江戸の日本

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雑学の世界・補考   

鎖国時代のロシアにおける日本水夫

最近、日ロ関係はおもに政治経済問題が論じられています。しかし、私たちにとって人間の個人的・文化的関係は重要です。 
民族交流関係はまず第一に文化の出会いの意味をもっているのは明らかです。この意味で古代日本も例外ではありません。奈良時代以前の神話に現れた天之御中主尊・仏教と道教の思想は中央アジア・天竺・中国など古代文化交流の実なのです。 
正倉院の宝物に代表されているように古代・中古日本において国際的な文化交流は盛んでした。 
奈良時代以来存続する校倉造りの建物に、当時の国際色豊かな宮廷文化の様子を物語る数多くの品々が伝えられている。これらの品々は正倉院宝物と呼ばれ、天平文化の余香を伝える高貴な宝物群として世界的にも広く知られている。 
1960年に上海大学の調査団はアジアに伝わる説話を調べ、「平安初期の物語「竹取物語」はチベットに伝わる物語と類似している」と報告しています。形式も内容もほとんどおなじです。 
ヨーロッパ人が初めて日本を知ることになったのはマルコ・ポーロが口述した「東方見聞録」(1298年)です。マルコ・ポーロは日本にきたことはありません。長年滞在した中国で日本の情報に接し「黄金に輝いている宝島、ジパング」伝説をヨーロッパに広めました。1543年、ポルトガル人はヨーロッパ人としては初めて種子島に到来しました。1549年8月15日、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着しました。日本にキリスト教の世紀が始まったのです。 
その当時ヨーロッパ人はイエズス会等の宣教師たちを通じて、キリスト教だけでなく古代ギリシア・ローマの文学作品を含むヨーロッパ文化を日本に持ち込みました。この事実は日欧文化の出会いの一つの出来事になりした。国際貿易をしているロシアの事もあきらかになりました。大槻玄沢(1757-1827)は次のように書いています。 
我国にて「オロシヤ」といふ名は、近き安永、天明の頃よりして、地はいづれの方角といふ事は弁へねども、人々口にする事なりしが、これは150年も100年も以前よりいふ「ムスコビヤ」の事なり…この国、皮革に名あり、蛮舶、この土産を国に齎し来り、その産を以て賈人皮の名とす…このムスコビヤは、もと都府の名にして、全州の総名となるとぞ、惣洲の本名はリュシア又ヲロシーア、又オロシイスコイとも云ふよし。 
江戸時代の初めに、幕府の鎖国令によって日本の国際交流はとだえ、遠洋航海用の船をつくる事を止め、船は太平洋に航海する事がほとんど出来なくなりました。 
日本に関する最初の記録 
日本がロシアの地図にはじめて登場するのは、1655年から1667年にかけて編集された「世界図」(Козмография)(オランダの地理学者メルカトール Mercator の「地図帖」(1569年)を見本とした作品)です。地図としては粗末でしたが、この図に示されたヤパンは、日本への関心を深めていく契機となりました。地図以外に「イアポニア即ちヤポン島」の章が日本の気候、自然、人民の宗教、国政などの事を含んでいます。「日本人は頭の回転が速く…性質は無慈悲です」と。 
モルダヴィア生まれのギリシア人、当時のロシア使節局の通訳官、ニコライ・スパファーリイ(Никола й Спафарий)は、1675年2月に通商関係を結ぶ使節官として北京に派遣され、1678年モスクワに帰って二部からなる手記を使節局へ提出しました。第一部は旅行記、第二部は中国、アムール、サハリン、日本、朝鮮の情報を含む記録です。この本の58章による日本についての記録は北京滞在中に得た事があきらかです。ロシアは清国とのネルチンスク条約(1689年)によってアムール流域の支配を阻止され、通商・植民政策の方向をカムチャッカに転じました。 
18世紀に入るとロシアにおける日本情報は日本人漂流民から直接聴取する時代になりました。その当時、日本では鎖国政治が強化されていました。 
ロシア初の日本情報を伝えた漂流民 
ロシアで記録された最初の日本人漂流民はデンベイ(伝兵衛)です。カムチャッカを初めて征服したコサック50人隊長ウラジーミル・アトラーソフ(Владимир)はカムチャッカ探検を行ってその半島の南部のカムチャダール人部落を制圧しました。その折に、イチャ湖畔に漂着して滞在していた「ギリシア人のような囚人」の消息を伝え聞いて、その「囚人」を訪ね、約2年間カムチャッカで生活を共にします。この間にデンベイはロシア語を習得し、アトラーソフは彼を当時の首都モスクワに連れて行きました。アトラーソフは「第一物語」を1700年6月ヤクーツク支局に提出しました。 
この囚人はウザカ〔大坂〕国の者である。この国は INDO(江戸)の支配下にある。1701年2月モスクワのシベリア局に「第二物語」を提出した。 
デンベイ自身がシベリア局で1702年1月に行った「デンベイの陳述」は、日本人がロシア人に直接与えた最初の日本情報です。アトラーソフの「物語」の最後のページにある記録は(おそらく、日本の原文をロシア人がコピーした)「万九ひち屋たに万ちと本り立半んにすむ伝兵衛」と読めます。大阪の質屋「万九」谷町通り立半町に住むと解釈されます。 
アトラーソフのヤクーツクでの記緑によれば、デンベイは1695年大坂(“ウザカ”)から12隻の船で江戸(“インド”)に穀物や高価な商品を積んで向かったが、暴風雨に遇って帆柱を折られ6カ月漂流してカムチャッカに漂着したと記されています。12名の乗組員のうち3名が「クリール人の農民」に捕えられ、残りは行方不明となり、3名のうち2名は「くさった魚と草木の根」のために死亡していた。デンベイは1699年ヤクーツクにおくられ、1701年12月にモスクワに到着しました。アトラーソフはデンベイに日本の地理、風俗、宗教などの事について色々な質問を出して記録をしました。 
伝兵衛は天地の創造神についても質問された。人々はそれを信じているか、どこで信仰を行うのか、と言われて、こう答えた。天地の創造神は一年は地上に、一年は天界に住む。ただ人々はこの神を知らない。自分たちの神々を人々はいろいろな名前で呼ぶ。アミダカミАмида-ками (阿弥陀・神)、トキТоки(仏か?)ハチマム Хачимам(八幡)、カンノンКаннон(観音)、フド(Фудо不動)、シャ・カイトヴダイШа-Кайтовдай(Шаканiодай =シャカ・ニョダイ=シャカ・ニョライ=釈迦如来の誤記に相違ない)、アミダ Амида、ニョダイНедай(両方でアミダ・ニョダイ=アミダ・ニョライ阿弥陀如来)、コージンКоо-жин (荒神)、ジゴ Жиго(Жизоの誤記であろう。地蔵)、ヤクシЯкуш(薬師)、コクロКокуро(虚空蔵であろう)、シガチマンШигачиман(シハチマンとも読める。シ八幡か?)、コボンドイシ Кобондойш(弘法大師)、イシェシメイИшешме(伊勢神明)、アマグ・サモАмагу-Само(アタゴ・ サマ愛宕様か)、オムネグ Омнег(?)。 
1702年1月プレオブラジェンスコエ村でピョートル大帝に拝謁しました。 
当時30歳の若さであったピョートル大帝は彼の語った日本の情報に興味を抱き、1702年4月3、4人のロシア人の子弟に日本語を教えるように命じ、1705年にはペテルブルグに移して日本語の教師に任命しました。デンベイはロシア人によって記録された大坂方言の特徴を示す42の単語を残しています。彼はかなりロシア語を理解していたようですが、自ら書くことまではうまく出来なかったようです。ピョートル大帝の命令によって日本漂流民デンベイは洗礼をうけてガウリエル(Гавриил)と命名されました。彼は日本人としては最初のギリシア正教徒です。 
1709年冬に遭難し、1710年カムチャッカ南部のアワチャ湾北方に漂着したサニマ(三右衛門?)は、1714年にぺテルブルグに送られてデンベイの助手となりました。サニマは紀州の人で、後に帰化してロシア婦人と結婚し1734年に死去するまでロシア語を教えていました。残した日本語資料も全く知られていません。今後発見される可能性があるとおもわれます。 
なお、1705年にぺテルブルグに最初の日本語学校が開設されたという説があります。20世紀の東洋学者 V・バルトリド博士の代表的著作「ヨーロッパおよびロシアにおける東洋研究史」(1925年)で否定されているように、この学校の存在を裏付ける資料は今のところありません。日本語学校はゴンザを教師として1736年7月科学アカデミーに付属して設立されました。これがロシア初の日本語学校です。 
日露交流史におけるゴンザの役割 
17世紀末から始まるロシアのカムチャッカ遠征は、原住民を征服して毛皮を貢納させ、千島・アリューシャン列島開拓を目指すものでした。1696年12月にカムチャッカに派遣されたアトラーソフ遠征隊は現地人部落を制圧し、城砦を築き赤狐の毛皮を徴収しています。 
その当時、ロシアはカムチャッカ以南の諸島に興味をいだいていました。1726年にヤクーツクのコサック隊長アファナーシー・シェスタコーフ(Афанасий Шестаков )はエカテリーナ一世の命で探検隊を編成し、1729年オホーツクに到着し原住民との戦いで戦死しています。彼の息子ワシーリー・シェスタ コーフ(Василий Шестаков)は1729年9月オホーツクから出港して北千島に向かい、さらにカムチャッカのボリシェレックへ入港し越冬しました。1733年に編成されたシパーンベルグを先遺隊長とするベーリングの第二次カムチャッカ探検隊は、総勢570人に及び、歴史家で地理学者のミュラーや当時学生だったクラシェニーンニコフも含まれています。ベーリング隊長は1734年秋ヤクーツクに到着し、1735年夏の輪送隊の到着を待って、オホーツクに達したのは1736年末です。彼らの目的はカムチャッカにとどまらず、アリューシャン列島とアラスカ、千島列島を経て日本への航路を開発することにありました。 
1737年6月シパーンベルグは日本沿岸に達し、仙台藩の金華山沖の網地島と房州雨津海岸の津山に上陸し、織物やガラス玉を渡して米、野菜、煙草、漬物を手に入れていました。ロシアの東方開拓には食糧調達だけでなく、船や建物などを造らなければなりません。これらの物資をヨーロッパやシベリアから運び込むと大変な日数と費用がかかります。日本との通商はロシアにはどうしても欠かせない国家的課題でした。このような時期にゴンザたちがやってきたのです。 
1729年の夏カムチャッカ最南端のロパトカ岬とアワチヤ湾の間に日本船が漂着しました。この船には17名が乗り組んでいましたが、2人を除いてすべてコサック50人隊長シュティーンニコフ(Штинников)に殺されました。しかし、この悪業が知れて彼は死刑となりました。日本船はファヤイキマル(Фаянк‐маръ)又はワカシワ丸といいます。薩摩の国городСацма から米、綿織物、紫檀、半紙、その他を積んで大坂へ向かうところで悪天候によって大海におし流され、6ヵ月と8日間海上を漂流しました。 
生き残った2人の内の一人はゴンザという11歳の少年で、船の舵手の息子、もう一人はソーザという年輩者でした。 
2人の日本人は上から命令があるまでカムチャッカの官費で養われました。ついに、「日本人をヤクーツクに送れ」と命令があり、1731年ヤクーツクに送られました。ヤクーツクのシベリア支局がゴンザたちの存在を知った時点から、彼らに対する破格の取扱いが始まります。 
ヤクーツクの長官はゴンザたちを国費で扶養し、日本人乗組員を襲ったシュティーンニコフの処刑を命じています。モスクワのシベリア庁の命令で駅馬車で案内人と伍長が指揮する兵士を付けて、イルクーツク、トボリスク、モスクワを経て1733年夏ぺテルブルグに到着し、アンナ・ヨアノウナ女帝の夏の宮殿で女帝の謁見にのぞみました。漂着から4年間に覚えたロシア語を流暢に話すゴンザに、女帝は驚くとともに大いに喜んだことでしょう。 
アンナ・ヨアノウナ女帝はゴンザとソーザにギリシャ正教の洗礼を受けるように命じました。洗礼名は、コジマ・シュリツ(Козьма Шульц)とダミアン・ポモルツエヴ(Дамиан Поморцев)と名付けられてロシア人となりました。この時点で彼らは帰国を諦め、ロシアに骨を埋める覚悟をしました。陸軍幼年学校の修道司祭のもとに通い、ロシア正教を学びました。ロシア正教の教義を学ぶことは、ヨーロッパの文化とロシア人の精神を学ぶことを意味します。1735年にはロシア語を学ぶために、アレクサンドロ・ネフスキー修道院に通っています。ここで教会スラヴ語とロシア語文法の基本を習得し、同年11月に科学アカデミーでロシア語とともにロシアの芸術・文化を学んでいます。同年12月には科学アカデミーの正職員となり、日給10カペイカを貰う身分となりました。この時ゴンザには科学アカデミーのスタッフとして、日本語を教える任務が与えられたのです。 
翌1736年にロシア科学アカデミーは中ヨーロッパにおける最初の日本語学校を開設するように命令しました。2人はアカデミー図書館次長アンドレイ・ボグダーノフ(Андрей Богданов)の指導の下に教師になったのです。 
しかしながら、同9月にソーザは死んでしまいました。ゴンザは一人でロシア兵士の子供たちを教えるようになりました。彼は1739年までの3年間に教育以外に教科書と辞典など次の6冊の著作をうみ出しました。 
(1) 日本語会話入門(1736年)。 
(2) 項目別魯日単語集(1736年)。 
(3) 簡略日本文法(1738年)。 
(4) 新スラヴ日本語辞典(1736-1738年)。 
(5) 友好会話手本集(1739年)。 
(6) Orbis pictus(世界図解)(1739年)。 
11歳で故国を離れたゴンザは漢字は数字しか知らなかったので、ロシア文字で日本語を書きました。この記録は重要な方言資料になっています。 
教師の仕事と同時に、ゴンザ自身、女帝の命令によって科学アカデミーで勉強にはげみました。 
このような業績を可能にしたゴンザは、他の漂流民と違ってロシア語を流暢に話すことができた点でも、特別な才能の持ち主であったことは違いありません。このことは同じ境遇にあったソーザと比較してもあきらかです。ソーザはじめ他の漂流民との違いは、順応し易い適齢にあったことが幸いしたとも言えましょう。私が注目したいのは、ゴンザが知的な基礎となる教育をしっかり受けていたことと、ボグダーノフの導きがあったことです。 
ゴンザの才能を開花させたボグダーノフの功績は、故ペトロワ女史も強調されていたように、特筆されるべきです。1から100までの数字は知っていましたが、平仮名も片仮名もむろん漢字も書けない少年でした。彼女自身も述べていたように、ゴンザの業績はボグダーノフとの共同労作と見るべきでしょう。ボグダーノフは当時のロシアでは並ぶ者がないほどの博識の持主であり、チェコの教育学者コメニウスに傾倒する偉大な教育学者でした。教育学者としてのボグダーノフの面目は、ゴンザの教科書と辞典の単語の配列のしかたに表れています。コメニウスを模倣することなく独自の配列をおこなったのです。 
1736年に日本語学校の開設と同時に、ゴンザの実践的な教育能力の向上を目指して「項目別魯日単語集」を翻訳させ、ロシア語の基本単語を習得させています。次にゴンザが「日本語の会話 戸口の前」と訳した「日本語会話入門」の翻訳にあたらせています。この原書はコメニウスの「開かれた言語の前庭」です。コメニウスが「子どもにとってラテン語をもっと容易に親しみのもてるものにするために」書いた初歩的な会話入門書です。この二著はいずれも日本語学校のテキストとして執筆され実際に教室で使われました。ゴンザは翻訳と執筆の作業が一体となったこのような作業を通じて、ロシア語の基本単語と会話の基礎を習得していったのです。 
このようなボグダーノフの系統的な教育計画に転機が訪れます。それは1736年9月29日のソーザの死です。ゴンザはロシア語とともに日本語も習得しなければならなかったのです。ゴンザの日本語の相手はその時43歳の経験豊かなソーザでした。ソーザの死はゴンザが日本語を忘れていくことを意味します。ゴンザは悲嘆の涙を振り払って、その10日後の10月10日よりソーザが教えてくれた日本語を確かめるかのように「新スラヴ・日本語辞典」の翻訳に猛然と取り組みます。その意味でこの辞典は、ゴンザなりのソーザへの鎮魂の書とも言えるでしょう。 
ゴンザはこの辞典の翻訳作業を進めると同時に「簡略日本文法」を執筆します。ボグダーノフの予定では、辞典よりこの文法書の完成が先だったかもしれません。日本語学校の目的は日本語通訳の養成です。そこで「日本語会話入門」に比べれば高いレベルにある通訳のテキストとして「友好会話手本集」を執筆します。 
ついでコメニウスの世界初の図解百科「オルビス・ピクトゥス」の翻訳にすすみます。この書物は「世界図会」と呼ばれているように「世界の事物と人生の活動におけるすべての基礎を、絵によって表示し、名づけたもの」(コメニウス)です。ボグダーノフはゴンザを日本学者としてだけでなく、自分の後継者として、あるいは学者として世界に通用する人物に育てていこうという意図があったのかもしれません。 
ボグダーノフの意図を理解し、きちんと応えてくれたゴンザは、ボグダーノフの最愛・最高の弟子だったのです。ゴンザの突然の死は、ボグダーノフにはわが身を剥ぎ取られるような深い悲しみだったでしょう。それは又、ロシアにとっても大きな損失でした。ゴンザたちがロシアで破格の待遇を受け、ボグダーノフとこのような師弟関係を結び偉大な業績を残したことは、日本の誇りであるとともにロシアの誇りです。ゴンザはボグダーノフとその家族や、科学アカデミーに勤務する人々にさわやかな強い印象をいつまでも残したことでしょう。ゴンザは日露交流の偉大な先駆者だったのです。 
ぺテルブルグ生まれのドイツ系ロシア人、アッシュ(1729-1807)がゴンザの資料を入手し、母校のゲッチンゲン大学図書館に寄贈して保存しています。アッシュはロシアの高官であるとともに有名なコレクターでもありました。ゲッチンゲン大学のアッシュ・コレクションからゴンザの執筆であると突きとめた村山七郎は、この資料をアッシュはイルクーツクで入手したのであろうと語っています。ゴンザ以降に漂着した日本語教師たちは、ゴンザの業績に深く感服し、大いに励まされたことでしょう。 
1994年に鹿児島において、ゴンザファンクラブが結成されました。参加者はクラブの会報や会議でゴンザの作品と鎖国時代の日露関係史の研究を進める重要な活動を行なっています。 
日本語学校のイルクーツクへの移転 
1739年12月にゴンザは亡くなりましたが、ロシアの日本語に対する興味は変わることなく続いていました。そのため日本語学校はサンクト・ぺテルブルグにも25年間存続していました。日本人の教師はいませんでしたが、ボグダーノフとこの学校の最初の卒業生であったシェナヌイーキン(Петр Шенаныкин)とフェーネフ(Андрей Фенев)が教えていました。ときおりサンクト・ぺテルブルグに日本漂流民が送られてきました。1747年にはヤクーツク市に新しい日本語学校が創立されました。1754年にサンクト・ぺテルブルグとヤクーツク両学校はシベリアの主要都市イルクーツクへ航海学校の一部分として移転しました。 
移転の理由は当時の経済状態にありました。カムチャッカ、アリューシャン列島、アラスカ等の新領土で活動したイルクーツクの裕福な商人と企業家は国際貿易に興味をもちました。大熊良一氏が書いたように18世紀に 
南進をはばまれたロシアは、シベリア北辺を東漸してカムチャッカを征服支配するのであるが、かくして、ロシアの探検航海者たち(ベーリング、シパンベルグ、アトラソフら)によってカムチャッカから北太平洋海域、アレウト列島、アラスカ、北アメリカ大陸の西北太平洋岸へのロシア人の冒険的毛皮商人の進出となるのである。そして、これらロシア人と日本人の接触は、東蝦夷地のアイヌ人と交易が行われていたのを介して行われるようになる。ロシア船が18世紀の末葉に国後〔クナシリ〕島や択捉(エトロフ)島にくるのは、毛皮を求めるロシア人の商社の出先機関が、千島アイヌ人やカムチャダール人の情報をもととして日本人との交易を求めてきたものであると考えられる。 
日本語ができる人間は国際仲介者になる可能性があったことが分かります。 
その当時、日本漂流民の大部分は洗礼をうけ日本姓名の代りにロシアの姓名を貰いました。 
イルクーツク学校初級に関しては、どのような日本語教科書と辞典が使用されていたのか、よくわかりません。サンクト・ぺテルブルグの日本語学校の伝統を継承したのか、シベリアの学校は教材を十分に供給されていたのか。ゴンザの教育資料がサンクト・ぺテルブルグにおける科学アカデミー古文書館に保管されているだけで、詳細は不明のままです。 
注意すべきことは、様々な漂流船は日本の各地の港から出港していたので、乗組員は色々な方言を使っていました。すなわち、南部、伊勢州の出身者は薩摩出身のゴンザの記録をつかうことができなかったのは明らかです。 
タターリノフの「レクシコン」 
1772年サンクト・ぺテルブルグ科学アカデミー会員ドイツ系科学者ゲオルギ(Johann Gottlieb Georgi, 1729-1802)は旅行中イルクーツクで利八、伊兵衛、久太郎、長助並びに久助と会って日本語学校並びに日本国のことを質問しました。そしてその記録(1772年のロシア国旅行)を1775年に出版しました。 
この学校設立の動機となったのは18名がのり込んでいた日本船である。この船は米、布等を積んで日本のサイマチから別の湊に向かって出発したが12月29日にマストと帆柱を失い千島のオネコタン島に漂着した。生き残っていた12名をカムチャッカに連れていった。彼等はペテルブルグにおくられロシア語を学び、後イルクーツクにおくられて来た。日本語教師になった。 
1782年10月24日にロシア科学アカデミー会議はイルクーツクの日本語学校の卒業者アンドレイ・タター リノフ編「レクシコン」(「すなわち日本語でニポンノコトバ、伊呂波と数字…」)を調査しました。編者の事は写本の表紙に平仮名で次のように書いてあります。「にぼんじんのひと、さのすけのむすこ、さんばちごさります」。サノスケと言う日本人はタナ丸の乗組員の一人です。 
タナ丸は様々な食料品を積んで、1744年末南部佐井湊を出港して江戸に向かいました。太平洋で台風にあい、6ヵ月以上漂流して千島の第五島であるオンネコタン島に漂着しました。17人の乗組員中生き残った10人はロシア人たちに見出され、カムチャッカ半島のボリシエレツク港、それからシベリアにつれて行かれました。彼らの中から5名が選ばれサンクト・ぺテルブルグに送られました。サノスケ等はロシアに滞在中、洗礼をうけロシア女性と結婚しました。サノスケの正教名はイワン(Иван)です。 
さんぱち(アンドレイ)編「レクシコン」はゴンザの記録と違って三つの部分にわかれています。すなわち、977のロシア語単語とロシア字で書いた日本語翻訳並びに平仮名で書いた日本語です。タタリノフは、東北弁をつかいました。例えば、「広い」は(fiai)、「とまる」は(ogu)、奉公は(fogo)になっています。「レクシコン」には単語以外、同3部の日本会話と伊呂波(平仮名並びにそのロシア文字で書いた発音)と数字の部分が含まれています。 
恐らく、その当時、イルクーツク学校の生徒は「レクシコン」を教科書として使ったことでしょう。もっともこの辞典が出版されたのは1962年になってからです。 
大黒屋光太夫等 
漂流民として一番有名なのは日本でもロシアでも、大黒屋光太夫(1751-1828)であることは言うまでもありません。 
天明2年末伊勢州白子浦から江戸に向かって千石積の「神昌丸」という船が出ました。数年後、江戸時代の学者桂川甫周は次のように書いています、 
天明2年壬寅の歳12月、勢州亀山領白子村の百姓彦兵衛が持たる船神昌丸に、紀伊殿の運米五百石並江戸の商賈等へ積送る木綿、薬種、紙、饌具等を積載せ、船頭大黒屋光太夫以下合船17人、同13日の巳の刻ばかりに白子の浦を開洋し、西風に帆を揚て夜半ころに駿河の沖に至りしに、俄に北風ふき起り西北の風もみ合て忽柁を摧き、それより風浪ますます烈敷、すでに覆溺すべきありさまなれば、船中の者ども皆々髻を断、船魂に備へ、おもひくに日頃念ずる神仏に祈誓をかけ、命かぎりに働ども、風は次第に吹しきり… 
神昌丸の漂流は7ヵ月間になりました。漂流中に乗組員の一名は死亡しました。そして1783年7月20日、アリューシャン列島中のアムチトカ島に漂着しました。アムチトカ島,カムチャッカ半島、ヤクーツク市それからイルクーツク市に滞在中に11名が病死しました。 
イルクーツクに到着したのは1789年2月7日のことでした。同市滞在は2年間。滞在した神昌丸の乗組員は大黒屋光太夫(幸太夫とも書く)、小市、磯吉、新藏、庄蔵でした。5名の希望は帰国でした。けれども鎖国下、彼等の希望をみたすことはほとんど不可能でした。しかしながら通商・国交を求めるイルクーツクの裕福な商人の興味により漂流民の希望はかなえられました。 
ロシアにおいて、18世紀末に魯米会社が創設されました。国際貿易の拡大は疑いのない事になりました。その当時、光太夫らは有名な学者キリル・グスタヴォヴィチ・ラックスマン(Кирилл Густавович Лаксман)と知り合いになりました。漂流民らの窮状を知ったラックスマンは何くれとなくかれらのうしろ盾となり、帰国嘆願書を作成してやったり、衣食の不足を補ったりなど親身になって世話をしました。三度におよぶ帰国願も梨の礫なのを知った彼は、嘆願書が途中で握りつぶされて中央当局の手に届いていないと見抜きました。折よく彼は勅令を受けて上京することになっていたので、光太夫を促し、彼をつれて上京しました。1791年1月15日にイルクーツクから出て、昼夜兼行、30日あまりでサンクト・ペテルブルグに到着しました。 
イルクーツクとサンクト・ペテルブルグ滞在中、光太夫らは自ら進んで日本国の知識(国家機構、地理的位置、風俗、言語など)をロシア人に伝えました。 
現代ロシア科学アカデミー東洋学研究所サンクト・ぺテルブルグ支部の写本部にいわゆる光太夫文庫が保存されています。 
一.「新板絵入源平曦軍配」   
二.「森鏡邪正録」   
三.「絵本写宝袋」   
四.「番場忠太紅梅箙」   
五.「奥州安達原」   
六.「攝州渡辺簸橋供養」 
七.「太平記」 
この文庫が、初めて私の手に入ったのは1956年のことでした。その当時レニングラード大学を卒業して日本の写本と木版本の目録を作っていたのですが、ある本の珍しい書き込みに気づきました。 
「森鏡」の裏表紙にロシア文字をつかい、次の書き込みがある。 
Японцу даикокуя Кодаю//коно хонва ханнозя наи каки//тига каи танозя.Сор-есоре коно//хонва小浜諌 токужилони тимайно хонто//каете каити кита.Мина 海 Еотосите//此 хон бакари нокорита й сацу моноде//йомунони таиоринай хокани хон га//аритемо намитага коборити домо iомарень 
(ヤポンツダイコクヤコダユ、コノホンハハンノジャナイカキ、チガカイタノジャ。ソレソレコノ、ホンハ小浜諌トクジロニチマイノホント、カエテカイチキタ。ミナ海エオトシテ、此ホンバカリノコリタイサツモノデ、ヨムノニタイオリナイホカニホンガ、アリテモナミタガコボリチドモイオマレニ)。 
ロシア文字中3ヵ所に漢字がありました。右の書はペンで書いたものであって、漢字の書体はロシア字よりまずいものです。同書物にある筆で書かれた漢字はうまく出来たものと見えます。光太夫文庫の書込みの著者は少なくとも2人いました。さらに光太夫自身も漢字・仮名・ロシア文字で書いた形跡があります。 
龜井高孝氏は右の書きこみを詳しく調査し、漂流以前とロシア滞在中の光太夫自身の生活をあきらかにしました。 
数年間、ロシアの様々な状態に住んでいて、光太夫らはその国の人々・風俗・シベリア現地住民・言語・文字・食物・衣服・宗教・芝居・軍隊・国家機関・歴史・国際関係などを次第に理解していきました。帰国後ロシアに対するさまざまな質問にこたえました。 
事実は小説よりも奇なり。サンクト・ぺテルブルグ滞在中驚くべきもののうちエカテリナ二世女帝に拝謁を許されたのはその一つです。 
女主の左右には侍女五六十人花を飾りて囲繞す。其内に崑崙の女二人交り居しとぞ。又此方には執政以下の官人四百餘員両班に立わかれて、威儀堂々と排居たれば心もおくれ進みかねたるに、ウヲロンツヲーフ 御まえ近く出よと有ける故、氈笠を左の脇にはさみ拝せんとせしに、拝するに及ばず直に出よと有により、笠と杖とを下におき、御まえににじりより、かねて教えられしごとく左の足を折敷、右の膝をたて、手をかさねてさし出せば、女帝右の御手を伸、指さきを光太夫が掌の上にそとのせらるゝを三度舐るごとくす。 
光太夫ぺートルボルグに在留のうち、執政べスポロックとりわけ懇にて常に出入す。食事の時なとは妻子ともAをおなしくせしとなり。 
此方の事など尋ねられ、和書並彼方にて作りたる此方の記事の書なんどを見せらる。和書といふは多く絵草紙院本なりしとぞ。 
エカテリナ二世の拝謁の結果として幸太夫・小市と磯吉は帰国した。1782年に、初めて日本に国交を求める使節が派遣された。使節の手紙に「偉大なる全ロシア帝国女帝陛下は、至高の母性と人類の福祉に関する一視同仁の見地から、漂流民たちに保護を加えるべく、大ロシア帝国陸軍中将イルクーツク県およびコルヴィヴァン県総督にして数々の叙勲章を受けたるイワン・アルフェリエヴィッチ・ピーリにかんして、前述の日本帝国臣民が日本の近親者および同胞に再会するように彼らの祖国に送還することを命ぜられた。」 
光太夫等はロシアに滞在中日本語関係の助言を与えて、顕著な足跡を残しました。残念ながら小市は寛政5年(1793年)4月2日に故郷を外から見てロシアの「エカテリナ号」で病死しました。残りの光太夫と磯吉は日本人としてはじめてロシアから帰国しました。 
当時のロシアには、上記のゴンザの教育資料とタタリノフの「レクシコン」以外、日本語の単語をふくんだ印刷作品もありました。すなわち、1772年に69単語を記録したゲオルギの「ロシア国旅行記」並びに285単語をふくんだパラス(Петр Симонович Паллас,1741-1811)の「欽定全世界言語比較辞典」(1787-1789年)。1790-1791年出版の4巻のヤンコヴィチ・デ・ミリエヴオ(Федор Иванович Янкович де Мириево,1741-1814)の「アルファベット順に配列された全世界言語方言比較辞典」です。 
この辞典の第4巻に日本語資料が掲載されています。最初に次の記録があります。 
1791年にサンクト・ぺテルブルグに滞在した日本の伊勢国白子町出身でロシア語を話せた日本人商人コダユは下記の日本語単語の正確な発音と表記とを示した。 
日本語単語の数はパラス比較辞典と大体同じです。けれども、ヤンコヴィチ・デ・ミリエヴォ比較辞典の特質は伊勢弁にあります。 
桂川甫周は、大黒屋光太夫から長い間色々な話を聞いた結果、ロシアについて様々な作品を出しました。そのうち一番有名なものは「北槎聞略」といいます。光太夫自身は江戸時代のロシアについての最も権威あるコンサルタントでした。 
新藏著日本語教材 
大黒屋光太夫らが帰国した時、同船の乗組員の2人は帰化する道を選びました。すなわち、その当時病気になった若松村出身の庄蔵と同村の新藏です。「北槎聞略」に書かれている通り 
右両人は病気にて彼邦の教法を受、姓名を改、イルコツカに止り居る。 
2人ともイルクーツク日本語学校の教師になりました。 
サンクト・ぺテルブルグのロシア民族図書館にこの日本語学校の1809年の写本教科資料一冊が保存されています。著者名はニコライ・ペトロヴィチ・コロティギン(Николай Петрович Колотыгин,?-1810)で、即ち漂流民新藏の洗礼名です。通説では「神昌丸」の水夫であった新藏は仮名文字位しか読めなかったということになっています。教科資料の書体も興味深い事実を示しています。 
仮名表の後「江戸京の記述付その河・町・橋・堀割情報」があります。それぞれの地名は四行からなります。すなわち地名の意味〔直訳〕、ロシア文字で書いた日本語の発音、平仮名、漢字、片仮名書体です。 
それにもかかわらず平仮名書体は片仮名と違っています。例えば 
「Коренная улица хончоо хончоо ほんちょう 本町 モトマチ」 
「Межевая улица Сакаичоо サかいちょう 堺町 サカイマチ」 
次章「全日本国の記述」は次の文句から始まります。 
「Хитоцу нит понно куни ни те нанацуни вари цуке гоза соороо 一、日本国而七ッ割附御座候 ヒトツ、ヒノモトコクニテナンツニワリツケゴサソヲロ」 
旧国名は次のように解明されています。 
「Хигаси нохоо ните нанбу цугару маттмае ひがしほにてなんぶうつがるまつまえ 東保二而南部津軽松前 ヒガシホニテミナミコヲリツガルマツマエ」 
次章「生紳女祈祷と旧約聖書のロシア語へ通訳」に祈祷は次の様に翻訳されています。 
「хотоке самага,ньмаре ма суру,мусумего,iopoкоба насари масей, ほとけさまがんまれまするむすめごよろこびなされ 仏様生マスル。娘子。悦成。」 
「арига такiи,котоде го зари масуру,мария, ありがたひことでごいざりまするまりや хотоке самава,омаини,уцукуси кирей нару,омаи ほとけさまハをまいにうつくしきれいなるをまひ 仏様ヲマイニ。美麗稜鳴。ヲマイ ホトケサマヲマイニミカルハシアヤメイ」 
「нiобоошу,уцукуси киреи нару,таинаино коданъ によぼふてゆうつくしきれひなるたひなひのこだん 女房房しゆ。美麗稜鳴。ハ腹内子胤 オンアつサシユミカルハシアヤメイハラノコヲイン」 
「соо сите,хотоке самага,мумаръ масуру, そうしてホトけさまがんまれまする そして。仏様加。生満数る。ソシテホトケサマガンマレマスル」 
「ватакуси домоно,тама синъ わたくしどものたましん 私共ノ玉心 トモキヨリコこロ」   
新藏の教育資料をタターリノフの「レクシコン」と比較すると、イルクーツクの日本語学校における教授レベルは25年間に高くなった事があきらかになります。平仮名以外片仮名、変体仮名、漢字が学習計画に加わっています。日本の地理と経済上の情報も入っています。右の資料は漂流民の思い出だけでなくて、当時のロシアにあった日本語、オランダ語、中国語並びに日本版地図からとられています。 
この資料の書体は同一ではありません。漢字は筆で書かれてあります。その(黒)墨は時を経ても色あせていません。漢字とは異なって、仮名文字はペンで書かれてあります。片仮名は赤茶けた色に見えます。その書体は平仮名と違って下手なので新蔵の死後、学生の誰かが書いた文字だと思われます。さまざまな間違いもあらわれます(「あさくさ」の代りに「ああさくさ」、「しながわ」の代りに「しながな」、「難波」のかわりに「何和」、「コ」のかわりに「ヤ」、「サン」のかわりに「マン」などがかいてあります)。著者の教育程度は日本の地名並びに歴史用語(高砂、住吉など)の間違った理解の原因になりました。 
新蔵の教科資料によくあらわれるまちがいは漢字(下手な草書と行書)または平仮名文字の書き方です。古文書の字形の点から見るとイルクーツク学校で習慣になっていた異体字のことがあきらかになります。ロシア文字による日本語表記の統一が守られない場合もあります。 
全体に見ればこの教科資料はいくつかの特徴をもっています。まず、新蔵の日本語音声構造のロシア文字による表記はかなり不正確なものです。つぎは、ロシア宗教用語の翻訳の特質です。新蔵は16世紀のキリシタン宣教師の経験を知らなかったので宗教用語の翻訳を自分自身で考えだしました(たとえば、神と偶像と至聖生女の意味で「仏」、「木や石や土ノほとけ」、「仏様生マスル娘子」としています)。 
大槻玄沢・志村弘強編「環海異聞」(1810年)に書かれているとおり  
新蔵、日本学はいろはより仮名書位出来候様子に候得…   
同意見は現代の日本・ロシア・アメリカの歴史家による、イルクーツク日本語学校の研究の成果によって通説になっています。この教科資料によって判断すると、現実はもっと多様であったことが明らかになっています。 
18世紀の終わりに日本語学校が航海学校からイルクーツク古典中学校へ移されたことはその教育水準が向上したしるしです。一般にロシアの古典中学校のレベルは航海学校よりはるかに高いものだったからです。 
1816年にイルクーツク日本語学校は閉鎖になりました。おそらくそのせいで学校の資料は県立古文書館に移管されました。残念ながらこの古文書館も1870年代の大火事で燃えてしまいました。それにもかかわらず学校の教育資料の一部が(新蔵の教科を含めて)イルクーツク市外に残っています。将来その他の教育資料が発見される可能性に希望をいだいています。 
宮城県出身者の思わぬ出来事 
寛政5年(1793)の11月27日に仙台材木を積んだ若宮丸は江戸へむかって石巻港を出港しました。その日には風がなかったのが、間もなく西風が吹き始め、船は陸と反対の方へ流されてしまいました。段々波が荒くなり舵を吹き折られ、大風が帆柱を倒しました。2日後積んでいた米の半分を海中にすてています。船が危なくなったのです。それから、長い漂流が始まりました。160日を漂流した後、寛政6年5月10日の朝はじめて、「乗り船からはるか向こうに、船のようなものを見つけ、よく見定めたところ、大変小さな島であった」。 
若宮丸の水夫達は最初、 
「これまで海上を漂流している間は、蝦夷や松前の方へ流されているとばかり思っていたのに、時ならぬ雪の積った山を見かけたので、これは日本の地を離れた異国であろうと、はじめて思ったのである」。「環海異聞」 
その後、この地はロシア領北太平洋のアリューシャン列島のアッカ小島であることが明らかになりました。その小島に到着して若宮丸が沈み、船頭平兵衛が死んでしまいました。大島幹雄の意見では「平兵衛亡きあと、リーダーシップをとる者がいなかったことがうかがわれる。おそらく、平兵衛が生きていれば、自分か、もしくは一番頼りになる人間を選んだうえで、他のメンバーをくじで決めたように思える」。生き残った15人は翌寛政7年、船でカムチャッカ半島を経由、85日間かかってアジア大陸に上陸しました。漂客はアリューシャン列島のアッカ小島に10ヵ月余り留って、翌1795年6月下旬本国のオホーツクという湊に着岸しました。仙台漂流民は大陸にロシア人と共に数千Km、ヤクーツクとイルクーツクまで踏破したことがあり、珍しいものを色々見せてもらっています。 
ここには馬がいないので犬をもっぱらつかっている。この土地は雪が多く積る土地であるから、もっぱら雪車を用い、薪水の類をはじめ何でも積み、冬になれば海陸ともに数匹の犬にひかせる。「環海異聞」 
漂流民は3組にわけられ(すなわち寛政7年8月18日・寛政8年5月上旬・同年7月3日)馬でオホーツクから出発して翌8年の始めにイルクーツクに着きました。石巻を出港以来3年1ヵ月がすぎていました。この間ヤクーツクで腫れ物の病気のため市五郎が死んでいます。イルクーツクへ到着して、同行者はその地に7年3ヵ月の間、暮すことになりました。漂流民の大部分は国へ帰りたかったことは言うまでもありません。けれども、その当時、帰国の可能性は皆無でした。 
イルクーツクには新しい仲間たちがいました。そこで18世紀の80年代に新藏・庄蔵(Федор Степ анович Ситников)だけでなく、以前の日本漂流民の子孫もすんでいたので若宮丸の乗組員と知り合いになりました。日本語学校も盛んでした。 
日本通詞役はエコロ・イワノイチ・トコロコフといった。この人ははじめは町内村方の間打の役(検地割)を勤め、75枚の俸給であったという。先年勢州の光太夫らが送られてきたことがあってから、日本通詞役を申しつけられた。これはこの時よりも5、60年も以前に、南部(藩)の田名部のあたりから漂流し、この地に永住することになった何某といった者がいた(イルクーツクの墓所に竹内徳兵衛と彫りつけた石塔があった。また享保10年何々と彫った日本字の石塔もあった。これらの類であろうか。思うに光太夫の記にある田名部の辺、佐井村の久助という者だそうである。また思うに南部の奥部竹内徳兵衛の手船が延享某年に漂流してロシアに至り、留まったものと見える。久助とかいうのはこの人数のうちであろう。竹内の実記は別にある)。その人について12歳から17歳まで日本語を習ったことがあった。その後放置しておいたけれども、少々覚えていたので、通訳に申しわたされて光太夫を送る船に乗組み、去る子年(1792)松前まで来たそうである。 
イルクーツクではロシア政府から食費の支給を受け、あとは様々な仕事などで収入をえました。善六と辰蔵がまずロシア正教徒になりました。 
世界一周航海 
仙台難民はシベリアに8年間住んでいました。その当時は帰国の事を考えなかったようです。ところが思いがけないことに、1803年3月のはじめに、イルクーツク奉行の家にそろって出向くようにとの命令がありました。奉行所で明らかになったのは、都府から飛脚の役人が一人到着し、出来るだけ早くロシア首都であったサンクト・ぺテルブルグまで上京するように伝えたそうです。石巻漂流民13人は新藏・役人某一人の案内で数千里の道を踏破しました。 
イルクーツクの町をはなれ、川を渡り、その向うに車馬が引き揃えてあった。役人は先頭の車にのり、一同を乗せてつれて行った。車は2人乗りで、数は七つ。一つの車に4頭の馬である。…一つの車は3人乗りか。ただし役人は一人乗りで都合八車となる…「環海異聞」   
ところが道の悪いシベリアを一日100Kmも旅したおかげで、4月末には帝都サンクト・ペテルブルグへつきました。約7000ロシア里の全行程を44日間で通過しました。帝京に14・5日間逗留して、様々な見物をして、国王アレクサンドル一世に拝謁を仰せ付けられました。 
その当時、ルミャーンツェフ公はアレクサンドル一世に二つの上申書を提出しました。すなわち、一.「日本との貿易について」、二.「広東との貿易について」。二のアイデアは魯亜株式会社の活動家が教唆したものです。 
…帝王もまた近寄られて、直接に問われたことは、あなた方は本国へ帰りたいかと仰せられた。いずれも畏っていると、ガラフが傍から言ったことは、陛下におかれては、あなた方が帰国するのも、ここに止るのも、無理には仰せつけられない。思う通りお受け申し上げお答えするようにとのことであった…津太夫、儀平、左平、太十郎の4人は何とぞ本国へ帰朝いたしたく、お願い奉ります。10年ほども他国におり、ひとえに帰国いたしたいと思いますと答えた…「環海異聞」  
結局、津太夫等4名の漂客はロシアの使節船ナジエジダ号でバルチク海のクロンッシュタット湊から出港して、地球をぐるりとめぐっていたのです。デンマーク・イギリス・カナリア島・ブラジルに到着して、南米大陸を回って、マルキーズ諸島・カムチャッカ半島にとまって、長崎に入湊しました。漂流民たちの11年振りの帰国でした。日本人として初めて世界一周航海をおこなったのです。石巻港をでてから約11年たったのです。太平洋・大西洋・アメリカ・アジア・ヨーロッパ・アフリカ大陸を自分の目で見、帰国の道を選んだ4名と共にレザノフ使節も日本へ出発しました。ナジエジダ号は1年2ヵ月あまりかかって長崎へつきました。 
日本との交易をしようとした第2回遣日使節のレザノフが、いわばロシア政府の息のかかった国策会社といえる毛皮会社の魯米会社(ロシイスコ・アメリカンスカヤ・コンパニヤ)とも関係があったということからしても、ロシア政府が日本に関心をもつにいたった契機がわかる。つまり、その根底に毛皮貿易を基調とし、さらに18・19世紀の時代における西欧の植民地主義国家が、国策的植民地会社(東インド会社など)を設けて東洋や東南アジアに進出してきたのにならって、ロシア政府じたいも、毛皮貿易を中心として国策会社を設けるにいたったものと見るべきである。 
ナデジダ号が3月20日長崎を出港した後に、仙台の漂流民の4名は長崎奉行所に呼び出されました。40日間以上にわたって大槻玄沢の質問に答え、鎖国時代の世界についての知見を述べました。大槻玄沢の作品の名前は「環海異聞」であります。その諸本は江戸時代に有名になりました。   
善六の日露関係の役割 
仙台の漂流民たちがオホーツクからヤクーツクまで行った時、善六がロシア正教の洗礼を受ける予定にしたらしい。帰化するのはイルクーツクに到着してから2ヵ月後の事でありました。この後、善六はピョトル・キセリョフ(Петр Киселев)と名乗っていました。後でイルクーツクの日本語学校の教師でもあって、時々通訳者の仕事を引きうけて、貿易をもしました。 
レザノフはロシアから出発して、帰国の道を選んだ漂流民の4名と共に善六を選びました。使節の決定の理由は善六の通訳としての高い水準でした。けれども、レザノフの意見は変わりました。その変化の理由は使節の手紙に次ぎの様に説明されています。 
「通訳書記官として私が預かっていたキセリョーフをイルクーツクに戻すことにしました。彼はきっとイルクーツクの日本語学校のために役に立つでしょう。彼の行動はいつも称賛に値するものでした。しかし他の日本人たちが、キセリョーフが洗礼を受けたことで、彼に対して憎しみを感じ、彼が罰せられるであろうと呪うのを見て、私は彼をロシアに残すことにしました。私にしてみれば、必要な人間がいなくなってしまうのがとても残念でしかたがありません。私はニコライ・ルミャンツェフ伯爵に対して、キセリョーフがこの1年間、私のために精一杯働いてくれた報酬として、200ルーブルを支払ってくれるようにお願いの手紙を書きました」  
日露関係における、善六の役割はたかく、大黒屋光太夫の役割と比べる事ができます。彼の子孫ディミトリイ ・キセリョフは昭和3年に函館ソ連領事になりました。彼は子供時代に善六の運命についての話を聞いた事があります。 
日本語の方言 
ロシアの領土に漂着した日本漂流民は様々な藩の出身でありました。田舎の水夫で、日本の標準語を話すことができず、ロシアの日本語学校の教師として慣れた方言の言葉をつかいました。すなわち、ゴンザの資料には薩摩方言があらわれます、 
さんぞう(心)―うぐゆす 
たくさん(沢山)―たくせ 
まゆ(眉)―めのけ  
タタリノフの辞典には南部の方言があらわれます、 
おまえ―おまい 
ひとつ(一)―ふとつ 
うさぎ(兎)―うさんぎ 
   ふくろ(袋)―ふぐろ 
新藏の教育資料に伊勢方言があらわれています、 
はは(母)―ふぁふぁ 
くち(口)―くじ  
おまえ(お前)―おまい 
した(下)―ひた 
漢字・仮名で書いた言葉の発音は分かりにくいものであります。この理由でロシア文字で書かれた言葉は方言学者の資料として価値の高いものであります。 
 
近世後期「美人風俗図」の日韓比較

 

朝鮮後期の18世紀後半において、市井に遊ぶ男女の姿や比較的階層の低い妓女達の描写に主な興味をもっていた絵師として申潤福がいる。彼は韓国絵画史上最大の美人風俗画家であり、たいへん個性的な絵師である。申潤福の風俗画は題材をみてもわかるように、水墨画が主流であった朝鮮絵画史において異質なものであり、その絵画はにわかに華やぎを帯びている。不思議なことに朝鮮時代においては、申潤福が現れるまで美人風俗画家は見当たらない。18世紀末から19世紀初頭という時代の変化の中で美人風俗画が新たに生まれたのであり、その生成や衰退の過程で主な役割を果たしたのは申潤福である。それゆえ、朝鮮時代における美人風俗画の諸問題について考察する際、申潤福の画業と関連させて見る視点が必要である。朝鮮時代において美人風俗画家が稀であった理由の一つとしては、朝鮮全般を通じて朱子学を中心とした儒教が統治理念とされ、文学や芸術における儒学的厳しさがその出現を許さなかったことが挙げられる。では、こういった儒教論理に厳格な朝鮮の封建社会に身をおきながらも、申潤福が美人画や美人風俗画を作りえたのは何故なのであろうか。この点に注目して本稿では朝鮮後期に突如現れた申潤福の美人風俗画を、江戸時代後期の日本の美人風俗画と比較してみる。 
18世紀後半から19世紀後半にかけては、日本も韓国も封建社会の爛熟期にさしかかっており、すでに儒教倫理による統治体制に動揺が生じつつあった点では近似した状況をもつ。また、周知のように日本の絵画史において美人風俗画は主題の点でも様式の点でも実に多様であり、様々に展開しており、それに関連研究も進んでいる。 
というのは申潤福は、中国を規範とする傾向がよりいっそう強かった朝鮮の封建社会に身をおくにもかかわらず、妓女を対象とする風俗美人画を描き続けたという点はすでに他の絵師とは異質であるからである。ちなみに、中国の美人風俗画の大部分を占めるのは仕女図と呼ばれる宮廷婦人を主題とした画で、その伝統は古く唐時代に始まり、清朝美人画もおおよそ上流社会の婦人を対象にしたものであったから、中国の美人風俗画家の興味が一般庶民、すくなくとも比較的階層の低い社会の婦人達に向けられたことはほとんどなかった。それに対し、当世の風俗をこらした遊女に視点をおいた申潤福の美人風俗画は、むしろ日本の江戸期の浮世絵美人画ときわめて近い性格をもつ。比較的階層の低い女性を主題とした点から考えると申潤福の美人風俗画は日本のそれと共通するところを見せる。このようなわけで両国の風俗美人画を比較しようと思う。だが周知のように日本絵画史上、とりわけ近世初頭風俗画から浮世絵にかけて、女性の舞姿や遊楽を絵画化したものから、浮世絵以外の美人画としては上方における京派・円山応挙の唐美人画を描いたものなど、多くつくり出され、女性をテーマとしたものは実に多彩を極める。一方、朝鮮では、日本とは全く対照的に、単独像であれ群像であれ、女性をテーマとして描かれた作品はきわめて限られたものである。この点では、両国にかえって大きな格差のあることに気がつく。 
以下申潤福の美人風俗画が持つ絵画性を江戸時代後期の日本絵画史の文脈において理解する。そのための比較対象として特に浮世絵師を選ぶ。彼らを輩出した18世紀後期の江戸は、一大文化圏としての体裁を整えはじめていた。京都・大阪という上方中心だったそれまでの文化圏に加え、新たな文化圏が誕生したのである。その新しい江戸文化圏の新しい芸術として誕生した浮世絵美人画がまず比較分析の対象となるべきであろう。日本美術にそこまで不思議に欠けていた女性の美の美しさを正面から描いた浮世絵美人図の画家のなかで、特に喜多川歌麿と鈴木春信を選び、申潤福の風俗美人図との比較を試みる。日本的な抒情性と装飾性を醸し出す美人図を描いた鈴木春信と、歌麿は春信の才能によって花開いた美人画の様式美にさらに新しい現実美の味わいを加え、浮世絵美人図の頂点を形作ったのである。又、像主とその名前と顔を一致させること以上の表現力を見せた喜多川歌麿と申潤福の描く真の意味での美人画を問題とする。さらに18世紀の日本の美人画を考える場合今一つ見落とすことのできない上方における京派・円山応挙の美人図とを比較する。 
以上、喜多川歌麿、鈴木春信、円山応挙の3人の日本の画家と比較検討を通じて朝鮮後期の唯一の美人画画家である申潤福との比較を行うことによって、彼の美人画が持つ特性が明らかになろう。このように、両国の美人風俗画の共通点と差異を浮かび上がらせることによってほとんど研究されていない朝鮮の美人風俗画の領域にいく分かの光を投げかけることが本稿の目的である。因みに韓国では日本の美人風俗画の本格的な研究はほぼ皆無であり、この比較研究は、その現状を打開する一端となるはずである。
朝鮮後期 美人風俗図/申潤福を中心として 
申潤福考/申潤福に関する史料上の記述と先行研究の概要 
朝鮮後期(1700-1850を代表する画家の一人である申潤福は、朝鮮画壇の流れから見て全く異質な風俗美人図を残した画家である。申潤福は金弘道(1745-1809以前)とともに朝鮮後期の風俗画家の双璧で、金得臣(1754-1822)を含めて三大風俗画家と称されている。しかしながら、伝記が不明なのは勿論のこと、生没年などについても明らかな事実は少ない。ただ、「■園」の落款印章を伴う作品が60点以上伝存しているにすぎない。 
朝鮮時代の画家や士人などを扱った20世紀初頭の人名録である「畫士譜畧」の中には 
「字笠夫。號■園。高靈人。儉使漢■子。畫員。官儉使。善風俗畫」と記されている。これが彼についてのほとんど唯一の記述であり、他には何の手がかりも得られない。この記述 によると、申潤福は字を笠夫、号を■園としていたことがわかる。父の申漢■は英祖の肖像画を描くほどのすぐれた宮廷画員であり、彼自身も宮廷画員として活発に活躍し、さらに儉使に至ったことがわかる。また、申潤福は「畫士譜畧」には金得臣(1754-1822)と金得臣の弟子である金硯臣(1758-?)の間に挟まれて記載されていることから、申潤福の生年は1754年から1758年の間であったと推察できる。さらに、この記述から読みとられることは、申潤福は宮廷画員の家系として繁栄した高靈申氏の直系後孫であり、彼が主に描いたのは風俗画であった、ということだけである。 
ところで、申潤福の父親が申漢■であったことは早くから知られている。申潤福の画風に少なからず影響を及ぼしたと考えられる申漢■記録についても検討してみよう。まず、申漢■に関する代表的な記録は「燃藜室記述別集」に次のように現れている。 
「申漢■。號逸齋。高靈人。英祖2年(1726)丙午年生。畫員。官儉使。善畫」 
そして、先述したように正祖5年(1781)に申漢■は、英祖の御真(王の肖像画)を模写したという記録が記されている。この記述より、申漢■は当時56歳であったことがわかる。そして、韓宗祐は45歳、金弘道はわずか37歳であったことから、申潤福が20代後半頃の朝鮮画壇では、彼の父親である申漢■が、金弘道らとともに、宮廷画員としても御真画家としても存在感の大きい画家として活躍していたことがわかる。さらに、彼の作品として広く知られている「圓崎 李匡師肖像画」より、申漢■は、山水画・花鳥画だけでなく、人物画や肖像画にも優れた技量を発揮していたことがわかる。さらに澗松美術館蔵の「慈母育児」などからは、彼が風俗画にも優れており、申潤福の風俗画に大きな影響を及ぼした人物であることが推測できる。 
それでは申潤福に戻り、彼の名前について検討してみることにする。現時点で確認できた作品で申潤福は主に「■園」または「■園寫」という署名を用いている。この■園は、先述の「畫士譜畧」の中でも示されているように、申潤福の号であることは知られている。一方、澗松美術館蔵の「美人図」には署名「■園」と朱文方印「申可権印」が捺されており、「癸酉」(1813年)制作された「酔画帖」にも同じ朱文方印「申可権印」が捺されている。さらに、国立中央博物館蔵の「嬰児を背負う女人」の向かって右側に「■園申可権字徳如」という八字がある。これらにより、申潤福の名前は申可権であり字は「徳如」を用いたことが確認できる。したがって、「■園」は彼の雅号である可能性が高い。 
さて、「畫士譜畧」以後今日まで、申潤福については近世風俗画関係の諸書のなかに触れられているが、まとまって申潤福を論じたものは、李東洲氏、文一平氏、李亮載氏、李源福氏、洪善杓氏、の諸論があるにすぎない。以下では、これらの先行研究において明らかになったことを整理する。 
第一番目に李東洲氏は申潤福の経歴について、「申漢■(申潤福の父親)の伯父も画員であり、また、申漢の伯父の伯母は画員の門閥である陽川許氏に嫁ぎ、両家門は姻戚関係にあった。そして申漢■の曾祖父も画員であり、さらに岳父は画員門閥である豊基・泰再璧で、泰再璧と画員泰再渓とは兄弟である。したがって申潤福は、4代に亙って二つの画員門閥と人脈関係がある」と述べている。申潤福の周辺人物、つまり親族関係まで明記しているが、この記述の内容の典拠は詳らかに示していない。 
2番目に、文一平氏は、「非常に卑俗なものを描いたため申潤福は図画署より追い出された」と記述している。この記述の内容は、真偽はともかく、これ以降通説とされている。以上の2人の研究者の記述からわかるように、申潤福に関する記述は特に検討されることもなく、根拠も明らかにされぬまま流布してきたため、申潤福の人間像はきわめてつかみにくい状況にあった。しかし、近年李亮載氏、李源福氏によって提示された新たな資料によって、ようやくその人物像への足掛かりが見えてきた。 
近年李亮載氏は申潤福の経歴に関する新資料として、「高靈申氏譜帖」「呉世昌文庫」の「畫士両家譜録」などを調べ、「高靈申氏譜外中人譜」を作成し紹介した。これらにより、ようやく申潤福は申末舟(1429-1503)の直系11番目に当たる人物であることが明らかになった。さらに申潤福が中人である画員として活動した理由として、申末舟の8代前の祖先の申狩眞が庶子であったために、申狩眞より後の子孫は中人となって、申末舟から8代目の世潭、9代目の日興、10代目の申漢■そして11代目になる申潤福の4代が続けて画員として活動することになったことを明らかにされた。 
また、李源福氏は、「■園 申潤福の画境」という論稿に、申潤福についてのさらなる指摘をしている。氏が基にしているのは豹庵蔵書に含まれている「青丘畫史」の記述だが、それは、従来知られていた僅かな申潤福の資料のなかでも最も古いもので、その後の申潤福に関する諸説の源というべき記述がされている。「青丘畫史」の著者は、申潤福と同時代の実学者である李翼(1681-1763)の孫である李九換(1731-1784)であると推測されている。 
「青丘畫史」には朝鮮初期に主に活躍した画家催徑、尹儼(1536-1567)、李汲(1623-?)や、15、6世紀の画家たち、さらには著者李九換と同時代の代表的な画家である催北(1712-1786)についての記述も見られるという。そして、申潤福については「似彷彿方外人、交結閭巷人…」(傍点筆者)とある。ここでいう方外人の意味については様々に考えられるが、図画署に所属していない職業画家、すなわち、方外畫師あるいは方外畫員と解釈することもできる。なお、李源福氏は、申潤福に方外人という言葉が用いられるようになった理由について、まず、彼の生涯や活動といったものがすべて神秘に近いほど隠されていたこと、そして彼が庶子として生まれたことを理由としてあげている。これは方外の意味として範疇の外、庶子という意味があるからであろう。 
さらに最近、洪善杓氏は、文一平氏の記した申潤福の図画署からの追放について、「一時、御用絵師として選ばれ、王室用の冊架図を描いたが、その作品が問題になり、図画署より追い出された」という記述をしている。しかし、この記述については、この他に触れられている文献は無く、根拠も明らかにされていない。 
しかしながら、申潤福の家系は宮廷画員として4代も続けて活躍したにもかかわらず、申潤福以降の代が宮廷画員として務めたという記録はどの文献にも見当たらないことから、文一平氏・洪善杓氏が指摘したとおり、申潤福は図画署から追い出され、彼を最後に高靈申氏の画員家系は衰退したのではないかと推測できる。 
さて、李九換の没年(1784)から考えると、「青丘畫史」に示されている申潤福(1754-58生)の記録というのは、彼の20代から30代の比較的若い時期の姿であると推測される。さらに、「青丘畫史」に記されている申潤福の記録は、図画署から追放されて、宮廷画員ではなく巷間の画家として生活を営んでいた時期のものである可能性が高い。そして、彼が生涯を通じて描いた扇情的な美人風俗画は、彼が世俗の画家として生計のために筆を染めたものであるということは充分に考えられる。 
ここで注意すべき点は、申潤福は先代や彼自身も画員として儉使の職位まで上がっており、その点から考えて見ると、宮廷画員としての一定の評価は得ていたと言えることである。では何故、人々に卑しまれながらも(あるいは宮廷画員の職をあきらめながら)、扇情的な美人風俗図を描き続けたのであろうか。それについてはまず、申潤福が御真を描いたという記録が、「朝鮮王朝実録」をはじめ当時の代表的な中人画員の生涯を記録した「壺山外史」「里郷見聞録」「逸事遺事」など、どの記録にも見当たらないことに注目したい。ここから、申潤福は、父親である申漢■や彼の先輩にあたる金弘道に比べると高い評価を得られなかったことが考えられる。さらに、今のところ根拠は無いが想像しうることとして、宮廷や士大夫階級の趣向に合わない個性的分野、つまり美人風俗画に共感し、独自の絵画世界を形成しようとしたところに、申潤福が宮廷画員を離れ美人風俗画を描いたより根本的な理由があるのではなかろうか。 
以上概要であるが、申潤福の伝記に関する諸説、研究状況を述べてきた。この論文では、主に申潤福と日本の美人画との比較を主眼としているため、申潤福の伝記については、これまでの研究史の流れに従って「美人画や美人風俗画を得意とする画家・申潤福」として今後の論を展開することとする。  
申潤福の基準作 
「■園伝神帖」 
本節は、申潤福の制作年代が明らかな作品における署名「■園」「■園寫」と印章、そして自賛などの材料を提示し、それらをもとに申潤福の美人風俗画の展開やその作風の推移を探ることを目的とする。この作業は、申潤福個人に関する今後の研究に対しても有益となろう。 
申潤福は元来「美人風俗画」を得意とする絵師であったが、第一節で述べたように、その画才は同時代においてあまり評価されず、扇情的ともいえる美人風俗図を主に描いたため「図畫署より追い出された」という説が伝わっている。申潤福が描いた題材は他にも「山水画」「動物画」などがあるとはいえ、確認し得る限りの作画期のなかで彼が全般を通じ描き続けた主題であることと、作品が相当数残されているという2点から、本節では美人風俗画に絞ってその特色を検討する。現存する申潤福の風俗美人画の作品数は明らかでないが、今回の論文の作成にあたっての調査を通じて、申潤福の筆とする作品約60点を確認することができた。未見ながら図版等の資料から判断した限りでは、現時点でさらに10余点を加えることができる。 
まず、現時点で制作年代が確認できた作品の印章・署名と「■園伝神帖」とを比較し、その制作時期を推測してみることにする。 
「■園伝神帖」は総計30枚の美人風俗画で構成されており、その中の第11枚には五言・七言の自賛と「■園」「■園寫」という署名、そして印章が見られる。他に自賛は無く「■園」と署名されるものが4枚、また「■園寫」とともに印章を用いるものが一枚ある。さらに、白文方印「■園」、朱文方印「時中」のみ有するもの2枚、署名も印も施されていないもの12枚が含まれている。 
比較に先立って、「■園伝神帖」では署名・印の使われ方が多様なので、ここでは先ず「■園伝神帖」画における「■園」「■園冩」という落款部分を署名の特徴ごとに類別しておこう。「■園」という署名の書き方の特徴は大きく三つのグループに分類できる。 
一つ目のグループは、「■園」の「■」字の心部の最終二画(点画)が一画一画離れて丁寧に書かれており、心字の第二画が外側に湾曲し跳ね上がる傾向が見られるものである。「園」の場合は「園」字の“くにがまえ”の右の劃が左の劃の中に入るように書かれている。 
二つ目のグループは、「■」字の心部の第二画も第三・四画も一直線に並べられているものである。また、「園」字の“くにがまえ”も丁寧な方形である。 
三つ目のグループは、「■」字の心部は一直線に書いているが、「■」字の心部の最終二画と「園」字の“くにがまえ”の第一画とをつなげて書き、そして「園」字の“くにがまえ”が丸い楕円形になるなど、大きく変化をみせるものである。 
次に、現時点で制作年度が確認できる七つの作品の印章と署名とを上の「■園伝神帖」の署名と比較し、その使用時期を推測してみることにする。 
制作時期の判明する6作品も三つの時期に区分される。第一期の「■園寫」と署名を有する作品は、1805年(乙丑)の制作になる「女人俗帖」中の「チョネをかけている女人」を代表的な例として挙げることができる。この図に用いられている署名は「」字の心部第二画が上側に湾曲し跳ね上がる特徴を示している。しかしながら、「チョネをかけている女人」に付けられている「寫」字と「■園伝神帖」の「路上托鉢」中の「寫」字の書き方は大きく異なっており、相似点が見られない。また「女人俗帖」に用いられている「園」字と比較しても相似点が見られない。「女人俗帖」における「園」字の“くにがまえ”の第二筆が第一筆の中に入るのに比べ、「■園伝神帖」の署名の場合は、すべて「女人俗帖」のそれとは反対の形をしていることが確認できる。したがって、「■園伝神帖」は「女人俗帖」が制作された1805年と離れて制作された作品であると考えていいだろう。 
第2期の、署名「■園」に続いて朱文方印「申可権印」が用いられた最初の作品は、1808年(戊辰)の「酔畫帖」および同年の作品「双鶏図」「嬰児を背負う女人」である。「■園伝神帖」にこの朱文方印「申可権印」を有する作品は見当たらないが、ここでも署名の部分に注目すると、「双鶏図」において署名の「■」字の“くさかんむり”の部分がつながっていないことに気がつく。また「園」字は第一番目のグループとは逆の形、つまり二つの作品に示された“くにがまえ”の第二筆が第一筆の内側に収まった形をしている。「園伝神帖」を調べた結果、「園」字の相似点が見られる作品としては「少年剪紅」「林下投壺」がある。 
そして、第3期の、「■園」の「園」字が丸い楕円形をなし、「■」字の心部から「園」字の第一筆につなげて書くような特徴が見られるものに、1808年以前に制作されたと推測される澗松美術館蔵の「美人図」と、1808年の「酔畫帖」、そして1813年(癸酉)作「行旅風俗図屏風」がある。これらの図版と「■園伝神帖」とを合わせて調べた結果、「■」字と「園」字とをつなげて書くような特徴を示す作品には「少年剪紅」「林下投壺」「年少踏青」がある 。 
これらのことから考察してみると、「■園伝神帖」には、印章・署名が第1期のものと相似する作品は見当たらず、第2期と第3期の「美人図」「酔畫帖」そして「行旅風俗図屏風」の署名の書き方において共通点が見られる。したがって「■園伝神帖」30枚はある時点で一時に作成したものではなく、1808年以後から1813年の間に亙って制作されたものであると考えることができるのではないだろうか。 
なお、申潤福の諱「可権」を採った「申可権印」の印章や「■園申可権字徳如」という署名が、1808年作「嬰児を背負う女人」の右に付された別紙において用いられている点は非常に興味深い。申潤福の父親である申漢■の名が1804年「建立図鑑義図」の制作を最後に公的記録に現れなくなることから、申潤福が自分の実名の印章を用い始めた1808年には申漢■は既に死亡していたのではないかと推測される。すなわち、この父の死と申潤福が本名を用いるようになったこととは関係があるのではないだろうか。というのも、宮廷画員として最高の地位にいる父・申漢■の存在は、画壇の異端者として宮廷を追われた申潤福といえども軽視できるはずはなく、父の在世中に申潤福が自分の実名「申可権」を用いて宮廷の外で自由な活動を展開することは、子として当然憚らざるを得なかったと思われるからである。さらに、朝鮮画壇の代表的な存在であり、申潤福にも大きな影響を与えた金弘道も、この時期、つまり1805-1809年頃に死去したといわれている。申潤福はこれらの画壇の中心人物が死去して初めて「申可権」という本名を表に出し、巷間の画家として花やかに扇情的な美人風俗画を描くことができるようになったのではないだろうか。申潤福が朝鮮画壇では破格の絵を描くことができた背景として、当時の画壇のこのような状況を考慮する必要があろう。 
「女人俗帖」   
前記のように、申潤福の美人風俗画の制作年代を考えてみた。しかし、この様に作品を列挙して比較しても、そこに様式の展開を見出すことは簡単ではない。ここでは、制作年代が推測できる「女人俗帖」をとりあげ、より詳細に検討してみることにしよう。 
1805年に制作された「女人俗帖」中の「チョネをかけている女人」は、申潤福の美人図の中でも制作年代が確定できるものの初例である。「乙丑」と年記署名が入っていることから、この図は1805年に制作されたものであることがわかる。 
なお「チョネをかけている女人」が含まれている「女人俗帖」は、他に「氈帽をかぶっている女人」「チャン衣を着ている女人」「買い物に行く道」の三枚と、さらに「琴の糸を揃える女人」「蓮塘女人図」二枚と、あわせて6枚で構成されている。 
「チョネをかけている女人」に描かれている女性は後ろ姿で佇んでいる。「買い物に行く道」にも2人の女性が描かれているが、そのうち一人の女性は、やはり後ろ立ち姿である。 
申潤福の画稿に写生された女性と本画帖の女性とに一致する姿が見られる点と、「氈帽をかぶっている女人」に自ら「前人未發可謂奇」(前人未だ発せず、奇というべし)と賛している点から、申潤福は当時(1805年)すでに、これまで画壇では重視されていなかった「写生」というものに拠って美人図画法に新生面を開いていたと考えられる。写生という作画態度により申潤福の女性は実在の人間らしくなったのである。 
また、「氈帽をかぶっている女人」「チャン衣を着ている女人」「買い物に行く道」「チョネをかけている女人」は女性の単独像であり、当時の女性の姿を切り取ったにすぎない。これらは申潤福の美人図の作品全体を見渡すと、のちの複雑に画面が構成された美人画より、淡泊な印象を受ける。 
ただ、「女人俗帖」の中には、申潤福の美人図における独自のスタイルを感じさせる「蓮塘女人図」も含まれている。この図では、妓女のように見える女性が足を大きく広げて座っており、チマの下から覗く白い内袴は申潤福の美人画が持つ特有の扇情的な表現といえる。やや頬が張った丸い顔をしており、署名も「園」字が円形を帯びている点などから、この図は澗松美術館蔵の「美人図」と比較的制作年代が近い作品であり、以後の申潤福の画風展開を暗示しているようである。また、本図における蓮と妓女は、ともに絵画表現における連想的な機能をもつモチィーフ、つまり汚泥の中に咲く清らかな蓮を、遊郭というところで生活する妓女に見立たものである。妓女を囲むように咲いている「蓮」(中国音"lian")と、彼女が右手で持っている楽器「笙」(中国音"sheng")の組み合わせも、それぞれ同音である「恋」「生」にちなんだ「恋が生じる」の寓意と読みとることができる。これらは、日本の浮世絵美人図に大いに取り入れられている見立絵を思い起こさせる。 
澗松美術館蔵「美人図」 
申潤福の美人画の中には、特定の像主が存在したことを暗示させる画が数点含まれている。澗松美術館蔵の「美人図」(図1)はそれに相当する好例であろう。この「美人図」は肖像画と美人画の融合という点において、申潤福独自の美人画風をなしえたといえる。本節では、多くの申潤福の基準作の中でも秀作と言われるこの「美人図」について考察してみることにする。申潤福の美人画における画風形成から見て、「女人俗帖」以降を仮に「中期」としたいが、作品の編年が未解決のため、いつをもって中期とするか、その始まりを特定することはできない。しかし、澗松美術館蔵の「美人図」に描かれた容貌を見るに、その表情は幾分類型性を持ちながらも、既に申潤福の美人画としての様相、つまり通常の美人画とは異なる個別性を或る程度示しており、この頃には美人画風形成が遂げられていたと思われる。さらに、顔の表情も、類型化に向かう個性的表現をもって描かれるようになる。このように申潤福の作風の展開を見るならば、今日伝わる多くの作品は、申潤福風の確立以後のものがほとんどと言えよう。ゆえに申潤福の美人風俗図においては年代による作風の展開を的確にたどることは難しい。 
澗松美術館蔵の「美人図」は申潤福の晩年の作品の一つで、制作年代は1805年から1807年頃までと推測される。申潤福の生没年は定かではないが、生年は1745年から大きく外れず、「乙丑」(1805年)、「戊辰」(1808年)、「癸酉」(1813年)などが彼の 晩年作にあたる。そして、「美人図」の向かって左側の自賛(「盤薄胸中万化春 筆端能与物伝神」)につづき、朱文方印「申可権印」白文方印「時中」の二顆、そして、自賛の初頭のところに楕円形の朱文方印が捺されている。この楕円形の朱文方印は申潤福の晩年作に用いられる場合が多く、特に1808年の作になる「酔画帖」帖頭に捺されたものが、それと同一のものである。本図に捺されている款印の輪郭は、左頭部分と右肩部分二カ所が欠けている「酔画帖」のそれよりやや鮮明で整った形をしていることから、本図の制作は1808年以前、つまり1805-7年頃と推測される。申潤福の美人図が持つ特徴というのは、同時代の女性、その中でも妓女を好んで取り上げ描いたところにある。言い換えれば、朝鮮時代における風俗画は上流社会の雅やかな世界を取り上げたものが多いが、申潤福によって、身分に拘泥せず、庶民の姿を盛り込むようになったといえる。 
申潤福の美人図以前にも美人画、麗人図、仕女図などが制作された記録はあるが、それは中国の女性を描いたものであり、仮に李朝の女性を取り上げたとしても宮廷の女性が多かったのである。さらに本「美人図」は、描写の側面において、同時代の肖像画制作に見られる傾向、顔貌表現は極めて精密であるのに比べ、身体の表現は大胆に図式化及び省略化される、例えば金弘道の「仕女図」、および仇英・周肪などの中国の明時代の美人画様式にそって制作したものであり、妓女の生活を主に描いた風俗美人画の延長線上の制作であると言える。しかしながら、本図における申潤福の意図は、ながらく美人の規範として仰がれてきた一つの理想型を示すことにあるのではなく、そこには特定の女性をモデルとしてその個性を捉えようとしている肖像画の傾向が見られる。つまり、本図に描かれた美人の顔は、明らかに或る特定の妓女の顔である。妓女の名までは分からなくとも、顔や身体の表現に見られる実在感は、或る特定の妓女の絵姿であることを想像せしめるのである。図に描かれた妓女の顔の輪郭や小さい目、丸くて高くない鼻などは、その個性的な風貌を示している。そして幅広いチマの襞の描写も自然であり、多分に実感的に表現している。これらのことから、申潤福が自ら望む意図にふさわしい絵画技法を選んでいることもよく理解できるのである。 
もちろんこのような画家の意図は、写生を行う制作過程では直感の後ろに隠れがちなものであろうが、しかし申潤福の場合、制作の後に記述したと思われる自賛によって、彼が本図における意図を明らかに自覚していたと考えられるのである。 
「盤薄胸中萬化春 筆端能与物傳神」(盤薄たる胸中、万化の春。筆端よく物にあずかって神を伝える)というこの自賛が意味するところは、精神さえ若々しく保って筆を運べば、描く対象である妓女の本質を捉えることができるということであろう。実際、申潤福の描く妓女像に対していると、彼自身が妓女のこころにひそむ性格までをも筆におさめているように読みとられる。申潤福自らの賛で記す「傳神」という言辞がまさしく画面に達成されていると思われる。 
小結 
以上、申潤福の伝記及び周辺人物、そして彼の基準作、さらには美人画における画風展開などを大略ながら検討してみた。 
朝鮮後期には多くの風俗図が描かれたが、女性、あるいは美人風俗画が題材に含まれることは少なかった。画題に女性を取り上げ始めたのは言うまでもなく申潤福であり、「■園」という款記を持つ作品はかなり多く残っている。このように、作品上は確かな足跡を残している申潤福だが、経歴には今も不明なところが多く、先述の李源福氏によると、今日伝えられている文献資料の限りでは、申潤福が宮廷画員画家とつとめた可能性は低いと仮説を立てられるほどである。文献資料が少なすぎるという点については、風俗美人画を専ら描いた申潤福は同時代において「大衆的な絵かき」という低い見方をされていたために、文献が残りにくかったということが考えられる。現在遺っている多数の作品は、申潤福が同時代には非常に人気のある職業画家であった可能性を物語っている。現在不明なところの多い申潤福の伝記や師系関係については、他の朝鮮時代の画家や周辺人物の研究にも助けられて、さらなる新たな糸口が得られることを期待するところである。 
従来、扇情的な美人風俗画を主に描いた画家であったという事情から、韓国絵画史において申潤福は他の画員と比すれば異質な画家という扱いを受け、その美人風俗画の画風が考察される機会はこれまで無かったように思われる。現在残っている申潤福の多数の作品の内訳は大半が個々の優れた美人風俗画で、同時代の女性のなまの姿をとらえようとする動きを読みとれる。特に澗松美術館蔵の「美人図」からは、妓女の単なる美しさだけでなく、ありのままのモデルの姿をとらえようとする動きを読みとれる。また、すでに見てきたように、申潤福の美人風俗図には、女性像の描写において「伝神」の意が発揮されたもの、すなわちその性格や心理を捉えようとしたものがある。同時代の朝鮮画壇においては、理想的な(しかし類型的で没個性な)仕女の姿を描くことはあっても、ある人格をもった人間としての女性を描くことは、鑑賞者の側からも画家の側からも要求されなかったことであろう。にもかかわらず、申潤福の美人風俗画においては、題材である女性は単なる絵画制作のためのモチーフとしてだけ存在するのではなく、自らの固有の内面生活を営みつつ人生を生きる存在としての人間像あるいは女性像として表現されたのである。こうした点において申潤福が朝鮮時代の画壇に与えた影響は非常に大きく、申潤福や彼の作品群に対し、さらなる評価がなされるべきであろう。
江戸時代 美人図との比較 
一人立ち美人図との比較 
喜多川歌麿の「更衣美人図」と申潤福の「美人図」との比較 
今章では申潤福の美人図と歌麿の一人立ち美人図との表現上の類似点について考察することにしよう。 
喜多川歌麿は浮世絵版画家として広く知られており、作品数も現在知られているだけで千点以上に及ぶ。それに対し、肉筆画は数は少ないものの、喜多川歌麿の芸術の本領が発揮されている領域と言って良いだろう。そして、どの浮世絵師もそうであるように、数多い版画よりも数少ない肉筆画のほうに、絵師自身の精魂は尽くされていると言える。なかでも「更衣美人図」(図2)は喜多川歌麿の技量が十分醸成されている作である。一方、申潤福「美人図」(図1)は当時としては珍しく、妓女の着衣を脱ぎ始めようとする瞬間がとらえられており、このような女性の裸形を想像できる脱衣の過程や、「端午風情」に見られるヌードに近い描写は、申潤福の官能美の表現の一つであった。そして、このような描写は、浮世絵師歌麿も多くとりあげた表現である。その中でも歌麿の「更衣美人図」は最もすばらしいものの一つである。 
ここで、申潤福の「美人図」と歌麿の「美人図」とを取り上げ、両画家の美人図の持つ類似点について更なる検討をしてみたい。具体的には姿態や顔貌表現、そして髪の表現の3点を取り上げて分析することにする。 
まず、第一番目は衣装の中に体の存在することを確実に感じさせる姿態の表情である。 
申潤福の「美人図」であるが、簡素に彩られ、神経の行き届いた肥痩の少ない描線によって、妓女の細い上体や大きな広がりを見せるチマの下に、体の存在することを確実に感じさせている。つまり、画家申潤福は妓女の姿態や服飾はもちろん、その上、妓女の身体の立体感までをも十分意識しているといえる。 
一方、歌麿の「更衣美人図」は、美女の衣装の色とりどりな模様に洒脱な黒い薄物、その下には赤と白の釘抜きつなぎ模様の下着を重ね着している遊女の肉体の輪郭を、細線を以て描き起しており、見る者をうっとりさせるように完結したかたちで作り上げている。ここから、歌麿もまた人体の立体性の表現を意識していたことがわかる。 
ところで、2人が意識していた人体の立体性の表現は、女性の正面が持つ美しさに対してのみ発揮されたわけでなく、美人の後ろ姿を巧みに描いた作品も数多く遺されている。それらの例を幾つか挙げてみよう。 
申潤福の早い時期の美人図のなかに、女性の後ろ姿を意識的に取り入れて描いた作が現存する。 
例えば、1805年度に制作された国立中央博物館蔵の「女人図画帖」の4枚のうち3枚において、申潤福は女性の後ろ姿に視点を当てている。その中でも「市場に行く道」は、若く健康な女性の正面の姿と、やや痩せ気味の年増の女性の後ろ姿を組み合わせて描き、年齢の異なる2人の女性の体の表裏を立体的に表現するという新しい視点を設けている。 
ここで中国に目を向ければ、かなり早い時期、例えば東晋の顧長康による「女子箴図巻」や、唐代の美人図の名手張萱の「宮女宴楽図巻」など、女性の後ろ姿に関心を示した作例が多く見られる。すなわち、後ろ姿への関心は、中国・韓国を問わず、様々な造形活動において、特に女性の姿を描写する際に取り入れられる可能性を持っている。 
さらにもう2、3の例をあげると、同画帖の一図である「チョネをかけている女人」(国立中央博物館蔵)では、美人の後ろ姿のみが写され、正面からの美人図ばかりを見慣れている眼には、実に新鮮な驚きを与えてくれる作品である。 
ほかに、「双剣対舞」では、旋律に乗って踊り続けている正面姿の舞妓と踊りを一瞬停止している動きのない舞妓のうしろ姿とを対にして描いている。 
一方、歌麿の寛政4年(1792)作「高島おひさ」(ギメ東洋美術館蔵)「難波屋おきた」(ホノルル美術館蔵)は、当時評判の水茶屋の看板娘の前後から見た立ち姿を一枚の紙の表と裏の両面に描いた作品である。身体から持ち物に至るまで、全て表裏をほとんど完全に一致させ、細判に両面摺した珍しい例である。 
歌麿が女の後ろ姿に関心を示し始めたのはかなり早い時期と思われ、その具体的例として、天明元年(1781)〜天明2年(1782)の「契情婦美姿一、二」(東京国立博物館蔵)が挙げられる。上部に遊女(傾城)が書くような文の一部を記し、表題“契情婦美姿”に通わせている小判錦絵である。「契情婦美姿」は吉原の遊女の風俗を描いたシリーズで8枚が知られており、中でも図「契情婦美姿一、二」は、冬の吉原、2階にある遊女の室内を描いたもので、左図の中央に、語りながら廊下を歩いている遊女の一人を後ろ姿でとらえている。 
ただし大久保純一氏は、喜多川歌麿が女性の後ろ姿に関心を示し始めた具体的な例として、天明3年(1783)の「青楼仁和嘉女芸者部・大万度末ひろ屋」を挙げている。この「青楼仁和嘉女芸者部」シリーズは、殊に肢体のバランスもとれており、当時の女性の美点とされた白いうなじが描かれるなど、当時の美人観もうかがえる。「色道大鏡」の著者によれば、「禿の時より磨きたつるには、いづくにおろかはなけれども、耳のわき、うなじのあたりを専に磨べし、いかに余のかたをあらためたりとも、此所黒きはおぼえ劣り拙く見ゆ、生まれつきにもよるべけれど、実は年を重ねてみがきたらむには、そのしるしなくてやはあるべき」とあり、実際、喜多川歌麿の錦絵には女性の白いうなじの美しさを表現した作品「襟粧い」(ギメ東洋美術館蔵)がある。 
以上のように、申潤福と歌麿の「美人図」は、女性の顔面が持つ美しさのみならず、その後ろ姿も意欲的に用いるなど、立体表現に意を払うという共通点を持っている。 
申潤福と喜多川歌麿の類似点の第2点目は、限定された部分の美しさ、特に顔貌表現において、モデルの個性(あるいは性格)をとらえようと努めている点である。朝鮮後期の美人図には、中国美人図の伝統や慣例の影響があって、顔貌の写実的差異、すなわち面貌自体の個性の表現はほとんど存在しないと言って良い。同様に、日本の浮世絵の場合、歌麿以前の鈴木春信(1725-1770)においても、女性の顔貌は、いわゆる夢見る美女の類型的容貌に統一されており、鳥居清長(1752-1815)においても、清長風の健康的な長身の美人という類型的容貌に終始している。朝鮮・日本両国の美人図においては、面貌表現の写実は、あまり重んじられなかったと言ってよい。ところが歌麿は、女性の生き生きとした瞬間の表情・動作をも描き分けている。寛政7年(1795)頃制作した「高名美人六家撰 辰巳路考」(シカゴ美術館蔵)はその良い例であろう。本図の題名「辰巳路考」より、深川と縁のある女性を描いたと思われるが、何かに声をたてて笑っている美人が描きとらえられており、歯と舌がのぞいている。ほほえみ、笑いという表情は、一瞬の表情のゆえ、近世美人図では描写される例に乏しく、そういう点からも珍しい例である。本図は美人図のなかで、類型的なようで、女性の表情を描き分けているところを見せる一枚である。 
両画家の目の表現にも注目したい。中国の顧長康の「傳神寫照 正在阿堵中」という言葉や、「画龍点睛」という言葉からわかるように、人物を描くにあたって、生かすも殺すも目の表現次第であると東洋の伝統では考えられていた。人物図においては顔の表現、特に目を中心とした表現によって、その人物図の出来不出来を左右するのであろう。 
申潤福の妓女の眼の表現は、下瞼の線を二重にするなどにして、僅かながらも目の立体感を持たせており、モデルの目のかたちに即して描こうとしているため、運筆はつとめて慎重である。高くない鼻や小さい口も同様のことが言える。実際、本図と対面していると、妓女の心にひそむ曇りをおびた性格・心理までにも画家が注意を払い、顔に納められているように読みとられる。 
一方、歌麿の寛政5年(1793)「当時三美人」(ニューヨーク公立図書館蔵)は、実在の3人の美人である、高島おひさ、難波屋おきた、富本豊ひなをモデルとした作である。また、この3人を別々に描いたものもある。本図は各美人の個性を、歌麿美人図の枠内ではあるものの、微妙に描き分けていると評されている。例えば、左下の高島おひさは目元は柔和で眉も穏やかに描いてあり、鼻も比較的小ぶりに表現している。これに対して右下の難波屋おきたは、特徴的な切れ上がった目尻、きりりとつりあがった眉、中が高いやや太めの鼻で描かれている。いずれかといえば、難波屋おきたのほうが愛嬌があって評判がよかったようである。この絵は美人図の類型的容貌(規範性)の中で実在のモデルとの肖似性をかなり実現した描写のように見える。 
ただし筆者は、これらの巷間の美人を描いたということによって、肖像画としての意義を見出そうとしているのではない。単独で描かれたそれぞれの3人と「当時三美人」や他の作例に描かれた3美人の顔は、必ずしも一致しない。すなわち、この歌麿の絵は写実的な肖像画ではなく、あくまでも実在の人気のあった美人に託して歌麿特自の美人の典型を創造したものといえる。 
肖似性を追究し、リアリティを目指すことが肖像画とするならば、肖像画と美人図は本来相反する方向性を持った人物表現になる。奥平俊六氏によれば、肖像画が個別性を追究し、視覚的現実の再現に向かうのに対し、美人図は一般性を追究し、時代の好尚を反映した理想化に向かう傾向を持っているという。申潤福と喜多川歌麿は特定の女性を描いたわけであるが、2人の画家は肖像画を指向したのではなく、同時代の人々の好尚において今までにないほんとうらしく感じられるイメージが求められていることを察知し、美人図に取り入れた。その結果として、上のような作品が残されたのであろう。実際、当時の円山応挙など、上方の写生派の台頭が直接・間接的に歌麿の刺激となっていたのである。 
申潤福と喜多川歌麿の類似点の第3点目として、それぞれの髪の表現について考えてみたい。一方は版画で、一方は肉筆画であることなど、一考すべき点はあるが、美人の真実性を強調しようとする髪の綿密な描写は共通していると言える。 
まず、申潤福を見てみよう。朝鮮時代における肖像画において、例えば「趙氏三兄弟像」(個人蔵)や「尹斗緒の自画像」(個人蔵)のように、申潤福は画主の内面を表現する際、「一毫不似便是他人」(一毫も似ざれば便ち是他人なり)というほど、一筆もゆるがせにしない態度で描いた。申潤福の美人図の髪の描写は、柔らかい描線をもって行われた綿密なものであり、妓女そのものの本当らしさに迫る傾向がうかがえる。 
一方、歌麿の寛政6、7年頃の作品「五人美人愛嬌競 兵庫屋花妻」(個人蔵)シリーズでは、美女の表情がクローズアップされている。ほかに、髪の毛の表現に当たっては、生え際や髪の毛などに精巧さを求めている。ただし、「五人美人愛嬌競」シリーズより若干遅い(寛政6-7年頃)作例「青楼七小町 玉屋内花紫」(千葉市美術館蔵)などの歌麿の後期の大首絵には、櫛目跡を表す複雑な毛割など、彫師の技術の進歩が見られる。だが、寛政4年(1792)「大首絵」シリーズほど女性表現の豊かさは伴わなかった。 
「楊貴妃図」について/申潤福の「美人図」との比較 
円山応挙と申潤福の美人図における独自の絵画性を具体的に較べるため、応挙の作としては天明2年作「楊貴妃図」(図3)申潤福のものとしては「美人図」(図1)を取り上げ、その絵画表現の特質について見ていくことにする。 
先ず、応挙の楊貴妃図は、画面左下の落款によって天明2年(1782)6月に制作されたことがわかる。このとき応挙は50歳であり、すでに京都画壇を代表する画家とみなされていた。応挙が本図を制作するさいに参考として用意した画稿が少なからず残されており、この図にも女性の身体を写した下絵やその下絵による「楊貴妃図」が幾つか見られる。したがって、この作品にも写生を標榜した応挙の美人図の様式が十分に発揮されているといえる。 
本図のテーマである楊貴妃は、唐玄宗皇帝の時代の人で、はじめは玄宗第18王子寿王瑁の妃となったが、玄宗が溺愛していた武恵妃が没した後、玄宗皇帝の寵妃になった絶世の美人である。歌と舞とに長じ、音楽にも精通し、人並すぐれて聡く、相手の心をすばやく読みとる機転を備えていたと伝わっている。唐時代、嫋々たるたおやかな美人としてよろこばれた梅妃に対して、楊貴妃は豊満でふくよかな美人として称えられていた。 
つまり、後宮三千の美女に大凡二つの型があって、その一つは豊満型であり、他の一つは痩身型であって、楊貴妃が前者の代表であり、梅妃が後者の代表であったという。しかしながら、応挙の楊貴妃の姿は故事に示されているような豊満型で描かれたことは少なく、なで肩で楚々とした姿態の美人として描かれている。それは、応挙の美人画様式が中国明代の仇英に影響をうけている事に因んでいるのであろう。仇英は明清の中国版画の挿し絵を手掛けており(例えば乾隆44年には「列女伝」の挿絵を制作していた)、ここから、蘇州版画が仇英の影響を受けていた可能性も浮上する。おそらく、中国版画技法の研究が日本でも行われるなかで、応挙自身も版画を実見して唐美人画を制作し、美人画の作風を完成させていったのではなかろうか。実際、応挙の「仇英写美人図」やそれを模写した「卓文君図」は、明清の中国版画との関連を明らかにする美人図であるからである。 
応挙図の女性は、ゆるやかな乙字形をなす樹木を後ろにして、それと対角線をつくるように画面におさめられており、背景には樹木の枝や岩、そして小さな水流などを置き、構図に仄かな奥行きをもたらしている。楊貴妃にまつわる故事を示すように、女性は中国の衣装をまとい海棠の幹に寄りそいながら、枝先の海棠花の一輪を右手にして視線を投げているポーズをとっている。155cmの画面一杯に描かれている人物を描く力量は、「人物正写惣図巻」などで考察したように、写生的で、筆致に寸分の揺るぎも認められない、現実感あふれる美人図であるといえる。 
しかしながら、もとより本図は当時実在した女性をモデルとするものではなく、楊貴妃という中国の歴史上の美人の典型を表すものであるから、その顔や手の表現に一定の制約があることは理解しなければならない。18世紀半ば、京都は中国志向の時代にあったので、美人図や風俗画が描かれることは少なく、王朝時代の悠揚たる長袖をつけた縉紳や緋の袴に身を包む官女など、また、具体的には楊貴妃、西王母のような、中国の画題が採用されたのである。 
応挙はこうした典型を図像として構想するため、理想化した女性の顔貌を工夫したことは言うまでもない。しかし、その工夫の跡を最もよく示しているものほど、一般に類型的であって、対象の個性的特徴を捉えたと見るべきものは殆ど無いと言える。仮に、応挙の美人図を集めると、そこに応挙の年齢の変化による力量の差異からくる巧拙は認められるにせよ、モデルの容貌姿態は判で押したように類型的であり、特に群像となると、どれを見ても同じ型の美人ばかりで変化というものが無い。楊貴妃図は類型化された美人図の典型的な作品としてあげられる。 
いうまでもなく、応挙のこのような美人図は、もはや故事の忠実な絵画化ではあり得ない。すべて応挙自身の表現のために借りられている主題に過ぎない。主題が中国であっても、それらの人物は、応挙の恣意的な自己表現の恰好のモティーフとなっただけである。 
田能村竹田が「山中人饒舌」のなかで「京派羽毛花卉、専力写生、用筆最是柔媚、賦色亦極新鮮(中略)其雖法不古、亦有足観者」と述べている。応挙の京派の特色は第一に「写生」にあり、その筆使いはあくまで「柔媚」、色づかいはひたすら「新鮮」であり、古法に準じていないものではあるが見るべきものがある、と評している。つまり田能村竹田は、応挙が古法に準じていないとはいえ、「写生」を強く意図しており、「用筆柔媚」「賦色新鮮」といった在り方に準じていると評しているのである。 
田野村竹田が評している言葉の中で、まず一番目に「写生」ということについてであるが、これは、人物画の基本基調である対象の個性把握を主眼とする態度、つまり唐宋より清朝美人画に至る「伝神写照」の伝統を継承したということを指しているのではない。 
応挙の中国人物における制作経緯については、「萬誌」「秘聞録」(「明和四年丁亥従七月到十二月」冊より)中の応挙自身が示唆した言葉である「漢人物モ和人物書得タル風ヲ漢ニスベシ」によると、彼の美人・人物画を描く方法というのは、例えば、中国の人物を描く場合、まず日本人を写生してその形態を描いた後、中国の着物を着せ、飾りを付けてそれらしき雰囲気を出すのがよいと述べている。 
以上のことから、応挙が意図している写生というのは、ある女性をモデルとしてその個別性をとらえることではなかったといえるだろう。当時舶来の南蘋の写生的手法、或いはオランダの銅版画や、眼鏡絵などを加味し、一段と写生を推進したことであり、それによって新生面を開いたことであった。それらについては諸氏の詳細なる検討が発表されている。 
前記の田野村竹田の評文の中で応挙に見出されるこの二つの傾向について言うと、「賦色新鮮」の狙いは美人をとりまく雰囲気の表現に置かれており、「用筆柔媚」の狙いは美人そのものの把握にある。これら2点は、背景を欠いた申潤福の美人図とは違った趣向であり、応挙で言えば、彼の作品の中でも、特に楊貴妃図に近接している観がある。当然ながら、これらをもって直ちに申潤福の美人画が、応挙のそれと同軸のものと見なすことはできない。 
美人の背景に海棠花の樹木を配した応挙の楊貴妃図は、色彩を主に取り入れた補景仕女図の一態と見ることができる。補景仕女画というのは、美人の容貌姿態のみを対象とした美人画とは異なり、自然の背景を補益した美人画である。更に具体的に言うと、応挙の「楊貴妃図」は、樹石や籬牆を背景とした美人図であるが、本図は古くから行われた樹下美人図の形式に則ったというよりは、特に清朝の新様式としての美人図の形式に拠ったものである。その美しさは、美人の顔や手の描写に胡粉を用いて表されており、衣服とくに花柄の襟・袖などには厚手の彩色を念入りに施している。こうした点は、白描風で背景を欠いた申潤福の美人図と違った趣向である。一方で申潤福の図像は、元・明間にしばしば白描で描かれてきたものから基本的な形を学び、近くは丁雲鵬による版本「程氏墨苑」(萬暦34年・1606)や、当時朝鮮にも渡来された「八種畫譜」や「十竹斎書畫譜」に代表される画手本などを参考にしたものと見られる。この時期に奇古の人物画で名高かった陳洪綬の影響も考えられる。 
さて、応挙は補景仕女図の一態を、申潤福は白描風の一態をもちいて、それぞれ美人の姿を描写しているが、その筆線はどうであろうか。 
応挙の「楊貴妃図」の場合、右手の袖から袂にかけて施された濃墨による運びの強い描線の流動感は、鑑賞者に心地よい視覚的効果をもたらす。このことは特に仇英の表現に非常に近い。仇英の線には、いわゆる唐美人画に学んだ古拙朴訥なものと、宋画風の爽勁なものと2種あるが、この図の線は後者をうけたものであろう。 
一方、申潤福の美人図と応挙楊貴妃図とを対照させてみると、描線それ自体がもつ表現力や技巧は、応挙のみせる技巧の方がたしかに優れているといえる。筆線の運びにおいて、申潤福の場合はしばしば自制力を見せ、流暢な運筆を控える傾向が顕著である。筆致に抑揚を持たせる点においても、応挙は実に手慣れた技巧を発揮する。楊貴妃の着衣の襞の作り方から、付け立て技法による海棠の幹や枝の描写に至るまで、快いリズム感が画面の随所に見られる。応挙の美人図は主張を極力抑えた鑑賞画としての絵ではあるが、女性の姿態や衣紋の描写に用いられている線描は、彼の確かな写生力を示すとともに、筆線の流れや反転も、美しさを保って流麗に運ばれていると言える。さらに、先ほど検討したように、着衣の中に身体を存在させる写生の痕跡も確かに認められる。 
両図ともに同じ立ち姿であり、どちらも首を俯け、やや伏し目がちにポーズを作る共通点が見られる。しかし、応挙の描く女性の顔つきは、無表情で一定の型を示しているのに対して、申潤福の妓女像の顔の表現、つまり薄い青色を施した細長い目、しっかり閉じている小さな口などからは、控えめながらも翳りをもった表情がはっきりと窺える。それに較べ応挙はまず、時には望遠鏡や鏡を使った写生によって人物のあらゆる形態をつかみ、次に外科書の知識を生かして骨法を確認しながらポーズを構成し、そこに画題にあった衣装を書画譜等を参考に描き加え、更に顔面表現において、相書や「三才図繪」などを用いて理想的な美人図を完成している。そのため、顔つきは無表情に取りすましたような印象を与えている。応挙の美人図に見られる描線は、起筆から終筆まで、どの描線も抑揚に富んだなめらかな動きを見せている。しかしながら、目鼻立ちに用いられた流暢な線を見ていると、あまりに様式化されすぎていて、描かれている女性の表情なり個性といったものを画面から少しも感じ取られない。たとえ中国の古典上の人物といった設定にせよ、女性としての感情なり性格というものが些かも見られない。一方、応挙の「楊貴妃図」との比較において、申潤福の描く妓女像からは、彼女の内面に潜む複雑な心理が、その表情や姿態の描写から伝わってくるのである。いわば、申潤福の美人図に用いられている線描は、描かれる女性の身体や姿態が持つ個別的特徴を促えようと工夫されたものである。 
このように考えれば、同じく女性の姿を描きながら、対象の本質を促えようとした申潤福の美人図は、写生派独自の技法による絵画表現をめざした応挙とは異質の絵画表現を目指した結果であることがわかる。 
現実の美人の実在感のある描写に当たって、写生と伝神という見方は異質のものである。応挙は、人物図においては、「人物正写惣本」に見られるように、実際の写生体験を反映した作品も残したが、美人図に限っては、写生に基づいて現実の美人を描こうとはせず、自分の中で消化された美人の理想形を典型化して描いた。 
応挙による中国美人画とはこういう意味合いを持つものであって、仇英に私淑し、それに倣おうとする応挙の古典臨模趣味の一面によって成立したものなのであろう。そして、応挙の描き出した美人図も、写生的要素と実見とに裏付けられた感動を伴わなければ、現在の我々の眼には没個性な作品にしか映らなくもない。しかし、応挙のねらいはまさにそこのところにあって、独自の美人を描き出すよりも、誰もが美しいと感じる普遍性の方をこそ選んでいるのである。 
男女二人組み合わせ図との比較 
鈴木春信と申潤福の男女二人組み合わせ図 
それでは、喜多川歌麿と申潤福の「一人立ち美人図」に見られる独自の絵画性と相違性について一通り理解した上で、さらに本章では、 
鈴木春信と申潤福の男女2人の人物が組み合わせて描かれた場合の絵画表現の特質について、比較・検討してみたい。このような比較を行う理由は、人物の組み合わせについて考えることによって、人物の構成における両作家の様々な制作傾向や作画態度といったものがうかがえるからである。この比較を通じて、浮世絵初・中期における春信の絵画様式と朝鮮後期における申潤福の絵画様式との相違点が、さらに明らかになると思われる。 
両画家における人物の組み合わせの図柄の傾向は、男女の恋愛や婦女子の日常生活のあらゆる生活場面を主にしたものがもっとも多く、特に男女2人をテーマとして描かれている場合、その2人は非常にバランスよく、緊張感を保っている。 
そのなかでも、男女2人をテーマとしていて画面構成も類似する作品を選び、その描写内容を比較し、それぞれの絵画表現の特質について具体的に見ていくことにする。男女の恋の場面を主題に合わせて、バランスよく表現されている両者の作品のなかで、春信の「雪中相合傘」(図4)と、申潤福の「月下情人」(図5)は大いに興味をそそるものである。 
これらは、しっとりした男女の情感を描いたものであることはもちろん、その基本構成をなすところも非常に近接している。両者ともに男女のアドリブでドラマチックな世界に正面から取りくんでおり、画面の主題を親しみやすい恋愛の場面に仕上げている。ただし、春信の「雪中相合傘」は実存の美人あるいは俳優を描いたのに対して、申潤福の「月下情人」の場合は必ずしも実在の人物ではなく、理想化された人間として描かれ、対象の個別化を離れており、その意味での普遍性をもつ図様である。 
ところで、相合傘の図は、風俗画や浮世絵の画材としてしばしば取り上げられているし、春信もこれ以外に大判、中判、柱絵などに相合傘のモチーフを繰り返し使っている。このことはそれだけ春信の「相合傘」が当時代の鑑賞者の間で人気を博し、それに対する需要も高かったことを推測させる。実際、宝暦期(1751-64)頃、相合傘図は浮世絵の主題として流行していたようである。一方、申潤福の男女2人の組み合わせの場合、自己模倣した作例が見られないことから、月下情人の需要層はかなり限られていたと推測される。 
まず、春信の「雪中相合傘」では、しんしんと降り積もる雪の中に、一本の傘を男は左手で、女は右手で支え合い、そこには恥じらいながら寄り添う恋人同士の情感が秘められている。2人がまとう対照的な黒と白の着物と、それを縁取る赤い着物の裏打ちが、銀世界にたたずむ恋人2人をいっそう印象ぶかく作り上げている。女性は、恋人の方に首を少し傾けた姿、すなわち前節の「立ち姿美人図」に準ずる姿勢で描写されており、穏やかで優しいその顔の表情や柔和な描線と相まって、恋の温かな想いが見るものに伝わってくる。そして、本図の特徴としてはさらに、雪におおわれた垂柳が印象強い背景である点が挙げられる。そこから第一に思い浮かべられるのは、芝居の書き割り的な描写であろう。 
ここで、相合傘が歌舞伎における道行の場面(心中の場へと向かう場面)であることが注目される。心中の目的地まで行く途中の哀艶な場面が、役者絵以外の相合傘図にイメージされたのは当然のことであった。 
ところで春信は、京都の浮世絵師・西川祐信に代表される他の絵師たち(春信に先行する江戸の浮世絵師奥村正信(1686-1764)、石川豊信(1711-85)、鳥居清満(1735-85)の筆になる多種の絵本から図柄を借用し、その組み合わせにより作画したということは以前から指摘されており、事実、春信は、その美人図の構図・着想のあらゆるところを祐信の黒白の絵本の世界から借用している。西川祐信の古典趣味が、春信の手で、美しい色彩と柔軟な描線とを以て一枚絵の上に再現されたのである。しかし、図柄を他から借りながらも、春信は明らかに独自の新鮮な芸術世界を作り出すことに成功している。したがって春信は、本図「相合傘」において、奥村正信をはじめとする江戸浮世絵の先達と同じ図柄を別趣で見せるという面白さを見いだしたのではないだろうか。 
なかでも、春信の画風にもっとも近いと感じられるのは、アレン美術館蔵の豊信の「相合傘」である。図版では見にくいが、この豊信の図で、2人の持つ傘には小さく佐野川市松と瀬川菊之丞の紋が両側に記されている。しかし、実際にあった芝居に取材したというよりは、当代きっての人気役者2人を見立で合わせた作品と思われる。 
また、役者絵に相合傘図を求めてみると、亨保4年春市座「福寿海近江源氏」中の演出に取材したらしい初代鳥居清信の「半七 市村竹之丞 三かつ 三條かん太良」という漆絵や、鳥居清広の紅摺絵で、「笠やさんかつ・中村富十郎 あかねや半七・山下又太郎」という作品を挙げることができる。 
さて、春信の「雪中相合傘」図は、2人への集中度や情感あふれる世界を表現し得た意味において、道行の図のなかでも最も先練されたものである。画面の男女が持つ情感の密度は、単純鮮明な白黒の色調により表現されており、その意味で、男女の黒と白の衣装は象徴的といえるかもしれない。すでに小林忠氏は、この黒と白には、善悪を象徴する「烏鷺図」、広義には「黒白図」という画題が意識されていることや、雪中柳下の男女が「雪中鴛鴦図」を偲ばせると指摘しており、さらに言うならば、白黒の色彩上のコントラストのなまめかしさは、思わず息を飲む緊張と衝迫力を画面に与えている。同時に黒と白は生と死を象徴していると言えるかもしれないし、また何か非現実的な印象を与える色でもあり、俗塵の入りこむ余地のない2人だけの世界が描かれている。 
こういう意味で道行きと黒と白のイメージを重ねる時、それは一層切実で抒情的な恋の図となるのであろう。こういったところから、鈴木春信の錦絵が持つ一つの特色は、色彩表現を含めた描写のすべてが一つの主題に向かって協奏していることであると言える。換言すれば、色面を細分化して散漫な印象を与えるのではなく、大きく広い色のかたまりを明快に対比させて鮮やかな色彩効果を生み出す技法で、意識的な色彩の演出を積極的に試みていると言える。 
一方、申潤福の図「月下情人」は男女2人の人物を組み合わせた作品であり、春信の「雪中相合傘」と違って、現世の関心に応えて作られたものである。つまり、春信の「相合傘図」のように高尚な内容を盛り込んだものとは言い難い。しかし、純粋に造形の美をたずね質を計るならば、意外なほどに充実した、高い達成の度合いを示している。 
申潤福の「月下情人」は、妓女とハルリャン(若衆)との恋の物語という非日常なるテーマが取りあげられた作品であり、相当に風変わりなものであるといえる。 
周りは夜の闇に包まれ、静寂そのもの、画面を斜めに走る古屋の壁には流れるように男女2人がいる。男女の逢った時が描かれたのか、別れるときが描かれたのか、それは決定しがたい。男は右手には手持ち提灯をかざし、左手を懐に入れ、頭を振り向けながら女に何かささやきかけているようである。応答するかのごとく、女は乱れるツゲチマを気にして、右手を添え身をすくめて無関心を装い、視線をさりげなく男へ注いでいる。そして、斜線の古屋と対比させるように、細丸い三日月が夜空に置かれており、寄り添う男女2人の姿を照らし出しているように見える。演劇の舞台で照明を当てられると同じように、人物たちは明るい色調の中に浮かび出され、その周囲は比較的暗く冷たい色調に抑えられている。鼠や薄茶の背景から白く浮き出て見える三日月は、2人だけの世界のために一段と効果を添えている。 
申潤福の視点は、何か恋に関することでもささやいているような男のそぶりと、しなやかな姿勢を持つ女の、その見えぬ心を眉目の間に漂わせるという微かな趣の描写におかれている。この絵の描写は物語性を持ち、舞台演劇のような性格が仕組まれていると言えよう。申潤福の「月下情人」も、春信の「相合傘」と同じように緊張感のある場面や書き割り的な描写、すなわち舞台装置のような背景を持つことから、そのドラマ性という面で共通していると言える。 
特に春信の錦絵には、発想のモーメントを古典和歌の詩情に得た作品にしろ、日常眼に触れた市井の風俗に直接依拠した作品にしろ、常に季節が特定されているものが多い。その中で人物は、三次元の空間において現実の生活を営む存在というより、四季の流れや、時間の流れの中の非現実的な存在として捉えられている場合が多い。春信の「雪中相合傘」は、夜のしじまに包まれた銀世界に雪が霏霏と舞い降りる冬のイメージが演出されている作品であり、直接時間を示すモティーフは描かれていないが、ふけてゆく夜が設定されている光景であることが想像できる。 
また、「雪中相合傘」と同様の組み合わせをもつ図様に、春信の柱絵「吉原大門口」があるが、本図が持つドラマ性は申潤福の「月下情人」と大いに近似する性格を持つ。「吉原大門口」では、別れの場でもあった吉原の入り口大門前で、着物の袖口を重ねて寄り添う遊女と男の交歓の場面が切り取られている。漆墨で潰された背景は、闇をあらわした効果が甚だ大きく、男女2人のみをこの闇中に浮き立たせたのにもまた成功している。「吉原大門口」の背景の墨一色は夜闇を暗示するもので、春信が好んで用いた手法の一つであり、まさに彼の浪漫的なモティーフと合致し、調和するものである。春信の漆墨を用いた夜闇の表現、さらにはその黒一色の背地に支えられ、いっそう浄らかに美しく映える人物表現は、見る人の全てに甘美な夢想を与えてくれるようだが、やはり装飾的な平面性が、強く表面を飾っている。 
一方、申潤福の画面「月下情人」は、季節の特定はできないが、雲間から覗く眉のような三日月の下に附された自賛「月沈沈夜三更両人心事両人知」(月沈沈たる夜三更両人の心事は両人のみ知る)に見える「三更」より、時間の流れが仕組まれていることがわかる。もう一つ、提灯の光は、情趣纏綿たる男女が持つドラマチックな雰囲気をあらわすことに貢献しており、人物描写、背景描写などにも、光と影の効果を楽しむ態度が見られる。 
なお、着物の衣褶は外隈の技法を採って、対象をぼんやりと浮かび上がらせるように薄い墨をひき、夜の雰囲気を表している。朝鮮時代の18世紀後期においては他に例が少ない明暗処理、例えば、わずかではあるが、男性の外出服であるドルマギに胡粉、鼠色、薄藍に紅をきかせるなど、明暗の二様が凹凸によって巧みに施されている。また、「月下情人」と同じく「■園畫帖」に含まれている「酒肆挙盃」を見ても、これも消極的ではあるが確かに明暗の二様、物の立体感を表しているのがわかる。 
鈴木春信と申潤福の共通点と相違点とを検討するため、双方における、女性と男性と2人を組み合わせたものの図様を特に選び、そこに求められる絵画表現の特色、主に図様の性質について考察した。その結果、春信の錦絵には古典文学的要素が強く結びついており、文学的主題を明確に伝え、かつ鑑賞者のイメージが膨らむ表現を心掛けていたことが判明した。また、比較考察のため取りあげた「雪中相合傘」においては、近世大和絵の本質、すなわち装飾的表現と情趣的表現とを促進しつつ、現実性とは相容れない要素、言い換えれば抒情性に富む画面を作り上げていることがわかった。さらに、絢爛たる色調と可憐な人物描写というこれら二つの要素も、春信の画面に非現実的で抒情的な雰囲気を漂わしめているという点で、よく効果を発揮している場合が多いのである。 
一方、申潤福の一人立つ美人図と春信のそれとを比較してみた結果、大きな相違点が有ることに気づいた。まず、春信は写生を重んじる絵師ではなく、他の絵師の作品に倣いながらも、自己の中で十分に消化された人物や背景の型を持ち、描こうとする主題に合わせてそれらを組み合わせ、細部に変化を付けることによって作品を完成していた。次々に行われる他の絵師からの図柄の踏襲は、春信の旺盛な探求心の表れと見てもよいかもしれない。しかしながら、こういう点から申潤福の作品と春信が描く美人図とを比較するとき、両者の相違は大きい。申潤福の美人図を見るならば、彼が「伝神」を念頭におき、実在の妓女の個別性にできるだけ近づけようと努力していたことは一目瞭然である。つまり、春信の錦絵「雪中相合傘」と申潤福の「月下情人」を見比べると、両者とも同じく遊女や妓女を中心テーマとして「美人風俗画」をつくったのであっても、春信は一定の型に沿った美人像を類型的な技法を用いて描き、彼の得意とする抒情的かつ装飾的な効果を高める画面の制作を意図していた一方、申潤福にあっては、類型的に妓女を描くのではなく、一人の明確な個性を備えた存在として描くことに専念していたことがわかる。申潤福が描いた妓女は言うまでもなく名も無い存在であるが、彼はこれらの女性たちをも、一喜一憂する存在感のある人間として捉えようとしていたのである。  
終わりに 
以上、鈴木春信、喜多川歌麿、そして円山応挙などのような18世紀の日本の画家の筆になる美人画と、同じ時代の申潤福の美人図を取り上げその絵画表現の特質を比較を試みた。その結果、美人画あるいは美人風俗画というものがその時代の好尚や流行を単的に示すという特徴は、日本の場合にも韓国の場合にも、同様に見られ、申潤福が描く美人図もそれを具有している。さらに、しばしば少女を対象とした春信の女絵、遊里や街角の小町娘に美の典型を探しあてた歌麿、そして実在人物を理想化された人物として描き、対象の個別化をはなれ、その意味での普遍性を描写した上方の応挙、これら3人の絵画様式つまり美人風俗画の命題は、暢達した描線による適確な写形と賦色の美しさを見せることであり、情緒にみちた画面を作り上げることであった。そして、そのいずれにも申潤福の美人図様式と一致する部分が存在した。ただし京派・円山応挙の場合は、女性の姿を描きながらも、その性格や心理をとらえることよりは、むしろ美人像としての類型によりながら、流派における様式や技巧を示すことに力を注いでいた。 
一方で、流派を持たず、同時代の一世を風靡した鈴木春信・喜多川歌麿などの浮世絵版画においては、それぞれの美の理想像を表現したという点で応挙とは異なる。ここで注目すべき点は、歌麿の場合は西洋の似顔絵や肖像画のような感覚で美人を描いたとは言えないが、対象に対して鋭い観察の目をむけ、面相に対する知識によって女性の表情を描きあげたことは、やはり浮世絵史において画期的なことだったということである。一方、朝鮮における儒教倫理を核とする伝統的道徳観念の衰退は、宮廷外において申潤福の美人画が流行する下地を作り出したと考えられる。そういった状況の中で、技女を絵画の題材として取り上げ、技女の個性へと関心を払い、その性格や心理を捉えようと努力した申潤福の「美人図」は朝鮮絵画史においてはとりわけ異質な作品と考えられる。  
 
