仏と神々

 

 

釈尊八大竜王懸仏(かけぼとけ)神仏習合天蓋引き 
ご利益
 
【八部衆】はちぶしゅう。仏法守護の八体一組の釈迦の眷属。天・竜・夜叉・乾闥婆(けんだつば)・阿修羅・迦楼羅(かるら)・緊那羅(きんなら)・摩睺羅伽(まごらか)の称。天竜八部。 
【天竜】八部衆の代表格である天と竜。天竜八部。 
【天竜八部】天・竜を初めとする仏法守護の八神。天・竜・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽。
八部衆1 
または天龍八部衆、仏法を守護する8神。仏教が流布する以前の古代インドの鬼神、戦闘神、音楽神、動物神などが仏教に帰依し、護法善神となったものである。十大弟子と共に釈迦如来の眷属を務める。 
八部衆とは8つの種族という意味である。これにはいくつかの説がある。通常に用いられるのは「舎利弗問経」を基本に、「法華経」や「金光明最勝王経」などの説により、天衆、龍衆、夜叉衆、乾闥婆衆、阿修羅衆、迦楼羅衆、緊那羅衆、摩睺羅伽衆の8つを指す。ただし、奈良・興福寺の著名な八部衆像の各像の名称は上述のものと異なり、寺伝では五部浄、沙羯羅(さから、しゃがら)、鳩槃荼(くはんだ)、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、畢婆迦羅(ひばから)と呼ばれている。なお、四天王に仕える八部鬼衆は、これらの八部衆と名称も類似し一部重複するので間違われやすいが基本的に異なる。ちなみに八部鬼衆は、乾闥婆・毘舎闍・鳩槃荼・薛茘多・那伽(龍)・富單那・夜叉・羅刹の名を挙げる。法華経の序品(じょぼん)には、聴衆として比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷(出家在家の男女)などの「人」のほかに、この八部衆を「非人」として名が連ねられている。 
天(Deva、てん)/梵天、帝釈天をはじめとする、いわゆる「天部」の神格の総称。欲界の六天、色界の四禅天、無色界の四空処天のこと。光明・自然・清浄・自在・最勝の義を有す。古代インドにおける諸天の総称。天地万物の主宰者。 
龍(Naga、りゅう)/「竜」、「竜王」などと称される種族の総称。 蛇を神格化したもので、水中に棲み、雲や雨をもたらすとされる。また、釈尊の誕生の際、灌水したのも竜王であった。人面人形で冠上に龍形を表す。 
夜叉(Yaksa)/古代インドの悪鬼神の類を指すが、仏法に帰依して護法善神となったもの。空中を飛行する。 
乾闥婆(Gandharva、けんだつば)/香を食べるとされ、神々の酒ソーマの守り神とも言う。 仏教では帝釈天の眷属の音楽神とされている。インド神話におけるガンダルバであり、ギリシア神話におけるケンタウロスと同源であると推定されることからインド・イラン共通時代よりもさらに印欧祖語時代に起源をさかのぼる。 
達婆、健闥縛、乾沓和けんとうわなどとも書きます。けんだつばはサンスクリット語の音写で、香神こうじん食香じきこうなどと訳します。お香を食べる言われてます。帝釈天の眷属で、天界の楽師です。これと対になるのが歌の神様、緊那羅王きんならおうです。須弥山の南、金剛崛または十宝山に住んでいます。持国天と同じとも言われます。右手に法輪、左手に経典を持ちます。 
阿修羅(Asura、あしゅら)/古代インドの戦闘神であるが、インド・イラン共通時代における中央アジア、イラン方面の太陽神が起源とも言われる。通常、三面六臂に表わす。 
迦楼羅(Garuda、かるら)/金翅鳥(こんじちょう)とも言い、竜を好んで常食するという伝説上の鳥である。鷲の如き獰猛な鳥類の一類を神格化したもの。 
緊那羅(Kimnara、きんなら)/音楽神であり、また半身半獣の人非人ともいう。人にも畜生にも鳥にも充当しない。仏教では乾闥婆と同様に帝釈天の眷属とされ、美しい声で歌うという。 
摩睺羅伽(Mahoraga、まこらが)/緊那羅とともに帝釈天の眷属の音楽神ともいう。または廟神ともいわれる。身体は人間であるが首は蛇である。龍種に属す。大蛇(ニシキヘビとも)を神格化したもの。
八部衆2 
インドで古くから信じられてきた異教の八つの神を集めて、仏教を保護し、仏に捧げ物をする役目を与えて、八部衆とします。仏教の教えに基づいた神ではないので、その生い立ちや性格、また姿やかたちは様々に説かれ、複雑で不明な部分が多くあります。仏教に取り入れられてからも、異教の神の姿のまま表現されることが多いのです。八部衆の名は法華経に「天、龍、夜叉(やしゃ)、乾闥婆(けんだつば)、阿修羅(あしゅら)、迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、摩 睺羅伽(まごらか)」があげられますが、興福寺の場合は「五部浄(ごぶじょう)、沙羯羅(さから)、鳩槃荼(くばんだ)、乾闥婆(けんだつば)、阿修羅(あしゅら)、 迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、畢婆迦羅(ひばから)」です。 
阿修羅/梵語(ぼんご)(古代インド語)のアスラ(Asura)の音写で「生命(asu)を与える(ra)者」とされ、また「非(a)天(sura)」にも解釈され、まったく性格の異なる神になります。ペルシャなどでは大地にめぐみを与える太陽神として信仰されてきましたが、インドでは熱さを招き大地を干上がらせる太陽神として、常にインドラ(帝釈天)と戦う悪の戦闘神になります。仏教に取り入れられてからは、釈迦を守護する神と説かれるようになります。 
像は三面六臂(さんめんろっぴ)、上半身裸で条帛(じょうはく)と天衣(てんね)をかけ、胸飾りと臂釧(ひせん)や腕釧(わんせん)をつけ、裳(も)をまとい、板金剛(いたこんごう)をはいています。 
五部浄/八部衆の「天」に相当する神で、興福寺では八部衆の最初にこの神を置くことによって天部像を総称します。 
像は胸から下を失っており、全容は明らかではありません。頭に陸で最大の動物である象の冠をかぶり、正面を凝視する姿にあらわされます。 
色界第四禅天に住んでいます。右手に剣、左手に如意宝珠を持ちます。自在天、普華天子、遍音天子、光髪天子、意生天子を合わせた名前です。 
沙羯羅/八部衆の「龍」に相当します。水中の龍宮に住み、雨を呼ぶ魔力を持ち、釈迦誕生の時には清浄水をそそいで祝ったといわれます。頭に蛇を巻き、頭上で蛇の頭を立て、左を向き、少年の顔にあらわします。 
右手に剣、左手に蛇を持っています。頭には五匹の蛇の冠を付けています。難陀龍王と同じく八大龍王の一つです。 
鳩槃荼/八部衆の「夜叉」に相当します。梵天(ぼんてん)が造った水を守る神とも、死者のたましいを吸う悪鬼で人を苦しめる神、あるいは財宝神毘沙門天(びしゃもんてん)の家来、また南方の守護神増長天(ぞうちょうてん)の家来ともされます。像は正面を向き、炎髪にして、口を開け、歯をのぞかせています。 
乾闥婆/帝釈天(たいしゃくてん)宮で簫(しょう)を吹き、音楽を流して諸神を供養します。天界の神酒ソーマの番人、また東方の守護神持国天(じこくてん)の家来ともされます。像は正面を向き、頭上に獅子の冠をかぶり、静かに目を閉じています。 
迦楼羅/インド神話上の巨鳥で、ビシュヌ神が乗る鳥、すなわち金翅鳥(こんじちょう)で、龍を常食とします。雨を降らしたり、大雨を止めたり、家内安全等の修法の際にこの神をまつりますが、これは害を与える一切の悪を食いつくし、人々に利益をもたらすところからきたものです。像は頭が鳥で、身体は人間で、左を向き、肩にスカーフを巻いています。 
緊那羅/財宝神毘沙門天(びしゃもんてん)の家来、または帝釈天(たいしゃくてん)宮の音楽神でもあります。「何か(kim)人(nara)」の意味で、人なりや何なりやで、半神とされます。像は頭上の正面に1本の角を持ち、額には縦に1目を置いて3目とし、やや左を向きます。 
畢婆迦羅/八部衆の「摩睺羅伽(まごらか)」に相当します。大蛇ニシキヘビを神格化したともいわれます。音楽をつかさどる神で、横笛を吹き、諸神を供養します。像は正面を見て、口や顎に髭をたくわえます。  
【十二天】一切の天竜・鬼神・星宿・冥官を統(す)べる12の護世天。四方・四維の八天に、上下の二天および日・月の二天を加えたもの。東に帝釈天、東南に火天、南に閻魔天、西南に羅刹天、西に水天、西北に風天、北に多聞天(毘沙門天)、東北に大自在天、上に梵天、下に地天、および日天、月天の総称。 
【日天】日天子の領有する世界、また、太陽・太陽神をさす。密教では日天子をいい、五頭または七頭の馬車に乗るとされる。 
