一遍
一遍1一遍2一遍3一遍4踊念仏と隠岐佐々木氏山岳信仰一向俊聖一向宗 
親鸞1親鸞2親鸞3共同心日蓮1日蓮2日蓮3法然1法然2法然の教え 
浄土宗一遍上人論無比の楽一遍とその時代・・・
一遍上人語録

時宗・一遍 仏の世界   

万法は無より生じ、煩悩は我より生ず。 
この宇宙・世界・社会・人間という存在するすべてのものは「無」から生じ、人間がもつ一切の煩悩は「我」という自己執着から生じるものである。「無」は、ないという意味ではなく、万物の一切はもともと存在するが、その全存在は無限・無常を秘めているという「無」である。「無」は南無阿弥陀仏の名号に包まれていると一遍は説く。一方、「我」は「我は煩悩なり」というように、私たちの存在そのものが、煩悩に満ちたもので、それから離れるには、無条件に「無」すなわち名号に帰すことである。一遍は絶対的な“他力”を唱えた。「一遍上人語録」 
いにしえは心のままにしたがいぬ、今は心よ我にしたがえ。 
阿弥陀如来の本願(ほんがん)を信じなかった昔の私は、愚かにも浮薄(ふはく)な心の思いのままに従っていた。しかし、今はそんな心さえも捨てて、阿弥陀如来に帰依している。今、我が心はそんな我に従うがよい。自分の心より阿弥陀仏の本願に帰依することの尊さを説いたものである。「捨て聖(ひじり)」といわれた一遍は、一切の所有物を捨て、家族も捨て、煩悩に満ちる心をも捨てて、最後に阿弥陀仏の誓われた救い(本願)だけを信じた。「今は心よ我にしたがえ」とは、阿弥陀仏の本願を信じることだけで成り立つ我を信じなさい、ということである。「一遍上人語録」 
専ら平等心をおこして、差別の思いをなすことなかれ。 
人はだれでも仏の前では平等であるという心をもって、決して人を差別する心をおこしてはならない、と平等心の大切さを説いた言葉である。一遍が言う平等心は阿弥陀如来という仏は、だれ一人として漏らすことなく平等に救うことを誓っている。その仏の絶対的な願いに包まれている私たちも同時に平等心をおこして、他を差別してはいけないというものである。仏教の根本には、平等という教えがある。釈迦(しゃか)が仏教を開いたのは、生まれた階層によって、一生差別され支配されている人々を解放するために、人はだれでもが平等であると示すことにもあった。その意味では仏教は一切の差別を否定する宗教であるといえる。「一遍上人語録」  
 
 
 
 
一遍1
鎌倉時代中期の僧侶。時宗の開祖。「一遍(いっぺん)」は房号で、法諱は「智真」。「一遍上人」「遊行上人(ゆぎょうしょうにん)」「捨聖(すてひじり)」と尊称される。近代における私諡号は「円照大師」、1940年に国家より「証誠大師」号を贈られた。俗名は河野時氏とも通秀、通尚ともいうが、定かでない。 
延応元年(1239)伊予国(ほぼ現在の愛媛県)の豪族、別府通広(出家して如仏)の第2子として生まれる。幼名は松寿丸。生まれたのは愛媛県松山市道後温泉の奥谷である宝厳寺の一角といわれ、元弘4年(1334)に同族得能通綱によって「一遍上人御誕生舊跡」の石碑が建てられている。ただし同市内の北条別府や別の場所で誕生したとする異説もある。有力氏族であった本家の河野氏は、承久3年(1221)の承久の乱で京方について祖父の河野通信が陸奥国に配流されるなどして没落し、一遍が生まれた頃にはかつての勢いを失っていた。 
10歳のとき母が死ぬと父の勧めで天台宗継教寺で出家、法名は随縁。建長3年(1251)13歳になると大宰府に移り、法然の孫弟子に当たる聖達の下で10年以上にわたり浄土宗西山義を学ぶ。この時の法名は智真。 
弘長3年(1263)25歳の時に父の死をきっかけに還俗して伊予に帰るが、一族の所領争いなどが原因で、文永8年(1271)32歳で再び出家、信濃の善光寺や伊予国の窪寺、同国の岩屋寺で修行する。文永11年(1274)四天王寺(摂津国)高野山(紀伊国)など各地を転々としながら修行に励み、六字名号を記した念仏札を配り始める。紀伊で、とある僧から己の不信心を理由に念仏札の受け取りを拒否され、大いに悩むが、参籠した熊野本宮で、阿弥陀如来の垂迹身とされる熊野権現から、衆生済度のため「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」との夢告を受ける。 
この時から一遍と称し、念仏札の文字に「決定(けつじょう)往生六十万人」と追加した。こののちに神勅相承として、時宗開宗のときとする。建治2年(1276)九州各地を念仏勧進し、他阿らに会い、彼らを時衆として引き連れるようになる。 
さらに、各地を行脚するうち、弘安2年(1279)信濃国で踊り念仏を始めた。踊り念仏は尊敬してやまない市聖空也に倣ったものといい、沙弥教信にも傾倒していた。弘安3年(1280)陸奥国江刺郡稲瀬(岩手県北上市)にある祖父の通信の墓に参り、その後、松島や平泉、常陸国や武蔵国を経巡る。 
弘安5年(1282)鎌倉入りを図るも拒絶される。弘安7年(1284)上洛し四条京極の釈迦堂入りし、都の各地で踊り念仏を行なう。弘安9年(1286)四天王寺を訪れ、聖徳太子廟や当麻寺、石清水八幡宮を参詣する。弘安10年(1287)書写山を経て播磨国を行脚し、さらに西行して厳島神社にも参詣する。 
正応2年(1289)死地を求めて教信の墓のある播磨印南野(兵庫県加古川市)教信寺を再訪する途中、享年51(満50歳没)で摂津兵庫津の観音堂(後の真光寺)で没した。
 
教理 
一遍は時衆を率いて遊行(ゆぎょう)を続け、民衆(下人や非人も含む)を賦算(ふさん)と踊り念仏とで極楽浄土へと導いた。その教理は絶対他力による「十一不二」に代表される。浄土教の深奥をきわめたと柳宗悦に高く評せられるが、当人は観念的な思惟よりも、ひたすら六字の念仏を称える実践に価値を置いた。寺院に依存しない一所不住の諸国遊行や、入寂に際して「一代聖教皆尽きて南無阿弥陀仏に成り果てぬ」と自らの著作を燃やしたという伝記から、その高潔さに惹かれる現代人は多い。 
和歌や和讃によるわかりやすい教化や信不信・浄不浄を問わない念仏勧進は、仏教を庶民のものとする大いなる契機となった。いわゆる鎌倉新仏教の祖師の中で、唯一比叡山で修学した経験のない人物であり(「一遍上人年譜略」の記述は後世のものと考えられる。「西の叡山」書写山には登っている)、官僧ではなく私度僧から聖(ひじり)に至る民間宗教者の系統に属することが指摘できる。
   
法語・和歌  
旅ころも 木の根 かやの根いづくにか 身の捨られぬ処あるべき(時宗宗歌) 
身を観ずれば水の泡 消ぬる後は人もなし 命を思へば月の影 出で入る息にぞ留まらぬ 
生ずるは独り、死するも独り、共に住するといえど独り、さすれば、共にはつるなき故なり 
夫れ、念佛の行者用心のこと、示すべき由承り候。南無阿彌陀佛と申す外さらに用心もなく、此外に又示すべき安心もなし。諸々の智者達の樣々に立てをかるる法要どもの侍るも、皆誘惑に對したる假初の要文なり。されば念佛の行者は、かやうの事をも打ち捨てて念佛すべし。むかし、空也上人へ、ある人、念佛はいかが申すべきやと問ひければ、「捨ててこそ」とばかりにて、なにとも仰せられずと、西行法師の「撰集抄」に載せられたり。 
是れ誠に金言なり。念佛の行者は智慧をも愚癡をも捨て、善惡の境界をも捨て、貴賤高下の道理をも捨て、地獄をおそるる心をも捨て、極樂を願ふ心をも捨て、又諸宗の悟をも捨て、一切の事を捨てて申す念佛こそ、彌陀超世の本願に尤もかなひ候へ。かやうに打ちあげ打ちあげ唱ふれば、佛もなく我もなく、まして此内に兎角の道理もなし。 
善惡の境界、皆淨土なり。外に求むべからず。厭ふべからず。よろづ生きとし生けるもの、山河草木、吹く風、立つ浪の音までも、念佛ならずといふことなし。人ばかり超世の願に預るにあらず。またかくの如く愚老が申す事も意得にくく候はば、意得にくきにまかせて、愚老が申す事をも打ち捨て、何ともかともあてがひはからずして、本願に任せて念佛し給ふべし。念佛は安心して申すも、安心せずして申すも、他力超世の本願にたがふ事なし。彌陀の本願には缺けたる事もなく、餘れる事もなし。此外にさのみ何事をか用心して申すべき。ただ愚なる者の心に立ちかへりて念佛し給ふべし。南無阿彌陀佛。
 
時衆 
門弟に「一遍聖絵」を遺した異母弟ともいう聖戒や2歳年上の他阿(真教)らがいる。現在の時宗教団は一遍を宗祖とするが、宗として正式に成立したのは江戸幕府の政策による。一遍には開宗の意図はなかったし、八宗体制下でそれが認められるはずもなかった。近世期には、本来は別系統であったと考えられる一向俊聖や国阿らの法系が吸収されており、空也を仰ぐ寺院が時宗とみなされていた例もある。 
制度的な面からみれば、時宗の実質的開祖は他阿真教ということもできる。一遍の死後、自然解散した時衆を他阿が再編成したのが起源である。
 
「一遍聖絵」 
その生涯は国宝「一遍聖絵」(一遍上人絵伝)があますところなく伝える。「遊行上人縁起絵」(一遍上人絵詞伝、一遍上人縁起絵)は、他阿が描かせたものである。「一遍上人語録」は江戸期の編纂になるもの。宝厳寺や当麻無量光寺(神奈川県相模原市)、東山長楽寺(京都市東山区)に木造立像がある。廟所は真光寺にあり、律宗の影響が指摘される巨大な五輪塔である。阪神大震災により倒壊し、中から骨灰が現れたことで、実際の埋納が確認された。 
無量光寺にもそれを分骨したと伝えられる墓塔がある。信者により削り取られ、原形を留めない。 また手許の経典は死の直前に書写山の僧に預けた。一説には、それが近世に書写山側から遊行上人に託され、現在清浄光寺に眠るともいわれるが、真偽のほどは明らかとなっていない。
 
一遍2
戦や飢饉が続き、死と日常が背中合わせだった中世。民衆は切実に心の救済を求めていた。叫びにも似たその思いに応える様に、平安時代の末期から、従来は貴族社会のものであった仏教を、民衆に伝えるべく宗派を開いて奮闘した名僧が次々と現れた。法然(浄土宗)親鸞(浄土真宗)日蓮(日蓮宗)栄西(臨済宗)道元(曹洞宗)、彼ら鎌倉新仏教の巨星の最後に登場したのが、時宗の開祖・一遍だ(法然と一遍の生年は106年も離れている)。 
彼ら個性的なカリスマ開祖たちの中にあって、一遍は死の間際に自著・経典を全て焼き捨てるなど、その存在が一際異彩を放っている。 一遍の本名は河野時氏。伊予国(愛媛)道後温泉の法巌寺に生まれる。幼名松寿丸。河野氏は壇ノ浦の合戦で活躍した河野水軍の長を祖父とする有力豪族(伊予守護)だが、承久の乱で後鳥羽上皇(朝廷方)について幕府軍に敗北し、一族は離散、所領を奪われボロボロになった。1248年9歳で母を失い、既に出家していた父に命じられ、天台宗の寺へ彼も入った。 
1251年(12歳)九州大宰府で法然の孫弟子を師に、彼は智真の法名で12年間浄土念仏を学ぶ。1263年(24歳)父が没したことを機に故郷・伊予に帰国する。 一遍は還俗(げんぞく、僧籍を離れる)して武士となり、豪族の長として妻子も持ち新たな生活を始めたが、8年後の1271年(32歳)再出家する。子供が車輪を棒で転がして遊んでいる様子に「輪廻もかくの如き」と見出したとも、一族の領地争いで命を狙われたとも言われている。 
信濃・善光寺で阿弥陀信仰に覚醒した彼は、伊予に戻って窪寺の山中に庵を設け、そこで3年間ひたすら念仏を唱え続けた。常に阿弥陀の名を口に唱えることで仏との一体感を実感した。 
1274年(35歳)「ただ一心に名号にすがる(阿弥陀の名を唱える)ことで、人は生きながら浄土に生まれる」と確信した一遍は、妻・娘・下女の3人を伴って念仏布教の行脚に出る。摂津・四天王寺、紀伊・高野山を経て熊野権現(阿弥陀如来)に参詣した際に「衆生済度(全ての生物の救済)のため、阿弥陀の名を記した札を配るべし」とお告げを受け、一遍に改名する。「一遍=ただ一度」。この名前には「たった一回の南無阿弥陀仏で往生できる」との思いが込められている。 
時宗はこの年を開宗としている。「南無」は[お任せします]という意味。彼が繰り返し念仏するのは、一念では足りぬからではなく、臨終の言葉としての「南無阿弥陀仏」を絶え間なく唱えることで、生と死を真っ直ぐに見つめる覚悟の念仏だった。時宗の名は「阿弥陀経」の「臨命終時(りんみょうしゅうじ)」[一刻一刻を臨終の時と思え]にちなむ。 
以後、一遍は16年後に他界するまで「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」(南無阿弥陀仏と唱えれば、誰でも往生が決定する)と記した木札を、日本全土に配り歩く遊行(ゆぎょう)を開始する。願いは衆生救済ただひとつだった。 
六十万人は一遍が考えていた当時の全人口という説もあるし、熊野で神託を得た次の言葉の頭文字とも伝えられる。 
「六十万人の頌(しょう、仏法の詩)」 
六字名号一遍法 「六字の名(南無阿弥陀仏)は普遍の真理そのものである」 
十界依正一遍体 「十界(全ての世界)の事物は皆平等であり一つの存在である」 
万行離念一遍証 「万行(あらゆる修行)で執着の念を離れた所に浄土は待っている」 
人中上々妙好華 「人々の心の中で名号は清らかに美しく咲く蓮華の花なのだ」 
この念仏札の配布は画期的だった。出会う人すべてに手渡しで配りまくった結果、以前から阿弥陀を信仰する者はより信心を深め、信仰しない者にはこれが浄土教に触れるきっかけとなった。 
10月博多湾にモンゴルが来襲し全国に衝撃が走る。一遍たちは北九州に向かった。戦地では負傷兵や戦火の被害を受けた庶民に「この札は念仏だけで浄土へ往生できる安心のお礼です」と念仏札を配り歩いた。人々は一遍の教えに勇気づけられ、豊後(ぶんご、大分)では領主自らが彼に帰依した。 
一遍に付き従う民衆も多く、一行は九州を発ち、布教しながら北上していく。その過程で、39歳の時に備前(岡山)で吉備津宮の神主の子息を始め、280余人が一度に出家するようなこともあった。 
「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」このお札を一遍は配っていた。 一遍の心のヒーローは平安中期に活躍した空也(くうや)上人。平安朝の多くの僧は、寺院に布施を寄進する貴族の為に経を読んだが、空也は違った。彼は庶民が集まる市場や祭りの片隅に立ち、首から提げた鐘を叩きながら民衆の為に「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えた。そしてお布施が入ると、すぐさま病人や貧者に届け、水源が遠い村に井戸を掘るなど民衆の為に生涯を捧げた。 
空也は念仏の詠唱の果てに法悦に包まれ踊り始め、これをして「踊(おどり)念仏」の開祖となった。人々はそんな空也を、敬意を込めて「市聖(いちのひじり)」と呼んだ。 
1279年(40歳)信濃国に滞在中だった一遍ら一行は、とある武士の館の庭で鐘に合わせて念仏を合唱しているうちに、あまりの熱気と興奮から誰ともなく無意識に跳ね回り出した。手足を振り回して一心に念仏を詠唱すると、座して唱える念仏とは異なる命の爆発があり、トランス状態で失神者が出るほどの解放感があった。空也の踊念仏が時を経て甦ったのだ。ただし空也と違ったのは、彼は一人だったが、一遍たちは数10人の集団だった。
 
彼らは往生決定の歓びを鐘や太鼓に合わせて激しく踊り表現したので、市場などでは「何事か」「何だか楽しそうだ」と黒山の人だかりができた。この宗教パフォーマンスは、難解な仏教哲学を説くよりも、発声や体を動かして雑念を捨て、阿弥陀と一体化する法悦に至るという分かりやすさで見る者の心を鷲掴みにし、大ブームになった。考える念仏ではなく体験される念仏、つまり「当体一念の念仏」だった。 
また“一人でも多くの人に念仏札を”と考えていた一遍にとって、大勢の人が自然に集まる素晴らしい布教方法だった。 彼らは新しく町に到着すると、僧と尼の集団で派手に「踊念仏」を敢行して大勢の見物人を集めては、一遍が念仏札を配って教えを説き、すぐさま次の町を目指す、そんな日々を何年も続けた。 
男女混合の仏教集団は大変珍しいもので、それだけでも人が集まった。当時の宗教界は高野山が女人禁制だったように、神道も含めて女性を低く見る一面があった。しかし一遍は旅立ちの時点で妻や娘を連れており、女性を平等に考えていた。 
一遍の行動指針は、空也上人の言葉「捨ててこそ」。あらゆる執着を捨てた時、人は現世で浄土に入る。定住は執着を生むと言わんばかりに、旅を先に進めた。九州・鹿児島から東北地方まで足を伸ばし、最後は四国へ渡るなど、不断なく布教の旅を続けた。「布教の旅」と一言で言っても、雪の日もあれば雷雨の日もあり、それは決して生易しい旅ではない。文字通り歩き通しなのだ。例えば伊豆に入った時には、8人の信者が息をひきとっている。そんな過酷な旅を、一遍は自身が他界するまで続けた。 
1282年(43歳)3月執権・北条時宗のお膝元・鎌倉に入ろうとしたが、鎌倉は元寇の乱の直後ゆえ恩賞を求める武士で混乱しており、また旧仏教や禅宗を支持していた幕府に、異端として立ち入りを禁じられる。だが一遍はくじけない。「その昔、法蔵菩薩が阿弥陀仏になった時から、全ての生命の往生は決定しているのです」。彼が次に目指したのは京の都だった。 
1284年(45歳)上洛した一遍は、憧れの空也上人が開いた六波羅蜜寺へ巡礼する。当地では「噂の踊念仏を一目見よう」と多くの民衆が集まった。「南無阿弥陀仏の言葉そのものが仏であり、その言葉には絶対的な力がある。唱えれば必ず救済されるのだ」京の人々はボロをまとった貧僧が説く分かりやすい教義に耳を傾け、熱烈にこれを支持した。都での布教は大成功、彼は感極まった。 
1289年上半期は四国で布教し、7月18日に明石港に入り神戸に至る。8月10日朝、体調の異変から死期を悟った一遍は「南無阿弥陀仏以外の言葉はすべて蛇足だ」と弟子達に語り、「一代聖教(しょうぎょう)みな尽きて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」(この教えは一代限り、ただ南無阿弥陀仏が残る)として、手元にあったすべての経典、法具、書籍を自ら焼き捨てた(だから現在、時宗には本典がない)。一遍は寺を持とうとせず、名を後世に残そうという野心も全くなかった。「捨ててこそ」なのだ。執着してはならぬ。 
この悟りに注釈は必要ない。一遍は「捨て聖(ひじり)」とも呼ばれる。 2週間後の8月23日午前8時、神戸和田岬の観音堂(現・真光寺)で、眠りに入るように静かに他界した。遺言は「我が亡骸は野に捨て、ケダモノなどに施せよ」。享年50歳。日本中を歩き尽くし、一遍が一枚づつ札を手渡した相手は25万1724人と記録されている。 
没後、信者達はどうしても亡骸を野に打ち捨てることが出来ず、荼毘(だび、火葬)にふした後に手厚く供養した。 
真光寺には一遍の五輪塔(墓)があるが、なにぶん700年も昔の人物なので、墓碑が記念碑的なものなのか、後世の追悼供養塔なのか、当時のままの墓なのか、建立の年代もハッキリ分かっていなかった。1995年阪神大震災で巨大な五輪塔は完全に倒壊した。ところが偶然にも割れた墓石の内部(球体の水輪部分)から遺骨が発見され、本物の一遍の墓であることが裏付けされた。その後、五輪塔は修復され遺骨も納め直された。墓のすぐ側には千基を超える数え切れぬほど無数の無縁仏(墓)がある。 
長年の風雨で名前は読み取れないものも多いが、誰もが一遍を慕って傍らに眠ることを願った人。これなら一遍も寂しくないし、皆も側にいれて幸せだし、見ているだけで心温まる墓所になっている。「花は色 月は光と眺むれば 心はものを思わざりけり」(色とりどりの花や、澄んだ月の光を眺めていると、その美しさに思わず我を忘れてしまいます)(神奈川・藤沢の片瀬にて、44歳) 
一遍上人の踊り念仏が盆踊りの起源だという。 
時宗の教えは、「大無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」という浄土三部経に拠っている。 
愛媛の法巌寺には一遍上人生誕地の碑が建つ。 
「捨ててこそ」は魔法の言葉で、何か辛い思いに心が支配された時に、この言葉をつぶやくと、不思議と苦しみが軽くなって前進できる。 
一遍は著作が皆無なので、没後10年目に弟子の聖戒が文を書き、3人の絵師が絵をそえた「一遍聖絵」12巻(京都・歓喜光寺所蔵)と、宗俊が編集した「一遍上人絵詞伝」10巻が貴重な資料となっている。 
鎌倉には光触寺や別願寺など7つの時宗の寺があるが、一遍の死後に建立されたもの。 
「唱ふれば 仏も我もなかりけり なむあみだぶつ なむあみだぶつ」(一遍上人) 
踊念仏は室町時代にかけて大流行し、やがて娯楽的色彩が強まって芸能化すると、出雲阿国が踊念仏に歌を交えて踊り始め、これが歌舞伎の幕開けになった。空也が踊念仏を始めて300年後に一遍が現れ、一遍が全国に広めてさらに300年後に歌舞伎が生まれた。
淡路遊行 
正応2年7月始めに淡路福良に泊り、8月2日榎列二之宮(大和國魂神社)に参詣して社殿正面に札を打つ。福良和光山神宮寺宿泊か。 
榎列上幡多岩淵寺志筑天神を巡り18日に明石浦に渡る。 
 消えやすき いのちは水のあはぢしま やまのはながら月ぞさびしき(淡州福良) 
 あるじなき 弥陀の御名(みな)にぞ生まれける となへすてたる跡の一声(淡州福良) 
 旅ころも 木の根かやの根いづくにか 身の捨てられぬ処あるべき(淡州遊行) 
 名にかなふ こころは西にうつせみの もぬけはてたる聲ぞすずしき(二之宮)   
正応2年8月23日神戸真光寺で入寂。
 
一遍3
一遍は蒙古来襲・日本国の未曾有の外的な危機に対応すべく生まれてきた男とも言えよう。一方、不安な民情と疲弊した庶民の救済を目指して所謂「鎌倉仏教」が一斉に開花した。自力本願の禅宗(臨済宗/栄西・曹洞宗/道元)と他力本願の浄土宗(法然・真鸞・一遍)と日蓮宗(日蓮)などである。 
一遍は鎌倉時代から豊臣秀吉の四国統一まで伊予の豪族として支配した河野家の一族であり、道後(宝厳寺)に生まれた「古往今来当地出身の第一の豪傑なり」(正岡子規)言うなれば道後の英雄である。   
 
一遍聖は51年の生涯に幾度生誕地道後を離れたか、正確に数え上げることは困難だが、国宝「一遍聖絵」から判断すると7回、延30年となる。足跡を追う。 
建長3年(1251)春-約12年間/伊予→肥前→太宰府→伊予[延応元年(1239)生] 
文永7年(1270)春-伊予→太宰府→伊予   
文永8年(1271)春-伊予→信濃善光寺→伊予   
文永11年(1274)冬-約1年半/伊予→四天王寺→高野山→熊野三山→京都→西海道→?→伊予  
建治2年(1276)春-約2年間/伊予→太宰府→筑前→大隅→豊後→伊予   
弘安元年(1278)秋-約10年間/伊予→安芸厳島→備前福岡→京因幡堂→信濃善光寺→下野(小野寺)→陸奥(白河・江刺・平泉・松島)→常陸→鎌倉→伊豆→尾張→近江→京(四条京極・七条市屋道場・雲居寺)→丹波→丹後→但馬→印幡→伯耆→美作→四天王寺→住吉→磯長→大和当麻寺→岩清水八幡→淀→四天王寺→播磨→備中→備後→安芸厳島→伊予  
弘安11年(1288)伊予→讃岐(善通寺)→阿波→淡路→明石→兵庫島(観音堂)[正応2年8月23日(1289)往生] 
 
一遍は延応元年(1239)伊予国で生まれ父は河野七郎通広(別府七郎左衛門)、祖父四郎通信とその一族はは承久の乱(1219)で朝廷につき通信は奥州江刺、息子通政は信濃葉広、通末は信濃伴野に配流され、所領53ヶ所、公田60余町総て没収となった。鎌倉に居た通久は幕府方につき乱後恩賞を得たが、孫が元寇の役で活躍する通有である。父通広は天台で入道し如仏と称した。 
また浄土宗西山派でも学び、嘉禄の法難(1227)後還俗し、河野郷別府に在していたと思われる。 通説では一遍は道後宝厳寺で生誕したとされるが寺の宗派は天台宗か真言宗であり夫婦が寺内で共住することはありえない。通広の道後の館跡が宝厳寺になったとも考えられるが不詳である。 
最澄、法然、日蓮の生地が誕生寺となったが、一遍を同列に扱ってよいかどうか。或いは河野郷別府で生まれたが河野氏が復権し道後に居城を造って後に誕生地の「神話」が生まれたのかもしれない。 
幼名は松寿丸で、宝治2年(1248)10歳で母と死別し、父の勧めで天台宗継教寺(場所?)で出家(師僧は縁教?)し随縁と名乗り、建長3年(1251)筑紫出立迄は伊予に居て修行に勤しんだと考えられる。宝厳寺蔵系図では通広には松寿丸(通秀・一遍)の外に長男通真、伊予房(聖戒)、伊豆房(仙阿、宝厳寺住職)の男子があった。  
建長3年(1251)春-約12年間  
一遍最初の旅立ちは父通広(如仏)の決意で、建長3年、かつて京都で法然の弟子証空の元で学んだ兄弟弟子である筑紫郡原山(太宰府近郊)に住む聖達に預ける。弘長3年(1264)父の死去迄の12年の長き修行となった。まず父も教えを受けた華台のもとで初歩的な浄土教を学習する。そこで法名随縁は浄土教では不適切として即座に知真と改名させられる。翌4年には聖達のもとに戻り、本格的に浄土宗西山派の修行をするとになる。 
ここで簡単に浄土宗の流れを見ておこう。浄土宗の開祖は法然であり、鎮西義(弁長)と西山義(証空)2派に分かれて今日に至る。又弟子親鸞は浄土真宗を興す。西山義の証空の弟子には聖達、華台、一遍の父如佛らがおり、一遍は父の兄弟弟子である聖達、華台から浄土門の教えを受け、遊行を通して時衆集団を結成し今日の時宗の開祖となる。 
法然の佛孫弟子に当たる。浄土宗の各派本山は次の通りであるが、知恩院は総本山と位置付けられている。浄土真宗は東・西本願寺、時宗の本山は藤沢・清浄光寺である。根本教典としては浄土宗は無量寿経、真宗は観無量寿経、時衆は阿弥陀経であると専門書では峻別しているが、日々の念仏から臨終念仏(生涯一度の念仏)で救済と云う称名念仏の念仏形態の発展段階とも云える。 
文永7年(1270)春-  
父通広の死去により太宰府での修行を打ち切り伊予に戻った一遍は、嫡子ではなかったが父から領地の分配を受け経済的には保証された。妻を娶り娘を得た。「遊行上人縁起絵」では僧の姿で描かれているので半僧半俗の生活であったかもしれない。還俗してから10年近く経過した文永8年(1271)かそれ以前に再び出家生活に入っているが、再出家と云うのはこの時代でもあまり例がなく、それだけに身辺で異常事態が発生したに違いない。 
長兄通真の死後弟の通政が家督を継いだが、一族の中にはその家督を奪い取ろうとする者があり、その為にまず一遍を殺そうとしたと云う。一遍が弟の通政の味方であったのかもしれないが、むしろ河野一族の領地争いではなかったか。鎌倉幕府陣営下の河野一族が復権を果たし、一族のアウトサイダーである父通広の一族が放逐されていくプロセスであったとも考えられる。 
元寇の役で活躍する河野通有の第七子通盛が道後に湯築城を築くのは建武年間(1331-33)である。長兄通真死亡後の家督争い(一遍上人年譜図)、寵愛する二人の妾の確執(北条九代記)などいずれにしても俗人としての生活の挫折により、家族や領地を捨てざるを得なくなる。文永7年(1270)太宰府に師・聖達を訪ね再出家を報告し、同時に出家した弟の聖戒もこの旅に同行した。
 
文永8年(1271)春-  
文永8年春、聖戒を連れて、信濃善光寺で参籠する。善光寺の本尊阿弥陀如来は「生身」であり極楽浄土への導きは当然として在世の信仰指針を得る期待もあったろう。善光寺如来は秘仏であり直接拝顔して拝むことはできないのだが、夢か現か拝顔でき、貴重な信仰の境地「十一不二頌」を得た。即ち「十劫正覚衆生界 一念往生弥陀国 十一不二証無生 国界平等坐大会」である。併せて「二河の本尊」を写した。所謂「二河白道の図」であり、中世以降浄土教では掛軸にして崇拝された。 
貧愛(貪り)を譬えた水の河と瞋恚(怒り憎しみ)を譬えた火の河に悩まされながら、中間の四、五寸の真っ直ぐな白道を渡って穢土から浄土へ渡ることを表現している。穢土には釈迦が立ち、浄土には阿弥陀仏が恐怖に怯む人間を励ましている。一遍は「二河の本尊」と表現し「中路の白道は南無阿弥陀仏なり。水火の二河にをかされぬは名号なり」(一遍上人語語録)とした。 
同年秋には伊予に戻っており、松山近郊の窪寺に足掛け3年籠り、信濃善光寺に向いた東壁に「二河の本尊」を掲げ「万事をなげすてゝ、もはら称名」(一遍聖絵)に勤しんだ。文久10年(1273)空海も修行したという菅生の岩屋(現45番札所)に参籠する。窪寺、岩屋寺はともに道後からの土佐街道(遍路道)脇にあり山伏道でもあった。  
文永11年(1274)冬-約1年半  
一遍は超一・超二(妻・娘)、念仏房(女)と弟聖戒をつれ遊行に出る。頃は文永11年、蒙古軍が壱岐対馬を侵し筑前に上陸した文永の役に当たる。聖戒とは国府のあった越智郡桜井で臨終の時の再会を約束し一遍自筆の名号札を手渡す。賦算権は遊行上人のみであり万一に備えて賦算権者に聖戒を指名したが、聖戒は期待に応え得なかった。 
四天王寺、高野、熊野は真言密教のメッカであり四天王寺の東門は極楽の西門に通じ、高野は当時高野聖の念仏集団が繁盛し、熊野三山は阿弥陀三尊が垂迹した場として、神社、山伏、浄土・補陀落信仰など宗教的雰囲気が渾然一体となっ聖地であり「蟻の熊野詣」の盛況であった。その高野で一遍の賦算に「信心がおこらぬ故に受け取らぬ」とした僧に「信心なくとも受けられよ」として、その僧に札を手渡す。熊野本宮にて「一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と決定している。 
信・不信、浄・不浄を区別せず賦算せよ」の悟りを得る。法然、真鸞の自力作善を超える超・絶対他力の宗教的世界を独自に構築する。即ち「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」である。本宮から新宮に向かう際に超一・超二らを離別し、京都でも念仏を勧め数年後伊予に戻る。   
建治2年(1276)春-約2年間  
一遍の九州遊行と元寇の役(文永役1274・弘安役/1281)との関連を触れた史料はない。一遍の従兄の河野通有は弘安の役で大活躍し昔日の領地を回復するが、一遍がこの動きに耳を閉ざしていたとは考えにくい。師聖達上人との再会の目的があったとは云え、何故文永役の戦場近くの筑前から九州一巡する必要があったか。豊後の守護であり且つ鎮西奉行でもあった大友頼泰に一介の乞食僧が会いにいく必要があったか。元武士としての血が騒いだのか。 
南北朝時代には時宗僧は従軍僧として戦場に赴き信者と共に戦死者の回向と戦傷者の治療に当たっている。文永役の負傷者は敵味方なく怨親平等で治療したことが鉄輪温泉には伝承されている。時衆の医療特に戦傷者の温泉と塗尿飲尿による治療は刀傷には有効である。社会的不安の渦巻く北九州への遊行は賦算に賭ける一遍の積極的な姿勢と云えよう。  
弟聖戒を除けば最初の弟子で一遍入滅後後継者となった他阿弥陀仏真教が豊後の地で入門する。これ以降時衆と呼ばれる男女集団が誕生することになる。尚、遊行の南限である大隅正八幡宮は大隅の一宮であるが何故此処まで足を運ぶ必要があったか。大山祇神社と関連すると考えるが史料は残っていない。弘安元年弟子数名を連れて伊予に戻る。  
弘安元年(1278)秋-約10年間 
弘安元1278年40歳から正慶元1289年50歳迄の10年に及ぶ遊行であり祖霊鎮魂の旅でもあった。時衆10数名と共に伊予粟井の浜で討死にした曾祖父河野通清を弔う。河野配下の水軍の船便で厳島を経由し備前吉備津宮では神主の息子夫婦ほか280余人が出家し大集団となる。因幡堂(数カ月)、善光寺を経て承久の変で流刑した叔父通末の眠る信濃小田切で鎮魂の躍り念仏が生まれ歳末別時念仏を行う。口称念仏、賦算、踊り念仏が時宗独自の布教形態である。 
弘安3年(1280)甲斐、下野、上野から白河の関を通り承久の変で処断された祖父通信の北上市稲瀬に残る墳墓を巡り追善供養をする。「聖絵」には一遍以下21名の姿が描かれている。此処を北限として中尊寺、松島、塩釜を経て遊行の一行が武蔵国に着いたのは弘安41281年の半ばであろう。厳冬の岩手県まで集団での北上を可能にしたのは一遍集団の結束はあるものの、祖父通信(妻は北条政子妹谷殿)と旧知の鎌倉幕府御家人小笠原氏が甲斐・信濃を配下にしており同様に下野は旧知の小野寺氏、奥州の河野家旧領は河野一族(一遍従兄弟通重)が所領しておりその庇護が大きかったと云える。尚、阿波三好氏とは阿波三好庄在小笠原氏を指す。 
弘安4年(1281)から鎌倉に向かう。弘安5年(1282)春3月迄ナガサゴ(横浜市内)に長滞在したが、一遍の母が相模国毛利庄〔厚木付近〕を治める御家人大江氏出身で血縁と地縁に依る。この大江毛利氏は安芸吉田に移住し配下の小早川氏が後年秀吉の四国征服時に河野氏を滅ぼすことになる。歴史の残酷さである。鎌倉での布教の成功を決意して時衆は巨福呂坂から入ろうとするが制止にあった。 
執権北条時宗が文永・弘安両役で戦死した敵味方の霊を祀るため建立中の円覚寺検分途中であった。当時国内不穏で浪人悪党の鎌倉入りは禁止であった。一遍集団も例外でなく山中で一夜を過ごし片瀬の地蔵堂に移る。ここで踊り念仏を初興行し布教は大成功する。 
三島神社は伊豆一宮であるが祭神は河野家の守護神・伊予大三島の大山祇神であり一遍にとっては近しい。更に東海道を上るが入洛を前に立ち塞がる大きな壁があった。近江は政治的にも宗教的にも天台宗叡山の支配下にあった。叡山横川の真縁上人の理解と大津・関寺での踊り念仏と布教の成功もあり弘安7年(1284)46歳で3度目の入洛を果たす。近江滞在中に同行していた妻超一房はこの世を去る。既存宗教では救えなかった悪党、非人、乞食、癩、芸人らが時衆の強力な支えとなっていく。  
一遍の3度目の入洛は弘安7年(1284)46歳になっていた。賤民は前世からの宿業により地獄が必定とされた中で南無阿弥陀仏による極楽往生は一大ブームとなったのは当然である。7日間の釈迦堂滞在、次いで因幡堂に移り蓮光院、雲居寺、六波羅蜜寺を経て最後に空也上人の遺跡市屋での踊り念仏で頂点に達した。この市屋は現在の西本願寺南半分と接地を含む広大な境内であった。この道場の跡に時宗金光寺が建立された。後、河原町六条に移転す。  
暫く休養の後同年秋亀岡から丹波、丹後へと遊行が再開される。冬には因幡から伯耆そして大山西麓を回って美作に入る。この遊行で伊勢系の神々を無視した一遍が何故に出雲大社で賦算しなかったかと云う疑問が残る。出雲聖が存在しなかった為か。   
弘安9年(1286)四天王寺、住吉社、〔聖徳〕太子廟、当麻寺、熊野、岩清水八幡宮を回り、四天王寺で歳末別時念仏を行う。狂おしいまでに両3年の遊行は四天王寺聖、融通念仏聖、高野聖、熊野聖、岩清水聖と云う聖(ひじり)集団の組織化を狙ったものではなかったか。爾後数百年、真宗との抗争で決定的敗北を喫する迄日本最大の宗教団体であった。時衆内で阿弥陀如来・聖徳太子(観音)・一遍(勢至)の弥陀三尊垂跡信仰が誕生する。 
弘安11年(1288)  
弘安10年(1287)一遍は成仏を意識したか、生国伊予への帰らざる遊行に旅立つことになる。播磨では聖の先達である沙弥教信の眠る加古川(いなみ野)で一夜を送る。念仏三昧の聖であったと伝わる。書写山円教寺で本尊如意輪観音を拝み「諸国遊行の思い出はたヾこの当山巡礼にあり」と感涙する。厳島社から道後に戻る。領主河野通有の依頼で今に残る湯釜薬師に南無阿弥陀仏を書き残す。修行の庵岩屋寺、河野家ゆかりの繁多寺、祖神である大三島社に参詣する。病をおして死出の旅路を急ぐ。 
讃岐(曼陀羅寺・空海生誕寺の善通寺)を経て、阿波から国生みの淡路島に渡り淡路一宮に詣でる。明石から時衆出迎えの船で、かつて平清盛の開いた福原の都の港である兵庫の観音堂に入る。「一代聖教みなつきて南無阿弥陀仏になりはてぬ」と辞世の歌を詠み正応2年8月23日(1289)51歳で往生する。その後時衆は遊行二祖他阿真教と云う優れた宗門指導者を得て巨大化の道を歩むが遊行の精神は保持されて明治の時代を迎えることになる。一遍一代の聖教は名号(南無阿弥陀仏)であり、一遍はその死により南無阿弥陀仏という仏になった。  
 
一遍4
おいたち  
一遍は1239年に伊予国の有力豪族であった河野氏一族の別府通広の第2子として生まれた。 本家であった河野氏は、承久の乱(1221年)で朝廷側に味方したため没落し、一遍が生まれたころには、かつての勢いを失っていた。10歳のとき、母親が亡くなり、それがきっかけかどうか不明 だが、父親のすすめで出家した。13歳のとき大宰府へ移り、法然の孫弟子に当たる聖達(せいたつ)の下で、浄土宗の西山派を学んだ。 
一遍が25歳のとき、父が亡くなる。これをきっかけに還俗して伊予にもどった。武士にもどった一遍は妻をめとり、子にも恵まれた。 しかし一族の間に所領をめぐる争いがおこり、危害を加えられるおそれが出たため、32歳のとき、妻や子といっしょに再び出家した。 
法然・親鸞・一遍  
ここで、法然・親鸞・一遍の年代を整理する。 
法然(1333-1212)−没(80歳)−開宗(43歳)−浄土宗 
親鸞(1173-1262)−没(90歳)−開宗(52歳)−浄土真宗 
一遍(1239-1289)−没(51歳)−開宗(36歳)−時宗 
法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗はすべて阿弥陀如来をその信仰の対象としている。この三宗派のことを「念仏三宗」「浄土門三宗」などと言う。 
法然と親鸞は子弟関係にあり、同時代に生存している。しかし一遍は前の2人より少し後の時代の人である。 親鸞が90歳で亡くなったとき、一遍は24歳である。つまり1回目の出家中だった訳だ。一遍と親鸞は、法然と親鸞のように直接関係はなかったということになる。 
一遍の教え  
平安時代、源信が「往生要集」で説いた浄土教は、法然から見ると、「不徹底」なものだった。源信は極楽往生のため、念仏の他に善行を勧めていたからだ。 なぜ、これが「不徹底」かというと、阿弥陀如来はその本願の中で、極楽往生の「条件」として念仏が必要だとしているが、善行は求めていないからだ。 
法然は、「念仏以外は必要ない」として「専修念仏」を説いた。誤解を恐れずに言えば、これが浄土宗の教えである。 法然の弟子の親鸞は、その教えを進めて、「念仏であっても自力の念仏は意味がない」と言った。その意味は、「自分の意志(自力)で念仏を唱えている」と思うことがそもそも 間違いであるとした。 なぜなら、極楽往生というのは阿弥陀如来の絶対的な力(他力)によるものだからだ、これが浄土真宗の教えである。 
浄土真宗では信心(阿弥陀如来の他力を信じる心)と念仏の関係を、病気とその治療にたとえて説明している。 
「人々は病気であり、阿弥陀如来はその病気を治す名医である。そしてその本願は病をいやす良薬であり、阿弥陀如来への信心は、病気が治ったことをさす。」がその説明である。そして、念仏が、病気が治ったことに対する「お礼」のようなものだと している。 
誤解は「私は阿弥陀如来の本願を信じているのだから、当然、阿弥陀如来は私を極楽浄土に往生させるべきだ。」と考える人が出たことであった。「信心」が「往生」の条件となってしまうという誤解で ある。一遍もこの点に疑問を持ったようだ。 「信心が往生の条件なのか」と疑問を持った一遍は、この疑問を以下のように解消した。 
阿弥陀如来にくらべれば、あまりにも劣った存在であるわれわれが、あれこれと考える必要はない。阿弥陀如来はわれわれの想像もつかないほど、大きな力を持った存在であり、われわれが何もしなくても、その大きな力で極楽浄土に往生させて下さるのだ。 
一遍は「阿弥陀如来の絶対的な力によって、われわれが極楽浄土に往生できることは既に決まっているのだ。」と考えた。 
熊野権現のお告げ  
再出家した一遍は、融通念仏の行者として、人々に念仏をすすめ、「南無阿弥陀仏」と書かれた念仏札を配って歩くという旅を始めた。このような旅のことを遊行と言う。 
「融通念仏」とは、一人の念仏で一人が救われるのではなく、何人もの人が互いに念仏を唱えることで、念仏の力が融通しあい、念仏の力がより強くなるとする考え方である。 
あるとき、一遍は旅の途中で一人の僧と出会った。出会った場所は和歌山県の高野山から熊野権現に向かう途中であったという。 一遍はいつものようにこの僧に話しかけた。 
「阿弥陀如来への信心をおこしなさい。南無阿弥陀仏と唱えて、このお札を受け取りなさい。」 
「いや、私にはまだ信心がおこりません。なのにそのお札を受け取れば、それは嘘になってしまいます。」 
「仏の教えを信じる心がないのですか。」 
「そうではありませんが、阿弥陀如来への信心がどうにもおこらないのです」 
このようなやりとりが、一遍と僧の間であったと言う。一遍と僧がこのようなやりとりをしていると、道行く人が幾人か集まってきた。 もし、この僧がお札を受け取らなければ、他の人も受け取りをこばむのではないかと考えた一遍は、「信心がおこらなくても受け取りなさい。」と言って、僧にお札を渡した。一遍と僧のやりとりを見た人々は、みな素直にお札を受け取ったとい う。その間に問題の僧はいずこへもともなく立ち去っていた。 
このできごとは一遍に大きなショックを与えた。「念仏札の受け取りをこばまれる」のは初めての経験だった。それまでは誰もが素直に念仏札を受け取ってくれていた。あの僧の「信心が起こらないので、お札を受け取れば嘘になってしまう」という言葉も衝撃的なもの だった。今後もし、同じようなことが起きればどうすればいいのか、自分が今まで行ってきた布教のしかたは間違っていたのか、一遍は熊野権現へ向かう道すがら、大いに悩 んだ。 
熊野権現に到着した一遍は、「念仏をすすめる場合の心がけ」について、熊野権現の神意をあおごうと一心に拝んだ。 すると、熊野権現は、山伏の姿となって現れ、次のように一遍に告げたという。 
融通念仏すゝむる聖、いかに念仏をばあしくすゝめらるゝぞ、御房のすゝめによりて一切衆生はじめて往生すべきにあらず、阿弥陀仏の十劫正覚に、一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と必定するところ也、信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札くばるべし。 
このお告げを現代語訳すると、次のようになる。 
融通念仏をすすめる僧よ、どうして悪い念仏のすすめ方をされるのか。御坊のすすめによって人々がはじめて往生するわけではない。阿弥陀仏がはるか昔に悟りを開かれたそのときに、一切の人々の往生はすでに決定されている。だから阿弥陀の本願を信じる者へも信じない者へも、身分の高い者へも低い者へも、分けへだてなく念仏札を配らねばならない。 
このお告げにより、一遍は悟りを得た。時宗ではこのお告げを受けたときをもって開宗と年としている。なぜ熊野権現なのか、当時は本地垂迹説という考え方があった。 本地垂迹とは、日本の神々の実体は仏であり、それが神の形をとっているという考え方だ。神は仮の姿であり、本体は仏であるということである。そして当時、熊野権現は阿弥陀如来の仮の姿であるとされていた のだ。 
決定往生六十万人  
熊野権現のお告げにより、「信心をもっていようがいまいが、あらゆる人が阿弥陀如来の力によって往生するであろうことはすでに決定されている」という悟りを得た一遍は、さらに一つの偈(げ)を感得 する。 偈と言うのは仏教の真理を短い言葉で表現したもの。一遍が得た偈とは次のようなものだった。 
六字名号一遍法 
十界依正一遍体 
万行離念一遍証 
人中上々妙好華 
この偈のおおよその意味は次の通りだ。 
六字の「南無阿弥陀仏」という名号は仏教のすべてともいうべき一遍(絶対)の法である。現世の生きる者すべてがこの名号の力によって仏と一体になる。すべての行はこの名号を唱えることにおよばず、名号を唱えることによって証(さとり)が開ける。そのような人こそ泥の中から咲くハスの花のような人である。 
この偈を感得するまで、一遍は智真(ちしん)と名のっていたが、これ以後、一遍と改めた。 
「信心をもっていようがいまいが、あらゆる人が阿弥陀如来の力によって往生するであろうことはすでに決定されているのだから、あとはその人が素直な心で阿弥陀仏を求めて念仏を唱えれば、それだけでよいのだ。だから、念仏を人に勧めるときは、無理強いなどしてはいけない。相手が素直な心のままに阿弥陀仏を求め、素直な心のままに念仏を唱える、そういう自然な心の状態をつくりだしてあげなければならないのだ。」と悟り、名を改めた一遍は、再び念仏札を配って歩く旅へ出 る。 
一遍はそれまでの「南無阿弥陀仏」の念仏札に「決定(けつじょう)往生六十万人」という言葉をつけ加えた。 「決定往生」の意味は、あらゆる人が極楽浄土に往生することは決定しているという意味である。「六十万人」は数字ではなく、「すべて」という意味に取り、「すべての人」という意味にな る。「六十万人」という表現は、偈の各句の頭の文字「六十万人」からだ。 
踊り念仏  
熊野を発った一遍はお告げの通り、信じる信じない、身分の上下、男女を問わず、会う人ごとに念仏札を配り、念仏を勧めて全国をめぐった。 そうするうちに一遍について出家する人、また出家はせずとも一遍の教えに帰依する人が現れ、一遍の教えはしだいに広まっていった。 一遍は東北から九州まで、全国を歩いたそうだが、その途中、信濃国の佐久という場所で、一遍の教えを聞こうと集まった人々とともに念仏を唱えていたところ、その人々が喜びのあまり念仏を唱えながら踊り出すということがあ ったた。 これが有名な「踊り念仏」の始まりであるとされている。 
一遍の踊り念仏は、一遍が尊敬していた平安時代の僧である空也(くうや)にならって始めたという説もあるが、「南無阿弥陀仏」の名号を節をつけて唱えながら踊るというこの行為は、人々のたいへんな人気を得た 。 
人間には単純なリズムと単純なメロディーの反復の中で、一つの動作をくり返していると、しだいに興奮状態になり、さらには恍惚状態に入って、いわゆる「トランス状態」になるという性質がある。人々がカネをたたき、踊りながら「南無阿弥陀仏」と唱えることをくり返していると、興奮状態となり、そのすえに我を忘れてたいへん気持ちのよい状態にな れたのだ。 
自分の心と仏とが一体となったような感覚におそわれたのか、仏教ではこの状態を「踊躍歓喜(ゆやくかんき)」と言う。 
この佐久での出来事以降、一遍は、踊念仏と賦算(ふさん)の二本柱で念仏布教を行うようになった(賦算とは念仏札を配ること)。 
一遍の死  
一遍の教えは時宗とよばれ、身分の上下や男女を問わず、多くの人々に受け入れられた。そして時宗の信者を「時衆」というが、彼らは「○阿弥」と名のることが多かった。 「阿弥」とは「阿弥陀仏」の略である。阿弥陀如来の信者であるという意味で、このように名のったのだ。 
ちなみに「○阿弥」と言われ、能を大成した観阿弥・世阿弥父子も、名前からすると、時衆であった可能性がある。観阿弥や世阿弥は室町時代の人物で、三代将軍足利義満の保護を受け ていた。室町時代には、浄土宗・浄土真宗・時宗の中では、一遍の時宗がもっとも人気があり、念仏三宗の最大勢力だった。 
大きな人気を得ても、一遍は自分の寺を持とうとはせず、諸国遊行の旅を続けた。 
唱うれば 我も仏も無かりけり 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 
これは一遍の有名な和歌のひとつだが、一遍の考え方がよく分る。「極楽往生をとげることができれば、どんな平凡な人であっても仏になれる。そして阿弥陀如来の本願によって、すべての人の極楽往生は決定しているのだから、そのことを知って南無阿弥陀仏と唱えれば、仏になったも同然である。」というのがこの歌の意味 だ。 
一遍がある僧に「念仏の本当のあり方は」とたずねられ、その返事として書いた手紙が残されています。 
夫れ、念佛の行者用心のこと、示すべき由承り候。南無阿彌陀佛と申す外さらに用心もなく、此外に又示すべき安心もなし。諸々の智者達の樣々に立てをかるる法要どもの侍るも、皆誘惑に對したる假初の要文なり。されば念佛の行者は、かやうの事をも打ち捨てて念佛すべし。むかし、空也上人へ、ある人、念佛はいかが申すべきやと問ひければ、「捨ててこそ」とばかりにて、なにとも仰せられずと、西行法師の「撰集抄」に載せられたり。是れ誠に金言なり。念佛の行者は智慧をも愚癡をも捨て、善惡の境界をも捨て、貴賤高下の道理をも捨て、地獄をおそるる心をも捨て、極樂を願ふ心をも捨て、又諸宗の悟をも捨て、一切の事を捨てて申す念佛こそ、彌陀超世の本願に尤もかなひ候へ。かやうに打ちあげ打ちあげ唱ふれば、佛もなく我もなく、まして此内に兎角の道理もなし。善惡の境界、皆淨土なり。外に求むべからず。厭ふべからず。よろづ生きとし生けるもの、山河草木、吹く風、立つ浪の音までも、念佛ならずといふことなし。人ばかり超世の願に預るにあらず。またかくの如く愚老が申す事も意得にくく候はば、意得にくきにまかせて、愚老が申す事をも打ち捨て、何ともかともあてがひはからずして、本願に任せて念佛し給ふべし。念佛は安心して申すも、安心せずして申すも、他力超世の本願にたがふ事なし。彌陀の本願には缺けたる事もなく、餘れる事もなし。此外にさのみ何事をか用心して申すべき。ただ愚なる者の心に立ちかへりて念佛し給ふべし。南無阿彌陀佛。  
現代語訳すると、意味はおおよそ次のようになる。 
念仏を行する者が心がけなければならないこと示してくれということですが、実は南無阿弥陀仏と唱えることの他、心がけることはなく、この他にまた示すべきものはありません。 
多くの智者たちが様々に立てた教えがありますけれども、みなそれぞれの迷いに対するかりそめの教えなのです。ですから、念仏を行する者はこのような教えをすべて打ち捨てて、念仏するべきです。 
西行法師の「撰集抄(せんじゅうしょう)」には、昔、ある人が空也上人に、念仏とはどのように唱えるべきであるのかと問うたところ、上人はただ「捨ててこそ」とだけおっしゃって、他には何もおっしゃらなかった、という話がありますが、これこそがまさに尊い言葉です。 
念仏を行する者は知恵を捨て、愚痴を捨て、善悪の判断も、身分の上下といった社会の道理も捨て、地獄を恐れる心も、極楽を願う心を捨て、また他の宗派の悟りを捨て、と一切の事を捨てて唱える念仏こそ、阿弥陀如来がはるか昔に立てた本願にもっともかなうのです。 
このように声高に唱えれば、仏もなく我もなく、まして、念仏を声高に唱える中には理屈はありません。この世が浄土なのです。外に極楽浄土を求めてはならないし、この世をいやがってさけてはならないのです。 
あらゆる生きとし生けるもの、山や川や草や木、吹く風や立つ波の音までも、念仏でないということはありません。人だけが阿弥陀の本願にあずかるのではないのです。 
また、このように私が申すこともが納得できなければ、納得できないまま、私が申すことをうち捨てて、ああだこうだと考えずに阿弥陀の本願に任せて念仏なさい。 
念仏は、信心して唱えても、信心しないで唱えても、阿弥陀の本願に違うことはありません。阿弥陀の本願に欠けたところはなく、余るところもありません。この他に何を心がけて唱えるべきでしょうか。ただ愚かな者の心に立ち帰って念仏なさい。南無阿弥陀仏。 
この手紙からも分かるように、「すべてを捨てて念仏すべし」と言った一遍は、その死に際し、「一代聖教(いちだいせいきょう)みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」と言って、持っていた書物や自分の書いたものなどをすべて焼き捨てたと 伝えられている。兵庫県の和田岬にあった観音堂で亡くなった(51歳)。原因は過酷な遊行による栄養失調であったと言われている。  
 