参勤交代と日本の文化

 

日本から遠く離れているモロッコの国では、18、19世紀に王様が部族を統制する為に国中を動き回りました。王様の政権の最も重要な特徴は彼の移動性にありました。四万人に上る人が御供して、まるで一年中、移動生活をしているようになり、「王座は鞍のよう」という風に言われていました。日本の近世では、対照的なイメージが目に浮かびます。星のように、大名が太陽である将軍の軌道を回っていました。将軍の政権は、彼自身の移動性に拠ったものではなくて、地方の有力者である大名を移動させることに拠っていました。寛永時代から文久時代までの近世約230年の間、大名を原則として一年おきに、あるいは半年おきに江戸と国元に交代で住まわせ、その妻子は江戸に常住させたのが参勤交代制度でした。 
私はドイツ人のケンぺルが書いた「日本誌」を大学院生の時に読みましたが、日本人の移動、いわゆる行動文化、は大変印象的でした。そのテーマを取り上げて、江戸時代の交通--特に関所と庶民の旅に関する研究をしてきて、それについて本も出しました。今は参勤交代を中心にして、同じ日本人の歴史的な移動性というテーマを続けて研究しております。今回は特に大名行列や参勤交代と日本の文化との関係に絞ってお話をさせていただきたいと思います。 
参勤交代と大名行列 
大名行列 
参勤交代に代表される大名行列は何と言っても江戸時代を象徴するものです。しかし、それは明治時代にも引き継がれ、かつ現代にまで続いていると思います。幕末の日本にミットフォードというイギリス人が滞在していましたが、彼は1906年(明治39)、イギリスの王エドワード七世から明治天皇へ勲章(Order of the Garter)を捧呈する使節団の主席随員として再来日しました。この時、明治政府は彼らを歓待するために大名行列を再演したのです。 
ミットフォードは次のように書きました。「封建制度は終わったが、まだまだその幽霊に私はとりつかれているようだ。目を瞑ると、鎧に身を包んだ侍が東海道の並木にそって歩いている大名行列が見える。それに「したにいろ」「したにいろ」と大きな声で呼びかけているのも聞こえる。」後でも大名行列の再演について触れますが、ここでこの外国人にとっての江戸時代を考えると、そのイメージとして参勤交代が浮かんで来ます。明治初期の元老は徳川時代のすべてが封建的で、文明開化ではないということで、それを拒否していますが、明治維新のわずか38年後に、江戸時代のシンボルとして大名行列を元老たちが喜んで許容するようになったのは驚くべき事ではないかと思います。 
次に、行列のイメージに触れてみたいと思います。大名行列は錦絵、いわゆる「江戸絵」に沢山出てきます--とくに交通ブームの起きた文化・文政時代以後です。双六にも目立ちます。振り出しに大名行列を描いているものが多く、幕府の首都である江戸の一つの大事なイメージです。当時も今もそうであると思います。 
大名行列の絵巻物も沢山造られており、次にお見せしますが(下の図)、それは一般の人のためではなくて、多くは公的な記録のためでした。大名行列は異国人である韓国人、琉球人、あるいはオランダ人などの行列と違い毎年行われていて、比較的珍しくなかったので番付は造られなかったようです。しかし、今申し上げましたよ うに、他の種類の絵は沢山出されていました。 
参勤交代の再現 
江戸時代以降、大名行列はずっと演じられて来ましたが、それは今日まで続いていると思います。 
箱根と二川の大名行列祭りが文化の日に行われているのは、大名行列が日本の伝統(つまり、江戸時代の文化)と同等なものであるという事を強調しているのではないかと思います。岩滝町(京都府)、矢掛町(岡山県)、大井町(静岡県)、豊橋市(愛知県)、玖珂町(山口県)などの各地でも行われています。島田市(静岡県)の場合は10月、元禄時代に始まった帯祭りに付け加えられていて、祭りの最終日に行われています。大名行列の一 部である奴の組はもちろん、京都の時代祭に再演されています。 
新見市では御神幸武器行列祭り、土下座祭りともいう祭りが毎年10月15日に行われています。これは一万八千石の格式である岡山新見藩主が1697年新しく出来た藩の国入りの時に船川八幡宮を守護神としてあがめたお祭りです。藩主は御神輿、お米、道具(鉄砲5挺、弓5挺、槍5本)を神宮へ寄付して、村から25人でお祭 りを起こすべしと命じました。当時から300年以上続いていると言われています。江戸時代に、この祭りの日に郷士が行列をつとめ、武士は土下座して行列を迎えたと言う話もあります(しかし、史料的な証拠は全くありません)。行列は10年前までは二つに別れていて、最初に、64人が勢揃いする大名行列が出て、そして御神輿 が出ます。行列は御神輿を守るということです。最近は町の子供たちを参加させるために子供の大名行列も最後の方に加えられました。 
ところで、このような祭りは今の日本人に江戸時代の歴史を教えるための一つの大事な方法だと思われます。祭りの担当者は行列が出発する前に、その参加者に当時の衣装のつけ方、武器の持ち方などを教えます。この祭りも岡山県の無形民俗文化財になっていています。 
去年の10月にとったビデオを少しご覧になってください。最初の方は神宮を出たところ、次に町を通る部分で、ここには写っておりませんが最後に子供の大名行列が続いています。 
この行列は、1990年代にフランスでも演じられたことがあります。これが、この年代に外国でも演じられたという事は、日本人の誰にとってもそうかも知れませんが、特に新見市の人々にとっては大名行列は日本の江戸文化の象徴であると同時に、過去と現在のつながりが深いものであるということを表わしているように思います。 
参勤交代/幕府大名の権力のシンボル 
参勤交代は、幕府、または大名の封建的な権力を表わしていました。参勤交代の行列は藩の権威と実力を対外的に誇示する、大きなデモンストレーションの効果があったように思います。特に領内と城下町、あるいは江戸市中での行列が、威儀を正した形態を保持したのは領民や他藩に対する幕府または藩の権威を見せるためのものでした。戦争の時と同じように、行列は権威を見せるためであったという事を強調したいと思います。紀州藩参勤交代行列図には藩主の廻り番として70-75人もいます。参勤交代は藩の権威を表わすものと今申しましたが、同時に藩の行列、大名の江戸往来が幕府との従属的な関係を表わしていたことも見逃してはいけないと思います。毎年家来や陪臣が付いている大名120人以上を移動させたのは幕府の権力でした。 
幕府の大名に対する権威の中で、参勤交代は、殆ど最後まで続いた一番強力なものであったと言えるかもしれません。文久時代に参勤交代を緩めていた幕府の権威は急に衰えて、6年の後幕府自体が廃止されました。 
幕府との服従的な関係は大名行列の様々な道具や他の物にも見られます。例えば、南部藩(盛岡藩参勤交代図巻)の場合、挟箱、櫃を覆う朱塗り皮革を使うには幕府の特別な許しが必要でした。藩主の替え馬には、徳川家康から南部藩2代藩主利直が拝領した二疋の虎の斑模様の革が掛けられています。それに、将軍家に献上する南部の馬と鷹も行列に加わっています。ここにスライドはありませんが、火縄銃を覆った猩々緋の皮袋は、2代将軍秀忠から利直が拝領した物です。長刀も対道具も非常に限られた大名にのみ許可されていました。こういう道具類もまた、幕府との従属的関係を強調しているものではないかと言えると思います。 
庶民の対応と「御馳走」(Reception) 
ここまでは主に江戸時代以降の日本人が大名行列についてどう考えたかについて触れましたが、次に当時の江戸時代に生きていた人達のことも取り上げたいと思います。行列をどういう風に見ていたか?どのような応対、つまりどんな「御馳走」(ふるまい)が行われたかということについてです。 
大名行列は幕府、大名の権力のシンボルであったからこそ、庶民がそれを再現して、武士をからかったことは 不思議ではないように思います。大名行列はいろんな意味で「祭り」であったわけです。例えば、幕末日本を訪れたフランシス・ホール(Francis Hall)というアメリカ人は横浜の弁天祭りについて詳しく書いています。1860年に行なった祭りのなかに大名行列が再現されていましたが、藩主の乗り物の中に狐が座っていて、その廻り番は藩士ではなくて、化粧して着物を着ている男3人でした。ホールが説明したように、行列の日だけは庶民は侍を真似しても良く、侍は顔を見せずに、引きこもったままでいたということです。 
庶民は行列に対し敬意を表して土下座をしたと言われていますが、絵巻を見ると殿様が入っている本隊が通る時にしか土下座はしていません。その時、ある人は土下座をちゃんとしていますが、他の人はうずくまっています。殿様が通ったあと人々はまた立ち上がります。 
幕末大坂京町の女の人によると(「幕末明治女百話」という口述歴史の説明にあるように)大名が「お国許からお着きになる時は、大概拝みに行たもんだす・・・拝見する者は暮れがたのこともありましたが、お腹が減って目えがくらんでしもても、チンと辛抱して待ってたもんだす。」と述べています。 
庶民の対応と「御馳走」とはどういう事かと言いますと、 
例えば、(1)盛り砂を立てること、(2)水を振りまくこと、(3)水桶を置くこと、(4)露払いをすること、(5)土下座あるいはうずくまることなどです。 
演劇としての参勤交代(Sankin kotai as theater) 
庶民の側からは、大名行列はある意味では演劇として見られていたのではないかと思います。それは先程のフランシス・ホールの日記にも絵巻にも見られるようです。演劇、あるいは文化的なパフォーマンスとして、参勤 交代は劇的な要素が多く、それについて4、5点あげてみたいと思います。 
行列を演劇だとすれば、道は舞台、行列の人達は俳優、道具は演劇の小道具(prop)、道端の人々は観衆として考えられると思います。紀州藩絵巻の場合、観衆が500人も描かれています。 
行列の大きさ 
最初に資料をご覧になって下さい。大名行列の人数の表は二つ、土佐藩の部表1と他の藩の部表2があります。 
行列の人数は大名の威光を表わしているので、少なくとも元禄時代までは大名は行列の人数そのもので競争したようです。人数が一番多いのはもちろん百万石の加賀藩です。他の藩と違って、その人数は時代が下がってもあまり変わらなかったことは注目すべき点です。 
24万石の土佐藩は貞享から元禄時代にかけてよく2,000人を上回ることがありました。紀州藩は江戸後期になっても、1,322人もの大行列を結成した事が注目されます。 
他の藩の場合、その人数は熊本藩のように急に減少する場合もありましたが、大名の威光を守るために江戸や国許へ入る前に、人足や奴を雇って人数を増やす傾向があったことはよく知られています。 
人数の多さとはもちろん関係がありますが、行列の長さ--つまり行列がどのくらい続いていたかということは、外国人にとっても日本人にとっても大変印象的なことでした。有名な川柳はそれを暗示しています。--あとともは 霞みひきけり 加賀守(かがのかみ)-- 
色彩と物(道具) 
演劇としての参勤交代を考えると、色彩と物(道具)の関係も深いものがあります。古川古松軒とドイツ人のケンぺルは、大名行列を見ると、必ず御供のりっぱな服を詳しく記述しました。行列の同じ組に入っている人はよく同じ服を着て、同じ笠をかぶって、しゃれた格好をしていました。江戸へ入る前に礼服に着替えて見事に見せました。 
道具も大名の威光を見せるためであって、行列を見た外国人、特にケンぺルは非常に詳しくその様子を述べました。道具とはもちろん鉄砲、槍、弓(いわゆる三つ道具)を始めとして、挟み箱、長刀、毛鎗を指しています。「大名の鎗はだまって、名を名乗り」という歌が江戸時代から残っていて、鎗の政治的な意味をよく表わしています。  
動作と音 
演劇としての参勤交代の、「動作」と「音」について少し触れたいと思います。行列は大きな宿場町と城下町 に入る前に「行列を立て」ました。つまり、列を一直線に並べたり、笠を整理したり、足並みを整えたり、鎗などを立てたり、馬に乗ったりする事です。これは俳優が舞台に入る前の準備と同じ事です。大名行列の行進は、 一日平均10里(40Km)ぐらい歩きましたが、城下町を通る時は堂々と歩いて劇を演じました。 
ケンぺルは、「実に規則正しいみごとな秩序を保ち、きぬずれの音や人馬の動きでやむを得ず起きるかすかなざわめき」と書いています。大名行列が割りと静かに通っていた事を意味しています。昭和4年の記録に、当時78歳の男がケンぺルとほとんど同じような感想を述べています。彼によると、「お大名行列と言えば、金紋ず くし先箱に、2本道具一対ときた日には、実にたいしたもんで、それに300人のお供が添えましょう。それで静かさといったら、しんとしたもので、ただ響きますのは、馬の轡(くつわ)の音のみでございます」と言っています。(幕末百話) 
しかし、このしんとした状況は先払いの「したに、したに」や奴の呼び声や踊りや鎗を投げたりする事で一時的に中断しました。奴が威勢のいいかけ声とともに練り歩いた(parade)ことは、他の国のパレード、特に19世紀アメリカのフィラデルフィア市のパレードにも見られるように、行列は男らしさをよく見せたわけです。 
庶民が行列をどんな気持ちで見ていたかは簡単に言えませんが、絵巻物に描かれている子供は感激しているようすです。人に畏敬の念を起こさせたり、同時に人を楽しませたりする事は互いに矛盾しないものであると思います。ここまでの結論として、大名の政権の立場から考えると大名行列は藩の権威と軍事的な力を見せる仕組み(mechanism)であって、庶民はそれに対して十分敬意を払っていました。それと同時に、大名行列が通る街道の近くに住んでいた人々、江戸市内に生活していた人々、あるいは来日した外国人にとって、行列は大変魅力的で、演劇のように見ていたと論じてきました。大名行列を見物したり、錦絵を造ったり、絵双六の背景になったり、あるいは錦絵に見られるように子供は遊びに行列の真似をしたり、地方の祭りに大事な役割を果たしたりもしました。このように江戸時代の文化にかなりの影響を与えたのではないかという風に思います。特殊な旅の表現としての大名行列は物質文化の物をになって交流し、相当広い範囲に影響を与えたわけです。 
「江戸の文化」 
次に参勤交代から生まれた文化--つまり、江戸文化の形成と参勤交代--を2番目のテーマとして取り上げてみたいと思います。 
江戸文化の形式 
「江戸文化」という表現は、江戸の都市の文化=江戸時代の全国の文化という風に使われている傾向があります。ここでこれは「一定方向説」(unidirectional)という風に呼ぶ事にします。つまり、江戸から生まれた文化説と同じです。これはいろんな学問的な論文に見られます。「長野県史通史編5近世2」には、「参勤交代の 定着や江戸の繁栄のなかで、その世紀の後半以降、またとくに18世紀にはいって、城下町は、江戸文化を吸収して、それを近在におよぼす役割をつよくもった」と書いてあります。日本の学研という会社のインターネットの辞書によると、「参勤交代の影響で街道が発達し、江戸の文化が地方に広まった」と述べています。 
この一定方向説には疑問の余地があるのではないかと私は考えています。中央の文化--つまり「江戸文化」--とはなにか?江戸で発生した文化のみと思ってしまうのが問題です。「江戸文化」とは全国に発生した文化であるという事を正確に強調しなければ、「江戸文化」を誤解してしまうことになります。文化という言葉をこ こでは物質的な文化と非物質的な文化との両方の意味で使っています。 
一定方向説は江戸からの交流の事を強調しますが、それはもちろん否定出来ません。しかし、江戸に集まっていた藩の家臣と小者などは地方の人々であった事も見のがしてはなりません。18世紀の江戸の人口の1/4、約25万人は参勤交代で来た者であって、土佐藩の場合、元禄10年(1697)、4,551人の土佐人が土佐以外の、江戸、京都、伏見、大坂に住んでいて、藩の41万人の約1%となりました。内訳はわかりませんが、他の年の数字に近似していれば、ほとんどの人が江戸に集中していて、186人が京都に住んでいました。全部で350人が大坂、京都、伏見の三都市に住んでいました。 
こういう人達がお国で覚えた言葉、習慣、知識などを持ってきて、それが道中で、あるいは江戸にいる間に変質させられて、国元へと環流しました。江戸と往来した家臣は文化--いわば物質文化--を文字どおりに運んで来、かつ比喩的に非物質的な文化も普及させていきました。こういった二重の意味があるわけです。 
藩士たちは文化の交流に大きな役割を果たしました。土佐の森正名は5回も江戸との間を往来しました。彼が 書いた日記を見ると、参勤交代の個人的な意義がよく分かります。土佐はどういう国であるかという事を、初めて考えたのは多分文政11年の最初の旅のころでしょう。つまりこの年より以前、正名の世界は土佐の国の境目 の内側、あるいは城下町周辺に限られていました。高知を出て他の藩を見るまで、自国の有り様は十分には分かり得なかったでしょう。 
正名が高知を出てから最初に出会った城下町は丸亀でした。その城を見て、「天守なし。殿様御住居出来る様なる所見えず。小さきものなり」と判断しました。また城下町を歩いて見て「町は大繁盛、家中は衰微と見ゆ」と書きました。最初の旅だからこそ各城下町14カ所を通った時に必ずメモを残したものと思います。このように他藩の城下町その他の都市を見ることにより、初めて他の世界と高知との比較が出来ました。 
三都である京都、大坂、江戸へ入った時、その大きさに衝撃を受けました。「京都に入てみればさすがに大坂に勝ること遠し。そもそも男女の風俗優にして衣服の美成る事、又大坂に倍せり。御国を出、丸亀の繁盛に驚きしが、大坂へ入て見れば、又十倍に覚申す。京へ入て又倍せり」と書いています。その後、江戸へ着いた後愛宕山に登って「京都、大坂などより広大なる事、十倍もあらんや」と驚いています。このように、彼の計算によると江戸の繁盛の様子は丸亀の百倍とか二百倍になって、高知とは比べものにならない事は明らかでした。 
交流のパターン 
参勤交代が江戸の文化を全国に広げた一方的な現象ととらえるのではなく、より多面的なプロセスだという風に考えたいと思います。(1)江戸から地方へ、だけではなくて、(2)国許から江戸へ、(3)江戸を通して地方から地方へ、あるいは(4)直接に地方から地方へ、のようなパターンも考察しなければならないと考えます。それに忘れてならないのは(5)京都、大坂から江戸へ、あるいは江戸を通して京都大坂から様々な藩へというパターンもありました。次にこの五つの流れのパターンを取り上げてみたいと思います。 
一番盛んなのが、(1)の江戸から地方への交流です。 
吉宗将軍も18世紀の初め頃、日本国内の輸入代用物政策を推進する為に、江戸に集まっていた大名にサトウキビや朝鮮人参の苗を配って、それらの栽培を地方へ奨励しました。 
正名のような藩士は道中で、または江戸で買い物をよくしました。江戸に着いて次の日、ある土佐藩の郷士は錦絵(江戸絵とも言う)を60枚ほど買って、3日後にはさらに10枚を買いました。これは今の絵葉書のように目的地に着いた事を表わす物として、国許の家庭、友人などへ送ったのでしょう。幕末には泥絵も藩士にとって人気のある土産品でした。 
大ざっぱに買い物と言うと、布、衣類、食品、武芸品、美術品、植物などのようなカテゴリーがあげられます。 
さらに、八戸藩士富山家2代目の日記を見ますと、国許の人から、特に本家より頼まれて商品を買って国へ送ったり、持って帰ったりする例も少なくなかったようです。 
植物の買い物として次のような例があげられます。土佐藩士の島田武衛門は江戸の商人からサツキの種や苗を買って高知に居る郷士の友人に送るうちに、サツキの栽培が友人の商売になりました。こういう例も少なくないと思います。 
また帰国の際、友人からの餞別として良く錦絵、画、タバコ入れ、扇子などのような物をもらう事は全く珍しくなかったようです。 
江戸日記を見ますと帰国する藩士は自分の買い物の他に、友人から餞別としてもらった錦絵、画、タバコ入れ、扇子のような物も持って帰っています。土佐藩下級武士小倉貞助は江戸のお土産として団扇36本、財布、糸、子供の簪、真田緒紐付きの日和下駄、絵本6冊、腰帯二筋、利休箸10包、扇子、薬などのような物を買いました。それに、本家より注文された日和下駄も買って持って帰りました。 
非物質的な文化の場合、江戸での経験は藩士のものになって、その人と共に藩へ伝えられました。しかし、江戸で習ったことの起原は江戸に限られていたのではなく、日本の様々な所から来たケースが多いのです。もちろん、外国からのケースもありました。ここで小田野直武の例をあげてみます。 
小田野直武は秋田藩士で参勤交代の際藩主のお供をしました。江戸にいる間、平賀源内の弟子になって西洋(蘭)風の画法を勉強して、杉田玄白の「解体新書」という翻訳書の絵を描きました。蘭癖(ランペキ)大名の 一人である藩主の佐竹義敦も直武に教わって腕の良い画家として知られるようになりました。西洋画法についての本を2册ぐらいも書いています。直武と義敦のお陰で秋田蘭画が生まれました。 
藩士だけではなく、藩主も参勤交代のお陰で交流ができ、遠く離れている秋田藩の藩主佐竹義敦と熊本藩の殿様細川重賢が江戸で知り合って、お互いに蘭学を奨励し合う事になりました。 
陶工の場合も参勤交代の仕組みの中で江戸へ行くチャンスが与えられて、同じ分野の人間との交際が可能になりました。例えば、森田久右衛門という人物は土佐藩の尾戸焼きを改善するために藩主に江戸へ遣わされました。 
画家と陶工だけではなくて、一般的に藩のインテリ--儒者、茶の湯の師、歌人、医者、など--も藩主のお供をして江戸で1年間とか数年間を過ごして、江戸のサロンで他の藩のインテリと交流する事ができ、藩と藩との政治的な境界を超える事が出来たと考えればよいのではないかと思います。あるいは、こうしたネットワーク で明治維新後の日本の近代化--文明開化が日本中に伝播したとも言えると思います。 
土佐藩の有名な儒学家である谷、宮地のメンバーは、よく美濃岩村藩の優れた学者の佐藤一斎の門下生になりました。こうしたケースは、国へ帰ってから藩校の教授になる場合が多いのです。つまり江戸で資格をとって国へ帰ったわけです。 
武芸をやっていた武士もそうでした。例えば、久留米藩士今井湛斎(1769-1840)は5年間江戸で沼田藩士長沼(ながぬま)長平の道場で剣術を学び、教える資格をもらって国へ帰りました。国許では江戸で習ったことを教えて、「江戸での経験」を幅広くいかしました。こういう江戸勤番の武士は江戸のサロンに参加して 幕藩制度の政治的な境界を超えた者です。 
藩士だけではなくて、土佐藩郷士である岩崎弥太郎や町人画家弘瀬絵金は江戸で勉強するために江戸お供の藩士に雇ってもらい、行けるようになりました。その江戸滞在の経験は彼等の生涯に大変重要な位置を占めました。 
岩崎は儒者である安積良斎(1791-1860)の門下生になる為に奥宮忠次郎という藩士の小者に雇われて、奥宮と奥宮の家族と一緒に江戸へ向かい、ゆったりとした60日間の旅をしました。絵金は岩崎ほどよく知られていませんが、1829年18歳で江戸へ出て3年間滞在し、異端的な画家としての評判を取りました。江戸で見た歌舞伎が彼の絵の大事なテーマになり、江戸での経験のおかげで御用絵師となりました。 
江戸文化とは多面的なプロセスで形成されたものと申し上げてきましたが、(2)の「地方から江戸へ」と(3)の 「江戸を通して地方から地方へ」はケースによって区別出来ないので一応ここでは一緒に取り上げます。(2)と(3)の流れとして、現在の段階では次のようなものがあげられます。 
人間の移動/国中の様々な藩からの人々については先に触れました。 
道中のお土産  
江戸語/三河方言など、様々な言葉から発展したことがよく研究されています。 
地方のお寺、神宮(移り神) [例]金比羅大権現(丸亀藩)/水天宮(久留米藩)/豊川稲荷(西大平藩)/浅草稲荷(柳河藩)、こういう神々は屋敷内に移り、幕末 には庶民にもよく祭られていました。 
献上品/つまり藩から幕府への贈り物を指します。地方の名物--例えば、土佐藩の小杉原という紙 とかかつお節--が多いのですが、幕府は要らない品物は献残屋の商人に買い上げさせたりして、また市場に流通させました。こういう風に地方の物が江戸へ流通して、また他所へと廻って行ったわけです。 
江戸藩邸への食品/江戸地回り経済が発展しても、19世紀初期の八戸藩はまだ味噌、大豆、米を江戸藩邸に送っていました。加賀藩の場合、瓦、醤油、漬け物と味噌があげられます。 
国許から食器類を藩邸内のために送った藩も少なくなかったようです。加賀藩と高松藩の例はよく知られています。高松藩で出来た京都うつしの肥前焼は江戸藩邸に送られ、京都の影響は肥前と他の藩を通して江戸にまで及びました。もちろん、この京都うつし焼は中国と韓国の影響も受けましたから、こういう風に参勤交代のお陰で文化の交流がどんなに多面的なプロセスであったかは十分に分かると思います。 
個人への生活用品、食品/布(足袋をつくるための)、紙、にろぎ(魚)とカツオ(鰹)、漬け物、みかん等のような物が土佐藩の宮地馬之助によって送られました。  
(4)は中央を通さず、地方から地方へというパターンです。時間の関係で例は一つしかあげられませんが、一番多いと思われるものは、帰り道で購入したお土産です。 
独特な例として土佐の碁石茶があります。これは醗酵させた黒いお茶です。胡乱茶より濃くて酸っぱい味がします。18世紀から土佐藩の参勤交代の道は北山道に変更され、行列は伊予の国を通りました。そのために伊予の国にある仁尾の商人が碁石茶の事を知り、碁石茶を売る特権を買って、瀬戸内海辺りに仁尾茶の名前で碁石茶 を発売することになったのです。 
江戸文化の形成を考えるにあたって最後に、(5)の京都大坂から江戸へ、あるいは京都大坂から江戸を通して 地方の城下町へのパータンについて触れたいと思います。西日本の各藩は大坂、京都に屋敷を持っていました。参勤交代は、もちろん周知のように、米の販売のために城下町と大坂を結ぶと共に、国中に特産品の生産多様化、あるいは金融を促進した制度でもありました。土佐藩山内家のような藩主は、大坂で一泊二泊するのは普通でし た。京都へ寄らない場合、京都から幕府役人、門跡、役者も大坂の藩邸に招かれました。京都へ寄るとすれば土佐藩の場合、河原町の藩邸に入って休憩してから見物に出ることもありましたが、ここに泊まるにはあらかじめ幕府の許可が必要でした(許可がない場合伏見に泊まったわけです)。京都藩邸の留守居役という役人がいて、彼の大事な仕事は少なくとも二つありました。一つは、情報を集めて藩主に伝えることです。二つ目は、京都または関西の文化人の弟子になりたい土佐の家臣をそういう人たちに紹介することでした。こういう風に京都は重要な情報ネットワークの拠点になりました。 
参勤交代とは江戸、大坂、京都、全国の城下町という拠点を結ぶ 人、物、金の流れと情報知識と文化の流れを作り、ネットワーク化する事も促進して、日本江戸時代の文化形成に強く刺激を与えた制度であったと考えております。   
 
歌麿「百千鳥狂歌合はせ」

 

第一部 人間歌麿について 
今日、発表のテーマは喜多川歌麿を取り上げます。私の興味を引いたのは、世界的に有名なロシア国立エルミタージュ美術館の図書館にあった図書の一冊で、Utamaro. A Chorus of Birdsという本です。率直にいうと、初めてこの絵本を見た時、驚きで自分の目が信じられないくらいでした。なんとも素晴らしい鳥たちでした!その絵本には和歌の韻律に合わせた狂歌も揃っています。この本を旧ソ連と今のロシアで手にした者は、おそらく一人か2人しかいないでしょう。 
ですから、それまでの私にとっては「知られざる歌麿」の一面なのでした。私だけではありません。日本学と日本美術に関わりのある人達の間でも(一般のロシア人はもちろんのこと)ロシアでは、ほとんど知られていない歌麿の創作の分野です。私は新種を発見したかのような印象を受けました。ロシアだけでなく日本でもこのような作品はあまり知られていません。「歌麿といえば美人画の名手として知られている。しかし、歌麿がこうした女性描写とは全く無縁の、虫や草花、鳥などを描いた狂歌絵本の挿絵に、驚くべき緻密で完成度の高い世界を構築していたことは案外知られていない」と安村敏信氏は述べています。 
歌麿の生誕の謎 
小林忠氏の「歌麿の世界」には、喜多川歌麿はan artist without a biography(伝記のない絵師)と指摘されています。人間歌麿については不明な部分が多いのです。 
澁井清氏によると「喜多川を生んだ(1754年生)そのこぶくろ、つまり母、そして男親についても、今のところ確証がない」。 
ある説によれば、歌麿は茶屋の息子とされていますが、Sh. AsanoとT. Clark両氏はつぎのように書いています。「歌麿は吉原の茶屋の息子であったとする説は現在のところ実証されていないが、彼の出版元である蔦屋重三郎(1750-97)がそのような出自であることは確かである、という」と。AsanoとClarkは向井信夫氏の資料を利用して、右の結論を出しました。 
歌麿の出生地は何処であるかということについても、「古くから武州川越説、京都説、大坂説、江戸以外の他郷説などがあり、いずれも定説となるほどの決定的なものは未だないといえます」。この問題と関連して、林美一氏の「艶本で読む歌麿」でも様々な仮説があります。少し長くなりますが引用をさせていただきますと「江戸説あり川越説あり、大坂説あり京都説ありで一定しない。以下に述べる栃木滞在説は京都出生説に関する一説であって、栃木出身の浮世絵研究家、故吉田暎二氏が深い関心を示され」 、栃木市での調査の結果を1941年に発表されたのが最初でありました。「戦後は昭和35年10月平凡社刊の「歌麿の美人画」に再説されているが、それによると、歌麿は京都に生まれ、幼時母親とともに、つてを求めて栃木の釜屋(善野家)を訪ね、更にその紹介で、江戸の狩野派の絵師・鳥山石燕(せきえん)に師事し、浮世絵師として独立する第一歩を踏みだしたが、名をなした後も、しばしば釜屋を訪ね、大作「雪月花」三幅対を執筆した、というものである」ということです。 
歌麿の生まれた場所については次の説があります。「歌麿がいつどこで生まれたかについての資料は、全くないといっていい。生年は宝暦3年とされるが、それも没年からの逆算である。ところが実は、何歳で没したのか、信頼できる資料がないのである…」。 
私はもちろん、これらの見解になにか判断を下したり、他の研究者の立場や見解に対して批判などする権利もなく、個人的な意見を主張することはできません。しかし京都が好きで、「住めば京(みやこ)」をモットーとしていますから、歌麿の出生地が京都であって欲しいと思っています。 
幼年時代 
歌麿の本姓は北川、幼名は市太郎、のち勇助、勇記です。歌麿がどこで生まれたにしても、幼い頃から江戸住まいであったろう、というのが多くの研究者の一致している考えです。近藤市太郎氏(1910-61)は、歌麿が生まれたところがどこ(ひょっとしたらどこかの地方の村にでも)であろうと、若い頃に江戸に来たとの推測をしました。また、「歌麿は比較的早くから狩野派の絵師・鳥山石燕に弟子入りしていた」。 
歌麿の年齢に係わるまた別の新しい資料が鈴木俊幸氏によって発見されました。それは、「明和7年(1770)の東燕志の歳旦帖「ちよのはる」で、なかに幼い筆致で3個の茄子を描き「少年 石要画」という署名がある。少年、つまり元服(16歳)前だから13-4歳だろうか。従来の宝暦3年生まれ説だと明和7年は18歳となり、計算があわない。これまでより4-5歳若返ることになる。--―歌麿の場合、デビューにしても、結婚したと思われる年齢にしても、他の浮世絵師に較べて遅い。だから新資料にもとづいて4、5年ほど年齢を若返らせたほうが妥当な年齢に近づくと、小林美一氏はいう」。 
弟子の身分と期間 
歌麿の研究者の多くは彼が鳥山石燕の教え子であったことを認めます。師弟がどうして互いに知り合ったかは、はっきりしていません。のみならず歌麿は、小さい頃から石燕の弟子になったことを滅多に否定していません。彼らの交際は石燕が没した年(1788)まで続いていたのです。 
デビュー 
歌麿はその初期の頃には、芝居関係の仕事をしていたそうです。歌麿の処女作と考えられているのは、安永4年(1775)11月、江戸中村座上演の浄瑠璃正本「四十八手恋所訳」の表紙絵です。その後も芝居と関係がある幾つかの絵を書いています。役者絵も描き、彼らの似顔絵を発表しましたし、狂言と歌舞伎に関係がある作画も多くなりました。 
歌麿が狂歌本「画本虫ゑらみ」の挿絵を描いて発表しているのは天明8年(1788)です。この作品を観るとき、よく知られている歌麿の美人画、大首画や枕絵の傑作とは全く違うジャンルの作画だと、息を呑んでしまうほどびっくりせざるを得ません。歌麿の虫や草花、鳥たちは、実に緻密で完成度の高い芸術作品であるにもかかわらず、あまり知られていません。このような歌麿を知らない人は日本にも少なくないと私は改めて強調します。「この狂歌絵本とは短歌形式の戯(ざ)れ歌というべき狂歌を、あるテーマで詠み合い、そのテーマに関連した絵と組み合わせて版本としたものだ」。このような作業に熱中した歌麿は絵師にとって不可欠な摺りの技術(雲母摺=きらずり、空摺=からずり、キメ込み等)を駆使した結果、非常にリアルな写実表現を達成できました。その画作に見られる草花や虫たちの細密描写は臨場感に溢れていると言えるでしょう。 
そのころ発表された「潮干のつと」の貝の描写は、「百千鳥」の羽毛表現の写実性とともに、歌麿の独特な創作力や彼の画家としての能力の広さが大きな特徴となって、見事に反映されています。「この歌麿が自然界に目を向けて達成した写実の世界は、そのまま人間描写に活かされる。興味深いのは、写実の極みといわれる「絵本虫撰」を発表した天明8年に、同じく枕絵の最高傑作と目される「歌まくら」を刊行していることである。以後歌麿は女の「真」を描き続けたのであった」との安村敏信氏の感想です。 
まだ絵師の卵であった歌麿がどういうふうに版元の蔦屋重三郎と会って、その擁護を受けるようになったのは明らかにされていませんが、2人が知り合いになったことは、疑いもなく若い絵描きの運命の転換点になりました。 
1782年秋。上野の忍岡にあった豪華な店で宴会が開かれました。今の言葉で言えば、その宴会のスポンサーは蔦屋重三郎だったと思われています。宴会の趣旨は、これまでいくつか違う号を名乗っていた歌麿が、今後使う画号を歌麿とすることを公に発表するということです。そのために歌麿は招待状を用意して、その中に招待客の名前も書き込みました。客は、当時の江戸のボヘミアンである有名な狂歌歌人、浮世絵師たちでした。彼らに紹介されて、その仲間入りした歌麿は画作に没頭しました。その頃、作者清水燕十(ペンネームは怠けの馬鹿人)と共に、黄表紙本をはじめとする多くの作品を生み出しました。 
謎めいた結婚 
歌麿の私生活は謎に包まれています。小林忠氏によると歌麿は奥田屋平兵衛の娘と結婚しました。それは澁井清氏の憶測に由来した判断であります。後者の推測は平兵衛の息子幸蔵の死に因んで、蔦屋が出版した狂歌集「痛み諸白」の中にある歌麿本人の申し立てに基づいているそうです。恐らく、蔦屋は自ら友人になった歌麿のためにその結婚の手はずを整えて、取り決めた見込みがあります。蔦屋のそのような手配りは歌麿の将来の成功を確保させる狙いがあったのではないかと考えさせられます。 歌麿の結婚については、様々な説があります。その一つ目は、歌麿艶本の中に登場する女性の一人。「歌麿の「會本色能知功佐」(えほんいろのちぐさ)には、「勇助・おりよ」なる男女コンビが登場する。勇助とは歌麿の本名だが、この「おりよ」が歌麿の妻の本名ではないかというのである。(中略)澁井清氏はこの女性が歌麿の妻であり、門人「千代女」でもあったとみる。専光寺の過去帳にあった「理清信女」と同一人物で、勇助=歌 麿は寛政2年に愛妻に先立たれたとの見方も成立する。澁井氏は「おりを」が奥田屋平兵衛の娘であるとする」。その二つ目は、澁井氏の説に対して林美一氏は「「おりよ」は歌麿が築地の旗本邸で見初めた女性だとの説を 採り、さらにおりよの死後、歌麿が再婚をしたのでは、と考える」。その三つ目は、歌麿が埋葬されている専光寺と結び付いています。そのお寺の過去帳には北川家に関する記入があります。「「北川歌麻呂妻」は古くから言われていたような歌麿の弟子・ 二代歌麿の妻ではなく(もしそうなら、二代歌麿自身の墓も専光寺にあるはずだ)、歌麿が再婚した女性であり、また、「幻覚童子」はその後妻が歌麿の名跡をつがせるために迎えた養子だというのである」。 
以上のような歌麿をめぐる話題は、結婚の説だけではありません。たとえば、菊池貞夫氏は、次のように述べています。 
「彼[歌麿]の家族構成であるが、彼の身内となると、寛政2年(1790)8月26日没した「理清信女 」という仏の存在が確認されるぐらいです。そしてその仏も専光寺の過去帳によれば、葬るべき菩提寺を持たなかった処から神田白銀町の笹屋五兵衛という檀家の縁者として葬ったということがわかります。この菩提寺を持ってなかったということが、前の歌麿の出生地に関連して諸説を産んでいるといえます。またこの「理清信女」という女性の仏は、彼の母とする説。澁井清氏は歌麿の女房お理おであると仮説し、天明4年(1784)にはすでにこの奥田屋平兵衛の娘と結婚しているとされている。小林忠氏もこの説に同調しているが、林美一氏、鈴木重三氏などは、奥田家の家族構成を考証し、また他の資料を提示して否定的な見解をとっている。こうした最近の論争だけでなくて、歌麿の妻帯については、曲亭馬琴(1767-1848)が、天保6年(1835)刊の「後の為の記」に、「歌麿は妻もなく、子もなし」と記しているかと思うと、「新増補浮世絵類考」(中略)の二代歌麿の条に「故歌麿が妻に入夫せし人なり」という記述がある。先の仏が歌麿の先妻であったのか、歌麿は後妻をもらったのか、また馬琴のいうように晩年そうした者がいなかったのか、色々に推測説がたてられるわけです」。 
とにかく、歌麿はいつ結婚したのか、結婚相手は誰だったのか、それとも、独身であったのか、彼のそばにいた(もし居たとするならば)女性は、一体誰だったのか?―母か、妻か、娘か…   
人間歌麿については、以上のことから想像できるように、まだまだ不明の部分が多いというのが実状です。絵師として割と早く穎脱し、天稟の才に溢れていた歌麿は、私生活では不幸だったと言えるでしょう。 
歌麿の画業 
歌麿の自然を賛美する狂歌絵本、独自のユニークな女絵、春画、歌枕、大首絵等は江戸文化の爛熟期に胚胎しました。概して言えば、彼の名前から切っても切れない、(福田和彦氏の表現によれば)生まれ出ずるべくして生まれたのが浮世絵です。初期歌麿の女絵は先輩の絵師の美人画様式の亜流ではないかといわれています。歌麿は絵本であろうと、艶本であろうと、枕絵であろうとも、生まれつきの才能の持ち主であったおかげで自らの流派を形成して、独特な画作のスタイルとジャンル(美人大首絵を例としてあげてもいいと思います)の草分けになったと言えるでしょう。歌麿の美人画も他の浮世絵師と同様に吉原の花魁、市井の婦女子の風俗画、水茶屋などの評判美人を百花繚乱として描いています。 
歌麿が大首絵を描き始めたのは役者絵の描き様からヒントを受けたからだと思われます。にもかかわらず、耳目を集めた彼のこうした作品(とくに、彼が制作した美人画の大首絵)の特徴については、次のような評価が与えられています。「切断形式をもった大首絵は面輪を拡大描写した構図上の様式ではなく、内面的な心理的な美を形象化した美人画様式の新しい展開であった」。 
50年以上前に出版された本「歌麿」で澁井清氏は、歌麿の大首絵をヨーロッパの巨匠の作品と較べました。「歌麿の大首絵を眺めているとつくづく美しい女の顔である。ふとレオナルドのモナ・リザの原画の大きさほど位あるであろう、そんなに大きくはあるまい。そしてルノアールの女、ルーベンスの女、ゴヤの書いた真珠のようなマハの裸体の首、等が次々と浮かび出てくる。(中略)この大首は世の芸術が捉えた女の中で、もっとも女らしい女の美しい首である。しみじみと歌麿は、偉大な女絵の名手であると今さら乍ら想を新にした」という澁井氏の批評には、歌麿よりも300年程年長のイタリアの画家レオナルド・ダ・ヴィンチ、200年程年長のフランドルの画家であったルーベンス、そしてスペインのすこし(10年)年上のゴヤなどの世界的に認められている傑作作品に匹敵していると主張できる数々の根拠がいくらもあると思います。 
歌麿の女絵だけではなく、別のジャンルの傑作は、男女の風俗画なり、流行を写す錦絵なりが華美を極めたので、江戸、日本だけでなく、「その極だった芸術性は西欧で絶賛され、「ウタマロ」の名が浮世絵の代名詞となって世界に知れ渡るのである」と安田義章氏は書いています。続けて「歌麿の大錦絵である、「歌枕 」の着想の奇抜さ、構図の美しさ、人や自然の描写の見事さは他に類をみない」というのです。 
さらに、歌麿の画作を誉め称える作家・佐野文哉氏は次のように語っています。「浮世絵を江戸時代の芸術として頂点におし上げたのが喜多川歌麿であり、東洲斎写楽であった」と。 
歌麿が達成した最高の仕事が美人の大首絵の創作です。日本の文化研究者、美術史家、芸術評論家の多くの歌麿評価によく見られるのは立派な誉め言葉です。彼の画業の特徴と要素は、概して、次のようなものだと思います。 
植物の描写にある現実主義か自然主義 
美人画の神秘的な魅力 
大首絵の面輪の美しさと内面的な心理的な美 
男女風俗と流行を写す錦絵に感じられる奇抜さ 
臨場感に溢れる吉原の遊里の描写 
風俗画に見られるいわゆる露骨な描写とグロテスクな色っぽさ 
枕絵の男女の色模様の大げさな顛末 
聖母マリアのような母親像の優しさ、等々 
「今歌麿を賞するとき、その刻んだ画業の卓抜さ、その美人画様式の綺麗なる展開と想像性は250年余に渡る浮世絵版画の歴史の中でもっとも強い輝きを見せている。もしも美人画において、春画において歌麿の存在を欠くならば、浮世絵はその美の半ばを失うにちがいない」と福田和彦氏は評価します。 
浮世絵と、その不可欠で大切な一部となる春画(歌麿の春画だけでなく)の重要性について早川聞多氏は次の結論をだします。「浮世絵とは主に江戸時代に描かれた性愛図のことで肉筆と版画と2種類がある。(省略)浮世絵といえば、現代では主に庶民の風俗を描き庶民を客層として描かれたものという通念が広がっており、浮世絵の春画といえばなおさら通俗的な目的、端的にいえば男性専用の道具に過ぎないと見做されがちである。しかし最近の研究によると、浮世絵春画の普及はほとんど全ての階層に及び、しかも老若男女の別なく愛好されていたことがわかっている。(中略)少なくとも好色な男性専用という意味合いに限定されるものではなく、もっと広い意味合いを孕んでいたのである」。 
このような浮世絵に対する高い評価はずっと前から日本国内にあったと思っている方々は、大いに戸惑うだろうと思います。江戸時代の社会のエリートには、庶民、町民のために数多く作られたものは、芸術作品として認められていませんでした。ある意味で浮世絵は今の言葉を利用しますとエロチックなポップアートとして見なされていたからです。版画の作品への(日本国内での)価値観が変わったのは外国からの影響のお陰だったそうです。 
歌麿の版画が、「急に注目を集め高額で取引されるようになったのは1880年代の終わり頃からという」。こうなるために決定的な役目を果たした存在がありました。エドモン・ド・ゴンクールのOUTAMAROという本が、歌麿の画家としての全貌を詳しく紹介して、この絵師の作品の評価を高めました。 
運命の悲劇 
ここでは「運命のいたずら」とか「運命の皮肉」という題を考えていたのですが、「いたずら」も「皮肉」も歌麿の人生に起こった事実の本当の意義を伝えることはできませんから止めました。一体、彼はどんな困難に陥ったのでしょうか。 
寛政2年(1790)。この年は歌麿にとって重要な年でした。仕事は山ほどありましたし、円熟した年齢になって、逞しく、評判のよい巨匠になりつつあったその真っ只中の悲しい出来事。歌麿の妻とおもわれる女性が亡くなりました。澁井清氏によると、「歌麿は、1784年頃には、吉原大門口の酒舗奥田屋兵平衛の娘と思われる「おりを」と結ばれており、その「おりを」は、寛政2年8月6日に死んで、浅草(中略)にあった専光寺に葬られ、戒名を「理清信女」といった」。 
寛政9年(1797)。歌麿にとって掛け替えのない存在、常に励ましと庇護を与えてくれ、創作の刺激人でもあった有名な版元、蔦屋重三郎が47才の若さで亡くなりました。蔦屋の死は歌麿にとって白昼の稲妻のような、突然の打撃だったと思われます。 
数年前の寛政3年、蔦屋が出版した洒落本が幕府の咎めを受け、蔦屋は財産の半分を没収の刑に処されました。「歌麿は、この蔦重の不幸を救うかのように、勝川派の役者似顔絵で用いられていた「大首絵」からヒントを得て、「美人大首絵」という新様式によって美人画を発表したのでした」。 
文化元年(1804)。歌麿は52歳を迎えました。「この頃、歌麿は思わぬ筆禍事件に巻き込まれた。皮肉なことに、ひっかかったのは、美人画ではなく」、江戸でもよく知られた「太閤記」に取材した錦絵でした。つまりこの時代、それと関係があれば、文学作品であろうと、画作であろうと、テーマとしてタブーでありました。江戸の庶民の同情を集めていた豊臣秀吉を描くことも禁止されていました。「そこへ反徳川の気運をあおるような読本「絵本太閤記」。ましてや、それを錦絵にした相手が何度も肩透かしをくわされていた歌麿ともなれば見逃すはずもない」。結局、歌麿は取り調べ中入牢3日に及び、手鎖50日の刑を受けました。その年齢の歌麿にとっては非常に重い罰で、苦しい体験になりました。このような重すぎる刑は歌麿に心理的にも、身体的にも悪影響を与えざるを得ませんでした。 
文化3年(1806)9月20日没。歌麿の伝記には、只一つの事実が明記されています。それは彼が没した年月日です。その遺体は専光寺に埋葬(土葬)されています。 
歌麿は54歳で没するまで、「絵筆をふるい続けた。重い病のなかでも描くことを止めず、版下絵に囲まれてこと切れていたと伝えられる」。では、引き続いて、歌麿の「絵本百千鳥狂歌合わせ」についての話に移りましょう。
第二部 歌麿の「百千鳥狂歌合」の詩的・文法的分析 
それでは、「百千鳥」についてのお話に入りましょう。 
これは、寛政2年(1790)頃に蔦屋出版書肆から開板された、狂歌合せ大本前後編からなる二冊本です。ただし本書は、正確な刊行年が不明で、寛政2年前後と推定されています。 
本書には、前編に7図、後編に8図が収められ、一図の中に2種の鳥が描かれる構図であり、まるで鳥たちが対話をしているかのような印象を持ちます。絵本「百千鳥」は、「図柄も面白く「虫撰」とは別趣のダイナミックな趣きがある。羽毛表現に空摺りを用いたり、細線による毛描にデリケートな変化をつけた色摺りを重ねるといった具合に、技法的にも絶品といってよい工夫が凝らされている。狂歌もなかなか楽しく[中略]ウイットに富んでいる」との安村敏信氏の評価です。同氏は加えて、この素晴らしい仕事を、「虫撰」に次ぐ傑作品としています。 
歌麿は鳥類の生態をうまく捉えています。けれども彼の捉え方は、鳥類学者のそれとは全く違います。歌麿は、心をこめて丁寧に自然界を描写しています。自然を綿密に観察し、動植物たちを念入り眺めた結果、彼の卓越した写生手腕を発揮して、このような作品を生み出すことが出来るようになったと思います。見る者に、自然への親密感と愛着心を与えてくれるようです。 
辻惟雄氏によると、フランスの有名な文学者エドモン・ド・ゴンクールは、彼の著書OUTAMARO(1891)の中で、歌麿の初期の動植物づくしの狂歌本に注目し、次のように述べています。「女性を理想化して描き出すこの画家 が、「絵本百千鳥」「絵本虫撰」「潮干のつと」において、小鳥や虫や貝類を、写真さながらの最高の厳密さ、正確さで描き出している のは全く信じがたいふしぎなことだ」と。   
前述のように、この絵本は前後編からなる二冊大本で、折り畳み式になっています。 
前編の鳥たち―木菟と鷽、鵜と鷺、四十雀とこまどり、むら雀と鳩、かし鳥と鴟■、鴨と翡翠、鷹と百舌 
後編の鳥たち―山雀と鶯、鶉と雲雀、まめまわしと木つつき、山鳥と鶺鴒、燕と雉、ゑながとめじろ、鷦鷯と鴫、鶏と頬白 
では、この中からいくつか取り上げて分析してみましょう。
むら雀   綾織主  
さだめなき 君が心の むら雀 つゐに うき名の はつとたつらむ 
(語彙)「さだめなき」(定め無き)は「変わりやすい、無常である、決まりがない」という意味で用いられている。「つゐに」(副詞)は「結局」の意。「浮き名」は「浮いた噂」の意で使われ、動詞「立つ」と組みをなす。「はつと」は副詞で、現在の「はっと」に同じ。 
(文法)「さだめなき」は「さだめなし」の連体形。「君が心」の「が」は、現在の格助詞の「の」の役を果たす。「心の」の格助詞「の」は比喩を示し、「…のような」の意。 
「浮き名」の後の「の」は主体を示す。「立つらむ(ん)」の「らむ」は動詞の終止形に付く場合、現在の事実について、その原因・理由を推量する意を表し「…のだろう」に当たる。 
(詩的手法)擬喩法と擬人化が使われ、雀のせっかちな性格と生態を通じて、人の定めと人生の無常が見事に表現されている。付け加えれば、有名な諺「雀百まで踊り忘れず」も連想させる。 
鳩   園故蝶 
鳩の杖 つくまでいろは かはらじな たがひに年の まめはくふとも 
(語彙)「杖」は「頼りとするもの」の喩え、普通は、動詞「付く」と組む。「いろ」には、羽毛の色だけではなく、愛情の意味も含まれる。同音異義語として上手に使われている。「かはらじな」は現在の言葉の「変わる」と同じ意(文法的説明は以下を参照)。「たがひに」は現在の「互いに」と同じ。「年の豆」は節分(立春の前日)の夜に播く豆であり、数え年(年齢)あるいは、お正月の意でも利用されている。「くふ」は「食う」。 
(文法)「杖」の後の格助詞を省略。「かはらじな」の「じ」は打ち消し(否定)の推量を表す助動詞で「…ないだろう」の意。「な」は感動や詠嘆の意を表す終助詞で、「…なあ」。「とも」は終助詞であり、仮定条件の表し方を強め「たとえ…でも」の意。 
(詩的手法)鳩という鳥は平和の象徴であり、恋人同士とか夫婦のシンボルでもある。この一首も擬人化により、人間の一生に渡って続く愛情が見事に表現されている。「色」と「杖」にかかる「つくまで」の表現が二重の意味で使われ、2人の愛情の信頼性と強さを強調する。「互いに年の豆は食ふとも」の句は、実に日本らしい見事な言い回しであろう。長年に渡る男女の愛を賛美する一首である。 
かし鳥   大屋裏住 
かし鳥の つたなき声が くどけども なけども君の 耳にとめぬは 
(語彙)「つたなき」は「拙い、あるいは巧みでない」の意の形容詞。「耳にとめぬ」は現在の「耳に止めない」に同じ。 
(文法)「つたなき」は「つたなし」の連用形。「くどけども」と「なけども」の「ども」は動詞の已然形に付いて、逆接の確定条件を表わし、「…のに」とか「けれども」の意。「とめぬ」は「止む」の未然形と、打消しの助動詞「ず」の連体形から成る。末尾の「は」は、終助詞で感動、詠嘆を表わし、文語の係り結びの規則に従って、動詞の連体形や終助詞に付く。 
(詩的手法)前の狂歌と同じく、擬人化の技法が使われている。愛人の様子を描写しながら歌人は巧く片恋の悩みを伝えてくれる。 
   寝語軒美隣  
ふくろうの めはもちながら いかなれば よるはくれども ひるみえぬ君  
(語彙)「いかなれば」は、「どういうわけで」とか「どうして」。 
(文法)「めは」の語形はちょっと可笑しく見えるが、対格の代わりと考えられ、強調の働きも果たしているといえる。「もちながら」の「ながら」は、動詞「もつ」の連用形に付いて、逆説的に「…ても。…のに。…ものの」の作用を表わす。「ども」と「ぬ」の助詞は「く」(来)と「見ゆ」の未然形に付いている。その働きは、前の一首に現れた助詞の「ども」と同じ。 
(詩的手法)この一首には比喩が用いられて、恋人の目は梟の大きな目とは対照的に、皮肉に、風刺的に喩えられている。目の比較だけでなく、渋い擬人化の用法で、愛人の態度もうまく捉えている。 
山雀   紀定丸 
君は床を もぬけのくるみ わればかり ちからおとしの 恋の山雀  
(語彙)言葉の使い方は、現在の短歌の中にある単語の働きに似ている。興味を引くのは、言葉の遊戯のような使い分けである。 
(文法)「君は」の「は」(係助詞)と、「床を」の「を」(対格)の用法が曖昧なのは、表面的に述語が現れていないからである。「は」は「君」を特に強く提示しているのか、主語を表わしているのか判断しにくい。「床を」の対格はどんな動詞に係っているのかも頭を悩ませるところ。この一首の文脈は動詞の脱落を考えさせられる。 
(詩的手法)ここでは、比喩や隠喩(metaphor)が用いられている。「床」と「もぬけの胡桃」の比較は見事な隠喩法となる。「もぬけ」は「蛻の殻」につながる。要するに、人の去った後の家、あるいは寝床の喩えであり、去ってしまった愛人への、片思い(片恋)を連想させる言い回しである。 
鶯   則有遊 
のきちかく ほほうとつぐる 一声は 我が恋中を みたかうぐいす 
(語彙)「ほほう」はびっくりした感情を表わす擬音語。「つぐる」は、「知らせる。伝える」の意だが、ここでは「鳴く」に近い。「我が」は人称代名詞で、現在でも時々使われている、「私の」の意。 
(文法)「軒」と「近く」の後に助詞の省略がある。「つぐる」は「つぐ」の連体形。 
(詩的手法)まず、この狂歌の題名である鳥の名は、その鳴き声「ウグヒス」(昔の人はこのように聞き留めたのかもしれない)に由来すると強調したい。第二に、感情を表わす感動詞のような「ほほう」は、今も使われている擬音語「ホーホケキョ」(鶯の鳴き声)に似ている。この鳥の声は日本で一番美しいと認められているようだ。ゆえに、日本の和歌をヨーロッパの言語に翻訳する場合、ヨーロッパに分布している鳥たちの中から、もっとも綺麗な声がする鳥の名を利用している。英語の翻訳では、春に美しい声で鳴くナイチンゲール(nightingale)、ロシア語の翻訳ではсоловейの使用が目立つ。両者は、鶫(ツグミ)の近縁で小夜鳴き鳥(さよなきどり)のような鳥類に属している。「鶯」の直訳bush warbler"あるいはкамышовка"ではロマンチックな鳥はイメージダウンしてしまう。第三に、疑問の「みたか」と「うぐいす」の逆語順も技法であって、鳥との会話のような印象を与えてくれ、この場面の臨場感も生み出されていると思う。 
鶉   つぶり光 
うつらふの まだらまだらと くどけども 粟の初穂の おちかぬる君  
(語彙と文法)「うつらふ」の語形は、動詞「移る」の未然形に、助動詞「ふ」(動作の継続・反復の意「何度も…。しきりに…」)が付く。「の」は連体修飾語を作り、文語体では、動詞の連体形にも付く格助詞。「まだらまだら」は擬音的な言葉であるが、「まだまだ」を強める語でもあり、その意は「まだるいさま、もたもた」。「くどけども」は動詞「口説く」の已然形「くどけ」と、逆接の確定を表わす接続助詞「ども」(「…のに。…けれども。…だが」の意)から成る。「おちかぬる」は、動詞「落つ」の連用形「落ち」に接尾語「かぬ」の連体形「かぬる」が付き、「落ちることができない」の意。「初穂の」の格助詞「の」は、比喩的に「…のような」の意を表わす。 
(詩的手法)よく似た音の響きにより、鳥の名「うずら」と、動詞「うつらふ」が重なり、言葉の遊戯のようである。「まだらまだら」の擬音・擬態語的な用法により、鶉という鳥の生態が生き生きと描写されて、この場面への読者の関心と臨場感を強めている。「粟の初穂の」も恋人を暗示しているとともに、巧みに比喩的な比較を作り出している。このような見事な隠喩はもとより、この文脈には、擬人化の技法の上手な例の一つがある。 
雲雀   銭屋金持 
大空に おもひあがれる ひばりさへ ゆうべは落つる ならひこそあれ 
(語彙)「おもひあがれる」は、「思い上がる」だが、「気位をもつ。自負する」の意を表わすだけで、現代語のように生意気とか高慢とかの批判的な意味合いはない。「さへ」は「さえ」と同じ。「ならひ」+「こそ」はやや複雑である。「ならひ」は「慣らい・習い」であり、「慣れること。習慣。しきたり」か「世の常。きまり。さだめ」の意のようでもあるが、あるいは、「古くからの謂われ」が一番ぴったりするかもしれない。 
(文法)「おもひあがれる」は、動作・作用が継続している意の「…ている」か、自発の意の「自然に…れる」か、あるいは、可能や尊敬の意を表わす。意味論の観点から見るとどちらでもこの文脈に合う。厳密に言えば、文語体のルール違反とも思われる。「落つる」は動詞「落つ」の連体形。「ならひ」に続く「こそ」(係助詞)はその語句を特に強く指示する。「あれ」は、動詞「有り」の已然形で結びとなる。 
(詩的手法)この狂歌はウィットに溢れている。擬人化の用法により鳥の生態だけでなく、鳥の自負心までも喩えている。まさに古くからの謂われにより、どんなに高く、遠くまで(鳥の名でもある「雲」まで)飛んでいっても夜になると地面近くの寝床か巣に飛び降りるのがきまりである。人の運命や生活様式の隠喩的な言い回しになっている。 
まめまはし   朱楽管江 
忍ぶのに いらざる口の まめまわし つゐさえづりて 名をもらすらむ 
(語彙)動詞「忍ぶ」は、四段活用で(現代語では五段活用)、ここでは「秘密にする」「隠す」の意。「口」は「ことば。ものの言い方」の意味合いであろう。「つゐ」は今の副詞「つい」(「はからずも。おもわず。すぐに」)であるか、接頭語「つい」(「そのまま、ちょっと、突然」)であるか不明であるが、両説ともありうる。 
(文法)「いらざる」は動詞「入る」(「入り用とする。必要とする」)の未然形「いら」に打消の意を表す助動詞「ず」の連体形「ざる」が付く。「いらざる」の意は「役に立たない。無駄な」。「さえづりて」は現代語の「囀る」とほぼ同じ、つまり「鳥がしきりに鳴き続ける」。ここではその文語体形で、今の「さえずって」ではない。「もらすらむ」は「漏らす」(「心の内に思うことを外にあらわす」か「感情を声や表情に出す」の意に、活用語の終止形に付く助動詞「らむ」が付いて、現在起こっている事柄、状況についての推量「今…しているだろう」を表わす。 
(詩的手法)擬人法による寓意的な一首である。秘密(愛人の名前さえ)を守ることができない人の性格を暗示する見事な比喩的文句である。 
木つつき   篠野玉涌 
名にたちて 恋にや朽ん 木つつきの つきくだかるる 人の口ばし 
(語彙と文法)「名にたちて」は「名前・うわさなどがひろがる」か「評判になる」の意。「たちて」は現代語の「たって」と同じ。「にや」は疑問の意で「…ではないか」。「朽ん」は、「朽つ」(腐る、朽ちる、すたれる)の未然形に、助動詞「む(ん)」が付いて「…のような状態になる」の意。「つきくだかるる」は、動詞「砕く」に接頭語「突き」が付いて意味合いを強め、「砕く」の未然形「砕か」に助動詞「る」の連体形「るる」の語形により受け身(受動態)の構文を作る。意味的には、「砕く」は「粉々にする」か「心を痛める」かであろう。語形は受動態であるが可能の働きをも持つ。 
(詩的手法)「木つつき」の名は、それ自体が擬態語であるので、狂歌の中で木霊を返すように反響して鳴り響くかのようである。耳を澄ませば言葉遊びのような音の連続「…キツツキノツキク…」(!)は早口言葉にも似る。「人の口ばし」も擬人化の技法。「くちばし」には「くちばしり(口走り)」への暗示があり、同音異義語の反復でもある。 
山鳥   宮中月麿 
山鳥の ほろほろなみだ せきわびぬ いく夜かがみの かげのみせねば  
(語彙)「ほろほろ」は擬音・擬態語であり、「涙や葉・花びらといった小さく軽いものが、音もなく続いてこぼれ落ちる様子」を表わす。一方、「山鳥、雉、鳩、鶉などの鳥の鳴き声」やその羽音も反映する。「もとは羽音を写す語であったが、鳴き声の直後に羽音が連続するために鳴き声ととらえられていった」。 
(文法)「せきわびぬ」(塞き侘びぬ)は「塞き侘ぶ」の未然形に、否定助動詞「ず」の連体形「ぬ」が付く複合語で、「せきとめかねない」のような意を表わす。「かげの」の格助詞「の」は比喩的表現「…のような」を作る。「みせねば」は「見す」(現代語の「見せる」)の未然形「みせ」に連語「ねば」(…しないのに)が付く。 
(詩的手法)「ほろほろ涙」は、擬音・擬態語と「涙」の組み合わせにより、片思いを悲しむ人の様子が浮かび上がる見事な擬人法です。「いくよ」には同音異義語が隠され、「幾夜」か「行く夜」を連想させる。語彙を組み立てる音の巧い使い方で、恋愛の情や片恋の苦しみを素晴らしく写した抒情詩の一首となっている。この挿絵を見ると、山鳥は本当にその尾が長い(60センチぐらいといわれる)と実感できる。絵の枠内に入れない程長々しい尾であると、歌麿はわざと先を切り取るような工夫を上手にしている。古くからの伝えでは、この鳥の雌雄は峰をへだてて寝るという。「あしひきの 山鳥の尾のしだり尾の 長々し夜を 独りかも寝む」(「百人一首」柿本人麿)にあるように「独り寝」の例が想起される。「山鳥の尾」に「し垂り尾(長く垂れ下がっている尾)」と続けて「長々し夜」に結ぶ序詞として用いられている。 
鶺鴒   萬徳齋  
あつた夜に むねのおどりは なほりても いまに人目の せきれいはうし 
(語彙)「あつた」は、現代語の「会った」に同じ。「なほりても」は「直っても」か「治っても」。形容詞「うし」は「憂い(つらい。いやだ)」の意。 
(文法)「なほりても」は、現代の文法用法とは違い促音便はない。「人目の」の「の」は格助詞で、主語となるものを示す「が」の働き。 
(詩的手法)男女の逢引きの後、胸のおどり(躍り)は治まったが、それを誰かに目撃されると、いやになってしまうというシーンが擬人法により捉えられている。 
鶏   宿屋飯盛 
かけ香の 丁子の口は とづれども まかせぬけさの 鶏の舌  
(語彙)「かけ香」は、「懸・掛香(絹袋入りの香料、室内や首に掛ける)」。「口」は「香料の丁子の入った袋の口」の意。「とづ」は現代語の「閉じる」「まかす」は同じく「任せる」に相当する。 
(文法)「とづれども」は動詞「閉づ」の已然形「とづれ」に、接助詞「ども」(「…のに。…けれども。…だが」の意)が付く。 
(詩的手法)この狂歌の主たる技法は、「かけ香の丁子」と「鶏の舌」を対照させる比喩的な比較である。鳥の舌は、匂い袋の口を閉じることできるのに、朝方に時を伝え知らせる甲高い、調子の鋭い雄鶏の鳴き声は塞ぐことができず、はっきり聞こえると強調する。雄鳥の鳴き声は遠くまで聞こえる。「コケコッコー!」雌鳥はわりと小さな声で「コーコー」と鳴く。「ここよ!ここよ!」と雌鳥が雛に知らせるかのように。 
頬白   芦辺田鶴丸 
いろふくむ 君がゑくぼの ほう白に さしよる恋の とりもちもがな 
(語彙)「いろ」は、「色彩」の「色」と「恋情」の二重の意味をもつ。動詞「ふくむ」は、「心中に持つ。心に留める」。「ゑくぼ」は「えくぼ(靨)」。「さしよる」は「そばへ寄る」か「近寄る」の意で現代語のとほぼ同じ。 
(文法)「いろ」の後、格助詞を省略。「君が」の「が」は現代語の格助詞「の」に当たる。「もがな」は終助詞で、「…であればなあ。…があったらなあ」の意。 
(詩的手法)この狂歌は、頬白の外見とその名前をうまく交錯させている。頬白の頬の靨(白い線)は、有名な「痘痕も靨」のウィットある句も連想させる。「恋のとりもち」は、優れた比喩的表現をなしている。この一首を詠むと、恋はどれほど怪しくて、魔力のあるものかを考えさせてくれるようだ。
以上、数種の狂歌の分析を手短かに述べましたが、このジャンルには様々な深い意味をもつ作品が少なくありません。色々な技法の働きのお陰で、各鳥類の性質と性格、生態だけでなく、それらの巧みに擬人化した描写に よって人間関係、生活問題までも考えさせられます。 
通説では、狂歌とは諧謔・滑稽を詠んだ卑俗な短歌と言われていますが、私の考えでは、このジャンルの作品は本当はもっと高いレベルのもので、「絵本百千鳥狂歌合わせ」もこの観点から絶賛されるだけの価値があると思います。 
狂歌の技法の一つは擬音・擬態語の利用です。それについては、次の第三部「鳥たちの鳴き声」の中で触れることにします。
第三部 鳥たちの鳴き声 
昔から人間は自然との深い触れあいを保ちながら今まで生き残ることが出来ました。時々、我々はこれを忘れて、自然と対立して、身も心もぼろぼろに傷つけられます。それにもかかわらず、世界中の隅々にいる人々が生み出した、自然への愛着とその美しさを賛美する文学作品なり、芸術作品なりは少なくありません。自然にいる生き物に対しても同様だと私には思えます。歌麿の「百千鳥狂歌合」も例外ではないでしょう。 
次に、鳥たちの鳴き声について簡単にお話しすることにします。鳥たちの鳴き声は我々人間の言葉ではどう写されているでしょうか。多くの場合、いわゆる擬音語(onomatopoeia)を利用して、実際の音をまねて言葉に転換します。 
一つの有り触れた例を取り上げましょう。日本語では「コケコッコー」で表わされる雄鶏の鳴き声、異国の言葉ではどう表現されているのでしょうか。 
英語では、cock-a-doo-dle-dooロシア語では、kukare-kuuポーランド語では、kukurykuブルガリア語では、 kukukuri-guフランス語では、cocoricoドイツ語では、kikerikiオランダ語では、koekelekoeスウェーデン語では、kuckeli-kulスペイン語では、quiquiriquiギリシア語では、kikirikuイタリア語では、chicchirichi中国語では、woo-woo-wooかgeer-geer-geer韓国語では、kokiyo-kokoモンゴル語では、geggoo-geggoo-geggooベトナム語では、koukkukuuと朝が来た時を告げます。 
インドのヒンディー語では、kukkukuで表わします。山口仲美氏によれば、東南アジアに行くと、タイでは、 eki ek ekで、インドネシアの中部ジャワでは、ku-ku-ru-yukで、ジャワ島西部では、kong-ke-ro-ngoとなります 
以上の雄鶏の鳴き声を比べて分析してみましょう。似ている擬音語があれば、違うものもあります。英語のcock-a-doo-dle-dooとモンゴル語のgeggoo-geggoo-geggooは同じようには聞こえないでしょう。スラヴ語族のロシア語、ブルガリア語、ポーランド語はよく似ています。しかし、ゲルマン語派中の西ゲルマン諸語の一つであるオランダ語のkoekelekoeはドイツ語のkikerikiよりもスカンディナビア語であるスウェーデン語のkyukkelekyuにもっと近いのではないでしょうか。ロマンス系諸言語の一つであるフランス語のcocoricoは、スペイン語かイタリア語よりもロシア語のkukare-kuuに近いと言えるでしょう。 
要するに、自然に鳴り響く音は、国によって異なる音韻連続で表記されています。音を発生する音波は、話者の耳に当たった時、その話者の言語の音韻体系に応じて写し出されます。だからロシア人がいくら耳を澄ませて集中しても、雄鶏の鳴き声は「クカレクー」としか聞き取れません。世界の言葉は多かれ少なかれ、その構造により異なります。例えば、音韻の数と質、その組み合わせ、音節の構成、音量、音長などです。 
日本語では昔から雄鶏の声はいつも「コケコッコー」と聞き取られていた、というのが一般の考えのようです。しかし、山口仲美氏のデータによりますと、そうではありません。日本人がそういう風に聞き始めたのは明治時代からにすぎません。さて、江戸時代の人々は雄鶏の鳴き声をどう聞き取っていたのでしょうか。答は面白いと 思います。「「とーてんこー」と聞いていたのです。夜明けを意味する「東の天は紅」と書いて「東天紅」と読ませ、鶏の声としていたのです」。 
このような現象を観察すると、擬音語の深みや豊かさも理解でき、広く言えば、音を表わす言葉がどれほど各民族の文化史との堅い絆を持っているかがわかるというものです。 
さて、日本で一番美しく鳴いている鳥、鶯の鳴き声の例を取り上げましょう。一般に「ホーホケキョ」という擬音語でその鳴き声を示します。私が聞くと、u-uh-fukhとしか聞こえません。こう聞こえるのは、元々音痴なものですから…。けれども日本人でも時代によって全く違う形で表記したそうです。それと関連して岡田英樹先 生の「花になくうぐひす」というエッセイから引用させていただきます。 
「古今集」でも「ひとくひとく」と聞きなしている。つまり「人来、人来」だ。 
梅の花見にこそ来つれ鶯のひとくひとくと厭ひしもをる   (古今 俳諧 1011 読人しらず) 
室町時代では、「ツーキヒホシ(月日星)」と聞きなしていて、「ホーホケキョ」との聞きなしが一般化したのは江戸時代になってからだそうだ… 
岡田先生は、「聞きなし」という用語を使っています。一体、聞きなしとは何でしょうか。広辞苑によると、 鳥のさえずりなどの節まわしを、それに似たことばで置き換えること。コノハズクの「仏法僧」、ホオジロの「一筆啓上仕り候」、ツバメの「土喰うて虫喰うて口渋い」が例として上げられています。 
山口仲美氏は、「聞きなし」と関連して、次のように書いています。「実際の鳥の鳴き声をできるだけ忠実に模写しようとする「擬音語」とは、若干性質が異なっている」。鳥たちの鳴き声と関連して、もう一つのテーマに触れなければなりません。それは、鳥たちの鳴き声とその名前との相関です。30年以上前のまだ私が学生だった頃、日本の人たちと旧ソ連で初めて面会した際、たまたま生き物の声比べが話題になりました。この時、何の根拠もなく冗談半分で「日本の烏を、カラスというのはその鳴き声からで、ロシアの烏もカアカアkaa-kaaではなく、karr-karと鳴くからです」と申しました。最近、山口仲美氏の意見もほぼ同様だとわかりました。 
動物の名前も擬音語に由来するものが多い。カラス、ウグイス(昔はウグヒス)、ホトトギス、カリ。みな擬音語からできた鳥の名前。カラス・ウグヒス・ホトトギスは、鳴き声を写す擬音語「カラ」「ウグヒ」「ホトトギ」に、鳥であることを示す接辞「ス」が付いてできた名前。カリは、鳴き声を写す「カリカリッ」が、そのまま名前に」。 
私の昔の仮説を証明するもう一つの資料が近頃見付かりました。これは、A Field Guide to the Birds of Japanという図書で、それによりますと、日本の深山烏の鳴き声は、karararaと記録されています。ロシアの子供向けのテレビ番組の人形の子烏の主人公も、その鳴き声に合わせてkarkusha(カラスちゃん)といいます。日本のほろほろ鳥、はあはあ鳥、そしてジューイチの鳴き声は、juichi juichiとされています。私の考えでは、フクロウ(元々はフクロフ)の名前もその鳴き声に由来すると思います。 
鳥たちの名前が、その鳴き声と密接な関係にあるのは、日本語だけではありません。日本の郭公は、英語では cuckoo、ロシア語では、kukushkaと呼び、日本の鴨のような鳥は、krya―krya―と鳴くのでkryakwa(クリャクワ)と言います。同じく雨燕の声は、ロシアの南に住む人々とウクライナ人に、d'erg-d'ergあるいは、 dzyork-dzyorkと聞き取られ、その鳥をdyergach(ディエルガチ)と呼んでいます。 
どんな言語においても鳥たち、動物の鳴き声を写す言葉だけでなく、自然界に響く音を反映している擬音語のおかげで、多くの場合、その単語の起源まで遡ることができるでしょう。これは主にSound Symbolismと Phonosemanticsという学問の中の重要な課題です。 
「擬音語」は、実際の鳴き声とそれを表す言葉との間に音感の似寄りが感じられる。ところが、「聞きなし」は、両者の間の音感の類似よりも、言葉の意味を最優先させる。 
私の考えでは、「聞きなし」という技法は日本語以外の言葉にはないでしょう。その意味で、ユニークな音韻意味的な単語の使い方です。例えばロシア語には、鳥の鳴き声を表わす言葉のなかで、音と意味の融合が起こるのは、雌鳥の鳴き声の場合しか見られません。kud-kuda kud-kudaは、kuda? kuda?(どこへ、どこへ)と関連づけられています(子供のための歌)。日本語の独特の聞きなしは、どうして可能になったのでしょうか。私見では、何世紀にもわたる、特定の漢字の採用に由来しています。つまり、万葉仮名、変体仮名、当て字などと無縁ではないと思います。もう一つは、 無意味な音の連鎖に、意味を付けたことにあります。中国語や朝鮮語でも、同じような言葉(漢字)の使い方があるのかは、私はまだ調べていません。
まとめ 
喜多川歌麿は、江戸時代において、日本の美術の伝統を継承しながら、これを発展させてきました。多くのジ ャンルに、その腕前の鮮やかさ、絵師としての万能の天才の花を咲かせた存在です。 
歌麿の生み出した美人の大首絵は、日本独特のものですが、世界の女性の肖像画の傑作に匹敵すると共に、万国の美術の普遍性の特徴を感じさせる作品が少なくありません。絵本では、巨匠の観察力の鋭さ、筆の巧みさと狂歌との完璧な釣り合いを味わうことができます。狂歌の中にも見事な技法がたくさん利用されて、水準の高い和歌もあります。これらの絵本は、ただの歌合わせの本ではなく、 一種の最高の芸術品=美術品=工芸品です。 
 
