平安鎌倉の物語に見る神仏(かみほとけ)

仏教概観神道文学芸能源氏物語末法思想諸行無常
徒然草方丈記枕草子梁塵秘抄山家集西行と無常観今昔物語集の地獄冥界・・・
 

雑学の世界・補考   

   

物語・説話・歌集・歴史書

法然 栄西 道元 親鸞 日蓮 一向 一遍
平安時代   往生要集・枕草子              
1000 落窪物語・源氏物語・拾遺集・和泉式部日記              
  紫式部日記・和漢朗詠集                
  栄花物語・堤中納言物語・更級日記・夜半の寝覚・浜松中納言物語・狭衣物語                
  後拾遺集                
1100 江談抄・讃岐典侍日記                
  俊頼髄脳・新撰朗詠集                
  今昔物語集・大鏡                
  金葉和歌集   1133            
  詞花和歌集     1141          
1150                
  梁塵秘抄                
  今鏡・宝物集・とりかへばや物語       1173      
鎌倉時代 1185 千載集                
  山家集(西行法師)・源平盛衰記・水鏡                
1200 玉葉       1200        
  方丈記・新古今和歌集・発心集 1212 1215          
  海道記・金槐和歌集・保元物語・愚管抄         1222    
              1239 1239
  東関紀行                
1250 平治物語・宇治拾遺物語・十訓抄・古今著聞集       1253        
          1262      
                 
  十六夜日記・沙石集         1282 1287 1289
  百練抄                
1300 歎異抄・平家物語・吾妻鏡              
  とはずがたり              
  元亨釈書                
1333 徒然草              

仏教概観

最澄と空海
日本の仏教は、平安時代初期の空海・最澄といふ二人の人物によって大きく変わります。この二人によってその後の日本仏教の基礎が築かれたといってもよいでしょう。最澄、空海の二人とも唐にわたり(最澄は国家によって派遣され、空海は私費留学生として)当時の中国の最も新しい仏教を日本に伝えました。
空海は24歳の時、儒教・道教に比して仏教が最も優れているという主張を「三教指帰」で明らかにし、804年30歳で唐に渡ります。唐では当時最も新しい思想であった密教を学び、帰国後は高野山に金剛峰寺を建立し真言宗を開きました。空海は、経典の研究ばかりをおこない人々の救済をおこたっていた奈良仏教を批判し、三密(身に印を結び、口に真言を唱え、心に仏を思い描くこと)の修行によって大日如来と融合し生きたまま仏の知を得ること、すなわち即身成仏の思想を強調しました。(仏の知の世界を図像化したものが曼荼羅です)また、「十住心論」でしめした人間の心や菩提(ぼだい)心の展開をまとめた思想は、日本仏教全体に深い影響をあたえた。空海が遍歴したといわれる各地には弘法大師信仰が生まれました。最澄は空海と同じく804年に唐に渡り、天台、密教、禅を学び、帰国後は日本天台宗を起こし、比叡山に延暦寺を建立しました。彼は、「涅槃経」の「一切衆生悉有仏性」という一文にあらわされる、生きとし生けるものはすべて仏性をもち、仏になる可能性を持っているという一乗思想を展開しました。
浄土教の興隆
平安時代の中期を過ぎると浄土の教えと阿弥陀仏の信仰が広がっていきます。大乗仏教では歴史的存在としての仏(応身仏)に加えて、法(真理)それ自身としての仏(法身仏)と私たちの世界とは異なったさまざまな世界で教えを説くそれぞれの仏(報身仏)が存在するという仏身論が起こってきますが、その中で特に信仰を集めたのが西方極楽浄土で教えを説く阿弥陀如来と東方瑠璃世界で教えを説く薬師如来でした。特に、仏陀の死後この世界では仏だの教えは衰弱していくという末法思想が信じられ、1052年、仏陀の教えはあっても修行方法も結果としての悟りも得られないという末法に入るといわれると、阿弥陀如来の力にすがって何とかしてこの世界での死後、極楽浄土に生まれ変わろうという信仰が広まったのでした。十世紀には空也が現れ念仏を広めました。
当時栄華を極めた藤原道長がその死におよんで、極楽往生を願い、自らが書写した経典を床に埋め、枕元に阿弥陀如来を安置し、その手から五色の糸を伸ばしてその手に結びつけ、僧たちに経を読ませながら臨終を迎えたという話は有名ですし、その子頼道も宇治に大きな寺を建て阿弥陀如来を安置したこともよく知られています(現在の平等院鳳凰堂)。
もともと阿弥陀信仰とは、阿弥陀仏が法蔵菩薩であったとき、四十八の誓願をたて修行した結果仏になったというところから出発します。その誓願の第十八願が「たとい我仏を得たらむに、十方の衆生、心をいたし信楽して、我が国に生ぜむと欲して、ないし十念せむに、もし生ぜずといはば正覚を取らじ」というもので、これを阿弥陀の本願といいます。つまり、法蔵菩薩は阿弥陀仏になっておられるのであるから、その誓願の内容は成就されている、つまり、阿弥陀仏の名前を唱えた(念仏)われわれ衆生は必ず救われるのであるという信仰なのです。
そしてこの信仰を世に広めるのに力のあったのが、天台座主であった源信の「往生要集」という書物でした。源信は極楽の荘厳さと地獄の悲惨さを共に描きながら、強く極楽往生を願うことを説きます。そして極楽往生の方法として、念仏を唱えながら、極楽の世界を目の当たりにしているように思い浮かべるまでにならなければいけないというのです。このような修行としての念仏は後の法然以降のただ口に唱えればよいという口唱念仏に対して観想念仏といわれます。
また平安末期から鎌倉にかけて浄土信仰はますます強くなり、多くの阿弥陀仏が建立され、来迎図が描かれ、極楽往生の事象を集めた「往生伝」がたくさん作られました。
鎌倉仏教の特徴
鎌倉仏教というと、すぐに法然や親鸞、道元、日蓮といった人物たちによって担われた新しい運動を思い出しますが、じつは天台をはじめとしていわゆる旧仏教においても信仰が大きく広がった時代でした。つまり、平安末期から鎌倉にかけて広がった戦乱や社会的不安が、従来の貴族階級だけではなく、一般民衆の間にも仏教信仰が浸透していった時代だったのです。しかし、一般民衆にまで信仰が広がるとき、その信仰はいままでの深い学問や厳しく長い修行を要求するものであることはできませんでした。鎌倉新仏教の祖師たちは従来の仏教のなかからこれとおもわれる一つの行を取り出し、それだけを行うことで救いが得られるのだと民衆に説いたのでした。それは、法然や親鸞ならば念仏であり、栄西や道元であれば禅であり、日蓮は唱題(「南無妙法蓮華経」と唱えること)という一行を選び取ったのでした。又同時にその祖師たちは民衆のためにわかりやすく語りかけることを行いました。仮名法語はその現れです。もちろん旧仏教にたつ人々も同じく民衆の中に入ろうという意志を持ち、こうして仏教は今までにない広がりをもっていったのでした。
法然と念仏
比叡山にあって知恵第一といわれた法然は修行・学問を重ね、最後に至った信仰は、中国の善導にならって、ただひたすら阿弥陀仏にすがりその名を唱えるという、称名念仏という単純明快な一行でした。阿弥陀の本願にすがって念仏するにまさる行はないと考えた法然は、さらに造像起塔(仏像を作り塔を建てる)ことによって救われるとするならば、貧しいものは救われず、智慧高才を以て救われるとするならば愚かなものは救われない、持戒持律をもって救われるとするならば、戒を破らざるを得ないものは救われないことになる。阿弥陀の本願はすべての人々を救うためにあり、そのためにこそ難行ではない易行としての念仏があると考えたのでした。つまり称名念仏こそが最も容易であるばかりではなく最も確実な往生の方法であると考えたのです。彼のこの「只いっこうに念仏すべし」という立場は専修念仏といわれます。
親鸞
平安後期から鎌倉時代にかけては、それまでの貴族政治が衰退し戦乱が生じて人々が不会におののき、自らの限界を突きつけられた時代でした。その中で親鸞は、阿弥陀仏に対する念仏こそ救われるための唯一の方法であるとした師法然の教えを徹底し、自力の修行を捨て自らの身をすべて仏にゆだねるという絶対他力の立場をとりました。親鸞は、良心があるから人は殺せないという弟子に向かって、「自分の心が善くて、殺さないのではない。また殺すまいと思っても、百人、あるいは千人を殺すこともあるだろう」といいます。そこには、状況次第ではどのような悪でも成し得る人間の罪業への深い自覚があります。そしてそのような悪人である人間をこそ阿弥陀仏は救おうとされるのだという絶対的な信心にたって、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」(歎異抄)という悪人正機説を説いたのです。
栄西と道元
一方、救いということに対して法然や親鸞とまったく対照的な姿勢をとったのが道元でし。道元は、栄西から臨済禅を学んだ後入宋し、曹洞宗を日本に伝えました。彼は人間を含めあらゆる生類はそのまま仏であるという立場から出発します。そして本来備わった仏性を生活の中で直感することを目指したのです。かれは「只管打座」ただ座禅にひたすら打ち込めといいますが、食事や雑務、睡眠などの生活すべてが座禅であり、仏の知につながっているという立場なのです。いいかえれば、座禅を中心とする修行は仏の知を体得するための単なる手段ではなく、それ自身が仏の知を体現している目的になるというのです。「正法眼蔵」の中では「仏道をならふというは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」と述べられています。
一遍・日蓮そして旧仏教
日蓮は、法華教信仰にもとづいて「南無妙法蓮華経」という題目を唱えること(唱題)に一切の修行を集約し、日蓮宗を開きました。そして他宗に対しては「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と厳しく攻撃を行い、鎌倉幕府に対しても「立正安国論」を献上し法華経への帰依を進めました。浄土宗からは一遍が出て全国を遊行し、踊り念仏をはじめました。旧仏教側の動きとしては法相宗の貞慶が「興福寺奏状」を華厳宗の明恵が「摧邪論」を著して専修念仏を批判しました。その批判は、単に念仏によって救われるというならば、修行の意味はいったいどこにあるのかということでした。また律宗の叡尊は、幅広い社会救済事業に取り組みました。  
神道

神道は日本の風土や民俗文化の中から形成されてきた、神々への信仰を中心とした宗教ですが、教祖や教団、教義をもつ創唱宗教のように確立した体系をもっていません。また、習俗や伝統と同一視されることもあって、多くの日本人にとって、神道は宗教として強く意識されることはないともいえます。日本では、古くから「八百万の神々」といわれるように、ひじょうに多くの神が信仰の対象になっており、その意味で神道は多神教です。しかし、特定の祭神が厳密に意識されていない場合がほとんどで、神社に祀られている祭神名が途中で変更されたり、仏教など外来宗教の神格とも容易に習合されています。これは、神への信仰というものが自然崇拝とアニミズムから発達し、稲作農耕の中で形づくられた氏神など共同体祭祀をもととするものだったからです。神も1カ所に定住するのではなく、祭りのときに、常緑樹でつくった神籬(ひもろぎ)や巨大な自然石の磐座(いわくら)にまねくものであったりしました。このように民俗宗教としての神信仰は、例えば仏教などの外来の宗教に刺激を受け、また、国家意識の高まりというような要因によって、さまざまに理論化されて神道という明らかなかたちをもつようになります。それは「神道」という語が、6世紀に大陸から伝来した仏教や儒教に対立する言葉として使用されはじめたことにもあらわれています。また、実際神をまつる施設である神社がつくられるようになるのも、仏教の荘厳な寺院建築に触発されてのことだと考えられています。
8世紀に制定された律令制度のもとでは、行政機関としての太政官とは別に、祭祀をつかさどる神祇官がおかれています。神祇令には、天皇がみずから中心儀式をとりおこなう鎮魂祭や大嘗祭、すべての官人を神祇官にあつめておこなう祈年祭などさまざまな祭りや行事など、日本独自の儀式が規定されています。並行して「古事記」や「日本書紀」などの編纂もすすめられました。両書のはじめに「神代」としてえがかれた神話は、「記紀神話」とよばれ、天地の開闢(かいびゃく)から、イザナキノミコト・イザナミノミコト2神による国生み、その子アマテラスオオミカミによる高天原統治、ニニギノミコトを地上に派遣する天孫降臨などの話がしるされ、神武天皇以降の皇室による日本支配がえがかれる「人代」へとつづいています。記紀神話は、たんなる氏族伝承の集成や祭祀儀礼の神話化ではなく、天皇の系譜とその絶対性を絶対性を強調する意図によって書かれているといえましょう。
奈良時代に国家仏教政策がすすめられる中で、仏教信仰と神信仰をあわせるという神仏習合が進みました。神々も仏法による解脱をのぞんでいるとして神前読経がおこなわれ、神社の境内に神宮寺がたてられ、仏像の影響をうけて多くの神像がつくられました。平安時代にはいると、神仏習合儀礼によって怨霊や疫神をしずめる御霊会がはじめられ、また、石清水)八幡宮、祇園社、北野天満宮など社僧が支配する宮寺制の神社があらわれたり、霊山で修行活動をおこなう修験道が発達したりしました。8世紀末になると、神は仏と同体と考えられ、本地である仏が日本の人々を救済するために仮に神に姿をかえてあらわれたとする本地垂迹説が発生し、のちの神仏習合理論の基礎となりました。平安末期には、伊勢の本地が大日如来、白山の本地が十一面観音などのように、ほとんどの神社の祭神の本地に仏や菩薩があてはめられていきます。11世紀ごろからつかわれだした「権現」とは、「仏が権(かり)に神として現れる」という意味です。
平安末期ごろから、神道を理論的に説明する教説があらわれ、中世以降さまざまに展開されていきます。その最初のものは僧侶による仏家神道で、神や神社の祭神の説明が当時の仏教界の主流だった密教の教義をもちいてなされています。とくに真言宗系の両部神道では、金剛界・胎蔵界の両部曼荼羅の大日如来が、伊勢神宮の内宮・外宮の祭神と同体であるといいます。天台宗系の山王神道では、比叡山延暦寺の守護神である日吉(ひえ)社の神を天台教学との関係で説いています。鎌倉時代になると、僧侶による神道説に対し、伊勢神宮の外宮祠官の手によって形づくられた伊勢神道が発展します。伊勢神道は、のち神本仏迹(しんぽんぶつじゃく)説の形成や近世の廃仏論に大きな影響をあたえました。鎌倉末期・南北朝期に活躍した卜部氏出身の天台僧慈遍は、神儒仏三教を樹木にたとえて、神道が根本で儒教、仏教はその枝葉、果実であるとする根本枝葉果実説や、神こそが本地であり仏は仮の姿であるとする神本仏迹説をとなえました。室町時代の吉田兼倶はこの立場を継承し、神本仏迹の立場から儒教、道教の理論などもとりこんで吉田神道を樹立しました。また、のちに豊臣秀吉が豊国大明神、徳川家康が東照大権現としてまつられるような、人間を神にまつることも吉田神道がはじめたものです。  
文学

古典文学の中には仏教的な無常観に基づいた一連の文学作品が見られます。実際に生は死とつながり、繁栄が没落にかわるようなときに、人々は世の無常を感じました。たとえば、中世初期に成立したとされる「平家物語」は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、…おごれるもの久しからず、ただ春の世の夢のごとし」で始まり、全編を通して世の「はかなさ」を描くものとなっています。平安期の枕草子にも無常観は見られますし、源氏物語はその基調に強く無常観が存在しています。特に中世になると「詠嘆的無常感が自覚的無常感に転化したところに日本文芸史上の中世がはじまる」と評論家の唐木順三がいうように、吉田兼好の「徒然草」鴨長明の「方丈記」には仏教的無常観が色濃く反映しているのです。
また日本では、既成の教団からはなれて宗教活動をおこなう聖とよばれる僧が古くから存在しますが、平安末期から、出家をしても寺院には属さず、世俗の身分秩序の制約からもときはなたれて、自由な立場を求めるという遁世者があらわれました。西行、鴨長明、吉田兼好、宗祇ら、日本の中世文学は隠者の文学ということもできます。また西行や松尾芭蕉など漂泊する中で創作を行うという伝統もあります。
芸能
古代音楽や舞踏は宗教的なものと密接に結びついてきました。それは神への感謝であり、祈りであり、また死者の鎮魂でありました。やがてそれが芸能というかたちにまとめ上げられたのです。それぞれの時代を代表する芸能は、そこに生きる人間を深く洞察し、民衆の心を救い解放するものとなってきましたが、特に中世以降、その底流にあったのが仏教の思想でした。
平安中期に台頭した猿楽は南北朝時代にいたって観阿弥・世阿弥父子によって能として芸術的完成をみました。彼ら二人は大和結崎を本拠とする猿楽の座の頭領で、他の三座と並び奈良春日大社・興福寺に所属し、祭礼・法会に奉仕していました。世阿弥自身「風姿花伝」の中で能の目的を「讃仏・転法輪の因縁を守り、魔縁を退け福祐を招く」と述べているように、能は仏教的色彩を帯びています。実際、現在伝えられているの能の演目約200番のうち、仏教思想の表われていない曲は39番ほどにすぎないと言われています。まさに愛欲の中で苦しみ、断ち切れぬ執心に縛られ六道を輪廻する生命の葛藤と仏教的救いを劇化したものが能であるといえましょう。たとえば、西行と遊女の問答を材にとりながら遊女の霊の救済を扱った作品や、夏は丈高く葉を茂らせ冬は枯れて姿を細くする芭蕉の精を描く作品など、能の演目にみられるのは平安朝以来広く普及していた六道輪廻とそこからの救いとしての阿弥陀仏信仰の念仏思想や、草木国土すべてのもののありのままの姿の中にこそ仏性が存するという天台の法華思想です。また、平安朝以来、天台・真言密教を基盤にその呪法と信仰をもって諸国を巡った山伏・修験者たちの活動も作品に影響しています。
一方、能と組み合わされて演じられてきた狂言では、僧侶や修験者を物欲や虚栄にくらむ愚かな人間として風刺するが、その背景には中世を通して広く民間に普及した地獄・極楽の思想が反映されており、時代精神に与えた仏教思想の大きさがわかります。また同時期、各地の寺院に属する琵琶法師によって語り広められた、鎮魂の歌ともいえる「平曲」が全編を通して仏教的無常観によって貫かれていることはよく知られています。
時代が下がって、近世初頭に上方を中心に発展した人形浄瑠璃は近松門左衛門によって皮相な仏教物語から、運命に弄ばれながらも必死に生きる人間のドラマに変化しました。彼は商いに失敗し人の世の義理に背いた商人と、遊女との情死を扱いながら、たとえ社会的には敗者であっても深い悩みを抱えたものほど仏は救い給うのだという仏教観を示しています。一方江戸を中心に発展した民衆芸能である歌舞伎作品の多くは、比較的単純な勧善懲悪の劇になっていますが、江戸後期の作品には世俗的な倫理観を超え、人間の宿業に迫る思想的深さもみられます。
現在、芸能が社会全体の要求に答えるものではなくなり、個人的な嗜好の段階で受け入れられていることは、この時代の不安を受け止め、魂を癒す思想自体が見つからないことと無関係ではないでしょう。
 
平安時代と神仏  
源氏物語

いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。
はじめより我はと思ひ上がりたまへる御方がた、めざましきものにおとしめ嫉みたまふ。同じほど、それより下臈の更衣たちは、ましてやすからず。朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふ積もりにやありけむ、いと篤しくなりゆき、もの心細げに里がちなるを、いよいよあかずあはれなるものに思ほして、人のそしりをもえ憚らせたまはず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。  
源氏物語の世界と枕草子
輦車の宣旨宮中の出入り
「その年の夏、御息所、はかなき心地にわづらひて、まかでなむとしたまふを、暇さらに許させたまはず。年ごろ、常のあつしさになりたまへれば、御目馴れて、「なほしばしこころみよ」とのみのたまはするに、日々に重りたまひて、ただ五六日のほどにいと弱うなれば、母君泣く泣く奏して、まかでさせたてまつりたまふ。かかる折にも、あるまじき恥もこそと心づかひして、御子をばとどめたてまつりて、忍びてぞ出でたまふ。(中略)輦車の宣旨などのたまはせても、また入らせたまひて、さらにえ許させたまはず。(中略)「今日始むべき祈りども、さるべき人々うけたまはれる、今宵より」と、聞こえ急がせば、わりなく思ほしながらまかでさせたまふ」(桐壷)
輦車(てぐるま)は「れんしゃ」ともいう。牛車(ぎっしゃ)の対である。牛車がその名のごとく牛が牽く車であるが、輦車は人間が牽く車である。
平安時代の古辞書「和名類聚抄」(931-938頃成立源順著)に「和名、天久流万(てくるま)、軽輪と為し、人挽き行かるる也」(原漢文)とある。
また、源高明(914〜982)が書いた有職故実書「西宮記」によれば、「太子、老親王、大臣、僧正等、宣旨に依りて之に乗る」(原漢文)とある。この車は宮中の門内を乗用する車である。そして、その使用には、天皇の勅許が必要であった。
裏がえして言えば、他の人々は歩いて出入りしたのである。一般の貴族の邸宅でも外門は車に乗ったままでも、中門では下車した。天皇の勅使の場合は例外で、寝殿の中央階段の前まで車を着けて、地を踏まず直接部屋に上がった。宮中の門(例えば、建礼門)の外までは牛車で乗り着けても、そこから内は歩いたのである。
平安時代の貴族社会の特に女性にとっては、歩いて出入りすることは人目に身を曝すことであり、はなはだ耐え難いことであったろう。後に、源氏の娘である明石姫君が春宮に入内する折に、紫の上は養母として一緒に輦車を許されて参内するが、実母の明石の御方は、その輦車の側を付き従って歩いて行かなければならないのか、それは体裁の悪いことだが、自分自身としてはかまわない、しかし、娘の姫君にとってはそのようにして母親が付き従うことは、玉の瑕になる、こうして自分の生きていることが心痛む、と思っている場面がある。
すなわち、「その夜は、上(紫の上は明石姫君に)添ひて参りたまふに、御輦車にも、(自分=明石御方が)立ちくだりうち歩みなど人悪かるべきを、わがためは思ひ憚らず、ただかく磨きたてまつりたまふ玉の瑕にて、わがかくながらふるを、かつはいみじう心苦しう思ふ」(藤裏葉)とあるものである。
また「枕草子」「大進生昌が家に」の章段にも「大進生昌が家に、宮(定子)の出でさせ給ふに、東の門は四足になして、それより御輿は入らせ給ふ。北の門より、女房どもも、また陣のゐねば、入りなむと思ひて、かしらつき悪き人も、いたうもつくろはず、寄せて下るべきものと思ひあなづりたるに、檳榔毛の車などは、門小さければ、障りてえ入らねば、例の筵道敷きて下るるに、いと憎く腹立たしけれども、いかがはせむ。殿上人、地下なるも、陣に立ち沿ひて見るも、いとねたし」とある。これは臣下の中宮大進平生昌の家の場合であった。
女性の輦車は、宮中の宿盧までの使用が認められていた。行路は内裏の北側の朔平門から入って玄輝門を通過して宮中の宿盧まで使用するのが通例であった。
桐壷の更衣は、淑景舎(桐壷)から輦車に乗って、玄輝門を通り、朔平門を出て、そこで、牛車に乗り換えて、里邸の二条院へと向かったものであろうか。
清涼殿丑寅の隅荒海絵の御障子
光源氏の元服は清涼殿の東廂の間で執り行われた。「おはします殿の東の廂、東向きに倚子立てて、冠者の御座、引入の大臣の御座、御前にあり」(桐壷)とある。
「河海抄」によれば、「清涼殿は五ケ間なり。北の第一間、母屋、御路と為す。次、御腋間<獅子と狛犬、帳前の南北にあり>。第三間、床子三脚。第四間、奥に御厨子有り<置物と御厨子二脚有り>。第五間、四季の御屏風<石灰壇>。弘廂の板九枚。北に荒海の御障子、南に手長・足長、北面の障子に宇治の網代、布障子に墨絵なり。二間と上御局の際に、南に昆明池の障子、北に嵯峨野の小鷹狩、南の切妻戸に鳴板有り、見参板と号す。上戸に向かひて、年中行事障子立てらる<「建暦御記」に見ゆ>」(原漢文)
とある。その清涼殿丑寅の隅にある荒海の絵の障子について、清少納言は「枕草子」の中に、「清涼殿の丑寅の角の、北のへだてなる御障子は荒海の絵。生きたるものどものおそろしげなる、手長・足長などぞ描きたる。上の御局の戸をおしあけたれば、つねに見ゆるを、憎みなどして、笑ふ」と書き記している。
現在の京都御所は安政2年(1855)に再建されたものであるが、弘徽殿の上御局の北端弘廂に「荒海の障子」がある。布張障子で土佐光清の墨絵であるという。
南面の向かって左側の襖には、荒海の岸に奇怪な足長の男が手長の男を肩車して右下の海を見ながら立っている絵が、また右側の襖にはやはり奇怪な姿をした男が荒波の寄せる海岸の木の下に中腰になって右手を海の中に入れている絵が描かれている(「京都御所」伝統文化保存協会)。そして、北面には宇治川の網代が描かれているという。
なお、「河海抄」が引く「建暦御記」とは、鎌倉時代の順徳天皇(在位1210-21年)の建暦年間(1211.3.9-1213.12.6)の御記である。
「源氏物語」と「枕草子」の中の物語
「絵合」巻に「竹取の翁」「宇津保の俊蔭」「伊勢物語」「正三位」の名が出てくる。「伊勢物語」は同じだが、「竹取の翁」は「竹取物語」と呼称し、「宇津保」は「宇津保物語」と呼称する。当時は、今日のようにすべて「ー物語」というような一律の呼称ではなく、さまざまな呼び方で自由に呼称されていた。
「枕草子」にも物語を掲出している段がある。「物語は、「住吉」。「宇津保」、「殿移り」。「国譲り」は憎し。「埋れ木」。「月待つ女」。「梅壷の大将」。「道心すすむる」。「松が枝」。「狛野の物語」は、古蝙蝠探し出でて持ていきしが、をかしきなり。「物羨みの中将」。宰相に子生ませて、形見の衣など乞ひたるぞ憎き。「交野の少将」」。物語作品の呼称は、固有名詞ではなく、あたかも通称、普通名詞のごとく扱われていたのである。  
なにがし朧化表現
源氏物語には、作中人物の会話文中等に、はっきりと用いられた名称が語り手によって、「なにがし」また「なにがし」云々というようにぼかされて表現される例が多くある。
「なにがし阿闍梨(あざり)」(夕顔)
「なにがしくれがし」(夕顔)
「なにがし寺」(若紫)
「なにがし僧都(そうづ)」(若紫)
「なにがしの朝臣(あそん)」(松風・行幸・若菜上・夕霧)
「なにがしの大臣(おとど)」(夕顔)
「なにがしの嶽(たけ)」(若紫)
「なにがしの念仏」(総角)
「なにがしのみこ」(宿木)
「なにがしの院」(夕顔)
「なにがし律師(りし)」(夕霧)
等である。ところで、なぜか「夕顔」と「若紫」には特に「なにがし」云々という表現が多く見受けられるようである。14例中、半数の7例がこの2巻に見られる。
源氏の容姿仏のごときお顔だちお姿
光る源氏の容姿について、北山の僧都は、
「世を捨てたる法師の心地にも、いみじう世の憂へ忘れ、齢延ぶる人の御ありさまなり」と言っていた。
紫の君も尼君に、「など見たまはぬ」「見しかば心地の悪しさなぐさみみき、とのたまひしかばぞかし」と言っている。
源氏の容姿は単なる美しさだけでない。
「この世のものともおぼえたまはず」「あはれ、何の契りにて、かかる御さまながら、いとむつかしき日本(ひのもと)の末に生(む)まれたまへらむ」
と、尼君や僧都たちに思わせるほどのお姿お顔なのである。見る者をして、その悩み事や心配事を忘れさせ、さらに寿命も延びるような気持ちを起こさせるようだという。
すなわち、源氏の容貌とは、この世の人間を超越した、あたかも神、仏のような崇高なお顔だちで、なおかつ人間的な優しさと懐かしさをもったものなのであろうか。
「須磨」巻起筆説紫式部と石山寺伝説
南北朝時代の注釈書「河海抄」料簡に、
「此物語のおこり説々ありといへども、西宮左大臣(源高明)安和2年(969)大宰権帥に左遷せられ給ひしかば、藤式部(紫式部)幼くくより馴れ奉りて、思ひ嘆きけるころ、大斎院(選子内親王)より上東門院(彰子)へ珍らなる草子や侍ると、尋ね申させ給けるに「宇津保」「竹取」やうの古物語は目慣れたれば、新しく作り出だして奉るべきよし、式部に仰せられければ、石山寺に通夜して、この事を祈りけるに、折しも八月十五夜の月、湖水(琵琶湖)に映りて、心の澄みわたるままに、物語の風情空に浮かびけるを、忘れぬさきにとて、仏前にありける大般若の料紙を本尊に申しうけて、まづ、須磨・明石の両巻を書き始めけり。これにより、須磨の巻に「今宵は十五夜なりけりと思し出でて」とは、侍るとかや」
とある。今日、石山寺には紫式部源氏の間他、多数の紫式部関係の書画美術品が収められている。
菅原道真の怨霊雷神となり祟る
菅原道真は無実の罪によって大宰府に左遷され、その地で没した。延長8年(930)6月26日、「俄に雷声大いに鳴り、清涼殿坤の第一柱に霹靂神火あり、殿上に侍る者、大納言正三位兼行民部卿藤原朝臣清貫の衣焼き胸裂け夭亡す(年64)。又、従四位下右中弁兼内蔵頭平朝臣希世顔焼けて臥す」(「日本紀略」同日条、原漢文)
とある。醍醐天皇はそれ以後病気となり、9月29日、崩御された。
「九条殿遺誡」には「尋常仏法を尊ばず、此の両人已に其の妖に当る」と書き残したが、「体源抄」には、それを認める一方で、「貞信公(忠平)は、時平の御弟にておはしけれども、このかみに同意し給はず、ことに天神(道真)の御ことを嘆き給ひけり。其の故に当座におはしけれども、いささかのわづらひなし」というように、一般には、道真の怨霊のしわざとして恐れられた。
醍醐天皇と菅原道真醍醐天皇の生前五つの罪
醍醐天皇は死後、地獄へ堕ちたという伝承がある。「北野縁起」中に、
「我(醍醐)は父法皇(宇多)の御心に違へ、無実によりて菅丞相(道真)を流し侍りし。かの罪によりて此の苦を受く。汝(日蔵)、娑婆世界に帰りて、我が皇子に此の苦を助け給へと申すべし、とぞ仰せられける。我、生前に五つの罪あり。皆是れ大政威徳天の御事より出でたり。
一には、父法皇を嶮路に歩ませ奉りて、心神困苦せしめ申したりし事。
二には、我高殿に安座して法皇を地に据ゑ奉りし事。
三には、賢臣を罪なきに罪を与へし事。
四には、久しく国位を貪りてあまたの仏法を滅ぼしし事。
五には、我が身の怨敵の故に他の衆生を損害せし事。
是等の罪によりて先苦を受くる事かくの如し」
とある。また「およそ国土の災変は、みな天神(菅原道真)の御眷属の御しわざ也とぞ、蔵王は仰せられける」ともある。
源氏の嵯峨野御堂源氏と明石御方の月に二度の契り
嵯峨野に清涼寺という釈迦如来を本尊とする寺がある。一条天皇の永延元年(987)に*然(*=大+周:チョウ)の弟子盛算が嵯峨天皇の子源融の山荘棲霞観を寺にしてその中に釈迦堂を建立して釈迦如来を祀ったのがはじまりと伝える。もともとこの辺り一帯は嵯峨天皇ゆかりの地で、皇女有智子内親王の御陵も落柿舎の隣にある。境内には源融の墓、嵯峨天皇・壇林皇后宝塔などもある。
源融は光源氏のモデルの一人でもあるが、清涼寺もまた源氏の嵯峨野御堂のモデルとされる。源氏は「御寺(嵯峨野御堂)に渡りたまうて、月ごとの十四、五日、晦日の日行はるべき普賢講、阿彌陀釈迦の念仏の三昧をばさるものにて」(松風)とある。「月に二度ばかりの御契りなめり。年の渡りには、たちまさりぬべかめるを」。源氏と明石御方の月に二度の逢瀬は、年に一度の牽牛織女の逢瀬よりまさると言っている。
源氏の次々の造営二条東院・嵯峨野御堂・桂院そして六条院
光源氏が須磨明石から帰京し政界に復帰して衆人の目を見張らせたものに次々と建物を建立したことが挙げられる。
まず、源氏29歳の春に、本邸の二条院の東隣に東院を造営した。
「二条院の東なる宮、院の御処分なりしを、二なく改め造らせたまふ。「花散里などやうの心苦しき人々住ませむ」など、思し当てて繕はせたまふ」(澪標)
これは故桐壷院の遺産として源氏が相続した建物である。「改め造らせたまふ」とあるから、修築改造である。
次に、31歳の春に、嵯峨野の御堂である。
「山里ののどかなるを占めて、御堂を造らせたまひ、仏経のいとなみ添へてせさせたまふめるに」(絵合)
とある。それは「造らせたまふ御堂は、大覚寺の南にあたりて、滝殿の心ばへなど、劣らずおもしろき寺なり」(松風)という。
そして、追い掛けるようにして、桂の院を造営した。
「桂の院といふ所、にはかに造らせたまふと聞く」(松風)とある。
最後は、34歳の秋に、四町を占めて造った六条院である。
「大殿、静かなる御住まひを、同じくは広く見どころありて、ここかしこにておぼつかなき山里人などをも、集へ住ませむの御心にて、六条京極のわたりに、中宮の御古き宮のほとりを、四町をこめて造らせたまふ」(少女)
と語られる。そして翌年の源氏35歳の秋「八月にぞ、六条院造り果てて渡りたまふ」とある。およそ、1年で完成している。
ところで、そうした中で、少し気にかかるのは、修繕改造の工事であったらしい二条東院の完成までに要した月日の長さである。「松風」巻の冒頭に、
「東の院造りたてて、花散里と聞こえし、移ろはしたまふ。西の対、渡殿などかけて、政所、家司など、あるべきさまにし置かせたまふ。東の対は、明石の御方と思しおきてたり。北の対は、ことに広く造らせたまひて、かりにても、あはれと思して、行く末かけて契り頼めたまひし人々集ひ住むべきさまに、隔て隔てしつらはせたまへるしも、なつかしう見所ありてこまかなる。寝殿は塞げたまはず、時々渡りたまふ御住み所にして、さるかたなる御しつらひどもし置かせたまへり」
とあるのは源氏31歳秋の記事である。完成までに、およそ2年半の月日が流れている。いったい、どのような事情があって、この二条東院だけがこうなことになったのだろうか。
六条御息所の信仰神道よりも仏教を重んじる
娘の斎宮に付して伊勢へ下った六条御息所は都に帰ってきてからどのような生活をしていたか。
「なほ、かの六条の旧宮をいとよく修理しつくろひたりければ、みやびかにて住みたまひけり。よしづきたまへること、旧りがたくて、よき女房など多く、好いたる人の集ひ所にて、ものさびしきやうなれど、心やれるさまにて経たまふほどに、にはかに重くわづらひたまひて、もののいと心細く思されければ、罪深き所ほとりに年経つるも、いみじう思して、尼になりたまひぬ(昔どおり、あの六条の旧邸をたいそうよく修理なさったので、優雅にお住まいになっているのであった。風雅でいらっしゃること、変わらないままで、優れた女房などが多く、風流な人々の集まる所で、何となく寂しいようであるが、気晴らしをなさってお暮らしになっているうちに、急に重くお患いになられて、たいそう心細い気持ちにおなりになったので、仏道を忌む所辺りに何年も過ごしていたことも、ひどく気になさって、尼におなりになった)」(澪標)
とある。皇室の祖霊神である天照大神を祀る伊勢神宮に7年間過ごしていた。直接話法による引用ではないが、そこを「罪深き所」といっている。日常の仏道生活から離れることを「罪」と考えていたのだ。
「源氏物語」中の他の女性たちも老い先の短いことを覚ると、出家を志したが、六条御息所は、特に痛切に感じて、出家してまもなく亡くなっている。
天変地異太政大臣薨去、彗星現れる
「薄雲」巻の源氏32歳の年の準拠かとされる永祚元年(989)の一年間の主な事件をたどってみよう。
正月6日、一条天皇御悩みにより安倍晴明に占わせる。11日、円融法皇、藤原実資を石清水八幡宮に遣わして天皇のために祈らす。24日、暴風。
2月10日、内蔵寮権曹司焼亡、下人焼死す。11日、皇太后詮子御悩。30日、藤原棟利所領の中御門宅焼亡す。
3月19日、右大弁正四位下源致方卒す。24日、従三位藤原遠度薨ず。
4月22日、円融法皇、藤原実資を賀茂社に遣わして天皇のために祈らす。26日、晩に風雨雷鳴す。
6月1日、彗星東西の天に出現す。21日、昼後晴から俄に暴雨大雷、極めて猛し。22日、皇太后詮子御悩により禁中において御読経を修す。25日、賀茂社で欅の大樹が顛倒し数星が樹中より南を指して連ね飛び出すという怪異が現る。蔵人所で占わせたところ、「兵革疫気徴」という。26日、太政大臣従一位藤原頼忠が薨ず。66歳。この月、疫癘により大極殿において仁王経を転読せしむ。
7月、中旬連夜、彗星が東西の天に現れる。13日、彗星が東方に見えること数夜を経る。長さ5尺ばかりという。
8月2日、治部卿従三位藤原尹忠薨ず。84歳。8日、「永祚」と改元。13日、大風により宮城の殿舎門廊等が転倒し、さらに鴨川の堤防が決壊し、諸々の神社仏閣でも大きな被害が出る。左右の京の人家の転倒破壊は数えられないほど。洪水及び高潮もあり、畿内の海浜河辺の人畜田畑にも大きな被害が出て、このために皆没し、死亡損害、天下の大災は「古今無比」といわれるほどであったという。奈良の薬師寺の金堂の上層重閣も大風で吹き落とされた。17日、天災変異により伊勢大神宮以下諸社に奉幣。
10月5日、右大弁従四位下菅原資忠卒す。
永祚元年(989)という年は、以上のような大変な一年であった。  
平安京を揺るがす末法思想

現実の世界、ときにもっと恐ろしい世界さえも繰り返し生きる輪廻転生の世界、平安京の人々が恐れたのは、なかなか抜け出せない輪廻だけではなかった。そこへもっと怖いウワサがたちます。それが末法(まっぽう)の世、世界の最後が来る、という話ですね。お釈迦さま、仏陀が亡くなって、1500年経った1052年に末法の世を迎えるとされた。
これは平安末期の仏教思想の一つで、末法が始まると1万年もの長い間、そこから抜け出ることはできないという考え方です。もはや、いかなる修行を積んでも仏教が教える悟りが開けなくなり、仏法がもたらす順調な自然、社会の運行も狂いはじめるというのです。キリスト教にもある終末論とおなじですね。ヨーロッパでも900年代の末に世界終末の恐怖が広まりました。
実際にこのころ、列島には疫病や地震・洪水といった災害が相次ぎ、人々の不安は増すばかりだった。また、加えて平安の都には、災害により土地を失った流民があふれ、下層の武士たちが起こす盗難や放火など、都の生活を脅かすことが日常茶飯事だったんですね。
庶民はもちろん、貴族たちにとっても、この世が末法に向かうのが目に見えて感じられた中、人々は浄土に行くことに間に合いたい、往生したいと強く願います。自分の力で悟りを開くことはあきらめて、阿弥陀如来などの慈悲にすがり、その浄土に生まれ変わるよりほかに救われる道はない、と思われたんですね。
そのため、たくさんの阿弥陀如来を本尊とする寺が平安京をはじめとして各地に建てられた。その寺には人々の願う浄土を実感させる、この世のものとは思えない姿が描かれていくのです。
そういった絵の中で、今に伝わる代表的な絵画に、奈良の当麻(たいま)寺に伝わる当麻曼荼羅というものがあります。そこには浄土がまさに目を奪うよう壮麗な金色の光景が描かれている。このように、浄土とは目を奪う景色に音楽が鳴り、すばらしい香りがする世界と人々が信じていたことが伝わってきます。
しかし、絵ばかりではないんですね。このような浄土の姿は、そのまま建築にも写されていく。宇治の平等院がそうですね。
末法の世が到来するとされた1052年のその年、藤原道長の子・頼道は、道長から譲られた宇治の別荘を寺院とし、この世に阿弥陀の浄土をうつした平等院を建立したんです。これが貴族たちの大評判を呼んだ。平等院鳳凰堂は、「まことの極楽いぶかしくば、宇治の御堂(みどう)をうやまえ」とまで歌われます。
こうして藤原氏を中心に、貴族たちは、続々と阿弥陀を信仰しはじめたんです。平安京の周辺には、それまで中心だった密教寺院に代わって、貴族たちが一族のための寺をたくさんつくり、また、自分の邸宅の中にも阿弥陀堂を建て始めた。ちなみにこのような私設の寺は従来の寺に対して、院と言います。「寺院」という言葉はここから来たんですね。
3人の皇后の父親となり、摂関家の絶頂を迎えた藤原道長の臨終には、貴族たちの思いを表す大変有名な話が伝わります。1027年に62歳で世を去るとき、あの栄華を極めた道長でさえ、地獄に落ちるのを恐れて、自邸に建立した阿弥陀堂で九体仏から蓮の糸を引いて手で握り、念仏を唱えながら息を引き取ったというんです。
このように末法の世を迎えた平安王朝は、実際にも王朝の力が中心から微妙にスライドを始めていくことになります。歴史をみるときの大事な視点は、パワー、時の権力が生まれ、中心となったあとに、どのような形で中心外に新たな力が出現してくるか、対抗してくるのかということを見ることにあります。
平安京のパワーが衰えた時代、新たなパワーが起こったのは、地方でした。みやびなパワーに対抗したやり方は、東国と西海の荒ぶる力の行使にあったのです。
諸行無常