踊念仏と隠岐佐々木氏
「一遍聖絵」(以下、「聖絵」)によれば、信濃国小田切の里で踊念仏が始められた。巻四の第五段に伴野市庭と小田切の里の場面が描かれ、つづく巻五の第一段に大井太郎屋形が描かれている。詞書に従えば、信濃入りした一遍は善光寺を訪れたのち下野小野寺を訪れ、再び信濃入りして小田切の里・伴野市庭・大井太郎館に立ち寄ったという。 
しかも信濃の佐久郡に入った一遍は、小笠原氏惣領であった伴野荘地頭伴野氏のもとに寄らず、小田切の里を訪れている。一遍の叔父河野通末が配流されたのは伴野荘であり、親族の鎮魂が目的ならば、大井荘小田切郷ではなく伴野荘を真っ先に訪れるはずである。そのため、小田切の里に向かった理由やその所在が議論されてきた。 
平林富三氏は論文「小田切村と湯原村史料」で、河野通末が伴野荘から何らかの事情で大井荘小田切郷に移り、そこで死去して葬られたという仮説を提示している。たしかに「聖絵」の「或武士の屋形」には墳墓と見られる盛土があり、一遍が伴野に立ち寄らず小田切の里に直行したことや、踊念仏の始行がそこで行われたことが理解できる。 
また砂川博氏は、伴野市庭が賦算の中心と思われるにもかかわらず地頭伴野氏が「聖絵」に登場しないのは、伴野時長が安達泰盛の外祖父であり、霜月騒動(一二八五年)で没落したためと推測した。大井太郎はそして小田切里を大井荘小田切郷とし、小田切郷地頭を大井太郎の縁者と推定している。 
それに対して牛山佳幸氏は、多くを平林富三氏の議論に負いながらも、小田切の里は大井荘小田切郷ではなく、善光寺と同じ水内郡内と主張している。一遍遊行の目的は親族の墓参であり、その道程は「聖絵」とは一致せず、京都→北国路→水内郡善光寺→水内郡小田切氏居館→諏訪郡羽広郷の通政墓所→佐久郡伴野荘の通末墓所→佐久郡大井荘→水内郡善光寺→下野小野寺→陸奥国江刺郡の通信墓所であったと推定した。 
たしかに戦国期の弘治二年(一五五六)に推定される十二月二十四日付武田晴信朱印状にある「小田切方」は水内郡内と考えられ、同郡内の小田切領は鎌倉期にまでさかのぼる可能性がある。しかし水内郡内に小田切氏所領があったことを認めても、小田切という地名があったことまでは認められない。小田切氏旧領という由緒から明治期に小田切村ができたが、それを鎌倉期にまで遡らせるのは強引だろう。また「小田切の里」が小田切氏所領であれば、「或武士の屋形」と隠す必要はない。 
井原今朝雄氏は、「聖絵」には霜月騒動で没落した伴野氏が登場しないこと、「聖絵」の安達泰盛に対する評価が高いことに注目し、「聖絵」に伴野氏と安達泰盛が守護だった上野について触れていないのは両氏との関係に言及するのを避けたからだという。霜月騒動直後の弘安九年(一二八六)にあたる「聖絵」巻九の天王寺参詣の場面で安達泰盛を「おほきなる人」と評していることでも、「聖絵」が安達泰盛派と親しい立場で描かれていることが分かる。このとき安達派はまだ復権していない。さらに一遍が下野小野寺へと往復した理由も、信濃大井荘内の落合新善光寺建立と関連づけて、当時の下野小野寺には勧進聖たちが集まっていたからだと結論した。伊予守護宇都宮頼業の父頼綱(実信房蓮生)は、一遍の父河野通広と同じく証空の弟子であり、また甥景綱(引付頭人)は安達義景(泰盛の父)の女婿である。一遍は下野で宇都宮氏と接触したとも考えられる。 
           ┌頼業(伊予守護)―時豊(検非違使・出羽守) 
宇都宮頼綱(蓮生)┴泰綱(評定衆)―景綱(引付頭人)―貞綱 
そうであれば、「聖絵」で伴野市庭と大井太郎屋形の間にはさまれた小田切の里も安達泰盛派という視点で見る必要がある。大井朝光は伴野時長の弟であり、大井荘小田切郷地頭が大井氏の縁者であれば、安達泰盛派といえる。また善光寺が大井荘内の落合新善光寺であれば、小田切の里が水内郷内では行程に無理が生じる。画面と現在と伽藍配置が異なることには意味があったのである。  
「聖絵」巻四第五段では、信濃国佐久郡伴野市庭の一遍・時衆の歳末別時念仏会の際に紫雲が立ち、時衆と周囲の人びとが上空を見て合掌している。しかし一遍は上空に視線を向けず、一人の僧と対峙している。この場面と連続する同一画面の小田切の里の踊念仏場面に、河野通末(通信の三男)の墳墓があり、紫雲はこの小田切の里の場面へと連なる。紫雲に合掌する人びとは、小田切の里に向かって拝んでいる形になる。たしかに小田切の里で踊念仏の始行があった。一つの画面における二つの場面は、紫雲で連続しており、地理的にも同郡内と考えられる。 
伴野市庭の場面では背景に、牛の群、乞食のそばで喧嘩をする犬、草葺きの屋根や地面にいて食べ物を啄ばむ複数の烏が描かれている。しかも一遍は紫雲を見るのではなく、ひとりの僧と対峙している。この喧騒は親族の菩提を弔う場面ではない。人びとから見て紫雲の方向、つまり次の場面が通末の墓であることを連想させる。詞書では小田切の里→伴野荘→大井太郎屋形だが、画面では伴野荘→小田切の里→大井太郎屋形となる。実際の経路は伴野荘→小田切郷→伴野荘→大井太郎屋形であろう。伴野市庭の画面は、紫雲、および一遍と僧の対峙という二つの出来事を異時同図で描いた可能性もある。詞書では最初の伴野荘を、画面では二度目の伴野荘を省略したことになる。巻四の最後の画面を小田切の里にしたのは、小田切の里が踊念仏始行の地であり、踊念仏という視点では小田切の里と大井太郎屋形が連続するからである。またこの連続性を重んじて、伴野荘と大井荘という異なる荘名ではなく、佐久郡という同じ郡名で表記したと考えられる。 
「聖絵」巻五第一段、信濃国佐久郡の大井太郎の屋敷で、一遍一行は三日三晩の踊念仏を行った。数百人が踊ったので板敷きを踏み落したが、修理をせずに一遍の形見とした。左画面の屋敷は板敷きが踏み落とされたままである。右画面には大井太郎の屋敷を出て右方向に向かう一遍一行と、その反対の左方向へと飛ぶ白い鳥の群が描かれている。白い鳥は物語性に即して左方向に飛んでいく。これは大井太郎の姉が往生したことを示しているだろう。それに対して、一遍一行は物語性とは逆行している。右方向は過去を示し、見る者を巻四の巻末の小田切の里に戻す。このことで「小田切の里、或武士の屋形」と大井太郎屋形の比較を促している。 
大井太郎屋敷場面と小田切の里の場面を比較すると、両方とも武家屋敷が画面左にある。「聖絵」巻四巻おわりの小田切の里の場面と、「聖絵」巻五はじめの大井太郎屋形の場面は、同じ場面の再登場にも見える。踊念仏が前の場面より激しいことは、同じ構図にすることでむしろ強調される。 
また実際に一遍は、小田切の里と大井太郎屋形の間の省略された伴野市庭に戻ったと考えられる。「遊行上人縁起絵」(以下、「縁起絵」)で、小田切の里の念仏始行も大井太郎の踊念仏も伴野のこととして記しているのは、伴野市庭を布教の拠点にしたためと考えられる。やはり「縁起絵」でも、異なる荘というよりも同じ郡という意識が強かったのだろう。  
「聖絵」では小田切里の武家屋敷の敷地内に一遍の叔父河野通末の墳墓と思われる盛土が描かれている。「或武士」は、いったん伴野氏が預かった河野通末を引き取った人物であり、河野氏と因縁のある人物と考えられる。そこで資料を探すと、嘉暦四年(一三二九年)鎌倉幕府下知状(守矢文書)に「小田切郷佐々木豊前々司跡」とある。この記事から信濃国佐久郡大井荘内小田切郷の地頭が、佐々木宗清(豊前守)と分かる。宗清は鎌倉幕府草創期に活躍した佐々木兄弟のうち五郎義清の曾孫で、出雲・隠岐守護を世襲した隠岐佐々木氏の嫡流である。承久の乱の当時は義清の時代であった。 
           ┌大曽禰時長―長泰―長経―女子 
    安達盛長―┴景盛――義景          | 
                   ┠―――泰盛      | 
                  ┌女子         | 
小笠原長清―┬伴野時長―┴時直――長泰     | 
         └大井朝光―┬光長――時光       | 
                   └女子            ┠――宗清 
                   ┠――――――時清 
         佐々木義清――泰清 
さらに義清の嫡子泰清の本妻は大井太郎朝光女で、その嫡子時清の妻は安達一族の大曽禰長経女で、その嫡子が宗清である。一遍遊行当時の地頭は宗清の父時清の時代であり、時清母が一遍に念仏往生を願った「大井の姉」と考えられる。「続群書類従」巻百三十二佐々木系図(以下、続群書類従本)では時清と女子ひとり以外に大井朝光女を母とする子女がいないため、時清母は離別か死別と思われるが、離別であれば「大井の姉」が、大井太郎(光長)屋形にいることも理解できる。死別であれば、「大井の姉」は時清母の姉妹だろう。時清は出雲守護職を正妻葛西清親(伯耆守)女が母である弟頼泰に出雲守護職を譲り、鎌倉を地盤に幕府要職を歴任していた。 
そのため、大井太郎と「大井の姉」が一遍と出会ったのは時清の小田切郷屋形と推測できる。伴野市庭・小田切の里・大井太郎屋形の場面が連続することも、伴野・佐々木・大井氏が親族であったことを示していよう。ここに滋野氏族の小田切氏が入る隙はない。これまでの議論は郷土研究が主であったため、地元の武士小田切氏に引きずられ、大井・安達両氏と閨閥を築いた隠岐佐々木氏を見落としたといえる。 
「尊卑分脈」に「母大井太郎朝光女」の記事がないのは、佐々木氏が大井氏との関係を対外的に伏せたことを示している。「聖絵」でも「或武士」と記していよう。  
一遍の祖河野通清は平治の乱で一時没落したが、源頼朝の挙兵に呼応して土佐で源希義(頼朝弟)が挙兵すると、通清・通信父子も伊予で挙兵した。「吉記」養和元年(一一八一)八月二十三日条に「伊予国在庁川名大夫通清」が平家に討たれたことが伝聞として記されているが、通信は源義経に従い戦功を挙げて所領を回復している。 
伊予守護には、頼朝の伊豆配流時代からの側近佐々木盛綱が補任されたものの、建仁三年(一二〇三)通信は守護佐々木盛綱の奉行によらず、旧のごとく国中の一族郎党を率いるよう御教書を得ている(「吾妻鏡」建仁三年四月六日条)。元久二年(一二〇五)にも、伊予国の御家人三十二人は守護ではなく通信の奉行で御家人役を勤めるよう、あらためて御教書が発給されている。通信は越智惣領職を認められ、越智一族を指揮するよう命じられたのである。このとき必要とされたのが、通信の父通清を三島神の御子とする系譜伝承であろう。祖父親清を源頼義の末子とする系譜伝承から、河野氏は越智氏との血縁関係をもたないと推測できる。河野氏はまず源氏との結びつきを宣伝し、さらに父通清を三島神の御子として越智氏惣領職を得たのだろう。 
河野氏はほかの有力な西国御家人と同様、後鳥羽上皇が新設した西面の武士に列した。そのため後鳥羽上皇が北条義時追討を命じた承久の乱では、通信と嫡子通政・四男通末をはじめ一族のほとんどが京方であり、幕府方は鎌倉に出仕していた五男通久だけだった。「吾妻鏡」承久三年(一二二一)六月二十八日条によれば、通信は京都での戦闘が終了しても伊予で戦闘を続けている。その通信が死罪を免れて陸奥江刺郡に配流されたのは、通信が鎌倉開幕の元勲であり、助命嘆願が認められたからだろう。しかし京方の参謀のひとり佐々木経高(もと阿波・淡路・土佐守護)は幕府元勲であったが、北条泰時の願いむなしく、助命嘆願せずに自決している(「吾妻鏡」「承久記」など)。 
その結果、幕府方の通久は阿波国富田荘の地頭職を獲得したのみで(保阪潤治氏所蔵文書)、のちに伊予国久米郡石井郷との所替えを許されて本国伊予に復帰するものの、かつて守護と同様の権限を与えられた河野氏の没落は明らかだった。それに対して近江守護佐々木氏では、弟信綱が兄広綱父子を斬首したことで、本国近江守護を維持した。河野氏と佐々木氏との差は歴然としている。「承久記」では信綱の過酷さが物語終盤の悲壮感を盛り上げるが、これが承久の乱で一族が分かれた西国御家人の現実であった。それができなかった河野氏は、本国を維持できなかったのである。 
時清の祖父佐々木義清は、伊予守護佐々木盛綱の弟であり、河野氏と因縁がある。さらに父泰清の本妻は小笠原氏族の大井太郎朝光女だが(続群書類従本)、正妻は奥州総奉行葛西清親女であり(尊卑分脈、続群書類従本、沙沙貴神社所蔵佐々木系図)、河野通信が配流された陸奥国江刺郡は葛西領五郡二保のひとつであった。守護の権限をめぐり河野通信と対立した盛綱の甥で、その河野通信を罪人として預かった葛西清親の女婿佐々木泰清は、河野通末を預かる人物として適任である。また後鳥羽上皇を預かった隠岐守の家系であり、流人処遇の作法もわきまえている。一遍が小田切の里(佐久郡大井荘小田切郷)で踊念仏を始めたのは(「聖絵」巻四詞書)、やはりそこが通末の墓所だからだろう。  
佐々木泰清は、本妻大井太郎朝光女(光長姉)を娶り、さらに正妻葛西清親女を娶ったように、東国の豪族級御家人と閨閥を形成した。泰清は隠岐・出雲守護として、「葉黄記」宝治元年(一二四七)五月九日条に六波羅評定衆として見え、建長四年(一二五二)正月十一日臨時宣で検非違使に補任され、翌五年二月四日賀茂・八幡両社行幸行事賞で従五位下に叙爵されて、正嘉元年(一二五七)に従五位上に加級、「経俊卿記」同年五月十一日条でも六波羅評定衆として見える。翌二年に信濃守に補任された(検非違使補任)。以後、隠岐佐々木氏は検非違使を世襲官途にし、また信濃守に補任された者も多く見られ、信濃との関係をうかがわせる。 
この泰清の子息のときに隠岐佐々木氏は二流に分かれ、母が大井朝光女である次男時清(隠岐二郎左衛門尉・信濃二郎左衛門尉・隠岐判官)が隠岐守護職を継承して隠岐氏となり、母が葛西清親女である三男頼泰(大夫判官)は出雲守護職を継承して塩冶氏となった。 
時清は、「吾妻鏡」弘長三年正月十日条で左衛門少尉・検非違使として見え、文永元年(一二六四)十一月十四日に二十三歳で従五位下に叙爵され(検非違使補任)、建治元年(一二七五)七月六日に引付衆に列し(三十四歳)、弘安六年(一二八三)六月十四日に評定衆に加えられた(関東評定衆伝)。六波羅評定衆から鎌倉評定衆へと家格を上昇させている。小田切郷を得たのは、この大井朝光の孫時清のときであろうか。 
時清は、安達盛長の子孫で代々引付衆を勤めた大曽禰氏の惣領上総介長経の娘を娶った。また検非違使補任(「続群書類従」四輯上)では、源時清の項に藤原時豊(左衛門少尉・検非違使・出羽守)の息男で同日に叙爵されたと伝える。伊予守護宇都宮頼業の子時豊(時業)の女婿であった時清は、伊予国御家人であった一遍と旧知の可能性もある。 
弘安八年(一二八五)に霜月騒動が起こると、時清妻の兄大曽禰宗長や叔父義泰は没落し、評定衆宇都宮景綱(下野守)も討手を差し向けられた。しかし時清は弘安十年六月には東使になっている(興福寺略年代記)。東使とは朝廷との交渉役で、実力者が勤めるものであり、霜月騒動後も時清が健在だったことが分かる。しかし時清の子のうち頼清(四郎左衛門尉)は北条時頼の一字を与えられ、しかも「続群書類従」巻百三十三の佐々木系図で隠岐守と伝わるが、その事績が伝わらない。霜月騒動で没落した可能性がある。 
時清の四男宗清(豊前守)は評定衆京極宗綱(能登守)の娘婿だが、舅宗綱の庶兄頼氏が安達泰盛追討賞で豊後守に補任されたように(尊卑分脈、続群書類従本、沙沙貴神社本)、京極氏は霜月騒動で地位を維持している。  
                        ┌満信――宗氏 
           ┌広綱  ┌泰綱 │       ┠――高氏(導誉) 
 秀義―┬定綱―┴信綱―┴氏信―┴宗綱―┬女子 
     ├経高                   ├貞宗 
     ├盛綱                   └女子 
     ├高綱                       ┠――清高―重清 
     └義清―――泰清―――時清―――─宗清  
宗清は、永仁元年(一二九三)四月二十三日左衛門尉(権少尉)で検非違使を兼ねていたことが「実躬卿記」に見える。その前日の四月二十二日には平頼綱が滅亡している。翌二年には弘安合戦(霜月騒動)与党の人事について、鎌倉追加法六四三条が発布されて復権が認められたが、宗清の検非違使補任はそれ以前の復権といえる。また時清女が、評定衆二階堂頼綱(下総守)の嫡子貞綱(下総三郎左衛門尉)に嫁いでおり、復権とともに吏僚系御家人と閨閥を築いて、幕府内部に深く入り込んだことが分かる。 
ところが嘉元三年(一三〇五)の嘉元の乱で、父時清(入道阿清)は、連署北条時村を殺害した謀反人北条宗方(引付頭人)と合戦して相打ちとなった。このとき宇都宮景綱の子貞綱(下野守)が、討手として宗方邸を向かい宗方被官を討っている。 
この嘉元の乱では、時清の甥後藤顕清(信濃二郎左衛門尉)も討死にしている。顕清の父後藤基顕(信濃守)は時清の実弟で、六波羅評定衆後藤基政の養子となっていた。基政も葛西清親の女婿で泰清と相婿の関係にあり、泰清は六波羅評定衆に在職していたときに、子息基顕を同僚後藤基政の養子にしたのだろう。基顕(後藤信濃入道)は、こののち北条高時政権で評定衆になっている(金沢文庫文書三七四号)。 
さらに宗清妻の兄貞宗(京極氏嫡子)も戦傷を負い早世している。そのため京極氏は庶流宗氏が婿養子として評定衆に列し、その嫡子高氏が京極氏を継承した。彼が婆裟羅大名佐々木導誉である。続群書類従本で高氏に「於鎌倉補執事」と記すのは、高氏が御内人であったことを示していよう。隠岐・京極・後藤氏は御家人の地位を維持しながら北条得宗家の御内人になり、鎌倉幕府内で家格を上昇させたのである。 
しかし宗清は、検非違使の功で豊前守に補任されたこと、また隠岐守と伝わり隠岐守護を勤めただろうことが推測されるが、幕府要職を経験した形跡が見られない。 
それでも宗清の嫡子清高(隠岐判官・隠岐前司)は引付衆に列して東使を勤めている。さらに清高妻は問注所執事を歴任した三善氏の引付頭人太田時連女であり(続群書類従本)、信濃守を勤めた吏僚系御家人の娘を娶っている。太田時連は佐々木氏惣領六角頼綱の女婿であり、佐々木氏が吏僚系御家人と閨閥を築いたことが確認できる。 
幕府に忠誠を尽くした清高は、鎌倉幕府滅亡にあたって一向派の近江国番場蓮華寺で六波羅探題北条仲時(信濃守護)とともに自害している。「近江国番場宿蓮華寺過去帳」(「群書類従」二十九輯)には「佐々木隠岐前司清高(三十九歳)、子息次郎右衛門尉泰高(十八歳)、同三郎兵衛尉高秀、同永寿丸(十四歳)」とある。 
しかし、清高の末子重清(左衛門尉・検非違使)は遊行上人十一代自空になったという。たしかに従兄弟の出雲守護代佐々木隠岐入道自勝とは「自」が通字となる。  
佐々木泰清┬隠岐時清―宗清┬清高―重清(自空) 
       |            ├秀清―隠岐入道自勝 
       |            └清顕―師清―頼清(都万郷地頭) 
       ├塩冶頼泰―貞清―高貞(出雲守護) 
       ├富田義泰―師泰―秀貞(美作守護)―直貞(隠岐守護) 
       ├後藤基顕―顕清 
       └湯 頼清┬泰信―公清―公綱(出雲玉作城主) 
               └信清―雅清(布志名判官・若狭守護)  
清高の弟信濃守秀清の子息である隠岐入道自勝は、南北朝期に隠岐・出雲守護を獲得した佐々木導誉の守護代となり、隠岐佐々木氏は時衆との関係も継続して、貞和年間(一三四五〜五〇)には隠岐国の島後西郷に四条派道場の大光明寺を創建している。 
また松江市乃木善光寺蔵写本「託何上人法語」に「雲州玉作本阿弥陀仏ニ給ケル安心」とある人物は、時清の弟湯頼清(七郎左衛門尉)に始まる湯氏と考えられる。湯氏は玉作城を中心とする湯郷の地頭で、頼清―泰信(十郎左衛門尉)―公清(源三左衛門尉)―公綱(信濃守・源三左衛門尉)と続く。また湯泰信の弟信清の子が、「太平記」で「富士名判官」として知られる布志名判官雅清(若狭国守護職次第、大徳寺文書)である。 
時衆と隠岐佐々木氏の関係から、時衆と佐々木導誉の関係も見えてくる。小田切郷地頭佐々木宗清の妻は佐々木宗綱の娘であり、宗清は佐々木導誉の叔父に当たる。導誉は、足利義詮より給付された京都四条京極の土地を五日後には金蓮寺に寄進し、翌二年七月には近江国甲良荘領家年貢のうち五十石を金蓮寺御影堂に寄進した(金蓮寺文書)。 
佐々木時清の屋形は念仏踊始行の場になり、時清母あるいはその姉妹は一遍と結縁して極楽往生したが、時清の一族はその後も時衆と深く関わったことが分かる。  
  
伊予の山岳信仰(一遍の足跡)
一遍を育んだ伊予は、海に向かって開けた土地だが、一方では四国山地に向かって開けていた土地でもある。精神的シンボルとして海には一遍にとっては氏神でもある大三島の大山祗神社、山には霊峰石鎚山があ る。この二つの霊地が伊予一国に止まらず、瀬戸内文化を考察していく上で、両輪となっているように思う。  
一遍と山岳信仰 
河野水軍頭領家の一族として伊予国道後に誕生した一遍は、仏徒であると同時に修験者としての側面も持っているように思う。窪寺跡と推測される松山市久谷地区(窪野町北谷)は祠、寺院跡、神社などの宗教遺跡が密集してい るが、谷の最も奥まったところに禊ぎ場、岩室があり、蔵王権現が祀ってあったといわれている。蔵王権現とは、修験道のご神仏。同地区にある四国霊場第47番札所八坂寺は熊野権現を祀る修験道の拠点でもあ った。 
一遍はこの地で3年間修行して根本原理を確立し、竹林のように奇岩奇石がそびえ立つ第45番札所岩屋寺の岩室にこもって魂を浄化した後、「南無阿弥陀仏を唱えれば、極楽浄土へ行ける」という教えや念仏踊りを全国に広めていくわけ だが、岩屋寺奥の院の奇岩頂上からの景色というのは、驚くような絶景である。うっそうとした深い森の中から天に向かって突き出した奇岩に登り、約一畳ほどの頂上にたどり着くと、正面にはビシッと石鎚連峰が見える。岩屋寺は青年時代の空海も修行したと伝わる修験道の行場。石鎚山は今から約1300年前に役小角によって開かれた修験道の聖地 だ。  
石鎚連峰は独立した文化圏 
石鎚連峰周辺は昭和40年代初頭まで焼き畑が広がり、麦やアワ、ヒエ、ソバ、陸稲、トウキビ、芋などの雑穀を主食とする生活文化が息づいていた。雑穀を主食とした焼き畑は稲作農耕よりも古く、また平野や里山などの稲作農耕地帯とは異なった風習や生活形態、精神文化があ った。 
一帯は木材のほか紙の原料となるミツマタやコウゾの栽培、薪や炭、茶、生糸など換金性の高い商品を生産し、貨幣経済が早くから発達していたから、都市からやってくる商人たちも多く、都市情報も入手しやすい環境にあったと考えられ る。 
独特の精神文化と焼き畑によるほぼ自給自足の生活、経済と情報力を資源に、石鎚連峰周辺の山間地には、時の体制からそれ以上影響を受けない「もう一つの生活文化圏」が、保たれた。  
海の民と山の民、野の民の交流 
石鎚山では7月1-10日「お山開き」という大きな祭りがある。これは石鎚神社本社(西条市西田)に安置される三体のご神像が、中宮成就社を経由して頂上に上がり、10日間過ごすという神事。普段は里でお働きになっている神様が山へ里帰りして、再び元気を回復するという意味なの だ。江戸時代の初め頃には、その御利益に預かろうと参拝者が山にあふれたことから「お山市」と呼ばれるほど賑わったという。  
古来、お山開きには瀬戸内海の島々や沿岸からもたくさんの団体が参拝に訪れる。団体は講と呼ばれ、おおむね組や地区で編成されている。昭和43年に石鎚登山ロープウェイができて便利になるまで、石鎚山中には、そういった団体の宿泊所となる集落がいくつかあ った。その代表的な集落に西条市の今宮地区と旧小松町の黒川地区がある。両地区の民家はお山開きの10日間だけ民宿となり、親族をあげて参拝者たちをもてなしたが、宿泊する宿は例年決まっているばかりか、何世代にもわたって引き継がれていたこともあり、客人と宿人は親戚のようなつきあいをしていた 。  
もちろん、平野や里からも講によって組織された団体はたくさんやってきた。山の人が平野や島の人たちを迎え、もてなすお山開きは、生活文化を異にする山の人と海の人、野の人が混じり合い、絆をつくっていく年に1度の大交流会でもあった。日本人が自由自在に生活圏を飛び出して活発に動き始めたのは、戦後のこと。今日のような様相は、自動車社会に突入した昭和40年代以降なのかも知れ ない。 
それ以前は、里や津といった小さな生活圏の中で一人の人間の生涯は、完結しがちだったわけで、それでは農業も漁業も商業も発展しない。人々が生活圏を越えて混じり合うこの祭りは、西日本の経済活動にとって、かけがえのないカンフル剤となったこと だ。お山開きによって神様だけでなく、人も地域も社会も元気を回復していた、というわけなのだ。  
石鎚山中に残る古道 
石鎚山中には現在もうっそうとした森に埋もれながら、頂上を目指して人々が通った道が残っている。「熊野古道」がブームのようだが、同じく修験道の聖地である石鎚山にも立派な古道がある。古道は、まるで森の中のハイウェーといった様相で、見事な石畳や石垣の道が延々と伸び、沿線にはお地蔵さんや禊ぎ場、修行場が息づいてい る。石鎚は山全体が行場で、道そのものが宗教対象として尊ばれた。  
この道を1000年以上にわたって修験者が渡ってきた。江戸時代になると中国や九州、四国各地から一般の生活者たちがぞくぞくと参拝に訪れたことから、古道は幾筋も発展し、幕末になると小松藩主まで張り切って登ってくるほど だった。
 
一向俊聖
一向俊聖(1239-1287)という鎌倉時代に時宗開祖・一遍智真(1239-1289)と同時期に南無阿弥陀仏を布教した遊行僧については殆どの人は知らない。 
歴史教科書に中世・室町末期の「下克上の時代」に宗教一揆が起こり1世紀に及ぶ僧侶・農民・小領主による支配が続いた。いわゆる「一向一揆」(1466-1570)である。通説では「一向一揆」は「一向宗」(浄土真宗)特に真宗中興の祖といわれる浄土真宗本願寺8世の蓮如(1415-1499)の主導性が高く評価されている。 
蓮如が延暦寺を追われて北陸地方に活動の場を求めた時に、布教の対象としたのはこうした一向や一遍の影響を受けて同じ浄土教の土壌を有した僧侶や信者であり、本願寺及び蓮如の北陸における成功の背景にはこうした近似した宗教的価値観を持った「一向衆」の存在が大きかったことを示している 
文明5年(1473)蓮如によって書かれた「帖外御文」において「夫一向宗と云、時衆方之名なり、一遍・一向是也。其源とは江州ばんばの道場是則一向宗なり」とし、一向宗が一向の教団でもあることを明記して本願寺の門徒で一向宗の名前を使ったものは破門するとまで書かれている。 
何故に蓮如は一遍と一向の名を挙げ、時衆の「其源とは江州ばんば(番場)の道場是一向宗なり」と断定したのか。 
蓮如をして、真宗と「一向一揆」の結びつきを何故頑なに拒否したのか。 
北陸に強固な地盤を築いた「一向衆(宗)」と開祖「一向俊聖」とは何者なのか。 
一向俊聖の生涯 
一向俊聖の死後(1287)40年を経て「嘉暦三歳仲冬(1328)元祖の諱日に当りて是を書し畢ヌ」した「一向上人伝」より記述する。 
出生 
一向俊聖は筑後の国竹野庄西好田の名門家の第4子として暦仁2年(1239)亥の正月朔日誕生する。幼名は松童丸。俊聖の出生に当たっては、観音大師が御手に貝葉1巻を持ってこられて母の口中に投げ入れられた夢を見て孕まれたとのことである。幼児より崇仏の念が強かった。父は藤原冠四郎永泰、母は藤原兼家の女である。母の父に当る藤原兼房(1153-1217)は太政大臣であり、兄は九条兼家(1149-1207)、弟は天台座主慈円(1155-1225)である。 
永泰の兄は藤原氏草野太夫永平で筑後の有力十五氏の領主で「発心城」の城主でもあった。草野太夫永平は浄土宗二祖聖光房弁長に帰依し久留米の「善導寺」を建立した大檀越で、今日の浄土宗鎮西派の大本山の一つである博多の善導寺の母胎でもある。 
修行 
寛文3年(1245)春7歳の時播磨国書写山円教寺に上り、「昼夜学文おこたらす 恵解天然と師授を労せす螢雪灯ひに続き 讃仰つもりて」妙経八軸と天台の60巻を伝授され、建長5年(1253)15歳で剃染受戒して「俊聖」と名乗った。「命は念々にせまり、死は歩々に近づく。衆生みなかくのごとくならば成仏は誠に難かるべし」と悟り、翌年夏、書写山を下って6年間南都(奈良)の諸宗を歴訪する。 
諸宗の聖道門は難修難入であり今時の愚夫悪婦が易く得入できる法ではないと思い煩い、「この世で浄土に往生できる方法は浄土門によるほかはない」とする道綽禅師の「安楽集」の文言に触れる。伯父永平が帰依した弁長の弟子である然阿良忠上人(記主禅師)の訪ね鎌倉蓮華寺で14年に亘り随従する。 
一向専念の文[一向専念無量菩薩]により名を「一向」と改め専修行者となり「四大自本空 五蘊仮建立 宝号留所々 名之謂一向」という偈文を得て、文永10年(1273)2月諸国遊行に出る。 
「無常の偈」「浄土和讃」をつくり、門徒を「時衆」と呼称する。尚「時衆」とは善導著「観経疏」中「道俗時衆等 各発無常心」に拠る。 
遊行 
文永11年(1274)「文永の役」が勃発する。夏、大隈八幡宮に参詣し四十八夜の不断念仏を執行する。ここで神託「四十八蓮華」を受け踊念仏を始める。牧子を拾い縫い合わせ袈裟とする。一向時衆では踊躍念仏時に牧子を着用することが義務付けられる。翌建治元年豊前国宇佐八幡宮で踊躍仏修し大菩薩から鰐口表一面を給わり「にしへ行山のいわかどふみならしこけ(虚仮)こそ道のさわりなりけり」と詠み、この地で邂逅した一遍智真は鰐口裏一面を給わり「にしへ行山のいわかどふみならしこけ(苔)こそ道のたよりなりけり」と詠んだと謂う。同年夏から翌2年にかけて四国の讃岐、阿波、伊予を遊行し、伊予国桑村で俊阿が一向の初弟子となる。 
尚、四国への渡海時に荒波に翻弄されたが一向の念仏により海は治まったが、船中の消息を踊り念仏にして「四反十二段」の法式を制定した。翌3年から中国路を遊行する。同年備中の吉備津宮で7日の念仏を執行し、のちに本山番場の二代上人となる礼智阿が弟子となる。 
備後を経て弘安元年(1278)には安芸の宮嶋、出雲の水尾宮、弘安2年には長門豊浦、弘安3年には美作勝田郡に入る。弘安4年の「弘安の役」には因幡を遊行する。6年には京都に入り古跡霊場を巡礼し、翌年加賀金沢の弥陀安置道場で踊躍念仏を執行する。 
定住 
弘安7年(1284)46歳の夏、近江国坂田郡馬場(番場)米山の草堂(釈迦像安置)にて念仏を執行する。番場の豪族土肥三郎元頼の帰依を受けてこの地に留まることになり堂宇が建立される。この寺が今日の浄土宗本山八葉山蓮華寺の発祥である。番場の地は「日本書紀」「古事記」に現れる息長(おきさと)氏が住み、神功皇后(息長帯比売命)の背君が仲哀天皇、その子が応神天皇の系譜となり聖徳太子建立の「法隆寺」とは別の「法隆寺」がこの地に存在していた。木曾街道(近世の中仙道)の宿場で北国街道にも近く、古来より交通の要所であった。 
立ち往生 
弘安10年11月12日に発病し、18日死を予言し礼智阿を後継に指名し、亥の刻(22時)にしっかりした姿で立ち上がり念仏を数百遍唱え、笑みをふくみながら往生したという。鎌倉後期に描かれた「一向上人臨終絵」は畳一枚ほどの掛幅で下段に往生図、中段が野辺送り、上段が門弟たちの合掌・念仏の図である。尚、幕府により一遍時宗に吸収された一向時宗の苦難の歴史と現在の浄土宗(時宗)本山 七葉山蓮華寺」については改めて詳述したい。 
一向と一遍 
一向俊聖の生涯と、「一遍聖絵」に描かれた一遍智真の生涯との類似に驚かれたと思う。暦仁2年(1239)一向・一遍の誕生年であるが、河野家の大悲劇となった承久の乱の後鳥羽上皇が崩御された年でもある。一遍は還俗、再出家の経緯を踏んだので遊行開始が一向に比し数年遅れており、踊念仏は一向時衆が数年早い。又、九州、中国、北陸の遊行、布教については一向の跡を辿っていることに再び驚かれたことだろう。 
13世紀末頃流布した「天狗草紙」(三井寺巻第三段)を抜粋して、一向時宗、一遍時宗の差異と近似性を指摘しておきたい。   
「或は一向宗といひて、弥陀如来の外の余仏に帰依する人をにくみ、神明に参詣するものをそねむ(中略)しかるを一向弥陀一仏に限りて、余行・余宗をきらふ事、愚痴の至極、偏執の深くなるが故に、袈裟をば出家の法衣なりとて、これを着せずして、なまじひにすがたは僧形なり(中略)或は馬衣をきて、衣の裳をつけず、念仏する時は頭をふり肩をゆすりておどる事、野馬のごとし(以下略)」 
即ち「天狗草紙」に描かれた一向時宗の布教形態は次の4点に集約できよう、阿弥陀如来だけを信じ、神社に参拝することもせず、踊り(踊躍)念仏を修し、賦算はしない。  
一向宗
1.鎌倉時代の浄土宗の僧・一向俊聖が創めた仏教宗派。江戸幕府によって時宗に強制的に統合されて「時宗一向派」と改称させられました。  
2.他者が浄土真宗、ことに本願寺教団を指す呼称。 転じて江戸時代、江戸幕府によって強制的に浄土真宗の公式名称とさせられたもの。  
仏教史的な観念からすれば、本来は1.のみが「一向宗」の正しい定義であるとも考えられますが、実際には戦国時代の一向一揆の印象や江戸幕府による1.の強制統合(「一向宗」の使用禁止)と2.の強制改名(「一向宗」の使用強要)に伴い、今日では2.のみを指すのが一般的です。 
一向俊聖の「一向宗」  
鎌倉時代の僧侶・一向 俊聖(暦仁2年(1239年)? - 弘安10年(1287年)?、を祖とする宗派。  
一向は筑後国草野家の出身で初めは浄土宗鎮西派(西山派という異説もある)の僧侶でした。後に各地を遊行回国し、踊り念仏を修し、道場を設けました。近江国番場蓮華寺にて立ち往生して最期を迎えたといいます。以後、同寺を本山として東北、北関東、尾張、近江に一向の法流と伝える寺院が分布し、教団を形成していました。鎌倉時代末期に書かれた『天狗草紙』・『野守鏡』にはこの教団を一向宗と呼んで、後世の浄土真宗とは全く無関係の宗派として存在している事が記録されています。  
しかし、同時期の一遍房智真と同様に、遊行や踊り念仏を行儀とする念仏勧進聖であることから、時衆と混同されるようになっていきます。確かに一向も一遍と同様に浄土宗の影響を受けて自己の教義を確立させたものですが、全く別箇に教団を開いたものです。また、一遍と違い一向の教えは踊り念仏を行うとはいえ、念仏そのものに特別な宗教的意義を見出す事は少なかったとされています。ところが時代が降るにつれて一向の教えが同じ踊り念仏の一遍の教えと混同され、更に親鸞の起こした浄土真宗とも混ざり合うという現象が見られるようになります。特に一向の教義が早い段階で流入していた北陸地方ではその傾向が顕著でした。  
浄土真宗本願寺8世の蓮如が延暦寺西塔の衆徒により本願寺が破却され、北陸地方に活動の場を求めた時に、布教の対象としたのはこうした一向や一遍の影響を受けて同じ浄土教の土壌を有した僧侶や信者であり、蓮如はこれを「一向衆」(「一向宗」ではない)と呼びました。本願寺及び蓮如の北陸における成功の背景にはこうした近似した宗教的価値観を持った「一向衆」の存在が大きいわけですが、同時に蓮如はこれによって親鸞の教えが歪められてしまう事を恐れました。更に別の事由から他宗派より「一向宗」と呼称されていたことも彼の憂慮を深めました。  
文明5年(1473年)に蓮如によって書かれた『帖外御文』において「夫一向宗と云、時衆方之名なり、一遍・一向是也。其源とは江州ばんばの道場是則一向宗なり」とし、一向宗が一向の教団でもあることを明記して本願寺の門徒で一向宗の名前を使ったものは破門するまで書かれているものの、ここでも一遍と一向の宗派が混同されています。  
ところが、江戸時代に入ると、江戸幕府は本末制度の徹底化のために一向の流派を独立した宗派とは認めず同じ踊り念仏という事で、清浄光寺を総本山とする一遍を祖とする時宗の管轄下に置かれて「一向宗」の呼称を用いる事を禁じられました。『時宗要略譜』によると時宗十二派のうち、一向派、天童派が一向の法脈を受け継ぐものとされています。当然のように一向派(かつての一向の一向宗)は再三に亘る独立運動を起こすも実りませんでした。大半の寺院が時宗を離れ、一向の母体であった浄土宗に帰属するようになったのは昭和時代に入った1943年の事でした。 
浄土真宗の「一向宗」  
「一向」とは、ひたすらとか一筋ということで、一つに専念することを意味しています。これは『仏説無量寿経 』にある「一向専念無量寿仏」から、阿弥陀仏の名号を称えることと解釈され、そこから「一向宗」が他の宗派より親鸞を開祖とする浄土真宗を指す呼称となりました。一説には「浄土真宗」という呼称を嫌った浄土宗による呼称とする説もあります。  
従って、本来であれば浄土真宗の門徒から見て正しい呼称ではなく、また一向俊聖の「一向宗」と混同される事から望ましい呼び方でもありませんでした。しかし、中世において同じ念仏を唱える浄土教系宗派であった両派が混同され、更に時衆などとも一緒くたに考えられるようになっていきました。蓮如は前述のように「他宗派の者が(勘違いして)一向宗と呼ぶのは仕方ないが、我々浄土真宗の門徒が一向宗を自称してはいけない」という主旨の発言をして違反者を破門するとまで述べていますが、逆に言えばこれは、浄土真宗の門徒ですら一向宗を自称する者がいた事を意味しています。こうした指導により「浄土真宗」又は「真宗」と呼ばれるようになり、浄土真宗内部では正式には使われなくなりました。ところが、後に浄土真宗の門徒たちを中心とする一揆を一向一揆と呼ぶことなどで、浄土真宗を一向宗と呼ぶ他宗派の風潮は収まる事はありませんでした。 
宗名論争  
やがて、全国を平定した江戸幕府即ち徳川将軍家は浄土宗を信仰しており、また三河一向一揆で苦しめられた経緯から一向宗を公式名称として用い続けました。一方、浄土真宗側は本願寺の分裂などの影響があり具体的な対応が取られることはありませんでした。  
ところが、安永3年(1774年)、この事に危機感を感じた東本願寺と西本願寺が一致して幕府に対して「浄土真宗」のみを公式名称とするように求める意見書を提出し、仏光寺派・高田派など非本願寺系真宗各派もこれに呼応しました。寺社奉行松平忠順は困惑して、徳川将軍家の菩提寺である寛永寺(天台宗)と増上寺(浄土宗)に意見書に対する見解を求めました。寛永寺は他宗の問題である事を理由に宗派に任せる(事実上の容認)姿勢を見せたのに対して、増上寺は激怒しました。増上寺は法然の直系である浄土宗こそが「真の浄土宗」であり、異端である一向宗が「真」の字を用いる事をむしろ禁じるべきであると回答しました。この浄土宗側の主張も全く根拠の無い事ではなく、浄土真宗を開いた親鸞が著した『高僧和讃』において「智慧光のちからより、本師源空(法然)あらはれて、浄土真宗ひらきつゝ、選択本願のべたまふ」と著し、親鸞が師である法然を真の浄土宗の指導者としてその教えを「浄土真宗」と評し、自らもその継承者として「真実之教浄土真宗」(『教行信証』)と述べたのであるから、現在浄土宗とは別の宗派であると主張する親鸞の門徒が「浄土真宗」を採用するのは不当であると主張したのです(なお、蓮如が「浄土真宗」を公式の名とするように説いた半世紀前の正長元年(1428年)に後小松天皇が金戒光明寺山門に「浄土真宗最初門」の勅額を掲げさせています)。  
翌年松平忠順が寺社奉行を辞任して太田資愛が後任となると、老中田沼意次と協議して増上寺をはじめとする浄土宗寺院の幕府への貢献が格別であるとして正式に「一向宗」を正式な宗派名とする事を決定しました。これに対して浄土真宗各派は激しく抗議した為、その後審議のやり直しを決定したものの、実際には単なる先送りに他なりませんでした。その間に増上寺は浄土宗各派に対して「浄土真宗」の名称を用いる事が出来るのは浄土宗寺院だけであるという見解を出して増上寺に「浄土真宗」の額を掲げるなどの圧迫を加えました。追い詰められた真宗側は、天明8年(1788年)には上洛の帰途箱根山を通過した老中松平定信に対して浅草本願寺の僧が直訴する騒ぎとなりました。これに苦慮した定信は寛永寺の輪王寺宮に相談して仲裁を願い出ました。輪王寺宮は翌寛政元年(1789年)に「3万日」間寛永寺でこの問題を預かりその後に改めて議論するという仲裁案が出されて浄土真宗側もこれに従わざるを得ませんでした。これを「宗名論争(しゅうめいろんそう)」といいます。以後、浄土真宗はあくまでも「一向宗」の呼称を拒否して門徒宗(もんとしゅう)などの言い換えを行いました。  
明治政府が成立すると、神道国教化の過程で仏教統制の必要性を感じた新政府は浄土真宗に対して「浄土真宗」・「門徒宗」など「一向宗」以外の呼称を改めて禁じようとしました。ところが廃仏毀釈の問題も相俟って浄土真宗側の猛反発を買いました。浄土真宗側ではこの裁定を下した江戸幕府が滅亡した事、そして何よりも既に約束の「3万日」が到来している事を理由に改めて「浄土真宗」の呼称を認めるように迫りました。これに対して新政府は明治5年(1872年)になって浄土宗の手前「浄土真宗」は認めないが、略称の「真宗」であれば認めるとする見解を出しました。これに従った浄土真宗の寺院は以後「真宗」を公式名称としました。そして、戦後になって西本願寺を長とする真宗本願寺派は「浄土真宗本願寺派」と正式に名乗るようになりました。これに対してそれ以外の9つの浄土真宗系宗派はいずれも「真宗○○派」といった呼称を用いています。 
法然上人の法流  
善慧房証空(ぜんねぼうしょうくう)上人は、法然上人の『選択集』撰述の際、勘文(出典の整理等の作業)の役に当たられた高弟です。法然上人没後、証空上人は主に京都の西山を拠点とされていましたので、その法流は西山(せいざん)義といわれます。  
西山義は念仏一類往生義に立たれ、阿弥陀様のお浄土に往生できるのは念仏の行者だけで、その他の諸行では往生できないとされます。しかし、諸行であっても念仏に帰依をした上では、念仏胎内の善として往生の業になるとされます。  
証空上人の門下に浄音(じょうおん)上人の西谷(さいこく)流、立信(りゅうしん)上人の深草(ふかくさ)流、証入(しょうにゅう)上人の東山(とうざん)流、道観(どうかん)上人の嵯峨(さが)流、遊観(ゆうかん)・示導(じどう)両上人の本山(ほんざん)流(三鈷寺(さんごじ)流ともいう)、そして西谷流から、さらに了音(りょうおん)上人の六角(ろっかく)流があらわれましたが、現在は西谷流(西山浄土宗と浄土宗西山禅林寺派とに分派)と深草流(浄土宗西山深草派)との二流が伝承されています。  
また、この西山義の系統から一遍智真(いっぺんちしん)上人があらわれ、この法流は時宗として別立され、現在に伝えられています。  
聖光房弁長(しょうこうぼうべんちょう)上人の法流は、弁長上人が北九州のご出身で、同地方を拠点に栄えところから鎮西(ちんぜい)義(鎮西とは九州を意味します)といわれます。弁長上人から法灯を承けられた記主良忠(きしゅりょうちゅう)上人は、多くの撰述を著されるとともに、京都を始め北関東まで教勢を広げられました。  
良忠上人の門から、尊観(そんかん。良弁(りょうべん)ともいう)上人の名越(なごえ)派、性心(しょうしん。性真ともいう)上人の藤田(ふじた)派、良暁(りょうぎょう。寂慧(じゃくえ)ともいう)上人の白幡(しらはた)派(以上、関東三流)、然空(ねんくう。礼阿(らいあ)ともいう)上人の一条(いちじょう)派、慈心(じしん。良空(りょうくう)ともいう)上人の木幡(こばた)派、道光(どうこう。了慧(りょうえ)ともいう)上人の三条(さんじょう)派(以上、京都三流)があらわれ、次第に白幡派に集約されていきます。現在、京都・知恩院を総本山とする浄土宗はこの鎮西義(白幡派)です。  
鎮西義は、念仏を本願に誓われた往生の行として重視されますが、諸行も本願の行ではないものの往生できるとされ、念仏・諸行各々による往生を認める、念仏諸行二類各生義に立たれます。  
また、良忠上人の門下に一向俊聖(いっこうしゅんじょう)上人がおられ、この法流は鎮西義から別立した一向宗(いっこうしゅう)となりました。一向宗といいますと「一向一揆」等のように、多く浄土真宗の別名とされています。しかし、浄土真宗と一向宗とは元来別宗義で、本願寺第八代蓮如(れんにょ)上人は『帖外御文章』で、一向宗について「江州ばんばの道場」(一向俊聖上人の道場)と示され、浄土真宗と区別されています。一向宗は一遍上人の時宗と同じように遊行・踊念仏で栄えますが、やがて鎮西義に吸収されていきます。  
親鸞聖人の浄土真宗(真宗)は、西山義の一類往生・鎮西義の二類各生等に対し、お浄土を真実報土と方便化土とに分け、他力念仏の行者は真実報土に、諸行・自力念仏の行者は方便化土にそれぞれ往生すると、往生に真仮を分かちます。  
その他、隆寛律師(りゅうかんりっし)の長楽寺流(ちょうらくじりゅう。多念義)、幸西大徳(こうさいだいとく)の一念義、長西(ちょうさい)上人の九品寺流(くぼんじりゅう。諸行本願義(しょぎょうほんがんぎ)ともいう)、勢観房源智(せいかんぼうげんち)上人の紫野(むらさきの)門徒、信空(しんくう)上人の白川(しらかわ)門徒、湛空(たんくう)上人の嵯峨(さが)門徒等も一時栄えましたがやがて衰退、あるいは鎮西義等に吸収されていきました。 
 
 
一遍と親鸞1
一遍と親鸞の二人は、共に浄土の教えによる万人救済という究極の立場を採ったという点で、大きな共通点を持つが、その生涯や発言を比べると、極めて対照的である。
対照的な二人  
・生まれ 一遍[武家・河野家] 親鸞[公家・日野家]  
・出身地 一遍[伊予(地方)] 親鸞[京都(中央)] 
・勉学の地 一遍[博多(西山義)] 親鸞[比叡山(天台教学)] 
・生活 一遍[遊行] 親鸞[比較的定住] 
・結婚 一遍[離縁] 親鸞[妻帯] 
・対神社 一遍[神明尊重] 親鸞[神祇不拝]  
・芸能への関わり 一遍[深い] 親鸞[希薄]  
・歓喜 一遍[踊躍歓喜] 親鸞[歓喜なし]  
・弟子 一遍[時衆の形成] 親鸞[持たず]  
・戒 一遍[時衆制誡] 親鸞[無戒]  
・慈善 一遍[積極的] 親鸞[否定] 
・著作 一遍[なし] 親鸞[多数]  
・歌 一遍[和歌] 親鸞[和讃]  
・寿命 一遍[50余年(1239-1289)] 親鸞[90歳の長寿(1173-1262)]
特徴的な言葉 
生活・妻帯 
一遍(「播州法語集」)  
旅ごろも 木のねかやのね いづくにか 身のすてられぬ ところあるべき  又云、念仏の機に三品あり。上根は、妻子を帯し、家にありながら、著せずして往生す。中根は、妻子をすつといへども、住所と衣食とを帯し、著せずして往生す。下根は、万事を捨離して往生す。我等は下根の者なれば、一切をすてずば、さだめて臨終に諸事に著して、往生を損ずべきものなり。よくよく思量すべし。 
親鸞(「御伝紗」)  
六角堂の救世菩薩の夢告「行者、宿報にて、たとひ女犯すとも、我、玉女の身となりて、犯せられん。 一生のあいだよく荘厳して、臨終に引導して、極楽に生ぜしめん。 
踊躍歓喜  
一遍「聖絵」  
ともはねよ かくてもをどれ こころごま みだのみのりと きくぞうれしき 
親鸞(「歎異抄」)  
念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。  
弟子・戒・慈善 
一遍  
我が遺弟等、末代に至るまで、すべからくこの旨を守るべし。努力三業の行体を怠ることなかれ。  
親鸞(「歎異抄」) 
親鸞は弟子一人ももたず候ふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のこと(途方もないこと)なり。
浄土教の教えの基本・弥陀の本願 
計り知れないほどの昔、世自在王仏という仏がいらしたとき、ある国王が出家をして法蔵と名のった。仏の指導のもと法蔵菩薩は計り知れないほどの長い間思惟し、修行が完成し仏国土ができあがったとき何が成就されるべきかという願を立て(48願)、無量のあいだ修行し、遂に修行を完成させ、阿弥陀仏となった。そして、今も極楽という浄土にいらっしゃる、という「無量寿経」の教えに基づく。この48願の中で、われわれの極楽往生に関係する願は 、18、19、20願の3願である。この中で特に重要とされるのが18願です。第18願「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。 」ただ五逆と誹謗正法とをば除く。  
また、「無量寿経」下巻冒頭には「十方恒沙の諸仏如来は、みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ。あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心回向したまへり。かの国に生まれんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。 」とありこれも重要です。「観無量寿経」には「上品上生というは、もし衆生ありて、かの国に生まれんと願ずれば、三種の心を発してすなわち往生す。何等をか三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具すれば、必ずかの国に生ず。 」と説かれます。 
三心とは、「第18願」では、至心、信楽(信じ喜ぶこと)、欲生、「観無量寿経」では、至誠心、深心、廻向発願心で、これはどちらも同じことで、浄土に向けての、真実純粋な心、深く信じる心、真摯に往生したいと願う心のことです。  
善導は「往生礼讃」の中で、次のように説きます。「この三心を具すれば、かならず生を得、もし一心少けぬれば、すなはち生ずることを得ず」。これを受けて、法然も「選択本願念仏集」で 「極楽に生ぜんと欲はん人は、まつたく三心を具足すべし」と説きました。  
ここに、信心と名号という問題が生じてきます。  
すなわち「南無阿弥陀仏」と唱えるとき、心底から信じ切って浄土に行きたいと願って言わなければ、無意味なのか、という問題です。そして、人間はそういう純粋極まりない心を、持とうとして持てるものなのかという問題でもあります。  
この問いに対する答は、親鸞と一遍では大きく異なってくるのです。
親鸞の信心為本(親鸞の和讃) 
真実信心うるひとはすなはち定聚のかずにいる不退のくらゐにいりぬればかならず滅度にいたらしむ 
と親鸞は、信の大切さを強調します。親鸞の「信」に関する思想を、彼の主著「教行信証」によって見ていきます。 
まことに知んぬ、徳号の慈父ましまさずは能生(生ませる)の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識(内なる心)にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなはち内因とす。光明・名の父母、これすなはち外縁とす。内外の因縁和合して報土の真身を得証す。  
すなわち、親鸞はここで、阿弥陀仏の光明と南無阿弥陀仏の名号は、往生のための外からの間接的原因であり、自らの信こそが内なる直接的原因であると言うのです。 親鸞が信心と名号の関係をどう捉えていたかを端的に表す言葉が「信巻」にあります。  
真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。  
真の信心を持てば必ず自ずから南無阿弥陀仏という声が出てしまうが、逆に南無阿弥陀仏と言っているからといって信心を持っていることにはならないと言うのです。  
しかし、親鸞は極めて罪の意識の強い凡夫の自覚の強い人でした。そして、そういう煩悩にまみれて、純粋な信心を持てない人々の救いを求めたのでした。これでは教えが矛盾してしまいます。それを解決していくのが、親鸞の三心についての独特の解釈なのです。  
至心 
一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、・・清浄の心なし、・・真実の心なし。 ・・・如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。 すなはちこれ利他の真心を彰わす。  
信楽 
信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無礙の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。 ・・・如来、苦悩の群生海を悲憐して、無礙広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。 これを利他真実の信心と名づく。欲生についても、同様である。 
欲生 
欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり。 ・・・しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。 ・・・利他真実の欲生心をもつて諸有海に回施したまへり。  
つまり、至心、信楽、欲生の三心はいずれも、われわれの側の心のことではなく、阿弥陀仏がわれわれに向けて与えてくれるものだ、と親鸞は言うのです。  
ここに、親鸞特有の廻向の思想があります。  
煩悩にまみれたわれわれは何をやろうと功徳を積むことはできず、廻向は不可能である。廻向とは如来がわれわれに向けてその無限の徳を振り向けてくださることを言うのです。 そして、親鸞にとって、三心は結局、真実の信心という一心に帰するのであるが、われわれが真実の信を持つことができるのも、如来から与えられるが故に名のである。  
常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。 なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。 たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。 ここをもつて極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。  
しかし、ここまで見てきてもやはり、われわれが真実の信心に目覚めるということが極めてまれであるということに変わりないではないか、という疑問が残るでしょう。われわれは如来から無限の慈悲によって与えられている真の信心をどのように受け止めればよいと、親鸞は説くのでしょうか。  
ここで重要なのはやはり名号ではないかと思われます。先に見たように、「真実の信心はかならず名号を具す」のです。 おそらく、自分の計らいによって言う念仏ではなく、何らかの仕方で真の念仏の声に出会うとき、自ら純粋な信心を起こすことなど到底できないと深く悲しみをいだいて、それでもわれわれを救ってくれようとする如来の慈悲に気づき、信心に目覚めると、考えてよいのかもしれません。
一遍の「信不信をえらばず」  
親鸞の言葉として最も有名なのは、おそらく「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」でしょうが、一遍の場合それは「信不信をえらばず、浄不浄をきらわず」(「聖絵」)でしょう。この言葉では、一遍は、親鸞と全く逆のことを言っているように見えます。「播州法語集」にも 「熊野権現 信不信をいはず、有罪無罪を論ぜず、南無阿弥陀仏が往生するぞ と示現し給ひし時、自力我執を打払ふて法師は領解したりと云々。常の仰なり」とあります。  
しかし、「南無阿弥陀仏が往生するぞ」とは、どういうことでしょうか。 
又云、決定往生の信たたずとて、人毎になげくは、いはれなき事なり。凡夫の心には決定なし。決定は名号なり。しかれば、決定往生の信たたず共、口に任せて称名せば往生すべきなり。所以に、往生は心品によらず。名号によりて往生するなり。 
またさらに、一遍は次のようにさえも言います。  
全く往生は義によらず、名号によるなり。たとひ法師が勧むる名号を信じたるは往生せじと心には思ふとも、念仏申さば往生すべし。 いかなるえせ義を口にいふとも、心に思ふとも、名号は義によらず、心によらざる法なれば、称すれば決定往生すると信じたるなり。 
これは、いわば究極の念仏思想とでも言うべきでしょう。  
これまで議論されてきた三心も、一遍においては南無阿弥陀仏に帰すとされ、名号にそのまま含まれるとされる。 しかも、「声と念は一体なり」とされ、声に出して唱える念仏こそが大切なのです。  
ここで、親鸞における信、一遍における名号という二人の強調点の違いがはっきりしましたが、しかしながら、この点において二人は対立しつつも、なぜか不思議な一致を見せていると言いたくなります。要は、われわれの側の心の問題ではなく、如来の大いなる救いの力であるということでしょう。  
十一不二 
念仏を唱えるその時その時が臨終であり、念仏はただ今の一念である。一念は機の上からいえば初一念であって、本質的には臨終もなければ平生もない。臨終と平生は同一であるといっいる。只今の一念のみで往生できるが、一念でとどまることなく念仏を相続せよ。相続が多念であり時分である。多念は一念のつみかさねである。十劫の昔、法蔵菩薩が阿弥陀仏になったのは、只今の一瞬に衆生が念仏を唱えて往生するからである。したがって十劫の昔と只今の一念とは不二である、というのが十一不二の意味である。
 