江戸末期における疱瘡神と疱瘡絵

 

奈良時代から度々日本を襲った疫病の大きな波の中で、まず目につくのは疱瘡とハシカであります。この疫病は 不定期的に発生しましたが、殊に江戸中期、つまり18世紀にかなり頻繁に襲ってきたことは、歴史上の事実です。中でも、江戸、大坂、京都の三大都市に多数の被害者が出たことは、都市への人口の集中と増加にかかわりがあると思います。当時の人々は、このような疫病は日本から遠く離れたエミシ(蝦夷)とかエビス(夷)といった野蛮な国から来ると考えていましたが、確かに大陸との接触を介して疫病が進入したことも歴史的な事実でしょう。ですから、江戸時代の多くの文献に見られる「まじない」や民間治療法には、疱瘡にまつわるものが当然多くなっています。そこで、封建時代末期の社会における疫病に対する認識を検討し、疱瘡をめぐる信仰の諸要素を調べ、いくつかの疱瘡絵の内容を分析してみたいと思います。 
山伏と疱瘡 
まず19世紀のある山伏の旅日記を通して、当時の疱瘡対策の2、3点を検討してみたいと思います。その日記は「日本九峰修行日記」といって、著者は野田泉光院という九州のある山伏寺の住職で、大先達でありました。その山伏は6年間にわたる廻国を通じて、この疫病に対する人々の様々な対策を観察する機会を多く持ちました。例えば、ある日の、日記にはこのように書いてあります。あらすじを言いますと、ある村に丁度疱瘡が流行ってたのですが、村中たいへん賑やかで、屋敷のまわりには赤い紙の御幣と注連縄が張ってありました。また、庭にも赤い御幣を立てたり、家の中にも御幣がたくさん掛けてありまして、村の人たちは三味線と太鼓で疱瘡踊りをしているのです。その注連縄や赤い御幣は、様々な疫病との戦いの中で、民衆の創造力がつくり出した伝統的な厄除けの手段であります。疱瘡踊りは、踊り手に引き立てられて、疱瘡神が村を去るように促すもので、これは一種の神送り、疱瘡神送りと言えるでしょう。野田泉光院は他のところで、現世利益で有名なお寺とか神社への巡礼にも触れています。例えば、彼が出雲地方を回った時の鷺大明神の社の宗教的な習慣を記しています。出雲の鷺大明神の近くに住んでいる人たちは、疱瘡予 防のために、その社にお参りして境内の小石を拾って持って帰るのです。そして疱瘡が去った後、その小石を社に返納するのだそうです。この習俗は、いろいろ他の文献にも出て来ます。例えば、「鷺大明神疱瘡守護之記略辞」という文献の中には、次のような歌があります。 
イモハシカ カロキオモキモ ヘダテナク マモラムサギノ カミニワノイシ 
また、「出雲国大社鷺大明神疱瘡守御笠」という文献がありまして、その中には、子どもたちがまだ疱瘡にかからないうちに、その被りものを被らせると疱瘡にかからない、と書いてあります。また同じ文献に、疱瘡神祭りは12日間しなければいけないとも記しています。国学の大家である本居宣長は、「古事記伝」の中でこの笠に触れています。それによりますと、疱瘡が軽いことを祈願する人は、鷺大明神にお参りし、そこの笠を借りて帰り、家で信仰するのです。そして、全快の後は、もう一つ笠を作り、借りてきたのといっしょに神社に返納する。次の祈願者はそこから一つ借りて帰って、二つにして返す。その繰り返しで笠はどんどん増えてくる、と書いています。本居宣長は更に、サギという言葉の語源に言及し、貝原好古の「和爾雅」を引用して、因幡の「白うさぎ」との関係を指摘しています。 
そうだとすると、鷺大明神の利益が、疫病治しであることが理解されてきます。一方、天草における疱瘡神信仰に関する浜田隆一氏の小論文では、「鷺大明神」と、疱瘡対策に登場する「うさぎ」の役割と、「鹿(古語でカセギ)明神」を、ある意味で同一化します。語源分析に全く疑問点がないというわけではありませんが、鷺大明神、鹿明神、うさぎには、さく、さぐ、ふさぐ、といった形態素がいずれにも含まれている、との結論に達しています。それはともかく、話を鷺大明神に戻しますと、神社の周辺の住民たちの行動は、小石を拾うことを媒介として、神社の現世利益的な徳を手に入れるという、ごくありふれた、呪術的なものと言えるでしょう。また、疱瘡守としての笠というものは、病気の「瘡」と同音であることから、特に効果的なものであります。 
「日本九峰修行日記」には、その他にも様々な疱瘡対策が見られます。ある所では観音式会、またある所では欅崇拝であったりしています。また疱瘡の広がるのを防ぐために、旅人を遠回りさせたり、病人を山奥に捨て置いたりすることが記録されています。次の記事は、ある時病気になった山伏を訪ねていった時のものですが、加持祈を行うべきか否かの問題を含んでいます。「安祥坊疱瘡見舞いに行く」と書いてありそれから「安祥坊疱瘡六ケ敷故に祈念す」祈とは書いてないで、「祈念す」とあります。「本尊の前甚宜しからず。又寝むたきこと限りなし。祈気遣はしきに因り、平四郎(野田泉光院の荷物を運ぶ強力)を見舞いに遣わしたるに」、昼過ぎ亡くなったと書いてあります。それで、翌日「中町へ平四郎を悔みに遣はす」とありますから、同じ山伏仲間が疱瘡にかかって亡くなった記事なのです。 
「咒歌」の構造 
以上のような出来事とは別に、旅中の病一般に対して面白いことが読み取れます。それは、一般の人の病に対しては、山伏が「まじない」を使う記事がよく出てきますけれども、山伏自身が病気になった時には、必ず薬を使ったりお医者さんにかかる、という点です。つまり、「まじない」する人は自分を治せないということで、これについては4、5年前に出した本の中にも少し書きました。修験道にはご承知のとおり、呪術的療法がたくさんあります。そして修験道の病気治しの中には、当然疱瘡とかそういう疫病もたくさん含まれています。その手段といいますと、多くは「唱えごと」とか、「咒歌」であります。例えば「修験深秘行法符咒集」という文献の中には、次のような「咒歌」があります。 
ムカシヨリヤクソクナレバイモハシカヤムトモシセジカミアキノウチ 
この歌の呪的効果の基盤となっているものは、遥か昔からの神々との約束でありまして、一種の他力の考え方と言えましょう。この歌には異文のものが多数存在していますが、このことは、いかにこの歌が好んで用いられたかを証明しています。「咒歌」を分析しますと、そこには共通の語源的表現がはっきりと表れていると思います。まず、何を対象としているかということが、はっきり表わされています。先程の歌ではイモとハシカであります、次にその目的は何かというと、「シセジ」、死なないということをはっきり表現しなければならないのです。また「ムカシヨリ」という言葉は、神々との約束を強調するための決まり文句です。それと、「カミアキノウチ」という言葉は、話者と病をはっきり分離させるための言葉です。つまり話者のいる場所は神垣の内であるから、病は入れない、疱瘡のような疫病は入れないということです。呪術的に言えば、その場所の変質であります。話者がどこにいても、「ここは神垣の内」と決めれば、もう病気は入って来られないという呪術的な考え方です。また万一疱瘡にかかっても、死は免れるということ、つまり軽い疱瘡で済むということは、「ヤクソクナレバ」が示すように、神々が必ず守らなくちゃならないことなのです。以上は、「咒歌」の呪的な働きの基本的な要素です。 
次の歌には、神々の加護が比喩的に表されています。 
フルアメニ ミノカサモキヌ マゴノコノ ヌレヌ モ カミノ メグミ ナリケリ 
また疫病の退散を唱える歌もあります。 
チハヤブル カミノオシエノ カゴナレバ ハヤルモガミヲ サシノケゾ スル 
ある修験者の「疱瘡呪守」という文献には、次のような様々な方法が出てきます。まず、護身法と般若心経というごくありふれたものから始まって、 
モガミガワ キヨキナガレノ ミズナレバ アクタハシズム ヌシハサカ エル 
という有名な歌が出てきますが、その次に、いろんな「唱えごと」が出てきます。例えば御札に書く文句として、「越前国湯尾峠東の茶屋孫嫡子」といった有名な言葉その下には、小さく「人は病むとも我は除くぞ」という面白い文句が書いてあります。この文句は民間信仰の中には普遍的に出て来るもので、人はどうでもいいから、自分だけは助かりたい、という考え方ですね。次に、門(かど)に貼る札としては、次のような歌があります。 
ワガナアル カドサトハヨケヨ ホウソウガミ ナキサトナラバ トニモ カクニモ 
直訳すると、私の名前があるところは早く通り過ぎなさい、名前がない里ならどうでもいいけど、といった所でしょうか。この歌にはたくさんの異文もあるんですが、ここで注目されることは、多くの民間伝承の場合は、疱瘡神はまず歓待され、後に見送られるというのが、一般的な習俗ですが、この歌では疱瘡神の追放を歌っています。ただしこの歌をもう一度読んでみますと、別な解釈もできないことはないのです。つまり、「門里ハヨケヨ」という命令形で区切ると、その目的語は疱瘡神ではなく、疱瘡神とは別の悪い疫病神になってくるのではないかと思います。「 疱瘡神無里」、疱瘡神がいない里ならどうでもいいが、疱瘡神がいるこの里は守ってほしい、ということになり、疱瘡神の追放ではなくなってくるわけです。これは非常に大事な点だと思います。それは皆様ご承知のように、疱瘡神は悪神から福神になるという、江戸末期の流行神の伝統的なパターンがここに見られるのです。この歌については、もう一つの問題が残されています。それは「我名」の「我」です。この「我」は誰かということですが、まず考えられるのは、民間伝承の資料の中によく登場する、半分歴史的な、半分伝説的な人物であります。彼らは何らかの形で疱瘡神と関わりのあった人で、疱瘡神のお世話をした人物なのです。その恩返しとして、疱瘡神が守り札や「咒歌」を教えてくれたという、そのような伝説の中に出てくる人物かも知れないのです。また、歴史的に指摘できるような人物も考えられます。例えば、若狭の小浜の六郎左衛門という実在の人の名前だとも言われています。 
更に考えられることは、疫病の守護神としてよく知られている牛頭天王とか、天神であります。「我名」という文句はよく牛頭天王の歌に出てきて、「私の名前を書いてある家を守ります」となっているのが普通です。 
続いて同じ文献には次の歌があります。 
チハヤブル カミノミズガキノ ウチナレバ モ ハシカトモニ カルキモノナリ 
これは、軽く 済むように願われているものです。次に伝統的な疱瘡の薬療法として、小豆とか甘草とか黒豆などで作られた薬の治療法がいろいろ書いてあります。そして、疱瘡全快の直前に行われる、いわゆる笹湯とか酒湯とかいう方法も書 いてあります。それに続けて、次のようなちょっと面白い歌も出てきます。 
ホウソウノ ヤドハトトヘバ アトモナシ コノトコロニハ イモ セザ リケリ 
疱瘡神はどこに住んでいるかと聞かれれば、ここじゃない。だから疱瘡にもかからないというわけです。 
以上の三つの歌から、いろんなことが指摘できると思います。第一は疱瘡にかかる危険を除くこと。疱瘡神を近づかせないという考え方。第二は疱瘡が軽症で済むようにというお願い。第三は疱瘡の痕を残さないということ。つまり、アバタ顔を避けるということです。この三つの目的が大体疱瘡に対する呪的治療法の主なものだと思います。 
疱瘡神祭りの一例 
修験道の山伏は疫病に関する秘法、唱えごとを多数持っていましたが、民間に行われた疱瘡神祭りに参加することもありました。橋本伯寿という甲斐(山梨県)のお医者さんの「断毒論」という本の中に、その国の疱瘡神祭りの習慣を割と詳しく記してあります。それによりますと、「ちかごろ疱瘡神祭りは格別に甚だしく」なって、疱瘡の6日に当たる夜には、親類は勿論のこと、いろんな方を家に招待して、お坊さんとか神主さんとか山伏を請ずるのだそうです。そして赤い御幣を立て、疱瘡神のための神棚を作り、疱瘡の重き、軽きの差別もなく、祭りで騒ぐのです。招待された人たちはいろんな土産物を持って来るのですが、その土産物の中には、流行っている当世の錦絵などもあります。そしてその錦絵を病人の寝ている所に置くのです。それとは別に、餅とか菓子とか酒とか他の土産物は、貰った数の多さでその家の面目を施します。 
疱瘡絵1 
では次に「断毒論」という本に記されている、錦絵、いわゆる疱瘡絵の話に移ります。錦絵というと、普通には浮世絵の一種のことですが、ここではもっと狭い意味で、赤絵と称される一色刷りの版画と解釈すべきじゃないかと思います。このような絵は種痘で疱瘡が退治されはじめた江戸末期から明治の初期にかけても、かなり流行していたと思われます。ここでは東京大学にある疱瘡絵のコレクションを元にして、少しその絵を見てみましょう。疱瘡絵はそれほど数が多くないのですけれど、いくつかに分類ができると思います。その第一は、病よけと悪魔祓いになるような英雄の像です。ここに示しましたのは、ご存じの源為朝の絵で、疱瘡絵にいちばんよく出てくる歴史的な人物です。まわりに書いてあります歌は、 
世の人の 為ともなれともがさをも 守らせ玉ふ運のつよ弓 
という歌です。結局これは、為朝と彼の象徴的武器である弓の力で、疱瘡から人を守る力を示しています。 
次も為朝の絵ですが、下に疱瘡神が地面に伏していて、悪魔が座っています。まわりの歌は非常に読みにくいものですが、 
末の世に 神と祭りし 弓取の よきおさな子を我ハ守らん 
とあります。これも神として崇められた為朝が病気の子どもを守る誓いであります。だから先に触れました呪的な歌のひとつですね。 
次のも同じように為朝ですが、これには一つの「しるし」があります。この赤い手形がそうです。これは、疱瘡神が自分が負けた証明としてサインしたという「しるし」で手を置いたのです。これには別な解釈もあります。それは為朝が自分で手形を押したというもので、その手形は本人と同じような威力を持つというものです。他にも加藤清正の手形というのもあります。これが鬼の残した「しるし」だとすると、鬼が「もう疱瘡は流布させない」という約束をした証明だということになります。 
これは非常に変わったもので、忿怒形の、鬼みたいな武将ですが、為朝のちょっと変わった形だと思います。下は典型的な疱瘡神二人が逃げるところです。こういう場合は、桟俵と御幣を手に持たせていますが、結局、自分を追い出す力を持つ呪的なものです。そして下に小さく書いてあるテキストは、「ためともさまやてのひらのはりガミハまいどのおなじミだからさのミとハおそれぬが こりゃアなんだ おそろしいものが てたぞ うすきミが わるいハ にげろ」という文句です。次の絵には右側には疱瘡神が二つの形で出てきます。 
一つは老人の形で、自分で負ける証明書を持っています。もう一つは子供の形で出てきています。2人とも疱瘡神と書いてあります。そしてまわりには、よく疱瘡絵に出てくるおもちゃとかミミズクとか犬やだるまが描かれています。左側は、鎮西八郎為朝の前に屈伏する疱瘡神が描かれています。この絵は一色刷りではなくて立派な浮世絵です 。こういう絵も多少あります。次に出てくるのは鍾馗です。鍾馗は中国のもので、玄宗が夢に見た悪魔を追い出す伝説的な人物であります。 
文字が非常に読みにくいのですが、「疱瘡の あとなくさめて見し夢の 俤うつる 鍾馗大臣」とあって、最後は全然読めないのですけれど、鍾馗は呪的な先例として考えられます。鍾馗が出てくる例は割と多いのですが、あと一つお見せしましょう。これも鍾馗が疱瘡神と疫病神を退治する絵です。このような場面に出てくる歌を見ますと、いろいろな決まり文句のような言葉が出てくるのです。動詞で言えば「治める」とか「鎮く」とか「すむ」というように、疫病をなくするという動詞が、割によく出てくると思います。 
また、犬が描かれていると、それは「いぬ(去ぬ・往ぬ)」という動詞と同音ということで出てくるのです。犬は「まじない」のところでよく使われた動物で、言語学的に見ますと非常に便利な表象です。 
疱瘡絵2 
次は、獅子舞の絵です。まずこの絵を見ますと、「あくまめハ 見られぬ獅子の勇ミ顔」と読めると思いますけれど、もう一つの絵には、「丸一が 軽く取りなす曲鞠の 十二峠も 祝ふ獅子舞」と書いてあります。獅子舞はもちろん正月とのかかわりで、祭典的、祭り的な性格を持つものですが、もう一方でその力で疱瘡を抑えるという、悪魔祓的な性格も含まれています。丸一というのは、尾張から出てきた獅子舞の一派です。獅子舞は年中出てきてもいいのですが、いちばん典型的な季節は年末とお正月あたりで、神が来訪する正月に好んで舞い出てくるものです。この歌でもう一つ問題になるのは、十二峠という言葉だと思います。これがどういう意味かといろいろ苦労したのですが、疱瘡の病の進行の中に山上げという言い方があって、普通山上げと言いますと、6日目か7日目の一番危 ない時期を言います。 
その山上げが無事過ごせたら、その病人の命には危険がないということがよく言われてます。この山上げを十二峠に直接結び付けられるかどうかが問題です。それとは別に、十二峠は12月じゃないかとも思われます。呪的な考えの上で、1月から12月まで無事に済んだように、十二峠を越えたということ、一年を無事に越えたということによって、もう疱瘡にはかからないというわけです。こういうふうに十二峠についていろいろ考えられますが、先に申しましたように、分類としましては、こういう絵は祝祭的な性格が強いのです。病気を抑えるのではなくて、その時を良い時期に変質させるのです。それは病気にかかった時をお正月などと関係させて、こんな良い時期に病気はあり得ないという呪的な考え方だと思います。 
いずれにせよ、上記の歌は病を取り除くことを目的としたものの一つです。しかし同時に祥的なものや、縁起のいいものを強調することによって疱瘡に対抗するという意味をもっているといえます。 
次の鯛もそうです。ピンピン鯛といって、尻尾を撥ね上げた鯛です。そこに「小つつみの かはりに鯛を 脇はさみ 千万恵びす 万歳の春」と書いてありますが、鯛はもちろん「メデタイ」との同音ということで疱瘡絵に出てくる動物です。万歳が出てくるのはお正月との結び付けです。正月の呪的な力を借りてということです。ここは、 
早咲の 梅のつぼミも 二ツ三ツ 雪に色よき 犬のあし跡 
と書いてあります。雪の下で花開いたばかりの梅は春の訪れを告げるものですが、蘇る命とか、新年という観念を表わしています。言い換えれば、再生の象徴です。そして蕾の赤い色はまた、呪的な効果を裏付けるもので、犬もさっき申し上げましたように「いぬ」という動詞と同音のために出てくると思います。新年というめでたい時期ですから、疱瘡という恐ろしい病気は当然出て来ません。同じようにお正月と結びついている絵として次のものがあります。これは「桃太郎」の絵ですが、蓬の山のはつ曰とさながらに玉の春たつ桃太郎の月完全に消えているところがあって、ちょっと読みにくいので、他の文献でもう少し調べなければいけないのですが、ここで蓬山の初日といっているのは、完全にお正月と結びつけられているのです。また桃太郎の月というのは、まず桃が呪的なものであるということ、桃太郎の月が一番目の月、すなわち正月ということで、呪的な意味が重ねて出てくると思います。 
疱瘡絵3 
三番目のグループは、遊びとか健康を強調するグループです。こういう絵があります。 
軽と すみて子供の 異勢よく 万々年も 祝ふ目出たさ 
という歌が書いてある絵です。「異勢よく」とは、力に溢れて体力のある子供、そういう子供は疱瘡にかからない、健 康であるということを示しています。また、このような歌には、「元気よく」とか「元気よき」とかいうように、「よき」 という言葉が繰り返されています。こうした言葉は健康だけじゃなくて、遊戯的な面も強調していると思われます 。元気で遊んでくれる子供は病気にならないということです。おもちゃを持って遊ぶ子供の絵には、よくだるまも出てきますが、このだるまの絵には「起たかる貌のやさしきたるまかな」と書いてあります。いつも起き上がるだるまは病気から立ち直るというシンボリズムを持つ道具ですから、必ず病気や疫病の時には出てくるのです。 
なお、多くの絵に出てくる黒い線ですが、いろいろな文献を調べてみますと、薬をいちばん危ないところやいちばん気になるところにつけると、そこが守られるという意味で、黒い線を呪的なつもりで描きいれたのではないかと思います。だいたい目と鼻と口あたりが多いようです。またこういう遊戯的で健康を強調する絵の中にはよく「笑う」とか「遊ぶ」とかいった動詞が出てくるのです。それはあくまでも、「笑う」子供は病気じゃない、「遊ぶ」子供は病気にならないということです。中には、「よき」をもって遊ぶと書いてあるものがありますが、それは金太郎のまさかり〔斧〕のことです。まさかりを持って遊ぶ子供、すなわち金太郎は健康な子供の象徴ですから、これも結局病気を乗り越える力を示しているのです。 
この絵では、子供たちが元気に逆立ちしたり、犬に乗ったりして元気に遊んでいることを示しています。そして 
張秡の 達磨も犬も 疱瘡の 見舞にかるき 手遊ひにして 
とはっきり書いてあります。 
こういう絵には、「山を越える」という言葉もよく出てきますが、この「山を越える」は、当然病気の経過の山上げと関係している事です。具体的な山としては、疱瘡絵には蓬山と富士山がよく出てきますが、富士山がいちばん多いようです。 
をさな子か きけむ遊ひの手にかろく 山もあけたるはりぬきの不二 
と書いてあります。為朝とだるまと金太郎が出てくるわけです。 
疱瘡絵4 
次も同じような絵ですが、歌には、 
疱瘡も 三国一の かろと ふしの山をも 上る力童 
とあります。このテキストで注目すべきは、「軽い」という性格を強調していることです。これが、「軽々と」という言葉が決まり文句としてよく出てくる4番目のグループです。例えば次のものにも見えます。 
かると 斧(ヨキ)もてあそぶ 疱瘡が子ハ 山あけるさへ あしのはやさよ 
まさかりを持った金太郎の絵ですが、これも「軽さ」を強調する絵です。さっきも申し上げましたように、疱瘡は止むを得ない病気でしたから、できれば「軽く」済ませてほしいという祈願の心が入っている例です。 
おわりに 
最後に疱瘡絵に見られる呪的なテキストを検討しますと、普通の咒歌と疱瘡関係の咒歌とは、それほど違いがないと思われますが、いくつかの心理的な、また文献学的な要素を見分けることができると思います。厳密に数量的な分析をすることは、資料の数が全然足りないので、ちょっと無理だと思いますが、今まで見てきた疱瘡絵について言えることは、ある意味で意義深いものだと思います。それは一つに、疱瘡という病を直接取り去ろうというような、そういう悪魔祓い的な戦いを表現する絵が少ないということです。そしてもう一つは、「遊んで」とか「元気よく」とか「笑う」とかいうように、子供たちが「遊びながら疱瘡をする」という言葉がよく出てくるということです。一応、このようなテキストを持つ絵は多いということが、言えるのではないかと思います。それは何故かと言いますと、呪的な考え方というよりも、経験的な考え方に重きを置いているからです。疱瘡は何をしてもさけられない病気だったので、病気になっても軽く済むように祈願したのです。民間伝承の諸文献の、その軽く済むようにという祈願の中で、疱瘡神自身のイメージは変わっていったのです。疱瘡神は人間にとって必要である病気を持ってきてくれる神になり、拒否すべき悪い疫病というより、人間が一生に一度、付合わなければならない病を持って来るというイメージになっていたのです。そしてそれは重いものじゃなくて、軽く済ましてくれるのが、疱瘡神の役割になったのだと思います。その意味で疱瘡神は、福神として、良いことを持ってきてくれる神として祀られたのではないかと思います。 
 
江戸

 

漫画的記号としての江戸 
「レトリックとしての江戸」というテーマを頂きまして、普段考えていることを少しお話いたします。アメリカ人に日本を説明する立場に置かれておりますから、半端彼等の視点から日本を見る習慣が付いて居りまして、そういう人間の江戸論は珍妙なものかも知れません。「レトリック」という言葉からして、アリストテレス流に言えば論理が主体の筈ですが、江戸文化のレトリックはもっとナウな線を行っていますから、アリストテレス病も重症の西洋人には分かりにくいのです。江戸という現象は、丁度現在の漫画現象と同種の不可解さがあります。 
こういうものを描き、それを読む日本人とは一体どういう人種なのかと、アメリカのインテリは首を傾げるのです。中には初な読みをして、漫画のモティーフを国民性と結びつけ、日本人は好戦的で色情狂と極めつけたり、社会学者で実際漫画で統計をとり、「日本人は総人口に対してサド・マゾキズムとホモセクシャリティが多い。」と教えてくれた人もあります。日本人は性的に抑圧された民族であって、その抑圧がこういう奇態な形で暴れ出すのだと見る向きもあります。つまり、絵として表現し、絵として読むことが日本人に一番自然な形だからとは誰も言ってくれません。統計にしても精神分析にしても、現象から意味を抽出する方法ですね。そういう見方で漫画に臨んでも、漫画の面白さは余り分からないのではないかと思います。 
例えば「リトロポリス」というシリーズがありまして、何という漫画家か忘れましたけれども、タイトルは「リトロ」、つまり「逆転」「後退」「反復」などの意を「メトロポリス」に掛けた洒落ですが、過剰発達から原始へ逆転する過程を描く上に、東京というメトロポリスをリトロスペクティヴに、つまり未来から振り返って見よう、東京とはどんなものか未だ見ない裏を想像してそこから解釈しよう、ということでもあると思います。それがデザインにも生かされて江戸の戯作的な洒落に満ちています。 
これはちょっと申し上げないと分からないと思うのですが、趣向としましては、技術が発達した日本の都会で、セックスの行為なくして子供が作れるような世界、ハックスリーの「ブレイブ・ニュー・ワールド」みたいな世界が出現しているという設定なのです。機械が子宮の働きをし、精子と卵子がそこで一緒になって、子供が機械からポンと出てくるという形にしたわけです。つまり妊娠の苦しみを味わないで子供が出来る。そうして出てきた子供たちが18才か20才になった時点を問題にしてるんですけれども、その子供たちにまずいところが出て来る。つまり機械が完全でなかったために、生まれてきた人たちが成人しても性行為が出来ないのです。ある意味では、セックスは機械でやればいいんだから問題ではないわけですが、人間性として問題になってくるんですね。それで発明者だったか、製造販売した人だったかの責任者が自殺するわけです。 
これが大変古めかしい、日本的なところですけれども、ビルのてっぺんの自分のアパートの窓から飛び下りるんですね。それを何コマにもして描いてあるのです。落ちていく形が、猫が落ちる時みたいに、体を曲げて描いてあるわけですね。どこの窓も閉まっていて、真っ黒い小さい窓が背景なんですね。そして右側のページはず―っとその全体像を捉えているわけですが、それによって建物がいかに高くて、窓がいかにたくさんあって、落ちて行く人間がまるで虫ケラのように小さいかを表わしているのですね。真四角の冷たいコンクリートの建物と閉まった全く無関心な窓の機械的な行列を背景にして、可死的な人間が、曲がりながら柔らかな形で、小さくなって行くという、その動きを捉えているわけですね。 
これはもう、映画ではできないことをやっているわけです。映画はスクリーンから外に出られないのに、漫画はフレームから出ることも出来ますし、音の効果も字にでるようになっている。そうかと思うと、平面に黒一色で描かなければならないという実に限られた条件をフルに使って、唯の一本線で高層ビルと大空を描き分ける、映画にも小説にも不可能に近い芸当をやってのける。スタイル自体の素晴らしさ、デザイン自体の面白さ、というようなものが意味的な価値を無効にするのが漫画で、読者はそういう面を読むように漫画作品によって訓練されているわけです。視聴覚時代の今、流行作家になりたければ漫画に学べ、というのは人気絶頂の筒井康隆氏の言ですが、確かに田中康夫氏以後の流行作家には漫画的傾向が強いようです。 
字で書いたもの、殊に活字化して立派な本に綴じてあったりすると、読者はその内容を信用することを迫られる。これが絵だと、見る方の見方で見れば良い、つまり作者と読者が対等で、読者がその作品の意味生成、というか生成の可能性に参加しているわけです。何を言いたいのかあやふやな作者と協力して読者が一緒に考えて上げようという格好になります。そういう面で、言葉を使って書かれた小説も漫画的といえます。実は、日本文学全体に亙って、作者がその思考を読者に伝える形になっているものは少なくて、作者の目で見た限りの細部を描いてみせてその判断は読者に任せる形のものの方が圧倒的に多いのです。 
字に書いたというより、絵に描いたものの性質を持った文学と言えます。明治の小説は、それを旧式と考えて日本的な紛画癖から脱却しようと骨折っています。西欧文化は、「ロゴス」という表現を使って「言語」というものを「論理」と一緒くたに考えています。つまり言葉は意味と密着していて絵とは相反するものなのです。そんな馬鹿なことがあるもんか、と江戸っ子なら抗議した所でしょうが、明治の啓蒙文化はそういうロゴスヘの憧れを基礎にしています。 
啓蒙の影響は大変強いのでして、今でも日本人はドストエフスキーに頭が上がらないような感じですが、現在私達を取り囲む漫画や漫画的文化の流行はロゴスへの反逆と言えます。江戸時代の打毀のように、ちゃんと建っている意味などは寄ってたかって片端から敲き演すわけです。 
しかし、絵画癖又は絵画中心主義には、ロゴスをやっつけるという威勢の良さだけではなく、ロゴスから逃避するという卑怯な面もあります。江戸時代の場合は意味を伝えるということが危険な時代でした。社会について発言すれば、例えば大名家の実情に触れる、遊里の性生活を描くというような違法行為になる。基本的には何を言ってもお上を批判することにならざるを得ない。手鎖、島流し、うっかりすると死刑です。従ってもの言わずして言ったが如きスタイルに専心することになります。紛で見せたり音で聞かせるだけでは解釈が固定しにくいので、歌舞伎、浮世絵、見せ物などと、大変発達した視聴覚時代になるのは当然と言えます。 
ナチ時代のドイツにトリック撮影をフルに生かした豪華にして荒唐無稽な映画などが巾を利かせたのも同様の事情によります。江南の場合は殊に、絵入りでない文学作品の場合でも、言いたいことはお互いに分かっているという同朋意識がありますから、作者と読者がぐるになって、ものを言っているような言っていないようなコミュニケーションを作品の中で行なうのです。そういう馴れ合いの場が江戸であり、「江戸は良いとこ」と鳴り物入りの宣伝をしても、実体としての江戸を伝えるような、つまり外向きのコミュニケーションになっていないのが江戸文化と言えます。 
「お江戸」の「エドイズム」 
「ものを言っているような、言っていないような」という変な表現を使いましたが、これは「イエス」と「ノー」を同時に発信するということです。18世紀半端以後、つまり江戸時代の後期になると、この傾向が顕著になります。つまり、江戸時代の文化の中心が上方から江戸へ移った時点が問題になります。前期の近松や西鶴にも「虚実」や「表裏」の概念はありますが、人情や世相の裏に潜む真実を見せようといつ創作態度であり、せりふや説明文に表現されない沈黙の部分に観客や読者が共鳴できる、つまり言葉の裏に何かあると思わせる種類の文学です。 
江戸後期になりますと、平賀源内以下の戯作者に見られる通り、「表」と「裏」を同価値のものとして並べて見せてしまう、たとえ「裏」を見てもその又「裏」があったりして、「本音」に行き着かない、という格好になっています。ものの両面性を見せる、つまり言葉を両義的に使う、というのは遊びの精神の表われですから普遍的なものですが、これが一番巾を利かせるのはブルジョア文化です。フロイトによると、人間の無意識の中では、反対のものも同種のものも関係あるものの一対として並んでいて、これが屡々意識の中にまで浮き上がって来るのだそうです。「イエス」と「ノー」は並んでいるから交換可能で、プレゼントなどを「受け取る」と「上げる」とが精神病患者の頭の中で混交するわけです。 
意識の世界は「超自我」(スーパー・エゴ)がコントロールしていますから、私達は意識の面では行儀良く暮しているわけですが、無意識という性欲の領分に属するものが意識の領分へ押し出されて来ると、理屈に合わない行動に出ることになります。エロスが前面に出て来てロゴスを毀すわけです。こういう現象は西洋のブルジョア文化にも見られるのですが、どうもロゴス信奉が根強いために、わが江戸文化のような言葉の無礼講には追いつきません。「お江戸」とか「江戸っ子」という表現をエロスの表出として考えてみましょう。 
「お江戸」や「大江戸」のように敬意を表す接頭語の付いた都市名は他にないのですが、これは江戸が外から尊敬されているからではなく、江戸の住人が広告のコピーよろしく作り上げたものですね。「京へ上る」に見られるような、由緒ある実体がないのです。「将軍のお膝元」という表現もありますが、江戸の良さを羅列した名所名物を見ますと、将軍の威光は江戸の価値、つまり「お」や「大」の付く資格とは実は関係がないのです。要するに、磨き上げられた上方文化を相手に、駆け出しの江戸が自分で「お」を付けて空威張りしている中に、若さの勢いで自分の方が実際に優勢になった、それに調子付いて増々「大江戸」を振り回すようになった、ということでしょう。こういう田舎のガキ大将的な面が江戸を面白くしています。 
「お江戸」に近い、パリを「輝ける都」(ヴィーユ・ルミエール)とか、ロンドンを「王様の都」(ロイヤル・シティー)などと呼ぶ表現があります。王や女王の居住地であることを誇るわけですが、「お膝元」という表現とは実質的に違います。パリやロンドンを輝かしているのは主として建築と社交生活のファッションですが、その中心は王族貴族で、庶民はこれに憧れて真似るわけです。パリでは一般人が宮廷を見学できるようになっていて、王様の食事などは貴族や町人の居並ぶ前で行なわれる見せ物なのです。 
王様になると、一羽の鴨でも一口ぐらいしか手が付きませんからこれを一般市民に安く売るのです。贅沢とファッションの極地がお金さえあれば手の届きそうな所にあるわけで、江戸の吉原の役割を宮廷が、遊女の役割を王侯貴族がやっていると考えたら良いと思います。江戸では将軍の城と一般市民の関係が薄いのですから、「金の鯱」も「お膝元」も江戸っ子の空威張りに聞こえます。それでは、パリやロンドンの文士などは自分の都市を自慢したかというと、全く逆でして、悪口たらたらなのです。 
サミュエル・ジョンソンの「ロンドンに厭きたら人生に厭きたに等しい」という言葉が頻繁に引用されますが、これは何から何まで揃っているロンドンをいうもので、ジョンソンはむしろロンドンの道徳的暗黒面を見ている風刺家です。ボープ、スウィフトなどの一連が描くロンドンは汚くて臭くて馬鹿や悪者の満ちた都会です。しかも「モック・ヒロイック」(擬英雄詩)という詩型を使いますから、否定的なイメージが英雄詩的な壮大さを持つので、丁度江戸の戯作者の江戸礼讃の逆を行くことになります。こういう風刺家達が、江戸名所とは逆に「ロンドン逆名所」みたいなものを造り上げています。一番悪名高いのは「ロンドン・フリート・ディッチ」、つまり下水道で、犬の死体などを海に流し出す下水道口を、ポープが詩の中で「大海」の代わりに使います。 
スウィフトは「臭い水からお生まれの愛の女神」などと、ロンドン美人を海から生まれたヴィーナスに等える所まではいいのですが、ロンドンは下水道に代表され、ロンドン美人は彼女の化粧室の汚いお虎子から生まれたものと連想されるわけです。清長も歌麿もこんな悪戯はしませんね。都市文化として江戸にしてもパリにしてもロンドンにしても随分似た所がありますし、戯作者たちは東西似たようなジャンルやスタイルを発明しているわけですが、都市のイメージという点になると大分進うのです。一つには江戸という都市が新しかったからですね。都と言えば京都のことだったし、大阪だって栄えた商業都市だったし、自分たちは大体田舎から集まってきている連中だから、侍も労働者も含めて、腹いせに「江戸は良いとこだ」、と威張ったようなところがあったと思います。 
ロンドンの場合は歴史が古いわけでしょう。大袈裟に言えば、ローマの遠征の時からあったわけでして、特にヘンリー八世の時から大分都会として高級になっているわけですね。つまり中流階級の台頭と同時に起こったわけではないのです。「俺が住んでるところはいい所なんだ」とか、「俺は性格が売り物なんだ」なんていうことを言うのは、これはやっぱり中流階級の言うことで、お公家さんやなんかの言うことじゃないわけです。大体、伝統が出来ている都市ではあんまりそういう自覚というか、自慢しようという傾向は出てこないようです。 
今のニューヨークは倒産して重病に悩む老人みたいな格好ですが、大変羽振りの良かった1960年代にはニューヨークっ子は田舎者を相手にする度にニューヨークを貶したものです。随一の都会という自信があるからこそ、サンフランシスコよりも此方の方が良いという必要もなく、むしろ自分で悪口を吐く余裕を見せるという、手の混んだ自慢をやるわけです。パリっ子やロンドン子の悪口にも同様の面があります。もう一つには、政治批判に対する政府の手口が違うということが考えられます。東西共に諷刺家は匈せられますが、徳川方式の方がずっと巧妙でして、似たようなことを言っても餉せられたり見逃されたりで、何処までが安全かという線が見極められないわけです。又、罰せられても、お触れ書きには政府批判をぼかしてありますから、無関係な罪状で罰せられることになります。 
こういう沈黙の法律が一番厳しいと言えます。例えば京伝は遊里を描いたということで手鎖の刑に服すると、別の所で改革政策を茶化したからだと納得して、政治に触れることは止めてしまう、種彦は「偐紫田舎源氏」の板木が没収されると、大奥を諷刺したことがやはりまずかったと理解して、自殺したかどうかはともかく、すぐに死に至る、という風に、気の利いた読みを要求する法律です。人気絶頂の作者を苛めてもの書き全般の見せしめにしているわけですが、やはり才能のある者が上手な批判を書くのですから、彼らの創作力を萎縮させるという効果もあり、巧みな手口と言うべきです。 
これに反してロンドンの場合は、小物を罰して大物の見せしめにする傾向があります。ポープが言いたい放題の悪舌を弄して政府、王族、上流社会をやっつけている間に、チンピラの諷刺家が死刑になっています。実は大物をうっかり苛められない事情もあります。例えばポープがウォールポール首相を思わせる人物を登場させ、これの容姿から行為、頭脳の程度まで散々馬鹿にします。これを罰したのでは、軽蔑すべき低能の親玉が自分であることを白状し、この人物の政治的道徳的犯罪を自分の物であると認めることになります。従って、ロンドンを悪しさまに言って、それが為政者批判に繋っても、巧くやれば安全度は高いのですが、江戸の場合は、何を言ってどう尻尾を捉まれるか分からないので、何でもかんでも褒めておくに越したことはないわけです。 
もう一つは、西洋の文士に見られる啓蒙的姿勢が考えられます。いくら巫曲戯ても、世の民にものを教える、国全体を改良する、という姿勢を捨てそうでいて捨てないのです。「タウン・アンド・カントリー」(都会と田舎)という対立はそういう所から来ていますが、美学的にも道徳的にも田舎のほうが簡素で清らか、自然に近くて健康的、というようなことが説かれています。 
無論東洋ではこんなことは今更論じる必要のない当り前の知識ですが、面白いことに江戸の戯作も歌舞伎も浮世絵も田舎礼賛をしませんし、大自然は茶屋の築山や縁先の蛍より遠くへは目が届かないようです。要するに東洋的伝統を無視して申し合わせたように江戸を人工的、都会的に作り上げているのが江戸文化です。又、ロンドンで力ある人は皆地方に土地財産があって、ロンドンは社交の場、政治的商業的交渉の場であったので、ロンドンの方を「俺の本拠だ」とは考えないのです。 
江戸は他方から一旗挙げに来ている、つまり住み着くべき所であり、たとえ参勤交代で来ている侍でも江戸を本拠と考えたくなるような魅力が江戸にはあるようです。政治にも社会にも、パリ、ロンドン並の問題を抱え乍ら、大きな可能性を持つ新興都市の強みで、江戸は誰にでも同化を求め同朋意識を促します。そこから「大江戸」だの「江戸っ子」だののイメージが作られるわけです。先に褒めて置きさえすれば安全と申し上げましたが、江戸人が厭々ながらそうしたのではなく、急速に成長して行く江戸の中に居て、そこに属する自分を喜々として誇示してもいるのです。 
18世紀ロンドンの意味 
江戸では明和の大火などで町中がほとんど燃えてしまった後、再建の際に一種の新しがりっていうか、新しいスタイルというのがいろいろ出てくる、言葉も流行語やなんかがどんどん増えたりなんかして、江戸らしくなっていったと言うのですが、ロンドンでも1666年に有名な大火があって、8割がた燃えてしまい、その後、建て直すことになったんですが、やっぱりヘンリー八世の時とは大分違った新しい、18世紀的なロンドンが、そこから出来上がってくるわけです。 
ただ江戸と違うところは、そういう建て直しから、ロンドンは建築というものを発見したわけです。建築家が個人として名前が出て、有名になって来たのは17世紀の時代、バロックの時代ですが、イニゴー・ジョーンズなんてのが出てきて、ネオ・クラシシズムだとか、後からバロックとかロココとか呼ばれている、ごてごてしたスタイルが出て来ますが、これも元はと言えば火事のお蔭と言えます。建築家が巾を利かせるということは、ロンドンという都市が建築によって代表されたり、建築を通して鑑賞されたりする静的な空間に作られていることになります。エリザベス朝時代の建築は劇場などでも木造ですね。大火後は石やレンガで造るようになって、不動のロンドンが昔からあったような雰囲気になります。中の模様は変わっても不変の枠組みがあるという点で、戯作的であり乍ら啓蒙の精神を真面目に守るという芸術、文学の構造をロンドンという都市のスタイルが表明しています。 
江戸はと言いますと、ちょいちょい火事が起きる上に、それに備えて建替え易いように簡単に建てたりしますから、見た目にも可変的です。埋立地を作って広がる一方、区画や町名が新しくなるという動的な面もあります。風紀上の理由で吉原が移転されたり芝居小屋が移転されたりする、火事のせいで吉原の遊女たちが「仮宅」に移される、ということがあると、新しい場所についての情報を宣伝的に伝える必要が生じます。流行も変わりますから、吉原よりも品川だ、深川だ、というような宣伝が出て来ます。 
都市文化の中の変動のエネルギーを石の建築のような思想の枠でがっちり固めているロンドンと異なり、江戸は際限なく自己宣伝するように出来ています。それでは、意味として捉えたロンドンはどんなものか、諷刺画でご覧下さい。ロンドンの大火についてジョン・ドライデンという諷刺の親玉が長詩を書いていますが、火事の意味を理性で理解しようとするのです。火事を機に英国というものについて反省する、という道徳的傾向が強いわけです。諷刺家が悪徳を制裁して世直しの手助けをするという、ドライデン流の諷刺感が後の銅版画家、ウイリアム・ホガースに一番強く表われています。資料は、「ア・レイクズ・プログレス」(「当世道楽息子伝」とでも言いましょうか)と題された8枚のシリーズの中の一場面です。一生ケチに暮して大金を溜めた父親が死んで、息子はモダンなプレイボーイと化し、財産は使い果たし、投獄される迄に落ちぶれて瘋癩病院に投げ込まれる所で終ります。 
こつこつ貯えれば成功し、油断して遊べば瞬く間に乞食に落ちるという、西鶴流の方程式がありますが、ロンドンに代表される世相への批判が強烈です。又、主人公が上流のダンデイーを真似て色男になろうとする所が京伝の「江戸生艶気構焼」に似て、アール・マイナー氏の論文がこの二作を比較しています。 
レイクウエルの猿真似を笑いながら実は本物の上流階級の趣味や流行を侮る点、艶二郎の半可通振りを描くことによって本物の通の理想まで棚卸しする京伝の皮肉の二重構造に通じます。唯、ここでも京伝の軽いタッチとは逆に、ロンドンの悪徳をどす黒く描いて、作者の道徳感を前に出しています。御覧の絵は第三図ですから、レイクウエルの遊びもこれでまた健康的な方です。古原なんかよりずっと下級の酒場か何かの一室です。飲んだり騒いだりする中で、ワインを吹きつけ合うものもあり、家具など大分毀されています。主人公は乳房をあらわにした女といちゃついていますが、この女は既に彼の懐中時計を盗み取って、主人公の背後にいる女に手渡しています。 
右手前のは踊り子で、後ろのドアから入って来る大きな銅皿に乗って裸踊りをする準備中ということになっています。見にくいですが、一番後ろでは椅子に乗った女が壁の世界地図に蝋燭で火を点けています。地球の円形と蝋燭という組み合わせが、入り口の男の持つ大皿と蝋燭によって繰り返されていますね。つまり、裸踊りで代表される淫乱な風潮が、英国ないしは世界を破滅させるというメッセージがこの並列に含まれています。次の資料は、「マリッジ・ア・ラ・モード」(「当世婚姻譚」)と題する6枚物の一場面です。吝嗇一筋で貯め込んだ町人の娘と名ばかりあって経済的に傾いている貴族の息子とが、親達の都合で結婚させられ、夫々が浮気な生活に蝕まれ、伯爵夫人にまでなっている町人の娘は、梅毒に犯されているらしい不具の幼女を残して自殺するという戯作らしくない話です。 
御覧の絵は第四図で伯爵夫人の私室ですが、右手に肥った歌手らしいのがくろうとらしい顔付きで歌っている足許には、今まで翫ばれていたらしいトランプが散らばっています。歌手の後ろからフルートで伴奏する男が居り、リボンでカールした髪のままで気取った足の組み方をした男は、何を考えているのか宙を見詰めてチョコレート(というのはココアのこと)を啜っています。幇間みたいな顔の男が右手を広げて冗談を言って自分で笑っているらしいのに、又、隣の女はゴシップでも伝えたくて乗り出していますが、共に全く無視されています。 
黒人の召使いがゴシップ夫人にチョコレートを勧めていますが、これも無視されています。 
左下には黒人の少年が実にあやしい形のがらくたで遊んでいますが、傍に投げ出されたカタログによって、これらが最近の競売で求められた美術品であることが分かります。伯爵夫人は髪結いに髪を結わせている所ですが、彼女に言い寄っている美男はその名もシルバータング(銀の舌)という名のスムーズな弁護土です。この男女の頭上に掛けてある2枚のエロチックな絵は、2人の関係の次幕を予想させますが、貴族女性を取り巻くサロン社交の内実を発く役目も負っています。 
この場面は貴族階級の浅薄さ、悪趣味、堕落を巧みに暴露しています。また、「ザ・フォア・ステージズ・オヴ・クルエルティ」(「四段階残忍咄」)という4枚のシリーズは、左にあるのが初段階で、乱暴な子供が猫を殺したり鳥の首を締めたり喧嘩をしたりしながら成長して、どんな人生を送るかを描いたものです。どの場面もロンドン子なら馴染のある町角などを描いていますから、自分達の住むロンドンが暴力に満ちた恐ろしい町だと思わせます。右の図は最後の第四図で、所もあろうに教会の庭で妊婦をめった切りにして殺したかどで絞首刑に処された主人公が、解剖教室の教材に使われている所です。切り開かれた腹から腸が飛び出して床までぶら下がっているなど、恐ろしく酷い場面に作られています。 
合巻の殺しの描写にしても、北斎などの強姦の絵にしても、肉体性にアイロンを掛けて平らなデサインにしてしまった感じがありますが、このホガースの絵には胸が悪くなるような立体感があります。人間動物の区別なく乱暴を加えた男ですから、ここで切り刻まれても犬に心臓を食べられても身から出た錆ですが、諷刺はそこで止まりません。立ち会う医者たちは、喋り合う者、本を読む者、ほとんどが真面目に勉強していません。逆に解剖に当たる医者たちは残忍そのもので、第一図の悪戯小僧と同じ顔付きで残虐行為に熱中しています。 
しかも死体が目をくり抜かれる痛みで歪んだ表情をしていますから、医者の残忍さが強調されます。医術が人を殺すという皮肉を言ったのは平賀源内だけではないわけです。ホガースの教訓癖を端的に示しているのは次の「ビア・ストリート」(「ビール街」)と「ジン・レイン」(「ジン通り」)と題された一対の銅版画です。これは、ジンの流行でロンドンに酔っぱらいが増え、アルコールによる病気や犯罪が増加している時に、それに対処しようとするのですから、市の衛生局の仕事を一手に引き受けたような作品です。どうせ飲むならビールの方があなたの為になり、ひいてはロンドン市の為、国の為にもなるといっているのです。 
「ビール街」の方には丸々と肥って幸福な人々が働いている様子が描かれています。右手前の男は古本をバスケットに入れて配達する途中で、一寸休んでビールを飲み、中央の2人の女は魚屋で、「鰊大漁の唄」という摺り物を読み、鍵を手にした女中らしい美人を口説いているのは道路工夫で、彼の仲間は後方で休まず働いています。 
若い男女を見てにやにや笑っている人の良さそうな太っ腹の前に新聞がありますが、商業と芸能を奨励する旨の王の議会演説が引用されています。絵描きが梯子の上で、一般人と無関係なジンを絵に描いています。 
向う側の建物の屋根の修繕もビールを片手にやっていますが、この光景を祝福するかの如く、丁度浮世絵の風景なら富土山に当たる位置に、教会の塔が見えます。つまりビールを飲むとリクリエーションになり、社交性を増し、仕事が出来、ロンドンもロンドン子も神の意に適うというわけです。逆に、ジンを飲むと右の絵のようなことになります。先ず中央の女が目に付きます。ショーン・シェスグリーン氏が指摘していますが、この女は左の絵の若い女中と同じ姿勢をしていますから、この女の窮乏とアル中の恍惚状態などが余計目立ちます。子供が階段から落ちるのにも気付かず、嗅ぎ煙草をつまんでいます。 
階段下の若者はアル中の極致に達して骸骨みたいになり乍ら、まだジンの瓶を手離さず、バスケットには「ジン夫人の末路」と題された読売の摺り物が見えます。大工が鋸を、女が鍋釜を入質する程ジンは労働の意欲も手段も奪うというのですが、質屋の前で犬と骨を取りっこする男に至っては、ジンは人間性そのものすら破壊するという勧告を伝えます。後方には酔っぱらいの大喧嘩が繰り広げられ、破れた壁が首吊りの死体を露わにし、気絶したアル中患者が気付け薬替りにジンを与えられたり、死んだ者が埋葬されたりで、ジンと死とが結びつけられています。ちゃんと商売しているのは質屋と階段の下の穴倉のような酒場だけで経済的不健全が丸見えですが、他の建物などは打毀に会ったような状態です。 
教会の塔を含めて、ジンに犯されていない地区は、遥か遠くに薄く描かれていて、ジンに浸った下層階級は市にも国にも見放されていることを示しています。アメリカの禁酒運動のピューリタニズムに比べると、ジンの替わりにビールを飲めという、流石イギリス人の中庸主義のもの分かりの良さがありますが、これだけイエスとノーを対照的に区別するところにロゴス主義の特徴があります。ホガースは極端な例としてお目に掛けました。 
例えばジョン・ゲイの「ベガーズ・オペラ」(「乞食のオペラ」と訳されています)は乞食と犯罪者のロンドンを扱っていますが、そう黒白に分けられず、悪漢がかっこよく出来ていたり、暗黒世界の中にも観客を泣かせる人情があったりして、南北の歌舞伎と春水の人情本を一緒にしたような具合になっています。ホガースにしても、教訓よりも連想や筋の展開の面白さ、細部描写の見事さが魅力であって、馬琴の読本の魅力と似たようなものです。また、絵を見た人が、何処其処のチョコレート・ハウスだとか、何某伯爵を皮肉っているのだとか、分かるように描いてある、ロンドンを熟知した者が虫めがねで見ると、面白い程の情報が見えて来る、その上に着るもの小道具の最新式のものが描かれている、というわけで江戸の草双紙や浮世絵と似た楽しみを与えます。羅列の快楽というエロス的なものを勧善懲悪の枠にきっちり整理して見せているだけの話です。 
江戸自慢の構造 
田中優子氏ほか、江戸時代を宣伝の時代としていますが、特に江戸を宣伝することと「江戸」の名を宣伝に使うこと、おびただしいのが江戸文化です。浮世絵もわざわざ「東錦絵」といい、絵師や作者は「東都」だの「山東」だのと自分の名の上に枕詞みたいに付けています。鰻などは京では下司なものだったのが、江戸で調理法を変えて「江戸前」になって大流行したのだそうですが、実際に江戸前の海で漁れたのか聞くのも野暮というものです。鰹などという平凡な魚を「初鰹」と称して魚類の王に仕立て上げ、しかもこれを江戸で賞昧しなければ初鰹でないみたいな鼻息の荒さです。 
つまり「江戸一はブランド・ネームで、何であれ江戸の製品であることを誇示するわけです。江戸名所、江戸名物、江戸っ子から、式享三馬の店の商品「江戸の水」まで、「江戸」と付くものは何でも最高とする宣伝力は大したものです。ここの所10年ほどニューヨーク市が、観光客の人気挽回のために、ハートのマーク入りで「アイ・ラヴ・ニューヨーク」のスローガンを色々な場所に掲げていますが、江戸人総出演の都市宣伝には及ぶべくもありません。広告に偽りがあるのは当り前ですが、実質が広告に追い付くこともあります。あるレンタカーの会社が「わが社が最高」という広告を出すと、レンタカーに善し悪しがあるとは思ってもみなかった消費者たちは、こんなものにも階級があると勘違いし、しかもこの会社が最高と思いこむ、するとこの会社は一流にのし上がってしまうのです。 
そこへ駆け出しの三流会社が「わが社の方が上」と広告しただけで、大物を見下げる程の成功を納める、ということはあり得ます。「江戸」の宣伝にはこういうフィクションが多いようです。江戸的なもの―役者、遊女、茶屋、商店から小説の類に至るまで―皆評判記が出て、売る万の競争心を煽り、消費者の興味をかき立てるわけですが、先ず茶屋や草双紙がランク付けされて出版される程重要なものという印象を与えますから、それだけで江戸的なものの地位を高めてしまいます。中野三敏氏によると、評判記の最盛期は安永6年(1777年頃)だそうで、それ以後下火になったとしますと、浮世絵、江戸歌舞伎、草双紙の成功に見る通り、江戸の実質が先行の広告に追い付いたからと思われます。 
評判記のピークの14年程前に、源内が「根無草」で江戸を宣伝していますね。御覧の部分はよく引用されますが、隅田川の夕涼みの描写です。ホガースがべったり描き込んでいる細部のように、川面の舟に始まって、川辺の看板、西瓜のたち売り、水売り、鰻屋、浮世絵の見せ物、硝子細工売り、植木屋から玩具屋の屋台へと、祭の雑踏を中空から見る目のように、きょろきょろと動くこと際限がありません。その中の人々を、長命丸の看板に恥じらう母子連れや、掏膜の用心に懐を押える田舎侍の姿にして漫画風にスケッチしています。御賢の「日本古典文学大糸」の活字と違って、版本の字体では表裏一丁、つまり2ページには大した字数は入りませんが、半紙本一丁で、恐らくホガースの大型銅版画一枚分に当たる程のイメージを並べるのですから大した才能です。これは早口な文体で羅列するからだけではなく、見立てが多いからです。 
ホガースも古典のパロデイーが多く、先に御覧の医者の顔が悪戯小憎に見えるというような見立て式の皮肉がありますが、源内は初めから終りまでべったり見立てで、一つの物が二重にも三重にものイメージとして映し出されます。川の風景から鴨の長明が連想されると、硯が海になり、両国橋の名から武蔵、下総の絵図が目に浮かび、川面の舟が木の葉に見えて「土佐日記」の船旅を思わせ、両国橋が昼寝の竜と二重写しになると、軽業の太鼓から雷の太鼓の連想で雷神がおへそを抱えて逃げる姿が見える、という具合に無関係のものを重ね合わせてしまいますから、絵にしたら実に繁雑なものになります。誇張というレトリックで人間の馬鹿さ加減を見せる所、ホガースも源内も同じですが、こと江戸になりますと源内の方は全くべた誉めです。 
例えば盛り上がった素麺を「小人島の不二山」に譬えていますが、「降りつゝ」けで万葉集を思わせる本歌取りの手際もさりながら、富士山を隅田川の風景に滑り込ませる芸当も見ものです。江戸から富士が見えたには違いありませんが、浮世絵などの背景の富士山は如何にも我が物顔にひけらかしている感があります。他国の山を自分の商標にしてしまう江戸の宣伝術は源内あたりに発するようです。資料の途中を省略しましたが、宣伝が調子に乗りますと、「押しわけられぬ人郡集は、諸国の人家を空して来るかと思はれ、ごみほこりの空に満つるは、世界の雲も此処より生ずる心地ぞせらる。」ということになります。 
「ごみほこり」などの否定的なイメージとは裏腹に、何となく江戸が日本の総人口を牽きつけるような、世界の天候を左右するような、有力な都市に見えるから不思議なのは宣伝のレトリックです。資料の後半の部分は「何々あれば何々あり」とソフト・ウェアの広告が性能をリストするように並べて、何でもある江戸を宣伝し、「誠にかゝる繁栄は、江戸の外に又有るべきにもあらず。」という結論に至るわけです。次のは南畝の「寝惚先生文集」の狂詩です。17才や18才でこれだけのものが書けるのはコピー・ライターの奇才ですね。「君見ずや元日のお江戸」と始めて、すぐに「大名小路御門前」が出て来ます。 
お偉い大名が立派な屋敷を並べている所を、江戸に住む者は自由に歩けるというだけで得意がるのですね。先ほどの富土山のように、大名を笠に着て威張るわけで、どうも江戸自慢には他人の褌的要素が強いようです。この詩には、源内の両国橋シーンと同様、早稲売り、万才、宝引(福引き)、年始客など、賑やかに並べられ、元旦というのに借金で首が回わらず、上下はぼろ ぼろでお屠蘇にもあり付けないなどという惨状までが、浮き浮きとした印象を与えます。漢語の慣用語のせいで江戸の町が立派にも見えます。そうかと思うと「武士は食わねど高楊枝」とか「今日は姑、昨日は嫁」のような巷の表現が漢詩の体裁だけは整えて出て来ます。「白髪頭に鍵金なし」と杜甫が憂国を訴えたような格好にもなります。 
こういうごちゃ混ぜの面白さが江戸自慢の世界のようです。パロディーというものは、古典などの雅の要素に俗の要素を重ね合わせることによって高いものを棚卸しするのが普通です。源内と南畝の例に御覧の如く、江戸のパロディーは別に古典を侮辱する目論みがあるわけではなく、雅を笠に着て俗を高級に見せるだけの話で、それも組み合わせが突飛ですから冗談にしか見えません。見立てによる並列の純粋な楽しみが主で、正に反ロゴスのレトリックです。次の「江戸見物」は、「江戸の膝元在郷に異なり」と始まりますが、在郷の人の視点から江戸を見物する詩ではありませんね。 
「膝元」という自慢の表現で江戸者の尻尾が現われています。先刻の「大名小路」が又ひけらかされ、下町になるといきなり仁王門が出て来て、浅草から両国橋、吉原と品川が一緒に並んで、江戸三座の劇場で終ります。どう見てもツーリストが見物して回っているのではなく、自慢の江戸名所を並べているだけです。出てくる地名だの町名だの自体が何となく楽しい、知っている所だから説明がなくても楽しい。地名に慣れた人のセンスをくすぐるように出来ています。基本的には「古事記」や「万葉集」の神の名や山の名の羅列の魔力と同様ですが、戦後に育った私たちの世代には、モンパルナスと聞いただけでやるせないムードになったり、シャンソンにある単純なフランス語を並べられただけで胸がわくわくする、ということがありました。 
「知っている」という自信がある時に起きる現象ですから、南畝の「江戸見物」は江戸者の江戸自慢と言えます。この詩には実際の宣伝文が使ってありますね。「小便無用」は塀の貼り紙にあるものですが、越後屋の唄い文句の「現金掛値なし」が、皮肉な形で七言に収められています。これでは正札付きで現金で買っても結局掛値が入っていることになります。宣伝文をからかった宣伝文です。宣伝のレトリックというのは、工業的な資本主義の時代とそれ以前とでは全く違うのだとW・F・ハウルという人が言っています。大量生産した商品を不特定多数の消費者に売る場合は一律した広告が出来るが、前工業資本主義時代には、今でも商店の売り子に見られる通り、売り手は買い手の性格や趣味に合わせて自分の役を演じなければならないというわけです。 
これは高価だがあなたのような美人には良く似合う、という売り込みをやる場合には、その客を美人と思っていない売り手が、美人であることを疑わない人間のマスクを被ることによって、買い手の自尊心を煽ることになります。実は同じような演出を工業資本主義時代の大手企業もやっているからこそ、マーケット・リサーチ(市場調査)なんかが熱心に行われているのですが、不特定多数が相手ですから、余り微に入り細に入った宣伝は出来ません。例えば人間みな玩具が好きだからと、コンピューターをマウスで操作できるようにすると、わっとマッキントッシュが売れますが、どんな形であれ鼠が嫌いな消費者が半分はいて、これをごっそりIBMに奪われる結果になります。 
江戸というレトリックを見ますと、際限なく宣伝できるのは売り手も買い手も同じ仲間だからであることが分ります。源内も南畝も、マスクを被っています。武士階級であり乍ら町方の者である振りをしたり、古典を生半可に引用する半可通を装ったりしています。彼等が宣伝しているのは将軍や大名の江戸ではなく、町民の江戸です。その上に、吉原にしても芝居にしても天明期とそれ以後に比べると未だ発育盛りの江戸を世界一の都であるかの如く宣伝しています。彼等がひけらかす江戸訛(源内などは江戸語の浄瑠璃で売り出しています。)なるものも、実際には未だ輪郭の朧気な流行語群を駆使して宣伝している感じです。言葉が先行して実体が追い付いていく広告の構造がここにあります。後に京伝その他の町方の江戸者が江戸を語るようになって「江戸」自体も本物のブルショア的江戸になります。江戸の宣伝には仲間うちの楽しみ以外の目的がありません。 
「江戸は良いとこ」とは言っても「一度はおいで」と観光広告はしていません。つまり外部を相手にしていませんから、ホガースのレトリックとは自ら異なるわけです。ホガースにも「おらがロンドン」の面白さが盛り込まれていることは申し上げましたが、不特定多数のイギリス人全般に語りかけますから、普遍的な意味を持つ宣伝文になります。江戸の戯作者や浮世絵師の場合には、口説く必要も薄い仲間が相手ですから、余計遊びが許されます。イエスとノーを並べても問題ないことになります。ロンドンの戯作者達は水道の自慢はせず、下水があるだけでも誇るべき所を、汚い臭いと文句ばかり並べます。下水の不完備から流行病が起ったりすることを社会問題として捉えるからです。江戸の方は、下水の臭いのは当り前で、水道の方を江戸のシンボルにして褒め上げます。 
芝居小屋なども不衛生で悪臭があるのですが、溝の匂いも「芝居小屋の匂いがする」と、劇場への皮肉とも下水への礼賛とも決めがたい発言をします。つまり面白ければ良いので、意図は問題になりません。江戸礼賛全般にそういう傾向があります。「伊勢屋、稲荷に犬の糞」というのは江戸で一番目に付くものを挙げますが、伊勢出身の商店が多かったとしても別にそれを敵視するでもなく、明らかに流行した稲荷信仰を諷刺するようでもなく、犬の排池物まで並べても、江戸を批判しているように見えません。それは七五調のせいで、源内や南畝のスタイルと同様、立ち止まって意味を云々する暇を与えないリズムの良さがあるからです。ポープの詩なども語呂が良いのですが、モック・ヒロイックという形は、対立を強調するので、如何に洒落のめしても肯定と否定とが明らかに区別されてしまいます。 
「江戸っ子」というレトリック 
宣伝される江戸のイメージは時代が下ると変わって来ますが、時間が残り少なくなりましたから、いくらかそれに触れる問題として「江戸っ子」について考えましょう。ロンドンが理想の都として宣伝されていないように、ロンドナー(口ンドン子)にもはっきりしたイメージがありません。例えばジョージ・リロという人が書いた「ザ・ロンドン・マーチャント」(口ンドン商人)という芝居が丁度亨保の頃にヒットします。エリザベス朝時代の芝居は、シェークスピアのもので御存じの通り、主要人物は皆貴族です。それに続く王政復古時代も、先に名の出ましたドライデンの芝居を見ても、主要人物は地位が高くて、最後に王様などが出て来てトラブルが解決して「めでたし、めでたし」というものが多いのです。 
このリロは、唯の商人を主人公にした作品を書いたのですから画期的なわけです。ところがその上演広告が出ると、ロンドン中の芝居通が腹を抱えて笑ったのです。商人を舞台に載せて芝居になる筈がない、というわけですね。それでも珍らしいもの見たさと野次を飛ばしたい芝居通根性で見に行った連中は、すっかり泣かされた、という次第で、「ロンドン商人」は「サラダ記念日」のように一躍有名になったのです。実に退屈な芝居ですが、スペイン相手の戦争に主人公が一肌脱ぐという形で、国益のための英雄に商人を仕立て上げていますから、理想化したイメージと言えます。但し、ここで慧識されているのは商人という階級であって、ロンドン子であることは二の次です。 
開幕するや、「商人といえどもジェントルマンである。」という宣言があって、ブルジョワ上流のジェントルマン階級に商人を押し上げようという意図が明らかです。その上に、結末には結局例の「タウン・アンド・カントリー」の理想を拠り所として、田舎の美しさを褒めることになります。以後似たような芝居が続々と出て来ますが、江戸の十八大通のように商人がスタイルの理想の具現者として大手を振って罷り通るような扱いにはなりません。「江戸っ子」の方は具体的な特長を与えられて理想化されていますが、どう考えても一つのタイプだけには纏まりません。西山松之助氏の受け売りで、明和期以後の「天明期の江戸っ子」と寛政期以後の「文化・文政期の江戸っ子」に分けて考えましょう。 
御存じの通り、天明期というのは田沼式資本主義のお蔭で商業・金融の繁栄した時代ですから、隆盛を極めたのは田沼一家ばかりでなく、大商人と札差という大型銀行家ですね。こういう町人が最新流行の服装で吉原で豪遊したり、団十郎を贔屓にしたりして、江戸趣味の最高級の所を地で行くわけです。こういう所から、江戸の良家の育ちで趣味も良く、金に糸目を付けないという高級江戸っ子のイメージが出て来ます。京伝の「御存知商売物」は南畝が褒めちぎったデビュー作ですが、御覧の絵には作者が机で居眠りしていて、その夢がコンピューターのウインドーの如く二つの場面に分けて描いてあります。夢の中では当時の書糟のジャンルが人物になっていますが、右上の場面には八文字屋本と行成表紙という、江戸で流行らなくなって来ている下り本、つまり上方の本たちが、「青本その他の地本(江戸の本)にけちをつけん」と共謀しています。左下の方では、行成表紙の絵本が地本の中でも幼稚な絵本である赤本と黒本を接待し、「おのおの方の不繁昌は青本がはっこうゆへなれば、けちをつけたまへ。」とけしかけています。 
昼寝中の作者とその夢の内容を同時に見せ、夢の出来事の原因結果の繋がりを並べて見せるのが漫画の素晴らしさですが、このシーンの結びは、「てまへは手をぬらさめ工夫、上方ものにゆだんはならず。」となっています。その上方ものが敵視する江戸者は次の場面の青本に代表されています。絵題箋を付けた表紙のマークが袖に印されているのが青本で、右端に坐っていますが、髪型から服装も垢抜けた美男で、煙管の持ち方もキマっています。洒洛本その他の地本を集めて月並の会、つまり月例の研究会の最中です。この青本が「江戸っ子」の名こそ使われませんが、天明期の江戸っ子を地で行っているようです。愛想が良くて粋であり、抜け目がないというのは商人の気質を表わしたものですね。 
京伝自身が江戸生れの金回わりのいい商人で、好男子にして才人ですから、高級江戸っ子の典型で、それだけにここの青本の描写にも力が入っています。大事なことは、工夫に努める勉強家の青本というイメージです。青本はグループのリーダーであって、地本たちのグループは新規なアイデアを怠たりなく求めるのに共同研究をもってしています。上方側も集まっては共謀作戦を練るのですが、その失敗の理由は新規を求めないし、世事の現状を研究しない怠慢さにあります。天明期で代表される文化には、咄の会だ狂歌連だとグループ活動が目立ちます。 
「通」という理想も特に一人の札差なり材木商なりに集中したイメージではなく、吉原で巾を利かせた18人、本当は何人であっても良いのですが、「十八大通」の名にしている所、高級江戸っ子はグループを指すのみならず、共に学び遊ぶというグループ性を強調したもののようです。江戸の文人が「江戸」というイメージをぐるになって宣伝していると申し上げましたが、「江戸っ子」のイメージの生成も、グループがグループ性を宣伝している向きがあります。 
次の、同じく京伝による「通言総籬」の始めの部分には、江戸っ子の定義に必ず引用される文が出て来ます。「金の魚虎を睨んで」というと怪戦が江戸に出現して見えを切ったよつな格好になりますが、恐らく団十郎の睨みを連想させて、いきなり登場する江戸っ子の姿に注目させる為でしょう。これが実は「お膝元」に生れて水道の水で産湯を浴びている唯の赤ん坊の姿を描写しているのですから大袈裟なこと呆れるばかりです。これが「拝搗の米」即ち精米を食し、乳母が日傘を差し掛けて付き添うような良家の坊ちゃんだと言うのですが、金銀の細螺はじきで遊ぶので金山で有名な「みちのくの山も低きとし」などと加速度的に大仰になっていきます。この描写の中で赤子の江戸っ子が急速に成長していき、流行の本多諸を結う段になると、その髪の先から安房上総が見えるという、助六のせりふを本歌取りしています。 
隅田川の白魚も良い所しか食べないエピキュリアン振りで、日本橋本町の立派な屋敷も放って吉原を貸し切り状態にしてしまう豪遊の様を褒め称えます。こういう大仰な表現は、読者の信用を求めるものではありません。初めから「これは嘘っ八さ」と言うのと同じです。細螺と金山、髷と房総半島という荒唐無稽な組み合わせや、助六のせりふその他の流行語が目的なのです。 
実際に棲息する「江戸っ子」なるものを作者が定義しているのではなく、「江戸っ子」とは「金の鯱」「お膝元」「水道の水」「拝み撞きの米」「乳母日傘」という成句群、つまり言葉が集って作り上げているイメージに過ぎません。漫画が直接視覚に訴える形で絵の裏の意味などを見せようとしないのと同様、意味的内容にはお構いなく言葉を前に出しているのが「江戸」であり「江戸っ子」であると思います。従って江戸っ子も礼賛されるだけではなく、「イエス」と「ノー」の狭間をうろ うろすることになります。 
先程登場した、江戸っ子の手本みたいな青本も、吉原へ行きますと野暮な成金の扱いになり、「錦絵」という巧い名前の遊女が「青本にほれたといふでもなけれど、ためにもなりそふゆへ、相応に茶をいふておきける・・・」、つまりからかうわけです。これも「絵そらごと」の語源はここにあるという洒落の為であって、青本という人物の一貫した性格描写などという野暮なことは、作者も読者も知ったことではありません。洒落本でも川柳でも、冗談を主にしますから江戸っ子のイメージは肯定否定を共存させます。 
例えば、「江戸っ子の虫ぞこない金をもち」という、安永期の川柳には、天明期型江戸っ子の理想の矛盾が見事に描き出されています。流行の先端を行き吉原で立派に遊ぶのはお大尽に限られたことですが、その裏に野暮に金を貯めるという、つまり何事にも応揚な江戸っ子にあるべからざる性質が必要条件になっていることを指摘しています。十八大通の中にもちゃんとルールに従って浪費の末に破産するのもいますが、そこまで行き着くこと自体がスマートではありませんから、真の江戸っ子というものは実体になりにくいのです。 
資料に戻りますと、江戸っ子が仰々しく紹介されているのは、「日本橋」という胸をわく わくさせる地名を出すためのものです。それも場面は実は日本橋ではなく、「ふりさけみれば」となって伊勢町が出て来て、しかもその露路に入って、奉公人口入所、つまり下級職業斡旋所に突き当たり、その筋向いの家が目指す北里喜之介の住居です。発端の大袈裟な江戸っ子宣伝を序に、行き着く所は吹けば飛ぶような「江戸がみ」の累人幇間の家の門口なのです。この門口に立つのは仇気屋の独り息子、お大尽にして吉原通の艶次郎ですから、前の江戸っ子描写は彼の登場への序であることが、後の割書にある上流の息子風の扮装で分かります。そこに至るまでは、言わずして彼の足取りを辿りますから「日本橋」「伊勢町」「新道」と、立派な表通りから裏の露地へ読者を導くことになります。 
江戸っ子の理想と下級な喜之介の住居の組み合わせも滑稽ですが、瑣末な目的の為に大仰に言葉を並べる無駄もエロスの特徴です。ここでは江戸っ子のイメージが風船のようにどんどん膨らまされて、最後に穴の空いた風船のように急に萎んでしまいますね。こいいう果敢さがあるのは、「江戸っ子」が言葉だけで作られているからです。さて、後期の、文化・文政期の江戸っ子はイメージが大分違います。三田村薦魚翁などの語る、或いは落語などでお馴染みの、しきりに「てやんでぇ」と言う類の江戸っ子ですね。身分は勿論、学もお金も無くて、喧嘩早いが気風のいい正直者です。これは天明期の高級江戸っ子と別な、もっと切羽詰った所で「江戸」の可変性を体現しています。 
「宵越の銭は持たぬ」という自慢も日雇い労働者の負け惜しみですが、天明期の江戸っ子にあるお大尽の豪遊をモデルにしていますね。それにしても、一代にして破産という通の運命も、下層になると一日の問題ですからテンポが違います。市場調査をしたり予想によって投資してその成長を待つ、というような資本家の江戸っ子とは逆に、一日が勝負では気の短いのは当り前です。気の短いことを売りものにしている江戸っ子は式亭三馬の作品に登場しますから、一寸「浮世風呂」の男湯を覗いてみましょう。 
資料は「ヨイ ヨイ」、つまり中風か梅毒かで手足の麻陣した病人が、長湯の楊句湯気に当って気絶した所を描いた挿絵です。番頭や客たちが寄ってたかって気付けの法を試みて助けるのですが、天明の文人江戸っ子のサークル意識が、後期の下層の隣組精神に変形しています。湯の中の対話も下町生活の知識を土台にした洒落の交換で、言語上も天明期の通社会を下級にしたような、排他的なサークル意識があります。この絵で目立つのは左端の男ですね。気絶した病人と対照的な、さっぱりとしていなせな男前です。粋な縞柄の着物を尻端折にして、手拭いを肩に掛け、右手に煙草入れを持って、菅笠の替りに着替えを小脇に抱えていますが、「知らざぁ云って聞かせやしょう」などと言いそうな出で立ちです。これは朝湯のシーンですから時間的には大分先ですが、下の巻の午後の湯で威勢の良い啖呵を切るのが、どうもこのオニイサンではないかと思われます。言葉つきからして侍らしい酔っぱらいが水を掛けられたと言い掛りを付けて、誤って捉みかかった相手がこの勇み肌という次第です。 
資料はこの喧嘩を描いた挿し絵ですが、裸にしてしまうとせっかくの江戸っ子もぴったりキマった格好にはなりません。関係ない場面にでも、着物を着て煙草入れを下げた姿を描かなければならない理由はここにあります。つまり天明期の通と同様、後期江戸っ子もスタイルの問題なのです。啖呵の文句を御覧になるとこれがもっとはっきりすると思います。いきなり「なんだ、このごっぽうじんめ」と相手を罰当たり呼ばわりして、安酒に酔った奴だと言う意味で「四文一合湯豆腐一盃がせきの山で、に、に、濁酒の粕食か」と来ます。「に、に、」と力んだ所が「か、か、か、か、」と怒る歌舞伎の荒事師のもの凄い形相を連想させます。それから「知らざあ言って」式に、「誰だと思ってたはごとをつきやあがる。2日の初湯ッから大卅日の夜半まで、是計もいざァ云った亀のねへ東子だ。」と、江戸っ子の名乗りを上げるのに長々しい修飾語を使います。相手を貶すのにも、目高のような小物が孑孑でも追いかけるのが相応なところを、鯨を呑み込もうというのは量見違いだなどと、比愉が大袈裟です。 
「こういっちゃしちもくれんだけれど」などと、「うるさい」という意味の流行語を使いたいために、酔っぱらいに対して要らさる言い訳までしています。流暢な早口でポンポン言っていますが、結局、言っていることには全く意味がない、無駄な言葉の羅列が楽しくて仕方がない、というのが江戸っ子です。ここでも「江戸っ子」は言葉で成り立っています。天明期の「江戸っ子」の場合は、それを定義するという型で余分の言葉を浪費しますが、化政期の場合は「江戸っ子」という人物を作って、その口を通して言葉を浪費する形になります。それ故に、前期の「江戸っ子」は客観的なイメージであり、後期のものは「自祢江戸っ子」のセルフ・サービスと考えがちですが、実は、誰が江戸っ子を語るかの違いだけです。「江戸っ子」や「江戸もの」が文学作品にはかり現われて日記や随筆には稀だという西山氏の指摘は、こういうイメージが実際社会のものでなく、創作上のトリックに過ぎないことを如実に語っています。 
作者たちがサークル活動で言葉をもって捏造した嘘っ八なのです。但し、戯作、歌舞伎、浮世絵のどれを取っても、読者や観客が創作のサークルに入っています。工業資本主義以前の広告と同じ意味で、読者や観客が同じ趣味の人として作品生成に組み込まれています。作者が職業化するにつれて、読者層が広くなり、サークルの輪が無限に広がりますから、嘘っ八も一般観念として定着してしまうことになります。広告が先行して実体が追いつくというのはそういうことです。 
三馬の描く「江戸っ子」が前期のそれよりも具体的で「リアル」な印象を与えるのは、彼自身が喧嘩っ早い下層江戸っ子だったからというよりも、彼の時期には「江戸」という広告が読者層に普及しており、自身も源内以来の宣伝に心酔しているからです。例えばコンピューターのソフト・ウェアの宣伝に乗せられて購入した人が、使ってみるとその面白さに魅せられ、その製品に関する知識を身に付けますから、人さえ見れば口角泡を飛ばしてその製品の面白さを自慢するのと似ています。元々の製造会社の宣伝に尾ひれが付いて、聞く側にもコンピューターの知識があれば、聞くだけでも面白いし、もっと聞きたがるわけです。そんな風にして「江戸っ子」のイメージが定着し、近代の文化にも残ったように思います。 
「表」と「裏」のレトリック 
「嘘っ八」と申し上げましたが、御覧の通り戯作のスタイルには始めから「嘘だよ」と知らせる遊びがあります。書かれている言葉全部が無駄にされるわけです。「虚実」とか「表と裏」という言い回しが、江戸の文学には「これでもか」と言わんばかりに頻出します。江戸時代の前期、つまり上方の文学にもそういう表現は出て来ます。唯、西鶴の場合は、表向きは質素にしておきながら裏は贅を尽くした嫁入り衣装といったような、建前の裏に本音があるような形になっています。 
近松の場合も、作品の筋や人形の仕草という虚構が人情なり社会なりの真実らしきものを見せるという格好に作ってあります。これに反してエドイズムのレトリックは、「虚実」という基本的な対立までをも鴨にして遊んでやろうとするものです。戯作者たちはその創作方針を「うがち」という言葉で表現していますが、これが英文で戯作を語るときには頭痛の種です。私の“to probe”という訳語に疑問を抱かれた棚橋正博氏から葉書を頂きましたが、実はこれは年来悩んでいる問題なのです。「プローブ」(「証明する」という「プルーブ」、“to prove”とは違います。)は、研究社の「新英和大辞典」には、「(医学用の)探り針で探る」とか、「(手などを入れて)深く探る」の意から、比愉的に「真相を突きとめる」の意が生じていることが明らかです。 
「深く」そして「探る」というのが味噌でして、病人の体内にせよ何にせよ、何か立体的なものを相手に、内部の目に見えない部分にある病因なり何なりを突きとめることになります。実際、“toprobe for truth”(「真理を探り当てる」)という慣用語としてこの動詞が一番頻繁に使われる通り、現実というものは立体であって、その内部の難しい所に、その中心的なもの、つまり「意味」が隠されていて、それを憶測でもって冒険的に探求していくというのが英語の世界観です。最終的な「意味」は神の認識とか自我の認識ですが、そういう根源を求心的に探っていくというのが、ホガースに見る通り、西洋的なレトリックの構成です。さて、戯作の「うがち」の方はといいますと、「穿つ」という動詞は「広辞苑」によりますと、「孔をあける」「穴を掘る」の意から、比愉的に「詮索する」「普通には知られていない所をあばく」の意が発成していることが分かります。 
「プローブ」と違うのは、暗中模索ではなくて穴を開けて見えるようにしてしまうことですね。しかも立体に穴を開けて中味を取り出すような、例えば蘭方医の手術みたいなものではなく、障子や壁に穴を開けて覗き見する程度のものです。従って「表と裏」というような二次元的、平面的な世界観にぴったりのものです。「広辞苑」の言う「詮索する」とか「暴く」とかの対象は何かといいますと、例えば洒落本のうがち、つまり一般には知られていない遊里の様子を見せる、というのが一番典型的かと思います。洒落本の読者層については無知ですが、洒落本の文体を理解するだけの読解力も知識もあり、その上に実際の遊里には疎く、それに付いての知識を得る為に洒落本を読む、という様な読者も居たかも知れません。 
そんな読者を想定しても、洒落本というものは外部に向って語りかける、つまり意味を伝える類のものではありません。この特殊なジャンルを楽しむ読解力を読者間に養成しつつ、仲間うちで楽しむ遊びになっています。洒落本が要求する知識もそれが与える知識も、洒落本の中で作られているものであって、実際経験と関係ない約束事の世界、つまり言葉の世界です。例えば遊女高尾に一夜の情けを恵まれた田子作には洒落本は分からないわけです。仲間うちであればこそ、説明が不用になりますから、地の文を極端に省いて対話だけ書けばいい、即ち漫画が直接絵を見せてあとは読者に任せるのと同じ形になります。 
「表」にあるのが言葉にしろ絵にしろ社会現象にしろ、これの「裏」が真理ではなくて、又言葉や絵になっているとすると、「うがち」には、無くても良い所に態々壁を立てて、それに穴を開けるような覗き見趣味があります。要はどちらが「表」でどちらが「裏」かの問題ではなく、両方を並べて見せるのが江戸のレトリックではないでしょうか。歌舞伎の助六は、「浮世風呂」の勇み肌と同様、登場が一番の見せ所ですね。紫の鉢巻に蛇の目傘という変な出で立ちが吉例になっていて、これを見ただけで「ヤンヤ、ヤンヤ」の大喝釆になりますが、登場がこれだけの価値を持たされる程、助六は高度に記号化されているわけで、これに続く演技はドラマの意味という点では全くの浪費です。 
助六も衣装と小道具を除けば、素っ裸の勇み肌と同様、助六性を失うわけです。助六実は曽我五郎という構成も、表が助六でその本質的な裏は曽我五郎だというのではなく、芝居の人気者の2人物を重ね合わせた、見立ての面白さだけが目立ちます。というわけで、先に申し上げましたが、見立ては一般のパロディーと違います。寺社の霊宝を台所用具に見立てると、両者が同価値になること自体が面白いのです。春画は、見るべきでない情景を見せるという意味で、「裏」を暴いていることになるのですが、その中にも、性交中に見える筈のない性器を露出したり、接吻中に見える筈のない唇をちゃんと描いていたりするのは、「表」と「裏」を同時に見たいという願望の表われと思われます。 
表と裏はこのように同時的に並立されることもありますが、「何某実は誰某」というように転換の形を取ることもあります。総体的には、徳川の封建体制が江戸の「表」で、ここでお考え頂きました「お江戸」はその「裏」であり乍ら、広告のレトリックによってこれが「表」に向けられていると言えます。又、そういうお江戸を体制化しているのが吉原とみることが出来ますね。遊女のランクがあり、規則や儀式まで揃っているのですから、幕府の裏の体制になります。ところがその吉原も、京伝の「錦の裏」などに見る通り、昼間の、つまり全く吉原らしくない吉原、という裏を持っています。品川みたいな裏の遊里が出来ると、吉原などは正真正銘の「表」になってしまいます。遊女が男名前で男っぽいはりを売りものにする深川などは、性別からして裏を行っていることになります。そんなわけで、何処かに辿り着けば最終的な裏という形で本音や真理が掴めるというものではありません。 
「意味」というものは「真理」を頂上にした価値体系ですが、見立てによって何でも同価値にしてしまう江戸のレトリックは、意味から逃れるように出来ています。「トゥリヴィアリズム」とか「フェティッシュな時代」という言葉で江戸文化が語られるのはそのせいです。つまらない物に執着することは幼稚で下等に見えますが、「江戸」はそうではありません。「見立て」といい、「表と裏」といい、言語、広く言えば記号、というものに潜在する性質を、抵抗なく活動させる方法だからです。単語を二つ並べただけでも解釈がまちまちになることからも、言語と意味との関係は両面的(或は多面的)で、しかも可変であることが分かります。そこの所を本能的に見極め、江戸中がぐるになって宣伝している「江戸」というものは、現在の西洋文化の「ポストモダン」と呼ばれる現象と同じ性質のものです。それだけ進んでいるのが江戸文化で、ロゴスの面前でエロスが居直ったような、実に威勢のいいものなのです。取り留めのない長談義になりました。御静聴ありがとうごさいました。
資料 根奈志具佐四之倦 
「行(く)川の流はたへずして、しかももとの水にあらず」と、鴨の長明が筆のすさみ、硯の海のふかきに残、すみだ川の流清らにして、武蔵と下總のさかいなればとて、雨國橋の名も高く、いざこと問(は)むと詠じたる都鳥に引(き)かへ、すれ違う舟の行方は、秋の木の葉の散俘がごとく、長橋の浪に伏は、龍の昼寝をするに似たり。かたへには軽業の太鼓雲に響ば、雷も臍をかゝへて逃去(り)、素麺の高盛は、降つゝの手に葉を移て、小人嶋の不二山かと思ほゆ。長命丸の看板に、親子連は袖を掩ひ、編笠提た男には、田舎侍懐をおさへてかた寄(り)、利口のほうかしは、豆と徳利を覆し、西瓜のたち売は、行燈の朱を奪う事を憎。 
虫の声〃は一荷の秋を荷ひ、ひやつこい■は、清水流ぬ柳陰に立(ち)寄(り)、稽古じやうるりの乙は、さんげ■に打消れ、五十嵐のふん■たるは、かば焼の匂ひにおさる。浮絵を見るものは、壷中の仙を思ひ、硝子細工にたかる群集は、夏の氷柱かと疑ふ。鉢植の木は水に蘇、はりぬきの亀は風を以て魂とす。淡雪の塩からく、幾世餅の甘たるく、かんばやしか赤前だれは、つめられた跡所斑に、若盛が二階座敷は好次第の馳走ぶり、燈寵売は世帯の闇を照し、こはだのすしは諸人の酔を催す。髪結床には紋を彩、茶店には薬椀をかゝやかす。 
講釈師の黄色なる声、玉子■の白声、あめ売が口の旨、かやの淡切が横なまり、燈瀧草店は珊瑚樹をならべ、玉濁黍は鮫をかざる。茶舟・ひらだ・猪牙・屋根舟、屋形舟の数〃、花を飾る吉野が風流、高尾には踊子の紅葉の袖をひるがへし、えびすの笑声は商人の仲ケ間舟、坊主のかこひものは大黒にての出合、酒の海に肴の築嶋せしは、兵庫とこそは知られたり。琴あれば三弦あり、樂あれば囃子あり、拳あれば獅子あり、身ぶりあれば声色あり、めりやす舟のゆう■たる、さわぎ舟の拍子に乗(つ)て、船頭もさつさおせ■とろをはやめ、祇園ばやしの鉦太鼓、どらにやう鉢のいたづらさわぎ、葛西舟の悪くさきまで、入(り)乱(れ)たる舟・いかだ、誠にかゝる繁栄は、江戸の外に又有(る)べきにもあらず。 
資料 元日篇 
君不見元日御江戸 大名小路御門前 春風吹送素胞袖 若水汲入雑煎膳 早稲 売声春向姿 万歳楽歌招童児 早来四逡飴宝引 物申年始御祝儀 祝儀嘉例家 家事 目出度兮此一時 一時栄花夢之裏 先生寐惚欲何之 上下敝果犬小賎  憶出算用昨夜悲・昨夜算用雖不立 武士不食高楊枝 今朝屠蘇露未嘗 浮出門 前松竹傍 共謂御慶御愛度 共謂御杯御春長 双六新板年年改 宝引勝負夜夜 深 夜夜年年過松下 白髪頭而無銭金 今日 為姑 昨日姉 憶昔一休御用心  
資料 通言總籬  
金の魚虎をにらんで、水道の水を、産湯に浴て、御膝元に生れ出ては、拝搗の米を喰て、乳母日傘にて長、金銀の細螺はじきに、陸奥山も卑とし、吉原本田の■筆の間に、安房上總も近しとす。隅水の■も中落を喰ず、本町の角屋敷をなげて大門を打は、人の心の花にぞありける。江戸ッ子の根生骨、萬事に渡る日本ばしの眞中から、ふりさけみれば祇風や、伊勢町の新道に、奉公人口入所といふ簡板のすぢむこふ、いつでも黒格子に、らんのはち植の出してあるは、芝蘭の友を旦那と稱ず、江戸がみの、北里喜之介が住居、鮑魚のいちぐらに同じ門口、くだすだれの外に、仇気屋のひとりむすこ 
資料 
イサミ つきとばしてなんだ此ごつぽう人め。四文一合湯豆腐一盃がせきの山で、に、に、濁酒の粕食め。とんだ奴じやアねへかい。誰だと思つてたはごとをつきやアがる。2日の初湯ツから大晦日の夜半まで、是計もいざア云た事のねへ東子だ。ナア、斯う云ちやアしちもくれんだけれど  トリサユルヒト「ハテサまあ能はな イサミ「インニヤサおめへまでがおつかじめる事アねへはな。此方は大体は事アりやうけんして、ちんころがうんこを踏だやうな面で通さアな。無面目も程があらア。何処の釣瓶へ引かゝつた野郎か、水心もしらねへ泡ア吹ア。コレヤイ、六十六部に立山の話を聞アしめへし、あたまツからおどかしをくふもんかへ。石菖鉢の目高なら、支躰相応な子子をおつかけてりやアまだしもだに、鯨や鯱を呑うとは、大それた芥子之助だア。掘抜の足代へ、家鴨が登らうといふざまで、おれに取てかゝつたのが胸屎だ 。 
 
