女のみち「とはずがたり」 諸説

三浦半島記古典の女たち浅草観音解説1解説2後深草院二条わが恋の記録
日記に見る日本人性と愛王朝の残照日記紀行文学頽廃の魅力解説3
古典への招待日記紀行の盛衰醍醐寺尼寺はみだし女性鎌倉極楽寺王権と仏法
時代背景辞書辞典記述鎌倉(解説4)増鏡・・・
 

雑学の世界・補考   

とはずがたり
鎌倉時代の中後期に後深草院二条が綴ったとみられる日記および紀行文。
誰に問われるでもなく自分の人生を語るという自伝形式で、後深草院に仕えた女房二条の14歳(1271)から49歳(1306)ごろまでの境遇、後深草院や恋人との関係、宮中行事、尼となってから出かけた旅の記録などが綴られている。二条の告白という形だが、ある程度の物語的虚構性も含まれると見る研究者もいる。5巻5冊。1313年ごろまでに成立した模様。
この日記は宮内庁書陵部所蔵の桂宮家蔵書に含まれていた桂宮本(後代―江戸時代前期の写本)5冊のみ現存。1940年(昭和15年)山岸徳平により紹介されるまでは、その存在を知る人も少なかった。天下の孤本といわれる。書陵部(当時は図書寮)で「とはずがたり」を見出した山岸徳平は「蜻蛉日記」にも対等すると直感したという。彼により「国語と国文学」9月号で「とはずがたり覚書」という形で紹介された。一般への公開は1950年(昭和25年)の桂宮本叢書第15巻が初。
「源氏物語」の影響
若紫:/ 深草院は想いを寄せていた自身の乳母であった、大納言典侍(だいなごんのすけ)の娘である二条を引き取るが、これは「源氏物語」の若紫を連想させる。
女楽:/ 菜・下巻にある女楽を模して行うことになったが、紫の上に東の御方、女三宮に祖父・隆親の娘があてられ、二条は一番身分の低い明石の御方として琵琶を弾くこととなる。
「増鏡」との関係
「増鏡」(南北朝時代成立)には「とはずがたり」の文章が数段に渡って用いられている。また、発見以前には後深草天皇の女性関係に関する記録が乏しく、「増鏡」における同天皇の女性関係の記述を創作あるいは弟の亀山天皇のものとの誤認説を唱える学者もいたが、この書の発見以後 「増鏡」の記述に根拠がある事が確認された。
 
「とはずがたり」考1 三浦半島記

日本には、古典文学が多い。その多くが、古いころから筆写されたり板行(はんこう)されたりして、ひとびとになじまれてきた。ところが、「とはずがたり」ばかりは、例外である。戦時中に発見され、戦後に研究された。いわば、古典の新顔である。いまでは、多くの研究者の注釈のおかげで、私ども素人でもなんとか読むことができる。以下、「新潮日本古典集成」のなかの「とはずがたり」(福田秀一氏校注)に多くを負っている。
二条という女性が、作者である。かつ主人公でもある。彼女は、鎌倉後期にうまれ、前半生を京の宮廷ですごした。高位の公卿の娘である。恋が多かった。賢く、かつ性的魅力にも富み、それもひょっとするとある種の男の嗜虐趣味をそそるようなところがあったのかもしれない。恋には、したたかでもあった。ある時期、複数の相手を愛し、当時も罪の意識になやみ、その後、仏門に入ってから、そういう自分の罪障を見すえ、そのことによって菩提を得ようとした。
「とはずがたり」は伝統的な日記文学の形をとりつつも、明治末年から大正期にかけての日本の自然主義文学に偶然ながら似ている。出家したのは、女の盛りをすぎたころである。やがて旅に出た。東(あずま)にくだったのは、西行の故事を慕ったからでもあるという。正応二年(1289)、鎌倉に入るために化粧坂(けわいざか)をのぼり、かつくだった。
以上、十三世紀の美しい(と思いたい)尼僧についてふれたのは、彼女が鎌倉の街の印象を、「とはずがたり」のなかで、ひとことながら、触れてくれているからである。これほど記録好きの民族でありながら、さらには鎌倉と京の往来が繁かったにもかかわらず、当時の鎌倉の景観や幕府の建物、道路、人情についてふれた文章がほとんどのこっていない。その点、「とはずがたり」はありがたい。
彼女は、鎌倉へ入る前夜、江ノ島で一泊した。ときに、陰暦3月である。江ノ島はまわり一里ほどの小島で、陸地とのあいだを、一条の砂洲がつないでいる。干潮時には、徒歩でわたることができる。島には、弁財天(弁天)がまつられている。弁財天は、もとはインドの土俗神だった。ガンジス川など大河を象徴する神で、ひょっとすると蛇への古代信仰の発展したものだったかもしれない。女神である。琵琶を弾いている。元来が河神であるために、日本では琵琶湖の竹生島や厳島など、湖や海の小島にまつられてきた。江ノ島も、いかにも弁財天がよろこびそうな小島である。
さきにふれた文覚という奇僧がこのことに気づいた。文覚は、頼朝がまだ伊豆の流人だったころに訪ねてきて、平家を倒すために拳兵せよ、とすすめた。江ノ島に弁財天をまつれといったのは、そのときだったか、そのつぎの機会だったかどうかはわからない。ともかくも、頼朝は鎌倉に府をさだめて早々、鶴岡八幡宮を造営するとともに、江ノ島に弁財天をまつった。寺ではなく、神社の形式をとった。
頼朝が、「御正体」(おしょうたい)として八(ひ)の弁財天を寄進した。それとはべつに、この神社は、裸形で琵琶を弾く形の弁財天(?)がふるくからつたわっていることで知られる。少女のかたちをし、性器までそなえている。鎌倉のリアリズムのゆきつく果てかとも思えるが、時代はよくわかっていない。江ノ島のこの神は、関東武士の崇敬をうけたという。
当然、伏屋(宿)などもあったかと思われるが、しかし二条とその従者がここにきた正応二年には、建物をそなえた宿はなかった。どうやら岩屋にとまったらしいのである。漫々たる海の上に離れたる島に、岩屋どもいくらもあるに泊る。岩屋が宿というのも、十三世紀末の関東の一風景といえるかもしれない。
二条が泊まった岩屋は、「千手(せんじゅ)の岩屋」という屋号めかしいものがついていた。おそらく千手観音をまつっていたのだろう。この岩屋で修行していたのは、齢のたけた山伏で、後世でいえば、宿の亭主である。「霧の(まがき)、竹の編戸」と、「とはずがたり」のなかで彼女はいう。霧をもって(まがき)とみなし、竹やぶをもって編戸とみなした、というのだから、文学的修辞ではなしに、まことの岩屋だったのかもしれない。
この時代、「経営」ということばがあって、経営(けいめい)とよみ、いろいろ世話をするという意味だった。その山伏が、彼女たちをケイメイしてくれた。その謝礼として彼女は、従者の笈から扇子一つを取り出させ、「これは、都の土産(つと)です」と、山伏に贈った。山伏はむかし都にいたのか、大よろこびし、「このように暮らしていますと、都の便りもありません」といったりした。扇子一つが、ことごとしくも都の文化をしのぶよすがだったのである。のちの室町時代とくらベ、都鄙のちがいは大きかったらしい。
その夜、二条は、旅衣の上にさらに重ね着して臥せたという。夜具は苔筵(こけむしろ)だったというのも、あながち形容ではなく、実際にそうだったのだろう。寝ぐるしくて、岩屋のそとに出て夜の海を見たりした。
明けて、彼女は鎌倉の府をめざした。鎌倉に入る前に、極楽寺という寺に詣でた。極楽寺は武家の寄進などで寺領が多く、従って僧も多かった。彼女は、僧たちの服装やふるまいが都とおなじだというだけで、奇妙なほどに感動した。僧が普遍的な存在である以上、都鄙のちがいがないのは当然なのだが、そのことに心を安らがせるほどに、彼女は鄙に疲れていたのに相違ない。
鎌倉は、三方が山にかこまれていて、外界から入る者は、坂を上下せねばならない。入口は、七つあるとされた。彼女は、西方からくる人の多くがそうするように、極楽寺のそばの切通(きりとおし)を通った。極楽寺坂とよばれてきて、いまもそうよばれる。私も、その坂を上下してみたかった。まず、江ノ電に乗った。江ノ島電鉄長谷駅から乗り、ほどなくトンネルをくぐった。このトンネルの上が、こんにちの極楽寺坂の山である。電車がトンネルからぬけ出ると、極楽寺駅で停車した。私は、そこで降りた。トンネル一つをくぐるために電車に乗ったことになる。駅を出て、線路沿いの道を徒歩でのぼった。
極楽寺坂は、坂の両側に、山の緑がせまっている。車がすくなく、歩道を歩く人もいない。ただの鋪装道路ながら、声をあげてほめたいほどに閑寂である。鎌倉の文化はこの閑寂さにあるといってよく、その原型は頼朝をふくめた代々の鎌倉びとがつくったものながら、明治以後、この地の閑寂を賞でてここに住んだひとたちの功といっていい。
坂の頂点にちかいあたりに、店が一軒、山肌に貼りつくようにして建っている。電車のように紬長い建物で、店内には古時計やら陶器が置かれており、喫茶店でもある。茶をのみつつ、どうも「とはずがたり」の二条尼は、坂の名を取りちがえて記憶していたのではないか、とおもった。坂の名を、化粧坂(けわいざか)だと思っていたようである。
化粧坂といふ山を越えて、鎌倉の方(かた)を見れば‥‥とある。彼女はやがて坂の上から鎌倉市街を見おろすのだが、その前に極楽寺を参詣している。当然、彼女が選んだ入口は、極楽寺坂なのである。当の化粧坂は、極楽寺から直線にして二キロ半ほども離れている。途中、山また山で、じつに遠い。さらにいうと、彼女は坂をくだって由比ケ浜に出たという。化粧坂だと、海岸に出ず、いまでいえば鎌倉税務暑の前に出てしまう。おそらく彼女は極楽寺坂を上下しながら、化粧坂という地名のよさが気に入って、ついとりちがえてしまったのにちがいない。
彼女は、その前半生を化粧(けわい)のなかですごした。院に寵せられ、五摂家の当主とも思い出があり、それに仏門に入ったはずの法親王にまで愛された。俗体のころは粉黛(ふんたい)にまみれていたなどという感想も、化粧坂という地名に触発されて湧いたかとも思える。
彼女は、坂の上から、市街を見た。袋の中に物を入れたるやうに住まひたる。筒潔なこのひとことが、十三世紀の鎌倉の市街をよく言いあらわしている。また、「階(きざはし)などのやうに重々(じゅうじゅう)に」ともいう。傾斜地が造成されて、建物が重なるように建っている景観がおもしろかったらしい。さらに重要なのは、京都のような東山があるわけでもない、と比較していることである。城下町がまだ成立していないこの時代、政権の存在する都市は、京都と鎌倉しかなく、つい比較したかったのだろう。
いまの極楽寺坂からは、鎌倉市街の全景は見えない。道路わきの山道まで登れば、十三世紀の彼女の得た跳望を見ることができるはずだが、いまはその労を省く。私も、坂をくだった。由比ケ浜までくだり、浜づたいに歩いた。ゆくほどに、若宮大路の南端に達した。彼女も、そうした。大路を北にむかい、鶴岡八幡宮に至った。「先づ御社(おんやしろ)へ参りぬ」と、彼女はいい、比較都市論のくせが出た。京都の南郊の石清水八幡宮とくらべたのである。海を見はるかしているぶん、鶴岡のほうがまさっている、という。私も同感である。
彼女は、参詣するひとびとの風俗についても比較した。京の神社では、然るべき階層の男子が参詣するとき、浄衣(じょうえ)を着る。鎌倉では、ひとびとは白装していない、という。参詣する武士たちは、武家の礼装である直垂(ひたたれ)を着ているために、色とりどりだったというのである。
私も、二条のように、境内にいる。有名な公孫樹(いちょう)の老樹の前にくると、北欧からの団体旅行客らしい一団がいた。樹に、たくさんのリスがいた。黒ずんで、ふつうのリスよりやや大ぶりなこの小動物が、数ひき、幹を上下している。すばやいために、煙をひいているようにもみえる。公孫樹は、老いている。樹齢千年以上で、むろん源頼朝も知っているし、その子で三代将軍になった実朝が、甥の公暁のためにこの樹の蔭の下で斬殺されたのも見ている。
ただ、頼朝も実朝も、このリスたちを知らない。境内で出会った禰宜の池田正弘氏が、「タイワンリスです」と、教えてくれた。池田さんは、「これは新聞で読んだ知識ですが」とことわって、戦時中、江ノ島で飼われていたタイワンリスが逃げて、鎌倉じゅうに繁殖した、という。
ついでながら、「とはずがたり」が発見されたのは、宮内省図書寮(いまの宮内庁書陵部)で、発見者は、山岸徳平(1893-1987)であった。わが二条も、その鎌倉見聞記も、五百年以上ねむっていたことになる
 
「とはずがたり」考2 私の好きな古典の女たち

「とはずがたり」というやさしい題の、昔物語を御存じでしょうか。同じわが国の古典でも「源氏物語」や「平家物語」のように有名ではないので、御存じなくても不思議ではありません。長い間、幻の物語と呼ばれて、その存在が世に知られなかったのです。たったひとつだけ宮内庁の書陵部(しょりょうぶ)に、江戸時代の写本が残されていましたが、それは深くかくされ世に知らされませんでした。
内容が内容だから、宮内庁で外へ出さなかったのでしょう。つまり、宮廷の、天皇や院の情事のプライバシーに関することが驚くばかりリアルに書かれていたからです。戦後とちがい、戦前は皇室に関してはタブーがきびしく、そんな暴露的なことを世間に流すことは、神聖極りない皇室の体面を傷つけるとし、絶対に許されないことでした。ところが昭和15年、国文学者の山岸徳平氏が、その本について発表され、ようやく幻の物語に陽が当てられるようになりました。それでも尚、戦時中でしたので、内容はあからさまにはされませんでした。戦後も30年頃になって、急に研究がすすみ、その紹介が次々世に出るようになったのです。ですから、私が「とはずがたり」をはじめて読んだのも、今から十四、五年前のことでした。
その時の驚きを忘れることが出来ません。なぜなら、その内容が予想以上にあまりに面白く、かつショッキングだったからです。
「問わず語り」という題が示す通り、それはひとりの女の、ひとりごとめいた打明け話、あるいは、告白といったものでした。「源氏物語」が紫式部の作った平安朝の宮廷を舞台にした完全なフィクションであるのに対し、「とはずがたり」は、中世の宮廷を舞台にした点では似ていますが、書かれたことは、ほとんどが現実にあった実話でした。
作者の後深草院二条(ごふかくさいんにじょう)が、自分の過去を回想して語るという形式で、作中のヒロインでもあります。その点、今でいう私小説というべきもので、「源氏物語」より「蜻蛉日記(かげろうにっき)」などの王朝女流日記文学の系列に入ります。時代は、「源氏物語」の頃からおよそ三百年ほど後のこと、幕府は北條氏の時でした。
紫式部が宮廷の女房だったように、二条もまた院に仕える女房だったと同時に、後深草院の寵(ちょう)を受けた愛人の一人でもありました。二条の父は大納言久我雅忠(くがまさただ)で、久我家は由緒正しい家柄でしたから、ことによれば、二条は院の妃の一人にもなれた筈でしたが、雅忠が早く死んだので後楯もなくなり、女房で終り、しかもある時から、院の寵を失い院の御所から出されてしまいます。そういう生い立ちからしても、二条が当時の貴族の娘として、充分な教育を受けていたことは当然です。特に彼女は文学を好んだらしく、若い時は「源氏物語」を愛読した文学少女であったようです。もちろん、「蜻蛉日記」も読んでいたでしょう。それで晩年、つくづく自分の生涯をふりかえった時、人並よりも数奇で薄倖(はっこう)で、何よりも恋多かった自分の過去が、書き残すに値するものと思ったにちがいありません。つまり「物語」よりも自分の実人生の方が奇なりと考えたのでしょう。それで思いだすままに少しずつ書きつづけていったのが、いつのまにかたまって、「とはずがたり」が出来上ったのだろうと思います。
その最後に、自分の生涯をひとり胸におさめておくのも物足りなく思われるので、つい、
「かやうのいたづら事を続け置き侍(はべ)るこそ。後の形見とまでは、おぽえ侍らぬ」
と書いています。こんなつまらない事を書きつづけておきましたが、別に後世、人に読まれようと残すつもりではありませんという意味ですが、これはあくまで、創作上の修辞で、本心はもちろん、自分の特異な恋の経験と、それからぬけ出た後半生の女西行のような放浪の旅の思い出を、ぜひとも聞いてほしいという執筆動機だったと思われます。では「とはずがたり」によってユニークな中世の女の稀有な運命と愛と性の全貌をみてゆきましょう。
一人称の作品の中で、二条は生涯に四人の男性と深い関係を持ったことを告白しています。彼女をめぐる四人の男とは、後深草院、雪の曙(西園寺実兼〈さいおんじさねかね〉)、有明の月(性助法親王〈しょうじょほっしんのう〉)、近衛大殿(このえのおおいどの)(鷹司兼平〈たかつかさのかねひら〉)です。カッコ内はモデルとされる実在の人で、後深草院は、本名で出ています。この他、後深草院の弟の亀山院、作中では新院とある人物とも、交渉があったと考えられます。あるいはこの他に、作中には書かなかった情事が皆無だったともいいきれないでしょう。男にいい寄られやすい雰囲気と、いい寄られたら断り難い性分の女のように、作品の中では書かれているからです。
後深草院と二条の関係は、宿命的なものがありました。後深草院は二条の母の大納言典侍(だいなごんのすけ)が女房として宮中に仕えていた頃、少年の初恋を感じ、新枕のことを二条の母に教わったという仲でした。典侍は雅忠と結婚して二条を産み、まもなくなくなってしまいます。その遺言に、久我家の娘は代々宮仕えさせないという習慣があるけれど、この子だけは宮仕えさせてくれといいました。院は典侍の死を悲しみ、その形見の娘を4歳から手許に引きとって育てます。そして心ひそかにその成長を待ち、初恋の女の娘と契ろうと待ったのです。後深草院は自分と二条を、心中、「源氏物語」の光源氏と紫上になぞらえていたのかもしれません。たしかにこの時代の宮廷は、政治の実権はほとんど幕府に奪われていて、逸楽と頽廃がみちていたようでした。
遊びはすべて、黄金時代の平安朝をなぞることでした。「源氏物語」が何よりのお手本になりました。そして人々は生活や恋まで「源氏物語」をなぞりたがったのです。音楽の会も、船遊びも、蹴鞠(けまり)の試合もそうでしたが、しまいには、妃たちや女房たちを、それぞれ「源氏物語」の女たちに仕立てて音楽の会をするというような遊びまで考えだすほどでした。
ともあれ、文永八年(1271)の正月、院は、はじめて、里帰りしていた二条の寝所ヘ、男として訪れました。もちろん、父も継母も承知していて、名誉なことに思っています。知らないのは十四の少女だけで、家中が飾られたり自分にいい着物を着せられる理由もわかりません。その夜も暮れて、うたた寝からふとさめると、傍に院が寝ています。二条は愕(おどろ)き、院がどんなにことばをつくして「愛している」とか、「この夜をどんなに長い間待ったことか」とか求愛しても、泣くばかりです。「どうして前もって、話して下さらなかったのです。父にだってよく相談したかったのに」と泣いてばかりいるので、
「あまりに言ふ甲斐(かひ)なげにおぼしめして、うち笑はせ給ふさヘ、心憂く悲し」
という状態でとうとう一晩中すねて身を許しません。院はその夜は少女の抵抗を許しますが、次の夜は情容赦もなく乱暴に彼女の処女を奪ってしまいます。
「今宵はうたて情(なさけ)なくのみ当り給ひて、薄き衣はいたく綻(ほころ)ぴてけるにや、残る方なくなり行くにも…」
というリアルな描写で院のその夜の行為があらわされています。
こうしてこの夜を境に院の寵い者になって後宮では一目おかれて暮すのですが、二条にはそれ以前にすでに恋人がいたのです。文中では雪の曙となっていますが西園寺実兼であることは、今では定説になっています。実兼はその時23歳で名門西園寺家の当主になっていました。ちなみに、後深草院は29歳でした。実兼と二条の仲がプラトニックだったかどうかは不明ですが、「さても、さても新枕とも言ひぬべく、かたみに浅からざりし心ざしの人」という表現があります。言ひぬべくは、言ってよいほど、言いたいほど、ですからどっちにしても、精神的には相当な深い仲だったことは考えられます。あるいは実兼も年齢より老成した男なので、二条の成長を待っていたところを、院にぬけ駆けされたというところかもしれません。実兼は院の近臣でしたから、その後の二条と院の情交の深まりをいやでも目近に見ないでは暮せませんでした。
翌年、思いがけず雅忠が病死してしまいます。そのため里帰りしている二条を実兼が訪れ、二人の仲は急速に進みます。もともと相思相愛だった二人が燃え上るのは時を要しません。院の目を盗んで密会を重ねるうち、二条は実兼の子を妊(みごも)ってしまいます。実兼はそれと知り、益々二条に愛情を感じやさしくなりますが、二条は院に妊娠をニヵ月ごまかして六ヵ月なのに四ヵ月と報告してとうとう産月を迎えてしまいました。実兼はもう里に帰った二条につきっきりで面倒を見ます。表向きは人の嫌がる重い病気にかかったといいふらして、一切見舞いもうけず、誰にもあわず引っこんでいて、お産をしてしまいます。実兼はその枕元に始終つきそい、秘密の出産を扶(たす)けるのです。陣痛に苦しむ二条の腰を抱き起しこうすれば早く生れると聞いたがと励ましたとたん、二条は産気づき、実兼の手にすがったまま、赤子を産み落しました。実兼は自分の太刀で臍の緒を切り、そのまま白い小袖にくるんで走り出てしまいます。
実は実兼の本妻が女の子を産み、産後ほどなく死んでいたのと、二条の赤ん坊をすりかえてしまったのです。このお産の描写をはじめて読んだ時、私は心から愕いてしまいました。
お産の場面を小説に書いたものも多いでしょうが、こんなスリリングな場面と行動を、これほどリアルに書いたものを知りません。凄い小説だと思いました。そしてその時、私は「とはずがたり」と後深草院二条にすっかり魅了されてしまいました。とり憑かれたという方が当っているかもわかりません。なぜなら、私はその後この小説を二度も現代語訳している他「中世炎上」という小説にして書いてもいるからです。
さて院には、子供は死産したと報告します。院からは見舞いの薬などたくさん差し入れられるのを「いと恐し」と、二条は感じます。
そんな実兼がありながら、二条はやがて院の弟で御室(おむろ)の阿闍梨(あじゃり)、有明の月、実は性助法親王とも契ってしまいます。院の病気の祈祷のため御所に来た有明の月は、祈祷と祈祷の間に、道場のすぐそばの局で、泣きながら抱きついてきて想いを遂げてしまうのでした。一度破戒の蜜の甘さを覚えた阿闍梨は、狂的なほど二条に熱中してしまいます。二条はその情熱に引きずられながらも、あまりの妄執が恐しくなり、縁を断とうと冷淡にします。
阿闍梨は、それと知ると恐しい呪詛(じゅそ)の手紙を送ってきます。そんなこともありながら、またしても二条は阿闍梨の情熱と妄執に負け、阿闍梨を再び受けいれてしまいます。阿闍梨は里に帰った二条の許(もと)へ通いつめ、突如として悪疫にかかり、急死してしまい、後には二条が阿闍梨の子を宿していました。
不思議とも奇怪ともいいようがないのは、阿闍梨と二条の仲を知った院が、わざわざ二条に用をいいつけ、阿闍梨の許へゆかせ、仲直りのチャンスを与え、二条にも、阿闍梨との仲を認めるからつづけるようにとそそのかすことでした。その上、院は、近衛大殿、現実には太政大臣鷹司兼平を、二条の後見になるという条件で、取り持つようなこともしています。伏見へ旅行した時、院は自分の寝所の襖の向うで大殿と二条を結ばせてしまうのです。
また、ある時は弟の亀山院との間も、亀山院に二条をくどき易いようにはからうようなところもありました。
この物語に登場する二条の情事、あるいは恋の相手というのは、その時代の超一流の男性ばかりが揃っていますが、一番正体のわからないのが後深草院のような気がします。亀山院とは同母兄弟でありながら、なぜか後深草院は、両親から弟と差別されていました。父帝の後嵯峨院(ごさがいん)は、亀山院の方に対して愛情が強く、後深草院は、わずか4歳で天皇になったものの、即位の間中、後嵯峨院が実際には院政をしいているのであり、17歳になると、もう強制的に亀山院へ譲位させられています。内心面白くないのは当然で、そうした現世的不平不満は内向して、院の性質を屈折の多い女性的で陰険なものとし、しかもあきらかにアブノーマルな性的傾向も持っていたように見受けられます。二条と実兼との関係も、実はすべて承知の上で、二人を泳がしていたのではないかと思われる節(ふし)さえあります。
実の妹の斎院(さいいん)を誘惑する手引を二条にさせたり、町の女を御所に引き入れて一夜の慰みにする世話を二条にさせたりしています。そういう院のもとで、二条が真実幸福だったとは思えません。かといって、二条の次々おこす情事も、あまりに他愛なく男に屈する点で味気なくさえ感じます。ただこういう情事の繰りかえしの筋書だけをのべますと、二条はおよそ自主性も知性もなく白痴的な、ただ性だけに翻弄され、流されていく女のように見えますが、決してそうではないのです。単にセックスだけの魅力なら、これだけの一流の男性たちが、揃いも揃って、こうまで情熱的に二条に惹かれるでしょうか。「とはずがたり」に書かれた二条は、どの男との間でも、決定的に相手を憎んだり恨んだりしてはいません。最初は仕方なく屈した場合も、いやいや従わされてしまった場合でも、事の終った後や、少しつきあった後では、相手に心情的になびいています。
院にはかられて、ほとんど無理矢理に関係を持たされ「死ぬばかり悲しき」と院を恨んだ大殿との仲でも、二夜を共にして、京へ帰る時には別々の車で京まで並んでゆき、京極からは、院と二条と実兼の乗った車は北へゆき、大殿の乗った車が西へ行き、いよいよ別れることになると、
「何となく名残惜しきやうに車の影の見られ侍りしこそ、こはいつよりのならはしぞと、わが心ながらおぼつかなく侍りしか」
といっています。二夜の契りで、早くも大殿に別れ難い一種のなつかしさを感じているのです。しかも自分は、院と実兼と同じ車に乗っている時の心の動きなのです。こういう心の揺れは、先に、院と、実兼の間にも認められました。
「慣れ行けば帰る朝(あした)は名残を慕ひて又寝の床(とこ)に涙を流し、待つ宵には更け行く鐘に音(ね)を添へて、待ちつけて後(のち)はまた世にや聞えんと苦しみ、里に侍る折は君の御面影を恋ひ、かたはらに侍る折はまたよそに積る夜な夜なを恨み、わが身にうとくなりまします事も悲しむ。人間のならひ、苦しくてのみ明け暮るる」
とあります。恋人に馴れると、恋人の朝帰りするのが名残り惜しく、辛く、待つ宵は、こんなことが世間に評判になるのではないかと苦しむ。かといって、里にいると、恋人に逢いながら、院が恋しくなり、院の御所にいる時は、他の女とすごされる夜々を嫉妬して、自分に対して院が冷たくなることが悲しまれる。人間のならいで、苦しんでばかりいる。という意味で、二条が決して、実兼一辺倒に溺れているわけではなく、院にも心が残っていることがなまなましく書き出されています。
こういう心の揺れを正直にみつめて、率直に告白出来るという点で、二条は決して、情に流されるばかりの女でないことが理解出来ます。
男と関わる度に悲しみや苦しみが増すことは、もう経験で承知していても、やはり、男の切実な求愛を受けると、応えるはめになり、そして許してしまえば、男に愛情が生れる。そういう二条は、別の見方をすれば、まるで捨身行をしながら菩薩への道をひたむきに歩んでいるように見えないこともありません。愛を受けいれて、傷つき、現実の場で損をしているのは、いつでも二条です。
一夫多妻(ポリガミー)は男の側だけの特権のように思われていたこの時代に、一妻多夫(ポリアンドリー)も可能なことを二条の心の揺れは示してはいないでしょうか。同様に多くの女性を男が愛しても不思議がられず、女にだけは一夫一婦(モノガミー)の貞操を強いられるのは不自然です。
「蜻蛉日記」の作者、道綱の母は、多情な夫兼家の浮気に死ぬほど苦しみ、その苦しみの中から、「蜻蛉日記」を生みました。
後深草院二条は、男のように、同時に、二人ならず何人も愛することが出来、そのことで苦しみ、「とはずがたり」を生みました。どちらが幸福だったとはいえません。
二人の流した涙の分量は似たようなものでしょう。
ただ、二条は自分の流される煩悩の苦しみの淵から、ある時点で這い上りました。
「とはずがたり」は巻一から巻五までありますが、巻三までが、今までのべてきたような男性との愛憎の渦が描かれ、巻四、巻五は、一転して、出家した二条が、女西行のようになって、諸国を行脚することが書かれています。
二条は、幼い時、西行の絵巻物を見て、自分もこういうふうに旅に暮したいと憧(あこが)れを抱きます。それは思いの外の根強さで、二条の心の底にひそみつづけていました。
また、父の雅忠は死ぬ時、遺言して、
「もし、院にも捨てられて、宮廷で生活していけないようになったら、急いで出家遁世(とんせい)してしまいなさい。そうして自分の後生(ごしょう)も救われ、両親の恩も報い、あの世で一つ蓮に再会出来るよう祈りなさい。世間に見捨てられ、愛も失い頼るべき当てがなくなったからといって、他の君に仕えたり、どんな人の家にも厄介になって暮すようなことをすれば、私の死後でも勘当だと心得ておきなさい。夫妻のことは、この世だけのことでない前世(ぜんせ)からの因縁ずくだから、どうしようもない。それにしても、有髪(うはつ)のままで好色の評判を家系に残すことなどは情けないからしないでおくれ。ただ出家遁世した後ならばどういうくらしをしてもかまわない」
といっています。また、
「世の中いとわづらはしきやうになり行くにつけても、いつまで同じながめをとのみあぢきなければ、山のあなたの住まひのみ願はしけれども、心にまかせぬなど思ふも、なほ捨てがたきにこそ」
というような述懐もしています。男たちとの間が面倒で面白くなくなってくるにつけても早く出家してしまいたいと憧れるのだけれど、それもまだ思うようにはゆかず、やはり、浮き世は捨て難いものだ。というような意味で、捨てる決心はつかないまでも、二条はしきりに出離に憧れる心はきざしていたのでした。「ただ恩愛の境界を別れて仏弟子となりなん」という述懐も見えています。
どうやら二条は29歳から31歳の間の何れかの時に出家しているようです。丁度、この間のことが、「とはずがたり」ですっぽり抜けていますのでわかりません。
巻四に入って、突然、墨染の衣姿の尼僧の二条が、都を出て、東国へ旅をする様子が描き出されてくるのです。そして、巻五の終りまでは、二条が信じられないほど全国を歩いて、漂泊の旅をつづける紀行がつづられています。前篇を愛欲篇、後篇を遍歴篇とする研究家もいるくらいです。
正直いって、私は自分が出家する前、「とはずがたり」の面白さは、巻三までの愛欲篇にあり、紀行文は平板で艶がなくなりつまらないと思っていました。それが自分が思いがけず出家して、最近は特に女西行のように巡礼に憧れ雲水になって歩いてみて、「とはずがたり」の後半にも別な目が開かれるように思いました。二条の足跡は東は武蔵の隅田川まで、北は信濃の善光寺まで、南は四国の足摺岬までも及んでいます。足摺は想像で書かれて、実際は行っていないという研究も発表されていますが、少くとも四国へは渡っています。今とちがい、昔の旅行は命がけでした。旅に出る時は水盃して出たのも永遠の別れを予測したからでした。しかも足弱で深窓育ちの二条が歩くのです。その困難さはどんなものだったでしょう。けれども紀行文の中で、二条はそういう旅の苦しさにはあまりふれていません。淡々とした紀行文の中に、二ヵ所、ドラマティックな場面があらわれ、際立っています。その一つは巡礼の途中、全く思いがけず、石清水八幡宮へ詣でた時、偶然、そこへ参詣していた後深草院の一行と出逢ってしまったのです。その夜、二条と院はひそかに逢い、眠る間もなく語り明かしました。別れぎわに院は自分の小袖を脱いで二条に渡し、
「人には内密の形見だよ。肌身放すなよ」
といわれました。私は出離前、ここを読んで、二人はこの場で旧懐をあたため、誘われれば拒絶出来ない二条は、ここでも院の誘惑に負けただろうと、下司な想像をしていました。けれども自分が出家してみて、それがどんなに浅はかな想像だったかがわかったのです。
出家すると、出家の偈(げ)というものを誰も仏前に誓わされます。私も、それをとなえました。
「流転三界中(るてんさんがいちゅう)
恩愛不能断(おんあいふのうだん)
棄恩入無為(きおんにゅうむい)
真実報恩者(しんじつほうおんしゃ)」
という四句です。「とはずがたり」の研究者たちは、二条が文中にしばしば引用しているこの語がとりもなおさず「とはずがたり」の主題だと筆を揃えていっています。たぶんそうでしょう。けれども私は二条自身の書く動機や姿勢の中には、そんなにはっきりしたテーマとかモチーフとかいうものは考えていなかったのではないかと思うのです。二条は出家して、20年もたち、全国を流浪しつつ、まだ自分の生きてきた過去に対して、きれいさっぱり訣別が出来ていなかったのではないでしょうか。だからこそ、過去をふりかえり、紙に定着させ、自分の生の意味をふりかえり、問いかえしたかったのではないでしょうか。悟りきったところから、文学などは生れません。私自身も悟ってしまえばおそらくペンを折りましょう。悟れないから書くのです。二条は、もう一度、流転三界の中の断ちきれず自分をああまで苦しめたあの恩愛とは何だったのかと問いたかったのではないでしょうか。
もう一度二条は院と伏見で逢い、また一晩二人きりで明かす夜を持ちました。その時院は全く昔と変らない心の丈けで、
「出家してもいいよる者がたくさんいるだろう。いったい愛欲の始末はどうしているのか」
とたずねました。それに対して、二条が怒りもせずしみじみと、修行の旅の孤独さを語り、それでも尚疑い深くせんさくする院に向って、
「この世に存らえていたいとは思いませんが私もまだ四十にならない身ですから、これから先のことはどうなるかわかりません。でも今日という今日までは、一切、院のおっしゃるような色っぽいことはありませんでした」
と淡々と答えています。これから先のことはわからないという二条の素直さがこの時、光り輝いて見えはしないでしょうか。仏にすべてをゆだねきった者のみがいえる自然な声ではないでしょうか。二条はすでに救われていたのだと思います。この世で地獄を見た者だけが、聖化されるということわりを、二条は意識せずにここに来て書き残しました。そうなれば、後深草院の死を聞いた二条が、はだしで葬列を追っていく場面が、事実かフィクションかなどということはどうでもよくなります。
私は、自分の生涯をかえりみる作者の目が女性に珍しくナルシシズムを越えて冷酷なほど自分を突き放し透徹していることに、読み直す度いつでも打たれます。そして作者の書いた二条というヒロインを、実に女らしい可愛い、そしてまっ正直な魂の持主ではないかと、愛さずにいられなくなります。
 
「とはずがたり」考3 浅草観音・隅田川

浅草観音の月
雷門から浅草寺の仲見世通りを本堂へ向かって行くと、宝蔵門の手前左側は店がなく、塀で囲われている。塀の向う側は浅草寺の寺務を取りしきる伝法院で、建物の西側には池を抱いた回遊式庭園がある。ここに入ると、参詣人でごったがえす仲見世の賑わいはまるで遠い彼方の潮騒のような静けさである。
庭には鎌倉時代の年号を刻んだ石碑もある。伝法院庭園はかすかに中世における浅草寺の俤(おもかげ) をとどめているのかもしれない。
文学作品で鎌倉末期の浅草寺の有様を伝える記述が僅(わず)かに見えるのは、後深草院二条の「とはずがたり」である。正応三年(1290)の秋、33歳でもはや尼姿となっている彼女は浅草寺参詣を志す。彼女はその前の年鎌倉に下って来て、暮には鎌倉から武蔵国川口に行き、そこで年を越し、この年2月信濃の善光寺に詣でて、どうやらそこから浅草寺へと向かったらしい。川口での越年の有様が次のように述ぺられている。
かやうの物隔たりたる有様、前には入間川とかや流れたる、むかへには岩淵の宿といひて、遊女どもの住みかあり。山といふ物はこの国内には見えず、はるばるとある武蔵野の萱が下折れ、霜枯れはててあり。中を分け過ぎたる住まひ思ひやる、都の隔たりゆく住まひ、悲しさもあはれさも取り重ねたる年の暮れなり。
「岩淵の宿」というのは、おそらく今の東京都北区岩淵町のあたりであろう。川口市と岩淵町の間には新荒川大橋が架かっている。すると、前に流れている入間川というのは、たとえ流路はひどく変っていても、中世における隅田川の上流の一つで、現在の隅田川の始発の部分であったことになる。
さて、善光寺詣でを果たして浅草寺へと向かった道筋は、こんなふうに描かれている。
八月の初めつ方にもなりぬれば、武蔵野の秋の気色ゆかしさにこそ、今までこれらにも侍りつれと思ひて、武蔵国へ帰りて、浅草と申す堂あり、十一面観音のおはします、霊仏と申すもゆかしくて参るに、野の中をはるばると分けゆくに、萩・女郎花(をみなへし)・荻(をぎ)・薄(すすき)よりほかは、またまじる物もなく、これが高さは馬に乗りたる男の見えぬほどなれば、おしはかるべし。三日にや分けゆけども、尽きもせず。ちとそばへ行く道にこそ宿などもあれ、はるばる一通りは、来し方行く末野原なり。
西行に仮託された説話集の「撰集抄(せんじゅうしょう)」や、西行の生涯を物語風に潤色して語った「西行物語」には、東国修行中の西行が千草の咲き乱れる秋の武蔵野で、元は郁芳門院に仕える侍であった世捨て人とめぐり逢い、語り合ったという話が語られる。「西行物語絵巻」に描かれているその場面は美しい。九つの時「西行が修行の記といふ絵」を見てその境涯に憧れたという彼女は、あるいはそれらの記述を思い出しながら自らの旅を綴っているのかもしれない。
浅草寺に参詣したのは丁度八月十五夜の晩であった。
観音堂はちと引き上がりて、それも木などはなき草の中におはしますに、まめやかに、「草の原より出づる月影」と思ひ出づれば、今宵は十五夜なりけり。雲の上の御遊びも思ひやらるるに、御形見の御衣(おんぞ)は、如法経(にょほうきょう)の折御布施に大菩薩に参らせて、今ここにありとは覚えねども、鳳闕(ほうけつ)の雲の上忘れたてまつらざれば、余香をば拝する心ざしも、深きに変らずぞ覚えし。
草の原より出でし月影、更けゆくままに澄み昇り、葉末に結ぶ白露は玉かと見ゆる心地して、
雲の上に見しもなかなか月ゆゑの身の思ひ出は今宵なりけり
涙に浮かぶ心地して、
隈もなき月になりゆくながめにもなほ面影は忘れやはする
明けぬれば、さのみ野原に宿るぺきならねば、帰りぬ。
「草の原より出づる月影」というのは、「新古今和歌集」秋上に収める藤原良経(よしつね)の、「行く末は空もひとつの武蔵野に草の原より出づる月影」という歌を引いているのである。この歌は摂政左大臣であった良経が後鳥羽院の主催する五十首歌会で「野径月(やけいのつき)」という題を詠んだものである。摂関家に生れた良経はついに東国に下ることはなかった。これは彼が観念の世界で思い描いた武蔵野の風景であった。が、それから一世紀近く経って関東に下ってきた後深草院二条が見た武蔵野の月は、この歌のままであったのである。
「御形見の御衣」というのは、旧主後深草院から与えられた衣服である。彼女は後深草院の女房であった。しかし、院は彼女にとって単に主君であっただけではない。彼女は4歳の時から院の御所で養われた。9歳の時には院から琵琶を習った(後深草院は今様や琵琶などの音楽に長けていた)。
14歳になった正月、院は彼女の父久我大納言源雅忠の了解のもとに、何も知らずに里に下って寝入っていた彼女をほとんど強引に抱き、自身の少なからぬ後宮の女性の一人に加えた。院はいわば父であり兄であり、そして夫でもあった。
彼女は宮廷において数人の男と深い交渉を持った。それらの中には院が黙認し、いな勧めた場合さえある。院は正妃東二条院の嫉妬にもとづく激しい攻撃からも彼女をかばっててくれた。
が、皇統の継承をめぐって対立関係にある実の弟、亀山院と彼女との間柄が取り沙汰されるや(実際、亀山院はそれ以前にも彼女に強い関心を示している)、後深草院は彼女をかばおうとはしなかった。
26歳の年に彼女はほとんど追放同然に院の御所を退いた。その院から下賜された衣服は写経奉納の布施として今は無いが、かつて宮仕えした折のことは忘れないので、心の裡で「余香」を拝するというのは、「大鏡」に語られている、配所太宰府における菅原道真の行為を思い浮かべているのである。
去年の今夜清涼に侍りき
秋思の詩篇独う腸を断つ
恩賜の御衣は今此に在り
捧げ持ちて毎日余香を拝したてまつる
彼女は罪なくして配所の月を仰ぐ道真に自身を重ね合わせている。しかし、それだけではない。彼女以前に自らを道真に擬した人物に、須磨の浦で十五夜の月を見る源氏がいる。
見るほどぞしばし慰むめぐりあはん月の都は遥かなれども
その夜、上(兄朱雀帝)のいとなつかしう昔物語などし給ひし御さまの、院(なき父桐壺院)に似たてまつり給へりしも、恋しく思ひ出できこえ給ひて、「恩賜の御衣は今ここに在り」と誦しつつ入り給ひぬ。御衣(おんぞ)はまことに身を放たず、傍に置き給へり。(「源氏物語」須磨)
源氏が都の優柔不断な兄朱雀帝を偲(しの)ぶように、今、後深草院二条が「隈もなき月」に見ている「面影」も、都に健在である筈の、やさしくてしかもつらかった後深草院のそれである。彼女は道真とともに「源氏物語」の源氏をも自らに重ねる。しばしば女西行と評される彼女を、女源氏と見る見方もあるのである。
後深草院二条の隅田川
「明けぬれば‥‥帰りぬ」という。通夜をおえた彼女が帰ったのは、おそらく浅草寺かその近くの寺院の宿坊であろう。そして、隅田川のほとりに立つ。
さても、すみだ河原近きほどにやと思ふも、いと大なる橋の清水(きよみづ)・祇園(ぎをん)の橋の体(てい)なるを渡るに、きたなげなき男二人逢ひたり。
「このわたりにすみだ川といふ川の侍るなるは、いづくぞ」と問へば、「これなむその川なり。この橋をばすだの橋と申し侍り。昔は橋なくて、渡し舟にて人を渡しけるも、わづらはしくとて、橋出で来て侍り。すみだ川などはやさしきことに申しおきけるにや、賤(しづ)がことわざには、すだ川の橋とぞ申し侍る。この川のむかへをば、昔はみよしのの里と申しけるが、賤が刈り干す稲と申す物に実の入らぬ所にて侍りけるを、時の国司、里の名を尋ね聞きて、「ことわりなりけり」とて、吉田の里と名を改められてのち、稲うるはしく実も入り侍り」など語れば、業平の中将、都鳥に言問ひけるも思ひ出でられて、鳥だに見えねば、
尋ね来(こ)しかひこそなけれすみだ川住みけん鳥の跡だにもなし
川霧寵めて、来(こ)し方(かた)行く先も見えず。涙にくれて行くをりふし、雲居遥かに鳴くかりがねの声も折知りがほに覚え侍りて、
旅の空涙にくれてゆく袖を言問ふ雁の声ぞかなしき
「みよしのの里」を思わせる古い地名として、「伊勢物語」十段に「入間の里、みよし野の里」というのがあり、現在の埼玉県坂戸市横沼かとされている。また、「吉田」は川越市に地名として残る。
両市は境を接し、「伊勢物語」の、「みよし野のたのむの雁もひたぶるに君が方にぞよると鳴くなる」「わが方によると鳴くなるみよし野のたのむの雁をいつか忘れん」という歌語りの世界はここかと伝えられてもいるのだが、しかし彼女は浅草寺に詣でたのち、入間の郡までさまよって行ったのではないであろう。この時代にも隅田川は浅草寺のすぐ東側を流れていたと考えられるのである。
「みよしのの里」や「吉田」は当時の隅田川界隈に実際にあった地名かもしれないし、「伊勢物語」の世界を持ち込んで在五中将業平への言及を自然にしようとした彼女の作為であるかもしれない。
ともかく、この川は大河であった。そこに架けられた橋は、清水詣でに渡った都の五条橋、祇園に参籠した時渡った四条大橋を思い出させた。しかし、業平が呼び掛けたという都鳥は見えない。立ち籠める川霧に視界もきかない。雲の中に初かりがねの声がする。その声は「どうして旅するの、何が悲しいの」と呼び掛けるかのようである。長旅にやつれながらも昔の色香を失っていない尼は、大川のたもとに佇(たたず)んで涙する。
浅草寺の歩み
浅草寺に伝存の「浅草寺縁起」によると、推古天皇三十六年(628)3月18日の早朝、檜前浜成(ひのくまのはまなり)、竹成(たけなり)兄弟が江戸浦(隅田川の下流辺りを昔は宮戸川といった)で漁労中、一体の仏像を投網(とあみ)の中に発見した。それを土師中知(はじのなかとも)が拝し、聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)の尊像であることを知り、自ら出家し、屋敷を寺に改めて深く帰依(きえ)したという。これが浅草寺の草創である。
また観音さまご出現の翌日、十人の草刈り童子が藜(あかざ)で草堂を造ったとも伝える。この経緯からもわかるように当時の浅草は漁村と農村といったような二重構造で地域の開発がすすめられていたといえよう。それに秩序も整っていたと思われるのは、観音信仰を郷土全体で共有の形で受け入れていることである。檜前兄弟と土師中知の三人を祀ったのが「三社権現社(さんじゃごんげんしゃ)」、今の浅草神社である。
このことにより広漠とした武蔵野の一画、東京湾の入江(江戸浦)の一寒村であった浅草は、宗教的集落として発展し、今日の浅草となったのである。なお太平洋戦争で浅草寺は空襲を受け、観音堂を焼失したが、その焼跡から土師(はじ)器の灯明皿(とうみょうざら)や須恵器(すえき)の華瓶(けびょう)や陶鉢(とうはつ)などが出土し、考古学の上から奈良時代末期の姿を偲(しの)ぶことができるようになった。
ご本尊である聖観世昔菩薩のお像を、大化元年(645)勝海上人(しようかいしようにん)という僧が来られ「秘仏」と定められた。やがて九世紀平安時代の初期[天長五年(828)または天安元年(857)とも伝えられる]に慈覚大師(じかくだいし)が比叡山より来られ、ご秘仏の姿に模して「お前立(まえだち)」のご本尊(お開帳仏)を謹刻され、このときに版木(はんぎ)観世音菩薩御影(みえ)(柳御影という)を作られた。
この版木は弘仁期(810-824)ごろの刷仏(すりぶつ)版木と認められているので、ご本尊の御影を所望する者が多かったと推定でき、当時の信仰の普及のほどが偲ばれる。のちに勝海上人は浅草寺の「開基」、慈覚大師は「中興開山」と仰がれるに至っている。
「武蔵野地名考」が「この地、観世音の霊場にて、おのずから聚落(しゅうらく)となり、荒蕪(こうぶ)のひらくること他に先立ちたれぱ、浅草の名はおこりたり」と記しているのは、これらのことを指しているのであろう。ちょうどこのころ、承和二年(835)の「太政官符(だじょうかんぷ)」に隅田川に渡船二艘を増すようにとの記録があるように、隅田川沿いのこの地は早くから房総・奥州地方への交通の要所であったと推定され、このことが浅草寺と浅草の発展に大いに寄与した。
天慶五年(942)平公雅(たいらのきんまさ)が浅草寺に祈願して、武蔵国の国守に任ぜられた報謝のしるしとして七堂伽藍を再建した。その中に法華・常行の二堂が含まれているのは、浅草寺が慈覚大師以来、比叡山延暦寺を祖山とする「天台」の法流に属していたことを示すものであろう。
のちに源義朝が当山に帰依し、承暦三年(1079)観音堂が炎上した折、ご本尊が自ら火焔を逃れ、近くの榎(えのき)の梢に避難されたとの故事を聞き、その榎で観音像を刻み奉納した。このお像は現在「温座秘法陀羅尼会(おんざひほうだらにえ)」の本尊として拝まれている。義朝の子源頼朝も治承四年(1180)下総から武蔵の国に、平家追討の戦陣をすすめて入る時、戦勝祈願のため浅草寺に参詣している。
浅草と浅草寺の文献上での初見は、鎌倉幕府の事跡を記した歴史書「吾妻鏡(あずまかがみ)」にある。それには養和元年(1181)源頼朝が鎌倉の鶴岡八幡宮造営のため、浅草から「宮大工」を招いたとあるが、頼朝の脳裏にかつて参拝した浅草寺の壮麗な伽藍のことがあったからであろう。また建久三年(1192)後白河法皇の四十九日忌の法要が鎌倉で営まれた際には、浅草寺より寺僧三名が出仕している。
建長三年(1251)には五十人ほどが集まっていた食堂(じきどう)に牛が暴れ入り、怪我人を出したとある。これらの記録は当時の浅草寺の規模を推定させる史科であるぱかりか、為政者が浅草寺を関東切っての古格ある寺として認めていたことがわかる。
さて、平安朝末期に始められた西国三十三観音札所巡礼にならい、鎌倉時代になると坂東札所が制定された。これには頼朝の篤い観音信仰と東国の武士たちが平家追討のために西国に赴いた折、実際に西国札所のいくつかの霊場に詣でたことが、この成立を促したといわれる。
福島県棚倉町の都々古別(つつこわけ)神社の観音像の台座銘に、天福二年(1234)(天福は元年で終わりだが、地方のため文暦と年号が変わっていたことに気付いていない)に僧成弁(じょうべん)が茨城県八溝山日輪寺(坂東二十一番札所)に籠もったあと坂東札所を巡礼したと墨書されているので、少なくともこれ以前に成立していたといえる。浅草寺は十三番の札所として、他の観音霊場と連携を保ちながら多くの巡礼者を迎え今日に至っている。
正応二年(1289)後深草院二条の自伝「とはずがたり」に「霊仏と申すもゆかしくて参る」とあるのは、この時期に浅草寺の霊名が四隣に行き渡っていたとみてよいだろう。室町時代から安土・桃山時代にかけては、足利尊氏が寺領を安堵し、足利持氏が経蔵を建立、応永五年(1398)には定済上人(じょうさいしょうにん)が広く勧進して観音堂を再建することなどが行なわれた。また、文明十八年(1486)ごろ道興准后(どうこうじゅごう)と堯恵法印(ぎょうけいほういん)が当寺に参詣したと「廻国雑記」と「北国紀行」が記している。
室町時代の小田原城主北条氏綱(ほうじょううじつな)によって天文八年(1539)堂塔が再建され、その家臣の江戸城代家老遠山直景(とうやまなおかげ)の子を浅草寺の別当職(住職)にあてた。この人こそ浅草寺中興第一世忠豪(ちゅうごう)上人である。忠豪上人は衆徒十ニヵ寺、寺僧二十二ヵ寺を制定、浅草寺運営の基礎を築いた。
戦国時代末期・江戸時代の初めには、天正十八年(1590)徳川家康が江戸に入府すると、天海大僧正(慈眼大師)の進言もあって浅草寺を祈願所に定め、寺領五百石が与えられた。慶長五年(1600)関ケ原の戦いの出陣に際し、家康が武運を観音堂において祈念し、勝利を得たことで天下に一段とその霊験の著しさが行き渡った。明和八年(1771)の「坂東霊場記」が「天正年中より堂社僧院湧く如く起り、坂東無双の巨藍(こらん)となる」と記すのは、まさしく徳川家の帰依による隆昌のさまを活写しているといえよう。
十一面観音巡礼 湖北の旅
早春の湖北の空はつめたく、澄み切っていた。それでも琵琶湖の面には、もう春の気配がただよっていたが、長浜をすぎるあたりから、再び冬景色となり、雪に埋もれた田圃の中に、点々と稲架(はさ)が立っているのが目につく。その向うに伊吹山が、今日は珍しく雪の被衣(かずき)をぬいで、荒々しい素肌を中天にさらしている。南側から眺めるのとちがって、険しい表情を見せているのは、北国の烈風に堪えているのであろうか。やがて、右手の方に小谷山が見えて来て、高月から山側へ入ると、程なく渡岸寺の村である。
土地ではドガンジ、もしくはドウガンジと呼んでいるが、実は寺ではなく、ささやかなお堂の中に、村の人々が、貞観時代の美しい十一面観音をお守りしている。私がはじめて行った頃は、無住の寺で、よほど前からお願いしておかないと、拝観することも出来なかった。茫々とした草原の中に、雑木林を背景にして、うらぶれたお堂が建っていたことを思い出す。それから四、五へんお参りしたであろうか。その度ごとに境内は少しずつ整備され、案内人もいるようになって、最近は収蔵庫も建った。が、中々本尊を移さなかったのは、村の人々が反対した為と聞いている。
大正時代の写真をみると、茅葺屋根のお堂に祀ってあったようで、その頃はどんなによかったかと想像されるが、時代の推移は如何ともなしがたい。たしかに収蔵庫は火災を防ぐであろうが、人心の荒廃を防げるとは思えない。せめて渡岸寺は、今の程度にとどめて、観光寺院などに発展して貰いたくないものである。
お堂へ入ると、丈高い観音様が、むき出しのまま立っていられた。野菜や果物は供えてあるが、その他の装飾は一切ない。信仰のある村では、とかく本尊を飾りたてたり、金ピカに塗りたがるものだが、そういうことをするには観音様が美しすぎたのであろう。湖水の上を渡るそよ風のように、優しく、なよやかなその姿は、今まで多くの人々に讃えられ、私も何度か書いたことがある。
が、一年以上も十一面観音ばかり拝んで廻っている間に、私はまた新しい魅力を覚えるようになった。正直いって、私が見た中には、きれいに整っているだけで、生気のない観音様が何体かあった。頭上の十一面だけとっても、申しわけのようにのっけているものは少くない。そういうものは省いたので、取材した中の十分の一も書けなかった。
昔、亀井勝一郎氏は、信仰と鑑賞の問題について論じられ、信仰のないものが仏像を美術品のように扱うのは間違っているといわれた。それは確かに正論である。が、昔の人のような心を持てといわれても、私達には無理なので、鑑賞する以外に仏へ近づく道はない。多くの仏像を見、信仰の姿に接している間に、私は次第にそう思うようになった。見ることによって受ける感動が、仏を感得する喜びと、そんなに違う筈はない。いや、違ってはならないのだ、と信ずるに至った。それにつけても、昔の仏師が、一つの仏を造るのに、どれほど骨身をけずったか、それは仏教の儀軌や経典に精通することとは、まったく別の行為であったように思う。
今もいったように、渡岸寺の観音のことは度々書いているので、ここにくり返すつもりはない。それは近江だけでなく、日本の中でもすぐれた仏像の一つであろう。特に頭上の十一面には、細心の工夫が凝らされているが、十一面観音である以上、そこに重きが置かれたのは当り前なことである。にも関わらず、多くの場合、単なる飾物か、宝冠のように扱っているのは、彫刻するのがよほど困難であったに違いない。
十一面というのは、慈悲相、瞋怒相、白牙上出相が各三面、それに暴悪大笑相を一面加え、その上に仏果を現す如来を頂くのがふつうの形であるが、それは十一面観音が経て来た歴史を語っているともいえよう。印度の十一荒神に源を発するこの観音は、血の中を流れるもろもろの悪を滅して、菩薩の位に至ったのである。
仏教の方では、完成したものとして信仰されているが、私のような門外漢には、仏果を志求しつづけている菩薩は、まだ人間の悩みから完全に脱してはいず、それ故に親しみ深い仏のように思われる。十一面のうち、瞋面、牙出面、暴悪大笑面が、七つもあるのに対して、慈悲相が三面しかないのは、そういうことを現しているのではなかろうか。
渡岸寺の観音の作者が、どちらかと云えば、悪の表現の方に重きをおいたのは、注意していいことである。ふつうなら一列に並べておく瞋面と、牙出面を、一つずつ耳の後まで下げ、美しい顔の横から、邪悪の相をのぞかせているばかりか、一番恐しい暴悪大笑面を、頭の真後につけている。見ようによっては、後姿の方が動きがあって美しく、前と後と両面から拝めるようになっているのが、ほかの仏像とはちがう。
暴悪大笑面は、悪を笑って仏道に向わしめる方便ということだが、とてもそんな有がたいものとは思えない。この薄気味わるい笑いは、あきらかに悪魔の相であり、一つしかないのも、同じく一つしかない如来相と対応しているように見える。大きさも同じであり、同じように心をこめて彫ってある。
してみると、十一面観音は、いわぱ天地の中間にあって、衆生を済度する菩薩なのであろうか。そんなことはわかり切っているが、私が感動するのは、そういうことを無言で表現した作者の独創力にある。平安初期の仏師は、後世の職業的な仏師とはちがって、仏像を造ることが修行であり、信仰の証しでもあった。この観音が生き生きとしているのは、作者が誰にも、何にも頼らず、自分の眼で見たものを彫刻したからで、悪魔の笑いも、瞋恚(しんい)の心も、彼自身が体験したものであったに違いない。
一説には、泰澄大師の作ともいわれるが、それは信じられないにしても、泰澄が白山で出会った十一面観音は、正しくこのとおりの姿をしていたであろう。十一面観音は、十一面神呪経から生れたと専門家はいうが、自然に発生したものではあるまい。一人一人の僧侶や芸術家が、各々の気質と才能に応じて、過去の経験の中から造りあげた、精神の結晶に他ならない。
仏法という共通の目的をめざして、これ程多くの表現が行われたのをみると、結局それは一人の方法、一人の完成であったことに気がつく。源信も、法然も、親鸞も、そういう孤独な道を歩んだ。渡岸寺の観音も、深く内面を見つめた仏師の観法の中から生れた。そこに、儀軌の形式にそいながら、儀軌にとらわれない個性的な仏像が出現した。その時彼は、泰澄大師と同じ喜びをわかち合い、十一面観音に開眼したことを得心したであろう。ものを造るとは、ものを知ることであり、それは外部の知識や教養から得ることの不可能な、ある確かな手応えを自覚することだと思う。
 
