栄西

栄西1栄西2栄西3栄西4栄西5建仁寺興禅護国論1興禅護国論2喫茶養生記緑茶の効用・・・
 

雑学の世界・補考   

大いなるや心や。
私たち人間がもつ表層の心(こころ)や感情の、もっと奥底にある真実としての心(しん)は、なんと素晴らしいものか。私たちが普通に考える心(こころ)は、あたかも水のようで器(うつわ)によって、つねに変化する。そこには純真な心も、不純な心も生じる。知識や感情・意識などによっても変化する。もちろん外界の事象にも反応する。さまざまなものを受け入れ、放出しながらも、心は心である。それは心そのものが、真の心、つまり心(しん)によって成り立っているからである。この心とは、人間をはじめ万物が本来そなえている“清浄”にして“無垢”なものである。これを「仏心」といい、「仏性」という。仏心・仏性をもっていることを、私たちが自覚すれば、自信をもって生きることができるのである。「興禅護国論」



栄西1

明菴栄西(みんなんえいさい・ようさい)、諡は千光国師、葉上(ようじょう)房とも称した。仏教宗派・日本臨済宗の開祖、建仁寺の開山。永治元年(1141)4月20日-建保3年(1215)6月5日生年には異説がある。天台密教葉上流の流祖でもある。喫茶の習慣を日本に伝えたことでも有名である。
永治元年(1141)吉備津宮(現在の岡山県岡山市、吉備津神社)の権禰宜賀陽貞遠の子として誕生。「紀氏系図」(「続群書類従」本)には異説として紀季重の子・重源の弟とする説を載せているが、これは重源が吉備津宮の再興に尽くしたことや重源が務めていた東大寺勧進職を栄西が継いだことから生じた説であり、史実ではないと考えられている。
久安4年(1148)8歳で「倶舎論」、「婆沙論」を読んだと伝えられる。
久寿元年(1154)14歳で比叡山延暦寺にて出家得度。以後、延暦寺、吉備安養寺、伯耆大山寺などで天台宗の教学と密教を学ぶ。行法に優れ、自分の坊号を冠した葉上流を興す。
仁安3年(1168)形骸化した日本天台宗に嫌気し、南宋に留学。天台山万年寺などを訪れ、「天台章疎」60巻を将来する。当時、南宋では禅宗が繁栄し、それに大いに感化され、仏法復興のために禅の重要性を感じたとされる。
文治3年(1187)再び入宋。仏法辿流のためインド渡航を願い出るが許可されず、天台山万年寺の虚庵懐敞に師事。
建久2年(1191)虚庵懐敞より臨済宗の嗣法の印可を受ける。同年、帰国。福慧光寺、千光寺などを建立し、筑前、肥後を中心に布教に努める。
建久5年(1194)彼や大日房能忍の禅宗が盛んになり、天台宗からの排斥を受け、禅宗停止が宣下される。
建久6年(1195)博多に聖福寺を建立し、日本最初の禅道場とする。同寺は後に後鳥羽天皇より「扶桑最初禅窟」の扁額を賜る。栄西は自身が真言宗の印信を受けるなど、既存勢力との調和、牽制を図った。
建久9年(1198)「興禅護国論」執筆。禅が既存宗派を否定するものではなく、仏法復興に重要であることを説く。京都での布教に限界を感じて鎌倉に下向し、幕府の庇護を得ようとした。
正治2年(1200)北条政子建立の寿福寺の住職に招聘。
建仁2年(1202)源頼家の外護により京都に建仁寺を建立。建仁寺は禅・天台・真言の三宗兼学の寺であった。以後、幕府や朝廷の権力に取り入り、それを利用して禅宗の振興に努めた。
建永元年(1206)重源の後を受けて東大寺勧進職に就任。
建暦2年(1212)法印に叙任。
建保元年(1213)権僧正に栄進。政治権力にひたすら追従する栄西には当時から多くの批判があった。特に栄西が幕府を動かし、大師号猟号運動を行ったことは大きな非難を浴びた。栄西の策動は生前授号の前例が無いことを理由に退けられるが、天台座主慈円は「愚管抄」で栄西を「増上慢の権化」と罵っている。
建保3年(1215)享年75(満74歳没)で病没。終焉の地は鎌倉、京都の2説がある。

日本曹洞宗の開祖である道元は、入宋前に建仁寺で修行しており、師の明全を通じて栄西とは孫弟子の関係になるが、栄西を非常に尊敬し、夜の説法を集めた「正法眼蔵随聞記」では、「なくなられた僧正様は…」と、彼に関するエピソードを数回も披露している。なお、栄西と道元は直接会っていたかという問題は、最近の研究では会っていないとされる。
 
栄西2

「茶は養生の仙薬なり」ではじまる「喫茶養生記」を著し、お茶を日本に広めた人、栄西禅師。現代、あらためて健康によいと注目されているお茶の効能を、はじめて日本人に知らせた人物です。日本の茶の歴史は栄西の伝法とともに始まりました。
宗の国
鎌倉時代の禅僧栄西禅師は日本臨済宗の開祖で千光国師ともいわれます。備中(岡山県)吉備津宮神主賀陽(かや)氏の出身で、誕生は保延7年4月。幼少のころから抜きんでた英才と伝えられており、11歳で安養寺の静心に倶舎婆沙二論を学び、13歳で叡山に登り、14歳で落髪。その後ももとの安養寺で修行し、19歳で再び叡山に登り台密の教えを学びました。
若き栄西は、仏教の源である宗の国へ渡り、大陸の正法を学んでわが国仏教の誤りを正したいという強い願いをもっていたようです。時代は保元の乱が勃発し源平めまぐるしく変わる混乱の世。栄西が入宗を望んだ時代は、遣唐使などの大陸渡航が絶えて300年の月日が経ち、渡海は決死の覚悟と資財を要する一大事でした。しかし、困難にもかかわらず、栄西27歳の仁安3年(1168)4月、播磨の唯雅を伴って博多を出帆、入宗に成功します。あこがれの地で天台山万年寺、阿育王山に詣で禅宗への理解を深め、同年9月、天台の経巻60巻を携えて帰朝したました。帰国後は、その経巻を天台座主明雲に呈し、故郷備中、備前を中心に伝法につとめたといいます。
帰国後、栄西は、インドへ渡り釈迦八塔を礼拝したいという願いを抱くようになり、再び渡海を試みます。文治3年(1187)に宗国の首都臨安に到着し、インド行きは治安が悪いため、やむなくあきらめました。しかし帰国のために乗船したところ、逆風で浙江省瑞安に上陸。それを機会に天台山万年寺で虚庵懐敞(きあんえしょう)に出会い師として学びました。さらに天童山景徳禅寺で臨済禅を学び、4年後の建久2年(1191)宗人の船に便乗して帰国しています。この2回の入宗のうち、いずれの折に茶種を持ち帰ったのかは定かではありません。ただ、はじめて栄西が持ち帰った茶の種を捲いたのが、肥前と筑前の境界の背振山であり、2回目の帰着が肥前平戸島であることから、2回目の帰朝で持ち帰ったと考えられているようです。
茶の栽培
栄西は茶の実を持ち帰るとすぐに捲いたようです。これは茶種の寿命は短く、夏を越すと70〜80%は発芽力を失うこと、茶の栽培にどのような土地が適しているのかなどについて栄西はよく心得ていたのでしょう。茶種を捲いたと伝えられる場所の調査によると、その周辺には大きな寺跡があり、古い茶園も認められるといいます。栄西は布教とともに茶の栽培も積極的に行っていたことがわかります。栄西が茶栽培を推進した理由は、中国の4年間の生活で茶の養生延齢の効力を認めたからということと同時に、その不眠覚醒作用が禅の修行に必要であり、禅宗の行事に茶礼が欠かせないことも、その普及の動機の多くを占めていました。
栄西と明恵上人
政治と結びつきながら日本流仏教が定着していた鎌倉時代に、宗から帰った栄西は、持ち帰った臨済の布教活動で、さまざまな政治的妨害を受けます。しかし栄西は禅の教えは国を守っていくものであるとする「興禅護国論」などの書物を著し、鎌倉に下り二代将軍頼家の帰依と庇護を受け、元久2年(1205)京都に最初の禅寺建仁寺を完成し第一世となり禅宗を広める土台を築きました。その2年後、明恵上人が京都栂尾(とがのお)に華巌宗の興隆を願って高山寺を中興し、たびたび栄西を訪れ問答をしていたといいます。栄西は、明恵に茶の薬効を話し、喫茶をすすめ、茶の実を栂尾(とがのお)に送ったのではと考えられます。さらに注目すべきことは京都の栂尾における茶栽培です。その後2世紀にわたり、栂尾における茶の栽培は盛んで、栂尾の茶を本茶、それ以外のものを非茶と称したほどだといいます。狂言「茶壷」にもこの坊の銘茶穂風のことが演じられるほどで、宇治以前の茶名産地が栂尾であったことがわかります。
喫茶養生記
栄西は日本に茶生産を広めるため、またその薬効を知らせるために、承元5年(1211)「喫茶養生記」を著します。この書物は上下二巻からなり、茶の薬効から栽培適地、製法まで、細かく記されています。また、森鹿三氏の解説によると、喫茶養生記には初治本と再治本があり、再治本は、この3年後の建保2年(1214)1月に書写し終ったといいます。
お茶の効能について記した最古の記述は、鎌倉時代の記録書として有名な「吾妻鏡」。建保2年2月の条に、将軍実朝が宿酔(二日酔い)の際、栄西禅師から茶とともにこの書を献ぜられ、喫したところたちまち治癒されたと伝えられています。このことによって、上流階級の間で茶がもてはやされたことは言うまでもありません。
栄西は、再治本を記した翌年の建保3年(1215)7月、寿福寺にて没しました。
 
栄西3

禅宗
法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗は、いずれも自力修行を否定し、阿弥陀如来の絶対他力に頼って、往生をとげようとする教えである。 このような考え方を他力本願と言った。この「他力」の教えが人々の間に広まるにつれ、「他力」の考え方ではあきたらない、つまり「自力修行によってこそ本当の悟りが得られるのだ。」と考える人々も当然のように現れた。 この「自力修行による悟り」をめざす考え方こそ、鎌倉仏教のもうひとつの柱となる禅宗である。
禅宗とはどのような教えなのか、一言で言えば、「坐禅することによって、人間にもともとそなわっている仏性(ぶっしょう)を自覚し、悟りに達しようとする教え」ということにな る。仏性とは、「仏となることができる性質」という意味だ。なぜ坐禅なのか、坐禅という方法は、仏教の開祖である釈迦が悟りを開いたときに用いた方法である。
禅宗の開祖は、インドの伝説的な僧侶であるボーディダルマという人物である。漢字で表記しますと菩提達磨(ぼだいだるま)となる。「達磨」は「達摩」と表記される場合もあ る。
達磨は6世紀ごろの実在の人物で、シルクロードを経て唐へ至り、禅宗を伝え広めたとされている。達磨というと、「面壁九年(めんぺきくねん)」というエピソードで有名だ。 達磨は洞窟にこもり、9年間も岩壁と向かい合って坐禅を組み、悟りを開いたが、そのために手足がくさって落ちてしまったという話しである。達磨とはいわゆる「ダルマさん」のモデルになった人物 だ。「ダルマさん」には手足がないが、それはこのエピソードに基づいている。
唐へ伝えられた禅宗は、中国人によってひとつの思想として完成し、宋の時代に盛となった。禅そのものは、奈良時代には日本に伝わっていたが、これを体系的に日本に紹介したのが栄西で ある。
栄西の生涯
栄西は1141年に備中国(現在の岡山県)に生まれた。父は吉備津宮(きびつのみや)の神主であった。 8歳のときに仏教の勉強をはじめ、14歳で比叡山延暦寺に入って出家し、天台宗を学んだ。栄西は1168年と1187年の2度にわたって、宋へおもむき、仏教の知識を深く身につけた。2回目の入宋の目的は、インドに渡って釈迦の足跡をたずねることにあったが、当時はモンゴルの勢いが強く、許可がおりず、インド行は、断念せざるを得なかった 。
栄西は天台山へおもむき、虚庵懐敞(こあんえしょう)について2年間修行し、臨済宗の禅を学び、1191年に帰国した。
帰国後、栄西は、まず九州で臨済宗の禅を広める活動を始めた。1194年に京にのぼって、さらに禅の布教を行ったが、ここで天台宗の妨害にあい、禅の布教停止を命じられ た。 そのため栄西は、1198年に「興禅護国論(こうぜんごこくろん)」を著し、禅は天台宗の教えを否定するものではなく、禅を盛んにすることが天台宗を発展させ、国家を守ることにつながると主張し たが、天台宗側の攻撃は止まなかった。
そこで栄西は京での布教に見切りをつけ、1199年、鎌倉に下った。朝廷との結びつきの強い天台宗に対抗するため、幕府の保護を受けようとした。 鎌倉で栄西は北条政子の帰依を受け、政子が建立した寿福寺の住職となった。
1202年、栄西は2代将軍頼家の後ろ楯を得て、京都東山に建仁寺を建立した。 翌1203年に朝廷は、建仁寺に天台宗・真言宗・禅宗の三宗を置くことを認め、1205年には建仁寺を官寺とした(この場合の「官」とは「国」の意味)。 栄西は幕府の後ろ楯を得て、朝廷に禅宗を認めさせた。その後、栄西は1206年9月に東大寺大勧進職という位につき、1213年5月には権僧正ともなった。
僧でありながら、幕府や朝廷などの権力・権威に近づき、自分の地位を高めようとする栄西の行動は、当時から多くの批判があった。
1213年6月、鎌倉にもどった栄西は、翌1214年の2月、3代将軍実朝の病気平癒のための祈祷を行い、ついで「喫茶養生記」を献じた。「喫茶養生記」は、日本で最初の「茶」に関する書物として有名で ある。この中で、茶という当時の日本では一部の人しか知らなかった嗜好品を、健康にもよく、また仏の道にもかなう飲み物であるとして、大いに推賞した。
1215年、栄西は75歳で亡くなった。亡くなった場所については、鎌倉の寿福寺、京都の建仁寺とする2説がある。
臨済宗
栄西が宋から伝えた臨済宗は、その後、さまざまな人たちによって、多くの派に分かれたが、座禅を組んで精神を統一するという状態に入り、自分の本姓(ほんせい)と向き合うことによって、悟りを開こうとする教えで ある。その悟りの境地は、言葉によって説明することはできず、師と弟子の間で、心から心へ伝えられるものであるという立場をとった。つまり以心伝心である。
言葉や文字では悟ることはできない、というのが禅宗の立場である。これを、不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)と言う。禅宗の世界にあっては、古くから、その悟りの立場から発せられるさまざまな語録が残されてい る。禅問答とよばれ、これらが後に禅僧の修行のために利用された公案である。
不立文字という立場をとるので、禅問答には難解なものが多い。つまり問答だが、言葉だけでは理解できない。
禅問答とはどのようなものなのか、難解な禅問答をパロディー化した有名な落語がある。
あるいきさつから、こんにゃく屋の主人である六兵衛が、ある寺の大和尚と入れかわることになりました。そこへやってきたのが旅の禅僧托善です。托善は六兵衛が化けた大和尚に禅問答をいどむのですが、何を問いかけても六兵衛は、ただ黙って座っているだけでした。
そこで托善は指で小さな丸をつくって、六兵衛に示します。すると六兵衛は両手で大きな輪を作って示しました。次に托善は両手の指を広げて、六兵衛につき出します。つまり、十という数を示したのですね。すると六兵衛は、片手の指を広げて示しました。つまり五という数を示したんです。それならばと托善は指を三本出します。つまり三という数を示したんです。すると六兵衛は、人差し指を目の下に当てました。ちょうど「アッカンベー」をするしぐさをしたんですね。
これを見た托善は、おそれいりましたとばかりに頭をさげ、六兵衛の前から逃げ出しました。二人のやりとりを見ていた八五郎が、いったいどうしたのだ?とたずねると、托善は次のように答えました。
「大和尚の境地にはとてもかなわない。何を問いかけてもお返事がないので、これは「無言の行」の最中であると考え、指で輪をつくって[天地の間はいかに]とおたずねしたところ、両手で大きな輪をつくられて[大海のごとし]というお答えだった。」
「次に両手を指を開いてつきだし、[十方世界はいかに]と問うと、片手を広げられて[五戒で保つ]とのお答えだった。」
「最後に三本の指を出して[三尊の阿弥はいかに]とたずねると、目の下を指されて[眼下にあり]というお答えだった。お見事という他はない。」
いかがでしょうか?禅問答というものの難解さを少しは感じていただけたでしょうか?
このお話しは落語ですので、当然「おち」があります。せっかくですので、あわせてご紹介したいと思います。
今度は六兵衛に八五郎が、どうしたのだと尋ねると、六兵衛は次のように説明しました。
「あの雲水め、とんでもない野郎だ。おれのところの[こんにゃく]はこんなに小さいだろうと、指で輪をつくりやがった。だから、とんでもない、こんなに大きいんだとばかりに両手で大きな輪をつくってやった。」
「するとあの野郎、指を十本出して、[十でいくらだ]と聞きやがるから、[五百だ]と指を五本出したら、指を三本出して[三百に負けろ]といいやがる。頭にきたからアッカンベーしてやったら、逃げ出しやがった。」
栄西の死後、臨済宗は執権である北条氏の帰依を受けて発展した。5代執権北条時頼は、鎌倉に建長寺を建て、京から蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を招いた。蘭渓道隆は鎌倉時代中期に来日した南宋の臨済宗の僧で ある。
8代執権北条時宗は鎌倉に円覚寺を建て、南宋から無学祖元(むがくそげん)を招いた。無学祖元も臨済宗の僧である。
「どうして南宋の僧ばかり」か、この時代は、南宋が元の圧迫を受け、滅亡していく時期にあたる。亡命の意味もあって、日本に多くの南宋人がやって来ていたようだ。 朝廷が天台宗や真言宗と親密な関係であったのに対抗する意味もあったかもしれない。幕府は臨済宗との結びつきを強め、臨済宗を幕府の宗教として位置づけた。

