時宗・時衆
時宗1時宗2時宗3時宗4時宗5時宗6他阿(二祖)他阿2念仏札 
浄土教浄土教の広まり仏の布教熊野成道地夢託遊行上人阿弥衣浄土の因果 
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時宗・一遍 仏の世界   

 
時宗・時衆1

鎌倉時代末期におこった浄土教の一宗派。開祖は一遍。総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺(通称遊行寺)。 
他宗派同様に「宗」の字を用いるようになったのは、江戸時代以後のことである。開祖とされる一遍には新たな宗派を立宗しようという意図はなく、その教団・成員も「時衆」と呼ばれた。文献を見ても明らかなように室町期までに関しては時衆の名称を用いている。時衆とは善導の「観経疏」の一節「道俗時衆等、各發無上心」からきており、一日を6分割して不断念仏する集団(ないし成員)を指し、古代以来、顕密寺院にいた。「時宗」と書かれるようになったのは、寛永10年(1633)「時宗藤沢遊行末寺帳」が事実上の初見である。 
教え 
浄土教では阿弥陀仏(阿彌陀佛)への信仰がその教説の中心である。融通念仏は、一人の念仏が万人の念仏と融合するという大念仏を説き、浄土宗では信心の表われとして念仏を唱える努力を重視し、念仏を唱えれば唱えるほど極楽浄土への往生も可能になると説いた。また浄土真宗では信心のみを重視し、信じるだけで往生は約束される、念仏は仏恩報謝の行である、と説いた。 
それに対して時宗の場合には、阿弥陀仏への信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できると説いた。仏の本願力は絶対であるがゆえに、それが信じない者にまで及ぶという解釈である。 
歴史 
中世 
一遍亡き後、彼が率いた時衆は自然消滅した。それを再結成したのは、有力な門弟の他阿真教である。それ以後続く歴代の遊行上人は、諸国を遊行し、賦算(ふさん)と踊念仏を行なった。藤沢市清浄光寺本堂4代目をめぐって当麻道場無量光寺と藤沢道場清浄光院(のち清浄光寺)に分裂し、やがて藤沢道場が優勢となった。遊行上人を引退すると藤沢道場に入って藤沢上人と称した。室町時代中ごろに猿楽師の観阿(観阿弥)、世阿(世阿弥)で知られる時衆系の法名をもつ者がみられ、同朋衆、仏師、作庭師として文化を担うなど全盛期を迎えたが、多数の念仏行者を率いて遊行を続けることは、さまざまな困難を伴った。教団が発展するなかで、順調な遊行を行うために権力への接近がはじまり、幕府や大名などの保護を得ることで大がかりな遊行が行われるようになると、庶民教化への熱意は失われ、時宗は浄土真宗や曹洞宗の布教活動によって侵食されることになった。 
近世 
江戸幕府の意向により、さまざまな念仏勧進聖が「時宗」という単一の宗派に統合され、その中の十二の流派に位置づけられた(「時宗十二派」)。主流は藤沢道場清浄光寺および七条道場金光寺を本寺とする「遊行派」であった。一時期より衰退したとはいえ、幕藩体制下では、幕府の伝馬朱印状を後ろ盾とした官製の遊行が行われ、時宗寺院のない地域も含む全国津々浦々に、遊行上人が回国した。時宗が直接的に衰退したのは、明治の廃仏毀釈であると思われる。 
近代 
1871年寺領上知令や祠堂金廃止令により、時宗寺院は窮地に陥る。さらに廃仏毀釈で、金城湯池であった島津藩領や佐渡の時宗寺院が壊滅状態となった。昭和に入り、1940年一遍上人に「証誠大師」号を贈られている。これに対し、太平洋戦争中は時宗報国会を組織し、満州の奉天に遊行寺別院を設けるなど協力した。戦争中の1943年一向派が離脱し浄土宗に帰属した。2004年遊行73代・藤沢56世他阿一雲上人が病気により引退した。藤沢上人からの退位は時宗史上初である。 
法式 
戒名は法名とよび、男は「阿弥陀仏」号、女は「一」号ないし「仏」号を附した。現在では男性は「阿」号、女性は「弌」(いち)号をつけることが多い。一向派では性別問わず「阿」号、当麻派は「阿弥」号である。  
 
時宗2

時宗は700年の昔一遍上人がお開きになった念仏宗です。中国の唐の時代に善導大師という方が念仏の教えをさかんにされました。鎌倉時代になって法然上人がこの善導大師の教えを深く信じられて浄土宗を開かれたのです。一遍上人は浄土宗の一流、西山派の開祖証空上人の孫弟子に当ります。一遍上人のはじめられた宗派をなぜ今日「時宗」と呼ぶかというと、次のようなわけがあります。 
善導大師はその弟子たちを「時衆」と呼びました。法然上人も証空上人も一遍上人もそれにしたがいました。一日を6時(4時間づっ)に分けて、仏前でお念仏と六時礼讃というお勤めをいたしました。これは時間ごとに交代いたします。また別時念仏といって、日を限って念仏三昧を行いました。これも時間ごとに交代します。その人々を時の衆、つまり「時衆」と呼んだのです。この言葉は他の宗派では次第に使われなくなりましたが、一遍上人の流れをくむ教団では今日まで使われていて、「時衆」がこの教団の呼び名になりました。徳川時代に「時宗」と改められて宗派の名になったわけであります。 
時宗で信仰する仏は阿弥陀如来で、とくに「南無阿弥陀仏」の名号を本尊といたします。この名号をつねに口にとなえて仏と一体になり、阿弥陀如来のはかり知れない智恵と、限りない生命をこの身にいただき、安らかで喜びにみちた毎日を送り、やがてはきよらかな仏の国(極楽浄土)へ生れることを願う教えであります。 
時宗の教えは、「大無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」に拠っています。これを浄土三部経と申します。歴代の上人がこれらの経典に説かれている念仏の教えをひろめるために、広く全国をまわるのを遊行(旅をしなから教えを説くこと)といいます。遊行上人や遊行寺の名はそれからおきています。遊行上人が念仏の札をくばることを賦算といい、念仏によって救われることのあかしとされるのです。 
宗祖一遍上人 
一遍上人は700余年の昔、四国は愛媛県の道後の豪族河野家に生れました。幼くして出家、法然主人の孫弟子に当る九州の聖達上人から浄土の教えを学ぶこと12年。のちに善光寺に参り、念仏一筋のほかに自分の道がないことを悟ります。それから故郷の窪寺や岩屋寺にこもって念仏三昧の生活を送り、ゆるぎない信仰を確立いたします。それからこの教えをすべての人々に広めようという念願をおこし、全国遊行の旅に出るのです。信州・佐久では踊り念仏をはじめました。16年間に、ほとんど日本国中を歩かれました。 
上人は正応2年(1289)8月23日、神戸の観音堂(現・真光寺)で亡くなり、今もそこにお墓があります。その伝記は国宝「一遍聖絵」(藤沢清浄光寺・京都歓喜光寺)にくわしく、またその教えは「一遍上人語録」としてまとめられております。 
御賦算(お札くばり) 
遊行上人が巡り歩かれるところ、必ず御賦算なさいます。わかりやすく言えば、「お札くばり」のことです。賦は「くぼる」、算は「念仏ふだ」であります。 
このお念仏のお札は遊行上人が、集まった人びとに一枚づつ手ずから配られます。宗祖一遍上人は、生涯に25万1千余人にくばられたと記録されています。 
お念仏を称えれば、阿弥陀仏の本願の舟に乗じて極楽浄土に往生できるとの安心のお礼であります。「南無阿弥陀仏 決定往生60万人」と刷り込まれていますが、「決定往生60万人」とは、60万人の人々にお札をくぼることを願われ、また次の60万人の人たちに、ついにはすべての人々(一切衆生)に配ることを念願されたのであります。 
遊行・賦算・踊り念仏は、今日では時宗独特の行儀であります。 
一遍上人・宝厳寺と遊行寺  
宝厳寺といえば一遍上人(1239-1289)の生誕寺として有名であり、一方では参道筋(上人通り)には旧遊郭「松ヶ枝町」があったことを戦前派の方はとくとご存知のことだろう。 
明治25年、正岡子規が喀血後の療養で帰郷し、当時松山中学で英語の教鞭をとっていた夏目金之助(漱石)の寓居「愚陀仏庵」で50余日を共に過ごした。10月6日漱石と共に道後界隈を散策し宝厳寺にも立ち寄り、「散策記」に次の一文を残している。 
「松枝町を過ぎて宝厳寺に謁づ こゝは一遍上人御誕生の霊地とかや 古往今来当地出身の第一の豪傑なり 妓廓門前の楊柳往来の人をも招かでむなしく一遍上人御誕生地の古碑にしだれかゝりたるもあわれに覚えて/古塚や 恋のさめたる 柳散る、宝厳寺の山門に腰うちかけて/色里や 十歩はなれて 秋の風」 
境内には、子規の「色里や十歩者なれて秋の風」のほかに、一遍上人、酒井黙禅、斎藤茂吉、川田順、河野清雲の詩・句碑が建っている。 
さて宝厳寺の歴史は古く、天智四年(六六五)斉名天皇の勅願により越智守興が創建した法相宗寺院で、開山は法興律師である。斉明7年(661)天皇が百済救援の為、中大兄皇子(天智天皇)・大海人皇子(天武天皇)らとともに「熟田津来湯」され、越智守興が「白村江の戦」に伊予水軍を率いて出陣した史実と深く結びついている。万葉歌人額田王の「熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」の一首もこの時この地で詠まれた。奥之院が天皇一行の行在所であったとの伝承がある。  
風早(旧北条市)出身の天台宗別当でもある光定(779-858)の影響もあり天長7年(830)天台宗に改宗しているが、松山市の東部には天台宗別院弥勒寺(食場)河野院円福寺(藤野)西法寺(伊台)常信寺(祝谷)佛性寺(菅沢)正観寺(小野)など天台宗寺院が散在している。宝厳寺の寺名は「豊国山遍照院宝厳寺」であるが、鎌倉・室町期には総門、地蔵堂、毘沙門堂、庫裏、鎮守社、楼門、本堂、開山堂、奥の院と塔頭十二房(法雲・善成・興安・医王・光明・東昭・歓喜・林鐘・正伝・来迎・浄福・弘願)を持つ大寺であった。  
鎌倉時代に入り河野氏が急速に力をつけるが承久の変(1221)で当主河野通信一統は後鳥羽上皇側に加担して北条方に敗北し殆どの所領を没収される。一遍の父通広は奥谷の一塔頭に隠棲し、そこで一遍(幼名松壽丸)が誕生した。一遍(智真)は寺域内の塔頭や大宰府で浄土教典を学び、信濃の善光寺、伊予の窪寺や岩屋寺で修業し、熊野本宮で神託を得て、薩摩の大隅(鹿児島県姶良郡)から陸奥の江刺(岩手県北上市)まで念仏勧進を始める。踊念仏・賦算・遊行により一遍が教化した時衆は大衆の支持を受けて急速に拡大する。近世の「道後八景」では「宝厳寺黄鳥(鶯)」を挙げ「道後十六谷」では「奥谷」があり法師谷と尼谷に分けられている。 
建治元年(1275)一遍により宝厳寺は時衆寺院となり正応5年(1292)時衆寺院(奥谷派)として一遍の実弟仙阿が中興開山となる。河野氏や小早川氏の支援、松山藩を治めた加藤、蒲生、松平(久松)家の庇護を得て幕末を迎えた。山門脇に在る「一遍上人御誕生旧跡」碑は元弘4年(1334)得能通綱が建立し、道後公園北口にある「湯釜薬師」の宝珠部に彫られている「南無阿弥陀仏」は従弟に当る河野道有の求めにより一遍が揮毫したものと伝承されている。  
時宗の本山は「藤澤山無量光院清浄光寺」であるが、法主が「遊行上人」と呼ばれるので「遊行寺」が一般名となった。遊行寺の門前町が山号藤澤山から藤沢と呼ばれ、やがて東海道の宿場町として発展し今日の藤沢市となった。 
時宗の聖地としては 
生誕地「道後奥谷・宝厳寺」 
発心の地「信濃・善光寺」 
成道の地「那智・熊野大社」 
終焉地「神戸・真光寺」がある。 
時衆である善光寺聖、高野聖、熊野修験者が嘗ては全国津々浦々で南無阿弥陀仏の世界を広めていき、室町期には少なくとも全国に860寺院、四国に20寺院、伊予に6寺院存在した。現在は四国に三寺院で、伊予には宝厳寺と願成寺(内子)の二寺院を残すのみである。夕暮れ時、本堂の廊下に座して西を眺めると城山や瀬戸内の島々・海原が広がり正に西方浄土を連想させ、本堂階段に座して南の御仮屋山と対峙すると道後十六谷の一つ奥谷が迫り、早暁や深夜には幽谷の感すらする。「豊かな社会の崩壊」が囁かれる今日、一遍が希求した「捨ててこそ」を求めて宝厳寺を訪ねる参詣者が多くなってきている。  
 
時宗3

鎌倉時代後期に時宗を開かれた宗祖・一遍上人は、踊り念仏で有名です。人々の心に響く礼讃(らいさん)、和讃、人々の目を引き付けてやまない国宝「一遍聖絵」、阿弥芸術など、時宗の教えはさまざまな方面からふれることができます。 
由来 / 一遍上人の頃、同行する僧尼の集団を「時衆」と呼びました。この語は中国の善導大師の著「観経玄義分」の「道俗時衆等 各発無上心」によっています。また、昼夜六時の勤行(六時礼讃)や不断念仏など、長期あるいは長時間におよぶ法要のときは、時間で交代していました。これが「時衆」の由来です。江戸時代に入り、徳川幕府の宗教統制を受けて「衆」が「宗」に変わり「時宗」が宗派の名として確定されました。 
宗祖 / 証誠大師一遍上人(智真)(1239-1289年8月23日)愛媛県にお生まれになり、浄土宗(西山派)の教義を学ばれました。上人は踊り念仏と「南無阿弥陀仏決定往生」の御札を配る賦算(ふさん)を行いながら日本中を巡り歩き、民衆の側に身を置いて念仏信仰を追求されました。兵庫県神戸市の真光寺に御廟所がございます。一遍上人の教えにより、代々の時宗のお上人は「遊行上人」(ゆぎょうしょうにん)と呼ばれています。 
ご法語 
よろず生きとし生けるもの山河草木吹く風立つ波の音までも念仏ならずと言ふことなし 
旅ごろも 木の根かやの根いづくにか 身の捨てられぬ ところあるべき 
開宗 / 鎌倉期(1274年)文永11年和歌山県に鎮座する熊野本宮を参籠した一遍上人は、熊野権現より「阿弥陀仏の大慈悲によって、すべての人々の極楽往生は決まっているのだから、信じる信じないを問わず、浄か不浄かをえらばず、あらゆる人々に念仏の御札をすすめるのですよ。」という神託を得ました。このとき一遍上人はお念仏の本旨を悟られ、「南無阿弥陀仏決定往生」と書かれた御札を人々に配って歩く旅に出発されました。 
時宗総本山 / 清浄光寺(通称「遊行寺」)神奈川県藤沢市にございます。遊行4代の呑海上人により、正中2年(1325年)に開かれました。現在でも遊行上人より「南無阿弥陀仏決定往生」の御札をいただくことができます。 
ご本尊 / 「阿弥陀如来」、とくに「南無阿弥陀仏」の名号を本尊といたします。 
となえることば / 「南無阿弥陀仏」 
おしえ / 「南無阿弥陀仏」とお唱えする只今のお念仏がいちばん大事なことです。家業につとめ、はげみ、むつみあって只今の一瞬が充たされるなら人の世は正しく生かされて明るさを増し、皆共に健やかに長寿を保つことになります。浄土への道はそこに開かれるとする教えです。 
経典 / 無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経、六時礼讃などのお経をお読みいたします。 
時宗の文化 
時宗の声明(六時礼讃・ろくじらいさん) / 時宗は昔から昼夜六時に六時礼讃を読誦しました。これが「時」宗たるゆえんです。六時礼讃は独特の音楽的な声明(しょうみょう)が中心です。高・中・低の音階や複雑な節まわし、僧尼の男女混声合唱、仏を讃え浄土を思慕する美しい章句と相まって、となえる本人だけでなく、聞く人の心を遙かな極楽浄土へと誘います。 
国宝「一遍聖絵」(一遍上人絵伝)清浄光寺蔵 / 一遍上人の生涯が描かれた絵巻物で、一遍上人の没後10年にあたる1299年に完成しました。全12巻から成り、絹地に極彩色の絵が描かれ、詞書の部分にも五彩を施した豪華美麗な絵巻物で、第一級の逸品であるとして国宝に指定されています。このごろは現代語に訳した書籍も出版されています。 
踊り念仏 / 阿弥陀仏の大慈悲によって、南無阿弥陀仏をとなえれば必ず極楽浄土に生まれることが決まっている、という一遍上人の教えはありとあらゆる人々に安心を授け、踊り念仏に発展していきました。仏の大慈悲を歓喜、踊躍(ゆやく)する念仏です。元祖は平安時代の空也上人で、一遍上人は「空也上人は我が先達なり。」と言われています。「一遍聖絵」(一遍上人絵伝)には、鎌倉時代の熱狂的な踊りが随所に描かれています。時衆の踊り念仏は室町時代以降、各地の念仏踊りや盆踊りなどに影響を与えました。今は踊りの形は変わりましたが、踊躍念仏(ゆやくねんぶつ)、薄念仏(すすきねんぶつ)が継承されています。 
一遍上人の和歌 
跳ねば跳ね 踊らばをどれ 春駒の のりの道をば 知る人ぞ知る 
とも跳ねよ かくても踊れ こころ駒 弥陀のみのりと 聞くぞうれしき 
ゆく人を 弥陀の誓いにもらさじと 名をこそとむれ 白川の関 
 < 遊行(ゆぎょう)の旅の途中、奥州・白川の関にて 
時宗の法名(戒名) / 男性の方には阿弥陀仏の「阿」がつけられます。女性の方には「弌」(いち)がつけられます。もともと時宗の法名は○阿弥陀仏という法名でした。「南無阿弥陀仏」を称えることにより、極楽浄土の仏になるという教えです。歴代の遊行上人は他阿弥陀仏(他阿)を受け継がれております。 
「阿弥」芸能 / 時宗の法名である「阿弥陀仏号」は、南北朝時代に徐々に増加し、室町時代に最盛期になりました。次第に○阿弥、○阿と略称されるようになり、連歌師の善阿、周阿、能阿や能の大成者・観阿弥、世阿弥、足利義政に仕えた庭師の善阿弥など、時宗の僧侶・信徒に始まり次第に文化人や芸能者の間で流行しました。世阿弥の作と言われる謡曲「誓願寺」や、説教節「小栗判官と照手姫」など、一遍上人や遊行上人が登場する芸能作品も多く、当時、時衆の影響が大きかったことが分かります。  
 