「とはずがたり」考4 作品解説1

村上源氏と久我家
「とはずがたり」の作者は、持明院統(北朝)の祖である後深草院に二条という名前で仕えた女性である。彼女は村上源氏の嫡流たる久我(こが)家の生まれであることに強い誇りを抱いており、非常に知的レベルが高く、また勝ち気で我儘な性格だった。はっきり言って、ちょっと変な人である。
源氏というと、普通はいわゆる源平合戦の源氏、即ち武士の棟梁となった清和源氏を連想するが、もともと源氏とは皇族を臣籍に降下させるときに与えた姓であり、いずれの天皇の子孫かにより嵯峨源氏・清和源氏・宇多源氏・村上源氏・花山源氏・後三条源氏などに分かれている。そして貴族社会においては、清和源氏の武士など、天皇家との血縁が非常に薄い身分の低いものであって、とうてい源氏の本流だとは考えられていなかったのである。
では、貴族社会での源氏の本流は何かというと、それは第六十二代村上天皇(926-67)の子孫である村上源氏である。この村上源氏の嫡流が久我家であり、久我家は五摂家につぐ清華(せいが)の家柄、即ち近衛大将を経て太政大臣まで昇り得る家柄として高い格式を誇っていたのである。
とはいっても、村上源氏という言葉自体、一般にはあまりなじみがないが、後醍醐天皇の側近で「神皇正統記」の著者である南朝のイデオローグ、北畠親房(1293-1354)や、闘将千種忠顕(?-1336)も村上源氏であり、また明治の元勲岩倉具視(1825-83)も村上源氏である。これらの人々は、みな本姓は源であって、家名が北畠や千種・岩倉となっているだけである。
さらに、女優の久我美子さんも村上源氏に属する。久我美子さんは久我家第三十三代当主、侯爵久我通顕氏の長女であるが、昭和21年、学校(女子学習院)や家族に内緒で東宝の第一期ニューフェースに応募し、合格した時は、侯爵家の令嬢が女優のような下賤な職業につくなんてとんでもないと一族の間で大問題になったそうである。ちなみに久我美子さんは芸名を「くが・よしこ」としているが、結婚前の本名は、字は同じでも「こが・はるこ」である。
さて、村上天皇の孫である源師房(1008-77)から久我美子さんに至る村上源氏一千年の歴史の中で、特筆すべきは、源頼朝に対して、いかにも貴族的な方法で反撃した人物として有名な源通親(みちちか.1149-1202)である。
晩年の頼朝は、娘を後鳥羽天皇の妃として入内させることに固執するなど、次第に本来の貴族的性格を露わにして、御家人との間に疎隔を生じるようになっていったのであるが、この頼朝の弱点を巧みについて、九条兼実らの頼朝シンパの貴族を一挙に失脚させた天才的な政治家が源通親である。
誰が言い始めたのかよく分からないが、いろいろな本に、この人こそ日本史上最も悪辣な陰謀家、マキャベリストと書いてある。思想史に関心がある人には、あの異常に難解で、かつ不思議な魅力に満ちている「正法眼蔵」を書いた道元(1200-53)の父親と言った方がいいかもしれない。
「とはずがたり」の作者、後深草院二条は、このマキャベリスト源通親の曾孫にあたる女性である。マキャベリスト源通親の血を承け、また名女優久我美子さんのご先祖様でもあるこの女性が書いた「とはずがたり」という作品は、昭和13年になってはじめてその存在が確認された、古典としては極めて珍しい作品で、その登場のときから謎めいた事情につつまれているのである。
「とはずがたり」には、持明院統(北朝)の祖である後深草院と、後深草院の同母弟で大覚寺統(南朝)の祖である亀山院などをめぐる、極めて退廃的な男女関係が描かれていたために、戦前は研究が実際上不可能だったが、昭和25年に復刻版が出版されて以来、多くの国文学者・歴史学者・小説家等の知識人の関心を呼び、急速に研究が進んでいる。
しかし、学者たちは極めて多様な、というかてんでんばらばらなことを言っていて、「とはずがたり」をめぐる学説は矛盾にみちており、学者の本を読めば読むほど、作者の統一的な人間像を描き出すことができなくなっている。「とはずがたり」の研究状況は、今なお大変な混乱の中にあるのである。
私は殆どの学者たちの認識に奇妙な違和感を感ぜざるをえない。二条はほんの数行に和漢の典籍を複雑華麗に引用するなど、極めて頭の良い女性であり、芸術的な感性が鋭いとともに論理的思考にも優れ、その性格は大変に勝ち気で我儘である。また、実際に読んでみて驚いたのであるが、「とはずがたり」には機知に富んだ、ひょうきんな、コメディタッチの部分が多いのである。
私は、彼女の知性のタイプは、学者たちが暗黙の前提として想定しているものと全然違うと感じている。そして、二条と学者たちの知性のタイプのずれから、とんでもない誤解が生じているのではないかと思っているのである。
内容
「とはずがたり」に関する歴史学会と国文学会の研究水準を確認するために、以下に「日本史大事典」と「日本古典文学大辞典」を引用してみたい。
平凡社の「日本史大事典」は吉川弘文館の「国史大辞典」と並ぶ日本史関係の代表的辞典であり、また、そこで「とはずがたり」の執筆を担当されている細川涼一氏は、既に数多くの著作を発表されている新進気鋭の歴史学者である。「日本史大事典」における「とはずがたり」の解説は以下の通りである。
とはずがたり
後深草院の女房で愛人でもあった後深草院二条(中院雅忠の女)の日記文学。伝本は宮内庁書陵部に一本のみ伝わる。晩年にその生涯を回顧する形で綴られた自伝的作品で、全五巻から成るが、大きく前編三巻、後編二巻に大別できる。前編三巻は、1271年(文永八)、作者が14歳で後深草院の御所に出仕して以来、後深草院の寵愛を受けながらも、院の近臣の「雪の曙」」(西園寺実兼)、院の護持僧の「有明の月」(仁和寺御室性助・法助の両説がある)とも関係を結ぶなどの愛欲に満ちた宮廷生活が描かれる。後編二巻では、89年(正応二)後深草院のきまぐれな寵愛の果てに御所を追われて出家し、尼となった作者の東国鎌倉への旅、次いで西国への旅などが描かれる。二条はこの旅に流離するみずからを、女西行、あるいは小野小町の落塊した姿になぞらえている。そして、1304年(嘉元二)の後深草院の葬送に際して、その葬送の車を裸足で追った二条は、06年(徳治元)、院の女の遊義門院と再会し、院の三周忌の仏事を聴聞するところで回想は終わっている。鎌倉時代末期の後深草院の持明院統、亀山院の大覚寺統の対立が激しくなっていく時期の公家政権内部の実態を、女性の立場から描いた書物としても貴重である。
「とはずがたり」に虚構が含まれていることは多くの国文学者が指摘しているのであるが、細川涼一氏の記述には、そうした点への配慮は一切伺えず、「とはずがたり」は歴史的事実を記録した日記であるとしか読めない内容になっている。
次に、「日本古典文学大辞典」(岩波書店.1984)での「とはずがたり」の解説を、少し長文にわたるが引用してみたい。
執筆者の松本寧至氏は「とはずがたり」についての多数の著書・論文を発表されており、「とはずがたり」研究に一生を捧げておられると言っても過言ではない国文学者である。
とはずがたり
五巻 日記文学。後深草院二条(ごふかくさいんのにじょう)作。作中の後宇多天皇の注記からの割出しで正和二年(1313)11月17日以前に成立していたことは確かだが、記事最終の嘉元四年(1306)をそう下らずに成ったのであろう。
【作意】鎌倉時代後期、後深草上皇に愛された女性が過去を回想して綴った自伝的作品。「とはずがたり」という題名は作者自身の命名と思われるが、この語が示すように自己の体験・見聞を語らずにいられない衝動に駆られて書いたものである。跋文にも、廃れようとしているわが家の歌道の誉れを再興しようとしたが成功しそうもなく、そのかわりに、華やかだった宮廷生活のこと、西行の跡を慕っての旅の思い出を書いた、といっている。後深草院崩御後の悲しみと孤独感のなかで、自己の存在証明のためには自伝的作品を書く以外になかったであろう。全五巻を大きく前三巻・後二巻に分けると、前編は後深草院御所の生活、後編は東国・西国の旅がおもな内容になっている。宮廷における愛の遍歴、快楽と苦悩と、それを捨てて出家し諸国行脚の仏道修行に新しい生き方を求めて行く女人の生涯を述べたものである。
【梗概】巻一 −二条が後深草院の寵愛をうけた文永八年(1271)14歳の正月から 起筆。翌年、父が死んで孤児となるが、院と並行して「雪の曙」(西園寺実兼)との秘密の関係を続け、罪の呵責に悩む。巻二−高僧「有明の月」(院の異母弟性助法親王、法助とする説もある)の求愛をうけ、また院のはからいによって「近衛大殿」(鷹司兼平)にも身を委ねる。巻三−「有明の月」との関係は院に知られるところとなったが許されて、灼熱の恋として燃えさかる。しかし、かれは流行病にかかって死ぬ。亀山天皇とのことも噂となり、東二条院(後深草院中宮)の排擠にもあって、やがて寵衰えた二条は御所を退出することになる。その後、北山准后貞子九十の賀の盛儀に大宮院女房として出仕する。巻四−かねて念願していた出家を遂げた二条は、西行にならって東国の旅に出る。鎌倉を周遊するうち、将軍惟康親王が廃されて都へ護送されるあわれな様を目撃する。ついで後深草院の皇子久明親王が新将軍として下るその御所の準備などに参画する。ついで小川口(埼王県川口市)に下って越年、善光寺参詣をすませて高岡石見入道の邸に逗留。帰途、武蔵野の秋色をめで、草深い浅草寺に参り、隅田川・堀兼の井などの歌枕をたずねて鎌倉にもどり、帰郷。まもなく奈良路をめぐり、途中石清水で後深草法皇と再会。また伊勢から熱田をまわる。伏見御所に招かれて法皇と往時を語りあう。巻五−それから九年後、正安四年(1302)安芸の厳島をさして旅立つ。厳島からの帰途、足摺岬に行き、帰って西行にならい白峰・松山に崇徳院の旧跡を訪う。またもどって備後の和知に行き、そこで二条の教養が高く評価され、落ちとどまるようすすめられ、豪族間の争いに巻き込まれて、下人にされそうになるが、かつて鎌倉で会ったことのある広沢与三入道に救われて帰ることができた。嘉元二年正月、東二条院崩御、ついで7月に後深草法皇の病悩のことがつたわり、心を悩ますが、ついに7月16日崩御。悲嘆にくれて裸足のまま霊枢車を追う。その後に法皇三回忌までのことがある。
【特色・影響】愛欲編・修行編は霊と肉の相剋であり、混沌と浄化という対照であるが、一体に立体的に構築されているのが特徴である。後深草院と実兼の性格の相違、または院が好色の対象として召した扇の女とささがにの女の対比、東国の旅と西国の旅、陸路と海路もそうで、作者の論理的な思考と知的な創作力を示す一端である。そして各巻にクライマックスの場面を設定している。物語文学の影響も顕著で、「源氏物語」の影響はもっとも濃厚であるが、構成の巧みさは「狭衣物語」からうけ、女性を主人公とし心理描写の詳しいことは「夜の寝覚」に学んでいる。「伊勢物語」からも想を得ている。説話文学や当時流行の絵巻にも関心を示す。「豊明絵草子(とよのあかりえそうし)」はその絵詞の類似性から二条作者説もあるが、「とはずがたり」の影響作であろう。そのほか先蹤作品から多くを吸収して、虚構的な要素もつよい。史実との矛盾は作者の記憶違いという点もあるが、意識的なものも多い。例えば「有明の月」に関する記事と史実との矛盾ははなはだしいが、作者はもちろん事実を書くより人間性を書くことに目的があったのである。地理の上でも不審が多く、足摺岬行きは虚構とみられている。父への思慕と報恩の念から歌道の誉れを再興したいという宿願をもって作歌に執心するが、これは狂言綺語観の展開であり、文学即仏道という考えで、執筆の背景をなす思想である。旅は西行にならったというが、足跡は一遍と重なるところが多く、二条と時衆は近接関係にあったと思われる。歌も作中に一五八首あるが、大部分は作者の創作であろう。「とはずがたり」は「蜻蛉日記」以来の女流日記における自己観照の精神を仏教によって中世的に自己形成という形で達成した作品である。日記文学の伝統と中世の新しいジャンルである紀行文学の要素とを加えた日記文学の総決算としての意義がある。なお、「増鏡」の「あすか川」「草枕」「老の波」「さしぐし」にかなり多量の引用があり、この歴史物語の重要な資料となった。
虚構性
さて、松本寧至氏を始めとする殆どの国文学者は、「とはずがたり」に相当に虚構が含まれていることを認めつつ、しかし全体としては「とはずがたり」は事実の記録であり、作者は真実をあからさまに書くのをためらって、細部を「朧化」しているにすぎないのだと説いている。
しかし、「とはずがたり」の虚構性が、「朧化」などという表現ですまされる程度なのかについて、私は根本的な疑問を抱いている。それを、二条が醍醐寺の尼寺・勝倶胝院に籠もる場面を例として考えてみたい。
細川涼一氏の「洛東山科における寺院の成立と展開−醍醐寺の歴史と真言密教寺院の展開」(後藤靖・田端泰子編「洛東探訪−山科の歴史と文化」.淡交社.平成四年)には、以下のような記述がある。
鎌倉時代には、奈良法華寺が尼寺として復興されたのをはじめ、各地に尼寺が造営されたが、下醍醐にも尼の住む子院として勝倶胝院(しょうぐていいん)という子院があった。この勝倶胝院は平安末期に第一七代座主実運(明海)によって建立されたものであるが、第二四代座主(第二六代座主にも復任)成賢は、寛喜三年(1231)に、この勝倶胝院の堂舎および付属の山林・田畠を尼真阿弥陀仏(真阿)に譲った。この勝倶胝院は成賢の後世菩提のために不断念仏を行う道場であったが、成賢はこの自分自身の遠忌の勤修を尼真阿に託したのである。こうして、醍醐寺において、尼寺勝倶胝院が誕生した。
以後、勝倶胝院は、真阿から嵯峨殿(もとの八条院の女房、八条院高倉。醍醐に一時住んだので、醍醐殿とも呼ばれた。高松院〔二条天皇后〕と安居院澄憲の密通によって生れた女子で、のち奈良法華寺に入って空如と号した。)に譲られたが、後に返されて浄意という尼に譲られ、さらに建長四年(1252)8月20日に、浄意から信願(久我家の縁者の尼か。後深草院二条(久我雅忠の娘)の「とはずがたり」に真願房としてその名がみえる)に譲られた。その際の浄意の譲状によれば、勝倶胝院は無縁の尼たちが立ち宿って、不断念仏を勤修する道場であった(「醍醐寺文書」)。
その後同院は、文永四年(1267)に信願から久我通忠の娘、小坂禅尼(後深草院二条の従姉)に譲与され、応長元年(1311)に小坂禅尼から万里小路姫君に譲与されて、勝倶胝院は九条家の進止権下に入った。このように、鎌倉時代を通じて、勝倶胝院は尼によって相伝されたのである。
浄意の信願への譲状には、勝倶胝院は無縁の尼たちが宿って念仏を勤修する道場であると述べられているが、このような寄る辺のない女性たちが尼となって集う場所としての勝倶胝院は、「とはずがたり」にもうかがうことができる。
すなわち、「とはずがたり」巻一によれば、後深草院二条は、文永九年(1272)の父久我(中院)雅忠の死後、縁故のある真願房(信願)を頼って、年の暮れに勝倶胝院に籠っている。院主の真願房は、二条のもの悲しい無聊を慰めようと、年寄った尼たちを集めて過ぎ去った昔の思い出話などもしているが、そこは庭先の水槽に入る筧の水も凍りつく佗しい冬の住居であった。晨朝(暁)から初夜まで、尼たちは交代して、交代時には「誰がし房はどうなさいました。何阿弥陀仏は」などと交代者を呼び歩きながら、念仏を勤行したが、その尼たちの勤行に出る際の衣も、粗末な麻の衣に真袈裟(粗末な袈裟)を形ばかり引き掛けたというものであった。
二条は建治三年(1277)にも後深草院の御所を出奔して勝倶胝院に隠れているが、その際の「とはずがたり」巻二によると、院主の真願房は、勝倶胝院は「十念成就の終りに、三尊の来迎をこそ待ち侍る柴の庵」である、と述べている。すなわち、この尼寺は、寄る辺のない尼たちが終焉の折りに、阿弥陀三尊が来迎して極楽浄土へ往生するだけを待って念仏の勤行をする、賤しい柴の庵だ、というのである。
真願房のこの言葉は、出奔した二条を訪ねてきた愛人の西園寺実兼に対して、謙譲の言葉として述べられているものであり、そこには多少の誇張もみられるものと思われる。しかし、いずれにしても、勝倶胝院は、父が死んで後ろ盾を失った二条が一時この寺に籠ったように、寄る辺のない無縁の尼たちが集住して念仏を称えながら終焉を待つ(「とはずがたり」に描かれた勝倶胝院の尼にも、老尼の姿が少なくない)、ホスピタリティー施設としてあったのである。
細川涼一氏は「とはずがたり」の記述を、歴史的事実として、そのまま鵜呑みにしておられる。しかし、この部分はどう考えても異常な話なのである。
「とはずがたり」によれば、後深草院二条は文永九年(1272)4月に後深草院の皇子を懐妊し、6月頃から体調不良を訴え、8月に父が死亡して将来に不安を感じ、10月に妊娠六か月の身でありながら「雪の曙」と連日同衾し、12月に「庭先の水槽に入る筧の水も凍りつく佗しい冬の住居」である醍醐の勝倶胝院に、身の回りの世話をする人もないまま一人で籠もり、しかもそこにまず後深草院が、次いで「雪の曙」が吹雪の中を訪問し、「雪の曙」とは終日酒盛りをしたというのである。そして翌年2月には出産である。
細川氏の引用部分に限っても、15歳(満年齢なら14歳)で妊娠八か月の初産の女性が、旧暦12月、吹雪もある厳寒の時期に醍醐のような寂しいところに一人で籠もり、しかも訪ねてきた愛人と終日酒盛りをやっていたというのである。細川涼一氏は本当にこれらに疑いを抱かないのであろうか。これほど不自然な点があるのに、「とはずがたり」を事実の記録として、ここまで安易に引用してよいのだろうか。
ところで二条は醍醐の勝倶胝院に二度籠もるのであるが、二度目は建治三年(1277)、二条が20歳のときに起きた「女楽事件」がきっかけになっている。
二条は女楽(おんながく)という源氏物語を模した音楽の催しにおいて、もともと明石の上という身分の低い役柄に不満であった上に、祖父四条隆親が、自分の晩年の子で、二条にとっては一応叔母にあたる「今参り」をえこひいきして、演奏者の位置について介入してきたことに激怒し、当てつけがましい歌を残して御所を飛び出し、行方不明になってしまうのである。
原文ではもっともらしいことをいっぱい言っているのであるが、素直に考えれば異常なまでの気の強さ、あくのつよさ、不羈奔放ぶりである。いくら頭にきたからといって、少しふてくされる程度ならともかく、勤務先を飛び出して行方不明になってしまうのだから尋常ではない。後深草院や亀山院の口を借りて、自己正当化のための弁明も執拗になされているが、どう考えても二条は変な女である。
細川涼一氏は「勝倶胝院は、父が死んで後ろ盾を失った二条が一時この寺に籠ったように、寄る辺のない無縁の尼たちが集住して念仏を称えながら終焉を待つ(「とはずがたり」に描かれた勝倶胝院の尼にも、老尼の姿が少なくない)、ホスピタリティー施設としてあったのである」などと言われて、二条の言うことを完全に真に受けておられるが、二条のような性格の人間の証言をそのまま信じてよいのであろうか。
「賤しい柴の庵」で、「終焉の折に、阿弥陀三尊が来迎して極楽浄土へ往生するだけを待って念仏の勤行」をしている「寄る辺のない尼たち」が、二条のような自分勝手な人間を暖かく迎えるということが、人間の自然な心理として本当にありうるのだろうか。
それは、例えば、あくまで仮定の話ではあるが、男とやりたい放題遊び回って野村沙知代に説教された神田うのが、野村沙知代と大喧嘩したあげく、頭にきて仕事をほっぽりだし、世間の目を誤魔化すために修道院に隠れ、しかもその修道院にまで男をひっぱりこんでいるにもかかわらず、そこで静かな信仰生活を送っていた中高年の敬虔な修道尼たちが神田うのを好意的な目で見守り、なにくれとなく親切に世話をしてあげるようなものではないだろうか。つまり人間の自然な心理としては絶対にありえないことではなかろうか。
また、「愛人の西園寺実兼」が、関東申次という極めて重要な職務を放擲して、こんな身勝手な女をあちこち探し歩くようなことが本当にありえたのかも疑問である。
西園寺実兼に関しては、鎌倉・南北朝期の公武間の交渉について緻密な研究を重ねておられる森茂暁氏が、「鎌倉時代の朝幕関係」(思文閣出版)p42において次のように書かれている。
さて、当面の問題はこの西園寺実氏の関東申次としての活動と朝幕関係との係わりである。実氏の執務状況・態度を考えるとき、「公衡公記」(実氏の玄孫公衡の日記)弘安六年(1283)7月21日条にみえる「故入道(実氏)殿御時、故太政大臣(公相、実氏息)殿曾無令申次給事、入道殿毎度老骨令参給」という記事は参考になる。これは当時の関東申次西園寺実兼(公相息)が病気のため東使が院参する日に出仕が困難という状況の中で、余人に代替させようという案も出てきた時、結局これを受け入れなかった実兼が述べた言葉である。すなわち、祖父実氏は関東申次の職務を子息など余人に代替させたことはなく、毎度本人が老骨に鞭うって、これを勤めたし、今更その儀に違ってはならない、というのである。関東よりの申し入れの上奏は関東申次自身がこれを行うのが「御定」だとまで言い切っている点も、この職務が専門職化、家職化した様子を示していて興味深い。このとき実兼は病を押して院参、その任務を果たしている。
実兼は父の公相(1223-67)が祖父実氏(1194-1269)より先に亡くなってしまったため、文永六年(1269)、若干21歳(満年齢なら20歳)で関東申次の職を祖父から承継した。そして、文永十一年(1274)の文永の役当時は26歳、この「公衡公記」の記事の書かれた弘安六年(1283)当時は35歳である。
「とはずがたり」巻一には、二条が後深草院の子を宿すはずのない期間に「雪の曙」の子を妊娠し、その事情を隠すために出産時には人を遠ざけ、後深草院には早産と偽りの報告をしたとの話が出てくるが、そこでは「雪の曙」は、世間には春日神社に籠もったと称して、二条の秘密の出産に付き添っていたことになっている。
国文学会の通説によれば、これは文永十一年(1274)9月のことであって、「雪の曙」こと西園寺実兼は、まだ関東申次としての経験が極めて浅く、しかも初めての元寇(文永の役)という危機的状況の中で、愛人の出産のために実質的に職務を放棄していたとされているのである。
しかし、弘安六年(1283)、即ち弘安の役の二年後の比較的忙しくない時期においてすら、病気を押し切って関東申次の職務を全うした西園寺実兼が、元寇の直前という重大時局に際して、愛人の出産のために職務を放棄したなどということは絶対にありえなかったと私は思う。同様に西園寺実兼が、勝手に御所を飛び出した愛人を捜すために、わざわざ醍醐のようなところに自ら出向いたとは私にはとうてい思えない。
「とはずがたり」のような奇妙な本から離れて、当時のきちんとした史料から伺われる西園寺実兼の姿を素直に見ると、西園寺実兼はびっくりするくらい真面目人間なのである。西園寺家は、実兼の祖父実氏も、実兼も、実兼の息子公衡も、みんな誇りと責任感を持って関東申次の仕事を行っていたのであり、精神の退廃の気配など微塵もないのである。
そして、西園寺実兼のみならず、後深草院も、「有明の月」とされている性助法親王も、変態老人「近衛の大殿」とされている鷹司兼平も、「とはずがたり」や「とはずがたり」を大量に引用している「増鏡」から離れて、当時のきちんとした史料に残された記事を積み重ねて行けば、「とはずがたり」とは全く異なる人物像が描き出されてくるのである。
構造
国文学者たちは「とはずがたり」を整合的に把握しようとして、年表を作ったりして詳細な研究を重ねているのであるが、「とはずがたり」に本当に整合性があるのだろうか、というのが私の基本的な疑問である。これを「粥杖事件」を素材として検討してみたい。
「粥杖事件」というのは二条が18歳のときに起こした騒動で、学者たちが作った年表によれば建治元年(1275)のこととされている。「とはずがたり」の特徴、作者二条の性格を分析するために非常に重用な部分だと思われるので、少し丁寧に紹介してみたい。
@ 1月15日の小正月には粥杖の風習があり、この日、粥を煮た燃えさしの木で作った杖で女性の尻を打つと男児を生むとされ、例年大騒ぎすることになっていたが、この年(建治三年)の小正月に、後深草院は自分自身だけでなく御近習の男たちまで集めて女房たちを打たせた。これが悔しくて、二条と「東の御方」(煕仁親王即ち伏見天皇の母)が申し合わせ、十八日に後深草院をひっぱたこうと計画した。そして他の女房を見張りに立てたうえで、「東の御方」が後深草院をつかまえている間に、二条が粥杖で後深草院を思うさまにひっぱたいた。
A 「しおほせたり」(うまくやった)と思っていたところ、その日の夕方、後深草院が公卿たちを前にして、「わたしは今年33歳になるが、その厄に負けた。こんな目にあったのだ。天子に杖を当てるなんてとんでもないことだ」と言い出した。すると、二条の叔父で、お調子者の善勝寺大納言隆顕がしゃしゃり出てきて、「そんなことをした女房の名前は誰々でございますか。急ぎ承って、罪科の趣を公卿一同で協議いたしましょう」と言う。しめしめと思った後深草院が、「罪の科は親類にも及ぶのであろうか」と問いかけると、隆顕をはじめとする公卿たちは、「申すまでもありません」と答える。すると後深草院は、「私を打ったのは久我大納言雅忠の娘、四条大納言隆親の孫、善勝寺大納言四条隆顕の姪で、隆顕卿の養子でもある二条殿なのだから、まず第一にあなたが責任を負うべきで、ひと事ではないだろう」と隆顕に言う。御前に控えていた公卿たちがいっせいに大声ではやし立て、笑い騒ぐ。結局、四条大納言隆親と息子の善勝寺大納言隆顕が贖(あがない.財物を出して罪を償うこと)をすることになる。
B 二条の母方の親戚である隆親と隆顕は贖のプレゼントを用意して大宴会を開く。隆顕は「自分たちは贖をすませたけれども、二条の父方の親戚にも責任があるので、久我の尼にも贖をさせるべきです」と言い出す。すると久我の尼は、「二条は幼いときから御所に召されていたので、里方で育てるよりも立派に育っていると思っていたのに、こんないたずら者になっているとは知りませんでした。これは後深草院さまの責任です。父親の雅忠が生きていれば、不憫に思って贖をしたかもしれませんが、私は全く関係がないので、勘当せよということでしたらそうします」と反論の手紙を院に提出する。
C 公卿たちは久我の尼の反論はもっともだと言って、後深草院にも責任がある、と言い出す。後深草院は驚いて、「私自身のために贖をさせたのに、まわりまわって私が贖をするなどということがあるものか」と言うのであるが、「主上として科があるとおっしゃるのであれば、臣下の方としても、また御上の科を申し上げるのも理由のないことではございません」ということになって、結局、後深草院も贖をすることになり、中御門経任が用意することになる。二条は「をかしくも堪えがたかりしことどもなり」(おかしくってしかたがなかった)と言って終わりになる。

つまり「粥杖事件」は四幕もののコメディになっているのである。初春の明るい宮中の雰囲気が伝わってきて、文章も極めてスピーディで本当に楽しい場面である。しかし、学者は誰ひとり指摘しないけれども、この場面は極めて異常だと私は思う。いったいどこが異常なのかというと、実にこの明るさが異常なのである。分かりやすくするために、この時点での二条の履歴書を作ってみることとしたい。
履歴書
1275年(建治元年)1月18日現在
氏名 後深草院二条(久我雅忠女二条)
年齢 18歳(満年齢17歳)
生年月日 1258年(正嘉2年)1月
住所 京都市中京区二条富小路殿(後深草院御所)内
学歴 4歳より自宅(久我雅忠邸)と後深草院御所を往復し、宮廷女性としての礼儀作法と一般教養をOJTにて学ぶ。
職歴 14歳にて正式に女房となり、現在に至る。
得意な学科 国語(「源氏物語」や西行の歌を好む。)
特技 音楽、特に琵琶。6歳より叔父久我雅光に習い始め、9歳より後深草院に学ぶ。後嵯峨院より誉められたこともある。また、絵も上手。
健康状態 良好
特にアピールしたい点 とっても明るくお茶目な性格です。
家族 なし
こういう状況を想定していただきたい。あなたがある企業の採用担当者だとする。高校卒業予定者の面接の日にやってきたのは目の覚めるような美少女で、頭の回転が速く、ハキハキとしゃべり、性格も明るくて良さそうだ。履歴書も特に気になる点はないので、あなたはこの子を是非採用したいと思ったとする。ただ、家族の欄が「なし」となっているのが気になったので、あなたは何気なくこう質問するのである。
「立ち入ったことを聞くようだけど、ご家族は何をしていらっしゃるのかな」
すると少女は満面に笑みを浮かべつつ、次のように答えるのである。
「母は私が二歳の時に亡くなり、父は三年前に病死しました。実は四年前にある社会的地位の高い人の愛人になって、二年前に子供が一人生まれましたが、三か月前に死にました。また、その子を妊娠中に別の男性と不倫関係となり、四か月前にその男性の子を生みましたが、赤ちゃんはその人がどこかに連れていってしまい、今は会っていません」
あまりのことに卒倒しかけたあなたは、それでも最後の勇気をふりしぼって、こう聞いてみるのである。
「ええと、ちょっと前に、ほら宗教関係のことがいろいろ話題になったけど、あなたは何か特別な宗教団体に入ったりとかしてないかな」
すると、少女は明るくハキハキと、こう答えるのである。
「不倫の結果生まれた二番目の子どもと別れなければならなかったり、一番目の子どもが死んだり、とても悩み事が多かったので三か月前に出家しようと決意しましたが、都合によりやめました」
二条は「粥杖事件」のわずか三か月前に、「前後相違して、愛児に先立たれた悲しみと、生きて愛児に離別した苦しみと、この二つがただわが身一つに集まった思い」がして、「人間の習いとして苦しんでばかり明け暮れる、一日一夜に生ずる八億四千とかの妄念の悲しみも、ただ私一人に集まっているように思い続けられると、そうだ・・そうだ、いっそただ恩愛に苦悩するこの境涯から離れて、仏弟子になってしまおう」(次田香澄氏「とはずがたり(上)全訳注」p203)と決意しているのである。なんと17歳にして出家したいと思うのである。
ところが、こんな重大な決意をしたにもかかわらず、その三か月後の「粥杖事件」時においては、二条は何の屈託もなく明るい。あまりといえばあまりな明るさである。
私は数年前の紅白歌合戦において、沙也加ちゃんの母である松田聖子が、異常に幼稚な舞台装置のもとに、異常に幼稚なコスチュームを着て、昔のヒット曲をメドレーで歌いまくるのを見て、背筋に悪寒を感じた覚えがあるが、そんな明るさとすら比べようのない、異常な、血も骨も凍る、鬼気迫る明るさである。
このように「とはずがたり」はとても変な話なのである。ひとつひとつの場面は非常に良くできているのであるが、それぞれの場面の関係を真面目に考えようとしたとたん、迷宮に入り込んだような感じになってしまうのである。
学者たちはなんとか「とはずがたり」に整合性を持たせようとして必死になって説明するのであるが、私にはさっぱり理解できない。私は国文学者だけでも百人近い学者の論文を読んでいるが、納得できる説明はただのひとつもないのである。学者たちの説明は、「とはずがたり」から自説に都合のよい部分だけを恣意的に取り上げた、ずいぶん乱暴な議論としか思えないのである。
ここに紹介した例でも明らかなように、「とはずがたり」に普通の日記や自伝、あるいは小説にあるような整合性を求めることは、いくらなんでも無理だと私は思う。むしろ通常の意味での整合性がないことを前提に、なんでこんな変てこな話ができたのかを考えた方がよいと私は思うのである。
このような観点から、改めて「とはずがたり」の構造上の特徴をとらえなおしてみたい。「とはずがたり」、特にその宮廷編においては、後深草院を始めとして亀山院・「有明の月」(性助法親王?)・「近衛の大殿」(鷹司兼平?)などが次から次へと変態的行動をとっている。二条自身の行動も相当変である。
これらを整理すると、「とはずがたり」においては、
@ 異常な設定の下に、
A 異常な人物達が、
B 異常な言動を次から次へとくりひろげ、
C 物語の全体的な構造を合理的・統一的・整合的に把握することが極めて困難ないし不可能であるが、
D しかし、ただ何となくずるずる読んでいると、それなりに納得してしまう。
のである。
これは一見すると極めて特異な構造のように思えるが、実はわれわれが日常見慣れているものと全く同一のパターンを示している。それはテレビドラマである。
ちょっと古いが、現代のテレビドラマの特徴が鮮明に現れていた「家なき子」(1994年.日本テレビ.土曜夜9時.安達祐実主演)を例にとってみたい。
<「家なき子」の主人公、相沢すず(11歳)の母親は難病で入院中。相沢すずは学校では貧乏だといじめられ、家に帰ればアル中の義理の父親に金をせびられる。教室で金を盗んだとクラスメイトからつるしあげられても、絶対にやっていないとシラを切るが、「相沢は絶対に盗んではいないと信じてる」という担任片島には「甘いねぇ。一生青春やってろ」と手厳しい。父親が女を部屋に連れ込むと、夜中に灯油をまいて火をつける。しかも、父親が火をつけたと警察に嘘の証言をして‥>
私はこの続きを良く知らないのであるが、仮に「家なき子」の全シナリオを取り寄せて、全回にわたって登場人物ひとりひとりの言動をいちいち記録し、年表を作って、相互に矛盾がないかを細かく検証してみるとしたら、いったいどうなるであろうか。
考えるだけでもおぞましい作業であるが、その検証作業の結果現れてくるのは、多重人格、それも二重や三重といった生やさしいものではない多重人格の化け物以外ないであろう。
つまり、「家なき子」においては、
@ 異常な設定の下に、
A 異常な人物達が、
B 異常な言動を次から次へとくりひろげ、
C 物語の全体的な構造を合理的・統一的・整合的に把握することが極めて困難ないし不可能であるが、
D しかし、ただ何となくだらだら見ていると、それなりに納得してしまう。
のである。ま、これは別に「家なき子」の独創ではなく、山口百恵の「赤いシリーズ」以来、多かれ少なかれテレビドラマはこんなものである。
このように「家なき子」においては物語の全体を合理的・統一的・整合的に把握することは不可能なのであるが、しかし、だからといって、「家なき子」をみた視聴者から日本テレビに怒りの電話が殺到し、他のマスコミが日本テレビに激烈な批判を加え、日本テレビの特別調査委員会が内部調査を開始し、担当プロデューサーがクビになり、責任を痛感した社長が陳謝の記者会見を行ったうえで辞職した、という話もあまり聞かない。
要するに高視聴率狙いの連続テレビドラマにおいては、物語の全体性・ストーリーの整合性などどうでもいいのである。各回の視聴率が上がりさえすれば何でもあり、である。視聴率を上げるためにはマスタードの上にわさびを塗り、さらに唐辛子をかけて、仕上げにタバスコをふるようなことも平気でやるのである。テレビ局が注意しているのは、せいぜい直前の回までのストーリーとあまりにかけ離れた内容となってしまって、視聴者にバカバカしいと思わせてはならない程度のことである。また視聴者も、テレビというのはそんなものだと許容しているのである。
そして、「家なき子」と殆ど同じことが「とはずがたり」においても言えるのではないかと私は思うのである。作者はそもそも物語の全体性・ストーリーの整合性をあまり重視していないのではないか。作者が力を注いでいるのは、ひとつひとつの場面をどれだけドラマチックに盛り上げるか、その一点だけなのではないか。あとは一応の歴史的事実を背景にして、一話完結の数多くの話を、だらだら読んでいる分にはあまり矛盾が目立たない程度に巧みに編集した物語なのではないか。私にはそんな風に思われるのである。
私は別に奇矯なことを言っている訳ではなく、ひとつひとつの場面を重視し、全体の整合性はあまり考慮していない作品は、テレビでなくたってたくさんあるのである。例えば赤川次郎氏の作品もそうである。
赤川次郎氏の作品は推理小説のような形態をとってはいるが、詰めて考えて行くと、殆ど全ての作品に矛盾や破綻がある。ある場面でAという行動をとった人が、さほど時間的間隔が離れていない別の場面でBという行動をとることは、人間の自然な心理として絶対にあり得ないのに、それが起きてしまう。そうした事象が次々と連続しているのが赤川ワールドである。
整合性のないことは許せないという信念の持ち主からすれば、こういう小説があること自体ミステリーなのかもしれないが、大多数の読者は別にそんなことは気にしない。赤川次郎氏の作品が極めて多くの読者を獲得しているのは、全体の構成がしっかりしているからではなく、ひとつひとつの場面がとても生き生きとしていて、会話が洒落ていて、文章に心地よいスピード感があって、現代人の感覚に適合しているからである。
整合性のない文学作品もあっておかしくはないのであって、すべての文学作品に厳密な整合性を求め、年表を作ったりして詳細に事実関係を調査したりするのは、それ自体が異常な行動の場合もあり得るのである。私は率直に言って、「とはずがたり」の年表を作ったりするのは、「サザエさん」や「水戸黄門」の年表を作るくらい変なことなのではないかと思っている。
「とはずがたり」の構造が私の考えているようなものだとしても、本当の問題はその制作動機であるが、それは後で検討したい。
リアルさ
「とはずがたり」の「リアル」さは、多くの学者から驚異的なものとして受け取られているが、私は全く異なる意見を持っている。「とはずがたり」の原文がどのようなものであるのかの紹介も兼ねて、「とはずがたり」の「リアル」さについて、少し検討したい。
検討の素材としては、巻二の終わり、今様伝授のために伏見殿に後深草院の御幸があり、そこで「近衛の大殿」が後深草院の了解のもとで二条と契る場面をとりあげる。ここは「とはずがたり」の中でも屈指の変態的場面のひとつである。まず、原文を紹介する。(「とはずがたり(上)全訳注」p407以下)
今日は御所の御雑掌(ざしやう)にてあるべきとて、資高(すけたか)承る。御事おびたたしく用意したり。傾城(けいせい)参りて、おびたたしき御酒盛なり。御所の御はしりまひとて、ことさらもてなしひしめかる。沈(ぢん)の折敷(をしき)にかねの盃(さかづき)すゑて、麝香(ざかう)のへそ三つ入れて、姉賜(たま)はる。かねの折敷に、瑠璃(るり)の御器(ごき)にへそ一つ入れて、妹(おとと)賜はる。
後夜(ごや)打つほどまでも遊び給ふに、また若菊を立たせらるるに、「相応和尚(さうおうくわしやう)の破(われ)不動」かぞゆるに、「柿の本の紀僧正(きそうじやう)、一旦(いたん)の妄執(まうしふ)や残りけん」といふわたりをいふ折、善勝寺きと見おこせたれば、我も思ひ合はせらるるふしあれば、あはれにも恐ろしくも覚えて、ただ居たり。のちのちは、人々の声、乱舞(らんぶ)にて果てぬ。
御殿(との)ごもりてあるに、御腰打ち参らせて候(さぶら)ふに、筒井の御所のよべの御面影、ここもとにみえて、「ちともの仰せられん」と呼び給へども、いかが立ちあがるべき。動かでゐたるを、「御(お)よるにてあるをりだに」など、さまざま仰せらるるに、「はや立て。苦しかるまじ」と、忍びやかに仰せらるるぞ、なかなか死ぬばかり悲しき。御あとにあるを、手をさへ取りて引き立てさせ給へば、心の外に立たれぬるに、「御とぎにはこなたにこそ」とて、障子(しやうじ)のあなたにて仰せられゐたることどもを、寝入り給ひたるやうにて聞き給ひけるこそあさましけれ。
とかく泣きさまだれゐたれども、酔(ゑひ)心地やただならざりけん、つひに明けゆくほどに帰し給ひぬ。我過さずとはいひながら、悲しきことを尽して御前に臥したるに、殊にうらうらとおはしますぞ、いと堪へがたき。
今日は還御(くわんぎよ)にてあるべきを、「御名残多きよし傾城(けいせい)申して、いまだ侍る。今日ばかり」と申されて、大殿より御事参るべしとて、また逗留(とうりう)あるも、またいかなることかと悲しくて、局(つぼね)としもなくうち休みたるところヘ、
「みじか夜の夢の面影さめやらで心に残る袖の移り香
近き御隣の御寝覚もやと、今朝はあさましく」などあり。
夢とだになほわきかねて人知れずおさふる袖の色をみせばや
たびたび召しあれば、参りたるに、わびしくや思ふらんと思し召しけるにや、殊にうらうらと当り給ふぞ、なかなかあさましき。
現代語訳
今日は院のお受持ちとしようということで資高(すけたか)が仰せを承る。御酒宴を盛大に用意した。白拍子(しらびょうし)が参って盛んなお酒盛である。院の御馳走だというので、格別に騒ぎ立ってもてなされる。沈香(じんこう)の折敷(おそき)に「かね」の杯を載せて、それに麝香(じゃこう)の固まりを三つ入れて姉が頂戴する。「かね」の折敷に、瑠璃(るり)の器(うつわ)に麝香の固まりを一つ入れて妹が頂戴する。
後夜(ごや)の鐘を打つほどまでもお遊びになったが、また若菊を立たせて舞わせられるときに「相応和尚(かしょう)の破(われ)不動」の今様を(鼓の拍子に合せて)歌うと、柿の本の紀僧正、一旦(いたん)の妄執(まうしふ)や残りけん(柿の本の紀僧正が后を恋い幕い、いったん思い込んだ妄執がさぞ残ったことだろう)という辺りをいう折に、善勝寺(隆顕)がちらっと視線を送ってきた。私も思い合せられることがあるので胸を突かれ、また恐ろしくも思われて、じっと座っていた。後々には、人々の大声や乱舞になって宴は終った。
院がお寝みになっているときに、おそばで御腰を打ってさし上げていると、筒井の御所の昨夜のお方が、すぐそこにみえて、「ちょっと用があります」とお呼びになるが、どうして立ち上がることができよう。動かないでいたところ、「御所がお寝みになっている折なりと」など、さまざまにおっしゃられる。
すると院が、「早く立って行きなさい。差支えあるまい」と、忍びやかにおっしゃられるのは、かえって死ぬほど悲しい。院の御足もとに侍っているのを、私の手を取ってまでお引き立てになるので、心ならずも立ちあがったが、「御所のお相手のときにはこちらに返してあげますよ」と、大殿が襖のあちらでおっしゃっていたことどもを、院が寝入っているようにしてすっかりお聞きになっていたのは、なんともあさましいばかりだった。
あれやこれやと泣きくずれていたのだが、たぶん二人とも酔い心地が普通ではなかったのだろうか、結局明けゆくころにやっとお帰しになった。自分からの過ちではないとはいえ、ありたけの悲しい思いをして院の御前に臥していると、格別に御きげんよくていらっしゃるのは、ほんとうに堪えがたかった。
今日はお帰りのはずだったが、
「傾城(けいせい)がお名残多いと申して、まだおります。今日だけもう一日」と申され、大殿のほうで御酒宴を御用意申しあげようとて、さらに御逗留(とうりゅう)があるのも、またどういうことになるかと悲しくて、局(つぼね)というほどでもないところでちょっと休んでいると(大殿から)、
「みじか夜の夢の面影さめやらで心に残る袖の移り香
(短夜に結んだあなたとの夢の面影が、今もなお覚めやらず、袖に残った移り香とともに心に残っています)
「すぐおそばの方(院)が目を覚まされるのではと、今朝はすべてはばかられて」などとあった。(返し)
夢とだになほわきかねて人知れずおさふる袖の色をみせばや
(ゆうべのことは夢とさえまだ区別しかねて、人知れずおさえている私の袖の涙のほどを見ていただきたいと思います)
たびたび院のお召しがあるので、参ったところ、私がつらく思っているだろうと思われたのだろうか、ことに御きげんのよい御様子でお扱いになるのは、かえって、ひどくつらく、言葉もなかった。
ここは「とはずがたり」の中でも、その異常性で有名な場面であって、次田香澄氏は「解説」で次のように言われている。
大殿が傍若無人にも、院の側にいる彼女を呼び出そうとすると、院が積極的に立たせる。彼女が院の心をはかりかねて、「なかなか死ぬばかり悲し」く思うのも当然である。まして、彼の所から帰って後、「ことにうらうらとおはしますぞ、いと堪えがたき」、さらに「殊にうらうらとあたり給ふぞ、なかなかあさましき」と二度にわたり言っているのは、彼女のつらさのほどがわかる。それにしても院の態度はもはや異常を通り越して不可解である。
確かにここに描かれた「うらうら」している後深草院の姿は極めて不可解で不気味なのであるが、そうかと言って二条の態度も相当に変である。
本当に二条が後深草院と近衛大殿に異常な行為を強要された「被害者」なら、その心理的衝撃は非常に大きくて、まさに「死ぬばかり悲し」いはずであり、普通だったらショックで茫然自失となったり寝込んだりするのが当然だと思われるが、二条は寝込むどころか、「加害者」近衛大殿が贈ってきた歌に対して、のんびり返歌を詠んだりしているのである。
続きがあるので、原文から紹介する。
事ども始まりて、今日はいたく暮れぬほどに御舟に召されて、伏見殿へ出(い)でさせおはしはします。更けゆくほどに、鵜飼(うかひ)召されて、鵜舟、端(はし)舟につけて、鵜使はせらる。鵜飼三人参りたるに、着たりし単襲(ひとへがさね)賜(た)ぶなどして、還御(くわんぎよ)なりてのち、また酒参りて、酔(ゑ)はせおはしますさまも今宵はなのめならで、更けぬれば、また御(お)よるなる所へ参りて、「あまた重ぬる旅寝こそすさまじく侍(はべ)れ。さらでも伏見の里は寝にくきものを」など仰せられて、「脂燭(しそく)さして給(た)ベ。むつかしき虫などやうのものもあるらん」と、あまりに仰せらるるもわびしきを、「などや」とさへ仰せ言あるぞ、まめやかに悲しき。「かかる老いのひがみは、思(おぼ)し許してんや。いかにぞやみゆることも、御めのとになり侍らん古きためしも多く」など、御枕にて申さるる、いはん方なく悲しともおろかならんや。例のうらうらと、「こなたもひとり寝はすさまじく、遠からぬほどにこそ」など申させ給へば、よべの所に宿りぬるこそ。
今朝は夜のうちに還御(くわんぎよ)とてひしめけば、起き別れぬるも、憂き殻残るといひぬべきに、これは御車の尻(しり)に参りたるに、西園寺(さいをんじ)も御車に参る。清水の橋のうへまでは、みな御車を遣(や)りつづけたりしに、京極より御幸(ごかう)は北へなるに、残りは西へ遣り別れし折は、何となく名残惜しきやうに、車の影のみられ侍りしこそ、こはいつよりの習はしぞと、わが心ながらおぼつかなく侍りしか。
現代語訳
御酒宴が始まって、今日はあまり暮れないうちに御舟に召されて、伏見殿へおいでになられる。夜が更けゆくころに、鵜飼をお呼びになって、鵜舟をお召しの舟の端(はし)舟としてつけて、鵜をお使わせになる。鵜飼が三人参っていたのに対し、私が着ていた単襲(ひとえがさね)を脱がせて賜わるなどして、(下の御所ヘ)お帰りになって後、また酒を召しあがって、お酔いになるさまも今宵はひととおりでなく、夜も更けたころ、またお寝(やす)みのところへ大殿が参って、
「度重なる旅寝はほんとうに味気ないものですよ。そうでなくても伏見の里は寝にくいといわれていますのに」などおっしゃられて、
「脂燭(しそく)をさしてください。いやなむしなどのようなものもいるでしょうから」
と、しつこく申されるのもやり切れないのに、「どうして行かないのか」とまで院の仰せがあるのは、これはほんとうに悲しい。
「こういう老人のひがみは許してくださいませんか。すこし釣合わないようにみえても、お守役になるという古い例も多いことだから」
などと、院のお枕もとで申されるのは、なんと言いようもなく、悲しいどころではない。院は例のように御きげんよく、
「こちらもひとり寝は物寂しいから、あまり遠くない所にいてくれよ」などおっしゃられるので、また昨夜の所に泊ったのは、(なんとも堪えがたいことであった。)
今朝はまだ暗いうちにお帰りとて騒ぎ立つので、起き別れたのも、「憂き殻のこる」というような心地であったが、私は院のお車に同車でお供したが、西園寺も同じお車に御奉仕される。清水の橋の上まではみなお車をひき続けたが、京極通りから院の御一行は北へおいでになるのに、残りの車は西へ行き別れた折には、なんとなく名残おしいようにあちらの車のうしろ影が見送られたのは、これはいったい、いつからそんな気持になったのだろうかと、わが心ながらおぼつかなく思ったことだった。
これで巻二は終わるのであるが、次田香澄氏は「解説」で次のように述べておられる。
初めに、院が彼女の着ている衣を鵜匠に与えさせるところがある。これは、今回の伏見行きに、曙から贈られたものであり、曙はこの様子を傍らでみて、さぞおもしろからず思ったろう。院としては、昨夜の筒井の御所のことも、この件も、彼女と曙との関係を知悉した上で、あえていやがらせをしたことになる。しかし曙としては悔しくてもどうにもならない。そうした彼女をめぐる男たちの卍巴(まんじどもえ)の心理の葛藤が暗黙のうちに想像される部分である。終りの、五条橋を渡って車が遣り別れるときの作者の心理も、これまでの経過と作者の心情からすれば不可思議に思われる。しかし、女性の微妙な心理を理解すれば、女性の内面的な秘密を告白したものだと知るのであり、ここに物語・小説などの創作では求めえない真実の迫力を感じないではいられない。巻二を院・大殿と作者との関係で終ったことは、その関係の異常性が、巻三において院有明と作者との関係、同時に曙との関係の終焉として発展する前表とみることができよう。
私はあまり「女性の微妙な心理を理解」できないので、次田香澄氏の言われることはよく分からない。こんなのんびりした感想を抱くような人が本当に「死ぬばかり悲し」とか「いはん方なく悲し」などと思っていたのか、この人が本当に「被害者」なのかという疑いを深めるばかりである。
また、そもそも「女性の内面的な秘密」がどうのこうのと言う前に、もっと外面的なところで詰めておくべき作業があるように思われる。それはこの伏見御幸が行われた時期についての検討である。
「とはずがたり」を素直に読む限り、この伏見御幸が行われたのは「女楽事件」と同じ年である。二条が「女楽」の配役をめぐって祖父隆親と大喧嘩し、御所を飛び出して行方不明になったのが、国文学者の「年立て」によれば建治三年(1277)3月のことであり、翌4月に善勝寺大納言隆顕が父隆親と対立して籠居、同じ4月末に二条は醍醐で隆顕と会い、また隆顕・雪の曙と三人で語り合い、さらに後深草院に迎えられて御所に戻る。そして8月になって伏見御幸が行われるのであるが、実は二条は「女楽事件」のときには妊娠していたことになっていて、懐妊は前年の12月頃と書かれているのである。
そうだとすれば、伏見御幸が行われた建治三年8月には二条は妊娠九か月であり、出産直前の時期であるが、そういう時期に牛車にガタガタ揺られ、船に乗って伏見くんだりまで行くこと自体が奇怪であり、また近衛大殿が後深草院の了解のもとで妊娠九か月の女と連日同衾したとすれば、それはグロテスクとしか言いようのない光景である。
次田香澄氏、久保田淳氏、三角洋一氏といった錚々たる国文学者の書かれた「とはずがたり」の注釈書には、いずれも詳細な年表が付されていて、そこには女楽事件が建治三年3月、伏見御幸が同年8月と明記されているのであるが、これはいったいどういうことなのだろうか。学者たちは、詳細な年表まで作りながら、何の疑問もいだかないのだろうか。
私は、伏見御幸の時期ひとつとっても、ここで語られていることに「真実の迫力」など全く感じない。伏見御幸の話は確かにその描写が「リアル」で異常な迫力があるが、それは「真実の迫力」ではなくて、特別な才能を持つ作家の手により緻密に構成された濃密な演劇的空間においてのみ生まれる「虚構の迫力」だと考える。それは「物語・小説などの創作で」なくて「は求めえない」リアルさだと考える。
地名の誤り
「とはずがたり」の前三巻(宮廷編)と較べると、後二巻(廻国編)は内容が地味で、虚構性も高くないように見えるのであるが、詳しく検討すると、そうでもないのである。ずいぶん奇妙な記述が多いのである。
例えば巻四で、正応二年(1289)、二条が鎌倉入りする場面には次のような記述がある(「とはずがたり(下)全訳注」p219)。
夜が明けると鎌倉へはいったが、極楽寺という寺へ参ってみると、僧の所作は都と違わないのをなつかしく思ってみた。化粧坂(けわいざか)という山を越えて鎌倉のほうをながめると、東山で京をみるのとはだいぶ違って、家々が階段のように幾重にも重なって、袋の中に物を入れたようにぎっしりと住まっているのは、ああやりきれない、とだんだん見えてきて、心の惹かれるような気もしない。由比の浜というところへ出てみると、大きな鳥居がある。若宮のお社がはるかにお見えなので、───他の氏よりはとくに源氏を守って下さるとか、お誓いになっているということだが、自分は縁があったればこそ源氏の名門に生れたのだろうに、どういう報いでこうなのであろうと考えてみると、───そうだった、父が来世に極楽に生れ変るようにと(石清水八幡に)祈誓申した折、「おまえの現世の幸福と引替えに、かなえよう」と承ったので、(それを)恨み申すわけではないけれど……たとえ乞食の境涯におちても嘆くことはできない。
原文では「明くれば鎌倉へ入るに、極楽寺といふ寺へ参りてみれば、僧の振舞、都にたがはず、懐しくおぼえてみつつ、化粧坂(けはひざか)といふ山を越えて、鎌倉の方(かた)をみれば、東山(ひんがしやま)にて京を見るにはひきたがへて、階(きざはし)などのやうに重々に、袋の中に物を入れたるやうに住まひたる、あなものわびしとやうやう見えて、心とどまりぬべき心地もせず。……」となっていて、この場面は中世都市鎌倉の特徴を極めて鋭く把握したものとして、歴史学者が好んで引用する箇所である。
しかし、この記述は、実は極めて変なのである。鎌倉の地図を見れば明らかなように、極楽寺から化粧坂を経て由比ヶ浜に出るという行程はありえないのであって、二条が通ったのは化粧坂ではなく、極楽寺坂だと考えざるをえないのである。
この点は、もちろん多くの人が気づいていて、例えば司馬遼太郎氏は、「三浦半島記 街道をゆく四十二」(朝日新聞社)において次のように述べておられる。
化粧坂といふ山を越えて、鎌倉の方(かた)を見れば‥‥とある。彼女はやがて坂の上から鎌倉市街を見おろすのだが、その前に極楽寺を参詣している。当然、彼女が選んだ入口は、極楽寺坂なのである。当の化粧坂は、極楽寺から直線にして二キロ半ほども離れている。途中、山また山で、じつに遠い。さらにいうと、彼女は坂をくだって由比ケ浜に出たという。化粧坂だと、海岸に出ず、いまでいえば鎌倉税務暑の前に出てしまう。おそらく彼女は極楽寺坂を上下しながら、化粧坂という地名のよさが気に入って、ついとりちがえてしまったのにちがいない。彼女は、その前半生を化粧(けわい)のなかですごした。院に寵せられ、五摂家の当主とも思い出があり、それに仏門に入ったはずの法親王にまで愛された。俗体のころは粉黛(ふんたい)にまみれていたなどという感想も、化粧坂という地名に触発されて湧いたかとも思える。
しかし、私には二条が「化粧坂という地名のよさが気に入って、ついとりちがえてしまった」ものだとは思えないのである。二条は、直前の江ノ島の場面で和漢の典籍を複雑華麗に引用していることからも明らかなように、凄まじい博識、恐るべき記憶力の持ち主である。その二条が、極楽寺坂という特別に重要な宗教的・軍事的空間を、弘安八年(1285)の霜月騒動のわずか三年四か月後、平頼綱の恐怖政治の下に人々が怯えて暮らしていた時期に通過していながら、その名前を誤るなどということは絶対にあり得ないと私は思う。
では、なぜここに「化粧坂」が出てくるのかであるが、それを検討する前提として最初に考えなければならないのは、「とはずがたり」においては異常に頻繁に重大な地名の誤りが出てくること、そしてそこで用いられている言葉が喚起するイメージに奇妙な特徴があることである。地名の誤りを列挙すると以下のとおりである。
(1)東海道を鎌倉に下るときに、二条は伊勢物語の「かきつばた」の歌で有名な八橋(愛知県知立市)の次に熱田社・鳴海潟(愛知県名古屋市)を通過したことになっているが、これは順序が逆である。
この点、例えば冨倉徳次郎氏は、「とはずがたり」(筑摩叢書)において、「前段に三河の八橋を記してこの段熱田に至るのは、旅程として倒錯している。結局作者の過失によることと思われるが、その過失の意味するところは、この紀行が旅程の中で書き継がれたのではなく、晩年の一括した回想の中でたどられたものであること、後日に書いたときに正確な旅のメモなどもなかったであろうことを思わせる」と言われている。
しかし、尾張は「故大納言の知る国」即ち父雅忠の知行国であって、しかも熱田詣では「とはずがたり」において合計四回もなされているのである。どんなに物覚えの悪い人であっても、四回も行った場所とその周辺の地名の関係は把握できるであろう。まして八橋と言えば、歌を詠む人間で知らない人はいないほどの有名な歌枕なのであるからなおさらである。それを二条のような博覧強記の人間が過失で間違えるというのは、どう考えても変である。
そこで、この部分は過失ではなく、作者が何らか意図を持って書いているのではないかと考えると、気になるのは「八橋」、即ち幅の狭い橋板を数枚、折れ折れに継ぎつづけて架けた橋、という言葉である。そしてこの言葉が創り出すイメージを素直に考えると、それは不安定さ・複雑さ・繊細さといったものだと思う。
(2)二条は武蔵国川口から信濃の善光寺に行ったことになっているが、その途中で「碓氷坂、木曽の懸路(かけぢ)の丸木橋、げにふみみるからにあやふげなるわたりなり」(なるほど踏んでみただけであぶなげな山路である)という場所を通過したことになっている。
しかし、「木曽の懸路」は長野県木曽郡上松町にある東山道(中山道)の難所であり、武蔵から碓氷峠経由で善光寺に行くのにこんなところを通るはずがないのである。碓氷峠と「木曽の懸路」は直線距離で約100キロ離れており、しかも歩くとすれば、それを遙かに超える距離を、高低差の激しい曲がりくねった道を通って延々進まなければならないほど離れた土地なのである。
学者は「碓氷も険路であり、ここでは慣用的に使う」(次田香澄氏)とか、「善光寺へ行ったとしても、通った筈はないが、信濃路の険阻から慣用的に出したと解される」(福田秀一氏)とか、「難所を連らねた文飾と見られる」(三角洋一氏)とか、適当なことを言っているのであるが、どうにも不自然な説明である。
ここも、「懸路」すなわち「木材で崖に棚のように造り懸けた路」という言葉に着目すると、この言葉から最も素直に導かれるのは、不安定さ・危険さといったイメージだと思う。
(3)二条は善光寺に参詣してから武蔵に戻り、浅草寺に参詣するのであるが、「とはずがたり」では浅草寺の近くの隅田川に「すだの橋」があって、その対岸が「みよしのの里」となっているのである。この「みよしのの里」というのは「伊勢物語」などに出てくる歌枕で、現在の埼玉県川越市付近であり、もう本当に訳のわからない話なのである。
ただ、これは浅草寺の本尊たる聖観音を尼である二条が十一面観音と間違えるという、これまたとんでもない記述と密接に関連すると思われるので、後で述べることにする。
(4)巻五で、西国旅行に出かけた二条は和知(広島県三次市)の豪族の館に滞在するのであるが、この和知は中国山地の山懐に抱かれた土地であるのに、「とはずがたり」では鞆の港(広島県福山市)のすぐ近くのように描かれている。
二条は滞在先の人々が鎌倉にいる親族の広沢入道という人物を迎える準備をしていて、「絹障子を張って、それに絵を描きたがっていたときに、なんという深い考えもなく「絵の具さえあれば描くのですけど」と申したところ、「鞆というところにあります」といって取りに人を走らせる。まったく悔しかったけれど仕方ない。持ってきたので描いた」((「とはずがたり(下)全訳注」p364)などと言っているのである。
ここも素直に考えれば非常に不自然なのであるが、学者たちは「海岸近くにも一族が住んでいたようだから、その地名が落ちたのかもしれない」(次田香澄氏)などと格別の根拠もない説明をするのである。
私は、そんなことよりも「絵を描く」という言葉の創り出すイメージに着目すべきだと思う。「絵を描く」と言えば、やはり想像力をフルに働かせて場面を創り出している、という感じがするのである。
この和知の話は、スリリングな展開と社会派ルポルタージュ風のきびきびした文章で、特に歴史学者の興味を引きつけているところであり、一橋大学名誉教授永原慶二氏をはじめとする錚々たる歴史学者が、地方豪族の生態を「リアル」に記録した貴重な史料として生真面目に引用されているのであるが、どうも話が面白すぎるのである。
私は、二条がさりげなく、なんという深い考えもないようなフリをしつつ「絵を描く」という言葉を出しておいて、ここに描かれていることは事実ではなく適当に作り上げた面白い話なのよ、その点充分注意してちょうだいね、でも私はこれだけ丁寧にヒントを出しているのだから、間違えても私の責任じゃないわよ、と言っているような感じがするのである。

