ませているのは、道に規範としての意味をもたせるためです。日本の規範において幸いを求めて、公共に仕える大和魂を定めれば心は穏やかに保たれると語られています。
そこで、〈勢ひに進むとしては、多く非道の行ひあり。又人によくいはれんとしては、しひてよわよわしく、道理にはづれたる行ひなどもあるなるは、政事を私ものにするにて、正道のならひにあらず〉と危機に対する警告が発せられます。時代が勢いにまかせて進むときは、非道の行いが多くなります。人に良く言われようと思うと、態度は弱々しくなり道理は外れて、政治は私心に墜ちます。これは正道にもとづく慣行ではないというのです。
また、道に適いつつ、時宜に適うことも述べられています。〈国政法則を以て行ふとも、神国の正道にあはずば又いかにかせん。唯その時々の法則は、その時々の規なれば、しわざは是にしたがひつつ、心は正道にとどめんことこそあらまほしけれ〉と語られています。国の政治は法則によって行いますが、それが正しい道に合わなければどうすればよいのでしょうか。ただ、その時々の法則は、その時々の規範なので、政策はこれに従いつつも、心は正道に留めることこそ重要だというのです。
第七項 桂誉重
桂誉重(1816~1871)は、江戸後期の国学者です。思想の特質は、荒廃する農村をいかに立て直すかという当時の村役人層の課題と結びついています。
『済世要略』では、〈道に叶へる行ひあるは何故ぞ。神より給はりし霊性を、まげずくねらさず固めし故也〉とあります。道に合った行いのために、神より授かった霊性に随うことが説かれています。
また、〈すべて奉仕、中正真情無二なるが、我国の大道〉とあり、奉仕を行うことが日本の道だと語られています。その際、根本となるのが〈夫婦真情の道を押及す事〉です。夫婦真情の道とは、産霊の道のことです。産霊とは、神道において天地万物を生成し発展させる霊的な働きのことです。 
第三章 仏道

 

仏教は、釈迦[仏陀] (前463~前383、または前565~前485)を開祖とする宗教です。仏道とも称されます。仏教が日本へ伝わったのは、朝鮮三国時代の百済からです。飛鳥時代には、朝鮮半島の影響を受けながら次第に国家仏教の形を整えていきました。奈良時代には、南都六宗と呼ばれる学問仏教が整備され、国分寺や東大寺大仏などに代表される国家護持の方向が明確化されました。平安時代には、最澄が天台宗を、空海が真言宗を開き、仏教の普及につとめました。鎌倉時代には、鎌倉新仏教と呼ばれる仏教運動がおこり、法然・親鸞らの浄土教、栄西・道元などの禅、日蓮の法華信仰などが宗派として定着しました。その後も日本の仏教は、独自の発展を遂げていき、現在に至るまで大きな影響を及ぼしています。仏教の教えは様々ですが、基本は「仏の道」です。ですから、仏教関連の書物には、仏の「道」についての伝統が展開されています。本章では、日本の仏教における仏の「道」を見ていきます。
第一節 平安仏教
平安仏教は、平安時代に創始された仏教の宗派のことです。具体的には真言宗、天台宗の二宗を指します。その特徴の一つは山岳仏教です。奈良仏教が都市仏教であるのに対し、最澄は比叡山に延暦寺を、空海は高野山に金剛峯寺を開きました。
第一項 天台宗の最澄
最澄(767~822)は、空海とともに平安仏教の双璧と称される、日本天台宗の開祖です。『法華経』を中心としながらも、法華円教のみならず、密教・禅・戒律・浄土の諸思想を含んだ仏教を比叡山に樹立しました。
最澄の『山家学生式(天台法華宗年分学生式)』では、道心が語られています。〈国宝とは何者ぞ。宝とは道心なり。道心あるの人を名づけて国宝となす〉とあります。国宝とは、国家の宝として崇敬すべき人を指します。道心とは、菩提心(悟りを求めようとする心)で、真実の道を求める心です。
道心のある人については、〈乃ち道心あるの仏子を、西には菩薩と称し、東には君子と号す〉とあり、道心のある仏弟子は、インドでは菩薩、中国では君子とされています。具体的には〈悪事を己れに向へ、好事を他に与へ、己れを忘れて他を利するは、慈悲の極みなり〉という心を持つ人です。では、日本においてどうかというと、〈釈教の中、出家に二類あり。一には小乗の類、二には大乗の類なり。道心あるの仏子、即ちこれこの類なり。今、我が東州、ただ小像のみありて、未だ大類あらず。大道未だ弘まらず、大人興り難し〉と語られています。釈迦の教えの中で出家に二種類あり、一つは小乗(上座部)で、二つ目は大乗です。道心がある人は大乗の方です。今の日本には、小乗の形だけで大乗の人が居ないと言っています。大乗の道法が未だ広まっておらず、大乗の行人が出てこないと嘆いているのです。
『顕戒論縁起』においても、〈皆なこれ生を軽んじて道を重くし、広く自他を利する所以なり〉とあり、大乗の道が大切だと述べられています。
また、『得業学生式(比叡山天台法華院得業学生式)』では、〈中道の心を上となす〉とあります。中道とは、両極端を離れた中正なる道です。中道は、仏教の根本的立場で仏教各宗により種々に説いていますが、天台宗では空仮中の三諦の説を立て、すべての存在は一面的に考えられる空・仮(け)をこえた絶対であり、それを中とします。またこの三は相互に別なく円融し、即空・即仮・即中としての中道であるとされています。
第二項 真言宗の空海
空海(774~835)は、平安初期の密教家で、真言宗の開祖です。唐で学び、日本に初めて体系的密教をもたらしました。高野山に金剛峰寺を建立し、京都に綜芸種智院を開きました。
『遍照發揮性靈集』では、〈物の荒癈は必ず人に由る。人の昇沈は定めて道に在り〉と語られています。では、道はどういうものかというと、〈人を導くは教なり。教を通するものは道なり。道、人無ければ擁(ふさが)り、教、演ぶること無きときは癈(すた)る〉とされています。ここでは、教えを挟んで人と道との相互応答が見られます。人を導くのは教えで、教えを通すものは道です。逆に言うと、道は教えを通し、その教えは人を導くものです。しかし、道は人がいなければ塞がり、教えも人がいなければ廃れます。道と教えと人は、互いに支え合っているのです。
また、〈又古人、道の為に道を求む。今の人は名利の為に求む。名の為に求むるは求道の志とせず、求道の志は己を忘るる道法なり〉と述べられています。名利とは名誉と利益のことで、道法とは悟りに至る正道の法のことです。
また、『秘密曼荼羅十住心論』の[巻第八]では、〈一実の理、本懐を此の時に吐き、無二の道、満足を今日に得〉と述べられています。一実の理・無二の道とは、ともに法華一乗を指します。仏の本懐たる一日の理が開示され、法華一乗の道が明かされて、仏の所願が満足されたことが述べられています。
『秘蔵宝鑰』には、〈有・空、即ち法界なりと観ずれば、則ち中道正観を得。此の中道正観に由るが故に、早く涅槃を得〉とあります。現世は仮りの有であり、空であり、そのまま法界の相であると観察されれば、そこに縁起による中道の正しい見方が生じるというのです。この中道の正路によって涅槃に到達できるとされています。ここでいう中道とは、囚われた心を離れて公正に現実を見極めた上で正しい行動を取ることを意味します。また、〈仏法存するが故に、人皆眼を開く。眼明らかにして正道を行じ、正路に遊ぶが故に、涅槃に至る〉ともあります。仏法により人間は心の眼を開くことができ、それによって正しい道を進むことができて、悟りに至ることができるというのです。
第三項 天台宗の源信
源信(942~1017)は、平安中期の天台宗の僧侶です。往生極楽に関する経論の要文を集めた『往生要集』を著し、念仏の実践を勧めました。
日本における地獄の思想は、空海の『三教指帰』や景戒の『日本霊異記』もありますが、源信の『往生要集』の影響が非常に大きいと言えます。『往生要集』では、八大地獄などが詳述され、地獄に堕ちることに対する恐怖心から、浄土信仰の隆盛の大きな要因となりました。
『往生要集』の中に、〈一には地獄、二には餓鬼、三には畜生、四には阿修羅、五には人、六には天、七には惣結なり〉とあり、六道について記述されています。七番目の惣結は、六道を総括するということです。六道とは、地獄から天までの六つの世界のことで、六趣とも言います。衆生がその業(ごう)によって生死を繰り返す迷いの世界です。『往生要集』における記述から、六道をまとめると次のようになります。
[図3-1] 『往生要集』の六道
以上の六道に対して、七番目の惣結(六道を総括すること)については、〈第七に、惣じて厭相を結ぶとは、謂く、一篋は偏に苦なり。耽荒すべきにあらず〉とあります。一篋とは、地・水・火・風の四大結合によってできた人間の身体を箱に例えたものです。また耽荒とは、度を越して楽しみにふけることです。つまり、六道の厭うべき相を総括するなら、地・水・火・風の四つの要素の結合から成るこの身は、まことに苦の連続なのだと考えられているのです。度を越して楽しみにふけるべきではないとされています。なぜなら、生・老・病・死の四つの苦しみは必ずやってくるもので、逃げ隠れしてやり過ごせるものではないからと説明されています。
『往生要集』には正道についての記述もあり、〈麁強の惑業は、人をして覚了せしむれども、ただ無義の語は、その過顕れずして、恒に正道を障ふ。善く応にこれを治すべし〉とあります。麁強の惑業とは、あらくはげしい煩悩のことです。つまり、荒っぽい強烈な煩悩は、人がすぐこれに気づいて注意しますが、無意味な語の場合は過ちがはっきりとはあらわれないので、常に正道を妨げるというのです。だから、このことにはよく気をつけて改めるべきだというのです。
また、〈不退転の位に至るに難易の二道あり。易行道と言ふは即ちこれ念仏なり〉という言葉もあります。ここでいう二道とは、難行道と易行道です。難行道とは、自らの修行実践によって悟りに至る道です。易行道とは、難行に対する容易な行で、他力念仏に立つ道です。自力修行の難行に対するものとして人々に勧められています。ここでいう自力・他力とは、念仏行において称える功徳をわが功績とみなすのが自力念仏で、我の上に現れた仏の働きかけと見るのが他力念仏です。注意が必要ですが、他力とは他人の力ではなく、自力の根源をなす仏の力を意味します。
第四項 西行
西行(1118~1190)は平安後期の僧であり歌人です。鳥羽院に北面の武士として仕えていましたが、出家して草庵に住み、諸国を行脚して歌を詠みました。
西行の詠歌を収めたものに『山家集』や『新古今和歌集』があります。〈ねがはくは花の下にて春死なん そのきさらぎのもち月の頃〉という歌はあまりにも有名です。『山家集』の中には、六道について詠ったものがあります。
 [地獄] 罪人のしめるよもなく燃ゆる火の薪とならんことぞ悲しき
 [餓鬼] 朝夕の子をやしなひにすと聞けばくにすぐれても悲しかるらむ
 [畜生] かぐら歌に草とりかふはいたけれど猶其駒になることはうし
 [修羅] よしなしなあらそふことをたてにして怒をのみも結ぶ心は
 [人] ありがたき人になりけるかひありて悟りもとむる心あらなむ
 [天] 雲の上の樂みとてもかひぞなきさてしもやがて住みしはてねば
また、道について詠じたものもいくつか挙げておきます。
 あくがれし心を道のしるべにて 雲にともなふ身とぞ成りぬる
 思ふともいかにしてかはしるべせぬ 教ふる道に入らばこそあらめ
 いとふべきかりのやどりは出でぬなり 今はまことの道を尋ねよ
 いとどしくうきにつけても頼むかな 契りし道のしるべたがふな
 のがれなくつひに行くべき道をさは 知らではいかがすぐべかりける
第二節 鎌倉仏教・浄土系
日本には、7世紀前半に浄土教が伝えられました。源信が『往生要集』を著して天台浄土教を盛んにし、平安末期から鎌倉時代に入ると、法然が浄土宗を、親鸞が浄土真宗を、一遍が時宗をそれぞれ開きました。これら浄土教の各宗は、それぞれの発展を遂げ、日本仏教における一大系統を形成して現在に及んでいます。
第一項 浄土宗の法然
法然(1133~1212)は、鎌倉時代の僧侶で、浄土宗の宗祖です。称名念仏のみで浄土往生ができるという専修念仏の教えを唱え、鎌倉仏教の祖師たちに多大な影響を与えました。
法然の主著は『選択本願念仏集』です。この中で、〈曇鸞法師(どんらんほっし)の往生論の注に云く〉とし、〈二種の道あり。一は難行道、二は易行道〉と示されています。易行道の易とは安易・平易の意味です。ですから易行道とは、誰でも行じうる道のことです。ここから法然は〈難行道は即ちこれ聖道門なり。易行道は即ちこれ浄土門なり〉と述べています。ここから、〈すべからく聖道を棄てて浄土に帰すべし〉と、聖道門を捨てて浄土門に帰せよ、という浄土宗の基本的立場が主張されています。
[図3-2] 『選択本願念仏集』の二種の道
聖道門とは、自力の行をはげんでこの世で悟りを開くことを目指す聖人の道です。浄土門とは、阿弥陀の本願を信じて念仏して浄土に生まれ、来世に悟りを得ようとする凡夫の道です。法然の教えでは、易行の念仏が正当化されています。
第二項 浄土真宗の親鸞
親鸞(1173~1262)は、鎌倉時代の仏教者で、浄土真宗の祖です。法然門下から出て、念仏の信心による浄土往生を説きました。
親鸞の『教行信証』では、〈世間の道に難あり易あり、陸道の歩行は則ち苦しく、水道の乗船は則ち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし〉とあり、法然と同じく易行道が正当化されています。
他にも道について、〈一道は一無礙道なり。無礙は、謂く生死即ちこれ涅槃なりと知るなり〉とあります。一道とは、一つの無礙道であり、無礙とは、いわば生死の迷いがそのまま悟り(涅槃)であると知ることです。親鸞滅後の異端を歎いたといわれる唯円(?~?)の『歎異抄』でも、〈念仏者は無礙の一道なり〉とあります。念仏者(信心の行者)の行く道には礙(さわ)りがない、つまり妨げがないということです。
『教行信証』の別の箇所では、〈道の言は路に対せるなり。道は則ちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路は則ちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり〉ともあります。つまり、道という言葉は、路に対するもので、道とは、すなわち本願という絶対不二にして真実の近道であり、究極の悟りに達するこの上もない大道だというのです。路とは、すなわち小乗の聖者や仏、さらには菩薩たちが行く路であり、できるだけ多くの善やさまざまな修行が必要な小路のことです。
『涅槃経』から引用している箇所では、〈道に二種あり。一つには常、二つには無常なり。菩薩の相にまた二種あり。一つには常、二つには無常なり。涅槃もまたしかなり。外道の道を名づけて無常とす、内道の道は、これを名づけて常とす〉とあります。道には二つの種類があるのだと語られています。一つには常住、二つには無常です。菩薩のすがたにも二種類あって、一つには常住、二つには無常であり、涅槃もまたそうなのだとされています。異教の道を無常と名付け、仏教の道は常住と名付けられます。ですから、〈道と菩提および涅槃と、ことごとく名づけて常とす〉とあり、道と悟りとそれに涅槃はすべて常住と名付けられています。
また、正しい道は平等と関連付けられています。〈正道の大道大慈悲は出世の善根より生ずといふは、平等の大道なり。平等の道を名づけて正道とする所以は、平等はこれ諸法の体相なり。諸法平等なるを以ての故に発心等し、発心等しきが故に道等し、道等しきが故に大慈悲等し。大慈悲はこれ打つ道の正因なるが故に、正道大慈悲と言へり〉とあります。ここの「正道の大道大慈悲は出世の善根より生ず」という部分は、『浄土論』の詩からの引用です。ここで言われていることは、正道の大いなる慈悲が世を捨てし善根より生るというのは、平等の大道について言ったものです。平等の道をさして正道といったわけは、平等がすべてのものの、その本体の姿だとされているからです。すべてのものが平等であるから、起こした菩提心も平等であり、起こした菩提心が平等であるから、道も平等であり、道が平等であるから、広大な慈悲も平等であるとされているのです。そしてこの広大な慈悲は悟りをうる直接の因であるから、正道の大いなる慈悲と言われているのです。
第三項 時宗の一遍
一遍(1239~1289)は、鎌倉時代後期の仏僧で、時宗の開祖です。衆生済度のため、民衆に踊り念仏を勧め、全国を遊行しました。
一遍の言行録である『一遍上人語録』には、〈阿弥陀仏はまよひ悟の道たえてたゞ名にかなふいき仏なり〉とあり、悟りの道が語られています。生死については、〈有心は生死の道、無心は涅槃の城なり。生死をはなるゝというふは、心をはなるゝをいふなり〉とあります。有心は物にとらわれた妄念の心で、無心は一切の妄念を離れた心のことです。心の有り様が大事であり、〈心の外に法を見るを名づけて外道とす〉と語られています。
他にも、〈又或人かねて上人の御臨終の事をうかがひたてまつりければ、上人云、「よき武士と道者とは、死するさまを、あたりにしらせぬ事ぞ。わがをはらんをば、人のしるまじきぞ」と曰ひしに、はたして御臨終、その御詞にたがふ事なかりき〉とあります。ある人が、一遍に臨終について尋ねたときのことです。一遍は、よき武士と仏道にいる者は、死に様を人には知らせないのだと言い、実際に一遍の死ぬときがそうであったと伝えられています。
また、一遍の弟子である聖戒(?~?)がまとめた『一遍聖絵』では、一遍の残した次のような言葉があります。
はねばはねよをどらばをどれはるこまの のりのみちをばしる人ぞしる
第三節 鎌倉仏教・禅系
日本に禅が定着したのは鎌倉時代で、栄西や道元などによって移入されました。
第一項 臨済宗の栄西
栄西(1141~1215)は、鎌倉初期の僧で、日本臨済宗の開祖です。禅と戒律との厳修を説く『興禅護国論』を著し、禅宗の正当性の宣揚につとめました。『興禅護国論』では、〈善戒経に云く〉とし、〈菩薩、道のために禅定を修し、現世に楽を受けしむ〉とあります。道は菩提の道で、禅定を修せしめる相手は衆生です。また、栄西は〈日本国において、祖道すなはち大いに興ることを得んと欲す〉と述べています。
第二項 曹洞宗の道元
道元(1200~1253)は、鎌倉時代の仏教家で、曹洞宗の祖です。道元の主著である『正法眼蔵』と、道元が語った仏道修行の心得を弟子の懐奘(1198~1280)が筆録した『正法眼蔵随聞記』から、道についての記述を見ていきます。
『正法眼蔵』
道元の主著である『正法眼蔵』の書名は、正しい仏法の眼目の処在を意味します。
『正法眼蔵』の[現成公案]では仏道について、〈仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり〉とあります。つまり、仏道を習うのは自己を習うということです。自己を習うとは、自己を忘れるということです。自己を忘れるとは、多くのことに教えられるということです。多くのことに教えられるとは、自己と他己の体と心を脱ぎ捨てるということです。ここでいう他己とは、他における自己のことです。
[谿声山色]では、〈ただまさに先聖の道をふまんことを行履すべし〉とあります。仏祖先徳の歩んだ道を踏もうとすべきだと語られています。
[伝衣]では、〈ただ正伝を正伝せん、これ学仏の直道なり〉とあります。正伝を正しく伝え受けるのなら、それが仏法を学ぶのに最も近い道だというわけです。
[仏性]では、『無門関』からの引用で〈平常心是道〉が語られています。平常心是道とは、普段の心がそのまま悟りであるということで、徹底した日常行為の肯定の上に成り立ちます。
[仏教]では、〈諸仏の道現成、これ仏教なり〉とあり、もろもろの仏の言葉の実現したものが仏教だと語られています。ここでの道は、言葉を意味します。『正法眼蔵』では、道を動詞として使う場合は「言う」の意味となり、名詞として使う場合は「言葉」の意味となる用法が見られます。道取という言葉は「表現」の意味で用いられ、道得という言葉は「仏教に相応しい表現」という意味で用いられています。
[図3-3] 『正法眼蔵』の道の用法
[行持(上)]では、〈仏祖の大道、かならず無上の行持あり、道環して断絶せず。発心・修行・菩提・涅槃、しばらくの間隙あらず、行持道環なり〉とあります。仏祖の大道には、かならず最高の修行があり、連綿として断絶することがありません。発心・修行・正覚・涅槃と続いて少しの間隙もありません。修行は持続して、道は巡り続くというのです。
[行持(下)]では、〈ただまさに日日の行持、その報謝の正道なるべし〉とあり、日々の修行は、感謝し報いる正しい道であるべきだと語られています。
[全機]では、〈諸仏の大道、その究尽するところ、透脱なり、現成なり〉とあります。諸々の仏の大道は、究極のところ、透き通ってありのまま現れているということです。
[古仏心]では、〈古仏の道を参学するは、古仏の道を証するなり。代代の古仏なり。いはゆる古仏は、新古の古に一斉なりといへども、さらに古今を超出せり、古今に正直なり〉とあります。古仏の道を学ということは、古仏の道を体得することです。だから、代々すべてが古仏なのです。いわゆる古仏の古は、新古の古に他なりませんが、その古仏とは、古今を超越したもので、古今をまっすぐに貫いたものだというのです。
[密語]では、〈諸物之所護念の大道を見成公案するに、汝亦如是、吾亦如是、善自護持、いまに証契せり〉とあります。諸々の仏の護持した大道をありのままに突き詰めると、汝もまたかくの如し、吾もまたかくの如し、みずから護持するが善いのです。このことは今でも同じことだというのです。
[遍参]では、〈仏祖の大道は、究竟参徹なり〉とあり、仏祖の大道は、究極のところ善知識を訪ねて参学することに尽きるとされています。
[発無上心]では、〈仏法の大道は、一塵のなかに大千の経巻あり、一塵のなかに無量の諸仏まします〉とあり、仏法の大道においては、塵ほどの中にも、幾千の経巻があり、限りなき仏たちがましますと語られています。
[発菩提心]では、そのものずばりで、〈菩提は天竺の音、ここには道といふ〉とあります。菩提というのは、天竺のことばを音写したもので、中国ではそれを道と訳すというわけです。
[三十七品菩提分法]では、八正道(八聖道とも言います)が語られています。八正道は、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定から成ります。
[図3-4] 八正道
[自証三昧]では、〈自己を体達し、他己を体達する、仏祖の大道なり〉とあります。自己をも体達し、他己をも体達するのが、仏祖の大道というわけです。
[四禅比丘]では〈仏言〉とし、〈唯一究竟道ナリ〉とあります。仏が〈究極の道はただ一つである〉と言ったとのことです。
『正法眼蔵随聞記』
懐奘が道元の言葉を筆録した『正法眼蔵随聞記』では、〈学道の人も、はじめ道心なくとも、只強て道を好み学せば、終には真の道心も、をこるべきなり〉とあるように、道を求め学ぶように努力すれば、本当の心構えが出来てくるものだとされています。そこで、〈善知識に随て、衆と共に行て、私なければ、自然に道人也〉と言われ、高徳の賢者に従って、私心なく皆の者と一緒に修行すれば、おのずとそのまま仏道の人であるとされています。ここで注意すべきは、〈道は無窮なり。さとりても、猶行道すべし〉ということです。つまり、道は無窮なので、悟ったとしても、なお修行しなくてはならないと語られているのです。
道元は、〈道を得ることは、根の利鈍には依らず。人々皆法を悟るべき也。只精進と懈怠とによりて、得道の遅速あり。進怠の不同は、志の到ると到ざると也。志ざることは、無常を思はざるに依なり。念々に死去す。畢竟暫くも止らず。暫くも存ぜる間、時光を虚すごすこと無れ〉と言います。道を得ることは、生まれつきの賢愚によるのではなく、人間はみな法を悟り得るものなのだと語られています。ただ、努力しているか怠けているかにより、道を得るのに早いか遅いかの違いが生ずるのだとされています。努力するか怠けるかの違いは、道を求める志が切実であるかないかの違いによります。志が切実でないのは、無常を思わないからだといいます。人間は少しも留まることなく死へと向かいますから、存命の間は、むなしく時を過すことがあってはならないと説かれています。そこで、〈私曲を存ずべからず。仏祖行来れる道也〉と、自分勝手に考えるのではなく、釈尊や歴代の祖師たちが踏み行ってきた道を辿ることが示されています。
しかし、いきなり高慢な理想を掲げるのも困り者です。まずは自分の身近なところを大切にすることが肝心です。〈人、其の家に生れ、其道に入らば、先づ、其の家の業を修べし、知べき也。我が道に非ず、自が分に非ざらん事を知り修するは即非也〉とあるように、生まれた家の家業を修めて知るべきだと語られています。自分の分限を超えたこと、つまりは自分の道ではないことを学び身につけることは心得違いとだとされています。
道を学ぶ人に対しては、〈学者、命を捨ると思て、暫く推し静めて、云べき事をも、修すべき事をも、道理に順ずるか、順ぜざるかと案じて、道理に順ぜば、いひもし、行じもすべき也〉と言われています。命を捨てる気概でやるにしても、心を静かにして、言うべきことも、修めるべきことも、道理に適っているかどうかで、言ったり行ったりすべきだと語られています。まさしく、道理が大事なのだとされています。そこで、〈世情の見をすべて忘て、只、道理に任て、学道すべき也〉とあり、世間的な見方を忘れて、ただ道理が示すとおりに道を学ぶべきと言われます。そこにおいては、〈他のそしりに[とり]あはず、他のうらみに[とり]あはず、いかでか我が道を行ぜん。徹得困の者、是を得べし〉とあり、他人の誹謗や恨みに取り合わず、なんとかして自分の道を行うしかないとされています。徹底的にやり抜こうとする者だからこそ、道を得ることができるのだとされているのです。ですから、〈只、時にのぞみて、ともかくも、道理にかなふやうに、はからふべき也〉とあり、時宜に応じて道理に適うように計らうべきことが説かれています。
第四節 鎌倉仏教・法華系
鎌倉中期に出た日蓮は、法華思想の体系化に努めました。
第一項 日蓮宗の日蓮
日蓮(1222~1282)は、鎌倉時代の仏教者で、日蓮宗の開祖です。念仏批判の姿勢を取り、法華経の信仰を説きました。
『立正安国論』では、〈夫れ出家して道に入るは法に依りて仏を期するなり〉とあります。出家して仏道に入るのは、法に従って成仏を目指すためだと語られています。また、〈但し仏道に入りて数(しばしば)愚案を廻らすに、謗法の人を禁じて正道の侶を重んぜば、国中安穏にして天下泰平ならん〉とあり、仏道に入って対策を考えてみると、謗法の人を禁止して正道の僧侶を重んずれば、国中は安穏となり天下は泰平となるであろうとされています。
『顕謗法抄』では、〈月支・尸那には外道あり、小乗あり。此日本には外道なし、小乗の者なし〉と語られています。インドは外道であり小乗で、日本は違うと述べています。では大乗はというと、〈諸大乗経には中道の理王なり〉とあります。ここでの中道は、いずれにもとらわれず現実を正しく見究めることです。
『法花題目抄』には、〈仏道へ入る根本は信を本とす〉とあります。
第五節 鎌倉仏教・鎌倉旧仏教
鎌倉仏教とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて発生した仏教変革の動きを指します。その中で、浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・時宗・日蓮宗(法華宗)を鎌倉新仏教と呼びます。この鎌倉新仏教に対し、旧仏教(南都仏教)の中にも新しい動きが生まれました。これを鎌倉旧仏教と呼びます。
第一項 天台宗の慈円
慈円(1155~1225)は、鎌倉時代初期の天台宗の僧です。
歌人として後鳥羽上皇に高く評価される一方、日本国のあるべき姿を説き明かそうとして1220年頃に史論書『愚管抄』を著し末法思想を示しました。末法思想とは、末法に入ると仏教が衰えるとする思想のことです。末法とは、仏法の行われる時期を三つに分けた三時のうち、最後の退廃期のことです。その末法思想において、道理が語られています。文中には道理という文字が頻発し、江戸時代には「道理物語」と呼ばれました。道理という言葉は、様々な意味で使用されています。『日本の名著9(中公バックス)』にある大隅和雄の補注を参考にすると、道理の意味を次のように分類できます。
第一に、〈御孝養アルベキ道理〉というように、人が践み行うべき道徳的に正しい道という意味があります。第二に、〈タゞ一スヂノ道理ト云事ノ侍ヲ書置侍リタル也〉や〈世ノ移リ行道理ノ一通リヲ書ケリ〉というように、筋道・理屈という意味があります。第三に、〈三世ニ因果ノ道理ト云物ヲヒシトヲキツレバ〉というように、因果(の道理)という意味があります。第四に、〈仏法王法マモラルベキ道理〉や〈コレ又臣下出クベキ道リ也〉というように、各道理の相対的な把握の上で、それらを超える社会的な基準(としての道理)という意味があります。第五に、〈ウツリマカル道理〉や〈何事モサダメナキ道理〉というように、道理は世の移り変りに従って変化して行く(という道理)という意味があります。これらの道理の意味を踏まえて、『愚管抄』の中でも重要と思われる「道」の用例を見ていきます。
[巻第三]では、〈加様ノ次第ヲバ、カクミチヲヤリテ正道ドモヲ申ヒラクウヘハ、ヒロクシラント思ハン人ハカンガヘミルベキ事也〉とあります。こういうふうに順々になってゆく歴史の次第を順を追って、正しい道を申し明らめる上は、広く歴史を知ろうとする人は参照し、反省して見るべきであるということです。
[巻第五]では、〈文武ノ二道ニテ國主ハ世ヲオサムルニ〉とあります。
[巻第六]では、〈コレハヲリヲリ道理ニ思ヒカナヘテ、然モ此ヒガ事ノ世ヲハカリナシツルヨト、其フシヲサトリテ心モツキテ、後ノ人ノ能々ツ丶シミテ世ヲ治メ、邪正ノコトハリ善悪ノ道理ヲワキマヘテ、末代ノ道理ニカナヒテ〉とあります。この書ではその折々の道理に考えを合わせて、しかもこんな誤ったことが世を滅ぼそうとして事をたくらんだのだと人々にその節々を理解させ心を行きとどかせて、のちの人がよくよくつつしんで世を治め、邪と正との道理、善と悪との道理をわきまえて末の世の道理に適うように書いたというのです。
[巻第七]では武力について、〈チカラノ正道ナルカタハ、宗廟社稷ノ本ナレバ、ソレガトヲルベキニヤ〉とあります。武力の使用が正しい道理に従って行われるということは、国家の大本なので通るべきだというわけです。歴史を貫くものとしては、〈コレニツキテ昔ヲ思ヒイデ今ヲカヘリミテ、正意ニヲトシスエテ邪ヲステ正ニキスル道ヲヒシト心ウベキニアヒ成テ侍ゾカシ〉とあります。昔のことを思い出し、現在のことを顧みて、世の中を正しい考えにもとづくように帰着させ、邪を捨てて正に帰する道をしっかりと理解すべきだというのです。歴史を顧みて判断するということが重要だということです。そこで、君は臣を立て、臣は君を立てて世を治めていくという道理を基として、〈コノ道理ニヨリテ先例ノサハサハトミユルト、コレヲ一々ニヲボシメシアハセテ、道理ヲダニモコ丶ロヘトヲサセ給ヒナバメデタカルベキ也〉と語られています。道理によって先例を明白に理解することができるのですから、それを事にあたっていちいち考え合わされて、道理を理解してその筋を通したなら、たいへん立派な世となるであろうと語られているのです。
第二項 法相宗の貞慶
貞慶(1155~1213)は、平安末期から鎌倉初期の法相(ほっそう)宗の僧です。戒律を厳守し、旧仏教の改革を提唱しました。
『愚迷発心集』には、〈実にこの身を念(おも)はんと欲せば、この身を念ふことなかれ。早くこの身を捨てて、以てこの身を助くべし。徒らに野外に棄てんよりは、同じくは仏道に棄つべし〉とあります。身を捨ててこそ、身を助けることができるということです。ただし、ただ捨てるのではなく、仏の道にこそ身を捨てるべきだとされています。そこで、〈我進んで道心を請ふ〉と述べられているのです。
また、『興福寺奏状』では、〈まさに知るべし、余行によらず、念仏によらず、出離の道、ただ心に在り〉とあります。出離とは、迷いを離れて解脱の境地に達することで、仏門に入ることです。仏の道は、心に在るのだと語られています。
第三項 華厳宗の明恵
明恵(1173~1232)は、鎌倉初期の華厳(けごん)宗の僧です。
『摧邪輪』では、〈我、口業(くごう)を以て、讃嘆説法して、皆わが化(け)を受け、言下(ごんか)に道(どう)を得ん者をして尽さしめん〉とあります。明恵は、言葉と行為をもって仏教の教義を説き聞かせ、道を得る者に尽くすと述べています。
『却癈忘記』では、〈惣テ聊モ菩提心ナドアリテ仏道ヘヲモムキヌルニハ、身命ナドハモノ、カズニテモ候ハヌ也〉とあります。仏の道に赴くには、体や命などはものの数ではないとされています。
『梅尾明恵上人伝記』では、〈清浄の欲と云ふは仏道を願ふ心也。仏道に於いて欲心深き者、必ず仏道を得る也〉とあります。仏を願う心が清浄で深いならば、仏の道を得ることができるというのです。そこで、〈日々に志を励まし、時々に鞭をすゝめて、大願を立てて、善知識の足下に頭をつかへて、身命を惜しまずして道行を励ますべし〉とあり、日々志を持って過ごし、時には厳しく、大願を立て、善き知識に頭を垂れ、身体や生命を惜しまずに道を行くことが勧められています。そのため、〈実に生死を免れんと思ひ給はば、暫く何事をも打ち捨て、先づ仏法と云ふ事を信じて、其の法理を能々弁へて後、せめて正路に政道をも行ひ給はば、自ら宜しき事も候ふべし〉と語られています。生死の迷いから逃れたいならば、仏法を信じて法理を弁えて、正しい道に政治を行い、自ら実践すればよいというのです。
『梅尾明恵上人遺訓』には、〈人は阿留辺幾夜宇和(あるべきやうわ)と云ふ七文字を持(たも)つべきなり。僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり。乃至、帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様なり。此のあるべき様を背く故に、一切悪きなり〉とあります。人間の「あるべきよう」が、その各々の立場において、あるべき様として語られています。そして法師(仏法に通じ人々を導く師となる者)に対しては、〈只心を一にし、志を全うして、徒らに過す時節なく、仏道修行を励むより外には、法師の役はなき事也〉とあります。心を一つにし、志を全うし、時間を無駄にせず、仏の道を修行するより他はないとされています。
第四項 華厳宗の証定
証定(1194~?)は、鎌倉初期の華厳(けごん)宗の僧です。
『禅宗綱目』では、〈修行するところの理、宜しくこれに順じて、乃ち心を起して悪を断じ、善を修せず、また心を起して道を修せざるべし。道即ち心なり、心を将(も)つて還つて心を修すべからず。悪もまた是れ心なり、心を将つて還つて心を断ずべからず。不断不修、任運自然なるを、名づけて解脱の人とす〉とあります。道は心なのだと語られています。そこにおいては、善悪ともに心であり、自然なままの状態である人が解脱した人なのだとされています。
第五項 真言律宗の叡尊
叡尊(1201~1290)は、鎌倉中期の律宗の僧です。蒙古襲来で神風を祈願しました。
『興正菩薩御教誡聴聞集』には、〈我心ヲ聖教ノ鏡ニアテ見ルニ、教ニ背クトコロヲバ止メ、自ラアタルヲバ弥(いよいよ)ハゲマシ、道にスヽムヲ学問トハ申ナリ〉とあります。自分の心を聖なる教えに映してみて、教えに背くことを止め、自分に合うところを伸ばし、道へと進むのが学問だというのです。中道については、〈空有ニ着セズシテ空有ヲ失ザルヲ本意ト為ス、即中道也〉とあります。ここでの中道は、一切のものは唯識所変のもので、非有非空の中道であることを言います。
第六項 華厳宗の凝然
凝然(1240~1321)は、鎌倉時代後期の東大寺の学僧です。
『華厳法界義鏡』には、〈妙有これを得て、しかして有ならず、真空これを得て、しかして空ならず、生滅これを得て、しかして真常たり、縁起これを得て、しかして交映たり。菩薩これを得て、遐(はる)かに誓願を発し、広く業行を修し、無住の道に遊歴し、有涯の門に通入す〉とあります。流転生滅する迷いの世界において、華厳の真理観によると、菩薩は誓いを立てて修行し、自在無礙の道を巡るのだとされています。
第六節 中世仏教
中世においても、仏教では道が語られています。例として、禅家や室町仏教を代表する蓮如を挙げることができます。
第一項 臨済宗の夢窓疎石
夢窓疎石(1275~1351)は、夢窓国師とも称される南北朝時代の臨済宗の僧です。
『夢中問答集』の[求道と福利]には、〈道のために福を求むることは、まことに世欲に異なりといへども、求め得たる時は喜び、しからざる時は嘆く〉とあります。仏道のために福を求めることは世俗の欲とは異なりますが、求め得たときは喜び、そうでなければ嘆くというのです。
[神仏の効験]には、〈虚妄の見を離れて、真正の道を悟れるは、真実正直の人なり〉とあり、〈仁義の道を学びて、物を殺さず理を曲げずは、これ又正直の人なり〉とあります。
[政治と仏法]には、〈十七箇条の憲法の始めに、上下和睦、帰敬三宝と載給へるも、政道を行なふことは、仏法のためなるよしなり〉とあります。聖徳太子の十七条の憲法を根拠として、政治を行なうのは、仏法のためでもあると語られています。
[菩提心]には、〈衆生のために仏道を求むる人を、菩薩と申すなり〉とあります。
[不二の摩訶衍] には、〈ただ自ら出離する道を求めて、他を益する心なし。この故に同じく小乗心と名づく。衆生を利益せんために、大乗の道を求むるをば、菩薩と号す〉とあります。自分だけで他を益する心がなければ小乗であり、衆生を益する道を求めるのなら大乗であり菩薩だといえるというのです。
第二項 臨済宗の中巌円月
中巌円月(1300~1375)は南北朝時代の臨済宗の僧です。
『中正子』では、〈道の大端は二あり、曰く天、曰く人。天の道は誠なり、人の道は明なり。それ惟だ誠明の体に合すれば、中なり、正なり。正なるものは道に遵って邪ならず。中なるものは道に適って偏せず〉とあります。道には天と人とがあるとされています。それを踏まえて、〈聖人の道は大なり。仁義なるのみ〉と語られています。そのため、〈仁義は天人の道か。天の道は親を親とす。人の道は尊を尊とす。親を親とするの仁は信に生ず。尊を尊とするの義は礼に成る。天人の道殊(こと)なると雖も、推してこれを移せば一なり。これを一にするは、知と謂ふべきかな〉とあり、天の道と人の道の違いが述べられています。天は親しむべきを親しむのに対し、人の道は尊ぶべきを尊ぶのです。親しむという仁は信じることから生じ、尊ぶという義は礼によって成ります。天の道と人の道とは異なるといいますが、推し進めるなら一つのことです。これらを一つとするのは知識だとされています。
また、経権の道についても述べられています。〈経権の道は、国を治むるの大端なり。経は常なり、変ずべからざるものなり。権は常にあらざるなり、長ずべからざるものなり。経の道は秘吝すべからず、これを天下の民に示して可なり。権なるものは経に反きてその道に合ふものなり。反きて合はざれば、権にあらざるなり〉とあります。経は永遠不変の常道で真理のことです。経はけちってしまっておくのではなく、広く民に開示すべきものだと語られています。権は臨機応変の方策のことです。権は常に妥当するものではないので、ひき延ばして恒久化してはならないと語られています。権は経に背いているように見えますが、道に適っているとされています。道に適っていなければ権とは言えないというのです。
また、沿の道と革の道という言葉も見えます。〈凡そ四時の用たる、春は生じ夏は養い、秋は殺し冬は静なり。静なるが故に能く生ず生ずれば養う。これすなはち沿の道なり。既に生じ既に養ひてこれを殺す、これ革の道なり〉とあります。沿は踏襲・保守の意で、因と同じです。革は変革のことです。改革の道についても言及があり、〈中正子曰く、改革の道は、疾く行ふべからず〉と語られています。いわゆる漸進の思想です。
第三項 臨済宗の抜隊得勝
抜隊得勝(1327~1387)は臨済宗の僧です。
『塩山和泥合水集』では、〈ココロザシ深キ時ハ、文字ヲシル人ハ、シルトコロヲ道ノタヨリトシ、知ザル人ハシラザルヲ道ノタヨリトス〉とあります。志が深いならば、文字を知る人は文字を知ることによって道の便りを得、文字を知らない人は文字を知らないことをもって道の便りとすると語られています。
第四項 浄土真宗の蓮如
蓮如(1415~1499)は室町中期の浄土真宗の僧です。浄土真宗と本願寺は親鸞の子孫によって細々と守られていましたが、蓮如が宗旨を平易な文で説く『御文(おふみ)』を使って布教を行い、門徒派を組織化して勢力の拡大に成功しました。
『御文』には、〈善知識にあひてそのをしへをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり〉とあります。善知識とは、人々を仏の道へ誘い導く高徳の僧のことです。その仏道に励む人に会って教えを受け、南無阿弥陀仏を唱えれば、阿弥陀仏が助けてくれるという道理が語られています。
また、〈浄土真宗トヲカルゝコトハ、浄土宗四ヶ流ニハアヒカハリテ、真実ノ道理アルガユヘニ、真ノ字ヲヲカレテ浄土真宗ト定メタリ〉とあります。真実の道理ゆえに、真という文字を置いて浄土真宗と定めたと語られています。
第七節 近世仏教
近世においても仏教の流れは受け継がれ、仏の道について語られています。
第一項 日蓮宗の日奥
日奥(1565~1630)は安土桃山・江戸初期の日蓮宗の僧です。
『宗義制法論』では、〈それ世間と出世、その道、異なるといへども、倶に法度を以て、最も要枢となす。法度にあらざるよりは諸道立つことなし〉とあります。世間と出世とは、俗世間と出世間のこと、あるいは俗人と僧侶のことです。どちらの道でも法度が重要だと述べています。また、〈それ仏法を習はん人は、先づ五常の道を学んで、世間の義理を知るべし。しかる所以は、仏法は至つて深く、人の智は極めて浅し。故に先づ世間の道を知れば、仏法に入り易し〉と語り、日常と仏教を結びつけて論じています。世間の道を知れば、仏法にも入りやすいとされています。
第二項 臨済宗の沢庵
沢庵(1573~1645)は江戸初期の臨済宗の僧です。
沢庵の『不動智神妙録』には、〈今少し能く知れば、凡夫の信ずるにても破るにてもなく、道理の上にて尊信し、仏法はよく一物にして其理を顕す事にて候。諸道ともに斯様のものにて候〉とあります。諸々の道は、道理の上で尊び信じ、そこにおいて理をあらわすのです。そこでは、〈仏と衆生と二つ無く。神と人と二つ無く候。此心の如くなるを、神とも仏とも申し候。神道、歌道、儒道とて、道多く候へども、皆この一心の明なる所を申し候〉と語られています。道に違いはなく、心の明らかなるところを道と述べているのです。
『玲瓏集』では、〈欲念を離れて岩木の如くにては、万事を作す事ならざる也、欲をはなれすして、無欲の義に叶ふは道也〉とあります。欲望を離れるといっても、岩や木のようになってしまえば何もできません。欲をただ離れるのではなく、義に叶うために無欲になるのが道だとされているのです。
第三項 臨済宗の盤珪永琢
盤珪永琢(1622~1693)は、江戸時代前期の臨済宗の僧です。
『盤珪禅師語録』には、〈孝の道に叶へば則佛心でござる〉とあります。仏のこと以外にも、〈侍は常に義理を第一といたし、一言にても相違あればとがめ、間のぬからぬ所が、侍の道でござる〉と述べていたり、〈商ひの道にて利を得まするは、我等が一人に限りまする事でもござらぬ〉と語っています。
第四項 浄土宗の大我
大我(1709~1782)は、浄土宗の僧です。
著作である『三彝訓』で神儒仏の一致を説いています。彝は、のりで、守るべき教えです。『三彝訓』には〈皇天自ら三道を立て、以て国を治め民を安んずるにおいては、謂ひつべし、至れり尽せりと〉とあります。皇天は、天皇・皇室のことです。三道は神儒仏の三教を指します。近世初期の三教一致論には、儒教・道教・仏教の一致を説くものが多くみられますが、享保頃から以後になると、神儒仏一致を説くものが見られるようになります。
第五項 浄土真宗の仰誓
仰誓(1721~1794)は、江戸時代中期の浄土真宗の僧です。
仰誓の『妙好人伝』では、〈いにしへのかしこかりつる跡とひて仏の道にすすめとぞおもふ〉とあります。古の賢人の辿った跡を問うことによって、仏の道に進もうと語られています。
第六項 曹洞宗の良寛
良寛(1758~1831)は、江戸後期の曹洞宗の僧で歌人です。諸国を行脚し、生涯寺を持たずに隠棲(いんせい)して独自の詩を残しました。
『良寛道人遺稿』には、〈目前は道に非ず、道は目前〉とあり、自身の方から道を見つけたわけではなく、道の方から目に入ってきたと語られています。その道に対し、〈香を焼(た)いて仏神を請じ、永く道心の固きを願う〉と述べ、道心を強く持つことを願っています。その道については、〈是非は始めより己に因る、道は固より斯の若くならず〉とあります。是非は自分本位ですが、道は決してそんなものではないとされています。そのため、〈仏は是れ自心の作なり、道も亦有為に非ず〉と述べられています。仏は自分の心が造るものであり、道もまた無常ではないと語られているのです。
第七項 浄土真宗の竜温
竜温(1800~1885)は、東本願寺派京都円光寺の僧です。
『総斥排仏弁』では、〈別シテ神道ハ吾国ノ大道、儒ハ世間聖人ノ立ルトコロ、吾仏教ニオヰテ、世間教ト同一体ナレバ、聊モソノ道ヲサシテ邪ナリト云ニハ非ズ。ソノ道ノ正意ヲ伝ズシテ、熾ニ仏法ヲ憎嫉スル徒類ハ、則チ吾ガ法城ヲ破ントスル怨敵ナリト謂ベシ〉とあります。神道は日本の大道であり、儒教は世間の聖人の立てるところであり、仏教は世間の教えと同じなので、仏教を邪ということはできないと述べています。道の正しい意味を伝えないで、その道を憎むことは間違いなのだとされています。
第八項 浄土真宗の徳竜
徳竜(?~?)は東本願寺派無為信寺の僧です。
『僧分教誡三罪録(1884)』では、〈タヾ王法仁義ノ道ニ順ジテ、此世ヲスゴセヨト教ヘタマフガ、浄土真宗ノ掟ナリ。コノ道理ヲコヽロエザレバ、罪アリナガラ助ルイハレヲ知ルベカラズ〉とあります。浄土真宗の掟として、王法仁義の道にしたがって生を送るべきことが語られています。掟と道の関係については、〈国法ニテモ、スベテ定メオクトコロノ法則ヲ掟ト称ス。掟ハ、道ニソムカヌヤウニ立タルモノナレドモ、仁義孝悌ノ道ハ、百王国ヲ異ニスルトモ、千歳時ヲ隔ツトモ、改ラザルノ道ナリ。掟ハ、其国ニ従ヒ、ソノ時ニ応ジテ、政ヲ改ルコトアリ。故ニ、国家ニアリテハ、其国其時ノ掟ニシタガハズンバアルベカラズ〉と語られています。道は国家を超えて通じるものであり、掟は国家毎に定めたり改めたりするものとして考えられています。
第八節 近代仏教
近代においても仏教の流れは続いていき、仏の道について語られています。
第一項 清沢満之
清沢満之(1863~1903)は、近代の仏教思想家で真宗大谷派の僧です。東西諸思想に通じ、真宗信仰に新たな地平を開きました。
『精神主義』において、〈道は近いところにあるのに、迷った人はそれを遠いところに求める。宗教は目前にあるのに、惑った人はそれをほかの物に求める。足もとを見定めることを知らない人は、宗教を知らない世間人である〉とあります。また、〈何が修養の方法であるか。ほかでもない、すべからく自己を省察すべきである、大道を知るべきである。大道を知れば、自己にあるものに不足を感じることはないであろう。自己にあるものに不足を感じなければ、他人にあるものを求めないであろう。他人にあるものを求めなければ、他人と争うことはないであろう。自己に充足して、求めず、争わなければ、天下のどこにこれより強いものがあろうか、どこにこれより広大なものがあろうか〉とあります。そこで、〈絶対他力の大道を確信すれば足りる。それで大道はけっして彼らを捨てないであろう〉と語られています。
第二項 鈴木大拙
鈴木大拙(1870~1966)は、近代の仏教学者です。
既成の宗派敵対立場を超えて、禅・浄土・華厳などの大乗仏教の諸思想について幅広く論じました。また、禅を中心に欧米に仏教思想を紹介しました。
『無心ということ』において、〈それなら道とは何かというに、これは「無心是道」または「道本無心」である。無心を了すれば、そこに自ら道があらわれる。こうなれば、仏は即道これなりと結んでよい。道もと無心、無心是れ道――そして即心是仏、心即無心という連鎖ができ上れば、道即是仏、仏即是道で、いずれも畢竟無心であるという次第にならなくてはならぬ。無心是れ道、無心是れ仏、いずれでもよいから、今かりに道と言っておいて、それですべてを代表させる〉とあります。そこで、〈無心是れ道で、心がなくなれば道もまた無である。そこに心と道と一如の世界が成り立つ。道も心も無の世界で一如となるのである。この一如の場所、身心是道ということができる、また道是れ身心ということができる〉と語られています。
『日本的霊性』においては、〈禅者の言葉に「平常心是道」ということがある。また「無事於心、無心於事」[心に無事で、事に無心なれ]という言葉があるが、これでなくてはならんのだ。ここには生死ということはないのである。なんでもすべきこと、そのことに成りきれば、無心である。無心であれば、無事である。それが平常心である。そこに道がある。この道さえ踏んでゆければ、非常時には非常時であり、平時には平時である〉とあります。 
第四章 儒道 

 

儒教は、孔子(前552~前479)を祖とし、道徳的・宗教的意味を持った社会的教説のことです。儒道とも称されます。日本における儒教の受容は古代にさかのぼります。古代から中世にかけて儒教は、教養として貴族層によって、あるいは禅儒一致の立場から禅僧によって学ばれてきました。ただし、儒教が庶民にまで浸透するのは、徳川幕府成立にともなう江戸時代からとなります。儒教は武家政権によって庇護され、民衆の道徳的教化の役割を担いました。近世の日本儒教は、武家や町人や農民などの様々な階層の出身者によって構成されています。儒教の教えは「聖人の道」であり、儒教関連の書物には人道や天道といった「道」についての伝統が展開されています。本章では、日本の儒教における「道」を見ていきます。
第一節 朱子学派・京学
朱子学は、南宋の儒学者朱熹[朱子](1130~1200)によって大成された学問とその弟子によって再構成された学問の総称です。日本では江戸幕府から官学として保護されました。朱子学派の一つに京学があります。京学とは、京都に発達した藤原惺窩を祖とする一派を言います。
第一項 藤原惺窩
藤原惺窩(1561~1619)は、安土桃山・江戸初期の儒学者です。惺窩の儒学は、心に拠点をおき、国際的な観点から理を説いたことに特色があります。林羅山など、多くの門人を育てました。
惺窩の『寸鉄録』では、〈ヲヨソ「政ハ正ナリ」(ト)テ、政ハ人ヲ正道(タダスミチ)ナリ〉とあります。これは『論語』の[顔淵篇]で、〈政とは正なり。子、帥いて正しければ、孰か敢へて正しからざらん〉とあることに影響を受けています。
『惺窩先生文集』では道について、〈道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万を生じて、万は一に帰す〉とあります。これは、『老子』からの影響です。天道については、〈一に曰く、それ天道なる者は理なり。この理、天にあり、未だ物に賦せざるを天道と曰ふ。この理、人心に具はり、未だ事に応ぜざるを性と曰ふ。性もまた理なり〉とあります。天道を理と結びつけるのは、宋学の重要な主張です。
『千代もと草』では、〈日本の神道も我心を正して万民をあはれみ慈悲を施す極意とし、堯舜の道も極意とするなり。もろこしにては儒道と云、日本にては神道といふ。名はかはり心は一なり〉とあります。中国の儒道と日本の神道、名前は違えどその心は一つだと語られています。
第二項 林羅山
林羅山(1583~1657)は、江戸初期の儒学者です。朱子学を藤原惺窩に学び、徳川家康から家綱まで4代の将軍に仕え公務に携わりました。
『春鑑抄』では五常について、〈仁・義・礼・智・信之五ツノ道ハ、常ニシテカハラヌゾ〉とあります。続けて、〈人ト云モノダニアラバ、天地開闢ヨリ以来、末代ニイタルマデニ、此道ノカハルコトハアルマヒホドニ、常ト云ゾ。サルホドニ、万代不易之法ト云ゾ。不易トハ、カハラズト読ゾ〉とあります。人間が居れば、仁・義・礼・智・信は変わらず存在するというのです。これは、朱子の『論語集註』に影響を受けた意見です。
不易に対するものとして、「権」も説かれています。〈権ノ道ト云ハ、法度ヲヒトツハヅシテモ、ノチハ直グナル道ヘイタル〉とあります。権ノ道は臨機応変の道で、直正なる道に対して言います。
また、注目すべき点として、礼の重視が挙げられます。〈礼ハ恋ノ道ヨリモ大切ナコトゾ〉と述べられています。そこで、〈モツトモ礼ノ道ヲバ肝要ト心得テ、行フベキコトナルベシ〉と説かれています。
『三徳抄』では、〈心ハ一ナレドモ、其ウゴキ働ク所ヲバ人ノ心ト云フ。其義理ニヲコル処ヲバ道ノ心ト云フ〉とあります。人の心が、義理に基づいて起こるところが道の心だというのです。ですから、〈不義ノ富貴ヲバ求メザル事アリ。是ヲ道心ト云フ〉わけです。人の心と道の心の区別は、〈心ハ一ニシテ二ツナキヲ、道ノ心ト人トノ差別ヲ云バ、道ノ心ハ理也。人ノ心ハ気也。是又、心ハ善ニシテ、気ニハ善悪アルノ本拠ナリ〉と語られています。道の心は理だとされています。
『羅山先生文集』では、〈それ道は人倫を教ふのみ。倫理の外、何ぞ別に道あらんや〉とあります。道は、人の間において存在すると語られているのです。
第三項 室鳩巣
室鳩巣(1658~1734)は、江戸中期の儒学者です。鳩巣は朱子学こそ正学とし、徳川幕府体勢の秩序を信頼し、それを支える階級における道徳を説いています。
『書簡』では道について、〈蓋し道の大原は、天に出づ。これ道の一本なるものなり。ただ我が聖人のみ、能く天に継ぎ極を立つることをなし、以て教へを天下後世になす。則ち天下後世、これに由りて以て聖人の道となす。これ道の一統なるものなり〉とあります。ここでいう一本とは、一つの根源のことです。天に継ぎ極を立つるとは、天意を受け継いで道徳の規準を立てることです。一統とは、一筋ということです。つまり、道の根源は天であり、聖人は天意を受け継いで道徳の基準を立てるというのです。それが、後世が従うべき聖人の一筋の道なのだとされています。
また、『読続大意録』では、〈道はこれ本然実有の物事なり〉と述べています。道は、実際に有る物事であり、机上の空論ではないということです。
第四項 新井白石
新井白石(1657~1725)は、江戸中期の儒学者であり政治家です。6代将軍の徳川家宣に仕えて幕政に参与しています。白石の思想活動は、幕府における政治活動と不可分に結びついたものであることに特徴があります。
白石の『読史余論』では、天道について三箇所で言及されています。一つ目は〈かくて失にしかば、是も天道にたがふ所ありとは疑なし〉とあり、二つ目は、〈天下の天下たる道を、少々なりとも思召れんに、殊更天道も佛神の御心にも立所に叶はせ給ふべきにと、愚なる心には存ずるぞかし〉とあり、三つ目は〈天道は、天に代りて功を立る人にむくい給ふ理〉とあります。白石の思想には、天道という天の力が働いています。
白石の考えでは、天は人間の運命を左右するものと捉えられています。例えば、〈かゝれば時の至らず天のゆるさぬ事は疑なし〉や〈誠に天命也。正理也〉とあります。白石は、天は善悪に応じて、人に報いを与えるものとだという視点に立っています。〈天の有道にくみし給ふ所明らけしとも申すべし〉や〈天は報應誤らずといふべし〉、〈天の報應かくの如く明らかなり〉というわけです。ただし、〈天の報應あやまらずといへども、抑又みづから作れるの孽なり〉とされ、人の努力が大事だとされています。そして、〈天意のほどはかりがたき事にや〉と、天の知りがたいことが認識されています。
第二節 朱子学派・南学
朱子学派の一つに南学があります。南学は、海南学派とも呼ばれます。南村梅軒が土佐で興し、実践重視の思想に特色があります。山崎闇斎らが著名です。
第一項 山崎闇斉
山崎闇斎(1618~1682)は、江戸前期の儒学者です。また、闇斎の独自の神道説である垂加神道の提唱者でもあります。神儒一致説を唱えました。
『大学垂加先生講義』では天道に対し、〈造化ト云ガヤツパリ天道也。ソノ流行ノナリヲ云也。造ハ無ヨリ有ニ向ヒ、化ハ有ヨリシテ無ニ趣〉とあります。無より有に向かい、有より無におもむく、それが造化であり、その流れ行くあり方が天道なのだとされています。
『闢異』においては、〈それ天下の道、経あり権あり、経は万世の常、人皆もつてこれを守るべきなり。権は一事の用、聖賢に非ずんば用ふる能はざる也〉と述べられています。経道とは常に成立つ道であり、万民が守るべき道です。権道とは時に応じて行う処置のことで、朱子学の立場から聖人に限っています。
また、原念斎の『先哲叢談』第九条に、闇斎について次のような逸話が載っています。
嘗て群弟子に問ひて曰く、「方今彼の邦、孔子を以て大将と為し、孟子を副将と為し、騎数万を率ゐ、来りて我が邦を攻めば、則ち吾党孔孟の道を学ぶ者、之れを如何と為す」と。弟子咸答ふること能はずして曰く、「小子為す所を知らず。願はくは其の説を聞かん」と。曰く、「不幸にして若し此の厄に逢はば、則ち吾党身に堅を被り、手に鋭を執り、之れと一戦して孔孟を擒にし、以て国恩に報ず。此れ即ち孔孟の道なり」と。
つまり、孔子と孟子が日本に攻めてきたら、武器を取って戦って国の恩に報いるというのです。それこそが孔孟の道だと、闇斎は言うのです。
第二項 浅見絅斉
浅見絅斎(1652~1711)は、江戸中期の儒学者です。山崎闇斎に入門しましたが、後に破門されています。
『?録』には、〈天地一貫日用常行ノ実理ヲ公ノ心ヲ以日用人道ノ正脈ト知ザルコトコソ悲キ〉とあります。日常の役に立つ公の心こそが人の道であり、それを知らないでいるなら悲しいことだと語られています。他にも道について、〈道ト云ヘバ、常行平易ノ行ヲ主トシテ、夫ノ孝弟忠信ノ筋ニ能合故也〉とあります。道は常にやりやすいことを主として、人との関わりによく合うものだというのです。道と理の関係については、〈道ト理ト両ツナシ。道ハ日用ノ則ヨリ云、理ハ其道ノ道タル真実ヲ云ヘバ、理ニ非レバ道ニ非ズ、道ニ非レバ理ニ非〉とあります。日常の面から言えば道であり、真実の面から言えば理なので、道は理であり理は道なのだとされています。天と道の関係は、〈夫天人ノ道ハ一也。人ヨリ云ヘバ人道ト云、天ヨリ云ヘバ天道〉とあります。道とは、人間から見れば人道で、天から見れば天道なのだとされています。
『浅見先生学談』では山崎闇斎の影響から、〈異国ノヒイキスルハ大キナ異端、今デモ異国ノ君命ヲ蒙テ孔子朱子ノ日本ヲセメニ来ランニハ、ワレマヅ先ヘススンデ鉄砲ヲ以孔子朱子ノ首ヲ打ヒシグベシ〉とあります。ここでは攻めてくるのが孔子と朱子になっていて、攻めて来た孔子と朱子と戦うことが語られています。〈異国ノ人ノマネヲスル事、正道ヲ知ラザルガ故ナリ〉というわけで、正道には自分の国という意識が必要なことが示されています。
第三節 陽明学派
陽明学とは、朱子学の克服を目指し、王守仁[陽明](1472~1528)が提唱した儒教学説のことです。朱子学の「性即理」、「知先行後」説に対して「心即理」、「知行合一」、および「致良知」説を掲げます。陽明学は、朱子学と同じく儒教の伝統的言説の内にあります。
日本では、江戸時代に中江藤樹によって初めて講説されました。理学への不信を基調とし、陽明学は実践倫理と意識され受容されました。
第一項 中江藤樹
中江藤樹(1608~1648)は、江戸前期の儒学者です。日本陽明学派の祖です。近江聖人と呼ばれました。
『翁問答』では、〈太虚神明のほんたいをあきらめ、たてたる身をもつて人倫にまじわり万事に応ずるを、道をおこなふといふ〉とあります。虚空や神々の本体を明らかにし、身を立て人々と交わり、あらゆることに応じていくことが道を行うということだと語られています。
文武の道に関しては、〈戈を止(やめる)といふ二字をあはせて武の字をつくりたり、文道をおこなはんための武道なれば、武道の根は文なり。武道の威をもちいておさむる文道なれば、文道のねは武なり。そのほか万事に文武の二ははなれざるものなり〉とあります。万事において、文と武の両方が必要だと語られています。
また治国は君主が道を行うことで治まると説きます。〈君の心あきらかに道をおこなひたまひぬれば、法度はなくても、をのづから人のこころよくなるものなり〉とあり、〈法治はきびしきほどみだるるものなり〉とし、〈徳治は、先我心を正くして人の心をただしくするもの也〉とまとめています。『韓非子』に代表される法家の考え方である法治では、法律を厳正にこまかく定めることによって政治を行おうとします。これに対し、藤樹は道徳を基にした徳治を主張しています。
また、藤樹の道に対する考え方では、権の道が重要です。権の道とは、臨機応変の道のことです。〈権を準的として工夫せざれば明徳を明(あきらか)にすべき道なし〉とし、〈権の外に道なし。道の外に権なし。権の外に学なく学の外に権なし〉と述べられています。初学者も権を目標として努力工夫すべきだという、藤樹独自の考えが展開されています。ですから、〈道は太虚に充満して身をはなれざるものなれば、もとより平生日用の礼法も道なり。また非常の変に処する義も道なり〉となります。つまり、常日頃から行う礼法も道であり、非常事態に取る処置もまた義であり道なのだとされているのです。そのため、〈権は道の惣名なれば、権すなはち道、道すなはち権なる故に、道也といはんために権也といへるなり〉と語られているのです。
この権の道の考え方の故に、〈時と処と位とによくかなひて相応したる義理を中庸となづけたり〉というのです。時・所(処)・位とは時代と場所と地位のことです。時代と場所と地位に適う義理が、中庸と呼ばれるのです。
第二項 熊沢蕃山
熊沢蕃山(1619~1691)は、江戸前期の儒学者であり経世家です。短い期間ですが、中江藤樹に陽明学を学び、岡山藩主池田光政に仕えました。晩年、政治批判で幕府に疎まれ、幽囚中に病死しました。
『集義和書』には、〈聖人の道は、五倫の人道〉とあります。五倫の人道とは父子の親・君臣の義・夫婦の別・兄弟の序・朋友の信のことです。『孟子』の[滕文公上]の語に由来します。
文武に関しては、師である中江藤樹から影響を受け、〈世間に、文芸をしり武芸をしりたる者を、文武二道といふは、至極にあらず。これは文武の二芸といふべし。芸ばかりにて知仁勇の徳なくば、二道とは申がたかるべく候〉とあります。文武の二道には、知仁勇の徳が必要なことが示されています。
誠に関しては、〈誠は天の道也。誠を思ふは人の道なり〉とあります。誠のままであるのは天道、誠のままになろうと思い力を尽くすのは人道という考えには『孟子』や『中庸』からの影響が見られます。
また、〈世の、道をいふ者、すこしきなり。故に大道の名あり。大道とは大同なり。俗と共に進むべし、独り抜ずべからず。衆と共に行ふべし〉とあります。その行うべき道はというと、〈それ道は声なく臭もなくして存せり。思に及がたし。思は言にのべがたし。言は書に尽しがたし〉と述べられています。道は声も臭いもなく、思うことも言い表すことも書き尽くすことも困難です。では、どういうものが道かというと、〈欲と云は此形の心の生楽なり。欲の、義にしたがつてうごくを道と云〉とあります。欲とは、肉体的な気質の心の持つ生の楽しみのことです。欲が義にしたがって動くならば、道となるのです。ですから、〈志といふは道に志す也。初学の人、道に志ざして、いまだ道をしらずといへども、心思のむかふ所正〉と述べているのです。道に志せば、心は正しいところへ向かうというのです。
『集義外書』では、〈神代には神道といひ、大代には王道といふ、其實は一なり。大道の世を行めぐる兩輪は文武にて候〉とあります。神道も王道も一つであり、文武が重要だと説かれています。
道と法との関係性については、〈道と法とは別なるものにて候を、心得ちがひて、法を道と覚えたるあやまり多く候。法は中国の聖人といへども代々に替り候。况日本へ移しては、行がたき事多く候。道は三綱五常これなり〉とあります。法は、時代ごとに変化するため、他国から日本に移してそのまま使用することは出来ません。道は法とは違います。道は三綱五常だとされています。三綱は君臣・父子・夫婦の道で、五常は仁義礼智信の徳のことです。そこで、〈法は聖人時処位に応じて、事の宜きを制作し給へり〉ということになり、道は〈時処位の至善に叶はざれば道にはあらず〉ということになります。時代と場所と地位に応じて制作するのが法であり、時代と場所と地位において善に至るものが道なのだとされています。
また、〈それ道は大路のごとしといへり。衆の共によるべき所なり。五倫の五典十義是なり。いまだ道学の名なかりし前より行はる、天にうくるが故なり。万古不易の道也。礼法は聖人時所位によりて制作し給ふものなれば、古今に通じがたし。よく時にかなへば道に配す、時にかなはざれば道に害あり〉とあります。五典十義についてですが、五典とは、人の踏み行うべき五つの道をいい、『孟子』では〈父子親有り、君臣義有り、夫婦別有り、長幼序有り、朋友信有り〉とあり、『左伝』では〈父の義、母の慈、兄の友、弟の恭、子の孝〉を言います。十義とは、人のふみ行なうべき十の道を言いますが、蕃山は、『心法図解』の人道の図に〈父慈、子孝、君仁、臣忠、夫義、妻聴、兄良、弟悌、朋友、交信〉を記しています。礼儀作法などは、時代・場所・地位などによって変わります。そこで蕃山は、それを適宜に行なうことを説いています。儒書の礼儀作法はほとんど周代に作られたものなので、日本においてそのまま適用できないからです。
蕃山は、時・所(処)・位という視点から、外国思想の模倣を排して、日本思想の自主性へと進んでいるのです。
第三項 佐藤一斉
佐藤一斎(1772~1859)は、江戸後期の儒学者です。一般の教育には朱子学を用いましたが、一斎自身は陽明学も取り入れています。
『言志録』には、〈茫茫たる宇宙、此の道只だ是れ一貫す〉とあります。茫茫とは、ひろく果てしなく、さだかでないさまです。治国については、〈邦を治むるの道は、教養の二途に出でず。教は乾道なり父道なり。養は坤道なり母道なり〉とあります。乾道は天道のことで父道です。坤道は地道のことで母道です。要するに、教えは天より父より、養いは地より母より、ということが示されているのです。
『言志後録』には、〈道は固より窮り無く、堯舜の上善も尽くること無し〉とあります。道は極まりの無いものであり、堯や舜のような聖人の最高の善行でも、尽くすことができなかったというのです。天の道については、〈自ら彊めて息まざるは天の道なり。君子の以す所なり〉とあります。休みなく勉め続けるのが天の道であり、また君子の道でもあるというのです。また、道の心である道心については、〈道心は性なり、人心は情なり〉とあります。道心と人心を、性と情に等置する考え方は、中国には見られない独自なものです。その詳細は、〈心は二つ有るに非ず。其の本体を語れば、則ち之を道心と謂う。性の体なり。其の体躯に渉るよりすれば、則ち之を人心と謂う。情の発するなり〉となります。つまり、心が二つあるわけではなく、心の本性は道心であり、それが身体に関係するのが人心で、人心とは人間の情が外に現れたものだというわけです。性の発動したものが情で、性情は体用の関係にあるとされています。
『言志晩録』には、〈道を求むるには、懇切なるを要し、迫切なるを要せず。懇切なれば深造し、迫切なれば助長す。深造は是れ誠にして、助長は是れ偽りなり〉とあります。道を求める態度は、熱心さが必要で、焦ってはいけないというのです。熱心なら道の奥まで至り、焦れば無理をすることになります。道の奥まで至ることは誠であり、無理をすることは偽りの道だと語られています。
『言志耋録』には、〈慮らずして知る者は天道なり。学ばずして能くする者は地道なり。天地を?せて此の人を成す〉とあります。つまり、思慮分別を加えず先天的に知るのが天道で、学ばないでも自然にできるのが地道だとされています。この天道と地道を併せて、人間が形成されると考えられています。道と義の関係については、〈義は宜なり。道義を以て本と為す。物に接するの義有り。時に臨むの義有り。常を守るの義有り。変に応ずるの義有り。之を統ぶる者は道義なり〉とあります。義はよろしさとして示されています。そして、諸々のよろしさを統べる基として、道義があるとされています。人道は一斉において、〈人道は只だ是れ誠敬のみ〉と語られています。人の践み行うべき道は、誠と敬の二つだとされているのです。
第四項 大塩中斎
大塩中斎(1793~1837)は、江戸後期の陽明学者です。大塩平八郎の名のほうが有名だと思われます。儒学における原理、および古典における理想による体制批判を貫いた希有な思想家です。天保7年(1836)の飢饉に際して奉行所に救済を請うたが容れられず、蔵書を売って窮民を救いました。翌8年、幕政を批判して大坂で挙兵しましたが敗れて自決しました。
『洗心洞?記』では道について、〈道の大原は天より出づ〉とあります。『漢書』の[董仲舒伝]からの影響が見られます。人と天と道の関係では、〈人は即ち天なり。学なるものは、天徳を学ぶなり。道を明らかにするとは、天道を明らかにするなり〉とあります。人は天であり、学ぶということは天を学ぶと言うことが語られています。道とは天を明らかにすることだとされているのです。
また、〈道たるや屢しば遷り、変動して居らず、六虚に周流し、上下常无く、剛柔相易り、典要と為すべからず、唯だ変の適く所のままなり〉とあります。分かりやすく言うと、良知の真理性である道は固定的なものではなく、しばしば変化し、天地四方の空間にあまねく流通します。絶えず昇り降りして一定せず、剛毅さと柔軟さが相互に入れかわります。常に固定した法則として捉えることができず、ただ変化流転する動きのままに任せるほかはないのだということです。
その考え方に立った上で、〈道の外に事無く、事の外に道無し。道理は只だ是れ眼前の道理〉と語られています。中斉は、道と事とは一体だと述べているのです。
第四節 古学派・朱子学
古学派とは、朱子学を批判し、古代経書によって孔子・孟子の学問に帰ろうとした学派を言います。古学派の呼称は、井上哲治郎(1855~1944)によります。井上は山鹿素行・伊藤仁斎・荻生徂徠の三名をして、古学派の代表としました。貝原益軒は朱子学派と見なされますが、井上哲治郎は、白石が『大疑録』によって朱子学的立場に疑義を呈したことをもって古学派に数え入れています。
第一項 貝原益軒
貝原益軒(1630~1714)は、江戸前期の儒学者です。薬学を学び、朱子学を奉じました。教育・歴史・経済の面にも功績があります。
『大疑録』には、〈蓋し遠きに行くは、必ず邇きよりし、高きに登るは、必ず卑きおりするが如し。これ序に循ひて道に漸進するなり〉とあります。思うに遠方に行く者はかならず身近から踏み出し、高山に登る者はかならず低地から踏み出すようなもので、これが順序どおりに一歩一歩道へと進むことだというのです。道そのものについては、〈故に渾沌の時を以て、これを名けて太極と謂ひ、流行の時を以て、これを名けて道と謂ふ。太極と道とは、その実一なり。道は則ち太極の流行する所、太極は則ち一気の未だ流行せざるの尊号にして、二あるにあらざるなり。蓋し二気の流行の、条理ありて乱れず、常にして正しきものは、これを名けて道となす〉とあります。根源の気である太極が、条理によって乱れず正しく流れ行くのが道だとされています。
『慎思録』では道について、〈道は天地の主宰、陰陽の綱紀、万物の根柢、人身の徳行なり〉とあります。道は天地を司る全ての根源であり、人間の徳でもあるのです。そこにおいて、〈道なるものは天地を主宰し陰陽を総摂して万物を化生する所以のものなり。その流行を以てこれを道といひ、その気に主となりて条貫あるを以てこれを理といふ。その実、道と理とは一なり〉と語られています。万物を生じさせて流れ行くことが道であり、その筋が通っていることが理なのだというのです。ですから、道と理とは一つなのだとされています。
『五常訓』では、〈道ヲ信ズル志ハ、専一ニシテ、アツカルベシ〉と説かれています。
『大和俗訓』には、〈天地の御心にしたがふを以て道とす。天地の御心にしたがふとは、我に天地より生れつきたる仁愛の徳をうしなはずして、天地の生める所の人倫をあつくあはれみうやまふをいふ。是れ乃ち人の行ふべき所にして、人の道なり〉とあります。天地の心に従うのが道であり、それは仁愛の人倫である人の道だというのです。道の学び方については、〈博く学ぶの道は、見ると聞くとの二をつとむ。聖賢の書をよみ、人に道をききて、古今を考へて道理を求むるなり〉とあります。書を読み人に聞き、古今を考えることで道理を求めるというのです。そこでは、〈道理はわが一心にそなはり、その用は萬物の上にあるなれば、まづわが一心の道理をきはめ、次には萬事につきてひろき道理をもとめて、わが心中に自得すべし〉と考えられています。自分の心に道理を得、万物の道理に広げていって自身のものとすべきだということです。ですから、〈道心とは、仁義禮智の本性よりおこる善心なり〉と語られているのです。このことから、〈恩を報ふこと、人道の大節なり。禽獣は恩をしらず、恩をしるを以て人とす。恩をしらざるは、禽獣にひとし。是れ禽獣とわかる所なり〉ということになります。恩を知るから人間なのだと考えられています。だからこそ、〈人の見になすわざ、何事にも道あらずといふことなし〉と語られているのです。また、〈心には、古の道を守り行ひ、身の作法は今の世の風俗にそむくべからず。今の世に生れ、古の法にかかはりて、必ず行はんとするはひがことなり。道に害あり。古法の内、當世の時宜にそむくべからず。又、當世の風俗にながれて、古の道にそむくは甚だわるし。是れ道に志なきなり。道は五常五倫といふ。法は禮なり。作法をいふ〉とあります。心には古の道を守りますが、今の世の風習にも従うべきだとされています。それは時宜に適うようにすべきということであり、時代に迎合して良いと言うことではありません。今の世のあり方に合わせるとともに、正しいことは譲れないということです。ですから、〈人つねにわが身をかへりみて、わが身に道を求むべし〉と語られているのです。
第五節 古学派・聖学
本節では、古学派の中でも聖学と呼ばれる類型について述べます。聖学は、山鹿素行に代表されます。
第一項 山鹿素行
山鹿素行(1622~1685)は、江戸初期の儒学者です。素行は、泰平期における武士の存在根拠を儒教道徳に求め、そこから武士のあるべき姿を士道として提唱しました。
『聖教要録小序』には、〈それ道は天下の道なり、懐にしてこれを蔵(かく)すべからず〉とあります。ここでの道とは、宇宙(天地)を律する天地の誠が聖人を介して具体化した規範のことです。
『聖教要録』では、〈聖学は名の為ぞや。人たるの道を学ぶなり。聖教は何の為ぞや。人たるの道を教ふるなり。人学ばざれば則ち道を知らず〉とあり、道を学ぶことの重要性が説かれています。道そのものについては、〈道は日用共に由り当に行なふべき所、条理あるの名なり。天能く運(めぐ)り、地能く載せ、人物能く云為す。おのおのその道ありて違ふべからず。道は行なふ所あるなり。日用以て由り行なふべからざれば、則ち道にあらず。聖人の道は人道なり。古今に通じ上下に亙り、以て由り行なふべし〉と述べられています。道とは日常行うことに条理が伴うことであり、天・地・人のそれぞれに働くものだというのです。そこに違いはなく、日常的に行われていることがすなわち道なのです。聖人の道は人の道であり、古今や身分の上下によらず規範となるものとされています。そこで道という条理は、人が歩く道路に例えられているのです。つまり、〈道の名は路上より起これり。人の行くこと必ず路あり〉というわけです。素行においては、〈聖人の道は大路なり、異端の道は小径なり〉と見なされています。
第六節 古学派・古義学
本節では、古学派の中でも古義学と呼ばれる類型について述べます。古義学は、伊藤仁斎に代表されます。
第一項 伊藤仁斎
伊藤仁斎(1627~1705)は、江戸前期の古学派を代表する儒学者です。仁斎は『論語』を最上至極宇宙第一の書とし、『孟子』を義疎とし、孔子の教説の本来の意義を求めました。
『語孟字義』の[天道]では、〈道はなお路のごとし。人の往来通行するゆえんなり。故におよそ物の通行するゆえんの者、みなこれを名づけて道と曰う〉とあります。
[道]では、〈道はなお路のごとし。人の往来するゆえんなり。故に陰陽こもごも運る、これを天道と謂う。剛柔相須うる、これを地道と謂う。仁義相行なわるる、これを人道と謂う。みな往来の義に取るなり。又曰く、道はなお途のごとし。これに由るときはすなわち行くことを得、これに由らざるときはすなわち行くことを得ず〉とあります。また、〈道とは、人倫日用当に行くべきの路、教えを待って後有るにあらず〉ともあります。
道と理の関係については[理]で、〈理の字 道の字と相近し。道は往来をもって言う。理は条理をもって言う〉とあり、〈道の字はもと活字、その生生化化の妙を形容するゆえんなり。理の字のごときはもと死字、玉に従い里の声、玉石の文理を謂う〉とあります。活字とは、動作を含む意味の言葉で死字に対します。死字とは、状態の形容をいう言葉です。『童子問』には、〈蓋し道や、性や、心や、皆生物にして死物に非ず〉とあります。道や性質や心は、みんな生き物であり死物ではないとされています。活物と死物については、〈何となれば、流水は源もと有って流行す。活物なり。止水は源と無うして停蓄す。死物なり〉とあります。流れる水が活物として、留まっている水が死物として示されています。
道と徳の関係については[徳]で、〈道・徳の二字、亦甚だ相近し。道は流行をもって言う。徳は存するところをもって言う。道はおのずから導くところ有り。徳は物を済(な)すところ有り〉とあります。流行とは、変化していく状態のことです。
[誠]では、〈誠は、実なり〉とされ、〈誠とは、道の全体〉と定義されています。具体的には、〈千言万語、みな人をしてかの誠を尽くさしむるゆえんにあらずということなし。いわゆる仁義礼智、いわゆる孝弟忠信、みな誠をもってこれが本とす〉と語られています。
[権]では、〈権は即ち是れ経、経は即ち是れ権〉とあります。経は常に行う直正なる処置で、権は時に応じて行う処置のことです。仁斉は、〈権とは、一人の能くするところにして、天下の公共にあらず。道とは、天下の公共にして、一人の私情にあらず〉と述べています。
[堯・舜すでに没し邪説暴行又作るを論ず]では、〈道二つ。邪と正とのみ。天下あに常道より大なる者有らんや。もし常道を外にして、別に大道有りと謂うときは、すなわちそのいわゆる「大道」という者は、必ず是れ邪説なり。故に人倫の外道無く、仁義の外学無し。人の当に力を務むべきところの者は、人倫のみ〉とあります。道は、人と人との間にあるものであり、その外には無いものだというのです。
『童子問』でも、道について大いに語られています。[童子問を刊する序]には、〈道の天下に在るや、処として到らずということ無く、時として然らずということ無く、聖人の為めにして存せず、小人の為にして亡びず、古今に亙って変ぜず、四海に放って準有り、日用彝倫の間に行なわれて、声も無く臭も無き理に非ず〉とあります。「彝」は常のことであり、「倫」は仲間のことです。それがどういうものか簡単にいうと、〈其の目四有り。曰く仁義禮智〉となります。
『童子問』では、人が人倫という意味で使われる場合と、個人という意味で使われる場合があります。
人が人倫という意味で使われる場合は、〈人の外に道無く、道の外に人無し。人を以て人の道を行う、何んの知り難く行い難きことか之れ有らん〉とあります。そのとき、〈道とは何ぞ。父子に在っては之を親と謂い、君臣には之を義と謂い、夫婦には之を別と謂い、昆弟には之を序と謂い、朋友には之を信と謂う〉のです。人倫における交わりが道なのだとされています。
人が個人という意味で使われる場合は、〈道とは人有ると人無きとを待たず、本來自ら有るの物、天地に満ち、人倫に徹し、時として然らずということ無く、處として在らずということ無し〉とあります。道は、個人という単位に関係なく存在するとされています。では、どの単位で存在するのかというと、もちろん人倫という単位です。
他にも『童子問』から、道について論じられているところをいくつか挙げてみます。〈卑近を忽にする者は、道を識るに非ず〉、〈人道の仁義有るは、猶天道の陰陽有るがごとし。仁義を外にして豈に復た道有らんや〉、〈王道は即ち仁義、仁義の外、復王道有るに非ず〉、〈俗の外に道無く、道の外俗無し〉、〈夫れ道は仁義禮智に至って極まり、教は孝弟忠信に至って盡く〉、〈陰陽往來して、天道成る。剛柔相濟して地道成る。仁義相須いて、人道成る。天の道は陰陽に盡き、地の道は剛柔に盡き、人の道は仁義に盡く〉、〈道とは、中庸に至って極まる〉など、道について様々な角度から語られています。
第二項 伊藤東涯
伊藤東涯(1670~1736)は、江戸中期の古学派の儒学者です。当時、江戸の荻生徂徠と並び称された大儒です。伊藤仁斎の長男であり、父の思想を祖述し、普及に努めました。
『古今学変』では、〈道とは何ぞ。仁是れなり〉とあります。仁斉は道を仁だけに限定するのを嫌う傾向がありますが、東涯は道を仁だとはっきりと述べています。
道と徳の関係については、〈衆人の上に就いて、その同じく行なうところをもって言うときは、すなわちこれを道と謂う。各人の上に就いて、その倶に得るところをもって言うときは、すなわちこれを徳と謂う〉と述べています。
道と学の関係については、〈道 万世に易わらずして、学に古今の異有り〉とあります。道は変わらないものですが、学問には古今で異なるところがあるとされています。
第七節 古学派・古文辞学
本節では、古学派の中でも古文辞学と呼ばれる類型について述べます。古文辞学は、荻生徂徠に代表されます。
第一項 荻生徂徠
荻生徂徠(1666~1728)は、江戸中期の古学派を代表する儒学者です。朱子学や仁斉学を批判し、中国明代の古文辞派から示唆を受けて、六経に依拠した古文辞学を唱えました。
『弁道』には、〈道は知り難く、また言ひ難し。その大なるがための故なり。後世の儒者は、おのおの見る所を道とす。みな一端なり。それ道は、先王の道なり〉とあります。そこでは、〈孔子の道は、先王の道なり。先王の道は、天下を安んずるの道なり〉と考えられています。
では、先王の道とは何かというと、〈道なる者は統名なり。礼楽刑政凡そ先王の建つる所の者を挙げて、合せてこれに命くるなり。礼楽刑政を離れて別にいはゆる道なる者あるに非ざるなり〉と語られています。統名とは、礼節・音楽・刑罰・政治など多くを総括した名称です。〈先王の道は、先王の造る所なり。天地自然の道に非ざるなり〉と徂徠は考えます。そこでは、〈礼楽刑政は、先王これを以て天下を安んずるの道を尽くせり。これいはゆる仁なり〉ということになります。そのため、〈故に人の道は、一人を以て言ふに非ざるなり。必ず億万人を合して言をなす者なり〉と語られるのです。人の道は、たくさんの人々有ってのものなのです。そこでは、〈故に先王の道は、礼を以て心を制す〉とされ、〈故に聖人の道は、養ひて以てこれを成すに在り〉と語られています。
『弁名』でも、同様に語られています。『弁名』には、〈道なる者は統名なり。由る所あるを以てこれを言ふ。けだし古先聖王の立つる所にして、天下後世の人をしてこれに由りて以て行はしめ、しかうして己もまたこれに由りて以て行ふなり。これを人の道路に由りて以て行くに辟ふ。故にこれを道と謂ふ。孝悌仁義より、以て礼楽刑政に至るまで、合せて以てこれに名づく、故に統名と曰ふなり〉とあります。道は、礼節・音楽・刑罰・政治や孝悌仁義などを合わせた統名だというのです。それは聖王の立てたところであり、人が行う基準であると語られています。
その道ですが、〈けだし道なる者は、堯舜の立つる所にして、万世これに因る。然れどもまた、時に随ひて変易する者あり。故に一代の聖人は、更定する所あり〉と、聖人が道を変更することについて述べられています。これは以前の道に足りないところがあるからでも、以前の道には既に至ったからでも、新しいものを善しとするからでもありません。〈一代の聖人には、数百歳の後を前知して、これを以て世運を維持し、遽かには衰へに趨かざらしむる所の者の存することあり〉と、聖人の未来を見通す知恵の偉大さが示された上で、〈聖人の智に非ざるよりは、いまだその更改する所以の意を与り知ること能はざる者なり〉と、聖人でなければ道の変更理由は分からないとされているのです。『徂來先生答問書』においては、〈古の聖人之智は、古今を貫透して今日様々の弊迄明に御覧候〉とあります。聖人の知恵は、古今を通じて今日の様々な弊害まで明らかに見通していると考えられています。
道と徳の関係については、〈徳なる者は得なり。人おのおの道に得る所あるを謂ふなり〉とあります。道と理の関係については、〈ただ道はこれを行ふを主とし、理はこれを見るを主とす〉とあります。
『学則』では、〈世は言を載せて以て遷り、言は道を載せて以て遷る。道の明らかならざるは、職としてこれにこれ由る〉とあります。時代の変遷とともに言葉が変遷し、言葉の変遷とともに先王の道が変遷します。これを主な理由として、道は明らかに成りがたいと語られているのです。
第二項 太宰春臺
太宰春臺(1680~1747)は、江戸中期の儒学者です。徂徠学派の一人です。
『経済録』では荻生徂徠の影響から、〈孔子之道者、先王之道也。先王之道ハ、天下ヲ治ル道也。先王ノ道ハ、六経ニ在リ〉とあります。孔子の道は先王の道であり、それは天下を治める道で、六経という書物に示されていると考えられています。
『聖学問答』には、〈道は、帝王の天下を治め人民を安んずる所以の物なり。斯の物を作す、これを聖と謂ふ〉とあります。『礼記』の楽記篇に〈作る者これを聖と謂ふ〉とあるのを受けています。天下を治め人民を安心させる道は、聖人が作ったものなのだと語られているのです。
第三項 亀井昭陽
亀井昭陽(1773~1836)は、江戸後期の儒者です。学問上の特徴として、徂徠学を基調としつつ、実際的機能における朱子学の有効性も否定していないことが挙げられます。
『読辨道』には、〈道は其れ何するものか。唯だ聖人、能くその全きを観て、これを建つるを為す。後世、囂囂。而して道は則ち巋然たり〉とあります。囂囂とは、喧しいさまです。巋然とは、独り立ちしているさまです。道について、後世の人たちが色々と喧しく述べていますが、道は独立しているのだと語られています。
第四項 広瀬淡窓
広瀬淡窓(1782~1856)は、江戸後期の儒学者です。近世最大規模といわれる私塾の咸宜園を創設して、三千人余りの門弟を教育しました。
『約言』では、〈道の帰を論じて、これを敬天と謂ふ〉とあります。道の落ち着くところは天を敬うことだと述べています。また、治と教について、〈治なるものは教への具、教へなるものは治の本、合してこれを言へば道なり〉と述べています。治めることは教えることを備え、教えることは治める本で、併せて道だというのです。
第八節 近世の儒者
近世の儒者について述べます。近世の儒者は、西欧と直面した状況において言説を展開しています。
第一項 横井小楠
横井小楠(1809~1869)は江戸末期の熊本藩士です。富国強兵を説き、公武合体運動で活躍しましたが、明治維新後に暗殺されました。
『夷虜応接大意』では、〈我国の万国に勝れ世界にて君子国とも称せらるるは、天地の心を体し仁義を重んずるを以て也。されば亜墨利加(あめりか)・魯西亜(ろしあ)の使節に応接するも、只此天地仁義の大道を貫くの条理を得るに有り〉とあります。 亜墨利加・魯西亜の使節とは、嘉永六年六月三日浦賀に入港したアメリカ使節ペリー、同七月十八日長崎に来航したロシア使節プチャーチンを指します。日本が優れているのは仁義を重んじるからであり、その仁義をもってアメリカやロシアと応接すべきだと語られています。そうすることで、大道を貫く条理を得ることができると考えられています。つまり、〈凡我国の外夷に処するの国是たるや、有道の国は通信を許し、無道の国は拒絶するの二ツ也〉というわけです。
『国是三論』では、〈天地の気運に乗じ万国の事情に随ひ、公共の道を以て天下を経綸せば万方無碍にして、今日の憂る所は惣て憂るに足らざるに至るべきなり〉と公共の道について述べています。天地の気運とは、時の勢いのことです。万方無碍とは、すべての方面でさわりのないことです。時勢や各国の事情に従い、公共の道によって国の秩序を整えてすべての方向に対処すれば、問題はないのだと語られています。
人の道については、〈曰、凡人と生れては必父母あり。士となりては必君あり。君父に事(つかう)るに忠孝を竭すべきは、人の人たる道なる事を知るは固有の天性にして、教を待て知るに非ず。其道を尽さん事を思ふよりして、徳性に本づき条理に求め、是を有道に正すは文の事也。其心を治め其胆を練り、是を伎芸に験(こころ)み事業を試るは武の事也〉とあります。其道を尽さん事とは、忠孝の道を十分に実践することです。有道に正すとは、道を体得している人について正しく導くことです。忠孝は人間の天性であり、教えられて知るものではないとされています。人の徳の性質に基づき条理を求めるのは文であり、心を鍛えて事業に臨むのは武だと語られています。
第二項 橋本左内
橋本左内(1834~1859)は幕末の福井藩士です。杉田玄白らに蘭学・医学を学び、藩政改革に尽力しました。安政の大獄で斬(ざん)罪(ざい)に処されました。
『学制に関する意見?子』では、〈聖人の道と申も、畢竟人倫日用之外には之れ無き候得ば、物外之道にてはなし〉とあります。聖人の道といえども、人間の日常の外にあるものではないとされています。具体的な事物以外に道理はないのだと語られています。 
第五章 武士道 

 