和算と漢算を通してみた日韓文化比較

 

私はもともと数学者であり、数学とは世界中どこでも同じであるというように教育され、そう信じて来た。 いわゆるデカルト哲学で言う知性とは人類共通の普遍なものという考えである。しかし同じ教科書を以て始まった数学が国毎に違うことがありうることを数学史の研究を通じて痛感した。 勿論、伝統数学の枠組みでのことである。かつて鎖国のように互いの往来を極度に制限される状態の中では、民族毎に伝統文化の枠組の中で形成された別個の数学が存在し得るといえる。 
ここでいう数学は特に各民族の合理精神の象徴としての精神的な構成物である。この違いは文化の諸相すべてに同じ程度に表われる。 
文化圏の名に値するものであれば、必ずそこには独自の科学、芸術、文学、宗教の体系があり、異質の文化圏との間にはそれぞれの分野が対応する。例えば韓国と日本を例にとっていうならば、韓国の数学には日本の和算があり、文学、芸術、宗教など各々の文化の諸相は時間軸を中心に置いて相対応している。 
私はこのような異質な文化を生むものの核心には各文化圏、民族圏には独自の原型があるためであり、それが時代の条件の中で各文化の分野を形成してゆくものと信じる。 
又、原型は民族形成時、祖先の平均的な体験の中で形成された。丁度民族語が変わらないように、一旦形成された原型はその後の民族文化の核となって各時代の文化を貫通してゆく。この事実を交響楽にたとえるとわかり易い。原型は楽譜に相当し、各楽器の奏する楽音は異なるものの全体としては調和がある。文化の諸相が夫々違ってはいても一時代の文化が調和するのと同じ理由による。第一、第二・・の楽章は異なっていてもそのモテイフには変わらない。各時代の文化は違っていても常に民族固有の性格原型が貫通するからだ。祖先の平均的な体験の中で最も多くのものは風土との係わり合いの中でなされたものであり、多くの韓国人は故国を離れて異文化圏の中で生活を営んでいる。それらは民族原型を維持しながらも、それをはじめて形成した風土との係わり合いを持ち合わせていない。このことは在米のユダヤ人についても言えることである。 
在日韓国人の文化を考えることは在米ユダヤ人の文化は勿論、国際化しつつある全世界の人々が当面する新しい文化の意味を考えさせるであろう。この事実は在米の日本人についても言えるであろう。 
言語と民族性に深い関係がある。一旦形成された民族語は変わらない。それと同じように民族形成の時期に備わった民族の基本的性格は変わらない。時間的、空間的に離れていても同一民族としての共通性は存在する。原型が失われることは民族として存在しえない状態である。民族とは原型を共有する集合ともいえる。 
風土とそれに対応して形成された社会構造に深い係わり合いをもって形成された原型が、それとの係わり合いが殆ど失われてくる都市、新しい科学技術の作り出す環境の中で自己のアイデンティティの核を維持させるものはどのように変質してゆくであろうか。このことは国際化が進展する中で今後の世界文化を考える上で大きな課題となろう。特に自然環境が急速に破壊されてゆく今日の状況下で民族原型、ひいては人類の原型の変質の意味するものが問われてくる。イデオロギ−の終焉が叫ばれ、民族問題が世界的規模で拡散してゆく状況の中で、民族原型と文化あるいは風土と文化の課題を考えたい。
国によって数学すら異なる  
私は韓国と日本の数学を比較しているうちに奇妙なことに気がついた。日本の和算も韓国の数学も共に中国の算学書を基本的な教科書として採択していた。日本には古いところでは養老令によってきめられている算学制度がある。当時大和朝廷で採択された算学の教科課程は唐のものというよりむしろ、一旦百済あるいは新羅で再編集されたものをそのまま採択している。この事実は新羅と大和の算学制度を比較するとすぐわかる。しかし一応体裁だけはととのっていたもののこのときの日本の算学制度はすぐに立ち消えになってしまった。そのためこの制度はそれほど大きな影響を後世にまで及ぼしていない。そこで比較の対象になるのは江戸時代の和算である。和算の種本となったものの中には秀吉の侵略戦争スベニアとして持ち帰ったものが多かった。当然、はじめの内は日本の数学者達も韓国のそれと共通した算数をやったと見てよい。それが百年くらいたつとまったく異質といって良いくらい違う内容になってくる。 
当時算書は算経と呼ばれもした。「経」という文字からも推察できるようにその内容は手軽に変える性質のものではないというのが韓国、特に朝鮮王朝時代の算学者の考え方であった。しかし、日本の算学者達はそんなことには一切お構いなく、むしろどんどんと美しく楽しいものに作り変えていった。元来いくらでも改良の余地があるのが数学であるというものの、日本の場合は、特にはじめからそうすることを是としていた。韓国算学者達にもそれなりの創造性はあったが、韓国人は何等かの思想的背景がないと創造できない。 
この事実は日本の算学者の集団と朝鮮算学者のそれを比べるとすぐわかる。日本の算学者は関流、曾田流など各流派を形成し各々その技を競い、算額などを神社、佛閣に掲げ新しい算技を競争した。 
一方朝鮮算学者の中核は王朝に寄生した中人と呼ばれる技術官僚であり、時代が下ると共に世襲の傾向が強くなる。官僚制と世襲は固定した標準教科書を遵守させてゆく特に当時の儒学(朱子学)的教養を背景にした数学研究は一層その内容を硬化させた。 
韓国の学者達が最も熱を注いだのが魔法陣の研究であった。朝鮮王朝の数学者にとってはこのような魔法陣は数の調和であり、一種の哲学的な観念すらも伴っていたとみられる。日本の算学者達も魔法陣の研究はしている。しかしそれほどの哲学的な関心はなく、むしろ遊び半分であり、特に三角形に内接する無限の円列の面積の総和などにその創造性を発揮した。 
(A)は朝鮮の算学者が好んで研究した一種の魔法陣である 魔法陣とは1から一定の数までの数字を重複させることなく、又除外することなくならべその総和一定の数を保つようにする。ここでは1から30迄の数をすべて重複させることなく使用し各小六角形の数を93にしている。朝鮮算学者にとってはこれは単なる数の遊びではない。六角形の六は五行説の水に相当する。9個の小六角形を組合せながら一種の啓蒙的な法悦を感じていたと見える。ボエチウス(Boethius)が、スコラ哲学と数学を組合せながら寺院数学を楽しんだ事とその方法において一種の共通性がある。ここでは朱子学と数の組合せとも言えよう。 
(B)は日本の和算家が好んだ問題はいくら狭い空間にも円を書いてゆく。(図B 省略) 
このような考えに関しては、日本で最も有能な実業といわれるソニ−の会長盛田昭夫の主張するスキマ産業論 がある。その内容はAとBの会社が一生懸命がんばっているところへそのまま飛び込んではいけない。むしろそれらの間にできるすき間をねらえという。いくら大会社同士がせり合っていても、必ずその接点のできるところにはすき間がある。その中で一等になりなさいというすすめである。なんとこの考え方が日本的な、三角形に内接する無限の円列のことを対象とする和算の考え方に共通している。これは、和算だけに限らず、日本人の人生観にもよく表われてくる。秀吉がもし、今日生まれたとすれば、至極有能なビジネスマンになったであろう。彼がその部下黒田如水から「いかにして、そのような地位にのぼったか」と聞かれたときに、「自分は何も先のことを考えなかった。ただ一つの仕事をしている間はその仕事をできるだけ忠実に勤めたばかりであった」と答えたという。やはりここにも日本人の空間観があるようだ。どんなところにも自分の力を発揮するに足る空間があるというものであり、それはまた一所懸命、あるいは一生懸命の思想に通じるものであろう。どこでもよい与えられた場所を、そのまま肯定してその中を掘り下げてゆくと、必ず一つの天地がひらけてくるというのだ。「針の穴から天井をのぞく」ことを考える民ならではの発想といえよう。 
一方韓国の算学者の仕事には、和算に見られる狭いところをどんどんきわめていくという態度が見られない。特に三角形に内接する無限円列などは一切興味の対象にすらなれなかった。
算盤 
日本最古の算盤といわれているもので、秀吉軍の前進基地である名護屋城にいた前田家の陣営で使われていたものがある。中国系のもので上段に二つの珠があり、下段に五つの珠がある。恐らくこれもまたその戦争中、朝鮮のどこかで得たものであろう。韓国ではそれと同じものをその後も改良することなく使っていたが、日本では 一旦これが普及しはじめるとすぐに上段の二つの珠の中一つがなくなり、その後、下段の五個の中、一個も外され、結局上の珠は一つ、下の珠は四つということになってしまう。この改良の仕方は極めて現実的で長く算盤を使っていると自然にそのようになってくる。 
算盤はもともと五進法の原理から作られたものであり、韓国人はついぞこの原理の呪縛から離れることができなかったが、日本人はそんな原理にお構いなしに使い易さだけを考えてどんどん珠を外して行った。 
このことは創造性のあるなしとは関係のない価値観の問題であろう。私ははじめのうちはこの算盤の改良の原因を便宜さだけであったと考え、漠然と日本には商業が発達したためだろうと思っていた。西洋ではイタリアのベネチアの商人の例に見られるように計算器具と簿記は商業の発達に平行してなされている。 
しかし韓国では複式簿記が、すでに高麗末15世紀の初めの頃発明され実用化していた。その時期については多少の異論はあるが、朝鮮時代に使われたのは事実であり、その遺物もある。一方、日本に複式簿記が使われ始めたのは、福沢諭吉の紹介によるもので明治以降のことであった。韓国の複式簿記は高麗の首都(開城)の商人が発明したといわれ「松都四介治簿法」と呼ばれている。松都とは開城の別名である。それが発明されたのは商人達の間であったから現実の必要があってのことだが、実用面だけが問題であったとすれば、算盤の改良もできたはずだ。この発明には現実のこともさることながら、むしろその背景には陰陽五行説的な思考があったと指摘されている。(尹根鍋「松都四介治簿法」について) 
具体的にはむしろ易学的な陰陽論による二進法的な論理の展開である。大極があって陰陽に分裂し、それが四家、八掛という具合に展開してゆく。取引きの結果をこういった具合に考えてゆくとその記録が複式簿記のそれに一致するという。
和算発展の理由 
中国系の数学の優れた面は方程式論にあらわれた。ギリシャ数学の特徴がユ−クリット幾何学にあったのとは 対照的であった。それはいみじくも東洋の不可知論なる陰陽論とギリシャの存在論の対照性を具体的に反映しているといえよう。 
特に中国の天元術は算木を利用した器械的代数学であった。この内容は高次の数字係数方程式の解法でありヨーロッパでは1819年英国のホナ−(Horner)によってはじめて発表された。中国ではそれに先立つ事六百年も前になる。天元術に関しては朝鮮、日本にそれを伝えたのは「算学啓蒙」であろうと推測されている。又「算学啓蒙」は算木の列べ方が圖によって示されている。朝鮮算学者はこの算木を最後まで固守した。一方日本の和算家達はすぐに算木をすて、それを直接用いることがなくなり「算学啓蒙」になぞって圖をもってえがきながら理解し、その后それを記号化した。 
こうした過程で、器械代数学か筆算代数、記号代数と発展していった。丁度算盤の珠を一つづつ失くしてゆくのと同じ発想法により算木を気軽に筆算に変えてゆくことによってその内容をより便利にし、新らしく記号代数にまで発展させたのだ。このような韓国人と日本人の数学研究の態度に一貫したパタ−ンがあることがわかる。朝鮮算学者は原理、原則に忠実な正統主義者であり、日本の和算家、元本の原則に拘はらない現実主義の立場であった、といえよう。 
「便利でさえあればすぐに変えてゆく」「多少便利であっても原則は変えることは出来ない、最後まで原則を守る。」 
かかる態度は各自の原型に基づくものであり、容易に変えることが出来ず、歴史展開の様相までにも深く影響を与えて来た。
カナの作り方 
これらの例からみて、韓国人と日本人は合理的な思考においてですら別々の仕方でやるらしいことがよくわかった。 
よく「必要は発明の母」をいわれる。同じ必要という契機があっても、韓国人と日本人の発明品は違うのだ。原型が違うのでまったく違ったものを生みだすという結論に達した。もう一つ例を考えてみたい。 
日本語の文法構造は韓国語と全く一致する。しかし中国語とは基本的に大きく異なる。韓日両国語は膠着語であり、中国語は孤立語と分類されている。世界史の流れからして、韓国と日本の文明は比較的遅い時期になされた。独自の文字を持たなかった韓国人は中国人の発明した漢字を借用していた。日本もその点変りない。 
古代の日本文字は万葉仮名と呼ばれたが、その内容は韓国古代の吏讀とよく似ている。完全に一致するものさえ少なくない。たとえば伊・加などは共通してイ・カと読んでいる。古代日本文化の多くが韓半島から伝わったが恐らく万葉文字も例外でなかったようだ。日本語と韓国語は言語構造が全く同じであったというのもおろか、ある時期においては言語そのものが同じであったと考えられるふしもある。 
韓日両国民が中国文字を使用することで味わった不便さはほとんど同じ程度であったに違いない。この不便さを克服せんがため、日本人はいちはやく仮名を、韓国民はハングル文字を発明した。しかしその内容と発明過程は著しく対照的であった。 
万葉仮名よりかな文字への変化過程については学者によっては少しずつ異なる意見もある。しかし大まかに見て、それらの共通点は次のようになる。 
いわゆる単純化だ。この過程では万葉仮名の一部を切り落として仮名をつくり上げている。別に思想などというものを大上段にふりかざさず、気楽にちょいちょいと削っている。 
韓国のハングル創作の仕方は全く日本と異なり哲学めいたものを正面から打ち出している。 
世宗25年(1443)12月に発布された「訓民正音」(ハングル)はデカルト的な意味の分析と綜合の構造をもつ。ひいき目なしの科学的な創製物であった。しかし思想的背景は、日本人の目から見れば仰々しいと言えよう。 
たとえば母音は天・地・人の三才を象形するものとして、天円地方の哲学を採用し、天は陽だから、それを表わすに〇、地は陰にして□といった具合である。 
ハングルに丸や四角があるのはこのためである。さらにすすんで、発声器官の各部位をかたどったといわれる28個からなる国字(ハングル)の基本要素を五音・五時・五行に分類し、母音を陰陽に対応させてみるなど、当時の東洋思想・中国古典の考えを採用して、陰陽五行説・易学の思想・大極説までを引き出している。これらの古い自然哲学を下敷きにして新しい発明を権威づけているのが特徴といえよう。いわば、韓国人には何等かの 理由なしには新しいものが創造できないらしい。このような考え方は何もハングルに限らず韓国人の一般的傾向でもある。 
「かな」と「ハングル」はその後の日本語と韓国語の変遷の仕方に大きく影響した。「奈良時代の仏典は朝鮮 語で読まれていた」(田村圓澄「続日本古代史の謎」)といわれるくらい、古代に遡るほど両国語は近いものであった。 
にもかかわらず両国語が今日のように一見別物に見られるようになったのはひとえに文字の違いからくるものであったと言えよう。ある分岐点においてちょっとした違いはその後の両者の歴史の流れを完全に異なるものにした。 
かなの創製に見られる日本的発想 
私の知っている限りでもかなの種類は3もある。カタカナ、ひらかな、変態仮名などである。萬葉仮名の不便 さを克服する為とはいえこうしたいくるものかな文字を創製した背景には日本人固有の思考法があるといえよう。普遍性なものよりもその場、その場での要請に応じて適宜なものを作り出し、一旦つくられたものは否定されることなく他のものと共存させる思考法だ。この思考は各分野において流派を形成させる。数学にも関流、会田流をはじめ何種類に及ぶ流派があった。オランダ医学を導入した后にもいくつもの流派があった。 
剣術、柔術あらゆる芸術、武芸にも流派がある。元は萬葉仮名、元は中国数学、元はオランダ医学などは各々一つのものであっても一旦日本の文化世界に流入するとその何處か一部分を強調することでいくつもの流派を立ててゆく。日本語の「立派」という言葉もこのような思想から生れたものではあるまいか? 
私はわづか六個月の京都滞在中奇妙なことに気がついた。私の住居の近くに2軒の「キムラ」という食肉店が ある。チェイン店にしては余りにも近い距離なので不思議に思った。お宅の店は向う側の店とどんな関係なのですか?と聞いたその答は全く意外なものであった。 
「全く関係は御座居ません。私の店はカタカナの「キムラ」でステ−キが専門であちらは平かなの「きむら」でホルモンが専門なのです。」 
その后しばらくしてもう少し離れた場所にロ−マ字で「KIMURA」と看板を立てた肉屋があることに気づいた。まだ何が専門なのかは聞いてはいないがそれなりの専門品目があるのではないか、又その内、漢字の木村 という食肉店が出てくるような気がしてならない。 
果して韓国人であったならこのような事がありうるかを考えて見た。 
ソウルには洪陵という所に有名なカルビ店がある。洪陵カルビと言えばソウルの名物にも数えられる位である。ところがしばらくして少し離れた所に元祖洪陵カルビという看板をかけた店が現われた。もうしばらくすると本物洪陵カルビ店が出現し、その后に又本物元祖洪陵カルビという長たらしい看板も出廻りはじめた。これは一つ の肉屋、カルビ屋さんに関する話であるがあきらかな事は、このような思考がすべての分野に表われることだ。日本人は自分の流派を立てながらほんの僅かな獨自性を誇る、一方韓国人はより普遍なものを求めてゆくと言えよう。その為韓国には流派が形成されない。一方、正統性、原理主義の強い主張のある傾向を帯びてゆく。
和算の発想(単純化) 
日本の和算が発達した理由は前にも少し述べたように中国特有の算木を捨てることによってなされた。もともと中国の算学は方程式との関わりで発達し、その解き方には算木を利用した。 
算木と易占いの卦木を同じように見立てていた傾向もあったようだ。そのためか韓国の算学者は一種の神秘思想に拘り算木に対して執着する度も強かった。日本の算学者は筆算、つまり記号化し、ごく自然に記号代数学をつくりあげる。一旦筆算化するとその便利なことは到底、算木の及ぶところではない。遂に和算特有の円理を生み出す。これは単純化の精神が成功したよい例である。 
文字(かな)、算盤、和算などに見られる日本人の思考は根本的な発明ではない。それよりむしろ、一旦受け入れたものを改良するいわば改良工学的な思考である。今日、日本の経済を成長せしめた家電製品、半導体など の応用にはよくこの考え方が表れている。日本の和算研究家、三上義夫氏はこのことを「単純化を貴ぶ精神」と指摘している。まさにパソコン、テ−プレコ−ダ−、ウォ−クマンなどが単純化によってなされた。 
単純化とはその対象が元来もっていた原則的な「考え」、思想などに拘らないことから可能である。例えば「加」からカがつくられてくるときには、加えるという意味に拘らないから可能なのだ。韓国人は日本人と同じ 加をカと発音しながらも、その意味に拘るためカナ文字を作ることができなかったのだ。このような現象は文字に限らない。韓日間の文化の諸相が殆どこのように同じ程度の差を以て違っている。再び強調する。 
即ちこれらの相違は、原型が異なるためであった。 
原型史観 
世界各地では新しい民族紛争があり、それぞれが分裂・統一を目指している。分離するのも、統一するのもそれらは同じ民族同士で固まっていこうとする民族原型の願いの表れである。国籍と、民族籍を一つにしようと必死になって企図しているのだ。戦後創設された国際連合の加盟国数は60そこそこであったが、今や150カ国におよび、21世紀までには200台に至るという推測もある。 
このような世界情勢の中で真に未来を展望しうる方法は、在来の歴史観ではありえない。私はここで原型史観を主張する。振り返ってみると、今まで多くの歴史観が提出されてきた。古いところでは東洋の春秋史観、ツキ ジデスに代表されるギリシャの歴史観(ヒストリア)、ユダヤの神中心史観などがあり、近いところではマルクス史観、カ−ライルの英雄史観、トインビ−の歴史観もある。 
これらの歴史観は共通して歴史の展開には何か中心となるものがあることを主張する。それは天、法則性、神、経済力、英雄、抑圧された性、歴史意志などであり、最近「歴史の終焉」で一躍有名になったフクヤマはスモス (THMOS、気品、自尊、自負)であると主張する。 
これらすべての歴史家の主張する歴史の核は異なる。しかしよく見ると、すべての時期における歴史展開の原動力はほかならぬ、民族の集合的無意識、すなわち「原型」であることがわかる。民族性は初めて民族が形成されたとき、その成員たちの共通した歴史体験によって形成される。そこには風土、民族融合の過程が大きく反映される。しかし一旦形成された民族の基本的な性格、すなわち原型は変わらない。時代条件の中で微妙な変化はするものの基本的な性格は変わらない。 
言語と思考の間には深い関係がある。「言語は思想の化石」といわれるくらいである。民族語、民族原型は表裏一体となっているのだ。どの民族でも自身の民族語を固守しようとする。それは民族の原型であるからだ。民 族とは原型を共有するもののあつまりなのである。民族の歴史にその原型が貫通するのは民族語が変わらないのと同じ理由による。人間の教育期間は長い。民族語はそこへ生まれたものを代々父母、またはその社会が受け継ぐ。それが民族にとっての「三つ子の魂百まで」となる。民族性には先着効果(The effects of the first settlement )がある。いくら少数とはいえ一定の地域に先に到達したものたちが形成した文化の特性は、その後いくらほかの人種が多く来て一緒に住んでも、先住者を圧倒しないかぎり根源的には変わらない。 
アメリカ語とアメリカ原型は初めて大陸に定着したものたちによって作られた様に、日本列島でも同じことが弥生時代に起こった。以上のことを確認し、要約すると、「原型史観」の基本的な考え方は次のようなものである。 
一 民族には各々独自の原型がある。それらの間に優劣はない。文化相対主義の立場でもある。 
二 原型と時代条件がうまく適応すれば民族の反映をもたらし、その逆は衰退に至る。 
三 民族の滅亡は原型の無自覚な変更と同質である。 
四 新しい文化が外から入ると必ず原型に濾過され、民族独自の性格を表わす。 
五 民族の品格、倫理性は原型にもっとも肯定的に昇華されたときに生まれる。 
六 民族の歴史は「原型と時代的条件の緊張関係」の中で展開される。特に歴史の繰り返し現象は変わらぬ原型と同じような時代的な状況の中で生まれる。 
民族の歴史はその原型に基づいて展開されて来たのだ。 
一方情報化がすすみ、国際化が加速される中で民族文化の普遍的傾向を帯びてくる。イデオロギ−の終焉が現実となった今日、このように原型を中心とした歴史観が説得力をもって来る。各民族は自己の原型を下敷にして 民主的な社会を作り出してゆくものと見られるいわゆる民族・民主々義(ethnocracy)を目指すようになろう。
自然と人間 
人間の生き方は、すべてが自然に適応する形でなされている科学・技術の水準・性格などがそれに対応する社会の構造を異にし、たとえそれら風土と社会構造の関係があからさまに見えないかもしれないが、自然の力があまりにも大きく気がついていないだけのことであって、自然のあり方にさからっては、そもそも人間は存在しようがない。人間の顔付きや体の構造が対称になっているのもまた、安定感や美醜の標準があるのも、すべて地球の引力のためである。 
特に自然の条件は基本単位の社会構造を基本的に規制する韓国と日本の基本的社会単位に多くの一致が見られる。 しかしその内容は大きく異なる。自然条件のためである。 
日本の村の中心には鎮守の森があり、村のはずれには寺、すなわち共同墓地がある。古い村の周囲にはよく環濠がつくられていた。環濠集落は水利施設を中心にして、作られた村ともいえよう。「ムル」と「ミズ」は同じ 系統の言葉である。 
さて水である「ム」があるところに人々は集まり「ムレ」をなす。古代にはムレを牟礼と書いたが、今日では「群れ」となっている。韓国語では「群れ」をムリという。人々が「ムレ」ると「ムラ」ができる。古代にはそ れを牟羅と表わした。今の村だ。 
韓国語でも古代にはムラ(マウル)は牟羅と表わした。中国の史書には「新羅では首都(慶州)を健牟羅という」との記録がある。健は韓国訓みでクンであり、それは大きいという意味である。つまり首都はクンムラ(健 牟羅)「大きい村」であった。数年前、慶州の近くにある古い部落の入口に立てていたものと見られる碑石が発見された。そこには、その部落のことを牟羅と表わしていた。 
ムラが多くあつまると郡になる。日本語での訓みは「コオリ」だ。郡山、下郡、小郡などの地名でお馴染みだ。ところで韓国でも郡はコウルだ。もちろん、古代日本でもコオルをコウルといっていたに違いない。 
郡(コオル)がいくつもあつまると国になる。国を韓国語では奈良という。ちょっと説明が長くなった。ここで以上の内容を整理しておこう。 
        (水)  (群)  (村) → (郡) → (国)    
日本語   ミズ→ ムレ →  牟羅  →  コオリ →     
        ↑                   ↓     
    古代ツングスム(古代高句麗語ミ)    奈良   
        ↓                   ↑     
韓国語   ムル → ムリ → 牟羅  →  コオリ →       
                 (古代)                 
奈良は韓国で国という意味をもつ。万葉集にある、「あをによし 奈良の都」 とあるが、「奈良のみやこ」は国のみやこと解釈するのが自然である。しかしこれほどまでに一致するにも拘らず日韓の原型は大きく違う。
文明と原型 
村を中心とした社会の条件が日本原型をつくった。原型が一旦、形成されると、その人々が他の地域に移住しても、それほど変わるものではない。はじめは九州・大和地方で形成された原型であっても、人々が日本列島に拡散していく中で、原型はほとんどそのままもっていかれた。この事実はアメリカ大陸でのできごとと比べてみるとわかりやすい。 
米国の原型はヨーロッパのものを変形させたものであり、またアメリカ的なものになった。それは一旦米大陸の東部で形成されたが、人々の西進と共に開拓地は拡散してゆく。そのままほとんど全大陸に共通している。 
日本の原型は弥生時代に作られた。おそらくそれがはじめて作られた場所は九州を中心とする日本列島の一部の地域にあったに違いない。 
弥生革命と呼ばれるにふさわしい大変革であった。その内容は縄文時代とは全く異質なものであり、縄文文化 の基盤から自生的に生まれるようななまぬるい変革内容ではない。あえてその例を世界史にとるとすれば、これまた米大陸のできごとと相通ずる。 
縄文はアメリカ・インディアン文化のようなものであり、そこへ先進のいわば白人文化に相当する稲作と金属文化は入り込んでできたものである。 
このとき言語・人種村(共同体)の作り方までが一切変わった。その後の日本文化に縄文の形跡が全くないとはいわない。今日のアメリカ文化、米語の中にもアメリカ・インディアンの影響はある。そのしかしアメリカ・ インディアンと白人の民族原型は完全に異質である。 
民族の原型は、主に社会的な価値基準による行動パターンを指す。一匹、二匹の蟻を見たところで、その生物的な構造は知れるかもしれないが、その組織的な行動パターンは知る由がないのと同様、単位としての民族にとって重要なのは、社会的な行動に表われるパターンなのである。E・H・カーの「国民性の違いはその社会性に認められる」というのはそのことである。 
文明とは科学・技術など、主として人間の知的な成果を基にしてなされるものであり、それがいくら幼稚なものであろうと、それらの前提なくしては文明は成立しえない。 
一方科学・技術の基盤には、それらを作り出した人間の自然に対する解釈の仕方がある。つまり自然観である。それが科学・技術のあり方を決めてゆく。文明観とはそれぞれ民族の持つ自然観によって推進された人間知の壮大なドラマの結果でもある。 
西洋の科学・技術と東洋のそれとの違いは、いうまでもなく両者の持つ自然観の違いからくる。またその自然観そのものが、自然環境から生み出されているのだ。人々の目に映る自然は自然観を生み、また一旦形成された自然観は逆に目に映る自然のあり方を規制するようになる。そのため同じ風土を対象としながらも、自然観の違いで全く別物のように解釈されてくる。 
各民族のもつ自然観はその原型の重要な部分だ。民族の先祖たちが待ち合わせた自分達の自然環境に対する平均的な見方が、民族の自然観でもあるのだ。一旦形成された民族の自然観は、原型の基礎となる。 
同じアメリカ大陸の自然に対して、白人とアメリカ・インディアンのそれに対する解釈は全く違う。 
白人達は、神の名によって徹底的に耕し管理すべき対象であった大陸の大地はアメリカ土着民にとっては偉大な慈悲深き母の皮膚でもあり肉でもあった。 
東洋と西洋の自然観の相違は、それらの先祖が自分たちを取り巻く風土の中から育み出した。東洋人の自然観 は西洋人のそれとは著しく対照的である。自然と人間は引きはなされるべきものでもなく、決して荒々しくもない。老荘の思想がよく引き合いに出されるところだが、自然への没入、あるいはその中での調和・一致を理想とする。 
しかも、ここで重要なことは、同じ東洋文化圏とはいえ、地域によって大きく違うからだ。特に興味を引くのは、地理的に近く、人種的にほとんど変わらないのにも拘わらず、日本人と韓国人の伝統科学・技術が大きく異なることである。そのくらい大きな自然観の差が、その根底にはあるのだ。 
はじめて稲作をし始めた日本列島において、人々はそれに適応する集団を作り、文化を持つようになった。収集・狩猟生活の集団と、定住して営む稲作社会の集団とでは全然異なる価値観が必要であり、その後の長い間に引き続いた日本の稲作文化は、その原型を洗練させはしたが、変えることはなかった。それは日本語の根幹が変わらないのと同じ理由による。 
稲作は大小さまざまな技術を必要とする。もともとそれらの技術はその風土条件によく適応するように考案されたものであった。例えば雨水との密接な関係について、韓国の場合も日本の場合もほとんど同じだ。しかし、日本列島と韓半島の地勢、特に川の構造が異なる韓国のように主として集中豪雨的なものに対するのと日本の雨 期によく見られるように相当長い間じわじわ降る雨に適応するのでは、集団作業の仕方や技術のあり方が当然異なろう。 
近代以後、人々は徐々に自然や土地から離れはじめた。特に科学・技術は自然と人間の間の距離を広げさせる力でもある。しかし、そこでも人間はやはり組織を持って生きてゆくことには変わりない。たとえ作業の対象が 直接に土や自然に関わるものでなく、機械や電力であろうと、ある一定の組織を以て作業に臨む以上、集団の作り方、集団に対する個人の考え方には伝統的な思考法がそのままひきつがれている。つまり原型は変わらず新しい時代に貫通する。 
日本と韓国の村の構造 
日本の村の中心には共同体の神社があり、その周りには環濠あるいは小河川が流れ村のはずれには共同墓地があることはすでにのべた。 
環濠は村人の共同作業によるものであり、その作業は共同体の神を戴いてなされる。神社が村の中心・墓地が村の外に置かれていることは、公と私の中で一つの選択が迫られると常に公(共同体)に忠実であることを象徴的に示している。日本の風土条件が稲作をするために要請したものである。稲作には共同作業の要求されるのは何処でも共通であるとはいえ、特に日本においては村人の強い連帯が必要であった。私を殺し、公(神・上)を優先するのだ。 
一方韓国の農村は低い山すそに自然の流れを中心に構成された。韓国中どこに行っても低い山の見えない所はない。そのすそ野には必ず部落がある。山すその平地が狭く、流れの水量が少ないため部落は血縁中心につくられる。村の背にある山の陽当たりのよい場所には父祖の墓があり、村の前方に檀木すなはち共同体の神がある。いわば韓国の村落の中心は父祖の墓地であり、共同体の神(土地神)は二の次となっている。共同体の神と父祖の墓の位置は日本と韓国では反対といえる。 
韓国人にとって最も大切なのは共同体の神よりも父祖の墓なのだ。父祖の死体 は山に埋められ、大地の気を吸いとる。生存しているその子孫たちは骨肉を以て父祖のそれとつながる。すなわち生きている者達は埋もれた父祖の体を通じて大 地の気を受け入れることが出来ると信じる。その為韓国人の死は単なる死ではなく土に戻ることである。事実韓国語の死は「トラガンダ」すなわち、「戻る」という意味になる。このような考えのもとで‥帝国人は山勢、河川の流れなどを人為的に変造することを極度に避けて来た。 
韓国人の正統主義(原理主義)的傾向は自然の理に忠実にしたがうという所から発し、すべての文化の諸相がその考えを表している。 
一方に日本の共同体(神)中心主義は力のあるものへの服従となりそれが便宜優先の文化となっていった。 
このような違いは風土に適応した村の構造にあると言えよう。
原型の形成  
新大陸特にアメリカ大陸に植民が開始された時、ある一定の土地に村がつくられそれが発展して都市となってゆく。都市には夫々特有の文化パタ−ンがある。それは人口の多少に関係なく最初にその土地に定着した人々のもった文化の特色、都市形成に際しての体験などを反映する。これを先着効果と呼ぶ。それが原型の性格を決定した。日本の原型は彌生時代につくられた。はじめて日本列島に集落をつくった人々はその風土と開拓、征服の様式などに最も多くの影響を受けた原型を形成した。日本の風土の特徴はアニミズム的であり、いみじくもその内容は「日本書紀」に天孫族の印象として記録されている。彌生文化は稲作を主体とするものであり稲作集落の性格、すなわち集団志向は日本の原型に内在する。 
それは又征服、開拓を伴うものであった。 
もともと農耕文化のはじまりは階級社会をつくり出す傾向がある(ジャン・ジャック・ルソ−「人間不平等起源論」)特に稲作にはその傾向が強く、「魏志倭人伝」には倭人の社会がきわめて階級性がきびしかったことをしのばせる内容が記されている。 
日本語の「かしこ」は漢字では賢、恐、謹、可畏などと書かれる。上=神を恐れ自分の分限を守って生きるのを「賢い」と見なす思想と言えよう。日本の宗教の特性は「恐れ」にあるのもその為である。日本の神道は「崇(たたり)」、日本佛教は「地獄の 思想」(梅原猛)、これらはすべて恐れ(かしこむ)意識を底に敷いたものである。 
一方韓国の稲作は人為的な設備がすくなく水利灌漑なども降水を主として利用する天水田と呼ばれるものであった。人為よりも自然が尚ばれた。又韓半島の風土はシャ−マン的な半乾燥的な要素が濃厚である。韓国人は一(自分)が天(神)という思想をもつようになったのは偶然でない。韓国語の一、天、大などは共通して「ハン」という。韓国はすなわち「ハン」国とよむ。ハンの意識が韓国文化の基層にあるといえよう。 
文化の諸相 
韓算と和算の違いは各分野においても同じ程度に表われることは前に述べた。衣裳・遊戯・作法などは勿論、 文学、芸術などにおいてもそうである。同じ時代風潮に対して民衆の反応の仕方もその原型を忠実に表はす幕末の「おかげ参り」と朝鮮王朝末期の世直し思想(東学党)は同じ理由でなされた。即ち、専制政権の衰退と外圧に不安を感じた民衆の反應であった。しかし結末は全く異なる。又、「春香伝」と「金色夜叉」の世界。日本の相撲と韓国のスモウなど表皮は同じに見えてもその精神は全く異なる・・・それらの違いは原型が異なるためであった。 
そのため文化の一分野だけを選んで比較しても、両者の違いから原型の違いを推測できよう。今日脚光を浴びている数学の一分野「フラクタル理論」における部分と全体の在り方を示す自己相似性とも、あるいは仏教思想 の「一即多」「多即一」の現象ともいえよう。 
文化は時代の軸を中心に展開されてゆく。国際化がすすむ中で各国の文化はいかに展開してゆくであろうか。特に自然破壊がすすみ風土との係わり合いが薄くなる条件のもとでは文化に一種のカオス的現象は避けられないであろう。原型の形成に最も大きな影響を与えた自然が破壊された後、そのまま原型をもつことは精神性に不協和音を発せずには治まらない。情報化の急速な発展はそれを加速化させることもありえよう。しかし、一方では在日韓国人の一部に見られる文化意識の中で原型を維持しながらも普遍性への希求が明確化してくることも指摘できよう。それは在米ユダヤ人の場合も同様であり、肯定的なコスモポリタンの型とも言えよう。今日人類に与えられたる課題は、人類文明のカオスかあるいは普遍化の道であろう。 
21世紀は原型の時代であることは前にも述べた。各民族毎の原型が丁度モザイクの様な形であらわれる現象はより普遍なものへ進展する以外、文化としての存在意義は失われてゆくであろう。その可能性は人類の原型 を生んだ風土、自然の保存であることは言うまでもない。 
 
徳川時代思想における萩生徂徠

 

人間の想像力は不思議です。他の動植物には、そんな想像力は見つかりません。おそらく人間だけが想像力と いう力を持っていますので、他の動植物と随分違います。しかし、人間の想像力にも限界があります。もし、想像の<種>がなければ、想像力はもっと乏しくなります。 
今の小説家は良い例です。常に自分の経験にこだわってロマン小説を書いていますので、現代の小説は東西を 問わず、私小説になります。徳川時代も同じであったと思われます。現実の次に、想像と小説と哲学はついてきます。ある面で何年か前は、想像力の点で、サイエンスフィクションの方が現実よりも先でありましたが、今日では科学の進歩の次にサイエンスフィクションがあります。このように、サイエンスフィクションの世界でも、現実が第一、想像力は第二、であります。極端な例を挙げると、金丸元副総理の事件でしょう。この事件を想像できた小説家がいたでしょうか。これこそ「事実は小説よりも奇なり」です。もちろんまもなく、「金のサークル」か、「ゴールデンサークル」というテーマにもとづいた色々な小説が現われるでしょう。そうなれば、金丸さんは、想像の、<種>になったといえます。 
私の祖国、スウェーデンは良い例です。今のスウェーデンの小説は乏しく、ほとんど読む価値はないと思います。小説の想像の種が無くなったからです。ヴァイキングの精神が失われ、福祉の物質主義に生きているので、小説の想像の<種>がほとんど消えてしまいました。同様に、テレビドラマもとても退屈なものになっています。これが良いのかどうかは、わかりません。もし、スターリンの横暴な事件という現実がなければ、ソルジェニーツィ−Solzhenitsyn (1918−)は、そのような小説を書くことができたでしょうか?きっとこの時代に関しての小説はひとつも現われなかったでしょう。そしてノーベル賞も受賞しなかったでしょう。ノーベル賞は、スターリンのおかげだったのでしょうか? 
この他に、才能という要素もあるが、ここでは省きましょう。 
次に萩生徂徠について記します。1666年−1728年、生まれも育ちも江戸でした。彼の父親は幕府の医者でしたが、徂徠が13才頃に事件を起こし、上総(千葉県)に流されてしまいました。12−3年の流罪の刑を受け、家族と一盾ノ田舎で生活をしました。徂徠の13才頃から24才頃までのことで、この時代は彼の今後の考え方に非常に大きな影響を与えました。彼の考えの一つの<種>になったといえます。例えば、彼の最後の書物、<政談>のなかで上総の経験を参考にしています。 
1960年頃に江戸に戻り、増上寺の近くで、貧乏な生活が始まりました。儒学を勉強して、哲学者を目指していたからです。彼は上総にいた時にも儒学を勉強しており、この勉強を増上寺のお坊さんと一緒に続けました。6年後、お寺の住持のおかげで、側用人、柳沢吉保(1658−1714)の官邸に移って、30才で柳沢吉保のお抱えの儒者になり、 その後死ぬまで儒者として仕えました。しかし、1709年の柳沢の退任後、下町に移り儒学の学校を設立しました。その1709−1728年の間に独自の哲学をつくり、1717年頃から著名になっていきます。 
これが彼の簡単な履歴です。一言で言うと、彼は江戸で生まれて江戸で死んだ、本当の江戸っ子でありました。上総の13年間を除いては、一度だけ1706年に柳沢のために甲斐の国(山梨県)に行っただけで、旅行もしませんでした。伊藤仁斎(1627−1705)を、京都っ子というならば、徂徠は江戸っ子であり、伊藤仁斎の古学の精神が 京都の影響を受けているとするなら、徂徠は江戸の雰囲気に影響されたといえます。 
伊藤仁斎の哲学も萩生徂徠の哲学も2人とも、同じ出発点から始まりました。徳川時代の政治と経済の状況の もとで、彼らは想像の<種>を得、彼らの哲学は発展しました。中国から伝わった儒学が、彼らの想像の次の<種>になりました。彼らの時代は徳川封建制度による、典型的な縦社会であり、その時代の中で彼らは、独自の哲学の足場を築いたのであります。よって、儒学の中でも朱子学が中心でありました。彼らの考え方はいつもこの儒学の枠の範囲から出ることはありませんでした。このことが、私の意識を引いた最初のポイントです:仁斎と徂徠の想像は決して儒学の枠組みから離れず、中国の思想は彼らの思想の<種>でありました。 
しかし、儒学の枠組みの中で、2人とも自分の位置をとっていました。若い時から宗時代の朱子学に影響されて、そろって朱子学者になったと思われます。しかし後には、2人とも朱子学を離れて独自の、いわゆる古学を樹立しました。古学とは簡単に言うと、儒学の正統派であり、宗時代の朱子学を批判しながら、もっと古い儒学の思想に帰ろうとしたものです。 
日本の思想史における古学の代表者といえば、山鹿素行(1622−1685)、伊藤仁斎、萩生徂徠の3人であります。徂徠は、他の2人とは異なった古学の思想者でありました。山鹿素行と伊藤仁斎は2人とも、孔子と孟子の時代に帰って、孔子と孟子の執筆の中に、紀元前4、5世紀の哲学の思想を探していました。徂徠はもっと古い思想を求め、真相を中国の一番古い古典に探していました。そしてついに、本当の真相と真実は中国の六経にあると結論づけました。古い中国、三代--夏、殷、周--の<先王聖人>は、「天下国家を治むる道」--先王の道--を作ったので、彼らだけが聖人で、彼ら以外は聖人ではありませんでした。つまり、孔子も孟子も聖人ではありませんでした。 
このように徂徠は、聖人の信奉者--聖人原理主義者、英語で“Confucian fundamentalist”、正統派でありま した。古い中国の10人ほどの聖人(尭、舜、禹、湯、文、武等)だけが聖人であって、これ以外の聖人は、後の中国でも、もちろん日本でも決していませんでした。このように徂徠は、矛盾しているように思われますが、真の“realisto”でありました。 
国家の道は六経にあるので、学者、特に儒学者は、この道を理解するために学問を必要とします。 
そしてまず、 先王の教えである、詩−書−礼−楽、を学びます。 
この先王の教えは、「和風甘雨の万物を長養するがごとし。万物の品は殊なりといへども、その、養ひを得て草はこれを得て以て草を成し、殻はこれを得て以て殻を成す。なほ人の先王の教以て長ずるものはみな然り。竹はこれを得て以て竹を成し、木はこれを得て以て木を成し、へを得て、以てその材を成し、以て六官. 九官の用に供するがごときのみ。そのいはゆる善に習ひて善なりといふも、またその養ひを得て以て材を成すを謂ふ。」 と、<弁名>に述べられています。 
もし人間が、詩−書−礼−楽を学んだら、彼もまた竹と木と草のように長養できると徂徠は言っています。徂徠は中国の古典、特に六経の研究に重点を置き、彼の学校では、いわゆる古文辞学が中心でした。彼の学校では、 中国人のように、中国語で習わなければなりませんでした。もし、中国語を翻訳してしまうと、言葉の本当の意味とニュアンスを失ってしまうからです。聖人の思想を確実に把握するために、古典の中国語も現代の中国語も理解しなければなりませんでした。徂徠自身は、おそらくこのような中国語の理解ができましたが、彼の学生達が理解できたかどうかは疑わしいと思います。 
徂徠の学問には、常に、聖人の道を習うという目的がありました。荀子が「学問は聖人になる」と言ったのに対して、徂徠は「学問は聖人の道を習うため」としていました。 
徂徠の古学は、1717年頃、彼が50才を過ぎた頃から発展し始めました。それ以前の彼の思想も、古学といえなくはありませんでしたが、彼の二つの本、<弁道>と<弁名>(1717)で初めて、彼の古学がはっきりと現れました。この二つの本で彼は、朱子学を厳しく批判し、自分の聖人に関する考えを現しました。六経をきっかけとして、人間と、人間の社会を新しく解釈しました。朱子学と仁斎に反して、人間の性は善ではないと示していました。彼が「聖人の言わざるところなり」と述べているように、聖人は性については、はっきりとしたことを言っていなかったから、徂徠は、性について中立のスタンスをとっており、性善か性悪かについては、「無用の弁」であると述べていました。 
孟子から朱子と伊藤仁斎にいたるまで、すべての人間には聖人になる可能性があると強調していました。彼らは皆、「仁の道」に及ぶことを訴えました。徂徠はそのように楽天的ではなく、人間が自然に聖人になる徳はないと考えました。人間は個人的に才能を持っているが、この才能は天性のものではなく、天と性のつながりは、直接にはありません。各々が持っている個性的な才能を発達させて、社会の役に立つことができます。もちろん人間はそれぞれ違うので、結果もまた、文人になる人もいれば軍人になる人もいるといったように、それぞれなのです。天とのつながりではなく、人間の個人的な才次第である、ということなのです。 
しかし、徂徠は<弁名>で、「気質なるものは天の性なり」と述べているように、天のつながりを否定したわけではありません。性は人間の気質であり、人間が天からいただいたものなのです。 
徂徠にとって、性は才に匹敵し、その上、人間は心を持っており、心の真ん中には志−人間の意志−があります。「心は人間の主宰である」と<弁名>に述べています。人間の心理的な構造はこのようなものであり、この人間の、志、心、性、を養うために、聖人−先王の礼楽の教えがあります。心をコントロールするために、聖人の楽−music− があり、性を養うために、聖人の礼があります。 
徂徠は、<政談>(およそ1727年頃)のなかで、人間を三つのグループに分けました。「勝れて能き賢才と勝れて悪き人とは各別の事、其外の人何れも同様なり。」と述べています。人間は皆、個々の気質の性を持っているので、得手不得手は人間によって違い、それを養うことによって、違うものになれる可能性もあります。下々の人間も、才によって役人になることができます。気質を発展させるために、六経の中の先王の聖人の教えが必要で、古典の教育が必要なのです。 
このように、個性的な人間が、徂徠の思想の中に生まれました。人間は一様に、天性の才を持つものではなく、 天とのつながりを持つものでもありません。徂徠は儒学の哲学者でありましたが、このように儒学を自分なりに 解釈していました。六経と先王を基に、自分の考えを示し、自分の哲学と思想を現しました。 
こうして、個性的な人間が、日本の思想の中に生まれたのです。 
これはちょうど、ヨーロッパにおいて独自の思想を唱えていたデカルト−Rene Descartes(1596−1650)−に 似ていると思います。デカルトは17世紀の重要な人物で、徂徠のように彼なりのアイデアを確立していました。デカルトは「天につながっている人間はいない」と、人間の世界と天の世界を分け、人間の独自の世界をつくりました。徂徠も同様に天と人間の世界を分け、人間を切り離しました。人間の才と才知は天性のものではなく、現実全体を形而上のことと形而下のことの二つに分けました。デカルトも神と人間とを分けましたが、これはヨーロッパでは初めてのことでした。2人の登場する以前は、現実はひとつのものであったのです。 
天と直接の関係のない独自の人間が、徂徠によって初めて日本の思想に生まれました。伊藤仁斎も、孟子と朱子のように、このような現実の分割をしていません。伊藤仁斎は、常に、天と直接の関係のある人間の天性を主張していました。道は直接天から来て、人間の性と心とつながりがありました。逆に、徂徠の道は、天から直接のものではなく、間接的に聖人のみを通して、天とつながることができます。 
しかし、徂徠は天のことを否定していたわけではなく、この面でも、デカルトと平行していました。デカルトも決して神を否定していません。同様に徂徠は、「自然の道理」「天地自然の道理」「天地人の全体の道理」「理の自然の道理」等と繰り返しています。彼にも宇宙観があり、これは<天運の循環>(Cycle of Heaven)(太平策)でありました。「総じて天地の道理、古きものは次第に消失せ、新き物生ずること、道理の常也。天地の間の一切の物、皆如此。古き物を何程いつまでも抱へ置度思ふとも、力に不叶こと也。材木も朽失せ、五殻も年々に出来替、人も年寄たるは死失て新き人入替ること也。又天地の道理、下より段々上て上になる。昇り詰たるは次第に消失て下より入替ること、是又理の常也。道理如斯…一年の内にも、春夏は天の気下へ下り、地の気上へ升り、天地和合して万物成長す。秋冬になれば、天の気は升り、地の気は下り、天地隔りて和合せず、万物枯失る。」(政談) 
彼は、<弁名>のなかでも、同じ様に述べています。 
「天は解を持たず、人のみな知る所なり。これを望めば 蒼蒼然、冥冥乎として得てこれを測るべからず。日月星辰ここに繋り、風雨寒暑ここに行はる。万物の命を受くる所にして、百神の宗なる者なり。至尊にして比なく、能く踰えてこれを上ぐ者なし。故に古より聖帝 . 明 王、みな天に法りて天下を治め、天道を奉じて以てその政教を行ふ。ここを以て聖人の道、六経の載する所は、みな天を敬するに帰せざる者なし。」(弁名) 
彼は結論を、「天なる者は、得て測るべからざる者なり… 知るべからざる者なり」(弁名)と述べています。彼の天についての考え方は、天を敬うこと、敬天という考え方でした。彼の「敬天」は、ラテン語で mutatis mutandis 、デカルトの“faith in God”に近いと私は思います。 
宇宙の全てのものは新旧交代をする、というふうに、天の道理と天道と天命はみな存在するが、これらすべては、聖人を通して人間の道とつながり、具体化されたのです。先王聖人は中国の三代に天と結びついて道を創りました。後の人々は同じように天と直接結びつくことは出来ず、先王聖人の教えと道を学ぶことによってのみ、 天の意志を理解できるのです。つまり、「先王の道」は、天によって裏づけられ、天によって神聖化されているのです。この聖人の創った道は、政治経済の道、国家のinstitutionsであります。一言で言うと政治なのであります。このように、徂徠の道は外的で、物質的で、まさに人間社会の生活のためのものであり、礼、楽、刑、政であります。日本の歴史の中で、道は始めて政治的な道になりました。以前の徳川の儒学者--林羅山から伊藤仁斎まで--は皆、道徳的なsubjectiveな道を主張しており、長い儒学の伝統の中で、道は常に内的でした。逆に徂徠は、世界的なobjective な道を主張しました。 
聖人の道は、人間のための社会の道で、天の道でも地の道でもありません。以前は、天と地と人間の道はひとつのものでありましたが、大胆にも徂徠は、天の道も地の道も聖人の道から分けて、三つの独立した道を創りました。本当に革命的な新しい考え方でした。 
徂徠は、道を聖人の、<作為>に帰したのです。彼の基本的立場は、「先王の道、古は之れを道術といふ。礼楽之れなり。」(辨道)の言葉にしめされています。 
結局、実学<real learning >は、徂徠にとっては経済的な実際的な学問で、朱子学の道徳的な理想的な実学と違います。彼の思想は、抽象的考え方から、確かなのは人間の道だけであるという具体的考え方に移りました。 
当時の徳川封建制度は、中国の三代に樹立した封建社会をモデルとした完全な縦社会であったけれども、現代社会と同様に、制度が不十分であったので、徂徠は、亡くなる1年か2年程前に<政談>を書いて、八代目将軍吉宗に差し上げたのです。これは現代の言葉で言えば、「政治改革」についての論文であったといえます。現代の目で見ると、政談の考えは保守的でありますが、当時では現実的で前向きな考え方でありました。八代将軍吉宗は、おそらくこの長い論文に従って、国をまとめていったのですが、多くは明治時代になってから実現されました。 
徂徠の思想の出発点は、一つは中国の儒学であったこと、もう一つは徳川の封建社会に過ごしていたことでありました。彼の想像力はこの二重の枠組みの中で揺れ動き、この二重の枠組みは彼の想像の<種>となりました。その結果、はこの儒学的な、封建的な枠組みから動くことなく、封建社会の中でもっと厳しい法律の制度を主張しました。古学の哲学の中で、中国の古い三代の先王聖人にもとづいて、彼らの天からの知恵を使って、封建社会の正当化を見つけました。 
このように徂徠の考え方は、いろんな面で現代的−モダン−でありました。以下に、七つにまとめてみましょう。 
(1) 道は、人間社会の法律という道で、人間がつくり人間が従わなければならない道です。私的な理由で、この法律を犯すことは許されなかった。現代と全く同じです。 
(2) 徂徠以前は、道は一つだったけれども、徂徠の道は一つではなくいろんな道になりました。今日は、何でも主義になる可能性がありますが、徂徠の人間の道は、日本の歴史における最初の主義−いわば最初の<人間主義>−でありました。 
(3) 人間は、形而下の存在でしかなく、賢者か学者になる可能性はもっているが、仏や聖人という形而上の人物になることはできない。今日の人間も、教育と学問を通じて自分の才能を発展させることはできますが、キリストかブッダになる可能性はありません。 
(4) 人間の性−nature−は、気質の性であり、形而下の性で、直接天とのつながりはありません。性は良くも悪くもなく、善でも悪でもありません。「性は材なり」「その才を尽くすことはできず」今日の人間も、天のむすびつきを探すことなどせずに、形而下のものの中で理を探しています。 
(5) 朱子学の理は形而上ではなく形而下であり、理は気質の中の法でしかない。徂徠の、器−理−主義は、今日の科学に近いといえます。 
(6) 徂徠の実学は、歴史的な道を勉強する実学であり、彼の場合は言語学でした。中国の古典と中国の歴史と日本の歴史を彼の実学にしました。儒学の中ではあったけれども、合理的な研究だったので、将来のもっと経験的な合理主義への第一歩となりました。彼の後に、山形蟠桃(1748−1821)と福沢諭吉(1835−1901)と西周(1829−1697)等が続いて、現代の儒学、いわば今日の科学になりました。 
(7) 徂徠は保守的だったので、変化は苦手だったけれども、歴史の変化を意識していました。そういう意味でもモダンの人間でありました。 
このように徂徠はとても現代的であったけれども、純粋な儒学の時代である元禄. 享保時代に生きていたので、 その時代の枠から出ることはありませんでした。 
彼は形而下の自分という、徳川時代の人間のための現実的な考え方を示しました。 
もしこの賢い学者、徂徠が、同じ時代に生きていたイギリス人のジョン. ロック−John Locke (1632−1704)−に出会っていたら、彼の頭の中には新しい思想の<種>が生まれたのではないでしょうか? 
なぜならば、福沢諭吉は1862年にイギリスを訪問した時に、ジョン. ロックの思想に出会い、新しい思想の< 種>を得たからです。今日、壱万円札に印刷されているのは、そのおかげなのです。鋭い頭が、新しい思想の<種>をいただいたからなのです。 
想像はいつも<種>の範囲内で動いているのです。 

近世商人の世界 / 三井高房 「町人考見録」

 

問題の提起 
近世商人の世界−三井高房「町人考見録」を中心に−という題名ですが、まずこのテーマに関して一言説明させていただきたいと思います。このような問題を研究テーマとして取り上げた理由は、一般的に言えば、二つあります。その一つは、個人的、もしくは主観的な理由でしょう。私は、チェコの首都、プラハに住んでいますが、ご承知の通りに、去年五月に、プラハ市と京都市は姉妹都市になりました。その結果、京都の歴史や文化などに非常な興味を持っているプラハの市民はいち早く増えています。したがって、近世経済思想史を専攻している私自身は、京都の歴史に密接な関係がある「町人考見録」をチェコ語に訳し、近世初期における上方商人の生活、文化、経済的な活躍などを一般のチェコ人に紹介してあげようというのは、当然ではないかと思います。 
もう一つの理由がございますが、これは、方法論、つまりこれまで近世商人をめぐる研究の方法と関連させる理由とも言えます。江戸時代の商人については、様々な方法で研究が進められてきました。例えば、浮世草子や浄瑠璃の脚本、黄表紙や滑稽本などの、いわゆる文学作品から考察されたもの、あるいは歌舞伎などの舞台芸術から論じたもの、また商家の家訓や店則などを利用して日本的経営理念を追求したもの、そして石門心学と関連させて類推したものなどの研究でしょう。その結果、江戸時代の商人の世界、とりわけ商人の生活・文化・思想などは、しだいに明らかになってきたが、しかし、先の方法論には、それぞれそれなりの限界があって、まだまだ不十分だと思います。 
すなわち、文学作品を利用する方法の場合には、著作に記された商人の生活・意識・思想などがいつ、どこの、どういう階級の商人のものか分かりにくく、さらには、虚構の許される文学作品なので、歴史的な事実かどうか判然としない場合が多いでしょう。また著者は、商人以外のものであったりして、要するに、こうした文学作品は、商人自身の有様や思想より、むしろ商人に対する非商人の態度を表すものだといった方が正しいと思われます。 
さらに、浄瑠璃や歌舞伎などの舞台芸術から論じられたものには、脚本作者の解釈を実際の商人の思想と思い込む心配があります。 
また、商家の家訓や店則を利用する場合には、その内容が当為であるところから、やはり実態とは考えられず、特に商家経営主側の奉公人に対する願望を、奉公人自身の意識・思想と取り違える危険性もあります。 
そして、心学の盛行の中で論じられる場合には、石田梅岩を初めとする町人学者の思想は詳しいが、心学を熱心に聴いた一般商人自身の思想は少しも明らかではないと思います。 
こうした研究方法に共通する限界は、都市生活者としての商人が抱いた思想を歴史的な事実として確定しにくいという点にあります。したがって、この限界を克服するためには、残された史料を批判的に分析して、その史料の上で史実としての商人思想を再発掘する必要があると思います。実在した商人の思想を抽出することが出来る史料は、比較的に多いですが、しかしこうした史料は、とりわけ江戸時代後期のものです。ところが、中期にさかのぼると、恰好な史料が次第に少なくなり、結局初期の史料が極めて少ない。その点から見れば、今日取り上げた「町人考見録」は確かにその貴重な史料の一例ではないかと思います。 
これまでの「町人考見録」の研究の足跡を振り返って見ると、一般的には、宮本又次氏の「近世町人意識の研究」や「大阪町人論」、さらに作道洋太郎氏の「江戸期商人の革新的行動」などの諸研究はまず頭に浮かんできます。こうした研究には、「町人考見録」が、社会学もしくは経営学の観点からとらえられてきたといってもよいでしょう。 
ところが、元禄期前後の新旧商人の交代の状況を実に魅力的に描いているこの著作を、新商人イデオロギー形成の初段階を代表する作品として取り上げた研究は、知っている限り、極めて少ないと思います。したがって、今日は、「町人考見録」の由来を発掘して、その内容を分析しながら、当時の商人世界の思想的な背景について、話を進めたいと思います。
「町人考見録」の由来・成り立ち 
これはかなり有名な話ですが、1673(延宝元)年8月、三井総本家の祖先と言われる、当時52才の三井高(たか)利(とし)は、江戸本町一丁目に「越後屋」という呉服店を開きました。間口九尺(約2・7メートル)の借店で、使用人は10人足らず、かなり小規模な店でした。資本も少なく、武家屋敷のお得意などが一人もいない状態から出発した越後屋は、多数の老舗が立ち並んでいる本町通りの呉服屋の中で一頭地を抜くように、伝統的な商法を改めて、逸脱的な商法を採用する必要がありました。勿論、こうした新しい商法には、大きなリスクがありました。へたをすれば、倒産ということにもなるかも知れない。だが、最初に飛躍的な利益を望めない高利は、諸国商人売りや店(たな)前(さき)売(うり)という独特的な商法を採用しました。これは、当時の一流の呉服店のルーチン的な商法(つまり、まず得意先を廻ってその注文を聞き、後で好みの品物を持って来る見世物商い、あるいは商品を得意先に持参して売る屋敷売りによる掛け売り)と全く違った新しい戦略でした。 
作道洋太郎氏の説明によると、高利が採用した商法は、当時の新町人層の需要に対して、すぐれて適合的な要素を含んでいたから、まさに時流の波に乗るものでした。しかし、利益を薄くして品物を多く売り、全体としての利益を上げるという、今日では常識的な商法が、ルーチン的な同業者たちの大きな反発の起因となりました。結局、越後屋には、「仲間はずれの者」というラベリングがなされて、このラベルは、江戸町人の脳裡に深く刻み込まれていました。 
逸脱者に対するラベリングによって、逸脱者を追放し、既得権益を守ろうとするのは、「家」没落の恐怖感を持っていた同業者たちの本能的な自己防衛の方法でした。中田易直氏の研究によると、本町通りの大呉服店17軒は1735(享保10)年には約半数の店が現実に没落しました。勿論、高利にもそういう恐怖感がありましたが、結局高利の死後に作られた「町人考見録」は、「家」没落の恐怖感に基づいて書かれていったと言っても、決して過言ではないと思います。 
さて、この「町人考見録」の成り立ちを具体的に見てみましょう。その著者は三井高(たか)房(ふさ)という人物だったと思われます。越後屋の開祖である三井高利の長男高(たか)平(ひら)は、三井北家の初代となり、高平と続いた高房は北家の2代目の主でした。彼が高平の長男として1684(貞享元)年正月に京都で生まれました。幼名は元(げん)之(の)助(すけ)、1708(宝永5)年に三(さぶ)郎(ろう)助(すけ)と改め、1716(享保元)年8月33才の時、父の八郎右衛門を襲名して、家を継ぎました。1734(享保19)年51才で隠居して、晩年は仏法を信仰し、髪を剃って宗(そう)清(せい)と改め、1748(寛延元)年65才で没していました。 
ところが、この高房は「町人考見録」の名だけの著者で、実は編者だったといった方が正しいと思われます。「町人考見録」の跋文の末尾に、その由来が、次のように記されています。 
此書は中西宗助、より■■予語而云(よにかたりていう)、先祖親々の功業によつて、同名一致に家業をつとめ、先は時節を得、商に不足なしといへども、町人の盛衰は其主の守りにあり。よつて昔よりの町人の家を失ふ趣を、親に尋てしるし置き、家門の輩にも見せ度旨をすゝむ。故に此事を親に告(つげ)、時に老父七十年来、見および聞き伝ふる処を書記して、予是をあたふ。しば■■序跋を加へ、文義をかざらずして、是を留める者也。 
つまり、高房は、中西宗助のすすめによって、父高平に昔からの町人たちがどのようにして没落していったかを尋ね、序文と跋文だけを加えて、その記録を「町人考見録」と題して遺しました。高房自身によると、実際その発端となったのは、中西宗助という人物でしたが、彼はほとんど知られていない人だから、ここで簡単に紹介したいと思います。 
中西宗助は当時の三井本家の大番頭で、その功績の大きさは、本店筋の氏神とも呼ばれたそうです。彼は1676(延宝4)年に伊勢松坂船江村に生まれました。中西家は元々武家の出身でしたが、戦国時代の終わり頃に没落し、帰農していました。父勘四郎は、一時江戸に商人として店を開いたが、眼病で目が見えなくなったから、松坂に帰ってきました。宗助は1687(貞享4)年に12才で三井の松坂店の丁稚として奉公に入って、やがて京都の本店に転じました。1699(元禄12)年24才で京都本店の支配役 (支配人)となり、ついで35才で京都本店の元〆役、そして1730(享保15)年55才で大元〆役となりました。すなわち、店員として最高位に達しました。1733(享保18)年58才で亡くなりました。彼は、三井家の創業期より守成期に移るまでの大番頭として、店の基礎を確立して、さらに大元方の常務役人として総本家の諸法度や制度の確立を実施しました。要するに、三井家の経営面に大きな足跡を残したから、三井同族と同じような取り扱いを受けて、京都の真妙堂に葬られました。 
ところで、ここで指摘したいのは、次のことです。彼が、1722(享保7)年に三井家の根本的な家法とも いわれる「宗竺遺書」を起草したのは、一般的に認められている事実です。したがって、1726(享保11)年頃に編纂された「町人考見録」も、高房の命令で中西宗助自身に作られて、献上されたものだった可能性が高いと思われます。 
さて、著者あるいは編者の意図を手短に見てみましょう。これは序文と跋文に明確に示されていますが、まず挙げるべきは、家職いわば家業のことでしょう。つまり、既に述べたように、「町人の盛衰は其主の守り」ということにかかっています。序文にも書いてありますが、親苦労し、子楽し、孫乞食する、といわれるように、初代が営々としてきずき上げた資産を孫がつぶしてしまうのは、「みな々同じく職をわするるを以て、先祖大(タイ)業(ゲウ)を空(ムナ)し(シ)くす」ることでした。要するに、当時、家職・家業は家産として、上層商人の保守すべきものだったと思われます。 
勿論、「町人考見録」だけでなく、西鶴の「日本永代蔵」にも同じ観点が表れています。 
時の間(ま)の煙、死すれば、何ぞ金銀瓦(ぐわ)石(せき)にはおとれり。黄泉(くわうせん)の用には立ちがたし。しかりといへども、残して、子孫のためとはなりぬ。ひそかに思ふに、世にある程の願ひ、何によらず銀(ぎん)徳(とく)にて叶(かな)はざる事、天(あめ)の下に五つあり。それより外(ほか)はなかりき。これにましたる宝船(たからぶね)のあるべきや。見ぬ島の鬼の持ちし隠れ笠(がさ)・かくれ蓑(みの)も、暴雨(にはかあめ)の役に立たねば、手遠きねがひを捨てて、近道にそれそれの家職(かしょく)をはげむべし。福徳はその身の堅(けん)固(ご)にあり。朝(てう)夕(せき)油断する事なかれ。殊更、世に仁義を本(もと)として、神仏をまつるべし。これ、和(わ)国(こく)の風俗なり。 
あるいは、 
これを思ふに、銘(めい)々家職を外(ほか)になして、諸芸ふかく好める事なかれ。これらも常々思ふ所の身とはなりぬ。なからず、人にすぐれて器用といはるるは、その身の怨(あだ)なり。公(く)家(げ)は敷(しき)島(しま)の道、武士は弓馬(きゅうば)、町人は算用こまかに、針(はり)口(くち)の違はぬやうに、手まめに当座帳付くべし 
ともかく、商人は家職に専念することがもっとも強く求められたのです。 
又、もう一つ、商人を支えたのは、金銀だと思われます。「町人考見録」の序文に戻ると、 
それ天下の四(シ)民(ミン)士(シ)農(ノフ)工商(カウシヤウ)とわかれ、各(ヲノ)■■其職分(ショクブン)をつとめ、子孫業(ゲウ)を継(ツイ)で其家をとゝのふ。就中(なかんずく)町人は商売それ々にわかるといへども、先は金銀の利足にかゝるより外なし。 
と明確に書いてあります。幕府の御用金融を、両替屋経営の根本的な方針としていた三井家の2代目高平が、「金銀の利足」の大切さを強調したのは、当然のことでしょう。薄利多売主義で、掛け売りなしの現金売り、正札売りの新しい商法は、相互の信用を重く見る旧商人には一種破天荒なものでした。 
西鶴の言葉での「只銀がかねをためる世の中」には、「算用なしに慈悲過たるも、又おろか也」というように、「町人考見録」の跋文に説明されています。しかし、算用一点張りということだけではなかったと思います。ここには、また仁義・人道の大切さも説かれています。 
要するに、宮本又次氏が書いたように、富有な商人に要請されたことは、結局家法を守って、家業に精励して、 相当に生活することでした。
「町人考見録」の分析 
既に述べましたが、「町人考見録」は、三井家以外の人に読ませるためのものではなく、序文の一番最後に書 いてあるように、 
前(ゼン)者(シヤ)の覆(クツガヘル)るを見て、後(コウ)車(シヤ)のいましめのため、見および聞伝ふる京都の町人、盛(セイ)衰(スイ)をあらまし爰にしるす耳 
という教訓を、子孫に、はっきり示すために作られたものです。したがって、三井家の番頭、手代、丁稚によって写されて、三井家の内に参考書として早めに普及してきました。原本は残されていないですが、しかし転写本が極めて多いです。現在、その一つ一つを調査することは、不可能だと思いますが、今日は、三井文庫に所蔵されている代表的な写本を紹介したいと思います。 
同文庫に所蔵されている22本の中でこの写本 (登録番号 特1364/1,2,3)は最も達筆の写本でしょう。上・中・下、合わせて3冊から成るこの写本の文章の末に、「高房」の署名、さらに朱印があります。これは高房自身が写した写本ではなく、むしろ高房から各三井家に頒布したものだろうと思われます。勿論、国立国会図書館や早稲田大学付属図書館などにも所蔵されている写本もありますが、しかし三井文庫以外のものには、高房印がありません。 
さて、実例を引用しながら、同文庫の写本を中心にして、その内容を手短に見てみましょう。多分繰り返しになりますが、「町人考見録」には、当時の京都を中心にする富裕な商人家の盛衰がみごとに浮き彫りにされています。厳密に言えば、本文には京都の50人、跋文には江戸・大阪の5人、合わせて55人の事例がまとめられています。この55家の資産を没落させる様々な原因がいくつかありますが、時間不足で具体的な分析を略して、代表的な例だけを見せていただきたいと思います。 
様々な倒産の原因の中には、まず取り上げるべきは、大名貸しでしょう。当時諸大名は、参勤交代に伴う交通費・滞在費、さらにそれぞれの藩に起こした殖産事業などで相当な金銀を必要としたから、京都の商人・両替屋に貸付け (仕送り)を求めたのです。 
「町人考見録」にまとめられた55人の中には、30人は大名貸しによる破壊を受けたものです。これらは、 諸大名の横暴性を示すものですが、しかし他方、商人の利益追求の意欲と彼らのもろさとを語るものでしょう。17世紀半ばぐらいまでは、この大名貸しがもっとも儲け口でした。「町人考見録」には次のような説明が書いてあります。 
それ大名がしの商売は博(バク)奕(チ)のごとくにて、始少のうちに損(ソン)を見切(きら)ず、それが種(タネ)に成り元(モト)を 動(ウゴカ)さ(サ)ん(ン)とかゝり、(中略)然からば此借(かり)引(ひき)は止(ヤ)み(ミ)可申ことなりに、博(バク)奕(チ)をうつもの、始より負(マケ)ん(ン)とてかゝり候もの、一人もこれなく候。(中略)扠 大名貸の金銀やくそくのごとく、よく取引在之候へば何か此上もなき手回し、人数はかゝり不申、帳面一冊、天(テン)秤(ビン)一(イツ)艇(テイ)にて埒(らち)明(あき)、正真(シヤウシン)の寝て居て金をもふくるといふは此事にて候。 
ところが、この、寝ながらお金儲けのできる魅力は、焦げ付きによる資産つぶれの危険への警戒心を鈍らせたでしょう。 
武士は計略(ケイリャク)をめぐらし、勝(カツ)事を専(セン)とす。是軍(グン)務(ム)の(ノ)職(ショク)也。町人はよきほどを見合、金儲(カネモウケ)して残銀を見切(キツ)て(テ)、徳分を得(エ)んとおもへども、武士は四(シ)民(ミン)の頭(カシラ)、知(チ)謀(バウ)兼(ケン)備(ビ)の役人、中々其手は見通し、却(カヘツ)て(テ)うらをくわせ、先(セン)を取(トツ)て彼かたよりよきほど取込、断(ことわり)を申出す。町人の竹(タケ)鑓(ヤリ)を以て武士の真(シン)剣(ケン)に向(ムカウ)がごとく、相手に不及。それ大名の仕送り、始より理(リ)屈(クツ)の詰(ツマ)ざる事に、誰か大切の金銀を出し可申や。 
つまり、町人を上回る武士の知謀 (いわば真剣)の前に竹槍がいかにもろいかを語っています。それは士農工商 といった、社会的な身分関係を示すものでしょう。従って、三井家では、家法として理屈に合わない大名貸しは原則的に禁止していたようです。 
兵(ヘイ)書(シヨ)にも、敵(テキ)を知(シリ)己(ヲノレ)を知(シル)を以て名将といふ。武士を町人としてはからん事、是敵テキをしらざる也。 
要するに、大名貸しをしないのが一番だということですが、貸した場合には、十分に注意する必要があります。このような考え方は、三井家の経営戦略の本柱に成ったといっても、決して過言ではないと思います。 
さて、大名貸し以外にも、没落のきっかけはいくつかありました。その一つは、金山を採掘したり、山を切り開いたりする大工事でした。このような投機事業については、米沢屋久左衛門の項目に見えている河井又左衛門という人物はちょうどいい例でしょう。彼は、近江の琵琶湖からの水を越前の敦賀の港へ落とす七里半という運河を掘さくして、船を通す計画に着手しました。しかしいくらかお金を使っても、その計画を完成できず、結局家を潰してしまったそうです。 
また、「町人考見録」によく挙げられている、豪商家の没落のもう一つの原因は、奢り・奢侈という悪風です。 
それ奢(ヲゴ)り(リ)に二つ有。身の奢、心の奢也。多は心の奢生ずる故、身に美(ビ)麗(レイ)を好む。(中略)奢は大人は国を失ひ(ウシナヒ)、小人は身を失ふ。祖先はかんなんの功(コウ)を積(ツ)み(ミ)、昼夜金儲(カネモウケ)に身のあぶらを出して、溜(タメ)置(ヲク)金銀を、せめてふやし儲(モウク)る(ル)ことはあらずとも、其身祖先の冥(メウ)加(ガ)を思ひて、よく守るべき所に、さはなくして、かゝる奢りになしはたし、終に家を失ふ事をや。 
このような一般的な例は、次に具体化されています。絶対に許せない奢りの実例としては、まず珍しい名品の茶道具を購入すること、さらに和歌、能、歌舞伎などの遊芸を好むこと、そして仏教の信仰を過ぎて、華美な寺院を建設したり、お寺への金銀の御用達で出入りしたりすること等々の例を取り上げてもいいでしょう。 
さて、この遊芸のもっとも適当な例は新屋伊兵衛だろうと思います。彼の場合には、著者が強調しているのは、自分で家業を忘れて、かえって芸能を好むより、むしろ子供に家業の代わりに歌舞伎や能などを習わせるほうが悪いという観点です。 
然るを子どもに遊(ユウ)芸(ゲイ)をならはし申事、第一其親のあやまり也。(中略)天(テン)笠(ヂク)の獅(シ)子(シ)は百丈の峰(ミネ)より深(シン)谷(コク)へ自(ミズカラ)落(ヲト)して、子(コ)獅(ジ)子(シ)の猛(タケキ)をこゝろみる。鷹(タカ)は巌(ガン)壁(ペキ)に巣(ス)を喰(クイ)、人来て其子を取るといへども、子(コ)鷹(タカ)大(タイ)守(シユ)に養る(ヤシナハル)ゝ事を以て悦び、子を取る事をいとはず。其外の禽(キン)獣(ジウ)も子をつれ餌(ヱバ)をはむ事ををしゆ。然るに人の親として渡世のみちを不教(ヲシヘ)、却(カヘツ)てあしき道に引入るゝ事、禽(キン)獣(ジウ)にも劣(ヲト)り(リ)申候。 
要するに、このような引用には、当時の新商人の家業の永続を中心にする家訓だけではなく、それぞれの個人的な教訓も明確に表れています。 
これまで取り上げた例は、すべて否定的な事例でした。しかし、「町人考見録」の中には、数が少ないですが、勿論、肯定的・積極的な商人の姿も描かれています。この代表的な人物は藤屋市兵衛でしょう。「町人考見録」によると、彼は  
極て(キハメテ)商人心成もの故、段々身上よく成、一生に二千貫目の分限と成り申候。 
そう言うわけで、  
此市兵衛がしまつ咄し、諸人の多しる所、猶草紙永代蔵などに是を書載(ノ)す(ス)。そして、「日本永代蔵」の巻2を見てみると、西鶴は、 
「借屋請状之事、室町菱屋長左衛門殿借屋に居申され候藤市と申す人、慥かに千貫目御蓙候」「広き世界にならびなき分限我なり」 
などのように、この藤屋を「世界の借屋大将」として描いたほど高く評価しています。 
したがって、終に、高房と西鶴との見方を比べてみましょう。「町人考見録」は、すでに述べたように、三井家を担っていく人たちに何を避けるべきかを教えることを第一の目的として書かれています。この点で、当時の一般町人の読者に向けて書かれた「日本永代蔵」が、商人が成功するために何が必要だかを説明しようとしていたことと無関係ではありません。つまり高房の著作は、否定的な実例に基づいていますが、これに対して西鶴の作品には、富の追求の肯定的な例証が挙げられています。しかし、両者の根本には、共通した認識があります。すなわち、不確実さと見通しの立たなさが、商人の生活における中心的な事実だということです。商人は彼らの家の存続を考えなければいけません。運命はすべて自分の手にかかっているのでしょう。たびたび「倹約」「算用」あるいは「賢明」「勤勉」「正直」などという言葉で商人の道徳を表そうとしますが、そのような言葉は、抽象的な原理から導かれた単なる道徳的なお説教や戒めではなく、商人が代々生き延びるための、すなわち武士階級が生まれつき保証されていたものに匹敵するような断続性を獲得するための実践的な戦略だと思われます。
結論 
最後ですが、ある意味で秘密の家訓として書かれた「町人考見録」はどれだけ当時の一般の商人に知られていたのか、つまり新興商人イデオロギーの形成にどのような影響を与えたのかなどを手短に考えてみましょう。 
まず、1757(宝暦7)年に岩垣光定によって書かれた「商人生業鏡」の第一巻の書き出しを見てみましょう。 
或人の曰、四民は士農工商に分かれ、おの■■其職分を勤め、子孫を継で其家をとゝのふ、就中商人は天下の貨財を通じ、(中略)金銀利足の外なし、しかるに田舎の町人は、それ■■々に国の掟を憚り、其うへ目に美麗を見ざるゆへに、心うつる事なし、此故に数代業をつとむ、京江戸大阪の町人は、其先祖あるひは田舎、または人の手代より次第に経て上り、商売を弘め富を子孫に伝へんと、一代身をつめ家職に心をいれ、かんなん幸苦して、其子家を継ぐ、其子は幼少より親がよく教て、つヾまやか成事を見覚して、又其家のあまり富ざるいちに生立せしゆへ、漸々其一代は守り勤む、これも不行跡なれば不続、其孫の世に至りては、家の富る時に出生せしゆへ、金銀の大切といふ事をしらず、(中略)名ある町人二代三代にて家をつぶし、跡形なく成行事、眠前に知る所なり、(中略)百姓職人の家数代伝る事は、一日も怠る時は、忽ち衣食をうしなふゆへに、尤もより勤むるなり、只商家のみ金銀を沢山におもひ、先祖の事も思はず、手代任せにして、其身は業を勤めず、終には家を失ふ事多し、前者の覆るを見て、後車のいましめとすべし。 
さて、この著作を「町人考見録」の序文と比べてみましょう。 
それ天下の四民士農工商とわかれ、各其職分をつとめ、子孫業を継で其家をとゝのふ。就中町人は商業それ■■にわかるといへども、先は金銀の利足にかゝるより外なし。然るに田舎の町人はそれ■■の国主・地頭に憚り、其上めにさのみ美麗を目ざる故に、心におのづからうつる事なし。爰を以ておほく代を累て業をつとむ。京・江戸・大坂の町人は、其元祖、或は田舎又は人手代より次第に経上り、商売をひろげ、富を子孫に伝へんと、其身一代身をつめ、家職の外に心をおかず、かんはんしんくを積で、其子家を継、其ものは親のつましきことを見覚へ、又は其家のさまで富まざるうちに生立習ふ故に漸其一代は守り勤といへども、又其孫の代に至りては、はや家の富貴より育立、物ごとのかんなん、金銀を大切と云う事をしらず。(中略)凡京師の名ある町人、二代三代にて家をつぶし、あとかたなく成行事、眼前に知る所也。(中略)百姓・職人等は数代家を伝ふる事、一日も怠るときは、忽食をうしなふ故に、尤よくつとむ。只商家耳後は手代まかせ、其身は代の続くにしたがひ、家業をわするゝを以て、終に家をうしなふ。前者の覆るを見て、後車のいましめのため、見および聞伝ふる京都の町人、盛衰をあらかし爰にしるす耳。 
前者と後者との共通点が極めて多いので、「町人考見録」の約20年後に書かれたこの「商人生業鏡」の著者が高房の著作をよく知るべきことは疑いないと思います。 
また、1794(寛政6)年に土屋巨禎が書いた「家業相続力草」にも、「町人考見録」からの引用文が発見できます。 
要するに、「町人考見録」は、西鶴の「日本永代蔵」と同様に、かなり早く普及して、一般的に知られたと考えてもよいでしょう。その点から見れば、石田梅岩が「都鄙問答」を出版した約15年前に書かれたこの著作は、18世紀における新商人イデオロギーの形成過程に見落とすことの出来ない役割を果たしたというのは、決して過言ではないと思います。 
  
寿阿弥の手紙 / 森鴎外

 