一遍と親鸞2 
はじめに 
親鸞と一遍は日本の浄土教において、現世からの救済を説いた双璧といえる。 
親鸞は「真実信心うるひとは すなはち定聚のか ずにいる 不退のくらいにいりぬれば かならず滅度にいたらしむ」(浄土讃)等と述べ、信心決定による現生正定聚を主張し、一遍は「十劫に正覚す衆生界、一念に往生す彌陀の国、十と一とは不二にして無生を証し」(十一不二頌、一遍聖絵第1)等と述べて念仏の一念による現世往生を主張して、共に現世からの救済を強調しているのである。このように現世からの救済を強調する両者であるが、その主張内容には、諸処にかなりの相違があるのである。 
以下、信心と念仏、往生、臨終来迎、師弟観・家族観についての両者の相違点を窺うことにより、親鸞における現世の救済の内容を明らかにし、その意義を考察する。
信心と念仏 
親鸞は信心正因を主張し、信心決定のとき往生が決定するとした。念仏は、それによって往生が決定するのではなく、信心決定(往生決定)後の報恩行とした。そして念仏を要門(万行随1)真門(万行出過)弘願(他力)の三つに分け、要門念仏・真門念仏を自力念仏(方便)、弘願念仏を他力回向の他力念仏(真実)としたのである。親鸞においては、信心と念仏は完全に区別がなされている[注1]。 
一遍においては36歳の時、それによって他力念仏の本意を悟った(熊野成道)といわれる熊野証誠殿での熊野権現の夢告に「融通念仏すすむる聖、いかに念仏をばあしくすすめらるるぞ、御房のすすめによりて一切衆生はじめて往生すべきにあらず。阿弥陀仏の十劫正覚に、一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と決定するところ也。信不信をえらばず、淨不淨をきらはず、その札をくはるべし」(一遍聖絵第3)とある。一遍は他者に念仏をすすめ往生決定の証拠として念仏札を配る賦算をしたのであるが、阿弥陀仏の十劫正覚に、一切衆生の往生は決定しているのであるから、往生は信不信は関係ないと述べている。 
また「何ともかともあてがひはからずして、本願に任かせて念仏したまふべし。念仏は安心して申も、安心せずして申も、他力超世の本願にたがふことなし。」(一遍上人語録) 
決定といふは名号なり。わが身わが心は不定なり。このゆへに身は無常遷流の形なれば、念々生滅す。心は妄念なれば虚妄なり。たのむべからず」「名号は、信ずるも信ぜざるも、唱ふれば他力不思議の力にて往生す」「決定往生の信たたずとて、人毎になげくは、いはれなき事なり。凡夫の心には決定なし、決定は名号なり。しかれば決定の信たたず共、口に任せて称名せば往生すべきなり」(播州法語集) 
等とあるように、凡夫の心には決定往生の信はおこりえないとして、信心決定を不必要と考えているのであり、信心を重視した親鸞とは明らかな相異がみられる。また「極楽にまいらむとおもふこころにて 南無阿弥陀仏というそ三心(一遍聖絵第9)三心というは名号なり。このゆへに「至心信楽、欲生我国」を称我名号と釈せり。故に称名するほかに、三心はなきものなり」(播州法語集)等と述べているところから、念仏と信心とを別の者として区別していないように考えられる。 
このことは二祖他阿真教が「信心決定とまうすは本願名号に落居する一念なり。されば此信心の人ひとへに本願をあふぎ、機の徳をもたざるのあひだ。称名の一行より外に心のをもむきなければ、信心の人と称名の人ともいかでかわけ候べき。もし称名と信心をわけば。安心起行二途になりて、千中無一の行者たるべし」(他阿上人法語巻6)と述べて、信心と称名(念仏)を同一のものと述べていることからも明らか だ。 
親鸞は信心を強調し、信心決定する時往生決定し、現世で正定聚に住することを述べたのである。そして親鸞は念仏についても自力(方便)他力(真実)とを峻別して、真実信心具足の念仏を他力念仏としたのである。一遍においては信心決定はとくに必要ではないのであり、称名することが信心であり、称名の他に信心があるのではないとしているようである。この立場であれば、念仏の中にさらに自力・他力の分別はないであろう。このことは一遍聖絵第4で一遍から念仏をうけた武士が一遍をこの僧は日本一の狂惑惑ものといいながら、念仏には狂惑なしといっていることも、念仏はすべて真実であるとみているものと思われる。
往生 
親鸞の往生についての見解は真実報土往生の難思議往生、方便化土往生の双樹林下往生と難思往生とがある。本願成就文の「即得往生」を現世往生とする意見があるが、これはあくまでも現生正定聚の意と釈すべきであり、現世往生を述べるものではない 。これに対して一遍は上述の十一不二頌にあるように念仏の一念の往生を主張する。 
これについて「往生は初一念なり、最初一念といふも、なお機に付いていふなり。南無阿弥陀仏は本より往生なり。往生というは無生なり。此法にあへる所をしばらく一念とはいふなり。三世裁断の名号に帰入しぬれば、無始無終の往生なり。臨終平生と分別するも、妄分の機に付いていふなり。南無阿弥陀仏には、臨終なし、平生なし」(播州法話集) 
とあるように最初の念仏の一念で往生するのであり、往生は無生であり、臨終平生の分別はないと述べている。また「他力称名の行者は、此身はしばらく穢土に有といへども、心はすでに往生を遂げて浄土にあり、此旨面々にふかく信ぜらるべしと云々」(一遍上人語録) 
と親鸞の「超世の悲願ききしより われらは生死の凡夫かは 有漏の穢身はかはらねど こころは浄土にあそぶなり」(帖外和讃)と内容は相違しているが似たような言葉がある[注4]。これも平生往生の主張とみるべきであろう。そして「六字の中、本生死なし、一声の間、即ち無生を証る」(一遍上人語録)とも述べている。ここでは現世往生のみならず、現世成仏の主張がみられる。 
親鸞は現生正定聚を主張して、現世からの救済を強調したのではあるが「凡夫といふは、无明煩悩われらがみにみちみちて、よくもおほく、いかりはらだち、そねみねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらずきえずたえず」 (一念多念文意)等とあるように、現世においてはあくまでも、煩悩具足であることを述べたのである。往生を現世としないにであるから、当然のことながら「凡地にしてはさとられず安養にいたりて証すべし」(浄土和讃)とあるように、現世成仏を否定したのが親鸞であった。
臨終来迎  
来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆへに、臨終といふことは諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆへなり。(中略)真実信心の行人は摂取不捨のゆへに正定聚のくらいに住す。このゆへに臨終まつことなし、来迎たのむことなし、信心のさだまるとき往生またさだまるなり」 (末灯鈔)とあるように、48願中の第19願に誓われ浄土教の祖師においても大変重視された臨終来迎を否定したのである。これは親鸞独自の釈顕である願海真仮の釈に関連するものではあるが、「臨終まつことなし、来迎たのむことなし、信心のさだまるとき往生またさだまるなり」とあるように、往生の定まるのは臨終の時ではなく、平生の信心決定の時であることを強調している。これは親鸞自身の救済体験による確固たる確信であることに他ならない。 
臨終来迎について一遍は「厭離穢土欣求浄土の志深くして。息たえ命をはらむをよろこび。聖衆の来迎を期して彌陀の名号をとなへ。臨終命断のきざみ。無生法忍にはかなふべきなり」(一遍聖絵第7)「南無阿弥陀仏ととなへて、わが心のなくなるを、臨終正念といふ。此時、仏の来迎に預て極楽に往生するを、念仏往生といふなり」(一遍上人語録)等と述べているように、前述のように平生において往生成仏を主張しているようにあり、現世において確固たる往生成仏の体得を述べているようにもあるが、他面、臨終来迎に預かることを語り、それによって無生法忍にかなうことを述べているのである。 
この点の相違は救済の現実的意義を考察する上で大変重要なことであると思われる。 
親鸞は、信心決定のところで正定聚不退の位に入り、往生と同時に成仏(滅度)することを主張するのである。そして臨終来迎を否定する。この臨終来迎を否定するということは、信心獲得の平生においてすでに救済をえたという大きな確信から生まれたものと考えられる。この点一遍は現世の救済を強調しながら臨終来迎に預かることを語ることはどう考えるべきであろうか。 
さらに「唯仏智よりはからひてあてられたる南無阿弥陀仏ばかり所詮たるべしとおもひさだめて、名号を唱へ、息たえ命終る。これを臨終正念往生極楽といふなり」「只今の称名のほかに臨終あるべからず。唯なむあみだ仏ととなえて、命終するを期とすべし」(一遍上人語録)等とあるように命終の時まで念仏を称え続けるべきことが述べられている。 
最後の時まで称え続けなければならないとすると、最後まで不安が残るような様気がするのである。これに関して弟子であり第二祖である真教(他阿)の語録には「ほとけの本願のちから名号不思議の行体をもて善悪の凡夫必往生ををとぐべしといふ理り。まうし談ぜしとこそおぼえさふらふ。往生は臨終の一念に名号をとなへて。永く娑婆の旧業をつくし。 
不退の浄土に生ずべし」「この三性は仏法をさへたる業なれども。臨終称名のこえにそのつみ滅して往生をとぐるのあひだ。是を超世の本願名号の不思議とはなづけたるなり。これらの疑心ははれさせ給ひてさふらふとも。念仏なくしては往生不可なるべし」(他阿上人法語集)とある。 
これは真教(他阿)の語録であるので一遍自身のものではないが、弟子であるから一遍の思想と考えて差し支えないであろう。これによるとやはり臨終の一念の念仏で往生するのであり、それがなければ往生はできないと述べられているのである。これならば最後(臨終の一念)まで安心はできないことになるのではなかろうか。 
親鸞は現生正定聚を主張して臨終来迎を否定した。一遍は現世の往生成仏は述べながら、臨終来迎に預かるべきことを述べ、臨終一念の念仏を説いた。最後に来迎に預かるのであれば、どうしても最後まで不安が残るのではなかろうか。
師弟観 
親鸞は「親鸞は弟子一人ももたずさふらう。そのゆへは、わがはからひにて、ひとに念仏をまふさせさふらはばこそ、弟子にてもさふらはめ、彌陀の御もよほしにあづかて念仏まふしさふらうひとを、わが弟子とまふすこと、極めたる荒涼のことなり」(歎異抄)と述べている。実際には約80人程の弟子がいたと考えられるのであるが、自分には一人の弟子もいない。皆仏の弟子であると述べているのである。 
一遍は「南無阿弥陀仏一遍弟子当信用十二道具心」(一遍聖絵第10)「わが門弟子におきては、葬礼の儀式はととのふべからず。野に捨て獣にほどこすべし」[注5](一遍上人語録)とあるように、弟子という語を使い「弟子一人ももたず」と師弟の立場を否定した親鸞とは異なるものである。
家族観 
親鸞は「行者宿報設女犯、我成玉女身被犯、一生之間能荘厳、臨終引導生極楽」とある「六角夢想」、また法然の「現世のすぐべき様は念仏の申されんようにすぐべし。念仏のさまたげになりぬべくば、なになりともよろずをいといすてゝ、これをとどむべし。いはく、ひじりで申されずばめをもうけて申すべし。妻をもうけて申されずば、ひじりにて申すべし。(中略)衣食住の三は念仏の助業なり」(和語灯録)等とある言葉により、公然と肉食妻帯の生活をし、家族と一緒の生活をしたのである。 
一遍は10才の時、母の死により出家し、25才の時父の死により帰郷して家督を継ぎ妻帯して子も儲けた。そして36才で再出家したのである。そして家族を棄てた生活をした。家族について一遍は「念仏の機に三品あり。上根は、妻子を帯し家にありながら、著せずして往生す。中根は、妻子をすつといへども、住所と衣食とを帯し、著せずして往生す。下根は、万事を捨離して往生す。我等は下根の者なれば、一切をすてずば、さだめて臨終に諸事に著して、往生を損すべきものなり」(播州法話集)と述べて、我等下根の者は妻子は勿論のこと住所衣食の一切を捨てなければ、臨終に執着し往生は出来ないと述べているのである。 
この点は明らかに親鸞と立場をことにしているのである。また「衣食住の三は三悪道なり。衣装を求めかざるは畜生道の業なり。食物を貪求するは餓鬼道の業なり。住所をかまへるは地獄道の業なり。しかれば、三悪道をはなれんと欲せば、衣食住の三つをはなるべきなり」(播州法話集)とも述べているのである。上述の「和語灯録」五の言葉のように、肉食妻帯をせず一生ひじりで過ごした法然も「衣食住の三は念仏の助業なり」と述べているのであり、「三悪道をはなれんと欲せば、衣食住の三つをはなるべきなり」という一遍はまさに捨て聖といわれる面目躍如というべきであろう。だがそれほど執着を離れないことには往生はできないと考えていたのであろう。肉食妻帯をし家族と生活をしているままでは往生はできないという考えであったのであろう。
むすび 
親鸞浄土教の救済の現実的意義を明ににするために、親鸞と同様に現世からの救済を強調する一遍の教学を比較検討した。 
親鸞は現世での往生および成仏は否定し、あくまで現生正定聚を主張した。これに対し一遍は「十一不二頌」に示されるように、現世における往生成仏を主張しているのである。この点に限れば一遍の方がより強く現世からの救済を主張しているかにみえる。 
しかし親鸞が「臨終まつことなし、来迎たのむことなし、信心のさだまるとき往生またさだまるなり」(末灯鈔)と信心さだまるとき往生さだまると断言し臨終来迎は最早往生には一切関係無しと断じたのである。一遍は平生往生平生成仏を語る面はあるのであるが臨終来迎にかかわる面を残し、往生のための念仏を臨終時まですすめているのである。これでは最後まで往生についての不安が残ることになるのではなかろうか。 
親鸞においては信心と念仏が区別され念仏の中にも自力(真門)他力(弘願)の分別がなされ、信心決定が重視されそのとき往生が決定するとしているのであるが、一遍においては念仏即信心であり、臨終の時まで往生のための念仏をすすめるものと窺える。親鸞が「彌陀仏の本願を憶念すれば 自然に即の時に必定にいる 唯能く常に如来の号を称して大悲弘誓の恩を報ずべしといへり」(正信偈)と述べる信心決定(往生決定)後の報恩念仏(称名報恩)の主張は往生決定(往生一定)確固たる確信の上において生まれたものなのである。一遍は上述のように 
念仏は安心して申も、安心せずして申も、他力超世の本願にたがふことなし」(一遍上人語録) 
名号は、信ずるも信ぜざるも、唱ふれば他力不思議の力にて往生す」「決定往生の信たたずとて、人毎になげくは、いはれなき事なり。凡夫の心には決定なし、決定は名号なり。しかれば決定の信たたず共、口に任せて称名せば往生すべきなり」(播州法話集) 
等と述べているように、安心決定、信心決定の自覚は否定されており、それに関係なく念仏(往生ののための念仏)すべきことが説かれているのである。因みに一遍においては称名報恩の主張はみられない。一遍の主張に「踊り念仏」があるがこれも確固たる救われたよろこびの念仏ではなく、往生のための念仏と考えるべきであろう。 
師弟観、家族観においても両者相違は明確である。これは非僧非俗の立場をとった親鸞と捨て聖に徹した一遍との違いであろう。みずからが極めて重視した信心が如来よりたまっわったものあ他者のの信心も同様に如来よりたまわるものであるという徹底した他力の立場から「弟子一人ももたず」と述べ、またその信心による往生決定の絶対安堵の境地は、一遍の捨てた「俗塵ににまじはりて恩愛をかへり見」(一遍聖絵第1)る、家族と一緒の煩悩に煩わされる中の現実生活においても些かも崩れることのないものであったのである。 
註 
[注1]真宗教学において信(信心)行(念仏)不二という場合があるが、これは信のうえでいう言葉である。信心も念仏も共にその体は名号であるという意味でいう。 
[注4]一遍は「此身はしばらく穢土に有といへども、心はすでに往生を遂げて浄土にあり」と述べ、親鸞は「有漏の穢身はかはらねどこころは浄土にあそぶなり」とある。一遍は心はすでに往生を遂げて浄土にあり、と述べているのに対し、親鸞は有漏の穢身は変わらないと述べて、あくまで煩悩具足のままであることを強調し、身は穢土にあることを述べている。 
尚、「帖外和讃」は「三帖和讃」に収まってないところから、真偽不明とされるのであるが、この和讃のある「九首和讃」は真作であろうと考えられている。(仏教大辞彙) 
[注5]この臨終の言葉は親鸞の「某閉眼せば賀茂河にいれてうほにあたふべし」(改邪鈔)とあるものに類似している。また一遍は教信沙彌を慕っていた(一遍聖絵第9)。これも親鸞と共通している。  
 
一遍と親鸞3
日本浄土思想と言葉 / 一遍は和歌を作り親鸞は作らなかった 
今日は、日本浄土思想と和歌という文学形態との関係について、考えてみたいと思います。このテーマには、二つの基本的な問題が絡んでいます。一つは、仏教と文学あるいは和歌との関係であって、もう一つは、より広い意味での、仏教と言語との関係であります。 
しかし、今日は、こうした重要な問題を詳しく考察することはできません。また、特に日本文学に関して私は門外漢でありますので、限られた範囲になりますが、従来とは少し異なったアプローチで、日本浄土教における宗教自覚と和歌という表現形態との関係についての考察を進めてみたいと思います。 
仏教と平安・鎌倉時代の和歌の関係についての研究は、幾つかのアプローチで行われています。歌人たちの立場に立ちますと、仏教は様々な形で和歌に取り入れられました。功徳を積むための修行として、仏教の概念や教えを表す和歌が詠まれるようになり、勅撰和歌集に「釈教歌」という分類ができましたし、また、自らの芸術を発展させ、深めるために、仏教思想を借用する歌人もいました。藤原俊成と彼の「古来風躰抄」にみられる天台思想は典型的な例でありましょう。 
そしてまた、仏教行者あるいは遁世者としての生活をしながら、文芸にいそしんだ人々もいました。このような人々としては西行や鴨長明、兼好法師等がすぐに思い出されます。こうした、言わば隠者、修行者である文芸家にとって、一つの課題となるのは「狂言綺語」説という文学に対する仏教的批判でありましょう。しかし、こうした問題の在り方は、主に文学中心であり、研究の対象となるのは、文学的に優れた価値を見いだせる作品とその作者に限られます。 
今日は、こうした研究と違って、仏教思想と和歌という文学形態との関係、つまり和歌の宗教表現としての適用性あるいは可能性に焦点を当ててみたいと考えております。その為に、次の二つの作業をしてみたいと思います。その一つ目は、仏教思想家の和歌を考察すること、そして二つ目は彼らの和歌制作の背景を比較することです。 
前者のものとしては、もちろん単に五七五七七の形をとった表現を和歌と認めてはなりません。和歌の伝統的手法、つまり「枕詞」「縁語」「掛詞」「本歌どり」などを、どのように宗教的表現として取り入れているのかが問題なのだからです。したがって、仏教者であって、またある意味で歌人であった人物の歌を読むということになります。
一遍と和歌 
こうした考察の為に、一遍は適切な対象になるかと思われます。勿論、仏教者の間にも、もっとれっきとした歌人はいます。西行や慈円もいましたし、後の時代には良寛がいました。また連歌の世界では、心敬や宗祇といった人々が思い出されます。しかしこうした仏教者は、一遍の場合とは異なって、日本仏教思想に独自な発展をもって貢献したとは言い難いのではないでしょうか。というのは今日でも、西行はなぜ出家したのか、それは自由に和歌を作るためではなかったのか、というような議論は続いていますし、また良寛の覚りはどういうものであったのか、意見は分かれています。 
一方これに対して一遍は、鎌倉新仏教を創造した人々のうちの一人として認められていて、仏道に対するその献身的姿勢には疑う余地はありません。一遍は死ぬ間際に、阿弥陀経を唱えながら自分がそれまでに書いたものすべてを焼いてしまいました。最終的には阿弥陀仏の名号しかない、という意味だったのです。こうした行動は、西行にも長明にも到底考えられないことです。 
しかし同時に、一遍は西行を自分の先達、自分の師匠の一人としてみていたのではないかと思われます。「西行法師」といい、西行が訪れた歌枕の地を自らも訪ね、その地で同様に歌を詠んでいます。つまり、一遍は西行を慕い、彼のように和歌を自分の日常生活の一部分にしていたのではないかと思われるのです。 
江戸時代に編集された「一遍上人語録」には、約70首の和歌が記録されています。ある研究者は、一遍は、その生涯においてその10倍の数、つまり約700首の和歌を詠んだに違いない、と言っています。残っている和歌を見ると、かなり多くの和歌を詠んでいたとしても、ちっとも不思議ではありません。というのも、何気なく詠まれた歌が多く、また手紙に書き添えたり、あるいはお寺や神社にお参りした際に奉納したなど、随時に読まれた歌が多いからです。一遍の16年間の遊行生活においては、残っている歌と同じ様な和歌を詠む機会は沢山あったはずです。 
したがって、一遍は、仏教思想家であって、そして、文学的評価はともかくとして、ある意味では、歌人であったとも言えましょう。故に、思想と和歌という形態の関係を探る為には、まことに適切な対象になるのであります。そして今日の二番目の作業は、先にも述べました通り、比較することです。和歌を詠んだ仏教者と詠まなかった仏教者との比較を通して、詠歌(即ち和歌を詠む)という行為を支えた思想的要素、そしてあるいは和歌という文学形態を不適切にした思想的要素が明らかになる可能性があるのではないかと思うのです。 
それが、私の疑問、「なぜ一遍が和歌を作って、親鸞が作らなかったか」という今日のテーマであります。
一遍と親鸞 
一遍は1239年に生まれています。親鸞が亡くなった1263年には、彼はおよそ24才で、そして、それは九州で11年間の勉学と修行を終えた年であります。しかし、同時代の人物とは言いましても、年齢は離れていて、直接的な接触は何もなかったようです。また、一遍が親鸞のことを知っていたという証拠は何もありません。 
しかし、一遍が学んだ仏教は法然の弟子の證空が発展させた西山派の浄土教です。證空は法然門下の重要な弟子でありまして、親鸞が吉水の一門に入ってから流罪になるまでの6年間を、一緒に過ごしたのではないかと考えられています。また證空と親鸞はともに、法然門下では、一念義系統と言われています。つまり、念仏の行を強調する多念義系統に対して、本願を信ずることをより強調したグループに属していたと言われています。そうしますと、思想的なルーツに関して言えば、親鸞と證空の孫弟子であった一遍とは、わりと近いことになります。今日のテーマである比較のためには、このことは好都合であります。 
もう一つ、今日のテーマに関係して、思想的に非常に近い点があります。それは、普通の言語行為、すなわち我々の日常の言葉に対する批判的な態度です。親鸞の有名な言葉に「よろづのこと、みなもてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」というのがあります。又一遍も、次の様に言っています。「念仏の外の余言をば、皆たはごととおもふべし」。ここには、言語に対して二つの考え方がみられます。これらの考え方は、浄土教一般についていえるのでありますが、親鸞と一遍におきましては、非常に明確に表現されています。 
その考え方の一つは、言語に対して否定的なもの、これは人間の概念・思考は、歴史的・社会的に条件づけられたものであって、必然的にある状況の中から、またある特定の立場からの観点を表しているという認識であります。つまり、言葉・概念は事実そのものを表象しているのではなく、人間のものの見方は自己中心的であり、自己の立場からのものの把握は歪められているとします。こうした大乗仏教一般にみられる考え方には、徹底した言語批判が内包されています。 
もう一つは、言語に対して肯定的な考え方、つまり人間存在の言語性を認めるものであります。したがって、人間が実在(即ち真実あるいは真理)に触れる道は、こうした言語性からは離れ得ないとするのであります。この点において、浄土思想は、他の仏教諸伝統とは異なっています。他の多くの仏道では、行者は妄想(我執やものの実体化により歪められた思考や言語の世界)を種々の修行や持戒によって打ち破り、解脱を得るとされています。 
それ故に、それらの仏教では禅定の実践や智慧の実現が中心的な課題となるのですが、それに対し日本浄土仏教はまさに言葉によって、また言葉を媒体として覚りに至る、あるいは実在と出会う道であります。無論、通常の思考・言語行為を真実として肯定するのではありませんが、日常生活は宗教的転換の場として肯定されています。 
こうした意味での言語の肯定によって浄土教は日本での土着化を遂げたのであり、そして宗教自覚と和歌の表現もここに関係してくるのであります。 
ここで、言葉あるいは言語行為に関する疑問が起こってきます。 
一見相反するこうした二つの姿勢を有する日本浄土教は、特定の概念をもつ世界観を築きながら、一方で、同時にこうした概念の限界を認め、執着を否定しています。こうした言葉に対して批判しながら同時に肯定するという思想構造は、どのように融合されていて、文章(あるいは、今日のテーマである詩歌)となっていったのでしょうか。 
一遍と親鸞にはともに、詩歌の形のものとして、漢文の偈頌と和讃があります。勿論ほかにも、二人ともに消息法語と語録、そして別の種類の書物もあります。親鸞には500首以上の和讃がありますが、その一方で和歌は、確かなものとしては一つもありません。親鸞は和歌を一つも残してはいないのです。
一遍の和歌 
では次に、一遍の場合を考えてみましょう。まず、一遍の和歌の種類と性格を掴む為に4-5首の例を見たいと思います。 
先ず、神社詣での際に授けられた御告には、和歌の形をとったものがあるということに注目すべきであると思います。夢に受けた啓示は、一遍の宗教生活と思想に重要な役割を果たしました。一遍と時宗の代々の指導者たちの和歌・連歌の文芸活動を研究した金井清光氏は、一遍の詠歌に関して、「法語よりも和歌のほうが適切であり効果的であった」といい、「神仏のことばは昔から韻文形式によって人々に示されて来た」としています。つまり一遍の場合、「神仏の真言」としての和歌の性格を強調しているのであります。 
「一遍聖絵」などに、確かに和歌の形態をとった神(権現)からの御告が幾つか記録されています。例えば、 
大隅正八幡宮にまうで給(ひ)けるに御神のしめし給(ひ)ける歌とことは(葉)に南無阿弥陀仏ととなふればなもあみだぶにむまれこそすれ 
「なもあみだ仏に生まれ」るという一遍の思想表現がでていて、「一遍上人語録」の「南無阿弥陀仏の外に能帰もなく、又所帰もなき」に似ています。しかし、この様な御告の和歌は、数少なく、また和歌としての文学性を欠いていまして、一遍の和歌の中でも典型的なものとはいえないと思われます。また、数は少ないものの、釈教歌の性格を帯びた歌もあります。例えば、 
法の道かちよりゆくはくるしきにちかひの舟にのれやもろ人 
この歌も、内容・表現ともに一見平凡にみえます。「難行道」(聖道門)と「易行道」(浄土門)は、龍樹の「易行品」において、陸道を歩行することと水路に乗船することに例えられていて、浄土教の伝統に頻繁に使われてきた譬喩であります。 
しかし、この歌は単に教義を表す釈教歌ではなく、背景にある一遍の遊行の生活と時衆の指導者としての活動が浮び上がってくるのであります。彼は四国・九州・本州の間をたびたび渡っていましたが、こうした時、水軍を率いる豪族である河野家出身であった一遍は、自らの親族の助けを受けて舟を利用したと推測されています。実際「聖絵」に時衆が何艘かの舟に乗っている場面が幾つか描かれています。 
そして右の歌は、こうした舟に乗る時に作られたのではないかと推測されるのです。このように理解すれば、一遍の和歌の性格をよく表していることになります。というのは、和歌の形態は神仏の言葉に相応しいといっても、一遍の場合、御告・釈教の歌は極めて少なく、教義内容を頭に残る形にしたというよりも、和歌に別の機能や可能性を求めたのではないでしょうか。 
それは相手を、通常の世界観やものの見方から、超越した境地に導くことでありまして、右の歌の場合、世間を遊行している時衆を仏法あるいは仏道の世界に転入させようとしているのであります。 
一遍の和歌の典型を明確に述べようとするならば、次の三つの重要な要素から構成されていると考えられます。(一)訓戒の態度にみられる歌の機能、(二)名号という根源(三)捨て聖というペルソナ。特に(三)に含まれるスタイル、テーマ(こころ、捨てること)や、イメージ(はな、月)などについては、西行の歌の著しい影響を考えなければなりませんが、それは別の機会に譲り、ここでは(一)と(二)について考えてみようと思います。
一遍の和歌の機能 
先に述べましたように、一遍の歌の多くは、質問に対する返答、あるいは何かの出来事に対する反応であり、随時に詠まれたものであります。例えば、 
予州御化益の頃、三輩九品の念仏の道場に、管弦などして人々の遊びたはぶれ侍べるを、見たまひてつの国やなにはも法のことの葉はあしかりけりとおもひしるべし 
一遍の歌が果たしている役割を考察するために、まずこの和歌のテーマと、それを表現している和歌という形態との密接な関係に注目してみたいと思います。 
詞書によれば、一遍は、遊行中のとある時、人々が念仏道場において楽器で歌を楽しんでいるのをみて、戒めとしてこの和歌を詠んだ、とあります。「三輩九品の念仏」は、融通念仏のことを指していると推測されていますが、融通念仏の聖たちは、仏法を広めるために今様をよく作ったといわれています。一遍は、念仏行者が道場で仏教の教えを表す今様を歌っているのをみて詠んだのでありましょう。 
しかし、一遍の戒めは、単に道場の中における「遊びたはぶれ」に対する批判ではありません。人々が仏教のメッセージを伝える今様を楽しむことの背景にある、文芸も修行であり、功徳を積む手段であるという考え方を批判したのであります。一方「一遍上人語録諺釋」には、この和歌は「後拾遺集」の遊女宮木の左記の歌に基づいているという注釈があります。 
津の国のなにはのことか法ならぬ遊び戯ぶれまでとこそきけ 
この和歌のテーマは、「法華経」の教えに基づいています。この経典に、もし子供が砂遊びで卒塔婆を作れば、それは遊びでも功徳を得る結果をもたらすと説かれています。つまり、歌を詠むのも仏道にかなうという主張であります。さらに、「なには」という地名は、「何事も」という意味をもつ掛詞として用いられています。ここには、世間のものすべては、虚空の相であり、また法身仏の現れであるという密教的考え方が窺われます。こうした世間にある物事を肯定的に捉える考え方をもって、先に述べた文芸を批判的にみる仏教の文学観は翻されるでありましょう。 
一遍は、今様を楽しむことが仏道の修行になるという見方を否定し、通常の言語行為を批判する浄土教的観点に立っています。しかし特に注目したいのは、一遍の批判自体が和歌の形をとっていることであります。歌をもって歌を楽しむことを戒めるということになります。一遍は本歌どりという手法をもってこの逆説的状況を強調しています。そして、「なには」という掛詞だけではなくて、「あしかり」(芦、悪)という縁語を用いて批判を表します。つまり、和歌の手法を巧みに使用し、文芸が仏道になるという考えを否定しているのです。 
こうした矛盾しているようにみえる状況は、一遍の言語観に根差しています。一遍は、通常の言語をもって人々を、普段の虚偽的概念や言葉への執着からその克服へと導こうとして、そしてまた和歌という文学形態をこうした機能をもつ言語表現の仕方として好んだのであります。 
前述の、「神仏の真言」はよく和歌の形をとるという考え方は、一遍の場合にも示唆的ではありますが、その意味はより広い観点から理解されるべきでありましょう。一遍にとって、熊野神社での啓示は彼の人生に転換をもたらし、また和歌の形をとらなかったものの、一遍の和歌にみられる機能を果たしたのであります。一遍は、念仏札を阿弥陀の本願を信じない人にも渡していいのかという、自分の伝道活動に関して深い疑問を抱いて詣でたのであります。そして権現の戒めは次のようにいうのであります。 
融通念仏すすむる聖、いかに念仏をばあしくすすめらるるぞ。…信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし。 
これによって、一遍は善悪という分別に対する執着から離れることができたのです。一遍の和歌の機能も、こうした戒めと同様であります。例を一つみてみましょう。 
山門横川の真縁上人よりの文に、「すみすまぬこころの水の色々にうつりうつらぬ雲のみゆらん」。… 
すみすまぬこころは水の泡なれば消たる色やむらさきの雲 
このように手紙に付された歌交換の例は幾つかありますが、一遍はよく相手の和歌に基づいた歌を詠み返事をしています。相手の言葉を用いながら、転換した理解の仕方を表しているのであります。これは、比叡山の真縁が、心の水を澄んだ状態にしなければ、臨終来迎の雲が見えてこないという和歌を一遍に送ったときの、その返事の歌であります。ここでは、通常に考えられる実体化された心が問題にされ、自分の努力でそれを集中したままにしなければならないのではないかということです。 
しかし一遍は、心の状態はどうであれ、それは妄想であると返事しているのです。こうした心が妄想であり、自己に対する執着が消えるときこそが臨終であるというのです。つまり、彼は通常の考え方の枠組みを崩壊へと導こうとしているのであります。
名号を和歌の根源とする 
一遍の和歌は、通常の虚偽的言葉ではなくて、人々を普段の世界観や考え方から転換された宗教自覚へ導くという機能を有しています。こうした言葉はなぜ可能であるのでしょうか。普通の言語行為とどのように異なっているのでしょうか。一遍の考えでは、彼の和歌は名号と同じ性格をもっているからであり、また名号から出て来る言葉であるからといえるでしょう。名号と同様の性格を例をみて考察してみます。 
まず一遍は、和歌あるいは宗教的働きを果たす言葉の根源という問題を意識して、それを「こころ」というテーマで直接扱ったことに注目すべきであります。例えば、次の和歌があります。 
身をすつるすつる心をすてつればおもひなき世にすみ染の袖 
一遍にとって、修行に対する執着(すつるこころ)を捨てることが肝要であります。行者は世間だけではなくて、何よりも自分の善や徳に対する我執を克服しなければなりません。一遍自身の場合、こうした決定的な宗教体験は、熊野神社での啓示によって起こったのでありましょう。先にみたように、一遍は念仏者の理想的生き方を「すててこそ」という言葉で表現しています。右の和歌では、これは身も心も捨てて、「おもひなき世」に転入するといっています。また、「すみ染」の衣は掛詞であり、世に「棲む」と「おもひなき」心の「澄んでいる」ことでもあります。 
この和歌は全体的に勢いがあり、ある種の論理で統一されています。また最後が具体的なイメージで結ばれているのは一遍の和歌では少なくて珍しいのですが、通常の観念と判断を超越するというテーマは、和歌の動きに反映されています。こうした点において、「すてる」ところに出現する名号に類似しています。一遍は、釈迦仏の一生の教えはすべて「南無阿弥陀仏になりはてぬ」であるというのですが、和歌にも凝縮する力があり、普段の分別(すみすまぬ)や思惟(すつるこころ)を超えた世界観を表す力があるともいっているのであります。 
和歌のこうした凝縮力と統一された形を作る簡潔性は、一遍にとって大事であったと思われます。つまり「すててこそ」という生活「おもひなき世」の今のこの瞬間に現れる言葉であります。一遍は、この「わが心のなくなる」瞬間を「臨終正念」といい、この死の間際において生きようとしたのであります。念々を臨終として生きたのです。そして、この瞬間に出現する名号は、通常の意識で称えるのではありません。故に、名号が名号を称えると一遍はいうのであります。一遍の和歌もこの瞬間からでたもので、名号の跡であるといえましょう。 
主なき弥陀の御名にぞ生まれけるとなはすてたる跡の一声 
一遍の名号は「主なき」言葉であり、通常の考慮が捨てられたところからでてくるのであり、一遍の和歌も、人を導く働きを果たすために同じ性格をもたなければなりませんでした。しかし、「主なき」といっても、一遍の和歌は彼自身の経験からでてくる言葉でなければなりません。したがって、一遍はまた次のようにいっているのです。 
仏こそ命と身とのあるじなれわが我ならぬこころ振舞 
我執を捨てて、「主なき」名号に生きる行者には、阿弥陀仏が行為と言葉の主人であります。この背景には、證空の思想がありますが、それを考察する前に、さらに一遍の名号観に関して二三の点に焦点をあててみたいと思います。 
證空の教えは観念的であるといわれ、それに対して一遍の仏道は遊行、賦算、踊念仏にみられますように、より身体的であります。仏法の身体的受け方・現れ方は和歌にもみられ、特に息に対する一遍の考え方が重要であると指摘したいと思います。先に述べましたように、一遍は臨終の一念に生きようとした。「南無阿弥陀仏をとなへて息たえ命をはらん」というのが「念仏往生」であると言った。和歌という言語表現の形態もこうした息と関係していたといえるでしょう。一遍は次のように詠んでいます。 
阿弥陀仏はまよひ悟の道たえてただ名にかなふいき仏なり 
南無阿弥陀ほとけの御名のいづる息いらば蓮の身とぞなるべき 
この二首は、死を間近にしたときの和歌で、一遍の思想をよく表しています。命と息は密接な関係にあり、今の一瞬の息は臨終の息であって、「おもひなき世」に阿弥陀の命でいきることであります。こうした自覚を表現するのに、和歌はまことに適切でありました。さらに、一遍は次のようにも詠んでいます。 
いつまでも出入人の息あらば弥陀の御法の風はたえせじ 
名号と同じように自然にあらわれた和歌は阿弥陀仏の教えの風となるのであります。
一遍の和歌作りの思想的背景 
こうした一遍の歌作りの活動を思想的に支えたものは、彼の思想の背景にある證空の教えであり、また仏法の身体的体得への一遍の志向でありました。 
證空は、14才の若さで法然門下に入り、22才の時には勘文という役を勤め、「選択集」の撰集を手伝ったと言われています。しかし、法然と何人かの弟子が流罪になった時、證空自身も流罪になるはずでありましたが、彼は自らの親族関係を通して助けられたのです。そして法然滅後は天台密教を学び、法然教学を展開させるために、天台の考え方と概念を積極的に借用したのであります。 
したがって、一遍は他の鎌倉新仏教の開祖と言われている僧侶たちとは異なって、比叡山で天台教学を学んだことはありませんでしたが、證空の教えを通して、天台の考え方や密教の概念を学んだのであります。西行、慈円、明恵など、平安・鎌倉時代の代表的な歌人僧侶たちの殆どが、天台密教や真言を学んだ僧であったということを考えあわせてみますと、こうした天台あるいは密教の世界観が、一遍の詠歌活動を大きく支えたであろうと推察できますが、それが具体的にどのように影響したのかを探らなければなりません。 
そのためには、證空の思想で特に重要な(一)領解という宗教自覚と、(二)行者と仏陀との一体性に焦点を当てて、それらがいかに一遍の和歌作りに影響を与えたのかを考察してみたいと思います。前者には、天台の本覚思想の影響、そして後者には、密教で説かれる行者と仏陀の不二の関係の影響がみられるのであります。 
解釈としての転換 
日本の天台や密教思想には、覚りあるいは仏陀は普遍的な実在であり、衆生も本来、悟っているのであるという、いわゆる「本覚思想」という概念があります。いろいろなニュアンスで理解されてきた概念ではありますが、より拡大された解釈をしますと、現実の、この世とこの身はそのまま覚りの境地であると言い、大事なのはこうしたことを自覚するということになります。このように日常生活を肯定する思想は、文学へも影響を与えたはずであります。 
一遍も親鸞も、こうした拡大された理解を直接に否定していますが、證空にはある意味での本覚思想的な発想が見られるのであります。證空の教えによると、阿弥陀仏が本願を成就した十劫の昔に、すべての衆生の往生と覚りが決定されていたのである。したがって今生きている人々の往生と成仏は、もう既に阿弥陀仏の本願と修行によって決まったことになっていて、われわれは覚りを得るための修行は何もする必要がないのであります。むしろ必要なのは、こうしたことを把握するということで、證空の言葉では「領解」といい、それは即ち理解の仕方における転換であります。 
したがって、證空の浄土教で中心となるのは、経典の解釈であります。つまり、経典に説かれた教えの受容、即ち信ずるという事よりも、その教えの真意を正しく把握する事が肝要になるのであります。それは、仏陀の意図したものは、必ずしも表面的な、文字通りの意味というわけではないということであります。 
ここで重要なのは、テキストによって異なった解釈が可能であるということです。通常の考え方で理解することも可能であり、また「我に道理有りと執すれども、其の執心を翻して、…仏心に順ずれば、」迷いではなくて転換された理解もできる。つまり、無明に根差した解釈と、真理あるいは実在に相応する把握が可能であり、前者を翻して後者に入ることが肝要なのであります。これに関して、證空の考え方には、言葉にはいろいろな働きがあるという認識があり、概念化された真理を知性的に伝えるという機能だけではなく、直接には表現不可能な真理の把握へ導くという役割をも果たすことができるという理解であります。 
ここで、證空の思想を考察する手掛かりの一つとして、行の問題を考えてみます。法然が亡くなって間もなく彼の主著である「選択集」が出版されましたが、直ちに強烈な批判が放たれました。その批判の一つは、法然は念仏以外の行を認めていないということにありました。こうした批判に応えようとする弟子の間には、「諸行往生」という概念が説かれるようになりました。これは、阿弥陀仏の本願には念仏往生の願もあるのですが、また一方では、念仏以外の行で阿弥陀の浄土に往生ができるという願もある、という考えであります。 
実際、「観経」には、いろいろな行が説かれています。この経典には、16観のうち最初の13観は、順に日想観、水想観、地想観などに始まり、阿弥陀仏の浄土や仏・菩薩の姿を観察する方法が説かれています。しかし、最後の三観は三つずつ、九段階のレベルに分けられており、種々の行および善い行為が説かれていて、称名念仏はその最後のレベルであり、他の善を行う能力のない人のために説かれているのであります。したがって詳細に説かれた様々な観察の行が中心であり、称名念仏は最も程度の低い行であるかのようにみえるのであります。 
しかし證空にとっては、「観経」の真意は、こうした文字どりの観察の行ではありません。彼は、この行を説くいきさつに注意を払い、こうしたいきさつの中にその16観を譬喩、あるいは宗教自覚に導く為の「観門」として理解しているのであります。要するに諸行を説く教えは、日常の道理・因果説に合っているのであります。善を行なえば善い結果が得られるので、善を勤めるべきであると考えるのです。悪も同様に因果関係で起こるので、悪は避けるべきであるということになります。 
しかし、日常生活の論理は、妄想である自己の把握に根差しています。つまり、我執、即ち自我を拡大する為の計算、はからいの現れなのであります。 
したがって「観経」を学び修行に勤しむということ、あるいは他の行の中から称名念仏を選択するということが、證空の解釈においてはポイントではありません。むしろ、修行に対して新たな理解の仕方が必要であり、こうした新しい理解は自己に関しても新しい把握の仕方になるのであります。これが念仏の意義であります。念仏は功徳を積んで、浄土に往生を遂げるための行ではなくて、自分の存在の新しい把握の仕方の現れとするのであります。 
證空の説では、釈迦牟尼仏は「観経」において16観の行法を説いたのですが、これはわれわれにこれらの行を行ずるように勧めているのではなくて、浄土や阿弥陀仏の姿の観察は、むしろ譬喩ということになるのです。人間の我執や執着に基づくはからい・計算から、仏陀の働きの目覚めへと導く教えの言葉(観門)ということであります。つまり、この経典を読み正確に理解しようとするならば、読みながら理解の仕方に変化が起こらなければなりません。 
浄土教との関わりは、ある過程を辿っているからであります。そして、その教えに関して、または自己に関して、新しい理解の仕方が生まれてくるのであります。 先にも述べましたように、一遍の和歌にも日常の分別・思惟から超越へと導く働きがあり、その背景にはこうした證空の言語観があったと思われます。妄想を払ってしまうところに、分別を超えた実在が現れ、この自覚から和歌が生まれてくるのであります。
一遍の体験重視 
もう一つの思想的要素は、特に密教に見られるのですが、行者と仏陀の不二あるいは融合を強調することであります。行者は、身体で手印を結び、口には真言を唱えて、こころで本尊を観察するということによって、仏陀の働きが行者の身に入り、又行者の身・口・意の業は仏陀に入ると言われています。この相互的関係あるいは一体性は、「入我我入」と表現されています。 
これと類似する関係は證空、そして後に一遍も説いています。これは善導の説に基づいていて、衆生が口で阿弥陀仏の名号を唱え、体で礼拝し、心で念ずれば、仏もまた衆生を聞き、見、憶念するという関係です。つまり衆生と仏の働きが互いに一体となって離れないということであります。證空はこれをいろいろな言葉で表し、例えば「往生とは、仏の御心と我心と一に成りあひたる処を云いけるなり」と述べています。 
しかし證空には、和歌を詠むという詠歌活動があまりありません。したがって一遍の場合には、もう一つ他の要素が背景として考えられます。これは、宗教体験、あるいは超越した次元との接触の追求であります。證空は「観経」を説くいきさつ、いわゆる王舎城の悲劇の物語に注目してその経典の教えを解釈したのです。しかし一遍は、教えにおける「往生」「来迎」等の概念を象徴的に解釈するだけでなく、ある浄土教の譬喩の物語を身をもって新たに実現しようとしたのです。和歌もその実現のための表現の一つであったのであります。 
一遍の宗教家としての生涯はおおよそ二つに分けることが出来るのではないかと思います。まず、約12才から24才までの11年間、つまり九州で證空の弟子に浄土教を学んだ期間であります。 
そして父親が亡くなった時に、四国の実家に帰り、暫く世俗生活に戻りました。この間に結婚したとも言われています。しかし、何か問題が起り、32才で再び出家することを決心し、この時は以前のように教学的な勉強をするというのではなくて、仏法を自ら体得することを求めて、そして後には日本全国の人々に阿弥陀の名号に、いろいろな手段で、身をもって触れさせようと積極的な活動をしたのであります。これを一遍の宗教家としての第二の生涯ということができるのではないでしょうか。伝道の為に念仏札を配り、踊り念仏を行ない、そして死ぬまでの16年間、遊行という旅の生活を送ったのであります。 
一遍にとっての詠歌作りも、仏法との接触、あるいは彼自身の宗教自覚の、極めて自然で、身体的な現れではなかったかと思うのであります。
一遍と宗教体験 / 二河白道の譬喩 
以上申し上げました二つの側面、即ち證空の浄土思想と仏法の体得への追求は、融合した形で一遍の「二河白道」という譬喩の理解に見られるのであります。一遍にとって、この譬喩は自らの生き方のパラダイムであり、そしてまた歌を詠むパラダイムでもあったといえると思います。 
「二河譬」は簡単に言いますと、ある旅人が西の方向に向って歩いていると、後ろから群賊と獣が襲ってくる。逃げようとすると、前には火と水の二つの河が立ちはだかっている。よく見ると二つの河の中間に、細い白道があり、ほかには渡る術がない。引き返しても、留まっても、前進しても死を逃がれえないような状況のもとで、旅人は白道に踏み出す決意をすると、丁度その時、東の岸からは進めよという声がし、また西の岸から来いと呼ぶ声が聞こえる。 
そして旅人は一心に進み、彼岸に至る。これが「二河譬」の譬えであります。善導は、浄土への願望の在り方と信心の守護とを教えるために、「観経疏」にこの譬喩を書いたのであります。 
再出家した時に、一遍は善光寺を訪れています。善光寺の阿弥陀仏は生きている仏様として当時は広く信仰されていて、一遍もこの阿弥陀仏との出会いができたと、聖絵には書かれてあります。その後四国に帰り、自らの宗教体験を確かめるために3年間「閑室」にこもり、世間から離れて念仏生活を送ったのでありますが、この間、この善光寺で書き写した「二河譬」の絵を、本尊として東の壁にかけて、その横に自分の理解を表わした偈頌をかけていたのであります。その偈頌は次の通りであります。 
十劫正覚衆生界 一念往生弥陀国 
十一不二証無生 国界平等座大会 
この偈頌には、一遍の西山派の概念が表われています。阿弥陀仏は十劫の昔に正覚を得たが、これは衆生のためであり、この正覚は衆生界に今も満ちている。したがって、現在のこの瞬間の一声の念仏に衆生は往生を得る、即ち十劫の昔の正覚の瞬間と今の念仏の瞬間は、不二であるということであります。 
しかし、一遍は、西山の概念と考え方を用いながらも、彼独自の思想を主張しているのです。證空の観経の解釈は絵画的、あるいは空間的であります。観経には、いろいろな行は連続的順番、また階層的順番に説かれているのですが、證空はこうした順番を重要とせずに、いわば行を平面に並べて空間的な解釈を施すのであります。證空によれば、観経の本当の意味は、阿弥陀の本願に関して行者はすべて平等である、なぜなら、衆生の力で往生できるのではないからということなのであります。 
同じ様に、一遍は「二河譬」の物語を絵画的、あるいは空間的に解釈したのであります。プリントにある絵は幾何学的で、また曼陀羅風で、一遍がこうした絵を写したかどうかわかりませんが、ある意味で一遍の解釈をよく表していると思われます。白道が中心にあり、この白道の場において、仏陀から衆生へという動きと、この世から浄土へという動きの二つが融合されて、二元論的考え方、即ち仏と衆生、またこの世と浄土という分別がなくなるのであります。 
行者にとって、この白道での一歩一歩は臨終であり、浄土で阿弥陀の大會に入ることであります。一遍にとって、この世での命は白道に踏み出すことの繰返しであります。そして行者と仏陀、この世と浄土という譬喩における概念は、今のこの瞬間に凝縮され、日常の論理や考えから外されて不二、平等になるのであります。 
一遍は、白道を彼独自に解釈しました。善導に依ると、白道は回向発願心つまり浄土への志の象徴でありますが、一遍にとっての白道は、名号そのものを表しているのであります。つまり計らいや分別のなくなる場あるいは姿であります。 
阿弥陀仏は要素として風であると真言では言われていますが、一遍は、無量寿である阿弥陀仏を、即ち息であると考えたようであります。 
そして一遍の和歌作りにも、それは関係があると思われます。彼の和歌は、念仏の様に自然に口に表れ、名号と同じく、その瞬間、我執に根差した思惟の否定、崩壊の姿でありました。和歌がこうした機能を果たせるのは、形として短いということと、縁語等、日常的論理以外の手法で統一されているということによります。和歌の形は、「二河譬」の絵画化と同じように、時間を凝縮し、普通の思考の基となっている二元論を超える場や姿を作るのにまことに適切なのであります。 
一遍の和歌にこうした働きが見られます。
親鸞と和讃 
時間が殆どなくなってしまいましたが、ここで今日の二番目の作業、なぜ親鸞が和歌を作らなかったか、あるいは、一遍の和歌作りの思想背景との違いは、どこにあるのかに移ります。 
まず、この二人の思想家の言語に関する考え方の根本的な類似性を認めなければなりません。さらに二人はある転換の瞬間、衆生と仏陀、この世と浄土という、教えを成している対立の概念はある意味で不二となる瞬間を説き、この不二の姿が名号であり、親鸞も一遍もこの名号を本尊とするのであります。 
しかし、この心の転換に関して、基本的な違いがあります。一遍は、行者はあらゆる執着を捨てるべきであるとします。こうした考えはお手許のプリントにも見られます。しかし親鸞にとっては、普通の人間にはこの捨てるということができない、だからこそ凡夫であり、迷いにあるというのであります。では親鸞の場合、この転換のメカニズムはどのように起こるのかという問題があります。 
その構造は「歎異抄」に見られます。例えば、先に見た言葉に 
善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします 
とあります。ここでは、善悪の価値判断が問題にされています。多分、ある質問に対する答えです。例えば、往生を遂げるためには、善を為し、悪を避ける必要があるのでは、という考えに対する親鸞の発言であるかも知れません。親鸞は、自分は善悪の二つを全く知らないと返事するのであります。ここに、普通の我執に基づく論理、計らいへの否定が見られます。ある意味で一遍と同じであります。 
しかし親鸞の仏道は、人間はあくまで言語、概念の世界の中に暮らすのであり、すべてを捨てなければならない、とは言わないのであります。 
「歎異抄」で親鸞は、計らいがなくなるということは、悪の自覚と結び付いているのであると、つまり善悪を知らないということと、自分の存在の悪を自覚することは、普通の論理では矛盾していますが、切り放せない一つの自覚の二つの面であるというのです。 
詩歌の形を考えた場合、この矛盾した二つの面を同時に表すためには、和歌より和讃の方が適切であります。例えば、次の親鸞の和讃があります。 
よしあしの文字をもしらぬひとはみな 
まことのこころなりけるを 
善悪の字しりがほは 
おほそらごとのかたちなり 
是非しらず邪正もわかぬ 
このみなり 
小慈小悲もなけれども  
名利に人師をこのむなり 
ここでは、述懐という気持ちが、和歌の形でなくて、和讃の形をとっていますが、その必然性は、善悪に関して二つの態度を同時に表さなければならないからであります。 
この二つの態度は、論理的に矛盾するのですから、親鸞は他の人々と自分に分けていますが、歎異抄の言葉から解るように、この二つの面は両方とも親鸞の自覚にあったのです。 
今日の話は、単に問題提起で終わりますが、宗教的、文化的多元性を認めざるをえない現在の世界においても、親鸞と一遍の言語観は示唆的ではないでしょうか。
  