時宗4

一遍上人(一遍智真/1239−1289)の開創した、鎌倉新仏教の宗派の一つ。宗派としては時宗と呼ばれ、その構成員は自らを時衆と称した。時衆の宗教儀礼である「踊り念仏」は、盆踊りの誕生にきわめて大きな意味を持つ。 
時衆の特徴は、宗教的儀礼として「踊り念仏」を盛んに催したことと、開祖一遍をはじめ時衆が全国を漂泊回遊(「遊行」)する遊行聖として布教につとめことである。 
その足跡は陸奥から薩摩まで文字通り全国におよび、結果として踊り念仏が全国の念仏系踊り芸能の母体となったと考えられる。中世の教団の実態は閉鎖的なものではなく、構成員は「一向宗」とも深く交じわるものであったらしい。歴史的には、時衆は先行する融通念仏の念仏信仰をベースとしている。 
一遍自身「融通念仏勧むる聖」と言われ、融通念仏者であった。一遍はたくさんの人を集める集客手法を融通念仏から学んだ。彼が人々に配った「南無阿弥陀仏六十万人決定往生」の札は賦算札(ふさんふだ)と呼ばれるが、この賦算という方式は融通念仏が得意とする集客手法であった(この札は現在でも藤沢遊行寺で遊行上人により配られている)。一遍が取り入れた踊り念仏も、実はすでに融通念仏が芸態としていたものであった。しかし、中世中-後期における踊り念仏の全国的普及には、やはり一遍と時衆教団の貢献が大きいと考えられる。 
一遍の死後、14世紀末から15世紀に全国的に教線を伸ばしたが、16世紀には衰退して本願寺教団などに拠点を奪わることもあった。注目されるのは、中世時衆の拠点が都市的な場所であったことであり、時衆遺跡の存在は中世都市の指標の一つにもなっている。たくさんの人への布教を目指す時衆は、必然的に都市的な場所を拠点に選んだ。踊り念仏から盆踊りへの変化を考える上でも、中世都市問題への注目が必要となる。中世の時衆はまた、死者供養・鎮送の役割も担っていた。戦国時代、時衆はしばしば戦場に現れて戦死者の供養を行った。この際に催された大念仏や踊り念仏が、後の盆踊りに発展する契機となったと考えられる。 
江戸時代になると、時衆は幕府により統制される。全国を回国する「遊行上人」と、引退後の「藤沢上人」の両頭体制であった。 
一遍上人の事績を伝える史料としては、弟子聖戒と絵師円伊による「一遍聖絵」と、二祖他阿真教の「一遍上人絵伝」が有名。史料的価値が高いのは「聖絵」である。平成15年春の研究で、聖絵における一遍はもともと全裸で描かれていたことが判明、徹底した「捨聖」(すてひじり)としての姿が明らかになり、関係者に衝撃を与えた。  
 
時宗5

鎌倉新仏教 
鎌倉時代に成立した新仏教で、念仏を申す事をすすめる宗派として浄土宗が成立し、そこから更に分れる形で、浄土真宗が生まれましたが、時宗の一遍上人は浄土宗の西山派の聖達上人を師としています。この時代の鎌倉新仏教の祖師達が、必ずと言っていい程、天台宗の総本山比叡山延暦寺で修行していた事を思うと珍しい事です。ある意味、それまでの祖師達とちがって初めて 「延暦寺で必ず学ばねばならない」と言う呪縛から解き放たれた宗派とも言えましょう。 
一遍上人 
一遍上人はもともと伊予の河野水軍の頭領格の家柄であったようです。保元の乱で成功し、伊予の大三島大社の神職になり平治の乱そして源平の争乱をうまく切り抜けてきましたが承久の乱で朝廷側についたために所領を失い、没落し祖父は東北に流されてそこで死去、父は出家し幼い子供であった一遍も出家していたようです。のちに還俗して一族の跡目を継ぎますが僧侶の生活が長かったためにうまく行かず、親族から斬られそうになったりして(相手の刀を取り上げる程度の事はできる剛の者だったらしい)再び出家してしまいます。河野一族はその後の元冦で敵将の首級をあげ、所領の回復に成功したそうです。再出家後の一遍の生涯はさまざまな書籍に明らかですので省きます。 
一遍聖絵という一遍上人の生涯を記した絵巻によれば臨終の床についていた時、空に瑞雲がたなびきそれを見た時衆達が弥陀の来迎と感激した下りがあります。一遍上人はこうした神格化は嫌いであったようで「それなら私はまだ死なぬ私が死ぬ時はいつも通り何事も起きないであろう」とおっしゃったそうです。この瑞雲は現在は彩雲と言い、今でも大変珍しい気象現象でめったに見られるものではありません。 
念仏する 
最初に念仏をする宗派と申しましたが、同じ念仏をする宗派である浄土宗、浄土真宗などとはだいぶ異なる考え方をします。浄土宗西山派から分かれたとは言え、西山派とも違います。時宗の布教は“信じる事を要求しない”というおよそそれまでの宗教には全く見受けられない態度が根本にあります。  
阿弥陀仏が法蔵菩薩という菩薩であった時、極楽浄土という仏の国を開くに当たり、全ての人は死した後、極楽浄土に生まれ変わらねば私は仏にはならないと誓い、その誓いが果たされたから法蔵菩薩から阿弥陀仏になったと阿弥陀経にあるのだから、信仰が起きない人であろうと周りから差別されている人であろうとそのような事は極楽浄土に生まれ変わる事の妨害にはならない。 
信不信を問わず浄不浄を嫌わず 
人間の善悪、浄濁、智鈍、信疑は、阿弥陀如来の誓いをさまたげることはない、人間の力で往生する(自力本願)のではなく、南無阿弥陀仏による(他力本願)のです。従い、時宗の僧は相手が他の宗教を信じていようとも全ての人は極楽浄土に生まれ変わる事が決定していると書かれた小さな紙片を差し出します。差し出してもそれは時宗に改宗しろと要求しているのではなく、私達は阿弥陀仏の誓いにより、あなたが極楽浄土に生まれかわれると言う事が既に決定している事をお知らせに来ましたと言っているに過ぎないのです。 
たとえ南無阿弥陀仏と唱える気が全く無くても信仰するつもりがなくても札を受けられない資格にはならないのです。資格と言うものは人間が決めるもの、極楽へ往生すると言う事は人間の力でできるものではなく、人間の信ずる心によって極楽へ生まれ変わるものでもなく総べて南無阿弥陀仏によって決められているのです。 
法然上人は、口に名号を称えよ、汝の往生は契われている。と教えられました。 
親鸞上人は、本願を信ぜよ、その時往生は決定される。と教えられました。 
一遍上人は、既に南無阿弥陀仏に往生が成就されているのである。人の如何に左右されるものではない。と。 
この教えを信ずる事が出来ない者でさえも、阿弥陀如来は救ってくださるのです。 
賦算 
時宗では、一遍上人以来の遊行上人様がお手ずからこの紙片を配ります。この行為を賦算と呼び、時宗の重要な宗教行事の一つとなっています。この賦算は少なくとも遊行寺の春と秋の開山忌に行われます。それ以外にも折りに触れて行われます。私も遊行寺で修行中に朝のお勤めの際にいつも来られている信者の方にお勤めが終わったところで遊行上人がこの紙片をお渡しになっている光景を見た事があります。 
この賦算はとても重要です。昔も今も、民衆を救う宗教は分かりやすく、簡単でなければなりません。特に念仏の宗教である私達が言葉の限りを尽くして書物を書き表わしてもその書物は詰まる所、「南無阿弥陀仏」の六字を讃え荘厳するものでしかないのです。教祖達が書き残した書物の解釈あるいは誤った説明により宗内に混乱が生じ、争いになり分裂し、互いに批判しあうようになったりした例は枚挙の暇もありません。その事を一遍上人は悟っていたのでしょう。死期が近付いたある日、一遍上人はそれまで書きためてきた著作物を皆の前で燃やし、灰にしてしまい次のような言葉を残されました。「一代聖教皆尽きて南無阿弥陀仏に成り果てぬ」ですから時宗では悟りとは南無阿弥陀仏であり、南無阿弥陀仏とは悟りなのです。 
一遍上人の法難とは鎌倉に入ろうとして排除された弘安5年(1282年)3月1日の事件の事を指します。(一遍聖絵) 
この日はちょうど執権北条時宗が山ノ内の邸へ行く事になっていて、その為に通り道である小袋坂(現在の巨福坂)では、みずぼらしい姿のもの達が追い出されていました。この時代、鎌倉幕府は「夜討・強盗・山賊・海賊」を企てるものを“悪党”と名付けると共に道路を占拠する乞食などの定まった住所を持たない者も一緒くたにして好ましからざる者としていました。そこへ何も知らない一遍上人と時衆達が小袋坂の木戸(関所)を通り抜けようとした為、警護の武士に行く手を阻まれて一遍上人が杖で二回ほど叩かれ、一遍上人の一行(時衆)が追い返されたのです。実際時衆は一遍聖絵に書かれた姿を見るとわかりますが、大変粗末なぼろぼろの衣を纏い、みずぼらしい姿であったので先に上げた好ましからざる者として見られ、追い出されたのだと思われます。 
小袋坂の木戸があったのは現在の北鎌倉駅前のあたりだと言われています。もちろん今の道路等を見てもとても納得は行かないでしょうがかつての小袋坂は陸軍が道路を通す際に切り通しを爆破したりして標高を下げたり拡幅してしまいましたし、戦後も道路の拡幅工事が行われましたので知らない人が多い現在では想像するのも大変です。しかし、昭和30年代の古い北鎌倉の写真を見ますと北鎌倉駅前から鎌倉方面は道幅が狭く、巨木が覆いかぶさるような緑のトンネルであった事が伺えますし、もっと古い写真では確かに駅前に木戸が写っているものもあります。 
一遍上人法難 
一遍上人は鎌倉入りして布教する事が大切と考えていたようでかなり抵抗したようですが警護の武士から、鎌倉の外は御制の限りにあらずと諭され、鎌倉の境のすぐ外側に野宿し、翌日片瀬へと移動して行ったのです。その時、一遍上人達が野宿した地に寺が建立され、光照寺となりました。光照寺には鎌倉時代の五輪等が残され、また、鎌倉時代の年号である正中二年の安山岩製の板碑が残る等何かしらお寺があった事を伺わせるものが残っています。お寺のお堂のようなものがなければ野宿も辛く大変なものであったでしょうから、推測の域はでないものの、野宿した当時既に建物があったと考えられます。また、一遍聖絵の中でも東に山があり、小高い丘の上で野宿したとある事からしてもぴったりです。光照寺は小高い丘の上にあり、光照寺の前の道を辿ってかつて山崎にあった切り通しを抜けて深沢を経て片瀬へと歩かれたのは間違いない事でしょう。この山崎の切り通しはやはり昭和30年代の古い写真が残っていますが、秘境の感すらあり、その頃までは鎌倉時代の雰囲気が残っていたのでしょう。この切り通しには特に名はないようですがかつて近所に住んでいた北大路魯山人が臥龍峡と名付けていました。  
 
南北朝時代の時宗6

今でこそ念仏を唱える宗派といえば浄土宗・浄土真宗が思い浮かぶでしょうが、南北朝前後においては念仏踊りなどで知られる時宗が盛んでした。彼らの存在は宗教面のみにとどまらず、社会や文化において強いインパクトを残したのです。 
一遍は、伊予における水軍の名門・河野氏一族の一つである越智氏に生まれた。しかし承久の乱などで実家が没落していたこともあってか、早い年齢で出家し聖達の元に入門して念仏の教えを学んだ。その後は信濃善光寺・菅生岩屋・四天王寺・高野山など諸国を旅し、その中で念仏の札を人々に配るようになる。 
熊野三山に参詣した際にある僧に受け取りを拒否されて悩み、本宮で熊野権現から「人々を救うため相手の信心不信心に関わらずとにかく札を配るべし」と夢告を受けて迷いが消えたという。この頃から札は「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」と記したものとなり、極楽往生を願う祈りでなく既に往生が約束された感謝の祈りに質が変わっていくのである。 
更に一遍は、信濃で空也に倣って念仏踊りを開始。その後も厳島・鎌倉など全国各地を旅するのであるが、この時期には多くの人々が一遍に従って遊行の旅に出るようになっていた。一遍は寺院に寄らない「一生不住」を原則とし、「十二道具」[引入(椀鉢)・箸筒・阿弥衣・袈裟・帷・手巾・帯・紙衣・念珠・衣・足駄・頭巾]を持って旅に一生を過ごした。その旅は、ひとえに苦しむ人々に救済を与えるためのものであった。一遍に従う人々は、そうした彼を救世主と見て奇跡・奇随を期待する。一遍自身はそのようなものは信じていなかったが、人々のそうした思いを無碍に否定はしなかったようである。 
一遍は自分の始めた念仏踊りやその集団を「一期ばかり」と考えており新たな教団創始の意図はなかったようで、没する際には「一代聖教皆尽きて南無阿弥陀仏に成り果てぬ」と全ての著作を燃やしている。しかし既に彼を慕って集まった人々にとっては自分達を受け入れる場として教団・集団が必要なものとなっていた。一遍死後には弟子の他阿が彼らを率いて教団を形成するのである。 
一遍の教えは、単純な念仏専従ではなく様々な信仰から影響を受けたものであった。一遍自身が禅僧・覚心に参禅した事からも分かるように禅・天台から影響を受けているし、念仏札の配布は高野聖に倣っているように真言の流れも受けている。更に各地の寺社を参詣して様々な在地自然信仰も否定することなく受け入れているのである。 
「十劫に正覚したまえるは、衆生界のためなし 一念をもって往生す、弥陀の国 十と一と不二にして無住を証し 国と界とは平等にして大念に坐す」 
一遍は上述のような和讃を作って難解な理論よりも念仏を唱える実践を重んじた教えを分かりやすく説き、人々と共に各地で集っていたのであるが、次第にその集まりは説法・念仏に加えて風流踊りや管弦といった芸能の催される場ともなっていく。これが後世には文芸に大きな影響を与えるようになるのである。 
時宗一派/一遍の死後に信者達を率いたのが他阿であった。他阿は一遍を引き継いで遊行の旅を続けるのであるが、人数が増えた関係もあって各地に道場、すなわち定住的な拠点を設ける必要性が生じてきた。例えば総本山とされる藤沢の清浄光寺がこれにあたる。もっとも他阿は「心は遊行にて候」と述べており、本心では望ましい選択ではなかったようである。 
なお、他阿の率いる一派以外にも集団で念仏踊りを行い「時宗」と称された集団は存在した。海阿・仙阿もそれぞれ別派を率いていたようであるし、一遍と直接関係のない一向も同様な集団を率いていたのである(この時期に時宗が「一向宗」と呼ばれたのはそうした理由である)。この頃は、類似した小集団が数多く存在したものと考えられる。 
さて、この時宗集団が外部からどのように見られていたかを見ることにしよう。「天狗草子」と呼ばれる絵巻物には、一部に一遍ら時宗の姿も描かれている。その詞書には「さはがしき事、山猿にことならず」「男女根をかくす事なく、食物をつかみくひ」など批判的な評価がなされ一遍も「天狗の長老」と呼ばれているのである。そして画像には無作法に施行された食物をむさぼる時宗信者や肩を組み合う尼僧の姿が描かれている(詞書で性的な面を含め振る舞いの乱れを非難されていることを考慮するとこれは同性愛を示唆するものであろうと推測されている)。更に「天狗草子」異本である「魔仏一如絵」では尼僧が人目を憚らず大小便をするところが描かれているのである。これらからは、時宗集団が性的なものも含めて社会的な風紀を乱す存在として見られていることが分かる。 
他にも「天狗草子」には踊念仏にしばしば奇跡(紫雲、瑞花)が伴ったことを挙げて邪道の教えであると非難しており、踊りによるエクスタシーに伴うエネルギーが外部世界の恐怖感を招いていた事が窺われる。更に一遍が請われて自身の尿を薬として与えている場面が知られているが、「春日権現記絵」で神懸りとなった人の手足を舐る場面があったり能登に本願寺法主の入った風呂水を飲んだという伝承があることから考えて、実際にあったとしても不思議ではない話である。時宗には多くの土俗的信仰も混じりこんでおり、一遍も人々の奇跡を求める心情を一概に否定はしなかったことも考慮すると尚更であろう。土俗的習俗も交えた宗教的熱情を持つ集団は、世俗的生活を送る人々にとっては、猥雑な振る舞いもあって、理解できない不気味な集まりに見えたのは無理もないところである。それにしても真言宗でも性的な性格を強く持つ立川流が流行した時代でもあり、こうした猥雑さと熱狂的信仰とが交じり合った混沌と膨大なエネルギーとが民間信仰にはしばしば見られたと言えそうである。 
南北朝期の時宗/14世紀の南北朝期に入ると、時宗は全盛を極めており社会的にもある程度の地位を築きつつあったようである。いつでもどこでも命を落とす覚悟をしていることもあってか、戦場に従軍僧として出入りしており「太平記」でもしばしば時宗僧の姿が描かれている。彼らは死に瀕した兵士達が心安らかに死につけるよう極楽往生のための最後の十念を授けたり、死者を供養したりするのが主な役目であった。また、負傷兵を治療する金創医術の心得がある者も多かったようだ。時には戦況を他の軍勢に伝える諜報員としての役割も果たす事があった。 
上述の例を挙げるならば、近江番場で包囲された六波羅探題・北条仲時らが切腹したのは時宗の堂であり彼らの名を過去帳に記したのは時宗僧であったと考えられる。また、新田義貞が越前で戦死した際には、敵将・斯波高経の命によって時宗僧らが義貞の亡骸を葬った事が「太平記」に記されている。因みに楠木正行が四条畷出陣直前に討死を覚悟して寺の扉に名を書き残したという逸話も「太平記」記されているが、これは時宗における死者の名を記す通例に倣ったものと考えられている。更に「太平記」における戦場の時宗僧について言うと、尊氏・高師直が直義と争っていた際に関東において師直派が敗れた事を伝えたのも彼らであった。 
また、困窮した人を世話するのも彼ら時宗僧の役割であった。やはり「太平記」から例を引くと、足利政権内部の権力争いで敗れて失脚した畠山国清が南朝に降ろうとした際に、時宗僧が道場で金銭や物資などを含めて何くれとなく世話をし、吉野まで送り届けるに到るまで面倒を見ている(ただし、国清の降伏は南朝から受け入れられなかったようだ)。 
このように戦場に付き従う時宗僧は戦況を良く知る立場におり、これが「太平記」編集にも大きな力となったことは想像に難くない。例えば上述の仲時らや湊川における楠木正成らのように全滅した人々の最期の様子を見届け世間や遺族に伝えたのは彼らであったろう。「太平記」は主に備前児玉などの修験道の人々により編纂されたと考えられているが、これらを考慮すると時宗僧たちも大きく関わっていた可能性が強い。時宗僧らはこうした文芸にも少なからぬ影響を与えていたのである。 
 芸能と言えば、前述のように念仏踊りの集まりは管弦など様々な芸能が催される場であったこともあり、時宗僧にも多種多様な芸能を修めた人物が存在した。その分野は茶・花・香・和歌・連歌・書画・作庭にまで至っており、彼らは後に職人として足利政権などに仕える事となる。能楽を大成させた観阿弥・世阿弥を始めとして「阿弥」の名を持つ例が当時の芸能で世に知られた人物に多いのはそうした理由である。 
 