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。」と、平家物語にあります。又、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世中にある人と栖と、又かくのごとし。…朝に死に、夕に生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。不知、生れ死ぬる人、いづかたより来りていづかたへか去る。又不知、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主とすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。或は露落ちて花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。或は花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども、夕を待つ事なし。」と方丈記にあります。
「諸行」というのは、一切万物すべてということです。「無常」というのは「ああ無情」の「無情」ではありません。仏教をあまり勉強していない頃は、「鐘の音が、この世の無情をなげいているのだなあ。」なんて自己流に解釈していました。又「この世は無情で冷たく淋しいものなのだ。」とも解釈したりしたこともあります。しかし、「諸行無常」の「無常」は「無情」ではないのです。「無常」というのは、「常で無い」といって、「常に固定したものでは無い」ということです。「生々流転」とか「万物流転」ということなのです。
お釈迦様は、「この世は無常である。無常なればこそ怠ることなかれ!」と諭されています。「この世の中は、大岩石のように押しても引いても動かないものではない。こちら側からの働きかけで、善にも悪にもなる。よって、意識的に努力して、善い方にもっていかなければならない。とろとろと怠っていてはダメですよ。」、「ああ無情という消極的なのではなくて、無常なればこそ、積極的に意識的に努力しなさいよ。」と解釈できそうです。
戦後60年、阪神淡路大震災から10年といわれます。この復興、復活ぶりはすばらしいものですね。まさに「無常なればこそ怠ることなかれ!」の努力のたまものではないでしょうか。
無常観
無常(サンスクリット/anitya)は、この現象世界のすべてのものは消滅して、とどまることなく常に変移しているということを指す。
釈迦は、その理由を「現象しているもの(諸行)は、縁起によって現象したりしなかったりしているから」と説明している。
釈尊が成道して悟った時、衆生の多くは人間世界のこの世が、無常であるのに常と見て、苦に満ちているのに楽と考え、人間本位の自我は無我であるのに我があると考え、不浄なものを浄らかだと見なしていた。
これを四顛倒(してんどう=さかさまな見方)という。
この「無常」を説明するのに、「刹那無常」(念念無常)・「相続無常」の二つの説明の仕方がある。
刹那無常とは、現象は一刹那一瞬に生滅するこというすがたを指し、相続無常とは、人が死んだり、草木が枯れたり、水が蒸発したりするような生滅の過程のすがたを見る場合を指していうと、説明されている。
この無常については、「諸行無常」として三法印・四法印の筆頭に上げられて、仏教の根本的な考え方であるとされている。
なお大乗仏教では、世間の衆生が「常」であると見るのを、まず否定し「無常」であるとしてから、仏や涅槃こそ真実の「常住」であると説いた。(常楽我浄)
日本人の多くは移ろいゆくものにこそ美を感じる傾向を根強く持っているとされる。
「無常」「無常観」は、中世以来長い間培ってきた日本人の美意識の特徴の一つと言ってよかろう。
刹那/梵語クシャナの音写。極めて短い時間のことを言い、正確には1秒の75分の1を一刹那という。釈尊は時間は連続するものではなく、素粒子のようなものから成っていると考えておられた。その時間の素粒子に相当するのが「刹那」といわれるもので、一刹那間に生れ、滅びがあると考えられ、これを刹那生滅、刹那無常という。現代の医学は人体が極めて短い時間に生滅をくり返していることを突きとめているが、釈尊は2500年前にこのような事実をすでに直観によって見通されていたのである。インドの仏教は、「すべてのものは無常である」と観ずる無常観を説く。この無常観は、人間が苦を脱却するための哲理としての無常観。
哲理とは?
「無常」の「常」とは、「常にそのまま」ということ、「無」がつくと、「常にそのままで無い」となり、「変化する」ということ。
何が変化するか?「すべてのものが」。私たちのこの体も変化する。すなわち、刻一刻老化し、最後に死んでしまう。このように観ずることが無常観。
ところが私たちは、若くありたい、死にたくないと思っており、刻一刻老化し最後に死ぬという「事実」と、私たちの「思い」とは食い違いを起こす。
そこに「苦」というものが起こる要因がある。この場合の「苦」の意味は、その原語である「dukkha」から「思い通りにならないこと」という意味だとされている。
その苦を脱却するためには、「事実」と「思い」との間に食い違いを起こさないこと。
ところが、「事実」の方は変えようがないので、私たちの「思い」の方を換えて「事実」に合わせるしかない。
すなわち「刻一刻年を取り、やがては死ぬのだ」という思いに換える。
そうすると「事実」との食い違いがないので、「苦」というものは起こらず、心は平安となる。
勿論その場合、自己の「思い」を換える程の厳しい無常観が求められることになる。
日本人は、仏教の説くこの「無常観」に大きな影響を受けたとされている。
人の命のはかなさ、世の中の頼りなさを歌った「万葉集」、無常を想う遁世生活を述べた「方丈記」、「諸行無常」の言葉で始まる「平家物語」、更には〈能〉の中にも無常観を表そうとしたものが多いと言われている。
しかし、これらは単に、人間や世間のはかなさ、頼りなさを情緒的、詠嘆的に表現しようとした日本的美意識としての「無常感」であり、インドの仏教が主張する、苦を脱却するための「無常観」とはかなり趣が異なる。
「平家物語」
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。 奢れる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。 たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の中の塵に同じ。の塵に同じ。
経家(諸仏)が「諸行無常」とか「諸法無我」と説かれる真意はどこにあるのか?
仏教は菩提心・真心の宗教であり、修行・浄業の因縁によって人生を善処し、清浄・荘厳の果報を自他に得てゆく教え。 変革不可能な運命に従って生きよ、と命令する宗教ではない。
「変革可能」の大筋に随って「諸行無常」の法が説かれた。
つまり「諸行無常」と説かれたのは、「人生の空しさ」や「厭世観」を伝えたいのではなく、「現状が悲惨でも、心がけと努力次第で輝かしい人生を得ることができる」とか「人間は修行次第で仏になれる。」と、自己改革の可能性を大いに示唆し、社会を創造していく積極的な流れの中で「無常」と説かれたのだ。
これは「諸法無我」も同じで、たとえば「凡夫としか言えない今の私も、それは固定的実体ではなく、法の潤いがあれば必ず仏に成れる」と、修行の無限の可能性を示している言葉。
総じていえば無常・無我は、修行の意味やモチベーションを与える原理である。
ただし、「盛者必衰」の裏返しで「貧者必盛」とか「よわき者も遂にはたけき者になる」と言いたいのではない。
「禍福は糾える縄の如し」の幸せは本当の幸せではない。
金銭や名誉ばかり求めているのは我執・無明の欲望で、これらを得るためには身を汚さねばならず、たとえ欲望が叶っても、福を保つ際にまた身を汚し、福を失う苦しみが身を破滅させてしまう。
これを「流転」といい、苦しみの中でもがき続ける迷いの衆生の有様をいう。
仏教では、流転する原因の「欲望」を、不純な煩悩と純粋な菩提心に割り開き、智慧によってコントロールし、方向づけ、人生の覚りと徳を得る「願い」に転じることを勧める。
「御文章」蓮如上人
それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。さればいまだ万歳の人身を受けたりといふことをきかず、一生過ぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。されば朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに閉ぢ、ひとつの息ながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李のよそほひを失ひぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、さらにその甲斐あるべからず。さてしもあるべきことならねばとて、野外におくりて夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あはれといふもなかなかおろかなり。されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
「御文章」5帖16 白骨章
訳/さて、人間というもののよるべない有様を心を静めて見つめれば、「およそ儚いものとは、人がこの世に生を享けてから去ってゆくまでの始中終、幻のような一生である。これだから、人が一万年の寿命を受けたとはいまだかつて聞かない。一生はすぎやすいものである。末世の今にいたっては、いったい誰が百年の姿形を保ちえようか。われが先か、人が先か、命の終わりを迎えるのは今日とも知れず、明日とも知れない。先立たれる人、先立つ人、それは草木の根もとの滴がしたたり落ちるよりも、葉先の露が散りゆくよりも多く、人の死の前後はうかがい知ることができない。」と先人は言っています。ですから朝には美しい生き生きとした顔をしていても、夕には白骨と化してしまう身。無常の風がさっと吹いたならば、二つの眼はたちまちに閉じ、命の息は永遠に絶えてしまう。美しい顔も空しく変わりはて、桃李のような愛らしい姿も失われてしまったなら、親族たちが集まって嘆き悲しんでも、もはや何の甲斐もありません。いつまでもそうしてはいられないので、野に送って荼毘に付し、夜半の煙となりはてれば、ただ白骨だけが残ります。あわれといっても、なおいい足りません。人間の儚いことといえば、老いて死に、また若くしても死ぬこの世ですから、どなたも早く浄土往生の一大事に真剣に心を向けて、阿弥陀仏にお従いして、お念仏を申すべきです。あなかしこ、あなかしこ。
「御文章」は、蓮如上人が教化活動のため長年(寛正2年[1461年]〜明応7年[1498年])に渡り、信徒に書き送った手紙の集大であり、当時の人々の心情と仏法との接点が解る貴重な資料。
この時代は度々起こる戦乱と飢饉で、庶民は未来に絶望せざるを得ない時代であり、学問をする機会も得られず、成仏・浄土往生など望むべくもない境遇にあった。
蓮如上人自身も前半生は物質的には決して豊かではない環境にあったが、常に仏法研鑽に励み、多くの著や編纂本を残した。
中でも「正信偈大意」や「真宗相伝叢書(真宗相伝義書)」は本格的な教学書だが、「御文章」(お文)は文字も読めない一般の人々に贈られた教化用の手紙。
ここでは徹底的に民衆の悲惨な境遇に同感し、「随他意説」のみで仏法が説かれているので、「浄土とは何か」「如来とは何か」という法の真実面を明らかにする作業はほとんど為されていない。
また「一切衆生悉有仏性」という面の展開もなく、「機法一体」であるはずの衆生と如来の関係が、まるで「機と法は別の存在である」というような印象を抱かせる。
つまり「衆生はとことん愚かで劣っていて、如来はとことん賢く尊い」と思わせる表現であったり、「如来の慈悲心だけで罪悪深重の衆生を救済する」というような「機法合体」の印象を与えかねない表現になってしまった。
このままでは外道の教えや啓示宗教と同じになってしまう。 つまり「御文章」を文字通りに読むと、愚民政策に協力しやすい教えになってしまい、仏教の大原則である「自灯明」さえ否定しかねない。 仏教は「この世で自らを島(灯明)とし、自らをよりどころとして、他人をよりどころとしない」教え。
本当は、衆生と如来は元々一体なのであり、仏法によってその真実を幾重にも開いて明らかにし、その功徳によって本来の仏性が芽を出し身に満ち、現実に展開することを尊ぶ。
こうした表現の問題は、時代のせいで仕方がなかったのだろう。
「生死即涅槃」とか「煩悩即菩提」と書いても当時の民衆には誤解と混乱を与えるだけ。
「御文章」は、おそらくこうした理由等から「随他意説」に徹したのだと思われる。
そのため、「寂しさ」や「人生の空しさ」のみが強烈に伝わる懸念もあり、この懸念を払拭するためには、法を説く側に相当の仏教研鑽と留意が必要となる。
「方丈記」
方丈記に一貫して流れているのは「無常観」といわれる思想です。実際に起こった大火事・地震・飢饉などをなまなましく描写し、人の命や人生・社会のはかなさ、不安定さ、うつろいやすさを説き、その苦悩を訴えています。その苦悩から逃れるために世間から離れるのが隠遁生活であり、彼らは隠者・世捨て人などと呼ばれています。漢文をベースにした長明の力強い文章が、彼の苦悩をよりはっきりと表現していると言えるでしょう。
方丈記は隠者文学の代表的な作品のひとつです。
行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある人と栖と、またかくの如し。玉敷の都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き・賤しき人の住ひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。或は、去年焼けて、今年造れり。或は、大家亡びて、小家となる。住む人もこれに同じ。所も変らず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わずかに一人・二人なり。朝に死に、夕に生るる習ひ、(ただ)、水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ・死ぬる人、何方より来りて、何方へか去る。また知らず、仮の宿り、誰が為にか、心を悩まし、何によりてか、目を悦はしむる。その主と栖と無常を争ふさま、言わば、朝顔の露に異ならず。或は、露落ちて、花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。或は、花しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、夕を待つことなし。
訳/遠く行く川の流れは、とぎれることなく続いていて、なおそのうえに、その河の水は、もとの同じ水ではない。その河の水が流れずにとどまっている所に浮ぶ水の泡は、一方では消え、一方では形をなして現れるというありさまで、長い間、同じ状態を続けているという例はない。世の中に存在する人と住居とは、やはり同じく、このようなものである。玉を敷いたように美しく、りっぱな都の中で、多くの棟を並べ、その棟の高さを競争しているかのような、身分の高い人・低い人の住居は、時代時代を経過しながらなくなってしまわないものであるが、その都の中の家々を、なくならないのがほんとうかと探ってみると、昔あったままの家はきわめて少ないものである。あるものは、去年、火事で焼け、今年造ったものである。あるものは、大きな家が滅んでしまって、その跡が、小さい家となっている。その家々に住む人も、これと同じである。都の中の場所も変らず、中に住んでいる人も多いけれど、昔逢ったことのある人は、二、三十人のうちに、やっと、一人か二人くらいである。人間というものが、ある者は朝に死ぬかと思うと、ある者は夕方に生まれてくるという、世の常例は、まったく、消えたり、現れたりする水の泡に類似しているのだ。わたしにはわからない、生まれたり死んだりする人は、どちらから来て生まれ、どちらへ死んで去ってゆくのか。またわからない、無常の世における仮の住まいというものは、だれのために、心を労して作り、何にもとづいて、目に快楽を与えるように飾り立てるのかが。その主人と住居とが、争うように、変遷を続けている様子は、たとえてみれば、朝顔の花とその露の関係と同じである。ある時は、露が落ちて、花だけが残っていることもある。残っているにしても、やがて、朝日によって生気を失ってしまうのだ。ある時は、花がしおれて、その花の露はまだ消えないでいることもある。消えないでいるにしても、しばらくの間だけのことで、夕方のくるのを待つこともないのである。
鴨長明は久寿二年(1155年)から建保四年(1216年)、平安末期から鎌倉初期にかけて歌才文才を発揮した僧侶。「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」は、日本人ならほぼ誰もが知っている一節だろう。鴨長明は「行く河の流れは絶えずして」という常住の方の譬えを深めず、「もとの水にあらず」の無常の譬えばかりを強調しているが、本来「行く河の流れは絶えずして」の常住の方が仏教では重要。 「もとの水にあらず」の内容は、おそらく仏教を学べば、いや学ばなくとも、誰もが体験している諸行無常の現実。
しかし諸行無常の足元には常住の世界が控えている。それが本来の「行く河の流れは絶えずして」であるはず。鴨長明は「絶えずして」を、「物事を固定化実体化した見誤り」と批判したのかもしれない。これは教学的に言うと、「絶えずして」を「遍計所執性」のはからいとした見方。
本当は、「依他起生性」から「円成実性」に、さらに「真実報土」へと話を具体的に展開してほしいのだが、「方丈記」はどこまで行っても「依他起生性」を批判する厭世的な「無常」に留まってしまっている。
また、「知らず、生れ・死ぬる人、何方より来りて、何方へか去る」も「また知らず、仮の宿り、誰が為にか、心を悩まし、何によりてか、目を悦はしむる」という言葉も、本当の仏教者であれば、「我が命の来し方、世界の行く末」に皆の往生を願う浄土の菩提心を説き、諸仏浄土の有様を説く題材としなくてはならないはず。しかし「方丈記」を読むと、そうした問題意識は欠落しているとしか思えない。
真実の経典には、こうした課題について以下のように諭している。
「仏説無量寿経」正宗分・衆生往生因・往覲偈
まさに菩薩に記を授くべし。いま説かん。なんぢあきらかに聴け。十方より来れる正士、われことごとくかの願を知れり。厳浄の土を志求し、受決してまさに仏となるべし。一切の法は、なほ夢・幻・響きのごとしと覚了すれども、もろもろの妙なる願を満足して、かならずかくのごときの刹を成ぜん。法は電・影のごとしと知れども、菩薩の道を究竟し、もろもろの功徳の本を具して、受決してまさに仏となるべし。諸法の性は、一切、空無我なりと通達すれども、もつぱら浄き仏土を求めて、かならずかくのごときの刹を成ぜん。
訳/今、ここにいる菩薩たちが未来にさとりを得ることを約束しよう。これからそのことを説くから、よく聞くがよい。わたしはさまざまな国から来た菩薩の願をすべて知っている。菩薩たちは清らかな国をつくりたいと志して、その願の通りに必ず仏になることができる。すべてのものは夢や幻やこだまのようであるとさとりながらも、さまざまなすばらしい願を満たして、必ずこのような国をつくることができるのである。すべては、稲妻や幻影のようであると知りながらも、菩薩の道をきわめ尽し、さまざまな功徳を積んで、必ず仏になることができる。
すべてみな、その本性は空・無我であると見とおしながらも、ひたすら清らかな国を求めて、必ずこのような国をつくることができるのである。
このように、菩提心をもって問えば必ず答えが発見できるところが経典の素晴らしいところ。如来や経典の内容を信じていれば、必ず応えてくれる。
「顕浄土真実教行証文類」で「煩悩即菩提、娑婆即浄土」ということを、親鸞聖人は―
次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。
この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。
訳/次に信楽というのは、阿弥陀仏の慈悲と智慧とが完全に成就し、すべての功徳が一つに融けあっている信心である。このようなわけであるから、疑いは少しもまじわることがない。それで、これを信楽というのである。すなわち他力回向の至心を信楽の体とするのである。ところで、はかり知れない昔から、すべての衆生はみな煩悩を離れることなく迷いの世界に輪廻し、多くの苦しみに縛られて、清らかな信楽がない。本来まことに信楽がないのである。このようなわけであるから、この上ない功徳に遇うことができず、すぐれた信心を得ることができないのである。すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。なぜかというと、阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまで、どのような疑いの心もまじることがなかったからである。この心、すなわち信楽は、阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、必ず真実報土にいたる正因となるのである。如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、この上ない功徳をおさめた清らかな信を、迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。これを他力の真実の信心というのである。
というように、仏性が兆載永劫において衆生に報いた結果である「信楽」の本質を明らかにしている。これこそ「煩悩即菩提」「娑婆即浄土」と言われる「即」の内容であり、「絶対矛盾の自己同一」とも「弁証法」ともいわれる思惟の内容。
具体的には、私たち人類の「無始よりこのかた」の無明は、人間本来が宿す仏性により五眼が開いたおかげで無明が無明と見出されてきたのであり、阿弥陀如来の「菩薩の行を行じたまひしとき」よりの浄業によって、三悪道の宿業の娑婆が娑婆であると見出されてきた。
このように娑婆と浄土は互いを照らしあい、現実社会に浄土の働き場を見出してゆく。現実社会は何一つ仏法から外れたものなどなく、現実のどの一片をとっても虚しいものなどない。今この場の私こそが永遠の法と報身の働き場なのであり、常住の世界は無常の現実以外に存在しているのではない。
私たちは無常の身でありますが、無常を無常と本当に覚れば、それは既に常住の身に成っている。
如来は我が身に至って、無量無辺にその働きを展開し、阿僧祇劫にわたって菩提心(寿命)が相続されてゆく。
「徒然草」
「人は、ただ、無常の、身に迫りぬる事を心にひしとかけて、束の間も忘るまじきなり」(49)
「無常の来る事は、水火の攻むるよりも速かに、のがれ難きもの」(59)
「閑かなる山の奥、無常の敵競ひ来らざらんや」(137)
もののあはれ(もののあわれ、物の哀れ)とは、平安時代の王朝文学を知る上で重要な文学的・美的理念の一つ。折に触れ、目に見、耳に聞くものごとに触発されて生ずる、しみじみとした情趣や哀愁。日常からかけ離れた物事(=もの)に出会った時に生ずる、心の底から「ああ(=あはれ)」と思う何とも言いがたい感情。  
 
徒然草

つれづれなるまゝに、日暮らし、硯(すずり)に向ひて、心に移り行くよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、怪しうこそ物狂(ものぐる)ほしけれ。
徒然草と鎌倉新仏教
日蓮聖人の教えというものを、私達はややもすると聖人一人の独創で、時代の状況に関わりなく生まれたものという意識になりがちです。しかし、日蓮聖人の教えは、単に独自に閃いて創ったという理論ではありません。時代の産物というか、そういう意味では、日蓮聖人は時代の人です。その時代の中で、皆が考えていたことを、宗祖も訴えていったんです。その中で、現代まで残っていったのが、日蓮聖人の思想ということになります。日蓮聖人と同じような思想を持っていた人は、他にもおりましたが、そういう方達は、歴史に残っていません。また、同じとまでいきませんが、似たようなことを言い、書き残したという人は、たくさんおります。しかし、そういう方の多くは、歴史の中に消えていってしまいました。一方、法然・親鸞・道元という鎌倉新仏教の創始者達は、日蓮聖人とは全く違ったものを求めていました。
今日日本仏教の中で、一番多いのが、法華経の信仰者です。五人に二人は何らかの形で南無妙法蓮華経を唱えたり、関わったりしている人達です。次が念仏宗、法然・親鸞の系統です。その次が禅宗、道元・栄西の系統です。一休さんや良観さんというのは、有名ですが、この人たちは禅宗です。その次が真言宗、天台宗と続きます。いまでは天台宗は、一番小さな教団ですが、法華系の祖師日蓮聖人、そして法然や親鸞、栄西という各宗祖たちは、天台宗即ち、比叡山の出身者です。
比叡山は天台宗の総本山ですが、宗祖は伝教大師最澄です。実は、伝教大師は天台宗を開くにあたって、朝廷に出した自筆の建白書には「天台法華宗」と書いています。しかし、いまでは誰も言いません。天台宗の人も言いません。それは、法華経と言うと日蓮聖人となってしまったからです。だから、法華宗というと、日蓮宗の一派かと思われてしまうので、やめてしまったのです。
この天台宗というのは、平安の終わりから鎌倉時代にかけて、みんながいろんなものを模索したとき新しい宗教思想の母体となりました。もともと天台宗には、新しい時代に対応した新しい宗教が必要だという考えがありました。その意識は、この時代の人たちだけではなく、もっと以前の宗祖伝教大師最澄自身が既にもっていたんです。これからの宗教、仏教は新しくなっていかなくてはいけない、時代に即応し、その時代の人々を救う、そういう教えでなくてはいけないし、どんどん改革していくんだ、と考えた立派な僧でした。この方と、並ぶのが空海という僧なんです。どちらかというと、現代では空海のほうが有名なんですが、しかし、日本で一番最初に大師と呼ばれた方は最澄です。この僧が、日本の仏教に一番、影響を与えたことは間違いありません。
伝教大師は、従来の仏教をどんどん変えていこうとした方でした。それで、日本に中国の天台大師の考え方を弘めようということで、日本に法華経の教えを弘め、天台法華宗を創設いたしました。残念ながら、現在では、その名残りはほとんどなく、名前だけが残っているという状況で、お寺は大きいんですが、信仰的には決して盛んであるとはいえないような宗派になってしまいました。ところが、日蓮聖人を始め、法然・親鸞・道元も皆、ここから出ているんです。ということは、この宗派は、この新しい息吹というものを当時は持っていた。また、日蓮聖人と同じような思想を持っていた人が、この宗派にいっぱいいたということです。その中で、この法華経の教えを弘めた方の中では日蓮聖人だけしか、現在では名前が残っていない。もちろん、調べればあるんです。あるけれども、一般には、残っていない。で、研究者が日蓮聖人の時代の思想背景を知ろうと思ったら、当時の天台宗の人たちが何を考え、何をしようとしていたかということを勉強するわけですが、そうすると、日蓮聖人と同じようなことを求めていた人たちがたくさんいたことを知ります。ただ、残念ながら、実を結んだのは、日蓮聖人だけということですね。しかし、日蓮聖人だけが、新しい法華宗というものを求めたのではないということを、お話ししておきたいと思います。
さて、この天台宗というのは、面白い宗派でして、朝は題目を唱え、法華経を読誦するんです。朝題目、夕念仏と言いまして、朝は法華経を読み、南無妙法蓮華経と唱え、夕方になりますと、阿弥陀経を読み、南無阿弥陀仏というわけです。朝晩の修行がそうなんです。さて昼は何をするかといいますと、座禅他種々の修行をするんです。つまり、天台宗というのは、朝は法華経、昼は座禅、夜は念仏という、この三つをするんです。それぞれ、これを独立した修行にしたのが、日蓮聖人であるし、道元・法然・親鸞ということになります。ですから、この三つを合わせたのが、天台宗ということです。今の天台宗の座主は百才の方ですが、この方の言葉に、「日蓮宗も、禅宗も、念仏宗も、いわば専門店で、天台宗は百貨店」というのがあります。デパートですね、要するに。天台宗とは、日蓮宗や禅宗、念仏宗のこれらを合わせたものということです。そして、それらの一つ一つが分離していったのが、鎌倉新仏教だと理解すればいいと思います。そして、それはそれまでの天台宗では駄目だというものがなければ、そうはならないんですけども・・。
そこで、「徒然草」を取り上げてみたいと思います。これをみると、当時の人々の問題意識というものがわかります。この段は、私は高校生の時に教わったことがあり、またその後、大学院の時に、教授から面白い話を聞きました。それは、以下のような話です。この教授が国文学の先生から、「徒然草」のこの段について論文を書いて欲しいと頼まれたそうなんです。なぜかといいますと、国文学では、この段が全然理解できないらしいのです。つまり、「徒然草」が国文学では理解できないということなんです。それは、国文学というのは宗教抜きでしますが、ところが、文学として「徒然草」を見ては限界があるんです。それで、宗教、法華経の知識のない人が読んでも、わからないんです。何を言いたいのかわからない、という頼みに、私の先生が言うには、仏教の知識なくしてそれはわからないでしょう、それも法華経がわからないと、理解できないでしょうと答えたそうです。当時の思想家たちは、この問題を共通の問題とし、模索していたということでしょう。それは、日蓮聖人も同じなんです。同じところに問題意識を持っていたということになります。
この「徒然草」は、作者は吉田兼好(一二八三年〜一三五二年?)で、一三三一年四十八才の時に書かれたもので、日本の三大随筆の一つです。三大随筆は、一番古いのは、清少納言の「枕草子」、鴨長明の「方丈記」とこの三つです。そして今の国文学では、ここの段は最後の段で自賛の段と解釈されています。自分で自分を誉めるという意味ですが、実のところこれぐらいしか、理解できていないということです。
「徒然草」第二百四十三段(自讃の段)・通釈
八つになった年に、父に尋ねて、「仏とは、どんなものでございましょうか」と言った。父が答えて、「仏には人間がなっているのだ」と言った。また尋ねて、「人間はどうやって仏になりますのでしょうか」と聞いた。父はまた、「仏の教えによってなるのである」と答えた。そこで、また尋ねて、「その教えました仏をば、何ものが教えましたか」と聞いた。父はまた、「それもまた、前の仏の教えによって、仏におなりになったのである」と答えた。そこで、また尋ねて「その教えはじめなさった最初の仏は、どんな仏でございますのでしょうか」と言うとき、父は、「天から降って来たのであろうか、土から湧いて来たのであろうか」と言って、笑った。「問いつめられて、答えられなくなってしまいました」と、父は人々に語っておもしろがった。

吉田兼好自身が八つの時に、お父さんに「仏とは、いったいどんなものですか」と聞いたんですね。お父さんは「仏というのは、人間がなったものだ」と答えた。そこで兼好が、続けて「人間は、どうしたら、仏になったのですか」と尋ねた。すると、お父さんは「仏になった人は、その前の仏に教えを受けてなったんだ」と答えた。そこで、また兼好が尋ねた。「その教えたという仏は、どうやって仏になったんですか」。父はまた「それもまた、前の仏の教えによって、仏になったんだ」と言ったんです。そこで「その教え始めた、最初の仏は、どういう仏なんですか」。父は「天から降って来たのであろうか、土から湧いて来たのであろうか」という話で、話自体は非常に単純なものなのです。問題は、この段が「徒然草」の最後の段であり、これが単純に自讃の段と考えるのはどうも、しっくりこないということなのです。
だけども、他に理解のしようがないので、とりあえずこうしているんでしょうね。で、私の先生の所に聞いてきたということなのですが、その話しを聞いて、私もアレッと思いました。これは、今の私たちの問題意識と同じだと思ったんです。日蓮聖人をはじめ、当時の革新的な人たちは、皆この最初の仏は何かということを考えていたんです。結局、兼好法師の言いたいのは、自分がこうやって父親をやっつけたということではないと思うのです。八才の時にそういう疑問も持っていた、しかも、未だにその疑問が解けないということではないかと思うのです。結論が出ない、まだこれからだということを言いたいのではないでしょうか。つまり、自分はまだ本当の悟りを得ていない、ということを言っているように見えます。でも国文学では、そこがわからないんですね。私は父親をやっつけるほどに頭がいいという話しではなく、悟りが得られず、まだ修行途中だという話と私は理解します。
日蓮聖人は、これより五十年程前の方ですが、当時、これが問題でした。そういう中で法然は、問題の解決はさておいて、阿弥陀仏に絶対的に帰依していこうしたわけです。道元は仏は座禅によって悟りを得たのだから、その型を真似たら悟りを得られるんじゃないかと、形から入って禅宗を始めたんです。日蓮聖人は、仏の根本は何か、仏の仏たる所以を明らめ、それを得るこれができれば、私達も仏ではないだろうかという問題に取り組み、いずれにしても、当時非常に重要な問題、それが、仏の根本とは何かです。
即ち、日蓮聖人の答えは、仏の根本とは仏ではなく、法・真理を悟って仏になったんだということです。それを題目にして南無妙法蓮華経です。南無というのは、信じますということ。蓮華は妙法の譬え。経は教え。つまり、私は妙法の教えを信じますということです。この妙とは修飾語ですから、実質は法を信じますとなります。つまり、日蓮聖人は仏の悟ったものを私達も悟ればいいんだということです。教えてもらおうと、前の仏を探しても、きりがないんです。それよりも、最初の仏が悟った法をいただいたほうがいいですね。経にも、依法不依人と法に依って、人に依らずとありますように、人ではなく、法に依りなさいとあります。それが日蓮聖人の教えです。
そこで、日蓮聖人の教えをわかりやすいところで、親鸞と比較いたしますと、この親鸞は、逆に依人不依法です。代表的な著作である「歎異抄」で比較してみたいと思います。
云く、 念仏は、実に、浄土に生るる種子にてや侍るらん、また、地獄に落つべき業にてや侍るらん、総じてもつて存知せざるなり。たとひ、法然聖人に賺され参らせて、念仏して地獄に落ちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。その故は、自余の行も励みて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にも落ちて候はばこそ、賺され奉りてといふ後悔も候はめ、いづれの行も及び難き身なれば、とても、地獄は、一定、住処ぞかし。
通釈/念仏は、本当に浄土に往生するもととなるものでしょうか、あるいは、地獄に落ちる行でしょうか、まったく私は心得ておりません。たとえ、法然聖人にだまされて、念仏によって地獄に落ちてしまっても、少しも後悔いたしません。なぜかといえば、念仏以外の修行を励んで仏に成るはずであった私が、念仏によって地獄に落ちるのであれば、だまされたという後悔もあるでしょう。けれども、どんな修行によっても成仏できないわたしですから、どうせ地獄こそ私のすみかなのです。
念仏は往生・成仏の道かどうか、それとも地獄に行く道であるか、ないか、私にはまったくわからない。
たとえ、師匠である法然上人に騙されて、念仏によって地獄に行こうが、決して後悔はしませんというわけですね。なぜなら、自分が念仏以外の修行で仏になるはずであったなら、つまり自分に仏になれるという希望があったなら、法然についていって、騙されたという後悔はあるけれども、そうではなく、なにの修行をしても地獄へ行くのだから、法然に騙されて地獄に行っても、いいではないかというわけです。ある意味で、これはこわいです。赤信号みんなで渡ればこわくないではありませんが、師というものに多大な力量が要求される教えです。更に念仏はいいかどうかわからないけれども、どうせ地獄へ行くなら、いいじゃないかといっているんです。自信も確信もない、暗く、希望がありません。しかし、すさまじいまでの法然信仰です。いわば人間の弱味に立脚する宗教、これが念仏の本質です。これは究極の依人不依法です。ある意味で、ここまで信じ切れる師がいれば、考え方によってはこの人は是非はともかく幸せかも知れません。ところで、面白いことに、今の知識人の中では、この親鸞の評価は高いんです。逆に日蓮聖人の評価は低い。それは、親鸞は自分の心の弱さというものを赤裸々に書いているんです。知識人というのはそれを喜ぶくせがあります。ところが、日蓮聖人は、このような心の弱さを告白するような雰囲気は全くありません。確信と信念で一貫し、強気ですからあまり知識人には好かれません。知識人は逆に弱気を喜ぶんです。
そこで、日蓮聖人の教えは「十字御書」を通してみてみます。
地獄と仏とは、いづれの所に候ぞと尋ね候へば、あるいは地の下、あるいは、西方等と申す経も候。しかれども、委細に尋ね候へば、我等が五尺の身の内にみえて候。我等凡夫は、まつげの近きと、虚空の遠きとは見ることなし。我等が心の内に、仏はおわしましけるを知り候はざりけるぞ。災いは、口より出て身をやぶる。幸いは、心より出て我をかざる。法華経を信ずる人は、幸いを万里の外より集むべし。
通釈/地獄と仏とは、どこにあるのかといえば、経典には大地の下や、西の方というのもある。しかし、よく考えると、私達の生きている体の中にある。私達は、自分のまつげと遠くの空虚が見えないように、私達の心の中に仏がいるということがわからない。失敗するのは自分が原因であって、幸せもそうです。法華経を信じる人には幸せは万里の外より集まるものだ。
地獄と仏とどこにいるのかといえば、経典によっては、大地の下や、念仏宗がいうように西の方というのもある。しかし、よく考えると、地獄も仏も、この私たちの生きている体の中にある。死んでから行くんでもない。生きている、現実のこの自分の中に地獄も、仏もあるんだ。私たちは、自分の睫と遠くの虚空が見えないように、自分の心の中が一番わからない。それが人間だ。私たちの心の中に仏がいるということがわからず、ために他の仏を求め、迷い、他力になってしまう。この世の中で頼れるものは自分しかないんだということを迷ってしまい、他を探して迷っているわけです。救われようと、心の旅に出るわけです。何故かというと、自分を捨てているからです。私たちは、自分自身対する悪い責任を取りたくないらしいんですが、しかし、失敗するのも自分が原因であって、それが還ってくるだけなんです。幸せもそうです。自分の心です。ですから、自分が変わって、それから周りが変わっていくんです。人を信じるのではなく、法を、真理を信じる、貴び、大事にする人は、そういう人は必ず幸せになるということです。
これは、さきほどの親鸞とだいぶ違います。人間の弱さを追求するのが親鸞とすると、宗祖は強さを追求する教えといえるのでしょう。明るい、とても、明るい宗教です。法華経の教えと念仏の教えとは、これほどに天と地との差ほどあります。未来に希望を持たせるのが宗教家の役割です。しかし、こういう教えは、知識人はイヤなんでしょうね。むしろ、人間の弱い面を出すほうが好まれるんですが、しかしこんな教えであっては、人は救えません。知識人たちは、本末転倒しているし、日蓮聖人は誤解されています。それは、創価学会・立正佼成会・霊友会などの新興宗教、こういったものが日蓮聖人の足を引っ張っているということにも一因があります。
さて、日蓮聖人の教えには、二つの特徴があります。一つは末法無仏ということ。簡単にいえば、頼りになるのは自分だけだということ。仏に救われるのではない。仏になるということです。救われるのではなくなっていくということです。頼れるものは何もなく、自分自身が支えである。もう一つは、依法不依人。仏によって救われるんではなく、真理を持って救われるんだということです。ですから、日蓮聖人の教えは、非常に単純で、素朴なんです。自分を信じて、そして真実を信じるという教えです。誰もが出来ます。子供でも、年寄りでも、男女も関係ありません。そして、未来に、人生に希望を持って生きて行けます。人生に希望がないというのは辛いですよ。最後は、必ず死ぬわけですから、これは、真実です。生きているというのは、死に向かって一歩一歩近づくということです。そうであるならば、いかにこの生きている瞬間を大事にし、充実するか、それが、宗教の使命です。なおかつ、そういう教えに巡り合えたら、日蓮聖人の言葉ではないですが、「幸いを万里の外より集むべし」です。この人生をどうせなら素晴らしい人生にしていただきたいと思います。
くり返しますが、日蓮聖人の教えは、二つです。頼るものは何もないんだ、法と自分が根本であり、よりどころであるということ。そして、日蓮聖人を信ずるんではない。日蓮聖人の説いたものを信じるんです。問題は、いかに実践するかということです。人間の弱さを克服するのが宗教です。ともにそういう人間になっていくよう修行していこうではありまんか。  
 

第一段
いでや、この世に生れては、願はしかるべきことこそ多かめれ。
帝の御位(おんくらい)はいともかしこし。竹の園生の末葉まで、人間の種ならぬぞやんごとなき。一の人の御有様はさらなり、ただ人も、舎人(とねり)などたまはる際(きわ)は、ゆゆしと見ゆ。その子・孫までは、はふれにたれど、なほなまめかし。それより下つ方は、ほどにつけつつ、時に逢ひ、したり顔なるも、みづからはいみじと思ふらめど、いと口惜(くちお)し。
法師ばかり羨しからぬものはあらじ。「人には木の端のやうに思はるるよ」と清少納言が書けるも、げにさることぞかし。勢猛(いきおいもう)に、のゝしりたるにつけて、いみじとは見えず。増賀聖(ぞうがひじり)のいひけんやうに、名聞くるしく、佛の御教(みおしえ)に違ふらむとぞ覚(おぼ)ゆる。ひたふるの世すて人は、なかなかあらまほしき方もありなん。
人は、かたち・有樣の勝(すぐ)れたらんこそ、あらまほしかるべけれ。物うち言ひたる、聞きにくからず、愛敬ありて、言葉多からぬこそ、飽かず向(むか)はまほしけれ。めでたしと見る人の、心(こころ)劣りせらるゝ本性(ほんじゃう)見えんこそ、口をしかるべけれ。
人品(しな)・容貌(かたち)こそ生れつきたらめ、心はなどか、賢きより賢きにも、移さば移らざらん。かたち・心ざまよき人も、才なくなりぬれば、しな(=人品)くだり、顔憎さげなる人にも立ちまじりて、かけずけおさるゝこそ、本意なきわざなれ。
ありたき事は、まことしき文の道、作文・和歌・管絃の道、また有職に公事の方、人の鏡ならんこそいみじかるべけれ。手など拙(つたな)からず走りかき、聲をかしくて拍子とり、いたましうするものから、下戸ならぬこそ男(おのこ)はよけれ。
第四段
後の世の事、心に忘れず、佛の道うとからぬ、心にくし。
第九段
女は髪のめでたからんこそ、人の目だつべかめれ。人の程、心ばへなどは、もの言ひたるけはひにこそ、物越(ものご)しにも知らるれ。
事に觸れて、うちあるさまにも、人の心をまど(惑)はし、すべて女の、うちとけたる寝(い)も寝(ね)ず、身を惜しとも思ひたらず、堪ふべくもあらぬ業にもよく堪へ忍ぶは、たゞ色を思ふがゆゑなり。
まことに、愛著の道、その根深く、源遠し。六塵(ろくぢん)の樂欲(ごうよく)多しといへども、皆厭離(えんり)しつべし。その中に、たゞ、かの惑ひ(=色欲)のひとつ止(や)めがたきのみぞ、老いたるも若きも、智あるも愚かなるも、変はる所なしとぞ見ゆる。
されば、女の髪筋を縒(よ)れる綱には、大象(だいぞう)もよくつながれ(=「大威徳陀羅尼經」にあり)、女のはける足駄にて造れる笛には、秋の鹿、必ず寄るとぞ言ひ傳へ侍る。自ら戒めて、恐るべく愼むべきは、この惑ひなり。
第十七段
山寺にかきこもりて、佛に仕うまつるこそ、つれづれもなく、心の濁りも清まる心地すれ。
第二十三段
衰へたる末の世とはいへど、猶九重の神さびたる有樣こそ、世づかずめでたきものなれ。
露臺(ろだい)、朝餉(あさがれい)、何殿(でん)、何門などは、いみじとも聞ゆべし。怪しの所にもありぬべき小蔀(こじとみ)、小板敷、高遣戸なども、めでたくこそ聞ゆれ。「陣に夜の設けせよ」といふこそいみじけれ。夜の御殿(おとゞ)のをば、「掻燈(かいともし)疾(と)うよ」などいふ、まためでたし。上卿(しゃうけい)の、陣にて事行へる樣は更なり、諸司の下人どもの、したり顔になれたるもをかし。さばかり寒き終夜(よもすがら)、此處彼處に睡(ねぶ)り居たるこそをかしけれ。「内侍所の御鈴の音は、めでたく優なるものなり」とぞ、徳大寺の太政大臣は仰せられける。
第二十四段
齋王の、野の宮におはします有樣こそ、やさしく、面白き事の限りとは覺えしか。「經」・「佛」など忌みて、「中子(なかご)」、「染紙(そめがみ)」などいふなるもをかし。
すべて神の社こそ、捨て難く、なまめかしきものなれや。ものふりたる森の景色もたゞならぬに、玉垣しわたして、榊木に木綿(ゆふ)かけたるなど、いみじからぬかは。殊にをかしきは、伊勢・賀茂・春日・平野・住吉・三輪・貴船(きぶね)・吉田・大原野・松尾(まつのを)・梅宮(うめのみや)。
神に仕える斎宮が選定され、伊勢神宮に籠もる前に嵯峨野で身を清めている姿は世界一、優美であるに違いない。「お経」とか「仏様」という忌み言葉を使わず「染めた紙」とか「中子」などと呼び、縁起を担いでいるのは面白い。
どこでも神社というのは、素通りできないほど神がかっている。古びた森の姿が、ただ事ではない様子を呈しているところに、周りに塀を作って、榊の葉に白い布が掛けられている姿は、オーラを感じずにはいられない。そんな神社の中でも特におすすめスポットは、伊勢神宮、二つの賀茂神社、奈良の春日大社社、京都の平野神社、大阪の住吉大社、奈良県桜井市三輪町の大神神社、京都市の貴船神社、同じく吉田神社、大原野神社、松尾神社、梅宮神社、などである。
兼好の時代。新しい天皇が即位する度に、皇族の若い未婚の娘から「斎宮」が選ばれた。斎宮は、京都から伊勢に下り、伊勢神宮で天皇にかわり朝廷の平安を祈り天照大神を祭った。伊勢神宮にこもる前の斎宮が、一定期間、身を清める為にこもるのが「野宮」である。
兼好は、京都の吉田神社に仕える卜部一族の出身であった。父や兄弟は朝廷で神祇官を勤めていた。「神社の子」は、兼行を理解するキーワードの一つである。
神や天皇を敬うように教えられて育った子供が、神や天皇を敬うのは当然のこと。しかし、この文章を書いた時の兼行は、たぶんだけど、すでに法師なのである。神社の子だったんだけど、この段を書いた時には仏門の人。だから、この段を書いた時には、今の自分は一歩離れて神や天皇を見ていますよというポーズが必要だった。坊主にもポーズが必要だ。
神道の基礎知識を持つ兼行は、神道の神域内で仏の教えは「邪教」として忌み嫌われていたのは当然に知っていただろう。
だから、わざと間違えて逆に書いたのではないだろうか。
本当は、「仏」が「なかご」で、「経」を「染紙」と言い換えていた。だけど、この24段の本文ではそれを逆に書いてある。どっちがどっちなんだか、よく分からないようにはぐらかしている。
説明の為に、テキストとしている「新訂徒然草」(岩波書店)にある解説を引こう。
「およそ、忌みことば、うち七言、仏は中子(ナカゴ)と称し、経は染紙と称し、塔は阿良良岐(アララギ)と称し、寺は瓦葺きと称し、僧は髪長と称し、尼は女髪長と称し、斎(イモヒ)は下膳(カタシキ)と称す(以下略)」(「延喜式」第五)
そういった忌み言葉を、神社の子である兼好は良く知っていたはずだ。
でも、今は仏門の人間であるから、神社の事なんか詳しくないよという態度を示したくて、わざと間違えて書いた可能性もある。
だがまぁ、なんだろうとも、神社は「捨て難く、なまめかしき」神域に思えると兼好は書いている。とにかく、兼好にとって神や天皇は信仰そのものだったのだろう。
そして、どうやら、兼好は実際に斎宮が野宮にこもっているのを実際に見た事があったらしい。 その記憶を元に、慣れ親しんだ神社の風景を思い出しつつ、昔をセンチメンタルに懐かしんで書いているのがこの段だ。  
第二十五段
飛鳥川の淵瀬常ならぬ世にしあれば、時うつり、事去り、樂しび・悲しび行きかひて、花やかなりし邊(あたり)も、人すまぬ野らとなり、變らぬ住家(すみか)は人あらたまりぬ。桃李物いはねば、誰と共にか昔を語らん。まして見ぬ古のやんごとなかりけむ跡のみぞ、いとはかなき。
京極殿・法成寺(ほふじゃうじ)など見るこそ、志留まり事變じにける樣は哀れなれ。御堂殿の作り磨かせ給ひて、莊園多く寄せられ、我が御族のみ、御門の御後見、世のかためにて、行末までとおぼしおきし時、いかならむ世にも、かばかりあせ果てむとはおぼしてんや。大門(だいもん)・金堂など近くまでありしかど、正和のころ、南門は燒けぬ。金堂はその後たふれ伏したるままにて、取りたつるわざもなし。無量壽院ばかりぞ、そのかたとて殘りたる。丈六の佛九體、いと尊くて竝びおはします。行成(ぎゃうぜい)大納言の額、兼行が書ける扉、なほあざやかに見ゆるぞあはれなる。法華堂なども、いまだ侍るめり。これも亦、いつまでかあらん。かばかりの名殘だになき所々は、おのづから礎(いしずえ)ばかり殘るもあれど、さだかに知れる人もなし。
されば、萬に見ざらむ世までを思ひ掟てんこそ、はかなかるべけれ。
第三十九段
或人、法然上人に、「念佛の時、睡りに犯されて行を怠り侍る事、如何(いかゞ)して此の障りをやめ侍らん」と申しければ、「目の覺めたらむ程、念佛し給へ」と答へられたりける、いと尊かりけり。又、「往生は、一定(いちじょう)と思へば一定、不定と思へば不定なり」といはれけり。これも尊し。
また、「疑ひながらも念佛すれば往生す」とも言はれけり。是も亦尊し。
第四十九段
老來りて、始めて道を行ぜんと待つ事勿れ。古き墳(つか)、多くはこれ少年の人なり。はからざるに病をうけて、忽ちにこの世を去らんとする時にこそ、はじめて過ぎぬる方のあやまれる事は知らるなれ。誤りといふは、他の事にあらず、速かにすべき事を緩くし、緩くすべきことを急ぎて、過ぎにしことの悔しきなり。その時悔ゆとも、甲斐あらんや。
人はたゞ、無常の身に迫りぬる事を心にひしとかけて、束の間も忘るまじきなり。さらば、などか、此の世の濁りもうすく、佛道を勤むる心もまめやかならざらん。
「昔ありける聖は、人来たりて自他の要事をいふとき、答へて云はく、「今、火急の事ありて、既に朝夕(ちょうせき)にせまれり」とて、耳をふたぎて念佛して、終に往生を遂げけり」と、禪林の十因に侍(はべ)り。心戒といひける聖は、餘りにこの世のかりそめなることを思ひて、靜かについゐける事だになく、常はうづくまりてのみぞありける。
第五十段
應長のころ、伊勢の國より、女の鬼になりたるを率て上りたりといふ事ありて、その頃二十日ばかり、日ごとに、京・白川の人、鬼見にとて出で惑ふ。「昨日は西園寺に參りたりし、今日は院へ参るべし。たゞ今はそこそこに」など云ひあへり。まさしく見たりといふ人もなく、虚言(そらごと)といふ人もなし。上下(かみしも)たゞ鬼の事のみいひやまず。
その頃、東山より、安居院(あぐゐ)の邊へまかり侍りしに、四條より上(かみ)さまの人、みな北をさして走る。「一條室町に鬼あり」とのゝしり合へり。今出川の邊より見やれば、院の御棧敷のあたり、更に通り得べうもあらず立ちこみたり。はやく跡なき事にはあらざんめりとて、人をやりて見するに、大方逢へるものなし。暮るゝまでかく立ちさわぎて、はては鬪諍(とうそう)おこりて、あさましきことどもありけり。
そのころおしなべて、二日三日人のわづらふこと侍りしをぞ、「かの鬼の虚言は、この兆(しるし)を示すなりけり」といふ人も侍りし。
 