わたくしは渋江抽斎(しぶえちうさい)の事蹟を書いた時、抽斎の父定所の友で、抽斎に劇神仙の号を譲つた寿阿弥陀仏(1769-1848)の事に言ひ及んだ。そして寿阿弥が文章を善くした証拠として其手紙を引用した。 
寿阿弥の手紙は苾堂(ひつどう)と云ふ人に宛てたものであつた。わたくしは初め苾堂の何人たるかを知らぬので、二三の友人に問ひ合せたが明答を得なかつた。そこで苾堂は誰かわからぬと書いた。 
さうすると早速其人は駿河の桑原苾堂であらうと云つて、友人賀古鶴所さんの許に報じてくれた人がある。それは二宮孤松さんである。二宮氏は五山堂詩話の中の詩を記憶してゐたのである。 
わたくしは書庫から五山堂詩話を出して見た。五山は其詩話の正篇に於て、一たび苾堂を説いて詩二首を挙げ、再び説いて、又四首を挙げ、後補遺に於て、三たび説いて一首を挙げてゐる。詩の采録を経たるもの通計七首である。そして最初にかう云ふ人物評が下してある。「公圭書法嫻雅(公圭、書法は嫻雅)、兼善音律(兼て音律を善くす)、其人温厚謙恪(其人は温厚謙恪)、一望而知為君子(一望して君子為るを知る)」と云ふのである。公圭は苾堂の字である。 
次で置塩棠園さんの手紙が来て、わたくしは苾堂の事を一層精しく知ることが出来た。 
桑原苾堂、名は正瑞、字は公圭、通称は古作である。天明四(1784)年に生れ、天保八(1837)年六月十八日に歿した。桑原氏は駿河国島田駅の素封家で、徳川幕府時代には東海道十三駅の取締を命ぜられ、兼て引替御用を勤めてゐた。引替御用とは為換(かはせ)方を謂ふのである。桑原氏が後に産を傾けたのは此引換のためださうである。 
菊池五山は苾堂の詩と書と音律とを称してゐる。苾堂は詩を以て梁川星巌、柏木如亭及五山と交つた。書は子ミ(すかう)を宗とし江戸の佐野東洲の教を受けたらしい。又画をも学んで、崋山門下の福田半香、その他勾田台嶺(まがたたいれい)、高久隆古等と交つた。 
苾堂の妻は置塩蘆庵の二女ためで、石川依平(よりひら)の門に入つて和歌を学んだ。蘆庵は棠園さんの五世の祖である。 
苾堂の子は長を霜崖と云ふ。名は正旭である。書を善くした。次を桂叢と云ふ。名は正望である。画を善くした。桂叢の墓誌銘は斎藤拙堂が撰んだ。 
桑原氏の今の主人は喜代平さんと称して苾堂の玄孫に当つてゐる。戸籍は島田町にあつて、町の北半里許の伝心寺に住んでゐる。伝心寺は桑原氏が独力を以て建立した禅寺で、寺禄をも有してゐる。桑原氏累代の菩提所である。 
以上の事実は棠園さんの手書中より抄出したものである。棠園さんは置塩氏、名は維裕、字は季余(きよ)、通称は藤四郎である。居る所を聴雲楼と云ふ。川田甕江(をうこう)の門人で、明治三十三年に静岡県周智郡長から伊勢神宮の神官に転じた。今は山田市岩淵町に住んでゐる。わたくしの旧知内田魯庵さんは棠園さんの妻の姪夫(めひむこ)ださうである。 
わたくしは寿阿弥の手紙に由つて棠園さんと相識になつたのを喜んだ。  
寿阿弥の手紙の宛名桑原苾堂が何人かと云ふことを、二宮孤松さんに由つて略知ることが出来、置塩棠園さんに由つて委く知ることが出来たので、わたくしは正誤文を新聞に出した。然るに正誤文に偶誤字があつた。市河三陽さんは此誤字を正してくれるためにわたくしに書を寄せた。 
三陽さんは祖父米庵が苾堂と交はつてゐたので、苾堂の名を知つてゐた。米庵の西征日乗中癸亥十月十七日の条に、「十七日、到島田、訪桑原苾堂已宿」と記してある。癸亥は享和三(1803)年で、安永八(1779)年生れの米庵が二十五歳、天明四(1784)年生の苾堂が二十歳の時である。客も主人も壮年であつた。わたくしは主客の関係を詳にせぬが、苾堂の詩を詩話中に収めた菊池五山が米庵の父寛斎の門人であつたことを思へば、米庵は苾堂がためには、啻に己より長ずること五歳なる友であつたのみではなく、頗る貴い賓客であつただらう。 
三陽さんは別に其祖父米庵に就いてわたくしに教ふる所があつた。これはわたくしが渋江抽斎の死を記するに当つて、米庵に言ひ及ぼしたからである。抽斎と米庵とは共に安政五年の虎列拉に侵された。抽斎は文化二(1805)年生の五十四歳、米庵は八十歳であつたのである。しかしわたくしは略抽斎の病状を悉してゐて、その虎列拉たることを断じたが、米庵を同病だらうと云つたのは、推測に過ぎなかつた。 
わたくしの推測は幸にして誤でなかつた。三陽さんの言ふ所に従へば、神惟徳の米庵略伝に下の如く云つてあるさうである。「震災後二年を隔てて夏秋の交に及び、先生時邪に犯され、発熱劇甚にして、良医交々来り診し苦心治療を加ふれど効験なく、年八十にして七月十八日溘然属\の哀悼を至す」と云ふのである。又当時虎列拉に死した人々の番附が発刊せられた。三陽さんは其二種を蔵してゐるが、並に皆米庵を載せてゐるさうである。 
寿阿弥の苾堂に遣つた手紙は、二三の友人がこれを公にせむことを勧めた。わたくしも此手紙の印刷に附する価値あるものたるを信ずる。なぜと云ふに、その記する所は開明史上にも文芸史上にも尊重すべき資料であつて、且読んで興味あるべきものだからである。 
手紙には考ふべき人物九人と苾堂の親戚知人四五人との名が出てゐる。前者中儒者には山本北山がある。詩人には大窪天民、菊池五山、石野雲嶺がある。歌人には岸本弦がある。画家には喜多可庵がある。茶人には川上宗寿がある。医師には分家名倉がある。俳優には四世坂東彦三郎がある。手紙を書いた寿阿弥と其親戚と、手紙を受けた苾堂と其親戚知人との外、此等の人物の事蹟の上に多少の光明を投射する一篇の文章に、史料としての価値があると云ふことは、何人も否定することが出来ぬであらう。  
わたくしは寿阿弥の手紙に註を加へて印刷に付することにしようかとも思つた。しかし文政頃の手紙の文は、縦ひ興味のある事が巧に書いてあつても、今の人には読み易くは無い。忍んでこれを読むとしたところで、許多の敬語や慣用語が邪魔になつてその煩はしきに堪へない。ましてやそれが手紙にめづらしい長文なのだから、わたくしは遠慮しなくてはならぬやうに思つて差し控へた。 
そしてわたくしは全文を載せる代りに筋書を作つて出すことにした。以下が其筋書である。 
手紙には最初に二字程下げて、長文と云ふことに就いてのことわりが言つてある。これだけは全文を此に写し出す。「いつも余り長い手紙にてかさばり候故、当年は罫紙に認候。御免可被下候。」わたくしは此ことわりを面白く思ふ。当年はと云つたのは、年が改まつてから始めて遣る手紙だからである。其年が文政十一(1828)年であることは、下に明証がある。六十歳の寿阿弥が四十五歳の苾堂に書いて遣つたのである。 
寿阿弥と苾堂との交は余程久しいものであつたらしいが、其詳なることを知らない。只此手紙の書かれた時より二年前に、寿阿弥が苾堂の家に泊つてゐたことがある。山内香雪が市河米庵に随つて有馬の温泉に浴した紀行中、文政九年丙戌二月三日の条κ、「二日、藤枝に至り、荷渓また雲嶺を問ふ、到島田問苾堂、寿阿弥為客こゝにあり、掛川仕立屋投宿」と云つてある。帰途に米庵等は苾堂の家に宿したが、只「主島田苾堂」とのみ記してある。これは四月十八日の事である。紀行は市河三陽さんが抄出してくれた。 
荷渓は五山堂詩話に出てゐる。「藤枝冡荷渓。碧字風暁。才調独絶。工画能詩。(中略)於詩意期上乗。是以生平所作。多不慊己意。撕毀摧焼。留者無幾。」菊池五山は西駿の知己二人として、荷渓と苾堂とを並記してゐる。 
次に書中に見えてゐるのは、不音のわび、時候の挨拶、問安で、其末に「貧道無異に勤行仕候間乍憚御掛念被下間敷候」とある。勤行と書いたのは剃髪後だからである。当時の武鑑を閲するに、連歌師の部に浅草日輪寺其阿と云ふものが載せてあつて、寿阿弥は執筆目輪寺内寿阿曇「と記してある。原来時宗遊行派の阿弥号は相摸国高座郡藤沢の清浄光寺から出すもので、江戸では浅草芝崎町日輪寺が其出張所になつてゐた。想ふに新石町の菓子商で真志屋五郎作と云つてゐた此人は、寿阿弥号を受けた後に、去つて日輪寺其阿の許に寓したのではあるまいか。 
寿阿弥は単に剃髪したばかりでは無い。僧衣を着けて托鉢にさへ出た。托鉢に出たのは某年正月十七日が始で、先づ二代目烏亭焉馬の八丁堀の家の門に立つたさうである。江戸町与力の伜山崎賞次郎が焉馬の名を襲いだのは、文政十一(1828)年だと云ふことで、月日は不詳である。わたくしが推察するに、焉馬は文政十一年の元日から襲名したので、其月十七日に寿阿弥は托鉢に出て、先づ焉馬を驚したのではあるまいか。若しさうだとすると、苾堂に遣る此遅馳の年始状を書いたのは、始て托鉢に出た翌月であらう。此手紙は二月十九日の日附だからである。 
寿阿弥が托鉢に出て、焉馬の門に立つた時の事は、仮名垣魯文が書いて、明治二十三年一月二十二日の歌舞伎新報に出した。わたくしの手許には鈴木春浦さんの写してくれたものがある。 
寿阿弥は焉馬の門に立つて、七代目団十郎の声色で「厭離焉馬、欣求浄土、寿阿弥陀仏々々々々々」と唱へた。 
深川の銀馬と云ふ弟子が主人に、「怪しい坊主が来て焉馬がどうのかうのと云つてゐます」と告げた。 
焉馬は棒を持つて玄関に出て、「なんだ」と叫んだ。 
寿阿弥は数歩退いて笠を取つた。 
「先生悪い洒落だ」と、焉馬は棒を投げた。「まあ、ちよつとお通下さい。」 
「いや。けふは修行中の草鞋穿だから御免蒙る。焉馬あつたら又逢はう。」云ひ畢つて寿阿弥は、岡崎町の地蔵橋の方へ、錫枚を衝き鳴らして去つたと云ふのである。 
魯文の記事には多少の文飾もあらうが、寿阿弥の剃髪、寿阿弥の勤行がどんなものであつたかは、大概此出来事によつて想見することが出来よう。寛政三(1791)年生で当時三十八歳の戯作者焉馬が、寿阿弥のためには自分の贔屓にして遣る末輩であつたことは論を須たない。  
次に「大下の岳母様」が亡くなつたと聞いたのに、弔書を遣らなかつたわびが言つてある。改年後始めて遣る手紙にくやみを書いたのは、寿阿弥が物事に拘らなかつた証に充つべきであらう。 
大下の岳母が何人かと云ふことは、棠園さんに問うて知ることが出来た。駿河国志太郡島田駅で桑原氏の家は駅の西端、置塩氏の家は駅の東方にあつた。土地の人は彼を大上と看ひ、此を大下と云つた。苾堂は大上の檀那と呼ばれてゐた。苾堂の妻ためは大下の置塩氏から来り嫁した。ための父即ち苾堂の岳父は置塩薦庵で、母即ち苾堂の岳母は蘆庵の妻すなである。 
さて大下の岳母すなは文政十年(1827)九月十二日に歿した。寿阿弥は其年の冬のうちに弔書を寄すべきであるのに、翌文政十一年(1828)年の春まで不音に打ち過ぎた。其詫言を言つたのである。 
次に「清右衛門様先はどうやらかうやら江戸に御辛抱の御様子故御案じ被成間敷候」云々と云ふ一節がある。此清右衛門と云ふ人の事蹟は、棠園さんの手許でも猶不明の廉があるさうである。しかし大概はわかつてゐる。苾堂の同家に桑原清右衛門と云ふ人があつた。同家とのみで本末は明白でない。清右衛門は名を公綽と云つた。江戸に往つて、仙石家に仕へ、用人になつた、当時の仙石家は但馬国出石郡出石の城主仙石道之助久利の世である。清右衛門は仙石家に仕へて、氏名を原逸一と更めた。頗る気節のある人で、和歌を善くし、又画を作つた。画の号は南田である。晩年には故郷に帰つて、明治の初年に七十余歳で歿したさうである。文政十一(1828)年の二月は此清右衛門が奉公口に有り附いた当座であつたのではあるまいか。気節のある人が志を得ないでゐたのに、咋今どうやらかうやら辛抱してゐると云ふやうに、寿阿弥の文は読まれるのである。 
次の一節は頗る長く、大窪天民と喜多可庵との直話を骨子として、逐年物価が騰貴し、儒者画家などの金を獲ることも容易ならず、束脩謝金の高くなることを言つたものである。 
大窪天民は、「客歳」と云つてあるから文政十(1827)年に、加賀から大阪へ旅稼に出たと見える。天民の収入は、江戸に居つても「一日に一分や一分二朱」は取れるのである。それが加賀へ往つたが、所得は「中位」であつた。それから「どつと当るつもり」で大阪へ乗り込んだ。大阪では佐竹家蔵屋敷の役人等が周旋して大賈の書を請ふものが多かつた。然るに天民は出羽国秋田郡久保田の城主佐竹右京大夫義厚の抱への身分で、佐竹家蔵屋敷の役人が「世話を焼いてゐる」ので、町人共が「金子の謝礼はなるまいとの間ちがひ」をしたので、ここも所得は少かつた。此旅行は「都合日数二百日にて、百両ばかり」にはなつた。「一日が二分ならし」である。これでは江戸にゐると大差はなく、「出かけただけが損」だと云つてある。  
天民が加賀から帰る途中の事に就て、寿阿弥はかう云つてゐる。「加賀の帰り高堂の前をば通らねばならぬ処ながら、直通りにて、其夜は雲嶺へ投宿のやうに申候、是は一杯飲む故なるベし。」天民の上戸は世の知る所である。此文を見れば、雲嶺も亦酒を嗜んだことがわかり、又苾堂が下戸であつたことがわかる。雲嶺は石野氏、名は世彝、一に世夷に作る、字は希之、別に天均又皆梅と号した。亦駿河の人で詩を善くした。皇朝分類名家絶句等に其作が載せてある。 
皇朝分類名家絶句の事は、わたくしは初め萩野由之さんに質して知つた。これがわたくしの雲嶺の石野氏なることを知つた始である。後にわたくしは拙堂文集を読んでふと「皆梅園記」を見出だした。斎藤拙堂はかう云つてゐる。「老人姓石氏。本為市井人。住藤枝駅。風流温藉。以善詩聞於江湖上。庚子歳余東征。過憩駅亭相見。間晤半日。知其名不虚。爾来毎門下生往来過駅。輒嘱訪老人。得其近作以覧観焉。去年夏余復東征。宿駅亭。首問老人近状。駅吏曰。数年前辞市務。老於孤山下村。余即往訪之。従駅中左折数武。槐花満地。既覚非尋常行蹊。竹籬茅屋間。得門而入。老人大喜。迎飲於其舎。園数畝。経営位置甚工。皆出老人之意匠。有菅神廟林仙祠。各奉祀其主。有賜春館。傍植東叡王府所賜之梅。其他皆以梅為名。有小香国鶴避茶寮鶯逕戛玉泉等勝。前対巌田洞雲二山。風煙可愛。使人徘徊賞之。」庚子は天保十一(1840)年で、拙堂は藤堂高猷に扈随して津から江戸に赴いたのであらう。記を作つたのは安政中の事かとおもはれる。 
天民の年齢は、市河三陽さんの言に従へば、明和四(1767)年生で天保八(1837)年に七十一歳を以て終つたことになるから、加賀大阪の旅は六十一歳の時であつた。素通りをせられた苾堂は四十四歳であつた。 
喜多可庵の直話を寿阿弥が聞いて書いたのも、天民と五山との詩の添削料の事である。これは首尾の整つた小品をなしてゐるから、全文を載せる。「画人武清上州桐生に游候時、桐生の何某申候には、数年玉池へ詩を直してもらひに遣し候へ共、兎角斧正麤漏にて、時として同字などある時もありてこまり申候、これよりは五山へ願可申候間、先生御紹介可被下と頼候時、武清申候には、随分承知致候、帰府の上なり共、当地より文通にてなり共、五山へ可申込候、しかしながら爰に一つの訳合あり、謝物が薄ければ、疏漏は五山も同じ事なるべし、矢張馴染の天民へ気を附て謝物をするがよささうな物と申てわらひ候由、武清はなしに御座候。」武清は可庵の名である。又笑翁とも号した。文晁門で八丁堀に住んでゐた。安永五(1776)年生で安政三(1856)年に八十一歳で歿した人だから、此話を寿阿弥に書かれた時が五十三歳であつた。玉池は天民がお玉が池に住したからの称である。菊池五山は寿阿弥と同じく明和六(1769)年生で、嘉永二(1849)年に八十一歳で歿したから、天民よりは二つの年下で、寿阿弥がこれを書いた時六十歳になつてゐた。 
寿阿弥は天民の話と可庵の話とを書いて、さて束脩の高くなつたことを言つてゐる。其文はかうである。「近年役者の給金のみならげ、儒者の束脩までが高くなり、天民貧道など奚疑塾に居候時分、百疋持た弟子入が参れば、よい入門と申候物が、此頃は天でも五山でも、二分の弟子入はそれ程好いとは思はず、流行はあぢな物に御座候。」寿阿弥は天民と共に山本北山に従学した。奚疑塾は北山の家塾である。北山は宝暦二(1752)年生で文化九(1812)年に六十一歳で歿したから、束脩百疋の時代は、恐らくはまだ二十に満たぬ天民、寿阿弥が三十幾歳の北山に師事した天明の初年であらう。此手紙は北山歿後十六年に書かれたのである。天は天民の後略である。 
次は寿阿弥が怪我をして名倉の治療を受けた記事になつてゐる。怪我をした時、場所、容体、名倉の診察、治療、名倉の許で邂逅した怪我人等が頗る細かに書いてある。 
時は文政十年(1827)七月末で、寿阿弥は姪の家の板の間から落ちた。そして両腕を傷めた。「骨は不砕候へ共、両腕共強く痛め候故」云々と云つてある。  
寿阿弥が怪我をした家は姪の家ださうで、「愚姪方」と云つてある。此姪は其名を詳にせぬが、尋常の人では無かつたらしい。 
寿阿弥の姪は茶技には余程精しかつたと見える。同じ手紙の末にかう云つてある。「近況茶事御取出しの由川上宗寿、三島の鯉昇などより伝聞仕候、宗寿と申候者風流なる人にて、平家をも相応にかたり、貧道は連歌にてまじはり申候、此節江戸一の茶博士に御座候て、愚姪など敬伏仕り居候事に御座候。」これは苾堂が一たびさしおいた茶を又弄ぶのを、宗寿、鯉昇等に聞いたと云つて、それから宗寿の人物評に入り、宗寿を江戸一の茶博士と称へ、姪も敬服してゐると云つたのである。 
川上宗寿は茶技の聞人である。宗寿は宗什に学び、宗什は不白に学んだ。安永六(1777)年に生れ、弘化元(1844)年に六十八歳で歿したから、此手紙の書かれた時は五十二歳である。寿阿弥は姪が敬服してゐると云ふを以て、此宗寿の重きをなさうとしてゐる。姪は余程茶技に精しかつたものとしなくてはならない。手紙に宗寿と並べて挙げてある三島の鯉昇は、その何人たるを知らない。 
寿阿弥は両腕の打撲を名倉弥次兵衛に診察して貰つた。「はじめ参候節に、弥次兵衛申候は、生得の下戸と、戒行の堅固な処と、気の強い処と、三つのかね合故、目をまはさずにすみ申候、此三つの内が一つ闕候ても目をまはす怪我にて、目をまはす程にては、療治も二百日余り懸り可申、目をばまはさずとも百五六十日の日数を経ねば治しがたしと申候。」流行医の口吻、昔も今も殊なることなく、実に其声を聞くが如くである。 
寿阿弥は文政十年(1827)七月の末に怪我をして、其時から日々名倉へ通つた。「極月末までかゝり申候」と云つてあるから、五箇月間通つたのである。さて翌年二月十九日になつても、「今以而金快と申には無御座候而、少々麻痹仕候気味に御座候へ共、老体のこと故、元の通りには所詮なるまいと、其儘に而此節は療治もやめ申候」と云ふ転掃である。 
手紙には当時の名倉の流行が叙してある。「元大阪町名倉弥次兵衛と申候而、此節高名の骨接医師、大に流行にて、日々八十人九十人位づゝ怪我人参候故、早朝参候而も順繰に待居候間、終日かゝり申候。」流行医の待合の光景も亦古今同趣である。次で寿阿弥が名倉の家に於て邂逅した人々の名が挙げてある。「岸本椎園、牛込の東更なども怪我にて参候、大塚三太夫息八郎と申人も名倉にて邂逅、其節御噂も申出候。」やまぶきぞのの岸本虫豆流は寛政元(1789)年に生れ、弘化三(1846)年に五十八歳で歿したから、寿阿弥に名倉で逢つた文政十年(1827)には三十九歳である。通称は佐佐木信綱さんに問ふに、大隅であつたさうであるが、此年の武鑑御弦師の下には、五十俵白銀一丁目岸本能声と云ふ人があるのみで、大隅の名は見えない。能声と大隅とは同人か非か、知る人があつたら教へて貰ひたい。牛込の東更は艸体の文字が不明であるから、読み誤つたかも知れぬが、その何人たるを詳にしない。大塚父子も未だ考へ得ない。  
寿阿弥は怪我の話をして、其末には不沙汰の詫言を繰り返してゐる。 
「怪我旁」で疎遠に過したと云ふのである。此詫言に又今一つの詫言が重ねてある。それは例年には品物を贈るに、今年は「から手紙」を遣ると云ふので、理由としては「御存知の丸焼後万事不調」だと云ふことが言つてある。 
寿阿弥の家の焼けたのは、いつの事か明かでない。又その焼けた家もどこの家だか明かでない。しかし試に推測すればかうである、真志屋の菓子店は新石町にあつて、そこに寿阿弥の五郎作は住んでゐた。此家が文政九(1826)年七月九日に松田町から出て、南風でひろがつた火事に焼けた。これが手紙に所謂丸焼である。さて其跡に建てた家に姪を住まはせて菓子を売らせ、寿阿弥は連歌仲間の浅草の日輪寺其阿が所に移つた。しかし折々は姪の店にも往つてとまつてゐた。怪我をしたのはさう云ふ時の事である。わたくしの推測は、単に此の如くに説くときは、余りに空漠であるが、下にある文政十一(1828)年の火事の段と併せ考ふるときは、稍プロバビリテエが増して来るのである。 
次に遊行上人の事が書いてある。手紙を書いた文政十一年(1828)年三月十日頃に、遊行上人は駿河国志太郡焼津の普門寺に五日程、それから駿河本町の一華堂に七日程留錫する筈である。さて島田駅の人は定めて普門寺へ十念を受けに往くであらう。苾堂の親戚が往く時雑遝のために困まぬやうに、手紙と切手とを送る。最初に往く親戚は手紙と切手とを持つて行くが好い。手紙は普門寺に宛てたもので、中には証牛と云ふ僧に世話を頼んである。証牛は寿阿弥の弟子である。切手は十念を受ける時、座敷に通す特待券である。二度目からは切手のみを持つて行つて好いと云ふのである。寿阿弥は時宗の遊行派に縁故があつたものと見えて、海録にも山崎美成が遊行上人の事を寿阿弥に問うて書き留めた文がある。 
次に文政十一年(1828)年二月五日の神田の火事が「本月五日」として叙してある。手紙を書く十四日前の火事である。単に二月十九日とのみ日附のしてある此手紙を、文政十一年のものと定めるには、此記事だけでも足るのである。火の起つたのは、武江年表に暮六時としてあるが、此手紙には「夜五つ時分」としてある。火元は神田多町二丁目湯屋の二階である。これは二階と云ふだけが、手紙の方が年表より委しい。年表には初め東風、後北風としてあるのに、手紙には「風もなき夜」としてある。恐くは徴風であつたのだらう。 
延焼の町名は年表と手紙とに互に出入がある。年表には「東風にて西神田町一円に類焼し、又北風になりて、本銀町、本町、石町、駿河町、室町の辺に至り、夜亥の下刻鎮まる」と云つてある。手紙には「西神田はのこらず焼失、北は小川町へ焼け出で、南は本町一丁目片かは焼申候、(中略)町数七十丁余、死亡の者六十三人と申候ことに御座候」と云つてある。 
わたくしの前に云つた推測は、寿阿弥が姪の家と此火事との関係によつてプロバビリテエを増すのである。手紙に「愚姪方は大道一筋の境にて東神田故、此度は免れ候へ共、向側は西神田故過半焼失仕り候」と云つてある。わたくしはこの姪の家を新石町だらうと推するのである。  
文政十一年(1828)年二月五日に多町二丁目から出た火事に、大道一筋を境にして東側にあつて類焼を免れた家は、新石町にあつたとするのが殆ど自然であらう。新石町は諸書に見えてゐる真志屋の菓子店のあつた街である。そこから日輪寺方へ移る時、寿阿弥は菓子店を姪に譲つたのだらう、其時昔の我店が「愚姪方」になつたのだらうと云ふ推測は出て来るのである。 
寿阿弥は若し此火事に姪の家が焼けたら、自分は無宿になる筈であつたと云つてゐる。「難渋之段愁訴可仕水府も、先達而丸焼故難渋申出候処無之、無宿に成候筈」云々と云つてゐる。これは此手紙の中の難句で、句読次第でどうにも読み得られるが、わたくしは水府もの下で切つて、丸焼は前年七月の真志屋の丸焼を斥すものとしたい。既に一たび丸焼のために救助を仰いだ水戸家に、再び愁訴することは出来ぬと云ふ意味だとしたい。なぜと云ふに丸焼故の下で切ると、水府が丸焼になつたことになる。当時の水戸家は上屋敷か小石川門外、中屋敷か本郷追分、目白の二箇所、下屋敷か永代新田、小梅村の二箇所で、此等は火事に逢つてゐないやうである。寿阿弥が水戸家の用達商人であつたことは、諸書に載せてある通りである。 
寿阿弥の手紙には、多町の火事の条下に、一の奇聞が載せてある。此に其全文を挙げる。「永富町と申候処の銅物屋大釜の中にて、七人やけ死申候、(原註、親父一人、息子一人、十五歳に成候見せの者一人、丁穉三人、抱への鳶の者一人)外に十八歳に成候見せの者一人、丁穉一人、母一人、嫁一人、乳飲子一人、是等は助り申候、十八歳に成候者愚姪方にて去暮迄召仕候女の身寄之者、十五歳に成候者愚姪方へ通ひづとめの者の宅の向ふの大工の伜に御坐候、此銅物屋の親父夫婦貪慾強情にて、七年以前見せの手代一人土蔵の三階にて腹切相果申候、此度は共恨なるべしと皆人申候、銅物屋の事故大釜二つ見せの前左右にあり、五箇年以前此辺出火之節、向ふ側計焼失にて、道幅も格別広き処故、今度ものがれ可申、さ候はば外へ立のくにも及ぶまじと申候に、鳶の者もさ様に心得、いか様にやけて参候とも、此大釜二つに水御坐候故、大丈夫助り候由に受合申候、 
十八歳に成候男は土蔵の戸前をうちしまひ、是迄はたらき候へば、私方は多町一丁目にて、此所よりは火元へも近く候間、宅へ参り働き度、是より御暇被下れと申候て、自分親元へ働に帰り候故助り申候、此者の一処に居候間の事は演舌にて分り候へども、其跡は推量に御坐候へ共、とかく見せ蔵、奥蔵などに心のこり、父子共に立のき兼、鳶の者は受合旁故彼是仕候内に、火勢強く左右より燃かかり候故、そりや釜の中よといふやうな事にて釜へ入候処、釜は沸上り、烟りは吹かけ、大釜故入るには鍔を足懸りに入候へ共、出るには足がかりもなく、釜は熱く成旁にて死に候事と相見え申候、母と嫁と小児と丁穉一人つれ、貧道弟子杵屋佐吉が裏に親類御坐候而夫へ立退候故助り申候、一つの釜へ父子と丁穉一人、一つの釜へ四人入候て相果申候、此事大評判にて、釜は檀那寺へ納候へ共、見物夥敷参候而不外聞の由にて、寺にては(自註、根津忠綱寺一向宗)門を閉候由に御坐候、死の縁無量とは申ながら、余り変なることに御坐候故、御覧も御面倒なるべくとは奉存候へ共書付申候。」  
此銅物屋は屋号三文字屋であつたことが、大郷信斎の道聴途説に由つて知られる。道聴途説は林若樹さんの所蔵の書である。 
釜の話は此手紙の中で最も欣賞すべき文章である。叙事は精緻を極めて一の剰語をだに著けない。実に拠つて文を行る間に、『そりや釜の中よ』以下の如き空想の発動を見る。寿阿弥は一部の書をも著さなかつた。しかしわたくしは寿阿弥がいかなる書をも著はすことを得る能文の人であつたことを信ずる。 
次に笛の彦七と云ふものと、坂東彦三郎とのコンプリマンを取り次いでゐる。彦七はその何人なるを考へることが出来ない。しかし「祭礼の節は不相変御厚情蒙り難有由時々申出候」と云つてあるから、江戸から神楽の笛を吹きに往く人であつたのではなからうか。 
「坂東彦三郎も御噂申出、兎角駿河へ参りたい参りたいと計申居候」の句は、人をして十三駅取締(=苾堂)の勢力をしのばしむると同時に、苾堂の襟懐をも想ひ遣らせる。彦三郎は四世彦三郎であることは論を須たない。寛政十二(1800)年に生れて、明治六(1873)年に七十四歳で歿した人だから、此手紙の書かれた時二十九歳になつてゐた。「去夏狂言評好く拙作の所作事勤候処、先づ勤めてのき候故、去顔見せには三座より抱へに参候仕合故、まづ役者にはなりすまし申候。」彦三郎を推称する語の中に、寿阿弥の高く自ら標置してゐるのが窺はれて、頗る愛敬がある。 
次に茶番流行の事が言つてある。これは「別に書付御覧に入候」と云つてあるが、別紙は佚亡してしまつた。 
「何かまだ申上度儀御座候やうながら、あまり長事故、まづ是にて擱筆、奉待後鴻候頓首。」此に二月十九日の日附があり、寿阿と署してある。宛は苾堂先生座有としてある。 
次に苾堂の親戚及同駅の知人に宛てたコンプリマンが書き添へてある。其中に「小右衛門殿へも宜しく」と特筆してあるから、試に棠園さんに小右衛門の誰なるかを問うて見たが、これはわからなかつた。 
寿阿弥は此等の人々に一々書を裁するに及ばぬ分疏に、「府城、沼津、焼津等所々認候故、自由ながら貴境は先生より御口達奉願候」と云つてゐる。わたくしは筆不精ではないが、手紙不精で、親威故旧に不沙汰ばかりしてゐるので、読んで此に到つた時寿阿弥のコルレズボンダンスの範囲に驚かされた。 
寿阿弥の生涯は多く暗黒の中にある。抽斎文庫には秀鶴冊子と劇神仙話とが各二部あつて、そのどれかに抽斎が此人の事を手記して置いたさうである。青々園伊原さんの言に、劇神仙話の一本は現に安田横阿弥さんの蔵弆する所となつてゐるさうである。若し其本に寿阿弥が上に光明を投射する書入がありはせぬか。 
抽斎文庫から出て世間に散らばつた書籍の中、演劇に関するものは、意外に多く横阿弥さんの手に拾ひ集められてゐるらしい。珍書刊行会は曾て抽斎の奥書のある喜三二が随筆を印行したが、大正五年五月に至つて、又飛蝶の劇界珍話と云ふものを収刻した、前者は無論横阿弥さんの所蔵本に拠つたものであらう。後者に署してある名の飛蝶は、抽斎の次男優善後の優が寄席に出た頃看板に書かせた芸名である。劇界珍話は優善の未定稿が渋江氏から安田氏の手にわたつてゐて、それを刊行会が謄写したものではなからうか。  
寿阿弥の生涯は多く暗黒の中にある。写本刊本の文献に就てこれを求むるに、得る所が甚だ少い。然るにわたくしは幸に一人の活きた典拠を知つてゐる。それは伊沢蘭軒の嗣子榛軒の女で、棠軒の妻であつた曾能子刀自である。刀自は天保六(1835)年に生れて大正五(1916)年に八十二歳の高齢を保つてゐて、耳も猶聡く、言舌も猶さわやかである。そして寿阿弥の晩年の事を実験して記憶してゐる。 
刀自の生れた天保六年には、寿阿弥は六十七歳であつた。即ち此手紙が書かれてから七年の後に、刀自は生れたのである。刀自が四五歳の頃は寿阿弥が七十か七十一の頃で、それから刀自が十四歳の時に寿阿弥が八十で歿するまで、此畸人の言行は少女の目に映じてゐたのである。 
刀自の最も古い記憶として遺つてゐるのは寿阿弥の七十七の賀で、刀自が十一歳になつた弘化二(1845)年の出来事である。此賀は刀自の父榛軒が主として世話を焼いて挙行したもので、歌を書いた袱紗が知友の間に配られた。 
次に寿阿弥の奇行が穉かつた刀自に驚異の念を作さしめたことがある。それは寿阿弥が道に溺する毎に手水を使ふ料にと云つて、常に一升徳利に水を入れて携へてゐた事である。 
わたくしは前に寿阿弥の托鉢の事を書いた。そこには一たび仮名垣魯文のタンペラマンを経由して写された寿阿弥の滑稽の一面のみが現れてゐた。劇通で芝居の所作事をしくんだ寿阿弥に斯の如き滑稽のあつたことは怪むことを須ゐない。 
しかし寿阿弥の生活の全体、特にその僧侶としての生活が、啻に滑稽のみでなかつたことは、活きた典拠に由つて証せられる。少時の刀自の目に映じた寿阿弥は真面目の僧侶である。真面日の学者である。只此僧侶学者は往々人に異なる行を敢てしたのである。 
寿阿弥は刀自の穉かつた時、伊沢の家へ度々来た。僧侶としては毎月十七日に闕かさずに来た。これは此手紙の書かれた翌年、文政十二年三月十七日に歿した蘭軒の忌日である。此日には刀自の父榛軒が寿阿弥に読経を請ひ、それが畢つてから饗応して還す例になつてゐた。饗饌には必ず蕃椒を皿に一ぱい盛つて附けた。寿阿弥はそれを剰さずに食べた。「あの方は年に馬に一駄の蕃椒を食へるのださうだ」と人の云つたことを、刀自は猶記憶してゐる。寿阿弥の着てゐたのは木綿の法衣であつたと刀白は云ふ。 
寿阿弥に請うて読経せしむる家は、独り伊沢氏のみではなかつた。寿阿弥は高貴の家へも回向に往き、素封家へも往つた。刀自の識つてゐた範囲では、飯田町あたりに此人を請ずる家が殊に多かつた。 
寿阿弥は又学者として日を定めて伊沢氏に請ぜられた。それは源氏物語の講釈をしに来たのである。此講筵も亦独り伊沢氏に於て開かれたのみではなく、他家でも催されたさうである。刀自は寿阿弥が同じ講釈をしに永井えいはく方へ往くと云ふことを聞いた。 
永井えいはくは何人なるを詳にしない。医師か、さなくば所謂お坊主などで、武鑑に載せてありはせぬかと思つて検したが、見当らなかつた。表坊主に横井栄伯があつて、氏名が稍似てゐるが、これは別人であらう。或は想ふに、永井氏は諸侯の抱医師若くは江戸の町医ではなからうか。  
寿阿弥が源氏物語の講釈をしたと云ふことに因んだ話を、伊沢の刀自は今一つ記憶してゐる。それはかうである、或時人々が寿阿弥の噂をして、「あの方は坊さんにおなりなさる前に、奥さんがおありなさつたでせうか」と誰やらが問うた。すると誰やらが答へて云つた。「あの方は己に源氏のやうな文章で手紙を書いてよこす女があると、己はすぐ女房に持つのだがと云つて入らつしやつたさうです。しかしさう云ふ女がとうとう無かつたと云ふことです。」此話に由つて観れば、五郎作は無妻であつたと見える。五郎作が千葉氏の女壻になつて出されたと云ふ、喜多村筠庭の説は疑はしい。 
寿阿弥は伊沢氏に来ても、回向に来た時には雑談などはしなかつた。しかし講釈に来た時には、事果てて後に暫く世間話をもした。刀自はそれに就いてかう云ふ。「惜しい事には其時寿阿弥さんがどんな話をなさつたやら、わたくしは記えてゐません、どうも石川貞白さんなどのやうに、子供の面白がるやうな事を仰やらなかつたので、後にはわたくしは余り其席へ出ませんでした。」石川貞白は伊沢氏と共に福山の阿部家に仕へてゐた医者である。当時阿部家は伊勢守正弘の代であつた。 
刀自は寿阿弥の姪の事をも少し知つてゐる。姪は五郎作の妹の子であつた。しかし恨むらくは其名を逸した。刀自の記憶してゐるのは蒔絵師としての姪の号で、それはすゐさいであつたきうである。若し其文字を知るたつきを得たら、他日訂正することとしよう。寿阿弥が蒔絵師の株を貰つたことがあると云ふ筠庭の説は、これを誤り伝へたのではなからうか。 
刀自の識つてゐた頃には、寿阿弥は姪に御家人の株を買つて遣つて、浅草菊屋橋の近所に住はせてゐた。其株は扶持が多く附いてゐなかつたので、姪は内職に蒔絵をしてゐたのださうである。 
或るとき伊沢氏で、蚊母樹で作つた櫛を沢山に病家から貰つたことがある。榛軒は寿阿弥の姪に誂へて、それに蒔絵をさせ、知人に配つた。「大そう牙の長い櫛でございましたので、其比の御婦人はお使なさらなかつたさうです、今なら宜しかつたのでせう」と刀自は云つた。 
菊屋橋附近の家へは、刀自が度々榛軒に連れられて往つた。始て往つた時は十二歳であつたと云ふから、弘化三(1846)年に寿阿弥が七十七歳になつた時の事である。其頃からは寿阿弥は姪と同居してゐて、とうとう其家で亡くなつた。刀自はそれが孟蘭盆の頃であつたと思ふと云ふ。嘉永元(1848)年八月二十九日に歿したと云ふ記載と、略符合してゐる。 
寿阿弥の姪が茶技に精しかつたことは、伯父の手紙に徴して知ることが出来るが、その蒔絵を善くしたことは、刀自の話に由つて知られる。其他蒔絵師としての号をすゐさいと云つたこと、寿阿弥がためには妹の子であつたこと、御家人であつたこと等の分かつたのも、亦刀自の賜である。 
最後に残つてゐるのは、寿阿弥と水戸家との関係である。寿阿弥が水戸家の用達であつたと云ふことは、諸書に載せてある。しかし両者の関係は必ず此用達の名羲に尽きてゐるものとも云ひ難い。 
新石町の菓子商なる五郎作は富豪の身の上ではなかつたらしい。それがどうして三家の一たる水戸家の用達になつてゐたか。又剃髪して寿阿弥となり、幕府の連歌師の執筆にせられてから後までも、どうして水戸家との関係が継続せられてゐたか。これは稍暗黒なる一問題である。  
何故に生涯富人ではなかつたらしい寿阿弥が水戸家の用達と呼ばれてゐたかと云ふ問題は、単に彼海録に見えてゐる如く、数代前から用達を勤めてゐたと云ふのみを以て解釈し尽されてはゐない。水戸家が此用達を待つことの頗る厚かつたのを見ると、問題は一層の暗黒を加ふる感がある。 
手紙の記す所を見るに、寿阿弥が火事に遭つて丸焼になつた時、水戸家は十分の保護を加へたらしい。それゆゑ寿阿弥は再び火事に遭つて、重ねて救を水戸家に仰ぐことを憚かつたのである。これは水戸家の一の用達に対する処置としては、或は稍厚きに過ぎたものと見るべきではなからうか。 
且寿阿弥の経歴には、有力者の渥き庇保の下に立つてゐたのではなからうかと思はれる節が、用達問題以外にもある。久しく連歌師の職に居つたのなどもさうである。啻に其職に居つたと云ふのみではない。わたくしは寿阿弥が曇「と号したのは、芝居好であつたので、緞帳の音に似た文字を選んだものだらうと云ふことを推する。然るに此号が立派に公儀に通つて、年久しく武鑑の上に赫いてゐたのである。 
次に渋江保さんに聞く所に依るに、寿阿弥は社会一般から始終一種の尊敬を受けてゐて、誰も蔭で「寿阿弥が」云々したなどと云ふものはなく、必ず「寿阿弥さんが」と云つたものださうである。これも亦仔細のありさうな事である。 
次に寿阿弥は微官とは云ひながら公儀の務をしてゐて、頻繁に劇場に出入し、俳優と親しく交り、種々の奇行があつても、曾て咎を被つたことを聞かない。これも其類例が少からう。 
此等の不思議の背後には、一の巷説があつて流布せられてゐた。それは寿阿弥は水戸侯の落胤ださうだと云ふのであつた。此巷説は保さんも母五百に聞いてゐる。伊沢の刀自も知つてゐる。当時の社会に於ては所謂公然の秘密の如きものであつたらしい。「なんでも卑しい女に水戸様のお手が附いて下げられたことがあるのださうでございます。菓子店を出した時、大名よりは増屋だと云ふ意で屋号を附けたと聞いてゐます」と、刀自は云ふ。 
わたくしはこれに関して何の判断を下すことも出来ない。しかし真志屋と云ふ屋号の異様なのには、わたくしは初より心附いてゐた。そして刀自の言を聞いた時、なるほどさうかと頷かざることを得なかつた。兎に角真志屋と云ふ屋号は、何か特別な意義を有してゐるらしい。只その水戸家に奉公してゐたと云ふ女は必ずしも寿阿弥の母であつたとは云はれない。其女は寿阿弥の母ではなくて、寿阿弥の祖先の母であつたかも知れない。海録に拠れば、真志屋は数代菓子商で、水戸家の用達をしてゐたらしい。随つて落胤問題も寿阿弥の祖先の身の上に帰着するかも知れない。 
若し然らずして、嘉永元(1848)年に八十歳で歿した寿阿弥自身が、彼疑問の女の胎内に舎つてゐたとすると、寿阿弥の父は明和五六(1768-69)年の交に於ける水戸家の当主でなくてはならない。即ち水戸参議治保でなくてはならない。  
わたくしは寿阿弥の手紙と題する此文を草して将に稿を畢らむとした。然るに何となく心に慊ぬ節があつた。何事かは知らぬが、当に做すべくして做さざる所のものがあつて存する如くであつた。わたくしは前段の末に一の終の字を記すことを猶与した。 
そしてわたくしはかう思惟した。わたくしは寿阿弥の墓の所在を知つてゐる。然るに未だ曾て往いて訪はない。数其名を筆にして、其文に由つて其人に親みつゝ、程近き所にある墓を尋ぬることを怠つてゐるのは、遺憾とすべきである。兎に角一たび往つて見ようと云ふのである。 
雨の日である。わたくしは意を決して車を命じた。そして小石川伝通院の門外にある昌林院へ往つた。 
住持の僧は来意を聞いて答へた。昌林院の墓地は数年前に撤して、墓石の一部は伝通院の門内へ移し入れ、他の一都は洲崎へ送つた。寿阿弥の墓は前者の中にある。しかし柵が結つて錠が卸してあるから、雨中に詣づることは難儀である。幸に当院には位牌があつて、これに記した文字は墓表と同じであるから仏壇へ案内して進ぜようと答へた。 
わたくしは問うた。「柵が結つてあると仰やるのは、寿阿弥一人の墓の事ですか。それとも石塔が幾つもあつて、それに柵が結ひ繞らしてあるのですか。」これは真志屋の祖先数代の墓があるか否かと思つて云つたのである。 
「墓は一つではありません。藤井紋太夫の墓も、力士谷の音の墓もありますから。」 
わたくしは耳を欹てた。「それは思ひ掛けないお話です。藤井紋太夫だの谷の音だのが、寿阿弥に縁故のある人達だと云ふのですか。」 
僧は此間の消息を詳にしてはゐなかつた。しかし昔から一つ所に葬つてあるから、縁故があるに相違なからうとの事であつた。 
わたくしは延かれて位牌の前に往つた。寿阿弥の位牌には、中央に「東陽院寿阿弥陀仏曇「和尚、嘉永元(1848)年戊申八月二十九日」と書し、左右に「戒誉西村清常居士、文政三年庚寅十二月十二日」、「松寿院妙真日実信女、文化十二(1815)年乙亥正月十七日」と書してある。 
僧は「こちらが谷の音です」と云つて、隣の位牌を指きした。「神誉行義居士、明治二十一年十二月二日」と書してある。 
「藤井紋太夫のもありますか」と、わたくしは問うた。 
「紋太夫の位牌はありません。誰も参詣するものがないのです。しかしこちらに戒名が書き附けてあります。」かう云つて紙牌を示した。「光含院孤峯心了居士、元禄七年甲戌十一月二十三日」と書してある。 
「では寿阿弥と谷の音とは参詣するものがあるのですね」と、わたくしは問うた。 
「あります。寿阿弥の方へは牛込の藁店からお婆あさんが命日毎に参られます。谷の音の方へは、当主の関口文蔵さんが福島にをられますので、代参に本所緑町の関重兵衛さんが来られます。」  
命日毎に寿阿弥の墓に詣でるお婆あさんは何人であらう。わたくしの胸中には寿阿弥研究上に活きた第二の典拠を得る望が萌した。そこで僧には卒塔婆を寿阿弥の墓に建てることを頼んで置いて、わたくしは藁店の家を尋ねることにした。 
「藁店の角店で小間物屋ですから、すぐにわかります」と、僧が教へた。 
小間物屋はすぐにわかつた。立派な手広な角店で、五彩目を奪ふ頭飾の類が陳べてある。店顕には、雨の盛に降つてゐるにも拘らず、蛇目傘をさし、塗足駄を穿いた客が引きも切らず出入してゐる。腰を掛けて飾を選んでゐる客もある。皆美しく粧つた少女のみである。客に応接してゐるのは、紺の前掛をした大勢の若い者である。 
若い者はわたくしの店に入るのを見て、「入らつしやい」の声を発することを躊躇した。 
わたくしも亦忙しげな人々を見て、無用の陂b頭を作すを憚らざることを得なかつた。 
わたくしは若い丸髷のお上さんが、子を負つて門に立つてゐるのを顧みた。 
「それ、雨こんこんが降つてゐます」などと、お上さんは背中の子を賺してゐる。 
「ちよつと物をお尋ね申します」と云つて、わたくしはお上さんに来意を述べた。 
お上さんは怪訝の目を睜つて聞いてゐた。そしてわたくしの語を解せざること良久しかつた。無理は無い。此の如き熱鬧場裏に此の如き闌セ語を弄してゐるのだから。 
わたくしが反復して説くに及んで、白い狭い額の奥に、理解の薄明がさした。そしてお上さんは覚えず破顔一笑した。「あゝ。さうですか。ではあの小石川のお墓にまゐるお婆あさんをお尋なさいますのですね。」 
「さうです。さうです。」わたくしは喜禁ずべからざるものがあつた。丁度外交官が談判中に相手をして自己の某主張に首肯せしめた刹那のやうに。 
お上さんは繊い指尖を上框に衝いて足駄を脱いだ。そして背中の子を賺しつゝ、帳場の奥に躱れた。 
代つて現れたのは白髪を切つて撫附にした媼である。「どうぞこちらへ」と云つて、わたくしを揮いた。わたくしは媼と帳場格子の傍に対坐した。 
媼名は石、高野氏、御家人の女である。弘化三年(1846)生で、大正五年には七十一歳になつてゐる。少うして御家人師岡久次郎(もろをかきうじらう)に嫁した。久次郎に二人の兄があつた。長を山崎某と云ひ、仲を鈴木某と云つて、師岡氏は其季であつた。三人は同腹の子で、皆伯父に御家人の株を買つて貰つた。それは商賈であつた伯父の産業の衰へた日の事であつた。 
伯父とは誰ぞ。寿阿弥である。兄弟三人を生んだ母とは誰ぞ。寿阿弥の妹である。  
寿阿弥の手紙に「愚姪」と書してあるのは、山崎、鈴木、師岡の三兄弟中の一人でなくてはならない。それが師岡でなかつたことは明白である。お石さんは夫が生きてゐると大正五年に八十二歳になる筈であつたと云ふ。師岡は天保六(1835)年生で、手紙の書かれたのは師岡未生前七年の文政十一(1828)年だからである。 
山崎、鈴木の二人は石が嫁した時皆歿してゐたので、石は其齢を記憶しない。しかし夫よりは余程の年上であつたらしいと云ふ。兎に角齢の懸隔は小さからう筈が無い。彼の文政十一年(1828)年に既に川上宗寿の茶技を評した人は、師岡に比して大いに長じてゐなくてはならない。わたくしは石の言を聞いて、所謂愚姪は山崎の方であらうかと思つた。 
若し此推測が当つてゐるとすると、伊沢の刀自の記憶してゐる蒔絵師は、均しく是れ寿阿弥の妹の子ではあつても、手紙の中の「愚姪(=山崎)」とは別人でなくてはならない。何故と云ふに石の言に従へば、蒔絵をしたのは鈴木と師岡とで、山崎は蒔絵をしなかつたさうだからである。 
蒔絵は初め鈴木が修行したさうである。幕府の蒔絵師に新銀町と皆川町との鈴木がある。此両家と氏を同じうしてゐるのは、或は故あることかと思ふが、今遽に尋ねることは出来ない。次で師岡は兄に此技を学んだ。伊沢の刀自の記憶してゐるすゐさいの号は、鈴木か師岡か不明である。しかしすゐさいの名は石の曾て聞かぬ名だと云ふから、恐くは兄鈴木の方の号であらう。 
然らば寿阿弥の終焉の家は誰の家であつたか。これはどうも師岡の家であつたらしい。「伯父さんは内で亡くなつた」と、石の夫は云つてゐたさうだからである。 
此の如くに考へて見ると、寿阿弥の手紙にある「愚姪」、伊沢榛軒のために櫛に蒔絵をしたすゐさい、寿阿弥を家に居いて生を終らしめた戸主の三人を、山崎、鈴木、師岡の三兄弟で分坦することとなる。わたくしは此まで考へた時事の奇なるに驚かざるを得なかつた。 
初めわたくしは寿阿弥の手紙を読んだ時、所謂「愚姪」の女であるべきことを疑はなかつた。俗にをひを甥と書し、めひを姪と書するからである。しかし石に聞く所に拠るに、寿阿弥を小父と呼ぶべき女は一人も無かつたらしいのである。 
爾雅に「男子謂姉妹之子為出、女子謂姉妹之子為姪」と云つてある。甥の字はこれに反して頗る多義である。姪は素女子の謂ふ所であつても、公羊伝の舅出の語が広く行はれぬので、漢学者はをひを姪と書する。そこで奚疑塾に学んだ寿阿弥は甥と書せずして姪と書したものと見える。此に至つてわたくしは既に新聞紙に刊した文の不用意を悔いた。 
わたくしは石に夫の家の当時の所在を問うた。「わたくしが片附いて参つた時からは始終只今の山伏町の辺にをりました。其頃は組屋敷と申しました」と、石は云ふ。組屋敷とは黒鍬組の屋敷であらうか。伊沢の刀自が父と共に尋ねた家は、菊屋橋附近であつたと云ふから、稍離れ過ぎてゐる。師岡氏は弘化頃に菊屋橋附近にゐて、石の嫁して行く文久前に、山伏町辺に遷つたのではなからうか。 
わたくしの石に問ふべき事は未だ尽きない。落胤問題がある。藤井紋太夫の事がある。谷の音の事がある。  
わたくしは師岡の未亡人石に問うた。「寿阿弥さんが水戸様の落胤だと云ふ噂があつたさうですが、若しあなたのお耳に入つてゐはしませんか。」 
石は答へた。「水戸様の落胤と云ふ話は、わたくしも承はつてゐます。しかしそれは寿阿弥さんの事ではありません。いつ頃だか知りませんが、なんでも寿阿弥さんの先祖の事でございます。水戸様のお屋敷へ御奉公に出てゐた女に、お上のお手が附いて妊娠しました。お屋敷ではその女をお下げになる時、男の子が生れたら申し出るやうにと云ふことでございました。丁度生れたのが男の子でございましたので申し出ました。すると五歳になつたら連れて参るやうにと申す事でございました。それから五歳になりましたので連れて出ました。其子は別間に呼ばれました。そしてお前は侍になりたいか、町人になりたいかと云ふお尋がございました。子供はなんの気なしに町人になりたうございますと申しました。それで別に御用は無いと云ふことになつて下げられたさうでございます。なんでも真志屋と云ふ屋号は其後始て附けたもので、大名よりは増屋だと云ふ意であつたとか申すことでございます。その水戸様のお胤の人は若くて亡くなりましたが、血筋は寿阿弥さんまで続いてゐるのだと、承りました。」 
此言に従へば、真志屋は数世続いた家で、落胤問題と屋号の縁起とは其祖先の世に帰着する。 
次にわたくしは藤井紋太夫の墓が何故に真志屋の墓地にあるかを問うた。 
石は答へた。「あれは別に深い仔細のある事ではないさうでございます。藤井紋太夫は水戸様のお手討ちになりました。所が親戚のものは憚があつて葬式をいたすことが出来ませんでした。其時真志屋の先祖が御用達をいたしてゐますので、内々お許を戴いて死骸を引き取りました。そして自分の菩提所で葬をいたして進ぜたのだと申します。」 
わたくしは落胤問題、屋号の縁起、藤井紋太夫の遺骸の埋葬、此等の事件に、彼の海録に載せてある八百屋お七の話をも考へ合せて見た。 
水戸家の初代威公頼房は慶長十四(1609)年に水戸城を賜はつて、寛文元(1661)年に薨じた。二代義公光国は元禄三(1690)年に致仕し、十三年に薨じた。三代粛公綱条は享保三(1718)年に薨じた。 
海録に拠れば、八百屋お七の地主河内屋の女島は真志屋の祖先の許へ嫁入して、其時お七のくれた袱帛を持つて来た。河内屋も真志屋の祖先も水戸家の用達であつた、お七の刑死せられたのは天和三(1683)年三月二十八日である。即ち義公の世の事で、真志屋の祖先は当時既に水戸家の用達であつた。只真志屋の屋号が何年から附けられたかは不明である。 
藤井紋太夫の手討になつたのは、元禄七(1694)年十一月二十三日ださうで諸書に伝ふる所と、昌林院の記載とが符合してゐる。これは粛公の世の事で、義公は隠居の身分で藤井を誅したのである。 
此等の事実より推窮すれば、落胤問題や屋号の由来は威公の時代より遅れてはをらぬらしく、余程古い事である。姶て真志屋と号した祖先某は、威公若くは義公の胤であつたかも知れない。  
わたくしは以上の事実の断片を湊合して、姑く下の如くに推測した。水戸の威公若くは義公の世に、江戸の商家の女が水戸家に仕へて、殿様の胤を舎して下げられた。此女の生んだ子は商人になつた。此商人の家は水戸家の用達で、真志屋と号した。しかし用達になつたのと、落胤問題との孰れが先と云ふことは不明である。その後代々の真志屋は水戸家の特別保護の下にある。寿阿弥の五郎作は此真志屋の後である。 
わたくしの師岡の未亡人石に問ふべき事は、只一つ残つた。それは力士谷の音の事である。 
石は問はれてかう答へた。「それは可笑しな事なのでございます。好くは存じませんが其お相撲は真志屋の出入であつたとかで、それが亡くなつた時、何のことわりもなしに昌林院の墓所にいけてしまつたのださうでございます。幾ら贔屓だつたと云つたつて、死骸まで持つて来るのはひどいと云つて、こちらからは掛け合つたが、色々談判した挙句に、一旦いけてしまつたものなら為方が無いと云ふことになつたと、夫が話したことがございます。」石は関口と云ふ後裔の名をだに知らぬのであつた。 
余り長座をするもいかゞと思つて、わたくしは辞し去らむとしたが、ふと寿阿弥の連歌師であつたことに就いて、石が何か聞いてゐはせぬかと思つた。武鑑には数年間日輪寺其阿と寿阿曇「とが列記せられてゐて、しかも寿阿の住所は日輪寺方だとしてある。わたくしは是より先、浅草芝崎町の日輪寺に往つて見た。一つには寿阿弥の同僚であつた其阿の墓石を尋ねようと思ひ、二つには日輪寺其阿の名が一代には限らぬらしく、古く物に見えてゐるので、それを確めようと思つたからである。日輪寺は今の浅草公園の活動写真館の西で、昔は東南共に街に面した角地面であつた。今は薪屋の横町の衝当になつてゐる。寺内の墓地は半ば水に浸されて沮洳の地となり、藺を生じ芹を生じてゐる。わたくしは墓を検することを得ずして還つた、わたくしは石に問うた。「若し日輪寺と云ふ寺の名をお聞になつたことはありませんか。」 
「存じてをります。日輪寺は寿阿弥さんの縁故のあるお寺ださうで、寿阿弥さんの御位牌が置いてありました。しかし昌林院の方にあれば、あちらには無くても好いと云ふことになりまして、只今は何もこざいません。」 
わたくしはお石さんに暇乞をして、小間物屋の帳場を辞した。小間物屋は牛込肴町で当主を浅井平八郎さんと云ふ。初め石は師岡久次郎に嫁して一人女京を生んだ。京は会津東山の人浅井善蔵に嫁した。善蔵の女おせいさんが婿平八郎を迎へた。おせいさんは即ち子を負つて門に立つてゐたお上さんである。 
寿阿弥の事は旧に依つて暗黒の中にある。しかしわたくしは伊沢の刀自や師岡の未亡人の如き長寿の人を識ることを得て、幾分か諸書の誤謬を正すことを得たのを喜んだ。 
わたくしは再び此稿を畢らむとした。そこへ平八郎さんが尋ねて来た。前に浅井氏を訪うた時は、平八郎さんは不在であつたが、後にわたくしの事を外祖母に聞いて、今真志屋の祖先の遺物や文書をわたくしに見せに来たのである。 
遺物も文書も、浅井氏に現存してゐるものの一部分に過ぎない。しかし其遺物には頗る珍奇なるものがあり、其文書には種々の新事実の証となすべきものがある。寿阿弥研究の道は幾度か窮まらむとして、又幾度か通ずるのである。八百屋お七の手づから縫つた袱紗は、六十三年前の嘉永六(1853)年に寿阿弥が手から山崎美成の手にわたされた如くに、今平八郎さんの手からわたくしの手にわたされた。水戸家の用達真志屋十余代の継承次第は殆ど脱漏なくわたくしの目の前に展開せられた。  
わたくしは姑く浅井氏所蔵の文書を真志屋文書と名づける。真志屋文書に徴するに真志屋の祖先は威公頼房が水戸城に入つた時に供に立つてゐる。文化二(1805)年に武公治紀が家督して、四年九月九日に十代目真志屋五郎兵衛が先祖書を差し出した。「先祖儀御入国の砌御供仕来元和年中(1615-1624)引続」云々と書してある。入国とは頼房が慶長十四(1609)年に水戸城に入つたことを指すのである。此真志屋始祖西村氏は参河の人で、過去帳に拠ると、浅誉日水信士と法諡し、元和二年正月三日に歿した。屋号は真志屋でなかつたが、名は既に五郎兵衛であつた。 
二代は方誉清西信士で、寛永十九(1642)年九月十八日に歿した。後の数代の法諡の例を以て推すに、清西は生前に命じた名であらう。 
三代は相誉清伝信士で、寛文四(1664)年九月二十二日に歿した。水戸家は既に義公光国の世になつてゐる。 
四代は西村清休居士である、清休の時、元禄三年に光国は致仕し、粛公綱条が家を継いだ。 
此代替に先つて、清休の家は大いなる事件に遭遇した。真志屋の遺物の中に写本西山遺事並附録三巻があつて、其附録の末一枚の表に「文政五(1822)年壬午秋八月、真志屋五郎作秋邦謹書」と署した漢文の書後がある。其中にかう云つてある。「嗚呼家先清休君、得知於公深、身庶人而俸賜三百石、位列参政之後」と云つてある。公は西山公を謂ふのである。 
此俸禄の事は先祖書の方には、側女中島を娶つた次の代廓清が受けたことにしてある。「乍恐御西山君様御代御側向御召抱お島之御方と被申候を妻に被下置厚き奉蒙御重恩候而、年々御米百俵宛三季に享保年中迄頂戴仕来冥加至極難有仕合に奉存候」と云つてある。しかし清休がためには、島は子婦である。光国は清休をして島を子婦として迎へしめ、俸禄を与へたのであらう。 
八百屋お七の幼馴染で、後に真志屋祖先の許に嫁した島の事は海録に見えてゐる。お七が袱紗を縫つて島に贈つたのは、島がお屋敷奉公に出る時の餞別であつたと云ふことも、同書に見えてゐる。しかし水戸家から下つて真志屋の祖先の許に嫁した疑問の女が即ち此島であつたことは、わたくしは知らなかつた。島の奉公に出た屋敷が即ち水戸家であつたことは、わたくしは知らなかつた。真志屋文書を見るに及んで、わたくしは落胤問題と八百屋お七の事とが倶に島、其岳父、其夫の三人の上に輳り来るのに驚いた。わたくしは三人と云つた。しかし或は一人と云つても不可なることが無からう。其中心人物は島である。 
真志屋の祖先と共に、水戸家の用達を勤めた河内屋と云ふものがある。真志屋の祖先が代々五郎兵衛と云つたと同じく、河内屋は代々半兵衛と云つた。真志屋の家説には、寛文の頃であつたかと云つてあるが、当時の半兵衛に一人の美しい女が生れて、名を島と云つた。島は後に父の出入屋敷なる水戸家へ女中に上ることになつた。  
河内屋は本郷森川宿に地所を持つてゐた。それを借りて住んでゐる八百屋市左衛門にも、亦一人の美しい女があつて、名を七と云つた。七は島より年下であつたであらう。島が水戸家へ奉公に上る時、餞別に手づから袱紗を縫つて贈つた。表は緋縮緬、裏は紅絹であつた。 
島が小石川の御殿に上つてから間もなく、森川宿の八百屋が類焼した。此火災のために市左衛門等は駒込の寺院に避難し、七は寺院に於て一少年と相識になり、新築の家に帰つた後、彼少年に再会したさに我家に放火し、其科に因つて天和三(1683)年三月二十八日に十六歳で刑せられた。島は七の死を悼んで、七が遺物の袱紗に祐天上人筆の名号を包んで、大切にして持つてゐた。 
後に寿阿弥は此袱紗の一辺に、白羽二重の切を縫ひ附けて、それに縁起を自書した。そしてそれを持つて山崎美成に見せに往つた。 
此袱紗は今浅井氏の所蔵になつてゐるのを、わたくしは見ることを得た。袱紗は燧袋形に縫つた更紗縮緬の上被の中に入れてある。上被には蓮華と仏像とを画き、裏面中央に「倣尊澄法親王筆」右辺に「保午浴仏日呈寿阿上人蓮座」と題し、背面に心経の全文を写し、其右に「天保五年甲午二月廿五日仏弟子竹谷依田瑾薫沐書」と記してある。依田竹谷、名は瑾、字は子長、盈科斎、三谷庵、又凌寒斎と号した。文晁の門人である。此上被に画いた天保五年は竹谷が四十五歳の時で、後九年にして此人は寿阿弥に先つて歿した。山崎美成が見た時には、上被はまだ作られてゐなかつたのである。 
上被から引き出して見れば、被紗は緋縮緬の表も、紅絹の裏も、皆淡い黄色に褪めて、後に寿阿弥が縫ひ附けた白羽二重の古びたのと、殆ど同色になつてゐる。寿阿弥の仮名文は海録に譲つて此に写さない。末に「文政六(1823)年癸未四月真志屋五郎作新発意寿阿弥陀仏」と署して、邦字の華押がしてある。 
わたくしは更に此袱紗に包んであつた六字の名号を披いて見た。中央に「南無阿弥陀仏」、其両辺に「天下和順、日月清明」と四字づゝに分けて書き、下に祐天と署し、華押がしてある。装潢には葵の紋のある錦が用ゐである。享保三年に八十三歳で、目黒村の草菴に於て祐天の寂したのは、島の歿した享保十一年に先つこと僅に八年である。名号は島が親しく祐天に受けたものであらう。 
島の年齢は今知ることが出来ない。遺物の中に縫薄の振袖がある。袖の一辺に「三誉妙清様小石川御屋形江御上り之節縫箔の振袖、其頃の小唄にたんだ振れふれ六尺袖をと唄ひし物是也、享保十一年丙辰六月七日死、生年不詳、家説を以て考ふれば寛文年間なるベし、裔孫西村氏所蔵」と記してある。 
島が若し寛文元年に生れたとすると、天和元年が二十一歳で、歿年が六十六歳になり、寛文十二年に生れたとすると、天和元年が十歳で、歿年が五十五歳になる。わたくしは島が生れたのは寛文七年より前で、その水戸家に上つたのは、延宝の末(1681)か天和の初であつたとしたい。さうするとお七が十三四になつてゐて、袱紗を縫ふにふさはしいのである。いづれにしても当時の水戸家は義公時代である。 
さていつの事であつたか詳でないが、義公の猶位にある間に、即ち元禄三年以前に水戸家は義公の側女中になつてゐた島に暇を遣つた。そして清休の子廓清が妻にせいと内命した。島は清休の子婦、廓清の妻になつて、一子東清を挙げた。若し島が下げられた時、義公の胤を舎してゐたとすると、東清は義公の庶子であらう。  
既にして清休は未だ世を去らぬに、主家に於ては義公光国が致仕し、粛公綱条が家を継いだ。頃くあつて藤井紋太夫の事があつた。隠居西山公が能の中入に楽屋に於て紋太夫を斬つた時、清休は其場に居合せた。真志屋の遺物写本西山遺事の附録末二枚の欄外に、寿阿弥の手で書入がしてある。「家説云、元禄七年十一月十三日、御能有之、公羽衣のシテ被遊、御中入之節御楽屋に而、紋太夫を御手討に被遊候、(中略)、御楽屋に有合人々八方へ散乱せし内に、清休君一人公の御側をさらず、御刀の拭、御手水一人にて相勤、扨申上けるは、私共愚昧に而、かゝる奸悪之者共不存、入魂に立入仕候段、只今に相成重々奉恐入候、思召次第如何様共御咎仰付可被下置段申上ける時、公笑はせ玉ひ、余が眼目をさへ眩ませし程のやつ、汝等が欺かれたるは尤ものことなり、少も咎中付る所存なし、しかし汝は格別世話にもなりたる者なれば、汝が菩提所へなりとも、死骸葬り得さすべしと仰有之候に付、則菩提所伝通院寺中昌林院へ埋め、今猶墳墓あれども、一華を手向る者もなし、僅に番町辺の人一人正忌日にのみ参詣すと云ふ、法名光含院孤峰心了居士といへり。」 
説いて此に至れば、独所謂落胤問題と八百屋お七の事のみならず、彼藤井紋太夫の事も亦清休、廓清の父子と子婦島との時代に当つてゐるのがわかる。 
清休は元禄十二年閏九月十日に歿した。次に其家を継いだのが五代西村廓清信士で、問題の女島の夫、所謂落胤東清の表向の父である。「御西山君様御代御側向御召抱お島之御方と被申候を妻に被下置、厚き奉蒙御重恩候而、年々御米百俵宛三季に」頂戴したのは此人である。此書上の文を翫味すれば、落胤問題の生じたのは、決して偶然でない。次で「元文三(1738)年より御扶持方七人分被下置」と云ふことに改められた。廓清は享保四年三月二十九日に歿した。島は遅れて享保十一年六月七日に歿した。真志屋文書の過去帳に「五代廓清君室、六代東清君母儀、三誉妙清信尼、俗名嶋」と記してある。当時水戸家は元禄十三年に西山公が去り、享保三年に粛公綱条が去つて、成公宗尭の世になつてゐた。 
六代西村東清信士は過去帳一本に「幼名五郎作自義公拝領、十五歳初御目見得、依願西村家相続被仰付、真志屋号拝領、高三百石被下置、俳名春局」と詮してある。幼名拝領並に初御目見得から西村家相続に至るには、年月が立つてゐたであらう。此人が即ち所謂落胤である。若し落胤だとすると、水戸家は光国の庶兄頼重の曾孫たる宗尭の世となつてゐたのに、光国の庶子東清は用達商人をしてゐたわけである。 
過去帳一本の註に拠るに、五郎作の称が此時より始まつてゐる。初代以来五郎兵衛と称してゐたのに、東清に至つて始めて五郎作と称し、後に寿阿弥もこれを襲いだのである。又「俳名春局」と註してあるのを見れば、東清が俳諧をしたことが知られる。 
真志屋の屋号は、右の過去帳一本の言ふ所に従へば、東清が始て水戸家から拝領したものである。真志屋の紋は、金沢蒼夫さんの言に従へば、マの字に象つたもので、これも亦水戸家の賜ふ所であつたと云ふ。 
東清は宝暦二年十二月五日に歿した。水戸家は成公宗尭が享保十五年に去つて、良公宗翰の世になつてゐた。  
真志屋の七代は西誉浄賀信士である。過去帳一本に「実は東国屋伊兵衛弟、俳名東之」と註してある。東清の壻養子であらう。浄賀は安永十(1781)年三月二十七日に歿した。水戸家は良公宗翰が明和二(1765)年に世を去つて、文公治保の世になつてゐた。 
八代は薫誉沖谷居士である。天明三(1783)年七月二十日に歿した。水戸家は旧に依つて治保の世であつた。 
九代は心誉一鉄信士である。此人の代に、「寛政五(1793)丑年より暫の間三人半扶持御滅し当時三人半被下置」と云ふことになつた。一鉄の歿年は二種の過去帳が記載を殊にしてゐる。文化三(1806)年十一月六日とした本は手入の迹の少い本である。他の一本は此年月日を書してこれを抹殺し、傍に寛政八(1796)年十一月六日と書してある。前者の歿年に先つこと一年、文化二(1805)年に水戸家では武公治紀が家督相続をした。 
十代は二種の過去帳に別人が載せてある。誓誉浄本居士としたのが其一で、他の一本には此に浄誉了蓮信士が入れて、「十代五郎作、後平兵衛」と註してある。浄本は文化十三(1816)年六月二十九日に歿した人、了蓮は寛政八(1796)年七月六日に歿した人である。今遽に孰れを是なりとも定め難いが、要するに九代十代の間に不明な処がある。浄本の歿した年に、水戸家では哀公斉脩が家督相続をした。 
これよりして後の事は、手入の少い過去帳には全く載せて無い。これに反して他の一本には、寿阿弥の五郎作が了蓮の後を襲いで真志屋の十一代目となつたものとしてある。寛政八(1796)年には寿阿弥(1769-1848)は二十八歳になつてゐた。 
寿阿弥は本江間氏で、其家は遠江国浜名郡舞坂から出てゐる。父は利右衛門、法諡頓誉浄岸居士である。過去帳の一本は此人を以て十一代目五郎作としてゐるが、配偶其他卑属を載せてゐない。此人に妹があり、姪があるとしても、此人と彼等とが血統上いかにして真志屋の西村氏と連繋してゐるかは不明である。しかし此連繋は恐らくは此人の尊属姻戚の上に存するのであらう。 
寿阿弥の五郎作は文政五(1822)年に出家した。これは手入の少い過去帳の空白に、後に加へた文と、過去帳一本の八日の下に記した文とを以つて証することが出来る。前者には、「延誉寿阿弥、俗名五郎作、文政五年壬午十月於浅草日輪寺出家」と記してあり、後者は「光誉寿阿弥陀仏、十一代日五郎作、実江間利右衛門男、文政五年壬午十月於日輪寺出家」と記してある。後者は八日の条に出てゐるから、落飾の日は文政五年十月八日である。 
わたくしは寿阿弥の手紙を読んで、寿阿弥は姪に菓子店を譲つて出家したらしいと推測し、又師岡未亡人の言に拠つて、此姪を山崎某であらうと推測した。後に真志屋文書を見るに及んで、新に寿阿弥の姪一人の名を発見した。此姪は分明に五郎兵衛と称して真志屋を継承し、尋で寿阿弥に先だつて歿したのである。 
寿阿弥が自筆の西山遺事の書後に、「姪真志屋五郎兵衛清常、蔵西山遺事一部、其書誤脱不為不多、今謹考数本、校訂以貽後生」と云ひ、「文政五(1822)年秋八月、真志屋五郎作秋邦謹書」と署してある。此年月は寿阿弥が剃髪する二月前である。これに由つて観れば、寿阿弥が将に出家せむとして、戸主たる姪清常のために此文を作つたことは明である。わたくしは少しく推測を加へて、此を以つて十一代の五郎作即ち寿阿弥が十二代の五郎兵衛清常のために書いたものと見たい。 
此清常は過去帳の一本に載せてあり、又寿阿弥の位牌の左辺に「戒誉西村清常居士、文政十三(1830)年庚寅十二月十二日」と記してある。文政十三年は即ち天保元年である。清常は寿阿弥が出家した文政五(1822)年の後八年、真志屋の火災に遇つた文政十年(1827)の後三年、寿附弥が苾堂に与ふる書を作つた文政十一年(1828)年の後二年にして歿した。書中の所謂「愚姪」が此清常であることは、殆ど疑を容れない。しかし此人と石の夫師岡久次郎の兄事した山崎某とは別人で、山崎某は過去帳の一本に「清誉涼風居士、文久元酉年七月二十四日、五郎作兄、行年四十五歳(1817-1861)」と記してあるのが即是であらう。果して然らば山崎は恐らくは鈴木と師岡(1835-1906)との実兄ではあるまい。所謂「五郎作兄」は年齢より推すに、寿阿弥(1769-1848)の兄を謂ふのでないことは勿論であるが、未だ考へられない。 
清常の歿するに先つこと一年、文政十二年に、水戸家は烈公斉昭の世となつた。  
清常より後の真志屋の歴史は愈模糊として来る。しかし大体を論ずれば真志屋は既に衰替の期に入つてゐると謂ふことが出来る。真志屋は自ら支ふること能はざるがために、人の廡下に倚つた。初は「麹町二本伝次方江同居」と云ふことになり、後「伝次不勝手に付金沢丹後方江又候同居」と云ふことになつた。 
真志屋文書に文化以後の書留と覚しき一冊子があるが、惜むらくはその載する所の沙汰書、伺書、願書等には多く年月日が闕けてゐる。 
此等の文に拠るに、家道衰微の原因として、表向申し立ててあるのは火災である。「類焼後御菓子製所大被に相成」云々と云つてある。此火災は寿阿弥の手紙にある「類焼」と同一で、文政十年(1827)の出来事であつたのだらう。 
さて二本伝次の同居人であつた当時の真志屋五郎兵衛は、病に依つて二本氏の族人をして家を嗣がしめたらしい。年月日を聞いた願書に、「願之上親類麹町二本伝次方江同居仕御用向無滞相勤候処、当夏中より中風相煩歩行相成兼其上甥鎌作儀病身に付(中略)右伝次方私従弟定五郎と申者江跡式相続為仕度(中略)奉願候、尤従弟儀未若年に御座候に付右伝次儀後見仕」云々と云つてある。署名者は真志屋五郎兵衛、二本伝次の二人である。此願は定て聞き届けられたであらう。 
しかし十二代清常と此定五郎との接続が不明である。中風になつた五郎兵衛が二十歳で歿した清常でないことは疑を容れない。已むことなくば一説がある。同じ冊子の定五郎相続願の直前に、同じく年月日を闕いた沙汰書が載せてある。これは五郎兵衛の病気のために、伯父久衛門が相続することを聴許する文である。此五郎兵衛を清常とするときは、(継承順序は十二代五郎兵衛清常、)十三代久衛門、十四代定五郎となるであらう。 
次に同じ冊子に嘉永七(1854)寅霜月とした願書があつて、これは真志屋が既に二本氏から金沢氏に転寓した後の文である。真志屋五郎作が金沢方にゐながら、五郎兵衛と改称したいと云ふので、五郎作の叔父永井栄伯が連署してゐる。此願書が定五郎相続願の直後に載せてあるのを見れば、或は定五郎は相続後に一旦五郎作と称し、次で金沢氏に寓して、五郎兵衛と改めたのではなからうか。それは兎も角も、山崎久次郎を以て兄とする五郎作は、此文に見えてゐる五郎作即ち永井栄伯の兄の子の五郎作ではなからうか。因に云ふ。寿阿弥を講じて源氏物語を講ぜしめた永井栄伯は、真志屋の親戚であつたことが、此文に徴して知られる。師岡氏未亡人の言に拠れば、わたくしが前に諸侯の抱医か町医かと云つた栄伯は、町医であつたのである。 
わたくしの真志屋文書より獲た所の継承順序は、概ね此の如きに過ぎない。今にして寿阿弥の手紙を顧ればその所謂「愚姪」は寿阿弥に家人株を買つて貰つた鈴木、師岡、乃至山崎ではなくて、真志屋十二代清常であつた。鈴木、師岡は伊沢の刀自や師岡未亡人の言の如く、寿阿弥の妹の子であらう。山崎は稍疑はしい。案ずるに偶然師岡氏と同称(久次郎)であつた山崎は、某(十四)代五郎作の実兄で、鈴木と師岡とは義兄としてこれを遇してゐたのではなからうか。清常に至つては寿阿弥がこれを謂つて姪となす所以を審にすることが出来ない。  
わたくしは師岡未亡人に、寿阿弥の妹の子が二人共蒔絵をしたことを聞いた。しかし先づ蒔絵を学んだのは兄鈴木で、師岡は鈴木の傍にあつてその為す所に傚らつたのださうである。 
わたくしは又伊沢の刀自に、其父榛軒が寿阿弥の姪をして櫛に蒔絵せしめたことを聞いた。此蒔絵師の号はすゐさいであつたさうである。 
師岡未亡人はすゐさいの名を識らない。夫師岡が此号を用ゐたなら、識らぬ筈が無い、そこでわたくしは蒔絵師すゐさいは鈴木であらうと推測した。 
此推測は当つたらしい。浅井平八郎さんは真志屋の遺物の中から、写本二種を選り出して持つて来た。其一は蒔絵の図案を集めたもので、西郭、渓雲、北可、玉燕女等と署した画が貼り込んである。表紙の表には「画本」と題し、裏には通二丁目山本と書して塗抹し、「寿哉所蔵」と書してある。其二は浮世絵師の名を年代順に列記し、これに略伝を附したもので、末に狩野家数世の印譜を写して添へてある。表紙の表には「古今先生記」と題し、裏には「嘉永四辛亥春」と書し、其下に「鈴木寿哉」の印がある。伊沢榛軒のために櫛に蒔絵したのが、此鈴木寿哉であつたことは、殆ど疑を容れない。寿哉は或はしうさいなどと訓ませてゐたので、すゐさいと聞き錯られたかも知れない。 
初めわたくしは寿阿弥の墓を討めに昌林院へ往つた。そして昌林院の住職に由つて師岡氏未亡人を知り、未亡人に由つて真志屋文書を見るたつきを得た。然るにわたくしは曾て昌林院に至りし日雨に阻げられて墓に詣でなかつた。わたくしは平八郎さんが来た時、これに告ぐるに往訪に意あることを以てした。其時平八郎さんはわたくしに意外な事を語つた。それはかうである、近頃昌林院は墓地を整理するに当つて、墓石の一都を伝通院内に移し、爾余のものは別に処分した。そして寿阿弥の墓は伝通院に移された墓石中には無かつた。師岡氏未亡人は忌日に参詣して、寿阿弥の墓の失踪を悲み、寺僧に其所在を問うて已まなかつた。寺僧は資を損てて新に寿阿弥の石を立てた。今伝通院にあるものが即是である。未亡人石は毎に云つてゐる。「原の寿阿弥のお墓は硯のやうな、締麗な石であつたのに、今のお裏はなんと云ふ見苦しい石だちう。」 
わたくしは曩に寺僧の言を聞いた時、寿阿弥が幸にして盛世碑碣の厄を免れたことを喜んだ。然るに当時寺僧は実を以てわたくしに告げなかつたのである。寿阿弥の墓は香華未だ絶えざるに厄に罹つて、後僅に不完全なる代償を得たのである。 
大凡改葬の名の下に墓石を処分するは、今の寺院の常習である。そして警察は措いてこれを問はない。明治以降所謂改葬を経て、踪迹の尋ぬべからざるに至つた墓碣は、その幾何なるを知らない。此厄は世々の貴人大官碩学鴻儒乃至諸芸術の聞人と雖免れぬのである。 
此間寺僧にして能く過を悔いて、一旦処分した墓を再建したものは、恐らくは唯昌林院主一人あるのみであらう。そして院主をして肯て財を投じて此稀有の功徳を成さしめたのは、実に師岡氏未亡人石が悃誠の致す所である。  
真志屋の西村氏は古くから昌林院を菩提所にしてゐた。然るに中ごろ婚嫁のために、江間氏と長島氏との血が交つたらしい。江間、長島の両家は浅草山谷の光照院を菩提所にしてゐたのである。 
わたくしは真志屋文書に二種の過去帳のあることを言つた。余り手入のしてない原本と、手入のしてある他の一本とである。其手入は江間氏の人々の作した手入である。姑く前者を原本と名づけ、後者を別本と名づけることにする。 
原本は昌林院に葬つた人々のみを載せてゐる。初代日水から九代一鉄まで皆然りである。そして此本には十代を浄本としてゐる。 
別本は浄本を歴代の中から除き去つて、代ふるに了蓮を以てしてゐる。これは光照院に葬られた人で、恐らくは江間氏であらう。次が十一代寿阿弥曇「で、此人が始て江間氏から出て遺該を昌林院に埋めた。 
長島氏の事蹟は頗る明でないが、わたくしは長島氏が江間氏と近密なる関係を有するものと推測する。過去帳別本に「貞誉誠範居士、葬于光照院、長島五郎兵衛、□代五郎兵衛実父、□□□月」として「二十日」の下に記してある。四字は紙質が湿気のために変じて読むべからざるに至つてゐる。然るにこれに参照すべき戒名が今一つある、それは「覚誉泰了居士、明和六(1769)年己丑七月、遠州舞坂人、江間小兵衛三男、俗名利右衛門、九代目五郎作実祖父、葬于浅草光照院」と、「四日」の下に記してある泰了である。 
試みに誠範の所の何代を九代とすると、江間小兵衛の三男が利右衛門泰了、泰了の子が長島五郎兵衛誠範、誠範の子が真志屋九代の五郎作、後五郎兵衛一鉄と云ふことになる。別本一鉄の下には五郎兵衛としてあつて、泰了の下に九代目五郎作としてあるから、初五郎作、後五郎兵衛となつたものと見るのである。 
更に推測の歩を進めて、江間氏は世利右衛門と称してゐて、明和六(1769)年に歿した利右衛門泰了の嫡子が寛政四(1792)年に歿した利右衛門浄岸で、浄岸の弟が長島五郎兵衛誠範であつたとする。さうすると浄岸の子寿阿弥と誠範の子一鉄とは従兄弟になる。わたくしは此推測を以て甚だしく想像を肆にしたものだとは信ぜない。 
わたくしはこれだけの事を考へて、二重の過去帳を、他の真志屋文書に併せて平八郎さんに還した。 
わたくしは昌林院の寿阿弥の墓が新に建てられたものだと聞いたので、これを訪ふ念が稍薄らいだ。これに反して光照院の江間、長島両家の墓所は、わたくしに新に何物をか教へてくれさうに思はれたので、わたくしは大いにこれに属望した。わたくしは山谷の光照院に往つた。 
浅草聖天町の停留場で電車を下りて吉野町を北へ行くと、右側に石柱鉄扉の門があつて、光照院と書いた陶製の標札が懸けてある。墓地は門を入つて右手、本堂の南にある。  
光照院の墓地の東南隅に、殆ど正方形を成した扁石の墓があつて、それに十四人の戒名が一列に彫り付けてある。其中三人だけは後に追加したものである。追加三人の最も右に居るのが真志屋十一代の寿阿弥、次が十二代の「戒誉西村清常居士、文政十三(1830)年庚寅十二月十二日」、次が「証誉西村清郷居士、天保九(1838)年戊戌七月五日」である。寿阿弥は西村氏の菩提所昌林院に葬られたが、親戚が其名を生家の江間氏の菩提所に留めむがために、此墓に彫り添へさせたものであらう。清常、清郷は過去帳原本の載せざる所で、独別本にのみ見えてゐる。残余十一人の古い戒名は皆別本にのみ出てゐる名である。清郷の何人たるかは考へられぬが、清常の近親らしく推せられる。 
古い戒名の江間氏親戚十一人の関係は、過去帳別本に徴するに頗る複雑で、容易には明め難い。唯二三の注意に値する件々を左に記して遺忘に備へて置く。 
十一人中に「法誉知性大姉、寛政十(1898)年戊午八月二日」と云ふ人がある。十代の実祖母としてあるから、了蓮の祖母であらう。此知性の父は「玄誉幽本居士、宝暦九(1759)年己卯三月十六日」、母は「深誉幽妙大姉、宝暦五年乙亥十一月五日」としてある。更にこれより溯つて、「月窓妙珊大姉、寛保元(1741)年辛酉十月二十四日」がある。これは知性の祖としてあるから、祖母ではなからうか。以上を知性系の人物とする。然るに幽本、幽妙の子、了蓮の父母は考へることが出来ない。 
十一人中に又「貞誉誠範居士、文政五(1822)年壬午五月二十日」と云ふ人がある。即ち過去帳別本に読むべからざる記註を見る戒名である。わたくしは其「何代五郎兵衛実父」を「九代」と読まむと欲した。残余の闕文は月字の上の三字で、わたくしは今これを読んで「同年五月」となさむと欲する。何故と云ふに、別本には誠範の右に「蓮誉定生大姉、文政五年壬午八月」があつたから、此の如くに読むときは、此彫文と符するからである。果して誠範を九代一鉄の父長島五郎兵衛だとすると、此名の左隣にある別本の所謂九代の祖父「覚誉泰了居士、明和六(1769)年己丑七月四日」は、誠範の父であらう。又此列の最右翼に居る「範叟道規庵主、元文三(1738)年戊午八月八日」は、別本に泰了縁家の祖と註してあるから、此系の最も古い人に当り、又此列の最左翼に居る寿阿弥の父「頃誉浄岸居壬、寛政四(1792)年壬子八月九日」は、泰了と利右衛門の称を同じうしてゐるから、泰了の子かと推せられる。以上を誠範系の人物とする。江間氏と長島氏との連繋は、此誠範系の上に存するのである。 
此大墓石と共に南面して、其西隣に小墓石がある。台石に長島氏と彫り、上に四人の法諡が並記してある。二人は女子、二人は小児である。「馨誉慧光大姉、文政六(1823)年癸未十月二十七日」は別本に十二代五郎兵衛姉、実は叔母と註してある。「誠月妙貞大姉、安政三(1856)年丙辰七月十二日」は別本に五郎作母、六十四歳と註してある。小児は勇雪、了智の二童子で、了智は別本に十二代五郎兵衛実弟と註してある。要するに此四人は皆十二代清常の近親らしいから、所謂五郎作母も清常の初称五郎作の母と解すべきであるかも知れない。別本には猶、次に記すべき墓に彫つてある蓮誉定生大姉の下に、十二代五郎兵衛養母と註してある。清常には母かと覚しき妙貞があり、叔母慧光があつて、それが西村氏に養はれてから定生を養母とし、叔母慧光を姉とするに至つた。以上を清常系の人物として、これに別本に見えてゐる慧光の実母を加へなくてはならない。即ち深川霊岸寺開山堂に葬られたと云ふ「華開生悟信女、享和二(1802)年壬戌十二月六日」が其人であるしかし清常の父の誰なるかは遂に考へることが出来ない。  
次に遠く西に離れて、茱萸の木の蔭に稍新しい墓石があつて、これも台石に長島氏と彫つてある。墓表には男女二人の戒名が列記してある。男女の戒名は、「浄誉了蓮居士、寛政八(1796)辰天七月初七日」と「蓮誉定生大姉、文政五(1822)午天八月二十日」とで、其中間に後に「遠誉清久居士、明治三十九(1906)年十二月十三日」の一行が彫り添へてある。了蓮は過去帳別本の十代五郎作、定生は同本の十二代五郎兵衛養母、清久は師岡久次郎即ち高野氏石の亡夫である。 
定生には父母があつて過去帳別本に見えてゐる。父は「本住院活法日観信士、天明四(1784)年甲辰十二月十七日」、母は「霊照院妙慧日耀信女、文化十二(1815)年乙亥正月十三日」で、並に橋場長照寺に葬られた。日観の俗名は別本に小林弥右衛門と註してある。然るに了蓮の祖母知性の母幽妙の下にも、別本に小林弥右衛門妻の註がある。此二箇所に見えてゐる小林弥右衛門は同人であらうか、又は父子襲名であらうか。又定生の外祖母と称するものも別本に見えてゐる。「貞円妙達比丘尼、天明七(1878)年丁未八月十一日」と書し、深川佐賀町一向宗と註してあるものが即是である。 
了蓮と定生との関係、清久の名を其間に厠へた理由は、過去帳別本の記載に由つて明にすることが出来ない。師岡氏未亡人は或はわたくしに教へてくれるであらうか。 
わたくしが光照院の墓の文字を読んでゐるうちに、日は漸く暮れむとした。わたくしのために香華を墓に供へた媼は、「蠟燭を点してまゐりませうか」と云つた。「なに、もう済んだから好い」と云つて、わたくしは光照院を辞した。しかし江間、長島の親戚関係は、到底墓表と過去張とに籍つて、明め得べきものでは無かつた。寿阿弥の母、寿阿弥の妹、寿阿弥の妹の夫の誰たるを審にするに至らなかつたのは、わたくしの最も遺憾とする所である。 
わたくしは新石町の菓子商真志屋が文政の末から衰運に向つて、一たび二本伝次に寄り、又転じて金沢丹後に寄つて僅に自ら支へたことを記した。真志屋は衰へて二本に寄り、二本が真志屋と倶に衰へて又金沢に寄つたと云ふ此金沢は、そもそもどう云ふ家であらう。 
わたくしが此「寿阿弥の手紙」を新聞に公にするのを見て、或日金沢蒼夫と云ふ人がわたくしに音信を通じた。わたくしは蒼夫さんを白金台町の家に訪うて交を結んだ。蒼夫さんは最後の金沢丹後で、祖父明了軒以来西村氏の後を承け、真志屋五郎兵衛の名義を以て水戸家に菓子を調進した人である。 
初めわたくしは渋江抽斎伝中の寿阿弥の事蹟を補ふに、其尺牘一則を以てしようとした。然るに料らずも物語は物語を生んで、断えむと欲しては又続き、此に金沢氏に説き及ばさざることを得ざるに至つた。わたくしは此最後の丹後、真志屋の鑑札を佩びて維新前まで水戸邸の門を潜つた最後の丹後をまのあたり見て、これを緘點に附するに忍びぬからである。  
真志屋と云ふ難破船が最後に漕ぎ寄せた港は金沢丹後方である。当時真志屋が金沢氏に寄つた表向の形式は「同居」で、其同居人は初め五郎作と称し、後嘉永七(1854)年即安政元年に至つて五郎兵衛と改めたことが、真志屋文書に徴して知られる。文書の収むる所は改称の願書で、其願が聴許せられたか否かは不明であるが、此の如き願が拒止せらるべきではなささうである。 
しかし此五郎作の五郎兵衛は必ずしも実に金沢氏の家に居つたとは見られない。現に金沢蒼夫さんは此の如き寓公の居つたことを聞き伝へてゐない。さうして見れば、単に寄寓したるものの如くに粧ひ成して、公辺を取り繕つたのであつたかも知れない。 
蒼夫さんの知つてゐる所を以てすれば、金沢氏が真志屋の遺業を継承したのは、蒼夫の祖父明了軒の代の事である。これより以後、金沢氏は江戸城に菓子を調進するためには金沢丹後の名を以て鑑札を受け、水戸邸に調進するためには真志屋五郎兵衛の名を以て鑑札を受けた。金沢氏の年々受け得た所の二様の鑑札は、蒼夫さんの家の筐に満ちてゐる。鑑札は白木の札に墨書して、烙印を押したものである。札は孔を穿ち緒を貫き、覆ふに革袋を以てしてある。革袋は黒の漆塗で、その水戸家から受けたものには、真志の二字が朱書してある。 
想ふに授受が真志屋と金沢氏との間に行はれた初には、縦や実に寓公たらぬまでも、真志屋の名前人が立てられてゐたが、後に至つては特にこれを立つることを須ゐなかつたのではなからうか。兎に角金沢氏の代々の当主は、徳川将軍家に対しては金沢丹後たり、水戸宰相家に対しては真志屋五郎兵衛たることを得たのである。「まあ株を買つたやうなものだつたのでせう」と蒼夫さんは云ふ。今の語を以て言へば、此授受の形式は遂に「併合」に帰したのである。 
真志屋の末裔が二本に寄り、金沢に寄つたのは、啻に同業の好があつたのみではなかつたらしい。二本は真志屋文書に「親類麹町二本伝次方」と云つてある。又真志屋の相続人たるべき定五郎は「右伝次方私従弟定五郎」と云つてある。皆真志屋五郎兵衛が此の如くに謂つたのである。金沢氏は果して真志屋の親戚であつたか否か不明であるが試に系譜を検するに、貞享中に歿した初代相安院清頓の下に、「長島撿校」に嫁した女子がある。此壻は或は真志屋の一族長島氏の人であつたのではなからうか。 
金沢氏は本増田氏であつた。豊臣時代に大和国郡山の城主であつた増田長盛の支族で、曾て加賀国金沢に住したために、商家となるに及んで金沢屋と号し、後単に金沢と云つたのださうである。系譜の載する所の始祖は又兵衛と称した。相摸国三浦郡蘆名村に生れ、江戸に入つて品川町に居り、魚を鬻ぐを業とした。蒼夫さんの所有の過去帳に「相安院浄誉清頓信士、貞享五(1688)年五月二十五日」と記してある。  
増田氏の二代三右衛門は、享保四年五月九日に五十八歳で歿した。法諡実相院頓誉浄円居士である。此人が菓子商の株を買つた。 
三代も亦同じく三右衛門と称し、享保八年七月二十八日に三十七歳で歿した。法諡寂苑院浄誉玄清居士である。四代三右衛門の覚了院性誉一鎚自聞居士は、明和六(1769)年四月二十四日に四十六歳で歿した。五代三右衛門の自適斎真誉東里威性居士は、天保六(1835)年十月五日に八十四歳で歿した。此人は増田氏累世中で、最も学殖あり最も文事ある人であつた。所謂田威、字は伯孚、別号は東里である。詩を善くし書を善くして、一時の名流に交つた。文政四年に七十の賀をした時、養拙斎高岡秀成、字は実甫と云ふものが寿序を作つて贈つた。二本伝次の妻は東里が長女の第八女であつた。真志屋が少くも此家と間接に親戚たることは、此一条のみを以てしても証するに足るのである。六代三右衛門はわたくしの閲した系譜に載せて無い、増田氏は世駒込願行寺を菩提所としてゐるのに、独り此人は谷中長運寺に葬られたさうである。七代三右衛門は天保十一(1840)年十月二日に四十四歳で歿し、宝龍院乗誉依心連戒居士と法諡せられた。 
按ずるに此頃に至るまでは、金沢三右衛門は丹後と称せずして越後と称したのではなからうか。文化の末に金沢瀬兵衛と云ふものが長崎奉行を勤めてゐたが、此人は叙爵の時越後守となるべきを、菓子商の称を避けて百官名を受け、大蔵少輔にせられたと、大郷信斎の道聴塗説に見えてゐる。或はおもふに道聴塗説の越後は丹後の誤か。 
八代は通称金蔵で、天保三年七月十六日に六十一歳で歿した。法諡梅翁日実居士である。九代は又三右衛門と称し、後に三輔と改めた。素細工頭支配玉屋市左衛門の子である。明治十年十一月十一日に六十四歳で歿し、明了軒唯誉深広連海居士と法諡せられた。十代三右衛門、後の称三左衛門は明治二十年二月二十六日に歿し、栄寿軒梵誉利貞至道居士と法諡せられた。此栄寿軒の後を襲いだ十一代三右衛門が今の蒼夫さんで、大正五年に七十一歳になつてゐる。その丹後掾と称したのは前代の勅賜に本づく。 
天保元年に真志屋十二代の五郎兵衛清常が歿した時、増田氏の金沢には七十九歳の自適斎東里、五十九歳の梅翁、三十四歳の宝龍院依心、十七歳の明了軒深広、十歳の栄寿軒利貞が並存してゐた筈である。嘉永七(1854)年に最後の真志屋名前人五郎作が五郎右衛門と改称した時に至ると、明了軒が四十一歳、栄寿軒が三十四歳、弘化二(1845)年生の蒼夫さんが九歳になつてゐた筈である。 
わたくしは前に、真志屋最後の名前人五郎作改め五郎兵衛は定五郎ではなからうかと云つた。それは定五郎が真志屋文書に載する所の最後の家督相続者らしく見えるからであつた。しかし更に考ふるに、此定五郎は幾くならずして廃められ、天保弘化の間に明了軒がこれに代つてゐて、所謂五郎作改五郎兵衛は明了軒自身であつたかも知れない。 
真志屋の自立してゐた間の菓子店は、既に屢云つたやうに新石町、金沢の店は本石町二丁目西角であつた。  
わたくしは駒込願行寺に増田氏の墓を訪うた。第一高等学校寄宿舎の西、巷に面した石垣の新に築かれてゐるのが此寺である。露次を曲つて南向の門を入ると、左に大いなる鋳鉄の井欄を見る。井欄の前面に掌大の凸字を以て金沢と記してある。恐らくは増田氏の盛時のかたみであらう。 
墓は門を入つて右に折れて往く塋域にある。上に仏像を安置した墓の隣に、屋蓋形のある石が二基並んで、南に面して立つてゐる。台石には金沢屋と彫り、墓には正面から向つて左の面に及んで、許多の戒名が列記してある。読んで行く間に、明了軒の諡が系譜には運海と書してあつたのに、此には連海に作つてあるのに気が付いた。金石文字は人の意を用ゐるものだから、或は系譜の方が誤ではなからうか。 
拝し畢つて帰る時、わたくしは曾て面を識つてゐる女子に逢つた。恐くは願行寺の住職の妻であらう。此女子は曩の日わたくしに細木香以の墓ををしへてくれた人である。 
「けふは金沢の墓へまゐりました。先日金沢の老人に逢つて、先祖の墓がこちらにあるのを聞いたものですから。」とわたくしは云つた。 
「さやうですか。あれはこちらの古い檀家だと承はつてゐます。昔の御商売は何でございましたでせう。」 
「菓子屋でした。徳川家の菓子の御用を勤めたものです。維新前の菓子屋の番附には金沢丹後が東の大関になつてゐて、風月堂なんぞは西の幕の内の末の方に出てゐます。本郷の菓子屋では、岡野栄泉だの、藤村だの、船橋屋織江だのが載つてゐますが、皆幕外です。なんでも金沢は将軍家や大名ばかりを得意先にしてゐたものだから、維新の時に得意先と一しよに滅びたのださうです。今の老人の細君は木場の万和の女です。里親の万屋和助なんぞも、維新前の金持の番附には幕の内に這入つてゐました。」 
わたくしはこんな話をして女子に別を告げた。美しい怜悧らしい言語の明断な女子である。 
増田氏歴代の中で一人谷中長運寺に葬られたものがあると、わたくしは蒼夫さんに聞いた。家に帰つてから、手近い書に就いて谷中の寺を撿したが、長運寺の名は容易く見附けられなかつた。そこでわたくしは錯り聞いたかも知れぬと思つた。後に武田信賢著墓所集覧で谷中長運寺を撿出して往訪したが、増田氏の墓は無かつた。寺は渡辺治右衛門別荘の辺から一乗寺の辻へ抜ける狭い町の中程にある。 
蒼夫さんはわたくしの家を訪ふ約束をしてゐるから、若し再会したら重ねて長運寺の事をも問ひ質して見よう。  
諸書の載する所の寿阿弥の伝には、西村、江間、長島の三つの氏を列挙して、曾て其交互の関係に説き及ぼしたものが無かつた。わたくしは今浅井平八郎さんの齎し来つた真志屋文書に拠つて、記載のもつれを解きほぐし、明め得らるゝだけの事を明めようと努めた。次で金沢蒼夫さんを訪うて、系譜を閲し談話を聴き、寿阿弥去後の真志屋のなりゆきを追尋して、あらゆるトラヂシヨンの糸を断ち裁つた縫新の期に迨んだ。わたくしの言はむと欲する所のものは略此に尽きた。 
然るに浅井、金沢両家の遺物文書の中には、撿閲の際にわたくしの目に止まつたものも少く無い。左に其二三を録存することゝする。 
浅井氏のわたくしに示したものゝ中には、寿阿弥の筆跡と称すべきものが少かつた。袱紗に記した縁起、西山遺事の書後並に欄外書等は、自筆とは云ひながら太だ意を用ゐずして写した細字に過ぎない。これに反してわたくしは遺物中に、小形の短冊二葉を糸で綴ぢ合せたものゝあるのを見た。其一には「七十九のとしのくれに」と端書して「あすはみむ八十のちまたの門の松」と書し、下に一の寿字が署してある。今一葉には「八十になりけるとしのはじめに」と端書して「今朝ぞ見る八十のちまたの門の松」と書し、下に「寿松」と署してある。 
此二句は書估活東子が戯作者小伝に載せてゐるものと同じである。小伝には猶「月こよひ枕団子をのがれけり」と云ふ句もある。活東子は「或年の八月十五夜に、病重く既に終らむとせしに快くなりければ、月今宵云々と書いて孫に遣りけるとぞ」と云つてゐる。 
寿阿弥は嘉永元年八月二十九日に八十歳で歿したから、歳暮の句は弘化四(1847)年十二月晦日の作、歳旦の句は嘉永元(1848)年正月朔の作である。後者は死ぬべき年の元旦の作である。これより推せば、月今宵の句も同じ年の中秋に成つて、後十四日にして病革なるに至つたのではなからうか。活東子は月今宵の句を書いて孫に遣つたと云つてゐるが、寿阿弥には子もなければ孫もなかつただらう。別に「まごひこに別るゝことの」云々と云ふ狂歌が、寿阿弥の辞世として伝へられてゐるが、わたくしは取らない。 
月今宵は少くも灑脱の趣のある句である。歳暮歳旦の句はこれに反して極て平凡である。しかし万葉の百足らず八十のちまたを使つてゐるのが、寿阿弥の寿阿弥たる所であらう。 
短冊の手迹を見るに、寿阿弥は能書であつた。字に媚嫵の態があつて、老人の書らしくは見えない。寿の一字を署したのは寿阿弥の省略であらう。寿松の号は他に所見が無い。  
連歌師としての寿阿弥は里村昌逸の門人であつたかと思はれる。わたくしは真志屋の遺物中にある連歌の方式を書いた無題号の写本一冊と、弘化嘉永間の某年正月十一日柳営之御会と題した連歌の巻数冊とを見た。無題号の写本は表紙に「如是縁庵」と書し、「寿阿弥陀仏印」の朱記がある。巻尾には「享保八年癸卯七月七日於京都、里村昌億翁以本書、乾正豪写之」と云ふ奥書があつて、其次の余白に、「先師次第」と題した略系と「玄川先祖より次第」と題した略系とが書き添へてある。連歌の巻々には左大臣として徳川家慶の句が入つてゐる。そして嘉永元(1848)年前のものには必ず寿阿弥が名を列して居る。 
先師次第にはかう記してある。「宗砥、宗長、宗牧、里村元祖昌休、紹巴、里村二代昌叱、三代昌琢、四代昌程、弟祖白、五代昌陸、六代昌億、七代昌迪、八代昌桂、九代昌逸、十代昌同」である。玄川先祖より次第にはかう記してある。「法眼紹巴、同玄仍、同玄陳、同玄俊、玄心、紹尹、玄立、玄立、法橋玄川寛政六年六月二十日法橋」である。 
二種の略系は里村両家の承統次第を示したものである。宗家昌叱の裔は世京都に住み、分家玄仍の裔は世江戸石原に住んでゐた。しかし後には両家共京住ひになつたらしい。 
わたくしは此略系を以て寿阿弥の書いたものとして、宗家の次第に先師と書したことに注目する。里村宗家は恐くは寿阿弥の師家であつたのだらう。然るに十代昌同は寿阿弥の同僚で、連歌の巻々に名を列してゐる。其「先師」は一代を溯つて故人昌逸とすべきであらう。昌逸昌同共に「百石二十人扶持京住居」と武鑑に註してある。 
寿阿弥の連歌師としての同僚中、坂昌功は寿阿弥と親しかつたらしい。真志屋の遺物中に、「寿阿弥の手向に」と端書して一句を書し、下に「昌功」と署した短冊がある。坂昌功は初め浅草黒船町河岸に住し、後根岸に遷つた。句は秋季である。しかし録するに足らない。川上宗寿が連歌を以て寿阿弥に交つたことは、苾堂に遣つた手紙に見えてゐた。 
真志屋の扶持は初め河内屋島が此家に嫁した時、米百俵づゝ三季に渡され、次で元文三(1738)年に七人扶持に改められ、九代一鉄の時寛政五(1793)年に暫くの内三人半扶持を滅して三人半扶持にせられたことは既に記した。真志屋文書中の「文化八(1811)年未正月御扶持渡通帳」に拠るに、此後文化五(1808)年戊辰に「三人半扶持の内一人半扶持借上二人扶持被下置」と云ふことになつた。これは十代若くは十一代の時の事である。真志屋文書はこれより後の記載を闕いてゐる。然るに金沢蒼夫さんの所蔵の文書に拠れば、天保七(1836)年丙申に又「一人扶持借上暫くの内一人扶持被下置」と云ふことになり、終に初の七人扶持が一人扶持となつたのである。しかし此一人扶持は、明治元年藩政改革の時に至るまで引き続いて水戸家が真志屋の後継者たる金沢氏に給してゐたさうである。  
西村廓清の妻島の里親河内屋半兵衛が、西村氏の真志屋五郎兵衛と共に、世水戸家の用達であつたことは、夙く海録の記する所である。しかしわたくしは真志屋の菓子商たるを知つて、河内屋の何商たるを知らなかつた。そのこれを知つたのは、金沢蒼夫さんを訪うた日の事である。 
わたくしは蒼夫さんの家に於て一の文書を見た。其中に「河内屋半兵衛、元和中(1615-1624)より麪粉類御用相勤」云々の文があつた。河内屋は粉商であつた。島は粉屋の娘であつた。わたくしの新に得た知識は啻にそれのみではない。河内屋が古くより水戸家の用達をしてゐたとは聞いてゐたが、いつからと云ふことを知らなかつた。その元和以還の用達たることは此文に徴して知られたのである。慶長中(1596-1615)に水戸頼房人国の供をしたと云ふ真志屋の祖先に較ぶれば少しく遅れてゐるが、河内屋も亦早く元和中に威公頼房の用達となつてゐたのである。 
金沢氏六代の増田東里には、弊帚集と題する詩文稿があることを、蒼夫さんに聞いた。わたくしは卒に聞いて弊帚の名の耳に熟してゐるのを怪んだ。後に想へば、水戸の粟山潜鋒に弊帚集六巻があつて火災に罹り、弟敦恒が其燼余を拾つて二巻を為した。載せて甘雨亭叢書の中にある。東里の集は偶これと名を同じうしてゐたのであつた。 
わたくしの言はむと欲した所は是だけである。只最後に附記して置きたいのは、師岡未亡人石と東条琴台の家との関係である。 
初め高野氏石に一人の姉があつて、名をさくと云つた。さくは東条琴台の子信升に嫁して、名をふぢと改めた。ふぢの生んだ信升の子は夭し、其女が現存してゐるさうである。 
浅井平八郎さんの話に拠るに、石は嘗て此縁故あるがために、東条氏の文書を託せられてゐた。文書は石が東条氏の親戚たる下田歌子さんに交付したさうである。 
わたくしは琴台の事蹟を詳にしない。聞く所に拠れば、琴台は信濃の人で、名は耕、字は子臧、小字は義蔵である。寛政七(1795)年六月七日芝宇田川町に生れ、明治十一年九月二十七日に八十四歳で歿した。文政七(1824)年林氏の門人籍に列し、昌平黌に講説し、十年榊原遠江守政令に聘せられ、天保三(1832)年故あつて林氏の籍を除かれ、弘化四(1847)年榊原氏の臣となり、嘉永三(1850)年伊豆七島全図を著して幕府の譴責を受け、榊原氏の藩邸に幽せられ、四年謫せられて越後国高田に往き、戊辰の年には尚高田幸橋町に居つた。明治五年八月に七十八歳で向島亀戸神社の祠官となり、眼疾のために殆ど失明して終つたと云ふことである。先哲叢談続編に「先生後獲罪、謫在越之高田、(中略)無幾王室中興、先生嘗得列官于朝」と書してある。琴台の子信升の名は、平八郎さんに由つて始て聞いたのである。 (大正五年五、六月) 
 