武士道は、日本の武士階級に由来する思想です。日本史において、武士階級が政治上の実権を掌握した期間はおよそ600年の長きに渡ります。武士の思想は時代とともに変遷していますが、大きく分けると、鎌倉時代に始まる戦場における主従関係を基にしたものと、江戸時代の天下太平における儒教の聖人の道に基づいたものに分類できます。前者は、献身奉公としての武者の習いであり、後者は武士を為政者とする士道(儒教的武士道)です。武士道は、武士たる者の身の処し方としての「武士の道」であり、武士道関連の書物には、武士の「道」についての伝統が展開されています。その影響は、武士が政治の実権を握った時代のみならず、その前後の期間にも見ることができます。本章では、日本の武士道における武士の「道」を見ていきます。
第一節 和歌
『万葉集』の[巻第三・四四三]には、武士と書いて「ますらを」と読む用法が見られます。〈天雲の向伏す国の武士(ますらを)〉とあり、天雲が遠く地平につらなる国の勇敢な男が武士なのだと語られています。また、[巻第六・九七四]には〈丈夫の行くといふ道そおほろかに思ひて行くな大丈の伴〉とあります。つまり、雄々しい男子の行く道は、いいかげんに考えて行くな、雄々しい男子どもよ、と謡われているわけです。『万葉集』において既に、〈武士〉という単語があり、武士道の前身となる道が「丈夫の行くといふ道」として謡われているのがわかります。
室町前期の勅撰和歌集である『風雅和歌集(1349~1349頃成立)』にも、「武士の道」を見つけることができます。[雑下・一八二三]に、〈命をばかろきになして武士の道より重き道あらめやは〉とあります。武士の道は、命よりも重いものだと考えられています。
第二節 説話物語
日本の説話物語においても、武士道に連なる道を見ることができます。
『今昔物語集』には、「弓箭の道」が語られています。〈我弓箭の道に足れり。今の世には討ち勝つを以て君とす〉とあり、勝つことの重要性が説かれています。他には、〈心太く手利き強力にして、思量のあることもいみじければ、公も此の人を兵の道に使はるゝに、聊か心もとなきことなかりき〉とあり、「兵の道」という表現を見ることができます。〈兵の道に極めて緩みなかりけり〉ともあります。「兵の道」という言葉は、『宇治拾遺物語』にも見ることができます。
『十訓抄』には、〈最後に一矢射て、死なばやと思ふ。弓矢の道はさこそあれ〉とあります。また、〈弓箭の道は、敵に向ひて、勝負をあらはすのみにあらず、うちまかせたることにも、その徳多く聞ゆ〉ともあり、弓箭の道は敵に向って勝負を決するばかりではなく、多くのことに武芸は見られると語られています。
無住(1226~1312)の『沙石集』には、〈武勇の道は、命を捨つべき事と知りながら〉という表現を見ることができます。
第三節 軍記物語
軍記物語とは、平安時代末期から室町時代に至る武士集団の戦闘合戦を主題にした叙事文学のことです。その先駆的作品は『将門記』や『陸奥話記』です。編纂された時代の主従の道徳、情緒や献身、不惜身命の精神、家名と名を惜しむ武士のあるべき姿が、仏教、儒教、尊皇思想を背景に語られています。
『保元物語』では、「弓矢取る者」について語られています。〈弓矢取る者のかかる事に遭ふは、願ふ所の幸ひなり〉とあり、武士たる者が名誉の戦死に逢うことは、願うところであり幸いであると語られています。また、「兵の道」や「武略の道」という表現も物語の中に見ることができます。
『平治物語』では、「弓箭取り」や「弓矢取る身」などの表現が見られます。弓箭取りに関しては、〈弓箭取りと申し候ふは、殊に情けも深く、哀れをも知りて、助くべき者をば助け、罰すべき者をも許したまへばこそ、弓箭の冥加もありて、家門繁昌する慣らひにて候ふに〉とあります。つまり、武士は特に情け深く哀れを知り、助けるべき者を助け、罰すべき者も許し助けてこそ武芸に加護もあり、一家が繁昌することになると語られているのです。
『平家物語』では、仏教的な因果論が語られています。その中で「坂東武者の習」や「弓矢とる身」などの表現が見られます。坂東武者の習に関しては、〈坂東武者の習として、かたきを目にかけ、河をへだつるいくさに、淵瀬きらふ様やある〉とあります。坂東武者(関東武士)の習わしとして、敵を目前にして、川を隔てた戦いに、淵だ瀬だと選り好みしていられるか、というわけです。
『太平記』では、儒教的な名文論が語られています。その中で「弓矢取る身の習ひ」、「弓馬の道」、「弓矢の道」、「弓箭の道」、「侍の習ひ」などの表現が出てきます。弓矢取る身の習ひに関しては、〈大勢を以て押し懸けられ進らせ候ふ間、弓矢取る身の習ひにて候へば、恐れながら一矢仕つたるにて候ふ〉とあります。大軍勢で押し寄せられたとき、弓矢取る身の習いとして一矢報いたというのです。弓矢の道に関しては、〈述懐は私事、弓矢の道は、公界の儀、遁れぬところなり〉とあります。恨みは私事で弓矢の道は公の道理で、これは避けられないことだというのです。また、〈今更弱きを見て捨つるは、弓矢の道に非ず。力なきところなり。打死するより外の事あるまじ〉ともあります。今更に弱いものを見捨てるのは、弓矢の道ではないと言います。そのときに力がなければ、討死する他の選択肢はないというのです。
歴史的な事実がどうあれ、軍記物語からは現実の武士が、武士としての規範を持っていたことが伺えます。そうでなければ、軍記物語において武士の理想が語られることはありえないからです。
第四節 家訓
武士道に連なる道は、武家の家訓においても見ることができます。
第一項 北条早雲
北条早雲(1432~1519)は室町後期の武将です。
『早雲寺殿廿一箇条』は、早雲が定めたと伝えられています。この家訓に、〈文武弓馬の道は常なり。記すに及ばず〉とあります。「弓馬の道」は当たり前のことであり、記すまでもないと語られています。
第二項 黒田長政
黒田長政(1568~1623)は、安土桃山から江戸初期の武将です。
『黒田長政遺言』には、〈殊ヲ文武ノ道ヲワキマヘ、身ヲ立テ名ヲ上ント思フ程ノ士ハ、主君ヲ撰ビ仕ル者ナレバ、招カズシテ馳集ルベキ事勿論ナリ〉とあります。身を立て名を上げたいと思う武士は、主君を選ぶために招かれなくても馳せ参じるのだと語られています。戦国時代の主従関係を念頭においたもので、後代になると家訓にこれに類する文章は見られなくなります。
第三項 本多忠勝
本多忠勝(1548~1610)は、江戸初期の大名です。通称は平八郎です。
『本多平八郎書』では、〈武士たるものは道にうとくしてはならず、道義を第一心懸べし。又、道に志し賢人の位にても、武芸を知らねば軍役立ず〉とあります。武士の道では道義が第一であるとともに、武芸も大事だと述べられています。
第五節 甲陽軍鑑
『甲陽軍鑑』は、全20巻59品から成ります。内容は、甲州武田武士の事績や心構えや武将の条件などが記されています。戦国乱世に形成された武士の思想が集大成されています。武田家は1582年(天正10年)に滅亡しています。
『甲陽軍鑑』の「甲」は、甲斐を意味します。「陽」は、万物が豊かに成長し、稔る意のことばで、「甲」を修飾しています。「軍鑑」は、戦いの歴史物語の意です。「鑑」には、歴史物語が世俗世界を映し出す鏡であり、後代のひとびとにとっての戒めであることが含意されています。
『甲陽軍鑑』の〔品第六〕では、〈若しこの反古落ち散り、他国のひとの見給ひて、我家の仏尊しと存ずるやうに書くならば、武士の道にてさらにあるまじ。弓矢の儀は、たゞ敵・味方ともにかざりなく、ありやうに申し置くこそ武道なれ〉とあります。もしこの『甲陽軍鑑』が散らばって他国の人が読むとき、自分の領国の武将を贔屓目に書いていたのでは、それは「武士の道」ではないというのです。合戦では、敵味方を問わずに、ありのままに述べ伝えるのが「武道」だとされているのです。
〔品第十三〕では、〈またよきひとは、各々ひとつ道理に参るにつき一段仲よきものにて候ぞ〉とあり、優れた武士はそれぞれ同一の道理に従うから、一段と仲がよいものだと語られています。
〔品第十六〕では、〈其故は法をおもんじ奉り何事も無事にとばかりならば、諸侍男道のきつかけをはづし、みな不足を堪忍仕る臆病者になり候はん〉とあります。たとえ掟であっても、不足なことでも堪忍するのは「男道」のきっかけを外すものとされています。〈男道を、失ひ給はんこと、勿体なき義也〉ということから、〈某子どもに男道のきつかけをはづしても、堪忍いたせとあることは、聊も申し付けまじ〉と語られています。
〔品第四七〕では、〈是は只の事にあらず侍道の事なれば、目安をもって信玄公の御さばきに仕られ〉とあり、ただ事ならざるものとしての「侍道」が語られています。
第六節 兵法家伝書
柳生宗矩(1571~1646)は、江戸初期の剣術家です。徳川家康に仕え、徳川秀忠に新陰流を伝授しました。
『兵法家伝書』では、〈道ある人は、本心にもとづきて妄心をうすくする故に尊し。無道の人は、本心かくれ妄心さかんなる故に、曲事のみにして、まがり濁たる名を取也〉とあります。道ある人とは、物事の道理をよくわきまえた人で、無道の人とは、道理をわきまえず、道理に反する人のことだと語られています。
第七節 五輪書
宮本武蔵(1584~1645)の書に『五輪書』があります。宮本武蔵は江戸初期の剣法家で、二天一流兵法の祖です。『五輪書』は1643年(寛永20年)から死の直前にかけて書かれたと言われています。地水火風空の五大五輪にそって5巻構成です。
[地之巻]では、〈武士は文武二道といひて、二つの道を嗜む事、是道也〉とあり、武士における文武両道が語られています。武士と云えば死の思想ですが、武蔵は〈大形武士の思ふ心をはかるに、武士は只死ぬといふ道を嗜む事と覚ゆるほどの儀也〉と述べています。
宮本武蔵といえば兵法が有名ですが、〈武士の兵法をおこなふ道は、何事においても人にすぐるゝ所を本とし、或は一身の切合にかち、或は数人の戦に勝ち、主君の為、我身の為、名をあげ身をたてんと思ふ〉と述べられています。兵法を行う道では優れているということを基本とし、切り合いや戦に勝ち、主君や自身のために名を上げ身を立てるのです。そこでは〈何時にても、役にたつやうに稽古し、万事に至り、役にたつやうにをしゆる事、是兵法の実の道也〉と言われ、役に立つという有用性の観点から論じられています。そのため武士の道では、〈兵具しなじなの徳をわきまへたらんこそ、武士の道なるべけれ〉とあり、道具類の大切さが説かれています。その中でも刀は特別で、〈我朝において、しるもしらぬも腰におぶ事、武士の道也〉とあり、日本では刀を帯びることが武士の道だと述べられています。
道全般については、〈其道にあらざるといふとも、道を広くしれば、物毎に出であふ事也。いづれも人間において、我道我道をよくみがく事肝要也〉とあり、自分自身の歩むべき道を磨くことが説かれています。
[水之巻]では、〈太刀の道を知るといふは、常に我さす刀をゆび二つにてふる時も、道すぢ能くしりては自由にふるもの也。太刀をはやく振らんとするによつて、太刀の道さかひてふりがたし。太刀はふりよき程に静かにふる心也〉とあります。太刀の道について、太刀の扱い方が語られています。
[火之巻]では、〈我兵法の直道、世界において誰か得ん〉とあります。わが二天一流の兵法の正しい道をこの世において誰が得られようか、と述べられています。
[風之巻]では、〈おのづから武士の法の実の道に入り、うたがひなき心になす事、我兵法のをしへの道也〉とあります。自(おの)ずから武士の道に入り、疑いなき心に至ることが兵法の教えの道だとされています。
[空之巻]では、「空」という概念が語られています。〈ある所をしりてなき所をしる、是則ち空也〉と語られるところのものが、空です。その空が、〈武士は兵法の道を慥に覚え、其外武芸を能くつとめ、武士のおこなふ道、少しもくらからず、心のまよふ所なく、朝々時々におこたらず、心意二つの心をみがき、観見二つの眼をとぎ、少しもくもりなく、まよひの雲の晴れたる所こそ、実の空としるべき也〉と語られています。武士は兵法の道をしっかりと覚え、武芸をつとめて行う道に後ろ暗いところなく、心の迷いなく、その時その時で怠ることなく、心と意を磨き、見ること観ることを研ぎ澄ました曇りなく迷いない境地こそが空だというのです。そこでは、〈直なる所を本とし、実の心を道として、兵法を広くおこなひ、たゞしく明らかに、大きなる所をおもひとつて、空を道とし、道を空と見る所也〉とあり、「空」と「道」が関連付けられて語られています。真っ直ぐを基本とし、実の心を道として兵法を行い、正しく明らかに偉大なものを思い取るのが「空」であり「道」だというのです。
また、宮本武蔵の『独行道』の中にも、道についての言及を見ることができます。〈世々の道をそむく事なし〉、〈いづれの道にも、わかれをかなしまず〉、〈道においては、死をいとはず思ふ〉、〈常に兵法の道をはなれず〉とあります。
第八節 驢鞍橋
鈴木正三(1579~1655)は、江戸初期の禅僧です。徳川家康の家臣鈴木重次の長男として三河国に生まれています。
『驢鞍橋』には、〈古來先達の行脚と云は、師を尋ね、道を求め、身命を顧みず、千萬里の行脚を作も有〉とあります。古くから先達の行脚というものは、師匠を訪ねて道を求め,身体や生命を顧みずに長い道のりを行くことだとされています。
第九節 士道
士道とは、為政者としての武士が守り行うべき規範のことです。武士道と比較すると、儒教からの影響が色濃く反映されています。
第一項 中江藤樹
中江藤樹(1608~1648)は『翁問答』で、〈主君をかへたるを必ただしき士道と定めたるも、また主君をあまたかゆるを正しき士道とさだむるも、皆跡に泥みたる僻事也。心いさぎよく義理にかなひぬれば、二君につかへざるも、また主君をかえてつかふるも皆正しき士道也。そのをこなふ事はともあれかくもあれ、只その心いさぎよく義理にかなふを、ただしき士道也と得心あるべし〉と述べています。主君を変えることを正しい士道と定めることも、主君を変えないことを正しい士道と定めることも間違っていると藤樹は言います。心が潔く義理に適えば、二君に仕えても主君を変えても正しい士道なのだとされています。心が大事なのであり、行うところが義理に適っていれば良いのだと考えられています。
第二項 池田光政
池田光政(1609~1682)は、備前岡山藩主です。儒教を重んじ、新田開発・殖産興業に努めました。
『池田光政日記』では、〈義を見て利を見ざる者は士の道なり〉とあります。士道では、利よりも義が大切だと語られています。
第三項 山鹿素行
山鹿素行(1622~1685)の説を門人たちが収録した書に『山鹿語類』があります。『山鹿語類』は1665年(寛文6年)に完成しています。泰平の世の武士のあるべき姿を、儒教道徳の面から「士道」として提唱しています。
士道は、『山鹿語類』の[巻二十一・士道]で語られています。
例えば、〈凡そ士の職と云は、其身を顧み、主人を得て奉公の忠を盡し、朋輩に交て信を厚くし、身の濁りを愼で義を専とするにあり〉とあります。士の職分とは、自らを顧みて奉公に励み、友と厚く交わり、身を慎んで義につとめることだとされています。そこで、〈文道心にたり武備外に調て、三民自ら是を師とし是を貴んで、其教にしたがひ其本末をしるにたれり〉とあり、文が内心に充実し武が外形に備われば、三民(農工商)は士を師として貴び、その教えにしたがい物事の順序を知ることができるのだと語られています。〈人既に我職分を究明するに及んでは、其職分をつとむるに道なくんばあるべからざれば、こゝに於て道といふものに志出來るべき事也〉とあり、人が自分の職分を明らかにした段階において、その職分をつとめるためには道がなければならないので、ここで、道というものに対する志が出てくるのだと語られています。
道の志が出た場合は、〈外を尋ね学ぶと云ども、外に聖人の師なくんば、自立皈て内に省みべし、内に省ると云は、聖人の道聊しいて致す処なく、唯天徳の自然にまかせて至る教のみなれば、我に志の立処あらんには、事は習知て至るべく、其本意は推して自得するに在べき也〉とあります。道は外に師を求めて学ぶべきなのですが、聖人の道へと導いてくれるよき師がいないというなら、自らに立ち返って内面を顧みるべきだと述べられています。聖人の道というものは、強制してするというところは少しもなく、ただ天の徳にまかせて自(おの)ずから至る教えなのですから、自分が志を立てた以上は礼などの外形的なことは習うことによって身につけられるし、その本意はそこから推しすすめることで自得することができるとされています。そこで、〈〈我説く所の理更に遠からず離れるべからず、人々皆日用之間によって、而其心に快きを号して道と云、其内にやましきを人欲と云、唯此両般のみ也、日用の事豈に忽せにすべき乎〉と語られています。素行のいうところの理とは、特別に深遠なものではなく、身近なものであり、また、その人によるというものでもないのです。人はみなその日常において自分の心にこころよく感ずるものを道といい、心にやましく感ずるものを人欲とよんでいるというのです。要はただこの二つだけなのであり、日常の事をおろそかにしてはいけないのだと語られているのです。
第四項 荻生徂徠
荻生徂徠(1666~1728)は『答問書』で、〈世上に武士道と申習し申候一筋、古之書に之有り候君子の道にもかなひ、人を治むる道にも成ると申すべき哉之由御尋候〉と述べています。武士道は、儒教における君子の道に適うというのです。
第五項 林鳳岡
林鳳岡(1644~1732)は江戸中期の儒学者です。
『復讐論』には、〈生を偸(ぬす)み恥を忍ぶは、士の道に非ざるなり〉とあります。士道は、死を覚悟し恥を雪(すす)ぐものだと語られています。
第六項 五井蘭洲
五井蘭洲(1697~1762)は江戸中期の儒者です。
『駁太宰純赤穂四十六士論』には、〈義なる者は、天下の同じうする所にして、その為す所や義に当らば、何ぞおのづから一道ありと為さん。苟くも義に当らずんば、則ちまた以て道と為すに足らず。これみな武人俗吏の談にして、士君子の辞に非ず〉とあります。武人の道には、義がなければならないと語られています。
第七項 村田清風
村田清風(1783~1855)は、日本の武士で長州藩士です。藩主・毛利敬親の下、天保の改革に取り組みました。
『海防糸口』には、〈夫生する者は死するは常なり、唯死を善道に守るべし〉とあります。生きとし生けるものは、すべて死を迎えます。その覚悟の上で、死において善なる道を守るというのです。また、〈道は太極の如し。二つに割れば文武と成、或は忠孝となる。陰陽両儀の如し〉ともあります。道は、文武・忠孝・陰陽というように両義的なものとして考えられています。
第十節 葉隠
武士道といえば、山本常朝(1659~1719)の『葉隠』が有名です。『葉隠』は武士の奉公の心得を説いた書です。
[聞書一]には、〈その道々にては、其家の本尊をこそ尊び申候〉とあります。道々には、仏道・儒道・兵法などが挙げられています。道においては、自分の家の大切なものを尊ぶべきだと語られています。その道の中でも、武士道については、〈武士道と云は、死ぬ事と見付たり〉という有名な言葉が語られています。〈二つふたつの場にて、早く死方に片付ばかり也〉というわけです。生きるか死ぬかの場面では、死を選び取るのが武士道なのだとされています。
常朝の語る道は、〈道といふは何も入れず、我非を知事也。念々に非を知て、一生打置かずを道と云也〉というものです。自分の非を知ることが道だとされています。ですから道は一生に関わり、〈只「是も非也非也」と思ひて「何としたらば道に可叶うべき哉」と一生探捉し、心を守て打置ことなく、執行仕えるべき也。此内に即道有也〉と語られています。一生の間、自らの足りないところを思い、どうしたら道に適うかと探し求めることが道として示されています。その道には、盛衰と善悪が分けて論じられています。〈盛衰を以て人の善悪は沙汰されぬこと也。盛衰は天然のこと也。善悪は人の道也。教訓のためには盛衰を以ていふ也〉とあります。栄枯盛衰は天然のことであり、善悪は人の道だとされています。栄枯盛衰によって善悪を言うことはできないとされています。ですから武士道においては善悪のために「死」の覚悟が求められ、〈武士道は死狂ひ也。一人の殺害を数十人して仕かぬるもの也〉と語られ、士道についても、〈士道におゐては死狂ひ也。此内に忠・孝は自こもるべし〉と語られているのです。そこでは、〈何しに劣るべきと思ひて一度打向ば、最早其道に入たるなり〉という覚悟が必要とされています。
道は一生に関わりますから、〈修行に於ては、是迄、成就といふ事はなし。成就といふ所、其まま道に背なり〉と述べられています。修行においては成就するということはありえないと考えられています。成就するということは、道ではないというのです。そのため、〈我非を知て一生道を探捉するものは、御国の宝と成候也〉とあり、自らの非を知り、道を求める者は国の宝だとされています。ちなみに、ここでの国は佐賀藩を指しています。
[聞書二]では、〈武道は毎朝まいあさ死習ひ、彼に付、是に付、死ては見みして切れ切て置一也。尤大義にてはあれ共、すれば成事也。すまじきことにてはなし〉とあります。「切れ切て置」とは、死に心をはっきりきめておくということです。「すまじきことにてはなし」とは、できないことはないということです。つまり、武道では毎朝何事においても、死に心をはっきりと決めておくことで、大義を成すことができるというのです。できないことはないと考えているのです。
また、〈非を知て探捉するが、則取も直さず道なり〉とあります。自分の非を知り、探し求めることが道として示されています。人間は、その途上において死ぬというのです。
第十一節 武道初心集
大道寺友山(1639~1730)は江戸中期の武士です。ほぼ同時期の『葉隠』と並び称される『武道初心集』の著者として知られています。『武道初心集』は主君や藩に対する奉公人の心構えを述べています。
『武道初心集』には、〈武士たらんものは正月元旦の朝雑煮の餅を祝うとて箸を取初るより其年の大晦日の夕に至る迄日々夜々死を常に心にあつるを以本意の第一とは仕るにて候。死をさへ常に心にあて候へば忠孝の二つの道にも相叶ひ萬の悪事災難をも遁れ其身無病息災にして壽命長久に剰へ其人がら迄も宜く罷成其徳多き事に候〉とあります。武士は死を常に心掛けることが第一とされています。死を常に心掛ければ、忠孝の二つの道にも適合し、人格の徳も備わると考えられています。
そのためにも、〈武士たらんものは義不義の二つをとくと其心に得徳仕り専ら義をつとめて不義の行跡をつゝしむべきとさへ覚悟仕り候へば武士道は立申にて候〉と語られています。武士が義を行い、不義を行わなければ、武士道は立つというのです。義を行うことについては、上等な順に次の三種類が上げられています。〈誠によく義を行ふい人〉、〈心に恥て義を行ふ人〉、〈人を恥て義を行ふ人〉です。
また、〈武士道の学文と申は内心に道を修し外かたちに法をたもつといふより外の義は無之候。心に道を修すると申は武士道正義正法の理にしたがひて事を取斗らひ毛頭も不義邪道の方へ赴かざるごとくと相心得る義也〉とあります。武士道では、心の内に道を修め、外形において法を保つのだと考えられています。心に道を修めるとは、正しいことをし、不義へ進まないことだとされています。さらには、〈大身小身共に武士たらんものは勝と云文字の道理を能心得べきもの也〉と語られ、武士には「勝つ」という道理を心得ることが説かれています。
そして、〈武士たらんものは大小上下をかぎらず第一の心懸たしなみと申は其身の果ぎわ一命の終る時の善悪にとゞまり申候〉とあり、命の散り際におけるまで善悪の観念に留まるべきことが語られています。そのために、武士道にとって肝心なこととして、〈武士道の噂さにおいて肝要と沙汰仕つは忠義勇の三つにとゞまり申候〉と示されています。
第十二節 水戸学
水戸学とは、『大日本史』の編纂事業を遂行する過程で水戸藩に起こった学問です。幕末には内憂外患のもとで、国家的危機を克服するための思想が形成されました。
第一項 徳川斉昭
徳川斉昭(1800~1860)は、江戸時代後期の水戸藩主です。会沢安や藤田東湖らを登用し、藩政を行いました。
『弘道館記』は、弘道館の教育方針を宣言した書です。藤田東湖が起草し、1838 年に徳川斉昭の名で公表されました。そこには〈弘道とは何ぞ。人、よく道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大経にして、生民の須臾も離るべからざるものなり〉とあります。人よく道を弘むとは、人に備っている道は人の力によって世に行われるという意味です。それが、道を世に弘め行う力なのです。『論語』の[衛霊公]篇からの影響が見られます。
第二項 会沢安
会沢安(1782~1863)は、幕末の水戸藩士で儒者です。号は正志斎です。藤田東湖らと藩政を行いました。
『新論』には、〈詭術と正道とは、相反すること氷炭のごとし〉とあります。正道については、他にも、〈政令刑禁は、典礼教化と、並び陳(つら)ね兼ね施して、民を軌物に納れ、正気に乗じて正道を行ひ、皇極すでに立つて、民心主あり。民の欲するところは、すなはち天の従ふところなり〉とあります。政治上の命令や刑罰は、儀礼や教えに適うように施し、民を法度に納得させ、正気によって正道を行うべきだというのです。そうすれば、治世の大方針はすでに立っており、民の心は天の従うところだというのです。
『退食間話』には、〈中庸の語は道の立たる本を論ぜし詞なり〉とあります。また、〈父子あれば親あり、君臣あれば義あり、是皆天下の大道・正路にして、一人の私言に非ず。聖賢、上にあれば、政教を施して、道を天下に行ひ、下に在れば、言を立て材を育して、道を後世に伝ふ。道は大路のごとし〉とあります。親子は親しみ、君臣には義があるということは、天下の大道であり、一人が勝手に言っていることではないというのです。賢い人が高い地位にあれば政策や教育を施して天下に道を行い、低い地位なら言葉によって人材を育成して道を後世に伝えるのだと語られています。
第三項 藤田東湖
藤田東湖(1805~1855)は、江戸時代後期から幕末期の水戸藩士です。対外的危機に対し、国民的伝統たる正気を発揮して国家の独立と統一を確保すべきことを説きました。正気とは、忠君愛国の道義的精神のことです。
著作である『壬辰封事』には、〈中庸ノ道ト云ハ、万物ノ理ヲ尽シ、事ニヨリ品ニヨリ、夫々其理ノ当然ニ叶フテコソ中庸トハイフベケレ〉とあります。中庸の道は、万物の理によってそれぞれの理に適うことだと考えられています。
第十三節 幕末の志士
幕末という激動の時代においても、幕末の志士たちは武士道を論じています。
第一項 横井小楠
横井小楠(1809~1869)は江戸末期の熊本藩士です。
『国是三論』には、〈元来武は士道の本体なれば、已に克く其武士たるを知れば、武士道をしらずしてはあるまじきを知り、其武士道を知らんと欲すれば、綱常に本付き、上は君父に事ふるより下は朋友に交るに至り、家を斉へ国を治るの道を講究せざる事を得ず〉とあります。武士ならば武士道を知るべきであり、武士道においては人との交わりを通じて、家を整え国を治める道を求めるべきことが語られています。
第二項 佐久間象山
佐久間象山(1811~1864)は江戸末期の学者です。初め朱子学を、後に蘭学を修め、西欧の科学技術の摂取による国力の充実を主張しました。
『省?録(せいけんろく)』には、〈行ふところの道は、もつて自から安んずべし。得るところの事は、もつて自から楽しむべし。罪の有無は我にあるのみ。外より至るものは、あに憂戚するに足らんや〉とあります。憂戚とは、うれえいたむことです。行くところの道は、自分が安らかになるべきであり、得られるところで自分が楽しむべきだとされています。罪は自身の内にあるのであって、外から来るものは気にするに及ばないのだと考えられています。また、〈ああ、人情に通じて人を服せしむるものは、自からその道のあるあり〉とあります。人情に通じて人を感服させられるなら、自(おの)ずから道があるというのです。
第三項 勝海舟
勝海舟(1823~1899)は、幕末・明治の政治家です。蘭学・兵学を学び、幕府使節とともに咸臨丸にて渡米しています。幕府海軍育成に尽力しました。また幕府側代表として西郷隆盛と会見し、江戸城の無血開城を実現しました。
『氷川清話』には、〈おれは常に世の中には道といふものがあると思つて、楽しんで居た〉とあります。また、〈主義といひ、道といひて、必ずこれのみと断定するのは、おれは昔から好まない。単に道といつても、道には大小厚薄濃淡の差がある。しかるにその一を揚げて他を排斥するのは、おれの取らないところだ〉とあります。それは、〈もしわが守るところが大道であるなら、他の小道は小道として放つておけばよいではないか。智慧の研究は、棺の蓋をするときに終るのだ。かういふ考へを始終持つてゐると実に面白いヨ〉という考え方によります。〈男児世に処する、たゞ誠意正心をもつて現在に応ずるだけの事さ。あてにもならない後世の歴史が、狂といはうが、賊といはうが、そんな事は構ふものか。要するに、処世の秘訣は誠の一字だ〉というわけです。
第四項 西郷隆盛
西郷隆盛(1828~1877)は、薩摩出身の武士です。通称は吉之助で、号は南洲です。討幕の指導者として薩長同盟・戊辰戦争を遂行し、維新三傑の一人と称されました。征韓論に関する政変で下野し、西南戦争に敗れ、城山で自死し生涯を終えます。
『南洲翁遺訓』には、〈廟堂に立ちて大政を為すは天道を行うものなれば、些とも私を挟みては済まぬもの也。いかにも心を公平に操り、正道を踏み、広く賢人を撰挙し、能く其の職に任うる人を挙げて政柄を執らしむるは即ち天意なり〉とあります。祖先を祭るという場所に立って政治を行うことは、天道に適うことであるので私心を挟んではならないと語られています。公平に正道を歩み、賢人を採用し職に合う人を選んで政治を行うことは、天意なのだと考えられています。そこで、〈事大小となく、正道を踏み至誠を推し、一事の詐謀を用うべからず〉とあり、事態の大小に関わらず、正道を歩み、誠を尽くすことが大事であり、はかりごとを用いてはならないのだと語られています。
西郷隆盛は、道は国家を超えた共通性を持つと同時に、国家の威信に関わるものと考えています。例えば、〈忠孝仁愛教化の道は、政事の大本にして、万世に亘り、宇宙に弥り、易うべからざるの要道なり。道は天地自然のものなれば、西洋と雖も決して別なし〉とあります。道は天地自然であり、すべてに関わるとされています。その神髄は〈文明とは道の普く行わるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳・衣服の美麗・外観の浮華を言うにはあらず〉と語られています。文明とは道が行われていることの尊称であり、豪華な外見などではないということです。そこで〈節義廉恥を失いて国を維持するの道決してあらず、西洋各国同然なり〉と言い、道の国家を超えた共通性が述べられているのです。国家の威信については、〈正道を踏み国を以て斃るるの精神無くば、外国交際は全かるべからず、彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に従順するときは、軽侮を招き、好親却って破れ、終に彼の制を受くるに至らん〉と語られています。国が倒れようとも正道を行くという覚悟が必要なことが説かれています。〈国の凌辱せらるるに当りては、縦令国を以て斃るるとも正道を践み、義を尽すは政府の本務なり〉とも語られています。政府は、国が侮辱されたならば、国が倒れようとも正道を行き義を尽くすのが本務なのだというのです。
また、西郷隆盛と言えば敬天愛人が有名です。〈道は天地自然の道なるがゆえ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに、克己を以て終始せよ〉と語られています。〈道は天地自然のものにして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給う故、我を愛する心を以て人を愛するなり〉というわけです。
道とは、〈道を行うには尊卑貴賤の差別なし〉とあるように、誰もが道を行いえるとされています。〈道を行うものは、固より困厄に逢うものなれば、如何なる艱難の地に立つとも、事の成否身の死生などに、少しも関係せぬものなり。事には上手下手あり、物には出来る人・出来ざる人あるより、自然心を動かす人もあれども、人は道を行うものゆえ、道を踏むには上手下手もなく、出来ざる人もなし。故に只管、道を行い道を楽しみ、若し艱難に逢うてこれを凌がんとならば、弥々道を行い道を楽しむべし〉とあります。道を行うということに、生きるか死ぬかは関係ないと考えられています。道を行うには才能も関係なく、道を行うことを楽しみ、困難に打ち勝とうとすればよいというのです。そこにおいて、ますます道を行うことを楽しむべきことが語られています。
これらを踏まえ、〈命もいらず、名もいらず官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり〉と語られています。
第五項 吉田松陰
吉田松陰(1830~1859)は、幕末の思想家で尊王論者です。名は矩方(のりかた)で、通称は寅次郎です。萩に松下村塾を開き、多くの維新功績者を育成しましたが、安政の大獄で刑死しました。
『講孟余話』には、〈経書を読むの第一義は、聖賢に阿ねらぬこと要なり。若し少しにても阿る所あれば、道明ならず、学ぶとも益なくして害あり。孔孟生國を離れて、他國に事へ給ふこと済まぬことなり〉とあります。聖人の本を読むときも、それにおもねってはいけないと語られています。おもねれば、他国に仕えることになってしまうからと説明されています。
人臣の道については、〈道を明にして功を計らず、義を正して利を計らずとこそ云へ、君に事へて遇はざる時は、諫死するも可なり。幽囚するも可なり、饑餓するも可也。是等の事に遇へば其身は功業も名誉も無き如くなれども、人臣の道を失わず、永く後世の模範となり、必ず其風を観感して興起する者あり。遂には其國風一定して、賢愚貴賤なべて節義を崇尚する如くなるなり〉とあります。道においては義を正しくするのであって、利益を計るようなことはしないのだと説かれています。人臣の道は、諌めることで死ぬことも、捕らえられることも、飢えることも覚悟すべきだというのです。我が身の名誉は失われるとしても、永く後世の模範となるからです。その模範があれば、国民は節義を尊ぶようになるのだと語られています。
道一般については、〈人と生れて人の道を知らず。臣と生れて臣の道を知らず。子と生れて子の道を知らず。士と生れて士の道を知らず。豈恥づべきの至りならずや。若し是を恥るの心あらば、書を讀道を學ぶの外術あることなし。已に其數箇の道を知るに至らば、我心に於て豈悦ばしからざらんや〉とあります。人には人それぞれの道があり、その道を知らないでいることは恥ずべきことだというのです。恥じる心があるなら、本を読み道を学ぶべきだとされています。道を知ることは、喜ばしいことだと考えられています。士道については、〈然れども汝は汝たり、我は我たり。人こそ如何とも謂へ。吾願くは諸君と志を勵まし、士道を講究し、恆心を?磨し、其武道武義をして武門武士の名に負くことなからしめば、滅死すと雖ども萬々遺憾あることなし。豈愉快の甚しきに非ずや〉とあります。我は我であり、汝は汝だというのです。その差は決定的ですが、願うならば皆で志を励まし合い、士道を解き明かしたいと語られています。そこにおいて進むなら、死ぬことになっても遺憾はなく、それどころか愉快だとさえいうのです。
以上のように、松陰においては日本という国が意識されています。〈國體の最も重きこと知るべし。然ども道は惣名也。故に大小精粗皆是を道と云。然れば國體も亦道也〉とあります。日本の国体は道なのだとされています。
また、安政二年に記された『士規七則』には、〈士の道は義より大なるはなし。義は勇に因りて行はれ、勇は義に因りて長ず〉とあります。
安政三年の『書簡』では、〈有志の士、時を同じうして生れ、同じく斯の道を求むるは至歓なり。而れども一事合はざるものあるときは、己れを枉(ま)げて人に殉ふべからず、又、人を要して己れに帰せしむべからず。ここを以て反覆論弁、余力を遺さず〉とあります。道を共に求めることができるということは、素晴らしいことだと語られています。ですが、自分を枉げて人に迎合するならば、自分のためにもなりません。そのときは徹底抗戦すべきだというのです。
安政六年の『書簡』には、〈皇神の誓おきたる国なれば正しき道のいかで絶べき〉とあり、日本は天皇や神々の誓いがある国なのです正道は絶えることがないと述べられています。〈道守る人も時には埋もれどもみちしたゑねばあらわれもせめ〉ともあり、時には道を守る人が埋もれてしまうのだとしても、道を慕わねば道を守る人が現れることはないのだと語られています。ですから、道を慕うべきことが示されているのです。
第六項 橋本佐内
橋本左内(1834~1859)は、福井藩士で幕末の志士です。藩政改革に尽力し、安政の大獄で斬罪に処されました。
『啓発録』には、〈稚心とは、をさな心と云ふ事にて、俗にいふわらびしきことなり〉とあり、〈余稚心を去るをもつて、士の道に入る始めと存じ候なり〉とあります。子供じみた心を去ることで、武士の道に入るのだと考えられています。
友人関係については、〈吾が身を厳重に致し付合ひ候て、必ず狎昵致し吾が道を褻さぬやうにして、何とか工夫を凝して、その者を正道に導き、武道学問の筋に勧め込み候事、友道なれ〉とあります。吾が身を引き締め、吾が道をけがすことのないように工夫して、友人を正しい道へと導き、武道や学問に関心を持つように仕向けることが友道だというのです。
左内は、〈後世必ず吾が心を知り、吾が志を憐み、吾が道を信ずる者あらんか〉と述べています。後の世に、吾が心や志に同情し、吾が道が正しいと認めてくれる者が現れることを願っているのです。
また、左内の『書簡』には、〈実に尚武の風を忠実の心にて守り候はば、風俗もますます敦重に相成り、士道もますます興起仕り、国勢国体万邦に卓出仕るべく候事、目前に御座候〉とあります。尚武の気風を忠義と実直の精神で守り伝えて行けば、風俗は情味篤く質朴になり、武士道も盛んに興り、我が国の勢いが優れたものになることも遠くないというのです。
第七項 福沢諭吉
福沢諭吉(1835~1901)は、啓蒙思想家で教育家です。
『福翁百話』には、〈唯真実の武士は自から武士として独り自から武士道を守るのみ。故に今の独立の士人もその独立の法を昔年の武士の如くにして大なる過なかるべし〉とあります。武士ならば独り自(おの)ずから武士道を守るのみとされ、それは今も昔も変わりないと語られています。
第八項 坂本竜馬
坂本竜馬(1836~1867)は、土佐藩出身の幕末の志士です。幕府の海軍創設に奔走し、薩長同盟を成立させました。
『船中八策』では、統一国家構想を示しています。そこで八つの策を提示した後の文で、〈伏テ願クハ、公明正大ノ道理ニ基キ一大英断ヲ以テ天下ト更始一新セン〉と、公明正大ノ道理を示しています。
第九項 山岡鉄舟
山岡鉄舟(1836~1888)は江戸末期から明治の政治家であり、無刀流剣術の流祖です。通称、鉄太郎です。戊辰(ぼしん)戦争の際、勝海舟の使者として西郷隆盛を説き、西郷・勝の会談を実現させ、江戸城の無血開城へと導きました。明治維新後、明治天皇の侍従などを歴任しました。
『剣禅話』の[修養論]には、〈我が邦人に一種微妙の道念あり。神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降専ら武門に於て其著しきを見る。鉄太郎之を名付て武士道と云ふ〉とあります。武門における道を武士道とし、神道・儒道・仏道の融和した思想として捉えています。その武士道は、〈善なると知りたる上は直に実行に顕はし来るを以て武士道とは申すなり〉とあり、善による実践が説かれています。さらに武士道に関して、〈而して武士道は、本来心を元として形に発動するものなれば、形は時に従ひ事に応じて変化遷転極りなきものなり〉と示されています。
第十項 高杉晋作
高杉晋作(1839~1867)は、日本の武士で長州藩士です。幕末に尊王倒幕志士として活躍しました。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けました。
『遊清五録』には、〈士を取るに多くは武を以てす。故に我邦は武文の人を以て有道者と為す。考試も亦た多くは武を以てし、或は文を以てする者あり。人を教ふるに忠孝の道を以てす。天照太神と孔夫子と異あるに非ざるなり。故に我邦の人、天神の道に素づきて孔聖の道を学ぶ〉とあります。神道と儒教の両方を取り入れていることが分かります。道には、文武や忠孝という考えが重要だと考えられています。
第十四節 新渡戸稲造の武士道
新渡戸稲造(1862~1933)は、岩手生まれの教育者で農政学者です。国際連盟事務次長や太平洋問題調査会理事長として国際関係に取り組みました。
新渡戸稲造の『武士道』には、〈武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である〉とあります。この武士道は、〈道徳的原理の掟であって、武士が守るべきことを要求されたるもの、もしくは教えられたるものである。それは成文法ではない〉と語られています。武士道は、〈数十年数百年にわたる武士の生活の有機的発達である〉というのです。
ただし、新渡戸稲造の『武士道』は、キリスト教道徳を武士の中に見出したものとの指摘もあり、本来の武士道とは別物かもしれません。例えば、〈武士道の窮極の理想は結局平和であった〉という言説などは、元来の武士および武士道の在り方とは異なっています。
稲造は、〈私は武士道に対内的および対外的教訓のありしことを認める。後者は社会の安寧幸福を求むる権利主義的であり、前者は徳のために徳を行なうことを強調する純粋道徳であった〉と述べています。その武士道に対し、最後の章では〈武士道は一の独立せる倫理の掟としては消ゆるかも知れない、しかしその力は地上より滅びないであろう〉と語られています。 
第六章 町人道 

 

町人道は、江戸の町人に由来する思想です。幕藩体制下における経済活動の高まりとともに、町人の間に独自の生き方を模索する動きが生まれました。具体的には、正直・信用・倹約・勤勉・義理・人情などの尊重が挙げられます。町人は職業の役割や意義を踏まえ、広く学問への関心と教育の重要性について思索を深めました。町人道は「町人の道」であり、江戸の文献には町人の「道」についての伝統が展開されています。町人道は、神道・仏教・儒教を参考としながらも、武士道とは異なった成長を遂げています。本章では、日本の町人道における町人の「道」を見ていきます。
第一節 物語作者の思想
江戸時代には、井原西鶴に代表される浮世草子や、近松門左衛門に代表される浄瑠璃・歌舞伎などの文化が発達しました。
第一項 井原西鶴
井原西鶴(1642~1693)は、江戸前期の浮世草子作者で俳人です。浮世草子では、武士や町人の生活の実態を客観的に描き、日本最初の現実主義的な庶民文学を確立しました。
西鶴の作品の中で、好色物と呼ばれる作品群において「色道」が述べられています。例えば、〈浮き世の事を外になして。色道ふたつに(『好色一代男』)〉という表現があります。ふたつとは、男色と女色のことです。また、〈色道におぼれ、若死の人こそ、愚なれ(『好色一代女』)〉や、〈誠なる心から、片山陰に草庵を引き結び、後の世の道ばかり願ひ、色道かつて止めしは、さらに殊勝さ限りなし(『好色五人女』)〉などと語られています。
西鶴の町人物と呼ばれる作品群においては、「孝の道」が語られています。『本朝二十不幸』では、〈生としいける輩、孝なる道をしらずんば、天の咎を遁るべからず〉や〈かゝる浮世習にて、親は憐み、子は孝を竭(つくす)を道なり〉とあります。孝の道は、〈主人に、忠ある人、親に、孝ある者は、御恵み深く。おのづから、其道に入て、国の治る、此時なれば〉とあるように、国の統治が安定することにつながります。
『日本永代蔵』においては、〈天道言はずして国土に恵みふかし。人は実あつて偽りおほし〉とあり、「天道」が語られています。また、〈手遠きねがひを捨てて、近道にそれぞれの家職をはげむべし〉とあり、過度な理想である願いに対し、常識的で現実的な処世である「近道」が語られています。
第二項 近松門左衛門
近松門左衛門(1653~1724)は、江戸中期の浄瑠璃や歌舞伎の作者です。歌舞伎の全盛を築きました。
作品の中に、道についての言及を見ることができます。『曽根崎心中』には、〈道を迷うな違ふな〉という言葉があります。『冥途の飛脚』には、〈身を忍ぶ恋の道。我から狭き浮世の道〉が語られています。『国性爺合戦』には、〈日本には正直中常の神明の道有り〉とあります。さらに、〈大和唐土様々に、道の巷は別るれど、迷はで急ぐ誠の道〉ともあります。『山崎与次兵衛寿の門松』には、〈侍の親が育てゝ商売の道を教ゆる故に武士となり、町人の子は町人の親が育てゝ商売の道を教ゆる故に商人となる。侍は利徳を捨てゝ名を求め、町人は名を捨てゝ利徳を取り金銀をためる、是が道と申すもの〉とあります。
第三項 上田秋成
上田秋成(1734~1809)は、江戸後期の国学者で、浮世草子や読本の作者です。
『雨月物語』の[貧福論]では、〈善を撫で悪を罪するは、天なり、神なり、仏なり。三ツのものは道なり。我がともがらのおよぶべきにあらず〉とあります。善悪は、天と神と仏の三つの道により、それは人間の考えのおよぶところではないというのです。
また、『春雨物語』の[歌のほまれ]では、〈歌よむはおのが心のままに、又浦山のたたずまひ、花鳥のいろね、いつたがふべきに非ず。ただただあはれと思ふ事は、すなほによみたる。是をなんまことの道とは、歌をいふべかりける〉とあります。心のまま歌を詠うことが「まことの道」だとされています。
第二節 自然の思想
江戸時代には、自然に対する思想も発達しました。
第一項 西川如見
西川如見(1648~1724)は、江戸中期の天文地理学者です。
『町人嚢』には、〈天竺は佛國にて、唯我独尊の大國、此外の國々は粟散國也と自慢す。唐土は聖人の國にて天地の中國也、萬國第一仁義の國、日月星辰も此國を第一と照し給ふ、といふて自慢す。又日本は神國也、世界の東にありて日輪始て照し給ふ國にて、地霊に人神也、萬國第一の國にて、金銀も多し、豊秋津國とも、中津國とも、浦安國ともいふなりと自慢す。此三國、おのおの自慢あり。自慢によつて其國の作法政道立たり〉とあります。各国は、みずから自慢するところをもって、国の礼儀や政治が決まるのだという考えが見られます。
天道については、〈天子は萬民の上に居給ひ、天道の御名代と成給ひて、天道を恐れ慎み萬民を教誡め給ふ事〉とあります。天皇が天道と関連づけられています。天道は天皇だけでなく将軍とも関わり、〈天子将軍いづれも天道にしたがひ給ひて法度禁制を立給ひ、四民は天子将軍にしたがひ奉て法度禁制を慎み守りて天下太平也〉とも語られています。
如見の考えでは侍と町人で道が区別され、〈町人は利を捨て名を専らとする時は、身代をつぶすもの也。侍は名を捨て利を専らとする時は、身を亡す事あり、名利を正しく求るを、道を知れる人といふ〉とされ、〈四民みな通用の道理あり〉と語られています。日本については、〈本朝の事は、神と歌との二みちの外は多くはもろこしよりつたへしなり〉と述べられています。日本の神道と和歌の道は、日本に由来し、他の道は、他国から伝わったと考えられています。
第二項 三浦梅園
三浦梅園(1723~1789)は、江戸時代を代表する自然哲学者であり、医学者、政治経済学者、文学者、総じて百科全書的な学者です。十代後半の一時期に儒学の師につきますが、郷里で家業の医を継ぎ、生涯を学問に捧げました。
『玄語』には、〈徳は、それを得ることによって万緯が(何ものかの)宅となるところのもの、道は、それに由ることによって万経が(何ものかの)路となるところのもの、である〉とあります。徳と道が定義されています。その道に対しての立場は、〈道を人に尽して、命を天に俟つ〉と表明されています。
『多賀墨卿君にこたふる書』という書簡では、〈道は衆を安んずるより大ひなるはなく、功は衆を利するよりすぐれたるはなく候〉と語られています。
第三節 石門心学
石門心学とは、江戸時代中期に登場した石田梅岩の門流の学問をさして言います。江戸後半の百数十年にわたって庶民社会に影響を及ぼしました。
第一項 石田梅岩
石田梅岩(1685~1744)は、石門心学の祖です。梅岩は農民の子として生まれ、その生涯の大部分を商家の奉公人として過ごした庶民階級出身の思想家です。最初神道から出発し、関心を儒学に拡げ、仏教や老荘思想からも多くを学んでいます。
『都鄙問答』には、〈根本既立トキハ、其道自生〉とあります。根本が立つときに道が生まれるということです。
天道については〈天道ハ萬物ヲ生ジテ、其生ジタル者ヲ以テ其生ジタル物ヲ養、其生ジタル物ガ其生ジタルヲ喰フ〉とあります。自然や食物連鎖を連想さる考え方です。
道については、〈ハテイヘバ道ハ一ナリ。然レドモ士農工商トモニ、各行フ道アリ〉とあります。道は一つですが、職業ごとにそれぞれの道があるというのです。例えば、〈士ノ道ハ、先心ヲ知テ志ヲ定ムベシ〉や〈心ヲ合テ敵ヲ伐ハ士ノ道ナリ〉とあります。また、〈富ヲナスハ商人ノ道ナリ〉や〈利ヲ取ラザルハ商人ノ道ニアラズ〉とあります。
『莫妄想』には、〈道ニ志シ有者ハ道ニ身ヲ任用事ヨリ他ハナシ。道ニ任用テ他事ナクバ聖ニ至ラズト謂モ今日成処ハ道ノ用ナリ。私シ事ハナシ〉とあります。道に私欲はないというのです。
『石田先生語録』では、〈神儒仏ノ三道ヲ倚ヨラズシテ尊ビ用ユル〉とあります。石門心学では、神道・儒教・仏教が一致するという三教一致の立場を取っています。
第二項 手島堵庵
手島堵庵(1718~1786)は、江戸中期の心学者です。18歳で石田梅岩に師事しました。家業を長男に譲った後、師説の普及と宣伝に専念しました。
『会友大旨』には、〈道は則本心なり〉とあります。また、〈正道といふはよく本心を弁へぬれば毫厘も私なきゆへ、上を上としてうやまひ、下は下として背かず、貴賤あきらかにわかりたるをいふ也〉とあります。道には私がなく、上を敬い下に背かずに、貴賎が明らかに分かることだとされています。
第三項 中沢道二
中沢道二(1725~1803)は、江戸時代後期の心学者です。石門心学の教化活動に努め、多くの成果をあげました。
『道二翁道話』には、〈天地の常とは則ち道の事でござります〉とあります。具体的には、〈道とは何ぞ、雀はちうちう、鳥はかあかあ、鳶は鳶の道、鳩は鳩の道、君子其位に素して行ふ。外に願ひ求めはない。その形地(かたち)の通り勤めてゐるを天地和合の道といふ〉というのです。ですから、〈たゞ素直に和合の道。此外に道はない。それが?道、夫が儒道、それが佛道じや。此外に道といふはない〉と語られています。
このことを別の言い方であらわすと、〈道とは何んぞ。心の事じゃ。神道と云ふも心の事、佛道といふも、儒道といふも、心の事じや〉とあります。道は心のことなのですから、〈善いと悪いは腹の中に能ウ知つてゐる。悪いと知らば直に止めたがよい。夫が神道、夫が儒道佛道、此外に道はない〉とされています。そこで、〈善といふは道のこと。人と生れては、人の道を盡すが善〉と続きます。〈道を守るといふは行ひのこと〉だとされています。
また、〈天の命これを性と謂ふ。性に率ふこれを道と謂ふ。道を脩るこれを教と謂ふ〉とあります。〈互に道があつて和合するから、萬事萬端用も足り自由ができる〉と考えられています。〈道は萬物に具はツてある〉のであり、〈仁義禮智信の五常が人の道〉なのだとされています。
第四項 柴田鳩翁
柴田鳩翁(1783~1839)は、江戸時代後期の心学者です。講談師としての才能を活かし、「道話」という形式で石門心学の狩猟を人々に説きました。
『鳩翁道話』には、〈なるほど心が主人となって、身を家来としてつかうときはみな道にかないまする〉とあり、〈心が身につかわれますると、いつでも道にはずれてみな身びいき、身勝手になりまする〉とあります。肉体に対する精神の優位性が道に繋がるというのです。
『続鳩翁道話』では、〈されば銘々どもが、人の道を失いまするは、ただおれがおれがの身びいき、身勝手よりおこるのでござります〉とあります。そこで、〈道は須叟もはなるべからず、道にあたれば、生れるも死ぬるも、苦しむも、楽しむも、我なしでするゆえ、我にはあずからぬ。ゆえに、大安楽でござります〉と語られています。
『続々鳩翁道話』では、〈道とは自由自在のできるという名じゃ。無理すると自由自在はできぬ。無理のない本心にしたがえば、自由自在で安楽にござります。これを道と申しまする〉とあります。では本心とは何かというと、〈誠は天理自然の道、則ち本心のことでござります。さて本心を思うて、本心のごとくありたしと、かえりみるが、これを誠にする人の道じゃ〉と述べられています。そこでは、〈人と道と合せものではござりませぬ、道は性にしたがうの道で、うまれつきのとおりにするのが道じゃ。道のほかに物なく、もののほかに道はござりませぬ。また古人の説に、心は道なり、道は天なりともみえまして、心をしれば道をしります、道をしれば天をしります。これをしれば、天人一致、万物一体の道理がしれます。よしまたこの道理はしらいでも目は見る、耳はきく、手はもつ、足はゆく、訳を知ったもしらぬも、生れつきの道じゃによって、自由自在にできまする〉と語られています。つまり、〈心の体は性なり、心の用は情なり。心は道なり、さればこそ性は道の体、情は道の用なりとも申してある。これでみれば人と道とは、離れとうても、離れられるものではござりませぬ〉ということで、〈何もない性に、一切の理がふくんであって、よく万事に応じまする。ゆえに中とは、あたるとの儀とも申してござります。則ちこれが天命の性、道の大本というてあるのじゃ〉とされています。
第四節 農の思想
江戸時代には、農耕に関わる思想も発達しました。
第一項 安藤昌益
安藤昌益(1703~1762)は、近世中期の医師・農本思想家です。1899年に、狩野亨吉によって評価されるまで、その存在がほとんど知られていませんでした。
『自然真営道』には、〈気ハ満ツル故ニ進退ス。此ノ故ニ進退ノ気満チテ、至ラズト云フコト無シ。之ヲ道ト謂フ〉とあります。これは五行のことを述べています。五行とは、木・火・土・金・水の五つの元素のことです。〈真ト道ハ、乃チ五行ノコトナリ〉というわけです。具体的には、〈道ハ自然。具足ノ道ナリ〉と語られています。
『統道真伝』では、〈道と言えるは、自然の進退、一気の名にして、無二の行徳の言(いい)なり〉とあります。これも具体的には、〈真道とは直耕の一道なり〉とか〈直耕者は真道なり〉とあり、農業の重要性が述べられています。これを日本という観点から考えると、〈自然の進退にして一道なること、日本人の言に能く具わるなり。故に小進気の神国なり〉と語られています。
第二項 大原幽学
大原幽学(1797~1858)は、近世後期の村落指導者です。農業技術の指導にあたり、教導所を設け、農民に教えを説きました。
『微味幽玄考』には、〈蓋し人は天地の和の別神霊の長たる者故、天地の和の万物に之き及ぼす如くの養道を行ふこそ、人の人たる道とす。其本は君臣・父子・夫婦・昆弟・朋友のうちに有て、末四海に及ぼす事に至る〉とあります。人は天地において最も秀でた存在であるので、養う道を行くことが人の人たる道であり、その根本は人々の関係の中にあるのだと語られています。
人心と道心の区別にも言及していて、〈人心とは、暑いとか寒いとか唯自分の身而已思ふをいふ〉とあり、〈道心とは、人を道(ミチビ)く為めに己が身を思ふいとま無く〉あることだというのです。
また、道と理の関係については、〈道を能行はんと欲する者は、一理を能味ひ知るべし。数を見聞くは、唯一理を知る為めにすべし。見聞きたる事をもて行はんとすれば、見聞かざる事は行ひ難し〉と語られています。道を行う者は、理を知るべきだとされています。それは、数を見たり聞いたりすることは、理を知るために行うべきだからと考えられています。なぜなら、見たり聞いたりしたことだけ行おうとすれば、見たり聞いたりしたことしかできなくなるからです。理があるが故に、未知のものにも対処できるというのです。
また道については、〈是天人地の三自ら渡り合て、以て道たる也。故に道は太極也と謂へり〉とあり、『易経』からの影響もみられます。天と人と地が合わさって道だとされています。
『義論集』では〈物順なるを以て道とす〉とも語られています。
第五節 懐徳堂の思想
江戸中期には、懐徳堂での学問を通じて特異な思想が語られました。
第一項 富永仲基
富永仲基(1715~1746)は、江戸中期の思想家です。幼少から懐徳堂で学びましたが、後に破門されています。儒教・仏教・神道の三教の道の批判の上に立って、自らの誠の道を提唱しました。32歳の短い生涯でした。
仲基の著作である『出定後語』では、〈言に物あり。道、これがために分かる。国に俗あり。道、これがために異なり〉とあります。言語を形成する条件の相違によって道の内容も分かれます。国には風俗や習慣があり、道には風土的な差異が見られるということです。
『翁の文』では、〈嗚呼、斯の民有れば斯の道有り。今の道に由て今の俗を易ふ〉とあります。民が居れば道があり、その今の道によって今の習俗が行われるのです。その道については、〈三教の道の外に、又誠の道といふことを、主張して説出たり〉とあります。この誠の道について、〈國ことなりとて、時ことなりとて、道は道にあるべきなれども、道の道といふ言の本は、行はるゝより出たる言にて、行はれざる道は、誠の道にあらざれば、此三教の道は、皆今の世の日本に、行れざる道とはいふべきなり〉と語られています。国が異なり、時代が違っても、道は道にかわりがないはずです。しかし、この道と名づけられた言葉の本来の意味は、それが実践されるところから出た言葉なので、実践されない道というものは、誠の道ではないというのです。ですから、この三教の道は、すべて今の世の日本では、実践されていない道だと考えられています。そこで、〈しからばその誠の道の、今の世の日本に行はるべき道はいかにとならば、唯物ごとそのあたりまへをつとめ、今日の業を本とし、心をすぐにし、身持をたゞしくし、物いひをしづめ、立ふるまひをつゝしみ、親あるものは、能これにつかふまつり〉と語られています。誠の道は、当たり前を行う道だというのです。
つまり、〈今の文字をかき、今の言をつかひ、今の食物をくらひ、今の衣服を着、今の調度を用ひ、今の家にすみ、今のならはしに従ひ、今の掟を守り、今の人に交り、もろもろのあしきことをなさず、もろもろのよき事を行ふを、誠の道ともいひ、又今の世の日本に行はるべき道ともいふなり〉ということです。今において、今の悪しきことをせず、今の善きことを行うのが誠の道で、今の世の日本で実践すべき道だというのです。
誠の道は、〈只今日の人の上にて、かくすれば、人もこれを悦び、己もこゝろよく、始終さはる所なふ、よくおさまりゆき、又かくせざれば、人もこれをにくみ、己もこゝろよからず、物ごとさはりがちに、とゞこほりのみおほくなりゆけば、かくせざればかなはざる、人のあたりまへより出来たる事〉だというのです。そこから、〈人の世にまじらひて、此世をすごしなば、すなはち誠の道を行ふ人なりともいふべし〉とされ、〈只その誠の道を行はしめんとなり〉と語られているのです。その誠の道について、〈其かくしてたやすく傳へたがく、又價を定めて傳授するやうなる道は、皆誠の道にはあらぬ事と心得べし〉とあります。つまり、たやすく伝えられなかったり、価値を定めて伝授するような道は、誠の道ではないと語られているのです。
第六節 経世の思想
江戸時代には、世を治める経世の思想も発達しました。
第一項 本多利明
本多利明(1743~1820)は、江戸時代後期の経世家です。数学・天文学・暦学・地理学を修得し、蘭学に接近しました。国内の経済問題と、蝦夷地方面でのロシアに対する北方問題の解決について取り組みました。
『西域物語』には、〈道を守る人を賢君と云て世の賞を得、左なきは皆災に係りて空くなりぬ〉とあります。道を守る人とは、歴史的条件下、すなわち封建制下での道徳を守る、中庸の人の意です。道を守る人がいなければ、皆が災いによって空しい世となってしまうというのです。そのため、〈神・儒・仏の三道ありて世に行るといへ共、国家に益を興す程の英雄も出来ざるは、三道信用する験(しるし)も無に似たり〉と述べられています。三道とは神道・儒教・仏教のことで、日本古来からの因習的な道徳・宗教とし、日本の良智をさまたげるものとして非難の意をこめて用いています。
また、〈真実に有難く思ひて万民より治る道を勤て、治ざれ共万歳の基を開く風俗となれば、なんぼう目出度事に非や〉とあります。万民より治る道は、下庶民の間から自然に治まっていく道であり、自然治道と呼んでいます。そこから、〈治道と云、農民の困苦を救ふを先とせり〉と語られています。治道は自然治道を指し、自然治道とは、国富をまし、農民を撫育するための自然に則した経済政策といった意味を持っています。
『交易論』では、〈たとへ戦争をふるといふとも、国家の為に益を謀るは、君道の本意なれば、至極其道理なり〉という道理が語られています。利明の経世論は本来、平和的な交易を前提とするものですが、『交易論』ではやや戦争を肯定する立場に進んでいます。君道とは、一国の統治者としての道です。
第二項 海保青陵
海保青陵(1755~1817)は、江戸時代後期の経世家です。徳川家への士官を辞退し、家督を弟に譲り、儒者奉公しました。その後、各地を遊歴し、現実指向の思想を展開しました。
『稽古談』には、〈他国ノ財貨ヲ自国ヘスヒコムモ、覇道ニテ智ノ株シキ也。自国ノ土ヨリ物ノ生ズルコト多クナルハ、王道ニテ仁ノ株シキ也〉とあります。他国から奪うのは智による覇道にて、自国(の土)より生ずるのは仁による王道だというのです。
第七節 報徳思想
江戸時代には、二宮尊徳に始める報徳思想が誕生しました。
第一項 二宮尊徳
二宮尊徳(1787~1856)は、近世後期の農政家・思想家です。神道・仏教・儒教などの思想を合わせた報徳思想を説いて、農民の労働の意味づけを行いました。二宮尊徳の思想は、門人である福住正兄(1824~1892)が尊徳の言葉を書き記した『二宮翁夜話』などで知ることができます。
『二宮翁夜話』には、〈誠の道は、学ばずしておのづから知り、習はずしておのづから覚へ、書籍もなく記録もなく、師匠のなく、而して人々自得して忘れず、是ぞ誠の道の本体なる〉とあります。誠の道は、学習しなくとも自然と知覚できるものなのです。そこには、本も記録も師匠も必要とされていません。〈我が道は至誠と実行のみ〉というわけです。
尊徳の道では、人道と天道という概念が重要です。〈天道は自然なり、人道は天道に随ふといへ共、又人為なり、人道を尽して天道に任すべし〉と言われています。〈人道は人造なり〉とも言われています。〈天に善悪あらず、善悪は、人道にて立たる物なり〉とされる点が特徴です。
人道については色々と述べられています。〈皆人の為に立たる道なり、依て人道〉とあり、〈政を立、教を立、刑法を定め、礼法を制し、やかましくうるさく、世話をやきて、漸く人道は立なり〉と語られています。そこから〈人道は親の養育を受けて、子を養育し、師の教を受けて、子弟を教へ、人の世話を受けて、人の世話をする、是人道なり〉ということに繋がります。それゆえ、〈人道は中庸を尊む〉のです。ですから、〈人道は日々夜々人力を尽し、保護して成る〉わけです。なぜなら、〈自然の道は、万古廃れず、作為の道は怠れば廃る〉からです。そこで、〈人道は私欲を制するを道とし〉なければならないとされています。〈人道は勤るを以て尊しとし、自然に任ずるを尊ばず、夫人道の勤むべきは、己に克の教なり、己は私欲也〉ということです。己という私欲に打ち勝つのが人道だというのです。
人道は、譲ることと繋がっています。〈譲は人道なり、今日の物を明日に譲り、今年の物を来年に譲るの道を勤めざるは、人にして人にあらず〉とあります。将来へ譲ることをしない者は、人間ではないというのです。〈勤倹を尽して、暮しを立て、何程か余財を譲る事を勤むべし。是道なり〉と語られています。
天道は自然ですが、その自然を見ることは悟道と呼ばれています。〈悟道は只自然の行処を見るのみにして、人道は行当る所まで行くべし〉とあります。ほぼ同じ表現ですが、〈悟道は只、自然の行く処を観じて、然して勤むる処は、人道にあるなり〉ともあります。〈悟道は人倫に益なし、然といへども、悟道にあらざれば、執着を脱する事能はず、是悟道の妙なり〉と語られています。
神道・儒教・仏教の三教に対しては、〈翁曰、世の中に誠の大道は只一筋なり、神といひ儒と云仏といふ、皆同じく大道に入るべき入口の名なり、或は天台といひ真言といひ法華といひ禅と云も、同じく入口の小路の名なり〉と三教一致の立場を示しています。〈そのごとく神儒仏を初、心学性学等枚挙に暇あらざるも、皆大道の入口の名なり、此入口幾箇あるも至る処は必一の誠の道也〉とあり、それぞれの道で入り口が違えど、到達するところは一つであるとされています。例えとして、〈不士山に登るが如し〉とあり、どこから登り始めようと、〈其登る処の絶頂に至れば一つ也、斯の如くならざれば真の大道と云べからず〉と語られています。〈正道は必世を益するの一つなり〉という点から語られているわけです。三教一致の道は、具体的には〈今道々の、専とする処を云はゞ、神道は開国の道なり、儒学は治国の道なり、仏教は治心の道なり、故に予は高尚を尊ばず、卑近を厭はず、此三道の正味のみを取れり〉と語られています。
第二項 斉藤高行
斉藤高行(1819~1894)は、幕末・明治前期の報徳運動家です。
『報徳外記』には、〈我道は分度にあり。分なる者は、天命の謂なり。度なる者は、人道の謂なり。分度立ちて譲道生ず。譲なる者は、人道の粋なり。身や、家や、国や、天下や、譲道を失ひて衰へざる者は、未だ之あらざるなり。分度を失ひて亡びざる者は、未だ之あらざるなり〉とあります。我が道は分度にあると述べているのです。分は天命であり、度は人道であり、そこから譲り合いの道が生じるとされています。譲り合いの道は、人の道の粋だと考えられています。
第三項 岡田良一郎
岡田良一郎(1839~1915)は、実業家で政治家です。二宮尊徳の弟子として報徳思想の普及に尽力し、地域の振興に努めました。
『報徳学斉家談』には、〈神教ニ報本反始ノ道ヲ貴ビ、儒教ニ以徳報徳ヲ以テ人倫ノ行ト為シ、仏教四恩ヲ報スルヲ以テ大乗トス〉とあります。神教とは神道のことで、報本反始とは天地や祖先の恩に報いることとされています。儒教では、報徳の徳をもって人倫の行為となると言うのです。仏教では、四恩に報いると考えられています。四恩とは、仏典により異なりますが、『大乗本生心地観経』では、父母恩・衆生恩・国王恩・三宝恩のことです。
また、道について、〈天命自然ノ富貴ニ従テ、天ヲ戴キ、身分ヲ慎シミ、礼法ヲ犯サズ、分度ヲ守リ、驕奢弊風ニ流レズ、又ハ衣服、飲食、居住ニ至ル迄、万端手軽ニイタシ、貴賤ヲ恵ム。是レヲ道ト云〉とあります。封建制度下における道徳に従い、贅沢をせずに衣食住を手軽にするのが道だと語られています。
第八節 蘭学の思想
蘭学は、渡辺崋山と高野長英によって発展しました。
第一項 渡辺崋山
渡辺崋山(1793~1841)は、江戸時代後期の三河国田原藩の藩主です。外国知識の必要から蘭学に関心を寄せました。最期は投獄され自刃しました。
『初稿西洋事情書』では、〈物極れば衰ふ、衰極れば興る、天道自然に斡旋致し候〉とあります。栄枯衰退という天の法則がおのずからめぐってくるということが語られています。
『慎機論』では、〈西洋諸国の道とする所、我道とする所の、道理に於ては一有て二なしといへども、其見の大小の分異なきに非ず〉とあります。西洋諸国と日本の道では、見解に多少の相違がないわけではないと語られています。 
第七章 芸道 

 

芸道とは、芸能・技芸を日本独自の形で体系化したものを言います。伝統の上に立ち、広く技術を伝承する分野において芸の道が現れます。そこでは芸の修行が思想を生み、日常生活の場において如何に生かし、自身と芸を高めていくかということが問題となります。日本の芸能においては、芸の「道」の伝統が展開されているのです。本章では、日本における芸の「道」を見ていきます。
第一節 能楽の道
能楽とは、能と狂言のことです。世阿弥の時代に、能楽が舞台芸術として大成しました。能楽の道では、道に幽玄が表れています。
第一項 世阿弥
世阿弥(1363,64~1443,44)は、大和能楽の観世座の二代目です。観阿弥の嗣子で、能を洗練された舞台芸術として大成させた能役者です。
『風姿花伝』には、〈老人の物まね、この道の奥義なり。能の位、やがてよそ目にあらはるる事なれば、これ、第一の大事なり〉とあります。老人の物まねが能楽の道の奥義なのは、能役者の力量がはっきりと分かるのが老人の物まねであるからだというのです。
また、〈能をせん程の者の、和才あらば、申楽を作らん事、易かるべし。これ、この道の命なり〉とあります。和才とは、和歌・和文の才学のことです。和才があるのなら、能を作ることが能楽の道の命だというのです。〈能の本を書く事、この道の命なり〉ともあります。
世阿弥の芸の道では、〈道をたしなみ、芸を重んずる所、私なくば、などかその徳を得ざらん〉とあるように、私心なく修行することで功徳を得ることができるとされています。その上で、〈極め極めては、諸道ことごとく寿福延長ならんとなり〉とあり、極め尽くせば芸道はすべて寿福を増進するというのです。そのため、〈道のためのたしなみには、寿福増長あるべし。寿福のためのたしなみには、道まさに廃るべし。道廃らば、寿福おのづから滅すべし〉と語られています。芸道のために精進するなら自他の寿福の増進が伴いますが、自己の寿福を目指して努力するなら芸道は廃れてしまうというのです。
世阿弥は、〈その風を受けて、道のため、家のため、これを作するところ、私あらんものか〉と言います。父である観阿弥の芸を正しく継承し、能の道と観世の家のために本書を著述したのであり、私意に基づいて書いたものではないというのです。ですから、〈凡、家を守り、芸を重んずるによて、亡父の申置きし事どもを、[心底]にさしはさみて、大概を録する所、世の謗りを忘れて、道の廃れん事を思ふによりて、全他人の才学に及ぼさんとにはあらず。ただ子孫の庭訓を残すのみなり〉と述べられているのです。「[心底]にさしはさみて」とは、心のそこに記憶しておいてという意味です。この大要を書き留めたのは、現今の能役者が世間の非難をもかえりみずに芸道の修行を怠り、このままでは道が絶えてしまう事を心配したからであり、けっして他人の才学まで及ぼそうとの気持はないというのです。ただ子孫の家訓として残すだけであると述べているのです。
『花鏡』には、〈幽玄の風体の事。諸道・諸事において、幽玄なるを以て上果とせり〉とあります。諸々の道において、幽玄が第一だというのです。道とおいて幽玄が表れています。他にも、〈一切芸道に、習ひ習ひ、学し学して、さて行ふ道あるべし〉とあります。一切の芸道において、習い学ぶ事を反復した後に実行するという過程があるはずだというのです。
また、世阿弥の名言として、〈命には終りあり、能には果てあるべからず〉とあります。芸術としての能に終りがないという意味ではなく、人の命には限りがありますが、個人の能芸に行きどまりがあってはならないという意味です。
『拾玉得花』には、〈当道の肝要は、諸人見風の哀見を以て道とす〉とあります。道の重大事は、諸人が能を愛好して見てくれることが大本だというのです。また、〈ただその一体一体を得たらん曲芸は、またその分その分によりて、安曲の風体・遠見をなさん事、芸道の肝要たるべし〉とあります。芸曲を体得している場合は、それに応じて安位に達した風体・演技をなすべきことが芸道の重大事だというのです。
成就については、〈成就とは「成り就つ」なり。しかれば、当道においては、これも面白き心かと見えたり。この成就、序破急に当たれり〉とあります。能の道において成り就くこと、つまり能の成就は面白いことだとされています。この成就は具体的には序破急に相当していると語られています。
『九位』では、〈常の道を踏で、道の道たるを知るべし〉とあります。舞歌二曲を基盤とする稽古の常道を実践した上で、三体の芸などを知るべきだとの意味だと思われます。
『習道書』では、〈自他融通の道を以て舞歌をなす心を持つべし〉とあります。自他融通の道とは、自己と他人とが一体となり生かし合う生き方のことです。また、〈ただ、その理を弁じて、厳重の道理を一座に云聞かするを以て道とす〉とあります。その理とは、能の主題・筋道のことで、間狂言の語りで説明されることが多いものです。しっかりした道理を一座に言い聞かせることが能楽の道だというのです。
『夢跡一紙』では、〈道の破滅の時節当来し、由なき老命残て、目前の境涯にかかる折節を見る事、悲しむに堪えず〉とあります。道の破滅とは、元雅の早世に伴なう観世座の破滅を、能の正道の滅亡と観じての文言かと思われます。
『申楽談儀』では、〈たち返り法の御親の守りとも引くべき道ぞせきな留めそ〉とあります。結局は仏恩によって親の後生を守ることになると信じて、芸道を捨てて仏道に入るのです、どうぞ引き留めないで下さいとの意です。
第二項 禅竹
金春禅竹(1405~1471)は室町時代の能役者、能作者です。世阿弥の娘婿で、大和猿楽最古参とされる由緒ある流派、円満井座のながれをうけつぐ金春一座をひきいて活躍しました。
『歌舞髄脳記』には、〈歌は此道の命也〉とあります。続いて、〈其身を受くることは、皆前世の戒体なれば、其道に生まるる者、誰とてもまつたく道の外に身心あることなし。此儀理を知らざる物、みな天道[に]そむくと見えたり。されば、身はこれ道也。道はこれ身也。此神楽の家風に於いては、歌道を以て道とす〉とあります。わが身の授かったところに、道はあるのだとされています。この義理を知らないことは、天道に背くことだと語られています。
第三項 八帖花伝書
『八帖花伝書』は、室町時代に編纂された世阿弥仮託の伝書です。八巻より成るところからこの通称があります。著者・編者不明です。『風姿花伝』のほか、当時通行していた各種の伝書から有益な情報を取り集めて編集しなおしたものと言われています。
[一巻]では、〈先(まづ)、面白き曲なれば、高きも卑しきも、是を用給ふにより、さながら道に入事早し〉とあります。面白い曲を用いれば、道に早く入れるのだと語られています。[三巻]では、〈惣じて、道なども、直なる道をよき道と云、山坂有歪みたる道は悪しき道と言へば、謡も道にたとへ、直成が本意たるべし〉とあります。本意とは、本来の意味で、ここでは根本のことです。真っ直ぐな道がよい道であり、真っ直ぐに成っていることが根本なのだと述べられています。
第二節 連歌の道
連歌(れんが)は、複数の人間によって上の句(五・七・五)と下の句(七・七)を詠み連ねる詩歌の一種です。連歌は「筑波の道」とも称されます。これは、連歌の起源が『古事記』において筑波山を詠んだ唱和問答歌に位置づけられていることによります。連歌の道においては、道に寂びが表れています。
第一項 二条良基
二条良基(1320~1388)は、南北朝時代の公卿であり、連歌の大成者でもある歌人です。
『筑波問答』には、〈おほかた、歌の道は、心なき民の耳に近くてこそ国の風をも移し侍るべけれ〉とあります。歌の道は、風雅なことを理解する心を持たない人々の耳にも親しくなってこそ国の風俗をも変えることができるというのです。
連歌については、〈歌の道は秘事口伝もあるらん。連歌は本よりいにしへの模様定まれることなければ、ただ当座の感を催さんぞ興はあるべき〉とあります。和歌の道には秘事口伝もありますが、連歌は昔からやり方が決っているわけではないので、ただその場での感動を催すのが興味の中心でよいというのです。具体的な表現では、〈春の花のあたりに霞のたなびき、垣根の梅に鶯の鳴きなどしたる景気・風情の添ひたるをぞ、歌にも褒められたれば、連歌の道もまたかくこそ侍らめ〉とあります。和歌で褒められているものが、連歌の道でも当てはまるというのです。
また、〈当道の至極の大事、ただ発句にて侍るなり〉とあり、連歌の道では、百韻連歌の第一句であり五・七・五の形で詠まれる発句が大事だされています。
第二項 心敬
心敬(1406~1475)は、室町時代中期の天台宗の僧で連歌師です。
『ひとりごと』には、〈先達に会ひ、友を尋ね侍りてこそ道をとげぬれ〉とあります。また、〈もろもろの道、古きを尋ね知るまことの人、情深きことなり〉ともあります。
『さゞめこと』には、〈おおむねすなほにおだしくや侍らんまことの道なるべし〉とあります。そのため、〈道に心ざしふかくしみこほりたる人は、玉のなかに光を尋、花の外に匂をもとむるまことの道成べし〉と説かれています。〈此道は感情・面影・余情を旨として、いかにもいひ残しことはりなき所に幽玄・哀はあるべしと也〉とも語られています。
第三項 宗祇
宗祇(1421~1502)は、室町時代の連歌師です。
『長六文』には、〈天地をも動かし目に見えぬ鬼神をもあはれと思はする道なれば、ゆめゆめ正直にあらずしては叶うべからず候ふ〉とあります。この文章には、『古今集』仮名序からの影響が見られます。
『老のすさみ』には、〈およそ連歌は、当初より伝はりて、世々の好士、色にふけり思ひを述ぶることわざとして、その道今に絶ゆることなし〉とあります。連歌は昔から伝わっており、各時代の愛好者が風流事に思いを述べる表現として、その道は今に絶えることはないと述べられています。そこでは、〈ただ、道の正道は、いづれの所ぞと尋ぬべきなり〉とあるように、一心に道の正道はどこにあるのかを追究すべきだと語られています。つまり、〈詮とする所、この道は、心ざしを天にかけ、足に実地を踏むで、きざはしをのぼるごとく稽古すべき物なり〉というのです。結論的にいえば、連歌の道は志を高く掲げて、足でしっかりと地面を踏んで、会談を一歩一歩登るように稽古すべきだと語られているのです。
『白髪集』には、〈初学の時、ひえさびたる姿抔(など)こひねがひ給はゞ、あかる事をそかるべし。此姿なども境に入至極の人の心がくべき道也〉とあります。冷え寂びの姿は、年を取った人が至る境地だというのです。道に寂びが表れていることが分かります。
また、『湯山三吟百韻』には〈世にこそ道はあらまほしけれ〉と謡われています。『宗祇独吟何人百韻』には、〈道有るもかたへは残る蓬生に〉と謡われています。
第四項 宗長
宗長(1448~1532)は、室町時代後期の連歌師です。
『連歌比況集』には、〈それ諸道は一道を知り、歌道は諸道を知るといへり〉とあります。 諸道を歩むことで一道を知り、歌道を歩むことによって諸道を知ることができるというのです。諸道については、〈文質あひ兼ねたる、諸道ともに然るべし〉とあり、洗練と素朴とを相兼ねることが諸道において大事なことだとされています。歌道については、〈歌道も花実相伴なるを真実の道といへり〉とあり、花実が相ともなっていることが歌の道の真実の道だというのです。
また、『水無瀬三吟百韻』には、〈人におしなべ道ぞただしき〉と謡われています。
第三節 俳諧の道
俳諧とは、連歌を基盤とする発句・連句です。元来は滑稽味や俗語を有する歌体をいい、機知滑稽を有する連歌も俳諧と称されました。俳諧の道では、道において遊びが遊ばれています。
第一項 松尾芭蕉
松尾芭蕉(1644~1694)は、江戸初期の俳諧師です。俳諧の本質である滑稽性・通俗性を忘れることなく、禅味を加えたわび・さびの境地を求めました。
『笈の小文』には、〈西行の和歌における、宗祗の連歌における、雪舟の繪における、利休が茶における、其貫道する物は一なり〉とあります。道の伝統が、日本の歴史となっていることが分かります。
[図7-1] 芭蕉の貫道
『奥の細道』では、韓退之の『進学解』の言葉を用いて、〈誠に、「人能く道を勤め、義を守るべし。名もまた是にしたがふ」と云へり〉と述べています。
『支幽・虚水宛の書簡』では、〈世道・俳道、是又斉物にして、二つなき処にて御座候〉とあります。人の生きていく道も俳諧の道も結局は一つであるという意味です。
また、『去来宛の書簡』では、〈萬世に俳風の一道を建立之時に、何ぞ小節胸中に置く可き哉〉とあります。いつの世までも朽ちることのない真の俳諧の道を確立しようとするときに、どうしてささいなことにこだわりましょうか、ということです。
第二項 向井去来
向井去来(1651?1704)は、蕉門の俳人です。
『旅寝論』に先師芭蕉の言葉として、〈我、俳諧において、或は法式を増減する事は、おほむね踏まゆる所ありといへども、今日の罪人たる事をまぬがれず、ただ以後の諸生をしてこの道にやすく遊ばしめんためなり〉とあります。弟子が俳句の道で簡単に遊ぶことができるように、法式を変更する罪を犯すのだというのです。道において、遊びが生まれていることが分かります。
第三項 服部土芳
服部土芳(1657~1730)は、松尾芭蕉の弟子の俳人です。
『三冊子』には、〈誠を勉むるといふは、風雅に古人の心を探り、近くは師の心よく知るべし。その心を知らざれば、たどるに誠の道なし〉とあります。誠の道は、風雅に対して古人や芭蕉の心を探って理解することが必要だとされています。
第四項 内藤丈草
内藤丈草(1662~1704)は、松尾芭蕉の門人の俳人です。
『寝ころび草』には、〈今かゝる病の床よりして、誠の道におもむくべき因縁にこそ。人病を思ふ時に塵の心おのづからしりぞき、人死をおもふ時は道の念おのづからきざせり〉とあります。病床からはじめて誠の道におもむく因縁があるというのです。人が病気について考えるときには俗な心が自然にしりぞいて、人が死について思うときは道を願う心がおのずから兆すというのです。
第五項 各務支考
各務支考(1665~1731)は、江戸時代前期の俳諧師で蕉門十哲の一人です。
『俳諧十論』には、〈そも俳諧の道といふは、第一に虚実の自在より、世間の理屈をよくはなれて、風雅の道理にあそぶをいふ也〉とあります。俳句では、世間の理屈から離れ、空想を働かせて、風雅の道理に遊ぶというのです。道で遊びが遊ばれていることが分かります。
第四節 茶の湯の道
茶の湯は、湯を沸かし、茶を点て、茶を振る舞う行為です。茶にまつわることを基本とした様式が、芸道における茶道として発達しました。茶道においては、道に侘びが表れています。例えば『紹鴎門弟への法度』には、〈淋敷は可然候、此道に叶へり、きれいにせんとすれば結構に弱く、侘敷せんとすればきたなくなり、二つともさばすあたれり、可慎事〉とあります。さびしい境地に立つことは、侘数奇の道に叶うことだというのです。
第一項 山上宗二記
山上宗二(1544年~1590)は、桃山時代の堺の豪商であり、茶人です。
『山上宗二記』は、千利休の高弟である山上宗二が書き記した秘伝書です。その中に、〈今にこの一道絶えず、末世なお以て繁昌なり〉と、茶の道の繁栄を誇る言葉があります。道についての言及は、〈この道の奥の奥を御尋ね候と雖も、相伝の秘事をば残し候い畢んぬ〉と語られているところや、〈古えより何れの道も相承の正しき師を尋ね、程門の雪にたたずむ志を称す〉と語られているところがあります。程門の雪にたたずむとは、弟子が師の門前に教えを乞うてたたずむうちに雪が積もったという故事から、熱意の程を言います。昔からいずれの道も、その道を受け継いでいる正しき師匠を求める熱意が必要だというのです。
第二項 南方録
『南方録』は、千利休の茶の湯論を伝える茶書です。利休に近侍した南坊宗啓筆録の茶書を、筑前福岡藩士立花実山が発見したと伝えられています。しかし、宗啓に仮託した実山の偽作説も存在します。実山が宗啓をはじめ利休流の茶の湯を入手し、それを踏まえ加筆編集して本書を成立させたとも考えられています。いずれにしろ、江戸初期に伝えられた利休の侘び茶の湯論を集大成した形で見ることのできる茶書として貴重なものです。
[覚書]において、〈宗易の云、小座敷の茶の湯は、第一仏法を以て、修行得道する事なり〉とあります。宗易とは千利休のことで、得道とは仏道の極致を体得することです。
茶道という言葉が一般化する初期の重要な言葉として、〈常々心安くかたりて、茶道を委く道陳に伝授ありしとなり〉があります。また、〈茶一道、もとより得道の所、濁なく出離の人にあらずしては成がたかるべし〉という言葉もあります。出離の人とは、俗塵を離脱し、悟道の妙境にある人のことです。〈まことに尊ぶべくありがたき道人、茶の道かとをもへば、則、祖師仏の悟道なり〉とも語られています。
[滅後]には、〈わびの心を何とぞ思ひ入れて、修行するやうにさへ仕立たらば、その中、十人廿人に一人も、道にさとき人は道に入べきか〉とあります。わびの心が道につながることが示されています。〈茶の湯と云名、深々の道理をふくめると知べしと云々〉ともあります。他にも、〈ひたすら茶の正道、世につたへんことを根本にふかく志玉へば、我あやまりをもかくす心なく〉とあり、道は正直な心と関係していることが分かります。ですから、〈自他の差別なく、道に於て只親切なりければ、交る人いづれむつまじからぬはなかりしなり〉とあり、道が人とつながることが示されているのです。
第三項 源流茶話
藪内竹心(1678?1745)は、茶道藪内流5代目です。
『源流茶話』には、〈茶道は正直清浄礼和質朴を宗とし、清浄を以て心をやしなひ、正直を以て世間に接し、礼譲を以て人に交り、質朴を以て身ををさむ〉とあります。
第四項 茶事掟
松平定信(1759?1829)は、江戸時代の大名です。
『茶事掟』には、〈親しくして馴れ過ぎず、古雅風流をもととし簡素質素をしめすは、茶の道なりけり〉とあります。
第五項 茶湯一会集
井伊直弼(1815~1860)は、江戸末期の大老です。勅許を得ずに日米修好通商条約に調印し、反対勢力を弾圧して安政の大獄を起こし、水戸・薩摩の浪士らに桜田門外の変で殺されました。
『茶湯一会集』には、〈心を引かえ改めもてなす事、茶道の大本なり〉とあります。また、〈今日茶事一会を催す事は、全く正客一人のためにして、次客よりは相伴なる事、茶道の本意なり〉ともあります。
第六項 茶の本
岡倉天心(1862~1913)は、美術評論家で思想家です。米国のフェノロサ(1853~1908)に師事し、英文著書による日本文化の紹介者として活躍しました。
『茶の本』の[第一章・人情の碗]では、〈茶道は、日常生活のむさくるしい諸事実の中にある美を崇拝することを根底とする儀式である〉とあります。続いて、〈それは純粋と調和を、人が互いに思い遣りを抱くことの不思議さを、社会秩序のロマンティシズムを、諄々と心に刻みつける。それは本質的に不完全なものの崇拝であり、われわれが知っている人生というこの不可能なものの中に、何か可能なものをなし遂げようとする繊細な企てである〉と語られています。
[第三章・道教と禅道]では『老子』の道(タオ)について、〈「道(タオ)」は「経路(パス)」というよりはむしろ「通行(パセイジ)」にある。それは「宇宙的変化」の精神――新しい形を生むために自身に回帰するところの永遠の生成である。「道(タオ)」は道教徒の愛好する象徴竜のようにおのれに返る。「道(タオ)」は雲のごとく巻きたち、解け去る。「道(タオ)」は「大推移」と言うこともできよう。主観的には「宇宙」の「気」である。その「絶対」は「相対」である〉と語られています。
第七項 柳宗悦
柳宗悦(1889~1961)は美術評論家で宗教哲学者です。
『心偈』には、〈茶の湯も真を追えば、茶の道に至る〉とあります。では道とは何かというと、〈道とは何なのか。詮ずるに、私を越える道である〉と語られています。
『茶道を想う』では、〈茶道は器を見る道であり、兼てまた用いる道である〉とあります。そこでは、〈煮つまる所まで煮つまった時、ものの精髄に達するのである。それが型であり道である〉とされています。そのため、〈茶道は個人のことを超える。茶道の美しさは法の美しさである〉と述べられています。
また、〈茶道は美の法則を語る驚くべき道の一つである〉とあり、〈道は心の深さに関わる〉とされ、〈茶道は疑いもない心道である〉と語られています。そのため、〈無碍に活きることで「茶」が始めて道に達するのである〉とされているのです。
『茶人の資格』では、〈自在の道以外に、茶の道はなく、凡ての道はない〉と言われ、〈茶の道は、美しさによる済度の道といえよう〉と語られています。
第八項 久松真一
久松真一(1889~1980)は、宗教哲学者です。
『茶道の哲学』には、〈茶道というものが、日本に特有な一つの綜合的な文化体系であるということは、誰にでも承認されることであると思うのであります〉と語られています。具体的には、〈茶道というものは、普通一つの芸道であると考えられておりますけれども、そういう意味で、単なる芸道という言葉には少し当てはまらないのであって、むしろ特有なる生活体系であり、生活体系の、一つの特色ある形態であるというべきものであると思うのであります〉と示されています。〈茶道というものは、人間生活と密接に結びついているもので、生活から決して浮いていない、離れていないはずのものであります〉と述べられています。
その茶道の道は、〈茶道は一面、茶という特殊なものに限られた道でありつつ、どこまでも根源的には茶という特殊な限定を超えた道でなければならない〉とされています。そこで道について、〈「道」というのは中国の言葉であるが、仏教的にいえば、悟りを意味するものである。「道」といえば、普通にはわれわれのふみ行なってゆくべき法則の意に解されるが、もともと「道」はわれわれの外にあるものではなくして、どこまでもわれわれ自身の根源的主体である〉と語られています。そこでは、〈むしろ道は、道を行なう人の内から出てくる道でなければならない。それに従ってゆく道ではなくして、行なうことによって生じてくる道、つまり、行なう人が道をつくるということにならなければならぬのであります〉と語られ、〈本当の道というものは、それに向かうものではなくして、かえって、それが自在にはたらいておのずから道になるというようなものにならなくてはならぬのであります〉とも語られています。 
第八章 哲学の道 

 