以上のように「とはずがたり」における地名の誤りは大変なものである。それぞれの場面について単純に直線距離を測ると、熱田社と八橋が約30q、碓氷峠と「木曽の懸路」は約100q、浅草と三芳野の里が約40qで、鞆の港と和知が約60q、合計約230q分の誤りがあるのである。
このように、重大な地名の誤りが頻出することと、そこでいわばキーワードになっている「八橋」「木曽の懸路の丸木橋」「絵を描く」という言葉が喚起するイメージを考えると、これらの地名の誤りは決して偶然ではなく、二条という極めて緻密な知性の持ち主が残したサインのように思われるのである。
創作能力が異常に豊かで、極めて高慢で、知的でないもの・下品なものを徹底的に軽蔑し、「心の中を人や知らんといとをかし」(秘密を知っている自分の心の中をだれが知ろうか、とまことにおもしろかった)(「とはずがたり(上)全訳注」p284)と思うような、人をからかうのが大好きな女性が残した、「とはずがたり」は決して素直な事実の記録ではなくて、危険で複雑で不安定な創作物だから、取り扱いには充分注意してちょうだいね、というからかいに満ちたメッセージのような感じがするのである。
さて、浅草を除く三例と比較してみるだけでも、「化粧坂」が単なる勘違いなどとはとても言えないと私は思う。その本当の意味を知るためには、「化粧」という言葉が創り出す最も素直なイメージに着目すべきだと私は考える。即ち、これは決して素顔の私ではなく、お化粧で極めて巧みに装った私なのよ、これから入ろうとする鎌倉についても面白い話をたっぷり用意しましたけれど、化粧した私が話すことだから充分に注意して下さいませ、というからかいに満ちたメッセージなのではないかと思うのである。
二条の宗教意識 浅草寺の十一面観音
先に留保した浅草寺についてであるが、まず、問題の場面を紹介したい(「とはずがたり(下)全訳注」p255)。
八月の初め頃ともなったので、武蔵野の秋の風情の見たさにこそ今までここら辺りにもいたのだと思って、武蔵の国へ帰った。そこには浅草と申す堂がある。十一面観音がいらっしゃる。霊験あるみ仏と聞くのもゆかしくて参ると、野の中をはるばると分けてゆくのに、萩・女郎花(おみなえし)・荻(おぎ)・芒(すすき)よりほかにはまた混じるものもなく、これらの高さは馬に乗った男が見えないほどなので推しはかれよう。三日ぐらいか分けていっても尽きもしない。すこし協へ入った道にこそ宿場などもあるが、はるばると続く道は来し方も行く末も野原である。
浅草の観音堂はちょっと高くなって、それも木などはない原の中にいらっしゃるが、(折からの月の出に)ほんとうに「草の原より出づる月影」と思い出せば、今宵は十五夜であった。宮廷で催される管絃の御遊も思いやられるが、院から賜わった形見の御衣(おんぞ)は、如法経の折に御布施として、八幡大菩薩に奉納したので、「今ここにあり」とは思われないけれど、宮廷のことを忘れ奉ることがないので、余香を拝する志も古人の心深さにかわらないと思った。
原文では「武蔵の国に帰りて、浅草と申す堂あり。十一面観音のおはします、霊仏と申すもゆかしくて参るに……」となっていて、浅草寺の本尊が十一面観音だとされているのである。
しかし、浅草寺の正式名称が「聖観音宗総本山金龍山浅草寺」であることからも明らかなように、関東地方きっての古刹である浅草寺の本尊は聖観音であって、十一面観音ではないのである。例えば、金龍山浅草寺が自ら編集している「図説浅草寺−今むかし」(東京美術)という本には、
浅草寺に伝存の「浅草寺縁起」によると、推古天皇三十六年(628)3月18日の早朝、檜前浜成(ひのくまのはまなり)、竹成(たけなり)兄弟が江戸浦(隅田川の下流辺りを昔は宮戸川といった)で漁労中、一体の仏像を投網(とあみ)の中に発見した。それを土師中知(はじのなかとも)が拝し、聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)の尊像であることを知り、自ら出家し、屋敷を寺に改めて深く帰依(きえ)したという。これが浅草寺の草創である。
と書かれているのであるが、これは鎌倉時代においても、少なくとも関東の人には常識だったはずである。
なぜ聖観音が十一面観音に替わってしまっているのかは後で検討することにして、「みよしのの里」の場面も、一応確認しておきたい。先に紹介した部分のあとに歌が二首あげてあって、それから以下のように続くのである(「とはずがたり(下)全訳注」p259)。
ところで隅田川原近い辺りだろうかと思うが、たいそう大きな橋で清水や祇園の橋ぐらいなのを渡ると、小ざっぱりした男二人と会った。「この辺りに隅田川という川があるそうですがどこでしょう」と問えば、
「これがその川ですよ。この橋をすだの橋と申します。昔は橋がなくて、渡し船で人を渡しましたが、わすらわしいというので橋ができました。隅田川などとはやさしい名を付けておいたものですね。土地の者たちの言いならわしでは、すだ川の橋と申しております。
さてこの川の向うを昔は三芳野(みよしの)の里と申しましたが、百姓たちの刈り乾す稲と申すものに、実の入らぬ所でしたのを、時の国司が里の名を尋ね聞いて、実の入らないのも道理であるとて、吉田の里と名を改められて後、稲はちゃんと実が入るようになりました」
ここで、「伊勢物語」に出てくる都鳥の話を思い出して歌を二首詠んで、鎌倉へ戻ったという展開になっているのである。
さて、「とはずがたり」のこの部分は、直前に描かれた浅草寺の寂れた光景と併せて考えると、ずいぶん奇妙である。浅草寺という聖なる空間があるからこそ、そこに町が生まれ、活発に交易がなされ、清水・祇園に匹敵する巨大な橋が必要となったはずである。中世の町のあり方から言って、浅草寺の興隆と周辺の商業活動・交通の発展は分離できないのであって、一方で巨大な橋が維持され、そこに「きたなげなき男」も存在しているほど町が発展しているのに、浅草寺が寂れているというのはバランスがとれないのである。
ま、それはともかく、前に述べたように、隅田川を渡ると「みよしのの里」だというのは余りに奇妙な話なのであるが、久保田淳氏は「「とはずがたり」−配所の仮託」(「隅田川の文学」岩波新書)というエッセイ風の文章で、次のように言われている。
「みよしのの里」を思わせる古い地名として、「伊勢物語」十段に「入間の里、みよし野の里」というのがあり、現在の埼玉県坂戸市横沼かとされている。また、「吉田」は川越市に地名として残る。両市は境を接し、「伊勢物語」の、「みよし野のたのむの雁もひたぶるに君が方にぞよると鳴くなる」「わが方によると鳴くなるみよし野のたのむの雁をいつか忘れん」という歌語りの世界はここかと伝えられてもいるのだが、しかし彼女は浅草寺に詣でたのち、入間の郡までさまよって行ったのではないであろう。この時代にも隅田川は浅草寺のすぐ東側を流れていたと考えられるのである。
「みよしのの里」や「吉田」は当時の隅田川界隈に実際にあった地名かもしれないし、「伊勢物語」の世界を持ち込んで在五中将業平への言及を自然にしようとした彼女の作為であるかもしれない。ともかく、この川は大河であった。そこに架けられた橋は、清水詣でに渡った都の五条橋、祇園に参籠した時渡った四条大橋を思い出させた。しかし、業平が呼び掛けたという都鳥は見えない。立ち籠める川霧に視界もきかない。雲の中に初かりがねの声がする。その声は「どうして旅するの、何が悲しいの」と呼び掛けるかのようである。長旅にやつれながらも昔の色香を失っていない尼は、大川のたもとに佇んで涙する。
久保田淳氏は、「「みよしのの里」や「吉田」は当時の隅田川界隈に実際にあった地名かもしれない」などと言われているが、ここでの地名の大混乱は大変なものである。原文を素直に読む限り、奇怪なことに、「彼女は浅草寺に詣でたのち、入間の郡までさまよって行った」としか考えられないのである。
また、「「伊勢物語」の世界を持ち込んで在五中将業平への言及を自然にしようとした彼女の作為」があると考えるならば、浅草寺という宗教的聖地に関連して、このような作為を平然と行う後深草院二条の宗教に対する基本的態度について、多少の疑問を感じるのが常識的な感覚だと思うが、久保田淳氏にはそうした感覚は無いようである。
さて、「とはずがたり」において、浅草寺の本尊を聖観音ではなく十一面観音としている点について、私は主要な注釈書を全てチェックしたみたが、国文学者たちは完全に無視するか、せいぜい「廻国雑記」でも十一面観音としている、といった程度のコメントを載せているだけである。
しかし、この部分は極めて奇妙である。二条は尼であり、仏教の専門家である。そして彼女は浅草寺に「霊仏と申すもゆかしくて参」ったはずの人なのであり、あちこち数多くの寺を廻ったついでに浅草寺にも行ったと一言だけ触れている「廻国雑記」とは事情が違うのである。そのような人が訪問先の寺の本尊を間違えるなどということが本当にありうるのだろうか。
現代の観光客なら観音の種類などどうでもよいことであるが、それでも聖観音は顔がひとつだけの最もシンプルな観音であるのに対し、十一面観音は文字通り顔が十一もあるのであって、知っていさえすれば小学生でも区別は簡単である。しかも二条は「とはずがたり」に記された仏教的語彙だけからみても、仏教について該博な知識を持っていることが明らかな仏教の専門家である。その専門家が、参詣のためにわざわざ出向いて行った寺の本尊を間違えるなどということは、ずいぶん仏教を軽んずるものであり、仏罰を蒙ってもおかしくないほどの醜態である。それは国文学者が枕草子の作者を紫式部と誤解したり、仏教学者が日蓮宗の開祖を親鸞だと思い込んだり、鮨屋の親父がイカとタコを間違ったりするくらい変なことだと私は思う。
私は、この「誤記」は単なる間違いとして済ますことは到底できないほど奇妙なものであり、細心の注意を払って分析する必要があると考える。そして、その際には少なくとも以下の点に配慮しなければならないと思う。
第一は、二条が描き出した浅草寺の様子は、他の史料から伺われる当時の浅草寺の状況と較べると貧相に過ぎ、二条が実際に浅草寺を訪問したにしては不自然に思われる点である。
第二に、どこか暗示的なのが「浅草」という地名である。これは「深草」の反対語になっていて、この言葉自体、後深草院を連想させる。しかも「浅草」の対岸が何と埼玉県川越付近の「みよしのの里」であり、この「みよしのの里」という地名が、久保田淳氏も言われるように「伊勢物語」の「みよし野のたのむの雁もひたぶるに君が方にぞよると鳴くなる」「わが方によると鳴くなるみよし野のたのむの雁をいつか忘れん」という歌を思い出させ、さらにこれらの歌が「とはずがたり」巻一の冒頭、即ち後深草院が二条を後宮に入れようとして、父大納言雅忠に「この春よりはたのむの雁もわが方によ」と言った場面を連想させる、という具合に、複雑かつ優雅な連想をともなって、「浅草」は後深草院を思い起こさせるのである。
「とはずがたり」において最も重要な登場人物は後深草院であるが、同時に後深草院こそ、最も不可解な、最も謎めいた人物である。そして、この浅草寺の場面も随分謎めいているのであり、もしかしたら作者二条にとって必要だったのは、当時現実に存在していたはずの浅草の地や浅草寺ではなく、この「浅草」という言葉自体だったのではないか、作者は「浅草」という言葉をキーワードにして後深草院に関係する何かを表現しようとしているのではないか、という感じがするのである。
第三が問題の十一面観音である。これは「岩波仏教辞典」によると、次のような仏である。
原語は、十一の顔を持つ者という意味。観音信仰の広がりの中で最も早くヒンドゥーの神と接点を持って変化した観音で、頭上に十の小面をつけ本面と併せて十一面を持つ。これは観世音菩薩の別名として、あらゆる方角(十方)に顔を向けたもの、という救済者として持つべき能力を具体化したものといえよう。正面三面が慈悲面、左三面が瞋怒(しんぬ)面、右三面が狗牙上出(くげじょうしゅつ)面、後方暴悪大笑(ぼうあくだいしょう)面、頂上仏面である。陀羅尼集経(だらにじつきょう)や十一面神呪経(じんじゅきょう)の漢訳に伴って中国・日本でも広い信仰を集めた。
この説明で一番気になるのは、「暴悪大笑面」である。十一面観音の穏やかな正面の顔の反対側には、大笑いしている顔が隠されているというのである。私は初めてこの「岩波仏教辞典」の説明を読んだときは、笑う仏像というイメージが全然浮かんでこなくて、実際にどのような顔をしているのか確認しようと思ったのであるが、仏像に関する普通の写真集に出ている十一面観音の姿は正面像ばかりで、背後からとった写真など、なかなか見あたらないのである。
さんざん苦労したあげく、ある図書館でやっと室生寺の十一面観音の「暴悪大笑面」を見つけたのだが、これには意表を突かれた。これを見たときは本当にぞっとした。いくら名前が「暴悪大笑面」とはいえ、観音と言えば慈悲の代名詞、母性の象徴のような仏様なのだから多少は穏やかな顔をしているのではないかと思っていたのだが、実際の「暴悪大笑面」は、笑い顔というよりは凶悪・凶暴な面構えと言った方がいいような凄まじい顔なのである。
で、結論であるが、上記の点を総合的に考慮すると、作者が浅草寺の聖観音を十一面観音と「誤記」したのは、「浅草」が「深草」の反対語なのだから、十一面観音の反対側を御覧なさいよ、そこに本当の私がいるかもね、それが敬虔な尼を演じている私の本当の姿なのかもしれないね、というメッセージを伝えたいためなのではないかと私は考える。後深草院二条は、十一面観音の「暴悪大笑面」に、にんまり笑いながら隠されたメッセージを発信している自分を重ね合わせているのではないかと思うのである。
そして「浅草」の対岸を「みよしのの里」としたのは、十一面観音だけではヒントが少なすぎて、特に関東以外の人には気づいてもらえないおそれがあるから、分かりやすい甘いヒントを付け加えておいて、この浅草の場面には何か特別な意図があることを示したかったからではないかと思う。
以上のような見解は古典の常識を覆すものであって、容易に受け入れられないであろうことは私も十分わきまえている。私も、後深草院二条という女性が誠実で信頼できる人間ならば、いくら地名の誤りが多いからと言って、また、暗示的と受け取られるような表現があるからと言って、こんな技巧的な分析はしないのである。
しかし、後深草院二条という女性が常識ではとても捉えきれない存在であることは、他ならぬ「とはずがたり」が豊富な例証を用意している。学者たちが詳細に分析しているように、彼女は、話を面白くするためには、皇女(遊義門院)の誕生と治天の君(後嵯峨院)の死という、身分秩序の根幹に関わる重要人物の生と死の時期について、史実と逆転させた記述をすることを全くためらわない。また、同じく話を面白くするためには、弘安二年(1279)に死んでいるはずの祖父四条隆親を弘安六年(1283)に生き返らせることもためらわない。さらに、どう見ても行っていないはずの足摺岬という宗教的聖地に行ったと平然と言い張ることもためらわない。
これらのひとつひとつについて、国文学者たちはもっともらしい、とは言っても、何らかの事情で事実を朧化したのであろう、などという、全然理由にもならない説明を重ねるけれども、ごく素直に考えてみれば、後深草院二条は相当に変な女である。
どんな社会においても、ついてよいウソといけないウソがあると思うが、後深草院二条は、基本的な身分秩序より、先祖の生死より、宗教的聖地より、話の面白さを優先させているのである。この女はどう見ても普通の女ではないと私は思う。
もっとも、以上は後深草院二条という女ならとんでもないことをやりかねないと言っているのみで、いわば状況証拠の積み重ねに過ぎないことは私も承知している。「とはずがたり」を使って後深草院二条が何をやろうとしたのか、その動機の部分が正確につかめないと説明としては不十分であることは、もちろん私も自覚している。
ただ、後深草院二条が、出家後も決して敬虔な尼になった訳ではないと疑うに足る理由が充分すぎるほど存在することだけは、ここで確認しておきたい。
 
「とはずがたり」考5 作品解説2

概略
「とはずがたり」という作品は、作者のきわめて波潤に富んだ人生体験、恋愛体験を述べた日記文学ですから、ある部分をポッと取り出して鑑賞するというのも、なかなかむずかしいと思いますので、作品のごく要点を年表風にまとめてみました。味もそっけもないものですが、ひととおり読んで、そのあとで講読に入りたいと思います。
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「とはずがたり」略年表
文永8年(1271)  14歳 後深草院の後宮となる(4歳より御所で育つ)。
      9年           15歳 父を失う。雪の曙と契りをもつ。
    10年        16歳 院の皇子を生む。
    11年           17歳 雪の曙の子を生む。皇子夭折、出家を思う。
〔巻一〕
建治元年(1275) 18歳 粥杖事件。亀山院に知られる。有明の月と逢う。
      3年            20歳 両院の遊宴に奉仕。女楽事件。近衛の大殿と契る。
〔巻二〕
弘安4年(1281)  24歳 有明の月と復交、懐妊。両院の大宮院見舞に奉仕。
                               有明の月との第一子を生む。有明の月、病死。 
     5年            25歳 里居がち。亀山院との噂。有明の月の第二子を生む。
     6年            26歳 東二条院の命により、御所を退出。
     8年            28歳 北山准后九十賀に奉仕。
〔巻三〕
正応元年(1288) 31歳 (永福門院の伏見帝への入内に奉仕。「増鏡」)
     2年           32歳 すでに出家。東国旅行(鎌倉、川口)。
     3年            33歳 同(善光寺、浅草寺)、帰京。奈良旅行。
     4年            34歳 石清水で後深草院と再会。熱田、伊勢旅行。
永仁元年(1293) 36歳 伏見に後深草院を訪問。数年後、二見が浦に旅行。
〔巻四〕
乾元元年(1302) 45歳 西国旅行(厳島、白峰、備後和知)。翌年、帰京。
嘉元二年(1304) 47歳 東二条院崩御。後深草院崩御、葬列を裸足で追う。
                               父の三十三回忌。和歌に精進する。
     3年             48歳 人丸影供を営む。熊野旅行。院の一周忌。
     4年             49歳 石清水で遊義門院の知遇を得る。院の三回忌。
〔巻五〕
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作者は文永八年(1271)14歳の年に、後深草院の寵愛(ちょうあい)を受けることになりました。作者はじつは、すでに4歳から院のもとに上がっています。童殿上(わらわてんじょう)の女性版で、女(め)の童(わらわ)でいいのでしょうか、そういうかたちでお仕えしていましたが、14歳になって成人して、いよいよ後深草院の寵幸を得ることになったのです。その翌年、文永九年に作者は父を失ってしまいます。母は、彼女の2歳の年に亡くなっていまして、その意味では現代風に申しますと、結婚してすぐ親を亡くし、世に出ていきなり後ろ楯を失ったわけです。
父を亡くした同じ年、幼馴染みで、昔から心を通わせていた男性というふうに考えてよいかと思いますが、雪の曙という優雅な愛称−お互いないし限られた人々のあいだでだけ通じる雅称ですね−、その雪の曙という男性と契りを結んでしまいます。翌文永十年に、後深草院の皇子を生みたてまつるのですが、皇子は翌年、数え年わずか2歳で亡くなります。
文永十一年(1274)、後深草院にはいつわって、雪の曙とのあいだに女児を生みますが、これはすぐ雪の曙が引き取って、自分の妻に育てさせることになります。やがて皇子があえなく亡くなったという知らせを聞いて、作者はひそかに出家したいと願うようになりました。ここまでが巻一の内容です。
巻二に入って、文永十二年(建冶元。1275)作者18歳の正月、粥杖(かゆづえ)事件という、おもしろくもまた、作者の後宮における立場をはっきり思い知らされる事件を、作者みずから巻き起こしてしまいます。この年、後深草院の皇弟亀山院から好意を示されるようになります。さらに御室(おむろ)と申しまして、仁和寺(にんなじ)の門跡で、御修法(みずほう)の阿闍梨(あじゃり)であった有明の月−これも雅称ですね−、この有明の月という高僧からも好意を示され、逢って契りをもってしまいます。
一年跳んで、建治三年、20歳の年にあたりますが、作者は後深草院と亀山院の遊宴に奉仕して、そこで、またまた女楽(おんながく)事件という大騒動を引き起こしてしまいます。巻二の最後のところでは、近衛(このえ)の大殿(おおいとの)という男性と契りをもたされてしまいます。これは後深草院が、作者の後見人に大殿を指名して、交換条件として男女の契りを結ばせたのだろうといわれております。
このように作者は後宮にあって、後深草院の寵愛を受けながら、女房のかたちで院のおそばに仕えているうちに、いろいろな男性から注目され、好意を示され、さらには契りをもってしまうというようなことが度重なっていきます。愛欲の渦に巻き込まれ、翻弄されつつ悩み苦しみ抜いたこの体験を、のちに、わが人生の意義を考え、振り返って自伝にまとめあげようとした時、作者はどのような視点から、どのような位置づけを与えようとしたのでしょうか。「とはずがたり」を理解し、評価していくうえで重要なところであろうと思います。
巻三に入って、ここですこし跳びますが、弘安四年(1281)作者24歳の年というlことにしておきます。作品の内部にそれほどひどい矛盾はなく、巻二から巻三へと年次の空白もなくつづいているのですが、史実と重ね合わせて理解しようとすると、年時が噛み合わなくなってしまうのです。さて作者は、再び有明の月と契りをもつにいたって、ついに有明の子を懐妊し、やがて男児を生みます。奇妙なことに、後深草院は有明の愛欲の念を知ると、これを許すだけでなく、作者が有明の子を身籠(みごも)るのを待って、みずから乗り出して引き取り、院の皇子として後宮の女性の一人に育てさせるのです。ところが、有明は流行病にかかって、あっけなく亡くなります。
翌弘安五年には、作者は里居がちとなりますが、折しも亀山院との仲が世の噂となって宮仕えもむずかしい状況になり、おまけに有明とのあいだの第二子を懐妊していたことが分かり、生んでしばらくはわが手で育てます。弘安六年、26歳の年に、後深草院の中宮であった東二条院(とうにじょういん)の命令によって、作者は宮仕えを退かされます。
その翌々年の弘安八年、作者の母方の祖父の姉にあたる北山准后(じゅごう)の90歳の祝賀があり、作者はこの朝家あげての晴れの儀式に出仕して、ここで巻三は終わります。次田香澄先生の表現を一部お借りすると、九十の賀の席には、作者が後深草院にお仕えしているあいだに知り合ったゆかりある人物が勢揃いしている観があって、彼女自身は臨時の出仕でしたが、その宮仕え生活をしのばせる華やかなフィナーレとなっております。以上の前半三巻が前編で、後宮生活編とか愛欲編とか呼ばれているようです。
それから三年後の正応元年(1288)作者31歳の年、西園寺実兼(さいおんじさねかね)の娘※子が伏見天皇のもとに女御として入内(じゅだい)し、のちに永福門院という女院号を賜るのですが、その入内の儀に、作者は三条という召し名で奉仕していることが、歴史物語の「増鏡」の「さしぐし」の記事によって知られます。ですから、作者は31歳の6月2日までは、まだ出家していなかったわけです。
ところがその翌年、正応二年の2月から「とはずがたり」の巻四が書き始められていて、そこではもう作者は尼姿となっており、鎌倉のほうに出家修行の旅に出発しています。作者の出家の時期は正応元年6月以降、翌二年2月以前の約半年間に限られるわけです。正応元年8月3日が父の十七回忌の命日にあたっています。十七回忌というと、三十三回忌までのちょうど中間点になりますが、はたしてこのころ、七回忌や十三回忌などより特別視されていたかどうか、よく分からなくて自信ありませんが、あるいは作者は父の命日の折に、父の遺戒の言葉を思い起こして、出家に踏み切ったのかもしれないと、そう想像をめぐらしております。後半の巻四、巻五が後編で、紀行編とか修行編とか呼ばれています。
作者はたいへん健康に恵まれていて、32歳の年に東海道を下って鎌倉に入り、じつは鎌倉で病臥するのですが、年を越してから信濃の善光寺まで参詣の旅をし、八月十五夜には武蔵の国に戻り、浅草の観音堂に詣でます。鎌倉では、親王将軍の交替させられるさまや御家人(ごけにん)の振舞いを見聞して、批判的な感想を書きとめていました。和歌や続歌(つぎうた)をたしなむ風流な御家人との交際もあったようです。
そののち都に戻り、休む暇もなく奈良のほうに修行の旅に出て、翌正応四年の2月の初めに、氏神である石清水八幡宮に参拝したところ、偶然でしょうか、後深草院も石清水御幸ということで、院のほうから作者を呼びとめ、召し入れて、一晩語り明かすという、うれしい院との再会がありました。その後、作者は熱田神宮に参寵し、さらに伊勢神宮に詣でています。
永仁元年(1293)作者36歳の年でしょうか、後深草院のお召しにより、伏見離宮に院をお訪ねし、その数年後、再び伊勢の二見が浦に行くというところで、巻四は終わっています。
そのあとずいぶん間が空いているように見えまして、このあたり正確なところは分かりませんが、逆算すると乾元元年(1302)45歳の年かそれ以前、今度は安芸(あき)の厳島(いつくしま)社に参拝し、土佐の足摺岬まで足を延ばしたのでしょうか、はっきりしません、それから讃岐の白峰、坂出市の崇徳院(すとくいん)御陵に詣でて、翌年帰京します。
嘉元二年(1304)47歳の年に、作者をたいへん憎み、最後には宮仕えを退かせた東二条院がお亡くなりになる。その年、やがて後深草院もお亡くなりになり、作者は霊柩車を裸足で追ったという、たいへん印象的な挿話が語られます。この年はまた父の三十三回忌にあたっており、作者は墓参して、「新後撰集(しんごせんしゅう)」に父の歌が洩れたことを報告し、「父の歌が勅撰集に再び入集(にっしゅう)するように、またわたしも勅撰歌人となるように、和歌の道に精進します」と、誓いを立てております。
翌年、歌聖柿本人麻呂を讃える人丸影供(ひとまるえいぐ)を営み、歌道精進を志しつつも、熊野に詣でて写経につとめ、後深草院の一周忌には法会(ほうえ)を聴聞(ちょうもん)し、その翌年、嘉元四年(1306)49歳の年、石清水八幡宮でまたも偶然に、院の忘れ形見の女院、遊義門院の御幸に出会い、門院の知遇を得ることとなりました。このあと、後深草院の三回忌の仏事の済んだところで、「とはずがたり」は閉じられております。このような作者の、ほぼ五十年間に及ぷ人生のあゆみを振り返って綴ったのが「とはずがたり」という作品であるということになります。
作者の周辺
「とはずがたり」の作者は、亡き母の縁と父の後ろ楯のもと、後深草院の後宮に入ったのでしたが、そこで多くの男性たちとのあいだに複雑な交渉をもつことになり、男女愛欲の苦悩に生きたということを申しました。いったい彼女は、後宮においてどういう立場に立たされ、どう振舞わねばならなかったのか、彼女を取り巻く状況を正しく理解しておく必要があるのではないかと思います。
そこで次に、作者の家系と後深草院の後宮について、資料2(略)として、簡単な系図を掲げて説明してまいります。作者は4歳の年から後深草院のもとに出仕して、14歳で後宮に列することになりましたが、その経緯については彼女の両親、とりわけ母と院とのあいだに浅からぬ因縁があったからのようです。
作者の母親は大納言四条(藤原)隆親の娘で、後嵯峨院にお仕えする大納言典侍(だいなごんのすけ)という女房でした。この四条家という家は院政期になってから、皇族方、宮様の乳母(めのと)をつとめる家として、勢力を伸張していっておりまして、わが妻ないし娘を宮様の乳母にしたり、内侍司の高級女官に出すというだけでなく、院政政権の実務や儀式行事の有職故実(ゆうそくこじつ)に明るい、しかも管弦ほかの公卿の芸能にも秀でているという、有力な家柄でした。隆親も極官の大納言まで昇り詰めますが、娘を典侍(ないしのすけ)という内裏女房として、宮中の中枢に位置を占めさせるということをしているわけです。
この大納言典侍は、後深草院が東二条院と結婚するにあたって、あらかじめ後深草院に性生活の手ほどきをしてさしあげたということが、のちに院の口ずから作者に語られています。閏房のことを教えてくれた人として、院はその後もずうっと大納言典侍に憧れていた。ところが、典侍大(すけだい)は−院は大納言典侍のことを、親しみを込めた略称で、こう呼んでいます−、作者の父源雅忠と結婚して、作者を生みました。院は典侍大の忘れ形見である作者を、そばに置いて養育したいということで、4歳の年から仙洞に召して鍾愛(しょうあい)してきたということなのです。
このように見てくると、思い合わされることがあります。院の言動は、「源氏物語」の光源氏の君の心理や情動にそっくりだと思うのです。まず「若紫」の巻に描かれる紫の君のことを思い起こしてみましょう。父桐壺帝の妃(ひ)藤壺の宮を慕う源氏は、北山で藤壺そっくりの紫の君を見いだし、わずか十一、二歳の紫の君のお世話をしたいと、祖母の尼君に申し入れます。藤壺と紫の君との間柄は叔母(おば)と姪(めい)でして、血縁関係にあったわけです。祖母君が亡くなると、源氏は誘拐するようにしてわが住まい、二条院に紫の君を迎え入れて、わが趣味と教養を傾けて養育し、自分好みの理想の女性に教育します。のちに北の方である葵(あおい)の上が亡くなると、四十九日を済ませてから、紫の君と契りを込めて妻にすえることになります。
女の子をわが手で自分好みの女性に教育して、妻としたいという男の一つの願望を物語るモチーフは、谷崎潤一郎の「痴人の愛」でも採用されていますが、後深草院のほうが一足早く源氏のひそみに倣い、典侍大に面影の通う作者を幼い時から養育し、成人したら妻にしようと考えていたのです。ただし、大納言典侍と作者とは叔母姪の関係ではなくて、母と娘の親子でした。でも心配いりません。母親との縁から娘の世話をつづけるうち、その娘に恋心を抱いてしまい、娘を悩ませるという話も、「源氏物語」には二つあります。
源氏の通い所の一つであった六条の御息所(みやすどころ)は、「葵」の巻で賀茂の祭りの車争いの時、葵の上のほうの者にたいへんな恥をかかされて、そのため葵の上の出産の場に物の気となってあらわれ、取り殺してしまった。御息所は悩んだすえ、源氏のもとから身を引こうとして、娘が伊勢の斎宮に選ばれた機会に、幼い娘の後見として付き添うということで、都を離れます。御代替わりになって都に戻ると、御息所は思い余ったすえ、源氏に娘の前(さき)の斎宮を託し、「娘の世話をお願いします。でも娘には、わたしを苦しめたような目に遭わせないでください」と、後見を頼む。結局、前の斎宮は冷泉帝のもとに女御として入内し、斎宮の女御と呼ばれ、のちには中宮に昇って秋好(あきこのむ)中宮と称せられます。源氏は御息所の遺言を守って女御のお世話をするのですが、「薄雲」の巻には、恋心を抑えきれずにほのめかしてしまう場面が見られます。
もう一人の女性は、夕顔の忘れ形見の玉鬘(たまかずら)というヒロインです。彼女は頭(とう)の中将と夕顔とのあいだに生まれた女の子なのですが、20歳を過ぎてから上京して、思いがけず源氏に引き取られて、そこでお后(きさき)教育を受けている明石の姫君といっしょに琴を習ったりします。源氏の御落胤で、最近見いだされて大切に扱われている年ごろの姫君がいるということで、噂を聞いた若い男たちが求婚するのです。源氏は玉鬘に恋愛指南みたいなこともするのですが、そのうち自分も心ひかれ、真剣にわがものとする手立てまで案じるようになります。「源氏物語」の第二十二帖から第三十一帖までをまとめて「玉鬘十帖」と呼んでおりまして、玉鬘はそのヒロインです。
というわけで、その母親との恋の思い出を忘れず、娘に恋心を抱くというモチーフも、源氏の君が体現していたわけです。ちなみに、母と娘を犯すことはタブーに触れるという説を、藤井貞和さんが提出しておられますが、ひそかに思いますに、母と娘を同時に愛することはタブーであったかもしれませんが、母の形見として娘を妻とすることまでは罪悪視されなかったのではないか、どうなのでしょう。
もとに戻って、作者は母大納言典侍の縁から、後深草院のもとで育ち、やがて寵幸を受けるべくさだめられていた、それは源氏の君の愛情のあり方にちなむものであった、ということでした。これは、後深草院の心づもりのあらわれであって、事実であったということなのでしょうか、それとも、作者が院との縁を振り返って語り進めようとした時に、なぞらえうる人間関係のモデルとして浮かび上がってきたことなのでしょうか。おそらくどちらも真実であって、作者も院も、それほど「源氏物語」に通じていたのでしょう。このように「とはずがたり」という日記文学作品は、「源氏物語」や「伊勢物語」などの影響を強く受けておりまして、いたるところ、これらの作品を踏まえた表現が出てまいります。作者は古典文学の深く確かな素養にもとづいて、いわば古典に照らして人間関係や現実世界を見すえているのです。
次に作者の父方についてですが、系図をご覧になるとお分かりのように、父親は中院(なかのいん)大納言源雅忠と申します。名門の村上源氏の家系でして、院政期に、摂関家に対抗する勢力として再び台頭した家です。曾祖父は内大臣土御門(つちみかど)通親、祖父は太政大臣久我通光−どうも「ミチテル」と訓んだようです−と申します。大将を経て、太政大臣にまで昇る家柄で、後世の言葉でいいますと、いわゆる五摂家、摂関家に次ぐ清華の家ということになります。作者の家を「久我」家と呼んでも差し支えないと思うのですが、雅忠の場合には「久我」ではなくて、「中院」と称したようです。
この久我家は、天皇のもとには女御を入内させるという格式の高い家でして、娘を女房として宮仕えに出すことはいたしません。ところがご承知のように、「とはずがたり」の作者は後深草院二条と呼ばれた女房です。作者の父雅忠の思わくは、次のようなことだったのではないでしょうか。いずれこの娘が男皇子を生んで、その皇子がもし皇太子、天皇になる道が開けるのなら、あまり形式にはこだわらないでいい、この娘の母親が女房であったという経緯もあることだし、娘が家の誉れとなり、家門の栄華のもといを築いてくれるかもしれないのだから、という期待から、後深草院の内意に応じて宮仕えに出したと思うのです。雅忠の作者に対するこまやかな配慮については、またのちにお話することがあろうかと思います。
作者が後深草院の寵愛人となると、院の中宮であった女院、東二条院という方からたちまち烈しい嫉妬をこうむります。それは結局、作者が実質は上臈女房の待遇に甘んずるほかなかったけれども、肝心なところでは太政大臣の娘として、ということは女御並みに−正確には「御方並みに」というべきかもしれませんが−振舞うことが許されていた、そういうあやふやな立場に由来するのではないかと思われます。女院にしてみれば、女房風情で寵愛をかさにきて、僭越だということだったのでしょう。後深草院の御幸に同車する作者の振舞いが、世に、女院御同車とささやかれたことがあって、東二条院は自分がさしおかれたことと、作者が女院と間違われたこととで、二重にプライドを傷つけられたといいます。
東二条院は作者の僭上を憎んで、わがお方への出入りを差し止めるだけでなく、後深草院や姉の大宮院に抗議文を送っています。もっとも、作者にしてみれば、これは「源氏物語」の「桐壺」の巻の言葉ですが、「はじめより、おしなべての上宮仕(うへみやづか)へしたまふべき際(きは)にはあらざりき……わりなくまつはさせたまふあまりに、さるべき御遊びのをりをり、何事にもゆゑあることのふしぶしには、まづまうのぼらせたまふ……あながちに御前さらずもてなさせたまひしほどに、おのづからかろきかたにも見えしを」と、桐壺の更衣を気取っていたように思われます。ご寵愛の余り、おそばを離れずお仕えするので、まるで奉仕する女房の風情に見えるということです。作者が桐壺の更衣(こうい)、東二条院が弘徽殿(こきでん)の女御という構図になります。
大宮院(1225-92.68歳)は後嵯峨天皇の中宮。父は西園寺実氏、母は四条貞子(北山准后)。後深草院・亀山院の母であり、東二条院の姉である。後深草院は母の妹と結婚したのであるが、これは当時の宮廷社会では、それほど珍しいことではない。
さてここで、作者が後深草院の寵幸を得た14歳の文永八年(1271)という年の後宮の状況を見わたすと、東二条院はすでに皇女を三人生んでいますが、皇子はまだ生まれていません。もうかなりの年配で、40歳になりました。太政大臣西園寺実氏の娘で、母は北山准后、姉に後嵯峨院の中宮で、後深草、亀山両帝の母后にあたる大宮院がいて、妹の彼女も姉同様、女御から中宮を経て門院号を得ています。
後宮にはほかに、東の御方と呼ばれる方−この「御方」という呼称はれっきとした後宮の女性のしるしだったようで、作者より重い扱いを受けていました−この東の御方は左大臣洞院実雄(とういんさねお)の娘で、この方がもうすでに二人も皇子を生んでいて、兄の皇子は7歳になっていました。のちの煕仁(ひろひと)親王、伏見天皇です。もう一人、5歳の皇子はのちの性仁法親王(しょうにんほっしんのう)です。ちなみに、翌年の作者の皇子御産の以前に誕生した皇子となると、内大臣三条公親の娘、御匣殿(みくしげどの)の腹の久明親王、算博士三善康衡(やすひら)の娘の腹の深性(しんしょう)法親王もおります。
それから、西の御方もおられて、太政大臣花山院(かざんいん)通雅の娘です。というわけで、作者は順番からいくと、後深草院の後宮の中では四番目か、もうすこし下位に置かれることになったのではないでしょうか。もちろん女房としてなら、ほぼ筆頭として振舞っているようです。しかし、見てきましたとおり、院の皇子を生みたてまつり、あわよくば皇統を嗣がせるという可能性は、きわめて少なかったようです。
作者の後宮入りの問題をめぐっては、ぜひもう一人、西園寺実兼の身辺について知っておく必要があると思います。略年表のほうに出てまいりました雪の曙のことです。この西園寺家は、承久の乱以前から鎌倉幕府の信任厚い名門の家で、乱ののちは関東申次(もうしつぎ)という、朝廷と幕府のあいだの連絡役をつとめ、にわかに権勢の中枢に位置づけられることになりました。久我家と同じく、太政大臣に昇る清華の家です。
ただ、実兼のころは支流の洞院家に勢力を奪われるような状況にあったようで、実兼は父親を早く亡くしており、西園寺家をもり立てるために、たいへん苦労した人物です。皇統が亀山帝のほうに傾いていたころ、実兼は後深草院方に接近して、のちに煕仁親王の立太子に成功すると、東宮大夫(とうぐうだいぶ)となります。実兼の子女について調べてみますと、すでに北の方がいまして、その腹に跡取りの公衡(きんひら)が生まれており、もう8歳になっていました。
北の方は内大臣中院通成の娘、のちの称では従一位顕子(じゅいちいけんし)といい、作者の又従兄弟(またいとこ)にあたります。通成は文永六年(1269)、内大臣に任ぜられると年内に上表し、翌年出家、作者の父雅忠が通成の跡を襲うかたちで、淳和奨学院別当(じゅんなしょうがくいんべっとう)−のちの源氏の氏の長者の称号です−になっています。実兼も大っぴらに作者に求婚しづらく、雅忠も実兼を婿に選びにくかったのではないでしょうか。そういうわけで、作者は実兼とは早くからお互いに心をかよわす親密な仲で、たいへん好意を寄せていたようですが、実兼と結ばれて、北の方におさまるというぐあいにはいかない、そういうめぐり合わせに生まれついていたといわざるを得ません。
「住吉物語」の上巻を見ると、ヒロインの宮腹の姫君の結婚問題をめぐって、薄情な継母は、「なかなか、おぼえ少なき宮仕(みやづか)へよりも、時めかん上達部(かんだちめ)などに、あはせたま給へかし」と入内に反対しまして、すると親身な父中納言が答えて、「なみなみの人には、見せん事もあたらしさに」と、臣下の者と結婚させるのはもったいないといっております。また「源氏物語」の「紅梅」の巻でも、母親の真木柱(まきばしら)は、「人にまさらむと思ふ女を、宮仕へに思ひ絶えては、何の本意かはあらむ」と考えて、大君を春宮のもとに入内させています。父雅忠が後深草院の意向にしたがって作者をすすめたのも、けっして不本意な決断でもなければ、期待が楽観的に過ぎたということでもなかったのだと思います。
ちなみに、後深草院は作者より15歳年長、雪の曙は9歳の年長です。年齢的に見れば、院は親というに近く、曙は頼もしい兄のようであったわけですね。
 
「とはずがたり」考6 後深草院二条

建礼門院右京大夫より百年ほど後になりますが、「とはずがたり」の後深草院二条の話をします。時代としては鎌倉末期で、室町に入りかけている時代です。王朝が二つに分かれている時代で、彼女は後深草院に仕えたので後深草院二条という名です。北条家の後押しによって大覚寺統と持明院統ができますが、これはあの南北朝よりもちょっと早い時期です。この頃、大覚寺統と持明院統とで交互に天皇を出すわけです。そして、この通称・後深草院二条という人ですが、父親は中院大納言源雅忠、母親は四条大納言隆親女近子という人で、彼女自身は正嘉二年(1258)に生まれています。それ以後、一応49歳までのことは分かっていますが、その後どれぐらい生きたか、いつ死んだかは全然分からない。この父方は村上源氏の出ですが、源というのはもともと天皇家の息子ですから、代々有力な政治家とか勅撰集に歌が載っている歌人が出ています。有力な政治家というと摂関家の権力を削減する一策として後三条天皇に起用されて右大臣、やがて太政大臣にまでなった源師房をはじめ、代々藤原氏と対抗するかたちで政治家を輩出した家だった。しかしお父さんの雅忠のころになると、さすがに力が衰えてくるらしい。ただし歌では、まだ代々有力な歌人が出ているということで、後深草院二条自身も歌道の名門であることを非常に誇りにしていた。彼女も自分の歌が勅撰集に載ることを夢に見ていたけれど、可哀想に結局出なかった。そのかわり、散文作家として、はるか後世、すなわち現代になって急に有名になってしまった。彼女のお母さんの近子は、後深草天皇に仕えていた人です。後深草天皇にとって、母の近子はお気に入りだった。お気に入りの女が源雅忠と結婚して、そしてとてもきれいな子を生んだけれども、母近子は二条が2歳の時に死んでしまう。後深草天皇自身はとても気にかけました。それで宮中に彼女を引き取り、彼女は宮中で育つ。幼年期、少女期は、たいへん美少女だったため、天皇や周りの人にとても可愛がられた。ところが、ある時突然に天皇が寝床に入ってきて変なことをするので、彼女はびっくりして肝をつぶす。けれども結局犯されてしまって、それ以来ずっと後深草院の思いもののひとりとなる。そういう意味では、物心もなにもつかないうちに男と女のことを教えられ、しかも教えた人が主上だから、特殊な女性になってしまったわけです。
その宮中にはいろいろな本がふんだんにありますが、なかでも西行法師の修行の道筋の絵巻物を見て、彼女は非常に西行に憧れていた。西行を慕うあまり、自分も西行のあとを追って諸国を行脚したいとまで思っていた。そういう意味では、やはり中世の女です。わりと幼い少女期から西行に憧れたということは、言ってみればひとつの精神世界に憧れている。それから、外を見て歩くことに憧れている。精神の世界に憧れ、なおかつ外部の世界に憧れるというのは明らかに中世です。平安朝ではそんなことはない。平安朝の女は、精神にも外部にもほとんど興味がない。中世とそれ以前との大きな違いというのは、自立してくるということです。平安朝の小説とかエッセイを書いた人々というのは、もちろん自立した精神を持っていたけれど、ほとんどの場合には男の言いなり、あるいは家の言いなりということがまったく疑うべからざる普通の女の守るべき道だったから、それ以外のことは考えられない。それが平安朝だった。けれど中世になって、独りぼっちになることがあるんだということを女たちが知った。だからこの後深草院二条の場合にも、やはり中世という時代の注目すべき精神的な課題を抱えていたということになると思う。
けれど、いずれにしても後深草院に女にされてしまうわけです。後深草院に寵愛を受けたのは14歳の正月です。そして翌年お父さんが死んで、彼女は孤児になってしまう。母親も父親もいない孤児になってしまうので、ますます後深草院の意に反することは一切できなくなります。彼女自身は後深草院にたえず深い愛情を持っていて、後深草院も彼女をいとしく思っていることはいるけれど、この後深草院という人は非常に不思議な人で、ほかの男たちにも彼女を斡旋する。そういう一種の倒錯した愛情の持ち主だった。それはやはり宮廷という社会のデカダンスのひとつかもしれない。
また彼女は、これは後深草院が全然知らなかったことですが、西園寺実兼というその当時もっとも有力な貴族のひとりに愛され、秘密の関係が生じる。西園寺実兼は「雪の曙」という名前で「とはずがたり」に登場しますが、彼女は非常に罪の呵責に悩んでいる。言い換えると、彼に惚れていたということです。惚れていたから、彼女は悩む。
それから、こともあろうに後深草院の異母弟の性助法親王の求愛を受けて、罪深い女だと畏れおののきながらも男関係が次々続々と広がってきてしまう。性助法親王は「有明の月」という名前で出てきます。これは他の人という説もありますが、だいたいは「有明の月」はすなわち性助法親王ということになっています。結局関係ができて、できてしまうと愛してしまう。つまり多情仏心の女です。
もうひとりは、これも奇妙な話ですが、後深草院自身が仲立ちをして、ひとりの男と彼女との間で恋愛関係を生じさせる。それは近衛大殿といって、鷹司兼平がモデルだという。これがつまり後深草院の倒錯的な愛情です。彼女自身はいつでも後深草院を思っているけれども、その思っていることを分かっているにもかかわらず、平然とほかの男に彼女を世話する。そういう間に、「有明の月」つまり院の異母弟の性助法親王ですが、この人との恋愛がばれてしまう。それまでは密かに愛していたけれど、このとき後深草院は「いいよ」と言っただけでなく、「あれはすばらしい女だ」と男にけしかけた。それで公然と恋愛関係が進行する。このお坊さんと灼熱の恋になって、どうなることかと読者としては思うけれど、運が良くというか悪くというか、この人は流行病で死んでしまう。彼女は非常に悲しむけれど、しようがない。
そのうちに、今度は後深草院にとって耐え難いことが起きます。彼女が亀山天皇とできたのではないか、という噂が生じる。天皇同士ということで、これだけは許せなかった。おそらく大覚寺統と持明院統との関係もあったのではないかと思うけれど、結局二条は宮中にいられなくなる。もうひとつは、いろいろ噂になって後深草院の中宮の東二条院という女性もだんだん事情が分かってきて、あなたはけしからん、ということになる。だからお后にはやられる、天皇にもうとんじられるというわけで、一気に寵愛が衰えた感じになってくる。それで御所を退いた。御所を退いた後にも、宮中で盛大な儀式があるときには出仕したりしているけれど、後深草院とは縁が切れるわけです。けれど、縁が切れた後々も、院を慕っているらしいのですから、不思議なことです。
尼になった後深草院二条
縁が切れて、彼女はいよいよ旅に出ます。それからがまた面白くなってくる。かねての念願どおり出家します。つまり女西行になろうとした。そこで、まず東国に旅します。鎌倉に行って、あたりを周遊していると、将軍の惟康親王という人が幕府の意向で廃止されて都へ護送される時にぶつかった。この時代、天皇の周辺から必ずひとり将軍が送られているわけです。そこのシーンがじつに面白い。その後、後深草院の息子の久明親王が新しい将軍として下る。その御所の準備にも加わっている。故事来歴を知っているから、そういうときには重宝されます。いたるところで彼女は先生となって、結構お礼などももらっていたと思う。田舎の金持ちとか田舎の侍の家などに逗留するとき、そこの家の女どもにいろいろ教えます。絵の先生になるし、礼儀作法の先生になるし、着物の着方から何からすべての先生になる。彼女は非常におもしろい生き方をするようになる。この惟康親王が送られていくところがとくに注目すべきところで、みじめで目も当てられないという状態をじっと見て、書いている。普通の女は「いとも目も当てられぬ」ときは見ない。けれども彼女は「いとも目も当てられぬ」という状況をじっと見ている。それが本当に面白い。凄い女だと思う。その部分を少しくわしく説明します。
鎌倉に彼女が滞在していたときに、将軍の惟康親王が執権の北条貞時に罷免されてしまった。それで真夜中に不吉な風雨のなか、容赦なく都に送還されていく。それまで将軍だった人を、雨のばしゃばしゃ降る嵐の日、しかも真夜中に叩き出すのだからひどい。都に送還されていく様子がじつに哀れで、それを逐一見て「とはずがたり」に記している。例えば将軍が乗るべき御輿が「罪人護送の際の先例に倣うべし」というので、前後逆さまにさせられた。普通は前を向いて座るのに、後ろを向いて座らされる。これは罪人護送のときにそうしたらしい。また、将軍がまだ御輿に乗り込まないうちに、はや将軍が使っていた庭のほうでは、下人がわらじをはいたままずかずかと御殿へ上って御簾を引きむしったりしている。そういうありさまを逐一じっと見て、「いと目も当てられず」と書いている。いとも目も当てられなければ見なければいいと思うけれど、それを逆に克明に書いて記録している。さらに佐介(さすけ)の谷というところにいったんとどまった惟康親王が、いよいよ上洛するために真夜中に御輿に乗って出発するのを、わざわざ付近に宿をとって見送りにいく。本人としては、可哀想に、と見送るつもりなんでしょう。だけど客観的に見ると、むしろ好奇心に満ちている。でなければ、そんな雨の晩にこんなことしません。この親王は、後深草院とも縁がないわけではないから、行為は深い同情から出ているけれど、同時に同情だけでやっているとも思えない。それがよくよく分かるのは、彼女の文章、文体です。
既に発たせおはします。折、節宵(ふしよひ)より降る雨、殊更(ことさら)その程となりてはおびただしく、風吹き添へて、物など渡るにやと覚ゆる様なるに、時違(たが)へじとて、出し参らするに、御輿を筵(むしろ)といふ物にて包みたり。あさましく、目もあてられぬ御様(やう)なり。御輿寄せて、召しぬと覚ゆれども、何かとて、又庭に舁(か)き据ゑ参らせて、程経(ほどふ)れば、御鼻かみ給ふ。いとしのびたる物から、度々聞ゆるにぞ、御袖の涙も推し量られ侍りし。
「物」というのは妖怪変化です。雨が降っているし、お化けなど出そうな時刻なのに、時刻を狂わせるわけにはいかないといって出し参らせると、将軍の乗っている御輿がむしろで包まれている。御輿を寄せて乗り込むかと思っていると、何かとぐずぐずしていて、庭にまた輿をでんと据えた。しばらくすると親王が鼻をかんだ。ひっそりと忍んでやっているのだけれど、たびたびかんでいる、と書いている。しかも、この将軍は同じように将軍職を罷免されて都へ帰った宗尊親王とは違って、都への帰路あるいは都へ帰った後に、歌を詠んで自らの潔白の証とするようなことをしなかった。つまり、この親王は幕府に突っ返されたままだった。宗尊親王の場合は歌を詠んで、「俺は潔白だ、なのに」とやったのに、それができなかった。二条はそれが「いと口惜しかりし」、本当にしゃくにさわった、悔しい、と書いている。だから、ただ同情しているのではなく「残念だわ、ちゃんとした歌を一首や二首作ればいいのに」ということを言っている。単純に「おかわいそうに」とうだけではないことが良く分かる。それと、ここで注目すべきことは、親王が御輿のなかに入って鼻をしばしばかんでいるとあるけれど、このとき雨がじゃあじゃあ降っています。雨が降っていて、輿のなかで鼻をかんだ音が聞こえたということは、彼女はよほど近くに行っていなければならない。本当に夜の闇に紛れて、よほど間近にまで行って見ていた。面識はなかったのだから、これは不思議です。しかし、面識はなかっただろうけれど、彼女にとってはやはりそのままにしておけなかった。そのうえで、観察力のしたたかさは文章で分かります。それに、別に真夜中に行く必要はないのに見送りに行って、しかも「こんな惨めな姿で送られていくなんてかわいそう」「せめて歌でも詠めばいいと思うけれど、ちっとも詠まない」「情けない」と思っているわけだから、かなり勝ち気です。
「とはずがたり」は巻一から巻五までに分かれていますが、巻四と巻五が放浪時代を書いている。巻五では備後の国、広島と岩国のあたりの「和知の里」というところへ行きます。「悪業深重なる武士」と書いてあるので、悪業を重ねた武士のところへしばらく逗留する。そこで見聞したことを書いていますが、そこでも本当に肝っ玉が太いことが分かるようなことを書いている。結局、男どもは彼女に手を出せない。美しい女で威厳があって、尼さんで、というので、相当したたかな男でも一目も二目もおいてしまう。それから、男たちには女が、妻や妾がいる。そういう女どもは彼女の一挙手一投足に注目しているから、男は彼女に近づけない。この女たちは、彼女に都の風習を教えてもらおうという熱望があるから、非常に尊敬している。たぶん、気品から何からまったく違ったから、女たちにしてみれば彼女に対する嫉妬なんてありえない。嫉妬する理由がなかった。彼女のほうでも男どもをまったく問題にしていない。そういう意味で非常に肝が太いところがある。とにかく面白い。
人生を二度生きた女たち
彼女が行った場所というのを見ると、まずはじめに鎌倉へ行って、そこから今の埼玉県の川口へ行くところで年を過ごし、それから善光寺へ行ってお参りして高岡へ行く。そしてまた関東へ戻ってきて、武蔵野で秋が来て、それから草深い浅草寺にお参りへ行く。その当時、浅草のへんは草深かった。それから、隅田川、また鎌倉へ戻り、京都へ戻ってくる。それから、まもなく出発して、今度は奈良へ行く。途中、石清水で偶然後深草院と再会する。再会するけれど、また分かれて伊勢、熱田と回って、伏見の御所へ行く。伏見の御所へ行ったときに、そこで後深草院と会います。会って、いろいろ昔話をする。けれども、そのときはもう男と女の関係はない。それから五年たったときに、備後、安芸、厳島、それから足摺岬へ行った。この足摺岬はフィクションかもしれない。足摺岬というのは四国の末端ですから。そこから有名な西行の話に倣って愛媛県の白峰へ、それから松山に止まる。その昔、悲惨な運命にあった崇徳上皇を、西行が慕ってわざわざ白峰の崇徳院のお墓に詣でて、夢のなかで崇徳院と問答する有名な話があります。「西行物語」や「撰集抄」、また謡曲にもなっていますが、一番知られているのが上田秋成の「雨月物語」のなかの「白峰」です。松山も、崇徳院の血がぽたぽた垂れていたという話が伝わっているところです。愛媛県は崇徳院の足跡がいろいろありますが、そういうところに二条はお参りしている。四国から戻ってきて、次には備後へ行きます。備後の和知へ行って、ここで豪族どもの争いに巻き込まれ、たいへん困った立場に二条は追い込まれる。そのとき鎌倉で出会ったある出家した入道が割って入って、運良く助けてもらう。入道とは男と女の仲ではなくて、鎌倉の連歌の会で知っていた人です。争いあっていた人たちの従兄弟だった。こうして争いから解放された二条は、結局大変な教養を見せて、そこの荒くれ男どもを心服させる。みんながひれ伏してしまう。「悪業深重なる男ども」が、なんとかしてここへとどまってくれと言う。けれど振り払って帰る。
その後、後深草院のお后で、彼女を嫉妬で苦しめた東二条院が病気でお亡くなりになる。その半年後に、今度は後深草院が病気になる。院は結局、真夏にお亡くなりになる。彼女は悲嘆にくれて、裸足で院の柩をずっと追いかけていきます。感動的なシーンです。その後はほとんど物語はなくて、法皇の三回忌があったというところで終わります。だから、後深草院のことを書き終えれば、もう書く気がなくなってしまった。言いかえると、女の一生というものが、最初の男との不思議な運命の糸でつながれてしまったということの、ひとつの典型的なケースです。
そういう意味で、たいへん数奇な運命をたどった人ですけれど、とにかく巻四と巻五を読むと、肝っ玉が据わっている女ということが強く感じられる。そこを読むと、かつては天皇ならびに高位の貴族や僧侶のあいだで性的な人形として、まるでピンポン玉みたいにあっちへやられたりこっちへやられたりしていた時代の彼女とは、まるで違った別の女が誕生していることがよく分かります。貴族ではあるけれど、精神状態としては新しいなにかを求めている女というイメージが非常に強い。求めているものの最たるものは、おそらく自分自身とはなにか、というような一種の哲学的な問題でしょう。そういう哲学的な問題を抱えている女だと思うしかない。そうでなければ、女だてらに西行の後を追って、東だけでなくて西のほうへも行って歩き回ってしまうということはできない。むしろ、これは西行の後を追うということを越えてしまっている。
そういう意味では後深草院二条も、前に話した建礼門院右京大夫、そして北条政子も、それぞれの生き方で、自らの意志をもってひとり立ちした女であったというふうに思います。その場合に建礼門院右京大夫と後深草院二条に共通のものは、人生の道の半ばで両方とも非常に苦しんで、その最後にいったんは世を捨てたという状態を経て、また社会に復活したことです。建礼門院右京大夫の場合には、出家はしなかったけれど引っ込んでしまった。ところがまた復活して、とにかくお婆さんになるまで、なんらかの意味で宮仕えをしていた。だけど、自分の生涯はある時点でぽっきり折れてしまっているということを自覚している。それから、後深草院二条の場合にも、やはり折れてしまったということは、「とはずがたり」が後深草院の崩御というところで終わっているということではっきりしている。だから、言ってみれば人生を二回生きている。それはやはり中世的な現象だと思う。
王朝の女たちというのは、一本線です。もちろん、その間にはいろんなことがある。和泉式部の場合には、恋愛で大変に苦しんだりしているけれども、人生の軌道を飛び出して全然別のところへ行って、またやり直してみるというふうなかたちの生き方ではなかったと思う。相変わらず、ずっと同じところで生活しているわけです。
ところが、この中世の女たちの場合は、世を捨てたということがあります。世捨て人になるということは中世でなければ生じなかった現象です。日本では、世捨て人の、草庵文学というのがあって、「方丈記」とか「徒然草」が非常に有名です。「方丈記」も「徒然草」も、やはりあるところで世を捨てるというところが、はっきりした文学的な、つまり見るに足る現象として生じている。それが新しい文学形式としてのいわゆる「随筆」というものの出発点になっています。そういう点で言うと、女の場合にも、建礼門院右京大夫は、おおざっぱだけれど時代的にいえば鴨長明、西行と一緒で、後深草院二条の場合は兼好法師と一緒です。
中世の時代をそう見ますと、なんらかの意味で男と女は対応しています。それは、男だけが中世を生きたわけではないからです。女もやはり中世を生きていた。そういうところが、面白いと言えば面白い、当たり前と言えば当たり前のことだった。しかし、当たり前のことを我々はあまりに知らないから、当たり前のことを知るとびっくりすることもある。先ほど「方丈記」「徒然草」をあげましたが、ある意味で言うと、兼好法師と後深草院二条の観察眼は接近しているかもしれない。兼好のほうが、やはり男だからさっぱりしている。後深草院二条の場合はしつこいところがあって、そこがなんともいえない魅力であります。
 