 

第五十二段
仁和寺に、ある法師、年よるまで石清水を拜まざりければ、心憂く覺えて、ある時思ひたちて、たゞ一人徒歩(かち)より詣でけり。極樂寺・高良(こおら)などを拜みて、かばかりと心得て歸りにけり。さて傍(かたへ)の人に逢ひて、「年ごろ思ひつる事果たし侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊(たふと)くこそおはしけれ。そも參りたる人ごとに山へのぼりしは、何事かありけむ、ゆかしかりしかど、神へまゐるこそ本意なれと思ひて、山までは見ず。」とぞ言ひける。
すこしの事にも先達(せんだち)はあらまほしきことなり。
第六十段
眞乘院に、盛親僧都(じょうしんそうず)とて、やんごとなき智者ありけり。芋頭(いもがしら)といふ物を好みて、多く食ひけり。談義の座にても、大きなる鉢にうづたかく盛りて、膝もとにおきつゝ、食ひながら書をも讀みけり。煩ふ事あるには、七日(なぬか)、二七日(ふたなぬか)など、療治とて籠り居て、思ふやうによき芋頭を選びて、ことに多く食ひて、萬の病をいやしけり。人に食はすることなし。たゞ一人のみぞ食ひける。極めて貧しかりけるに、師匠、死にざまに、錢二百貫と坊ひとつを讓りたりけるを、坊を百貫に賣りて、かれこれ三萬疋を芋頭の錢(あし)と定めて、京なる人に預けおきて、十貫づゝ取りよせて、芋頭を乏しからずめしけるほどに、また、他用(ことよう)に用ふる事なくて、その錢(あし)皆になりにけり。「三百貫のものを貧しき身にまうけて、かく計らひける、誠にあり難き道心者(だうしんじゃ)なり。」とぞ人申しける。
この僧都、ある法師を見て、「しろうるり」といふ名をつけたりけり。「とは、何ものぞ」と、人の問ひければ、「さる者を我も知らず。もしあらましかば、この僧の顔に似てん」とぞいひける。
この僧都、みめよく、力強く、大食(たいしょく)にて、能書・學匠・辯説、人にすぐれて、宗の法燈なれば、寺中にも重く思はれたりけれども、世を輕く思ひたる曲者にて、萬(よろづ)自由にして、大かた人に隨ふといふ事なし。出仕して饗膳などにつく時も、皆人の前据ゑわたすを待たず、我が前に据ゑぬれば、やがて獨り打ち食ひて、歸りたければ、ひとりついたちて行きけり。齋(とき)・非時(ひじ)も、人に等しく定めて食はず、我が食ひたき時、夜中にも曉にも食ひて、睡(ねぶ)たければ、晝もかけ籠りて、いかなる大事あれども、人のいふこと聽き入れず。目覺めぬれば、幾夜も寝(い)ねず。心を澄まし嘯(うそぶ)きありきなど、世の常ならぬさまなれども、人に厭(いと)はれず、萬(よろづ)許されけり。徳の至(いた)れりけるにや。
第七十二段
賎しげなるもの。居たるあたりに調度の多き、硯に筆の多き、持佛堂に佛の多き、前栽に石・草木の多き、家のうちに子孫(こうまご)の多き、人にあひて詞の多き、願文に作善多く書き載せたる。
多くて見苦しからぬは、文車の文(ふみ)、塵塚の塵(ちり)。
第七十三段
世にかたり傳ふる事、誠は愛なきにや、多くは皆虚言(そらごと)なり。
あるにも過ぎて、人はものをいひなすに、まして年月すぎ、境も隔たりぬれば、言いたき侭(まま)に語りなして、筆にも書き留めぬれば、やがて定りぬ。道々のものの上手のいみじき事など、かたくななる人の、その道知らぬは、そゞろに神の如くにいへども、道知れる人は更に信も起さず。音にきくと見る時とは、何事も變るものなり。
かつ顯(あら)はるゝも顧(かえり)みず、口に任せていひちらすは、やがて浮きたることと聞ゆ。又、我も誠(まこと)しからずは思ひながら、人のいひしままに、鼻の程をごめきて言ふは、その人の虚言にはあらず。げにげにしく所々うちおぼめき、能く知らぬよしして、さりながら、つまづま合せて語る虚言は、恐ろしき事なり。わがため面目(めんぼく)あるやうに言はれぬる虚言は、人いたくあらがはず、皆人の興ずる虚言は、一人「さもなかりしものを」と言はんも詮(せん)なくて、聞き居たる程に、證人にさへなされて、いとゞ定りぬべし。
とにもかくにも、虚言多き世なり。ただ、常にある、珍しからぬ事のままに心えたらん、よろづ違ふべからず。下ざまの人のものがたりは、耳驚くことのみあり。よき人はあやしき事を語らず。
かくは言へど、佛神の奇特(きどく)、權者(ごんじゃ)の傳記、さのみ信ぜざるべきにもあらず。これは世俗の虚言を懇に信じたるもをこがましく、「よもあらじ」などいふも詮なければ、大方は誠しくあひしらひて、偏に信ぜず、また疑ひ嘲(あざけ)るべからず。
第八十段
人ごとに、我が身にうとき事をのみぞ好める。法師は兵の道をたて、夷(えびす)は弓ひく術知らず、佛法知りたる氣色(きそく)し、連歌し、管絃を嗜みあへり。されど、おろかなる己が道より、なほ人に思ひ侮(あなづ)られぬべし。
法師のみにもあらず、上達部(かんだちめ)、殿上人(てんじょうびと)、上ざままでおしなべて、武を好む人多かり。百たび戰ひて百たび勝つとも、いまだ武勇の名を定めがたし。その故は運に乘じて敵(あた)を砕(くだ)く時、勇者にあらずといふ人なし。兵(つわもの)盡き、矢窮(きわま)りて、遂に敵に降らず、死を安くして後、はじめて名を顯はすべき道なり。生けらんほどは、武に誇るべからず。人倫に遠く、禽獸に近き振舞(ふるまい)、その家にあらずば、好みて益なきことなり。
第八十九段
「奧山に、猫またと云ふものありて、人を食ふなる」と人のいひけるに、「山ならねども、これらにも、猫の經あがりて、猫またになりて、人とる事はあなるものを」といふものありけるを、なに阿彌陀佛とかや連歌しける法師の、行願寺の邊にありけるが、聞きて、「一人ありかむ身は心すべきことにこそ。」と思ひける頃しも、ある所にて、夜ふくるまで連歌して、たゞ一人かへりけるに、小川(おがは)の端にて、音に聞きし猫また、あやまたず足もとへふと寄り來て、やがて掻きつくまゝに、頚のほどを食はんとす。肝心もうせて、防がんとするに力もなく、足も立たず、小川へ転(ころ)び入りて、「助けよや、猫また、よやよや」と叫べば、家々より松どもともして、走り寄りて見れば、このわたりに見知れる僧なり。「こは如何(いか)に」とて、川の中より抱き起したれば、連歌の賭物とりて、扇小箱など懷に持ちたりけるも、水に入りぬ。希有にして助かりたるさまにて、這ふ這ふ家に入りにけり。
飼ひける犬の、暗けれど主を知りて、飛びつきたりけるとぞ。
第九十八段
尊き聖のい云ひ置きけることを書き付けて、一言芳談(いちごんほうだん)とかや名づけたる草紙を見侍りしに、心に會(あ)ひて覺えし事ども。
一爲(し)やせまし、爲(せ)ずやあらましと思ふことは、おほやうは、爲ぬはよきなり。
一後世を思はんものは、糂汰瓶(じんだがめ)一つも持つまじきことなり。持經(ぢきゃう)・本尊(ほぞん)にいたるまで、よき物を持つ、よしなきことなり。
一遁世者は、なきに事かけぬやうをはからひて過ぐる、最上のやうにてあるなり。
一上臈は下臈になり、智者は愚者になり、徳人は貧になり、能ある人は無能になるべきなり。
一佛道を願ふといふは、別のこと無し、暇ある身になりて、世のこと心にかけぬを、第一の道とす。
この外も、ありし事ども、覺えず。
 

 

第百十五段
宿河原といふ所にて、ぼろぼろ多く集りて、九品の念佛を申しけるに、外より入りくるぼろぼろの、「もしこの中(うち)に、いろをし坊と申すぼろやおはします」と尋ねければ、その中より、「いろをし、こゝに候。かく宣ふは誰(た)ぞ」と答ふれば、「しら梵字と申す者なり。おのれが師、なにがしと申しし人、東國にて、いろをしと申すぼろに殺されけりと承りしかば、その人に逢ひ奉りて、恨み申さばやと思ひて、尋ね申すなり」と言ふ。いろをし、「ゆゝしくも尋ねおはしたり。さる事はべりき。こゝにて對面したてまつらば、道場をけがし侍るべし。前の河原へ参り合はん。あなかしこ。わきざしたち、いづ方をも見つぎ給ふな。數多のわづらひにならば、佛事のさまたげに侍るべし」と言ひ定めて、二人河原に出であひて、心ゆくばかりに貫きあひて、共に死にけり。
ぼろぼろといふものは、昔はなかりけるにや。近き世に、梵論字(ぼろんじ)・梵字・漢字などいひける者、そのはじめなりけるとかや。世を捨てたるに似て、我執ふかく、佛道を願ふに似て、闘諍(とうじゃう)を事とす。放逸無慚のありさまなれども、死を輕くして、少しもなづまざる方(かた)のいさぎよく覺えて、人の語りしまゝに書きつけ侍るなり。
第百十六段
寺院の號(な)、さらぬ萬の物にも名をつくること、昔の人は少しも求めず、唯ありの侭に安くつけけるなり。この頃は、深く案じ、才覺を顯はさむとしたる樣に聞ゆる、いとむつかし。人の名も、目馴れぬ文字をつかむとする、益(やく)なき事なり。
何事も珍らしき事を求め、異説を好むは、淺才の人の必ずあることなりとぞ。
第百二十四段
是法法師は、淨土宗に恥ぢずと雖も、學匠をたてず、たゞ明暮念佛して、やすらかに世を過すありさま、いとあらまほし。
第百二十五段
人に後れて、四十九日(なゝなのか)の佛事に、ある聖を請じ侍りしに、説法いみじくして皆人涙を流しけり。導師かへりて後、聽聞の人ども、「いつよりも、殊に今日は尊くおぼえ侍りつる」と感じあへりし返り事に、ある者の曰く、「何とも候へ、あれほど唐の狗に似候ひなむ上は」と言ひたりしに、あはれもさめてをかしかりけり。さる導師のほめやうやはあるべき。
また人に酒勸むるとて、「おのれまづたべて人に強ひ奉らんとするは、劒(けん)にて人を斬らむとするに似たる事なり。二方に刃つきたるものなれば、もたぐる時、まづ我が頚を斬るゆゑに、人をばえ斬らぬなり。おのれまづ醉ひて臥しなば、人はよも召さじ」と申しき。劒にて斬り試みたりけるにや。いとをかしかりき。
第百三十三段
夜(よ)の御殿(おとゞ)は東御枕なり。大かた東を枕として陽氣を受くべき故に、孔子も東首し給へり。寢殿のしつらひ、或は南枕、常のことなり。白河院は北首に御寢なりけり。「北は忌むことなり。また、伊勢は南なり。太神宮の御方を御跡にせさせ給ふ事いかゞ」と、人申しけり。たゞし、太神宮の遥拜は辰巳に向はせ給ふ。南にはあらず。
第百四十一段
悲田院(ひでんいん)の尭蓮上人(ぎょうれんしょうにん)は、俗姓は三浦のなにがしとかや、雙なき武者なり。故郷の人の來りて物がたりすとて、「吾妻人こそ、言ひつることは頼まるれ。都の人は、言受けのみよくて、實なし」といひしを、聖、「それはさこそ思すらめども、おのれは都に久しく住みて、馴れて見侍るに、人の心劣れりとは思ひ侍らず。なべて心やはらかに情あるゆゑに、人のいふほどの事、けやけく否(いな)びがたく、よろづえ言ひはなたず、心弱くことうけしつ。僞(いつはり)せんとは思はねど、乏しくかなはぬ人のみあれば、おのづから本意通らぬこと多かるべし。吾妻人は、我がかたなれど、げには心の色なく、情おくれ、偏にすくよかなるものなれば、初めより否といひて止みぬ。賑ひ豐かなれば、人には頼まるゝぞかし」と、ことわられ侍りしこそ、この聖、聲うちゆがみあらあらしくて、聖教(しゃうぎょう)のこまやかなる理、いと辨へずもやと思ひしに、この一言の後、心憎くなりて、多かる中に、寺をも住持せらるゝは、かく和ぎたるところありて、その益もあるにこそと覺え侍りし。
 

 

第百五十二段
西大寺靜然(じゃうねん)上人、腰かゞまり眉白く、誠に徳たけたる有樣にて、内裏へ參られたりけるを、西園寺内大臣殿、「あな尊との氣色や」とて信仰の氣色ありければ、資朝卿これを見て、「年のよりたるに候」と申されけり。
後日に、尨犬(むくいぬ)の淺ましく老いさらぼひて、毛はげたるをひかせて、「この氣色尊く見えて候」とて内府(だいふ)へ參らせられたりけるとぞ。
第百五十七段
筆をとれば物書かれ、樂器(がくき)をとれば音(ね)をたてんと思ふ。杯をとれば酒を思ひ、賽をとれば攤(だ)うたむ事を思ふ。心は必ず事に觸れて來(きた)る。仮りにも不善のたはぶれをなすべからず。
あからさまに聖教の一句を見れば、何となく前後の文(ふみ)も見ゆ。卒爾にして多年の非を改むる事もあり。假に今この文をひろげざらましかば、この事を知らんや。これすなはち觸るゝ所の益なり。心更に起らずとも、佛前にありて數珠を取り、經を取らば、怠るうちにも、善業おのづから修せられ、散亂の心ながらも繩床(じょうしゃう)に坐せば、おぼえずして禪定なるべし。
事・理もとより二つならず、外相(げさう)若し背かざれば、内證かならず熟す。強ひて不信といふべからず。仰(あふ)ぎてこれを尊(たふと)むべし。
筆を手に取れば自然と何かを書きはじめ、楽器を手にすれば音を出したくなる。盃を持てば酒のことを考えてしまい、サイコロを転がしていると「入ります」という気分になってくる。心はいつも物に触れると躍り出す。だから冗談でもイケナイ遊びに手を出してはならない。
ほんの少しでも、お経の一節を見ていると、何となく前後の文も目に入ってくる。そして思いがけず長年の過ちを改心することもあるものだ。もしも、今、この経本を紐解かなかったら、改心しようと思わなかっただろう。触れることのおかげである。信じる心が全く無くとも、仏の前で数珠を手に、経本を取って、ムニャムニャしていれば自然と良い結果が訪れる。浮つく心のまま、縄の腰掛けに陣取って座禅を組めば、気付かぬうちに解脱もしよう。
現象と心は、別々の関係ではないのだ。外見だけでも、それらしくしていれば、必ず心の内面まで伝わってくる。だからハッタリだとバカにしてはならない。むしろ、仰いで尊敬しなさい。

第百六十段
門に額懸(か)くるを、「打つ」といふはよからぬにや。勘解由小路(かでのこうぢ)二品禪門は、「額懸くる」とのたまひき。「見物の棧敷うつ」もよからぬにや。「平張うつ」などは常の事なり。「棧敷構ふる」などいふべし。「護摩焚く」といふも、わろし。「修(しゅう)する」、「護摩する」など云ふなり。「行法も、法の字を清みていふ、わろし。濁りていふ」と清閑寺僧正仰せられき。常にいふ事にかゝることのみ多し。
第百六十二段
遍昭寺の承仕法師、池の鳥を日ごろ飼ひつけて、堂の内まで餌をまきて、戸ひとつをあけたれば、數も知らず入りこもりける後、おのれも入りて、立て篭めて捕へつつ殺しけるよそほひ、おどろおどろしく聞えけるを、草刈る童聞きて、人に告げければ、村の男ども、おこりて入りて見るに、大雁どもふためきあへる中に、法師まじりて、打ち伏せ、ねぢ殺しければ、この法師を捕へて、所より使廳へ出したりけり。殺すところの鳥を頚にかけさせて、禁獄せられけり。
基俊大納言別當の時になむ侍りける。
第百六十五段
東(あづま)の人の、都の人に交はり、都の人の、東に行きて身をたて、また、本寺・本山をはなれぬる顯密の僧、すべてわが俗にあらずして人に交(まじわ)れる、見ぐるし。
第百六十六段
人間の營みあへる業を見るに、春の日に雪佛(ゆきぼとけ)を造りて、その爲に金銀珠玉の飾りを營み、堂塔を建てむとするに似たり。その構へを待ちて、よく安置してんや。人の命ありと見る程も、下より消ゆる事、雪の如くなるうちに、いとなみ待つこと甚だ多し。
第百七十五段
世には心得ぬ事の多きなり。友あるごとには、まづ酒をすゝめて、強ひ飮ませたるを興とする事、いかなる故とも心得ず。飮む人の顔、いと堪へ難げに眉をひそめ、人目をはかりて捨てんとし、遁げむとするを、捕へて、引き留めて、すゞろに飮ませつれば、うるはしき人も、忽ちに狂人となりてをこがましく、息災なる人も、目の前に大事の病者となりて、前後も知らず倒(たふ)れふす。祝ふべき日などは、あさましかりぬべし。あくる日まで頭痛く、物食はずによび臥し、生を隔てたるやうにして、昨日のこと覺えず、公・私の大事を缺きて、煩ひとなる。人をしてかゝる目を見すること、慈悲もなく、禮儀にもそむけり。かく辛き目にあひたらむ人、ねたく、口惜しと思はざらんや。他(ひと)の國にかゝる習ひあなりと、これらになき人事(ひとごと)にて傳へ聞きたらんは、あやしく不思議に覺えぬべし。
人の上にて見たるだに、心憂し。思ひ入りたるさまに、心にくしと見し人も、思ふ所なく笑ひのゝしり、詞多く、烏帽子ゆがみ、紐はづし、脛高くかゝげて、用意なき気色、日頃の人とも覺えず。女は額髪はれらかに掻きやり、まばゆからず、顔うちさゝげてうち笑ひ、杯持てる手に取りつき、よからぬ人は、肴とりて口にさしあて、みづからも食ひたる、様あし。聲の限り出して、おのおの謠ひ舞ひ、年老いたる法師召し出されて、Kく穢き身を肩ぬぎて、目もあてられずすぢりたるを、興じ見る人さへ。うとましく憎し。或はまた、我が身いみじき事ども、傍(かたわら)痛くいひ聞かせ、あるは醉ひ泣きし、下ざまの人は、罵(の)り合ひ、諍(いさかい)ひて、淺ましく恐ろし。恥ぢがましく、心憂き事のみありて、はては許さぬ物どもおし取りて、縁より落ち、馬・車より落ちてあやまちしつ。物にも乘らぬ際は、大路をよろぼひ行きて、築地・門の下などに向きて、えもいはぬ事どもし散らし、年老い、袈裟かけたる法師の、小童の肩を押へて、聞えぬ事ども言ひつゝ、よろめきたる、いとかはゆし。
かゝる事をしても、この世も後の世も益あるべき業ならば如何はせん。この世にては過ち多く、財を失ひ、病をまうく。百藥の長とはいへど、萬の病は酒よりこそ起れ。憂へを忘るといへど、醉ひたる人ぞ、過ぎにし憂さをも思ひ出でて泣くめる。後の世は、人の智惠を失ひ、善根を燒く事火の如くして、惡を増し、萬の戒を破りて、地獄に墮つべし。「酒をとりて人に飮ませたる人、五百生が間、手なき者に生る」とこそ、佛は説き給ふなれ。
かく疎ましと思ふものなれど、おのづから捨て難き折もあるべし。月の夜、雪の朝、花のもとにても、心のどかに物語して、杯いだしたる、萬の興を添ふるわざなり。つれづれなる日、思ひの外に友の入り來て、取り行ひたるも、心慰む。なれなれしからぬあたりの御簾のうちより、御果物、御酒(みき)など、よきやうなるけはひしてさし出されたる、いとよし。冬、せばき所にて、火にて物煎りなどして、隔てなきどちさし向ひて、多く飮みたる、いとをかし。旅の假屋、野山などにて、「御肴(みさかな)何」などいひて、芝の上にて飮みたるもをかし。いたういたむ人の、強ひられて少し飮みたるも、いとよし。よき人の、とりわきて、「今一つ、上すくなし」など、のたまはせたるも嬉し。近づかまほしき人の、上戸にて、ひしひしと馴れぬる、また嬉し。
さはいへど、上戸はをかしく罪許さるゝものなり。醉ひくたびれて朝寐(あさい)したる所を、主人(あるじ)の引きあけたるに、惑ひて、ほれたる顔ながら、細き髻(もとゞり)さしいだし、物も着あへず抱き持ち、引きしろひて逃ぐる、かいどり姿のうしろ手、毛おひたる細脛のほど、をかしく、つきづきし。
第百七十九段
入宋の沙門、道眼上人、一切經を持來して、六波羅のあたり、燒野といふ所に安置して、殊に首楞嚴經(しゅりょうごんきょう)を講じて、那蘭陀寺と號す。その聖の申されしは、「那蘭陀寺は大門北向きなりと、江帥(ごうそち)の説とていひ傳へたれど、西域傳・法顯傳などにも見えず、更に所見なし。江帥はいかなる才覺にてか申されけん、覚束なし。唐土の西明寺は北向き勿論なり」と申しき。
第百八十八段
ある者、子を法師になして、「學問して因果の理をも知り、説經などして世渡るたづきともせよ」といひければ、教のまゝに、説經師にならん爲に、まづ馬に乘り習ひけり。輿・車もたぬ身の、導師に請ぜられん時、馬など迎へにおこせたらんに、桃尻にて落ちなんは、心憂かるべしと思ひけり。次に、佛事の後、酒など勸むることあらんに、法師のむげに能なきは、檀那すさまじく思ふべしとて、早歌(さうか)といふ事をならひけり。二つのわざ、やうやう境(さかひ)に入りければ、いよいよよくしたく覺えて嗜みける程に、説經習ふべき暇(ひま)なくて、年よりにけり。
この法師のみにもあらず、世間の人、なべてこの事あり。若きほどは、諸事につけて、身をたて、大きなる道をも成し、能をもつき、學問をもせんと、行末久しくあらます事ども、心にはかけながら、世をのどかに思ひてうち怠りつゝ、まづさしあたりたる目の前の事にのみまぎれて月日を送れば、事毎になすことなくして、身は老いぬ。つひに、ものの上手にもならず、思ひしやうに身をも持たず、悔ゆれどもとり返さるゝ齡ならねば、走りて坂をくだる輪の如くに衰へゆく。
されば一生のうち、むねとあらまほしからむことの中に、いづれか勝ると、よく思ひくらべて、第一の事を案じ定めて、その外は思ひすてて、一事を勵むべし。一日の中、一時の中にも、數多(あまた)のことの來らむなかに、少しも益のまさらむことを營みて、その外をばうち捨てて、大事をいそぐべきなり。いづかたをも捨てじと心にとりもちては、一事も成るべからず。
たとへば碁を打つ人、一手もいたづらにせず、人に先だちて、小を捨て大につくが如し。それにとりて、三つの石をすてて、十の石につくことは易し。十を捨てて、十一につくことは、かたし。一つなりとも勝らむかたへこそつくべきを、十までなりぬれば、惜しく覺えて、多くまさらぬ石には換へにくし。これをも捨てず、かれをも取らむと思ふこゝろに、かれをも得ず、これをも失ふべき道なり。
京に住む人、急ぎて東山に用ありて、既に行きつきたりとも、西山に行きてその益まさるべきを思ひえたらば、門(かど)よりかへりて西山へゆくべきなり。こゝまで來つきぬれば、この事をばまづ言ひてん。日をささぬことなれば、西山の事は、帰りてまたこそ思ひたためと思ふ故に、一時の懈怠(けだい)、すなはち一生の懈怠となる。これを恐るべし。
一事を必ず成さむと思はば、他の事の破るゝをも痛むべからず。人のあざけりをも恥づべからず。萬事にかへずしては、一の大事成るべからず。人のあまたありける中にて、あるもの、「ますほの薄(すすき)、まそほの薄などいふことあり。渡邊の聖、この事を傳へ知りたり」と語りけるを、登蓮法師、その座に侍りけるが、聞きて、雨の降りけるに、「蓑・笠やある、貸したまへ。かの薄のこと習ひに、渡邊の聖のがり尋ねまからん」といひけるを、「あまりに物さわがし。雨やみてこそ」と人のいひければ、「無下の事をも仰せらるゝものかな。人の命は、雨の晴間を待つものかは、我も死に、聖もうせなば、尋ね聞きてむや」とて、走り出でて行きつゝ、習ひ侍りにけりと申し傳へたるこそ、ゆゝしくありがたう覺ゆれ。「敏(と)きときは則ち功あり」とぞ、論語といふ文にも侍るなる。この薄をいぶかしく思ひけるやうに、一大事の因縁をぞ思ふべかりける。
第百九十段
妻といふものこそ、男の持つまじきものなれ。「いつも獨り住みにて」など聞くこそ、心憎けれ。「たれがしが婿になりぬ」とも、又、「いかなる女をとりすゑて、相住む」など聞きつれば、無下に心劣りせらるゝわざなり。異なることなき女を、よしと思ひ定めてこそ、添ひ居たらめと、賤しくもおし測られ、よき女ならば、そらうたくして、あが佛と守りゐたらめ。たとへば、さばかりにこそと覺えぬべし。まして、家の内を行ひをさめたる女、いと口惜し。子など出できて、かしづき愛したる、心憂し。男なくなりて後、尼になりて年よりたる有樣、亡きあとまで淺まし。
いかなる女なりとも、明暮そひ見むには、いと心づきなく憎かりなむ。女のためも、半空(なかぞら)にこそならめ。よそながら時々通ひ住まむこそ、年月へても絶えぬなからひともならめ。あからさまに來て、泊り居(ゐ)などせむは、めづらしかりぬべし。
第百九十二段
神佛にも、人の詣でぬ日、夜まゐりたる、よし。
第百九十四段
達人の人を見る眼(まなこ)は、少しも誤る處あるべからず。
たとへば、ある人の、世に虚言を構へ出して、人をはかることあらんに、素直に眞と思ひて、いふ儘にはからるゝ人あり。あまりに深く信をおこして、なほ煩はしく虚言を心得添ふる人あり。また何としも思はで、心をつけぬ人あり。又いさゝか覚束なく覚えて、頼むにもあらず、頼まずもあらで、案じ居たる人あり。又まことしくは覺えねども、人のいふことなれば、さもあらんとて止みぬる人もあり。又さまざまに推し心得たるよしして、賢げに打ちうなづき、ほゝゑみて居たれど、つやつや知らぬ人あり。また推し出して、「あはれ、さるめり」と思ひながら、なほ誤りもこそあれと怪しむ人あり。また、異なるやうも無かりけりと、手を打ちて笑ふ人あり。また、心得たれども、知れりともいはず、覚束なかなからぬは、とかくの事なく、知らぬ人と同じやうにて過ぐる人あり。また、この虚言の本意を、初めより心得て、すこしも欺かず、構へ出だしたる人とおなじ心になりて、力をあはする人あり。
愚者の中の戯(たわぶれ)だに、知りたる人の前にては、このさまざまの得たる所、詞にても顔にても、かくれなく知られぬべし。まして、あきらかならん人の、惑へるわれらを見んこと、掌(たなごゝろ)の上のものを見んがごとし。たゞし、かやうのおしはかりにて、佛法までをなずらへ言ふべきにはあらず。
第百九十六段
東大寺の神輿(しんよ)、東寺の若宮より歸座のとき、源氏の公卿參られけるに、この殿、大將にて、先を追はれけるを、土御門相國、「社頭にて警蹕(けいひつ)いかゞはべるべからん」と申されければ、「隨身のふるまひは、兵仗の家が知る事に候。」とばかり答へ給ひけり。
さて、後に仰せられけるは、「この相國、「北山抄」を見て、西宮(せいきう)の説をこそ知られざりけれ。眷属の惡鬼・惡神を恐るゝゆゑに、神社にて、殊に先を追ふべき理あり」とぞ仰せられける。
第百九十七段
諸寺の僧のみにもあらず、定額(ぢゃうがく)の女嬬といふこと、「延喜式」に見えたり。すべて、數さだまりたる公人(くにん)の通號にこそ。
 

 

第二百六段
徳大寺右大臣殿、檢非違使の別當のとき、中門にて使廳の評定行はれけるほどに、官人章兼が牛はなれて、廳のうちへ入りて、大理の座の濱床の上にのぼりて、にれうち噛みて臥したりけり。重き怪異なりとて、牛を陰陽師のもとへ遣すべきよし、おのおの申しけるを、父の相國聞きたまひて、「牛に分別なし、足あらば、いづくへかのぼらざらん。わう弱(おうじゃく)の官人、たまたま出仕の微牛をとらるべきやうなし」とて、牛をば主にかへして、臥したりける疊をばかへられにけり。あへて凶事なかりけるとなん。
「怪しみを見て怪しまざる時は、怪しみかへりて破る」といへり。
第二百七段
龜山殿建てられむとて、地を引かれけるに、大きなる蛇(くちなわ)、數もしらず凝り集りたる塚ありけり。この所の神なりといひて、事の由申しければ、「いかゞあるべき」と敕問ありけるに、「ふるくよりこの地を占めたる物ならば、さうなく掘り捨てられがたし」とみな人申されけるに、この大臣一人、「王土に居らん蟲、皇居を建てられんに、何の祟りをかなすべき。鬼神は邪(よこしま)なし。咎むべからず。唯皆掘りすつべし」と申されたりければ、塚をくづして、蛇をば大井川に流してけり。更にたゝりなかりけり。
第二百八段
經文などの紐を結(ゆ)ふに、上下より襷(たすき)にちがへて、二すぢの中(なか)より、わなの頭(かしら)を横ざまにひき出すことは、常のことなり。さやうにしたるをば、華嚴院の弘舜僧正解きて直させけり。「これは、この頃やうのことなり。いと見にくし。うるはしくは、たゞくるくると捲きて、上より下へ、わなの先を挿(さしはさ)むべし」と申されけり。
ふるき人にて、かやうのこと知れる人になん侍りける。
第二百二十段
「何事も邊土は、卑しく頑(かたくな)なれども、天王寺の舞樂のみ、都に恥ぢず」といふ。天王寺の伶人の申し侍りしは、「當寺の樂は、よく圖をしらべ合せて、物の音のめでたく整ほり侍ること、外よりも勝れたり。ゆゑは太子の御時の圖、今にはべる博士とす。いはゆる六時堂の前の鐘なり。そのこゑ、黄鐘調の最中(もなか)なり。寒暑に從ひて上(あが)り・下(さが)りあるべきゆゑに、二月涅槃會(ねはんゑ)より聖靈會(しゃうりゃうゑ)までの中間を指南とす。秘藏のことなり。この一調子をもちて、いづれの聲をもとゝのへ侍るなり」と申しき。
およそ鐘のこゑは黄鐘調なるべし。これ無常の調子、祇園精舍の無常院の聲なり。西園寺の鐘、黄鐘調に鑄らるべしとて、あまたたび鑄替へられけれども、かなはざりけるを、遠國(をんごく)よりたづね出されけり。法金剛院の鐘の聲、また黄鐘調なり。
第二百二十二段
竹谷の乘願房、東二條院へ參られたりけるに、「亡者の追善には、何事か勝利多き」と尋ねさせ給ひければ、「光明眞言、寶篋印陀羅尼」と申されたりけるを、弟子ども、「いかにかくは申し給ひけるぞ。念佛に勝ること候まじとは、など申し給はぬぞ」と申しければ、「わが宗なれば、さこそ申さまほしかりつれども、まさしく、稱名を追福に修して巨益(こやく)あるべしと説ける經文を見及ばねば、何に見えたるぞと、重ねて問はせ給はば、いかゞ申さむと思ひて、本經のたしかなるにつきて、この眞言・陀羅尼をば申しつるなり」とぞ申されける。
第二百二十五段
多久資(おおのひさすけ)が申しけるは、通憲入道、舞の手のうちに興ある事どもを選びて、磯の禪師といひける女に教へて、舞はせけり。白き水干に、鞘卷をささせ、烏帽子をひき入れたりければ、男舞とぞいひける。禪師がむすめ靜といひける、この藝をつげり。これ白拍子の根源なり。佛神の本縁をうたふ。その後、源光行、多くの事をつくれり。後鳥羽院の御作もあり。龜菊に教へさせ給ひけるとぞ。
第二百二十七段
六時禮讃は、法然上人の弟子、安樂といひける僧、經文を集めて作りて勤めにしけり。その後太秦の善觀房といふ僧、節博士(ふしはかせ)を定めて、聲明になせり。「一念の念佛」の最初なり。後嵯峨院の御代より始まれり。法事讚も、同じく善觀房はじめたるなり。
第二百二十八段
千本の釋迦念佛は、文永のころ、如輪上人、これを始められけり。
第二百三十八段
御隨身近友が自讚とて、七箇條かきとゞめたる事あり。みな馬藝(ばげい)、させることなき事どもなり。その例をおもひて、自讚のこと七つあり。
一、人あまた連れて花見ありきしに、最勝光院の邊にて、男の馬を走らしむるを見て、「今一度馬を馳するものならば、馬倒れて、落つべし、しばし見給へ」とて、立ちどまりたるに、また馬を馳す。とゞむる所にて、馬を引きたふして、乘れる人泥土の中にころび入る。その詞のあやまらざることを、人みな感ず。
一、當代いまだ坊におはしまししころ、萬里小路殿(までのこうぢどの)御所なりしに、堀河大納言殿伺候し給ひし御(み)曹司へ、用ありて參りたりしに、論語の四・五・六の卷をくりひろげ給ひて、「たゞ今御所にて、紫の朱(あけ)うばふ事を惡むといふ文を、御覽ぜられたき事ありて、御本を御覽ずれども、御覽じ出されぬなり。「なほよくひき見よと」仰せ事にて、求むるなり」と仰せらるゝに、「九の卷のそこそこの程に侍る」と申したりしかば、「あなうれし」とて、もてまゐらせ給ひき。かほどの事は、兒どもも常のことなれど、昔の人は、いさゝかの事をもいみじく自讚したるなり。後鳥羽院の御歌に、「袖と袂と一首の中にあしかりなんや」と、定家卿に尋ね仰せられたるに、
秋の野の草のたもとか花すゝきほに出でて招く袖と見ゆらむ
と侍れば、何事かさふらふべきと申されたることも、「時にあたりて本歌を覺悟す。道の冥加なり。高運なり」など、ことごとしく記しおかれ侍るなり。九條相國伊通公の款状にも、ことなる事なき題目をも書きのせて、自讚せられたり。
一、常在光院の撞鐘(つきがね)の銘は、在兼卿の草なり。行房朝臣清書して、鑄型にうつさせんとせしに、奉行の入道、かの草をとり出でて見せ侍りしに、「花の外に夕をおくれば、聲百里に聞ゆ」といふ句あり。「陽唐の韻と見ゆるに、百里あやまりか」と申したりしを、「よくぞ見せ奉りける。おのれが高名なり」とて、筆者の許へいひやりたるに、「あやまり侍りけり。數行となほさるべし」と返り事はべりき。數行もいかなるべきにか、もし數歩(すほ)の意(こゝろ)か、覚束なし。
一、人あまた伴ひて、三塔巡禮の事侍りしに、横川の常行堂のうち、龍華院と書ける古き額あり。「佐理・行成の間うたがひありて、いまだ決せずと申し傳へたり」と、堂僧ことごとしく申し侍りしを、「行成ならば裏書あるべし。佐理ならば裏書あるべからず」といひたりしに、裏は塵つもり、蟲の巣にていぶせげなるを、よく掃き拭ひて、おのおの見侍りしに、行成位署・名字・年號、さだかに見え侍りしかば、人みな興に入る。
一、那蘭陀寺にて、道眼ひじり談義せしに、八災といふ事を忘れて、「誰かおぼえ給ふ」と言ひしを、所化みな覺えざりしに、局のうちより、「これこれにや」といひ出したれば、いみじく感じ侍りき。
一、賢助僧正に伴ひて、加持香水を見はべりしに、いまだ果てぬほどに、僧正かへりて侍りしに、陣の外まで僧都見えず。法師どもをかへして求めさするに、「同じさまなる大衆多くて、え求めあはず」といひて、いと久しくて出でたりしを、「あなわびし。それ、もとめておはせよ」といはれしに、かへり入りて、やがて具していでぬ。
一、二月(きさらぎ)十五日、月明き夜、うち更けて千本の寺にまうでて、後より入りて、一人顔深くかくして聽聞し侍りしに、優なる女の、姿・匂ひ、人よりことなるが、わけ入りて膝にゐかかれば、にほひなどもうつるばかりなれば、敏あしと思ひて、すり退きたるに、なほ居寄りて、おなじさまなれば、立ちぬ。その後、ある御所ざまのふるき女房の、そゞろごと言はれし序(ついで)に、「無下に色なき人におはしけりと、見おとし奉ることなんありし。情なしと恨み奉る人なんある」と宣ひ出したるに、「更にこそ心得はべらね。」と申して止みぬ。
この事、後に聞き侍りしは、かの聽聞の夜、御局のうちより、人の御覽じ知りて、さぶらふ女房を、つくり立てて出し給ひて、「便よくば、言葉などかけんものぞ。そのありさま參りて申せ。興あらん」とて、はかり給ひけるとぞ。
第二百四十三段
八つになりし年、父に問ひて云(い)はく、「佛はいかなるものにか候らん」といふ。父が云はく、「佛には人のなりたるなり」と。また問ふ、「人は何として佛にはなり候やらん」と。父また、「佛のをしへによりてなるなり」とこたふ。また問ふ、「教へ候ひける佛をば、何がをしへ候ひける」と。また答ふ、「それもまた、さきの佛のをしへによりてなり給ふなり」と。又問ふ、「その教へはじめ候ひける第一の佛は、いかなる佛にか候ひける」といふとき、父、「空よりや降りけん、土よりやわきけん」といひて、笑ふ。
「問ひつめられて、え答へずなり侍りつ」と諸人(しょにん)にかたりて興じき。  
 
方丈記

 

行(ゆ)く河(川)の流れは絶えずして、しかももと(本)の水にあらず。淀(よど)みに浮ぶうたかた(泡沫)は、かつ消えかつ結びて、久しく止(とゞ)まる事なし。世の中にある人と住家(すみか)と、またかくの如し。
「行く河の…」の「河」
実はこの有名な書き出しは論語の「子罕篇(しかんへん)」の中にある「川上の嘆(せんじょうのたん)」として知られた一章が元となっていると言われています。また、文選(もんぜん)という中国南北朝時代の詩集がありますが、これに収められた陸士衡(りくしこう)の「歎逝賦(たんせいふ)一首」が出展であるという説もあります。
語源的に「河」は「大きな川」の意味です。
「川上の嘆」では「川」となっていますから、孔子が見つめた川は黄河などの大河ではなかったことになります。
一方、「行く河」の場合、「方丈記」が、日野にある外山(とやま)の方丈庵に移り住んでから書かれた作品であるということで、どうしても渓流(けいりゅう)や麓(ふもと)に流れる川などが漠然(ばくぜん)と連想されます。
が、元ネタがあったとすると、「行く河」の「河」は中国の川だったことになる。
それでも、日本では比較的大きな川である賀茂川(鴨川)や高野川や宇治川の水面(みなも)を、長明自身もまた見つめつつ無常を思い重ねたのも確かでしょう。
「無常」とは?
「無常」ですぐに思い起こすのは、「平家物語」冒頭「祇園精舎の段」の一節や「いろは歌」です。
平家物語
祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声
諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり
沙羅双樹(しゃらそうじゅ)の花の色
盛者必衰(じょうしゃひっすい)のことわりをあらわす・・・

祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鳴り渡る鐘の音には
万物の絶えざる生滅(しょうめつ)を告げ知らせる響きがある
釈迦(しゃか)の入滅(にゅうめつ)とともにあせたという沙羅双樹(しゃらそうじゅ)の花の色も
栄華(えいが)を誇(ほこ)る者とていずれ必ず衰滅(すいめつ)するという
この世の道理を表している・・・
伊呂波歌 平安時代中期
色は匂(にほ)へど 散りぬるを
我(わ)が世誰(たれ)ぞ 常(つね)ならむ
有為(うゐ)の奥山(おくやま) 今日(けふ)越(こ)えて
浅き夢見じ 酔(ゑ)ひもせず

花は色艶(あで)やかに咲くけれども間もなく散り果ててしまう
人間の命もこの花と同じであって永久に生き続けることはできない
それだから空しい夢を見たり
人情におぼれたりする
浮世(うきよ)の煩悩(ぼんのう)の
境地(きょうち)から逃れて
ひたすら仏様にすがって往生(おうじょう)を祈ろう

「伊呂波歌」は仏教の根本思想である、「万物は絶えず移り変わり生滅(しょうめつ)するもので、不変なものではない」という意味の、諸行無常(しょぎょうむじょう)の精神を訳したものです。 「無常」とはつまり、一切万物が絶えず移り変わり、生滅変化して、同じ状態にとどまっていないあり方をいい、仏教では教理の根本にこの思想を据(す)えているというわけです。古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの説いた「パンタ・レイ=万物は流転(るてん)す」という思想とも共通するものがあります。
「方丈記」

 