【月天】月天子(がってんし)の領有する月の世界。転じて、月。また、密教では月天子をいう。インド神話で月(Candra>またSoma)を神格化したもの。仏教に取り入れられ、漢訳経典では月天子と訳される。密教では単に月天という。月宮天子(がっぐてんし)。月光天子(がっこうてんし)。転じて月。 
【梵天】ぼんてん。インドの古代宗教で、世界の創造主として尊崇された神。古代インド思想で宇宙の根源とされるブラーフマンを神格化したもの。仏教にはいって色界(しきかい)の初禅天に住する仏教護持の神となった。十二天、八方天の一で、帝釈天と対をなすことが多い。大梵天王。梵天王。仏語。色界の初禅天の総称。大梵天・梵輔天・梵衆天の三天があり、大梵天は初禅天の王、梵輔天は家臣、梵衆天は一般庶民に当たる。
【地天】大地をつかさどるインドの女神。仏が降魔成道した時、地中からあらわれてその証人となったという。菩薩形で、花を盛った器を捧げる。また密教では胎蔵界曼荼羅中、外金剛部上方に男女二天として配する。 
【帝釈天】梵天とならび称される仏教の守護神。八方天の一として東方を守る。天上界の王。天衆をひきいて阿修羅を征服し、常に使臣をつかわして天下の様子を知らしめ、万民の善行を喜び、悪行をこらしめる。須弥山(しゅみせん)の頂上のY利天の中央にある喜見城に住む。像形は一定ではないが、古くは高髻で、中国、唐時代の貴顕の服飾を着け、また外衣の下に鎧を着けるものもあるが、平安初期以降は密教とともに天冠をいただき、金剛杵を持ち、象に乗る姿が普及。天帝釈。釈提桓因。
【火天】インド神話の火神から仏教に転入した仏法擁護の神。体は赤色、髪は白色。常に苦行仙人の形をして火炎中に座し、四本の手に、三角印、数珠、水瓶、仙杖を持つ。智火で煩悩を焼き尽くすという。火光尊。火仙。 
【閻魔天】閻魔の別称。天部に列するところより天の字をつけていう。延寿、除災、追福などの本尊で、曼荼羅では水牛の上に座し、片手に人頭の幢(とう)を持つ姿のものが多い。 
【羅刹天】西南を守護し、破壊・滅亡をつかさどる神。白獅子に乗り、身に甲冑をつけ、右手に刀を立てて持ち、左手は二指を立てる。 
【水天】水をつかさどる竜神で、また、西方を守護する神。その像は、種々あるが、いずれも羂索を執り、冠の上に五竜を頂き、亀の背に乗って水中にある。右手に剣を執るものもある。
【風天】古くベーダで火天、月天とともに三神の一とされ、名誉、福徳などを授ける神であったが、のちに八方天の一として西北方の守護神となり、仏教にとり入れられた。その姿は胎蔵界曼荼羅では老人の形をとり、鬢髪白く、赤身で甲冑をつけ、右手に幢幡を持ち、壽壼座(くゆざ)に座る。青牛に座る例もある。 
【毘沙門天】須弥山(しゅみせん)の中腹にあって、北方を守護し、多くの夜叉(やしゃ)・羅刹(らせつ)を統率するとともに、仏法を守護し福徳を授ける善神。その形像は怒りの相を現し甲冑を着け片手に宝塔片手に宝棒また戟を持つ。わが国では七福神の一つとする。毘沙門天王。多聞天(たもんてん)。北方天。毘沙門。 
【大自在天】色究竟天を主宰する神。もとは、インド婆羅門教のシバ神の異名で、万物創造と破壊をつかさどる最高神。仏教の中に組み入れられ仏法守護の神となる一方、仏教に敵対する外道の最高神ともされた。その像は三目八臂で天冠を戴き、白牛にまたがり、三叉戟を手にする。自在天。伊舎那天。
【八大竜王】法華経説法の座に列したという八種の竜王。難陀(なんだ)・跋難陀(ばつなんだ)・娑伽羅(しゃがら)・和修吉(わしゅきつ)・徳叉迦(とくしゃか)・阿那婆達多(あなばだった)・摩那斯(はなし)・優鉢羅(うはつら)の各竜王をさす。このうち、娑伽羅竜王が、海や雨をつかさどるとされるところから、航海の守護神や雨乞いの本尊とする。八大竜神。 
【難陀竜王】八大竜王の第一。跋難陀竜王の兄とされる。護法の竜神で、頭に七竜頭(竜蓋)をつける。難陀。難陀婆難陀。難途跋難陀。難頭和難陀。 
【跋難陀】兄の難陀竜王とともに摩竭陀国を保護して飢饉がないようにした。 
【沙伽羅竜王】(沙竭羅、娑羯羅、沙竭)観音二十八部衆の一。護法の竜神。また、降雨の竜神として、請雨法のおりの本尊。しゃかつらりゅうおう。 
【阿耨達竜王】あのくだつ‐りゅうおう。八大竜王の一。阿耨達池に住み、これより東西南北に四つの河を分出して全世界を潤すとされる。阿那婆達多竜王。
【倶利迦羅竜王】くりから‐りゅうおう。不動明王の智剣が変じた化身。形像は、岩の上で火焔に包まれた黒竜が剣に巻きついて、それを呑もうとしているさまに作られる。倶利迦羅不動明王。倶利迦羅竜。倶利迦竜。倶利迦羅。 
【竜】想像上の動物。体は大蛇に似ていて、背に八一枚の鱗(うろこ)、四足に各五本の指、頭には二本の角があり、顔は長く耳があり、口辺に長いひげを持つ。水中または地中にすみ、時に空中を飛行し、雲や雨を起こし、稲妻を放つという。中国では、古来鱗虫(りんちゅう)の長とされ、麟(りん)・鳳(ほう)・亀(き)と合わせて四瑞(しずい)の一つとし、仏教では八大竜王に分け、航海や雨乞いの守護神とする。たつ。
【夜叉】容貌・姿が醜怪で猛悪な鬼神。後に仏教にとり入れられて八部衆の一つとされ、毘沙門天の眷属で諸天の守護神となり北方を護る。夜叉明王。夜叉神。 
【八大夜叉】毘沙門天の眷属として正法を守護する八体の夜叉。宝賢・満賢・散支・衆徳(しゅとく)・憶念・大満・無比力・密厳(みつごん)。 
【捷疾鬼】しょうしつ‐き。足がはやく、すばやい鬼。毘沙門天の眷属として北方を守護する夜叉。 
【大元帥明王】十六夜叉大将の一。二童子・四天王などを従え、国家を鎮護し諸難を除く神。像は四面八臂(はっぴ)ないし一八面三六臂で極悪の忿怒形にあらわされ、手足に蛇をからませ、刀、戟などを持ち、火炎に包まれる。だいげんすい。密教修法の本尊。 
【曠野鬼】こうやき。十六夜叉神の一。仏在世の時、曠野聚落に住して仏に教化された。密教ではこれを大元帥明王と名づけ、諸鬼神の王にして国土守護神とする。
【頞儞羅大将】あにらたいしょう。摩尼羅、安涅羅、安怛羅などとも音訳)仏語。薬師十二神将の第五。夜叉の大将の一で、七千の眷属(けんぞく)を従え、薬師如来の信者を守護する。日本では十二支の午に相当。 
【金毘羅・金比羅】薬師十二神将の一つ。また、仏法守護の夜叉神王の上首。武装し、忿怒(ふんぬ)の姿をとるが持物は一定しない。大物主神はこの垂迹(すいじゃく)の姿といい、海神として信仰され、香川県の象頭山(ぞうずさん)の金刀比羅宮(ことひらぐう)にまつられている。金毘羅大将。金毘羅童子。 
【宮毘羅・倶毘羅】くびら。薬師如来の十二神将の一。また、仏法守護の夜叉神王の上首をいう。武装し忿怒の姿をとるが持物は一定しない。宮毘羅大将。金毘羅(こんぴら)。 
【執金剛神】しゅうこんごうじん。手に金剛杵(こんごうしょ)を持ち仏法を護る夜叉神。その形相は、初期には着甲の神将形にあらわされたが、後には半裸の力士形が一般に行われ、二神一対で寺門などを守護する神とされた。いわゆる、仁王のこと。持金剛、執金剛力士、金剛力士、密迹力士など、種々の称がある。密教では大日如来の眷属(けんぞく)として諸種の金剛の名を与え、その上首である金剛手秘密主を大日如来の因位をあらわす金剛薩hとする。しっこんごうじん。
【乾闥婆】けんだつば。帝釈天(たいしゃくてん)宮で簫(しょう)を吹き、音楽を流して諸神を供養します。天界の神酒ソーマの番人、また東方の守護神持国天(じこくてん)の家来ともされます。
【阿修羅】(修羅、非天、不端正)インド古代の鬼神。仏教では八部衆の一。常に帝釈天と戦う悪神とも。 
【阿修羅王】阿修羅道の王。経により数々の王名がある。法華経は婆稚、s羅騫駄、丐摩質多羅、羅c羅の四王をあげる。 
【阿修羅道】六道の一つ。阿修羅の住む所。鬼畜または天に属するとし、また、天、人とともに三善道の一つとする。修羅道。修羅界。 
【修羅場】阿修羅が帝釈天と争う場所。転じて、闘争、戦乱の激しい場所。血なまぐさいことが行われる場所。 
【九界】この世の迷いの境界を九つに区分したもの。地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩の九つ。これに悟りの境界である仏界を加えて十界という。
【迦楼羅】仏教の経典中にみえる一種の大鳥。両翼をのばすと三三六万里あり、金色で、口から火を吐き竜を取って食うという。金翅鳥。密教では、仏法を守護し、衆生を救うために梵天が化したという。かるだ。
【緊那羅】きんなら。歌舞をもって帝釈天に仕えるもの。形は人頭鳥身、あるいは馬首人身などがあり、両手で鼓(つづみ)を打つ姿、笛を吹く姿、琵琶を持って歌舞する姿などにつくる。緊那羅王。緊那羅神。