「とはずがたり」考7 自作自演わが恋の記録

カザノヴァやドン・ファンには及ぶべくもないが、まず、ちょっとした「わが恋の記録」を書いた二条という女性がいる。西洋のオノコどものそれが、とかく量を誇る趣があるのに比べて、彼女のは量よりも質─―。一つ一つの恋が、それぞれ曰(いわ)くつきであるのも、日本的こまやかさと言うぺきか。
しかも登場人物がソウソウたるもの。天皇あり大臣あり、その他の貴族あり、坊さんあり‥‥。恋のパターンのいろいろを書きわけたのは紫式部だが、式部のがオハナシであるのに比べて、二条の書いた「とはずがたり」は、体験的報告であるところがミソである。
しかもおもしろいことに、彼女の告白を読んでみると、どこかに「源氏物語」との共通点がある。
ひょっとすると、源氏物語の読みすぎではないか‥‥そんな気もしないではない。
たとえば─。二条の初体験は14歳の初春。女のしるしを見て間もなくのことである。邸の中がちょっといつもとは違う、と思っていたら、夜になって、後深草上皇がしのびで姿を見せ、そのまま、彼女を床につれていってしまう。
「ま、何ということを…いや、いや」
彼女は必死に抗(あらが)う。なぜならその日まで彼女は、後深草を父とも慕ってその膝元で育てられて来たのだから……。
彼女の母は大納言典侍(だいなごんのすけ)と呼ばれ、後深草の乳母だった。大納言久我雅忠(こがまさただ)との間に彼女を儲けたが、二年あまりで死んでしまった。だから彼女は、ほとんど母の顔も知らない。後深草は、母に死におくれた彼女をあわれに思ったのが、ずっと手許において、
「あが子(我が子)」
と呼んでかわいがってくれた。だから彼女は父の屋敷よりも、むしろ宮中をわが家のようにして育って来たのである。
その父とも幕うお方が……その夜はとうとう拒みつづけた。周囲は、そんな彼女を、
「思いのほかにねんねなのね」
「今どきの若い人にしてほ珍しいわ」
苦笑の眼でみつめている。そして次の日、
「私はね、そなたが十四になるのを、待っていたんだよ」
という後深草の囁きに、遂に彼女は身をまかせてしまう。
このあたり、「源氏物語」の紫の上の話を地でゆくような感じである。しかも、のちに、後深草は思いがけない告白をする。
「じつはね、自分の新枕は、そなたの母なのだ」
少年が、乳母によって初めての経験をするというのは、よくあることで、珍しい話ではない。
「が、あのときは私はまだ少年だったし、典侍には、そなたの父をはじめ、何人も恋人がいた。気おくれがして、何やら恥ずかしく、思うままに愛しあう勇気もなかった。だからそなたが生まれると知ったとき、いわば母の腹にいる時から、この子が生まれたら、きっと‥‥と思っていたのさ」
上皇の告白に眼を丸くしたり卒倒していただくと、先が書きにくくなる。いや、その前に、現在と当時は愛のモラルが違うのだということを前提にして読んでいただきたい。社会の全部がそうなのではないが、特に宮廷社会は、インモラルな雰囲気に満ちみちていたのである。
ところでこの話も「源氏物語」に何とよく似ていることか。源氏は、自分の母によく似た父帝のおきさき、藤壺を愛してしまったために、その藤壺と血のつながりのある紫の上に関心を持つようになるのだから。
この告白によって、二条は、後深草が今日まで、どんな思いをこめて彼女をみつめていたかを知る。今日の常識では、自分の母とかかわりのあった人なんて!というところだが、むしろその告白を通じて、二条は上皇の愛の深さを知るのである。
そしてこのまま納まってしまえば、二人はさしずめ、源氏と紫の上ということになるのだが、困ったことに、早熟な彼女は、すでに恋文をとり交していた男性がいた。一方の後深草には、父のように甘えていただけに、かえって男性としての魅力を感じなかったのかもしれない。
二条は、この恋人の名を「とはずがたり」の中ではあかしていない。一応文中では「雪の曙」ということになっているが、学者の研究では、西園寺実兼だろうと言われている。実兼とすれば、のちに宮廷で、かなりやり手として活躍する男である。
それから間もなく、二条は後深草の子を身ごもる。
「さては皇子誕生」
と喜んだ実父雅忠は、残念ながら、出産を見ないうちに死んだ。そしてそのころ乳母の家に里下りをしていた彼女は、訪れて来た雪の曙と遂に肉体の交渉を持ってしまう。身ごもっているということも、かえって彼女を大胆にさせたのかもしれない。ともあれ、ここで、彼女は後深草に秘密を作ってしまうのである。
彼女が皇子を産んだのはその翌年、その後も里下りして、ずるずると雪の曙との逢瀬を続けているうち、はっと気がついたときは、彼の子を身ごもっていた‥‥。
さあ大変、悪事露見!
悪知恵のありったけを働かせて、急いで後深草の許へ戻って交渉を持ち、
「また身ごもりました」と披露して御所を退出、こっそり不義の子を産み、上皇には、「流産いたしました」と報告する。このときは言の曙もお産につきそい、生まれた女の子は、その場からつれていってしまう。このときの彼女の告白が面白い。
「親子だから、かわいくない事はないが、まあしかたがない」
と、ごくあっさりしたものだ。のちに彼女は母と名乗らずに、よそながら成長したわが子の姿を見せてもらうが、ここでも母子もののお涙映画を予想した向きは大いにあてがはずれる。彼女の手記には、「もう人の子になっているのだから」としか書いていないのである。
雪の曙との交渉はその後も続いたようだが、今度は新しい男性が現れた。これも「有明の月」ということになっているが、後深草の異母弟の性助法親王の事らしい。後深草の病気平癒の祈祷によばれた有明の月に、二条が何気なく近づくと、思いつめたふうで恋を打明けられ、否やの余裕もなく、抱きすくめられてしまう。二条は、これについて、
「相手は尊いお方だし、声をあげることもできず‥‥」
と言っているが、多少いかもの食い的なアバンチュール精神もあったのかもしれない。が、有明の月は、恋上手な雪の曙とは勝手のちがう相手だった。
「私はこの年まで禁欲していた」
と言うだけあって、真剣すぎて気味が悪い。二条もいささかへきえきした様子である。いい加減逃げ腰になって後深草に告白すると奇妙なことを言いだした。
「あんまり拒むのは、かえって罪造りだよ」
有明の月との情事をすでに知っていたのかもしれない。このとき、さらに後深草は、
「まあ、私にまかせなさい。悪いようにはしない」
薄気味悪いようなものわかりのよさを見せて、積極的にデイトの機会を作ってやり、その結果生まれた子供の処置まで面倒を見てくれる。
彼女を真剣に愛していたはずの後深草が、これはいったい本気なのかと思いたくなるが、これがあの社会の何ともはやおかしな所であって、その代り、後深草も、二条に手引きさせて町の女や、斎宮(いつきのみや)だった異母妹との情事を持ったりしているのだ。そして二条も、それを怒る気配もなく、すぐ言いなりになってしまった相手のことを、
「もうちょっと焦(じ)らせてあげれば、おもしろいのに」
などと評している。
また有明の月の事についても、あれだけ面倒をみてもらっておきながら、その後も、後深草に内緒で交渉をもち、またもや子供を身ごもったりしている。その間に有明の月が急死したので、二条は今度はたった一人で子供を産む羽目(はめ)に陥った(もっともその子をどうしたかは文中には出て来ない)。
そのほか、伏見の離宮で、酔っぱらった関白鷹司兼平に袖をひっぱられて、ついうかうかと─といった、おじいちゃま相手の情事もある。このときも後深草は見て見ぬふりをしているらしい。
いろいろ取りそろえられた情事の手帖を読み進んで蒼くなったり赤くなったりするのは野暮(やぼ)というものであろう。彼らの誰にも、さほど罪の意識はないのだから。そして「源氏」を地でゆくようにみえて、その実大きに違うところはそこなのである。「源氏」はさまざまな恋を描きながら、その底に重く流れる無常観やら人間の本質に迫る罪の意識があるけれども、二条たちは、そういう取りくみ方はしていない。
無責任で軽やか、いやもしかしたらスマートてドライなのかもしれない。情事から情事へとその事だけに没頭しているように見えて底の方では、ふっとシラけている。まあ、現代新しがっているようなことが七百年前のここに、ちゃんとそろっているのだ。もし二条が、冥土からふらりと戻って来て、現代の若者の行状を見たら、
「あんたたち、そんなことで新しがってるの、オホホホホ」
と笑いとばすかもしれない。
たしかにー。性というものの世界にさほど新しい事は生まれないもののようである。
さて、その後二条はどうしたか。自分でははっきり書いていないが、当時皇位継承をめぐってライバル関係にあった亀山上皇(後深草の弟)などからも誘いをかけられることがあったらしく、それが理由かどうかはわからないが、後深草の皇后、東二条院に憎まれて御所を出される。
さてこそ罪の報い─。と見えるが、そうなればなったで、さっぱりと出家し、鎌倉に、信濃に安芸にと放浪の旅に出る。放浪といっても乞食旅行ではないし、行く所で手厚くもてなされたりして、なかなか優雅なものだ。経済的にもかなり余裕があったのだろう。
諸国をひとめぐりして戻って来たとき、二条は偶然後深草に再会する。
「そういう姿をしていても、やっぱり誰か身のまわりにはいるのだろう」
と言われて、
「そんなことはございません」
などと答えているが、後深草がこの世を去るのはそれから間もなくのことだ。御所へ入ることを許されない二条は、葬送の夜、柩を追って泣きながら走り続けるが、いつか行列から取りのこされ、夜明けにやっと火葬の地に辿りついて、わずかに煙の立昇るのを見送る。最後の瞬間に彼女が後深草の淡々とした水のような愛を知るこのあたりはなかなか神妙である。多分後深草は、やんちゃな妹の、手のつけられない、いたずらっ子ぶりを苦笑するような思いで彼女をみつめていたのかもしれない。とすればこれも一つの大人の愛のありかたというぺきだろうか。
ともあれ、女流の書き手の少ないこの時代、彼女はなかなか興味のある恋愛遍歴を残してくれた。特にこれが偽らない体験報告であるという点、日本の女性もなかなかおやりになるのだという強力な証言をしているともいえそうである。
かといって、オミゴト、オミゴトと彼女こそ、性解放のヴィーナスなどとあがめ奉るのはどうだろうか。ここでもう一つの事をつけ加えておくと、彼女が恋愛遊戯に夢中になっているそのときは、蒙古が襲来したその時機なのだ。彼女はかなり長いこの作品の中で、その事には全くといっていいくらい関心をしめしていない。
一方では鎌倉幕府が、蒼くなって対策に苦慮し、九州では合戦も行われている、というその時機に、この政治オンチはどういうわけか。彼女一人を責めるわけではないが、これは当時の宮廷のおかれた位置を如実にしめしているとはいえないだろうか。当時の朝廷は政治的には殆ど無力だった。亀山上皇はこのとき「敵国隆伏」の額を書いて祈念しているが、当時の天皇及び朝廷のできることはそのくらいだったのてある。
政治的に浮上った存在は、必然的に社会に無関心になり無責任になる。それが続けばどうなるか、せいぜい関心を持つのは、セックスくらいになってしまうだろう。「とはずがたり」はそのいい見本でもある。
そして、そのことは、彼女の性のアバンチュールの大胆さ以上に、現代の我々に問題をなげかけてはいないだろうか。
 
「とはずがたり」考8 日記に見る日本人

「中務内侍日記」を読むものは、彼女が生きた時代の京都の宮廷こそ、比類なき美的洗練の場であった、という印象を得るにちがいない。ところがその同じ宮廷の生活を描いたもう一つの日記「とはずがたり」を読むと、(中務内侍といささかも矛盾することなく)その宮廷が、実は手のつけられぬほどの性的放縦と、道徳的腐敗の巣窟であったという印象を、読者は受ける。宮廷の女房によって書かれた数ある日記のうち、この「とはずがたり」ほど、読者の度胆を抜き、衝撃を与える作品は他にないのである。
この日記は、文永八年(1271)の元日の記述から始まっている。まず、藤原定家のライバルだった例の源通親の孫、そしてこの日記の作者の父でもあった大納言で歌人、久我雅忠が、後深草院に新年の屠蘇を差し上げる。院を始め列席したものすべてがすっかり酩酊した頃合に、院が雅忠に向かって言う。「この春よりはたのむ雁(「田の面の雁」。育てている娘)もわが方によ」と。この言葉の意味するところは、「伊勢物語」の言葉に掛けて、この春は、なんじの娘二条(作者)を所望するぞ、というのであった。雅忠はこの申し出に気を悪くするどころか、「ことさらかしこまりて」、院の殊のほかの知遇に感泣するのである(み吉野のたのむの雁もひたぶるに君が方にぞよると鳴くなる「伊勢物語」)。
二条はその年14歳(現代の算定では13)。後深草院は、二条の幼少の頃から、彼女にさまざまな芸術上の指導を与えていた。そして彼女が「女」になり、性愛の対象となる年頃が来るのを、いまかいまかと待ちかまえていたのだ。そして今やその時節が到来したというわけである。拝賀式のあと、二条が局(つぼね)へ下がると、豪華な衣裳の贈り物が届いている。歌がつけてあり、それには、今後はもっと深く慣れ親しみたいという願いがほのめかしてある。思いがけないことに困惑した二条は、その贈り物を一度返すが、別の歌と共に、また送り返されてくる。他にどうしてよいか分からぬままに、彼女も今度はそれを受け取る。しかし贈り物の裏にある意味は、彼女にはまだよく理解出来ない。そのあと、娘がその衣裳を着ているのを見た父の大納言は、「御所より(院から)賜はりたるか」と彼女にきく。そこで二条は、父の言葉の裏になにか隠された意味があるのを感じ、とっさに「いいえ、これは大伯母の准后から頂いたもの」と嘘をつく。
それから十日経ち、二条は、父の命によって御所から実家へ呼び戻される。帰ってみて驚いたことに、家中が見ちがえるほど晴れがましく飾り立てられているではないか。翌日彼女は、これは方違えのために院がここへ立ち寄られるからだ、と告げられる。しかし自分の部屋まで特別立派に飾りつけてあるのはなぜであろう?二条がそれを糺そうとすると、みなは彼女の無邪気を笑うばかりである。そして父は父で、その夜は、院が御幸になるまで眠ってはならぬ、「女房は、何事もこはごはしからず(強情を張ることなく)、人のままになるがよき事なり」と彼女をさとすのである。
しかし結局彼女は眠り込んでしまうが、目を覚ますと、院が自分のそばに添い臥せっているのに気がつく。院は、「いはけなかりし昔より思し召しそめて、十とて四つの月日(二条が十四歳になる今日まで)を待ちくらしつる」と言う。だが、彼女はただ涙で答えるばかりである。その夜院はそれ以上の無理強いをすることはなかった。しかし次の夜も彼女の部屋に現れ、とうとう彼女の「薄き衣」も「いたく綻(ほころ)んでしまう」ほどに手荒く取り扱うのである。彼女は書いている。「残る方なくなりゆくにも、世にありあけの名さへうらめし(すべてが失われてしまった今、私の存在自体が恨めしい)」。そして自分がすでにゴシップの種になっていることを思い、次の歌を詠む。
心よりほかに解けぬる下紐(したひぼ)のいかなる節(ふし)に憂き名流さん
要するに彼女は、自分が信頼していた男性に犯されたのである。しかもそれを取り持ったのが、他ならぬ自分の父であったとは!しかしそれからしばらく経って、常のようにせめて見送りせよ、と院が命じた時、院に対する彼女の憤りは、明らかに他の感情に変わっている。なぜなら彼女は書いているからだ。
(院の御姿に)いつよりも目とまる心地せしも、誰(た)がならはしにかとおぼつかなくこそ(この気持ちはいったい誰に教えられたのか、まことに不思議である)。
二条は、自分が無理矢理大人の世界に引きずり込まれたこと、それへの反発、そしてその直後に起こった微妙な感情の変化などについて、きわめて率直に書いている。そしてその率直さは、確かに賞讃されてよい。だがやはり現代の読者は、どうしてもそれに衝撃を受けるのである。凌辱という行為そのものは、二条の時代の人々には、おそらく今日の人間にとってほどショッキングではなかったかもしれない。第一、あの比類なき光源氏さえ、彼が後見していた若い紫の上に対して、まさに同じことを行ったではないか。紫の上は、初めは幻滅を味わう。「源氏物語」には次のようにある。「かかる御心おはすらむとはかけても思し寄らざりしかば、などてかう心うかりける御心をうらなく頼もしきものに思ひきこえけむ、とあさましう思さる」。だがその背信に対して紫が抱いた恨みは、源氏への愛にやがて変わってくる。そして何世紀もの間、「源氏物語」の大抵の読者は、源氏のこの行為を、赦せる行為であるばかりか、やむを得ぬ行為でもあったろうと感じてきた。
日本女性が、地位の高い男性に純潔を奪われて泣き寝入りするというのは、西洋でも実際にあったことと、おそらくあまり変わりはなかったはずである。だがヨーロッパにおいては、自分の娘を自ら進んで取り持つような父親は、事実はともあれ、少なくとも小説では、常に悪者と相場が決まっていた。リチャードソンの小説「パメラ」(1740)の父親は労働者だが、自分の美しい娘パメラに、彼女が奉公している館の主人の親切には気をつけろ、感謝のしるしに純潔を捧げるようなことになっては事だから、とさとすのである。そして彼は言う。「娘よ、最悪に備えて身を固めるがよい。純潔を失うくらいなら、命を失うほうがましと心得よ」。「パメラ」は長大な小説だが、そのテーマはひとつ−主人の猛攻に直面して、いかに女主人公パメラが、自分の純潔を守り抜いたか、という一事である。
凌辱されたことで初めはショックを受けたとしても、おそらく二条なら、このパメラの抵抗は、いささか度が過ぎる、いや、滑稽とさえ考えたにちがいない。そしてその点については、過去の日本人もえらぶところがなかった。北村透谷は、「処女の純潔を論ず」というエッセーの中で、日本人が、処女の純潔への尊重心を欠いている、といって慨歎している。しかしこれは、透谷における西洋の影響が言わせたことかもしれないのである。「とはずがたり」の巻頭に起こる少女二条の凌辱事件は、野蛮と優雅、そしてあたりにたちこめる道徳的退廃の香りをないまぜにして、この作品全体の調子をすでに決めている。
二条をわがものにしたあと、院は、御所まで供をしてくれ、と彼女にせがむ。彼女は書いている。
道すがらも、今しも盗み出で(女を盗み出して)などして行かん人のやうに契り給ふも、をかしとも言ひぬべきを、つらさを添へて行く道は、涙のほかは言問ふ方もなくて、(御所に)おはしまし着きぬ。
しかし、院が二条に示す愛情は、次第に彼女の氷のようなあらがいを溶かしてゆく。そして彼女は、院からの文を、やがて待ち焦がれるようになるのである。
その翌年(1272)の8月、父雅忠が病没、二条は大いに悲しむ。死の床で、父は彼女に訓戒を垂れるが、その中には、主君、すなわち後深草院に対しては、一生決して二心なきよう、というのがある。また、もし主君の御意に背くようなことがあったならば、直ちに出家遁世し、自分の後を祈り、二親の菩提もとむらって、みなが極楽で一緒になれるよう祈るべし。そして「世に捨てられ頼りなしとて、また異君(ことぎみ)にも仕へ、もしは、いかなる人の家にも立ち寄りて(どんな人にもせよ人の家の厄介になって)、世に住むわざをせば、(私の)亡き後なりとも不孝の身(勘当の身)と思ふべし」、というのもあった。結局二条は、これらの訓戒を、本気で心に留めることはなかったようである。彼女のような情熱的な性格では、慣習的な道徳律の中に閉じこもれというほうが、土台無理であった。それに当時の貴族社会の爛熟した退廃も、二条の気まぐれな性格を、より一層助長したのである。
父の死後、毎日のように手紙で二条の安否を尋ねていた男が、ある月明かりの夜、彼女の家を訪ねて来る。そして二人は一夜を語り明かす。二人とも喪服を着ており、その夜彼らが寝所を共にしなかったのは、おそらくそのためであったにちがいない。帰り際に、男は言う。「あらぬさまなる朝帰り(床にも入らずに帰ってゆく)とや、世に聞えん」。それからしばらくして男はまたやってくる。二条は、初めは家の中には入れぬつもりであった。ところが男は、「つゆ御うしろめたき振舞あるまじきを」と誓うのである。だが作者は書いている。
長き夜すがら、(男の)とにかく言ひつづけ給ふさまは、げに唐国の虎も涙落ちぬべき程なれば、岩木ならぬ(木石ならぬ)心には、身を換へんとまでは思はざりしかども、心のほかの新枕(思いがけぬ新しい情交)は、(院の)御夢にや見ゆらんと、いと恐ろし。
二条はその新しい愛人のことを、彼との親密な交情を述べた章句の中では「雪の曙」と呼び、他の個所では、西園寺実兼という実名を用いている。この人物は、数年に亙って二条と愛人関係を続け、彼女が生んだ四人の子の一人の父親であった。この新しい愛人を得たことが、彼女の後深草院との関係を悪化させたかというと、決してそうではなかったのである。それどころか、互いに相手の不実を知りつつ、二人の関係は、さらに親密さを深めていっている。二条と実兼の関係を知った折、院は、とくに思いやりある言葉を連ねた手紙に、次の歌を添えて作者に送っている。
うば玉の夢にぞ見つる小夜衣(さよごろも)あらぬ袂(たもと)を重ねけりとは
(夢に見たぞ、お前が他の男と枕を交わしたのを)
これに対して、彼女は意味をわざとぼかした歌を返して、「われながらつれなくおぼえしかども(厚顔だと思ったけれど)、申しまぎらかし(言い紛らわし)侍りぬ」と書いている。
またある場合には、院が二条を他の男に与えるべくわざわざ計られたことさえある。おそらくこれは日記の中で、最もショッキングな挿話だと思われるが、ある夜、暗がりの中で、男(おそらく関白)が突然二条の袂を捉えて、「年月思ひそめし」などと言ってしきりにかき口説く。この時は、なんとか振りきって難を逃れたけれど、次の日の夜、二条が院の腰を打ち叩いていた時、前夜の男がまたやってきて、院がおやすみの間にぜひ会いたいと言う。彼女は書いている。
「はや立て。苦しかるまじ」と(院が)忍びやかに仰せらるるぞ、なかなか(かえって)死ぬばかり悲しき。御後(おあと)にあるを(院の足許にいる私を)、手をさへ取りて引き立てさせ給へば、心のほかに立たれぬるに(心ならずも立ち上がったが)…
そこで二条とその男とは、院の御部屋と襖一つ隔てた次の間で情交する。
(院は)寝入り給ひたるやうにて(寝たふりをして)聞き給ひけるこそ、あさましけれ。とかく泣きさまだれゐたれども(私は正体なく泣きくずれていたけれど)、酔心地やただならざりけん‥‥
その次の夜も、同じ男が舞い戻ってくる。そして院は、男のところへ行け、と再び二条に命じる。後深草院の行為からうかがえるのは、院の心の寛さ、というよりは、女としての二条への軽蔑の情である。それにもかかわらず二条は、持ち前の率直さを発揮、巻二の終わりで、前夜自分を襲った男が帰ってゆく時の自分の気持ちを描写して、次のように書いている。
何となく名残惜しきやうに車の影の見られ侍りしこそ、こはいつよりのならはしぞと(いつからわが身についた習性かと)、わが心ながらおぼつかなく(不思議に)侍りしか。
二条のように、同時に一人以上の男を愛する能力に恵まれているような読者ならともかく、普通の読者なら誰しもこれと同じ疑問を、ここで持つはずである。
二条の心は、彼女が「有明の月」と呼ぶ僧によって、最も深く動かされたように思われる。この僧は、後深草院の異母弟に当たり、性助法親王として知られ、仁和寺に住んでいた。二条が記すところによると、建治元年(1275)のある日のこと、後白河院の命日に行われる法華経講義に院が出席していたあいだに、ある人物(彼女は名をあげていない)が御所を訪れる。そこで彼女は、「そぞろき逃ぐべき(あわてて逃げださねばならぬような)御人柄ならねば、候ふに(そのままいると)、(彼は)何となき御昔語リ」をされたという。ところがだしぬけにその男が言い出すのである。「仏も心ぎたなき勤めとやおぼしめすらんと思ふ(どんな汚れた心で私がお勤めをしているかと、仏も思っておられることでしょう)」。そう言って、やにわに彼は二条の袖を掴み、言いつのってくる。「いかなる暇とだに(機会にでも)、せめては頼めよ(頼みに思わせよ。つまり会うと約束してくれ)」。彼女は書いている。「まことに偽りならず見ゆる(本物と見える)御袖の涙もむつかしきに(厄介なところへ)、(院の)「還御」とてひしめけば、(私は袖を)引き放ち参らせぬ」。
有明は、これに続く数か月、あらゆる機会を捉えて、彼女に自分の恋心を伝えようとする。そしてある晩、御所で後深草院の病気治癒の祈祷をしたあと、彼は小部屋へ下がる二条のあとについてくる。そして次のように言うのである。「仏の御しるべ(お導き)は、暗き道(恋の闇路)に入りても(変わりますまい)」。有明は彼女を抱擁して、最後の祈祷のあとで、きっと自分のところへ来てくれと頼む。二条はそのあとのことを思い出して書いている。「(有明を)思ひ焦がるる心はなくて、後夜過ぐる程に、人間(ひとま)をうかがひて(人目を忍んで)参りたれば‥‥。」以後二人は、毎夜のように忍び逢う身となったのである。「このたびの御修法は、心清からぬ御祈誓、仏の御心中もはづかしき(仏の御心中を思い、私も大変恥ずかしかった)」と、さすがの二条も書いている。
ある時期に、二条は、有明との縁を切ろうと決心する。そして口実をもうけて逢い引きを断る。だが叔父の大納言隆顕(たかあき)から手紙がきて、有明にもっとやさしくしてやってくれと頼まれる。「しかるべき御契りにてこそ(前世からの縁あってこそ)、(有明は)かくまでもおぼしめし染み候ひけめに、(あなたが)情なく申され(応対され)」私までが辛く思っています、という主旨である。その上、有明からの文も同封してあり、それには、
夜はよもすがら(あなたの)面影を恋ひて涙に袖を濡らし、本尊に向ひ持経(ぢきやう)を披く折々も、まづ(あなたの)言の葉を偲び、護摩の壇の上には(あなたの)文を置きて持経とし、御灯明(あかし)の光にはまづこれ(あなたの文)を披きて心を養ふ。
とある。有明も、禁慾の誓いを破った罪に対する報いとして、来世自分が、地獄、餓鬼、畜生の三悪道(さんまくどう)に堕(お)とされることを予見している。だがこの恋を捨てるには、彼はあまりにも力弱かったのである。
ある日、後深草院が有明を御所に呼び出したことがあった。その時有明は、院がまだ還御にならぬ機会を捉えて、ここぞとばかりに二条への愛を彼女にかき口説く。二条は書いている。
何と申すべき言の葉もなければ、ただうち聞きゐたるに、程なく(院が)還御なりけるも知らず、同じさまなる口説きごと、御障子のあなたにも(向うにおられる院にも)聞えけるにや、(院が)しばし立ち止り給ひけるも、いかでか知らん。
有明の愛の告白を立ち聞きした院は、不快どころか、二条に向かって、もっと有明にやさしくして、その妄執を晴らしてやるがよい、と言うのである。そこで「(それにつけても)いかでかわびしからざらん」と、二条は歎いている。現代の読者なら、二条のこの気持ちは、まことによく分かるのである。いずれにしても二条は、院の願いに従ったのである。結局彼女は、有明の子を二人生んでいる。
二条の性的放縦は、必ずしも彼女の責任とはいえないようである。例えば、ある夜酒宴が終わったあと、彼女は無理矢理、後深草院と、その弟君亀山新院との間に寝かされている。そして間もなく彼女は、亀山新院によって屏風のかげに引きずり込まれ、不本意ながら院の愛人にならされる。そして次の夜も全く同じことが起こったという。
二条は書いている。「今更憂き世のならひも思ひ知られ侍る」と。
「とはずがたり」巻四の冒頭で読者は、尼になった二条が、初めての巡礼の旅に出るため、都を離れようとしていることを、突然知らされる。どのような事情でこうした行動を取るに至ったのか、彼女は何ら説明を与えていない。過去何度も出家については考えたことがあったのだが、憂き世との絆が、それを許さなかったのだ。出家するに当たって彼女が真剣であったこと、これを疑う余地はなさそうである。だが尼僧の衣を身に着けたあとも、彼女の人柄は、それほど変わったとはいえない。心はまだ過ぎ去ったこと、とくに御所での生活、折々の後深草院の情けなどを、絶えず思い出し、恋しがっている。そこで、そうした思い出を、己の心中にだけしまっておくことがどうしても出来ず、彼女が「いたづら事」と名付けたものを、こうして書き続けておいたのである。明らかに二条は、わが身に起こった事どもを書きつけておくならば、己の人生が無為に過ごされたという感情から、なんとか解放されるのではないか、と期待したのだ。自分の書き物が、長く後世に残るとは考えていない、と彼女は言っている。そしてこの予想は、ほとんど的中していた。ただの一部しかなかった原本は、長い間埋もれ、1940年になって、ようやく発見されたからである。
「とはずがたり」を書く二条の直接の動機は、尼僧となって各地を巡礼、その記録を綴りたい、というのであったかもしれない。だが、実際にそうした巡礼の記録が書かれているのは、日記五巻のうち、最後の二巻の中のみである。初めの三巻は、いわば公の告白記を綴るつもりで書かれたのかとも推測される。とはいえ、自分が犯したいかなる罪も、彼女は悔いているようには見えない。あるとき亡き父が二条の夢枕に立ち、家門に流れる歌の伝燈の火を灯(とも)し続けるように、という歌を詠んで彼女をはげましたという。彼女はあるいはその夢に動かされたのかもしれない。二条の意図は明らかに文学的である。そして昔物語を読んだことが、彼女に影響していることには、疑いの余地がない。遠い記憶、近い記憶を辿りつつ、単に起こった事実のみを記録するだけでは、到底満足出来なかったことであろう。この日記には、勝手に頭の中で作り上げた解釈、あるいは完全な虚構さえたっぷり入っているが、それでもなお日記の大部分は、見まごうことのない真実味を湛えている。
巻末近く、意味深長な逸話が述べられている。後深草院が重い病に患ったことを聞き、二条は北野と平野の両神社に詣でて祈願する。「(院の御命を)わが命に転じ代へ給ヘ」と。しかしこの時、もしその願いが成就して、自分が白露のごとく消えてしまったなら、そのことは院にも知られず、自分が院の代わりに死ぬことになるのだ、ということにも彼女は気がついている。これもまた悲しい。
君故にわれ先立たばおのづから夢には見えよ跡の白露
彼女に対して必ずしも常に親切とはいえなかった一人の男の代わりに、自分が死んでもよいというのである。しかしこの二条の折角の心の寛さも、いかにも自分が心寛き人間だったことを世に認めさせたいという、彼女の欲望が見え透いていて、いささか点が下がるのである。なるほどこれは、どこの国ても通じる普遍的な感情であろう。だが大抵の作家なら−告白的作家ですら−自分の名誉に益することまことに少ないこのような観念を筆にすることは、必ず控えたにちがいない。
二条はこの日記を書くに当たって、何等の隠し立てをしていないように思われる。従って読者は、宮廷生活に関する彼女の記述、とくに上皇を始め、関白、高位にある殿上人、僧侶など、すべてが手を貸した淫蕩な恋のたくらみの記述を、真実として文句なしに受け入れがちである。しかしこのいわば道徳的な放縦を、その時代の風潮に帰してしまっては、事をあまりに単純化してしまうおそれがある。同じようなことは、現代に至るまでのヨーロッパ諸国の宮廷に関しても、確かに書くことが出来たはずである。二条の時代にも厳存した日本の宮廷の最も顕著な特徴は、「とはずがたリ」の中の、読者が一読したあと忘れてしまうような個所に、はっきり述べられている。それはすなわち宮廷人士を「源氏物語」の中の人物にそれぞれ見立てて遊ぶ優雅な催し、和歌のやり取り、管絃の遊び、そして日常生活の最も些細な面にまでおよぶ美の崇拝である。これこそまさに中務内侍が自ら選んで書いた世界であった。いずれの女性も、己が生きた時代の歴史家としては、いささか一面的で、全面的に信を置くことが出来ないかもしれない。だがそのどちらも、その名に値するあらゆる日記作者同様、なによりも作者自身の忘れがたい肖像を、私たちに描いてくれているのである。
 
「とはずがたり」考9 日本古典に見る性と愛

 

政権が完全に鎌倉に移り、安定した北条氏の治世の続いていた頃、京都の宮廷社会は王朝の文化伝統を保持しながら、空洞化していた。彼等は現実のなかで実現すべき、何らの未来像をも持たず、武士階級に対する優越性を保証している貴族文化のなかで、実現可能な唯一の観念である「好色」だけが、極限にまで展開されることになる。
その一例は、十三世紀半ばの蒙古襲来の頃、宮廷に仕えていた一女性の回想録である。「とはずがたり」という、優雅な表題を持つこの回想録は、登場人物も、彼女自身が「たのむの雁」であり、恋人が「雪の曙」だったり「有明の阿闍梨」だったりと呼ばれて、全体が事実の記録というより、「源氏物語」的な生活の再現となっている。ただし人物たちの実名やその経歴は、今日では専門家によって正確に推定が行われているので、この回想録は事実に還元して読むことが容易である。
ここに展開されているのは、好色というものが、ほとんど唯一の目的となった人生であり、すべての人物が愛欲のために生きている。院は少年時代に自分の童貞を与えた女性が忘れられず、その女が結婚して生んだ幼女(この回想録の筆者)を引きとり、やがてその女の成長を待って、恋人とする。それは「源氏物語」の紫の上の挿話の再現と言える。その幼女に対する欲望は、伝統的古典の世界に自ら没入することで、獣欲から美的なものに転化されるのである。
院はやがて、その女を恋人であると同時に、自らの夜毎の恋の仲介役兼立会人にさせる。更には自分の弟の僧侶の恋人ともさせ、その後も政界の実力者に後見役を命じたり、─この時代の後見役というのは、性的関係を伴う保護者である─また別の弟であると同時に、宮廷内の反対派でもある新院とも、その女性を同床内で共有して、快楽の領域を限りなく押し拡げて行く。
ここに見られるのは、恐らく日本文学のなかで空前絶後の、性的関係の奔放さであり、性的感覚の探究の深化であり、またその領域の拡大の冒険である。しかもこの回想録の人物たちは、そうした性的自由を、冷たいシニカルな放蕩者の精神態度で行っているのではなく、過度とも言える官能の遊びのなかに、同時に過度とも言える感情の戯れを混えている。
回想録の筆者自身、少女としてのごく早い時期に院と関係を生じたあとで、幼なじみの男性と、可憐な初恋を経験し、彼との性的交渉のなかに、二度目の処女喪失の喜びを味わっている。
またこうした性的饗宴の組織者である院は、極めて意識的な性哲学の完成者であり、彼はそのフリー・セックスなり、スワッピングなり、乱交パーティーなりを、堂々と人間の本来的に持つ可能性の実現であるとして、自覚的に実験をどこまでも推し進めて行く。
それは単に肉欲の満足のための行為の繰り返しという、カサノヴァ的な日常性の遊戯ではなく、性の領域の肉体的であると同時に精神的なあらゆる辺境への、哲学的な開拓という、サド侯爵風の試みなのである。
彼は従って、どのような度外れな交渉をも、変態であるとは認めない。また人間の本能の実現を規制しようとする、どのような宗教的、あるいは社会的な枠、たとえば獣姦への罪の意識とか、一夫一婦制的道徳とか、そういうものを、一切、否定している。
これがかつて平安朝においては、平衡感覚によって支えられていた、好色という紳士的生き方の、その究極的な到達点であった。かつての支配階級が、生活上の平衡を支える一方の柱である政治というものを失った代償として、もう一方の柱の性だけが無限に拡大して行ったわけである。
しかし、この院の哲学や、またこの回想録の筆者であった女性の、想像を絶する奔放な性生活は、当時の宮廷礼会における例外ではない。それは、その社会全体を風俗として覆っていた。
そして、より素朴で剛健な性道徳の支配する、新しい権力者である武士階級も、京都の文化保待者である旧貴族社会の、この性のモラルを、すぐれた伝統的美学として承認し、憧れてさえいた。
だからこの回想録の筆者も、その性生活の無拘束を何ら非難されることもなく、充分の敬意をもって、北条政府の礼法の指導者として、鎌倉へ迎えられている。礼法のなかには、恋の作法も入っていたことは、勿論である。
 
「とはずがたり」考10 中世の愛と性・王朝の残照

 

将門の乱など小波瀾はあったが、まずは平穏無事に過ぎた四世紀におよぶ平安貴族社会であった。しかし源平の闘争の果てに鎌倉に武家政権が登場し(1192)、政治・経済・文化の主役が交代することになった。それからまたやく四世紀、内憂外患の動乱期を迎えたにもかかわらず、棚上げされた貴族社会は、台風の眼のような静謐の中で、愛欲に関しては信じられないくらい王朝末期的退廃を温存している。その事実を確認するためにも、台風の眼の外の激動の諸相を瞥見しておこう。
十二世紀末に成立した源頼朝の鎌倉幕府は、三代将軍実朝が暗殺されて後、北条氏が執権となったが、執権時宗の文永十一年(1274)と弘安四年(1281)の再度にわたる元・高麗連合艦隊の来襲を撃退した。その蒙古来襲の外患につぐ半世紀後の内憂は、鎌倉幕府を倒して天皇親政を復活した後醍醐天皇の建武中興(1336)であったが、同年足利尊氏の叛によって、後醍醐天皇は神器を奉じて吉野に入り、その後1392年に後亀山天皇が帰京するまでの57年間、吉野の南朝と足利氏が擁立した京都の北朝が対立した南北朝時代に突入した。蒙古来襲の外患につぐ内憂の最たる時代、「太平記」の世界である。
1392年、南北朝は合一し、三代足利将軍義満によって、事実上の室町時代に入った。しかし東山に銀閣寺を建て、能・茶の湯・活花・連歌・造庭などを開花せしめて文化史上の東山時代を演出した、八代義政の跡目相続に瑞を発する応仁の大乱(1467-77)の延長線上に、16世紀末の信長・秀吉・家康の戦国時代を迎えている。まさに疾風怒濤の中世であった。
もちろん泰平から戦乱へと世の中が変っただけではない。それにつれて後に述べるように結婚の様式も百八十度も様変りしているのに、台風圏外の京都の貴族社会では動ずることなく、王朝以来のスワッピングを続行している。そのもてあそばれた上流貴族女性の一人が、あまりのことに聞かれもしないのに、性の深淵をのぞいたみずからの半生を書き綴った自照の文学を、題して「とはずがたり」という。
筆者は文永・弘安の再度の蒙古来襲の時に当たる鎌倉中期の帝王・後深草院(1246年即位)に仕えた二条という高位の女房名の女性である。彼女は名流の村上源氏の家に生まれた。二条が2歳の時に亡くなった母は、藤原氏四条家の出で、後深草院の乳母であっただけでなく、幼い天皇に男女の営みを教えた女性であった。院はその娘の二条を4歳の年から御所に引取って育て、14歳の春を迎えた正月に、否応なく愛人にしてしまった。その夜院は、「そなたの幼なかったころからいとしいと思い続けて、この夜を待っていたのだよ」と、幼い紫の上の成長を待って正妻にした光源氏気取りであった。二条は名門に生まれた誇りと美貌と歌才に自負するところがあったのだが、紫の上のようには扱われず、帝のセックスの相手もつとめる女房に週ぎなかった。
実は二条が後深草院の手活(ていけ)の花になる以前から彼女に懸想(けそう)し、贈り物などしていた縁続きの貴公子、院の側近でもある西園寺実兼(雪の曙と仮名)がいた。二条が院に召された翌年の秋、父が死んだので四条大宮の乳母の家に宿さがりしていると、「雪の曙」が訪れて契りを結ぴ、翌年の9月に「雪の曙」の女子を出産したが、院には死産と報告してすました。
同じ年の12月、伊勢神宮に奉仕していた未婚の前斎宮(さきのさいぐう)が院を訪れた。20歳すぎの斎宮はすっかり成熟して満開の桜のように美しかったので、性的グルメ志向の院はさぞかし思い悩んでおられるだろうと、二条が気の毒に思っていると、夜更けて部屋に戻ってこられた院は思ったとおり、「幼い時から仕えてきたしるしに、あの方を取り持ってくれたら、本当にわしのことを信頼しているのだと思うぞ」とおっしゃるので、二条はさっそく斎宮に渡りをつけて院を導いた。翌朝院は「桜の色つやは美しいが、枝がもろくて手析(たお)りやすい花であった」と、まるで食通の試食感のようにデートの感想を二条に話すのだから、一天万乗(ばんじょう)の君はまことにあっけらかんとしたものである。その二条は院と「雪の曙」(西園寺)との三角関係にあったのみならず、院の後見役や兄弟とも院の勧めでベッドインするのだから、院直属の遊女同様であった。
20歳の二条は、その秋8月、伏見の御所での院の宴会の夜、30歳も年上の院の後見役にあたる近衛の大殿こと鷹司兼平(かねひら)に、強引に抱かれた。院の腰を打っている二条を大殿が呼ぴに来て、手を取って引き立てると、院は「早く立て、さしつかえあるまい」とささやき、障子の向こう側で大殿が二条をもてあそぶ様子を、寝たふりをして聞いていたのだから二条が驚きあきれたのも無理はない。
さらにまた24歳の1月、御祈祷のために御所を訪れた院の異母弟の法親王の阿闍梨(有明の月と仮名)が、院の留守の間に二条を涙ながらにかき口説いているのを、戻ってきた院は立ち聞きする。二条が口説かれたことを告白すると、院は「お相手をして一念の妄執を晴らしてあげるがよい」と同衾を勧める。そして修法の最後の夜、すすめられるままに阿闍梨と契り、同じ年の11月に阿闍梨の男子を生んだが、院の計らいで世間には死産と披露した。その「有明の月」も同月下句にあっけなく病死した。その年、弘安四年の6月、二度目の元・高麗の連合艦隊が北九州に来襲したのだが、その大事件を知るや知らずや、まったく彼女の筆は及んでいない。
さてその阿闍梨の子を生んだのは11月。その前月の臨月も間近な二条は、これまた院の差金によって、院の同母弟の亀山新院に抱かれた。同月、嵯峨の離宮に兄弟の院が会した夜、彼女も召されて宴席に侍った。かねてから二条に目を付けていた新院は、「この人を二人の側に寝かせてください」と、しきりに兄院に頼む。後深草院が「二条はただ今身重な身の上ですから、身軽になりましたら仰せのとおりに致しましょう」と辞退されると新院はなお食い下がり、「わたくし方の女房は、どれにても兄上のお気に召しました者をお好きになされませ、とお約束いたしましたのに、その誓いも甲斐なくなります」と引き下がらない。兄院はやむなく「おそばにいなさい」と二条に言い付け、酔ったふりして寝込んでしまった。すると新院は屏風のうしろに二条を連れ込んでもてあそぴ、次の夜もまた添い臥しさせられたのを、「のがるるすべなき宮仕え」と、二条は今さら憂世のならいを思い知るのであった。
その翌25歳の初夏のころ、亀山院との浮名が噂にのぼり、彼女はまもなく御所を追放され、二条町の祖父の家に退下させられた。そうして彼女は30歳を過ぎてまもなく出家し、浮世の風に当たるとともにたくましい動乱期の女性に変身する。鎌倉を目ざして海道をくだり、しばらく将軍の都に滞在してから武蔵野を訪れて浅草の観音堂で月を賞し、信濃の善光寺に詣でている。帰京してからは大和の春日神社をはじめ法隆寺、当麻寺などの古寺を順礼している。その後も彼女の順礼修行の足跡は、厳島から四国・中国路に及んでいる。49歳の秋7月、後深草院の三回忌法会に参会した叙述でこの自分史は終り、これでもう愚痴をこぼす相手もいなくなったと締めくくり、その後の二条の消息は杳としてわからない。だが彼女が私淑したという西行もどきの大旅行を、宮女上がりの身でやってのけたたくましい二条のことだから、後深草院、亀山院、近衛の大殿、有明の月など、自分をもてあそんだ男どもはすぺてあの世に送り込んで今や光風霽月(せいげつ)、さわやかに長生きしたことであろう。
 
「とはずがたり」考11 日記紀行文学の諸相

 

「とはずがたり」の作者は中院大納言源雅忠の女で通称後深草院二条、作品成立は作者49歳以後間もなくの徳冶元年(1306)頃と考えられる。この作品は作者が14歳の正月、後深草院に迫られて止むを得ず後宮に入るところから始まる。
と言っても、二条は4歳の頃より院に引き取られて養育され、14歳に達したら後宮入りすることが、すでに院と父雅忠との間で約束されていた。というのは、二条の母大納言典侍(四条隆親の女)は、院に新枕のことを教えた女性で、その後雅忠の室となって二条を生むが翌年亡くなってしまったために、初めての女性を忘れられない院は、二条をいわば形代として幼少の頃から自分の手許に置いたのである。
本作品は、このような前世からの因縁ともいうべき後深草院との関係を軸として前半の一−三巻までは宮廷編、後半の四−五巻は紀行編という体裁をとっている。前半では、後深草院の寵愛を受けながら、一方ですでに恋愛中であった初恋の人「雪の曙」(西園寺実兼)とも交渉を持っていた。作者二条は院とこの恋人との同時進行の関係を続ける。
二条は院の子を身籠もるが父親とは死別し、その悲しみの中で皇子を出産する。その後作者は院の精進の間に「雪の曙」の子を妊娠、院の子ということにして出産し、院には流産と報告して生まれた女子は「雪の曙」がその場から連れ去ってしまう。また院との間に生まれた皇子もこの年夭折する。
そうするうちに今度は院の病気の祈祷のため御所に来ていた「有明の月」と呼ばれる院の弟性助(しょうじょ)法親王が現われ、はげしく燃えあがる思いを告げられて夜ごとに契りを結ぷに至る。二条は法親王に口説かれているのを院に見られてしまうが、二条の率直な告白と「有明」の真剣な気持ちに動かされた院はふたりを許す。こうして二条は「有明」の子をふたりまでも生むが、「有明」は流行病にかかってあっけなく他界した。
この間身重の二条は院の弟の亀山院と同席する機会があったが、亀山院は泥酔している兄院の目を盗んで屏風の陰で二条と契りを結んだようである。これはさすがに院の不興を買い、またかねがね二条を快く思っていなかった院の正妃東二条院の激しい嫉妬も重なって、ついに御所を追われることとなる。二条、27歳の時であった。
このような複数の男性との関係を続ける生活が赤裸々に描かれる前編は、しばしば「愛欲編」ともよばれ、文学史上特異な作品だとされる。しかし、この作品の真の特色は作者の大胆奔放な愛欲生活そのものにあるのではない。当然のことながら、その表現のありかたが問われねばならない。試みに特異な表現の例を挙げてみよう。それにはやはり、「雪の曙」との間の子を院に隠れて出産する場面を取り上げるべきであろう。
余り堪えがたくや、起き上がるに、「いでや、腰とかやを抱くなるに、さやうの事がなきゆへに、とゞこほるか。いかに抱くべき事ぞ」とて、かき起こさるゝ袖に取りつきて、事なく生まれ給ぬ。
従来の日記では出産のことは「とかうものしつ」(「蜻蛉日記」)などといった朧化した表現でしか語られなかったことを考えると、それだけでも特筆に値する。わずかに「源氏物語」「葵」巻に「かき起こされたまひて、ほどなく生まれたまひぬ」という場面が描かれているが、これと比べてみても「とはずがたり」の場面の方がずっとリアルで臨場感にあふれている。
「いかに抱くべき事ぞ」という初めての事態に戸惑う男の言葉や、やりかたがわからないままに抱き起こす男の動作、そしてその「袖に取りつきて」出産する作者の姿は、いずれも彼らの肉声や行動がそのまま伝わってくるような生々しい映像を喚起する。
「源氏物語」の場面を意識していることも考えられないではないが、そこでは「かき起こされたまひて」と受身の助動詞が用いられているように、葵上の場合は出産する女のいわば一幅の絵もしくは光景として描かれる。これに対して「とはずがたり」では男も女もそれぞれに行動する人間たちであり、それらの会話と動作は読者の聴覚と視覚にそのまま訴える表現となっている。
さらに男は間を置かず、重湯を持って来させ、女はいったいいつの間にこんなことを覚えたのかと感動しつつ、生まれたばかりの我が子を一目見たかと思うと、次に男はすばやく枕元にあった小刀で臍の緒を切り、赤ん坊をかき抱いて「人にも言はず、外へ出給ぬと見しよりほか、又二度その面影見ざりしこそ」というすばやさで去って行ってしまう。
こうした一連の場面の展開にはスピード感があふれている。秘密裏に出産しなければならないという特殊な状況の中での出来事だという点を差し引いてもなお、ここには映画のシーンのように鮮明に人物たちが動いている。
これに対して二条の感情を示す表現は出産直後の「あなうれし」、その子がいったいどこへ連れ去られるのかと思うと「悲し」く、院に対してはこの早朝流産したと奏上するのだと聞いて「いと恐ろし」という言葉しか書かれていない。ごく単純な「うれし」「悲し」「恐ろし」といった表現に終始するのである。
これを表現力のなさに帰するのは、見当違いというものであろう。これらの単純な言葉はむしろ、異常事態の中で内省するゆとりなど持てなかった二条の精神状態を浮かび上がらせる。そして次から次へと行動していかねばならない緊迫した空気が伝わってくるのである。いわば、複雑な感情や入り組んだ思いといったものを吹き飛ばしてしまう迫力をこの場面は持っており、そこに会話や現実的な行為といった身体性が発露し強調されるという仕組みが見えてくる。
このような身体性を描くことは、自分自身が体験しながら、どこか別の地点で自分を見ているような眼で、行為そのものを形象化するという次元の表現なのだと思われる。最初に述べた「自照」に関連させていうと、平安時代の女流日記は自己の内面を見つめ内省する傾向が強いが、中世の13、14世紀の作品は自己の行為、行動が語られ、その身体性が前面におしだされた形で描かれるという特色がある。
それは個人の感情を切り裂いてしまうような歴史の変化や異常事態に出会った「我」が、それゆえにこそ「我」に固執してその「我」の位置とその存在意義を確かめるかのように刻みつけたものだと考えられる。それは必然的に外側から描く形をとらざるを得ず、だからこそ「我」を強調し「我」で始まる文章が生まれたのではなかったか。
 