鴨長明(かものちょうめい) 1212年、長明が58歳ごろに書かれた作品で、「方丈記」という書名は、長明が晩年に住んだ京都の南東、日野山の草庵にちなんだものです。
8000字のコンパクトなエッセイの中に、日本の中世の大事な考え方、「無常」が入っていました。無常、常ならないもの。うつろうもの。世の中というものは、決して一定ではないという歴史観、価値観が書かれています。長明は桂流の琵琶の名手でもあったんですね。その琵琶を弾きながらこのエッセイが綴られた場所、方丈の庵とは、どのようなものだったのでしょうか?
方丈とは、一辺が一丈の正方形を言います。一丈はおよそ3メートルで、六畳間よりちょっと小さいくらいですね。長明の住んだ庵は、その一間にをこんなふうに使っていたと考えられています。東には庇(ひさし)を出して、その下で柴を燃やし、その近くが、煮炊きをするキッチン、部屋の西側が、机を置いたリビングと壁に阿弥陀の像を掛け、前に法華経を置いた仏間スペースで、日が暮れると東に蕨を敷いて寝室となる。という具合です。しかも全体は解体して荷車で運べるようになっていた。
長明は「方丈記」でこの庵のことを「老いたる蚕の繭をいとなむがごとし」と紹介しています。方丈に持ち込まれた持ち物は、和歌、音楽の本、「往生要集」などの冊子に琴と琵琶。後は衣類と食器類だけだったんですね。しかし、この方形の小さな空間は、現代に至る日本人の住居、和風建築の原型となっているとも言えるんです。普段は居間のように使って、寝具を敷くと寝室になり、台所があって、仏間がある。
王朝時代以来、多くの権力者が建てた豪華な住居は、ほとんどが滅びていますね。しかし、鴨長明の方丈に表された簡素な住宅様式は、日本人に根づいて、現代にまで継承されているんです。
こういった長明の感覚とは、いわば「数寄(すき)」の感覚なんですね。「すき」とは、髪を「梳く」の「すき」であり、紙を「漉く」、耕す「鋤く」、とか、光が「透く」とか、それから「好き」の「すき」である。そういう「数寄」。つまり、長明は徹底的に余分なものを捨て、本当に心惹かれるものだけに、すいてみせたわけですね。
「ゆく河の水は絶えずして、しかも、もとの水にあらず」。
有名な「方丈記」の出だしです。川の岸辺に立って、水の流れを眺めていると、目の前の水は流れ去り、そして新たな水が流れてくる。いつも同じように見えるけれども、さっき見た水と今見る水は違っている。時代の流れも同じなんですね。つい先頃までと、今では町の景色は同じように見えるけれども、実は全く違ってしまっているかもしれない。この「方丈記」の「ゆく川」には、長明の一族が神官を務める京都下鴨神社に流れる川、御手洗川のイメージが重ねられているんです。
鴨長明は、もともと京都・下鴨神社(賀茂御祖神社=かもみおやじんじゃ)の有力な神官の出身でした。京都の東で、賀茂川と高野川が合流して鴨川になりますが、その2川が合流するY字状のところに下鴨神社があります。長明は、保元の乱が起こる前年の1155年ころ、この下鴨神社の神官の家の次男に生まれたんですね。鴨の一族は王朝以前から京都盆地の鴨川流域を開発した古い豪族で、代々、京都の水を守る鴨神社の神官を勤めていたんです。御手洗川とは、下鴨神社の森に流れる、京都の水への祈りが捧げられた神聖な川でした。
源平の争乱の激動を世の中が迎える中、名門に生まれ、豊かな生活をしていた長明も運命にほんろうされます。19歳の時に賀茂御祖神社のトップであった父が亡くなると、一家は急速に零落し、長明は一族の厄介者になってしまうんです。長明は、一般に普及し始めた琵琶を、名演奏家として知られた中原有安に学び、和歌を摂関家の指南でもあった源俊恵(しゅんえ)から学んだ。武家の世になっていく変動期に、鴨長明は芸道をめざしたんですね。
鎌倉幕府が始まり、再び平和が訪れると、後鳥羽法皇による勅撰和歌集、「新古今和歌集」の編集が始まります。30代からすぐれた歌人として認められ始めた鴨長明は、「新古今和歌集」の編集者に選ばれた。精力的に活動した長明の働きを認めた後鳥羽法皇は、長明を下鴨神社末社の河合社の神官に任命しようとします。ところが鴨の一族のトップである下鴨神社惣官の鴨祐兼(すけかね)が反対し、これが没になってしまうんですね。しかし、法皇は長明のために、さらに別の小さな社(やしろ)を国家が保護する神社に昇格させて、その神官としようとするですね。これは大変な厚遇と言えます。
新たな神社を得ることは、一族全体の勢力増大になるため、今度は反対が起こらない。ところが、鴨長明はこれを拒否して、雲隠れしてしてしまうんです。ここから先、長明は世間の栄達をすべて打ち捨て、遁世の道を歩んでいくんですね。
後鳥羽法皇は、鴨長明に神官としての生活を保証しようとしたのに、長明はこれを断ってドロップアウトした。長明は、いったい何を考えていたのでしょうか?
保元の乱が起こる前、白河法皇らは、都に巨大な六勝寺や鳥羽殿を建設しましたね。でも、これは源平の争乱ですべて灰になってしまったんです。戦乱が収まると、後鳥羽法皇はまた京都をきらびやかに再建しはじめますが、こうした俗世間が素晴らしいと思う大掛かりなものはすべて滅びるんですね。それでは、人がなしとげられることはほかにないのだろうか。長明は生き方を変えて、それを探すことになります。
鴨長明が身を隠したのは、比叡山のふもと・大原の地でした。実は、長明にはあこがれの人がいたんですね。それは大原に住む三人の兄弟でした。「大原三寂」と呼ばれた寂念、寂超、寂然という元貴族で遁世した出家者が、「数寄」の道を極めようとしていたんですね。
もとは藤原為経(ためつね)といった寂超が歌った歌に
「ふるさとの 宿もる月に こととはん 我をば知るや 昔住みきと」
があります。荒れ果てた家に帰ると、月が守ってくれていたようだ、その月に私が、昔、住んでいたことを知っているかと聞いてみよう、という意味ですね。その生き方は、身のまわりから、世俗が尊ぶすべてを捨て去り、わびしい生き方を貫くものでした。長明はこの大原三寂の後を慕って、大原に入ったんです。
日本の文化を考えるときには、先行しているモデルがあって、それを誰があこがれて、まねをしていったか、ということを見るのが大切ですね。長明は大原三寂のわびしい生き方をまねようとした。この長明の生き方をまた、あこがれる人々が後に出てくる。これが日本の文化のあり方でもあるんですね。
60歳に間近くなった長明が、大原の後にさらにわびしい生き方を貫くために選んだのが、日野山に小さな方丈の草庵での寂しい生活でした。そこで「方丈記」を執筆します。晩年の長明はそこに何を書いたのでしょうか?
前半では、1177年、長明が23歳の時の大火をはじめ、そのころに都を襲った5つの天変地異をたいへん具体的に記しています。最初の大火事、平安京の3分の1を焼き尽くしたという大火については、
「風烈しく吹きて静かならざりし夜、戌の時ばかり、都のたつみより火出で來りて、いぬゐに至る。はてには朱雀門、大極殿、大學寮、民部の省まで移りて、ひとよがほどに、塵灰となりにき。」と書き始めている。また、1185年、壇ノ浦で平家が滅亡した後の7月に起こった元暦の大地震については
「そのさま、よのつねならず。山はくずれて河を埋(うず)み、海は傾(かたぶ)きて、陸地(くがち)をひたせり。」と書いているんです。
どうでしょう。まるでニュースを伝えるアナウンサーのような冷静さですね。こういったリアルな表現は、これまでにないものだったのです。長明はこの淡々とした記述を通して、人の世の無常というものを明らかにしたんですね。そして、この大地さえ傾く時代に、権力者や金持ちのような世俗での成功者に依存するのはどうかしている、と、後半では方丈の閑居の一人の生活を書き記し、自立して生きる決心を描いているんです。
長明はどうして最後にこんな寂しい暮らしを選んだのでしょうか。このころから「寂しさ」というものが、新しい哲学、新しい美意識、新しい生き方になっていたのです。ふつう寂しさとは、賑やかに比べて、非常に暗いとか、一人ぼっちということですが、日本人はこのころに「さび」ということを考えた。
よく「わび・さび」と言いますね。「わび」というのも「わびしい」で「さびしい」とちょっと似ています。長明は人間の生活から不要なものを削いで現れた寂しい空間こそ、自由な空間であるとした。そこに生まれる美意識として、「さび」ということを考えたんですね。長明のあと、鎌倉時代後期に吉田兼好が「徒然草」を書きます。兼好もやはり隠棲、遁世をして出家を試み、そして自分が寂しい世界に入っていくわけです。
寂しいといろいろなものが透いて見えるのですね。よく見える。浮き立つような世の中にいないことによって、人間や存在、歴史の本質を見ようという、そういう姿だったわけです。鴨長明や吉田兼好の文章は、たいへん大事な視点を残してくれたのですね。
「方丈記」と「徒然草」の比較

 

鴨長明作の 「方丈記」は「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。」という無常観が溢れている言葉で始まった。前半では五つの大きな災厄が描かれる。京都の三分の一を焼いた安元の大火などが作者に深くこの世の無常を感じさせた。後半では自分の不運の生涯を回顧し、むなしい現実社会を捨てて出家し、大原にしばらく隠遁した後、日野の外山の方丈の庵に移住したことを述べる。
その一方、吉田兼好の「徒然草」は「つれづれなるままに」書いたが、随想風に長短234段が書きつづられている。その内容は、王朝趣味、有職故実への関心が強い。それに、貴族文化への尚古的態度も見られる。「方丈記」の内容とぜんぜん違うが、比較する必要がないわけでもない。それは同じく鎌倉時代の三大随筆の一つであるから。とくに、両方とも「無常」について自分の見方を書いている。
ところが、和漢混交体で書いた 「方丈記」はただ無常を詠嘆する。「知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへかへ去る。また知らず、仮の宿り、誰がために心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。」この文の下「徒然草」を読む時、いかにも消極的な無常感をあたえられる。
それと違って、「徒然草」を詠む時は心を励ましてくれる。たとえば、「初心の人、二つの矢を持つことなかれ。後の矢を頼みて、はじめの矢になほざりの心あり。毎度ただ得失なく、この矢に定むべしと思へ。」「いはんや一殺那のうちにおいて」、怠ける心があるかもしれない。「ただ今の一念において、直ちすることのはなはだ難き。」これは積極的で、人に努力して向上する気を呼びかける。同じく無常観を書いても、「徒然草」の場合、「世はさだめなきこそいみじけれ」という無常であるからこそ、美しいのあたらしい美意識を発見した。
「方丈記」と「徒然草」は両方とも「死」について意見を述べたが。前者の中に「朝に死に、夕に生まるる習ひ、ただ水の泡にぞ似たりける。」後者の中には「死期はついでをまたず、死は前よりても来たらず、かねて後ろに迫れり」であるから、「人、死を憎まば、生を愛すべし。」と力説する。同じ無常観に立脚しているが、人生への深い省察があるといえよう。
「方丈記」が無常の詠嘆で終わってしまっているに対して、「徒然草」は思索的な深まりを持ち、無常の美というべき新し中世的な美意識を確立している。この違いの原因はどこにあるか。
まず、時期が違うから。「方丈記」は鎌倉の前期に作った。幕府の時代が始まって、激動の時期だといえる。鴨長明の隠遁などはその時代と関係があると言わなければならない。「徒然草」なら、鎌倉時代の後期で、もう時代に背く貴族たちに不満をもって、その滅入が必然だと彼の文章には書いてある。だから、「世はさだめなきこそいみじけれ」といったのではないか。
私は私的な考えで、もう一つの原因は「方丈記」を作った鴨長明は道教の影響をうけて、「徒然草」を書いた兼好は儒教に影響されたから。そこで、資料を調べてみた。果たしてそういうことなのだ。わたしはこの二つの作品を全部読んでいるわけではないから、早合点する恐れがあるが。ここまで書くと、なんとなく日本の古典文学が好きになった。
「方丈記」と源平争乱

 

平穏無事な時、人は己の出生した環境、階級の中で、自らにふさわしい程度の欲望を抱き、自らの人生についてのベクトルに乗って生きる。最も平穏無事な体制とは完全に閉じられた形、階級と階級との間の移動、階級内部の移動が完全に出来ない形ではなくて僅かづつでも移動し得る状態にある体制です。これがどこかで閉じると不満が蓄積してくる。大体時代の上昇期は何等かの意味でパイプが開かれていますが、再編成期、動乱期になると、編成される側、追い落される側は固い球のようになって必死に権益を守ろうとする。長明は自分は不運の星の下に生まれた、といっている。彼は家を替える度にどんどん、小さい家へ移っていく。彼は神官の位を継ごうとして果せない。後鳥羽上皇の口添えがあってすら果せない。上皇はかわいそうに思って他の神社を格上げしてそこのポストをあげようとしますが、一旦深く傷ついた長明が今度は固辞する。正に世が世てあればであります。普通なら上皇の口添えで実現出来ない事なんてないのであります。階級の没落にあたって殻は固くなり、長明は弾き飛ばされる。これは源平争乱を頂点とする階級交代の中でその揺れの中で長明の挫折が行なわれる。挫折は別の形でもう一つありますがこれは後で触れます。
福原遷都の条
こういう事は間接的にLか書いてありませんので、源平争乱に直接関わる福原遷都の条を見、全体の構造に及んでいく事にします。
「又治承四年みな月の比(ころ)、にはかにみやこうつり侍りき。」なぜ「にはか」なのか書いてございません。「いと思ひの外なりし事なり。」平治や保元の乱が平安京で起こった最大の事件であって、一日か数日ですべて片が付いたのばかりですから、清盛等平氏政権の思惑を理解し得ないのは当然です。「おほかた、此の京のはじめをきける事は嵯峨の天皇の御時みやことさだまりにけるによりのち、すてに四百余歳をへたり。」随分問題がありますか次に行さます。「ことなるゆゑなくて、たやすく、あらたまるべくもあらねば、これを世の人やすからず、うれへあへるさま、実に(ことわり)にもすぎたり。されど、とかくいふかひなくて、帝よリはじめたてまつりて大臣公卿みな悉くうつろひ給ひぬ。」
桓武遷都が西暦794年ですから、すでに三百数十年天皇や貴族達は平安京に腰を据えてしまっているわけです。当然いやがり、何のかんのと抵抗する。ところが相手は清盛ですから「とかくいふかひなくて」みんな引っ越しをしなければならない。随分いろんなものを捨てねばならない。しかも強制的ともいえるものですからこの時代が変わっていく、彼等はもはや中心ではないんだという意識が実感として湧いてくる。天皇、大臣、公卿等はかなりは平氏の人達ですが、藤原氏でも政権に関わりのある人は皆引越さねばならない。長明自身従五位下という位を持っておりますが、これは低い位ですから関係ありませんが、歌を通して随分心の繋りを持っているから彼等の悲嘆、おろおろして慌しく引っ越す様を見ているのです。
彼等は受身的に引っ越さねばならない。だけども、受け身的であってもその枠の中で上昇し得る人はいる。「世につかふるほどの人たれか一人ふるさとにのこりをらむ。つかさくらゐに思をかけ、主君のかげをたのむほどの人は、−日なりとも、とくうつろはむとはげみ」、公家社会で実質的に仕事をLている者、主君の影響力を頼んでいこうとする者程、忠勤を励んで一日でも早く引っ越しをしようとするが、「時をうしなひ、世にあまされてごする所なきものは、うれへながら、とまりをり。」一方、出世するチャンスを失い(当然ここでは長明は自身の挫折を思い浮べています)、「世にあまされて」、世の中からはみ出されてしまって余らされてしまって、「ごする所なきもの」、何等将来に期待する事のない者(勿論長明もです)、「うれへながら」、平安の今は都でなくなった廃墟に留まる訳です。旧都を見る。「のきをあらそひし人のすまひ日をへつつあれゆく。家はこぽたれて淀河にうかび、地はめのまへに畠となる。」 家だけが荒れてゆくのではない。「人の心みなあらたまりて、たヾ馬くらをのみおもくす。うしくるまをようする人なし。」
流行まで貴族文化は追われていく。「西南海の所領をねがひて東北の庄園をこのまず。」で、福原はどうかと言うとここでも貴族は住みにくくて嘆いてばかりいる。「其の地狭く條里をわるに足らず。」そっくり同じものでなくては気にいらぬ。そして環境に適応できない。「北は山にそひて高く、南は海ちかくてくだれり。なみのおとつねにかまびすしく、しほ風ことにはげし。」と実に住みにくい。「古京はすでにあれて新都はいまだならず。ありとしある人は皆浮雲のおもひをなせり。」ここまでは戦争の予感に追われるようにして福原へ来た人の気持を書いてきたのですが、更に彼等が来る事によって影響を受ける、追っばらわれる人の事も書いています。「もとよリこの所にをるものは地をうしなひてうれふ。」
戦争は、実際に来ていなくても来るというだけでこれまで徐々にしか進行してなかった風俗の変化もー挙になしてしまう。「車にのるべきは馬にのり、衣冠布衣なるべきは多くひたゝれをきたり。みやこの手振りたちまちにあらたまりて、たヾひなびたるもののふにしかず。」
この年中に頼朝挙兵の後、平安京に帰りますが「されどこぼちわたせりし家どもはいかになりにけるにか、悉くもとの様にしもつくらず。」この条の最後に長明は中国の故事や仁徳天皇の事蹟を持ち出し民を忘れた権力者の行動を非難Lています。この条全体通じてはっきりしているのは遷都をする人を書かず、させられる人、その影響を受ける人達だけを長明が念頭に置いている事てす。
以上が源平争乱に直接関わる文です。長明は没落する階級の人々と気持を同じうしながら、一緒に引っ越しし得ない下級貴族、福原を立ち退かされる人々にまで彼のシンパシイは伸びていっています。争乱を起こしたのでなく、自然の災害であるかのようにもてあそばれ、受身に行動せざるを得ない人は全て運命と受け入れざるを得ない。自分だけでなくこの日本の、自分達が中心であると思っていた人ことごとくが受身的に翻弄され、落ちぶれていくのであれば世も末である、日本国はここに滅びぬとの感慨も、さほど大げさとは言えまいと思います。
天災
自然の災害が襲って来るかのようにと申しましたが、源平争乱の一齣である福原遷都の条は、前後を自然の災害に挟まれている。火事も人間の蒙る災害の一つとして天災と考えると「方丈記」の二段に上げている例はすべて天災と考えていい。二段にどんな災害が書かれているかと言いますと、第一に安元3年4月(1177)の大火、第二に治承4年4月(1180)の辻風、第三に今見た同年6月の福原遷都、第四に養和、寿永の2年にわたる(1181-1182)飢饉、第五に元暦2年(1185)の大地震と並べ、最後に取るに足らぬ身分の者が権勢ある人の側にいる事の生き苦しさとなっています。
この順は出来事の起った時間的順番で福原遷都は火事や辻風や地葉や飢饉と同じ面でとらえられ、卑銭の者が権門の者に仕える時の苦しさを述べたところのように区別されていない。
長明は一段で人も家も時間の長短はあれすべて滅んでゆくものと述べ、その具体例とLて二段のこれ等の出来事を上げていってるわけです。こんな事が起った、するとその事によってさしもの栄華を誇った家も民衆の詰まらぬ家も同じ灰になっていったと。具体例を上げ、僕等に彼の無常感の同調を迫っていきます。が、よく考えてみると、二段で上げた具体例、五つの内四つ迄純然たる天災と考えて良い。争乱まで天災のような書き方をしていますが、当時の人々が世は無常であると感じたのは、一つは仏教の教理を体得していったこともあったでしょうが、この時代が、この文明が滅びようとしていると思う不安感であったのだと思います。ところがこれ等の天災は一つの社会の崩壊とかと無関係に起こるものです。当時の自然観からすればそうならなかったでしようが、これ等天災が長明によって自己の無常観を論証する強力な論拠として用いられているのは、源平争乱を頂点とした古代貴族社会の衰亡に関わり、人々にそれを知らせ証しだてるものという役割を荷わされているからではないのか。言い替えれば二段の五つの災害の内、争乱に関わる条が他の災害に無常を思い知らしめるものとしての役割を強要しているのだと考えます。
方丈の庵・開き直りと争乱の影
このように「方丈記」には源平騒乱の影が濃厚に落ちているのですが、それだけの解釈ではどうにもすまないところがある。もしそれだけだとするなら次の三段自を結論とし、だから無常なんだとか、どうせ無常だから方丈、三米四方の広さしかない庵位の家て結構だって事になってしまう。ところがそうはいかない。二段目と三段目は不思議な連続の仕方をします。一段目で世は無常だ。無常であることは人も家も同じと言い、その例証を二段で上げる順序を踏みながら、三段で僅か方丈しかない山中の庵の方が遥るかにのんびリして住み良いという話をとくとくとして語る晴れやかさに満ちた文を書く。家も無常なら、山中の僅か方丈しかない庵も無常ではないのか。三段を考えると二段の具体例のいずれもこの日野外山の庵を襲うことも考えられるではないか。どうしてもこの段の長明の晴れやかな表情は深刻そうな一段目、二段目と矛盾します。
が、逆に三段を読んだ上で二段を見ると、別の繋がりを持っている事が見えて来るのです。三段から見ると長明はここまで落ちぶれた自分を開き直って弁護したい。誰に対してか。これは山中の庵に対して京中の家、落魄していった自分に対して顕職にある、あるいは地位を昇り詰めていった人であろうし、この作を離れて長明の心の奥を追っていくと、当然彼の出家の直接の原因を作った親戚筋の神官職を横取りした男の姿が存在し続けているに違いないのです。
「方丈記」にそっていうと、長明は都の人達に対して開さ直っている。都の大きな家、豪華な家は様々な災害で壊れ、荒れていく。この山中の材料を全部集めても大八車二台ですんでしまうちっぼけな小屋の方がいい。ここで人工対自然というか、都会対自然、あるいは山中という方向に捩れて繋がっている訳です。「人と家の無常をあらそう様、いわばあさがほの露にことならず」といい、いつのまにか自己肯定をしたい気持が表面に出て三段目は自己肯定を書いてしまったと解釈出来る。
この摸しらせる力が自己肯定したい心情だと申しましたが、もう一つの力が加わっている。それは矢張源平争乱である。その影響である。「方丈記」を書く以前に源平争乱の決着は着き、残るは公家政権と鎌倉政権との問題、そして源氏と北条氏との問題です。争乱は各所で戦われたが、長明は義仲の上洛、平家の都落ち、義仲の敗戦、義経の入洛、平家滅亡後の義経の運命など見たり聞いたりして知っている。そういうもの騒がしい事はすべて都を中心にして起っており、それに対し山中の庵は如何にも静かで静かであるという心境が潜在的に働いたのではと考えられる訳です。
方丈記の成立地点
この三段の高揚Lた自己肯定の気分は四段での人間批判をへた後、自己肯定へと、仏教の哲理に照らし合わせて更に深く自らの心を問う事で「方丈記」の全巻は閉じます。仏の教えは何事に対しても執心するなという事であります。だから確かに自らの草庵を愛する事すらも罪なのです。都の家を否定するだけでは不徹底であったと。実にこの五段があるからこそ、長明の心は真実に我々の心を打ちます。自己肯定と自己否定とに挟まれ絶句する。
で、ここから冒頭の文に帰って考えますと、「人も家もすべて無常である」というのが長明の「方丈記」における思想を語っているのではない事を僕等は確認して置く必要がある。人も家も無常とするのは仏教の立場からするひとつの帰結であって、この無常観は長明には彼の開き直りの道具、京の貴族に対する開き直りの思想的武器であると同時に、やはり彼を無常に導いていく役割の両面を果たした。だから「方丈記」の成立した地点はこの矛盾の極まった所にあります。この矛盾に引き裂かれた地点に「方丈記」は成立したのであり、この自己否定が更に肯定の気持ちを押し退けていく所ではもはや文学は消え、宗教がとって変わり、「発心集」の世界が長明に開けたといえるのです。
方丈記の政立事情・二つの挫折
最初に時代の波に翻弄されながら個人はその中で自分なりのベクトルを貫こうとする、その二つの力の合成した地点に作品が生まれるし、個人が自分のベクトルを貫こうとしながら、いつの間にか時代の提出する問題を抱え込むというような事を申しました。ここでちょっと長明の生涯を振りかえりますと、長明は若い頃から相当の和歌の勉強をLている。音楽の勉強もしています。音楽は免許皆伝の腕前まで行った。和歌は相当認められて和歌所の寄人になったりしますが、今少しパッとしない。新古今和歌集にも長明は入集している。十首ですが、後鳥羽院三五首、俊成七二首、定家四ハ首、西行九四首と比べると少ない。長明がああだったらとらちもない事を考えるのですが、人間は生きている内いろいろな事に出合う。失敗したり、成功したり、どうにもしようがなかったりしながら、その内の幾つかは自分の底に沈み、自分を決めていってしまう。「方丈記」もそういう中で出来ている。長明は神官の家の生まれです。が、そうたいした地位じゃない。彼はちゃんと生きたいと思う。それがその時代では地位や何かに繋がる競争になる。ところが誰の子として生まれたかである程度枠が決まっている。長明の現実的な希望は現世的には神官の地位を継ぐ事てあった。もう一つは身分に関わりなく、といっても一定より上の話ですが、短歌、文学の世界では第一人者の道が開いている。若い頃は随分勉強した。鴨長明集も作っている。長明は理論家肌の所があって彼の「無名抄」はそれまでの歌論を整理Lたリしている。しかし、神官の地位を継ぐ事にも失敗し、歌もある程度まで行くがもう一つである。
僕は長明は現世的な事と短歌の上での、芸術についての二つの挫折が長明を出家に至らせ、理論家肌の長明には仏教の理論が彼の体験を整理して無常観へと引っ張っていき、災害につぐ災害の京に住んだ事、源平争乱を中心にしてそれらを一つの啓示として理解し、時代の波を取り込んだところに独特の文学、「方丈記」が生まれたのだと思います。そして仏教の哲理によリ体験の組織がより進んでしまうと、宗教文学である仏教説話集「発心集」が生まれ、それで長明の文学的世界も完結していったんだと思うのです。長明が短歌でもっと成功し、理論でももっと鋭いものを持ち得ていたら、「方丈記」は生まれなかったろうし、もっと違った長明が生きたんだと思います。
それにしても長明の事を考えていると藤原定家や誰とも分らない平家物語の原作者の事を考えてしまいます。彼等はほぼ同じ時代に生きながら、どうしてこうも違った文学を形成したのだろうと。平家物語の作者はやはり京の知識人でありながら、彼はどうして平家や源氏の人々の運命に空想を駆け巡らせる事が出来たのだろう。長明の場合、どうにも平家や源氏の人達の世界に入り込めなかった。対立物でしかなかった。定家にとっては拒絶し捨象する事で世界を成立させている。堀田善衛氏は「方丈記私記」で長明と定家を対立させている。があれはやはり無理だと思う。平家の原作者対定家、長明の対立の図式しか描けない。がその定家の作り出Lた世界もあのように枯れた所に積極的に美を見出す事で長明と同様時代の流れに開き直ったところに現実を逆転させた文学を打ち立てたと思います。定家の事はまた、別の所で何時かお話する事にして、今日の話はこれまでにします。  
 

 

世の不思議四(養和の飢饉)
又、養和の頃とか、久しくなりて覺えず。二年が間、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき。あるは春・夏日でり、あるは秋・冬大風・洪水など、よからぬ事どもうち續きて、五穀悉く實らず。空しく春耕し、夏植うる營みのみありて、秋刈り、冬收むるぞめきはなし。
これによりて國々の民、あるは地を捨てて、境を出で、あるは、家をわすれて、山に住む。さまざまの御祈り始まりて、なべてならぬ法ども行はるれど、さらに其のしるしなし。京の習ひ、何わざにつけても、みなもとは、田舍をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやは操も作りあへむ。
念じわびつゝ、樣々の寶物、かたはしより捨つるが如くすれども、更に目みたつる人もなし。たまたま易(か)ふる者は、金を輕くし、粟を重くす。乞食、道の邊べに多く、愁へ悲しぶ聲耳に滿てり。
前の年、かくの如く、辛くして暮れぬ。明くる年は、立ちなほるべきかと思ふに、あまりさへ、疫病うちそひて、まさ(勝)様に跡方なし。
世の人、皆病み死にければ、日を經つゝ、きはまり行くさま、少水の魚のたとへに叶へり。はてには、笠うち著(き)、足ひきつゝみ、よろしき姿したるもの、ひたすらに、家ごとに乞ひありく。かくわびしれたるものども、歩くかと見れば、即ち倒れ伏しぬ。築地のつら、路のほとりに飢ゑ死ぬる類、數も知らず。
取り捨つるわざもなければ、臭(くさ)き香、世界にみち満ちて、變り行くかたちありさま、目もあてられぬこと多かり。況んや、河原などには、馬・車の行き交う道だになし。
あやしき賤(しづ)・山がつも、力盡きて、薪さへ乏しくなりゆけば、頼む方なき人は、自ら家を毀(こぼ)ちて、市に出でて之を賣る。一人が持ち出でたる價、なほ一日が命を支ふるにだに及ばずとぞ。怪しき事は、かゝる薪の中に、丹つき、箔(はく)など所々に見ゆる木、相交れり。これを尋ぬれば、すべき方なき者、古寺にいたりて、佛を盜み、堂の物の具を破り取りて、わりくだけるなりけり。濁惡の世にしも生れ逢ひて、かゝる心憂きわざをなむ見侍りし。
又、いとあはれなること侍りき。さり難(がた)き女・男持ちたるものは、その思ひまさりて深きもの、必ず先だちて死しぬ。その故は、我が身をば次にして、人をいたはしく思ふ間に、たまたま得たる食い物をも、まづ讓るによりてなり。されば、親子あるものは、定まれる事にて、親ぞ先だちける。また、母の命つきたるをも知らずして、いとけなき子の、なお乳を吸ひつゝ臥せるなどもありけり。
仁和寺に、慈尊院に隆曉法印といふ人、かくしつゝ數知らず、死ぬることを悲しみて、その首(こうべ)の見ゆるごとに、額に阿字(あじ)を書きて、縁を結ばしむるわざをなむせられける。人數を知らむとて、四・五兩月が程數へたりければ、京の中(うち)、一條より南、九條より北、京極より西、朱雀より東、道のほとりにある頭、すべて四萬二千三百餘りなむありける。
況んや、その前後に死ぬるもの多く、河原・白河・西の京・もろもろの邊地などを加へていはば、際限もあるべからず。いかにいはんや、七道諸國をや。崇徳院の御位のとき、長承のころとか、かゝる例はありけりと聞けど、その世のありさまは知らず。まのあたり、めづらかなりしことなり。
お葬式(抜粋)
火葬
7世紀になると仏教の影響を受けて、火葬が行われるようになります。日本における最初の火葬は、西暦700年(8世紀初頭)、法相宗の祖・道昭だったと伝えられています。(しかし実は、7世紀はじめの遺跡から火葬の跡が発掘されています。)
703年持統天皇が遺言によって火葬されます。その後、文武天皇、元明天皇、元正天皇と火葬が続きますが、その後天皇家の火葬は途絶え、840年淳和上皇から再び火葬が始まります。
淳和上皇は、「魂は天に昇っているのに亡骸が墓にあって、これに妖怪が住み着いて悪事を働くといけないから、火葬後骨を砕いて山の中に撒き散らせ」と遺言し、大原野西山に散骨されました。嵯峨上皇も、薄葬を実行するために、細かな遺言をしたそうです。
化野 / 空海
811年真言宗の開祖空海(=弘法大師)は、京都の街に打ち捨てられ野ざらしになっていた遺体を、化野(あだしの・京都市嵯峨野)に埋葬(置いただけか?)したと伝えられています。以来化野と鳥辺野(とりべの)が、京都における庶民の墓地となります。
「往生要集」
このころ、この世の末かと思わせる飢饉や疫病の流行にのって、末法思想が広がります。人々は救いを求めて極楽浄土を夢見ます。そこに、惠心僧都源信が現れ、極楽浄土へ行くための方法を説きます。それは具体的な例を引きながらの説法で、源信の地獄や極楽という思想は多くの人々に広まりました。源信はとことん人間を穢れたものととらえ、「南無阿弥陀仏」を念じて救いを求めるよう説きます。
また、源信が「往生要集」に書いた臨終の作法は、後々まで葬儀に影響を与えます。今日の葬儀の作法の多くが源信に始まったといわれています。
仏教による庶民の供養 / 僧・隆暁
1181年、西日本を養和の大飢饉が襲います。鴨長明は代表作「方丈記」に、「道のほとりに、飢え死ぬもののたぐひ、数も知らず(4万余-長明)。・・・くさき香に満ち満ちて、変わり行くありさま目も当てられぬ・・・。河原などには馬車など行きかふ道だになし」と書いています。まさに地獄のようなありさまを、この文章は正確に伝えています。
このとき、仁和寺の僧・隆暁が京都の町をめぐって死者を弔いました。そのことに鴨長明はよほど感動したのでしょう。方丈記には「隆暁法印という人、・・・数も知らず死ぬることを悲しみて、その首のみゆるごとに、額に、阿の字を書きて、縁を結ばしむる」と書いています。
「阿」は、100を超える仏教上の意義を与えられ、万物の根源であり不滅であることを意味するそうです。「縁」とは死者と仏の縁を意味します。僧・隆暁は、まことに名も無き死者を供養するという、宗教者らしい志を体現した人でした。僧・隆暁は、京の町で2ヶ月間この行為に没頭し続けたそうです。
仏教の流行・鎌倉時代
鎌倉時代には、庶民のための仏教が隆盛を誇ります。法然の浄土宗、、その浄土宗を発展させた親鸞の浄土真宗、一遍の時宗、日蓮による日蓮宗などが開かれました。いずれも庶民の救済を掲げました。
浄土宗は「誰でも念仏を唱えれば極楽浄土にいくことができる」、時宗も「誰もが1度の念仏で仏になることができる」と説き、特別な修行や寄進が無くても、成仏できるという考え方は多くの民衆に受け入れられるところとなりました。また、日蓮も法華経尾を通じて民衆救済を行おうとします。
浄土真宗の開祖は親鸞ですが、さらにそれを継ぐ偉大な布教者が生まれます。1415年に大谷本願寺の8代目として生まれた蓮如がその人です。蓮如は、浄土宗の開祖親鸞の「善人なおもて往生を遂ぐ。いわんや悪人をや」(歎異抄)という言葉の思想こそが、すべての民衆を救済すると考て、その教えを広め、それが民衆の間に受け入れられます。
また、鎌倉時代には宋から禅宗(臨済宗や曹洞宗)が中国(宋)から伝えられます。禅宗は位牌を日本に持ち込みました。もともと仏教には位牌はありませんでした。禅宗は儒教の葬儀に使われていましたが、日本にこれが伝えられると、武士の間に広がりました。
 

 

世の不思議五(元暦の大地震)
また、同じころかとよ。おびただしき大地震(おおない)ふること侍りき。そのさま世の常ならず。山崩れて、川を埋(うず)み、海はかたぶきて、陸地(くがち)をひたせり。土さけて、水湧き出で、巖(いはお)割れて、谷にまろび入る。渚こぐ船は、浪にたゞよひ、道行く馬は、足の立處をまどはす。
都の邊(ほとり)には、在々所々、堂舍塔廟、一つとして全からず。或は崩れ、或は倒れぬ。塵・灰立ち上りて、盛んなる煙の如し。地の動き、家の破るゝ音、雷に異ならず。家の中に居れば、忽ちにひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く。羽なければ、空をも飛ぶべからず。龍ならばや、雲にも登らむ。おそれの中に、おそるべかりけるは、たゞ地震(ない)なりけりとこそ覺え侍りしか。
かくおびただしくふる事は、暫(しば)しにて、止みにしかども、その餘波(なごり)しばしは絶えず。世の常に驚くほどの地震(ない)、ニ・三十度ふらぬ日はなし。十日・二十日過ぎにしかば、やうやう間遠になりて、或は四・五度、ニ・三度、もしは一日交ぜ(ひとひまぜ)、ニ・三日に一度など、大方その餘波、三月許りや侍りけむ。
四大種(しだいしゅ)の中に、水・火・風は、常に害をなせど、大地に至りては、殊なる變をなさず。「昔、齊衡の頃とか、大地震ふりて、東大寺の佛の御頭(みぐし)落ちなど、いみじき事ども侍りけれど、猶(なお)この度には如かず」とぞ。すなはち、人皆あぢきなき事を述べて、聊(いささ)か、心の濁りも薄らぐと見えしかど、月日重なり、年経にし後は、言葉にかけていひ出づる人だになし。
方丈の庵
こゝに、六十の露消えがたに及びて、更に末葉のやどりを結べる事あり。いはば旅人の一夜の宿りをつくり、老いたる蠶(かいこ)のまゆを營むがごとし。これを中ごろのすみかに並ぶれば、また百分が一に及ばず。とかくいふほどに、齡は年々(としどしに)かたぶき、住家は折々にせばし。その家のありさま、世の常にも似ず。廣さは僅に方丈、高さは七尺が内なり。
處をおもひ定めざるが故に、地をしめて造らず。土居(つちい)を組み、うちおほひを葺きて、つぎめごとにかけがねをかけたり。もし、心にかなはぬことあらば、やすく外に移さむがためなり。その改め造る時、いくばくのわづらひかある。積むところ、わづかに二兩。車の力をむくゆる外は、更に他の用途いらず。
いま、日野山の奧に跡をかくして後、東に三尺余りのひさしをさして、芝を折りくぶるよすがとす。南に竹の簀子(すのこ)を敷き、その西に閼伽棚(あかだな)を作り、北によせて、障子をへだてて、阿彌陀の畫像を安置し、そばに普賢をかけ、前に法花経を置けり。東のきはに、蕨(わらび)のほどろを敷いて、夜の床とす。西南に、竹の吊り棚をかまへて、Kき皮籠(かわご)三合を置けり。すなはち和歌・管絃・往生要集ごときの抄物を入れたり。傍(かたわら)に、箏・琵琶、おのおの一張を立つ。いはゆるをり箏、つぎ琵琶これなり。
方丈の庵(日野山の生活)
その處のさまをいはば、南に筧(かけい)あり。岩をたてて、水をためたり。林の木近ければ、爪木(つまぎ)を拾ふに乏(とも)しからず。名を外山(とやま)といふ。正木のかづら、跡うづめり。谷しげけれど、西は晴れたり。觀念のたより、なきにしもあらず。春は、藤波を見る。紫雲(しうん)の如くにして、西方に匂ふ。夏は、郭公(ほととぎす)を聞く。かたらふごとに、死出の山路を契(ちぎ)る。秋は、ひぐらしの聲、耳に滿てり。うつせみの世を悲しむかと聞ゆ。冬は、雪をあはれむ。つもり消ゆるさま、罪障に譬(たと)へつべし。
もし、念佛ものうく、讀經まめならぬ時は、みづから休み、みづから怠る。妨ぐる人もなく、また恥づべき人もなし。ことさらに無言をせざれども、ひとり居れば、口業ををさめつべし。かならず禁戒をまもるとしもなくと、境界なければ、何につけてか破らん。もし、また跡の白波に、この身をよする朝には、岡の屋に行きかふ船をながめて、滿沙彌が風情をぬすみ、もし桂の風、葉をならす夕(ゆうべ)には、潯陽の江をおもひやりて、源都督の行いをならふ。
もしあまりの興あれば、しばしば松のひゞきに秋風樂(しゅうふうらく)をたぐへ、水の音に流泉の曲をあやつる。藝は、これ拙(つた)なけれども、人の耳を悦ばしめむとにはあらず。ひとり調べ、ひとり詠じて、みづから心を養ふばかりなり。
また、麓に一つの柴の庵あり。すなはち、この山守(やまもり)が居る所なり。彼處(かしこ)に小童あり。時々來りて、あひ訪(とぶら)ふ。もし、つれづれなる時は、これを友として遊行(ゆぎょう)す。かれは十歳、これは六十、その齡ことの外なれど、心を慰むること、これ同じ。或(ある)は茅花(つばな)を拔き、岩梨(いわなし)を採る。またぬかごをもり、芹を摘む。あるは裾わの田井にいたりて、落穗を拾ひて、穂組み(ほぐみ)をつくる。
もし、日うらゝかなれば、嶺に攀(よ)ぢ上(のぼ)りて、遙かに故郷の空を望み、木幡山・伏見の里・鳥羽・羽束師(はつかし)を見る。勝地は主なければ、心を慰むるにさはりなし。歩み煩ひなく、こゝろ遠くいたる時は、これより峯つゞき炭山(すみやま)を越え、笠取(かさとり)を過ぎ、あるいは岩間に詣で、あるは石山を拜む。もしはまた、粟津の原を分けつつ、蝉丸の翁が跡を弔ひ、田上川を渡りて、猿丸太夫が墓をたづぬ。歸るさには、をりにつけつゝ、櫻を狩り、紅葉(もみじ)をもとめ、蕨を折り、木の實を拾ひて、かつは佛に奉り、かつは家土産(いえづと)にす。
もし、夜靜かなれば、窗(まどい)の月に古人を忍び、猿の聲に袖をうるほす。叢(くさむら)の螢は、遠く眞木(まき)の島の篝火(かがりび)にまがひ、曉の雨は、自ら木の葉吹く嵐に似たり。山鳥のほろほろと鳴くを聞きても、父か母かと疑ひ、峯の鹿(かせぎ)の近く馴れたるにつけても、世に遠ざかる程を知る。あるはまた、埋火(うづみび)をかきおこして、老の寢覺(ねざめ)の友とす。恐ろしき山ならねば、梟の聲をあはれむにつけても、山中の景色、折につけて盡くることなし。いはんや、深く思ひ、深く知らん人のためには、これにしも限るべからず。
跋=結び
そもそも、一期(いちご)の月影傾きて、餘算(よさん)山の端に近し。忽ちに三途の闇に向はんとす。何のわざをかかこたむとする。佛の人を教へ給ふおもむきは、事にふれて執心なかれとなり。いま草庵を愛するも科(とが)とす。閑寂に著するも、障(さわ)りなるべし。いかゞ用なき樂しみを述べて、あたら時を過さん。
静かなる曉、この理を思ひつゞけて、みづから心に問ひて曰く、「世を遁れて、山林にまじはるは、心ををさめて、道を行はんがためなり。然るを、汝の姿は聖に似て、心は濁りに染(し)めり。住家は、すなはち淨名居士の跡をけがせりといへども、たもつところは、わづかに周梨槃特(しゅりはんどく)が行ひにだに及ばず。もしこれ貧賤の報いの自らなやますか、はた又、妄心の至りて狂せるか?」
その時、心さらに答ふることなし。たゞ、傍(かたわら)に舌根(ぜっこん)をやとひて、不請の阿弥陀佛、兩三遍申して止みぬ。
時に建暦の二年とせ、三月(やよい)の晦日(つごもり)ごろ、桑門(とうもん)の蓮胤(れんいん)、外山の庵にしてこれをしるす。
 
枕草子

 