四紀行集 / 松尾芭蕉 
野ざらし紀行(甲子吟行)/鹿島紀行/笈の小文/更科紀行

 

野ざらし紀行(甲子吟行) 
千里に旅立ちて路粮をつゝまず、三更月下無何に入るといひけん、昔の人の杖にすがりて、貞享甲子秋八月、江上の破屋を出づる程、風の声そゞろ寒げなり。 
  野ざらしを心に風のしむ身かな 
  秋十とせかへつて江戸をさす古郷 
関越ゆる日は、雨降りて、山みな雲に隠れけり。 
  霧しぐれ富士を見ぬ日ぞおもしろき 
何某千里といひけるは、此たび路のたすけとなりて、万いたはり心を尽し侍る。常に莫逆の交ふかく、朋友に信あるかな此の人。 
  深川や芭蕉を富士に預け行く  千里 
富士川のほとりを行くに、三つばかりなる捨子の哀げに泣くあり。此の川の早瀬にかけて、浮世の波をしのぐにたへず、露ばかりの命まつ間と捨て置きけん、小萩がもとの秋の風、こよひや散るらん、あすや萎れんと、袂より喰物投げて通るに、 
  猿を聞く人捨子に秋の風いかに 
いかにぞや、汝父に悪まれたるか、母に疎まれたるか。父は汝を悪むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。たゞこれ天にして、汝が性の拙なきを泣け。大井川越ゆる日は、終日雨降りければ、 
  秋の日の雨江戸に指折らん大井川  千里 
  眼前 
  道のべの木槿は馬にくはれけり 
二十日余りの月のかすかに見えて、山の根ぎはいと闇きに、馬上に鞭を垂れて、数里いまだ鶏鳴ならず。杜牧が早行の残夢、小夜の中山に到りて忽ち驚く。 
  馬に寝て残夢月遠し茶の煙 
松葉屋風瀑が伊勢に有りけるを尋ね音信れて、十日ばかり足を留む。 
暮れて外宮に詣で侍りけるに、一の鳥居の陰ほのぐらく、御燈処々に見えて、また上もなき峰の松風、身にしむばかり深き心を起して、 
  三十日月なし千とせの杉を抱く嵐 
腰間に寸鉄を帯びず、襟に一嚢を懸けて、手に十八の珠を携ふ。 
僧に似て塵あり。俗に似て髪なし。我僧にあらずといへども、鬟なきものは浮屠の属にたぐへて、神前に入るをゆるさず。 
西行谷の麓に流れあり。女どもの芋洗ふを見るに、 
  芋洗ふ女西行ならば歌よまん 
其の日のかへさ、ある茶屋に立寄りけるに、てふといひける女あが名に発句せよと言ひて、白き絹出しけるに書付け侍る。 
  蘭の香や蝶の翅にたきものす 
  閑人の茅舍をとひて 
  蔦植ゑて竹四五本のあらし哉 
長月の初め故郷に帰りて、北堂の萱草も霜枯れ果てて、今は跡だになし。何事も昔にかはりて、はらからの鬢白く、眉皺よりて、たゞ命有りてとのみ言ひて言葉はなきに、兄(このかみ)の守袋をほどきて、母の白髮をがめよ、浦島の子が玉手箱、汝が眉もやゝ老いたりと、しばらく泣きて、 
  手にとらば消えん涙ぞあつき秋の霜 
大和の国に行脚して、葛下の郡竹の内と云ふ所にいたる。此処は例の千里が旧里なれば、日頃とゞまりて足を休む。 
  藪より奥に家あり 
  綿弓や琵琶に慰む竹のおく 
二上山当麻寺に詣でて、庭上の松を見るに、凡そ千歳も経たるならん。大いさ牛をかくすともいふべけん。かれ非情といへども、仏縁にひかれて、斧斤の罪を免がれたるぞ幸にしてたつとし。 
  僧朝顔いく死にかへる法の松 
独り吉野の奥に辿りけるに、まことに山深く白雲峯に重なり、煙雨谷を埋んで、山賤の家所々にちひさく、西に木を伐る音東に響き、院々の鐘の声心の底にこたふ。昔より此の山に入りて世を忘れたる人の、多くは詩にのがれ、歌に隠る。いでや唐土の廬山といはんも亦むべならずや。 
  ある坊に一夜をかりて 
  砧打つて我に聞せよや坊が妻 
西上人の草の庵の跡は、奥の院より右の方二町ばかり分け入るほど、柴人の通ふ道のみわづかに有りて、嶮しき谷を隔てたるいとたふとし。かのとくとくの清水は昔にかはらずと見えて、今もとくとくと雫落ちける。 
  露とくとくこゝろみに浮世すゝがばや 
もしこれ扶桑に伯夷あらば、必ず口を漱がん。もしこれ許由に告げば、耳を洗はん。山を登り坂を下るに、秋の日すでに斜になれば、名ある所々見残して、まづ後醍醐帝の御陵を拝む。 
  御廟年を経てしのぶは何を忍草 
大和より山城を経て、近江路に入て美濃に至るに、今須・山中を過ぎて、いにしへ常盤の塚あり。伊勢の守武がいひける、義朝殿に似たる秋風とは、いづれの処か似たりけん。我もまた、 
  義朝の心に似たりあきの風 
  不破 
  秋風や藪も畠も不破の関 
大垣にとまりける夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野を出でし時、野ざらしを心に思ひて旅立ちければ、 
  死にもせぬ旅寝の果よ秋の暮 
  桑名本当寺にて 
  冬牡丹千鳥よ雪のほとゝぎす 
草の枕に寝あきて、まだほの暗き中に、浜のかたへ出でて、 
  曙やしら魚白き事一寸 
熱田に詣づ。社頭大いに破れ、築地は倒れて草むらに隠る。かしこに縄を張りて、小社の跡をしるし、ここに石を据ゑて、其の神と名のる。蓬・荵心のまゝに生えたるぞ、なかなかにめでたきよりも心とまりける。 
  しのぶさへ枯れて餅買ふやどり哉 
  名護屋に入る道のほど諷吟す 
  狂句木がらしの身は竹斎に似たる哉 
  草枕犬も時雨るゝか夜の声 
  雪見にありきて 
  市人よこの笠売らう雪の傘 
  旅人を見る 
  馬をさへながむる雪の朝かな 
  海辺に日暮して 
  海くれて鴨の声ほのかに白し 
爰に草鞋をとき、かしこに杖をすてて、旅寝ながらに年のくれければ、 
  年くれぬ笠きて草鞋はきながら 
といひいひも山家に年を越して、 
  誰が聟ぞ歯朶に餅おふうしの年 
  奈良に出づる道のほど 
  春なれや名もなき山の朝霞 
  二月堂に籠りて 
  水とりや氷の僧の沓の音 
京に登りて三井秋風が鳴滝の山家をとふ。 
  梅林 
  梅白し昨日や鶴をぬすまれし 
  樫の木の花にかまはぬすがたかな 
  伏見西岸寺任口上人に逢うて 
  我が衣にふしみの桃の雫せよ 
  大津に出づる道、山路を越えて 
  山路来て何やらゆかしすみれ草 
  湖水眺望 
  辛崎の松は花よりおぼろにて 
  昼の休らひとて旅店に腰をかけて 
  躑躅いけてその蔭に干鱈さく女 
  吟行 
  菜畠に花見顔なる雀かな 
  水口にて廿年を経て古人に逢ふ 
  命二つ中に活たる桜かな 
伊豆の国蛭が小島の桑門、これも去年の秋より行脚しけるに、我が名を聞きて草の枕の道づれにもと、尾張の国まで跡を慕ひ来たりければ、 
  いざともに穂麦くらはん草枕 
此の僧我に告げて曰、円覚寺大顛和尚、ことしむ月のはじめ、遷化し給ふよし。まことや夢の心地せらるゝに、まづ道より其角が方へ申し遣しける。 
  梅恋ひて卯の花拝む涙かな 
  贈杜国子 
  白けしに羽もぐ蝶のかたみ哉 
二度桐葉子がもとに有りて、今や東に下らんとするに、 
  牡丹蘂ふかく分け出る蜂の名残哉 
甲斐の国の山家に立ち寄りて、 
  行く駒の麦に慰むやどりかな 
卯月の末いほりに帰り、旅のつかれをはらす。 
  夏ごろもいまだ虱をとり尽さず  
鹿島紀行 
洛の貞室、須磨の浦の月見にゆきて、「松かげや月は三五夜中納言」と云けん、狂夫のむかしもなつかしきままに、此秋かしまの山の月見んと、思ひ立つことあり。伴ふ人ふたり、浪客の士ひとり、一人は水雲の僧。ひとりはからすのごとくなる墨の衣に三衣の袋を衿に打かけ、出山の尊像を厨子にあがめ入てうしろにせおひ、杖引ならして、無門の関もさはるものなく、あめつちに独歩して出ぬ。今ひとりは僧にもあらず俗にもあらず、鳥鼠の間に名をかうぶりの鳥なき島にもわたりぬべく、門より舟にのりて、行徳と云処に至る。 
舟をあがれば、馬にものらず、細脛のちからをためさんと、かちよりぞゆく。甲斐国より或人のえさせたるひの木もてつくれる笠を、おのおのいただきよそひて、やはたと云里を過れば、かまかいが原と云ひろき野あり。秦甸の一千里とかや、目もはるかに見わたさるる。筑波山むかふに高く、二峰並び立り。かの唐土に双剣のみねありと聞えしは、廬山の一隅なり。 
  雪は申さずまづむらさきのつくば哉 
と詠しは、我門人嵐雪が句なり。すべて此山は日本武尊のことばをつたへて、連歌する人のはじめにも名付たり。和歌なくば有べからず、句なくば過べからず。まことに愛すべき山のすがたなりけらし。 
萩は錦を地にしけらんやうにて、為仲が長櫃に折入て、都のつとに持せたるも、風流にくからず。きちかう・女郎花・かるかや・尾花みだれあひて、小男鹿のつまこひわたる、いとあはれ也。野の駒、処えがほ(得顔)にむれありく、又あはれ也。日既に暮かかるほどに、利根川のほとりふさと言処につく。此川にて鮭のあじろと云ものをたくみて、武江の市にひさぐものあり。宵のほど、其漁家に入てやすらふ。よるのやどなまぐさし。月くまなくはれけるままに、夜ふねさし下して、鹿島に至る。ひるより雨しきりに降て、月見るべくもあらず。 
麓に根本寺のさきの和尚、今は世をのがれて、此処におはしけると云を聞て、尋ね入て臥ぬ。すこぶる人をして深省を発せしむと吟じけん、しばらく清浄の心をうるに似たり。暁の空いささかはれ間ありけるを、和尚おこし驚し侍れば、人々起出ぬ。月の光、雨の音、只あはれなるけしきのみむねにみちて、いふべきことの葉もなし。はるばると月見に来たるかひなきこそ、ほいなきわざなれ。かの何がしの女すら、時鳥の歌えよまで帰りわづらひしも、我ためにはよき荷担の人ならんかし。 
  おりおりにかはらぬ空の月かげも 
  ちぢのながめは雲のまにまに    和尚 
  月はやし梢は雨を持ながら     桃青 
  寺にねてまことがほなる月見かな  桃青 
  雨にねて竹おきかへる月見かな   曽良 
  月さびし堂の軒端の雨しづく    宗波 
   神前 
  此松の実ばえせし代や神の秋    桃青 
  ぬぐはばや石のおましの苔の露   宗波 
  膝折やかしこまりなく鹿の声    曽良 
   田家 
  かりかけし田面の鶴や里の秋    桃青 
  夜田かりに我やとはれん里の月   宗波 
  賤の子や稲すりかけて月をみる   桃青 
  芋の葉や月まつ里の焼ばたけ    桃青 
   野 
  ももひきや一花すりの萩ごろも   曽良 
  花の秋草にくひあく野馬かな    曽良 
  萩原や一夜はやどせ山の犬     桃青 
帰路自準に宿す 
  塒せよわら干宿の友すずめ     主人 
  秋をこめたるくねのさし杉     客 
  月見んと汐ひきのぼる舟とめて   曽良  
笈の小文 
百骸九竅の中に物有り、かりに名付けて風羅坊といふ。誠にうすものの風に破れやすからん事をいふにやあらむ。かれ狂句を好むこと久し。終に生涯のはかりごととなす。ある時は倦みて放擲せん事を思ひ、ある時は進んで人に勝たむ事を誇り、是非胸中に戦うて是が為に身安からず。暫く身を立てむ事を願へども、これが為にさへられ、暫く学んで愚を暁ん事を思へども、是が為に破られ、終に無能無芸にして只此の一筋に繋る。西行の和歌に於ける、宗祇の連歌に於ける、雪舟の絵に於ける、利休が茶における其の貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化に随ひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。思ふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類す。夷狄を出で、鳥獣を離れて、造化に随ひ造化に帰れとなり。 
神無月の初空、定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して、 
  旅人と我が名よばれん初しぐれ 
  又山茶花を宿々にして 
岩城の住、長太郎と云ふもの此の脇を付けて其角亭において関送りせんともてなす。 
  時は冬よしのをこめん旅のつと 
此の句は露沾公より下し給はらせ侍りけるを、はなむけの初として、旧友、親疎、門人等、あるは詩歌文章をもて訪ひ、あるは草鞋の料を包みて志を見す。かの三月の糧を集むるに力を入れず、紙布・綿小などいふもの、帽子・したうづやうのもの、心々に送りつどひて、霜雪の寒苦を厭ふに心なし。あるは小船をうかべ、別墅にまうけし草庵に酒肴携へ来りて、行衛を祝し、名残を惜しみなどするこそ、故ある人の首途するにも似たりと、いと物めかしく覚えられけれ。 
抑々道の日記といふものは、紀氏・長明・阿仏の尼の文をふるひ情を尽してより、余は皆俤似通ひて、其の糟粕を改むる事能はず。まして浅智短才の筆に及べくもあらず。其の日は雨降り、昼より晴れて、そこに松あり、かしこに何と云ふ川流れたりなどいふ事、誰々もいふべく覚え侍れども、黄奇蘇新のたぐひにあらずば云ふ事なかれ。されども其の所々の風景心に残り、山館・野亭の苦しき愁も、かつは話の種となり、風雲のたよりとも思ひなして、忘れぬ所々跡や先やと書き集め侍るぞ、猶酔へる者の猛語にひとしく、寝ねる人の譫言する類に見なして、人又亡聴せよ。 
  鳴海にとまりて 
  星崎の闇を見よとや啼く千鳥 
飛鳥井雅章公の此の宿に泊らせ給ひて、「都も遠くなるみがたはるけき海を中にへだてて」と、詠じ給ひけるを自ら書かせ給ひて、賜はりける由を語るに、 
  京まではまだ半空や雪の雲 
三川の国保美といふ処に、杜国が忍びて有りけるをとぶらはむと、まづ越人に消息して、鳴海より跡ざまに二十五里尋ね帰りて、其の夜吉田に泊る。 
  寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき 
あまつ縄手、田の中に細道ありて、海より吹上ぐる風いと寒き所なり。 
  冬の日や馬上に氷る影法師 
保美村より伊良古崎へ壱里ばかりも有るべし。三河の国の地つゞきにて、伊勢とは海隔てたる所なれども、いかなる故にか、万葉集には伊勢の名所の内に撰び入れられたり。此の洲崎にて碁石を拾ふ。世にいらご白といふとかや。骨山と云ふは鷹を打つ処なり。南の海の果にて、鷹の初めて渡る所と云へり。いらこ鷹など歌にもよめりけりと思へば、猶あはれなる折ふし、 
  鷹一つ見付て嬉しいらこ崎 
  熱田御修覆 
  磨直す鏡も清し雪の花 
蓬左の人々に迎ひとられて、暫く休息する程、 
  箱根越す人も有るらし今朝の雪 
  ある人の会 
  ためつけて雪見にまかるかみこ哉 
  いざ行かむ雪見にころぶ所まで 
  ある人興行 
  香を探る梅に蔵見る軒端哉 
此の間美濃・大垣・岐阜のすきものとぶらひ来りて、歌仙、あるは一折など度々に及ぶ。師走十日余り、名古屋を出でて旧里に入らんとす。 
  旅寝してみしやうき世の煤はらひ 
桑名よりくはで来ぬればと云ひ、日永の里より馬借りて杖つき坂上るほど、荷鞍うちかへりて馬より落ちぬ。 
  歩行ならば杖つき坂を落馬哉 
と物うさのあまり云ひ出で侍れども、終に季ことば入らず。 
  旧里や臍の緒に泣くとしの暮 
宵のとし空の名残惜しまむと、酒呑み夜更かして、元日寝忘れたれば、 
  二日にもぬかりはせじな花の春 
  初春 
  春立ちてまだ九日の野山哉 
  枯芝ややゝかげらふの一二寸 
伊賀の国阿波の庄といふ所に、俊乗上人の旧跡有り。護峰山新大仏寺とかや云ふ名ばかりは千歳の形見となりて、伽藍は破れて礎を残し、坊舎は絶えて田畑と名の替り、丈六の尊像は苔の緑に埋もれて、御ぐしのみ現前と拝まれさせ給ふに、聖人の御影はいまだ全くおはしまし侍るぞ、其の代の名残疑ふ所なく、泪こぼるゝばかりなり。石の蓮台、獅子の座などは、蓬・葎の上に堆く、双林の枯れたる跡もまのあたりにこそ覚えられけれ。 
  丈六にかげらふ高し石の上 
  さまざまの事おもひ出す桜哉 
  伊勢山田 
  何の木の花とはしらず匂哉 
  裸にはまだ衣更着の嵐哉 
  菩提山 
  此の山のかなしさ告げよ野老掘 
  龍尚舎 
  物の名を先づとふ蘆の若葉哉 
  網代民部雪堂に会 
  梅の木になほやどり木や梅の花 
  草庵会 
  いも植ゑて門は葎のわか葉哉 
神垣のうちに梅一木もなし。いかに故有る事にやと神司などに尋ね侍れば、只何とはなしおのづから梅一もともなくて、子良の館の後に、一もと侍る由を語り伝ふ。 
  御子良子の一もとゆかし梅の花 
  神垣やおもひもかけず涅槃像 
弥生半ば過ぐる程、そゞろに浮き立つ心の花の、我を導く枝折となりて、吉野の花に思ひ立たんとするに、かの伊良古崎にて契り置きし人の伊勢にて出迎ひ、共に旅寝のあはれをも見、かつは我が為に童子となりて、道の便りにもならんと、自ら万菊丸と名をいふ。まことに童らしき名のさまいと興有り。いでや門出のたはぶれ事せんと、笠のうちに落書す。 
  乾坤無住同行二人 
  よし野にて桜見せうぞ檜の木笠 
  よし野にて我も見せうぞ檜の木笠  万菊丸 
旅の具多きは道ざはりなりと、物皆払ひ捨てたれども、夜の料にと紙衣(かみこ)壱つ、合羽やうの物、硯、筆、紙、薬等、昼笥なんど物に包みて、後に背負ひたれば、いとゞ脛弱く力なき身の跡ざまにひかふるやうにて、道なほ進まず。たゞ物うき事のみ多し。 
  草臥れて宿かる頃や藤の花 
  初瀬 
  春の夜や籠り人ゆかし堂の隅 
  足駄はく僧も見えたり花の雨  万菊 
  葛城山 
  猶みたし花に明け行く神の顔 
  三輪 多武峯 
  臍峠 多武峯ヨリ龍門ヘ越ス道也 
  雲雀より空にやすらふ峠哉 
  龍門 
  龍門の花や上戸の土産にせん 
  酒のみに語らんかゝる滝の花 
  西河 
  ほろほろと山吹ちるか滝の音 
  蜻蛉が滝 
布留の滝は布留の宮より二十五丁山の奥也。 
津国幾田の川上に有 大和 
布引の滝 箕面の滝 勝尾寺へ越る道に有り。 
  桜 
  桜がりきどくや日々に五里六里 
  日は花に暮て淋しやあすならう 
  扇にて酒くむかげやちる桜 
  苔清水 
  春雨の木下につたふ清水哉 
吉野の花に三日とゞまりて、曙黄昏のけしきに向ひ、有明の月の哀なるさまなど、心にせまり胸にみちて、あるは摂政公のながめに奪はれ、西行の枝折に迷ひ、かの貞室が是はこれはと打ちなぐりたるに、我いはん言葉もなくて、いたづらに口を閉ぢたるいと口をし。思ひ立ちたる風流いかめしく侍れども、爰に至りて無興の事なり。 
  高野 
  ちゝはゝのしきりにこひし雉の声 
  散る花にたぶさはづかし奥の院  万菊 
  和歌 
  行く春にわかの浦にて追付きたり 
  紀三井寺 
跪はやぶれて西行にひとしく、天龍の渡しをおもひ、馬をかる時はいきまきし聖の事心に浮ぶ。山野海浜の美景に造化の功を見、あるは無依の道者の跡を慕ひ、風情の人の実をうかがふ。猶栖を去りて器物の願ひなし。空手なれば途中の愁もなし。寛歩駕籠にかへ、晩食肉よりも甘し。とまるべき道に限りなく、立つべき朝に時なし。只一日の願ひ二つのみ。今宵よき宿からん、草鞋のわが足に宜しきを求めんとばかりは、いさゝかの思ひなり。時々気を転じ日々に情をあらたむ。もしわづかに風雅ある人に出合ひたる悦限りなし。日頃は古めかしくかたくななりと、悪み捨てたる程の人も、辺土の道づれに語りあひ、埴生葎のうちにて見出したるなど、瓦石のうちに玉を拾ひ、泥中に金を得たる心地して、物にも書付け人にも語らんと思ふぞ、又是旅の一つなりかし。 
  衣更 
  一つぬいで後に負ひぬ衣がへ 
  吉野出て布子売りたし衣がへ  万菊 
灌仏の日は奈良にて爰かしこ詣で侍るに、鹿の子を産むを見て、此の日においてをかしければ、 
  灌仏の日に生れあふ鹿の子哉 
招提寺鑑真和尚来朝の時、船中七十余度の難をしのぎ給ひ、御目のうち塩風吹入て、終に御目盲ひさせ給ふ尊像を拝して、 
  若葉して御目の雫ぬぐはばや 
旧友に奈良にて別る 
  鹿の角先づ一節の別れかな 
  大坂にてある人の許にて 
  杜若語るも旅のひとつ哉 
  須磨 
  月はあれど留守のやう也須磨の夏 
  月見ても物たらはずや須磨の夏 
卯月中頃の空も朧に残りて、はかなきみじか夜の月もいとゞ艶なるに、山は若葉に黒みかゝりて、時鳥鳴き出づべきしのゝめも、海の方よりしらみそめたるに、上野とおぼしき所は、麦の穂波あからみあひて、漁人の軒近き芥子の花の、たえだえに見渡さる。 
  海士の顔先づ見らるゝやけしの花 
東須磨・西須磨・浜須磨と三所に分れて、あながちに何わざするとも見えず。藻塩たれつゝなど歌にも聞え侍るも、今はかゝるわざするなども見えず、きすごといふ魚を網して、真砂の上に干し散らしけるを、鳥の飛び来りてつかみ去る。是をにくみて弓をもておどすぞ海士のわざとも見えず。もし古戦場の名残をとゞめて、かゝる事をなすにやといとゞ罪深く、猶昔の恋しきまゝに、鉄枴が峯に上らんとする、導きする子の苦しがりて、とかく言ひ紛らはすを様々にすかして、麓の茶店にて物食はすべきなど云ひて、わりなき体に見えたり。彼は十六と云ひけん里の童子よりは、四つばかりも弟なるべきを、数百丈の先達として、羊腸険岨の岩根を這ひ登れば、辷り落ちぬべき事あまたたびなりけるを、躑躅根笹に取りつき、息を切らし汗をひたして、漸く雲門に入るこそ心もとなき導師の力なりけらし。 
  須磨の蜑の矢先に鳴くか郭公 
  ほとゝぎす消え行く方や嶋一つ 
  須磨寺や吹かぬ笛聞く木下やみ 
  明石夜泊 
  蛸壺やはかなき夢を夏の月 
かゝる所の秋なりけりとかや。此の浦の実は秋をむねとするなるべし。悲しさ淋しさ、云はむかたなく、秋なりせばいささか心のはしをもいひ出づべき物をと思ふぞ、我が心匠の拙きを知らぬに似たり。淡路嶋手に取るやうに見えて、須磨・明石の海右左に分る。呉楚東南の詠もかゝる所にや。物知れる人の見侍らば、さまざまの境にも思ひなぞらふるべし。又後の方に山を隔てて田井の畑といふ所、松風・村雨故郷といへり。尾上つゞき丹波路へ通ふ道あり。鉢伏のぞき、逆落など恐ろしき名のみ残りて、鐘懸松より見下すに、一の谷内裏やしき目の下に見ゆ。其の代の乱れ其の時の騒ぎ、さながら心に浮び俤につどひて、二位の尼君、皇子を抱き奉り、女院の御裳に御足もたれ、船やかたにまろび入らせ給ふ御有様、内侍局・女嬬・曹子のたぐひ、さまく゛ の御調度もて扱ひ、琵琶・琴なんどしとね蒲団にくるみて船中に投げ入れ、供御はこぼれてうろくづの餌となり、櫛笥は乱れて海士の捨草となりつゝ、千歳のかなしび此の浦にとゞまり、素波の音にさへ愁多く侍るぞや。
更科紀行 
さらしなの里、姨捨山の月見んこと、しきりにすゝむる秋風の心に吹さわぎて、倶に風雲の情を狂すもの又ひとり、越人と云。木曾路は山深く道さかしく、旅寐の力も心もとなしと、荷兮子が奴僕をして送らす。おのおのこゝろざし尽すといへども、駅旅の事心えぬさまにて、ともにおぼつかなく、物ごとのしどろに跡さきなるも、なかなかにおかしき事のみ多し。 
何々と云処にて、六十ばかりの道心の僧、おもしろげもおかしげもあらず、只むつむつとしたるが、腰たわむまで物おひ、息はせはしく、足はきざむやうにあゆみ来れるを、伴ひける人のあはれがりて、おのおの肩にかけたる物ども、かの僧のおひね物と一にからみて、馬につて我を其上にのす。高山奇峰頭の上におほひかさなりて、ひだりは大河ながれ、岸下千尋のおもひをなし、尺地も平らかならざれば、鞍の上しづかならず。只あやふき煩ひのみやむ時なし。 
かけはし、ねざめなど過て、猿が馬場たち峠などは、四十八まがりとかや、九折かさなりて、雲路にたどる心地せらる。かちよりゆくものさへ、めくるめき、たましひしぼみて、足さだまらざりけるに、かのつれたる奴僕いともおそるゝけしき見えず、馬の上にてたゞねぶりに眠りて、落ぬべき事あまたたびなりけるを、跡より見あげて危き事かぎりなし。仏の御心に、衆生のうき世を見給ふも、かゝる事にやと、無常迅速のいそがはしきも、我身にかへり見られて、阿波の鳴戸は波風もなかりけり。 
夜は草の枕をもとめて、ひるのうち思ひまうけたるけしき、結び捨たる発句など、矢立取出て、燈のもとに目をとぢ頭をたゝきてうめきふせば、かの道心の坊、旅懐の心うくて物思ひするにやと推量し、我を慰んとす。わかき時拝みめぐりたる地、あみだの尊き数を尽し、おのがあやしと思ひし事ども、噺つゞくるぞ、風情のさはりと成て、何を云出ることもせず。とてもまぎれたる月影の、壁の破れより木間がくれにさし入て、引板の音、鹿おふ声、処どころに聞えける。まことに悲しき秋のこゝろ、ここに尽せり。いでや月のあるじに酒ふるまはんといへば、盃持出たり。よのつねに一めぐりも大きに見えて、ふつゝかなる蒔絵をしたり。都の人は斯るものは風情なしとて、手にもふれざりけるに、思ひもかけぬ興に入て、玉巵の心地せらるゝも処がら也。 
  あの中に蒔絵書たし宿の月 
  かけはしやいのちをからむ蔦かづら 
  かけはしやまづおもひ出駒むかひ 
  霧はれて桟は目もふさがれず 越人 
姨捨山は八幡と云里より一里ばかり南に、西南に横をれてすさまじく高くもあらず、かどかどしき岩なども見えず、只あはれ深き山のすがたなり。なぐさめかねしといひけんもことわりしられて、そゞろに悲しきに、何故にか老たる人を捨たらんと思ふに、いとゞ涙も落そひければ、(原本此一段なし。一本によりて補ひたり) 
  俤や姨ひとり泣月の友 
  いざよひもまだ更科の郡かな 
  更科や三よさの月見雲もなし 越人 
  ひよろひよろと猶露けしやをみなへし 
  身にしみて大根からし秋の風 
  木曾の橡うき世の人の土産かな 
  送られつ別れつはては木曾の秋 
  (「送られつおくりつ」をよしとす) 
  善光寺 
  月影や四門四宗も只ひとつ 
  吹飛す石は浅間の野分かな 
此紀行終て後、乙州以謂、猶翁之友文かさね及ビ烏の賦、集くに洩ぬることを惜み、後集を加ンとおもひ企ぬ。 
 
石門心学

 

江戸時代に石田梅岩(いしだばいがん、1685-1744)が創始した庶民のための生活哲学です。石門とは、石田梅岩の門流という意味です。陽明学を心学と呼ぶこともあり、それと区別するため、石門の文字を付けました。梅岩は、儒教・仏教・神道に基づいた道徳を、独自の形で、そして町人にもわかりやすく日常に実践できる形で説きました。そのため、「町人の哲学」とも呼ばれています。 
石門心学の思想  
17世紀末になると、商業の発展とともに都市部の商人は、経済的に確固たる地位を築き上げるようになります。しかし、江戸幕府による儒教思想の浸透にともない、商人はその道徳的規範を失いかけていました。農民が社会の基盤とみなされていたのに対して、商人は何も生産せず、売り買いだけで労せずして利益を得ると蔑視されていたからです。 
梅岩が独自の学問・思想を創造したのも、そうした商人の精神的苦境を救うためでした。彼は、士農工商という現実社会の秩序を肯定し、それを人間の上下ではなく単なる職業区分ととらえるなど、儒教思想を取り込むような形で庶民に説いていきました。倹約や正直、堪忍といった主な梅岩の教えも、それまでの儒教倫理をベースとしたものでした。また、商人にとっての利潤を、武士の俸禄と同じように正当なものと認め、商人蔑視の風潮を否定しました。 
これらの新しさとわかりやすさを兼ね備えた梅岩の思想は、新しい道徳観を求める町人の心を次第にとらえていきました。 
石門心学はその後組織化が進み、18世紀末には全国に普及していきました。ただ梅岩の死後は、思想的・学問的意義を失い、民衆のための教化哲学や社会運動という意味を徐々に深めていきます。 
石田梅岩(いしだばいがん)  
石田梅岩は貞享2(1685)年、丹波国桑田郡東懸村(とうげむら、現在の亀岡市東別院町東掛<とうげ>)の農家に生まれました。「梅岩」は号で、本名は興長、通称は勘平です。 
次男であったため、京都に出て上京の呉服商黒柳家に約20年間奉公しました。その間に、市井の隠者小栗了雲(おぐりりょううん)と出会い、思想を深めていきます。梅岩は正式な学問を修めたわけではありませんが、奉公の経験と了雲との出会いが、経済と道徳の融合という独特の思想を生み出す基礎となったと思われます。 
梅岩は享保14(1729)年、車屋町通御池上る東側の自宅で講義を始めました。そこで彼は聴講料を一切取らず、また紹介者も必要としない誰でも自由に聴講できるスタイルをとりました。初めのうちは聴衆も数人という状況でしたが、出張講釈などを続けることで次第に評判は高まっていきました。 
また講義とは別に、毎月3回月次会(つきなみえ)と呼ばれる研究会を開き、その中で多数の門弟を育てました。その月次会での問答を整理したものが、元文4(1739)年に出版された「都鄙問答」(とひもんどう)です。田舎から京都へ出てきた者の質問に、梅岩が答える形式をとっており、教学の基本理念が記されています。 
延享元(1744)年には彼の主張の中核である「倹約」を説いた「斉家論」(せいかろん)を出版しますが、その直後に亡くなりました。なお梅岩自身は、一度も「心学」という言葉は用いていません。 
手島堵庵(てじまとあん)  
梅岩亡き後、石門心学の中心的存在となったのが手島堵庵(1718-86)です。堵庵は京都の商家に生まれ、18才で梅岩の門に入ります。44才の時に家督をその子和庵(かあん)に譲り、以降は心学の普及につとめました。 
梅岩を、真理を求める求道者的存在とするならば、堵庵は庶民を教え導く指導者的存在でした。そして、組織の改革や教化方法の改善に手腕を発揮しました。 
明和2(1765)年には富小路通三条下るに、最初の心学講舎である五楽舎(ごらくしゃ)を設立しました。さらに安永2(1773)年、五条通東洞院東入に脩正舎(しゅうせいしゃ)を、安永8(1779)年、今出川通千本東入に時習舎(じしゅうしゃ)を、天明2(1782)年、河原町通三条に明倫舎(めいりんしゃ)をそれぞれ開設しました。これらの講舎は、その後組織化していく心学教化活動の中心的存在となっていきました。 
また、女性だけの特別講座や、年少者のために日中行う「前訓」(ぜんくん)という講座を開きました。そこでは俗語を用いた講話や、心学の教訓を歌であらわした道歌が用いられ、庶民に広く受け入れられました。 
その結果、民衆に広く受け入れられた心学は、天明・享和(1781-1804)の頃には、京都を中心に社会的一大勢力に発展しました。その背景には、都市部における寺子屋の定着によって、教育の必要性が庶民に浸透したことが挙げられるでしょう。ただ一方で、梅岩の思想の哲学的側面は薄れ、その教えは平易で単純なものになっていきました。 
柴田鳩翁(しばたきゅうおう) 
もとは講談師であった柴田鳩翁(1783-1839)は、文政4(1821)年時習舎の薩埵徳軒(さったとくけん)に入門し、心学を修めました。鳩翁は45才の時に失明しますが、たくみな話術で庶民から武家・公家にまで心学を説いてまわりました。 
特にこの頃になると、心学も一般に浸透したため、大名や代官に依頼され各地を巡回することが多くなりました。越前大野、美作(みまさか)津山、伊勢津などの諸藩では、藩主自らが彼の講釈に耳を傾けました。他にも、京都所司代の松平信順(まつだいらのぶのり)や仁和寺宮(にんなじのみや)済仁入道親王(さいにゅうにゅうどうしんのう)、土御門晴親(つちみかどはれちか)などが鳩翁の講釈を聞いています。 
それらの場で語られた話を、養子である遊翁がまとめたものが「鳩翁道話」です。天保6(1835)年に出版され、明治時代にはベストセラーにもなりました。 
また彼は実践を重んじ、自ら復興した脩正舎を中心に飢饉時の救援活動を推し進めました。天保の大飢饉の折には、長期にわたり施粥を行い、彼の没した翌年の天保11(1840)年には町奉行所より表彰されています。 
京都の富商と心学  
大黒屋三郎兵衛家は越後屋(三井家)や大丸(下村家)とともに、江戸時代、京都有数の呉服屋でした。その第四代当主杉浦利喬(1732-1809)は石田梅岩の門に入り、心学を修めました。利喬は店の者に、「家内之定」や「家業之定」とともに「石田梅岩語録」を読み聞かせていたことからも、心学の思想を経営の理念に取り入れていたことがうかがえます。またその「家内之定」にも、 
家業専に仕、常に倹約を守るべき事 
などとあり、明らかに心学の影響が見て取れます。 
文化6(1809)年に利喬は亡くなりますが、以降も心学は大黒屋の家訓として受け継がれていきました。現在、杉浦家には石田梅岩の肖像画が残されています。 
大黒屋以外にも、心学に傾倒した商家は多く、講舎の運営資金の大半は、そうした商人達によって賄われていたようです。 
また、心学の説く倹約や正直、堪忍(かんにん)などの思想は、さまざまな形で老舗の家訓の中に残され、今に続いています。 
小学校と心学  
明治2(1869)年に日本で最初に発足した京都の小学校では、住民を対象とした社会教育として、儒書の講釈とともに心学の講義が行われていました。小学校には心学の道話師が置かれ、月に6回の講義の席が設けられていました。これは、江戸時代に心学が果たした役割が、明治に入ってもある程度評価されていたからだと思われます。ただ文明開化の流れには対応できず、この制度も明治4(1871)年には廃止されます。 
 
京都のキリシタン遺跡

 

京都とキリシタン(キリスト教)の歴史は、天文18(1549)年に薩摩に上陸し、天文19年12月に堺を経て入洛したフランシスコ・ザビエル(1506-52)に始まります。ザビエル以降も多くの宣教師が入洛し、京都を中心とした地域で布教活動が行われ、織田信長(1534-82)の保護によって浸透を深めていきます。 
この時期に作られたキリシタンの遺跡として、京都には、墓碑や欧風の鐘などが現存していますが、それら以外の遺跡の多くは、豊臣秀吉(1536-98)の追放令や江戸幕府の禁令によって迫害を受け破却されました。 
宣教師と京都  
ザビエルが日本全土の布教許可を得るために入洛したのは、天文法華の乱後十数年、都は復興の途上にあったとはいえ、すでに幕府は事実上崩壊していた時代で、室町幕府第十三代将軍足利義輝(あしかがよしてる、1536-65)は少数の家臣をつれて郊外の北白川に逃れており、後奈良天皇の朝廷も衰えていました。ザビエルが都の大学として期待していた比叡山延暦寺をはじめ京都の諸寺院も世俗化し、戦乱の渦中にまきこまれていました。 
失意の中、滞在わずか11日で離京したザビエルの後、京都布教に着手したのは、ガスパル・ビレラです。 
当時、京都の人々はキリシタンに対して無理解でしたが、入洛から1カ月が過ぎ、堺のキリシタン医師パウロが紹介した建仁寺永源庵主の手引きで、妙覚寺に将軍義輝を訪ねることができたビレラは、この接見をきっかけに公然と町人に説教をはじめました。そしてビレラは、当時京都に勢力を張る三好長慶(みよしながよし)や松永久秀(まつながひさひで)との交渉も行い、永禄3(1560)年のはじめには、将軍に再び謁見、布教の許可を得たのです。 
永禄4(1561)年、京都市内に最初の礼拝堂が建設されますが、相次ぐ戦乱で、礼拝堂は荒廃、布教事情もなかなか好転しませんでした。しかし、比叡山を焼き討ちした織田信長の入京によって事態は一転、信長は仏寺の勢力を抑制する意図もあってか、当時来京していたオルガンティーノら宣教師たちを厚遇しました。この信長の保護によって、新たに教会(南蛮寺<なんばんじ>)や礼拝堂が建設され、京都でのキリシタン伝道事業は絶頂期を迎えたのです。 
バテレン追放令  
このように戦国時代末から宣教師や信者の努力により繁栄にむかった京都のキリシタンでしたが、天正15年(1587)に発せられた豊臣秀吉のバテレン追放令により追放と迫害の時代をむかえることになります。 
この追放令の動機については、さまざまな説がありますが、一つには、キリシタン信者の団結が一向一揆と同様に専制権力にとって脅威となるために発せられたと言われており、これによって京都市中の宣教師は追放され、南蛮寺は破壊されました。 
ただし、宣教師・信者に対する大規模な迫害は、慶長元(1596)年に始まります。この年9月、土佐に着岸したイスパニア船サン・フェリぺ号がイスパニアの侵略の先鋒だとみなされ、その影響で京都においてフランシスコ会の26人の宣教師らが捕らえられ、長崎へ護送され、処刑されました。これは「二十六聖人の殉教」と呼ばれ、迫害の背後には、日本布教をめぐるポルトガル系イエズス会とイスパニア系フランシスコ会の対立があったともいわれています。 
江戸時代の禁教  
江戸時代におけるキリシタンの禁止は、慶長17(1612)年の禁教令にはじまります。徳川政権は当初キリシタンに対して寛大な態度を示していましたが、カトリックの国々への国土侵略の疑惑から禁教に踏み切ります。この慶長17年の法令は幕府直轄領のみを対象としたものでしたが、翌慶長18年にはその効力を全国におよぼす禁教令が出され、以後、この禁教令が明治6(1873)年にいたるまで継承されます。 
京都に禁教の波動がおよぶのは慶長18年のことです。当時の京都所司代板倉勝重(いたくらかつしげ)は、キリシタンへの同情から前年の禁教令を厳しく施行することを躊躇していました。しかし、江戸から上使として大久保忠隣(おおくぼただちか)が派遣され、弾圧の指揮をとることになると、忠隣は、当時京都の西の郊外を中心に散在していたキリシタン寺院(教会)を焼き払い、信者に拷問を加え転向をせまったのです。 
この江戸幕府による最初の弾圧は、慶長19年の大坂冬の陣勃発までつづきましたが、大坂の陣の戦後処理もおわった元和5(1619)年には再度の弾圧が加えられました。最初の弾圧では処刑者が出ることはなかったようですが、元和の弾圧では信者60名以上が七条河原で火刑に処されました。この処刑は「古代ローマ皇帝のネロにまさる残虐の所業」と宣教師が形容するように、京都における最大のキリシタン信徒弾圧で、これ以後、京都において公然としたキリシタンの活動は途絶えてしまいます。 
 
朝鮮通信使

 

朝鮮通信使は、足利・豊臣・徳川の武家政権に対して、朝鮮国王が書契(しょけい、国書)および礼単(進物)をもたらすため派遣した外交使節団のことで、「朝鮮信使」「信使」「朝鮮来聘使」「来聘使」(らいへいし)などとも呼ばれていました。実質的には、江戸時代に12回にわたって来日した使節団のことを指しています。 
江戸時代の朝鮮通信使は、幕府の命を受けた対馬藩主が朝鮮へ使者を派遣し、これを受けた朝鮮側が、正使(文官堂上正三品)、副使(文官堂下正三品)、従事官(文官五・六品)の三使を中心に使節団を編成しました。この三使には、将来朝鮮政府首脳部になるべき人物が選ばれます。 
この通信使の来日は、文化面においても多大な影響を与え、絵画や歌舞伎の題材にも取り上げられるほどでしたが、なかでも、当時の文化人にとっては、先進的な大陸の文化を取り入れる絶好の機会でした。 
朝鮮から江戸まで  
朝鮮王朝(1392年に李成桂<りせいけい/イ・ソンゲ>によって成立)の宮中において三使が国王に挨拶を行った後、通信使一行は、都がある漢陽(ハニヤン、現ソウル)を出発、陸路で釜山浦へ下り、永嘉台(ヨンカデ)から乗船して対馬に渡ります。対馬・壱岐を経て筑前の藍島(あいのしま、福岡県新宮町相島)に至り、日本本土の最初の停泊地、赤間関(あかまのせき、山口県下関市)に到着すると、対馬藩や西国大名の護送船を加えて大船団が構成され、瀬戸内海に入り、上関(山口県熊毛郡)・牛窓(岡山県瀬戸内市)・兵庫(兵庫県神戸市)などの要所要所の港で潮待ち・風待ちをしながら大坂に入ります。 
通信使は、この大坂で幕府が用意した川御座船(かわござぶね)に乗り換えて淀川をさかのぼり、淀に上陸、京都滞在を経て、大津・草津宿へと入ります。その後、一行は、野洲より朝鮮人街道を通って彦根まで行き、中山道を経由して東海道に戻り、江戸へと向かいます。復路はこの行程を逆にたどって朝鮮に帰国しており、往復で半年にも及ぶ長旅でした。 
ちなみに、慶長元(1596)年からの使節団には、1回につき約300-500人の人員が随行しており、寛永13(1636)年以降は、その内の船団関係者約百名が大坂で残留し、江戸を往復する間に長い航海で傷んだ船体を補修して帰路に備えていました。 
来日理由  
室町時代には、6回にわたって通信使が来日しました。来日の理由は、倭寇禁止の要請や将軍襲職祝賀が多く、幕府も同じ認識で迎えており、寛正元(1460)年に来日した通信使は、日本の請いに応じて、大蔵経や諸経を贈呈しています。また、豊臣政権のもとでは、2回にわたり、いずれも文禄・慶長の役(壬申・丁酉倭乱)に関係した交渉を行っています。 
江戸時代には12回来日しましたが、初期の5回までは複雑な理由を秘めていました。たとえば寛永13年の通信使の場合、幕府では「泰平の祝賀」と考えていましたが、朝鮮王朝では、徳川将軍の呼称を従来の「日本国王」から「日本国大君」へと変更したことや、対馬藩主である宗義成(そうよしなり)の国書偽造を暴露した対馬藩家老柳川調興(やながわしげおき)の処分など、朝鮮政策の変化の意味を探り、かつ、柳川氏と対決した宗義成を擁護するために来日しています。 
また、16世紀末、明国で農民の反乱が多発し、加えて元和2(1616)年、中国東北部に後金(後の清国)が建国されるなど、大陸の情勢は緊迫していました。 
朝鮮は、北方より侵入する後金の圧力に対し、明国を支持する方策を堅持していたため、通信使派遣は、南方日本との和平を保つ必要に迫られてのものでもありました。このように通信使の来日は、東アジアの動向とも深く関連しています。 
朝鮮通信使一覧 
  謁見年  西暦  主権者  正使   招聘理由〈日本〉 来聘理由〈朝鮮〉 人員  
01 応永20 1412 足利義持  朴賁 ― 倭寇禁止要請、国情探索 ―  
02 永享元 1429 足利義教  朴瑞生 将軍就任祝賀、前将軍致祭 将軍襲職祝賀、前将軍致祭 ―  
03 永享11 1439 同      高得宗 旧交を復す 交聘を復す、倭寇禁止要請 ―  
04 嘉吉3   1443 足利義勝  下孝文 将軍就任祝賀、前将軍致祭 将軍襲職祝賀、前将軍致祭 約50  
05 寛正元 1460 足利義政  宋処倹 大蔵経要請 日本国王使への回答、大蔵経・諸経の贈呈 約100  
06 文明11 1479 足利義尚  李亨元 ― 旧好を修す ―  
07 天正18 1590 豊臣秀吉  黄允吉 朝鮮の帰服 国内統一の祝賀、献俘答礼 ―  
08 慶長元 1596 同       黄慎 降伏和議 修好、日本軍撤退の要請 309  
09 慶長12 1607 徳川秀忠  呂祐吉 和好を修める 南辺のため対日友好保持、捕虜返還、国情探索 504  
10 元和3   1617 同      呉允謙 大坂平定、日本統一の祝賀 国情探索、捕虜返還、対馬藩牽制 428  
11 寛永元  1624 徳川家光  鄭ャ 家光襲職の賀 将軍襲職の祝賀、捕虜返還、国情探索 460  
12 寛永13  1636 同      任絖 泰平の賀 朝鮮政策確認、対馬藩主擁護、中国対策 478  
13 寛永20  1643 同      尹順之 家綱誕生の賀、日光廟増築 友好保持、清朝牽制、国情探索 477  
14 明暦元  1655 徳川家綱  趙  家綱襲職の賀 将軍襲職の祝賀 478  
15 天和2   1682 徳川綱吉  尹趾完 綱吉襲職の賀 将軍襲職の祝賀 473  
16 正徳元  1711 徳川家宣  趙泰億 家宣襲職の賀 将軍襲職の祝賀 500  
17 享保4   1719 徳川吉宗  洪致中 吉宗襲職の賀 将軍襲職の祝賀 475  
18 寛延元  1748 徳川家重  洪啓禧 家重襲職の賀 将軍襲職の祝賀 477  
19 明和元  1764 徳川家治  趙  家治襲職の賀 将軍襲職の祝賀 477  
20 文化8   1811 徳川家斉  金履喬 家斉襲職の賀 将軍襲職の祝賀 327  
五山と通信使  
京都と朝鮮通信使の歴史には、京都五山、とりわけ天龍寺・東福寺・建仁寺・相国寺との深いつながりがあります。室町時代の京都五山は、仏典の研究ばかりでなく儒学の研鑽にも努めており、そのことは五山文学にあらわれています。 
対馬の厳原(いずはら、長崎県対馬市)にあった朝鮮との外交事務を管掌する以酊庵(いていあん、現西山寺)には、寛永年度から京都の碩学の僧が輪番僧として派遣されていて、慶応2(1866)年の廃止まで、天龍寺から37人、東福寺から33人、建仁寺から32人、相国寺から24人(いずれものべ人数)が赴任しています。 
 
近世後期の京都美術

 

近世後期の京都画壇は、様々な絵画によって彩られますが、その中でも文人画(南画)と写生画の分野においては多くの有名画家を輩出しました。 
文人画とは、中国の士大夫(したいふ、高級官僚)が描いていた絵画のことで、様式的には南宗画(なんしゅうが)とも呼ばれていました。日本に入り、和様化したものを一般に「南画」(なんが)という名称で呼んでいます。 
写生画は、享保16(1731)年、沈南蘋(しんなんびん、生没年不詳)が長崎にもたらした清朝の写実的な画風が大きな影響を与えたと言われています。 
文人画  
日本における文人画(南画)の発生は、中国の明・清時代(17世紀前半)に制作された「八種画譜」(はっしゅがふ)や「芥子園画伝」(かいしえんがでん)などの文人画の木版画譜類が輸入されたことが大きな要因に挙げられます。江戸時代後期には、京都で刊行された人名録「平安人物志」文政5(1822)年版には、画家とは別に「文人画」の項が単独で設けられており、このことからも、当時、京都で文人画家が活躍していたことがわかります。 
日本で初めて文人画に注目したのは、祇園南海(ぎおんなんかい、紀州藩儒臣、1676-1751)や柳沢淇園(やなぎさわきえん、大和郡山藩重臣、1704-58)といった武士の知識人で、彼らに続く当時の代表的な画家といえば、日本文人画(南画)を大成した与謝蕪村(よさぶそん、1716-83)や池大雅(いけのたいが、1723-76)がいます。 
写生画  
京都の写生画家としては、伊藤若冲(いとうじゃくちゅう、1716-1800)がその先駆者として注目され、この若冲よりやや遅れて登場した円山応挙(まるやまおうきょ、1733-95)が写生画を大成したといわれています。応挙の画風は、当時の京都画壇を風靡し、門人は1000人といわれるほどでした。世に言う円山派です。 
この画風は、応挙の門人で気品高い美人画に優れた源g(げんき、1747-97)や奇抜で奔放な作品を描いた長沢蘆雪(ながさわろせつ、1755-99)などの応門十哲や応挙の長男である円山応瑞(おうずい、1766-1829)、次男の木下応受(きのしたおうじゅ、1777-1815)によって継承されます。 
円山派から四条派へ  
応挙を中心にした円山派の全盛時代が終わったあと、文人画家である与謝蕪村の弟子で、のちに応挙の影響を受けた呉春(ごしゅん、松村月渓<まつむらげっけい>、1752-1811)から始まる四条派が、京都画壇を席巻するようになります。 
四条派は円山派の写生的な描写を吸収して、一つの画風をつくりあげました。その画風は、写実的描写力を徹底して深化させることはせず、適度なところで装飾性と調和させ、あわせて詩的情緒にも意を配る、穏健な作風のもので、その結果、世間の幅広い支持をとりつけました。 
この画風は、その後、呉春の弟の松村景文(まつむらけいぶん、1779-1843)や京都郊外の風物を近代的感覚でとらえた岡本豊彦(おかもととよひこ、1773-1845)に引き継がれ、明治以後の近代日本画のいしずえとなっていくのです。なお、京都の商家では、円山・四条派の作品が特に好まれ、現在でも多くの作品が残されています。 
また、この京都の写生画派である円山・四条派(総称して京派とも呼ばれた)に次いで名をひろめた画系に岸駒(がんく、1749?-1838)の岸派や原在中(はらざいちゅう、1750-1837)に始まる原派があり、その他にも円山派全盛期時代に特異な作風で人々の目を驚かせた画家に曾我蕭白(そがしょうはく、1730-81)がいました。 
内裏(京都御所)の障壁画  
江戸時代、火災などにより内裏は焼失再建を繰り返しました。その度に描かれた内裏の障壁画は、幕府の御用絵師である狩野派が中心となってすすめられ、狩野派・土佐派がその絵のほとんどを独占していました。 
しかし、寛政2(1790)年に行われた内裏再建の際には、狩野派や土佐派だけでなく円山応挙や岸駒、原在中などの写生画の絵師も障壁画の制作に加わっています。 
現在、京都御所で見られる障壁画は、安政2(1855)年の内裏再建時に制作されたものですが、この障壁画制作にあたっても円山派や四条派、岸派、原派の絵師が多数参加しています。 
池大雅(いけのたいが、1723-76) 
大雅は、京都の銀座下役の子として生まれました。若いころから書画篆刻(てんこく)が上手で、木版画譜や中国より輸入された絵画を通じて文人画を独学し、宇治の万福寺に出入りして黄檗風の墨画も学びました。ちょうどこの頃、南海や淇園に出会い文人画の研鑽を積みます。 
大雅は、日本文人画(南画)を単なる中国画の亜流にとどめることなく、琳派・大和絵など日本の伝統的な画風や西洋画などを摂取することによって、独自の斬新な絵画様式を完成します。 
与謝蕪村(よさぶそん、1716-83)  
蕪村は俳人として有名ですが、池大雅と並ぶ文人画家としても知られています。蕪村は現在の大阪市都島区毛馬町(けまちょう)で生まれ、20歳頃に江戸に出て早野巴人(はやのはじん、夜半亭宋阿<やはんていそうあ>)に俳句を学び、巴人没後は下総国を中心に放浪生活を送り、宝暦元(1751)年、京都に移住します。 
画風は文人画に日本的自然観を加味したもので、色彩もやわらかく、晩年、謝寅の号を用いて以後、傑作を多く制作しており、代表作には、「野馬図屏風」(やばずびょうぶ、京都国立博物館蔵)などの作品があります。 
蕪村は晩年に松尾芭蕉を偲んで左京区一乗寺の金福寺に茶室芭蕉庵を再興しており、蕪村の墓所もこの寺にあります。 
伊藤若冲(じゃくちゅう、1716-1800) 
若冲は、京都錦小路の青物問屋の家に生まれた町人画家です。彼は老舗の商家の主人でしたが、趣味として習った絵画に没頭し、ついには家を弟に譲って専門画家となってしまいます。はじめ狩野派に学びましたが、写生の重要性を痛感した若冲は、実際に自宅の庭に数十羽の鶏を飼って、そのあらゆる形状を写しとる修練を積んだといわれています。 
こうして若冲は写生的な花鳥画へと深く傾斜していき、特に鶏図を得意としました。代表作には金閣寺の大書院障壁画(重要文化財)などがあり、この障壁画の一部は相国寺承天閣美術館(上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町)で見ることができます。晩年、若冲は伏見区深草石峰寺(せきほうじ)の門前に住したため、墓所は相国寺と石峰寺にあります。 
円山応挙(まるやまおうきょ、1733-95)  
応挙は、丹波国の農家に生まれ、少年期に上京して石田幽汀(いしだゆうてい、1721-86)に師事しました。幽汀は鶴沢探鯨(つるさわたんげい、探山の子)の門人でしたが、その幽汀のもとで江戸狩野派の正統的な画法を修得したのちに、当時流行しはじめたばかりの写実的な西洋画法を眼鏡絵の制作を通して知る一方、中国宋元時代の院体花鳥画にも影響を受けています。 
「絵は応挙の世に出て写生ということのはやり出て、京中の絵が皆一手になつたことじや」(上田秋成「胆大小心録」<たんだいしょうしんろく>)といわれるように、上方を中心に多くの支持者を獲得し、門弟を多数集めた応挙は、写生画の普及に力を尽くしました。 
左京区一乗寺小谷町の円光寺に残されている「雨竹風竹図屏風」などが重要文化財に指定されており、墓所は右京区太秦東蜂岡町の悟真寺(ごしんじ)にあります。 
長沢蘆雪(ろせつ、1755-99) 
蘆雪は、一寸(約3センチメートル)四方の小画面に五百羅漢とその眷属を超細密に描き込んでみせたかと思えば、顕微鏡で見た虫の図を屏風一面に拡大して描くなど、日常的な視覚の粋をはるかに超える大胆な造形を試みています。 
しかし、そうした人の意表をつく奇巧には少しの暗さもなく、常にユーモアをたたえた明るさがあるのは、蘆雪画の特徴であり、応挙の代理で南紀へ下向した際、多くの作品をその地に残しています。 
さらに晩年に描いた水墨画には、月光など光線への関心を深めた抒情的な作風のものもあり、生新な魅力が感じられます。墓所は上京区御前通一条下るの回向院にあります。 
呉春(ごしゅん、1752-1811) 
呉春は京都金座の年寄役松村家の子として生まれた京都町人で、はじめ与謝蕪村について俳諧とともに絵を学びました。月渓の画名で文人画(南画)を描いていた彼は、大坂郊外呉服里(くれはのさと、現大阪府池田市)に滞在中の天明2(1782)年の春、姓を呉、名を春と中国風に改称、翌年に蕪村が没して以後は応挙に接近して、その写生画風に感化されていきます。師の蕪村から受け継いだ俳諧的詩情を応挙ゆずりの平明な写生画風により表現する彼の軽妙で洒脱な画風は、洗練された趣味生活を楽しもうとする市民層に親しく歓迎されました。 
集まる弟子も数多く、呉春はもとより門下生の多くが京都の四条通り界隈に集中して住んでいたため、一門は四条派の通称で呼ばれました。代表作に「白梅図屏風」(逸翁美術館蔵、重要文化財)があり、墓所は師である蕪村と同じ金福寺にあります。 
岸駒(がんく、1749?-1838) 
岸駒は金沢の人で、青年時代、紺屋に奉公をしており、天明の初めごろ上京して絵を学び、しだいに名をあげてきたと言われています。その後、有栖川宮の近侍となり、雅楽助(うたのすけ)の称が与えられ、以後、従五位下に叙せられて、越前守に任ぜられました。沈南蘋の影響を強く受けた岸駒は、岸派を起こし、寛政2(1790)年の内裏造営にあたり障壁画を描いています。平明な円山四条の絵を好む京都町人には、岸駒の「剛健な筆意」はあまりよろこばれず、地方において歓迎されたようです。 
また、岸駒の傲岸なふるまいは京都の人びとの目をおどろかせ、画料の高いことでも有名でした。上田秋成は岸駒のことを山師のような男だと批評しています。墓所は上京区寺町通広小路上るの本禅寺にあります。 
原在中(はらざいちゅう、1750-1837) 
在中は円山応挙の影響を受け、写生を基調に土佐派が描く大和絵の技法と装飾を加えて独自の画風をたて、原派を起こしました。 
彼は山水画や花鳥画を得意とし、作品には障壁画も多く、相国寺(上京区)・建仁寺(東山区)・三玄院(北区の大徳寺塔頭)などに残されています。応挙や岸駒とともに内裏造営の際には障壁画の制作にも携わりました。墓所は中京区寺町通三条上るの天性寺(てんしょうじ)にあります。 
曾我蕭白(そがしょうはく、1730-81) 
若冲や蘆雪とならんで、同じころに異色の画風で世間を驚かせた画家に、室町時代の絵師「曾我蛇足」(だそく)の十世を自称する曾我蕭白がいます。彼は「画を望まば我に乞うべし、絵図を求めんとならば円山主水(応挙)よかるべし」と広言して、応挙の穏健な写生画を非難しており、奇矯で反俗的な激しい性格は「群仙図屏風」(文化庁蔵)など奇怪な相貌を備えた人物画などにそのまま反映しています。 
青壮年期に遊歴した松阪には、障壁画をはじめとする名作がなお多く伝存しています。墓所は上京区堀川通寺之内上るの興聖寺(こうしょうじ)にあります。 
 
天璋院篤姫

 

てんしょういんあつひめ 通称 篤姫(あつひめ) 
別称 一子(かつこ)/敬子(すみこ)/篤君(あつぎみ)/篤子(とくこ、あつこ) 
天保6年-明治16年(1836-1883) 享年48歳 
天璋院篤姫の実父は、薩摩藩島津家の一門・今和泉の5代領主・島津忠剛とされる。鹿児島城下、鶴松城北東にある重臣屋敷・上町で生まれ、島津一子と呼ばれた。幼少から聡明・利発で島津忠剛は「一子が男子であれば」とその器量を評価したと言う。(薩摩藩主・島津斉彬の実子説も有。) 
幼少の折には、小松帯刀らと一緒に学問を学んだとされる。  
徳川将軍の正室を薩摩から出す事になった経緯 
徳川将軍後継問題で、徳川家定のあと、次期将軍に一橋慶喜(徳川慶喜)を推す一橋派(備後福山藩主兼幕府老中・阿部正弘、水戸藩主・徳川斉昭、島津斉彬)と、紀州慶福(徳川家茂)を推す紀州派(紀州藩老中・水野忠央、井伊直弼)らが対立する。 
そんなおり、第13代将軍・徳川家定の正室は2人とも若くして死去していた為、幕府の考えとしては第3正室には健康で元気な女性が良いと言う事になった。 
そんな中、先代11代将軍・徳川家斉の正室であった茂姫(後の廣大院)の血筋を引く者達が、のちの大名家の藩主や正室などに数多くおり、血筋が非常に健康で繁栄していたことから、茂姫の親元であった島津家に、幕府は正室を出すように要求した。 
別の説では、薩摩藩島津本家の島津斉彬が幕府改革の政略の為、将軍に正室を輿入れさせたと言う説もあるが、薩摩側から正室を申し入れしたとは考えにくく、幕府からたまたま正室をと申し出があったようだ。島津斉彬としてはこの機会に、次期将軍は一橋慶喜をと、より一層有利に画策する為、大奥を利用しようと考えた=便乗したというのが正しいようだ。 
将軍の元に御台所(正室)を送り込んで、大奥から政治工作をさせるには、並大抵の姫では勤まらない。このような理由から、重大な役割を担う正室にと抜擢されたのが、島津一門の島津忠剛の娘で聡明・利発な一子である。 
1953年、薩摩藩11代藩主・島津斉彬(なりあきら)は一子を島津本家の養女とした。そして、一子は名を篤子(篤姫)と名を改めることになったのである。
薩摩を出発し江戸へ(2度と戻ることはなかった) 
篤子(篤姫)は3ヶ月間鹿児島城で過ごした後、8月21日に薩摩を出発。途中では海路も使用したとも言われるが最近の研究では、ほぼ陸路を使ったとされている。 
9月24日に大坂に到着して、住吉天満宮参拝。そして、京では近衛邸を訪問し宇治や東福寺などを見物した。 
江戸へ向う途中、箱根では当然温泉にも入浴したであろうし、鎌倉にも寄ったとされている。江戸では芝にある薩摩藩邸に入った。
輿入れ準備 
将軍の正室を島津家から迎えるに当たって、幕府内では島津が外様であることからも紀州藩などの抵抗があり、すぐに輿入れとはならず、篤子(篤姫)は江戸にて約2年の月日を過ごすことになる。 
本来、将軍の正室は公家から迎えるのが正式であったとこから、島津斉彬や一橋派の中心人物、阿部正弘らは知恵を絞り、1856年に篤姫を、島津斉彬の姉が嫁いでいた右大臣・近衛忠煕の養女とした。 
五摂家の筆頭=公家の家格の頂点でもある近衛家の娘とあっては、紀州派も強く反対を唱えることができなくなり、以後、将軍家輿入れに大きく進展する。 
なお、篤姫は近衛忠煕の養女になったことで、篤君と呼ばれるようになり、諱の名を「近衛敬子」とした。 
近衛家には得浄院と称する、島津家より近衛忠煕に嫁いだ郁姫付きの元老女がいた。その得浄院は篤姫が大奥へ入る際の御年寄として抜擢され、幾島と改名し、京から江戸の薩摩藩邸に下向。 
まもなく、篤姫は将軍・徳川家定の第3正室として大奥へ、幾島と共に入るのである。 
幾島は、近衛家の家士・今大路孝由の娘と言う肩書きで大奥に入ったと言われる。  
大奥 
篤君は、ようやく将軍の御台所となり、大奥では篤姫君と呼ばれるようになる。しかし、将軍・徳川家定は生まれながらにして病弱で、この時すでに言葉もうまく話すことすら困難だったとされ、とても世継ぎを期待できる体ではなかった。脚気と言う、疲れやすく体がしびれる病気であったとも言われる。  
大奥は年寄・瀧山(滝山)や当時大奥最大の実力者・歌橋など、ほとんどが紀州派であり、一橋派の政略も担う篤姫君を歓迎する者は少なかった。 
大奥は紀州派と言うよりは、水戸嫌いだから紀州が良いと言う事である。水戸嫌いの理由としては、水戸の徳川斉昭が大奥に倹約(節約)を求めたと言う事もあるが、絶世の美女として知られる大奥女中の唐橋が大奥から水戸藩邸に行った際に、水戸藩主・徳川斉昭が手をつけて妊娠させてしまう。唐橋は公家の娘であり、また生涯奉公、終身不犯を誓った身。将軍家斉でさえ決まりを守り手が出せなかった。その為、大奥は唐橋に手をつけた水戸を嫌ったようだ。 
なお、唐橋は実家のある京に戻り、その後、花ノ井と称して、水戸の徳川斉昭の元に行ったと言われているが、生没年ですら詳しいことはわかっておらず、篤姫君が嫁いだ頃にはすでに大奥に唐橋はいなかったとするのが妥当である。 
この唐橋は、12代将軍・徳川家慶が死去するまで大奥で権力を誇っていた上臈御年寄・姉小路の妹であり、姉の姉小路は大奥を去ってからも、発言力を保っていたとされる。 
しかし、第13代将軍に徳川家定が就任すると、御台所が不在の時期もあったので、徳川家定生母・本寿院や御年寄・瀧山らの発言力が増し、歌橋が大奥最大の権力を誇っていた。 
そんな所に、形式上は大奥で一番偉い人物となる新しい御台所・篤姫君が来たので、本寿院・瀧山・歌橋らはおもしろくない。 
そして、大奥で一橋派として工作する幾島は篤姫君を補佐する一方、江戸城内と薩摩藩との連絡役・密偵役としても活動し、西郷隆盛を通して薩摩江戸藩邸の奥老女・小ノ島と連絡し、大奥の動向を伝え、薩摩藩との連携に大きな役割を果たしたのであった。 
勝海舟の日記では大奥に入った篤姫君が猫を飼い、その猫のエサ代が年間25両だったと記載されている。ちなみに、猫の世話をしたのは御年寄・瀧山の姪で大岡ませ子。
篤姫づきの大奥女中 
幾島以外の篤姫つきの大奥女中を簡潔にご紹介。 
初瀬(はつせ、生没年不詳) 
初名は粂山。父は旗本榊原氏。宿元は甥の榊原七郎右衛門。当初は徳川家祥室・寿明姫付きの中年寄で江戸城西の丸にいたが、寿明姫没後は詰となった。徳川家祥の将軍就任に従って本丸に移る。篤姫が大奥に入ると、ともに大奥に入っていた幾島と篤姫付きの御年寄となる。1862年前後までには大奥で致仕。 
瀧井(たきい、生没年不詳) 
初名は岩野。父は旗本熊倉茂高。 中年寄として篤姫に仕えた。その後、昇進して御年寄となり、名を瀧井と改名。 
川井(かわい、生没年不詳) 
祖父は関正秀か?。弟に小姓組を勤めた関十蔵がいる。中年寄として篤姫に仕えた。1863年の江戸城火事で、西の丸、本丸・二の丸が焼失した際に、他の多くの女中たちとともに暇を出されたが、3年間は諸手当を保証されていたと言われる。  
歌川(うたがわ、生没年不詳) 
初名ふく。父は旗本岡野氏。宿元は又甥の岡野福次郎。 御中臈として篤姫に仕えた。その後、御中臈頭となり歌川に改名。そして中年寄になった。 
袖村(そでむら、生没年不詳) 
初名みや。祖父は青木兼鑑か?。弟に小普請を勤めた青木熊之助がいる。御中臈として篤姫に仕えた。1864年には御中臈筆頭になっている。  
さか(生没年不詳)  
薩摩から篤姫に付き従った女中で、父は薩摩藩士仙波氏。宿元は兄仙波市左衛門。篤姫が薩摩藩主・島津斉彬の娘になった時から世話をしていたと考えられ、以後、篤姫の大奥輿入れにも従い、江戸城開城以降も天璋院に従って千駄ヶ谷に移り、天璋院の女中頭を勤めたと言われている。また、天璋院晩年の旅行の供などもしている。  
くわ(生没年不詳) 
旗本土屋忠兵衛の娘。宿元は甥で御小姓組を勤めた土屋国之丞。 篤姫の御中臈として仕えた。1858年前後で致仕したものと考えられる。  
かよ(生没年不詳) 
沢仁兵衛の娘。宿元は父で小十人組を勤めた沢仁兵衛。祖父は沢実久。篤姫の御中臈として仕えた。 
つよ(生没年不詳) 
旗本太田氏の娘。宿元は兄で小普請などを勤めた太田勝太郎。当初は徳川家定付きの御中臈であったが1857年に篤姫付きの御中臈になる。しかし、1862年に御中臈増人に降格となり、致仕したと考えられる。 
福田(ふくだ、生没年不詳) 
原田氏の娘。宿元は甥の原田八十一郎。 篤姫つきの表使。
ペリー来航・安政の大獄・徳川家定の死去 
篤君が大奥に輿入れとなる頃には、一橋派の中心人物、福山藩主・阿部正弘が幕府の筆頭老中をしていた。 
当時、大老がいなかったので、阿部正弘が実質役人の頂点。(紀州派に配慮して大老昇進は断っていたと言われる。) 
阿部正弘はペリーが来航すると、全国の大名から広く意見を聞くなど、今までの幕府にはなかった政治手腕を発揮。1857年には、世界情勢を見据えてアメリカと日米和親条約を結び下田と函館を開港するなど、日本がアメリカの植民地になることを防ぎ「日本を救った政治家」とされる。 
その阿部正弘が39歳で急死してからは、幕閣を主導した佐倉藩主の老中・堀田正睦が一橋派に好意を示した。そして、福井藩主・松平慶永(松平春嶽)の命を受けた橋本左内や、島津斉彬の腹心・西郷隆盛らも朝廷への工作など京都で暗躍したが、結果的には紀州派が勝り、彦根藩主・井伊直弼が最高職の大老に就任。篤姫らは将軍世継問題で真っ向から対立することになる。 
井伊直弼は大老の地位を利用し強権を発動し、悪政と称される安政の大獄が始まった。 
また、井伊直弼は攘夷の考えである天皇の勅許を得ぬまま、日米修好通商条約を勝手に結び、次期将軍を紀州慶福(徳川家茂)にする考えに反対する者と、日米修好通商条約締結に異を唱えた、一橋派大名や公家など尊王攘夷派・一橋派を100人以上を蟄居・隠居・謹慎とし弾圧。そして、吉田松陰・橋本左内ら優秀な人材8名を斬首した。 
この安政の大獄により江戸幕府はモラルの低下や人材の欠如を招き、反幕派による尊攘活動を激化させる結果となった。 
翌年1858年、幕府は次期将軍には紀州藩慶福にすると決定。その決定からまもなく将軍・徳川家定が死去。 
次期将軍決定に抗議する為、島津藩5000人を軍事訓練し準備を進めていた島津斉彬も発病し死去と、一橋派はたて続けに頼りの人物を失う。 
そんな激動の中、病床の徳川家定と篤姫君はわずか1年半と、実のない結婚生活を送る一方、幕末の動乱の中、自分の運命を切り開いて行くことになる。篤姫君が徳川家定亡きあと、髪をおろして天璋院と名乗ったのは、まだ20歳代前半のときであった。
紀州慶福(徳川家茂)が第14代将軍に就任 
徳川家定の後には第14代将軍として、1858年、慶福(徳川家茂)が就任。 
まだ、13歳と若輩であった為、将軍職としての政治権力は抑制されていたが、家臣からも名君と将来を期待されていた。田安慶頼が将軍後見職につき、江戸幕府は威信回復の為にも尊王を示す為「公武合体」を進め、天皇家より将軍・徳川家茂の正室を迎えるよう画策する。 
候補にあがった敏宮は30歳近くと、年長すぎて合わず、1858年に生まれたばかりのの皇女・富貴宮が第一候補となったが、富貴宮が1859年に死去したために、結果的に徳川家茂と同年の皇女・和宮に絞られ、1860年に孝明天皇もやむなく承諾。 
1862年、幼い徳川家茂に正室として朝廷より仁孝天皇の妹・和宮が大奥へ入る。 
また、島津久光らの工作により1862年に孝明天皇の勅命が下され、将軍後見職に一橋慶喜が就任、大老には同じく一橋派の福井藩主・松平慶永(松平春嶽)がつき、安政の大獄で弾圧した者を処罰し、幽閉されていた者を釈放するなど、今度は開国し一橋派が勢力を盛り返してきた。
和宮の輿入れ 
和宮は少し足が不自由だったが、小柄でとても可愛らしく、身長1m43cm、体重34キロ位だったとの事。6歳の時から有栖川宮家と9年間婚約しており、ずっと有栖川宮家で世話になり学問などをしていた。 
当初、幕府の申し出に対して、和宮はすでに婚約済であった事や、過去に皇女が武家に降嫁した例はない為、孝明天皇は当然拒否回答。しかし幕府はあきらめず、有栖川宮家に和宮との婚約を辞退させるなど、数々の裏工作をおこない、天皇侍従を務めていた公卿・岩倉具視の説得もあって1860年6月20日、孝明天皇は「幕府が攘夷を約束するなら」という条件付きで、やむなく降嫁を認めた。大奥の上臈御年寄だった姉小路も和宮の降下も自ら京に赴き要求したと言う。和宮は姉小路の兄の孫娘である。  
京から出たことのない和宮は、当然のように江戸に行くことを拒否した。しかし、仁孝天皇がまだ1歳の富貴宮を代わりに徳川家へ嫁つがせ、それが受け入れられなかったら退位も辞さないと言う書状を見ると、自分の主張はわがままであると悟り、和宮は徳川家へ行くことを決心したと言う。 
また、一方、徳川家茂にも婚約者がいたと言うので、お互い政略に巻き込まれる形となった。 
数千人を従えた和宮の行列は1861年10月20日京都を発ち11月15日江戸に到着。江戸幕府は衰えぬ威勢を示すため諸藩による警護2万人を和宮のお迎えに動員。駕籠の数800挺、その長さは50kmにも及び、各宿場では行列通過には前後4日要したと言う。 
道路や宿場の準備・警護を入れると総勢20万人も動員したされ、現在の費用に換算すると約150億円も費やした。 
なお、和宮が江戸での暮らしに困らないよう、生母の観行院、乳母の土御門藤子、女官の庭田嗣子(仁孝天皇の典侍)、能登らを江戸での和宮近くに置くため、江戸下向の際に同行した。 
この頃、薩摩藩は天璋院に薩摩帰国を申し出るが、「自分は徳川家の人間だから」と天璋院は帰国を拒否している。
和宮と天璋院 
征夷大将軍で夫の徳川家茂よりも和宮の方が身分は上で、婚儀の際も、将軍・徳川家茂から和宮に挨拶をすると言う前代未聞の現象が起きていた。 
和宮と天璋院の間柄としても年の差10歳ながら、言わば「嫁姑」の関係だが、身分は和宮の方が遥かに上。また、皇室出身・武家出身と生活習慣の違いもあって二人は当初対立したと言う。 
特に、和宮は大奥でも京都御所風の生活を続けようとするが、天璋院は大奥女中1000人の筆頭として、あくまで江戸風(武家風)の生活をするよう説き伏せた。 
一般的に、天璋院と言うと、天璋院(姑)が和宮(嫁)をいじめた事でよく知られるが、NHK大河ドラマなどでは、そんなにひどくは描かれない気がする。 
実際には天璋院も元御台所として、徳川家の為にも和宮と親しくなりたかったとされ、徳川家茂が上洛していた際には、和宮と共に芝の増上寺でお百度参りしたとも伝えられている。 
このように和宮と天璋院がお互い分かりあえたのもつかの間、もともと体が丈夫とは言えなかった将軍・徳川家茂が、1866年7月20日、第二次長州征伐の途上で病に倒れる。天璋院や和宮は急ぎ、医師を江戸から派遣させたが、その甲斐なく、21歳の若さで徳川家茂は大坂城にて病死した。 
前年(1865年)には、和宮生母・観行院も江戸城でなくなっており、続けて親近者を亡くすのである。
徳川慶喜の将軍就任と孝明天皇の崩御 
徳川家茂の死後、朝廷は和宮(徳川家茂死後、静寛院宮)に京へ帰るように勧めたが、天璋院と同じようにそれを断わる。 
大奥としては天璋院を筆頭に御年寄・瀧山らが次期将軍として、田安亀之助(徳川家達)を強く推挙した。 
以前、天璋院らが擁立する予定だった一橋派の徳川慶喜とは、すでに険悪な仲であったとされ、もともと大奥じたいを不要と感じていた徳川慶喜は、天璋院に対して、外様の分家の出で将軍家の正室におさまったと嫌っていたようだ。 
徳川家茂も生前、田安亀之助(徳川家達)を次の将軍にと望んでいたが、田安亀之助(徳川家達)は当時まだ4歳であり、幕政を案じた和宮や幕臣・諸侯らは「国事多難の時に幼将軍は困る」と反対。大奥が推挙していた徳川慶喜も徳川宗家の家督は継いだが、老中らの将軍就任要請は固辞していた。 
徳川慶喜は将軍後見職として、1864年の京都御所で起こった禁門の変で、幕府軍を指揮し長州勢を追い払った手腕などの実績もあった為、業を煮やした孝明天皇は1866年12月5日に徳川慶喜に征夷大将軍の宣下をだし、徳川慶喜はさすがに断れず将軍に就任した。 
ただ、徳川慶喜は、最近の将軍と比較しても大変才覚ある優秀な人物で、本来であれば将軍として名君になったであろうが、国内の混乱でもはや将軍の権力は失墜しており、政治の長と言うよりは、江戸幕府と言う巨大組織全体の代表と言う立場で、なんとか存続を図ろうと苦心したように見受けられる。 
1866年12月25日、徳川家茂が亡くなってまだ5ヶ月と言うのに、孝明天皇が享年37で崩御。滅多に風邪にもならないと言う壮健な孝明天皇であった為、暗殺説なども多くある。 
和宮も天璋院と同じように、短い間に母や夫と兄と言う親近者を失い、以後、和宮も天璋院と協力して徳川家存続の為、力をあわせて尽力する。(天璋院が和宮を利用したと言う説もある。)
鳥羽・伏見の戦い 
幾島は約7年間、篤姫君近くで勤めたが1864年体調を崩し医師の診断を受けおり、1865年頃奉公を辞めている。 
西郷隆盛らと14代将軍を一橋慶喜にと画策した、薩摩藩の江戸藩邸老女筆頭・小ノ島は1866年に引退。大奥の年寄・瀧山も1866年か1867年頃に隠居し、明治には川口(埼玉)で暮らしている。 
また、徳川家家督をついだ徳川慶喜は大奥改革に乗り出し、天璋院は和宮と共に抵抗する。 
1867年、徳川慶喜は大政奉還をして、倒幕運動の大義名分を失わせ、政権を返上しても朝廷に政権担当能力がなかった為、引き続き徳川家を中心に新政府下の実質的な中心役割を果たそうとした。 
これに対し討幕派(薩摩藩の大久保利通や、長州藩、岩倉具視らの一部公家)は、政治上の劣勢を挽回すべく、徳川慶喜や親徳川派の公家を排除し、1867年12月に王政復古を宣言=「王政復古の大号令」ほ出す。 
旧幕府と上級公家を廃して、薩長を中心とした新体制を作り、徳川慶喜に対し官位辞退と領地の一部返上(辞官納地)を要求。さらに薩摩藩が江戸市街で挑発的な破壊工作などを行った為、庄内藩が江戸の薩摩藩邸を焼き討ちする事件もおこり「討薩」を望む声を抑えきれず、徳川慶喜ら旧幕府軍は討薩表を掲げて、京都を軍事力によって鎮圧すべく兵を進めた。 そして、1868年1月、新政府軍と旧幕府軍は鳥羽伏見の戦いとなった。 
鳥羽伏見の戦いでは、最新式兵器の運用に不慣れな旧幕府軍に対して、慣れている新政府軍が有利に戦いを進め、朝敵になったことで幕府軍大将の徳川慶喜が江戸に逃げるなどして、士気が上がらなかった幕府軍は大敗。結果的に薩摩・長州の方が政策も上手だったのかも知れない。
江戸城無血開城 
江戸に逃げ帰った徳川慶喜は、降伏恭順に徹し、天璋院や和宮に面会して、江戸に迫り来る官軍(西郷隆盛ら)との仲介を申し出た。この頃既に天璋院や和宮は徳川慶喜を嫌っており、最初は会おうとしなかったが、徳川家存続の為に会談した結果、天璋院は島津本家に、和宮(静寛院宮)は1月21日に土御門藤子を使者として朝廷に派遣し、共に嘆願。徳川慶喜は罰を受けても仕方ないが、徳川家存続や徳川慶喜の助命を願い出た。 
皮肉にも薩摩・長州勢「官軍」の大総督(最高責任者)は、かつて和宮(静寛院宮)の婚約者だった有栖川宮熾仁親王だった。 
和宮は更に、3月10日、再び土御門藤子を沼津まで来ていた官軍に向わせ、江戸進撃猶予を嘆願。3月11日には侍女・玉島を蕨(埼玉県)に遣わして、官軍の進撃猶予を再度嘆願した。 
しかし、官軍は北は板橋、南は多摩川辺りまで迫り、江戸城総攻撃の日にちまで決定していたが、降伏すると申し出ている徳川慶喜に対しての戦いでは士気が上がらず、天璋院からの嘆願や明治天皇が和宮の嘆願に同意したこと、降伏している相手への攻撃は国際法違反だとイギリスやフランスの理解を得られない事もあり、勝海舟と西郷隆盛の交渉も、降伏する側の勝海舟が有利に進めたと言われている。 
こうして寸前で江戸城総攻撃は中止され、代わりに徳川家は江戸城を明け渡した。 
ちなみに、当初の明治政府は薩摩、土佐、広島、尾張、福井の5藩と岩倉具視など薩摩などに協力した公家を中心にした連合政権。事実上、篤姫出身の薩摩が皮肉にも徳川家を倒した形になったのである。
その後の天璋院と和宮 
江戸城開城の際に、和宮と天璋院は二人して徳川家伝来の家宝を広間に飾り、大奥の品物を一切持ち出すことなく、倒幕軍に明け渡して徳川家の女の意地を薩摩・長州勢らに見せ付けるが、倒幕派の中心は、島津斉彬が藩の下級武士から登用した西郷隆盛や大久保利通ら故郷である元薩摩藩士という皮肉。 
幕府側は、天璋院を薩摩へ無事返すことによって官軍に恩を売ろうと図るが、天璋院は毅然とした態度で拒絶し、天璋院は本寿院と共に一橋邸に退く。天璋院は身寄りのない大奥女中260人〜300人の再就職や嫁入りなどを心配し、徳川宗家の後継者とされた田安亀之助(徳川家達)の養育に専念したと言う。 
一方、和宮は亡き将軍・徳川家茂の生母である実成院とともに田安屋敷へと移り、姉小路は二ノ丸大奥から立ち退いて、京都の実家に戻った。 
徳川宗家の駿府転封が決まると、一橋家にいた天璋院は、明治政府から与えられた千駄ヶ谷の徳川宗家邸宅に移り住んだ。 
明治期は徳川家から少しの援助で過ごし、立派に成長した徳川家達の婚姻を済ませるが、1883年東京の徳川宗家邸で死去、享年48歳。天璋院が亡くなった際、手元に残っていたお金は、わずか三円(現在の価値で約6万円)であったとも言われている。  
江戸幕府崩壊後には勝海舟が天璋院を「姉」と偽り、2人で色々と東京の街に繰り出したようだ。料亭、吉原、芸者屋、隅田川の舟遊びなど。 
そんな勝海舟も女性なのに尊敬すると述べるなど、数奇な運命を辿った天璋院は、上野の寛永寺に、徳川家定の墓と並べて埋葬された。 
一方、和宮(静寛院宮)は、1869年(明治2年)に天璋院を尋ねたあと、一旦京に戻り、聖護院を仮住いとしたが、明治天皇の東京行幸の際、1874年(明治7年)再び東京に入り、麻布市兵衛町の八戸藩・南部信順の元屋敷に居住。11月12日徳川家達を招待、11月29日には天璋院、本寿院らを御殿に招待し、翌年、自らも千駄ヶ谷の徳川宗家を訪問している。 
その後、勝海舟の家で、天璋院と和宮は互いに相手のご飯をよそって仲良く食事するなど、天璋院は和宮は理想の間柄になるが、それも数年と僅かで、和宮は明治10年に病気療治のために滞在していた箱根・塔之沢の環翠楼で病死した。(享年32) 
脚気衝心(脚気による心不全)と考えられている。遺体は、遺言どおり芝増上寺の徳川家茂の側に葬られた。のちに天璋院が塔ノ沢へ旅行した際には、和宮が最後に過した旅館を見て、天璋院は涙したと言う。 
徳川将軍の墓で、夫婦二人の墓が横に並ぶのは天璋院篤姫と和宮の2組だけである。
嫁(和宮)と姑(篤姫) 
大奥で二人の初対面となった際、天璋院は将軍の母として上座に茵(しとね)が敷いてあった。それに対して和宮の座は下座に設けられ、茵も敷かれていなかった。 
そもそも天皇の皇女が武家に降嫁したのは天皇家始まって以来、初めての事。征夷大将軍よりも身分が上の皇女和宮にとって、経験したことの無い大変耐え難い侮辱で、何か不満があると京の孝明天皇に手紙を送り窮状を訴えていた。孝明天皇も怒り、待遇改善の書状を送る他、抗議の勅使を遣わそうとしたと言う。 
和宮は結婚承諾の5条件を嫁ぐ前に出していた。 
御台様ではなく和宮様で呼ぶように 
天璋院は本丸・大奥から出て行くように 
輿入れは京風にする 
大奥でも身の回りは京風に 
毎年1回は京に里帰りする 
このように、大奥では御台所の呼称にせずに、和宮名で呼ぶことがあった為、大奥で朝廷側女中は和宮と呼び、幕府側女中は御台所と呼ぶと言う現象が発生したが、その後和宮に統一された。 
新たな将軍の正室を迎える際には、元御台所は大奥の慣わしとして本丸・大奥の御台所の住居を去って西丸に移るのが一般的。しかし、幕末にはその慣わしも薄れており、天璋院も大奥御殿に残り、和宮と同居して、大奥で采配をした。ただし、これは、若い将軍と御台所を支え、公武合体を強固なものとする幕府側の意向でもあったとされ、天璋院が自ら望んで大奥に留まったのかどうかは良く分かっていない。 
和宮から天璋院への贈りものであるお土産の包み紙に「天璋院へ」と敬称を付けなかった。公家風では一般的であるが、大奥での慣わしとしては不適切で、大奥の女中は不満だったと言う。 
このように、和宮X天璋院の確執と言うよりは、皇女が武家に降嫁した例は初めてだった事からも、彼女らを取り巻く女中同士(天璋院91人、和宮71人)の争いになっていた。 
浜御殿に将軍・徳川家茂、和宮、天璋院の三人で出掛けた際には、和姫と天璋院の二人だけの草履が踏み石の上にあり、将軍・家茂の草履は下に置かれていた。和宮は天璋院が先に降りようとしたのを見て、急ぎ飛び降り、自分の草履を除けて将軍の草履を上にあげ、お辞儀した。この出来事以降、天璋院と和宮の女中たちの争いが収まったと言われている。
日本人で初めてミシンを使った人 
1862年3月25日付(日付は諸説あり)ニューヨーク新聞(現在のニューヨークタイムズ)で、駐日の記者マン・エンさんの記事で下記のような報道があった。 
「先の将軍の御台様に献上したソーイングマシネ(ミシン)は、御台様の大変気に入るところとなり、この度、その返礼として、メーカーであるウイーラー&ウイルソン社に対し、金糸、銀糸で豪華な綾織の日本の織物が贈呈され、同社では、賓客用ショールームに、この珍しい日本の美術品を装飾展示している。」 
どうも、このミシンは、マシュー・ペリー提督が1854年、横須賀に上陸した際に、将軍へ献上したものらしく、アメリカの外交官として始めて江戸を訪れ、徳川将軍に謁見した、タウンゼント・ハリス外交官を通じて、篤姫はウイーラー&ウイルソン社へ返礼の品を贈ったようで、当時の日本では大変貴重なミシン(ソーイング・マシーン)をもらったようだ。 
1850年代はミシンが商品化されたばかりで、アメリカでも大変高価なもの。 
その為、日本人で初めてミシンを使用したのは篤姫(天璋院)と唱える説もある。
年表 
1836年 
天保7年12月19日島津忠剛の娘として誕生。一姫。元服後は敬子。
1853年 
嘉永6年3月島津斉彬の養女になり、鶴丸城に入り、篤姫と改名。 
6月3日アメリカ東インド艦隊率いるマシュー・ペリー提督が4隻の黒船で浦賀沖に来航。 
8月21日江戸に向けて鹿児島を出発。 
10月2日京都・近衛邸に参殿。宇治などを見物後、10月6日伏見を出る。 
10月23日江戸・芝にある薩摩藩邸に入る。 
1854年 
嘉永7年 
(安政元年)1月21日島津斉彬が鹿児島を出発し、江戸へ向かう。(3月6日江戸着) 
2月27日篤姫の実父・島津忠剛が磯別邸で病死(享年49) 
3月3日日米和親条約成立 
ペリー来航で海軍力急務と考えていた島津斉彬が建造した西洋式軍艦が完成し幕府に献上。 
その際、日の丸を日本船章にすべきと献策し、正規に採用された。以後、日の丸は日本の国旗となった。 
11月4日安政東海地震(M8.4)  32時間後には安政南海地震(M8.4)も発生。この両地震から元号を嘉永から安政に改めた。 
伊豆下田に停泊中のロシア軍艦「ディアナ号」は津波により大破沈没。 
1855年 
安政2年この年肝付尚五郎が江戸藩邸の奥小姓として出仕。 
10月2日安政江戸大地震(M6.9) 江戸の町は多数の火災発生 
10月9日阿部正弘は老中首座を譲り、佐倉藩主・堀田正睦(開国派)が幕府主席老中に就任
1856年 
安政3年1月肝付尚五郎が小松家の千賀(お近)の婿となり、小松家家督を継ぎ、小松帯刀となる。 
4月14日右大臣・近衛忠煕の養女となり、篤君と呼ばれるようになる。 
前後して篤姫の養育係として近衛家にいた得浄院(のちの幾島)が京から江戸へ向かう。 
7月17日朝廷より将軍家との婚姻の勅許が出る。篤姫君と呼ばれる。 
11月11日篤姫と幾島が大奥に入り、11月19日に結納。 
12月18日第13代将軍徳川家定と篤姫の婚儀が行われる。 
1857年 
安政4年6月17日一橋派の中心、阿部正弘が39歳の若さで病死。以後、紀州派が頭角を現す。 
この年水戸嫌いの大奥は徳川家定の生母・本寿院、歌橋、瀧山らこぞって徳川慶喜擁立の動きに反発 
1858年 
安政5年3月幕府の海軍伝習所の勝海舟が咸臨丸で薩摩・山川港を訪問。島津斉彬と会談し影響を受ける。 
4月23日大老職に紀州派の井伊直弼(開国派)が就任 
5月1日将軍・徳川家定、紀州藩主・徳川慶福を継嗣とする内意を示す 
6月19日井伊大老は勅許なしで日本が不利で不平等な日米通商条約を結ぶ。 
6月25日井伊大老は次期将軍を紀伊藩・慶福にすると発表。 
7月6日徳川家定死去。享年35歳。篤姫は薙髪し天璋院を号する。 
7月16日養父・島津斉彬、死去。享年50。 
8月8日朝廷が直接水戸藩へ、条約締結を違勅とする勅諚を下賜。安政の大獄が始まる。 
10月25日徳川慶福は13歳で第14代将軍になり、徳川家茂となる。 
12月天璋院は従三位に。 
1859年10月17日江戸城・本丸の火災で天璋院は吹上へ避難、のち西の丸。 
1860年 
万延元年1月13日勝海舟は日米修好通商条約の批准書交換の為、咸臨丸の艦長としてアメリカ・サンフランシスコへ渡米。通訳としてジョン万次郎や福沢諭吉も同行。 
3月3日桜田門の変 井伊大老が水戸藩浪士により暗殺される。享年46。 
8月15日蟄居処分が解けぬまま水戸の徳川斉昭が心筋梗塞で急逝。享年61 
12月5日アメリカ公使館通訳・ヒュースケン、薩摩藩士に殺害される
1861年 
文久元年4月23日島津久光が薩摩藩の実権を掌握。小松帯刀や大久保利通を重用する。 
10月20日和宮が輿入れの為、京を離れ、江戸に向かう。(11月15日江戸・清水邸に入る。) 
1862年 
文久2年2月11日第14代将軍徳川家茂と和宮の婚儀。共に16歳。 
6月10日勅使・大原重徳、島津久光に護衛され江戸に到着 
7月6日一橋慶喜、将軍後見職に就任。 
8月17日勝海舟、軍艦奉行に就任。 
8月21日生麦事件 薩摩藩の行列を乱したとしてイギリス人4名のうち3名を薩摩藩士が殺傷 
1863年 
文久3年2月8日浪士隊 京の警護の為、江戸を出発し中仙道を京に向う(2月23日入京)  
3月4日将軍・徳川家茂、入京 
3月16日近藤勇ら壬生浪士残留組 京都守護職邸で会津藩主・松平容保に拝謁 
6月13日将軍・徳川家茂、江戸に帰る 
6月27日生麦事件の賠償交渉で鹿児島(錦江湾)にイギリス艦隊が7隻が来航 
6月29日高杉晋作 長州藩奇兵隊総督に任命 
7月2日薩英戦争 イギリス艦隊に鹿児島藩の汽船が3隻拿捕されたのを契機に砲撃戦となり、薩摩藩側は全砲台と集成館が全壊し鹿児島城も被害。 
イギリス艦隊は大破1隻・中破2隻 以後、藩主・島津久光から西郷隆盛ら倒幕派の下級武士へ藩の主導権が移る 
8月18日朝廷より壬生残留浪士組に新撰組の隊名が下賜される 
11月15日江戸城で火災。本丸・二の丸焼失により、天璋院は清水邸に移る 
1864年 
文久4年3月27日水戸天狗党の乱。藤田小四郎ら、筑波山で挙兵。 
5月14日勝海舟 軍艦奉行に昇進、安房守と称する。 
6月5日池田屋事件 新撰組が長州藩を中心とする尊王攘夷派を襲撃する。 
7月19日長州藩が、薩摩・会津両藩と京都市の蛤御門(はまぐりごもん)など各所で衝突 禁門の変 
8月2日第1次長州征伐、8月5日にはアメリカなどの四国艦隊、長州藩の下関砲台を占拠 
1865年 
慶応元年1月2日長州で挙兵した高杉晋作らが下関を占領し、以後長州藩の実権を握る。 
4月14日第2次長州征伐 
4月29日清水邸から江戸城・二の丸に天璋院戻る 
8月14日和宮の生母・観行院が脚気と思われる病にて江戸城にて死去。享年40。 
この年天璋院付きの御年寄・幾島が老齢の為、致仕(退官)
1866年 
慶応2年6月7日幕府軍、長州を攻撃 
6月16日イギリス公使・パークス、薩摩藩を訪問 
7月18日幕府軍、石見方面で大敗 
7月20日徳川家茂が大阪城にて死去。(享年21) 
天璋院・瀧山らは、後継将軍に4歳の田安亀之助(後の徳川家達)を推挙。 
12月5日孝明天皇が宣下し、徳川慶喜が第15代将軍に就任。 
12月25日孝明天皇、天然痘?で崩御。(享年47) のち、明治天皇が即位する。 
この頃江戸の薩摩藩邸で老女筆頭の小ノ島(小野島)が隠居。 
瀧山も1866年後半までに御年寄を辞した模様。 
1867年 
慶応3年2月27日パリ万国博覧会開催。幕府、佐賀藩、薩摩藩が出品 
10月3日土佐藩前藩主・山内容堂、大政奉還を建言 
10月14日大政奉還奏請。江戸幕府事実上の終焉。 
11月9日和宮の女官・庭田嗣子、江戸城大奥で亡くなる。享年47歳前後。 
11月15日坂本龍馬(33歳)中岡慎太郎 近江屋で襲撃され、死亡。 
12月8日西郷隆盛・大久保利通・岩倉具視らが御所で明治天皇臨席の元、 
江戸幕府を廃止、摂政・関白その他朝廷の旧制度を廃止=王政復古の大号令 
1868年 
明治元年1月3日鳥羽伏見の戦い 幕府軍15000は総大将・徳川慶喜が旧幕府軍を残したまま江戸に退却した為、新政府軍5000に敗れる。 
1月12日徳川慶喜は江戸城に入り勝海舟と善後策を論じる。 
1月23日勝海舟 陸軍総裁若年寄に任命され、徳川慶喜より全権を任される 
榎本武揚 海軍副総裁に任命 
3月6日近藤勇、土方歳三ら甲陽鎮撫隊(約270名)が甲州勝沼の戦いで板垣退助・伊地知正治ら新政府軍に敗れる。 
一方、西郷隆盛ら新政府軍は江戸城総攻撃を3月15日と決定。 
3月14日明治天皇、五箇条の御誓文を発する 
江戸田町の薩摩藩邸にて、西郷吉之助と勝海舟が会談。江戸総攻撃中止。 
板垣退助 西郷吉之助を訪問し総攻撃中止に抗議。 
4月4日新撰組局長・近藤勇が薩長軍に投降 (4月25日板橋平尾一里塚で斬首。35歳。) 
天璋院に朝廷よりの江戸城退去命令が伝えられる 
4月11日江戸城開城。天璋院は本寿院と共に4月10日に一橋邸へ入る。 
また前後して、天璋院の官位剥奪。 
5月24日徳川家、駿府に封じられ、70万石。 
8月19日榎本武揚、幕府の艦隊8隻を率い品川沖より脱走。 
8月21日会津・母成峠の戦い 新政府軍2000に対して会津藩は白虎隊・新撰組を含めて700で敗退、 大鳥圭介隊、土方歳三隊敗走 
9月22日会津藩が新政府軍に降伏 (会津戦争)。のち会津藩は23万石から3万石に転封 
10月13日明治天皇が江戸城に入り、江戸城は皇居となる。 
10月25日榎本武揚らが函館五稜郭を占領 
1869年 
明治2年5月11日新政府軍、五稜郭を総攻撃。函館で土方歳三戦死 (享年35) 
5月18日榎本武揚 新政府軍に降伏 (函館戦争)。 
1870年 
明治3年8月16日小松帯刀が大阪にて病死(享年36) 
10月9日岩崎弥太郎、土佐商会を設立
1871年 
明治4年7月14日廃藩置県 
11月12日岩倉使節団派遣。岩倉具視を特命全権大使として条約改正、海外視察を行う 
1872年 
明治5年7月19日西郷隆盛、陸軍元帥・近衛都督になる 
9月13日新橋−横浜間の鉄道開業 
1873年 
明治6年1月10日明治政府、徴兵制導入。 
10月24日西郷隆盛、明治政府・筆頭参議の職を辞任し、鹿児島へ帰郷 
10月25日伊藤博文、勝海舟、寺島宗則ら、参議に任命 
11月29日明治政府は大久保利通の独裁体制となり、大久保利通は内務卿に就任 
12月25日島津久光、内閣顧問に任命される (明治8年には隠居)
1876年 
明治9年1月11日廃刀令を発布 
この年 川口(埼玉)で隠居していた瀧山、72歳で没。 
1877年 
明治10年2月15日西南戦争 西郷隆盛らが反乱、薩軍14000は2月21日に熊本城を襲撃。(日本最後の内乱) 
3月3月1日より約1ヶ月間、田原坂で激戦となり、結果的に薩軍は撤退 
9月24日鹿児島県城山陥落。西郷隆盛も鉄砲を受け負傷し自刃(49歳)、桐野利秋らも自刃。西南戦争終結 
10月天璋院は千駄ヶ谷の徳川邸へ移住 
1878年5月14日大久保利通が東京・紀尾井坂にて暗殺される(享年49) 
1880年 
明治13年 姉小路死去(80歳) 
天璋院9月23日から10月31日 熱海・箱根方面で逗留
1882年徳川家達は近衛泰子(近衛忠煕の孫)と結婚 
1883年 
明治16年11月20日天璋院死去。(享年48) 死後、従三位復位。 
1884年 小松千賀(お近)没。推定で享年60歳位。 
1885年この年本寿院、一橋邸にて死去。(享年75) 
1887年12月18日島津久光 鹿児島で国葬 (享年70)  
 