南北朝の動乱が一段落した後は、時宗僧には芸能・文化人として足利政権に吸収される例が多く見られるようになる。また遊行を本来の有り様とする時宗は組織化という面では弱点を抱えており、次第に浄土真宗など他宗派に座を脅かされていく。15世紀後半・16世紀になると蓮如による浄土真宗本願寺派が教団を組織化して巨大勢力となり、その一方で時宗は歴史の表舞台から見られなくなり細々と命脈を繋ぐ存在となるのである。  
 
他阿上人1

(たあしょうにん・1236-1319)豊後出身の時宗第2祖。第2祖であるが、教団としての時宗の基礎をつくったところから、事実上の時宗の開祖ともいわれる。建治3年(1277)豊後の地で一遍の弟子となる。一遍と共に各地を遊行(諸国を回って仏道の修行をすること)するが、一遍の死後は北陸 ・関東を中心に遊行・賦算(ふさん・遊行し念仏の算(ふだ)を 賦るの意)をし、時宗教団の基礎を固める。歌人としても有名で「他阿上人歌集」3巻を残す。 
建治3年大隅から日向を通って豊後に入った一遍は船で四国に渡ろうとする。この時豊後国守護・大友兵庫頭頼泰が帰依しており、衣などを奉っている。遊行中の一遍は衣らしい衣を身につけていなかったのであろうか。有力武将で一遍に帰依した最初の人物が頼泰である。帰依した理由はいろいろ考えられるが、一遍が名門武家・伊予の河野氏の出であり、教義が簡明(念仏をとなえ札を与える)で、熊野八幡など当時の武将が崇敬した神祇と関係が深いことなどがあげられている。この後、二豊の地で時宗がどのように広まったかについては史料が少ないが、弘安11年(1288)の「志賀文書」に「時衆」の文字が出てくる。風早(かざはや)東西阿弥陀堂の時衆が、志賀泰朝(やすとも)が風早禅尼(頼泰祖母)の置文(おきぶみ)に背いたと訴えたことに対して、大友親時(ちかとき)が裁決した文書である。阿弥陀堂の所在地は現大野郡大野町藤北と推定されており、鎌倉時代末には大野荘にある程度時宗が広まっていたのである。応安7年(1374)の「田原氏能(うじよし)寄進状」には、日出(ひじ)荘(日出町)の西方法華寺(ほっけじ)に遊行の阿闍利(あじゃり)がいたことが記されている。速見郡内にも時宗が広まっていたことを推測させる。このほか時宗の広がりを知ることのできる史料として、石造品の銘文がある。正慶元年(1332)銘の佐田社板碑(いたび・安心院町)をはじめ、南北朝期を通じて宇佐郡速見郡大野郡大分郡内などに五輪塔(ごりんとう)宝塔(ほうとう)宝篋印塔(ほうきょういんとう)角塔婆(かくとうば)板碑などが分布しており、時宗の隆盛をうかがうことができる。現在県内の時宗寺院は、温泉山永福寺(えいふくじ・別府市)一か寺だけであるが、中世には善光寺(ぜんこうじ)西教寺(さいきょうじ)称名寺(しょうみょうじ)などがあった。善光寺は浄土宗の古刹であるが、建武4年(1337)銘の時宗関係と思われる板碑が残るなど、南北朝期は時宗寺院であった。西教寺は時宗24世不外が大永6年(1526)5月17日入寂した寺である。史料(「遊行藤沢歴代系譜」)には「豊州西教寺」とあるだけで現在地は不詳。称名寺は28世遍円が天文18年(1549)2月9日はじめて賦算を行った寺である。中世末まで時宗寺院であったが、江戸時代になると浄土真宗に転宗している。浄土真宗善巧寺(ぜんこうじ・大分市長池町)の塔中に称名寺の名がみえ「称名寺ハ其初メ時宗ニシテ」の記事がある。 
一遍が来豊した時に弟子になった1人の僧がいる。のちに2祖と崇敬された真教である。「一遍聖絵」に「他阿弥陀仏はじめて同行相親の契をむすびたてまつりぬ」とある。他阿弥陀仏はこの時一遍から与えられた法名である。一遍にとって、真教は最初の正式な弟子だったのである。真教の人柄については、彼の伝記を記した「一遍上人絵詞伝」巻5に、眼には重瞳うかび(偉人の相をしている)、柔和で慈悲あふれる人格者であったと記している。一遍の弟子となった真教は、以後一遍の死まで遊行に従っている。正応2年(1289)一遍が死ぬと、真教も後を追い往生をとげようと丹生山(兵庫県)に分け入った。しかしここで播磨淡河(おうご)の領主に念仏札を与えざるを得なくなり、死を思いとどまり以後一遍にならい遊行賦算を行うようになる。遊行回国先は北陸 ・関東が中心であった。一遍と異なり特定地域を重点的に遊行したのは、有力な檀那を獲得し、信者の固定化をはかり、教団の基礎を強化するためとみられている。こうして一遍の死により崩壊しかけた時衆(時宗)は、真教によって教団として再編成される。時宗教団の事実上の開祖が真教であるといわれる由縁である。嘉元2年(1304)遊行を弟子量阿弥陀仏智得にゆずり、無量光寺(藤沢市)を建てここに止住する。文保3年(1319)1月27日83歳で没している。 
歌人としても知られる真教は、当代一流の歌人・京極為兼(きょうごくためかね)冷泉為相(れいぜいためすけ)冷泉為守(ためもり)藤原長清(ながきよ)らととも交渉があった。延慶3年(1310)為兼が真教を訪ね、法話を聞き互いに和歌を詠じ、正和5年(1316)為相が真教を訪ねている。勅撰集の京極為兼撰「玉葉和歌集」に所載されている「哀げにのがれても世はうかりけりいのちながらぞすつべかりける」は真教の歌である。「月ははや世を秋風に影ふけぬ山のはちかき我をともなへ」文保3年正月12日病床で詠んだ真教最後の和歌である。  
他阿上人2

嘉禎3年-文保3年(1237-1319)鎌倉時代後期の時宗の僧。遊行上人2世。正しくは他阿弥陀仏と称し、他阿と略する。法諱は真教(ただし同時代史料にはみえず、初出は「本朝高僧伝」。燈心文庫に真教と署名のある文書があり、他阿に同定する説あり)。俗姓は源氏久我家ともいわれる。 建治3年(1277)九州で時宗の祖一遍に師事して以来、一遍の諸国遊行に従う。正応2年(1289)一遍が亡くなった後に、いったん解散した時衆を再結成して引き連れ、北陸・関東を中心として遊行を続けた。嘉元2年(1304)遊行を3世量阿(智得、のち他阿号を世襲)に譲り、自らは相模国に草庵(後の当麻道場金光院無量光寺)を建立して独住(定住)し、そこで没した。同寺の境内に、一遍らとならんで墓塔の宝篋印塔がある。おもな門弟に量阿のほか、有阿(恵永または恵光。のち藤沢道場をひらく他阿呑海)、京都四条道場・浄阿(真観)がいる。 膨大な消息はのちに「他阿上人法語」8巻にまとめられたほか、歌人として京都の貴人たちとまじわり、歌集に「大鏡集」がある。伝記は「一遍上人絵詞伝(遊行上人縁起絵)」に詳しく載せられている。 他阿の肖像としては、長崎称念寺、東山長楽寺、黒駒称願寺、国府津蓮台寺等のものが有名で、いずれも重文である。晩年に患った中風によって口許がゆがんでいるのが特徴である。 
一遍は、肉親ともいわれる弟子聖戒を後継者とみなしていた節があり、しかも入寂に際して時衆は各地に散って自然消滅している。それを再興した他阿は、知識帰命を掲げた「時衆制誡」「道場制文」などを定め、消息の中で配下の道場(寺院)は百あまりと述べているように、時衆を整備された教団とした。現在ある時宗教団は、この他阿の系統を引く藤沢道場清浄光寺が、ほかの念仏聖の教団を吸収して近世に成立した。歴代の時宗法主は他阿を称する。したがって、他阿真教こそが、時宗の実質的な開祖といえよう。宗祖一遍とならぶ「二祖上人」と通称され、多くの時宗寺院で、その像が一遍と対になって荘厳されている。  
 
念仏札

時宗の遊行上人が人々に配る念仏札。時衆の開祖一遍(1237-1289)以来、現在に至るまで配り続けられているものです。 
一遍がはじめて賦算(お札を配ること)したのは、文永11年(1273)、四天王寺に参籠した後ののことであると伝えられていますが、「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」の札を配り始めたのは、熊野本宮において熊野権現の神託を受けてからだそうです。その後、一遍は、生涯のうちに25万1千人に賦算したといわれています。なお、一遍の時代には、このような札を配ることのできる人物は複数いましたが、後に、遊行上人と呼ばれる時衆最高位の人物のみが、賦算の権利を持つようになりました。これは、教団としての「時衆」の成立とも大きな関係がある問題です。一遍は、時衆をひとつの「教団」とする意志はなかったといわれています。「救いは阿弥陀仏の名号にのみあり」として、その他の一切を放棄した、「捨て聖」としての彼の思想からは、教団を「持つ」という考えはなかったのです。彼が死の直前、持っていた聖教や著作のほとんどを焼き捨てさせたことも、その思想の現れでしょう。しかし、一遍自身はそのように考えていても、彼の生前から、すでに彼のまわりには多くの人々が集まっており、実質的には「教団」的なものが成立していました。そして、一遍の死後、その後継者と目されていたのは、彼の従弟とも実弟ともいわれる、聖戒という人物でした。彼は、有名な「一遍聖絵」を作らせた人物ですが、京都に歓喜光寺という寺を拠点に、貴族層とも親交があったようです。一方、現在時宗2世といわれている他阿真教は、当時決して一遍の後継者とは目されていなかったようですが、相模国当麻に金光院を建て、そこを拠点に時衆の教団化に努力します。その過程で、この賦算の権利も制限されたものになったようです。なお、時衆の最高位である遊行上人は、遊行上人でいる限り、常に全国を遊行し続けることになっていました。そして、年齢などの関係で遊行ができなくなると、遊行上人位を後継者に譲り、藤沢の清浄光寺(遊行寺)に引退しました。これを藤澤上人(とうたくしょうにん)と呼びます。明治以降、上人の遊行がされなくなると、遊行上人と藤澤上人は一体化しました。現在は、毎年11月27日に藤沢の清浄光寺(遊行寺)で行われる歳末別辞念仏「一つ火」の法会のあと、遊行上人兼藤澤上人であるお上人から、賦算を受けることができます。なお、この「一つ火」の法会自体も非常に幻想的なものですが、誰でも参観することが可能です。 
念仏札の大きさは8×2p、意外と小さいものです。  
 
浄土教(じょうどきょう)

阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く教え。浄土門、浄土思想とも。 
「浄土」という語は中国での認識であるが、思想的にはインドの初期大乗仏教の「仏国土」がその原型であり、多くの仏についてそれぞれの浄土が説かれている。しかし、中国・日本においては阿弥陀仏信仰の流行にともない、浄土といえば一般に阿弥陀仏の浄土をさす。その意味は、唐代の善導が「念念に浄土教を聞かんことを思い」(「法事讃(転経行道願往生浄土法事讃)」)という場合の「浄土教」がそれである。 
インド 
浄土教が成立したのはインドにおいて大乗仏教が興起した時代であり、およそ紀元100年頃に「無量寿経」と「阿弥陀経」が編纂されて始まる。時代の経過とともに浄土教はインドで広く展開した。 
阿弥陀仏や極楽浄土に関説する大乗経論は非常に多く、浄土往生の思想を強調した論書としては以下がある。 
龍樹(150-250年頃)作と伝える「十住毘婆沙論(婆沙論)」(全十七巻の内、巻第五の「易行品 第九」)  
天親(4-5世紀)の「無量寿経優婆提舎願生偈(浄土論・往生論)」  
なお、「仏説観無量寿経」は、サンスクリット語の原典が発見されておらず、おそらく4-5世紀頃中央アジアで大綱が成立し、伝訳に際して中国的要素が加味されたと推定される。しかし中国・日本の浄土教には大きな影響を与えた。 
中国 
中国では2世紀後半から浄土教関係の経典が伝えられ、5世紀の初めには廬山の慧遠(334-416)が「般舟三昧経」にもとづいて白蓮社という念仏結社を作った。やがて「浄土三部経」を根本経典として、山西省の玄中寺を中心とした曇鸞(476-542年頃)が「浄土論註(往生論註)」、道綽(562-645)が「安楽集」、善導(613-681)が「観無量寿経疏(観経疏)」をそれぞれ著し、五濁悪世の末法の世に適した称名念仏を中心とする浄土教が確立された。のちに慧日(680-748)や五会念仏の法照(?-777頃)らが出て、浄土教を禅などの諸宗と融合する傾向が強くなった。 
日本 
日本では7世紀前半に浄土教(浄土思想)が伝えられ、9世紀前半には円仁(794-864)が中国五台山の念仏三昧法を比叡山に伝えた。やがて良源(912-985)が「極楽浄土九品往生義」、源信(942-1017)が「往生要集」を著して、天台浄土教が盛行するにいたった。藤原頼通が築いた平等院も浄土思想に基づくものである。 
平安時代の浄土思想は主に京都の貴族の信仰であったが、空也(903-972)は庶民に対しても浄土教を広め、市の聖と呼ばれた。良忍(1072-1132)は「一人の念仏が万人の念仏と融合する」という融通念仏(大念仏)を説き、融通念仏宗の祖となった。天台以外でも三論宗の永観(1033-1111)や真言宗の覚鑁(1095-1143)のような念仏者を輩出した。 
平安末期から鎌倉時代に入ると、法然(1133-1212)は、「選択本願念仏集(選択集)」を著して浄土宗を開創し、根本経典を「仏説無量寿経」(曹魏康僧鎧訳)、「仏説観無量寿経」(劉宋畺良耶舎訳)、「仏説阿弥陀経」(姚秦鳩摩羅什訳)の「浄土三部経」に、天親の「浄土論」加え制定した(「三経一論」)。  
法然の弟子の親鸞(1173-1262)は、「教行信証」等を著して継承発展させ、後に浄土真宗の祖となる。 
一遍(1239-1289)は、諸国を遊行して時宗を開いた。平安時代後期から鎌倉時代にかけて興った融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・時宗は、その後それぞれ発達をとげ、日本仏教における一大系統を形成して現在に及んでいる。  
浄土教の広まり