京都市左京区にある南禅寺付近から慈照寺(銀閣寺)まで続く道は、哲学の道と呼ばれています。哲学者である西田幾多郎(1870~1945)が、この道を散策しながら思索にふけったことから名づけられました。道の途中、西田が詠んだ歌の石碑があります。石碑には、〈人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり〉と刻まれています。西欧哲学との出会いは、日本の思想史に新たな局面を開きました。哲学との対決において、それに対峙するものとして、日本の道が語られてきました。その軌跡は、日本における哲学の道と称しえるものかもしれません。あるいは対哲学の道、もしくは反哲学の道と呼ぶべきものかもしれません。本章では、西欧と対峙した日本の「道」を見ていきます。
第一節 西欧文明と対峙する学問
西欧哲学と対峙する道において、西欧文明と対峙する学問が問われます。その学問には、哲学や啓蒙思想、民俗学や経済学や倫理学などを挙げることができます。
第一項 西周
西周(1829~1897)は、明治初期の哲学者で啓蒙思想家です。西洋学術の移入や翻訳に努めました。
『百学連関 総論』では、〈文と道とは元と一つなるものにして、文学開くときは道亦明かなるなり。故に文章の学術に係はる大なりとす〉とあります。道が、文という観点から語られています。
第二項 福沢諭吉
福沢諭吉(1835~1901)は、啓蒙思想家で教育家です。大坂で蘭学を学び、江戸に蘭学塾(後の慶応義塾)を開設しました。その後、独学で英学を勉強し、幕府遣外使節に随行して欧米を視察しました。維新後、教育と啓蒙活動に専念し、明六社を設立しました。
福沢諭吉には、有名な著作が多数あります。その中で論じられている道を見ていきます。
『学問のすゝめ』
『学問のすゝめ』には、経済学と修身学について、〈経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。修身学とは身の行ないを修め、人に交わり、この世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり〉とあります。修身学において、世を渡るべき天然の道理の必要性が語られています。
その道理についてですが、〈物事の道理は人数の多少によりて変ずべからず〉とされています。単純な民衆政治の原理は道理とは成り得ないのです。道理においては、〈一国の権義においては厘毛の軽重あることなし。道理に戻りて曲を蒙るの日に至りては、世界中を敵にするも恐るるに足らず〉というわけです。ですから、〈道理あるものはこれに交わり、道理なきものはこれを打ち払わんのみ。一身独立して一国独立するとはこのことなり〉とあるように、道理に基づくことで独立が可能となるのです。道理は、欲望とは峻別され、〈この時に当たりて欲と道理とを分別し、欲を離れて道理の内に入らしむるものは誠の本心なり〉と語られています。
『文明論之概略』
『文明論之概略』では、〈天地の公道は固より慕ふ可きものなり、西洋各国よく此公道に従て我に接せん乎、我亦甘んじて之に応ず可し、決して之を辞するに非ず〉とあります。各国ともに従うべき天地の公道が示されています。ただし、〈世界中に国を立てゝ政府のあらん限りは、其国民の私情を除くの術ある可らず〉という条件付です。そこで、〈其私情を除く可きの術あらざれば、我も亦これに接するに私情を以てせざる可らず。即是れ偏頗心と報国心と異名同実なる所以なり〉とあり、偏頗心と報国心が重なることが語られています。さらに、〈何事にても道理にさへ叶ふことなれば、十人は十人悉皆誤解するものに非ず〉とあるように、道理に適えば誤解を避けることができるというのです。
『丁丑公論』
『丁丑公論』では、〈大義名分は公なり、廉恥節義は私に在り一身にあり。一身の品行相集て一国の品行となり、その成跡社会の事実に顕われて盛大なるものを目して、道徳品行の国と称するなり〉とあります。道徳と品行について語られています。
『痩我慢の説』
『痩我慢の説』では、〈哲学の私情は立国の公道にして、この公道公徳の公認せらるるは啻に一国において然るのみならず、その国中に幾多の小区域あるときは、毎区必ず特色の利害に制せられ、外に対するの私を以て内のためにするの公道と認めざるはなし〉とあります。この立国の公道については、〈自国の衰頽に際し、敵に対して固より勝算なき場合にても、千辛万苦、力のあらん限りを尽し、いよいよ勝敗の極に至りて始めて和を講ずるか、もしくは死を決するは立国の公道にして、国民が国に報ずるの義務と称すべきものなり〉と述べられています。このことが、〈すなわち俗にいう瘠我慢なれども、強弱相対していやしくも弱者の地位を保つものは、単にこの瘠我慢に依らざるはなし〉と考えられています。
『福翁百話』
『福翁百話』では天道が語られています。〈唯我輩は過去の事実に徴して人事進歩の違わざるを知り、禍福平均の数を加除して幸福の次第に増進するを知り、由て以て天道人に可なるの理を証するのみ〉とあります。そこで、〈天道既に人に可なり。その不如意は即ち人の罪にして不徳無智の致す所なれども、人間の進歩改良は天の約束に定まり、開闢以来の事実に証して明に見るべし〉と語られています。
第三項 井上哲治郎
井上哲治郎(1855~1944)は、明治・大正・昭和の哲学者です。
『勅語衍義』において、道徳と法律の関係について言及があります。〈法律ハ道徳ト相待チテ国ノ秩序ヲ維持スル所以ナリ。人ノ行為ニシテ社会ノ安寧ヲ害スルトキハ、法律ノ制裁ニヨリテ之レヲ禁遏(きんあつ)スベキモ、社会ノ安寧ヲ害スルニ至ラザル行為ハ、唯々道徳ノ制裁ニヨリテ之レヲ制限スベキノミ。道徳ハ主トシテ内界ノ事ヲ支配シ、法律ハ主トシテ外界ノ事ヲ規定ス。広ク之レヲ言ヘバ、法律モ元ト道徳ノ一部ナリ。唯々行為ノ国安ヲ害セザルモノハ、専パラ之レヲ道徳ニ一任シ、国安ヲ傷クルモニニ至リテハ、道徳ノ制裁ノ外、更ニ之レヨリ厳重ナル制裁ヲ科シ、以テ其行為ヲ禁遏セザルベカラズ。此必用アルヲ以テ、道徳ノ部分ヨリ厳重ナルモノヲ抽出シ、吾人ノ本文ヲ規定シタルモノヲ名付ヅケテ法律ト云フ。要スルニ、法律ト道徳トハ、鳥ノ双翼、車ノ双輪ノ如ク両立スベク、偏廃スベカラザルモノナリ〉と語られています。
第四項 西田幾多郎
西田幾多郎(1870~1945)は、日本近代の代表的哲学者です。西田哲学と言われる独自の哲学大系を打ち立てました。
『場所的論理と宗教的世界観』において、〈絶対現在の自己限定として我々の行動の一々が終末論的と云うことは、臨済の所謂全体作用的と云うことであり、逆にそれは仏法無用功処と云うことであり、道は平常底と云うことである〉とあります。〈絶対否定即肯定的に、かかる逆対応的立場に於て、何処までも無基底的に、我々の自己に平常底という立場がなければならない〉わけです。そこで、〈我々の自己に平常底という立場があるが故に、常識と云うものも形作られるのであろう〉と語られています。
『日本文化の問題』では、〈西洋文化を単に個人主義と云ってしまうのも無造作に過ぎると思うと共に、全体主義と云うのは往々ファッショやナチスに類するものの如くである。之に反し我国自身の立場に於て考えようとする人は皇道と云う〉とあります。そこで〈私は我日本民族の思想の根柢となったものは、歴史的世界の自己形成の原理であったと思う〉と述べています。〈日本精神は日本歴史の建設にあった〉と考えられているのです。そこでは、〈我々は我々の歴史的発展の底に、矛盾的自己同一的世界そのものの自己形成の原理を見出すことによって、世界に貢献せなければならない。それが皇道の発揮と云うことであり、八紘一宇の真の意義でなければならない〉と述べられ、〈己を空(むなしゅ)うして物を見る、自己が物の中に没する、無心とか自然法爾とか云うことが、我々日本人の強い憧憬の境地であると思う〉と語られています。ですから、〈創造に於て、人間は何処までも伝統的なると共に、過去未来と同時存在的なるものに、即ち永遠なるものに、何物かを加えるのである〉というのです。
『日本的ということについて』では、〈或る一日本人の趣味が真に日本的となるには個人の性癖を没して公のものとならねばならぬように、日本的趣味が真に芸術的となるためには日本人の私有物ではなくて公のものとならねばならぬ。古今に通じて謬らず、中外に施して悖らざる公道の一部でなければならぬ〉とあります。
また、明治三十五年の日記帳の巻末の扉に書きつけられた〈参禅以明大道。学問以開真智。以道為体。以学問為四肢(参禅は以って大道を明らかにすべく、学問は以って真智を開くべし。道を以って体となし、学問を以って四肢となす)〉という言葉も残されています。
第五項 柳田国男
柳田国男(1875~1962)は、日本民俗学の創始者にして大成者です。国内を旅して民俗・伝承を調査し、日本の民俗学の確立に尽力しました。
『明治大正史 世相篇』には、〈歴史は遠く過ぎ去った昔の跡を、尋ね求めて記憶するというだけでなく、それと眼の前の新しい現象とのつながる線路(すじみち)を見究める任務があることを、考えていた人は多かったようである〉とあります。
『先祖の話』には、〈『先祖の話』において、自分のまず考えてみようとすることは二つ、その一つは毎年の年頭作法、次には先祖祭の日の集会慣習だが、両者はもと同じ行事の、二つの側面を示すものではなかったろうか。まだ容易にはしかりと言えないだけに、研究者にとっては興味が深い。ともかくもこの問題の輪廓を明らかにしておくことが、同時にまた我々の先祖たちが、「先祖」というものに関して抱いていた考えを知る道でもある〉とあります。また、〈家を平和にまた清浄に保つということが、みたまを迎え祭る大切な条件であることを、古人は通例こういう具体的な形によって、永く銘記しようとしていた。それをただ珍しいと思って聴くことが、同時にまたこれから大きくなって行こうとする人たちのために、ことに安らかな教養の道でもあったのである〉ともあります。
「先祖」というものに関して抱いていた考えを知る道と、安らかな教養の道が示されています。柳田は、〈わが同胞のこれからさきの活き方、未来をどういう風に考えて行くかをきめる場合に、最も大きな参考となるべき前人の足跡、すなわち先祖はいかに歩んだかを明らかにする、これがまた一つの手段なのである〉と述べています。
第六項 河上肇
河上肇(1879~1946)は、大正・昭和期のマルクス主義経済学者です。マルクス主義経済学の研究・紹介に努め、大学を追われた後、日本共産党に入党しましたが検挙されました。
『獄中贅語』では、〈『論語』には、「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」という孔子の言葉があるが、ここに「道」というのは、やはり心のことである[ついでに一言しておくが、ここに「聞く」とは、大無量寿経などに「名号を聞く」とある場合の「聞く」と同じことで、ただ耳に聞くというのではなく、深く心に会得することを指しているのである]〉とあります。
『貧乏物語』では、〈孔子また言わずや、朝に道を聞かば夕べに死すとも可なりと。言うこころは、人生唯一の目的は道を聞くにある、もし人生の目的が富を求むるにあるならば、けっして自分の好悪をもってこれを避くるものにあらず、たといいかようの賤役なりともこれに従事して人生の目的を遂ぐべけれども、いやしくもしからざる以上、わが好むところに従わんというにある。もし余にして、かく解釈することにおいてはなはだしき誤解をなしおるにあらざる以上、余はこの物語において、まさに孔子の立場を奉じて富を論じ貧を論ぜしつもりである〉とあります。また、〈ラスキンの有名なる句に There is no wealth, but life(富何者ぞただ生活あるのみ)ということがあるが、富なるものは人生の目的――道を聞くという人生唯一の目的、ただその目的を達するための手段としてのみ意義あるにすぎない。しかして余が人類社会より貧乏を退治せんことを希望するも、ただその貧乏なるものがかくのごとく人の道を聞くの妨げとなるがためのみである〉とも語られています。
第七項 九鬼周造
九鬼周造(1888~1941)は哲学者です。ヨーロッパに留学して実存哲学を学び、解釈学的手法を用いて日本文化を究明しました。
『日本的性格』には、〈日本の道徳の理想にはおのずからな自然ということが大きい意味を有っている。殊更らしいことを嫌っておのずからなところを尊ぶのである。自然なところまで行かなければ道徳が完成したとは見られない〉とあります。そのため、〈自由と自然とが峻別されず、道徳の領野が生の地平と理念的に同一視されるのが日本の道徳の特色である〉と語られています。つまり、〈日本の道徳にあっても芸術にあっても道とは天地に随った神ながらのおのずからな道である〉と考えられているのです。
第八項 和辻哲郎
和辻哲郎(1889~1960)は、大正教養主義を代表する日本文化史家で倫理学者です。和辻倫理学と呼ばれる独自の体系を樹立しました。
『人間の学としての倫理学』には、〈人間生活の不断の転変を貫ぬいて常住不変なるものは、古くより風習として把捉せられていた。風習は過ぎ行く生活における「きまり」「かた」であり、従って転変する生活がそれにおいて転変し行くところの秩序、すなわち人々がそこを通り行く道である〉とあります。そこでは、〈人間共同態の存在根柢たる秩序あるいは道が「倫」あるいは「人倫」という言葉によって意味せられている〉と述べられています。そこから、〈理は「ことわり」であり「すじ道」である。だからそれが人間生活に関係させられれば理の一語のみをもってすでに「道義」の意味を持ち得る。人間の理は人間の道である。しかるに「倫」は一面において人間共同態を意味しつつ他面においてかかる共同態の秩序すなわち人間の道を意味した〉とあります。〈倫理とは芸術や歴史に表現せられ得る人間の道であって、理論的に形成せられた原理ではないのである〉と語られています。そこで倫理に関し、〈倫理とは人間共同態の存在根柢として、種々の共同態に実現せられるものである。それは人々の間柄の道であり秩序であって、それあるがゆえに間柄そのものが可能にせられる〉ということになります。
『倫理学』においても、〈「倫」は「なかま」を意味するとともにまた人間存在における一定の行為的連関の仕方をも意味する。そこからして倫は人間存在における「きまり」「かた」すなわち「秩序」を意味することになる。それが人間の道と考えられるものである〉とあります。〈倫理は人間の共同的存在をそれとしてあらしめるところの秩序、道にほかならぬのである〉と述べられています。
その道はというと、〈根源的空間性時間性が明らかにせられる時に、初めて実践的行為的連関はその具体的な構造を示してくる。すなわち人間の行為はここに至ってその充分なる規定を得ることができるのである。そこでこの行為の立場において、信頼及び真実と呼ばれる人間の道が、真によく把握せられる〉と考えられています。
また、〈交通機関は本質的には「道」である。人々がその上を動いて互いに交わり結合するところのものである〉とあります。そして、〈交わりの手段である点においては、それは通信機関と異ならない。通信機関は本質的には「信(たより)」(音信)である〉と述べられています。ここにおいて、交通機関としての道と、通信機関としての信が比較されています。その関係性は、〈信(たより)とは「動く道」であり、道とは「静止する信(たより)」である〉とされています。道は、〈歴史的にすでに成立している人間の結合を示す〉のであり、〈さまざまの人間の交わりを表現する〉ものだというのです。そして、〈道〉と〈信〉の動静によって、〈人間の交わりの時間的な展開〉や〈人間存在のひろがりを表現する〉ものとして〈空間性〉が現れています。
日本の歴史における道を見た場合、〈その同じ人間の真実を日本人は「私」なき清明なる心として把捉したように見える。それは純情をもって全体に帰依する天真な「まごころ」である。また無私の愛をもって人倫的合一に没入する「まこと」である。中世の初めに伊勢神宮の神託として説かれ始めた「正直」の概念もまたこの無私清明なる人間の態度をさしている。これらの一切を通じて、人間の真実こそまさに人間の道であったのである〉と語られています。
人倫の道については、〈我々はさらに国家自身の根本的な行為の仕方を理解することができる。それは万民をしておのおのその所を得しめると言い現わされているあの人倫の道である。万民が「所を得る」とは個人の生命と財産との安全が保障されるということではない。国家の包摂せるあらゆる人倫的組織がそれぞれ真に人倫的に実現されることである。そのためには生命や財産の安全もまた手段として必要であるではあろう。が、時にはかかる安全を犠牲としても人倫的組織を守らなくてはならぬ。窮極の目的は人倫の道であって個人の幸福ではない〉と語られています。
人道については、〈神はすべての人に子としてのしるしを潜勢的な理性の形で与えた。従って正しい理性を本性として持つ限りの人々は、同じ神の子として兄弟であり、生まれながらにしてこの同胞共同体に属している。人類はこのような同胞共同体なのである。この共同体の成員は、仲間から好意や愛ややさしさや寛容や友情をもって取り扱われる権利を持っている。これが人道である〉とされています。
人倫の道における普遍と特殊については、〈どの国民も普遍的な人倫の道を実現しようとして行為の仕方を定めたのであって、おのれたちのみに通用する特有の道などを目ざしたのではない。もし初めから他との差別が意識せられていたとすれば、そこには、これこそ真の人倫の道であり、従って他の国民もこの道を守るべきであるとの信念が存していたであろう。すなわち既成道徳は普遍的な道徳として立てられたのである。しかもそれは、歴史的・風土的な制約の下に自覚せられたものであるがゆえに、事実上特殊な性格を持って現われてくる。だからそれぞれの国民が道徳として理解しているものは、それぞれ多少の相違を示すことになるのである〉と述べられています。
第二節 西欧社会と対峙する政治
西欧哲学と対峙する道において、西欧社会と対峙する政治が問われます。その政治には、公家としての視点、武士としての視点、思想としての視点が必要です。
第一項 岩倉具視
岩倉具視(1825~1883)は、日本の公家で政治家です。幕末に公武合体を説き、後に王政復古の実現に参画します。明治維新後、右大臣として欧米の文化・制度を視察し、帰国後は内治策に努め、明治憲法の制定に尽力しました。
『国事意見書』には、〈万世一系ノ天子上ニ在テ、皇別、神別、蕃別ノ諸臣下ニ在リ、君臣ノ道、上下ノ分既ニ定テ万古不易ナルハ、我ガ建国ノ体ナリ。政体モ亦宜ク此国体ニ基ヅキ之ヲ建テザル可カラズ〉とあります。日本において、変わることない君臣ノ道が語られています。
第二項 大久保利通
大久保利通(1830~1878)は、日本の武士で、薩摩藩士で政治家です。維新の元勲で、西郷隆盛、木戸孝允と並んで、維新の三傑と称されています。
『立憲政体に関する意見書』には、〈治国ノ道タル、其政府ノ体裁ニ於テハ各其国古来ノ風習人情ニ従ヒ、或ハ立君独裁或ハ君民共治或ハ共和政治等ノ異ナルアリト雖、国中百端ノ事務ヲ議定試行スルニ至テハ、必ズ独立不羈ノ権ヲ有スル処有テ〉とあります。道は国ごとの古来よりの風習や人情によって異なるというのです。その違いの上に、国に独立不羈の精神が現れると考えられています。
第三項 吉野作造
吉野作造(1878~1933)は、大正時代の代表的政治思想家です。民本主義を唱えました。
『憲政の本義を説いてその有終の美を済すの途を論ず』には、〈制限という言葉を使えばこそ世人はとかくこれを気にするのであるけれども、これに代うるに「道」という文字を使ったならばどうか。すなわち立憲政治はわがまま勝手なる政治にあらず、「道」をもって国家を治むるの政治であるとすれば、「道」はすなわち主権の自由行動に対する一種の制限ではないか。しかしてこのいわゆる「道」は、法律上にも政治上にも現われ、換言すれば君主の大権は法律上ならびに政治上ともに各種の制限を受くるのが立憲諸国の通例である〉とあります。道によって、適切な制限が可能になることが示されています。
■第三節 西欧近代と対峙する評論
西欧哲学と対峙する道において、西欧近代と対峙する評論が問われます。その評論は、小説や批評などの形式において展開されています。
第一項 森鴎外
森鴎外(1862~1922)は、小説家で評論家です。陸軍軍医としてドイツに留学し、翻訳・評論・創作・文学誌刊行などの多彩な文学活動を展開しました。
『心頭語』には、〈作者の名のために作らずして道のために作るや、論をまたず。されば術者たらんものも、道のために述ぶということを忘るべからず〉とあります。名よりも道が上位に位置づけられていることが分かります。
第二項 夏目漱石
夏目漱石(1867~1916)は、明治後期から大正初めにかけて活躍した日本を代表する作家です。西欧近代文明とそれを模倣する近代日本に対する卓抜な文明批評を行うとともに、自らも近代的自我の苦悩を引き受け追求しました。
大正三年(1914年)の『私の個人主義』において、〈ああここにおれの進むべき道があった!ようやく掘り当てた!こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事が出来るのでしょう〉と述べています。
大正五年(1916年)十一月十五日、死の直前に、自宅を訪れた若い禅僧にあてた有名な手紙があります。その一部に、〈変なことをいいますが私は五十になってはじめて道に志すことに気のついた愚物です。その道がいつ手に入るだろうと考えると大変な距離があるように思われて吃驚しています。あなた方は私にはよく解らない禅の専門家ですがやはり道の修業において骨を折っているのだから五十まで愚図愚図していた私よりどんなに幸福か知れません、またどんなに特勝な心得を深く礼拝しています。あなた方は私の宅へくる若い連中よりもはるかに尊い人たちです。これも境遇から来るには相違ありませんが、私がもっと偉ければ宅へくる若い人ももっと偉くなるはずだと考えると実に自分の至らないところが情なくなります〉と書き残しています。
第三項 島崎藤村
島崎藤村(1872~1943)は、詩人で小説家です。浪漫主義詩人として出発し、自然主義文学の先駆となりました。
藤村の長編小説に、『夜明け前』があります。主人公は青山半蔵で、藤村の父親がモデルです。半蔵の述懐に、〈正道(まさみち)に入り立つ徒(とも)よおほかたのほまれそしりはものならなくに〉という言葉があります。その道は神の道であり、〈御世御世の天皇の御政(おんまつりごと)はやがて神の御政であった、そこにはおのずからな神の道があったと教えてある。神の道とは、道という言挙げさえも更になかった自然(おのずから)だ、とも教えてある〉と示されています。そのため半蔵は、神の道の理想と、明治という現実の狭間で苦悩することになります。
第四項 小林秀雄
小林秀雄(1902~1983)は、近代批評を確立した評論家です。
小林秀雄は『本居宣長』を書き終えた後に、文芸評論家の江藤淳(1932~1999)と対談しています。江藤が〈つまり、小林さんのおっしゃる道というものは、発見を続けていって、その果てに見えはじまるというようなものだろうと思いますが・・・・・・〉と述べると、小林秀雄が〈そうなんですね〉と答えています。
『道徳について』では、〈道徳という言葉は、僕等の一切の過去を引摺っている。僕等の過去の一切の善悪、一切の不幸を〉と述べています。道徳が過去と関わっていることが語られています。
第五項 保田与重郎
保田与重郎(1910~1981)は、日本浪漫派の評論家です。伝統主義と近代文明批判を展開しました。
『近代の終焉』には、〈國の天地のみちを踏まんとは、我らが先蹤文人の心懐としたところであつた、すべて思想や文藝を生理とする者は、拙きを守り滅びを一人で支へる心理に生きねばならない〉とあり、〈我々は文化の問題に於ても、どのやうに考へても夕は朝より悲痛である。私は最も悲痛な状態を感じつゝ、それゆゑ、國のみちを信ずるのである〉とあります。その上で、〈我々のみちは堅めねば近代の装甲自動車を通し得ぬほどの脆弱なみちではなかつた。文明開化の論理は、日本のさういうみちを反省せずして、はじめから脆弱としてかゝつたのである〉と言い、文明開化に伴う軽薄さを批判しています。
『萬葉集の精神』には、〈我國の古典は、最も高い生活感情と文明精神に於てそれを捉へ、高次の意識の表現として解すると云ふ正道をとるとき、最も正しく我國の歴史の精神と理想を示すのである〉とあります。『日本に祈る』では、〈わが神の道は、さういう支配のための神でなく、むすびのしくみに、たゞみちあることを知つたのである〉とあり、〈つまり道は観念になく、神の生活にあるとの思想である〉とあります。そこで自身を省みて、〈日本の道と東方の道義を以てみれば、わが私の文業のなるならざるが如きは、末端のさらに枝葉である。よしんば余が文業未完に了らうとも、道はいさゝかも衰へないと、余は信じて、安らかである〉と述懐しています。
『好日の意』と題された戦後の随筆には、〈そこに歴史があるはずだ。この國、わが國土、この郷村が、祖先積善の風景だといふ、人道の歴史があるのだ〉とあります。続いて、〈我々の神々は、實にわが祖先だつた。我々は絶対神といふものを先祖の歴史の上で知らず、また絶対神の意志に従ふための神學や哲學をもたなかつたのは、東洋の文明が深遠だつたといふ理由からでなく、遠い遠い道を歩いてきた(傳統といふもの)ことが、今もなほつづいてゐることである〉と語られています。『續絶對平和論』では、〈神の道は、生きた神々の生活として現はされてゐるのです〉と語られています。
保田与重郎にとって道とは、神の道であり、その道は生活であり歴史であり伝統でもあったのです。 
第九章 政道 

 

政道とは、日本の政治分野における歩みのことです。北畠親房(1293~1354)の『神皇正統記』には、〈オヨソ政道ト云コトハ所々ニシルシハベレド、正直慈悲ヲ本トシテ決断ノ力アルベキ也〉とあり、政治の道における決断の重要性を説いています。黒田長政(1568~1623)の『黒田長政遺言』には、〈先我身ノ行儀作法正シクシテ、政道ニ私曲ナク、万民ヲ撫育スベシ〉とあります。松平定信(1759~1829)は『政語』で、〈人の行ふべき、之を道と謂ひ、人の道に道(したが)ふ、之を政と謂ふ〉と述べています。日本の政道においては、政治の「道」の伝統が展開されています。そこには日本人の根本規範が示されていると思われます。日本における政道の系譜は、『十七条の憲法』に始まり、『大宝律令』を通り、『御成敗式目(貞永式目)』や『武家諸法度』を介して、『五箇条の御誓文』に続き、『大日本帝国憲法』に至ります。この一連の系譜から、日本人の規範意識が見えてくるはずです。本章では、日本憲政上の重要文献から、日本における政治の「道」を見ていきます。
第一節 十七条憲法
『十七条憲法』は、『日本書紀』に皇太子の作成とする記述があることから、聖徳太子の作とする伝承があります。儒教・仏教・法家・老荘思想などからの影響が見られ、君臣の秩序・政治倫理・社会道徳などについて広く記されています。
[一条]の〈和をもって貴(とうと)しとし〉という言葉はあまりにも有名です。〈上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん〉とあり、話し合いの重要性が述べられています。
[五条]には、「臣の道」が語られています。〈餮(あじわいのむさぼり)を絶ち、欲(たからのほしみ)を棄(す)てて、明らかに訴訟(うったえ)を弁(さだ)めよ〉とあります。
[十五条]でも、〈私(わたくし)を背(そむ)きて公(おおやけ)に向(ゆ)くは、これ臣の道なり〉とあります。そのためには、〈上下和諧(わかい)せよ〉と記されています。
[十七条]では、〈それ事(こと)はひとり断(さだ)むべからず。かならず衆とともに論(あげつら)うべし〉とあります。重要なことは一人で決定せずに、多くの人々と議論すべきだというのです。そうするならば、〈衆と相(あい)弁(わきま)うるときは、辞(こと)すなわち理(ことわり)を得ん〉というのです。つまり、多くの人々とともに是非を論じるなら、物事が理に適うようになると示されているのです。
第二節 大宝律令
『大宝律令』は、日本で701年もしくは702年に施行された国家統治の根本法典です。天皇の命令であるとともに、天皇も遵守すべき規範とされていました。
律令制には、〈五畿七道〉の定めがあります。これは畿内をのぞく全国を東海道など七つの行政区劃に分けたものであり、道は地理的な領域の意に用いられています。これ以降、道の用法は、地理的領域から人間の営みの領域へも移っていきます。
第三節 御成敗式目(貞永式目)
『御成敗式目』は、五十一箇条からなる鎌倉幕府の基本法典で、貞永式目や関東武家式目などとも呼ばれています。執権北条泰時を中心に1232年に制定されました。武家社会の道理に基づいて作成されています。
文章中には、〈道理なきによつて御成敗を蒙らざる輩、奉行人の偏頗たるの由訴へ申す事〉とあります。偏頗とは、えこひいきのことです。道理なきことは、えこひいきだということが語られているのです。そのため、〈ただ道理の推すところ、心中の存知、傍輩を憚らず、権門を恐れず、詞を出すべきなり〉と記されています。道理によって言葉を発すべきであり、そこでは他人の目や権力よりも道理が優先されるべきことが明記されています。
第四節 武家諸法度
『武家諸法度』は、江戸時代の将軍が武家に対して発した法令です。初令は1615年に徳川家康が起草させ公布しました。
道について見てみると、[台徳院]には〈文武弓馬之道、専ら相嗜む可き事〉とあり、〈凡そ治国の道、人を得る在り〉とあります。
[文照院]では〈文武之道を修め、人倫を明かにし、風俗を正しくすべき事〉が語られています。
第五節 五箇条の御誓文
『五箇条の御誓文』は、明治元年の1868年に公布された維新政権の施政理念です。国内の公議輿論と、国外の開国和親を表明したものです。
[第四条]には、〈旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ〉とあり、「公道」について言及されています。また、五箇条の後に、明治天皇が群臣に向けて下した勅語があります。そこには、〈我が國未曾有の変革を為んとし、朕躬を以て衆に先んじ、天地神明に誓ひ、大に斯国是を定め、万民保全の道を立んとす。衆亦此旨趣に基き、協心努力せよ〉とあり、「万民保全の道」が語られています。
第六節 大日本帝国憲法
『大日本帝国憲法』は、1889年に黒田清隆内閣のときに公布された欽定憲法です。君主権の強いプロイセン憲法を模範とする基本方針の基、伊藤博文や井上毅などが憲法起草に関わり完成しました。
『大日本帝国憲法』の[告文]には、〈皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ典憲ヲ成立シ條章ヲ昭示シ内ハ以テ子孫ノ率由スル所ト爲シ外ハ以テ臣民翼贊ノ道ヲ廣メ永遠ニ遵行セシメ益々國家ノ丕基ヲ鞏固ニシ八洲民生ノ慶福ヲ増進スヘシ茲ニ皇室典範及憲法ヲ制定ス惟フニ此レ皆〉とあります。「臣民翼贊ノ道」という言葉が見られます。
伊藤博文の『憲法義解』の[第十六条]では、〈恭て按ずるに、國家既に法廷を設け、法司を置き、正理公道を以て平等に臣民の権利を保護せしむ〉とあり、「正理公道」が語られています。[第五十五条]では、〈大臣政事の責任は獨り法律を以て之を論ずべからず。又道義の関る所たらざるべからず〉とあり、「道義」が語られています。[第五十九条]では、〈裁判官をして自ら其の義務を尊重し正理公道の代表と為らしむるは、蓋し亦公開の助に倚る者少しとせざるなり〉とあり、ここでも「正理公道」が語られています。 
第十章 道の思想形 

 

日本史において、日本の道の伝統が展開されて来ました。日本の偉大な先人たちが、実に様々な仕方で、道について言及しています。各人の意見は、実に多様な面から述べられています。ですから問題は、道についての意見間の関係性を明らかにすることです。それぞれの道の関連をたぐり、道に対する包括的で統合的な思想を示すことが必要なのです。その道は、日本の歴史に根付いた、日本における道です。ですからその道は、日本の道の思想となります。日本では思想の「基」となるものが集まり、継続する様々な「型」が生まれます。型は互いに関係し合い、「形」となって表れます。そこで本書では、まずは道の思想形を論じます。次章で思想基を、次いで思想型について論じていきます。
第一節 道という言葉
道とは、まずもって人間や獣が往来した後に出来るものです。人々が往来する場所の跡が、道路であり、道と呼ばれます。ですが日本においては、道という言葉にそれ以上の意味が込められています。往来する道に、思想としての意味が添えられているのです。
第一項 日本語の道の定義
言葉の意味を調べるには、まずは辞書を引くのが一番です。
『日本国語大辞典[第二版](小学館)』では、次のように、訓読みの道(みち)と、音読みの道(どう)が定義されています。
【道・路・途・径(みち)】
[一]人の行き来するところ。また、その往来にかかわる事柄をいう。
(1) 通行するための筋。通行の用に供せられる所で、地点をつないで長く通じているもの。道路。通路。(2) 特に大路、大通りに対して、小路、路地などをいう。(3) (1)によって至りつく土地。地方。国。さかい。また、六道をいう。(4) (1)を進んで行く、その途中。途上。道中。(5) (1)を進み行くこと。行き向かうこと。道行き。旅行。(6) みちのり。道程。行程。また、長さの単位。
[二]人の進むあり方。人の行為・生き方について規範とすべき筋。
(1) そのものの分、または定めとして、よりしたがわねばならぬ筋。また、物事が必然的に成り行く筋、ことわり。道理。条理。(2) 神仏、聖賢などが示した道。神仏、聖賢の教え。教義。教理。特に、仏道をいう場合が多い。(3) 事をなすにあたってとるべきてだて。手段。方法。やり方。特に、正当な方法。(4) (修飾語を受けて)特定の方面のこと。むき。すじ。かた。(5) 特に、専門の方面。専門的な方法。学問、芸能、武術、技術などの専門の分野。中世以後、単なる技芸としてでなく、人間としての修行を目的として道という場合がある。(6) 目的、結果などに至りつくべきみちすじ。到達、達成のためにふまねばならぬ過程。
【道(どう)】
(1) 通行するところ。通りみち。みちすじ。(2) 人の守るべき正しいすじみち。修行のみち。さとり。
(3) 老荘の教え。(4) 方法。やり方。手段。技芸。学問。(5) 言う。語る。(6) 仏教で、衆生の輪廻する世界。(7) 行政上の区画。(8) 北海道のこと。
訓読みの道(みち)の[一]は、人が行き来きし、往来する道路です。この道路を、[二]では思想的な段階で論じています。実際に歩く道路の情景を、思想的な観念に投影しているのです。それが、日本の道という言葉なのです。
第二項 漢字の道の成り立ち
「道」という言葉は漢字なので、漢字の成り立ちによる意味を持ちます。白川静(1910~2006)の『字統』、『字訓』、『字通』を引いてみましょう。
1.『字統』の道
首と辵とに従う。古文の字形は首と寸とに従い、首を手(寸)で携える形。金文には首と辵と又とに従う字があり、のちの導の字にあたる。辵は歩く、行く意。首を手(又)に携えて行く意で、おそらく異族の首を携えて、外に通ずる道を進むこと、すなわち除道(道を祓い清めること)の行為をいうものであろう。道を修祓しながら進むことを導といい、修祓したところを道といった。
2.『字訓』の道
首+辵。古文は首と寸とに従い、首を携える形。異族の首を携えて除道を行う意で、導く意。祓除を終えたところを道という。
3.『字通』の道
「み」は神聖のものにつけて用いる語。「ち」は「ちまた」「いづち」など道や方向をいう古語。道は霊の行き通うところでもあり、またそこをうしはく「みちの?」があると考えられていた。地域について「みちのく」「みちのしり」のようにいう。人の通行するところから、人の履践する方法や道理の意となり、その道理を教えるときには「みちびく」「みちびき」という。ミは甲類。
第二節 日本の心と日本の道
日本の道は、人々の往来する場所を思想として語ることによって、重要なものとして受け継がれてきました。
そこで道の思想としての働きを把握するためには、日本人の心の歴史を探ることが必要になります。『日本書紀』には〈子々孫々、清明心を用(も)て天闕(みかど)に事(つかえ)奉(まつ)らむ〉とあり、『続日本紀』には〈明き浄き直き誠の心〉が示されています。心に曇りがないことが、天皇や神に仕える心構えとして語られています。このような日本人の心が、日本の道を生み育てて来たのです。
『太閤記』や『信長記』を著した小瀬甫庵(1564~1640)は、『童蒙先習』において、〈道より楽(たのしき)はなし〉と述べています。心が楽しいが故に、思想としての道が生まれるのです。つまり、道の思想は心にとって楽しいことなのです。
第一項 心と道
日本人の心は、道へと向かい合います。そこで、心と道とが結び付きます。
[図10-1] 心と道
日本における心と道の関係を、先人達の言葉の中に見ていきます。
最澄(767~822)は、〈道心あるの人を名づけて国宝となす(『山家学生式』)〉と述べています。道心は菩提心で、悟りという真実の道を求める心です。その道心を持つ人を、崇敬すべき国家の宝として、国宝と述べています。
空海(774~835)は『遍照發揮性靈集』において、〈物の荒癈は必ず人に由る。人の昇沈は定めて道に在り〉と言い、〈人を導くは教なり。教を通するものは道なり。道、人無ければ擁(ふさが)り、教、演ぶること無きときは癈(すた)る〉と述べています。人と道の相互関係が語られています。
貞慶(1155~1213)は、〈出離の道、ただ心に在り(『興福寺奏状』)〉と述べ、仏の道が心にあることを述べています。
証定(1194~?)は、〈道即ち心なり(『禅宗綱目』)〉と述べています。
『御成敗式目(1232)』には、〈ただ道理の推すところ、心中の存知、傍輩を憚らず、権門を恐れず、詞を出すべきなり〉とあります。道理の推すところにより、心の中でよく理解していることを、仲間に遠慮することなく権力を恐れず、言葉として発すべきことが記されています。
無住(1226~1312)の『沙石集』には、〈仏の道に入らむ人は、慈悲を心に習ひ好むべきなり〉とあり、〈道はこれ仏法なり。心に深く染むべし〉とあります。
一遍(1239~1289)の言行を伝える『一遍上人語録』には、〈心の外に法を見るを名づけて外道とす〉とあります。
『山上宗二記(1586)』には、〈古えより何れの道も相承の正しき師を尋ね、程門の雪にたたずむ志を称す〉とあります。程門の雪にたたずむとは、弟子が師の門前に教えを乞うてたたずむうちに雪が積もったという故事から、熱意の程を言います。何れに道においても、正しき師を尋ねて道を志すことが大事だとされています。
『南方録』には、〈ひたすら茶の正道、世につたへんことを根本にふかく志玉へば、我あやまりをもかくす心なく〉とあります。道を深く志すことが、誤りを隠すことない心につながることが示されています。
柳生宗矩(1571~1646)は、〈道ある人は、本心にもとづきて妄心をうすくする故に尊し(『兵法家伝書』)〉と述べています。道ある人とは、物事の道理をよくわきまえた人だというのです。
沢庵(1573~1645)は、〈神道、歌道、儒道とて、道多く候へども、皆この一心の明なる所を申し候(『不動智神妙録』)〉と述べています。神の道や歌の道、儒教の道など多くの道は、一つの心の明らかとなるところなのだと語られています。
宮本武蔵(1584~1645)の『五輪書』の[地之巻]では、〈日々に其道を勤むるといふとも、心のそむけば、其身はよき道とおもふとも、直なる所より見れば、実の道にはあらず〉と語られています。心に背く道は、実の道ではないのです。[空之巻]においては、〈空といふ心は、物毎のなき所、しれざる事を空と見たつる也。勿論空はなきなり。ある所をしりてなき所をしる、是則ち空也〉と空の心について語られています。そこで空について、〈直なる所を本とし、実の心を道として、兵法を広くおこなひ、たゞしく明らかに、大きなる所をおもひとつて、空を道とし、道を空と見る所也〉とあり、空が道と結びつけて語られています。
熊沢蕃山(1619~1691)は、〈志といふは道に志す也。初学の人、道に志ざして、いまだ道をしらずといへども、心思のむかふ所正也(『集義和書』)〉と語っています。心は道へ向かうのですから、心は道へ志すのです。道というものがよく分からなくとも、まずは道へ向かおうとすれば、正しいところへ向かっているのだと述べています。
貝原益軒(1630~1714)は、〈道ヲ信ズル志ハ、専一ニシテ、アツカルベシ(『五常訓』)〉と述べています。また、〈道理はわが一心にそなはり、その用は萬物の上にあるなれば、まづわが一心の道理をきはめ、次には萬事につきてひろき道理をもとめて、わが心中に自得すべし(『大和俗訓』)〉と語っています。道理は心に具わり、その適用は全てに及びます。ですから、心の道理を極めてから、全ての道理を求め、自分の心の中に得るべきだというのです。
山鹿素行(1622~1685)は、〈人心、道心、心を正しうする、皆知覚及び理共に具はるなり(『聖教要録』)〉と述べています。心が正しければ、知識や理論は備わってくるものだと語られています。
大道寺友山(1639~1730)は、〈武士道の學文と申は内心に道を修し外かたちに法をたもつといふより外の義は無之候(『武道初心集』)〉と述べています。心の内に道があり、外見に法を保つのが武士の道だというのです。
荻生徂徠(1666~1728)は、〈故に先王の道は、礼を以て心を制す(『弁道』)〉と述べています。道は心を制すのだと語られています。
手島堵庵(1718~1786)は、〈道は則本心なり(『会友大旨』)〉と述べています。
中沢道二(1725~1803)は、〈道とは何んぞ。心の事じゃ(『道二翁道話』)〉と述べています。
本居宣長(1730~1801)は、〈生れながらの真心なるぞ、道には有ける(『玉勝間』)〉と述べています。
良寛(1758~1831)は、〈仏は是れ自心の作なり、道も亦有為に非ず(『良寛道人遺稿』)〉と述べています。仏は自分の心が造るのであり、道もまた無常ではないということです。
柴田鳩翁(1783~1839)は、〈心の体は性なり、心の用は情なり。心は道なり、さればこそ性は道の体、情は道の用なりとも申してある。これでみれば人と道とは、離れとうても、離れられるものではござりませぬ(『続々鳩翁道話』)〉と語っています。
大塩中斉(1793~1837)は、〈道よりして観れば、則ち心は身を裹み、身は心の内に在り(『洗心洞?記』)〉と述べています。道という観点からすると、心は身を包み、身は心の内にあるという捉え方になるというのです。
吉田松陰(1830~1859)は、〈已に其數箇の道を知るに至らば、我心に於て豈悦ばしからざらんや(『講孟余話』)〉と述べています。人はそれぞれの道を知り、その道を歩むというのです。それは、自身の心にとって、何と喜ばしいことかと松陰は語っています。
山岡鉄舟(1836~1888)は、〈武士道は、本来心を元として形に発動するもの(『剣禅話』)〉と述べています。武士道は心を元として形となるというのです。
鈴木大拙(1870~1966)は、〈無心是れ道で、心がなくなれば道もまた無である。そこに心と道と一如の世界が成り立つ。道も心も無の世界で一如となるのである。この一如の場所、身心是道ということができる、また道是れ身心ということができる『無心ということ』〉と述べています。無心とは、一切の妄念を離れた心のことです。ですから、〈なんでもすべきこと、そのことに成りきれば、無心である。無心であれば、無事である。それが平常心である。そこに道がある『日本的霊性』〉と語られているのです。
河上肇(1879~1946)は、〈『論語』には、「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」という孔子の言葉があるが、ここに「道」というのは、やはり心のことである(『獄中贅語』)〉と述べています。
柳宗悦(1889~1961)は、〈道は心の深さに関わる(『茶道を想う』)〉と述べています。
以上のように日本においては、心と道が結びつけて論じられています。心があるから道があるのです。その相互作用において、心が道へ向かうのは、志のためです。道が人へ向かうのは、導きのためです。まとめると、次図のようになります。
[図10-2] 志と導き
自分の心が他の心を認めるとき、志が芽生えて道へと向かいます。ある心が他の心を認めたとき、他の心たちによって積み重ねられてきた実績が感じられるからです。それは、他の心たちによって踏み固められた大地として、つまりは道として現れます。この道は、他の心たちの歩んだ跡であり、この道がその心を導くのです。
『論語』の[衛霊公篇] には、〈子曰わく、人能く道を弘(ひろ)む。道、人を弘むるに非ず〉とあります。人間が道を広めるのであり、道が人間を広めるのではないという意味であり、人間あっての思想という考え方がみられます。
伊藤仁斎(1627~1705)の『語孟字義』には、〈道はおのずから導くところ有り。徳は物を済(な)すところ有り〉とあります。また、〈心とは、人の思慮運用するところ〉とあり、〈心の之くところ、これを志と謂う〉とあります。
藤田東湖(1805~1855)が起草した『弘道館記』には、〈弘道とは何ぞ。人、よく道を弘むるなり〉とあります。人間あっての思想という考え方は日本でもみられます。
ですが、日本においては、『等持院殿(尊氏)御遺書』に、〈道ヨク天下ヲ治ム。故ニ道徳仁義ヲ天下ノ主トシ、吾謙リテ道ニ事エズンバアルベカラズ〉とあるように、思想あっての人間という考え方もあるのです。日本の道は、その思想の力によって、人の心を導くのです。
ここにおいて、人と道との関わりが明らかになります。日本においては、人と道は相互に影響を与え合い、支え合うのです。
第二項 私ではなく公へ
日本の道は、日本人の心に基づいています。ですから、道は、私ではなく公と関わります。
[図10-3] 心と公と道
心は、公と私の双方へ作用します。ですが、道と結びつくのは公の方です。私は道には至りません。日本においては、私ではなく公が道として論じられています。
『十七条憲法(604)』の[十五条]では、〈私(わたくし)を背(そむ)きて公(おおやけ)に向(ゆ)くは、これ臣の道なり〉とあります。
明恵(1173~1232)の『梅尾明恵上人伝記』には、〈日々に志を励まし、時々に鞭をすゝめて、大願を立てて、善知識の足下に頭をつかへて、身命を惜しまずして道行を励ますべし〉とあります。志によって道を行くことが語られています。
『正法眼蔵随聞記(1235~1238)』では、〈私曲を存ずべからず。仏祖行来れる道也〉とあります。自分で勝手に考えて行うことを戒め、釈尊や歴代の祖師たちが踏み行ってきた道について語られています。
無住(1226~1312)の『沙石集』には、〈ほむるとも誹るとも、心動かずして、道に入る志を堅くすべし〉とあり、〈形は塵に交りて、志道を慕ふ。これ実の道人なるべし〉とあります。
北畠親房(1293~1354)は、〈己ガ欲ヲステ、人ヲ利スルヲ先トシテ、境々ニ對スルコト、鏡ノ物ヲ照スガ如ク、明々トシテ迷ハザランヲ、マコトノ正道ト云ベキニヤ(『神皇正統記』)〉と述べています。自分ではなく他人を優先することが、まるで鏡が自身ではなく他者を映して迷いなく輝くことに例えられています。そのようなあり方が、正道なのだと語られています。
沢庵(1573~1645)は、〈欲念を離れて岩木の如くにては、万事を作す事ならざる也、欲をはなれすして、無欲の義に叶ふは道也(『玲瓏集』)〉と述べています。
林羅山(1583~1657)は『三徳抄』で、〈義理ニヲコル処ヲバ道ノ心ト云フ〉と述べています。そこでの心は、〈心ハ一ニシテ二ツナキヲ、道ノ心ト人トノ差別ヲ云バ、道ノ心ハ理也。人ノ心ハ気也。是又、心ハ善ニシテ、気ニハ善悪アルノ本拠ナリ〉とされています。人心は気をまじえているから、とかく私に傾きます。そこで道心が理のみであるに対して、人心は気だと大まかに言っているのです。私に傾きがちな人心を、道心の理で義理に向かわせるのです。それゆえ、義理のあるところを道の心というのです。
熊沢蕃山(1619~1691)は、〈欲と云は此形の心の生楽なり。欲の、義にしたがつてうごくを道と云(『集義和書』)〉と述べています。此形の心の生楽とは、肉体的な気質の心の持つ生の楽しみのことです。単なる心の持つ正の楽しみだけでは、道とはなりません。その欲が、義を伴うことで道となるというのです。
山鹿素行(1622~1685)の『山鹿語類』では、〈我説く所の理更に遠からず離れるべからず、人々皆日用之間に因り、而其心に快きを號して道と云、其内にやましきを人欲と云〉とあります。素行の言う理とは、特別に深遠なものではなく、身近なものであり、また、その人によるというものでもないのです。人は皆その日常において自分の心にこころよく感ずるものを道といい、心にやましく感ずるものを人欲と呼んでいるのだと言うのです。
伊藤仁斎(1627~1705)は、〈道とは、天下の公共にして、一人の私情にあらず。故に天下のために残を除く、これを仁と謂う。天下のために賊を去る、これを義と謂う(『語孟字義』)〉と述べています。
貝原益軒(1630~1714)は、〈道心とは、仁義禮智の本性よりおこる善心なり(『大和俗訓』)〉と述べています。道の心は、仁義礼智の本性より起こる善の心なのだと考えられています。
大道寺友山(1639~1730)は、〈心に道を修すると申は武士道正義正法の理にしたがひて事を取斗らひ毛頭も不義邪道の方へ赴かざるごとくと相心得る義也(『武道初心集』)〉と述べています。心に道を修行する武士道では、正義や正しい法に従うのだと語られています。
荻生徂徠(1666~1728)は、〈心なる者は、人身の主宰なり。善をなすは心に在り、悪をなすもまた心に在り。故に先王の道を学びて以てその徳を成すは、あに心に因らざる者あらんや(『弁名』)〉と述べています。善も悪も心次第なのだと語られています。
石田梅岩(1685~1744)は、〈道ニ志シ有者ハ道ニ身ヲ任用事ヨリ他ハナシ。道ニ任用テ他事ナクバ聖ニ至ラズト謂モ今日成処ハ道ノ用ナリ。私シ事ハナシ(『莫妄想』)〉と述べています。
手島堵庵(1718~1786)は、〈正道といふはよく本心を弁へぬれば毫厘も私なきゆへ、上を上としてうやまひ、下は下として背かず、貴賤あきらかにわかりたるをいふ也(『会友大旨』)〉と述べています。
二宮尊徳(1787~1856)の『二宮翁夜話』では、〈人道は私欲を制するを道とし〉とあり、人の道は私欲を制御することで道となると語られています。そこで、〈人道の勤むべきは、己に克の教なり、己は私欲也〉と語られているのです。私欲である己に打ち克つのが人の道なのです。
大原幽学(1797~1858)は『微味幽玄考』で、〈人心とは、暑いとか寒いとか唯自分の身而已思ふをいふ〉と述べています。それゆえ、〈人心は危き者也〉と語られています。それに対し、〈道心とは、人を道(ミチビ)く為めに己が身を思ふいとま無く、暑き時は人も暑からむと思ひ、寒き時は人も寒からむことを思ひ、身を慎み人を憐むの志故、自然と家も斉ひ慶も来る〉とあります。慶とは、幸いや喜びのことです。道の心とは、己の身を顧みずに人のことを思い、自身の身を慎みて人を憐れむ志のことだというのです。その志の故に、うまく行うことができるとされています。
『百姓分量記』では、〈道とは往来の道の如し。道もなき処をありくを私といふ。其私が功じて悪をば作る也〉とあります。道が無いのが私だというのです。私が悪となるのです。
柳宗悦(1889~1961)の『心偈』では、〈道とは何なのか。詮ずるに、私を越える道である〉と語られています。
以上のように、道とは私ではなく、公のものなのです。心が公であるとき、道と通じるのです。道は、公を通じて心に伝わるのです。そこでは、心が道の方へ志すことで、公に近づきます。それと同時に、道が心を導くことで公に近づきます。心と道は、公によって関わり、相互に影響を与え合い、支えあうのです。逆に、心が公ではなく私の方へ向かうときは、義の伴わない欲の形を取ります。以上をまとめると、次図のようになります。
[図10-4] 志と公と導
第三節 日本の道と思想
道が心と公で結びつくとき、道の思想が芽生えます。道の思想は、思想ですから、思想の形を有しています。思想形とは、思想の型が互いに関連し合って表れたものを言います。
第一項 思考と思想
道の思想を論じる前に、まず思想とは何かを考えてみましょう。思想とは、あるまとまった物の見方や考え方のことです。思想は、思考に様式を与えます。そこで、思考と思想の違いをはっきりさせておきます。思考は、「前提-推論-結論」という形式を有しています。思考の表現は、ある任意の前提と推論と結論のつながりによって成り立ちます。
[図10-5] 思考の形式
思考は、単なる感情の爆発や突発的な衝動ではない限り、この「前提-推論-結論」という形式を持っています。それに対し思想は、前提と推論と結論の繋がりに関わる「前提・方向・枠組」という形式を持っています。
[図10-6] 思想の形式
思想は「前提・方向・枠組」という形式を持ちますが、どのような「前提・方向・枠組」であるかは、思想ごとに様式が異なります。どのような思想の様式かによって、どういった「前提・方向・枠組」であるかが決まるのです。状況ごとに思考は、思想を通じて次のように「前提→推論→結論」という順序で展開されていきます。
[図10-7] 思想による「前提→推論→結論」の思考
前提から推論へ向かう「仮説選択」では、たくさんの前提から、その状況に合った意味のある文(命題)を選び出します。そのため「仮説選択」は、意味論(semantics)に関わります。ある状況において特定の文(命題)を選び出すためには、どのような方向で仮説の選択を行うか、どのような枠組で仮説の選択を行うかが問題となります。つまり、選択方向と選択枠組が必要になるのです。この二つの働きによって、あるときは「AはBである」という文章を選択し、別の場合では「AはCである」という文章を選択することができるのです。
推論から結論へ向かう「仮説演繹」は、選ばれた文(命題)を論理規則によって演繹し、結論を導き出します。そのため「仮説演繹」は、統語論(syntax)に関わります。状況に沿った結論を導き出すために、どのような方向で仮説を演繹させるか、どのような枠組で仮説を演繹させるかが重要になります。つまり、演繹方向と演繹枠組が必要です。演繹方向により、論理規則の組み合わせ方が決まり、演繹枠組により、導出するための論証に関する妥当性が保障されます。
また、「前提→推論→結論」という順序に対し、「結論→推論→前提」という逆順を考えることもできます。この逆順は、以下のように展開されます。
[図10-8] 思想による「結論→推論→前提」の思考
結論から推論へ向かう「仮説検証」は、結論が事実に基づいた状況と適合しているかどうかを確認する作業により行われます。そのため「仮説検証」には、統計学や心理学などが用いられます。結論が状況に合っているかどうかを検証するためには、状況に対する仮説の方向性が合っているか、状況に対する仮説が枠組内にあるかどうかが問題となります。つまり、検証方向と検証枠組が必要なのです。この二つの働きによって、導き出された結論において、正しい部分と間違っている部分が浮かび上がるのです。
推論から前提へ向かう「仮説形成」は、思想の形式である「前提・方向・枠組」をより正しいものに再構成することです。状況と結論における検証結果から、正しさを伸ばし、間違いを直すように「前提・方向・枠組」を形成するのです。正しさを伸ばすためには、状況を結論へと導くための修正を前提に施します。間違いを直すためには、状況と結論の誤差を収束させるように前提を調節します。そこにおいて、「前提・方向・枠組」という仮説をどのような方向で修正するか、どのような枠組で修正するかが問題となります。つまり、形成方向と形成枠組が必要なのです。この二つの働きによって、「前提・方向・枠組」の形成という離れ業が行われるのです。ただし、この形成はきわめて不安定です。なぜなら、方向を形成する方向が必要であり、枠組を形成する枠組が必要であるという、論理の飛躍が行われているからです。
以上のように、「仮説・選択」→「仮説・演繹」→「仮説・検証」→「仮説・形成」という循環の蓄積によって、ある思想は、状況に対応することができるのです。
第二項 思想間
思想は、世の中にたくさんあります。すべての思想は、そのどれもが根底的には仮説です。なぜなら思想は意味と関わり、世界の複雑さから、現実の状況においては100%の真偽を保証できないからです。つまり。人間は完全な思考に到達することができないのです。
そのため、どの思想を用いるかによって、思考による結論の正しさが変化します。それゆえ各思想は、「前提・方向・枠組」の形式を、自身の様式によって適切に修正する必要があります。そのためには、思想間における比較検討が必要になります。
例えば、思想Aと思想Bがあるとき、思想であるからには、思想Aも思想Bも「前提・方向・枠組」という形式を有しています。ただし、どのような「前提・方向・枠組」であるかは、思想Aと思想Bで異なります。それは、思想Aと思想Bでは、構成要素が違いますし、各々の要素の関係から成立している様式も異なるからです。つまり各思想は、「前提・方向・枠組」という共通の思想形を持ちますが、その形式がどのようなものであるかは、その思想がどのような要素から成る様式であるかによって異なるのです。
それぞれの思想は、他の思想による表現を比較検討し、「仮説・検証」と「仮説・形成」によって自己の思想様式を統一的にまとめ直します。
[図10-9] 思想間の比較検討
ですから、他の思想との関係において、その思想は成り立つのです。その思想の正しさは、他の思想との関連において、他の思想との共通部分を軸にして、異なる部分を比較することで、語ることができるのです。そのとき、比較相手の思想の一部を取り込んだり、拒絶したりして、試行錯誤を繰り返すのです。
当然ですが、道の思想も、他の思想との比較検討を通して安定を保つことができるのです。無住(1226~1312)の『沙石集』には、〈正と云うは一切の邪念なく分別無きなり。有念は皆邪なり。正にあらず。正念といふは則ち無念、真実の心なり。この外は皆余事なり。この深信は、道に近かるべし〉とあります。正しいとは、邪念と独断がないことであり、真実の心であり、道に近いものだというのです。
第三項 思想としての道
日本の思想史を追っていくと、道に対する言及がいたるところで見られます。神道は神々の道を、仏道は仏の道を、儒道は聖人の道を、武士道は武士の道を、町人道は町人の道を、芸道は芸の道を、政道は政治の道について述べています。
日本における道についての営為を追っていくと、道がそのまま思想としての側面を有していることに気付きます。日本における「道」が、「思想」と意味的に重なっているのです。
道という言葉を「和歌の道」のように「~の道(みち)」として使用するにせよ、「柔道」や「茶道」のように「~道(どう)」として使用するにせよ、そこには思想が関わっているのです。「和歌の道」は「和歌の思想」と重なり、「柔道」は「柔(やわら)の思想」と重なり、「茶道」は「茶の思想」と重なります。ですから、神道は神々の思想を、仏道は仏の思想を、儒道は儒者による聖人の思想を、武士道は武士の思想を、町人道は町人の思想を、芸道は芸の思想を、政道は政治の思想を論じていることが分かります。
そのため、道が思想である場合と、思想そのものが道という言葉で表される場合があるのです。
[図10-10] 思想そのものが道という言葉で表される場合
そのため、道が思想であるとき、道の思想は「思想の形式」を有しています。また、思想そのものが道という言葉で表されるとき、道は「思想の形式」を含んでいます。「思想の形式」とは、思考における「前提・方向・枠組」のことです。
さらに注目すべきことは、「思想の形式」である「前提・方向・枠組」のそれぞれが、道という言葉で表される場合もあるのです。つまり、道は用法により、前提という意味で使われたり、方向という意味で使われたり、枠組という意味で使われたりするのです。
[図10-11] 「思想の形式」が道という言葉で表される場合
図について説明します。中央の道は「思想」であり、「前提・方向・枠組」の全ての要素を含んだ使われ方をします。上の道は、「前提」の意味で使われる場合です。左下の道は、「方向」の意味で使われる場合です。右下の道は、「枠組」の意味で使われる場合です。
例えば、「和歌の道」という言葉を考えてみます。「日本には古来より和歌の道がある」と言うとき、道は「思想」という意味の言葉になります。ですから、「日本には古来より和歌の思想がある」と置き換えられます。「大和言葉は、そのまま和歌の道です」と言うとき、道は「前提」を表現した言葉になり、「大和言葉は、そのまま和歌の前提です」と置き換えられます。「これからの和歌の道はどうあるべきか」と言うとき、道は「方向」を表現した言葉になり、「これからの和歌の方向はどうあるべきか」と置き換えられます。「それは既に和歌の道ではない」と言うとき、道は「枠組」を表現した言葉になり、「それは既に和歌の枠組ではない」と置き換えられます。
道は思想として現れる一方で、文脈によっては、道という言葉が「思想」という意味で使われる場合があり、思想形の「前提・方向・枠組」の内の一つを表現する場合もあるのです。
[図10-12] 道という言葉の現れ方
以上のように、道が思想となり、道は思想となり、道は思想の形式となるのです。それが、日本の道という言葉なのです。これが、道の思想形なのです。
道の前提性
日本語における道という言葉は、「前提・方向・枠組」という「思想の形式」における「前提」を意味する言葉として使われる場合があります。そこで、道の前提性について示します。
道が、前提として語られるとき、それは「道理」という型を取ることが多いようです。慈円(1155~1225)の『愚管抄』は道理物語とも呼ばれますが、そこでは道理が前提として語られる場合があります。[巻第三 神武?仁徳]の〈コレマタ臣下イデクベキ道理ナリ〉などは、道理が社会を支えている基本的な前提条件として語られています。
道理という型を取らずとも、道そのものが前提に近い意味を持つ場合も多々あります。例えば、吉田兼倶(1435~1511)の『唯一神道名法要集』では、〈道トハ、一切万行の起源也〉とあり、道は物事が起こる源として語られています。藤原惺窩(1561~1619)の『惺窩先生文集』では、『老子』の影響から〈道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万を生じて、万は一に帰す〉と、道が全てを生み出す存在として述べられています。伊藤仁斎(1627~1705)の『古学先生文集』では、〈道は、万物の由って生まるるところなり〉とあり、道が前提となって万物を生むとされています。三浦梅園(1723~1789)の『玄語』では、〈道は、それに由ることによって万経が(何ものかの)路となるところのもの、である〉とされています。道が前提になって、万物が通るということです。
辞書上でも、〈そのものの分、または定めとして、よりしたがわねばならぬ筋。また、物事が必然的に成り行く筋、ことわり。道理。条理〉と、前提条件としての道の意味があります。ですから、「大和言葉は、そのまま和歌の道です」と言うとき、「大和言葉は、そのまま和歌の前提です」と置き換えることが可能なのです。
道の方向性
日本語における道という言葉は、「前提・方向・枠組」という「思想の形式」における「方向」を意味する言葉として使われる場合があります。そこで、道の方向性について示します。
白川静(1910~2006)の『字通』から道(みち)の意味を調べてみると、〈「み」は神聖のものにつけて用いる語。「ち」は「ちまた」「いづち」など道や方向をいう古語〉とあります。つまり、大和言葉である日本語として、道は、神聖な方向という意味を持つのです。
辞書上でも、〈特定の方面のこと。むき。すじ。かた〉と、方向としての道の意味があります。ですから、「これからの和歌の道はどうあるべきか」と言うとき、「これからの和歌の方向はどうあるべきか」と置き換えることが可能なのです。
道の枠組性
日本語における道という言葉は、「前提・方向・枠組」という「思想の形式」における「枠組」を意味する言葉として使われる場合があります。そこで、道の枠組性について示します。
北海道は、北の海の道ということですが、ここでの道は行政上の区画を表した枠組を意味しています。この用法は、律令制の「五畿七道」で、道が地理的な領域としての枠組を意味していることなどにも見られます。また、仏教の六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)なども、一つの世界という枠組を規定しています。
辞書上でも、〈至りつく土地。地方。国。さかい。また、六道〉や〈特に、専門の方面。専門的な方法。学問、芸能、武術、技術などの専門の分野〉などと、枠組としての道の意味があります。ですから、「それは既に和歌の道ではない」と言うとき、「それは既に和歌の枠組ではない」と置き換えることが可能なのです。 
第十一章 道の思想基 

 

前章において、道の思想形が示されました。思想は、「前提・方向・枠組」という形式を有しています。ただし、どのような前提か、どのような方向か、どのような枠組であるかは、思想ごとに異なります。なぜなら思想は、思想ごとに独自の様式を備えているからです。それぞれの思想は、自身の様式を成り立たせている基を持ちます。その要素となる基は、歴史や伝統に依存します。ですから、日本の道の思想も、独自の様式を持ち、その様式を成り立たせている基を持ちます。本章では、日本の道の思想基を見ていきます。
第一節 三道一致
日本における道の思想は、独自の様式を備えています。その様式の基を具体的に言うと、神道・仏教・儒教などを挙げることができます。
日本の思想史では、様々な基の統合が語られています。北畠親房(1293~1354)は〈サマザマナル道ヲモチヰテ、民ノウレヘヲヤスメ、ヲノヲノアラソヒナカラシメン事ヲ本トスベシ(『神皇正統記』)〉と述べています。様々な道によって国民の困苦や争いごとをないようにするのが、国を治める根本であるというのです。
日本には、神道と仏教と儒教などのそれぞれの教えが、互いに排斥するのではなく、一致を見るという考え方があります。例えば神道では、早くから三教枝葉果実説が唱えられています。吉田兼倶(1435~1511)は、〈吾ガ日本ハ種子を生じ、震旦は枝葉ニ現はし、天竺は果実を開く。故ニ仏教は万法の果実たり。儒教は万法の枝葉たり。神道は万法の根本たり。彼の二教は皆是れ神道の分化也(『唯一神道名法要集』)〉と述べています。神道は種であり、仏教は果実となり、儒教は葉っぱとなるというのです。長野義言(1815~1862)も、〈儒仏両道をわが正道の枝葉とし給ふ事、貢献の具なればさもあるべし(『沢能根世利』)〉と述べて、三教枝葉果実説を引き継いでいます。わが正道とは、惟(かん)神(ながら)の大道のことです。
石門心学でも、神道・仏教・儒教が一致するという立場を取っています。石田梅岩(1685~1744)の『石田先生語録』では、〈神儒仏ノ三道ヲ倚ヨラズシテ尊ビ用ユル〉と語られています。中沢道二(1725~1803)の『道二翁道話』には、〈たゞ素直に和合の道。此外に道はない。それが?道、夫が儒道、それが佛道じや。此外に道といふはない〉とあります。
本居宣長(1730~1801)は、『排蘆小船』においては、〈大道と云ふは、儒は聖人の道を以て大道とし、釈氏は仏道を大道とし、老荘は道徳自然にしたがふを大道とし、それぞれに我道を以て大道とす。吾邦の大道と云ふときは、自然の神道あり。これ也。自然の神道は、天地開闢神代よりある所の道なり〉と述べています。『鈴屋答問録』においては、〈儒も佛も老も、皆ひろくいへば、其時々の神道也〉と述べています。〈後世、國天下を治むるにも、まづは其時の世に害なきことには、古へのやうを用ひて、随分に善神の御心にかなふやうに有べく、又儒を以て治めざれば治まりがたきことあらば、儒を以て治むべし。佛にあらではかなはぬことあらば、佛を以て治むべし。是皆、其時の神道なれば也〉というわけです。
二宮尊徳(1787~1856)の『二宮翁夜話』では、〈翁曰、世の中に誠の大道は只一筋なり、神といひ儒と云仏といふ、皆同じく大道に入るべき入口の名なり、或は天台といひ真言といひ法華といひ禅と云も、同じく入口の小路の名なり〉と語られています。そこでは、〈皆大道の入口の名なり、此入口幾箇あるも至る処は必一の誠の道也〉とされています。世の中には大きな道が一筋あり、全ての道は、その大きな道への入り口だというのです。そのことは、〈譬ば不士山に登るが如し、先達に依て吉田より登るあり、須走より登るあり、須山より登るありといへども、其登る処の絶頂に至れば一つ也〉とあるように、富士山の登頂に例えられています。具体的には、〈神道は開国の道なり、儒学は治国の道なり、仏教は治心の道なり、故に予は高尚を尊ばず、卑近を厭はず、此三道の正味のみを取れり〉と語られています。
報徳思想を継ぐ岡田良一郎(1839~1915)は、〈神教ニ報本反始ノ道ヲ貴ビ、儒教ニ以徳報徳ヲ以テ人倫ノ行ト為シ、仏教四恩ヲ報スルヲ以テ大乗トス(『報徳学斉家談』)〉と述べています。神教は神道で、報本反始とは天地や祖先の恩に報いることです。四恩は仏典により異なりますが、『大乗本生心地観経』では、父母恩・衆生恩・国王恩・三宝恩のことを指します。
仏教では、浄土宗の大我(1709~1782)が、〈皇天自ら三道を立て、以て国を治め民を安んずるにおいては、謂ひつべし、至れり尽せりと(『三彝訓』)〉、と述べています。三道とは、もちろん神道・儒道・仏道です。浄土真宗の竜温(1800~1885)は、〈別シテ神道ハ吾国ノ大道、儒ハ世間聖人ノ立ルトコロ、吾仏教ニオヰテ、世間教ト同一体ナレバ、聊モソノ道ヲサシテ邪ナリト云ニハ非ズ。ソノ道ノ正意ヲ伝ズシテ、熾ニ仏法ヲ憎嫉スル徒類ハ、則チ吾ガ法城ヲ破ントスル怨敵ナリト謂ベシ(『総斥排仏弁』)〉と述べています。仏教も神道や儒教と同じく正しい教えを伝えるものであり、それを排斥することに抵抗の意を示しています。
九鬼周造(1888~1941)の『日本的性格』では、〈日本的性格、従って日本文化の有っている三つの契機として自然、意気、諦念の三つ〉が挙げられています。その上で、〈自然、意気、諦念の三つは神、儒、仏の三教にほぼ該当しているというように見ることができる。発生的見地からは、神道の自然主義が質料となって儒教的な理想主義と仏教的な非現実主義とに形相化されたというようにも考えられる。そしてそこに神、儒、仏三教の融合を基礎として国民精神が涵養され日本文化の特色を発揮したと見られるのである〉と語られています。
以上のように、神道と仏教と儒教は一致すると考えられてきました。そのとき、神道は惟(かん)神(ながら)の道を、仏教は仏の正しい道を、儒教は聖人の道をそれぞれ歩もうとします。そのため、そこで道という共通の言葉が浮かび上がります。仏教は仏道とも言い、儒教も儒道と言いますから、三つの道が一つに重なります。
[図11-1] 神道と仏道と儒道の三道一致
日本の道の思想では、三道一致が成り立つのです。ですから、神道・仏道・儒道が道の思想における基本基となります。
第二節 人と道
日本の三道一致において、神道・仏道・儒道のそれぞれの道は、何が基となっているのでしょうか。大まかに言うなら、神道は神の道ですから「神」であり、仏道は仏の道ですから「仏」であり、儒道では天道や人道が語られるので「天」や「人」と言えるでしょう。上田秋成(1734~1809)の『雨月物語』には、〈善を撫で悪を罪するは、天なり、神なり、仏なり。三ツのものは道なり。我がともがらのおよぶべきにあらず〉とあります。天・神・仏という、人間の人智の及ばぬ三つの道が示されているのです。この三つに加えて、武士道における「死」を人智の及ばぬものとして挙げることもできます。
ただし、三道は一致し、武士道も三道の間に居るのですから、これらの区別は便宜的なものです。神仏習合により、神と仏は同じところへ向かいますし、天への畏敬は、神道・仏道・儒道・武士道の全てにおいて見ることができます。
そして、神の道も仏の道も武士の道も、人の道に連なることは明らかです。天道も人道と繋がります。ですから、人の道のために、人を超えるものとして、神道は神の道を、仏道は仏の道を、儒道は天の道を、武士道は死の道を、それぞれ道の基として持っているのです。
それぞれの基は、人間を超えています。人間を超えたものを通じて、人と道は関わります。人の道は、我々人間の道であり、人間の道のために人間を超えるものとして、神・仏・天・死などが想定されているのです。その基の間において、つまり人間を超えたものの間において、人と道は交わるのです。
[図11-2] 人間を超えた基の間
日本人は古来より、絶対や究極を設定することはしませんでした。日本人は、神や仏や天や死などを通じて、それらに恐れや畏れを抱きながら、大事なものや大切なことを想定し、物語を紡いできたのです。
第一項 神
神道における道は、神々の道です。八百万の神々というように、日本人は有限なものの中に崇高さを求めるのです。
日本神話の神は、絶対神でも究極神でもありません。日本人は絶対も究極も、それ自体としては捉えられないと考えて来たように思われます。それを暗示するように、日本の神(カミ)の語源の一つに、「隠身」という説があります。『古事記』では、〈天地初メて発りし時、高天ノ原於成りませる神ノ名は、天之御中主神。次に、高御産巣日神。次に、神産巣日神。此ノ三柱ノ神者、並に独神ト成り坐し而、身を隠しましき〉と語り始められています。身を隠すこの三柱の神たちから、日本史は紡がれていきます。
菅原道真(845?903)に仮託して後世に記された『菅家遺誡』には、〈凡そ神事の枢機は、正直の道心をもて事ふるときは、神ここに照し降り、玄ここに至り遊ぶ〉と記されています。ここでの道心は、事の善悪正邪を判断し正道を行おうとする心であり、人心に対して使われています。その道心を持って神に仕えるとき、神は降り立ち遊びに興じるというのです。
吉田兼倶(1435~1511)の『神道大意』には、〈天地に有ては神と云ひ、万物に有ては霊と云ひ、人倫に有ては心と云ふ、心は則神明の舎、混沌の宮也〉とあります。『唯一神道名法要集』では、〈神トハ、天地万物の霊宗也〉とあります。つまり、天地に有り、全ての霊の根本が神なのだとされているのです。
林羅山(1583~1657)の『神道伝授』には、〈神ハ天地之霊也〉とあります。霊には支社の魂、鬼神、神妙な力というような意味があります。天地之霊とは、天地に内在し、天地を運行させる霊力を指しています。神と人間の関係については、〈民ハ神ノ主也。民トハ人間ノ事也。人有テコソ神ヲアガムレ、モシ人ナクバ誰カ神ヲアガムル〉とあります。人間が神を崇めるからこそ、神が存在するという儒教の影響を受けた見方が示されています。その神について、〈神ハ心ノ霊也。心ハ形ナケレドモ、生テ有物ヲ霊トモ妙トモ云也〉とあるように、神は人間が崇める心によって存在する神秘的な存在なのだとされています。
新井白石(1657~1725)の『古史通』には、〈神とは人なり。我が国の俗凡その尊ぶ所の人を称して加美といふ〉とあります。尊い人を神と呼ぶというのです。
本居宣長(1730~1801)の『古事記伝』では、〈迦微とは、古御典等に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐ス御霊をも申し、又人はさらにも云ず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其餘何にまれ、尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物を迦微とは云なり〉とあります。「すぐれたる」は程度の激しさで、「徳」ははたらきを言います。神(迦微)とは、激しいはたらきを持つ畏れるべき何かだというのです。
宣長の『石上私淑言』には、〈美知は御路にて知といふが本語也〉とあり、〈道の字にはさまざまの義をかねたれど、美知の言は本は道路の外の意なし〉とあります。それゆえ、〈神道は吾御国の大道なれども、それを道と名づくることは、上つ代にはなかりし也。文字わたりてかの国の道の字の用ひやうを見ならひて後にこそは、天照大御神より伝へましまして天日嗣しらしめす天皇の高御座の御業をも、神道とは名づけられたりけれ〉と語られています。『くず花』では、〈神の道は、さかしらを厭ひて、自然を立んとする道にはあらず。もとより神のままなる道なり〉とあります。神のままの道が、神の道なのだと語られています。『直毘霊』では、〈天照大神の受け給ひ、保ち給ひ、伝へ給ふ道なり。故れ、是を以て神の道とは申すぞかし〉と語られています。天照大神から始まり、「受ける→保つ→伝える」と続いていくことが、神の道だというのです。
国学の見方としては、上田秋成(1734~1809)が『胆大小心録』で〈神は神にして、人の修し得て神となるにあらず〉と述べています。儒教における見方との対比が見られます。
第二項 仏
仏教における道は、仏の道です。「仏」とは、「仏陀(ブッダ)」すなわち「目覚めた人」や「真理を悟った人(覚人)」を意味します。仏の中でも、釈迦(前463~前383、または前565~前485)は仏教の開祖で特別な位置を占めています。
日本での釈迦仏は、仏神として捉えられてきました。つまり、仏という名の神と考えられていたのです。『日本書紀』では仏を、外部世界から流離してきた「蕃神(あだしくにのかみ)」や「仏神」と表現しています。「蕃神」は、神道に由来する「国神(くにつかみ)」と対比しての呼び方です。『元興寺縁起(747)』では仏を「他国神」とし、『日本霊異記』では仏を「隣国の客神(まらうどかみ)」と捉えていました。『扶桑略記』においては、仏を「大唐の神」と見なしているように、神仏習合の考え方を見ることができます。
また、日本では、死んだ人やご先祖様を仏様と言う場合もあります。後白河法皇(1127~1192)撰の『梁塵秘抄』には、〈仏も昔は人なりき われらも終には仏なり 三身仏性具せる身と 知らざりけるこそあはれなれ〉とあります。仏も遠い昔には人間だったのであり、私たちも最後には成仏することができるというのです。しかし、三身仏性を本来備えている身であると知らずに、仏道をなおざりにしているのなら悲しいことだというのです。
親鸞(1173~1262)の『教行信証』には、〈謹んで真仏土を按ずれば、仏は則ちこれ不可思議光如来なり、土はまたこれ無量光明土なり〉とあります。つつしんで真実の仏とその浄土について思いをめぐらせてみると、仏とは不可思議な光にあふれたものであり、浄土もまた量りしれない光につつまれたものであるとされています。
道元(1200~1253)の『正法眼蔵』の[仏教]では、〈諸仏の道現成、これ仏教なり〉と、仏の言葉の実現したものが仏の教えに他ならないと述べられています。[唯仏与仏]では、〈無上菩提の人にてあるをり、これをほとけといふ。ほとけの無上菩提にてあるとき、これを無上菩提といふ〉とあります。人が最高の智慧をもった人となった時に仏と呼ぶというのです。智慧が仏の有する最高の智慧である時、これを無上菩提と呼ぶというのです。
無住(1226~1312)の『沙石集』には、〈一切仏心は慈悲なり。一切慈悲は観音なり〉とあります。仏の心は慈悲であり、慈悲は観音だというのです。そのため、〈仏の道に入らむ人は、慈悲を心に習ひ好むべきなり〉と語られています。
盤珪永琢(1622~1693)の『盤珪禅師語録』には、〈孝の道に叶へば則佛心でござる〉とあります。
第三項 天
日本における天は、儒道における天道の影響が強いといえます。ただし、そこには神道的なものや仏教的なものなど、様々な基が含まれています。
そのため日本における天は、いくつもの属性を持っています。それぞれの属性は、別個に見えながらも互いに関連し合っています。天の属性を大まかに分類するなら、?主に神道の影響から、「天皇とつながる天」、?主に仏道の六道の影響から、この世界とは「異なる世界としての天」、?主に戦乱における影響から、「人間の運命を左右する天」、?主に儒道の影響から、「為すべきことを示す天」、?主に儒道や町人道の影響から、「法則としての天」、?日本人の考え方を基にした、「不可知としての天」、に分けられます。これらの属性が交じり合い、日本人の天の見方が形成されているのです。
天皇とつながる天
「天」は、音読みでは「てん」であり、訓読みでは「あま」となります。
「あま」というのは、我々の頭上に広がっているものです。天(あま)が空(そら)と区別されるのは、そこに水が有るからです。空(そら)とは、空言や空耳などから分かるように、実に対する虚を指します。つまり、何もないのが空(そら)なのです。
天(あま)からは、水がこぼれ落ちることで雨(あめ)となり、海(あま)が保たれるのです。日本では、天照大神などの神様は天(あま)である高天原に住んでいると考えられています。本居宣長の『古事記伝』では、〈高天原は、すなわち天なり〉という記述があります。高天原から瓊瓊(ニニ)杵(ギノ)尊(ミコト)という神様が、地上である日向国の高千穂に降り立ち統治者となりました。これを天孫降臨と言います。その子孫が天皇です。ですから日本では、天と地上とは繋がりがあるものとして捉えられているのです。
『十七条憲法』では、〈君をば天とす。臣(しん)をば地とす。天は覆(おお)い、地は載す〉と論じられています。
西川如見(1648~1724)の『町人嚢』には、〈天子は萬民の上に居給ひ、天道の御名代と成給ひて、天道を恐れ慎み萬民を教誡め給ふ事〉とあります。天皇が天道と関連づけられて論じられています。
上田秋成(1734~1809)は『胆大小心録』で、〈此國には天が皇孫の御本國にて、日も月もこゝに生れたまふと云しなり〉と述べています。
庶民思想の中からは、天を太陽に見立てて御天道(おてんとう)様(さま)と呼び、人間を見守る大いなる存在とする見方も生まれています。例えば、仮名草子『浮世物語(1665頃)』には、〈お天道人ころさずといふがごとく〉とあり、浄瑠璃『平仮名盛衰記(1739)』には、〈其日暮の身なれども、お天道様が正直〉とあります。
異なる世界としての天
仏教では、六道の一つに天道という世界があります。六道とは、自ら作った業によって生死を繰り返す六つの世界のことです。源信(942~1017)は、〈天道を明さば三あり。一には欲界、二には色界、三には無色界なり。その相既に広くして、具さには述ぶべきこと難し(『往生要集』)〉と述べています。欲界は、欲望にとらわれた生き物が住む世界です。色界は、物質的な制約は残るものの、淫欲と食欲を離れた生き物が住む世界です。無色界は、欲望も物質的な制約も離れた高度に精神的な世界です。その三つの欲界・色界・無色界は、あまりに広く、うまく語りつくすことが難しいとされています。
このように、この世界とは異なった原理を持つ別な世界として、「天」が考えられている場合があります。
人間の運命を左右する天
天は、運命を左右するものとしても考えられてきました。
『平家物語(1177~84)』では、〈運を天道にまかせて、身を国家に投ぐ。試に義兵をおこして、凶器を退けんとす〉とあります。天道が、人の運を左右するとされています。
貝原益軒(1630~1714)は、〈不仁は天地人のにくむ所なり。故に、つひに天罰をかうぶりてわざはひあり。その上、子孫までもむくゆるものなり。天道おそるべし(『大和俗訓』)〉と述べています。ここでは天道が、仁徳をつかさどることによって、人の運命を左右することが語られています。
井原西鶴(1642~1693)は『本朝二十不幸』で、〈孝なる道をしらずんば、天の咎を遁るべからず〉と記しています。『日本永代蔵』には〈天道言はずして国土に恵みふかし。人は実あつて偽りおほし〉とあります。〈天の咎めも有るべし〉とも記されています。
新井白石(1657~1725)は『読史余論』で、〈かゝれば時の至らず天のゆるさぬ事は疑なし〉、〈天は報應誤らずといふべし〉、〈天の報應かくの如く明らかなり〉と述べています。天が天罰を下し、人の運命を左右することが示されています。ただし、〈天の報應あやまらずといへども、抑又みづから作れるの孽なり〉とされ、人の努力が大事だとされています。ですから、〈天道は、天に代りて功を立る人にむくい給ふ理〉が語られているのです。
山本常朝(1659~1719)は、〈盛衰を以て人の善悪は沙汰されぬこと也。盛衰は天然のこと也。善悪は人の道也。教訓のためには盛衰を以ていふ也〉と述べています。天然は、栄枯盛衰を司るものとされています。ですから天然に善悪はなく、善悪は人の道だとされているのです。
栗山潜鋒(1671~1706)が著した『保建大記』(1689)では、〈存亡は天に在り、可否は己れに在り。道に悖りて苟に免るるは、則ち己れを尽して天に順ふ者に非ざるなり〉とあります。存亡をつかさどる天の力の偉大さが示されています。
頼山陽(1780~1832)は、〈その変ずるは天運なり。而して必ず人事に由りて変ず(『日本政記』)〉と述べています。天が運命を左右しますが、それは人の努力に由るというのです。
渡辺崋山(1793~1841)は、〈然れども、物極れば衰ふ、衰極れば興る、天道自然に斡旋致し候(『初稿西洋事情書』)〉と述べています。栄枯衰退という天の法則がおのずからめぐってくるのだと語られています。
天が運命を左右するとき、それは人の努力や善悪を超えている場合と、あくまで人の努力や善行によってもたらされる場合の二通りが示されています。その違いは、時代状況によって相違が見られます。戦乱の世では、天の運命の無慈悲が強調され、太平の世では、人の努力が重視されているように思われます。
為すべきことを示す天
天は、為すべきことを示す善として捉えられる場合もあります。つまり、当為(とうい)としての天です。
『甲陽軍鑑』では、〈天鑑私なし〉とあり、天には依怙(えこ)贔屓(ひいき)がないことが述べられています。そこで〈自然に祈りてよきひともあるべし。これ皆天道なり〉と語られ、天道が善なるものとされています。
中巌円月(1300~1375)は、〈仁義は天人の道か。天の道は親を親とす。人の道は尊を尊とす。親を親とするの仁は信に生ず。尊を尊とするの義は礼に成る(『中正子』)〉と述べています。天が人を伴って仁義と関わって捉えられています。
熊沢蕃山(1619~1691)は『集義和書』において、〈天に出ざるは、終に正道をなす事なし〉と述べています。天に基づいてこそ公であるということです。また、『孟子(離婁上)』や『中庸(章句二十章)』の影響から、〈誠は天の道也。誠を思ふは人の道なり。誠を思ふ心真実なれば、誠すなはち主となりて、思念をからずして存せり〉とあります。誠のままであるのは天道で、誠のままになろうと思って力を尽くすのは人道だというのです。誠のままになろうと思う心の真実の努力が実って、思わなくとも誠が存するようになると考えられています。
貝原益軒(1630~1714)の『大和俗訓』では、〈天地の御心にしたがふを以て道とす。天地の御心にしたがふとは、我に天地より生れつきたる仁愛の徳をうしなはずして、天地の生める所の人倫をあつくあはれみうやまふをいふ。是れ乃ち人の行ふべき所にして、人の道なり〉と語られています。天地には仁愛の徳があり、その人倫を行うのが人の道だというのです。
西川如見(1648~1724)は『町人嚢』で、〈天理にして私なき事を公とはいへり。天子は萬民の上に居給ひ、天道の御名代と成給ひて、天道を恐れ慎み萬民を教誡め給ふ事〉と言い、〈天子将軍いづれも天道にしたがひ給ひて法度禁制を立給ひ、四民は天子将軍にしたがひ奉て法度禁制を慎み守りて天下太平也〉と述べています。西川は、〈天地に凶事なし。凶は人にあり〉と考えているのです。
山本常朝(1659~1719)は、〈我智恵一分の智恵ばかりにて万事を成す故、私より天道に背き、悪事を成也(『葉隠』)〉と述べています。自分一人の狭い了見で全てをなそうとするのは、私にこだわるために天道に背く悪事であるというのです。常朝の語法では、善悪である天道と、運命を左右する天然が区別されています。
佐藤一斎(1772~1859)は、〈天道は窮尽すること無し。故に義理も窮尽すること無し(『言志晩録』)〉と述べています。天道が義理と関連づけられて語られています。
大塩中斉(1793~1837)は、〈人は即ち天なり。学なるものは、天徳を学ぶなり。道を明らかにするとは、天道を明らかにするなり(『洗心洞?記』)〉と述べています。人が天の徳を学んで天道を明らかにすべきことが語られています。
斉藤高行(1819~1894)は、〈我道は分度にあり。分なる者は、天命の謂なり。度なる者は、人道の謂なり。分度立ちて譲道生ず。譲なる者は、人道の粋なり。身や、家や、国や、天下や、譲道を失ひて衰へざる者は、未だ之あらざるなり。分度を失ひて亡びざる者は、未だ之あらざるなり(『報徳外記』)〉と述べています。人の世の分度は、天命と人道によって生じるとされています。分度によって譲り合いの道が生まれ、それがなければ身も家も国も天下も衰え亡びてしまうというのです。
西郷隆盛(1828~1877)の『南洲翁遺訓』では、〈天は人も我も同一に愛し給う故、我を愛する心を以て人を愛するなり〉と述べられています。そのため、〈人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして己を尽し人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし〉と語られているのです。
以上のように、為すべきことを示す天は、私なきものであり、仁義などの善をもたらすものと考えられています。
法則としての天
天は、世の中がどうであるかを示す存在として考えられている場合もあります。つまり、法則としての天です。
柳生宗矩(1571~1646)は〈天道は物をいかす道(『兵法家伝書』)〉と述べています。ここでの天道は天下の道であり、天の理法、無為自然の真理のことです。
中江藤樹(1608~1648)は、〈惟天地万物父母、惟人万物之霊とのたまふ時は、ばんみんはことごとく天地の子なれば、われも人も人間のかたちあるほどのものはみな兄弟なり(『翁問答』)〉と述べています。全ての民は天の子であり、人間は皆兄弟だとされています。
山崎闇斎(1618~1682)は、〈造化ト云ガヤツパリ天道也。ソノ流行ノナリヲ云也。造ハ無ヨリ有ニ向ヒ、化ハ有ヨリシテ無ニ趣(『大学垂加先生講義』)〉と述べています。天道は造化だというのです。造化とは、有ることと無いことを移り行く流れのことだとされています。つまり、宇宙の創造作用を意味しているのです。
山鹿素行(1622~1685)は、〈天地の道、聖人の教は、多言に渉らず、奇説造為なし。自然の則を以てするのみ(『聖教要録』)〉と述べています。天地の道は自然にのっとることだとされています。
伊藤仁斎(1627~1705)の『語孟字義』では、〈天とは、命の由って出ずるところ、命とは、天の出だすところ〉とあります。道との関係については、〈道はなお路のごとし。人の往来するゆえんなり。故に陰陽こもごも運る、これを天道と謂う。剛柔相須うる、これを地道と謂う。仁義相行なわるる、これを人道と謂う。みな往来の義に取るなり〉とあります。往来ということからそれぞれの道が導かれています。天は陰陽という考え方に関わるとされています。
荻生徂徠(1666~1728)は、〈先王の道は、先王の造る所なり。天地自然の道に非ざるなり(『弁道』)〉と述べています。天下を安んずるための先王の道と、天地自然の道が厳しく峻別されています。
石田梅岩(1685~1744)は、〈天道ハ萬物ヲ生ジテ、其生ジタル者ヲ以テ其生ジタル物ヲ養、其生ジタル物ガ其生ジタルヲ喰フ。萬物ニ天ノ賦シ興フル理ハ同ジトイヘドモ、形ニ貴賤アリ。貴キガ賤キヲ食フハ天ノ道ナリ(『都鄙問答』)〉と述べています。食物連鎖の考え方が見られますが、そこに貴賎という考え方が混じっています。
三浦梅園(1723~1789)の『多賀墨卿君にこたふる書』では、〈天地は、我立る者にはあらず。其立ちたる者に、我したがふ事に候へば、天地を全観する事も、人事を精しく察する事も、唯有る通りそのまゝにみるより外の細工なく候〉とあります。天地は我々の立てたものではなく、もとからあるものだというのです。その天地に我々人間が従うためには、天地を全観することも、人事を精察することも、ただあるがままに見るより他に工夫のしようがないと述べられています。
中沢道二(1725~1803)は、〈天地の常とは則ち道の事でござります。天の心といふは、一切萬物人間禽獣草木に至るまで、皆天の心なるゆへ(『道二翁道話』)〉と述べています。一切の全てが天の心なのだとされています。
尾藤二洲(1747~1813)は、〈天に外なし。道の外なき所以なり。天に内なし。道の内なき所以なり。道は是れ天の由つて立つ所。天は是れ道の以て行はるる所なり(『素餐録』)〉と述べています。外なし内なしとは、持ち出しもせず、持ち込みもせず、一切の束縛なく、自然に存在することを言います。
松平定信(1759~1829)は、〈道は聖人のひとの性にもとづきて建給ふ処にして、天地の自然にはあらず(『政語』)〉と述べています。聖人の道と天地の自然が区別されています。
佐藤一斎(1772~1859)は、〈慮らずして知るものは、天道なり。学ばずして能くするものは、地道なり。天地を?せてこの人を成す(『言志耋録』)〉と述べています。慮らずして知るとは、思慮分別を加えず先天的に知ることを指します。それが天道だとされているのです。
柴田鳩翁(1783~1839)の『続々鳩翁道話』では、〈天は音もなく、香もなく、ただ物を生ずる理がござります、これをさして天と申します〉と語られています。それは例えば、〈則ち天のいいつけは、元亨利貞と申して、元ははじまる、亨はとおる、利はとげる、貞はなるというて、この元亨利貞を天の四徳という。則ちこれが天のいいつけでござります。さりながらかように申しては、子供衆に分らぬ、いま一段ハッキリと申そうならば、春夏秋冬、これ元亨利貞の徳にして、人の目に見えるところの天のいいつけでござります〉と語られています。自然の巡り合わせが、天だとされているのです。
二宮尊徳(1787~1856)の『二宮翁夜話』には、〈皆人の為に立たる道なり、依て人道と云、天理より見る時は善悪はなし〉とあります。〈天に善悪なし〉だというのです。〈人道は人造なり、されば自然に行はるる処の天理とは格別なり〉と、人と天が厳密に区別されています。天の理は、〈天理と人道とは格別の物なるが故に、天理は万古変ぜず、人道は一日怠れば忽ちに廃す、されば人道は勤るを以て尊しとし、自然に任ずるを尊ばず〉とされています。あくまでも〈天に善悪あらず、善悪は、人道にて立たる物なり〉と見なされているのです。つまり、〈天道は自然なり、人道は天道に随ふといへ共、又人為なり、人道を尽して天道に任すべし、人為を忽にして、天道を恨る事勿れ〉と考えられているわけです。
以上のように、天が法則として捉えられている場合があります。自然の法則や、食物連鎖、四季の移り変わりなどが挙げられます。
不可知としての天
日本人は天について、究極的には知りえないものとして考えてきたように思われます。中国の朱子学的な「可知」的天観ではなく、日本では「不可知」的天観だったと言えるでしょう。日本人にとって天は、計り知れないものだったのです。
もちろん、朱子学受容の初期段階では、日本にも「可知」的天観が見られます。林羅山(1583~1657)が編集した藤原惺窩(1561~1619)の言葉を載せた『惺窩先生文集』では、〈それ天道なる者は理なり〉とあり、〈凡そ人、理に順はば、則ち天道その中にありて、天人は一の如きものなり〉と語られています。この考え方は、宋学の重要な主張です。天道が理として捉えられ、人がその理に従うことで、人が天と同じになるとされています。その天は、『天下國家之要?』では〈天心は萬物に充滿していたらさる所なし〉とあるように、法則としての側面が示されています。『惺窩先生倭歌集』では〈天道は徳あるものに天下をもつて与え給ふ〉とあり、善を示し運命を左右する力として示されています。
しかし儒道が、日本の儒道となるにしたがい、「不可知」的天観へと移行します。
貝原益軒(1630~1714)は、〈天地の道は猶たやすく知りがたし(『大和俗訓』)〉と述べ、天地の不可知性を語っています。
新井白石(1657~1725)は、〈天意のほどはかりがたき事にや(『読史余論』)〉と言い、天の知りがたいことを認めています。
荻生徂徠(1666~1728)は『弁名』で、〈それ天なる者は、知るべからざる者なり。かつ聖人は天を畏る。故にただ「命を知る」と曰ひ、「我を知る者はそれ天か」と曰ひて、いまだかつて天を知ることを言はざるは、敬の至りなり〉と述べています。聖人は天を畏れ、天を知るなどと不遜なことは言わないというのです。
ここで注意すべきは、日本人が日本の思想から離れ、外来の思想に強く影響された場合に、「不可知」的天観ではなく「可知」的天観へと傾斜するということです。その例として、藤原惺窩や、啓蒙思想家である福沢諭吉(1835~1901)が挙げられます。
福沢諭吉は『福翁百話』において、〈唯我輩は過去の事実に徴して人事進歩の違わざるを知り、禍福平均の数を加除して幸福の次第に増進するを知り、由て以て天道人に可なるの理を証するのみ〉とし、天道が理として人間に理解可能なものだと考えています。また、〈天道既に人に可なり。その不如意は即ち人の罪にして不徳無智の致す所なれども、人間の進歩改良は天の約束に定まり、開闢以来の事実に証して明に見るべし〉とも述べています。ここでの天道は、進歩史観と結び付けられています。これは、肯けない意見です。なぜなら、科学の不可逆性は限定された期間でそれなりに妥当しますが、そのことと正義の増大は比例しないからです。進歩史観は、きわめて如何わしい考え方なのです。
やはり日本の「不可知」的天観におけるように、偉大な何かを設定してしまうのではなく、想定に留めておくべきなのです。その想定を、想定と知りながら敢えて語ることが重要なのだと思われます。
第四項 死
武士道における道は、死の道です。武士は、人間の力では避けることのできない死をしっかりと見据えています。
『太平記』には、〈勇士の戦場に命を捨つる事、ただこれ子孫の後栄を思ふ故なり〉とあります。
『黒田長政遺言』には、〈惣ジテ武士ハ毎日死ヲ極メ居ルト申サズ候得バ、事ニヨリ越度之レ有リ候。毎日朝夕刀脇差自分ニ拭ヒ候テ頂戴致、一日生死無事有事、此二腰之儀ニテ候事ヲ、ウヤマヒ忘レ申サズ候、肝要ニテ候〉とあります。長政は、刀が生死を分けると述べています。戦国武士にとっては、死は文字通り日常現実の問題だったのです。
宮本武蔵(1584~1645)の『五輪書』には、〈大形武士の思ふ心をはかるに、武士は只死ぬといふ道を嗜む事と覚ゆるほどの儀也〉とあります。武士は、ただ死ぬという道をたしなむというのです。
大道寺友山(1639~1730)の『武道初心集』では、〈武士たらんものは正月元旦の朝雑煮の餅を祝うとて箸を取初るより其年の大晦日の夕に至る迄日々夜々死を常に心にあつるを以本意の第一とは仕るにて候〉とあります。武士は死を常に心掛けることが第一だというのです。
山本常朝(1659―1719)の『葉隠』では、〈武士道と云は、死ぬ事と見付たり〉という有名な言葉があります。武士の道においては、死ぬことが思想の対象となっているのです。
武士道は、神道・仏道・儒道から影響を受けながらも、「死」という人間を超えたものへと突き進む道です。その「死」の思想において、生命尊重を超える思想の可能性が仄見えてきます。すなわち、義です。死の思想において、道は義と出会い、道義となるのです。
第三節 人の道
人と道は、人間を超えた存在である神・仏・天・死といったものと交わります。その交わりにおいて、人の道が紡がれて行きます。
神道・仏道・儒道の三道は一致しますが、全く同じなら逆に意味がありません。それぞれには違いがあり、違いが均衡をもたらすという関係になっているからこそ、一致することで安定を得るのです。
三道を、政治の面から見た場合、神道は天皇の道を、仏道は衆生の道を、儒道は聖人の道を語っていることに気が付きます。この三つの調和の上に、日本人の政道は築かれているのです。
敢えて西欧哲学に当てはめれば、神道は君主制に、仏道は民衆制に、儒道は貴族制に類似性があると言えるかもしれません。その三つの制度の調和が政治に安定をもたらすのですから、西洋で言う混合政体が日本の政治制度となります。
[図11-3] 混合政体としての日本の政道
天皇の道と、衆生の道と、聖人の道は、それぞれの特徴を踏まえた上で交じり合います。皇道・易行道・王道の交差と言い換えることも可能です。もし、これらの一つだけしか日本になかったならば、日本史の安定性は大きく崩れていたと思われます。日本は和の国だと言われるように、それぞれの道が交じり合い、調和し合った上で、秩序を保って成り立つのです。
第一項 天皇
神道を政治の面から見ると、天皇の役割が重要であることが分かります。日本は天皇を神道最高位の祭祀とする君主国として、安定的で持続的な秩序を維持してきました。
君主政治が独裁政治へと転落しなかったのは、日本において天皇が権力をほとんど持たず、国家の継続性と正統性を示す権威であり続けたからです。つまり、歴史の知恵によって独裁には傾かなかったのです。
『日本書紀(孝徳紀大化二年三月)』には、〈天地(あめつち)の間(あひだ)に君(きみ)として万民(よろづのおほみたから)を宰(をさ)むることは、独り制(をさ)むべからず。要(かなら)ず臣(まへつきみ)の翼(たすけ)を須(もち)ゐる〉とあります。日本では伝存最古の正史において既に、独裁制が禁止され、臣下と連携することの重要性が示されているのです。
『十七条憲法』の[一条]では、〈和をもって貴(とうと)し〉とあり、〈事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず〉とあります。和をもって話し合えば、うまくいくということです。[十七条]では、〈それ事(こと)はひとり断(さだ)むべからず〉とされ、〈かならず衆とともに論(あげつら)うべし〉とあります。一人で決めてしまうのではなく、話し合いによって物事を決めるのだという基本原則が掲げられています。
賀茂真淵(1697~1769)は、〈皇神の道の、一の筋を崇むにつけて、千五百代も、やすらにをさまれる、いにしへの心をも、こころにふかく得つべし(『歌意考』)〉と述べています。皇神の道、つまり天皇の道では、古の精神を継承するのだという決意がはっきりと語られています。
本居宣長(1730~1801)の『玉勝間』では、〈そもそも道は、君の行ひ給ひて、天の下にしきほどこらし給ふわざにこそあれ〉とされ、『うひ山ぶみ』では〈すべて下たる者は、よくてもあしくても、その時々の上の掟のままに、従ひ行ふぞ、即古の道の意には有ける〉と語られています。一見すると暴論に見えますが、易姓革命により引き起こされた惨劇を鑑みれば、一理も二理もある意見です。天皇を通して政治を行うことで、時代の連続性を確保することができます。そのため、独裁を掣肘することができるのです。ここで掣肘する対象は、一人の横暴者のみならず、その時代の多数派の暴走をも含みます。ある一世代が、傲慢にも過去の遺産を食い潰したり、未来へ禍根を残してはならないのです。
大国隆正(1792~1871)は、〈わが学統の大意は、皇統の長くつづき給ふわが国の国体を主張し、これをわが大道の基本として(『学統辨論』)〉と述べています。神々から天皇へと長く続いていることが、日本の国体であり、道だと語られているのです。
このように、神道では天皇の道が語られています。天皇を通じて日本を継承することにより、時代の連続性を保障しています。そうすることで、個人の独裁および多数派の暴走を防いでいるのです。その継承による連続性が掟や道となるのです。
第二項 衆生
仏道を政治の面から見ると、衆生に対する平等の考え方が見られます。衆生とは、多くの生きとし生けるもの、一切の生物のことです。
日本の仏教は、大乗仏教です。そのため、衆生における平等の観念が育まれました。それゆえ、西欧でいう民主制との類似性があると言えるかもしれません。
法然(1133~1212)の『往生要集釈』には、〈それ仏性平等にして〉とあります。『選択本願念仏集』には、〈二種の道あり。一は難行道、二は易行道〉とあり、〈難行道は即ちこれ聖道門なり。易行道は即ちこれ浄土門なり〉とあります。易行道の易は安易・平易の意味で、誰でも行える道です。法然は浄土門を説き、誰でも行える道を示しました。
親鸞(1173~1262)も『教行信証』で、〈世間の道に難あり易あり、陸道の歩行は則ち苦しく、水道の乗船は則ち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし〉と述べています。親鸞も、法然と同じく誰でも行える道を示しているのです。また、親鸞は平等について、〈正道の大道大慈悲は出世の善根より生ずといふは、平等の大道なり。平等の道を名づけて正道とする所以は、平等はこれ諸法の体相なり。諸法平等なるを以ての故に発心等し、発心等しきが故に道等し、道等しきが故に大慈悲等し。大慈悲はこれ打つ道の正因なるが故に、正道大慈悲と言へり〉と述べています。平等は、あらゆる事象の本体だとされています。あらゆる事象が平等を本体としているから、悟りを得ようとする心も等しく起こるというのです。ですから、悟りの道も平等だというのです。悟りの道が平等ですから、大慈悲も平等だというのです。大慈悲は仏の悟りを得る原因ですから、正しい道の大慈悲と言えるというのです。
一遍(1239?1289)の言行録である『一遍上人語録』には、〈田夫野人・尼入道・愚痴・無智までも平等に往生する法なれば、他力の行といふなり〉とあります。誰でも平等に往生する法が、他力として説かれています。
道元(1200~1253)の『正法眼蔵』の[仏性]には、〈仏道にいふ一切衆生は、有心者みな衆生なり〉とあります。仏の道では、心有るものはすべてが衆生と見なされているのです。また、『正法眼蔵随聞記』では、〈道を得ることは、根の利鈍には依らず。人々皆法を悟るべき也。只精進と懈怠とによりて、得道の遅速あり。進怠の不同は、志の到ると到ざると也〉と語られています。道を得ることは生まれつきの賢愚によるのではないというのです。人間はみな法を悟り得るものとされています。ただ、努力しているか怠けているかにより、道を得るのに早いか遅いかの違いが生ずるというのです。努力するか怠けるかの違いは、道を求める志が切実であるかないかの違いによると語られています。
無住(1226~1312)の『沙石集』には、〈仏智は平等なり。国の浄穢を見ず、形に道俗を分たず〉とあります。仏智は平等であり、国の浄穢を区別せず、姿の僧か俗かを差別しないというのです。そのため、〈平等の慈悲を起こし、孝養の懇志を励まして、衆生を救ひ助くべし〉と語られています。
夢窓疎石(1275~1351)の『夢中問答集』には、〈衆生のために仏道を求むる人を、菩薩と申すなり〉とあります。
このように、仏道では衆生と平等が語られています。そこでは、すべてを同じとする見方が示されていますが、努力という点もしっかりと押さえられています。
第三項 聖人
儒道を政治の面から見ると、聖人が徳によって統治するという考え方が見られます。いわゆる王道です。儒道では、力による統治の覇道よりも、徳による統治の王道が賞賛されています。
儒道の王道は聖人の教えに基づき、身分の違いを含んだ上で成り立ちます。儒道での「聖」については、『礼記』の楽記篇に〈作る者これを聖と謂ふ〉とあります。聖人とは、その知識をもって道を作る人なのです。それゆえ、西欧でいう貴族制との類似性があると言えるかもしれません。
『十訓抄』には、〈古き跡を恥ぢずして、君道にもかなひ、身徳ともせむこと、まことの至要なり〉とあります。古跡に恥じずに、君子の道にかなうようにして身の徳を行うことが本当に大事だというのです。
熊沢蕃山(1619~1691)の『集義和書』には、〈聖人の道は、五倫の人道なれば、天子・諸侯・卿丈夫・士・庶人の五等の人、学び給べき道なり〉とあります。五倫の人道とは、父子の親・君臣の義・夫婦の別・兄弟の序・朋友の信のことです。五等の人とは、五階層の人ということです。そこでは、〈世の、道をいふ者、すこしきなり。故に大道の名あり。大道とは大同なり。俗と共に進むべし、独り抜ずべからず。衆と共に行ふべし〉とあり、道を言う人は少ないと述べられています。ですが、その道は衆と共に行くべきものだと語られています。衆として行くのではなく、衆と共に行くというところに特色が見られます。
山鹿素行(1622~1685)は、〈聖人の道は人道なり(『聖教要録』)〉と述べています。
伊藤東涯(1670~1736)は、〈衆人の上に就いて、その同じく行なうところをもって言うときは、すなわちこれを道と謂う(『古今学変』)〉と述べています。衆人の上に就いてと述べているところに、自負が伺えます。
貝原益軒(1630~1714)は、〈賢人以下ハ、天道、聖人ノゴトクナラザレドモ、ツトメテ此誠ヲ行ナフハ、是人ノチカラヲ用ヒテ行ナフ理ナレバ、「人ノ道也」トイヘリ(『五常訓』)〉と述べています。凡人は聖人のようには振舞えませんが、聖人のように誠を行うように心掛ければ人の道を行くことができると語られています。
荻生徂徠(1666~1728)の『弁道』では、〈それ道は、先王の道なり〉とあり、〈孔子の道は、先王の道なり。先王の道は、天下を安んずるの道なり〉とあります。〈先王の道は、先王の造る所なり〉とされています。『弁名』では、〈けだし道なる者は、堯舜の立つる所にして、万世これに因る。然れどもまた、時に随ひて変易する者あり。故に一代の聖人は、更定する所あり〉とされています。その理由については、〈聖人の智に非ざるよりは、いまだその更改する所以の意を与り知ること能はざる者なり〉と語られています。つまり、道は聖人(堯舜)が立てたもので、道の変更も聖人によって行われますが、その変更する理由は聖人でなければ分からないというのです。
亀井昭陽(1773-1836)の『読辨道』には、〈道は其れ何するものか。唯だ聖人、能くその全きを観て、これを建つるを為す〉とあります。道は、聖人にのみ建てることが可能なものだとされています。
このように、儒道では聖人の道が語られています。そこでは、聖人のすぐれた智恵や徳を参照しようとする見方が示されています。 
第十二章 道の思想型・道筋 

 