おりょう

 

楢崎龍(ならさきりょう)、おりょう、お龍とも呼ばれる。坂本龍馬の妻。 
1841年6月6日、医師である楢崎将作の長女として生まれた。母は重野貞(または夏)。 
楢崎家は元は長州藩士であったが、楢崎将作は青蓮院宮(のちの中川宮朝彦親王)にも仕えた医者で、京都で内科・外科医を営んでいた。楢崎将作は尊王の志士らとも交流があった為、1858年、安政の大獄では連座して捕えられたが、翌年には釈放されている。 
楢崎将作は若い志士が頼ってくると金品を与え、親切に面倒をみたので、屋敷には絶えず若者が出入りし、数人の食客が滞在していたようだ。坂本龍馬も1864年5月ごろ楢崎将作と親しくなったとされ、楢崎将作の長女である龍を一目見て相思相愛の仲になったという。 
楢崎家はお龍を含め女3人・男2人の5人兄弟で、裕福な家庭であったが、1862年1月29日に楢崎将作が亡くなると、家屋敷も処分するなど楢崎家は次第に困窮生活となり、20歳前後だった長女・お龍は、母や兄弟を養う為に、神奈川宿の旅館・田中家に奉公に出て家計を支えた。しかし、これも尽き果て遂に家族は離散して奉公に出たと言う。 
1863年に天誅組が挙兵失敗した際の残党が原屋五平の隠居所を借り、水口加藤家人住所の表札でしばらく潜んでいたが、男所帯で不便なため、留守番の女を雇いたいと出入りの米商人に頼んだところ、お龍の母(楢崎貞、楢崎夏))が紹介された。この家には才谷梅太郎こと坂本龍馬や、石川誠之助こと中岡慎太郎らもいて、お龍は七条新地の扇岩と言う旅籠の手伝をしていたが、お龍が母を訪ねてくるうちに親しくなり、坂本龍馬はお龍の自由奔放なところを気に入り愛人にしたと考えられる。 
その後、坂本龍馬が世話になっている伏見の寺田屋にお龍を奉公させることにし、寺田屋の女将・お登勢はお龍の名をお春と呼ばせ、自分の養女分として、坂本龍馬付の女中格にした。 
1866年1月21日に薩長同盟が成立。大きな活躍をした坂本龍馬だったが、1月23日、寺田屋に宿泊していた坂本龍馬が伏見奉行配下の捕り方(新撰組)に襲われる事件が起こる、いわゆる寺田屋事件。 
風呂に入っていたお龍が、襲撃を察知し、浴衣をまとうだけで飛び出して坂本龍馬の部屋に危機を知らせたと言われている。 
坂本龍馬は主に銃で反撃し左手の親指を負傷。三吉慎蔵の働きもあり危うく脱出に成功し、お龍は伏見の薩摩藩邸に走り救援を求めた。 
1月29日に坂本龍馬とお龍は三吉慎蔵、吉井幸輔に護衛され京都の薩摩藩邸に移る。 
こうして難を逃れた2人は、まもなく中岡慎太郎の仲人(西郷隆盛説も有)で結婚し、西郷の勧めもあって薩摩(鹿児島)へ湯治に出かける。1866年3月4日に薩摩藩船「三邦丸」が大坂を出港した。この船には西郷吉之助(西郷隆盛)、坂本龍馬、中岡慎太郎、三吉慎蔵、そして、お龍も乗船していた。これが日本初の新婚旅行だといわれているが、最初の新婚旅行に関しては坂本龍馬の薩摩での滞在先でもあった薩摩藩家老・小松帯刀であったとの説もあり。 
3月8日に「三邦丸」は長崎へ入港。その後、霧島温泉郷などで湯治を行い、傷を癒し、4月12日には鹿児島城下に入った。 
そして、6月2日に坂本龍馬はお龍と「桜島丸」で鹿児島を出港し、6月4日に坂本龍馬は長崎にて小曽根邸にお龍を預けた。 
その後、坂本龍馬はお龍を連れて亀山社中の活動の拠点があった下関の豪商・伊藤助太夫のもとに1867年2月10日に到着。お龍は下関に滞在する間、坂本龍馬は海援隊を創設するなど忙しく動いており、1867年9月20日、坂本龍馬は伊藤俊輔に会うため下関を訪れ、お龍が、坂本龍馬に会った最後となった。そして、11月15日、近江屋で坂本龍馬は岡慎太郎と共に絶命している。 
坂本龍馬が暗殺されたときもお龍は下関にいた為、難を逃れたが、暗殺当夜には「血まみれになり、刀を下げてしょんぼりとした龍馬が枕もとに立つ」夢を見たとも言われている。 
龍馬暗殺の知らせが12月2日に下関の伊藤助太夫宅に届くと、お龍は気丈に振舞っていたが、法事を済ませたあとは、髪を切り落として仏前に供え、号泣したという。その後、坂本龍馬と親交のあった三吉慎蔵らの世話になっていたが、海援隊が京都で埋葬した墓参りのため、京に向かい、近江屋にも宿泊して、坂本龍馬の霊を弔った。 
1868年3月には、土佐の坂本龍馬の実家に迎えられたが、生来の気の強さからか、坂本家の家族と馴染めなかったようで、1年ほどで京都に戻っている。 
「どちらかといえば小形(小柄)の身体に渋好みの衣服がぴったり合って、細面の瓜実顔は色あくまで白く、全く典型的の京美人であった」と土佐に記録が残っている。 
京に帰ったあと、坂本龍馬の墓があった東山の麓に室屋を営んだが、生活を維持できず、西郷隆盛や海援隊士を頼り、1872年頃に坂本龍馬の旧友を頼って上京。 
東京では水戸藩出身・陸援隊の香川敬三らが、持ち回りでお龍の面倒をみたが、晩年に「優しくしてくれたのは西郷隆盛だけだった」とも発言している。また、自立するため旅館の仲居などをして転々としながら横須賀へ流れ、30歳のとき旧知の商人・西村松兵衛と再婚して横須賀に住んだ。再婚時の媒酌人は旧海援隊士・安岡金馬。 
晩年は大酒を飲み、酔うと口癖のように「私は龍馬の妻だった」と言っていたようだ。 
坂本龍馬との間に子はなかったが、1874年、34歳の時に西村松兵衛との間に男児を出産してその後入籍したが、その息子は1897年に17歳で死去。晩年は貧しいながら穏やかに暮らしたとされている。 
1906年(明治38年)、お龍は横須賀にて66歳で死去した。のち、西村松兵衛はお龍の分骨を密かに京都東山の坂本龍馬墓に埋葬したと伝わる。 
 
神社に祭られた測量方 / 都築弥厚と石川喜平

 

測量の神様 
かつてベテラン測量士の中には、水準測量の神様と呼ばれる人が存在した。水準測量は排気ガスの漂う国道筋などのけっして良いとはいえない環境の中で、ひたすら冷静に観測をしては歩むという単調な作業である。測量の進み具合のことから、尺取虫にたとえられることもある。高精度が要求される測量では、観測機と標尺間の距離は前後とも同距離の60m程度にすると決められていて、そのときの目的地へ向かうようすからのことである。 
そのとき、周辺の景色や自然環境の変化にも動ずることなく冷静かつ慎重に観測を進め、再測をしないどころか極めて精度よく実施するものだけが測量の神様と呼ばれた。この愚直な神様のことは、名も知れないことに意味があるように思える。 
測量に関連した神様のことでは、今村明恒博士のことを地震の神様と呼ぶものがいる。彼は東京大学助教授であった1905年、雑誌「太陽」への投稿記事で「五十年以内に相模沖を震源とする大地震の発生があるだろう。起きたときには、火災で二十万人にも及ぶ犠牲を出す危険性もある」と関東大地震とその備えについて警告した。18年後に地震が発生し、彼の発言が現実のものとなったことから、一部のものが地震の神様と呼んだのである。 
三重県伊賀市の青山高原には、その地震の神様を祭るという大村神社がある。もちろん、ここに今村明恒が祭られているという話ではない。本殿の横には、二つの不思議な石があって、これが地震の神様の由来だという。ひとつは、「要石」というものである。石の下には、地震を呼ぶという巨大なナマズがいて、そのナマズが暴れないように要石が抑えているというありきたりの話。要石の前には、新しそうなナマズの石像があって、これに水をかけると願いがかなうという。
測量方の祟りを恐れて祭った神社 
地震の神様などと間接的なものではなく、そのものずばり測量の神様はいないのかと探してみると、静岡県富士宮市には、棹地稲荷神社というのがあって、この神社の祭神は、食物、特に稲をつかさどる宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)である。 
「宇賀の神(うかのかみ)は、穀物の神、転じて福の神、白蛇や狐を神として祭る」(広辞苑)という。同神社はその宇迦之御魂を祭るのだが、明治維新のころ土地測量が行われた際に測量に使用した棹を奉納したということから棹地稲荷の名があるという。 
明治初期の測量に用いられた棹の類には、検地用の物差しである間棹、あるいは検地棹などと呼ばれたもの。また、検地用具の一種で竿の先に藁束を付けて、屈曲を取捨し平均を取るときに使用する細見竹、竿の先に紙束を付けた梵天竿といったものがあった。縄や棹といえども直接測量のためには重要な測量機器といったものだから測量にかかる神様には違いないのだろうが、棹の類ではやや物足りない。 
石川県河北郡袋村(現金沢市板屋町)には板屋神社があり、ここには辰巳用水工事の責任者である板屋兵四郎が祭られている。 
神様になった板屋兵四郎(?-1653?)は、能登奥郡の小代官であった。 
寛永九年(1632)加賀藩三代藩主前田利常は、前年の大火を機に金沢城と城下の防火・生活用水の確保を目的とした用水路工事を計画し、その工事責任者として板屋兵四郎を抜擢した。 
計画された辰巳用水は、総延長約10km、うち隧道部は約3.3kmという大工事であった。取り入れ口から城内までの標高差はわずか50mであったから、10m進んでわずか5cmという微妙な傾斜の用水路工事であった。測量や工事の残された記録は少ないが、伝えられているところでは、夜間に提灯を上下させて遠距離地点からこれを観測し等しい高さの点を求め、さらに各点間の距離を得て、これから水路の勾配に見合った高さを決めて工事を実施したという。この時使用された測量器は、「町見盤」と呼ばれる一種の水準儀であった。 
また、堀越えの引水には逆サイホンの原理を使用するなど、測量だけでなく土木工事の面でも先進の技術を用いている。 
ところが、技術の漏洩を防ぐ目的で廃棄されたのだろうか、残された資料は極めて少ない。それどころか兵四郎自身が工事完了後に謀殺されたという説もある。 
板屋神社には以下のような話が伝えられている。 
この地では、兵四郎謀殺があったとされる翌年には、天候不順となり、これは兵四郎の祟りであるとの噂が流れた。そこで、袋村の八幡社に彼の霊を祭って、袋の神(風を袋に封じ込める意)と呼んだという。上辰巳町にも同名の神社があり、やはり兵四郎を主祭神としている。 
正確には、測量者が祭られたというよりは土木技術者ということなのだろうが、それにしても謀殺とか、祟りとかでは後味がよくない。
忠敬も驚く豪農都築弥厚 
測量の神様といえば伊能忠敬、彼を祭る神社はないのだろうか。佐原市の諏訪神社には伊能忠敬の立像があるが、これは単に伊能家の氏神であったことからこの地に像が建てられただけのことで伊能忠敬を祭る神社ではない。 
探索を重ねているうちに、神社に祭られた測量技術者を発見した。 
安城市和泉町の八剣神社の南、半場川に沿った小さな林の中、その名も弥厚公園には、上下姿に両刀を携え、右手には扇子を持った都築弥厚の銅像がある。 
像の主である都築弥厚は1765年、現安城市和泉町本竜寺付近で、米の売買、酒造業、新田経営などを営む豪農都築家に生まれた。身代は先の弥四郎が一代で築いたものだという。二代目の弥厚もまた酒造業と農業などを経営するとともに、当地の代官職を務め近隣の村々の争論の仲裁などもしていた。また、芭蕉の流れを汲む師について俳句を学び、絵や漢詩にも興味を持った人でもあった。残っている俳句は三十数句、そして絵画もたしなみ、ランや梅の絵も描いたと言われる。 
弥厚の住んでいた安城市一体は洪積台地のため水の便が悪く、思うように農地開拓が出来ない状況にあった。そこで、安城野に用水を開削して荒野を開墾し水田化を計画したのが弥厚である。この計画と前後して、享和三年に伊能忠敬(1745-1818)が全国測量のためこの地を訪れている。この際に、弥厚が現地を案内した。 
そのときの様子は、「測量日記(四月十八、十九日)」にも「鈴木弥四郎(都築弥厚のこと)なるもの豪家にして、中根村を残らず所持、右村に酒造を三ヶ所、其村方に一ヶ所、大浜之内にも一ヶ所、合計五ヶ所にして造高七千石に及ぶよし。・・・・伏見屋外新田より案内して止宿まで送る。翌十九日も高浜まで送る」とあって、彼との意見交換や測量技術のことより都築家の規模の大きさに驚いているようすが残されている。 
たしかに、都築家の所有する田畑は八十二町歩(約82h)、生産していた酒造高は六千石といい、当時全国でも指折りのものであったという。
忠敬に教えを請う測量方 
少々寄り道をするが、弥厚のように各地の測量方や絵図方が伊能忠敬測量隊を訪れ行動を共にしたことで、あるいは忠敬との技術的な意見交換によって、のちの測量や地図作成に影響を与えた例は多く見られる。 
例えば、加越能三州の測量を行い、「加越能三州郡分略絵図」などを作成した石黒信由(1760-1836)は、弥厚が忠敬と顔を合わせた、同じ享和三年(1803)の八月三日に現在の新湊市放生津で天文観測する忠敬と会い、翌日は測量に同行した。石黒四十三歳のときである。 
彼は、忠敬と面会したとき使用する測量機器に大いに興味を示し、「同道して、しばらく地理天文学のことを隔意なく歓談して、互い名残り別れけり」と、見聞した測量機器などについてのメモを含めて記録として残している(「測遠用器之巻」石黒信由)。 
一方忠敬の測量日記には「放生津町八ツ頃着、止宿山王町柴屋彦兵衛、此夜曇る雲中に小測」とあるだけで石黒訪問のことには触れられていない。 
讃岐の久米通賢(1780-1841)もまた、文化五年に伊能忠敬の讃岐での測量に接伴案内役を命じられ参加している。 
大阪で測量などを学んだ久米通賢は、文化三年(1806)に高松藩の藩内測量を命ぜられ、助手十人とともに、領内を東から西へ海岸線に沿って測量を始め、内陸部を折り返し、再び東の国境に到っていた。残された地図には「御内御用測量図下書」があり、その実施は忠敬の四国測量に先立つこと二年、久米26歳のときである。測量実施のきっかけは、忠敬測量を聞いた藩主が先手を打ったとの話も伝わるが定かではない。 
「伊能忠敬測量日記」には、久米は西条城下や丸亀城下滞在の忠敬を訪ね、津田村滞在から引田村出立までは日々測量に付き添い、後日徳島領撫養在宿にも訪問した。「讃州高松家中松久米栄左衛門(菓子箱持参)来向き」から始まって「久米栄左衛門日々付添案内。朝夕共に出る」など淡々とした記述だが多く残る。 
さらに一人、徳島藩の岡崎三蔵(?-?)もまた、間接的ながら伊能忠敬と接触している。 
三蔵は、寛政九年(1797)に藩の測量方となってのち、絵図方山瀬佐蔵とともに領内全域の国絵図作成に着手し、43年後の弘化二年(1845)にこれを完了した。絵図は縮尺約千八百分の一の村絵図を作成し、それを郡図(約一万八千分一)とし、さらに国絵図(約四万五千分の一)に編集した。作成された阿波国絵図及び淡路国絵図は、伊能図に劣らない優秀なものである。 
岡崎三蔵が、領内の絵図作成の最中であった文化五年(1808)、伊能忠敬の測量隊が阿波を訪れた。 
三蔵は忠敬の測量方法を確かめようとして、長男の宣平を竹内武助という偽名に仕立て測量隊の手伝いとして、山瀬佐蔵も測量船の漕ぎ手として測量隊に参加させた。岡崎三蔵は、忠敬の測量技術がどのようなレベルにあるかということについて深い関心を持っていたことがうかがえる。 
事後、子の宣平は藩主より忠敬の測量などについて報告を求められたが、忠敬の測量について「特別の義も御座なく」と報告している。
神社に祭られた測量方 
遠回りをしたが、忠敬の大事業の遂行を目の当たりにし、測量量技術について意見交換をした都築弥厚のことにもどろう。 
彼は四十歳半ばのころ、現安城市和泉の北東に広がる五ケ野、安城野と呼ばれる地の開発のため、台地を貫流する用水路の計画を企てる。そして、五十八歳になった文政五年(1822)に土地の和算家石川喜平(1788-1862)の協力を得て用水路の測量に着手した。伊能忠敬の測量技術のことは、石川にも伝えられたであろう。いや弥厚に同行し、直接見聞きしたかもしれない。石川は多くの門弟を抱え、天体観測記録も残した人であるから、忠敬測量隊にまったく興味を示さなかったとは考えにくい。弥厚の計画に従った用水路の測量が終わったのは、4年後の文政九年であった。これほどまでに測量に年月を要したのは、反対農民の抵抗があったからといわれている。 
調査結果を踏まえて、翌年には幕府勘定奉行に都築弥厚の子の名で四千町歩の開拓をもくろむ「新開願書」を提出するが、計画が縮小された形で許可が下りるのは、さらに7年後の天保四年(1833)のことである。その間幕府は、度々役人を現地に派遣し見分を行なったのだが、開墾地が幕府領になることや薪場が無くなり水害の発生などを心配する村々の領主や農民の抵抗が強く、説得に多くの時間を要したのである。残念ながら、その年の9月には弥厚が69歳で病死する。 
用水路はおろか、一坪の開墾も実施しないままの他界である。さらに資金繰りのこともあって安城野開田事業は一枚の測量図を残して挫折したのだ。そして、都築の一族は新開願書を取り下げた。 
弥厚の依頼によって台地を貫流する用水路計画のための測量を行い「水路計画図」を作成した石川喜平(1788-1862)は、碧海郡高棚村(現安城市)の人であった。同じ碧海郡の関流清水林直に和算を学び、免許を受けて村の内外に多くの門弟を持っていたというほか、詳細なことは不明である。 
残された書籍の多くは和算と天体観測記録など暦に関するものが多く、わずかに測量に関するものも含まれているという。 
石川の水路計画図(明治用水土地改良区所蔵)には、現状の流路と台地の輪郭、主要な村村が記入されていて、そこには詳細な水路計画線と用水によって開墾が可能になる農地が水色に彩色されている。 
石川が使用した測量器具(木製の見盤)は、金属製の測量機器が出現する以前に地方(ぢかた)で使用されたもので、目標を見通し、その角度を磁石で読み取る形式で、上部には方角が刻まれ磁石が埋め込まれる形になっている。取り付けられた小さな二本の角材には中心に小穴があけられており、これにより目標を視準したのであろう。 
さて、農民の抵抗などによって実現しなかった弥厚から始まる用水計画は、約40年を経て岡本兵松、伊予田与八郎らの新しい提案者の出現により明治十二年(1879)に着手され、翌年には通水を開始した。岡本らは、弥厚の計画を継承し、計画に疑念を持つ村々の説得に特に力を入れたのだという。用水と以後の整備によって新しく開かれた田は、ほぼ当初の目論見どおりの約6000hにもなり、新開地農業のことは「日本のデンマーク」と呼ばれるようになり、都築弥厚の永年の夢が実現した。 
用水に近い明治川神社には、都築弥厚・岡本兵松・伊予田与八郎らが祭神として祭られ、石川喜平が使用した測量機器なども保存されている。 
ついに、測量の神様にたどり着いたようだ。  
 
長者の山 / 近世的経営の日欧比較

 

「長者の山」 
私の出身はベルギーですが、ベルギーという国は平地で、南部には丘のようなものがありますが、山がありません。そのため日本にやってきた頃から、京都の山が大好きになりまして、よくハイキングに行って山に登ることがあります。しかし、今まで一度も登ったことがなく、そしてこの先も、登ることのできない山があります。それが「長者の山」であり、今日の話の題名にもなっています。なぜそれを題名として選んだかというと、理由は二つあります。まず、山は長者、つまり金持ちになる苦労という、万国共通の課題をよく表しているからです。「長者教」(一六二七年)という、日本の近世において町人の教訓を記した本のなかで、金持ちになる苦労は比叡山の二十倍の高さである山に登り、大河を渡ることに譬えられています。 
「さるほどに、長者の山とてあり。たとへば、ひゑの山を、二十、かさねあげたるほどにて、なりはふくべのごとし。ふもとに大河あり。うぢがわを、百ばかりあはせて、せのはやき事、たきのおつるがごとし。これをわたりて、かの山をあがる人すくなし。それ、かねをもち、かねをまうくるは、つねのせいなり。」 
そして、もう一つの理由は、今日は、日本の商人の典型としてもともと京都にそのルーツをもっている住友家について話すことを選んだからです。戦前には財閥として、現代では系列として有名な住友は、泉屋という商家として始まり、後に大阪の代表的な豪商にまで発展しました。江戸時代初期の創業から、当時「赤金」と呼ばれていた銅の精錬と銅山業を家業としましたが、銅山がまさに住友家の「長者の山」となったわけです。 
では、今日は、近世ヨーロッパと日本の商人はどのようにこの山に登ろうとしたかを比較するという観点から見ていきたいと思います。商売をやるにはどうしても利益追求が大切で、その目的達成のために他の人と協力する必要があります。つまり、継続的・計画的に事業を営み、合理的な経営組織を作る必要があると言えます。どのように商売をするのか、どのような経営組織が使われているか、そしてどのような問題が現れるか、を検討するなかで、その国の文化も見えてくるのではないでしょうか。つまり、今日の発表では近世ヨーロッパと日本の商人の比較を試みたいと思いますが、ヨーロッパのケーススタディとして、現在ベルギーの一部であるフランダース地区に焦点を当ててみたいと思います。御存じのように、ベルギーは一八三〇年に独立した、比較的新しい国です。近世初期には現在のベルギー、オランダとルックセンブルグの地域がネーデルランドとして統治されていた領域でした。南部のフランダースは近世初期、つまり一六世紀には繁栄していましたが、一七世紀は独立を宣言したオランダの黄金時代となりました。日本でフランダースと言えば「フランダースの犬」を連想する方が多いようですが、フランダースが中世から近世初期にかけてヨーロッパで一番繁栄していた地域だったことはあまり知られていません。当時ブルージュ(ブリュッヘ)とアントワープ(アントウェルペン)というような商業都市では各国の商人達が集まって、経済的に、そして経営組織の面でも、大変進んでいた地域でした。とくにアントウェルペンは国際的商業都市となって、ヨーロッパの商業の中心地にまで発展しました。印刷業、生糸、ダイヤモンドのみがき、じゅうたんの制作、いわゆる贅沢品の産業・商業がその経済的繁栄の基盤でした。そして経営の面では、会社の初期的形態も発達し、商法も制定されました。この「アントウェルペン慣習法集成」という商法が、一七世紀の始めにオランダの東インド会社の設立に大きな影響を与えたことも事実です。東インド会社は世界初の株式会社と呼ばれていることは周知のとおりです。しかし、一六世紀の終わり頃からフランダースが政治的・経済的に不安定な状態におちいり、大勢の商人および多くの資本がアムステルダムを始め、ヨーロッパ各地へと移動してしまいます。このため、フランダースの商人は、密接な血縁的関係のネットワークを作って、国際的な商業活動を続けることができました。したがって、フランダースを比較研究の対象として選んだ理由は、私自身がその地域の出身だから、というだけではなく、経営組織が早い時期から非常に進んでいたことに加え、ヨーロッパ各地で活躍していたフランダース出身の商人達が西欧の代表的な経営組織を作っていたからです。
フランダースの場合 
では、フランダースの商人はどのように「長者」になろうとしていたのでしょうか。近世初期のフランダースの代表的な商人、DellaFaille(デラ・ファイェ)家の場合を例に考えてみようと思います。DellaFaille家は織物の商業を中心に富をなし、現在でもベルギーの貴族の一つとして知られていますが、かれらのサクセス・ストーリーは一六世紀のJanDellaFaille(ヤン・デラ・ファイェ)から始まりました。DellaFaille家のその後の発展を四つの段階にわけ、お話ししたいと思います。 
a.弟子入り 
多くの商人の間では、富裕な知人や、商人をしている身柄のもとで、若い時から弟子として働き始めることが通例となっていました。JanDellaFailleも例外ではありませんでした。Janは一五一五年にアントウェルペンで生まれ、イタリアのヴェニスに渡った時は一五歳でした。ヴェニスに本部をもつ同じフランダース出身のMaartendeHane(マールテン・デ・ハーネ)の企業に弟子として入るわけですが、そこで会計と文書の写しに加え、主人のビジネス旅行に同伴したりして、商人としての訓練を受けました。結局一五三九年にアントワープ支店にDeHane企業の支配人として送られますが、そこで感謝しなければならない主人に対し、恩を返すどころか、会社で不正を働き始めます。アントワープとヴェニスは離れていたため、本部の目が届くことなく、比較的簡単に会社の信用を使って、ひそかに個人取引、個人商いを行うことができたのです。会計を偽造し、自分の財産を増やした結果、主人の直接の競争相手になって、最終的には親会社が倒産してしまうという結末に至りました。ここには近世における商人の非常に特徴的な問題点を見い出すことができると思います。それは信用の問題です。近世のいわゆる個人中心主義の現れとも関連していると思いますが、「詐欺」や「騙し」の要素が非常に強く出ています。企業は信用のおける人間を、代理人や代表者として選ぶ必要があることは言うまでもありません。その忠義を高め、信用を確保するためにさまざまな方法が使われました。代理人を親戚から選んだり、代理人を自分の親戚と結婚させたり、そして、会社に出資させるなどの方法がとられました。しかしどの方法をとっても、保障はなく、支配人が雇い主を「裏切った」ケースが非常に多かったようです。JanDellaFailleはヴェニスのdeHaneの企業に出資し、主人の娘と結婚しましたが、その戦略は失敗に終わりました。ドイツ語のTauschen(交換する)とTauschen(騙す)という二つの単語の語源が同じであることも、単なる偶然ではないのです。 
一六・一七世紀頃から経済が国際的に拡大・分散し始めたので、遠隔地に支配人などを派遣するのではなく、当地に住んでいるエージェント、つまり委託代理人を採用するシステムが徐々に増えます。彼等は雇用経営者ではなく、取引きの一定率の手数料を取る臨時代理人(commissionairs)で、必要に応じて採用されていました。たとえば、AはBに依頼されて、外国で商品を買ったり売ったりしたとしましょう。そこで、Aも自分の会社を所有しているので、Aは自分の商品を売るために、BあるいはBの会社を仲買として使う、というわけです。 
b.個人企業 
とにかく、JanDellaFailleはこのように雇用主の信用を裏切って、自分の財産を集めることに成功しました。それを資本に、個人企業として織物、香辛料などをスペイン、ポルトガル、イギリスを相手に輸出入をする遠隔地商業を行いました。 
しかし、個人企業としての活動だけではなく、一六世紀の商法に明文化された「加入」が商人にとって大きなビジネス・チャンスを提供しました。「加入」(participatie)というシステムが確立したため、個人の商人も有限責任で他の企業に出資することができるようになりました。資本家が他の企業に投資し、経営に参加せずに利益配分を受け取るわけですが、責任は出資金額を限度とすることを可能にしたやり方です。つまり、有限責任で、匿名の出資が企業に一般に行われ始めたことが、株式会社への発展に大変重要な要素だったといわれています。JanDellaFailleは個人企業としての取引きと、他の企業への有限責任的投資によって、一六世紀終わり頃までにヨーロッパの他の豪商の中で、最も富裕な企業の一つになりました。 
c.共同企業(コンパニー、compagnie,geselschapvanhandel) 
JanDellaFailleは一五八二年に亡くなりました。事業は共同企業として続けられました。相続は会社財産が分散してしまうという危険性をもっていました。西欧における相続は単独相続、平等分配などさまざまな形でありましたが、それは会社の存続にも大きな影響を及ぼしたことは言うまでもありません。当時フランダースでは平等分配が一般的でした。しかし、例えば、複数の息子がいた場合、その中で企業人としての資質をもつ子供に対し、他の子供よりも多くの財産を受け渡すという傾向が当時の遺言に多く見られます。このようなケースでは、不平等な相続を受けた息子達が裁判を起こしたりしました。相続をめぐる家族の紛争が企業に大きな影響を与えたということです。DellaFaille家にも遺産相続をめぐって争いが起こりました。兄弟のあいだで争いが続き、父親から受け継いだ企業を共同体として続けることが不可能になったので、長男Maartenは一人で、自分の配当をもって、義理の兄と元支配人二人と、一〇年間の会社契約に入ったのです。 
これでコンパニーが成立するわけですが、コンパニーというのはヨーロッパの近世を通じて商業組織の基本的な形態でした。現代用語でいえばパートナーシップあるいは合名会社のようなもので、一六世紀から大きく発展し、法律にも成文化されるようになりました。その特徴は次のようにまとめることができるでしょう。コンパニーということばの語源はラテン語の、「パンを分かち合う」という意味をもっているように、その原点は家族企業だったことが分かります。だんだんこのようなヨコの連帯をもとにする会社形態が多くなります。コンパニーは会社契約に基づいて、決まった存続期間のあいだに、一つの商号と資本の下に共同企業を行うということを意味します。社員が会社の営業に対しての連帯責任を負い、会社契約の登録とともに設立し、法人格を受けます。さらに、契約期間は形式上短い契約期間ではあっても、その契約が六年または一〇年ごとに更新されていることから、事実上長期持続するものが現われる、ということです。規模は大体小さく、二人から八人までの社員がもっとも普通だったようです。彼等は会社に投資し、持ち分の投資率に基づいて、利益配分を受けるわけですが、いつでも分割を請求する権利をもっていました。この原理は「共有」と呼ばれています。さらに、社員は一つ以上の企業に出資することも一般にみられる傾向だった、ということです。数少ない社員の役割分担が行われたと同時に、平等と合議制が強調されるシステムでした。コンパニーのリーダーはコーディネーター・調整者として働き、primusinterparesつまり同輩者中の第一人者のような存在でした。各社員が会社のために第三者に対して代表権をもっていたのです。 
d.貴族の仲間入り 
一五九二年会社契約が終わり、Maartenが商人生活をやめることにして、領地および別荘(huisenvanplaisantie)を購入した後、貴族入りへの第一歩として公務員(行政長官)になったのです。一六一四年というとても早い段階で貴族入りに成功するとともに、商業活動も終わったわけです。当時の商人にとって、貴族の生活振りが理想と考えられていたので、貴族の仲間入り、つまり社会的可動性は商人の目的だったと言えます。一般的に、商人の目的は、会社そのものではなく、家族にとっての繁栄であり、会社はつまり社会的昇進への手段と考えられました。領地、土地(荘園)を購入し、結婚相手を貴族から選んで、政府へ申請することによって貴族の仲間入りすることができました。フランダースの北方に位置するオランダには、商人が都市ブルジョワジーになることは知られています。商人は政治的権限をもっていて、社会的ステータスも高かったようです。一方、フランダースでは、商人の地位が低く、政治的影響力もなかったわけです。しかし、社会的昇進は比較的簡単にできたといえます。当時の貴族は閉鎖的階級ではなかったので、豊かな商人にとって土地所有貴族へのコースは開いていました。貴族には、実業家、企業家が多かったのも、かれらが一九世紀からベルギーの産業化に大きく貢献したことと密接に関わっていると考えられます。 
商人の地位が低く、日本と同じくお金もうけは汚いと見られたことが挙げられます。そのため、富裕な商人はできるだけ社会的奉仕に努めようとしました。そこで祭りなどのようなイベントに資金を供給したり、あるいは福祉施設に寄付をします。一つ面白い現象として「神さん保険」を指摘することができます。それは、この商業取引きがうまくいくと、一定の金額を教会、あるいは養育院のような福祉施設に寄付することによって、社会に対する個人の精神的安心感を保証する手段でした。 
というわけで、相続のトラブル、社員の間の紛争、あるいは社会的可動性のために、会社の存続が短かったことが傾向として挙げることができます。しかし、会社が長期存続できたか否かというよりは、継続そのものが会社にとって重要であったか、あるいはどのような意味をもっていたかを問わなければなりません。とくに固定資本への投資と、いわゆる「伝統」の意味をポイントとして取り上げることができると思います。製造業に関わっている会社、つまりものを作る会社はまた違った特徴をもっていました。製造業の会社は固定資本に大きく出資した会社でした。さらに、品質のいいものを売るには伝統、あるいはブランド(商標)が重要な役割を果たしました。印刷業はその例の一つです。このような部門には日本の「家」に似たような考え方を探ることができます。アントウェルペンのPlantin-Moretus(プランタン・モレトゥス)はその独特な例です。この会社は二つの方針を使って、三〇〇年以上存続しました。それはまず第一に、遺言には、会社財産の非分割が定められたこと。そして、第二に、会社に参加しない遺産相続人の買い占めという方法です。出版社・印刷屋・本屋の創業者であるChristophePlantin(クリストフ・プランタン)には息子がいなかったので、二人の義理の息子を家業に取り入れました。この二人は元弟子で、娘と結婚させました。その一人、JanMoerentorf(ヤン・ムーレントルフ)は一五八九年にアントウェルペン本社を相続することになります。二代目の彼も企業を一体のまま、一番才能のある息子に相続させることを決定します。この規定は彼の意志に従って、その後永遠に遺言に含まれることになります。そのために会社財産が分割されず、会社は長く続けることができました。しかし、これは近世ヨーロッパでも例外的なケースだったといわざるをえません。 
三日本の場合 「家」における「総有」 
a.ビジネス・システムとしての「家」制度 
次に、日本の場合を見ていきたいと思いますが、江戸時代の日本で一般化された「家」概念、「家」意識はビジネスにとって非常に合理的枠組みだったことがよく知られています。一つの家業を中心に富を集めて、分家、別家を作るのは商人の「みち」と見られていました。西鶴は「町人の出世は、下々を取り合せ、その家をあまたに仕分くるこそ親方の道なれ」(『日本永代蔵』iv・1)と書いていますが、暖簾分けをするのは町人の社会的義務で、社会的ステータスをあげるための手段でもあったと言えます。このように、大規模な商家が現れますが、経営体としての「家」の概念は、血縁者と非血縁者、本家・分家・別家を統合しました。 
ヨーロッパの会社の短い存続期間に対して、日本では、家業を含む「家」の永続は逆に当然とみられました。「士農工商」という言葉通り社会的昇進が限定されていたため、「家」の存続そのものが目的となっていました。徳川幕府は相続形態を町人の自由に任せており、商家において家督、つまり当主の地位及び家の財産、の単独相続は「家」全体の繁栄の重要な柱となっていました。非分割の財産の共同所有と共同経営が理想となっていたのです。三井家の場合は商人組織の理想型と見られています。三井高利は自分の個人財産、つまりすべての店と全資本を一体として子供たちにまとめて相続させることを決めました。「身上一致」、つまり共同で所有、経営するべきだと規定していたのです。そこで本家・分家の主人たちは「大元方」(一七一〇)という組織を作り、「家」による経営=「総有」の原理をよく表していると思います。京都の下村家(デパートの大丸の創業者)の場合にも似たようなシステムが見られます。「三家一致」と呼ばれていて、下村の三家が全店の経営を調整する方法でした。 
住友家は三井や下村と違って、大元方のような機関を作っていませんでしたが、一つの「家」として本家、分家、別家が共同で複数の事業を営んでいました。住友の家業を開始したのは蘇我理右衛門(一五七二〜一六三六)でした。彼は若いときから銅吹き(銅の精錬と細工)を身につけて、一九歳から京都で店を構えました。また、「南蛮吹き」という銀銅吹き分けの新技術を、一人の西洋人から習得しました。銅の中に含んでいる金銀を抜き出す技術は当時まだ日本にはなかったため、銅は金銀を含んだまま海外に輸出されていました。この新技術は住友の事業の先駆となり、繁栄の始まりを意味したわけです。理右衛門は屋号を「泉屋」と称しました。住友二代の友以は一六二四年ごろに事業を京都から大阪に移し、住友の銅吹き所は徳川時代を通じて銅精錬業の中心となったのです。すでに一六七八年(延宝六年)に住友家は輸出銅の三分の一を供給しました。三代友信が初めて吉左衛門を名乗り、江戸、長崎に出店を設けました。しかし、それより、事業に最も重要な意味を持ったのは別子銅山の開発(一六九一、元禄四年)であったといえるでしょう。泉屋は幕府に輸出銅(御用銅)を供給し、莫大な富を蓄積したのです。このような銅の鉱業、精錬と輸出は事業の中心、つまり家業でしたが、徳川時代を通じて両替業、札差業、砂糖、薬種などの輸入などという多角経営は分家と別家によって行われました。 
事業のトップにはもちろん当主がいましたが、住友では襲名・吉左衛門と名乗りました。しかし、経営と所有の分離と経営者への権威の大規模な代表権委譲は、ヨーロッパの場合と対照的でした。とくに別家と支配人は家業の重役となり、広い権限をもっていたようです。経営と所有の分離は日本の近世の商業の一番大きな特徴としてよく指摘されています。住友も支配人(番頭)が主人(当主、家長)の代わりに家業経営を担当することが見られ、それは例外ではありませんが、それではなぜそうなったのかを見る必要があると思います。それはやはり、主人として商売にむいていない、あるいは関心をもっていない、あるいは贅沢を好み、富を散財してしまう可能性の持ち主であったことが原因と考えられます。住友家の場合、一八世紀の半ばから二〇年以上続いた「お家騒動」がその直接の原因となったと考えられます。表1を御覧ください。それには住友の歴代の当主が一覧表となっていますが、特に七代目から吉左衛門という襲名を使わなくなったことに気付きます。住友家の「お家騒動」を目に見える形で表しているといえるでしょう。 
同時に、この「お家騒動」は当時のビジネス・システムとしての「家」と「総有」、つまり、「家」的支配、「家」的所有の限度をも明らかにするエピソードです。ビジネス・イデオロギーは家訓・家法によく現れています。住友家の家訓にも本家、分家、別家は協力して、イエ全体の繁栄のために全力を尽くすべきだ、という規定があります。しかし、従来の研究では多くの場合、理想と現実の区別がなされていません。私の見解では、家訓は現実を反映しているのではなく、あくまでもイエはどうあるべきかを描写しているに過ぎないと考えます。 
b.住友の「お家騒動」 
住友家の「お家騒動」を見るにあたって、重要な資料は、「御仕置例類集」でした。この資料は、江戸幕府の最高裁判所であった評定所が一七七一年から集めた判決です。二十年以上にわたったこの騒動は非常に複雑で簡単には説明できませんが、要点だけに触れてみたいと思います。表2をご覧ください。住友の当主は吉左衛門と呼ばれていましたが、泉屋は吉左衛門の個人所有でした。強力な豊後町分家が同等なステータスをもっていたと考えられます。五代当主の友昌は病気のため経営権をその分家の当主であった理兵衛友俊に委任しました。この理兵衛友俊は九年の間、後見人として当主の役割を勤めていました。しかし、友昌がなくなった後、息子の友紀が六代目の当主、吉左衛門となりましたが、経営はそのまま後見人の理兵衛と老分別家が担当していました。彼等は吉左衛門は贅沢が好きで、当主としてふさわしくないといって、親戚、手代のサポートを得た上で、吉左衛門を隠居させようとしました。それは「泉屋吉左衛門・家名前退願一件」に当たります。最初に、町奉行はそれを認めず、訴訟側の敗訴に終わりました。しかし、吉左衛門は当主にふさわしくない行動を続け、そのうえ、隠居するのを断わったため、再び分家・親戚・手代に起訴されました。そして結局安永九年(一七八〇)に訴訟裁許により退隠しなければならなかったのです。その後、息子の万次郎が相続し、本家の所有権を受けますが、理兵衛がまだ経営に関わっているので、泉屋吉左衛門友紀は金銀、江戸の店、ほかの財産を握り、吉左衛門という襲名を譲ることも拒否していました。それから十数年にわたって訴訟が続きます(「泉屋吉左衛門・家督譲渡、差滞候一件」)。家は二つの対立しているグループに分けられていました。つまり吉左衛門のサポート派と理兵衛・万次郎を支持するグループ。逆に、吉左衛門のグループは、理兵衛友俊派は賄賂を使って町奉行に当主を隠居させた、と言って、逆訴訟をするわけです(「泉屋吉左衛門・手代、於江戸表、再応訴状差出候一件」)。結局、吉左衛門は天明五年(一七八五)の裁判判決で五〇日間の「押込」と家督を全部譲渡するよう命じられましたが、その後も、隠居の身分で住友の事業を経営していました。さらに、一七九一年、息子の万次郎を「病気」という正式な理由のため、隠居させ、四歳の孫に継がせたことにも、彼の黒幕としての影響・権限を見ることができます。 
この事件はさまざまな解釈があると思いますが、私は次のように解釈しました。要するに、「家」的支配といっても、個人の意思の対立が強く出てきます。そして、「家」的所有があっても、個人所有が問題となる時もありました。だから、理想としての共同所有・共同経営と、事実上の経営権・所有権のあり方とのギャップがあったといえるのではないかと思います。 
さらに、住友の場合、この紛争は経営・所有の分離の直接的な原因となりました。一八世紀の終わり頃から泉屋は番頭・支配人によって経営されるようになりました。吉左衛門の後に当主となった人は商売への関心をもっていなかったため、経営を支配人と別家に任せました。この傾向は明治期に入ってから、一層強くなり、家長は象徴的な存在になりました。というわけで、日本の商人家は、単独相続と共同経営によって永続を求めた、といえますが、さまざまな矛盾や問題を引き起こす可能性を常に含んでいました。 
最後に 
日本とヨーロッパにおける企業の発展は合理的な経営組織への発展とみなすことができると思います。ヨーロッパの場合、国際経済状況に応じて小規模でフレキシブルな会社形態を生み、そのため所有者は経営者でありました。代理人のネットワーク、「加入」という外からの投資もそのシステムの一部でした。会社契約期間が比較的短かかったにしても、社内紛争、相続をめぐる問題、社会的可動性も会社の存続を限定したと言えます。しかし、忘れてはいけないのは、会社は商人にとって社会的出世のための手段に過ぎなかった、ということです。 
それに対して経営体としての日本の「家」は一種の「タテの法人」として働き、会社に似ている側面もありました。分家・別家を設立することによって「家」の継続や拡大こそが目的と見られたのではないかと思います。「家」全体の繁栄が利益追求を正当化する大きな要因だったと考えています。つまり、商人階級における「家」制度を一種のビジネス・システムと見ることができます。その基本的な原理は「総有」、「家」メンバーの共同所有・共同経営、だったのです。しかし、日本にもヨーロッパと同じく、相続に関わる紛争、社内対立が多かったと考えられます。経営・所有の分離という株式会社の特徴が日本の「家」に内在していたことはしばしば指摘されていますが、その原因は「家」制度の中の矛盾に探ることができると思います。  
 
東海道の歴史

 

-古代から中世- 
古代のシステムから見る遠江 
古代の人がどのような交流をしていたのか、発掘された遺跡や残された書物、文書からさまざまな研究者が説を唱えています。ここでは、お茶街道の金谷-掛川について、諸説からその姿をさぐってみましょう。 
東海道が西と東を結ぶ道として、重要な役割を果たすようになるのは、大和政権が東方への政治的影響力を及ぼし始めた四、五世紀ごろのことといわれます。東海道の歴史において、はじめて遠江のことが出てくるのは、「続日本紀」「三代実録」「続日本後記」などで駅の選定、廃止についての記事がみられる程度で、全体像がわかるものは「延喜式」(905年編纂開始、927年完成、施行967年。平安中期)に記された駅馬、伝馬の記載です。 
遠江国 
駅馬 猪鼻・栗原・□摩・横尾・初倉、各十疋  (□=伊・引・門?) 伝馬 浜名・敷智・磐田・佐野・榛原郡、各五疋 
遠江国の駅馬が、どのあたりに位置するのか、説はいろいろあるようですが、現在のところ以下の駅家説があります。 猪鼻=新居町浜名周辺(他に三ヶ日説、吉美説、伊場説がある) 「更級日記」に「それよりかみは ゐのはなのさか…」と書かれています。 栗原=浜松市伊場 伊場遺跡から発掘された墨書土器「栗原駅長」とあり、その北隣梶子北遺跡にある横長式の建物を馬屋であるとする説もあります。 
□摩=磐田市今ノ浦付近 引摩、門摩との記録がありますが、これらは誤記とされ、今ノ浦のイマをあてて見附付近との説が有力なようです。 横尾=掛川市掛川城公園東側 「掛川誌稿」では掛川城付近にあったとしていますが、他に掛川市街北側西郷付近との説もあります。 初倉=牧之原台地東端(島田市宮上遺跡) 島田市宮上遺跡からは「驛」らしき墨書土器が出土し、この遺跡を駅家とみています。(注1) これは、「延喜式」によって、それまでの制度を拡充整備したと見るべきもので、「屋椋帳」と呼ばれる大法令以前(持統朝あるいは天武朝?)のものらしき木簡(伊場遺跡出土)に「駅」の文字が見られることから、駅制については、大法令以前から「駅評(うまやのこおり)」を中継ぎとした東海道の前身といえる交通網が整備されていたという説があります。(注2) 
古代-中世東海道の経路  
平安以前の東海道の経路については、文献にはほとんど残されていないため推定ですが、時代とともに変わっています。「東海道小夜の中山」をもとに、その経路について記します。  
馬道 (榛原郡金谷町猪土居-島田市吹木・湯日・色尾)  
奈良時代の古道で菊川から初倉の駅家郷へ抜ける道。 菊坂-ヘソ茶屋-吹木-上湯日-湯日-色尾 と、牧之原台地の中腹をぬうコースで、一部当時の面影が残されています。土地の人はこの道のことを「馬道」と呼ぶそうです。 色尾(いろお)道 (榛原郡金谷町猪土居-島田市谷口原・色尾) 平安時代には拓けた道で、菊川から初倉へぬける牧之原台地上の道。 菊坂-ヘソ茶屋-二軒屋原(駒場?)-鎧塚-権言原-谷口原-坂本・色尾 平安から鎌倉時代に利用されたと思われます。 
鎧塚道(道灌道路) 
上記の色尾道で通る鎧塚(よろいづか)以東の道は時代をおって変遷し、色尾道ルートが使われたのち前島へ抜ける道がごく短期間利用され、のちに島田へ直接抜けるコースが室町中期以降に始まります。この古道は残っていないため不明ですが、二軒屋原から鎧塚への道に「道灌沢」という地名が残されています。 このころの東海道を利用できたのは、原則として公用の役人に限られていて、物見遊山の観光旅行は考えらないことでした。中央へ納める税(調・庸)を運ぶにも東海道の利用は認められなかったそうです。
-江戸宿駅制度の成立- 
徳川家康による宿駅制度の設定 
古代から中世にかけて発展した東海道は、やがて国内で最も重要な幹線道路となっていきました。徳川家康は、豊臣政権下にあって関東地方を領土としているころ、すでに江戸・小田原間に宿を設定し、伝馬制度を整えていました。そして慶長五(1600)年の関ヶ原の役で実質上の天下統一を果たした家康は、慶長六(1601)年正月、改めて江戸-京都間の東海道の平均二里(約8km)ごとに宿を設定して伝馬朱印状と伝馬定書を下し、それぞれに伝馬36疋を常備させました。この制定の年(慶長六)が東海道の誕生とされ、2001年には400年を迎えます。 
伝馬制度 
いわゆる「東海道五十三次」とは、江戸日本橋を基点として第一番目の宿である品川宿から京都に至る最後の宿駅の大津宿までの53宿のこと。これらの宿駅は、荷物の輸送などの場合、原則として宿駅ごとに継ぎ送るリレー方式をとることになっていました。このことを伝馬制度といいます。各宿場は伝馬朱印状を持つ公用物資は無償で次の宿まで輸送することを課せられ、そのかわりに旅客を宿泊させる権利と一般の物資輸送で駄賃を稼ぐ権利を持ちました。慶長六年制定時に36疋と定められていた伝馬は、東海道の交通量が激増したため、寛永十五年より各宿人足百人伝馬百疋に拡充されています。 
参勤交代制の影響  
街道の発展を決定づけたのが参勤交代制でした。 諸大名が一定期間江戸に候し(参勤)、また本国に帰る(交代)ことで、寛永十二(1635)年に制定されたとされています。参勤交代によって、大名は一年に一度は街道筋を通ることになり、随行者を含むと年間で五万人以上が東海道を往復しました。しかも始めのうちは江戸幕府に対する軍役として行われていた旅が、後には形式的なものとなり「大名行列」という華美な行列に変化していきます。各大名の格式によって随行者数、諸道具などが厳格に区別されていました。大名行列の人数は多い時代では千人を超えていたといい、その後幕府が随行者数の制限を定めて20万石以上は四百数十人、10万石以上で二百数十人という非常に大きな規模で、これに現地で暢達した人足・馬が加わります。寛永十九(1643)年の参勤交代制度細目の通達により、外様大名は四月、譜代大名は六月と交代月が決められていましたから、この時期に集中して大名行列が街道を通過しました。 参勤交代で街道を通る大名や上級家臣は宿駅の本陣または脇本陣に宿泊し、一般の随行者たちは旅籠屋や大きな寺社に宿泊しました。参勤交代によって街道筋は大いににぎわい、経済的な効果も高かったと思われます。 
宿場の役割  
宿場には、旅人の宿泊や休息と、物資の輸送の二つの役割がありました。宿泊業務には本陣、脇本陣、旅籠屋が、物資輸送の手配や管理には、問屋や年寄りと呼ばれた町の名士がその業にあたりました。宿場は、単なる東海道筋の町として存在しているのではなく、それぞれの宿駅が独自に機能し、連関してその役割を担っていたのです。 幕府は東海道を最も重要な政治の道として位置付けていましたから、その宿場に対してさまざまな助成策を講じ、宿場を繁栄させるための経済活動を許可したりしました。  
こうした東海道と宿場の整備は、やがて情報伝播の促進に大きく作用しました。元禄時代になると一般庶民に経済的余裕ができ、東海道の旅行案内書が刊行され庶民の旅心を誘い、第一次東海道ブームが起こります。宿場を舞台にして人々の交流が生まれ、地域文化は大きく発展していきました。
-江戸庶民の東海道- 
庶民の旅 
慶長六(1601)年に整備がはじまった東海道は、徳川政権の安定によってしだいに軍事的役割の色が薄れ、17世紀を通じて東海道筋の治安は極めてよくなりました。庶民の生活にはゆとりが生まれ、元禄八年には大量の金銀貨が発行されて庶民の間にも通用するようになり、第一次東海道ブームが起こります。領主や主人の許可を得れば、時間があって金銭さえ持てれば、誰でも安全な旅を保証される時代が到来したのです。 
一般の人々が旅に出かけようとするとき、「遊びに行く」では主人の許可がおりませんから、ほとんどが社寺参詣という宗教行為を旅の名目にしました。許されない場合は「抜け参り」と称して無断で旅に出ましたが、目的が参詣であるために帰ってから思い罰を受けることはなく、元の仕事に戻ることができました。さらに、東海道筋の人々も「抜け参り」の旅人に路銭を与えたり、食べ物を供したりして旅を支援しましたから、庶民の旅は社会のシステム上でも恵まれていたといえます。  
出版物の影響  
東海道を旅した各時代の文化人たちは、遠い国の景色や人々のようすを絵画や書物にしたためました。元禄八(1695)年、菱川師宣は「東海道分間絵図」で東海道の散りを紹介し、浮世絵で華やかな三都を描いた「道中記」という旅行案内所も出版され第一次東海道ブームの火付け役となりました。  
十九世紀になると、享和二(1802)年、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の出版がきっかけで、爆発的な第二次東海道ブームが起こりました。弥次郎兵衛と喜多八という一介の庶民がおもしろおかしい伊勢参りの旅を描いたこの本は、人々に東海道の旅への憧れを強く印象づけたのです。  
おかげ参り  
「おかげ参り」とは、特定の年に伊勢神宮への参拝が爆発的に増える現象をいいます。子は親に、妻は夫に、奉行人は主人に断りなく、衣裳に趣向をこらして歌い踊りながら集団で参拝しました。とくに慶安三(1650)年、宝永二(1705)年、文政十三(1830)年 に全国規模で「おかげ参り」が流行。江戸時代の「おかげ参り」は、おおよそ60年周期で流行しましたが、文政十三年の「おかげ参り」には実に500万人近くが参宮に出かけたといいます。 
この「おかげ参り」から3年後の天保四(1833)年、歌川広重の「宝永堂版・東海道五十三次」が出版されました。おかげ参りに出かけた人々は、この浮世絵を買い求めて旅の思い出を語り合ったのでしょう。  
往来する人々  
東海道筋には、参詣の旅に出かける庶民の他に、近江商人や富山の薬売りに代表される行商人、武士、旅僧、御師(おし)、旅芸人等々、実に多様な人々が往来しました。 旅人たちの往来によって口から口へと伝えられる情報は、各地の宿から助郷や人足を通じて村へと伝わるようになり、街道は常に新しい情報源の役割も果たしていました。
金谷宿  
金谷宿は、室町のころはちいさな宿場で、当時は菊川の方が栄えていたといいます。本格的に宿場として利用されるようになったのは、東に大井川、西に小夜の中山峠という難所をひかえて、江戸時代東海道五十三次の主要な宿駅のひとつとなってからでした。 
金谷宿は、金谷本町と金谷河原町の二町にわかれていて、金谷本町が他の宿場と同じように伝馬役を務め、河原町が大井川の川越しを取り仕切る川越役・徒渉(かち/歩行)役目を担っていました。 
天保十四年の記録「東海道宿大概帳(だいがいちょう)」によると、金谷宿の全長は東西16町24間、宿内人口は4,271人、宿内家数は1,400軒でした。 
宿内には本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠51軒(他に木賃宿も)などの宿泊施設と、川合所などの川越し施設があり、宿場に常備しておかなければならない馬や人足の数は人足が155人5分、馬が100疋で、加えて水害にも苦しみ、これらは町の大きな負担となっていました。のちに川越しのための人足を確保するため、周辺の村々が助郷村に組み入れられました(元禄七年)。  
■ 
島田河原町から大井川を渡ると金谷宿の東側の金谷河原町。この金谷宿東側の入り口には、八軒屋橋という板橋がかかっていました。通常宿の入り口に左右一対置かれていた桝形が金谷宿には無く、橋がその役割をしていました。大井川の岸からこの橋までの街道の両側は一町五十間ほど松並木になっていて、橋を渡ると川会所(かわいしょ)、川越し人足の番宿、札場、高札場などが立ち並んでいました。  
河原町から西へ向かって十五軒あたりから先が宿の中心街。本町には三軒の本陣と脇本陣、助郷会所があり、要人の宿泊など町の重要な役割を担っていました。街道の両わきには、これらの施設とともに五十一軒の旅籠が立ち並び、大井川を渡る旅人たちを迎えました。上本町には問屋場や町飛脚があり、人々は農業、旅籠屋、茶店、諸商人などを営んで暮らしていました。 
新町に入り長光寺(ちょうこうじ)の門前を抜けると、金谷宿の西の入り口である土橋に出て、その西側には石畳が敷かれた金谷坂がひかえていました。途中右手には庚申堂があり、中腹まで登ると金谷の町が一望でき、さらに登ると富士山が見えます。金谷坂を登りきると左手から菊川の鎌倉街道につながり、右手には諏訪原城の森が広がっていました。
日坂宿  
日坂宿は、東海道の難所である小夜の中山峠の東側にあり、峠越えの麓集落です。江戸時代以前は西坂、入坂、新坂などと書かれていたらしく、室町時代に京都から鎌倉までの六十三宿を記した文書にも「懸川、西坂、菊川」とあり、紀行文にも同名で出てくることから、古くから峠越えの宿客を迎える小規模な宿が営まれていたようです。 
日坂宿は、西に掛川宿、東に金谷宿という大きな宿場にはさまれ、東海道の宿場としては坂下(現三重県鈴鹿)、由比に次いで三番目に小さな宿場でした。「大概帳」(天保14)によれば、宿の全長は東西6町半、宿内人口は750人、宿内家数は168軒でした。宿内には、本陣と脇本陣が一軒づつ、旅籠屋33軒などで宿場を営んでいました。これらは幕府から定められた宿場の機能で、小さな村にとってはかなりの負担であったと思われます。
掛川宿  
江戸以前の懸河 / 古代、交通の要所として設置されていた遠江五驛のうち横尾駅が現掛川のあたりであろうといわれています。掛川の名については、「吾妻鏡」に「懸河」の地名がはじめて登場しています。中世になると豪族がこの地に館・砦・城を築いていたらしく、応仁期には大きな城邑を築いていたといわれます。 
掛川宿の城下町としての歴史は、今川氏が遠江侵攻の足掛けとして室町時代の文明年間(1469-1487)に家臣朝比奈泰熙(あさひなやすひろ)に掛川古城を築かせた頃から始まります。泰熙は、掛川城(古城)を天王山に築き、この城下町形成にあたって、街道を逆川の南側に変更してます。永正以前の懸河宿は、この天王山あたりを呼んだものと思われます。この懸河という呼称は、松尾曲輪の内、池東の低地の数十歩の間を懸河と呼び、その地形が川の流れが迫って、懸崖であったためではないかといわれますが、西宿のあたりが倉真川と逆川の合流地点であることからきた呼称とも考えられるそうです。 
その後、永正十年(1513)ごろ、この古城の南西方向にある竜頭山に、現在の掛川城の前身となる新城を築き、江戸時代には徳川氏譜代の諸大名が入れ替わり入封し、現掛川城付近が宿場として栄えることになります。   
江戸以降の掛川宿 / 江戸時代の掛川宿は、慶長初期に山内一豊が形成した城下町です。一豊は逆川を利用して城下町を境堀で囲み、境堀内の当初の町は、表通りに木町(喜町)・仁藤町・連雀町・中町・西町、裏町に塩町・肴町・紺屋町・研屋町、横町に瓦町の10の町から成っていました。時を経て境堀東の外側に町並みが発展し、元和6年(1620)に新町として加えられて11カ町となり、さらに文化3年(1806)には下俣町・十九首町が加わって13カ町と発展していくました。「東海道宿村大概帳」(天保14/1843)によると、宿の境は、東側上張村、右側仁藤村から西の境左下俣村、右大池村までとあり、おそらく新町より西町分十王町までの間と思われます。町並は東西8町、宿内人口3,443人、総家数960軒、旅籠屋30軒とあり、川越えを控えた金谷宿よりも宿の規模は小さいのですが、宿周辺の11町(のちには13町)が伝馬町、人馬役町として指定され伝馬宿として栄えていました。伝馬町に対しては、馬1疋につき地子(じし/屋敷課税)を免除する制度がありましたが、その率は一定でなく、平均馬1疋に対して40坪だったのに対して、掛川宿の場合は60坪でした。これは掛川のような城下町は藩体制において運輸・郵送上重要な役割を果たしていたからだと考えられます。
大須賀鬼卵 (おおすかきらん、栗杖亭鬼卵・りつじょうていきらん) 
昔、金谷宿と掛川宿の間、小夜の中山峠西麓の小さな宿場町である日坂宿に「きらん屋(木蘭屋)」というたばこ屋がありました。その障子戸には  
世の中の人と多葉粉(たばこ)のよしあしは けむりとなりて後にこそしれ 
と、狂歌が書いてありました。この歌は白河楽翁(松平定信)の目にとまり、褒美を賜ったと伝えられています。その店の主人が大須賀鬼卵(おおすかきらん)。画や連歌狂歌をたしなむ三河生まれの文人で、日坂を終の住処に江戸の文壇で活躍した人です。 
三河から日坂まで点々と  
鬼卵は、延享元年(1744)河内国(大阪府)佐太村に生まれ、青年時代は伊奈文吾と名乗り、同地の永井氏に仕えた下級武士でした。絵画を好み狂歌連歌に長けた人で、のちに名を大須賀周蔵と改めました。安永8年(1779)39歳の春、妻を伴って三河の吉田(豊橋)に移り住み、画と俳諧に遊びましたが、その地で妻に先立たれました。寛政の初め頃、三島に移り三島陣屋の手代となりましたが、同九年には辞して府中(静岡)に移って須美という養女をもらい、画を生業としました。「東海道名所図会 巻五」には、彼の描いた「正月六日三島祭」の絵があります。須美が医師福地玄斎に嫁いだため、鬼卵は千日詣でに行くといったまま家を出て、少しの間遠州伊達方村(だてかたむら・掛川市)に住み、まもなくすぐ東側の日坂宿に移りました。 
日坂での暮らし 
寛政末年(1800)、齡60に近くなって日坂に移り住んだ鬼卵は、画を描く傍らたばこ屋「きらん屋」を営み生業としました。日坂に来てから二度目の妻を迎えましたが、文政元年その妻にも先立たれています。その初七日の夜、かつて鬼卵が師事した京都の歌人香川景樹が日坂を訪れてこのことを茶屋の女から聞いて、「中空日記」に次のように語っています。  
「小夜の中山こえはてて新坂(にっさか)にとどまる。此の里に大須賀とて世に知られた翁あり、また鬼卵と号す。茶汲み女に、此のをぢ猶たいらいかなりやと問へば「此さき一日年此の妻におくれてのち、こよい初七日のたい夜に待り」といまわしきことをいう。 もろともに 老いての後のわかぐさの つまのわかれは いかにかなしき 大日本人名辞書にいう「鬼卵は小説家なり、日坂の人、栗杖亭と合す。狂歌に秀でる」云々。」  
享和3年(1803)、鬼卵57歳のとき「東海道人物志」という本を著しています。品川から大津まで、53の宿駅ごとに、その地に住む学者、文人、諸芸に秀でた人々を列記した実用書で、京都の菊舎、大阪の播磨屋、江戸の須原屋という三都の書林から出版されていることから、売れ行きのよい本であったようです。東海道を旅する文化人には便利な人名録で、三河から日坂へ点々と移り住んだ経験と才覚が活かされた書物といえるでしょう。 
文化4年に記した「蟹猿奇談」以降は、主に読本(よみほん)に筆をふるい、代表作は「新編復讐、陽炎之巻」(文化4年)「長柄長者黄鳥墳」(同8年)「勇婦全伝、絵本更科草紙」(同8年-文政4年)など、22編を出版し、中には歌舞伎として三都で上演されたものもありました。 
鬼卵は日坂に居している間、寺子屋を開いて近傍の子弟らに読書や習字をおしえており、鬼卵の子弟には岡田無息軒(良一郎)も含め数十人に及んだといいます。また、鬼卵の日坂での暮らしは、掛川の庄屋大庭代助の援助によるともいわれています。 
鬼の卵から仏の卵に 
鬼卵は晩年禅学に傾倒し、長松院14世密仙和尚に参禅して仏卵と号しました。長松院は、曹洞宗寺院では掛川で最も古く文明3年(1472)開山の寺院で、鬼卵の筆による「十六善神」「日の出とからす」「十四世肖像」などの絵が残されています。齡83歳で文政6年2月23日に卒し、長松院に静かに永眠しています。 
現在寺院南側の山にある鬼卵の墓は、参拝する人が多くなったため、平成11年2月の長松院御開山忌にあわせて山門近くに墓を移転する法要が行われます。 
 
天海僧正

 

天文5年-寛永20年(1536-1643) 
「天海僧正は人間の中の仏なり。恨まれるのは出会いが遅かったことだ」(家康) 
通称・南光坊天海。安土桃山-江戸初期の天台宗・大僧正。徳川のブレーンとして家康、2代秀忠、3代家光に仕え、幕府の設立と安定に努めた。別名「幕府の知恵袋」「黒衣の宰相」。陸奥・会津高田出身。蘆名兵太郎。10歳で出家し「隋風」と名乗り、13歳で宇都宮粉河寺に学ぶ。1553年、17歳で比叡山に学僧として入り、三井寺や興福寺でも熱心に学んだようだ。1558年(22歳)、母が病没したため故郷にいったん戻り、24歳で下野国(栃木県)足利学校に学び、29歳で上野国(群馬県)善昌寺で修行を続けたとのこと。1571年(35歳)、比叡山に帰ったが信長による全山焼き討ちで入れなかった。甲府に入り武田信玄の元に逗留。1573年(37歳)、上野国長楽寺で修行し、会津に戻って黒川稲荷堂の住職となる。1590年(54歳)、武蔵国(埼玉県)川越・喜多院の僧正豪海の弟子となり、この頃名前を「天海」と改めた。同年、江戸城に入城した家康に師・豪海の代理として謁見。翌年、常陸国(茨城県)江戸崎不動院と無量寿寺北院を兼務。 
天海は武芸に長じていたようで、1600年(64歳)の関ヶ原合戦に従軍したと思われる。「関ヶ原合戦図屏風」に東軍最後方の家康の傍で、鎧をまとった天海が描かれているからだ(絵には「南光坊」と書かれている)。 
ただし!ここまでは「……と、言われている」。つまり前半生は全くの謎。確定されている経歴はこれ以降。 
1607年、71歳の時に家康から比叡山の探題奉公(幕府の要職)に任命され、信長の焼き討ちで衰退していた延暦寺を再興。これを機に積極的に幕政に参画するようになる。1612年(76歳)、埼玉の喜多院の住職となり同院を関東天台宗の総本山とする。家康は寺領300石を寄進。翌年、日光山第53世貫主を家康から拝命。豊臣家が滅亡した大坂の陣では、合戦の際に作戦会議で家康に意見を述べていることから、戦略にも優れていたようだ。豊臣に余程深い恨みがあったのかも(天海の甲冑は現在大阪城に展示されている)。 
1616年(80歳)、家康は他界の15日前に遺言を天海に伝え、葬儀の導師を務める。僧界トップの大僧正に任ぜられ、家康に「東照大権現」(“権現”は天台系)を贈った。当初、“東照大明神”とする動きがあった。天海は「明神」に猛反対し「権現」として祀られるようになった。秀吉が「豊国大明神」だったからだ。家康の亡骸は静岡・久能山に埋葬され、翌年に日光へ改葬、東照社(東照宮)が建立された。 1625年(89歳)、上野に寛永寺を創建し、同寺は後に徳川家の霊廟となった。京都の鬼門(北東)を比叡山が守るように、江戸の北東を守護するべく“東の叡山”という意味で寛永寺の山号を「東叡山」と名付けた。1636年(100歳)、家光の大号令で日光東照宮が現在のように大増築される。 
以後、1643年に107歳という仰天するほどの長寿で他界するまで、その身を天台宗の布教に捧げた。没後5年目に謚号(しごう、死後の名)として「慈眼(じげん)大師」が朝廷から贈られた。この号が贈られたのは平安時代以来700年ぶり。それほどの快挙だ。天海は仏法だけでなく、風水や陰陽道にも深く通じており、天海がこれらの知識をもとに江戸の都市計画を練ったとされている。 
天海は長生きしただけに「正体」をめぐる伝説も多い。11代足利義澄の子、或は12代足利義晴の子であるとか、第4次「川中島の戦い」を見物していたとか、没年にも諸説あり最高で135歳!だが、最も有名な伝説は「天海=明智光秀説」。これがトンデモ話と笑い飛ばせないのは、奇妙な一致点が山ほどあるからだ。 
家康の墓所、日光東照宮は徳川家の「葵」紋がいたる所にあるけれど、なぜか入口の陽明門を守る2対の座像(木像の武士)は、袴の紋が明智家の「桔梗」紋!しかもこの武士像は寅の毛皮の上に座っている。寅は家康の干支であり、この門を造営した天海は徳川の守護神であると同時に、文字通り“家康を尻に敷く”ようだ。また、門前の鐘楼のヒサシの裏にも無数の桔梗紋が刻まれている。どうして徳川を守護するように明智の家紋が密かに混じっているのか。 
日光の華厳の滝が見える平地は「明智平」と呼ばれており、名付けたのは天海。なぜ徳川の聖地に明智の名が?(異説では元々“明地平”であり、訪れた天海が「懐かしい響きのする名前だ」と感慨深く語ったと伝わる) 
2代秀忠の「秀」と、3代家光の「光」をあわせれば「光秀」。 
天海の着用した鎧が残る。天海は僧兵ではなく学僧だ。なぜなのか。 
年齢的にも光秀と天海の伝えられている生年は数年しか変わらない。 
家光の乳母、春日局は光秀の重臣・斎藤利三の娘。斎藤は本能寺で先陣を切った武将であり、まるで徳川は斉藤を信長暗殺の功労者と見るような異様な人選。まして家光の母は信長の妹・お市の娘。謀反人の子を将軍の養育係にするほど徳川は斉藤(および光秀)に恩があったのか。※しかも表向きは公募制で選ばれたことになっている。 
強力な物的証拠もある。比叡山の松禅院には「願主光秀」と刻まれた石灯籠が現存するが、寄進日がなんと慶長20年(1615年)。日付は大坂冬の陣の直後。つまり、冬の陣で倒せなかった豊臣を、夏の陣で征伐できるようにと“願”をかけたのだ。※この石灯籠、移転前は長寿院にあり同院に拓本もある。 
家康の死後の名は「東照大権現」だが、当初は“東照大明神”とする動きがあった。天海は「明神」に猛反対し「権現」として祀られるようになった。秀吉が「豊国大明神」であったからだ。 
そして極めつけ。光秀が築城した亀山城に近い「慈眼(じげん)禅寺」には彼の位牌&木像が安置されているが、没後に朝廷から贈られた名前(号)が「慈眼大師」。※大師号は空前絶後の名誉。“大師”とは“天皇の先生”の意。つまり、信長を葬った光秀は朝廷(天皇)の大恩人ということ。 
天海の墓は滋賀坂本と家康が眠る日光東照宮に隣接した輪王寺・慈眼堂にある。坂本は明智光秀の居城・坂本城があった場所で、山崎の合戦の際に、この地で光秀の妻や娘も皆死んだ。天海の墓と明智一族の墓まで歩いていける距離にある。そして天海の墓の側には家康の供養塔(東照大権現供養塔)が建っている。明智一族の終焉の地に天海の墓と家康の供養塔…実に意味深だ。 
日光の墓は慈眼堂の拝殿背後にあり、天海の命日(10月2日)は慈眼堂で長講会(じょうごえ、法要)が営まれ、天海の大好物であり、長寿の秘訣という「納豆汁」がお供えされる。 
寛永寺に眠る将軍は、4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定の6人。天海の髪が納められた「天海僧正毛髪塔」もある。 
家光の遺言は「死後も東照大権現(家康)にお仕えする」。これを受け4代家綱が日光に家光廟大猷院を建立した。家光の霊廟は家康の方を向いている。 
光秀であった場合、前半生の経歴を比叡山で出会った「隋風」から買ったのではないか、或は比叡山で亡くなった「隋風」に成りすましていたのではないか、そんな説もある。比叡山にとって光秀は、宿敵・信長を倒した英雄であり、どんな協力も惜しまなかっただろう。
天海僧正 年表
1536年、天文5年 (所伝) 福島県大沼郡会津美里町の高田で誕生。長男。幼名は、兵太郎。父は舩木。母は蘆名氏の娘。  
1546年 10歳 実家の近所の龍興寺(りゅうこうじ)で出家、「隋風」と称します。3年間修行。龍興寺は天台宗の円仁(えんにん)創建の古刹(こさつ、古い寺)。円仁は、最澄の弟子で、最後の遣唐使。天台宗を完成させた世界的な偉人。天台宗は仏教の力で国を導くという国家鎮護を信仰の核にしています。 
1549年 13歳 宇都宮市の粉河寺(こかわでら、現・宝蔵寺、ほうぞうじ)の住職に弟子入り。住職の皇舜は高僧。  
1553年 17歳 天台宗の総本山、比叡山に入山、実全に師事、天台教学を学びます。比叡山は、最澄が山を開いてから、円仁、円珍、良源、源信、良忍、法然、親鸞、一遍、栄西、道元、日蓮など各宗教の祖を生んだので、日本仏教の母とよばれています。またさまざまな芸能を生んだので、「山」といえば比叡山をさしました。  
1556年 比叡山を下山。大津の三井寺(みいでら、現・園城寺おんじょうじ)のに学びます。奈良、興福寺などで学びます。林和成重に日本書紀を学びます。法相(ほっそう)、三輪を学びます。 
1558年 22歳 実母病気のため、時会津へ帰省します。母は逝去。  
1560年 栃木の足利学校に入り、4年間にわたり、儒学、漢学、易学、国学、経済学、天文学、医学、兵学を習得します。天海は、粉河寺、三井寺、興福寺、足利学校と学業を続けます。  
1564年 群馬県太田市世良田の善昌寺に学びます。 
1571年 35歳 比叡山入山を試みますが、比叡山が織田信長により焼き打ちされ果たせませんでした。天海は、 明智光秀の世話で、山門の学僧、衆徒と共に、武田信玄の元に身を寄せます。武田信玄に請われ、山門の学僧と論議をしたり、天台宗について講義したりします。  
1573年  会津に戻り数年間滞在。 
1577年 41歳 蘆名氏の要請を受けて、群馬県太田市世良田の善昌寺(現・長楽寺)で5年間修行。天海は塔頭の住職に。会津若松の黒川稲荷堂の別当(長官)をつとめます。このように若いときから、天海は流浪の学問僧でした。 
1590年 54歳 関東有数の大寺院、川越の無量寿寺の北院(のちの喜多院)に移り、名を天海と改めます。無量寿寺は円仁(えんにん)が創建しました。天海が11歳で入った会津の龍興寺も円仁が創建したものでした。無量寿寺は天台宗の関東総本山で580の寺を従えていました。しかし、このころは北院も中院も荒れ果てており、南院は墓地を残すのみでした。この年天海は、初めて江戸入りを果たした家康に多くの僧とともによばれました(諸説あり)。  
このとき天海は不老長寿の秘薬として、川越の納豆を献上しました。家康は、この納豆をいたく気に入りました。や がてこの納豆は芝崎納豆とよばれ、江戸の名物になりました。いまも芝崎納豆は、神田神社の参道のみやげ店で販売しています。  
天海はいよいよ喜多院を根拠地に関東に根をおろします。 
1589年 蘆名氏が伊達政宗に攻められます。天海は蘆名盛重とともに白川に逃れます。1590年(?)蘆名盛重が常陸の江戸崎に移るのに従い、江戸崎不動尊院を再興し、住職も兼ねます。  
1599年 63歳 北院の住職・豪海没し、天海は無量寿寺北院の第27世住職に。北院は、のちに喜多院になります。天海の飛躍がはじまります。  
1603年 67歳 天海、家康に登用されます。江戸幕府開幕の年です。天海は神田神社に平将門(たいらのまさかど)の霊を大手町(旧称は芝崎)から今の地に分祀(ぶんし)し、江戸の町の守護神にしました。家康が江戸幕府を開いた年です。将門は朝廷に反抗した朝廷の敵でした。天海は、民衆に人気のあった朝敵の将門を江戸の街を守る神様にすることにより、江戸の民が尊皇思想をもたないようにしくみました。 
1607年 71歳 この年から5年間、家康の依頼で比叡山探題奉行となり、内輪もめの激しかった延暦寺の再興に着手します。探題(たんだい)とは、宗教の最高の権威者のことです。延暦寺の南光坊に住したことから、南光坊天海とよばれました。 偶然ながら、喜多院第57世の塩入亮忠(りょうちゅう、1889−1971、大正大学学長)も南光坊住職をつとめた。 家康は、喜多院を東の比叡山と言う意味で、東叡山という山号にしました。(@年号)  
1608年 駿府城で家康に「山王一実神道(さんのういちじつしんとう)」を講義。この後もしばしば家康に招かれ講義します。 家康(1542-1616)の将軍としての在職期間は1603年から1605年までです。その後は大御所として駿河に移転しました。駿河は、京都と江戸の中間にあり、両方ににらみをきかせることが出来ました。  
1609年 73歳 後陽成天皇に天台宗について説きます。天海は天台宗の権僧正(ごんのそうじょう)に。権僧正は、僧正に次ぐ地位です。  
1610年 天台宗の広学堅義(りゅうぎ)探題に選ばれます。  
1611年 僧正に任じられ、後陽成天皇から毘沙門堂門室の号を賜ります。家康は川越で放鷹(ほうよう)し、天海に面会し、寺領を寄贈します。天海は、家康の指示で、川越の無量寿寺北院を喜多院と改め、喜多院を関東天台宗の総本山に定め、山号を東叡山に変更します。家康は、関東天台宗の全権を喜多院に与えることにより、朝廷側の比叡山の勢力を関東に移すことにします。  
1612年 76歳 家康は、川越の無量寿寺北院を喜多院と改め、寺領300石を寄進し、喜多院を関東天台宗の総本山に定め、山号を東叡山に変更します。家康は、関東天台宗の全権を喜多院に与えることにより、朝廷側の比叡山の勢力を関東に移すことに成功します。家康、喜多院に天海を訪問します。  
1613年 77歳 家康は71歳 天海、家康を駿府城に訪問し、天台論議法要をおこないます。家康は喜多院に参詣し、天海の天台論議法要を聴聞します。天海は、日光山の貫首(かんじゅ)も兼任し、日光山の復興にとりかかります。貫首とは、天台宗の大寺の住職のことです。喜多院で、家康と天海が仏法を談じます。家康は、喜多院に寺領500石を寄進します。  
1614年 78歳 家康は72歳 3月 天海、上洛します。4月 御所で『延喜式』の書写を請います。5月 天海、家康に天台血脈を授けます。6月 9日、13日、17日、22日、25日、18日、天海は、駿府城で家康に天台論議法要をおこないます。7月 3日、18日、21日、27日、駿府城で家康に天台論議法要をおこないます。9月 9日、11日、15日、18日、21日、27日、駿府城で家康に天台論議法要などをおこないます。11月 家康の大阪出陣に従って上洛し、家康のために御所の貴重書を借用します。また、天皇、上皇、家康間の講和につとめます。  
1615年 1月 後陽成天皇より御衣、燕尾帽、鳩杖を賜る。6月 二条城で天台論議法要をおこない、家康が聴聞します。10月 江戸城で天台論議法要をおこないます。  
1616年 80歳 家康は74歳 2月 家康の病気見舞いのため、駿府に急行します。4月 藤堂高虎に受戒します。4月2日 家康、駿府にて、本田正純、金地院崇伝(こんちいんすうでん)、天海の3人に遺言します。家康は、自分の死に及び、病床に3人をよび遺言を残しました。天海もその1人でした。それほどまでに天海は頼りにされていました。天海は、家康の神名を東照大権現(とうしょうだいごんげん)とつけました。伊勢神宮の天照大神(あまてらすおおみかみ)を意識し、東国の天照(あまてらす)という意味で東照大権現にしたのでしょう。東照大権現とは、家康が東照という神となって仮に(=権)あらわれている姿ということです。家康をまつる東照宮は全国に100以上あります。このうち、久能山東照宮、日光東照宮、および仙波東照宮を3大東照宮とよびます。川越の仙波東照宮は、1617年、家康の亡きがらを久能山から日光へ運ぶ途中、わざわざ喜多院へ寄り法要が営まれたことにより建立されました。 4月17日 家康が死去します。 天海は葬儀の導師となり、静岡の久能山に埋葬します。このとき家光は13歳。家光は生涯で9回川越を訪問しています。6月 上洛し、家康の神号を奉請します。7月 大僧正に任じられます。9月 江戸にて家康の神号勅許を復命します。10月 日光山にのぼり、東照社造営の縄張りをはじめます。 
1617年 81歳 2月 家康に神号が朝廷から贈られます。神号は天海の主張通り「東昭大権現」でした。天海は導師となり、家康の遺骸を久能山から日光へ移送。 3月15日 駿府の久能山にのぼり、徳川家康の霊柩をみずから掘り起こし、自分が住職をしている川越の喜多院で実に4日間もの大法要を営み、日光におさめました。ご神霊の行列は1300人にも及びました。葬儀の導師をつとめた天海はこのとき81歳でした。今に続く日光の「千人武者行列」は、久能山から日光へのこのときの行列を模したものです。天海は、伊勢神宮の天照大神(あまてらすおおみかみ)に対して、家康を「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」としました。東の天照(あまてらす)という意味です。権現とは「仮の姿」ということで、ほんとは仏様だが、いまは仮に「東の天照大神だ」ということです。家康をまつる東照宮は、全国に130ほどあります。川越の仙波東照宮が、日光東照宮、久能山東照宮とともに三大東照宮とよばれているのは遺骸のコースが、久能山→川越→日光だったからです。川越は日光からの気のエネルギーの中継所でもありました。 3月23日 川越の喜多院に到着。天海、4日間にわたり法要します。以降、一行1300人は、川越から忍(おし)、館林、佐野、鹿沼、日光へ向かいます。 4月16日 家康の神像を正殿に安置します。儀式は天海の「山王一実神道(さんのういちじつしんとう)」でおこないました。山王一実神道は、すべての神の教えは、日吉(ひえ)山王の教えに帰するという教えです。つまり、すべての神々はみな山王の分身であるということです。天海は山王権現を東照大権現に置き換えました。山王一実神道の宗教上の目的は「現世安穏、後生善処」、つまり徳川幕藩体制と徳川家を支える支柱の確立でした。徳川幕府の日本支配と国家安泰をめざしていました。江戸期を通じ家康は神君とよばれました。神(東照大権現)と君主が一体であることを意味します。「神=君」という思想があったからこそ、戊辰戦争でも官軍は、寛永寺は焼いても、どの東照宮も攻撃しませんでした。 4月17日 ご祭礼をおこないます。 4月19日 法華曼荼羅供  
1618年 4月 江戸城内に東照廟を勧請(かんじょう)し、導師をつとめます。  
1619年 5月 上洛し、桓武天皇の廟塔を修造します。8月 伏見城にて、天台論議法要をおこないます。9月 尾張に東照権現を勧請します。  
1620年 2月 花山院忠長の息子(のちの公海)を養子にします。8月 水戸東照宮の縄張りをおこないます。  
1621年 4月 水戸に東照権現を勧請し、導師をつとめます。10月 紀伊に東照権現を勧請し、導師をつとめます。  
1622年 4月 東照権現7回忌法要を日光山でおこないます。  
1623年 7月 上洛します。12月 上野に寛永寺の造営を始めます。12月 最胤(さいいん?)法親王に書状にて、東叡山に皇子を迎えたいという希望を述べる。2代将軍秀忠(1578-1632、在職1605-1623)死去。家光(1604-1651。在職1623-1651)が後を継ぐ。天海は、秀忠、家光の政治顧問格でした。  
1625年 89歳 天海は江戸城の鬼門封じのために上野に寛永寺を建て、将軍家の菩提寺にしました。山号を喜多院から移し東叡山とし、関東天台宗総本山にします。喜多院の山号は以前の星野山にもどしました。比叡山延暦寺は「延暦時代」に建てられました。それに対抗して、「寛永時代」に建てたので寛永寺にしました。また東叡山(とうえいざん)という喜多院の山号を寛永寺に譲りました。東叡山は、関東天台宗の総本山です。東叡山とは、東(関東)の比叡山という意味です。今の上野公園も含む広大な敷地を保有していました。朝廷側の比叡山は全国を支配していましたが、関東の580ほどの寺社は東叡山寛永寺が治めるようになりました。京都御所を仏教面では比叡山が守り、比叡山を神道面で日吉神社が守っています。江戸では、寛永寺、神田神社が鬼門を封じ、増上寺、日枝神社が裏鬼門を封じるようにしました。 天海はまた「家康=北極星」のしかけを施しました。日光東照宮は江戸城の真北に位置します。江戸の街からは日光の男体山(なんたいさん)が見え、男体山の真上に北極星が輝きます。北極星は宇宙を支配する神で、無数の星が北極星をめぐります。家康は、神となり、江戸を守ることになります。「北極星=家康」のしかけをつくったのが天海です。徳川家では、家康だけが神で、あとの将軍は仏です。家康が「神君」とよばれるのは、神であり、君主であるからです。天海は、家康を「東昭大権現(とうしょうだいごんげん)」という神様にし、250年以上にわたり徳川家の安泰をはかり、日本に平和をもたらしました。世界史上希有なことです。 2月24日 川越・三芳野神社の遷宮の導師をつとめます。7月 徳川家光が日光山を参詣します。法会(ほうえ)をとりおこないます。  
1626年 上洛し、宮中で論議法要をつとめます。8月 公海に京都・毘沙門堂門室をゆずります。 
1627年 9月 上野に東照権現を勧請、導師をつとめます。  
1628年 南禅寺金地院(こんちいん)に東照宮を建立します。4月 日光山で東照大権現13回忌の導師をつとめます。  
1632年 96歳 4月 日光山で東照大権現17回忌の導師をつとめます。徳川家光も日光登山をおこないます。7月 沢庵の赦免を乞い、許されます。  
1633年 8月 二の丸東照宮完成し、遷宮を執務します。  
1634年 6月 上洛します。閏7月 比叡山坂本東照宮の正遷宮をすすめます。10月 比叡山諸堂の復旧に着手します。  
1635年 徳川家光より東照権現縁起の撰述の委嘱を受けます。5月 日光山にのぼり東照大権現仮殿遷宮の儀をつとめます。6月 江戸城・紅葉山東照宮の祭祀をつとめます。  
1636年 100歳 4月 東照社の大造替完成。東照大権現21回忌の導師をつとめます。『東照権現縁起(真名本)』上巻が完成します。 
1637年 101歳 寛永寺において『天海版 一切経』を活版印刷する大事業を計画します。一切経とは、仏教経典の全集で、大蔵経(だいぞうきょう)ともよばれます。12年後に完成します。全6323巻です。  
1638年 102歳 川越大火で、喜多院が全焼します。天海を崇敬していた家光は、ただちに喜多院の再建にとりかかります。家光は、江戸城から大切にしていた「家光誕生の間」「春日局(かすがのつぼね)化粧の間」を移築します。これらは、江戸城の唯一の遺構です。春日局は家光の乳母で、家光を将軍に押し立てた立役者です。  
1640年 『東照宮権現縁起絵巻(仮名本)』全5巻が完成します。『東照権現縁起(真名本)』中巻、下巻が完成します。4月 東照大権現25回忌、日光東照社で導師をつとめます。  
1641年 7月 日光山奥院石造宝塔が完成します。  
1643年10月2日 死去 107歳 5月 日光山に相輪橖(そうりんとう)を造立します。9月28日 五か条からなる遺言を述べます。  
五か条の遺言  
1 東照大権現の神威を増すこと。  
2 天台宗を繁栄させること。  
3 天海の後継者には、親王をむかえること。  
4 京都山科の毘沙門堂の門室を再興すること。  
5 天皇の命に違反する罪で配流された人々の赦免をおこなうこと。  
10月2日 天海、寛永寺で死去します。 数えでは108歳です。徳川家康と同じく日光に埋葬されました。日光の天海蔵には、天海の蔵書1万冊が収められています。慈眼大師(じげんだいし)の追号が朝廷から贈られました。この追号(ついごう)は、天台宗では5人目700年ぶりの出来ごとでした。10月17日 天海の柩が江戸・寛永寺から日光山・大黒山の慈眼堂に埋葬されます。家光の大猷院(だいゆういん)が、近くにあります。公海が天海を後継します。  
1644年 10月 日光山、東叡山、比叡山・坂本に天海の御影堂(みえいどう)が創建されます。  
1645年 日光東照社を東照宮にすることが宣下されます。これ以降、東照宮といえば、日光の東照宮を指すことになります。誤解を避けるときは、日光東照宮と記します。  
1646年 3月 日光東照宮の例祭に朝廷から奉幣使(ほうへいし)が派遣されます。以降、伊勢神宮とともに例幣使として毎年派遣されるようになります。  
1648年 4月 慈眼大師の謚号(しごう、おくり名)が朝廷から贈られます)。  
1654年 後水尾天皇の第3皇子・守澄 法親王(しゅちょう ほっしんのう)が日光山門主となります。東叡山を兼帯します。  
1655年 守澄法親王が第179代天台座主(ざす)につきます。2月 守澄 法親王に「輪王寺宮(りんのうじのみや)」の号が勅賜されます。守澄 法親王は、比叡山、東叡山、日光山の三山管領宮(さんざんかんれいのみや)とよばれます。毘沙門堂が門跡(もんせき)寺院に昇格します。(門跡寺院とは、皇族・貴族が住持をつとめる格式高い寺院のことです。) (上記年齢は1月1日生まれ換算の満年齢です。) 
天海僧正 [東照宮御実紀附録巻二十二]
君御若年の程より軍陣の間に人と成せ給ひ。櫛風沐雨の労をかさね。大小の戦ひ幾度といふ事を知らざれば。読書講文の暇などおはしますべきにあらず。またく馬上をもて天下を得給ひしかどももとより生知神聖の御性質なれば。馬上をもて治むべからざるの道理をとくより御会得まし/\て。常に聖賢の道を御尊信ありて。おほよそ天下国家を治め。人の人たる道を行はんとならば。此外に道あるべからずと英断ありて。御治世の始よりしば/\文道の御世話共ありけるゆへ。其比世上にて好文の主にて。文雅風流の筋にふけらせ給ふ様に思ひあやまりしも少からず。」すでに島津義久入道龍伯などもわざ/\詩歌の會を催し。大駕を迎へ奉りし事有しが。実はさるえうなき浮華の事は御好更にましまさず。常に四子の書。史記。漢書。貞観政要等をくり返し/\侍講せしめられ。また六鞜三略。和書にては延喜式。東鑑。建武式目などをいつも御覧ぜられ。藤原惺窩。林道春信勝等はいふまでもなし。南禅寺の三長老。東福寺の哲長老。清原極臈秀賢。水無瀬中将親留。足利学校三要。鹿苑院兌長老。天海僧正など侍座の折から常の御物語にも文武周公の事はいふもさらなり。漢の高祖の寛仁大度。唐の太宗の虚懐納諌の事ども仰出され。さては太公望。張良。韓信。魏徴。房玄齢等が。己をすてゝ国家に忠をつくしたる言行どもを御賞誉あり。本朝の武将にては。鎌倉右大将家の事を絶ず語らせ給ひしとぞ。いづれにも章句文字の末をすてゝ。己をおさめ人を治る経国の要道に。御心ゆだねられし御事は。実に帝王の学と申奉るべき事にこそ。(卜斎記、駿府記) 
天海大僧正と日光
徳川家康公を日光に東照大権現(とうしょうだいぎんげん)として祀(まつ)り、江戸を護る一大霊場として隆盛の極みに導いたのが、当山第53世貫主(かんす)天海(てんかい)大僧正です。家康公・秀忠公・家光公、三代にわたる徳川将軍から生き仏のように崇められた天海は、並はずれた才能を持つ卓越した天台僧でした。  
同時期に活躍した金地院崇伝(こんちいんすうでん)が黒衣の宰相と呼ばれたのに対し、比叡山南光坊に住したので南光坊天海とも呼ばれ、その活動は宗教方面に限られていました。  
慶長18年(1613)、家康公より日光山貫主を拝命すると、本坊・光明院(こうみょういん)を再興し、関東における天台宗の基盤とすべく日光山の整備に努めました。また、その宗教観は家康に強い影響を与え、天海が初めて家康公に会って以来、幾度となく家康公の為に論議[問答議論によってお経の意味を明らかにする儀式]を開き、また、幾度も家康公に天台の教えを授けています。公が薨(こう)じる前年には、山王一実神道(さんのういちじつしんとう)の伝授もありました。天台の神道であるこの教えに基づき、家康公の御遺骸は久能山から日光山へ遷葬、東照大権現として当地に祀られたのです。「(日光にて)関八州の鎮守(ちんじゅ)とならん」との家康公の御遺言どおり、日光山は、京都における比叡山のように、徳川家の或いは徳川幕府の鎮守となったのです。  
その後も、108歳の長寿といわれる天海大僧正は、寛永16年(1639)、家光公に山王一実神道を相承、寛永8年(1631)、寛永17年(1640)の東照大権現17回忌、25回忌の導師、寛永19年(1642)には日光東照宮で法華曼荼羅供の導師を勤めるなど、寛永20年(1643)10月2日、東叡山寛永寺にて入寂される直前まで精力的に宗教活動を続けました。5年後、慈眼大師の諡号を賜い、朝廷から賜る大師号としては史上最後の日本で7番目のお大師様となりました。  
慶安元年(1648)4月20日、東照大権現33回忌には将軍家光公の日光社参がありました。その際将軍は、天海の廟所[墓所]である慈眼堂にも参拝されています。また、寛永寺慈眼堂にて天海7回忌が奉修された際も出席されたり、家光公の天海を慕う気持ちを窺うことができます。慶安4年(1651)4月20日、家光公は死去の際、遺言の通り、祖父家康公と天海大僧正の側近くに、大猷院殿として葬られました。すなわち、現在日光山には家康公、家光公、天海僧正の廟所(びょうしょ)があり、今尚、参詣の人々が絶えないのです。  
 