末法思想の広まり  
国風文化が栄えた時代、つまり摂関政治が栄えた時代でもあるのですが、都では貴族たちがはなやかで贅沢な生活を送っていました。 
しかし同時に盗賊が横行し、地方でも受領による不正が行われるなど、社会不安が高まってきた時期でもありました。 
このような社会情勢の中、加持祈祷や方違(かたたがえ)・物忌(ものいみ)などが流行し、また怨霊や疫病などの災いをのがれようとする御霊会(ごりょうえ)の信仰もさかんとなりました。 
そしてこのような社会情勢の中、末法思想という考え方が広まり、社会不安におびえる人々の心をとらえました。 
末法思想は外国から伝わった考え方なのですが、この「末法」とはどのような意味なのでしょうか? 
釈迦の死後、仏教が正しく行われている時代1000年間を正法(しょうぼう)の時代とよび、それ以後の1000年間を正しい教えが失われ、形だけの教えが行われる像法(ぞうぼう)の時代とよびます。 
そしてそれ以後、仏教がまったく行われない時代がはじまるとされ、その時期を末法の時代とよびます。 
日本では、この末法の時代が後冷泉天皇の永承7年(1052)に始まると考えられていました。 
末法思想が広がると、人々は社会不安や天災の増大とも相まって、現世における生活に希望を失い、来世に期待をかけるようになります。 
そして、この「末法の世」に、人々の心をとらえたのが、浄土教とよばれる教えでした。 
空也・源信と浄土教  
10世紀の中頃から京都六波羅蜜寺の僧空也(くうや)が、諸国を歩き、浄土教の教えを広めました。浄土教とは、阿弥陀如来に帰依して念仏すれば、誰もが極楽浄土に生まれかわることができるという教えです。 
そして生まれ変わることを仏教用語で「往生する」といいます。ですので、極楽浄土に往生することが浄土教の大きな目的であるということができます。 
空也はとくに人の集まる市で、浄土教の教えを広めたので市聖(いちのひじり)とよばれました。 
さて、ここまでのお話しの中で、大きな疑問が二つわいてこられたと思います。つまり、「極楽浄土とは何なのか?」「念仏とは何なのか?」という疑問です。 
さらに「どうして阿弥陀如来に帰依し、念仏すれば極楽浄土に往生できるのは何故なのか?」という疑問もわきあがってきますよね。 
少し難しい話しになってしまうのですが、こられの説明をこれからしてみたいと思います。 
そもそも仏教の目的は、修行による解脱にありました。解脱とは簡単に言ってしまうと「悟り」を開いて、悩みや苦しみのない世界へ行くこととお考え下さればよいでしょう。そして本来は解脱した者を仏とよびます。 
しかし、浄土教の目的はそのうわべだけをみると、極楽浄土に往生することのように感じられます。 
極楽というとキリスト教で言う天国のような場所を想像されると思うのですが、どうなのでしょうか? 
実は「極楽」ではなく「浄土」の方が、キリスト教でいう「天国」に近い意味の言葉になります。 
解脱した者、すなわち仏の住む世界のことを言います。「仏の住む浄(きよ)められた世界」、それが浄土なんですね。 
そしてこの点が、一神教であるキリスト教と、多神教的な仏教とのちがいになるのですが、仏教では多くの仏がいますから、その仏の数だけ浄土があることになります。 
例えば薬師如来という仏の住む浄土は瑠璃光浄土(るりこうじょうど)といいます。 
ですから極楽浄土とは、阿弥陀如来という仏の住む浄土のことなんですね。 
ところが現在では、たいていの場合、極楽浄土=天国というように考えられがちです。 
これはどうしてなのか、どうして極楽浄土だけがもてはやされ、他の浄土はかすんでしまっているのか、それには理由があります。 
実は、阿弥陀如来は、人々を救うために四十八の誓願をたてているのですが、その中のひとつに「阿弥陀如来を信じるものは、その国、つまり極楽浄土に生まれ変わるために十回「念仏」すればよい。」というものがあるんです。 
もちろん実際に、阿弥陀如来がそう誓願するのを誰かが聞いたというのではありません。阿弥陀如来のことを記した仏典(経典)にそのように書いてあるということです。 
ところが他の仏たちはこんな誓願はたてていません。しかも「十回の念仏」という具体的な方法まで、阿弥陀如来はのべています。 
このことから、「浄土へ往生するなら阿弥陀如来の極楽浄土へ」ということになったのではないか、そしてそれが、「極楽浄土=天国」というイメージができあがった理由ではないか、そんな風に考えられています。 
では次になぜ人々は「極楽浄土への往生」を目指したのか?という点を考えてみたいと思います。 
極楽浄土は阿弥陀如来の住む世界で、まさに「天国」のようなところ、だから誰だって「行けるものなら行ってみたい。」そう考えるのが自然ですよね。 
先ほど、「しかし、浄土教の目的はそのうわべだけをみると、極楽浄土に往生することのように感じられます。」とものべました。 
しかしこれは、正確に言うとちがうんです。 
確かに浄土教は極楽浄土への往生を目指してはいるのですが、それには目的があるんです。浄土教も仏教ですから最終目的が「解脱」であることは変わりません。 
しかし、一般の人がいくら厳しい修行を積んだところで、なかなか解脱という境地にいたることは難しいです。いや不可能と言ってもよいでしょう。 
そこで浄土教では解脱にいたる方法として、極楽浄土への往生をまず目指したんです。つまり、「現世ではなかなか難しい解脱も、極楽浄土で阿弥陀如来の「指導」を受ければ、必ず可能なはずだ。」という考え方ですね。 
このような理由から、浄土教では極楽浄土への往生を目指します。けっして往生そのものが本来の目的ではないのだ、ということをここでご理解下さい。 
では最後に、念仏とは何なのか?というお話しになります。 
これを説明するのは難しいのですが、簡単に言ってしまえば「阿弥陀如来を信じること」と考えていただければよいでしょう。 
具体的にはどのようにすればよいのか?空也が説いたのは「称名念仏」という方法でした。 
これは阿弥陀如来の名を唱える、つまり「南無阿弥陀仏」とくり返し阿弥陀如来に呼びかけることです。ですので、称名念仏は唱名念仏とも表記されます。 
「南無」とは「帰依する」という意味のサンスクリット語です。「称名念仏」は簡単な方法なので、多くの人々に受け入れられました。 
そして「称名念仏」をすすめた空也のあと、源信という僧が「往生要集」を著し、浄土のようすや往生の方法を詳しく説明しました。 
その中で念仏の最も良い方法として源信がすすめたのは称名念仏ではなく「観想念仏」という方法でした。 
「観想念仏」とはいったいどういう方法なのか、これは阿弥陀如来や極楽浄土の有様を出来るだけ思い浮かべる、つまり観想することによって、念仏をするという方法です。 
「イメージトレーニング」というものがありますが、これに近いやり方ですね。 
この方法は、ただ阿弥陀の名を唱える「称名念仏」に比べると少し高度な感じがします。それが理由かどうかは不明ですが、源信の「観想念仏」は貴族たちの間で流行したようです。 
阿弥陀如来の四十八の誓願のように、仏が人々を救うためにたてた誓いのことを「本願」といいます。京都には現在、「西本願寺」「東本願寺」というたいへん有名な寺があります。また、戦国時代には、大坂に「石山本願寺」という寺もありました。「本願寺」という寺号は、ここから来ているんです。 
先ほどご紹介した阿弥陀如来の本願には続きがあって、「もしそれ(阿弥陀如来を信じ、十回念仏した者は極楽浄土に往生できること)が、成し遂げられないならば、私(阿弥陀如来のこと)は解脱しない」とも言っています。 
実はこの本願は、阿弥陀如来がまだ解脱を達成していない法蔵菩薩と呼ばれていた時代にたてられたものなんです。 
そして現在、法蔵菩薩は解脱して阿弥陀如来となっているわけですから、「この本願は必ずまもられるはずだ」と信者たちは考えるわけですね。 
ですから、阿弥陀如来の本願を信じている者にとって最後に問題になってくるのは「十回の念仏」の意味だけ、ということになります。 
おそらく「十回」という回数には大きな意味はないのでしょう。これは「簡単にできる」ということのたとえであると考えられています。 
そして「念仏とは具体的に何をすればよいのか」という問題に対する答えが、空也の「称名念仏」であり、源信の「観想念仏」であると、そのようにご理解いただければよいと思います。 
本地垂迹説と浄土教美術  
浄土教の流行と前後して、奈良時代からすでにおこっていた神仏習合の思想がさらに発展し、平安時代の後期には本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)という考え方が確立しました。 
神仏習合とは、神道と仏教の融合をはかることですが、これが発展したのが本地垂迹説です。 
本地垂迹説とは、簡単に言ってしまうと、「神は仏が仮に形を変えてこの世に現れたものである」、つまり「神は仏の化身である」という考え方ですね。 
この化身のことを「権現」といいます。 
もう少し後の時代になると、神道における最高神である天照大神は、実は大日如来が形を変えたものであると考えるなど、それぞれの神について特定の仏をあてはめることがさかんになりました。 
本地垂迹説では、あくまでも仏が本体(本地)で、神は仏の仮のすがたという考え方です。つまり、「仏主神従」ですね。 
寺院の側でもその守護神を鎮守として境内に祀ったり、あるいは神宮寺といって、神社の境内に寺が建てられたり、あるいは仏像をまねて神像をつくったりということも行われました。 
この神仏習合から本地垂迹説への流れは、「仏教の国風化」といえるでしょう。この考え方は、明治初年に神仏分離令が出されるまで続きました。 
浄土教の流行にともなって、それに関係した美術作品も数多く生まれました。 
「浄土教美術」の中で最も有名なのは、阿弥陀堂です。これは源信のすすめた「観想念仏」を形にしたものであると考えることができます。 
阿弥陀堂とは阿弥陀如来を安置するためのお堂のことですが、その内部は贅をこらしたつくりになっており、現世に「極楽浄土」を再現しようとしたことがよく分かります。つまり、当時の人々が、イメージした極楽浄土の姿がそこにあるわけですね。 
この時代につくられた阿弥陀堂で最も有名なものは、京都府宇治市にある平等院鳳凰堂でしょう。 
10円硬貨にもデザインされており、みなさんもよくご存じだと思います。建設したのは藤原頼通ですね。 
平等院は、1052年、つまり日本において末法の時代が始まると考えられていた年に、頼通が宇治に持っていた別荘を寺としたものです。 
平等院の阿弥陀堂である鳳凰堂は、翌年の1053年に落成しました。 
ところで、「鳳凰堂」という名前の由来をご存じでしょうか?実は鳳凰とは伝説上の鳥の名前なんですね。 
鳳(ほう)は「大鳥」、凰(おう)は「神鳥」のことであるとされています。姿はクジャクに似ており、「聖人」が現れるとき、出現する鳥であると考えられていました。 
鳳凰堂のデザインをじっと見てみて下さい。どうでしょうか?鳳凰が翼を広げたように見えないでしょうか?これが名前の由来だと言われています。 
ちなみに鳳がオスで、凰はメスなんだそうです。 
もうひとつ有名な阿弥陀堂があります。そうです、岩手県平泉町にある中尊寺金色堂ですね。 
中尊寺は藤原清衡(ふじわらのきよひら)が建立した寺院で、1105年に元になる寺が建てられ、1126年から「中尊寺」という寺号を用いるようになったそうです。 
阿弥陀堂である金色堂は、1124年の建立です。その名の通り、その内壁・外壁は、漆塗の上から金箔がはられ、文字通り金色に輝いていたそうです。 
阿弥陀堂としてはこの二つが有名なんですが、実はもうひとつ、この二つに先立つ素晴らしい寺がありました。ご存じでしょうか? 
それは京都市上京区にあった法成寺(ほうじょうじ)で、建立したのは藤原道長です。 
1019年に出家した道長が阿弥陀堂を建立したのが法成寺の始まりであると言われています。そして1022年に金堂と講堂の落慶供養が行われ、そのときから法成寺と称するようになったようです。 
道長が亡くなるとき、法成寺の本堂に床を敷き、本尊の阿弥陀如来と自分の手を五色の糸でつないで臨終を迎えたという話は有名ですね。 
法成寺は1058年に炎上し、その後頼通によって再建されましたが、鎌倉時代に入ると衰退し、残念ながら現在では残っていません。 
次にこの時代の仏像のお話しをしましょう。 
この時代につくられた仏像で最も有名なものは、平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像でしょう。 
平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像は、たいへん柔和で気高い姿をしています。作者は定朝(じょうちょう)という仏師で、寄木造とよばれる技法を完成させた人物として有名です。 
寄木造とは、それまでの一木造(いちぼくづくり)とはちがい、仏像のからだをいくつかの「部品」に分け、それを仏師が分担して彫り、これらを最後に組み立ててひとつの仏像にするという手法です。 
寄木造は、まるでプラモデルをつくるようにして仏像をつくる手法なんですね。この手法は能率的で、それまでに比べると仏像の「大量生産」が可能になったそうです。 
この時代の作ではないのですが、この時代に関係の深い木像がもうひとつあります。空也像です。 
市聖(いちのひじり)とよばれた空也が、布教している姿をあらわしたものですが、その特徴は口から6体の小さな仏像がはき出されているという点です。 
これは空也が「南無阿弥陀仏」と唱えたところ、その一音一音が、阿弥陀仏に変わったという伝説をあらわしたものなんですね。 
空也像は鎌倉時代中期の康勝(こうしょう)の作で、京都の六波羅蜜寺にあります。 
絵画では、往生しようとする人々を迎えるために阿弥陀如来が来臨する場面を示した来迎図(らいごうず)がさかんに描かれ、人々の信仰を助けました。
 