前章において、道の思想基が示されました。思想は、思想ごとに独自の様式を備えています。日本における道の思想も、「神道・仏道・儒道」を基とした独自の様式を持っています。その様式によって、日本の道は、思想の形式である「前提・方向・枠組」を示すのです。日本の道の思想は、思想形を表すために、思想基に基づいた型を有しています。その型の種類は、道筋・求道・修道・道義として示すことができます。そこで本章では、まず道の思想型における「道筋」から見ていきます。
第一節 道の筋
日本の道は、一つの思想様式です。
思想である道の型を考えるとき、まずは道筋が立てられます。道筋とは、物事の条理における思想の展開の順序です。何かを思考するためには、何らかの筋を立てる必要があります。道の思想では、道筋が立てられます。
道の思想では、道筋に沿って、求道と修道が行われます。求道とは、道を求めるということです。道を求めるということは、道とは何なのか、道とはどういうことなのかを問うということです。それと同時に、求道に伴って修道が必要になります。修道とは、道を修めることです。道を修めるとは、道を身に付けるということです。道を身に付けるということは、道を学び、道を歩むということです。求道において修道を行い、修道において求道を行うのです。このことを一般的に言うと、知恵を得てその知恵を実行すると同時に、実行する中で知恵を得ていくということです。
道の思想は、求道と修道の両方を必要とし、双方へと向かいます。求道と修道は、相互に関連し合いながら、道筋に沿って進みます。
[図12-1] 道筋に沿った求道と修道
道筋は、道の思想において想定されます。では、どのように想定されるのでしょうか。それは、日本史において、道がどのように想定されてきたかを見ることで分かります。その想定の仕方をまとめると、次のような関係をとります。
[図12-2] 道筋の想定
道筋は、「経?権」の関係、「活?統」の関係、「文?武」の関係の間において、立てられるのです。それらの間において、道の筋が成り立つのです。よって、それぞれの関係を個別に見ていきます。
第二節 経(永遠不変)と権(臨機応変)
道の思想の道筋を立てるための指標の一つとして、「経の道」と「権の道」の関係があります。経の道は、永遠不変の常に適う道のことです。権の道は、臨機応変で時宜に適う道のことです。
この経と権は、道という言葉の両義性を見事に表現しています。道というものは、常に変わらず成り立つものとして考えられていながら、状況に応じて異なった様相を見せるものだからです。
例えば、慈円(1155~1225)は〈世ノ道理ノウツリユク事ヲタテムニハ、一切ノ法ハタヾ道理ト云二文字ガモツナリ。其外ニハナニモナキ也(『愚管抄』)〉と述べています。世の中で道理は移り行くのですが、その移り変わり方にも道理があるというのです。そこでは、道理が変わるためには、さらに上位の道理が必要だということが想定されています。
この道理が変わる道理という考え方は、経と権の関係に見ることができます。経と権に関する中国の書物としては『孟子』や『春秋公羊伝』、『論語集註』などが挙げられます。
『孟子』の[離婁上篇]では、〈男女授受するに親(みずか)らせざるは礼〉とあり、男と女が物をやりとりするのに直接手渡ししないのが礼だとされています。その上で、〈嫂(あによめ)溺れ、これを援くに手を以てする者は権なり〉とあり、その趙注に〈権とは経(常道)に反して善なり〉とあります。権は、常に行うべきことに反しているのですが、善となることを指しています。男女が普段直接に手を触れるのは駄目ですが、おぼれるなどの非常事態の時にはよろしいということが記されています。
『春秋公羊伝』には、〈権とは、経に反して、しかる後善有る者なり〉とあります。権(臨機応変)は経(永遠不変)に反するものと見ていることがわかります。反していますが、権は善であるとされています。
朱子(1130~1200)は『論語集註』で〈五常は仁義礼智信を謂う〉と注し、〈所謂天地之常経也〉と胡氏の言をひいています。仁義礼智信は常に成り立つ経だというのです。また権に関しては、〈権は、称錘なり。物を称って軽重を知るゆえんの者なり〉と記されています。称錘は、秤(はかり)の錘(おもり)のことです。経は常に成り立つことで、権はバランスを取って成り立つことだとされています。また、朱子の『論語精義』にある程頤の説に、〈権はただ是れ経の及ばざるところの者、軽重を権量して、これをして義に合せしむ〉とあります。バランスを取って義に適うのが権で、そんなことをせずとも常に義に適うのが経だと考えられています。
この経と権については、日本人も思索を深めています。
中巌円月(1300~1375)は、〈経権の道は、国を治むるの大端なり。経は常なり、変ずべからざるものなり。権は常にあらざるなり、長ずべからざるものなり。経の道は秘吝すべからず、これを天下の民に示して可なり。権なるものは経に反きてその道に合ふものなり。反きて合はざれば、権にあらざるなり(『中正子』)〉と述べています。経はケチって閉まっておくのではなく、広く民に開示すべきものとして語られています。また権は、臨機応変の方策であり、引き伸ばして恒久化してはならないものとされています。権は経に背いているように見えますが、道に適っていて、道に適っていなければ権ではないと述べられています。
林羅山(1583~1657)の『春鑑抄』には、〈仁・義・礼・智・信ノ五ヲ五常ト云ゾ。常ハ、ツネトヨムゾ。常ト云ハ、物ノ常ニアリテカハラザルヲ云ゾ。カハルナラバ常トハ云マヒゾ。此仁・義・礼・智・信之五ツノ道ハ、常ニシテカハラヌゾ。人ト云モノダニアラバ、天地開闢ヨリ以来、末代ニイタルマデニ、此道ノカハルコトハアルマヒホドニ、常ト云ゾ。サルホドニ、万代不易之法ト云ゾ。不易トハ、カハラズト読ゾ〉とあります。天地開けてより、仁義礼智信は常であるというのです。権については、〈権ノ道ト云ハ、法度ヲヒトツハヅシテモ、ノチハ直グナル道ヘイタル、ヲ云ゾ〉とあります。権の道は直正なる常の道に対し、禁じられていることに外れても正しい道に至ることだというのです。また、羅山の『貞観政要諺解』では、〈権ハ謀ナリ。常ヲ変スルヨリ云ナリ〉とあります。権は、計略をめぐらすことで、常を変えることだとされています。
山崎闇斎(1618~1682)の『闢異』では、〈それ天下の道、経あり権あり、経は万世の常、人皆もつてこれを守るべきなり。権は一事の用、聖賢に非ずんば用ふる能はざる也〉とあり、朱子学の立場から権を聖人に限っています。永遠不変である経は万民に開かれていますが、臨機応変の権は聖人にしか実践できないと考えられています。
中江藤樹(1608~1648)の『翁問答』では、〈時と処と位とによくかなひて相応したる義理を中庸となづけたり〉と中庸が語られています。その中庸に対し、〈権の体段、徹頭徹尾ことごとく中庸精微の神理〉と述べられています。権とは臨機応変に応ずることであり、すなわち中庸だと言うのです。権と経の関係は、〈経に反して道にかなふを権といへるは大なる誤なり〉とされています。経と権は、互いに反するものではないと藤樹は言います。そこで、〈礼法の迹を真実の道なりと心得て、聖人立法の本意、権道の妙をさとらずして、礼法になずみて、専にとりおこなひ、時中の神理にそむくをば、非礼となづけて、君子のせざる所なり〉と語られています。時中とは、時に応じて中を得ることです。非礼の礼とは、礼に似て礼でないもののことです。既存の礼に闇雲に従うのは、むしろ礼ではないのです。君子は、時に応じて、時に応じた礼を行うのです。ですから、〈権は聖人の妙用にして初学の人受用することあたはずといへども、工夫の準的はかならず権を目あてとすべし〉とされ、〈権を準的として工夫せざれば明徳を明にすべき道なし〉と語られています。初学者も権を目標として努力工夫すべきだという、朱子学を離れた独自の見解が展開されています。そのため、〈権の外に道なし。道の外に権なし。権の外に学なく学の外に権なし〉と言い、〈権は道の惣名なれば、権すなはち道、道すなはち権なる故に、道也といはんために権也といへるなり〉と語られているのです。時に応じたあり方が道であり、その他に道というものはないだと藤樹は言うのです。
伊藤仁斎(1627~1705)は『語孟字義』において、〈程子の曰く、「権は、称錘なり。物を称って軽重を知るゆえんの者なり」〉と朱子の言葉を引いています。その上で、〈漢儒 経に反して道に合うをもって権とす。程子これを非とす。最も是なり。経は即ち是れ道。すでに是れ経に反せば、いずくんぞ能く道に合わん〉と述べています。仁斉の意識した漢儒とは、『春秋公羊伝』の著者のことです。また、〈経は即ち是れ道〉という言葉は『北渓字義』からの影響です。仁斎は、経と権を互いに反するものだとは考えていません。
仁斎の見解は、〈権の字は当に礼の字をもって対すべし。経の字をもって対すべからず。けだし礼は時に因って損益すべし〉という立場です。つまり、礼は固定化されて弊害となりますから、時代によって多少の変化を加えて良いのです。そこで、権は礼に対置されるものとして考えられます。ですから、〈権は即ち是れ経、経は即ち是れ権。権は毎(つね)に経の中に在り、経と相離れず。ただ当に権もって経を済うと謂うべし〉と語られています。実に見事な意見です。権と経に関する考察は、ここで一つの到達点に達しています。臨機応変の権ですが、その権が場合ごとに違うといっても、その違ったことが時宜に適っているということを保障するために、常に正しい経というものを想定しておかなくてはなりません。臨機応変に対する権は、常に正しい永遠不変の経なのです。常に正しい永遠不変の経は、臨機応変に対応できる権なのです。ですから、権は経であり、経は権なのです。その場その時において、常に正しい経が、何であるかを問う営みこそ、権の役割なのです。
荻生徂徠(1666~1728)の『弁名』には、〈経なる者は大綱領なり〉とあります。経は本筋になるもの、もとじめになるものだというのです。ですから、〈経なる者は、国家、制度を立つるの大綱領なり〉とされています。それに対し、〈礼は節目甚だ繁し。故にその末節に至りては、すなはち変じて宜しきに従ふのみ〉とされ、〈権は、礼にもまたこれあり〉と語られています。礼儀作法は、細かい規定が多いため、適宜変更を加えます。権も礼儀と同じだとされています。例えば、〈いはゆる権なる者は、舜の告げずして娶りしがごときこれなり〉として示されるものです。古代中国の聖人である舜は、親が舜を憎んで結婚を許さなかったので、舜は親に相談しないで結婚したということを引き合いに出して、権を説明しています。つまり徂徠においては、経は本筋であり、権は礼儀作法などの細かい規定を宜しく変えるものだと考えられているのです。
本居宣長(1730~1801)の『鈴屋答問録』には、〈神道に教への書なきは、これ真の道なる証也。凡て人を教へておもむかするは、もと正しき経の道にはあらず、然るに其教のなきを以て、其道なしと思ふは、外国の小き道々にのみならひて、真の道を知らざる故のひがごと也。教のなきこそ尊とけれ。教を旨とするは、人作の小道也〉とあります。教えがあるなら、正しい経の道ではないというのです。これは慧眼です。何か教えを定めてしまうと、それが適合する場合があると同時に、それが合わない場合も考えられてしまいます。それゆえ、固定化した教えを定めてしまうと、それは経の道とは成り得ないのです。常に妥当する経は、何らかの正しさのために想定されます。ですが、それが教えとして固定化されると、つまりは設定されると、人間が完全な教えを作ることは不可能であるため、弊害となってしまうというのです。
藤田東湖(1806~1855)は、〈学問・事業の一にし難きは、その故多端なるも、大弊四あり。曰く「躬行を忽(ゆるがせ)にす」。曰く「実学を廃す」。曰く「経に泥む」。曰く「権に流る」(『弘道館記述義』)〉と述べています。自ら実行することをおろそかにすること、役立つ学問を廃止すること、常道に拘泥して融通がきかないこと、情勢の変化に即して行き過ぎた処置をとること、これらを戒めています。経と権に関し、どちらかに偏るのではなく、その平衡が重要なのだというのです。
長野義言(1815~1862)は、〈国政法則を以て行ふとも、神国の正道にあはずば又いかにかせん。唯その時々の法則は、その時々の規なれば、しわざは是にしたがひつつ、心は正道にとどめんことこそあらまほしけれ(『沢能根世利』)〉と述べています。国の法律(法則)は、その時その時で違うものです。ですから法律に従いながらも、心は正道に留めて置くことが大切だと語られています。
以上のように、権は状況において時宜に適った変則の処置を取りますが、その適っているという判断のために、常で正しい経を想定しておかなくてはなりません。経の道を想定することで、権の道が、常に、時宜に適っていると判断することができるのです。この経と権の関係性の間において、道が立つのです。
第三節 活(動態)と統(統合)
道の思想の道筋を立てるための指標の一つとして、道を「活字」とする見方と、道を「統名」とする見方があります。
道を「活字」とする見方は、伊藤仁斎(1627~1705)が唱えています。まず『語孟字義』で、〈理の字 道の字と相近し。道は往来をもって言う。理は条理をもって言う〉とあり、道と理が違うことが述べられています。では、どう違うかというと、〈道の字はもと活字、その生生化化の妙を形容するゆえんなり。理の字のごときはもと死字、玉に従い里の声、玉石の文理を謂う〉とあります。活字は動作をふくむ意味の言葉で、死字に対します。死字とは、状態の形容をいう言葉です。道は活字ですから、動作を含む文字であり、往来に例えられています。〈道は流行をもって言う〉とあるように、道が変化していく状態によって語られるというのです。
仁斎の『童子問』では、〈理は本死字、物に在って物を宰どること能わず〉とあります。理は死字で、状態の形容を表す文字ですから、物をつかさどること、つまり物の動きを捉えることはできないというわけです。ですから、〈学問は須く活道理を看んことを要すべし。死道理を守著せんことを要せず〉とされ、〈蓋し道や、性や、心や、皆生物にして死物に非ず〉と語られています。また、〈何となれば、流水は源もと有って流行す。活物なり。止水は源と無うして停蓄す。死物なり〉とあり、この文からも、活という字が動きと関連していることが分かります。道は活字であり、動きの流れの中にあって平衡を得るものですから、〈道とは、中庸に至って極まる〉と語られているのです。
佐藤一斎(1772~1859)も、〈道は固より活き、学も亦活く(『言志後録』)〉と述べています。
仁斉や一斎は、道を活字として動態的なものとして捉え、理を死字として静態的なものとして捉えています。動態的なものは、過去が未来に影響を与えます。それとは逆に、静態的なものは、過去を顧みずに成り立ちます。ですから動態的に考えるならば、過去を考慮しなければなりません。この場合、過去を考慮するということは、時代の変遷を考慮するということです。道は、人々の動きや時代の動きの中で捉えられるものですから、道は動態的な状況における平衡として捉えられます。これは非常に卓抜で見事な見解です。
ですが、この仁斎の道の見方とは異なった道の見方を荻生徂徠(1666~1728)は示しています。『徂來先生答問書』において〈教に古今なく、道ニも古今なく候。聖人の道にて今日の国天下も治り候事ニ候〉とあり、〈古の聖人之智は、古今を貫透して今日様々の弊迄明に御覧候〉とあることからも、徂徠が道を静態的、もしくは固定的なものと見ていることが分かります。
徂徠は『弁道』で〈それ道は、先王の道なり〉と述べ、〈後世つひに中庸の道を以てする者は誤れり〉と仁斉の見解を否定しています。徂徠は〈孔子の道は、先王の道なり。先王の道は、天下を安んずるの道なり〉と述べ、天下を治めるための制度や法律に近い文脈で道を捉えています。そのため、道が先王の時代を規範として、固定的に考えています。ですが、この道の見方にも優れた見解が示されています。それは、〈道なる者は統名なり〉という意見です。統名であるとは、多くを総括した名称であるということです。そこでは、〈先王の道は、先王の造る所なり。天地自然の道に非ざるなり〉と考えられています。徂徠の考えでは、道とは人が造るところのものなのです。そこでは〈礼楽刑政は、先王これを以て天下を安んずるの道を尽くせり。これいはゆる仁なり〉と語られています。
『弁名』においても、〈道なる者は統名なり。由る所あるを以てこれを言ふ。けだし古先聖王の立つる所にして、天下後世の人をしてこれに由りて以て行はしめ、しかうして己もまたこれに由りて以て行ふなり。これを人の道路に由りて以て行くに辟ふ。故にこれを道と謂ふ。孝悌仁義より、以て礼楽刑政に至るまで、合せて以てこれに名づく、故に統名と曰ふなり〉と語られています。道とは、古の王が立てたもので、人々も自分自身も、これによって物事を行うことだというのです。その道は、両親や兄弟と仲良くすることや、礼節・音楽・刑罰・政治などが合わさっているとされています。ですから道は、様々な事柄の統一的な名前だと語られているのです。徂徠は、〈かつ道もまたこれを道路に本づく。あに死活あらんや。ただ道はこれを行ふを主とし、理はこれを見るを主とす〉と言い、仁斎の道の見方を否定しています。徂徠の考えでは、見るべき対象が理であり、行うべき対象が道なのです。
ですから徂徠は『学則』で、〈世は言を載せて以て遷り、言は道を載せて以て遷る。道の明らかならざるは、職としてこれにこれ由る〉と述べているのです。「職として」とは、主としてという意味です。つまり、時代の変遷とともに言葉が変遷し、言葉の変遷とともに先王の道が変遷するというのです。そのために、道は分かりづらいものになってしまい、その変遷は聖人の智恵によらなければならないのだと徂來は考えています。
以上のように、伊藤仁斉と荻生徂徠の道に対する異なった見方があります。道に対する定義の違いと言ってしまえばそれまでですが、道の思想を深化させるには、二つの見方を比較検討する必要があります。
徂徠が考えたように、道を統名とする見方は見事です。ですが、統名であるからこそ、動態的に見なければならないという面もあるのです。静態的に物事を見るならば、様々な基を統合した道が、いつの時代でも妥当すると考えることもできます。しかし、世の中は動態的に流動しますから、行うべき道も、動作を含む活字として変遷するのです。
貝原益軒(1630~1714)は『慎思録』で、〈道なるものは天地を主宰し陰陽を総摂して万物を化生する所以のものなり。その流行を以てこれを道といひ、その気に主となりて条貫あるを以てこれを理といふ。その実、道と理とは一なり〉と述べています。益軒のように道を見るなら、道と理は一つのものとなるのです。道は流れの中で動き、条理を得るのです。
つまり、道は統名であり、活字であるがゆえに中庸なのです。様々な言葉の統合である統名であるからこそ、動態的に中庸が必要なのです。だからこそ、仁斉は『語孟字義』で、〈誠とは、道の全体。故に聖人の学は、必ず誠をもって宗とす。しこうしてその千言万語、みな人をしてかの誠を尽くさしむるゆえんにあらずということなし。いわゆる仁義礼智、いわゆる孝弟忠信、みな誠をもってこれが本とす〉と述べ、徂徠が『弁名』で〈孝悌仁義より、以て礼楽刑政に至るまで、合せて以てこれに名づく、故に統名と曰ふなり〉と言い、共に近しい見解に至っているのです。
千言万語の統名である道は、動態的に中庸なのです。様々な言葉の統合した名前である道は、時代の動きの中で動態的に中庸を取る活字なのです。ですから、この活字と統名の関係の間において、道が立つのです。
第四節 文と武
道の思想の道筋を立てるための指標の一つとして、「文道」と「武道」の関係があります。
道において、文と武は非常に重要です。文と武は、求道を行うにしろ、修道を行うにしろ、密接に関わります。文武二道や文武両道という言葉には、道の思想としての特性が現れています。
慈円(1155~1225)の『愚管抄』には、〈文武ノ二道ニテ國主ハ世ヲオサムルニ〉とあります。国を治めるためには、文と武の両方が必要とされるのです。
『平治物語』には、〈天下を保ち国土を治むること、文を左にし、武を右にするとぞ見えたる。たとへば人の二の手のごとし。一つも欠けてはあるべからず〉とあります。また、〈あ(ッ)ぱれ文武二道の達者かなとぞ見えたりける〉という記述もあります。『太平記』では、〈文武の二道同じく立てて、今の世を治むべきなり〉と語られています。このように軍記物語では、文と武の二つの道を同じく立てることの重要性が説かれています。
『十訓抄』には、〈およそ武士といふは、乱れたる世を平らぐる時、これをさきとするがゆゑに、文にならびて優劣なし。朝家には文武二道をわきて、左右のつばさとせり。文事あれば、必ず武備はる謂なり〉とあります。武と文の働きに優劣はないとされ、朝廷では文武二道を左右の翼と位置づけているというのです。
北条早雲(1432~1519)の『早雲寺殿廿一箇条』では、〈文武弓馬の道は常なり。記すに及ばず。文を左にし、武を右にするは古の法、兼て備へずんば有べからず〉とあり、文武両道を用いて天下を治めることが述べられています。宮本武蔵(1584~1645)の『五輪書』では、〈武士は文武二道といひて、二つの道を嗜む事、是道也〉とあります。武士道においては、武だけではなく文も重要視されているのです。
中江藤樹(1608~1648)の『翁問答』では、〈戈を止(やめる)といふ二字をあはせて武の字をつくりたり、文道をおこなはんための武道なれば、武道の根は文なり。武道の威をもちいておさむる文道なれば、文道のねは武なり。そのほか万事に文武の二ははなれざるものなり〉とあります。また、〈文は仁道の異名、武は義道の異名なり。仁と義はおなじく人性の一徳なるによつて、文武もおなじく一徳にして各別なるものにあらず。仁義の徳をよくさとりて、文武のさたをあきらむべし〉とあります。ここでは、「文⇔仁」、「武⇔義」という関係が語られています。
熊沢蕃山(1619~1691)の『集義和書』には、〈世間に、文芸をしり武芸をしりたる者を、文武二道といふは、至極にあらず。これは文武の二芸といふべし。芸ばかりにて知仁勇の徳なくば、二道とは申がたかるべく候〉とあります。知識・仁・勇気の三徳があって、はじめて文武の二つの道だというのです。また、『集義外書』にも、〈大道の世を行めぐる両輪は文武にて候〉とあります。
荻生徂徠(1666~1728)は『答問書』において、〈治まる時は文を用ひ、亂るゝ時は武を用ひ、只一箇の道にて、道に文道武道と申事は之無き候〉と述べています。
松代藩家老である恩田民親(1717~1762)の『日暮硯』には、〈文武二道は武士の常に御座候へば〉とあり、〈文武両道とも、一入御出精遊ばされ候故〉とあります。〈幼少の子供まで文武二道に精力を励み〉ともあります。
高杉晋作(1839~1867)の『遊清五録』では、〈士を取るに多くは武を以てす。故に我邦は武文の人を以て有道者と為す。考試も亦た多くは武を以てし、或は文を以てする者あり〉とあり、文と武の両方を取りますが、武に重きを置いています。
哲学者である西周(1829~1897)は、道と文の関わりを強調し、〈文と道とは元と一つなるものにして、文学開くときは道亦明かなるなり(『百学連関』)〉と述べています。
以上のように、文と武は道の両輪を成します。文なき武も、武なき文も十分ではありえないのです。文と武は互いに支え合い、文と武の関係の間において、道が立つのです。
第五節 道の中
以上のように、道の思想の道筋が、どのように立つのかを見てきました。道筋は、「経?権」と「活?統」と「文?武」のそれぞれの関係を基にして、その間において立つのです。そこでは対になるものの関係性が重要なため、中庸や中道が必要になります。そのため次のように、関係性の中(なか)で中(あた)るという道の思想の道筋が成り立ちます。
[図12-3] 道の中(なか)で中(あた)る
道の思想の道筋は、道の中(なか)で中(あた)るということです。つまり、中道や中庸が重要ということです。
最澄(767~822)は、〈中道の心を上となす(『得業学生式』)〉と両極端を離れた中正なる道を語っています。
空海(774~835)は、〈中道正観に由るが故に、早く涅槃を得(『秘蔵宝鑰』)〉と言い、中道の正路によって涅槃に到達できると述べています。ここでの中道とは、囚われを離れた心によって、公正に現実を見た上で正しい行動を取ることです。
日蓮(1222~1282)は『顕謗法抄』で、〈此日本には外道なし、小乗の者なし〉と語り、大乗について〈諸大乗経には中道の理王なり〉と述べています。ここでの中道は、いずれにもとらわれず現実を正しく見究めることです。
真言律宗の叡尊(1201~1290)は、〈空有ニ着セズシテ空有ヲ失ザルヲ本意ト為ス、即中道也(『興正菩薩御教誡聴聞集』)〉と、非有非空の中道について述べています。
『八幡愚童訓』には、〈正道は辺邪をはなれたる中道の名也〉とあります。
『八帖花伝書』では、〈惣じて、道なども、直なる道をよき道と云、山坂有歪みたる道は悪しき道と言へば、謡も道にたとへ、直成が本意たるべし〉とあります。真っ直ぐな道がよき道だとされています。
熊沢蕃山(1619~1691)は、〈中とのたまふものは、私心なく、よる所なく、天理にしたがひて、時所位の当然を執行ふなり(『大学或問』)〉と述べています。
伊藤仁斎(1627~1705)は、〈道とは、中庸に至って極まる(『童子問』)〉と述べています。
本居宣長(1730~1801)は、〈程々にあるべき限りのわざをして、穏(おだ)ひしく楽しく世を渡らふほかなかりしかば、今はた其の道といひて、別(こと)に教へを受けて、行ふべきわざはありなむや(『直毘霊』)〉とあります。道は、ほどほどにおいてあるべきだというのです。
会沢安(1782~1863)は、〈中庸の語は道の立たる本を論ぜし詞なり(『退食間話』)〉と述べています。
二宮尊徳(1787~1856)の『二宮翁夜話』には、〈人道は中庸を尊む〉とあります。
藤田東湖(1805~1855)は、〈中庸ノ道ト云ハ、万物ノ理ヲ尽シ、事ニヨリ品ニヨリ、夫々其理ノ当然ニ叶フテコソ中庸トハイフベケレ(『壬辰封事』)〉と述べています。
以上のように、道においては、程々・中道・中庸という考え方が必須です。道の思想の道筋は、道の中(なか)で、程々にことに中(あた)るのです。道の中(なか)で程々にことに中(あた)るということで道筋が立てられ、その道筋に沿って求道と修道へと向かうのです。
そして、立てられた道筋は、求道と修道を通じて、道義を得るのです。 
第十三章 道の思想型・求道 

 

前章において、道の思想型における道筋が示されました。その道筋に沿って、求道が行われます。そこで本章では、道の思想型における「求道」を見ていきます。
第一節 道を求める
求道とは、道を求めることです。道を求めるということは、道とは何なのか、道とはどういうことなのかを問うということです。
空海(774~835)は、〈古人、道の為に道を求む。今の人は名利の為に求む。名の為に求むるは求道の志とせず、求道の志は己を忘るる道法なり(『遍照發揮性靈集』)〉と述べています。古人に習い、名利のためではなく、道のために道を求めることが語られています。
夢窓疎石(1275~1351)の『夢中問答集』には、〈道のために福を求むることは、まことに世欲に異なりといへども、求め得たる時は喜び、しからざる時は嘆く〉とあります。仏道のために福を求めることは世俗の欲とは異なりますが、求め得たときは喜びになり、そうでなければ嘆きになるというのです。
山本常朝(1659~1719)は、〈只「是も非也非也」と思ひて「何としたらば道に叶うべき哉」と一生探捉し、心を守て打置ことなく、執行仕えるべき也。此内に即道有也(『葉隠』)〉と述べています。探捉とは探し求めることで、探し求めることがすなわち道だというのです。不足不足と思い、道を心に守って探し求めるべきであり、この内に道が有るのだとされています。
そこで問われるべきことは、どのように道を求めるかということです。その方法は、日本史の上に示されています。和辻哲郎(1889~1960)は、〈根源的空間性時間性が明らかにせられる時に、初めて実践的行為的連関はその具体的な構造を示してくる。すなわち人間の行為はここに至ってその充分なる規定を得ることができるのである。そこでこの行為の立場において、信頼及び真実と呼ばれる人間の道が、真によく把握せられる(『倫理学』)〉と述べています。
日本史を参照するということは、日本という時空をたどるということです。時空をたどる旅において、私たちは日本における時間意識と空間意識を垣間見ることになります。その関係において、日本における理想(信頼・真実)と現実(実践・行為)が交わります。日本における求道は、時間と空間、理想と現実の交差において立ち現れて来るのです。
[図13-1] 求道の型
道を求める行為は、「時間-空間」という軸と「理想-現実」という軸の交わりにおける求道の型として示されます。
第二節 道の時間
まず、日本史における道の時間意識を見てみましょう。
日本における道の時間意識の代表格は、松尾芭蕉(1644~1694)だと思われます。『笈の小文』で芭蕉は、〈西行の和歌における、宗祗の連歌における、雪舟の繪における、利休が茶における、其貫道する物は一なり〉という言葉を残しています。この言葉から、道は日本史の各時代(平安、室町、安土桃山など)を通じて、一貫して続いていることがわかります。
[図13-2] 時代を貫いて続く道
慈円(1155~1225)の『愚管抄』には、〈加様ノ次第ヲバ、カクミチヲヤリテ正道ドモヲ申ヒラクウヘハ、ヒロクシラント思ハン人ハカンガヘミルベキ事也〉とあります。つまり、正しい道を申し開くために幅広く知識を得ようとする人は、順々に移り流れる歴史を参照し反省してみるべきだと語られているのです。また、〈コレニツキテ昔ヲ思ヒイデ今ヲカヘリミテ、正意ニヲトシスエテ邪ヲステ正ニキスル道ヲヒシト心ウベキニアヒ成テ侍ゾカシ〉とも語られています。昔のことを思い出し、現在のことを顧みて、世の中を正しい考えにもとづくように帰着させ、邪を捨てて正に帰する道をしっかりと理解すべきだというのです。
道元(1200~1253)は、〈古仏の道を参学するは、古仏の道を証するなり。代代の古仏なり。いはゆる古仏は、新古の古に一斉なりといへども、さらに古今を超出せり、古今に正直なり(『正法眼蔵』)〉と述べています。古き仏の道を学ぶということは、古き仏の道を証することだというのです。だから、代々すべて古仏とされています。古仏の古は、新古の古に他ならないのですが、その古仏とは古今を超越したもの、古今を貫いてまっすぐ続いているものだと語られています。
『甲陽軍鑑』には、〈学は啻身を潤すのみにあらず、国家を興隆し、子孫を栄茂するの本なり。本立つて道生る則ば、乾坤を掌握に運し、古今を胸中に通ず。亦道ならずや〉とあります。つまり、学問は自身に利福をもたらすにとどまらず、国家興?、子孫繁昌の基本であるというのです。基本が定まってこそ道が成就するとされています。そのために天地を掌中に収め、古今を明らかに知ることが道だと記されています。
貝原益軒(1630~1714)は、〈聖賢の書をよみ、人に道をききて、古今を考へて道理を求むるなり(『大和俗訓』)〉と述べています。今と昔を考えることで道理を求めるというのです。
伊藤東涯(1670~1736)は、〈道 万世に易わらずして、学に古今の異有り(『古今学変』)〉と述べています。学には古今で違いがありますが、道に古今の相違はなく、変わらずに在り続けているのだと考えられています。
平田篤胤(1776~1843)は、〈うべなうべな我が皇大御国の、古伝の正実にして、真の道の伝はり、また古語の麗く、世人の声音も言語も雅にして、万国に比類なきことよ(『霊の真柱』)〉と述べています。古から内実ある正しさが伝わっている我が国は、真の道が伝わっており、誇るべきことが語られています。また、〈眞ノ道ヲ行ク人ト云モノハ、其ノ先祖ノ美ヲ撰ビ論メ、其事ヲ明カニシテ、後世ニ著レルヤウニ為モノジヤ(『古道大意』)〉とも述べています。真の道とは、先祖の美しいところを後世に残すところにあるというのです。
伊達千広(1803~1877)は、〈人とうまれては、おのおの其身を保ち其時事をつとむるを職とす。これ神道なり、人道なり。まづ其時事をつとむるには、天下の大勢をしらずんばあるべからず。其大勢をしらんには、古来の沿革をしらずんばあるべからず(『大勢三転考』)〉と述べています。神道であれ人道であれ、己の身を保ち、時に応じた職をつとめるには、天下の大勢を知らなければならず、そのためには古来の知恵が必要だと語られています。
以上のように、日本史の上に、道の時間意識が展開されています。道の時間意識では、古(いにしえ)の事柄や、古の人に学び、今を考え、道の正しさや道理を求めるという基本が示されています。その基本の上で、道が時間を貫いて続いているという考え方が示されています。先祖から子孫へと道は続いて行くのです。ですから道の時間意識では、日本の道の連続性・一貫性・持続性があらわれているのです。
第三節 道の空間
次は、日本史における道の空間意識を見ていきます。道の空間意識は、世界に対して、世界の中で道を立てることによって確認できます。様々な道が自身の内側と外側を分けることで、個々の道が一定の幅を持つ空間として認識できるからです。
最澄(767~822)は、〈道心あるの人を名づけて国宝となす(『山家学生式』)〉と言い、道と国を結びつけて論じています。
道元(1200~1253)は、『正法眼蔵随聞記(1235~1238)』において、〈人、其の家に生れ、其道に入らば、先づ、其の家の業を修べし、知べき也。我が道に非ず、自が分に非ざらん事を知り修するは即非也〉と述べています。人がある家に生まれ、その家業の道に入るなら、まず、その家業を修めなくてはならないと知るべきだというのです。自身に分不相応なことを知ったり修めたりするのは、心得違いであり道ではないというわけです。道が、家と結びついた人の生き方に関わって語られていることが分かります。
『八幡愚童訓』では、〈誠にも悲法を旨とし正道を捨る時は、其国必滅亡する事なれば、邪をすて正に帰せよとなり〉とあり、道と国の衰退が関係するものとして述べられています。
『朝倉始末記』では、〈国を治むる者は道を以て欲する時は能く持(たも)ち、政を務むる者は徳を以て欲する時は能く収む〉と、治国と道との関わりが述べられています。ここでの国は、藩を指しています。
『甲陽軍鑑』では、〈何の道も家職を失なはんこと勿躰なし〉とあり、家職に道が対応しています。
山鹿素行(1622~1685)の『山鹿語類』では、〈人君の誠と云はん所は、天下国家人民のために至大至公の道を行ひとげん所、是則誠なり〉とあります。誠は、天下・国家・人民のための最も公共的な正しい道を実現することだと述べられています。また、〈人既に我職分を究明するに及んでは、其職分をつとむるに道なくんばあるべからざれば、こゝに於て道といふものに志出來るべき事〉ともあります。人が自分の職分を明らかにした段階で、道というものに対する志が出てくるはずだというのです。
貝原益軒(1630~1714)は、〈人の見になすわざ、何事にも道あらずといふことなし(『大和俗訓』)〉とあり、人の営みの全てに道があることを語っています。
西川如見(1648~1724)は、〈自慢によつて其國の作法政道立たり(『町人嚢』)〉と述べています。各国は、その自慢する所によって、政治の道を立てているのだと語られています。
山本常朝(1659~1719)は『葉隠』で、〈その道々にては、其家の本尊をこそ尊び申候〉と述べ、道と家が結びつけられて捉えられています。また、〈士は諸傍輩に頼もしく寄合、中にも智恵有人に、我身の上の異見を頼み、我非を知て一生道を探捉するものは、御国の宝と成候也〉とも語られています。ここでの国は藩のことですが、道が国(藩)の特性として論じられています。道は、家と国(藩)に関係するものとして語られているのです。
荻生徂徠(1666~1728)は『答問書』で、〈聖人の道は、國家を治め候道〉と述べています。
賀茂真淵(1697~1769)は『国意考』で、〈国につきたる道のさかえ〉について述べています。
富永仲基(1715~1746)は、〈言に物あり。道、これがために分かる。国に俗あり。道、これがために異なり(『出定後語』)〉と述べ、言語や国ごとの風俗・習慣により、道に相違が現れることを語っています。
石田梅岩(1685~1744)は、〈ハテイヘバ道ハ一ナリ。然レドモ士農工商トモニ、各行フ道アリ(『都鄙問答』)〉と述べています。一般的に言えば道は一つですが、士・農・工・商のそれぞれの職業に応じて道があると語られています。
和泉真国(1765~1805)は、〈万国とも、各其国には、必、自然に、其国に付たる道ある事をさとるべき也(『明道書』)〉と述べ、国には国ごとの道があると語っています。
佐藤一斉(1772~1859)は、〈茫茫たる宇宙、この道只これ一貫す(『言志録』)〉と述べ、道が宇宙すべてに及んでいることを論じています。茫茫とは、ひろく果てしなく、さだかでないさまです。
平田篤胤(1776~1843)は、〈青海原、潮の八百重の、八十国に、つぎて弘めよ、この正道を(『霊の真柱』)〉と述べ、道がたくさんの国に弘まることを願っています。
頼山陽(1780~1832)は、〈道は一のみ。道の天下に在るや、猶ほ日月のごときなり。日月は天下の日月なり。一国の私有する所に非ざるなり(『日本政記』)〉と述べ、道を天下に在るものとして論じています。
渡辺崋山(1793~1841)は、〈西洋諸国の道とする所、我道とする所の、道理に於ては一有て二なしといへども、其見の大小の分異なきに非ず(『慎機論』)〉と述べています。日本も西洋も、道とすべきところは一つですが、見解に多少の相違がないわけではないと語られています。
西郷隆盛(1828~1877)の『南洲翁遺訓』には、〈忠孝仁愛教化の道は、政事の大本にして、万世に亘り、宇宙に弥り、易うべからざるの要道なり。道は天地自然のものなれば、西洋と雖も決して別なし〉とあり、道が万国に及ぶと言われています。そこでは、〈節義廉恥を失いて国を維持するの道決してあらず、西洋各国同然なり〉とあり、万国に及ぶものであるからこそ、各国が道に適うようにすべきだと語られています。
大久保利通(1830~1878)は、〈治国ノ道タル、其政府ノ体裁ニ於テハ各其国古来ノ風習人情ニ従ヒ(『立憲政体に関する意見書』)〉と述べています。国を治める道は、国ごとの風習や人情によるのだと語られています。
以上のように、日本史の上に、道の空間意識が展開されています。日本の道は、様々な仕方で、家(職)・国(藩)・国家・天下・宇宙などの区切りを指し示しています。
[図13-3] 道の空間関係
これらの区切りにおいて、その区切りに特有の性質が示され、日本の道の空間意識が形作られています。そのため道の空間意識では、日本の道の限定性・限界性・特異性があらわれているのです。
第四節 道の理想
日本史を眺めてみると、理想としての道が語られてきたことが分かります。その営みは、道が理想へ向かっていること、理想に叶っていることとして綴られています。
空海(774~835)は、〈仏法存するが故に、人皆眼を開く。眼明らかにして正道を行じ、正路に遊ぶが故に、涅槃に至る(『秘蔵宝鑰』)〉と述べています。正道は涅槃に至るとされています。
親鸞(1173~1262)の『教行信証』には、〈道は則ちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり〉とあります。本願一実の直道とは、ただ一つのまことなる道ということです。大般涅槃とは、すぐれて完全な大乗の仏果(仏の悟り)のことです。つまり、大乗の仏の悟りは、最上でただ一つのまことの道だと語られているのです。
道元(1200~1253)の『正法眼蔵』の[発菩提心]では、〈菩提は天竺の音、ここには道といふ〉とあります。菩提というのは、天竺のことばを音写したもので、中国ではそれを道と訳すというわけです。菩提(悟りの知恵)という理想が道だというのです。また、[三十七品菩提分法]での八正道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)も、八つの正しさという点で、道という理想を述べたものと言えます。
無住(1226~1312)の『沙石集』には、〈真実対治して、身心二つながら清浄にして、解脱の道に入るべき者なり〉とあります。
中巌円月(1300~1375)は、〈聖人の道は大なり。仁義なるのみ(『中正子』)〉と述べています。
熊沢蕃山(1619~1691)の『集義外書』には、〈道は三綱五常これなり〉とあります。三綱五常とは、三綱は君臣・父子・夫婦の道で、五常は仁義礼智信の徳のことです。また、〈それ道は大路のごとしといへり。衆の共によるべき所なり。五倫の五典十義是なり〉ともあります。五典十義の五典とは、人のふみ行なうべき五つの道を言い、『孟子』では〈父子親有り、君臣義有り、夫婦別有り、長幼序有り、朋友信有り〉とあり、『左伝』では〈父の義、母の慈、兄の友、弟の恭、子の孝〉を指しています。十義とは、人のふみ行なうべき十の道を言いますが、これも諸説あり、蕃山は『心法図解』の人道の図に、〈父慈、子孝、君仁、臣忠、夫義、妻聴、兄良、弟悌、朋友、交信〉を記しています。
伊藤仁斉(1627~1705)の『童子問』では、「人」という言葉は「人倫」という意味で使われている場合と、「個人」という意味で使われている場合があります。〈道とは人有ると人無きとを待たず、本来自ら有るの物、天地に満ち、人倫に徹し、時として然らずということ無く、処として在らずということ無し〉というとき、人が個人の意味で使われ、道の理想たる人倫が示されています。その理想は、個人的なものではないことが語られているのです。具体的には、〈道は仁義禮智に至って極まり、教は孝弟忠信に至って盡く〉とあるように、仁義礼智という道の理想が示されています。
仁斎の息子である伊藤東涯(1670~1736)は、〈道とは何ぞ。仁是れなり(『古今学変』)〉と述べています。仁斎は道を仁のみに限定していませんが、東涯は仁に限定して語っています。
このように日本史における道の理想は、涅槃や八正道や解脱、仁義礼智信などとして語られています。
ここで注意が必要なのは、理想は、単なるきれいごとではないということです。文字通り、理(ことわり)を想うことが理想なのです。ですから、理を想うための現実が必要となります。理を想っていない考えは、理想ではなく妄想です。そうならないためには、現実から理想を生成する必要があるのです。
[図13-4] 現実の道の理想
日本史においては、現実から理想が生成されているのです。
『正法眼蔵随聞記』には、〈善知識に随て、衆と共に行て、私なければ、自然に道人也〉とあります。高徳の賢者に従って、私心なく皆と一緒に修行すれば、おのずとそのまま仏道の人に成ると言われています。高徳の賢者に従って皆と共に行くという現実から、無私や道人という理想に至るとされています。
山鹿素行(1622~1685)は、〈道は日用共に由り当に行なふべき所、条理あるの名なり。天能く運(めぐ)り、地能く載せ、人物能く云為す。おのおのその道ありて違ふべからず(『聖教要録』)〉と述べています。道は、毎日使用するところを根拠に持ち、行うべきことを示すというのです。その現実において、条理という名の道の理想が見えて来るとされています。
伊藤仁斉(1627~1705)は、〈道の天下に在るや、処として到らずということ無く、時として然らずということ無く、聖人の為めにして存せず、小人の為にして亡びず、古今に亙って変ぜず、四海に放って準有り、日用彝倫の間に行なわれて、声も無く臭も無き理に非ず。其の目四有り。曰く仁義禮智(『童子問』)〉と述べています。道が、日常における常の仲間の間という現実における、仁義礼智という理想として語られています。『語孟字義』には、〈道とは、人倫日用当に行くべきの路、教えを待って後有るにあらず〉とあります。
浅見絅斉(1652~1711)は、〈道ト云ヘバ、常行平易ノ行ヲ主トシテ、夫ノ孝弟忠信ノ筋ニ能合故也(『?録』)〉と述べています。常行平易ノ行という現実において、孝弟忠信という理想の道が語られています。
荻生徂徠(1666~1728)は『弁道』で、〈それ道は、先王の道なり〉と宣言し、〈孔子の道は、先王の道なり〉という現実を踏まえ、〈先王の道は、天下を安んずるの道なり〉と道の理想を語っています。
鈴木朖(1764~1837)は、〈凡テ、内外古今ノ道、皆ソノ道理ヲ以テ主トスル事ナガラ、ソノ道理ハ皆事実ノ中ニコモレリ。事実ヲ疎ニシテ、理ヲノミ好ム者ハ、其理必アヤマリアリ(『離屋学訓』)〉と述べています。理想としての道理が、事実としての現実に根付いていることの重要性が語られています。現実を無視した理想は誤りがあるからです。
柳宗悦(1889~1961)は、〈煮つまる所まで煮つまった時、ものの精髄に達するのである。それが型であり道である(『茶道を想う』)〉と述べています。現実において熟成したとき、道は理想の型を得るのです。
以上のように、日本では現実を基にして、理想の道が生成されているのです。日本における道では、現実を無視して理想が成り立つことはないのです。それが、日本の道の理想なのです。
第五節 道の現実
日本史を眺めてみると、現実としての道が語られてきたことが分かります。その営みは、道が現実に根付いていること、現実に適っていることとして綴られています。
道元(1200~1253)の『正法眼蔵』の[遍参]では、〈仏祖の大道は、究竟参徹なり〉とあります。仏祖の大道は、徹頭徹尾、高徳の賢者を訪ねて参学することに尽きるというのです。
林羅山(1583~1657)の『羅山先生文集』では、〈それ道は人倫を教ふのみ。倫理の外、何ぞ別に道あらんや〉と道の現実が語られています。道は、人と人との間柄や、共同体における人と人との関係にあり、その外にはないというのです。
『彝倫(イリン)抄』には、〈道はこれを日用彝倫(いりん)の外に求むることを待たず。これを舎(す)てて何ぞ他に求めんや。思はざるの甚しきなり〉とあります。
山鹿素行(1622~1685)の『山鹿語類』でも、〈今日日用の外に道あるべからず〉とあります。毎日使用するところにおいて道があるというのです。道を勝手な妄想で作ってはならないからです。
伊藤仁斉(1627~1705)の『童子問』では、「人」が「人倫」と「個人」という二つの意味で使われていますが、〈人の外に道無く、道の外に人無し。人を以て人の道を行う、何んの知り難く行い難きことか之れ有らん〉というとき、人が人倫の意味で使われ、道の現実である人倫が示されています。その現実は、人と人との間柄である人倫において、知ることと行うことを基にして語られています。特に〈俗の外に道無く、道の外俗無し〉という表現において、道が俗という現実に根差していることが示されています。
貝原益軒(1630~1714)は、〈博く学ぶの道は、見ると聞くとの二をつとむ(『大和俗訓』)〉と述べ、現実に見たり聴いたりすることに則して学びの道が提示されています。
大塩中斉(1793~1837)は、〈道の外に事無く、事の外に道無し。道理は只だ是れ眼前の道理(『洗心洞?記』)〉と述べ、道と事とは一体であることが語られています。
橋本左内(1834~1859)は、〈聖人の道と申も、畢竟人倫日用之外には之れ無く候得ば、物外之道にてはなし(『学制に関する意見?子』)〉と述べています。物外之道という言い方で、具体的な事物以外に道理はないと述べているのです。
このように、日本史における道の現実は、事実の上に備わっているものとして語られています。
ここで注意が必要なのは、道の現実は、単なる状況への安易な妥協ではないということです。文字通り、現(あらわ)れた実が、現実なのです。ですから実を現すための理想が必要になります。実が現れることのない現実など、何の意義もありません。理想は、現実における経験を積み重ねることによって、そもそも実を宿せる理想であるのかどうかを確認する必要があります。実を宿す可能性のない考えなど、理想ではなく妄想です。理想なき現実では、為していることが現状のやみくもな肯定か、むやみやたらな否定へと墜ちていきます。そうならないためには、理想を現実における経験によって確認する必要があるのです。
[図13-5] 理想の道の現実
日本史では、理想は現実の経験によって確認されるのです。
道元(1200~1253)の『正法眼蔵』の[全機]では、〈諸仏の大道、その究尽するところ、透脱なり、現成なり〉とあり、諸々の仏の大道を究め尽くしたところが、まったく透きとおって、眼前に隠れることなく、ありのまま現れることが語られています。究め尽くしていく現実において、大道の理想が透き通るように現れているか確認されるのです。
貝原益軒(1630~1714)の『大和俗訓』には、〈此の五倫の道は、仁義禮智信の五常の性にしたがひて、人倫にまじはる時に行ひ出せるなり。わが本性の外に求むる道にあらず〉とあります。理想としての仁義禮智信を、現実としての人倫に交わる時に適用することが述べられています。人々の交際において適合する仁義礼智信でなければならないのです。ですから、〈行ふべき道とするは五倫なり〉という確認が必要になるのです。
浅見絅斉(1652~1711)は、〈道ト理ト両ツナシ。道ハ日用ノ則ヨリ云、理ハ其道ノ道タル真実ヲ云ヘバ、理ニ非レバ道ニ非ズ、道ニ非レバ理ニ非(『?録』)〉と述べています。道は日用に則した理でなければならず、真実という理想の道は理であります。ですから、道たる真実は、日常生活の視点から現実の道である必要があるのです。
佐藤一斉(1772~1859)の『言志四録』の[言志耋録]では、〈義は宜なり。道義を以て本と為す。物に接するの義有り。時に臨むの義有り。常を守るの義有り。変に応ずるの義有り。之を統ぶる者は道義なり〉とあります。理想としての道義は、現実において事物に接し、時代に臨み、常識を守り、変化に対応する必要があるというのです。その過程で経験を積み重ねることで、義が宜しいことが確認されるのです。
大原幽学(1797~1858)は、〈道を能行はんと欲する者は、一理を能味ひ知るべし。数を見聞くは、唯一理を知る為めにすべし。見聞きたる事をもて行はんとすれば、見聞かざる事は行ひ難し(『微味幽玄考』)〉と述べています。道の現実における適用には、理を想うことが必要だとされています。なぜなら見聞きしたことだけにこだわれば、現実において見聞きしたことにしか対処できなくなるからです。見聞きしたこと以外にも対処するために、理を想うことが必要になるというのです。ですから、未経験の現実にも対処できれば、その理は本物だと確認できるのです。
以上のように、日本では理想を、現実の道における経験によって確認するのです。日本における道では、理想を無視して現実が為されることはないのです。現実に実践されたことが、単なる妥協や折衷ではなく、道理に基づいていなければならないのです。それが、日本の道の現実なのです。
第六節 日本の道
求道において、「時間-空間」という軸と、「理想-現実」という軸が示されました。その軸の交わりにおいて、求道の型が展開されています。求めるべき日本の道は、日本史の上に示されています。
道の時間における一貫性・持続性・連続性と、道の空間における限定性・限界性・特異性から、日本史(日本の歴史)という意識が芽生えます。その歴史では、現実から理想を生成し、理想を現実で確認するという循環により、理想と現実が共に修正されながら受け継がれていきます。理想も現実も、完全になることはありえませんが、その不完全さを認めながらも、試行錯誤していくしかないのです。そうした努力の中で、道は続いていくのです。
つまり、求道の型において、日本の道が立ち現れ、仄見えてくるのです。
[図13-6] 求道における日本の道
道を求める行為は、日本史をたどる営為に至ります。ですから、道を求める営為で、日本が意識できるのです。
日本史をたどる営為は、様々な仕方が考えられます。その中でも、言葉による営為は非常に重要です。日本史をたどる営為は、日本語で行われるからです。そのとき、言葉と道の関係が浮かび上がります。辞書上において、道(どう)は、〈言葉〉や〈言う〉という意味を持ちます。道という言葉は、言葉に関わるのです。例えば、道破とは、言い切ることです。唱道とは、ある思想や主張を人に先立って唱えることです。報道とは、告げ知らせることです。仏語における言語道断は、奥深い真理は言葉で表現できないことを言います。
道元(1200~1253)の『正法眼蔵』などでも、「道」は条理であるため、動詞では「いう」の意味になり、名詞では「ことば」の意味になります。ですから、[仏教]で〈諸仏の道現成、これ仏教なり〉とあるのは、諸々の仏のことばが実現したものが仏教だという意味になります。
荻生徂徠(1666~1728)は『答問書』において、〈言葉を巧にして人情をよくのべ候故、其力にて自然と心こなれ、道理もねれ、又道理の上ばかりにては見えがたき世の風儀國の風儀も心に移り、わが心をのづからに人情に行わたり〉と述べています。言葉をうまく使って人情を解したなら、自然と心に道理が宿り、世の中や国家の習慣や慣わしが自然と心の中で理解され、自分の心が自然と人情に行き着くというのです。ですから、〈聖人の道國の治めは、其國の風俗に従ひ候事ニ候〉と語られているのです。
本居宣長(1730~1801)は『排蘆小船』において、〈和歌は言辞の道也。心におもふことを、ほどよくいひつゞくる道也〉と述べています。〈てにをはと云ふもの、和歌の第一に重んずる所也〉とされ、〈吾邦の言語万国にすぐれて、明らかに詳らかなるは、てにはあるを以て也〉と語られています。道が言葉であり、何かを言うことであるなら、日本語で道を求める営為は、日本という国へと導かれていきます。『石上私淑言』には、〈殊に言の葉の道におきては、古語をむねとして考ふべき事なれば、古事記は又たぐひもなくめでたき書にて、此道にこゝろざゝむ人は、あけくれによみならふべき物也〉とあります。そこで、日本史における、日本の道が立ち現れて来るのです。
[図13-7] 日本語による日本の道
道を求めることにおいて、日本史における日本の道に出会います。日本国家における最初の歴史書である『日本書紀』には、「神道」の文字があり、また、その中の『十七条憲法』では「臣の道」があります。日本の神道、および、日本の臣の道が示されています。
最澄(767~822)の『山家学生式(天台法華宗年分学生式)』では、〈国宝とは何者ぞ。宝とは道心なり。道心あるの人を名づけて国宝となす〉とあり、国と道が結びつけられた上で、〈今、我が東州、ただ小像のみありて、未だ大類あらず。大道未だ弘まらず、大人興り難し〉と語られています。今の日本(我が東州)には、小乗の形だけで大乗の人が居ないと嘆いています。
栄西(1141~1215)は、〈日本国において、祖道すなはち大いに興ることを得んと欲す(『興禅護国論』)〉と述べて、日本に道を求めています。
日蓮(1222~1282)は『顕謗法抄』で、〈月支・尸那には外道あり、小乗あり。此日本には外道なし、小乗の者なし〉と語っています。インドは外道であり小乗で、日本は違うと述べています。また、『撰時抄』では、〈日蓮が法花経を信始しは、日本国には一H一微塵のごとし。法花経を二人、三人、十人、百千万億人唱え伝うるほどならば、妙覚の須弥山ともなり、大涅槃の大海ともなるべし。仏になる道は此よりほかに又もとむる事なかれ〉と述べています。日蓮一人が仏の教えを信じても、日本という国から見ればその力は脆弱です。しかし、仏の教えを唱える人の数が多くなれば、仏の道も大きくなると言うのです。仏になる道は、これより他に求めるべきではないと語られています。
北畠親房(1293~1354)の『神皇正統記』には、〈應?天皇ノ御代ヨリ儒書ヲヒロメラレ、聖徳太子ノ御代ヨリ、釈教ヲサカリニシ給シ、是皆権化ノ?聖ニマシマセバ、天照大?ノ御心ヲウケテ我國ノ道ヲヒロメフカクシ給ナルベシ〉とあります。日本の道が、受け継がれてきた神道、および受容されてきた儒道や仏道として示されています。
『八幡愚童訓』には、〈御託宣に「神吾正道を崇(あがめ)行はんと思ふは、国家安寧の故也」とある。誠にも悲法を旨とし正道を捨る時は、其国必滅亡する事なれば、邪をすて正に帰せよとなり〉とあります。正道は吾が神の国である国家の安寧のためであり、正道を捨てるなら国は滅びるとされています。
『大日本史本紀賛藪』では、〈天地の間、我が祖宗・君父より尊きは莫し。之を敬し之を愛するを道と謂ふ〉とあります。ご先祖様を敬い、愛することが、すなわち道なのだとされています。このような考え方は、当然ながら日本という国を読み手に意識させます。
熊沢蕃山(1619~1691)は、〈日本は神国なり。むかし礼儀いまだ備らざれ共、神明の徳威、厳獅ネり。いますがごとくの敬を存して、悪をなさず。神に詣でては、利欲も亡び邪術もおこらず。天道にも叶ひ、親にも孝あり、君にも忠あり(『集義和書』)〉と述べています。日本を偉大な国とする考え方が示されています。
賀茂真淵(1697~1769)は、〈我すべら御国の、古への道は、天地のまにまに丸く平らかにして(『国意考』)〉と述べています。天地のままに丸く平らであるという日本の古道について語られています。
本居宣長(1730~1801)の『鈴屋答問録』には、〈日神の道にてあれば、日本の道は何れの筋より云ても、神道と云べきこと也〉と示された上で、〈日本は日本の道、西土は西土の道、天竺は天竺の道〉と語られています。
原念斎(1774~1820)の『先哲叢談』では、山崎闇斉(1618~1682)について語られています。孔子と孟子が軍隊を率いて日本に攻めて来たらどうするかという問いに対し、闇斎が〈之れと一戦して孔孟を擒にし、以て国恩に報ず。此れ即ち孔孟の道なり〉と述べたというのです。道が、日本という国に対応するものであることが分かります。
山崎闇斎の弟子である浅見絅斉(1652~1711)の『浅見先生学談』では、日本に攻めてくるのが孔子と朱子になっていて、〈異国ノ人ノマネヲスル事、正道ヲ知ラザルガ故ナリ〉と語られています。
吉田松陰(1830~1859)の『講孟余話』では、〈経書を読むの第一義は、聖賢に阿ねらぬこと要なり。若し少しにても阿る所あれば、道明ならず、学ぶとも?なくして害あり。孔孟生國を離れて、他國に事へ給ふこと済まぬことなり〉とあります。歴史的な著作を読む上で重要なことは、そこに書かれていることに迎合しないことだと語られています。迎合しては道が明らかにならないからです。学んでも有益ではなく、有害となってしまうというのです。道が明らかにならなければ、生まれた国から離れ、他国へ仕えることになってしまいます。ここでは、道が、生まれ育った国のものとして論じられています。そのため、〈人と生れて人の道を知らず。臣と生れて臣の道を知らず。子と生れて子の道を知らず。士と生れて士の道を知らず。豈恥づべきの至りならずや。若し是を恥るの心あらば、書を読道を学ぶの外術あることなし〉と語られています。人はそれぞれ、道を歩むのです。道を知らないことは恥ずべきことだというのです。恥を知るならば、書を読み、道を学ぶべきだとされています。そして、〈國體の最も重きこと知るべし。然ども道は惣名也。故に大小?粗皆是を道と云。然れば國體も亦道也〉と語られているのです。ここにおいて、日本の国体が、道という名で呼ばれていることが分かります。
西郷隆盛(1828~1877)の『南洲翁遺訓』では、〈正道を踏み国を以て斃るるの精神無くば、外国交際は全かるべからず、彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に従順するときは、軽侮を招き、好親却って破れ、終に彼の制を受くるに至らん〉とあります。また、〈国事に及びし時、慨然として申されけるは、国の凌辱せらるるに当りては、縦令国を以て斃るるとも正道を践み、義を尽すは政府の本務なり〉ともあります。正道は、日本の国の誇りと関わるというのです。
橋本左内(1834~1859)の『書簡』には、〈実に尚武の風を忠実の心にて守り候はば、風俗もますます敦重に相成り、士道もますます興起仕り、国勢国体万邦に卓出仕るべく候事〉とあります。尚武の気風を忠義と実直の精神で守り伝えて行けば、風俗は情味篤く質朴になり、武士道も盛んに興り、日本国の勢いが優れたものになることが述べられています。
西田幾多郎(1870~1945)の『日本文化の問題』では、〈西洋文化を単に個人主義と云ってしまうのも無造作に過ぎると思うと共に、全体主義と云うのは往々ファッショやナチスに類するものの如くである。之に反し我国自身の立場に於て考えようとする人は皇道と云う〉とあります。日本の道が、皇道として示されています。
以上のように、道を求めるという求道において、「時間-空間」と「理想-現実」という交わりを経るならば、日本の道が現れてきます。求道の営為において、日本の道を辿り、「日本」に出会うのです。 
第十四章 道の思想型・修道 

 

前章までで、道の思想型における道筋と求道が示されました。その道筋に沿って、求道が行われ、修道も行われます。そこで本章では、道の思想型における「修道」を見ていきます。
第一節 道を修める
修道は、道を修めることです。道を修めるとは、道を身に付けるということです。道を身に付けるということは、道を学び、道を行い、道を歩むということです。
『正法眼蔵随聞記』には、〈学者、命を捨ると思て、暫く推し静めて、云べき事をも、修すべき事をも、道理に順ずるか、順ぜざるかと案じて、道理に順ぜば、いひもし、行じもすべき也〉とあります。道を学ぶ人は、命を捨てる覚悟で心を静め、道理に適っているか否かで、言うべきことを言い、行うべきことを行うというのです。修めるべき道は、道理に適っていることが必要だと語られています。
無住(1226~1312)の『沙石集』には、〈物の理を知ると、知るが如くなすとは、道異なり〉とあります。道理を知っていることと、知っている通りに為せるかは別のことだというのです。〈賢々しく道理を申し述べて、災ひを逃れたりけるこそ、賢く覚ゆれ〉とあるように、道理を実践に生かすことが重要なのです。
山鹿素行(1622~1685)の『山鹿語類』では、〈士の職分を知ると云とも、道に志す處あらざれば、知あつて行なければ全ならず也〉とあります。士の職分を知っていても、道に志すところがなければ、つまり、〈知あって行ないなし〉というのでは十全とはいえないというのです。
そこで問われるべきことは、どうすれば道を修められるのかということです。その方法は、日本史の上に示されています。鈴木重胤(1812~1863)は、〈学びて此道を明かに為るを神習と云ひ、務て此道を行ふを神随と云ふ。此即、天下公民の道と為べき道なる者なり(『世継草』)〉と述べています。ここには、自(おの)ずからの道(此道を明かに為る)と、自(みずか)らの道(務て此道を行ふ)が示されています。また、自(おの)ずからの道が、自(みずか)らの道と一致するとき、状況に応じた目的(天下公民の道)と手段(為べき道)が必要となります。目的と手段の関係を見極め、道を実践することが必要になるのです。
「おのずから」と「みずから」は、同じく「自ら」と表すことができます。「おのずから」為ったことが、「みずから」為したことと重なるのです。九鬼周造の『日本的性格』では、〈「みづから」の「身」も「おのづから」の「己」もともに自己としての自然である。自由と自然とが峻別されず、道徳の領野が生の地平と理念的に同一視されるのが日本の道徳の特色である〉と語られています。
「おのずから」と「みずから」の同一性のように、目的と手段の関係にも同一性を考えることができます。目的と手段の分断は、閉鎖的な条件下において、状況を簡略化することで可能になるに過ぎません。時代と呼ばれる流れにおいては、手段は次の目的へと繋がり、目的は次の手段へと繋がります。その連鎖において、目的でありながら手段でもあること、手段でありながら目的でもあることが、人生に現れてきます。その段階ではむしろ、人生として現れてくるといった方がよいかもしれません。
そのため日本における修道は、自(おの)ずからと自(みずか)ら、目的と手段の交わりにおいて、実践されるのです。
[図14-1] 修道の型
道を修めるという行為は、人生における営為です。日本史を省みれば、先人の人生における「自(おの)ずから-自(みずか)ら」という軸と、「目的-手段」という軸の交差が積み重なり、修道の型が示されるのです。
第二節 自(おの)ずからの道
まず、日本史における自(おの)ずからの道を見ていきます。
自(おの)ずからという古語は、「己(おの)つ柄(から)」の意であり、「そのままで」や「ひとりでに」、「無意識に」という意味の言葉です。現在でいう「自然」の意味を持ち、「偶然」や「万一」という意味も含まれています。自(おの)ずからには、自(みずか)らを超えた力が働いています。日本史における自(おの)ずからの道では、自(みずか)らを超えた力によって、道を自然と行えることが示されています。
『日本書紀』では、〈惟神は、神道に随ふを謂ふ。亦自づからに神道有るを謂ふ〉とあります。神道は自(おの)ずからにあるのです。その、自(おの)ずからの神道に随うのを惟(かん)神(ながら)というのです。
『源氏物語』には、〈道々に物の師あり、まねび所あらむは、事の深さ浅さは知らねど、おのづから移さむにあとありぬべし〉とあります。諸々の道にはそれぞれの師匠が居て、学ぶところの深さ浅さは別として、自(おの)ずから伝承された中で残ったものがあると語られています。
『正法眼蔵随聞記』には、〈学道の人も、はじめ道心なくとも、只強て道を好み学せば、終には真の道心も、をこるべきなり〉とあります。道を学ぶ人も、そのはじめから道を学ぼうとする心がまえがなくても、ひたすら道を求め学ぶように努力していれば、やがては本当の心構えができてくるものなのだと語られています。
無住(1226~1312)の『沙石集』には、〈後世の障りは、真実の道心あらば、今年も自(おのづか)ら嘆きあらじかし〉とあります。真の道心があるなら、来世の妨げを現世で心配することが自然となくなるというのです。
北畠親房(1293~1354)は、〈一種姓ノ中ニヲキテモヲノヅカラ傍ヨリ傳給シスラ猶正ニカヘル道アリテゾタモチマシマシケル(『神皇正統記』)〉と述べています。時として傍流になることがあっても、自(おの)ずから本流に戻る道があって、秩序が保たれ続いて行くのだと語られています。
宮本武蔵(1584~1645)の『五輪書』の[地之巻]では、〈道理を得ては道理をはなれ、兵法の道に、おのれと自由ありて、おのれと奇特を得、時にあひてはひやうしを知り、おのづから打ち、おのづからあたる、是みな空の道也〉とあります。また、[風之巻]では、〈おのづから武士の法の実の道に入り、うたがひなき心になす事、我兵法のをしへの道也〉とあります。兵法の道においても、自(おの)ずからの道が語られています。
伊藤仁斎(1627~1705)の『童子問』では、〈仁に居り義に由るときは、即ち坐禪せず面壁せずと雖ども、然れども身自(おのずか)ら修まり、家自(おのずか)ら齊(おさ)まり、國自(おのずか)ら治まり、天下自(おのずか)ら平かにして、往くとして可ならずということ無し。苟しくも仁に居り義に由らざるときは、則ち設(たと)い其の心、明鏡の如く、止水の如く、一毫人欲の私無くとも?無し。此れ聖人の道、諸子百家に度越して、宇宙の間獨り尊しと為る所以なり〉とあります。面壁とは、壁に向かって座禅することです。仁義においては、坐禅などしなくても、各々がおのずからうまく往くことができるのだと考えられています。仁義がないときは、無私であろうとも益はないとされています。それが聖人の道なのだと語られています。
同じく仁斎の『語孟字義』には、〈道はおのずから導くところ有り。徳は物を済(な)すところ有り〉とあります。
井原西鶴(1642~1693)の『日本道の巻(西鶴独吟百韻自註絵巻)』には、〈自然と広き道の道筋〉とあります。道を学ぶ道である儒学は、おのずと広いというのです。
内藤丈草(1662~1704)の『寝ころび草』には、〈人病を思ふ時に塵の心おのづからしりぞき、人死をおもふ時は道の念おのづからきざせり〉とあります。人が病気について考えるときには、俗な心が自然にしりぞくとされ、人が死について思うときは、道を願う心がおのずからきざすとされています。
石田梅岩(1685~1744)は、〈根本既立トキハ、其道自生(『都鄙問答』)〉とあります。根本が既に立っているなら、道は自(おの)ずから生まれるというのです。
五井蘭洲(1697~1762)は、〈義なる者は、天下の同じうする所にして、その為す所や義に当らば、何ぞおのづから一道ありと為さん(『駁太宰純赤穂四十六士論』)〉と述べています。義に適うことがなければ、自(おの)ずからの道はありえないとされています。逆に、義に適えば、そこに自(おの)ずから道が為されるとされています。
賀茂真淵(1697~1769)は、〈凡世の中は、あら山、荒野の有か、自ら道の出来るがごとく、ここも自ら、神代の道のひろごりて、おのづから、国につきたる道のさかえは、皇いよいよさかえまさんものを(『国意考』)〉と語っています。道路が自(おの)ずから出来るがごとく、神の道も自(おの)ずから栄え行くとされています。
本居宣長(1730~1801)は、〈然神代のまにまに大らかに治ろしめせば、おのづから神の道は足らひて、他に求むべきことなきを(『直毘霊』)〉と語っています。神代のように政治を行えば、自(おの)ずからに道は充足するというのです。
二宮尊徳(1787~1856)の『二宮翁夜話徳』では、〈翁曰、夫誠の道は、学ばずしておのづから知り、習はずしておのづから覚へ、書籍もなく記録もなく、師匠のなく、而して人々自得して忘れず、是ぞ誠の道の本体なる〉とあります。誠の道とは、自(おの)ずから覚えるものなのだとされています。
佐久間象山(1811~1864)は、〈ああ、人情に通じて人を服せしむるものは、自からその道のあるあり(『省?録』)〉と述べています。人情によって人を感服させるならば、そこに自(おの)ずからの道があるのだと語られています。
福沢諭吉(1835~1901)は、〈唯真実の武士は自から武士として独り自から武士道を守るのみ。故に今の独立の士人もその独立の法を昔年の武士の如くにして大なる過なかるべし(『福翁百話』)〉と述べています。武士ならば、独り自(おの)ずから武士道を守るのみで、それは今も昔も変わりないと述べています。
以上のように、日本史の上に自(おの)ずからの道が行われています。自(おの)ずからの道では、道の流れに身をおくことで、道を自(おの)ずから為すことができると考えられています。その自(おの)ずからの道においては、自(おの)らを超えた力が働いていると捉えられてきました。自(おの)ずからには、起原性・根拠性・根源性などが全体性として示されています。
第三節 自(みずか)らの道
次は、日本史における自(みずか)らの道を見ていきます。
自(みずか)らという古語は、「身づから」の意であり、「自分から」や「意識的に」という意味の言葉です。日本史における自(みずか)らの道では、ただ道を自分から学び行っていくことが説かれています。
道元(1200~1253)の『正法眼蔵』の[自証三昧]には、〈自己を体達し、他己を体達する、仏祖の大道なり〉とあり、自己を体得して他者をも体得するのが仏祖の大道だと述べられています。
『正法眼蔵随聞記』には、〈世情の見をすべて忘て、只、道理に任て、学道すべき也〉とあります。世間的な情量分別の考えをすべて忘れて、ただ道理が示すとおりに従って、道を学ばなくてはならないと語られています。
『十訓抄』には、〈なかにも年若き輩は、飢ゑをしのびて、道をまなび、寒さをしのびて、君に仕へつつ、家をおこし、身を立つるはかりことをすべきなれば、なにごとにつけても、かたがたものに耐へしのぶべきなり〉とあります。若者は飢えを忍んで道を学ぶべきだというのです。主君に仕え、家を起こし、身を立てるために堪えて行くべきことが語られています。また、〈道にあらざるたぐひ、能によりて、道にいたる徳もあれば、氏をつがむがため、道にいたらむがために、かれもこれも、ともにはげむべし〉とあります。芸の家に生まれずとも、才能によって道にいたるという徳があるというのです。そのため、家を継いて、道に至るために努力すべきことが語られています。
無住(1226~1312)の『沙石集』には、〈真実の道心あらん人は、徳を隠して失を慎みて、道行を細やかにすべし〉とあります。道心ある人は、咎を慎んで丁寧に道を行くべきことが語られています。
『御成敗式目(1232)』では、〈ただ道理の推すところ、心中の存知、傍輩を憚らず、権門を恐れず、詞を出すべきなり〉とあります。道理に基づいて、心の中にある知識を、仲間や権力に左右されずに言葉で発すべきだというのです。
抜隊得勝(1327~1387)は、〈ココロザシ深キ時ハ、文字ヲシル人ハ、シルトコロヲ道ノタヨリトシ、知ザル人ハシラザルヲ道ノタヨリトス。「道ハ知ニモ属セズ、不知ニモ属セズ」、只一切ヲ放下シテ、ヲノレニカヘリテ看守セヨ(『塩山和泥合水集』)〉と述べています。道は、己を顧みて見守るものだというのです。ですから自分の持っている能力によって、文字を知っているならそれを武器に、知らないなら知らないなりに道を行うべきだというのです。
一条兼良(1402~1481)は、〈道を道に行はんと思ふ(『文明一統記』)〉と述べています。
中江藤樹(1608~1648)は、〈太虚神明のほんたいをあきらめ、たてたる身をもつて人倫にまじわり万事に応ずるを、道をおこなふといふ(『翁問答』)〉と述べています。万事に応じることが、道を行うことだと考えられています。
熊沢蕃山(1619~1691)は、〈聖人の道は、五倫の人道なれば、天子・諸侯・卿丈夫・士・庶人の五等の人、学び給べき道なり(『集義和書』)〉と述べています。五倫の人道とは、父子の親・君臣の義・夫婦の別・兄弟の序・朋友の信のことです。五等の人とは、五階層の人ということです。聖人の道は、皆が、それぞれの立場で行うべき道なのだとされています。
山鹿素行(1622~1685)は、〈聖学は名の為ぞや。人たるの道を学ぶなり。聖教は何の為ぞや。人たるの道を教ふるなり。人学ばざれば則ち道を知らず(『聖教要録』)〉と語られています。学ぶことで道を知ることができるとされています。逆に、学ばなければ道は知ることができないのだと考えられています。
貝原益軒(1630~1714)は、〈道ヲ信ズル事篤ケレバ、之ヲ行ナヒ果ス。果ストハ行ナヒトグル也。之ヲ行ナヒ果セバ、之ヲ守リ固シトハ、道ヲ守ル事堅固ニシテ、失ナハザルナリ(『五常訓』)〉とあります。道を信じ、道を行い遂げ、道をしっかりと守って失わないようにすることが語られています。
山本常朝(1659~1719)は、〈武勇と小人は、我は日本一と大高慢にてなければならず。道を修行する今日の事は、知非便捨にしくはなし。ヶ様に二つに分て心得ねば埒明ず、と也(『葉隠』)〉と述べています。武勇にすぐれた人や若衆は、自分こそは日本一だという高慢な態度がなければならないと考えられています。それに加えて道を修めるためには、己れの非を知れば直ちにこれを捨てるという心得が必要だというのです。
松平定信(1759~1829)は、〈人の行ふべき、之を道と謂ひ、人の道に道(したが)ふ、之を政と謂ふ(『政語』)〉と述べています。人が行うべきを道と言い、人が道に従って行うのが政治なのだと語られています。
二宮尊徳(1787~1856)の『二宮翁夜話』では、〈夫自然の道は、万古廃れず、作為の道は怠れば廃る〉とあります。人の世における作為の道は、おこたれば廃れてしまうのだと考えられています。ですから道の実践は、絶えず行う必要があると語られているのです。
吉田松陰(1830~1859)は、〈人と生れて人の道を知らず。臣と生れて臣の道を知らず。子と生れて子の道を知らず。士と生れて士の道を知らず。豈恥づべきの至りならずや。若し是を恥るの心あらば、書を読道を学ぶの外術あることなし(『講孟余話』)〉と述べています。人でありながら、道を行わないのは、恥ずべきことだとされています。ですから、恥ずべき心があるのなら、自(みずか)ら道を学ぶべきだと語られているのです。
西郷隆盛(1828~1877)は、〈道は天地自然の道なるがゆえ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに、克己を以て終始せよ(『南洲翁遺訓』)〉と、天地自然と人の道が同じであることが語られています。己に打ち勝つことで、道を行うことが必要だと考えられています。
山岡鉄舟(1836~1888)は、〈善なると知りたる上は直に実行に顕はし来るを以て武士道とは申すなり(『剣禅話』)〉と述べています。武士道は、それが善であるなら直ちに実行するものだというのです。
以上のように、日本史の上に自(みずか)らの道が実践されています。自(みずか)らの道では、自分から道を学習・実践しようという意識が現れています。自(みずか)ら道を学び、自(みずか)ら道を行うのです。自(みずか)らの「み」は「身」であり、それは心と繋がります。この心が、この身をして為していくのです。自(みずか)らには、唯一性・尊貴性・有限性などが個別性として示されています。
第四節 目的としての道
道には、目的という意味が有ります。
辞典には、「道(みち)」に対して、〈人の進むあり方。人の行為・生き方について規範とすべき筋〉とあります。具体的には、〈そのものの分、または定めとして、よりしたがわねばならぬ筋。また、物事が必然的に成り行く筋、ことわり。道理。条理〉や〈神仏、聖賢などが示した道。神仏、聖賢の教え。教義。教理〉、あるいは〈特に、専門の方面。専門的な方法。学問、芸能、武術、技術などの専門の分野。中世以後、単なる技芸としてでなく、人間としての修行を目的として道という場合がある〉などがあります。「道(どう)」に対しては、〈人の守るべき正しいすじみち。修行のみち。さとり〉が挙げられています。
このように、道は目的となります。そのとき次図のように、目的としての道に対し、自分はそこへ向かって行くという構図を考えることができます。
[図14-2] 目的の道
「到達すべき道は遥かに遠い」という文章は「到達すべき目的は遥かに遠い」と言い換えられ、「立身出世の道を立てる」という文章は「立身出世の目的を立てる」となるように、道を目的に置き換えることが可能です。
このように、日本の道は、目的となるのです。
第五節 手段としての道
道には、手段という意味も有ります。
辞典には、「道(みち)」に対して、〈事をなすにあたってとるべきてだて。手段。方法。やり方。特に、正当な方法〉とあります。「道(どう)」に対しては、〈方法。やり方。手段。技芸。学問〉とあります。
このように、道は手段となります。そのとき次図のように、手段としての道に対し、自分がそれに沿って歩み進んで行くという構図を考えることができます。
[図14-3] 手段の道
「まだいくつもの道が残されている」という文章は「まだいくつもの手段が残されている」と変換でき、「成功するための有効な道を考える」という文章は「成功するための有効な手段を考える」と言い換えられるように、道を手段に置き換えることが可能です。
このように、日本の道は、手段となるのです。
第六節 我が道
修道において、「自(おの)ずから-自(みずか)ら」という軸と、「目的-手段」という軸が示されました。その軸の交わりにおいて、修道の型が展開されています。修めるべき日本の道は、日本史における先人たちの営みの上に示されています。
道を修める行為は、自分を見つめる営為です。自(おの)ずからの道における起原性・根拠性・根源性などの全体性と、自(みずか)らの道における唯一性・尊貴性・有限性などの個別性から、その繋がりとして自分自身が意識できます。
以前に、日本では心と道が結びつけていることを示しました。そこでさらに、自(おの)ずからと自(みずか)らの関係を重ねてみることができます。道から人へと向かうとき、自(おの)ずから導かれ、心から道へと向かうとき、自(みずか)ら志すのです。
[図14-4] 自ら志し自ずから導かれる
この関係から自分の心は、自(みずか)ら志すと同時に自(おの)ずから導かれることで、いくつかの選択肢の中からある決断を行っていることが分かります。このとき、自(みずか)らというときは意志的であり、自(おの)ずからというときは無意識的という傾向性が見られます。
[図14-5] 意識的な自らと無意識的な自ずから
道において、感じられて、思われて、考えられて、行われるのです。そこでは同時に、感じて、思って、考えて、行うのです。その過程において、様々な状況に直面します。その状況において、自分がどうするかを判断するために、目的と手段の考察が必要になります。
道は、目的であると同時に、手段でもあります。目的と手段を峻別することは、非常に有効な方法です。ですが、それはきわめて限定された状況下で、任意の制約をおいたときのみ可能なことなのです。複雑で曖昧な世界の中では、手段と目的は分かち難く結び付いています。ある状況では目的だったことが、別の状況では手段となることがありえます。逆に、手段だったことが目的となることもありえます。特に時系列を考慮する際には、目的と手段の相互連関は複雑に絡み合います。目的は手段を要求し、手段は目的を要求します。その相互連関において、道を修めるための具(そな)えとして、道具が必要になります。
[図14-6] 目的と道具と手段
道具によって、目的と手段の関わりに対処することができるのです。その道具の選び方や用い方には基準が必要です。その基準は、道以外にありえません。手段でありながら同時に目的でもあるような、偉大な何らかの基準として、道という言葉が使われる場合があるのです。このとき、その基準をもたらし、その基準を活かすべきものとして、人生という意識が芽生えます。 
つまり、修道の型において、我が道が立ち現れてくるのです。
[図14-7] 修道における我が道
道を修める行為は、道を学び、道を行う営為に示されています。道を修める営為は自分自身に関わることですから、我が道が意識されるのです。日本史において、先人たちが、どのように我が道を実践したのかを見ていきます。
『正法眼蔵随聞記』には、〈他のそしりに[とり]あはず、他のうらみに[とり]あはず、いかでか我が道を行ぜん〉とあります。他人のそしりや恨みを取り合わず、何とかして我が道を行きたいものだと語られています。
島津忠良(1492~1568)の『日新公いろは歌』には、〈いにしへの道を聞きても唱えへても、わが行いにせずば甲斐なし〉とあります。
宮本武蔵(1584~1645)は、〈其道にあらざるといふとも、道を広くしれば、物毎に出であふ事也。いづれも人間において、我道我道をよくみがく事肝要也(『五輪書』)〉と述べています。ここでは、道が自分の道として、「我道」として捉えられています。その我が道は、他の道と相通じるものとして捉えられています。
貝原益軒(1630~1714)は、〈人つねにわが身をかへりみて、わが身に道を求むべし(『大和俗訓』)〉と述べています。「我が身の道」では、常に自分自身を振り返ることが必要だとされています。
山本常朝(1659~1719)は、〈何しに劣るべきと思ひて一度打向ば、最早其道に入たるなり(『葉隠』)〉と述べています。何にも負けない心積もりで挑めば、すでに自分はその道に入っているというのです。
吉田松陰(1830~1859)は、〈然れども汝は汝たり、我は我たり。人こそ如何とも謂へ。吾願くは諸君と志を勵まし、士道を講究し、恆心を?磨し、其武道武義をして武門武士の名に負くことなからしめば、滅死すと雖ども萬々遺憾あることなし。豈愉快の甚しきに非ずや(『講孟余話』)〉と述べています。汝は汝であり、我は我なのだと語られています。
西郷隆盛(1828~1877)の『南洲翁遺訓』では、〈道を行うものは、固より困厄に逢うものなれば、如何なる艱難の地に立つとも、事の成否身の死生などに、少しも関係せぬものなり〉とあります。そこでは、〈人は道を行うものゆえ、道を踏むには上手下手もなく、出来ざる人もなし〉と語られています。また、〈道を行い道を楽しむべし〉とも語られています。人は、道を行うものだとされています。ですから、道を歩むことが出来ない人はいないと考えられています。そこにおいて、自分が道を楽しめるかどうかが問われています。
橋本左内(1834~1859)の『啓発録』には、〈後世必ず吾が心を知り、吾が志を憐み、吾が道を信ずる者あらんか〉とあります。
以上のように、道を修めるという修道において、「自(おの)ずから-自(みずか)ら」と「目的-手段」という交わりを経るならば、我が道が立ち上がります。『家康公遺訓』には、〈人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし〉とあります。修道の営為において、先人たちの人生を辿り、自分の人生を意識し、我が道を行うのです。 
第十五章 道の思想型・道義 

 