栄西4

永治元年-建保3年(1141-1215)
「ようさい」ともいう。別名、葉上房、千光法師。鎌倉初期の禅僧で臨済宗の開祖。岡山で神主の家に生れる。13歳で出家して比叡山延暦寺で受戒し、18歳の時に鳥取・伯耆大山寺(だいせんじ)で天台密教の奥義を学んだ。1168年(27歳)、かねてから夢だった宋に博多から渡り、かつて575年に仏僧智(ちぎ)が天台宗を開いた聖地・天台山を訪れた。
当地は禅宗が強く支持を集めており、栄西も大いに感化された。一ヵ月半後に天台の経巻60巻を携えて帰国し比叡山へ戻るが、この頃の延暦寺は僧侶たちが権力争いに明け暮れていたので、仏法復興の為にもインドへ渡って釈迦の足跡を辿りたいと願うようになった。そして1187年(46歳)、19年ぶりに大陸に渡航する。
しかし、宋から陸路インドに入ろうとしたところ、金軍の南下という治安上の問題で許可が出ず泣く泣く帰国することに。だが、博多へ向けて乗船したが船が逆風で難破し温州に漂着。これがきっかけとなって天台山万年寺の高僧と出会い師事し、本格的に臨済禅(南宋禅)の修行を積み、明菴(みょうあん)の道号を与えられる。4年後(1191年)、宗の船に便乗して帰国に成功すると、筑前、肥後を中心に、まず北九州から戒律重視の臨済禅を伝え始めた。これは、当時の京都が天台宗&真言宗という平安時代が生んだ2大勢力の下にあり、すぐに新興宗教となる禅宗の布教活動を開始できる状況ではなかったからだ。
お経もなく、仏を拝むのではなく、座禅を通して自らが仏であることを悟る禅宗。栄西は旧仏教界との対立を避ける為に天台宗だけでなく真言宗も学ぶなど調和に努めたが、禅宗が広がるにつれ、それを快く思わない旧仏教界からの迫害を受ける。1194年(53歳)、比叡山からの告訴を受け、ついに朝廷から禅宗の布教禁止の命が出されてしまう。大宰府で尋問を受けた栄西は「禅は天台宗の復興に繋がる。禅の否定は最澄の否定だ」と主張してその場を押し切り、翌年には博多に日本初の禅寺となる聖福寺を建てた。
圧迫を受けて逆に禅を伝える使命感に火が付いた栄西は、1198年(57歳)、閉塞状態を打破する為に意を決して京都に入り、“禅は既存宗派を否定しておらず、目的はあくまでも仏法復興だ”と「興禅護国論」を記して弁明する。そして翌々年の1200年、今度は誕生から間もない幕府に庇護を求めて鎌倉へ赴き、禅宗の重要性を力説。厳しい戒律など精神性を重んじる禅に鎌倉武士は美学を感じ、将軍頼家や北条政子の帰依を得ることに成功した。そして政子の援助を受けて鎌倉での布教の根拠地となる寿福寺を建てた。
そして!幕府から京都に所有する直轄地を提供してもらうことで、1205年(64歳)、ついに禅寺(建仁寺)を「京都に建てる」という悲願が実現した。※スムーズに建仁寺を創建できるよう、栄西は同寺を禅宗、天台宗、真言宗の三派を学ぶ為の寺とした。
その後も栄西は禅宗の浸透だけにこだわるのではなく、日本仏教全体に活力を与える為に、1206年には東大寺勧進職に就任して同寺の復興に尽力した。朝廷や幕府の間を精力的に立ち回る姿が、比叡山から「政治権力に媚びる慢心の権化」などと批判されたが、この間も浄土宗が弾圧を受け法然が配流されており、逆にそこまでしなければ旧仏教側の妨害の中で新しい禅宗を広められなかったとも言える。1215年、寿福寺にて74歳で病没した。
栄西は2度目の渡航で大陸(宋)から茶の種子を持ち帰ると、長崎県平戸の千光寺、佐賀県背振山(せぶりやま、昔は茶振山と書いた)の雲仙寺・石上坊に植え、これが日本のお茶栽培の原点とされている。そして将軍源実朝に献上した「喫茶養生記」では「茶は養生の仙薬なり、延齢の妙術なり」とその薬効を説き、具体的に栽培の適地や製法、茶のたて方まで細かく解説し、日本における茶文化の祖となった。そして実際に実朝の二日酔いを茶が癒したことで、茶の普及が加速したという。
栄西が茶の栽培に積極的だったのは、単に健康に良いだけでなく、お茶の持つ不眠作用が禅の修行に不可欠と思ったからだ。
宇治以前の京茶の名産地は栂尾(とがのお)だった。栄西が栂尾・高山寺の明恵上人に茶の薬効を話して栽培を薦めた後、同地では茶栽培が盛んになり、栂尾の茶を「本茶」、それ以外のものを「非茶」と呼ばれたほどだったという。
法然は栄西より8歳年上。
 