【摩睺羅伽】まごらか。仏法護持の八部衆の一つ。人身蛇首の神。
【五大明王】不動明王を中心に隆三世、軍荼利、大威徳、金剛夜叉の四明王を東南西北に配す。また、五大力菩薩との関係を生じ隆三世を金剛手、軍荼利を金剛宝、大威徳を金剛利、金剛夜叉を金剛薬叉、不動を金剛波羅蜜多に配する。五大尊。五大尊明王。五力明王。 
【不動明王】五大明王・八大明王の一で、その主尊。大日如来が、いっさいの悪魔・煩悩を降伏させるために化現した教令(きょうりょう)輪身で、忿怒の相をとる。形相は色青黒く獰悪(どうあく)で、眼を怒らし、左は半眼、額に水波の相があり、右牙を上、左牙を外に出す。また右に降魔の剣を、左に羂索(けんさく)も持ち、火焔光背を背に岩上または瑟瑟座(しつしつざ)に座している。眷属として矜羯羅(こんがら)・制迦(せいたか)など八大童子をもつ。種々の煩悩・障害を焼き払い、悪魔を降伏して行者を擁護し、菩提を成就させ、長寿を得させるという。日本では平安初期の密教の盛行とともに尊崇され、今日に至る。不動尊。不動。 
【隆三世】
【軍荼利明王】ぐんだり‐みょうおう。南方に配される。その形像は、四面四臂、一面八臂など一定しないが、怒りの相を表わし、一切の阿修羅、悪鬼を折伏し、甘露を以て衆生を資益するという。金剛界曼荼羅では降三世会(ごうさんぜえ)に列する。軍荼利夜叉。軍荼利夜叉明王。 
【大威徳明王】だいいとく‐みょうおう。西方を守護し衆生を害する毒蛇・悪竜をすべて征服するという。本地は阿弥陀如来で、身は青黒く、六面・六臂(ろっぴ)・六足で忿怒(ふんぬ)の相を表し、左に戟・弓・索、右に剣・箭・棒を持つ。また、水牛に坐すともいう。 
【金剛夜叉明王】北方を守護し一切の悪魔を降伏(ごうぶく)する明王。五眼・三面・六臂で忿怒の相をとり、右手に五鈷杵・箭・剣を、左手に鈴・弓・輪を持つ。金剛夜叉。金剛明王。
【吉祥天】もとバラモン教の女神で、のちに仏教に入った天女。顔かたちが美しく、衆生に福徳を与えるという女神。父は徳叉迦、母は鬼子母神で、北方の毘沙門天の居城に住むとされる毘沙門天の妻(あるいは妹)という。日本では金光明最勝王経会や吉祥悔過会の主尊としてまつられた例が多く、像容はふつう宝冠、天衣をつけ、右手を施無畏印、左手に如意宝珠をのせ、後世も美貌の女神として親しまれる。奈良薬師寺の画像、東大寺法華堂の塑像、京都浄瑠璃寺の木像は特に名高い。吉祥功徳。吉祥天女。吉祥女。吉祥神。きっしょうてん。 
【十六善神】じゅうろく‐ぜんじん。般若経およびその経の受持者を守護する夜叉大将一六体をいう。本尊として釈迦と共に十二神将および四大天王をさすとされるが、実際には異説があり一定しない。大般若会の際にまつる。般若十六善神。 
【十二所権現】じゅうにしょ‐ごんげん。熊野三山の本宮に勧請(かんじょう)し、まつった三所権現、五所王子、四所明神の一二の権現。また、三山ともに立てた一二の権現。すなわち三所権現は証誠殿(本地阿弥陀)・新宮(本地薬師)・那智(本地千手観音)、五所王子は小守の宮(本地聖観音)・児の宮(本地如意輪観音)・聖の宮(本地竜樹)・禅師の宮(本地地蔵)・若王子(本地十一面観音)、四所明神は一万の宮(本地普賢)または十万の宮(本地文殊)・勧請十五所(本地釈迦牟尼)・飛行夜叉(本地不動)・米持金剛童子(毘沙門天)。
【三十三身】観世音菩薩が衆生済度のために化身するという三三種の異形(いぎょう)。仏・辟支仏(びゃくしぶつ)・声聞(しょうもん)・梵王・帝釈・自在天・大自在天・天大将軍・毘沙門天・小王・長者・居士・宰官・婆羅門・比丘・比丘尼・優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)・長者婦女・居士婦女・宰官婦女・婆羅門婦女・童男・童女・天・竜・夜叉・乾闥婆(けんだつば)・阿修羅・迦楼羅(かるら)・緊那羅(きんなら)・摩 睺羅伽(まごらか)・執金剛をいう。三十三体。三十三応の身。
【三十四身】妙音菩薩が衆生(しゅじょう)に経典を説き示すために化身したという三四種の異形(いぎょう)。梵王・帝釈・自在天・大自在天・天大将軍・毘沙門天王・転輪聖王・小王・長者・居士・宰官・婆羅門・比丘・比丘尼・優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)・長者婦女・居士婦女・宰官婦女・婆羅門婦女・童男・童女・天・竜・夜叉・乾闥婆(けんだつば)・阿修羅・迦楼羅(かるら)・緊那羅(きんなら)・摩 睺羅伽(まごらか)・地獄・餓鬼・畜生・女身をいう。 
【鳩槃荼】くはんだ。仏語。増長天の眷族の一つ。人の精気を食う鬼神。首から上は馬形で、他は人の姿をもって描かれる。風のように足が速いとされる。鳩槃荼鬼。鳩槃荼夜叉神。 
【女夜叉】にょやしゃ。女体の夜叉。 
【如夜叉】にょやしゃ。(「外面似二菩薩一、内心如二夜叉一」から)夜叉のような恐ろしい心をもっていること。  
【外面】げ‐めん。外面=如菩薩(にょぼさつ)[=似菩薩(じぼさつ)]内心如夜叉(ないしんにょやしゃ)、容貌は菩薩のように美しく柔和であるが、その心は夜叉のように残忍邪悪であるの意。仏教で、女性を出家の修行のさまたげになるものとしていましめたことば。 
【稲荷】いなり。狐の異名。宇賀御魂命の別称の御饌津神(みけつかみ)を三狐神と書き誤ったこと、稲荷の本地、荼枳尼天(だきにてん)が狐霊の夜叉であるとされたこと、狐が稲荷明神の使いと信じられるようになったことなどによる。 
【鬼】き。餓鬼道に落ちた亡者。いつも飢渇に追われているものから、財にめぐまれ、勢力もある夜叉(やしゃ)、羅刹(らせつ)のようなものまでを含む。また、これを「おに」と呼ぶときは、地獄の獄卒などをさす。餓鬼。
【天狗】天上や深山に住むという妖怪。山伏姿で、顔が赤く、鼻が高く、翼があって、手足の爪が長く、金剛杖・太刀・うちわをもち、神通力があり飛行自在という。中国で、流星・山獣の一種と解し、仏教で夜叉・悪魔と解されたものが、日本にはいって修験道と結びついて想像されたもの。通常、第一種は勧善懲悪・仏法守護を行う山神、第二種は堕落した僧侶などの変じたもの、第三種は現世に怨恨や憤怒を感じて堕落して変じたものに分ける。大天狗、小天狗、烏天狗などの別がある。 
【鬼神】きじん。(「鬼」は死者の霊魂、「神」は天地の神霊の意)天地万物の霊魂。また、神々。超人間的な威力や能力をもったもの。仏法護持の、梵天、帝釈などの天や竜王、および夜叉、乾闥婆(けんだつば)、阿修羅(あしゅら)、迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、摩 睺羅伽(まごらか)の八部などを善鬼神、羅刹などを悪鬼神とする。変化(へんげ)。鬼。恐ろしい神。 
【非人】人間ではないの意で、鬼神などが仮に人に姿を変えたもの。また、鬼神・阿修羅とも、天竜八部・夜叉・悪鬼などともする。
化仏けぶつ。仏像の頭上にある仏の顔を、仏頭とか化仏とか言う。千手観音の場合、両手の掌に小さな仏像の坐像を持っている、聖観音の宝冠には立像の如来の化仏があり、大日如来の宝冠には五智如来の五体の化仏がある。仏像の光背にも、小さな如来坐像が配列されなど、いろいろの化仏がある。 
化仏の意味は本面の仏の化身であるとか、変身した姿であると言われている。化仏が一体の像に何体造られていても、同じように見えても、それぞれ異なった功徳や法力をもっていると言える。 
化仏の働きは、本面になっている仏の衆生に対する意志の代行者である。本面の仏が「あの人は困っている、助けてやりたい」と考えると、頭上の化仏の一つに「お前は行ってあの人を助けてこい」というふうに命令する。化仏は早速飛んでいって助けてくるのである。  
化仏は、いろいろなことを我々に教えてくれる。我々がいろいろと知恵を働かせ何か事をなし遂げようとしているとき、自分の専門分野の知識や知恵だけではなく、勉強をして他の知識をたくさん吸収せよということを先ず言っている。それは今主体になっている本面の仏が自分の専門の知恵であり、化仏が新しく勉強する他の違った知識にあたる。目的を達成させるより、大きな成果をあげようとするなら、完全なものにするためにいろいろな知恵をもたなくてはならない、自分の専門以外の知恵を働かさなければいけないということである。  
個人の場合、自分一人で生活していると思っている人は、自分の知恵でなんとか暮らせる。しかし、家族をもち、会社をもち、その会社に関連する多くの人と接する立場の人は、一人の知識だけではどうにも足りず、より多くの知恵、知識をもっていないければと教えてくれているとも言える。  
 