前章までで、道の思想型における道筋および求道と修道が示されました。日本の道の思想では、道筋に沿って、求道と修道が両義的に行われます。そこにおいて、日本の道と我が道が重なり合うことで、道義が芽生えます。そこで本章では、道の思想型における「道義」を見ていきます。
第一節 道の義(ただ)しさ
道義とは、道の義(ただ)しさのことです。道の義(ただ)しさには、道を求め、道を修めることで近づくことができます。
第一項 日本の我
日本の道の思想においては、道筋に沿って、求道と修道が互いに共鳴し合っています。そこに、次のような求道と修道の関係を考えることができます。
[図15-1] 求道と修道の関係
求道の型と修道の型は、密接に結びついています。
「道の理想」は「目的としての道」と結びつき、「道の現実」は「手段としての道」と結びつきます。「道の時間」は「自(おの)ずからの道」と結びつき、「道の空間」は「自(みずか)らの道」と結びつきます。そして、それぞれの結びつきの中心軸として、「求道」と「修道」が結びつきます。
求めた理想の道は、それぞれの状況における目的としての道を指し示します。道の現実を求めることで、手段としての道の選択肢が広がります。道の時間を意識することで、歴史の積み重ねによって生まれた自(おの)ずからの道が現れてきます。道の空間を意識することで、その状況における条件が理解できるようになるため、自(みずか)らの道として行うべきことが仄見えてきます。そして、求道によって日本の道が現れ、修道によって我が道に至り、求道と修道が出会うことで、日本と我の重なる場所へとたどり着きます。
[図15-2] 日本と我
日本に道を求め、我が道を修めることにおいて、道は、友の道に至ります。
『南方録』には、〈自他の差別なく、道に於て只親切なりければ、交る人いづれむつまじからぬはなかりしなり〉とあります。道において親切を心掛ければ、人と睦まじく交わることができるのです。
『百姓分量記』には、〈唯得がたきは善師・心友也。是を得るに道あり。道を聞て過を改行(は)んと思ふ時は、世界皆師也、友也〉とあります。
橋本左内(1834~1859)の『啓発録』には、〈吾が身を厳重に致し付合ひ候て、必ず狎昵致し吾が道を褻さぬやうにして、何とか工夫を凝して、その者を正道に導き、武道学問の筋に勧め込み候事、友道なれ〉とあります。吾が道をけがすことのないように工夫することで、正しき友の道へと繋がるというのです。友の道は、日本における友の道であり、日本を通した友の道でもあります。つまり、国内の友および国外の友の両方にかかります。
そして友の道は、仁や愛と呼ばれるものへと至ります。
第二項 仁と愛
日本の道の思想では、道筋に沿って求道と修道がともに関連し合いながら、我と日本が出会うことで、仁や愛と呼ばれるものが芽生えます。
『十七条憲法』の[六条]には、〈君に忠なく、民(たみ)に仁(じん)なし。これ大乱の本(もと)なり〉とあります。
道元(1200?1253)の『正法眼蔵』の[菩提薩埵四摂法]には、〈愛語といふは、衆生をみるにまづ慈愛の心をおこし、顧愛の言語をほどこすなり〉とあります。愛の言葉は、衆生を慈しむ愛の心によってなされることが示されています。また、〈愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり〉とあり、愛の言葉は愛の心よりおこり、愛の心は慈しみの心を種子としてなると語られています。
黒田長政(1568~1623)の『黒田長政遺言』には、〈凡国主ハ常ニ仁愛ニシテ讒ヲ信ゼズ、善ヲ行フヲ以務トスベシ〉とあります。仁愛が必要とされています。
藤原惺窩(1561~1619)の『寸鉄録』には、〈仁者は、その愛する所を以て、その愛せざる所に及ぼし、不仁者は、その愛せざる所を以て、その愛する所に及ぼす〉とあります。
山崎闇斎(1618~1682)の『仁説問答師説』には、〈私ヲ克去レバ、未発本然忍ビザル心ガ、親ヲ愛スル心トナリ、君ヲイトヲシム心トナルユヘ、公ガ仁ニ近ヒト仰ラルル〉とあります。愛することや愛おしむことで、仁に近づくというのです。
山鹿素行(1622~1685)の『聖教要録』には、〈仁は人の人たる所以、己れに克ちて礼に復るなり。天地、元を以て行なはれ、天下、仁を以て立つ〉とあります。
伊藤仁斎(1627~1705)の『童子問』には、〈仁の徳為る大なり。然れども一言以て之を蔽う。曰く、愛のみ〉とあります。また、〈仁は愛を主として、徳は人を愛するより大なるは莫し〉ともあります。『古学先生文集』には、〈仁者は愛をもって心とす〉とあります。
貝原益軒(1630~1714)の『大疑録』には、〈「天下仁に帰す」とは、ただ公なれば、己私の間隔なく、天下広濶なりといへども、愛せざる所なきを言ふなり〉とあります。
荻生徂徠(1666~1728)の『弁道』には、〈礼楽刑政は、先王これを以て天下を安んずるの道を尽くせり。これいはゆる仁なり〉とあり、〈仁なる者は、人に長となり民を安んずるの徳を謂ふなり〉とあります。
伊藤東涯(1670~1736)の『古今学変』には、〈道とは何ぞ。仁是れなり〉とあります。
徳川宗春(1696~1764)の『温知政要』には、〈古より、国を治め民を安んずるの道は、仁に止る事也とぞ〉とあります。善の極致に止って他に移らない状態が大事だというのです。
山片蟠桃(1748~1821)の『夢ノ代』には、〈仁ハ人ナリ。天下ノ知ヲ大成シタルハ、人情ヲツクシタルナリ。天下ノ人情ヲアツメツクス、コレコレヲ仁ト云〉とあります。
海保青陵(1755~1817)の『稽古談』には、〈自国ノ土ヨリ物ノ生ズルコト多クナルハ、王道ニテ仁ノ株シキ也〉とあり、〈仁トハ人ノ天地ノ理ニ合ヒタル人ノコト也〉とあります。
『大日本史本紀賛藪』には、〈仁徳は百姓の心を以て心と為し、一も其の所を得ざること有れば、己れ推して諸を溝壑に納るるが若し〉とあります。つまり仁の徳は、百姓と心を同じくできなければ、自分が相手を谷間に突き落としかのように心を痛めるほどだというのです。
『百姓分量記』には、〈仁は道の根本なれば、忠孝・慈恵・温和・謙譲・悉く籠れり〉とあります。
日本と我が重なり、日本の我となったとき、仁が、仁愛が芽生えます。仁や愛は、人々の間において、つまり人間において問題となります。
[図15-3] 人間における仁愛
第三項 仁義
仁は義へと向かい、仁義となります。仁義を伴わない我が道は、欲望に堕ちて日本の道を害します。仁義を伴う我が道は、信念を持って日本の道を護持します。
夢窓疎石(1275~1351)の『夢中問答集』には、〈仁義の道を学びて、物を殺さず理を曲げずは、これ又正直の人なり〉とあります。日本と我が重なることで、我は友と出会い、仁が芽生え、そして、義へと向かうのです。
中巌円月(1300~1375)の『中正子』には、〈聖人の道は大なり。仁義なるのみ〉とあり、〈仁義の道は、世を治むるの大本なり〉とあります。
中江藤樹(1608~1648)の『翁問答』には、〈文は仁道の異名、武は義道の異名なり。仁と義はおなじく人性の一徳なるによつて、文武もおなじく一徳にして各別なるものにあらず。仁義の徳をよくさとりて、文武のさたをあきらむべし〉とあります。
伊藤仁斎(1627~1705)の『語孟字義』には、〈仁義相行なわるる、これを人道と謂う〉とあります。〈道とは、天下の公共にして、一人の私情にあらず。故に天下のために残を除く、これを仁と謂う。天下のために賊を去る、これを義と謂う〉ともあります。『古学先生文集』には、〈すなわち愛その愛するところにあらずして、かえって愛せざるところ有ることを免れず。故に真仁は必ず義有り、真義は必ず仁有り〉とあります。
貝原益軒(1630~1714)の『五常訓』には、〈五常ノ和訓、仁ハイツクシミ、義ハヨロシ、礼ハウヤマフ、智ハサトル、信ハマコトトヨム〉とあります。和訓とは、日本よみのことです。また、〈利ハ仁義ノウラ也〉とあります。
『大日本史本紀賛藪』には、〈忠臣・義士に、生を舎って義を取り、身を殺して仁を成す者有り〉とあります。
横井小楠(1809~1869)の『夷虜応接大意』には、〈我国の万国に勝れ世界にて君子国とも称せらるるは、天地の心を体し仁義を重んずるを以て也〉とあります。
徳竜(?~?)の『僧分教誡三罪録』には、〈戒律ノ作法ヲモテ、悪ヲ制シタマハズ、タヾ王法仁義ノ道ニ順ジテ、此世ヲスゴセヨト教ヘタマフガ、浄土真宗ノ掟ナリ〉とあります。
道筋が求道と修道を経ることで、日本と我が出会い、日本の我において仁愛が芽生えます。仁は義へと向かいますから、道は道義に近づくことができるのです。
[図15-4] 道義へ至る仁義
第二節 道への帰還
道が仁において道義を得たとき、その道は、正しい道だということができます。
しかし、それは難しいことです。とても難しいことです。なぜなら、求道と修道の間には葛藤や齟齬があるからです。
[図15-5] 道における葛藤と齟齬
現実と理想、目的と手段には葛藤があります。理想と目的、現実と手段にも葛藤があります。空間意識と時間意識、おのずから得られるものとみずから得るものには齟齬があります。時間意識とおのずから得られるもの、空間意識とみずから得られるものにも齟齬があります。
これらの葛藤や齟齬は、試行錯誤を通じて調整して調和させる必要があります。そのためには、堅実であることが重要です。貝原益軒(1630~1714)は、〈卑近に始まつて高遠に終るは、実に従ふなり。蓋し遠きに行くは、必ず邇きよりし、高きに登るは、必ず卑きよりするが如し。これ序に循ひて道に漸進するなり(『大疑録』)〉と述べています。卑近から始めて高遠に達するのは、堅実な方法だというのです。思うに遠くに行くには身近から踏み出し、高山に登るには低地から踏み出すように、順序どおりに一歩一歩進むことが大切だとされています。そうしなければ、葛藤や齟齬が次第に大きくなり、正しい道から離れて行くからです。ある分度を超えると道から外れ、外道に墜ちてしまう場合もあります。
そのときには、試行錯誤を通じて正しい道へ帰還する必要があります。帰還とは、一般的には故郷へ帰ることを意味します。ここでいう道への帰還は、精神の故郷へ帰り着くことです。歩んでいる今現在が、正しい道から隔たってしまったとき、道理と道徳によって正しい道へと帰り着くことをいうのです。
北畠親房(1293~1354)の『神皇正統記』には、〈唯我國ノミ天地ヒラケシ初ヨリ今ノ世ノ今日ニ至マデ、日嗣ヲウケ給コトヨコシマナラズ。一種姓ノ中ニヲキテモヲノヅカラ傍ヨリ傳給シスラ猶正ニカヘル道アリテゾタモチマシマシケル〉とあります。日本の始まりから今にいたるまで、天照大神の神意を受けて皇位の継承は正しいというのです。時として傍流になっても、おのずからに本流に戻る道が保たれ続くのだと語られています。
正しい道から外れないために、正しい道に居続けるために、たとえ正しい道から外れたとしても再び帰還できるために、いずれの場合にも道理と道徳が必要です。道理と道徳は、神道・仏道・儒道などのそれぞれの道が、道筋・求道・修道という型を経て、仁と愛によって道義へ向かうことでもたらされます。道徳を用いて、道理に適うように道を正しく行うという当たり前の話です。
第一項 道理
道理は、道の思想に現れる理(ことわり)です。正しい道に至るために、または正しい道へ帰還するために、道理が必要になります。
『正法眼蔵随聞記』には、〈只、時にのぞみて、ともかくも、道理にかなふやうに、はからふべき也〉とあります。その時々に応じて、道理に適うようにすべきことが語られています。
慈円(1155~1225)の『愚管抄』では、〈道理ニヨリテ先例ノサハサハトミユルト、コレヲ一々ニヲボシメシアハセテ、道理ヲダニモコ丶ロヘトヲサセ給ヒナバメデタカルベキ也〉とあります。つまり、道理によって先例を理解し、それを事に当たって考え合わせ、道理を理解し、その筋を通せば、たいへん立派な世となるであろうというのです。ここから分かることは、過去からもたらされる権威により、不確かな未来に対処する、それが道理の重要な役割の一つだということです。
道理物語とも称される『愚管抄』には、他にも様々な道理が語られています。例えば、それぞれの場合や状況における道理があります。それらを基礎づける道理があります。世の移り変わりにより変化する道理があり、その変化の基準となるさらに高次元の道理もあります。世の中は移り変わり、状況や状態が遷移しますから、道理もそれに伴い多様に現れるのです。
無住(1226~1312)の『沙石集』にも、〈人は物の道理を知り、正直なるべき物なり。失を犯しても、物の道理を知りて我がひが事と思ひて、正直に失を顕はし恐れ慎めば、その失許さるるなり〉とあり、道理が語られています。人は物の道理をわきまえた上で、正直であるべきだとされています。
私たちは道理によって、道の正しさにいるのか、それとも道の正しさから外れているのかが分かるのです。
第二項 道徳
道徳は、道の思想に現れる徳です。正しい道に至るために、また正しい道へ帰還するために、道徳が必要になります。
『十訓抄』には、〈道徳あるを天子といひ、道徳なきを少人とす ともいひたれば、たとひ国の主なりとも、その心愚かならば、この名をはなれ給ふべからず〉とあります。道徳ある人が天子で、道徳のない人が少人ならば、たとえ一国の王であっても愚かなら少人であるというのです。
北畠親房(1293~1354)の『神皇正統記』には、三種の神器について記されています。三種の神器とは、歴代天皇が皇位の印として受け継いだ三つの宝物のことです。八咫(やたの)鏡(かがみ)と八尺瓊(やさかにの)勾玉(まがたま) と天(あまの)叢(むら)雲(くもの)剣(つるぎ)の三つです。天叢雲剣は、草薙(くさなぎの)剣(つるぎ)という名で呼ばれることもあります。この三種の神器について、〈此三種ニツキタル?勅ハ正ク國ヲタモチマスベキ道ナルベシ。鏡ハ一物ヲタクハヘズ。私ノ心ナクシテ、萬象ヲテラスニ是非善悪ノスガタアラハレズト云コトナシ。其スガタニシタガヒテ感應スルヲ徳トス。コレ正直ノ本源ナリ。玉ハ柔和善順ヲ徳トス。慈悲ノ本源也。劍ハ剛利決断ヲ徳トス。智恵ノ本源也。此三徳ヲ翕(アハセ)受ズシテハ、天下ノヲサマランコトマコトニカタカルベシ〉と記述されています。鏡が正直に、玉が慈悲に、剣が智恵に対応しています。正直・慈悲・智恵という三徳が示されているのです。
林羅山(1583~1657)の『神道伝授』では、〈此三ノ内証ハ鏡ハ智也、玉ハ仁、剣ハ勇、智仁勇ノ徳ヲ一心ニタモツ義也。心ニ有テハ智仁勇也〉とあります。ここでは鏡と玉と剣の三種の神器を、智仁勇の三徳を象徴したものと見ています。
熊沢蕃山(1619~1691)は、〈知・仁・勇は心の一徳也(『集義和書』)〉と述べています。
伊藤仁斎(1627~1705)は、〈徳とは仁義礼智の総名(『語孟字義』)〉と述べています。
荻生徂徠(1666~1728)は、〈聖人の徳は、その大なる者を挙ぐれば、仁・智これを尽くせり。しかるにまた勇を挙げて以てこれを参にする者は、君子は武備なかるべからざるを以てなり(『弁名』)〉と述べています。
このように、徳には「正直・慈悲・智恵」や、「智仁勇」、「仁義礼智」などの道徳を挙げることができます。これらの道徳により、道が正しさから外れて傍流に逸れたとしても、正しさの本流に戻ることができるのです。また、本流に居続けることもできるのです。
第三項 終わりなき道
道の思想では、道筋を立て、求道と修道を行い、そこに道理と道徳があることで、道義に近づくことができます。そこでは、日本の道と我が道が重なり、仁や愛が育まれます。
以上から、道の型の全体像が次図のように出揃います。
[図15-6] 道の型の全体
図の中央の道には、仁と愛が備わっています。
道の思想では、あらゆる状況において、この型が適用されます。道は、道筋・求道・修道・道理・道徳・道義の間において、平衡・均衡・調和を取り続けます。
このとき注意が必要なのは、時代によって状況や条件は移り変わりますから、道に終わりはないということです。平衡・均衡・調和が取れていれば仁や愛があると言えますが、それらはいつまでも続けていく必要があるのです。
道に終わりがないということは、慈円(1155~1225)の『愚管抄』で〈サダメナキ道理〉が語られ、親鸞(1173~1262)が〈道に登るにこれ極(きはま)りなし(『教行信証』)〉と述べていることからも分かります。
『正法眼蔵随聞記』では、〈道は無窮なり。さとりても、猶行道すべし〉とあります。道は極まることがなく、たとえ悟ったとしても、なお修行しなくてはならないとされています。
熊沢蕃山(1619~1691)は『集義外書』において、〈時・所・位に応ずるとは、日をかさねて熟し、時に当て変通すべし〉と述べ、〈時處位の至善に叶はざれば道にはあらず〉と語っています。時所位は、時とともに移り変わり、道はその刻々でそれに対応する必要があると言うのです。ですから、道はいつまでも続いて行くのです。
伊藤仁斎(1627~1705)の『童子問』には、〈己が性は限り有って、天下の道は窮まり無し〉とあります。
山本常朝(1659~1719)は、〈修行に於ては、是迄、成就といふ事はなし。成就といふ所、其まま道に背なり。一生の間、不足ふそくとおもひて、思ひ死する所、跡より見て成就の人也(『葉隠』)〉と述べています。道は、死ぬまで成就することがないのだと語られています。
富永仲基(1715~1746)は『翁の文』で、〈誠の道〉を〈唯物ごとそのあたりまへをつとめ〉るものとして述べています。つまり、〈只今日の人の上にて、かくすれば、人もこれを悦び、己もこゝろよく、始終さはる所なふ、よくおさまりゆき〉とされる、〈人のあたりまへより出来たる事〉が語られているのです。その当たり前のことにより、誠の道が可能になるとされています。時代ごとに状況や条件が異なりますから、単なる過去の模倣ではうまくいきません。この時代の状況や条件を考慮した、今日の人の上における誠の道が必要だというのです。
佐藤一斉(1772~1859)は、〈道は固より窮り無く、堯舜の上善も尽くること無し(『言志四録・言志後録』)〉と述べています。道は、極まり尽くせるようなものではないというのです。
山岡鉄舟(1836~1888)は、〈武士道は、本来心を元として形に発動するものなれば、形は時に従ひ事に応じて変化遷転極りなきものなり(『剣禅話』)〉と述べています。武士道は、その時々の状況に応じるため、極まることがないというのです。
このように、先人たちが述べているように、道に終わりはないのです。
第三節 正しい道
道の型では、道筋を立て、道を求め、道を修め、道徳を用いて、道理に適うように、正しい道へ向かいます。そこにおいて、道は、義に近づきます。
[図15-7] 道の調和
道は筋に沿って、正しい道となります。そこでは道筋の型で示したように、「経?権」の関係と「活?統」の関係と「文?武」の関係において、程々・中道・中庸となることが必要なのです。道の中(なか)で、程々にことに中(あた)るのです。その道は、求・修・理・徳による平衡・均衡・調和であり、終わりなき道です。
これが、正しい道なのです。仁と愛が備わった道なのです。正しい道を示すことで、正しくない道、間違った道も考えることができます。
第一項 外道
正しい道を歩むことは、非常に難しいことです。道を行くとき、往々にして仁や義を見失い、道から離れていきます。それが度を越すと、道を外れます。つまり、外道に墜ちます。
仏語での外道は、仏教の信者からみて仏教以外の教えや、仏教者以外の者を指しますが、ここでいう外道は仏語の意味に限定しません。諸々の道において、道が調和の状態から外れることを外道と呼ぶことにします。
[図15-8] 外道
第二項 邪道
次は、邪道について述べます。
邪道は、正当でないこと、本来あるべきではないこと、本筋から外れていることを言います。邪道は道の型に関わることがあるとはいえ、筋・求・修・理・徳・義の均衡や平衡を顧みず、仁や愛という調和を保てない道のことです。ですが邪道は、道の正しさと触れることもあるため、一種の魅力を持つことがあります。
[図15-9] 邪道
第三項 非道
次は、非道です。
非道とは、残酷で惨(むご)いことを言います。非道は、常識では考えられないようなひどいことを意味しているため、道の型など慮ることなく、自分勝手に進んでいきます。その進んでいく先が、正しい道と交わることはありません。ですから、非道は残酷で惨(むご)いのです。
[図15-10] 非道
第四項 無道
次は、無道です。
無道とは、道が無いことです。そのため無道は、道の型の背いた、ある固定化された考えによって定義されます。一種の原理主義のことです。無道は、正しい道ではないところに、つまりは道から離れたところで考えを固定し、それを押し通します。それゆえ、融通が利かず、世の中との軋轢を高め、崩壊するまで突き進みます。
[図15-11] 無道
第五項 義へ至る道
正しい道と比較したとき、外道・邪道・非道・無道は、間違った道だと分かります。道の型における調和から、逸脱しているからです。
道の型において義に近づき、道が道筋・求道・修道・道理・道徳の間で平衡・均衡・調和の状態を保って仁と愛を備えているならば、それで十分正しい道だと言えるでしょう。ただし、日本史には、その先が既に語られています。『盤珪禅師語録』には、〈侍は常に義理を第一といたし、一言にても相違あればとがめ、間のぬからぬ所が、侍の道でござる〉とあります。義に近づくだけではなく、義に達するという先があるのです。
[図15-12] 義へ達する道
その先については、山本常朝(1659~1719)が『葉隠』で詳しく述べています。〈中道は物の至極なれども、武篇は平生にも人に乗越したる者にてなくば、成まじく候〉とあります。中道は過不足のないことですが、武においては人を乗り越えて先へと進む者でなければならないとされています。そのため、中道を乗り越えるという境地が述べられているのです。そこでは、〈理を付て不義を行ふは、重々の悪事也。理を付ては道は立たざる也〉と語られています。理屈をこねくり回して不義を行うのは、悪しき事だというのです。理屈をこねくり回すようでは、道は立たないと考えられています。なぜなら、〈我人(われひと)、生る方がすき也。多分すきの方に理が付べし。若(もし)図に迦(はず)れて生たらば、腰ぬけ也。此境危き也。図に迦れて死たらば、気違にて恥には成らず。是が武道の丈夫也〉というわけです。誰でも死ぬよりも生きることの方が好きなため、生きる方に理を付けてしまうというのです。立派な振舞い方から外れて生き残るなら、腰抜けです。理を付けるという、この考え方は危ういものだというのです。立派な振舞い方から外れても、死ぬ方を選ぶなら、気違いかもしれませんが、恥とはならないとされています。これが武道の堅固なありようだというのです。
正しい道において、道は義に近づきます。その正しい道で調和を保つためには、理や徳が必要です。しかし、極限状況において、下手な理屈が義へ向かうことを妨げ、不義を招いてしまう場合があるのです。いざというときには、理屈を付けず、気違いとなることが必要となる場合があるのです。その極限の場所は、武士道において示されています。武士道において、過不足のない状態をさらに上回ることで示される、義へと達する道がありえるのです。そこでは、小賢しい理を投げ捨てることによって、より高い道理が仄見えて来るのです。
第四節 武士道の式
道の思想型における道義は、複雑で困難な秩序の上に成り立ちます。その道義が、どのような場所にあるか、それは武士道によって示されています。武士道における武士の規範は、武士道の式によって、すでに用意されています。その式は、道義が、他の言葉とどのような関係にあるのかを示しています。武士道の式で示される言葉の優劣を、武士の道をたどることで明らかにしていきます。
まずは、武士が名誉を重んじるというのは、広く認められる事実です。
『万葉集』において既に、名誉の尊重が高らかに詠い上げられています。[巻第三・四四三]では、〈天雲の 向伏す国の 武士(ますらを)と いはゆる人は 皇祖の 神の御門に 外の重に 立ち候ひ 内の重に 仕へ奉り 玉葛 いや遠長く 祖の名も 継ぎゆくものと母父に 妻に子等に 語らひて 立ちにし日より〉とあります。「武士(ますらを)」は、「祖の名も継ぎゆくもの」とされています。 [巻第十九・四一六五] では〈大夫は名をし立つべし後の代に聞き継ぐ人も語り継ぐがね〉とあり、 [巻第二十・四四六七] では〈剣大刀いよよ研ぐべし古ゆ清けく負ひて来にしその名そ〉とあります。いずれも名誉に対して言及されています。
この名についてですが、武士においては、名は勝つということに支えられています。『宗滴話記』には、〈武者は犬ともいへ、畜生ともいへ勝事が本にて候事〉とあります。『五輪書』では、〈剣術実の道になつて、敵とたゝかひ勝つ事、此法聊か替る事有るべからず〉と示されています。大道寺友山(1639~1730)の『武道初心集』では、〈大身小身共に武士たらんものは勝と云文字の道理を能心得べきもの也〉と語られています。その関係は『甲陽軍鑑』において、〈武士はたゞ剛強なるばかりにても勝ちはなきものにて候。勝ちがなければ名は取られぬものにて候〉とされています。ここにおいて、「名⇔勝」という関係が成り立っていることが分かります。
名に関連する言葉としては、恥も外せません。『将門記』では、〈現在に生きて恥有らば、死後に誉れなし〉とあり、恥が名と関連していることがわかります。つまりは、「名⇔恥」という関係です。
恥については、大道寺友山(1639~1730)の『武道初心集』で示されている考え方が重要です。善い人間を、〈誠によく義を行ふ人〉、〈心に恥て義を行ふ人〉、〈人を恥て義を行ふ人〉という順で述べています。これは、見事な分類です。「義>恥」という式の基で、義を行う人を最上にし、その次に恥じることができる人が続いています。恥じることができる人に対しても、二つに分類し、上位の恥を己の心に恥じることとし、下位の恥を他人に恥じることとしています。
この恥は、日本の思想史においても武士道においても、重要な位置を占めています。『陸奥話記』では、〈故を以て免ることを得たり。武士猶以て恥と為すなり〉とあります。また、〈臆しぬれば、恩禄欠くるのみならず、生きては恥辱をいだき、死しては謗りを残すといへり。能々思慮を廻らすべきは、兵の道なるべし〉ともあります。『平治物語』では、〈弓矢取る身は、敵に恥を与へじと互ひに思ふこそ、本意なれ〉と示されています。
恥について特筆すべきことは、『太平記』で〈軍の習ひ、負くるは常の事なり。ただ戦ふべきところを戦はずして、身を慎むを以て恥とす〉と語られているところです。名は勝つということに重きを置きますが、恥は、勝ち負けを超えた、より高い規範を示しているのです。そこで、「名⇔(恥>勝)」という関係が成り立ちます。
また、恥については、『源平盛衰記』では〈弓矢取身は我も人も死の後の名こそ惜けれ〉とあります。『平家物語』では〈恥ある者は打死し、つれなき者はおちぞゆく〉とあります。『太平記』では、〈弓矢取りの死ぬべき所にて死なねば恥をみる、と申し習はしたるは、理にて候ひけり〉とあります。『葉隠』では、〈図に迦れて死たらば、気違にて恥には成らず〉とあります。立派な振舞い方からはずれて死んでも、恥にはならないと語られています。ここでは、「恥>命」という式が成り立ちます。恥は、命よりも上位にあるのです。
そして、それは名についても言えます。名の尊重と対になる考えは、命の軽視です。『宇治拾遺物語』では、〈日本人は、我命死なんをも露をしまず。大なる矢にていれば、其庭にいころしつ。なを兵の道は、日本の人にはあたるべくもあらず〉と語られています。
命よりも名が優先するということは、『太平記』で大いに語られています。例を挙げれば、〈たとひ尸を戦場に曝すとも、名を子孫に伝へん〉や〈弓馬の家に生れたる物は、名をこそ惜しめ、命をば惜しまぬ物を〉とあり、また、〈死を軽んじ名を重んずる者をこそ人とは申せ〉や〈弓矢取る者は名こそ惜しめ、命をば惜しまぬものを〉とあります。「名>命」という式が成り立つのです。その理由はというと、〈古より今に至るまで、武士の家に生るる人、名を惜しみて命を惜しまず。皆これ妻子に名残を惜しみ、父母に別れを悲しむと云へども、ただ家を思ふによつて名を愧づる故に、惜しかるべき命を捨つる物なり〉というわけです。つまり、人はみな妻子と名残を惜しみ、父母との別れを悲しむとはいっても、もっぱら家の存続を思って名誉を失うことを恥じるからこそ、惜しいはずの命を捨てるというのです。そのためには戦闘に際して、〈されば、今度の合戦に、相構へて身命を軽んじて、先祖の名を失ふべからず〉という心構えが必要なのです。
宮本武蔵の『独行道』には、〈身を捨ても名利はすてず〉とあります。ここでは、命より上位に名を置いていると同時に、利という文字も見ることができます。名誉と利益は命よりも重いのです。そこで、「(名、利)>命」という関係が成り立ちます。
名誉と利益は、国や家が存続するための条件であるが故に、個人の命よりも重いとされています。ですから『太平記』では、〈まづ弓矢取りと成らば、死を善道に守り、名を利路に失はじとこそ思ふべきに〉と語られているのです。
名誉や利益に限らず、命よりも上位に置かれている言葉は、意外に多く日本史の中に見つけることができます。『平家物語』では〈命を軽んじ、義を重んじて〉とあり、「義>命」という関係が示され、『太平記』では〈官軍も武士も諸共に義によつて命を軽くし、名を惜しんで死を争ふ〉とあり、「(義、名)>命」という関係が示されています。『独行道』には、〈道においては、死をいとはず思ふ〉ともあり、『風雅和歌集』には、〈命をばかろきになして武士の道より重き道あらめやは〉とあるので、「道>命」という関係も成り立ちます。
『池田光政日記』では、〈義を見て利を見ざる者は士の道なり〉とあり、「義>利」という関係が示されています。
吉田松陰の『講孟余話』では、〈道を明にして功を計らず、義を正して利を計らずとこそ云へ、君に事へて遇はざる時は、諫死するも可なり。幽囚するも可なり、饑餓するも可也。是等の事に遇へば其身は功業も名誉も無き如くなれども、人臣の道を失わず、永く後世の模範となり、必ず其風を観感して興起する者あり。遂には其國風一定して、賢愚貴賤なべて節義を崇尚する如くなるなり〉と語られています。つまり、「(道、義)>(勝(功)、利、命、名)」という関係が語られているのです。松陰の『士規七則』においても、〈士の道は義より大なるはなし。義は勇に因りて行はれ、勇は義に因りて長ず〉とあり、義の重要性が記されています。
義と利の関係は、公と私という関係と密接に結びついています。『山鹿語類』では、〈私を去て正大公道ならん事を専とするは義にして、私を立て身の欲を全くすることは利也〉とあります。「道⇔義」という関係に加え、「義⇔公」および「利⇔私」という関係が成り立っています。また、〈義は必ず他人の間にあることにして、なしても為さずとものことあるを、我心の内に顧みて、久しく恥かしき所あるを改め正す、是義也、内に愧る所あれども、富分の利用を専として其利に従が故に、義を欠くになれる也〉とあります。恥は、義と利の間に関わり、「義>恥>利」という関係を示しています。
貝原益軒の『大和俗訓』においても、〈善を行ふに、その心に義と利とのわかちあり。義とは我が行ふべき公の理なり。私なくして我が為にせざるなり。わが身のためにするは義にあらず。利とはわが身のためにする私の心なり。公ならざるをいふ。萬づの事を行ふに、まづ義か不義かをかへりみて、義にしたがひ行ふべし。その行ふこと善なりとも、その心義にしたがはずして、わが身の利分のためにせば、是れ私なり〉とあります。「義⇔公」および「利⇔私」という関係が、ここでも言及されています。
これらの式の中でも、道は最上位に位置しています。西郷隆盛の『南洲翁遺訓』では、〈命もいらず、名もいらず官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり〉とあり、また〈道を行うものは、天下挙ってこれを毀るも足らざるとせず、天下挙って誉むるも足れりとせざるは、自ら信ずるの厚きが故なり〉とあります。そこから、「道>(命、名、利(金))」という関係式が成り立ちます。
また、大東亜戦争においては、陸軍大臣である阿南惟幾の豪北時代の日誌[十九年一月十二日]に、〈名ヲ惜シムノ言葉ガ、ヤヤモスレバ、武士道ヲ辱シメザルコト、道ニ違ハザルコトヨリモ、名誉ニコダハル憾ナカリシカ。名モ命モ惜マズ一途君国ニ殉ズル無垢清浄ノ心コソ大切ナレ。唯一誠奉公ニ帰ス〉と記されています。終戦直後の阿南は、命を捨てる覚悟の上に、名を捨てる覚悟も為していたことが分かります。ここには、「道>(名、命)」という関係が示されています。
以上から、武士の道の上に示された関係式をまとめると、次のように定式化できます。
[図15-13] 武士道の式
第五節 武士道の死
武士道は、神道・仏道・儒道の三道から影響を受けて成立しました。神道からは潔さを、仏道からは諦めを、儒道からは覚悟を、それぞれ継承しています。それらは、死への潔さ、死への諦め、死への覚悟として結実しています。そのため、武士道には、死の思想があります。
武士道における死の思想を、武士道関連書からまとめると、以下のような関係を示すことができます。
[図15-14] 武士道における死
第一項 死心
まずは「死心」です。「死心」とは、常に死を心掛けることを言います。
大道寺友山の『武道初心集』には、〈武士たらんものは正月元旦の朝雑煮の餅を祝うとて箸を取初るより其年の大晦日の夕に至る迄日々夜々死を常に心にあつるを以本意の第一とは仕るにて候〉とあります。
『山鹿語録』には、〈能く勤めて命を安んずるは大丈夫の心也。されば疋夫は死を常に心にあてて物をつとめ、つとめて命を安んずるにあり〉とあります。
このように、死を常に心掛けるのが、武士の道における死心なのです。
第二項 死習
次に「死習」です。「死習」とは、死を習うことで、つまり死を想像することで死に慣れ、死への恐れを克服することを言います。
鈴木正三の『驢鞍橋』では、〈萬事を打置て、唯死に習わるべし。常に死習つて、死の隙を明、誠に死する時、驚ぬやうにすべし〉とあります。その方法は、〈只土に成て、念佛を以て死習わるべし〉とあります。土に帰ることを想い、念仏をもって死に慣れるのです。
山本常朝の『葉隠』では、〈武道は毎朝まいあさ死習ひ、彼に付、是に付、死ては見みして切れ切て置一也。尤大義にてはあれ共、すれば成事也。すまじきことにてはなし〉とあります。毎朝死を想い、死に慣れるのです。それが、死を習うということだというのです。
このように、死を想い、死に慣れ親しむのです。それが、武士の道における死習ということなのです。
第三項 死狂
次は「死狂」です。「死狂」とは、生か死かを問う選択の場面において、死への突入を奨める思想のことです。
「死狂」は、山本常朝の『葉隠』において示される思想です。〈武士道と云は、死ぬ事と見付たり。二つふたつの場にて、早く死方に片付ばかり也〉とあり、生と死の二つに分かれる場面で、死の方を選び取れという思想です。ですから、〈無二無三に死狂ひするばかり也〉とあり、わき目もふらずに死を選べと言われます。そこでは、〈武士道は死狂ひ也。一人の殺害を数十人して仕かぬるもの也〉と語られています。そこにおいて、〈士道におゐては死狂ひ也。此内に忠・孝は自こもるべし〉とされています。そこでは、〈死狂に劣るべき謂(いわれ)なし〉と語られています。〈武士たる者は武勇に大高慢をなし、死狂ひの覚悟が肝要也〉というわけです。この覚悟は、〈何事にてもあれ、死狂ひは我一人と内心に覚悟仕(つかまつり)たる迄にて候〉と語られています。
このように、生か死かを問う場面に備え、死ぬ覚悟を決めておくというのです。それが武士の道における死狂なのです。
第四項 死身
最後は「死身」です。「死身」とは、生きるという未練を捨て、死んだ身となって生きるということです。
鈴木正三の『驢鞍橋』では、〈我は死がいやなに因て、生通にして死ぬ身と成たさに修行はする也〉と語られています。死は嫌なものであるからこそ、生を通じて死ぬ身となっておくのです。そのために修行するのです。ですから、〈常住死で居也〉と語られているのです。
山本常朝の『葉隠』では、〈毎朝毎夕、改めては死々、常住死身に成て居る時は、武道に自由を得、一生落度なく家職を仕(し)課(おお)すべき也〉とあります。常に死と一つになり切っている時は、武道に自在な境地を得ることができ、定められた職務を全うできると言うのです。また、〈常住死打の仕組に打部り、得と死身に成切て、奉公も勤、武篇も仕候はゞ、恥辱あるまじく候〉ともあります。心構えを決めて少しも動ずることなく、死と一つになれたなら、奉公も武道も恥じることなく行うことが出来るというのです。
このように、生という未練を諦め、死んだ身となって動ずることなく何事にも望むというのです。それが武士の道における死身ということなのです。
第五項 至誠
武士道における死の思想を見てみると、誠という言葉が関わっているのが分かります。
「誠」とは、接尾語の「真(ま)」に、言葉や事柄を示す「言・事(こと)」を合わせた言葉です。嘘や偽りでないこと、本当であること、本物であることを意味しています。
『正法眼蔵随聞記』には、〈只、誠の道理を存ずべき也〉とあります。
山鹿素行(1622~1685)の『聖教要録』には、〈已むことを得ざる、これを誠と謂ふ。純一にして雑はらず、古今上下易ふべからざるなり〉とあります。
伊藤仁斎(1627~1705)の『語孟字義』には、〈誠は、実なり〉とあります。
山本常朝(1659~1719)の『葉隠』には、〈常住死人に成たるを、誠の道に叶ひたると云也〉という文章が見られます。死の思想は、誠の道へと導かれるのです。
荻生徂徠(1666~1728)の『弁名』には、〈誠なる者は、中心より発して、思慮勉強を待たざる者を謂ふなり〉とあります。
農民から武士となった二宮尊徳(1787?1856)は、『二宮翁夜話』において〈我が道は至誠と実行のみ〉と語っています。
勝海舟(1823~1899)の『氷川清話』には、〈男児世に処する、たゞ誠意正心をもつて現在に応ずるだけの事さ。あてにもならない後世の歴史が、狂といはうが、賊といはうが、そんな事は構ふものか。要するに、処世の秘訣は誠の一字だ〉とあります。
西郷隆盛(1828~1877)の『南洲翁遺訓』には、〈事大小となく、正道を踏み至誠を推し、一事の詐謀を用うべからず〉とあります。
そして、死の思想を考える上で、吉田松陰の誠の思想を外すことはできません。安政六年の『書簡』から、吉田松陰の死に対する考え方と誠の関わりを見ていきます。
まずは死に対して、〈死を求めもせず、死を辞しもせず、獄に在ては獄で出来る事をする、獄を出ては出て出来る事をする。時は云はず勢は云はず、出来る事をして行当つれば、又獄になりと首の座になりと行く所に行く〉という立場を取っています。
この立場に立つ松陰は、〈然共よく思て見よ、自ら死ぬ事の出来ぬ男が決て人を死なす事は出来ぬぞ〉と考えています。その上で、死すべし順位を、〈是れ今日宜しく幕府の為めに死すべし。一なり〉、〈是れ今日宜しく吾が公の為めに死すべし。二なり〉、〈是れ今日宜しく天子の為めに死すべし。三なり〉と並べています。〈三つの宜しく死すべきありて死す。死すとも朽ちず。亦何ぞ惜しまん〉と松陰は述べています。
死の間際における書簡では、〈吾れの将に去らんとするや、子遠吾れに贈るに死の字を以てす。吾れ之れに復するに誠の字を以てす〉とあります。入江杉蔵(子遠)が師である松陰に死の字を贈ったときに、松陰はそれに誠の字をもって応えたのです。死の思想は、誠の思想と繋がっていることが分かります。
第六節 道義
以上から、道の型が明らかになりました。
道の思想方は、道筋・求道・修道・道理・道徳の間で、秩序だった仁と愛の調和を築いています。そこで、後は、道を歩み義へ向かうだけです。道が義に達するには、武士道の高みが必要となります。
親鸞(1173~1262)の『正像末浄土和讃』には、〈つねに自然(じねん)をさたせば義なきを義とすといふことはなを義のあるべし〉とあります。ここでの義は、計らいや理由を意味しています。別に自分で計らいのないことが、本当の計らいになるというのです。親鸞が法然(1133~1212)から聞いた言葉で、晩年の作品に多く見ることができます。
近松門左衛門(1653~1724)の『国性爺合戦』には、〈小國なれども日本は男も女も義は捨てず〉とあります。
本多忠勝(1548~1610)について述べた『本多平八郎書』によると、〈武士たるものは道にうとくしてはならず、道義を第一心懸べし〉とあります。武士道には、道義があるというのです。
大道寺友山(1639―1730)の『武道初心集』では、〈武士たらんものは義不義の二つをとくと其心に得徳仕り専ら義をつとめて不義の行跡をつゝしむべきとさへ覺悟仕り候へば武士道は立申にて候。義不義と申は善悪の二つにして義は即善不義は即悪也〉とあります。ここでは、義と善が同じものとして語られています。
『百姓分量記』にも、〈道を論じて善に就を互に義理とす。是則天の理・人の義也〉とあります。道において、善が義理へと繋がっています。
義と善の微妙な相違については、貝原益軒(1630~1714)が『大和俗訓』で述べています。〈萬づの事を行ふに、まづ義か不義かをかへりみて、義にしたがひ行ふべし。その行ふこと善なりとも、その心義にしたがはずして、わが身の利分のためにせば、是れ私なり〉とあります。ここでは、私(わたくし)の利益のために行うならば、それは善ではあっても義ではないとされています。私(わたくし)の利益に反しても、善を行うならば、それが義となるのだと語られています。
沢庵(1573~1645)の『玲瓏集』においても、〈欲念を離れて岩木の如くにては、万事を作す事ならざる也、欲をはなれすして、無欲の義に叶ふは道也〉とあります。欲望を離れるといっても、岩や木のようになってしまえば何もできません。欲をただ離れるのではなく、義に叶うために無欲になるのが道だとされているのです。
林子平(1738?1793)の『学則』には、〈義は勇の相手にして裁断の心なり。道理に任せて決定し猶ほ予せざる心をいふなり、死すべき場にて死し討つべき場にて討つ事なり〉とあります。義は勇において、死に向き合います。
義に適うか、否か。武士道を行くならば、それが問われます。日本の道における義は、道義です。佐藤一斉(1772~1859)の『言志耋録』には、〈義は宜なり。道義を以て本と為す。物に接するの義有り。時に臨むの義有り。常を守るの義有り。変に応ずるの義有り。之を統ぶる者は道義なり〉とあります。義が宜しくなるためには、道義が必要なのです。
西郷隆盛(1828~1877)の『南洲翁遺訓』には、〈国事に及びし時、慨然として申されけるは、国の凌辱せらるるに当りては、縦令国を以て斃るるとも正道を践み、義を尽すは政府の本務なり〉とあります。
日本の道の思想では、道義というものを想定しておかなければ、道の調和が崩れます。どのような道においても、義に達せずとも、義が仄見えて来なければなりません。道には、義がどうしても必要だからです。もちろん、より高い位置には、道義へと達する武士道があります。義を意識することで、道を行くことができるのです。そこにおいて、一欠片でも道義心が有るか否かが問われます。 
最終章 一欠片(ひとかけら)の道義心 

 

日本の道の伝統を追い、日本の道の思想を見て来ました。後は、一欠片でも道義心が有るか否かが問われます。
第一節 道の跡
日本人は、日本史において、悲劇を生き、そして死んでいった人物に関心を寄せてきました。悲劇的英雄に情を寄せる判官贔屓の歴史が、日本史を貫いています。その足跡において、我々は日本における義を見出すことができます。そこで日本史において、日本人が関心を寄せた人物たちの歩んだ跡を見ていきます。
まずは、日本武尊(やまとたけるのみこと)の名を挙げることができます。日本武尊は、日本神話における伝説上の英雄で、景行天皇の皇子です。『古事記』には、日本武尊の最期が示されています。武尊は、過酷な東征の帰途で、〈嬢子の 床の辺に 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや〉と詠い、死にます。宮簀姫(みやずひめ)のもとに草薙の剣を預けたため、剣の加護を失い死に至ったと解釈されています。
続いては、『平家物語』です。『平家物語』には、無常観が語られ、多くの美しい悲劇が示されています。[木曽最期]では、今井兼平(?~1184)の見事な自害が語られています。今井兼平は、平安末期の武将で木曾義仲(1154~1184)の部下です。兼平は、木曾義仲が討ち取られたことを知ると、〈「今は誰をかばはむとてかいくさをもすべき、これを見給へ、東国の殿原、日本一の剛の者の自害する手本」とて、太刀のさきを口にふくみ、馬よりさかさまにとび落ち、つらぬか(ッ)てそうせにける〉と自害します。まさに、日本一の剛の者の自害です。
[敦盛最期]では、一ノ谷の戦いで、熊谷次郎直実(1141~1208)が平敦盛(1169~1184)を討った話が語られています。生年十七の敦盛が〈「ただとくとく頸をとれ」〉と言い、熊谷が〈「あはれ、弓矢とる身ほど口惜しかりけるものはなし。武芸の家に生れずは、何とてかかるうき目をばみるべき。なさけなうもうち奉るものかな」〉と言って首を切り取ります。その後、熊谷は仏門に入ります。
[内侍所都入]では、平安末期の武将である平知盛(1152~1185)の自害が語られています。知盛は壇ノ浦の合戦で平氏滅亡の様を見届けた後、〈「見るべき程の事は見つ。いまは自害せん」〉と言い、海へ身を投げました。
そして、判官贔屓といえば源義経(1159~1189)です。源義経は、平安末期・鎌倉初期の武将です。兄である源頼朝の挙兵に応じて木曾義仲を討ち、平氏を滅亡させました。しかし、後に頼朝と不和になり、反逆を企てましたが失敗し、奥州に逃れます。『平家物語』の[判官都落]では、〈判官頸共きりかけて、戦神にまつり、「門出よし」と悦(ン)で、大物の浦より船に乗(ッ)て下られけるが、折節西の風はげしくふき、住吉の浦にうちあげられて、吉野の奥にぞこもりける〉と舞台から姿を消します。そして語り部は、〈去二日は義経が申しうくる旨にまかせて、頼朝をそむくべきよし、庁の御下文をなされ、同八日は頼朝卿の申状によ(ッ)て、義経追討の院宣を下さる。朝にかはり夕に変ずる、世間の不定こそ哀れなれ〉と、世の不条理を奏でます。『義経記』によると、義経は頼朝方の圧迫に耐えかねた藤原泰衡に襲われ、〈「早々宿所に火をかけよ。敵の近付く」とばかりを最期の言葉にてこと切れ果てさせ給ひけり〉という最期を遂げています。
『太平記』には、楠木正成(1294~1336)の最期が語られています。楠木正成は、後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐計画に応じて奮戦した南北朝時代の武将です。湊川で足利尊氏の軍に敗れて自害しました。その時、弟である楠木正季(?~1336)と有名な会話を交わしています。正季が〈「ただ七生までも同じ人間に生れて、朝敵を亡ぼさばやとこそ存じ候へ」〉と言い、正成が〈「罪業深き悪念なれども、我も左様に思ふなり。いざされば、同じく生を替へて、この本懐を遂げん」〉と応えて共に自害しています。
忠臣蔵で有名な赤穂浪士の大石内蔵助良雄(1659~1703)は、浅野長矩の家老です。同志とともに吉良邸に討ち入り、主君の仇を討ち、切腹しました。その際に、〈極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人〉という辞世の句を残しています。それとは別に、大石内蔵助良雄の墓に託された句は、〈あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし〉です。
大塩平八郎(1793~1837)は、江戸後期の陽明学者です。飢饉に際して奉行所に救済を請いましたが容れられず、蔵書を売って窮民を救いました。翌年、幕政を批判して大坂で兵を挙げましたが、敗れて自殺しました。その際の檄文には、〈去りながら此度の一挙は、日本では平将門、明智光秀、漢土では劉裕、朱全忠の謀反に類してゐると申すのも是非のある道理ではあるが、我等一同心中に天下国家をねらひ盗まうとする欲念より起した事ではない、それは日月星辰の神鑑もある事、詰るところは湯武、漢高祖、明太祖が民を弔ひ君を誅し、天誅を執行したその誠以外の何者でもないのである。若し疑はしく思ふなら我等の所業の終始を人々は眼を開いて看視せよ〉とあります。
明治維新に伴う王政復古の直後には、堺事件が起こりました。1868 年(慶応 4)に和泉国堺で起きた、フランス水兵殺害の責を負って土佐藩士が切腹した事件です。当時の国力差から、日本側は無念極まりない要求を受け入れました。切腹に赴いた土佐藩士たちは、美しい辞世の句を残しています。
  風に散る露となる身は厭はねど 心にかかる国の行末
  我もまた神の御国の種ならば、猶いさぎよき今日の思ひ出
  皇国の御為となりて身命を 捨つるいまはの胸の涼しき
  かけまくも君の御為と一すぢに 思ひ迷はぬ敷島の道
  塵(ちり)泥(ひじ)のよしかかるとも武士(もののふ)の 底の心は汲む人ぞ汲む
  人こころ曇りがちなる世の中に 浄き心の道ひらきせん
  身命はかくなるものと打捨てて とどめほしきは名のみなりけり
  時ありて咲きちるとても桜花 何か惜しまん大和魂
  魂をここにとどめて日の本の 猛き心を四方に示さむ
幕末には、多くの志士たちが死へと誘(いざな)われていきました。
吉田松陰(1830~1859)は、長州藩士で幕末の尊王論者です。安政の大獄で刑死します。その際に、〈身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂〉という辞世の句を残しています。
会津藩(あいづはん)は陸奥国(後の岩代国)会津郡、現在の福島県西部を治めた藩です。戊辰戦争が勃発した際に、会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、先帝より授かった御宸翰があったにも関らず、新政府軍により朝敵とされました。会津藩の白虎隊の悲劇は有名です。白虎隊は、戊辰戦争時に会津藩が十六、七歳の藩士子弟によって組織された少年決死隊です。新政府軍との戦いに敗れて飯盛山まで後退したとき、若松城の方角に黒煙のあがるのを見て落城と思い誤り、二十人が自刃しました。会津藩の家老・西郷頼母(1830~1903)の妻である西郷千恵子は、〈なよたけの 風にまかする 身ながらも たわまぬ節は ありとこそ聞け〉という辞世の句を残し、会津藩の婦女子・中島竹子は、〈もののふの 猛き心に うらぶれば 数にも入らぬ わが身ながらも〉という句を残しています。
西郷隆盛(1828~1877)は、薩摩の武士で倒幕の指導者です。薩長同盟・戊辰戦争を遂行し、維新の三傑の一人と称されました。西南戦争に敗れ、城山で自害しています。『南洲翁遺訓』では、〈正道を踏み国を以て斃るるの精神無くば、外国交際は全かるべからず、彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に従順するときは、軽侮を招き、好親却って破れ、終に彼の制を受くるに至らん〉と記されています。また、〈国の凌辱せらるるに当りては、縦令国を以て斃るるとも正道を践み、義を尽すは政府の本務なり〉ともあります。
福沢諭吉(1835~1901)は『瘠我慢の説』で、幕府軍の最期について述べています。次の一連の文章は、日本史上屈指の名文だと思われます。
伝え聞く、箱館(はこだて)の五稜郭(ごりょうかく)開城(かいじょう)のとき、総督(そうとく)榎本氏より部下に内意を伝えて共に降参せんことを勧告(かんこく)せしに、一部分の人はこれを聞(きい)て大(おおい)に怒り、元来今回の挙(きょ)は戦勝を期したるにあらず、ただ武門の習(ならい)として一死以(もっ)て二百五十年の恩に報(むくい)るのみ、総督もし生を欲せば出でて降参せよ、我等(われら)は我等の武士道に斃(たお)れんのみとて憤戦(ふんせん)止(とど)まらず、その中には父子諸共(もろとも)に切死(きりじに)したる人もありしという。
明治維新を通して、日本は激動の時代を駆け抜けます。日清戦争・日露戦争と戦争の時代が続きます。
乃木希典(1849~1912)は、日露戦争で旅順を攻略した陸軍大将です。明治天皇の死に際し、妻とともに殉死しました。辞世の句には、〈神あがり あがりましぬる 大君の みあとはるかに をろがみまつる〉と、〈うつし世を 神さりましゝ 大君の みあとしたひて 我はゆくなり〉があります。妻である乃木静子(1859~1912)の辞世の句は、〈出でまして かへります日の なしと聞く けふの御幸に 逢うぞ悲しき〉とあります。
以上のように、日本史には、非業の死を遂げながらも義に殉じ、道を示した人たちが居ました。明治維新による急激な変化は、日本人から、日本の道の真髄を殺いでいきました。しかし、その激動の中にも、日本の道は、日本の魂は残り続けました。日本人は、偉大な敗者の死を見届け、そこに敬意を表すのです。そしてその果てに、大東亜戦争が日本史と人類史の上に刻まれます。
第二節 道の残日
大東亜戦争とは、第二次大戦のうち、アジア・太平洋地域で行われた、日本と、米国・英国・オランダ・中国などで構成された連合国との戦争のことです。それは、勝算の見込める戦いではありませんでした。それでも日本人は戦ったのです。大東亜戦争において、日本人は何を想い、如何にして戦ったのでしょうか。圧倒的な戦力差によって沈み行く日本の道は、それでも残日の輝きを発しています。
靖国神社では、社頭に掲示された英霊の遺書や書簡が『英霊の言乃葉』としてまとめられ、刊行されています。中には、特攻隊員の遺書も残されています。特攻とは、日本軍の特別攻撃隊に冠した名称で、日本陸海軍が体当たり戦法のために特別に編制した部隊です。残された遺書や書簡を読むとき、そこには先人たちの想いが記されています。『英霊の言乃葉』から、先人たちの想いを見ていきます。
元帥海軍大将である山本五十六(享年五十九)は、真珠湾攻撃・ミッドウェー海戦を指揮したことで有名です。〈益良雄の ゆくとひ道を ゆききはめ わが若人ら つひにかへらず〉という句を残しています。この句で詠われているように、生還を期すことなく死へと向き合った若人たちがいました。
古川正崇(享年二十四)海軍少佐(神風特別攻撃隊振天隊)は、『死の覚悟』と題して〈求道〉について述べています。〈子供の無邪気さ、それは知らない無邪気さである。哲人の無邪気さ、それは悟り切つた無邪気さである。そして道を求める者は悩んでゐる。死ぬ為に指揮所から出て行く搭乗員、それは実際神の無邪気さである〉と語られています。
岡部平一(享年二十二)海軍大尉は、『ああ同期の桜 特攻隊員の手記』において、〈死ぬる為の訓練が待つてゐる。美しく死ぬる為の猛特訓が〉と述べています。その覚悟の上で、〈われらは常に偉大な祖国、美しい故郷、強い日本女性、美しい友情のみ存在する日本を、理想の中に堅持して敵艦に粉砕する。今日の務は何ぞ、戦ふことなり。明日の務は何ぞ、勝つことなり。すべての日の務は何ぞ、死ぬことなり〉と述べています。
若麻績隆(享年二十三)海軍大尉(神風特別攻撃隊第十八幡護皇隊)は、『武名に非ず』において、〈國なくして何の人間ぞ、人間として生活は國家故にである〉と述べています。
板倉震(享年二十二)陸軍大尉(陸軍特別攻撃隊第一○三振武隊)は、『絶筆 特攻出撃に際し』と題し、〈私は必ず艦船を轟沈させます。敵艦を沈めなくとも身命を賭して最善の努力を尽せばよいのです。現在の私には生も死もありません。あるものは只皇国の安泰のみです〉と述べています。
ああ、彼等の人生のなんと短く、美しく、そして尊いことでしょうか。彼らの置かれた状況と、その状況に向かい合った彼らの精神は、想像を絶します。彼等と、現代の我等の、この比べることすらおこがましいほどの隔たり。この圧倒的な違い。人間という種の精神における、文字通りの、桁違いな差。
飯沼孟(享年二十四)海軍大尉(神風特別攻撃隊第二魁隊)は、『今朝、特別攻撃隊の申渡しあり』において、〈―――人生五十年、その半分の二十五年を無事に生き抜いたことを思へば不思議なくらゐだ。子供の頃が思ひ出される〉と述べています。
相花信夫(享年二十)陸軍少尉(陸軍特攻第七十七振武隊)は、『母上、お許し下さい』と題し、〈人生五十年、自分は二十歳迄長生きしました。残りの三十年は父母上に半分づつさしあげます〉と述べています。
人生五十年。この言葉は、幸若舞「敦盛」に見ることができます。織田信長(1534~1582)が、死ぬ間際に舞ったという伝説があります。人生わずか五十年。しかし、この時代の青年たちには、その五十年すら与えられてはいなかったのです。
牧野おさむ[「卸」の左に「亥」が右](享年二十三)海軍大尉(神風特別攻撃隊第六神剣隊)は、出撃の前日に『人生二十年』と題して、〈御父上様、御母上様人生わづか五十年とは昔の人の言ふ言葉、今の世の我等二十年にしてすでに一生と言ひ、それ以上をオツリと言ふ。まして有三年も永生きせしはゼイタクの限りなり。いささかも惜しまず、笑つて南溟の果てに散る。また楽しからずや〉という言葉を残しています。
人生二十年という時代があったのです。そして、それ以上をオツリといい、二十三まで生きたことをゼイタクと言う、そのような精神が、かつて、あったのです。この言葉を前にして、果てして、どのような態度が取れるのでしょうか。何も感じずに通り過ぎるのでしょうか。そんな時代に生まれなくてよかったと安堵するのでしょうか。涙を流し、少し感傷に浸ってから日々の暮らしに戻るのでしょうか。それとも.........。
第三節 道の残照
大東亜戦争において、日本の道が、その魂が咆哮します。そして、大東亜戦争の敗戦時、日本の道は、敗戦という暗闇において、残照の輝きを残しています。
敗戦後、自決した日本人がいました。その数、少なくとも599柱。その記録は、『改訂版 世紀の自決』という本にまとめられています。この自決者たちを称え、数学者の岡潔(1901~1978)は〈貴方がたは最早や戦争が済んだと云う時に自殺出来ますか、何と云う崇高さであろう。私は再び解脱した人の行為を見せて貰ったと云う気がする〉という言葉を残しています。
それでは、自決者の残した言葉を見ていきます。
大西瀧治郎(享年五十四)海軍中尉は、〈特攻の英霊に曰す。善く戦いたり、深謝す。最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。然れどもその信念は遂に達成し得ざるに到れり、吾死を以て旧部下とその遺族に謝せんとす〉という言葉を遺書に残しています。特攻隊員に詫びるため、割腹自決に際しては敢えて介錯を付けず、医者の手当てを拒み、半日以上苦しんで死をむかえました。
芳賀毅(享年二十九)陸軍主計曹長は、〈微なりと雖も身軍籍に在る者何を以てか罪を天下に謝せむ 唯一死あるのみ 後に続く者を信じ莞爾として征ける英霊よ 我を待て〉と残しピストル自決をしています。
近藤巌(享年二十四)陸軍憲兵軍曹は、〈本日復員の命下り帰郷の余儀なきに至りました。真に無念に存じます。多くの戦友に先立たれ、軍人の本分を完ふせず、今更何んで帰られませう。巌の胸中お察し下され度。武人として、又自己の信念の大道を進むべく此処に死を決します。お許し下さい〉と言い残し、靖国神社の社頭にて自決しています。
堀江正章(享年二十七)陸軍憲兵中佐は、〈小官の至らざるに拠り、敗戦の辱めを受け陛下に対し奉り申訳なし、慙愧に堪へず、死して御詫びす。もし靖章生ありせば五十年後に鬼畜米英を倒し必ず敵を打て〉と、当時一年六ヶ月の長男靖章に想いを託して自決しています。
金原重夫(享年三十二)陸軍少尉は、〈今日はもとより日本男子の覚悟だった。僕は満足です。長い間、育てて頂き何の恩返しもなく孝養することも出来ず死んで行きます。只、国の為めに死んだことを孝行として下さい。それで満足して笑って死んで行く〉という遺書を残し、拳銃自決しています。
銕尾隆(享年二十八)陸軍中佐は〈国家最大の悲局に際会し、種々考えてみましたが、小生としては玉憙と共に自決するのが最良の道であるとの不動の信念に到達しましたので潔く決行します〉という遺書を残し割腹しています。夫人である玉憙(享年二十三)も、〈夫を通じての御奉公、銕尾 武人として御奉公至らざりしを一死を以て御報いせんとの覚悟、私も妻としてこの身を捧げて銕尾の最期を見とどけ自決致します〉という遺書を残し拳銃自決しています。
長瀬武海軍大尉も、夫人である外志子と共に自刃しています。武は〈有難き陛下の大御心、一点の疑もなし、涙もて排す、余りにも大君の恵多く幸福すぎし余の三十年、我が行くべき道は只一つあるのみなり、強がりにもあらず、余にとりて只一つの道なり、妻の一徹亦固きものあり。僅か二年の余の教育による妻の決意如何ともなし難し、御厚情を深謝す〉と言葉を残しています。外志子は〈佐世保にも敵が参ります。上陸致しましてからはどんな目にあわされるか判りません。貞操をやかましく言われ教育されて参りました私にはどうしても耐えてゆかれません。これが私の思いすごいでございましたらどんなに嬉しいでしょう。私は只それのみ念じて行きます〉と言い、〈今まで幸福に暮らして参りまして私はほんとに幸福だったと喜んでおります。嫁ぎましてから二年間も本当に幸福に暮らしました。今は決心どおり身を処しましても私は幸福な人間です〉という言葉を残しています。
満州では、井上鶴美(享年二十六)陸軍看護婦、以下二十二名が満州の地で自決しています。〈二十二名の私たちが、自分の手で生命を断ちますこと、軍医部長はじめ、婦長にもさぞかし御迷惑と深くおわび申上げます。私たちは敗れたりとはいえ、かつての敵国人に犯されるよりは死をえらびます。たとい生命はなくなりましても、私どもの魂は永久に満州の地に止り、日本が再びこの地に還って来る時、御案内致します。その意味からも、私どものなきがらは土葬にして、ここの満州の土にして下さい〉という遺書を残しています。
この件に対し、同僚の元満赤看護婦長である堀喜身子の記録が残っています。その記録では、〈二十二名の若い日本の女性が死をもってした抗議は、ひどくソ連の人たちを驚かせたとみえ、その翌日、すぐさま、私ども日本人の宿舎にお布命がまわって来ました〉とあります。そのことに対し、〈これで少しはよいにちがいないが、そのために、私どもは余りにも大きすぎる代償を支払ったわけで、その犠牲となった二十二名の人たちが実に可哀そうでなりません。終戦後外人の腕にぶら下って歩いている女を見るにつけても、純情そのものの、このような女性も、また同じ日本人だと考えると、全日本の女性にその死を物語りたい衝動にかられるのです〉という言葉を残しています。
自決した人たちの死は、どんな意味を持つのでしょうか。入院により戦力となれなかったことを恥じ、新子堅司(享年十八)陸軍生徒は敗戦時に割腹自決しました。その弟である新子文男が、〈ある者は言う。侵略戦争の走狗の死と。滔々たる濁流。その濁流に棲むものにどうして清流の心が分かろう〉という言葉を残しています。その言葉の重みを、考えてみるべきです。
第四節 道の残影
大東亜戦争における敗戦、その時に煌いた自決者たちの精神。そして、その後に、日本には欺瞞と卑劣があふれました。生き抜くためには、それも止むを得なかったという面もあります。ただしそれは、止むを得なかったという想いを抱いている限りでのことです。戦前・戦中世代が世の中の趨勢を占めていたときにはまだ、この止むを得なかったという感覚が残っていました。生き残ってしまったことへの疚しさという感情が残っていました。
しかし、大東亜戦争の記憶が薄れるとともに、日本の道の面影は消え去っていきました。戦前・戦中世代が退き、戦後世代が表舞台に出てくるにつれ、止むを得なかったという感覚や疚しさという感情が失われていきました。戦後世代は、前の世代を見捨て、裏切りました。そして、自分たちより前の世代を断罪し、自分たちは綺麗な人間だと振る舞い始めました。人間は、ここまで醜くなれるものなのです。
人間が醜くなれることは、人類史がすでに数限りない実例を残しています。ですが、こうまで醜くなった人間を、日本人だと認めるわけにはいきません。ここで云う日本人とは、日本国の国制下に置かれた人々という意味ではありません。精神的な意味での日本人です。つまり、日本の歴史と伝統の上に立った、日本の思想を持った人々という意味です。儚く無常な世の中で、日本語の歌を詠い、道を行く者たちが、日本人なのです。その意味での日本人は、減少の一途をたどりました。
三島由紀夫(1925?1970)の『反革命宣言』には、〈生死を賭けた闘いのあとに、判定を下すものは歴史であり、精神の価値であり、道義性である〉とあります。昭和45年(1970年)11月25日、三島は、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内で演説を行ったのち割腹自殺を行いました。その時の『檄文』には、〈生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ〉とあります。この自決をもってして、立ち上がることのなかった者たち。この時をもって、日本の道が、おそらく、日本列島に生息する人々からほとんど見えなくなってしまったのです。
そして、十年と少し後、私が生まれました。
道は、ほとんどわずかしか感じられませんでした。日本の道を意識し、道を志すことなくして、日本の道に触れることができなくなっていました。
本居宣長(1730~1801)の『鈴屋答問録』には、〈まことの道は、いざなぎいざなみの神の始めたまひつる道にして、皇國に傳はれり〉とあります。この記述の前に、〈天照大御神の正道は、盛衰こそあれ、とこしなへに存して滅ぶることなし〉と示されています。
私は、途切れかけた道を歩もうとしています。独り我々の道を往く。ただ、それだけのことです。その先は、道連れ次第です。
独り、共に、我々の道を往く。独り、共に、日本の道を往く。
あとがき 道連れと道を行く
『日本式 正道論』を読んでくれた皆さん、ありがとうございます。
本書では、日本の道を思想として考えてきました。日本の道を図形によって示してきましたが、簡略化して一言でまとめると、次のように言うことができます。
日本の道は、「イキカタ」のことである。
「イキカタ」とは、行き方であり、それゆえ往き方のことです。これは生き方でもあり、それゆえ活き方でもあります。それは逝き方でもあり、それゆえ死に方のことでもあります。あるいは良き型や善き型であり、それゆえ粋型や意気型だとも言えるものです。
日本の道は、素晴らしいものです。それが分かった今、私は、正しい道を歩めるとはとても言えないにしても、私が道を外れたとき、自分で自分を許せなくなる、その立ち位置には居ると言えると思うのです。
蛇足ですが、私のことについて少し述べておきます。私自身は、一言でいうと、臆病な偽善者かつ偽悪者です。だらしなくて、いい加減で、性根が腐っていて、悪魔なんじゃないかと思うようなことを考えたり行ったりします。決して褒められた人間ではないですし、ばれたらまずいこともたくさん抱えています。ただし、一欠片だけ道義心を持っている、と思っている、そんな人間です。
私は物心が付いた時から、この世界が怖くてたまりませんでした。この世界は、恐ろしい世界だったのです。私は、どうしようもなく怖がりでした。特に未知の存在に対する恐怖心は強かったので、今でも子供時代に戻りたいと思うことはありません。未知のものに対する恐怖は、未知が既知になることで薄らぐからです。
もちろん、未知の存在が既知になったからといって、既知の知識が確実である保障はありません。ですが、その存在に対している時間が長いと、その存在に慣れるという側面もあります。慣れも、恐怖を和らげてくれます。
知識を得ることと慣れることで、恐怖は薄らぎます。ただ、臆病者はそう簡単に直らないため、その振る舞いは偽善的であり、また、偽善者であることの後ろめたさから偽悪的にもなります。だから、私は臆病な偽善者かつ偽悪者なのです。
そんな人間は、普通の人とは考えることが違っているのでしょうか。私自身は、普通であるということがどういうことか、常々考えてきましたが、そんなことを考える時点で普通とは言えないのだと思います。普通になろうとして、人から普通とは見なされない人物、それが私という人間です。それはそれで良いのですが、ただ、そのような人間は、どうも平均的な人とは違うことを、心に抱えているようなのです。
私の人生を方向付けている大本は、大きく二つです。その内の一つが、日本の道なのです。ですから私は、日本の道の跡を追って行ったのです。なぜなら、ある特攻隊員の言葉にあるように、人生二十年という時代があったからです。そして、それ以上をオツリといい、二十三まで生きたことをゼイタクと言う、そのような精神が、かつて、あったからです。
この言葉を前にして、果てして、どのような態度が取れるのでしょうか。つまり、この言葉を前にして、平均的な反応ではなく、普通の反応をするにはどうしたらよいのかを考えてみたのです。
私は、彼等の精神の、せめて一欠片にでも触れなければ、私の人生に意義などありはしないと思いました。そこで私は、彼等を育んだ日本の伝統を、つまりは日本の道を行くことを決めたのです。その歩みはおぼつかないものではありましたが、何とか納得のいく形でまとめることができました。少なくとも、命を削って、魂を込めて書きました。この本は、そのような経緯の上で書かれた本なのです。自分自身が、何とかまともに生きて、そして死ぬために、どうしても書く必要があったのです。
そのような本ですが、この本に少しでも同意してくださる方がいましたら、これほど嬉しいことはありません。なぜなら、「旅は道連れ世は情け」だと思うからです。 
 
諸説

 

浮世絵の曲線 / 寺田寅彦  
浮世絵というものに関する私の知識は今のところはなはだ貧弱なものである。西洋人の書いた、浮世絵に関する若干の書物のさし絵、それも大部分は安っぽい網目版の複製について、多少の観察をしたのと、展覧会や収集家のうちで少数の本物を少し念入りにながめたくらいのものである。それだけの地盤の上に、それだけの材料でなんらかの考察を築き上げようとするのである。ちょうど子供がおもちゃの積み木で伽藍《がらん》の雛形《ひながた》をこしらえようとしているのとよく似た仕事である。それが多少でも伽藍らしい格好になるかならないかもおぼつかないくらいである。しかし古来の名匠は天然の岩塊や樹梢《じゅしょう》からも建築の様式に関する暗示を受け取ったとすれば、子供の積み木細工もだれかに何かの参考になる場合がないとは限らない。
色彩をぬきにして浮世絵というものを一ぺんばらばらにほごしてしまうと、そこに残るものは黒白のさまざまな切片といろいろの形状をした曲線の集団である。こうしてほごした材料を一つ一つ取り出して元の紙の上にいろいろに排列してみる。するとそこにできたものは未来派の絵のあるものの写真とよく似たものができるだろうと思う。
しかしそのような排列のあらゆる可能な変化のうちで、何かしらだらしなく見えるのと、どこか格好よく調子よく見えるものとの区別がありはしないか。これはむつかしい問題ではあるが、そういう区別があるとしないとある種の未来派の絵などの存在理由は消滅しそうに思われる。
色彩を取り去ったあとの浮世絵の中に見いだされる美の要素がいかなるものであるかを考えるのは、結局前にあげた問題の答案を求めると同じ事に帰着するのではないかと私には思われる。
黒白の切片の配置、線の並列交錯に現われる節奏や諧調《かいちょう》にどれだけの美的要素を含んでいるかという事になると、問題がよほど抽象的なものになり、むしろ帰納的な色彩を帯びては来るが、しかしそれだけにいくらか問題の根本へ近づいて行きそうに思われる。
ともかくもこのような考えを頭において浮世絵の写真を見て行くのも一つのおもしろい実験にはなるだろう。そう思って私は試みに手近な書物のさし絵を片はしから点検して行った。その時に心づいた事を後日のための備忘録としてここに書き止めておきたいと思う。ことによるとこんな事はもうとうにだれかが言いふるした陳腐な議論かもしれない。もしそういう文献に通じた読者があったら教えを請いたいと思うのである。
私の調べてみたのは主として人物、特に女性を描いたものである。しかし以下にいうところの命題の大部分は、適当に翻訳する事によって風景画にも応用されるだろうと思っている。
浮世絵の画面における黒色の斑点《はんてん》として最も重要なものは人物の頭の毛髪である。これがほとんど浮世絵人物画の焦点あるいは基調をなすものである。試みにこれらの絵の頭髪を薄色にしてしまったとしたら絵の全部の印象が消滅するように私には思われる。この基調をなす黒斑に対応するためにいろいろの黒いものが配合されている。たとえば塗下駄《ぬりげた》や、帯や、蛇《じゃ》の目《め》傘《がさ》や、刀の鞘《さや》や、茶托《ちゃたく》や塗り盆などの漆黒な斑点が、適当な位置に適当な輪郭をもって置かれる事によって画面のつりあいが取れるようになっている。多数の人物を排した構図ではそれら人物の黒い頭を結合する多角形が非常に重要なプロットになっているのである。
頭髪は観者の注意を強くひきつける事によっておのずから人物の顔を生かす原動力になっている。もしこの漆黒の髪がなかったら浮世絵の顔の線などは無意味な線の断片の集合に堕落してしまって画面全体に対する存在理由の希薄なものになってしまいそうである。
頭髪の輪郭をなしているいろいろの曲線がまた非常に重要な役目をしている。歌麿《うたまろ》以前の名家の絵をよくよく注意して見ると髷《まげ》や鬢《びん》の輪郭の曲線がたいていの場合に眉毛《まゆげ》と目の線に並行しあるいは対応している。櫛《くし》の輪郭もやはり同じ基調のヴェリエーションを示している。同じ線のリズムの余波は、あるいは衣服の襟《えり》に、あるいは器物の外郭線に反映している。たとえば歌麿の美人一代五十三次の「とつか」では、二人の女の髷の頂上の丸んだ線は、二人の襟《えり》と二つの団扇《うちわ》に反響して顕著なリズムを形成している。写楽《しゃらく》の女の変な目や眉も、これが髷の線の余波として見た時に奇怪な感じは薄らいでただ美しい節奏を感じさせる。
顔の輪郭の線もまた重要な因子になっていて、これが最も多くの場合に袖の曲線に反響している。めいめいの画家の好む顔の線がそのままに袖《そで》のふくらみの線に再現されているのを見いだしてひとりでうなずかれる場合がかなりにある。この現象は古い時代のものほどに著しいような気がする。ただ写楽の人物の顔の輪郭だけは、よほど写実的に進歩した複雑さを示していると同時に、純粋な線の音楽としての美しさを傷つける恐れがあるのを、巧妙に救助しているのは彼の絵に現われる手や指の曲線である。これが顔の線と巧みに均衡を保ってそのためにかえって複雑な音楽的の美しさを高調している。懐月堂《かいげつどう》のふくれた顔の線は彼の人物の体躯《たいく》全体としての線や、衣服のふくらみの曲線となって至るところに分布されて豊かな美しさを見せている。
次に重要なものは襟《えり》の線である。多くの場合に数条の並行した、引き延ばされたS字形となって現われているこの線は、鬢《びん》の下端の線などと目立った対偶をしている。そして頭部の線の集団全体を載せる台のような役目をしていると同時に、全体の支柱となるからだの鉛直線に無理なく流れ込んでいる。それが下方に行って再び開いて裾《すそ》の線を作っている。
浮世絵の線が最も複雑に乱れている所、また線の曲折の最もはげしい所は着物の裾である。この一事もやはり春信《はるのぶ》以前の名匠の絵で最もよく代表されるように思う。この裾の複雑さによって絵のすわりがよくなり安定な感じを与える事はもちろんである。
裾の線は時に補景として描かれた幕のようなものや、樹枝や岩組みなどの線に反響している事があるが、そういうのはややもすれば画面を繊弱にする効果をもつものである。そういうわけで裾から上だけをかいた歌麿《うたまろ》の女などが、こせつかない上品な美しさを感じさせるのではあるまいか。写楽《しゃらく》のごとき敏感な線の音楽家が特に半身像を選んだのも偶然でないと思われる。
写楽以外の古い人の絵では、人間の手はたとえば扇や煙管《きせる》などと同等な、ほんの些細《ささい》な付加物として取り扱われているように見える場合が多い。師宣《もろのぶ》や祐信《すけのぶ》などの絵に往々故意に手指を隠しているような構図のあるのを私は全く偶然とは思わない。清長《きよなが》などもこの点に対するかなり明白な自覚をもっていたように思われる。このアペンディックスが邪魔にならないようにかなりな苦心を払っているような形跡が見える。少なくもこの点では清長のほうが歌麿よりもはるかにすぐれていると私は信じている。
これだけのわずかな要点を抽出して考えても歌麿《うたまろ》以前と以後の浮世絵人物画の区別はずいぶん顕著なものである。
たとえば豊国《とよくに》などでも、もう線の節奏が乱れ不必要な複雑さがさらにそれを破壊している。試みに豊国の酒樽《さかだる》を踏み台にして桜の枝につかまった女と、これによく似た春信《はるのぶ》の傘《かさ》をさして風に吹かれる女とを比較してみればすべてが明瞭《めいりょう》になりはしないか。後者において柳の枝までが顔や着物の線に合わせて音楽を奏しているのに、おそらく同じつもりでかいた前者の桜の枝はギクギクした雑音としか思われない。足袋《たび》をはいた足のいかつい線も打ちこわしである。しかし豊国などはその以後のものに比べればまだまだいいほうかもしれない。
北斎《ほくさい》の描いたという珍しい美人画がある。その襟《えり》がたぶん緋鹿《ひが》の子《こ》か何かであろう、恐ろしくぎざぎざした縮れた線で描かれている。それで写実的な感じはするかもしれないが、線の交響楽として見た時に、肝心の第一ヴァイオリンがギーギーきしっているような感じしか与えない。これに反して、同じ北斎が自分の得意の領分へはいると同じぎざぎざした線がそこではおのずからな諧調《かいちょう》を奏してトレモロの響きをきくような感じを与えている。たとえば富岳三十六景の三島《みしま》を見ても、なぜ富士の輪郭があのように鋸歯状《きょしじょう》になっていなければならないかは、これに並行した木の枝や雲の頭や崖《がけ》を見れば合点される。そこにはやはり大きな基調の統一がある。
しかしなめらかな毛髪や顔や肉体の輪郭を基調とした線の音楽としてのほとんど唯一の形式は、やはり古い浮世絵の領域を踏み出す事は困難に思われる。後代の浮世絵の失敗の原因はこの領域を無理解に逸出した事にありはしないだろうか。
もしこの私の最後の考えが正しいとすれば、同じ事がたとえば彫刻や現代の西洋画にもある程度まで適用されはしないだろうか。これは少なくとも一顧に値するだけの問題にはなると思う。
私はこれらの問題をいつかもう少し立ち入って考えてみたいと思っている。この一編はただ一つの予報のようなものに過ぎない事を断わっておきたい。(大正十二年一月) 
 
祇園の道案内

 