(一段)
春は曙。やうやう白くなりゆく、山際(やまぎわ)すこしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
夏は夜。月の頃はさらなり、闇もなほ、螢飛びちがひたる。雨など降るも、をかし。
秋は夕暮。夕日のさして、山の端(は)いと近くなりたるに、烏(からす)の寝所(ねどころ)へ行くとて、三つ四つ、二つなど、飛びいそぐさへあはれなり。まいて雁などのつらねたるが、いとちひさく見ゆる、いとをかし。日入りはてて、風の音、蟲の音(ね)など、いとあはれなり。
冬はつとめて。雪の降りたるは、いふべきにもあらず。霜のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火など急ぎおこして、炭もてわたるも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶(ひおけ)の火も、白き灰がちになりて、わろし。
(二三段)
たゆまるるもの
精進の日のおこなひ。日遠きいそぎ。寺に久しくこもりたる。
(二八段)
こころゆくもの
よくかいたる女繪の詞をかしうつづけておほかる。物見のかへさに乘りこぼれて、男どもいと多く、牛よくやるものの車走らせたる。白く清げなる檀紙に、いとほそう書くべくはあらぬ筆して文書きたる。川船のくだりざま。齒黒のよくつきたる。重食に丁多くうちたる。うるはしき糸のねりあはせぐりしたる。
物よくいふ陰陽師して、河原に出でてずその祓したる。夜寢起きて飮む水。
徒然なるをりに、いとあまり睦しくはあらず、踈くもあらぬ賓客のきて、世の中の物がたり、この頃ある事の、をかしきも、にくきも、怪しきも、これにかかり、かれにかかり、公私おぼつかなからず、聞きよきほどに語りたる、いと心ゆくここちす。
社寺などに詣でて物申さするに、寺には法師、社には禰宜などやうのものの、思ふほどよりも過ぎて、滯なく聞きよく申したる。
陰陽師
(おんみょうじ、おんようじ) 古代日本の律令制下に於いて中務省の陰陽寮に属した官職の1つで、陰陽五行の思想に基づいた陰陽道によって占筮(せんぜい)及び地相などを行う方技(技官)として配置され、後には本来の律令規定を超えて占術・呪術・祭祀をつかさどるようになった職掌。中世以降は、主に各地において民間で個人的に占術・呪術・祭祀を行う非官人の者を指すようになり、現代においては民間で私的祈祷や占術を行う神職の一種として定義付けられている。連声化せずに「おんようじ」と発音されることもある。声聞師ともいわれた。
陰陽五行思想の伝来と陰陽寮
全ての事象が陰陽と木・火・土・金・水の五要素の組み合わせによって成り立っているとする、中国古代の夏、殷(商)王朝時代にはじまり周王朝時代にほぼ完成した陰陽五行思想、ないしこれと密接な関連を持つ天文学、暦学、易学、時計などは、5世紀から6世紀にかけて飛鳥時代、遅くとも百済から五経博士が来日した512年(継体天皇7年)ないし易博士が来日した554年(欽明天皇15年)の時点までに、中国大陸(後漢(東漢)・隋)から直接、ないし朝鮮半島西域(高句麗・百済)経由で伝来した。
当初はこれら諸学の政治・文化に対する影響は僅少であったものの、602年(推古天皇10年)に日本における陰陽道のパイオニアとも言うべき存在となった觀勒(観勒 かんろく)が百済から来日し、聖徳太子をはじめとして選ばれた34名の官僚に諸学を講じると我国の国政に大きな影響を与えるようになり、初めて日本において暦(元嘉暦)が官暦として採用され、仏法や陰陽五行思想・暦法などを吸収するために607年(推古天皇15年)には隋に向けて遣隋使の派遣が始められたほか、聖徳太子の十七条憲法や冠位十二階の制定においても陰陽五行思想の影響が色濃く現れることとなった。その後も、朝廷は遣隋使(後には遣唐使)に留学生を随行させたり、中国本土ないし寄港地の朝鮮半島西岸から多数の僧侶ないし学者を招聘して、さらなる知識吸収につとめた。諸学の導入が進むと、日本においては『日月星辰の運行・位置を考え相生相克の理による吉凶禍福を判じて未来を占い、人事百般の指針を得る』ことが重要であると考えられるようになり、吉凶を判断し行動規範を得るための方策として陰陽五行思想が重視されることとなった。
7世紀には、壬申の乱の際に自ら栻(ちょく)を取って占うほど天文遁甲の達人で陰陽五行思想に造詣の深かった天武天皇が、676年(天武天皇4年)に「陰陽寮」や日本初の占星台を設け、685年(天武天皇13年)には「陰陽師」という用語が使い始められるなど、陰陽五行思想はさらに盛んとなり、718年(養老2年)の養老律令において、中務省の内局である小寮としての陰陽寮の設置が明文化され、これに方技(技官)として天文博士・陰陽博士・陰陽師・暦博士・漏刻博士が常任されることが規定されると、神祇官の龜卜(きぼく、亀甲占い)と並んで公的に式占を司ることとなった。
大陸伝来の技術を担当する方技だけに、各博士や陰陽師には、諸学に通じ漢文の読解に長けた渡来人、おしなべて中国本土の前漢・後漢(東漢)・代わって大陸覇権を握った隋、朝鮮半島西岸に勢力を有した高句麗(コグリョ、こうくり)・百済(ペクチェ、くだら)、まれに当初朝鮮半島東岸勢力であった新羅(シルラ、しらぎ)から帰来した学僧が任命されている。特に、後の663年(天智2年)に日本が親密国であった百済に援軍を出した白村江の戦の敗戦により新羅が朝鮮半島を統一して百済王朝が滅亡した際の前後には、百済から大量の有識者が亡命者として渡来し、その中から多くの者が任官している。
陰陽寮成立当初の方技は、純粋に占筮(せんぜい)、地相(現在で言う「風水」的なもの)、天体観測、占星、暦の作成、吉日凶日の判断、漏刻(水時計による時刻の管理)のみを職掌としていたため、もっぱら天文観測・暦時の管理・事の吉凶を陰陽五行に基づく理論的な分析によって予言するだけであって、神祇官や僧侶のような宗教的な儀礼や呪術は全く行わなかったが、宮中において営繕を行う際の吉日選定や、土地・方角などの吉凶を占うことで遷都の際などに重要な役割を果たした。れている。連声化せずに「おんようじ」と発音されることもある。声聞師ともいわれた。
平安時代
9世紀平安時代に入ると、藤原種継暗殺事件以降に身辺の被災や弔事が頻発したために悪霊におびえ続けた桓武天皇による長岡京から平安京への遷都に端を発して、にわかに朝廷を中心に怨霊である御霊信仰が広まり、悪霊退散のために呪術によるより強力な恩恵を求める風潮が強くなり、これを背景に、古神道に加え、有神論的な星辰信仰や霊符呪術のような道教色の強い呪術が注目されていった。讖緯思想・道教・仏教特に密教的な要素を併せ持った呪禁道を管掌し医術としての祈祷などを行う機関として設けられていた典薬寮の呪禁博士や呪禁師らが、陰陽家であった中臣(藤原)鎌足の代に廃止され陰陽寮に機構統合されるなどして、陰陽道は道教ないし仏教(特に8世紀末に伝わった密教の呪法や、これにともなって伝来した宿曜道とよばれる占星術)から古神道に至るまで、さまざまな色彩をも併せもつ性格を見せ始める要素を持っていたが、御霊信仰の時勢を迎えるにあたって更なる多様性を帯びることとなった。例えば、9世紀後半以降に陰陽道の施術において多く見られるようになった方違え・物忌などの呪術や泰山府君祭などの祭祀は道教に由来するものであり、散米・祝詞・禹歩(反閇)などは古神道に由来するものである。さらに、北家藤原氏が朝廷における権力を拡大・確立してゆく過程では、公家らによる政争が相当に激化し、相手勢力への失脚を狙った讒言や誹謗中傷に陰陽道が利用される機会も散見されるようになった。
仁明天皇・文徳天皇の時代(833年‐858年間)に藤原良房が台頭するとこの傾向は著しくなり、宇多天皇は自ら易学(周易)に精通していたほか、藤原師輔も自ら「九条殿遺誡」や「九条年中行事」を著して多くの陰陽思想にもとづく禁忌・作法を組み入れた手引書を示したほどであった。この環境により、滋岳川人(しげおかのかわひと)、弓削是雄(ゆげのこれお)らのカリスマ的な陰陽師を輩出したほか、漢文学者三善清行の唱える「讖緯説(しんいせつ)」(周期的予言説)による災異改元が取り入れられて901年(延喜元年)以降恒例化するなど、宮廷陰陽道化がさらに進んだ。あわせて、公卿の藤原師輔や漢文学者の三善清行など、陰陽寮の外にある人物が天文・陰陽・易学・暦学を習得していたということ自体、律令に定めた陰陽諸道の陰陽寮門外不出の国家機密政策はこの頃にはすでに実質的に破綻していたことを示している。
やがて平安時代中期以降に、摂関政治や荘園制が蔓延して律令体制がさらに緩むと、堂々と律令の禁を破って、正式な陰陽寮所属の官人ではない「ヤミ陰陽師」が私的に貴族らと結びつき、彼らの吉凶を占ったり災害を祓うための祭祓を密かに執り行い、場合によっては敵対者の呪殺まで請け負うような風習が横行すると、陰陽寮の「正式な陰陽師」においてもこの風潮に流される者が続出し、そのふるまいは本来律令の定める職掌からはるかにかけ離れ、方位や星巡りの吉凶を恣意的に吹き込むことによって天皇・皇族や、公卿・公家諸家の私生活における行動管理にまで入り込み、朝廷中核の精神世界を支配し始めて、次第に官制に基づく正規業務を越えて政権の闇で暗躍するようになっていった。
10世紀に入ると、天文道・陰陽道・暦道すべてに精通した陰陽師である賀茂忠行(かものただゆき)・賀茂保憲(かものやすのり)親子ならびにその弟子である安倍晴明(あべのせいめい)が輩出し、従来は一般的に出世が従五位下止まりであった陰陽師方技出身者の例を破って従四位下にまで昇進するほど朝廷中枢の信頼を得た。そして賀茂保憲が、その嫡子の賀茂光栄(かものみつよし)に暦道を、弟子の安倍晴明に天文道をあまなく伝授禅譲して、それぞれがこれを家内で世襲秘伝秘術化したため、安倍家の天文道は極めて独特の災異瑞祥を説く性格を帯び、賀茂家の暦道は純粋な暦道というよりはむしろ宿曜道(すくようどう)的色彩の強いものに独特の変化をとげていった。このため、賀茂氏・安倍氏からのみ陰陽師が輩出されることとなり、安倍晴明の孫安倍章親が陰陽頭に就任すると、賀茂家出身者に暦博士を、安倍家出身者に天文博士を常時任命する方針を表し、その後は賀茂氏と安倍氏が、本来世襲される性格ではない陰陽寮の各職位を両家の世襲でほぼ独占し、さらにはその実態を陰陽師としながらも陰陽寮職掌を越えて他のさらに上位の官職に付くようになるに至って、官制としての陰陽寮は完全に形骸化し、陰陽師は朝廷内においてもっぱら宗教的な呪術・祭祀の色合いが濃いカリスマ的な精神的支配者となり、その威勢を振るうようになっていった。特に、10世紀から11世紀における朝廷中枢の為政者に対しては、左大臣藤原時平が菅原道真を大臣職から太宰権帥に左遷した際(昌泰の変)に深く関与したことをはじめとして、政治運営や人事決定から天皇の譲位に至るまで多大な影響を及ぼした。
また、本来律令で禁止されているはずの陰陽寮以外での陰陽師活動を行う者が都以外の地方にも多く見られるようになったのもこの頃であり、地方では蘆屋道満(あしやどうまん)などをはじめとするカリスマ民間陰陽師が多数輩出した。
11世紀-12世紀を通じて、陰陽諸道のうちで最も難解であるとされていた天文道を得意とする安倍家からは達人が多数輩出され、陰陽頭は常に安倍氏が世襲し、陰陽助を賀茂氏が世襲するという形態が定着した。平安末期の源平の戦いのころには安倍晴明の子安倍吉平の玄孫にあたる安倍泰親が正四位上、その子の安倍季弘が正四位下にまで昇階していたが、その後の鎌倉幕府への政権移行にともなう政治的勢力失墜や、南北朝時代の混乱や両統に呼応した家内騒動によって、その勢力は一時衰退した。
武家社会の台頭と官人陰陽師の凋落
12世紀後半の平安時代末期には、院政に際して重用された北面の武士に由来する平家の興隆や、それを倒した源氏などによる武家社会が台頭し、1192年に武家政権である鎌倉幕府が正式に成立した。源平の戦いの頃から、源平両氏とも行動規範を定めるにおいて陰陽師の存在は欠かせないものであったことから、新幕府においても陰陽道は重用される傾向にあった。幕府開祖である源頼朝が、政権奪取への転戦の過程から幕府開設初期の諸施策における行動にあたって陰陽師の占じた吉日を用い、2代将軍源頼家もこの例にならい京から陰陽師を招くなどしたが、私生活まで影響されるようなことはなく、公的行事の形式補完的な目的に限って陰陽師を活用した。
3代将軍源実朝暗殺後は、北条氏による執権政治が展開されるようになり、鎌倉将軍は執権北条氏の傀儡将軍として代々摂関家や皇族から招かれるようになり、招かれた将軍たちは出自柄当然ながら陰陽師を重用した。4代将軍源(藤原)頼経は、武蔵国(現在の東京都および埼玉県)の湿地開発が一段落したのを受けて、公共事業として多摩川水系から灌漑用水を引き飲料水確保や水田開発に利用しようとする政所の方針を上申された際、その開発対象地域が府都鎌倉の真北に位置するために、陰陽師によって大犯土(だいぼんど、おおつち)(大凶の方位)であると判じられたため、将軍の居宅をわざわざ存府の鎌倉から吉方であるとされた現在の横浜市鶴見区所在の秋田城介義景の別屋敷にまで移転(陰陽道で言う方違え)してから工事の開始を命じたほか、その後代々、いちいち京から陰陽師を招聘することなく、身辺に「権門陰陽道」と称されるようになった陰陽師集団を確保するようになり、後の承久の乱の際には朝廷は陰陽寮の陰陽師たちに、将軍は権門陰陽師たちにそれぞれ祈祷を行わせるなど、特に中後期鎌倉将軍にとって陰陽師は欠かせない存在であった。
ただ、皇族・公家出身の将軍近辺のみ陰陽道に熱心なのであって、実権を持っていた執権の北条一族は必ずしも陰陽道にこだわりを持っておらず、配下のいわゆる東国武士から全国の地域地盤に由来する後に「国人」と呼ばれるようになった武士層に至るまで、朝廷代々の格式を意識したり陰陽師に行動規範を諮る習慣はなかったため、総じて陰陽師は武家社会全般を蹂躙するような精神的影響力を持つことはなく、もっぱら傀儡である皇族・公家出身将軍と、実権を失った朝廷や公卿・公家世界においてのみ、その存在感を示すにとどまった。鎌倉時代初期においては、国衙領や荘園に守護人奉行(のちの守護)や地頭の影響力はそれほど及んでいなかったが、鎌倉中期以降、国衙領・荘園の税収入効率ないし領地そのものがこれらに急激に侵食されはじめると、陰陽師の保護基盤である朝廷・公家勢力は経済的にも苦境を迎えるようになっていった。
後醍醐天皇の勅令によって鎌倉幕府が倒され、足利尊氏が後醍醐天皇から離反して室町幕府を開き南北朝時代が到来すると、京に幕府を持ち北朝を支持する足利将軍家は次第に公家風の志向をもつようになり、3代将軍足利義満のころからは陰陽師が再び重用されるようになった(義満は、天皇家の権威を私せんと画策しており、彼の陰陽師重用は宮廷における祭祀権を奪取するためのものでもあったとする説もある[1]。)。
陰陽道世襲2家のうち、南北朝期に賀茂氏が通名とするようになった勘解由小路(かでのこうじ)家(居宅が勘解由小路にあったことから室町時代に賀茂氏が名乗るようになったもので、藤原北家日野流や斯波流の勘解由小路家とは異なる)を名乗った賀茂氏の勢力は徐々に凋落し、賀茂(勘解由小路)在方が「暦林問答集」を著すなど活躍したものの、室町時代中期には勘解由小路得宗家の後継者が殺害されて家系断絶に至った。しかし安倍氏だけは上手く立ち回り、安倍有世(安倍晴明から14代の子孫)は、将軍足利義満の庇護を足がかりに、ついに公卿である従二位にまで達し、当時の宮中では職掌柄恐れ忌み嫌われる立場にあった陰陽師が公卿になったことが画期的な事件として話題を呼んだ。その後も、安倍有世の子安倍有盛から安倍有季・安倍有宣と代々公卿に昇進し、本来は中級貴族であった安倍氏を堂上家(半家)の家格にまで躍進させ、16世紀の安倍有宣の代には勘解由小路家(賀茂氏)の断絶の機会を捉えてその後5代にわたって天文・暦の両道にかかわる職掌を独占し、安倍有世以来代々の当主の屋敷が土御門にあったことから土御門家(あくまで地名から取ったもので、村上源氏の流れをくむ源通親系土御門家とは異なる)を通名とするようになり、朝廷・将軍からの支持を一手に集め、ここまではその陰陽諸道上の勢力を万全なものとしたかのように見えた。
しかし、足利将軍職の政治的実権は長くは続かず、室町時代中盤以降となると、三管四職も細川氏を除いてはおしなべて衰退して、幕府統制と言うよりも有力守護らによる連合政権的な色彩を強めて派閥闘争を生み、応仁の乱などの戦乱が頻発するようになった。さらに守護大名の戦国大名への移行や守護代・国人などによる下克上の風潮が広まると、武家たちは生き残りに必死で、形式補完的に用いていた陰陽道などはことさら重視せず、相次ぐ戦乱や戦国大名らの専横によって陰陽師の庇護者である朝廷のある京も荒れ果て、将軍も逃避することがしばしば見られるようになった。16世紀前半の天文期には、安倍(土御門)有宣は平時には決して訪れることのなかった所領の若狭国名田荘(なたのしょう)納田終(のたおい)に疎開して、その子土御門有春・孫土御門有脩(ありなが)の3代にわたり陰陽頭に任命されながらも京にほとんど出仕することもなく若狭にとどまって泰山府祭などの諸祭祀を行ったため、困惑した朝廷はやむなく賀茂氏傍流の勘解由小路在富を召しだして諸々の勘申を行わせるなど、陰陽寮の運用は極めて不自然なものとなっていった。その後、織田氏を経て豊臣家が勢力を確立するなか、太閤豊臣秀吉が養子の関白豊臣秀次を排斥・切腹させた際、土御門久脩が豊臣秀次の祈祷を請け負ったかどで連座させられて尾張国に流されることとなり、さらに秀吉の陰陽師大量弾圧を見るに至って陰陽寮は陰陽頭以下が実質的に欠職となり陰陽師も政権中央において不稼動状態となると、平安朝以来の宮廷陰陽道はいったん完全にその実態を失うこととなった。
律令制の完全崩壊と豊臣秀吉の弾圧にともない、陰陽寮ないし官人としての陰陽師はその存在感を喪失したものの、逆にそれまで建前上国家機密とされていた陰陽道は一気に広く民間に流出し、全国で数多くの民間陰陽師が活躍した。このため、中世・近世においては陰陽師という呼称は、もはや陰陽寮の官僚ではなく、もっぱら民間で私的依頼を受けて加持祈祷や占断などを行う非官人の民間陰陽師を指すようになり、各地の民衆信仰や民俗儀礼と融合してそれぞれ独自の変遷を遂げた。また、この頃にかけて、南北朝期に安倍晴明に仮託して著された「刃辛内伝(ほきないでん)」が、牛頭天王(ごずてんのう)信仰と結びついた民間陰陽書として広く知られるようになった。
また、陰陽師を自称して霊媒や口寄せの施術を口実に各地を行脚し高額な祈祷料や占断料を請求するエセ神官・僧侶や穢多・非人集団も見られるようになって「陰陽師」という言葉に対して極めてオカルティックでうさんくさいイメージが広く定着することとなった。
このころ以降、一部の定まった住居を持たず漂泊する民間陰陽師は、他の漂泊民と同じく賤視の対象となっていった。彼らは時に「ハカセ」と呼ばれた。  
 

 

(七七段)
御佛名のあした、地獄繪の御屏風とりわたして、宮に御覽ぜさせ奉りたまふ。いみじうゆゆしき事かぎりなし。「これ見よかし」と仰せらるれど、「更に見侍らじ」とて、ゆゆしさにうへやに隱れふしぬ。
雨いたく降りて徒然なりとて、殿上人うへの御局に召して御あそびあり。道方の少納言琵琶いとめでたし。濟政の君筝の琴、行成笛、經房の中將笙の笛など、いとおもろうひとわたり遊びて、琵琶ひきやみたるほどに、大納言殿の、「琵琶の聲はやめて物語すること遲し」といふ事を誦じ給ひしに、隱れふしたりしも起き出でて、「罪はおそろしけれど、なほ物のめでたきはえ止むまじ」とて笑はる。
御聲などの勝れたるにはあらねど、折のことさらに作りいでたるやうなりしなり。
(八四段)
めでたきもの
唐錦。錺太刀。作佛のもく。色あひよく花房長くさきたる藤の、松にかかりたる。
六位の藏人こそなほめでたけれ。いみじき公達なれども、えしも著給はぬ綾織物を、心にまかせて著たる青色すがたなど、いとめでたきなり。所衆雜色、ただの人の子どもなどにて、殿原の四位五位六位も、官位あるが下にうち居て、何と見えざりしも、藏人になりぬれば、えもいはずぞあさましくめでたきや。宣旨などもてまゐり、大饗の甘栗使などに參りたるを、もてなし饗應し給ふさまは、いづこなりし天降人ならんとこそ覺ゆれ。
御むすめの女御后におはします。まだ姫君など聞ゆるも、御使にてまゐりたるに、御文とり入るるよりうちはじめ、しとねさし出づる袖口など、明暮見しものともおぼえず。下襲の裾ひきちらして、衞府なるは今すこしをかしう見ゆ。みづから盃さしなどしたまふを、わが心にも覺ゆらん。いみじうかしこまり、べちに居し家の公達をも、けしきばかりこそかしこまりたれ、同じやうにうちつれありく。うへの近くつかはせ給ふ樣など見るは、ねたくさへこそ覺ゆれ。
御文かかせ給へば、御硯の墨すり、御團扇などまゐり給へば、われつかふまつるに、三年四年ばかりのほどを、なりあしく物の色よろしうてまじろはんは、いふかひなきものなり。かうぶり得ておりんこと近くならんだに、命よりはまさりて惜しかるべき事を、その御たまはりなど申して惑ひけるこそ、いと口をしけれ。昔の藏人は、今年の春よりこそ泣きたちけれ。今の世には、はしりくらべをなんする。
博士のざえあるは、いとめでたしといふも愚なり。顏もいとにくげに、下臈なれども、世にやんごとなき者に思はれ、かしこき御前に近づきまゐり、さるべき事など問はせ給ふ御文の師にて侍ふは、めでたくこそおぼゆれ。願文も、さるべきものの序作り出して譽めらるる、いとめでたし。
法師のざえある、すべていふべきにあらず持經者の一人して讀むよりも、數多が中にて、時など定りたる御讀經などぞ、なほいとめでたきや。くらうなりて「いづら御讀經あぶらおそし」などいひて、讀みやみたる程、忍びやかにつづけ居たるよ。后の晝の行啓。御うぶや。みやはじめの作法。獅子、狛犬、大床子などもてまゐりて、御帳の前にしつらひすゑ、内膳、御竃わたしたてまつりなどしたる。姫君など聞えしただ人とこそつゆ見えさせ給はね。一の人の御ありき。春日まうで。葡萄染の織物。すべて紫なるは、なにもなにもめでたくこそあれ、花も、糸も、紙も。紫の花の中には杜若ぞ少しにくき。色はめでたし。六位の宿直すがたのをかしきにも、紫のゆゑなめり。ひろき庭に雪のふりしきたる。今上一の宮、まだ童にておはしますが、御叔父の上達部などの、わかやかに清げなるに抱かれさせ給ひて、殿上人など召しつかひ、御馬引かせて御覽じ遊ばせ給へる、思ふ事おはせじとおぼゆる。
(九四段)
くちをしきもの
節會、佛名に雪ふらで、雨のかき暮し降りたる。節會、さるべきをりの、御物忌に當りたる。いとなみいつしかと思ひたる事の、さはる事出で來て俄にとまりたる。いみじうする人の、子うまで年ごろ具したる。あそびをもし、見すべき事もあるに、かならず來なんと思ひて呼びに遣りつる人の、さはる事ありてなどいひて來ぬ、くちをし。
男も女も宮仕所などに、同じやうなる人、諸共に寺へまうで、物へも行くに、このもしうこぼれ出でて、用意はげしからず、あまり見苦しとも見つべくはあらぬに、さるべき人の、馬にても車にても行きあひ見ずなりぬる、いとくちをし。わびては、すきずきしからん下衆などにても、人に語りつべからんにてもがなと思ふも、けしからぬなめりかし。
節会(せちえ)
日本の宮廷で節日(祝の日)などに天皇のもとに群臣を集めて行われた公式行事。饗宴を伴う。
主な節会・奈良時代以前(律令制下)から続いた。
元日節会(正月一日)
白馬節会(正月七日)
踏歌節会(正月十六日)
上巳節会(三月三日)
端午節会(五月五日)
相撲節会(七月七日、のち七月下旬)
重陽節会(九月九日)
豊明節会(十一月新嘗祭翌日の辰の日)
釈奠
盂蘭盆
平安時代には、元日、白馬、踏歌、端午、豊明が五節会として、特に重んじられた。
江戸時代には、人日(一月七日)、上巳、端午、七夕、重陽を幕府が式日として定め、五節句として重視した。  
 

 

(一〇三段)
はるかなるもの
千日の精進はじむる日。半臂の緒ひねりはじむる日。陸奧國へゆく人の逢阪の關こゆるほど。うまれたる兒のおとなになるほど。大般若經御讀經一人して讀み始むる。十二年の山ごもりの始めてのぼる日。
(一一五段)
正月に寺に籠りたるはいみじく寒く、雪がちにこほりたるこそをかしけれ。雨などの降りぬべき景色なるはいとわろし。
初瀬などに詣でて、局などするほどは、榑階のもとに車引きよせて立てるに、帶ばかりしたる若き法師ばらの、屐といふものをはきて、聊つつみもなく下り上るとて、何ともなき經のはしうち讀み、倶舎の頌を少しいひつづけありくこそ、所につけてをかしけれ。わが上るはいとあやふく、傍によりて高欄おさへてゆくものを、ただ板敷などのやうに思ひたるもをかし。「局したり」などいひて、沓ども持てきておろす。衣かへさまに引きかへしなどしたるもあり。裳唐衣などこはごはしくさうぞきたるもあり。深沓半靴などはきて、廊のほどなど沓すり入るは、内裏わたりめきて又をかし。
内外など許されたる若き男ども、家の子など、又立ちつづきて、「そこもとはおちたる所に侍るめり。あがりたる」など教へゆく。何者にかあらん。いと近くさし歩み、さいだつものなどを、「しばし、人のおはしますに、かくはまじらぬわざなり」などいふを、實にとて少し立ち後るるもあり。又聞きも入れず、われまづ疾く佛の御前にとゆくもあり。局にゆくほども、人の居竝みたる前を通り行けば、いとうたてあるに、犬ふせぎの中を見入れたる心地、いみじく尊く、などて月頃もまうでず過しつらんとて、まづ心もおこさる。
御燈常燈にはあらで、うちに又人の奉りたる、おそろしきまで燃えたるに、佛のきらきらと見え給へる、いみじくたふとげに、手ごとに文を捧げて、禮盤に向ひてろぎ誓ふも、さばかりゆすりみちて、これはと取り放ちて聞きわくべくもあらぬに、せめてしぼり出したるこゑごゑの、さすがに又紛れず。「千燈の御志は、なにがしの御ため」と僅に聞ゆ。帶うちかけて拜み奉るに、「ここにかうさぶらふ」といひて、樒の枝を折りて持てきたるなどの尊きなども猶をかし。犬ふせぎのかたより法師よりきて、「いとよく申し侍りぬ。幾日ばかり籠らせ給ふべき」など問ふ。「しかじかの人こもらせ給へり」などいひ聞かせていぬるすなはち、火桶菓子など持てきつつ貸す。半挿に手水など入れて、盥の手もなきなどあり。「御供の人はかの坊に」などいひて呼びもて行けば、かはりがはりぞ行く。誦經の鐘の音、わがななりと聞けば、たのもしく聞ゆ。
傍によろしき男の、いと忍びやかに額などつく。立居のほども心あらんと聞えたるが、いたく思ひ入りたる氣色にて、いも寢ず行ふこそいとあはれなれ。うちやすむ程は、經高くは聞えぬほどに讀みたるも尊げなり。高くうち出させまほしきに、まして鼻などを、けざやかに聞きにくくはあらで、少し忍びてかみたるは、何事を思ふらん、かれをかなへばやとこそ覺ゆれ。
日ごろこもりたるに、晝は少しのどかにぞ、早うはありし。法師の坊に、男ども童などゆきてつれづれなるに、ただ傍に貝をいと高く、俄に吹き出したるこそおどろかるれ。清げなるたて文など持せたる男の、誦經の物うち置きて、堂童子など呼ぶ聲は、山響きあひてきらきらしう聞ゆ。鐘の聲ひびきまさりて、いづこならんと聞く程に、やんごとなき所の名うちいひて、「御産たひらかに」など教化などしたる、すずろにいかならんと覺束なく念ぜらるる。これはただなる折の事なめり。正月などには、唯いと物さわがしく、物のぞみなどする人の隙なく詣づる見るほどに、行もしやられず。
日のうち暮るるにまうづるは、籠る人なめり。小法師ばらの、もたぐべくもあらぬ屏風などの高き、いとよく進退し、疊などほうとたておくと見れば、ただ局に出でて、犬ふせぎに簾垂をさらさらとかくるさまなどぞいみじく、しつけたるは安げなり。そよそよとあまたおりて、大人だちたる人の、いやしからず、忍びやかなる御けはひにて、かへる人にやあらん、「そのうちあやふし。火の事制せよ」などいふもあり。
七つ八つばかりなる男子の、愛敬づきおごりたる聲にて、さぶらひ人呼びつけ、物などいひたるけはひもいとをかし。また三つばかりなるちごのねおびれて、うちしはぶきたるけはひもうつくし。乳母の名、母などうち出でたらんも、これならんといと知らまほし。
夜ひと夜、いみじうののしりおこなひあかす。寐も入らざりつるを、後夜などはてて、少しうちやすみ寐ぬる耳に、その寺の佛經を、いとあらあらしう、高くうち出でて讀みたるに、わざとたふとしともあらず。修行者だちたる法師のよむなめりと、ふとうち驚かれて、あはれに聞ゆ。
また夜などは、顏知らで、人々しき人の行ひたるが、青鈍の指貫のはたばりたる、白き衣どもあまた著て、子どもなめりと見ゆる若き男の、をかしううちさうぞきたる、童などして、さぶらひの者ども、あまたかしこまり圍遶したるもをかし。かりそめに屏風たてて、額などすこしつくめり。顏知らぬは誰ならんといとゆかし。知りたるは、さなめりと見るもをかし。若き人どもは、とかく局どもなどの邊にさまよひて、佛の御かたに目見やり奉らず、別當など呼びて、打ちささめき物語して出でぬる、えせものとは見えずかし。
二月晦日、三月朔日ごろ、花盛に籠りたるもをかし。清げなる男どもの、忍ぶと見ゆる二三人、櫻青柳などをかしうて、くくりあげたる指貫の裾も、あてやかに見なさるる、つきづきし男に、裝束をかしうしたる餌袋いだかせて、小舎人童ども、紅梅萌黄の狩衣に、いろいろのきぬ、摺りもどろかしたる袴など著せたり。花など折らせて、侍めきて、細やかなるものなど具して、金鼓うつこそをかしけれ。さぞかしと見ゆる人あれど、いかでかは知らん。打ち過ぎていぬるこそ、さすがにさうざうしけれ。「氣色を見せましものを」などいふもをかし。
かやうにて寺ごもり、すべて例ならぬ所に、つかふ人のかぎりしてあるは、かひなくこそ覺ゆれ。猶おなじほどにて、一つ心にをかしき事も、さまざまいひ合せつべき人、かならず一人二人、あまたも誘はまほし。そのある人の中にも、口をしからぬもあれども、目馴れたるなるべし。男などもさ思ふにこそあめれ。わざと尋ね呼びもてありくめるはいみじ。
 

 

(一二一段)
修法は、佛眼眞言など讀みたてまつりたる、なまめかしうたふとし。
(一二八段)
故殿の御ために、月ごとの十日、御經佛供養せさせ給ひしを、九月十日、職の御曹司にてせさせ給ふ。上達部、殿上人いとおほかり。清範講師にて、説く事どもいとかなしければ、殊に物のあはれふかかるまじき若き人も、皆泣くめり。
終てて酒のみ詩誦じなどするに、頭中將齊信の君、月と秋と期して身いづくにかといふ事をうち出し給へりしかば、いみじうめでたし。いかでかは思ひいで給ひけん。
おはします所に分け參るほどに、立ち出でさせ給ひて、「めでたしな。いみじうけうの事にいひたる事にこそあれ」とのたまはすれば、「それを啓しにとて、物も見さして參り侍りつるなり。猶いとめでたくこそ思ひはべれ」と聞えさすれば、「ましてさ覺ゆらん」と仰せらるる。
わざと呼びもいで、おのづからあふ所にては、「などかまろを、まほに近くは語ひ給はぬ。さすがににくしなど思ひたるさまにはあらずと知りたるを、いと怪しくなん。さばかり年ごろになりぬる得意の、疎くてやむはなし。殿上などに明暮なきをりもあらば、何事をかおもひでにせん」との給へば、「さらなり。かたかるべき事にもあらぬを、さもあらん後には、え譽め奉らざらんが口惜しきなり。うへの御前などにて、役とあつまりて譽め聞ゆるに、いかでか。ただおぼせかし。かたはらいたく、心の鬼いで來て、言ひにくく侍りなんものを」といへば、笑ひて、「などさる人しも、他目より外に、誉むるたぐひ多かり」との給ふ。「それがにくからずばこそあらめ。男も女も、けぢかき人をかたひき、思ふ人のいささかあしき事をいへば、腹だちなどするが、わびしう覺ゆるなり」といへば、「たのもしげなの事や」との給ふもをかし。
仏眼仏母
(ぶつげんぶつも・梵名ブッダローチャニー) 仏教、特に密教で崇められる仏の一尊。真理を見つめる眼を神格化したものである。 なお、所依の経典によって、大日如来所変、釈迦如来所変、金剛薩埵所変の三種類の仏眼仏母が説かれる。
三昧耶形は如来眼(肉髻と微笑む両目)、金剛眼(独鈷金剛杵の両側に微笑む眼)、あるいは如意宝珠。種子はギャ(ga)、またはシリー(zrii)。 その姿は、日本では一般に装身具を身に着けた菩薩形で、喜悦微笑して法界定印の印相をとる姿に表される。
人は真理を見つめて世の理を悟り、仏即ち「目覚めた者」となる。これを「真理を見つめる眼が仏を産む」更に「人に真理を見せて仏として生まれ変わらせる宇宙の神性」という様に擬人化して考え、仏母即ち「仏の母」としての仏眼信仰に発展した。
また「大日経疏」では、「諸々の仏が人々を観察し、彼らを救うために最も相応しい姿を表す」という大乗仏教の下化衆生思想に基づく解釈も行われている。
密教においては「目を開いて仏として生まれ変わらせる」その役割から、仏像の開眼儀式でその真言が唱えられる。
また、仏眼仏母は胎蔵界大日如来が金剛界月輪三昧という深い瞑想の境地に至った姿ととも解釈され、一字金輪仏頂とは表裏一体の関係にあるとされる。例えば、一字金輪仏頂がその輪宝で悪神を折伏するとすれば、仏眼仏母は悪神を摂受によって教え導くという。 そのため仏眼仏母の曼荼羅には必ず一字金輪仏頂も描かれ、一字金輪仏頂曼荼羅にも必ず仏眼仏母が描かれる。  
 

 

(一四九段)
えせものの所うるをりの事
正月の大根。行幸のをりの姫大夫。六月十二月の三十日の節折の藏人。季の御讀經の威儀師。赤袈裟著て僧の文ども讀みあげたる、いとらうらうじ。
御讀經佛名などの、御裝束の所の衆。春日祭の舎人ども。大饗の所のあゆみ。正月の藥子。卯杖の法師。五節の試の御髮上。節會御陪膳の采女。大饗の日の史生。七月の相撲。雨降る日の市女笠。渡するをりのかん取。
(一五一段)
うらやましきもの
經など習ひて、いみじくたどたどしくて、忘れがちにて、かへすがえすおなじ所を讀むに、法師は理、男も女も、くるくるとやすらかに讀みたるこそ、あれがやうに、いつの折とこそ、ふと覺ゆれ。心地など煩ひて臥したるに、うち笑ひ物いひ、思ふ事なげにて歩みありく人こそ、いみじくうらやましけれ。
稻荷に思ひおこして參りたるに、中の御社のほど、わりなく苦しきを念じてのぼる程に、いささか苦しげもなく、後れて來と見えたる者どもの、唯ゆきにさきだちて詣づる、いとうらやまし。二月午の日の曉に、いそぎしかど、坂のなからばかり歩みしかば、巳の時ばかりになりにけり。やうやう暑くさへなりて、まことにわびしうかからぬ人も世にあらんものを、何しに詣でつらんとまで涙落ちてやすむに、三十餘ばかりなる女の、つぼ裝束などにはあらで、ただ引きはこえたるが、「まろは七たびまうでし侍るぞ。三たびはまうでぬ、四たびはことにもあらず未には下向しぬべし」と道に逢ひたる人にうち言ひて、くだりゆきしこそ、ただなる所にては目もとまるまじきことの、かれが身に只今ならばやとおぼえしか。
男も、女も、法師も、よき子もちたる人、いみじううらやまし。髮長く麗しう、さがりばなどめでたき人。やんごとなき人の、人にかしづかれ給ふも、いとうらやまし。手よく書き、歌よく詠みて、物のをりにもまづとり出でらるる人。
よき人の御前に、女房いと數多さぶらふに、心にくき所へ遣すべき仰書などを、誰も鳥の跡のやうにはなどかはあらん、されど下などにあるをわざと召して、御硯おろしてかかせ給ふ、うらやまし。さやうの事は、所のおとななどになりぬれば、實になにはわたりの遠からぬも、事に隨ひて書くを、これはさはあらで、上達部のもと、又始めてまゐらんなど申さする人の女などには、心ことに、うへより始めてつくろはせ給へるを、集りて、戲にねたがりいふめり。
琴笛ならふに、さこそはまだしき程は、かれがやうにいつしかと覺ゆめれ。うち東宮の御乳母、うへの女房の御かたがたゆるされたる。三昧堂たてて、よひあかつきにいのられたる人。雙六うつに、かたきの賽ききたる。まことに世を思ひすてたるひじり。
(一五八段)
經は不斷經。
威儀師
授戒や法会のとき、衆僧の先に立って進退作法を指示し、行事の進行をつかさどる僧。威儀法師。威儀僧。
不斷經 (不断経)
毎日、絶え間なく経を読むこと。また、死者の冥福追善などのために、一定の期間、昼夜間断なく大般若経(だいはんにゃきょう)・最勝王経・法華経などを読みあげること。不断の読経。/冥福・追善・安産のため一定の期間を決め、昼夜間断なく大般若経・最勝王経・法華経などをよむこと。
更級日記 (六十八の上)
上達部、殿上人などに対面する人は、定まりたるやうなれば、うひうひしき里人は、ありなしをだに知らるべきにもあらぬに、十月ついたちごろのいと暗き夜、不断経に、声よき人々読むほどなりとて、そなた近き戸口に二人ばかりたち出でて聞きつつ、物語して寄り臥してあるに、参りたる人のあるを、逃げ入りて局なる人々呼び上げなどせむも見ぐるし、さはれ、ただ折からこそ、かくてただ、と言ふいま一人のあれば、かたはらにて聞きゐたるに、おとなしく静やかなるけはひにてものなど言ふ、くちをしからざなり。
いま一人は、など問ひて、世のつねのうちつけのけさうびてなども言ひなさず、世の中のあはれなることどもなどこまやかに言ひ出でて、さすがにきびしう引き入りがたいふしぶしありて、われも人も答へなどするを、まだ知らぬ人のありける、などめづらしがりて、とみに立つべくもあらぬほど、星の光だに見えず暗きに、うちしぐれつつ、木の葉にかかる音のをかしきを、なかなかに艶にをかしき夜かな、月のくまなく明かからむもはしたなくまばゆかりぬべかりけり。
春秋のことなど言ひて、時にしたがひ見ることには、春霞おもしろく、空ものどかに霞み、月のおもてもいと明かうもあらず、遠う流るるやうに見えたるに、琵琶の風香調ゆるるかに弾き鳴らしたる、いといみじく聞こゆるに、また秋になりて、月とみじう明かきに、空は霧りわたりたれど、手にとるばかりさやかに澄みわたりたるに、風の音、取りあつめたるここちするに、筝の琴かき鳴らされたる、横笛の吹き澄まされたるは、なぞの春とおぼゆかし、また、さかと思へば、冬の夜の空さへ冴えわたりいみじきに、雪の降りつもり光りあひたるに、篳篥のわななき出でたるは、春秋もみな忘れぬかし、と言ひつづけて、

「不断経」は、「法華経・最勝王経・大般若経」などを一定期間に途切れることなく読誦(どくじゅ)する催しで、これは祐子内親王の母の故げん子中宮のための法要の可能性が高い。1日を12等分して僧が輪番で読経し続けるのであるが、ここではそれが声の良いという評判の僧の番になったので部屋の入り口まで聞きに出たのである。当時は、仏教の儀式は美的陶酔をもたらすように仕組まれており、それによって信仰心をあおっていたから、美声の僧というのは重要な存在であった。また、そもそもにおいて、仏教では悟りのためにはいろいろな「方便」があり、声や音楽で悟ることもあるとされていたのである。筆者は宗教心が薄いから、単によい音楽でも聞くつもりであったであろう。その証拠には、経の文句に聞き入ってはおらず朋輩とおしゃべりしている。  
 

 