釈尊

 

歴史上の仏教開祖「釈尊」が、真理に目覚めたる者=「菩薩」(bodhisattva・ボーディーサットバ/菩提薩)として覚りを開いたことが、入滅後に崇高な存在として崇拝され、仏像仏画の原形が作り上げられる段階で、「薩/sattva(サットバ・人)」としての「菩薩」の崇拝観念を超えて「理想仏」の「如来」像を作り上げ「釈迦如来」となった。 
「釈迦牟尼世尊」の「釈迦」は、釈迦国の種族としての名を示している。「牟尼」は、寂黙、仙人、智者などの意で、「釈迦牟尼」で釈迦族の聖者を表す。「世尊」は、仏即ち如来の如き成道者であることの美称。釈尊の姓としての喬答摩(Gautama・ゴータマ)は種族の別称。 
釈迦国迦毘羅(かぴら)城主浄飯王(ジョウボンノウ/S'uddhodana・シュッドゥーダナ)の妻、摩耶夫人(マーヤブニン/摩訶摩耶・マカマーヤ/Maha-ma-ya-・マハーマーヤ)は、ある晩「六つの牙を持つ白象が天から降りてきて、摩耶夫人の右の脇から体内に入り、その純白の象は胎の外から透き通って見え輝いていた」という夢を見た。すると懐妊したという。摩耶夫人は授かった王子の出産のため、生まれ故郷の天臂城(てんぴじょう)へ里帰りした。帰路の途中、ルンビニーの花畑を過ぎたところで急に産気づき、ふと無憂樹(むゆうじゅ)の一枝に手を伸ばしたところ、右の脇の下から王子「釈尊」が降誕(ごうたん・誕生)した。世紀前566年4月8日(565年という説もある)という。 
王子は、この地に降り立つと直ちに七歩自分の足で歩き、手を上下に指し伸べ「天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)」と声高らかに宣言した、すると、突然の雨が降ってきた(甘露の放水)。 
悉達多(Siddha-rtha・シッダールタ)と名づけられ、誕生の七日後、生母摩耶夫人と死別、摩耶の妹の摩訶波闍波提(Maha-praja-pati-・マハープラジャーパティー)に養育される。 
幼年期より学術、武技を習学し良く通達し、文武両道の優れた王子に成長したが、しばしば深思瞑想に耽る性格であった。いつも人として生きることに心悩ませる太子を心配した浄飯王は、何とかできないものかと、城中に三時殿(寒さ、暑さ、雨の一年三期を快適に過ごせる宮殿)を建設したり、太子(19歳)に耶輸陀羅(Yas`odhara-・ヤショーダラー)を妃に迎えたが、根本苦の悩みに出家の道を選ぶことになった。この根本苦に悩み出家にいたる伝説が「四門の遊観」として語られている。 
「四門(しもん)の遊観(ゆうかん)」の粗筋 / 釈迦国の王子として生まれた釈尊は、迦毘羅(かぴら)城の三時殿で過ごし、やりたいこと、欲しい物は何でも思いのままで、不自由のない生活をしていたが、天上の歓楽を思わせるような五欲を楽しむ生活に自分自身の心に内省していた。ある日、一日郊外で遊ぼうと馬車で出かけ、「東の門」を出たら、馬車の前を手につかまってよろめき通り過ぎる老人を目にした。いつも若い男女、付き人や召使いに囲まれていた釈尊は、「あの者は何であのようにみにくい様相(白髪で背の曲がったやせ衰えた姿)をしているのであろうか」「人は歳をとって老いる」現実を知り悩んだ。それから数日して次に「南の門」を出たら、病人に遭遇した。そして次に「西の門」を出たら、葬儀を目にした。「あの儀式は何であろうか」「人は老い、病を得る、そして死を迎える」ことを知り深く悩んだ。しばらくして「北の門」を出たら、出家し行に付す乞喰沙門(こつじきしゃもん)に出会い、「なんと澄んだ目をしていて心が研ぎ澄まれる者なのであう。質素な衣を通して、体中から喜びの光の輝き、和やかな空気があたりに充満しているのを感じる」の沙門の姿を見て「出家」を決意した。 
29歳の年、7月の満月の晩、愛馬カンタカに乗り、城門を出て一路修行の旅に出た。 
修行の道を求め釈尊は、毘舎離(びしゃり)国の跋伽婆(バツヴァバ)仙人に就いたが覚りを得られず、摩掲陀国(まがだこく)の王舎城(おうしゃじょう)へ行き阿羅羅伽羅摩(アーラーラ・カーラーマ)仙人に就き「無所有処定(むしょうしょじょう)」(何もない境地)の禅定を受ける。次に鬱陀伽羅摩子(ウッダカ・ラマプッタ)仙人に就き「非想非非想処定(ひそうひひそうしょじょう)」(何もないことはないという境地)の禅定を受け、更なる真の覚りを求め尼連禅河(にれんぜんが)の東岸優留頻羅(ウルヴェーラ)村の樹林(後に「苦行林」と名づく)で苦行を修す。この行は断食や息を止める苛酷な行で、いつしか衰弱した体に平常心を失い気力をなくし何も考えることが出来なくなった。釈尊は「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」ことに気づき、6年苦行を捨てる。尼連禅河に沐浴し力つきて倒れていると、村の娘須闍多(スジャーター)から乳び(ヨーグルト状の醍醐という飲物)を授かり力を回復した。これを見ていた浄飯王の使いの者達は、釈尊は堕落したと考え、婆羅奈斯(ベナレス)の鹿野苑(ろくやおん)へ行ってしまった。 
釈尊は北方、伽耶(がや)村の畢波羅樹(ぴっぱらじゅ)(後に「菩提樹」と名づく)の下に座し、金剛の如くの決意で深く瞑想に入った。すると幾多の悪魔が来て釈尊の瞑想を邪魔した。ある時は美しい三人の娘を使わして誘惑し、またある時は大群を率いて覆滅しようとしたり覚りを開かせまいとした。釈尊は微動だもせず悉くこれらの悪魔を降伏(ごうぶく)した。心の安静を得て夜になって禅定に入り、最初に前世を知る知恵を得、次に無量の衆生を見通す知恵を得、最後に暁の明星のきらめきとともに迷いの闇を照らす真実の知恵を得た。ついに釈尊は正覚(しょうがく)を成道(じょうどう)した(覚りを開いた)、時に35歳の12月8日だった。この「覚り」がサンスクリット語で「Budhi(ブーディ)」であり、釈尊が覚れる者「覚者(かくじゃ)」即ち「Bodhi−Sattva(ボーディサットバ);覚る人」「真理に目覚めたる者」を漢字にして「菩提薩(ぼだいさった)」略して「菩薩」となったことを意味し、「Budhi(ブーディ)」が変化して「Buddha(ブッダ)」漢字にして「仏陀」となった。故に「伽耶(がや)村の畢波羅樹(ぴっぱらじゅ)」は「仏陀伽耶(がや)の菩提樹」と名づくことになった。 
釈尊は、その後も数週間はこの菩提樹下にて説法を開き、最初の説法を「初転法輪(しょてんぼうりん)」という。この説法が釈尊入滅に至るまでの45年間の源泉であった。内容は八万四千の法門と言われるほどの経典に収められ、それは「十二縁起」を順逆に観ずる知恵であると説明している。釈尊は苦行を共にし給仕してくれた5人の護衛(アサジ等)を思い、婆羅奈斯(ベナレス)の鹿野苑(ろくやおん)へ向かい最初の教えを説いた。これが「初転法輪」で、教えは「中道」(中庸・ちゅうよう)と「四聖諦(ししょうたい)」であった。「中庸」と「四聖諦」の教えは、後の二大弟子の一人、舎利弗(しゃりほつ)に説いた教えた経典「般若(波羅蜜多)心経」である。自らが苦行を修した優留頻羅(ウルヴェーラ)に向かい再び伝道の旅に出た。三迦葉(かしょう)を(優留毘羅迦葉(ウルヴィラカショウ)は五百、那提迦葉(ナダイカショウ)は三百、伽耶迦葉(ガヤカショウ)は二百の弟子をひいていたといわれる)を教化し、摩竭陀(マガダ)国の首都王舎城(おうしゃじょう)に入る。国王頻婆娑羅(ビンビサーラ)王の崇敬を受け、竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)(寺)を授かる。舎利弗(シャリホツ)、目連(モッケンレン)等250人の仏弟子が加わり教団が次第に大きくなる。父の浄飯王は一族を教化し、阿難(アナン)、難陀(ナンダ)、羅羅(ラゴラ)、提婆達多(ダイバダッタ)等が入道する。後に養母摩訶波闍波提(マハープラジャーパティ)の出家により比丘尼(びくに)の教団が成立する。その後、薩羅(コーサラ)国舎衛城(シャエイジョウ)の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)ほか、各地を布教し、45年の歳月、多くの仏弟子ができ、教団も大きくなっていった。衆生を教化する中で涅槃に近付く覚りを開いた。その間に提婆達多(ダイバダッタ)の反逆もあったが、教団を破られることなく仏法を広めた。釈尊は北に向かい伝道に旅を続けたが、波婆城(ハバジョウ)で純陀(チュンダ)という鍛冶屋の子供から栴壇樹耳(せんだんじゅに)というキノコの供養を得たことで赤痢に罹ってしまった。拘尸那羅(クシナラ)の沙羅林(サラリン)に入り最後の説法を行い、沙羅樹の間に北を枕にして西を向き入滅した。釈尊80歳にして世紀前486年2月15日であったという。
「中庸」とは、両極端に偏らず程良く中道を進むこと。凡夫の我らのみならず釈尊が何の不自由もなく、快楽の欲(五欲)に流されるままの生活の中で何の自覚も無く、何の反省をも得ずに過ごした日々が一極端なものとするとき、それらのすべてを断じ、自らの身を苦しめることに専心し苦行を修した日々が反対の一極端となり、両極端の道を退け、そこを離れた中道を進む道こそが如来の証す法であり、涅槃を導く道であると説いた教えである。この「中庸」を求める道の実践は「四聖諦」にあるとした。 
「四聖諦」とは、「苦(く)」「集(じゅう)」「滅(めつ)」「道(どう)」をいい、第一の真理として「苦」は、世の中は苦しみであることを知ること。その苦しみとは、人が人として生きる上で逃れることの出来ない苦悩である根本四苦「生」「老」「病」「死」からはじまる、「愛別離苦(あいべつりく)」「怨憎会苦(おんぞうえく)」「求不得苦(ぐふとっく)」「五蘊盛苦(ごおんじょうく)」の八苦より展開する百八の苦悩(煩悩)である。第二の真理としての「集」は、凡夫の苦しみの根源は心の奥深くに潜むもので、常に求めることに執着し押さえることの出来ない欲望の為すわざである(五欲煩悩)。第三の真理としての「滅」は、苦しみの無くなった世界が真の覚りの世界である。そして第四の真理としての「道」は、この真の覚りの世界に至るためには「八正道」の実践を以て修行すべきであると説いている。
 