■祇園
花街という不思議な世界
花街(かがい)については、その作られたイメージや噂だけの思い込みで語られる事が多い様です。
映画などで取り上げられる昔の頃の暗いイメージや、花街と遊郭を混同した勘違いで、凄まじく不当な扱いを受けているのが実情でしょう。
確かに大昔にはその様な事があったのかもしれません。しかし、ハッキリ断言してその様なマイナスイメージの要因は、今の花街、少なくとも祇園にはありません。
では、何故、世間様のイメージが改まらないのでしょうか?
それは、花街の中の事が、いっさい外には出ないからです。花街には、中の事を決して外には漏らさないという決まりがあります。
勿論、外に漏らされては困る様な行いがされている訳では決してありません。花街が今でもその伝統を守っているだけ、という話なのです。
外から見ると、明確なルールも無く一部の特定の人間だけをお客として認めている怪しいシステムが、花街の謎により一層の拍車をかけています。
花街は一般との接点が無い事と、昔のままの情報とが相俟って、今も噂だけが先行する妖しい男の楽園として語られているのです。
ゴッタ煮の祇園
一言に「祇園」といっても、地名としての祇園はかなり広範囲です。
京都市街地の中心を東西に走るメインストリート、四条通の東端に八坂神社があります。その八坂神社の周辺を祇園と呼ぶのだそうです。
祇園といえば歓楽街として有名ですが、地名としての祇園で言うと、八坂神社より西側がそれにあたります。
観光パンフレットの写真などで見る景観保存地区のイメージから、祇園には一見さんお断りの高級なお店しか無い様に思われがちですが、その大半が普通のネオン街と変わらない普通のお店です。
ですから、四条通の北側には近代的なビルが建ち、クラブやスナック、飲食店でひしめいています。
深夜にはタクシーが並び、ネクタイを緩めたサラリーマンが千鳥足で闊歩している、どこにでもあるごく普通の歓楽街です。
南側は比較的落ち着いた建物が並びますが、それでも一見さんOKの飲食店が増えました。
祇園は、そんな雑踏の中、格式を守るお店がぽつりぽつりと点在するゴッタ煮の様な街です。それが、歓楽街としての今の祇園です。
そして、花街としての祇園は、その格式を守る一部のお店の中で、雑踏に知られること無く、ひっそりと受け継がれているのです。
祇園にある2つの花街
京都には幾つかの花街があります。上七軒(かみしちけん)、先斗町(ぽんとちょう)、宮川町(みやがわちょう)などです。
祇園の中にも2つの花街があります。「祇園甲部(ぎおんこうぶ)」と「祇園東(ぎおんひがし)」です。
八坂神社より西側の祇園を、東西に走る四条通と、南北に走る花見小路通で4分割すると、北東の一画が祇園東、それ以外が祇園甲部となります。
通常、花街の祇園と言えば祇園甲部を指します。
花街の格は、そこへ通う客の質が決めると言っても過言ではありません。
それぞれの花街は、それぞれを支えてきた客層によって、それぞれの風格が形成された様です。
上七軒は西陣が近い為か大店の旦那筋が多く、先斗町は南座の近くにある為か役者筋が多いそうです。
その中でも、規模、格ともに別格なのが祇園です。客筋は、政界、経済界、宗教界、芸能界ともに各界の一流が集う街、それが祇園です。
祇園のハードとソフト
花街としての祇園を構成する主なハードウェアは「お茶屋(おちゃや)」「仕出屋(しだしや)」「屋形(やかた)」です。
それぞれのハードの中に「女将」「料理人」「芸・舞妓」というソフトウェアがあります。
これらの説明を簡単にしてみましょう。より詳細な内容は、検索エンジンで幾らでも引っかかりますので、そちらの方を参照してください。
お茶屋はお客をもてなす場所です。お客のリクエストに応じて、場所、お酒、料理、接待する人を準備します。
場所とお酒はお茶屋が用意しますが、料理と接待する人は外部へ委託します。その委託先が仕出屋と屋形です。
仕出屋は料理を作り、タイミングを見計らって一品一品をお茶屋へ届けます。
屋形は置屋とも呼ばれますが、芸妓、舞妓を抱えるプロダクションの様なものです。
お茶屋の女将は宴会の演出家、料理人は小道具係、芸・舞妓はタレントといったところでしょう。
そして、何より祇園で大切なソフトウェアが、そこに通う客です。遊ぶお客無くして、祇園は成り立ちません。
花柳界としての祇園
祇園とは切っても切れない存在があります。それが、京舞・井上流です。
井上流は、お座敷で舞われる「お座敷舞」です。井上流に限って「踊(おどり)」とは言わず「舞(まい)」と言います。
井上流の先代家元、四世・井上八千代は人間国宝、現家元の五世・井上八千代は40代の若さで芸術院会員となられています。
毎年4月に開催される有名な「都をどり」は井上流の主催ですし、祇園の芸妓、舞妓は、すべて井上流の舞を習います。ですから、お座敷で舞われるのも井上流の舞です。
言い方を変えれば、井上流の舞が、祇園を支えてきたともいえます。
芸・舞妓に限らず、祇園に生きる人にとって、京舞・井上流はとても大切なものなのです。
特別天然記念物「舞妓」
京都を連想してこれが出てこない人がいない程、世界的に知られた存在が舞妓でしょう。
今更説明の必要も無い程、メジャーですが、改めて力説するなら、舞妓の仕事は、舞を舞う事です。
舞妓と呼ぶのは京都の花街だけの様ですが、その他の花街では半玉と呼ばれたりします。
簡単に説明すると、芸妓として一人前になる前の修行期間が舞妓です。
大抵の妓は中学を卒業してからすぐに花街へ入りますから、歳の頃だと16〜20歳ぐらいになります。
しかし、巷の同世代の女の子の様に無神経で不躾ではありません。精神年齢は見た目以上にずっと大人で、話しをしても不快になる事はまずありません。
とはいえ、本当の素顔は不安定な少女なのです。それを白粉(おしろい)で隠し、世界的なVIPの前でも物怖じしない気心は、祇園の伝統に躾られた賜物でしょう。
祇園には、ほんの数えるほどしかいない、そんな特別天然記念物の様な貴重な存在、それが舞妓です。
お酒は気持ち良く呑みたいでしょ?
酒を呑むのなら、楽しく呑みたいと思うものです。
カラオケが無いと面白くない人、女性の体に触れないと不満な人、バカ騒ぎしたい人、楽しみ方にも色々あります。
しかし、自分が楽しみたいが為に、自分以外に迷惑をかけてる人が多いのが実情ですね。
お酒の呑み方にもTPOがあります。それのわからない子供達が我が物顔で他人の領域まで入ってくる酒場には、はやく見切りをつけたいものです。
酒場には酒と気持ち良く酔わせてくれる人だけがいれば、それだけで充分なのです。
だから、祇園へ行っちゃいましょうよ
祇園は大人の集う場所です。
大人といっても、成人している人という事ではありません。人として精神的に確立されているという意味です。
花街とお客の接点であるお茶屋が客を選ぶのはその為です。
お茶屋というと、何だか堅苦しいイメージがありますが、お客のお茶屋の利用スタイルの変化に伴って、その役目は貸し座敷業からお酒を呑む場所へと変わりつつあります。
おそらく、お茶屋を利用する大半が、芸・舞妓の芸を楽しむのではなく、お酒を呑む為に通っていると言っても良いでしょう。
ですから、お茶屋には気軽にお酒を呑めるホームバーを持つところが多くなりました。
つまり、お茶屋では必ずしも座敷に座って料理を頼んで舞を鑑賞する必要が無い訳です。
ふらりと立ち寄って、ホームバーのカウンターへ腰掛けて、水割りを飲むだけでも充分OKなのです。
クラブやスナックで、お金を払ってまで、我侭なだけのホステスに気を遣っている自分に疑問を抱いたら、思いきって、祇園へ行っちゃいましょうよ。
重い伝統に押し潰されてしまうのかと思いきや、予想に反して居心地良く過ごせる粋(すい)な場所。そんな不思議な空間、それが祇園です。 
■お客
一見さんお断り
京都の悪口で一番最初に出てくるのが、この「一見(いちげん)さんお断り」ではないでしょうか。初めてのお客は受け入れないというシステムです。
今、祇園で純粋に一見が入れない店は、お茶屋と一部の料理屋ぐらいではないでしょうか。祇園にひしめくお店の数からすれば、それは数%にも満たないと思われます。しかし、その数%の中に花街があります。
どうして、こんなシステムがまかり通っているのか不思議な人も多いでしょう。
色々な方が、それを解説しておられます。よく聞く理由としては、「支払いはツケが原則なので、身元のわからない一見さんだとトラブルの元になる」とか、「好みのわからない一見さんだと、もてなしのし様がない」とか、「秘守性が求められる場所に、身元不明の人は入れられない」といったところが有力説です。
勿論、それらも理由の一つでしょうが、私は「馴染みのお客さんに、気持ち良く過ごしてもらう為」だと思っています。
酒場は、雰囲気が大切です。そこに通う人は、その雰囲気が気に入ってそこにいる訳です。
そこへ雰囲気の異なるお客が入ると、もう、酒場としてはだいなしです。馴染みのお客さんによっては、足が遠のいてしまう場合もあるでしょう。
得体の知れない一見を断って、馴染みのお客に店の雰囲気を保証しているシステム、それが、一見さんお断りなのです。
お茶屋へGO!
花街と関わる方法には色々あります。一番簡単なのが、お客として関わる場合ではないでしょうか。その場合、花街との接点がお茶屋(おちゃや)になります。
タイトルでは「お茶屋へGO!」などと気安く書いていますが、そんなに簡単に行ける訳ではありません。
そこには、一見さんお断りという、大きな壁が立ちはだかっているからです。
一見さんお断りのシステムで疑問に感じている人が多いと思います。「誰だって最初は一見のはず。それでは、今のお客はどうやって入れたの?」という疑問です。
実は、一見でも馴染みのお客と同伴ならば入れてもらえるのです。その代り、一見の人がそこで起こす不具合は、その責任の全てを同伴した馴染み客が負わなければなりません。
そうやって何度か通ううちに、「この人なら店を大事にしてくれる」と女将に認めてもらって、はじめて一人で通える様になるのです。
このお茶屋という場所は不思議なところです。通常の商取引ではお金を払う人が偉いものですが、ここで一番偉いのはお客ではなく女将です。
女将が威張ってるという意味ではありません。女将は常にお客が心地よく過ごせる様、気を配ってくれています。
ですから、お客が道を踏み外しそうになると、「○○するのは止めなさい。あなたには似合いませんよ」と注意を促してくれるのです。
お客の方も、女将が自分の事を気遣ってくれている事を十分知っていますから、「ん、そしたら止めとく」と素直に従います。
まるで、親が子供を叱る様ですね。これは、女将とお客との間に、商売以上の信頼関係が築かれているからこそできる事です。
その信頼関係がある以上、女将はお客を身内と思って接しているのではないでしょうか。だからこそ、お客はそこを居心地良く感じるのです。
浮気者は嫌われる
男女の間は勿論、浮気は嫌われる行為ですね。花街でも同じです。
花街には「ほうきのかみ」と呼ばれる言葉があります。「あの人は『ほうきのかみ』だから」と噂されれば、その人は祇園では既に死んでいます。
何故なら、一つの花街でお付き合いできるお茶屋は一軒だけ、というルールがあるからです。
そのルールを破って複数のお茶屋と付き合う人を「ほうきのかみ」と言い嫌われます。
花街は信用社会ですから、そのルールを破れば信用失墜で、それなりの扱いを受ける事になります。
このルールは、一つの花街で一つのお茶屋、という事ですから、祇園に一軒、先斗町に一軒という場合は問題ありません。
また、普段、祇園のAというお茶屋を利用していている人が、Bというお茶屋を利用している人と一緒にBのお茶屋へあがるというのもOKです。但し、支払いはBを利用している人がする事が前提となります。
何故、このようなルールがあるのかは定かではありませんが、おそらく、花街の芸・舞妓デリバリー・サービスにその意味があるのだと思われます。
普通、とあるクラブにお目当ての女性がいるとしたら、お客はそのクラブへ行かなければなりません。他に好みの子がいれば、その子の所属するクラブへとハシゴする事になります。
しかし、花街の場合は違います。気に入った妓は、どこの屋形に所属する妓であろうとお茶屋へ呼べば済む話です。つまり、花街ではお茶屋をハシゴする必要が無い訳です。
きっとこのルールは、長い歴史の中で、先人達が培ってきた伝統なのでしょう。
とはいえ、「浮気は○○の甲斐性」などと言われますし、何にしろ皆さんこっそり励んでおられるのではないでしょうか。
祇園のお化けは冬に出る
二月三日は節分です。祇園では節分を「お化け」と言い、賑やかな催しがあります。
芸妓が数人でグループになって、お座敷でちょっとしたパフォーマンスを披露するのです。ひらたく言えば学芸会の様なものですね。
祇園では、舞は井上流だけと決められていますが、この日ばかりは違います。他の流派の踊りでもお座敷で踊る事ができるのです。
とはいえ、披露する出し物は、事前に舞のお師匠さんに見せて許可をもらわなければいけないらしく、あまり突拍子も無いものは自粛されている様です。
毎年、幾つかのグループが出没しますが、数年前に「水戸黄門」がありました。
お茶屋から次のお茶屋へ移動する時も、水戸黄門の衣装ですから、四条通を渡る黄門様ご一行を見かけると、つい吹き出してしまいそうです。
途中でご贔屓さんに出会ったりすると「おにいさん、おおきに」と挨拶しますから、やけにペコペコした黄門様は滑稽で見物でしょう。
カセットデッキを片手にお茶屋を回るお化けの一行は、祇園の風物詩の一つです。
納税は国民の義務です
お茶屋のお客として辛い時期が、四月の都をどりの前と、十月の温習会の前です。
何が辛いのかといえば、その切符を買わされるからです。
馴染みの妓に会うたびに、「○日、お茶席当番なんどす。来とおくれやす」とせがまれ、「よっしゃよっしゃ、行ったる行ったる」などと好い加減な返事をしていると、お茶屋の女将から切符を渡されてしまいます。
それが、一枚二枚ならまだ何とかなりますが、枚数が多くなると、こなしきれなくなってしまいます。
いっその事、その時期には祇園へ近づかないという手もありますが、切符が突然郵送されてきたりしますから侮れません。
まあ、国民の義務の様なものです。
カメラマンうじゃうじゃ
京都は観光都市ですから、祇園にもカメラ片手の観光客が押し寄せます。
しかし、最近、特に多いのが、芸・舞妓を狙ったアマチュア・カメラマンです。始業式や八朔(はっさく)といったイベントになると、祇園はカメラマンで埋め尽くされてしまいます。
誰にも迷惑をかけずにシャッターを押すだけなら何も言いませんが、この輩達のマナーの悪さには閉口してしまいます。
群がって道路は閉鎖してしまうし、芸・舞妓にあれこれ注文する不躾な奴はいるし、たまたま通りかかった通行人にまで「邪魔だ」と文句を言ってきます。
撮られる方の芸・舞妓も、その横暴ぶりにキレてしまう事があるそうです。
まあ、全てのカメラマンが不躾だとは言いませんが、撮られる方はたまったものではありません。
「ほしたら、ちょこっと寿司でも食いに行こか」と連れ出した芸・舞妓と一緒のところをバシバシ撮られたりする訳です。
そして、知らない人のホームページへ知らないうちにその画像が掲載されたりして、全世界へ向けてヘベレケの恥ずかしい姿が発信される訳ですね。
芸・舞妓の肖像権は、かなり煩いのを肝に銘じるべきです。画像をうかつにホームページへ貼り付けたりすると、ある日突然、訴状が届いたり、手痛いしっぺ返しを食らうこともある様です。
あぶら虫
勿論、ゴキちゃんの事ではありませんが、ゴキちゃんの様なものです。
あぶら虫とは、お茶屋の帳場などに上がり込んで、只酒を呑んでいる輩の事です。勿論、虫はお金を払いません。
あぶら虫レベルは、相手とかなり懇意な関係でないとできません。祇園に関わる上での究極の形といっても過言ではないでしょう。
祇園と関わる方法としては、お客としてが一番簡単な方法である事は書きましたが、その他にも関わる方法がいくつかある様です。
その一つが、あぶら虫の様に、祇園内部の人と個人的なお付き合いをする事です。
最近、よく目にするのが「カメラ虫」です。芸・舞妓の写真を撮っては相手に渡し仲良くなるのです。
勿論、見知らぬ人から芸・舞妓が写真を受け取ってくれるはずがありませんから、芸・舞妓と懇意なカメラ虫仲間や、芸・舞妓が立ち寄る甘味処などの主人と仲良くなって渡してもらう様です。
そのうちに芸・舞妓と顔見知りになり、ちゃっかり仲良くやっている人もいます。
とはいえ、その世界にも、プロやセミプロを頂点とした幾つかの派閥や序列がある様で、派閥間をのらりくらりしたり、先輩を差しおいて目立つ行動をとったりすると、ピシャリと手痛い仕打ちを受け、再起不能に陥る様です。
あぶら虫、カメラ虫にしろ、お客として祇園に接するよりは、かなりの苦労が必要です。
祇園内部の人と個人的なお付き合いをする為には、祇園の知識やルールを熟知しておく必要があるからです。つまり、かなりの高等テクニックが必要とされます。
襟替え
舞妓が芸妓になるのが「襟替え(えりかえ)」という儀式です。
舞妓の赤色の襟が、芸妓の白色の襟に変わるので、そう呼ばれています。
襟替え時期の明確なルールは無いのですが、二十歳前後でするのが普通です。
その時期を決めるのは、屋形のおかあさん(女将)と、お姉さん芸妓だそうで、おぼこい(幼く見える)妓は、二十歳を過ぎても「なかなか、襟替えさしてもらえへん」とブーブー言っていますし、えずくろしい(大人っぽい)妓は、二十歳前でも襟替えしたりします。
舞妓にとって襟替えは重要な儀式で、襟替え前の一週間ぐらいを、黒紋付の着物と、お歯黒、さっこうと呼ばれる髪形で過ごし、お座敷では「黒髪」という舞を舞います。
さっこう時期の舞妓が横に座ったら、熱いお茶を前に置いて「ワシの祝いや、まあ、お飲み」と言っていじめます。お歯黒は蝋ですから、熱いお茶を飲むと溶けて流れてしまうんですね。
おぼこかった舞妓が襟替えを過ぎると粋な芸妓に変わるから不思議です。
馴染みの舞妓が襟替えだと聞くと、嬉しくもあり寂しくもあり、複雑な心境になってしまいます。
小遣い3万サラリーマン
少し下世話なお話をしましょう。
祇園に通うお客には、サラリーマンの何十倍もお金を稼いでいる人が多い様です。
ですから、お金持ちだけが通えるところと思われがちですが、必ずしもそうではありません。
小遣い3万円の家庭持ちサラリーマンでも行く事は可能です。
勿論、毎日の様には通えませんが、ホームバーのカウンターに座って水割りを舐めながら、他のお客が呼んだ舞妓を物珍しげに眺めるだけなら、スナックへ行くよりは高めですが大差はありません。
都をどりと温習会の切符は、家族分だけもらって、みんなで楽しんでしまいましょう。をどりの後は、夫婦連れ添ってお茶屋へお邪魔するのも良いものです。
奥方からしても、普段、亭主が呑んでいる場所を見れると安心するらしいですし、貧乏人は綺麗どころとはお話すらできない事を強調しておくと、くだらない疑惑も無くなるというものです。
心配なのは、逆に奥方の方がお茶屋遊びにハマってしまわないかという事だけです。
粋になりたや素質無し
憧れは誰にでもあると思います。
「こんな雰囲気いいな」とか、「こんな人になりたいな」といった事を一度は感じた事があるのではないでしょうか。
ちょっと思うだけなら、そうなる努力をしない事が多いのですが、凄く思った場合は、少しぐらいの努力はするものです。
まず、それにふれてみるのが良いですね。どんなものなのか間近に感じてみる事です。そうすれば何かが見えてきます。
その場の雰囲気は、その場にいる人が作っている事が多いのですが、お茶屋のそれもお客が醸し出すオーラの様なものでできている様です。
凄く良いんですよね。観察してみるに皆さん粋です。
同じ事を違う人が話すと、話す人によって感じ方が違った物になりがちですが、たとえ私が一字一句違わず彼等と同じ事を話したとしても、あの場の雰囲気は保てないでしょう。
まあ、私に、粋の素質が無いだけのお話なのですが、それに少しでも近づける様、鋭意努力中です。
祇園恋しや道はある
今は昔と違い、人と知り合える機会が大きく広がりました。
こうして、このページを読んでいただけるのも何かの縁ですし、このページ以外にも沢山のサイトが見つかった事と思います。
私の拙い文章では、祇園の良さの少しも表現できないのがもどかしいのですが、これを読んで「祇園へ行ってみようかな?」と感じた奇特な方がおられれば嬉しいかぎりです。
その気持ちが薄れないうちに、ぜひ祇園へ行く努力をしてください。その努力のヒントは、このページの中に書いたつもりです。
祇園への募る思いがあれば、必ず道は開けます。がんばってください。 
■徒然なるままに
「おおきに」の罠
これはあまりに有名で、今更ながらここに書く事でも無いとは思うのですが、品揃えという意味で書いておきましょう。
京都弁は物腰が柔らかく、聞く者を不快にさせません。それには理由があって、実は「ノー」という断りの言葉が無いのです。
それでは、どうやって断るのでしょう。実はそんな時、便利な言葉があるのです。それが「おおきに」です。
もともと「おおきに」は、「おおきにありがとう(たいへんありがとうございます)」の略なのですが、どうして、この感謝の言葉が断りになるのでしょうか。
例えば、はじめて横に座った舞妓に、「今度、飯でも食いに行こや」と誘ってみます。
すると大抵、「おおきに、ありがとさんどす」と答えます。
普通なら、感謝されれば「OK」の意味ですが、京都ではこのケースは「NO」となります。
それなら何で「おおきに」なんて気を持たせる事を言うんだ!? と思われる方も多いと思いますが、それではまだまだ修行が足りませんね。
実は、ここで言う「おおきに」は、誘ってくれた事に対しての感謝で、行く行かないの返事ではないのです。肝心の返事の部分は沈黙して結果を出さず、暗に「NO」と答えている訳ですね。
OKの場合なら、「おおきに、ありがとさんどす」の次に「ほしたら何時がよろしおすか?」と具体的な内容が続きます。
NOと言わない京都人と意思疎通するには、ちょっとした鍛錬が必要なのです。
○○御旦那様
都をどりや温習会が近づいてくると、芸・舞妓は贔屓筋にプログラムを配ります。
小さめに折り込まれたプログラムには薄い熨斗紙が巻いてあり、宛名が筆書きされています。
それぞれの個性的な墨付きを見るに、芸・舞妓の直筆だと思われますが、爆笑を誘う字体も少なくありません。
宛名には「○○(ご贔屓さんの名前)御旦那様」と書かれています。
何だか凄いですね、正式な日本語では無い様な気もしますが、御・旦那・様と3段階に持ち上げられれば、意味不明でも悪い気はしません。
悪い気はしないのですが、プログラムと一緒に何気にくっ付いてくる、チケットさえ無ければ、もっといいんですがねぇ……
御旦那様に似た引用で、芸・舞妓が、お姉さんの芸・舞妓を名前で呼ぶときは、○○さん姐さんと言います。
祇園では、摩訶不思議な日本語が使われているのです。
都をどりのパンフレット
都をどりのパンフレットは、確か、5〜600円だったと思いますが、花街ファンにとっては実に有益な情報が詰まっています。
勿論、をどりの出典や背景、説明が載っているのですが、その素養が全く無い私にとっては、何が何やらさっぱりわからん? の世界です。
嬉しいのは、芸・舞妓の顔写真と名前が載っている事です。特に名前はローマ字表記があるのも嬉しいですね。中には、「おいおい、これで何でこう読むの?」とツッコミたくなる名前もあるからです。
パンフレットは、全員の芸・舞妓を網羅している訳ではないのですが、現役主要メンバーはおさえられます。
この顔写真、1月の始業式の際に、毎年撮影するらしいのですが、年ごとに雰囲気が違って面白いのです。
強面に写っている年、優しく写っている年、おデブに写っている年など様々ですから、毎年、違う人が撮影しているのかと思いきや、同じ人なのだそうです。
特に舞妓の場合は、「この1年で君に何があったの?」と言いたくなる程、全くの別人になっている妓もいますから、前年のパンフレットと照らし合わせながら見ると、興味深さも増すというものです。
パンフレットの謎・その1
都をどりのパンフレットには、芸・舞妓の顔写真が載っている事は書きました。
写真の掲載順は、大きい順(見世出しした順)と聞いているのですが、写真を見る限り、オイオイと突っ込まずにはいられません。
何故なら、大きい人のあたりは、どう見ても年齢順とは思えないふしがあるからです。
勿論、見世出し順が年齢順とは限りませんが、大きく違う事はないはずです。
基本的に写真は毎年撮影し直しているはず、たとえ2〜3年、撮影をすっぽかしたとしても、こうまで(大袈裟に言うと親子ほど見てくれ)は違わないはずです。
スゴク怪しい…… 白塗りのせいだろうか? それとも、井上流の名取りなどの関係で、途中で順位が変わってしまうのだろうか?
ずっと疑問に思っていたのですが、ある日、この疑問は解けました。とある舞妓にその旨を打ち明けると、大笑いしながら教えてくれました。
一部の大きいお姐さんの写真は、もう長い間、昔のものを使いまわしているのだそうです。
う〜ん、なーる程! だから、見てくれの逆転現象が起こる訳かぁ!
聞いてみれば簡単なオチでしたが、長い間の気がかりが解けてとても嬉しかったです。
そうそう、パンフレットで思い出しましたが、末巻には「お茶屋一覧」なるリストが掲載されています。
勿論、電話番号も記載されているのですが、市外局番はおろか、局番すら書かれていません(注:実は局番は別に明記してあります)。4桁の番号のみです。
市外局番や局番は暗黙の了解という事なのでしょうが、これは「電話するな」と言っている事と同じですね。まさしく他意は無いと思います。
パンフレットの謎・その2
都をどりのパンフレットの写真の並びには、もう一つの謎があります。
顔写真の紹介は、芸妓と舞妓が別々のコーナーで紹介されているのですが、舞妓が襟替えして芸妓になれば、舞妓のコーナーから芸妓のコーナーの末席へ移動する訳です。
つまり、移動後の順番は襟替えした順になるのです。
そこで問題発生です。必ずしも見世出し順に襟替えする訳ではありませんから、移動した時点で、見世出し順というルールが崩れてしまいます。
ひょっとしたら、襟替えした時点で順位が再定義されるのでは? と考えていたのですが、どうやらそれは間違いの様です。
実は、その次の年には、ちゃんと見世出し順に改められています。
つまり、芸妓であろうと舞妓であろうと、その身分には関係無く、見世出しした順番で序列が決まるというルールは不変な訳ですね。
ですから、早くに襟替えを済ませた芸妓は、先輩であれば舞妓にも頭を下げるという逆転現象が起こります。
パンフレットネタをもう一つ、パンフレットの末巻に「お茶屋一覧」が掲載されている事は書きましたが、以前は「屋形一覧」も掲載されていました。
しかし、ある年を境に無くなってしまったそうです。
舞妓と連絡を取りたくて屋形に電話する輩が、トラブルを起こしたからだそうです。
なんと無粋な話でしょう。舞妓と会いたいのであれば、お茶屋へ呼ぶのがルールです。
パンフレットの謎・その3
パンフレットに掲載された大きいお姐さん方の写真は、もう長い間使いまわされている事は書きました。
が、なんと、今年(平成14年)のパンフでは一部のお姐さんの写真が更新されているという事態が発生しています。
昔の写真は、それから現在を推測するのをはばかる程だったのですが、新しくなった写真はかなりイケてる心象を受けました。
絶対に、今の写真の方が良いと思う私です。
そこで謎なのですが、何故、大きいお姐さんは昔の写真を使いまわすのでしょうか? そして、何故、今回一部のお姐さんだけの写真が更新されたのでしょうか?
それを紐解くには、幾つかの条件を把握する必要がある様です。
まず、パンフの芸妓の写真は必ず黒紋付の正装姿であるという事、そして、この写真は正月の始業式に撮影されるという事です。
そこで、ハタと気が付きます。
芸妓が始業式に臨む際、必ずしも黒紋付姿では無い人もいるという事実です。
若手芸妓は必ず黒紋付のお引きずり姿での出席が義務付けられますが、ある程度の大きいお姐さんはお引きずり姿が免除されるのです。
どのタイミングから免除されるのかは明確なルールが無い様ですが、噂では40歳ぐらいかららしいです(注:あくまで噂)。
ここで、謎が解けますね。
黒紋付を免除されてからは、正装姿で始業式に臨まないので写真の更新ができない訳です。
今回、更新されたお姐さん方は、きっと始業式へ正装姿で臨むべき晴れがましい事でもおありだったのでしょう(等と、推測しています)。
事実、更新された写真からは、凛として自信に満ちた表情が伺えます。
お姉さんを探せゲーム
舞妓が見世出しする際には、引いてくれるお姉さんがいます。
花街にいる限りは血縁より濃い姉妹として、どちらかが死ぬまでそのお付き合いは続きます。
自分の名前を決める際に、お姉さんの名前から一文字をもらう場合が多いので、姉妹関係は想像がつきます。
名前に決まり事のある屋形もあるので、名前を聞いただけで屋形がわかる場合もあります。
冷静に考えるに、舞妓に「屋形はどこや」と聞く事はあっても、「お姉さん誰や」と聞く事がない様な気がします。そのせいか、芸・舞妓の姉妹関係には暗い私です。
ですから、都をどりのパンフレットを開いて、姉妹関係を模索するのは、結構、楽しい作業です。
「豆」繋がり、「照」繋がり、「子」繋がりなど、妄想は尽きません。
残念なのは、全くといっていいほど縁の無い系列がありますから、確認できないのがイマイチです。
引いてくれるお姉さんで思い出しましたが、とあるお人が言っておられました。
大きいお姐さんに引かれるのは大変なのだそうです。
ちなみに、どうして大変なのかは知りません。きっと何かがあるのでしょう。
花代
花代(はなだい)とは、芸・舞妓を呼んだ時に支払う料金の事です。関東では玉代(ぎょくだい)とも言われ、時間で課金されます。
単位は「本」で、昔は時間をはかるのに線香を燃やして一本が無くなるまでを一単位としたなごりです。
一本の時間は各花街で異なる様で、祇園甲部では5分が一本らしいのですが、定かではありません。勿論、一本がいくらなのかもはっきり知りません。
実は、組合で定められた金額があるらしいのですが、知る人は少ない様です。
実際のところ、花代の他にご祝儀とかもかかりますし、このご祝儀は季節やタイミングによってまちまちですから、不明度はさらに濃くなります。
勿論、明細の無い請求書からはそれを推測する事すらできないのが実情です。
基本的に祇園では無粋な話はダブーですから、この手の話題をする事もないでしょうし、おそらく、ずっと知らないままだと思います。
それで特に問題はありません。祇園では、それでいいのです。
ごはんたべ
ごはんたべとは、お客が芸・舞妓と食事(又は遊び)に行く事を言います。
勿論、芸・舞妓を拘束している間の花代もかかります。芸・舞妓の夕方からその日一日の花代と、食事にかかる全ての料金がお客の負担となる訳です。恐ろしい話ですね。
ごはんたべは、その負担をすれば誰でもできるのかといえば、決してそうではありません。
基本的には、芸・舞妓本人、お茶屋の女将、屋形のおかあさんがOKを出さなければ実現できないのです。かなりの信頼を得ているお客で無いと無理ですね。
信頼性がちょっと、というお客の場合は、それに女将がくっ付いてくる場合もありますから、たまったものではありません。
ごはんたべの時は、そんなり(白粉をしない普通の和装)ではなく、洋装で来てもらう事も可能です。勿論、あの日本髪はおろします。
お客は仕事帰りになりがちですから、スーツ姿のオッサンと大人ぶった少女の組合せは、傍目からもかなり怪しいカップルにできあがる訳です。
行き先は、夕方からという事もあり、圧倒的に料理屋が多い様ですが、日頃から和食を見慣れているせいか洋食が喜ばれる様です。
もっとも、何処へ連れて行っても嫌な顔はしませんので、マク○ナルドへ連れて行って、その後、カラオケしたという猛者がいると聞いた事がありますが定かではありません。
ごはんたべは、贔屓にしている芸・舞妓を、たまには気がね無しでゆっくりさせてやろうという、お客の優しさで、他意はありません。
舞妓さんは名探偵
ちょっと前に、『舞妓さんは名探偵』というTV番組がありました。今でもたまに再放送で見かける事があります。
舞妓が主役、男衆が準主役で、祇園を舞台に起こる奇怪な事件を、主役の舞妓が解決するという内容でした。
その番組を見ていて思うのですが、あんなにコロコロと和装と洋装を繰り返していたら、「いったい一日に何べん髪結いさんへ行かなならんねん?」と突っ込んでしまいたくなります。
芸妓は鬘ですが、舞妓は地毛です。あの設定は100%ありえません。
もし仮に、あのスパンで洋髪と日本髪を繰り返していたら、絶対に頭のてっぺんが○○ますね。
日本髪は思いのほか髪にダメージを与えるのだそうで、結い上げるというよりは引っ張る感じになり、どうしても抜け毛が多くなるそうです。
大きな声では言えませんが、♪ひとつ、舞妓にゃ○○がある…… という歌もあるぐらいです。
それを嫌って、頭のてっぺん部分を短くしてしまう妓もいるそうですが、髪をほどくと恐ろしい髪形になりそうで想像すらできませんね。
髪の少ない私には、舞妓の○○には親近感のわくところではあるのですが、基本的には、ふれてはいけない領域です。
知らん顔をしてあげましょう。いけずネタにはもってこいですが……
携帯でお話できない芸・舞妓
最近は携帯電話を持ち歩かない人の方が少ないのではないでしょうか。
かく言う私もそうで、すっかり生活必需品になっています。
そんなですから、大切な電話がかかってくる事が分かっている時などは、つい電波の状況が気になってしまいます。
色々な方々から聞くに、お茶屋のホームバーは電波の届きにくい場合が多い様です。
お茶屋自体は質素な京町屋なのですが、意外や意外、結露防止や防音対策が施されたりしていて、頑なに電波の進入を防ぐ様です。
窓際でアンテナ1本といったところでしょうか。
そんなですから、電話がかかってくると、少しでも電波の状態が良くなる様、アンテナを伸ばします。それでもギリギリ話ができるぐらいです。
ある晩、とある舞妓とおしゃべりしていると、携帯が鳴りました。
すかさずアンテナを伸ばして出てみると、偶々その舞妓も知っている御仁からで、替わってくれという事になりました。
舞妓に携帯を渡すと、アンテナをたたんで耳にあて一言、「あ、切れてしもた……」。
そりゃそうです。電波の状態が悪いのですから、アンテナをたためば切れてしまいます。
実は舞妓の日本髪、耳を覆う様に結われている為、アンテナをたたまなければ邪魔になって電話を耳につけれないんですね。
お茶屋では、携帯でお話できない、芸・舞妓の話でした。
四条通の見えない横断歩道
洛中のメインストリートである四条通の花見小路通から東大路通までの間には横断歩道がありません。
花見小路通と東大路通の間にある祇園ホテル横の通り(この通りの名前を知らない)から四条通を横断したい場合は、とても困ってしまいます。
この通りから四条通を横断しようとすると、横断歩道のある花見小路通まで迂回しなければならないのです。
結構、距離があるんですよね、迂回すると。
特に、ヘベレケに酔っ払っていると、一歩でも多く歩きたくないし、気分も大きくなってしまいます。
で、どうなるのかというと、渡りたくなるんですね、勿論、横断歩道の無いところを。
しかし、冷静に考えると無謀なお話です。
何車線もあり、深夜といえども交通量がかなりある広い四条通を横断するのは自殺行為です。
ところが、ある条件が揃えば、その無謀な行為も簡単にこなせてしまいます。
実は、舞妓を連れていれば、四条通に一歩足を踏み入れただけで、車が止まるのです。
あの、意地悪なタクシーでさえ急停車してくれるから不思議です。
何故かというと、舞妓をはねたら、めっちゃくちゃお高くつく事を皆さんご存知だからです。
お客のオッサンをはねても、お茶屋遊びをしている様な旦那衆ですから、一歩間違えたら大問題になるかも知れません。
ですから、タクシーの運転手は、その通りの前には、見えない横断歩道があるのを知っているのです。
舞妓のまわりは治外法権、ひょっとしたら、四条河原町の交差点を斜めにだって渡る事ができるかもしれません。 
■祇園のこと
お茶屋
現在、祇園にはお茶屋が約90軒あります。名前だけで開店休業状態のところもありますから、実働しているのはもっと少ないはずです。
お茶屋は貸し座敷業と言えば分かりやすいのかもしれません。お客に対して、遊ぶ場所を提供し、心地よく過ごしてもらえる様、気をくばるのが仕事です。
「お茶屋遊び」という言葉を聞いた事があるかもしれませんが、イメージとしては、料理を頂きながら踊る舞妓を鑑賞する、といったところでしょうか。
そして、大部分の人が、「そんな事して、何が面白いんだ?」と思っているはずです。
それは間違いではありませんが、それでは表面しか見えていません。
お茶屋の座敷に上がる(宴会を催す)お客は、何らかの目的を持っています。例えば、お祝い、接待、会合などです。
つまり、飲食や芸・舞妓といった外から見える部分は、その目的を達成する為の演出にすぎない訳です。
お茶屋はお客の宴を全力でサポートしてくれる心強い味方なのです。
しかし、その宴の場所も、最近ではお茶屋から料亭などへ移行しつつあります。
つまり、お茶屋の主要業務が、貸し座敷業から、お酒を提供する事へ変わりつつあるのです。
そういったニーズの変化をとらえて、最近のお茶屋では、座敷の他にホームバーを持つところが多くなりました。
遊びのスタイルも時代とともに変わり、サービスの形態もそれに迎合せざるを得ないのが実情です。
屋形
屋形(やかた)は子方屋(こかたや)とも呼ばれますが、置屋(おきや)といえば分かりやすいかもしれません。芸・舞妓の所属するプロダクションの様なものです。
現在、祇園に何軒の屋形があるのかは知りませんが、パッと思いつく屋形の名前を数えるに7軒はある様です。
屋形は、芸妓を志す少女の全てを受け持ちます。
今は義務教育があるので、中学校を卒業してから屋形へ入ります。中には屋形から中学校へ通う少女もいます。そして、一人前の芸妓になるまでを屋形で生活します。
勿論、その間にかかる莫大な費用は屋形が負担します。食事、着物、お稽古代、おこずかいなどの全てです。
その代り、一人前の芸妓になるまでは無給となります。
屋形では、舞妓になるまでの仕込みと呼ばれる期間に、言葉や立ち振舞いなどの躾、舞などの芸事の習得をさせます。
これらが及第点に達し、お許しがでて、やっと舞妓になれる訳です。
あまりの厳しさに、お仕込み期間の途中で挫折してしまう少女も多いと聞きます。
今では舞妓になる為に全国からの希望者が殺到するそうですが、その昔は、口減らしや借金のかたに、祇園へ身売りされてくる少女もあった様です。
しかし、以前、かなり大きい(年配の)お姐さんが、「ウチが祇園に売られてきた最後の子どす」と言われていましたので、少なくとも戦後になってからは身売りで祇園に来た少女はいないはずです。
おちょぼ
舞妓になるまでの教育期間の少女を「仕込み」と言います。別名「おちょぼ」です。
舞妓を志す少女は屋形へ入り、そこで生活します。中学生の場合は、屋形から中学校へ通う場合もある様です。
この期間に、屋形の手伝いをしながら、花街の知識、言葉、基礎的な舞を習得します。
おちょぼ期間は1年程度ですが、舞の仕上がり次第で2年かかる場合もある様です。
舞妓になるには、第一に舞の出来が大切です。舞妓の仕事は舞を舞う事ですから、これができないと話になりません。
舞のお師匠さんに認められて、はじめて舞妓になる事のOKが出ます。
舞が仕上がる頃には、京都弁も板についてきます。そうなると、舞妓になる準備がはじまります。
まず、引いてもらうお姉さん芸妓を決めます。「引いてもらう」とは「後見人になってもらう」と言えばわかりやすいと思います。
そして、引いてもらうお姉さんの名前の一文字をもらって、自分の名前を決めます。お姉さんの名前が「豆○」なら、「豆×」とか「△豆」になる訳です。
名前は祇園の長い歴史もあり、その組み合わせが出切った感がありますから、過去にあった名前とバッティングする場合もある様です。
過去に名妓とうたわれた芸妓の名前は、それにあやかる意味で人気がありますが、名前には権利というものがある様で、その権利を持つ屋形の許可があって、はじめて名乗る事ができます。
お姉さんと名前が決まれば、後は、デビューの「見世出し(みせだし)」を待つだけです。
半だら
見世出しの決まったおちょぼは、約一ヶ月間、お座敷での実地研修を受けます。デビュー前の見習期間です。
見習期間中は舞妓と同じ姿ですが、だらりの帯が半分の長さで半だらり、通称「半だら」と呼ばれます。
見習い研修は、お座敷に呼ばれて行くというスタイルでなく、特定のお茶屋で待機して、そこのお座敷へ出るという形になる様です。
勿論、一人でお座敷に出るのではなく、そのお座敷へお声のかかっていた芸・舞妓や女将と一緒に、という事になります。
はじめてのお座敷ですから、接客をするというよりも、お姉さん芸・舞妓の指導で雑用をこなすのが主な仕事になるそうです。この時期に、お座敷とお客の雰囲気に慣れる事が肝心です。
研修場所は常に何かのお座敷がある祇園屈指の老舗「一力亭」が多い様です。一力は午後11時には閉まってしまいますから、遅い時間まで拘束されないのが好都合なのだそうです。
何年か前の温習会の頃、とある舞妓と祇園の北側を闊歩していると、2人の半だらが歩いているのを見かけました。
連れていた舞妓はおきゃんな妓でしたから、人目もはばからず「こんばんは、おおきに、お疲れさんどす」と大声で叫んでいましたが、半だらとはだいぶ距離が離れていた為か、お姉さん舞妓の声が聞こえなかった様です。
私はすかさず、おきゃん舞妓に諭しました。
「(2人の半だらが)どこの屋形の誰かは判ってるんだろうけど、これをネタにいぢめちゃダメだよ〜ん」
勿論、いらぬ心配なのですが、女の世界は怖いのです(注:実際に見た訳では無い)。
舞妓
見世出しの日取りは、陰陽道などのなまじない系を様々な角度から紐解き決められる様です。祇園では、何をするにも日を調べたり、げんをかついだりと、ビックリするぐらいそれらに気をつかった生活がされています。
晴れて見世出しの日を迎えると、男衆(おとこし)の晩酌でお姉さん芸妓と固めの盃を交わし、正式な舞妓となります。
暫くは、お姉さん芸妓に連れられてお座敷をまわり、お茶屋の女将やお客に顔を覚えてもらいます。
舞妓は人数が少なく人気がありますから、そのうち、一人でお座敷がかかる様になるのですが、最初はものすごく心細い様で、その危なげな様子にお客の方がハラハラしてしまいます。
出たて(デビューしたて)の舞妓はすぐにわかります。化粧が下手なんですね。白粉(おしろい)の下地に鬢付け油を塗るのですが、固い油を均一に伸ばすのにはコツがいるらしいのです。これがうまく出来てないと白粉がまだらになるんですね。
出たての頃の舞妓は、髪は「われしのぶ」という髪型で、襟(えり)の色は赤。紅を下唇だけにさします。
それが1年ぐらい経つと、髪型が「おふく」に変わり、紅を上唇にもさします。そして、時間とともに少しづつ襟の色が白っぽくなります。
大昔ですと、水揚げが済むと「われしのぶ」から「おふく」へと髪型が変わった様ですが、今は見世出しから1年程度をめどに変わる様です。
このタイミングには、明確なルールがありません。見世出しして2年以上も紅を上唇にささなかった妓もいますし、あっという間に変わってしまった妓もいます。
どうやら、その妓の見てくれから、屋形のおかあさんとお姉さん芸妓が相談して決める様です。
現在、祇園には舞妓が15人ぐらいしかいません。芸妓と合わせても90人程度です。
お茶屋が80軒程度ですから、日夜、お茶屋間では舞妓争奪戦が繰り広げられる訳です。
「おおきに、ありがとさんどす」と舞妓が挨拶したら、次の瞬間にはもう居ません。舞妓時代は超多忙を極めると言ってもいいでしょう。
そして、その超多忙の中でも、舞の鍛錬を怠らなかった妓だけが、芸妓になっても祇園を生き残れるのです。
水揚げ
このページのここを最初に見たあなたは、なかなかの通ですね。そして、花街の外の人が一番知りたがっているのが、この「水揚げ(みずあげ)」の事だと思います。
今は少なくなりましたが、芸・舞妓は旦那(だんな)と呼ばれるスポンサーを持つのが普通とされていました。
水揚げとは、舞妓が初めての旦那を持つ儀式の事です。
大昔は、旦那の選択権は芸・舞妓には無く、旦那が見初めれば、お茶屋や屋形の女将、男衆が言いくるめて、強制的に添わされました。
水揚げには大きなお金が動きますから、屋形側から少しでも条件の良い旦那にお願いをする事もあった様です。
花街に「身売り」というイメージが根強く残っているのはこの為です。
断っておきますが、今の祇園には「水揚げ」そのものがありません。
たとえお客が、とある舞妓の旦那になりたいと願っても、その舞妓が旦那を持ちたいと思わない限り、それは叶わぬ夢に終わるのです。
今の祇園では、旦那云々というよりも、普通の恋愛としてとらえている芸・舞妓が多い様に思います。事実、落籍(ひか)されて(芸・舞妓を辞めて)、そのまま結婚してしまう例もあるからです。
「水揚げ」という儀式は、今ではその名前だけが残り、ありもしないそれが花街に暗い影だけを落としているのです。
芸妓
舞妓も二十歳が近づいてくると、だいぶ大人っぽくなってきます。
祇園の舞妓はおぼこさ(幼さ)が命ですから、そうなくなってくると、そろそろ襟替えして芸妓になる事を考えなければなりません。
逆に、二十歳を過ぎても、容姿がおぼこい場合は屋形の判断でいつまでも舞妓のままという事もある訳です。
二十歳を過ぎた舞妓は、正月の始業式で「成人舞妓」として紹介されるのですが、本人達にとっては、嬉しいのか恥ずかしいのか複雑な気持ちなのだそうです。
舞妓として出る際に、屋形とは、お礼奉公の年季(ねん)の期間が決められています。中には、芸妓にはならずに舞妓で辞める妓もいます。そんな場合は少しだけ年季が長い場合もある様ですが、屋形によって違います。
舞妓が芸妓になる儀式を「襟替え(えりかえ)」といいます。襟替えが近づくと、どこからともなく旦那話が持ち上がりますから、その気のない妓にとっては煩わしい時期となる様です。
襟替えでは、さっこう呼ばれる髷のついた髪に、屋形のおかあさんやお姉さんにはさみを入れてもらいます。力士の断髪式の様なものでしょうか。
舞妓の髪は地毛で結いますが芸妓は鬘(かつら)です。ですから、芸妓になると同時にバッサリ髪を切ってしまう妓が多い様です。
芸妓になって何が嬉しいかというと、髪の毛を気にしながら眠らなくてもよくなる事なのだそうです。箱枕から頭が落ちて悲惨な状態になり、髪結いさん(日本髪を結ってくれるところ)へ直行する悲劇からの脱却が何より嬉しい様です。
ちなみに、芸妓には、舞専門の「立方(たちかた)」と演奏専門の「地方(じかた)」があります。なり手としては、圧倒的に立方の方が多く、地方の十年後が危ぶまれる昨今です。
男衆
祇園の主役は女性なのですが、唯一その中に、男衆(おとこし)と呼ばれる男性が存在します。
男衆は、芸・舞妓に着物を着付けるのが仕事です。
その昔は、芸・舞妓に関するトラブルや、お茶屋と屋形の間に入って金銭的な折衝事もしていた様ですが、今は着物を着せるだけになってしまったそうです。
意外に思われるかもしれませんが、実は、芸・舞妓は自分で着付けのできる人が少ないのです。
勿論、自分でできる妓もいますが、馴染みの男衆以外が着付けると、「なんや気色わるい」などと言いながらモジモジしています。
やはり、帯などは男手で力強くしめた方が、ピシっと塩梅良く決まる様です。
男衆は、芸・舞妓にとっては一番身近な男性といえますから、芸・舞妓と男衆のロマンスなどを邪推してしまいますが、それは御法度なのです。何だか、飼い殺し状態ですね。
とはいえ、祇園に男衆は数える程しかいませんから、夕方はロマンスどころでは無い程、超多忙を極めるそうです。
都をどりの楽屋などは殆どパニックで、一度に着付ける人数が多い上に、おきゃんな芸・舞妓はお客からのお部屋見舞いなどにはしゃいでなかなか着物を着てくれないらしく、罵声が飛び交う戦場と化すそうです。
をどりの楽屋で思い出しましたが、立方(舞う人)と地方(演奏する人)の楽屋は別々の部屋で、立方の楽屋が「動」なら、地方の楽屋は「静」なのだそうです。
とある舞妓の話によると、ものすごく(雰囲気が)暗い…… いえ、上品なのだそうです。
八坂女紅場学園
都をどりが開催される祇園甲部歌舞練場(かぶれんじょう)に付属する様に建つ八坂女紅場学園(やさかにょこうばがくえん)は芸事の専門学校で、通称「女紅場(にょこば)」と呼ばれています。学園と名がついてはいますが、実は、正式な学校法人では無いというのを誰かから聞いた事があります。
祇園の芸・舞妓の全員が女紅場の生徒です。噂では卒業が無いらしいのですが、定かではありません。
ここでは、舞は勿論、三味線、唄、笛、太鼓など、主だった芸事を習うことができます。
科目によって必須や選択がある様で、システムは普通の学校とあまり変わらない様です。
私はお客として、都をどりや温習会の時などに、馴染みの芸・舞妓へお部屋見舞いを届ける際、女紅場の門をくぐる程度なので、中の事はあまりわかりません。
基本的に女子校ですから、男は立入厳禁の秘密の花園なのです。
舞妓になりたい症候群
祇園に関するホームページは探せば結構あるものです。
大抵のページには掲示板が設置されていて、祇園好きな人達が活発に意見を交換しておられます。
その中に、必ずいるのが「舞妓になりたい症候群」に陥った少女です。
その少女達が舞妓になりたい理由を掲示板に書いていますが、その文面を見るかぎりでは、おちょぼ時代さえも務まりそうにない感じです。
全てがそうだとは言いませんが、「綺麗だから」レベルの理由であれば、変身舞妓屋さんに行って写真を撮ってもらえば、それで充分満足できるはずですし、それをおすすめしたいですね。
彼女達は、芸・舞妓がサービス業である事に気づいていません。たとえそれを説明したとしても、ほとんどの少女がごく普通のサラリーマン家庭の子でしょうから、サービス業がどんな物であるかもわからないでしょう。
舞妓になりたい症候群に陥った少女がこの文章を読んでくれたとしたら、舞妓の華やかさよりも、花街で生きる為の資質を掲示板で問うていただきたいものです。
以前、とある舞妓に「何で舞妓になったん?」と、いけず(意地悪)な質問をした事がありました。
その妓は「ウチ、馬鹿やし、舞妓にしかなられへんかったんどす」と冗談を言っていましたが、この世界が馬鹿では務まらない事を、その妓が一番良く知っていたはずです。
祇園ファンとしては、舞妓志願者が少しでも増えるのは嬉しい限りなのですが、甘やかされた現代っ子にはかなり不向きになりつつあるのが寂しいところです。
ウチら祇園が好きなんどす
その昔は芸・舞妓が800人ぐらいいた時期もあった祇園ですが、その規模も今は10分の1ぐらいになってしまいました。
少なくなったとはいえ、今でも舞妓の見世出しはポツリポツリとありますし、細々とでも伝統は受け継がれています。
祇園に入るとほっこりします。「ほっこり」とは、「ほっとする」とか「おちつく」という意味です。
そう思うお客がいる限り、祇園は、伝統を守りつつもその時代々々に合わせながら形態を変え、これからも続いていくのだと思います。
今年も、春には都をどり、秋には温習会、いつもと変わり無い祇園です。
京舞・井上流、舞妓、白川、巽橋、切り通し、みんなみんな大好きです。祇園の全部が大好きです。 
■お茶屋
お茶屋って何?
お茶屋がどんなところかは書きましたが、実際に行った事のある人はかなり少ない様です。
事実、京都市内に住んで何代目といった人ですら、お茶屋とは無縁、という人が圧倒的に多いのです。
地元に住んでいる人にとっても、お茶屋はブラックボックスですから、外の(京都以外に住んでいる)人には摩訶不思議な魔境に思えるかもしれません。
実は私も外の人間ですから、お茶屋では、日夜、いかがわしい事が繰り広げられているお金持ちの為の社交場と思っていました。
その実態は? と言えば、いかがわしい事はおこなわれていませんでしたが、ある意味、社交場という表現は当てはまっていると思います。
ヨーロッパで言う「クラブ」や「サロン」の様なものでしょうか。そのメンバーである事で、社会的地位や身分が保証される感じです。
私は外の人間ですから、日常でその恩恵を感じる事はありませんが、京都においてそのメンバーである事の信頼は絶大の様です。
クラブやサロンという仕組と異なるのは、誰がそのメンバーであるかという事が、傍からはわからないところです。
クラブ・ジャケットがある訳でなし、メンバーズ・リストが公表されている訳でもありません。
お茶屋の玄関をくぐって、女将から「おかえりやす」と言われて、はじめてわかるのです。
お茶屋選びは難しい
ほうきのかみ、という言葉を説明しましたが、一つの花街で通えるお茶屋は一件だけですから、どのお茶屋とお付き合いをはじめるかが悩むところです。
とはいえ、実際のところは、紹介者無しでお茶屋へあがる事は不可能ですから、選り取りみどりに選ぶ事ができる人は極めて稀でしょう。
それでは、どんなお茶屋が良いのでしょうか?
馴染みのお茶屋を持っているだけで、それはステータスとなりがちですから、そのお茶屋が大きかったり有名である事に悪い気はしません。
しかし、その様なお茶屋は抱えるお客も多く、足繁く通えない人は馴染みになるまでが大変です。
逆に、小さなお茶屋では、その苦労も少なくて済みますが、いざと言う時に芸・舞妓が集まらないという事も考えられます。
また、お茶屋の後継者問題も深刻で、せっかく大切にしてもらえる様になっても、後継者不在でその女将の代で店を閉められては、それまでの苦労が水の泡と化してしまいます。
とはいえ、これもご縁というものですから、たとえ気に入らないところがあっても、お付き合いがはじまれば全力で応援してあげるのがルールと言うものです。
お茶屋を育てるのは、そこへ通うお客です。お客がしっかりサポートすれば、おのずとお茶屋も大きくなるというものです。
とりあえず連れてってもらいましょ
祇園に通いたいと願う人は沢山おられる様です。
通える通えないは別として、とりあえず、お茶屋へ連れていってもらわなければ話もはじまりません。
案内する側も、連れていく人間の資質が自分の評価に直結しがちですから、おいそれと首を縦にふってくれないかもしれません。
逆に、連れていってもらえる幸運に恵まれたとしても、案内人は選びたいものです。
これは、ある種の紹介に発展しますから、評判の悪い人に連れていってもらうと、「この人はあの人の紹介だから……」と、その悪評がついてまわる事になりかねません。
また、いい歳をした大人が、二十歳そこそこの若造に案内してもらうのは聞こえの良いものではありませんし、祇園へ通ってまだ日の浅いビギナーに手を引かれるのも考え物です。
最近では、社用で通う様になり、そのまま個人的に信頼を得るケースも多くある様です。
どのケースが良いという訳でも無いのでしょうが、紹介社会ですからしっかりとした後ろ盾があれば、安心な事に変わりはありません。
しかし、その真価が問われるのは、その後ろ盾が無くなった時(紹介者が亡くなったり、会社を辞めた時)です。社用族あがりだと、場合によってはサービス・ダウンが甚だしいかもしれませんね。
ホームバー
お茶屋に通いはじめて、いきなりお座敷へあがるのは窮屈なものです。
第一、花街の知識や仕組みを熟知せずに遊んでも、何が面白いのかすらわからないと思います。
まずは、ホームバーに腰掛けて、観察するところからはじめたいものです。
大抵のお茶屋は、お座敷の他に、気軽に飲めるホームバーを持っています。
形式は様々ですが、カウンター席とボックス席で構成されているところがほとんどでしょう。中には掘り炬燵形式のカウンター席というところもある様です。
ホームバーには芸・舞妓を呼ぶ事もできますが、基本的にお喋りするだけで、舞などの鑑賞はできません。勿論、芸・舞妓を呼ばずに酒を舐めるだけでもOKです。
新参者はすすめられる席へ控えめに腰掛けて、女将との会話の中から、少しづつ祇園を学んでいきましょう。質問すれば、大抵の事は教えてくれますし、時間が経つにつれて聞きにくくなる事も多くなりますから、最初が肝心です。
中には答えにはばかる様な内容もあるでしょうから、まわりに悟られない様に、こっそりと聞くのがポイントです。
お茶屋では見栄をはらずに、切実にまわりと接していれば、後になって後悔することもありません。
祇園には信じられないくらいのお金持ちがゴロゴロ転がっています。その環境の中で自分が一番貧乏だと思うくらいが丁度良いのです。
女将の呪文「誰か言いましょか?」
ホームバーに腰掛けて一段落つくと、大抵、女将が「誰か言いましょか?」と聞いてきます。
「誰か言いましょか?」とは「誰か芸・舞妓を呼びましょうか?」という意味です。
お客として勉強中であれば、芸・舞妓を前に聞きにくい事もあるでしょうから、遠慮するのも考えですが、女将が忙しそうで相手をしてもらえそうに無い時などは、話し相手に呼んでもらうのも勉強です。
勿論、最初は馴染みの芸・舞妓がいる訳ではありませんから、誰を呼ぶのかは女将にまかせる事になります。
第一、指名したい妓がいたとしても、突然に呼ぶ訳ですから、相手の都合でそれがかなう確率は少なくなります。
祇園には大体で、お茶屋が80軒、芸・舞妓が90人(実働はかなり少ない)ですから、お茶屋に一人でも芸・舞妓がいれば、それは大した事なのです。
そんな厳しい中で、どれぐらいの芸・舞妓を引っ張ってこれるかがお茶屋の力です。
舞妓など、超売れっ子の場合は、ほとんど毎日の様にお座敷がかかっていますから、どうしても呼びたい場合は、あらかじめお花をつけておく(予約をしておく)必要があります。
とはいえ、そこまでしたくない場合は、午後9時以降に呼ぶのがおすすめです。1クール目のお座敷は、大抵、9時までには終わりますから、それ以降の時間帯だと来てもらえる確率が高くなります。
女将もお座敷の時間帯は忙しい訳ですから、お茶屋へ行くには午後9時以降が、断然おすすめです。
千社札
千社札(せんじゃふだ)は、芸・舞妓が名刺代わりに配る、名前が入った縦長の小さなシールです。
大きさに決まりは無い様ですが、横が2cm、縦が6cmぐらいです。大抵、「祗をん ○○(名前)」と書いてあり、背景には色、柄が入っています。
芸・舞妓にもよるとは思いますが、とかく千社札を貼りたがる妓が多い様です。
お客のボトルを見つけると、まず、そこに誰の千社札が貼ってあるかのチェックが入ります。なるべく良い位置に貼りたいのが人情ですが、そこは厳しい縦社会の花街ですから、お姐さん達の千社札に遠慮する様に、しかし大胆に貼ります。
とはいえ、ボトルの表面積には限りがありますから、貼りつける面が無くなると、ボトルにかけるネームプレートの紐に短冊の様に貼りはじめ、その短冊の端に他の千社札、そしてまた次といった具合に3次元空間へと増殖をはじめます。
千社札の貼ってあるボトルは見た目に華やかで良いのですが、初めて会った芸・舞妓にも、交友関係がバレバレなのが辛いところです。
ちなみに、舞妓の千社札を財布に貼っておくと「お金が舞い込(舞妓)む」のげんかつぎになります。その他のバリエーションでは、名詞入れや携帯電話など、良い物が舞い込んで欲しいものに貼るとご利益があるかもしれません。
ボトル
お茶屋にキープしたボトルは、口ほどに物を言うので注意が必要です。
大抵、芸・舞妓の千社札が貼ってありますが、その名前や古さから、そのお客がどの様な交友関係を歩んできたか、しいては、どういうお客なのかが知れるのです。
同じ名前の千社札が新旧何枚も貼ってあると、「舞妓の頃からずっと今でも贔屓にしてるんだな(一途だな)」とかわかりますし、とある屋形の妓の千社札ばかりですと、「○○(屋形)の妓とよく遊んでるんだな(裏を返せば、呼ぶ妓は女将まかせだな)」となります。
見苦しいのは、屋形や名前に脈絡が見出せない場合で、「おいおい、誰でもOKなの?(浮気性だな)」となってしまいます。
とはいえ、めったに見ない妓が偶然に居合せて、挨拶のついでに貼ってしまう場合もありますし、かと言って「貼るな!」とも言えず、とても難しいところなのです。
芸・舞妓の方も、ボトルに貼られた千社札には常に目を光らせている様で、日夜、水面下で繰り広げられているバトルにビンゴでもし様ものなら目も当てられません。
たとえ、女将のフォローで牽制を切り抜けたとしても、その後が、とてもとても大変らしいです。
ついつい無口になっちゃいます
とあるお人が、「祇園で友人に会うと、皆、いつもより人が良い」と言っておられましたが、祇園は何故だかそうさせる雰囲気がある様です。
確かにそうで、いつもは眉間に皺を寄せて下世話な会話しかしない人が、さも上品げに話している姿を見ると、滑稽で噴出してしまいそうです。
とはいえ、祇園の右も左もわからないうちは、何を話していいのかすらわかりません。
特にこの世界には禁句も多くありますから、迂闊に喋って坩堝にハマると後が大変です。
という訳で、差し障りの無い会話に終始しがちで、ついつい無口になってしまいます。
もうこなると、相手側から一方的に喋ってもらう方が気が楽です。
特に、名前ぐらいしか知らない妓は、何処の屋形で誰がお姉さんなのかもわからない場合がほとんどですから、「何処の屋形や?」とか話を振って、最初にゲロさせる事が肝心です。
そうすると次第に相手の事もわかってきますし、次に隣に座った時などに、その妓に合った洒落た会話もできるというものです。
普段は聞き手になる事の多い芸・舞妓ですから、偶には、お客が聞き上手になって、思う存分喋らせてあげるのも喜ばれます。
振り向けばいつも○○
祇園には芸・舞妓が90人くらいいます。都をどり等のパンフレットには顔写真入りで名前が載っていますから、祇園へ足しげく通えない私などには、落籍(ひい)た妓、見世出しした妓を把握するのに、結構、役立ちます。
しかし、をどりなどで見る事はあっても、馴染みのお茶屋で見る事のない妓が多いのは事実です。
基本的に、どの芸・舞妓でもお茶屋へ呼ぶ事はできるのですが、やはり、そのお茶屋の馴染みの屋形というものがある様で、ついついメンツも偏ってしまいがちになるのが実情です。
ですから、振り向けばいつも○○(芸・舞妓の名前)といった具合に、常にお客の誰かが呼んでいて、しょっちゅう見かける妓がいたりします。
逆に、見ない妓は、いくら祇園をウロウロ徘徊しても見ないから不思議です。
もっとも、そんなり(普段着で化粧を落とした)の芸・舞妓から「おにいさん、おおきに」と声をかけられても、その妓が誰だかわからない事の多い私ですから、只単に私が気づいていないだけの話なのかもしれませんね。
お茶屋と屋形の勢力分布図を作れば面白そうですが、気づいてはいけない事に気づくと後が怖いので止めておく事にします。
お座敷って大変
お座敷の標準的なメニューとしては、お茶屋の座敷を借りて、仕出屋から料理を取って、芸・舞妓を2〜3人呼んで、2時間ぐらいというのが普通です。
とはいえ、何が起こるかわからないのがお座敷です。
一旦、お座敷がはじまってしまえば、監督はお茶屋の女将で、仕切りはその場で最年長の芸妓ですから、そのお座敷の主賓を中心に、形態がガンガン変わっていきます。
宴が盛りあがるにつれて酒の量と種類は増えるし、何時の間にか有名店の仕出しが届いたり、芸・舞妓がひっきりなしに出入りして、何が何やらわからない状態でお開きとなるのが普通です。
そんなお座敷の幹事は、気が気でたまったものではありませんね。
私は、料理をたのまないケースのお座敷が好みです。
食事は、あらかじめ他でお安く済ませておいて、芸・舞妓が比較的集まりやすい夜の9時ぐらいからお座敷をはじめます。
遅い時間からスタートすれば、腹具合も酒も適度に進んでおり、更なる追加注文も少なくて済みますし、じっくり芸・舞妓との時間が持てるからです。
舞を沢山舞ってもらうもよし、お喋りするもよし、何だか得した気分で、貧乏人の私にはもってこいです。
んでお会計は?
以前、とある雑誌にお茶屋の請求書が掲載されて、ちょっとした騒ぎになった事がありました。
基本的に、値付けにはルールの無い世界で、同じメニューでもお客によっては金額が違う事もありますから、請求書の公開はお茶屋にとっても命取りなのでしょう。
お茶屋への支払いは、その都度の現金清算ではなく、月締めの翌月払いです。
ですから、遊んだ日はツケて帰ります。もっとも宴会は何が何やらわからなく幕を閉じますから、その日にキッチリ金額を算出する事は不可能です。
請求書にしても、明細が細かく記載されている訳では無く、金額にも基準を見出せない場合が多くあったりと、かなりアバウトですから、不明瞭極まりないとも言えます。
そんな請求書ですが、「何でこんなに高いんだ?」と思った事が一度も無いのが不思議です。
むしろ、「あれだけ大騒ぎしたのに、これだけで良いの?」とか「何か付け落としがあるのでは?」と返って不安になる程です。
これは、請求書を受け取る人のほとんどが思っている事ではないでしょうか。
お茶屋の経営基盤がしっかりしていれば、私の様な貧乏人から必要以上のお金を徴収する必要が無いという事ですかね。 
■屋形
ママ、あたし舞妓になる!
最近、舞妓がメディアに登場する回数が増え、多感な乙女達の好奇心をくすぐっている様です。
あたし、舞妓になる! 等と宣言された親御さん達は、全くもってたまったものではありません。
巷の親御さん達の花街へのイメージは凄まじいものがありますから、猛烈に反対する事になりがちです。
乙女達は舞妓の綺麗なところしか見えていませんし、親御さん達は花街には悪印象しかありません。
ですから、両者の会話はいつまで経っても平行線です。
この手の問題については、女親は割と大らかに構えられるものですが、男親ともなるとそうはいかない場合が多い様です。
父娘の両者はふて腐れたりして、そのうち顔さえ合わさなくなりがちで、娘の相談相手はもっぱら母親になります。
こうなってしまったら、父は母からの情報だけを頼りに、ドキドキしながら成り行きを見守るしかありません。
屋形との面接
インターネットの力は偉大です。知りたいと思う大抵の情報が手に入ります。
舞妓志願の乙女は、とうとう屋形との舞妓になる為の面接にまでこぎつける事に成功しました。但し、面接は保護者同伴が原則です。
しかし、父は相変わらずふて腐れたままで、舞妓の「ま」の字も聞きたくありません。
とうとう最後まで父親の同意を得られないまま、母親と一緒に面接の為に上洛します。
肝心の面接は、母子ともにすっかり舞い上がってしまったまま終了し、後は運命を天にまかせて結果を待つだけとなりました。
数日後、屋形からの合否の電話が鳴りますが、間の悪い事に父親がその電話をとってしまいます。
家族は、父がいつキレて電話を叩き切るのかをハラハラしながら見守りますが、父は予想に反して淡々と話を聞き、最後に電話に向かって深々とお辞儀をしながらこう言うのでした。
どうぞ娘を宜しくお願いします。
子供の幸せを願わない親はいません。
しかし、どんなに反対しても本人がその道を選ぶと言うのであれば、もう親としてはたとえ世界中を敵に回したとしても全力で応援してやるしかないのかも知れません。
仕込み体験
面接に合格したからといって、本当に舞妓としての適性があるのかはわかりません。
実際、仕込み生活を始めてからやっと理解できる大変さもあり、その辛さに途中で帰ってしまう子も少なくないのです。
そこで、短期間、見習いとして屋形で生活させてみて、本当にその子に適性ややる気があるのかを確認させる訳です。
いわゆる最終面接みたいなものでしょうか。
乙女にも夏休みを利用しての仕込み体験がスタートしました。
お姉さん舞妓のお世話から、掃除、洗濯といった家事、近所へのおつかいなどの雑用をこなす毎日です。
普段、家では、家事はおろか礼儀作法などを教えてもらったことのない場合が殆どでしょうから、ハタキをかけては叱られ、畳のふちを踏んでは怒られで、日々が過ぎるにつれて精神的にも辛くなっていきます。
ここで舞妓としての適性が無いと判断されれば、早々に帰されてしまいますが、乙女は何とか最後までやり抜く事ができた様です。
年季
何も知らない少女が舞妓としてデビューするまでには莫大なお金がかかります。
屋形はそれを負担する代わりに、年季(ねん)と呼ばれる奉公期間を定めて、その投資金額を回収します。
年季の期間は屋形によって違いますし、その妓の頑張り次第によっても違う様です。
乙女は中学の卒業を待って、春から仕込みとしての生活を始める事ができました。
これからは、○○(屋形の名前)さんところの仕込みさんと呼ばれ、今まで慣れ親しんだ本当の苗字で呼ばれる事はありません。
そして、舞妓になる為の本格的な舞のお稽古が始まります。
祇園甲部の舞は井上流と決まっていますから、毎日、井上流のお師匠さんのところへ通います。
お弟子さんの中には一般の人もいますが、その人達と芸・舞妓になる仕込みとの稽古の質は全くの別物です。
仕込みには一般の人の何倍もの出来が要求されますから、かなり、かなり厳しいものになります。
午前中はお稽古、お稽古から帰ったら屋形の用事、夕方からお姉さん舞妓の仕度、深夜はお座敷から帰ったお姉さん舞妓のお世話と、仕込みの一日は目まぐるしいスピードで過ぎていきます。
同期の桜
春は都をどりの季節です。
芸・舞妓はその前の練習期間からも含めると、約2ヶ月間、殆ど休み無しで緊張した時間を過ごします。
仕込みもそんなお姉さん芸・舞妓の雑用に大忙しで、叱られる事も多く、気分も滅入ってナーバスになりがちですが、そのかわりに良い出会いもあります。
都をどりの楽屋には、殆どの屋形の仕込みが集まるからです。
普段は舞のお稽古場でしか会うことの無い仕込み同士ですが、同じ境遇を過ごすお互いは、何かで吸い寄せられる様に集まり、誰からともなく悩みを喋り始めたりします。
都をどりの期間は、仕込みにとっても辛く厳しいものですが、こうして桜の頃に仲良くなった同期達は、何でも相談しあえる生涯かけがえのない親友になるのです。
嫌なおとめ
「おとめ」と言っても「乙女」の事ではありません。
おとめとは舞のお師匠さんから稽古のさし止めをくらう事です。
ひらたく言えば、「もうお稽古に来るな!」とお師匠さんから言われる訳です。
これをくらうのは、仕込みにとっては死活問題の一大事です。
何故なら、舞妓の仕事は舞を舞うことですから、お稽古ができなければ舞は上達しません、上達しなければ舞妓には絶対になれないのです。
勿論、無意味におとめを食らう事はありません。練習をサボって上達しない等の何らかの理由がくらう側にはあるはずです。
大抵は、屋形のおかあさん(女将)と一緒にお師匠さんのところに謝りに行って、何とかお稽古の再開を許してもらいます。
舞妓としてデビューする為には、ある一定以上の舞の出来が必要ですから、そのレベルにどれだけ早く到達できるかが見世出しの時期を左右します。
通常の仕込み期間は1年程度ですが、もっと長くかかる妓もいる様です。
見世出し
乙女にも、やっと見世出しの日がやってきます。
母親は勿論、あれだけ反対した父親までもが仕事を休んで駆けつけてくれました。
乙女はとうとう今日、念願の舞妓になるのです。
乙女は、自分の鏡台の前に座り仕度を始めます。
鬢付け油を手のひらで伸ばして顔に薄く塗っていきます。白粉は慣れないうちはうまく塗れませんから、大切な今日ばかりはお姉さん舞妓に手伝ってもらい、衿足には晴れやかな三本衿を引きます。
そして、下唇だけに紅をさしました。
今日の為に新調された黒紋付に袖を通し、だらりの帯を締めれば立派な舞妓が完成します。
屋形の一室でお姉さん芸・舞妓達と杯を交わし姉妹となったら、いよいよ祇園町へのお見世出しです。
乙女は、昔観た舞妓誕生のTV番組のワンシーンを思い出します。
ウチもやっとここまで来れた。やっと舞妓になる夢が叶った。
屋形の玄関の戸を開けると、待ち構えていた人達から歓声があがりました。
おめでとうさん、これからもおきばりやす。
これまで舞妓になる事だけを夢見てきた乙女は、ここでやっと念願のゴールを果たした訳では無く、単に芸・舞妓としてのスタート地点に立っただけだったのだと気づくのです。
健康第一
どんなに強い意思があとうとも、自分の気持ちだけでは舞妓にはなれません。
色々な適性が言われていますが、大前提になるのが「健康である事」です。
舞妓は思った以上に重労働なのです。
公休日は月に2日だけ、そのお休みも頼まれれば出なくてはなりません。
お座敷は深夜にまで及ぶ場合もありますから、毎日何年間もその様な生活を頑張れる体力が必要です。
都をどりの時期などは、早朝から仕度、午後はをどり、夜はお座敷と休む暇もありません。
先ずは健康でなければ務まらないのです。
中にはせっかく頑張って舞妓になったのに、健康上の理由から志半ばで花街を去らなければならない妓もいます。
とても残念な事なのですが、こればかりは仕方の無い話です。
その涙の意味
舞妓になる事をひたすら夢見て頑張ってきた乙女は、いざ念願の舞妓になってみると目標を失ってしまいます。
ゴールだと思っていた地点が、実は芸・舞妓としての単なるスタート地点にすぎず、そこからは果てしなく続く長い道程が待っていたのですから困惑するのも仕方ありません。
とはいえ、舞妓としての日々は忙しく、与えられた毎日を一生懸命に頑張るだけで精一杯です。
そして、先の見えないモヤモヤとした不安だけを抱えながら、何年もの月日だけが経っていったのです。
乙女は、いつもの様に馴染みのお茶屋でのお座敷を努めた後、お茶屋の女将とお喋りを始めました。
日頃から何かと乙女を気使っている女将が、他愛もない会話の中で何気に問います。
「あんたはん、この先どうしはるん?」
気心の知れた良き理解者の質問は、乙女の緊張を一瞬にして崩してしまいます。
「ウチ、どうしてええのか、わからしまへん」
そう言って黙ってしまった乙女の頬を、一筋の涙がスっと伝いました。
その涙の意味は乙女にしかわかりません。
自前芸妓
長い年季が明けると、やっと自前として独立が許されます。
その頃には、大抵の舞妓は衿替えも済んで、立派な若手芸妓として忙しい日々を送っています。
慣れ親しんだ屋形を出てマンション等で一人暮らしをスタートさせる訳ですが、これまでに苦楽を共にしてきた部屋とお別れするのは嬉しくもあり寂しくもあり、複雑な心境になってしまいます。
次にこの部屋で、自分と同じ様に新生活をスタートさせるであろう未来の妹へのバトンタッチです。
屋形で生活しているうちは、生活の事は勿論、花街で必要な全ての事を屋形が代行してくれましたが、独立して自前になると、それら全てを自分でこなしていかなければなりません。
そのかわり、自分で頑張って稼いだお花は自分の物になります。
とはいえ、マンションの家賃、食費に着物に帯、お稽古代や日々の交際費など等、出ていく金額も少なくはありません。
をどりの会があれば切符も売らなければなりませんし、お礼やら何やらと気を揉む事は山の様にあるのです。
自前芸妓と聞くと、何だか悠々自適で好き勝手に暮らしているイメージがありますが、実は結構大変なのです。
屋形のおかあさん
最後に、屋形のおかあさん(女将)のお話をしましょう。
屋形のおかあさんは舞妓にとっては怖い存在の様です。
舞妓からしてみれば、口煩く叱るばかりで褒めてもらった事なんか無いし、自由に遊ばせてくれないし、もっと良い着物が着たいし、それからそれから、等と巷の子供と同じ様な愚痴を言いたくなるのでしょう。
何だか良いとこ無しのおかあさんの様ですが、口煩く叱るのもその舞妓の為を思っての事、決まり事の多い花街で恥ずかしくない振る舞いが出来る様に、皆から可愛がってもらえる様にとの親心なのです。
事実、自分がお姉さん芸妓になったら、口煩いおかあさんと同じ事を妹舞妓に言ってきかせていたりしますから、後から考えればその教えはちゃんと自分の為になっているのです。
これまでこの花街で不自由無く生活してこれたのも、屋形の名前があったからこそ、自分の後ろにおかあさんの保護があったからなのです。
屋形のおかあさんは、舞妓の知らないところで花街の色々な雑用をこなしてくれていたり、便宜を取り計らってくれていたりする縁の下の力持ち。
でもそれは、舞妓が自前になって屋形を出てから、初めて気づく母のありがたさなのかもしれません。
おいおい、何か忘れちゃいませんか?
え? ところで、その後の乙女はどうなったのかって?
今でも現役の芸妓として日々を精進している様です。
一時期は目標を失って気持ちが不安定な時期もあったり、舞妓時代には何処かへお嫁に行ってしまおうかと悩んだ事もあったそうです。
一緒に頑張ろうと誓い合った同期が花街を去ってしまい、不安になった事もあります。
でも、そんな辛い事がある度に、花街の色々な人達に支えられて、これまで頑張ってこれました。
今では次の目標も見つかって、充実した生活を送っていますので、どうぞ皆様ご心配なく。
花街は一つの家族の様なもの、皆で支え合い、助け合ってこれまでも、そしてこれからも続いていくのです。 
 
幸田文『こんなこと』 修行考

 

今日は、修行について皆さんにお話しする。
武術といえば修行。修行といえば武術である。ドラゴンボールにもそう書いてある。
私も若年のころは、歩道の白線のみを踏んで歩く、電灯の紐を相手に戦う、落ちてくる鉄アレイを避けつつチクワをキャッチする、ドンペリ絶ち、ロマネコンティ絶ちなどの荒行を自らに課してきた。
今でも週5日はシャワーを利用したミニ滝行や、食べ放題でのデザート全種類制覇など、飽くなき不屈のチャレンジ精神は留まるところを知らない。
そんな私でさえ音をあげるであろう厳しい修行……。
それは、花嫁修行である。
怒ってPCを窓から捨てようとしたり、失望のあまり猟銃をくわえて引き金を引こうとしているあなた。まったく気の早い人たちだ。ちゃんと武術の話になるから大丈夫だ。そしてPCは粗大ゴミのシールを貼って清掃局に取りに来てもらうべきだし、自殺はもっと後処理が簡単な方式をお勧めする。 
ご紹介するのは幸田文が父、幸田露伴との思い出を書いた随筆、『こんなこと』である。
早くに母をなくした文は、若くして家事の大半をこなすことになったが、その全ては露伴手ずから教授されたものだった。その教えと親子の関係が、徹底的、かつ武術的なのである。
たとえば掃除である。
道具を持ってこいという父のもとに、はたきと箒を差しだした文だったが、初日は、このはたきを自作しなおすところからやらされる。書き損じの和紙を裁断し、磨いた団子串で留め、釣り糸で縛るのである。これだけで、すでに「つくってあそぼ」の一回分以上の手間が割かれている。なぜ、市販品のものでは駄目だったのかは、「使ってみれば分かる」としか言われない。
そして、二日目になって、ようやく実際のはたきを使い方の指導がはじまるが、この注文がまた難しい。
「女はどんな時でも見よい方がいいんだ。はたらいている時に未熟な形をするようなやつは、気どって澄ましたって見る人が見りゃ問題にならん」
「いやな音を無くすことも大事なのだ。(中略)はたきをかけるのに広告はいらない。物事は何でもいつの間にこのしごとができたかというように際立たないのがいい」
このように、実際に部屋が片付くだけでは駄目で、動きや姿勢の美しさ、音にまで気を配れと言うのである。
だったらおまえがやってみろ! 現代っ子なら思わずそう言いたくなるだろう。文も思った。ぶーたれた。すると露伴がはたきを使いはじめる。
『房のさきは的確に障子の桟に触れて、軽快なリズミカルな音を立てた。何十年も前にしたであろう修練は、さすがであった。技法と道理の正しさは、まっ直に心に通じる大道であった。かなわなかった。感情の反撥はくすぶっていたが、従順にならざるを得ない。』
『箒も自分でして見せてくれた。持ちよう、使いよう、畳の目、縁、動作の遅速、息つくひまもない細かさであった。』
文は梯子段は一段づつしか上がれない、という父の言葉で、この日ははたきと箒の使い方だけを教わった。
『子供心に大した稽古であったことを覚ってい、砕かれ謙虚になった心は素直に頭を下げさした。箒と並行にすわって「ありがとうございました」と礼儀をとった』
武術をやっている人間、ことに教える側の人間は誰しもウームと唸るところではないだろうか。
反撥する人間を感服させ、謙虚にすることの凄さだけでは無い。これが書かれたのは、こうした指導を受けてから30年以上たった後なのである。それがここまで鮮やかに焼きついて記憶されている。
はっきり言って私の生徒の大半は、一週間たったら前回やったことなんて綺麗さっぱり忘れている。たぶん30年後には私の存在自体覚えていないだろう。
文はのちに若い女中を雇い入れて、若年、自分が教わったことを指導する。
しかし、女中は毎日、素直に、はい、はい、とよく言う事を聞いたが、その素直さには「物を受けとめる関がな」く、同じことを毎日教え直してもついに身につかなかった。しだいに文は荒れ、女中に暇を出すことになった。
女中は出て行く時、目に涙を溜めており、文も心を苛まれた。
その一件を聞き、露伴は、「人の選みかたに粗忽がある」「わたしにはおまえがどういうようにやったかはっきりわかる」と言って瞑目したという。
まったく、最近よく似た失敗を私もしていることでもあるし、露伴の教育者、指導者としての慧眼がわかる部分である。また、出来るということと教えられるということの違い。受け手の学ぶ姿勢、感受性、人に合わせた指導の方法など、非常に多くの示唆が含まれた出来事に思われる。 
もともと幸田家は茶坊主の出、ということらしく、行儀にはうるさい家だったようだ。露伴は祖母により家事の様々を教えられ、それを文に受け継いでいだ。それでさえ、
『いま教えているしかたは最高等な掃除ではなく、普通一般の家庭でするもので、いいお座敷もこのやりかたで済むものと思っていれば恥をかく』
というから恐ろしい。まさに極めようと思えば終わりのない道である。
現代では花嫁修業中でーす、家事手伝いでーす、などと言っていると、ああ、クソニートだな、で終わりだが、このころの家事の量、質、範囲の広さは現代とは比べ物にならない。風呂や米も薪で炊いているし、薪割りも家事の範疇である。包丁などの刃物も鉄だから砥がなければ錆びるし切れ味も落ちる。年に一度は家中の障子の張り替えがあり、さらには襖(ふすま)の張り替えまであった。これもまた注文がうるさい。
『出来不出来の見かたは昼間ではほとんどでない。日が暮れて、蝋燭をかかげてじいっと見られては玄人でも大概は落第だ』
など露伴は言う。まったく恐ろしい目である。
さて、掃除の稽古は雑巾がけに進んだ。
最初に、露伴は水の恐ろしさを説く。水と金物を一緒にすると、紙も布も木も漆も革も、石でさえ駄目になってしまう。そうした破壊性を帯びたもので掃除の実をあげることは難しいのだという。文はまだよく分かっていない。鉄砲水じゃあるまいし、バケツの中の水の何が怖いものかとタカをくくっていた。
バケツには八分目まで水が汲んであったが、そんなに多くの水が扱えるわけがない、と露伴は水を六分目まで減らした。そして文の雑巾がけがはじまった。
しかし、雑巾をしぼりあげて身を起こした瞬間に「見えた!」と一喝される。
『太短い人差指の示す処には水玉の模様が、意外の遠さにまではね散っている』
水滴を飛ばした跡は残り、汚れとなる。掃除をしているつもりが汚れを増やす結果になってしまうのだ。これが露伴のいう水の恐ろしさ、難しさだった。
『私は漸うに集中した心になる。このことを思うといつも伏し眼にならざるを得ない。私はものを教わる心はあるけれど、すばやく習う態勢になれない。(中略)痛い思いをしてこそげられてはじめて心根に達する。教えてやろう心は父に溢れている。いささかも惜しみない。最も丁寧な父の教育にしてはじめて徹るのである。最後まで私はこの愚をくりかえして大切な機会を逃し続けた』
うえっうえっ。なんと殊勝な心がけであろうか。「過ちて改めざるを過ちという」というが、同じ愚を繰り返したという認識がある時点で凡人とはえらい違いである。多くの人は、自分が同じ愚を犯しているという意識もないから、それを繰り返しているのである。
『水のような拡がる性質のものは、すべて小取りまわしに扱う。おまけにバケツは底がせばまって口が開いているから、指と雑巾は水をくるむ気持で扱いなさい。六分目の水の理由だ』
『父の雑巾がけはすっきりしていた。のちに芝居を見るようになってから、あのときの父の動作の印象は舞台の人のとりなりと似ていたのだと思い、なんだか長年かかって見つけたぞという気がした。(中略)規則正しく前後に移行して行く運動にはリズムがあって整然としてい、ひらいた膝ときちんとあわせて起てた踵は上半身を自由にし、ふとった胴体の癖に軽快なこなしであった。(中略)身のこなしに折目というか、きまりというのがあるのは、まことに眼新しくて、ああいう風にやるもんなんだなと覚えた』
立居振舞、所作。つまり「型」である。こういうのは今でも残っているのだろうか。料亭の女将とか。こういうものが失伝していく世の中は恐ろしいものである。あと、池袋南口の日高屋はダスターがびしょびしょなので、いつもテーブルや椅子に水滴が垂れていて不快なのだが、あそこの店長もこれを読むといいと思う。
さらに文が指摘され、感じ入ったのは、雑巾をしぼった後の手の処理だった。手に水滴がついていればまたそれが垂れて斑紋となる。しかし、手を振って水滴を飛ばしたり、適当に服などになすりつけたら見苦しい。こうしたことに自分が無意識だったことを恥と感じる感性が文にはあった。しかし、現代人が、もし婚家でおしゅうとめさんにこんな指導をされたら、確実に嫁イビリと認定され、離婚原因になるだろうレベルである。
『これが会得できさえすればおまえはすでに何人かの上に抜けたのだ』
『水の扱えない者は料理も経師も絵も花も茶もいいことは何もできないのだ』
こうした考え方のシステムは言うまでもなく武術、武道とも通じる。システムの根幹は全て同じで、それに武なり茶なり花なり書なりをあてはめるだけである。そして、こうした水準から見ると、武術家などと称しているが、いかに自分がトンチキでなっちゃいない存在なのか暗澹とする。もう、あちこちにオシッコを飛ばしたり、炒め物で鍋から飛び散って床に落ちたものを鍋に戻したりするのはやめよう。  
さて、薪割りである。
露伴は薪割り一つにも美を求めた。その要訣の一は、力を出し惜しみしないことである。刃を打ちこんで数回叩いて割るようなやり方ではなく、一回で両断すること。また、狙いをつけてから降り上げるのではなく、最初から上段にとって一息で割るのだという。
『畢竟、父の教えたものは技ではなくて、これ渾身ということであった。』
『二度こつんとやる気じゃだめだ、からだごとかかれ、横隔膜をさげてやれ。手の先は柔らかく楽にしとけ。腰はくだけるな。木の目、節のありどころをよく見ろ』
『鉈をふりあげた姿勢がもう父の気に入らなく、「ちょいと蹴飛ばされるとひっくりけえっちまう」と云われ、うじうじとふりおろす後ろから、ッタッというかけ声を浴びた。縮みあがった。』
薪割りに仮想敵を置くというのだから恐れ入る。
まったく、私が何か言い添える必要もなく、武術そのものである。
露伴の教えは、用、美、体の一致を幹としている。
仕事の結果だけよくても駄目だし、恰好だけでも当然駄目である。そして、体の使い方、運用に理がなくてはならない。そして、それらはどれも分離できない必然性で結ばれている。でたらめなフォームでぐちゃぐちゃに寿司を握って旨いものが出来ないのと同じである。
近年、稽古はすればするほど良いのではないか、仕事はまじめであればまじめであるほど良いのではないか、という疑問を某マイミクさんにぶつけられた。その答えがここにある。
武術は生活そのものなのだから、武術の理に沿って生活していれば、それはそれだけですでに稽古である。なにをしていても、用、美、体が一致しているかということを考え方の根に据えること、それが修行なのであって、技の稽古はその一部でしかない。
もし、生活の中でそうした思考が根付いていないのならば、実際の危急に武術で対処するのも不可能だし、逆に武術が単なる護身を越えて普遍的な文化として意義を保っているのも、その意識の変革にある。
また、こうした用・美・体の一致は、作業の無駄をなくし効率化する。それによって休むことが出来るようになる。
稽古でも仕事でも、休めない、疲れる、というのは未熟だからである。どちらもそれが日常である以上、一日の疲れが翌日に持ち越されることは、衰弱、弱体化を意味する。やったぶんだけ状態がよくなる、というのが仕事でも稽古でも大事だし、そのためには要所、要所で休むこと、休みどころを覚えるのも稽古といえる。それによって集中力や効率の低下を防ぐ。
有給休暇という概念も本来はそういうものだと思う。
『家事に追われるというのは何と惨めなことで、家事はこちらが先手となって追いまくるべきものだと云う。自分を豊かにし楽しくするために女はもっと勉強しなくてはいけない。能力と労力を挙げて本気に家事を処理すれば、勉強の時間は恐らく必ず得られる、これは父の母、私の祖母からの流儀なのだ。つまり家事なぞは片手間にやってしまえるようでなくてはいけない、というのであった。』
最後に、露伴がただの厳しい頑固おやじではないことを申し添えておく。『こんなこと』の中には、露伴が子供たちに教えた様々なゲーム、遊びの思い出や、着物の粋から恋愛相談の話もある。
最終的には教えを受ける、という師弟の関係の核は尊敬であり、それは厳しいだけでは得られることはない。愛があっての厳しさ、というのは言うまでもないことである。
あ、なんか後半、ずいぶんまじめな文章になってしまった。 
 
日本人は尚武の民だろうか?

 

私は、長い間、「日本人は尚武の民だったであろうか?」という疑いを抱き続けて生きてきた。そして“この疑い”は今でも消えていない。消えるどころか、益々深まるばかりなのである。
果たして、日本人は尚武の民なのか?……。
歴史を追うと、日本人が尚武の民でないことが歴然と浮かび上がってくる。果たして、日本人は尚武の民ではないのだ。日本人は尚武の民とするのは、まさに日本人の錯覚なのである。
では、その証拠をいくつか挙げてみよう。
徳川時代は265年も続いた近代では極めて稀な幕藩体制時代だった。封建時代の最たるものと、悪の槍玉に挙げる歴史学者も多いようだが、この徳川時代こそ、265年間も「非武装」を徹底した時代だった。なぜなら、この時代には、事実上だが、軍隊が日本に存在しなかったのである。
こういうと驚く人も居ようが、確かにこの時代、「武士」と言う階級はいた。ところが、この武士階級は、軍人ではない。単に“武士”という身分制度の上での職業人でしかなかった。武士は軍人ではなく、単に幕藩体制下の“官吏”にしか過ぎなかった。要するに、「役人」である。役人は軍人ではなく、彼等の武力といったら、せいぜい警察力程度のもので、警察役人の域を出るものではなかった。
徳川幕府は、徳川家康によって慶長八年(1603)に、江戸に開かれた幕府だった。この年から慶応三年(1867)の徳川慶喜の大政奉還まで、第十五代の265年間を徳川幕府と言うのである。
そして家康が江戸に幕府を開いて以来、十七世紀の前半に「大坂の陣」と「島原の乱」以降、この幕藩体制下では一度も戦いは日本国内では起こっていないのである。この時代は歴史的にも稀(まれ)な非武装時代だった。軍隊的行動が殆ど起こらなかった時代である。そして武士階級の軍隊化は消滅した。
さて、武士団という集団が軍隊と認められる条件は、少なくとも二つのことが認められなければならない。一つは、他にも勝る重装備の強力な武器を保有していることである。またもう一つは、集団自体が自己完結性の一切を所有していることである。つまり、他に頼らずに一切のことを集団内部で行える機能を有していることだ。
軍隊は単に武器を保有して、戦闘するだけの集団ではない。
一切が自前で行える機能を有していなければならない。
これは兵舎を建てるには工兵が行い、鉄道を敷設したり鉄橋を架けるのは鉄道兵が行い、生活面においても行政と裁判の機能を持っていて、主計という金勘定の将兵がいて、また裁判にしても軍事裁判所の刑務官がいて、野戦病院には軍医もいて、葬儀には従軍僧が携わり、集団の一切を完結できる機能を有していることである。
こうした自己完結性の一切が整っていて、戦争という極めて非常な状況下で、戦闘という苛烈(かれつ)な行動が続行できるのである。
この点において、同じ武器を所有する集団であっても、軍隊と警察の違いが此処にある。
徳川時代を顧みれば、この時代の武士たちは武門という階級は形成していたが、それは集団生活を原則としない、軍隊とは異なった職業人だった。その証拠に、十六世紀の戦国武士とは根本的に異なっていて、その機能の中には常備の輸送部隊も存在しなかったし、建築物の営造や修繕をする工兵の営繕機能などもなかった。軍医も従軍僧もいなかった。軍事法廷もないし、兵糧や備蓄を担当する主計もいなかった。自己完結性に全く欠けていたのである。この欠如だけで、徳川時代の武士団は軍隊とはいえなかった。単に警察機能を有した、最低限の武器を保有した取り締まりの役人でしか過ぎなかった。これを考えるなら、この時代こそ「非武装時代だった」といえる。
武士の腰に差した大小二刀(ふたふり)は、単にこの階級のアクセサリ程度のものに過ぎなかった。
そして徳川時代は265年という長きに亘った。
これは徳川幕府が非武装中立政策を実施したからではなかった。それは決して、平和を愛した結果生まれた幕府ではなかった。
長きに亘(わた)った理由は、日本という島国の構造が二世紀以上の長期政策を執らせた。また極東という地理上の関係とも関連していて、政治的にも経済的にも、この国は“侵略するほどの価値がない”と思われていた国だったからである。それにも況(ま)して、日本人の軍事思想や戦争観の欠如の部分も大きかった。265年間もの長期に亘り、日本人が「戦争を知らない国民」になってしまったのだから、これではいよいよ軍事的発想は欠落するばかりだった。
日本人はこれにより、尚武の民になれなかった。尚武の民どころか、「武」すら知らぬ平和的な農耕民族に落ち着いてしまったのだった。
日本人が尚武の民でない証拠は、幕末に浮上する。
幕末、日本を揺るがしたのは四隻の黒塗りのアメリカ製木造船だった。この木造船に海軍士官と水兵合わせて六百人ばかりの将兵が乗船していた。そして沖から湾目掛けて、数発の大砲を轟(とどろ)かせた。それだけで幕府は降参して、開国の要求を呑んだのである。この行動に、尚武の民の足跡は一歩も見当たらない。
当時、徳川幕府は旗本と御家人を合わせて2万5千人の家臣団を抱えていた。更に親藩などの親戚筋大名を合わせると、十数万人は居ただろう。これだけの武装官吏を抱えた日本が、口先だけで尊王攘夷を掲げながらも、数発の大砲の砲声でギブアップしたのだった。それも僅か六百人を相手にで、である。ギネスブック的大記録であろう。この大記録で、日本人の尚武の民という幻想は一挙に吹き飛んでしまう。
ちなみにギブアップの世界記録は、八万人の常備軍を持っていたインカ帝国が、僅か百六十人程度のスペイン人にギブアップして征服された、その記録に準ずるものであろう。
このように当時の日本人をこけにすれば、これに反論する御仁(ごじん)も多かろう。この御仁らは、異口同音にして「当時の武器の差」とか、「西欧列強の植民地主義的かつ帝国主義的国際情勢」などを持ち出して、これに反論を企てるだろう。しかし、言い訳に過ぎない。尚武の民を標榜する以上は、これは紛(まぎ)れもない言い訳だろう。
いやしくも、聊(いささ)かなりとも尚武の民を自負するのならば、武器の差とか国際情勢などには目もくれず、誇り高き民族ならば自己の主義主張を守ろうとして、一戦でも二戦でも及ぶものである。
かつての歴史からも分かるように、事実、ヨーロッパ勢力の東漸(とうぜん)に当たってはトルコでも、ペルシャでも一戦も二戦もしているではないか。これこそ尚武の民の誇り高き姿ではないか。
尚武の民は、最初から負け戦と分かっていても、徹底抗戦するのである。
また、カラハリ砂漠のズール族やアメリカインデアンすらも西欧の横暴に、一戦でも二戦でも及んだではなかったか。諦めずに、誇り高き尚武を選んだではなかったか。
更に、アラビア半島北岸の住民だったベドウィン系人民は、弓矢と投石機と一本斜柱の帆船だけで、イギリス海軍と戦い、二百年間も戦い続けた。それでも負けなかったのである。この海岸が、かつては「オーマン休戦海岸」と言われたのは、この住民がイギリスと対等に戦って、それでも負けなかった名誉の称号であり、休戦条約に持ち込むこと事態が尚武の民としての誇り高さを物語っていた。
そして幕末、日本で少しばかり「尚武の民」として光っていたものを挙げるならば、薩摩藩と長州藩くらいなものだろう。
特に薩摩藩は比較的尚武の精神が旺盛だった。幕臣とは比べ物にならないくらい、この精神に富んでいた。その際たる証拠が「薩英戦争」である。薩摩藩は臣民問わずイギリス艦隊相手に戦った。そしてやはり、それでも負けなかった。鹿児島の街は大火に包まれたが、それでもギブアップしなかった。薩摩の臣民は多大は被害を出したが、一方イギリス側も多大は損害を出し撤退したのである。
これは国民が真の戦意を持っていれば、武器の差などは問題ではなく、装備や戦術にかなりの差があったとしても、また兵力差が何十倍であったとしても、簡単には負けないということを雄弁に物語っている。
薩摩藩と同じように、長州藩も関門海峡でイギリス・アメリカ・フランス・オランダの四ヵ国と戦っている。この戦いを「四ヵ国艦隊下関砲撃事件」という。
しかし、幕臣は違った。黒船の大砲を恐れたのだった。
そして当時の幕府の役人は、幕府自体が非武装中立政策を執ってきて、自らの弱さや日本人の戦意のなさを十分に計算していたに違いない。だから簡単にギブアップして開国の要求を呑んだのであった。非武装国家を慌てて武装してみたところで、それは付け焼き刃であることを見抜いていたのだろう。
日本人が尚武の民と論ずるのは、まっかな嘘であり、もともと島国育ちの日本人には戦争観もなく、また軍隊という基本概念すら、長い“泰平の眠り”で欠如していたのである。
そのうえ日本人に対して、この国民が“本来、忠誠なる民族か”となると、その忠誠心の強さは甚(はなは)だ疑わしいものになる。
ところが、歴史的に見ても日本人が義理人情に厚いのか?と問えば、これも曖昧となり、その実像は釈然としない。義理人情が問われ出したのは、近代のことである。本来日本人には義理人情は愚か、忠義とか忠誠とかいった感覚は、戦国時代の末期に生まれた意識であり、それ以前にはなかった感覚である。豊臣政権が誕生するまで、忠義とか忠誠とかの観念はなかったらしい。
それ以前は大名を盟主とする“豪族連合”の自主性だけであり、私欲や私情を捨てた「滅私奉公」という、主家に対して従者が軍役などの義務で奉仕することの意識しかなかった。また大名間は各軍団同士で、一種の誓約に結ばれているに過ぎなかった。連合組合のようなものだった。したがって、これには義理人情も、忠義も忠誠も存在しなかったわけである。こうした意識が芽生えるのは、豊臣政権が誕生した以降のことである。これを考えると、忠誠心は近代に起こったといえるだろう。
しかし、忠誠心が根付いたがどうかは疑わしい限りである。
徳川時代にしても、忠誠心において“わが君”に対してそこ心を示したのは、播州浅野家の家臣のみだった。
江戸中期の播州赤穂城主の浅野内匠頭長矩(あさの‐たくみのかみ‐ながのり)が切腹した元禄十四年三月十四日には、浅野家家臣は約三百人居た。そのうち「義士」と称されて、吉良義央(きら‐よしなか)の屋敷に討ち入りしたのは、僅かに四十七人だった。その参加率は、僅かに15%程度だった。この参加率の低さは何故だろう。
確かに、後世この討ち入り事件を「忠臣蔵」などと称して、持て囃されるのは歴史の語るところである。そして当時の武士階級の倫理観として、義士たちの行為は確かに「忠義」としてだったことは認めよう。
だが何故に、参加率が15%程度に留まっているのか。
日本人を“尚武の民だ”といい、また‘忠義の民族だ”という。果たして、この評価は正しいのか!……。不可解だ。不可思議だ!……。
何とも奇妙な評価というほかない。日本人の奇妙なところだ。
徳川時代、自藩の殿様が切腹させられたり、取潰しになった例は、何も浅野家だけではなかった。
徳川年間に、何と399家の大名家が取潰され、断絶されているのである。ところが、遺臣たちが、わが君の無念に対して、原因者である者に反抗したのは、「忠臣蔵」のケース、ただ一件だけだったのである。これが何故か!
江戸期、武士階級の比率は全体の約7%程度といわれている。
その7%に属する武士が、遺恨のために歯向かったのが浅野家の47人とすると、その比率は何と武士の全人数の0.5%に過ぎず、あまりにも淋しい数字である。これを当時の日本の人口からすれば、更に淋しい数字となろう。忠義者はこれほど少なく、また尚武に打って出る人間は更に激減することだろう。
この結果を裏から見ればどうなるのか。
とてもでないが、日本人は忠義も忠誠も、また尚武も虫眼鏡で探さねばならないほど淋しい数字になるではないか。
この淋しい数字を今日の日本人が引き摺っているとなると、今日の現実がどう捉えればよいのか。その因子を保因しているとなると、現代日本人は、どういう種属になるのか。
そこに、尚武の民と思い込んでいる幻想が、浮き彫りになって来るではないか。
果たして日本人は、忠義と忠節に準ずる民族なのか?。
そして果たして「尚武の民なのか?」という疑問。
では、ヨーロッパはどうだったのか。
同じ頃のヨーロッパでも、中世から近世に掛けて日本と同じような「取潰し劇」はあっただろう。この時代、皇帝や国王などの巨大勢力が、横暴を露(あらわ)にして、群小封建諸候などの領主や貴族を取潰す事件は多々あっただろう。この事件下に領主や貴族などを捕えて秘密裏に殺害したこともあろうし、居城に攻撃して皆殺しを企てたこともあろう。
この時代、洋の東西を問わず、最も多いのは国家権力や幕府が、ある種の罪状を作って「領主の資格なし」とは「藩主の資格なし」などの作文で、群小支配者を処刑したことであった。処刑した後、領地の明け渡しを求めるのは洋の東西を問わない。ここまでは、日本もヨーロッパも同じシナリオで取潰しが実行される。
しかし、日本と西欧の違いはこうした状況の及んだ場合、西欧では約3割形が戦争になっていることである。これは日本では考えられない。日本では、理不尽と分かっている「取潰し」や「明け渡し」を命じられても、殆ど抵抗なしに権力の意向を呑み素直に従っている。
ところが西欧では、理不尽に対して、あるいは権力に不合理に対してそれを露(あらわ)にして抵抗を試みる。この「試み」こそ、日本と西洋の違いだ。
西洋では、領主や貴族諸候に一度(ひとたび)忠誠を尽くせば、それを最後まで貫く忠臣が多かった。
最初から力及ばずで、その武力の差は明らかであるのだが、それでも喜んで「負け戦」に加担する者が少なくなかった。
こうした状況下で、一戦は敗れたとしても、二戦、三戦する忠臣がいた。
力及ばずと熟知しながら、負け戦に参戦するのである。更には理不尽な方法で領地を奪われた後の領主に対して、その領主とともに、放浪する家臣団もいたというから、これが日本人如きに忠誠心ではない。もっと深いものに畏敬の念を払い、尊崇の気持ちがなければ出来ることではない。このことを考えてみただけでも、西洋人の方が日本人よりよほど義理堅く、信義に厚いのである。
西洋では「お家再興」を願って、経済的困窮から群盗や一時的な犯罪者と化す、所謂(いわゆる)「強盗男爵」という賊も現れる。
しかし、もとは“忠臣”である。「賊」といっても、どこかに大義名分を持っていた。大義名分があるだけに、悪事を働いても「申し開き」が出来る。ただの“賊”ではないのだ。
強盗をすることは決して褒(ほ)められたことではなかったが、強盗をしてまでも、わが主君に付き従い、家臣として忠誠を尽くすのは、日本では珍しいことである。律儀である。日本人以上に律儀である。こうした律儀は日本人には認められない。
徳川時代、“お家取潰し”の比率は、399家というから一年に一回以上だった。平均すれば、毎年どこかで一件以上の大名家が取潰されていた。この度に、“お城明け渡し”の段となると、必ず「われらは主君と共に城を枕に討ち死にせん」とか、「われら家臣一同、この腹かっさばいて、お家再興を訴えよう」などという勇ましい意見が出る。しかし、この徳川265年間、こうした藩は一件も出なかった。確かに、最初は勇ましかった。ところが時間が経つにつれ、一人去り、二人去りというのが実情だ。最後まで、この情熱で「お城枕に討ち死にする」などの勇敢な武士はいない。時の流れが、勢い立った武士すらも冷静に引き戻すのである。結局、勇ましい武士は解散するのである。これは武士に限ったことでなく、人間とは「かくもこのようなものだ」ということを現している。
結局は冷静になって考えてみると、誰もが「寄らば大樹の蔭」なのだ。特に日本人の場合は、この傾向が強い。そして、此処こそが日本人の弱点でもある。徳川時代の、日本の武士というのは、この程度だった。だからこそ、山本常朝が『葉隠』を著わす必要があった。武士とは、いかなる存在か、山本常朝は此処を力説したかったのである。『葉隠』が生まれたのは、こうした経緯による。そしてこれは「忠臣蔵」以降のことである。
ちなみに徳川時代、家老職の子供は家老、足軽の子は足軽というように、自分の生まれた家柄によって地位と役職が決定され、それを相続したと思われているようだが、実際にはそうでもなく、主君や主家の奉公先の人間が無能なら、それを見限って転職した武家も多かった。
俚諺(りげん)にいう「二君の仕(まみ)えず」とか「武士は食わねど高楊枝」というのは、あくまでも侍の建前で、実際には「飢えは恥より苦しい」というのが実情のようであった。
この実情を、見事に再現してみせるのが明治維新だった。
ご存知の通り、徳川幕府は1867年に簡単の崩壊する。崩壊のきっかけとなったのは薩摩と長州の二藩を忠臣とする西南雄藩の暴動と画策に敗れたからである。この時、どれほどの徳川本家の家臣団が、徳川将軍を命がけで守り、忠義を尽くしてそれを貫こうとしたか。
旗本といえば、大将の麾下(きか)にいる直参の将士であり、御家人といえば将軍直属の家臣で、御目見(おめみえ)以下の者だったではなかったか。
幕末、彼等は徳川本家に対し忠義を貫いたのか。そんな動きをしたのか。否、殆ど皆無だったではなかったか。
当時の日本情勢の分析をすれば、佐幕のために尽力をしたのは会津藩と桑名藩の、僅か二藩だった。
この二藩はよくよく考えれば、会社に例えるならば、下承けを発注する程度の遠縁の子会社である。更に新撰組や見廻組は、急遽(きゅうきょ)に集めた幕府の臨時雇いのガードマン程度の警備隊に過ぎない。
新撰組は浪士を集めて編制した寄合所帯の警備隊であり、また見廻組は主として旗本の次男三男坊の部屋住みの子弟から成っていた。
要するに、徳川本家とは無縁の外郭団体だった。彼等は正社員ではなかった。
幕末、徳川家の直参旗本や御家人を併せれば、二万五千人の家臣団がいた。それでも遠縁の会津藩や桑名藩ならびに新撰組や見廻組と比較すれば、何倍にも相当する大勢力である。ところが、この大勢力を誇る直参旗本や御家人はどうしたのか。禄を徳川家から頂きながら、これらの徳川家臣団はどうしたのか。
歴代の恩顧を受けながら、最も忠義のほどを示す必要があった旗本や御家人は一体どうしたのか。幕閣(今日でいう大臣並びに次官級の閣僚)は、一体何ほどのことをしたのか。
この中で最後まで奮闘したのは、勘定奉行や軍艦奉行を歴任した小栗上野介忠順(おぐり‐こうずけのすけ‐ただまさ)ただ一人だけではなかったか。
小栗上野介はロシアとの折衝やフランス士官の招聘、更には製鉄所の経営などに尽したが、徳川慶喜の恭順に反対して辞職する。そして最後は官軍に殺された。
しかし他の幕閣は一体何ほどのことをしたというのか。殆ど何もしなかったではないか。
幕閣の多くは、わが身の安全と資産の保存に奔走したのではなかったか。
また、軍艦奉行を歴任したのち幕府側代表となった勝安房守海舟ごときは、積極的に江戸城明渡しに動き、事実上降参する側に回った幕閣の代表者もいた。徳川本家からすれば、裏切り者である。
そしてもっと下級の、一般的な旗本や御家人の中には、命がけで徳川本家のために忠義と忠節を尽くした者も、少なからずいた。上野の山で彰義隊を結成した旗本や御家人らは、その少ない一般的な旗本や御家人たちだった。ここに結集した二千人ほどの最後の徳川家の武士団は、しかし僅か一日弱の戦闘で崩壊し、生き残りは四散した。そしてたった一度の戦いで敗走し、その後、再び編成されることはなかった。しかし、これが「忠義か?」と疑うと、とてもそうしたものでないことが分かる。
徳川家康以来の江戸幕府は、徳川慶喜の大政奉還まで、第十五代の将軍を出して265年間も続いた中央政府だった。そしてこの政府下には正規の官吏群が2万5千人もいたのである。ところが幕末では、完全に裏切られた形になった。
実に見事というか、これほど100%完全に裏切られ、そして滅んだ例は世界でも非常に珍しい。
その中で、徳川本家に臨時雇いとして雇われたフランス軍の軍事顧問団は、その大部分が鳥羽・伏見の戦いを経て江戸から奥州に転戦し、長岡藩や会津藩の藩兵とともに戊辰戦争を戦い、最後には函館戦争にも参戦して従軍し、この「義理堅さ」に比べると、当時の徳川本家の守り役どもは、何とも言い様のない日本人の不忠不義ぶりの恥を世界に晒(さら)したものだ。
そして最も世界的な「恥晒し」を演じたのは、旧幕閣の、徳川本家から高禄で召し抱えられていた旗本どもだった。会津戊辰戦争で、会津藩兵や新撰組の残党や臨時雇いのフランス軍人らが東北地方で戦っている最中、高禄で徳川家から召し抱えられていた旧旗本の多くは、有利な就職先として、明治新政府に職を求めて押し寄せたことだった。この変わり身の早さは、呆(あき)れるというか、あまりにも見事というか、豹変する早さにつくづく感心する次第である。そしてこのことは、何も江戸期だけでなく、幕末や維新の特殊現象ではない。
最も間近な例は、先の大戦の敗戦当時の日本にもあった。
敗戦時における内務省の解体や日本軍の武装解除、更には教育制度の改造や農地改革、そして日本の官僚の変わり身の早さ。そしてこの官僚の中には、日本陸海軍の軍隊官僚の高級軍人も含まれる。
私のイメージとしては、先の大戦の昭和20年8月15日の、あの敗戦の日と、敗戦から一日経った同月の16日の、当時の陸海軍の高級軍人らの態度と、そっくりそのまま重なってしまうのである。 
太平洋戦争で、無謀な作戦を計画しそれを実行して、多くの将兵を死に追いやった、かの陸海軍の将軍や提督どもは、敗戦の責任を取って切腹などの自決することもなく、戦後もおめおめと生き残った。彼等の多くは、政府から多額な軍人恩給を貰いながら安穏とした日々を送ったのである。
そして、その言い訳ぶりが何とも印象的だった。
「戦前・戦中は天皇の命を受けて多くの作戦を立案・指揮し、そして戦後は、天皇の命を受けて日本復興のために恥を忍んで生きながらえ、それに尽力した」と。
“開いた口が塞がらない”とは、このことである。
軍隊官僚の高級軍人らは、戦前戦中と、何かと勲章を貰うことばかりに執心し、戦争をすることに猛り狂い、多くの作戦を立案・指揮し、結果的に検(み)れば最初から玉砕する「負け戦」を下級将兵の課したのだった。大戦末期は玉砕に継ぐ玉砕だった。全滅することを当たり前のように、作戦が立案され、愚将によって指揮されたのだった。犬死にを強いる無謀な作戦を立案し、指揮し、敵に手の中(うち)までを見せて、見事に粉砕された。
そして負ければ、今までのことを覆し、利敵行為さながらのお追従を使うのである。
こうした行為は何も軍隊官僚のみだけではなかった。財閥系の大企業の会社役員や上級幹部の管理職の社員どもも、一気に寝返り、GHQにおべんちゃらを使う始末だった。
当時、財閥解体において、GHQは日本の官僚や財閥系社員から相当な抵抗にあうことを覚悟していた。ところが、どっこい、である。拍子抜けするくらい省庁の高級官僚も、軍隊官僚も、また財閥系の大幹部からも何一つ抵抗される節はなく、彼等は進んで占領軍に協力したのである。教育制度も、日本ではいっさい抵抗なく、すんなりと受け入れたのであった。
そして不思議なのは、日本ではヨーロッパの敗戦国のように、パルチザンは起こらなかった。終戦時、労働者や農民からなる非正規軍は編成されなかった。これがアメリカから甘く見られる要因になった。最後は何から何まで好き放題にされた。
これは、ドイツ敗戦時、西ドイツは教育改革も財閥解体も連合軍に対し頑強な抵抗を試みた。頑(かたくな)に抵抗し、多くの犠牲者を出したのである。その西ドイツとは実に対照的だった。
その結果、西ドイツは同じ敗戦国でありながら、教育制度もこれまでのまま守られたし、財閥解体においても、クルップなどの財閥はそのまま生き残ったのである。また「憲法改正案」にしても、連合軍の強(し)いた憲法改正を拒み、ついに連合国側は折れて、「占領期間が終わる時に再検討する」という条項を加えさせたのである。
これは何から何まで強制されて、それをすんなり受け入れた日本とは大違いであった。
これまで論じてきた筆者としての私の“日本人観察考”は、以上について、事の善悪や結果論から起こる損得勘定を、あえて此処では問わない。だが、忠義と忠誠という次元で「日本人の変わり身の早さ」を考えると、日本人は外国人に比べて、「忠義」という意識は甚(はなは)だ薄いのではないかと思うのである。
いつも“寄らば大樹の蔭”という意識が働いていて、この意識に突き動かされているのが日本人ではないかと思うのである。またこの意識は、“バック”という蔭の陰影も作るため、この陰影によって態度も増長的になる。背後に力と言うものが存在しはじめた時、これは日本人に限らず、態度が増長的になるものだ。古今東西、“バック”に大きな力がつくと、組織の力を借りて高邁につけ上がるものだ。人間の特徴である。
頼りがいのある相手は、いつも力のある強者だった。強い者が日本人は好きである。そしてその「強さの象徴」が“尚武の民”の意識ではなかったか。
この意識は、自分が達成できないから、それに委ね、また自分が主人公に成り代わって代役をしているという気がしてならないのである。
こうした結論から考えれば、“寄らば大樹の蔭”は政界のみならず、財界にもあり、もともと忠誠心の薄い日本人が、現在諸外国のビジネスマンに比べて企業に、会社に対して忠誠心の強いように映るのは何故か。
それは日本人が考える企業や会社組織は、一種の運命共同体であるからだ。
例えば、電車に乗っていて自分が椅子に坐り、途中の駅で自分の上役が乗ってきたら、直ぐさま上役に席を譲るはずである。決して、老人や身体障害者が自分の席の前に立っていても、絶対に席を譲ったことのない者が、自分の上役となると、直ぐさま起立し席を譲るはずである。企業と言う共同体での習性である。
また、上役が新居を建てて引っ越しする場合、その引っ越しには、必ず土・日を返上して手伝いに行くはずである。また新居祝いには、某(なにがし)かの、それ相当の祝い物を持って押し掛けるはずである。冠婚・葬祭も然(しか)りである。これこそ自分の属する企業組織が、一心同体の運命共同体になっているからである。
そして運命共同体としての最たるものは、日本企業には終身雇用という独特の雇用システムがあるからである。あるいは年功序列を基本とする賃金体系があるからである。何故なら、背後に“寄らば大樹の蔭”があり、これは実に有り難い存在だからである。
日本人は、尊敬する人間に忠義や忠節を尽くすのではなく、時の流れが作り上げる「流行」や、状勢から生まれた「新組織」という、こうしたものに尻尾を振るのである。そして日本人は、集団催眠術に掛かり易い国民気質を持っているのである。権力筋の暗示に掛かり易く、それでいて熱し易く冷め易い。好きやすの飽きやすである。
私は、このことを若い時分から気付きはじめていた。日本人と言う、歴史的な意味が少しずつ分かりかけてきた。そしてこれを「寄らば大樹の法則」と、勝手に名付けていたのである。日本人は古来より、この法則に突き動かされてきたのである。なるほどと思う。
この法則は、日本人には悉(ことごと)く当て嵌まることを痛感したのだった。その痛感は、60有余年を過ぎた今でも、この法則がぴったりと適(かな)っていると納得するのである。
“寄らば大樹の蔭”は今のところ、日本人を従順にしている。それは日本企業が、未だに終身雇用と年功賃金体制を執り続けているからである。ところが、終身雇用年功賃金がどこまで続くか、これも次第に疑わしくなりはじめた。
何故ならば、この制度は日本固有の社会の伝統から生まれたものでなく、戦後の高度成長期の特異現象として起こったものだからである。いま日本は、高度成長期を終えて、手探りの不況の中に突入している。見通しの立たない、出口の見えない迷宮に迷い込んでいる。それをしたたかな中国をはじめとする大国や半島情勢が、日本人の未来像に変化を加えようとしている。それは虎視眈々なのだ。
そして終業年齢に達した若者たちが集中する職業は公務員であり、また一部上場の大企業や銀行などの金融機関である。
では、どうしてこの手の職業が好まれるか。
それは職場として安定していて、生涯安心して働けるという錯覚があるからである。絶対的な信頼の背景に、いわば、“寄らば大樹の蔭”の錯覚である。しかし、これは全くの幻想であることを、私は見抜いていた。
リストラという言葉は、何も近年に始まったものではない。既に私が学生の頃からあった。リストラクチュアリング(restructuring)という言葉は、昭和40年代の私が大学生の頃に、既に耳にしていたのである。終身雇用年功賃金は全くの幻想だった。栄えるものは、やがて滅びる運命にある。人間は変化を求める生き物であるからだ。
その当時、私が不思議に思ったのは、本来日本人が不忠不義の人種であるとするならば、現に当時流行になっていた日本人の「モーレツ社員の企業忠誠度」だった。この企業忠誠度は、私には異様に映ったのである。
一見、モーレツ社員の献身的な身を磨り減らすような、あの態度は何だろうと思ったのだった。不可解で異様な光景だった。
そのうえ自称“モーレツ社員”を自負する企業戦士の忠誠心は、確かに強さを前提として行動をしているのだが、ある意味で楽観的な、根拠のない「錯覚」の上に成り立った意識で動いているのではないか、と疑うのだった。
歴史を動かすのは、大衆ではない。大衆は中間層に位置する中産階級によって代表されているが、この階層は歴史を直接的に動かす力は持っていない。歴史に関わるのは確かに大衆であろうが、歴史を根底で動かし、あるいは煽動し、何らかの形で大衆に影響を与えるのは、影の力である。「影の易断政府」のような、カリスマ性を持った超人が動かすのである。事実、明治維新もこのような力で動かされ、それに大衆が踊っただけだった。大衆のできることは「釈迦の掌の上で乱舞することだけ」なのである。
社会操作は、思想戦略とともに結びついて変化の下で巧妙に行われるのである。明治維新も、また先の大戦の大敗北も、人間社会を蔭で動かす穏微な暗躍集団で実行されたが、その中で大いに踊ったのは、実は流れに翻弄(ほんろう)された日本人だった。そして時代は、日本人を“茶坊主”にしただけではなく、「くっつき茶坊主」にしたのだった。
戦後教育下では、平和教育と平等教育の名の下に、「忠」と「勇」の欠如する日本人を大量に作り出した。また、軍事的発想に欠けた日本人を大量に作り出した。兵法とか、軍略と言う思考を欠如させた日本人を大量生産してしまったのである。その最たる外交交渉が、日本人の「丸腰外交」である。そのうえ外圧の軋轢(あつれき)に屈し、脅されれば好きなだけ盗られてくる。
まるで、不忠不義の日本人の末路を見るようである。
忠義の心に薄く、義理人情に淡い日本人は、そのツケとしてやがてその代価を支払わねばならない時機(とき)が来るであろう。
また、「尚武の民」と自負する日本人の思い込みも、些(いささ)か危ういところがある。
日本には武術と言う古来からの「武の道」があるが、それも現代ではすっかり廃(すた)れてしまっている。武の道は、道から食(は)み出し、スポーツになったり、格闘技としての競技になってしまっている。その最たるものが、「礼の欠如」である。礼儀知らずが、武道の何だのと言う。しかし、今日の日本武道には「礼」が欠如し、礼儀知らずが我が物顔でいっぱしの論客を気取っている。これも不可解なことだ。
「忠」と「勇」の欠如する武道愛好者が、礼儀だ何だのとほざいているが、これらの「礼」をよく観察すると、それは「仲間内の挨拶」でしかなかった。あるいは規則として、恣意的に強制されたものだった。
こうした特異現象が起こったのも、軍事観の欠如だし、戦争観の観念のない日本人が、あたかも戦争を知らずに平和を語るようなものだ。
世の中は、ある種の法則で動かされている。その法則とは、「作用と反作用」である。アクションがあった分だけ、必ずその反動が起こる。一方的な作用だけが突出することはない。必ず反作用が起こるのだ。
したがって「平和」を叫び、集団デモンストレーションをしてシュプレヒコールを挙げただけでは平和はやってこない。戦争の恐ろしさと悲惨さが理解できてこそ、平和の大事さが分かる。人を活かすのなら、「活人剣」だけでは活かしきれまい。「殺人剣」を理解してこそ、“活人剣”が会得できるのである。
人間界は「作用と反作用の法則」が働く世界である。これを無視することは不可能だ。必ず「代価」というものを支払わねばならない。一方的に都合のいい方向には運ばないのである。
幸福を追い求めても、不幸を知らなければ幸福が訪れたことに気付かない。作用と反作用の関係にあるものは、どちらか一方だけという形で終息はしないものである。必ず、反動を伴って、やがて中庸(ちゅうよう)に落ち着くものだ。
したがって、「付け焼き刃」的なものも、その後の代価を考えれば、危険この上もない。
戦争においても、平和の尊さは戦争の教訓によって得られるものであり、単に平和を叫び武器を遠ざけ、軍縮を叫んだり、非武装中立を叫んでみたところで決して平和はこないだろう。
日本人に戦争観が欠けているのは、今に始まったことではない。日本人は十六世紀の戦国時代を最後に、既に四百年以上も、遺伝子の中に戦争観や軍事観の因子が抜け落ちてしまっているのである。日本人は真の平和を理解できないのは、本当の戦争の恐ろしさを日本人が経験したことがないからである。大陸人のように戦乱に明け暮れた歴史が、日本人にはないからである。これでは、どうみても「尚武の民」になりようがない。非武装主義では、尚武の民になりようがないのである。
幕末、日本に「尚武の民」といわれる階級は、もう武士階級の中でも極めて少なくなっていた。忠義で戦ったのは、新撰組や見廻組、それに会津藩や桑名藩のような、徳川本家とはと遠縁筋に当たる、一部の松平家だけだった。かろうじて少数の徳川家ゆかりの集団が忠義を守り通しただけだった。
既に尚武の民の意識は完全に失われていたのである。
この意識は明治の世になっても、失われたままだった。
明治新政府が力を入れたのは、「富国強兵」だった。国を富ませ、兵力を強めることだった。
しかし、徳川の世は非武装国家だった。非武装国家の日本が、慌てて軍備を増強しても、軍隊といえるものは組織できなかった。日本人に、軍隊という基本概念すら欠如していて、組織抵抗の意味すら十分に理解できなかった。こうしたものを理解せぬまま、日清・日露の戦争を経験し、勝った勝ったと堤灯行列までし、そして太平洋戦争に突入していくのである。
だが、日本人には戦争観が欠如しているから、この重大な欠点を背負ったまま、太平洋戦争に突入し、結局は見事に逆転されて大敗北を招くのである。
重大な弱点とは何だったのか。
それは日本人の戦争観や軍事観の欠如であった。
軍隊の意味を殆ど理解できなかった日本人は、工兵や輜重兵の意味も分からず、騎兵の本当の目的も知らなかった。日本人が騎兵を連想する時、それは騎馬の上士だけで、これを騎馬侍と考え、また騎乗の上士の後からついて走る兵士を徒侍(かち‐ざむらい)と理解していたことであった。これは日本特有の十六世紀の戦国時代に戦闘思想であり、騎馬侍が一軍を編成して戦う大将戦法である。騎兵とか、歩兵という戦闘思想が欠如していた。
況して、動員計画とか戦地行政とかも、殆ど理解できなかった。この理解不足が、日本軍を危うくしたのである。
西洋を真似て、軍隊形式を模索したものの、使い道や動かし方の意味は不明だったから、肝心の軍人魂というものが最初から欠如していた。軍人魂の根本には、戦争観と軍事観がなくてはならぬ。そしてそれが抜け落ちていたために、日本の軍人は夜郎自大に陥った。単に威張り腐るだけだった。
その結果、大局が負け戦のように悪化してくると、思い付くことは「滅びの美学」であり、玉砕も特攻隊戦法も、この美学の中から生まれた。
「死んで還ってくる」という出征を強要し、これを賛美するような奇妙な集団催眠術が大戦末期に流行したのだった。「千人針」が再流行したのも、この時である。
千人針とは、一片の布に千人の女が赤糸でひと針ずつ縫って千個の縫玉を作り、出征将兵の武運長久と安泰を祈願して贈ったものを指す。もともとは日清・日露戦争の頃始まり、初めは「虎は千里走って千里をもどる」の言い伝えから、寅年生れの女千人の手になったものという。しかし、これが大戦末期となると、夫婦や兄弟で出征する兵士が出ると、婦人らは街頭に立ち、道行く女性にひと針ずつ縫ってもらって、妻が夫の、姉や妹が兄弟の、子が父親の、母がわが子の武運長久を祈ったのである。
これにより、日本軍は猟奇の軍隊と化した。マゾヒズム軍隊が出来上がってしまったのである。死ぬことが賛美された。これが桜の花に譬(たと)えた「滅びの美学」である。しかし実質は、戦争指導者が日本国民に対して「犬死」にを強要したのであった。
これとは逆に、外国の軍人たちは、戦況のいかんに関わらず、「一人でも多く敵を殺して還ってくる」といって出征したのである。何と言う開きだろう。
これでは、紛れもなく日本人は「尚武の民?」とは言い難いではないか。
果たしてこの盲点と弱点に、どれほどの日本人が気付いているだろうか。
そして重大な盲点を更にもう一つ。
いまNHKなどで、「あなたは戦争をどう思いますか?国のために命を捧げることができますか?」という質問を若者に向けて投げ掛けている。その中の若者の回答を聞いてみると、二、三の回答の中に、「この国は命を投げ出すような国ではない」とか「国を守らなければ滅んでしまうような国なら、滅んでしまった方がいい」という回答をする若者がいる。
私はこれを聞いていて、これこそ「尚武の民ではない日本人がいる」とか、「忠義も忠誠も理解できない日本人がいる」という気がするのである。あの幕末の構図と同じ、忠義も、義理も人情もない日本人は、やはり居たと思うのである。
これを聞くだけでも、日本人は尚武の民ではないし、また忠義も修正も理解できず、更には義理人情にも希薄な日本人こそ、本当の日本人ではないかと思うのである。
こうした結論に出るのは、日本人ならではであり、これこそ日本人は本当に戦争はできない温和な民族だとつくづく痛感させられるのである。日本人は、かつてアメリカが警戒したほど、軍靴の足音を響かせて戦争に猛り狂う民族でもないし、チャンバラ映画を軍国主義と決めつけるほど、壮絶な戦いをする忠誠心の強い民族でもなかったのである。
この民族を一言でいえば、忠誠心の弱い、義理人情の薄い、淡い感傷的な国民気質を持った民族であったということが分かろう。そして何よりも嫌うのは、「負け戦」を戦うことである。誰もが利にある方につくのである。これこそ日本人の特徴であった。
そしてこうなった背景には、もう一つの盲点があった。それは徳川時代が世界史でも珍しい、何ゆえ265年も続いたかということである。これを真剣に探った歴史学者は殆どいない。
私の“私観”によれば、徳川幕府はこれまでの室町以前の幕府と違って、独特の「中央集権体制」を敷いたことだった。これこそが、徳川本家の最大の「先見の明」であり、その中でも“賤ヶ岳(しずがたけ)七本槍”といわれた関ヶ原の最大の功労者を、次々と葬り去ったことである。その中には、賤ヶ岳の戦で勇名をはせた七人が居た。
賤ヶ岳の七本槍は加藤清正(かとう‐きよまさ/文禄・慶長の役で蔚山(ウルサン)に勇名を馳せ、関ヶ原の戦では家康に味方し、戦後の論功行賞で、小西旧領の肥後南半を与えられ52万石の大名となり、また肥後国を領有する。1562〜1611)を筆頭に、福島正則(ふくしま‐まさのり/幼少より豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳七本槍の一人。後に尾張清洲城主。関ヶ原の戦には徳川方に味方し、安芸・備後に50万石の大封を与えられたが、広島城修築の罪を問われ、信濃川中島に移された。1561〜1624)・加藤嘉明(かとう‐よしあき/豊臣秀吉の臣。賤ヶ岳七本槍の一人。文禄の役に水軍の将。関ヶ原の戦に家康に応じ、伊予松山、ついで会津40万石に転封された。1563〜1631)・平野長泰(ひらの‐ながやす/賤ヶ岳の七本槍の 一人。平野長治の子。諱は初め「長勝」。平野氏は、鎌倉幕府の執権北条氏の庶流の子孫 という。また長泰と加藤清正は友人同士であった。5千石を拝領。1559〜1628)・脇坂安治(わきさか‐やすはる/賤ヶ岳七本槍の一人。豊臣秀吉に仕えて小田原征伐や文禄・慶長の役に功を立てた。関ヶ原の戦に西軍から東軍へ走り、伊予大洲5万3千石に封。1554〜1626)・糟屋武則(かすや‐たけのり/賤ヶ岳の七本槍の 一人。糟屋氏は播磨加古川城を拠点に鎌倉時代から続く武家で、播磨国にて別所氏の家臣 であった糟屋忠安の次男。1562〜1607)・片桐且元(かたぎり‐かつもと/賤ヶ岳しずがたけ七本槍の一。秀吉の没後、秀頼の後見となる。大坂落城後まもなく病没。1556〜1615)の七人がいた。
また、豊臣秀吉に帰順し、関ヶ原の戦では徳川方に従って、山形57万石を領有した最上義光(もがみ‐よしあき)がいた。義光は出羽の山形城を拠点に庄内地方に勢力を築き、上杉景勝、伊達政宗らと争う。そして豊臣秀吉に帰順し、関ヶ原の戦では徳川方に従った。それによって山形57万石を領有した。しかし、やがて取潰しの憂き目に遭う。
この時、加藤家、福島家、最上家は何故、大坂の陣くらいに抵抗しなかったのだろうか。それぞれの家臣団は、何を躊躇(ちゅうちょ)したのだろうか。
もし、この三家が激しい抵抗をしていたならば、徳川幕府が265年も続く強力な幕藩体制は築けなかったかも知れない。
日本という国は、確かに小さな島国である。しかし、小は小なりに、忠義を示す手段は幾らでもあったはずだ。現に、たった47人で「忠臣蔵」の義士たちがそれを実行したではなかったか。
これは武士の当時の自立性が乏しかったとか、武力が貧弱だったということは忠義を全うする上で、言い訳であろう。忠義や忠誠の本義は、力の強弱によって決定されるものではあるまい。
日本人は、「忠臣蔵」の例を取って、忠義・忠節の民であり、また文武に秀でた尚武の民であるなどと抜かす。果たしてこの観察は正しいのか。
そして、幕府が強かったというが、その幕府が幕末、どうだったか?ということを考えれば、加藤家、福島家、最上家は徳川幕府と一戦交えてもよかったのではないか。
私たち日本人は「その程度の勢力」に封じ込められ、いいようにあしらわれているのである。これは今も昔も変わりあるまい。
平成23年(2011)3月11日(金曜日)、14時46分18秒(日本時間)、東日本大震災が起こった。
この日に発生した東北地方太平洋沖地震とそれに伴って発生した津波は、その後の余震により引き起こされ、関東から東北に掛けて大規模な地震災害を起こした。またこの地震と津波に伴って、福島第一原子力発電所の事故まで引き起こした。この震災で発生した津波について、地元紙は「平成三陸大津波」と呼称した。
政府など公的機関は、特にこの固有名称を使用していないが、何故か政府の無能ぶりを彷佛とさせる呼称のような気がしないでもない。事実、民主党はそうした政党であり、また国民も「そうした政党」を選んだのである。
この選び方も、何故か「幕末」の倒幕運動時の身代わりの早さや、先の大戦の「敗戦時」の身代わりの早さを彷佛とさせるではないか。
そして「無能ぶり」が克明になって、今度は自分の選んだ政党を“詰る”のである。何とも義理堅くないというか、自分で選んでおきながら……という無責任さすら感じる。民主党で駄目なら、首をすげ替えればいいというのだろうか。
果たして、日本人に忠義や忠節、更には尚武の民の因子は遺伝的に受け継いでいないのだろうか?……。
そのうえ義理人情に淡い日本人は、平時では日本の安全弁という役目を果たそうが、戦時となればどうなるのか。
また、“茶坊主”的な行動を見せる日本人は、進歩的文化人の常套句に常に揺れ動き、ややともすると彼等の論法に煙に巻かれ、自虐的な態度を示したりする。要するに乗せられ易いのだ。白を黒と言いくるめるトリックに極めて乗せられ易い性分である。
その最たるものが、日本共産党の存在である。シンパサイザー(sympathizer)といわれる連中の多くは、日本共産党の正体が分からずに共産主義に共鳴や同情を覚えたり、あるいは援助している。そして日本共産党を日本の政党と思い込んでいることである。だから援助者として一票を投じる。
しかし日本共産党は、国際共産党組織(コミンテルン Komintern/第三インターナショナル)の日本支部として設立されたものである。これは純粋な意味で日本の政党ではない。もともと国際共産党組織は、共産主義の祖国であり、1919年に、レーニンらの指導下にモスクワで創立され、国際共産主義運動の指導に当ったソ連を根拠地とする、この国の国益を守るための組織である。
つまり日本共産党はソ連の日本支部なのである。ソ連の出先機関である。
この出先機関は日本の内部に巣食うガン細胞的な役割を演じているのである。それなのにこのガン細胞の一部として、自らもこの細胞分子と成り代わり、日本崩壊のために一役買っているのである。
これこそ、「忠」や「勇」の乏しさが引き起こす日本人気質を雄弁に物語っているではないか。
───しかし日本人が全て、「忠」や「勇」の欠如した人間の寄せ集めではない。日本は義理人情の淡い人種ばかりの掃き溜めではない。
かつて出雲の国に「尚武の民」がいた。その人の名を山中鹿介(やまなか‐しかのすけ)という。戦国時代の武将である。名を幸盛といった。
出雲の人で、尼子義久(あまこ‐よしひさ)に仕えた武人だった。
また、「尼子十勇士」の筆頭に数えられる武将だった。
十勇士は鹿介を筆頭に、山中鹿介・秋宅庵之介・横道兵庫之介・早川鮎之介・尤道理之介・寺本生死之介・植田早稲之介・深田泥之介・藪中荊之介・小倉鼠之介だった。この十勇士は、尼子氏滅亡後、尼子氏の復興につとめた十人の勇士のことである。彼等は義理人情に厚かった。「忠」と「勇」に生きた人たちだった。
永禄九年(1566)尼子義久が毛利氏に降ったので、尼子勝久を擁(よう)して戦ったが、のち播磨上月(こうづき)城で毛利方に攻められ、捕えられて斬首になるが、また、捕らえられる前に軽々と死を決意せず、最後まで反撃の機を窺(うかが)って奮闘した。
鹿介は勝久を擁して尼子氏再興に奮闘した。
永禄十二年(1569)出雲を回復して尼子氏を再興することに成功した。一時は成ったと思われたが、毛利氏の攻勢は猛烈で、ついに勝久は攻囲を受けて自刃する。しかし、鹿介は主君の後追い自決はしなかった。逃げ落ちて、再び反撃の機を窺ったのである。そして、普通だったら矢尽き、刀折れとなって精魂疲れ果てて切腹となるのだが、この道を鹿介は選ばなかったのである。
味方が死に、自分一人になっても生き延びて、最後まで反撃の機会を窺(うかが)ったのだった。一人になっても奮戦し、敵に一泡吹かせてやりたいという、ただそれだけの信念で、死を選ばなかったのである。これは生き方の中で、最も困難な生き方といえる。
人間は負け戦をすると、最後は追いつめられ軽々と命を絶つことばかりを考える。
また、こうした状況に追い込まれると、これまで同志だった内側のメンバーからも、敵に通じ、内側から崩壊するように企てる者が出てくる。敵の侵入を容易にするために、内側から城壁を開け、敵に侵入を遣(や)り易くなるように計らい、寝返りや裏切りをして、終戦になったとき、少しでも自分を売り込んで保身を図ろうとする輩(やから)である。早々と奮闘することを諦め、むしろ崩壊を早めるために内側から崩れるように持ち込もうとするのである。
そして、敵に塩を送るようなことをして、無事、敵が侵入して勝利したら、今度は相手方に自分を売り込む。敗戦になって戦争処理に、自分だけは優遇してもらおうとするからだ。負け戦が濃厚になると、そのように動き、進んで崩壊させる側に廻る。
「この戦いの陰の功労者が自分である。自分こそ、戦いを勝利に導いた張本人である。そのために大きな働きをしたのは自分だ」と売り込むのである。
かつて秦帝国が崩壊する時、この国の宦官(かんがん)だった趙高(ちょう‐こう)は、これを見事にやってのけた。裏切り者である。そして始皇帝の崩後、末子胡亥(こがい)を二世皇帝に立て、のち丞相(じょうしょう)の李斯(りき)を獄死させ、自ら丞相となり横暴を極めたのだ。
後に劉邦(りゅうほう)の軍が関中(かんちゅう)に入るや、胡亥を殺し、劉邦軍の侵入をよくしようと企み、子嬰(しえい)を立てて帝としたが、子嬰に殺された。これが進んで滅ぼす側に廻って人間の末路だった。
いつの時代も、こういう輩(やから)は必ず居るものである。特に自軍の戦局が悪くなり負けが込み出すと、最後まで奮闘するよりは内側から崩壊を招き、これまでの仲間を裏切り、敵に便宜を働き、利敵行為をして戦いの終結後、自分を有利に売り込むのである。
よく考えれば、「戦(いくさ)」というものは、もともとそういうものかも知れない。
戦というものは、単に躰を張って武勇だけで通用するものでもない。武略を用いれば、敵に通じ内部から崩壊するように仕向けるのも、また一つの戦い方であろう。もともと戦とは、そういう一つの策略で動かされるもので、間者・間諜(かんちょう)を使って、敵陣内を掻き回すのも一つの策なのである。それだけに、利敵行為をせず、また最後まで崩壊する側に回らず、命を張って戦い通せば無慙(むざん)に死んだとしても、その死は一つの大きな意味を持つ。その死は、寝返って生き残り、保身を図った者よりも後々の評価は高くなる。
山中鹿介幸盛(やまなか‐しかのすけ‐ゆきもり)とは、そういう人物だった。「七難われに」を三日月に祈った鹿介とは、最後まで忠義の人だった。 
 