(一七九段)
位こそ猶めでたきものにはあれ。同じ人ながら、大夫の君や、侍從の君など聞ゆるをりは、いと侮り易きものを、中納言、大納言、大臣などになりぬるは、無下にせんかたなく、やんごとなく覺え給ふ事のこよなさよ。ほどほどにつけては、受領もさこそはあめれ。數多國に行きて、大貳や四位などになりて、上達部になりぬれば、おもおもし。されど、さりとてほど過ぎ、何ばかりの事かはある。又多くやはある。受領の北の方にてくだるこそ、よろしき人の幸福には思ひてあめれ。只人の上達部の女にて、后になり給ふこそめでたけれ。
されどなほ男は、わが身のなり出づるこそめでたくうち仰ぎたるけしきよ。法師の、なにがし供奉などいひてありくなどは、何とかは見ゆる。經たふとく讀み、みめ清げなるにつけても、女にあなづられて、なりかかりこそすれ、僧都僧正になりぬれば、佛のあらはれ給へるにこそとおぼし惑ひて、かしこまるさまは、何にかは似たる。
(一八一段)
やまひは
胸。物怪。脚氣。唯そこはかとなく物食はぬ。十八九ばかりの人の、髮いと麗しくて、たけばかりすそふさやかなるが、いとよく肥えて、いみじう色しろう、顏あいぎやうづき、よしと見ゆるが、齒をいみじく病みまどひて、額髮もしとどに泣きぬらし、髮の亂れかかるも知らず、面赤くて抑へ居たるこそをかしけれ。八月ばかり、白き單衣、なよらかなる袴よきほどにて、紫苑の衣の、いとあざやかなるを引きかけて、胸いみじう病めば、友だちの女房たちなどかはるがわる來つつ、「いといとほしきわざかな、例もかくや惱み給ふ」など、事なしびに問ふ人もあり。
心かけたる人は、誠にいみじと思ひ歎き、人知れぬ中などは、まして人目思ひて、寄るにも近くもえ寄らず、思ひ歎きたるこそをかしけれ。いと麗しく長き髮を引きゆひて、物つくとて起きあがりたる氣色も、いと心苦しくらうたげなり。うへにも聞し召して、御讀經の僧の聲よき給はせたれば、訪人どももあまた見來て、經聞きなどするもかくれなきに、目をくばりつつ讀み居たるこそ、罪や得らんとおぼゆれ。
(一八二段)
すきずきしくて獨住する人の、夜はいづらにありつらん、曉に歸りて、やがて起きたる、まだねぶたげなる氣色なれど、硯とり寄せ、墨こまやかに押し磨りて、事なしびに任せてなどはあらず、心とどめて書く。まひろげ姿をかしう見ゆ。白き衣どものうへに、山吹紅などをぞ著たる。白き單衣のいたく萎みたるを、うちまもりつつ書き立てて、前なる人にも取らせず、わざとたちて、小舎人童のつきづきしきを、身近く呼び寄せて、うちささめきて、往ぬる後も久しく詠めて、經のさるべき所々など、忍びやかに口ずさびに爲居たり。奧のかたに、御手水、粥などしてそそのかせば、歩み入りて、文机に押しかかりて文をぞ見る。おもしろかりける所々は、うち誦じたるもいとをかし。
手洗ひて、直衣ばかりうち著て、禄をぞそらに讀む。實にいとたふとき程に、近き所なるべし、ありつる使うちけしきばめば、ふと讀みさして、返事に心入るるこそいとほしけれ。
(一八七段)
こころづきなきもの
物へゆき、寺へも詣づる日の雨。使ふ人の我をばおぼさず、「某こそ只今の人」などいふをほの聞きたる。人よりはなほ少しにくしと思ふ人の、推量事うちし、すずろなる物恨し、我かしこげなる。心あしき人の養ひたる子、さるはそれが罪にはあらねど、かかる人にしもと覺ゆる故にやあらん。「數多あるが中に、この君をば思ひおとし給ひてや、にくまれ給ふよ」などあららかにいふ。兒は思ひも知らぬにやあらん、もとめて泣き惑ふ、心づきなきなめり。おとなになりても、思ひ後見もて騒ぐほどに、なかなかなる事こそおほかめれ。わびしくにくき人に思ふ人の、はしたなくいへど、添ひつきてねんごろがる。
いささか心あしなどいへば、常よりも近く臥して、物くはせ、いとほしがり、その事となく思ひたるに、まつはれ追從し、とりもちて惑ふ。宮仕人の許に來などする男の、そこにて物くふこそいとわろけれ。くはする人もいとにくし。思はん人の、「まづ」など志ありていはんを、忌みたるやうに口をふたぎて、顏を持てのくべきにもあらねば、くひ居るにこそあらめ。いみじう醉ひなどして、わりなく夜更けて泊りたりとも更にゆづけだにくはせじ。心もなかりけりとて來ずばさてなん。さとにて、北面よりし出してはいかがせん。それだに猶ぞある。初瀬に詣でて局に居たるに、あやしき下種どもの、後さしまぜつつ、居竝みたるけしきこそ、ないがしろなれ。
いみじき心を起して詣でたるに、川の音などの恐しきに、榑階をのぼり困じて、いつしか佛の御顏を拜み奉らんと、局に急ぎ入りたるに、蓑蟲のやうなるものの、あやしき衣著たるが、いとにくき立居額づきたるは、押し倒しつべき心地こそすれ。いとやんごとなき人の局ばかりこそ、前はらひあれ、よろしき人は、制しわづらひぬかし。たのもし人の師を呼びていはすれば、「足下ども少し去れ」などいふ程こそあれ、歩み出でぬれば、おなじやうになりぬ。
(一九四段)
寺は
壺坂。笠置。法輪。高野は、弘法大師の御住處なるがあはれなるなり。石山。粉川。志賀。
(一九五段)
經は
法華經はさらなり。千手經。普賢十願。隨求經。尊勝陀羅尼。阿彌陀の大呪。千手陀羅尼。
千手經
「千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経」など。千手観音とその陀羅尼について説いた経の略称。千手陀羅尼経。/ 過去の罪やカルマを反省し深く懺悔して、神通力を起こすお経。このお経を一生懸命となえれば、お釈迦様と同じ涅槃に自然に入ることができます。仏様や菩薩様全ての神様が守護してくださいます。いつも元気でいきいきすることができ、周りの人々が平和になります。この真理の言葉のお経を一日一回あげると宇宙のパワーをもらうことができます。私たちの身体は全てが仏様です。心をおだやかに円満に磨きましょう。
後白河上皇の熊野御幸
後白河上皇(1127-1192)の撰述に成る「梁塵秘抄」は、歌集十巻、口伝集十巻の計二十巻であったと推定されますが、今日現存するのは、わずかに歌集巻一の断簡と巻二、口伝集巻一の断簡と巻十のみ。歌集ももちろん面白いですが、口伝集も面白い。後白河上皇がいかに今様に夢中だったのかがわかります。遊女(あそび)や傀儡子(くぐつ)ら女芸人たちとの交流の様も見え、後白河院の熱烈な仏教信者ぶりも知ることもできます。
後白河院は、歴代の上皇のなかで最多の34回もの熊野詣を行うほどの熱烈な熊野信者でした。本地垂迹思想の浸透していた当時、熊野本宮は阿弥陀如来の浄土と考えられており、熊野信仰は仏教信仰の一形態なのでした。熊野を信仰することと仏教を信仰することになんら矛盾はなかったのです。

2回目の熊野詣は1162年のこと。
応保2年正月21日より精進を始めて、同27日に発つ。
2月9日、本宮に幣を奉る。本宮・新宮・那智の三山に三日ずつ籠って、その間、千手経を千巻(1000回)転読してたてまつった。
同月12日、新宮に参って、幣を奉る。その次第はいつもの通りである。夜が更けてからまた社殿の前へ上って、宮廻ののち礼殿で通夜、千手経を読んでたてまつる。しばらくは人がいたけれど、片隅で眠るなどして、前には人も見えない。通家が経を巻きもどす役をしていたのだが、居眠りしている。
次々に奉幣なども終わり静まって、そろそろ夜半を過ぎただろうかと思われたころ、神殿のほうを見やると、わずかの火の光に御神体の鏡がところどころ輝いて見える。しみじみと心が澄んで、涙も止まらず、泣きながら千手経を読んでいたところ、資賢が通夜を終えて、明け方に礼殿に参りに来た。
「今様が欲しいものだ。今ならきっと趣が出るよ」
と、私は資賢に勧めたが畏まっているばかり。仕方なく、私みずから歌いだす。
よろづのほとけの願よりも
千手の誓ひぞ頼もしき
枯れたる草木もたちまちに
花さき実なると説いたまふ
繰り返し繰り返し、何度も歌う。資賢・通家が和して歌う。心澄ましてあったせいだろうか、いつもよりもすばらしく趣深かった。
覚讃法印が宮廻りを終えて、社殿の前にある松の木の下で通夜をしていたが、その松の木の上で、
「心とけたる只今かな(いま、私の心はくつろいでいるよ)」
と、神の歌う声がしたので、夢うつつともなく聞いて、びっくりして、慌てて礼殿に報告しに来た。
一心に心を澄ましていると、このような不思議なこともあるのだろうか。夜が開けるまで歌い明かした。これが2回目である。
普賢十願
普賢菩薩1
文殊菩薩と共に、釈迦の脇侍を勤める菩薩で白ゾウに乗り、合掌している姿が一般的である。文殊菩薩が仏の智慧を象徴している事に対して、普賢菩薩は慈悲を象徴しているといわれる。
普賢十願
@礼敬諸仏/諸仏を礼拝したたえる。 A賞賛如来/如来を礼拝したたえる。 B懺悔業障/悪の行為によって生じた障害を悔い改める。 C広修供養/広く供養を修する。 D随喜功徳/他人の善行による功徳を喜ぶ。 E請転法輪/仏の説法を請う。 F諸仏住世/仏の世となる事を請う。 G常随仏学/常に仏に従って学ぶ。 H恒順衆常/常に人々に従う。I普皆廻向/全ての人が自分の行った善行を他人に向ける。
普賢菩薩2
文殊菩薩とともに大乗仏教の経典において重要な位置を占める菩薩。
「華厳経」によれば、彼は、(1)諸仏に敬礼し(2)諸仏を称讃し(3)諸仏を供養し(4)自ら過去の罪を懺悔し(5)諸仏の功徳に心から感謝し(6)諸仏に説法を請願し(7)仏が世に永らえることを請願し(8)常に仏に従って学び行動し(9)常えに衆生の救済を実現する様に願い(10)自らの功徳を全て悟りに振り向けると言う十願をたて、これを完全に実行、実現した。
この十願は「普賢行願」とも呼ばれ、自らの悟りと衆生の救済を求める菩薩の理想を示すものとされ、諸経典では、一般の人々もそれを追求する様勧め、また普賢菩薩の実現した功徳に与れると説いている。文殊菩薩が悟りの知性的側面を象徴しているのに対し、普賢菩薩はその実践的側面を象徴し、釈迦仏の右脇侍として六牙の白象に乗った姿で表現される。
普賢菩薩3
普賢菩薩は、釈迦如来の脇侍として右側に侍しています。普賢菩薩の普賢は「遍吉」とも訳され「みんな幸せであるように願う」などの意味になります。また、普賢菩薩は「普賢延命菩薩」とも呼ばれることがあります。
この普賢菩薩は元々女性であったのが成仏して男性になったと言われており、その仏像は白い象に坐った女性的な像になっています。
インドでの象は、獅子と同様にもっともすぐれた動物とされているところから普賢菩薩の偉大さを象徴していると考えられています。また、この白い象には六つの牙があり、布施、持戒、忍辱、精神、禅定、知恵のおこないを示しています。
普賢菩薩は、みんな幸せであるようになるために十の願いを発します。これを「普賢の十大願」を言います。
@仏を礼拝します。A仏を称賛します。B仏を心から供養します。Cみすから過去の罪を懺悔します。D仏の功徳に感謝します。E仏の説法を誓願します。F仏がこの世におられるよう誓願します。G常に仏に従って学びます。H衆生を父母のように敬います。I以上にすべての功徳をすべての人々に振り向けます。
普賢菩薩の姿の中で、三頭の象に坐っている一身三頭の姿をしたものがあります。この意味は、一身が生を意味し、三頭は「老・病・死」を表しているとされており、しかも象の下には大金剛輪があり、その下には五千もの象の群れがあることで、生老病死の四苦を度脱すると言われています。  
 

 

(一九六段)
佛は
如意輪は、人の心をおぼしわづらひて、頬杖を突きておはする、世に知らずあはれにはづかし。千手、すべて六觀音。不動尊。藥師佛。釋迦。彌勒。普賢。地藏。文珠。
(一九九段)
陀羅尼は
あかつき。
讀經は
ゆふぐれ。
陀羅尼
@梵語[dharani]の音写であり、漢訳であれば、総持・能持となる。保つ、支える、助けるといった意味を持つ言葉。なお、密教などで使う「陀羅尼」という場合には、呪文を唱えて不思議な働きを発すものである。
A日本曹洞宗では、幾つかの陀羅尼を状況に応じて読誦することがある。
B道元禅師の「正法眼蔵」の巻名の一。95巻本では55巻、75巻本では49巻。寛元元年(1243)に越前の吉峰寺にて示衆された。

@「陀羅尼」は、仏教では「これを保持することによって、善法を散逸せしめず、悪法を遮止することを得るもの」という意味である。そのための方法として、三陀羅尼や四種陀羅尼があるが、後者は以下の内容である。
 聞陀羅尼 教えを聞いて忘れないこと。 
 義陀羅尼 法の意義を忘れないこと。
 呪陀羅尼 呪文を唱えて記憶し忘れないこと。
 忍陀羅尼 教えを決定して、もはや動じないこと。
密教などでは、3番目の「呪陀羅尼」の意義が強調されていくことになるし、一般的では、そのような「呪文」を指して陀羅尼とすることもあるが、密教を含めて、以上の意義はどれかに留まることなく常に行われているのである。

A現在の日本曹洞宗では、様々な機会で陀羅尼を読む。読まれる陀羅尼は以下の通り。
 「大悲心陀羅尼」
観世音菩薩が大衆のために説いたものであり、これを唱え護持する者は、広大の菩提心を発し、誓って一切衆生を度し、身には斎戒を持し、諸衆生に於いて平等心を発すという。また世間の八万四千種の病はことごとく治され、一切鬼神に悪鬼を駆逐させ、外道を帰伏させる等の功徳がある。
 「消災妙吉祥陀羅尼」
 「大仏頂万行首楞厳陀羅尼」
 「仏頂尊勝陀羅尼」
世尊が、ジェータバナ林給孤独園にいる時に、三十三天善法堂に善住という天子がいた。しかし、この天子は、死んで7日後に畜生に生まれ変わるというお告げを聞いたため、非常に驚き、そのことを帝釈天に告げた。帝釈天は釈尊にそのことを相談した時に、授けられたのが当陀羅尼である。
この陀羅尼は、聞いて憶念し、読誦し、思惟するならば、一切の業障を除くという。唐の五台山に文殊菩薩を拝謁しに来たインドの仏陀波利は、山中で一心に祈ったところ1人の老人が出現した。老人は、中国の人々は在家から僧侶に至るまで悪業を重ねていて、この者達を救うためには、『仏頂尊称陀羅尼』を将来して中国に広めるべきだと述べた。仏陀波利はわざわざインドに戻り、その後また中国に来て翻訳したという。更に、宮中で独占された時も、わざわざそこから取り戻して世に広めたという。
 「甘露門」所収の諸陀羅尼
面山師が、「施餓鬼作法」を著した理由として跋文に説明している。
「それ、施食法は、仏子の急務、而も金口慇懃に自他を兼済する功徳広大なり。実に、情識の能く測るところに非ざるなり。しかるに、もし聖法に依ること具わざれば、則ち周遍の利潤を闕するか。我が門の行事、その法は悉く備わざるに似たり。この故に、秘軌を尋繹し、密師に請益し、且つ、呪印を面授し、その足らざるを補う。謹んで此の儀を述して、日々自ら修め、又窃かに之を同志に伝与す。もって、菩提の願根を培う。必ずしも、之を叢林に布して、広く衆と共ならざる也。冀う所は、上は四恩に報じ、下は三有に資し、それと共に同じく薩雲を証せんもの也。」
これからすれば、宗門の施食作法の不備を、密師(密教僧)に教わって補填したことを明らかにしている。

B道元禅師は@で採り上げた意義にとらわれることなく、「陀羅尼」とは以下のような内容であると定義する。
いはゆる大陀羅尼は、人事これなり。人事は大陀羅尼なるがゆえに、人事の現成に相逢するなり。〈中略〉その人事は、焼香礼拝なり。
人事には、出身地や人間関係といった意味があるが、ここでは挨拶を敷衍した「焼香礼拝」こそが人事であるとされ、それこそ陀羅尼なのである。そして、焼香し礼拝する対象とは、自らが学ぶ本師に対して行われるのである。
あるひは出家の本師、あるひは伝法の本師あり。伝法の本師、すなはち出家の本師なるもあり。これらの本師にかならず依止奉覲する、これ咨参の陀羅尼なり。いはゆる時々をすごさず、参侍すべし。安居のはじめをはり、冬年および月旦月半、さだめて焼香礼拝す。
出家の本師とは、最近では受業師と呼ばれ、伝法の本師は単純に本師と呼ばれるが、道元禅師はこれらの師に参じることを陀羅尼とされ、更に、その参じることの具体的様子が焼香礼拝なのである。そして、同巻ではこの礼拝法について詳しく述べられていくことになる。ほとんどは、請益のための礼拝法である。中には「無住拝」なども説かれている。また、何故礼拝が陀羅尼になるかという理由は、以下の一文にて知られる。
おほよそ礼拝の住世せるとき仏法住世す。礼拝もしかくれぬれば仏法滅するなり。伝法の本師を礼拝することは、時節をえらばず、処所を論ぜず拝するなり。
つまり、礼拝の行為が現れている、まさにその時こそが仏法の現成であり、ここで仏道修行が理念ではなく、ただ具体的に行われているかどうかだけが問題になることを知るべきなのであり、仏法の持続は修行の持続なのである。なお、余談的だが密教的な解釈も用いて、この礼拝の重要性を説く箇所もみられる。
一切の陀羅尼はこの陀羅尼を字母とせり。この陀羅尼の眷属として一切の陀羅尼は現成せり。一切の仏祖、かならずこの陀羅尼門より、発心・弁道・成道・転法輪あるなり。
ここからは、焼香礼拝の事実こそが、逆に一切の陀羅尼を産み出すことを示しており、陀羅尼同士にみる阿字の関係を説く密教にも、道元禅師が通じていたことを示す。
また、「御抄」では「陀羅尼」の意義について以下のように註釈している。
陀羅尼と云事、世間には梵語をなづけ、諸経は梵語を漢字に翻訳す。然而、猶漢字にのこす所を陀羅尼といふ。しからば何として、梵字にはのこしをくぞと、覚たれども、梵字多含の義にて、ひろく義をのけ、漢字は一義を心得るゆへに、陀羅尼と云て梵語をあらためず。
梵字が複数の意味を含むということ自体が、既に密教的解釈であるため、本来の梵字とはやや意義を違えているように思われる。  
 

 

(二二六段)
社は
布留の社。活田の社。龍田の社。はなふちの社。美久理の社。杉の御社、しるしあらんとをかし。
任事の明神いとたのもし。さのみ聞きけんとやいはれ給はんと思ふぞいとをかしき。
蟻通の明神、貫之が馬のわづらひけるに、この明神のやませ給ふとて、歌よみて奉りけんに、やめ給ひけん、いとをかし。
この蟻通とつけたる意は、まことにやあらん、昔おはしましける帝の、唯若き人をのみ思しめして、四十になりぬるをば、失はせ給ひければ、他の國の遠きに往きかくれなどして、更に都のうちにさる者なかりけるに、中將なりける人の、いみじき時の人にて、心なども賢かりけるが、七十ちかき親ふたりをもたりけるが、かう四十をだに制あるに、ましていとおそろしと懼ぢ騒ぐを、いみじう孝ある人にて、遠き所には更に住ませじ、一日に一度見ではえあるまじとて、密によるよる家の内の土を掘りて、その内に屋を建てて、それに籠めすゑて、往きつつ見る。
おほやけにも人にも、うせ隱れたるよしを知らせてあり。などてか、家にいり居たらん人をば、知らでもおはせかし、うたてありける世にこそ親は上達部などにやありけん、中將など子にてもたりけんは。いと心かしこく、萬の事知りたりければ、この中將若けれど、才あり、いたり賢くして、時の人に思すなりけり。
唐土の帝、この國の帝を、いかで謀りて、この國うち取らむとて、常にこころみ、爭事をしておくり給ひけるに、つやつやと、まろに、美しげに削りたる木の二尺ばかりあるを、「これが本末いづかたぞ」と問ひ奉りたるに、すべて知るべきやうなければ、帝思しめし煩ひたるに、いとほしくて、親の許に行きて、かうかうの事なんあるといへば、「只はやからん川に立ちながら、横ざまに投げ入れ見んに、かへりて流れん方を、末と記してつかはせ」と教ふ。
參りて我しり顏にして、「こころみ侍らん」とて、人々具して投げ入れたるに、さきにして行くかたに印をつけて遣したれば、實にさなりけり。
又二尺ばかりなる蛇の同じやうなるを、「これはいづれか雄雌」とて奉れり。又更に人え知らず。例の中將行きて問へば、「二つをならべて、尾のかたに細きすばえをさしよせんに、尾はたらかさんを雌と知れ」といひければ、やがてそれを内裏のうちにてさ爲ければ、實に一つは動さず、一つは動しけるに、又しるしつけて遣しけり。
ほど久しうて、七曲にわだかまりたる玉の中通りて、左右に口あきたるが小さきを奉りて、「これに緒通してたまはらん、この國に皆し侍ることなり」とて奉りたるに、いみじからん物の上手不用ならん。そこらの上達部より始めて、ありとある人知らずといふに、又いきて、かくなんといへば、「大きなる蟻を二つ捕へて、腰に細き糸をつけ、又それに今少しふときをつけて、あなたの口に蜜を塗りて見よ」といひければ、さ申して、蟻を入れたりけるに、蜜の香を嗅ぎて、實にいと疾う穴のあなた口に出でにけり。さてその糸の貫かれたるを遣したりける後になん、なほ日本はかしこかりけりとて、後々はさる事もせざりけり。
この中將をいみじき人に思しめして、「何事をし、いかなる位をか賜はるべき」と仰せられければ、「更に官位をも賜はらじ、唯老いたる父母の隱れうせて侍るを尋ねて、都にすますることを許させ給へ」と申しければ、「いみじうやすき事」とて許されにければ、よろづの人の親これを聞きて、よろこぶ事いみじかりけり。中將は大臣までになさせ給ひてなんありける。
さてその人の神になりたるにやあらん、この明神の許へ詣でたりける人に、夜現れてのたまひける。
七曲にまがれる玉の緒をぬきてありとほしとも知らずやあるらん
とのたまひけると、人のかたりし。
布留の社/奈良県天理市布留町の石上神宮 (いそのかみじんぐう)(旧称/布留大明神 布留社 石上社 石上振神宮 石上坐布都御魂神社 )
古代、大和朝廷で軍事と鎮魂を司った物部氏の総氏神である。記紀にも石上神宮・石上振神宮などの記述があり、古くから朝廷の尊崇を受けた。古代においては朝廷の武器庫の役割も果たしていたと考えられている。
御祭神の布都御魂大神は佐士布都神〔さじふつのかみ〕ともいい、葦原中国〔あしはらのなかつくに〕平定の際、武甕槌命〔たけみかづちのみこと〕が帯びていた霊剣・平国之剣〔くにむけしつるぎ〕である。熊野山中で危機に陥った神武天皇の軍勢を救うために天から降され、高倉下〔たかくらじ〕を通じて神武天皇のもとにもたらされた。神武天皇が即位されてからは物部氏の祖・宇摩志麻治命により宮中で祀られたが、崇神天皇7年(B.C.91)石上高庭〔いそのかみのたかにわ〕の現社地に遷され、その5代の孫・伊香色雄命〔いかがしこおのみこと〕によって祀られることとなった。これが石上神宮の創祀である。
また、布留御魂大神は、物部氏の始祖・鐃速日命〔にぎはやひのみこと〕が天降る際に携えてきた天璽十種瑞宝〔あまつしるしとくさのみづのたから〕(十種神宝〔とくさのかんだから〕)の霊力である。『先代旧事本紀〔せんだいくじほんぎ〕』によれば「ひふみの祓」を唱えながら十種神宝を振り動かせば、死者も生き返るほどの霊力があるとされる(参照「十種大祓」)。
さらに布都斯魂大神は、素盞嗚尊〔すさのおのみこと〕が八岐大蛇〔やまたのおろち〕を退治した天十握剣〔あめのとつかのつるぎ〕の威霊であり、布都御魂大神・布留御魂大神・布都斯魂大神を石上大神〔いそのかみのおおかみ〕と総称する。
石上神宮の天神庫〔あめのほくら〕には、各氏族や朝廷の莫大な武器や神宝が保管されていたとされる。延暦13年(794)桓武天皇の命によって石上神宮の神宝を平安京へ移すことになった。この時、石川吉備人は運搬に必要な人数を15万7千人余と答えたという。
平安以降も朝野の崇敬篤く、貞観9年(867)には神階正一位に進んだ。延喜式では「石上坐布都御魂神社 名神大」と記され、月次・相嘗・新嘗の官幣に預かった。永保元年(1081)には白河天皇が宮中の神嘉殿〔しんかでん〕を寄進し、拝殿とした。二十二社の制では中七社に列す。
中世には実質的な大和国守護となった興福寺が勢力を拡大し、石上神宮もその勢力下に入った(石上神宮の神宮寺である内山永久寺は興福寺大乗院に属していた)。これに対抗して、石上神宮を中心とする布留郷〔ふるごう〕の氏人はしばしば興福寺の勢力と争った(布留郷一揆)。
活田の社/摂津武度郡の生田神社
日本書紀によれば、神功皇后凱旋の砌、紀伊の水門から難波へ向かったところ、海中で船が動かなくなった。そこで務古の水門〔むこのみなと〕に船を泊めて卜したところ、稚日女尊が「吾は活田長峡国〔いくたのながおのくに〕に居らむ」と託宣したので、海上五十狭茅〔うなかみのいそさち〕に祀らしめた。これが生田神社の創祀である。この時、同じく神誨によって天照皇大神の荒魂〔あらみたま〕が廣田神社、事代主神〔ことしろぬしのかみ〕が長田神社、住吉三神が住吉大社に祀られたとされ、特に廣田神社・長田神社とは関係が深い。稚日女尊は「若々しい日の女神」の意味で、天照皇大神ご自身であるとも、妹あるいは御子であるともされる。生田神社では、天照皇大神のご幼名とする。
竜田の社/大和生駒の龍田神社
はなふちの社/宮城県宮城郡七ヶ浜町の鼻節神社(はなぶしじんじゃ)/松島湾と仙台湾を分ける七ヶ浜半島の東端、仙台湾側に面した垂水山(たるみやま)に鎮座している。猿田彦命を祭神として祀っており、海上安全の神徳により航路の守り神として信仰されている。
はなふちの社(波奈不知神社」)/宮城県宮城郡七ヶ浜町の鼻節神社(はなぶしじんじゃ)
松島湾と仙台湾を分ける七ヶ浜半島の東端、仙台湾側に面した垂水山(たるみやま)に鎮座している。『延喜式神名帳』に名神大社として記載されている式内社で、猿田彦命を祭神として祀っており、海上安全の神徳により航路の守り神として信仰されている。
美久理の社/(不明)
1 越後國沼垂郡の美久理神社、御祭神/菊理媛命 天照皇大神
新潟県新潟市にある。新潟駅の北東1Kmほどの沼垂東に鎮座。創祀年代は不詳。一説には、用明天皇の御宇(585頃)の創祀。もとは、沼垂町の王瀬山にあり、美久理神社といい、白山妙理権現と称したという。霊元天皇天和年中(1681頃)海嘯によって水に没し、下所島へ遷座。二十余年後、現在地に遷されたという。
2 越後國沼垂郡の美久理神社、御祭神/大國主大神
新潟県新発田市にある。新発田市の西に聳える二王子岳(1421m)の山裾というか中腹。二王子岳は飯豊山系の西に位置する信仰の山。明治の神仏分離までは、修験管掌で二王子権現と称し、「嶽の峯」「嶽の権現」とも呼ばれていたが、明治になって、大山祇神社と改称。現在は二王子神社となっている。神仏習合時代には、一王子に熊野権現、二王子に不動明王、三王子に蔵王権現、奥の院に大黒天と毘沙門天を祀っていた。社伝によると、役小角が二王子岳に詣で、上記の神仏を祀り、弟子に奉仕させて代々田貝村に住まわせたという。
杉の御社/奈良県桜井市の大神神社(おおみわじんじゃ)
大和国一宮で中世には二十二社の中七社のひとつとされた。旧社格は官幣大社(現・別表神社)。三輪明神、三輪神社とも呼ばれる。大物主大神(おおものぬしのおおかみ)を祀る。日本神話に記される創建の由諸や大和朝廷創始から存在する理由などから「日本最古の神社」と称されている。日本国内で最も古い神社のうちの1つであると考えられている。三輪山そのものを神体(神体山)として成立した神社であり、今日でも本殿をもたず、拝殿[1]から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。自然を崇拝するアニミズムの特色が認められるため、三輪山信仰は縄文か弥生にまで遡ると想像されている。拝殿奥にある三ツ鳥居は、明神鳥居3つを1つに組み合わせた特異な形式のものであるが、日本唯一のものではなく、他にも三ツ鳥居は存在する。
大神神社(おおみわじんじゃ)は、国のまほろばと称えられる大和の東南に位置する円錐形の秀麗な山、三輪山を御神体として、大物主神を祀る。
遠い神代の昔、大己貴神(おおなむちのかみ・大国主神(おおくにぬしのかみ)に同じ)が、 自らの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)を三輪山にお鎮めになり、大物主神(おおもの ぬしのかみ)の御名をもってお祀りされたのが当神社のはじまりであります。それ故に、本殿 は設けず拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し、三輪山を拝するという、原初の神祀りの様が伝えられて おり、我が国最古の神社であります。
大三輪之神(おおみわのかみ)として世に知られ、大神をおおみわと申し上げ、神様の中の大神様 として尊崇され、各時代を通じ、朝野の崇敬殊に篤く、延喜式内社・二十二社・官幣大社として最 高の待遇に預かり、無比のご神格がうかがわれます。
枕草子の杉の御社、すなわち奈良の三輪山の大神神社に代表されますように各地の神社の境内や周辺に大木が多く見られます。近くでは伊勢神宮・野登寺の巨木が有名です。
蟻通神社(ありとおしじんじゃ)
地元では「蟻通さん」と親しみをもって、呼ばれています。「紀貫之家集」「枕草子」などにも見られる古寺。かっては、熊野街道にそった、市場と安松の中間にあった。
蟻通伝説の伝わる神社
「蟻通伝説」が、蟻通神社の名前の由来ともなったと言います。しかし、江戸時代後期「中盛彬」と言う人が、異説を唱えています。これは、中国伝来の棄老伝説で、蟻通神社の名前の起こりは、熊野街道の「通りに在る」ところから来たとしています。さて、あなたは、どちらの説をとりますか?
社伝では、158年(孝元57)頃の創建。祭神は、大巳貴命(おおなむちのみこと)蟻通大明神で、七社の末寺をもつ。 社殿は、一間社春日造、桧皮葺、軒唐破風の様式。1669年(寛文9)建築当時の姿をしています。岡部侯献納の絵馬・三十六歌仙の額・慶長12年と刻まれた石灯籠・舞殿など、紀貫之ゆかりの、冠が淵や謡曲「蟻通」。 棄老ばなしの「蟻通伝説」があります。
紀貫之の歌
紀貫之の歌「かきくもりあやめも知らぬ大空に ありとほしをば思ふべしやは」
「有りと星」と「蟻通」をかけて詠んだもので、貫之が、乗馬したまま「蟻通さん」の前を通り過ぎようとすると急に、馬が暴れだし落馬します。このとき頭上の冠をとばし、そばの池に落ちます。このとき、非礼を感じて、知らぬとは言え、ご無礼をいたしました、お許しください、と歌を奉納したのが、この歌なのです。
蟻通伝説
蟻通神社の名前の由来ともなった伝説です。昔々、唐の国の大帝が、日本をかすめ取ろうと難題を仕掛けてきます。その一つに次のものがあります。
問、七曲りにくねった小さな管玉に、糸を通せ!
時の帝は、知恵者を呼びますが、答えが出ません。これらの難問に誰も答えることができずに、困りはてていると、ある中将が、答えを差し出します。すると、見事に答えているではありませんか。喜んだ帝が、ほうびを授けようと希望を聞くと、「 何もいりません。ただ、この答えは、私でなく、両親が考えたものです。どうか、老人たちの命を助けて欲しい」と申します。(この頃、帝の命で、うば捨て話のように、老人を殺して捨てる、棄老が行われていました。)親思いの息子が、帝の命にそむいて、年老いた両親を、ひそかにかくまっていたのでした。この年寄りの知恵で、日本が救われたと言うことです。これ以来、帝は、老人の大切さを知り、政治を改め、人々を大いに喜ばせます。やがて、中将の親を神として祭り、蟻通明神と名づけて奉ったということです。
この両親の知恵で解けた、その答えとは、「七曲の玉」の穴の片方に、「ミツ」つけて、もう一方の穴から「蟻」に糸をくくり、進ませます。「ミツ」を、目指して歩き出す蟻は、とうとう七曲をぬけてしまいます。こうして、糸を「七曲の管玉」に通すことができたのです。
ななわだに曲がれる玉の緒をぬきて ありどおしとも知らずやあらむ  
 

 

(二四五段)
せめておそろしきもの
夜鳴る神。近き隣に盗人の入りたる。わが住む所に入りたるは、唯物もおぼえねば、何とも知らず。
(二六〇段)
たふときもの
九條錫杖。念佛の囘向。
鳴る神(なるかみ)
かみなり。中世以前、雷は神が鳴らしているものとして「鳴る神」「厳つ霊」と呼ばれていたとされる。
動神之 音耳聞 巻向之 桧原山乎 今日見鶴鴨
よみ/鳴る神の、音のみ聞きし、巻向の、桧原(ひはら)の山を、今日見つるかも
作者/柿本人麻呂
意味/うわさにだけ聞いていた巻向の、桧原(ひはら)の山を、きょう見たのです。「鳴る神の」は「音に聞く」を導く枕詞です。「鳴る神」は、雷(かみなり)さまのことです。
天の原 ふみとどろかし 鳴る神も 思ふなかを さくるものかは
作者/詠み人知らず
意味/空を踏みとどろかし鳴っている雷でも、思い合っている我々二人の仲を引き離すことができるものか。
鳴神(なるかみ)
歌舞伎十八番の一。1684年に江戸中村座上演の「門松四天王」が原拠かといわれる。現在上演されているものは、津打半十郎ら合作で、1742年大坂大西芝居で初演された「雷神(なるかみ)不動北山桜」の四幕目が原典。能の「一角仙人」から取材し、朝廷に恨みをもつ鳴神上人が竜神を封じこめるが、雲の絶間姫の色香に迷い呪法が破れ雨が降るという筋。
北山奥に、永年の修業により神通力を身につけた、鳴神上人と呼ばれる高僧がいた。宮廷の処遇に不満を抱いた鳴神上人は、竜神を滝壷に閉じ込める。すっかり雨が降らなくなってしまい、人々は干ばつや飢饉で苦しめられていた。困った帝は、宮廷一美しい官女雲の絶間(たえま)姫を、鳴神上人のもとへ遣わす。雲の絶間姫は色気で上人を誘惑し、飲めぬ酒を飲ませ、泥酔し寝込んでいる間に滝に張った注連縄を切る。竜神が解き放たれるとたちまち落雷、めぐみの豪雨となる。目を覚ました上人は、騙されたと知るやいなや雷神と化して怒り狂う。  
九條錫杖経
修験者の必須の持ち物である錫杖の功徳を説いたものである。六輪・四輪・十二輪の別があり、菩薩道・声聞・縁覚の持ち物・・六波羅蜜・四諦・十二因縁を表す。修験者は六輪・・六波羅蜜に至ってはじめて具体的な行動を伴う修業法となっている。錫杖はしばしば神変大菩薩を象徴する「三味耶形」ともされている。
魔除をしたい時/錫杖は迷いをうち破るための武器であり、その音はあらゆるものを清めます。山で行ずる時などは決して欠かせません。迷わせる魔ものは外にあり、内にもあります。「過去の悟りも、現在の悟りも、未来の悟りもこの錫杖があればこそ」と説かれ、魔除けのご利益は強大です。何か気になるなあと思った時は、この経典のお力で曇りを払い除けてください。  
 

 

(二六八段)
神は松尾。八幡、この國の帝にておはしましけんこそいとめでたけれ。行幸などに、なぎの花の御輿に奉るなど、いとめでたし。大原野。賀茂は更なり。稻荷。春日いとめでたく覺えさせ給ふ。佐保殿などいふ名さへをかし。
平野はいたづらなる屋ありしを、「ここは何する所ぞ」と問ひしかば、「神輿宿」といひしもめでたし。嚴籬に蔦などの多くかかりて、紅葉のいろいろありし、秋にはあへずと、貫之が歌おもひ出でられて、つくづくと久しうたたれたりし。水分神いとをかし。
(二七六段)
きらきらしきもの
大將の御さきおひたる。孔雀經の御讀經。御修法は五大尊。
藏人式部丞。白馬の日、大路ねりたる。御齋會、左右衞門佐摺衣やりたる。季の御讀經。熾盛光の御修法。
松尾大社
京都市西京区にある神社である。式内社(名神大)、二十二社の一社で、旧社格は官幣大社。旧称松尾神社。
大山咋神と中津島姫命を祀る。中津島姫命は市杵島姫命の別名とされるが、異説もある。当社の背後の松尾山(223m)に古社地があり、山頂に近い大杉谷に磐座とされる巨石がある。5世紀ごろ、渡来人の秦氏が山城国一帯に居住し、松尾山の神(大山咋神)を氏神とした。大山咋神については、「古事記」に「亦の名は山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し、亦葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ」と記されており、古事記が編纂されたころには有力な神とされていたことがわかる。
大宝元年(701年)、勅命により秦忌寸都理(はたのいみきとり)が現在地に社殿を造営し、山頂附近の磐座から神霊を移し、娘を斎女として奉仕させた。以降、明治初期に神職の世襲が禁止されるまで、秦氏が当社の神職を務めた。
平安遷都により、皇城鎮護の神として崇敬されるようになり、「賀茂の厳神、松尾の猛神」と並び称された。「延喜式」では名神大社に列し、その後二十二社の一社ともなった。
佐保殿
(さほどの)奈良時代以来奈良郊外にあったとされる藤原北家当主の邸宅。平安時代に入ると、北家当主が藤氏長者・摂関家当主を兼ねるようになったため、その邸宅としての意味も有するようになった。
具体的な設立時期や場所については不明。「今昔物語集」(巻22)には「山階寺(興福寺)の西に佐保殿と云ふ所は、此の大臣(藤原北家の祖・藤原房前)の御家也」と記され、「拾芥抄」には藤原不比等・冬嗣の邸宅と説明されている(なお、不比等邸は現在の薬師寺とされている)。また大治4年11月13日(1129年)に佐保殿が焼失した際に藤原宗忠が「四百十余歳の藤原氏の霊所」が失われたことを嘆き(「中右記」)、また源師時も「藤氏長者累代の重閣なり」と記している(「長秋記」)。これらの記述から、奈良時代初期以後に、興福寺や春日大社の北西にあった佐保(現在の奈良県奈良市法蓮町付近)の地にて存在していた藤原北家の邸宅と推定されているが、確証となるものが存在していない。
平安時代に入ると、藤氏長者が代々所有するようになり、藤氏長者が興福寺や春日大社に参詣する際には佐保殿を宿舎として、ここで旅装を改めて衣装を整えて奈良に入った。また、それ以外の藤原氏の公卿や弁官が朝廷の使者など公務にて奈良に入る場合には佐保殿に附属した宿院を宿舎とした。佐保殿は藤氏長者が家司の中から任命した任命した執事別当(執事家司)がこれを管理していた。また、宿院は藤原氏一族の施設として氏院である勧学院の弁別当がこれを管理し、他姓の公卿や弁官が公務で奈良に入る時に佐保殿に立ち入る事は出来なかった。
更に佐保殿には藤原氏の大和国における出先機関としての役目を有しており、興福寺や春日大社の寺務・社務に関する業務や藤氏長者所有のものを含めた国内各地の荘園の管理を行い、佐保殿そのものもその施設の維持・修理を行うために周囲の田畑を支配下に置いて1つの荘園として機能することになった(修理料所)。このため、佐保殿(及び修理料所)は、藤氏長者の財産である殿下渡領の1つに加えられて代々の藤氏長者に継承されるものとされた。前述のように大治4年の火災で焼失したものの、遅くても藤原頼長が奈良訪問の際に佐保殿に宿泊した仁平元年(1151年)までには再建されていたことが知られている。その後も室町時代まで佐保殿とその修理料所は存続した。
ただし、室町時代末期の「大乗院寺社雑事記」文明10年10月17日(1478年)条には「宿院御所之旧跡」という文字が見られており、この段階では既に廃絶されていたことが知られている。
水分神
(みくまりのかみ)神道の神である。神名の通り、水の分配を司る神である。「くまり」は「配り(くばり)」の意で、水源地や水路の分水点などに祀られる。
日本神話では、神産みの段でハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメ両神の子として天水分神(あめのみくまりのかみ)・国水分神(くにのみくまりのかみ)が登場する。
水にかかわる神ということで祈雨の対象ともされ、また、田の神や、水源地に祀られるものは山の神とも結びついた。後に、「みくまり」が「みこもり(御子守)」と解され、子供の守護神、子授け・安産の神としても信仰されるようになった。  
孔雀明王経
「孔雀明王経」というのを簡単に説明すると、要するに病気を治すためのおまじないである。
もとはサンスクリットの経典「マハーマーユーリー・ヴィディヤーラージュニー(Mahāmāyūrī vidyārājñī)」というもので、それが漢訳されたものを「仏母大孔雀明王経」という。8世紀半ばに不空という僧侶が翻訳した。しかし「マハーマーユーリー」の訳はこれひとつにとどまらず、鳩摩羅什が訳した「孔雀王呪経」(4世紀後半?)、伽婆羅が訳した「孔雀王呪経」(6世紀初め)、義浄が訳した「仏説大孔雀呪王経」(705年)が存在する。そのほか孔雀明王の名を冠した経典はかなり多い。
もともとこの経典が編纂されたインドには数多くの毒蛇がおり、それらの毒によって死ぬことがかなり頻繁にあった。だから人々は毒蛇を敵視し、蛇をついばむ孔雀を蛇の天敵とみなして毒蛇に対する象徴とした。後4、5世紀ごろになると、ヒンドゥー教シャクティズム(女性の力を重視する)の影響を受け、仏教徒の間で孔雀が神格化されて孔雀明王という尊格が誕生した。孔雀のサンスクリットであるマユーラ(Mayūra)が女性化されてマーユーリーとなり、「偉大な」を意味するマハー(Mahā)が冠せられて大孔雀明王、また女性であることから仏母大孔雀明王と漢訳されるようになったのである。
孔雀明王の呪文はヴィディヤーラージュニー「呪文の女王」と呼ばれている。その内容は、ベースとなるのは一応は蛇による咬傷を癒すための呪文であるが、経典が完成したころにはすでにありとあらゆる病気を治癒するのに効能があると説かれるようになっていた。じっさい、経典中には当時知られている限りの無数の病名が挙げられている。また「仏説大孔雀呪王経」などはこの経典を読めば悪天を除去することができるとして、さらに「恐怖・怨敵・一切の厄難を除く」とさえされている。もはやどんな苦難に対してもこの孔雀明王経を読めば大丈夫、というわけである。
このようにして万能の膏薬となった「孔雀明王経」は密教四箇大法のひとつである「孔雀明王経法」という修法へと発展する。この修法は孔雀明王を本尊として天変地異・病魔退散などを祈祷するものである。日本では平安時代に盛んに行われ、東寺の長者(住職)と仁和寺宮(皇族出身の住職)のほかはおこなうことを許されなかった。
サンスクリット原典からの現代語訳は岩本裕「佛教聖典選 第七巻 密教経典」に収められている。なにやら恐ろしい響きのする経典であるが、実際に読んでみると病名と神名、そしてここに羅列されているような鬼神の名前が無駄に(?)羅列され、合間合間に長い陀羅尼がはさまれているだけのものである。孔雀明王経の漢訳諸種は「大正大蔵経 密教部二」に収められている。
各々のヤクシャが住んでいるところは実在する地名のようだが、それに関してはシルヴァン・レヴィによる古典的な研究がある。
五大明王
(ごだいみょうおう)仏教における信仰対象であり、密教特有の尊格である明王のうち、中心的役割を担う5名の明王を組み合わせたものである。本来は別個の尊格として起こった明王たちが、中心となる不動明王を元にして配置されたものである。
彫像、画像等では、不動明王が中心に位置し、東に降三世明王(ごうざんぜみょうおう)、南に軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)、西に大威徳明王、北に金剛夜叉明王を配する場合が多い。なお、この配置は真言宗に伝承される密教(東密)のものであり、天台宗に伝承される密教(台密)においては金剛夜叉明王の代わりに烏枢沙摩明王が五大明王の一尊として数えられる。
五大明王像は日本において盛んに造像されたが、中国でも若干の遺例を見ることができる。日本では、密教が平安時代前期に隆盛したことから、五壇法の本尊として五大明王が祀られた。日本における代表的な造像例としては、京都の東寺講堂に安置されている平安時代前半の像(国宝)が知られる。その造像は、講堂が創建された承和6年(839年)頃と推定されている。
熾盛光仏頂
(しじょうこうぶっちょう)梵名プラジュヴァローシュニーシャ(प्रज्वलोष्णीष [prajvaloSNiiSa])は、如来の肉髻を神格化した仏の一種、仏頂尊の一尊。三昧耶形は三股杵。種子はボローン (भ्रूं [bhruuM])。
その姿は「大聖妙吉祥菩薩説除災教令法輪」(大正新脩大蔵経)によれば、毛孔から光明を放ち、五仏冠(五智如来をデザインした冠)を着け、手は釈迦の様であるという。 この記述によれば装身具を着けた菩薩形であると考えられるが、実際の造形例では如来形のものも多い。醍醐寺所蔵の画像では、鉢と錫杖を持った如来形で頭部から火炎を放っている。
また、京都・青蓮院の本尊とされている画像では、白蓮華の中心に描いた種子ボロンと、その周囲を諸尊が取り囲む曼荼羅で表される。本来この種子は一字金輪仏頂を表したものであるが、一字金輪と熾盛光は同一視されているため、青蓮院ではこれを熾盛光如来と呼称している。種子で描くのは音声としてのボロンを現したもので、仏頂尊と呪文信仰との強い結びつきを反映している。
熾盛光仏頂は、その光明で九曜等の天体の悪神を折伏するとされ、その呪文として「消災妙吉祥陀羅尼」が知られる。天台宗では天変地異に際しての修法で本尊とされる。 前述の通り一字金輪仏頂と同一視されており、如来がその光明で天体神を折伏する姿が熾盛光、法輪で教令する姿が一字金輪であるとされる。
三昧耶形
(さんまやぎょう/さまやぎょう)密教に於いて、仏を表す象徴物の事。三形 (さんぎょう)とも略称する。
ちなみに三昧耶とはサンスクリットで「約束」、「契約」などを意味するサマヤ(samaya)から転じた言葉で、どの仏をどの象徴物で表すかが経典によって予め「取り決められている」事に由来する。
伝統的には如来や菩薩などの仏の本誓、即ち衆生を救済するために起こした誓願を示したものと定義されている。
多くの場合、各仏の持物がそのままその仏を象徴する三昧耶形となる。 例えば不動明王なら利剣(倶利伽羅剣)、聖観音なら蓮華、虚空蔵菩薩なら如意宝珠など。 また、通常持物を持たない如来の場合は特別の象徴物が三昧耶形とされる場合もあるが(大日如来が宝塔など)、印相を以て三昧耶形とする場合もある。
曼荼羅などの仏画では、仏の絵姿の代わりに三昧耶形で描く事も多い。よく知られている例としては、金剛界曼荼羅の三昧耶会と降三世三昧耶会がある。  
 