八大竜王

 

御名とおはたらき 
難陀(なんだ)・跋難陀(ばつなんだ)・沙伽羅(さがら)・和脩吉(わすきつ)・徳叉迦(とくさか)・阿那婆達多(あなばたつた)・摩那斯(まなし)・優鉢羅(うはら)の八大竜王の総称。法華経の会座に列した護法の竜神。 
八大竜王は、釈迦生身の眷属で、釈迦生誕の砌、彼等が天より甘露を降らせ祝福したともいう高い神格をもつ竜神。水を司どる神、水分の神でもある。 勝れたるものは、自由に雲を起してその中を飛翔し、殆ど天と等しき威徳あるものとして顕教、諸教にある。 
「妙法蓮華経」の中の観世音菩薩普門品の別称を「観音経」といい、我国では聖徳太子により最初に講じられているが、釈迦がこの中で観音に帰依すれば「観音が身を三十三身に変じてあまねく衆生を救い、願いを叶え、教化して下さること」を説いている。十六弟子を始め、諸仏、諸菩薩と共に、生きとし生けるものの代表として八首の竜王が幾千万の眷属をひきつれて、この経を聴聞した結果、観音の教化によって、仏道に向かわれた神でもある。従って観音菩薩の宝珠(魂)をその身に宿されて、観音と一体となり、観音菩薩の守護神となって霊山の「神々と諸仏、諸菩薩」との橋渡しの役割をされた神ともいえる。異質なもの(神と仏)との和合を願った「釈尊、聖徳太子、役行者」の共存共栄の大きな世界実現に大きな使命をもたれている神であることが解る。 
奈良時代前後に成立した霊場には、例外なく○○竜神や八大竜王、又はこの中の1、2首の竜王が祀られ発展してきた歴史がある。しかし八大竜王全首奉斎されてたり、神格の高い神々と習合しているところは意外と少ない(明治維新時にかくされてしまった神々だが、時の要請に従ってあちこちで復活の話も取り沙汰される昨今である)。 
密教大辞典には、各竜王の神徳について次のように記されている。「難陀」は歓喜、「跋難陀」は賢喜、亜歓喜、難陀の兄弟。「沙迦羅」は海の意、請雨法の本尊。印度無熱池に住し密教の守護神。「竜女成仏」はこの竜王の女の成仏を説く。「和脩吉」は宝有、多頭、九頭竜のこと。「徳叉迦」は、多舌、毒視、和脩吉と同胞。怒って凝視すれば、人畜直ちに命を終える、と。「阿那婆達多」は無熱。雲山頂の池に住み、四大河(東ガンジス、南インダス、西オクサス、北シーター)を分けて、人間世界を潤す、一切馬形、徳が最も高い。「摩那斯」は大尉、高意、慈心、大力大身、雨を降らさんとするとき、七日衆事の終わるを待って、それから雨を降らす、故に慈心と那尽く。「優鉢羅」は青蓮華と訳す。青蓮華池に住する故にこの名あり・・・と。 
竜の起源 
難陀(なんだ)はサンスクリット語「ナーガ」からきている。インドのナーガ族が、蛇を神格化して蛇神崇拝をした。日本にきて、イザナーギ、イザナーミになったという説もある。大海に棲み、雲を呼び、雨を降らす秘力を持つ。神格の高い竜を竜王と称えた。「竜神は「カ(火)とミ(水)」で「神」の語源とも。水は潤いを意味し、恵みに通じる。水と観音菩薩の「恵みと慈悲」は、万物の命を支え育むところからも「不離一体」といっても過言ではないだろう。」とも言われている。 
竜泉・竜樹・竜穴信仰と和脩吉・沙迦羅 
竜神への祈願については、桓武天皇の御代(824)に空海の請雨により神泉苑の竜上天し、雨振る(江談抄)とか、「弘法大師早魃の時神泉苑にて請雨経を修するに、天竺の阿耨達智池より善女竜王きたりて雨を降らす」とかは、我国最大の古代説話集の今昔物語に記されている。善女竜王とは沙迦羅の第三女善女竜王。やや前だが、役行者開創の宝生寺の竜穴神社で、宝亀年中(770-780)、皇太子時代の桓武天皇の病気平癒が僧侶により祈願されたと続日本書紀にある。鎌倉時代橘成季の成した古今著聞集には、澄憲、災早の時竜神に祈りて雨を降らすともあり、神泉や竜穴と共に竜神への信仰の大きさを知ることができる。奈良県天川村の 龍泉寺も、圭室文雄編「日本名刹事典」によれば、「開基の役行者が八大竜王を祀ったことに始まる。」と記されている。ここには「竜の口」の伝説がある。この泉は今も大峯山修験者の清めの水として清冽な流れを 寺の林泉にたたえている。 
奈良県吉野山の金峰山修験本宗の総本山は、役行者が、蔵王権現を感得した寺として有名だが、傍らの行者堂を下った処にある「竜王院」では、先代五条覚澄師が八大竜王と共に脳天大神を祀られている。愛媛県西条市石鎚神社の「八大竜王社」。高野山の八大竜王は弁天さんとして祀られている。一は天川系、二は高野山系である。二は、独自で山の周辺にいくつか祀られている。御神体は木彫りの二つの蛇体で、その上に頭があり、顔は人面で翁と嫗である。千葉県市川市の「法華経寺」には文応元年(1260)になって日蓮により、八大竜王が祀られている。 
九頭竜の名は比較的多くの人に知られている。この竜王は、八大竜王の中の一首で「和脩吉竜王」のことである。諸竜の王、細竜の類を食う密教擁護の善神といわれ、水天の眷属でもある。長野県「戸隠神社」、(元比叡山延暦寺末寺)「箱根神社」の湖上祭の御祭神も九頭竜である。金龍山の山号に輝く浅草寺の境内にも九頭竜権現が祀られている。福井県の九頭竜川野流域には、九頭竜権現の小祠が多くみられる。 
清竜権現で知られるのが沙迦羅竜王の第三女善女竜王である。密教では如意輪観音の化身として崇められている。弘法大師帰朝の祭、青龍寺から勧請して青瀧と改め、聖宝の代醍醐寺に移した。現山上の清瀧堂は国宝。沙迦羅竜王と「竜女伝説」で名高いその女を祀っているのが、山形県鶴岡市の善宝寺。庄内札所一番でもある。明治維新直後から八大竜王の御名を秘して、「戒道大竜女」の別称で祀られている。沙迦羅は海の神、請雨法の本尊で、現在も神職の参詣も多いという。 
八大竜王と役行者 
八大竜王は役行者=役小角(624-710)が奉斎したことで知られる。役小角は聖徳太子没して12年後、*明6年に葛城山の麓、茅原の里(現御所市)に出雲の加茂氏と葛城氏の娘との間に生れ、仙道、道教、古神道、仏教を学んだ。これに満足せず、人間完成への探究と実践こそ神仏の境地到達の道であり、国家安泰、万民幸福の道であると悟り、更に難行苦行し、箕面山で竜樹から乱れた世を救う悲報を授かった。吉祥草寺、蔵王堂をはじめ、関東では日輪寺(茨城)、大平山三吉神社(秋田)、金嶺神社(山形)、熊野神社(山形、温海町)など、役行者開基や何らかのかかわりをもったと伝えられる寺社は四十余ヶ寺数えられるという。それ程に力を持った役行者については、「超人、役行者小角」に「神変不可思議、得体の知れぬ謎の超人」と述べられている。 
その役行者が11才の時(645)に、大化改新を迎えている。38才の時には、壬申の乱(672)で天武軍を援け、その後天武帝に重く用いられたといわれている。真剣に国家安泰、万民幸福への道を探り、衆生を教化して、人々を仏の道に誘うことを願って「行学」の限界を修め、遂に神仏習合の神々を時と処に尋ねて、祀っていった。その結果、農耕国家かつ仏教国家にとって「水から生れる発想や自然の摂理」を祀ることと共に、「国家安泰、万民幸福」を国家的規模で祀る重要さを感じていたことが推定できる。「水と観音」が一体となった姿、それが八大竜王でありそれは、万物の生命の根元であり、愛でもある。そして生きる力でもあり、真理である。 
役行者と秩父 
699年に伊豆に流された役行者は、701年に罪を許されている。その後箕面に住んだが、その頃知々夫(713年に秩父となる)の地に訪れている。その地には既に御巫八神が祀られていたからに他ならない。そして八首の竜王(八大竜王)を合祀して八大宮と称した。神界で最高の神格をもたれた八神と、仏界で大日経系の胎蔵界の最高尊格を持たれる大日如来との橋わたし役をされる使命を八大竜王にみたのであろう。観音菩薩と不離一体であるという八大竜王の(御神徳=力=教え)に、役行者は、将来の希望即ち国家安泰、万民幸福の願いをたくされたのではなだろうか。「その後相州の八菅山(703)そして和銅3年(710)に入定した。」という。果たせるかな、秩父はほどなく、行学を修め、人間探求と実践並び神仏の境地到達の道を求める修験道の一台拠点(聖護院直末寺、大先達)となり、その後500-800年を経て天文五年(1536)観音札所34ヶ寺が整えられた。そして江戸の発展に伴い、多くの巡礼を受け入れ、観音札所と八大現社(今宮八大宮)は共々盛んとなった。しかし、明治維新と太平洋戦争敗戦の荒波と、観光商業主義の世情の中に、御巫八神と八大竜王を祀る八大宮はしずまられ、およそ130年の間、お隠れになる日々を余儀なくされたのである。 
水分の神 
明治維新から130年、再び「水」の神徳を求める人が増えて、八大竜王はあらためて水の神として、又、神と仏の橋わたしの使命をもたれて顕れ出られる時を迎えようとしている 。 
このような時を迎えることが出来たのは、昭和から平成にかけての観音信仰、札所めぐりの復活である。特に百観音めぐりを世に出された浅草寺清水谷孝尚師、満願寺平幡良雄師の尽力は特筆されていくだろう。かつては御巫八神→八大竜王→観音菩薩という順序で祀られた神仏だが、激動の明治→平成を経て観音菩薩→八大竜王→御巫八神の順で光があてられていくのだろうか。しかし、時代のうつりかわりをよそに、竜神信仰の珍しい神事の一つに秩父今宮神社の水分祭がある。これに先立って毎年4月4日、竜神木前で、竜神を称える竜神祭。続いて今宮神社の「水分祭」が行われる。この水は武甲山の伏流水がわき出しているところである。この日は秩父神社のお田植祭(祈年祭)でもあり、秩父神社から神官、伶人、神部(かんべ)(農家の代表)、市や町会の代表者が「水乞い」に来られる。今宮神社から秩父神社に八大竜王並びに八神の御神徳=※生きとし生けるものの生命の源、生成発展の力=を「水幣(みずぬさ)」に託して授与する日である。水幣は八大竜王(明治期以降は(おかみ)の神)即ち「水」と「自然の法に則した教え」の象徴でもある。この恵みによって秩父神社のお田植え祭が行われる。そして秋になると稲が収穫され、新殻が秩父神社から今宮神社へ奉納され、そして水は山(武甲山)へ返される。神々を称え、そして感謝するおまつり、それが12月3日の秩父神社の夜祭で、豪華な付祭はあまりにも有名である。 
竜神様の卵好きはよく知られる。この外、神共には毎夜丑の刻、米3升を炊いて供え又、特に梨を好まれる。 
「時により過ぐれば民のなげきなり、八大竜王雨止め給え」(金槐集、源実朝)は、建歴元年7月洪水天に漲(みなぎ)りて土民苦しみしかば右大臣実朝が詠じた歌として知られる。
 