大和の国の和の文学

 

日本人は古代から、「和」を尊んできた。「和」を尊ぶのは、日本人にかぎらない。中国人も太古から「天・地・人」の「和」を尊んできた。しかし日本人の場合、「和」の観念と「和」の追求において、中国人とはかなり違っているように思う。それを文学の中に見てみよう。 
1.国との和
中国人は古代から「天」を崇拝してきたが、日本人は「天」よりも「地」に心を向けてきた。神々の住む「高天原」はあったが、そこから天孫が「地」に降臨して「国」を開いて以来、「国」こそ最も大切なものであった。その「国」とは「やまとの国」であり、今にいたるまで日本人の心のふるさとになっている。  
「やまとの国」の賛美の古い例は、『古事記』に出てくる倭建命(やまとたけるのみこと)の「思国歌」(くにしのびうた)である。
やまとは くにのまほろば たたなづく あをかき やまごもれる やまとし うるはし
(やまとは、まことにすぐれた国であり、重なりあう青い山々にかこまれている。ああ、麗しいやまとよ!)
「やまと」は万葉仮名で「夜麻登」と書かれ、山(夜麻)にかこまれた美しい国という意味であった。これを「倭」(わ)の字に置き換えて「やまと」と読ませる人もいるが、それは当を得ない。なぜなら「倭」は中国人が日本に与えた呼称であり、「醜いえびす」の意味だからである。これを嫌った日本人のだれかが、後に「倭」を「和」に変えて「やまと」と読ませ、日本国の呼称とした。それがさらに拡大して「大和」の「やまと」が出現したわけである。
「大和」の「やまと」の出現は、アイロニーである。と言うのは、「大和の国」は決して「大いなる和の国」ではなく、騒乱や闘争の絶えない「不和の国」だったからである。実は、倭建命の歌も、すでにこのアイロニーを示している。
『古事記』によると、倭建命は景行天皇の第三皇子で、幼名は小碓命(をうすのみこと)、又の名は倭男具那命(やまとをぐなのみこと)であった。幼いころから猛々しい(建)性格で、これを嫌った父が西の熊襲(くまそ)部族の征伐を命じた。小碓命は美しい少女に変装して熊襲の首領兄弟に接近した。そして先ず兄を刺し殺し、次に弟を追った。弟はかなわないと見て、殺される前に相手を賛美し、これからは「倭建御子」(やまとたけるのみこ)と名乗るようにと言った。小碓命はそれから「倭建命」を名乗るようになったという。
倭建命が凱旋すると、景行天皇はすぐさま東の十二国を征伐せよと命じた。これは自分に死ねと言っているのと同じだと思い、倭建命は大泣きしたが、しかたなく出て行って、数々の苦難のすえ、十二国を征伐した。そして帰ってくる途上で歌ったのが「国思歌」であった。このとき倭建命はひどく疲れており、それから急に病が重くなって亡くなった。
この急病がどのようなものであったのかは謎であり、さまざまな説がある。たとえば、彼に国に帰ってきてもらいたくない者たち、彼を恐れる異母兄弟たちの陰謀による暗殺だったのではないかといった説がある。その真偽はともかくとして、熊襲征伐のすぐあとで休む間もなく十二国の征伐を命じられた倭建命が大泣きに泣いたということが、「やまとの国」が「大いなる和の国」でなかったことを如実に物語っている。
『古事記』によると、倭建命が亡くなったあと、妃と子供たちがかけつけて来て、彼を葬ろうとした。ところが遺骸は大きな白鳥に化して空に飛び立った。妃と子供たちが泣きながら追っていくと、白鳥は海を渡り、河内(かわち)の国の志紀(しき)というところで止まった。それで妃と子供たちはそこに御陵を作って彼を葬ったと言う。
白鳥は、なぜなつかしい故郷の「やまとの国」に飛んで行かなかったのだろうか。それは「大和の国」が名ばかりで、決して「大いなる和の国」でなかったからであろう。 
2.人との和
倭建命は「国との和」を失った悲劇的人物であったが、時代を下って六世紀、もう一人の悲劇的人物が現われる。推古天皇の摂政として政治にたずさわった聖徳太子(574〜622年)である。
争いの絶えない「不和の国」にあって、聖徳太子は「人と人との和」をもたらそうとして、「十七条憲法」を制定した。その第一条の冒頭に「和」が言われている。
第一条 「以和為貴、無忤為宗。人皆有党、亦少達者。是以或不順君父、乍違隣里。然、上和下睦諧於論事、則事理自通、何事不成。」
(和を尊んで対立しないことを宗とせよ。人は党派を作りがちで、道理に通じた個人は少ない。そのため君や父に不従順となり、隣人と仲たがいすることになる。しかし上の者と下の者がよく睦みあって議論すれば、道理はおのずから通って、何事も達成されるであろう。)
冒頭の「以和為貴」については、次の中国古典が典拠だとされている。
1『論語』 「有子曰。『礼之用和為貴、先王之道斯為美。小大由之、有所不行。知和而和、不以礼節之、亦不可行也。』」
(有子が言われた。「礼において和を貴いものとするのは、先王もこれを美としておられたからである。小事も大事も礼だけによって行うなら、うまく行かないことになる。しかし和の貴さを知って和だけをはかり、礼によって節することがなければ、これもまたうまく行かないであろう。」)
2『礼記』 「儒有博学而不窮。篤行而不倦。幽居而不淫。上通而不困。礼之以和為貴。忠信之美、優游之法。慕賢而容衆、毀方而瓦合。其寛裕有如此者。」
(儒者は広く学んでとどまるところを知らず、実行にはげんで倦むことがない。独居して淫に流れることなく、仕官すれば君にまで通達し、徳の不足に困ることがない。礼を行うにあたっては和を貴いものとする。忠信を美とし、柔和を法とし、賢者を慕い、衆人を受け入れ、己の堅苦しさを破って衆人と和合する。儒者の寛容とはかくのごときものである。)
ここで、『論語』も『礼記』も「和」を「礼」との関係において説いている。しかし聖徳太子の「以和為貴」の「和」は「礼」と関係づけられていない。聖徳太子は「礼」を重んじなかったわけではなく、第四条では「礼」の重要性を説いている。しかしそこでは逆に「和」が言及されず、やはり「礼」と「和」は関係づけられていないのである。
第四条 「群卿百寮以礼為本。其治民之本、要在乎礼。上不礼而下非斉。下無礼以必有罪。是以群臣有礼、位次不乱。百姓有礼、国家自治。」
(群臣百官は礼を本にしなさい。民を治める本は必ず礼にある。上に礼がないならば下は治まらず、下に礼がないときは必ず罪が起こる。したがって群臣が礼を守れば順位が乱れることなく、百姓が礼を守れば国家はおのずから治まるのである。)
ここで、聖徳太子の「礼」は、『論語』『礼記』のような個人の行為の規範ではなく、群臣が順位(上下の区別)を守るためのものとなっている。そのため行為の美としての「和」が言及されることにならなかったのであろう。
聖徳太子は個人の行為というものにきわめて懐疑的であったと思われる。それは第十条に見てとれる。
第十条 「絶忿棄瞋不怒違。人皆有心、各々有執。彼是則我非、我是則彼非。我必非聖、彼必非愚。共是凡夫耳。是非之理訶能可定。相共賢愚如鐶無端。是以彼人雖瞋、還恐我失。我独雖得、従衆同挙。」
(憤怒や激怒を捨てて、怒りによって他人にたてつくことがないようにしなさい。人にはそれぞれ心があり、執着するところが違う。他人が是とするところは自分が非とし、自分が是とするところは他人が非とするところとなる。しかし自分は必ずしも聖人ではなく、他人は必ずしも愚者でない。自分も他人もともに凡夫なのだから、是非を決めることがどうしてできよう。賢と愚は金輪に端がないと同様なのである。したがって他人が怒っているときは、自分が過っているのではないかと反省しなさい。自分こそ正しいと思っても、多くの人に従って同じように行動しなさい。)
『論語』『礼記』では、個人は完全な人格者「君子」をめざして自己修養する者であるが、「十七条憲法」の個人は「凡夫」なのである。聖徳太子は仏教に帰依し、人間の心の闇をよく知っていた。「人はみな凡夫」であり、ひとしく仏に救われなければならない存在であるとみなしていた。
「人はみな凡夫」。その断言は、自分のみを正しいとして譲らず、争いあって和合することがない人々を謙虚にしようとする聖徳太子の苦肉の策であったのかもしれない。しかしそれを耳に入れ、しかもその通りだと思う者がどれほどいたであろうか。後に聖徳太子は朝廷からしりぞき、斑鳩(いかるが)の宮に隠棲してしまったが、それは「十七条憲法」でもどうにもならない人と人の不和に絶望したからであったのかもしれない。
ともかくも、聖徳太子は日本で最初に「和」の観念を明確にした人であった。その「和」は儒教の「君子」ではなく、仏教の「凡夫」から考えられたものであったゆえに、結果として個人の社会的存在を強めることにならなかった。「和」は個人と個人の対立や葛藤を乗り越えたときに獲得される「和解」ではなく、対立や葛藤を起こさないために獲得されるべき「和合」であり、そのためには自己主張をしてはならないと戒められた。
自己主張を断念させられ日本人は、淋しくて悲しい。なぜならそれは人を表と裏に分断してしまうからである。言いたいことを裏に隠して、表では他人と同じことを言う。それは「和」のために効果的な方法であるかもしれないが、そのような「和」は表面だけの「和」であって、裏においてはわれも人も別々に淋しく悲しい存在になってしまうのである。
この淋しさと悲しさは多くの文学作品にあらわれており、『源氏物語』がその最たる例である。
『源氏物語』の登場人物は、すべて淋しく悲しい人間である。特に紫の上の淋しさと悲しさは深い。彼女は母を失い、祖母に死なれて、光源氏に養育されるようになった。実の父はいたが、疎遠であり、孤児と同じような境遇であった。初めは雀の子を籠に入れて可愛がったり、人形遊びに夢中になったりする無邪気な少女で、光源氏に対しても自分を隠すところがなかったが、やがて彼の妻とされてから、しかも多くの妻の一人であると知ってから、さまざまな苦悩にさいなまれるようになった。
苦悩の中で大きなものは、自分が表と裏の自分、すなわち光源氏のための自分と、自分のための自分に分かれてしまったことであった。そもそも光源氏が彼女を手に入れたのは、恋する藤壺の女御によく似ていたからで、彼女を藤壺の女御そっくりの貴女に育て上げようとしたのであった。紫の上はそのことを知らず、はじめは無邪気に光源氏の期待に応えていたのだが、そのうち彼は自分を自分として自分のままに愛してくれているのではないと感じはじめた。
光源氏は多くの女たちの中で紫の上を「最愛の妻」としていた。しかし彼女は不幸であった。表面的に「最愛」をそそがれても、裏面の自分にまでしみとおって来ない。彼女が求めたのは「相思相愛」という完全な「和」なのであったが、光源氏はそれを分かってくれない。中国でならば、男が「相思相愛」にそむいたとき、女は自分の尊厳を守ってきっぱりと離別を宣言するのであろうが、「つつましい」(すなわち自己主張をしない)貴女に育てられた紫の上は何も言うことができなかった。苦しんだあげくに、彼女は出家を求めた。
光源氏は驚き、恨めしく思った。これほどの愛をそそいでいる彼女がなぜ満足しないのか、なぜ出家したいなどと言うのか、まったく分からなかった。彼がそれを理解するのは彼女が亡くなったあとで、自分の多情多心によってどれほど彼女を淋しく悲しくさせていたかにはじめて気がついた。しかし今となってはすべてがおそ過ぎた。大きな悔恨の中で光源氏は出家を志した。
このように、『源氏物語』は光源氏と紫の上の華やかなラブ・ロマンスではない。心と心が最後まで「和する」ことができないで、別々のまま終わってしまう悲劇なのである。 
3.自然との和
「人との和」が得られない苦しみに耐えられなくなった日本人は、紫の上のように出家して、あるいは世捨て人として山林に住み、あるいは一所不住の旅人となって、わが心の平安を獲得しようとする。中世文学の一翼をになう隠者はそうした人々であり、中でも有名なのが西行法師(1118〜1190年)である。
西行は俗名を佐藤義清(さとうよしきよ)といい、鳥羽上皇の北面の武士であったが、二十三歳で出家した。歌集に『山家集』(さんがしゅう)があるが、彼は山里に隠れ住むことを好んだ。塵の世間から遠ざかった山里は静かで、自然が清浄で美しい。西行は自然に心をよせ、自然との「和」の中に生きようとした。
人もこず 心もちらで山里は 花を見るにも たよりありけり
(人も来ないで心が散ることのない山里は、花を見るのに絶好だ。)
山里を とへかし人に あはれ見せむ 露しく庭に すめる月影
(山里を訪ねてくる人があったら「あはれ」を教えてあげよう。露でいっぱいの庭に澄んでいる月を見せて。)
『山家集』はに千六百八十首ほどの歌があり、そのどれも自然や人生を観照する。しかし西行の歌は中国の自然詩人の詩と比べたとき、微妙な違いがあることに気づく。たとえば世を捨てて天台山の近くに隠れ住み、三百首あまりの詩を岩や木の幹に書き残した寒山(9世紀頃)と比べてみたとき、その違いは明らかになる。
寒山と西行の違いは、ひとことで言って、「孤高」と「孤独」の違いである。寒山は世を捨てた自分の正しさを信じており、それを次のように表わしている。
世間何事最堪嗟  世間の嘆き何が大
尽是三塗造罪柤  三界罪を造ること
不学白雲巌下客  白雲岩下の人を見よ
一条寒衲是生涯  生涯破れ衣着る
秋到任他林葉落  秋は林の葉が落ちて
春来従你樹開花  春は花咲くままにして
三界横眠無一事  三界安眠一事無し
名月清風是我家  名月清風これ我が家
世間の俗人は三界(過去・現在・未来)において罪を重ねている。しかし俗世間を超越して高山に住む自分は、三界にわたって安眠していると豪語しているのである。この「孤高」は、自分を自分として丸ごと信じる中国人にしてありえることなのであろう。しかし自分が表と裏に分離してしまう日本人に「孤高」はない。西行においてもそうで、その代わりに見られるのが「孤独」である。
月をうしと ながめながらも 思ふかな その夜ばかりの 影とやは見し
(月を眺めて憂き思いにかられてしまった。この夜だけの光だと思うと。)
山ざとの 心の夢にまどひをれば 吹きしらまかす 風の音かな
(山里の心の夢に惑っていると、あたりを白く吹きさらして行く風の音がする。)
寒山は「名月清風これ我が家」と言っているが、西行にそのくつろぎはなく、底知れぬ淋しさにおちこんでいるのである。
この淋しさは、自然がしょせん「無心」であり、「有心」の人間の友となることができないからなのであろう。その「不和」の淋しさの中で、西行はどうしても人を恋わないではいられない。
さびしさに 堪へたる人の 又もあれな いほりならべん 冬の山ざと
(自分のように淋しさに耐えている人がもう一人いないだろうか。そうしたら庵を並べて住むのだが。この冬の山里に。)
有心の人間には言葉があるが、無心の自然にはそれがない。西行は山里に隠れ住み、自然を友とする決心をしたとき、「有心有言」の人間的自分から、「無心無言」の自然的自分に変わろうとしたのかもしれない。しかし彼が歌を詠み続けたことは、それができなかったことを示しているように思われる。
みさびゐて 月も宿らぬ 濁江に われすまむとて 蛙鳴くなり
(錆びたような水面に月の影も宿らない濁り江。そこに蛙が鳴いている。「おれ様が住んでいるんだぞ」というように。)
この濁り江は月影(悟りの象徴)も宿ろうとはしない。錆びた水面の下に住む蛙は、鳴かなければだれにも存在を知られることがない。黙ったままでいられない蛙こそ、孤独に耐えられない西行自身に見える。
西行の孤独の濁り江は、近世の俳人芭蕉に受け継がれている。芭蕉の有名な句にも蛙が出てくる。
古池や かはず飛びこむ 水の音
この蛙は芭蕉自身なのであろうか。それともだれか別の人間をさしているのであろうか。いずれにせよ、この蛙は「濁り江」に飛びこんで、そこに住む蛙と友だちになろうとしているかのようである。
芭蕉は出家こそしなかったが、世を捨てて諸国を行脚した俳人であった。古池の蛙の句と並んで有名なのは次の辞世の句である。
旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる
芭蕉はなぜ一生を旅で過ごしたのだろうか。何のための旅だったのだろうか。夢とはどんな夢だったのだろうか。
もしかしたら芭蕉の旅も「無心無言」、すなわち無我の境地を求めての旅ではなく、失われた「やまとの国」を求めての旅であったのかもしれない。その旅の途中で、彼はふるさとに入れなかった倭建命のように、枯野で病に倒れて亡くなった。 
4.自分との和
日本人の孤独は、明治維新をへて日本が近代化、国際化に走る時代となってから、より深刻になった。たとえば、二葉亭四迷の『浮雲』に出てくる文三は、人員整理で会社をやめさせられてから、次の仕事をさがす意欲がなく、今で言う「引きこもり族」のようになってしまった。急激に変わっていく社会に自分を合わせて行けない古風な人間だからで、問題はその古風な自分を嫌いながら、古風の殻を破って新しい自分になることができないでいることであった。ここに西行などになかった「自分との不和」という問題が生じている。
『浮雲』から出発した日本近代文学は、この「自分との不和」の問題を「近代的自我の確立」というテーマのもとに解決しようとした。中でも田山花袋から始まる私小説作家たちは、「自我主義」という観念のもとに、落伍者としての自分を赤裸々に書きあらわすことが問題解決につながると考えた。
しかしながら、彼らは自ら選んで世捨て人となったというよりは、世から捨てられて落伍者となったきらいがあり、したがって彼らが赤裸々に描く自己は、寒山のような堂々とした「真の自己」と比べて、あまりにも弱々しい。そうした自己をいったい読者は愛したのだろうか。おそらく私小説作家自身も嫌っていたのではないだろうか。
夏目漱石(1867〜1916年)は、私小説の「自我主義」に反発して「個人主義」を唱えた作家であった。
漱石の作品の中で今なお人気を集めているのは、『吾輩は猫である』と『坊ちゃん』であるが、名作は晩年の『それから』、『門』、『心』の三部作、そして未完で終わった『明暗』である。これら晩年の作品には、「自分との和」をとりもどそうとする漱石の血を吐く努力がにじみでている。
『それから』の主人公は、親から生活費を出してもらって仕事をしない代助という青年で、今で言えば「ニート族」である。働かない理由は、文明開化の浮薄な世の中がいやだからだという。代助の友だちの平岡は、逆に世の中の局面で人間性をすりへらして仕事している。代助はそれを見下しているのであるが、あるとき急に自分の偽善に気がついた。
代助はかつて平岡の妻の美千代を愛していた。美千代も代助を愛しているようであったが、二人が愛を確かめ合う前に、平岡から美千代と結婚したいと打ち明けられた。そのとき代助は自分も美千代を愛していると言うことができず、かえって平岡のために仲をとりもって二人が結婚できるようにしてやった。
親友のために自分を犠牲にしてやった。そうした自分は高潔な精神の持ち主だと、代助は自分に信じ込ませていた。そしてさらに自分が仕事をしないのは世の中が悪いからだと高潔な隠者ぶっていた。その偽善に気がついたとき、代助はもはやこのままでいるわけに行かなくなり、思い切って美千代に会いに行って遅すぎた愛の告白をした。美千代は涙を流し、決して遅すぎたことはなかったと言った。代助は勇気をふるって平岡に美千代を譲ってくれと頼んだ。当然平岡は猛烈に怒った。事情を聞いた代助の父も怒って、もはや生活費を送ってやらないと言ってきた。追いつめられた代助は『それから』どのように生きて行くのだろうかというのが、この小説の終わりである。
世の中が悪いから仕事をしないと言い張る代助は、私小説の主人公に似たところがある。しかし漱石は彼に自分の偽善に気づかせた。「自我主義」の殻を破って、本物の自分をとりもどす行動を起こさせた。その行動の波紋は、次の作品の『門』で大きくなる。
『門』の主人公は、宗助とお米という夫婦である。お米は宗助の友人の妻だったのだが、宗助のもとに走って二人は夫婦になった。真実の愛に生きようとした二人であるが、世間はそのようなことを認めない。二人はそれぞれの罪を背負って、とぼとぼと世間の外を歩いて行かなければならない旅人となった。
次の作品の『心』になると、この罪に判決が下される。主人公の「先生」は親友のKと同じ女性を愛してしまい、Kが彼女と結婚できるように仲をとりもってやると約束しながら、結局は自分のほうに奪いとってしまった。そのためKは自殺してしまい、以後「先生」は罪の重荷を一人で背負って、何も知らない妻と暮らしていかなければならなくなる。しかしついにその苦に耐えられなくなったとき、自分の罪に自分で判決を下し、自殺してしまうのである。
自分の罪に自分で判決を下すといったことは、はたして正しいことなのであろうか。もしもその答えが「正しい」であったなら、漱石はここで筆を折って作家をやめたであろう。しかし彼の答えは明らかに「正しくない」であった。なぜなら自殺は「自分との不和」の解決にはならない。「和」の徹底的な破壊でしかないのである。漱石は最後の作品となる『明暗』でこの徹底的破壊に瀕している「和」を追い求めた。
『明暗』の主人公は、津田という男である。妻はお延という近代的女性で、夫婦仲はよくない。それは津田がお延の気持ちに満足に応えようとしないからで、お延はそのため必死になって津田の気持ちをつかもうとする。津田はそうされればされるほど遠のいてしまい、二人のあいだの「不和」はますます深まってしまう。
津田がお延の気持ちに応えようとしないのは、自分自身を信じることができないからであった。彼にはかつて結婚を約束するところまで行った清子という女性がいたのだが、清子は突然婚約解消を宣言し、姿を消してしまった。津田は自分の何が悪かったのか、何が嫌われたのか分からなかった。ただ嫌われたことだけははっきりした事実であり、それ以来の自己不信をかかえたままお延と結婚したのであったから、彼女を愛せるはずがなかったのである。
津田は病気し、その療養のために修善寺温泉に行った。そこで偶然、清子に再会した。今こそ津田は心の宿痾となっていたあの問いを清子に問うことができるはずであった。しかし津田にそれをさせる前に、漱石は病が重くなり、ここで筆を投げることになってしまった。
漱石は晩年「則天去私」をモットーにしており、『明暗』の清子が「則天」をあらわすはずであったと言われている。たしかに『それから』、『門』、『心』の主人公は「自分との不和」に苦しみ、ついには死によって自分を罰するところまで追い込まれて行く。それは彼らが「去私」に偏りすぎ、弱くて醜くて愛しがたい自分を抹殺してしまおうとするからなのであろう。『明暗』の津田にもその傾向がある。しかし彼はどうやら「則天」を象徴する清子に再会したことで救われそうに見える。そのヒントだけを示して『明暗』は未完に終わり、漱石は逝去してしまった。 
5.生死との和
漱石は英文学者であり、ロンドンに留学したこともあった。西洋の人間観をよく知っており、そのうえで東洋的人間としての「近代的自我確立」を探求した。
漱石よりもさらに東洋的、と言うより日本的であったのは、川端康成(1988〜1972年)であった。漱石は「則天」を象徴するような清子を登場させたところで作家生命を終えてしまったが、川端は『伊豆の踊り子』という自然の少女を登場させるところから作家の道を歩み始めた。
『伊豆の踊り子』の主人公は孤独な学生で、旅芸人の一行と道づれになって下田まで旅をする。この学生も「自分との不和」に苦しんでいるが、その自分は代助、宗助、津田などのように罪を負った自己ではない。死に運命づけられた虚無的な自己なのである。
『伊豆の踊り子』の前に、川端は「十六歳の日記」というのを発表している。川端自身のことを記したといわれるその作品には、十六歳の少年が老いて醜い祖父が病の苦しみのはてに死んで行くのを見つめるさまが描かれている。「生・老・病・死」の四苦をすべて見てとるには、十六歳は早すぎる。少年川端がそれによって釈迦のように「空」を悟ることにならず、冷たい「虚無」にとらわれてしまっても無理はない。『伊豆の踊り子』の学生にも、この虚無がつきまとっており、当然のことながらのびのびと生きることができない。いわば死とも不和、生とも不和になっているのである。ところが踊り子はまったく何の翳りも無く、自然にのびのびと生きている。それに触れて、学生ははじめて虚無から救い出されるような気がした。
川端の名作、『雪国』、『山の音』にも、虚無的な主人公が現われる。
『雪国』の主人公は島村という東京に住む男である。彼は雪深い温泉町をおとずれて、駒子という芸者を知る。駒子は「不思議なくらい清潔であった。足指の裏の窪みまできれいであろうと思われ」、「白い陶器に薄紅を刷いたような皮膚」の持ち主で、どこか蚕を思わせる女である。事実、彼女が寝泊りしている部屋は、もと蚕を飼っていた部屋で、壁には丹念に半紙が貼ってある。島村はその部屋に入って「黒い寂しさがかぶさって」いるように感じた。
島村が駒子に惹かれたのは、彼女の寂しさであり、生き方の虚しさであった。彼女が芸者に出たのは、死ぬと分かっている婚約者の療養費をかせぐためであった。島村はそれをなんという徒労であろうかと思う。やがて煮殺されてすべてが無に帰するとも知らず、夢中で桑の葉を食い、必死に繭を作る蚕のような徒労。しかしそう考える島村自身、親が残してくれた財産によって生きている無為徒食者なのであり、彼自身の生き方も徒労以外の何ものでもない。島村と駒子の関係は、実は島村のニヒルな虚無感の上に成り立っていたのである。
ところが駒子のほうにはこの虚無感がなく、どんどん島村に近づいてくる。すると島村はしりごみし、「ああ、この女はおれに惚れている」と思うと、彼女に肉体的な憎悪さえ感じた。
秋になって、島村の宿の部屋では、死んで行く虫がふえた。その多くは蛾であった。その死骸を見て、島村は駒子との情事が終わりにきていることを感じた。この情事ははじめからずっと徒労であり、どこまで行っても徒労でしかない。ということはいつ終わってもいいということであった。せっかく繭を破り出ても、秋の深まりとともに蛾は死んでしまう。生きとし生けるものすべてこのように徒労の生を生き、死にのみこまれてしまうのが運命であるとするならば、蚕はむしろ蛾になる前に、清浄な繭の中で無垢のまま死んでしまったほうがいいのではないか。しかし駒子はすでに繭をやぶって蛾になり、島村のほうに飛んで来ようとしていた。
もう一つの名作『山の音』は、六十二歳の信吾という男が主人公である。彼には保子という一歳年上の妻がいるが、夫婦仲は冷えている。
実は信吾は若いころ、保子の姉を恋していた。保子は不器量であったが、姉は清らかに美しく、とりわけ紅葉の盆栽のあいだに立っていた彼女の姿は、信吾の脳裏にくっきりと刻み込まれて消えることがなかった。彼女は美男子と結婚し、まさに似合いの夫婦となったのだが、まもなく亡くなってしまった。
信吾が不器量な保子と結婚したのは、彼女を哀れんだためであった。姉が亡くなったあと、保子は残された子供たちの養育を助け、家事をとりしきった。それは美男の義兄にひそかな恋心を抱いていたからで、もしかしたら後妻にしてもらえないだろうかという期待があったからであった。義兄はそれを知っていたが、知らぬふりで彼女を利用していた。信吾は彼女を哀れんだ。自分も保子の姉にふさわしい男ではなかったが、保子も義兄にふさわしい女ではない。二人とも美に憧れながら、醜の中に生きて行かなければならない同類なのであった。
保子と保子の姉は、『古事記』に出てくる石長比売(いわながひめ)と木花之佐久夜比売(このはなのさくやひめ)の姉妹を思い出させる。姉の石長比売は醜く、妹の木花之佐久夜比売は美しかった。高天原から地上に下った天孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)は美しい妹をみそめ、妻にしたいと申し込んだ。父は承諾し、妹だけでなく、姉もそえて送ってきた。しかし邇邇芸命は美しい妹だけを残して、醜い姉を家に帰らせてしまった。父は嘆息して言った。
「姉妹をならべて献じたのは、姉によって石のようにゆるぎない長寿を得られるようにとのことからであったが、妹だけをとどめたということは、彼の命が咲いてすぐ散る花のように短いものになってしまうことだ。」
そしてその通りになった。
『古事記』の醜い姉と美しい妹は、「醜い生」と「美しい死」を象徴しているようである。『山の音』にあって、姉妹は逆になり、姉が美しく妹が醜くなっているが、意味は『古事記』の姉妹と同じである。信吾は「醜い生」よりも「美しい死」に心ひかれている。しかし「死」はほんとうに美しいものなのだろうか。もしも本当に美しいものであるならば、信吾は「死」を受け入れてそれに「和」することができるだろう。しかし鎌倉の住まいの裏山が鳴って聞こえたとき、信吾は無気味な恐ろしい「死」を予感するのである。
『山の音』からに十年後に書かれた『眠れる美女』になると、「死」は凍るような恐ろしさとなって現われる。
『眠れる美女』の主人公は、江口という六十七歳の男である。彼はいまだ性的能力をもっていたが、やがてそれが失われて男として終わってしまうことを恐れていた。彼はすでに終わってしまった友だちから、ある秘密の屋敷につれていかれた。屋敷に迎え入れられるのは終わってしまった男だけで、江口はそのふりをしていた。
屋敷の秘密の部屋で、男たちは美しい処女と寝ることができた。処女は睡眠剤を飲んで深く眠っており、まったく目覚めることがない。そのかたわらで男たちは何もせずにじっと寝るのであった。
江口は眠れる処女を犯さなかった。それで信用されて何度かおとずれていたのだが、最後に二人の処女と寝ることになった。一人は色が黒く、もう一人は色が白い。ところが朝になったとき、色の黒い処女のほうが死んでいた。屋敷の女は急いで江口を外に出した。何日かたって江口は屋敷をたずねてみたが、もうそこには誰も住んでいなかった。
色の黒い処女と色の白い処女。それは『古事記』の姉妹なのであろうか。もしそうだとしたら、なんとも恐ろしいことになる。死んだのが「磐のようにゆるぎない長寿」を象徴する「石長比売」のほうだからである。
「醜い生」と「美しい死」がならべられたとき、大多数の人は「醜い生」を選ぶであろう。泥の中をはいずりまわっても、虫けらのように貶められても、命が続くかぎり生きていたいというのが人間の本能だからである。しかし今、その「醜い生」が「美しい死」よりも先に死んでしまったのだ。
『眠れる美女』から十二年後、川端康成は自殺した。「生との和」を得られずに苦しんだあげく、すくなくとも「死との和」を得ようとしたのかもしれない。 
6.日本文学の理想・大和
明治以来、自殺によって世を去った作家は、川端康成一人だけではない。北村透谷、有島武郎、芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫などが自殺している。自殺の動機はそれぞれ違うだろうが、みな「やまとの国」の手前で倒れた倭建命に重なるような気がする。「やまとの国」はそこに見えている。しかしどうしてもそこに到達することができない。そうした絶望から命を断つことになってしまったのではないだろうか。たとえば有島武郎は次のような辞世の歌を残している。
道はなし 世に道はなし 心して 荒野の土に 汝が足を置け
有島武郎はキリスト教の影響を受けた作家であった。彼は人妻と心中をとげたが、それは道無き荒野のむこうにあるはずの「エデンの園」をめざしたのかもしれない。自らの罪を死によってあがない、悔い改めたアダムとイヴになって帰って行かなければならないと考えたからなのかもしれない。
有島武郎が求めた「エデンの園」は、実は失われた「やまとの国」であったのではないだろうか。なぜなら「やまとの国」は日本の風土の中でそのように呼ばれるのであって、キリスト教国では「エデンの園」、中国でなら「大同の世」、仏教国でなら「仏の国」と呼ばれる「永遠のふるさと」だからである。
日本の文学者たちは、意識的に、あるいは無意識的に、その「永遠のふるさと」への道を求めて闘った。そして多くの者が倭建命と同じように「ふるさと」の土を踏むことができずに倒れてしまった。しかし彼らが残した文学作品は、大きな白鳥のように空に飛び立ち、今にいたるまで多くの読者、研究者がそのあとを追っているのである。
わたしたち読者、研究者は、白鳥が止まったところに墓を作るべきではない。中国人はむかしから異郷で亡くなった人の遺骸を、万難を排して故郷に運んで埋葬する。わたしたちも白鳥がさらに飛び立って、ついには故郷に入るのを見とどけなければならない。それがわたしたちの使命であり、テロリズムが世界を脅かし、「平和」という言葉が言葉だけになってしまった現在、この使命はますます重要なものになっている。特に複雑な国際関係の中で反日感情が高まったりするとき、「やまと」は「倭寇」の国ではなく、「大和」を理想とする国であることを明らかにしていくことが絶対に必要である。 
 
瓦の歴史

 

はじめに
日本のように雨の多い国では,屋根瓦がずい分役に立っています。瓦というものを、いつ誰れが考え出したのか、これはよく分かりませんが、焼き物の瓦は中国で発明されました。そして朝鮮半島を経てわが国に伝えられましたが、いろいろ改良が加えられ、今ではすっかりわが国の風土にとけこんだものとなり、もともと中国から始まったとは誰も考えていないほどです。
瓦は丸瓦と平瓦を組み合わせて雨や雪に対するものでしたが、次第に種類が増えていきました。そして現代では装飾として作られたものもずいぶん見られます。屋根の形によって葺きかたも、また使われる瓦も異なります。軒先を飾ることはもちろん、けらばにも文様を飾った瓦を使います。
大棟や降り棟は高く積み、飾り瓦を置いておりますし、その先端には鬼瓦を据えています。大棟といえば、古い時代には鴟尾をその先端にのせていました。時代が降り、城が築かれるようになると鯱がのせられるようになります。それから直接屋根の上ではありませんが、隅木の先や垂木の先を飾るために隅木蓋瓦や垂木先瓦などが用いられることもあります。このように、屋根の部分によっていろいろなものが作られました。 
1.中国大陸の瓦
アジアで発見されている最も古い瓦は、中国西周時代初期のもので、陝西省の宮殿遺跡の発掘調査で出土しています。西周時代の初期といいますと、今から約三千年ちかくも昔のことです。その頃の瓦は大形の平瓦だけで、建物の棟や曲り屋ふうの屋根の谷間に使われたようです。
西周時代の中期になりますと、丸瓦と平瓦とが組み合わされて使われるようになります。そして西周時代の終りちかくの頃には、丸瓦の先端に文様をつけた部分「瓦当」がとりつけられるようになりました。ただ、その頃の瓦当は丸瓦の形のまま、半円形です。それで半瓦当と呼んでいます。文様として樹木や怪獣などが使われています。
その後、漢代になりますと瓦当は現在見られるような円形になります。文様として目出たい語句や宮殿の名などの文字を用いたり、朱雀や玄武などの四神を飾ったりします。それ以後には、蓮華文が用いられるようになります。中国の南の方では単弁蓮華文が、北の方では複弁蓮華文が用いられたようです。
軒平瓦が作られるようになるのはずっと後の時代になります。中国の瓦というと緑・青・黄などのうわぐすりをかけたものを思いおこします。敦煌の壁画などにもうわぐすりをかけた瓦を葺いた宮殿が描かれておりまして、6世紀初め頃の階の時代にはそうした瓦がすでに使われていたようです。 
2.朝鮮半島の瓦
西暦前108年に、朝鮮半島の北部に漢が楽浪郡をおきました。楽浪郡の中心部は現在の平壌地域です。ここには漢と同じような瓦葺きの宮殿が建てられました。したがってそこに使われた瓦は、漢の瓦そのものといっても良いほどです。
その後、朝鮮半島には高句麗、百済、新羅が国を興します。
いちばん北に国を建てた高句麗の瓦は楽浪の影響を強く受けており、良く似たものが作られます。後になると、中国北朝の影響を受けて蓮弁やパルメットを加えたもの、蓮弁と蓮弁の間に珠文を入れたものなどが作られます。
高句麗の次に国を建てた百済では、中国南朝の影響を受けた蓮華文が用いられます。蓮弁の中に何の飾りももたないあっさりとした文様です。
いちばん遅れて国を建てた新羅では、高句麗と百済両方の影響を受けた文様が用いられます。これら三国が独立していた頃にはまだ軒平瓦は作られませんでした。
7世紀半ば過ぎになって新羅が三国を統一しますが、それから後の新羅の瓦の文様はたいへん賑やかなものとなります。蓮華文もこみいったものになります。顔が人で体は鳥という迦陵頻伽を飾ったりします。軒平瓦もこの頃から作られるようになります。文様の多くは唐華文ですが、葡萄唐草文や飛天なども用いられています。また蓮華文のセンや棟端瓦も作られ、中には緑釉製品も見られます。 
3.飛鳥時代の瓦
崇峻天皇元年(588)、わが国で初めての寺造りが始まりました。寺の名を飛鳥寺と言います。この寺を造る時に百済から各方面の技術者が渡来しました。その中に瓦博士とか瓦師と呼ばれた4人の瓦作りの技術者がおりました。彼等が作った瓦の文様は、当然のことながら当時の百済で使われていたものにそっくりでした。
わが国では飛鳥寺の建立をきっかけとして、法隆寺(若草伽藍)、豊浦寺、四天王寺というように次々と寺が建てられていきました。
瓦の文様にもいろいろなものが見られるようになります。蓮弁の中央に1本の線が入り、蓮弁と蓮弁の間に珠点がおかれるもの、あるいは獣面を飾ったもの、これは高句麗の要素をそなえたものと考えられております。また蓮弁の中央に1本の線が入いり、中房の周囲に溝がめぐるものが作られたりしますが、これは古新羅の影響を受けたものでしょう。
このように、初期の瓦は百済、高句麗、新羅3か国の影響を受けたものが多く見られますが、この他にも多種多様な文様が見られ、蓮弁の数も6弁、7弁、9弁、11弁というようにバラエティーに富んでいます。また、この時代にすでに法隆寺と坂田寺で軒平瓦が使われています。文様は型によらず、瓦に直接彫っています。 
4.白鳳時代の瓦
7世紀半ば頃になると、軒丸瓦の蓮弁の中に小さな蓮弁状のものが加わります。これを子葉と呼んでおります。そして軒平瓦に弧を何本か引いて文様としたものが使われるようになります。
7世紀半ばを過ぎると軒丸瓦の文様として、蓮弁が2つずつ1組になった複弁蓮華文が多く見られるようになります。さらに文様面は大きく作られ、蓮子が中央の1個を中心に二重にめぐり、外縁には三角形を連ねた鋸歯文がめぐります。瓦全体が大ぶりに作られ、瓦当の直径が18センチぐらいあります。軒平瓦は重弧文だけでなく、忍冬唐草文を飾ったものが作られます。
7世紀末近くになると、軒丸瓦の外区が内縁と外縁の2つに分けられ、内縁に珠文を、外縁に鋸歯文をめぐらすというように、文様がだんだん複雑になります。軒平瓦の文様は忍冬唐草文が変化した波状の唐草文、それも一方向に反転していく偏行唐草文が多く使われます。外区には、上に珠文を、脇と下に鋸歯文をというように、こちらも文様が複雑になります。
このように、7世紀後半はいろいろな文様が作られますが、それだけ寺造りが盛んに行われたことを示しています。持統天皇の頃には、全国でおそらく500か寺近く建てられただろうと考えられています。そして藤原宮で瓦葺き宮殿が建てられ、寺以外に瓦が茸かれた建物の初めてのものとなりました。 
5.奈良時代の瓦
この時代の瓦は前代よりひとまわり小さくなり、軒丸瓦の直径は16センチぐらいです。軒瓦の文様の主流は軒丸瓦では複弁蓮華文、軒平瓦では均整唐草文ですが、重圏文軒丸瓦や重郭文軒平瓦のような簡単な文様をもつもの、その逆に複雑な蓮華文や唐草文を飾った、新羅の影響を受けたものも見られます。
この時代、宮殿や役所でも瓦がごく普通に使われるようになりますので、その文様の種類も多くなります。また、特殊な瓦としまして緑のうわぐすりをかけた緑紬の瓦や、二彩・三彩の瓦が見られます。それらは平城宮や、平城京に建てられた薬師寺や大安寺などで用いられました。
奈良時代の半ば過ぎ頃、国分寺の造営工事が行われました。国ごとに僧寺と尼寺が1か寺ずつ建てられたのですが、国分寺の建立を手助けした各地の豪族たちも自分の寺を新たに建てたり、すでに建てた寺を修理したりします。それらの寺々の瓦を見ますと、大和、とくに平城宮で使われた瓦と同じような文様をもつものが目立ちます。国分寺の造営工事の際に大和からいろいろな面で技術援助が行われた様子を知ることができます。
軒平瓦の断面形を見ますと、奈良時代の前半では瓦当部に近い下面に段がついていますが、後半になりますとゆるい曲線を描いて平瓦部につながっていきます。こんなところにも年代の差があらわれています。 
6.平安時代の瓦
平安時代の初め頃、平安宮内裏や朝堂院、東寺や西寺で用いられた瓦の文様は、平城宮や東大寺などからすんなりとつながったものになっています。しかし、都の造営工事は大規模なものでありますし、経済的にも大きな負担がかかります。
そこで以前の宮殿、平城宮、難波宮、長岡宮といったところから建物がいくつも移されます。記録の上からも宮城門が平城宮から長岡宮へ移されたことが分かっております。そのような時には瓦もいっしょに運ばれます。ですから、平安宮内からは平城宮、難波宮、長岡宮から運ばれた瓦が大量に出土します。
平安時代半ば頃を過ぎると軒丸瓦の蓮華文は単弁が主流となり、瓦当の直径も小ぶりになります。小形化の傾向は平安時代後期にも及びまして、一部の例外はありますが、小ぶりの瓦で占められるようになります。しかも小ぶりながら大きさも形も千差万別といった状況です。
そして文様の種類は数百種類に及びます。この頃、政府自からが寺や離宮の造営を行う力がすでになくなり、各国に費用を負担させて資材そのものも各国から運びこまれました。そうしたことが瓦にもあらわれており、六勝寺や鳥羽離宮から出土する瓦の中には大和、讃岐、播磨、丹波、尾張などの国で生産されたものが大量に見受けられます。 
7.鎌倉持代の瓦
戦乱もおさまった鎌倉時代には、宗教活動も活発になり寺の建立や修造もさかんに行われるようになります。それとともに瓦作りもさかんになります。
この時代に作られた瓦は大ぶりなものが多くなります。中でも東大寺大仏殿復興のために作られた瓦は、軒丸瓦の直径が20センチ、軒平瓦の幅が33センチもあります。その瓦当面には「東大寺大仏殿瓦」の文字があらわされております。このような文字を瓦当面にあらわすことは鎌倉時代に目立つようになりますが、その多くは寺の名や堂の名です。
しかし、この時代の軒丸瓦の主要な文様は巴文でしょう。巴文は平安時代の終わり頃から見られるようになります。まれに二ツ巴がありますが、ほとんど三ツ巴です。巴文の起源については水が渦巻く形からきたもの、火炎が文様化したもの、雲文が変化したものなどの考え方もあります。巴文は瓦の文様だけでなく、公家や武家の家紋としても広く使われました。鎌倉時代の巴文は頭部が接し、尾部が長く伸びて内区と外区を画する圏線のように見えます。そして珠文が密にめぐらされます。
軒平瓦の文様の主流はやはり唐草文ですが、それらの中には蓮華を横から眺めた形を中心飾りとしたものがあります。初期のものは、仏像の蓮華座を正面から眺めた形をしています。これらの他に連珠文や剣頭文を飾ったものが作られます。 
8.室町時代の瓦
室町時代も瓦作りがさかんに行われた時代です。近畿地方では、この頃に作られた瓦が古い寺院の屋根にまだ沢山のっています。
鎌倉時代のものに比べますと、やや小さくなり軒丸瓦の文様はほとんど巴文で占められます。巴文は頭部がやや離れるようになり尾部もさほど長く伸びません。軒平瓦はやはり唐草文が主体ですが、蓮華文や剣頭文、あるいは中心に巴文をおいてその左右に唐草文が反転するといった文様も使われます。もちろん、寺や堂の名を瓦当面に大きくあらわすことも行われます。
この時代、瓦大工の名で瓦作りの技術者が独立してきます。彼等のうち、大和西の京の橘氏は大量の文字瓦を残しております。彼等は自分の仕事に強い誇りをもってあたっていたことが、瓦に記された文字によってわかります。
そして、いろいろな工夫をこらして機能的な瓦を作っております。軒平瓦の両脇に角のようなものを出した懸りの瓦もこの頃に発明されました。この軒平瓦の後に使う二の平を「ハコイタヒラ」と記していますが、まさに羽子板状です。軒丸瓦の凹面には桟をとりつけています。
この時代の終わり頃、城に使われた軒瓦の中には金箔を貼ったものが見られます。また城の軒平瓦には中国でよく見かける舌状の水切りをもつものがあります。中国で「滴水」と呼んでいるのももっともなことに思えます。 
9.江戸時代の瓦
江戸時代には桟瓦が発明されました。このことは、長い瓦の歴史の中で特筆すべきことです。桟瓦は延宝4年(1674)に西村半兵衛という人が工夫してこしらえ、三井寺の万徳院玄関の屋根に使われたのが最初だといわれております。
江戸幕府は当時、たび重なる大火に悩まされておりまして、火事による被害を最少限度にくいとめたかったのでしょう。屋根を瓦葺きにすることを奨励します。初めは武家屋敷から、そして町人、とくに商家へ広めます。合わせて壁を土蔵と同じようにしっくいで塗り、腰高までをなまこ壁にします。江戸時代の住宅ローンとでも言いましょうか、瓦屋根に改築するために10年間で返済の貸付けもしました。
いずれにしましても、桟瓦の発明は瓦葺き建物の普及に大きく役立ちました。同時に、瓦作りが産業として次第に確立していくことになります。
江戸時代の瓦で大きなできごとがまだ一つあります。それは軒平瓦の文様部が中央寄りに狭くなったことです。両脇の外縁の部分が広くなったのです。軒平瓦の両脇は、どのような文様を飾っても屋根に茸き上げてしまえば軒丸瓦に隠れて全く見えません。千年もの長い間、なぜそのことに気づかなかったのでしょうか。これもコロンブスの卵の一つのような気がします。 
10.鬼瓦
建物の大棟や降り棟の端を飾る瓦を鬼瓦と呼んでいます。それは、とくに室町時代以降の鬼瓦が立体的な鬼面として作られるようになったからでしょう。飛鳥時代や白鳳時代の鬼瓦はまだ鬼面ではなく、蓮華文を飾っていました。おかしいようですが、それでも鬼瓦と呼んでいます。
邪鬼をあらわした瓦が使われるようになりますのは、奈良時代になってからのことです。悪霊が寄りつくのをさけるためなのでしょう。平城宮や、平城京の寺々でまず使われるようになります。平城宮の鬼瓦は顔を正面に向け、上唇を突出させ、舌を出し、両腕を膝においてうずくまった姿勢の全身像をあらわしたものです。まさに悪霊を強くこばむ形相です。
天平年間には顔面だけの鬼瓦、まさに鬼面文鬼瓦が作られるようになります。注意して見ますと、よく似た顔つきで大小ありますので、大棟用と降り棟用とが使い分けられたのでしょう。平城京の寺々の鬼瓦は額に鋸歯文をおいたり、眼がとび出したりしており宮殿のものと様相がちがいます。このような鬼瓦は、国分寺の造営とともに全国に広まっていきます。
鬼瓦が大きく変化するのは室町時代のことです。その前の鎌倉時代ではまだレリーフ状でしたが、これが立体的になり、しかも耳まで裂けた口、剥き出した牙、眼を吊り上げて天空を眺みつける形相になります。 
11.鴟尾(くつがた)・鯱(しゃちほこ)
鴟尾は、建物の大棟の両端を強く反り上がらせるところに起源があると考えられています。中国漢代の墓に副葬されているミニチュアの建物にはすでに鴟尾が表現されています。
わが国では飛鳥時代からすでに鴟尾が作られており、飛鳥寺から古いタイプのものが出土しています。山田寺や和田廃寺には、胴部に羽根形の文様をもつものが作られております。よく知られたものに法隆寺玉虫厨子金銅製鴟尾があります。
白鳳時代の鴟尾には胴部に珠文帯を設けたり、腹部に蓮華文を飾ったり装飾性が豊かなものとなります。
奈良時代の鴟尾は史料に「沓形」と見えますように、奈良時代の貴族たちがはいた沓に似た形になります。唐招提寺金堂大棟西端の鴟尾が典型的なものです。伝世された奈良時代の鴟尾としては唯一のものです。奈良時代には瓦製の鴟尾があまり作られなかったものか、出土例は多くありません。史料に金胴製鴟尾のことがいくつか見えますので、焼き物よりそのようなものが作られたのでしょう。
平安時代には緑紬の鴟尾が作られたりしますが、あまり多くは作られなかったようです。
中世になると魚形に変化して鯱になります。建物を火災から守るために水に関わる想像上の海獣を屋根にのせるようになったのでしょう。戦国時代になりますと、鯱はとくに城郭建築に使われるようになります。 
12.特殊な瓦
私たちが今、寺などの大きな屋根を見上げてみますと、屋根が決して丸瓦・平瓦、軒丸瓦・軒平瓦だけで葺き上げられたものではなく、屋根のいろいろなところに形の変った瓦が使われていることに気づきます。瓦葺き建物が造りはじめられてから、それらは長い年月を経て多くの工夫がこらされて作り出されたものなのです。
いくつかみてみますと、すでに奈良時代に屋根瓦の改良にとりくんでいたことがわかります。屋根瓦ですから、当然のことながら雨仕舞を考えます。軒先には軒丸瓦や軒平瓦がありますから良いのですが、けらばはどうも弱い、と考えたのでしょう。私たちが今ごく普通に見ることができるようなけらばの瓦が奈良山丘陵の瓦窯から発見されています。もちろんこの窯は奈良時代の平城宮の瓦を焼いた窯です。ただ残念ながら、その瓦が平城宮からは1点も出土していませんので、試作品だったようです。
入母屋造りや寄棟造りでは隅木が長く突き出します。そこを風蝕から守るために隅木蓋瓦が作られます。箱形に作って、すっぽりとかぶせるものもありますが、平瓦を転用した簡単なものもあります。垂木の木口には金具の代りに垂木先瓦を使うことがあります。
後世になりますと、降り棟と破風の納めのために留蓋が作られます。その他、今では屋根の隅々に各種の瓦が使われています。 
 
注連縄

 

注連縄とは標縄、七五三縄とも書かれます。藁縄に紙垂をつけた祭祀具です。「しめ」とは、空間の場所を「占める(占有)」や「締める」であり、同時に「示す・標す」なども意味します。神社の神殿の入口や御神木、磐座、境内の神域などに張られています。注連縄の由来は、天岩戸神話で、フトダマノミコトが岩戸の入口に張った「尻久米縄」だということです。古語拾遺によると、岩戸から出されたアマテラスオオミカミが新殿に入られたとき、その神殿に「斯利久米縄」を引きめぐらせたとあります。立ち入り禁止の意味と神聖な場所であるということを示す標識の意味と二つがあったようです。
注連縄は稲藁でつくり、左ないにするのがたてまえで、それをシリクメナワというのは、ない終わりの尻を籠めておくところからきています。注連縄には四つほど紙垂を垂らすが、その間に藁を三筋・五筋・七筋と垂らすこともあり、そこから七五三縄と書くことが起こったといいます。紙垂の切り方や縄の張り方などは神社によって少しずつ流儀が違うということです。
聖域と悪霊退散
俗界と聖域、不浄と清浄を示す注連縄は、日常と非日常を区別する機能をもつ呪物、祭祀具です。単に領域を示す結果としてだけでなく、結界の中を清浄にして神を招来する・悪霊、邪気の侵入を防ぐ・神の意思や、霊力の象徴として力を発揮します。
私達の生活の中でもっとも身近な注連縄の利用は、正月のしめ飾りでしょう。正月のしめ飾りを飾るという事は家に正月様を迎える意味があります。つまり、お飾りによって、家が神を迎え、祀る祭場になるということです。
注連縄の呪力を積極的に利用するのが、悪霊退散させる力です。注連縄に垂れる紙垂は、天から神が降臨することの象徴であり、それによって、注連縄には神の占有標識としての力が発揮されるわけです。つまりその力を単に聖域を示すだけでなく、積極的に神の威力を示したり、邪気を追い払うといった形につかうわけです。
関東地方や、中部地方の「辻しめ」や「辻切り」、奈良県や滋賀県などの「勧請縄」等はそういう利用法の一種であるといえます。異界との境界に注連縄を張り、結界であることを示すことにより、悪霊を追い払い、邪気の侵入を示すわけです。
夏越の祓い(六月の大祓)に茅で作る茅の輪は、注連縄のルーツといわれています。この茅の輪をくぐる時に「水無月の 夏越の祓いする人は 千歳の命延ぶというなり」と唱えると罪や穢れが祓われるといいます。 
 
雪女

 

小正月の夜、または小正月でなくても冬の満月の夜は雪女が出てきて遊ぶという。子供を大勢引き連れてくるといわれている。冬の日、里の子供らは近くの丘に行き、そり遊びをする。遊びに夢中になっているうちに、夜になることがあるが十五日の夜にかぎり雪女が出るから早く帰れと、常日頃から戒められている。けれど、雪女を見たという者は少ない。概容1は柳田国男「遠野物語」にある雪女です。一般に「雪女」というと、小泉八雲の怪談を思い出す人の方が多いかもしれません。次にあげる概容2がその内容で、異類婚姻譚にあたります。

人間を凍らせ、命をうばう雪女。雪の降る夜、雪女が人間を凍らせ殺してしまう所をみた少年は、幼さゆえに雪女に命を助けられました。今夜の事を決して他人に漏らさないという事を条件に。少年はいつしか青年になり、雪という女性と知り合い、幸せな家庭を築きました。しかし青年は誓いを忘れて雪女の事を妻に話してしまいました。その途端に妻はあの夜の雪女になり、家族をおいて自分の世界に帰ってゆくのでした。
山の神と雪女
雪女というのは、雪とともに現れる女の妖怪で、雪女郎(新潟・山形)、雪オンバ・雪ンバ(宇和地方)、雪降り婆、シッケンケン(諏訪地方)等ともいい、雪の印象から、一般的に色が白い、白衣をきているなどと伝えられています。
一方雪中に現れる妖怪としては、他に雪入道(岐阜)、雪ンボ(和歌山)などが男の怪として知られています。これらは一本足であって、山の神が同様に一本足であると伝えられる地方が多いことから、山の神の零落した姿であるとも考えられています。
また、愛媛県宇和地方では、山姥が冬に吹雪とともに雪オンバ、雪ンバとなって里を訪れると伝えられ、雪女にも山の神の面影が伺えます。
東北地方では子供を抱いてくれた人を殺したり、怪力を与えたりするといわれ、産女の伝承と類似しており、また子供をさらって喰うとも、自分の子に食べさせるともいいます。
最も多いパターンは吹雪の晩に子供を抱いて立っていて、子供を抱いてくれと頼んでくるが、抱いた途端子供がどんどん重くなり、雪に埋もれて凍死してしまいます。抱いた子供が重くなってきた場合は、口に短刀をくわえるとよいらしく、最後まで子供を抱き、雪女に返すと、怪力を授けてくれるというものです。
この「子供をさらって喰う」「自分の子に食べさせる」という行為は、山姥に関する話にもよくみられます。
青森県西津軽郡では、雪女は元旦に訪れ、最初の卯の日に帰ると信じられていて、卯の日が遅いと雪女が長く留まるため、稲の花がしなびて作柄が悪いなどともいい、これは歳神に近い感覚の伝承と考えられます。山の神は春になると里に降りて田の神様になるといわれていること、また、「歳神」は田の神と同一視する地方が多い等、ここでもまた山の神との類似した性格が表わされている気がします。
また、この地方には、吹雪の夜に泊めた白衣の娘が、翌日ぬれた衣に包まれた黄金に変っていたという「大歳の客」に似た昔話も伝わっています。
年の移り変わりとともに、福を授けてくれる歳神の姿は厳しい冬の季節のあとの豊かな実りを願う人々の想いそのものだったのではないでしょうか。
厳しく恐ろしい一面と、人々に幸を与える一面と両方もっている山の神。富や怪力を授けてくれる性格をもっている雪女も、山の神の一つの性格を受け継いでいるのかもしれません。
今も昔も、自然現象は信じられない災害などをもたらす脅威でもあり、人々を癒し、人間が生きていく為にはなくてはならない恵みでもあります。厳しくも優しい自然の姿に人々は「雪女」等のたくさんの妖怪や伝承を生み出したのではないでしょうか。 
 
大歳の客

 

大歳の夜に貧しい家に乞食が来て宿を乞うので、庭の隅に莚を敷いて泊める。翌朝見ると莚の上に金がある。それからは大歳の夜に歳徳様を祀るようになったという。(1)
大歳の夜に、座頭が宿を乞うので泊めると、座頭は居眠りをして炉の火に転げ込んで死んでしまう。その死体をござに包んでおいたら、翌朝に銭になっていた。その話を聞いた隣の人が、坊様を無理やり泊めて火に突き転がす真似をしたが、坊様はうじ虫になった。(2)
大歳の夜に、宿のない年寄りの座頭坊を爺婆が泊め、塩魚を出して年を取らせる。喉が渇いた座頭が水を飲みに行き井戸に落ちる。爺婆は座頭と「上がるがや」「身上がや」と掛け合いながら引き上げ、着替えをさせて寝かせる。翌朝座頭は小判になっていた。隣の爺がその真似をするが失敗する。(3)
雪の降る夜に次郎べえに宿を拒まれた盲目の旅芸人を太郎べえが泊めて粥を食べさせる。夜中に旅芸人が便所に落ちたのできれいにして寝かせると、翌朝小判になっている。次郎べえが真似をするが、芸人は死んでしまう。(4)

大歳(大晦日)の訪客の歓待者が、客の死骸黄金化によって富を得る話です。
(1)の話は「隣の爺型」(昔話の主人公として善良な爺と対照的に人真似の隣家の爺を登場させる構成の総称)の話を加えると全国で圧倒的に多い型です。
(2)は資料は少ないですが、東北や熊本などにある型なので、分布としては広いといえるでしょう。この型の結末には、客が死んだので炉で焼いたり灰に生めたりすると黄金化するという例もあります。
(3)は東北、新潟、長野など東日本を中心とした分布で、座頭が喉の渇きを潤す為に水を汲みに行くというのは、「若水」の習俗を反映しているともいえます。
(4)は長崎、鹿児島など南西九州に分布しています。
まれ人来たりて…
村外から訪れる神を歓待した村人が、よき報償を受けるモチーフを「まれ人の来訪」といいます。「まれ人」とは本来「稀れ人」で、ごく稀に訪れる貴い神人を意味しました。
そして客人を待ち受けることは、神を祭る事と同じだったのです。その背景には、神は他界から来訪するという古代以来の根強い信仰があり、その他に、村落の閉鎖的な性格に対して外来者こそが新知識の伝播者であり、新宗教の伝道者や、呪術師であったことも強く影響していたようです。「まれ人の来訪」は世界的に分布しているモチーフであり、古典古代から現代まで多くの例が見出されています。ギリシャ神話・ユダヤの説話等、欧州ではイエス・キリストが聖ペテロを伴ってクリスマス・イブに人々の信仰と慈悲の心を調べるために来訪するモチーフが数多くあります。
座頭と盲人
昔話の中で、座頭が宿を乞うのは「大歳の夜」の夜である場合が多いです。歳神来訪の信仰のある夜に訪れる座頭ら廻国の宗教者が、宿を乞い、富をもたらす…。これは「まれ人の来訪」と同じで、村外からの客人が神の化身とみなされていたのでしょう。また、盲人が訪れるというのは、遊行宗教者(座頭など)に盲人が多いことの他に、不具者が神聖視されていたことや、死骸黄金化の背景にあると思われる鋳物師の伝承で、日本・外国ともに不具性をその属性とする例があることとも関係があると考えられています。
死体と金属
「死骸黄金譚」は世界に拡布する死体化生説話の投影と推定されています。死体化生説話とは、死体から万物が発生するという型の説話で、日本でも黄泉へ下ったイザナミ(ヨモツオオカミ)の死体から八種類の雷神が生れていますし、オオゲツヒメの死体からは人間が生きていく為に必要な作物が発生しています。これは日本だけでなく、世界中に分布している型で、南太平洋の農耕作物起源神話等もこの「死体化生説話」です。
特に日本神話の中では、火の神・カグツチをめぐる化生説話に死と火と金属の関係が見られ、「大歳の客」の中の「客人の死」・「火」・「富(金属)」と三つのキーワードが一致している点で、最も関連のある神話といえるでしょう。そして、鋳物師の伝承では黒不浄を歓迎し、死と火と金属は密接な関係にあるといわれています。これは「火」で「金属を溶かし(死)、加工する・鍛える(再生=富)」という行為からの連想ではないでしょうか。北京の伝説「鐘造りの女神」では、鋳物師の娘が溶解炉に飛び込むと良い銅に変わったといわれていますし、他にもビルマのジャライ族の火の王の宝剣は、火中で奴隷が鉄と合体してできたといって、(2)の黄金化の話に近いようです。
大歳の物忌みに死を語るのは、死を穢れとしない古代の死者崇拝が考えられます。死は再生と密接に関係しており、その事は日本だけでなく世界中の死体化生説話に語られているのです。そして、火を焚く竈や炉の神は家の富を司るといわれていますが、古くは竈の近くに死体を埋める風習があったともいいます。やはり死と火と金属(富)は密接に関係しているのです。
大歳に関係する話で有名なものに、「笠地蔵」があり、この話のバリエーションとして「大歳の客」「大歳の火」などと結合・混同されたものも数多くあります。 
 
見るなの座敷

 

ある旅人が、野原で立派な屋敷を見つけ泊めてもらう。若い女がもてなしてくれ、自分はこれから出かけるので留守番をしてほしい、ここには四つの蔵があるが、最後の蔵は見てはいけないといって、出かける。旅人が蔵をあけると、夏・秋・冬・の景色が見えた。その不思議な光景に心を動かされて、旅人はとうとう約束を破って見てはいけないと言われていた最後の蔵をあけてしまう。すると、鶯が梅に止まっている。鶯は飛び立ち、同時に屋敷も蔵も消え、旅人は野原に一人取り残された。
タブー(禁忌)
別名「鶯浄土」「鶯の内裏」とも呼ばれています。鶯の住む異界に人間が入ってしまう異郷譚の形式の昔話です。主題は見るなと禁じられた部屋を見てしまうタブー(禁忌)侵犯のモチーフにあります。「禁忌」は日常生活において、秩序と均衡を保つためのルールであり、昔話を通じて「約束を守らないと破局を招く」といった訓戒を示しているのでしょう。
この話のパターンは色々あり、話の発端部分で男が鶯の命を救ってやり、鶯がお礼に招いてくれる報恩譚形式や、後半部で男が禁忌を守って御礼を貰い、それを見た隣の者が真似をして失敗する隣の爺譚の形式とるものもある。四つの蔵の部分も、十二の座敷の場合もあります。開けてはいけない扉も十二番目だったり、一月から十二月と暦にみたて二月の扉(梅と鶯の季節)になっている場合もあります。
ヨーロッパでは「青ひげ」という話がこの見るなの座敷に類似しています。
むかし青ひげと呼ばれる嫌われ者のお金持ちがいました。青ひげの妻になった者は、何故かすぐに死亡したり行方不明になってしまいます。そのうち気味悪がって、誰も妻になってくれなくなったので、無理やりある姉妹の姉を城に連れて行き妻にしてしまいした。そこで青ひげは妻に鍵束を渡し、どの部屋に入ってもいいけれど、一つの部屋を示し、この部屋だけは見てはいけないと言い渡します。結局妻は好奇心に負けその扉を開けてしまうのですが、待っていた光景は拷問部屋と死体でした。
青ひげは妻をわざと試したのですが、主題は一見好奇心猫を殺すといったところに感じますが、やはり正義は勝つです(多分)。ここが「見るなの座敷」とちょっと違う部分です。
実はこの話にはまだ続きがあって、青ひげは姉を殺し次に妹を嫁に貰っては、次々と殺してしまうのですが、禁忌を犯したにもかかわらず三番目の妹は兄弟によって助け出されます。この場合一方的に悪いのは青ひげなんだから、これでめでたしめでたしですけどね(笑)
ちなみに、青ひげのモデルはジャンヌ・ダルクの忠実な同志だったジル・ド・レ男爵であると言われています。
この「開かずの扉」とか「開かずの間」というモチーフが、国に関係なく存在している事やとても古いモーチフであるということを考えると、やはり人間の根本的な本質というものは大昔からあまり変わらないのかもしれませんね。 
 
瓜子姫

 

婆が川に洗濯に行った時、川上から瓜が流れてきたので、拾って帰って戸棚に入れておく。爺が帰ってきたので、瓜を割りかけると中から美しい女の子が生まれる。ある日、爺と婆が畑に出かけた留守にアマノジャクが来て、戸を「指の入るだけ」「手の入るだけ」といって騙して開けさせ、瓜子姫を捕まえて切り刻んで食ってしまう。姫の皮を被って瓜子姫に成りすましたアマノジャクが婚礼の日に嫁入りの駕籠に乗っていくと、鳥が鳴いてアマノジャクの正体を暴露する。アマノジャクは切り刻まれて捨てられ、その血に染まって、茅や蕎麦の根が赤くなったという。
「桃太郎」に通じる異常誕生譚であり、小さ子譚の一つです。瓜から生まれた女の子を主人公にした本格昔話で、瓜姫、瓜姫子、瓜姫御寮、瓜子織姫などとも呼ばれます。
東北から九州まで広く分布している昔話で、概容にあげたのは、東日本中心に語り伝えられている型です。西日本の話では瓜子姫は殺されず、アマノジャクに柿を取りに誘い出され、木に縛り付けられる。最後の嫁入りの場面で鳥の鳴き声によって真相が暴露され、木に縛られていた瓜子姫は無事に救出されて幸せな結婚をします。
「桃太郎」や「瓜子姫」にある桃や瓜のように、うつろな物にこもりながら、川上の方から流れて下って、水のほとりに漂い着くというのは、古くから神の出現の型として認められています。
文献に現れるのは室町時代から江戸時代にかけて書かれたとされる「瓜姫物語」が最も古いといわれています。
農耕作物起源神話
この話は、瓜から誕生する・爺や婆が畑に出かけるなど植物との結びつきが強いのが一つの特徴です。そして結末部分で、茅や蕎麦の根が赤い訳が語られるなど、南太平洋の「ハイヌウェレ型」の農耕作物起源神話と多くの点で一致しています。
ココ椰子から誕生した娘が殺され、その死体から栽培植物が生えるこの「ハイヌウェレ型」神話は、日本神話にも類似した箇所がいくつかあります。古事記や日本書紀にでてくるオオゲツヒメやウケモチノカミは、それぞれスサノヲノミコト、ツクヨミノミコトに殺された後、その死体から人間が食べて生きていく上で大切な作物を発生させます。そしてこういった農耕作物起源神話は、世界のかなり広い範囲に分布しているのです。
誕生、成長、収穫、死…そして再生。という自然の営みそのものに、古代の人々は大地母神の姿を重ねたのでしょう。
縄文時代の遺跡から発掘される土偶の中で破砕されている奇妙な土偶があります。初めから破砕する為に作られたと思われるこの土偶から、縄文中期には既に「ハイヌウェレ型」神話的な信仰形態が浸透していたのではないかといわれています。
昔話にはこうした農耕作物起源の要素を含んだものが多くあり、特に山姥に関しての話に多くあります。焼き殺された山姥の真っ赤にとけた液体を畑にまいたら、蕎麦の根が赤くなったとか、山姥の糞から綺麗な糸がとれたとか、その種類も豊富です。そして、「瓜子姫」の敵はアマノジャクだけでなく、地方によっては山姥、狐、狢などとも言われているのです。
農耕作物起源神話以外では、南欧を中心に伝わる「三つのオレンジ」にも類似しており、この話は「贋の花嫁」型の昔話で、世界的に分布しているものです。植物から誕生した娘が結婚するが許婚者がいなくなった隙に偽の花嫁に殺され、すり替わられる。娘は再び植物から再生し、偽の花嫁の正体が暴露され許婚者と結婚して終わります。
アマノジャクとアマノサグメ
アマノジャクとは一般に、わざと人に反対する心のねじれた者を指します。瓜姫物語では、アマノジャクはアマノサグメとなっています(アマンシャグメ等色々呼び名がある)。アマノサグメといえば、日本神話のアメノワカヒコの話の登場人物にも同名の人物がいますが、(漢字では「天探女」)神話のアマノサグメとの関連性が指摘されつつも、明確な解釈はなされていません。まだまだ研究の余地ありですね。東北地方から九州まで広く分布している昔話だけあってアマノジャクに関しても、地域・方言等言葉の違いをテーマにした色々な解釈がなされています。
改めて思い返すと、自分が聞かされた瓜子姫も少しづつ違ってたのを思い出します。幼稚園で読んでいた瓜子姫とテレビで見た話がちょっと違ってたなーなんて。もし自分が子供相手に話すとしたら、どのパターンになるのかななんて考えたりしました(笑)口承文学には「これ!!」といった正解がないのだから、難しいですね。ちなみに、私が子供のころ聞いた瓜子姫で直ぐ思い出したのは、瓜子姫が食べられちゃって、その皮をアマノジャクが着て嫁にいこうとする、東北に多い型でした。 
 
松浦佐用姫

 

百済救援を命じられた大伴狭手彦は遠征の途中で肥前国の松浦佐用姫を妻とします。しかし、狭手彦の軍船が遠征で出港するため、二人は別れなくてはならなくなりました。別れを惜しむ佐用姫は、出征の為に船出する狭手彦を見送って、玄界灘を見渡す山に登り、狭手彦の船団の軍船に領巾を振りつづけ歎き悲しみました。そこで、その山を領巾振の峯と呼ぶようになったということです。
概容にのあるのは地名起源譚です。この後、佐用姫は夫を慕うあまり領巾振山から佐用姫岩(現・松浦川河口)へ入り追いかけ、衣干山で衣を乾かし、さらに呼子の浦まで追いかけ、狭手彦の名を呼び続けました。そして船を追い、加部島の天童山に船を探しましたが、すでにその姿はなく、佐用姫は悲しみのあまり七日七晩泣き明かし、石になってしまったということです。このように望夫石伝説として語られる場合も多く存在します。
『肥前国風土記』松浦郡の条には、弟日姫子という名前でこの松浦佐用姫と同様の領巾振り伝説を記すほか、後日譚としてヒレフリの峯の山麓の沼の神である蛇に見入られ沼に引き込まれて死んだという伝説があり、神の嫁として生贄になる女性の面影が見えます。
生贄としての佐用姫
「サヨ姫」という名を持つ女性は人柱伝説の主人公としても有名です。管理人の私も色んな昔話を調べたり、旅行先の伝説を調べたりしていたら蛇の生贄になる女性の名前がだいたい「サヨ」と発音する名前が多いなぁ、と思たのがきっかけで調べ始めました。
佐用姫伝説を伝える肥前国松浦郡などの他に、岩手県・宮城県の各地で掃部長者と呼ばれる伝説に生贄・人柱にされる主人公として語られ、これらの話は全国的に分布しています。「掃部長者」では生け贄として、肥前から買われたのが佐用姫ということになっていますし、肥前だけでなく、全国で生贄にされるのは「サヨ」という女性であることが多いのです。
「サヨ」という名前には神を迎える巫女性がこめられているはずで、沼に棲む蛇に魅入られたり生贄や人柱に供されたと語られるのもそのためだといわれています。『播磨国風土記 讃容郡』で鹿の血によって一夜で苗を育てたという女神がサヨツヒメと語られているのもその為であるといわれています。
私が疑問を持つきっかけになった旅行先の伝説は福島県の蛇骨地蔵に伝わる伝説です。(興味のあるかたは調べてみてね。)大蛇になったあやめ姫というお姫様と人身御供になる「サヨ姫」の話が縁起として伝わってます。お堂の裏手の石垣の下には、人見御供にされた三十三人の娘に由来する三十三観音像が立っていました。
私的解釈ですが、大蛇は剣の化身で、サヨ姫は小夜姫・佐夜姫・小夜媛といった字で書かれている場合も多く、剣の化身である大蛇の魂を鎮める「鞘」の象徴ではないかと考えました。それが松浦佐用姫伝説と癒合して長い時間をかけて独自の伝説体系を成していったのではないかと考えました。言霊的に「小夜」=「サヤ」ではないかと思ったので(^-^;
望夫石伝説は中国に古くから伝えられており、生贄伝説の方は三輪山型の神婚神話につながるといわれています。日本人の古代蛇信仰とあわせて考えると、又色々な背景が見えてくるような気がします。
個人的に山神信仰、古代人の蛇信仰とともにとても興味があるので、これからもこつこつ調べていきたいなと思っています。わざわざ東北までサヨ姫が売られてきてまで生贄になっているのは何でなんだろう…。とか考えたりして、これから調べていくのも楽しみなモチーフです。 
 
産女の礼物

 

産女とは、産死した女の霊が化した化物(妖怪・幽霊)の事をいいます。産女の下半身が血まみれであるとされるのも、産褥に由来するものといえるでしょう。
産女の登場する話は沢山の種類がありますが多くは、晩方に道の畔(川の畔など)に現れ、通る人に赤子を抱いてくれと頼むというものです。そしてその先の話は三種に分かれます。
第一は、名僧の法力によって母子の亡魂が救われるというもので、「和漢三才図会」「新編鎌倉志」などの産女塔の由来譚によると、昔この寺の第五世日棟上人が、ある夜妙本寺の祖師堂へ詣る道すがら、夷堂橋の脇から産女の幽霊が現れるのに出会った。冥途の苦難を免れたいと乞うので回向すると、一包の金を捧げて消えたというものです。
第二は、抱いた赤子が次第に重く腕がぬけるほどになり、それに耐えると金銀をくれるというもので、上総山式郡大和村法光寺の宝物「産の玉」の由来として説かれている話のごときものです。
昔、寺の日行という上人が、道の途中で女が憔悴した赤子を抱いているのに出会い、頼みに応じて抱き取ってやると、重さは石のようで、冷たさは氷のようであった。上人はさわがずにお経をよんでいると、女はお陰で救われたと礼を言い、礼物として安産の玉をくれたと伝えられています。
そして第三は、授かった礼物が金品ではなく大力(怪力)であるというものです。島原半島に伝わる話の一つに、ある女が産女の子を預かって大力を授けられ、後代々の女の子にそれが伝わったという例があります。
その他に今昔物語にも産女は登場します。
今昔物語より〜概容〜
美濃国のある川に、女の妖怪が出るとの噂があった。源頼光の郎党、卜部季武がある晩、その川の近くの宿で仲間と賭けをする事になった。季武一人でその川を渡れれば自分達の武具を差し出すという。季武は岸に着くと馬で川中に入って行く。そして向岸の木に証拠の矢を立てて、戻ろうと再び川へ入って行った。川の中程まで来た時、産女が現れ、「これを抱け」と云うので、「良し」と、女から赤子を受け取る。そしてそのまま赤子を抱いたまま川を渡り始めたが、今度は赤子を返せといって、女が追いかけて来た。しかしそのまま陸へ上がり、仲間の待つ宿へ戻り、抱いていた赤子を見ると、木の葉が何枚かあるだけであった。
昔は産褥が非常な危険を伴ったため、産死者の霊が特に恐ろしい幽霊につながったと考えられ、その俗信は国外にも例があります。
産女は「姑獲鳥・うぶめどり」とも書き、姑獲鳥(うぶめどり)は、青白い炎に包まれて空を飛ぶ鳥の妖怪で、地上に降り産女になるといわれています。また、姑獲鳥を「こかくちょう」と読むと、中国の別の妖怪の事を指します。
この「姑獲鳥」、中国では鳥の妖怪であり、日本でいう産女と同じ性格のものです。『本草綱目』の解説によると、「別名を乳母鳥。その由来は、産婦が死んでこの鳥に変じ、よく人の子をとっておのれの子とするにあり、胸に双の乳がある。」とあります。
子宝に恵まれなかったり、難産で死んだ者が、無念や苦痛の末、鳥の妖怪となって夜な夜な飛び回り、赤子をさらっていくのです。
産死者の恐ろしい幽霊であると同時に、この幽霊の母子は大地母神特有の性格も兼ね備えているのではないかといわれています。
「神に選ばれた者がその試しを経て人並みはずれた能力を与えられる」というのはまさにその表象であるともいえます。
「神に選ばれた者にその試しを試み、人並みはずれた能力を与える」という行為は、巫女的な性格兼ね備えてると同時に、山姥の登場する話にみられる「山の神」=「大地母神」的な性格を有しているともいえるのです。
「雪女」の話もこの産女の話に類似しており、どちらも試練に耐えて幸を授かるという点ではほぼ一致しています。
古事記ではイザナミですら火の神・カグツチを生んだ時に死んだとされています。やはり古来より産褥というものは特別なものであったのでしょう。「穢れ」として忌むものでもあった「お産」ですが、生命を生み出すということはそれだけ特別であり、大きな神秘でもあります。それだけに、恐ろしい幽霊でもある産女が幸を授ける一面を持っているというのも頷けるような気がします。産褥で死んだ幽霊。まさに生と死の境界に生まれたのが、この産女という妖怪なのではないでしょうか。 
 
八百比丘尼

 

ある日、猟師が珍しい魚を釣った。それは魚とも人ともいえない、人魚の形をしていた。そのとき通りかかったお坊さんが、「庚申祭りにこの奇魚を供えて祈ると、厄除けになるとともに福徳がやってくるであろう」という。しかし、その奇魚を娘が一切れ食べてしまう。するとそのむすめは八百歳の齢を得る。その後横穴に入って往生する。
八百比丘尼の話は長寿伝説の一つです。不老不死となった八百比丘尼は病気の人を治し、貧しい人を助け、行く先々で椿を植えながら旅したという話があります。
ご存知の通り八百歳まで生きたために後に「八百比丘尼」と呼ばれるようになりました。特に若狭の国と呼ばれていた現在の福井県を中心として、能登・越後・佐渡・出雲・隠岐等の日本海沿岸地域に数多くの伝説が残っています。太平洋側では土佐・播磨・安芸などに多いようです。
栃木県の西片町には八百比丘尼公園という場所があり、こんな伝説が伝わっています。
栃木県の西片町の伝説
昔子供のいない長者夫婦がいました。二人が庚申様に子供が授かるよう一生懸命に祈ったところ、女の子が生まれ、八重姫と名づけました。
姫が七歳になったある日、長者夫婦の家に白髪の老人が訪ねてきて、長者を自分の家に招き庚申様を一緒に信心したいと申し出ました。長者は老人の家で不老不死の薬だといって煮貝のようなものを勧められましたが、肉食を絶っていたので、食べたふりをして袂に入れました。
家に帰った長者に、八重姫がすがりつき、袂から貝の肉がこぼれ落ちました。姫はそれを父がくれたものと思い食べてしまいました。やがて、美しく成長した十八歳の八重姫の噂を聞き帝が都に召し出そうとしましたが、それを知った姫は家を出てしまいました。 
真名子の里を離れた姫は、山道で会った白髪の老人の家で暮らしていましたが、両親が恋しくなり帰りたいと告げました。すると老人は、ここを出れば二度と戻れないこと、自分は庚申であることを告げ、屋敷とともにこつ然と姿を消してしまいました。
里にに帰り着いた姫は、家を出てから八百年も月日が立っている事を知ります。途中、山のふもとの池で手を洗い姿を映してみましたが、信じられないことに十八歳の娘のままです。やがて姫は尼になり名を妙栄とあらためて巡礼の旅に出ました。
そして長く生き過ぎた妙栄は、ついに若狭の海に身を沈めて命を絶ちました。以後、若狭では八百姫大明神、真名子で八百比丘尼様として祀られ、今に伝えられています。
最後の地を求めて…
実は私も若狭には何度か旅行にいったことがあます。
人魚に縁のある八百比丘尼にふさわしく、碧い海がとても綺麗でした。八百比丘尼が最後に自らの命を絶ったといわれる洞窟「八百比丘尼入定洞」がある空印寺にも行ってきました。入定洞は山門前にあり入口からは奥が見えなくて、入るときにとてもドキドキしたのを覚えています。中は奥行き約7〜8m位、4畳半位の広さがあります。一番奥まで行くと「八百比丘尼」と刻まれた石碑(結構大きいです)があり、石碑の周りには、丁度洞窟の湿気かなにかで小さな水溜りがあちこちにあり、洞窟独特の静けさが何となく神秘的でした。
八百比丘尼は源平の盛衰を目の当たりにみたといわれており、義経・弁慶の一行が修験者の姿をして、北国街道を下っていくのに丁度出会ったといいます。八百比丘尼のお話は「義経伝説」との関連も注目され、女性唱道者の民間信仰的な要素も強いのではないかといわれています。 
 
三枚のお札

 

あるお寺の小僧が和尚様の言うことをちっとも聞かないので、怒った和尚様は三枚のお札を持たせて寺を追い出してしまう。小僧はしかたなく山に行き、山で出会った山姥の家に泊まる。小僧が夜中に、怖くなり便所へ行きたいというと、腰に縄をつけられてしまう。小僧は便所の柱に縄を結わいつけて、便所の神様にあとを頼んで、急いで逃げる。山姥は凄い形相で追いかけてくるが、小僧が和尚様に貰った三枚のお札を投げると、それぞれ川(海)、山、火をつくって小僧を助けてくれる。命からがら逃げ帰った小僧が、和尚様に助けを求めると、和尚様は山姥と化け比べをはじめる。結局豆に化けた山姥を和尚様が食べてしまい、小僧は救われて心を入れ替えてよい子になった。
典型的な逃竄譚の一つです。こうした逃竄譚は世界的な分布をもっています。ギリシャ神話・オルフェウスとエウリディケの話は結構知ってる人も多いのではないかと思います。
三枚のお札は黄泉国、冥界、(異界)を訪れた者が、幾多の冒険や難題を克服して、再びもとの世界へ戻るという冥界訪問譚の一つでもあり、概要にあるパターン以外にも色々詳細が違うものもあります。寺に叔母と名乗る人が来て小僧を自分の家に誘ったりするのですが(実は山姥)、どうも不審に思って心配した和尚が、小僧に三枚のお札を持たせるという展開です。
便所神
もともと話の中にでてくる便所神とは、此の世とあの世、生と死を媒介する境界神的な性格を持っているのです。
日本では、便所に神がいるとしてまつる風習が広くあり、妊娠や産出を見守る存在としての産神(うぶがみ)としての性格や、家の神として家人や、子供を守る存在でもあります。日本神話では、イザナミがカグツチを産んで死亡する時大便・小便を排泄し、大便からは粘土の神ハニヤスビコとハニヤスビメ、小便からは水の神ミツハノメと穀物の神ワクムスヒが生まれたといいます。
母女神たるイザナミの死と、新しい神々の誕生はまさに「生と死」なのです。女の神であるといわれる便所神が、境界神的な性格を持っているといわれるのは、この辺りにも類似する部分ががあるのではないかと思います。このお話が多く採集報告されたのは、特に東北地方や新潟県らしいのですが、それは同時に便所神〈厠神〉の信仰が盛んな東日本の地域でもあるのです。
呪的逃走
日本での初出は「古事記」に見られるイザナギ、イザナミの黄泉国訪問神話が呪的逃走譚として有名です。黄泉国へいったイザナギが逃げ帰るときに、黒御縵(くろみかずら)・湯津津間櫛(ゆつつまぐし)・桃子(もものみ)を投げて黄泉から無事生還する。
異界を訪れたものが、タブーを犯して此の世に逃げ帰ってくるというパターンは「三枚のお札」にも共通しており、三つの難題(困難)を克服して逃走するという部分も同じです。
昔から山とはある意味で、異界であり、聖域です。この話の山姥はその象徴(異界を司るもの)として登場しているのでしょう。もともと「山姥」には二面性があり、妖怪としての一面の他に、女神的な性格の一面もあるのです。イザナミやコノハナサクヤビメに似ているという説も多々あり、黄泉国訪問神話でのイザナミの役割を、この話では山姥が担っているという訳です。山姥という存在が、二面性をもち、女神的な性格を兼ねている点を考えれば当然かもしれません。
山姥については、とても奥が深いのでここでは詳しくは扱いませんが、昔話や民俗学にはきってもきれない存在ですね。
他にも日本神話の中では、オオクニヌシが黄泉国を訪問し、スサノヲノミコトから数々の難題を出される話も似たパターンではないでしょうか、もっとも助けてくれたのは、三枚のお札ではなく、スサノヲノミコトの娘です。世界的な分類としては、「呪的逃走」、「主人公の逃亡を助ける娘」等に分類されます。三枚のお札にみる逃亡譚のモチーフは、エジプトの「二人兄弟」やギリシャの「アルゴナウテス」にもみられるといいます。
本格昔話といわれるこの話は、便所神との関係や、比較神話の観点からも興味深い昔話だといえるでしょう。また、地方によっては五月節句の菖蒲の由来譚としても語られています。 
 
鶴女房

 