共同心・共に心を同じくして
道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説 / 道俗時衆〈どうぞくじしゅう〉、共〈とも〉に同心〈どうしん〉に、ただこの高僧〈こうそう〉の説〈せつ〉を信〈しん〉ずべし。 
親鸞聖人は、「正信偈」の「依経段〈えきょうだん〉」に、阿弥陀仏が本願を発された由来について述べている。それは「仏説無量寿経〈ぶっせつむりょうじゅきょう〉」に基づいて、本願が私たちに対して現にはたらき続けている事実を教えて いる。また、釈尊が「仏説無量寿経」を説き、阿弥陀仏の本願のことを私たちに知らせるために、わざわざこの世間にお出ましになられたことを、歓喜とともに述べている。 
次の「依釈段〈えしゃくだん〉」では、インド・中国・日本に出られた七人の高僧の名前とその事績について教えている。これら七高僧により、本願念仏の教えを正しく伝え、本願のはたらきに目覚めるよう促してく れたからこそ、仏教の真髄の教えが親鸞聖人自身のところに誤りなく伝えられたと、感銘深く述べている。 
釈尊が説いた「仏説無量寿経」の真実を、七高僧が誤りなく親鸞聖人に伝えたことが意味するところは、釈尊と七高僧が、親鸞聖人を通して「極濁悪〈ごくじょくあく〉」である私たちを阿弥陀仏の本願に目覚めさせようとしてくださったということなので ある。 
そのことを私たちは、「弘経〈ぐきょう〉の大士〈だいじ〉・宗師等〈しゅうしとう〉、無辺〈むへん〉の極濁悪〈ごくじょくあく〉を拯済〈じょうさい〉したまう」(弘経大士宗師等〈ぐきょうだいししゅうしとう〉 ・拯済無辺極濁悪〈じょうさいむへんごくじょくあく〉)という二句からうかがうことができる。 
そのために、親鸞聖人は、この句に続けて「道俗時衆共同心〈どうぞくじしゅうぐどうしん〉 唯可信斯高僧説〈ゆいかしんしこうそうせ〉」(道俗時衆、共に同心に、ただこの高僧の説を信ずべし)と述べて いる。 
「道俗」は「僧侶と僧侶でない人」という意味で、「僧侶であろうと、僧侶でなかろうと」ということである。阿弥陀仏の願いが向けられている人びとであり、共に本願による念仏をいただくすべての人びとのことで ある。親鸞聖人は、この「道俗」のことを別に「御同朋〈おんどうぼう〉」「御同行〈おんどうぎょう〉」とも呼んでいる。「時衆」は「その時々の人びと」ということで、親鸞聖人の時代の人びとはもちろん、今の私たちをも含んでいる 。 
「共同心〈ぐどうしん〉」(共に同心に)は、すべての人びとが、互いに、あれこれと思いをめぐらせるのではなく、心を一つにするということである。親鸞聖人は、ここで、互いに心を一つにするべきであると教えて いるが、それは、親鸞聖人ご自身と同じ心になってほしいと、私たちに願っている言葉として聞くことができる。 
親鸞聖人が私たちに「ただこの高僧の説を信ずべし」と述べ、他の人びとの教えではなく、ただただ七高僧の教えを信ずるべきと教えている。それは、七高僧が並外れて勝れ ているからということだけではな く、阿弥陀仏の本願の通りに生きた方々だからなのだ。 
高僧の教えによって、親鸞聖人自身が本願の念仏に出遇うためにこの世に生まれて来たことを、身をもって体感したのでしょう。そして、他力の信心に生きる歓〈よろこ〉びを教えられたではないでしょうか。そのような自分と同じようになってほしいと、親鸞聖人は私たちに願っているので す。 
「高僧の説を信ずべし」は、高僧の教えを鵜呑みにするということではない。親鸞聖人がそうであったように、自分自身が邪見憍慢〈じゃけんきょうまん〉の悪衆生〈あくしゅじょう〉であることを 感じるとき、何かが始まると思えることを教えている。
 
日蓮1
(にちれん・貞応元年(1222)2月16日-弘安5年(1282)10月13日)鎌倉時代の仏教の僧。法華経の題目を重んじる諸宗派が宗祖とする。死後に皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号を追贈された。 
 
貞応元年(1222)2月16日安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市、旧・安房郡天津小湊町)の小湊で誕生。幼名は「善日麿」であったと伝えられている。父は三国大夫(貫名次郎(現静岡県袋井市貫名一族出自)重忠、母は梅菊とされている。日蓮は「本尊問答抄」で「海人が子なり」、「佐渡御勘気抄」に「海辺の施陀羅が子なり」、「善無畏三蔵抄」に「片海の石中の賎民が子なり」、「種種御振舞御書」に「日蓮貧道の身と生まれて」等と述べており、実際には漁民の下賤の出身であったと考えられる(ただし、誕生日は大石寺の記録にのみ存在する。他門もそれを引用している)。  
天福元年(1233)清澄寺(せいちょうじ)の道善を師として、入門する。  
暦仁元年(1238)出家し、「是生房蓮長」の名を与えられた(是聖房とも)。  
仁治元年(1240)比叡山へ遊学。また高野山でも勉学に勤しむ。その際全ての仏経典を読破し研鑽した結果、妙法蓮華経(法華経)こそが釈迦の本懐であり、法華経をないがしろにする当時の仏教界の矛盾を悟るに至った。そこで法華経勧持品に予証される末法出現の法華経の行者、上行菩薩の再誕との立場から、「南無妙法蓮華経」と唱えることを第一として弘教を始める。  
建長5年(1253)清澄寺に帰山し、3月28日には内々に両親および浄顕房・義浄房に対して折伏を行い、内証の上の宣言を行い、4月28日朝、昇ってくる太陽をはじめ宇宙法界に向かって「南無妙法蓮華経」の題目を唱え始め立宗宣言し、この日の正午、清澄寺の持仏堂で初転法輪を行った。  
建長6年(1254)清澄寺を退出し、鎌倉に出て弘教を開始する。このころ日蓮と名のる。辻説法で「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」(「四箇格言」)などと他宗を不成仏の法として批判した。  
正嘉元年(1257)鎌倉の大地震の悲劇を体験し、改めて実相寺で一切経を読誦・思索する。  
文応元年(1260)7月16日立正安国論を著わし、前執権で幕府最高実力者の北条時頼に送る。この書は、地震・洪水・飢饉・疫病などの災害が起こる原因は、民衆や幕府が主に法然の念仏をはじめとする邪法を信仰することにあるとし、仏教経典を根拠に、正法たる法華経を立てなければ自界叛逆難、他国侵逼難などの災いが起こると説かれている。 
安国論が建白されて40日後、批判に恨みを持っていた他宗の僧ら数千人により、松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされるも難を逃れる。その後、ふたたび布教をおこなう。(「焼き討ち」というのは伝承の誤謬の可能性が高い。日蓮の記述には何処にも「焼き討ち」の言葉はない。「夜襲」または「襲撃」とするのが正しいと思われる。)  
弘長元年(1261)幕府によって伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)へ流罪となる(伊豆法難)。この地が後に蓮着寺となる。  
文永元年(1264)安房国小松原(現在の千葉県鴨川市)で念仏信仰者であった地頭・東条景信に襲われ、左腕の骨折と額を負傷し、門下の工藤吉隆と鏡忍房日隆を失う。(小松原法難)  
文永5年(1268)蒙古から幕府へ国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となる。日蓮は北条時宗、平左衛門尉頼綱(いわゆる「平頼綱」あるいは「長崎頼綱」)、建長寺道隆、極楽寺良観などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫る。  
文永8年(1271)7月極楽寺良観の祈雨対決の敗北を指摘。9月良観・念阿弥陀仏等が連名で幕府に日蓮を訴える。平左衛門尉頼綱により、幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕らえられ、腰越龍ノ口刑場(現在の神奈川県藤沢市片瀬、龍口寺)にて処刑されかけるが、球電現象らしきことが起こり、太刀取や兵が恐れてしまい処刑は断念される。 
(刀が段々に折れるという怪異が発生し中止された、という伝説もあるが、日蓮は「種種御振舞御書」に、「江の島のかたより月のごとく光たる物まりのようにて、辰巳の方より戌亥の方へ光渡」り、その結果「太刀取・目くらみたおれ臥し・兵共おぢ怖れる」としている。)10月評定の結果佐渡へ流される。 
流罪中の3年間に日蓮当身の大事という人本尊開顕の「開目抄」、法本尊開顕の「観心本尊抄」などを著述し、それまでの上行菩薩としての外用の振舞いを払い、久遠元初の自受用身としての本地を顕す。さらにこのころ末法の時代に即した法華曼荼羅を完成させた。この法華曼荼羅が、後世の人々に多大な影響を与えることとなる。  
文永11年(1274)春に赦免となり、すぐに幕府評定所へ呼び出され、頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれるが、日蓮は「よも今年はすごし候はじ」(「撰時抄」)と答え、同時に法華経を立てよという幕府に対する3度目の諌暁をおこなうが幕府は聞く耳をもたなかった。その後、最も信頼される日興の弟子であり、身延の地頭、波木井実長(清和源氏・甲斐源氏武田流)の領地に入山。身延山を寄進され身延山久遠寺を建立した。  
文永11年(1274)蒙古襲来(文永の役)。予言してから5か月後であった。  
弘安2年(1279)10月在家信徒・四条金吾への手紙「聖人御難事」の中で「清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして午の時に此の法門申しはじめて今に27年・弘安2年なり・仏は40余年・天台大師は30余年・伝教大師は20余年に出世の本懐を遂げ給う・其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし・余は27年なり・その間の大難は各々かつしろしめせり・云々」と記し、出世の本懐である「本門戒壇の大御本尊」を図顕した。(日蓮正宗のみの伝承)  
弘安4年(1281)兵力を増した蒙古軍が再び襲来(弘安の役)。  
弘安5年(1282)9月8日病をえて、地頭・波木井実長の勧めで実長の領地である常陸(ひたち)国へ湯治にいくため身延を下山。9月18日、武蔵国池上宗仲邸(現在の本行寺)へ到着。池上氏が館のある谷の背後の山上に建立した一宇を開堂供養し長栄山本門寺と命名。  
弘安5年(1282)10月8日日蓮は死を前に弟子の日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持を後継者と定める。この弟子達は、6老僧と呼ばれるようになる。なお、日蓮正宗など富士門流では、日興のみを後継者に定めたとする(二箇相承)。  
弘安5年(1282)10月13日辰の刻(午前8時ごろ)、池上宗仲邸にて61歳で入滅。死去の際、大地が震動し晩秋から初冬にかけての時期にもかかわらず桜の花が咲いたと伝えられている。そのため、日蓮門下の諸派ではお会式の際に仏前に桜の造花を供える。 
日蓮宗 
鎌倉時代中期に日蓮によって興された仏教宗派。法華宗とも称する(ただし天台宗の別称を「法華宗」ということもある)。今日における狭義では、日蓮を宗祖とする諸宗派の最大宗派「宗教法人日蓮宗」を指し、総本山を身延山久遠寺(くおんじ)とし宗務院を池上本門寺(東京都大田区池上)に置く57総大本山の連合宗派で、「釈迦本仏論と一致派」「釈迦本仏論と勝劣派」「宗祖本仏論と勝劣派」など教義の異なる諸門流を包含する日蓮系諸宗派中の最大宗派。寺院数5,200ヶ寺、直系信徒330万人。 
教義 
釈迦の説いた仏法の極意が法華経にあるという中国の天台大師の教相判釈に基づき、鳩摩羅什(くまらじゅう)訳「妙法蓮華経」を所依の経典とする。日蓮は、いかなる凡夫にも「仏性」が秘められており、「南無妙法蓮華経」(なむ・みょうほうれんげきょう)と題目(「南無妙法蓮華経」)を唱える「唱題」の行を行えば「仏性」が顕現するという思想を説いた。宗祖日蓮以降、本仏の位置付けや、所依の妙法蓮華経に対し勝劣の別を設けるかどうかなどの点から、思想面では大別して3つの分派が成立した。 
本仏について / 遠實成本師釈迦牟尼仏を指す  
一致派と勝劣派 / 所依の妙法蓮華経を構成する28品(28章)を前半の「迹門](しゃくもん)、後半の「本門」に二分し、本門に法華経の極意があるとするのが勝劣派、28品全体を一体のものとして扱うべきとするのが一致派。現在、日蓮宗を構成している祖山1(総本山)、霊蹟寺院14(大本山7、本山7)、由緒寺院42(本山42)については上記各門流を抱合している。 
排他性 
日蓮宗および日蓮系新宗教の重要な特質は、他宗派を誤りであるとして激しく排撃する点である。これは日蓮が「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」(四箇格言)と他宗を攻撃したことに端を発する。また、日蓮宗内部の各派や新宗教の間でもお互いに厳しく批判しあう傾向が強い。 
歴史 
明治維新直後の廃仏毀釈の後、明治政府は仏教各派に対し一宗一管長制を打ち出し、統一教団の結成を要求。日蓮系の諸門流は、1872年(明治5年)、日蓮宗を形成した。この日蓮宗は、明治7年(1874)教義の違いから日蓮宗一致派と日蓮宗勝劣派に二分した。明治9年一致派は日蓮宗と改称、「釈尊を本仏とする一致派」(日向門流、日常門流など)の統一教団として再組織された。 
昭和16年時局緊迫を理由に政府当局が教祖、宗祖や教義を同じくする諸宗教、諸宗派に統合を迫るという時勢の後押しを受け、「釈尊を本仏とする勝劣派」である顕本法華宗(日什門流)「日蓮を本仏とする勝劣派」である本門宗(日興門流)と、日蓮宗が、形式上、それぞれの宗派を解消して対等の立場で合併(三派合同)、中世期に成立していた門流の多くと、思想的潮流の相当部分を包含する新生日蓮宗が結成された。 
第二次世界大戦終戦により「統合を強要する圧力」が消滅したりするのに伴い、旧顕本法華宗、旧本門宗に属する本山、末寺には日蓮宗より独立するものもあったが、旧顕本法華宗の改革派である本山妙國寺、本山本興寺、本山玄妙寺、本山妙立寺、や、旧本門宗の大本山重須本門寺、本山小泉久遠寺、本山柳瀬実成寺とそれらの末寺は引き続き、日蓮宗の内部で固有の教義を維持し続けている。 
日蓮に対する天台教学の影響  
仏性 / 「仏性」という用語は直接的には妙法蓮華経にはみえないが、これは仏性が初めて説かれる中期大乗経典の大般涅槃経を依経とする涅槃宗を中国天台宗が吸収したことによるものと考えられる。 
法華経の位置付け / 法華経の位置付けは、中国天台宗の流れを汲む天台宗の宗祖最澄の開いた比叡山延暦寺での修行の影響とされる。 
そもそも仏教は、開祖である釈迦の教えをその死後に弟子達が書き顕した膨大な量の経典に基づいており、一般には、それらを全て読破することは勿論、ましてや全ての意味を正確に理解することなどはきわめて困難である。中国では、さまざまな宗派が乱立していく中で、「一体どの仏典が仏教の一番肝心な教えなのか」という論点が仏教者の間で次第に唯一最大の関心事となっていったことは、ある意味、時代の必然であったと言える。 
天台大師智(ちぎ)は長年にわたる経典研究の結果、法華経(サンスクリット語名「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」(「正しい法"白き蓮の花"」の意)を、釈迦が70数歳にして到達した最高の教えであると結論付け、とりわけ鳩摩羅什(くまらじゅう)の手が入ったと言われる漢訳「妙法蓮華経」を最もすぐれた翻訳とした。 
こうした天台大師智の思想の影響を受けて日蓮は法華経を最高の経典とした、という見方が一般的である。と同時に日蓮の心理的内面に即して言えば、何よりも彼は、法華経に書かれている行者の姿と自身の人生の軌跡が符合したことに最大の根拠を見出して、上行菩薩(本佛釈尊より弘通の委嘱を受けた本化地涌菩薩の上首)としての自覚を得るに至ったのである(上行応生)。 
主要寺院 
現在の日蓮宗宗制では寺院は祖山、霊蹟寺院、由緒寺院、一般寺院に分けられている。江戸時代の本末制度に始まる寺格は昭和16年の本末解体で消滅し実態はないが、日蓮宗宗制では総本山・大本山・本山の称号を用いることができると規定されている。祖山は日蓮の遺言に従い遺骨が埋葬された祖廟がある身延山久遠寺(日蓮棲神の霊山とされる)で、貫首を法主と称する。霊蹟寺院は日蓮一代の重要な事跡、由緒寺院は宗門史上顕著な沿革のある寺院で、住職(法律上の代表役員)を貫首と称する(中山法華経寺では伝主とされている)。祖山、霊蹟寺院、由緒寺院は「日蓮宗全国本山会」を組織している。総裁は身延山久遠寺内野日總法主(潮師法縁)、会長は妙厳山本覚寺永倉日侃貫首(潮師法縁)、事務局は現在臨時として小松原鏡忍寺に設置されている。 
祖山 / 総本山身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ、通称身延山、山梨県南巨摩郡身延町)  
 
日蓮2
「法華経」こそ末法救済の唯一の経典 
日蓮聖人は、1222(貞応元)年2月16日、安房国東条郷(現在の千葉県安房郡天津小湊町)でお生まれになり、「善日麿」(ぜんにちまろ)と命名されました。1233(天福元)年、日蓮聖人12歳のとき、生家近くの清澄寺(せいちょうじ)にのぼり道善房に師事、「薬王丸」(やくおうまる)と改名。16歳のとき正式に出家得度し、「是聖房蓮長」(ぜしょうぼうれんちょう)と号されました。若き日の日蓮聖人は、清澄寺にて本尊の虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となしたまえ」と祈願されて以来、鎌倉・比叡山・高野山などを遊学し、ひたすら勉学に励まれました。諸経・諸宗の教学を学んでゆく中で、「法華経」こそが末法の世のすべての人々を救うことのできる唯一の経典であることを確信されます。 
そして、10有余年にわたる遊学を終えて恩師道善房の住する清澄寺に戻った日蓮聖人は、1253(建長5)年4月28日早朝、清澄山の旭森(あさひがもり)山頂に立ち、太平洋の彼方から暁闇をやぶってつきのぼる朝日に向かって高らかにお題目を唱え、ついに立教開宗の宣言をされ伝道の誓願を立てられたのです。このとき日蓮聖人32歳、同時に名を「日蓮」と改められました。  
受難 
しかし、これはまた日蓮聖人の生涯における受難の幕開けでもありました。日蓮聖人は、末法の世を救いうるのは「法華経」だけであるとし、他宗を強烈に批判されました。このため、他宗派の人々と激しく対立し、その結果「少々の難は数知れず、大難四箇度なり」と日蓮聖人が晩年の著書の中で自ら語られるように、その生涯は迫害と受難の連続でした。清澄寺で最初の説法を行った日蓮聖人でしたが、他宗の熱心な信者だった地頭東条景信の怒りをかい、あやうく捕らえられるところでした。しかし、鎌倉に難を逃れ、松葉谷(まつばがやつ)に草庵を構え、ここで法華経の弘通(ぐづう)を始めました。この頃から、世の中では天災地変が続出し、まさに末法の世の様相を呈していました。 
とりわけ1256(建長8)年からの5年間には疫病・飢饉・暴風雨・大火災などの災害が相次ぎ、なかでも1257(正嘉元)年8月23日に鎌倉を襲った大地震では数万人もの死者が出たといわれ、路上に死体が散乱するなど阿鼻叫喚の地獄絵を見るようだったといいます。  
末法と諫言  
これらの災いは、誤った仏法が広まってしまったことによる天の諫めであることを直感された日蓮聖人は、経文によってそれを証明しようと駿河の国(現在の静岡県)の岩本実相寺(じっそうじ)の経蔵にこもり、一切経(いっさいきょう)を調べなおされました。そして2年後の1260(文応元)年7月、時の実力者、前執権北条時頼に、諫暁の書として「邪宗を信じるがために、このような災害がおこる。これを改めなければ、経典にあるように自界叛逆難(国内の戦乱)と他国侵逼難(外国の侵略)に見舞われる。他宗を捨て、正しい仏法である「法華経」に帰依すれば、全ての人が末法の世から救われる」ということを説いた「立正安国論」を献上されました。 
しかし、この諫言は幕府に受け入れられることはなく、それどころか他宗の激しい怒りをかってしまい、同年8月27日には、松葉谷の草庵を焼き討ちされてしまいます。四大法難の最初である、この松葉谷法難を辛うじて逃れた日蓮聖人は、ひとまず下総の国(現在の千葉県)の富木常忍(ときじょうにん)のところへ身を寄せますが、すぐに鎌倉に戻り、以前にも増して激しく他宗を破折(はしゃく)しつづけました。  
度重なる法難  
ところが日蓮聖人は、これをこころよく思わなかった幕府についに捕らえられ、1261(弘長元)年5月12日、伊豆の国(現在の静岡県)伊東へ流罪とされてしまいます。これが四大法難の二つ目、伊豆法難です。幸いにも川奈に住む漁師夫妻にかくまわれ命をつないだ日蓮聖人は、難病に苦しむ地頭伊東八郎左衛門をご祈祷によって全快させました。これにより伊東一門は法華経に帰依することとなり、日蓮聖人は流罪がとかれ鎌倉へ戻る1263(弘長3)年の2月まで、伊東氏の外護を受けながらの配所生活を送りました。 
この地にとどまった約2年の間に日蓮聖人は「教機時国鈔」(きょうきじこくしょう)を著され、そのなかで、法華経こそが末法の世を救うための経典であることを「五義(五綱の教判)」によって論証されました。 
鎌倉に戻った日蓮聖人は、翌1264(文永元)年、母の病気の回復を祈るため安房の国へと戻られました。病が小康を見たため日蓮聖人は再び安房の国での布教活動を開始しました。ところが同年11月11日の夕刻、壇越(だんのつ)の工藤吉隆の招きに応じ工藤邸に向かう途上、東条郷の松原大路(現在の千葉県鴨川市)にさしかかったところで、地頭東条景信の襲撃を受けます。もとより日蓮聖人をこころよく思わなかった景信は、自らの宗派を否定する日蓮聖人を一気に殺害しようと凶行にでたのです。この小松原法難で日蓮聖人は弟子の鏡忍房日暁と、急を聞いて駆けつけた工藤吉隆の二人を失います。 
また、弟子の乗観房、長英房の二人も重傷を負い、日蓮聖人自身も眉間を斬られ、左腕を折られましたが、幸いにも一命をとりとめました。後に吉隆の遺子は出家して日蓮聖人の弟子となり長栄房日隆と号し、父吉隆と鏡忍房の菩提を弔うためにこの法難の地に妙隆山鏡忍寺を建立します。日隆は後年、土地の名前から山号を松原山、土地の名前を現在の小松原へと変更しました。  
鎌倉での奇跡  
それから4年後の1268(文永5)年の正月、日蓮聖人が8年前に「立正安国論」で予言したとおり、日本の服従を求める蒙古からの国書が届きました。これにより日蓮聖人は他宗批判をさらに激化させ、執権北条時宗に再び「立正安国論」を献上します。さらに幕府や他宗の代表11箇所に書状を送り、公場での討論を求めましたが、またもや黙殺されてしまいます。1271(文永8)年には、他宗の人々が日蓮聖人とその門下を幕府に訴え、幕府も迫りくる蒙古襲来の危機感とあいまって、日蓮聖人とその門下に徹底的な弾圧を加えます。同年9月12日、日蓮聖人はついに捕らえられ佐渡流罪となります。 
しかし、これは表向きで、実は途中の龍口(たつのくち)において侍所所司平頼綱により密かに処刑されることになっていました。ところが、まさに首を切られようというその瞬間、奇跡が起きます。突如、対岸の江ノ島のほうから雷鳴が轟き、稲妻が走りました。これに頼綱らは恐れをなし、処刑は中止になったといわれています。  
 
佐渡での決意  
この龍口(りゅうこう)法難を奇跡的に逃れた日蓮聖人は同年10月、佐渡へと送られます。厳冬の佐渡で日蓮聖人にあてがわれたのは死人を捨てる塚原の三昧堂でしたが、ここは「上は板間あわず、四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ゆる事なし」と、後に日蓮聖人が「種々御振舞御書」に書き記すとおりのありさまでした。想像を絶する凍えや飢えと戦いながら日蓮聖人は「一期(いちご)の大事を記す」との決意で、「開目抄」の執筆を始め、翌1272(文永9)年2月にはこれを完成させます。 
日蓮聖人の相次ぐ法難、迫害の連続であったこれまでの人生は、「法華経」の持経者は多くの災難に見舞われるという、お釈迦さまが「法華経」のなかでされた予言を実証するものにほかなりませんでした。日蓮聖人はこのことにより日蓮聖人自らこそ、お釈迦さまより「法華経」の弘通を直接委ねられた本化上行菩薩(ほんげじょうぎょうぼさつ)であるという自覚を強めました。「開目抄」の中で日蓮聖人は「我、日本の柱とならん。 
我、日本の眼目とならん。我、日本の大船とならん。」という「三大誓願」を記されて、「詮ずるところは天も捨てたまえ、諸難にも遭え、身命を期せん」と、たとえ諸天のご加護がなくとも末法の日本を救うため「法華経」の弘通に一命をささげる決意をされています。  
予言 
この頃、北条家は執権の座をめぐっての内紛を起こしますが、これはまさに日蓮聖人が「立正安国論」のなかで自界叛逆難(国内の戦乱)として予言したとおりのことでした。日蓮聖人の予言的中によりその霊力に恐れをなした幕府は日蓮聖人に対する態度を一変させます。1273(文永10)年4月には、日蓮聖人は塚原の粗末な小屋から一谷(いちのさわ)の豪族である入道清久の屋敷へと移り住み、ここで「観心本尊抄」をお書きになります。日蓮聖人は、この「観心本尊抄」で、日蓮教学信仰の中核である「三大秘法」、すなわち「本門の本尊」「本門の題目」「本門の戒壇」を初めてお示しになりました。 
日蓮聖人は「南無妙法蓮華経」というお題目こそ末法の正法で、このお題目を受持することによってお釈迦さまの救いに導き入られると説かれたのです。また、他宗でいうところの浄土ではなく、娑婆(しゃば)世界、つまり現実のこの世こそが「本門の本尊」、すなわちお釈迦さまがお住まいになる浄土であることも示されました。日蓮聖人は、3ヶ月後の7月8日、この本尊の原理にもとづいて、初めての大曼荼羅である「佐渡始顕の大曼荼羅本尊」を描き示されています。  
身延山ご入山  
佐渡流罪を許された日蓮聖人は1274(文永)年3月26日、いったん鎌倉へと戻りますが、同年5月17日には甲斐の国(現在の山梨県)波木井(はきい)郷を治める地頭の南部実長(さねなが)の招きにより身延山へご入山されました。そして、同年6月17より鷹取山(たかとりやま)のふもとの西谷に構えた草庵にお住まいになり、以来足かけ9年の永きにわたりこの身延の山を一歩も出ることなく、法華経の読誦(どくじゅ)と門弟たちの教導に終始されました。 
この間、波乱の人生を振り返りながら「時」を知ることの大切さを説いた「撰時抄」(1275年)や、亡き旧師道善房を偲んで「知恩報恩」の大切さを述べられた「報恩抄」(1276年)などを著述されています。1282(弘安5)年9月8日、日蓮聖人は病身を養うためと、両親の墓参のためにひとまず山を下り、常陸の国(現在の茨城県)に向かいましたが、同年10月13日、途上の武蔵の国池上(現在の東京都大田区)にてその波瀾に満ちた61年の生涯を閉じられました。このとき地震が起こり、季節はずれの桜が咲いたといいます。 
お題目を唱える 
日蓮聖人は「観心本尊抄」のなかで「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我らこの五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えたまう」として、お題目を唱えることの重要さを説かれています。 
「釈尊の因行果徳の二法」とは、お釈迦さまが長い時間をかけて行った修行と、その結果得られた徳のことをあらわします。「妙法蓮華経」という五字、すなわち「妙法五字」の中にこそ、お釈迦さまの功徳がすべて含まれているのです。そして「妙法五字」を「受持」すれば、自然とお釈迦さまの功徳をすべて譲り受けることができるのです。お釈迦さまの功徳をすべて受け取るということは、お釈迦さまと同体になるということですから「仏」になる、すなわち「成仏」できるということです。つまり「妙法蓮華経」の五字を「受持」する者は、この世にいながらにして成仏することができる、すなわち「即身成仏」できるわけです。 
それでは「受持する」ということはどういうことでしょうか。日蓮聖人は「妙法五字」の受持は「身口意(しん・く・い)の三業(さんごう)」によって成されると説かれています。「身業(しんごう)」とは、「法華経」の教えを身をもって実践すること、「口業(くごう)」とはお題目を一心に唱えること、「意業(いごう)」とは「法華経」の教えを心から信ずることで、この三つの業が欠けることなく一つになってはじめて「妙法五字」の「受持」となるのです。 
お題目にある「南無」とは、身命を投げ出して教えに従って生きるという決意を表します。ですから「南無妙法蓮華経」というお題目を唱えるということは「妙法蓮華経」に帰依するということで、お題目を心から信じ、唱え、その教えを実践することによって、この世に存在するすべての人が、お釈迦様の功徳を自然と譲り受け「即身成仏」することができるのです。 
法華経 
「法華経」は、正しくは「妙法蓮華経」といいます。インドでお釈迦さまによって説かれた法華経は、西暦406年、中国の鳩摩羅什(くまらじゅう)によって漢文に訳されました。その後、日本に伝わった「妙法蓮華経」は、聖徳太子の著書「法華義疏(ほっけぎしょ)」のなかで仏教の根幹に置かれるなど、最も重要な経典として扱われます。そして鎌倉時代、日蓮聖人によって「妙法蓮華経」は末法救済のためにお釈迦さまによって留め置かれた根源の教えであると説かれました。 
「法華経」は全部で28品(ほん)からなっています。この「品」とは章立てのことで、各品に「序品第一(じょほんだいいち)」「方便品第二(ほうべんぽんだいに)」というようにそれぞれの名前と順序が示されています。また「法華経」は思想上の区別から「迹門(しゃくもん)」と「本門(ほんもん)」の二つにに大きく分けられます。さらにそれぞれが「序分(じょぶん)」「正宗分(しょうしゅうぶん)」「流通分(るづうぶん)」の三段に分けて解釈されるため、これを「二門六段」といいます。 
「迹門」は序品第一から安楽行品(あんらくぎょうほん)第14までの前半の14品で、「開三顕一(かいさんけんいつ)」などが説かれています。「開三顕一」とは「声聞(しょうもん)」「縁覚(えんがく)」であっても「菩薩(ぼさつ)」と同様に成仏できるという教えです。「声聞」と「縁覚」の修行者は、自分自身の悟りの世界のみを追求するために成仏することが許されませんでした。対して「菩薩」は自らの修養のみならず他人に対しても教えを説き、功徳を与えようとする求道者のことです。 
お釈迦さまが法華経以前の経典において、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗という三つの異なった修行のありかたを示されたことや、説法を受ける人の能力にあわせてさまざまな教えを説いてきたことは、実はすべてが一つの教えに帰結することに導くためであったことが、この「迹門」のなかの「方便品第二」を中心として明かされます。そして、この一つの教えが「一仏乗(いちぶつじょう)」の教えであり、声聞・縁覚、善人・悪人、男性・女性などという別を超え、すべての人々が救済され、成仏できるという教えなのです。 
「本門」は従地湧出品(じゅうじゆじゅっぽん)第15から普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぼっぽん)第28までの後半の14品で、「開近顕遠(かいごんけんのん)」などが説かれています。「開近顕遠」とは、お釈迦さまは、歴史上実在し菩提樹の下で悟りを開いた人物、というだけではなく、実は「久遠実成(くおんじつじょう)」の仏、つまり五百億塵点劫という久遠の過去に悟りを開き、永遠の過去から永遠の未来まで人々を救済しつづけている「本仏(ほんぶつ)」である、という教えです。お釈迦さまが永遠の存在であるということは、諸経で説かれる諸仏はお釈迦さまの分身であるということになります。 
したがってお釈迦さまこそ唯一絶対の仏、すなわち「本仏」である、ということがこの「本門」のなかの「如来寿量品第16」を中心として明かされます。 
「法華経」は、この「二門六段」という分け方のほかに「二処三会(にしょさんね)」という分け方をすることもあります。お釈迦さまは、古代インドのマガダ国の首都、王舎城の東北にそびえる「霊鷲山(りょうじゅせん)」という山で「法華経」を説かれました。「序品第一」から「法師品(ほっしほん)第10」までは、この「霊鷲山」において「法華経」が説かれる場面なので「前霊山会(ぜんりょうぜんえ)」とします。つづく「見宝塔品(けんほうとうほん)第11」から「嘱累品(ぞくるいほん)第22」は、地上から虚空(こくう)へと場面が移り、ここで「法華経」が説かれるので「虚空会(こくうえ)」とします。 
「薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)第23」から「普賢菩薩勧発品第28」までは、ふたたび地上にもどり「霊鷲山」において「法華経」が説かれる場面なので「後霊山会(ごりょうぜんえ)」とします。この二つの場所と三つの場面を「二処三会」といいます。 
なかでも「虚空会」は特に重要な場面で、お釈迦さまは空中にあらわれた「七宝の塔」の中に入り東方宝浄世界の仏である「多宝如来(たほうにょらい)」とともに座して「妙法蓮華経」の中心的な教えを説かれます。「虚空会」では、「勧持品(かんじほん)第13」において「妙法蓮華経」弘通の困難の予言、「従地湧出品第15」において「本化菩薩(ほんげぼさつ)」の湧出、「如来寿量品第16」においてお釈迦さまの「久遠実成」の顕示、「如来神力品(にょらいじんりきほん)第21」において「本化菩薩」への「妙法蓮華経」弘通の付嘱(ふぞく)、などが説かれています。 
「妙法蓮華経」は、単なる経典の名前ではなく、お釈迦さまの教えが最終的に帰結した大法であり、「妙法蓮華経」の妙法五字の中にこそ、お釈迦さまの功徳のすべてが含まれています。したがって「南無妙法蓮華経」というお題目を唱え「妙法蓮華経」に帰依することによって、すべての人々の「即身成仏」が約束されるのです。  
 
久遠寺縁起 
鎌倉時代、疫病や天災が相次ぐ末法の世、「法華経」をもってすべての人々を救おうとした日蓮聖人は、3度にわたり幕府に諫言(かんげん)を行いましたが、いずれも受け入れられることはありませんでした。当時、身延山は甲斐の国波木井(はきい)郷を治める地頭の南部実長(さねなが)の領地でした。 
日蓮聖人は信者であった実長の招きにより、文永11年(1274)5月17日身延山に入山し、同年6月17日より鷹取山(たかとりやま)のふもとの西谷に構えた草庵を住処としました。このことにより、5月17日を日蓮聖人身延入山の日、同年6月17日を身延山開闢(かいびゃく)の日としています。 
日蓮聖人は、これ以来足かけ9年の永きにわたり法華経の読誦(どくじゅ)と門弟たちの教導に終始し、弘安4年(1281)11月24日旧庵を廃して本格的な堂宇を建築し、自ら「身延山久遠寺」と命名されました。 
翌弘安5年(1282)9月8日日蓮聖人は病身を養うためと、両親の墓参のためにひとまず山を下り、常陸の国(現在の茨城県)に向かいましたが、同年10月13日、その途上の武蔵の国池上(現在の東京都大田区)にてその61年の生涯を閉じられました。そして、「いずくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候」という日蓮聖人のご遺言のとおり、そのご遺骨は身延山に奉ぜられ、心霊とともに祀られました。 
その後、身延山久遠寺は日蓮聖人の本弟子である6老僧の一人、日向(にこう)上人とその門流によって継承され、約200年後の文明7年(1475)第11世日朝上人により、狭く湿気の多い西谷から現在の地へと移転され、伽藍(がらん)の整備がすすめられました。のちに、武田氏や徳川家の崇拝、外護(げご)を受けて栄え、1706(宝永3)年には、皇室勅願所ともなっています。日蓮聖人のご入滅以来実に700有余年、法灯は綿々と絶えることなく、廟墓は歴代住職によって守護され、今日におよんでいます。
日蓮正宗 
日蓮を宗祖とし、日興を派祖とする仏教の宗派の1つ。日蓮系の諸宗派のなかでは、日蓮本仏論、本迹勝劣などを教義とする富士門流(日興門流)に分類され、「興門八本山」のうち、大石寺(総本山)、下条妙蓮寺(本山)の二本山が所属する、富士門流中の有力宗派である。宗祖の入滅後、6弟子の1人であった日興が7年間、久遠寺に居住した後、初発心の弟子地頭波木井実長が背いたことによって身延を離山、地頭南条時光の招きにより総本山大石寺(たいせきじ)を建てて「御開山」すなわち事実上の開祖となり、その教義的方向性を決定づけた。 
日興は大石寺を日目にまかせ、晩年は地頭石川氏の招きにより重須談所(現在の日蓮宗北山本門寺根源・重須本門寺)に移住し、日目に血脈を譲ったのち、師弟の教育・指導にあたり、ここで没した。日蓮正宗と正式に名乗るのは明治最初の頃で、それまでは日蓮宗勝劣派の一宗派(大石寺派)、一時は富士門流各山と連合し日蓮宗興門派・日蓮本門宗という富士門流八本山による連合宗派も作っていた。 
日蓮本門宗時代は管長は八本山からの輪番制となったが、大石寺本末・中末の独立が公許されこれより独立し、明治33年日蓮宗富士派と公称し、明治45年日蓮正宗と改称し現在に至るが、法華経正宗分の意味合いからであろうか少なくとも江戸時代中期には自宗派を正宗と呼ぶことがあったことが、金沢郷土史の文献(「正宗の題目」とある)から分かる。  
 
日蓮3
日蓮は、鎌倉新仏教の開祖たちよりもはるかに個性的だ。法然の開いた宗派は浄土宗というが、決して「法然宗」とは言わない。同じく道元の開いた宗派は曹洞宗ですが、これを「道元宗」とは決してよ ばない。日蓮が開いた宗派は法華宗とよばれることもあるが、ふつうは日蓮宗と呼ぶ。 
開祖の名がそのまま宗派名になっているのは、日蓮宗だけだ。だから日蓮は、法然・親鸞・一遍・栄西・道元と比べると、はるかに個性的な仏教者と言える。 
日蓮の出家  
日蓮は1222年、安房国に生まれた。日蓮の出身階層については、「武士の子である」「荘官の子である」など諸説あるが、日蓮自身は「海人(あま)の子である」と 言っている。 
12歳のときに地元の清澄山(きよすみやま)清澄寺(せいちょうじ)に入り、16歳で正式に出家して僧となった。ちなみに清澄寺は当時は天台宗である。 
日蓮は、自ら進んで仏門の道に入ったようだ。出家に際して、「虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)の宝前(ほうぜん)に日本第一の智者(ちしゃ)となし給え」と願をかけたと 言う。 この虚空蔵菩薩に願をかけたというエピソードは、日蓮本人が語っていることだが、まだ少年の身で、「日本第一の智者」を目指したというのは、やはり個性的である。 
日蓮の疑問  
17歳となった日蓮は清澄山を下り、鎌倉・京・比叡山延暦寺・三井寺・高野山金剛峰寺・四天王寺と、多くの寺をまわって修行を積み、仏法の修行に励んだ。 この時代の日蓮が何を考えていたのか、後の彼の行動や著作などから想像するしかないのが、日蓮の問題意識は「なぜ日本は平和な国にならないのか」という点にあったのではないかと思われる 。 
日蓮にしてみれば、「仏を信じる者は救われ、仏を護持する国は平穏になるはずだ。しかし、現実はそうではない。いったいなぜなのか」という疑問があったのだ。 
日蓮は、その理由を「現在行われている、人々が信じている仏教が、あやまった教えであるからではないのか。」と考えた。 世の中に勢力争いや内乱が起こったり、天災に襲われたりするのは、政治的な自然的な理由からなのだが、日蓮はそれを宗教的な理由、つまり「あやまった仏教」に原因があると考えた 。「正しい仏教の教え」とは何なのか、それを見つけるために日蓮は各地の寺をめぐって修行に励んだのだろう。 
各地の寺をまわって修行を積んだ日蓮は、最後に比叡山へもどり、ここでついに「正しい教え」とは何であるのか確信を得た。 
自分の思想を確立した日蓮は、1253年に故郷の清澄山に戻り、伝説によれば、清澄山から昇る朝日に向かって「南無妙法蓮華経」と10回唱えたという(32歳)。 
また、父と母をみずからの弟子とし、父に妙日、母に妙蓮という法号を授け、自分は二人の法号から1字ずつもらって、日蓮と改名したという伝説もある。実は日蓮はこのときまでは蓮長(れんちょう)と名のっていた 。 
日蓮の教えと法華経  
日蓮が「発見」した「正しい仏教の教え」とは何だったか、それは「妙法蓮華経」というお経だった。長いので普通は「法華経」と略して呼ぶ。 
親鸞が念仏を、道元が禅を選択したように、日蓮は多数の仏教経典の中から法華経を選択し、法華経のみが正しく、他はあやまった教えであると主張した。 
日蓮が唯一正しいとした法華経とはどのような教えを説いた教えなのか。 
法華経ではまず「釈迦が今まで説いたことのない最高の教えを説くらしい」というエピソードが延々と語られる。 そして釈迦の弟子たちが「その最高の教えを説いて下さい。」と釈迦に請い願う場面になる。 しかし釈迦は「やめておこう。この教えを説いても、人はただ驚き、疑うだけだから。」と言って、弟子たちの願いをしりぞける。 弟子たちは、「どうかその教えを説いて下さい。」と再び釈迦に懇願する。そしてとうとう釈迦は弟子たちに「最高の教え」を説くが、それはなんと、「人はみな仏になれる」ということだったんで ある。 
ではどうすれば人は仏になれるのか、この問いに対して釈迦は「それは仏にならないと理解できないことである」と答える。 「なんだぁ」と皆さん思うのですが、大まかに言うと法華経の内容はこのようなものだ。 
どうすればよいのか、日蓮の出した結論は、法華経を絶対に正しいものとして信じること、さらにそれをできるだけ多くの人に広めることである、というものだった。 そのためにはどうするのか、日蓮は「南無妙法蓮華経」と唱えることを勧めた。 
「南無妙法蓮華経」と唱えるのは、「南無阿弥陀仏」と唱えるのと似ている。しかし、その唱える意味はまったくちがう。「南無阿弥陀仏」は念仏であり、阿弥陀如来への絶対的な帰依を意味することばで ある。 しかし「南無妙法蓮華経」は念仏に対し、題目とよばれている。 
題目とは、文字の通り「タイトル」の意味である。 「南無」というのは「帰依する」という意味で、「南無妙法蓮華経」は「妙法蓮華経(法華経)に帰依します。」という意味になる。 日蓮は、「釈迦の修行の成果とそれによって得られたさとりは、すべて「妙法蓮華経」の五字に集約されている」と言う。日蓮独特の考え方で、それまでの仏教にはない。 
四箇格言  
日蓮は「日本はどうして安らかな国になっていないのか」と疑問を持ち、「それは仏教の正しい教えが信仰されていないからだ」と結論づけ、「正しい仏教の教えは法華経のみで、他の教えはすべてまちがっている」と主張した。 
法華経のみが正しく、他はすべて誤りであるという信念を持った日蓮は、法華経を広めるとともに、他宗をはげしく攻撃した。 
「念仏無間(ねんぶつむけん)、禅天摩(ぜんてんま)、真言亡国(しんごんぼうこく)、律国賊(こくぞく)」。 これは日蓮が他宗を攻撃するときに口にした言葉で、四箇格言(しかかくげん)とよばれている。意味は、「念仏を唱えることは無間地獄に落ちる行為である。」「禅は天摩のふるまいだ。」「真言宗は亡国への行いである。」「律宗を信じる者は国賊である。」とな る。 
言われる方はたまったものではなく、「南無妙法蓮華経と唱えることがどうして釈迦の功徳を得ることになるんだ。」と逆に日蓮を攻撃した。 
実は、日蓮の主張に根拠はないのだ。法華経には「南無妙法蓮華経と唱えれば釈迦の功徳を得られる」などということは述べられていない。ここが、阿弥陀信仰との大きなちがいで ある。 阿弥陀如来は経典の中で、「10回念仏する者は極楽浄土に生まれかわらせる。」と約束しており、こちらの主張には根拠がある。 
立正安国論  
1254年、日蓮は鎌倉に出て、自分の教えをを広げるとともに、四箇格言により、他宗をはげしく攻撃した。 1257年から1260年にかけ、地震・暴風・洪水・疫病・飢饉などが立て続けに起こり、死者も多く出た。 日蓮は、これらの「わざわい」の原因が、正しい教えである法華経に帰依せず、念仏や禅を人々が信じているからだと考えていた。 
自分のこの考えを世間に納得させるには、経典から根拠を示す必要があった。 法華経に、「法華経を信じなければ、わざわいが起こる。」というような内容があれば問題がなかったが、そのようなものはない。日蓮は、他の経典にその根拠を求めるべく、駿河国の実相寺(じっそうじ)へ 赴き、その経蔵に3年間こもったという。 実相寺には一切経があった(一切経は大蔵経ともよばれ、すべての仏教の経典をさし)。 
日蓮は、ついに金光明経(こんこうみょうきょう)・大集経(だいじつきょう)・薬師経(やくしきょう)などに、自分の主張と合致する内容を発見した。 これらの経典を論拠に、日蓮は「立正安国論」を書上げ、5代執権北条時頼に提出した(1260年)。 当時の時頼は、執権の職をしりぞき、最明寺入道とよばれていたが、依然として幕府の最高権力者だった。 
「立正安国論」は宿屋における旅人と宿の主人との問答の形をとっているが、その主張は、地震・洪水・飢饉・疫病などの災害が起こる原因は、法然の浄土教を人々が信じ、正しい教えである法華経に帰依していないからだ、というもの だった。 
前述の経典の内容を根拠として、正しい教えである法華経に人々が帰依しなければ、自界叛逆難(じかいはんぎゃくなん)、他国侵逼難(たこくしんぴつなん)などの災いが起こるとも 述べ、幕府は法然の教えを直ちに禁止すべきだと主張した。「立正安国論」をどうやら時頼は黙殺したようだ。しかし、名指しで非難された浄土宗の信者たちは収まらなかった。 
四大法難  
「立正安国論」の内容を知った浄土宗信者たちは日蓮と問答したが、決着はつかなかった。そこで浄土宗の信者たちは日蓮の住む庵を襲撃し、日蓮を実力で排除しようとした。 
日蓮は弟子たちに守られ、何とか命は助かったものの、庵は焼けてしまった。その後、日蓮は下総国の中山という土地にあった信者の家にかくまわれ、しばらくしてまた鎌倉にもどった。 鎌倉にもどった日蓮は、再び町に出て、はげしく他宗を批判し、法華経の教えを広めようと人々に教えを説き始めた(辻説法と言う)。 
浄土宗側は、日蓮を御成敗式目第十二条違反であるとして幕府に訴えた。 御成敗式目第十二条は「悪口を言ってはならない。これを犯すものは流罪に処する。」という内容である。 
幕府は日蓮を捕らえ、伊豆へ流罪とした(1261年)。 
1263年、日蓮はその罪を許された。日蓮は母のいる故郷の安房へ戻ったが、ここでまたしてもひどい目にあった。領主の東条景信は熱心な念仏信者で、日蓮をにくみ、襲撃して殺そうとした 。 日蓮はこの3回目の法難も何とか逃れることができた。しかし、このとき二人の弟子がその命を失い、日蓮自身も頭に刀傷を受けたという。 
普通の人であれば、自分の信じる教えを広めようとして、こうもたびたび法難にあえば、信念が少しは揺るぎそうなものだが、日蓮にそういった点は全く見られなかった。 というのも、法華経には「この経を広めようとする者は、この経を理解しようとしない者に刀で斬られ、杖で打たれるだろう。」という予言があるからだ。 法華経を唯一正しいと信じる日蓮にとって、広めようとする自分が法難にあうのは、法華経の内容が正しいからだと確信を深めるようになっていった。 
1268年、日蓮の確信を深める出来事がおこった。この年、フビライから服属を求める国書が届けられたのだ。 日蓮にしてみると、自分が幕府に提出した「立正安国論」で予言した他国侵逼難(たこくしんぴつなん)が現実のものとなったわけだ。自信を深めた日蓮は、幕府に対し「立正安国論」を再び提出するとともに、他宗に対し、さらにはげしい攻撃を加えた。 
1271年、日蓮は再び捕らえられ、前回と同じ御成敗式目第十二条違反で、佐渡へ流罪となった。 佐渡への流罪は表向きで、実際は幕府の刑場である龍口で首をはねられるところだった。しかし、伝説によればこのとき「光るもの」が現れ、日蓮の首をはねようとした武士の刀を折ったので、幕府はあわてて処刑を中止したと言われてい る。こうして日蓮は4回目の法難にあい、佐渡へと流された。 
日蓮の死  
日蓮は佐渡で3年の歳月を過ごした後、1274年の春に許されて鎌倉へもどった。日蓮は幕府によび出され、日蓮の予言した他国侵逼難(たこくしんぴつなん)、つまり元の来襲についての見通しをたずねられたとい う。「法華経を立てなければ国が滅ぶ」と主張したが、幕府はこの日蓮の3度目の進言もしりぞけた。 日蓮は鎌倉を去り、信者であった波木井(はきい)氏の招きで甲斐国の身延山に移り住んだ。 
身延山で日蓮は弟子の育成に努めていたが、健康を害して山をおり、病身を養おうと常陸国の温泉へ向かった。その途中の武蔵国池上の信者の館で亡くなった(61歳・1282年)。 
遺体は火葬され、遺言によって身延山に葬られた。その場所は現在、身延山久遠寺となっている。 日蓮は死に際して、六人の高弟を定めたが、この六人が月番制で身延山の墓所を守ることになったそうだ。
 
法然1
平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧侶で、浄土宗の開祖。「法然」は房号で、諱は源空(げんくう)。幼名を勢至丸。通称黒谷上人、吉水上人とも。大師号は、現在「円光(東山天皇1697年)・東漸(中御門天皇1711年)・慧成(桃園天皇1761年)・弘覚(光格天皇1811年)・慈教(孝明天皇1861年)・明照(明治天皇1911年)・和順(昭和天皇1961年)大師としており、50年ごとにときの天皇より諡号を賜る。真宗7高僧の第七祖。浄土真宗では、源空を元祖とする(親鸞は開祖もしくは宗祖と呼ばれる)。 
弟子である親鸞は、法然を「本師源空」や「源空聖人」と「正信偈」「高僧和讃」などにおいて称し、師事できたことを生涯の喜びとした。 
 
美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使・漆間時国(うるま ときくに)と、母・秦氏君との子として生まれる。「四十八巻伝」などによれば、9歳のとき、源内武者貞明の夜討によって父を失うが、その際の父の遺言によってあだ討ちを断念する。その後比叡山に登り、初め源光上人に師事。15歳の時(異説には13歳)に同じく比叡山の皇円の下で得度。比叡山黒谷の叡空に師事して「法然房源空」と名のる。 
承安5年(1175)43歳、善導の「観無量寿経疏」(観経疏)によって専修念仏に進み、比叡山を下りて東山吉水に住み、念仏の教えを広めた。この1175年が浄土宗の立教開宗の年とされる。 
文治2年(1186)大原勝林院で聖浄二門を論じ(大原問答)、建久9年(1198)「選択本願念仏集」(選択集)を著した。 
元久元年(1204)比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起したので、法然は「七箇条制誡」を草して門弟190名の署名を添え延暦寺に送った。しかし興福寺の奏状により念仏停止の断が下され、のち建永2年(承元元年・1207)法然は還俗され藤井元彦を名前として、土佐国(実際には讃岐国)に流罪となった。讃岐国でも布教足跡を残し、香川県高松市にも法然を偲ぶ法然寺(京都の法然寺とは別)がある。4年後の建暦元年(1211)赦免になり帰京し、翌年1月25日に死去、享年80(満78歳没)。 
なお、建暦2年(1212)1月23日に源智の願いに応じて、遺言書「一枚起請文」を記している。 
法然の門下には証空・親鸞・蓮生・弁長・源智・幸西・信空・隆寛・湛空・長西・道弁らがいる。また俗人の帰依者・庇護者としては、九条(藤原)兼実・宇都宮頼綱らが著名である。 
 