懸仏(かけぼとけ) / 神社に祀られた仏

 

懸仏は、平安時代のいわゆる神仏習合・本地垂迹(ほんちすいじゃく)(日本の神々の本地は仏菩薩であるという考え方)の考え方から生まれたものである。そのため明治の神仏分離の時まで、ほとんどの懸仏は神社に祀(まつ)られていた。最初は神道で御神体とされていた鏡に、その神の本地仏を毛彫(けぼり)したり朱墨で描いたりしたものであった。これら平面的なものは鏡像と呼ばれている。平安時代も半ば以降になると、尊像を半肉彫にしたものなどが作られるようになり、13世紀ごろになると丸彫に近い像を取り付けるようになる。このように立体的になったものが懸仏である。ただし懸仏の呼称は、明治時代以降になって使用されるようになったもので、それまでは銘文などからみて「御正躰(みしょうたい)」と呼ばれていたことが分かる(例.胎蔵寺(たいぞうじ)懸仏など)。様式は、古くは仏像だけであったものが、しだいに天蓋(てんがい)花瓶(けびょう)瀬波形などの装飾が付されるようになり、それに伴って仏像は小型化している。吊(つ)り金具も最初は孔だけであったものが、花葉(かしょう)形の鐶座(かんざ)を付けるようになり鎌倉時代末ごろには獅噛座(しかみざ)に代わっていく。銅製がほとんどであるが、木鉄を素材としたものもある。しかし現在のところ県内では銅製以外は見ることができない。大分県は、九州では懸仏重要資料の最も豊富な地域といわれ、平安時代後期から室町時代後期までのものが約280面ほど確認されている。内訳は平安時代と推定されるもの2面で、他は室町時代を中心とした中世の作例である。江戸時代のものも何例か見られるが、現時点ではほとんど未調査の段階である。  
大分県内に残る懸仏/代表的なものを時代順に何点か取りあげてみる。平安時代の作例は前津江村大字大野大野老松(おいまつ)天満社蔵の207面の懸仏の中にある。延久3年(1071)日田郡司大蔵大夫永季(おおくらたゆうながすえ)が創建したと伝えられる神社で、1か所にこのように大量の懸仏が奉納されている例は県内では他にない。時代は平安時代の2面をはじめ、鎌倉時代10例余、以下南北朝室町時代が大半を占める。平安時代のものは、薬師如来(やくしにょらい)像懸仏と十一面観音鏡像である。前者は巾の狭い覆輪(ふくりん)をめぐらし通形の薬師如来坐像を鋲(びょう)留めにしている。蓮弁衣紋等細かく丁寧な彫りである。吊り金具は花葉形鐶座。後者は鋳造双耳付円鏡に十一面観音坐像を毛彫りした鏡像である。次に鎌倉時代を代表する例として、国東町大字横手神宮寺(じんぐうじ)の懸仏をあげることができる。同寺には計8面の懸仏があるが、近くの山頂にあった嶽ノ権現社の御正体であったと伝えられている。中の1面の裏面1枚板に「正応五三月日刑部亟平安□」の墨書がある。正応5年(1292)に奉納されたことが分かり、紀年銘懸仏としては現在のところ県内で最古である。刑部亟平安□は、国東郷の地頭であった北条氏の一族かと推定する説もあるが確証はない。他の7面は無名であるが、鎌倉時代から室町時代初期にかけてのものである。正応5年銘の懸仏は千手(せんじゅ)観音坐像を(ほぞ)留めにし、両側に花瓶を鋲留めにしたもので鐶座は獅噛座である。完全な形の獅噛座としては、日本でも最も古い時期のものである。別府市個人蔵の鏡像は、白銅製の鏡面に不動明王の種子(しゅじ)(カーン)を力強く彫ったもので、元亨2年(1322)の年号がある。種子鏡像としては県内では唯一のものである。豊後高田市大字平野の胎蔵寺には鎌倉時代から室町時代にかけての懸仏3面がある。寺の背後の山腹にある熊野権現(くまのごんげん)社の御正体を、明治初年に同寺に移したと伝えられている。このうち阿弥陀(あみだ)三尊懸仏は、径53.5pと大きく阿弥陀三尊像を鋳付けている。一鋳式懸仏の南限的基準作として重要であるといわれている(岡崎譲治「九州の懸仏−北部九州の群集遺品を中心に−」)。たがね彫りの銘文が、円板の縁にそってあるいは三尊の下などに次のように刻されている。「六郷本山今熊野御正体也建武二(二)年丁(丑)十二月十五日願主倉成沙弥道妙大観進金剛佛子興済筆者僧秀尊大徳大結衆等各敬白妙心妙覚妙縁(以下略)」。これにより建武4年(1337)に倉成沙弥道妙が願主となり、観進僧興済の働きで多くの人々が作善(さくぜん)(善行をなすこと、仏や僧などへの供養、写経などの仏教的善行)として作り奉納したことが判明する。筆者僧秀尊は銘文の作者の意であろう。また「六郷本山今熊野御正躰」の文字からは、六郷満山と熊野修験(しゅげん)の結び付きがうかがえる。六郷満山の信仰的背景の推移を知る上でも貴重なものである。室町時代の例としては、久住町大字久住の久住神社蔵の10面をあげておく。最大のもので径20.8p、最小のものは9.3pと小さいが、裏面板に墨書があり、直入郡白仁(しらに)南山城(なんざん)主志賀道雲(どううん)鎮隆(しげたか)親子とその一門が奉納したとある。道雲は豊後南郡(なんぐん)衆の1人で、大友家臣団中では大きな力を有していた。しかし天正14年(1586)の島津侵攻の際には島津方についている。歴史資料としても貴重である。  
 
神仏習合のこと

 