栄西5

「茶は養生の仙薬なり。延命の妙薬なり。山谷これを生ずれば其の地神霊なり。人倫これを採れば其の人長命なり」
これは、入宋二度の後に日本臨済宗の開祖となった栄西が著した「喫茶養生記」の序の出だしであるが、
「人、一期を保つに命を守るを賢しとなす。其の一期を保つの源は養生にあり。其の養生の術を示すに、五臓を安んず可し、五臓の中心の臓を王とせむか。心の臓を建立するの方、茶を喫する是れ妙薬なり 」と茶による養生へと続き、
「今世の医術は即ち、薬を含みて、心地を損ず、病と薬と乖(そむ)くが故なり。灸を帯して身命を夭す。脈と灸と戦ふが故なり」と、当時の医療を痛烈に批判している。
身命を夭すとは若死を意味するが、それでは、栄西がこれを著した建保2年(1214)当時の病気と治療とはどういうものであったか。
そこで登場するのは藤原定家の「明月記」である。何故かと言えば、堀田善衛が藤原定家の実像を生き生きと浮び上がらせた「定家明月記私抄」を通読して強く印象に残ったのは、「幽玄な歌聖の定家」よりも「病のデパート定家」のイメージが勝るほど、当時の病気と治療法があからさまに記述されており、しかも、栄西(1141-1215)と藤原定家(1162-1241)がほぼ同時代を生きた事も相俟って、少し長くなるが、「定家明月記私抄」から定家の病状と対処法を年齢(数え年)を追って顕著な箇所を引用したい。
37歳
「心身忽チ違乱シ、俄ニ病悩。終夜辛苦ス」この記述から咳の病、気管支炎かと思われる病気が始まり殆ど生涯続いている。
38歳
正月元旦に「今年病息災ヲ除ク為」に写経をしたのも効果がなく、4日には「風気不快」となり、この年は風病だけでなく、脚気、腰痛、手足苦痛、咳病などに襲われ、腰痛のときは「焼石」という石を温めたものを腰に当てたが効果がないばかりかさらに悪化し、車に乗せられて嵯峨の山荘で湯治をする。
さらに7月には、「近日天下一同、病悩ト云々」と、子供三人が瘧(おこり:マラリア)を病み、8月には定家も発熱しはじめ「朝ヨリ垣山ノ湯ニ浴ス」と入浴したようだが「温気火ノ如シ。悶絶周章。終夜辛苦ス」と物凄く、
つづいて「発(オコ)り心地、傚験アルノ由」と九条富小路の地蔵堂に祈願に行くとさらに熱が出て、聖尊阿闍梨なる高僧から護身法なる密教の加持を受けて「今日無為落得シ了ンヌ。感慨極マリ無シ」と感激している。治療費と阿闍梨への謝礼と出費は甚大であった。因みに当時は39歳頃が初老期で、同胞に死没者もでてきている。
51歳
1月は「足弱ク」なり「行歩」困難になりかけ、21日には雨の中を有馬へ湯治に出かけているが余り効果がなかったようだ。
2月は14日は脚気、20日には咳病、26日には「日来の病上がり、また、腹中大イニ苦痛シ、堪ヘ難シ、若シクハ是レ石痳(せきりん:腎臓あるいは膀胱結石)の病気カ。終日病悩ス」という状態であった。
4月になると、「肩ノ病(神経痛かリュウマチの類」、「腹ノ雑熱」、9月には「腹ノ物、夜ヨリ殊ニ更ニ発(おこ)ル(発熱)の気有リ」で、医博士を招いて「大黄ヲ付ク」。
大黄は瀉下剤(下剤か嘔吐剤)の一種で、是で熱が下がったので大黄はやめて鹿角(ロクカク)をつけている。鹿角は鹿の角を微粉末にして飲む当時の一般的な薬で喘息に効用があるとされていた。
長くなったので端折って、
68歳
3月に「雑熱猶減ゼズ」、4月には咳の病が続き、5月13日「窮屈ノ余リ、持病発(おこ)ル」、5、6月の頃には左手が腫上がって痛むので灸や蛭で治療を施し、また、口熱(歯茎の腫れか?)が発し、6月16日、「午後、又蛭ヲ飼ウ(歯ニ少々、左手ニ卅許リ)。山月雲ヲ出デテ、暫ク晴ル」
この場面で堀田善衛氏は「蛭に血を吸わせる一件は、実に思うだに身の毛が弥立つ。歯に蛭をつけるとなれば、生きた蛭を口の中にいれることになろう。なんという気味の悪い、いや、気持ちのわるい事を平気で(?)やらかしていたものであるか。しかも左手にも三十匹もの蛭を!嗚呼!、それでいて、「山月雲ヲ出デ」と来るのである、嗚呼!」と怖気をふるっている!
まだまだ病状記述はつづくのであるが、何ゆえ私がが延々と定家の病状記述を引っ張り出したかといえば、これだけ多様な病気持ちでありながら、驚くべき事に彼は当時としては驚異的な80歳までの長寿を全うしたのである。因みに「喫茶養生記」を著した栄西も当時としては長命であったが、享年は定家より5年短い75歳であった。
さらに定家の父・偉大な歌人で「千載和歌集」撰者の藤原俊成は、後鳥羽上皇から九十の賀を催され、その席上であの閨秀歌人・建礼門院右京太夫が歌を刺繍した法衣の袈裟を上皇から賜る栄誉に浴して91歳で没している。
食料も粗末で医療も未熟なあの時代に、何故このように長寿を保てたのか、高齢化社会に生きる私達にとって大いに学びたい事である。
「茶は養生の仙薬なり。延命の妙薬なり」ではじまる「喫茶養生記」を著した栄西のの目に映った当時の日本の医療と養生の光景は、
「昔の人はあえて医療に頼らない方法で病気を治したのに、今の人は健康に対する配慮がいささか欠け、しかも、その医療といえば、薬を飲む事で却って体調を悪くしており、それは病気と薬が合っていないためであり、灸をして失わなくても命を失うような事があるのは、脈と灸がせめぎ合っているからである」
と、日本人の養生観の欠如と医療の後進性においてまことに危機的な状況であったが、これは何も1214年(建保二年)だけの事ではなく、2011年の日本にも当てはまる状況ではないか。
28歳の1168年に半年、47歳の1187年から4年間と、二度入宋した栄西は、「彼を失って二千年余り、一体誰が末世のわれらの血脈を診てくれるのか」と惜しまれた耆婆(※1)という名医が釈尊在世時代の印度に存在した事、「彼が隠れて3千年余り、近代の我らの医薬の処方を一体誰がしてくれるのか」と嘆かせた漢方医の神農(※2)が紀元前の中国に存在した事を知り、さらには、天竺・唐土で養生法としての飲茶が普及していた事を知るのである。
つまり、当時のインド・中国の医療・治療・養生法は最先端にあるのに、それに引きかえ、わが日本のそれはまことにお粗末であったことの危機感から、「茶の薬効」に焦点を当て、在宋中に見、聞き、読み、効験を経て習得した知識を集大成して「喫茶は養生の法である」と説いたところに栄西の画期性がある。
特に茶の効用に関しては、栄西がその名を知った時点で既に没後3千余年となる漢方医の祖・神農の医薬を漢代に体系化されたとする「神農本草経」にも、
「茶の味は甘く苦く、微寒にして毒なし。服すれば、瘘瘡(ろうそう:腫物・皮膚のできもの)無きなり。小便は利に、睡は少くし、疾渇(喉の渇き)を去り、宿食(消化不良)を消す。一切の病は宿食より発す」
と明快に記されている。
自らの舌で百草を舐めて医薬の礎を築いた神農の「本草学」、その後の中国だけでなく日本における漢方・本草学の発展を鑑みると、神農の先見性、先端性・実用性は4千年を経て、なお、輝き続けている。
ところで、栄西がどんな姿形をしているのかを知りたくて鎌倉国宝館に足を運んだ事は既に述べたが、会場での撮影は憚られたので、丁度手元にある(「栄西」 多賀宗隼著 吉川弘文館)に鎌倉国宝館で展示されたと同じ栄西木像が掲載されていたので、参考に此処に載せる事にした。
※1 耆婆(ぎば、あるいはジーバカ。釈迦時代の伝説的名医。ギリシャ植民地に近いタクシャシラーで医学を学び、王舎城に帰ってビンビサーラ、アジャータシャトル両王の侍医となる。深く釈迦に帰依して弟子の病を救ったといわれる。
※2 神農(しんのう):中国の農業神。三皇五帝の一人。戦国時代、諸子百家のうち農家が神農を奉戴した。百草を舐めて医薬を作り医薬の神と崇められる。この伝説に基づき480年ごろ作られた中国最古の漢方の古典「神農本草経」の原形は漢代に既に成立したと考えられているが原形は失われている。
公家から武士へ、平家から源氏へと支配者が移り変わる激動の時代に、備中国・吉備津神社の一神官の出に過ぎなかった栄西が、二度の入宋を経て権僧正まで上り詰めて75歳で入滅した生涯は「乱世の処世」として見事という他はなく、そこで、一体何が栄西をここまで押し上げたかを探ってみたいが、何といっても栄西が世に出る上で大きく物を言ったのは28歳での仁安3年(1168)の6ヶ月に亘る入宋と、47歳での文治3年(1187)の5年に近い滞在という「2度の入宋」経歴である。
ところで栄西が生まれた永治元年(1141)は近衛天皇が即位した年であった。白河院による院政開創以来56年目にあたり、律令政権・公家政権の崩壊前夜でもあった。余談であるが自らの天皇への道を断たれた雅仁親王(後白河院)が今様に狂い始めたのもこの頃であったとされる。
自ら出家を希望して13歳で叡山に上り14歳で受戒出家して天台の教義を学んだ栄西であったが、上層は宮家や摂関家出身者が独占し、下層は僧兵による寺門間争いや強訴に明け暮れる仏教界のあり方に疑問を抱き、日本の仏教を建て直すには大陸に渡って仏教本来の規範を求めるしかないのではと叡山から下山して筑前に活動の場を移しながら入宋を志すようになる。
しかし、しかし承和5年(636)を最後に遣唐使の派遣が途絶え、それ以降の平安期の入唐(にっとう)・入宋僧たちは、全て、中国人海商の貿易船に便乗して渡海せざるを得なくなり、晩年の「入唐縁起」に栄西が著したように、彼の入宋が成尋(じょうじん)の入宋以来78年目、古くは寂照(じゃくしょう)のそれより149年以来絶えて久しい大事業であり、莫大な渡航費と航海事情からしても命がけであったのだ。因みに成尋、寂照は共に彼の地で入滅して帰国を果たしていない。
また日宋貿易のありさまは、11世紀前半頃までの制度では中央から交易唐物使という貿易管理官が派遣されていたが、11世紀前後半以降になると国家財政の破綻により中央から交易唐物使の派遣は行われなくなり、そのため貿易管理の窓口が唯一大宰府に制限された事を考えると、宋に関する知識・情報入手並びに渡航ルートは極めて制限され、ごく限られた者にしか宋への道は開かれていなかった。
しかし、栄西にとって幸運であったのは、鎮西(九州)一帯に強力な影響力を持つ宗像大社の大宮司・宗像氏と栄西の生家・吉備津神社の神官・賀陽(かや)氏とが親戚関係にあった事から、大宰府を拠点とする宋人海商とのネットワークに接することが出来、さらにその中の豪商王氏と宗像氏が姻戚関係にあったことから資金面と渡航ルート確保の面から一気に入宋の可能性が開けたのである。
博多に拠点をおく宋海商たちの中には、大宰府による管理貿易体制の許で自身の交易を有利に進める為に、朝廷・官人・寺社などと濃密な関係を築いたり、大宰府官人を通して中央貴族層との接触を図る者がいただけでなく、11世紀後半以降になると日本人女性を母とする宋海商や日本人女性と婚姻関係を持っ宋海商も出現していた。
このよおうな環境の中から、栄西が繋がりを持ったその他の宋海商には、栄西に中国仏教事情を教示した博多津で海商を営む李徳昭(りとくしょう)や張国安(ちょうこくあん)、栄西の帰国船を提供した楊三綱(ようさんこう)たちの名前が取沙汰されている。
話はそれるが、第一回の入宋において栄西が明州で重源と出会い、彼と一緒の船で帰国している事は甚だ興味深い。
ここで平清盛と日宋貿易に触れたいが、遣唐使の停止以来諸外国との国交を断った朝廷が大宰府を唯一の窓口にして私貿易を管理していた事は前回述べた。
嘉応2年(1170)平清盛が福原の別荘に後白河院を招いて宋人を引見させたことを、右大臣九条兼実は「このような事はわが朝廷では延喜以来なかったことで天魔のなすところか」と「玉葉」に記し、清盛はもとより唯々諾々と清盛の誘いに乗った後白河院の軽率さをも非難した。
その2年後の承安2年(1172)9月に、宋朝から後白河院と太政大臣清盛に贈物が届けられた際の牒状の「賜日本国王」の文言が公卿達の間で物議をかもし、「賜」は国の体面に関わる事であるから贈物は返却し返牒には及ばないという意見が大勢を占めた。
それに対して平氏は日宋貿易による巨利を独占するために、大宰府から瀬戸内を含む隠岐・若狭・因幡・但馬・丹後・備前・讃岐・備前・美作・播磨等の国司を平氏で独占するなど着々と手を打ち、清盛に至っては後白河院好みの工芸・美術品入手の必要性も重なって、宋船をさらに都近くに引き込むために福原(今の神戸市兵庫区)の外港大輪田泊(おおわだのとまり)を日宋貿易の着港とすべく修築に着手していた。
そんな清盛にとって、宋朝からの贈物と牒状は願っても無い事であり、承安3年(1173)3月に宋国に返牒を与えたばかりか、贈物への答進物として後白河院は染革三十枚を収めた蒔絵の厨子一脚と砂金百両を納めた手箱一、清盛に至っては武器ともいえる剣一振と武具を入れた手箱一を贈って九条兼実を始めとする保守派の神経を逆なでしている。
何故、後白河院・平清盛と九条兼実を始めとする保守的な公卿との間にこれほどの温度差があるのか。
当時の宋朝の国運は下り坂に向かい、国運挽回策の一つとして海外に対しても国書を盛んに送って入貢を促し国威の浮揚を図ろうとして、わが国に対しても積極的に商船を渡航させて皇帝からの国書もしばしば送り、白河天皇在位14年の間には宋商船の来航が9回と記録されている。
それに対してわが国は、遣唐使停止以来外国との国書の交換や外国使臣の受け入れをしないことを国法と定め、宋からの国書に返書を送ることはなかった。九条兼実が「延喜以来なかった」と嘆いたのはそういう意味であり、高貴な者が外国人と対面する事は「恥ずべき事」とされていたのだ(因みに延喜とは醍醐天皇朝の年号で901年-923年を指す)。
とはいえ、当時は美術・工芸・典籍などの貴重品だけでなく、宮廷儀礼や内裏・公家の室内・室外装飾・唐衣など唐物は貴族の生活に深く浸透し、唐物入手に関しては平家に全面的に依存する状態になっていた。
日宋貿易を積極的に進めるには人的交流の活発かも不可欠で、重源の入宋三度、栄西の入宋二度はこのような時代背景のもとで実現したのである。
栄西の生まれた永治元年(1141)は平氏が全盛に向かって駆け上る時代であり、他方で、朝廷と共に「王法仏法」の一端を担う仏教界は、南都北嶺の宗派争い、山門(延暦寺)・寺門(園城寺)の天台宗間の争い、挙句は神輿や神木を掲げて大挙して朝廷に押しかける強訴と、鎮護国家を祈るべき本来の役割を放棄して武力闘争に明け暮れていた。
そんな状況下に、栄西が生まれた備中国を含む西国一帯は白河・鳥羽上皇の信任を得た平正盛・忠盛父子が代々国司を重任し、また、栄西の父・賀陽氏が神官をつとめる備中国一の有力神社の吉備津神社に平頼盛が大檀那として名を連ねていたとも伝えられている。
平頼盛は忠盛と池禅尼(※1)の間に生まれ清盛の異腹の弟に当たるが、栄西が入宋を志して筑前の宗像神社の大宮司・宗像氏の下に身を寄せていた時は太宰大弐(※2)として現地に赴任して日宋貿易を仕切り、さらに、宗像社の領家職(※3)も務めていたから宗像氏とも強い絆を築いていた。
その平頼盛が28歳の青年栄西の仏教界の現状を何とかしたいとの志を支援し、かつ、日宋間の人的交流の活発化も視野に入れて、仁安3年(1168)の栄西の初回の入宋に手厚い支援をした事は十分考えられる。
さらに栄西が宋からの帰国に際して、天台の貴重な典籍「新章疏(しんしょうそ)」三十余部六十巻を天台座主(延暦寺のトップ)明雲に献上した事は、一度は延暦寺で学びながら失望して山を降りたとはいえ、栄西がこの実力者から目をかけられていたことを物語る。
何しろ明雲といえば、天台座主として10年以上在位していたばかりか、平清盛の護持僧もつとめ、後白河院の寵臣・藤原成親(ふじわらのなりちか)を巡っては院との対立も恐れなかった権勢者でもある。
清盛の護持僧たる平氏の威力を背景にした明雲が、栄西の入宋に関しては、単に将来性ある有望な弟子の為だけではなく、明雲自身にとっても貴重な天台の典籍入手の機会として、自ら資金援助をしただけでなく平頼盛に支援を強く働きかけたのではないかと私は推測する。
つまり、平氏の時代、栄西は時の権勢者からの支援に恵まれていたのであった。
※1 池禅尼(いけのぜんに):平忠盛の後妻で清盛の継母。平治の乱後源頼朝の助命を清盛に嘆願した。
※2 太宰大弐(だざいのだいに):律令制下に九州諸国を統轄した大宰府の副長官。因みに長官は太宰帥(だざいのそつ)。
※3 領家職:荘園の荘務の権利を有する者。
半年の滞在を終えて重源と共に仁安3年(1168)9月に宋から帰国した28歳の栄西は、叡山に登って宋から持ち帰った天台の新章疏(しんしょうそ)三十余部8巻を天台座主明雲に手渡したものの、翌年には山を下りて備前に戻り、35歳で筑前今津の誓願寺に住持したものの、文治3年(1187)47歳で2度目の入宋を試みるまで表舞台に姿を現していない。
たったの1度とはいえ「入宋」という箔をものにし、さらには天台座主明雲という叡山の最高権力者から目をかけられながら、その19年間に栄西の名が都の耳目をそばだてたのは、文治元年(1185)に後鳥羽天皇の勅命により神泉苑で降雨を祈って忽ち雨を降らし、この効験により天皇から「葉上」の号と、平頼盛の奏によるとされる「紫衣」を賜る栄誉に浴した事ぐらいである。
このような輝かしい経歴を持ちながら、栄西は何故19年もの長きに亘って備前と筑前に留まり、そして何故、齢47歳にして再び入宋を志すに至ったのか、以下に独断に基づく私の推測を展開してみたい。
私の見るところでは、栄西の1度目の入宋と2度目の入宋では求めるものが大きく異なっていた。であるからこそ、2度目のそれは、1度目の半年間の滞在と比較しても余りにも長い5年の歳月を要したのである。
そこで、先ず、最初の入宋を志すに至った理由を当時の時代背景をざっくりと描きながら探ってみたい。
栄西が生まれた永治元年(1141)は近衛天皇が即位した年であり、平氏が全盛に向かって駆け上がり、他方で、朝廷と共に「王法仏法」の一翼を担う仏教界は、南都・北嶺、山門(延暦寺)・寺門(園城寺)の争いを展開し、挙句に神輿や神木を掲げて大挙して朝廷に押しかけて強訴を繰り返すなど、鎮護国家を祈るべき本来の役割を放棄して武力闘争に明け暮れていた事は既に述べた。
実際に栄西が生まれた翌年の康治元年(1142)には山門(延暦寺)・寺門(園城寺)の争いで寺門の衆徒が山門の堂塔を焼却し、久安元年(1145)年には興福寺が金峯寺だけでなく東大寺とも事を構え、その翌年には再び山門・寺門が争闘し、更にその翌年には延暦寺の衆徒が神輿を奉じて大挙して入洛し平忠盛・清盛父子を訴える一方で、彼らのトップである天台座主行玄を放逐してその住房を打ち壊し、その翌年の久安4年(1148)には今度は興福寺の衆徒が大挙して入洛して強訴に及びぶという、仏教界が大荒れに荒れた状況の中で、備中国で8歳を迎えた栄西は父の勧めで天台の教義を学習し、他方、備中国からほど近い美作国で生まれた10代前半の法然が叡山に登って受戒していた。
そして栄西が14歳で落髪して叡山の戒壇院で受戒した翌年の久寿2年(1155)には、世間の予想を大きく裏切って立太子を経ない29歳の後白河天皇が即位し、この即位のいきさつを引き金に保元の乱と平治の乱が間をおかずに起こり、その戦後処理として従来の「遠島」「配流」などといった生ぬるい処罰ではなく、300年ぶりに「死刑」が復活して血生臭い「武者の世」の到来を世間に知らしめたのであった。 「僧兵が先か武士が先か」、これはよく議論になるテーマであるが、僧兵対策の傭兵として白河・鳥羽法皇は平氏を、摂関家は源氏を重用する中で、武士は存在感を益々強めて中央政権への階段を登るまでになったと私は思っている。
このような「武者の世」の到来が、衆徒の闘争を一層先鋭化させたことは間違いなく、院政期にはいると、衆徒は末社関係にある神社の神人と結託して(例:延暦寺の僧は日吉社の神人と、興福寺の僧は春日社の神人と)、神輿を奉じて数千人規模で嗷訴を繰り返し、公家体制を脅かすだけの戦闘力と経済力を備えるまでになり、栄西が身を置く仏教界、特に延暦寺は学徒よりも袈裟の下から鎧を覗かせ寡頭頭巾に刀杖(とうじょう)を携えた僧兵が跋扈する世界に変貌していた。
そのような状況下に、叡山を去った法然は仁安元年(1166)に浄土宗を開き、方や栄西は新たな信仰を模索して入宋を志し、赴いた筑前の宋海商や通事から「宋国で禅宗が盛んなこと」を聞き、仁安3年に28歳にして入宋を決行する。
京の公家政権と鎌倉の武家政権と二つの政権が成立した後、鎮西で退避していた栄西が最初に進出したのは鎌倉であった。
その栄西の鎌倉での沙汰が初めて見られるのは「吾妻鏡」正治元年(1199)9月26日の条で、幕府において不動尊供養の導師を勤めたとあり、既にこの年の正月に没した源頼朝の冥福を祈る供養に、栄西の縁戚で幕府の御家人となっていた宗像氏のはからいで赴いたものとされる。
ここで見逃せないのは、栄西が建久9年(1198)に禅宗こそ護国に必要であるとの「興禅護国論」を著し、そのためには戒律の復興が不可欠であると強く主張していた事で、南都北嶺が中心の「王法仏法」に代わる新たな仏教を鎌倉幕府も模索していたと思われる。
「興禅護国論」には、栄西が宋から帰国する前年の建久1年(1190)第16代天台座主となった前大僧正公顕が南都受戒であったとの理由で堂衆の抵抗で放逐されたことなど、学匠と堂衆間で日常的に闘争が繰広げられていた事から、僧風の粛正を期すだけではなく、叡山の天台とも一線を画す気概も込められていた。
鎌倉からの招請はこのような栄西の姿勢を評価したものであり、栄西自身にとっても叡山の騒動から少しでも遠ざかって興禅を展開したいという思惑と一致したのである。
鎌倉で頼朝の冥福を祈る不動尊供養の導師を勤めた翌年には、北条政子が施主となり、頼朝の父・義朝の邸跡後の寄進を受けて栄西を開祖とした寿福寺を造営され、ここに政子だけでなく二代将軍頼家からの信頼を得ることになり、その頼家は朝廷と幕府との和合策として建仁2年(1202)に京に栄西を開祖とする建仁寺の建立を推進する。
この構想を受けて、まだ鎌倉に留まっていた栄西は、叡山の眼下に位置する新寺という性格上、先ずは、叡山対策として新寺を純粋の禅寺とする事に慎重な態度で臨み、禅宗・真言宗・天台宗の三宗を併設する旨を朝廷に申し出て宣旨を仰ぎ、いわば朝廷と幕府の保証の下に三宗をおいて叡山の出方を待つというしたたかな姿勢にでている。
しかし栄西が建仁寺を禅宗に限定しなかったのは上に挙げた叡山対策だけではなく、京都に公家政権、鎌倉に武家政権の樹立をみたからには、叡山に代わる新しい仏教の総合道場を京に造営する必要を打ち出したのであり、元久2年(1205)に建仁寺が官寺に列せられたことで彼の望みはほぼ達成されたといえる。
齢65歳にして栄西はやっと京と鎌倉への二都進出が実現したことになるが、その翌年には、東大寺復興事業の指揮を執った重源が寂するに際して、栄西から菩薩戒を受けた事もあり、栄西は勅命によって重源から東大寺大勧進職を引き継いだ。
その後は、承元3年(1209)に白河法王建立の朝廷の御願寺の象徴といえる法勝寺の九層塔が焼却した際には勧進職の勅命を受けて復興の陣頭指揮を摂り、建保3年(1215)に75歳で寂するまで、京と鎌倉を行き来しながら「喫茶養生記」「入唐(にっとう)縁起」などを著したたが、本格的な禅宗の確立は入宋後一時栄西の建仁時に身を寄せた道元の出現まで待たなければならなかった。
 