仏の布教

念仏は7世紀前半日本に伝わったが、それが流布するのは平安中期以降である。  
「天慶より以往、道場聚落に念仏三昧を修すること希有なりき。如何に況んや小人愚女多くこれを忌めり。上人来りてのち,自ら唱え他を唱えしめ,その後世を挙げて念仏を事とせり。誠にこれ上人の衆生を化度するの力なり」〈慶滋保胤「日本往生極楽記」)。  
日本に定着した念仏は、民俗浄土教と純正浄土教という二つの流れを形成した。  
民俗浄土教 / 土俗信仰と習合して呪術的性格を帯びた念仏の流れ〈葬送念仏、六斎念仏 虫送り念仏等)。  
純正浄土教 / 思想的に純化せられ、末法の時代の凡夫救済のための易行他力の念仏を説く流れ。中国で深化し、日本では法然が承安5年(1175〉浄土宗を開宗して、日本の純正浄土教を確立する。浄土真宗を開いた親鸞はこの法然の直弟子。同じく一遍も法然の直弟子であり、西山浄土宗を開いた証空の孫弟子に当る。法然、親鸞、一遍共に念仏門(浄土門)に立つ。  
法然・親鸞と一遍の念仏布教の違い  
法然は財産として若干の土地家屋を所有した。親鸞は物財は所有しなかったが、妻子を所有。そして所有には定住が不可欠である、一遍は財産・妻子なにもかも捨てて無所有(捨聖)に徹したから、一所不住の遊行生活を送ることができた。  
法然・親鸞の布教は定住型 / 農耕民・都市民・弥生人の系譜。  
一遍の布教は一所不住型 / 山人・狩猟採集民・縄文人の系譜。  
法然・親鸞は共に定住型である。かれらは一所に定住し、教えを求めてそこを訪れる人々に法を説いた。説法と著述活動がその布教方法であった。法然・親鸞のような思索家とは異なり、一遍は行動の人であった。鎌倉仏教の展開のなかで法然が提起し、親鸞、証空らが哲学的に深めた念仏信仰を、民衆の底辺にまで広めたのが一遍であった。両者の布教に違いがあるのは当然といえよう。  
一遍はその布教を賦算に託した。賦穿とは「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」と刷られた念仏札を配り歩くことである。けれども見方を変えれば、それは単なる護符・呪符信仰、物神崇拝の類いかもしれない。少なくともそれは法然や親鸞にとって無縁な布教方法であった。けれども民衆には念仏往生を約束する物的証拠が必要だという一遍の思いが、かれを賦算に駆り立てたといえよう。だから一遍は「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず」、念仏札を賦算して歩いた。その賦算は貧富、貴頗,男女の差別なく、乞食や非人、癒者にまで及んだ。念仏を社会の底辺まで運ぶには、賦算が説法や著述よりもはるかに有効な方法だったのである。  
とはいえ念仏布教は困難な道である。より多く賦算するにはより多くのひとに出会わねばならない。だから賦算と遊行は一体である。賦算には定住よりも遊行が勝るのだ。遊行とは異なり、踊り念仏の始まりは自然発生的である。けれども始めてみれば、それもまた人集めになんと有効な方法であったことか。  
念仏停止の弾圧以後、各地に逃れた法然の高弟たちはそれぞれ一派を形成(証空「西山義」聖光「鎮西義」季西「一念義」長酉「諸行本願義」隆寛「多念義」親鸞「一向義」〉。かくして法然浄土教は諸派に分裂してやがて消滅していったが、そのなかにあって証空の西山派と重光の鎮西派だけが、天台宗の付属宗となることによって弾圧をまぬがれた。  
法然浄土教は再三の弾圧によって四分五裂した。そのなかにあって一遍の布教とその後の遊行上人の回国は時宗を盛り上げ、室町初期にはついに、時宗教団が庶民仏教の頂点に立つ〈阿弥文化の盛行〉。けれどもその時宗も室町中期から応仁の乱を境に急速に衰退するや代わって勃興してきたのが、蓮如率いる浄土真宗である。  
蓮如の事績  
御影堂の留守職となった覚如〈1270-1351)は、親鸞中心主義の教義と真宗教団の確立を目指して本願寺を創設〈御影堂→本願寺)。みずから真宗教団の統括者となる道を歩んだ。それは親鸞の血統を継ぐ者を法主に仰ぐことであったから、親鸞の法統に連なる門弟達は反発。本願寺は蓮如に至るまで「さびさびとした」状態にあった。  
蓮如〈1415-99)。父存如20才の子。母はその召使。蓮如6才の時、父存如が正妻如円を迎え、母は行方知れずとなる。まもなく異母弟応玄誕生、蓮如は43才まで生活費にも事欠く部屋住みであり、その前半生は苦難に満ちていた。そんなどん底生活のなかにあって、かれを支えたものは親鸞の血統・法統の正統な相続者であるという自負。そして堅い信仰と学識と伝道への強い意志と健康。それに少数でほあるが、かれを熱烈に支持する門徒の存在であった。長禄元年(1457)父存如死去。蓮如43才。存如の末弟如乗の奔走により、本願寺第入世門主となる。  
蓮如は28才にして平貞房の娘如了と結婚、四男三女。如了没(蓮如41才)。妹蓮佑と再婚、三男七女。蓮佑没(蓮如56才)。妻如勝に一女。妻宗如に一男一女。72才五人目の妻蓮能を迎え五男二女。末子実征ほ蓮如84才の子であった。十三男十四女。  
法主となった蓮如のいちばんの課題は、いまだ青蓮院の子院として比叡山に従属していた真宗教団の天台宗からの離脱と、在家仏教である浄土真宗に適した伝道スタイルの確立であった。けれども天台宗からの離脱は否応なく、山門宗徒による大谷本願寺破却(1465)、叡山の堅田総攻撃(1468)といった法難を本願寺教団にもたらす。  
1471年吉崎下向。1475年61才吉崎退去。1478年山科本願寺建立。1488年加賀一向一揆、守護富樫政親を倒す。1489年隠居。本願寺法主を実如に譲る。1496年石山御坊起工。1499年3月25日没。85歳。  
御文(御文章) 
15世紀はこれまで仏教世界から見離されていた大衆がその力を自覚し、その生活に即した救いを希求し始めた時代である。蓮如はその救いの教えを御文に託した。しかも一枚の御文を大勢に読み聴かせるという伝道形式の考案こそ、蓮如成功の最大の秘訣といえよう。 
御文は親鸞の教説の要点を凝縮し、親鸞の消息文と同じ漢語混じりの仮名文字で書かれている。読み聴かせることが前提であったから、御文は漢字にはルビを打って読みやすいように工夫され、話言葉で書かれている。リズミカルな文体、反復表現等、読む・聴くひとのこころを捉える巧みな修辞法が用いられ、簡明にして要領を得た表現内容になっている。〈福沢諭吉は近代的文体の創始に当って、御文の文体をモデルにしたという「福翁自伝」作家の杉浦民平は御文を「宣伝扇動文の模範」と評した)。  
蓮如は村の指導者層・識字階級である坊主と年老と長〈乙名)をなによりもまず信者とする伝道方針を貫いた。講と寺内町の確立=信仰共同体の成立。講では一枚の御文が何十人もの手に渡り読まれた。また書写された御文は寺や道場に張られて普及した.村人への説教は信仰を家庭に浸透させ、家庭の浄化に貞献した。  
現存する御文は191通。そのうち年紀の明らかなもの158通。年紀不祥33通。実如とその子円如が編纂し、法主証如が開板した御文を「五帖御文」または「帖内御文」といい、評価が高い。これに洩れた御文を「帖外御文」という。  
蓮如の思想の特色   
信心為本と感謝報恩の念仏。蓮如は信心為本に徹し、救済の条件は信にあり念仏にはないという、覚如によって開かれた信仰至上主義を徹底させた.信心が救済の原因であって、念仏は救済の原因でほなく、感謝報恩の行であるという主張を貫く。  
御文の一例  
マズ当流ノ安心ノオモムキハ、アナガチニ、ワガココロノワロキヲモ,マタ妄念妄執ノココロノオコルヲモ、トドメヨトイフニモアラズ、タダアキナヒヲモシ奉公モセヨ、猟スナドリモセヨ、カカルアサマシキ罪業ニノミ朝夕マドヒヌルワレラゴトキノイタズラモノヲタスケントチカヒマシマス弥陀如来ノ本願ニテマシマスゾト、フカク信ジテ、一心ニフタゴコロナク弥陀一仏ノ悲願ニスガリテ、タスケマシマセトオモフココロノー念ノ信マコ トナレバ、カナラズ如来ノ御タスケニアズカルモノナリ。コノウヘニハナニトココロエテ念仏マウスベキゾナレバ、往生ハイマノ信力ニヨリテ御タスケアリツル、カタジケナキ御恩報謝ノタメニ、ワガイノチアランカギリハ、報謝ノタメトオモヒテ念仏マウスへキナリ。コレヲ当流ノ安心決定シクル信心ノ行者トハマウスベキナリ。アナカシコ アナカシコ。 文明3年12月18日 
 
熊野・成道(じょうどう)地

南北朝から室町時代にかけて熊野信仰を盛り上げていったのは、じつは、修験道でもなく、ましてや神道でもなく、時衆(のちに時宗)という仏教の一派でした。時衆とは、一遍上人を開祖とし、鎌倉中期から室町時代にかけて日本全土に熱狂の渦を巻き起こした浄土教系の新仏教です。時衆の念仏聖たちは南北朝から室町時代にかけて熊野の勧進権を独占し、説経「小栗判官」などを通して熊野の聖性を広く庶民に伝え、それまで皇族や貴族などの上流階級のものであった熊野信仰を庶民にまで広めていったのでした。 
時衆の念仏聖たちは熊野を特別な聖なる場所と認識していました。 
それは、熊野の本宮が、時衆の開祖とされる一遍上人がある種の宗教的な覚醒に到った場所だからです。 
一遍は、四国は伊予(愛媛県)松山の豪族で河野水軍の将・河野家の出身。10歳のとき、母の死に無常を感じて出家。13歳で浄土宗に入門。25歳のとき、父が亡くなり、家督を継ぐために生国に帰り、還俗。豪族武士として生活しますが、33歳で再び出家。三人の尼僧(二人の成人女性と少女一人。妻と娘と下女と思われます)を連れて伊予を出ます。 
一遍上人ら一行は、融通念仏(ゆうずうねんぶつ)の聖(ひじり)として「南無阿弥陀仏」と書かれた念仏札を配って人々に念仏を勧める遊行(ゆぎょう)の旅を始めました。 
融通念仏とは、一人の念仏で一人が救われるのではなく、何人もの人が互いに念仏を唱えることで、念仏の力が融通しあって、より強い力となって、人々が救われるというものです。 
浄土の東門とされ念仏聖の拠点であった四天王寺を経て、やはり念仏聖の拠点であった高野山を詣でた後、一遍一行は、阿弥陀の浄土と見なされていた熊野本宮へ向かいました。熊野本宮に向かう道中、一遍にとってショックな出来事がありました。 
熊野の山中、一遍上人たちは、市女笠に足首のあたりまで届く長い垂絹を垂らした二人の高貴な女性と三人の従者を従えた一人の僧にゆきあいます。一遍はいつものように念仏札を手渡そうとしました。 
 
そのあたりの様子が絵巻「一遍上人絵伝(一遍聖絵)」に描かれ、記されていますので、第三巻・第一段の詞書を全文、現代語訳します。 
 
文永十一年(1274)の夏、高野山を過ぎて熊野へ参詣しなさる。山海千重の雲路をしのいで、岩田川の流れに衣の袖をすすぎ、数カ所の王子で礼拝をいたして、発心門の水際で心の閉ざしを開きなさる。藤代岩代の叢祠(そうし)には垂跡の露たまを磨き、本宮・新宮の社壇には和光の月鏡を掛けた。古柏老松の影をたたえた殷水(いんすい)の波は声を譲り、錦キ玉皇(きんきぎょっこう・キのところは漢字がない)の飾りを添えた巫山の雲は色をうつす。とりわけ、発遣の釈迦は降魔の明王とともに東に出て、来迎の弥陀は導いた衆生をともなって西に現われなさった。 
ここに一人の僧がいた。聖が勧めておっしゃるには、「一念の信を起こして南無阿弥陀仏と唱えて、この札をお受けなさい」と。 
僧が言うには「いま一念の信心が起こりません。受ければ、嘘になってしまいます」と言って受けない。 
聖がおっしゃるには「仏の教えを信じる心がないのですか。なぜお受けにならないのですか」 
僧が言うには、「経典の教えを疑ってはいませんが、信心がどうにも起こらないのです」と。 
そのときに、幾人かの道行く者たちが集まってきた。この僧がもし札を受けなければ、みなが受けないであろうという事態でありましたので、本意ではなかったが、「信心が起こらなくても受けなされ」と言って、僧に札をお渡しなさった。 
これを見て、幾人かの道行く者たちもみなことごとく札を受けました。その間に僧はどこかへ消えてしまった。 
このことを思惟するに、それはそれとして理にかなったことである。 
念仏札を拒否された。このことに一遍はとてもショックを受けました。こんなことは初めての体験でした。今までは誰もが素直に念仏札を受け取ってくれました。 
しかし、「信心が起こらないので、受け取れば、嘘になってしまう」という僧の言葉は、なるほど、もっともなことで、理にかなっています。 
今後、またこのようなことが起きたら、どうしたらよいのか。今まで自分が行ってきた布教の仕方は間違っていたのか。一遍は歩きながら、悩み、煩悶しました。 
熊野本宮に着いた一遍は、念仏を勧める際の心がけについて冥慮を仰ごうとお思いになって、本宮証誠殿の御前で願意を祈請し、まだまどろまないうちに御殿の御戸を押し開いて、白髪の山伏が長頭巾をかけてお出になる。長床には山伏三百人ばかり頭を地につけて礼敬(らいぎょう)し申し上げている。 
   
このとき「熊野権現であられることよ」とお思いになって、一心に拝んでいらしゃると、かの山伏は聖の御前にお歩み寄りなさっておっしゃるのには、「融通念仏を勧める僧よ。どうして悪い念仏の勧め方をされるのか。御坊の勧めによって、一切衆生ははじめて往生するわけではない。阿弥陀仏が十劫の昔に悟りを開かれたそのときに、一切衆生の往生は阿弥陀仏によってすでに決定されていることである。信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、その札を配らなければならない」と、お告げなさる。 
この後、目を開いてご覧になったところ、十二、三歳ほどの童子が百人ばかり来て、手をささげて、「その念仏をください」と言って、札を手にとって、「南無阿弥陀仏」と申してどこへともなく去ってしまった。 
およそ、融通念仏は、大原の良忍上人が夢定の中に阿弥陀仏の教勅をお受けになって、天治元年甲辰(きのえたつ)六月九日に初めて行いなさるときに、鞍馬寺毘沙門天王をはじめ梵天、帝釈天などが名帳に名を記しして結縁なさったという。この童子も、熊野の王子たちがお受けになったのではと思い合わせられる方もおります。 
「大権現の神託を授かった後、ますます他力本願の深意を了解した」と語りなさった。 
ここで、山伏姿で現われた熊野本宮の神は「一切衆生の往生は阿弥陀仏によってすでに決定されているのだ」と一遍に語ります。「だから、信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、念仏札を配りなさい」と。この考え方は天台本覚思想から発展したものです。天台宗のなかで発展した「本覚思想」は、「人は生まれながらにしてすでに悟っている」と考えました。天台本覚思想を浄土教のなかで発展させれば、「信心をもっていようがいまいが、なんであろうが、あらゆる人が阿弥陀仏の力によって往生するであろうことはすでに決定されている」という考えになります。 
浄土思想の中心経典「浄土三部経」のひとつ「無量寿経」に、阿弥陀仏がまだ修行中で法蔵菩薩とよばれていたときに立てた本願(「本願」とは、如来という結果になるための原因である菩薩のときに立てた誓願のこと。「以前の誓願」「もとの誓願」という意味をこめて、「本願」と訳されました)のことが記されています。 
「無量寿経」によると、法蔵菩薩は衆生を救うために四十八の本願を立てました。その四十八の本願のなかに他の菩薩の本願にはない「念仏往生の願」というものがありました。これは「阿弥陀仏を信じ念仏を唱えるすべての人々が救われ、極楽往生できないのならば、自分は仏にはならない」という誓いです。そして、いま、法蔵菩薩は仏と成り、阿弥陀如来となっています。ということは、菩薩の四十八の誓願はすべて果たされ、人々はすでに救われているのだということになります。だから、人はただ素直に「南無阿弥陀仏」と唱えれば、それだけで往生できるのだ、ということなのです。 
しかし、一遍は「一念の信を起こして南無阿弥陀仏と唱えて、この札をお受けなさい」と信心の押しつけをしようとしました。 
これに対し、熊野権現は「それは悪い念仏の勧め方だ。信不信をえらばず、浄不浄を嫌わず、念仏札を配りなさい」と諭します。 
信心をもっていようがいまいが、なんであろうが、あらゆる人が阿弥陀仏の力によって往生するであろうことはすでに決定されているのだから、あとはその人が素直な心で阿弥陀仏を求めて念仏を唱えれば、それだけでよいのだ。 
だから、念仏を人に勧めるときは、無理強いなどしてはいけない。相手が素直な心のままに阿弥陀仏を求め、素直な心のままに念仏を唱える、そういう自然な心の状態をつくりだしてあげなければならないのだ。 
そういうことなのでしょう。 
 
阿弥陀仏を本地とする熊野本宮の神の神勅を一遍が受けたこのときを、時宗教団では一遍成道(じょうどう。悟りを開くこと)の年とし、開宗の年としています。また、一遍がそれまでの智真(ちしん)という名を改めて一遍と名乗ったのもこのときからのことで、一遍自身「わが法門は熊野権現夢想の口伝なり」とまで語っています。熊野権現の神勅を受けたときから、真の一遍の念仏布教の旅が始まったのでした。 
一遍は熊野を発ち、信不信を選ばず、貴賤男女を問わず、会う人ごとに念仏札を配って、念仏を勧めて諸国を巡りました。 
一遍について出家する者、また在俗にあって一遍に帰依する者も現われ、一遍の教えは徐々に徐々に一遍の歩みとともに広まっていきました。 
一遍は東北地方から九州まで全国を遊行しましたが、その途中、1279年、信州佐久でのこと。集まった人々と念仏を唱えていたところ、人々が念仏の喜びのあまり念仏を唱えながら踊りだしてしまったということがありました。これが時衆の「踊り念仏」を始まりです。 
このとき以降、一遍は、踊念仏と賦算(ふさん。念仏札を配ること)を2本柱として念仏布教を行うようになります。 
他の浄土教では、念仏を唱える者と阿弥陀仏との間に無限の距離が横たわっていますが、一遍の踊り念仏は、リズミカルで激しい踊りに身をゆだねることで、その忘我のエクスタシーのうちに人間と阿弥陀仏の距離を一気に無化するというじつに密教的な念仏でした。 
この踊念仏が人々に受け入れられ、一遍時衆は、貴賤男女を問わず、日本中を熱狂の渦に巻き込みます。一遍は一躍、生き仏として崇められるカリスマ宗教家となりました。 
時衆は、浄土宗・浄土真宗をはるかに凌ぐ浄土教最大勢力となりましたが、一遍はなお自分の寺を持たず、諸国を遊行し続けました。最低限必要な物だけを持ち、歩き、念仏を唱え、踊り、念仏札を配る、遊行の日々。 
 
一遍が興願僧都という僧に念仏の本当のあり方とはどういうものかと尋ねられて書いた手紙があります。一遍の教えのエッセンスが詰め込まれたすばらしい手紙ですので、全文を現代語訳します。 
 
念仏を行する者が心がけなければならないこと示してくれということですね。承りました。 
じつは、南無阿弥陀仏と唱えることの他、心がけることはなく、この他にまた示すべき本当の有り様もないのです。 
諸々の智者たちが様々に立てた教えがありますけれども、みな諸々の迷いに対するかりそめの教えなのです。 
ですから、念仏を行する者はこのような教えを打ち捨てて、念仏するべきです。 
昔、空也上人がある人が念仏はどのように唱えるべきなのかと問うたところ、「捨ててこそ」とだけで、他には何ともおっしゃらなかった、と西行法師の「撰集抄(せんじゅうしょう)」に載せられています。これは本当に金言です。 
念仏を行する者は知恵をも愚痴をも捨て、善悪の判断をも捨て、貴賤、身分の高い低いといった社会の道理をも捨て、地獄を恐れる心をも捨て、極楽を願う心をも捨て、また諸々の宗派の悟りをも捨て、一切の事を捨てて唱える念仏こそ、阿弥陀がはるか過去に立てた本願にもっともかなうのです。 
 
このように声高に唱えれば、仏もなく我もなく、まして、念仏を声高に唱える中には理屈もありません。この現世が浄土なのです。外に極楽浄土を求めてはならないし、この現世を厭うてはならないのです。あらゆる生きとし生けるもの、山や河や草や木、吹く風や立つ波の音までも、念仏でないということはありません。人だけが阿弥陀の本願に預かるのではないのです。また、このように愚老が申すことも心得にくければ、心得にくいままに愚老が申すことをも打ち捨て、ああだこうだと考えずに阿弥陀の本願に任せて念仏なさい。 
念仏は、信心して唱えても、信心しないで唱えても、阿弥陀の本願に違うことはありません。阿弥陀の本願に欠けたところはなく、余るところもありません。この他に何を心がけて唱えるべきでしょうか。 
ただ愚かな者の心に立ち帰って念仏なさい。南無阿弥陀仏  
 