法然の思想の根底には、「選択本願念仏集」や「黒谷上人語灯録」などには、「罪悪深重の衆生」「妄想顛倒の凡夫」などという表記が数多く見られるように、まず自分を含めた衆生の愚かさや罪といったものへの深い絶望があり、そこから凡夫である衆生の救済への道を探り始めている。 
一般に、法然は善導の「観経疏」によって称名念仏による専修念仏を説いたとされている。法然の著書「選択集」では、各章ごとに善導や善導の師である道綽のことばを引用してから自らの見解を述べている。 
法然においては、道綽と善導の考えを受けて、浄土に往生するための行を称名念仏を指す「正」とそれ以外の行の「雑」に分けて正行を行うように説いている。著書内で、雑行を行う聖道門の行者を盗人に例えたりするなど正行である専修念仏を行うことを強調する文面が多くある。その根拠としては「仏説無量寿経」にある法蔵菩薩の誓願を引用して、称名すると往生がかなうということを示し、またその誓願を果たして仏となった阿弥陀仏を十方の諸仏も讃歎しているとある「仏説阿弥陀経」を示し、他の雑行は不要であるとしている。 
加えて、仏教を専修念仏を行う浄土門とそれ以外の行を行う聖道門に分け、浄土門を娑婆世界を厭い極楽往生を願って専修念仏を行う門、聖道門を現世で修行を行い悟りを目指す門と規定している。また、称名念仏は末法の世でも有効な行であることを説いている。 
法然の称名念仏の考えにおいて、よくみられるのが「三心」である。これは「選択集」においても「黒谷上人語灯録」おいても見られることばである。三心とは「至誠心(誠実な心)」「信心(深く信ずる心)」「廻向発願心」である。 
至誠心 / 誠実に阿弥陀仏を想い浄土往生を願うこと。また、一つに自らが救われたいと思う心の真実、二つに人を悟りに向かわせたいと思う心の真実をさしている。  
深信 / 疑いなく深く信じること。次の二つがあげられ、一つに自身が罪悪不善の身でいつから輪廻を繰り返してるかもわからず悟りを得る機会がなかったこと、二つに罪人である自分を阿弥陀仏が救ってくれること。  
廻向発願心 / 一切の善行の功徳を浄土往生にふりむけてその浄土に生まれたいと願う心。  
三心の中でも至誠心と信心が多く語られており、廻向発願心はあまり語られていない。三心を身につけることについては、「一枚起請文」にて、「ただし三心四修と申すことの候うは、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候うなり」と述べ、専修念仏を行うことで身に備わるものであるとしている。 
また、法然は念仏を唱える数についても言及している。このことについては、一念義と多念義という考え方がある。一念義とは、一度でも念仏を唱えさえすれば極楽往生は決定するということである。多念義は逆に普段、常日頃繰り返し何度も念仏を行うべきであるという考え方である。法然は、多念義を説いており、門徒の中で一念義を説く者がいることを嘆いている。一念でも十念でも優劣は無いという記述があるが、これはあくまでも最後の時のこととしている(「黒谷上人語灯録」-念佛往生容義抄)。 
日頃の念仏と最後の時の念仏についても優劣はないとしており、最後のときに近づけば日頃の念仏が最後の念仏になるだけだと説いている。 
他力と自力については、他力の念仏を勧めている。自力は聖人にしか行えないもので千人に一人、万人に一人二人救われかどうかだとし、対して他力の念仏は、名を称えた者を救うという阿弥陀仏の48願を根拠として必ず阿弥陀仏が救いとってくださるとし、三心を持って念仏を行うべきとしている。 
このように法然の教えは、三心の信心にもあるとおり、民衆に凡夫であるということをまず認識させ、その上で浄土に往生するためには、専修念仏が一番の道であるから勧めるから選択するべきだというものとなっている。  
 
法然2
平安の末、長承2年(1133)4月7日、美作国(現在の岡山県)久米南条稲岡庄、押領使・漆間時国の長子として生れました。幼名を勢至丸といいました。勢至丸が9歳のとき、時国の館が夜襲され、不意討ちに倒れた時国は、枕辺で勢至丸に遺言を残します。「恨みをはらすのに恨みをもってするならば、人の世に恨みのなくなるときはない。恨みを超えた広い心を持って、すべての人が救われる仏の道を求めよ」という遺言でした。  
この言葉に従い、勢至丸は菩提寺で修学し、その後13歳で比叡山に登って剃髪授戒。天台の学問を修めます。はじめ円明房善弘と名乗りますが、久安6年(1150)、18歳の秋、黒谷の慈眼房叡空の弟子として法然房源空となり、叡空のもとで勉学に励み、「智恵第一の法然房」と評されるほどになりました。以後、法然上人は遁世の求道生活に入ります。 
この時代は、政権を争う内乱が相次ぎ、飢餓や疫病がはびこるとともに地震など天災にも見舞われ、人々は不安と混乱の中にいました。ところが当時の仏教は貴族のための宗教と化し、不安におののく民衆を救う力を失っていました。学問をして経典を理解したり、厳しい修行をし、自己の煩悩を取り除くことが「さとり」であるとし、人々は仏教と無縁の状態に置かれていたのです。そうした仏教に疑問を抱いていた法然上人は、膨大な一切経の中から、阿弥陀仏のご本願を見いだします。 
それが、「南無阿弥陀仏」と声高くただ一心に称えることにより、すべての人々が救われるという専修念仏の道でした。承安5年(1175)、上人43歳の春のこと、ここに浄土宗が開宗されたのです。  
法然上人はこの専修念仏(せんじゅねんぶつ)に確信を持つと、比叡山を下り、やがて吉水の禅房、現在の知恩院御影堂の近くに移り住みました。そして、訪れる人を誰でも迎え入れ、念仏の教えを説くという生活を送りました。こうした法然上人の教えは、多くの人々の心をとらえ、時の摂政である九条兼実など貴族にも教えは広まっていきました。しかし、教えが世に広まるにつれ、法然上人の弟子と称して間違った教えを説く者も現れたり、また、旧仏教からの弾圧も大きくなりました。 
加えて、上人の弟子である住蓮、安楽が後鳥羽上皇の怒りをかう事件を起こし、建永2年(1207)、上人は責任をとらされ四国流罪の憂き目にあいます。5年後の建暦元年(1211)に帰京できましたが、吉水の旧房は荒れ果てており、今の知恩院勢至堂のある場所、大谷の禅房に住むことになりました。翌年、病床についた法然上人は、弟子の源智上人の願いを受け、念仏の肝要を一筆書きにしたためます。それが「智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」と述べた「一枚起請文」です。そして建暦2年(1212)正月25日、法然上人ついに入寂、80歳でした。  
門弟たちは房の傍らに上人の墳墓をつくりましたが、その15年後、叡山の僧兵により墳墓が破却されそうになったため、弟子たちは亡骸を西山粟生野に移し、荼毘にふします。その後、文暦元年(1234)、源智上人は、荒れるがままの墓所を修理し遺骨を納め、仏殿、御影堂、総門を建て、知恩院大谷寺と号し、法然上人を開山第一世と仰ぐようになりました。知恩院の名は、遺弟たちが上人報恩のために行った知恩講に由来します。 
ところで、法然上人を祖師と仰ぐ浄土宗の総本山として、知恩院の地位が確立したのは、室町時代の後期とされており、また、知恩院の建物が拡充したのは、徳川時代になってからのことです。徳川家は古くから浄土宗に帰依しており、家康は生母伝通院が亡くなると知恩院で弔い、また亡母菩提のため寺域を拡張し、ほぼ現在の境内地にまで広げたのです。その後も火災に見舞われるなど、伽藍にいくたびかの盛衰はありましたが、多くの人々の支援によって乗り越え、こうして800年以上、念仏の教えはここに生き続けてきました。 
月影のいたらぬ里はなけれども ながむる人のこころにぞすむ 
法然上人が詠まれた「月かげ」のお歌です。月の光はすべてのものを照らし、里人にくまなく降り注いでいるけれども、月を眺めるひと以外にはその月の美しさはわからない。阿弥陀仏のお慈悲のこころは、すべての人々に平等に注がれているけれども、手を合わせて「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えるひとのみが阿弥陀仏の救いをこうむることができるという意味です。法然上人は「月かげ」のお歌に、「観無量寿経」の一節「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」のこころを説き、私たちにお示しくださったのです。 
法然上人の教えは、厳しい修行を経た者や財力のあるものだけが救われるという教えが主流であった当時の仏教諸宗とは全く違ったものでした。「南無阿弥陀仏」と唱えればみな平等に救われる。法然上人のおしえは貴族や武士だけでなく、老若男女を問わずすべての人々から衝撃と感動をもって受け入れられ、800年を経た今日もそのおしえはひとびとの「心のよりどころ」となっているのです。    
 
法然上人の教え
お念仏  
唐土我朝に、もろもろの智者達の、沙汰し申さるる観念の念にもあらず。また学問をして、念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。 
私の説いてきたお念仏は、み仏の教えを深く学んだ中国や日本の高僧の方が理解して説かれてきた、静めた心でみ仏のお姿を想い描く観念の念仏ではありません。また、み仏の教えを学びとることによって、お念仏の意味合いを深く理解した上でとなえる念仏でもありません。  
阿弥陀さまの本願  
ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細候わず。 
阿弥陀仏の極楽浄土へ往生を遂げるためには、ただひたすらに「南無阿弥陀仏」とおとなえするのです。一点の疑いもなく「必ず極楽浄土に往生するのだ」と思い定めておとなえするほかには、別になにもありません。  
お念仏をとなえれば  
ただし三心四修と申すことの候うは、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候うなり。  
ただし、お念仏をとなえる上では、三つの心構えと四つの態度が必要とされますが、それらさえもみなことごとく、「「南無阿弥陀仏」とおとなえして必ず往生するのだ」と思い定める中に、おのずとそなわってくるのです。  
法然上人の誓い  
この外に奥ふかき事を存ぜば、二尊のあわれみにはずれ、本願にもれ候うべし。  
もし私が、このこと以外にお念仏の奥深い教えを知っていながら隠しているというのであれば、あらゆる衆生を救おうとするお釈迦さまや阿弥陀さまのお慈悲にそむくことになり、私自身、阿弥陀さまの本願の救いから漏れおちてしまうことになりましょう。  
ただひたすらにお念仏をとなえる  
念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。  
お念仏の教えを信じる者たちは、たとえお釈迦さまが生涯をかけてお説きになったみ教えをしっかり学んだとしても、自分はその一節さえも知らない愚か者と自省し、出家とは名ばかりでただ髪を下ろしただけの人が、仏の教えを学んでいなくとも心の底からお念仏をとなえているように、決して智慧あるもののふりをせず、ただひたすらお念仏をとなえなさい。  
教え 
証のために両手印をもってす。浄土宗の安心起行この一紙に至極せり。源空が所存、この外に全く別義を存ぜず、滅後の邪義をふせがんがために所存をしるし畢んぬ。建暦二年正月二十三日 大師在御判  
以上のことを証明し、み仏にお誓いするために私の両手を印としてこの一紙に判を押します。浄土宗における心の持ちようと行のありかたを、この一紙にすべて極めました。私、源空の胸の内には、これ以外に異なった理解は全くありません。私の滅後、間違った見解が出てくるのを防ぐために、考えているところを記し終えました。建暦2年1月23日(法然上人の御手印)  
 
法然上人のご入滅は建暦2年(1212)正月25日です。つまりこの「一枚起請文」はその2日前に書かれたことになります。死期がせまるなか、しっかりとした筆跡でしかも簡潔明瞭に、念仏の心とその実践について、上人の本意を一枚の紙に凝縮されたのです。さらに、本文の上には両手の印が押してあり、ご自身の確認とともにその証明としておられます。 
これは弟子の要請により書かれたものではありますが、上人が教え広められたお念仏が間違った方向に進まないようにと、そしてご自身の死後にその根源である称名念仏が脈々と受け継がれるための戒めとしてたくされているのです。  
 
浄土宗
法然上人(法然房・源空)を宗祖と仰いでいる宗旨です。 
法然上人は、今から約860年前(1133)に現在の岡山県(当時の美作(みまさか)の国)にお誕生になりました。幼少にして父を失い、それを機会に父のおしえのままに出家して京都(滋賀)の比叡山(ひえいざん)にのぼって勉学し、当時の仏教・学問のすべてを修した後、ただひたすらに仏に帰依(きえ)すれば必ず救われる、すなわち南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)を口に出して称(とな)えれば必ず仏の救済をうけて平和な毎日を送り、お浄土に生まれることができる、という他力のおしえをひろめられました。 
当時の旧仏教の中でこの新しいおしえを打ち出されただけに、いろいろな苦難がつづきました。貴族だけの仏教を大衆のために、というこのおしえは、日本中にひろまり、皇室・貴族をはじめとして、広く一般民衆にいたるまで、このみちびきによって救われたのでした。 
法然上人は、どこにいても、なにをしていても南無阿弥陀仏を称えよ、とすすめておられます。南無阿弥陀仏と口に称えて仕事をしなさい、その仏の御名(みな)のなかに生活しなさい、とおしえられています。 
こうしたおしえがひろまるにつれて、その時代の新しい宗教であったため、いろいろなことで迫害をうけましたが、そのときでも、法然上人はこのおしえだけは絶対やめませんという固い決意をあらわしておられますし、また亡くなるときにも、わたしが死んでも墓を建てなくてもよろしい、南無阿弥陀仏を称えるところには必ずわたしがいるのですといって、その強い信念を示されました。 
亡くなってから790余年になりますが、その遺言とは反対にお寺がたくさんできたということは、いかに法然上人のおしえがわれわれ民衆と共にあってそのおしえを慕わずにおられなかったか、という心のあらわれであります。 
南無阿弥陀仏の仏の御名は、すぐ口に出して称えられます。できるだけたくさん口に出して称えるほど、私たちは仏の願いに近づくことになるのです。するとわたくしたちはすなおな心になり、今日の生活に必ず光がさし込んできて、生き生きとした、そして、平和なくらしができるようになります。それは明日の生活にもつづいて、日ぐらしの上に立派な花を咲かせてくれます。 
極楽浄土 
浄土のもともとの意味は、仏国土つまり仏さまの国、世界ということであり、そこは清らかな幸せに満ち、そこに生まれるとどんな苦しみもないところで、例えば薬師如来の東方浄瑠璃世界、大日如来の密厳浄土など、いろいろな仏さまがそれぞれに浄土を築き、そこで説法していると説かれている。その中で極楽浄土は、西方浄土ともいわれ、他に極楽界、安養界(あんにょうかい)(土)などともいわれている。 
阿弥陀仏が仏になる前の法蔵菩薩の時に、「命ある者すべてを救いたい」と願って48の本願(ねがい)をたて、その願いが成就されて築かれた世界である。すなわち、阿弥陀仏が人々を救うためにお建てになった世界。どんな人々であろうとも、念仏を唱えるならば、命終ののち生まれる(行きつく)ことができる永遠のやすらぎの世界。けがれや迷いが一切ない、真・善・美の極まった世界であるが、単に楽の極まった世界であると考えてはいけない。 
われわれは浄土において、仏になるために菩薩行をつみ、やがて仏になることができるのである。48の本願の第18番目が「念仏往生の本願」といい、南無阿弥陀仏を口にとなえるものは、皆極楽に往生できると説かれている。「阿弥陀経」には、西方十万億土の彼方にある国と記されている。  
念仏 
念仏とは仏を念ずることであり、その念には次の三つの義がある。 
およそ経典に出てくる念仏の多くは仏を憶念することを意味する。とくに古い経典にでてくる三念、五念、十念などはこれに属する。 
仏の相好等を見ることで見仏、観仏、観念という。 
仏の名を称(とな)えること即ち称名で、浄土宗で念仏という場合は、この阿弥陀仏の名号を口に称(とな)えることと、法然上人はその著「選択本願念仏集」にお示しになった。  
阿弥陀さまとお釈迦さま  
阿弥陀さまも、お釈迦さまも共に仏さまであり、仏とは悟りを開いた方をさす。悟りの世界では物事の成り立ちが手に取るようにわかり、悩みも苦しみもない自由で平安な世界である。お釈迦さまは、今からおよそ2500年の昔、悟りを開いて仏となり、多くの人々を救うために教えを説かれた。その教えが仏教であり、その中でお釈迦さまは、遠い過去に悟りを開き、今も人々に救いの手をさしのべている仏さまの事を説き教えられた。その方こそが阿弥陀さまである。  
一枚起請文 
建暦2年(1212)法然上人が、お亡くなりになる直前に、その弟子の一人である源智上人の要請により、書かれたものです。浄土宗の教えの要であるお念仏(称名念仏)の意味、心構え、態度について、とても簡潔に説明されています。さらに、本文中に「両手印をもってす」とあるように、両手の判を押し、上人自身が証明していらっしゃいます。法然上人のお誓いの文章であることから「御誓言の書」とも呼ばれ、大本山金戒光明寺に大切に保存されています。  
弥陀三尊 
浄土宗寺院の本堂の正面真中におまつりされている仏さまが阿弥陀如来(仏)、向って右が観音菩薩、左が勢至菩薩である。菩薩とはもともとは仏になるために修行する人のことをいったが、観音菩薩や勢至菩薩の場合は阿弥陀仏の分身として、その働きを助ける者という考えである。阿弥陀さまはなにびとと雖も区別なくお救い下されるが、阿弥陀さまが、慈悲として働かれる時には観音菩薩をつかわし、智慧として働かれる時は勢至菩薩をつかわされるのである。  
 
一遍上人論 / 私性の誕生とうたの漂泊

序 / 宝厳寺にて 
松山の道後温泉本館裏の坂をのぼってゆくと、ネオン坂と呼ばれる飲み屋街がある。かつての松ヶ枝遊郭の跡地であるという。私が訪れたのは昼であったためか、日の光に晒されているネオン坂は、ずいぶんさびれて見えた。 
そのゆるやかな坂をさらにのぼり続けると、道の突き当たりに山門が見える。それが宝厳寺である。門の手前すぐのところに黒くうずくまる異形の建物がある。一見して空家と分かるその旅館のようにも見える古い建物は、かつての遊郭「朝日楼」の遺構であった。 
寺の眼前に遊郭があるのだ。 
それは確かに奇異な風景ではあるが、一遍聖の寺と思えば、自然なことのようにも思えるのだった。 
こんもりとした山を背負った静かな寺。時宗宝厳寺。この土地で一遍智真は延応元年(一二三九)に生を受けた。寺は六月の陽光を浴びて沈黙していた。山門からふり返ると灰色のネオン坂が人影もなく陽に灼かれていた。 
私が一遍上人について考え始めたのは、平成十八年に「山本健吉と中上健次 花鳥風月の原風景」(「文学の森」二〇〇六年夏号)を書いたとき、正確に言えば論の着想を得た平成十七年暮のことだった。その時は中上健次論を書こうとして、熊野関係の資料を読み漁っていた。その中に網野善彦の「中世の非人と遊女」があり、「一遍聖絵」について、その絵図に描かれている中世の人間群像への網野の鋭い考察に衝撃を受けると同時に、一遍という人物への大きな興味を持つこととなったのである。私は「山本健吉と中上健次」の中に、一遍のために一章を割いて自説を述べた。それは一遍を語るには、あまりに短いものであった。 
その際、一遍の熊野成道(じょうどう)に日本人の精神史の大きな転換点があったのでは、と私は感じた。それがどのようなものであったか詳しくは後述するが、もちろん一遍ただ一人が精神史を転換させたわけではない。だが、その時代の典型としてきわめて印象的に歴史に一遍の足跡が遺されたのである。 
一遍が時衆と呼ばれる集団を作り、諸国を遍歴したこと、尼僧もともない男女共同の集団であったこと、あらゆる宗派から独立していたこと、鎌倉仏教の中で異例の本地垂迹派であったこと、経典を作らずひたすら和歌・和讃を残したこと、観念を排除し行動中心の思想であったこと、一代限りを宣言したこと、霊場巡礼を重視したこと、多くの非人・病人が時衆のあとをついてきたこと。 
こうした一遍時衆の特徴を知るにつれ、捨聖一遍という独りの遊行者が、その後の日本人の精神に大きな影響を与えたに違いないと思うに至ったわけだが、また俳人である私は、一遍の言葉、一遍の行動が、その後のうたの世界を支える精神に通じることとなったのではないか、とも考えるようになった。現代の私たちの俳句や、短歌、あるいは私小説にも見られる私性の根源が、一遍の生きた時代に誕生したのではなかろうか、とも思うのだった。 
第一章 一遍の出離 その時代背景 
一遍は伊予の豪族・河野家の人であった。河野家は平家との戦いで功をなしたが、承久の変において後鳥羽院側につき、その結果一遍の祖父通信が奥州に流された。父河野通広(みちのぶ)については処罰の記録はなく、承久の乱当時は出家していたものと思われる。通広はその後還俗しているが、息子一遍を出家させたのはなぜなのか。 
そこには武家にまつわるさまざまな事情があったのだろう。承久の変を目の当たりにした通広は、主従関係を重んずる武士が、そのつかえる主によって親族同士殺しあうこともあり(承久の変の時、河野氏の中で幕府側についたものもいた)、またその領地の問題で相続の争いもありがちであることから、一遍を出家させたのではないか。 
父の通広は法名を如仏と称し、京の西山上人(証空)から浄土三部経の教えを受けたといわれている。証空とは法然の弟子であり、浄土宗西山派を起こした人物である。一遍にとって父が浄土宗の僧であったこと、その縁で自分も父と同門の大宰府の聖達上人のもとで教えられたことが、その後の彼の生涯を決定することとなった。 
一遍の思想の基礎を知るためには、ここで寄り道のようにはなるが、浄土教系の鎌倉仏教について知っておく必要があるだろう。 
鎌倉時代というのは、権力が朝廷から武家に移った時代と捉えられがちだが、その権力の移行はいまだ完全ではなく、朝廷も一定の力を持っており、二重権力構造であった。社会的にも平安末期の世相、文化を色濃く残していた。宗教的には、平安末に始まった末法思想が仏教界を大きく変える原因となったと考えられる。末法思想は中国の「三時説」から生まれ、わが国では平安末期の永承七年(一〇五二年)に末法の世に入ったと言われた。 
その末法思想の登場が、それまで鎮護国家を第一としてきた仏教に変化が起こさせることとなった。貴族たちが現世の安寧よりも来世の極楽の保証を仏に求め始めたのである。そのための喜捨、堂塔伽藍の建立が盛んになっていく。戦乱の続く現世は末法が嘘ではないことを示していたし、永遠に続くと思われた天皇権威による神聖王朝は、「野蛮な」武士たちに力で崩されようとしている。いまこそ仏に祈り来世の安楽の保証を得たい。そう貴族たちは考えたし、仏教界側もそれに応えたはずだった。 
集まる喜捨によって寺院は強大となった。寺もまた末法の世に存続するために私兵を養う状態であり、崩れゆく王朝への危機感を持っていたのであろう。そんな時代の仏教界をまさに代表する存在であった延暦寺の中に、一人、時代状況に疑問を持つ男が現れた。法然である。 
末法の恐怖からのがれたいと希求しているのは貴族だけなのか。喜捨をし、善を積み、極楽への指定席を得る権利は貴族にしかないのか、現世の苦海に沈んでいて、救いを求めているのは貴族ではなく、むしろ庶民であろう。しかし、彼らは喜捨をするものを何一つもってはいない。貴族たちが手を汚さずに暮らせるために庶民が手を汚して暮らしている。殺生戒を犯さねば生きられぬ者たちも多い。 
貴族が救済される権利を持ち、庶民にそれがないのはなぜか。仏とはそのような存在なのか。末法観の広がりとは「罪と救済」の考え方の普及でもあった。 
法然は比叡山の官僧であったが、天台宗のあり方に疑問を持ち、一一七五年に四十三歳で比叡山を離れ、新たな宗門・浄土宗を創る。一一九八年に「選択集」を著し、無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経を根本経典と制定した。浄土教は、無量寿経にある阿弥陀如来が誓った四十八願の内の十八番目の願文に重きをおいている。それは、「設(たと)い我仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽(しんぎょう)して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれざれば正覚(しょうがく)を取らじと。」という誓願である。 
簡単に言い換えると、法蔵菩薩は正覚し阿弥陀如来となるときに、衆生が全て浄土に生まれ変われないのであれば、自分は正覚しない、との誓いを立てたという。そして法蔵菩薩は阿弥陀如来となり、浄土において教えを説かれているというのである。つまり、それは阿弥陀如来を信じることによって、浄土に救済されることが約束されているのだという意味になる。であれば、寄進や寺を建てたりせずとも、阿弥陀仏を信じ祈りさえすれば誰もが浄土に渡れることになる。それは、喜捨する財を持たない庶民にとって福音であった。同時に、これまで貴族の庇護のもと権勢をふるっていた既成仏教界にとっては、その存在を根底から揺るがす邪教に見えたことだろう。 
一二〇四年に比叡山は法然と浄土宗に念仏停止を命じ、一二〇七年には讃岐に流罪にしてしまう。 
一一八一年に延暦寺の下役僧となった親鸞は一二〇一年に法然の弟子となり、法然とともに罰せられ越後に流罪となる。法然、親鸞が許されたのは一二一一年のことであった。 
一遍が生まれたのはその二十八年後の一二三九年である。浄土宗への弾圧の嵐が過ぎ去り、宗門の基盤が出来、また親鸞による浄土真宗がさらに新しい教義を展開している時代に一遍は生まれた。親鸞が「教行信証」を書いたのは一二四七年のことであった。 
末法という思想が、人に罪の意識を植え付け、免罪のための喜捨を人々に求めていた仏教に、否を突きつけたのが法然とそれ以降の浄土教宗派であったのだろう。 
阿弥陀の誓願により衆生はすでに救済されている。念仏を唱えさえすればよい。一遍が、十三歳という多感な歳で出家したとき、仏教界は革命期にあったのである。 
時代は保元・平治の乱、源平の争闘、鎌倉幕府の成立、承久の乱、蒙古襲来と激動していく。父の通広は、承久の乱に巻き込まれた河野家の人としては奇跡的に罪を免れた。しかし、主に仕える武士という存在は、状況によって同族が互いに戦う悲劇を演じるという不確かなものによって生死が翻弄される。そんな武士の宿命を、自らの体験と、僧としての見識から感じ取り、一遍をそのような武士の非情な宿命から遠ざけようとしたのかもしれない。ともかく一遍、幼名松寿丸は十三歳で父の指示にて出家するのである。 
父が一遍を修行に送った先は、京都でともに学んだ仲間であり今は大宰府にいる聖達上人であった。途中、肥前の華台上人のもとでも学び、そこで法名を智真とした。この第一回目の出家は、一遍にとっては留学のようなものであり、大陸との玄関口であった文化のレベルの高い大宰府の地で、仏教だけではなく当時の知識人の基礎教養を学習したことだろう。のちの一遍の文才や詩才を見ると、この時期に基礎的な教養を身につけたものと思われる。 
しかし、父の死によって、一遍はいったん還俗する。一遍の兄弟に関しては諸説あるようだが、高野修によると、通朝、智真、仙阿、通定の四人兄弟であったという。三男仙阿はのちの宝厳寺住職。四男通定は異母弟でのちに一遍と行動を共にすることとなる聖戒である。二男智真も混乱した時代に武士として生きることの困難や、あるいは相続の問題などから父が命じて出家したのであろうが、それが一旦還俗したのは長男通朝が死んだからかもしれない。 
還俗した一遍が再出家した理由ははっきりしないが、説はふたつある。ひとつは、領地あらそいにまきこまれ殺人に至る闘争があり、その罪を悔い出家したとする説(「縁起絵」)。もうひとつは、正妻と妾との愛染妄境に出家の動機を指摘する説である(「北条九代記」)。おそらくどちらもが動機だったのではなかろうか。 
いちど仏法を学んだものにとって、殺生は許しがたいことではある。しかし平清盛のように出家し入道と呼ばれながら争闘を好み、矛盾を感じなかった武士も当時は多かった。そこには一遍の一途で潔癖な性格があったのであろう。また、当時、妻と妾が同居するのは珍しいことではなかったが、昼寝をしている二人の髪が蛇となって、からみあっている幻視があったという伝説(「北条九代記」)も、一遍の潔癖な性格をあらわしているのかもしれない。 
領土争いと愛憎問題。このふたつが一遍を再出家に向かわせることとなった。愛憎問題はいかにも後世の作り話のように見えるかもしれない。しかし一遍の伝記「聖絵」を読めば、それは十分にありえたことと思える。なぜなら二回目の出家のあとでいったん一遍は家にもどり、超一という女性と、超二という少女を連れて旅に出ているのである。この二人を正妻と子とみるか、妾と子とみるか、説の分かれているところではあるが、家督を捨てて旅立つ男が家に妾の親子を置いてゆくだろうか。また、正妻の側に出家する理由があるだろうか。私は超一と超二は妾とその子であろうと思う。 
「聖絵」では、熊野成道ののち一遍がこの二人を「放ち棄て」たとなっている。二人は故郷の聖戒のもとに帰されたと見るべきだが、「聖絵」をたんねんに見てゆけば、超一と思われる尼の姿がいくつかの場面に描かれている。そして「時宗過去帳」に、超一の往生の記録がある。栗田勇によれば、過去帳の超一往生の時期の直後にあたる法話で一遍が愛染妄境を語っているとの指摘もある。 
それらを考えれば、一遍出家の理由のひとつに愛憎問題があり、それが遊行中もけっして消えていなかったのではないかとも思われるのである。この二つの出家の理由は、その後の一遍の信仰に大きな影響を与えたのではなかろうか。殺生戒、女人、このふたつの救済にかける思いの強さを一遍の生涯から感じるのである。 
さらに私は一遍の背景として、河野一族が水軍であったことにも注目している。水軍は海族である。陸に領地を持ちながらも、水軍である限り海の民との交流は濃いものであっただろう。海の民は、当時の既成仏教から見れば殺生戒を犯す者であった。農民と異なり、彼らは仏教世界において地獄落ちを宿命とされている民であった。そこに一遍の往生観のバックボーンがあったのではないか。 
しかし同時に有力な武家の出身でもあった一遍は、当初は当時の差別観から必ずしも自由ではなかったと思われる。それゆえ二回目の熊野での成道が重要な意味を持ってくる。そのことは次章で語ることとして、一遍が河野水軍の出であるということを、重要なキーワードとして記しておく。 
第二章 一遍上人の遊行と時衆 
本論は一遍の伝記を書くことを目的とはしていないが、彼の生涯とその思想を知るためには、一遍の行跡をひととおりは追っておかねばならない。 
一遍の伝記としては「一遍聖絵(ひじりえ)」と「遊行上人縁起絵」とがある。しかし「縁起絵」は十巻中六巻を継承者の真教伝についやしており、他阿真教の継承者としての正統性のために描かれた要素が強く、信憑性はやや低い。やはり上人十周忌に、異母弟の聖戒によって作られた「一遍聖絵」の史料的価値が高いことになる。「聖絵」原本は、もと京都六条道場歓喜光寺にあったが、現在は藤沢の清浄光寺(遊行寺)と歓喜光寺の共同管理となっているという。「聖絵」は第一から第十二まであり、十三歳の一回目の出家から始まって臨終までが描かれている。その「聖絵」にもとづいて一遍の後半生を見てみよう。 
前章でも述べたとおり、一遍は一度還俗してから、ある事情によって再び出家することとなった。弟の聖戒を連れて、いったんは再び大宰府の聖達上人のもとに行くが、その後、一二七一年春に善光寺へと向かう。 
道を求めるために自ら行動しようとした一遍が、最初に選んだ地が善光寺であった。なぜであろう。それは後年、四天王寺より遊行を始めたときにも浮かんでくる疑問である。なぜ、善光寺、なぜ、四天王寺だったのだろうか。 
一遍は浄土門の僧である。浄土門であっても多くの高僧が比叡山で修行したのと異なり、一遍は天台宗とは無縁であると同時に官から認められていない私度僧であった。師の聖達上人は浄土宗西山派であったが、一遍は西山派にも属さなかったようだ。一遍の遊行先を見ても、浄土宗西山派の影響はまったく感じられない。一遍には天台宗も、浄土宗、浄土真宗、あるは同時代人日蓮による日蓮宗も眼中になかったようだ。彼が意識したのは阿弥陀仏ただひとつであった。 
それゆえ、一遍の遊行先は主に民衆の信じる聖地が選択された。最初に選んだ善光寺も特定の宗門に属さない寺であり、女人結界のない、全ての民衆に開かれた聖地であったことが一遍にとって何より重要なことだったのだろう。 
一遍はそこで二河白道図(にがびゃくどうず)と出会う。そして阿弥陀仏に帰依する意味について深い思索をすることとなる。二河白道図を描き写し、それを自分の本尊として故郷にもどると、伊予窪寺に籠もる。その地で「十一不二頌(じゅういちふにしょう)」を作ることになる。 
十劫正覚衆生界  一念往生弥陀国 
十一不二証無生  国界平等坐大会  「十一不二頌」 
じっこうしょうかくしゅじょうかい  いちねんおうじょうあみだこく 
じゅういちふにしょうむしょう  こくがいびょうどうざだいえ 
これは、「十劫という遠い昔に阿弥陀仏が正覚し衆生を救った。衆生は一念をもって往生ができる。この十劫という弥陀の時と、一念という衆生の瞬間は、不二である。つまり、まったく同じことである。ここにおいて弥陀の国と衆生界とは平等であり、弥陀と衆生は坐を同じくしているのである。」という意味だ。一遍は修行の中でこの真理を体得した。さらに半年、菅生の岩屋での修行ののち、一切を捨てて、自らの命を民衆のために捧げることを決意する。 
一二七四年二月八日、三十六歳の一遍は、超一、超二、念仏房を連れて旅立つ。弟の聖戒は桜井まで同行した上で別れることとなった。超一、超二と、一遍との関係については前章に述べたとおりである。 
彼らはまず難波の四天王寺へと行った。この寺も、善光寺と同じ、宗門を超えた信仰の寺である。善光寺にしても四天王寺にしても、当時より庶民が多く集まる聖地だった。彼らこそ、一遍が手を差し伸べるべき人々だ、との思いがあったに違いない。一遍が訪れた年にはまだ木の鳥居だったが、その二十年後に石の鳥居に建て替えられ、幾多の天災人災をまぬがれ現在もそれは極楽門の前に西を向いて立っている。 
私が四天王寺を訪れたとき、その鳥居には今もなお「釈迦如来転法輪処当極楽土東門中心」の扁額が掛けられていた。そう、この鳥居は四天王寺の西門であると同時に西方浄土の東門なのだ。当時、この鳥居の西には海が広がっていた。そこはすでに浄土、との信仰があった。だからこの鳥居は寺の西門であると同時に浄土の東門にあたる。 
現在の四天王寺の、石鳥居をくぐり、極楽門をくぐると、右手に大師堂と「南無大師遍照金剛」の幟が立ち、左手には親鸞を祀った見真堂と「南無阿弥陀仏」の幟が翻っている。現代においても四天王寺が宗門と無縁の信仰の場であることがあらわされている。難解な仏教哲学とは無縁な庶民の祈りの場として創立以来四天王寺があり続けていることに私は感動した。宗門宗派を乗り越えることを訴えつづけた一遍が、この地から念仏札の賦算を始めたのはけっして偶然ではない。 
金堂の本尊は救世観音菩薩、講堂の本尊は阿弥陀如来だ。そして仁王門を背にして南大門がある。その手前に大きな石と灯籠がある。その石の名は熊野礼拝石という。昔、人々はここで熊野の方角に祈り、熊野参詣の旅に出た。一遍もここから熊野を遥拝したに違いない。阿弥陀信仰と、大師信仰、聖徳太子信仰、熊野信仰、それらが渾然とここ四天王寺にある。まさにここから一遍智真の旅が始まったのだ。 
しかし、一遍はまだこのとき肝心のことに気づいてはいなかった。 
彼はまだ、当時の遊行聖、念仏聖というものにとらわれていたのではないか。 
このころ、融通念仏の札の賦算とは物乞でもあり、そのことで路銀を入手していたのである。それ以降も念仏聖とはそのようなものであった。一遍も四天王寺から札を配りはじめたのは巡礼に必要な乞食であったのだろう。この時には、まだ超一、超二らを連れていたことを忘れるべきではない。四天王寺のあと、高野山に登るわけだが、当時女人禁制であった高野山に一遍が参籠中、彼女たちはどこに泊まっていたのか。その費用はどうやって工面したのか。そう考えれば、念仏札の賦算には当時の巡礼の、そして念仏聖と呼ばれた漂泊民の経済をそこに見ることができる。 
一遍が本宮証誠殿にて熊野権現の夢告を受け成道したのちに、超一超二を「放ち棄て」たのは、職業的な念仏聖であることに訣別したとも受け取れる。融通念仏との訣別であった。 
そのきっかけとなったのは、高野山で高野聖たちと交流したのち、熊野本宮へと向かう山道での一人の僧との出会いであった。そのことを聖戒は一遍からよく聞かされていたのだろう。超人的な聖人伝説であれば、熊野権現の夢告のみでよいところを、あえて一遍が恥をかいた場面にも見えるこのエピソードを夢告の前に描いたのには、よくよくの理由があったはずだ。 
絵では、その身分のありそうな僧の上に「権現」との文字が見えるが、それは後世の人の蛇足であり、聖戒の絵詞の中にもその僧が権現の化身だとは書かれていない。「縁起絵」では「律僧」とされている。すれちがう巡礼者全てに念仏札を手渡していた一遍であったが、ここで札を拒否されるという思いもかけぬ事態に至る。しかも僧にである。 
信が起こらないので受け取れない。僧ははっきりと言い切った。仏教を軽んじているのではない。自分の中に信が起きないのだ、と言うのである。 
一遍はそれに十分な反論ができず、苦し紛れに札を無理矢理渡している。醜態であった。 
この一遍の狼狽は、信不信に関する問いに直面したためばかりではなかろう。 
僧は一遍に念仏聖のもの欲しさを見たのである。路銀欲しさに誰彼かまわず札を配っている心根を見透かされたのである。一遍は、自分は違うと思っていたであろうが、他人から見れば女、子ども連れの乞食聖と見られても当時の風俗から当然のことであった。熊野巡礼路には多くの関があり、関ごとに通行料をとられていた。熊野巡礼は経済の場でもあった。信仰の名を借りた乞食も多数集まっていたのである。一遍もそのシステムをひとつの方便として迷いなく利用していた。そこに潜む欺瞞に気付かずにいた。しかし一人の僧にその矛盾を見破られ厳しく指摘されたのである。 
このことが彼にとって大きな転換点となった。一遍は自分の醜態の意味を考え、僧に反論できなかった自分自身を見つめた。その彼の迷いと悩みが、その後、熊野本宮証誠殿に参籠した夜の、権現の夢告となってあらわれたのである。 
《融通念仏すすむる聖、いかに念仏をばあしくすすめらるるぞ。御房のすすめによりて一切衆生はじめて往生すべきにあらず。阿弥陀仏の十劫正覚に、一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と必定するところ也。信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし》 
夢に現れた熊野権現は一遍にそう告げた。 
私は「聖絵」の中で、この山道での僧との出会いと、権現の夢告の場面が最も好きだ。ここは一遍がまだひきずっていた旧来の考え方の間違いに気づく劇的な場面である。権現のものとされている上記の言葉は名文であり、この境地に達したとき一遍はもう新たに学ぶものはなかった。あとはひたすらに歩けるだけ歩き、会えるだけ人々に会い、結縁をひろげていくだけだった。 
《信不信をえらばず、浄不浄をきらはず》 
抽象的な議論や、施しのような布教ではなく、今、生きている人々一人一人の存在が、貴賤にかかわらず、存在するそのこと自体によって往生を弥陀に約束されている。そのことを伝えて歩くことがおのれの行であるという確信。善を積むのではなく、捨てるということ。なにもかも捨てた自分は、賤民と何の違いがあるか。その事実を直視する。一遍は武家の出であったかもしれないが、熊野の成道は彼をして一人の賤民とした。聖という賤民に。 
一にして遍である一遍の誕生であった。 
そして、夢告によって成道した一遍には、次にやるべきことがあった。それは超一、超二との別れである。 
信不信を問わず全ての人に見返りを求めずに札を配るためには一度全てを捨てねばならない。妻子を連れての旅では心をどのように保とうとも、きっと生活のための雑念が生れる。再びそこを見透かされることになるだろう。 
《今はおもふやうありて同行等をもはなちすてつ》 
この強い表現は一遍の決心の強さであった。その後の超一超二がどうなったかについて聖戒は触れていない。精神的な面で放ち棄てたのであって、その後も同行したのでは、と見る研究者もいるが、おそらく二人は聖戒への手紙とともに伊予に帰ったのだろう。ただ「時宗過去帳」に超一房の名が載っているためいくつかの説が生れることになった。また「聖絵」を仔細に見ると、超一と思われる尼の姿を見つけることもできる。 
高野山では一遍はまだ時衆を連れていなかった。時衆という集団が発生するのは、こののち九州に渡り他阿真教に出会ったあとのことである。一遍が時衆を連れ諸国を遍歴するようになってから、超一は時衆尼として再び従うことになったのだろうと私は想像する。超二は一緒ではなかったようだ。過去帳にもその名はない。 
全くの想像ではあるが、超二は伊予で在俗の中に短い生涯を終えたのではないか。そして超一は超二の菩提を弔うために時衆となったのだろう。もちろん超二は一遍の実子である。夫の愛を喪い、子を喪った超一は時衆の尼として一遍とともに辛い旅を続け、一二八三年に死んだものと思われる。その時期に一遍は《生死本源の形は男女和合の一念、流浪三界の相は愛染妄境の迷情なり》という法話をのこしている。 
一遍は妄執を引きずりながらの旅をしていた。全てを捨てろと言いながら、捨てきれない一遍でもあった。 
一人となった一遍は、その後、いったん伊予に帰国し国中を布教してまわり、一二七六年九州に渡り、聖達上人と再会する。九州では、のちに時衆の後継者となる他阿弥陀仏真教との出会いがあった。九州は、河野水軍の影響の強い土地であったためか、武士で一遍に結縁するものも多くいたようだ。その勢いで、次に京に上がったのだが、京都因幡堂で粗略に扱われ、布教に失敗する。再び善光寺に寄ったのちに、佐久の伴野で初めて踊り念仏を行った。 
「聖絵」を観ると、最初の踊り念仏は自然発生的に起こったように見える。後年の輪になって踊るような型らしきものもなく、尼僧が中心になってただ飛び跳ねているかのような姿だ。このとき以降、踊り念仏は時衆の布教方法の中心におかれるようになる。 
ただただひたすらに阿弥陀仏の名号を唱え踊る。熱狂が信仰のエクスタシーを呼ぶ。踊ることで日常から抜け出せる。そして踊る集団は定住せずに旅立ってゆく。日常からの脱出を求める人々がそのあとをついていったのだろう。 
だがそれは安楽な道ではない。行き着く先は路傍の死である。しかしそうした行き倒れこそ一遍の本願でもあった。一遍が捨て聖と呼ばれたのはそのことによる。 
一遍はつき従うものたちに厳しい約束を課している。信仰の道を踏み外したものは誰であれ、往生を認められないとした。他力であって他力ではない奇妙な規律が集団を支配していたのである。阿弥号を持ったものは一切の所有をせず、定住せず、ひたすら弥陀の名を唱え、奇跡を語らず、遊行の中での往生をめざした。一時一時を往生する覚悟を求められた。それゆえ彼らは自らを時衆と呼んだのである。南無阿弥陀仏を唱える孤の遊行集団、それが時衆であり、一遍の考える信仰の姿であった。 
その一遍の思想がなぜその時代に多くの共鳴を呼んだのか。そこに重要なポイントがある。孤の自覚、孤の解放が、一遍の言葉の中にはあった。さすらう孤の魂が世に充ち充ちていたのが中世という時代でもあったと言えるだろう。それは平安朝下には見つけることのできない姿であった。 
もしかすると、逆に私たちは平安期の共同体の一部としての人間像を想像することのほうがむずかしいのではないか。中世に生れたこの孤の精神のほうが現代人には身近に思われるだろう。孤の叫びはワタクシの叫びである。一遍上人は時代が生んだ無数のワタクシをつき従えて諸国を遊行したのだ。あたかも流民のように。権力構造の枠の外で。 
尼僧が踊っている姿が描かれていると言った。それもまた時衆の特徴である。 
時衆は僧尼がともに旅をしたのである。当時の仏教界の常識からはかけはなれた行為であった。それゆえに他宗からしばしば攻撃されもし、また現実に時衆内で問題が起きることも少なくはなかったようだ。だが、一遍は僧尼同行にこだわり続けた。男も女も変わりはしない。そこにも一遍の不二の思想があるのだ。 
一遍と時衆は、佐久のあと、奥州江刺へ祖父通信の墓を探しに行く。そしてその墓前ですすき念仏を行う。このすすき念仏は現在も時宗の重要な行事として継承されている。 
一行は、南下し鎌倉へと入ろうとする。しかし当時、元寇の余燼覚めやらぬ社会情勢の中、一遍時衆は鎌倉へ入ることを許されない。 
「聖絵」でのこの場面を見ると、幕府の役人と毅然として対峙する一遍の姿に最初眼を引かれるが、画面全体を見渡すとそこに興味深い景が描き込まれているのに気付く。それは時衆一行のあとに、多くの乞食・非人と思われる人々がつき従っている姿だ。 
この後「聖絵」を追いかけていくと、幾度も彼らの影を見つけることになる。 
網野善彦の「中世の非人と遊女」によれば、「聖絵」に描かれている乞食・非人は百三十三人にもなるという。絵に描かれているだけではなく、絵詞にもしばしば時衆と被差別民との関係をうかがわせる話が出て来る。 
尾張国甚目寺では供養が途絶え飢えていた時衆一行に、毘沙門天の夢告を受けた有徳人が施行にやってくる場面がある。その絵の一角に傘や団扇を持った総髪の異様な風体の人々が描かれている。中世史家の黒田日出男は、彼らを暮露であると指摘している。暮露とは梵論、梵論子、ぼろぼろとも呼ばれる有髪の乞食坊主で、後世の虚無僧の祖であるとも言われる。 
また、鎌倉で権力側と正面から対峙したことが口伝に広まり、美濃尾張の悪党たちが《聖人供養のこころざしには、彼道場へ往詣の人々にわづらひをなすべからず》と高札を立て横の連絡をとりつつ時衆の旅を守ったことが記録されている。ここでいう悪党とは、当時の反体制的徒党のことである。 
丹波国穴生寺では、異形の人々が集まってきた。「聖絵」にはこう書かれている。《まいりあつまりたるものどもをみるに、異類異形にしてよのつねの人にあらず。畋猟漁捕(でんりょうぶご)を事とし、為利殺害を業とせるともがらなり》 
また、美作国の一宮中山神社では、時衆について来た「けがれたるもの」の鳥居内に入ることを拒否される。しかし釜の神託により「けがれたるもの」にも粥の供養なされるなど、しばしば被差別民と思われるものたちが登場し、時衆と彼らの強い繋がりを知ることになる。 
浄不浄を嫌わずとする一遍の信念のなせるところであろう。 
一遍と時衆は、神社にもよく立ち寄った。同じ浄土門でも神祇不拝を主張した親鸞と大きく異なる態度である。一遍が、信不信を問わず、浄不浄を嫌わず、全ては不二であると気付いたときに、それはこれまでの仏教との訣別を意味したのかもしれない。自力他力の別さえ、もう問題ではなかった。神仏の別も問題ではなかった。彼は積極的に本地垂迹の立場を選ぶことになった。それは学問や思想としての本地垂迹ではない。ひとりの人間存在として生死を不二としたとき、森羅万象が南無阿弥陀仏となったのである。それを仏教界が認めないのであれば自分は仏教者でなくともよいと思うほどの決意と確信が一遍にはあった。 
一遍が仏も神も区別しなかったのは、ただ神秘なものを畏れる心からではなかった。逆に、神秘とか奇跡とかは安易に信じない潔癖さがあった。「聖絵」の絵詞を書いた聖戒は、しばしば一遍と時衆の周辺に奇瑞がおきたことを書き記している。それは当時の宗教人としてごく自然の心理であったのだろう。しかし、そんな聖戒でさえ、一遍が安易に奇跡を認めなかったことを書き留めざるをえなかった。 
それは、鎌倉に近い藤沢の片瀬浜でのことである。 
時衆がこの地にとどまっていたときに、紫雲が立ち、どこからか花が降ってきた。人々は驚き、一遍のもとに行き、この奇瑞の意味を問うた。ところが一遍は人々の興奮に水をさすかのように、こう言うのだった。 
「花の事ははなにとへ、紫雲の事は紫雲にとへ、一遍しらず」 
更に一遍は黙想ののち、自分自身に言い聞かせるかのように歌を二首詠んだ。 
さけばさきちればをのれとちるはなの ことはりにこそみはなりにけり 
はながいろ月がひかりとながむれば こころはものをおもはざりけり 
あるものをあるがままに見て、自然の理法の中に無心に身を置こうと一遍は考えていた。踊り念仏から、一遍に熱狂的な宗教指導者という印象を持つのは間違っている。彼は執着する心や、ありえないものに頼ろうとする心を捨て、ひたすらに念仏する肉体としての存在のみを信じようとしていたのである。 
一遍たちの旅は続いた。一度目の布教に失敗した京都に再び上がる。ここで一遍は念仏聖の先達として深く尊敬する空也上人の遺跡である市屋の道場に滞在し、ここに高床の舞台をしつらえ大いに踊り念仏興行をしたのである。 
一遍は踊った。時衆は踊った。 
高床の舞台を仮設にしつらえて、床を踏み鳴らしながら彼らは踊った。「聖絵」第七巻ではその有様が写実的に描き出されている。そこには演者と観客という明確な構造が見られる。もはや佐久でのそれとは異なり、見られることを意識しての踊り念仏が興行的に確立していることがはっきりと分かる。彼らは群れを成して、輪舞している。そこにはある種の熱狂がある。称名の声と鉦の音、踏み鳴らされる床の音が聞こえてくるようだ。しかし、この絵をよく見ると、中央に描かれている一遍その人の表情と他の時衆のそれとの歴然たる違いに気づかされる。 
一遍は生真面目に思いつめたような表情で、鉦を鳴らしている。その視野には時衆の姿も観客の姿も入っていないようだ。ひたすらに自己を見つめて踊っている一遍の姿がある。群集の中にあって、あきらかに一遍一人が孤独なのである。生死の不二を確信し、全てを捨て去るための孤独をあえて自らに強いている姿のように見えるのだ。衆生往生のために時衆を引き連れながらも、その時衆さえも捨て去っている男の顔がここに描きだされている。全てを捨てるということは全てを受け入れることなのかもしれない。この絵での一遍の表情は最も印象的なものだ。 
京都での布教では貧しい人ばかりではなく、貴人たちも多く結縁しに来た。それはこの市屋道場の図に多数の牛車が描かれていることからも想像できる。一遍は弱者だけを見ていたのではない。彼は反体制の旗手ではなかった。貴賤という考えもまた、否定すべき二元論なのである。あくまでも不二。自他さえもない。自分と他者とを分ける境界もない。だがしかし、ひとりなのである。不二の境地における孤独なのである。たったひとりで生まれ、たったひとりで死んでゆく。その一期一瞬が全的世界であれば何をもって自他を分けられようか。自力他力をうんぬんすることもまた二元論であり、生死の瞬間において何の価値もない。ひたすらに踊れ、念仏せよ。貴賤も男女も神仏も信不信も浄不浄も自他も、あらゆる二元論を乗り越えて踊れ、そして念仏せよ。不二のひとり、仮の世も常世もひとつの世界であるところの、ひとりなのだ。 
一遍時衆は一二八四年に京都を発ち、山陰道山陽道をめぐり、四国、そして淡路島から兵庫へと渡る。 
旅衣木のねかやのねいづくにか  身の捨てられぬところあるべき 
すでに死に場所を探す旅であった。 
一二八九年、兵庫和田岬の観音堂に入る。八月十日、日頃「我化導(けどう)は一期ばかりぞ」と言っていたように一遍は所持していた書籍や経を全て燃やしてしまう。「一代聖教(しょうぎょう)みなつきて、南無阿弥陀仏となりはてぬ」。 
八月二十三日朝、一遍は五十一歳の生涯を終えた。 
一二七四年、四天王寺から始められた遊行は十五年の諸国遍歴の果てに、自ら願っていたとおり旅の中での往生であった。 
南無阿弥陀仏ほとけのみなのいづるとき いらばはちすのみとぞなるべき 
時衆という信仰集団を引き連れながらも、一遍は最後まで遊行聖であった。 
遊行聖。それは一遍が初めてではない。「聖」とは、平安期にすでに存在し、その多くは私度僧であった。代表的な聖としては勧進聖がある。寺社の改築、建築等のために寄進を求めて諸国を巡る下役僧が勧進聖で、中でも高野聖が有名である。そもそも下役僧にさえ位置づけられぬ聖もいたであろう。乞食と区別することは困難であったかもしれない。聖という呼び方にも必ずしも仏教的ではないところがある。たとえば歩き巫女などは女性の聖のひとつでもあっただろう。下級陰陽師なども聖性を持った乞食であったのかもしれない。 
聖なるもの、不可思議なものを背景として、諸国をさまよう乞食群像が平安期に生まれていた。寄進を求める聖と、乞食としての聖、一遍は善光寺、そして高野山で、そうした聖たちの中に身を置いた。そして自らの信仰を深めるために一遍はあえてそうした聖たちと同じ位置に身を置こうと決めたのだろう。仏教界の階層社会に背を向けたのである。また、宗門と離れ自由に信仰を深めるためには聖でいるしかなかったのかもしれない。 
一遍は時宗の開祖と呼ばれているが、本人は生涯そのような意識を持つことはなかった。そうなることをきっぱりと拒否していた。あくまでも、どこまでいっても、ひとりの聖としての生涯を貫こうとしたし、現に貫いたのである。その後の時宗は全く一遍の予想もしなかったことである。 
だからこそ、後継者の他阿真教は、一遍の教えへの裏切りとも取られる時衆継続を正当化するために「縁起絵」で言い訳にも似たエピソードを作らねばならなかった。 
一遍は自分の死とともに時衆は解散するものと考えていた。後継者の他阿真教がそれをどう受け止めていたのかはわからない。しかし一遍の考えは明白であった。だが、時衆は存続した。聖戒による「聖絵」はあくまで一遍の遺志を尊重し、一遍の没をもって絵巻を終わらせている。その後の時衆については語っていない。作成年を考えれば書けたはずの後日談をあえて書いていない。そして、もうひとつの絵巻「縁起絵」では対照的に没後の他阿の業績を書き記しているが、一遍の遺志とのつじつまを合わせるため、一遍の死後の時衆の集団往生を思わせる記述と、結縁を求める大衆の声断ちがたく師の意志に反して時衆を存続させることになった他阿の苦渋の選択を描くことで、その後の時衆の活動を正当化している。それは一遍個人の側から見れば裏切りであったが、その後の文化状況から見れば、大きな意味を持っていた。 
一遍なき後の時衆の変遷はその後の中世文化にさまざまな影響を与えている。その例として、高橋俊雄「一遍聖」の「結語」後半部に非常に重要なことが書かれているので紹介したい。 
遊行集団であった時衆は、常に旅にあったため集団内にさまざまの職能集団を形成していた。軸屋、念珠屋、物裁’(ものたち)所、食所衆、御食所、火燈所など。この職能集団がやがて陣僧、後矢(うしろや)(スパイ)、文荷(ふみか)(戦時通信)などの時衆を生み、また、武将に近侍し、連歌をつくった僧や、茶や花の指導をする時衆もいた。彼らは阿弥と呼ばれ、それぞれ独立した文化を形成していったのである。 
この部分を読み、一遍時衆と、職人としての阿弥との関係が見えてきた。一所不住で諸国を旅したゆえに職能分化していった時衆の歴史的な変遷は非常に興味深い。ひとたび一遍の呪縛から解き放たれたあとの時衆は当時の浄土門最大の宗派となった。その勢いは蓮如による真宗復興のときまで続くわけだが、その間、時宗は非常に特殊な職能集団を形成し、特に大名に近侍する者を多く出すことになったのである。あらゆる世俗の権威を否定した一遍ではあったが、その後の時衆は武家社会の中に深く入っていった。そこには時衆の現実主義と武家のそれとの相性の良さもあったのかもしれない。 
また、高野修が「一遍聖人と聖絵」で述べている次のことも、中世という時代における時衆(時宗)のありかたをうかがえることだろう。 
時宗総本山清浄光寺(遊行寺)のある藤沢市には大鋸という地名があり、それは木挽または杣と呼ばれる職人衆が住んでいたことから付けられた地名であるという。藤沢道場と藤沢大鋸引との関係は道場創建以来ともいわれ、今なお門前には職人衆が多く、中には祖先が伊予出身で一遍とともに遊行し、のちに藤沢に定着したという末裔もいる。高野修は、これを一遍遊行の際に念仏興行の場に作られた踊り屋建築に関係があると指摘している。 
これは大橋俊雄の「時衆=職人集団」説に同じ興味深い意見だ。 
また、踊り屋の建築に関して、「聖絵」に描かれた関寺の池の中島での仮小屋の景について、桟敷があり、橋が架けられているところから、能舞台との類似も指摘している。これは一遍が最初から意図したわけではなく、念仏踊りが衆をまきこんで暴徒化することを怖れた権力者側、あるいは既成仏教界側からの圧力によるものと思われるが、そのことが踊る者と観る者との区別された劇場空間を作ることとなったのだろう。その制限が、一定の空間の中を円舞する形態をなし、後世の盆踊りにつながることとなった。一遍時衆が能楽や大衆芸能の祖でもあったと思われる由縁である。 
一遍はその生涯を通して、中世的人間像を描き出してみせたが、その後の時衆は中世的文化のあり方に大きな存在意義を持った。このことも時衆(時宗)と中世を考える際に忘れてはいけないことであろう。
第三章 詩人としての一遍 
前章では遊行聖としての一遍の生涯をたどってみた。本章では詩人としての一遍について考えてみたい。 
一遍は詩人であったのかといぶかる人もいるかもしれない。しかし彼は一生に七〇余首の和歌を残した。また、和讃もきわめて文学的なもので、一遍の詩人の才能を今に伝えている。 
また、一遍は興願僧都という人への手紙の中で、《むかし、空也上人へ、ある人、「念仏はいかが申すべきや」と問ければ「捨ててこそ」とばかりにて、なにとも仰られずと、西行法師の撰集抄に載せられたり。是誠に金言なり》と書き、また白河の関では西行を意識した歌を詠んでおり、西行への関心をうかがわせている。 
はたして一遍はいつ和歌の勉強をしたのだろうか。時衆として遊行中にそんな余裕があったとは思えない。おそらく聖達上人のもとで仏教修行中に当時の知識人の基礎教養として学んだのだろう。そして時衆において歌を法話と同様にあつかったことには西行からの影響があったのではなかろうか。時代的にいっておそらく後鳥羽上皇の勅撰・新古今集は読んでいたものと思われる。 
「聖絵」では、第三巻、熊野成道後、西海道をへて故郷に帰ったおりの次の歌から始まる。 
つのくにやなにはものちのことのはは   あしかりけりとおもひしるべし 
そして、最後は第十二巻に、前章でも紹介した次の臨終の歌にて終わる。 
南無阿弥陀仏ほとけのみなのいづるいき いらばはちすのみとぞなるべき 
十五年間、一遍は歌と和讃を作り続けた。それは経文を直接読む教養のない人たちに、仏の教えをわかりやすく伝えるためではあったが、しかし、抑えがたい歌の衝動があったことがそれらの作品からはうかがえるのである。 
ここで「聖絵」から一遍の秀歌を選び出してみよう。 
をのずからあひあふときもわかれても ひとりはをなじひとりなりけり 
名にかなふこころはにしにうつせみの もぬけはてたる声ぞすずしき 
身をすつるすつる心をすてつれば おもひなき世にすみぞめの袖 
をしめどもつひに野原に捨てけり はかなかりける人のはてかな 
はねばはねよをどらばをどれはるこまの のりのみちをばしる人ぞしる 
いはじただことばのみちをすくすくと 人のこころの行く事もなし 
こころをば心のあだとここえて 心のなきをこころとはせよ 
つまばつめとまらぬ年もふるゆきに きへのこるべきわが身ならねば 
おもふことみなつきはてぬうしとみし よをばさながら秋のはつかぜ 
とにかくにこころは迷ふものなれば なむあみだぶぞにしへゆくみち 
最後の歌は一遍の思想が一首にこめられていて心をうたれる。全てを捨てても最後まで捨てにくいものが心だ。そのことを一遍が誰よりも知っていた。 
幾度も幾度も心を捨てよと言った一遍自身が、心こそもっとも捨てにくいものと自覚していたのに違いない。全てを忘れるためには踊るしかない、とも考えたことだろう。時衆とし多くの仲間とともに旅をしながらも、覆いがたい孤独感が歌から滲み出してくる。一遍は、ひたすらに「ひとり」と「こころ」とを歌い続けたように見える。 
そのことを和讃や和歌で繰り返し述べることで、すぐには理解できない凡夫にじっくりとさとすように語り掛けている。 
身を観ずれば水の泡 消ぬる後は人もなし 
命をおもへば月の影 出入(いでいる)息にとどまらぬ 「別願和讃」より 
六道輪回の間には ともなふ人もなかりけり 
独(ひとり)むまれて独死す 生死の道こそかなしけれ 「百利口語(ひゃくりくご)」より 
一遍の和讃は、純真に信仰的でありながら、また和歌と同様に抒情的な孤独感が強い。形どおりの仏礼讃ではなく、孤独な祈りの吐露であり、同時に結縁を強く希求する力がある。 
一遍の信仰は、仏教と呼ぶにはやや奇形であろう。浄土宗西山派から仏門に入ったにもかかわらず、彼は善光寺にも四天王寺にも高野にも熊野にも行った。それは仏教修行というよりは死の国への遍歴のようにも見える。宗門から離れ、死の国、根の国に魂の存在の救済を求める心は、既に原始宗教への回帰に近い。常世は現世の中にあるという思い、それをわが目で見んと熊野を訪ねたのだろう。それは浄土は常に身近にあるとの思いに通ずる。浄土と一体となるための念仏があると一遍は直観していた。 
時衆の遊行には目的地がない。山河草木の中をひたすらに歩く。自然界という曼荼羅の中にあって、ついに往生することがその教義であった。浄不浄の区別はない。不浄の者は因縁によってそうなったのではない。仏教の呪縛からの解放が一遍の思想の特筆すべきことであった。けがれの中に往生がある。死の国熊野はそれゆえにまさに聖地なのだ。 
出る息いる息またざる故に、当体の一念を臨終とさだむるなり。 
しかれば念念臨終なり、念念往生なり 
私は一遍のそのような和讃と和歌に、平安末期に編まれた今様集「梁塵秘抄」によく似た世界を見るように思う。 
釈迦の御法のうちにして 五戒三帰をたもたしめ 
一たび南無といふ人は 華の園にて道成りぬ   (24) 
阿弥陀ほとけの誓願ぞ かへすがへすも頼もしき 
一たび御名を称ふれば ほとけに成るとぞ説いたまふ   (29) 
弥陀の誓ひぞ頼もしき 十悪五逆の人なれど 
一たび御名を称ふれば 来迎引接(らいごういんじょう) 疑はず   (30) 
女人 五つの障りあり 無垢の浄土はうとけれど 
蓮華し濁りに開くれば 龍女もほとけになりにけり   (116) 
ほとけも昔は人なりき われらも終にはほとけなり 
三身仏性 具せる身と 知らざりけるこそあはれなれ   (232) 
はかなきこの世を過ぐすとて 海山かせぐと せしほどに 
万のほとけに疎まれて 後生 わが身をいかにせん   (240) 
「梁塵秘抄」からいくつか法文歌を抽出した。 
これは平安末の作であり、法然登場以前のものであるが、阿弥陀信仰が既に基本的には法然以降の浄土門に通じるものになっていたことが、これらの今様からうかがい知ることができる。 
天台宗において法華経は中心的な経文であり、大無量寿経も重要であった。その意味では、鎌倉新仏教の揺籃期は平安末の天台宗延暦寺にあったともいえよう。 
それはともかく、法華経と阿弥陀仏に関した歌が多かったのは、この二経が当時の大衆にもとりあえずは流布していたことがわかる。 
#29の歌は阿弥陀信仰の典型である。#30も同様であろう。そして#116に見られる女人往生への願いもまたこの時代にあらたに現れてきた民衆の願望をあらわしている。 
こうして「梁塵秘抄」を読むと、すでにこの時代に、法然、親鸞、一遍ら浄土門の登場の下地があったことが歴然としている。 
弥陀の教えは非常にわかりやすかっただけに、すこしでもそれを知ったものたちは、自分たちも弥陀にすがれば往生できるのではないかという思いが、しだいに広がっていったのであろう。また、それは、女人であれ被差別民であれ、差別することは弥陀の教えに反するのではないかという本質的な疑問も民衆の中に芽生え始めていたのではないか。そう考えねば、「梁塵秘抄」に収められたこれらの歌は理解できない。 
法然はいきなり登場したのではなく、大衆の中での動きに連動したものであった。しかし、延暦寺はそれを許さなかった。大無量寿経に偏重した教義が認めがたかったというよりは、天台宗を成り立たせている権威の塔が根本からゆらぐとの危惧があったからと思われる。中には、純粋に教義に関して争った天台の高僧もいたが、その時の比叡山の雰囲気は感情的な法然排斥に流れたのである。 
ここで天台宗と浄土宗との教義の違いに深入りするつもりはない。ただ、天台一色ともいうべき平安末期に、庶民の間では阿弥陀信仰が高まり、比叡山の阿弥陀信仰ではもはや満足できないレベルまでに至っていた。「梁塵秘抄」の今様は、主に遊女、白拍子によって作られ歌われた。彼女たちは貴族の庭にも入り、歌舞を見せたのだから、現世を肯定したり仏教界におもねる歌も歌ったが、だがそれ以上に庶民の生の歌が多く見られる。弥陀や法華経をたたえながらも、当時の仏教界によって罪びとの烙印を押されていた下層民のうめきも、そこでは歌われていたのである。 
#240では殺生戒を犯した者たちの救済への欲求と、仏にうとまれているという実感が表現されている。この歌には仏によって罪びととされ、地獄堕ちを宿命づけられていると思い込んでいた海の民、山の民のうめきが聞こえる。また保元の乱以降の度重なる戦乱は、多くの不幸な人々を下層民へと落とすことになった。 
諸行無常、地獄への宿命。乞食、非人、遊女、私度僧が世に満ちはじめる。 
すでに王朝がかつて持っていた不滅の聖性は色あせ、武家もまた肉親が互いに敵味方に分かれ殺しあう非道の世に生きていた。 
北面の武士であった西行は出家をしたが、官許の僧ではなく、遊行の聖として諸国を遍歴し、その自由な立場を愛し、歌人として生きた。ひとり遍歴の歌人となる道を選んだのである。天皇を中心とする神聖世界の中に神のわざとしてあった和歌から離れ、西行はひとりの歌びととなった。しかし、西行の歌はそれでいて貴族的である。彼は王朝からスピンアウトしたのであって、最下層民の中へと身を置いたわけではなかった。厳しい見方をすれば、貴族的な隠遁者にすぎなかったのである。その後の、中世文学における鴨長明、吉田兼好の先がけと言ってもよいだろう。 
そうはいいながら西行が重要な位置を占めた歌人であるのは間違いない。西行から和歌は私性への傾斜を深めていったからだ。 
一遍は、西行が踏み出した歌の私性を、「ひとり」と「こころ」という面で徹底していった。 
その「ひとり」とは「こころ」とは何だろう。言葉はけっして難しいものではないが、ここに一遍の思想の奥義がある。また、これまでの浄土教とも異なる一遍独自の思想がある。彼は人という存在とは何か、ということを考えぬいた。阿弥陀仏が十劫の昔にその救済を誓った「人」とは何か。その結果、信不信、浄不浄を問わない不二の境地に至る。あらゆる二元論を乗り越えよ、という不二の思想である。理屈、理論は二元論を生み出すだけであって何の意味もないのだ。ひとりであることを受け入れることこそ孤独からの脱出を意味する。 
ちいさな吾(ア)を乗り越えて、大きな吾(ワ)となるための「ひとり」である。山河につらなる「ひとり」としての「ワ」である。 
時衆は集団を形成しつつも教団ではなく、時衆はそれぞれが「ひとり」なのであった。信不信、浄不浄のゆえんである。身分も病気も男女も関係なく、そこに差別が入ってくる余地のない「ひとり」は、孤独を意味するのではなく解放を意味する。 
最後に最も捨てにくいもの。それが「こころ」なのである。ではその「こころ」をどうすべきか。一遍が「こころ」と言うときの意味はそこにある。一遍の言うところの「こころ」とは迷いである。迷いがあるから本然の「ひとり」に成りきれないのである。「こころ」を捨てろ、ということはより純粋な「ひとり」であれ、との教えであろう。 
よろづ生としいけるもの 山河草木 
ふく風たつ浪の音までも 念仏ならずといふことなし 
一遍はそのうたの呼び声に身をまかせて生き、そして死んだ。 
一遍が少なからぬ和歌や詩を詠み残しているのは、王朝文学の真似や憧れなどではない。そうした過去の制約から解き放たれようとする詩心が一遍にはあった。 
「聖絵」には「花のもとの教願」という連歌師が一遍に結縁し往生した記録があり、そこに当時の民間連歌師と時衆との関係がうかがえる。その後も時宗では別願念仏において、始めに「お連歌の式」を行うようになった。現在では形式化しているが、連歌を報土(彼岸、浄土)の側と後灯(此岸、娑婆)の側から各十七句を詠む儀式となっている。 
連歌の無名性と座は、一遍の遊行集団時衆にふさわしいものであった。一遍の死後においても、彼の詩人としての側面は時衆に引き継がれていったのである。 
第四章 私性の誕生とうたの漂泊 
心から心にものを思はせて 身を苦しむるわが身なりけり   西行 
西行と一遍はともに武門の出である。一遍はそのことを意識していたはずである。しかし信仰の深さはかなり違っていた。西行は出家したとはいいながら、どれほど信仰を深めただろう。 
白川の関屋を月のもる影は 人の心を留むるなりけり   西行 
ゆく人をみだのちかひにもらさじと 名をこそとむれしら川のせき   一遍 
白河の関で残した歌には西行の有名な歌をさりげなく否定する一遍の心が見える。人を留めるのではない、名号を留めるのだ、と詠む一遍は、まるで西行の覚悟の弱さを哀れむかのようではないか。 
また、さらに西行を意識した一遍の歌として、次の両者の歌を挙げてみよう。 
世の中を捨てて捨て得ぬ心地して 都離れぬわが身なりけり   西行 
すてやらでこころと世をば嘆きけり 野にも山にもすまれける身を   一遍 
西行が現世を捨てきれなかったのに比して、俗世を捨て切って名号に帰一することで本然の「ひとり」となろうとしている一遍の覚悟がこの歌からわかる。西行と一遍が武門の出であることが共通していると先に述べたが、同時にこの二人には根本的な違いがあった。 
西行はそもそも仏道をきわめようとして出家したわけではない。もちろん信仰心がきっかけのひとつではあったかもしれぬが、その後の西行の行動を見ても、僧、沙門であるより歌人であった。この平清盛と同い年の武将は時代の風を読み、歌道に専念するためには武門を離れ出家することが最も安全であるとの判断があったと思われる。だから宮廷との関係は途切れることなく、後鳥羽上皇の気に入りの歌人であったことは新古今集に九十四首と最も多く採られたことからもあきらかであった。西行は諸国を遍歴しつつも常に宮廷歌壇にその座を占めていたのである。 
一遍は違った。彼はあくまで念仏聖、遊行上人に徹していた。熊野成道後の人生は念仏遍路が全てであった。ひたすらに念仏すること、念仏を広めることしか考えなかった人である。 
だが資質としては詩人であったことは前章に述べたとおりだ。一遍にとって歌は念仏の転じたものである。そして西行の歌は、孤独を詠うことはあっても、貴族文化の情緒を多くひきずったものであった。一遍の歌にも伝統的な和歌的情緒、抒情がかいま見えはするが、それが主題となることはなかった。一遍は念仏のありがたさ、阿弥陀仏のありがたさを、和讃や偈としつつ、和歌の文化圏に属する人々の心にも伝わるようにと歌を作った。そこににじみ出る私性は、西行の貴族的孤独感とは異なるものであり、「ひとり」を肯定する私性であったのではなかろうか。 
一遍のうたう「ひとり」は修飾のない「ひとり」であった。西行のような、氏族社会や宮廷や武家社会への郷愁をともなう「ひとり」ではなかったのである。そこには信不信も浄不浄も善悪も貴賤も富貧も健病もない。人が自分を「ひとり」であると知ったとき、あらゆる差別は消えてなくなる。裸の存在はどこまでいっても裸の存在以外のものではない。そこに中世的人間として現われた一遍の姿がある。 
そんな主張を繰り返す一遍上人には革命家の顔がある。しかもアナーキーな革命家の顔だ。親鸞がマルキストに似ているとすれば、一遍はアナキストだ。宗門に寄らず、自ら教団を作らず、寺も持たず、仏を観想するのでも、信じるのでもなく、ただ六字名号を声に出してとなえろ、それが全てだ、と言った一遍は中世の無政府主義者のようなものだろう。 
浄不浄は関係ないとした時に、多くの非人たちが一遍のあとにつき従った。一遍の言うことが、哲学でも思想でもなく、念仏をとなえよ、という単純な行動だけであり、行動を支える信さえ必要なく、不信であっても良いという、ただ肉体のある限り念仏せよの教えに、肉体しか財産のない下層民たちが従ったのである。 
そして、踊り念仏というイベントの面白さ。教訓も脅しもない、太陽の光のような高揚が一遍時衆にあった。 
一遍は肉体に言及することが多かった。吐く息入る息のたびに往生する。そこに理屈は存在しない。ただ、肉体がある。念仏もまた肉体を使って発声し、全身を使って踊るのである。そこに観念的な説明も、哲学的理念もない。全てを捨てて、ひとつの肉体となって念仏せよと言うばかりだ。 
弥陀以外の全ての権威を捨てたとき、「ひとり」とは自然の中の「ひとり」である以外になくなる。権威的な宗教世界も、階級も、性別もない原始のごとき「ひとり」に還ったとき、人は三次元的時空から解放され、生死から解放される。それが一部の哲学者、知識人の観念としてではなく、民衆のレベルにおいておこなわれたことによって、それ以降の日本人の精神が決定づけられたとも思える。 
前章では一遍の和讃等の詩と「梁塵秘抄」との共通性について述べた。そこには古代に連なる民衆の歌がある。それを思うとき、不思議と私は瞽女(ごぜ)歌を思い起こす。それは瞽女歌の伝統に聖賤併せ持った中世の遊芸者のおもかげが濃くとどめられているからだろう。 
冬の越後の雪原にびょうびょうと風となる瞽女歌に、遊芸者が継承してきた民衆のうたの聖性がある。聖と賤とを合わせもった遊芸者のうたそのものだ。うたの世界の原風景がそこにあるとも言えるのではないか。 
彼らを是とし、また自らをも遊芸者に類する存在としたのが一遍上人であった。 
王朝権威の没落によって形式化した和歌が、宮廷をさまよい出し、民衆の世界に下りて連歌となった。その過程の中で、梁塵秘抄的俗謡と混交するところから、うたの漂泊が始まったのかもしれない。 
一遍なきあとの時衆が職能民化する中で、文芸や芸能に影響を与えた痕跡として、鎌倉から室町時代にかけ地下(じげ)連歌と呼ばれた民衆連歌を支えた人々に阿弥号を持つものが少なからずいたことや、能楽もまた阿弥号の者たちによって拓かれた事実などがある。 
そう考えたとき、網野善彦によって「無縁の人々」と名づけられた遊芸者たちの中世以降の表現活動が、常にこの国の文芸を下から支えていた構図というものが見えてくる。「梁塵秘抄」で知ることのできる庶民の歌、それはその後も様々な遊芸者に継がれていった。傀儡(くぐつ)師や遊女がその後の浄瑠璃や歌舞伎や瞽女歌の担い手となってゆく。念仏聖は説教師を生み出してゆく。陰陽師は下級陰陽師となり後世の萬歳師となった。宮廷の堂上(とうしょう)連歌師は地下連歌師となり、戦国武将の保護をたよりに諸国を遍歴した。 
そんな歴史の日陰道をひたすらに詠い継がれていったうたの水流の中から、俳諧もまた生れてきたのである。 
俳諧師による興行がまさに遊芸者の姿であったことを思うと、俳諧師も漂泊の阿弥族につらなる者たちと言えよう。芭蕉が旅に自らのうたの本源を求めたのも、漂泊するうたの本質を求めるゆえであった。俳諧は能でも歌舞伎でも門付け芸でもないが、かといってけっしてそれらと次元の異なるものではなかったのである。彼らに共通しているものは、古代から続く民衆の神うたのこだまと、中世日本に生れた私性にある。単なるアニミズムとしてではとらえきれないこの国の花鳥風月の情緒の中に日本的私性が隠されており、その私性誕生の根源に一遍上人がいたのである。 
常に帰属する集団、権威、権力があって、その中に自分をとらえていた日本人の旧来の価値観に対して、全てを捨てることを主唱した一遍は、史上初めて裸の人間存在に直面した人であったとも言えよう。ここに日本人の私性の根幹がつくられた。その中世的孤独、そこからつながる「ひとり」の人の群。けっして歴史の表舞台に立つことのなかった人々の途切れることなく続く歩み。その無名の人々の歩みの中に私もまたいるのである。芭蕉も蕪村も一茶も、一遍の「ひとり」を継ぐものたちであった。 
何教、何宗というのではなく、ただ「念仏が念仏する」という思いを「ひとり」であることの支えとして生きる術を日本人は知ったのである。そして日本的芸術のほとんどが、その精神を奥底に持ち続けることとなった。民芸運動の柳宗悦が言ったように、無名の民芸作品の美の中に南無阿弥陀仏が宿っており、私たちは見渡してみればそのような無名の美に囲まれて生きていることに気付く。 
俳句が文学であるか否か、今もなおしばしば焼直される問いは、欧米から移入された芸術観と、私たち日本人の伝統的私性との齟齬から生れているように私には思えてならない。一遍がその生涯をとおして私たちに伝える「ひとり」というものは、単純に「孤独」と置き換えられるものではなく、ましてや「個性」というものでもない。その「ひとり」に最も近い文芸こそ俳句なのではないか。名句佳句であるか否かを問わず、「念仏が念仏する」と言った一遍風に言うならば「俳句が俳句する」ものであることを俳人であれば知っている。 
一遍の死後、室町時代にかけて連歌の隆盛から俳諧が生れたのは、けっして唐突でも偶然でもなく、社会の底辺をさまようおびただしい無名の「一遍」たちが、古の神とワタクシとをつなぐうたを詠い継ぎ、その中に俳諧を生み出したのである。俳句の持つ大衆性の基底に、そうした無名の人々の声があることを私たちは忘れてはならない。 
そして、その精神を支えたものこそ、一遍がそのいのちを賭けて実行した「裸のひとり」なのであった。俳諧の花鳥風月は和歌の花鳥風月と異なり、「裸のひとり」がはじめて直面する花鳥風月であった。それを理解せずに芭蕉を理解することはできない。近世文化も、子規以降の俳句も、私小説も、今も生き続けるこの国独自の私文学全般が、中世に誕生した私性によって支えられている。 
一遍の「ひとり」の叫びが、現在もなお私たちの叫びなのではないか。俳句における私性は、一遍の唱えた一念そのものではないか。 
吹く風、立つ浪、全てが南無阿弥陀仏だ、と一遍は言った。その一念こそ今なお俳句を私たちに作らせている。全てを捨てたとき、捨てることさえ捨てたとき、私性のうたがそこに立ち現われるのだ。俳句という名号が。 
花に問へ奥千本の花に問へ  黒田杏子 
 