「とはずがたり」考12 頽廃の魅力

 

さても、広く尋ね、深く学するにつきては、男女の事こそ罪なき事に侍れ。逃れざらん契りぞ、力なき事なり。されば昔もためし多く侍(はべり)。(中略)この思ひに堪へずして、青き鬼ともなり、望夫石といふ石も恋ゆゑなれる姿なり。もしは畜類、獣(けだもの)に契るも、みな前業の果たす所なり。人ばしすべきにあらず。
後深草院の哲学である。男女の事は罪悪とは関係のない事で、獣姦でさえ辞すに能わない。何故なら、性に関する事は、総て宿命の致す所で人間の意志によっては如何ともし難いからである。「力なき事なり」「人ばしすべきにあらず」と人力の及ばない事が繰り返され、この文脈の中でとらえられると、異類婚姻譚も新たな光を帯びる事になる。
この日記も巻三に至ると、作者の筆はかなりの振幅をみせ物語性が拡がる。フィクション側で真実を求めはじめているのである。この巻冒頭からこの日記独自の世界へ突入する。院は二条と有明との会話を聞いてしまい二条が二人の関係を告白するに至るのである。「例の人よりは早き御心なれば」とあり、この種の事に関して院は勘が鋭いのである。拒否されると思いきや院は二人の関係を慫慂する。
遊義門院の為の如法愛染王法最後の日の院の夢もフロイトを地で行くかのように、有明が五鈷を二条に与えると、二条はそれを院に隠して懐に入れたとする。よく知り合った仲なのにどうして隠すのか聞く院に、涙ながらに見せたのが後嵯峨院の遺品の銀製の品であったので院が貰い受けたという。有明の子を身籠った事を意味し、「源氏物語」の薫のように、生まれる子を院が引き取る事を引歌にて隠喩するのである。
院は二条と有明の密会の手引をする一方、逢引きの床から脱け出して来た二条に向い、嫉妬や皮肉をちらつかせる。窃視性にしてサディズムなのである。二条は院にも有明にも引かれており、自分の心の矛盾に苦しんでいる。人間の本性から言って、確かに二つに引き裂かれる心の矛盾は苦悩なのであるが、やがては人は慣いによって苦悩を欲するようになるのであろう。巻三が最も高揚を見せるのも二条の肉体がこの時最も張りつめているからであって、デカダンス期の宿命観や快楽至上主義から言えば、この苦悩は容易に倒錯した快楽に転ずるものなのである。
有明を写す中でも最後の逢瀬の描写は美しい。二晩の愛の状況が告げられる訳であるが、長い愛に耐えて前の晩は一睡もせず、翌日仮眠した時には有明は鴛鷲になって二条の胎内に入った夢を見る。巻四・五には有明の追憶がないのも、あの有明の恐ろしい程の肉欲が後深草院に転化したからであり、その苦悩の度に於いて院にまさるものはなかったのである。
巻四、二条34歳の2月頃、八幡で院に避遁、一夜語り明かす。この時私は僧体の男女の交情を想定するが、この説には実証面からの岩佐美代子氏の支援がある(「女流日記文学講座」第五巻・勉誠社)。二年程後の9月伏見殿を訪ね、同じく一夜語り明かし、この後、院から生活上の慰問がある。元気な院と会うのもこれが日記の上では最後である。
巻五でも夢を除けば二度院との出会いがある。二条47歳、実兼の取りなしで「夢のやうに」危篤の院を見る。二度目はその二日後、今度は実像ではなく、葬送の車を裸足で追い、火葬の煙を見るのである。
「とはずがたり」を読む時、事実が、事実以外の何者でもなく岩膚のような姿を現す。その意味では宮廷篇も修行篇も同じである。後深草院との出会い、父の死、扇に油壺の夢、出産……これらを情緒的に見ては居るのだが、筆は飽くまで乾いた微細なリアリズムであり、鎌倉期の絵画・仏像のリアリズムと通ずるものである。
(父は)ちと眠りて、左の方へ傾くやうに見ゆるを、猶よくおどろかして、念仏申させたてまつらんと(私は)思て、膝をはたらかしたるに、(父は)きとおどろきて、目を見開くるに、(互いに)あやまたず見合はせたれば、(父)「何とならんずらむは」と言ひも果てず、(中略)年五十にて隠れ給ぬ。
父の死に際であるが、極めて即物的に微細に描かれ、それが印象的な効果を出している。この表現方法は全巻を通していると見てよい。
父の死の描写と似たものとして二条の那智での院の夢がある。父の霊は、院の姿が右に傾いて居るのを次のように説明する。
あの御片端は、いませおはしましたる下に、御腫れ物あり。この腫れ物といふは、我らがやうなる無智の衆生を、多く尻へ持たせ給て、これをあはれみ、はぐゝみおばしめすゆゑなり。またくわが御誤りなし。
父の場合は左の方であったが、院の場合は右である。この片向く姿は仏の端正な姿と比べると如何にもいびつで「とはずがたり」のイメージに相応しいが、院と父は重なり合う性質のものだったのである。
風俗的にも刺戟的で残酷なものを好む時代相である。僧に魚の頭を料理させて喜んだり、女房に男装の蹴鞠装束をつけさせたり、僧体の男女の愛欲図等、通常のものに飽き足らなくなっている。下世話な欲の描写にも長けているのであって、醍醐勝倶胝院で曙から物をもらう尼の描写や、四条傅傅(めのと)の家での乳母の下品さを写す部分等精彩に富んでいる。又、光源氏・藤壺・紫上の関係に、院・母・二条を準えているが、「源氏物語」の中には、親子に渉っての肉体関係は存在しないし、まして、僧体の男女の交情などはない。
「源氏物語」には細部にまで神経が行き渉った独自で確かな人間造型があるが、「とはずがたり」は日記を基にしているだけに体験がそのまま全体の脈絡の中に放置されグロテスクな姿を曝しており二条の感性に於いて統一されているのである。二条の酒好きは日記に記す所であり、逞しく、そして古い言葉で言えばアプレでニヒルである。
一つの作品を一つの方法で割り切る事は困難であってこの作品には、自己の情念を追求したいという、主題に密着した方法と、ルポルタージュ性ともいうべき体験性とがあって、両者は分離できるとともに入り交っても居る。鎌倉で将軍惟康親王が廃される様や、江田・和知の兄弟が作者のことで争う件などは、両者ともに記事の地理上の最端に近く、ルポルタージュ文学以外の心理によって記されているとは考えられない。二つの最端の地を繋ぐ人物として広沢与三入道なる人物が現れるが、それとて偶然で、両地でのかなり荒々しい体験談を記す事に目的があったのであろう。
巻四と巻五は東と西という形でシンメトリカルにできており、そのうえ共に後深草院の記事で結ばれる。当時、川口や厳島まで行く事は大変な大旅行であり、二条としては是非記して置きたかったに違いない。この修行篇は、巻一の西行追慕に繋がるが、最終的にはそれらは置き去りにされ、主題としては院への愛という事で終結する。
巻四と五はシンメトリカルであるといえども、明らかに、巻五の方が宮廷関係の記事は多い。肉体的なレベルで様々な事象を感受する二条ではあったが、一筋主題を通す時、自分の生は院以外の何者でもない事を納得するのである。その愛のあり方を示す言葉が前半巻二の「ささがにの女」の挿話の中に現れている。院を中心とした三角関係の苦悩が作者の描きたがった対象であり、その不幸がまた二条を救う。「憂きは嬉しかりけむ」と言う主張の中にこの書の主題は存するのである。
最後に一言。「古筆学大成」に伝九条兼実筆という「とはずがたり切」が紹介されている。写真で見る限り、南北朝期の筆と推定される雄勁な一葉で、隆遍僧正が鯉の頭を割るくだりである。「頭をばえ割り待らじと申されしを」が「頭をば割らでいだすをなにかはせむ」となっている。江戸初期までにこれほどの相違をきたす、文献学の好例である。

さても、広く尋ね、深く蔵(かく)するにつきては、男女の事こそ、罪なき事に侍(はべ)れ。
後深草院二条(1258-?)鎌倉中期の日記文学作者。中院源雅忠の女。4歳から後深草院御所に育ち、のち院の女房となる。西行に憧れ、1288年出家して諸国を遍歴。晩年、「とはずがたり」を書き、自分の経験した愛欲生活をつぶさに描く。
昭和十五年(1940)、宮内庁書陵部に眠っていた「とはずがたり」が世に紹介された時、まず学者たちを驚かしたのは、そこに表れた当時の貴族たちの愛欲生活の生々しさであった。
この手記の作者は後深草院二条。名門村上源氏の出身である彼女は、母・大納言典侍を2歳にして失った。この母は後深草院に初めて男女の道を知らしめた女性であり、従って院は大納言典侍を慕い、その忘れ形見の二条を4歳の時から宮中で育て、二条は14歳で院の寵を受ける身となる。
これはいわぱ、光源氏が紫上を幼いころより育て、後に妻とするのとよく似ている。「とはずがたり」には、至るところに「源氏物語」を模した場面が見られるが、「源氏物語」とは世界が違うと思う。それはひとことで言えぱ、「とはずがたり」における道徳意識の欠如である。
もとより「源氏物語」においても男女の交わりは自由であり、犯してはならない人を犯す場面も多い。しかし登場人物たちはみなその罪の意識に悩み、それ故(ゆえ)、死に至る人さえいる。「とはずがたり」の世界には、そういう苦悩煩悶(はんもん)というものがほとんどない。
作者・二条もいささかだらしがない。院の寵愛を受けながら西園寺実兼らしい「雪の曙」なる恋人の子を産み、さらに後深草院の実弟の仁和寺の阿闍梨(あじゃり)性助法親王らしい「有明の月」の子を二度にわたって産むのである。
しかしもっと奇妙なのは、後深草院の方である。彼は多くの女漁りの後に、二条その人を他の人と関係させてそれを覗き見したり、また実弟・亀山院との共寝に彼女を誘うのである。
このマルキ・ド・サドの世界のような院の所業の背後にあったのは、実は立川流(たちかわりゅう)の真言密教の思想であった。冒頭の言葉は、巻三「真言の御談義」が果てての宴の席で、院が言った言葉である。
真言密教の教えによれば、男女の愛には罪がない。むしろ男女の性の交わりこそ、最も端的な「即身成仏」であると言うのであろう。後深草院は性助法親王と二条を前にしてこの言葉を語った。二人の罪を許そうとしてであろうが、それ以上にこの言葉は日頃の院の信念を述べたものに違いない。
「とはずがたり」の後半は、宮中を追われた二条が「女西行」となって諸国を遍歴するという話であるが、この物語の中心は、後年、図らずも「石清水八幡宮」で二条が院と出会い、一夜、伏見御所で彼女のその後の身の上について院に語るところにあろう。
その時、院は二条に「この旅の間、あなたは色々男と関係したであろう」と問うたのに対し、二条は「機会はありましたけれど、宮中を出てからは一度たりとも男性と接したことはございません」ときっぱりと答えるのである。
私はこの二条の言葉を、院の奉ずる真言立川流の哲学の否定とみる。彼女は「源氏物語」の浮舟の如く、世を捨て、清浄の身となっている。もはや、男たちのかわいい性の玩具(がんぐ)ではない。彼女は、自分を、その好色哲学の実験の道具とした恋しい男にひとこと言いたかったのである。
伏見の一夜を持つことによって彼女は救われた、と私は思う。
 
「とはずがたり」考13 作品解説3

 

時代
「とはずがたり」は、作者久我雅忠女の、文永八年(1271)、14歳から嘉元四年(1306)49歳まで、30数年間の自伝的日記文学である。作品の背景をなす時代は、ほぼ鎌倉の中期から末期にわたる。後鳥羽院の計画した承久の乱(1221)で公家側が敗北したのち、政治の実権は大きく武家の側に移っていたものの、京都の貴族政権は依然、朝廷としてのいちおうの形態と、伝統文化の継承者としての位置を確保していた。一方幕府もまだ朝廷の権威を完全に無視することはできず、公武の二重政権は、一種の微妙なバランスを保っていた時期である。
作者の父久我雅忠の仕えた後嵯峨院は、承久の乱に関与しなかったといわれる土御門(つちみかど)院の皇子であり、過激派と目された順徳院の皇子をしりぞけて幕府の擁立するところとなった。同院の一代は温和な院の性格もあって、朝幕の間も宮廷の内外も、比較的平穏に過ぎたが、生前にその皇位継承についての意見を明示せぬまま没したため、同院の没後、その遺志をめぐって、作者の後宮として仕えた同院の大宮院所生の長子後深草院と、同母弟亀山院との間に、皇位継承について内紛が起った。後嵯峨院も大宮院も、もともと病弱でやや女性的な後深草院より、活発で才気のある次子亀山院を愛し、その皇子後宇多院も早く東宮に立っていた。幕府の諮問に対する母后大宮院・異母兄円満院等の証言により、皇統は亀山院側に定まろうとし、後深草院は失望から出家の意志を表明した。しかし幕府の斡旋によって、後宇多院の次に後深草院の皇子伏見院の立坊が実現したので、院は出家を取りやめ、ここに両皇統迭立(てつりつ)の端緒がひらけた。
たださえ古来の政治・経済の基盤を失いかけている貴族にとって、皇位のゆくえ、官位の争奪は、一族の死活の問題であった。幕府もまた再度の蒙古の来襲、警備による財政の窮乏、御家人制の行きづまりなど困難な問題をかかえ、社会の各層に矛盾と分化をはらんで、南北朝動乱の前夜へとつづく。その間にも地方の豪族が次第に実力を持ちはじめ、京・鎌倉を中心とする地方交通もひらけてきて、地方の小都市が栄え、各地に小文化圏が生れている。新しい現実的な潮流は武家・民衆の側から容赦なく押し寄せてきていた。
一方自覚のない日常を送る既成階級の内部には、相当ひどい退廃的な風潮が瀰漫(びまん)していた。このことは「増鏡」の記事にも詳しく、それら新旧文化の錯綜、交替してゆく過程は、この「とはずがたり」の作者の体験からも読みとることができる。表面は王朝時代の華麗な夢を追いながらも、実質ははげしく流動する実力競争の時代であった。
その中で作者の生家久我家は村上源氏の嫡流、清華としての家名を誇り、当時土御門院・後嵯峨院の外戚として、一族あげて朝廷に親近していた。しかし同族の中でも限られた官位栄誉をめぐり、暗闘が行われていた。作者の父雅忠は、祖父太政大臣通親、父同通光、兄右大将通忠のあとをうけて首席大納言まで昇り、氏長者、淳和・奨学両院別当を兼ねたが、大臣任官を目前にして世を去る。このことは作者の生涯に大きな暗影をなげかけた。
作品に「雪の曙」の隠名で登場する実兼の西園寺家は、藤氏公李流で幕府と近く、承久の乱後、関東申次(もうしつぎ)という有利な条件のもとに、天皇家の外戚となり、摂関家をしのぐ権勢をもつが、この作品の当初は、実兼はまだ若き当主として雌伏時代であった。実兼の大叔母大宮院は後嵯峨院の后で後深草・亀山両院の母である。作者の母方四条家は院政期に台頭した実力者の家柄で、代々権勢家と姻戚関係を結び、大宮院・東二条院の母、北山准后貞子の実家として、西園寺とも近く、准后の弟にあたる彼女の祖父隆親の勢威は「アマリアリ」とまで評された。作者の周囲は、衰退しつつある宮廷貴族の中でも陽のあたる階級に属していたから、庇護者の健在であった間は、かなりわがままに振舞うことができた。それらに死別し、御所を退出して以後の彼女の経済生活については、詳しいことはわからないが、生家もすでに久我家の嫡流の位置を失い、けっして裕福でなかったことだけは確かである。おそらく亡父の遺産の相続分を乳母(めのと)家にでも管理させて、生活を維持していたものであろう。
作者と作品
作者は中院大納言久我雅忠の女、母は大納言四条隆親の女大納言典侍である。成長した皇子がなかったため、「皇胤紹運録(こういんじょううんろく)」にも、また「尊卑分脈」その他にも記載されておらず、名前は不詳である。幼名はあかこ。宮廷での女房名はいちおう二条と呼ばれていたが、父はこれを不満として異議を申し立て、院も内々には「あかこ」と呼んでいた(「あがこ」ではない)。
さて作者は、生涯をじつに大胆に奔放に生きた女性であった。家柄と容色と才智にめぐまれ、芸術的な天分も豊かで、文学・和歌・音楽とくに琵琶、絵もよくしたようであるし、なによりもきわ立ってみずみずしい、男性を惹きつける魅力を持っていたはずである。
14歳の春、後深草院の後宮となって一皇子を生み、宮廷では花形のように扱われていた時もあった。しかし幼時に母を失い、まだ少女期に彼女の意に反して後宮とされたことが彼女の第一の不幸であり、彼女の身内に激しい情熱と奔放さと強い自我を持ち合わせていたことが第二の、15歳で父を失い、叔父まで早く死んで、親身に保護してくれる人がいなかったことが第三の不幸であった。矜(ほこ)りだけは高く、実質は伴わなかったのである。
院は作者をかつての愛人大納言典侍の形見として、4歳の幼女の時から膝下(しっか)に引取り、長ずるのを待って後宮としたのだが、院はもともと弟亀山院より虚弱で、女性的、やや陰湿な性格だった。時には彼女を溺愛してみせるが、けっして彼女を包みこんで愛してはくれず、親しさに甘えて他の女との情事の手引をさせたり、来訪する貴人たちの接待を命じたりする。父の死後、生れた皇子も夭折し、正妃東二条院や他の女房の嫉妬や中傷の中で、ついに父と約束していたはずの大臣の女としてのふさわしい名も与えられず、終始院の後宮兼上臈女房、高級貴族の接待役として、絶えず誘惑の中に身を置かねばならなかった。
ほかの女性だったら、あるいは賢明に耐えて身を処しただろうが、彼女の美貌と才気は目立ちすぎた。彼女のほうにも鬱積した不満があり、ついつぎつぎと不羈(ふき)の行動に走った。後には院もこれを知って逆に使嗾(しそ)したり、強要したりもしたが、最後には亀山院との噂のひろまったことから、院と正妃との不興をかって、宮廷から追放され、世俗的な女の幸福も名誉も生涯得られずにしまった。愛人の形見として生れた子供たちにも、おそらく公然と名告(なの)ることはできなかったし、女として母として、しみじみ悲哀を感じていたに違いない。
作者はいったんそれをのりこえ、さらに新しい土地、新しい人間への興味を求めて旅立つ。女の身でよくも、と後深草院でなくても思うほどの旅程である。宮廷時代、最高貴族たちと心と体でせいいっぱいの恋愛を経験した作者は、旅でも行ける限りの処までたずねて行って、さまざまな事を経験した。地方の武士や豪族たちとも交わりをもった。遍歴の間も念頭を去らなかった後深草院も東二条院も世を去り、亡父の三十三回忌、院の三回忌も終った。五部の大乗経も、独力で完成間近になった。
ふり返って、我ながらよくぞと思い、この生涯をだれかに語りたい欲求が強く起ってきたものであろう。しかし語るべき相手はもはやだれもいない。だれにも聞いてもらえないとすれば、書き残すほかはない。だれかが読んでくれるであろう。問われないのに語る、いたずらごとのおしゃべり、という謙遜の形をもちながら、内実はもっと切実なとはずがたりである。作者の跋文にいう、「年月の心の信も、さすがむなしからずやと思ひつづけて、身の有様をひとり思ひゐたるも、飽かずおぼえ侍るうヘ、……その思ひをむなしくなさじばかりに」という発想は、いわば自己の存在のあかしを残したいということである。ことに「さすがむなしからずや……飽かずおぼえ侍るうヘ……その思ひをむなしくなさじばかりに」と繰返す表現は、この欲求の強さと、同時にある種のむなしさの背反を痛切に物語っている。
前三巻は作者をめぐる多くの男性との愛欲の葛藤を経として、宮廷に登場する多くの人々の織りなす人間絵巻であり、その中にあって絶えず出離をねがいながら、逆にますます深まってゆく作者自身の人間の苦しみの記録である。後二巻は一転して作者が出家の後、新しい天地を求めて漂泊する意欲的な旅行の記で、その間に培われてゆく作者の心の軌跡がうかがえるが、作者はけっして一定の諦観に達していたとは思えない。
当時の女性の一人として、多くの先行の和歌・文芸・歌謡、ことに源氏物語をはじめとする物語の要素を十分にとり入れているが、作者の体験は具体的事実そのものなのだから、その描写は物語の発想の枠を突き破って、迫真性をもって読者に迫る。
先行のどの日記文学よりも素材もスケールも大きく、多様性があり、思想も表現も自由である。日本古典の豊かな抒情性を踏まえながら、現象の正確な把握、ものごとの核心に迫ってゆく理知的な手法など、近代的な写実性さえ持っているのは特筆に値する。
ことに作者は、自分を中心に多くの人物の錯綜(さくそう)した人間像を見事に再現し、その時点時点で精いっぱいに生きた一人の女性の姿を浮彫りにする。恋愛といっても作者の場合、あまりにも豊かな感受性と肉体を持ちあわせていたために、さまざまの男性との愛情の喜びも、悲しみも、全身で受けとめざるを得なかった。その結果起る妊娠・出産という女だけが負わねばならぬ肉体的負担も、心身の微妙な変化も、あいまいさを残さず克明に描き出して、それがこの作品を女性史上にも稀有(けう)のものとしている。
この作品は、人間記録の文学として、日本文学史上特異の存在であるとともに、東西古今を通じても傑作と称するに恥じない名作であると思う。作者雅忠女は時代的に早く生れ過ぎ、彼女の生れた社会に順応して生きてゆくためには、あまりにも豊かな資質を持ちすぎていたために、女としてはけっして幸福ではなかったのだが、逆にいえば、不幸であったがゆえにこれだけの作品を書き残し、今日まで作品の価値が伝えられたことを思うと、人間の生涯についての深い感慨なきをえない。
制作の動機についての一考察
さて、作者の半生をかけて語りたいと思った真実は何だったのだろうか。ここで筆者らは、この作品全体の一作品としての一貫性とともに、前三巻と後二巻との間に存在するある隔絶した異質なもの、矛盾を指摘しないわけにはいかない。
もちろん作者は作品を完成するまでに、それまで書き誌(しる)してきた細密な日記ふうの覚え書・メモ・歌稿や手紙の控えなどを十二分に生かして、ある時期に整理編集したことはまちがいない。それぞれの箇所での濃密な描写、心理表現などはそれを物語る。しかし前篇と後篇とはその整理の方法・発想が明らかに異なる。
前三巻のいわゆる宮廷生活篇では、ほとんどが本音で書かれている。自分の行動を記述するときの自己顕示と弁解は目立つが、その他の人物─とくに後深草院・東二条院・前斎宮・近衛大殿・祖父隆親らの言動については、仮借ないほどの筆致でその性格や行動を暴露している。有明についても、実名を朧化しただけで、やはり記載どおりの事実があったものと思われる。四回の出産の記事も、その時どきの状況に応じて正確に描き分け、その前後の自分や関係者の心理や人々の動きも克明に叙述している。雪の曙の記事だけには相手に配慮した態度がみえるものの、彼との恋愛事件の記述そのものは三巻の終りまで綿々とつづく。亀山院事件については、よく読めば推察がつくように、むしろ容易に推察できるように、意識して順を追って書いており、これが原因となって御所追放につながったことも、「いかでか知らん」と一言言い放って、何も弁解していない。有明の没後の悲嘆や追善供養は委曲を尽くし、秘密の子への愛情もすべて隠していない。三巻全体を通してみる彼女と院は、けっしてよい関係ではなく、院のわがまま、それに反発する彼女のわがまま、院の劣等感、女院の嫉妬、他の男性との関係、それらが相乗し合い、結局は女性であり一女房に過ぎない彼女の、なんの栄誉も与えられず一方的な破滅に終る経過であり、最後に院は恨めしさの対象であっても、思慕の対象とは程遠かった。それを描く筆致もほとんど遠慮なく、院への敬語さえしばしば省く。とにかく前篇は、相手により潤色はあっても、とくに院との関係に関しては現実そのままである。前三巻は、当時の関係者には少くとも読まれることを憚るものだったろう。
後二巻でまず驚くのは、あれほど哀哭(あいこく)した愛人有明のことが一切出てこないこと、そのほかの関係者も同僚もまったく出てこないこと、そしてただ宮廷への懐旧の情、院への思慕を要所要所で繰返すこと、院への恨めしさをけっしてあらわに書かぬことである。地方の新しい知己や経験にふれてはめざましい清新な記述をするが、こと過去となると、わざとのように院しか思い出さないことにしている。そして院や皇室への最高の敬語が煩瑣(はんさ)なほど繰返される。用語は当時の女房詞で、実際使っていたものであり、持別なものではないが、前篇とのあまりの言語感覚・発想の相違に戸惑いを覚える。二度の院との再会では、一度はことさら卑下してみせるが、二度目は院の執拗な質問に、一々反論して出家後の身の潔白を証明し、ついに院の反省の言葉を引出す。その後数年を経て、院の死去前後はまったく院への追慕と父の家名への執着に終始し、院の遺女遊義門院との再会を一つの山場として後篇を終る。
前篇では多少の曲筆はあっても、かなり事実・素材そのままの迫真力があるのに対し、後篇は、純然たる紀行の部分にはむしろ淡々とした味があるが、宮廷関係になるとにわかに作者の意図的な素材の選択と、無理に院への思慕に統一したごとくに叙述をしぼっているあとがみえる。どうみてもいかにも不自然で、とくに後篇についてはかなり特定の宮廷関係の読者を意識したと思わざるをえない。
では作者は後篇をはたしてだれに読んでもらいたかったか。この二巻は宮廷関係に限っていえば「たてまえ」であり、後深草院の周辺、とくに遊義門院の反応を念頭においているように思えてならない。院のもっとも尊貴な皇女である遊義門院に、事実の一部は切り捨てても、作者と院との関係をできるだけよいものとして印象づけたかったのではないだろうか。
それに反して前篇は、あくまで「ほんね」であり、事実であり、自らの誇り高き出自、得べくして得られなかった名誉、裏返せば自分の苦しい立場、御所追放の経緯、ひいては秘密に生んだ自らの子どもたちの出生の経緯になる。これらは後篇ではまったく触れるのを避けた内容であるが、その子女が成長しているのも事実であれば、母としてこれはいつかは語っておかねはならぬ事であったのではないか。作者は、こちらにはみずから制限を加えることなくすべてを書いた。いつか真実を知ってもらいたいために。雪の曙との間の女児、亀山院妃となって一時は立坊も期待された恒明親王の母である昭訓門院も、当然その意識の中に入っていただろう。当時実兼が依然健在で政界の重鎮であったことを考慮に入れると、前篇における雪の曙の記事への周到な配慮も説明できる。作者は自身の見果てぬ夢を、かつての女児と恒明親王に秘かに託していたかもしれない。
筆者らは前篇と後篇が、同時に公表されたとは思わない。整理の態度に相違があり予想している読者にずれがあると思えるからである。ところが後篇─たてまえのほうを執筆中か執筆後かに、遊義門院はにわかに病んで亡くなった。前篇のほうは内容や記述態度からいって、遊義門院や同院の関係者には読んでもらうつもりはなかった。しかし細心の注意を払って書いた後篇も、はたして予想した人に読んでもらえたかどうかは疑問である。ただこの五つに綴じられた冊子が、いつの日か「とはずがたり」一・二……の名で五巻の作品にまとまって残り、前半と後半の内客や記述態度に明らかな予盾と不統一を残したまま、一つの作品として今日まで伝えられたというほかはないのである。
成立と流伝
この作品がともかくも全体として完成した時期の手懸りは、この作品に記された最後の年時、嘉元四年(1306)7月16日以後であり、「禅定仙院」、および「今の大覚寺の法皇の御ことなり」の古注の存在によって、正和二年(1313)11月(伏見院の出家)以前となる。また新後撰集の次の勅撰集を強く意識していること、「書くべき経はいま一部なほ残り侍れども、今年はかなはぬ」の「今年は」という言い方からすると、嘉元四年(徳治元年)から一両年のうちに写経も完成し、この作品も完成したという感じが強い。
「とはずがたり」の伝本はただ一本、宮内庁書陵部蔵の写本があるのみである。五巻五冊。水色地の表紙に古短冊切を貼って、「とはすかたり」の題名と各巻の番号とを記す。内題も同様に記し、本文は縦約二八センチ、横約二○・四センチの楮紙(ちょし)を袋綴にしたものに、一 頁十一行に書く。和歌は一字乃至三字下げで一行に記す。
答巻別筆で、多少巧拙の差がある。本文の枚数は、
巻一 五五、巻二 四三、巻三 四八、巻四 三七、巻五 三二、計二一五
末尾の跋文のあとなど、本文中、刀で切り取られたむねを記した古注のある箇所が四ヵ所あり、また、巻四の末尾が中断しているほか、文が行の途中でとぎれて、以下その行を空白にしてある所や文章の接続しない所などが数ヵ所あって、本文の欠脱が考えられるが、その他の点はよく保たれていて、虫喰・損傷などもない。巻三の次に一巻の欠巻を考える説には賛成できないことは、すでに述べた通りである(巻四の一段解説参照)。外題が霊元院と推定されることから、この写本は江戸元禄期以前に成るものだろうといわれている。
今日伝わる「とはずがたり」は、何回かの転写を経てゆく間に、誤写・脱落を生じたほか、表現の上で多少原本から離れてきたと推測されるところがあり、種々表記上の不都合や不統一を生じている。しかしひどく原形を損じていると思われるようなことはなく、誤写上のこととともに、「とはずがたり」では代々比較的に良心的な書写が行われてきて、現伝のものは格別性質の悪くない写本である。
この作品は、すくなくも三回は転写を経過して今日に至っている。前記の古注は、すでに嘉元四年(1306)から正和二年(1313)までの間に、誰かによって注記されていたことを証する。しかし作者がいつまで生存していたかは知る由もない。
「増鏡」(1333-1376年)は、「とはずがたり」の巻一から巻五にわたって何段かを計画的に盗用し、その取方は資料としてばかりでなく、露骨に用語・文体等に至るまで用いている。しかも引用した記事において、「増鏡」の著者はこの「とはずがたり」の作者の身分をひたすら隠している。このことは「とはずがたり」がその内容上一般に流布されず、一部の者にだけ秘かに読まれていたことを立証する。「増鏡」の著者(二条良基と推定されている)はその地位上これを所持し得て、編纂の重要な資料としたのである。
その後の流伝をみても、東山御文庫の目録や三条西実隆の「実隆公記」(1497年の条)などに、「とはずがたり」の書名が出ている程度で、現伝の御所本となるのであって、この作品が皇室関係の狭い範囲に秘蔵されていたことが推測される。
それ以後の状況はまったく不明であるが、昭和15年、初めてこの作品の内容と価値が紹介され、昭和25年、桂宮本叢書の一として公刊されるに至ってようやく普及するようになった。そして作品の研究も年とともに進展し、研究論文・注釈書等が輩出した。外国でもはやく注目され、アメリカ・イギリス・ドイツ・ソヴィエトと、相次いで翻訳書が出版されている。
補注 / 恒明親王をめぐる情勢について
すでに政界の第一実力者となっていた西園寺実兼は、正応二年その一女※子(永福門院)を伏見帝の中宮として入内させたが、その前年ごろ妹相子(公相女、のちの土御門准后)を後深草院の後宮に送り、皇女子(陽徳門院)が生れている。永福門院に皇子は生れなかったが、後伏見院を養子とした。
実兼はさらに伏見院治世の終りごろ、二女瑛子(昭訓門院)を亀山法皇の宮に入れて、両皇統への布石を行った。これが「とはずがたり」の作者所生の女子と思われる。
亀山院は晩年に得た瑛子を溺愛(できあい)し、翌年恒明親王が生れるや、これを末子であるにかかわらす莫大な所領を相続させ、それのみならず、次の大覚寺統の皇太子として立てることを熱望し、長子の後宇多院、持明院統の伏見院らの諒解をとりつけ、3歳の恒明親王にも置文をのこすと同時に、後事を実兼の子公衡に託して没した(「宸翰英華」その他)。
公衡は亀山院の遺志を奉じて幕府側にも奔走したようだが、亀山院の没後は後宇多院がこれに従うことは無理で、そのうえ持明院側ではこの状況を奇貸として、幕府に対し花園院の即位の促進と持明院統の正統の主張を行うなどの波瀾があり、公衡は後宇多院から勅勘をうけて一時所領を没収されたことがある。
大覚寺統ではすでに次の東宮候補尊治親王が成人しており、また亀山院の没した翌年、後二条院に皇子邦良が生れ、諸情勢から恒明立坊は不可能になったが、昭訓門院と恒明親王は母方西園寺の縁で持明院統に接近し、その子孫は常盤井宮として南北朝合一後まで残った。
作者としても、みずからが生んだ女子の上に起った微妙な運命の波瀾を、どんな思いでいつまで見守っていたことであろう。亀山院が親王自身にあてた死去直前の置文が、伏見宮の記録の中に残っていたことも、いろいろなことを想像させる。
 
「とはずがたり」考14 日本古典への招待

 

それにしても、いきなり「原文を読め」と言われても、本屋さんに古典文学の作品がずらりと置いてあることはまれだし、「国文学のコーナー」なんて棚をのぞいてみても、むずかしそうな注釈本とか「何々についての研究」とかいう本ばっかりで、いったい私は何を読んだらいいのだろう・…と、途方に暮れる人がいると思う。
何千円もする「岩波新日本古典文学大系」なんて買うのはもったいないような気がするし、かといって文庫で古典の原文が読めるのは、今では講談社学術文庫(学術!)や岩波文庫だけだ。
講談社のには現代語訳がついているけど、文庫とは思えない値段だし、原文と現代語訳と注釈とが交互に並べられている紙面は、慣れていないととても読みにくい。岩波文庫だってなんにも注がなくて、わけがわからないし‥‥と、またしても古典を諦めようとしたあなたの目に、こんな本の名が飛び込んできたとしよう。「田辺聖子の源氏物語」「瀬戸内晴美訳とわずがたり」「安西篤江が語る今昔物語」などなど。
へえ、これなら原文読まなくてもいいじゃん、と、あなたはそうした本に手を伸ばそうとする……。これが、現代作家による古典の「現代語訳」だ。
それに加えて、この日本には歴史小説というジャンルがあるんだよね。戦国武将のドラマが国民的に好まれるというのも、歴史小説を通じて得た知識が、主に中年以上の人の教養になっているせいだ。つまり、日本人は歴史小説好きな民族。最近亡くなった司馬遼太郎さんはもっぱらおじさん御用達だけど、永井路子さんとか杉本苑子さんといった女性作家の書いた歴史小説には、誰でも一度くらい目を通したことがあるんじゃないかな。
とくに古代史とか鎌倉、江戸あたりを題材にした歴史小説に強いお二人だ。もう長老と言っていい風格で、「歴史物の二大女流」として認められている。かくして、あなたは歴史小説や、現代作家の書いた「現代語訳」を通じて古典の世界の扉を開けることになる。そうすると、どうなるか。
歴史小説は、いろいろな資科にもとづいて書かれてはいるけれど、資科そのままじやない。その資料には、当然古典の作品も含まれているはずだ。それらを作家がたんねんに再構築して作り上げたのが歴史小説ということになる。だから、そこには作家の頭の中で作り上げられたイメージによる人物造形がなされているし、ある事件やある場面についての解釈も作家ごとに変わるのが当たり前だ。
たとえば、「万葉集」の額田王は極端に資科の少ない人物として有名だけど、彼女を取り上げた歴史小説は山ほどある。つまり、作家が百人いれば、一つの出来事を題材にして百通りの歴史小説ができるかもしれないんだ。
だから、歴史小説をいくら読んだって、それは現代作家の「作品」を読んだにすぎないのであって、あなた自身が古典を読んだということにはならない。これは、「誰々訳」とあるものでも基本的にはまったくおなじこと。
ためしに「源氏物語」の例をあげようか。「源氏」には、古くは与謝野晶子から谷崎潤一郎、円地文子、未完に終わったけど舟橋聖一、そして最近では瀬戸内寂聴、田辺聖子、橋本治ら各氏の「現代語訳」がある。
でも、もっとも原文の遂語訳に近いとされている「円地源氏」でさえ、原文と対照させると作家の「くせ」みたいなものが浮び上がってくるんだ。その特徴は、たいていの場合登場人物の女の人にどのような性格や役割を与えているかというところに現われるように思う。「源氏」にはたくさんの女性が登場するし、「「源氏物語」の女たち」なんて本はくさるほど出ているから、女性像の造形、これが作家の腕の見せどころになるわけだね。
まあ、女性は男性主導の文学の世界では常に「見られる存在」として描写されてきたから、この現象はしかたないと言えぱしかたない。だから、作家の好みが女性像に反映されるのは言うまでもない。
瀬戸内さんは、「私の好きな古典の女たち」(新潮文庫)で、「源氏」から朧月夜、六条御息所、女三宮、明石君、そして浮舟の五人を取り上げている。もちろん「源氏」には光源氏の永遠の人となる藤壺中宮をはじめ、主要な女性がいっぱい出てくるんだけど、瀬戸内さんがこの五人をとくに取り上げたのは「好み」のせいじゃなかろうか。
文中でも、「藤壺はあまり理想的に書かれ過ぎていて、私にはあまり魅力が感じられません」とか、「「源氏物語」の中で一番好きな女性をひとりあげよと言われたら、私はためらいなく六条御息所をあげます」というような言葉が見える。
こういう人が「源氏」を現代的に訳したら、自分の興味が持てる人物については自分流の解釈をまじえて詳しく書くだろうし、おもしろくないと思った人物についてはさらりと流すんじゃないかな。私は瀬戸内さんを責めているわけじゃなくて、誰でも作家であれば必ず多かれ少なかれこういう傾向はあると言っているんだ。
とすれば、あなたが手に取った「誰誰訳源氏物語」は、作家の誰かさんの作品にすぎないんであって、「源氏」のオリジナルとはかなり違うものを読んでいることになる。このことを充分に認識しておかなければ、古典を読むということなんか一生できやしない。
前の章でも触れたように、ある人物やある事件について私たち現代人が持っている知識は、近現代の作家のフィルターを通したものである可能性がとても高い。だから、額田王(ぬかたのおおきみ)といえば岩下志麻みたいな妖艶な女性を思い浮べてしまうんだろうし、六条御息所といえばじっと思い詰めて内に籠っちゃう「男からすれば苦手なタイプ」だと思い込んでしまうんだ。
そんなフィルターをとっぱらって古典の原文に一歩でも近づこうとするならば、歴史小説や作家の訳本は古典とは別のもの、という気持ちで読むべきなんだ。
さて、これから取り上げるのは、現代作家が描いたある女性と、彼女が実際に書いた本との間にあるギャップの話だ。つまり、作家はある古典を作品の「ネタ本」に使っているわけだが、その「ネタ本」と出来上がった歴史小説との間には、驚くばかりの違いが見える。これがつまり、作家の「古典のとらえ方の差」なんである。
ネタ本は、一般の人にはあまりなじみのない鎌倉中期の「とはずがたり」という本。学校の文学史では、鎌倉時代の「女流日記文学」に分類され、「宮廷内の性愛に関する赤裸々な告白が特徴」なんてレッテルを貼られているやつだ。
もちろん私は、「とはずがたり」は「女流日記文学」という位置づけが適当だとも、「赤裸々な告白」が妥当な表現だとも思っていない。それはこれから述べていくことにして、まずは「とはずがたり」の世界へと入ってゆくことにしよう。
不幸な「とはずがたり」
「とはずがたり」という名前を聞いたことがない、って人を責めるわけにはいかない。この本は、13世紀の半ばに生まれてからほとんど読まれてこなかった本なんだ。たいていの古典は成立以後ある程度の読まれ方をしていて、だから「土佐日記」にもあれだけ写本があるんだけど、「とはずがたり」は宮内庁書寮部にある一本だけしか伝わっていない。それも昭和15年に、山岸徳平さんという国語学者が「地理部」に分類されていたこの本の名を奇妙に思って手にしたことから「発見」された、いわば歴史の新しい本なんだ。
「源氏」が千年近くも読み継がれてきたことに比べると、この世にたった一本しかないなんて驚きだ。この本には天皇や上皇の性に関する記述があるせいで、あまり公にできなかったという理由もあるらしい。
「とはずがたり」は五巻で構成されていて、巻一から三までが宮中を舞台とする「宮廷編」、あとの巻四、五は、主人公が出家して諸国を巡礼する旅がメインだから「出家編」と分けて呼ばれることが多い。書いたのは、後深草院二条という女房。
後に「南北朝の争乱」という宮廷の内部紛争が起こるけど、二条の生きた時代はまさに南北へと宮廷が分裂を始めようとする鎌倉中期だ。後嵯峨天皇の二皇子である後深草と亀山は、それぞれ持明院統(北朝)、大覚寺統(南朝)という二流派のもととなった。
二条はこの後深草院の宮廷で育った女性で、母親は後深草天皇の乳母を勤めたことがある。正式には後深草院の正妻である東二条女院つきの女房だったらしいけど、小さいころから後深草院を父とも兄とも慕って生きてきた。でも14歳の春、二条は無理やり後深草院と関係を持たされ、以後は院の女房と愛人とを兼任することになる。
この二人の関孫に、二条を恋する西園寺実兼や性助法親王といった複数の男性がからんでゆく。そして二条は身も心も翻弄されたあげく、出家して諸国を遍歴する旅に出ることになる。後半部分は、出家後の二条が見た寺社についての記述が多くなるが、後深草院との再会や、院の死などを経て、院や父母の供養をする場面で全巻は終わっている。
さて、今までの文学史では、「とはずがたり」は日記文学という位置に置かれてきたけれど、これを日記だと思って読み進めるとおかしなことがたくさん出てくる。
これまで研究者によって明らかにされているのは、記述された事件が必ずしも実際に起こった順番に配置されているわけではなく、作者は意図的に事件を入れ替えたり、省略したりしているということだ。
だから、日記とはいえここにはフィクションの部分がかなりあって、物語に描かれるようなシーンが何回も登場することから、「とはずがたり」はむしろ物語に近い性格だと考えた方がいいだろう。
ところで、いまだ研究の途中と言っていい「とはずがたり」に目をつけたのは、研究者よりむしろ作家の方だったようだ。とくに1970年代、この本は女性作家によく読まれ、エッセイなんかにしばしば取り上げられている。瀬戸内さんは三度も現代語訳をし、「中世炎上」という歴史小説まで書いているし、永井路子さんや杉本苑子さんも、対談やエッセイで何回もこの本に言及している。
女性作家に比べると、男性作家が「とはずがたり」に関して何か言っているのを、私はほとんどと言っていいくらい知らない。「とはずがたり」は、「鎌倉時代の一女房の性と愛の手記」という触れ込みで紹介されたせいもあって、女性作家がなじみやすかったこともあると私はふんでいる。
げんに、作者であり作品のヒロインである二条を男性は敬遠しがちだという例もある。たとえぱ、国文学者である久保田淳さんと瀬戸内さんは、1975年の対談でこんな会話をしている 。
久保田 私、和泉式部は好きなんですけど、どうも後深草院二条はなかなか好きになれないんですけどね。どうでしょうか。やはり二条にも和泉的なものをお感じになるわけですか。
瀬戸内 はい、私は感じますね。(中略)現代の小説としてもちっともおかしくない。リアリティーがあるし、迫力があるし。(中略)久保田さんは、二条のどこがおきらいですか。
久保田 そうですね、そうなりますとちょっと困るんですけれども、やはり非常に自分自身を凝視しているところがあると思うんですけどね。
瀬戸内 突っぱねてますでしょう、わりあいに。
久保田 だからよほど自意識の強い女性で、強いというか、自意識過剰な女というものは、男から見るとまるでかわい気のない女じやないかという気がするんです。
男から好かれない二条、そして、女に好かれたらとことんまで好かれる二条、という対比が出ていておもしろい。でも、「ジェンダー」とか「フェミニズム批評」とかっていう言葉なんか国文学者は知らない時代の対談だもの、少しくらい考慮してあげるべきかもしれない。
この対談が行なわれた70年代は、瀬戸内さん、杉本さん、永井さんの三人による「とはずがたり」論、いや、正確に言えば「二条像」論があちこちに見られた。そしてそれが、「とはずがたり」の現代における読まれ方の二つの流れを作っていったと私は考えている。
一つは、瀬戸内さんのように「とはずがたり」を我が身に引きつけて「私小説」として読む方向、もう一つは杉本さんや永井さんのように、「政治性がなく男女のことしか頭にない女」としてそのあり方を批判する方向。
いまでもこの二大潮流は変わってはいないと思う。でも、これって、もしかしたら「とはずがたり」の不幸な読まれ方なんじゃないの、と私はげんなりしてしまうのだ。
「恋する女・二条」というイメージ
「女のさが」「女の業」「女の情念」−なんて陳腐な言葉なんだろう。でも、瀬戸内さんの描く二条はこういった言葉がぴったり似合う女性に描かれてしまっている。
瀬戸内さんと「とはずがたり」の関係は、現代語訳、歴史小説のほかに、現代小説の中にも見出せる。自分の出家体験にもとづく「比叡」という小説の骨子には、明らかに「とはずがたり」の影響が認められる。
ごくかいつまんで言えば、今まで数々の恋の遍歴をしてきた女性が、あるとき出家を志し、いろいろ大変な経験をしたすえ立派な尼さんになる、という小説。構成は「とはずがたり」とほとんどそっくりだ。
瀬戸内さんは、「女としての自分」という視点から小説を書くタイプの作家だから、「とはずがたり」にも溺れるほど感情移入できたわけだ。だから、瀬戸内さんの書く二条像は、言うなれば自分の鏡像のようなものと言っていい。
さっき引用した久保田さんとの対談でも言っていたように、彼女がイメージする二条とは、男に対する情はあついけれど、過剰なまでの自意識でもって「突っぱねて」いる女性で、しかもそれは「現代の小説としてもちっともおかしくない」ヒロイン像だったんだ。
瀬戸内さんの「とはずがたり」には、一つの大きな特色がある。それは、現代語訳版でも、「中世炎上」でも、巻四、五の「出家編」を思い切って省略している点だ。「とはずがたり」がなぜ二部に分れているように見えるのか、それはまだよくわからないのだけれど、瀬戸内さんにとって問題になってくるのは前半の「宮廷編」だけであって、「出家編」はあってもなくてもいい、ということだ。その証拠に、現代語訳でも「中世炎上」でも、巻四の石清水八幡宮での後深草院との再会の場面と、巻五の院の死に会う場面を巻三の後に継ぎ足した格好で終わっている。
ほんとうは、後半部は前半部と同じくらいのウエイトを占めており、けっして軽く扱うべきではなく、前半と後半とが照応し合って一つの作品が構成されていると考えるべきなんだけど、でも、瀬戸内さんにとって後半部で重要なのは、院と出家後の二条のかかわりを記した部分だけだったんだ。
というのも、瀬戸内版「とはずがたり」は明確な主題を持っているからだ。それは、後深草院と二条との愛憎半ばした人生、と言えるだろう。オリジナルな「とはずがたり」の主題がどうであれ、瀬戸内さんにとっては自分が「とはずがたり」に見出した主題こそが優先されるべきだったんだ。だから、「中世炎上」では、院の葬式の列を裸足で追いかけるという劇的なシーンでラストが締めくくられている。オリジナルにも、
…事なりぬとて御車の寄りしに、慌てて、履きたりし物もいづ方へか行きぬらん、裸足にて走り下りたるままにて参りしほどに、
という場面がちやんとあるんだけど、この後に続く院の供養をしたりする部分をカットしてここを小説のクライマックスに持ってきたのは小説家の工夫と言える。また、つけ足された巻四の石清水八幡での再会場面には、実は大きな謎がある。互いに出家の身となった院と二条が一夜をともに過ごすのだけれど、単に昔のことを語り明かしただけなのか、それとも禁断の関係を再ぴ結んでしまったのか、意見が分れているのだ。
偶然に石清水に参詣した二条は、一昨日から院が来ていることを知らされ、院からお召しを受ける。
(院)「ゆゆしく見忘られぬにて、年月隔たりぬれども、忘れざりつる心の色は思ひ知れ」などより始めて、「昔今の事ども、移り変る世のならひ、あぢきなくおぼしめさるる」など、さまざま承りしほどに、寝ぬに明け行く短夜は、程なく明け行く空になれば、
「年月がたっても忘れていなかった私の心を思い知ってくれ」という院の言葉に、音話もはずみ、気がつくと夜は明けていた、という部分だ。「寝ぬに明け行く短夜」は、とうとう関係を持たなかった、というふうにもとれるのだけど、この後二条は退出にあたって院から肌着を三枚もらっている。
旅の尼僧姿の二条に昔のよしみで着物を贈ったとも考えられるのだが、互いの肌着を交換するというのは関係のある男女の風習でもある。だから、ほんとに何もなかったかどうかは、二条にしかわからないことになっている。
瀬戸内さんは、ここで院と二条の間には関係があった、と考えて小説化している。出家後の関係という禁断を犯してもなお恋しい院であったから、二条は裸足で葬列を追うような行為に出たとするんだ。「院との愛こそすべて」、このテーマに沿って、瀬戸内さんは「とはずがたり」の解釈を自分なりに一貫させていることになる。だけど、これには反論もあって、研究者の八嶌正治さんは、
そう解釈する時(注・院と二条の間に肉体関係を想定する)、紀行編は全く不用になり、愛という主題で、この執筆動機不明な一書に、近代的解釈を与えた事になる。
と言っている(「現代語訳とわずがたり」解説新潮文庫)。
ちなみに、八嶌さんが「紀行編」と言っているのが「出家編」にあたるものだ。巻四、五で、二条は、東は浅草寺、西は足摺岬まで旅をしたと書いている(実際に行ったことのない部分も含まれているらしいけど)。
もしオリジナルでも「院との愛」を主題にしていたのなら、後半部のほとんどを占めるこうした参詣の旅の様子はなぜ書かれなければならなかったんだろう、っていう疑問がわいてくる。
だから、くりかえすけど、瀬戸内さんのイメージする「とはずがたり」はあくまで近代的な「愛」っていう主題が先にあって、それに従って構築された、別の新たな瀬戸内版「とはずがたり」と言うべきなんだ。そしてそれは、瀬戸内さんのほかの小説と同じように、作品として一人歩きをしてしまったと言える。
もうわかってもらえたかな、瀬戸内版を読んでもオリジナルな「とはずがたり」を読んだわけにはならないってことを。瀬戸内さんの小説として読むつもりならいいけれど、ほんとうに「とはずがたり」に触れるには、瀬戸内寂聴というフィルターをはずしてしまわなければならないんだ。
二条ってパカなの
では次に、現代におけるもう一つの流れについて触れておこう。ここでは、永井路子さんと杉本苑子さんが二条をどんなふうに把握しているかを問題にしてみたい。二条に関する発言は、圧倒的に永井さんの方が多くて、これは70年代から始まっている。
そして永井さんの二条に対するとらえ方は、それからずっと変わっていない。つまり、中世の爛熟しきった宮廷のなかで、恋愛技巧だけにたけてしまったかわいそうな女、というものだ。1972年に新聞に連載された「歴史のヒロインたち」(文春文庫)から拾ってみようか。
ところが、後深草天皇はこの密事を知って嫉妬に狂うどころか、弟との逢う瀬をとりもつようなことをするわけです。こうなると、恋愛は真剣な心のやりとりではなく、〃遊び〃。寝ることは〃あいさつ〃といったところまでモラルは低下してしまっている。当時の貴族の恋がいかに人間性を失ったものであったかがうかがい知れますね。
この本は、一人の女性をめぐって小説家や歴史家、文学者と永井さんが対談する方式で進められているんだけど、こういう言い方の裏には、「プレイガールニ条」へのひそかな軽蔑の心が含まれているとしか思えない。ほかにも永井さんは、二条が初め後深草院に抵抗して関係を拒み、二度めの機会にようやく結ばれることについて、こういっている。
初夜は天皇の意に従わないんです。そして実兼ともうまく愛をつないでいく。このように恋愛技巧にたけているのは、彼女の天性としか思えないのですが。
でも、この発言が永井さんの先入観に支配されていることは明らかで、対談相手の国文学者・冨倉徳次郎さんには
わたしはそうは思いませんね。第一夜の拒否は、まだ14歳の少女としてはあたりまえのことでしょう。(中略)男との交渉を楽しむ浮気っぽい女性なら、はじめて男性に接したときの気持ちを、悲哀とも愛憐ともいえない切ない感情を込めて〃かなし〃と表現するはずがありません。
と、否定されている。私は冨倉さんの理解の方が正しいと思っている。なぜなら、永井さんの抱く二条像には、奇妙なゆがみがあるからだ。
70年代と言えば、60年代にアメリカで起こった女牲解放運動の波が日本にも及んで、「進歩的な」女性のほとんどはその洗礼を受けている。だから、積極的に「自己実現」に向かおうとせず、恋愛やセックスに溺れている女を見ると「女々しい」と感じる人が多かったと想像される。
おそらく、永井さんや杉本さんの年代の女性は、こうした物の考え方をしたんだと思う。だからたとえば、二人とも「平家物語」に出てくる建礼門院のことをあまり良く書かないけれど、あれは、源氏と潔く戦ったわけでもなく、入水自殺をしてもみすみす敵方に助けられて命を長らえてしまう、というところに「女々しさ」を感じたせいだからなんだ。この二人は、どうも北条政子のような「雄々しい」女性が好みらしい。
永井さんと杉本さんに共通する二条像は、政治性の欠如という言葉でも表わされる。ちょっと日本史を思い返してみよう。
「とはずがたり」の舞台となった13世紀後半は、日本が初めて外国から襲来を受けたというとてつもない事件が起こった時期だった。「蒙古襲来」、つまり中国の征服王朝である元が、大挙して九州に押し寄せてきた事件が二度もあったんだ。
この騒ぎの渦中にあって、「とはずがたり」にはこのことは一行も記されていない。永井さんはこの態度を「政治オンチ」と言い、
政治的に浮上った存在は、必然的に社会に無関心になり無責任になる。それが続けばどうなるか、せいぜい関心を侍つのは、セックスくらいになってしまうだろう。「とはずがたり」はそのいい見本である。(「歴史をさわがせた女たち日本篇」文春文庫)
とまで言い切っている。この状況は、まさに70年代後半の著者の姿と呼応していて、永井さんが二条に彼らの姿を重ね見ていることは明らかなんじゃないか。杉本さんもこの点についてはほとんど同じだ。
政治性は全く欠如していますね。(中略)しかし中央の公家社会の認識は、九州のどこかで何か事が起こったという程度の徴弱なものだったのですよ(笑)。(中略)女性たちはまったく無関心。自分の世界だけにしか心が向かない。女は政治などに関心を持ってはいけないのだというようにしつけられ続けてきましたからね。無理ないといえばいえますけど、それにしてもあまりにのんきすぎる。
この発言にもとづいて、杉本さんは「新とはずがたり」という小説を書いている。ここでは、語り手を、関東申次(宮廷と幕府との連絡役)という重要な役目にあった西園寺実兼に設定し、二条を単なる女房から、当時全国を布教して歩いていた時衆の開祖・一遍上人によって「自立」に目覚めた女として描いている。
もちろん、一遍の存在などは原文にはないし、二条の出家が一遍に触発されたものとも思えない。これは杉本流の解釈による「とはずがたり」にすぎないんだ。
なぜか歴史小説家は「実際にあったこと」にこだわるような気がしてならないんだけど、二条はほんとうに政治オンチでバカみたいな女だったんだろうか。そして、女性はみんな、そうした「頽廃」や「政治性の欠如」から「自立」しなきゃならないんだろうか。
私は、二条が政治オンチであるという点については異論を持っている。二条は、単に「愛欲」に溺れて自分のまわりしか見えなかったんじゃなくて、蒙古襲来なんてものは、いくら世間が大騒ぎしても、自分の作品に書く必然性がなかったから書かなかっただけと思うのだ。
たとえば、世間で大ニュースが起きて、大手新聞はみんなそれを一面に大見出しで掲げていても、スポーッ新聞じゃあ「今年も阪神最下位か」なんて言葉が踊っている、ということがあるだろう。スポーツ新聞という世界は、いくら大ニュースでもそんなことを一面に乗せる必然性がないからしないだけだ。
また、二条の場合、政治についてまったく触れていないとは言えない。たとえば、巻四で、それまで幕府に人質同然の形で将軍として下っていた惟康(これやす)親王が、新しい親王と交代する場面などはちゃんと描いている。それもニュースを聞いてやってきたというんじゃなくて、たまたま自分が鎌倉の八幡の現場に居合わせた、というさりげなさで記しているんだ。
これは、二条が政権というもの、宮廷と幕府というものへ大きな興味を持っていることを示している。だから、声高に叫ばず、さらりと作品に紛れ込ませているんだ。彼女にとって作品に必要だった政治性とは、蒙古襲来なんかじゃなくて、「誰が政権を取るか」という問題だったといえるだろう。
こんなふうに、永井・杉本さんの「とはずがたり」観には、彼女たちが生きた時代の、とくに女性史的なフィルターがかかっていることを忘れてはならない。
もちろん、現代の女性が「とはずがたり」を読んだら現代女性の意識が反映されるだろうけどね。でも、たいていの若い女の子は、古典には永井さんとか杉本さんの歴史小説から入ることが多いようで、「なんか古臭いな」って思いながらも、「えらい先生の書いたものだから間違いないよね」って安心しちゃってるところがある。
私が注意したいのは、そこなんだ。「とはずがたり」をどう読もうと、それはあなたの勝手。でも、あなた自身の目で見た、あなた独自の読み方でないと、ほんとうに古典とつきあったことにはならない。
 