建仁寺

建仁2年(1202)将軍源頼家が寺域を寄進し栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建立されました。元号を寺号とし、山号を東山(とうざん)と称します。創建時は真言・止観の二院を構え天台・密教・禅の三宗兼学の道場として当時の情勢に対応していました。その後、寛元・康元年間の火災等で境内は荒廃するも、正嘉元年(1258)東福寺開山円爾弁円(えんにべんえん)が当山に入寺し境内を復興、禅も盛んとなりました。
文永2年(1265)宋の禅僧、建長寺開山蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が入寺してからは禅の作法、規矩(禅院の規則)が厳格に行われ純粋に禅の道場となりました。やがて室町幕府により中国の制度にならった京都五山が制定され、その第三位として厚い保護を受け大いに栄えますが、戦乱と幕府の衰退により再び荒廃します。
ようやく天正年間(1573-1592)に安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が方丈や仏殿を移築しその復興が始まり、徳川幕府の保護のもと堂塔が再建修築され制度や学問が整備されます。
明治に入り政府の宗教政策等により臨済宗建仁寺派としての分派独立、建仁寺はその大本山となります。
また廃仏毀釈、神仏分離の法難により塔頭の統廃合が行われ、余った土地を政府に上納、境内が半分近く縮小され現在にいたります。
栄西
開山千光祖師明庵栄西(みんなんようさい)禅師。永治元年(1141)4月20日、備中(岡山県)吉備津宮の社家、賀陽(かや)氏の子として誕生しました。11歳で地元安養寺の静心(じょうしん)和尚に師事し、13歳で比叡山延暦寺に登り翌年得度、天台・密教を修学します。そののち、宋での禅宗の盛んなることを知り、28歳と47歳に二度の渡宋を果たします。2回目の入宋においてはインドへの巡蹟を目指すも果たせず、天台山に登り、万年寺の住持虚庵懐敞(きあんえじょう)のもとで臨済宗黄龍派の禅を5年に亘り修行、その法を受け継いで建久2年(1191)に帰国しました。
都での禅の布教は困難を極めたが、建久6年(1195)博多の聖福寺(しょうふくじ)を開き、「興禅護国論(こうぜんごこくろん)」を著すなどしてその教えの正統を説きました。また、鎌倉に出向き将軍源頼家の庇護のもと正治2年(1200)寿福寺が建立、住持に請ぜられます。
その2年後、建仁寺の創建により師の大願が果たされることになりました。
その後、建保3年(1215)7月5日75歳、建仁寺で示寂。護国院にその塔所があります。また師は在宋中、茶を喫しその効用と作法を研究、茶種を持ち帰り栽培し、「喫茶養生記(きっさようじょうき)」を著すなどして普及と奨励に勤め、日本の茶祖としても尊崇されています。
茶祖
建仁寺開山・栄西禅師が、中国から茶種を持ち帰って日本において栽培を奨励し、喫茶の法を普及された事はあまりにも有名です。
開山以前、我が国に茶樹がなかったわけでも、喫茶の風がなかったわけでもありません。
我が国に茶の種が入ったのは、古く奈良朝時代と思われます。下って平安時代には、貴族・僧侶の上流社会の間に喫茶の風が愛用されました。
開山が少年時代を過ごされた叡山にも、伝教大師以来、古くから茶との結びつきがありました。この伝統の影響を受けられた開山が、茶種の招来、喫茶の奨励、いままでごく一部の上流社会だけに限られていた茶を、広く一般社会にまで拡大されたということができます。
喫茶の法の普及と禅宗の伝来とは深い関係がありました。
禅宗僧侶の集団修道生活の規則は、すでに中国において唐代に確立し、これを清規といいます。「清規」とは清浄なる衆僧の規則という意味で、その清規の中に茶礼・点茶・煎茶や茶についての儀式が多くあります。
特に座禅の際行う茶礼は、眠気覚ましには特効薬的意味もあって、修道にはなくてはならない行事です。
また座禅修行者に限らず、一般の人に対して茶は保健上から良薬であると、茶徳を讃得たのが開山の「喫茶養生記」です。
上下二巻にわたり、喫茶の法、茶樹の栽培、薬効等茶に関する総合的著述になっています。
そして「茶は養生の仙薬・延齢の妙術である」という巻頭語の所以を詳述しました。
開山は再入宋後、茶種を持ち帰り、筑前の背振山に植えられました。これが「岩上茶」のおこりだといわれます。また、開山が栂尾の明恵上人に茶種を贈られたことも有名で、「栂尾茶」の始まりといわています。宇治の茶は、この栂尾から移されたものです。
茶は今日では日本人の日常生活に欠くことのできない飲料であるばかりでなく、茶道の興隆と共に、東洋的精神の宣揚にも役立っています。建仁寺開山・栄西禅師が日本の茶祖として尊崇されるのはそのためです。
禅の教え
最小限、最低限のもので生活していくというのが私たちのやり方ですね。贅沢というものは煩悩、妄想であって、それを外すというのが私たちの大きな目標です。眠るのも最低限。寝る場所も畳一畳。寝て一畳、起きて半畳といいますから。
修行道場の禅堂では、みなの生活するところは本当に畳一枚が自分の場所として与えられ、就寝も食事も座禅もそこで行います。持ち物は体にくっつけられるものだけ。余分なものは持たない。それでじゅうぶん、生活できるんです。我慢しているわけではない。不自由ではないんですね。
簡素に生きる。これがいちばんの贅沢だと思います。なかなかできないかもしれませんが、やってみると一番の贅沢だということがわかると思います。満足の上限をおさえれば、心穏やかでいられます。
寒い時に寒くなる。当り前のことです。でも、暖房を入れたら、少しでは満足できない。暑い時にも中途半端な涼しさでは満足できない。いっそのこと暑いときには暑い生活をしてしまえばいいんです。庭に水をうつ。それで涼が得られたんですからね。
大いなる哉心や-仏教徒の心、生き方- 
月を調べ、探求しても月にはなれない。仏教を学び、研究しても仏教徒にはなれない。知識を得ることよりも、心を得、生き方、在り方を大切にする。
栄西禅師の「大いなる哉心や」というのは、人間はどうあるべきか、どう生きるべきかという「心」、仏教徒としての「心」の持ち方であろう。
そこで、どのような「心」を持ち、どのような人であるべきかを語りたい。
仏教徒であると胸を張って言え、神仏を尊び、祖先を敬う心を持ち、深々と仏様に頭を下げられる人。
生きることにも死ぬことにも、こだわらない人。
苦しいことにも楽なことにも、こだわらない人。
腹八分目で辛抱する人。
勢いはあるが、それをセーブできる人。
怒りを捨て、恨み心を制御できる人。
幸福を独り占めにしない人。
石頭でなく、間違った相手をとことん追いつめない人。
心の自由な人。
眼光は鋭いが、目に涼しさのある人。
忍び耐えることが出来る人。
道を求める人。
自己に勝てる人。
働くことが嫌だと思わない人。
自分の行いに反省が出来る人。
愚痴を言わない人。
放逸、愛欲に溺れない人。
物事を楽観的にとり、人生にくよくよしない人。
自己のものを他人に供養できる人。
他人に優しく、自分に厳しく、責任を自己のこととし、相手に転嫁しない人。
フェアー(公平)で差別のなく、他人を大切にし、他人を愛せる人。
全ての生き物を大切にし、命あるものを損なわない人。
相手の行為を悪く考えず、他人に利益を与える人。
人の言葉を素直に聞ける人。
生かされる自分を知っている人。
ありのままの姿を出すことの出来る人。
人に対して親切にしていると言わない人。
裕福でも裕福な素振りを見せない人。
いつも活き活きと生きている人。
裸になっても光り輝いている人。
今生きていることに感動を覚える人。
足ることを知る人。
願いのある人。
外には求めず、内に求める人。
質素を愛し、ものをどんどん捨てていける人。
戦後まもない頃、米国人は日本人を見て「日本人は貧しいけれど、気高い国民である」といった。
今日、日本人は貧しいといわれることはなくなったが、気高いといわれることもなくなった。
私は、仏教徒の「心」がなくなった様な思いがする。栄西禅師の八百年遠諱にあたり、その「心」を考えてみてはどうだろうか。
戒律
栄西禅師は、建仁寺の僧侶、あるいは弟子たちに厳しく戒律を守るように言われた方であると伝えられている。
仏教徒にとって戒律を守ることは大切なことであり、生きていくうえの心の支えでなければならない。
そこで、私たちが守らなければならない戒律を以下に記す。
ものの命を殺すことなかれ
人のものを盗むことなかれ
男女の道をみだすことなかれ
うそ偽りを言うことなかれ
酔いしれて勤めを怠ることなかれ
他人の過ちを言いふらすことなかれ
己を誇り他をあしざまに言うことなかれ
人に与えることをおしむことなかれ
いかりによりて自分をとり乱すことなかれ
仏や三宝に不敬の念をいだくことなかれ
この戒律は、仏教徒の基本であり、誰がみても大切なことだと思うが、なかなか守れない。守れなければどうするか、「懺悔せよ、懺悔せよ」ということである。
栄西禅師八百年遠諱にあたり、強く守るようにいわれた栄西禅師の教えをもう一度振り返ろうではないか。
 