無比の楽

播州法語 / 無比の楽  
「一度南無阿弥陀仏と念ずれば、現実に無比の楽を受けることができる」の中の無比の楽は、俗世間の栄耀栄華の楽であると皆思い込んでいるが、それはまちがいである。これは俗世間の栄耀栄華をむさぼり求めない楽のことであるということ。  
一遍の遺戒 / 自ら一念発心  
一遍の悟境は申し分のないものなので、その遺戒も窮極というものに居て、全く足を踏み外すことはない。  
これは一遍の遺戒。  
環境を含む人間や生き物にとって自分を悩ます病はない。地・水・火・風というこの世の四大元素に人間を悩ます煩悩はない。但し、そのような本来のあり方(本性)にそむいて、金や音楽やグルメやブランドの香水や性欲(色・声・香・味・触)などをむさぼり求めて、地獄道、餓鬼道、畜生道に落ちるのは自業自得の当然の結果である。そうであるならば、自ら一念発心するほかには、過去現在未来の三世諸仏の慈悲でも救うことが不可能なものである。  
南無阿弥陀仏  
このように主題は、一人一人が一念発心して南無阿弥陀仏することであり、現代人と何も変わらない。有り難い○○教団に所属しているからその諸仏が慈悲でもって助けてくれるなどということは全然なくて、ほかならぬ自分が発心しないとダメなんだと死ぬ間際まで強調している。  
一遍は16年の遊行で、二十五万人に手ずから念仏札を渡したというが、その総括が自分で冥想(南無阿弥陀仏)しなさいということだったのだ。  
また、現世的な享楽を求めるのは間違いであることが、播州法語にも見える。「一度南無阿弥陀仏と念ずれば、現実に無比の楽を受けることができる」の中の無比の楽は、俗世間の栄耀栄華の楽であると皆思い込んでいるが、それはまちがいである。これは俗世間の栄耀栄華をむさぼり求めない楽のことであるということ。そういう無比の楽を、ともすれば一遍の超能力や超自然現象の方を信じたがる、当時のわかってくれないとりまき達に語り続けるという、砂に水をまくような努力を続けて来た気力には、頭が下がる思いがする。  
捨て聖 / 一遍の捨てるとは何をすてるのか  
一遍は、所謂、職業的な僧侶ではない。彼のやっているのは遊行である。遊行とは日本各地を巡って仏法を広めながら、衆生を救済することである。現在の遍路や旅行的な感覚ではない。旅行=観光というのが今の感覚ですが当時は、旅とは生死を賭けた難行であった。雨露、雪、雷、嵐などを防ぐ家もなく、食べ物はすべて善意の喜捨に頼り、移動はもっぱらわが足のみ。野宿、良ければ神社、寺院の軒を借りての仮寝。こんな暮らしを続けてゆく時衆の徒は健康を害するものも多く、一時に十数名もの時衆の徒が死ぬこともあった。一遍の風貌は背が高く眼光鋭いがっしりとした大男、といったイメージである。顔は日に焼け黒く、ぼろを纏って市井に入ってくるのは一種、異様な様子であった。彼は好んで市井に入り込み賦算(名号札を配る)をしながら念仏踊りを、催す。そんな布教スタイルであった。  
一遍の「捨てる」機根(きこん)とはいかなるものであったか?  
念仏の機に三品あり、上根は妻子を帯し家にありながら、箸せずして往生す。中根は妻子を捨てつるといへども、住居と衣食とを帯して箸せずして往生す。下根は万事を捨離して往生す。我等は下根のものなれば、一切を捨てずば定て臨終に諸事に箸して往生を損ずべきものなりと思ふ故に、かくのごとく行ずるなり。  
心を捨てる  
みな人の ことはりがほに おもひなす こころは奥もなかりけるもの 心より こころをへんと こころへて こころにまよふ 心なりけり おもひしれ 浮世の中の 墨染の いろいろしさに まよふ心を いにしへは こころのままに したがひぬ いまはこころよ 我にしたがへ とにかくに まよふこころの しるべには なも阿弥陀仏と申すばかりぞ はながいろ 月がひかりと ながむれば こころはものを おもはざりけり こころをば こころのあざと こころへて こころのなきを こころとはせよ わがこころを打ち捨てて、一向に名号によりて往生すと心得れば、をのずから また、けつじょうのこころは起こる。身をすつる すつるこころを すてつれば おもひなき世に 墨染の袖すててこそ 見るべかりけれ 世の中を すつるも捨てぬならひありとは 無比の楽を世の人の世間の楽なりとおもへるはしからず。これは無頓の楽なり。三界・六道のなかにはうらやましきこともなく、貧すべきこともなし。然れば一切無箸なるを無比楽という。世間の楽は皆、苦なり。  
此処に彼の捨てる意味の極意が示されている。無比の楽とは執着することのない事による楽しさであり、一切を捨て去った者には世間の楽を羨むこともなく、逆に世間の楽の追及は苦のもとである。
時衆制誡(じしゅうせいかい)  
専ら神明の威を仰ぎて、本地の徳を軽んずることなかれ。  
専ら仏法僧を念じて、感応の力を忘るることなかれ。  
専ら称名行を修して、余の雑行を勤むることなかれ。  
専ら所愛の法を信じて、他人の法を破ることなかれ。  
専ら平等心を起して、差別の思ひをなすことなかれ。  
専ら慈悲心を発して、他人の愁ひを忘るることなかれ。  
専ら柔和の面を備へて、瞋恚の相を現はすことなかれ。  
専ら卑下の観に住して、驕慢心を発すことなかれ。  
専ら不浄の源を観じて、愛執の心を起すことなかれ。  
専ら無常の理を観じて、貪欲の心を発すことなかれ。  
専ら自身の過(とが)を制して、他人の非を謗ることなかれ。  
専ら化他の門に遊んで、自利の行を怠ることなかれ。  
専ら三悪道を恐れて、恣(ほしいまま)に罪業を犯すことなかれ。  
専ら安養楽を願って、三途の苦しみを忘るることなかれ。  
専ら往生想に住して、称名の行を怠ることなかれ。  
専ら西方を持念して、心を九域に分つことなかれ。  
専ら菩提の行を修して、遊戯の友に交はることなかれ。  
専ら知識の教へを守り、恣(ほしいまま)に我意に任することなかれ。  
我が遺弟等(ゆいていとう)、末代に至るまで、すべからくこの旨を守るべし。努力(つと)めて三業の行体を怠ることなかれ。  
南無阿弥陀仏   一遍 
道具秘釈(どうぐひしゃく)  
南無阿弥陀仏。一遍の弟子、まさに十二道具を用ゐるの意(こころ)を信ずべし。  
一 引入(ひきいれ) 
  無量の生命、名号法器たるを信ずる心、これ即ち無量光仏の徳なり。  
一 箸筒(はしづつ) 
  無辺の功徳、衆生の心に入るを信ずる心、これ即ち無辺光仏の徳なり。  
一 阿弥衣(あみぎぬ) 
  善悪同じく摂する、弥陀の本願を信ずる心、これ即ち無礙光仏の徳なり。  
一 袈裟(けさ) 
  苦悩を除くの法は、名号に対ぶるものなきを信ずる心、これ即ち無対光仏の徳なり。  
一 帷(かたびら) 
  火変じて風と成り、化仏来迎したまふを信ずる心、これ即ち炎王光仏の徳なり。  
一 手巾(しゅきん) 
  一たび弥陀を念ずれば、即ち多罪を滅するを信ずる心、これ即ち清浄光仏の徳なり。  
一 帯 
  廻光囲繞して、行者の身を照らすを信ずる心、これ即ち歓喜光仏の徳なり。  
一 紙衣(かみこ) 
  行住坐臥、念念に臨終を信ずる心、これ即ち智慧光仏の徳なり。  
一 念珠(ねんじゅ) 
  畢命を期とし、念念に称名を信ずる心、これ即ち不断光仏の徳なり。  
一 衣 
  この人、人中の芬陀利華なるを信ずる心、これ即ち難思光仏の徳なり。  
一 足駄(あしだ) 
  最下の凡夫、最上の願に乗ずるを信ずる心、これ即ち無称光仏の徳なり。  
一 頭巾(ずきん) 
  諸仏の密意にして、諸教の最頂なるを信ずる心、これ即ち超日月光仏の徳なり。  
本願の名号の中に、衆生の信徳あり。衆生の信心の上に、十二光の徳を顕はす。他力不思議にして、凡夫は思量し難し。仰いで弥陀の名を唱へて、十二光の益を蒙るべし。  
南無阿弥陀仏 〈一切衆生、極楽に往生せむことを〉  
弘安十年三月朔日   一遍  
 
 
一遍とその時代
 

激動の時代  
一遍は、念仏をひたすら唱えつつ、全国を十六年間にわたって歩き回り、ついに旅に没した放浪の僧である。彼は、今から七百数十年前の延応元年(一二三九)に生まれ、正応二年(一二八九)に亡くなっている。鎌倉時代の中期から後期にかけての人物である。  
一遍は強力な顔・姿を持つ異形の僧侶であるとともに、多くの者を引き付けてやまないカリスマ的な魅カをも持っていた。強烈に生き抜いた彼の信仰生活に対応するように、その生きた時代もまた激動する波にもまれていたのである。  
鎌倉時代─それは武士と農民と商人・手工業者、あるいは芸能民が新しく勢力を競い合っていた時代である。平安時代以来の貴族も斜陽をかこちつつも、必死に生きていた。この時代は、治承四年(一一八○)、源頼朝〔1147〜99.53歳〕が伊豆国の蛭ガ小島で平家打倒の兵を挙げたことに始まる。馬に乗って野山を駆け巡る関東武士は、平家を京都から九州へ追いやった。しかし瀬戸内海を地盤とする、船に乗った武士である水軍を味方につけている平家は容易に屈しなかった。五年間にわたる戦いの末に、頼朝の弟義経〔1159〜89.31歳〕の率いる源氏軍は、壇ノ浦で平家軍を全滅させた。この時、海戦では劣勢と思われた源氏を助けて勝利に導いたのは、義経の天才的な指揮もさることながら、伊予国の水軍を率いて味方についた河野通信(こうのみちのぶ)〔1156〜1223.68歳〕であった。河野通信は、すなわち一遍の祖父である。この結果、通信は頼朝の信任を得、創始されたばかりの鎌倉幕府の中で有力な地位を得た。  
鎌倉幕府は、発展しつつある武士の政府である。そして武士は、ふだん、農民の先頭に立って農業を行なっている。つまり、鎌倉幕府は武士と農民の政府であると言いかえてもよい。初め幕府の支配する地域は関東地方や中部地方の一部に限られていたが、やがて朝廷から全国に守護・地頭を設置する権限を得、頼朝が征夷大将軍になり、また奥羽地方の豪族藤原氏を滅ぼすなど、しだいに勢力を広げていった。この間、幕府内では頼朝のあとを継いだ頼家〔1182〜1204.23歳〕と実朝〔1192〜1219.28歳〕がいずれも実権を失っていった。他の武士たちが政治的に目覚め、頼朝のような独裁を望まなくなっていたのである。その武士たちの代表的存在が北条氏である。頼朝の妻・政子〔1156〜1225.70歳〕の父である北条時政〔1138〜1215.78歳〕は、挙兵の時から頼朝を助け、主に朝廷との交渉面で成果をあげた。頼朝の没後は執権として幕府を主導し始めた。その時政を隠居させて北条氏の当主となった子の義時〔1163〜1224.62歳〕は、将軍実朝を擁して幕府の実権を握った。  
承久三年(一二二一)、勢いに乗る幕府は、後鳥羽上皇〔1180〜1239.60歳〕を中心とする朝廷軍と戦い、これを破った。承久の乱である。この結果、幕府の支配地域は飛躍的に広がった。ところが、北条時政の娘という谷(やつ)を妻の一人としていた河野通信は、この戦いで朝廷方に味方したのである。当然のように領地のほとんどは没収され、四十年にわたって四国に蓄えた勢力を失った。通信は奥州江刺に配流、数人の子息たちもあるいは戦死、あるいは流罪となった。ただ谷を母とする河野通久のみ、幕府方に味方して事なきを得た。もう一人、出家の身で両軍に加わらなかった通広も、責任を問われることはなかった。これが一遍の父であり、出家名を如仏(にょぶつ)という。鎌倉幕府の成立と発展に伴う河野氏の浮き沈みの果てに、一遍がこの世に生を受けた。承久の乱から十八年後のことである。  
ところで、鎌倉時代の経済を支える農民のイメージは、今日の私たちが考えるものと少し違うのである。一定の土地に縛りつけられ、領主に刃向うことはできない−これは江戸時代の農民である。鎌倉時代においては、農地は谷間から平野に出るあたりに集中し、農民は毎年のように耕地の割り替え(交換)を行なっていた。領主があまりに高額の租税を取る時は、集団で耕地を捨ててこれに対抗した。江戸時代ではとてもできることではない。農業の指導者である領主の武士は、農民といわば人間的な関係を保っていかねばならなかった。春先には豊作を占う行事を鎮守の杜で、夏の日照りには祈雨の法を村の寺の僧侶に依頼するなど、宗教も武士と農民で共有していたのである。しかし、武士と農民は、農村に定着した社会を作っていたには違いない。  
これに対し、各地を歩き回ることで生活を成り立たせている人びとがいた。いわば遊行(ゆぎょう)の民である。それは商人・手工業者・運輸業者・山村民・海民(漁業)・琵琶法師などの芸能民・信仰を説く聖(ひじり)たちなどである。商人や手工業者は、まだ一定の場所に作業場を構え、店を作っては生活できなかった。各地を巡り歩いて品物を作り、売ったのである。  
彼ら遊行民を泊めるために、交通の要所には宿(しゅく)が生まれた。江戸時代の宿場町であり、いわば旅館街である。ここでは、平均して月に三度ほど市(いち)が開かれた。多くの人が集まる宿や市は、布教のかっこうの場所でもある。一遍の伝記を描いた絵巻物である『一遍聖絵(いっぺんひじりえ)』にも、尾張国の萱津宿(かやづのしゅく)や備前国の福岡市(ふくおかのいち)で一遍が活躍している様子が示されている。ちょうど一遍の修行時代から布教者の時代である十三世紀中葉から後半にかけて、年貢の銭納が急速に布及した。年貢を稲・麦などの現物ではなく、銭で納める制度である。しかし農民たちが銭を多量に持っているわけではない。そこで市へ行って田や畑の収穫物と銭とを交換する。こうして市や商人たちの重要性はいっそう高まった。  
現在でもそうであるように、商人や芸能民は大きく宣伝し、夢を売ってお客を引き付ける。派手にする必要がある。そこで彼らの理想は「過差(ぜいたく)」である。たくさん使ってたくさんもうけるのである。これに対し、武士や農民の美徳は「倹約」である。農業では毎年の収入に限りがある。ぜいたくはできない。出費を押さえてこそ生活が安定する。  
武士や農民の「倹約」と、商工業者の「過差」の争いは、鎌倉時代の社会の中でしだいにあらわになり始めた。つい「過差」に気を取られ、没落する武士も多くなった。幕府は武士によって成り立っている以上、「倹約」の立場をとる。北条義時の子・泰時〔1183〜1242.60歳〕から、泰時の孫・時頼〔1227〜63.37歳〕の代に移るにしたがい、「過差」は強力な社会的勢力となった。一遍の幼年時代から修行時代に当たる時頼の代の一番の政治上の課題は、いかに商工業者から武士を守るか、ということであった。そして商工業者は幕府の中まで入り込んでくるのである。動揺する幕府と農村社会を、さらに揺るがしたのが二度にわたる蒙古の襲来である。  
実際の蒙古襲来(元寇)は、文永十一年(一二七四、文永の役)と弘安四年(一二八一、弘安の役)の二度である。しかし最初に日本に服属を求める使者が九州に来たのは、文永五年(一二六八)のことである。北条氏は、若冠十八歳の時宗〔1251〜84.34歳〕の代である。一遍は、故郷伊予国で還俗生活をおくっている。  
承久の乱で九州の大宰府を支配下に収めて以来、外交権は幕府が握っている。その代わり、外敵を撃退する責任もある。幕府は九州や長門・周防などの西国に領地を持つ武士に北九州の警備を命じた。こうして続々と東国の武士も西国に移った。蒙古は、数十年にわたって高麗(朝鮮半島)を蹂躙し続け、宋(中国大陸)を今まさに滅ぼそうとしている巨大な国である。人びとの不安はしだいに高まっていく。一遍が紀伊国熊野本宮で熊野神の啓示を受けて布教方法を確立したのは、実に第一回蒙古襲来の直前であった。  
蒙古に対する恐れは、第一回の襲来後にいっそう高まった。日蓮〔1222〜82.61歳〕の手紙には、蒙古兵は敵兵の腹を割いて肝を飲むとか、捕虜の男は皆殺しにし、女は手のひらに穴をあけて数珠つなぎにして軍船の船べりに縛りつけるとかある。『八幡愚童訓』には、蒙古兵の放つ矢には猛毒が塗ってあり、当たればもちろん、かすっただけでも高熱が出ると伝えている。このような不安のうずまく中、警備を担当し防衛戦に出る武士の負担も大きかった。当時の武士は、戦後に必ず恩賞が出るものとして手柄をあげるべく命を賭けて戦う。しかし二度にわたる戦争では、いずれも蒙古を追い払っただけで、一寸一分の土地を得たものでなければ、財宝を得たものでもない。出陣の命令を出したにもかかわらず、恩賞を与えられない幕府に対して、武士たちの不満は高まった。  
このような激動する社会は、仏教界にも深刻な影響を与えずにはおかなかった。日蓮は文応元年(一二六○)に『立正安国論』を著して蒙古の襲来を予言し、これを北条時頼に呈上して、『法華経』を信じなければ日本は滅びると迫った。やがて現実となった蒙古の襲来を前にし、「南無妙法蓮華経」と唱えて国難に当ることを説いた。叡尊(えいそん)〔1201〜90.90歳〕は、戒律を守るべきことを主張して社会の安定に努力し、幕府や朝廷の信頼を得ていたが、四天王寺や伊勢神宮・石清水八幡宮をはじめとする各寺社で蒙古の退散を祈った。良忠(りょうちゅう)〔1199〜1287.89歳〕は法然〔1133〜1212.80歳〕の孫弟子に当たるが、鎌倉と京都で念仏を説き、動揺する人びとの心を鎮めようとした。彼らは皆、不遇の時代を経て人心をつかんだ者たちである。激動し、混乱する時代をいかに生き抜くか。これがこの時期の武士・農民、商工業者あるいは貴族を問わず、共通した課題であった。これに対して、仏教界ではいかにして救いの教えを説くことができるか。それも形だけの教えではなく、自分自身で納得しつつ、人にも説かなければならない。前述の日蓮と並び、一遍はこの時代を代表する僧としての双璧である。さらに平安時代以来、日本全体に最も広まっていたのは、『法華経』の教えと念仏の教えである。一遍は、その念仏の教えを究極まで突き詰めた僧侶であるとともに、各地を巡って民衆の救済に我を忘れたヒジリでもある。容貌から言えば、強烈な個性を思わせる異形の人物でもあった。
一遍の信仰と活動  
五十一年の生涯を、一遍は何を求めて生きたのであろうか。没落した河野一族に生まれたとはいえ、彼が望めば普通の武士としての生活が送れるだけの領地は父から受け継いでいた。一遍はそれを振り捨て、妻子も捨ててヒジリの生活に入っていくのである。当然、現実生活での悩みがあったはずである。その生活に絶望したのか。あるいは、苦しみの果て、よりよく生きるため家を出たのか。また、十六年間も全国を歩き回るのは並大抵の事ではあるまい。そうまでさせた原動力とはいったい何なのであろう。  
一方、一遍は十六年間の活動の中で、多くの弟子を得た。この弟子のことを時衆という。他に、一般人で帰依した者は、数限りなかった。では、一体何が人びとをして一遍に引き付けさせたのか。一遍の魅力は何だったのか。顔であろうか。姿や雰囲気であろうか。あるいは念仏の声であろうか。  
一遍が生まれたのは、伊予国道後である。ここは今日の松山市の郊外で、古代から温泉が湧き出している保養地である。夏目漱石〔1867〜1916.50歳〕の小説『坊っちゃん』の舞台となった温泉街の外れに、室町時代製作の一遍像を安置する宝厳寺(ほうごんじ)がある。このあたりで一遍は生まれた。宝厳寺はすでに存在していた。父の如仏(通広)は、かつて京都に上って証空(しょうくう)〔1177〜1247.71歳〕のもとで修行したことがあった。証空は善慧房(ぜんねぼう)と号し、法然の弟子である。すなわち、浄土宗西山派の祖である。一遍の下には、弟が三人ばかり生まれた(『河野系図』『予章記』など)。兄が一人いたという説もある(『一遍上人年譜略』)。  
一遍の不幸は、十歳の時に母を失ったことである。その母の名は伝えられていない。やがて父の希望により出家し、随縁(ずいえん)と名づけられた。『一遍聖絵』第一巻には、「やさしい母を失って、始めて無常の理をさとった」とある。無常の理−世の中にいつまでも続くものはない。生ある者は必ず死ぬ−、これが一遍を仏教に向かわせたきっかけである。  
建長三年(一二五一)、十三歳の時、一遍は大宰府の聖達(しょうたつ)のもとに送られ、さらにそこから肥前国の清水寺の華台(けだい)のもとに送られた。聖達も華台も証空の弟子で、一遍の父如仏とは旧知の間柄である。しかも如仏は、華台に入門していたこともある。一遍を智真ともいうのは、この華台から与えられた名である。  
建長四年(一二五二)、一遍は聖達のもとに帰り、浄土宗西山派の勉強と修行に励んだ。「天性聡明」(『一遍聖絵』第一巻)と言われ、十年余りが過ぎた。弘長三年(一二六三)、父如仏の死が伝えられ、一遍は故郷伊与国に帰った。二十五歳の時である。ここで彼は還俗(げんぞく)(僧が俗人に戻る)し、八年近く武士としての生活を送る。父の跡を継いだのである。  
青春の十年余の修行生活は、一遍を真面目な、人生について深く考える人間にしてしまったようである。強い意志力を持ちつつも、感受性に富み、傷つきやすい一面も持ち合わせていた。仏教そのものも、捨てたわけではない。妻を迎え、子も生まれた武士としての生活は、七、八年ののちに苦しい結末を見ることになった。  
一遍の伝記を描いた、もう一つの信頼すべき絵巻物である『遊行上人縁起絵(一遍上人絵詞伝)』によれば、一遍は親類の恨みを買ったという。そのために殺されようとし、疵を受けたが、敵の太刀を奪い取って命は助かった。その争いの原因は、『一遍上人年譜略』によれば、領地の奪い合いであったという。承久の乱で領地が激減した河野一族の中で、人間の欲の恐ろしさを身をもって体験し、武士を捨て故郷を出る決心をしたという。  
『北条九代記』によると、話はぐっと異なる。一遍の親類の者に二人の寵愛する妾を持つ者がいた。二人はふだん仲がよかった。ある日、二人が頭を突き合わせて昼寝をしていた。それを一遍がほほえましく見ていると、二人の髪の毛がたちまち無数の小さな蛇となって食い合いを始めた。一遍は女性の嫉妬の恐ろしさに気付いたという。  
領地争いにしても、女性の問題にしても、武士として俗世間に生きている以上、避けて通ることはできない。領地に対する執着は、親類などの他人事ではなく、自分自身の中に存在する。女性に激しい嫉妬を起こさせる原因は、自分にもありそうである。やはり複数の女性に執着する自分である。執着の固まり−これが自分の姿であった。他方、浄土宗の念仏の教えに生きようとしている自分もある。この世でのものごとに執着の気持を残していれば、阿弥陀仏の浄土をありがたいと思う心にかげりが出、一心に念仏を唱えるようにはなれまい。このまま執着心の固まりのままで生きていくことはできない。百歩を譲って、これから女性のことは我慢するにしても、美しい着物に目が向かうことはあろう。これは来世に畜生道に落ちる基である。おいしいものも食べたくなることがあるに違いない。しかしこれは餓鬼道に生まれる原因である。それらを我慢して耐えても、家を構えること自体で地獄へ引きずり込まれることは確実である。なぜなら、ほんの少しでも、家に対する執着心が残り、心から浄土を求めての念仏が唱えられなくなるからである。  
こうして一遍は、在俗生活に仏教を生かそうなどというなまぬるいことではダメだと気がついた。すベてを捨てねばならない。優等生として過ごした大宰府時代に得た、阿弥陀の浄土を求めての念仏生活は、今になってみれば完全に納得のいくものではない。なぜなら、あのころは在俗生活のほんとうの苦しみを知らなかったからである。しかし、念仏のみに生きる生活が、自分にとって真の生活であることは確信できる。それでは、執着心にさいなまれる武士の生活を捨て、真の念仏を求めて生きよう。  
財産や異性の問題など傍若無人に踏み越えていく人間はいくらでもいる。また、あれこれ心を悩ましつつ、それでもしがみついているのが普通の人間の姿であろう。しかし一遍はすべてを捨てようと決心したのである。人一倍感じやすい心と、真実を求める心を持ち、強い意志力を持っていたがゆえの決断であった。  
しかしながら、超人的なようでいて他方ではいかにも人間らしいのは、一遍の心は、「捨て」てそれで落ち着くものではなかった。常に捨てることを意識しつつ、自分の心に言い聞かせ、身体に言い聞かせなければならなかった。ぼろをまとい、食事の欲を切り捨て、歩き回って野宿した十六年の生活は、身を苦しめることによって捨てることを実感していたのである。そしてそれは限りなく浄土へ近付く道でもあった。強い意志力を持ちながら、同時に、心を乱す基と知りつつ現世の美しさやぜいたくに気を引かれ、さらにはそれに悩む弱い一遍であってみれば、すべてを捨てる以外に真実の道はなかったのである。  
再び出家してまもなく、一遍は信濃国善光寺に詣でた。文永八年(一二七一)のことである。本尊である善光寺如来は、十万億土のかなたの浄土に住むのではなく、この信濃の地で直接衆生を救う生身の如来であると信仰されていた。この寺での参籠により、一遍は親しく如来に会うことができ、続いて三年間ほどの伊予国窪寺での修行によって悟りの境地に達した。すなわち、彼にとって生きるべき指針であった念仏について、心からの確信を得たのである。『無量寿経』や『観無量寿経』『阿弥陀経』などによれば、衆生は念仏によって阿弥陀仏に救われるとある。では念仏とは何か。実に阿弥陀仏の功徳のすべてが込められていて、救いの原動力があるのではないか。ともかくも「南無阿弥陀仏」と唱え続けることにより、その不可思議なカで極楽へ往生できる。阿弥陀仏でさえ、その修行時代である法蔵菩薩の昔、衆生の唱える「南無阿弥陀仏」の声で仏になることができたではないか。「南無阿弥陀仏」と唱えることにより、現世・来世の区別なく、臨終の時と普段の時とであるとを問わず、極楽浄土が目の前に広がるのである。一遍は、この時の心境を「十一不二(じゅういちふに)の頌(じゅ)」に示している。  
こののち、一遍は伊予国菅生(すごう)の岩屋(いわや)でさらに修行して悟りの境地を固めた。文永十一年(一二七四)二月、一遍はついに衆生に念仏の教えを説くべき旅に出るのである。難波の四天王寺、紀伊国の高野山と参詣しつつ歩を進める彼のあとには、何と妻・娘および下人が従っているのである。妻は超一、娘は超二、荷物運びの下人は念仏房という。武士身分の者に下人がいるのは当然ではあるが、すべてを捨てたはずの一遍に妻子が同行しているのは信じ難い。しかしそこが一遍の人間らしい所であり、また弱い部分でもある。泣いて頼む妻子を振り切れなかったのではないか。  
本来、一遍の再出家の目的は、自分がいかに生きるかにあった。他人の救済を意識していたわけではない。しかし、いったん悟りの喜びを知ると、その喜びを他の人びとにも分け与えたくなる。一遍の布教方法は、「南無阿弥陀仏」と印刷した紙の小さな念仏札(名号札〈みょうごうふだ〉)を会う人びとに配り、念仏のありがたさに目覚めさせることにある。  
同じく文永十一年の夏、熊野本宮の証誠殿(しょうじょうでん)に参籠し、またまた夢告を得て、布教方法についても確信を得た。この時、山伏姿の熊野神が、名号札の受け取りを拒否されて悩む一遍に、「受け取る側がどうあろうと、ひたすら御札を配れ」との神託を下したのである。一遍は念仏を伝えることによって人びとを救おうとしていたのであるが、それは誤りであると熊野神は指摘した。衆生を救えるのは一遍ではなく、阿弥陀仏である。一遍が悩む必要はないし、悩むのは不遜でもある。こうして一遍はいっそう深い信仰の境地をも得た。この時の心境を「六十万人の頌」と「六字無生〈ろくじむしょう〉の頌(じゅ)」に示している。  
ここにおいて、一遍は妻子・下人を故郷に帰した。ほんとうにすべてを捨て切ったのである。以後四年間、たった一人で四国から九州を巡った。遊行−これが一遍の活動の大きな特色である。衣食住などへの執着心を捨てるため、行方定めず念仏を唱えながら、ただひたすら歩く。これは平安中期以降、ようやく活発になってきた聖−ヒジリたちの行動する形でもあった。天台宗や真言宗などの大教団に属し、生活も保証される僧侶たちは遊行などはしない。寺に住み、また招かれて貴族たちに尽くすばかりである。ヒジリたちはそれにあきたらず、教団を離れ、民衆の社会に入っていった。ヒジリの中には、複雑で深遠な教義を知っている者もいれば、そうでない者もいる。ただ一つ言えるのは、民衆の社会では高邁な教義や習得に手間のかかる儀礼は空しい、ということである。毎日の生活に追いまくられる民衆が求めるのは、易しく、しかもありがた味のある救いの教えである。  
こうして、しだいに人気が出たヒジリは、「阿弥陀聖(あみだのひじり)」と「法華の持経者(じきょうしゃ)」である。前者は念仏をひたすら唱えて歩き回り、後者は『法華経』を一心に読み、唱えるのである。中には一宿聖(いっしゅくひじり)などという者もいた。一ヵ所には一晩しか泊まらないのである。住所を定めずに歩き回ることから言えば、一遍の行動によく似ている。  
遊行とは、「遊」という文字があることによって、一見気楽そうな行動に見える。そういえば、「漂泊」も似たような印象がある。会社や家庭のしがらみに悩み、いらだつ現代の私たちから見れば、つい引き込まれそうな魅力を持っている。しかし−一歩遊行に出れば、当時の社会では、明日からの食事の保証はない。屋根の下で眠ることも期待できない。夏の日照り、冬の雪の下でも歩かねばならない。これはまさに身を苦しめる苦行である。逆説的に言えば、苦しんでいる実感こそ、一遍にとって必要なのであった。一足歩くことが、一足ごとにまた湧き出てくる執着心・欲望・煩悩といったものを消していくのである。苦しまねばそれは消えないのである。  
孤独の四年間の遊行ののち、弘安元年(一二七八)、蒙古警備のために北九州にいた大友兵庫頭頼泰〔1222〜1300.79歳〕の屋敷で、他阿弥陀仏真教〔1237〜1319.83歳〕が入門した。一遍の最初の弟子で、同時に一遍没後の時衆を率いた有能な組織者でもある。真教は以後、一遍没までの十二年間の遊行を共にした。没後さらに十五年間、計二十五年にわたって遊行を続けた。しかも、一遍より二歳年上であった。  
こののち、厳島から山陽・京・中部・北関東・奥州、下って関東・鎌倉へと歩を進めた。四年の歳月が経っていた。遊行を共にする弟子−時衆はしだいに増え、男女合わせて数十人にも達した。『一遍聖絵』や『遊行上人縁起絵』を見れば、何と女性(尼)の時衆が半数にも達している。  
時衆は、一遍と苦行を共にする者達である。一人や二人でなく、数十人にも達するとは、いったいどういうことであろう。彼等・彼女等の前身はさまざまである。僧侶もあれば俗人もあり、武士もあれば商人もある。それがすべての生活を振り捨てて、遊行の旅に身を投じる。しかも女性たちもである。家を捨て、家族を捨てるのである。これはもう一遍に強烈な魅力があったというほかはない。  
一遍の容貌は、『一遍聖絵』『遊行上人縁起絵』あるいは今日に残る一遍像・同画像によれば、かなり明確である。群を抜いて大きい背の高さ・やや猫背ながらがっちりしたむだ肉のない体格、鋭く大きい目・意志の強さを表すしっかりした顔、脳天の後半部が盛り上った頭−異形である。これは何かあるぞと、一遍の前に出た者は思ったに違いない。そして恐らく、一遍の念仏の声は、聞きようによっては悩いの心を断つように強く自信にあふれ、聞きようによっては甘く性的な魅力に満ちていたのであろう。  
念仏がうっとりするほどすばらしい極楽浄土を求めるものである以上、唱える声は心をとろかす魅力がなけれぱなるまい。女性たちは一遍の容貌と声に引き付けられた。男たちもまた同様であった。一面では厳しく、一面では甘く、しかも一遍は他人に媚びているわけではない。自分自身の苦しみを踏みしめ、踏み越えて、ひたすら歩く。これがまた人びとを引き付け、思わずついていってしまうことになるのであろう。一遍はまさに異形のカリスマであった。  
この間の弘安二年(一二七九)に、信濃国のある武士の家の庭で、一遍たちは踊り念仏を始めた。念仏を合唱しているうちに、しだいに体が熱くなり、興奮とも喜びともつかないものに突き動かされ、手を振り足を上げて跳ね回り始めたのである。夢我夢中で一瞬の今を燃焼させる時衆の姿は、性的な解放感にも満ち溢れ、見る者の心をつかまずにはおかなかった。以後、一遍たちは行く先々で踊り念仏を催した。一種のショウとして、売り物となっていったのである。人びとを集団で興奮状態に誘い込むこの踊り念仏の広まりは、やはり当時の社会不安と無関係ではあるまい。武士・農民と商工民の葛藤、日蓮の手紙によく見られるような天災の続出、そして蒙古襲来である。蒙古の恐ろしさは、文永の役で十分に知った。蒙古はその後も何度も使いを寄こし、日本征服をあきらめていないことを態度で示している。その不安から逃れたい気持が、踊り念仏の流行の背景にあると言ったら、言いすぎであろうか。  
その蒙古の第二回の襲来を、台風の力も借りてなんとか防いだ翌年の弘安五年(一二八二)、一遍と時衆は鎌倉の町に入ろうとして北条時宗〔1251〜84.34歳〕に拒絶された。恩賞を求める武士たちでごった返す鎌倉を、数十名で押し通ろうとする襤褸(ぼろ)の集団に対する治安上の警戒心からである。悪党と呼ばれる、反幕府的な武士の活動も、ようやく盛んになってきた時期でもあった。しかしこの時の一遍の態度が、毅然として実に立派であるということで、鎌倉の町で大きな人気が湧き起こった。幕府のお膝元での人気沸騰は、一遍の布教が公認されたことにもなり、どこへ行っても大歓迎を受けるようになった。熊野本宮証誠殿で布教方法についての確信を得てから八年目に、一遍の念仏の教えは急速に広まり始めたのである。鎌倉から東海道・京都・山陽道へと足を伸ばしつつ、しかし一遍自身の態度は変わらなかった。気を許せばたちまち地獄に落ちる。彼は自分の弱さを知っていた。念仏を唱えつつ、あくまでも身を苦しめるために遊行を続けなければならない。一歩進むごとに浄土はそれだけ近くなる。浄土は十万億土の彼方にあるのではなく。自分の現在立つこの場所にある。けれど歩かなければ近づくことはできない。  
京都では、一遍が先達と仰ぐ平安時代の阿弥陀聖である空也〔903〜72.70歳〕の遺跡を訪ね、播磨国では同じく尊敬する教信〔?〜866〕ゆかりの教信寺、性空〔910〜107.98歳〕ゆかりの書写山円教寺に参詣している。  
弘安十年(一二八七)、一遍は十二光箱を作った。これは遊行生活に最低限必要な持物十二種類をそれぞれ納める箱である。昼間歩き回る時は背中に、夜に寝る時は時衆の僧と尼の間に置いて、両者を隔てた。いくら一遍を慕ったとしても、一遍自身とは違う時衆の態度が乱れることがあったようである。十二光箱は彼らに対する戒めでもあった。  
山陽からまた四国ヘ、そして阿波国へと遊行してきた正応二年(一二八九)、一遍の体力はついに尽きてきた。播磨国兵庫の観音島に移った同年八月二日、「自分から発心して救われようとしなければ、三世諸仏の広大な慈悲をもってしても衆生を救いきる事はできないのだ。まず踏み出せ」と遺言している(『遺誠』)。同十日、持っていた経典を書写山の僧に渡し、残りのすべての書籍を焼き払ってしまった。「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」(『一遍聖絵』第十一巻)と、意味深い言葉を述べながら……。一遍の信仰は彼自身で終わりなのである。時衆は、一遍に執着してはならぬ。  
こうして同八月二十三日、一遍は静かに息を引き取った。五十一歳であった。今日、この一遍入滅の地には真光寺が建っている。  
一遍のあと、他阿弥陀仏真教が残された時衆をまとめて遊行活動を続けるようになった。これがのちに時宗と呼ばれる教団となっていく。  
一遍の思想を知るには前述の一遍伝の他に『播州法語集』や『一遍上人語録』がある。自筆の書物などは伝えられていない。 