一遍は、善悪の判断を捨てろといいます。 
信心をもっていようがいまいが、なんであろうが、あらゆる人が阿弥陀仏の力によって往生するであろうことはすでに決定されている。あとはその人が素直な心で阿弥陀仏を求めて念仏を唱えれば、それだけでよいのだ。 
自分はかつて悪事を働いたことがあるだとか、善いことをしているだとかそのような考えをもつと、素直な心の働きが阻害されてしまう。善悪の判断を捨て、素直な心のままに念仏を唱えろということなのでしょう。 
これはたとえ悪人でも素直な心で念仏を唱えさえすれば往生できるのだということにつながるのでしょう。一遍の教えは武士階級にも広がりましたが、人殺しという悪事を職業とする武士でも極楽往生はできるのだという教えが彼らを捉えたのかもしれません。 
貴賤、身分の高い低いといった社会の道理を捨てろ、といいます。 
平安中期ころまでは念仏は僧が唱えるもので、それを聞くことのできるのも貴族階級に限られていました。それを在家の者でも唱えてよいのだとし、貴族だけでなく庶民にも広めていったのが、一遍が手紙に名を挙げた先人・空也上人(くうやしょうにん)であり、鎌倉新仏教の開祖たちであり、また一遍上人その人でした。 
女であるから往生できないとか、身分が低いから往生できないとか、そのようなことを考えてはいけない。 
素直な心のままに念仏を唱えればどんな人間であろうとも往生するのだから、その心の自然な働きを歪めるようなことは考えてはいけないのだというところでしょうか。 
実際、一遍時衆を支えたのは、武士であり、農民であり、女性であり、非人たちでした。社会の最下層に置かれたハンセン病者も信徒となりました。 
地獄を恐れる心をも捨て、極楽を願う心をも捨てろ、と一遍はいいます。 
念仏を唱えるのは、極楽往生を願って阿弥陀仏にすがるためです。しかし、その心をも捨てろといいます。そのような願いや、あるいは地獄に対する恐怖心は、自然な心の働きを抑圧してしまう。 
善悪の判断、貴賤、身分の高い低いといった社会の道理己、地獄を恐れる心を、極楽を願う心、とにかく心の自然な働きを歪めるあらゆるものをすべて取り除けということなのでしょう。 
声高に念仏を唱えれば、仏もなく我もないのだ、といいます。 
踊り念仏のところでも書きましたが、他の浄土教では、念仏を唱える者と阿弥陀仏との間に無限の距離が横たわっています。念仏を唱える者と阿弥陀仏とは一体になることはありません。 
しかし、一遍は、念仏により唱える者と阿弥陀仏の距離を一気に無化することができると考えました。 
この現世が浄土であり、外に極楽浄土を求めてはならないし、この現世を厭うてはならないのだ、と一遍はいいます。 
現世を厭い、極楽浄土を求めるというのがこれまでの浄土教の考え方でしたが、一遍はそのような考え方を否定します。 
それは、ありとあらゆる現象や生きとし生けるものにひとつの力が貫いていることを一遍は直感していたからです。 
あらゆる生きとし生けるもの、山や河や草や木、吹く風や立つ波の音までも、念仏でないということはない、と一遍はいいます。 
あらゆるものを貫くひとつの力。あらゆるものを生み出すとともに、あらゆるものに行きわたり染みわたっている、ひとつの力。すべてはそのひとつの力の場のなかに生じる一時的な現象である。その力を一遍は阿弥陀仏の慈悲としてとらえました。阿弥陀仏の慈悲はこの世界のどこまでも行きわたり染みわたっている。だから、人はただ素直なままに念仏を唱えればよいのだ、と。 
 
「遊行上人」ともいわれ、「捨聖(すてひじり)」ともいわれた一遍は生涯、歩き続けました。 
16年の遊行ののち、一遍は1289年8月兵庫和田崎の観音堂で51歳の生涯を閉じました。その直前、死に臨んで、一遍は「一代聖教みな尽きて、南無阿弥陀仏になりはてた」と言い、一遍は手元にある経典の一部を書写山の僧に託して奉納し、残りのすべての書籍を焼き捨ててしまいます。亡骸は「野に捨てて獣に施すべし」と言い残し、すべてを捨て切って、一遍は静かにこの世を去りました。 
生涯、自分の寺を持たなかった一遍ですが、一遍の死後、一遍の教えを受けた人たちが各地で寺を建て、教団を組織化していきました。この時衆教団は、開祖が成道し、阿弥陀仏の極楽浄土と見なされていた熊野本宮をとくべつ神聖視し、熊野信仰を庶民の間に広めていきました。 
浄土教の最大勢力となった時衆ですが、蓮如(1415-1499)が復興した浄土真宗に吸収される形でその勢力を急速に失ってしまいます。また、熊野本宮じたいが江戸中期に神仏分離を果たし神道化してしまいました。 
それらのことにより、一遍成道の地である熊野本宮やその周辺にも時衆にちなむ文化財はあまり見られませんが、それでも熊野の所々に時衆の痕跡が残されています。 
湯の峰温泉には、熊野古道「赤木越え」(湯の峰と三越峠(みこしとうげ)を結ぶ。紀三井寺に向かう西国三十三所巡礼の道)の登り口のそばに一遍上人が爪書きしたと伝えられる磨崖名号碑(一遍上人名号碑)があります。道端に突き出た崖を磨いて刻んだ磨崖碑で、上部には阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)を表わす3つの梵字が刻まれ、中央には南無阿弥陀仏の六字名号。その両側にも、風化して判別がつきませんが、文字が刻まれた痕跡があります。過去の記録に求めてみると、「西国三十三所名所図絵」に、この名号碑のことが記されており、それによると、 
奉法楽 熊野三所権現十万本卒塔婆并百万遍念仏書写畢 
南無阿弥陀仏 
乃至法界衆成所願也正平廿年八月十五日勧進仏子敬白 
とあります。 
正平20年(1365)一遍が亡くなってから76年後のこと。したがってこの名号碑は、後世の時衆の念仏聖が爪書きしたもので、それをのちに一遍上人その人が爪書きしたのだと伝えるようになったのでしょう。 
一遍上人名号碑と伝わるものは、他に和歌山県新宮市熊野川町の万歳峠(ばんぜとうげ)付近に江戸期に補修された名号碑があり、熊野川町志古(しこ)の尾頭にも江戸期の磨崖名号碑があります。 
また、熊野古道「赤木越え」には鍋破(なべわり)と呼ばれる場所があり、鍋破地蔵という石仏が立てられていますが、その地名は一遍上人の伝説に由来します。 
湯の峰に爪書きの名号を残したのち、一遍上人は「赤木越え」を歩くことになった。弟子が先に赤木越えの峠で上人を待ちながらご飯を炊いていると、ご飯が炊きあがらないうちに鍋の水がなくなっているのに気づき、慌てて水を汲みに行って帰ってきたら、鍋が割れて米も黒焦げになっていた。そこに後から発った一遍上人が追いつき、これも如来が与えたもうた試練かと、何も食べずに再び歩き始めた。このことからこの辺りは鍋割と呼ばれるようになった。 
また、鍋割から「赤木越え」を三越峠へ向けてしばらく行くと、また一遍上人の伝説に由来する場所があります。そこの地名は献上(けんじょう)。そこにはかつて茶屋がありました。 
三越峠の手前1里程の処に一軒の茶屋があった。一遍上人たちが通り過ぎようとするのを、茶屋の主人が引き止め、「お代は要らないから」と、茶屋へ上げ、もてなした。 
上人が「この愚僧にこのようなもてなしをされてはもったいない」と言うと、「私共は修業のお坊様に献上するのを一番の楽しみとしています。それゆえに御仏の加護をいただき、このように家は繁昌、家内安全に送らせていただいているのです」との主人の言葉。上人は俗人に身をもって教えられていることを悟った。 
「お坊様はどこへ参られるのですか」と主人が尋ねると、上人は「我等は相模の国藤沢山浄光寺(現・時宗総本山の清浄光寺(しょうじょうこうじ)。遊行寺(ゆぎょうじ)とも。神奈川県藤沢市)の愚僧です」と名乗った。 
それで世の人は、名高い一遍上人に献上したということで、この家の家号と地名を「献上」と名づけ、その家はその後も長く続いているという。 
現在の熊野ではかすかにその痕跡を残す程度になってしまった時宗ですが、熊野本宮と時宗のつながりは現在でも続いており、代々の時宗の管長(最高責任者)は就任にあたり、熊野本宮に参詣奉告することが習わしとなっています。また、本宮大社旧社地大斎原(おおゆのはら)には、昭和46年に時宗寺院の手によって、南無阿弥陀仏と刻まれた一遍上人神勅名号碑が建てられました。   
 
夢託

一遍聖ほど神仏に寛容であった仏教者はない。神仏混淆であったが日蓮、親鸞の如く鎌倉時代の仏教者としてアイデンティーを主張することも可能であった。神々について語ることは今日の学会、教育界、マスコミ、世論は自ら口を閉ざしてきたが、一遍を語るに当たって神々を無視しては全貌を掴み得ないと考える。同時に神々からのメッセージを一遍聖は「夢託」(夢の中での神からの信託)という形式で時衆に伝え、聖戒の残した「一遍聖絵」ほかに克明に記録されている。  
神仏との出会い  
「一遍聖絵」での夢託或いは紫雲に関する記述は三十ケ所に及ぶ。「一遍上人語録」の明和版には熊野の神詠が記載されている。それぞれが一遍にとって重要な信仰の転機を表しているが、今回は一遍聖にとりもっとも重要な回天の機縁となった 。  
1)出家の動機 弘長3年(1263)以降 伊予国・河野領別府  
2)賦算(御札配り)開始 天文11年(1274)紀伊国・熊野権現 
3)単独遊行 建治2年(1276)大隅国・大隅正八幡宮  
4)死出の旅路 正慶2年(1289)淡路国・志筑北野天神  
の四ケ所での夢託(神託)に触れる。 
彼の輪鼓の時、夢に見給へる歌 > 世をわたりそめて高ねのそらの雲 たゆるはもとのこゝろなりけり  
歌の意味は「世俗に交わる生活を始めていたものの、輪鼓の一件から高嶺の空にかかっていた迷いの雲がからりと晴れた。これこそ本来のあるべき心であったのだなあ。」   
一遍は出家し、還俗し、再出家したが、再出家の要因は識者により種々説明がなされているがいずれも確証はない。「聖絵」では童子と輪鼓遊びの折に輪廻転生につき思いを致し発心したとするがいかにも根拠が薄弱である。「遊行上人縁起絵」では親類の中に遺恨により一遍を殺害せんとして額に傷を負うが太刀を奪い取って一命と取りとめるとしている。また江戸時代初期の「北条九代記」では美貌で心優しい愛妾が二人を寵愛したが二人の昼寝の時毛髪が小蛇となって絡みついているのを見て出家を決意したとしている。  
一遍の出家は情緒的な精神的な要因よりも経済的要因であると考えている。承久の役が伊予に於ける河野家は一時衰亡するが、北条方に加勢した通久・通継と出家していた通広の子である通真・通尚(一遍)・通定(聖戒)・仙阿が残った。父通広と長兄通真の死後通朝が家督を継ぐが、還俗した一遍以外は若年であり家督の任に当たったと考えられる。「田分け」せず長子相続を保持することが一族を守ることであり、一遍・聖戒・仙阿は出家することになる。後年になるが聖戒は時宗歓喜光寺、仙阿は時宗宝厳寺派を創設する。  
熊野権現より夢に授け給ひし神詠 > まじへ行く道にないりそくるしきに 本の誓のあとをたづねて  
歌の意味は「雑善雑行の道は苦を生むもとだから行ってはいけない。阿弥陀仏の本願を追慕しているのに」である。  
熊野の神託は一遍の賦算(御札配り)の決定的な出来事であり、熊野権現の教示により他力念仏の本旨を悟ったとされる。時宗では一遍の賦算開始を文永11年(1271)の熊野の神託〔時宗辞典〕とするが、熊野出発前の摂津・四天王寺説〔今井雅晴〕や伊予・桜井説〔金井清光〕もある。  
私は熊野権現教示説を取るが、一遍は万一を考えたかどうかは不明だが、後継者として聖戒を想定し熊野から新宮に出た時に、聖戒宛「また念仏札の形木を授ける。仏縁に結ばれるよう」との書を与え念仏房(か?)に届けさせている。聖戒が賦算したかどうかの記載は「聖絵」にないが、聖戒が形木を保有していたとすると賦算権があった筈だが聖戒は自らその権利を放棄したのであろうか。熊野の神託による権威付けで一遍のみに賦算権があることを明示したとも考えられる。今日でも賦算は遊行上人のみが行うことが出来る崇高な宗教的な儀礼である。  
さて大隅正八幡宮にまうで給ひけるに、御神のしめし給ひける歌 > かかりやすらむみねのうきくも なもあみだぶつにむまれこそすれ  
歌の意は「いつまでも変わらずに南無阿弥陀仏を唱えれば、そのままあなたもきっと南無阿弥陀仏になりきって浄土に往生するのである。   
建治二年(1276)九州の聖達上人を訪ね、その後九州を修行することになったが、困苦にを極めた。「聖絵」ではその情景を描写している。「九州修行の間は、ことに人の供養などもまれなりけり。春の霞あぢはひつきぬれば、無生を念じて永日を消し、夕の雲ころもたえぬれば、慚愧をかさねて寒夜をあかす。かくて念仏を勧進し給けるに、僧の行あひたりけるが、七条の袈裟のやぶれたるをたてまつれりけるを、腰にまとひて、只縁に随ひ足にまかせてすすめありき給けり。山路に日くれぬれば、苔をはらひて露にふし、渓門に天あけぬれば、梢をわけて雲をふむ。」まさに死と直面した難行苦行である。一遍に迷いがなかったとはいえない。死を覚悟しなかったとも言い切れない。 
同国しづきといふ所に北野天神勧請したてまつれる地あり、聖をいれたてまつらざりける 
よにいづることもまれなる月景(影)に かかりやすらむみねのうきくも 
歌の意は「めったに世に現れることもない月(一遍聖)を峰の浮雲(神官ら)が蔽い隠すだろうか。(聖のお参りを妨げてはならない)」 
この歌は「聖絵」にはあるが、他阿上人も淡路の旅は同行している筈であるが「遊行上人縁起絵」に記載されていない。それ以外の淡路での五句は双方に出ている。  
 おもふことみなつきはてぬうしと見し よをばさながら秋のはつかぜ  
 きえやすきいのちはみづのあはじしま 山のはながら月ぞかなし  
 きえやすきいのちはみづのあはじしま 山のはながら月ぞかなし声   
 名にかなふこゝろはにしのうつせみの もぬけはてたる声ぞすゞしき  
 旅衣木のねかやのねいづくにか 身のすてられぬところあるべき  
歌が社壇(神殿)に現れるとはいかなることか。刻は夜半であろう。神官も聖戒も恐らく一遍上人も夢の中に天神の託宣が現れ急ぎ社殿の中にお入れしたのであろうか。他阿上人には夢託はなかったのだろうか。「一遍聖絵」は二祖他阿上人と正当性を争って破れた聖戒が正当性を主張して完成した絵巻物であるだけに、他阿上人と聖戒の救いがたい葛藤を感受することができよう。 
夢託の世界  
夢のイメージ  
「古事記」人代篇崇神天皇の項に有名な夢託の記述がある。崇神天皇代に疫病が流行し天災が多発したので天皇は神牀に籠もるが、オホモノヌシ(大国主)をオホタタネコ(大国主の五代後裔)に祭らせば国を安らかにするとの夢託があり大神神社として祭りアマテラス系(天神)とオオクニヌシ系(地祇)の共存が確認される件である。聖徳太子が籠もる法隆寺金堂を夢殿と呼称するのも夢託の存在を前提にしている。  
今日でも庶民の間に流布する仏教的な世界は「夢をみる」ことを歌ったものが数多くある。例えば中村雨紅の「夕焼け小焼け」「梁塵秘抄」「いろは歌」があり、夢合・夢占・夢語・夢違・夢主・夢枕・夢見・夢解といった非現実的な場を想像する言葉が多い。「字統」によれば夢の故字は「 」で「媚蠱などの呪儀を行う巫女の形。目の上に媚飾を施している。その呪霊は、人の睡眠中に夢魔となって心を乱すもので、夢はそのような呪霊のさす技とされた」。貴人が没す時に薨の字は夢魔に逢って俄に去るの意であろう。  
一遍の夢の捉え方  
「播州法語集」では「又云、称名の外に見仏(けんぶつ)を求むべからず。称名即真実の見仏なり。肉眼(にくげん)を以て見る所の仏は、実の仏にあらず。われら当体の眼に仏を見るは、魔としるべし。但し、夢に見るはまことなる事あり。これゆゑに、夢は六識が亡じて、無分別の位にみる故なり。故に、経には「夢定」と説り。」とある。フロイト以降「夢は内から来るもの」として科学的に解明されているが、鎌倉時代いや奈良、平安から中世まで「夢は外から来るもの」で神仏からのメッセージであると神秘的に解釈されてきた。  
 神仏が人間に何か大事なことを伝えようとしている〔夢託〕  
 それをたまたま自分が受けた〔夢見〕  
 だから皆に話さなくてはならない〔夢語〕  
 やがて夢の共有や共生化が図られ、夢集団(カルト)が結成され、神話や信仰が現実化される。  
 夢集団(カルト)=教団の指導者(教祖)と同じ夢を見ることに寄って一体化・従属関係が確立する。 
一遍聖自身が理解していたかどうかは不明であるが、一遍は夢託(夢の中での神託)を和歌の形式で集団に周知し、夢の共有化により時宗集団の結束維持を図り、多くの帰依者を広げていったのではないだろうか。更に時衆布教で大きな力となったのは、古代の巫女にみる様に神により近く、「夢託」を感性として理解でき、躍踊という身体表現を可能にした女性集団(尼僧)の存在があったと考えている。  
 