男が傷ついた鶴を助けた。ある日、美しい女が男の元に来て、二人は夫婦となった。女は覗かないようにといって機を織るようになる。女が織った布はとても高く売れるので、不思議に思った男は、いったいどうやって織っているのだろうと思い、つい機場を覗いてしまう。すると助けてやった鶴が自分の羽を抜いて織っていた。姿を見られてしまった鶴は飛び去ってしまう。
人間ではない異類の女が、正直で心根の優しい男のもとに来て結婚するが、女の素性が知れることで去っていく異類女房譚の一つです。見てはいけないタブーを破ることで幸せな結婚が破綻してしまう話でもあります。日本全国に多く分布している話で、お話の展開も、概容にある標準型の他に、謎解き型・難題型があります。
謎解き型では鶴が去っる時に、水を張った皿に針を入れたものを残します。座頭(僧)に尋ねると、「播磨国皿池」にいると教えられ、会いに行くというものです。皿池とは、兵庫県神崎郡市川町鶴井と、同竜野嘴崎町大往寺に現存しています。
難題型は、青森と山形で2話しか報告されていませんが、お伽草子別本の「鶴草子」はこの難題型の話になっています。話の展開は、美しい女房の噂が殿様の耳に入り、「灰縄千駄」「打たん太鼓に鳴る太鼓、ひょうひょう鳥の袖被り」「蛇三匹」の難題を出されるが、女房の知恵で解決します。その後機織りをし、正体を見られて去ってしまうという展開です。
機織りとタブー侵犯
異類婚姻譚では、異類の姿を知ることがその婚姻の破綻につながるのが原則です。男は禁止されていた機屋を覗き、女房の正体を知ってしまいます。もともと「機」というのは、古来より神の衣を織るとされる神聖な道具とされており、もちろん「機屋」といのも特別な場所とされていました。
「機」の歴史は大変古く、古事記や日本書紀に見られます。アマテラスオオミカミでさえ、神に奉る衣を機屋で織っていたのです。江戸時代の鈴木牧之や菅江真澄も、越後や秋田で女たちが潔斎し、こもって上進の布を織る姿を書いており、伊勢神宮の神衣祭の布は今でもそうした形で織られているということです。
布が鶴の羽衣などと呼ばれているのも、見てはいけない機織りのタブーがあるのも、こうした神の衣を織ることからきています。
そして「鶴」という鳥は、古代では「たづ」と呼ばれ、大型で優美に飛翔する白い姿によって、霊鳥として崇められ、古くから稲穂をもたらす神聖な鳥と信仰されています。鶴が稲穂をもたらしたという伝承は数多く報告されているのです。
そして、「鶴女房」でも神格のある女性として登場し、神女の持つ偉大な能力を示します。
東北、北陸、四国、九州南部では、鶴が美女となって訪ねて来るのは大晦日の晩であり、その時に米粒を持参し、それは釜一杯になったと語っていますし、南島では、巫女が祭りの時羽をつけることもあるそうです。これは祭りの場で異界ともいえる世界へ行くためのものであるといいます。空高く舞う鳥の翼が、天に昇天する天女の羽衣のように異界(天界)との絆に思えたのではないでしょうか。
つまりこの話の「機を織る鶴」というのは「神聖な機屋に籠る神聖な神の化身」ということに他なりません。神聖な機屋を覗き、女の真の姿を見たことは、最も大きなタブーを犯したこととなり、離別にもつながってしまうのです。スサノヲノミコトがその乱行によってアマテラスオオミカミの機屋で死人を出してしまったために、アマテラスオオミカミは岩戸にこもる…。日本神話におけるこのエピソードもまた、「タブーを犯した為に太陽(の巫女)の恵みを失った」ということではないでしょうか。
タブー侵犯をモチーフにしたお話は「三枚のお札」等があり、異類婚姻譚としては「狐女房」「蛤女房」等があります。 
 
大歳

 

大歳とは、一年の境目、すなわち大晦日から元旦にわたる時間、及びその行事をいい、「大つもごり」、「歳夜」、「歳の夜」、「歳越し」などともいいます。大晦日の夜には新しい年の歳神(お正月さま)がやってくるといわれ、この民間信仰に基づき、歳神を迎え、もてなしをする為の行事は、地域や家庭により様々な特徴があります。
近年では、クリスマス行事が先にきてしまう為、12月に入ってすぐは歳越しを実感する風景は見られませんが、本来新しい年を迎える準備は、12月早々から始まります。松迎えとか正月迎えと呼ばれ、歳神の依り代とする為に、門松を山から迎えてきて、伐ってきた松を、飾る日まで清浄なところに休めておきました。また、不浄なものの侵入を防ぐ為に注連縄を張りました。玄関に飾られるお正月飾りにはこうした「歳神を迎え、不浄なものの侵入を防ぐ」という意味があるのです。大晦日に正月用の門松や飾りを売り歩く様子は「絵姿女房」や「竜宮女房」など多くの昔話に語られています。
大歳の行事
大歳には、歳神を迎え、もてなしをする為の様々な行事があるといいましたが、それは地域や各家庭により様々です。下町で商売をしていたせいか、我が家にも決まりごとのように大晦日の行事はありました。我が家の場合、大晦日の前にお稲荷さんの神棚を綺麗にし、お供えをします。除夜の鐘がはじまってから、つき終るまでの間に、家中のお札を家長が張り替え、そして若水を飲みます。元旦には竈神やらお稲荷さんやらにお雑煮を供えてから一家でお雑煮を食べる。というものでしたが、これがいったいどういう風習だったのか全くわかりませんでした(苦笑)。
例えば、「大晦日に早く寝るとしわが寄る」などといって、徹夜して正月を迎えたり、神社などに夜籠りしたりする風習があります。また、大歳の夜、神社や寺で大火を焚いて神を迎えるところもあり、この火を歳越トンド、福火、迎えドンドなどと呼んでいます。そしてこのトンドの煙に乗って神様がお出でになるといわれているのです。またこの火を家に持ち帰り、それを囲炉裏の火種にすることもあります。
京都祇園の八坂神社のオケラ祭りでは、火をもらい、その火で雑煮を作ると一年中無病息災でいられるなどといわれており、兵庫県佐用郡などでは、大晦日の晩の囲炉裏の火を特に歳取り火とよんでいます。この時に焚く薪はショウガツギ、セチホダ、ヨツギホダなどと呼ばれ、暮れに山から伐ってきて積んでおきます。そして、家々では囲炉裏の火を絶やさないように特に気を配るのです。この大晦日の火種にまつわる「大歳の火」という昔話は全国に広く伝承されています。
その他にも歳越しの準備も出来ぬまま正月を迎えようとしている夫婦のところへ、爺さまに笠をもらった地蔵がお礼にきたという「笠地蔵」や、亀の助力によって金や餅を得る「大歳の亀」、宿を求めた乞食を快く迎え入れた貧乏人は富み、断った長者は貧乏人になったという「大歳の客」の昔話など、大歳にまつわる昔話は数多くあります。
伝統行事である大歳の行事も、時代の移り変わりによって、変化しているように思います。囲炉裏の火を絶やさないといっても、現代人の生活には「囲炉裏」はなく、口承文学、民間伝承、伝統文化…これらは人と時代の流れによって変化し発展し、形を変えていくのです。伝統文化をそのままの形で守り継承していくことは、難しいことでもありますが、「形」ではなく「気持ち」は現代の生活の中でも継承していくことが出来るのではないでしょうか。
ゆく歳を惜しみながら、来る歳に感謝して新しい歳を迎える…そんな気持ちを、現代の生活の中でも大事にしていく事が、「形」を守ることよりも「大事」に思える気がします。もちろん、伝統文化がすたれていくのはちょっと寂しい気もしますが…(苦笑)
囲炉裏がなければ、一晩中(!?)明かりをつけて大事な人と、過ぎた歳や、新しい歳について語らう…でもいいかなと思います(笑)大事なのは、大歳にまつわる昔話が伝えている「自分以外へのちょっとのいたわりや、感謝の気持ち」を一年のしめくくりに感じられる事ではないでしょうか。 
 
「こけし」

 

「こけし」発生考  
(一)
こけしの発生に関しては、未だ確固とした定説がない。というよりも、こけしの発生という問題が学問的な方法論をもって追求されようとした事が、一度もなかったのではないかと思う。こけしの発生に関する種々の意見―こけしの起源という視点から述べられた事もあるーは、西田峯吉氏によって総説としてまとめられている(1)(2)が、これらの意見はこけし研究、特に発生年代に関する資料蓄積や研究成果の乏しい時代に、直感的にいくつかの特殊資料を附会して作り上げたものが多い。
物であるこけしと「共同幻想」としての<こけし>を区別し、まず「共同幻想としての<こけし>を担う主体」を正しく認識する事から始めるのが正しい方法であろう。そして、「<こけし>をになう主体」とこけしとが、どのような意味論的関係にあったかを追求する事が次の問題となる。(特定の集団=主体がこけしに共通のイメージを共有していた場合、それを「共同幻想」としての<こけし>と呼ぶ)
ただし、こけしが発生して以来、現在までたどって来た時間の経過をとおして見れば、「<こけし>に共通のイメージを抱いた主体」は年代的に漸次変化してきたという事に注意しておく必要があろう。ここでは、発生について考えるのであるから、「<こけし>を担う主体」をあくまでも発生時、少なくとも明治初期までのものと限定しておく事にする。即ち、趣味家、蒐集家、愛好家、観光客、マスコミなどの二次的三次的主体が介入する以前の「<こけし>を担う主体」であるから便宜上「一次的<こけし>主体」と呼ぶ事にする。「一次的<こけし>主体」が崩壊してゆく過程の中で、趣味家、蒐集家が加わり、新しい「<こけし>主体」を形成していった。新しい「<こけし>主体」とこけしとの意味論的関係は当然「一次的<こけし>主体」のそれとは異なり、さらに「<こけし>主体」が変化膨張するにつれてこけしの概念は不透明=あいまい性を増していったのである。従来のこけし発生説は、このようにこけしに対する概念が錯綜化していた状態で、「一次的<こけし>主体」の画定も行なわずに議論がなされたものが多く、こけし発生時の状況を必ずしも的確には、つかんでいなかったのである。
従って、ここでは、「一次的<こけし>主体」の画定をまず行い、次に「一次的<こけし>主体」とこけしとの意味論的関係を検討しながら、こけしの発生状況を構造的に考察してゆきたいと思う。
(二)
「一次的<こけし>主体」を簡単に二つのグループとして表現するとすれば、「作る側=木地屋」「買う側=湯治客」とにわける事ができる。「買う側」には、実際に湯治に行ってこけしを買った人の他、湯治習俗を共有する地域内にいて湯治に行きこけしを買い得る可能性のある人、即ち潜在湯治客も含める事にしよう。こけしで遊んだ子供達も当然「買う側」に含めてよい。
湯治習俗がこけしの発生に関して重要な役割を果していた事は、しばしば指摘される。まず、こけしの発生地として可能性を残している三つの産地、鳴子・遠刈田・土湯のいずれもが湯治で賑わった温泉地であった。西田峯吉氏はこけしと湯治の関係について要領よく次のように述べている。(1)『こけしと東北地方の庶民とのつながりは、湯治からの結びつきが多かった。東北の人、わけても農村の人びとの湯治は、この地方における一つの生活文化の問題であった。毎年、田植や養蚕の後に、また秋冬の取り入れの後に、いかに多くの農村の人たちが食糧や夜具を持参して湯治の幾日かを楽しく送ったかは、東北以外の地方では想像もできないほどであった。それは次の活動への準備でもあり、ことに長い冬の風雪と戦うための備えでもあった。(中略)湯治土産にこけしはきまりものであった。現在でも、こけしが湯治場で多く作られることが、それを物語っている。湯治客の多くは温泉滞在中にこれを求めて、湯疲れや肩の凝りを癒すため、これで肩をコンコンと叩いて接摩のかわりに使用した後、お土産として持ち帰ることが多かった。』また、菅野新一氏も「こけし事典」の中で、「湯治とこけし」という項目をたてて、こけしが湯治と密接不可分であった事を指摘している。(2)
しかしながら、こけしの最初の専門書である「こけし這子の話」(3)において既に「山間各地の木地師古老について聞き書きしたもの」を唯一の資料としており、爾来橘文策、深沢要に続くこけし研究は、「作る側=木地屋(工人)」を中心とする発想法の延長上にあり、それはそれなりに「こけし辞典」(4)「こけしのふるさと」(5)という形で一応の成果を上げてきたが、「買う側=湯治客」の研究に関しては、時折「風土」というあいまいな用語の中に押し込められる程度で殆んどかえりみられなかったと言ってよい。
以下、従来手のつけられていない方の主体、すなわち「買う側=湯治客」に議論の力点を置いて、湯治習俗とこけしの発生の関係、特に、こけし発生の「場」である「湯治空間」の意味について考える事にしよう。
(三)
『東北各地の温泉場が一般庶民階級によって保養や治療のために利用されるようになったのは、文化・文政ごろからである。現在のようにレジャーを楽しむ温泉一泊旅行というようなものではなく、疲れを癒し、病気をなおし、また一生懸命に働く力を貯える事を目的としたものであった。だから温泉場といわず湯治場といい、温泉に行く事を湯治に行くといった。』(2) 湯治が必ずしもレジャーや観光気分のものではない事は、当時の交通事情を考えてもよくわかる。鳴子へは仙北の農民が多く湯治に集ったが、鉄道のない頃、馬の背にふとんをはじめ生活道具一式を振り分けにして、子供は両側の荷物の間に一人ずつ乗せて、十数里の道を湯治に出かけるのである。
石坂洋次郎氏は蒸ノ場(秋田県)の湯治について次のように観察している。『蒸ノ湯には、病人らしい湯治客はあまり見当らない。彼等の多くは、自分の手に依って作られた米味噌を、野菜を、中には寝具を自らの体力に応じて背負い込んで来るのである。なかには数十粁離れた部落から、山越えして来る者も珍らしくはない。彼等の大半は溌刺たる体躯の所有者である。彼等にとっては、湯治は一種の宗教である。彼等は労働の余暇を善用して、健康な体躯を、いやが上にも健全にして旺盛なる労働力の保持に努め様とするのである。明日への繁忙期に備へる爲の、休養である。彼等には、理屈はない。慣習的に、ただこれを実行に移しているだけに過ぎないのである。農山漁村に在って日夜労働にいそしむ彼等にとっては、心身の慰安を、素朴な湯治に求むることは決して贅沢なものとは言えないのだ。この事実は、聖地に参ずる、殉教者の信仰に燃ゆる気持にも、一脈相通ずるものがあると観ることは無理であろうか。』(6)
石坂氏が、湯治を一種の宗教と感じた直感を大切にしなければならない。
宗教学では宗教的現象の基本形態として、<逃避>―<放浪>―<帰還>のパターンを提示している。ある人間が、従来の状態から特に新しい資格を身につけて別の状態に移行する時、このような基本形態をとる事が一般的とされる。エリアーデは、多くの通過儀礼(イニシェーション)の中でこうしたパターンが見られる事を指摘した。(7)<逃避>とは「日常的なるもの=俗」からの離脱を示しており、従来のものの死を意味する。<放浪>は「非日常的なるもの=聖」の空間であり、ここで新しい能力・資格を身につけるのである。<帰還>によって、再び「日常的なるもの=俗」へと新しい資格を持って帰ってゆき再生が行なわれて完結する。オーストラリアの未開社会の成人式には、この形態が良く残されており、母に象徴される古い「日常的空間」からの<逃避=離脱>、火に焙られたり割礼をうけたり種々の教育をうける<放浪>成人としての新しい資格をもって部落へ戻る<帰還>の三段階のパターンをとる。(7)
この宗教学的な基本形態は湯治習俗にも、かなり明確に指境できる。湯治場は湯治客にとって「非日常的なるもの=聖」の空間であり、温泉にひたりながら新しい活力を身に貯える「場」である。湯治客の大部分は農民であったから、「日常的なるもの=俗」の空間は、自分達の村々における農耕生活である。こうした現象を「聖と俗」という二元論的な形でとらえるなら柳田国男氏のいう「ハレとケ」という考え方にも通じるところがある。
イギリスの人類学者リーチによれば、人間は「時間を一定の流れとして」考えない。「時間とは交替と全休止との継続」として認識するのが最も基本的なものである。さらに、新しい時間と古い時間との間の全休止の時間に祭儀といったものが加わる。即ち、「祭儀とは、存在の正常な世俗的秩序から、異常な聖なる秩序への一時的な転換であり、またその逆もどりを表象するものである。」(8)このリーチの指摘に従うなら、人間は単位時間毎に、古い時間として死に、新しい時間として再生する祭儀を「聖なる時間空間」において行うという事になる。農耕民族を対象として考えるならば、栽培植物との関連から、基本的な周期として「一年」という単位をもつ以上、古い一年として死に、新しい一年として再生する祭儀を持っても不思儀はない。
こうした人類学的な方法論にたった研究の一例として西郷信綱氏の古事記に関する報告(9)を紹介しておこう。西郷氏は、天孫降臨を天子の再生儀礼と解釈し、大嘗祭の神話化された姿であるとする。天子は「五穀を豊能ならしめる責任と能力」をもつべきものとされており、その能力は基本的な時間単位である一年毎に更新されなければならない。即ち通過儀礼の成人式と同様に「古い身分として死に新しい身分として生まれかわるという変身の過程を通らねばならなかった。」現に大嘗祭で天子は「水穂の国の君主たらんとして、稲の初穂を食べるとともに、殿内の中央の神座で衾にくるまり、そこに臥す所作を演じたものと推測される。それは子宮の羊膜に包まれた胎児の状態にもどつてこの世に再誕しようとする模擬行為で、ホノニニギが生まれたての嬰児として、または真床覆衾にくるまって天降ったというのは、かかる過程の神話的表現に外ならない。」
議論を整理しよう。人間は基本的に時間を古い時間と、新しい時間の交替として認識する。古い時間と新しい時間の間に、聖なる時間が入り、そこで祭儀が行なわれる。農耕社会では基本的な時間の単位は一年であり、「非日常的な時間=聖の秩序の支配する時間」には豊饒なる農作物を得る資格を更新する再生の儀礼が行なわれる。その代表的な例として大嘗祭の意味を古事記研究の立場から見た。
以上の考察をふまえて、湯治という習俗を位置づけるなら、これは明らかに一年を周期とする農耕期間と農耕期間の中間に入る「聖なる空間」における再生の行事と考えてよいであろう。湯治が秋の収穫の後に行なわれるのが本質的な形であったという事も、こうした考えからうなずけるのである。リーチにならって時間の流れを表現すれば、左図のようなダイアグラムによって示すことができよう。
農民は、「聖なる空間」である湯治場で、母なる大地の子宮としてのイメージをもつ温泉にひたり、来る年の五穀豊能を得る新しい力を身につけて生まれかわるのである。
(四)
それでは「再生空間」である「湯治空間」を、湯治客達はどのように構成していたか。「聖の時間」である湯治場で行なわれる習俗は、大嘗祭の厳粛な形式性とは対照しあう形の、むしろヨーロッパにおける中世のカーニバルに近い、乱痴気騒ぎという一面をももっていた。即ち、湯治場では「日常的なるもの=俗」の空間における全ての約束事、拘束から自由になり、湯治客全体がこの「湯治空間」の主役となって積極的・肯定的な行動をとり、物質的・肉体的原理に従って活き活きと生活する。湯に入りうたい、笑い、踊り、貪欲に食べ、酒を飲み、同室・隣室の人々、ひいては全ての湯治客とわけへだてなく全体的な「湯治空間」を作り上げるのである。例えば、八月肘折温泉の中央通りに面した自炊部屋の廊下では、上半身裸体の中年婦人達が大勢集って、全く開放的に卑猥な言葉を投げあいながら笑い興じていたり、酒を汲みかわしながら、自分達の郷の歌をうたったり、おどったりしている光景を現在でも見る事ができる。
祭儀というものが、厳粛なる形式性と、乱脈なるドンチャン騒ぎの二面性をもつ事は、よく指摘されるが、乱脈なるドンチャン騒ぎの中に、重要な意味を発見する人は少ない。しかし、バフチーンも指摘するように、このようなカーニバル的なもの、祝祭約なものが実は「人類文化の極めて重要な第一次的な形式」(10)なのであり、この祝祭的な空間こそは、人類の最も原初的なエネルギーの昂揚する「場」でもあったのである。そして、ドンチャン騒ぎの持つ両面的価値(アンビヴァレンス)、即ち古きものを殺し、同時によみがえらせつつ更新させる性格が、「湯治空間」の基本的な性格であり、こけしの発生をうながす母胎であったと考えられるのである。 
(五)
「作る側=木地星」と「買う側=湯治客」が「湯治空間」で接触し、互いに緊張した精神構造をもってかかわりあいながら、こけし発生の「場」を形成していった過程については、別稿で既に述べた(11)。ここでは、こけしが湯治習俗とどのような形で関係をもっていたかを考える事にしよう。今まで述べてきたような「湯治空間」においてこけしが発生した以上、こけしは「湯治空間」において何らかの役をになっていたと考えてよい。その「役」が何であるかを追求する事が、こけし発生論の重要な課題である。追求の方法としては、「<こけし>主体」において、こけしがどのような意味をもっていたかを、「<こけし>主体」であるかつての湯治客に直接聞いてまわるのが一番てっとり早い。しかし「買う側=湯治客」からの聞書は今まで殆んど集められていないのが現状であり、今となっては「一次的<こけし>主体」として「湯治空間」とかかわりをもった年代の人々が、どの程度生存しているか問題である。
こけしの「役」を考える場合、鳴子の工人故高橋盛老が私に語った言葉は紹介に足るものと思う。「昔は湯治にくれば必ずこけしを買って帰ったものだ。こけしを持ち帰って近在の子供のいる家へ配らなけれは、湯治に来た効能がないと言っていた。丁度、神社へ行って、御札を買って帰るようなものだ。」
高橋盛老の言葉にどの程度の意味があったかはわからぬが、こけしが湯治客にとって単なる玩具以上の意味をもっていた事は想像にかたくない。こけしが子供の玩具としての性格をもつ事は疑いようもないが、それと同時に「再生」の象徴としての「役」をもになっていたと考えるのは、無理な事ではないだろう。農民は「湯治空間」において、新しい能力を身につける「演技」を行うとともにその具体的な形をこけしの中に見ていたのではないかと私は考えている。それは「新しきもの=未来=子供=明るいもの=豊かなもの=生まれいずるもの」の象徹的表象である。
柳田国男は、こけしをオシヤブリと同系統のものとみなし、「あんなオシヤブリのような小さな玩具でも、やはり最初は、御宮笥であり、日本人の信仰から生まれて発蓬したもの」と言っている。私自身はこけしとオシヤブリを別のものと考えているが、柳田氏のいう「御宮笥」という考え方には注意を払っておいてよいと思う。神社等の「聖なる空間」に出向いて、神より何らかの霊現をさずかり「俗の空間」へ戻ってくる時、その象徴としての「役」が「御宮笥」にあるとすれば、こけしにも広義の「御宮笥」的性格を見てとれるからである。ただし、こけしにはより積極的で肯定的な性格があり、「湯治空間」の両面的価値を反映して、全てをまきこんで殺し、同時に更新させる力強さがあったと思う。
以上のような状況を見てくると、こけしは木地屋側が一方的に思いついて作り始めたというより、こけしという「共同幻想」が湯治客側に前もって存在し、そのイメージにこたえるという形で木地屋が作り始めたと考えるべきであろう。
こけしの発生年代は、湯治習俗の確立する文化・文政以後であり、赤物技術の伝承という事を考慮に入れれば、土湯・遠刈田で天保以後、鳴子では安政以後という事になる。多くの宗教的な意味が、速やかに童戯の中へ吸収されていったように、こけしも発生以後は、漸次子供の「もてあそびもの」的性格をつよめ、明治十年頃には玩具として、都市でも売られるようになった。しかし、売られる場所も、はじめは小正月の松焚き神事でにぎわう大崎八幡参道であったり、山形の初市等、「非日常的空間」にかぎられていたようである。都市の「おもちゃ屋」の店先で一年中売られたという事は、一、二の例外を除いて殆んどなかったといってよい。「もてあそびもの」としてのこけしも、「湯治空間」と結びついていたイメージからは、そう簡単に自由にはなれなかったようである。
本稿では、「一次的<こけし>主体」の画定をおこない、こけしが重要な「一次的<こけし>主体」の一つである湯治客との関係の中で、本質的な意味をもっていた「場」としての「湯治空間」について考えながら、こけしの発生を追求してきた。ただし、こけし発生論の完全解答を目指したものではなく、こけし発生を考える上での最も基本的な方法を示したにとどまった。 本稿をまとめる際、貴重な御意見を賜った松田徹氏に心から御礼を申し上げたい。
引用文載
(1)西田峯吉=こ」けし風土記(未来社、一九六八)
(2)菅野新一監鯵…こけし事典(岩崎美術社、一九六八)
(3)天江富弥…こけし這子の話(郷土趣味会、一九二八)
(4)鹿間時夫監修…こけし辞典(東京堂出版、一九七一)
(5)菅野新一他編…こけしのふるさと(未来社 一九七二)
(6)石坂洋次郎編…東北温泉風土妃(日本旅行協会 一九四〇)
(7)M・エリアーデ=・生と再生(東大出版会、一九七一)
(8)E・R・リーチ…時間と象徹的表象に関する二つのエッセイ(平凡社、一九六九)
(9)西郷信綱・‥古事記の世界(岩波書店、一九六七)
(10)M・バフチーン…フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化(せりか書房、一九七三)
(11)橋本正明…こけし発生の「場」こけし山河13 (大阪こけし教室、一九七二) 
「こけし」の語源 
はじめに
こけしは、ある特定の地方、すなわち蔵王東麓遠刈田周辺で、特に作り付けの小寸物の木人形に用いられた呼び名である。右の写真は旧橘コレクションの遠刈田小寸であって、これらを「コケシ」あるいは「コゲス」と呼んでいたのである。今日こけしと呼ばれている木人形の呼び名は各地方ごとにさまざまであり、その一般的総称というものは無かった。
「こけし」をこの木人形全般の代表名と決めたのは、それ程古いことではなく、不統一な呼称や種々の漢字宛字は紛らわしいので昭和十五年七月二十七日鳴子で開かれた東京こけし会鳴子大会で平仮名による「こけし」を代表名として選んだだけのことである。
各地方の呼称名
各地方ではそれぞれ多様な呼び名を用いていたが、鹿間時夫氏はそれを大きく四つの方言区に分類して整理した。なお、この四つ以外に「にんぎょう」という一般的な呼名は各地で使われていた。
一.でこ方言区
きでこ          福島・飯坂
おでこさま        会津地方
でころこ         原の町
でく           小野川
二.ぼこ(ホーコ)方言区
きおぼこ、おぼこ、にんぎょ 刈田郡
きぼこ、きんぼこ、きぼっこ 仙台市
んぼっこ         山形市
こげほこ         雄勝郡
ながおぼこ        温湯
三.こけし方言区
こげす          遠刈田
こげすんぼこ       仙台市
こけし、こげす      鳴子
こけしぼんぼ       湯沢
こけしぼぼ、こけしほほこ 小安
四.きなきな方言区
きなきなおばこ      盛岡
きなきなずんぞこ     一ノ関
くなくなこげす      胆沢郡
きなきな坊        上閉伊郡

このように各方言を並べてみると、「でこ方言区」は福島県を中心にかなり孤立しているのに対し、「ぼこ方言区」はかなり広く分布し、「こけし方言区」と「きなきな方言区」は、その「ぼこ方言区」の部分に存在することがわかる。しかも「ぼこ方言区」のなかでは、おのおのが複合して使われる場合がある。たとえば、こけし-ほほこ、きなきな-おばこ、くなくな-こげす等である。上図の方言区地図を凝視すると、「でこ方言区」は独立性が高いことがわかり、「ぼこ方言区」では「ぼこ」が古く、後に「ぼこ」の作り付け小寸物を特に「こけし」と呼んで区別した地方がある。一方、オシャブリの「きなきな」は人形化して「ぼこ」あるいは「こけし」と複合化した。・・・といった方言周圏論を踏まえた解釈も可能になる。
各呼称名の語源
「でこ」は木偶(でく)が語源であろう。この「もくぐう」を何故「でく」と呼ぶかということについては、折口信夫は人形を手に持って舞わせる手傀儡(てくぐつ)がつまって「でく」になったとしている。木偶は宛字で、「てくぐつ」には木という意味は無く、もとは「手で舞わせる人形」、したがって「きでこ」は「木で作った手で舞わせる人形」ということであろう。
「ぼこ」については二説がある。日本の古い「ひとがた」人形の「ほうこ(這子)」から来たと言う説。もう一つは童女のことを「おぼこ」という、木で作った童女だから「きおぼこ」だという説である。
ただ、こけしの「ぼこ」の元になったのはむしろ仙台張子の「おほこ」であろう。この「おほこ」の語源が「這子」か「おぼこ」かという議論は別にある。仙台張子は松川達磨の張子の技術を受け継いで、仙台藩士が二百年ほど前から作り始めたものらしい。
高橋五郎氏は遠刈田新地の中寸以上のこけしの祖型はこの張子の「おほこ」ではないかとしているが、説得力のある意見である(佐藤治平と新地の木地屋たち)。こけしが盛んになるに期を同じくして、仙台張子の「おほこ」は消えていくが、こけしがおほこの代わりとして、より壊れにくい人形として受け入れられたためであろう。「きおぼこ」という名称自体も、「おほこ」からの継承だと考えられる。木で作ったおほこ人形というのが「きおぼこ」のもとの意味であろう。
もともと東北地方には「おほこ」を人形の意味で受け入れる素地がかなり広範にあって、仙台張子の「おほこ」を祖系として「きおほこ」がその呼称とともに成立したとき、その名称は自然な形で広く伝播し、大きな方言区となったようである。その意味では、昭和十四年の全国こけし大会では、「こけし」よりは「きおほこ」から来る「きぼこ」の方を代表名として選ぶべきであったかもしれない。
「こけし」について、諸説いろいろある。「こ=木、け=削、し=子、木を削って作った子供の人形」、「御芥子、芥子坊主の意。芥子坊主は頭頂をそり、中央に毛を残す小児習俗。」、「けしは芥子粒で小さいという意、こも小さいで、小さいを重ねた言葉」等等。
また、のちに縁起物として受け入れられたことから、「除けし(よけし)=厄除人形からの転化」、「こふけし(子受けし)=子授け人形」といった縁起と付会させる説などもあった。
このように諸説定まらなかったことから戦後六十年代に突如「子消し=間引きの供養」という新しい付会説まで現れる(「子消し」説の分析については「こけしQ&A」で議論した)。
語源として、今日もっとも受け入れられているのは「木で作った赤けし人形」を原義とする解釈である。
「赤けし」は堤土人形、堤の「けし人形」は男女一対の坐像で、男を「つんぬき」。女を「赤けし」と言った。
堤人形は十七世紀はじめ頃より、足軽の内職として始まったが、元禄の頃から浅草今戸の技術が伝わり発展、文化文政の頃に最盛期を迎えたという。堤人形は仙台から作並街道を経て、山形、上ノ山、寒河江などにまで売られていたらしい。高橋五郎氏は前掲書のなかで、この「赤けし」こそ遠刈田小寸作り付けの祖型であるとしている。たしかに五郎氏蔵の古い「赤けし」二寸二分をみると、肩の下がった型は遠刈田の作りつけと共通するものがあり、面描や頭頂の水引などにもその影響が歴然としている。名称においても「木で作ったけし人形」というのが原義であろう。また、「ぼこ方言区」のなかで小寸作り付けを大寸物と区別して作った産地に「こけし方言区」は限られるのというのも、この考えを支持している。
かつて「こ」を木と見るのは難しい、用材として使う場合は「き」、生きている植物あるいは未加工の場合は「こ」を使うという意見も有った。
「このは」「このめ」「こぐち」、「きづち」「きぐつ」等。そこで「こ」は木ではなく小さいの意とする意見もあった。ただし、下田正建氏は木割り台を「こぎぼ」、削り木を「こばぎ」でこの場合の「こ」は木であり、「木で作った」の意にも「こ」は使われるとした(こけし手帖・30)。
たしかに元の赤けしが二寸二分であれば、それに小さいの接頭語をつける必要は無い。したがって、「木で作ったけし人形」が、現在はもっとも有力である。
この用語に相当するものが文献上に最初に現れるのは、文久二年(1862)に鳴子の隣村鬼首で書かれた「御郡村御取締御箇条御趣意帳」(長蔵文書)で「木地人形こふけし」という記載がある。
私も「木で作ったけし人形」説を支持するが、それは「きでこ」、「きぼこ」、「こけし」の成り立ち、構造の共通性からである。
これらは全て前駆的な人形を持っていて、その人形の呼称名に「木で作った」という接頭語をつけている。
•きでこ 「き=木」 「でこ=手傀儡人形」
•きぼこ 「き=木」 「ぼこ=おほこ(仙台張子おほこ人形)」
•こけし 「こ=木」 「けし=けし人形(堤土人形の赤けし)」
従来、「こけし」というこの木人形のごく一部分を対象にした語源議論ばかりやっていて、この木人形の呼称に共通する構造という視点があまり無かったように思う。上記のように整理してみると、物の命名の基本構造はかなりしっかりしたものだったよう見える。
このように考えれば、こけしの前駆となった人形のイメージがこけしを求めた人々の中にははっきりあって、その役割や期待していたものがこけしへ継承されたと考えるべきである。その意味からも、久松保夫さんが「木の花」三十二冊を通して追求した「ほうこ考」などはもう一度精査し、体系化すべき題材であろう。
「きなきな」はおしゃぶりの口に含む部分がクラクラうごく様子の擬態語から生まれて、それが人形化すると同時に「ぼこ」や「こけし」と複合したものである。 
「こけし」誕生 
これから、こけしがどのようにして生まれたのかについて話そう。
こけしが作られ始めたのはそんなに古い昔のことではない、江戸時代末期文化文政から天保にかけての頃と言われているが、ほぼ天保の年代(1830-1843)と考えた方がいい。明治維新の30年位前のころだ。
天保の前の文化文政時代(1804-1829)、これは俗に化政期といわれるが、気候天候も経済も比較的穏やかな時代で、江戸を中心に町人文化が花開いた時期にあたる。浮世絵や黄表紙、滑稽本も庶民に喜ばれて数多く出版された。皆さんがよく知っている弥次さん喜多さんの『東海道中膝栗毛』も文化十一年に初版刷刊行が完結している。
この時代に、弥次さん喜多さんのように庶民でも旅に出るようになった、金毘羅参りや伊勢参りも盛んに行われるようになった。これは江戸の庶民だけではない、東北の農民でも金毘羅参りや伊勢参りに出かけるものが少なくなかった。東北の村々で時に「金毘羅」と彫られた石碑を見かけることがあるが、これはその地の人々が金毘羅を参詣した時に、その記念に建てたものだ。
金毘羅や伊勢にまでは行けない人々も、自分たちの田畑を潤す川を遡って、その山間(やまあい)にある温泉に湯治に行くことは出来た。馬の背に布団や米・鍋釜を括り付けて、温泉場に行き、2週間3週間と逗留して湯治に努めることは、農民たちにとって、体力の回復をはかると同時に限りない娯楽にもなった。また、金毘羅や伊勢参りでご利益(りやく)を期待したように、湯治にも五穀豊穣や安産多産のご利益(りやく)が期待された。
このように庶民が自分たちの村を離れて旅をするようになると、お土産というものが生まれてくる。旅で得たご利益(りやく)を自分たちの村に持ち帰り、出来るだけ長くそれを保持したい、また近所の村人にもお裾分けしようという気持ちがあったからだ。
東北や江戸から、金毘羅や伊勢参りをする人たちが必ず通ったのは箱根である。箱根にはこうした旅人のためのお土産を作る人たちがたくさん居た。とくに箱根湯本の近辺には木材を加工する人たちが集まって、寄木細工や挽物玩具を作り、商っていた。挽物玩具にはきれいな色彩が施され、長旅でも持ち帰るのに苦にならないように小型で精巧なものが多く作られた。十二玉子や七福神などの入れ子人形は大いに喜ばれ、これらはロシアに持ち帰られて手本となってマトリョーシカが生まれたりしている。
湯本村には伊豆屋という木地挽物細工の店があって、1寸(約3センチ)四方の小さな箱に、挽物人形を百あるいは二百いれたものを「芥子人形」と呼んで商っていた。おそらく1センチ程度の挽物人形に三十六歌仙や七福神などの簡単な描彩が施されたものだったろう。
東北の湯治場で、こけしが誕生する契機として、この箱根の木地玩具との関係を語る伝承がいくつか残っている。
鳴子温泉では、天保年間瘡という皮膚疾患の療養のために源蔵湯に逗留していた箱根の木地師が、源蔵湯の隠居家督であった大沼又五郎に小物挽きの技術を伝え、又五郎が最初にこけしを作ったという。またこのこけしの誕生には伊勢参りから帰った鳴子神社の神官早坂何某からの示唆があった。
土湯温泉では、稲荷屋の佐久間亀五郎が天保年間に伊勢参りに行った。その途中で箱根の木地物玩具をみて、土湯でも挽物細工をお土産として作ることを思い立ったと言われている。
作並温泉では南條徳右衛門(注1)という木地師が岩松旅館に雇われて木地を挽き始めたが、この木地師は箱根で修業した人。大々人形、大人形・中人形・相人形・小人形と呼ぶこけしを作り、その寸法は徳右衛門の弟子岩松直助の「萬挽物控帳」に残されている。
「華美な色彩を施した木地細工物の玩具を作り、それを土産物として売る。」というビジネスモデルが、天保時代に箱根から東北の温泉地へ伝わったということの意味は大きい。赤を多く用いる玩具類は赤物と呼ばれ、特に疱瘡除け、つまり天然痘に罹らないようにするための効能があると信じられていた。東北の温泉地では、まずこうした箱根由来の赤物の玩具類が作られるようになり、子供の土産に多く売られるようになった。そして、こうした温泉地でやがてこけしが作られるようになる。伝承記録はないが、もう一つのこけしの大きな産地、遠刈田でもおそらく同様の契機があったであろうと考えてよい。
さて、箱根木地細工からの影響があったとしても、箱根にこけしは存在しなかった。「芥子人形」とよばれる土産物はあったが、1センチほどの小さな挽物人形で、それが百も二百も3センチ四方の小箱に入ったものだった。それはこけしとは違ったものだろう。それではどうして東北で、今あるようなこけしが生まれたのか、また箱根で何故こけしが生まれなかったのか、それが次の問題になる。

皆さんは土偶というものをご存じだろうか。縄文時代に作られた土製の人の形の焼き物だが、その大部分は女性像である。しかも、人体を大きくデフォルメして、特に女性の生殖機能を強調しているものが多いことから、豊穣、多産などを祈る意味合いがあったと考えられている。また、出土する土偶は大半が何らかの形で破損していて、故意に壊したと思われるものも少なくない。そのため、祭祀などに用いられ、その折に意図的に壊すことによって、災厄などを祓おうとしたのではないかとも言われている。
この土偶は実は山梨から東、特に関東から東北での発見が圧倒的に多い。なぜ東北を中心とする東日本に多いかについてはいくつかの説があるが、ここでは次の二つを紹介しておこう。
一つ目は縄文時代の早期末、いまから7,300年くらい前に起こった鬼界カルデラの大噴火を原因と見る考え方だ。九州南方の海底火山の噴火で、極めて規模が大きく、九州、四国全域が甚大な被害を蒙り、本州の西半分でもかなりの被害を出したと言われる。九州南部全域に60cm以上の火山灰が積もり、降灰は東北地方にまで及んだようだ。これによって西日本の縄文文化はほぼ壊滅状態となった。これが西日本で土偶が出土しない原因となったという。
二つ目は縄文時代の東西の文化特性の違いに注目する考え方だ。東日本のブナ、ナラ、クリ、トチノキなどの落葉性堅果類を主食とした地域(つまりこれら落葉樹林に覆われていた地域)と、西日本の照葉樹林帯に覆われる地域との生業形態の差異に原因を求める見方だ。落葉性堅果類、すなわちクリやいわゆるドングリは秋の一時期に収穫期が集中するため、比較的大きな集落による労働集約的な作業が必要となる。そのため、社会集団の結束(Unity)を強化する目的で、土偶を用いた祭祀を行っていたのだろうという考え方である
ここでは特に二つ目の考え方に注目しておこう。
落葉性堅果類を主食とする生活は縄文時代で終わり、土偶も以後作られることはない。ただし、人の形をした造形が豊穣と多産を司る力を持っていて、それに共同体共通の願いをかけるという記憶が、東日本、とくに東北には脈々と残っていた可能性がある。そしてそのような記憶に基づく習俗を共有するということが、共同体の結束にも繋がったのだろう。
それが時に、手で繰る「おしらぼとけ・おしらさま」のようなものとして現れたり、子育て地蔵のようなものとして現れたり、仮面をつけて演じる「なまはげ」のようなものとして現れたり、ねぶたの人形型燈籠として現れたり、堤人形の赤けしや仙台張子のおほことして現れたりする。
稲作の日本への伝播は、縄文時代中期に起こり、弥生時代になって広く日本中に広がるが、東北へも日本海を北上し、津軽海峡を経て太平洋岸を南下し、茨城あたりまで相当に早い時期に伝わったらしい。それでも夏にやませが吹くために安定的な米の収穫は得られずほそぼそとした生産が続いたが、ようやく江戸時代にいたって伊達藩を中心に米の生産地として定着するようになるのだ。稲作は典型的な労働集約的な生産のやり方であり、特に田植えは共同体あげての一斉作業となる。湯治は、そうした田植えなどの集中作業のあとに体力回復のために出かけたものだった。
だだ、一つの村の中には湯治に行けた人もあるし、行けなかった人も当然でてくる。行けた人は行けなかった人の分まで湯治のご利益(りやく)を持って村に帰る必要があった。山の湯治場で獲得した山の神の五穀豊穣の呪力を土産物とともに持ち帰って、隣近所の人達と分かち合う必要があった。 こけしは湯治のご利益(りやく)を持ち帰るためのお土産として最もふさわしいものであり、それ故湯治場で喜んで買われたのだった。

箱根からお土産としての小物木地細工が東北の湯治場に伝わった時、その土地の小物挽の木地師たちはお土産となる木地細工をいろいろ作ったに違いない。独楽や木地玩具もなど箱根から伝わったものが多かっただろう。しかし、彼らの誰かがやがて木人形を轆轤で挽いて作り始める。それが、お土産として最も人気が出て、他の温泉地にも伝わっていく。遠刈田・鳴子・土湯・作並、どこが始まりであるにせよこうした木地師のいる環境の温泉地全体にその木人形が広がるのには数年程度しか要さなかったであろう。それがこけしである。同時に複数の産地で作り始めたと考える人もいるが、おそらくどこか一つの産地が作り始め、それが他の産地にも伝わったと考えるのが自然だろう。新たに生み出すために必要なエネルギーにくらべれば、伝播のエネルギーの方が極端に少なくて済むからだ。
こけしという呼称は箱根の「芥子人形」から来ているという人もある、また仙台堤の土人形にある「赤けし」から来たという人もいる。いずれにしても木でつくった小さなけし人形と言った意味であった。
なぜ、この木人形が当時の東北の人たちから支持されて人気が出たのだろうか。それは土偶の時代から人の形をした女性像に五穀豊穣・安産多産を願いながら村中が一致団結した記憶が脈々と続いていたからであろう。それは東国の家父長的なトップダウンの組織を横から支える重要な仕組みになっていたに違いない。
これはこけしが現代の土偶であると言っているのではない。まして、こけしの土偶起源説を唱えているのでもない。こけしと土偶は全く別物である。土偶がその役割を終えてから、こけしが誕生するまでには数千年という長い時間が経っている。
だが、落葉性堅果類を一斉に共同作業で収穫したときに、土の人形の祭祀で結束を固めたようとしたことと、稲作の共同作業で村が結束する時に、木の人形を配りあって連帯したことの間には、数千年持続したある種の民衆の記憶があるかも知れないということを言っておきたい。ちょっと難しく言うなら、東北の人たちは、人の形の造形によって共同体の共通の宇宙観を常に活性化し続けて来た、つまりその造形が力強いアーキタイプ(元型)として存在し続けたのかも知れないということだ。
おそらくこのアーキタイプは古くは東日本全体に共有されていたであろう、鎌倉時代から江戸時代にかけて西日本との混交がかなり広く関東地方にまで進んで行った結果、こけしが生まれる江戸時代末期には、このアーキタイプは東北地方のみにしか鮮明に残っていなかった。それ故、箱根ではついにこけしが生まれることはなかった。
稲作は当然西日本にもある、いやむしろ西日本から東日本に伝わったというべきだろう。それでは同じように村全体の結束を図る必要がある稲作の共同作業を西日本ではどのように実現させていたのだろうか。それは東日本の「家父長的な縦の統合と、それを横から支える共有されたアーキタイプ」とは異なった合意形成や結束の仕組みとしての「寄合」つまり「座的結合」によるものだった。この辺の事情は、宮本常一の「日本文化の形成」や網野善彦の「東と西の語る日本の歴史」に詳しい、機会があればぜひ一読して頂きたい。。
この違いが、結局こけしが東北でしか生まれなかった一つの理由になるわけだ。
皆さんは、「こけしは木地師がたまたま自分の娘におもちゃとして挽いて与えたものが広まった」といった類のこけし誕生譚をもう信じる気持ちにはならないだろう。日本でも世界でも、いま玩具となっているものが最初から単純におもちゃを目的として作り始められたというケースは極めて少ない。
こけしも江戸末期に突発的に生まれ出たものではない、時代によって形を変えながら出現したいくつもの人の形の造形、その一つとして生まれたのであって、その誕生には、箱根からのお土産としての木地細工の伝承と、村から山沿いの温泉地へ湯治に行くという習俗の確立が契機となっていたのだ。

(注1) 南条徳右衛門は享和元年(1801年)の生まれ、作並で慶応元年(1865年)に65歳で亡くなっている。徳右衛門の弟子であった岩松直助が記した「萬挽物控帳」に南條徳右衛門は箱根発業の木地技術を相伝したとある。またこの控帳に記載されている値段表は何回か更新修正されているが、「桜臺が一貫六百文の時に、南條徳右衛門が定め置いた値段が、段々一割二割と上がって行って、そのまま辛未秋より金札(藩札)で四貫文の相場になったので、新たに左のように定めておく」という記載がある。この辛未を文化八年(1811)と見て、こけし(人形)がその時点で作並に存在したという解釈が行われている。
ただ、南條徳右衛門が11歳の文化八年に、それ以前に本人が定めた値段を改定するというのは年齢的に無理がある。
この辛未を次の明治四年(1871)とすれば新たな値段表を更新したのは、南條徳右衛門ではなく、この「萬挽物控帳」を岩松直助より受け取った弟子の小松藤右衛門ということになる。藤右衛門は明治七年頃にこの「萬挽物控帳」を弟の庄司惣五郎に譲渡しているから、明治四年にはまだ手元にあったはずだ。
もし、小松藤右衛門が値段表を書き直したとして、その明治四年はどのような年であったろうか。それは廃藩置県が行われ、それを機に藩札回収令が発布され、各藩札は新貨幣単位(圓、銭、厘)により価額査定され、実交換相場による藩札回収が始まった年である。その査定によって藩札の価値が設定され相場が変わったので藤右衛門は値段表の更新を行ったのではないだろうか。
そうであれば、作並のこけしも、南條徳右衛門が箱根で修業し、湯主の岩松に招聘されて作並に移り、それから後の三十代になったころに作り始めたと考えるのが自然であるから、その創始はやはり天保年間のことになる。
ただこの考証は「萬挽物控帳」が誰の手によって書かれ、誰の手によって書き継がれたものかの精査が必要であり、今後の課題も多い。ここでは辛未=明治四年説を採って、作並のこけし製作を天保年間としておく。 
「こども風土記」柳田國男 
「こども風土記」は朝日新聞に連載され、昭和十七年に朝日新聞社より単行本として出版された。「こどもとそのおかあさんたちとに、ともどもに読めるものをという、朝日の企てに動かされた」と単行本の小序に記している。それだけに平易で読みやすい小文で構成されている。全部で四十節に分かれた小文からなる。挿画は初山滋である。ベロベロの神に触れているのは「鉤占いの話」と「ベロベロの神」であり、「ベロベロの神」の節では「人形が今のように写実になったのは、わが国でもそう古いことではない。東北で盲の巫女が舞わせているオシラサマという木の神は、ある土地では布でおおうた単なる棒であり、また他の土地では、その木の頭に目鼻口だけ描いてある。そうしてこれをカギボトケという名などもまだ時々は記憶せられている。信心な人たちの強いまぼろしでは単なる鉤のある小枝でも、なおありがたい神の姿に見ることができたので、それを祭りする人の口の前に持ってくることが大切な条件ではなかったかと思う。東京でオシャブリ、関西でネブリコなどという木の人形も、これを轆轤でひいて今のコケシボコにするまでの、もとの形というものがあって、それが後には幼い者の手によって管理せられることになったのではあるまいか。」と書いてこけしの発生についても触れている。
柳田國男のこの小文が、どの程度までを意識して述べられているかは分からないが、すこしはっきりと言い換えてみればこんなことになるだろう。「神としての木の棒があって、あるいは神が憑依するものとしての木の棒があって、その告げるものを聞くと言う原初的なもとの形があり、時にはそれが巫女による代弁という姿をとり、巫女が口の前で舞わせながら代弁する姿が童戯となって、ベロベロなめるベロベロの神を経てオシャブリになり、やがて人形のこけしとなる」
初山滋は「ベロベロの神」の挿画にオシャブリ、キナキナ坊、そしてこけしを描き、それがもとの形からの発展過程であるかのように並べている。
キナキナ坊の発生についてはこの柳田説は十分説得力がある。しかし、キナキナ坊からすべてのこけしが生まれたのだろうか、その過程は明確に議論されてはいない。本当にそうであったなら更にいくつかのミッシングリングを発掘しなければならないだろう。
私はむしろ、神が憑依するものとしての木の棒とそれを舞わせる所作から、ベロベロと言う段階を経ずして人形化した発展過程があったと見る方が自然だと思う。同じ「こども風土記」のなかの「祝い棒の力」「ゆの木の祝言」などの節で触れられる「神の力を持った棒」にまつわる多くの童戯は、そこから湯治において再生した神の力を憑依させて村々に持ち帰るこけしの姿にもう一歩のところまで来ていると思う。木の棒が持つ共通のイメージ喚起力は確かにあった。こけしはいずれにしてもその範疇にあると言わざるをえないのである。
いずれにしても柳田國男が棒にまつわる童戯のなかに、様々に発展する始原的な「もとの形」を的確に見ていることは特記すべきであり、その感性は「故郷七十年」などの中で幼時の体験として書いている見えないものを見る彼の感性と同根と言えるであろう。
そして、その感性は柳田國男の大部分の追随者が持ち得なかったもので、それが後年の民俗学の限界となるのである。 
 
日本「武士道」の謎

 

1.序
日本の武士道精神とはいったい何か。一言でいえば、武士道の要訣とは、死を看破し、「死を恐れず」、主君のために何のためらいもなく命を捨てて身を捧げることである。このような思想は伝統儒家の「士道」に対する一種の反動でもある。儒家の「士道」は君臣の義を重んじ、「君臣義合」、「父子天合」の人倫観念をもつが、日本の「武士道」は主君のために死を恐れず、命はいらないという覚悟を根本とする。
武士道が重視したのは君臣の戒律であり、「君は君たらざるも」(君が暴虐無道でも)「臣は臣たらざる」(臣が臣道を尽くさない)べからず、であり、忠を尽くすことは絶対的価値だった。中国の原始儒学は孝を本とし、孝を尽くすことこそ絶対的価値だった。もし「父に過ちがあり」、子は「三度諫めても聞き入れられなければ、号泣してこれに随う」が、もし「君に過ちがあり」、臣が「三度諫めても聞き入れられなければ、これより逃れる」のである。武士道論者は、儒家の「士道論」は命を惜しみ、死を恐れる私心を覆い隠すことにあり、それは人倫を見極め主君の道徳がどうであるかに重きを置いてはじめて生死を選択するので、死に直面して潔くない、と考える。ただ純粋で徹底的な覚悟の死だけが武士道の人より強いところである。武士道の徹底的な覚悟の死では、その容貌、言葉遣い、立ち居振舞いも人と違う。武士社会は礼儀を重んじたが、封建社会階層秩序を尊び従うだけでなく、さらに進めて「礼儀正しい」ことこそ、武士が人より一段強い表現だった。武士は「潔く死な」なければならず、君が切腹といえば切腹しなければならなかった。これは日本の鎌倉武家時代以来の伝統である。
2.『葉隠』は武士道精神の源流
日本の武士道の古典は『葉隠』と呼ばれ、江戸時代の佐賀藩(肥前鍋島藩)に伝わる武士道の伝習書である。「葉隠」とは樹木の葉陰のような、人から見えないところで主君のために「身を捨てて奉公する」意味である。この書は佐賀藩士・山本常朝(1659-1710)
が伝述し、同藩藩士・田代陳基が聞き書きして整理したもので、18世紀初めの1716年『葉隠聞書』写本が完成、計11巻1200節余、『葉隠』あるいは『葉隠集』と略称される。巻一、巻二は武士の心得修養を講じ、巻三は鍋島藩祖・直茂、巻四は初代藩主・勝茂、巻五は二代目藩主・光茂(山本常朝の主君)およびその嫡子すなわち三代目・綱茂、巻六は鍋島藩古来の事蹟を講じ、巻七、巻八、巻九は鍋島藩武士の「武勇奉公」の言行を講じ、巻十は他藩の武士の言行、巻十一は補遺である。
『葉隠』が表現する武士道精神は果断に、いささかの未練もためらいもなく死ぬことである。一般の人びとは生命に執着するが、武士道はそれに否定的態度をとり、死だけが誠で、その他の功名利禄は幻だと考える。一人の人間が名利を捨てて、「死身」を以て義勇奉公する際に、この世の真実が見える。武士が標榜したのは精神上の優越である。つまり、心理的にまず己に勝ってはじめて他人に勝つことができるのである。まず「自分の命をいらなくする」ことができてはじめて「他人の命をもらう」ことができる。これは日本の武士に人一倍強い道徳律だった。「命がいらない」ことと「人の命をもらう」ことは密接に関わっており、「葉隠」の教訓は非常に残酷な武士の論語だった。
たとえば佐賀鍋島藩祖直茂はその子勝茂に、「斬首に慣れるには、罪人を斬首することから始めるように」と言って、西の門内に十人並ばせ、斬首を試させた。勝茂は続けて九人の首を切って、十人目が健康そうな若者であるのを見ると、「もう十分斬った。こいつは生かしてやれ」、と言ったので、この男は斬られずに済んだ[1]。日本の軍人が中国を侵略した際の「百人斬り」の残酷な典型をここに見ることができる。
『葉隠』の著述者・山本常朝一家の典故も髪の毛を逆立てさせるものである。
山本常朝の異母兄山本吉左衛門は父親山本神右衛門の指示通りに、5歳で犬を殺し、15歳で罪人を斬殺した。[昔の]武士たちは14、15歳から斬首の実習を始めた[2]。このように武士は子供の頃から刀を身につけて成長し、人を斬殺しても気にしないような精神を養った。
武士道の本義は日本の戦前の教育勅語の教えのように、「義勇公に奉じ」を最高原則とし、これは武士が「人に奉公する」ための心の準備で、非常に残酷で非人道的だった。例を挙げると、佐賀鍋島藩四代目吉茂は若いとき非常に粗暴で、家臣の中で気に入らぬ者の妻の悪口を扇に書いて付きの者に渡し、「この扇を見せてどんな反応をするか報告せよ」と言った。家臣は扇を見た後で誰が書いたかも知らず、すぐに扇を破った。付きの者はありのままを報告した。吉茂公曰く、「主人が書いたものを引き裂くとは無礼者。切腹を命ず[3]。」武士道の世界では、「切腹は武士道の最も忠義の証」である。山本常朝も、武士が尽くすべき忠義は殉死を以て最高とする、と言っている。
身の毛がよだつような話がある。江戸屋敷の倉庫見張り番・堀江三右衛門は倉庫にあった金銀を盗み、逮捕され供述を迫られた後で、「大罪人につき拷問死」の命が下された。まず体中の体毛を焼き尽くし、爪を剥ぎ、足の筋を切断し、きりなどの道具で責め苛んだ。しかし、彼は泣き叫ぶようなことはせず、顔色一つ変えなかった。最後に背骨を立ち割り、煮えたぎった醤油をその上にかけると、彼は体を反らせて死んだ[4]。
武士道は義、忍、勇、礼、誠、名誉、忠義などの徳目を重んじると伝えられているが、実際には残酷無情で、見るに忍びないものだった。中世の鎌倉時代、源氏一族の親兄弟(源義朝、源為義、源為朝)は、骨肉の殺戮の末、正式な跡継ぎが途絶えていた。北条氏の策謀により功臣たちの命脈も途絶えた。日本の戦国時代の無情は血なまぐさい殺戮史がその証拠である。主君殺しには、将軍義輝に反逆して殺した松永弾正、父親殺しには、父齋藤道三を殺した齋藤義龍、兄弟殺しには、家主の地位を継ぐために長兄の死後次兄およびそれを支持するすべての家臣を殺した今川義元、実の子殺しには、織田信長の言うことを聞いて実の長男徳川信康を自害に追い込んだ江戸幕府初代将軍徳川家康がいる[5]。日本の武士の残酷さ、非人道性はそこここに見られ、武士道精神のもう一つの真実を見ることができる。
3.迷走する武士道「旅順大虐殺」
甲午戦争[日清戦争]は第一次中日戦争(1894-95年)とも呼ばれるが、当時の日本の陸軍大将・大山巌が第二軍を指揮し、1894年11月21日に中国[清]北洋海軍基地旅順港への攻撃開始後、旅順大虐殺事件が起こった。『日本外交文書』では「旅順口虐殺事件」と称し、英米はPort Arthur AtrocitiesあるいはPort Arthur Massacreと称している。これは日本の武士道精神の中国での最初の発威だったかもしれない。
旅順大虐殺の犠牲者数はいったいどれぐらいだったのか。
1895年、遼東半島をめぐる「三国干渉」により旅順が中国[清]に返還され、中国[清]の遼東接収委員・顧元勲は、旅順の遺骨、遺灰埋葬地に「万忠墓」をつくった。記録された受難者は約一万八千人だった。1948年「万忠墓」再建の際、記載された犠牲者数は二万人余だった。中国の歴史学者・孫克復、関捷編著『甲午中日陸戦史』(黒龍江人民出版社、1984年)は、これにもとづき犠牲者数は二万人余であると主張した。1994年3月、「旅順万忠墓紀念館」建設時、万忠墓を再発掘、整理し、「日本軍は旅順市区に侵入後、手に寸鉄を持たぬ平民庶民に対して四日三夜の野蛮な大虐殺を行い、二万近い無辜の同胞が惨殺された」と記載した[6]。
当時の旅順市の居住人口は約二万人余だった。1895年3月号の『北米評論月刊』(North American Review)の報道によれば、「旅順市街に残った中国人は36人だけだった」という。彼らは死体の搬送、埋葬に使われたのである。
日本軍第二軍の法律顧問として従軍した日本の国際法学者・有賀長雄は、彼の著作『日清戦役国際法論』(陸軍大学校、1896年)において、当時市街にあった死体の総数は約二千であり、非戦闘員約五百体を含んでいた、と述べている。もちろん日本側は加害者であり、日本軍に非戦闘員(平民)の虐殺があったことを隠蔽しようとした。明治天皇が宣戦の詔勅で「苟モ国際法ニ戻ラサル限リ各々権能ニ応シテ一切ノ手段ヲ尽クスニ於テ必ス遺漏ナカラシムコトヲ期セヨ」と、日本の軍人に戦時国際法を厳守し、日本は「文明国」であるとして欧米に重視させるよう求めていたからである。しかし、旅順には日本軍と行動をともにしていた4人の外国特派員記者がおり、旅順大虐殺事件を目撃した。
欧米の従軍記者の中で、アメリカとフランスのヘラルド(Herald)のガーヴァー(Garver)が買収されて日本を擁護する立場に立った以外、その他のイギリスのタイムス(Times)のコーエン記者(Thomas Cohen)、スタンダード(Standard)のウィリヤース記者(Villiers)、アメリカのワールド(The World)のクリールマン記者(James Creelman)の3人は語気に若干の違いはあるが、日本軍が犯した虐殺の罪行を強烈に非難している。
たとえば、1894年11月20日にニューヨークで発行されたWorldの編集標題は「旅順港の惨殺で少なくとも二千人の手に寸鉄を持たぬ人びとが日本軍に虐殺された」というもので、日本軍の暴行を激しく批判、日本人は文明の皮膚をまとい、野蛮な筋骨をもった怪獣であり、「日本は今や文明の仮面を脱ぎ捨て、野蛮な本性をあらわにした」と攻撃する内容だった。さらにイギリスのタイムス(Times)の記者も、日本軍は捕虜を縛ったまま虐殺し、平民とくに女性も虐殺した事実があることを明らかにした。
日本人自身の証言によれば、日本郵船の貨物船遠江丸の一等運転手林治寛の体験は、「旅順口陥落ノ時上陸セシニ、死屍相積、三畳々散ヲナシ実ニ酸鼻ノ残(惨)状ヲ見シ。内ニ老アリ、幼アリ、婦人アリ、稚児アリ。未ダ死ニ至ラサルモノ伸(呻)吟ノ声、今ニ猶ホ耳ニ存スト」[7]というものだった。
当時の日本の外相・陸奥宗光は、日本軍の虐殺のスキャンダルが国際社会に伝わらないように、手を尽くして外国通信社を買収した。たとえば、機密電報で駐英代理公使・内田康哉にイギリスのCentral Newsを金銭で買収し、タイムスの旅順大虐殺報道と異なる論調を提起させ、旅順市民に対するある種の残虐さは中国人逃亡兵の仕業と言わせるよう指示した。内田が返電で買収資金の不足を伝えると、外務省は予備金から日本円2000円を為替で送ると回答した。イギリスのCentral Newsは日本の情報工作にサービスする十分な報酬を得た。[8]
他方、ロイター通信社(Reuters)の買収は当時の駐独公使・青木周蔵によって行われた。陸奥外相は「ロイター電信会社」(Reuters Telegram Company)が日本のために有利な情報を流すことで606ポンドの報酬を与えることを承諾した。当時横浜にあったジャパン・メール社も『Japan Mail』と『Japan Weekly Mail』を発行していた。社長のブリンクリーはロイター社の通信員でもあった。陸奥外相は内閣書記官長・伊東巳代治に、ジャパン・メール社に対して日本政府が毎日流す戦争情報をロンドンに電送するよう求めさせた。ブリンクリーへの陸奥の働きかけが成功すると、日本政府は補助金の名目で毎月ジャパン・メール社に一定の補助金を与えた。甲午戦争[日清戦争]後の論功行賞で日本政府はブリンクリーに「勲三等旭日章」ならびに恩賞金5000円を授与した。[9]
しかし、ロイター社にはReuters Telegram CompanyとReuters International Agencyとがあり、日本政府は前者と契約を結んで金を与えて買収していたが、後者は相変わらず日本に不利な虐殺の情報を伝えていた。当時『時事新報』を掌握していた世論の泰斗・福沢諭吉は「旅順の殺戮 無稽の流言」を書いて弁解した[10]。お雇い外国人ハウス(Edward House)を通して欧米の通信社、ワールド等に弁解が提示され、虐殺事件の沈静化を図り、日本国内でも虐殺事件の存在が忘れられた[11]。日本政府は、虐殺事件の徹底調査を行わないうちに、「旅順口占領に関する誤聞」として、ドイツ駐在青木公使、イギリス駐在内田公使、アメリカ駐在栗野公使、ロシア駐在西公使、フランス駐在曽祢公使、イタリア駐在高平公使等、欧米の各駐外公使に対して、各国への弁解のための弁明書を伝達した。[12]
しかし、英米の新聞の、旅順大虐殺を目撃した記者の報道により、日本の大本営も、参謀総長から大山巌軍司令官に宛てた公文を持たせた人員を旅順に派遣し、きちんとした説明を求めざるをえなかった。大山の返信は11月21日の旅順市内の兵士と人民に対する殺戮を認めたが、旅順の住民の多くは中国軍と関係があって抵抗を試みのだとか、黄昏時ではっきり見えずに殺戮が生じたなどと弁明していた。この他、捕虜の殺害については、反抗、逃亡に対する懲戒だと強弁し、日本軍と関係のある略奪行為は一概に否認した。要するに、参謀本部に対する大山巌の弁明書からわかることは、虐殺の規模の大小、虐殺の原因には弁解がなされているが、日本軍第二軍司令部は「旅順虐殺」の事実の存在をやはり認めているということである。
当時の首相・伊藤博文は「旅順大虐殺」事件のことで大本営と協議した結果、日本が戦勝した以上、日本軍の士気を保ち、この事件の真相を調査して首謀者を懲戒してはならず、一貫して弁明する方針で国際世論に対応することを決定した。
日本政府が日本軍による中国の庶民の虐殺を追究せず、ひたすら列強に対して日本が「文明国」だと弁明し、中日甲午戦争[日清戦争]は「文明国」の日本が「野蛮国」の中国を打ち負かしたのだと一貫して宣伝して以後、日本軍はさらに憚ることなく中国人を虐殺できるようになったのである。
日本の武士道はここに至って、欧米列強に尻尾を振って金を送り嘘でごまかし、弱国中国に対しては反対に虐殺凌辱しても恬として恥じないというところまで堕落してしまった。
4.武士道が台湾で威を振るう
『台湾総督府警察沿革誌』等の資料によれば、日本は台湾占領後の数年間に、少なくとも以下の数件の大虐殺を行っている。これは日本の武士道の台湾での発威というべきである。
一.大??の大放火、殺人 1895年、馬関条約[下関条約]後、日本軍は台湾に上陸した。台北と新竹の間の大??渓沿岸の地区には猛者汪国輝、三角湧樟脳製造業者蘇力、樹林地主王振輝らがいて、それぞれ「住民自警団」を率いて自衛していた。7月12日、日本軍がこの地区に進軍すると、汪らは抵抗した。7月16日以後、日本軍の援軍が到着して、虐殺を繰り広げた。日本軍は大??以東、三角湧までの間のすべての村を抗日義軍とみなし、大??街を放火するよう命令を下した。かくして、4万人前後の繁華街は、7月22日から連続して3日間、遥か三角湧街にまで延焼し、20数里絶え間なく、あたり一面、寒々とした焦土へと変わり、焼失した住宅は合計1500戸余、死傷者は260人だった。抗日のリーダー汪国輝は日本軍に武士道のやり方で斬殺された[13]。
二.大?林の婦女暴行 1895年8月30日、日本軍は雲林地方に入り、9月2日大?林、すなわち今の嘉義県大林鎮に到達した。この地のリーダー簡精華は装備戦力が日本軍の相手にならないことをよく知っており、人びとが塗炭の苦しみをなめるのが忍びなかったので抵抗を放棄し、住民に道路を清掃し、食物を提供して日本軍を歓迎するよう命令した。ところが、予期に反して日本軍は簡に200人の女性を差し出すよう要求した。簡が応じなかったところ、日本軍は簡氏一族の女性60人余を強姦、殺害した。簡氏は激怒し、雲林の民衆を招集し、9月3日から弓矢、棍棒、落とし穴、自作の銃で日本軍を襲撃した。その後、簡精華は辜顕栄の誘いを受け、苦痛を忍んで帰順を受け入れたが、1ヶ月経たないうちに、自ら左手の血管を切り、自宅で失血死した。地元の人びとはその忠義に感動し、「簡忠義」として偲んだ[14]。
三.蕭壟街の惨殺 1895年10月10日、日本軍混成第四旅団が布袋嘴(嘉義地方)に上陸すると、当地の義軍のリーダー林崑岡は決死隊の勢いで郷里を守った。しかし、武器が粗悪で相手にならず、蕭壟街(今の台南県佳里鎮)まで退いた。そこで、日本軍は大がかりな捜索を行い、千人近い村民が渓谷のそばの雑木林の天然の溝や谷に隠れたが、嬰児の泣き声で発見されてしまった。日本軍は兵を派遣して長い坑の頭尾両端を遮断し、坑内に向けて一斉に20分近く激しく銃撃した。凄まじい叫び声と泣き声はこの世の地獄のようで、坑に避難した台湾人は一人として災いを逃れられず、嬰児、女性も一人として生き残らなかった。真に残酷さの極みであった[15]。
四.雲林大虐殺 台湾中部の雲林地方に「大坪頂」と呼ばれる山地があり、三面は渓谷に囲まれ、東南は険しい山地につながり、地勢は険しく、柯鉄率いる柯氏家族が住んでいた。日本軍が北から南下した際に、簡義ら抗日分子が続々と風雨を避けてこの地に来た。1896年4月1日、雲林県地方は台中県に併合され、雲林支庁が斗六に設けられた。6月10日、日本軍混成第二旅団の守備隊が雲林地方に進駐を開始した。当時大坪頂には抗日分子千余名が集結しており、決死の覚悟で抗日を誓い、大坪頂を「鉄国山」と改名し、全島に檄文を発し、日本人を台湾から駆逐するよう呼びかけた。6月16日、日本軍の一連隊が斗六に進入すると、「鉄国山」の抗日軍はその鋭鋒を避け、深山に退いた。それから6月22日に至るまで、日本軍は雲林地方で血なまぐさい虐殺を行い、全部で4295戸の民家が焼かれ、六千人の民衆が惨殺された[16]。日本軍を歓迎した約50人の順民までもが殺された。
当時の台湾高等法院院長高野孟矩は雲林大虐殺事件について次のように証言している。「漫然兵隊ヲ出シテ六日間ヲ費シ七十余庄ノ民屋ヲ焼キ良匪判然タラサル民人三百余人ヲ殺害シ附近ノ民人ヲ激セシメタルハ全ク今般暴動蜂起ノ基因ト認メラル故ニ土匪何百人又何千人ト唱フルモノ其実際ヲ精査スレバ多クハ良民ノ父ヲ殺サレ母ヲ奪レ兄ヲ害セラレ又子ヲ殺サレ妻ヲ殺サレ弟ヲ害セラレタル其恨ニ激シ又家屋及所蔵ノ財産悉皆ヲ焼尽サレ身ヲ寄スル処ナク彼等ノ群中ニ投シタルモノ実ニ十中七ハニ位シ真ニ強盗トシテ兇悪ヲ極ムル輩ハ十中二三ニ過キサル。」[17]
1896年7月4日香港の英字紙『Daily Press』が日本軍の6月16日から6月22日までの雲林大虐殺事件を明らかにしたことにより[18]、日本軍が台湾民衆を虐殺した事実が国際的な関心を引き起こした[19]。日本政府はしばしば関係部局に、香港の新聞の土匪に関する報道を取り消すよう訓令し、また拓殖務次官に外事新聞[20]に(作り上げた)事実を掲載するようにし、外国の新聞ではこのことを隠蔽するようにした。しかし、雲林大虐殺を契機として、台湾各地では連鎖的に日本の統治に対する不満が爆発し、各地で抗日運動が起こった。国際世論の圧力の下で、第二代の台湾総督桂太郎が退任を余儀なくされた。皮肉なことに、就任した第三代の総督乃木希典は甲午戦争[日清戦争]の旅順大虐殺で責任を負うべき旅団長だったのである。
五.阿公店大虐殺 第四代台湾総督・児玉源太郎と民政長官・後藤新平は「台湾近代化」の生みの親で、彼らは台湾に「懐柔政策」を実行した「能吏」だ、と讃えるものがいるが、彼らにはもつれた麻を切るごとく人を切る日本の武士道の本性があり、大虐殺によって抗日台湾人を鎮圧して台湾統治の基礎を確立したことを見落としている。児玉は1898年に台湾総督に就任、11月12日からの、台湾中南部の抗日軍に対する、日本人が「大討伐」と呼んだ大規模攻撃の展開を決定した。この「大討伐」は台南県知事が台湾総督に提出した報告によれば、殺害した人数は2053人に達し、負傷者は数え切れない。焼かれた民家数は、全焼が2783戸、半焼が3030戸だった。家屋の全焼、半焼、家財の焼失などの損害は、当時の貨幣価値で3万8千円余に達した。[21]中でも被害がもっとも残酷だった阿公店地方には、安平、打狗(高雄)に住む外国人がおり、日本軍の残虐暴力に議論が沸きおこり、イギリス長老教会牧師ファーガソン(Duncan Ferguson)等は『香港日報』(Daily News)に投書し、日本軍の人間性を喪失した大虐殺の人道問題を提起して、国際世論の非難を巻き起こした[22]。
六.帰順式場に誘き出しての惨殺事件 児玉と後藤の台湾中南部の抗日勢力への対応は、軍警の大規模な「討伐」以外に、投降を呼びかけ、誘き寄せて殺す策略を使った。これがいわゆる「土匪招降帰順政策」であり、画策者は児玉長官、立案参与者は後藤民政長官、総督府事務官阿川光祐、策士は白井新太郎で[23]、中でも雲林の騙し討ちが抗日軍でもっとも人を驚かせる事件だった。1902年、斗六庁長・荒賀直順は警務課長・岩元知と投降を呼びかけて殺戮する計画を密かに画策した[24]。
5月14日、斗六庁長・荒賀と当地の守備隊長、憲兵分隊長は5月25日に帰順式を開いて騙し討ちすることを画策した。5月18日、岩元警務課長は林?埔、?頭?、土庫、他里霧、下湖口の5人の支庁長を招集し、帰順式典を行う真意と段取りを指示し、斗六、林?埔、?頭?、西螺、他里霧、内林の6ヶ所を式場とすることを決定、各市庁長に十分な準備をするよう命じた[25]。
帰順の意思を示した抗日の各リーダーに対しても、表面的には甘言を弄し、彼らの帰順を許したが、内心では徹底的な殲滅を企てていたので、張大猷以下265人の抗日分子をこの年の5月25日に誘い出すことを決め、6ヶ所でそれぞれ帰順式を行うと公言した。すなわち、一.斗六式場60余人、二.林?埔式場63人、三.?頭?式場38人、四.西螺式場30人、五.他里霧式場24人、六.林内式場39人である。その後、機関銃で6ヶ所同時にすべて殺戮した[26]。このような投降を誘い、騙して殺戮した事件に関して、日本人は口実を設け、5月25日、帰順式場での妄動により、一斉に殺戮したと説明しただけであり、騙して殺した事実を隠蔽した。
七.??<口+年>大虐殺 1915年余清芳が台南の西来庵「食菜堂」を中心として抗日運動を推進、展開していた頃、日本軍警は誘き出して殺す計略を使って、台南??<口+年>(玉井)付近の後?、竹圍、番仔?、新化、内庄、左鎮、茶寮等二十余村落住民3200余人を、老幼を分けず、次々に殺戮した[27]。日本人はこのような世にも悲惨な大殺人に対して隠蔽の限りを尽くした。たとえば、秋澤次郎が著した『台湾匪誌』は「匪賊の暴動」と「聖恩が洪大で果てしない」ことを饒舌に叙述している以外に、前述の騙し討ちの事実を示していない。しかし、その文中には騙し討ちのかすかな手がかりを覗き見ることができる。たとえば、文中で「斯くて残匪の誘出終るや総督府に於ては、彼等の中で罪状最も重く大正四年十一月の大赦の恩典に浴する能はざる者は假令投降したとはいえ、国法を抂げて刑を全免するが如きは国家の威信を傷くるものであるから、夫等の者に対しては厳粛なる処刑の必要を認めたのである。」[28]と書いており、抗日リーダー江定らはこのように投降を呼びかけられて処刑されたのである。
後藤新平は『日本植民政策一斑』で彼が台湾を統治していた五年間に法にもとづいて「殺戮した匪徒の数」は11950人に達した[29]と公然と述べている。日本のいわゆる「匪徒」とは、いうまでもなく、すべて「抗日」の台湾人のことだった。
台北市文献委員会副主任委員・王国?編著『台湾抗日史』によると、「台湾が日本人の手に落ちて五十と一年になろうとしているが……わが同胞で虐殺に遭った総数は約40万人近く、焼かれた家屋は乙未年(1895年)内だけでも三千余に達し、婦女の淫虐、壮丁の奴役にいたっては、その精神上の損失はさらにはかりがたい[30]。」
現在、日本の右翼分子はしばしば日本の五十年の台湾植民地統治の成功を「近代化」と称賛し、多くの台湾の学者も追随して台湾の「植民地化」は「近代化」であるといっている。もし台湾の日本への割譲後、日本の武士道が台湾で威を振るい、台湾ではじめて「近代化」の成果があったのであれば、台湾人は腰抜けで、台湾人自身には「近代化」の能力がない、というに等しいのではなかろうか。
5.新渡戸はなぜ英文版『Bushido』を出版したのか
新渡戸はなぜ1899年に『Bushido』を著して武士道に新たな解釈をしたのか。『武士道』の出版はどのように新渡戸の登竜門となり、富貴栄華を獲得する足がかりとなったのか。もっとも主要な秘訣はアメリカ人女性メリー(自称「万里」Marry Patterson Elkinton 1857-1938)を妻としたことである。当時日本は甲午戦争[日清戦争]で中国に勝利し、二億三千万両、ほぼ三億六千万円に相当する賠償金と台湾植民地を獲得したが、日本軍には「旅順大虐殺」、「領台大虐殺」の残虐行為があり、列強は依然として日本を野蛮国と見なしていた。日本は日本軍の行為は「武士道」の行為であり、一種の崇高な品徳であると国際的に説明しなければならなかった。
新渡戸は1884年アメリカに留学し、アメリカのボルティモアに新設されたジョンズ・ホプキンス大学に入学した。同学には後の大統領ウイルソン(Woodrow Wilson)がいた。彼は在学期間中の1886年アメリカ人女性メリーと知り合った。メリーはフレンド派の信徒(通称クエーカー教徒)で愛国者であり、新渡戸も愛国者で、メリーを追うために彼もフレンド派の信徒になった。メリーの父親は日本人を野蛮な民族と考え、メリーと新渡戸との結婚に反対したが、二人は5年間交際した後、1891年に結婚した。当時メリーは33歳、新渡戸は28歳で、年齢差は5歳だった。結婚後二人は東京に居を構えたが、日本という海の中に漂う孤島のようなもので、居住環境は完全にアメリカ式だった。メリーは初めて日本人と結婚したアメリカ人女性で、日本語を話さず、日本人の考え方や行動様式にもかまわず、文化的にも心理的にも、元通りアメリカ人の行動様式(American way of life)のままに日本で生活した。しかし、彼女は夫の英文書『Bushido(武士道)』に協力し、日本の伝統と欧米を比較し、日本の武士道と欧米の騎士道の相似性を詳述して、日本の切腹、敵討等は決して野蛮ではないと弁解した。美しく上品な英文の助けを借りて、この書は欧米読書界を風靡し、新渡戸稲造の名前は瞬く間に世界に伝わった。かくして、「武士道」を語ることは「新渡戸」を語ることであり、「新渡戸」を語ることは「武士道」を語ることになり、その名は天下に知れ渡った[31]。これ以後、新渡戸は京都帝国大学教授(1904年)、第一高等学校校長(1906年)、アメリカのカーネギー財団(Carnegie Foundation)交換教授(1911年)、東京帝国大学教授(1915年)、東京女子大学校長(1918年)、国際連盟事務次長(1919年)等、一段一段階段を登りつめた[32]。
新渡戸は『Bushido』初版序説で、「この小著の直接の端緒は、私の妻が、かくかくの思想もしくは風習が日本にあまねく行なわれているのはいかなる理由であるかと、しばしば質問したことによるのである」[33]と述べている。武士道の掟は西洋人から見ると野蛮で、円滑に説明する方法を考えなければならなかったので、彼女に理解させ、彼女を納得させることができるまで、再三討論した。新渡戸のこの著作は他にアメリカの女性の友人アンナ(Anna C. Hartshorne)の協力を得ている。彼女と彼女の父親ヘンリー(Henley Hartshorne)は1893年に日本を訪れ、新渡戸の家で何年も暮らした。アンナが残した手紙は彼女が『Bushido』の著述に深くかかわっていたことを証明している。残されている記録によると、新渡戸の手が震えて書き続けられなくなったとき、アンナは新渡戸の口述を聞き取り、彼に替わって筆記したという。新渡戸はこの書の序の末尾でアンナに対する感謝の気持も明らかにしている[34]。
このように英文で新たな解釈を示した『武士道』が、義和団事件が発生した1900年、アメリカのフィラデルフィアで出版された。フィラデルフィアはペンシルバニア州にあり、ギリシア語で「友愛」の意味をもつ。植民地時代からフレンド派の信徒ペン(William Penn)
が建設を指導し、1776年にアメリカ独立宣言、翌年、憲法が発布された歴史的記念都市となった。この書の出版は折りしも欧米人が「日本精神」と中国の「義和団」(西洋人はBoxerと称した)を比較評価する機会となった。この書は日露戦争勃発後の1904年、アメリカ人の協力により、比較的大きな出版社から再版された。日露戦争で日本はロシアの白色人種に勝利したおかげで、国際的に日本への関心と興味が深まり、英文版の『武士道』はベストセラーになった。新渡戸はこのときから日本精神、日本倫理学の権威となり、世界にその名をあげた。1905年日露戦争戦勝の年、明治天皇はとくに『武士道』の作者新渡戸を宮中に召見したが、当然メリー夫人も随行して皇居で拝謁した。
日本が日露戦争でロシアを打ち負かすことができたのは、実際にはアメリカ金融資本の援助に依拠していた。当時ドイツ系ユダヤ人が創設した投資銀行クーン・レーブ商会(Kuhn, Loeb & Co.)の社長は、ドイツ生まれでアメリカに移住、帰化したシフ(Jacob H. Schiff)であり、彼は彼のヨーロッパのユダヤ系金融資本家の友人ロスチャイルド(Lord Rothschild)とともに、ロンドンとパリでロシアが戦債を工面しようとしているのを封鎖し、シフのクーン・レーブ商会が責任をもって日本の日露戦争時の四回の外債募金を行い、合計三億五千万米ドルを募金で獲得した。これは日露戦争時の日本の戦費のほぼ半分である[35]。シフは戦後の1906年日本に赴いた。明治天皇が召見し、日露戦争の挙債の功労に感謝して「勲一等瑞宝章」を贈った。シフは対露戦争の協力者だったからこそ明治天皇が召見し、新渡戸夫婦は日本が対外戦争に従事する際、「武士道」精神で包装した功労により召見を得たのである。
新渡戸稲造が明治天皇に呈上した『上英文武士道論書』からも、彼が武士道を著した真意を完全に理解できる。
「伏て惟るに、皇祖基を肇め、列聖緒を継ぎ、洪業四表に光り、皇沢蒼生に遍く、声教の施す所、徳化の及ぶ所、武士道?に興り、鴻謨を輔けて、国風を宣揚し、衆庶をして、忠君愛国の徳に帰せしむ。斯道卓然として、宇内の儀表たり。然るに外邦の人猶ほ未だ之を詳にせず、是れ真に憾むべきことなりとす、稲造是に於て武士道論を作る。」
「稻造短才薄識加ふるに病羸、宿志未だ成す所あらず、上は聖恩に背き、下は父祖に愧づ。唯僅に卑見を述べて此書を作る。庶幾くは、皇祖皇宗の遺訓と、武士道の精紳とを外邦に伝へ、以て国恩の萬ーに報い奉らんことを。 謹で此書を上り、乙夜の覧を仰ぎ奉る 誠惶頓首。」
明治三十八年(1905年)四月京都帝国大學法科大學教授從五位勳六等農學博士新渡戸稻造 再拜白[36]
この書は1899年に出版後、数回の増訂、再版を経て盧溝橋事変翌年の1938年、矢内原忠雄によって翻訳された日本語版が岩波書店で出版され、日本の『武士道』論の決定版となった。この書の第十六章「武士道は尚生くる乎」は「武士道は我国の活動精神、運動力であったし、又現にさうである」と断定している[37]。
「王政復古の暴風と国民的維新の旋風との中を我国船の舵取りし大政治家たちは、武士道以外何の道徳的教訓を知らざりし人々であった」。「現代日本の建設者たる佐久間、西郷、大久保、木戸の伝記、又伊藤、大隈、板垣等現存せる人物の回顧談を繙いて見よ――然らば彼等の思索及び行動は武士道の刺戟の下に行なはれし事を知るであらう」[38]。
たしかに、佐久間、西郷、大久保、木戸、伊藤、大隈、板垣らは、日本の「王政復古」の維新事業を推進し、日本が「上下一体の皇国」となることを促した志士であり、しかも、日本も甲午戦争[日清戦争]、日露戦争を経て「皇国を世界第一等の強国」にした。しかし、日本の「内政」の成果はアジア隣邦への「外征」の犠牲の上に成り立っていたのである。
佐久間象山は「東洋道徳、西洋芸術」論を提唱した思想家で、彼はイギリスが発動したアヘン戦争をひたすら自己の利益を図り、礼儀廉恥を知らないと評した。彼の理想は日本という「皇国が世界第一等の強国となる」ことであり、日本の志士が「開国進取」の方向へ向かうよう啓蒙することだった。佐久間は最後に幕府の上層一橋慶喜および将軍徳川家茂に拝謁し、「開国」の時流を語り合ったが、「倒幕」、「攘夷」の志士に暗殺された。
西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允は「王政復古」明治維新の三大功臣である。西郷は「征韓論」が有名で、不平士族に擁立されて謀反を起こし、戦いに敗れて自刃した。大久保は明治初年欧米視察の機会を得、欧米列強が虎視眈々としている様子を見て、「内治」を先行させることを主張し、「征韓」に反対したが、1874年「征台」、「台湾処分」の主張に転じ、中国への「強硬外交」の推進へと至った。1878年、不満士族に暗殺された。木戸孝允は「尊皇攘夷」の志士で、初めは「征韓論」を唱え、下級武士の不満の捌け口を作ったが、1872年に岩倉外交使節団に随って欧米を巡歴して帰国後、態度を改めて「征韓」に反対し、「征台」にも反対した。西南戦争中に死亡した。伊藤は日本の内閣制の創設と明治憲法制定の功臣であり、第二次組閣時に海軍を拡張し、中日甲午戦争[日清戦争]を挑発、強行し、日露戦争後、韓国併合のために日韓協約を締結し、初代韓国総監に任命されたが、韓国の愛国志士安重根に暗殺された。
大隈は1874年日本が「征台」に出兵したときの事務局長官で、第一次世界大戦時に組閣して対独宣戦、中国に対して二十一ヶ条の要求を突きつけ、山東におけるドイツの特殊権益を日本に移すことにつとめたが、日本の右翼玄洋社社員来島恒喜に爆弾を投げられて片足を失った。板垣は「征韓論」の首脳で、征韓論の失敗により下野し、後に愛国公党、自由党等各種政党を組織し、政治活動に参加、対内的に「自由民権」を主張したが、対外的に「征韓」、「対中国開戦」を主張した。
以上の歴史から見て、日本の武士道思想の影響下の大政治家は日本にとってたしかに明治維新の功臣だったが、隣邦の民衆にとっては明らかに対外武力侵略の元凶だったことがわかる。もし隣邦の被侵略者の立場から見るなら、日本の武士道思想は否定されるべきものである。
新渡戸の「武士道」論の中で中日甲午戦争[日清戦争]をいかに論じているかを見てみよう。
「矮小ジャップ」の身体に溢るる忍耐、不撓並に勇気は日清戦争に於て十分に証明せられた。「之れ以上に忠君愛国の国民が有らうか」とは、多くの人によりて発せられる質問である。之れに対して「世界無比!」と吾人の誇りやかに答え得るは、之れ武士道の賜である[39]。
日本人にとっては武士道の賜だとしても、旅順で大虐殺に遭った中国人、日本が台湾を占領したときに大虐殺に遭った台湾同胞も日本人と同じように武士道の残酷さを讃えるだろうか。
新渡戸は再度強調している。
「鴨緑江に於て、朝鮮及び満洲に於て戦勝したるものは、我々の手を導き我々の心臓に搏ちつつある我等が父祖の威霊である。之等の霊、我が武勇なる祖先の魂は死せず、見る目有る者には明らかに見える。最も進んだ思想の 日本人にてもその皮に掻痕を付けて見れば、一人の武士が下から現はれる」[40]。
日本の武士道の武力や権勢の魂魄刀の下の中国人、朝鮮人、琉球人、原住民族は、もし独立した自由意志をもつ人間であれば、日本帝国主義の蹄鉄の下に屈服を願うはずはないのである。
新渡戸は1920年から国際連盟事務局次長を7年間つとめ、日本の国際的宣伝工作の責任を負った。帰国後、貴族院議員に就任、太平洋問題調査会理事として瀋陽事変[満洲事変]後、日本軍の中国東北出兵に弁解し、1933年死去した。彼のアメリカ人の夫人メリーは盧溝橋事変の翌年の1938年に亡くなった。彼ら夫婦は1904年から05年の日本の対露戦争を支持しただけではなく、1931年の瀋陽事変[満洲事変]以来、1930年代に、一貫して日本軍の中国での軍事行動は正しいと弁護した。換言すれば、「武士道」新解釈の意図は、欧米列強に対して、日本の東アジア侵略の理論を弁解し正当化することだった。
6.結論
新渡戸は台湾製糖業の改革において重要な役割を演じた。彼は台湾総督府の招請を受け、1901年2月、台湾総督府技師に就任、5月、民政部殖産課長に昇格、11月、新設の殖産局局長に任命され、1902年6月、臨時台湾糖務局新設時、局長も担当、1903年10月、京都大学法科教授に転任、台湾で三年四ヶ月を過ごした。
彼の台湾での具体的功績は1901年9月に「糖業改革意見書」を提出し、最大の課題が保守的な農民に新品種、新技術を採用させることであるとの考えを示したことで、児玉源太郎、後藤新平に対し、プロイセンに馬鈴薯を普及させるために強制力による実行を厭わなかったプロイセンのフレデリックU世(1712-1786)のように、台湾の専制啓蒙君主となることを進言した。かくして、新渡戸の提案の下で、「台湾糖業奨励規則」が作成され、総督府が奨励金を支出し、外国から甘蔗の新品種を取り入れ、蔗苗と肥料を購入する費用、開墾費用、灌漑および排水費用、製糖機械器具費用等各種の手厚い補助を与える一方、臨時糖務局を設立、台湾伝統の糖<广+部>を淘汰し、糖業の「近代化」を進めた。しかし、その結果は、台湾人自営の糖業を駆逐して日本本土の糖業資本を台湾に侵入させ、台湾の製糖業を独占することだった。
新渡戸は植民地主義を肯定し、植民地は新領土であると認識していた。彼はイギリスの保守党の指導者ソールズベリー(Robert Salisbury 1830-1903)の「膨張的国民は生きる国、非膨張的国民は死ぬる国である。国家はこの二者中その一に居る」との論点を肯定し、活力をもつ国民は必ず膨張して領土獲得を求めると考えた。したがって、新渡戸の植民政策は、客観的には日本の統治の理論を正当化することにあった[41]。新渡戸は九一八事変[満洲事変]後さらに帝国主義の方向に向かい、1932年の「満洲国建国」時、「満洲国」は「民族自決」だといい、故ウイルソン大統領さえ満足するはずだと述べた。彼が勤めた国際連盟に対して、日本が1933年3月に脱退したとき、彼は、国際連盟は政治機関たるべきなのに、どうして司法機関のように日本を糾弾する誤謬に陥っているのかと批判し、一貫して日本の行動を弁護した。このときの新渡戸は明らかに国際主義の擁護から帝国主義の擁護へと転じていた。
戦後、日本銀行が1984年に紙幣の図案設計を変更した際に、福沢諭吉像を一万円、新渡戸稲造像を五千円、夏目漱石像を千円の図案に採用した。この三人は武士道への積極的称賛を示しており、三人の見方は一致していたとはいえ、微妙な差が存在していた。しかし、明治期の日本人がかなり武士道の影響を受けていたことも示している。
福沢は1884年10月の中国分割図において、日本が台湾を割取することを予言し、新渡戸稲造は日本の台湾割取後の1899年、「武士道―日本人の魂」を著し、甲午戦争[日清戦争]で鴨緑江、朝鮮、満洲戦役に打ち勝ったのは日本人の祖先の霊魂であると褒め称えた。以上二人の侵略精神は侵略、植民された人民からいえば、日本人に追随して称賛する道理はない。
夏目漱石の武士道に対する積極的評価は1910年日本海軍の潜水艇で事故が起こり、14人の船員全員が脱出できず、艇内で死亡したことと関連する。夏目は艇長佐久間勉の遺書に「小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス 誠ニ申訳無シ サレド艇員一同死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ沈着ニ事ヲ処セリ」と書かれていたことと、以前イギリスの潜航艇が同様に不幸な事故に遭遇したときに船員が死を免れるために争って窓のほうへ逃げようとして遺体が折り重なっていた状況とを比べて、間違いなく日本の武士道のすばらしさに感動したのである。日本海軍の一指揮官は武士であり、「陛下ノ艇ヲ沈メ」、「部下ヲ殺」したことに、かくも責任を痛感したことこそ、文学者夏目漱石を感嘆させたのであり、これこそ武士道が敬慕を受けるところなのかもしれない[42]。

[1] 和辻哲郎、古川哲史校訂『葉隠』(東京、岩波書店、1973年)上冊、191頁。
[2] 同上、中冊、161頁。
[3] 同上、中冊、184頁。
[4] 同上、下冊、52頁。
[5] 『日本残酷物語』、『歴史と旅』臨時増刊(東京、秋田書店、1992年3月)164-187頁。
[6] 秦郁彦、佐瀬昌盛、常石敬一編著『世界戦争犯罪事典』(東京、文藝春秋社、2002年)27-31頁。[引用部分は同書29頁の「紀念館」のプレートの写真によるものである]
[7] 檜山幸夫『日清戦争―秘蔵写真が明かす真実―』(東京、講談社、1997年)117頁。
[8] 井上晴樹『旅順虐殺事件』(東京、筑摩書房、1995年)28-30頁。
[9] 『旅順虐殺事件』31-32頁。
[10] 石河幹明『福澤諭吉傳』第三巻、(東京、岩波書店、1932年)756頁。
[11] 『世界戦争犯罪事典』31頁。
[12] 『旅順虐殺事件』90頁。
[13] 杉浦和作『明治二十八年台湾平定記』(台北、1896年)71頁;日本参謀本部編『明治二十七八年日清戦史』、許佩賢訳『攻台戦紀―日清戦史、台湾篇』(台北、遠流、1995年)184-193頁;許佩賢訳『攻台見聞―風俗画報、台湾征討図絵篇』(台北、遠流、1995年)150-152頁;許世楷『日本統治下の台湾―抵抗・弾圧』(東京、東京大学出版会、1984年)50-51頁。
[14] 『攻台戦紀』248-253頁;『攻台見聞』294頁;『譲台記』60頁、63頁、64-65頁;『瀛海偕亡記』11頁、15頁;姚錫光「東方兵事紀略、台湾篇上」、『台海思慟録』所収61頁;洪棄生『瀛海偕亡記』(台北、台湾銀行経済研究室、1959年)24-25頁。
[15] 『攻台見聞』422頁;『譲台記』69-70頁。
[16] 台湾総督府『陸軍幕僚歴史草案』巻一、6月21日の項;台湾総督府警務局編『台湾総督府警察沿革誌』第二編、上巻(東京、緑陰書房、1986年、復刻版)432頁、436頁。
[17] 苫地治三郎『高野孟矩』1897年、252-253頁。
[18] 『台湾史料稿本』巻六、58頁。
[19] 『台湾総督府警察沿革誌』第二編、上巻、436頁;『公爵桂太郎傳』乾巻、735頁。
[20] 『台湾総督府公文類纂』23巻永久乙種第十門軍事、明治29年7月11日。
[21] 『台湾総督府警察沿革誌』第二編、上巻、512頁。
[22] 『台湾総督府警察沿革誌』第二編、上巻、512頁。
[23] 台湾総督府法務部編纂『台湾匪乱小史』(台北、台南新報支局、1920年)22頁。
[24] 『台湾総督府警察沿革誌』第二編、上巻、454頁。
[25] 『台湾総督府警察沿革誌』第二編、上巻、457頁。
[26] 『台湾総督府警察沿革誌』第二編、上巻、460-461頁。
[27] 『南投県革命志稿』176-181頁。
[28] 秋澤次郎『台湾匪誌』(台北、杉田書店、1923年)295頁。
[29] 後藤新平『日本植民政策一斑』(東京、拓殖新報社、1921年)27-28頁。
[30] 王国?編著『台湾抗日史』(甲篇)(台北文献委員会、1981年)327頁。
[31] 石井満『新渡戸稲造傳』(東京、関谷書店、1934年)172-173頁。
[32] ジョージ・M・大城「メリー・P・E・新渡戸―戦前の国際人新渡戸稲造の妻」、『新渡戸稲造研究』第八号(1999年)143-166頁。
[33] 新渡戸稲造著、矢内原忠雄訳『武士道』(東京、岩波書店、1969年)11頁。
[34] 同上、13頁。
[35] Walter LaFeber,The Clash―A History of U.S.-Japan Relations,Newyork,W.W.Norton&Company,1997,p.81.
[36] 矢内原忠雄編『新渡戸稲造文集』(東京、故新渡戸博士記念事業実行委員、1936年)492-494頁。
[37] 『武士道』126頁。
[38] 『武士道』127-128頁。
[39] 同上、129頁。
[40] 同上、137-138頁。
[41] 北岡伸一「新渡戸稲造における帝国主義と国際主義」、岩波講座『近代日本と植民地4―統合・支配・論理』(東京、岩波書店、1993年)179-203頁。
[42] 俵木浩太郎『新・士道論』(東京、筑摩書房、1992年)6-7頁。前のページに戻る
 

 

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