興禅護国論(こうぜんごこくろん) 1 

鎌倉時代初期、日本に臨済宗を伝え広めた栄西による仏教書。栄西が禅の布教にあたったとき、南都北嶺より激しい攻撃が加えられたのに対し、禅宗の要目を論じた著作。栄西にとっては主著にあたり、「日本における禅宗独立宣言の書」とも評価される。
建久9年(1198年)以前の成立と考えられる。全3巻で、禅宗は決して天台宗の教えに違背するものではなく、根本的には対立・矛盾するものではないとして、仏典(経・律・論)において説かれる禅の本旨を述べた著作である。仏道を追究して悟りを得ることのできる人の心の広大さを称える一文「大いなるかな、心(こころ)哉(や)」で始まり、全編は、第一「令法久住門」、第二「鎮護国家門」、第三「世人決疑門」、第四「古徳誠証門」、第五「宗派血脈門」、第六「典拠増進門」、第七「大綱歓参門」、第八「建立支目門」、第九「大国説話門」、第十「回向発願門」の10門に分けられる。禅の普及に圧力をかける南都北嶺とくに山門(比叡山延暦寺)に対する弁明・反論と朝廷から布教の許可を得ることを目指して著述された。
建久6年(1195年)の『出家大綱』、元久元年(1204年)の『日本仏法中興願文』とならび、栄西の思想を知るのに重要な著作である。原文は漢文で、巻首には筆者不明の栄西の伝記、巻後には栄西自身による『未来記』が付されている。
経緯と目的
建久2年(1191年)、2度目の渡宋を終えて南宋より帰国した栄西は、九州地方北部において、聖福寺(福岡市博多区)をはじめ、徳門寺(福岡市西区宮浦)、東林寺(福岡市西区宮浦)、誓願寺(福岡市西区今津)、報恩寺 (福岡市東区香椎)、龍護山千光寺(福岡県久留米市)、智慧光寺(長崎県高来郡)、龍灯山千光寺(長崎県平戸市)、狗留孫山修善寺(山口県下関市)などを構えて禅の普及に尽力したが、建久5年(1194年)7月5日、日本達磨宗の大日房能忍らの摂津国三宝寺の教団とともに布教禁止の処分を受けた。
いっぽう筑前国筥崎(福岡市東区)の良弁という人物が、九州において禅に入門する人びとが増えたことを延暦寺講徒に訴え、栄西による禅の弘通を停止するよう朝廷にも働きかけたため、建久6年には関白の九条兼実は栄西を京に呼び出し、大舎人頭の職にあった白河仲資に「禅とは何か」を聴聞させ、大納言の葉室宗頼に対してはその傍聴の任にあたらせた。しかし、京の世界にあっては禅を受容することは難しいものと判断された。
そこで、明菴栄西によって、禅に対する誤解を解き、最澄(伝教大師)の開いた天台宗の教学に背くものではないとして禅の主旨を明らかにしようとして著されたのが本書である。九州で著されたと考えられる。栄西は、禅を興すことは王法護国をもたらす基礎となるべきものであるという自身の主張から、経典『仁王護国般若波羅密多経』の題号により『興禅護国論』と命名した。
内容
上述の通り、本書は10門より構成されており、それぞれの内容は以下に示す通りである。
○ 第一「令法久住門」…仏法の命の源は戒にあり、戒律を守って清浄であるならば仏法は久住する。
○ 第二「鎮護国家門」…般若(=禅宗)は戒を基本としており、禅宗を奉ずれば諸天はその国家を守護する。
○ 第三「世人決疑門」…禅に対する無知や疑惑、いわれなき誹謗(禅は悟りのない禅定をするだけである、「空」だけを強調する誤った教義であるなど)に対する反論。偏執の世人に対する批判。
○ 第四「古徳誠証門」…古来の仏僧は禅を修行したことの証拠。
○ 第五「宗派血脈門」…仏の心印は途絶えることなく栄西に至っていること。
○ 第六「典拠増進門」…諸経論のなかにおいても教外別伝・不立文字の教えが説かれていること。
○ 第七「大綱歓参門」…禅は仏教の総体であり、諸宗の根本であるとして以心伝心の真義を明らかにし、禅宗の大要を示す。
○ 第八「建立支目門」…禅宗の施設・規式・条件などを示し、宗教界の刷新改革と戒律の重要性を説く。
○ 第九「大国説話門」…インド・中国における禅門について示す。
○ 第十「回向発願門」…功徳を他にふり向ける心を発せさせることの重要性を示す。
栄西は、この書において、戒律をすべての仏法の基礎に位置づけるとの立場に立ち、禅宗はすべての仏道に通じていると述べて、念仏など他の行を実践するとしても禅を修めなければ悟りを得ることはできないとした。また、生涯を天台宗の僧として生きた栄西は、四宗兼学を説いた最澄の教えのうち、禅のみが衰退しているのは嘆かわしいことであるとし、禅宗を興して持戒の人を重く用い、そのことによって比叡山の教学を復興し、なおかつ国家を守護することができると説いた。そして、禅宗に対する批判は、比叡山そのものを謗ることになると主張した。
この論を著述するにあたっては数多くの仏典が引用されており、引用にはすべて典拠を掲げて厳正を期している。
なお、栄西の手になる『未来記』1編は、自身の死去50年後には日本で禅の隆盛が訪れんことを期待するというもので、これは、日本の天台僧覚阿も師事した中国の高僧、杭州霊隠寺の仏海禅師慧遠が宋の乾道9年(1173年、承安3年)に自身の入滅後20年には禅は日本に渡って興隆すると予見したことを踏まえ、自身の帰国はこれに適合することを訴えたうえで禅の将来への期待を示したものであった。 
 