「とはずがたり」考15 日記と紀行の盛衰

 

和文とは、10世紀・11世紀ごろの日記や物語と同じ様式で書かれた文体のことだが、14世紀から15世紀にかけて、そうした文体はすでに遠い過去のものとなっていた。したがって、よほど習練をかさねた人でなければ和文作品は書けなかったはずであり、14世紀よりあと和文作品の数が激減してゆく。しかも、少ない和文作品のなかで、漢語や漢文よみくだしめいた語法が次第に滲透してゆくのであり、やがては和文と和漢混淆文との中間態である準和文へと変質する。
14世紀の和文日記としては、二条の「とはずがたり」と日野名子(めいし)(?−1358)の「竹向(たけむき)が記」だけ現存し、15世紀の作品は見られない。それも、純粋な和文とはいえない点がある。たとえば「とはずがたり」の話主が父大納言の死をいたむ条で、次のように述べられている。
すべて何と思ふばかりもなく、天に仰ぎて見れば、日月(じつげつ)地に落ちけるにや、光も見えぬ心(ここ)ちし、地に伏して泣く涙は、河となりて流るるかと思ひ、母には二つにて後れしかども、心なき昔は覚えずして過ぎぬ。生(しやう)を享(う)けて四十一日といふより、初めて膝の上に居そめけるより、十五の春秋を送り迎ふ。朝(あした)には鏡を見る際(をり)も、誰(た)が蔭ならむと喜び、夕(ゆふべ)に衣(ころも)を着るとても、誰(た)が恩ならむと思ひき。五体身分(しんぶん)を得しことは、その恩、迷廬(めいろ)八万の頂(いただき)よりも高く、養育扶持(ふち)の心ざし、母に代はりて切(せつ)なりしかば、その恩また四大海(しだいかい)の水よりも深し。
場面にふさわしく願文・表白ふうの言いかたを試みたのかもしれないけれど、もし12世紀ごろの作品であれば、女性の筆であることを疑わせるほどである。また「如法(によほふ)」(一一)・「凶害」(二四)・「政務」(三三)・「秘蔵(ひさう)」(三九)・「九献(くこん)」(五五)・「傾城(けいせい)」(六六)・「前後相違」(七二)・「芳心」(七九)・「述懐」(八三)・「領掌」(八五)・「存(ぞん)」(八七)などの漢語や、会話および書簡で助動詞「候」を用いるのは(七七・八五等)、10世紀・11世紀の和文に見られない。程度の差は示すが「竹向が記」も同様である。
とりわけ「とはずがたり」の文体が和文としていくらか不純なことは、この作品を世話物のような作調(トーン)で書こうとした態度の反映だと考えられる。日記であるからには、作者と同じ時期の事を題材とするのが当然であり、わざわざ世話物ふうとことわるのは蛇足だと感じられるかもしれないけれど、この作品には、かなり物語めいた要素が含まれる。何よりも、日記としては、作中事件が異常すぎる。14歳のとき「院」によって女にされた主役女性(ヒロイン)は、作中で「雪の曙」とよばれる高位の貴族とも関係をもち、さらに「院」と親交のある阿闍梨「在明(ありあけ)の月」とも情交する。また「院」は、自分の寝所に侍る主役女性を「近衛大殿(おおいどの)」に連れてゆかせ、隣室で関係させるという事件も出てくる。そのあと「在明の月」は、戒律の許さない性愛に心身が燃え尽き、若くして病没する。主役女性と「在明の月」との関係を「院」は知りながら黙認していたけれども、主役女性と亀山院との間にも醜聞があるという中傷のため、主役女性は宮中から逐われ、出家して諸国をめぐることになった。そのうち「院」はお亡くなりになるが、葬儀に出席できる身分でなくなっている主役女性は、路上で葬列を見送り、裸足(はだし)であとを追う。その三回忌が済んだころ、主役女性は「西行が修行の仕儀(しぎ)」を慕う志こそが本意なのだ──という述懐のことばで全篇を結ぶ。出家廻国の後半二巻はともかく、主役女性が幾重もの愛慾葛藤にとらえられる前半三巻は、題材として異事(あやしごと)に属するものであり、記実日記にはありえない仮構性が含まれると考えたい。
つまり「とはずがたり」は仮構日記なのである。素材としては、二条自身もしくは他作の記実日記も利用されたにちがいない。たとえば、准后の90歳賀宴を述べた条などは、拠り所なしに書けるはずがなく、たぶん「北山准后九十賀記」の類を利用したのであろう〔松本(寧)−1971・三七四−八五〕。しかしながら、これは、記実日記ふうの部分がたまたま紛れこんでいるわけでなくて、局到な配慮のもとでこの所に置かれたものである。宮中に局(つぼね)をもち「院」の愛人として華やかな生活に慣れてきた主役女性は、中傷を受けて退任することになった。出家廻国の件も、すでに決意されていたろう。そうした主役女性の境遇を知る大宮の院は、せめてもの思い出にさせてやりたいと、一世一代の盛儀に主役女性がひっそり出席できる便宜を提供した。この盛儀を、もはや傍観者でしかない女性主役の視点から詳細に描写することは、華やかさを単純な華やかさとして扱うのでなく、哀愁の素地に画いた華やかさが、画いてある以上の華やかさとなることを冷静に計算しているのであり、前半三巻のフィナーレとして、みごとな効果をあげている。
構想における周到な設計は、他にも例が多い。主役女性は、9歳のとき「西行が修行の記(き)といふ絵」を見て、自分も「世を捨てて、足に任(まか)せて行きつつ……かかる修行の記をも書き記(しる)して、亡(な)からむ後(のち)の形見(かたみ)にもせばや」と考えたことを回想する。しかし、9歳の少女がこうした感懐をもつとは考えがたく、廻国修行を題材とする後半二巻への伏線にしたものであり、全篇の終結部で「西行が修行の仕儀(しぎ)」(5・三三〇)に言及しているのと照応させた仮構であろう。これらはわかりやすい例だけれども、作中の重要な事件展開については、もっと複雑かつ隠微な照応が設計されている。主役女性が宮中から追放されることになった経緯が、その代表的な例である。追放の原因をさきに中傷と述べたけれど、中傷は表面的な口実にすぎず、その裏には「院」の屈折した心理と謀略が潜んでいる。それは、この作品をひとわたり見る程度ではとうてい気がつくものではなく、幾度かよみかえすうち、ひとつの事件がもうひとつの事件をひきおこし、そうした過程の複合から陰湿な謀略が生まれて、ついには破局となってゆくように構成された綿密な設計の存在を知ることであろう。
主役の女性が15歳のとき、父大納言は死去する。大納言の息女だから、更衣か尚侍になる資格はあったけれども、有力な後見人がいなくなった主役女性は、妃(きさき)としての体面を維持することができず、公然たる私的の侍妾という不安定な地位に甘んずるほかなかった〔Brazell,1973:ix〕。こうした地位の不安定さが、私文書ひとつで退居を命じられたことの遠因にほかならない。直接には中宮の東二条院を無視したふうの行動が非難され、主役女性の外祖父たる四条兵部卿(隆親)を通し退居命令の中宮書簡が届けられたのだけれど(3・二〇四)、その前に「院」も御承知ずみだったはずである。兵部卿からの連絡を受け不安な主役女性が、たぶん「院」の御意向ではなかろうかと推測し、御所へ参上したところ、ちらりと主役女性のほうを御覧になった「院」は、冷たく「今晩はどうしたのだ。退居するのかね」と仰せられ、奥へ入ってしまわれる(3・二〇三)。もし「院」が主役女性を見限らなかったのならば、中宮がいくら抗議しようとも、相手にされなかったろう。中宮からの抗議は、この時が最初ではない。主役女性が中宮の所へ出入りすることは以前から拒否されており(1・75)、中宮から「院」へ主役女性の傍若無人ぶりを強硬に非難する申し入れがあったけれども、これに対し「院」は長文の書簡で答え、主役女性を懸命に弁護なさった(1・八四−八六)。この時と同じ程度に「院」の愛情が続いていたら、破局はおこらなかったにちがいない。ところが、主役女性は冷然と見捨てられた。なぜ「院」はそのような心変わりをされたのであろうか。
主役女性がその不安定な身分にも拘わらず幾件もの情事をかさねたのは、本人の性格によるだけでなく、裏面において「院」が暗黙の諒解を与えていられたからにほかならない。それは「近衛(このえ)大殿」の所望に任せ、客人の大殿に主役女性を添い臥しとして「院」の提供された件が、いちばん明らかに示していよう。重要な客への接待として自分の愛人に寝所の相手をさせるのは、当時でもありふれた事ではなかったろうけれど、女房たちの情事を大目に見てやる慣わしは「枕冊子」の時代からあまり変わっていなかったらしい。主役女性が多少の浮気をしても、たんなる肉体関係であるかぎり、それは「院」にとって大きな問題でなかった。しかし心まで「院」以外の男に捧げるとなれば、許せない背信行為なのである。主役女性が心を捧げた相手は「雪の曙」だったと考えてよい。はじめて「雪の曙」と関係したときの事を「心のほかの新枕」と述べているのが、その証迹である。このとき主役女性はすでに「院」のものだったから、いまさら新枕もおかしいようだけれど、あとで再び「雪の曙」のことを「さしも新枕とも言ひぬべく互(かたみ)に浅からざりし志の人」と述べる。主役女性にとって「雪の曙」こそ真の愛人であった。ところが「院」は、むしろ「在明の月」が主役女性の心をとらえていると誤解され、それが破局の直接原因になったと認められる。
もともと「在明の月」にあまり好意的でなかった主役女性だが、病中の「院」に平癒祈願を依頼された阿闍梨「在明の月」と、修法場所の近くで、伴僧たちの眼を盗みながら密通するところまで引きこまれてゆく。僧の身として、堕地獄をも覚悟だったろう凄まじい恋情に、主役女性は抵抗できなかった。それは、甘美な陶酔でなく、むしろ愛慾の泥沼であったろう。たまたま「院」が座をはずした間、苦しい心を主役女性に訴えていた「在明の月」は、もどった「院」がそれを立ち聞きされたのに気づかなかった。主役女性の告白を聴取された「院」は、それほどまで「在明の月」が思いこんだのも前世からの因縁だろうから、どうしようもないと語り、かれとの関係が世間に知られずに続いてゆくよう措置される。表面的にはきわめて寛大なはからいだけれども、この時「院」の心は主役女性から去ったのである。それは「院」が主役女性を染殿后に比されたことからわかる。染殿后にとりついた紺青鬼(真済僧正の妄念)が「在明の月」に当たるわけで、后(きさき)のほうは「あまた仏(ぶつ)・菩薩の力尽くしたまふといへども、終(つひ)にはこれに身を捨てたまひにけるにこそ」と言われている。主役女性も染殿后のように身を失うはずだと間接的ながら「院」は予告なさったのである。これは、強調しておく必要があったのだろう、染殿后の事をもういちど「院」から聞かされ、主役女性はひどく衝撃を受ける 。
主役女性が「在明の月」との情交を告白したあと、夢見にかこつけて「院」は妊娠の事をほのめかされる。主役女性はその真意をはかりかねている。その後しばらく「院」からお召しがなかった間に、主役女性は妊娠の徴候を感ずる。やがてお召しになった「院」は、あれから「月を隔てむ」〈一箇月ほど間を置こう〉と思って、わざとおまえを呼ばなかったのだ──と告げられる。生まれてくるのが「在明の月」の子であることを確認させるための手段なのであった。これは「院」の心がすでに主役女性から離れていたことを示す行動にほかならない。しかし、理由なしに追放するわけにゆかず、もし真の理由(「在明の月」と主役女性の情事)を公表するなら、それは「院」にとって重大な不名誉となる。そのため「院」は事が洩れないよう配慮され、主役女性の着帯も宮中でおこなわれた。生まれてくるのが「院」の子だと認知した意思表示なのである。ところが、あまりにも強烈な「在明の月」の執心を拒みかねた主役女性は、しばしば逢瀬をかさね、ついに世間でも噂するようになった。いちばん心配だった事態に直面した「院」は、ひとつの非常手段を案出される。それは、たまたま死産した婦人があったので、こんど生まれてくる子をその婦人が生んだことにし、主役女性は死産した態にする──というのである。この計略はうまく成功し、醜聞めいた噂も消えていった。主役女性は「院」の細かい配慮に対し、公的にも私的にも忝ないことだと、心から感謝している 。
しかしながら、この処置は、主役女性や「在明の月」のためよりも、むしろ「院」自身が「わが濡衣(ぬれぎぬ)さへ、さまざまをかしき節(ふし)に取りなさるると聞くが、よに由(よし)なく思(おぼ)ゆる」ことへの対策であった。こんど生まれるのは「院」の子だ──と認知したのだから、その子が万一にも「在明の月」とよく似ていれば、噂の真実性を裏書きすることになりかねない。それを未然に避けるのが、おそらく「院」の真意だったろう。ところが、11月16日にその子が生まれたあと間もなく、同月25日に、流行病のため「在明の月」は急死する。かれの在世中に追放などの手荒な処置をすれば、どんな盲目的行動に出るかもしれず、その結果、醜聞の再燃する可能性も無いではなかった。しかし、もはや「在明の月」がいない今、主役女性に関わる醜聞で「院」の傷つく心配はなく、主役女性の運命はこの時点で決まったわけだけれども、すぐ実行に移すだけの表面的な理由は見つからず、また「院」が自身の意思で追放するという形も取りたくなかったはずである。
翌年の4月中旬、主役女性に「院」から、わたしなど相手にしないつもりかね──という寓意の和歌が届いた。まだ「在明の月」のことを思っているのがお気に召さないのか──と最初は理解したのだけれど、よく聞くと、亀山院との醜聞を「院」が気にしていられるよしなのである。事は、六箇月ほどさかのぼる。嵯峨御所で「院」と「新院」が興遊なさったあと、兄弟である両院は同じ寝所にやすまれる。ところが「新院」のお望みで、主役女性もその寝所に泊る。ひどくお酔いになった「院」は、すぐ熟睡される。夜明け近く、主役女性が側にいないと気づいた「院」は、わたしのお寝坊が過ぎて、添臥(そいぶし)に逃げられたのかな──とおっしゃる。これに対し「新院」は、さきほどまでお傍(そば)にいましたが──と答えられる。屏風の後で聞いているらしい主役女性は、わたし自身の罪というわけではないわ──と、言訳がましく考える。この場面にいたのは、三人だけである。亀山院(つまり「新院」)のほうから噂を流すはずはない。とすれば情報源は「院」のほかにあるまい。しかも、この噂を、主役女性は「いかでか知らむ」と言う。以前のとき「在明の月」との噂を耳にできた主役女性が、こんどは、まったく知らない。それは、噂が実際に流れたわけでなく、おそらく主役女性にだけ聞かせるよう「院」が仕組まれた架空のものだったことを示すであろう。その伝達は、ごく少数の腹心者を便ってなされたはずである。もし実際にそんな噂が立ったら、両院とも迷惑しごくだからであり、主役女性に「噂あり」と思いこませる以外の波及効果は避けられるべきであった。
その翌年正月、主役女性は「院」が自分に対して「御心の隔てある」ことを明確に感ずる。そして、7月に退居命令がくだる。それも「院」からではなく、東二条院の私信によるものであった。以前から主役女性に悪感情を抱くことの周知されている東二条院が、この際に利用されたのである。こうして「院」は、ゆっくり時間をかけながら、皇室の醜聞になりそうな火種を、ひとつひとつ注意ぶかく消してゆかれたわけだが、この「院」を後深草上皇(1243-1304)の実像と認めることはできない。史上の後深草上皇はこれこれの性格でいられた──といった類の調査に基づき作中における「院」の行動を説明する試みが、これまで少なからずなされた。しかし、それは的はずれである。また、作中における院の行動がすべて事実だと考えるのも、この作品が仮構日記であることを無視している。
この作品は人物がふつう実名で登場し、だいたいの作中事件が史実に合うことから、これを記実日記であるかのごとく扱う向きが少なくない。しかし、作者が「雪の曙」および「在明の月」という雅名で二人の重要人物をよぶことにしたのは、この作品で記実性を放棄した態度の現われなのである。従来の研究によると、作中で「雪の曙」とよばれる人物は、西園寺実兼(さねかぬ)(1249-1322)だという。ところが、作中でしばしば西園寺大納言とか実兼とかのよびかたも出てくる。なぜ実名と雅名を混用するのであろうか。これは、雅名「雪の曙」が主役女性との恋愛場面にだけ使われていることから、その解答を引き出せよう。現実にはありえない名で登場するとき、それらの場面は仮構であることが示されている。実兼が生前にこの作品を見ることがあったとしても、仮構であることを承知のかれは、作中で優雅な色男に造形されている自分を愉しんだはずである。もっとも「在明の月」は、実名で現われることがない。後深草院の異母弟である性助法親王(1247-82)だとか、九条道家の子で性助の前任者だった法助(1227-84)だろうとか、いろいろ推測されているけれど、明証はない。それよりも、実名がまったく出てこないのは、むしろ「在明の月」は仮構人物であり、かれの登場する件もすべて仮構だと考えるほうがよいであろう。また、前三巻の「院」「新院」も、雅名に準ずるものである。時点を示すため「亀山院の御位の頃」と言いながらも、兄院および主役女性と寝所を共にする場面では、すべて「新院」とよばれている。したがって、前三巻に「院」の登場する事件も、やはり仮構ということになろう。
この作品の前三巻を宮廷篇、後二篇を紀行篇とよぶことが、学界では定着しているように見える。それはさしつかえないけれども、後二巻が紀行的な題材を採りあげているにすぎず、内質としては前三巻と同じ仮構日記である点に留意しなくてはなるまい。主役女性の父は、臨終に際して「もし君にも世にも根みもあり、世に住む力なくは、急ぎて真実(まこと)の道に入りて、わが後生(ごしやう)も助かり、両(ふた)つの親の恩をも送り、一つ蓮(はちす)の縁と祈るべし」(1・四〇)と遺言した。主役女性はその教えが身にしみ、早くから「西行が修行の記」に接して、いつかは俗世をのがれ、こうした修行の記を書きたい──と念願している(1・七三)。その「修行の記」に対応するのが後二巻なのであり、前三巻だけの「とはずがたり」は不完全作品でしかない。後二巻は、けっして旅行の記でなく、修行の記として書かれたのである。では、なぜ廻国行脚(あんぎゃ)の記を加えることにより、この作品が完全になれるのか。「法華経」に、
如来已難三界火宅 / 如来は已(すで)に三界の火宅(くわたく)を離れ
寂然閑居安処林野 / 寂然(じやくねん)と閑居(げんこ)し林野(りんや)に安らかに処(い)たまふ
という有名な偈(げ)がある。三界すなわち生者の存在する空間は、火事におそわれた建物と同じく昏迷・苦悩の場だから、覚者(ブッダ)となるためには林野で心を澄まさなくてはならない。その際、ひとつの所に坐って精神集中するのが常坐三昧で、天台でも禅でも重要な修行だけれど、ほかに常行三昧すなわち歩くという行為を通じて精神集中する方法もある。これは堂内で阿弥陀仏像のまわりを歩くのだが、その歩くという行為を林野へ延長してもよいはずであろう。仏像が無くても、心に阿弥陀仏をしっかり画きながら林野を歩げば、堂内での常行三昧と異なるところはない。諸国を歩くのが仏道修行だという考えは、もともとこのような筋あいから出たらしい。だから「とはずがたり」の前三巻は火宅篇、後二篇は林野篇といってもよい。
このように諸国を歩くことがすなわち仏道修行でありうるという考えかたは、べつに「とはずがたり」の作者が案出したわけでなく、遙か以前から存在しており、その代表的なものが「西行が修行の記」だったろう。これがどんな書物なのかはわからない。引用のぐあいから考えると(1・七三)、現存する「西行物語」「西行物語絵巻」ではないようだけれども、たぶんこれらと同類のものであったろう(三〇五−〇六ペイジ)。ところで、十三世紀中葉ごろから西行の新しい人物像が形成されていったことは、以後の紀行作品を考えるうえで注意を要する。たとえば「撰集抄」のなかで西行の自記らしく装(よそお)った章を見ると、それらに出てくる人物像は、いずれも「出家の望みを遂(と)げて、尊(たふと)き所どころをも順礼し、おもしろき所をも見まゆかしく思(おぼ)えて」(7・二二〇)廻国する漂泊の歌僧であって、西行の作歌やその題詞から推定される人物像とかならずしも一致はしない。これは「西行物語」などについても同様であり、当時から西行像の変容が生じたのであろう。西行が漂泊の歌僧というヴィジョンで考えられるようになったのは、その背後に廻国を仏道修行のひとつだとする意識がはたらいていたからで、それは、旅に宗教的な価値を認めることにもなった。十四世紀から十七世紀にかけて、和文ないし準和文の紀行は夥しく現われるが、それらはほとんどすべて宗教的心性の裏づけをもち、たんなる旅行記であるシナの紀行と同じではない。
いま宗教的心性というのは、かならずしも仏教だけに限るわけでなく、ヤマトの昔から日本に生き継いできた地霊との交感もそれに含まれる。漂泊の歌僧は到る所で歌枕を訪う。歌道にたずさわる者として、歌枕の土地に行きついたとき、古歌をなつかしみ、知性的な興趣を愉しむのは当然だけれども、そのほかに、詠み主(ぬし)たる歌人の魂と触れあうこと、さらには、後世まで残るような歌を詠ませた土地の生気に接することが、きわめて重要であった。名歌が生まれた土地の一木一草にも、山にも川にも、それを生まれさせた地霊がいまなお息づいているはずであり、その地霊と無言ながら語りあうためには、自分でそこへ行くことが必要だったのである。それは、かならずしも歌枕だけのことではない。昔からずっと語り伝えられ、いまも人びとの心のなかで生きているような事件がおこった土地には、主役人物の魂が残り、またその魂にはたらきかけた地霊も健在のはずであった。それらと交感することは、訪れた人たちに、訪れる以前には無かった何ものかを与えてくれたのであろう。それは、教義や体制をもった宗教ではなく、宗教以前の原始心性というべきだろうが、当時の日本人にとって、宗教と区別がつかなかったと考えられる。これに仏教の廻国修行が結びつき、著明な寺社や歌枕ないし由緒ある土地、いわゆる名所(などころ)を訪れるのがすなわち紀行だという通念になっていった。
十四世紀よりあと、この意味での紀行が夥しく書かれる。しかし、それらは、現代人にとって、おそろしく退屈な作品の集積にすぎないであろう。仏道修行に共感せず古歌にうとい人たちが興味をもてないのは当然だけれども、あれだけ多数の紀行が書かれたのは、当時の人たちが強くひきつけられたからにちがいない。それらのなかで、いちばん秀れているのは、たぶん宗祇の「筑紫道記(みちのき)」であろう。この紀行は、かれが文明十二年(1480)9月6日から10月12日にかけて筑紫を訪れたときのもので、記事はほとんどすべて寺社の参詣と名所へ立ち寄ったことだけである。それは「撰集抄」のいう「尊き所」と「おもしろき所」に対応するわけだが、宗祇のばあい、名所への評価は格別であった。内浦(うつら)浜という所へ行った条で、かれは、
松原とほく連(つら)なりて、箱崎にもいかで劣りはべらむなど見ゆるは、類(たぐひ)なけれど、名所(などころ)ならねば、しひて心留(と)まらず。やまと言(こと)のはの道も、その家(いへ)の人または大家(たいけ)などにあらずは、効(かひ)なかるべし。
と述べる(筑紫道記・九二)。宗祇個人が内浦浜を箱崎以下でないと認めても、名所(などころ)に登録されていなければ、とくに注意する必要はなかったわけである。和歌において師範家とか高貴な家とかの人が詠じたのでなければ勅撰集などに入る資格が無いのと、同じ筋あいにほかならない。名所として社会的に認知されることは、それだけの由緒があるからで、長い時代にわたり多くの人たちによって形成され保持されてきた由緒は、有能な個人の認識よりも優位に立つのだ──という考えかたは、宗祇だけでなく、当時の人たちに共通していた。
十四世紀以降、名所(などころ)についての関心が増大していったことは、夥しい紀行が書かれたのと表裏をなす事実だと言える。宗祇の撰という「名所方角抄」は、そうした要求に応(こた)えたものである。名所であるか否かの認定は、歌に詠まれているかどうかでなされることが多いから、完備した歌枕集成も必要となって、澄月の「歌枕名寄」が編まれた。これらの名所を訪れる人たちは、古典に通じていたわけだから、その経験を文書にしておくことが容易であったはずで、それが夥しい紀行の生まれた理由である。もっとも、いちいち文章にする気がなく、たんに名所を行脚するだけの人たちもいたらしい。そのことを示すのが、能のワキとして登場する「諸国一見(いつけん)の僧」である。かれらは、作中事件のおこる所に来るまで、どのような道筋をたどったかについて、能の冒頭部分で詳細に謡う。術語で道行(ミチユキ)とよばれるこの部分は、現代の観客にほとんど共感をもたらさない。しかし、それらの能が作られたころ、ワキの旅僧が謡うかずかずの名所は、意義ある土地だということを、享受者たちも知っていた。幾つもの名所でそれぞれの地霊と交感し、その生気を身に受けた旅僧は、もはや普通の状態でない。作中事件のおこる特別な場所は、これも名所のひとつである。そこで旅僧は、亡霊・精霊・神仏などの化身(けしん)に遇い、話をかわす。現世の者ならぬ化身と話しあうことができるのは、旅僧が地霊の生気を受けた特別な状態に在るからで、道行はやはりぜひ必要だったのである。その道行を冗長に感ずる現代人は、宗祇たちの紀行にも退屈するほかない。
 
「とはずがたり」考16 醍醐寺の尼寺・勝倶胝院

 

鎌倉時代には、奈良法華寺が尼寺として復興されたのをはじめ、各地に尼寺が造営されたが、下醍醐にも尼の住む子院として勝倶胝院(しょうぐていいん)という子院があった。
この勝倶胝院は平安末期に第一七代座主実運(明海)によって建立されたものであるが、第二四代座主(第二六代座主にも復任)成賢は、寛喜三年(1231)に、この勝倶胝院の堂舎および付属の山林・田畠を尼真阿弥陀仏(真阿)に譲った。この勝倶胝院は成賢の後世菩提のために不断念仏を行う道場であったが、成賢はこの自分自身の遠忌の勤修を尼真阿に託したのである。こうして、醍醐寺において、尼寺勝倶胝院が誕生した。
以後、勝倶胝院は、真阿から嵯峨殿(もとの八条院の女房、八条院高倉。醍醐に一時住んだので、醍醐殿とも呼ばれた。高松院〔二条天皇后〕と安居院澄憲の密通によって生れた女子で、のち奈良法華寺に入って空如と号した。)に譲られたが、後に返されて浄意という尼に譲られ、さらに建長四年(1252)8月20日に、浄意から信願(久我家の縁者の尼か。後深草院二条(久我雅忠の娘)の「とはずがたり」に真願房としてその名がみえる)に譲られた。その際の浄意の譲状によれば、勝倶胝院は無縁の尼たちが立ち宿って、不断念仏を勤修する道場であった(「醍醐寺文書」)。
その後同院は、文永四年(1267)に信願から久我通忠の娘、小坂禅尼(後深草院二条の従姉)に譲与され、応長元年(1311)に小坂禅尼から万里小路姫君に譲与されて、勝倶胝院は九条家の進止権下に入った。このように、鎌倉時代を通じて、勝倶胝院は尼によって相伝されたのである。
浄意の信願への譲状には、勝倶胝院は無縁の尼たちが宿って念仏を勤修する道場であると述べられているが、このような寄る辺のない女性たちが尼となって集う場所としての勝倶胝院は、「とはずがたり」にもうかがうことができる。
すなわち、「とはずがたり」巻一によれば、後深草院二条は、文永九年(1272)の父久我(中院)雅忠の死後、縁故のある真願房(信願)を頼って、年の暮れに勝倶胝院に籠っている。院主の真願房は、二条のもの悲しい無聊を慰めようと、年寄った尼たちを集めて過ぎ去った昔の思い出話などもしているが、そこは庭先の水槽に入る筧の水も凍りつく佗しい冬の住居であった。晨朝(暁)から初夜まで、尼たちは交代して、交代時には「誰がし房はどうなさいました。何阿弥陀仏は」などと交代者を呼ぴ歩きながら、念仏を勤行したが、その尼たちの勤行に出る際の衣も、粗末な麻の衣に真袈裟(粗末な袈裟)を形ばかり引き掛けたというものであった。
二条は建治三年(1277)にも後深草院の御所を出奔して勝倶胝院に隠れているが、その際の「とはずがたり」巻二によると、院主の真願房は、勝倶胝院は「十念成就の終りに、三尊の来迎をこそ待ち侍る柴の庵」である、と述べている。すなわち、この尼寺は、寄る辺のない尼たちが終焉の折りに、阿弥陀三尊が来迎して極楽浄土へ往生するだけを待って念仏の勤行をする、賤しい柴の庵だ、というのである。
真願房のこの言葉は、出奔した二条を訪ねてきた愛人の西園寺実兼に対して、謙譲の言葉として述べられているものであり、そこには多少の誇張もみられるものと思われる。しかし、いずれにしても、勝倶胝院は、父が死んで後ろ盾を失った二条が一時この寺に籠ったように、寄る辺のない無縁の尼たちが集住して念仏を称えながら終焉を待つ(「とはずがたり」に描かれた勝倶胝院の尼にも、老尼の姿が少なくない)、ホスピタリティー施設としてあったのである。
 
「とはずがたり」考17 宮廷の女房生活からはみだした女性

 

数奇な運命をたどる
「庭のをしへ」に教える女房の生き方の反対を行った人に、「とはずがたり」を書いた後深草院二条(1258−?)がある。彼女は名門の出であるにもかかわらず、そして才知と美貌に恵まれすぎたゆえに、宮廷の女房生活からはみだしてしまった女なのである。彼女は宮廷儀礼の粥杖(かゆづえ)にことよせて、本気で後深草院を杖で打ち、公卿たちから「不敬」として非難をあびるといったところのある人であった。これは幼いときからの院に対する甘えが、そうさせたのであろう。
彼女は村上源氏の久我雅忠を父に、後深草天皇の大納言典侍を母として生まれた。「とはずがたり」は自伝的で日記的要素が強いといわれる。とにかく、彼女のくわしい実像を伝えるのはこれだけである。それによれば、母は典侍大(すけだい)として、院の初体験の添臥(そいぶ)しを勤めたという。
その母の死後、4歳から後深草院の御所に出仕、14歳で上臈女房として後宮に入り、院の子を生みながらその子は夭折、「雪の曙」(西園寺実兼)と「有明の月」(性如法親王か)と密通し、それぞれの子を生むが、東二条院(後深草天皇中宮藤原公子)の嫉妬を受け、院にも見限られて御所を下がり、そののち尼となって地方諸国を行脚した。後深草院の葬送にゆきあい、二条の行く末を心配して死んでいった父の三十三回忌も果たし、また、後深草院の皇女遊義門院に出会い、後深草院三回忌で終わっている。
わたしは「とはずがたり」にみられる女房としての二条と院御所を出てからの尼としての二条の生き方に、「庭のをしヘ」に説く理想像とは反対の女房像をみたい。国母となれなかったら、浮名を流さず出家せよ、という教えにさからって浮名を流した、「庭のをしヘ」とは反対の女房像である。しかし、そのかわりに女房たちの出世地獄にはまりきれなかった、正直な女性の生涯である。はみだしたがゆえに、後宮にうごめく女房たちにみえなかったものがみえてきた。それゆえに、それを書きのこそうとした。「とはずがたり」の創作動機の一つはそこにあると思うのである。
暗黒と救済の物語
「とはずがたり」は、一方で創作的要素があり、とくに「源氏物語」の影響が強く、父のような後深草院におかされる過程は紫上に、父親の遺言の箇所は宇治の八宮の大姫に、対する箇所に、密通については女三宮に似ているといわれている(清水好子「古典としての源氏物語−とはずがたり執筆の意味」)。たしかにそのようである。著者は「源氏」を学び、それをふまえて書いたのであろう。
ただ「源氏物語」では、宮廷の雅(みやび)な男女関係が光源氏をめぐる女たちというかたちで、光源氏を中心に描かれているのに対し、宮廷の隠微な男女関係が、二条をめぐる男たちというように女性中心に描かれている点において、「とはずがたり」は決定的に違うのである。そして、「源氏物語」の王朝文化の謳歌、男女の雅な交際に対する肯定的な明るさに対して、これは何というおどろおどろしい暗さと隠微さにみちみちているのであろうか。
わたしは中世の社会全体が暗黒世界だとは思っていないが、かつて暗黒と描写されたものの実態にふれたような気がする。仏教がつくった中世の暗黒の世界とそこからの救済というものを、自分という一人の女を素材にして描いてみせたところに、この作品の値打ちがある。
中世の仏教的世界は、落ちれば下は地獄というところに、宙吊りになってうごめいているはかない人々の営みを自覚させるところにある。二条の父親は、二条のことが気にかかって成仏できない。それがまず前提としてある。その宙吊りになったこの世の、文字通り雲の上の−これは殿上人であるが、ふわふわとたよりない−世界での男女の、一瞬のあいだの束の間の快楽の記録という感じである。男女は二人で快楽をえるにもかかわらず、たえず相手を蹴落とそうとする。椅子は一つしかないのだ。二条に恋慕した「有明の月」は、僧侶としての罪咎の悩みで自分から落ち込んでいく。
後深草は密通をしている二条を結局は許さなかった。亀山院などとの関係を強要し、一方で、自分の火遊びの手引をさせ、サディスティックな楽しみでもってそれをみていて、あげくのはてに御所から二条を追放する。お釈迦様の蜘珠の糸のように、後宮の女房たちを吊り下げることのできるのは院であり、皇子を生むことによって極楽に上げてもらえるかにみえた二条は、皇子の夭折によってその希望もなくなる。窮屈な宮廷生活では、はみださざるをえない二条の性向であれば、宙吊りから落とされるのもやむをえまい。
だが、まっさかさまに落ちた二条は、そのまま地獄に落ちずに、信仰によって別の世界に落ちつくことをえた。西行がそうであったように、出家・遍歴することによって別の世界を知り、「とはずがたり」を創作することによって、院という他者によって生きる後宮の女ではなくなったのである。
見方を変えれば、院とて絶対ではない。御所の評価とは次元の違う世界があり、それは仏教の教えである。後深草院がすべてではなく、院とて死ねば煙になって地獄に落ちるのだ。院に追放されたおかげで出離の縁をえて、院を、院を取り巻く御所の世界をはじめて超越することができた。
そして中世の芸能・能楽などにあらわれる女神たちが「懺悔」の物語をすることによって罪科から免れ、成仏得脱の身となるように、「とはずがたり」の長い物語を執筆し、表現することによって、この世のしがらみから解き放される機縁になるのだ、二条にはこんな思いがあったであろう。何よりも来し方を追憶し、客観化して(主観的なものであるにもせよ)著述する営みのなかに救いがあったのだ、と考えられる。いまふうにいえば、創作によって「自己実現」をして、解放された自分というものを確立することができたといえようか。
愛憎なかばする表現はなぜか
二条の後深草院に対する叙述は、愛憎なかばするものがあるように思われる。「とはずがたり」における後深草院についての叙述は、優雅で、繊細な心のもちぬしであり、二条に対する心づかいもいきとどいていたように、かなり美化されて書かれている。だから、わたしの以上のような解釈には、反論があるかもしれない。
しかし事実として書かれていることは相当、残酷である。遊ぴの女の仲介をさせたり、亀山院その他の男との関係を命じたり、やはり女房というのは高級召使で、ときには娼婦並みなのである。后妃とはちがうのだ。女房の性も守られていないのだ。
二条がそのことを自覚しているかどうかはわからない。女房のことば、叙述というものは、決してむきつけには書かないのだ。「庭のをしヘ」にも、〃不愉快なことがあって退出するにも、きれいごとにして黙って退け〃と書いてある。まして「とはずがたり」は、天皇家所蔵の秘書であり、発見は戦争中で、発表は戦後の1950(昭和25)年である。
天皇家の奥深く蔵されていたものであれば、書かれた当時に想定された読者層は、宮廷・後宮の人々であろう。院・天皇のことであれば、女房特有のきれいごとで書かれざるをえず、しかもそのなかで、なお書きたいことは書かねばならない。いわば、戦争中の検閲体制下における自己検閲のごときものであろう。そして、誇り高い二条にあっては、自分も大事にされ、けっして蔑(ないがし)ろにされたのではないことも書かねばならないのである。
全体を貫くナルシシズムについては、すでに指摘もあり、わたしもそれを感じる。しかし、ナルシシズムが強いゆえに、後宮にもなじめず、尼寺の安穏な生活もできず、漂泊のなかに自己を確立していかざるをえない、業の深さがあった。作家とはそういうものではあるまいか。
また、「雪の曙」とのあいだの子どものための出生証明書のような役割を本書がもった、という指摘もある。たしかに、どうして「雪の曙」や「有明の月」との情事をことこまかに書きつらねたか。それを出離の縁としての懺悔の物語という意味もあるが、「雪の曙」とのあいだの女子(永福門院※子とも、昭訓門院瑛子とも推定される)や、そのほかに生きている子どもがあり、その出生の秘密を書きのこしておきたかったからではなかったか。そういう事情はそれとして存在すると思うが、それもふくんで、後宮の一女性の魂の遍歴の記録として、その真摯さに打たれるのである。
 
「とはずがたり」考18 鎌倉極楽寺

 

鎌倉に関係のある女流の古典といえば、すぐに阿仏尼の「十六夜(いざよい)日記」が頭に浮ぶのだが、昨今は地味な「十六夜日記」は敬遠されて、代りに後深草院二条の「とはずがたり」が人気を獲得しつつあるようだ。「とはずがたり」が活字になったのは比較的新しいのだが、はじめてこの書に接したときの、奇妙に鮮烈な印象は、いまだに記憶にあたらしい。
だいたい、「宮廷女流文学」といわれる種額のものは、今はすでに失われた優雅艶麗な雰囲気をまとっていて、読者に少なからぬ憧憬を呼び起すのが例である。ところが、この、「とはずがたり」は全く異質で、その退廃的な崩れかたが世紀末風な魅力を伝えてくる。
後深草院は、作中で「わが新枕(にいまくら)は故典侍大(こすけだい)にしも習ひたりしかば」といっているように、昔典侍だった二条の母に性の手ほどきを受けたとみえる。二条が14歳の時、それまで院から「あが子」と呼ばれて可愛がられていた二条は、何の心構えもないまま院に犯されてしまう。そのあたりの描写も「今宵(こよひ)はうたて情なくのみあたりたまひて、薄き衣(ころも)はいたくほころびてけるにや、残る方(かた)なくなりゆくにも‥‥」などと、妙になまなましいのである。
それを手はじめに、「雪の曙」「有明の月」「近衛大殿」それに院の弟「亀山院」と、次々に男が入り乱れつつ物語は展開する。それも絢爛(けんらん)とした恋の絵巻風ならいいのだが、後深草院はわざと二条と他の男との仲をとりもって、暗い嫉妬の炎を燃やすという被虐的な性癖の持主である。二条はまた、父の異なる子を何人か生んでは、秘密裡に処理されるという、何ともやりきれない経過をたどっていく。
これがもし、王朝の和泉式部だったら、たとえ“浮かれ女(め)”などと言われながらも、男心をくすぐる軽やかな風流のなかに、女が中心になっているという主体性が感じられるのだが、後深草院二条の場合には、男たちのいいおもちゃにされている哀しさがある。しかしその哀しみを自ら追いつめることもない。そこがいわば現代風なのかもしれないが、その背景にある男たち女たちの隠微な心象風景には、崩壊寸前の貴族の在りようが透けてみえる。つまりは、「鎌倉時代」でなければ生れなかった女流作品だといえるのだろう。
その二条が、東二条院の不興を買って、追われるように宮廷を出てから、やがて出家、そして以後17年にも及ぶ諸国標遊の旅がはじまる。二条32歳の正応二年(1289)のことである。3月20日すぎ、二条は江の島に一泊。やがて鎌倉に入った。
明くれば鎌倉へ入るに、極楽寺(ごくらくじ)といふ寺へ参りて見れば、僧のふるまひ都に違(たが)はず。なつかしくおぼえて見つつ、化粧坂(けはひざか)といふ山を越えて鎌倉の方(かた)を見れば、東山(ひんがしやま)にて京を見るには引き違(たが)へて、階(きざはし)などのやうに重々(ぢゆうぢゆう)に、袋の中に物を入れたるやうに住まひたる。あなものわびしと、やうやう見えて、心留(とど)まりぬべき心地もせず。
私自身鎌倉に住んでいるので、今回の文学散歩は勝手知ったるわが家の庭、と思ったのがまちがいだった。江の島方面から極楽寺に入るのは、古くからの順路で、今でも江ノ電(江ノ島電鉄)でコトコトと光る海のそばを走り、山ふところに入るとそこに極楽寺がある。が、そのつづきは「極楽寺坂」であって「化粧坂」ではない。「化粧坂」は源氏山から扇ガ谷(やつ)に下りてくる切通しで、全く方角がちがうのである。作者の思いちがいなのだろうと思う。
鎌倉には入り組んだ丘陵に深く切れ込んだ谷戸(やと)が数多くある。ヤト、又はヤツ、といい、笹目ガ谷(やつ)、比企谷(ひきがやつ)、明月谷(めいげつがやつ)、亀ガ谷(やつ)、獅子ガ谷(やつ)‥‥それぞれ奥深く入って山につき当る。
鎌倉という古い都は、堅固な要塞になっていて三方を山で囲まれ、一方は海である。鎌倉に入るには古来七つしか外部との通路がなかった。いわゆる「鎌倉七ロ(ななくち)」の切通しで、ここを固めれば外敵を容易に防げるように配慮されていたのである。名越(なごえ)、朝比奈、巨福呂(こぶくろ)坂、亀ガ谷、化粧(けはい)坂、極楽寺坂、大仏坂がそれであるが、このうち極楽寺坂は昔くから鎌倉の玄関口とされ、京から来ると、ここを通って鎌倉に入るのである。
昔なつかしいチンチン電車の江ノ電も、このところ新型車がふえてしまったが、いまでも単線で、いかにものんびりと走っている。新装成った鎌倉駅から乗るのもよし、逆に藤沢方面から、七里ケ浜の海を跳めて極楽寺駅に至るのもよい。可愛らしい小駅におり立つと、すぐ目の前に山の崖が迫っていて、日によっては海鳴りも聞えてくる。
私が極楽寺を訪れたのは、咲きはじめた桜に冷たい雨の降りそそぐ四月八日であった。花祭の日を中心に三日間だけ、重文の釈迦像の拝観ができるのである。坂をのぼって、朱塗の桜橋を渡る。下は川ではなく、江ノ電の線路で、線路は古いレンガのトンネルに消えていく。古い避暑地の面影が偲ばれるムードが何となくなつかしい。線路を越えれぱすぐに極楽寺の茅葺(かやぶき)の山門である。参道の上に桜が咲き、どこか砂っぽい土の上に、花びらがはりついて美しい。
極楽寺は鎌倉にはめずらしい真言律宗の寺で、約七百年前北条重時によって創建され、大伽藍が建ち並んでいたという。何度か戦火や火災にあって今はその偉容を偲ぶすべもないが、二条の訪れた時は京の寺院にも劣らぬ盛んな勢いであったとみえる。
開山の忍性(にんしょう)は社会事業にカを入れ、施薬院(せやくいん)・悲田院(ひでんいん)を設けて貧しい人々を救ったが、当時、日蓮は政治力のある忍性を法敵としてはげしく非難したそうである。
宝物殿に立つ釈迦像(重文)は、驚くほど繊細優雅で、穏やかな表情をたたえていた。いわゆる清涼寺式の、首まで布を巻いた型なのだが、その衣文の襞(ひだ)がじつに美しく、見ていて倦(あ)きることがない。同じく重文の十大弟子像が、これはまたまことにリアルな表情を持っていて、一体ごとの写実的な姿態を見比ぺていると時を忘れてしまう。文永五年(1268)造立とあるから、二条も当然、これらの像を見たことであろう。
裏山に登って忍性の宝篋印塔を拝む。樒(しきみ)の木に、淡黄色半透明の花がびっしり咲いている。一見蝋梅の花のような感じで、樒にこんな花が咲くとは、はじめて知った。
極楽寺坂をゆっくり下ってゆくと、雨が止んで重い曇り空から、鳶(とび)の声が聞えてくる。この道は切通しになっているが、右手の崖の上に成就院(じょうじゅいん)がある。そこへ登る階段が、旧い極楽寺坂である。山門前に海棠(かいどう)が花を開きほじめていた。長い階段を越えて行くと、向こうに由比ヶ浜の海が一望できる。二条が階段状に狭い士地にひしめく家々を見てわびしく思ったのも、このあたりからの景観かもしれない。鎌倉の家々の相を、よく把握しているのがおもしろい。
階段を向こうに下りきって、元の切通しに出るとすぐ、虚空蔵(こくぞう)堂の下に「星月夜の井」(星の井、星月の井とも)がある。昼でも星が映って見えたというのだが、井戸の名は堀河院百首にある「われひとり鎌倉山を越えくれば星月夜こそうれしかりけれ」に因むともいう。鎌倉には十井、五名水、十橋など、水に関わる名所が多いが、多くは江戸時代に観光用として宣伝されたものだとも聞く。井戸の蓋が竹で作られているのがいかにも鎌倉らしい。
坂を下りたあたりが坂ノ下で、突当りまで行けば由比ケ浜、途中左折して長谷に出れば、大仏のある高徳院、十一面観音のある長谷寺、それに海棠をはじめ、花の絶えないので有名な光則寺と、見どころは多いが、長谷は観光客が多いので、休日は避けた方が無難である。
 
「とはずがたり」考19 王権と仏法

 

「とはずがたり」とは何か
「とはずがたり」は、奇跡的な作品である。
このような言挙げは、いささか奇矯に過ぎるだろうか。しかし、これを読むごとに見いだされるものの豊かさは、あえてそう評したくなるような、深いうながしに満ちている。たとえば、その、書物としての伝来と発見の経緯からして、この言のあながちでないことを示すもののようである。
宮内庁図書寮の一隅に納められた唯一の伝本は、霊元天皇筆の外題を付された五冊の写本である。宮廷に伝来した日記・物語類を後世に遺すための書写事業の一環として写されたものという。遡ればその底本は、さらに室町期に書写された、いわゆる禁裡本にもとづくものらしい。
山岸徳平によって、昭和13年に見いだされたその本は、どうした訳か、地理・紀行の部に収められていた。記された事柄が、あまりにもあからさまに皇室の内々にわたるものであったがため、その本文が公にされたのは戦後になってからのことであった。
一読した人々は驚倒した。そこには、中世宮廷の奥深い帳(とばり)のなかで、当代の貴顕たちのなまなましい姿が、主人公である作者との性のかかわりのうちに、あざやかに描き出されているではないか。中世宮廷の秘事というべきものをふかく籠めたこの書物を、他に流布させることもなく、当の宮廷自身が、かろうじて細い糸の続くように一本を伝えていた。それは皮肉な偶然というばかりではすまない、或る何らかの意志を感じさせる。
そのうえ、鎌倉時代の宮廷史を叙(しる)した「増鏡」が、これから相当な量の記事を転用しながら、その名を挙げるどころか、至るところに登場する作者の存在までほとんど抹消していることが明らかになった。当世流にいえば剽窃というところであろうが、そのような根の浅い現象では決してない。
「増鏡」の作者は、「とはずがたり」という作品とその作者の存在を悉知し、この作品の意味するものを充分に承知しながら、その上で、確信犯的に、あえてその名を秘匿し、紛らかして、よそごとのように書き改めている。両者を較べてみると、それが周到で意図的な操作によるものであることがあきらかとなる。それでいながら、ただ一箇処、「とはずがたり」の作者を登場させるところがある。それは、「とはずがたり」には存さない部分、作者が宮廷を追放されたあと、伏見天皇の中宮として西園寺実兼の娘※子が入内する儀式においてである。作中では北山准后九十賀の儀をもって宮廷生活の最後を飾ろうとする作者にとって、この出仕が心に染まぬものであったことはいうまでもない。それが「増鏡」「さしぐし」では、(本来の二条という名より品下れる)「三条」なる女房名しか与えられずいたく嘆く、という点景として添えられ、暗にこの作者の存在をうかびあがらせている。持明院統の復活、すなわち後深草による院政の開始と、伏見帝と永福門院(しょう)子の許での、京極派歌壇の栄光の舞台ともなった華やかな宮廷の幕開けというべき盛儀の最中に、それは不似合に割り込んでいる。それは、「とはずがたり」に描かれたこととその作者を知ってみれば、謂くありげな、目くばせでもしているような一節であった。
「とはずがたり」は何を描こうとしたものなのか。その世界とはどのようなものか。中世文学史には名こそ挙げられるが、とうてい教科書では扱うべくもなく避けられていることが、ある意味でその本質をよく物語っているようである。いま、試みに語ってみようとすると、それは大層難しく、危ういことのように思われる。その内容が皇室の秘事を暴露したものであるからというのなら、もはや禁忌にはばかり遠慮すべき時世でもなかろう。むしろ困難や危うさは、それをどのような“作品”として把えるか、というわれわれの側の認識にあるだろう。
たとえば、作者は若くして上皇の想い者となり、正妃たる女院の嫉視のもとで皇子までなしながら、幾人もの貴顕とひそかに交渉を重ね、あまつさえ皇弟の法親王と道ならぬ恋におち、やがて破局を迎え、宮廷を追放され、尼となって諸国を西行に倣って修行し、ついに院の崩御と葬送を見おくる、というような要約をしてみるとする。そうした語り口が思わずみちびき、設定してしまうような枠組が、いつかわれわれを縛っているということはないだろうか。それは一方で国文学という学問の領域の枠組でもある。そのなかで、この作品は、いささかならず扇情的な告白としての自伝−つまりは“異色の”中世女流日記として位置づけられてしまう。はたして、そうした分類におさまるものなのだろうか。
あるいは、こうした把え方もできるかも知れない。やがて南北朝の動乱という破局を、そして古代的王権の決定的な没落を迎える、その種子が蒔かれ、育っていった時代を「とはずがたり」は描く。王朝の栄華が幻想された後嵯峨院政の末にはじまる作者の宮廷生活は、その治天の君たる院の死とともに暗転し、夫というより仕えるべき主君であった後深草院が抱く皇統奪回の執念のもとに、敵手亀山院に対抗するための性的な貢ぎ物として、作者は翻弄された。その数奇な運命の叙述は、かく利用された作者の告発である−そのように見るのもまた、ことの一面でしかなかろう。宮廷秘史、裏面の稗史趣味ばかりでは、やはり、この作品がもつ振幅や深さを測りえない。
いまだなお、そうした言説ではとらえきれぬ何かを感じてやまない、「とはずがたり」じたいが、強いうながしを私に与えるのである。
ここには、たしかに何かが実現されている。中世の一人の女性が、虚実をとり交ぜながら、一箇の作品として表現しようとする、その紛れもない主体的な意志が、「とはずがたり」にはつらぬかれている。それは、さきだつ豊かな古典の伝統や物語伝承をふまえており、また当代の物語や絵巻そして説話とも密接なつながりがある。それら多層の次元を重ね合わせながら、そのうえに立ちあがり、語りかけてくるのは、既にして、それらには還元できない何か決然とした骨太な訴求である。それをかたち造っているのは、もはや平安の仮名文学ではない、さまざまな領域から拉し来たった文体や修辞によって構成された、豊かな中世の散文の精神である。
すでに、「とはずがたり」について、これを広く中世の女流日記−とりわけ天皇に仕える内侍の日記と対比しつつ、それらに共通する主題としての“中世の王権”のすがたを論じようと試みたことがある。(※)そこに、中世の王(天皇と院と)に奉仕する女房(とそのエクリチュール)が、いかにその“王権”をあらしめるか、という視点を設定してみた。さらに、内侍ならぬ、院の「女官風情」でしかなく、しかもその社会から逸出してしまった者の残したテクストにそれを求めてみようとしたのである。院という、きわめて中世的な王権のありかたが、作者−主人公の“性”を通して、そこに露わに照らし出される。
“王権”を注視したその考察において、あえて省いたのは“宗教”であり、とりわけて仏教であった。中世のことばに置き換えるなら、「王法」に対して「仏法」と称してもよい。中世国家がその組織体系を欠いては存在が成り立たなかったように、その一種の縮図である「とはずがたり」の世界もまた、宗教の主題が一方の重い極をなしている。たとえば、作中の主人公による出家や遁世など仏道への想いを告げる表現をとってみても、仏教の唱導・教化に由来する経典・聖句などの多さは驚くばかりである。そうした表現の彼方に潜んでいるものがある。それは、中世にあって、すべて世界が冥と顕とにおいて認識されていたことと等しく、秘かな、隠されたものである。この作品のなかに、容易にその貌をあらわさぬ主題があるのではないだろうか。いま、ここに探ろうとするのは、それをあきらかに照らし出そうとする試みにほかならない。
「とはずがたり」の宗教世界
「とはずがたり」は、全篇が濃厚な宗教色に覆われている。主人公たる作者の、一貫した出世間へのあくがれと願い、そして思いを遂げ出家し修行の道を辿るありさま、その道程の至るところに宗教性が満ちている。しかしそれは、単彩の求道一色に塗りつぶされた絵柄ではない。その逆縁としての世間すなわち宮廷における恋愛の種々相と当代の王権をめぐるせめぎ合いが、作者を巻き込んで渦巻いていた。その渦中にあって悩み苦しんだ彼女の生々流転が、むしろその求道をあらしむる。
「とはずがたり」における宗教性、それがいかなるものであるかを把えようとする。そのように方向を定めてみても、またこの宗教の諸相も多重にして複雑なすがたを呈していることに、ただちに気付く。これを平面的に羅列してみても、さして意味はない。あるいは、それを作者の立場や視点のみに限定して一元的に論ずるような先入主も、この作品における宗教性をかたち造る過程を一面のみで把えることにしかならないだろう。そこに、作者を−そして作品を−かく在らしめ、導くにいたる契機や媒(なかだ)ちとなるべき何者かが注視されなければならない。それは作品世界のなかで、登場人物であったり、場であったり、説話・伝承であったりするであろう。いま、そのなかの或る人物を中心にして、ひとつの場を視座として、「とはずがたり」の世界−その宗教性の意味するもの−を考察してみようとする。
そのとき、「とはずがたり」の宗教牲を体現するような人物として、作者自身と深いかかわりをもった「有明の月」という隠名で呼ばれる高貴な僧侶が浮かび上がってくる。作者と有明との関係のすべてが、「とはずがたり」のなかで宗教なかんずく仏教の占めている位置とその意味を象徴的に集約している、と言ってよかろう。作者だけに注目して読むのでなく、むしろ有明の存在に着目し、かれとの関わりのなかでこの作品がどう読めてくるか、ひいては、その宗教的なるものがどのように立ちあらわれてくるか、ということを眺めてみようと思う。
有明は、作品中においては、前半の巻三までしか登場せず、後半の四・五巻には全く言及されない。とくに巻二と巻三における強烈な存在感からして、この落差は奇妙なほど大きい。一般に「とはずがたり」は、前半と後半とに分かたれるが、それは描かれた世界や作者の境遇の違いばかりでなく、文体の面でも、執筆の姿勢の点でも、質的な位相の差異が指摘されている。有明のこともその要素のひとつに挙げられている。前半にあって尋常ならぬ情熱の昂まりをみせて悲劇的な結末を迎えたのとは打って変わり、後半は後深草院が作者にとってただ一人の男性として思いを捧げられており、これに対置し回想されるべき存在としてさえ、有明は全く伏せられてしまっているのである。この現象をいかに理解するかという点でも、これまでの研究では説得的な解釈を提示していないようである。
これについて、ひとつの試案を提出してみよう。有明をめぐるそうした“現象”が、「とはずがたり」のなかで、どのような宗教世界の許に、いかなる深層の構造に支えられ在らしめられているのかを、解読してみようとするのである。
宿願の行く末
「とはずがたり」の跋文は、作者が、院の崩御の後、「かこつべき御事ども跡絶え果てたる心地して侍り」もっとも聞いて載きたかった院が亡くなられてしまって、内心に抱き続けた「御事ども」を伝うべき道はもはや無くなったものと思い切っていた、という。それこそは、例の宿願のことであり、また、その発起の由来となった纏末、すなわち前半における院との関わりと有明との間の秘密に他ならない。後半に有明の名が一切あらわされないのは不思議ではない。院にもついに告げずにしまった秘められた宿願−祈りの対象であったのであるから、むしろ、あらわさぬことに意味があった。「かこつべき」とは、それを一人抱き続けたまま歩んでいかねばならぬ作者の修行の遙かな道程をさすのである。
むろん、それは完全に果たされた訳ではなかった。
五部大乗経の書写・供養にしても、いまだ涅槃経の一部を残している。跋文のなかの「宿願の行く末いかがなり行かんとおぼつかなく」は、直接にはそれを指すものだろう。しかし、一人ひそかに抱いていた「年月の心の信」も、人丸影供にはじまる夢想と感得、そして女院との邂逅により、「さすが空しからずや、と思」われた。そうした吾が身の過ぎ越し行末を一人限り胸の内に秘め続けているのも「飽かず覚え」、その上に己が「修行の心ざしも、西行が修行の式」を羨しく覚えてこそ思い立ったものなので、「その思ひを空しくなさじばかりに」この記を書きしるしたのだ、と結ぶのである。
その跋文のなかでも、やはり「宿願」と「修行」が執筆の動機と分ちがたく言われるように、「とはずがたり」の成立−叙述をうながし、つらぬいているのは、作者の生と一体となった仏法にもとづくところの願いであり、行(おこな)いであった。それは、作者の関わったすべての仏事の営みでもある。たとえば有明との宿縁の発端となる修法も含め、その何れもが無意味な後景や記録ではない。あるいは、作者が私に主体的に始め、やがては修行として営み続けた仏事は、結縁も含めて、それらが互いに機縁をなし、不思議な冥合や照応、または夢想や感得などと重なりあって織りなされ、それらは総じて「宿願」の成就をめざしているのである。
それは、“王の生と死”を祈り司(つかさど)るべき高僧を、却って魔縁−悪道に誘(いざな)うことになってしまった“王と契りを結びし女”が、その生に課せられ、また自ら誓って負うたのでもある、重いつとめではなかったか。跋文中の「西行が修行の式」に西行に託して告げているのも、その己れの修行の隠された真の意図なのであろう。さまざまな位相のなかに連ねられる種々の仏事は、そこで、何より作者の引き受けたひそかな願いと祈りを、しだいに実現し成就を期す過程としてあらわされる。そこに、「とはずがたり」がすぐれて中世の宗教文学であるゆえんがあろう。
 