遊行上人

遊行上人といえば時宗の宗祖一遍があげられるが、時宗の歴代宗主も遊行上人と呼ばれる。すなわち諸国を巡り民衆の念仏教化をする時宗の僧ということである。彼等は中世を通じて遊行回国(かいこく)し、民衆に名号札(ふだ)(「南無阿弥陀仏決定径生(六十万人)」の札)を手渡したり、念仏踊りを通じて民衆に接している。札を受けることによって極楽往生を約束してくれる上人は、人々にとってはまさに生き仏なのである。このような遊行上人に対して、中世領主はいろいろな保護を与えている。足利4代将軍義持(よしもち)も、遊行上人の回国に際して、関所渡しは通行自由という権利を与えているし、島津氏は回国時に乗馬80匹と荷馬300匹を用意している。馬を用意するということは、当然それと同数の人足もいたことになる。近世以降になると、江戸幕府は遊行上人に伝馬(てんま)手形(将軍の朱印があり、伝馬朱印ともいう)を発行している。これによって遊行上人は全国どこでも馬50匹を徴発することができた。近世の遊行上人は、時宗31代同念(どうねん)から58代尊澄(そうちょう)までの計28人である。約10年に1人の遊行上人が誕生している。いいかえれば10年かけて全国を遊行するということである。 
豊後回国 
江戸時代を通じて二豊(にほう)の地に遊行回国で来豊した遊行上人は次表のとおりである。このうち、豊前を回ったのは享保18年(1733)の快存と嘉永7年(1854)の一念(いちねん)の2名だけであった。他の7名はすべて臼杵から宇和島(愛媛県)へ渡っている。享保18年の回国については後述するが、嘉永7年の回国は豊後の様子がわかる史料はなく、次の様な豊前に関する記録が残るのみである。「嘉永七寅七月、遊行上人中津円応寺(えんおうじ)御宿ニ相成、在中勝手次第参詣仰せ付けられ候」(西屋形(やかた)村庄屋「記録并聞書扣(ひかえ)帳」)。まず遊行回国のコースをたどってみる。毎回ほぼ同じコースをたどるので、延享4年(1717)の場合を例としてあげてみよう。4月10日八戸泊(宮崎県)→11日八戸発→アツサ越(上り壱里半、下り壱里半)→水上ヶ谷(休)→小野市泊(深田久馬助方)→12日小野市発→ハタカエシ(大坂)→中津無礼(昼休)→宇多枝泊(禅宗宝生寺)→13日宇田枝発→竹田泊(浄土宗正覚寺)→24日竹田発→牧口村(休)→三重市泊→25日三重市発→野津市(昼休)→臼杵泊(浄土宗大橋寺)→5月1日臼杵発→したなひ((のえ))泊(港)→2日したな((の))江発→佐賀関下浦(しもうら)泊→3日佐賀関発→宇和島。一行の人数は相当な数にのぼる。5月1日の臼杵から乗船した人数および荷物をみると、御召船に上人と僧17人下男3人が乗船、荷物30包、夜具17包、挟箱(はさみばこ)7つ御膳具などが積みこまれている。以下3艘に僧40人下男10人が分乗、荷物も積み込んでいる。さらに荷物だけを積み込んだ船に人足4人が乗り込む。総計上人を含めて僧が58名下男13人人足4人となる。このほか先触として数日前に宇和島へ渡った僧たちもいるので、総勢80名を越す数となる。「遊行日鑑」によると、八戸村から梓峠(あずさとうげ・宇目町)越えの時に、荷物持ち人足は総勢2000人もいたという。宿泊所は時宗の寺だけでなく、他宗の寺や庄屋宅にも泊る。臼杵は大橋寺と決まっていた。もちろん1か寺だけでなく何か寺かに分宿している。回国先ではお札やお守りを配るが、名号札以外は矢除、雷除、大黒の種子(しゅじ)などであった。近郷近在から人々が集まり多い時は数千人にも達したという。 
享保18年3月の回国は、それまでとは異なるコースをとっている。これは前年秋に西日本一帯を襲った虫害による大凶作が関係する。三重市までは従来通りであるが、ここから山奥村(犬飼町)→府内(浄土宗来迎寺泊)→別府→頭成(真宗覚正寺泊)→立石→宇佐(北坊泊)→高瀬村(中津市)→小倉領へのコースをわずか6日間で通過している。コース変更については「府内藩記録」に次のようにある。先日遊行上人回国に関する書状が来たが、当領に来るのは初めてなので臼杵藩の家老へ問い合せた。臼杵藩の返答は、昨秋の虫害がひどく接待ができないので断ったというものであった。府内藩も十分な対応ができないとしながらも、70人余もの一行の接待をしている。上人一行は飢饉のひどさを目にしたためか、各地とも1泊で通過している。途中別府鉄輪(かんなわ)の松寿寺に立ち寄っているが、この寺は一遍が開いたといわれる時宗の寺である。宇佐宮では神前で念仏をとなえお札を奉納している。宗祖一遍は各地の神社を参拝しており、宇佐宮にも建治2年(1276)に参篭(さんろう)している(望月華山編「時衆年表」)と伝えられているので、快存らも参詣したのであろう。  
 
阿弥衣

時宗は一遍上人(1239-1289)によって創始された浄土宗の流れをくむ念仏教団である。しかし法然や親鸞の専修念仏とは異質のもので、日本固有の民族信仰を内蔵し、野性的な自然主義が見られる。時宗の法衣は従来の中国的、また日本の貴族的な法衣を捨てて、庶民的な服装のなかに法衣を見出した。即ち式正(しきせい)の衣、裳の観念を排した裳なしの衣で、粗雑な繊維の故に網衣(あみえ)と呼ばれ、人の用いるものではないという意味から「馬ぎぬ」とも呼ばれたが、宗団の人は却ってこれを阿弥衣と尊んだ。墨の阿弥衣に墨の五條袈裟、墨の下襲(したがさね)、白の下着、墨の帯に白の手巾(しゅきん)をかけ、手には数珠と人々に配る「南無阿弥陀仏決定往生60万人」と書かれた念仏の紙片を持っている。
 