栄西の『興禅護国論』 2 

栄西は建久二年(一一九一)七月、第二次の入宋から帰国し、虚庵懐倣の黄竜派の臨済禅を伝えた。平戸葦浦に着船してその地にあって直ちに禅規を行つたといわれる。その禅を伝えたことはいつにまず禅規を行うことにあったであろう。
禅の我国への将来は既に早くにあつた。栄西はもとより自分のその所伝が最初であるとは思わなかつた。ただ禅の所伝があつたとしても、禅が一宗として伝わり独立した教えとして行われるに未だ至らなかつたことを思うにつけ、栄西にはそれを一宗として伝え、興そうとする抱負があつた。栄西は若くして叡山の教学を修めている点、円・密・禅・戒の四宗のなかの禅を通じて、禅への関心と理解とを深めてはいたであろうが、そのことと独立した一宗とそれを見ることとは同じではなかつた。
栄西が禅規を行ったことは、その違いを明かにすることにあったともいい得る。このことは一宗の独立宣言にも連らなり、それをいち早く察知するものがあつても不思議ではない。筥崎の良弁は叡山を動かして栄西の布教活動の停止を朝廷に訴えた。しかしそうしたなかにも栄西のために博多の聖福寺が建つた。二度まで入宋を果した栄西への人々の帰依は、博多を中心に巾広く弘まった。仏教界のエリートとして時代に迎えられた。
栄西は良弁の抵抗を斥けて上京することになった。栄西が上京を急ぐについては、急がなくてはならない理由があつた。それは禅の一宗の独立について既に標榜となしていた先駆者が京都にあつたということである。それは達磨宗の一派である。
達磨宗は摂津三宝寺の大日能忍が、無師独悟して称えた一宗であつたが禅が師承を重んずることから、弟子の練中、勝弁を育王山の拙奄徳光のもとに遣わし、間接的ではあったが拙奄から能忍は「異域の信種」(『元亨釈書』栄西伝)と憐まれて、その法を嗣ぐことを許された。拙奄は大慧宗某の法嗣である。随って能忍は大慧下の禅を挙揚していたことになる。大慧は円悟克勤の法嗣であり、中国におけるその禅の系譜は楊岐派に属し、栄西の伝えた黄竜派とは別派をなした。能忍の弟子に覚曼があり、覚曼門下には多くの逸材があってその法系は大いに栄えた。
栄西が上京して禅一宗の独立を宣言するには、まず何んとしても達磨宗との対決が必要であった。栄西の『興禅護国論』の撰述の意図はまずここから始つたと考えられる。
建久五年(一一九四)七月五日、栄西は対決しようとしていた達磨宗と共に、栄西の禅もまた達磨宗と見倣されて、一宗の活動の停止という予期せぬ宣下を蒙つた。
「入唐上人栄西、在京上能忍等、令レ建一一立達磨一之由風聞可レ被二停止一之旨、天台宗僧徒奏聞云々、可レ従二停止一之趣被二宣下一云々」(『百錬抄』巻十)
それは叡山の僧徒の奏聞から起つたことによるが、叡山からの圧迫については栄西は弁明の余地をもっていたものの、達磨宗と一律に停止を蒙つてはすべはなかった。
ここにおいて栄西は、興禅護国をいうのに鉾先きを転じ、一宗の独立を期する基盤を固めるべく計った。
それは日蓮が『開目抄』のなかで、建仁年中に法然と能忍とがあつて、その念仏宗と禅宗との両義が国土に充満したといっつているように、能忍の禅と共に法然の浄土教が盛大な勢力をなすに至つていたことである。法然の『選択本願念仏集』が文治六年(一一九〇)頃に成立していたであろうことを考えると、栄西が葦浦に帰着した頃にはその浄土教は一宗の形態をなすまでに弘がっていた。この例を見た栄西は禅宗の独立もさまたげられるような状勢、事態には最早ないと恐らく思ったに違いなかろう。
ついては禅宗が一宗として独立し得る所以を宣言すべく、浄土教と対決を企てた。この点、興禅は達磨宗に対する興禅もさることながら、浄土教に向けられたそれであつた。栄西は興禅を称えるのに叡山に対して「この宗の絶えたるを慨き…廃せるを組し絶えたるを継がんと欲する」(『興禅護国論』第三門)ものであり、「陵遅の禅を興さんと欲する」(同)ものである限り、叡山からの圧迫は免がれ得たが、その興禅が禅一宗の独立を意味するのであったとしたら、栄西の弁明は成立すべくもなかつた。この点、栄西は慎重であり、その配慮は周倒であつた。
栄西は興禅を主張するのに、まず持戒主義を唱えた。このことは『興禅護国論』の一貫した主張であったが、この戒律重視は叡山の四宗の一つである戒を復興することでもあったのであり、叡山の教学の一端を旺んにするものですらあった。この限りにあつては叡山の圧迫など受ける筈はなかった。栄西は正法として久住せしめるのは、いつに戒律を持することにあるとし、禅宗は正しく戒律を持することにおいて、正法を久住せしめる教であると説いた。正法を久住せしめるということは、世は末法であるとして時の推移に任すのではなくて一末法であればそれを正法に返さなくてはならないとし、ためには持戒につとめるのがその要件であると説いた。
栄西が正法の久住をいい、持戒主義を主張した意図は一体奈辺にあったかといえば、それは法然に対してであつたのではなかろうか。法然は世は末法であるとし、『末法燈明記』に「末法の中に戒律者ありといふは怪異なり、市の中に虎あらん如し」といっているのを引き、持戒を求め望んでも叶えられ、ることではないとし、阿弥陀仏の本願による往生を説いて、若し持戒によって往生を遂げるというであれば、「破戒無我の人は定めて往生の望みを絶たん」(『選択本願念仏集』)といつて、持戒をもつて往生の要因とはしなかつた。法然によっては持戒は余行雑行でしかなかった。弥陀の本願による往生は、取りも直さず難行易行をいう易行の教えであり、自力他力でいえば他力の教えである。易行他力の教えこそは、末法にあつては時機相応の教えであると、法然は説いて止まなかった。
このことは法然が現実主義に立つたのに対して、栄西は理想主義に立つたといい得る。法然は易行他力の教えによって、教えの焦点を多くの民衆に、しかもその底辺にまで推し進めて説いた。そこには栄西とは自から立場の相違があつた。もとより栄西もまた諸の有情と共々に禅の修行につとめ、無上菩提を得べきであると説いたが、そこには国家を護して群生を利せしめるということが期され、日本国の仏法を興すものがなくてはならないと説いた。仏法を興すという意味を法然とは大きく別にしたのである。日本仏教はインド仏教でもない中国仏教でもない仏教でなくてはならないことは天竺・唐土にはすでに仏法が滅していることを顧るにつけ、二度まで宋に留学した栄西にはそのことが常に念頭にあった。正法国家を樹立しなくてならないという切なる願いがあつた。粟散のような小さな島国の日本であることを思うにつけ、天竺・唐土の大陸の国に比するには、正法国家をもて樹立することより外には対等に位置する道はなかつた。
『選択本願念仏集』が弥陀の本願を選択するものであるとすれば、興禅は護国を選択したものと、この場合云い得るかも知れない。栄西は『興禅護国論』の第二門に「鎮護国家門」を立て、そのm頭に『仁王経』をおいて
「仏、般若をもつて現在・未来世の諸の小国王等に付嘱して、もつて護国の秘宝とすと。その般若とは禅宗なり、謂く境内にもし持戒の人有れば、すなはち諸天らの国を守護すと云云」
といって、持戒者があれば諸天はその国を守るといい、「戒律はこれ令法久住の法なり、今この禅宗は戒律をもつて宗とす、故に令法久住の儀なるのみ」(同)といって、興禅の禅宗は禅戒一致によるものであることを、力説して止まなかつた。
栄西の持戒主義は南都の解脱房貞慶の唱えた持戒主義に呼応するものがあり、貞慶は元文二年(一二〇五)に興福寺僧綱等が、法然の念仏興行を停止せんと朝廷に訴えた時、そのための奏状を草していて、同時代にあって法然と貞慶とは立場を別にしたが、こうしたことのあつた背景の下に、栄西が法然批判を昂めたことは充分推測し得られる。この貞慶に『戒律再興願文』があるが、栄西には『日本仏法中興願文』がまたあり、共に戒律なくしては仏法は存立しないことをいうにつけ、殊に栄西はその願文にあっては沙門の持戒を重視し、「沙門を誘進し、比丘を勧励して梵行を修し、戒律を持たしむるは、仏法再び興り、王法永く固からかんか」といつている。
栄西は持戒を必らずしも難行・苦行とは考えず「鈍根小智いへども、持戒清浄ならば業感消除し、心月朗然たらん」(『論』第七門) といい、鈍根小智であるからといつて、持戒はなし得ないとはしなかつた。
この点、栄西は敢て大乗戒・小乗戒を区別せず、「仏法の本意は唯だ悪を避け非を防いで、もつて旨とするなり、その持犯開遮は、意に得てこれを修せば、ならびに妨げ無けんか」(同)といい、大乗戒・小乗戒は如来禅修入の方便」(同)でしかないとなした。
また出家の受戒をいうのに、「大乗戒、小乗戒は人の情に在り、但だ大悲利生の情存するのみ、今この宗は戒の大小を撰ばず、偏へに梵行を持することを尚ぶ」(同、第八門)といっていることは、戒律の復興を期するには大小乗戒の区別に捉われては果し得ないことをいっている。大乗禅を伝え唱えた栄西の禅は、戒律の上にあってもまた大乗戒でなくてはならなかった筈であったが、栄西は大乗戒も小乗戒も共に仏戒であるのに変りはないとなした。
もつとも栄西の著に『円頓三聚一心解〔和解〕』があり、その冒頭に「先ツ一代聖教ノ所説ノ大小権実ノ戒、浅深ノ差別ヲ知ルベシ」といっていることと、それをどう会通するかである。釈尊一代に説くところの戒は多いが、これを総括すれば人天戒、小乗戒、菩薩戒、仏戒となるとし、人天戒を持つことはその果報を、小乗戒を持つことは声聞・縁覚の果報しか受けられないとし、小乗戒については、「儀法ノ中比ロ、早早失却シヌ、此ノ末法ニハ跡形モナキナリ、然ルニ近比モテナレテ学スルコト、石ヲイダイテ淵二入ガ如シといって、近頃小乗戒を学することを説いているものに対して批判を加えていることは、大小乗の戒を撰ばないといっていることとどう解釈すべきかである。
要は円頓三聚一心戒といっているのは仏戒に外ならず、菩薩戒は仏戒に納まるものであろうが、仏戒とは衆生を仏と成す戒のことであり、一心とは「我心ガ仏ニテアリケルト云事」を覚知することであり、「実二此ノ一心ヲ悟リ知リヌレハ、小物ニモ非ズ亦大物ニモ非ズ」といっていることから推して考えれば、そこには最早、小乗戒も大乗戒もないというのであろうか。大小乗の戒の区別は戒そのものとしてはもとよりなくてはならないが、「我心ガ仏ニテアリケルト云事」を覚知し得た上は、その区別に拘わるべきものはないといっているものと、解釈しなくてはならない。
栄西は戒法がなくしては、令法久住は有り得ないことを極力主張するにつけても、それが教法上の諄論として、「もしは大、もしは小」というのであつたら、それは「みな益するところなし」(同、第七門)といい、持戒の問題は謬論ではないとし、更に語を続けて「乃至、円融無作も口に説いて心に合せずんば、渇乏のもの猿美味冷水を談ずれども、しかも口喉に入らざるが如し」といつていて、円融無作1 ここでは一心戒をいつていよう- も、それが覚証の体験を経たものでなくては、意味のないものであることをいつている。
栄西が『興禅護国論』の序の初めに「大いなる哉心や」といい、吾れ已むことを得ずして、強ひてこれに名つく」といつて、この心の意味は「最上乗と名づけ、また第一義と名づけ、般若実相と名づけ…また正法眼蔵と名づけ、また浬繋妙心と名つく」といつているが、ここで最上乗といつているのは大乗をもつて最上乗とするに止らず、大小乗の区別を超えた最上をいっているに違いなく、このことは戒律の上においても、いわんとしているものと見て間違いなかろう。
そしてその「大なる哉心 や」といわれる心は、「心水澄浄」(同、第七門)といわれる心でなくてはならぬことはいうまでもないが、その心水の澄浄は「身心を決択し、戒律を守護」することによつて得られるのであり、その大いなる心をいうについては「この宗は強いて持戒を勧む」(同、第八門)ということが、動かすことの出来ない絶対の根本要件であった。
栄西のこうした主張からすると、有戒無戒を論じない法然の教えは、引いては法滅の教えでしかないということとなった。では果して法然の浄土教が法滅の教えとして意義のないものであつたかというと「念仏往生の道は正・像・末の三時、および法滅百歳の時に通ず」(『選択本願念仏集』)るものとして、寧ろ天下に流行するということになった。この事実は栄西とても是認しなくてはならなかった。ついては『円頓三聚一心戒』のうちにも、『興禅護国論』のなかにも、浄土教を無視し得ないものがあり、弥陀の本願なり称名念仏なりに言及せざるを得ないものがあったことに知られる。ただ栄西はこうしたなかにあつても、弥陀の四十八願も衆生を仏となす仏戒によるものであるとし、薬師の十二願、普賢の十願にしてもまた同じであるとし、称名念仏の行にしても「禅にあらざれば順次業を成ぜざるなり」(同、第九門)といつて、その行の根底には禅があつてのことであるといつて、自からの主張する立場を譲らなかった。
このことは栄西が禅をもって仏法の総府であるとし、諸教の根源には禅がなくてはならないことを強調したとしても、法然が真言、天台、華厳の諸観行、仏心宗の即心是仏の観がいかにその理をふかくするものであったとしても、「解はあさし、しかるがゆへに末代の行者、その証をうることきわめてかたし」『往生大要抄』」というのであつたならば、その教えのすぐれていることが、時代に役立つ教えとはただちにはなるということにはならなかった。
「念仏は易きが故に一切に通ず、諸行は難がき故に諸機に通せず」(『選択本願念仏集』)とし、富貴なるものも貧乏なものも、智慧あるものも愚凝なるものも、持戒の者も破戒の者も、すべて選ぶところなく念仏は一切の衆生をして、平等に往生せしめるものであるとしたことは、栄西が般若・法華・浬繋の三経を引いて、この「三経を案ずるにみな末世の坐禅観行の法要を説きたまふ、もし末代に機縁無かるべくんば、仏はこれらを説きたまふべからず」(論、第三門)と、いかに力説して止まなかつたとしても、「そこには栄西と法然との間に末法に対する時代認識」の違いがあり、難易は時代における大きな課題を提起したものであつたとしても、主張は平行線を辿るという外はなかつた。
栄西は法末の世であるから、あるべき仏教を「仏法は持戒をもつて先とす」(論、第三門)とし、持戒によつて興そうとしたのに対して、法然は仏教の時代に相応するあるべき仏教を説いた。栄西はたとえ法末の世であったとしても、正法に必らず復し得るという希望をもってしたのと異って、法然は世は最早、弥陀の本願の救いに侯つより、救いようがないといういわば絶望観に立った。栄西も法然も同じく『末法燈明記』を引いて、末法の世には持戒の人のいないのは、響えば市中に虎があるようなものであるといつていることを法然が是認しているのに対して、栄西はそうした世にも、持戒修善の人があることを忘れてはならないとし、末世であればこそ戒行に勧めなくてはならないと説いた。この点、栄西の興禅は取りも直さず興戒律であつたともいい得る。この興戒律ということが、さきに挙げた達磨宗の禅と、また一線を画する興禅でもあつたのであり、そのことをついでにここで一言しておかなくてはならない。
栄西がこうした興禅、興戒律を唱えたことについて、それは浄土教からであったであろうが、「末世の法にあらず」(論序)といい、「我が国の要にあらず「(同)という批判が起つた。「我が国の要にあらず」といわれては、栄西は黙視することは出来ず、興禅が護国につながることをもつて反駁せざるを得ず、『興禅護国論』はこれによつて選述されなくてはならなかった。引いてはこの論はそれに伴って一宗独立を期すべく、その宣下を仰ぐのが道と考えられたものと見られる。このことは一宗の独立を企てていた浄土宗に向つても宣言して許さるべき当然のこととされた。
この場合、一宗独立の宣下の論はともあれ、法然にあっては一宗を選択して、聖道門を捨てて浄土門に入らしめんとするものがあつたのに、栄西にあつては果してその選択があったかどうかである。興禅がその選択であつたとしてもそこには取捨はなく、「禅は仏法の総府」であるという綜合主義が取られたとすると、それは選択には当らなかったのではなかろうか。仏法の総府としての禅はあつたが、禅の一宗の独立を意図しながら、仏法宗はあつても禅宗の一宗は存立し得なかったように思える。このことは達磨宗に較べても、一宗の宗旨を鮮明にするものがなかつたのではなかろうか。
勿論、栄西は自からが唱える禅と、達磨宗の禅とが混同されることを極力排除し、このことは『興禅護国論』の序のなかにも窺われ、『論』にいわんとしていることの趣旨の多くがその点に拘わつていることにも知られる。『菩薩善戒経』を引いて、経に「愚痴の人は諸法空なりと説かば、すなはち大罪を得ん……」といっていることをもつて、「かくのごときの凡夫愚痴の人、妄に空の義を説いて戒を持すること能はざるものは、これ外道の類、或いはこれ魔民なり」(論、第八門)と闇に達磨宗を批判し、達磨宗の説くところは「行無く修無し、本より煩悩無く元よりこれ菩提なり、この故に事戒を用ひず、事行を用ひず、只だ応に便臥を用ふべし、何ぞ念仏を修し、舎利を供し、長斎節食することを労せんや」(論、第三門)というにあつたとしていることについて、「其の悪として造らざること無きの類なり」(同)ときめつけている語に続けて「聖教の中に空見と言へるもののごときこれなり、この人と共に語り、同座すべからず、応に百由旬を避くべし」(同)とまでいつて、これを斥けている。皮肉にも栄西の禅がこの達磨宗の禅と同一視されて、布教活動の停止を宣下されたことは、栄西の憤愚やることのないものであつたに違いなく、それだけに自からの禅の興禅をいうにっいて、この点にふれることなくして、過し得る筈はなかつた。ここに達磨宗が「舎利を供し長斎節食する」ことをつとめなかつたことを批難しているが、栄西自からはこうしたことを積極的に行うものがあったことからして、それを行うことがなかつたことをいっているものと思われる。ただそのなかに「何ぞ念仏を修し」といって念仏を勧めるものがあったのに対して、それを修しなかつたといつていることは、念仏を勧める法然の浄土宗との間に、達磨宗は相容れぬ主張をもつていたのではないかと憶測せしめるものが見られる。何にしても達磨宗についての資料が殆んど遺らなかつたことは、悔まれてならない。
余談ながら栄西が達磨宗の人と共に語り、同座すべきではないことを、「百由旬を避くべし」とまでいって排除しているのに対して、その達磨宗が栄西と異にした禅を唱えた道元の下に、やがて帰入することになつたのは、そこには、そうなるべき因果があつたといわなくてはならない。
前にも一言ふれた禅宗としての勢力は、達磨宗の方が栄西の禅よりも寧ろその当時としては大きかつたに違いなく、栄西が興禅をいうにしてもその実績はどれ程の力をなしたか定かではなく、栄西が『未来記』のなかでいっているように、若し盛大を期するというのであつたならば、「予世を去るの後五十年、この宗最も興るべし」という未来世にそれを托するより途はなかったのではなかろうか。この『未来記』には「建久八年八月二十三日」の年月日が存し、『興禅護国論』が建久九年に書かれたとすると、その前年の成立ということになるが、この『記』は「この宗最も興るべし」といつているように、興禅の禅の一宗が称せられたその後の撰と云えないであろうか。『記』は栄西が入宋して禅を伝えた以前に覚阿が入宋して仏海慧遠の禅を、大日能忍は入宋して直接には嗣法はしなかつたが、仏照徳光の禅を伝えている点、禅宗の伝来には先躍があるが、その中にあつて栄西は「予」こそ禅宗を我国に伝えたものであることを自負していっているのであり、その伝えた禅宗が盛大となることをいうについては、興禅護国が標榜されたその禅を指していつているものと解しなくてはならない。
ついてはここで改めて問わなくてはならないことは、未来に托して盛大となることを予言したその禅宗とは一体、何んであったかである。達磨宗とは共に語り同座することを斥けたが、達磨を初祖とする達磨の宗であつたことは栄西の禅もまた変りはなかつた。その点、達磨宗と区別をいつても区別されないものが残つた。栄西の禅が達磨宗の禅と同一視されてその宗の停止を宣下の上に受けたことはそれを証する。栄西が禅宗と称したのは、叡山の円・密・禅・戒の四宗のなかの禅からの独立にあつたことはわかるが、なぜその禅を嗣承した臨済宗黄竜派の禅をもつて、臨済宗といい黄竜宗といって、自からの宗旨を鮮明にしなかつたのであろうか。『興禅護国論』のうちには、第一祖摩詞迦葉より第二十八祖菩提達磨に至る西天二十八祖説を挙げ、その達磨より系譜して第五十二祖は虚蕎懐敵、栄西はその第五十三祖を占めるものであると明記しながら、栄西は興禅は黄竜の禅であるとはいわなかった。栄西の禅宗はこの点、飽くまで仏法の総府としての禅であり、禅宗といつてもそれは一宗であつて、また一宗ではなかつたといわなくてはならない。栄西は興禅護国を称えながら天台、密教の教えを自からの説く教えのなかに深めていくに至つたのも、もともとその禅宗は一宗であって一宗でなかつたことに由来したとも云い得よう。
栄西の究極の目的は『日本仏法中興願文』に知られるように、日本仏法そのものを中興するというのにあつたのではなかろうか。ついてはその中興は持戒によるより途はないとしたところに、法然の浄土教と立場を異にすることになったのではなかろうか。
それにしても興味深いことは、栄西が『興禅護国論』において十門を立てて論述を進めているその最後の第十門を「廻向発願門」をもつて結んでいることである。『大般若経』の「回向品」を引いて、回向心を発さなくてはならないことを説いているのを受けて
「この故に我れ今かくのごとくに回向し、かくのごとく発願して、生生世世、般若に値遇し、最上如来の禅を修行し、諸の衆生と同共に大悲方便を修習して、尽未来際に疲倦すること無からん」
といっている。このことは法然が『観無量寿経』に云くとして、「もし衆生あつて、かの国に生ぜんと願ふ者は、三種の心を発して即便ち往生しなん、何等をか三となす一は至誠心、二は深心、三は廻向発願心なり、三心を具すれば必らずかの国に生ず」の語を挙げ、その三心を述べるのに、廻向発願心について「廻向して生ぜんと願ずる者は、必ずすべからく決定して真実心の中に廻向して、得生の想ひを願作すべし」(『選択本願念仏集』)といい、また「廻向と言ふはかの国に生じ已つて、還つて大悲を起して生死に廻入して、衆生を教化するを廻向と名つくるなり、三心既に具すれば行として同ぜずといふことなし」(同)といつていることに、恐らく栄西は触発せられ、自からの禅を最上如来の禅として位置づけるのに、その禅は須らく修行を重ねた上は回向心を発して「諸の衆生と同共に大悲方便を修習して、尽未来際に疲倦すること無からん」という願心をもつものでなくてはならないことをいっている。
この回向発願をいうのに、法然の浄土門の立場と、栄西の聖道門との立場との間には勿論大きな隔りはあるが、栄西が敢えて回向発願門をいっているのは、この興『禅護国論』が法然を意識して撰述されたことを確かに思わしめると共にまた、達磨宗が妄りに空の義を説き、盲禅悪取に陥っていることに対して、自からの唱える禅宗は「暗証の師を悪み、恵取空の人を嫌ふこと、宛も大海の底に死屍を厭ふがごとし」(論、第三門)といい、禅宗は外は律儀もて非を防ぎ、内は慈悲をもて他を利す」るものでなくてはならないといっていることにもまた、回向発願門が立てた所以があったと見られる。
何れにせよ、栄西のこの『論』が撰述された背景は単純ではない。禅宗は戒律をもつて宗とするという厳しい持戒主張を唱えたが、「内は慈悲をもて他を利す」にあるとしていることは、前にもふれた『論』の第二に鎮護国家門をいうに当つても、禅院の建立を図るのは「専ら国家を護し群生を利せんがための故なり」といつていることにも通じ、栄西の興禅には三昧を修するにしても、そこに広く衆生を度しようとする利生の願が伴つたものであったことを見落してはならない。余談ながら『正法眼蔵随聞記』のなかに、栄西が慈悲深い人であったことを伝えていることは、決して唐突のことではなく頷れることではなかろうか。 
 