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一遍上人語録
 

 

一遍は、はっちゃけた踊り念仏とやらをおっぱじめた鎌倉時代の坊さんで、現在は歴史教科書に載っているため偉人らしくも思われているが、実像はいまでいうところのカルト団体教祖みたいなものではなかったのかと思う。法然の孫弟子だった坊さんに少年〜青年期に教えを受けているから、いちおうは法然浄土教の系譜ということになっている。なお、親鸞とはまったく関係がない。一遍の特徴のひとつは、現代風に言うならば低学歴だったことである。当時の仏教界において天台宗総本山の比叡山は、いまの東京大学のようなもの。法然、親鸞、栄西、道元、日蓮みな比叡山で学んでいる。しかし、一遍のみそうではない。
この坊さんは四国の愛媛出身で、落ちぶれた武士一族の子息。13歳から九州の大宰府でマイナー坊主の聖達から12年仏教の個人指導を受けている。
おなじ南無阿弥陀仏の法然や親鸞と一遍はどこが異なるか。
一遍に比べたら、なんというか法然や親鸞はとても偉そうなのである。秀才エリートの法然はもとより田舎坊主の親鸞でさえ屋敷に安穏と鎮座して弟子に教えを垂れていたわけだ。ところが、一遍はもっとアクティブで日本全国を遊行(旅)してまわった。救済の念仏札を貴賤貧富を問わずあらゆる人に配ってまわったのである。象徴的なのは没年である。法然79歳、親鸞にいたっては89歳まで生きている。比して、「身命を山野に捨て、居住を風雲にまかせ」ときには絶食さえして日本全国を遊行した一遍は51歳で没している。
一方で救った人間の数はどうだろうか。
果たしてなにをもって救いというのかは意見がわかれるだろうが、直接対面説法した人の数ならば間違いなく一遍がいちばん多かったはずである。一遍が法然や親鸞と異なるところは、いわゆる現場を知っていることだ。日本全国を遊行した一遍は、おそらく当時のどの僧よりも世の中の理不尽や不条理、不公平を知っていた。男は寺院にひきこもり悟りすました顔で経典を読んでいる仏僧ではなかった。一遍は一度還俗(げんぞく)妻帯したものの33歳でふたたび出家する。
この再出家の理由は親族間の相続トラブルで(武士の一族ゆえ)、この際に一遍は人を殺(あや)めてしまったのではないかという説もある。遊行僧としてあらゆる身分のものに教えを説いたのが一遍だ。もはや人間の形をとどめぬらい病(ハンセン病)の乞食にも一遍は向き合ったことだろう。いったい業病に侵された絶望者に一遍はどんな教えを説いたのか。これから捨聖(すてひじり)と呼ばれた一遍の教えをわかりやすく紹介したい。
「一遍上人語録」を百遍近く読んだのだが、かの念仏僧の教えは断じて難解な知識ではない。人はめったに知識で救われたりはしないからである。貴族ならまだしも字も読めないような下層民はなおさらのこと。一遍の教えは実践である。3つのわかりやすい実践を一遍は説いているように思える。その実践行為とは「捨てる」「まかせる」「踊る」である。一遍は「捨てよう」「まかせよう」「踊ろう」と主張している。以下、順番に一遍の教えをなるべくわかりやすく説明していきたい。 
 
1 「捨てる」

 

捨てるとは、意図的になにかを失うことである。俗世を生きる人間は、ほぼ得ることを人生の目標としていると言ってもよいのではないか。一銭でも多くの収入を得たい。名誉や地位を得たい。妻を得たら次は子宝に恵まれることを望む。老年には孫まで欲しいと願うかもしれない。妻子の希望がかなったら今度は妾(めかけ)を欲するのが男なのだろう。いや閉塞した現代日本社会においては、もうほかになにもいらないからたったひとりの親友を求めている孤独な人間もいよう。友さえいらないから、この激痛をともなう難病のみ治ってくれたらと願う患者もいるはずだ。つまり、健康体を得たい。
しかし、得るから得たもの(財産、地位、家族、親友、健康)を失うとも言いうる。さらに言えば、得た時点でおそらく目に見えないなにかを失っているのではないか。かんたんな例を挙げれば、結婚したら自由な独身生活を失わざるをえない。出世すればそのぶんだけ失うのが安心である。いつ足を引っぱられるか。愛する家族がいればこそ、妻や子を失う不安に苦しまなくてはならないのである。死別のときは愛(=執着)していたぶんだけ悲しみも深くなるはずだ。このような事情は現代も一遍の生きた鎌倉時代もまったく変わっていない。
一遍の目に世界はどのように映っていたのか。以下、本記事における引用文中の[カッコ]内の言葉は、意味をわかりやすくするための説明としてわたしが書き入れた補足になります。さて、これが一遍の言葉だ。
「又云(またいわく)、三界[世界]は有為無常の堺なるゆゑに、一切不定なり、幻化なり。此界の中に常住ならむと思ひ、心安からむとおもふは、たとへば漫々たる浪(なみ)の上に、船をゆるがさでおかんとおもへるがごとし。何としてか常住ならむ、何としてか心のごとくならん」
たまたまの因縁で成り立つこの世界は無常ゆえ、一切は不定である。そうだとしたら、安心するということがないではないか。財産も地位も家族も、得たものはかならずいつかは失うことになろう。だから、財産も地位も家族も求めるな、捨てよ、と一遍はたしかに言っている。逆転の発想である。得ることで失うものがあるならば、反対に失う(捨てる)ことで得られるものもあるのではないか。しかしまあ、この程度の発言なら釈迦も言っていたし、そこらの聖人に言えるものだろう。
目に見えるものを捨てろ、というのは数年まえに流行語にもなった断捨離(だんしゃり)とおなじだ。捨聖(すてひじり)一遍のすごいところは、目に見えぬものまで捨てよと言う。念仏(南無阿弥陀仏)は捨てることだと一遍は教えるのである。根拠とするのは一遍が尊敬していた平安時代の仏僧・空也(くうや)の言葉だ。
「夫(それ)、念仏の行者用心のこと、しめすべきよし承(うけたまわり)候(そうろう)。南無阿弥陀仏とまうす外(ほか)、さらに用心もなく、此外(このほか)に又示(しめす)べき安心もなし。諸(もろもろ)の智者達の様々に立おかるゝ法要どもの侍(はべ)るも、皆(みな)諸惑(しょわく)に対したる仮初(かりそめ)の要文なり。されば、念仏の行者は、かやうの事をも打捨(うちすて)て念仏すべし。むかし、空也上人へ、ある人、念仏はいかゞ申べきやと問ければ、「捨てこそ」とばかりにて、なにとも仰(おおせ)られずと、西行法師の撰集抄に載(のせ)られたり。是(これ)誠に金言なり。念仏の行者智慧をも愚痴をも捨(すて)、善悪の境界をもすて、貴賤高下の道理をもすて、地獄をおそるゝ心をもすて、極楽を願ふ心をもすて、又諸宗の悟(さとり)をもすて、一切のことをすてゝ申(もうす)念仏こそ、弥陀超世の本願に尤(もっとも)かなひ候へ。かやうに打あげ打あげとなふれば、仏もなく我もなく、まして此内に兎角(とかく)の道理もなし。善悪の境界、皆浄土なり」
一遍は念仏しながらなにを捨てろと言っているのか。一切を捨ててしまえ、である。学校で教わった正しい知識も、実社会で学んだ愚かしい処世の智慧も捨てよう。自己啓発本の内容もポイだ。パソコンのみならずネット情報も捨てる。こうしたら金が儲かる、出世できる、女にもてる、男にもてる、健康情報、育児方法、老後対策――あらゆるハウツー、ノウハウ、テクニックを捨てるべし。「諸宗の悟」を捨てよう。肩書も捨てる。学歴や職歴がなんだ。○○新聞記者の名刺を捨てる。一部上場企業がなんだ、銀行員がなんだ、芥川賞・直木賞がなんだ、紫綬褒章がなんだ。派遣、非正規、パート、日雇い、無職、ニート、メンヘラ、身障者といった劣等感も捨てる。東大卒も捨てる。目白大卒も捨てる。高卒も捨てる。受賞歴も前科も捨てる。「貴賤高下」を捨てるとはそういうことである。地獄も極楽も捨てよう。将来の地獄のような不幸におびえる心配を捨てる。極楽のような幸福への期待も捨てる。
ここまではいいだろう。ここまでなら到達できる世捨て人もけっこういるのではないかと思う。身もふたもないことを言えば、定年退職後の老人ならなんとか到達可能ではないか。老人ホームに入ってまで東大卒や元商社勤務の過去にこだわるものは格好悪い。色ボケはあるだろうが、肝心のあっちが役立たないだろうからそこまで生臭くはなるまい。いやいや、わからない。いまはバイアグラがある。もしかしたら過去しかない老人こそ、かえって過去の栄誉にすがりつくのかもしれない。余命少ない老人ならばかなりのものを捨てられる、というのは甘い考えなのかどうか。臨終の際、成功した老人は捨てられぬものの多さゆえに逆に苦しいということも考えられる。ずっと下積みの仕事でしかも独身の老人は捨てるものがないから死ぬときに気楽だろう。
さて、である。ボケかかった余命わずかの老人でさえなかなか捨て切れないものがある。人間である限り捨てられないもの。人間の業(ごう)そのものと言ってもそれほど間違いでないもの。それは「善悪の境界」である。なにが善で、なにが悪か。だれが善で、だれが悪か。いくら自他の肩書を捨てて分け隔てなく人に接することのできる人格者でも、善悪の分別を捨てるのはかなり難しいのではないだろうか。ほとんど無理だと思う。我われはどうしようもなく善悪にこだわってしまう。
しかし、一遍は善悪をも捨てよと言うのである。捨てられると言う。
念仏=善悪ふくむ一切を捨てる!
つくづく思うのは、人間のどうしようもなさの根源は善悪ではないかということ。たとえば、「私は悪くないのに」という言葉が象徴的である。人はどうしようもなく自分を善で、他のものを悪と思ってしまうところがある。どちらも両者ともに善のことはあり、それはそれでまったく正しいのだが、しかしどちらも双方ともに善ということでは世間での折り合いがつかない。人間同士の喧嘩や国家間の戦争が起こるのはこのためである。人はまるで呪われたかのように善を求め悪を嫌う。したがって人間世界は――。
「人の形に成(なり)たれど 世間の希望たえずして心身苦悩することは 地獄を出(いで)たるかひぞなき物をほしがる心根は 餓鬼の果報にたがはざる迭(たがい)に害心おこすこと たゞ畜生にことならず」
まさに善悪が人間の苦悩を作り出していると言ってもいいのかもしれない。たとえば、こんな地獄があろう。愛する家族が目のまえで飛び降り自殺をしてしまったとする。それ以前にふたりは言い争いをしていた。このとき、どちらが善でどちらが悪なのか。自分の善を言い張ったがために家族は自殺してしまったのではないか。自分が悪だと認めてしまうと生きていけないようなところが人間にはある。もしかしたら目のまえで自殺した家族のほうが善で自分こそ悪ではないか。もし自分が悪であるならば、自分も自殺しなければならなくなる。そもそも自殺は善なのか、それとも悪なのか。世間的には自殺は悪となっているから、ならば自殺した愛する家族は悪なのか。実のところ、この地獄はわたし自身が13年まえに体験したことである。いまになってようやくあの苦悩が、まさしく善悪の考えによって生じていることがわかる。たぶん善悪から多くの人間の苦しみが生じているのだ。
一遍に話を戻そう。一遍は善悪を捨てろと言う。捨てられる言う。どのようにして一遍は善悪を捨てるのか見てみよう。一遍は名号(みょうごう)=南無阿弥陀仏で善悪を捨離(しゃり)できると言う。
「又云、善悪の二道は機の品[凡夫の性質]なり。顛倒虚仮(てんどうこけ)[デタラメ]の法なり。名号は善悪の二機を摂する真実の法なり。皆人善悪にとどまりて、真実南無阿弥陀仏を決定往生と信ずる人まれなり」
南無阿弥陀仏(名号)は善悪を超えているというのである。善も悪もどちらも名号のなかに摂取されている。善悪を超越する南無阿弥陀仏とはいったいなんなのか。一般的には念仏を唱えたら死後に極楽浄土に往生できると言われている。
「又云、南無阿弥陀仏を心得て、往生すべきやうに皆人おもへり。六識[眼耳鼻舌身意]の凡情を以て思量すべき法にはあらず。但(ただし)領解(りょうげ)すといふは、領解すべからざる法と心得るばかりなり。故に善導[中国の高僧]は、[南無阿弥陀仏を]「三賢・十聖も、測りて窺ふ所にあらず」と釈し給へり」
南無阿弥陀仏という真実は人間ごときには理解できない。言うなれば、人間には知りえない名号を仮構することで善悪を超えているのだ。我われにはわからないが、しかし確実に我われを超える大きなものが存在するとする。これは思考実験とも言うことができよう。我われには理解できない南無阿弥陀仏があるのならば、それはたしかに善悪をも超越しているだろう。いささかわかりにくいかもしれないので、さらに一遍の言葉を借りよう。一遍はまたもや私淑する空也の解釈を例として出している。
「又云、罪[悪]といひ功徳[善]といふこと、凡夫浅智のものまたく分別すべからず。空也の釈に云(いわく)、「智者の逆罪は変じて成仏の直道(じきどう)となり、愚者の勤行はあやまれば三途[餓鬼・畜生・地獄]の因業となる」と云々。しかれば、愚者は功徳[善]とおもへども、智者の前には罪[悪]なり。愚者は罪[悪]とおもへども、智者の前には功徳[善]なり。微々細々なり。我等愚痴の身、いかでか分別すべきや。(中略)所詮、罪[悪]と功徳[善]との沙汰(さた)をせず、なまさかしき智慧を捨て、身命ををしまず、偏(ひとえ)に称名[念仏]するより外は、余の沙汰有(ある)べからず」
なにが悪で、なにが善かは我われにはわからないのではないか。阿弥陀聖(あみだひじり)と呼ばれた空也と捨聖と呼ばれた一遍に共通する主張である。善悪は人間にはわからないのかもしれない。ならば、ある現象が功徳か仏罰かもわからないはずである。退転したものの不幸を仏罰だとあざわらい、あさましくも現世利益を功徳であると喜ぶ某新興宗教団体のメンバーには、一遍の言うことをご理解いただけないかもしれない。だが、病気をしたことで人のやさしさがわかるということもあるのではないか。そもそもだれかが病気にならなければ医療従事者は食い詰めてしまう。金が儲かることが善かどうかもわからない。多額の金銭はトラブルを誘い込むような要素を持っているはずである。ひとたび競馬で大穴を当てたら、もう永久に競馬の誘惑からは逃れられないだろう。よく見れば善のなかの悪が、悪のなかの善が見えてくることもないとは言えまい。だとしたら、なにが善でなにが悪か我われには知りえないということにはならないか。しかし、不安になることはない。なぜなら、阿弥陀仏は知っているからである。ことの善悪は死後、浄土にて阿弥陀仏にうかがえばよろしい。
「只(ただ)不審あらむ法門[善悪]をば浄土へまゐりて、阿弥陀仏にあひ奉りてうけ給はるべきなり」
まとめに入ろう。一遍の教える救いは、まず捨てることから始まる。目に見えるものも目には見えぬものもなるべく捨てよう。智慧・愚痴・善悪・貴賤高下(肩書)・諸宗の悟り(人生指南)を捨てる。現代で言うなれば、あらゆるハウツー、ノウハウ、テクニックを捨離する。自己啓発本、ビジネス書、婚活マニュアル、人生指南書をブックオフに売り飛ばそう。(実際に捨聖一遍は死の直前わずかに所持していた書籍をすべて焼却している)仏教解説書を古書店に売り払う。これは他人の考えを捨てるということだ。それからできるだけ自分の考え(=善悪)も捨てたほうがいい。そうすると、どうしていいのか。心が安らかになるからである。いつも不安で仕方がないのは心がよけいなものに縛られているためなのだろう。そうは言っても、我われはなかなか先入観や固定観念、世間体を捨てられない。不自由である。息苦しい。苦悩から逃れられない。このために南無阿弥陀仏を一遍はすすめるのだ。
「此世(このよ)の人はわれも人も凡夫の妄言なれば、かならずしもならひきゝしりたりとも、生をへだてなばわするべき故に、要事あるべからず。只、誠の仏語は南無阿弥陀仏、此(この)念仏三昧は罪悪生死の凡夫の上に、実相所詮の仏智の名号を持(たもた)せて、速(すみやか)に善悪を忘(もう)じ、諸見を離れしむ」
あの世(阿弥陀仏)から見たらこの世の善悪、正否は違って見えるのかもしれない。そうだとしたら、この世のことは我われには究極的にはわからない。このわからないというほとんど絶対の真理を一遍は南無阿弥陀仏と言っているのである。この世の不公平、矛盾、理不尽、不条理にはふつうの神経ならば目を覆いたくなるはずだ。小さな子の障害や難病、早逝には参る。どうしてこの世がこうなのかはわからない。しかし、阿弥陀仏にはきっとわかっているのだろうから、死後にあの世でわけを聞けばいのである。これが一遍の南無阿弥陀仏だ。一遍の南無阿弥陀仏は、まず「捨ててこそ」である。とはいえ、むろん一遍も一切を捨離するのはたしかに理想だが、しかし実現不可能と言っていいほどの困難であることを知らないわけではなかった。
「捨(すて)てこそ見るべかりけれ世の中を すつるも捨ぬならひ有(あり)とは」
どうしようもなくも捨てられないのである。一遍自身も一度は捨てた妻を後年、遊行の旅に同行させている。さて一遍のような聖人からは程遠い借金魔でアルコール依存症の俗人、自由律俳句で有名な山頭火は果たしてかの捨聖の存在を知っていたのか。
「捨てきれない荷物のおもさまへうしろ」(山頭火)
「旅ごろも木の根かやの根いづくにか 身の捨られぬ処あるべき」(一遍) 
 
2 「まかせる」

 

捨てるとなにがいいのかと言うと身軽になるからである。鎌倉時代はもちろんいまのような情報社会ではなかっただろうが、情報というのは所詮は他人の考えである。さらに肩書は世間に評価された身分でその人間の本質とはまったく関係がない。このため情報や肩書、世間体といった他人の考えを捨てていくと、どうやら自分の輪郭が見えてくるようである。一遍の教えがいまでも有効なゆえんだ。捨てる。捨ててこそわかるもの。たとえばの話だが、大人の個性なるものは、だれかから教えられるものではなく、捨てることでおのずから姿をあらわすものなのかもしれない。とはいえ、一遍は個性的になれとは言っていない。他人の考えを捨てろ。それから自分をも捨てろと言う。なぜなら、捨てて捨てて身軽にならないと流れ(他力)に身をまかせられないからだろう。この本とは関係なく、たまたま知ったのだが、空也作とされる歌に次のようなものがある。空也は一遍があがめていた平安時代の僧である。
「山川の末(さき)に流るる橡殻(とちがら)も 身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれ」(空也)
おおよその意味は――。川に落ちてしまったトチの実も、流れに身をまかせていればこそ浮かぶこともある。溺れてしまったときはジタバタあがくよりも捨て身で流れに身をまかせていたほうがいい。ものすごく凡俗なたとえになろうが、着衣での水泳はとても危険と聞く。衣服が水を吸って重くなるからである。だから、服を捨てろ。裸になれ。このような意味合いで一遍は善悪を捨てろ、自分を捨てろ、と言っているのではないかと思う。
自分を捨てるというのを現代風に言い換えたら、いわゆる無意識の世界に入っていくということではないか。インチキとも言われるユングは自我の底に個人的無意識、集合的無意識があると仮定した。ここでは深く述べないが、無意識というのは説明原理である(実在は証明不可能)。個人的無意識や集合的無意識があるとして話を進めると、ある種のことにうまく説明がつく。
ユングいわく、集合的無意識とは、国時代を問わず人類に普遍的に共有される意識の層とのこと。この点、阿弥陀仏は集合的無意識のようなものと言うこともできるのではないか。ユングは嫌われもの(非科学的! オカルト!)だからあまり踏み込まないでおこう。ひとつだけ、自分(自我意識)を捨てるというのは、生命の奥深くに分け入っていく行為でもあるということに留意しておきたい。次の一遍の言葉は、たとえばユング学者の河合隼雄の言説を念頭に置くと、かなりわかりやすくなるのではないかと思う。
「又云、少分の水を土器(かわらけ)に入(いれ)たらば、則(すなわち)かわくべし[水分は自然に蒸発する]。恒河(ごうが)[ガンジス河]に入(いり)くはへたらば、一味和合して、ひる[干る]事有(ある)べからず。左(さ)のごとく、命濁中夭の無常の命[はかない自我]を、不生不滅[永遠]の無量寿[自然]に帰入しぬれば、生死ある事なし」
気持の悪いポエム風に言えば、ちっぽけな自分の命を大自然の大生命に投げ出せ!そういうことになるのだろう。自分を捨てて、万物が流転する大きな自然の流れ=変化=他力に身をまかせるべきである。逆に言うならば、他力に気づくことで自分(自力)を捨てられる。他力(阿弥陀仏)を深く信じることは、我執(自力)を捨てることである。他力というのは、たとえば春が夏になるのは他力である。花が咲き、散るのも他力だ。
一遍は他力信仰を歌にしている。
「さけばさきちるはおのれと散(ちる)はな(花)の ことわりにこそ身は成(なり)にけれ」
一遍の言葉で歌意を説明するなら、こうなるのではないか。
「自他の位[レベル]を打捨て、唯一念、仏[自然]になるを他力とはいふなり」
雨が降り、雲が去って晴れるのもまた自然=他力である。あるとき一遍の遊行集団が突然のどしゃ降りに遭遇したときのことだ。尼(あま=女性修行者)たちが雨にぬれては大変と袈裟(けさ)を脱ぎだしたという。これを見て一遍の詠んだ歌がある。
「ふればぬれぬるればかはく袖のうえを 雨とていとふ人ぞはかなき」
どうせ雨でぬれてもそのうち晴れてかわくのだからいいではないか。念仏で苦楽を超越した一遍の堂々たる態度がうかがえよう。この道歌の境地を説明すれば以下のようになるのではないか。
「又云、楽[晴]に体[実体]なし、苦[雨]の息(そく)するを楽[晴]といひ、苦[雨]に体なし、楽[晴]のやむのを苦[雨]と云(いう)なり。故に苦楽のやみたる所を無為と称す。無為といふは名号なり」
人生という道行きでたとえ雨が降っても晴れても動じず(無為)、名号を唱えていたらいいという考えである。一遍は名号で往生が決定しているがために、苦楽を捨て切っていられるわけだ。雨や苦しみを厭(いと)い慌てふためくのは不定だからである。
「又云、決定[絶対的]といふは名号なり。わが身わがこゝろは不定[相対的]なり。身は無常遷流(せんる)の形なれば、念々に生滅す。心は妄心なれば虚妄(こもう)なり。たのむべからず」
名号は最強ドラッグのようなもので、ばっちり決まっていると(決定!)身に降りかかる禍福(苦楽)がまるで夢(虚妄)のように見えるのだろう。決定していれば、不定のものなど夜見る夢程度にどうでもよくなる。一遍の見たおかしな夢の記録が残っている。夢を見ていて、その夢が覚めたと思ったら、それもまた夢だったというのである。遊行していたと思ったら、それは夢で実は道場にいた。しかし、その道場に座っていたというのもまた夢であると判明する。
「又云、夢と現(うつつ)とを夢に見たり。<弘安十一年正月廿一日夜の御夢なり>種々に変化して遊行するぞと思ひたるは、夢にて有けり。覚(さめ)て見れば、少しもこの道場をばはたらかず、不動なるは本分なりと思ひたれば、これも又夢也(なり)けり。此事(このこと)、夢も現も共に夢なり。当世の人の悟(さとり)ありと、ののしりわめくはこの分[程度]なり。まさしく生死の夢覚ざれば、此(この)悟(さとり)は夢なるべし。実(まこと)に生死の夢をさまさんずる事は、ただ南無阿弥陀仏なり」
「おもひとけば過(すぎ)にしかたも行末(ゆくすえ)も 一(ひと)むすびなるゆめの世の中」
名号(南無阿弥陀仏)という絶対真理を仮構(創造)することで、かえって無常や変化、つまり自然の流れがよく見えるようになるのである。絶対真理があるならば、無常の世の中などみなみな夢に過ぎぬという理屈だ。そう考えてみたら、この世のことなどすべてが幻想と言えないこともない。繰り返すが、これは名号が絶対真理であるという前提のうえでの話である。名号という、いわばサングラスをかけたら世界の見え方が変わったという話だ。
「又云、名号の外に惣(そう)じて以(もって)我身に効能なし、皆(みな)誑惑(おうわく)[インチキ]と信ずるなり。念仏の他の余言をば、たは事[戯言]と思ふべし。常の仰(おおせ)なり」
細かいところだが、名号以外はインチキである、とは言っていないことに注意したい。どこぞの教祖様のように、自分の教え以外はデタラメと断言していないのである。しつこいが名号が絶対真理で、これ以外はウソだと宣言してはいない。どういうことか。自分は名号以外はインチキだと信じている。みなも念仏以外は戯言だと思ったほうがいい。この時点で寸止めしているのである。
つまり、一遍のしているのは自己の信仰表明のみで強制的な命令をしていない。なにせ名号は「領解すべからざる法」であると心得よと主張しているくらいだ。繰り返しになるが、名号は「人の理解の及ばぬ法則」である。名号は人間には「わからない」が、この「わからない」こそ絶対真理と一遍は言うのである。このため、一遍は自分の教えも捨ててもらって結構と言い放っている。どこかの教祖様のように自分は絶対正義ではないのである。
「またかくのごとく愚老[一遍自身]が申事(もうすこと)も意得(こころえ)にくく候(そうら)はゞ、意得(こころえ)にくきにまかせて愚老が申事も打捨(うちすて)、何ともかとも[自力にて]あてがひはからずして、本願に任(まかせ)て念仏したまふべし」
一遍はたぶん「まかせる」という言葉が好きだったのではないか。引用した短文中に2回も「まかせて」が登場している。さて、果たして六字名号、南無阿弥陀仏は絶対真理なのか、そうでないのか。これは信じるか、信じないかの問題である。ならば、信じるとはどういうことか。一遍の場合は自分の慕う空也が念仏をしていたから、というのが信心の理由のひとつである。もうひとつあって、一遍は熊野本宮神社において、夢のなかで権現(神)から「念仏を勧進せよ」というお告げを受けている。これはほとんど絶対的な体験だったことだろう。空也の記録と熊野権現の夢告が一遍の信仰のみなもとである。一遍における信心の意味は「まかせる」のようである。
「又云、信といふは、まかすとよむなり。他の意(こころ)にまかする故に、人の言(ことば)と書(かけ)り。[信=人+言]我等は即(すなわち)法[仏法]にまかすべきなり。しかれば衣食住の三を、われと求(もとむ)る事なかれ。天運にまかすべきなり。空也上人の云、「三業を天運に任せ、四儀を菩提に譲る」と云云。是(これ)即(すなわち)他力に帰したる色なり。古湛禅師の云、「煩(わずらわ)しく破[服の破れ]を転ずる[縫う]こと勿(なか)れ。只(ただ)天然に任す」といへり」
信じるとは、自然のことわりにまかせること。天運にまかせること。あれこれ策を弄して自然に逆らわないこと。なにより仏法にまかせること。
念仏=自然の流れにまかせる!
ここまでの流れを整理しておこう。一遍は自分を捨てろと言う。身軽になってまかせる=信じるがいいと主張する。さらに「我等はすなわち仏法にまかすべき」との仰せである。ここで一遍の言及している仏法とは、大無量寿経の以下の箇所ではないか。これはもう一遍と4ヶ月以上付き合った当方の直観を信じていただくほかない。いちおうの証拠としては、大無量寿経のその箇所が一遍の言葉として本書に掲載されていることが挙げられる。さて、浄土宗は大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の浄土三部経を根本経典とする。一遍が大無量寿経のなかでもっとも愛したであろう部分を現代語訳から引用する。
「人は世間の情にとらわれて生活しているが、結局独りで生れて独りで死に、独りで来て独りで去るのである。すなわち、それぞれの行いによって苦しい世界や楽しい世界に生れていく」
なにが説かれているのか。原始仏教時代からあった業(ごう)の思想である。業はカルマとも呼ばれ、身(身体)口(言葉)意(思考)における3つの行為のこと。身口意(しんくい)の業にはかならず善悪がともなうものと考えられている。仏教では、我われは一回限りの生を得ているわけではない、と説く。我われは――。久遠の過去より業に従い六道(天、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄)を生死輪廻している。無数の過去世を繰り返した結果、たまたまいま人間としての生を受けているに過ぎない。この世で恵まれているものは、過去世のどこかにおける善業(善い行い)の報いだ。反対に悲惨な人生を歩まねばならぬものは、同様に過去世における悪業の報いである。いまの仏教者はなぜか業の理法を説かなくなっているように思われるが、この残酷ながら明晰な宿業思想は釈迦の時代からすでに存在しており(「長老の詩」)、インド、中国、日本と三国を経由してきた仏教の根底にある考え方である。いまの葬式仏教を生業とする職業生臭坊主は人権(人間平等)とやらに配慮してか、薄っぺらいきれいごとだけを口にしていたいのか、人間それぞれがどうしようもなく生まれ持つ重い業を無視しようとするが、宿業による生死輪廻は2500年の歴史を持つ仏法の基礎概念と言ってもよいのである。仏教の世界観では、人間はそれぞれ不公平で、それは業によるものであると考える。このために、だからこそ、生きとし生けるものを平等に救済する思想が生まれてくるのだ。もちろん、法然、親鸞とおなじく一遍もまた業による生死輪廻を深々と認めている。
「罪をつくれば重苦を受け、功徳を作れば善所に生ずる」
業とは宿命のことである。国籍、性別、貧富、美醜、賢愚、健康、寿命は宿命だからどうしようもない。出世、成功、勝利、落伍、失敗、敗北は久遠の過去世における業の報いである。仏典の「本生経」は、あの釈迦でさえ過去世で殺人の罪を犯していたと説く。そうだとしたら、我われ凡夫は久遠の過去世のどこかで、かならずや十悪・五逆といわれる大罪を犯しているのではないか。ならば、この世でどのような悪業の報い、つまり不幸が生じても仕方がないことなのである。一遍いわく、「我等はすなわち仏法にまかすべき」――。これはどういうことか。業にまかせるしかない。宿命を受け入れるしかない。宿命を生き抜くしかあるまい。一遍と空也、ふたりながらにして主張する「天運にまかす」とは、そういうことだ。
宿命は過去世における業(善悪)の報いである。いま苦しいとしたら、それは過去世の悪業のためだ。悪業は煩悩(ぼんのう)から生じる。かつて仏教の開祖、インドの釈迦は煩悩を消せと教えた。ご存じでしょうが、煩悩とは欲望、執着のことで、これを消した状態が涅槃(ねはん)と呼ばれ、通常はこの状態が悟りであるとされる。ゆえに「煩悩即菩提」と言われることもある。煩悩がそのまま菩提(ぼだい)、つまり悟りに直結するという考え方だ。しかし、煩悩を消そう消そうと思うほど、逆に煩悩の炎(ほむら)は燃え上がる。ある意味で、自力救済の限界である。いまの東大と言ってもよい鎌倉時代の最高学府、比叡山は天台宗の総本山である。比叡山の仏僧(研究者)たちは自力修行で迷いからの脱却を目指していた。ちなみに比叡山における出世は、親の家柄が重視されたため、修行とは関係がない。そもそも出世欲は煩悩の最たるものゆえ、本来なら仏教とは相容れぬものである。
さて、法然は比叡山(東京大学)を飛び出して専修念仏、他力救済の教えを広めた。象牙の塔とも言いうる比叡山のなかにいてはダメだと判断したのであろう。専修念仏、他力救済とはなにか。念仏を唱えるだけでだれでも救われる。それは自力(修行)ではなく、阿弥陀仏による他力の救済である。法然はかつていた比叡山を聖道門(しょうどうもん)、おのれの教えを浄土門と呼んだ。どこの門から救いに入るか。聖道から入るのもいいが、浄土から入る門もある。あさましい下層民は業から生じる煩悩を自力修行で消すことはできないだろう。ならば救われないのか。それは違う。いな。ひとたび浄土に往ってから救われる。この法然の教えは、浄土宗西山派の証空に引き継がれた。余談だが、証空は親鸞などよりよほど法然の教えを聞く機会の多かった優秀な弟子である。
証空の弟子に聖達という坊さんがいて、この聖達のもとで我らが一遍は13歳の少年期から12年間仏教を学んでいる。しかし、一遍は聖達の教えを捨てているのである。36歳で熊野権現からの夢告を受けて、いままでの仏法でさえ自力であったことに気づく。阿弥陀仏が日本の神として現われたところの熊野権現は一遍にこう言ったという。
「心品(しんぼん)のさばくり[心による善悪の判断]あるべからず。此心(このこころ)はよき時もあしき時も、まよひなるゆゑに、出離の要とはならず。南無阿弥陀仏が往生する也(なり)」
結果、一遍は逢う人々に分け隔てなく「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」と書かれた念仏札を配ることにする。どうして念仏札を手渡すだけで救いになるのか。一遍が自力で救うのではないのである。というのも、決定往生は阿弥陀仏による救済。阿弥陀仏が万民を救ってくださることを完全に信じることができたら、自分は念仏札を配る以外の一切のことは他力にまかせておいていいことになる。一遍は念仏札によって阿弥陀仏の他力救済を告げるだけで構わない。親鸞の他力信仰は法然より強いが、その親鸞でさえ一遍の他力信仰にはかなわないと思う。一切自力を用いるべからず。我執の善を捨てよ。一切を捨て切れ。捨ててこそ他力にまかせることができよう。信じるとは、まかせること。一遍の教えは浄土門である。教えの要諦は天運・業・宿命にまかせきるということに尽きる。
「上人、或時(あるとき)しめして曰(のたまわ)く、聖道・浄土の二門をよくよく分別すべきものなり。聖道門は、「煩悩即菩提、生死即涅槃」と談ず。我も此法門を人にをしへつべけれども、当世の機根においてはかなふべからず。いかにも煩悩の本執に立かへりて[煩悩ばかり気になり]、人を損ずべき故なり。浄土門は身心を放下(ほうげ)して[投げ出して]、三界・六道に希望する所ひとつもなくして、往生を願ずるなり。此界の中に、一物も要事あるべからず。此身をこゝに置ながら、生死をはなるゝことにはあらず」
お詳しい方なら、身心放下は禅の言葉だとお気づきになったことと思う。引用文の意味は、お釈迦さんのように聖人ぶって煩悩を消そうとするな。欲望や執着はなくそうとするとかえって意識して苦しみが増すものだ。重要なのは、この世にあまり希望を持たないこと、人生にあまり期待しないこと。これは一遍さん、いいことを言うなと思うのである。どうせ消えないんだから欲望は消そうとしないほうがかえっていい。肝心なのは、どうせ思うようにはならないんだから期待しないこと、希望を抱かないこと。これは絶望の思想ではないことが次の引用をお読みになったらわかるはずだ。このように考えると、あの苦しい嫉妬も消え失せ、心がとても安らかになるのである。以下は捨聖一遍の絶唱ではないか。
「善悪ともに皆ながら 輪廻生死の業なれば すべて三界・六道に 羨(うらや)ましき事さらになし 阿弥陀仏に帰命して 南無阿弥陀仏と唱ふれば 摂取の光に照されて 真(まこと)の奉事(ぶじ)となるときは 観音・勢至の勝友あり、同朋もとめて何かせん」
この世における幸い(善)も不遇(悪)もどちらとも結局のところは久遠のむかしより生まれ変わりを繰り返してきたそのときどきの業の報いであり、これはもうどうしようもないのだから、この世で恵まれた人たちを羨むことはない。いまやれることは南無阿弥陀仏と唱えることで、そうしたらかならず阿弥陀如来は我われを見守ってくださるのでもう孤独ではなく、のみならず観音菩薩、勢至菩薩まで友のごとくに付き添ってくださる。こうなったら、ことさらへつらって仲間や友人を求めなくてもよくなる。
一遍のおもしろいところは、人間の本性とも言うべき嫉妬に言及していることだ。「すべて三界・六道に 羨ましき事さらになし」がいい。こういうことを書く一遍もまた嫉妬に苦しんだのは疑いえない。嫉妬こそ人間の本性と言えなくもないのである。嫉妬心は劣等感から生じる。一遍の劣等感はいったいなにか。これはかなりうがった見方なのだろうが、現代でいうところの低学歴が一遍のコンプレックスだったのではないか。一遍は天台宗総本山の比叡山出身ではないのである。名門で学んだことがない。12年田舎坊主の聖達の教えを受けたけれども、あとはまったくの独学である。語録を読む限り一遍の頭脳優秀は間違いないが、しかしそれだけに、そのぶんだけ比叡山出身ではない劣等感を変にこじらせた時期があったのではないか。貴賤貧富に分け隔てなく平等に与えられる劣情が嫉妬である。貧農は貧農同士のどんぐりの背比べで、黒々とした怨恨の情を抱くのである。貴族、武士、商人、農民すべての身分において兄弟関係は嫉妬の温床だろう。日本全国を遊行してまわった一遍は、こういう世間知に長(た)けていたのではないか。法然は比叡山のなかでも秀才と一目置かれていた。親鸞は身分の低い僧で、オツムのほうも文章を読む限り大したことはないが、それでもやはり比叡山出身で、有名な法然の弟子であるという後ろ盾があるのだ。比して一遍はなにもないのである。ひどい悪口を言えば、一遍は没落武家出身の無学な乞食坊主に過ぎない。強調しておきたいが、このため、だから、後年公家からの帰依も得た一遍はすごいのだ。
一遍はあの忌まわしい嫉妬をも南無阿弥陀仏で受け流せると教える。これを読むと元々は一遍も嫉妬深いやつだったのではないかと思えてくる。人と自分を比べるから相対的に苦も楽も生じるのである。俗に言うところの「あいつばかりいい思いをしやがって、くそお」という妬みは苦だ。「まあ、あいつに比べたらましだよね、うしし」というのが楽の実相かもしれない。一遍の説くのは人と比べることのない絶対の楽、無比楽(むひらく)である。
「又云「一念弥陀仏、即滅無量罪、現受無比楽、後生清浄土《一たび弥陀仏を念ずれば、即ち無量の罪を滅し、現(このよ)には無比の楽を受け、後(のちのよ)は清浄の土に生ず》」といふ事。無比の楽を世の人の世間の楽なりとおもへるはしからず。これ無貪の楽なり。其故(そのゆえ)は、決定往生の機と成ぬれば、三界・六道の中にはうらやましき事もなく、貪(とん)すべき事もなし。生々世々流転生死の間に、皆受(うけ)て、すぎ来(きた)れり。然(しか)れば一切無着(むじゃく)なるを無比楽(むひらく)といふなり」
無比楽とはなにか。天眼(天からの視線)を得ることだと思う。決定往生というのは、死んだら極楽浄土に往生することが決定することである。いやいや、むろんのこと極楽浄土があるのかどうかはさすがにわからない。死んだらどうなるかだけはだれにもわからないのである。死後の世界はいくら現代科学が進歩しようが絶対に解明することができない。絶対に絶対だ。以前にも名号は「領解すべからざる法」、つまり南無阿弥陀仏の意味は「人間にはわからない」と書いたが、死後のことは絶対に「わからない」というのも南無阿弥陀仏の現代的意味である。この点だけは南無阿弥陀仏は、ほとんど絶対的に正しいところがある。死後のことは絶対にわからない。南無阿弥陀仏に賭けるかどうかだ。要するに、信じるか、信じないか、になってしまう。はなから絶対的に正しい答えのようなものは存在しないためである。言うまでもなく、なにを信じるのも個人の自由である。死んだら無になると信じてもいいし、風になると信じてもOK。死んだ瞬間に自意識は消滅してしまうのだから死は存在しないと思うのもいいだろう。存在するのは他人の死だけで、自分は死なないと信じるのもなかなかおもしろい。同様に浄土で先に逝ったかつて親しかったものと再会できると信じても構わない。なにを信じても間違いということはないはずである。
さて、名号によって決定往生の機(身分)になるとなにがいいのか。自分の人生をかなりのところまで客観的に見られるようになるのがいい。念仏者の鴨長明は「方丈記」の冒頭で世の人のありかたを、「ゆく河のながれは絶えずして……」と河川になぞらえているが、あれはどこから見ているかというとたぶん天空の月からなのである。仏教にとって夜光る月は悟りの象徴でもある。決定往生の名号を唱えると、川の流れのような自分の人生を、あたかも天の月から見下ろすように観察できる。天眼を得るとはそういうことである。どうしても川の中にいると、自分が流されている川の実体がよくわからない。もしかしたら流されていることさえ気づかないかもしれない。しかし、名号によって往生(死)が決定したら、少なくとも自分が死に向かって流されていることくらいはわかるだろう。そうだとしたら、ひとむかしまえのジジババくさい念仏にも、十分に普遍的かつ現代的な意味があることになる。というのも、人はどうしようもなく主観を離れることができない。人生でなにか問題が生じるとこの主観のせいで自縄自縛におちいりボロボロになってしまう。悩みを他人に打ち明けるといいのは、客観的な視線を得られるからである。とはいえ、深刻な問題になればなるほど墓場まで持っていく類の秘密になることが多い。このとき一遍が念仏を、捨ててこそと言ったのは意味深い。我執を捨てるとは、すなわち主観を捨てることである。主観を捨てたら天眼が得られる。これは現代で言うところの客観的な視点である。念仏をしたら天眼が得られ、おのれの苦悩を多少なりとも冷静に分析できるようになる。浄土門の他力信仰とは、たとえるならば川の流れである。聖道門は自力修行ゆえに河川で迷い(溺れ)かえって苦しみが増すこともないとは言えまい。
話を元に戻そう。念仏をしたら無比楽を得られ嫉妬しなくなるという話だった。嫉妬をしない生き方とはどういうものか、もう一度、部分的に引用しよう。この生き方がいいと思うのである。
「生々世々流転生死の間に、皆受(うけ)て、すぎ来(きた)れり」
生々世々(しょうじょうせぜ)とは、何度も何度も生まれそのたびに死ぬことである。永遠と言っていい長い時間をかけて、生死輪廻を繰り返すことだ。なにを「受けて、過ぎ来たれり」というのだろうか。業である。苦楽とも言えよう。生存はこの一回きりではなく無限回の生死を我われは経験しているという考え方だ。過去世において我われは三界・六道でいろんなさまざまな苦楽を受けて、そこでまた未来世の苦楽の原因たる業(善悪)を作ってきたと考えてみたらどうか。
業(善悪)→死→誕生→苦楽→業(善悪)→死→誕生→苦楽→業(善悪)→死
だれもが思っていることだろうが、世の中は矛盾だらけの不公平だらけである。いわゆる運の悪い人生に当たってしまった人は苦しみが多いだろう。その場合、人生を一回きりと思わないのは、かなりの救いになるのではないか。想像もできない苦痛は子どもを亡くすことである。子どもに自殺などされたらよほどタフでない限りは一生後悔ばかりだろう。悪いことをしているやつは大勢いるのに、そいつらは幸福そうでどうして自分ばかりこうなのかと怨恨は深まるばかりだろう。だが、こういう苦しみに遭遇するのは、過去世と未来世を視野に入れたらなにか深い意味があるのかもしれないと思えたら、いや信じることができたら、そこに救済のようなものがあるのではないだろうか。
「生々世々流転生死の間に、皆受(うけ)て、すぎ来(きた)れり」
これは宿命の思想である。命(業=善悪)は生々世々に流転する。それは川を流れ海に入り、しかしそこで終わりではなく、蒸発して雲になり山のうえで雨として落ち、また海をめがけて流れていく。人生が宿命で決まっているならば、今生の苦楽はどうしようもないのか。そうだとしたら、絶望しかないではないか。いな、それは違うのだと思う。無限回の過去世があったのなら、もしかしたら今回の人生における楽の因になる善業をどこかで積んでいるかもしれない。いま業のせいで苦しかったとしても、いつ業のために楽になるかわからないのである。がらりと運勢の変わることがたまさか見られるのはこのためではないか。もちろん、このまま苦しいことばかりかもしれないし、それは人間にはわからない。いま恵まれた人生を送っているように見えるものは、過去世の業のためと考えたらどうか。いつも笑ってばかりいる人たちだって、きっと過去世のどこかで地獄の苦しみを味わっているのだ。そのうえ、いきなり運が落ちるということもなくはない。いつ過去世における悪業の因が機熟し縁と和合して地獄に堕ちるかわからないのである。
こう考えたら(信じたら)、「三界・六道の中にはうらやましき事もなく」の境地に少しは近づけないか。言うまでもないが、嫉妬を完全になくすのは、煩悩を消し去るのとおなじで不可能だ。苦楽もそれによる嫉妬や悪念も、静かに天眼をもって観じ、「みな受けて、過ぎ来たれり」というわけにはいかないか。苦楽を川の上流から運ばれてくるようなものとして自然に受けとめ、ずっと所有するのではなく、時期が来たらおのずから流れにまかせて身心を通過させる。こんな苦楽との向き合い方を一遍は理想と考え、この安心の境地を無比楽と表現したのだろう。一遍は煩悩も嫉妬も否定しない。ただ「みな受けてやり過ごす」しかないと言う。そのための六字名号、南無阿弥陀仏だと言うのである。
名号=「業によって生じた苦楽を生々世々流転生死の間に、みな受けてやり過ごす」→「だれかの楽(出世、幸福、勝利)はうらやましき事もなく嫉妬もしない」
さて、もうここまでお読みくださった方はほぼいないと思うので、伏せ字にしないで実名を挙げて特定の新興宗教団体について書こうと思う。おそらくいま日本でいちばん権力を持っている団体、創価学会についてである。いいと思うのである。既存の葬式仏教よりもよほど生き生きとしている。まずなにがいいのかと言ったら、宿命の存在をしっかりと認めているところだ。葬式仏教サイドが世の風潮に迎合して、ないことにした人間の宿命にきちんと向き合っている。人間は極めて不公平で、それは宿命(過去の業)のためであるという根本認識がある。宿命や宿業を忘れてしまったら、それはもう仏教ではないのではないだろうか。いまやほぼ世襲の利権と化した伝統仏教などより創価学会のほうがよほど仏教らしい。
一遍は業ゆえの宿命や苦悩を受け流せ、と教えている。一方で日蓮を大聖人とあがめる創価学会では、宿命は転換できると教えているようだ。しんどい宿命は過去世で法華経を誹謗した罪悪のためだから、今生で法華経を護持する行為、勤行や広宣流布(布教)をしたら現世利益が得られる。この教えが正しいか間違っているかを論じるつもりはない。そもそも一遍は南無妙法蓮華経の日蓮に好感を持っていたという説は数あるし、そのうえ一遍の南無阿弥陀仏は「領解すべからざる法」である。真理は「人間にはわからない」というのが一遍の思想である。真理がわからないならば、創価学会の教えが正しいかどうかもわからない。もしかしたら正しいかもしれないし、そうでないかもしれない。
ひとつたしかなことは、創価学会は自力の聖道門である。一遍は他力の浄土門を選択したが、日蓮の創価学会は自力の聖道門である。一遍の言葉で説明するならば、学会員さんは無比楽ではなく、自力でこの世の楽(勝利)を求めようとする。創価学会の教える正しい仏法を信心すれば願いがかなうと思っているわけだ。多く信心すればするだけ楽(現世利益)が得られ、反対に苦(不幸)が舞い込むのは信心が足りないせいだと考える。大切なので繰り返すが、この考えの正否を問題にしているわけではない。小声で言いたいのは一遍の世界観と比べると、創価学会の教えはかなり残酷で無慈悲な人生観を内包しているのではないか。いま恵まれているものは信心したからで、ダメなやつは信心が足らないせいゆえ自業自得。これは創価学会に入ってもなお不幸なものをさらに苦しめるのではないだろうか。
大概の不幸は人生の無常ゆえに時間経過とともに少しずつ好転していくものである。正しいかどうかはわからないが、おそらく苦を楽に変えるのは時間だろう。この世は無常だから、どんな苦しみも長い時間の経過を経て変化していく。これを創価学会は自力の信心のおかげと教えている、という可能性もあるわけだ。創価学会が拡大していた時期は、日本経済も右肩上がりであった。自然によくなっていったものを学会員さんは自分たちの信心が正しかったからだ、と錯覚していたという解釈もできないわけではないだろう。真相はわからないが、もし苦楽の関係が自然の変化によるものならば、いまは不況で経済的に苦しいものが多いと思われるが、しかし、時代風潮がよくないがためにいくら信心をしてもむかしよりも利益が上がらないのではないか。既得権益を持つ本部の創価学会幹部は、自力の信心が足らないからだと説教するだろう。しかし、いまの世相だとどれだけ努力(信心)しても成果が上がらない可能性もある。そうなると他力の信心ならば受け流せる苦しみを、自力の信心は増やしてしまうのではないか。つまり、自力の信心は苦しみが増す教えなのではないか。自力は煩悩(欲望、願い、夢)に執着するがゆえにさらに苦しみが増すのではないか。残酷なことに一生うだつが上がらぬ下積みの人生を送る学会員さんもおられるでしょう。彼(女)は死の直前、これは信心が足らないがための自業自得なのだと思うとしたら、あまりにも救いというものがないのではないだろうか。もし創価学会が言うように不幸なのは信心が足らないせいだとしたら、すべてが自己責任となり、不遇なまま人生を終える学会員さんは自己卑下するしかなくなる。この自己卑下は地獄の苦しみではないかと思う。彼(女)は創価学会に入ったがために、この地獄を味わわなければならないのである。
もちろん、創価学会に入れば仲間ができ孤独感から解放されるという利点もあろう。「信心(努力)すればかならず願いがかなう」という教えは、ときに絶望者の希望ともなり生きる勇気につながることもあるだろう。世俗社会における出世は実際のところコネのあるなしが重要になってくるので、巨大な学会の人脈をフル活用してかなりの成功(勝利)をおさめるものもいるはずである。とはいえ、自力で成功(勝利)したと思うと、ひとつ問題が生じるのである。他力の一遍は晩年に公家の帰依も得たわけである。かなりの人気者にもなっている。一遍の思想によるならば、なにが成功でなにが不幸か(つまり善悪)はわからないけれど、客観的に現代的な解釈をすれば宗教者としてはいわゆる成功をしたほうだと思う。とはいえ、一遍はこの成功(人気)は自力の結果ではなく自然であると思ったことだろう。冬が春になりさらに最盛期ともいうべき夏が来たようなものである。他力の一遍は、自力信仰の弊害を語録に遺している。自力のここが問題ではないかと指摘しているのだ。
「又云、自力の時、我執(がしゅう)驕慢(きょうまん)の心はおこるなり。其(その)ゆゑは、わがよく意得(こころえ)、わがよく行じて生死を離るべしと思ふ故に、智恵もすゝみ行もすゝめば、我ほどの智者、われ程の行者はあるまじとおもひて、身をあげ人をくだすなり。他力称名に帰しぬれば、驕慢なし、卑下なし」
自力信心で成功や勝利をしてしまうと、どうしても傲慢な人間になってしまうのである。自分は努力して自力で成功したのだからと失敗者を見下すようになってしまう。あいつらは努力が足らないからダメなんだと思い上がった説教もしたくなるだろう。自我肥大が無限に進行してしまい、そういう人間は嫌われるから足を引っぱられやすくなる。たとえ嫌われなかったとしても偉そうで傲慢な人間は見苦しいではないか。一方で他力信心ならばたとえ成功しても傲慢になることはない。かりに成功できなくても過剰な自己卑下をしないで済むので気が楽である。一遍思想によるならば、そもそも成功失敗(苦楽、善悪)の境はないのである。なにが成功でなにが失敗かわからないというのが一遍の南無阿弥陀仏の意味だ。一遍の南無阿弥陀仏は、なにが正しいのかさえもわからないとする。創価学会は自分たちの南無妙法蓮華経を絶対正義と主張する。もちろん、日蓮大聖人の正しい教えに依拠する創価学会の自力信心にもいいところはたくさんあるあるのだろう。しかし、よくないところもあるのではないか。だとしたら日蓮大聖人ほどではないかもしれないが、一遍の教えにもそれなりに長所があることを学会員さんは同意してくれませんか。それともやはり日蓮大聖人の教え以外は堕地獄の所業になってしまうのか。
マジメな人からは努力(自力)を捨てるなんてとんでもないと怒られてしまうかもしれない。とはいえ、努力できるのも他力と言えないこともないのではないか。努力できるのは努力できる素質や性分をたまたま生まれ持ったおかげなのだから。いま努力家のあなたはかならずしも願って自力でいまのあなたとして誕生したわけではない。ならば、他力によってあらしめられているのではないか。誕生のみならず死もあまり自力に拘泥(こうでい)するとおかしなことになる。自力にすがりついていると死にどきをあやまってしまう。自力で死を避けようとするからよけいな延命治療で逆に苦しみが増すことになるのである。なにより自力信仰のまずいところは、安心から程遠くなってしまうところだ。自力を極限まで推し進めるとブラック企業として名高いワタミの社訓ではないが、「365日24時間死ぬまで働け」「出来ないと言わない」の考え方になってしまう。かりに成果が出てもさらなる高みを求められるから安心するいとまがない。いつ成績が落ちるかわからないため日々不安に追いまくられることになる。
一遍は自力を捨てて他力にまかせよという教えを説く。一遍の他力信心をわかりやすく説明した手紙が遺っているので紹介したい。手紙の相手は「西園寺殿の御妹」、亀山上皇の后(きさき)である。人を肩書で判断するなという一遍の教えには逆らうことになるが、「西園寺殿の御妹」の身分は中宮従三位。とても偉い女性ということだ。どうやら中宮従三位が一遍の教えに帰依したようである。これは驚くべきことなのだ。というのも、一遍は比叡山出身ではない。いまで言うところの低学歴である。低学歴でも偉い師匠の弟子ならば威光を借りられる。しかし、一遍の師匠は九州在住のマイナーな坊さんでしかない。学歴も人脈もない一遍は、だが異常なほどのカリスマ性(スター性)を持っていたのだろう。人を惹きつける神がかったオーラがあったとしか思えない。一遍は「西園寺殿の御妹」に「一阿弥陀仏」という法名を献上する。「どうして一阿弥陀仏なのか」という質問が来たという。その返事が以下に引用する手紙である。
「此事[法名献上の件]は申入候ひしに違(たがわ)ず、此(この)体に生死無常の理(ことわり)を思ひ知(しり)て、南無阿弥陀仏と一度(ひとたび)正直に帰命しつる一念の後は、我(われ)われにあらず[自分が自分ではなくなり]、心も南無阿弥陀仏の御心、身の振る舞も南無阿弥陀仏の御振舞、言(ことば)も阿弥陀仏の御言葉なれば、生(いき)たる命も阿弥陀仏の御命、死ぬるいのちも阿弥陀仏の御命なり。然(しかれ)ば昔の十悪・五逆ながら請取て[過去の悪業を今生で受け入れ]、今の一念・十念[念仏]に滅し給ふありがたき慈悲の本願に帰しぬれば、弥(いよいよ)三界・六道の果報もよしなく覚え[苦楽をさらりと受け流し]、善悪二つながら業因(ごういん)物うくして[この世でさらなる業を作らず]、只仏智よりはからひあてられたる南無阿弥陀仏に帰命するなり。仏こそ命と身とのぬしなれや わがわれならぬこゝろふるまひ」
他力信心とはなにか? 結局、この言葉に尽きると思うのである。「生きたるいのちも南無阿弥陀仏の御命、死ぬるいのちも南無阿弥陀仏の御命」である。原文は「阿弥陀仏の御命」だが、文脈から判断すると「南無」を省略したのだろう。実際、途中までは南無阿弥陀仏と謳いあげられている。南無阿弥陀仏の意味は、「領解すべからざる法」である。人間にはわからない真理が南無阿弥陀仏だ。「生きたるいのちも南無阿弥陀仏(わからない)、死ぬるいのちも南無阿弥陀仏(わからない)」――。一遍は名号(南無阿弥陀仏)を「不可思議功徳」の「真実」だと説く。不可思議とは思議できない、すなわち「わからない」ということである。南無阿弥陀仏を英訳したら「I can't know=God knows」になるのではないか。
「凡情[凡夫のはからい]を以て識量[思考]する法は、惣(そう)じて皆まことなし。所以(このゆえ)に能縁[凡夫]の心はさながら、虚妄不真実のゆゑなり。かるがゆへに名号ばかりを真実といふ。ゆゑに名号を「不可思議功徳」とも説(とき)、「真実」とも説(とく)なり」
生きたるいのちも南無阿弥陀仏、死ぬるいのちも南無阿弥陀仏であるならば――。どうして人は生まれながらの差がついているのかも南無阿弥陀仏。生まれ落ちた国籍、時代の違い、本人の性別、貴賤、貧富、美醜、賢愚、健康、寿命の相違も南無阿弥陀仏。なにゆえある赤子は健康に生まれ、別の赤ん坊は障害や難病を持って生まれるのかも南無阿弥陀仏。育児がうまくいくかどうかも南無阿弥陀仏。苦労して成人まで育てあげた子どもがブラック企業で過労自殺してしまうのも南無阿弥陀仏。なにをやっても失敗ばかりの人生も南無阿弥陀仏。交通事故も南無阿弥陀仏。高学歴で大企業に入り家族に恵まれ、なおかつ健康な人の理由も南無阿弥陀仏。宝くじも南無阿弥陀仏。競馬競輪も南無阿弥陀仏。貧乏くじを引くのも南無阿弥陀仏。どうして悪人が出世して、善人が自殺に追い込まれるのかも南無阿弥陀仏。日ごろ健康に留意して運動も欠かさなかった人が若くして死んでしまうのも南無阿弥陀仏。どうしたら病気にかからず健康でいられるかも南無阿弥陀仏。自分が結婚するかどうかも南無阿弥陀仏。結婚したらいいかどうかも南無阿弥陀仏。友人ができるかどうかも南無阿弥陀仏。友人がいたらいいのかどうかも南無阿弥陀仏。人生で成功するか失敗するかも南無阿弥陀仏。成功と失敗のどちらがいいのかも南無阿弥陀仏。勝利も大勝利も南無阿弥陀仏。自殺するかどうかも南無阿弥陀仏。自殺はいいのか悪いのかも南無阿弥陀仏。人を殺害してしまうのも南無阿弥陀仏。殺人はいいのか悪いのかも南無阿弥陀仏。人に殺されるのも南無阿弥陀仏。いじめられるのも南無阿弥陀仏。将来の不安も南無阿弥陀仏。過去の悔恨も南無阿弥陀仏。いまなにをすべきかも南無阿弥陀仏。いまがいまもいまこそ南無阿弥陀仏。いつ死ぬかも南無阿弥陀仏。死んだらどうなるかも南無阿弥陀仏。四季おりおり春夏秋冬も南無阿弥陀仏。川が流れるのも南無阿弥陀仏。花が咲き枯れるのも南無阿弥陀仏。風も雲も晴れも雨も雪もみぞれも南無阿弥陀仏。火も水も南無阿弥陀仏。夕陽こそ西日こそ南無阿弥陀仏。浄土まします西方からの夕陽に照らされたものはみな分け隔てなく美しくも南無阿弥陀仏。ならばきっと人間の「さみしいかなしい」も美しくも南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。
室町時代の臨済宗の坊さん、一休禅師いわく、「自心すなわち仏たることをさとれば、阿弥陀をねがふに及ばす」――。禅(自力修行)の一休さんは阿弥陀仏信仰がお気に召さなかったようだ。しかし、以下の道歌を見ると一休は一遍と極めて似た境地にいたのではないか。一遍から言わせたら「自力も他力も南無阿弥陀仏」になるのだろう。
「我ありと思う心を捨てよただ 身のうき雲の風にまかせて」(一休)
「とにかくに心はまよふものなれば 南無阿弥陀仏ぞ西へゆくみち」(一遍) 
 