浄土の因果 / 親鸞浄土教に至るまで

因果の法 
仏教の説く法の基本にあるのは「因果(縁起)の法」と言われる。これを詳しく説いたのが「十二縁起」であり、「無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死」からなる。これをまとめて、「惑(縁)、業(因)、苦(果)」とする。これが「過去世、現世、来世」の「三世」に渡って展開する「三世の因果」となる。そこにあるのがいたずらに「生死」を繰り返す「業報(因果応報)」の連鎖である「輪廻」である。この「苦」からの解放(解脱)を説くのが仏教である。そこから完全に解放されたのが「涅槃」の世界である。苦である「輪廻」の世界を「此岸」とし、「涅槃」の世界を「彼岸」とする。仏陀とは此岸から彼岸に渡った人であり、その代表者が歴史的存在としての釈尊である。 
釈尊においてはすでに在世中に涅槃に達していたが、「涅槃像」や「涅槃図」があるように、その死もまた涅槃として表された。涅槃が悟りでもあり、死でもあることがここから始まる。ここがまた浄土教の出発点でもあり、涅槃の世界が悟りの世界でもあり、死後の世界でもある。「此岸」と「彼岸」が「迷い」と「悟り」に対応するとともにこの世界と浄土にも対応する。いわゆる「あの世」はその中間的世界だが、「六道輪廻」として「迷い」「此岸」に属するものである。「この世とかの世をともに捨てる」のが仏教である。 
仏教はしばしばいわゆる「霊魂」を否定すると言われるが、それは「六道輪廻」を繰り返しているものが「霊魂」と言われるもので仮の存在に過ぎないからである。大乗仏教では「唯識」で説く「阿頼耶識(あらやしき)」と言われるものが、過去の自分を「種子」として記憶し生死を繰り返すものなので、「霊魂」に近いだろう。仏教はそれを越えることを目指している。霊魂と区別して「仏性」を説くのはそのためである。鈴木大拙は「霊性」という言い方もしているが、仏教はあの世や霊的知識を説くことに主眼があるのではない。それは現象の説明の一部である。仏や菩薩といった聖衆はいわゆる霊魂ではなく、仏性を体現したものを、仮に人間の形で表しているに過ぎない。「惑、業、苦」という「業報」の「三世の因果」からいかにして脱するかが問題である。「苦」からの解放をもたらすのが真実の認識であり、仏教はそのための方法論である修道論を説く。仏教が知識でも学問でもないのは、結局この苦からの解放を求めて修行する実践の宗教であるからである。これが仏道である。この実践の修道論も「因果の法」を基本とする。ここで説かれるのが「四諦」と「八正道」である。大乗仏教ではこれが「四諦」と「六波羅蜜」となる。「六波羅蜜」は「八正道」の内容を含んでそれを発展させたものである。 
四諦 
「四諦」は「苦、集、滅、道」の各諦である。「苦諦」は詳しくは「四苦(生、老、病、死)八苦(四苦に加えて、愛別離苦、怨憎会苦、求不求得苦、五盛陰苦)」であり、現実の「苦」という「果」である。その「因」が「集諦」である。「苦」をもたらすのは人間が起こす様々な煩悩によるが、それは様々な因がより集まったものであり、その実体はないことからこう言われる。「滅諦」が修行の「果」である「涅槃」である。「道諦」が「滅諦」の「因」となる修行方法であり、「八正道」や「六波羅蜜」として説かれる。「四諦」を「因果」で表すと「苦」(果)、「集」(因)、「滅」(果)、「道」(因)となり、「因果の法」の展開であることがわかる。現在の苦しみという果には因があり、その因を滅するために、修道の仏道を歩むのが仏教である。これが実践の宗教であるということだ。因果の理法を基にした自業自得なので裁きの宗教でもない。「因果の法」は客観的な説明だが、それは何よりも衆生を実践に誘うためにある。その実践を「因」として苦からの解放という「果」に向かう。「因果の法」は決して現実を説明してあきらめさせるためにあるのではない。 
ところが封建社会においては、仏教の説く「三世の因果」が悪用され、現実の身分社会の肯定に使われたという面がある。そのために「因果の法」そのものが悪しき思想のように思われることがあるが、それは全くの誤解である。江戸時代の仏教が御用宗教として、同じく御用学問として使われた儒教とともに封建社会維持のために使われたことが、現在の日本社会における仏教への人々の意識に影響していると思われ、甚だ残念なことだ。 
道諦 
仏教を学ぶことはこうして実践である「道諦」へと進むことであるが、そこで説かれる「八正道」や「六波羅蜜」の修行について簡単に述べる。「八正道」が「正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定」、大乗仏教の「六波羅蜜」が「布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧」となる。「八正道」も「六波羅蜜」もさらにこれをまとめて「戒、定、慧」の「三学」と言われ、現代でも通用している修道論である。この「因」を修めることで「滅諦」の涅槃という苦からの解脱の「果」がある。この考え方は、迷いの世界である「此岸」から悟りの世界である「彼岸」へ、衆生である自分が修行して渡るものであり、「因」はすべて自分の側にあり、その「果」を自分で受けるものである。いい意味での「自業自得」である。これがいわゆる「自力」の世界、「聖道門」仏教の世界である。 
「因果の法」に基づくこの方法論自体には何の問題もない。すでに釈尊によって証明されている。この因果を信じることは仏教の原点である。しかしいくらそれを信じてもその修行ができなければ我々は永久に苦の世界から逃れられない。大乗仏教は一切衆生が「悉有仏性」で成仏すると言いながら、現実には「聖道門」の修行から我々は閉め出されているのを知らされる。これが「機」の「深信」に当たる。「機」の「深信」が無始以来流転し続ける罪悪生死の凡夫という自覚に至るのは、現在の迷いと苦が過去の因の果なら、過去も迷いと苦にあったことになり、また現在の迷いと苦がもし今生でそこから解脱できないなら、また将来の因となって迷いと苦という生死流転の果をもたらすからである。これが此岸の衆生の因果の信がもたらすものである。因果の起点を此岸の衆生に置く限り、自ら解脱しなければこれが当然の帰結である。果たして衆生の側の「因」しか「仏果」をもたらさないのか。これが比叡山で行き詰まった法然、親鸞の問題意識だったはずである。 
浄土教 
ここに全く別の発想による救いの仏教が求められる。こうして生まれたのが「浄土門」仏教である。親鸞浄土教はこの問題に答えたものである。そこでは因果の起点を此岸の衆生から浄土の如来に転換する。まず「因」は衆生の側にいきなりあるのではなく、それに先だって如来の側にある。衆生を救おうとする如来の「本願」が「因」となり、如来から衆生に「信心と名号」が「果」として与えられる。即ち「如来廻向」である。衆生の側の「因果」ではなく、まず如来の「因」が衆生の「果」となる。「如来廻向」という「因果」である。次いで此岸の衆生に与えられたこの「信心と名号」を「因」として、彼岸での「往生成仏」という「果」がある。親鸞が聖道門と違い成仏を浄土に置くのは、因も果も浄土の側、如来の側に置くからである。この流れは如来から出たものが如来に還っているのであり、如来の「因」が如来の「果」となっている。聖道門の此岸の衆生の「因果」から、浄土の如来の「因果」へという発想の転換である。これが「他力」という救いの世界である。こうして「聖道門」仏教から漏れた者も「浄土門」仏教によってすべて救われることになり、大乗仏教が完成する。「大乗至極」の教えと言われる所以である。 
ただしそれは聖道門の此岸の因果を無視したものではない。むしろその上に立ってそれを補完している。なぜなら、阿弥陀仏となる前の法蔵菩薩は誓願(本願)をたてて願行具足の聖道門的修行をしているからである。「無漏善」の「道諦」と「滅諦」の因と果を修めた結果、成仏して今浄土にあり、救済活動を展開しているのである。因位の法蔵菩薩の誓願が果位の阿弥陀仏の本願として成就して、今働いている。これは聖道門の此岸の因果の上に立って、浄土門の彼岸の因果を展開しているのである。釈尊の聖道門仏教の延長上にあり、聖道門の此岸の因果に加えて、彼岸の浄土の因果を補足しているのである。こうして仏教の因果の世界が完結する。なお浄土門的立場から言うと、この因位の法蔵菩薩も久遠実成の阿弥陀仏(無上仏)が衆生済度のために仮に姿を表したものであり(従果降因)、その点では因果の主系列は一貫して浄土の側にある。 
二つの因果を時間との関係で比較しよう。衆生の側の「因果」では、無常の中にある衆生は時間の流れの中にある「因」を何年、何十年、あるいは何生と重ねてその「果」を受ける。無常の中から常住へ向かう。因と果が時間的にずれるのは出発点が無常の中にあるからだ。一般的には「因」が前で「果」が後になるのが「因果」である。 
ところが浄土の「因果」は常住の世界にある「因」が無常の世界にある衆生を巡って常住の世界に戻る「果」となる。常住の世界での「因果」であり時間の流れが関係無い「因果」である。それで一念の信心をいただく時に往生が即時に定まる「即得往生」となる。 
此土で信心をいただいて「正定聚」となることも本願の果(十八願「至心信楽の願」前半と十一願「必至滅度の願」前半の成就)であるし、称名念仏することも本願の果(十七願「諸仏称名の願」)であるし、また彼土に往生し成仏することも本願の果(「至心信楽の願」後半と「必至滅度の願」後半の成就)である。「行」を説く十七願では、浄土の諸仏の称名が此土の衆生の称名となり、彼土と此土が一体の願成就である。また「信」を説く十八願と、「証」を説く十一願は、ともに一つの本願の前半が此土での成就で、後半が彼土での成就である。このように「行・信・証」のいずれも此土・彼土一体の本願成就である。それで我々が信心をいただいて此土で「正定聚」となることが彼土の「如来と等し」と言われる。ただしそれを浄土での成仏と全く同じにしないのは、すでに述べたように親鸞が因も果も浄土・如来の側におき、こちら側で因果を完結させるからである。しかし信心も成仏も同じく本願の果としての等質性、一体性をもつ。それで信心は仏性と言われる。 
このように彼土と此土のように異なるレベルのものが一体となる様相を大乗仏教では「相即」と言う。「般若心経」の「色即是空、空即是色」の「即」である。「相即」は同時因果とも言うべきもので本願成就を表す「即得往生」も「相即」の要素を含むと言える。 
時間を越えた浄土の因果では、浄土の如来の「本願」がそのまま「本願成就」となる。無常という時間の流れの中の、此岸の衆生の欲望の世界とは異なり、「願い」がそのまま成就する、時間を越えた世界の「因果」がここにある。欲望のように成就した瞬間に虚しさに襲われ、その虚しさを消すために次の欲望に走るものではない。それが欲望の連鎖である輪廻である。本願の因果と欲望・輪廻の因果の違いがここにある。本願の因果は時間を超えた「横超」の「因果」である。臨終を待って往生が定まるのではないし、多念を重ねた果として往生があるのでもない。多念は発想としては聖道門の因果と似ている。信心決定した一念の相続も、外から見れば多念に見えるかもしれないが、中身が違う。この一念の「即得往生」に安心がある。「平生業成」である。 
さらに往生後も原始仏教にはない本願(二十二願「還相廻向」の願」)を因とした還相廻向という果がある。因果の起点を此岸から浄土に転換するとこれが当然の帰結となる。過去どのように迷っていようとも自分の本来の居場所が浄土にあることを知れば起点が此岸から浄土に移り、ここに新たな生が展開する。次の生における還相廻向だけでなく今生においては「自信教人信」が可能になる。浄土往生がしばしば浄土に還ると表現されるのも、如来を御親とも呼ぶのも、自分の本来の居場所が浄土にあることを知り、起点、原点が此岸から浄土に移るからである。浄土教は浄土と如来を起点、原点とする。このように親鸞浄土教は「因果の法」に基づきながら発想を大きく転換させたものである。「教行信証」は「浄土の因果」に基づいて「真実」の救いを説きそれが「本願念仏」に集約される。 
ここに何とも言えない「ありがたさ」があり、浄土門に出会えた喜びがある。「法」の「深信」である。法然と出会った親鸞の喜びである。浄土門に至る前書きが長くなったが、この前段階がないと浄土門のありがたさはわかりにくい。親鸞のように二十年かける必要は全くないが、この前段階を思うことは仏門にある者として時に必要なことだろう。親鸞の歩みは千年、二千年(「教行信証」では二千百七十三年)の仏教の歴史の凝縮であり、我々はそれを今「本願念仏」としていただいている。そのありがたさをかみしめたい。 
善悪の因果 
仏教の「因果の法」は仏教という宗教を離れてもいわゆる「因果律」として成立するものである。この因果律は科学を成り立たせているものでもあり、そういう点では合理性がある。その意味での「因果の法」を否定する人は誰もいないだろう。ところが仏教の基本をなしているこの「因果の法」が、科学の面では受け容れられても、道徳や宗教の話となると急に旗色が悪くなる。科学の因果律と道徳・宗教の因果律は別物である、あるいは因果律は科学においてだけ成立し、それ以外では成立しないと思っている人が増えているようである。それが皮肉なことに因果律を基盤とする科学が幅を効かせた結果であるようだ。 
しかしそれは浅はかな考え方であって、現代の科学が明らかにしているのは、現象の世界のほんの一部であるに過ぎない。その目に見えない世界を含めて「因果の法」は成立している。「因果律」を認めながら、自分だけその外にあり、何をしてもかまわないというのはむしがよすぎる。「因果の法」を信じることは仏教の出発点であって、この点において仏教の果たすべき役割はいささかも失われるものではないと思う。現代社会の様々な病理現象を見ると、かつて人々の心の中に確たる地位を占めていた「因果の法」が見失われているのだろうと思う。これが末法と言われることの一つの姿なのだろう。この因果の信は、浄土門の信から言えば、わざわざ「信」という言葉を使うほどでもなく、知的なものでもあり、少しものがわかればわかりそうなものだと思う。すでに述べたように科学的なものなのである。しかしそれさえ信じられないのなら、そこから説かなければいけない時代になったのだろう。この「因果の法」を説くだけでも充分宗教として成立する。 
この「因果の法」の実際的な適用として、かつては誰もが信じ、知っていたことが「善因善果」「悪因悪果」であった。これが「三世の因果」として、この世のことだけではなく、この世を去った後にもつながっている。仏教本来としてはすでに述べたように、六道輪廻を越えた世界に至るための「因果の法」が、「道諦」(因)と「滅諦」(果)として説かれ、それを実践修道するのが仏教だった。しかしそこにまで至らなくても、六道輪廻の中だけでもこの「因果の法」は成立する。その範囲では、善をなせば「天」に至り、悪をなせば悪道に落ちる。「地獄、餓鬼、畜生、修羅」の世界である。六道輪廻から衆生が脱することが難しいのは、この範囲の因果さえ信じず無視するからだと言えよう。だからさらにその世界を越えた次の段階の因果に至らないのは当然かもしれない。高次の善である「無漏善」の因果としての「道諦」(因)と「滅諦」(果)にまで至らないのである。 
しかし生死からの出離を求めてそこまで進んだとして、この次のレベルの因果である、この「道諦」(因)と「滅諦」(果)を修めようとしたとたんに、より高いレベルの善である煩悩の交じらない「無漏善」をなすことの難しさに襲われるのが修行者の常である。「道諦」の「八正道」や「六波羅蜜」を修することの難しさは、例えば「八正道」の「正見」「正思」をとってもわかるし、「六波羅蜜」の「布施」や「持戒」をとってもわかる。あるいは「戒、定、慧」の「三学」もそれを修めようとしたとたんに壁に当たるだろう。ここが知識や学問ではない実践の道である仏道としての仏教の難しさである。 
この因果を信じた結果、行き着くのが「悪業」だけを積み重ね出離の「善業」をなしえない「地獄必定」の我が身である。「機の深信」である。既に述べたようにここにおいて別の因果の法が要請され、浄土門の如来の本願を因とするもう一つの因果が説かれる。 
信疑の因果 
因果を衆生の側ではなく如来の側の因果で捉えるのが浄土門であると述べたが、このことを衆生の側で見ると、如来より廻向された「信心」を因として救われ往生することになる。ここで衆生においては「善因善果」と「悪因悪果」、さらに高次の善を修める「道諦」(因)と「滅諦」(果)の「善悪」の因果に代わり、「信疑」の因果が成立する。「正信偈」の「還来生死輪転家決以疑情為所止速入寂静無為楽必以信心為能入」(生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもって所止とす。すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもって能入とすといえり。)という「疑情所止、信心能入」である。 
このように親鸞浄土教の因果論は、「如来廻向」の因果と「信疑」の因果から成り立っている。信心は如来廻向のものなので中心は「如来廻向」の因果であることは言うまでもない。「教行信証」では「それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲廻向の利益なり。ゆゑに、もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の廻向成就したまへるところにあらざることあることなし。因、浄なるがゆゑに果また浄なり。」(証巻)と述べられている。「正信偈」では「本願名号正定業至心信楽願為因成等覚証大涅槃必至滅度願成就」(本願の名号は正定の業なり。至心信楽の願(十八願)を因とす。等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願(十一願)成就なり。)、また同じく「正信偈」では「報土因果顕誓願往還廻向由他力正定之因唯信心」(報土の因果誓願に顕す。往還の廻向は他力による。正定の因はただ信心なり。)と述べられる。我々の信も証も如来の本願が因となり果となるものである。私の因果ではなく如来の因果である。私のものは何一つとしてない。それが浄土門である。そしてただ信心だけがある。それが仏性である。 
ところが我々衆生の側においては、疑いが晴れ、信一つになることの難しさという大きな問題がある。これが浄土教が易行道と言われながらも、「難中の難これに過ぎたるは無し」と言われる所以である。「正信偈」に「弥陀仏本願念仏邪見驕慢悪衆生信楽受持甚以難難中之難無過斯」(弥陀仏の本願念仏は、邪見驕慢の悪衆生、信楽受持することはなはだもって難し。難の中の難これに過ぎたるはなし。)という通りである。また浄土門に帰したかに見えながら、信じきれずいつのまにか疑いが頭をもたげる。「教行信証」に「化身土巻」がたてられて、疑いが晴れきれなかった者の往く「疑城胎宮」が説かれている通りである。聖道門の因果も信じて修行することができず、浄土門の因果も信じられないという人はいったいどうすればいいのだろう。そして特に現代人がそうなのである。 
せっかく聖道門においては難しいと見えた道が、浄土門においていったん開かれたかに見えながら、再び門が閉じられるように見える。この壁をさらに乗り越えさせようとするところに浄土門の祖師方のご苦労がある。親鸞の「悪人正機」が本当に意味を持つのはそれが最後の救いの言葉であるからだ。通常は「善悪」の因果によって出離がかなわぬ悪人を救おうとするのが「悪人正機」であって、それが信じられるなら、それだけで充分である。ところがそれが信じられないのが現代人である。教育程度が高くなり、分別の知恵が付き、みんな賢くなってしまい、信じるというごく単純なことができなくなってしまっている。この人々の意識の変化が一つある。 
それとともにもう一つ原因が考えられる。それは「歎異抄」が有名になり、「悪人正機」が教科書にも載るようになり、言葉として有名になりすぎたことである。その弊害とも言えるものがある。「悪人正機」は本来は「口伝」であり、救いを求める人への最後の切り札だった。劇薬的な特効薬という面があった。それが人口に膾炙してしまうと、新鮮味がなくなってしまうのである。かつてそれを初めて聞いた人々の心を捉えたような感動、ありがたみがなくなってしまうのである。「歎異抄」の著者である唯円と同じ立場に現代人は立てなくなっているのである。 
私自身は「信心正因」でいっこうに問題はない。しかしそれが成立しにくくなっているのが現代の問題である。それが信と救いの宗教である真宗を襲っている困難である。これまでに述べてきた経緯を理解していただければ、親鸞浄土教が救いの宗教として、行き着くところまで行き着いた宗教であることがわかると思う。さらにそれを端的に表したのが「悪人正機」だった。しかしそれが通じないならば、次々と新たな表現をしていくしかない。私が「悪人正機」の拡大解釈をしていくのはその試みであって、どこか一つでよいから心に触れるものがあればと思っている。 
「悪人」とは善悪の「悪」を犯した者というだけではなく、無明と無常という監獄の中に閉じこめられている我々人間の代名詞である。無明と無常の囚人の自覚である。それなくして真実の救いはない。その中でわかりやすいのが善悪であるから、「悪人」と言っているだけである。無明と無常に繋縛された人間の姿は様々であり、いわゆる「悪」をしていないから「悪人」ではないというわけでもなく、「悪人正機」も関係ないわけではない。 
逆縁の因果 
この無明と無常の中に閉じこめられ、つながれている人間を、逆にそれを縁として真実へと導くのも浄土教の役目である。ここで同じく「因果」でありながら、通常の因果とは全く逆に見える「因果」がある。それが「逆縁」という「逆説的因果」である。 
聖道門の発想は基本的には、通常の順当の因果である「順縁」の発想である。「善因善果」を重ねれば六道輪廻の中では「天」に行き着く。さらにそこから次の段階として無漏善を重ねて声聞、縁覚に至り、菩薩、仏と段階を踏んでいく。修道の階梯を一歩ずつ無理なく歩んでいくものである。これは誰も異を唱えることのできない順当の因果である。 
そこからはずれた人間を救うのが浄土門である。ここにあるのは「逆縁」であり、本来は悟りへの障碍となるものの中にいる人間を救うのである。この逆縁を成り立たせているのも実は「如来廻向」である。すでに「衆生の因果」に代わり「如来の因果」という形でこの廻向を述べたが、その際の「廻向」は信心を与える「廻施」の意味が中心となる。これも廻向の重要な働きだが、私はまた「廻向」には「向きを廻らす」「廻転」「方向転換」「翻す」意味があると思っている。「ものの逃ぐるを追はへ取るなり」と言われるものである。自力の心を翻えさし偽りに沈む人間を根本的にひっくり返す真実の力がある。 
親鸞が好んで書き与えた聖覚の「唯信抄」では「信謗ともに因として、みなまさに浄土に生まるべし。」と言う。信じる者が往生するのは当然として、謗っていた者までそれを逆縁として往生するのである。「五逆誹謗正法」という「五逆罪」(殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血)の者も、正法を謗っていた者も、それを逆縁として往生する。 
衆生の側においてはこれが「回心」として経験される。善悪の因果に漏れ、信疑の因果にも漏れた者の最後のよりどころがここにある。「畢竟依」である。「逆説的因果」と述べたが、もはやそれは通常の「因果」を越えたものと言った方がよく、むしろ奇蹟と呼んだ方がいいのかもしれない。それが浄土教においては働いているのである。信仰の奇蹟である。浄土教は「転」の宗教である。その結果、「悪」さえも「転悪成善」として「善」となり、結果的には出発点にあった「善悪」の因果にも適うことになる。 
自然法爾 
しかし結局これもやはり「因果」として言えば「如来廻向の因果」となる。浄土の因果はこれも含めて、「廻施」も「廻転」も含めての、「自ずから然らしむ」という「自然」の因果である。如来という根本因の働きの結果である。これが「自然法爾」である。法が因となり、法が果となる究極の因果である。因も果もともに法なのだから、あえて因と果に分ける必要もない「無分別の因果」である。如来にとっては本来の姿に戻すだけのごく当たり前のことでも、人にはそれが奇蹟に見える。奇蹟とは「自然」の別名なのである。 
さらにその「自然」の基には如来のあるがままの「無為自然」がある。親鸞が「無上仏とまふすはかたちもなくまします、かたちのましまさぬゆへに自然とはまふすなり。」(「末灯抄」)と述べる如来の「自然」である。この自利の「自ずから然り」を因として利他の「自ずから然らしむ」果の働きが生まれる。仮に自利と利他を因と果に分けたが本当は如来にとっては自他や因果の区別も利や損得の分別もない。「如来廻向の因果」とは「自然法爾」という「真実の因果」「無分別の因果」である。これが究極の浄土の因果である。 
こうして浄土の因果をたどると根本因の如来に行き着く。従って果から因に還るのが浄土教である。「法性のみやこへかえる」(「唯信抄文意」)と言われる。心情的には「懐かしさ」「思い出す」ことが鍵になる。懐かしい我が家、ふるさとを思い出しそこに還る。如来にも衆生にもごく自然ななりゆきである。我々の無意識にそこに戻る力が潜んでいる。 
これまでに述べたことを基に「自然」を整理しよう。まず一つは「業道自然」である。此岸の因果として述べた衆生の業因による「善因善果、悪因悪果」の因果である。因果の法の基本である。次が「願力自然」であり、ここに衆生に信心を与え、往生成仏させる、如来廻向の浄土の因果の基本の働きがある。ここには「逆縁」摂取の「逆説的因果」である、衆生に劇的転換をもたらす如来廻向も含む。廻施の廻向も廻転の廻向も含んだ「願力自然」である。「願力自然」はいずれも如来を根本因とする如来廻向の浄土の因果である。如来の利他力である他力と言われるものの中心である。そしてさらにその如来の有様が「無量寿経」に成仏の相として説かれる「自然虚無の身、無極の体」の「自然」である。涅槃の別名として使われる「無為」と同じ「自然」で合わせて「無為自然」と言われる。この自利が如来の「自然」の原点であり、ここから利他のあらゆる働きの「自然」が生まれる。 
このように「自然」は因果としても説明できるが、意識の上ではむしろ因と果に分けたり利を考える分析的、分別的発想を越えたところにあると言えるだろう。従って意識というよりむしろ無意識のものになる。こうなると「因果」より「自然」と言う方がふさわしくなってくる。晩年の親鸞が「自然」を言うのはそのためだろう。如来の働きも「自然」であるし、また衆生に信心が起こるのも「自然」である。「金剛の信心をうるゆゑに憶念自然なるなり。」(「唯信抄文意」)我々の計らいのない「無義」に「自然」は表れる。「無義」や「自然」には自他や因果の分別や利の分別を忘れることが入っているのだろう。親鸞の歩みは、聖道の因果からその上に立った浄土の因果へ、さらにその意識さえ越えた無分別、無意識の「自然法爾」へと進んだと言えよう。最終的には「自然」でいいが、因果のわきまえがないと、ただのなりゆきまかせや「造悪無碍」に陥るので注意すべきである。 
ここで補足しておきたいことがある。中国仏教では仏教が中国に入ってくる前から道家思想において「無為自然」が説かれており、これに対して仏教の「因果の法」が説かれたという歴史的経緯がある。しかし道家思想のもっていた奥深さ、玄妙さは否定できるものではなく、「無量寿経」においても「自然」や「無為」という多くの道家思想の用語が用いられている。「因果の法」と「無為自然」はいずれも世界の有様を説くものとして中国仏教で融合したと言っていいだろう。これはインドでの仏教のあり方とは異なる展開である。浄土教もその展開の上にある。中国浄土教の祖師である曇鸞においても道家思想の影響があり、さらに曇鸞の影響を大きく受けている親鸞も同様であると言われる。これは実は聖道門である禅でも同様で、禅が仏教の「空」よりも、道家思想でよく用いられた「無」を多用するのはその表れと言える。鈴木大拙のような禅家が浄土教に深い関心を寄せるのも、いずれの教えも「自然」の表れであるからだろう。近代日本での老子道の大家だった伊福部隆彦は「無為」を「為す無し」と「無の為き(はたらき)」の両方で使っている。禅、浄、道の三家の一致はこのレベルで起こる。東洋思想はここに行き着くのだろう。 
以上の三つの「自然」を含んだ「自然」だが、浄土教の中心は、如来の利他の働きを表す「願力自然」と、さらにその根本にある如来の自利の有様を表す「無為自然」である。「業道自然」は「自然」の中では最も周辺部にあるものだが、ここにも如来の働きは及んでいる。それが「尽十方無碍光如来」と呼ばれる所以である。私達は信じようが信じまいが、その「無碍光」の「自然」のただ中にある。いつか必ずその働きに気付くときがくる。 
ここにおいてこの「無碍光」ということの本当の意味がわかる。何ものもこの働きを妨げることはできないということである。「善悪」も「信疑」も越えて、我々を救う真実の働きがここにある。我々が信じようとして信じるのでもなく、帰命しようとして帰命するのでもない。あれほど疑っていた私が気が付いてみたら救いの御手のただ中にいる。そこに感動がある。そこに信心がある。そこに働いているのはただ「自然」なのである。 
人々が信じないから浄土教はもうだめだと言うのは嘘である。自己都合の言い訳にすぎない。それは無我の信ではない。如来より賜る「自然法爾」の信ではない。これは私自身の自戒である。真実の働きはそのようなものではない。我々にできることはただ自分の信を語ることだけかもしれない。賢い人には愚かに見えるかもしれない。それでも我らに語らせるものがある限り、この真実の救いを語っていきたい。それが親鸞の歩んだ「自信教人信」の道である。後に続く我々もまた「全員聞法、全員伝道」の道を歩むだけである。  
 


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