「とはずがたり」考20 時代背景

 

宮廷の左義長
正月15日は小正月、いまでも民間でさまざまな行事が行なわれる日である。甲信地方では道祖神祭がこの日に行われる。ドンド焼といって、さまざまなものを焼くのである。宮廷でも清涼殿(せいりょうでん)の東庭に青竹をたばねて立て、毬杖(ぎっちょう)三個をむすび、短冊や天皇の吉書を焼くのが古くからの年中行事であり、これを左義長(さぎちょう)といった。この日小豆粥(あずきがゆ)を食べる風習はいまものこっているが、その炊事に用いた薪(たきぎ)で女の腰を打ちあい、男子誕生を祈ることも行なわれた。粥杖(かゆづえ)打ちという。
この年(文永一二年)、後深草の御所での粥杖打ちはたいへんにぎやかであった。上皇自身が近習(きんじゅ)の男を召しあつめ、逃げる女房たちを追いかけ、打ってまわる。これをくやしく思った二条をはじめとする女房たちは、18日、こんどは上皇を待ち伏せして、さんざんに打ちすえた。
「あやまった」といった上皇はさらに悪ふざけをはじめ、タ方の食事のとき、公卿たちにこのことを話して恨みごとをいい、とうとう、二条が発頭人(ほっとうにん)として罪のつぐないをさせられることになった。二条の後見人や近親たちは、みなぎょうさんな贈物をつぐないとして、上皇や公卿にとどける。二条の外祖父四条隆親(たかちか)は上皇へは直衣(のうし)、楓(かえで)の小袖(こそで)一〇、太刀一振(ひとふり)を、公卿たちには太刀一振ずつ、女房たちには檀紙(だんし)一○○帖というたくさんなものをさしだし、西園寺実兼もたいへんな贈物をする。そしてこのことをいいだした上皇自身もまた、二条の父がわりなのだから、ということになり、自分の放言を自分でつぐなわなければならぬはめにおちいってしまった。いたずらの発頭人、18歳の二条はおかしくてたまらなかったと記している。
祈祷のかげで
しかしこのような、はなやかなにぎわしさの裏には、人々のさまざまな情念が渦を巻いていた。二条は久我雅忠の娘。二条の幼いころに死んだ母の大納言典侍(だいなごんないしのすけ)は、幼少の後深草に新枕(にいまくら)を教えたといわれ、二条を通じて、この典侍のおもかげを追いもとめたのか、上皇は二条の14歳のとき以来、彼女を「あこ」とよび、溺愛したのである。それは中宮東二条院公子のはげしい嫉妬をかきたてるほど、異常なものがあり、二条は上皇の皇子(2歳で夭折)まで生んだ。
こうした寵愛をうけて上皇と深くむすぱれながら、二条は権勢ある関東申次(もうしつぎ)、西園寺家の当主実兼の愛にもこたえ、皇子出産後、ただちに実兼の子をみごもっている(文永一○年)。この実兼との交渉はすべて上皇にかくれて行なわれた。二条が女子を出産すると、実兼はすぐにその子を、死産に終わった正妻の子とすりかえ、上皇には二条流産と報告させて、いっさいを密のうちに葬ってしまう。この女子は、成長して、伏見天皇の妃永福門院(えいふくもんいん)か、あるいは亀山法皇の妃昭訓門院(しょうくんもんいん)になった人であろうという。
そうした二条のまえに、この年、第三の男性があらわれた。例年ならば六条殿にある長講堂で行なわれる後白河院国忌(こき)の法華八講は、一昨年、六条殿が焼けたので正親町(おおぎまち)の長講堂で行なわれたが、その法会(ほうえ)に参じた高貴の僧から、二条はひたむきな愛をうち明けられる。その僧は後深草の異母弟、仁和寺御室(おむろ)の性助(しょうじょ)法親王であった。
8月、上皇は病にかかり、延命供(えんみょうく)の祈祷に性助が参院してきた。それまでも、何度か情のこもる手紙を二条のもとによこしていた性助に対し、迷惑に思いつつも、二条の心も動いてはいた。しかしこの祈祷のとき、上皇の用事で聴聞所(ちょうもんどころ)に行った二条は、ただ一人そこにいる性助に出会い、道場の側の局(つぼね)にみちびかれ、とつぜん性助に手をとられる。「仏のお心の中も恥ずかしいこと」というのもおよばず、二条はそこで性助と、あわただしいときをすごすことになってしまった。それからのち、性助の想いはつのる一方、「悪道に墜(お)ちるのは覚悟のうえ」とまでいって、激情を訴え、はなれようとする二条に、はげしい恨みを述べてくる。しばらくのち(弘安四年)、このことを知った後深草は、ふしぎにも二人のあいだを仲立ちし、後深草の公認のもとで、性助と二条との交渉はつづいたのであった。
上皇、高位の公卿、御室の法親王と女房二条との、このさまざまな交渉は、二条の作品「とはずがたり」のなかにえがかれている。
両統対立の萌芽
男女のこうした葛藤もからみつつ、宮廷のなかには、このころ深刻な政治上のもつれが生まれようとしていた。後嵯峨法皇の死後、後深草上皇と亀山天皇とのあいだに、しだいに溝が深まりつつあったのである。
それはすでに後嵯峨在世中からきざしていた。後嵯峨は、後深草が幼少から虚弱であり、性格的にも陰湿なところがあったのに対し、健康で闊達な皇子恒仁(つねひと)を早くから愛していたという。恒仁が亀山天皇として即位して以後、すでに出生している後深草の皇子をさしおき、文永五年(1268)、わずか2歳の亀山の皇子世仁(よひと)を立太子させたことに、その意思は露骨にあらわれているといってよい。
しかし崩ずるにあたって、後嵯峨は自己の遺志の明言を避けた。所領について、後深草・亀山への配分を処分状でしめしたのみで、「治天の君」については白紙のまま世を去ったのである。「治天下」の実権をにぎるのが上皇か、天皇かは、まったく幕府の決定にゆだねられた。これは承久の乱後、後嵯峨自身の即位にあたり、幕府が駆使した権限であり、後嵯峨はみずからのときの例にならったのである。
だが、二月騒動の直後の収拾に追われる幕府は、それを決定するのを避け、後深草・亀山の生母大宮院(きつ)子に、後嵯峨の遺志を聞き、それに従う態度をとった。大宮院の答えは亀山であった。かくて亀山天皇の親政が実現、やがて皇太子世仁は文永十一年、8歳で即位して後宇多天皇となり、亀山院政がひらかれたのであった。
それは天皇家の周辺にも大きな波紋をひろげた。関東申次として天皇家の外戚となって権勢をふるっていた西園寺家は、公経(きんつね)のあと、実氏(さねうじ)と洞院実雄(とういんさねお)の二流にわかれ、実氏流が関東申次の地位をたもっていた。しかし実氏の子公相(きんすけ)が早世したのに対し、実雄の娘※子(亀山皇后・京極院)の生んだ皇子世仁が皇太子に立つにおよんで、実雄の力は強く、年若な実氏の孫実兼は、関東申次の地位にありながら、実雄に圧倒されぎみであった。こうした実雄との対抗上、西園寺実兼は後深草上皇に接近し、とくに実雄が文永一○年に没するや、後深草をもり立てて、その権勢を張ろうと画策していた。二条はそうした後深草と実兼とのあいだに介在していたのであった。
しかし後深草にとって、前年(文永十一年)の後宇多即位は、決定的な事態のように思われた。皇位が完全に亀山流に継承されていく可能性は、これできわめて強くなったことはまちがいない。この年のはじめの、にぎやかな粥杖打ちの騒ぎのかげには、こうしたどうにもならぬ上皇のむなしさが隠されていたのであった。そして4月、上皇はついに尊号・随身・兵杖(ひょうじょう)を辞して、出家する意志を固めた。何人かの身近なものに出家の伴が命ぜられ、二条もまたそのうちにあった。しかし幕府はこれをしきりになだめ、両上皇の仲をとりもとうとしたので、後深草も思いとどまり、9月、仲なおりのために、亀山が後深草の御所富小路殿を訪れることとなった。二条もその席に侍っていたが、両上皇はたがいにうちとけて、酒宴や鞠(まり)などに一日をすごし、亀山は灯をともすころに帰った。ところがその翌日、二条のもとに亀山の使いが来り、想いを伝えてくる。そしてそれはこののちもたびたび重なったのである。
やがて11月、おそらくは実兼の運動が効を奏したのであろう。後深草の皇子煕仁(ひろひと)が皇太子に立つこととなり、後深草の前には、ふたたび大きな希望がひらけてきた。後深草と亀山は、その後も表面、兄弟仲むつまじく、たがいに訪問しあってはいるが、心中の溝がしだいに深まっていくのを、おさえることはできなかった。
建治元年(1275)の日本は、このようなさまざまな動きにいろどられつつ暮れていく。元軍再襲にそなえてあわただしく動く幕府、必死で恩賞をもとめる武士、寺社での祈祷、叡尊・日蓮・一遍などの思想家たちの動き、そこにわれわれははげしく動く時代をじかにみることができる。そして紀伊国の有田川の谷々での、百姓・地頭・預所の争いをとおして、この動揺の一つのみなもとをうかがうことも可能である。しかし前年の襲来は、この人々にとってはまだ遠い世界でのできごとだった。ましてやこの「とはずがたり」の世界にはいれば、前の年の襲来には一言半句の言及もない。そこでは、北九州での激闘も、まったくよそごとでしかないようにみえる。日常というのは、そういうものかもしれぬ。
しかし、二条に対する後深草の溺愛、行ないすました御室の法親王の心中に燃える、おそるべき呪詛(じゅそ)すらともなった情念を通じて、われわれは、鬱してなお爆発しきれぬ力の一端をみることができるのかもしれぬ。そして、後深草と権勢家実兼との二条をめぐる深いかかわり、さりげない遊びのかげに隠された、性格をまったく異にした二人の上皇の微妙な対立のなかには、やがてきたるべき分裂の萌芽をはっきりみてとることができる。それはまだ細い裂け目ということができるかもしれない。しかし前述したような社会の深部から発する矛盾は、貴族間の、権臣たちの大小の争いを通じてそこにくい入り、回復しがたい大分裂をみちびきだしてゆくのである。
 
「とはずがたり」考21 辞書辞典記述

 

「広辞苑」
とわず・がたりトハズ‥【問わず語り】人が問わないのに、自分から語り出すこと。源葵「あさましかりしほどの─も心憂く」。「─に語る」
とわずがたりトハズ‥【とはずがたり】鎌倉時代の日記文学。作者は中院源雅忠の女(むすめ)二条。五巻。1306年(徳治一)49歳ごろの執筆か。作者が1271年(文永八)正月14歳で後深草上皇と結ばれてからの宮廷生活の体験・感懐を記した三巻と、31歳で出家した後に諸国を遍歴した旅の見聞・感想を記した二巻とから成る。愛欲の記録としても注目される。
「日本国語大辞典」
とわず・がたりとはず‥【不問語】(1)〔名〕他人から事情をきかれたりしないのに、自分から話し出すこと。また、相手なしに一人でものをいうこと。ひとりごと。とわずがたらい。とわずものがたり。*蜻蛉(974頃)中・天禄二年「「身をしかへねば」とぞいふめれど、前わたりせさせ給はぬ世界もやあるとて、今日なん。これもあやしきとはすかたりにこそなりにけれ」*宇津保(970−999頃)蔵開中「いで、あやしのとはずがたりや」*天理本狂言・酒講式(室町末−近世初)「惣じてそちのむすこは、口のまめな者で手習はせいで人ごと云てとはずがたり斗する」*信長記(1622)一三・佐久間右衛門尉信盛父子御折檻の事「うちしはぶきつつ、問(トハ)ずかたリをしけるは」*読本「南総里見八犬伝(1814−42)六・六〇回「茶店のあるじが売弄問話(トハズガタリ)は、只世渡りの方便のみ」*雁(1911−13)〈森鴎外〉五「その婆さんが問(ト)はずがたりに云ふには」(2)(とはずがたり)鎌倉時代の日記。五巻。後深草院の二条(中院大納言源雅忠の女)作。前三巻は後深草院御所を中心に、文永八年(1271)14歳で院の寵愛を受けて以来のさまざまの愛欲遍歴とその感想を、後二巻は出家後、西行の跡を慕い、諸国行脚によって、懺悔修行の生活を送る次第とその心境、後深草院三回忌の感概などをしるす。愛欲生活と、それを超克してゆく魂の遍歴を直叙している。[方言]@問いもしないのにべらべらしゃべる人。饒舌家(じょうぜつか)。島根県鹿足郡725◇とろじかたり青森県北津軽郡073A訳の分からないことを言うこと。島根県出雲725[発音]トワズガタリ〈なまり〉トッパジカダリ〔岩手〕〈標準ア〉※〈京ア〉ガ[辞書]言海[表記]不問語(言)
「岩波日本史辞典」
とはずがたり とわずがたり 鎌倉後期の仮名日記。5巻。後深草院二条の作。14歳の年、後深草院の寵愛を得るが、産んだ皇子の夭折に遭う。西園寺実兼や仁和寺御室性助法親王とも逢瀬をもち、御所を退いてから31歳頃出家し、西行に倣って鎌倉・伊勢・奈良・厳島・坂出などを訪ね、院と再会して復交、のち院の3回忌を迎える。前3巻には華やかな後宮生活と愛欲の苦悩が、後2巻には出家後の修行生活が回想される。特異な体験や見聞は貴重な史料であり、構成・文体ともに優れ、一貫する人生史を構築したところが高く評価されている。〔新古典〕
後深草院二条 ごふかくさいんにじょう 1258(正嘉2)−? 鎌倉後期の日記文学作者。父は中院雅忠、母は後嵯峨院大納言典侍(四条隆親女)。後深草院の寵愛を得たが、上臈女房に終り、出家後、諸国修行の旅を試み、また自伝「とはずがたり」を執筆した。
「朝日 日本歴史人物事典」
後深草院二条/ごふかくさいんのにじょう/正嘉2(1258)-徳治1(1306)以後
鎌倉時代の日記文学作者。二条とも。大納言源雅忠と後嵯峨院大納言典侍(四条隆親の娘)の子。2歳で母を亡くし,4歳から後深草上皇の御所で育ち,14歳の年,上皇の寵愛を受けるが.15歳で父に先立たれ,生んだ皇子の夭折に遭う。幼なじみの西園寺実兼に言い寄られ,ひそかに契り秘密裡に出産。仁和寺御室(11代)の性助法親王(一説に10代御室の法助法親王)にも恋を告白され,上皇の許しにより逢瀬を持ったが,法親王は病没,その後御所を退いた。31歳ごろ出家し,西行に倣って鎌倉,伊勢,奈良,厳島,坂出などへ修行の旅に出る。旅先で上皇(のち法皇)と再会して旧交を温めあったが,やがてその死に遭い,三回忌までを迎えたことが自伝「とはずがたり」にある。この自伝全5巻の前3巻には華やかな後宮生活と愛欲の苦悩が,後2巻には出家後の修行生活が回想される。特異な体験が興味をひくが,それだけでなく,構成,文体ともにすぐれ,一貫する人生史を構築したところが高く評価されよう。
「鎌倉・室町人名事典コンパクト版」
にじょう 二条 1258-?(正嘉二-?)
鎌倉中期の貴族の女性。後深草上皇に仕え後深草院二条ともいわれる。二条は女房名で実名は不詳。大納言中院雅忠と父とし、四条隆親女を母として生れる。2歳のとき母に死別し、4歳から後深草院御所で育てられ、長じて院の女房となった。性助法親王・西園寺実兼などとも交際があった。正応元年(1288)出家し、翌年から全国を旅して歩いた。自分の一生を記した「とはずがたり」は当時の宮廷生活、地方の実情などが生き生きと描かれていて名高い。
「日本史大事典」
後深草院二条 ごふかくさいんのにじょう/1258(正嘉二)−?
後深草院の女房で愛妾。日記「とはずがたり」の著者。後深草院の近臣久我雅忠の女として1258年(正嘉二)に生まれた。母の大納言典侍近子(四条隆親女)は、後深草院に新枕を教えた人であったが、二条が2歳のときに死んでいる。71年(文永八)14歳で後深草院の寵を得て御所に女房として出仕、翌72年には父の雅忠が死んで孤児となり、以後、後深草院のきまぐれな愛情に翻弄される宮廷生活を送った。一方で、院の近臣西園寺実兼や仁和寺の高僧(法助とする説と性助とする説がある)とも関係を結んでいる。これらの男性との間に少なくとも四人の子を生んでいるが、いずれも夭折したり生別したりして、晩年は孤独な単身者としての生涯を送った。後深草院は弟の亀山院と不和になり、これが持明院統と大覚寺統の対立という王家(天皇家)の分裂の危機にもつながっていくが、こうしたなかで二条は、後深草院の命令で、後深草と亀山の不和・緊張をほぐすため、亀山とも関係を結ぶ。しかし、これが後深草院の嫉妬となり、88年(正応元)二条は御所を追放されて出家、翌9年以後、みずからを女西行になぞらえて熱田・鎌倉・奈良・瀬戸内と旅の生涯を送る。1304年(嘉元二)の後深草院の死に際しては、後深草の葬送の車を裸足で追った。1306年(徳冶元)以後の消息は不明。
[参]「とはずがたり」新潮日本古典集成、新潮社。松本寧至「中世宮廷女性の日記」中公新書、1986年。
とはずがたり とわずがたり
後深草院の女房で愛人でもあった後深草院二条(中院雅忠の女)の日記文学。伝本は宮内庁書陵部に一本のみ伝わる。晩年にその生涯を回顧する形で綴られた自伝的作品で、全五巻から成るが、大きく前編三巻、後編二巻に大別できる。前編三巻は、1271年(文永八)、作者が14歳で後深草院の御所に出仕して以来、後深草院の寵愛を受けながらも、院の近臣の「雪の曙」」(西園寺実兼)、院の護持僧の「有明の月」(仁和寺御室性助・法助の両説がある)とも関係を結ぶなどの愛欲に満ちた宮廷生活が描かれる。後編二巻では、89年(正応二)後深草院のきまぐれな寵愛の果てに御所を追われて出家し、尼となった作者の東国鎌倉への旅、次いで西国への旅などが描かれる。二条はこの旅に流離するみずからを、女西行、あるいは小野小町の落塊した姿になぞらえている。そして、1304年(嘉元二)の後深草院の葬送に際して、その葬送の車を裸足で追った二条は、06年(徳治元)、院の女の遊義門院と再会し、院の三周忌の仏事を聴聞するところで回想は終わっている。鎌倉時代末期の後深草院の持明院統、亀山院の大覚寺統の対立が激しくなっていく時期の公家政権内部の実態を、女性の立場から描いた書物としても貴重である。
「新編日本史辞典」
とはずがたり とわずがたり 5巻.鎌倉時代の日記風自伝文学.筆者は大納言中院雅忠の娘で,後深草上皇御所の女房となり,上皇の愛人でもあった後深草院二条(実名末詳).巻1-3は,宮廷生活と,上皇はじめ西園寺実兼・仁和寺性助法親王らとの愛欲が中心.巻4,5は出家後,関東や中国地方などの旅と修行の記録で,1306年(徳治1)まで.この年からまもなくの成立と推定され,日記の体裁をとりつつ往時を回想したもの.一部虚構もあり,日記文学の伝統の上に,紀行文学を加味している.したがって文字通りの日記ではないが,すでに「増鏡」にも引用がみられ,宮廷生活や地方の事情について,注目すべき史料を含む.古写本は宮内庁書陵部蔵本が唯一.刊本は「岩波文庫」ほか.
「日本歴史大事典」
とはずがたり とわずがたり
後深草院の女房で院の寵人だった後深草院二条(久我雅忠女)が、晩年に己が人生を回顧して書き綴った作品。普通は日記文学に分類されるが、前代・同時代の物語文学の影響も強い。五巻。前半三巻では、院の寵愛を受けた14歳の春から御所を退出するまでの間の宮廷生活の苦悩が、「雪の曙」(西園寺実兼)、「有明の月」(通説では性助法親王)ら複数の男性との密通などを交えて描かれる。後半二巻は西行に倣って出家した作者の旅と修行の記で、後深草院への忠節と家門再興の願いとが仏道修行を通じて強調される。王朝文学のさまざまな分野の手法を集大成した作品であると同時に、同時代に多くいたと思われる天皇・院の寵愛を受けた女房が自ら書き残した記録としても貴重である。通説では作品の最後の記述がある1306年(徳治元)から13年(正和二)まての成立とされている。伝兼実(かねざね)筆という古筆切が存在するほかは宮内庁書陵部本が天下の孤本である。
「国史大辞典」
とわずがたり とはずがたり 鎌倉時代末期、徳治元年(1306)ごろ成立の女流日記。五巻。作者は村上源氏の名門久我(中院)大納言雅忠の女で、母は四条隆親の女大納言典侍。正嘉二年(1258)誕生。没年不詳。後深草院後宮時代の女房名は二条。一皇子を生んだが翌年夭折した。ほかに愛人との間に一女二男を生む。前三巻が宮廷生活篇、後二巻が御所退出出家後の紀行篇にあたる。作者の波瀾に富んだ一生を、みずから語らずにはいられぬという内発的な欲求から発想した特異な自伝文学で、文学史上また女性史上も高く語価されるが、記録文学としても多面的な資料を提供する。本書は鎌倉時代中期から末期ヘ、作者14歳、後嵯峨院の院政時代の終期あたりから始まる。朝廷では皇位経承の問題をめぐって後深草院と同母弟亀山院との間に対立が起り、対幕府の関係もからみ、持明院・大覚寺両統の迭立期を経て、のちの南北朝動乱の端緒となるが、この紛争の遠因をなす両院の対立の始まった時期の微妙な状況を、その一方の上臈女房であった作者の眼でとらえた貴重な記録である。前篇は後嵯峨院死没前後の状況、大宮院・弟院と兄院の不和、兄院の出家表明から一転して幕府の慰留と東宮決定、両院の交遊、廷臣間の官位の争奪、西園寺家の繁栄、准后貞子の九十の賀の盛儀など、後篇では将軍の交替、幕府要人平入道一門の動静などが、必要な時点で作者の見聞として正確に記述され、ことにつぎつぎ計画される両統の宴遊では、親睦の間にもみられる両院の性格の差と激しい対抗意識が、時には作者自身を中にして生々しく活写される。
社会的な事象としては六波羅北方北条時輔の伏誅、神木入京の騒擾、流行病の猖獗などに触れ、紀行篇では東国から近畿・中国・四国まで、各地で実際に見聞した熱田社炎上ほか地方史的な事象や人間交流を具体的に記録している。風俗史・精神史方面では、政治の実権を失った宮廷の頽廃漁色をはじめ、亀山院・鷹司兼平や西園寺実兼ら最高貴族と作者との関係、また作者との愛欲に身を滅ぼした有明の月(性助法親王とみられる)など、それぞれの人間像や宮廷の裏面史が、事件の当事者である作者の体験を通して鮮明に描き出されている。宮廷の内外でも、伝統の文化や宗教、新興の勢カや思潮が相交錯し浸潤してゆく状態がうかがえ、遊女の中にも、個我を自覚し自立しようとしていた事例を見出す。後篇では地方の武士や豪族、神官らとの文芸的交遊の記事が生彩をそえる一方、後深草院や亡父への追慕とともに、大覚寺統の後宇多院の皇后となっている院の皇女遊義門院への接近を力をこめて記述して筆を擱いているが、その直後に女院は急逝しているから、その後の作者の動静はわからない。自己の恋愛事件などを語る部分には、自己弁護や、文学的修辞がみられるが、全体としてきわめて大胆率直で文章も洗練されており、古典文学を完全に自分のものとして活用するほか、中世語や漢語も駆使し、今様や説話を紹介するなど、文学・国語史上にも貴重な資料である。「増鏡」もこの作品の各巻を材料として露骨に引用しており、これが秘本として一般に流布されなかったことを示す。本書は少なくも三回の転写を経ており、宮内庁書陵部蔵の江戸時代初期の写本五冊が、現在唯一の伝本である。翻刻本文は「校注古典叢書」などに所収。
「日本史広辞典」
とわずがたり〔とはずがたり〕 鎌倉後期の女流日記文学。五巻。作者の後深草院二条は源通親の曾孫で、源(久我)雅忠の女。4歳で後深草の院御所に迎えられ、やがて上皇をはじめ西園寺実兼・性助法親王・鷹司兼平、さらには亀山上皇などと次々に関係をもち、少なくとも四人の子供を生む 。30歳をすぎて出家し、鎌倉・善光寺・奈良・厳島から、四国・中国地方へと修行の旅を続けた。これは9歳のときにみた「西行が修行の記」に深く影響された結果という。「源氏物語」などの影響が強く、細部のすべてを事実とみるのはためらわれる。「増鏡」に材料として利用される。「完訳日本の古典」「新日本古典文学大糸」所収。
「日本女性人名辞典」
後深草院二条 ごふかくさいんのにじょう 正嘉二年(1258)-没年不詳
鎌倉期の日記文学作者。父は中宮大納言源(久我)雅忠、母は大納言四条隆親の娘近子。母が大納言典侍として後深草天皇に仕え寵愛をうけた関係で、幼時から後深草上皇に近侍し、二条と呼ばれ、文永八年(1271)上皇の寵を得る。その一方で上皇の謀臣西園寺実兼と恋愛、また関白鷹司兼平、上皇の弟性助法親王と交渉を持ち、亀山天皇とも噂を立てられた。上皇の子、実兼の娘、法親王の子二人などを生むが、いずれものちに死別または生別している。のち宮廷を辞し、正応元年(1288)伏見天皇の中宮永福門院(実兼の娘)の入内に伴い再出仕して三条と呼ばれる。翌二年出家し、鎌倉を中心に東国を、乾元元年(1302)厳島から四国、中国を巡る。帰京後、後深草上皇の死没にあい、一代記「とはずがたり」五巻の執筆をはじめる。「とはずがたり」は、後深草上皇(持明院統)と亀山上皇(大覚寺統)との対立、政治の実権を失った宮廷の退廃と漁色などを、自己をも客観化した率直な筆致で描き出し、さらに女西行とも評される自己形成の旅は、朧化と自己観照を主とした平安期の女流日記文学とは一線を画している。文学史上、女性史上高く評価されているばかりでなく、「増鏡」に多量に引用されているように、記録文学としての価値も高い。嘉元四年(1306)作者49歳の記事で終っているので、この年をそう下らずに完成したと推定される。
「和歌大辞典」
とはずがたリ 〔鎌倉期日記〕作者は源雅忠女、二条。現存写本は宮内庁書陵部蔵禁裏本(桂宮本叢書15)一本のみ。成立は嘉元四1306年から徳治二1307年7月の間か。品高き久我家の女でありながら、後深草院後宮に出仕し己が愛欲体験に基づき、在鎌倉政権下の京都宮廷内部の退嬰ぶりを活写すること空前絶後(一-三巻)。忽然として尼僧の姿を現す四・五巻にあって、東は長野善光寺、西は厳島、足摺押へと行脚した記は紀行文学として秀逸、女西行といわれるのも故なしとしない。同じ女流日記文学とはいえ、平安朝のそれとは朧化しない筆致において格段の差があり、異色な作品。他人の歌五○首を含み、一五○余首の詠を含む。
【参考文献】「とはずがたりの研究」松本寧至(昭46桜楓社)「問はず語り研究大成」玉井幸助(昭46明治書院)*「とはずがたりの構想」和田英道(立教大学日本文学昭51・12)
(参考)
後深草天皇 ごふかくさてんわう 〔鎌倉期歌人〕名は久仁。寛元元年(1243)6月10日−嘉元二年(1304)7月16日、62歳。第89代天皇。寛元四年から正元元年(1259)まで在位。父後嵯峨院は後深草院(持明院)より同母弟亀山院(大覚寺)を鍾愛、のみならず亀山院皇子世仁親王(後宇多院)を春宮とし、後深草院を疎外する。後深草院の愁訴により幕府が調停に入り、皇子煕仁親王(伏見院)を後宇多院の春宮とし、以後両統交互の皇位継承となるが、時と共に両統の対立は沈澱しつつ南北朝への因を形作って行く。後深草院の人となりの一種独特の異常性は「とはずがたり」に活写されてあますところがない。玉葉集に一首入集。
「増補改訂 新潮日本古典文学辞典」
後深草院二条 ごふかくさいんのにじょう 正嘉二−?(1258-?) 鎌倉後期の日記作者。村上源氏、中院大納言雅忠の女。後深草院に仕えて二条と称した。正応元年(1288)、伏見天皇の中宮永福門院※子の入内の際に再び宮仕えし、三条とよばれたこともある。※金へんに「章」
その日記「とはずがたり」は、自身の生涯を顧みて問われずとも語らずにはいられぬ衝動からつづった自伝的作品。混沌たる愛欲世界を超克して宗教に浄化されていく過程を叙した懺悔修行の記録で、ここにみられる鋭い人間観察と真摯な宗教心とは、いずれも中世的精神の現れであるが、かくまで大胆に赤裸々に自己を暴露し、現実を果断に描写しきった作品は他にまったく類例がない。まさに女流日記文学中最高級に属する傑作である。「とはずがたり」中の行事などに関する部分を、「増鏡」が資料として、「飛鳥川」「草枕」「老の波」「さし櫛」などの巻々に採用している。
【とはずがたり】とわずがたり 日記。五巻。正和二年(1313)までには成立した徴証があるが、おそらく嘉元四年(1306)以後そう距らず成ったであろう。初めて後深草院の寵を受けた文永八年、作者14歳のときから起筆、翌年、後嵯峨法皇崩御のあとを追うように父が死んで孤児となる。院と並行的に「雪の曙」(西園寺実兼)との秘密の交渉を続け、罪の呵責に悩む(巻一)。高僧「有明の月」(後深草皇弟、仁和寺性助法親王説と藤原道家子、准后法助説とがある)から執拗な求愛を受け、心ならずも身をゆだね、また、院の慫慂で「近衛大殿」(摂政鷹司兼平)にも許す(巻二)。「有明の月」とのことはついに院に知られ、許されて一段と熾烈な恋に陥ったが、「有明の月」は悪疫に罹ってあえなくこの世を去る。以前より二条に愛情を示していた亀山院とも遂に関係をもつに至ったが、その噂、東二条女院(後深草中宮)の嫉妬などもあり、後深草院の寵愛の衰えた作者は、御所を追われるに至る。その後は弘安八年北山准后九十賀に出仕した(巻三)。出家を遂げた作者は西行に倣って正応二年東国の旅に出る。鎌倉で将軍惟康親王の罷免、新将軍久明親王の下向などに際会。翌年善光寺参りを果したという。浅草観音を拝み、隅田川その他の歌枕をたずねて帰京。また奈良路におもむき、諸社寺を巡礼、翌年は石清水八幡宮で後深草法皇と再会、ついで伊勢大神宮に詣で、翌年招かれて法皇と往時を語りあう(巻四)。乾元元年西国厳島に参拝。ついで四国足摺岬にもおもむいたとしるし、崇徳院旧跡をも訪れた。帰途備後の土豪の許に立ち寄って思わぬ難儀にあい、修行の辛さをつぶさに味わって帰京。嘉元二年後深草法皇崩御にあい、悲嘆にくれる。記事は法皇三回忌の嘉元四年作者49歳までで擱筆(巻五)。
「日本古典文学大辞典」
後深草院二条 ごふかくさいんのにじょう 鎌倉時代の日記文学作者。後深草院に仕えて二条とよばれ、伏見天皇中宮※子(西園寺実兼の女。永福門院)入内の折には、三条とよばれた〈増鏡・第十一さしぐし〉。中院大納言源雅忠の女。母は四条大納言隆親の女近子。正嘉二年(1258)の誕生。「とはずがたり」により、嘉元四年(1306)49歳までのことがわかるが没年未詳。
【家系】父方は村上源氏で、代々有力な政治家や勅撰歌人が出ている。曾祖父は土御門内大臣源通親、祖父は後久我太政大臣通光である。雅忠は具平親王から八代にあたり、二条自身歌道の名門であることを「竹園八代の古風」と誇っている。母の近子は、後深草天皇に仕え、大納言典侍、略して「すけ大」とよばれ寵をうけたが雅忠と結婚、二条を生んだ翌年に死去。二条は近子の忘れ形見として後深草院に愛された。
【閲歴】弘長元年(1261)9月、4歳で院御所に参り、9歳の時、絵巻「西行が修行の記」をみて西行を慕い諸国行脚にあこがれる。文永八年(1271)後深草院の寵をうける一方、西園寺実兼の求愛もうけ入れる。当時は後嵯峨法皇の院政下にあり、後深草院は院政を行えない不満から、実兼と結んで、皇子(伏見天皇)即位への運動を進めていた。同九年父の死で孤児となり身辺の不安定さから実兼のほか鷹司兼平・性助法親王(法助とする説もある)と交渉をもつ。
これらの男性達との間に少なくとも四人の子を生んだが、夭折したり生別したりして、その後半生は孤独であった。二条を永福門院の実母とする説もあるが、疑わしい。また亀山天皇とも噂を立てられ、それらも一因となって後深草院の愛情も冷え、宮仕えを退く。弘安八年(1285)北山准后九十賀に連なり、正応元年(1289)永福門院入内に出仕したが、その後出家し、同二年2月鎌倉を中心に東国をまわる。乾元元年(1302)厳島から四国・備後等を旅する。帰京ののち後深草院の崩御にあう。そこで生涯の意味を求めて「とはずがたり」五巻を書いた。二条は伝統の世界に育ちながら、それを捨てて旅と信仰に新しい生き方を見出したところが中世的人間であるが、作家としては王朝的なものと中世的なものを統合した散文作品を残した点が注目される。しかし、和歌界に名をとどめることを望みながら、ついに勅撰集に入集することはできなかった。[生没]1258−?
【参考文献】次田香澄「とはずがたり」(日本古典全書)昭和41年。○松本寧至「とはずがたりの研究」昭和46年。○玉井幸助「問はず語り研究大成」昭和46年。○宮内三二郎「とはずがたり・徒然草・増鏡新見」昭和52年。
とはずがたり とわずがたり 五巻 日記文学。後深草院二条(ごふかくさいんのにじょう)作。作中の後宇多天皇の注記からの割出しで正和二年(1313)11月17日以前に成立していたことは確かだが、記事最終の嘉元四年(1306)をそう下らずに成ったのであろう。
【作意】鎌倉時代後期、後深草上皇に愛された女性が過去を回想して綴った自伝的作品。「とはずがたり」という題名は作者自身の命名と思われるが、この語が示すように自己の体験・見聞を語らずにいられない衝動に駆られて書いたものである。跋文にも、廃れようとしているわが家の歌道の誉れを再興しようとしたが成功しそうもなく、そのかわりに、華やかだった宮廷生活のこと、西行の跡を慕っての旅の思い出を書いた、といっている。後深草院崩御後の悲しみと孤独感のなかで、自己の存在証明のためには自伝的作品を書く以外になかったであろう。全五巻を大きく前三巻・後二巻に分けると、前編は後深草院御所の生活、後編は東国・西国の旅がおもな内容になっている。宮廷における愛の遍歴、快楽と苦悩と、それを捨てて出家し諸国行脚の仏道修行に新しい生き方を求めて行く女人の生涯を述べたものである。
【梗概】巻一 −二条が後深草院の寵愛をうけた文永八年(1271)14歳の正月から起筆。翌年、父が死んで孤児となるが、院と並行して「雪の曙」(西園寺実兼)との秘密の関係を続け、罪の呵責に悩む。巻二−高僧「有明の月」(院の異母弟性助法親王、法助とする説もある)の求愛をうけ、また院のはからいによって「近衛大殿」(鷹司兼平)にも身を委ねる。巻三−「有明の月」との関係は院に知られるところとなったが許されて、灼熱の恋として燃えさかる。しかし、かれは流行病にかかって死ぬ。亀山天皇とのことも噂となり、東二条院(後深草院中宮)の排擠にもあって、やがて寵衰えた二条は御所を退出することになる。その後、北山准后貞子九十の賀の盛儀に大宮院女房として出仕する。巻四−かねて念願していた出家を遂げた二条は、西行にならって東国の旅に出る。鎌倉を周遊するうち、将軍惟康親王が廃されて都へ護送されるあわれな様を目撃する。ついで後深草院の皇子久明親王が新将軍として下るその御所の準備などに参画する。
ついで小川口(埼王県川口市)に下って越年、善光寺参詣をすませて高岡石見入道の邸に逗留。帰途、武蔵野の秋色をめで、草深い浅草寺に参り、隅田川・堀兼の井などの歌枕をたずねて鎌倉にもどり、帰郷。まもなく奈良路をめぐり、途中石清水で後深草法皇と再会。また伊勢から熱田をまわる。伏見御所に招かれて法皇と往時を語りあう。巻五−それから九年後、正安四年(1302)安芸の厳島をさして旅立つ。厳島からの帰途、足摺岬に行き、帰って西行にならい白峰・松山に崇徳院の旧跡を訪う。またもどって備後の和知に行き、そこで二条の教養が高く評価され、落ちとどまるようすすめられ、豪族間の争いに巻き込まれて、下人にされそうになるが、かつて鎌倉で会ったことのある広沢与三入道に救われて帰ることができた。嘉元二年正月、東二条院崩御、ついで7月に後深草法皇の病悩のことがつたわり、心を悩ますが、ついに7月16日崩御。悲嘆にくれて裸足のまま霊枢車を追う。その後に法皇三回忌までのことがある。
【特色・影響】愛欲編・修行編は霊と肉の相剋であり、混沌と浄化という対照であるが、一体に立体的に構築されているのが特徴である。後深草院と実兼の性格の相違、または院が好色の対象として召した扇の女とささがにの女の対比、東国の旅と西国の旅、陸路と海路もそうで、作者の論理的な思考と知的な創作力を示す一端である。そして各巻にクライマックスの場面を設定している。物語文学の影響も顕著で、「源氏物語」の影響はもっとも濃厚であるが、構成の巧みさは「狭衣物語」からうけ、女性を主人公とし心理描写の詳しいことは「夜の寝覚」に学んでいる。「伊勢物語」からも想を得ている。説話文学や当時流行の絵巻にも関心を示す。「豊明絵草子(とよのあかりえそうし)」はその絵詞の類似性から二条作者説もあるが、「とはずがたり」の影響作であろう。そのほか先蹤作品から多くを吸収して、虚構的な要素もつよい。史実との矛盾は作者の記憶違いという点もあるが、意識的なものも多い。
例えば「有明の月」に関する記事と史実との矛盾ははなはだしいが、作者はもちろん事実を書くより人間性を書くことに目的があったのである。地理の上でも不審が多く、足摺岬行きは虚構とみられている。父への思慕と報恩の念から歌道の誉れを再興したいという宿願をもって作歌に執心するが、これは狂言綺語観の展開であり、文学即仏道という考えで、執筆の背景をなす思想である。旅は西行にならったというが、足跡は一遍と重なるところが多く、二条と時衆は近接関係にあったと思われる。歌も作中に一五八首あるが、大部分は作者の創作であろう。「とはずがたり」は「蜻蛉日記」以来の女流日記における自己観照の精神を仏教によって中世的に自己形成という形で達成した作品である。日記文学の伝統と中世の新しいジャンルである紀行文学の要素とを加えた日記文学の総決算としての意義がある。なお、「増鏡」の「あすか川」「草枕」「老の波」「さしぐし」にかなり多量の引用があり、この歴史物語の重要な資料となった。
 
「とはずがたり」考22 鎌倉 作品解説4

 