3 「踊る」

 

ここまでの流れを整理する。一遍はまず一切を捨てて身軽になれと言う。善悪さえも捨ててしまえば、大きな自然に身心をまかせることができるようになる。「まかせる」ために「捨てる」のではない。「捨てる」ことがそのまま「まかせる」ことになるのである。大きなものにまかせきったときに聞こえてくる自然のリズムがあるのだろう。このときくだらぬ自我などは消滅してしまいおのれも自然のリズムと一体化する。ふと気づくと大生命の歓喜にたまらなくなり飛び跳ねている。リズムに合わせて一心不乱に踊りはじめている。このリズムが南無阿弥陀仏なのだと思う。
「よろづ生(いき)としいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし。人ばかり超世の願[極楽往生救済]に預(あずかる)にあらず」
夏のセミは念仏を奏でている。雷鳴も集中豪雨も念仏の歌のようなもの。自我(善悪)を捨てて自然(他力)に身心をまかせきったものの耳にしか聞こえぬ歌唱だ。よろず生きとし生けるものの立てる音がみな念仏で、のみならずおのれの底のほうからおなじ歌が込みあげてきたら、どうしてみなで踊らずにいられようか。どこに自他の境などありえよう。山河草木よ踊れ。風よ浪よ踊れ。畜生よ修羅よ餓鬼よ踊れ。君も踊れ、我も踊る。一遍いわく、一切衆生よ南無阿弥陀仏を踊躍(ゆやく)せよ。
「唯(ただ)南無阿弥陀仏の六字の外(ほか)に、わが身心なく、一切衆生にあまねくして、名号これ一遍なり」
一遍時宗(じしゅう)集団はなぜ踊り念仏をはじめたのか。かなしかったからである。生きていることのかなしみをよく知っていたからである。
「過去遠々(おんおん)のむかしより 今日今時(こんにちこんじ)にいたるまで おもひと思ふ事はみな 叶(かな)はねばこそかなしけれ」
「六道輪廻の間には ともなふ人もなかりけり 独(ひとり)む[生]まれて独(ひとり)死す 生死の道こそかなしけれ」
しかし、生きているのはかなしいだけではなかった。一遍が死の直前に弟子に教えを乞われたときの記録が遺っている。みなみなもうすぐ一遍の死ぬのがわかっているからかなしいのである。
「又御往生[死]のまへ、人々最後の法門承(うけたまわ)らんと申しければ、上人云(いわく)、「三業の外の念仏に同ず[念仏するだけだ]といへども、たゞ詞(ことば)ばかりにて義理[真意]をも意得(こころえ)ず、一念発心もせぬ人[弟子]どもの為」とて、「他阿弥陀仏[高弟の名前]、南無阿弥陀仏はうれしきか」とのたまひければ、他阿弥陀仏落涙し給ふと云云(うんぬん)」
一遍が長年遊行の旅に付き添ってくれた年齢の近い弟子に問うのである。「南無阿弥陀仏はうれしきか?」一番弟子は答えるよりもなによりも涙があふれ出てきてとまらなかったという。人はかなしいときも泣くけれど、うれしいときにも泣くのである。この涙(なみだ)こそ南無阿弥陀仏(なむあみだぶ)なのだと思う。こじつけ以外のなにものでもないのはわかっているが、ナミダとナムアミダブの音が似通っているのは偶然ではないような気がしてならない。ビクトリーしてハッピーだと愉快に笑うのはたぶん南無阿弥陀仏ではない。かなしいときもうれしいときも落涙するのが南無阿弥陀仏でははないかと思う。雨の日も晴れの日も、かなしいときもうれしいときも、阿弥陀仏がそばで見守ってくださるというのが念仏の功徳のひとつである。目からあふれるのは、阿弥陀仏の慈悲に対する報恩感謝の涙になろう。一遍の生涯を描いた「一遍聖絵」でも落涙する描写が少なくないことを注記しておく。
さてさて、いまから一遍の「踊る」の核心に入っていくのだが、そのまえにこれまで記してきた念仏の功徳を整理してみたい。一遍の念仏は創価学会の題目(南無妙法蓮華経)とは異なり、「願いがかならずかなう」(ほんまでっか?)というような劇的な功徳はない。念仏の立場では、苦楽は過去世の業によって引き起こされると考えるため、この世で願いがかなうかどうかはわからないとしか言えない。念仏をして願いがかなうこともあるだろうし、かなわないこともまたあるだろう。さらに願いの実現がいいことなのか悪いことなのかもわからないと念仏者は考える。とにかく、名号は唱えれば「願いがかならずかなう」というわけではない。ならば、念仏に意味はないのかというと、そうとも限らない。一遍念仏の現代的効能をまとめると以下のようになる。
1.絶対の念仏で俗世間の相対的な価値観を「捨てる」ので、自由を味わうことができる。
2.念仏によって情報や肩書を「捨てる」ため、自分の輪郭がはっきりとわかる。
3.大きなものに心身(人生)を「まかせる」結果、深い安心感を得られる。
4.絶対的真理を名号に「まかせる」ため、どのみちわからないことをくよくよ悩まない。
5.人の幸福を業ゆえと考え嫉妬せず、自分の不幸を業ゆえと考えあきらめることができる。
6.絶対的真理の名号から自身を見下ろすことでおのれの不幸を客観視できるようになる。
7.さみしいときもかなしいときも阿弥陀仏が同行してくれるため、孤独に悩まされない。
8.死後の極楽浄土への往生が決定しているので、この世の苦楽をさらりと受け流せる。
いよいよ一遍の踊り念仏の核心に迫ろう。一遍の念仏は芸術であり感動である。一遍が念仏を唱えるとき、それは芸術体験であり感動体験でもあった。いま流行の言葉で説明するなら、一遍の念仏はフロー状態とほぼおなじと考えてよいのではないか。わかりやすい言葉を使えば、忘我、無我夢中、陶酔、恍惚(こうこつ)、夢心地である。自分を超えて全体とひとつになってしまうのだからトランス状態と言ってもいいだろう。一遍は念仏によって無意識の奥深くに分け入り変性意識状態になることができた。現代的かつ俗な言い方をすれば、一遍にとって名号は麻薬やドラッグとして機能したのである。一遍が南無阿弥陀仏から味わった法悦にいちばん近いのは、芸術家が作品を創作しているまさにその最中の意識状態ではないだろうか。時間意識も自我意識も消え失せた、まるで世界とひとつになっているような感覚である。芸術家が創作しているときほど満たされた状態はそうないのではないか。ただこのためだけに生きているという、自我や時間さえも滅した充足感があろう。それは名誉や地位、金、女など、どうでもよくなるほどの至福の体験に違いない。一遍は南無阿弥陀仏によって、その世界に入っていくことができたのだと思う。
一遍の踊躍歓喜する深層意識はそばにいる弟子たちに伝播する。一遍につきしたがうものたちが突如として踊り念仏をはじめたのはこのためではないか。だとしたら、原初の踊り念仏は一遍の法悦を中心にすえた集団芸術だったことになる。芸術は創作する当人がいちばん満足しているのである。鑑賞者は、芸術家が自身を燃焼させた作品から燃えかすをおこぼれとしてもらう。力強い芸術作品は、たとえ燃えかすでも鑑賞者を熱くさせる。鑑賞者が燃えかすから得る感動は、芸術家自身が味わった熱狂と質的には同一である。つまり、我われは芸術に触れ、つかの間の忘我の味わうのだ。芸術作品に無我夢中になり陶酔の極地にいたることもあるだろう。一遍遊行集団の踊り念仏に人々が熱狂したのは、歌曲舞踊が忘我を誘う芸術だったからではないか。集団芸術の中心には一遍その人がいた。さらに人間一遍の中心を探れば南無阿弥陀仏に到達する。ギリシア悲劇を見ればわかるように、おそらく芸術と宗教は同源である。一遍の踊り念仏も宗教であると同時に芸術でもあったのだろう。一遍の生き方が芸術的だったことは、その生涯を描いたとされる国宝の絵巻物「一遍聖絵」が証明している。
一遍はどこから芸術の念仏、感動の念仏、忘我の念仏をあみだしたのか。浄土三部経のひとつ阿弥陀経からではないかと思う。一遍が死の直前に読誦しているのは阿弥陀経である。確認として書くが、浄土三部経とは大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経だ。念仏の正しさを求めた法然は観無量寿経を好んだという。本願のありがたさに打ち震えた親鸞は大無量寿経を好んだという。ならば、一遍は阿弥陀経のどこに惚れ込んだのか。美だ。一遍は阿弥陀経に描かれた浄土の美しさに圧倒されたのである。浄土の美と一体となりたい。いかにしたら美に溶け込めるのか。では、具体的には阿弥陀経のどの箇所に一遍は揺さぶられたのか。現代語訳で紹介する。キーワードは一心不乱である。仏典で釈迦は語る。
「舎利弗(しゃりほつ)[仏弟子]よ、もし善良なるものが、阿弥陀仏の名号を聞き、その名号を心にとどめ、あるいは一日、あるいは二日、あるいは三日、あるいは四日、あるいは五日、あるいは六日、あるいは七日の間、一心に思いを乱さないなら、その人が命を終えようとするときに、阿弥陀仏が多くの聖者たちとともにその前に現われてくださるのである。そこでその人がいよいよ命を終えるとき、心が乱れ惑うことなく、ただちに阿弥陀仏の極楽世界に生れることができる」
「一心に思いを乱さない」は一心不乱の訳であろう。一心不乱であれば、死後に極楽往生できると阿弥陀経で釈迦が弟子に言っているのである。この一節において死はまったく否定されていない。死は恵みと考えられている。しかし、死とはいったいなにかと一遍は思考を進める。人は自身の死を知りようがない。他人の死はわかるが、自分の死とはいかなるものなのか。一心不乱になればいいことはわかった。だが、我の死のなんたるかは不明である。極楽往生するためには一心不乱に我の死を待たねばならない。このとき我の死とはなにか。我の死がわかれば、あとは一心不乱に名号をたのめばいい。我の死がわかれば、いまこの瞬間に極楽往生できるのではないか。我とはなにか。仏教において、我とは五蘊(ごうん)である。五蘊とは色受想行識のこと。色心だ。つまり、肉体と精神である。身体と心である。我の死とはなにか、さらに一遍の言葉にまかせよう。
「又云、「生(いき)ながら死して、静かに来迎を待つべし」と云々。万事にいろはず[無関心]、一切を捨離して、孤独独一なるを、死するとはいふなり。生(しょう)ぜしもひとりなり、死するも独(ひとり)なり。されば人と共に住するも独(ひとり)なり、そひはつべき人なき故なり又わがなくして念仏申(もうす)が死するにてあるなり」
「生きながら死して、静かに来迎を待つべし」――。とても深そうな言葉なのだけれども、ではどういう意味かといくら考えてもわからなかった。一遍の解説書やモデル小説を読んでも、どういうことなのかさっぱり理解できないのだから。この記事を書きはじめた段階でもわからなかったことが、いまようやく腑に落ちたのである。「生きながら死ぬ」という一遍の矛盾した言葉の意味はこういうことではないか。「生きながら[心を]死して、静かに来迎[身体の死]を待つべし」――。心をなくせ。無我無心になれ。無我夢中になれ。忘我にいたれ。そこが美しき浄土だ。「我をなくして念仏申すが[心の]死するにてあるなり」――。いかなるときも極楽浄土の美に陶酔するためにはどうしたらいいのか。
「南無阿弥陀仏ととなへて、わが心のなくなるを、臨終正念といふ。此時、仏の来迎に預(あずかり)て極楽に往生するを、念仏往生といふなり」
少なくとも念仏を唱えているあいだはなにも考えられないから心がなくなる。この状態が極楽であると一遍は言っているわけである。
「又云、他力称名の行者は、此身はしばらく穢土(えど)に有(あり)といへども、心はすでに往生を遂(とげ)て浄土にあり。此旨(このむね)を面々に深く信ぜらるべしと云云」
心の死、つまり無心(忘我)が極楽(浄土)ならば一瞬、一瞬に死ねばいい。
「南無阿弥陀仏には、臨終[死]もなく、平生[日常]もなし。三世[過去世・現世・未来世]常恒(じょうごう)[不変]の法なり。[死は]出る息いる息をまたざる故に、当体の一念[いまこの一瞬]を臨終とさだむるなり。しかれば念々臨終[この一瞬が死]なり。念々往生[この一瞬が極楽]なり」
わかりやすく言葉を整理してみよう。まずは一心不乱に念仏することである。
一心不乱→無我無心→無我夢中→忘我→陶酔→恍惚→夢心地→エクスタシー→極楽
一心不乱の念仏からどこに行き着くかと言ったらば、いまでいうエクスタシーである。ときにカタカナにすると意味がわかりやすくなるが、一遍の言う極楽とはエクスタシーのことではないか。念仏でエクスタシーにいたれ。いまにも踊りだしたくなるような、宇宙全体と一体化したような興奮を味わえ。踊るのではなく踊ってしまう。わけのわからぬ力に手足をあやつられ踊らされてしまう。おそらく、それが一遍の踊り念仏だ。念仏で恍惚とする。エクスタシーを味わう。一遍の念仏は自分を超えたものと対面する感動体験、芸術体験ではなかったか。作家は筆が乗ってくるとなにかが憑依(ひょうい)すると聞くが、それがエクスタシーだ。彫刻家は彫るのではなく、元からあるものを発見するそうだが、その制作過程が恍惚だ。作曲家が宇宙の音楽を聴いてそれを譜面に書き写している最中は至福のひとときであろう。一心不乱に創作するとは、一心不乱に生きているということだ。一遍の目指したのは、一心不乱に生きることである。一遍念仏の一心不乱は、地位や名声、報酬とはまったく関係ない。一心不乱の結果としてもたらされてもいいが、たとえ無縁でも構わない。たとえばゴッホや宮沢賢治のように無我夢中に燃焼する生き方が一遍の一心不乱である。もし現代の精神科医が一遍を診断したら、かなりの確率で男は狂人になるはずである。話を戻すと、一遍は阿弥陀経から一心不乱を発見した。
「又云、阿弥陀経の、「一心不乱≪心を一にして乱れず≫」といふは、名号の一心なり。もし名号の外にこゝろを求めなば、二心不乱といふべし。一心とはいふべからず」
「又云、我体を捨て南無阿弥陀仏と独一なるを一心不乱といふなり。されば念々の称名は念仏が念仏を申(もうす)なり」
「我執をすて南無阿弥陀仏と独一なるを一心不乱といふなり。されば念々の称名は、念仏が念仏を申(もうす)なり」
「南無阿弥陀仏と独一なる」とはどういうことか。南無阿弥陀仏とは、「他力不思議の名号」である。この「他力不思議」を自分の言葉でわかりやすくほぐすならば、「なーんかよくわからんけど自分の力以外の他の力があるんでないかい」――。さて、一遍は「他力不思議の名号」は「自受用(じじゅゆう)の智」であると言う。いくら調べてもこの「自受用」がなんなのかわからなかったが構わない。なぜなら一遍がさらに「自受用」を以下のように説明しているからである。
「……水が水をのみ、火が火を焼(やく)がごとく、松が松、竹は竹、其体(そのてい)おのれなりに生死なきをいふなり」
南無阿弥陀仏=他力不思議の名号は、水が水に流れ込み、火が火に燃え移るように、松は「おのれなりに」松で竹は「おのれなりに」竹であるという真実である。
文脈を整理しよう。
一心不乱になるとは、南無阿弥陀仏と独一になること。
一心不乱になるとは、水が「おのれなりに」水に流れ込むように生きること。
一心不乱になるとは、火が「おのれなりに」火に燃え移るように生きること。
一心不乱に生きるとは、松が「おのれなりに」松であること。
一心不乱に生きるとは、竹が「おのれなりに」竹であること。
禅問答みたいになってきたが、実はものすごく簡単なことなのかもしれない。火も水も松も竹も我(自意識)なぞなく「おのれなりに」存在している。「おのれなり」とは、火をつけたら自然にものは焼け、水につけたら自然にものはぬれることである。一遍は火と水のたとえを好む。火のように生きろ。水のように生きろ。火、水、松、竹のように我(自意識)を捨てて生きろ。阿弥陀仏(無意識)にまかせて生きろ。おそらく、それが一心不乱に生きるということなのだろう。
「たとへば火を物につけんに、心にはなやきそ[な+そ=禁止:焼くな]とおもひ、口になやきそ[焼くな]といふとも、此詞(このことば)にもよらず、念力[意志]にもよらず、たゞ火のおのれなりの徳として物をやくなり。水の物をぬらすもおなじ事なり。さのごとく名号も、おのれなりと往生の功徳をもちたれば、義[法則]にもよらず、心にもよらず、詞(ことば)にもよらず、となふれば往生するを、他力不思議の行(ぎょう)と信ずるなり」
心や言葉に惑わされずに火のように生きろと一遍は言っている。一遍はときに「燃えろ! 燃えろ!」と叫ぶ暑苦しいやつだったのかもしれない。「もっと熱く生きてみろ! 燃えろ、燃えろ!」芸術家のように一心不乱におのれを燃焼させて生きてみたらどうか。よろず生きとし生けるもので燃えないものはなかろう。たとえば、木が燃えるのは木のなかに「火の性」があるからだと一遍は言う。おなじように人間が燃焼できるのは我われに「火の性(仏性)」があるからとのこと。
「又(また)木に火の性ありといへども、其火(そのひ)其木(そのき)をやかず。(中略) 又別の火を以(もって)木をやけば、即(すなわち)やけぬ。今の火と木の中の火は別体[別々]の火にはあらず。然(しかれ)ば万法は必(かならず)因縁和合し成ずるなり。其身(そのみ)に仏性の火ありといへども、我と煩悩のたきゞを焼滅することなし。名号の智火(ちか)の力を以(もって)、焼滅すべきなり」
一遍は繰り返しおなじことを言っているのだろう。他力不思議の名号を唱えることで我(自意識、迷い、悩み)など捨ててしまえ。なぜ名号なのかいまだにわからない人もおられるかもしれない。逆に考えてみたらいいのだろう。我(自意識)を捨てようと思っても、どうしたら捨てられるかわからないではないか。思考の暴走をとめるのにいちばん手っ取り早いのが呪文なのである。極論を言えば名号ではなくアーメンやインシャラー、題目でもいいのだろう。般若心経でもいいのだろうが、呪文というにはいささか長すぎる。思考(苦悩)を停止するにはすべてを大きなものにゆだねるしかない。しかし、どうしたら我(自力)を放棄できるか明確な方法がないので困ってしまう。ヨガでもいいのだろうけれど、あれは金も時間もかかるし努力が面倒くさい。このためのかりそめの呪文が六字名号、南無阿弥陀仏なのだと解釈したらどうか。名号でなくてもいいのだが、そのなにかを自分で決めてしまうと自力になってしまうので、正しいのかどうかはわからないが、古くからの伝統と一遍が好きだという理由で、とりあえず南無阿弥陀仏という呪文にまかせてみようと思うのはそこまで誤りなのか。
南無阿弥陀仏の意味のひとつは、とにかく考えるな。思念をとどめよ。まかせよ。自力を捨てて他力に流されたらよろしい。他力とは自然の力のこと。山河草木、吹く風、立つ浪、よろず生きとし生けるものみな南無阿弥陀仏である。我体および我執を捨て南無阿弥陀仏と一体化するのが一心不乱だと一遍は言う。そのときもはや我なるものはなく念仏が念仏を申している状態になる。これが極楽、無比楽、いまでいうエクスタシーであろう。
「極楽は無我真実の土」
「極楽は空無我の土」
「すべて思量をとゞめつゝ 仰(あおい)で仏に身をまかせ 出入(いでいる)息をかぎりにて、南無阿弥陀仏と申べし」
念仏=一心不乱に燃える!
一遍の主張を少し現代的に言い換えるならば、要するに無我夢中になろうということだ。一遍を開祖とする時宗の念仏をテープで聞いたが、あれは合唱なのである。念仏にメロディーをつけて歌っている。たぶん鎌倉時代当時の踊り念仏は合唱に舞踊を付け加えたものだったのだろう。踊り念仏は集団芸術で、観客は芸術を鑑賞していたのだと思う。そんな大げさなものではなく、踊り念仏メンバーは非日常的な雰囲気を持つ変なやつらくらいが正しいのかもしれない。いまで言えば駅前で歌っている騒がしいバンドが近いと言ったらさすがに怒られるか。鎌倉時代はカラオケも映画もなかったのである。日常を突き抜けるようなものがまるでなかった。このため、一遍は南無阿弥陀仏を用いたに過ぎない。大勢が忘我や恍惚にいたる道筋が当時は南無阿弥陀仏しかなかったのではないかと思う。
比較してみて現代は小説、演劇、映画と多様な芸術が存在する。このへんは断言できないところがあるけれど、まあ夢中になれるのであれば、漫画やアニメ、ギャンブルでもいいのではないか。パチンコは論外だが、血統(宿命)や偶然性を重んじる競馬はどこか宗教的だ。わたしはいい小説や戯曲を読んだとき、そこに南無阿弥陀仏の存在を感じる。芸術的名作は、とても我われとおなじ人間が創作したとは思えない。芸術作品の感動は、神仏と向き合っているかのような忘我の陶酔にあるのではないか。たとえばユージン・オニールの劇作品からは強く南無阿弥陀仏を感じる。宮本輝は日蓮のほうの人だが、氏の初期小説からも南無阿弥陀仏が聞こえてくる。めちゃくちゃを言っているように思われるかもしれないが、讃美歌もモーツァルトも「マクベス」も「オイディプス王」も南無阿弥陀仏だと思う。この場合の南無阿弥陀仏とは、人間を超えた感動があるくらいの意味である。高尚な芸術の世界だけではなく、好きな歌謡曲からも南無阿弥陀仏を感受してしまう。ぱっと思いついたものを書くと、たとえば「四季の歌」は南無阿弥陀仏だ。中島みゆきは天理教だけれど、あの人の歌も南無阿弥陀仏としか思えない。おそらく近松門左衛門を源流とする大衆娯楽、テレビドラマの名作も南無阿弥陀仏だ。テレビ脚本家の山田太一は最晩年の小説「空也上人がいた」で、はからずも念仏との親近性を白状した、と見ることもできよう。
自分で創作するのがいちばん一心不乱(念仏)に近づけるのは間違いない。しかし、みながみな、神がかりになれるほどの才能があるとは限らない。だから、天才の創作したものを深く味わうのも一心不乱になるいい方法だと思う。話を鎌倉時代に戻すと踊り念仏(創作ダンス)はまず行なうものが忘我にいたるのだが、見物している観客も少なからず陶酔を味わったことだろう。だれもが一切を捨離して一遍のように生きられるわけではないから、これはこれで仕方がないのだろう。しかし、一遍の念仏のなんと華やかなことか。念仏や芸術作品で極楽(エクスタシー)にいたるとなにがいいのか。一瞬だけかもしれないが、世界の見方が変わるのである。いい芸術に触れたあと世界がまるで違ったように見えるという経験をしたことはないか。すぐに元に戻るのだろうけれども、世界がこんなに美しかったのかとはたと気づかされる。一遍遊行集団の踊り念仏には、そのような熱狂的な恍惚とした迫力があったのだろう。
さて、いまもむかしもひとりの人がどうがむしゃらにがんばっても、たぶん世界は変わらないのである。どんなに世界は間違っていると駅前で拡声器を用いて叫ぼうがなにも変わりはしない。たまたま運悪く難病にかかってしまったらその宿命を生き抜くしかない。病気が治るという新興宗教に山ほど金を積んでつかの間の現実逃避をするのも一手だが、健康だったころの世界をどれほど懐かしんでもたぶん元には戻せないだろう。子どもが病気で死んでしまったら、いくら泣きわめこうがもうどうにもならない。医者を訴えたところで苦しみが増すばかりではないか。これは絶対だが創価学会に入っていくら勤行しようが亡児は生き返らない。かなしいことに人間はどうしようもなく無力で世界に対して屈服するしかないような面がある。しかし、世界は変わらなかったとしても、自分のものの見方ならば変わるのではないか。宗教や芸術に意味があるとしたら、ものの見方を変えられるというところにあると思う。宗教と芸術を一体化したような踊り念仏をはじめた一遍は革命家でもあった。むろん、一遍は世界を変革したりしようとはしない。親鸞の腹黒い子孫のように一揆や戦争を指導したりはしないのである。一遍がなにを変革に導くのか。人間の精神である。ものの見方を変える術を一遍は教える。
浄土教一般に共通しているものの見方は死から生を見るという点である。浄土の教えの根本にあるのは、念仏したら死後極楽に往生できるという考え方だ。法然、親鸞、一遍の三者に共通する信仰である。では、いったい三者のうちでだれがいちばん浄土信仰が強かったのか。だれがもっとも死に近かったのか。わたしは一遍ではないかと思う。法然は理論家で、まあ大学の先生みたいなところがないとは言えない。やたら親鸞の人気は高いけれど、弟子の唯円によるとヘタレではないかという疑惑が生じる。親鸞の信心は肝がすわっていないところが見受けられるのである。証拠として「歎異抄」の一部を紹介する。ある日、弟子の唯円が親鸞に質問したという。「先生の教えでは念仏したら極楽浄土に往生できるとのことですが、白状するとボクは念仏してもぜんぜん踊るような喜びなんて起きないし、そもそも早く浄土へ往きたいかと聞かれたら、別に! とか思っちゃうんです」この弟子からの質問に親鸞はどう答えたか。
「念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、 またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは、煩悩の所為なり」(第九条)
親鸞の答えは――「いや〜ほっほっほ、安心しなされ、わしもそうじゃよ。わしも唯円くんとおなじで念仏しても踊りだしたくはならないし、ぶっちゃけまだ死ぬのはゴメンだからね。死にたくないのう、死にたくないのう。しかしだ、わしらが大喜びして念仏ダンスをはじめない、それゆえに極楽往生できるのじゃ。というのも考えてごらん、喜んで踊らないのはわしらに煩悩があるせいなのじゃ。ここで仏さまは我われをどう見ていたか考えてみると、煩悩があって当たり前とおっしゃっているではないか。だから、このままでいいんじゃよ」
人気者の親鸞は図太く開き直っているとも読めなくはない。比較して、この問題についてマイナーな一遍はどう言っているか。ちなみに存命時は一遍のほうがはるかに有名だった。
「又云、およそ一念無上の名号にあひぬる上は、明日までも生(いき)て要事なし。すなはちとく死なんこそ本意(ほい)なれ。然るに、娑婆(しゃば)世界に生て居て、念仏をばおほく申さん、死の事には死なじと思ふ故に、多念の念仏者も臨終し損ずるなり。仏法には、身命を捨(すて)ずして証利を得る事なし。仏法にあたひなし。身命を捨(すつ)るが是あたひなり。是を帰命と云(いう)なり」
一遍の答えは――「サイコーな念仏に出逢ったんじゃから、明日まで生きるこたーない。つまりだ、早く死ぬことが理想じゃな。わかっちょらん連中は少しでも長生きして、たくさん念仏をしたほうが得だと考え、死にたくない死にたくないとこの世にしがみつくから、うまく死ねない。仏法というのはだな、命を捨ててから救われるのじゃ。仏法になんら価値はない。死が救いなのである。これがまことの信心じゃよ」
こう並べてみると、現代日本人にはやはり親鸞のほうが受け入れやすいのだろうか。しかし、本当に死後の極楽浄土への往生を信じていたら、早死にはむしろ望むところになるのではないか。阿弥陀経にそう書いてあるんだから。阿弥陀経によれば、死後の世界はこの世など比較にならぬほど美しいわけだ。ならば、これを本心から信じていたら、念仏者は「とく死なんこそ本意なれ」にならなければおかしい。親鸞のように「死にたくない」と現世に執着しながら(そこまでは言いすぎかな)89歳まで生きるのはみっともない、と言えなくもないのである。もしかしたら我われは大きな勘違いをしているのかもしれない。死こそ究極のエクスタシー(絶頂)だとは考えられないか。そして、死後にはなだらかな平安が待っているとしたらどうだろう。どうして親鸞のような聖人までが、そこまで死を忌み嫌うのだろうか。もし死後の世界が一遍の信じるように本当に極楽ならば、いろいろこの世におけるものの見方が変わるのである。まず自死遺族が救われよう。死後の世界から見たら、自殺はむしろ正しい行為だったということになるのだから。早く極楽世界に行こうとした自殺者は我われよりも数段に賢かったことになるではないか。余談になるが、仏教は自殺を禁じているというのはデマに近い。なぜなら、釈迦は過去世で自殺をしたからブッダになれたのだと仏典に書いてある。ウソだと言うのなら「本生経」を読んでください。釈迦が過去世で王子のとき、飢えた虎のために捨身(自殺)したことが記載されている。捨身(自殺)はある面から見たらもっとも英雄的な行為なのだろう。
話を元に戻して、もし一遍がそう信じて行動したように、死後の世界がこの世の人には想像も及ばぬ極楽だとしたら、いろいろものの見方が変化するはずだ。死別に対する見方が大きく変わるはずである。子どもを難病や交通事故で亡くした親はそこまで悲嘆に暮れなくてもいいことになる。愛する子どもはひと足先に、この世よりもはるかにいい極楽に行ったということなのだから。殺人も本当に罪悪なのかわからなくなる。なぜなら、被害者は殺人者のおかげで極楽に行かせてもらえたということになるからだ。殺人者を刑法で裁くのが本当に正しいのか、という話になろう。そもそも一遍の仏法に正確にしたがうのならば、だれかが人を殺すのは過去世の業のためである。犯人に法的責任を問うのは間違えている、とも言いうる。被害者は過去世の業ゆえ、まさにその相手から殺されなければならなかったのである。とはいえ、刑務所での服役も過去世の業のための苦しみと考えたらなんとか整合性が保てよう。もし犯人が死刑になったらば、皮肉なものである。死刑囚は刑の執行によって極楽世界に旅立つわけだから、遺族感情もなにもあったものではない。大声では言えないが、無差別大量殺人をしたほうが早く極楽浄土に往生できることになる。こうなるとなにが善でなにが悪かわからなくなるが、まさしくそれこそ一遍の革命的な南無阿弥陀仏なのである。一遍の仏法を信じたら、本当の人間革命が起こって、みな踊りだしてしまうかもしれない。「ええじゃないか」である。なんでも「ええじゃないか」と踊る生き方もある。
「ともはねよかくてもをどれ心ごま 弥陀の御法(みのり)と聞(きく)ぞうれしき」
ここまでお読みくださった方がおひとりでもいるかどうか疑問だが、死を絶対救済と見る一遍の仏法をご理解いただけただろうか。感情的には受容できなくても、そういう見方もできなくはない、と思えたでしょうか。一遍が「捨てろ、捨てろ」と言うのは、このためなのである。立派な地位や身分があるとこの世に執着して救済である死から遠ざかってしまう。財産があるとそのぶんだけ死にたくないとあさましい振る舞いをすることになる。愛する妻や子どもがいると愛しているぶんだけ死別が身にこたえるだろう。一遍の仏法を抜きにしてもおなじことが言える。仕組みとしてはいま恵まれているものほど死に恐怖を感じるはずである。財産がなく妻子も友人もいない孤独な人にとっては死がまたとない救済になろう。あの世が極楽だと信じられたら、死がまったく怖くなくなる。これは捨て身で生きられるということだ。失うものがない人ほど強いものはいまい。変な話をすると、ヤクザがいちばん恐れるのは捨て身で向かってくる一般人と聞く。逆に言えば、こちらが捨て身で向かえばヤクザでさえビビるのである。
長生きをしたいと思うから保身が気になり、つまらない人生を送る羽目におちいる。どのみち最後は極楽だと考えたら、どれだけ失敗しても平気の平左で、人とは違った芸術的とも言いうる過激で劇的な生き方ができるのではないか。鬱蒼とした獣道(けものみち)にも捨て身でなら分け入っていけるのではないか。実際に一遍遊行集団は尼さんもいるのに無謀とも言ってよい旅をしている。あまりにも厳しい旅のため道中で亡くなるメンバーもたくさんいたとのことである。こう考えるとやはり信心があるがゆえに一遍集団は捨て身で生きられたのだろう。他力不思議の六字名号、南無阿弥陀仏を深く信じていなければ彼らとて人の子、そうそう捨て身ではいられなかったはずである。たしかに一遍や弟子たちは人よりもしんどい短命の人生を送ったのかもしれない。しかし同時に、一遍集団は世界の美しさをより深く味わっていたのではないか。一遍の念仏は「念々臨終」「念々往生」である。この一瞬、この一瞬に死んでそのたびに再生する念仏だ。余命半年を宣告された重病患者に、この世のなにげないものがどれほど美しく見えるか。死が近づかないと人には見えてこない世界の美しさがあるのだろう。今年が見納めだと思って目にする春の桜の輝きはいかほどか。余命半年でもそうなのである。「念々臨終」「念々往生」の念仏を唱える一遍の五感は、山河草木、吹く風、立つ浪、よろず生きとし生けるものを南無阿弥陀仏と認識したのではないか。一切を捨ててこそ、一切をまかせてこそ、その美しき南無阿弥陀仏と独一になれる。身命を捨つるが仏法の値なり。
「身命をすつるといふは、南無阿弥陀仏が自性自然に身命を捨(すて)、三界をはなるすがたなり」
死ぬことではじめて大自然、大生命の一部となることができる。死は敗北や終焉(しゅうえん)ではなく、むしろ自然の美であり恵みである。通常の人が忌み嫌い遠ざかろうとする死こそ完成であり絶対の救済である。この一遍の過激な信心は、法然よりもむしろ日蓮に近いのだろう。
「とにかくに、死は一定なり[死は決定している]。其時[絶命時]のなげきは、たうじ(当時)[元寇や飢饉]のごとし。をなじくは[どうせ死ぬのだから]、かりにも法華経のゆへに命をすてよ。つゆを大海にあつらへ、ちりを大地にうづむとをもへ」(日蓮)
長々と書いてきたことを簡潔にまとめよう。一遍の念仏は――。
(1)善悪ふくむ一切を捨てる!
(2)自然の流れにまかせる!
(3)一心不乱に燃える!
要約したらこの3つの教えになるだろう。
3つを統合させた一遍の生き方は「安心して捨て身で生きる」ということになるのではないか。この世は念仏しながら「安心して捨て身で生きる」のが理想である。なぜなら世界はどうしようもなく――。
「生老病死のくるしみは 人をきらはぬ事なれば 貴賤高下の隔(へだて)なく 貧富共にのがれなし」
人生はこんなもんだ。ならば――。
「はやく万事をなげ捨(すて)て[捨て身で] 一心に[一心不乱で]弥陀を憑(たのみ)つゝ[安心して] 南無阿弥陀仏と息たゆる[死なんこそ本意なれ] 是(これ)ぞおもひの限(かぎり)なる[かくありたい]」 
 
補 一遍の法華経対策

 

おまけとして他力浄土門の一遍が法華経についてどう考えていたか整理しておきたい。これは創価学会対策と言ってもよいのかもしれない。わたし個人としては、出逢いがあれば学会員さんともうまくやっていきたいのである。さすがに入信はしないけれども、学会は学会でいいのではないかと思う。学会員さんだけではなく、法華経を最上の教えと信じるものが多い。これにはわけがあって、まず聖徳太子が護持したのが法華経だったという歴史がある。それから平安〜鎌倉時代、仏教の東京大学とも言うべき天台宗総本山比叡山は、法華経を根本経典にしている。法華経というのは、まあ多数派から支持されたお経と言ってもよいだろう。中国高僧のチギが教相判釈で法華経がいちばんとしたのも権威の理由である。ところが、法然が法華経をほとんど無視して、本来なら格下の浄土三部経を根本経典として他力易行の念仏を広めてしまった。南無阿弥陀仏と口で唱えるだけで救われるという教えである。親鸞や一遍はこの法然の教えの系譜に位置する(それぞれ違うところもあるのだが)。これにカンカンに怒ったのが(創価学会の)日蓮大聖人様である。法華経を軽んずると国難が舞い込むとまで獅子吼(シャウト)したわけだ。で、日蓮大聖人様は南無妙法蓮華経という題目を唱えれば救われるとした。
一遍と日蓮大聖人はどうやら史実上は逢っていないようだ。とはいえ、一遍の踊り念仏というのは、ただでさえ異端なのである。聖道門(法華経)ではなく浄土門(他力)というだけでまず変わり者扱いされる。そのうえ、おかしなダンスまで加えてしまったのだから、反発する比叡山の正統的な仏僧(研究者)は多かったのではないか。そもそも一遍は比叡山出身でさえないのである。人気者ではあるが低学歴の一遍が比叡山の高僧に出した手紙が遺っている。いまでいえば高卒の地方郷土史家が東京大学教授に書いた手紙のようなものである。いや、当時の一遍の踊り念仏はすごい人気だったらしいから、高卒の人気作家が世間的には無名の東京大学教授に出した手紙くらいにたとえるのが適切かもしれない。おそらく布教の許可を願い出る手紙ではなかったかとされている。高僧は「真縁上人」という名前で、もちろん自力の聖道門ゆえ、伝統にしたがい法華経を最上の経典であると信じていたことだろう。いまや学歴コンプレックスのみならず一切を捨てた一遍の言葉は堂々としたものである。へりくだったところも思い上がったところもない文章だ。
「此世(このよ)の対面は多生の芳契(ほうけい)[過去世からの良縁]、相互(あいたがい)に一仏に帰する事、これよろこびなり。生死本無なれば、学すともかなうべからず。菩提本無なれば、行ずとも得べからず。しかりといへども、まなびざる者はいよいよ迷ひ、行ぜざるものはいよいよめぐる。此故(このゆえ)に身をすてゝ行じ、心をつくして修すべし。このことわりは、聖道浄土ことば異なりといへども、詮ずるところこれ一(いつ)なり。故(かるがゆえ)に法華経には「我不愛身命、但惜無常道」とすゝめ、観(無量寿)経には「捨身他世、必生彼国」ととけり」
一遍はうまいよな〜。「此世の対面は多生の芳契」とはじめる。「相互に一仏に帰する事、これよろこびなり」と冒頭で仲良く握手する。いまの日本仏教にもいろいろ派閥があるらしく喧嘩が絶えないという。しかし、この一遍の流儀で行けばいいのではないかと思うわけである。「相互に一仏に帰する事、これよろこびなり」と、ひと言挨拶すればよろしい。どこの派閥だろうが仏教であるならば一仏に帰すると考えてよいのではないか。どうしてどちらが正しいだの間違いだの、いい大人が見苦しくも争うのか。さらに一遍は他力の観点から自力修行の空しさを語るが、しかし続いて自力の価値を持ち上げ自力にもいいところがあるとして、最後は「聖道(自力)浄土(他力)ことば異なりといへども、詮ずるところこれ同一なり」と上手に対立点を無効化して話を丸く収めてしまう。証拠は法華経の「我は身命を愛さず」と観経の「身を捨て」がおなじ内容だからとする。自分が絶対正義などと驕(おご)ったものには決して書けぬ手紙だろう。落としどころは「どっちも正しいよね」「言葉は違うけれど突き詰めれば一緒」――。開祖がこんなだったから後年時宗は腹黒い蓮如につぶされてしまったのかもしれない。
創価学会員にからまれたらどうしたらいいかも一遍は教えてくれている。学会員さんの根拠としているのは、いわゆる法華経最強説である。だから、創価学会の南無妙法蓮華経は正しい。しかし、実際は法華経が最強最上などという客観的な証拠はない。法華経のなかにこの教えはもっとも勝(すぐ)れたものであると書いてあるくらいだ。自称最強説ならば般若心経にも書いてあるので、まったく当てにはなるまい。そうは言っても、歴史はあるし多数派が支持してきた仏典であることはたしかである。本当のことを言えば、法華経も浄土三部経も釈迦の真説ではなく、後代の人がねつ造したフィクションなのだが、それを言ったらおしまいの世界だ。さて、鎌倉時代の一遍は法華経も浄土三部経も釈迦の真説だと信じていた。「法華経と名号はどちらが正しいのか?」という質問を一遍にしたものがいたようだ。あるいは、南無妙法蓮華経と南無阿弥陀仏のどちらが正しいか、だったのかもしれない。この疑問に一遍はこう答えている。
「法華と名号とは一体[同一]なり。法華は色法[目に見える仏法]、名号は心法[心の仏法]なり。色心不二なれば法華即(すなわち)名号なり。故に観経には、「もし念仏せむ者は、これ人中の分陀利華(ふんだりけ)なり」と説り。分陀利華とは蓮華なり。されば法華をば薩達磨分陀利華経と名付たりといへり、名号と分陀利華は一なり」
法華経=名号(南無阿弥陀仏)と一遍は説明している。というのも、観無量寿経いわく「念仏者=分陀利華」である。分陀利華はきれいな白い花で蓮華とも呼ばれている。妙法蓮華経(法華経)はサンスクリット語(古代インド語)では、薩達磨分陀利華経(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)と読む。ここで「蓮華=分陀利華=念仏者」であることに思い及ぶと、妙法蓮華経は「妙法分陀利華経」、さらには「妙法念仏者経」とも言えるであろう。ということは、法華経も念仏(名号)も同一ということになるのではないか。いま1時間近くこの問題を考えていたけれど、これは一遍の言いがかりに近いと思う。法華経サイドが観無量寿経を一切認めてくれないと話にならないところがある。しかし、日蓮は法華経オンリーの人だけれども、天台宗の人は浄土三部経にもそれなりの価値があるという立場ではないか。ならば、日蓮宗以外には一遍の「法華=名号」は通じるような気がする。
一遍はおもしろいことを言っているのである。
「又云、阿弥陀仏の四字は本願にあらず。南無が本願なり[南無のほうが大事だ]。南無は始覚の機[きっかけ]、阿弥陀は本覚の法[既存の仏法]なり。然(しかれ)ば始本不二の南無阿弥陀仏也。称すれば頓(とみ)に迷悟をはなるゝなり」
「又云、安心といふは南無なり」
一遍は六字名号、南無阿弥陀仏の南無のほうが重要だと言うのである。また南無こそが安心なのだと主張する。ご存じでしょうが、南無は帰依する、おまかせするという意味だ。繰り返しになるが、もし南無のほうが阿弥陀仏よりも大事であるならば――。南無阿弥陀仏も南無妙法蓮華経もそう変わらないということにならないか。重いのは南無のほうであるとしたら、阿弥陀仏と妙法蓮華経の差は大したものではない。浄土三部経も法華経も(相対ならぬ)絶対を説いた大乗仏典である。そう考えると、名号も題目も「南無絶対」とおなじことを言っていることにならないか。おそらく、一遍が日蓮の弟子と対面したらこう言っていたような気がする。
南無阿弥陀仏=南無妙法蓮華経
なかには一遍にストレートな質問をしたやつがいたそうである。念仏以外の教えは往生するのか? 法華経と名号はどちらが勝れているのか?
「又云、或人(あるひと)問(とう)ていはく、「所行は往生すべきや、いなや。又、法華と名号といづれか勝れて候」と云云。[一遍]上人答て云、「所行も往生せばせよ、せずはせず。また名号は法華におとらばおとれ、まさらばまされ。なまさかしからで、物いろひ[議論]を停止して、一向に念仏申(もうす)ものを、善導[中国の高僧]は、「人中の上々人」と誉(ほめ)たまへり。法華を出世の本懐といふも経文なり[法華経方便品の一文]。又釈迦の五濁悪世に出世成道するは、この難信の法を説(とか)むが為なりといふも経文なり[阿弥陀経の一文]。機に随(したがっ)て益あらば、いづれも皆勝法なり、本懐なり[どの教えでもいい]。益なければ、いづれも劣法なり、仏の本意にはあらず[益なければどの教えもダメだ]。余教余宗があればこそ、此尋(このたずね)は出来(いでき)たれ。三宝滅尽[仏教消滅]のときはいづれの教とか対論すべき。念仏の外には物もしらぬ法滅百歳の機になりて、一向に念仏申(もうす)べし。これ無道心の尋(たずね)なり」
人それぞれ自分と相性のいい教えを信じればいいのではないか。これが破邪顕正とは縁のなかった一遍の答えである。法華経が正しいというのも法華経に書いてあるだけである。阿弥陀経が正しいというのも突き詰めたら阿弥陀経に書いてあるだけである。そう考えたら法華経と阿弥陀経のどちらが勝れているかはわからない。よけいな議論などするものではない。法華経が好きならば法華経でいいと思う。阿弥陀経が好きな自分は阿弥陀経で行くが、法華経でもいいのではないか。善導の言葉にしたがって自分は念仏で行くつもりだ。
「何(いず)れを正義とし、何れを邪義と判ずべからず」
なにが正義か、なにが邪義かなんてどうせわからないのだから考えるな。むしろ、バカになれ!
「又云、伊予国に仏阿弥陀仏といふ尼ありき。習ひもせぬ法門を自然にいひしなり。常の持言[口癖]にいはく、「知(しり)てしらざれ、還(かえっ)て愚痴なれ」と。此意(このい)浄土の法門にかなへり」
知らないほうがかえっていいという他力不思議を好む姿勢である。たとえは悪いが、なんにも知らないで学会活動をやっているおばさんが幸福なのだ。上からの命令に兵隊のように盲従して労力を惜しまずに学会活動するおばさんが最強だ。ここまでは捨聖一遍も日蓮大聖人様に同意しよう。