梁塵秘抄(りょうじんひしょう)

 

「梁塵秘抄口伝集」
古(いにしへ)より今にいたるまで、習ひ伝へたるうたあり。これを神楽(かぐら)催馬楽(さいばら)風俗(ふぞく)といふ。かぐらは天照おほん神の、天の岩戸をおし開かせたまひける代に始まり、催馬楽は、大蔵の省(つかさ)の国々の貢物おさめける民の口遊(くちずさみ)におこれり。是うちある事にはあらず。時の政よくもあしくもある事をなん。ほめそしりける。さいばらは、公わたくしのうるはしき遊楽のことのね琵琶の緒ふえの音につけて、わが国の調ともなせり。皆これ天地(あめつち)を動かし、荒ぶる神をなごめ、国をおさめ民をめぐむよたたてとす。風俗は調楽の内参、賀茂詣などにこれを用ゐらる。また臨時客にも古くはうたひけり。近くは絶へてうたはざるか。此の外に習ひ伝へたるうたあり。今様といふ。神哥、物様、田哥にいたるまで、ならひ多くしてその部ひろし。
用明天皇の御時、難波の宿館に、土師(はじ)の連(むらき)といふものありき。聲妙なるうたの上手にてありける。夜家にてうたをうたひけるに、屋のうへに附けてうたふものあり。あやしみて謡ひやめば、音もせず、又うたへば又つけてうたふに、驚きていでて見るに逃ぐる者あり。追ひてゆきてみければ、住吉の浦にはしりいでて、水に入りてうせにけり。これは、ケイ惑星(けいこくせい)の此哥をめでて、化しておはしけるとなん。聖徳太子の傳にみえたり。今様と申事のおこり。
大昔から現代まで、人が習い伝えてきた歌があって、神楽、催馬楽、風俗などという。神楽は、天照大神が天の岩戸におこもりになったとき、その扉を押し開かせてお出ましいただくよう歌われたもので、この事件がきっかけで始まったと伝えられる。催馬楽は、大蔵省に貢ぎ物をおさめにくる各国の民が、口々に歌いながら上洛してきたものが起源という。とくに珍しい理由があるわけではなく、世の事情が良くても悪くてもそれなりに起こることだが、実際には何かと毀誉褒貶を受けるものだ。催馬楽は、公式の宮廷行事であれ、貴族間の私的な遊びであれ、麗しい音楽の琴の音や琵琶の糸、笛の音を奏でるにつれて、わが国主流の音楽ジャンルになった。どの分野もみな、天地を動かし、荒ぶる神をなだめ、国を平和にして民に恵みをもたらす術となる。風俗は、調楽での参内や賀茂詣などに奏でられる。また、古くは、遠方から臨時の来訪があったときにも謡われた。最近は廃れ気味のようだが、もう謡われていないのだろうか。このほかにも習い伝えられた歌があって、これを今様という。神に捧げる神歌、いろいろな物事のありさまを歌う物様、豊穣を祈る田歌にいたるまで、例が多く題材は広い。
用明天皇の時代、難波の宿館の主で、土師の連という者がいた。声うつくしい歌の上手であったという。夜中、家中で歌っていたら、屋根の上から、一緒に合わせて歌う声が聞こえる。怪しんで歌いやめると、その声もとぎれる。また歌うとその声もついて歌ってくるので、驚いて出てみると、逃げてゆく者がいる。追って行ったところ、住吉の浦に走り出て、水に飛び込んで消えてしまった。これは、火星の神が彼の歌を愛して、化身となっていらっしゃったのだという。聖徳太子の本にそう書いてあった。これをもって、今様という歌謡の起こりとする。  
流行歌はいつごろからあったと思いますか、実は平安時代のころからあったんです。
平安時代のころは、流行歌のことを「今様(いまよう)」と言っていました。「新しい」という意味です。また、「ファッショナブル」という意味もあるんです。平安時代、流行歌を琵琶など当時のいろいろな楽器を使って歌う歌手がいました。しかも、ファッションについても、新しいもの、面白いもの、際立ったものをつけていたのです。今のアイドルや歌手と同じですね。
さあ、中世を迎えた日本の文化の変動を見てきた最後は、「梁塵秘抄」です。これは今様の歌謡曲集、つまり平安のポピュラーソングを記録した作品集なんです。「梁塵」とはまた難しい字ですね。どういう意味でしょうか? 
「梁」というのは、建築を支える横木、「はり」のことです。そこに「ちり」がたまる。むかし、中国にテノールかバリトンか、すごい歌手がいたんですね。パヴァロッティとか、ドミンゴみたいな人。歌うと、その響きで建物の梁の塵が動いて3日間、舞い続けたといいう。その故事にちなんだものです。つまり、「梁塵」というのはすばらしい歌のことをいうんですね。それをパッケージソフトにした。
この今様、すなわち、かっこよく、新しい、ニューウェーブ、ニューミュージックとしての歌謡を歌っていたのは、民衆であり、しかも遊女のような人がたくさん歌っていたのですが、これに注目したのが、なんと源平の争乱のまっただ中で画策した、あの後白河法皇だったのですね。「梁塵秘抄」は、法皇が編集した歌謡集なんです。
戦乱の世にありながら、後白河法皇は十代のころから今様に夢中でした。「今様を好みて怠る事なし。昼はひねもすうたひ暮し、夜はよもすがら唄ひ明さぬ夜はなかりき」と自ら「梁塵秘抄口伝」に書き残すほどだったのです。
この「今様」は、七五調で、これまでにない調べだったんです。日本の歌謡の記録は、「古事記」や「万葉集」が、全国の民謡や宴会の歌などを記したのが始まりですね。平安時代には、各地の神社で歌われた「神楽歌」や地方の民謡を宮廷風に洗練して歌った「風俗(ふぞく)」、それを中国の音階に合わせて歌曲とした「催馬楽(さいばら)」などが残されています。
ところが、律令体制が崩れ始めると、宮中の音楽家が、武家が支配している荘園や、自立し始めた村落に招かれて、地方の音楽や歌詞の指導を始めた。宮中の音楽が形を変えて広まっていくんです。これを受けて民衆の歌謡のリーダーとなっていったのが、村落の芸能、「田楽」を指導した田楽法師や、神楽を舞い唄う巫女からシンガー・ソングライターとなっていった白拍子(しらびょうし)です。この白拍子たちが唄い舞ったのが、「今様」でした。
歌と踊りができるエンターテナー、「白拍子」。それは、今の宝塚歌劇団のような男装の麗人だったんですね。このころ、最も格好のいい女性たちでした。金の立烏帽子をつけて、純白や朱の、あるいは目にも綾な織物の水干(すいかん)姿で、大和絵の桧扇を持ち、白鞘巻の太刀を下げて舞い踊ったんですね。
日本の社会とか文化を考える場合、「例」と「今」の二つの言葉で見るといいですね。「例」はこれまでどおり、従来のこと。「今」は従来を破ること。新しい。「今様」は、つまり、新しい音楽であり、新しい風俗であり、新しい文化だったんです。しかも身なりも白拍子。男振りをする変わった格好です。これに貴族も民衆も、武家も僧りょも夢中になっていったんですね。
今様を歌い踊った白拍子たちは可憐な男装でした。日本ではこのような男女の取り替えは、神聖な神の出現ともとらえられたんです。神聖な神に奉仕した巫女たちは、また、遊女でもあった。その遊女たちの今様に、時の最高権力者、後白河法皇がぞっこん惚れこんでしまったわけですね。最下層の遊女とトップの法皇が繋がる。これが日本文化のおもしろいところです。
今様を全国的に流行らせたのが、この遊女たちでした。当時、遊女はどこにいたかというと、各地の交通の要所にいたんです。中世は川や海の舟を使った交通が中心だったので、遊女たちは、港や宿場などに集まっていた。舟をねぐらとして西は博多から東は房総半島まで活動していた彼女たちによって、今様は全国に伝わり大ブレイクします。
その交通の要所の一つに、信州と関東への道の分岐点、伊勢湾につながる交通の拠点でもある岐阜県大垣市の青墓(あおはか)があります。この青墓の宿には諸国の芸能者が大勢集まっていた。ここから出た乙前(おとまえ)という遊女の歌と舞いが、都でも大評判をとります。
保元の乱の翌年、後白河法皇はすでに70歳を超えていたこの乙前の今様を聴いて大感動したんですね。なんとそれから10年以上、乙前に今様を習い続けた。そして乙前の死後、後白河法皇は、今様の唄い方と歌詞を残そうとして編集したのが、「梁塵秘抄」だったわけです。
今様を歌う白拍子たちは、覇を競う武家の棟梁たちも夢中になります。「平家物語」には平清盛が愛した、祇王(ぎおう)と仏御前という白拍子の哀感にあふれる話が載っている。平清盛に対抗した源義朝も、白拍子の常盤御前を妻にしました。その子、源義経もまた、静御前という白拍子を愛した。
静御前は、平氏滅亡の後、頼朝に追われて逃亡した義経と離ればなれになった。頼朝に捕らえられた静御前は、義経を思慕した歌を頼朝と北条政子の前で歌ったといいます。それを伝える「静御前の舞」が今でも鎌倉八幡宮で毎年奉納されているんですね。
後白河法皇、清盛、義経と、みんなこの白拍子がみせる新しい動向にほれていった。この「今様」には、大きく分けて3種類のテーマが歌われているんです。神仏への思いを歌った歌、流行を歌う歌、そして庶民の感情を歌う歌ですね。神仏を題材にしたものが一番多い。例えば、こんな歌があります。
「仏法弘(ひろ)むとて 天台麓に跡を 垂れおはします
光を和らげ 塵となし 東の宮とぞ 斎(いわ)れおはします」
これは、琵琶湖に臨んだ日吉大社の功徳を唄っているものです。仏法を広めようと、仏が日本人に親しい神に姿を変えて教えを説く。本来の仏教が光のように見えにくいので、塵になって分かりやすく説いてくださる、と言う意味です。このような仏が日本古来の神になって教えを説くことを「和光同塵」といいます。
2番目は、流行のものをあつかった歌。これがちょっとおもしろい。
「武者の好むもの 紺よ紅 山吹(やまぶき) 濃(こ)き蘇芳(すほう)
茜寄生樹(あかねほや)の摺(すり) 良き弓胡ぐい(やなぐい)
馬鞍(くら)太刀腰刀(こしがたな) 
鎧兜に 脇立(わきだて)籠手具(こてぐ)して」
まるで早口言葉みたいですね。これは当時の武者の好みを連ねた歌なんです。貴族が淡い色を好んだのに対して、武者たちは濃い色合い、目にもあざやかな紺や紅などの派手で目立つ色彩が好みだったんですね。
そして3つ目の大事なテーマが、人々の日常を歌ったもの。
「遊びをせんとや 生まれけむ 戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子どもの声聞けば 我が身さえこそ揺がるれ」
「梁塵秘抄」の中でも大変有名な歌です。遊ぶために生まれてきたのか、戯れるために生まれてきたのか、遊んでいる子供の声を聞くと、体じゅうがいとおしさで震えがくる。これは乱世の中、庶民の家庭で母が子を思う歌です。こういった内容を歌にした歌謡は、今までなかった。流行や人々の気持ちを歌う歌は、今様で初めて現れたわけです。
平安時代の最初のころでは、漢詩と和歌がまだ並列していました。次に女房たちが現れて物語などをつくり、平仮名が出現し、たいへんに流行しましたね。そして「方丈記」では、日本語というものの記述が変化してきた。
これらを言い直すと、貴族、公家とか、あるいは天皇が担っていた日本の文化が、「山家集」、「方丈記」では、個人の、自分の心の中に映ったものになり、また今様が民衆のものであったように、だいぶ変わってきたということです。平安時代が終わり、鎌倉時代を迎えると、ここから新しい鎌倉の感覚が出てくるのです。それは一言でいうと「リアリズム」というものでした。仏像が表情を持ったリアルな彫刻になり、似絵(にせえ)という写真のような絵画が出てきます。
貴族から武家へ、時代の担い手が変わるとともに、人々の感覚も平安王朝のベールの優美さを脱ぎ捨て、写実の芸術がもたらす迫真の像を求めていくわけです。このように時代の変化は文化のありようと関係している。それも一様ではなく、力を担う階層の変化や国際的な状況など、そのときどきのバイアスが相互に組み合わされているんです。こういった表現と時代の関係を読み解くことは、現代を考えるときにも大きなヒントになっていくんですね。
「梁塵秘抄口伝集」
平安末期、後白河院が執筆・編纂した「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」という歌謡集がある。今様と呼ばれる当時の流行歌の歌詞を集めたソング・ブックが「梁塵秘抄」であり、今様の伝授・歌謡史・音楽批評の書として、「私の芸能人生」的な自叙伝をベースに、後白河院自身が執筆したのが「梁塵秘抄口伝集(りょうじんひしょうくでんしゅう)」である。双方とも数十巻にのぼる膨大な書物だったと推測されているが、戦乱やときの流れによって大半が散逸してしまい、わずかに、以下の六巻と一部のみ残存の二巻、あわせて八巻のみが現時点で確認されている。
このうち、「梁塵秘抄」のほうは、歴代多くの学者たちに言及されてきたので、比較的早くから存在が知られていた。近くは、芥川龍之介や北原白秋などの文人たちに愛好・研究され、作風に影響を与えたともいわれている。一方、「梁塵秘抄口伝集」は、文体の妙がきわだち、明快で人の興をひくスタイルでつづられた書でありながら、音楽理論のあたりなどに、今日うかがい知ることのできない当時の音楽事情を色濃く反映していて、難解かつ研究困難な点があるせいか、今にいたるまで系統立った現代語訳すらないありさまです。
後白河院(諱・雅仁)
1127年9月11日(旧暦)、上皇鳥羽院の第四皇子として誕生。生母・待賢門院(鳥羽院中宮)。 13歳(以下、数え年表記)で元服と同時に結婚、17歳で一子をもうけるが妻に先立たれ、上臈・播磨局を寵愛。
政界の中枢から外れていたのをいいことに、十代から今様に親しむ。学問や和歌は放擲するが、天性パフォーマーで、元服の儀式では、複雑な進退作法を完璧にこなして宮廷人を驚嘆させたという。仏教音楽にも傾倒し、高僧を師に声明(しょうみょう=グレゴリウス聖歌の唱法に類似した感じに聞こえる)の修行をする。器楽ではとりわけ笛を得意とした。
第四皇子の呼称は通常「四の宮」であるが、今様に耽溺するあまり「今宮」と仇名され、「遊芸の親王」の名をほしいままにする。父・鳥羽院は「あれは帝位の器ではない」と苦りきったという。
異母弟・近衛院の死後、継母の美福門院の推挙によって、29歳で突然即位。おりしも、往年の名妓・乙前を今様の師に迎えるべく交渉中だったが、即位を不服とする崇徳院の挙兵によって、保元の乱起こり、やむなく中断。乱後に乙前を御所へ迎えとり、今様研鑽にはげむ。
宮廷に一大サロンを形成し今様三昧の日々を送るが、わずか二年半で突如退位。第一皇子二条帝に譲位し、上皇となって院政を行うが、またもや平治の乱起こる。このとき殺害された院の側近・信西入道は、当時随一の学者であったが、「梁塵秘抄」収録歌のうち、少なくとも数首の作詞者らしい。
1164年、38歳で、乱の敗者の没収財産や平清盛らの出資などをもとに、東山七条法住寺に広大な御所を造営し、蓮華王院(三十三間堂含む)などを建立。仏像彫刻や絵巻の製作にものめりこみ、天才絵師常磐源二光長や、画に秀でた廷臣藤原隆信らを厚遇。
上流公家、宮廷女房、廷臣、下級官女、楽人、遊女、傀儡(くぐつ=人形芝居、軽業、音楽などを生業とする芸人)など、階級・性別をこえて同好の士を集め、法住寺御所にて、百日、三百日、千日といった長期の今様コンサート、リサイタルを度々敢行。物見遊山につめかけた京洛の民を、侍が追い払うのを禁じ、御所の庭に入れて公開した。
1167年、41歳のとき、本格的に法住寺御所に移住。平清盛の義妹・小弁の君を寵愛し、女御とする(のちの建春門院)。1168-9年ごろ、長年の師であった遊女乙前が病に倒れる。心配のあまり自ら行幸し、病床で今様を歌って到達のほどを見せる。1169年、43歳で「梁塵秘抄口伝集」執筆に着手。乙前死去後の哀悼追慕の思いを記述。同年六月出家、法皇となる。法名は行真。毎年の熊野行幸、厳島行幸などをおこない、土地の巫女や遊女、傀儡などと交流、歌を集めてまわる。
1179年、53歳で、鹿ヶ谷の変にキレた平清盛のクーデターが起き、院政停止、鳥羽御所に幽閉される。ヒマになったのを幸いと、「梁塵秘抄」の執筆に着手。翌年院政を再開。なお、後白河院の側近信西入道は、院を「和漢の間、比類少なき暗主なり(世界でもめずらしいバカ帝)」と評したと伝えられるが、そんな後白河にも、二つの卓越した点があるとしていた。一つは、「一度決意したことは、周りの意見や状況がどうであろうとやってのける意志の強さ」、もう一つは、「聞いたことをたちどころに覚え、いつまでも忘れない卓抜した記憶力」である。これらの資質が、奇しくも、幽閉下にあっての膨大な歌謡集編纂という驚くべき作業を可能にしたのであろう。
1183年、藤原俊成に命じて「千載和歌集」を編集させるが、和歌はからっきし苦手なので、親王時代の作や代筆など四首を載せたのみでお茶を濁す。散文や作詞の才にくらべると、ギャグかと思うくらいヘタなのが印象的。この年、源平合戦起こり、平氏都落ちする。
1192年、66歳で死去。諡号・後白河天皇。后妃・女御だけでも20人近く、公認の子女は十数名。両刀使いでもあった。
「梁塵秘抄口伝集」からは、今様へのとりつかれたような情熱、詳細かつ体当たり的な描写が漂わせる独特のユーモア、第一人者の自信とともに、あくまで一表現者として(彼の出身階層からすれば驚くべきことに)謙虚ともいえる自己意識を保っていたことがうかがえる。ことに、出自不詳の年老いた一遊女・乙前を、その才能ゆえに師と仰ぎ、敬慕と親しみをこめて接する姿は印象深い。
階級間格差、都と地方の差、芸術ジャンル間の差異が厳格に定められていた時代、後白河という一人の表現者は、芸術の翼を得たことで、垣根のない大空を揚々と旋回するかに見える。
音楽活動、批評・保存活動の他に、アート・ディレクターとしても超一流で、手がけたジャンルはいたって幅広い。絢爛たる宮廷行事を描いた「年中行事絵巻」は、まさに王朝絵巻の白眉。「伴大納言絵巻」は、歴史事件に取材したミステリー仕立ての物語絵巻で、嬉々として飛びまわる都市民の躍動感、猥雑と喧噪、宮廷社会の苛酷、伴大納言の悲劇性、謎に満ちた事件性をダイナミックに描きだして余すところがない。「病草子」はスキャンダラスなスカトロ趣味、「餓鬼草子」はスプラッタ・ホラー。また、ウラ本としか言いようのない「小柴垣草子」には、自ら詞書き(=絵巻に書きこむ物語文のこと)を書いている。
ディレクター後白河院と、絵師常磐光長、藤原隆信らの超強力チームは、日本絵巻史上他に類を見ない空前絶後のアート・サークルであった。
 
山家集

 

世の中をそむきはてぬと云ひおかむ思ひしるべき人はなくとも
吉野山さくらが枝に雪ちりて花おそげなる年にもあるかな
わが涙しぐれの雨にたぐへばや紅葉の色の袖にまがへる
あくがるる心はさても山桜ちりなむ後や身にかへるべき
桜さく四方(よも)の山辺をかぬる間にのどかに花を見ぬ心地する
雨しのぐ身延の郷のかき柴に巣立はじむる鶯のこゑ
身を分けて見ぬ梢(こずゑ)なく尽(つく)さばやよろづの山の花の盛(さかり)を
鹿の音をかき根にこめて聞くのみか月もすみけり秋の山里
いかでかは散らであれとも思ふべき暫(しば)しと慕ふ情(なさけ)知れ花
鈴鹿山うき世をよそにふり捨てていかになり行く我が身なるらむ
もろともに我をも具してちりね花うき世をいとふ心ある身ぞ
緑なる松にかさなる白雪は柳のきぬを山におほへる
いとふ世も月澄(す)む秋になりぬれば長(なが)らへずばと思ふなるかな
ゆくへなく月に心の澄(す)みすみて果(はて)はいかにかならむとすらむ
竹の音も荻吹く風のすくなきにくはへて聞けばやさしかりけり
捨てし折の心をさらにあらためて見る世の人に別れ果てなむ
誰(たれ)来(き)なむ月の光に誘はれてと思ふに夜半の明けにけるかな
わか菜つむ野辺の霞ぞあはれなる昔を遠く隔つと思へば
花にそむ心のいかで残りけむ捨て果ててきと思ふわが身に
捨つとならばうき世を厭(いと)ふしるしあらむ我には曇れ秋の夜の月
心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)たつ沢の秋の夕暮
世の中を捨てて捨て得ぬ心地して都はなれぬ我が身なりけり
さびしさに堪へたる人のまたもあれな庵(いほり)並べむ冬の山里
年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり佐夜(さや)の中山
捨てたれどかくれて住まぬ人になれば猶(なほ)世にあるに似たるなりけり
願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ  
山家集・西行の生き方
西行は平清盛と同じ1118年に、京の武官の家に生まれたんですね。平清盛と西行、まったく違った生き方をした二人ですが、その若き日の二人は、武士として実はたいへんよく似た道を歩んだんです。
西行はもともとの名前を佐藤義清といいます。平将門を討伐した俵藤太秀郷の子孫でした。代々、今の和歌山県に荘園を経営し、宮廷では京都の治安を守る検非違使の武官を勤めた家柄です。18歳のときに義清は、鳥羽上皇の親衛隊である北面の武士に選ばれたんですね。以前お話ししたように当時のたいへんなエリートコースです。ところが義清は、23歳の時に、この前途洋々たるコースを突如として捨ててしまう。武士を辞めてしまうんです。
義清は武士の栄達の道を捨て、出家の決心をしたんですね。その決心は固く、世間への思いを断ち切るために、娘を足蹴にして家を出たなどといわれているほどです。出家の原因には、親しい者の死や自身の悲しい恋、あるいは親しく崇徳上皇らが不遇に追いやられるのを目の当たりにしたためと、さまざまに言い伝えがあります。
義清は勝持寺に入り、僧となって「西行」と名乗ると、嵯峨や鞍馬など京の近くの山々を転々とするんですね。このころ人里離れた野や山には、摂関家から上皇、そして平氏や源氏と、目まぐるしく権力者が交代する世に無常を感じて、出家をして俗世を離れる人々が次々と現れていたんですね。西行もまた、その一人となった。出家というのは、仏門に入って毎日念仏を唱え、そして心を清めようとすることです。
その時に西行が選んだ次の生き方は、「歌と旅」だったんですね。「花」、「月」、「風」、「鳥」、「水」という自然の中に自分を置き、心を澄ましていく。ようするに執着(しゅうじゃく)、こだわりを捨てようとしたのです。このように歌をつくりながら、旅に生きる人生のように、好きなことをして生きていくことを「数寄」ともいいます。「数寄屋造」の「数寄」ですね。西行の旅、歌は「数寄の遁世(とんぜい)」ともいいます。「遁世」というのは「世を捨てる」ということです。世間を捨てる。
そういう遁世者には、世の外に出て、世の中を見る目が養われてきます。西行は、そのような外からの視線で世の中を見ようとする。出家後、桜で有名な吉野山を訪れた西行がこんな歌を詠みます。
「花に染む 心のいかで残りけん すてはててきと 思う我が身に」
出家して世を捨てたばかりなのに、どうしてこんなに桜の花に魅惑されるんだろうか、という意味ですね。
もうひとつ、こんな歌も歌っています。
「世の中を夢と見る見る はかなくも なほ驚かぬわが心かな」
「世の中ははかないものである。はかなくたって驚かない。それは当たり前なのだ。夢と浮世は境をなくしている」。西行はそういうふうに見定めていた。それでももう私の心は驚かない、こだわりは捨てている、という歌ですね。この西行の生き方は、のちのち日本人に大きな影響を与えたんです。それは日本の文化の一つの骨格をつくりました。江戸時代、松尾芭蕉が「奥の細道」を歩いたのも、この西行を慕ってのことだったのですね。
京の山奥にこもった西行は、伊勢などを訪れながらも、やがて高野山に移り、仮住まいの庵を本拠とするようになります。祈りと和歌づくり、そして行脚の日々に生き始めた西行が30代になったころ、和歌の面影を求めて、人生最初の長旅に向かいます。それが都から遠く離れた陸奥への旅でした。
西行の最初の長旅は、陸奥の歌枕の地を巡るものでした。
歌枕とはなにか、知っていますか?
万葉集以来の古い歌が詠まれた土地の名前や景色を言うんですね。歌枕は、「吉野」と言えば「桜」で、「竜田川」と言えば「紅葉」というように、連想される言葉をもったキーワードであり、その景色にひそむ物語が取り出せるデータベースでもあるんです。そのため、歌枕は絵画の画題になり、着物の文様にもなっていきます。
また、歌枕の地を訪れ、その景色に触れることは、古い歌とともにそれを詠んだ歌人の人生をよみがえらせることでもあった。西行はかつて歌枕を巡って全国を旅した平安中期の歌人・能因(のういん)法師、あるいは陸奥の歌で都人を感動させた藤原実方(さねかた)らの足跡をたどって、陸奥に向かったんです。
陸奥の入り口、白河の関を訪れた西行には、まず能因法師のこんな和歌が脳裏に浮かぶんですね。
「都をば 霞とともに たちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関」
西行はそのイメージを引き継いで、こう歌を詠んだ。
「白河の 関屋を月の 漏るかげは 人の心を とむるなりけり」
白河の関では月の光に能因法師の心がとどまっているようだ、と歌ったんです。
今でも旅行で史跡に行くと、そこの景色にある物語を知ろうとしますね。実はこんな旅先の光景の見方をするのは、歌枕を巡る伝統がある日本人ならではなんですね。
西行は陸奥という、いわば究極の外に向かったように、世間から離れ、戦乱から離れて自分の心を静めていく。このような西行の気持ちが、歌集「山家集」にたくさん残っていますが、こういうものを「風月を友にして」と言います。風と月を友にして自分の日々を送っていくんです。でも、この西行の生き方がだんだん注目されていったんです。
また、ちょっと意外なところで西行の力が発揮したりもしています。高野山で修行していた西行が書いた書状が今も残されていて、そこには、西行が高野山に命じられた木材の拠出を時の実力者・平清盛に頼んで免除してもらったことが記されている。つまり、西行は北面の武士時代の人脈を生かして、高野山の苦しい経済を助けたんですね。
西行には一方で、戦乱に亡くなった魂を鎮める修験者としての顔があります。西行が高野山に住みなれたころに、保元の乱と平治の乱が立て続けに起こった。乱の後、50代の西行は、中国、四国を巡る2度目の長旅に出るんですね。旅の目的は保元の乱で敗れ、讃岐に流されて亡くなった崇徳上皇の霊を慰めるためでした。そして、今の香川県坂出市にある白峰で、荒れ果てた上皇の墓を発見して、あつく弔います。西行はそのとき
「よしや君 むかしの玉の床とても かからんあとは 何をかはせん」
と詠んでいる。かつては豪華な寝床に伏した方が、今は荒れ果てた墓に眠っておられる。こうなったからには、仏の導きに従ってください、と、その魂をなぐさめている。
さらに西行は、平氏が滅亡した壇ノ浦合戦の翌1186年、70歳になろうという時に、最後の長旅に出ます。平氏が焼き払った東大寺の復興に立ち上がった僧・重源(ちょうげん)の求めで、資金や材料の寄付を集めるため、東国に向かったんですね。関東の源頼朝、奥州の藤原秀衡を尋ねながら、西行はこの晩年の旅でも、源平の争乱に敗れた人々の霊魂を弔ったんです。
西行には花の歌が多かった。当時は花といえば桜ですが、230首くらいありますね。そのほか、月の歌、鳥の歌も多い。西行は常に雪月花、花鳥風月というものを旅の中で歌いました。これらには何か共通するものがありますね。そう、すべては変化するもの、うつろうもの。花は散っていく、水は流れていく、鳥は飛び去る、風は吹き抜ける、月は満ち欠けをする。
こんな歌があります。
「春風の 花を散らすと 見る夢は さめても胸の さわぐなりけり」
花が散ってしまって、自分がみた夢がどこに行ったかわからないのにまだ胸騒ぎがする。何もないかもしれないような、そういうものに西行は心を託したわけですね。西行は現実も夢もその境を区別しなかった。だからこそ、源平の争乱の後、現実の苦難を顧みず、死者の霊を慰めようとして武者が引き起こす戦乱の悲惨を引き受けていったのです。
陸奥から戻った西行は1190年、河内の弘川寺(ひろかわでら)で73歳で亡くなりました。以前、西行は
「願はくば 花の下にて われ死なん その如月の望月のころ」
と歌っていたんですね。その歌の通り、ちょうど如月の満月のころの旧暦2月16日、春の桜の下で、花月を友とした西行は、亡くなっていったのです。
西行と無常観

 

「方丈記」や「平家物語」などの日本の中世文芸が、いわゆる無常観の受容や表出においてピークとなるなかで、13世紀後半の仏教説話集「撰集抄」も、著名な平安末期の歌僧西行を語り手として、きわめて詠嘆的・情緒的な無常観を表していたが、見逃せないのは、そこにはすぐれて歴史的・政治的な現実をふまえた無常へのまなざしが介在したことである。その特徴とは、例えば天竺の祇園精舎などの荒廃を目の当たりにした玄奘説話(巻6第1)の後半に、同じく渡天を志して虎に食われた高岳親王の話を配した上、薬子の変で廃太子となった彼の前歴に基づき、「あにはかりきや、錦のしとねを出て、飾りをおろすべしとは。かけても思はましや、他国のおどろが下に骨をさらすべとは。これ世の中の定めなくはかなき例なるべし。」と、天竺の仏法衰退という当初の主題から逸脱して、語り手に述懐させたところに窺えるものである。これに続く同第2話も、皇子に恵まれなかった後冷泉院とその后の同日死去の話題をはじめ、替わって即位し遅い春の悦びを味わった後三条院もわずかその六年後に死去、その後三条院と対立した摂関家の藤原頼通・教通もまた相次いで没したという話を物語る。高位者・権力者の死や不遇を無常の例とするのは常套ではあるけれど、「撰集抄」はむしろ王法世界の中心にいた人々の無常(以下「王法の無常」)そのものを凝視したと観察される。とくに第2話の内容は、ほぼ史実通りではあるものの、後冷泉院の后(後一条内親王章子、頼通の娘寛子、教通の娘歓子ら)の死が事実確認できない、というその一方で、後三条院・頼通・教通の三年連続の死に関しては、さらに道長時代の摂関家の栄華をもたらした上東門院彰子が、頼通と同じ年に死亡したという事実も加わるはずが、それは省略されたことになる。皇位継承問題を中心に、摂関期から院政期に向かう複雑な政治情況を相対化する意図のあったことは、そこに明らかだろう。
そのほか七条皇后(巻1第4)、後冷泉院(巻4第5、史実は後一条院)、待賢門院(巻5第6)、郁芳門院(巻6第11)、近衛院(同第12)という多くの皇室関係者の死を取り上げ、それに随った縁者の遁世説話を語る「撰集抄」は、待賢門院の例(実際は落飾に随った女房の遁世)が示唆するように、自らの主題としての遁世を「王法の無常」に対置させながら、それを超克するものとして意味づけたのではないか。そう考えられる最大の理由は、同趣に創作された真誉(巻2第2)と覚英(巻9第11)の説話において、鳥羽院第八皇子とされる前者は近衛院や崇徳院に、藤原忠実の弟とされる後者は忠実の子忠通・頼長らに、それぞれ重ね合わされることで、二人の遁世・往生の意義が保元の乱をめぐる「王法の無常」との鮮やかなコントラストにおいて導かれる点にある。
そのような趣向を発想する拠点が、讃岐白峯にある崇徳院の墓に詣でた西行が、その荒涼たる様子を見て盛衰の転変を歎き、あらためて保元の乱での崇徳院や頼長の無惨な姿を回想的に語る説話(巻1第7)にあったことは、いうまでもない。そこで強調されるのは、西行がそれらの無常を実際に目撃したという事実である。歴史の証言者のようなその位置づけにこそ、語り手が西行であることの必然性も保障されるに違いない。その意味では、「撰集抄」の「王法の無常」へのまなざしも、実在の西行にまで遡れるように思われる。そもそも、保元の乱に関する西行の問題意識がいかに尖鋭であったかは、晩年の「宮河歌合」の32番で、鳥羽院(1156年没)葬送歌の「道かはるみゆきかなしきこよひかなかぎりのたびとみるにつけても」と、崇徳院(1164年没)追悼歌の「松山の浪にながれてこし舟のやがてむなしくなりにけるかな」を番えたところに察知できる。むろん崇徳院個人に対しても、「山家集」関連歌群が示す通り、極めて緊密な関わりをもっていた。とくに「撰集抄」にも引かれる「よしや君昔の玉のゆかとてもかからん後は何にかはせむ」(「山家集」1355)という、叱責するような和歌に感じ取られる「導師としての威厳」は、まさに「王法の無常」の語り手にふさわしいものであった。
もっぱら和歌というメディアの特性に負うていたとはいえ、その導師西行の実現にとって、彼がいわゆる善知識を常態としてつとめたことの意味も大きい。その対象は、同行の遁世者だけでなく、生前の崇徳院をはじめ、藤原成通、源雅定、藤原公能、待賢門院の女房たちなど、貴顕やその周辺に及んだことが知られるが、それと関連して注目したいのは、西行には墓所や葬送に関する和歌が比較的多く、しかも皇室関係のそれが少なくないことである。前掲の鳥羽院葬送歌や崇徳院墓参詣歌のほか、近衛院(1155年没)墓で詠んだ「みがかれし玉のすみかを露深き野辺にうつして見るぞ悲しき」(「山家集」781)、二条院(1165年没)五十日供養の墓で詠んだ「こよひ君死出の山路の月を見て雲の上をや思ひ出づらん」(同792)などがあり、いずれも生前の宮中生活との懸隔をモチーフとする。そこに「王法の無常」を凝視する萌しがありはしないか。さらに一連の待賢門院(1145年没)追悼歌や美福門院(1160年没)高野山納骨の歌などを含めて見ると、少なくとも西行が積極的に彼らの生死の無常に関わろうとしたことがわかる。その志向性は、無常に関する西行和歌の特徴の一つとして、「死にて伏さん苔のむしろを思ふよりかねてしらるる岩陰の露」(「山家集」850)などに見出される「死の意識」の表出と無関係ではなかろう。墓所や葬送の現場に立ち会うという、死の領域との交渉を重ねることで、西行は自らの無常観をすぐれて歴史的リアリティのあるものに差別化したのではなかったか。
思えば、西行が讃岐白峯に赴いたのは仁安三年(1168年)のこと。なぜ崇徳院生前の訪問ではなく死後の墓参であったのか。その事情に関しては、怨霊・鎮魂のことばかりが強調されるが、上記のような西行の志向性からとらえ直すこともできるように思われる。  
 
「今昔物語集」の地獄・冥界説話に関する考察

 