國分寺の本堂には、明治初年まで隣の下御領八幡神社に祀られていたご神体をお預かりしている。黒い厨子に入っているので、普段どなたも余り気に掛けることなく素通りしてしまう。ときおり団体で國分寺に参詣され、少しお話しでもと言われて様々國分寺の歴史などをお話しするときには、時々明治以降の歴史にも触れるため、その厨子についても解説する。 
「本堂左隅の黒いお厨子には江戸時代まで八幡神社で祀っていたご神体、真ん中に八幡神のご本地仏・阿弥陀如来と、八幡大菩薩がお座りになっています」と。明治になって神道国教化となり国家神道が民意掌握の手段として制度化するまでは、神仏はともに混淆して祀られ、信者は分け隔てすることなく参詣し信仰してきた。神仏習合とも言われ、現在のようにお寺と神社は明確に分けられてはいなかったのである。 
お寺の鎮守として神を祀り社が造られ、神社が出来ることもあれば、神社の管理運営のために別当寺または神宮寺としてお寺が後から出来ることもあった。仏教伝来と共に日本の神の威光を増進するものとして仏教が捉えられ、各地の大社には付属する寺院が建設された。 
平安時代になると神前読経が行われて、神に菩薩号が付けられ、平安中期には、日本の神は仏の化現したものとする思想が芽生え、仏を本地として権(かり)に垂迹の身を現したものであるという本地垂迹説が成立していく。そこから神を権現様と言い習わすようになる。 
神宮寺住職が別当として神主を兼務し、社僧と言われる僧侶が僧坊から社殿に入り、仏典を読誦して仏式で神を拝んだ。祭礼に際しても、社僧が神殿奥に入り、仏式の作法により神を神輿に遷し、その神輿を担いで氏子は町内を巡った。 
宇佐八幡宮、太宰府天満宮、厳島神社、石清水八幡宮、祇園神社、北野天満宮、東照宮、秋葉山、金比羅宮、春日大社等々、あげればきりがないくらいに、これら大社を含め多くの神社は神宮寺を付属し社僧らによって明治初年までは管理運営が図られていたのであった。 
江戸時代には、僧侶は幕府の官吏としての特権から、多くの神社を造営し、そこに僧坊を建て、その後寺格を調え、新寺建立を計ることもよく行われたようだ。東京新宿区早稲田の穴八幡神社は今では全国からお札を求める人々が冬至から節分まで殺到する大社である。 
しかしここももとは下に位置する放生寺を開創した良昌上人が、寛永年間にこの地に八幡神を祀る神社建立を委嘱されて招かれ造営した神社であった。もとの名を高田八幡宮と言い、僧坊を造るために土地を崩したとき穴が見つかり、そこから阿弥陀仏の金像が出てきたことから、俗に穴八幡と称されるようになる。阿弥陀如来は八幡神の本地仏であったから、特別この地は八幡神に相応しい土地とされて参詣者を集めた。 
その後、8月15日を祭日として定め、生類供養のための放生会を大祭として厳修していたところ、良昌上人を鷹狩りの際に訪ねた三代将軍家光公がそのことを聞かれ、高田八幡宮別当寺として寺号に「光松山放生会寺」を、それから、「葵の御紋」を寺紋として使用することを許され、徳川宗家祈願寺とされた。 
江戸時代後期に火事で焼けた社殿再建に際して上棟式に祀られた棟札が残っている。そこには、「光松山放生寺八幡宮社殿建立」とあり、建築主には当時の放生寺住職の名が記されている。また、近隣の町名を放生寺門前町と言った。 
その後明治になって時代が変わると、当時の住職の弟子が復職して僧侶を捨てて神官となり穴八幡宮の宮司となり、境内を分けて神社の経営に当たった。因みに江戸時代から絶大な信仰を誇る「一陽来福」というお札は御府内三十三カ所の札所本尊観音菩薩の修法を修し頒布されていた。 
それで、突然神社だけで経営を任され難儀した宮司が神社でも同様な名でお札を作りたいとの申し出によって、「一陽来復」という名で穴八幡神社のお札が新たに作られたのだが、それが今も神社で授けられているお札なのである。 
いまでは、もとから神社のお札と信じて疑わない多くの参詣者で有名となったイチヨウライフクではあるが、その真偽が賑わう参詣者の間で毎年話題にのぼる。しかし、こうして歴史を辿れば何が真実かは自明の理と言えようか。 
これらのことは江戸時代の地理書「江戸すずめ」、また「江戸名所図会」に記されている。実は、この放生寺は私が出家する際にお世話になり、また高野山を下りてから役僧を勤めていた頃に、国立国会図書館まで出かけ、様々な当時の資料を調べさせていただいたのであった。 
その後もインドと日本を往復していた時期に居候をさせていただいたり、今も毎年法要に出仕させていただいている、聖観世音菩薩を本尊とする高野山真言宗準別格本山である。 
このケースと同様な例として、10年ほど前まで私が暮らしていた東京都江東区深川に富岡八幡宮がある。この神社は、江戸三大祭りの一つ、裸祭りで有名な神社である。ここも実は、江戸寛永年間に永代島を開拓した真言宗の僧が八幡神を勧請して神社を造営し、後に寺格を調え、珍しく聖天を本尊とする永代寺を富岡八幡別当寺として建立した。 
そして永代寺の広大な境内で江戸時代には成田不動尊の出開帳が行われた。それが江戸庶民の大変な人気を博し、明治になって永代寺が残念ながら廃寺となった際にその境内地を深川不動として譲り受けた経緯がある。その後深川不動参道途中に永代寺の寺名を継承する寺院が建てられた。門前仲町という町名駅名を残す土地ではあるが、その門前のことをもとは永代寺門前町と言った歴史は実は意外と知られていないのである。 
それではここで特に何度も登場する八幡神について述べてみよう。現在、八幡神社は全国に4万社あるという。全国の神社総数12万社の実に3分の一が八幡社ということになる。八幡宮の祭神は応神天皇のご神霊であり、応神天皇の神霊は仏教伝来時の欽明天皇の御代に大分県宇佐の地に顕れたと言われている。 
そしてその時には既に、八幡神は、仏教ないし道教と融合して、仏教の八正道の教えが垂迹して八幡になったのであり、八正道の標幟であるとの説もあるほどで、仏法守護の神として仏教と一体となり古来信仰されてきたのであった。 
天平勝宝元年(749)に奈良の都に大仏が出来ると孝謙天皇は宇佐八幡別当弥勒寺に綿6万トン稲6万束を寄進して、奈良の都に八幡神を迎え、東大寺鎮守として手向山八幡宮を造営。総国分寺である東大寺を通じて八幡神は全国の国分寺を常住守護する神と位置づけられて、国分寺が創立されると自ずからその近くに八幡社が勧請されるようになる。 
確かに、現在ある殆どの国分寺の近くに八幡社が鎮座している。国分寺と八幡社の所在地は、ここ備後国分寺のように隣接している場合ばかりでなく、三四町離れている場合もある。しかし、地域の守護神としての神祇がこうして地域性を越えて鎮護国家、庶民救済、仏法守護の神として祀られることで、八幡神は仏教を通じて国家の守護神としての地位が確立したのであった。 
そして、平安時代になると八幡神は「八幡大菩薩」と呼称され、地蔵菩薩形の八幡大菩薩像が造像され、多くの寺院の守護神として勧請されていくのである。 
その後貞観元年(859)に京都石清水に八幡神の分霊が勧請された。宇佐八幡では社殿と神宮寺が別個に存立し、祭祀は斎会と呼ばれ殆ど神仏混淆したものであったが、神職が社僧の上位にあった。 
しかし、石清水八幡宮では一山の管理はすべて僧侶が占め、神主は僧侶の末席に位置し、祭祀様式は完全に神仏融合が計られたという。そして本地垂迹説の普及によって、八幡神の本地は当初、釈迦三尊とされ、11世紀には末世の到来と浄土思想の流布に応じて弥陀如来とされていく。 
鎌倉時代には源氏の氏神を鎌倉鶴岡八幡宮に祀り、それによって八幡神は武家の守護神、武運の神という性格を併せ持つようになる。鶴岡八幡宮も岩清水と同様に官寺として別当・神官を置いて放生会を正祭とした。 
室町時代になっても、足利氏は八幡神を崇敬し、特に義満は石清水八幡を足繁く参詣した。その後石清水八幡別当家では清僧を捨てて妻帯し世襲した。江ノ島弁財天でも、同様に世襲したと言われるから、早くから大きな神社を管理する別当寺家では妻帯し世襲することで法灯を継承していったようだ。 
また朝廷や皇室の八幡神に対する崇敬も言うに及ばず、国家の大事には必ず奉幣して崇敬の誠を表し、特に白河天皇は石清水八幡を国家の崇廟として八幡大菩薩を鎮護国家の霊神として年毎に行幸し一切経を供養し大般若経を修したと言われる。 
その後江戸時代にはすべての国民が寺院檀徒とされ事実上仏教が国教の地位を与えられていたのであるから、その後も、こうした神仏融和の歴史が長く続いたのである。しかし、明治に年号が改元される年に公布された神仏分離令、それに端を発する廃仏毀釈の嵐によって、寺院と神社のこうした一千年を超える歩みは瞬く間に粉砕され、今日にいたる。 
全国各地で寺院が壊され経巻仏像が燃やされて僧侶が還俗させられた。神社にあった鰐口や半鐘、様々な仏具、仏像のような神像、経巻等々は撤去され、境内を分割して、それまで僧坊から神社に出向く社僧が神社を管理運営していたが、新たに神職から宮司が任命されていった。 
ここ備後国分寺に隣接する下御領八幡神社も、創立当時国分寺鎮守として祭祀された神社であり、貞享三年(1686)の再建棟札には、「領主水野勝慶の君命により修復。遷宮導師國分寺法印快範之を勤む」と記されているという。 
これにより、当時は國分寺住持が鎮守八幡の別当職として、僧侶が神社の祭祀を取り仕切っていたことが分かる。長い一千年にわたる日本の神仏交渉史を証明するものとして、冒頭に述べた國分寺本堂の黒い厨子の中に祀られた本地仏阿弥陀如来像と八幡大菩薩像を今後も大切にお守りしていきたいと思う。  
 
天蓋引き

 