後深草院二条
霜月騒動の女房であった後深草院二条(父は中院大納言・久我雅忠、母は大納言典侍〜四条隆親の娘。)がその人で、「正法眼蔵」を記した曹洞宗の開祖・道元の父・源通親の曾孫にあたる人でもある。
彼女の手になるとされる日記文学「とはずがたり」の伝本は、「宮内庁書陵部」に一部のみが伝わるという非常に珍しいもので、昭和13年になってはじめてその存在が確認された、という来歴もなかなか謎めいているが、鎌倉時代末期、後深草院(持明院統)と亀山院(大覚寺統)の対立が激しくなっていく時期の公家政権内部の様子を女性の観点で描いた作品として、貴重な文献とされる。
後深草院二条が晩年に自らの生涯を回顧する形で綴った「とはずがたり(問われもせぬのに語る)」は、全五巻から成り、前編三巻と後編二巻に大別される。
前編三巻は、文永八年(1271)に作者が14歳で後深草院の御所に出仕して以後、院の寵愛を受けながらも、院の近臣「雪の曙(関東申次の西園寺実兼)」や、院の護持僧「有明の月(仁和寺御室性助入道親王、或は法助法親王とされる)」とも関係を結ぶという宮廷生活が描かれる(二条は後深草院の皇子を生むが、皇子は早世。「雪の曙」とのあいだには女児を、「有明の月」とのあいだには男児を生む。)。そして26歳のとき、後深草院の中宮・東二条院の排斥にあい一旦御所を退くが、その2年後には大宮院(後嵯峨中宮で、後深草・亀山両天皇の母。)の女房として再出仕する様子も記される。ちょうど「元寇(1274年・1281年)」の頃の話であるが、「元寇(→【霜月騒動(5)「元寇」前夜】)」についての記述は全くない。
後編二巻は、正応二年(1289)に後深草院のきまぐれな愛の果てに御所を追われ、出家して尼となった作者の東国鎌倉への旅、次いで西国への旅などが描かれる(ここで二条は、旅に流離する自らの姿を「女西行」あるいは「小野小町」の姿になぞらえている)。そして嘉元二年(1304)、後深草院の葬送に際して、その葬列の御車を裸足で追った二条は、徳治元年(1306)に那智熊野への参詣の際、院の娘・遊義門院と再会し、院の三周忌の仏事を聴聞するところで回想は終わる。
その彼女が、正応二年(1289)3月下旬、諸国遍歴の旅の途中に、鎌倉を訪れた。32歳のときのことだ
化粧坂
前項の「とはずがたり」によれば、正応二年(1289/「霜月騒動」の3年後)3月下旬、後深草院が鎌倉入りした際のルートは以下の通りだ。
@極楽寺/僧侶たちの振舞いが京風で、親しみを感じる。(極楽寺の西の谷は「大庭御厨」の飛地で、「聖福寺鎮守の十二社の神殿」があった。)
A化粧坂/近江と京都の境界にある東山から京市内を見る(伸びやかな)風景とは違って、家々が階段状に重なるように並ぶ「袋の中に物を入れたるやう」な(建て込んだ)様子に興ざめする。
(「鶴見寺尾図」の域内にも、すり鉢状の盆地のような地形に家々が張り付くように建ち並ぶ場所がある。この景色を見るのに絶好のポイントは、綱島街道沿いの「神奈川ロイヤルゴルフクラブ」から横浜火力北線の送電線を西に辿りながら2分ほど進んだ6号鉄塔の手前〜「ダイアパレス」と「シティクレスト」という集合住宅の間〜か、綱島街道沿いのバス停「神奈川中学校下」あたりである。
B由比浜/大鳥居がある。遥か遠くに若宮の社を眺めると、父(中院大納言・久我雅忠)の死の翌年(文永十年・1273)正月に、男山八幡(久我家の氏神)へ参拝し、父の生所を知りたいと祈った時のことが思い出され、わが身の来し方や行く末を思って(落涙しそうになり)着物の袖を広げるが、泣くまいと思う。伝説の美女・小野小町も、「古事記」や「日本書紀」にある「衣通姫(そとほりひめ/「日本書紀」では允恭天皇天皇の妃とされる。名は「弟姫(おとひめ)」。)」のご嫡流だというのに、後年は身をやつしてもの思いにふけった、と書物にあったことなどを、とめどなく考える。
C若宮の御社/京の男山(岩清水八幡宮がある。木津川・桂川・宇治川の合流地点で、京〜難波間の交通の要衝。)に比べて、遥か遠くまで海を見渡すことが出来ることに好感を持つが、大名たちが「浄衣(じょうえ/狩衣に似る。潔斎の服として神事の時に用いられる。)」ではなく、さまざまな「直垂姿(ひたたれ/武士の幕府出仕用の平服)」で参拝する様子には違和感を覚える。
「化粧坂(けはいざか)」の地名は、鎌倉以外の場所にも見られ、その多くは中世の国府や守護所の近辺にあるという。伝承などによれば、上代や中世には、境界で「身だしなみを整える」という風習があったようで、「けはいざか」とは「境界の場」の通称であった、ともされている。
鎌倉七口のひとつ「化粧坂」は、「仮粧坂」とも記され、鎌倉時代には武蔵国・国府(現在の東京都府中市・国分寺市あたり)から上野国(現在の群馬県)へ向かう「上道」の出入口であり、鎌倉時代初期には武蔵国の東へ向かう「中道」や「下道」も、ここを通った可能性があるとされる場所だ。
つまり「化粧坂」は、鎌倉市中から武蔵国府へ向かう道の途中で、鎌倉の内・外を眺めるられる境界に位置し、建長三年(1251)頃には、「亀谷辻」と同様、坂上に物流拠点(市場・商店街)が設けられ、おおいに賑わっていた場所ということになる。
そして鎌倉幕府滅亡の2年前には、「元弘の変(1331)」で捕らえられた日野俊基がこの坂上で斬首され(明治時代に日野俊基を祀る「葛原岡神社」が建てられ、現在は日野俊基の墓もある。)、幕府滅亡の1333年には、(化粧坂山上の北側にあたる)「葛原」が戦場となり(「梅松論(南北朝時代の歴史軍記物語。1349年頃に成立。)」)、また新田義貞はこの坂を突破できず、稲村ヶ崎へ迂回して鎌倉市中に攻め入ったという場所でもある。
現在の鎌倉では、「化粧坂(扇ガ谷4丁目)」は「源氏山公園」や「寿福寺」の一帯と、その北側の「葛原神社」の中間に位置するが、そうなると「とはずがたり」で二条が(鎌倉市中の西境の)「極楽寺」から(市中北境の)「化粧坂」を通って(市中南境の)「由比浜」へ出た、というルートには、かなりの無理が生じてしまう(仮に、市中西境の「極楽寺坂」から「由比浜」へ出たとあれば、矛盾はないが。)。
このことは、多くの人が指摘するところで、例えば司馬遼太郎氏は、「街道をゆく/三浦半島記」で次のように記している。
化粧坂といふ山を越えて、鎌倉の方(かた)を見れば‥‥とある。彼女はやがて坂の上から鎌倉市街を見おろすのだが、その前に極楽寺を参詣している。当然、彼女が選んだ入口は、極楽寺坂なのである。当の化粧坂は、極楽寺から直線にして二キロ半ほども離れている。途中、山また山で、じつに遠い。さらにいうと、彼女は坂をくだって由比ケ浜に出たという。化粧坂だと、海岸に出ず、いまでいえば鎌倉税務暑の前に出てしまう。おそらく彼女は極楽寺坂を上下しながら、化粧坂という地名のよさが気に入って、ついとりちがえてしまったのにちがいない。彼女は、その前半生を化粧(けわい)のなかですごした。院に寵せられ、五摂家の当主とも思い出があり、それに仏門に入ったはずの法親王にまで愛された。俗体のころは粉黛(ふんたい)にまみれていたなどという感想も、化粧坂という地名に触発されて湧いたかとも思える。
果たしてそうなのだろうか。「極楽寺」という寺は、その由緒を見ても、来歴や所在に大きな揺らぎのある寺である。だとすれば、「とはずがたり」の作者・後深草院二条が正応二年(1289)に訪れた「極楽寺」は、現在の鎌倉西境の位置にはなかったとか、また或いは「極楽寺新造山庄」のほうだった、という可能性もあるかもしれない。
貧相な貴族と居丈高な武士
正応二年(1289)3月下旬に鎌倉へやって来た後深草院二条は、土御門定実(つちみかどのさだかね/源氏長者で淳和院〜淳和天皇の離宮のこと〜の別当を経て、1301年に太政大臣となる。)の縁故者で、「大蔵谷」というところで第7代将軍・惟康親王(これやすしんのう。父は第6代将軍・宗尊親王、母は近衛兼経の娘・宰子。)に仕えている「小町殿」に文を送る。すると「小町殿」から、「これは思いがけないこと。私のところへいらして下さい。」と返事がある。が、それもめんどうなので「大蔵谷」の近くに宿泊し、長野の善光寺へ行く予定をたてていた。
しかし4月末になって、ガイドに頼んだ人も二条自身も病気にかかり、善光寺行きは中止となる。6月になって、やっと気分は良くなるが、体調が戻らないため、ぼんやりと過ごすうちに8月となった。
8月15日の朝、小町殿から「今日は京都・岩清水八幡の放生会(捕獲した魚鳥を野に放し、殺生を戒める宗教儀式。現在の中秋祭の原型。)の日ですから、懐かしく思い出していらっしゃることでしょうね」と問われて、歌を贈り合い、鎌倉でも「新八幡」で放生会が行われるというので、見物に出かける。
そして「新八幡宮」の「赤橋」で、将軍・惟康親王が車から降りる様子を目撃した二条は、将軍のお供をする公卿や殿上人の様子があまりに貧相であることや、平頼綱の嫡男・平宗綱(或は、次男・飯沼資宗。本文に「二郎」左衛門とあるので、こちらの説が順当か。)が、将軍侍所の次官のくせに関白のように豪奢であることに憤慨し、流鏑馬や祭事などは見る価値もないといって、宿に戻る。
新八幡
「とはずがたり(小町殿)」によれば、後深草院二条が鎌倉を訪れた正応二年(1289)、鎌倉幕府の重要儀式である「鶴岡八幡宮放生会」は、「新八幡」で行われたことがわかる。「極楽寺」には(おそらくは本寺以外に)「新造山庄」があったことは【化粧坂】で述べたが、どうやら「鶴岡八幡宮」にも「新」と「旧」があったようだ。
正応二年(1289)といえば、源頼朝が鎌倉に幕府を開いてより、既に100年が経過している。まして1279年には、中国大陸で宋王朝(北宋960年-南宋1127年-1279年)がモンゴルによって滅ぼされるという政治・経済・外交上の一大転換があった。日本列島においても都市整備・法制度・建造物のどれをとっても、かつてと同じ、という訳にはいかなかったであろう。寺社とて、それは同じである。
ここで、「鶴岡八幡宮」に関する記述を時系列に取り出してみよう。
康平六年(1063)、源頼義が鎌倉の「由比郷鶴岡」に京都の岩清水八幡宮護国寺を勧請し、永保元年(1081)に八幡太郎義家が修復を加えたものを、治承四年(1180)10月12日に源頼朝が「小林郷北山」に遷して、若宮大路や源平池を造営。これが鎌倉において、源氏の氏神としてのみならず、武家の守護神として広く尊崇される「鶴岡八幡宮」の起源となる。
治承四年(1180)10月7日、鎌倉入りの翌日、頼朝は「鶴岡八幡宮」を遥拝し、亡父(源義朝)ゆかりの「亀谷」の旧跡を臨検、そこに御亭を建てようとしたが、地形が狭く、また岡崎四郎義實が寺堂を建立していたために、取り止め。つまり頼朝がこのとき「遥拝した」のは、いわゆる「本(元)八幡宮」のほう、ということになる。
1180年から1183年10月17日までの3年間、源義経が鎌倉に寄宿。「大蔵幕府跡(頼朝が「鶴岡八幡宮」の東に置いた鎌倉幕府政庁の中心地)」あたりの館に住んでいた、との伝承がある。
1186年、西行が砂金勧請で奥州へ行く途中、「鶴岡八幡宮」で源頼朝に出会う。
建久二年(1191)3月4日の大火で焼失した八幡宮を、社殿を「大臣山の中腹」に移して造営し、上宮・下宮(若宮)を整え、11月21日、新たに石清水八幡宮を勧請して鶴岡八幡宮を創建。
建久三年(1192)9月、武蔵国太知波奈郡鈴木村の鎮守として、「鶴岡八幡宮」より勧請された「鶴崎八幡」が、「同村字会下谷」に鎮斉される。
建久五年(1194)12月、安達盛長が「鶴岡八幡宮」の造営奉行となる。
(源頼朝は、1189年に奥州藤原氏を討滅し、1192年に征夷大将軍に任ぜられ、1199年に死去。)
承元二年(1208)、神宮寺が創建され、神仏習合の寺社となる。
1219年(建保七年〜4月12日改元〜承久元年)1月27日、源実朝が「鶴岡八幡宮」を拝賀の際、甥の公暁により殺される。
1221年「承久の乱」
承久の乱(1221)の頃、現在の横浜市鶴見周辺は「鶴見郷」或は「大山郷」と呼ばれ、「鶴見郷」は「鶴岡八幡宮」の社領であり、安達義景の別荘があった。
貞応二年(1223)4月、白河の隠士が鎌倉へ到着、「@腰越→A稲村→B湯井濱→C御霊の鳥居→D若宮大路(鶴岡八幡宮への参道)→E宿」の順路を歩く。
宝治元年(1247)6月27日に鶴岡別当に補任された隆弁が、7月4日、別当坊に移る。
建長三年(1251)11月15日、八幡宮大菩薩の御影を別当坊に祀る。この御影については、元亨元年(1321)8月25日付の「廻御影縁起(みえいまわりえんぎ)(「神道大系」神社編鶴岡)」に、正嘉年中(1257年-1258)に八幡宮に遷し奉った、とある(貫達人著「鶴岡八幡宮寺−鎌倉の廃寺」)。
建長四年(1252)正月11日、「鶴岡若宮」の御供飯・餅などに異変あり。また若宮と舞殿をむすぶ樋に一羽の鶴が死んでいるのがみつかる。
建長四年(1252)4月14日、宗尊親王が鶴岡八幡宮に初参詣。8月1日、宗尊親王は鶴岡参詣の予定を、体調不良により中止。12月17日、病後新亭に移った宗尊親王が、新亭より鶴岡に初参詣。
建長五年(1253)正月21日、宗尊親王が鶴岡に参詣。このときの供奉人の人選は、親王の意向に沿って行われたが、人選担当者である小侍所別当・北条実時を差し置いておこなわれたようで、佐々木泰綱らが参加することを実時は知らなかったという。
建長五年2月30日、鶴岡の桜が盛りというので、宗尊親王は急遽、夜桜見物に出かける。5月23日、鶴岡の社殿が破損。修理のため、仮殿の事始をおこなう。6月2日、仮殿上棟立柱。6月8日に仮殿遷宮の予定であったが(「吾妻鏡」)、6月3日に安達義景が亡くなったために「三十日延引」され、7月6日、仮殿遷宮がおこなわれる(社務記録」)。7月8日、来る8月の放生会に宗尊親王が参詣されるというので、供奉人を布衣・直垂帯剣・随兵の3種にわけて催促。8月14日、修理終了、上下宮とも正殿に遷す。またこのとき、はじめて西門脇に三郎大明神を勧請(北条時頼が参詣して神楽を奏したというから、時頼の発願か)。この年の8月15日の放生会は、宗尊親王が征夷大将軍となってより初めて参詣するものだったが、供奉人のうち名越時章らは所労で不参加。
建長六年(1254)正月28日、隆弁が「鶴岡八幡宮」の御正体や正宝などを「聖福寺新熊野」に移す(→【聖福寺殿〜鶴岡八幡宮別当・隆弁】)。
康元元年(1256)正月11日、将軍(宗尊親王)年始の鶴岡参詣。3月9日、仁王会。8月15日の放生会に将軍参拝。16日の流鏑馬にも将軍臨席。この頃になると、将軍の鶴岡参拝は、正月と8月ぐらいとなるが、毎度供奉人の名簿をつくり、将軍が選定して点を加えるので、点にもれた、もれないで、御家人が大騒ぎをするようなる。それだけ鶴岡参詣は晴れの場と考えられたのであろうが、敬神崇祖の精神は衰弱し、儀式は形骸化していったようだ。
正嘉元年(1257)閏3月18日、北条時頼が鶴岡で金泥大般若経を供養(「社務記録」・「社務職次第」)。さらに時頼の発願で今後は毎年大仁王会をおこなうことが決まる(「社務次第」)。7月13日、浜の大鳥居のあたりで、寛喜三年(1231)6月の例に倣い「風伯祭」をおこなう。天文博士・安倍為親が束帯姿で奉仕。天下豊稔の祈祷という。(安倍為親は後の1261年、宗尊親王の病脳に際し、道教の祭祀である泰山府君祭を勤める。
正嘉元年5月・8月・11月と巨大地震が三度も鎌倉を襲う。8月23日の「吾妻鏡鏡」には「戊の刻、大地震あり。神社仏閣一宇として全きものなし。」とあるが、鶴岡以下、鎌倉の社寺に関する記述はない。
正嘉二年(1258)正月17日、安達泰盛の甘縄の屋敷が火事。「寿福寺」の惣門・仏殿・庫裏・方丈以下郭内は全焼、「若宮宝蔵」・「鶴岡別当坊」なども延焼。正月22日、若宮御影堂と雪下別当坊などを上棟。2月8日、若宮御影御正体などを遷坐。そして5月14日の「吾妻鏡」に、「又鶴岡寳藏 造畢之間 今日被奉納神寳〈云云〉」とある(鶴岡宝藏が竣工するまでの間、神宝が奉納される、という意味か?)。12月9日、「鶴岡八幡宮」で諸神供養の音楽を修する。
弘長元年(1261)正月7日、宗尊親王が「鶴岡八幡宮」を参詣。2月7日、前年3月に結婚した御息所(近衛宰子。父は近衛兼経、母は九条道家の娘・仁子。北条時頼の養女。)がはじめて鶴岡を参詣。このときの供奉人は京風の浄衣で務める。(4月24日、極楽寺新造山庄で笠懸。)8月13日、鶴岡八幡宮の放生会と流鏑馬の供奉人着座の場所を定める。放生会では、随兵は従前通り西の廻廊の東方にひかえ、狩衣の者は東の廻廊に着座。流鏑馬では、随兵は西側の埒門(らちもん)の南左右にひかえる。東の座席は腋門(わきもん)の前から東方に布衣の人少々、その東に先陣の随兵の席、西は廻廊より西方に布衣の人少々、その西方に後陣の随兵の席とする。これも京風ということか。8月14日、放生会の件で沙汰あり。將軍が決めた座席順を評定が変えてしまう。8月15日、御息所は舞楽を観覧のため、輿で鶴岡にお渡り。その後、宗尊親王も御出まし。
文永二年(1265)3月3日、鶴岡八幡宮で年中行事の法会がおこなわれ、そのときの童舞を御所の「鞠の坪」で再演させる。土御門大納言通行・花山院大納言通雅たちは御簾の中で、公卿で従二位の紙屋河顕氏、従三位の坊門基輔の2人と殿上人6人らは出居で観覧。この晴れの舞台で、近衛将監(このえしょうげん)中原光氏が巧みに舞い、また賀殿の曲を奏したとして、褒美の禄を与えられた。
文永二年(1265)3月7日から7日間、御息所が鶴岡に参籠することになり、これに先だち、隆弁が60人余の大工をあつめて、一ヶ月のうちに下宮の廻廊を区切って、御息所の御局・御寝所・御念誦所・女房三人の局・台所・湯殿を造営する。3月9日には下宮で管弦講と神楽、11日には上宮で法華経供養。13日、隆弁はこれらの功により、砂金十両などを与えられる。
文永二年8月15日、放生会。宗尊親王は御息所懐妊により参拝せず、奉幣使も出さずに、すべてを宮寺に任せた。16日の流鏑馬にも親王は参拝せず、密かに執権・時宗の桟敷で見物。「吾妻鏡」によれば、親王は建長五年以後、病気であった文応元年(1260)を除き、正月と8月の鶴岡参詣を欠かしていない。
文永三年(1266)7月4日、宗尊親王は京都に更迭されることになり、佐介にある北条時盛入道勝円の亭に行く途中、「赤橋」の前で「鶴岡」を望み、和歌を詠じた。このときに詠まれた歌はわかっていない。以下は「増鏡」にみえる宗尊親王の歌である。
虎とのみもちゐられしはむかしにて いまは鼠のあなう世の中
なをたのむ北野の雪の朝ぼらけ あとなきことにうづもるゝ身は
文永六年(1269)2月16日、幕府は八幡宮の谷々に在家人が居住することを禁じる(「神田孝平氏所蔵文書」)。谷々とはいわゆる二十五坊の谷のことか。僧俗混在を禁じたことは、鶴岡の環境が整備されたことを示す、と貫達人氏の「鶴岡八幡宮寺 鎌倉の廃寺」にはある。 1279年「南宋滅亡」
弘安三年(1280)10月28日、鎌倉で大火。中下馬橋から火が起き、神宮寺と千体堂が焼失。11月14日、「鶴岡八幡宮」の上宮・末社・楼門・八足門・廻廊・脇門・鐘楼・竈神殿・五大堂・北斗堂・中鳥居が焼失。「社務記録」には上下宮の御正体は御殿司であった宝蔵坊の頼澄が取出し、別当坊の御影堂に遷すとある(が、「遷宮記」には異説もあり)。翌15日、仮殿造立の沙汰あり。27日、仮殿上棟。29日竣工。12月2日、掃除、仮神輿三基作成。12月3日、上下の神殿内陣を洗い清め、隆弁の代理として佐々目法印・頼助が真言呪を唱えながら、散杖で如持香水をまいて、結界。仮殿へ移る際の道順は、「別当坊」から「岩屋堂の辻」まで南行、「辻」から「若宮小路」を東行、「赤橋」から境内に入り、「馬場」から「仮殿」までは筵道(えんどう/貴人が通行の際、裾が汚れないように、門から母屋まで通路に筵を敷く)をしいた、という。
弘安四年(1281)2月7日、鶴岡八幡宮正殿の造営開始。造営奉行は安達泰盛。この年、二度目の元寇がある。建治元年(1275)9月に、元使・杜世忠ら5人を鎌倉「竜ノ口」で斬った北条時宗は、次の元寇があることを覚悟していたとされる。5月21日、高麗軍などの東路軍2万5千の兵が対馬を侵し、ついで7月、10万の江南軍も東路軍と合流し、27日、肥前国(長崎県)鷹の島に寄航するが、閏7月1日の大暴風雨で元軍は潰滅。このとき鎌倉では八幡宮が再建中であったためであろうか、異国降伏の祈祷は幕府小御所で、4月20日夜から26日まで如法尊勝法を頼助がおこなっている(明王院文書「異国降伏御祈祷記」・「市史」史料編一ノ六二六・「弘安四年異国御祈祷記」続群書類従二六上)。また閏7月3日から下宮下経所で、異国降伏の祈祷をした。文永十一年と同じく、不動・降三世・軍茶利・大威徳・金剛夜叉の五壇法で、結願の13日に元軍覆没の早馬が鎌倉に着く。8月14日、遷宮を予定していたが、8月9日に時宗の弟・宗政が死去したために延期となり、11月29日、別当隆弁が御正体をあつかって、復興した神殿に遷宮がおこなわれた。行列・奏楽などは、仮殿のときより一層荘重であったという。
弘安六年(1283)8月15日、鶴岡八幡宮別当・隆弁が76歳で入滅。
弘安八年(1285)、安達氏滅亡。
正応二年(1289)8月15日の放生会の日、後深草院二条は鎌倉「新八幡」の「赤橋」で、将軍・惟康親王が御車から降りる様子に憤慨する。
惟康親王の追放
正応二年(1289)3月下旬、鎌倉を訪れた後深草院二条は、その年の9月に、第7代将軍・惟康親王が執権・北条貞時によって将軍職を剥奪され、京に追放される様子を目撃する。
この惟康親王の罷免は、名目上は「親王に異図(謀叛の心)あり」とのことであったが、実際は鎌倉における得宗勢力と御家人勢力の軋轢が、京都における持明院統と大覚寺統の対立とからみ合い、親王もそのあおりを受けたものと考えられている。
鎌倉では、1285年に得宗家執事・平頼綱の讒言を契機として御家人の雄・安達氏が滅ぼされて以来、頼綱が恐怖政治を敷いていたが、その頃、京都では立太子問題に関して、(後嵯峨天皇の第四皇子である)後深草院と(後嵯峨天皇の第七皇子である)亀山院の間に不和が生じていた。そして二条が鎌倉を訪れた正応二年(1289)の4月には西園寺実兼が幕府と結託して、(後深草天皇の第二皇子である)伏見天皇の第一皇子・胤仁親王を東宮に立てると、失意の亀山院は9月7日にご出家、さらに同月14日には惟康親王の罷職が決められた。(もしかすると、二条は西園寺実兼の動向を知っており、その顛末を調査するため鎌倉に来たのかもしれない。仮に、後深草院の近臣「雪の曙」が関東申次の西園寺実兼であるなら、二条とは一女をもうけたほどの深い関係にある。
新たに第8代将軍となった久明親王は後深草天皇の第六皇子だから、京で皇統が持明院統に確定すると同時に、鎌倉の将軍職も持明院統に移された、ということになる。
「とはずがたり」では、将軍職を奪われた惟康親王が、罪人のようなひどい待遇で、京へ送還される様子が語られている。
それによると、鎌倉で何かありそうだと噂がたって間もなく、二条は、親王が帰洛のために御所を退出される様子を目撃する。親王の輿は、粗末な張輿(はりごし/畳表で屋形と両側を張った略式の輿)で、それを対の屋(たいのや/寝殿造りの建築で正殿の東・西と北に造られた別棟の建物)の端へ寄せ、丹後の二郎判官(二階堂行貞)とかいう者が、親王を輿に乗せようとすると、相模守(北条貞時)の使者だという平二郎左衛門という賤しい者が、藁沓(わらぐつ)を履いたまま御殿へ上り、御簾を引落しはじめる様子に、二条は「目も当てられない」と憤慨する。
その後、親王は「佐介の谷(さすけのやつ)」という所に滞在され、あと5日ばかりで上洛というので、二条は「佐介の谷」近くの「押手の聖天(おしでのしょうてん)」という霊仏が祀られる場所へと出かけてゆくと、出立(しゅったつ)の時刻は真夜中の二時頃であると知らされる。
その日は、日暮れから隆り始めた雨が激しさを増し、強い風も吹いて、魔物が通るのでは思われるほどの天候であったが、(役人たちは)出立時刻の変更はないとして、御輿を筵(むしろ)というもので包んでいる。その様子はあまり惨く、正視に堪えないものであった。
惟康親王は、将軍といっても、野蛮な田舎武士が自力で天下を討ち取って将軍になるのとは違って、父君の宗尊親王は後嵯峨天皇の第二の皇子(事実上の長子)であり、しかも後深草天皇よりも少し先に生まれているのだから、仮に(宗尊親王が)十善の天子であったなら、惟康親王も皇位を継ぐご身分であるのに、宗尊親王の母・准后の身分が低いばかりに、それもかなわず、将軍として鎌倉に下られ、皇族の身分はそのままに、「中務(なかつかさ)の親王」と呼ばれた方である。
その後嗣である惟康親王が、高貴なことは勿論で、「御子といえども、後嵯峨天皇の数多い側室の子の一人ではないか」という人もいるが、惟康親王の母は藤原摂関家の嫡流にある近衛兼経の娘(宰子)だし、両親のどちらをとっても、少しも権成のゆらぐ方ではないのに、と思った二条は、涙ながらに
「親王が同じ皇室のご嫡流であるということを忘れなければ、伊勢の神もきっと気の毒に思って下さるでしょう」という歌を詠む。(これは、小町殿と贈り合った「おもひいづるかひこそなけれ石清水 おなじながれのすゑもなき身は」「ただたのめ心のしめのひくかたに 神もあはれはさこそかくらめ」に重ねているのだろう。
そして父君の宗尊親王が、「猶(なほ)たのむ北野の雪の朝ぼらけ あとなきことにうづもるる身も」などの歌を残されているのに対し、御子の惟康親王に、つらい道中を詠んた歌が無かったことは残念だ、とも記している。
惟康親王
1264年鎌倉生まれ。文永三年(1266)7月に父・宗尊親王が京に送還されたため、3歳で征夷大将軍に就任。初めは親王宣下がなされないまま「惟康王」と呼ばれたが、征夷大将軍に就任すると臣籍降下して源姓を賜り、「源惟康」と名乗った(後嵯峨源氏)。正応二年(1289)9月、将軍の長期在任を嫌った北条氏が後深草上皇の皇子・久明親王の就任を望んだことから、将軍を解任され京へ送還される。その際、幕府の要請で皇籍復帰を果たし、朝廷より親王宣下がなされて「惟康親王」と名乗った。
「おなじながれ」
「とわずがたり〜惟康親王上洛」で後深草院二条は、惟康親王の父君で、初の皇族将軍となって鎌倉へ下った宗尊親王に対して〜いすず川おなじながれをわすれずは いかにあはれと神もみるらん〜という歌を詠んでいる。
「日本書紀」や「新古今集」にもその名がみえる「いすず川(五十鈴川)」は、現・三重県伊勢市を流れる長さ16kmの川のことで、伊勢の「皇大神宮(内宮のこと。5世紀末頃に畿内から移された、とも考えられている。)」の境内を通る。この「皇大神宮(内宮)」と「豊受大神宮(外宮)」をあわせた「伊勢神宮(正式名称は「神宮」)」は、皇室の祭祀する最高の存在として、社格を超越するものとされ、古くは私幣が禁止されていた。
二条が宗尊親王に対して、「おなじながれ」と詠んだのは、親王が伊勢の「五十鈴川」が流れる「皇大神宮」を祀る皇室の嫡流であることを示すとともに、異母弟の久仁親王や、同じく異母弟の恒仁親王と違って、皇位につくこともなく、親王将軍となって東へ西への流浪の身となったことを、自らの境遇に重ね合わせて嘆息したものかもしれない。
しかし、天皇となった弟君たちも、所詮は政争の道具として利用されたに過ぎなかった。
ことの発端は、第87代天皇となった四条天皇(1232‐1242年。2歳で天皇に即位し、12歳で崩御。父・後堀川天皇の院政下にあり、父の死後は九条道家・近衛兼経が摂政として政務を執った。)が、皇子女の無いままに、事故で崩御されたことに始まる。
このとき、幕府と朝廷の利害を調整し、邦仁王(のちの後嵯峨天皇)擁立に尽力したのが、「鶴見」に別荘を有した安達義景である。そして幕府の強い後押しで、1242年、邦仁王が天皇に即位するが、後嵯峨天皇は在位わずか4年で後深草天皇に譲位して院政を敷くと、1259年には後深草天皇に対して、弟の亀山天皇へ譲位を促すなどした。
しかしこの後嵯峨上皇(法皇)も、次の「治天の君」の決定を幕府に委ねたまま1272年に崩御すると、久仁親王(後深草天皇)系の持明院統と恒仁親王(亀山天皇系)の大覚寺統の間で権力闘争が激化し、それがやがては南北朝時代、更には後南朝まで続く大乱の源となってゆく。
このような構図は、万葉時代の天武・天智朝の混乱を思い出させるに充分であるが、そんな時代の幕開けを、第三者的な立場で過ごすこととなった宗尊親王は、1252年に第6代征夷大将軍として鎌倉へ下向して後、1266年に謀叛の疑いで京へ追われるまでの14年間を、生家から遠く離れた東国に暮らした。
この宗尊親王が、11歳で鎌倉へ下向された折、「近江蒲生郡鏡宿」で饗応したのが、(鳥山の開発を行った)佐々木泰綱である。そして同じ年、親王が亀谷の御所へ移られる際、御輿の護衛をしたのも、この佐々木泰綱と安達泰盛たちだ。またその翌年に開催された宗尊親王邸での蹴鞠にも、佐々木泰綱が参加している。
1261年の春には、19歳で婚姻の儀を済ませた宗尊親王が、北条重時の「極楽寺新造山庄」へ馬で入られ、親王妃や相州禅門らとともに笠懸を御覧になったこともあった。また多くの歌会を主催して鎌倉歌壇の興隆をリードし、「続古今集」の最多入選歌人となったほか、「柳葉和歌集」・「瓊玉和歌集」・「初心愚草」を残されたりもした。
宗尊親王の目に、当時の世相はどのように映っていたのだろう。
平頼綱と北条貞時邸
宗尊親王の後を継いで第7代将軍となった惟康親王(これやすしんのう/父は宗尊親王。母は太政大臣・源氏長者・関東申次などを歴任した近衛兼経の娘・宰子。)だったが、鎌倉で御家人の雄・安達氏が得宗被官の平頼綱によって滅ぼされ、それに連動する格好で、京でも持明院統と大覚寺統の対立が深まると、惟康親王も執権・北条貞時により将軍職を剥奪され、京に追放されることとなった。
後深草院二条は、正応二年(1289)9月に、この惟康親王帰京の様子を目撃し、幕府のあまりの対応に憤慨するが、その後ほどなく、「小町殿」に頼まれて、平左衛門入道(平頼綱)のもとに趣くことになる。京都の伝統に詳しい人に、頼綱の奥方と新将軍の衣服などについて相談して欲しい、というのである。
「とはずがたり」によれば、後深草院の御子(久明親王)が将軍として下向されることが決まると、御所も改装され、先代将軍に比して何事も殊更に華やかにしようということで、7人もの大名が京に迎えに参上することになったという。そしてそのメンバーには、平左衛門入道(平頼綱)の次男で「飯沼の判官」と呼ばれながら、まだ「検非違使尉(けびいしのじょう)」を正式に任命されていない新左衛門(飯沼助宗)がいた。
一行は、流人となった先代将軍(惟康親王)が帰洛の際に使った道を避けて「足柄山」を越えるといい、それはあまりにひどいことだ、と人々は噂をしていた。そして世間が慌しくなり、久明親王の到着もあと2・3日という頃になって、早朝に「小町殿」より二条へ手紙がくる。
何ごとかと思って見ると、平頼綱の奥方(北条貞時の乳母)で、「御方」と呼ばれている人のところへ、「東二条院」から「五衣(いつつぎぬ/十二単のこと。未婚の姫君が着用する十二単の裾のハギ枚数が5枚であることから、このように呼ぶ。既婚者の裾ハギは6枚。)」が遺わされたのだが、生地が取り揃えてあるだけで縫製もなされていないので、相談にのってやって欲しい、とある。
一旦は断わったものの、小町殿は「あなたは出家して自由な身分ですし、(二条の素性についても)ただ京の人といっただけで、先方に誰とは知らせていませんから。」となかなかに強引で、遂には相模守(さがみのかみ/第9代執権・北条貞時)の手紙まで添えてくるので、事が大きくなって、面倒だなと思いながらも、二条は平頼綱のところへ行く。
二条が、相模守(北条貞時)の邸内であろうと思われる場所に到着すると、そこには「角殿(すみどの)」と呼ばれる将軍の御所があった。御所のしつらいは一般的で、これといったところもなかったが、貞時邸のほうは、金・銀・金玉がちりばめられ、「中国の想像上の鳥である鸞鳥(らんちょう)を刻んだ鏡を磨いたよう」とはかくの如し、という眩さである。邸内は、インドの極楽浄土の装身具のように、美しく豪華な薄絹や唐織物で装飾され、几帳(きちょう)に垂らされた布帛や部屋の間仕切りまでもが、目にも艶やかに輝いている。
二条が貞時邸の調度に感嘆していると、平頼綱の奥方と思われる人物が入って来る。この婦人は、薄青の地に紫の濃淡の糸で紅葉を大きな木の模様に織り込んだ唐織りの二枚重ねの着物を着て、腰から下には白い裳(も)を纏っている。容貌も態度も誇らしげな様子なら、上背もあって恰幅も良い。これは並みの人物ではないと思っていると、向こうから平頼綱が小走りにやって来て、袖が寸足らずの白い直垂(ひたたれ)姿で、馴れ馴れしく婦人の側に座るので、二条はつい、なんだか貧相な男だこと、と心の中で独り言つ。
乳母
「とはずがたり〜新将軍・久明親王の東下」で後深草院二条は、平頼綱とその奥方で「(貴人でもないのに)御方とか呼ばれている人」に面会するのだが、その人物評がなかなかに振るっている。
まず奥方について、表面上は「態度も体格もすごい人」と賞賛するようでありながら、実際は「紅葉は葉が美しいのに、着物に大きな木の文様を刺繍するのは悪趣味だし、体躯も大柄なら態度も横柄で、京風の細やかさに欠ける。」と揶揄するかのようでもある。文中に「かくいみじとみゆるほどに」とあるが、古語「いみじ」はもともと「忌む」と同根の形容詞とされ、良しにつけ悪しきにつけ程度が不吉なほどにはなはだしいさまをいう。つまりこの婦人が、京の貴族好みの「奥ゆかしさ」から遠く離れていることを言いたいのだろう。
次に平頼綱については、あからさまに「落ち着きが無く、服もダサくて、デリカシーに欠ける、みすぼらしい人物。」と手厳しい。文中の「やつるる心ちし侍りし」の「やつる」は、「地味で目立たない様子」や「みすぼらしい様子」をいう。1285年の霜月騒動で安達泰盛を滅ぼした平頼綱は、この頃より幕政を専断して恐怖政治を行ったとされるが、二条の手にかかっては、全くの形なしである。
平頼綱の奥方は、執権・北条貞時(父は北条時宗、母は安達泰盛の娘「堀内殿」)の乳母を務めた人物(自出について調べてみたが、詳細はわからなかった。)だから、貞時邸でも相当の力があったのだろう。貞時の邸内に「異国趣味あふれる派手なしつらえの部屋を有し、唐物の高価な衣装を纏っている」という二条の記述からも、その権勢のほどが伺える。
「乳母(めのと)」は「うば」とも呼ばれ、生母に代わって乳児の授乳・養育する人である。古来より貴人は乳母に養われる習慣があり、8世紀までの皇子女の多くは、養育者の氏族の名で呼ばれたほどに幼君と養育者との結合は強く、近親に似た扱いを受けていた。乳母は時に一族ぐるみで幼君に仕え、乳母の夫も「乳母夫」や「傅」の字をあてて「めのと」と呼ばれ、貴人の子弟教育にあたったり、経済的援助を行うことさえあった。
そして院政期には、上皇の乳母や乳母夫が院近親として権力を持つようになり、鎌倉幕府でも乳母一族が有力後家人化するなど、政治的に重要な役割を担うようになっていた。
もしかすると平頼綱は、表向きは「安達氏を滅ぼした強面」ということになっているが、実際には執権・北条貞時(1271年-1311)の乳母として得宗家で采配を振るう女傑にぶら下がる、単なる「逆玉男」に過ぎなかったのかもしれない。
そしてこの平頼綱の奥方のところへ、京の「東二条院」から未婚の姫君が着用する「五衣(十二単)」が届いたということは、おそらくは彼女が、久明親王のお妃選定についてかなりの実権を握っていたか、また或は、平頼綱とともに、やがて生まれてくるであろう久明親王嫡子の乳母・乳母夫にもなろうとする目論見があった、ということだろう。(久明親王は1295年に惟康親王の娘と結婚し、1301年に守邦親王を得るが、親王妃は1306年に没している。また将軍退位後、京に戻ってより冷泉為相の娘との間に、久良という子を得ている。
ところで後深草院二条は、平頼綱とその奥方に会った場所について「相模の守の宿所(すくしよ)のうちにや〜執権・北条貞時の邸内だろうか(古語「や」は疑問の終助詞。)〜」と記しているから、屋敷には「何某の家」などという表札は、掲げられていなかったことがわかる。
戦乱の世の中である。人と人との面会も身分を明かさずに行うほどに、「疑心暗鬼を生ずる」世相である。まして「親王御所」を併設する有力者の屋敷となれば、警備上の観点からも、その場所は周囲からも秘密にされていたはずである。
そしてこの場所で二条は、親王御所のしつらいは一般的であるのに、貞時邸やその執事の部屋がやたらに豪華であることにも、強い印象を受けていた。

後深草院二条は関東武士に対して、よほどのアレルギーがあったことがわかる。
二条の父である中院大納言・久我雅忠(久我家第7代当主・久我通忠の弟)は、源通親の孫にあたる人物で、当時ですら300年以上も遠い昔の話ではあるが、8代前は村上天皇につながる家系である。
「とわずがたり」で二条が、父の死の翌年(文永十年・1273)正月に、男山八幡(岩清水八幡宮のこと。源氏の氏神。)へ参拝し、父の生所を知りたいと祈願したのも、この辺りに由縁があると思われるが、おそらくは二条に言わせれば、自身は「男山八幡宮(源氏)のながれ」であるだけでなく、遠い祖先は「いすず川(皇室)のながれ」にもつながるのだから、村上天皇の子孫である「後嵯峨天皇」から生まれた「亀山天皇」・「後深草天皇」・「宗尊親王」も、その子孫の「惟康親王(宗尊親王の子)」や「久明親王(後深草天皇の子)」も、広義でみれば一族関係にある、という矜持があったのではないだろうか。
ともあれ彼女は、村上源氏の総本家である久我(こが)家に生まれた。久我家は「堂上家」と呼ばれ、清涼殿の殿上間に昇殿できる資格を世襲された家柄だから、鎌倉幕府の創立で勢い名を馳せることとなった源頼朝の河内源氏などは、源氏の末流だと考えていたに違いない。まして二条は後深草院の御所に仕えた女房で、文永10年(1273)には院の皇子を設けたほどの女性だから(皇子は2年後に早世。)、「世が世なら、私だって次期天皇の生母となるかもしれない身であったのに。」という気持ちがあったであろう。
貴族中の貴族、公家中の公家であり、またそのことが自らのアイデンティティでもあった二条である。財力と武力にまかせ、東国で幅を利かすのみならず、京の天皇後継問題にまで口を挟むほどに強大化した鎌倉の御家人層や北条得宗家に、蔑視と羨望の入り混じる複雑な感情を抱いていたことは想像に難くない。
そうした背景の中、二条は鎌倉の執権・北条貞時の豪奢な屋敷で、平頼綱とその奥方(北条貞時の乳母)に会い、京都から送られてきた「五衣」の仕立てや「久明親王御所」のしつらいについて、助言をすることになった。「とはずがたり」には、そのときの様子も綴られている。
二条が「東二条院」から平頼綱の奥方へ遣わされた衣を取り出してみると、蘇芳色(紫がかった赤色。表は薄く、裏は濃く重ねる。)の気品ある艶やかな生地で、内へむかってしだいに濃くなっている五衣に、青い単(ひとえ)が重ねてあった。
一番上に着る上着(うわぎ)は、地が薄い赤紫色で、濃い紫と青色の格子を片身替り(衣服の右半分と左半分をぶつの布地で仕立てること。「大身替(おおみがわり)」とも。)に織られた生地であったが、これをあちこちに取り違えて裁断し、縫製してしまっている。また五衣の重なりは、内側を濃くするべきなのに、外側(表側)を濃くしたものだから、上着は白いのに、その下は濃い紫になるなど、はなはだ珍妙な様子である。
二条が「どうしてこんなふうに」と問うと、奥方は「京の御服所の人もお暇がないということで、よく知らないまま、こちらでいたしましたので。」などと答える。こういう稚拙な感じもご愛嬌だとは思ったが、やはり重ね方だけは直させたりするうちに、相模守殿(執権・北条貞時)から使いが来る。
その者によれば、相模守殿は「将軍御所の設備で、外様(とざま/公用の場。)の方は、ひき(*「秘記(秘録)」、或は「比企(比企能員の乱→【佐々木信綱と北条氏】)」か?)の指示通りに男たちが手配したが、久明親王が普段に使用される御所の室内装飾は、京の人にみせるように。」と言われたとか。全くどういうことだろう、と二条はわずらわしく思ったが、ゆきがかり上、いやとも言えないので、御所へ参上してみると、こちらのほうは五衣の一件ほどひどいということはなく、一応は正式に出来ている。御所のしつらいについては、目下のところとやかく言うこともない、と思った二条は、「家具の置き場所や御衣裳の掛け方はこんなふうがよろしいでしょう。」などと言って、帰って来る。
比企氏
俵藤太藤原秀郷の末裔を称する関東の豪族。系譜は明らかではないが、平安時代末期に武蔵国比企郡(現在の埼玉県比企郡)を領したことから比企を名乗った。一族である比企尼が源頼朝の乳母(→【前項】)を務めた関係から、比企氏は早い時期から頼朝を支えた御家人となる。これにより源頼朝以来、鎌倉で将軍御所のしつらいを担当したのであろうか?
比企氏の家督を継いだ能員も、頼朝の嫡男で鎌倉幕府2代将軍となった頼家の乳母父を務めたことから、将軍外戚として権勢を強めた。しかし頼家の母方の外戚・北条氏との対立が激化し、1203年に比企能員の変(比企の乱)が起こると、一族は滅亡。このとき比企能員の娘婿・川崎為重(中山五郎)の本領「武蔵国川崎荘」を、佐々木信綱が継承している。
御服所
律令時代に宮中用衣服製造の監督と後宮女官の人事を主な職掌とした縫殿寮(ぬいどのりょう)が前身。11世紀後半には天皇の衣服を生産する御服所が内蔵寮頭邸に創設され、次いで貴族や院のところにも御服所が設置されるに及び、縫殿寮はほぼ有名無実化した。
久明親王の東下
正応二年(1289)9月14日、第7代将軍・惟康親王が罷免されると、同年10月1日には、後深草天皇の第六皇子が親王宣下を受けて久明親王(1276年-1328年。母は藤原公親の娘・房子)となり、6日に後深草院御所で元服の儀を済ませて、9日には14歳で征夷大将軍に任命された。
あくる日の10月10日、親王一行は早くも鎌倉へ向けて出発し、同月25日に鎌倉へ到着(つまりこのとき、京から足柄山を越えて鎌倉へ辿りつくに、15日間が必要だったことがわかる。
惟康親王の罷免から、久明親王の「立親王」・「元服」・「将軍任命」・「鎌倉下向」までの日程が余りに慌しいのは、裏返してみれば、非常に迅速な手配に則って進められた結果とも見えるから、もしかするとこれも、事前に周到な計画があってのことかもしれない。
「とはずがたり」のなかで、「相模殿(執権・北条貞時)」の屋敷とおぼしき場所で、平頼綱やその奥方と面会し、また新将軍となる久明親王の御所のしつらいを検分した後深草院二条は、親王の鎌倉到着の日の様子もかなり詳細に記している。
それによれば、ついに将軍が到着されるという日、若宮小路には、ぎっしりと人だかりができている。関所まで出迎えに参上した人々のうち、先陣はもう戻っていて、二三十騎、四五十騎と、ものすごい数が通り過ぎてゆく。
まもなく親王の行列がお見えになるというので、召次(めしつぎ/従者)のようなものだろうか、直垂(ひたたれ)を着た小舎人(ことねり)と呼ばれる者たちが、20人ばかり走って来る。そしてその後には、思い思いの直垂(武士の幕府出仕用の平服)に身を包んだ大名たちが群れをなしてそぞろ歩き、それが5・6町(約500〜600m)はあろうかというほどに続いてゆく。
御輿の中の新将軍は、女郎花(おみなえし/襲の色目。表は黄、裏は萌黄色。秋に用いる。)の色に染めた膨れ織りの下衣(したぎぬ)をお召しになられているようなのが、御輿(みこし)の御簾(みす)が上げられているのでわかる。
御輿の後方には、「飯沼の新左衛門(平頼綱の次男・飯沼資宗。このとき23歳。そうなると「とはずがたり(巻四・八五〜小町殿」)」に見える「平二郎左衛門」は、やはり長男の平宗綱だろうか。)」が、木賊色(とくさいろ/青黒い萌黄色)の狩衣(かりぎぬ/公家・武家の礼服。)姿でお供をしていて、こちらも(親王の下衣や秋の風情と調和しているのは)なかなかたいしたものだ。
御所では当国司(北条貞時)や足利貞氏(室町幕府初代将軍・足利尊氏の父)をはじめとして、然るべき人々が皆、布衣(ほうい/布製の狩衣。礼服。)を着た姿で新将軍をお迎えし、また「御馬御覧」の儀式で馬が引かれたりして、祝賀ムードを盛り上げている。
新将軍は、三日間は「山の内」と呼ばれる「相模殿(執権・北条貞時)の山荘」へ入られるということで、華やかな行事を見聞きするうち、二条は、自身がかつて後深草院の御所で過ごした日々を思い出し、感慨もひとしおとなる。
 
「増鏡」

 

いわゆる「四鏡」と称される歴史物語に、「大鏡」・「今鏡」・「水鏡」・「増鏡」というのがある。いずれも仙人というほどに高齢な老人が、「昔、こんな事があった」と語る事象を、対話形式で記したものだ。
「四鏡」のなかで最も新しい「増鏡(ますかがみ)」は、嵯峨の清凉寺へ詣でた100歳の老尼が昔話を語るという格好で、寿永三年(1183)の後鳥羽天皇の即位から、元弘三年(1333)の後醍醐天皇の隠岐流罪と京都帰還までの、15代150年を編年体で記している。「源氏物語」や「栄花物語」の影響を受けた典雅な擬古文体で、公家の生活を描いているが、武士や鎌倉幕府に関する記述が極めて少ないことも特徴である。
「増鏡」の書名は、序の部分で老尼が詠んだ「愚かなる心や見えん ます鏡」という歌と、筆者の「いまもまた昔をかけばます鏡 振りぬる代々の跡にかさねん」という歌に拠るというから、歴史が「増す」という意味だけでなく、「真澄鏡(ますかがみ・まそかがみ/曇りのない澄んだ鏡)」の意味も含むのだろう。
現存のものは二十巻で、文中には「弥世継(いやよつぎ/藤原隆信の作という「今鏡」と「増鏡」の間の時代を記した歴史物語。現在は亡失。)を継承した」とも記されている。
作者は、二条良其(にじょうよしもと/父は二条道平、母は西園寺公顕の娘・婉子。北朝4代の天皇の下で摂政・関白を務めた。)とも、洞院公賢(とういんきんかた/藤原公賢のこと。藤原氏北家閑院流西園寺家の庶流。)とも、四条家(藤原北家魚名流)関係者ともされるが、未詳である。
この「増鏡」の「あすか川」「草枕」「老の波」「さしぐし」の項には、後深草院二条の「とはずがたり」から相当量の引用があり、「とはずがたり」が「増鏡」の重要な資料とされていたことがわかっている。
例えば、以下は「増鏡・巻十一・さしぐし(惟康親王の帰洛)」からの抜粋であるが、「とはずがたり」に比べて、優美な筆致ではあるものの、その内容はほぼ同じとなっている。
其の後いく程なく 鎌倉中(うち)騒がしき事出(い)できて みな人きもをつぶし ささめくといふ程こそあれ 将軍都(みやこ)へ流され給ふとぞ聞ゆる めづらしき言の葉なりかし 近く仕(つか)まつる男女いと心細く思ひ嘆く たとへば御位などのかはる気色(けしき)に異ならず
さて上らせ給ふ有様 いとあやしげなる網代(あじろ)の御輿(みこし)を さかさまに寄せて乗せ奉るも げにいとまがまがしきことのさまなる うちまかせては都へ御上(のぼ)りこそ いとおもしろくもめでたかるべきわざなれど かくあやしきは めづらかなり
母御息所(みやすどころ)も 近衛大殿(このゑのおほとの/近衛兼経)と聞えし御女(むすめ)なり 父皇子(みこ)の将軍にておはしましし時の御息所なり さきに聞えつる禅林寺殿(ぜんりんじどの)の宮の御方(かた)も 同じ御腹なるべし
文永三年より今年まで廿四年 将軍にて天下のかためといつかれ給へれば 日(ひ)の本(もと)の兵(つはもの)をしたがへてぞおはしましつるに 今日は彼らにくつがへされて かくいとあさましき御有様にて上り給ふ いといとほしうあはれなり 道すがらも思(おぼ)し乱るるにや 御たたう紙の音しげうもれ聞ゆるに たけき武士(もののふ)も涙落しけり
「とはずがたり」は、自尊心が高く奔放な元・宮廷女官のスキャンダラスな流浪譚のようにみえるが、一方で「増鏡」に引用されるほどに資料性の高い日記でもあり、その伝本は「宮内庁書陵部」に一部のみ残るという稀少なものでもある。
もしかすると、後深草院二条は「曙の君」の肝煎りで、善光寺詣でを口実に鎌倉をはじめとする諸国の検分に派遣された、一種の時事調査員であった、ということも考えられるかもしれない。
僧や尼僧の旅日記は、西行、芭蕉など多くあるが、そうした私的な記録も、時にしかるべき権力によって国家や王朝の歴史に引用された。また或は、古人たちも「王朝に引用されることを望んで」、日々の記録を綴ったのかもしれない。
歴史とは、為政者の手で「作成」され、記録・伝承されるものである。そして記録から零れ落ちた歴史は、文楽・能・狂言などを含む「歌謡」や「物語」のなかに掬われてゆく。さらにささやかな歴史の記憶は、「科学技術」や神社仏閣の「祭り」に継承される。そしてもっと密やかな記憶は、風や雲や「富士の高峰の煙」となり、空に還って霧散してゆく。
風の音にふと、自分の中にあるはずもない太古の記憶が蘇るような気がするのは、こうした人たちのあえかな声が、私たちに何かを語ろうとしているからではないだろうか。
 

 

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西紀・年号・作者年齢

『とはずがたり』 記事

参考事項

1242(仁治3)     正月 四条院死去(12歳)。
3月 後嵯峨院即位(23歳)。
6月 大宮院※子入内(18歳)。
この年、宗尊親王生れる(母准后棟子)。
1243(寛元元)     6月 後深草院生れる(母大宮院)。
1246(寛元4)     正月 後深草院即位(4歳)。
1247(宝治元)     性助法親王生れる(母公房女)。
1248(宝治2)     正月 太政大臣通光死去。
1249(建長元)     5月 亀山院生れる(母大宮院)。
1251(建長3)     10月(一説に12月) 続後撰集撰進(撰者藤原為家)。
1252(建長4)     4月 宗尊親王将軍となる。
弁内侍日記(寛元4年より本年までの記事を収む)。
1253(建長5)     3月 後深草院元服(11歳)。
1256(康元元)     12月 東二条院入内(25歳、院14歳)。
1257(正嘉元)     10月 性助法親王出家(11歳)。
1258(正嘉2) 1 『とはずがたり』作者久我雅忠女生まれる。(母四条隆親女) 8月 亀山院東宮となる。
1259(正元元) 2 5月5日 母死去。 11月 後深草院譲位
12月 亀山院即位(11歳)。
1260(文応元) 3    
1261(弘長元) 4 9月 作者後深草院御所に上る。  
1262(弘長2) 5   11月 親鸞死去。
1263(弘長3) 6    
1264(文永元) 7 叔父雅光に琵琶を習う。  
1265(文永2) 8   4月 伏見院生れる(母東の御方)。
12月 続古今集撰進(撰者、藤原為家ほか4名)。
1266(文永3) 9 この頃、西行の修行の記を見る。 7月 将軍宗尊親王を廃す。
1267(文永4) 10 白河殿試楽に琵琶を弾く。 12月 後宇多院生れる(母京極院)。
1268(文永5) 11   2月 後嵯峨院五十賀、蒙古の事により停止。
3月 時宗執権となる。
8月 後宇多院東宮となる(2歳)。
1269(文永6) 12   嵯峨のかよひ路(飛鳥井雅有)成る。
1270(文永7) 13   9月 遊義門院生れる(母東二条院)。
1271(文永8) 14 巻一
元日 御所新年の儀で院と父雅忠密約。その夕、恋人雪の曙(実兼)から文と贈物。
1月15日院雅忠邸に御幸。作者意に従わず。雪の曙から文がある。
同16日院再訪。ついに意に従う。
東二条院作者を憎む。
[注 実際は前年である。]
8月頃か、東二条院御産、姫宮誕生。七夜の夜御所に人魂の怪異がある。後嵯峨院発病。




3月 実兼権大納言となる(23歳)。
9月 蒙古使者来る。
12月 蒙古の難を伊勢に報告。
この年、永福門院(実兼一女)生れる。風葉和歌集成る。
蒙古、国号を元と改む。
1272(文永9) 15 正月 後嵯峨院重態、嵯峨へ御幸。後深草院の御幸に作者供をする。
2月15日 六波羅南方時輔討たれる。
同17日 後嵯峨院死去。
同18日葬送。
父雅忠出家を頼い許されず。
5月 雅忠発病。
6月 作者懐妊の兆、父にわかに作者のため祈祷。
7月 院雅忠の病を見舞う。
8月2日 作者着帯の儀。雅忠作者に遺誡。
同3日 雅忠死去(五十歳)。
8月 父の葬送・弔問。北の方・家人仲綱出家。
9月 雪の曙と語り明かす。
10月 四条大宮の乳母の家で雪の曙と契る。
同20日 母方の老女死去。
11月 醍醐の勝倶胝院に籠る。院御幸、雪の曙来訪。

2月 後嵯峨院死去(53歳)。
[注 父雅忠の死去の時の年齢は『公卿補任』と異なる。]





8月 雅忠死去、45歳。(公卿補任)
同 京極院死去。
 
1273(文永10) 16 正月 石清水八幡の門外まで参る。
2月10日 作者院の皇子を生む。
12月 雪の曙の子懐妊の兆の夢。
この年、昭訓門院(実兼二女)生れる。
1274(文永11) 17 正月より後深草院、如法経書写のため精進。
2月 作者曙の子の懐妊を知る、その処置に心を砕く。
5月 里で着帯、御所からも着帯の使。
9月 重病と称して雪の曙の女子を出産、流産と称して他へ遣る。
10月8日 昨年出生の皇子死去。作者悩み出家行脚を思う。
この頃、院皇位継承の不満から出家の意を示す。伏見院の立坊定まり、出家中止。
11月 前斎宮嵯峨の大宮院訪問に、院も同席。院斎宮と契る。
同 東二条院作者を非難、院作者を弁護。作者の出自・来歴と待遇を述べる。
12月 院再び斎宮と逢う、作者曙と逢う。
正月 亀山院譲位、後宇多院即位。



10月 元軍、九州に来寇(文永の役)。幕府軍防戦する。敵船大風に漂没。幕府、西国・九州・山陰の防備を厳にするよう命令。
1275(建治元) 18 巻二
正月 東宮・院、方分ちして遊戯。
正月18日 作者東の御方と申合せ院を打つ。院の訴訟により贖いと定まる。作者の縁者の贖い、久我尼の反論により院の贖い。
3月 後白河院御八講。
同13日 結願の日有明(性助法親王)作者に恋を打明く。
3月 亀山院、御所を訪問。蹴鞠の酌に出る。のち亀山院から文を贈られる。
4月 六条殿長講堂新造成る。御堂供養に供をする。壺合せ。
8月 院発病。
9月8日より延命供、御所で作者有明と契る。
同 六条殿御供花。伏見へ松取りの御幸。
10月10日 院「扇の女」と逢う。資行の連れて来た傾城、泣き帰り出家。有明と文通。









9月 執権時宗、元の使者を鎌倉に斬る。

11月 伏見院東宮に立つ。
同 実兼、東宮大夫。
1276(建治2) 19 院・亀山院花合せなどで多忙。
9月10余日 隆顕のはからいにより出雲路で有明と違う。作者絶交を決意。
12月 有明から起請文を送られる。


12月 隆親大納言に復す。隆顕の官を罷む。
1277(建治3) 20 正月 有明院参、作者酌に出てにわかに発病。
2月 両院小弓。院の負態の女房の蹴鞠、作者も出で立つ。亀山院の負態に嵯峨殿で帳台の試みの催し。
3月13日ふたたび院の負け、伏見殿で源氏六条院の女楽を模す。作者琵琶を分担。祖父隆親と衝突して出奔、醍醐に隠れる。作者懐妊中。
4月 賀茂祭の御幸の桟敷を隆親用意。隆親、帝・東宮の元服の上寿に隆顕の大納言を借り返さず。隆顕父を恨み籠居。
同 末 作者醍醐で隆顕と会う、有明の月の噂。雪の曙、作者を尋ね出す。隆顕・曙・作者三人語り明かす。
院に迎えられ御所に戻る。着帯。
同 末日 曙との女児に再会。
8月 近衡大殿(鷹司兼平)院参。伏見で今様秘事伝授、作者大殿と契る。
1月 後宇多院元服の上寿に隆親奉仕。
同 経任大納言に任ぜられる。
2月 隆親大納言を辞す。

[注 隆顕の出家を『公卿補任』では五月とする。]
5月 隆顕出家(公卿補任、父との不和不調による)。
同 春日神木動座。
10月 阿仏、訴訟のため鎌倉に下り、弘安3年春まで滞在。


12月 東宮(伏見院)元服。
同 春日神木帰座。 この年、春より病事流布。
1278(弘安元) 21   7月 院の第四皇子満仁親王(12歳)仁和寺の室に入る。法名性仁、戒師性助法親王。
12月 続拾遺集撰進(撰者二条為氏)
この年も病事流布。
1279(弘安2) 22   7月 元の牒状到る。
9月6日 隆親死去、77歳(公卿補任)
1280(弘安3) 23   11月21日 円満院浄助法親王死去(28歳)。
この年、春の深山路(飛鳥井雅有)成る。
弘安源氏論議。
この年項、十六夜日記成る。
1281(弘安4) 24 巻三
2月中旬 遊義門院病気のため有明院参。院作者と有明の関係を知る。院これを許す。
2月18日 院、作者の有明の子懐妊を予言。
5月 雪の曙と逢う。
初秋 院、有明に作者の懐妊を語る。
10月 嵯峨法輪寺に籠る。両院の大宮院見舞いに呼び出される。亀山院から贈物。四条大宮の乳母の家に下る。有明通う。院訪問、生児の処置を指示。
11月6日 有明の男子出生、他へ遣る。
同13日 最後の契り、鴛鴦の夢。
同18日 かたはら病み流行、有明発病。
同25日 有明死去。稚児形見を持参。
[注 この巻の有明関係の年立は、史料と若干のずれがある。有明を朧化するために意識的にした点もあると思われるが、この作品の内部では前後矛盾を起こさないので、特に改めず、作品の年立に従う。ただし有明との関係復活は、もう少し前からであろう。]
 
6月 元の大軍博多に迫る、防戦。朝廷各所にて異国降伏の祈祷。
閏7月1日 元軍の兵船大風により覆滅。
10月春日神木入京。
1282(弘安5) 25 正月15日 有明の四十九日を行う。
2月15日 東山で法華講讃、夢に有明を見て発病。
3月 有明の第二子の懐妊を知る。
4月 御所よりの召しに参らず。亀山院との仲を疑われる。
8月20日 東山でひそかに男子出産、自ら世話する。  
この年、神木在京のため公事行事等停止。
夏以来病事流布。

7月 日触正現。
8月12日 円助法親王死去(47歳)。
10月 日蓮死去。
12月19日 性助法親王死去、36歳(仁和寺御伝)。
同21日 神木帰座。
1283(弘安6) 26 2月 嵯峨殿の彼岸の説法に供をする。時時出て幼児を見る。
初秋 東二条院の命により御所を退出、隆親の邸に行く。
[注 『公卿補任』では四年前の弘安二年とする。]
この秋、隆親死去(隆顕もすでに死去)
11月八幡に籠る。祇園千日参籠を始める。
同 東山で有明三回忌を営む。
この年も病事流布。
正月 日吉神輿皇居に入る。
 


12月 仁和寺性仁法親王灌頂、17歳。大阿闍梨准后法助。
1284(弘安7) 27 2月 祇園社に桜の枝を奉納。 2月 前斎宮※子内親王死去。後嵯峨院十三回忌供養。
4月 執権時宗死去(34歳)
11月 開田准后法助死去(58歳)
1285(弘安8) 28 正月 大宮院から北山准后九十賀出仕を勧められる。
2月29日・30日、3月1日 北山西園寺邸で准后の賀の盛儀に参会。
3月2日 管絃の遊び、舟中の連歌。
3月 後二条院生れる。
[注 この時は資格としての皇后で、実際に後宇多院の後宮となったのは永仁五年である。]
8月 遊義門院、皇后となる(後二条院准母)。
隆良、当時東宮亮。
1286(弘安9) 29   この年、太神宮参詣記(通海)成る。
1287(弘安10) 30   10月 後宇多院譲位、後深草院院政。
1288(正応元) 31   3月 伏見院即位。後伏見院生れる。
6月 実兼女※子入内、雅忠女三条の名で出仕(『増鏡』)
7月 隆良従三位。
11月 後醍醐院生れる。
12月 東の御方(※子)准后、同日院号(玄輝門院)。
1289(正応2) 32 巻四
(この前すでに出家している)
2月20余日 作者都を出立。東海道の旅。
3月 熱田社に参籠。三島に参る。
同 20余日 江島に宿る。
鎌倉に入る。七月まで病臥。
8月 新八幡放生会を見る。
将軍惟康親王の廃されて上京するのを見る。
10月 久明親王着任の準備指導のため、管領平入道頼網邸及び将軍御所に赴く。
飯沼新左衛門邸の連歌に招かれる。
12月 河越入道の後室に誘われ武蔵国川口へ下る。越年。
 
 
 
4月 後伏見院東宮となる。
 

8月 基具太政大臣に任ぜられる。一遍摂津で死去(51歳)。
9月7日 亀山院出家(41歳)。師親出家(49歳)。
9月 将軍惟康親王廃せられる。
10月 久明親王将軍となる。実兼内大臣。
この年、病事流布。
1290(正応3) 33 2月10余日 善光寺へ出立。
高岡の石見入道仏阿の邸に滞在。
8月15日 浅草観音に詣でる。
武蔵野の歌枕を訪ねる。
9月10余日 飯沼判官と別れの歌を贈答、帰途熱田に寄る。
10月 一旦帰京、奈良の社寺を巡拝する。春日神社・法華寺・春日正預宅・中宮寺・当麻寺・太子墓。
2月11日 後深草院出家。
3月 浅原為頼禁中に乱入。伏見院難をのがれる。
 
8月 久明親王母房子、従三位となる。  
1291(正応4) 34 2月初 八幡で後深草法皇の御幸に違う。一夜語り明かす。
同 熱田参籠の夜、炎上。
4月 伊勢の外宮・内宮に参り二見に遊ぶ。神官らと贈答、連歌。
熱田に詣で写経を営む、経巻供養。
熱田炎上、2月2日(歴代編年集成他) 2月13日 (熱田社神官田島氏文書)。
4月 久子、内親王・准后となる。
8月 皇后※子院号(遊義門院)。
12月 実兼太政大臣(43歳)。
1292(正応5) 35   4月23日 飯沼判官上京、一行の出で立ち等を賞賛される。
9月6日 大宮院死去(68歳)。
12月 隆良参議に任ず。
中務内侍日記、弘安三年よりこの年までの記事を収む。
1293(永仁元) 36 [注 作品では「またの年」であるが、正応五年九月は、院の母后大宮院の死去葬送の月にあたるので、いちおう次の年とした。]
9月 伏見殿で一夜後深草院と語る。作者の誓言。
この後、院から生活上の慰問がある。

4月 平管領頼綱、次男飯沼判官誅せられる。
8月 伏見院勅撰集撰進の命、中断。  
1294(永仁2) 37 (数年のうちに)二見へ再び赴く、記事中断。 6月 遊義門院、後宇多後官に入る(25歳)。
8月 鷹司兼平死去(66歳)。
1295(永仁3) 38   5月 春日神木帰座。
12月 東大寺・八幡宮神輿帰座。
同 大神宮一の禰宜尚良死去。
1296(永仁4) 39    
1297(永仁5) 40   正月 前権大納言経任死去(65歳)。
7月 花園院生れる(母顕親門院)。
1298(永仁6) 41   3月 京極為兼佐渡に配流。
7月 伏見院譲位、後伏見院即位(11歳)。
8月 後二条院東宮となる(14歳)。
この年、一遍聖絵成る。
1299(正安元) 42   6月 西園寺実兼出家(51歳)。
1300(正安2) 43    
1301(正安3) 44   1月 実兼二女瑛子、亀山院妃となる(昭訓門院、29歳)。
3月 後伏見院譲位、後二条院即位。
8月 花園院東宮となる(5歳)。
1302(乾元元) 45 巻五
9月初 厳島へ出立。内海の旅。
9月13日 厳島の大法会を見る画。
土佐足摺岬の堂の由来、補陀落渡海信仰の伝説。
土佐安芸の牛頭天王に参る。
讃岐の白峰、松山の旧跡にとどまり写経。大集経二十巻供養。
11月 女房を訪ね、備後の和知一族の邸に滞在。
広沢与三入道、鎌倉から下向。
江田に移る。江田・和知の兄弟争う。入道との奇遇に驚く。
[注 この年立も確定はできないが、東二条院・後深草院の死去の年から逆算して、これよりは下れないところである。]
 
10月 北山准后貞子死去(107歳)。
 



12月 後深草院六十賀。
1303(嘉元元) 46 2月末 入道来訪、続歌をする。作者送られて出立。
備中荏原から入道と歌の贈答。
吉備津宮に詣でる。帰京。

5月 恒明親王生れる(母昭訓門院)。
12月 新後撰集撰進(撰者、二条為世)。
1304(嘉元2) 47 正月 東二条院の死去の報に感慨。
6月 後深草院の病をきく。
7月1日 八幡に籠り、平癒を祈る。
同15日 西園寺入道(実兼)に頼み夢のように院を見る。
同16日 後深草院死去。
同17日 葬送の車を追い、火葬の煙を見て帰る。天王寺に参籠する。
9月 伏見殿に院の四十九日の仏事を聴問する。
写経の資に、母の形見を売る。
9月15日 東山双林寺で懺法を行う。
大集経二十巻を春日の本宮に納める。
父雅忠の三十三回忌。和歌の夢想を得る。
人麿の墓に詣で、夢想がある。
正月21日 東二条院死去(73歳)。
1305(嘉元3) 48 3月8日 人麿影供を行なう。
父の形見を売り、大品般若経二十巻を太子の墓に納める。
7月16日 後深草院一周忌に伏見殿の仏事聴聞。
この頃亀山院の病を聞く。
9月10日頃 熊野へ写経のため出立。
9月20余日 那智神社で夢想に父・院・遊義門院を見る。
大品般若経二十巻を那智神社に納める。
帰京して亀山院の死去を聞く。





9月15日 亀山院死去(57歳)。
1306(徳治元) 49 3月 八幡に詣で、遊義門院の御幸に逢い、言葉をかわす。
7月15日 深草法華堂に院の肖像を見る。
同16日 院の三回忌の仏事を聴聞。師重・通基と歌の贈答。
跋文
 
1307(徳治2) 50   7月24日 遊義門院死去(38歳)