喫茶養生記 

「茶は養生の仙薬なり・・・」で始まる「喫茶養生記」は鎌倉時代の代表的な医書の1つである。臨済宗の僧である明庵栄西(1141〜1215)が鎌倉幕府の3代将軍源実朝に献上したことで広く知られている。日本で本格的に飲茶の習慣が普及したのはこの栄西以後といわれている。仏教伝来とともに飲茶の習慣はみられるが、古くはは遣隋使・遣唐使が中国から茶の苗木を持ち込んできて寺院の境内に植えたのが始まりとされている。
聖武天皇の時代、伝教大師最澄が唐から茶を携えてきて近江国坂本に植たり、また弘法大師も帰朝に際して茶を持ち帰り、備前長崎に植えたとされている。その当時、茶を用いることが出来たのは貴族階級や僧だけであり、解熱、眠気覚まし、心身の強壮など使い方は薬用を中心としたものであった。平安時代に入ってから、茶の飲用は一時途絶えた状態にあったが、それを復活させたのが栄西である。建久2年(1191)中国からの帰朝に際し多数の苗木や種を持ち帰り、備前の平戸島や背振山に植えたのが各地に広まったとされる。
その後、仏教界では酒が五戒の1つに挙げられるようになると、飲酒に代わり喫茶が推奨され、寺院を中心として一段と普及していったのである。
また、平安時代末期から鎌倉時代にかけての医療界は医と僧をかねる者が多く現れ、医療は仏教的養生法と共に庶民の間に広まって行った。
今日まで栄西については宗教、医療、茶道の分野で研究が進められてきているが、ここでは栄西の著した「喫茶養生記」を中心として栄西の生涯について触れて行きたい。
1 栄西の生い立ち
栄西は備中(岡山県)吉備津神社の神官賀陽(かや)氏の子として、保延7年(1141)4月20日誕生し、幼名は千住丸と名付けられた。母は田氏と伝えられている。
11歳にして安養寺の静心に師事した。この安養寺の静心和尚は父の友人であり、嘗て天台宗寺門派の総本山、三井寺に学んだとき父と業をともにした間柄であった。
吉備津神社の息子に生まれて仏門に入るということは現代からみると不思議なことと思えるが、当時の社会では本地垂迹の社会であり、神と仏は表裏一体と考えられた時代であったので何ら不思議なことではなかった。最初に修業を積んだ安養寺は元は天台宗の寺院であったが、現在は臨済宗建仁寺派に属する寺院となっている。
14歳で比叡山に登り、天台宗の僧侶として修行をすることになり、千寿丸少年は名前を栄西と改めた。
17歳のとき静心が寂し、その遺言により千命について密教を学ぶことになったが、この頃は叡山と備中を往復していたと言われている。18歳で千命から安養寺で虚空蔵求聞持法を授けられている。平治元年(1159)19歳の折都に出て、叡山に入り有弁について台教を学んでいる。その後、入宋の志をもったのは1161年21歳頃のことであり、7年余りに渡り着々とその準備を進めていたのである。
2 2度にわたる入宋で持ち帰ったもの
初めに入宋したのは仁安2年(1168)4月、栄西28歳のときである。僧として叡山に登って出家をすることについても相当のつてがなくてはかなわないと思われるが、更に中国に留学となると一段と経済的な裏付けがなくては実現することは困難である。留学にかかわる渡航費用、滞在費は莫大な額に上るので誰が経済的援助者になったのか興味を引くところである。これに関して2つのことが明らかになっている。先ず1つは栄西の血縁者で福岡にいた宋人の豪商に繋がるものがいて援助をしてもらったこと。そしてもう1つは、当時叡山で勢力を誇っていた明雲に近づいて援助をしてもらったことである。第1回目の留学は期間が僅か6ヶ月間であったが、帰国に際して天台の「新章疎三十余部60巻」を携えて帰り、明雲に献じたのである。書籍を入手し献上するなど、およそ28歳の若者のとれる行動とは思えない。栄西は天才的能力の持ち主だったといわなくてはならない。栄西の援助者となった明雲は第56代と57代の天台座主として実力を誇っていたが、元々は平家の護持僧であったことで、平家の都落ちに伴い義仲の軍勢に寿永2年(1183)に討たれてしまう。これによって栄西は援助者を失ったため、備前、備中、筑前あたりで著述に努めるといった世に埋もれた時代を過ごすことになる。またこの時代は平家が滅び北条氏が興り、政権の交代した混乱の時代でもあった。栄西はこの混乱から避け鎮西の地に避難していたとも考えられる。
文治元年(1185)京都に上る機会を得ると朝廷への接近を図り、後鳥羽天皇に召され、勅を奉じて神泉苑に雨を祈ることになったが、これが功を奏し京都への布教活動の布石となっている。
その後、栄西は京都、奈良を離れ築前の今津に下り誓願寺でひたすら修行と著作に明け暮れていたが、遠くインドへ行くことを希望し、文治3年(1187)4月19日今津の港から宋船に乗り第2回目の留学を行った。船出してから6日目、八角十三層の六和塔がそびえる臨安の港に着いたのは文治3年(1187)4月25日のことであつた。早速、安在の臨安府を尋ね行政長官の知府按撫次郎に挨拶し、インドの釈迦如来の八大霊塔の巡礼を発願し、海を越えて日本からやってきたので、一刻も早くインドに行きたいので許可を頂きたいと申し出た。
ところが当時、宋の国は北西辺を西夏と接し、西方は吐蕃、南方は大理、大越に囲まれ、往来は容易な状態ではなかったので、栄西の申請は許可されなかった。あきらめて帰国することを決意し、日本へ向かい乗船して3日後暴風にあい、船は浙江省東南の瑞安に漂着した。暴風で命が助かったことを契機に、栄西の脳裏には天台山の万年寺のことが浮かんできた。ここは第1回目の入宋の時に訪れたところである。瑞安から北に200キロのところに万年寺があり、徒歩で向かったという。ここで住職である「虚庵壊敞禅師」、臨済禅直系黄竜派8代の禅僧と出会い、以後、在宋中この「虚庵壊敞禅師」の師のもとで万年寺、浙東の太白山天童景徳寺(天童寺)にて禅の修行を積んだのである。
建久2年(1191)秋7月、栄西51歳。丸4年間を過ごし明州の港から帰国の途に着いた。船には在宋中手に入れた大量の什物と天童寺を下山する前に収穫した茶種の袋も積まれていた。船は平戸島の北部古江湾の葦の浦を経由して博多湾へ入り、今津の港に着き、無事誓願寺に戻ってくることが出来たのである。
栄西は、茶は人間が生命を全うするための最高の薬であるとして、九州各地を回り茶の栽培に適した土地を探し求めた結果、背振山地という、福岡と佐賀の県境に連なる地を選んだ。中国天台山の山並みに似ていると思い最適地とした。今も麓の霊仙寺の上手の蛤岳から背振山頂に至る所には茶の木の群れが自然に育っているという。
3 喫茶養生記について
「吾妻鏡」建保2年(1214)2月の条に、将軍実朝の二日酔いに栄西が一杯の茶とともに「茶の徳を誉むる書」1巻を奉ったと記されている。現在の「喫茶養生記」は上下2巻からなっているので一般的には上下2巻を献上したものと思われている。また現在伝わっているものは二種類のものがあり、初治本といわれるものは承元5年(1211)正月に記述されたもので、これには寿福寺本、多和文庫本などがある。もう1つの再治本といわれるものは建保2年(1214)正月に記されたもので、東大史料編纂所本、建仁寺本、群書類従本などが存在している。この両者には内容の異同、誤字、誤写、内容の改変された部分もあるとの研究もなされているが、格別な変化は認められていないとのことである。すべてが手書きによる時代のものである以上、誤字、誤写は已むを得ないことでもある。
喫茶養生記においては養生の根源は肝・心・脾・肺・腎の五臓が調和を保ち、これら相互の間が健全に維持されることが大切である。このために「導勝陀羅尼破地獄儀軌秘鈔」にもあるように、肝臓は酸味を好み、心臓は苦味を、脾臓は甘味を、肺臓は辛味を、腎臓は鹹味を好む。故にこれらの食物を適宜摂取することが大切で、中国の人々はこれを適当に摂っているため五臓が調和を保ち、健全でよく長寿を保つことが出来るのである。ところが日本人は、酸甘辛鹹の四味は適当に摂っているが、苦味を摂ることが少なく、その為、心臓が弱り若死にするものが多い。苦味を含んだ食物といえば、そのさいたるものは茶である。中国人は常に茶を飲んでいるため長寿を保っているのである。
従って茶は養生の仙薬であり、長寿のための妙薬であると説いている。
喫茶養生記は以下の構成で成り立っている。
○ を喫することによっての養生の記 序
『茶は養生の仙薬なり。延齢の妙術なり。山谷之を生ずれば其の地神霊なり。人倫之を採れば其の人長命なり。 天竺、唐土、同じく之を貴重す。我が朝日本、亦嗜愛す。古今奇特の仙薬なり。摘まずんばある可からず。謂く、劫初の人は天人と同じ。今の人漸く下り、漸く弱く、四大五臓朽ちたるが如し。然らば、鍼灸も並に傷り、湯治も亦或は応ぜざるか。若し此の治方を好しとせば、漸く弱く、漸く竭きん。怕れずんばあるか可からざるか。昔は医方添削ぜずして治す。今人は斟酌すること寡きか。付して唯れば、天、万像を造るに、人を造るを貴しとなす。人、一期を保つに、命を守るを賢しとなす。其の一期を保つの源は、養生に在り。五臓を安んず可し、五臓の中心の蔵を王とせむか。心の臓を建立するの方、茶を喫する是れ妙術なり。厥れ、心の臓弱きときは、則ち五臓皆病を生ず。寔に印土の耆婆往いて二千余年、末世の血脈誰か診むや。漢家の神農隠れて三千余歳、近代の薬味誰か理せむや。然れば則ち、病相を詢とふに人無く、徒に患ひ徒に危うきなり。治方を請ふにも悞有り。空しく灸し、空しく損ず。偸に聞く、今世の医術は則ち、薬を含みて、心地を損ず、病と薬と乖くが故なり。灸を帯して、身命を夭す。脈と灸を戦うが故なり。如かず、大国の風を訪ねて、以って、近代の治方を示さむには、仍つて二門を立てて末世の病相を示し、留めて後昆に贈り、共に群生を利せむと云ふのみ。時に建保二年甲戌歳春正月日叙す。』
○ 茶を喫することによっての養生の記 巻の上
   第一 五臓の和合門
   一に茶の名字を明らかにするの条
   二に茶の葉の形を明らかにするの条
   三に茶の効能を明らかにするの条
   四に茶を摘み採る時を明らかにするの条
   五に茶を摘み採る仕方を明らかにするの条
   六に茶の調整を明らかにするの条
○ 茶を喫することによっての養生の記 巻の下
   第二 鬼魅を遣所除するの門
   一に飲水病
   二に中風で手足が思うように動かない病
   三に食べ物を受け付けない病
   四に瘡の病
   五に脚気の病
○ 五種の病を桑をもって治療する
   一 桑粥の法
   二 桑の煎じ法
   三 桑木を服用する法
   四 桑の木を口に含む法
   五 桑の木の枕の法 
   六 桑の葉を服用する法
   七 桑の実を服用する法
   八 高良薑を服用する法
   九 茶を喫する法
   十 五香煎を服用する法
このように喫茶養生記は、栄西が在宋中に見聞しあるいは経験した茶の栽培法、飲み方、採取法、効能等を述べている。またこの他、桑の飲み方効能を記している養生書である。
栄西が再度入宋をした頃、宋では禅宗が盛んであり、当然栄西も禅の修業に励んでいる。禅宗は専一に瞑想することによって仏の悟りに入ると言われており、長時間の瞑想が睡魔に襲われ心身の疲労をきたすということが起こる。茶を飲むことによって疲労を早く回復することが出来、更に精神をも爽快にすることが出来る。中国では茶が古い時代から一般に飲用されていたことは栄西も述べている。
宋の禅僧は特にこうした茶の効用に着目し、睡魔を防止し疲労の回復をはやめることが出来ることから、長時間の瞑想に堪えるためには茶の飲用は欠かせないものであると考えたのである。
したがって禅僧は菩提達磨の像の前に集まり、深厳な儀礼の下に一椀の茶を飲み、これを茶の儀礼としたとされている。留学した栄西もこうした茶の儀式に加わり、自ら茶を飲み。茶の効用を体験し、禅の修業とともに茶に関する儀式を学んだものと思われる。
栄西は茶に興味を抱き、留学中に様々な文献から、あるいは口伝から茶に関する養生法と知識を得ようと努力をした。また当時、茶と並んで養生法の1つとされていた桑の療法を知り、この二つを合わせて持ち帰り、目的とするところは禅の普及にあったが同時に喫茶の習慣を国内にも広めようと考えたのであった。
4 栄西の晩年
1191年宋より帰国して九州で禅宗の布教活動をはじめたが、3年後の1194年には叡山より禅宗停止の命を受けると、建久9年(1198)「興禅護国論」を著して、禅宗は鎮護国家の法であると説いた。また禅は日本天台宗の宗祖となった最澄が説いた精神を統一する「止観」であると強調した。
その間一方では建久6年(1195)筑前博多に聖福寺を創建し、九州における布教の拠点としている。栄西は京都でも布教を始めるが旧仏教の弾圧を受けると鎌倉に下る。正治2年(1200)北条政子が建立した寿福寺の住持となり、鎌倉幕府の帰依を得ると、今度は幕府の権力を背景にして京都に上り、建仁2年(1202)建仁寺を創建した。そこでは禅と密教、天台止観の3教を兼修することを行って、旧仏教からの指弾を避けている。
喫茶養生記を著し、鎌倉幕府に献上したのが承元5年(1211)のことであり、栄西は71歳となっていた。幕府より禅宗が認められると栄西は席を暖める暇もないほど忙しくなり鎌倉から京都、博多と往来をしたという。低身長でハンディを負っていたにもかかわらず、精力的で常に未来志向の行動をとることが多かったので周囲からは批判を受けたことが多かったものと思われる。しかし栄西は何時においても怯むことはなかったという。
栄西の入滅については二つの説がある。鎌倉幕府の公的な記録とされている「吾妻鏡」によれば、建保3年(1215)6月5日寿福寺で入滅したとされている。このとき将軍実朝は遠江守大江親広を使者として臨終を見舞わしたとある。
一方、「沙石集」によれば7月5日と記されている。鎌倉にあった栄西が京都に上って臨終を迎えたいといい、実朝が老齢のため止めたにも拘らず、「遁世ひじりを、世間にいやしく思いあいて候ときに往生して、京童部に候わん」と言って京に上り建仁寺で入滅したとされるものである。
栄西は75歳の高齢をもって活動と栄光と未来志向の生涯を閉じたが、生涯を通して幸運に恵まれた人生であったといわれている。栄西の御霊は建仁寺の開山堂に祀られている。現在、開山堂の手前には栄西を称え、茶碑と桑の記念碑が建てられているが、茶祖として大陸の医療文化を日本に齎した宗教家兼医師として歴史上偉大な足跡を残した人物である。
禅僧としての称号が明庵であり、その他著作や活動から様々な称号が伝わっているので挙げておく。
遍照金剛、渡宋巡礼沙門、智金剛、備前州日応山入唐法師、金剛仏子、日本国上都平城達智門入唐比丘栄西、菩薩比丘、大宋国天台山留学日本国阿闍梨伝燈大法師位、比丘、倭漢十藪沙門賜阿紫闍梨伝燈大法師位、入唐律師権律師橋上人位、入宋求法前権僧正法印大和尚位、造東大寺大勧進、千光祖師 
 
緑茶の効用と栄西

 