一、はじめに 
「地獄」という概念は仏教東漸に伴って、日本に伝わってきた用語である。元来、「地獄」はサンスクリット語のNaraka(奈落迦)、あるいはNiraya(泥梨耶)の意訳語で、「苦の世界」を意味する。後漢・安世高訳『佛説十八泥梨経』が始終「泥梨」を用いて、「地獄」を使わなかった。
佛言。人生見日少。不見日多。善惡之變。不相類。侮父母。犯天子。死入泥犁。中有深淺。火泥犁有八。寒泥犁有十。入地半以下火泥犁。天地際者寒泥犁。
「地獄」といえば、まず、熱地獄と寒地獄とを想起するが、その場所は諸経によって異なる。地獄の考え方としてもっとも整理されたと言われるのは『大毘婆沙論』であり、その位置は贍部洲(閻浮提ともいう)の下、四万踰繕那(由旬ともいう。由旬はインドの距離単位で、1由旬は7マイル、また9マイルという)の所に無間地獄の上にあるという。無間地獄は最底部にあって、等活地獄、黒縄地獄、衆合地獄、叫喚地獄、大叫喚地獄、炎熱地獄、大炎熱地獄など七地獄を支えている。その地獄は縦横高さ共に二万踰繕那の立方体である。 そのほか、小地獄と孤地獄が経典でも言及されているが、普通罪業のために堕ちるところは八熱地獄(或は八大地獄)であろう。
古代日本人は死んだ人が黄泉の国へ行って、永久にそこにいると信じていたらしい。「黄泉」という言葉は中国から伝来して、地下世界のイメ―ジを表す。『左伝・隠公元年』に「不及黄泉、無相見也」という表現が見られる。日本における黄泉国を訪れる物語の初例は『古事記』に出ている。伊耶那美神は火の神を産んだため、死んでしまったが、その後、伊耶那岐神が妻の伊耶那美神に会いたいと思って、黄泉国に追って行った。
「地獄」という一つの観念として何時から、また、どういうふうに受け入れられたのか、非常に解明しがたい問題である。日本で仏教が私伝と公伝の二つの経路を経て、徐徐に広がっていった。草堂仏教時期から伽藍仏教時期に入って、僧尼制度を建て、仏教儀礼が行われるようになると、仏教の教理や知識が身につくようになった。奈良時代には、六道思想と共に地獄という言葉がある程度受け入れられ、僧人の著述や願文などに散見した。殊に十一面悔過の行われていた東大寺二月堂には十一面観音像がある。その観音像の光背に地獄変相図が見られることによって、六道輪廻の考えがかなりしっかり植えつけられていた可能性が窺われる。地獄観念に対する理解の成熟はやはり平安時代に入ってからのことであろう。当時の宮中行事仏名会をはじめ、『仏名経』の読誦や多くの地獄屏風と地獄絵の作成など、貴族社会に地獄思想の影響がかなり大きかった。ことに地獄理解の高まりは浄土信仰と深く関わっていて、その観念の定着にもっとも大きく寄与したものは源信の『往生要集』である。
『往生要集』は源信が念仏を勧めたために、極楽往生に係わる種々の問題を整理して書いた書物である。その中で地獄に関する内容が極めて詳しい。八大地獄は次の順番である。
(1)等活地獄――十六別所の付属小地獄がある。
(2)黒縄地獄――十六別所の小地獄が付属している。
(3)衆合地獄――十六別所の小地獄が付属している。
(4)叫喚地獄――十六別所の小地獄が付属している。
(5)大叫喚地獄(別所の小地獄無)
(6)焦熱地獄――十六別所の小地獄が付属している。
(7)大焦熱地獄――十六別所の小地獄が付属している。
(8)阿鼻地獄――十六別所の小地獄が付属している。
このように一々の地獄について、その位置、大きさ、あるいはその地獄の名の苦相との関連や縁由、さらには地獄での寿命や罪人の生前の罪業といった事柄を明らかにした上で、さらにその地獄とこれに付属する「別所」(小地獄のこと、また隔子ともいう)との苦相に及んでいる。『往生要集』の説く地獄は日本人が最初に整理した地獄観念であり、当時の貴族社会に多大の影響を与えた。
『往生要集』より早く『日本国現報善悪霊異記』(以下『霊異記』と略称する)は仏教の地獄観念からはずれた地獄像を描いている。撰者景戒は個人的意図によってこの本を撰述した。その撰述の意図は上巻に附く序文にはっきり記しているように「昔漢地に冥報記を造り、大唐国に般若験記を作りき。何ぞ、唯他国の伝録に慎みて、自土の奇事を信け恐り弗らむや」といい、また、「忍び寝むこと得不。居て心に思ふに、黙然ること能は不るが故に」あえて『霊異記』を撰述するに至った。
景戒にとって、善悪応報はただ死後に受けることではなく、「影の形に随ふが如く」直ちにその果報を受けるのだ。現報というのは『冥報記』から得た言い方で、善悪の業によって現世にいる間に果報を受けることがあると説く。
当時の現実に対する憤懣を抱いていた景戒が現世の地獄相を書いた。たとえば、『今昔物語集』(以下『今昔』と省略する)の典拠となる『霊異記』中巻「常に鳥の卵を煮て食ひて現に悪死の報を得る縁第十」の話は、現世に地獄の存ずることを書いた。その敷衍は仏典に書かれている地獄より、日本的な社会風俗を如実に描写しょうとして、新たな地獄への理解を見せた。
以上『今昔』成立以前に成り立った地獄への理解であるが、この基盤に立って、『今昔』に説かれた地獄・冥界を考察したいと思う。 
二、『今昔』に見られる地獄・冥界の世界 
(一) 『今昔』の地獄・冥界に関わる先行研究
『今昔』に関する広い研究範囲のなかで、その地獄・冥界の様相を一つの考察対像として取り扱う前例はない。ただし、この説話集の編撰意図によって、天竺、震旦、本朝の各部はさまざまな経典や典籍から説話の素材を取得し、また一定の順列にしたがって組み立てられたので、出典の研究は基本的な作業としなければならなかった。出典における研究は早く狩谷棭斎、伴直方と木村正辞等によって行われていたが、のちに岡本保孝が棭斎等三人の研究をまとめて、『今昔物語出典考』を編著して、後に芳賀矢一氏の『考証今昔物語集』の有力な第一資料となった。 昭和十年代後半に片寄正義氏が『今昔物語集の研究』を著して、部分的に補正をしたが、芳賀氏の学統に続いた認識であった。この研究に基づいて、山田孝雄氏等がテキスト『今昔物語集』(岩波古典文学大系本)を校訂して、各説話の出典や同話と類話の拠った書類も明記した。このテキストより岩波新大系『今昔物語集』は出典考証にまた絶大な努力を発揮して、新たな増補と改訂を加えた。特に天竺部説話の出典について、旧大系本のと比べて見れば、その増補や修正が多かった。それは『今昔』説話の出典を見直すべき理由があったからである。今野達氏が新日本古典文学大系『今昔物語集』の「解説」の中でこう指摘している。
「今昔は漢訳仏教経典多数を含む和漢の仏書から、経書、史書、諸子、詩文小説等の漢籍、史伝、歌集、物語、説話集、随筆等の和書に至る、広範にして厖大な文献に取材し、さらに典拠不明の説話の多くは口承説話を採録したもの、とする通念である……しかし戦後新しく出直した出典研究と収載話の伝承史的研究はそれまでの通念を大きく訂正していった。今昔の編集に、従来考えられていたほどの厖大な文献が利用されていないことがはっきりしたもので、それは特に天竺部・震旦部においては決定的であった。」
本論は上記した出典研究の成果を参考して、『今昔』に見られる地獄・冥界説話を検討することにした。その他、『今昔』成立の時代、またその前後の時代にできた地獄思想と関連する説話集や仏書なども見捨てることなく考慮した。たとえば、日本において、地獄思想の展開を論じた石田瑞麿氏の『日本人と地獄』は『往生要集』、『今昔』及び『本朝法華験記』などに反映された地獄・冥界への理解を説いた。また、速水侑氏が歴史的な立場に立って、『往生要集』が貴族社会を通して、地獄観念の広がりが遂げたと論じている。
『今昔』と『三宝感応要略録』(以下『三宝』と省略する)、『冥報記』、『霊異記』との係わりについて片寄正義氏の『今昔物語集の研究』が詳しく論じた。また、『霊異記』に記している地獄・冥界について入部正純が『日本霊異記の思想』によって論説した。 続いて、震旦部に関わる問題として、まず、泰山(大山、太山とも書く)府君に関する研究は従来道教の影響だといわれてきた。この問題についてまず挙げられるのは岡本三郎氏の『泰山府君の由来について』の論である。 沢田瑞穂氏の『地獄変』 が仏教地獄観と道教冥界観はどう結ばれたかを追究した。また、台湾の学者蕭登福氏が仏教経典に取り入れられた道教思想、玄学思想及び儒教思想を検討して、仏教の中国での本土化現象を論じた。 地獄における総合的研究成果について、岩本裕氏の『地獄めぐりの文学』を挙げられる。 
(二) 『今昔』の地獄・冥界を検討する意図
今まで『今昔』に書かれた地獄・冥界の世界は問題とされなかった。思うにこのテーマは『霊異記』や『往生要集』等の作品にとって明らかな問題点になるかも分からない。『霊異記』の場合、その各巻の序文に示されたように、景戒は末法時代の変乱に深く悩まされて、殊に僧として、世に多く見られていた様々な貪欲、殺生、仏法や僧侶を謗ることなど、信仰のこころがなく、悪業を積み重ねて生きていた人間の愚かさに憂鬱を感じていたようである。この苛烈な現実に対して、彼は善悪の業に異なる果報を説きながら、自分の強い信仰を主張した。そのゆえ、現報という題目で百十六個説話を綴った。現報とは、善業であれ、悪業であれ、来世で果報を受けるのではなく、この世で直ちにその果報をうけるとの考え方である。まさに上巻の序に示しているように「善悪の報いは影の形に随ふが如し」。とは言え、他界のできごとについても説いていた。悪業の所為に罰を与えた場処として、地獄や閻魔大王の宮殿が描かれる。
しかし、『今昔』の場合は撰者が一つの主題にこだわらず、仏教発展の時間順序に従って、三部を分けて、その構成の中でまた類聚的に説話を分類する。だが、『今昔』において、地獄・冥界に関する説話が三宝霊験譚や善悪応報説話等に潜んでいるもう一つの面影があろうといわねばならない。そもそも、仏教説話の性格の一つは仏教的論理に基づいて、因果応報の実例を語ることである。仏教の世界観には天界と地獄の極端的対立的存在は善悪応報の果てと看做される。善根により功徳を積んだ人間は六道輪廻から脱出することができる。しかし、罪業の深い人は三悪道に堕ちてゆく。三悪道の中で、もっとも恐ろしいのは地獄の世界で、多くの仏典には地獄の存在やその具体的な様子を多彩に示している。
『今昔』の場合は地獄・冥界を語る説話の数はそんなに多くはないと思うかも知れないが、天竺、震旦、本朝三部の配分、また各部に説かれている異質な地獄・冥界説話を無視することはできない。それらの問題は編纂者の編纂意図に大きく関わっていると思う。本論は『今昔』において、その地獄・冥界の世界はどういうふうに説かれていることを考察してみたいと思う。 
三、『今昔』の部立て構成と地獄・冥界説話の配置 
『今昔』時代の地獄・冥界観について考える時、『霊異記』や『往生要集』などの書物に依拠すればよいと思う。『往生要集』は「地獄」に関する叙説は極めて詳しくて、当時の社会に強い影響を与えた。それより『今昔』の場合は異なる編纂意識によったものか、集中的に一つの主題に拘らなかった。『霊異記』の如く説教を目的として説話を綴じることでもなかった。その故、地獄・冥界に関する説話は各部の中で異なる様相を呈している。 
(一) 三部において地獄・冥界に関わる説話の配分
各巻に出た地獄・冥界 説話
(中略)
右の表に示したごとく、各部の巻数と話数を比べてみた結果、震旦部の地獄・冥界説話はその出現頻度が一番高い。第八巻は欠けたので、四巻しかない。そのうえ十巻には一話も出ていない。あわせて震旦部には三十八話が載っている。続いて、二番目は天竺部である。五巻において、二十八話が載っている。その残りの四十一話は本朝部の十巻に分散して説かれている。この配分の状態はあくまで外部的な特徴とみなければならないが、説話集構成の内部的原因と何らかの関係があるかのように思われる。それは次の分析に入って究明したいと思う。 
(二) 天竺部の地獄相
天竺部において、「地獄ニ堕ヌ」という表現を基準にして調べた結果、五巻の中で二十九話を収めている。「地獄ニ堕ヌ」という表現を基準にした理由はそれは天竺部説話の中で一番よく見かけた表現である。そのほか、悪道(十二話)、三悪道(十話)、四悪趣(一話)、三悪趣(二話)などの表現も見られるし、餓鬼道、畜生道(四悪趣場合は修羅を加える)も言及しているけど、ここで問題としない。
まず、天竺部において「地獄ニ堕ヌ」という基本的な表現が見られる例話をまとめて見た。
(1) 巻一・釈迦如来人界生給語第二 
(釈迦が)「下ニ七歩行テハ、法ノ雨ヲ降シ地獄ノ火ヲ滅シテ彼ノ衆生ニ安穏ノ楽ヲ令受ル事ヲ示ス。」
新日本古典文学大系(以下新大系と略称する)『今昔』巻一の「出典考証」には、この説話の出典について、『過去現在因果経』、『仏本行集経』と指摘した。日本古典文学大系は(以下古典大系と略称する)また『法苑珠林』を加えたのである。ただし、この一話の原典となりうる幾つかの経典にこの文章が見当たらない。具体的に例を見て見ると、
『過去現在因果経』巻一
「堕蓮花上。自行七歩。擧其右手而師子吼。我於一切天人之中最尊最勝。」
『佛本行集経』巻三
「佛初生時。両足蹈地。其地処々皆生蓮花。面行七歩。東西南北所踐之処。悉有蓮花。」
『法苑珠林』巻九・誕孕部第四
「又涅槃經云。菩薩初生之時。於十方面各行七步。摩尼跋陀富那跋陀鬼神大將。執持旛蓋。」
『法苑珠林』巻九・招福部第五
「如因果經云。太子生時。于時樹下亦生七寶七莖蓮華。大如車輪。菩薩即便墮蓮華上。無扶侍者自行七步(大善權經云。行七步者為應七覺意也)舉其右手而師子吼云。我於一切天人之中最尊最勝。」
おそらく、『今昔』の撰者が「於十方面各行七步」の文脈から旨趣を得て、東西南北、四維及び上下各方面に七歩を踏み出し、殊に「下ニ七歩行テハ」というのは、仏の法力が地下遥かなる地獄までとどけて、地獄の猛火を消して、受苦の衆生を救うという意味まで敷衍したと思う。
次の例は多くの経典の所伝を雑糅して述べた一話である。
(2) 巻一・提婆達多奉諍佛第十
「カクテ仏、霊鷲山ニシテ法ヲ説給フ時ニ、提婆達多、仏ノ御許ニ詣テ仏ニ申テ言ク、」「仏ハ御弟子其ノ数多カリ。我レニ少分ヲ可分給シ」ト。仏不許給ハズ。其ノ時ニ提婆達多、新学ノ五百ノ御弟子等ヲ語ヒテ、密ニ提婆達多ノ住所、象頭山ニ移住セシム。此ノ時ニ破僧ノ罪ヲ犯シテ、転法輪ヲ止メテ天上天下嘆キ恋悲ブ。」
さて、その五百の新学の比丘が目連に携えられて、仏のところに帰ったので、
提婆達多、仏ノ御許ニ行テ、三十肘ノ石ヲ投テ仏ヲ打奉ル時ニ、山神石ヲ障ヘテ外ニ落シツ。其ノ石破し散テ仏ノ御足ニ当テ、母指ヨリ血出タリ。此レ第二ノ逆罪也。……又提婆達多、蓮花比丘(又華色トモ云。一人二名)ト云フ羅漢ノ比丘尼ノ頭ヲ打ツ。此レ第三逆罪也。羅漢ノ比丘尼ハ打殺サレヌ。提婆達多ハ大地破裂シテ地獄ニ堕ヌ。
この説話の出典について、古典大系はそれが『法苑珠林』巻第九「千仏篇第五ノ二、遊学部第八、召師部第二」、『経律異相』巻二十一と『増壱阿含経』巻四十七・九に基づいて簡述したものと頭注したのに対して、新大系は「同類話は諸経論に頻出するが、特定の一書で本話全般の原拠たり得るものは見当たらない。第一段は『仏本行集経』・十二に由来し、第二段以降は『増一阿含経』・四十七、北本『大般涅槃経』・十九、『大智度論』・十四などに由来する所伝を混交して、提婆達多のいわゆる三逆罪を構成したものらしい。ただし、こうした創作行為は撰者によるものではなく、既成のものを先出国書を介して採取したのであろう」と新たな論を出したのである。
『増壱阿含経』巻四十七・九は詳しく提婆達多の五逆罪の中の三逆罪、すなわち「僧団の合和を壊す罪」、「仏の身体に傷をつける罪」と「比丘尼を加害する罪」を記している。すると、「提婆達兜適下足在地。爾時地中有大火風起生。遶提婆達兜身。爾時。提婆達兜為火所燒。便發悔心於如來所。正欲稱南無佛。然不究竟。這得稱南無。便入地獄。」(『増壱阿含経』巻四十七・九)
提婆達多が三逆罪を犯した物語は『大智度論』や『法苑珠林』にも見えるが、上の引文と比べて見ればわかるように、『増壱阿含経』巻四十七・九の方はかなり文脈が整えられていて、殊に、末尾の地獄に堕ちるところの相違が著しい。
要するに、『今昔』に書かれた提婆達多が地獄に堕ちた話は以上諸経の所記した内容を混じった上で圧縮したと言えるだろう。このように、巻一・「仏教化難陀令出家給語第十八」と巻四・「恋子至閻魔王宮人語第四十一」の二話を除いて、大体天竺部の地獄様相は簡略な描写が多い。上の配分表を参考して、天竺部に見られる地獄説話とそれらの出典と指摘された経典を比較して、幾つかの特徴を見出すことができる。
(イ) すでに先行の研究に指摘されたように、天竺部説話の出典と見られる漢訳経典の種類が多い。地獄に関わる内容も経典から摂取したものである。およそ原典の地獄おける記述は詳細を極めるが、本集は大いに圧縮してあり、辞句の如きも必ずしも原典に拘泥しない気味が窺われる。
(ロ) 地獄の出現は観念的、論理的な存在として、物語上の働きが見られない。天竺部説話の場合、素材は各経典から摂取しても、編纂者の意志によって、原文を圧縮したり、潤色したりした部分はよくあって、まさか漢文文献和訳は原典との乖離を感じさせることがある。 天竺部において、その主な物語は仏の誕生から涅槃まで、いわゆる仏教成立時代のできごととなっている。地獄に堕ちる内容について、展開して述べる必要はなかったろう。
また、一方、上記の状況と違う説話の場合も存在する。続いて、その特殊な一話を見てみよう。
巻四「恋子至閻魔王宮人語第四十一」
天竺のある比丘は羅漢に成りたくて、修業し始めた。六十になって、羅漢に成ることができず、途中で修業をやめた。還俗して、妻を娶った。その後妻が妊娠して、一人の男子を産んだ。しかし、その子が七つの時に突然死んだ。そうすると、
閻魔王はヤマのことで、大河は奈落の河(地獄之河)を想像させる。死んだ男子は閻魔王の所に赴いており、地獄ではない。また、閻魔の七宝宮殿は恐ろしい場所ではなく、園があり、死んだ子供たちはそこで遊んでいた。これはまして地獄の世界ではない。ここの閻魔王の宮が震旦部以後のと大変異なるところは、もともと閻魔の世界が地獄と別の空間になることを物語っている。
そもそも、古代インドで、ヤマは最初に死んだ人間として天国への道を最初に見出した者であり、天国の王者とされた。ヤマの国は緑蔭、酒宴、歌舞、音楽にめぐられた理想の楽土であり,あらゆる肉体的欠陥はなくなり、神々と交わり親しみ、生前に地上で行った祭祀とか布施の徳が果報を受け、甘美な食物と芳醇な飲物を満喫することができ、しかも美女にさえ不自由しないという理想郷であったことが知られる。古代インド初期のヴェーダに死者は風神マルツの涼しい微風にささえられて天国に運び上げられ、冷たい水を浴びて完全にもとの肉体を回復し、最高の天で父祖たちと会い、そこでヤマと一緒に住むという記述がある。
後期のヴェーダ文献の時代(紀元前十世紀以後)に至ってヤマは最初に死んだ人間として死と関係づけられ、死はヤマの使者と信ぜられるに至った。またヤマの前で真理に忠実な者と虚偽を語る者とを区別される。ヤマは他界に到着した人間の善悪の行為を量るという信仰も現れた。叙事詩『マハーバーラタ』に、主宰者ヤマは父祖の主であり、餓鬼の王であり、しかも「法の王」として亡者の罪を裁断する。死んだ人間はすべてヤマの王宮へ行かなければならない。亡者はヤマの意志を執行する使者によって引きずられて行く。ヤマの国は南の果ての地にあって、そこまで通う道は密林のように恐ろしくて、飲む水もなければ、休む場所もない。亡者が生前に物惜しみせず、また苦行をした者には救いがあるという。生前に灯火をあたえた者は途中で灯火が道を照らし、断食を行なった者は乳酪をあたえられるという。地獄について詳しく書かれている。獄卒は棍棒や槍や火壷を持って、罪人を責め苦しめ、また罪人たちは剣の林や熱砂や茨のある木で責めさいなまれて、虫に齧られ、犬に食われ、血の河ヴァイタラニーに放り込まれる。地獄は水気の多いところで、或は湖とも、或は泥土の洞窟であるとも記され、また最下の世界にあるとも記される。そこで、われらは後の仏教経典によく説かれる地獄相との相似するところに気づく。それに、ヤマは使者を遣わして、亡者を召して、地獄へ送るという最高統治者のイメージは後代の閻魔王地獄審判のモデルと言えるだろう。 
(三) 震旦部に書かれている地獄と冥界
(1) 『冥報記』と『三宝』からの影響
さて、震旦部において、天竺部と違って、とりわけ数多漢籍を下敷きにした話がおさめられている。殊に地獄・冥界に関する説話はいちおう集中的に『冥報記』、『三宝』などから摂取したものと言われている。地獄の様相については、天竺部に比べてかなり複雑に現わしている。『冥報記』に比べて、『三宝』の書誌学的研究の余地があると思われる。それは通説に言われる漢籍ではなく、おそらく日本人の撰者に著された可能性が高いと疑われる。これについて他論に譲って置きたい。ここで『三宝』に関する考察は相変わらず、出典の一つにして、客観的にそれと震旦部説話の関連を考えてみたい。
震旦部の地獄・冥界説話は集中的に巻六、巻七と巻九に配分して、主に『冥報記』、『三宝』から摂取したものである。巻六の場合は、11、12、18、19、21、24、29、33、34、35、38、39、41等13話が『三宝』から摂取した。巻六の十一話から仏、法、僧の三宝霊験にテーマが移り、その物語の背景に地獄・冥界が出てくる。また、巻七の2、3、8、9、22、23話も『三宝』の話で、巻七の19、30、31、42、46,47、48、または巻九の14、27、28、29、30、31、32、34の話は『冥報記』に拠ったものである。
『三宝』は通常遼の非濁の撰録といわれているけど、先に言ったように、それは間違っている可能性が高い。それにしても『今昔』は七十話を『三宝』から採用することは芳賀矢一が『考証今昔物語集』によって指摘され、片寄正義は七十二話に数えた。そのうちの六十三話は震旦部に入集して、巻六、巻七の総計九十六話中、六十三話、すなわち六割五分は『三宝』を出典とする。巻六のみについていえば殆ど九割に近い。それこそ地獄・冥界に関する話しは集中的に巻六、巻七に出ている由縁である。
『冥報記』は唐臨の撰録で、成立時間は唐の永徽年中と『法苑珠林』巻119に記されている。『冥報記』の場合は、前田家本五十八話中の四十八話が『今昔』の出典となっていることは片寄正義氏の調べである。この引用頻度は『三宝』に次ぐもので、震旦部はこの両書による話が全体の約七割を収めている。しかも両書と本集間の引用関係は基本的に原文をそのまま和訳するものが多い。もちろん部分的には意訳、省略、増補などの工夫もあるが、それは説話の筋を保ちながら、語りのムードを一致させる必要があったからではないかと思う。また、享受者の生活習慣や心理的要素を考えて、物語の漢文臭い部分を書き換えた細部は十分ある。例をみてみょう。
1巻六・「震旦疑観寺法慶依造釈迦像得活語第十二」
この説話は『三宝』上・「第五造釋迦像死從閻羅王宮被還感應」からの翻案であるが、少し書き換えたところが見える。両書の同話を対照して、右の行は『今昔』で、左の行は『三宝』とする。
[1] 今昔 其ノ日、亦、法昌寺ト云フ寺ニ住ム大智ト云フ僧死ヌ。
三宝 其日又有寶昌寺僧大智。死後經三日。亦便蘇活。
[2] 今昔 法慶、甚ダ愁嘆ノ気色有キ。其ノ時ニ、
三宝 見僧法慶有憂色。少時之間。
[3] 今昔 亦、見レバ止事無キ僧一人、王ノ御前ニ来リ給ヘリ。
三宝 又見像來。王前遽來。下階合掌禮拜此像。
まず、原典の寶昌寺という場所は、なにかのミスで法昌寺に変わった。次に、時間の表現だが、大した書き換えだはないと思うかもしれないが、実に効果はちがう。「其ノ時ニ…」の方がもっと短く、法慶の愁嘆を見たすぐのことと緊迫感を作り出す目的がうかがわれる。最後のところは釈迦の立像を「止事無キ僧一人」に書き換え、よりもっと真実感を求めて、生きる人間の姿に変身させた。
2巻六・「震旦空観寺沙弥観花蔵世界得活語三十四」の話は『三宝』中・「第七空觀寺沙彌定生見紅蓮地獄謬謂實華藏世界感應」によってできた話である
[1] 今昔 今昔、震旦ノ空観寺ト云フ寺ニ一人ノ沙弥有リ。名ヲ定生ト云フ。沙弥也ト云ヘドモ僧法ヲ犯シテ、経教ヲ誦スル事ナシ。
三宝 沙彌定生。師僧法不能誦經戒。
[2] 今昔 僧有テ、華蔵世界ノ相ヲ説ク。
三宝 聞陳說花藏世界相。
[3] 今昔 定生、此レヲ聞テ歓喜シテ、常ニ心ニ懸ヶテ、彼ノ土ヲ願フ。
三宝 情恒慕樂
[4] 今昔 而ル間、定生、恣ニ僧ノ事ヲ犯シテ、遂ニ死シテ紅蓮地獄ニ堕ヌ。
三宝 恣誤僧事。入紅蓮花地獄。
[5] 今昔 定生、此ノ地獄見テ、「此レハ華蔵世界ゾ」ト、観ヲナシテ、「南無花蔵妙土」ト称ス。
三宝 謬謂花藏世界。歡喜稱花藏妙土。
[6] 今昔 そノ時ニ、地獄、忽ニ変ジテ花蔵世界ト成ヌ。
三宝 其時地獄變為花藏。
[7] 今昔 定生ガ「花藏妙土」ト唱フル音ヲ聞キ及ブ罪人、皆蓮花ニ坐シヌ。
三宝 聞唱受苦之人。皆坐蓮花。
[8] 今昔 其時ニ、獄卒有テ、此ノ希有ノ事ヲ見テ、閻魔王ニ此ノ由ヲ申ス。
三宝 時獄官白閻魔大王。
[9] 今昔 即チ、偈ヲ説テ云ク、帰命華厳不思議 若人題名一四句 
能排地獄 解脱業縛 諸地獄器皆為云云
三宝 即說偈言。歸命花嚴 不思議經 若聞題名 一四句偈 能排地獄  解脫
業縛 諸地獄器 皆為花藏 而皆自見 坐寶蓮花
[10] 今昔 沙弥、地獄皆華蔵ト、罪人悉ク蓮花ニ坐シヌト見テ、
三宝 而皆自見 坐寶蓮花
[11] 今昔 一日一夜ヲ経テ活テ、此ノ事ヲ語ル。
三宝 沙彌一日一夜始蘇。自說此緣。
[12] 今昔 其ノ後、通ヲ得タリ。心ヲ発シテ善ヲ修シケリ。後ニ行キ方ヲ不知ズトナム語リ伝ヘタルトヤ。
三宝 其後有通。集具已後。不知所遊方矣。
両書のこの一話に関する叙述がかなり違っていることは見ればわかる。
[1]の文章だが、『三宝』に「震旦ノ空観寺ト云フ寺」の内容がない。「僧法ヲ犯シテ」という内容も見えない。
[2]の文章は『三宝』に「僧有テ」という部分がない。
[3]の文章には『三宝』に「此レヲ聞テ歓喜シテ」と「彼ノ土ヲ願フ」の内容がない。
[4]の部分は両書には大した相違がない。
[5]の部分は『三宝』に「此ノ地獄見テ」という表現がない。
「観ヲナシテ」の「観」を、「歡喜稱花藏妙土」の最初の「歓」と間違えた可能性があったから、観をなすという意味が理解された。また、『三宝』に「間違えて花藏妙土と称した」という意味が取れていなかった。
[6]の部分は両書の内容が一致する。
[7]の部分も一致する。
[8]の部分は『三宝』に「此ノ希有ノ事ヲ見テ」の内容がない。
[9]の部分は『今昔』の「諸地獄器皆為云云」という表現は意味不明となっている。
[10]これは前句の偈「而皆自見 坐寶蓮花」の内容を和訳したもの。
[11]の部分は両書が一致する。
[12]の部分は『三宝』の「集具已後」と『三宝』の「心ヲ発シテ善ヲ修シケリ」は意味が合わない。
以上の説話をめぐって、『三宝』と『今昔』の二話を対照して、具体的にどれほど原典を材料として利用して新作を作りあげたのか調べた。一方、『冥報記』の各説話の分量は『三宝』より長いので、例を挙げることはしない。だが、全体的に両書の状態はほぼ変わらない。要するに、『今昔』震旦部の説話は両書の翻案と言っても過言ではない。 
(2) 震旦部に書かれている地獄と冥界
上の結論を前提にして、震旦部に説かれている地獄・冥界を見るとき、それらの説話が原典と変わらないことを意識する必要がある。殊にそれらの説話に潜んでいる異質の地獄・冥界観念を見るとき、それは欠けない条件になると思う。なぜなら、それは震旦部に規定されているインドの地獄観と異なる新たな冥界信仰が現れているからであろう。
まず、三宝霊験譚に基づくそれらの説話は、三宝の奇異たる功徳によって、地獄・冥界から罪業ある人間を救える。
その語り方によって、天竺部の混沌とした地獄相と全く違う地獄・冥界の世界が提示されている。巻五の引き続きとして、巻六の第五話は、地獄についての描写は依然として簡単であったが、その以後まったく違う冥界の世界が開かれる。まず、その入冥方式から見てみょう。
(2-1)多様なる入冥方式
入冥方式、言い換えれば物語の人物はどう言うふうに地獄や冥府に置かれたかということである。天竺部に記されている地獄説話と違って、震旦部において、冥界巡歴の話が多く語られている。仏経の地獄思想を受容しながら、道教や民間の俗信などと結びつけ、新たな地獄・冥界説を生み出した。中国も日本と同じように、最初は仏教にいう「地獄」は無かった。漢代のときに墓券、あるいは買地券を買う習慣があったようである。それは死者を葬るのに、山川土地の霊を犯すことを恐れ、その地の地主神と目せられる神祇との間に一定の土地売買の契約を結ぶことである。 やはり素朴な現実的な冥界観としかいえない。また、地域によって、死霊が泰山に赴いて集まり、泰山の神によって管理されると信じていたこともある。さらに、道教は鄷都というところを冥界の王都と見て、古くから宮殿や官制などの組織は完備されていた。後に仏教の地獄説を摂取して、冥界の主宰者をはじめ、業報と死後審判や牢獄と刑罰などまで具備した。
震旦部にはこういう仏道習合の痕跡がいくらでもみられる。そこに地獄と冥界は一つの空間ではなく、別々の世界と語られているようである。人が死んだら、すぐ地獄に堕ちるわけではなく、冥官、あるいは冥使に縛られ、まず冥界まで連れられて行く。そこに、閻そこに魔王の宮殿があり、閻魔王が高座にいて、亡者生前の善行悪業を記録した生死簿によって審判を下す。そこで亡者がいろんな方法で冥途へ赴いて、冥界を見学したり、何かの善根によって、刑罰を逃れたりして現世に帰らせて蘇生する。その冥界入りのパターンは幾つかが見える。
(イ) 冥途蘇生譚のパターン
冥途に赴いてまた生き返るというパターンは震旦部でよく見られる。その一例挙げて見よう。巻六・「震旦唐虞安良兄依造釈迦像得活語第十一」に、震旦唐時代に幽洲漢県というところに虞安良という人がいた。殺生の業を持って、功徳を造ることぜんぜんない。三十七歳の時に野山に出て鹿を狩りする時、図らず馬から転落して死んでしまった。その後、親族の人たちが集まってきて、嘆き合う間に、半日を経て、安良が生き返った。悲しく泣きながら、大地に身を投げて罪を悔しんでいた。親族の人々がその原因を聞いた。そして安良が泣きながら自分の冥界での体験を話した。この説話の中で、主人公安良は殺生の罪業で罰を受けた。死んだ途端に馬頭の鬼と牛頭ノ鬼が地獄の火の車を御して遣ってきた。火の車の中は猛火が燃え上がって、安良の全身を焼いた。非常に熱くて耐えられない。これは典型的な地獄の風景である。閻魔王の所についたばかりで、一人の僧が急に現れ、閻魔王に安良の放免をお願いしたが、閻魔王は安良の罪業が重いことを僧に告げると同時に、僧のお願いに応じた。理由は釈迦像を作るのに銭三十枚を加えたからである。
この種類の蘇生譚は基本的な要素が備わっている。まず、入冥の原因がある。その原因の多くは仏法を信じなくて、悪業をしたこととなる。狩猟の途中で亡くなったり、あるいは病気にかかって、死んでしまったりして、冥使に縛られて冥界まで連れられていく。そして、閻魔王の裁きから逃れるきっかけはさまざまで、そのあたりは原典自体の叙説も恣意的である。右例の如く、因果道理を信じなくても、ただ立像に聊かの金銭を加えたので、功徳を得て、仏が化現して、冥界まで助けに来るという。また、巻六・「震旦汴洲女礼拝金剛界得活語第二十九」の一話に、不信の女はただ一度金剛界大曼陀羅を礼拝することで、冥途から生き返ったことができる。
次に、何の悪業をしたこともなく、ただ病気で死んで、冥界に連れられていった場合もある。その際、帳簿を調べて、冥府のミスだった事がわかってから、罪人を放免することになる(巻六・「震旦夏ノ候均造薬師像得活語第二十四」、巻九・「震旦江都孫宝於冥途済母活語第十四」)。あるいは、親族の人たちが造像や写経などの供養で死者を冥界から救いだす(巻六・「震旦溜洲司馬造薬師仏ヲ得活語第二十一」)。
(ロ) 夢による入冥譚
冥界蘇生譚のほか、夢によって、冥界での体験を語る例も少なくない。たとえば巻六・「震旦并洲張ノ元寿造弥陀像生極楽語第十八」と「震旦并洲ノ道如造弥陀ノ像ヲ語第十九」の二話が見える。奇異なできごとを述べるときに夢は一番都合のよいかたちである。この類の説話は中国の六朝時代から「志怪」によく語られていたようであり、その成立について、沢田瑞穂氏がこう指摘した。
この類の説話の成立にはある種の動機なり意図なりが考えられる。特異な経験をした人の話を、ただ奇なる事件としてそのままに記録したもの、ほとんど無目的に近い「志怪」も少ないが、大多数はやはり底に何かの狙いを持っている。その一つは、六朝時代の知識人によって唱えられた無神論・神滅論に対抗して、有鬼論・神不滅論を主張するには、その論拠としての実証が必要であるが、いかにせん、それは超現実の世界のことであるから、自他の体験談・見聞談と称して説得するより、ほかに手段がない。従って、その話はいかにも事実らしく巧妙に語られるのであるが、もともと虚構を語るのだから、どうしても無理な附会となり、叙述に破綻も見えてくる。それが繰り返されているうちに、ほぼ無難な共通の話の型ができるわけである」。
(ハ) 奇異なる入冥の話
1 幻覚による入冥の話
巻七・「震旦宝持寺法蔵誦持金剛般若得活語第九」の中で、
2 禅定による入冥の話
巻七・「真寂寺恵如得閻魔王請語第四十六」
3 遊離魂による入冥の話
巻九「侍御史遜逈璞依冥途使従途帰語第三十二」
4 空を飛んで入冥する話
巻七「震旦華洲張法義依懺悔活語第四十八」
5 壁の穴から覗き、地獄の風景を見る話
巻七「清斉寺玄渚為救道明写法花経語第三十二」
6 自由自在に現世と冥界の間で往来する話
巻七・震旦僧、行宿太山廟誦法花経見神語第十九
これらの入冥の方式は人間の想像力を極めるもので、その目指す目標は物語の奇異性を追求するほかないだろう。
(2-2)閻魔王宮を中心とする冥界の世界
震旦部において、地獄を言及することはかなり少なくなっている。その代わりに閻魔王宮を中心とする冥府の場面が多くなってきている。もっと人の興味を引くのは、地獄と冥府とは別々の空間であり、地獄へ行かせる前に冥府で閻魔王の審判を受けなければならない。震旦部で地獄の存在より冥界の存在が重要であり、その働きも大きい。冥界は特定の空間、場面及び人物等によって構成され、人間社会に似ている亡者審判の世界と想像された。殊に『冥報記』に拠った説話の冥界描写は細かくて、現実的な感じがする。
(イ) 冥界の内と外の風景
亡者が死んだ後すぐ冥使、あるいは冥官に引きずられて官曹に行く。遠くから眺めて、城が見える。近づくと官庁見たいな楼閣があり、その建物は立派で、広い庭が付いている。庭に縛り付けられた人、或は引きすえられた人が大勢いて、罪の勘定を待っている。官庁の中で、国王のような大官一人は玉冠をかぶって、高い床に座る。ある場面では、その大官と並んで玉冠をかぶる衆神の姿も見える。ここは閻魔王の宮殿である。このような描写は繁簡一致せず、基本的に上述したものとよく似ている。たとえば、巻九「震旦刑部侍郎宗行質、行冥途語第三十四」には典型的な描写が見える。
王璹、随テ行ク。亦、一ノ大門ニ入テ庁事ヲ見レバ、甚ダ壮ナル形ニテ、北ニ向テ立リ。亦、庁ノ上ノ西ノ間ニ、一ノ人有テ坐ス。形チ肥テ色黒シ。庁ノ東の間ニ、一ノ僧有テ坐ス。官ト相当レリ。皆、面ヲ北ニ向ヘリ。各、床机・案・褥有リ。亦、侍童子二百人許有リ。或ハ冠服皆吉シ、容貌端吉シ。亦、階ノ本ニ官吏ノ文案有リ。……王璹遥ニ北門ノ外ヲ見るニ、暗クシテ多ノ城有リ。一ヽノ城ノ上ニ、皆小キ垣有リ。此レ皆、悪所ニスタケリ。……吏、王璹ヲ相具シテ、東南ヨリ出デヽ行ク。三重ノ門ヲ渡ル。門毎ニ勘ヘテ臂ノ印ヲ見ル。其ノ後、免シ出シテ第四ノ門ニ至ル。其ノ門ノ状、甚ダ大キニシテ、重楼也。赤ク白シ。門ヲ開ケル事、官城ノ門ノ如シ。
ここで、詳細な描写は閻魔王宮にいるような臨場感を作り出すことができたのである。語り手は方向、門の位置及び施設のことにこだわっていて、それは真実さを強調することをいうまでもない。
(ロ) 冥界の官吏たち
前にいったように、古代の中国で、道教は鄷都というところを冥界の王都と見て、古くから宮殿や官制などの組織は完備されていたが、それは震旦部の説話によく窺えることである。冥界の官吏組織はまして州県府役所のそれと同じで、級別や職種が区別される。閻魔王は最高裁判者で、そのほか、東海公(巻九・三十話)や五道将軍、大山府君(太山府君、泰山府君とも)などの人物が出てくる。東海公は東嶽大帝のことと疑う。東海は江蘇、山東面する海域を指していうので、もともと泰山府君と同一神であったと言われる。これらの名称をみると、中国土着の冥界観(例えば泰山信仰)と仏教の地獄観の融合の痕跡が窺える。すでに先行研究に指摘されたように、地獄観念と泰山信仰の結びつけは早くからおこなったことである。呉・康僧会(二五一―二八〇)訳『六度集経』で、その巻一に「布施して、衆を済わば命終りて魂霊は太山地獄に入らん」とあるのを初めとして、巻三より巻八に至る各巻に、それぞれ太山嶽、太山餓鬼畜生、太山の鬼、太山王、太山焼煮の処、太山湯火の毒などノ語が見えている、と澤田瑞穂が指摘したことである。氏はまた多くの早期の漢訳仏典を調べて、太山地獄の用例を見出した。(呉・支謙訳『仏説八吉祥神呪経』、晋・法炬訳『法句譬喩経』、西晋の『仏説鬼子母経』、姚秦・竺仏念訳『出曜経』等)
早期の仏教には「Niraya」、「Naraka」の訳語として「地獄」という名称を使い始めたはずなのに、さらに「太山」を加えたのは、やはり当時の中国人にとって、「地獄」といっても、すぐには理解しにくかったから、便宜上、それにもっとも近い観念を含む太山を借りたのであろう。
古くから泰山の神は人間の魂を召すとか、人間の寿命の長短を知るとか、それについての内容は帳簿に記録されて保管されることを民間で流伝していった。そのために震旦部の説話にその痕跡はまだ見える。たとえば、巻七「震旦僧、行宿太山廟誦法花経見神語第十九」の説話に泰山廟に亡霊の納める場所と地獄を二重のイメージが見える。
もっとも重要なのは閻魔王の存在であり、その成立について、すでに多くの先学の方に論及された。閻魔(ヤマ)から閻魔王までの変化のポイントは『十王経』の影響で、その経の成立でも仏道習合の結果といわざるをえない。この問題について新たな考察に譲るため、深く言及することはしない。
要するに、震旦部に説かれる冥界の世界が仏教の中国本土化の彩りに染められ、『今昔』の中で奇異な境地を成している。天竺部に見られる観念的な地獄の存在と異なって、撰者が漢典籍から説話の素材を探し出し、三宝霊験の殊勝や因果応報の道理を語るために、冥界蘇生譚の話を介して、人物が冥界を臨む時の臨場感と真実感を獲得した。 
(四) 本朝部の地獄相
(1) 出典と地獄・冥界説話群の形成
本朝部において、地獄・冥界説話は集中的に巻二十以前の部分に収めている。話数は震旦部よりかなり減っている。その中で、出典によって、四つのグループに分けられる。
『法華験記』を出典とする地獄・冥界説話は、巻十二の36、37、また、巻十三の6、13、35、巻十四の7、あわせて六話がある。
『散逸地蔵菩薩霊験記』を出典とする地獄・冥界説話は巻十七の17、18、19、21、22、23、26、27、28、29、31である。あわせて十一話で、最も多い一組である。
『霊異記』を出典とする地獄・冥界説話は巻十四の30、31、また、巻二十の15、16、17、18、19、30、38の九話がある。
『日本往生極楽記』を出典とする地獄・冥界説話は巻十一の2と巻十五の10の二話である。
『法華験記』を出典とする地獄・冥界説話に説かれた地獄・冥界は当然『法華経』の霊験を語る前提として現れた。『散逸地蔵菩薩霊験記』の場合も同様、地蔵菩薩の霊験譚を中心にして、地獄・冥界の空間を築くのである。『霊異記』から採取された説話は冥界蘇生譚の一群となって、内容と語り方は互いによく似ている。後は『日本往生極楽記』の二話と出典不明の数話がある。
本朝部において、地獄や冥界対する理解と描写は基本的に漢籍からの影響を強く受けている。例えば、『霊異記』に拠った冥界説話は『冥報記』に近い話型を持って、閻魔王の審判を話の中心に置く。巻二十『摂津国殺牛人依放生力従冥途還語十五』の話には、ある男が邪神に祟れて、毎年一頭の牛を殺して、その神を祭る。七年の間、七頭の牛を殺した。その後、男が病気にかかって、死んでしまった。九日がたって、また生き返った。男が妻に冥途の経験を話した。
一方、同じ種類の説話は『散逸地蔵菩薩霊験記』を出典とする話群にも見える。巻十七「備中国阿清依地蔵助得活語第十八」はその類話の一つである。阿清という僧が国中を遊歴して修行した途中で病気で死んだ。一両日を経て生き返った。道を歩いていた人に冥途の出来事を教えた。この説話の内容構成をまとめて、次のようである。
主人公が病で死んだか、あるいはなにかの事故で死んだ。
すぐ冥官に縛られ冥途に赴く。
閻魔の庁は立派なところで、検非違使の官庁と似ている。
庭に大勢な罪人がいて、罪の軽重を定めて、罰をうける。
小僧が現れ、地獄の中の罪人を救うために東西に走りめぐって、閻魔王や冥官たちと争う。
結局、主人公は地蔵に帰依して、冥界から逃れる。
上の二話を対照して見れば、閻魔王と小僧のそれぞれの中心たる存在に気づくだろう。要するに、漢籍が使い始めた冥界蘇生譚はその叙述の主旨が地獄・冥界の怖さや苦難から徐々に三宝の殊勝を語る絶好の背景と場所となったのだ。『散逸地蔵菩薩霊験記』に至って、地獄・冥界に対する理解や認識などの変化が生じてきた。それらの説話によれば、当時地蔵信仰がいかに高揚していたかが分かるし、また、仏教本土化した後の変容もはっきり見える。その変容について、地獄・冥界説話を通して見てみょう。 
(2) 新たな地獄・冥界への理解
地獄・冥界の世界に対して新たな考え方と語り方に転換したことは早く『日本往生極楽記』に始まったのだ。それは智行が行基菩薩を妬んで誹謗した罪によって死んだ後阿鼻地獄に堕ちて、九日を経て生き返ったことである。『霊異記』巻中・七の話、また、『今昔』本朝部巻十一「行基菩薩学仏法導人語第二」に同話が見える。そこで智光がその堕ちた地獄の状況は以前と違う。この話について石田瑞麿氏がこう指摘した
ここに示された地獄は明らかに地下ではない。それは行基の宮殿と離れてはいるものの、同じ地つづきのようである。死とり蘇生までの九日間を長い生死の間をさまよう夢の体験とすれば、たわいもない夢物語と割り切ってしまうこともできるが、この智光の体験がそれとして是認されたところに、そういってすますことのできない、新しい地獄理解があることは認めるほかあるまい。
このような新しい地獄理解を反映する説話は、本朝部にほか容易に見出すことができる。その主な傾向について例を通して説明してみよう。
(2-1)地獄の象徴として火の車の出現
本朝部巻十五の第四話には、済源僧都が死ぬ前に他念なく念仏して、極楽からの来迎を待っていたところ、不本意なことに、火の車が現れた。それは地獄の使者たちが迎えに来たのだ。僧都がその原因を聞くと、鬼たちは僧都を地獄へ送る故を教えた。それは何年前に、僧都は寺の米五斗を借りたが、まだ返納していない。その罪によって地獄へ行かなければならない。その後弟子たちに頼んで、速やかにその米を返納したので、火の車が消えた。
同巻の第四十七話には、ある男が地獄のことを信じなくて、生前殺生、放逸など悪行ばかりしていた。死ぬ前に火の車を見た。怖くてどうしょうもないので、高僧を呼んできて、自分が年頃悪行をした事を悔しんでいた。すると、僧が「然レバ、弥陀ノ念仏ヲ唱フレバ必ズ極楽ニ往生スト云フ事ヲ信ゼヨ」と勧めたので、男が僧の教えに従って、掌を合わせて額に当てて、「南無阿弥陀仏」と千遍唱えたら、火ノ車は目の前から消えた。
火の車というのは『大智度論』、『釈門正統』、『浄土十要』、『経律異相』などの経典に見えるが、天竺部と震旦部ではほとんど触れなかった(巻六・十一話一例だけ)。本朝部では、火の車が地獄の象徴として描かれて、その背景には浄土信仰と念仏往生の世態が映っている。
(2-2)立山地獄に係わる説話
泰山府君信仰と同じように、立山信仰は仏教が日本に伝わって来た前に、すでに存在していたもので、民俗信仰の山中他界と仏教の地獄とが融合して、立山信仰においては地獄に想定された。この地獄は地下の冥界ではなく、地上にあるので、生きる人間はそこを巡歴することができる。
本朝部巻十四「修行僧至越中立山会小女語第七」と巻十四「越中国書生妻死堕立山地獄語第八」の二話に説かれた立山地獄は立山地方の自然環境を見本にして作り上げたもので、その根底には古代日本人の山岳信仰が潜んでいる。実際に立山地獄の名を世に知られるのは『本朝法華験記』、『今昔』、『伊呂波字類抄』、『神道集』など、その他多くの文献であるが、立山は地獄であると同時に修道の霊験所でもある。富士、白山とともに三禅定の一つとされたことも、修行に適した所であったことを知られる。 また巻十七の二十七話は立山地獄の話をしている。
(2-3)山中他界と地獄
本朝部には、天竺部と震旦部で見かけない新たな地獄説話が収められている、それは山中他界の話である。
本朝部では、山に行く行動は山中他界に行くことを意味する。実際に山に入って迷ってしまったのか、或は夢の中で山中に入ったのか一定しないけど、どちらでも他界を廻る話題となる。巻十九「東大寺僧於山値死僧語第十九」はその類型に属する。
壁より地獄の場面を覗く話は巻七・三十二話にもでているが、そこから影響を受けたと思われる。 一方、巻七・三十二話より、巻十九・十九話の異質の叙述に注意しなければならない。物語全体の虚構性と地獄描写の写実性を相まって、幻の夢語りの空間を作り上げて、巻七・三十二話より一層文学的彩りを獲得した。 
四、結び 
『今昔』は仏教説話集であるが、その編纂動機によって、一般の佛教説話と違って、その教訓性が稀薄であることが窺われる。地獄・冥界の世界を語っても、念仏精進のためではない。天竺部説話の大部分は経典から採用したものであるために、地獄はただ説教の概念として取り入れられたことを見逃せない。また、震旦の場合は、その説話の出典は主に漢典籍であるので、地獄を説くより、むしろ冥界への関心が強い。言い換えれば、冥界観は当時中国人の地獄観であったとも言える。最後に本朝の説話に見た地獄の様相には神仏習合によって変質した地獄観がうかがわせる。このように、『今昔』において、地獄はどういうふうに理解され説かれたかをみてきたが、異なる民族や文化の背景において、地獄というひとつの概念が説かれながら変貌しつつであった。それは昔すべての人間にとって、地獄の存在は非常に大事なことであったに違いない。 
 

 

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