「天蓋」(てんがい)は、地方によっては「白海」(びやっかい)あるいは「玉蓋」(たまがい)とも呼ばれているが、大元神楽系では一般的に「天蓋」と呼ばれている。本来、この天蓋は、古代中国の「陰陽五行思想」に基づき、方位、四季、色彩などを明確にし、宇宙の秩序を表現するとともに、天地の安寧、季節の順調な推移を祈願する呪術的儀式である「天蓋引き」のために設置されるものと思われるが、現在、一部地方を除き専ら舞殿の装飾的役割に終始している。「天蓋引き」は舞殿の天井から吊された天蓋を、奏楽と神楽歌に合わせて長い綱で自由自在に操つる曲芸的な儀式舞で、天蓋が縺れないように操るには相当の技術が要求される。  
天蓋 
舞殿中央の天井には、縦横12本づつの竹を組み合わせ、黄、緑(青の代用?)、赤、白、紫(黒の代用?)の紙垂(しで)を無数に垂らした、一面が1間半(約2.7メートル)の枠が取り付けられる。この枠は、「雲」と呼ばれる。天井に取り付けられた雲には、中央に「六角天蓋」が、東、南、西、北の四方(地域によっては、南東、南西、北西、北東を加えた八方)に「小天蓋」が吊され、中央の六角天蓋には、波邇夜須毘古神(土の神)、また、東、南、西、北の四方の小天蓋には、久久能智神(木の神)、火之迦具土神(火の神)、金山毘古神(金の神)、弥都波能売神(水の神)の「古事記」に登場する五方の神が充てられている。 
天井から吊された天蓋枠や舞殿の周囲には、春、夏、秋、冬の文字や松、竹、梅などの慶事物を切り抜いた「切り飾り」が貼られる。 
五方の神々 
(1)久久能智神/ククノチノカミは、樹木を司る木の神で、古事記では「久久能智神」(くくのちのかみ)日本書紀では「句句迺馳」(くくのち)と記される。 
古事記によれば、伊邪那岐・伊邪那美命は神婚による国生みの後神々を生み、その12番目に産まれたのが木の神「久久能智神」である。本居宣長は、神名の「クク」は茎のことで、草木の幹の立ち伸びるさまを表し、「チ」は男性の美称であるとしている。久久能智神は東方に配置される天蓋に充てられ、季節は春、色は青色とされている。 
(2)火之迦具土神/ヒノカグツチノカミは、古事記では「火之迦具土神」(ひのかぐつちのかみ)日本書紀では「火神軻遇突智」(ひのかみかぐつち)と記される。 
古事記によれば「火之夜芸速男神」(ひのやぎはやおのかみ)「火之R毘古神」(ひのかがびこのかみ)という別名を持ち、日本書紀の一書では「火産霊」(ほむすび)の名が見える。いずれの場合も「火」という文字が用いられているところから、火の神とされている。カグツチという神名は、火が燃えるさまを表す「カグ」と神霊を意味する「チ」からなっているとされる。迦具土神は南方に配置される天蓋に充てられ、季節は夏、色は赤色とされている。 
(3)金山毘古神・金山毘売神/カナヤマヒコノカミは、古事記では「金山毘古神」(かなやまひこのかみ)日本書紀では「金山彦」(かなやまひこ)と記される。古事記では女神「金山毘売神」(かなやまひめのかみ)が登場し、金山毘古神と夫婦神とされている。 
古事記によれば、迦具土神を産んで陰部を火傷して苦しんでいた伊邪那美命が嘔吐した時に、その嘔吐物に成ったのが「金山毘古神」「金山毘売神」である。金山は「鉱山」の意味で、嘔吐物が鉱石を火で溶かした時の状態によく似ていることから、このような物語になったとされている。金山毘古神は西方に配置される天蓋に充てられ、季節は秋、色は白色とされている。 
(4)弥都波能売神/ミツハノメノカミは、古事記では「弥都波能売神」日本書紀では「罔象女神」と記される。 
古事記によれば、伊邪那美命が迦具土神を産んだ後、陰部を火傷して病に伏した際、最後に小便から成った二柱のうちの一神が「弥都波能売神」である。弥都波能売神の「ミツハ」は「水走」(みづは)で、水を湧出し走らせる意味とする説、「水生う」(みずはう)「水這う」(みずはう)など、水蛇と関係があるとする説がある。農耕に関する水を司る神とされる。弥都波能売神は北方に配置される天蓋に充てられ、季節は冬、色は黒色とされている。 
(5)波邇夜須毘古神・波邇夜須毘売神/ハニヤスノカミは、古事記では男神を「波邇夜須毘古神」(はにやすひこのかみ)女神を「波邇夜須毘売神」(はにやすひめのかみ)日本書紀では「土神埴山姫」(つちのかみはにやまひめ)、「埴山媛」(はにやまひめ)、「埴安神」(はにやすのかみ)と記される。 
古事記によれば、伊邪那美命が迦具土神を産んだ後、陰部を火傷して病に伏した際、その苦しみの中、糞から成った二神が「波邇夜須毘古神」「波邇夜須毘売神」である。この二神は土の男女神とされ、波邇夜須とは「埴粘」(祭具の土器を作る粘土)のことで、波邇は神聖な威力を持った泥、夜須は美称であるとされている。つまり、単に土の神であるだけではなく、粘土を練り整え、火で焼いて祭器を作る材料としての神聖な神々であるとされる。波邇夜須神は中央に配置される天蓋に充てられ、季節は四季の終わりに訪れる土用、色は黄色とされている。  
神楽歌 
  倭文機(しづはた)の麻績(おみ)の糸さえ結ぼれて遠(おと)より解け荒妙の糸  
  七五三(しめ)の内まだ入りまさぬ神あらば黄金(こがね)の七五三を越えてましませ  
  天蓋の緑の糸の結(むす)ぼれは解(と)けよやもどけ神の心を  
  天蓋の緑の糸の閉(と)じられて解(と)けよやもどけ結(むす)ぼれぬ糸  
  天蓋の緑の糸を引くときは結(むす)ぼれもせで静かなりけり  
  東方に掛け奉る社殿には五色の幣(みてぐら)を献じ奉る霊幸(たまじわ)う神の遊び  
  南方に掛け奉る社殿には五色の幣を献じ奉る霊幸う神の遊び  
  西方に掛け奉る社殿には五色の幣を献じ奉る霊幸う神の遊び  
  北方に掛け奉る社殿には五色の幣を献じ奉る霊幸う神の遊び  
  中央に掛け奉る社殿には五色の幣を献じ奉る霊幸う神の遊び  
  黄龍(おうりゅう)に掛け奉る社殿には五色の幣を献じ奉る霊幸う神の遊び  
 
その昔は飛遊する天蓋の飛び方によって、来期の作柄の吉凶を判断したとも伝えられ、最も重要視された儀式舞の一つであったと思われる。先人の豊かな想像力と発想、経験に裏打ちされた見事なまでの「天蓋引き」の仕組みには敬服する 。
 
 
 

 


  
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ご利益
悪魔除け あくまよけ 悪霊、憑依霊の除去
安産 あんざん 正常な出産
医薬 いやく 医療や薬の効果増進、病気快復
縁結び えんむすび 人や仕事等の縁を取り持つ
延命長寿 えんめいちょうじゅ 健康で長生きの生活を送る
開運 かいうん 運勢を良い方向に開く
海上安全 かいじょうあんぜん 海での仕事や遊びの事故防止
開拓 かいたく 土地を開き産業の発展
家業繁栄 かぎょうはんえい 家内産業の繁栄
学業成就 がくぎょうじょうじゅ 勉学の向上、入試の合格
方除け かたよけ 悪い方角を改善する
家内安全 かないあんぜん 家族の安全と平安
癌封じ がんふうじ 癌の病気から逃れる
祈雨 きう 雨乞い
技芸成就 ぎげいじょうじゅ 美術工芸の向上
牛馬守護 ぎゅうばしゅご 農耕に使う牛や馬の安全
航海安全 こうかいあんぜん 船舶の事故防止
交通安全 こうつうあんぜん 車両、人等の事故防止
五穀豊穣 ごこくほうじょう 米、粟、麦、豆、黍の豊作
国家安泰 こっかあんたい 国の平安と発展
財運隆昌 ざいうんりゅうしょう 仕事や財産の増加
火難除け さいなんよけ 火事の災難から逃れる
災難除け さいなんよけ 身にふりかかる災いを除去
酒造繁栄 しゅぞうはんえい 酒造全般の繁栄
商売繁盛 しょうばいはんじょう 商売の成功、繁栄
殖産興業 しょくさんこうぎょう 生産物や財産を増やす
植林 しょくりん 山に樹木を植える
書道成就 しょどうじょうじゅ 習字、書道の上達
心願成就 しんがんじょうじゅ 心の中で強く念じる事の達成
身体健全 しんたいけんぜん 体や心の病気無く健康に過ごす
鍛金・冶工 たんきん・やこう 鉄の形成や鉄製品製造の繁栄
畜産振興 ちくさんしんこう 畜産業の振興
治水 ちすい 水を守り治める
陶業繁栄 とうぎょうはんえい 焼き物全般の繁栄
盗難除け とうなんよけ 窃盗の災難から逃れる
農業振興 のうぎょうしんこう 農業の振興
脳病平癒 のうびょうへいゆ 脳の病気の快復
機織り はたおり 織物の繁栄
美の増進 びのぞうしん 美意識を涵養し進める
憑依霊消除 ひょういれいしょうじょ 人に取り憑く獣の霊等を除去
病気平癒 びょうきへいゆ 病気の快復
武運長久 ぶうんちょうきゅう 戦いの勝敗を勝ちの運命へ導く
福徳成就 ふくとくじょうじゅ 善行や財物に恵まれる事の達成
武道成就 ぶどうじょうじゅ 武道の向上
斃死除け へいしよけ 年令により病気になる箇所から逃れる
導き みちびき 運勢を良い方向に導く
道開き みちびらき 人生を開く指針を受ける
疫病除け やくびょうよけ 伝染病、流行病の除去
厄除け やくよけ 厄年の災難を取り除く
料理・調理 りょうり・ちょうり 料理の成就、発展
霊験 れいけん 神の不思議な感応