栄西、禅と茶を招来する
鎌倉時代の初め、日本に禅宗(臨済宗)を広めた明庵栄西は、「茶の効用」を説いた人としても知られています。栄西が晩年に著した「喫茶養生記(きっさようじょうき)」は、日本で最初の茶の本とされ、栄西自身は茶の開祖、あるいは茶道の開祖ともされています。
茶は、古代中国においては早くから薬として知られ、日本にも留学生などを通じて平安時代初期に伝えられました。嵯峨天皇の朝廷では茶を飲む習慣が生まれ、茶樹の栽培もすでにおこなわれています。
したがって栄西をもって茶の始まりとはいえません。それにもかかわらず栄西が茶の開祖とされるのは、やはり「喫茶養生記」の存在意義が大きいからでしょう。
栄西は二度にわたり宋の国へ渡っています。47歳のおりには天台山万年寺の虚庵懐敞(えしょう)に就いて、4年のあいだ禅を学びました。その当時、宋では禅宗が隆盛をきわめ、その修行に眠気ざましとして茶が使われていたといわれます。
茶の栽培も盛んにおこなわれ、天台山の山麓は古くから雲霧茶の産地でもあったことから、栄西はそこで茶について多くの知識も得たのでしょう。
帰国したとき栄西は茶の実を持ち帰り、しばらく滞在した平戸をはじめ北九州の地にそれを植えたと伝えられています。
のちには京都栂尾(とがのお)の高山寺の開祖明恵(みょうえ)が、栄西から茶の実を譲り受け、境内に植えたとされています。歴史的な証左はありませんが、高山寺の杉木立のあいだにいまも残る小さな茶園が、それだといわれています。高山寺を始まりとする栂尾茶は、やがて「茶の第一」とされ、後世まで珍重されています。
栄西が禅と茶を招来したことから、のちの「茶禅一味」のような精神世界がすでにそこにあったかのように思われるかもしれません。禅の眼目ともいえる座禅は密教系の仏教にもみられますが、きわめて個人的な、内面との対話を重視した座禅は禅宗によって完成します。
しかしそれが茶とむすびつくのは、のちに村田珠光や武野紹鴎、そして千利休らによって構築された世界においてでした。
また栄西より少しあとの時代、大陸から渡来した禅僧によって茶礼(茶の儀礼)が持ち込まれます。茶礼は、いまも京都の建仁寺に伝えられていますが、栄西はそうした儀礼的な茶についても「喫茶養生記」では語っていません。
むしろ栄西の面白いところは、茶の精神性や儀礼についてはほとんど触れず、ただ茶の知識を広め、養生としての茶の効用を説いたところにあります。栄西がもともと天台密教を修めた僧であり、現世利益的な実利性を重んじる土壌に育ったことと関係しているのかもしれません。
「喫茶養生記」には天台密教の世界観が反映されています。けれども主題は、具体的な例をあげながら、「お茶はこんなに体にいいもので、養生に役立つものなのだから、ぜひ飲みなさい」という勧めにあります。なによりも茶の実践者としての栄西の姿を、そこにみることができます。
「喫茶養生記」の世界
「喫茶養生記」の序で、栄西はこう述べています。
「茶は養生の仙薬なり。延齢の妙術なり。」
茶は健康維持の特別な薬であり、寿命を延ばしてくれるものだ、というのです。
そしてまず密教の世界観から、人間の五臓(肝臓・肺臓・心臓・脾臓・腎臓)と、食べ物の五味(酸味・辛味・苦味・甘味・鹹味)を対比させています。そのうえで、
「このうちもっとも大切なのは心臓だが、その心臓を養う苦味は日常の食事からはとりにくい。しかし茶を飲むことで苦味をとることができ、心神を爽快にして心臓をととのえ、万病を除くことができるのだ」
と記しています。ここでいう苦味は、渋味とも同じ意味と考えていいでしょう。ちなみに五味の最後にある鹹味(かんみ)とは、塩味のことです。
栄西はさらに、「茶経」や「広雅」、「博物誌」、「食経」といった中国の文献から、茶の植物学的特徴と健康上の効用を数多く紹介しています。そのうちの「三、茶の功能を明かす」に着目すると、
広雅に曰く、「其の茶を飲むは、酒を醒まし、人をして眠らざらしむ」
博物誌に曰く、「真茶を飲めば、眠りを少からしむ」
桐君録に曰く、「茶を煎じて飲めば、人をして眠らざらしむ」
神農の食経に曰く、「茶茗宜しく久しく服すべし。人をして悦志有らしむべし」
壷居士が食志に曰く、「茶久しく服すれば羽化す」
とあります。これらは茶の効用のうち、覚醒・興奮作用などを述べたものでしょう。悦志とは快活な気持ちのこと、羽化とは羽をもつ仙人になることです。
張孟の成都楼に登る詩に曰く、「芳茶は六清に冠たり」
ともあります。六清とは、眼、耳、鼻、舌、身、意の六根が清明であることを意味しています。
中国古典にみられるこれらの効用は、主としてカフェインの作用によるものです。
それが判明したのは、栄西から700年を経た19世紀になってからのことでした。西洋社会で急速に発達した化学的手法により、茶葉からカフェインが分離され、その多様な作用が初めて科学的に確認されたのです。
カフェインの効用と栄西
お茶には、カフェインが2-4%ふくまれています。味覚の面では、苦味の元となっています。
カフェインの効用としてよく知られているのは、いわゆる「眠気覚まし」です。これはカフェインが大脳皮質に働き、中枢神経の興奮作用をもたらすことによります。
このとき感覚機能や精神機能が亢進されるため、眠気を除去するだけでなく、栄西のいうように快活な気分にもなるわけです。現代の栄養ドリンク剤の多くにカフェインが入っているのも、同じ理由からです。
栄西は晩年、鎌倉の寿福寺において三代将軍の源実朝としばしば法談に及んでいます。
そのきっかけとなったのは、実朝が二日酔いと思われる気鬱におちいっているとき、栄西が茶と「喫茶養生記」を献じたことでした。実朝はそのとき初めて茶というものを飲み感悦した、と「吾妻鏡」は伝えています。
当時、実朝は20歳、栄西は71歳になっていました。北条一族の画策による血なまぐさい政争渦巻くなかで、実朝は自らも命の不安にさらされていました。孫のような実朝を相手に、栄西は茶を献じながら何を語ったのでしょうか。
のちに暗殺される悲劇の将軍実朝にとって、鬱々と過ごす日々のなかで、茶はまさに一服の清涼の味覚として心に浸透したであろうことが想像されます。
実朝にいっときの感悦をもたらしたカフェインには、強心作用もあります。カフェインが心筋に働き、心拍数を高めるためです。これについても栄西は前述したように、「心臓を養うのは苦味であり、苦味は茶を飲むことで摂取することができる」と指摘しています。
ただしカフェインには血液を凝固させ、血圧を上昇させる作用もあります。そのためワーファリンのような血圧降下薬を飲んでいる人は、カフェインのとり過ぎには注意する必要があります。
またカフェインには、利尿作用や消化促進作用もあります。これについて栄西は、
本草に曰く「(前略)小便は利に、睡は少なくし、疾渇を去り、宿食を消す」
本草拾遺に曰く「(前略)水道を利し、目を明らかにす」
と紹介しています。小便は利に・・とは利尿のこと。睡は眠気、疾渇は喉の渇き、宿食とは消化不良のことです。水道もまた、体内の水の流れ、つまり利尿を意味しています。
利尿作用は、カフェインが腎臓の糸球体や尿血管の働きをよくする結果です。
また消化作用は、胃壁を刺激し、胃液の分泌をうながすことによります。ただカフェインをとり過ぎると、かえって胃壁を傷めることもあります。
こうした効用はいずれも、近代に入ってから科学的に証明されました。それが古代中国において、すでに茶の薬効として認識されていたことにも驚かされます。
ところでカフェインの効用として、最近注目されているのはダイエット効果です。正確にいうと、脂肪燃焼効果というべきでしょう。
カフェインを摂取すると、褐色脂肪細胞が活性化され、脂質や糖質の分解が促進されます。とくに有酸素運動をおこなうと、エネルギーとして脂肪酸の燃焼効率が非常に高まり、その結果、体脂肪の減少効果がみられるのです。
スポーツの世界では、カフェインは興奮剤の一つとしてドーピングの対象になっています。しかし一般の人が運動をするときには、お茶やコーヒーにふくまれるカフェインをうまく利用することには、何の問題もありません。むしろ、運動効率を高めることができます。
カテキンと生活習慣病の予防
お茶にはカフェインのほかに、タンニンやテアニン、ビタミン類など、多くの成分がふくまれています。そのなかで、近年もっとも話題となっているのがカテキン(エピガロカテキンガレート)です。
カテキンはタンニンの一種で、味覚面では渋味の元となっています。
カテキンが話題となったきっかけは、抗がん効果でした。静岡県のがん死亡率が全国平均より低いことに注目した静岡県立大学によって、1989年に緑茶との関係調査が実施されました。
その結果、静岡県内でも茶どころとして知られ、住民が緑茶をよく飲む中川根町を中心とする一帯では、胃がんによる死亡比が全国平均より大幅に低いことが判明したのです。
全国平均を100とすると、中川根町では男性が20.8、女性は29.2という顕著な違いがみられました。
カテキンには、がんの発生原因となる活性酸素をおさえ、体の酸化(老化)を防ぐ働きがあります。また胃がんの原因とされるピロリ菌に対する殺菌作用もあり、それらの相乗作用によって、胃がんの発生を抑える効果をもたらしていると考えられています。
狭山茶の産地でもある埼玉県の県立がんセンターの研究では、カテキンを乳がんの予防薬タモキシフェンや大腸がんの予防効果があるとされる抗炎症薬のスリンダクと併用すると、がん細胞の殺傷効果が大幅に向上することが報告されています。
こうしたことからカテキンは、がんを発症した人の再発予防にも効果があると考えられています。
同じ埼玉県立がんセンターによる別の調査(1986年からの10年間、40歳以上の約8500人を対象)では、緑茶を1日10杯以上飲む人は、3杯以下の人と比較してがんの発症年齢が男性で3.2歳、女性で7.3歳も遅いという結果もみられます。
こうしたことから、カテキンによる抗がん効果を期待するには、茶葉にして1日1.5グラム、濃い目の緑茶にして10杯程度飲むことが理想とされます。お茶の葉をそのまま食べたり、ご飯にかけたりしても、同様の効果があります。
ただお茶にはカフェインがふくまれているので、たくさん飲むと胃に影響を与えることもあります。最近はカテキンのサプリメントやカフェインを抜いた飲料も出ているので、それを利用するのもいいでしょう。
カテキンについての研究はその後さらに進展し、インスリンの分泌を促進したり、コレステロールの増加を抑える働きもあることが判明し、糖尿病や高脂血症をはじめとした生活習慣病の予防にも役立つことが知られるようになりました。
一時赤ワインにふくまれるポリフェノールが、老化や高血圧の予防に役立つとして話題になったことがありました。緑茶のカテキンは、そのポリフェノールのひとつでもあるのです。
またカテキンの抗菌作用も、忘れることができません。カテキンには、赤痢菌の増殖を抑え、コレラ菌を殺すほどの強力な殺菌力があります。お茶で手を洗い、喉をすすぐ(うがいをする)と、ほとんどの細菌を死滅させることができるほどです。またお茶を飲むと、腸のなかで悪玉菌だけを退治する効果があることも知られています。
さらに最近は、カテキンのダイエット効果にも関心が集まり、それが新たな緑茶ブームの引きがねともなっています。
栄西の時代にはまだ、がんという病気も生活習慣病のことも知られていません。しかし「喫茶養生記」の冒頭で、お茶を「延齢の妙術(寿命を延ばす特別なもの)」とした栄西の指摘は、当たっていたといえるでしょう。
栄西自身はどうであったかといえば、71歳のときに「喫茶養生記」を著したのちも鎌倉(寿福寺)と京都(建仁寺)を往復し、当時としては長寿といえる75歳で亡くなるまで禅宗の普及に努めたことが知られています。
※ カテキンについては、三重大学の最近の研究によれば、高濃度のカテキンにはDNAを傷つけ、かえって細胞のがん化をうながすという報告がみられます。これは緑茶の40倍もの濃度なので、通常のお茶を飲む場合にはまったく問題にはなりません。
しかし最近は、食品のなかのひとつの成分が注目されると、突出した形で商品化される例が増えています。緑黄色野菜にふくまれるβカロチンの場合も、その抗がん効果が話題となり、多くの商品がつくられました。のちにβカロチン単独ではあまり抗がん効果がみられず、かえってがん化をまねく可能性もあることが報告されました。
カテキンの場合も、ほかの多くの成分(カフェインやビタミンCなど)との相乗作用が重要であり、単独で摂取するよりもお茶として飲むことに意味があると思われます。三重大学の研究結果は、ひとつの成分だけがブームとなる傾向に警鐘を鳴らすものといえるでしょう。 
お茶を上手に淹れる
お茶は面白いことに、淹れるときのお湯の温度によって、味や成分の種類が大きく違ってきます。
お年寄りのなかには、夜のお茶は眠れなくなるからと敬遠する人が少なくありません。それはカフェインの作用によるものですが、じつは熱湯に近いような高温で淹れるとカフェインが大量に出て、苦味の強いお茶になります。
それに対して、40℃-50℃程度のぬるま湯で淹れると、カテキンが多く抽出されます。味の面でも苦味は薄らぎ、さっぱりした渋味になります。
また茶葉に水を注いで淹れると(水出し)、カフェインやカテキンはあまり抽出されず、かわってアミノ酸の一種テアニンが多く出て、まろやかな味になります。
テアニンは旨み成分ともいわれ、新茶や玉露などをおいしく感じるのはテアニンが多くふくまれているからです。ふつうの茶葉でも、水出しするとテアニンがたくさん出ます。水出しのお茶を知らない人はけっこう多いのですが、急須に茶葉を少し多めに入れ、10分程度置くと十分においしいお茶が飲めます。
テアニンには、脳の神経細胞に働きかけ、リラックスさせる効果があります。お茶を飲むとホッとするのは、テアニンによる作用です。仕事が終わったあとや、夜間にはピッタリのお茶なのです。
睡眠中はかなりの汗をかき、体が軽い脱水状態になります。それが早朝の心不全や脳卒中の原因ともなりやすいので、中高年の人ほど夜間でも水分をとるほうがいいといわれます。
お茶にはビタミンCやEなど、疲労回復に役立つ成分も多くふくまれています。それだけに水出し、あるいはぬるめのお湯で淹れたお茶は、夜向きの飲み物といえるでしょう。
お茶の種類によっても、成分量に違いがあります。カフェインが多いのは、抹茶、玉露、煎茶です。カテキンが多いのは、煎茶、番茶です。テアニンは、抹茶、玉露、煎茶に多くふくまれています。
ちなみに栄西が「喫茶養生記」で述べているのは、抹茶についての紹介です。けれどもどのようなお茶にも、量の違いこそあれ、これらの成分はふくまれています。お湯の温度を変えて、味と成分の違いを楽しめばいいのです。
栄西なら、茶の違いはともかくとして、「健康のために、まず飲みなさい」と勧めたでしょう。
 

 

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