会津武士道 / 「ならぬことはならぬ」の教え

 

白虎隊の里  
山川健次郎の故郷、会津若松はなんといっても白虎隊の里である。  
戊辰戦争のとき、健次郎とほぼ同年代の少年たちが、城下を見下ろす飯盛山で自刃した。墓前は焼香が絶えず、会津若松を訪れる人は、必ずといっていいほどここに参拝する。  
墓前に立つと、人間の死がいかに厳粛で尊厳に満ちているかをいつも感じる。  
山川健次郎は国家をもっとも大事にした人間だった。  
戊辰戦争に破れた会津の人は亡国の民だった。国を追われ、放浪の生活を余儀なくされた。そこからはいあがった健次郎は、国家のために命をささげた白虎隊の若者たちを、生涯忘れることはなかった。  
幕末、悲劇の会津戦争を体験した。  
会津藩は幕府の命令で京都守護の大役を仰せつかり、年間1千人もの兵を京都に送った。京都には革命の嵐が吹き荒れていて、すべての人が尻込みをした。あえて火中の栗を会津藩が拾った。  
薩摩、長州との確執が深まると、兵員は2千人近くにもなる。失費も大変で、会津の領内は疲弊した。  
朝廷と幕府との間に立って懸命に努力をしたが、西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允、岩倉具視らとの政争に敗れ、朝敵の汚名を着せられ無念の帰国となった。  
いきつくところは戦争だった。  
会津藩は老若男女も参戦し、必死の戦いを繰り広げたが、3千人の死者を出して惨敗した。  
武士の社会では、戦争もありだった。だが、この戦争には武士の情けがなかった。女分捕り隊や物品略奪隊まで編成し、城下を荒らし回り、死者の埋葬も許さない冷酷無残な戦争であった。それが、人情を大事にする会津人の心をひどく傷つけた。 
郡長正の自刃  
会津藩の教育制度は非常に厳格だった。  
サムライは上、中、下の3つの階級に分かれ、上士の者は下士の者を切り捨てる権利を持っていた。これはえらいことだった。自分の判断で相手を切り捨てることができた。しかしそのときの状況が一方的だったり、逆に上士に誤りがあったりした場合は、切腹だった。サムライには責任があった。たとえ子供であっても刀を差したら、悪ガキではすまなかったのである。  
会津戦争後のことだが、壮絶な切腹をした少年がいた。  
旧家老萱野権兵衛の次男郡長正、16歳である。  
権兵衛は戦争の責任を負って自刃、萱野姓は剥奪され、遺族は郡姓を名乗った。  
会津藩は消滅となり、青森県の地に斗南藩を創設し、会津藩の再興を期したが、極寒の地で困苦を強いられ、とても勉学どころではなかった。  
そこで豊前豊津藩に依頼し、明治3年、6人の少年を豊津藩校育徳館に内地留学させた。長正は「食べ物がまずい」と母親宛てに手紙を書いた。不覚にもその手紙を落とし、育徳館の生徒に読まれてしまった。「会津藩の恥辱」として留学生仲間からも糾弾された長正は、豊津藩と会津藩の剣道の試合で完勝したあと、「武士の名誉を汚した」と潔く自刃した。同じ会津の留学生が介錯した。  
武士の対面を汚した場合、たとえ少年であれ、腹を切る。そうした道徳、倫理観が徹底していた。  
育徳館は現在、福岡県立豊津高校となっており、校庭の一画に長正の碑がある。  
「まことに気の毒なことだった。しかし豊津高校生は、そのことを肝に命じ、今でも長正を慕っている」  
卒業生の一人はそう話し、この人は山川健次郎の胸像建設運動が起こったとき、九州地区の募金を担当した。 
遊びの什  
会津藩の子供は六歳から勉強を始める。  
午前中は近所の寺子屋で論語や大学などの素読を習い、いったん家に戻り、午後、一カ所に集まって、組の仲間と遊ぶのである。一人で遊ぶことは禁止だった。孤独な少年は皆無だった。  
仲間は10人1組を意味する「什」と呼ばれ、年長者が什長に選ばれた。年長者が複数の場合は人柄や統率力で什長が選ばれた。  
遊びの集会場は什の家が交替で務めた。  
1歳違いまでは呼び捨て仲間といって、互いに名前を呼び捨てにすることができた。什には掟があり、全員が集まると、そろって8つの格言を唱和した。  
一、年長者のいうことを聞かなければなりませぬ。  
一、年長者にお辞儀をしなければなりませぬ。  
一、虚言をいうてはなりませぬ。  
一、卑怯なふるまいをしてはなりませぬ。  
一、弱い者をいじめてはなりませぬ。  
一、戸外で物を食べてはなりませぬ。  
一、戸外で婦人と言葉を交わしてはなりませぬ。  
そして最後に、「ならぬことはならぬものです」と唱和した。  
この意味は重大だった。駄目なことは駄目だという厳しい掟だった。6歳の子供に教えるものだけに、どの項目も単純明快だった。  
遊びの什は各家が交替で子供たちの面倒をみたが、菓子や果物などの間食を与えることはなかった。夏ならば水、冬はお湯と決まっていて、そのほかは一切、出さなかった。今日ならば様相はまったく違うだろう。団地の町内会が子供を交替で預かるとする。家によって対応はまちまちになるだろうが、おやつにケーキが出るかもしれないし、アイスクリームが出るかもしれない。  
家によって格差が出てくる。しかし会津藩の場合は、全員平等である。これはきわめていい方法だった。間食はしないので、夕ご飯も美味しく食べることができた。唱和が終わると、外に出て汗だくになって遊んだ。普通の子供と特に変わりはなく、駆けっこ、鬼ごっこ、相撲、雪合戦、氷すべり、樽ころがし、なんでもあった。変わったものに、「気根くらべ」というのがあった。お互いに耳を引っ張り、あるいは手をねじり、または噛みついて、先に「痛い」といった方が負けになった。これは我慢のゲームだった。  
年少組のリーダーである什長は、普通は8歳の子供だった。  
このようにして6歳から8歳までの子供が2年間、什で学びかつ遊ぶことで、仲間意識が芽生え、年長者への配慮、年下の子供に対する気配りも身についた。喧嘩の強い子供、賢い子供、人を引きつける子供、さまざまなタイプの子供がいて、それらの子供が混然と交わることで、お互いに競争心も芽生えた。当然、子供の間には喧嘩や口論、掟を破ることも多々あった。 
厳しい罰則  
その場合、罰則が課せられた。罰則は3つあった。  
一、無念、軽い罰則は「無念」だった。  
「皆に無念を立てなさい」と什長がいうと、子供が皆に向かって「無念でありました」と、お辞儀をして詫びた。  
二、竹箆(しっぺ)、これは手の甲と、手の平のどちらかをびしっと叩く体罰である。手の平の方が重かった。これも什長や年長者が決めた。  
三、絶交、「派切る」と称した。もっとも重い罰だった。これは盗みとか刀を持ち出すとか武士のあるまじき行為の場合に適用された。一度、適用されると、その子供の父か兄が組長のところに出かけ、詫びをいれなければ、解除されなかった。これはひどく重罪で、子供の心を傷つけることもあり、滅多になかった。派切ることは子供ではなく最終的には大人が決めた。何事によらず年長者のいうことには絶対服従だったのだ。  
罰則はたとえ門閥の子供でも平等で、家老の嫡男であろうが、十石二人扶持の次三男であっても権利は同じだった。門閥の子供はここで仲間の大事さに目覚め、門閥以外の子供は無批判で上士に盲従する卑屈な根性を改めることができた。  
「ならぬことはならぬ」という短い言葉は、身分や上下関係を超えた深い意味が存在した。  
会津藩の子供たちは、こうして秩序を学び、服従、制裁など武士道の習練を積んでいった。教育がいかに大事かがよくわかる。それをいかに手間隙かけて、大人たちが行なっていたかである。家庭教育と学校、そして地域社会が一体となって教育に当たった。  
なぜこれほどまでに、きめ細かに教育したのか。その理由は幼児教育の重要性だった。当時は士農工商の階級社会である。武士は農工商の模範でなければならなかった。武士はそれだけではない。一朝、事あるときは、君主のために命を投げ出さなければならないのだ。その覚悟が求められた。もっとも恥ずべきことは弁解や責任逃れのいい訳だった。 
凛々しい母親  
幼児教育は母親が受け持った。どこの母親も子供を厳しく育てた。  
母親たちは素読の稽古から帰ると、子供を先祖を祭る神前か仏壇の前に座らせ、「武士の子は死を恐れてはなりませぬ」と切腹の稽古をさせた。武士はいつでも主君のために命を捨てる覚悟が必要だった。会津人の芯の強さ、頑なさは、こうした武士道教育にあった。  
「婦人と言葉を交わしてはなりませぬ」という一節は、昨今の女性からは「封建的」とすこぶる評判が悪いが、これもこの時代では当たり前の社会風潮だった。  
男女の規範は薩摩も長州も同じである。男子は塾や学校があったが、婦女子は家庭で教育を受けた。親は娘に「凛々しくあれ」と説いた。子供たちは、そのような母親から教育を受けた。  
そして娘が嫁ぐとき、父親は娘に懐剣を渡した。一つは身を守るためだが、もう一つは、何事かあれば、家名を汚すことなく、命を絶てという意味だった。  
主君松平容保が京都守護職に就任した文久2年(1862)以降、母親の力はさらに強くなった。男たちが京都に出かけ、母子家庭になったためである。  
当初は1年交替だったが、薩摩や長州との抗争が激化するとともに、1年が2年になり2年が3年になり、父親の長期不在の家庭が増えた。必然的にこれらの少年の監督は、母親が受け持った。  
実はここが重要なところだった。母親や祖父、祖母が教師がわりだったので、頑固さの中にも優しさがあった。  
会津藩の格言の多くは、どれも現代に通じるものばかりだった。  
煙草のポイ捨て、ゴミの投棄、犯罪の多発、こういうことの戒めを盛り込んだ新「ならぬことはならぬ」を幼児教育に取り入れれば、日本の混乱を救うことができるのではなかろうか。そう思わざるを得ないのである。 
柴司の切腹  
切腹は武士道精神の華といわれた。  
「武士道というは、死ぬことと見つけたり」と『葉隠』にあるように、切腹と武士道は密接不可分の関係になった。  
京都で会津藩士柴司が切腹していた。まだ20歳の青年だった。  
新撰組が池田屋を急襲し、薩長土佐などの浪士を斬った。元治元年(1864)六月五日のことである。風の強い日に京都の町に火を放ち、その混乱に乗じて会津藩の本陣や新選組の屯所を襲い、御所に乱入して孝明天皇を拉致し、革命政権を起こさんとする陰謀を画策していた。これを未然に防ぎ、会津藩と新選組の名前は一気に高まった。  
その5日後の6月10日、祇園に近い茶屋明保野亭に長州勢が集まり密議をこらしていると急報があった。会津藩から柴司ら五人、新選組から15人ほどが茶屋に向かった。  
司は柴五郎の家の分家筋の家柄で、兄弟3人で京都に来ていた。  
明保野亭を取り囲むと、突然、2階から一人の男が刀をふりかざしてかけ降りて来た。男は垣根を飛び越えて逃げようとした。司がその男を追い詰めた。男が抜刀し、今にも切りかからん勢いである。司は槍の名手だった。司は咄嗟に男の胸を突いた。鈍い音がして男は倒れた。  
「拙者は土佐藩の麻田時太郎である。なにゆえの狼藉か」  
男が土佐藩と名乗ったことで、司は愕然とした。長州ではなかったのだ。  
「なぜ逃げられたのか」  
司の問いに麻田は黙ったままだった。  
麻田の懐中に鏡があり、司の槍はそれをかすめて脇腹を刺したので、決して重傷ではなかったが、即刻、土佐藩に知らせなければならない。  
会津藩から土佐藩邸に使者が飛び、状況を説明した。土佐藩は意図的に刺されたとして会津藩に厳重な抗議が申し込まれた。  
土佐藩の兵士のなかには会津藩本陣に攻め込め、と叫ぶものもいる、という。  
会津藩は再三、公用人を土佐藩邸に送り、偶発的な事件であり、土佐藩に対する悪意はまったくないと弁明し、麻田を見舞った。  
ところが土佐藩には戦いで手傷を負わされた者は、自ら切腹する習慣があった。武士にはいずこにも厳しい掟があったのである。  
このことが会津藩に伝えられ、事態は深刻になった。麻田が自刃すれば、司もこのままではすまない。事態を沈静化させるためには、司も自刃せざるを得ないことになる。  
司には何ら問題はなかった。  
しかし土佐藩の事情によって事態は意外な方向に発展し、結局、司も自刃に追い込まれた。武士とはそのようなものであった。兄たちは号泣した。  
藩当局はそのかわり次兄外三郎に10石3人扶持を与え、司に代わりて新規召し出しとした。  
長兄幾馬が母に宛てた次の手紙が残されている。  
母上さま、皆様にはいかばかりか、お嘆き遊ばされたと存ずるが、切腹の儀も残すところなく立派に終わることができました。君のために身命を投げ捨てたことが、諸家にも追々伝わり、皆、感嘆いたしております。このように天下へ英名を顕し、かつ外三郎が召し出しに成り、一家を起こすことができたのは異例のことです。これもひとえに司が士道に生きたために、かような御賞誉に預かったのです。誠に身の余りありがたき次第です。かようなことなので、司のことはあきらめてくださるよう願い奉ります。  
現代語に訳すと、このような手紙だった。母は耐えなければならなかった。このことも、あっという間に城下に伝わった。武士の妻にとって、切腹は他人事ではなかった。いつ自分の子供にふりかかるかわからない身近な問題だった。会津藩では妻たちも覚悟が必要だった。 
安川財閥  
健次郎は生粋の教育者だった。  
人を育てることが、好きだった。現場で生徒や学生と触れ合うことに、喜びを感じた。  
明治39年(1906)9月のことである。  
東京の健次郎の自宅に財界の大物が来ていた。  
北九州の大実業家安川敬一郎である。  
安川は旧福岡藩士の家に生まれ、後、安川家の養子になり、福沢諭吉の慶応義塾に学び、石炭の採掘、販売で成功し、日支鉱業を起こし、日清戦争前後から海外に雄飛した。  
この日の用件は九州に、新しい実業専門学校をつくることだった。健次郎に総長就任を要請するため安川が上京したのである。  
安川がなぜ専門学校設立を考えたのか。  
1つは安川の知性である。安川は藩命によって京都、静岡に留学し、勝海舟に洋書の手ほどきを受け、福沢諭吉に学んだ経歴は、当時の社会では、希有のものだった。  
目にとまった森鴎外の論文にも啓発された。  
明治33年頃、鴎外は第12師団の軍医部長として九州小倉に来ていた。  
鴎外は福岡日々新聞に、「吾れもし九州の富人たらしめば」と題し、国の発展によってもたらされた財は、ため込んだり、無駄使いしたりするのではなく、国益のために使うべきだと訴えた。  
鴎外は日清、日露戦争の特需で利潤をあげた貝島、麻生、安川の「筑豊御三家」と呼ばれる炭田王に世の中のために金を使えと注文をつけた。  
安川はこの記事にも刺激を受けた。  
「これからの日本にとって、大事なことは人材の育成です」  
安川はおのれの信念を述べ、「その学校の総裁になっていただきたい」と単刀直入に、健次郎に協力を求めた。  
子孫のために美田を残すのではなく、国家のために貢献したいという安川の考えに健次郎は共感した。  
かねて私学の振興を考えていた健次郎は、全面的に協力すると安川に約束した。  
アメリカの財界人は教育に利益を還元するが、日本にはそういう気風がない。 
明治専門学校開設  
健次郎は東京帝大の全面的な支援のもとに、総裁として学校の建設に着手、明治42年(1909)、明治専門学校(現在の九州工業大学)を開校させる。  
財界人としての安川と、教育者の健次郎が見事に合体した専門学校だった。  
旧制中学校の卒業生、2百人が受験した。英語の試験は健次郎が自ら担当した。  
英語読解の試験に突然、やせ型の老人が現れたと思うと、流暢な英語で、飛行機が飛んだという新聞記事を読みあげた。それが健次郎だった。はじめて聞く本物の英語に受験生はただポカンと口を開けて老人を見つめるだけだった。  
第1回の人学生は採鉱科20人、冶金科15人、機械科20人の55人だった。  
競争率は4倍、優秀な学生を確保することができた。  
官立の高等工業学校は3年制だが、ここは4年制である。1年多くしたのも高度な技術者を養成するためだった。しかも、ここは全寮制だった。  
4年間、全校生徒が日夜をともにして、人間性豊かな技術者を養成せんと、健次郎が決めたのである。学生は毎朝5時にラッパの音で起床、全員で浴槽に飛び込んで冷水摩擦を行ない、それから朝食、授業開始という規律ある日々だった。  
東京帝大総長を務めた教育界の大御所が、朝から寮につめて生徒の育成指導に当たるのだ。  
周囲の人々は、その熱意に打たれた。  
健次郎でなければ、とてもできないことだった。  
会津藩の出身者のなかで、自分は恵まれた立場にある。  
その恩を社会に還元しなければならない。その思いが、健次郎の情熱をかきたてた。  
日本の近代化は、薩長だけでなしえたものではない。  
会津も頑張っていることを、世に示したかった。  
健次郎は教育方針として、徳目8カ条を定めた。それは会津藩校日新館の教えがベースになっていた。  
一、忠孝を励むべし。  
一、言責を重んずべし。  
一、廉恥を修むべし。  
一、勇気を練るべし。  
一、礼儀を濫るべからず。  
一、服従を忘るべからず。  
一、節約を励むべし。  
一、摂生を怠るべからず。  
列強に伍して世界に飛躍するために、必要なことばかりだった。明治専門学校の仮開校式で健次郎は、生徒と父兄に徳目8カ条を詳しく説いた。 
智育と徳育  
生徒諸君、入学おめでとう。  
本校は官立の高等工業学校に、決してひけはとらない学校である。  
諸君は設立者の安川氏の恩を決して忘れてはならない。  
わが校の方針は智育と徳育である。  
従来、学校は橋をかける人、鉄道を敷設する人、船に乗る人、法律に明るい人、鉱山を開く人など仕事のできる人の養成に当たってきた。しかし智育に重きを置き過ぎた結果、道義心がひどく悪くなった。そこで、わが明治専門学校は技術に通じたジェントルマンを養成することになった。諸君はこのことを、くれぐれも忘れないでもらいたい。  
本校の重点事項は、次の通りである。  
一、忠孝を励むべし。  
忠君と孝行は人間、片時も忘れてはならない。今日の若者は孝行を間違えている。父母に対して愛と敬をもたなければならない。世界の強国はイギリス、ロシア、イタリア、オーストリア、ドイツ、フランス、アメリカ、日本である。このなかで国力は日本が一番下である。しかし愛国心は一番である。愛国心を失ったとき、日本民族は滅亡する。  
一、言責を重んずべし。  
いったん口に出したことは、必ず実行することである。日本国民は士族平民の区別なく、国防の任に当たっているから皆、武士である。武士に二言はない。これを忘れてはならない。外国から日本人は当てにならないといわれてはならない。  
一、廉恥を修むべし。  
卑怯なことをしてはならない。おのれの利益のために、他人の利益を顧みず、不正なことをしてはならない。何事も、自分の良心に従って行動することである。  
一、勇気を練るべし。  
勇気は決して粗暴の振る舞いではない。国家のために一命をなげうつ勇気である。勇気を練るには、狼狽しないこと、我慢すること、おのれに克つこと、考えることである。  
一、礼儀を濫(みだ)るべからず。  
礼儀を軽く見てはならない。江戸時代、礼儀は大変重いものだった。ところが明治維新の戦乱で、社会の秩序がくずれ、礼儀を重んずることが薄れた。  
一、服従を忘れるべからず。  
学校では師を敬わなければならない。わが明治専門学校の生徒は、先生に絶対服従である。それを忘れたときは、相当の処分を課す。  
一、節約を励むべし。  
奢侈は亡国のもとである。ローマは大昔、盛んであったが、人民が奢侈に流れたため、滅びた。日本は貧乏国で20幾億という借金がある。同胞の数が5千万とすると、ひとり40円の借金である。もし明治37年に20幾億の借金があったなら、ロシアに対して、どうすることもできなかったであろう。ロシアは日本に対して復讐を考えており、わが国は節約し、いざという場合の国難に備えなければならない。  
一、摂生を怠るべからず。  
第一に飲食に注意する。第二に清潔にする。第三に運動をする。これが大事である。追々、剣術、柔術、弓道場、テニスコート、水泳プールを整備する。  
一、兵式体操  
諸君はいったん緩急あれば、国防に従事しなければならない。兵式体操はもっとも大事な教科である。  
一、英語  
官立高等工業学校の英語は、申し訳程度のものである。わが校は英語を重視している。それは外国語を知らずして、新しい知識を得ることはできないからである。諸君は中学校で英語を学んでいるのだから、英語、フランス語などを自由に使えるようにしなければならない。諸君の入学試験の英語の答案はわが輩が調べたが、英語の力が弱かった。学校としては、1クラスの生徒数を30人から25人に減らし、英語の勉強に力を入れるので、生徒は十分に勉強してもらいたい。  
これらの方針に不同意の者は、入学を取り消してもらいたい。健次郎の訓示は、厳しいものだった。新入生は緊張して健次郎に見いった。学校の方針に従わない者は退学させる、と健次郎は厳しくいった。父兄も度肝を抜かれた訓示だった。こうして明治専門学校は開校した。寮生活を通じて先輩、後輩の結び付きも強く、この学校は独特の校風を形成していった。  
 
俳句・川柳

 

「俳句」と「川柳」、いずれも今日愛好されている和歌であり、これらを知らない人はいないであろうし、俳句と聞いて芭蕉の句の一つくらいは頭に浮かぶのではないだろうか。本項に入る前に、背景として「連歌・連句」、更には「短歌」などを参照していただけると古く風俗歌謡など和歌からの流れが分かるので、本項では俳句と川柳の名が史実上も使われる時代、主に江戸時代以降から入り、現代までの流れを追ってみることにする。  
俳句が成立するための源流は「連歌(れんが)」にあるのだが、連歌は複数の連歌師の共同作業により長大な詩歌が制作されるものなので、17音(5・7・5)の俳句とは形式的に程遠いものである。しかし伝統的で格調の高い連歌から卑俗・滑稽味の強い「俳諧(はいかい)」が生まれ、俳諧の練習又は初級形態として2句間のみの付合(つけあい)である「前句付(まえくづけ)」から派生した懸賞文芸が「雑俳(ざっぱい)」であり、その1つが「川柳(せんりゅう)」であり、連歌・俳諧の第1句である「発句(ほっく)」が独立して「俳句」が誕生した。分かりづらいので図式化すると、  
短歌→連歌→俳諧→発句→俳句  
短歌→連歌→→→発句→俳句  
短歌→連歌→俳諧→雑俳→川柳  
となる。連歌と俳諧は形式的には非常によく似ているのだが(というよりほぼ同じ)、味わってみると2つの違いが素人でもはっきり解かるほど明確である。簡単に述べるなら、主に文語を使用し季語・切れ字等の連歌の式目を踏襲し、自然を取材することの多いのが俳諧であり、口語を使用するので俳言(漢語・俗語)も使用でき、題材や表現が人間そのものに向けられたものが川柳、と言えるかもしれない。これは俳句が連歌の中でも滑稽味をもつ俳諧の連歌の中の「発句」の部分が独立したため滑稽味を含み、かつ場の挨拶という性格を持つため季語が入り、後に続く平句のために余韻を残す。一方、同じ形式でも川柳に季語や余韻が不要なのは、同じ連歌でも平句(4句目以降)の部分が独立したことによる。  
芸能の世界では、その芸を表すために用いる動詞が各々決まっているものが多い。例えば、落語は「噺す」、浪曲は「唸る」、講談は「語る」となり、本項の俳句は「詠む」、川柳は「吐く」「ものす」などと表現されるという。和歌は総じて「詠む」と表されるため、俳句は和歌に近いもの、川柳は定型詩の形で心情・本音を吐き出すもの、と捉えることができそうである。以上、2つの文芸の派生と違いを基礎知識として踏まえ、各々の歩んできた歴史に入ろうと思う。 
俳句(はいく)  
現在、江戸時代に生きた芭蕉が俳人として最も有名であるが、芭蕉の時代は俳句という用語はなく、「俳諧の連歌」もしくは「連歌」の第一句である「発句(ほっく)」を独立させて鑑賞するという試みから5・7・5の17音が長大な連歌から単独のものとなった。要するに芭蕉は「発句」を詠んでいたのであり、厳密に言えば俳諧師・連歌師であり、俳諧の「貞門派」に属していたことから言えば俳諧師である。それまでの俳諧・連歌双方にとって飛躍的に大きな変革をもたらし、「蕉風」と呼ばれる独自の作風を提示したことで知られる。芭蕉は後に再度触れることにして「俳句」という名称の成立から入る。  
江戸時代を通じて俳諧は連歌形式が主流であり、発句のみを抽出して鑑賞することはあっても不動の地位にあったが、明治時代に入ると、正岡子規により従来の座の文芸である俳諧連歌から発句を独立させた個人の文芸として、近代の「俳句」が確立された。この俳句成立より後は、伝統的な座の文芸たる連歌の俳諧を近代文芸として行う場合、俳句と区別して「連句」と呼ぶようになったという。子規により提唱された「俳句革新」の動きは、それまでの連歌・俳諧に大きな転機をもたらすことになる。  
国を挙げて近代化に向かっていた明治維新後の新風と混乱の中、連歌形式の文学(連歌・俳諧)を西洋近代文学の視点から「文学に非ず」と否定した正岡子規(まさおかしき)の「連俳非文学論」に端を発する。時流に乗り、俳句が近代国民文学として興隆し、700年余りも広く国民各層に親しまれ続けた連歌・俳諧は日陰に追いやられた古い文学として軽視されるようになった。連歌形式は座の文芸であるが故に感興に重点が置かれ、単なる個性の表現になり得ない社交的遊戯とも見られたためである。子規の俳句の弟子でもあった高浜虚子(たかはまきょし)は、師に反して俳諧を擁護することもできず、俳諧を「聯句(れんく)」と言い替え、子規の没後には「聯句」を「連句」にすり替えて「連句擁護論」を展開、提唱した。それより俳人が「連句」と称するようになって定着し、追随して文学者らも俳諧を「連句」と呼ぶようになったという。俳句が興隆して1ジャンルを確立し、「俳諧」が俳句や連句を含めた総称的な用語になったため、連句として独立させようとの意図があったためで、現在「俳諧」と言えば発句(後の俳句)と連句(連歌)形式の双方が含まれる。江戸時代以前は「俳諧」と言えば連句(連歌)形式のみを指す言葉であったし、芭蕉は「俳句」の祖であると一般に言われるが、連歌形式の文学の完成者もしくは大成者という表現もできるだろう。  
俳句の成立について触れてみることにする。  
江戸時代、「俳諧(の連歌)」が貞門派、談林派を経て松尾芭蕉により磨かれ、「蕉風」と呼ばれるような詠風を確立し、ほぼ頂点を究めた頃、俳句は世の中に流行するようになり、俳諧師数人が集まり、各々が持ち寄った句を匿名で回し読みし、自分の作品以外で良いと感じたものに投票し、得点が高い順に賞品が与えられるといった遊戯的な「点取俳諧」が始まった。こうした催しを集団で行ったことから俳句が始まったため、俳句は連歌と同様に「座の文芸」であるとされていた。しかし芭蕉が発句を芸術の域にまで高めたことにより、座の文芸から個の文学として見直され、芭蕉以降の単独で詠まれた「発句」を、後世になり俳句の範疇に含めることになった。後世、というのは明治時代初期の、正岡子規の「俳句革新」のことである。  
次に俳句という後の成立に触れてみよう。  
明治期に入り、正岡子規が「俳句分類」の偉業を行うのであるが、芭蕉の芸術性に注目したことで「俳諧から俳句へ」の革新が起こる。この辺りは「連歌・連句」の項でも触れているのだが、子規により提唱された「俳句革新」の動きは、それまでの連歌・俳諧に大きな転機をもたらすことになる。子規の提唱する俳句革新のうねりは、活版印刷による新聞が普及し始めた時期と重なって世に広まっていった。  
国を挙げて近代化に向かっていた明治維新後の新風と混乱の中、連歌形式の文学(連歌・俳諧)を西洋近代文学の視点から「文学に非ず」と否定した正岡子規(まさおかしき)の「連俳非文学論」に端を発する。時流に乗り、俳句が近代国民文学として興隆し、700年余りも広く国民各層に親しまれ続けた連歌・俳諧は日陰に追いやられた古い文学として軽視されるようになった。連歌形式は座の文芸であるが故に感興に重点が置かれ、単なる個性の表現になり得ない社交的遊戯とも見られたためである。子規の俳句の弟子でもあった高浜虚子(たかはまきょし)は、師に反して俳諧を擁護することもできず、俳諧を「聯句(れんく)」と言い替え、子規の没後には「聯句」を「連句」にすり替えて「連句擁護論」を展開、提唱した。芭蕉は「俳句」の祖であると一般に言われるが、連歌形式の文学の完成者もしくは大成者という表現もできるだろう。  
俳句界において芭蕉と子規の登場は、極めて重要であったといえる。この二人について少し掘り下げてみよう。  
「松尾芭蕉(まつおばしょう)」は江戸時代を代表する俳諧師・俳人であり、「俳聖」とも称される。本名は宗房(むねふさ)、当初の号は本名を、のちに別号で桃青(とうせい)と称し、芭蕉は「はせを」と本人は称していたようだ。1644年に伊賀(三重県)上野に生まれ、30才の時に江戸へ出て定住、1680年深川に草庵を結んで活動し、1694年に大坂にて没した。当時流行していた語呂合わせや冗談を多用した作品を初期に書いていたが、貞門俳諧・談林俳諧から漢詩文調「虚栗(みなしぐり)調」の作風を経て、思想性を重視した「蕉風」と呼ばれる独自の作風を確立した。芭蕉は荘子の思想の影響を強く受けたと言われ、諧謔・憂鬱・恍惚・混迷などの人間の所為を誇張して作品の中で表現することで自然(造化)の力の偉大さを浮き彫りにするのだそうだ。筆者は俳句に造詣がない為、これ以上俳風については語ることができないのだが、一般的に蕉風は「匂い付け」と呼ばれる付け合いで知られ、座にいる人が共に感じ取れるような余情・風韻を重視して付け方に生かしたという。生前に「七部集」と呼ばれる選集を後見した以外、「野ざらし紀行」「鹿島紀行」「笈の小文」「更科紀行」「奥の細道」などの俳諧紀行を含め、句集は全て死後に刊行されている。  
「蕉門」と呼ばれている門下から「蕉門十哲」を初めとする多数の優秀な俳人が出ているので、その一部を紹介しておく。  
宝井其角(たからいきかく)第一の弟子である其角は奇抜な作風で知られているが、彼は「江戸座」と呼ばれる一門を開き、江戸俳諧で一番の勢力となった。  
服部嵐雪(はっとりらんせつ)芭蕉の評価・信頼も高く、蕉門の最古参の一人で蕉門にあって其角と並び双璧をなした。雪門の祖となり、江戸俳壇を其角と2分した。  
森川許六(もりかわきょりく)画に通じ、絵画に関しては芭蕉も許六を師と仰いだという。許六の名は芭蕉が与え、槍術・剣術・馬術・書道・絵画・俳諧の6芸に通じていたことから、六の字を付けたとも言われる。  
向井去来(むかいきょらい)芭蕉から最も信頼され、非常なる人格者であったという去来は、俳人としての力量も高く、蕉風の真髄を体得し高雅清寂の作風で知られている。俳論「去来抄」が特に有名で、芭蕉研究の最高の書とも言われる。  
この他、蕉門十哲に入ったり入らなかったりするのだが、各務支考(かがみしこう)は美濃国(岐阜)を中心に活躍したので、一派は「美濃派」と呼ばれた。岩田涼菟(いわたりょうと)、中川乙由(なかがわおつゆう)らは伊勢国(三重)を中心に活躍し、その軽妙な俳風は「伊勢派」と呼ばれ、各務支考の美濃派とともに「支麦調」とも称された。河合曾良(かわいそら)も蕉門十哲に入ったり入らなかったりするが、地誌に詳しい教養人であり、芭蕉の「奥の細道」の旅に同行したことで有名であるが、徳川幕府との関連があったりで身辺がすっきり分からない人物のようだ。  
一方の「正岡子規(まさおかしき)」だが、短命でありつつも生涯を「俳句」に捧げた人物であるように思う。俳句革新運動については先に述べたので、子規の生涯と俳風について探ってみた。伊予松山藩(愛媛)に1867年に生まれ、時の自由民権運動の影響を受け政治家を志し、好奇心・探究心共に旺盛であったため松山を飛び出し、中学中退で江戸に上京する。東京大学予備門に合格したが、喀血をして以来療養もあって落第を繰り返した結果退学し、「子規」(ホトトギスの漢名)と号し、俳句の道に転じて「俳句革新」を志した。日本新聞社に入社し、「日本」紙上を中心に俳句、短歌の革新運動を進めるべく文学活動を行い、日清戦争に従軍記者として参加して大量喀血して以来、病床生活となった。病床でも後進を育てつつ文学活動を続け、形式的で平凡な句を「月並俳諧」と批判し、また古今集を否定して万葉集を高く評価するなど、写実・写生文を提唱して歌壇に新たな流れを作った。子規は歌人・俳人としてのみならず文学者として多岐にわたる活動を行い、中でも特に文学界を覆すほどの俳句・短歌評論を世に広めた功績で有名である。  
さて、俳句と言う用語を用いたのは明治初期の正岡子規で、季語・季題という言葉も明治以降の用語で、芭蕉は「季」と呼んでいる。季語という語を初めに用いたのは水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)、季題と呼び始めたのは高浜虚子のホトトギス派であったことからも、子規から続くホトトギス派が明治期以降の俳句の流れの中心にあったと言えるだろう。正岡子規が俳句の大綱をまとめ、その弟子・高濱虚子が俳誌「ホトトギス」を通じて「花鳥諷詠」を主張し、大きく発展させた後、河東碧梧桐や水原秋桜子らの分派が出来上がったとされ、現代でもホトトギスは最大の俳句結社として多くの門人を抱えているという。  
その後2度目の俳句革新のうねりが1931年、水原秋桜子がホトトギスを脱退し「馬酔木」を独立させたことから生じることになる。秋桜子の脱退は当時大きな衝撃をもたらし、若い俳人達は「新興俳句」と呼ばれたことにより過激な俳句革新運動を起こし、伝統的季語制度を拒否し、西洋文学を模範にして俳句の近代化を模索した。「新興俳句運動」では社会主義・ダダイスムなどに共感する者もあったが、全体として日本の因習的な文化・伝統的な社会構造に反発し、自由な価値観・西洋の個人主義に感化された若者が中心であった。新興俳句の俳句形式は「有季定型」「無季定型」「無季自由律」が鼎立することになったが、これが後に第二次世界大戦における反軍・反戦へと進み、戦況が深刻化する中、特別高等警察、いわゆる「特高」による言論弾圧の対象になった。新興俳句系俳人の自由主義的傾向が軍国政策に反する、として治安維持法を濫用して集団検挙し、投獄した事件として「京大俳句」事件は有名である。  
戦後、特に伝統的な俳句の方法論を重視する作家らは、新興俳句の価値を否定し、永田耕衣や平畑静塔らによって新興俳句に対する「根源俳句」の運動を開始したが、現在まで俳句界は無目的・無主義というような状況が続いているのは、国際化・情報化が急速に進行し、日本人の価値観が一定しないためではないかとも言われている。急速な文明発展により文化の多様化が広がり続ける昨今では、日本人同士であっても価値観・世界観の共有が困難になってきているのだという。世界最短の詩である「俳句」を詠み、味わうために必要とされる共通の世界観―季題や季語も含まれるが、古来より詠まれてきた句や歌の中に現される感覚―を現代人である我々が詠み手と同レベルに感受できるものだろうか。語に対するイメージも人により世代により違うものだろうが、ある方向に導く模範的・教科書的なものとして時代とともに蓄積された歌や句があったからこそ、17字での表現が可能であったのではないだろうか。 
川柳(せんりゅう)  
「川柳」という名が定着するのは明治後半以降であり、柳風狂句・川柳狂句、季なし俳句などと呼ばれていたというが、そもそも「川柳」は柄井川柳(からいせんりゅう)という江戸時代中期に実在した人名に由来する。川柳が誕生する頃の江戸中期から始まった「雑俳」と呼ばれる庶民文芸がある。雑俳は雑多な俳諧の意味の名であり、「前句付」「洒落附」「物者附」「冠沓附」「笠附」「地口」「三段謎」「語呂合せ」「折句」など多様な短詩・語句遊びがあり、機知を楽しむ点が共通している。中でも「前句付」という興行は、出題の前句が77なら575、575なら77の付け句を複数人が解答として出し、良いものに賞品を出すという遊戯的競技であり、川柳はその点者(句の優劣を決める宗匠)であった。点者は大勢いたが、解答数を多く集めるような番付率の高い点者が人気を博しており、柄井川柳は3と5の付く日に興行を行い、「万句合」も興行するなど約30年間、人気の頂点にあったようだ。前句付興行の流行を決定的なものにしたのが、「お題無・575形式の面白くて穿った短詩の募集」を彼が始めたことによるようだ。これが「川柳」と呼ばれ、選んだ作品は「俳風柳多留(はいふうやなぎだる)」という著書になって出版され、当時江戸のベストセラーとなったという。柄井川柳は72歳で没したが、彼が評した句は300万句にも及び、現在も親しまれる多数の名句を世に残した。彼が点者であった約30年間の選句を「古川柳」と呼び、この初期の川柳は「機知」の文芸とも言われ「うがち・おかしみ・かるみ」の三要素が特徴とされる。すなわち、句の軽さに加えて句の内容が穿っている(人情の機微などへの着眼の良さ)ことから生じる可笑しみのことであり、秀句・名句が多いのも、柄井川柳が点者として非常に優れていたことの証明でもあろう。  
柄井川柳没後、彼ほどの優れた選者が出なかったこと、言論・出版への厳しい縛りなどの諸事情もあって川柳の文学性が低下し、江戸・文化年間以降の、句会作品として主に発表されたものは「狂句(きょうく)」と呼ばれている。江戸期の作品は「江戸川柳」とも呼ばれるが、古川柳の機知に対して「形式機知」の文芸であると評されている。天保年間(1830〜1843年)に行われた天保の改革以後、風俗匡正により5世・川柳が「柳風式法」を定めて表現上の事項を制限し、形式の枠を設けたことなどにより内容的に堕落して形骸化し、言葉の「掛け合わせ」を中心とする表面的面白さを競う娯楽になってしまった。無論、古川柳時代以降の歳月のうちに題材・方法的にマンネリズムが浸食し、観念的な作品が横行するなどの背景もあるが、川柳派は衰亡の危機に直面し、川柳の暗黒時代とも呼ばれている。一人の点者と全部が作者という万句合の形態が、次第に複数選者による地域別の月次句会に変容してゆき、絶大な人気を誇った「柳多留」も句会報と成り下がった。  
その後、明治35年以降の文芸復興の波に乗り阪井久良伎(さかいくらき)が現れて子規の短歌、俳句改革の影響を受けて「新川柳運動」を起こし、古川柳の文芸価値を高く評価しつつ、続く狂句の無趣味・低俗を論難する気運が高まった。同時期に井上剣花坊(いのうえけんかぼう)が新聞「日本」に川柳選者として枠を与えられて大ヒットを呼び、柳樽寺派の先達としても活躍を始めたことで、新川柳(現在の川柳)として再興を始めた。久良伎との剣花坊の2人は「川柳中興の祖」と称され、中心となって狂句の「語戯」から新川柳の「文芸」へと生まれ変わらせた。更に戦中・戦後にかけて「六大家」と呼ばれる次世代が登場し、また敗戦によって思想・言論への弾圧が無くなったこともあり、川柳の題材の制約は無くなり、人事・世帯・人情までも扱うという幅広いものになった。  
今日、老人の娯楽的世界としてマンネリ化していた川柳も、1987年の第一生命の企画コンクールとして始まった「サラリーマン川柳」以降、公募川柳が興隆し、一般庶民でも気楽に作品を作ることができる時代になった。流行や世相を巧みに反映させた川柳が数多く集まり優秀作品が選考されるという、初代川柳時代に似た形式が再来したのである。 
まとめ  
文学・文芸論の流れや世情に翻弄され、形式は変わらずとも評価する目が常に遷り変わりつつ現在に至った俳句と川柳であるが、現代という時代背景の下、より近いものになってきた感がある。もちろん冒頭で述べたように味わいは本来的に異質であり、現在もその流れを負っているのだけれども、いずれも無風状態にあり、個々の自由が作風に生かされ、評価もまた同様であるように思われる。しかし川柳はその歴史からもより庶民に近くて誰でも参加できるような敷居が低いイメージを有し、俳句は専業者に俳人と名が付くように文学的イメージが濃い。俳句の文末に述べたように「共通の世界観」がこの2つの文芸の壁のようにも思われ、それこそがこの2つには必要不可欠の条件であり、また今後の課題であるように思う。一世紀あまり先の俳句・川柳がどのような形態になり、どんな作品が「顔」となっているか、生きていれば覗いてみたい気がする。  
 
貝原益軒・養生訓

 

益軒は寛永7年(1630)年、福岡城内に生まれた。江戸時代、三代将軍徳川家光のころである。名は篤信、若いころは医師として剃髪して柔斎、後に蓄髪し損軒と号した。益軒と号するようになったのは晩年のことである。19才のときに黒田藩に仕えたが、22才のときに藩主の怒りにふれて7年のあいだ浪人生活を送っている。この間、江戸、京、大阪、長崎に学び、浪人生活は「民生日用の学」を志させることになった。出仕できるようになってからも、藩費によって京都に留学して朱子学および本草学を学んでいる。帰藩後は朱子学派の儒者として藩主や藩士に儒書を講義するとともに、「黒田家譜」や「筑前国続風土記」を編纂し、朝鮮通信使の応対なども行っている。自然科学については「大和本草」を刊行している。自宅に花や野菜を栽培してその経験に基づいて「花譜、菜譜」を刊行したほか、近隣にすむ農学者宮崎安貞に中国の農書を講義した。益軒は自らの学問を「民生日用の学」と強調、晩年には教訓書「養生訓」「和俗童子訓」をあらわして独特の精神修養法を提示した。儒書としては「大疑録」が重要である。これらの大部分は黒田藩を辞した後、70歳以降に出版されたものである。彼の著作は全部で六十部二百七十余巻に及ぶ膨大なものである。 
巻第一 / 総論上 

 

(101)人の身は父母を本とし天地を初とす。天地父母のめぐみをうけて生まれ、又養はれたるわが身なれば、わが私の物にあらず。天地のみたまもの(御賜物)、父母の残せる身なれば、つつしんでよく養ひて、そこなひやぶらず、天年を長くたもつべし。是天地父母につかへ奉る孝の本也。身を失ひては、仕ふべきやうなし。わが身の内、少なる皮はだへ(皮膚)、髪の毛だにも、父母にうけたれば、みだりにそこなひやぶるは不孝なり。況(いわんや)大なる身命を、わが私の物として慎まず、飲食・色慾を恣(ほしいまま)にし、元気をそこなひ病を求め、生付たる天年を短くして、早く身命を失ふ事、天地父母へ不孝のいたり、愚なる哉。人となりて此世に生きては、ひとへに父母天地に孝をつくし、人倫の道を行なひ、義理にしたがひて、なるべき程は寿福をうけ、久しく世にながらへて、喜び楽みをなさん事、誠に人の各願ふ処ならずや。此如くならむ事をねがはば、先(まず)、古の道をかうが(考)へ、養生の術をまなんで、よくわが身をたもつべし。是人生第一の大事なり。人身は至りて貴とくおもくして、天下四海にもかへがたき物にあらずや。然るにこれを養なふ術をしらず、慾を恣にして、身を亡ぼし命をうしなふ事、愚なる至り也。身命と私慾との軽重をよくおもんぱかりて、日々に一日を慎しみ、私慾の危をおそるる事、深き淵にのぞむが如く、薄き氷をふむが如くならば、命ながくして、ついに殃(わざわい)なかるべし。豈(あに)、楽まざるべけんや。命みじかければ、天下四海の富を得ても益なし。財の山を前につんでも用なし。然れば道にしたがひ身をたもちて、長命なるほど大なる福なし。故に寿(いのちなが)きは、尚書(=書経)に、五福の第一とす。是万福の根本なり。  
(102)万の事つとめてやまざれば、必(ず)しるし(験)あり。たとへば、春たねをまきて夏よく養へば、必(ず)秋ありて、なりはひ多きが如し。もし養生の術をつとめまなんで、久しく行はば、身つよく病なくして、天年をたもち、長生を得て、久しく楽まん事、必然のしるしあるべし。此理うたがふべからず。  
(103)園に草木をうへて愛する人は、朝夕心にかけて、水をそそぎ土をかひ、肥をし、虫を去て、よく養ひ、其さかえを悦び、衰へをうれふ。草木は至りて軽し。わが身は至りて重し。豈我身を愛する事草木にもしかざるべきや。思はざる事甚し。夫養生の術をしりて行なふ事、天地父母につかへて孝をなし、次にはわが身、長生安楽のためなれば、不急なるつとめは先さし置て、わかき時より、はやく此術をまなぶべし。身を慎み生を養ふは、是人間第一のおもくすべき事の至(り)也。  
(104)養生の術は、先(ず)わが身をそこなふ物を去べし。身をそこなふ物は、内慾と外邪となり。内慾とは飲食の慾、好色の慾、睡の慾、言語をほしゐままにするの慾と、喜・怒・憂・思・悲・恐・驚の七情の慾を云。外邪とは天の四気なり。風・寒・暑・湿を云。内慾をこらゑて、すくなくし、外邪をおそれてふせぐ、是を以(て)、元気をそこなはず、病なくして天年を永くたもつべし。  
(105)凡(およそ)養生の道は、内慾をこらゆるを以(て)本とす。本をつとむれば、元気つよくして、外邪をおかさず。内慾をつつしまずして、元気よはければ、外邪にやぶれやすくして、大病となり天命をたもたず。内慾をこらゆるに、其(の)大なる条目は、飲食をよき程にして過さず。脾胃をやぶり病を発する物をくらはず。色慾をつつしみて精気をおしみ、時ならずして臥さず。久しく睡る事をいましめ、久しく安坐せず、時々身をうごかして、気をめぐらすべし。ことに食後には、必数百歩、歩行すべし。もし久しく安坐し、又、食後に穏坐し、ひるいね、食気いまだ消化せざるに、早くふしねぶれば、滞りて病を生じ、久しきをつめば、元気発生せずして、よはくなる。常に元気をへらす事をおしみて、言語をすくなくし、七情をよきほどにし、七情の内にて取わき、いかり、かなしみ、うれひ思ひをすくなくすべし。慾をおさえ、心を平にし、気を和(やわらか)にしてあらくせず、しづかにしてさはがしからず、心はつねに和楽なるべし。憂ひ苦むべからず。是皆、内慾をこらえて元気を養ふ道也。又、風寒暑湿の外邪をふせぎてやぶられず。此内外の数(あまた)の慎は、養生の大なる条目なり。是をよく慎しみ守るべし。  
(106)凡(すべて)の人、生れ付たる天年はおほくは長し。天年をみじかく生れ付たる人はまれなり。生れ付て元気さかんにして、身つよき人も、養生の術をしらず、朝夕元気をそこなひ、日夜精力をへらせば、生れ付たる其年をたもたずして、早世する人、世に多し。又、天性は甚(はなはだ)虚弱にして多病なれど、多病なる故に、つつしみおそれて保養すれば、かへつて長生する人、是又、世にあり。此二つは、世間眼前に多く見る所なれば、うたがふべからず。慾を恣にして身をうしなふは、たとえば刀を以て自害するに同じ。早きとおそきとのかはりはあれど、身を害する事は同じ。  
(107)人の命は我にあり、天にあらずと老子いへり。人の命は、もとより天にうけて生れ付たれども、養生よくすれば長し。養生せざれば短かし。然れば長命ならんも、短命ならむも、我心のままなり。身つよく長命に生れ付たる人も、養生の術なければ早世す。虚弱にて短命なるべきと見ゆる人も、保養よくすれば命長し。是皆、人のしわざなれば、天にあらずといへり。もしすぐれて天年みじかく生れ付たる事、顔子などの如なる人にあらずむば、わが養のちからによりて、長生する理也。たとへば、火をうづみて炉中に養へば久しくきえず。風吹く所にあらはしおけば、たちまちきゆ。蜜橘をあらはにおけば、としの内をもたもたず、もしふかくかくし、よく養なへば、夏までもつがごとし。  
(108)人の元気は、もと是天地の万物を生ずる気なり。是人身の根本なり。人、此気にあらざれば生ぜず。生じて後は、飲食、衣服、居処の外物の助によりて、元気養はれて命をたもつ。飲食、衣服、居処の類も、亦、天地の生ずる所なり。生るるも養はるるも、皆天地父母の恩なり。外物を用て、元気の養とする所の飲食などを、かろく用ひて過さざれば、生付たる内の元気を養ひて、いのちながくして天年をたもつ。もし外物の養をおもくし過せば、内の元気、もし外の養にまけて病となる。病おもくして元気つくれば死す。たとへば草木に水と肥との養を過せば、かじけて枯るるがごとし。故に人ただ心の内の楽を求めて、飲食などの外の養をかろくすべし。外の養おもければ、内の元気損ず。  
(109)養生の術は先(ず)心気を養ふべし。心を和にし、気を平らかにし、いかりと慾とをおさへ、うれひ、思ひ、をすくなくし、心をくるしめず、気をそこなはず、是心気を養ふ要道なり。又、臥す事をこのむべからず。久しく睡り臥せば、気滞りてめぐらず。飲食いまだ消化せざるに、早く臥しねぶれば、食気ふさがりて甚(はなはだ)元気をそこなふ。いましむべし。酒は微酔にのみ、半酣をかぎりとすべし。食は半飽に食ひて、十分にみ(満)つべからず。酒食ともに限を定めて、節にこゆべからず。又、わかき時より色慾をつつしみ、精気を惜むべし。精気を多くつひやせば、下部の気よはくなり、元気の根本たへて必(ず)命短かし。もし飲食色慾の慎みなくば、日々補薬を服し、朝夕食補をなすとも、益なかるべし。又風・寒・暑・湿の外邪をおそれふせぎ、起居・動静を節にし、つつしみ、食後には歩行して身を動かし、時々導引して腰腹をなですり、手足をうごかし、労動して血気をめぐらし、飲食を消化せしむべし。一所に久しく安坐すべからず。是皆養生の要なり。養生の道は、病なき時つつしむにあり。病発(おこ)りて後、薬を用ひ、針灸を以(て)病をせむるは養生の末なり。本をつとむべし。  
(110)人の耳・目・口・体の見る事、きく事、飲食ふ事、好色をこのむ事、各其このめる慾あり。これを嗜慾と云。嗜慾とは、このめる慾なり。慾はむさぼる也。飲食色慾などをこらえずして、むさぼりてほしゐままにすれば、節に過て、身をそこなひ礼儀にそむく。万の悪は、皆慾を恣(ほしいまま)にするよりおこる。耳・目・口・体の慾を忍んでほしゐまゝにせざるは、慾にかつの道なり。もろもろの善は、皆、慾をこらえて、ほしゐまゝにせざるよりおこる。故に忍ぶと、恣にするとは、善と悪とのおこる本なり。養生の人は、ここにおゐて、専ら心を用ひて、恣なる事をおさえて慾をこらゆるを要とすべし。恣の一字をさりて、忍の一字を守るべし。 
(111)風・寒・暑・湿は外邪なり。是にあたりて病となり、死ぬるは天命也。聖賢といへど免れがたし。されども、内気実してよくつつしみ防がば、外邪のおかす事も亦まれなるべし。飲食色慾によりて病生ずるは、全くわが身より出る過也。是天命にあらず、わが身のとがなり。万の事、天より出るは、ちからに及ばず。わが身に出る事は、ちからを用てなしやすし。風・寒・暑・湿の外邪をふせがざるは怠なり。飲食好色の内慾を忍ばざるは過なり。怠と過とは、皆慎しまざるよりおこる。  
(112)身をたもち生を養ふに、一字の至れる要訣あり。是を行へば生命を長くたもちて病なし。おやに孝あり、君に忠あり、家をたもち、身をたもつ。行なふとしてよろしからざる事なし。其一字なんぞや。畏(おそるる)の字是なり。畏るるとは身を守る心法なり。事ごとに心を小にして気にまかせず、過なからん事を求め、つねに天道をおそれて、つつしみしたがひ、人慾を畏れてつつしみ忍ぶにあり。是畏るるは、慎しみにおもむく初なり。畏るれば、つつしみ生ず。畏れざれば、つつしみなし。故に朱子、晩年に敬の字をときて曰、敬は畏の字これに近し。  
(113)養生の害二あり。元気をへらす一なり。元気を滞(とどこお)らしむる二也。飲食・色慾・労動を過せば、元気やぶれてへる。飲食・安逸・睡眠を過せば、滞りてふさがる。耗(へる)と滞ると、皆元気をそこなふ。  
(114)心は身の主也。しづかにして安からしむべし。身は心のやつこ(奴)なり。うごかして労せしむべし。心やすくしづかなれば、天君ゆたかに、くるしみなくして楽しむ。身うごきて労すれば、飲食滞らず、血気めぐりて病なし。  
(115)凡(およそ)薬と鍼灸を用るは、やむ事を得ざる下策なり。飲食・色慾を慎しみ、起臥を時にして(:規則正しく)、養生をよくすれば病なし。腹中の痞満(ひまん:腹がつかえてはること)して食気つかゆる人も、朝夕歩行し身を労動して、久坐・久臥を禁ぜば、薬と針灸とを用ひずして、痞塞(ひさい:腹がつかえて通じがないこと)のうれひなかるべし。是上策とす。薬は皆気の偏なり。参ぎ(115)(じんぎ:薬用人参)・朮甘(じゅつかん)の上薬といへども、其病に応ぜざれば害あり。況(いわんや)中・下の薬は元気を損じ他病を生ず。鍼は瀉ありて補なし。病に応ぜざれば元気をへらす。灸もその病に応ぜざるに妄に灸すれば、元気をへらし気を上す。薬と針灸と、損益ある事かくのごとし。やむ事を得ざるに非ずんば、鍼・灸・薬を用ゆべからず。只、保生の術を頼むべし。  
(116)古の君子は、礼楽をこのんで行なひ、射・御を学び、力を労動し、詠歌・舞踏して血脈を養ひ、嗜慾を節にし心気を定め、外邪を慎しみ防て、かくのごとくつねに行なへば、鍼・灸・薬を用ずして病なし。是君子の行ふ処、本をつとむるの法、上策なり。病多きは皆養生の術なきよりおこる。病おこりて薬を服し、いたき鍼、あつき灸をして、父母よりうけし遺体(ゆいたい)にきずつけ、火をつけて、熱痛をこらえて身をせめ病を療(いや)すは、甚(はなはだ)末の事、下策なり。たとへば国をおさむるに、徳を以すれば民おのづから服して乱おこらず、攻め打事を用ひず。又保養を用ひずして、只薬と針灸を用ひて病をせむるは、たとへば国を治むるに徳を用ひず、下を治むる道なく、臣民うらみそむきて、乱をおこすをしづめんとて、兵を用ひてたたかふが如し。百たび戦って百たびかつとも、たつと(尊)ぶにたらず。養生をよくせずして、薬と針・灸とを頼んで病を治するも、又かくの如し。  
(117)身体は日々少づつ労動すべし。久しく安坐すべからず。毎日飯後に、必ず庭圃の内数百足しづかに歩行すべし。雨中には室屋の内を、幾度も徐行すべし。此如く日々朝晩(ちょうばん)運動すれば、針・灸を用ひずして、飲食・気血の滞なくして病なし。針灸をして熱痛甚しき身の苦しみをこらえんより、かくの如くせば痛なくして安楽なるべし。  
(118)人の身は百年を以(て)期(ご)とす。上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十なり。六十以上は長生なり。世上の人を見るに、下寿をたもつ人すくなく、五十以下短命なる人多し。人生七十古来まれなり、といへるは、虚語にあらず。長命なる人すくなし。五十なれば不夭と云て、わか死にあらず。人の命なんぞ此如くみじかきや。是、皆、養生の術なければなり。短命なるは生れ付て短きにはあらず。十人に九人は皆みづからそこなへるなり。ここを以(て)、人皆養生の術なくんばあるべからず。  
(119)人生五十にいたらざれば、血気いまだ定まらず。知恵いまだ開けず、古今にうとくして、世変になれず。言あやまり多く、行悔多し。人生の理も楽もいまだしらず。五十にいたらずして死するを夭(わかじに)と云。是亦、不幸短命と云べし。長生すれば、楽多く益多し。日々にいまだ知らざる事をしり、月々にいまだ能せざる事をよくす。この故に学問の長進する事も、知識の明達なる事も、長生せざれば得がたし。ここを以(て)養生の術を行なひ、いかにもして天年をたもち、五十歳をこえ、成べきほどは弥(いよいよ)長生して、六十以上の寿域に登るべし。古人長生の術ある事をいへり。又、「人の命は我にあり。天にあらず」ともいへれば、此術に志だにふかくば、長生をたもつ事、人力を以いかにもなし得べき理あり。うたがふべからず。只気あらくして、慾をほしゐままにして、こらえず、慎なき人は、長生を得べからず。  
(120)およそ人の身は、よはくもろくして、あだなる事、風前の燈火(とぼしび)のきえやすきが如し。あやうきかな。つねにつつしみて身をたもつべし。いはんや、内外より身をせむる敵多きをや。先飲食の欲、好色の欲、睡臥の欲、或(は)怒、悲、憂を以(て)身をせむ。是等は皆我身の内よりおこりて、身をせむる欲なれば、内敵なり。中につゐて飲食・好色は、内欲より外敵を引入る。尤おそるべし。風・寒・暑・湿は、身の外より入て我を攻る物なれば外敵なり。人の身は金石に非ず。やぶれやすし。況(や)内外に大敵をうくる事、かくの如にして、内の慎、外の防なくしては、多くの敵にかちがたし。至りてあやうきかな。此故に人々長命をたもちがたし。用心きびしくして、つねに内外の敵をふせぐ計策なくむばあるべからず。敵にかたざれば、必せめ亡されて身を失ふ。内外の敵にかちて、身をたもつも、其術をしりて能(く)ふせぐによれり。生れ付たる気つよけれど、術をしらざれば身を守りがたし。たとへば武将の勇あれども、知なくして兵の道をしらざれば、敵にかちがたきがごとし。内敵にかつには、心つよくして、忍の字を用ゆべし。忍はこらゆる也。飲食・好色などの欲は、心つよくこらえて、ほしいままにすべからず。心よはくしては内欲にかちがたし。内欲にかつ事は、猛将の敵をとりひしぐが如くすべし。是内敵にかつ兵法なり。外敵にかつには、畏の字を用て早くふせぐべし。たとへば城中にこもり、四面に敵をうけて、ゆだんなく敵をふせぎ、城をかたく保が如くなるべし。風・寒・暑・湿にあはば、おそれて早くふせぎしりぞくべし。忍の字を禁じて、外邪をこらえて久しくあたるべからず。古語に「風を防ぐ事、箭を防ぐが如くす」といへり。四気の風寒、尤おそるべし。久しく風寒にあたるべからず。凡(そ)是外敵をふせぐ兵法なり。内敵にかつには、けなげにして、つよくかつべし。外敵をふせぐは、おそれて早くしりぞくべし。けなげなるはあしし。 
(121)生を養ふ道は、元気を保つを本とす。元気をたもつ道二あり。まづ元気を害する物を去り、又、元気を養ふべし。元気を害する物は内慾と外邪となり。すでに元気を害するものをさらば、飲食・動静に心を用て、元気を養ふべし。たとへば、田をつくるが如し。まづ苗を害する莠(はぐさ)を去て後、苗に水をそそぎ、肥をして養ふ。養生も亦かくの如し。まづ害を去て後、よく養ふべし。たとへば悪を去て善を行ふがごとくなるべし。気をそこなふ事なくして、養ふ事を多くす。是養生の要なり。つとめ行なふべし。  
(122)およそ人の楽しむべき事三あり。一には身に道を行ひ、ひが事なくして善を楽しむにあり。二には身に病なくして、快く楽むにあり。三には命ながくして、久しくたのしむにあり。富貴にしても此三の楽なければ、まことの楽なし。故に富貴は此三楽の内にあらず。もし心に善を楽まず、又養生の道をしらずして、身に病多く、其はては短命なる人は、此三楽を得ず。人となりて此三楽を得る計なくんばあるべからず。此三楽なくんば、いかなる大富貴をきはむとも、益なかるべし。  
(123)天地のよはひは、邵尭夫(しょうぎょうふ)の説に、十二万九千六百年を一元とし、今の世はすでに其半に過たりとなん。前に六万年あり、後に六万年あり。人は万物の霊なり。天地とならび立て、三才と称すれども、人の命は百年にもみたず。天地の命長きにくらぶるに、千分の一にもたらず。天長く地久きを思ひ、人の命のみじかきをおもへば、ひとり愴然としてなんだ下れり。かかるみじかき命を持ながら、養生の道を行はずして、みじかき天年を弥(いよいよ)みじかくするはなんぞや。人の命は至りて重し。道にそむきて短くすべからず。  
(124)養生の術は、つとむべき事をよくつとめて、身をうごかし、気をめぐらすをよしとす。つとむべき事をつとめずして、臥す事をこのみ、身をやすめ、おこたりて動かさざるは、甚(だ)養生に害あり。久しく安坐し、身をうごかさざれば、元気めぐらず、食気とどこほりて、病おこる。ことにふす事をこのみ、ねぶり多きをいむ。食後には必(かならず)数百歩歩行して、気をめぐらし、食を消すべし。ねぶりふすべからず。父母につかへて力をつくし、君につかへてまめやかにつとめ、朝は早くおき、夕はおそくいね、四民ともに我が家事をよくつとめておこたらず。士となれる人は、いとけなき時より書をよみ、手を習ひ、礼楽をまなび、弓を射、馬にのり、武芸をならひて身をうごかすべし。農・工・商は各其家のことわざ(事業)をおこたらずして、朝夕よくつとむべし。婦女はことに内に居て、気鬱滞しやすく、病生じやすければ、わざをつとめて、身を労動すべし。富貴の女も、おや、しうと、夫によくつかへてやしなひ、お(織)りぬ(縫)ひ、う(紡)みつむ(績)ぎ、食品をよく調(ととのえ)るを以(て)、職分として、子をよくそだて、つねに安坐すべからず。かけまくもかたじけなき天照皇大神も、みづから神の御服(みぞ)をおらせたまひ、其御妹稚日女尊(わかひるめのみこと)も、斎機殿(いみはたどの)にましまして、神の御服をおらせ給ふ事、日本紀(:日本書紀)に見えたれば、今の婦女も昔かかる女のわざをつとむべき事こそ侍べれ。四民ともに家業をよくつとむるは、皆是養生の道なり。つとむべき事をつとめず、久しく安坐し、ねぶり臥す事をこのむ。是大に養生に害あり。かくの如くなれば、病おほくして短命なり。戒むべし。  
(125)人の身のわざ多し。その事をつとむるみちを術と云。万のわざつとめならふべき術あり。其術をしらざれば、其事をなしがたし。其内いたりて小にて、いやしき芸能も、皆其術をまなばず、其わざをならはざれば、其事をなし得がたし。たとへば蓑をつくり、笠をはるは至りてやすく、いやしき小なるわざ也といへども、其術をならはざれば、つくりがたし。いはんや、人の身は天地とならんで三才とす。かく貴とき身を養ひ、いのちをたもつて長生するは、至りて大事なり。其術なくんばあるべからず。其術をまなばず、其事をならはずしては、などかなし得んや。然るにいやしき小芸には必(ず)師をもとめ、おしへをうけて、その術をならふ。いかんとなれば、その器用あれどもその術をまなばずしては、なしがたければなり。人の身はいたりて貴とく、是をやしなひてたもつは、至りて大なる術なるを、師なく、教なく、学ばず、習はず、これを養ふ術をしらで、わが心の慾にまかせば、豈其道を得て生れ付たる天年をよくたもたんや。故に生を養なひ、命をたもたんと思はば、其術を習はずんばあるべからず。夫養生の術、そくばくの大道にして、小芸にあらず。心にかけて、其術をつとめまなばずんば、其道を得べからず。其術をしれる人ありて習得ば、千金にも替えがたし。天地父母よりうけたる、いたりておもき身をもちて、これをたもつ道をしらで、みだりに身をもちて大病をうけ、身を失なひ、世をみじかくする事、いたりて愚なるかな。天地父母に対し大不孝と云べし。其上、病なく命ながくしてこそ、人となれる楽おほかるべけれ。病多く命みじかくしては、大富貴をきはめても用なし。貧賤にして命ながきにおとれり。わが郷里の年若き人を見るに、養生の術をしらで、放蕩にして短命なる人多し。又わが里の老人を多く見るに、養生の道なくして多病にくるしみ、元気おとろへて、はやく老耄す。此如くにては、たとひ百年のよはひをたもつとも、楽なくして苦み多し。長生も益なし。いけるばかりを思ひでにすともともいひがたし。  
(126)或人の曰(く)、養生の術、隠居せし老人、又年わかくしても世をのがれて、安閑無事なる人は宜しかるべし。士として君父につかへて忠孝をつとめ、武芸をならひて身をはたらかし、農工商の夜昼家業をつとめていとまなく、身閑ならざる者は養生成りがたかるべし。かかる人、もし養生の術をもつぱら行はば、其身やはらかに、其わざゆるやかにして、事の用にたつべからずと云。是養生の術をしらざる人のうたがひ、むべなるかな。養生の術は、安閑無事なるを専(もっぱら)とせず。心を静にし、身をうごかすをよしとす。身を安閑にするは、かへつて元気とどこほり、ふさがりて病を生ず。たとへば、流水はくさらず、戸枢(こすう:戸の回転軸)はくちざるが如し。是うごく者は長久なり、うごかざる物はかへつて命みじかし。是を以、四民ともに事をよくつとむべし。安逸なるべからず。是すなわち養生の術なり。  
(127)或人うたがひて曰。養生をこのむ人は、ひとゑにわが身をおもんじて、命をたもつを専にす。されども君子は義をおもしとす。故に義にあたりては、身をすて命をおしまず、危を見ては命をさづけ、難にのぞんでは節に死す。もしわが身をひとへにおもんじて、少なる髪・膚まで、そこなひやぶらざらんとせば、大節にのぞんで命をおしみ、義をうしなふべしと云。答て曰、およその事、常あり、変あり。常に居ては常を行なひ、変にのぞみては変を行なふ。其時にあたりて義にしたがふべし。無事の時、身をおもんじて命をたもつは、常に居るの道なり。大節にのぞんで、命をすててかへり見ざるは、変におるの義なり。常におるの道と、変に居るの義と、同じからざる事をわきまへば、此うたがひなかるべし。君子の道は時宜にかなひ、事変に随ふをよしとす。たとへば、夏はかたびらを着、冬はかさねぎするが如し。一時をつねとして、一偏にかかはるべからず。殊に常の時、身を養ひて、堅固にたもたずんば、大節にのぞんでつよく、戦ひをはげみて命をすつる事、身よはくしては成がたかるべし。故に常の時よく気を養なはば、変にのぞんで勇あるべし。  
(128)いにしへの人、三慾を忍ぶ事をいへり。三慾とは、飲食の欲、色の欲、睡(ねぶり)の欲なり。飲食を節にし、色慾をつつしみ、睡をすくなくするは、皆慾をこらゆるなり。飲食・色欲をつつしむ事は人しれり。只睡の慾をこらえて、いぬる事をすくなくするが養生の道なる事は人しらず。ねぶりをすくなくすれば、無病になるは、元気めぐりやすきが故也。ねぶり多ければ、元気めぐらずして病となる。夜ふけて臥しねぶるはよし、昼いぬるは尤(も)害あり。宵にはやくいぬれば、食気とゞこほりて害あり。ことに朝夕飲食のいまだ消化せず、其気いまだめぐらざるに、早くいぬれば、飲食とどこほりて、元気をそこなふ。古人睡慾を以、飲食・色慾にならべて三慾とする事、むべなるかな。おこたりて、ねぶりを好めば、くせになりて、睡多くして、こらえがたし。ねぶりこらえがたき事も、又、飲食・色慾と同じ。初は、つよくこらえざれば、ふせぎがたし。つとめてねぶりをすくなくし、ならひてなれぬれば、おのづから、ねぶりすくなし。ならひて睡をすくなくすべし。  
(129)言語をつつしみて、無用の言をはぶき、言をすくなくすべし。多く言語すれば、必(ず)気へりて、又気のぼる。甚(だ)元気をそこなふ。言語をつつしむも、亦徳をやしなひ、身をやしなふ道なり。  
(130)古語に曰、「莫大の禍は、須臾の忍ばざるに起る」。須臾とはしばしの間を云。大なる禍は、しばしの間、慾をこらえざるよりおこる。酒食・色慾など、しばしの間、少の慾をこらえずして大病となり、一生の災となる。一盃の酒、半椀の食をこらえずして、病となる事あり。慾をほしゐままにする事少なれども、やぶらるる事は大なり。たとへば、蛍火程の火、家につきても、さかんに成て、大なる禍となるがごとし。古語に曰ふ。「犯す時は微にして秋毫(:きわめてわずか)の若し、病を成す重きこと、泰山のごとし」。此言むべなるかな。凡(そ)小の事、大なる災となる事多し。小なる過より大なるわざはひとなるは、病のならひ也。慎しまざるべけんや。常に右の二語を、心にかけてわするべからず。 
(131)養生の道なければ、生れ付つよく、わかく、さかんなる人も、天年をたもたずして早世する人多し。是天のなせる禍にあらず、みづからなせる禍也。天年とは云がたし。つよき人は、つよきをたのみてつつしまざる故に、よはき人よりかへつて早く死す。又、体気よはく、飲食すくなく、常に病多くして、短命ならんと思ふ人、かへつて長生する人多し。是よはきをおそれて、つつしむによれり。この故に命の長短は身の強弱によらず、慎と慎しまざるとによれり。白楽天が語に、福と禍とは、慎と慎しまざるにあり、といへるが如し。  
(132)世に富貴・財禄をむさぼりて、人にへつらひ、仏神にいのり求むる人多し。されども、其しるしなし。無病長生を求めて、養生をつつしみ、身をたもたんとする人はまれなり。富貴・財禄は外にあり。求めても天命なければ得がたし。無病長生は我にあり、もとむれば得やすし。得がたき事を求めて、得やすき事を求めざるはなんぞや。愚なるかな。たとひ財禄を求め得ても、多病にして短命なれば、用なし。  
(133)陰陽の気天にあつて、流行して滞らざれば、四時よく行はれ、百物よく生(な)る。偏にして滞れば、流行の道ふさがり、冬あたたかに夏さむく、大風・大雨の変ありて、凶害をなせり。人身にあっても亦しかり。気血よく流行して滞らざれば、気つよくして病なし。気血流行せざれば、病となる。其気上に滞れば、頭疼・眩暈となり、中に滞れば亦腹痛となり、痞満となり、下に滞れば腰痛・脚気となり、淋疝・痔漏となる。此故によく生を養ふ人は、つとめて元気の滞なからしむ。  
(134)養生に志あらん人は、心につねに主あるべし。主あれば、思慮して是非をわきまへ、忿をおさえ、慾をふさぎて、あやまりすくなし。心に主なければ、思慮なくして忿と慾をこらえず、ほしゐまゝにしてあやまり多し。  
(135)万の事、一時心に快き事は、必後に殃(わざわい)となる。酒食をほしゐまゝにすれば快けれど、やがて病となるの類なり。はじめにこらゆれば必後のよろこびとなる。灸治をしてあつきをこらゆれば、後に病なきが如し。杜牧が詩に、忍過ぎて事喜ぶに堪えたりと、いへるは、欲をこらえすまして、後は、よろこびとなる也。  
(136)聖人は未病を治すとは、病いまだおこらざる時、かねてつつしめば病なく、もし飲食・色欲などの内慾をこらえず、風・寒・暑・湿の外邪をふせがざれば、其おかす事はすこしなれども、後に病をなす事は大にして久し。内慾と外邪をつつしまざるによりて、大病となりて、思ひの外にふかきうれひにしづみ、久しく苦しむは、病のならひなり。病をうくれば、病苦のみならず、いたき針にて身をさし、あつき灸にて身をやき、苦き薬にて身をせめ、くひたき物をくはず、のみたきものをのまずして、身をくるしめ、心をいたましむ。病なき時、かねて養生よくすれば病おこらずして、目に見えぬ大なるさいはいとなる。孫子が曰「よく兵を用る者は赫々の功なし」。云意は、兵を用る上手は、あらはれたるてがら(手柄)なし、いかんとなれば、兵のおこらぬさきに戦かはずして勝ばなり。又曰「古の善く勝つ者は、勝ち易きに勝つ也」。養生の道も亦かくの如くすべし。心の内、わづかに一念の上に力を用て、病のいまだおこらざる時、かちやすき慾にかてば病おこらず。良将の戦はずして勝やすきにかつが如し。是上策なり。是未病を治するの道なり。  
(137)養生の道は、恣(ほしいまま)なるを戒(いましめ)とし、慎(つつしむ)を専(もっぱら)とす。恣なるとは慾にまけてつつしまざる也。慎は是恣なるのうら也。つつしみは畏(おそるる)を以(て)本とす。畏るるとは大事にするを云。俗のことわざに、用心は臆病にせよと云がごとし。孫真人も「養生は畏るるを以(て)本とす」といへり。是養生の要也。養生の道におゐては、けなげなるはあしく、おそれつつしむ事、つねにちい(小)さき一はし(橋)を、わたるが如くなるべし。是畏るなり。わかき時は、血気さかんにして、つよきにまかせて病をおそれず、慾をほしゐままにする故に、病おこりやすし。すべて病は故なくてむなしくはおこらず、必(ず)慎まざるよりおこる。殊に老年は身よはし、尤おそるべし。おそれざれば老若ともに多病にして、天年をたもちがたし。  
(138)人の身をたもつには、養生の道をたのむべし。針・灸と薬力とをたのむべからず。人の身には口・腹・耳・目の欲ありて、身をせむるもの多し。古人のをしえに、養生のいたれる法あり。孟子にいはゆる「慾を寡くする」、これなり。宋の王昭素も、「身を養ふ事は慾を寡するにしくはなし」と云。省心録にも、「慾多ければ即ち生を傷(やぶ)る」といへり。およそ人のやまひは、皆わが身の慾をほしゐままにして、つつしまざるよりおこる。養生の士はつねにこれを戒とすべし。  
(139)気は、一身体の内にあまねく行わたるべし。むねの中一所にあつむべからず。いかり、かなしみ、うれひ、思ひ、あれば、胸中一所に気とどこほりてあつまる。七情の過て滞るは病の生る基なり。  
(140)俗人は、慾をほしゐままにして、礼儀にそむき、気を養はずして、天年をたもたず。理気二ながら失へり。仙術の士は養気に偏にして、道理を好まず。故に礼儀をすててつとめず。陋儒は理に偏にして気を養はず。修養の道をしらずして天年をたもたず。此三つは、ともに君子の行ふ道にあらず。 
巻第二 / 総論下 

 

(201)凡(そ)朝は早くおきて、手と面を洗ひ、髪をゆひ、事をつとめ、食後にはまづ腹を多くなで下し、食気をめぐらすべし。又、京門(第12肋骨部)のあたりを手の食指のかたはらにて、すぢかひにしばしばなづべし。腰をもなで下して後、下にてしづかにうつべし。あらくすべからず。もし食気滞らば、面を仰ぎて三四度食毒の気を吐くべし。朝夕の食後に久しく安坐すべからず。必ねぶり臥すべからず。久しく坐し、ねぶり臥せば、気ふさがりて病となり、久しきをつめば命みじかし。食後に毎度歩行する事、三百歩すべし。おりおり五六町歩行するは尤よし。  
(202)家に居て、時々わが体力の辛苦せざる程の労動をなすべし。吾起居のいたつがはしきをくるしまず、室中の事、奴婢をつかはずして、しばしばみづからたちて我身を運用すべし。わが身を動用すれば、おもひのままにして速に事調ひ、下部をつかふに心を労せず。是「心を清くして事を省く」の益あり。かくのごとくにして、常に身を労動すれば気血めぐり、食気とどこほらず、是養生の要術也。身をつねにやすめおこたるべからず。我に相応せる事をつとめて、手足をはたらかすべし。時にうごき、時に静なれば、気めぐりて滞らず。静に過ればふさがる。動に過ればつかる。動にも静にも久しかるべからず。  
(203)華陀が言に、「人の身は労動すべし。労動すれば穀気きえて、血脈流通す」といへり。およそ人の身、慾をすくなくし、時々身をうごかし、手足をはたらかし、歩行して久しく一所に安坐せざれば、血気めぐりて滞らず。養生の要務なり。日々かくのごとくすべし。呂氏春秋曰、「流水腐らず、戸枢(こすう)螻(むしば)まざるは、動けば也。形気もまた然り」。いふ意(こころ)は、流水はくさらず、たまり水はくさる。から戸のぢくの下のくるゝ(枢)は虫くはず。此二のものはつねにうごくゆへ、わざはひなし。人の身も亦かくのごとし。一所に久しく安坐してうごかざれば、飲食とゞこほり、気血めぐらずして病を生ず。食後にふすと、昼臥すと、尤(も)禁ずべし。夜も飲食の消化せざる内に早くふせば、気をふさぎ病を生ず。是養生の道におゐて尤いむべし。  
(204)千金方に曰、養生の道、「久しく行き、久しく坐し、久しく臥し、久しく視る」ことなかれ。  
(205)酒食の気いまだ消化せざる内に臥してねぶれば、必(ず)酒食とゞこほり、気ふさがりて病となる。いましむべし。昼は必(ず)臥すべからず。大に元気をそこなふ。もし大につかれたらば、うしろによりかゝりてねぶるべし。もし臥さば、かたはらに人をおきて、少ねぶるべし。久しくねぶらば、人によびさまさしむべし。  
(206)日長き時も昼臥すべからず。日永き故、夜に入て、人により、もし体力つかれて早くねぶることをうれへば、晩食の後、身を労動し、歩行し、日入の時より臥して体気をやすめてよし。臥して必(かならず)ねぶるべからず。ねぶれば甚(だ)害あり。久しく臥べからず。秉燭(へいしょく=夕方)の比(ころ)おきて坐すべし。かくのごとくすれば夜間体に力ありて、ねぶり早く生ぜず。もし日入の時よりふさゞるは尤よし。  
(207)養生の道は、たの(恃)むを戒しむ。わが身のつよきをたのみ、わかきをたのみ、病の少(し)いゆるをたのむ。是皆わざはひの本也。刃のと(鋭)きをたのんで、かたき物をきれば、刃折る。気のつよきをたのんで、みだりに気をつかへば、気へる。脾腎のつよきをたのんで、飲食・色慾を過さば、病となる。  
(208)爰(ここ)に人ありて、宝玉を以てつぶてとし、雀をうたば、愚なりとて、人必わらはん。至りて、おもき物をすてゝ、至りてかろき物を得んとすればなり。人の身は至りておもし。然るに、至りてかろき小なる欲をむさぼりて身をそこなふは、軽重をしらずといふべし。宝玉を以て雀をうつがごとし。  
(209)心は楽しむべし、苦しむべからず。身は労すべし、やすめ過すべからず。凡わが身を愛し過すべからず。美味をくひ過し、芳うん(209)をのみ過し、色をこのみ、身を安逸にして、おこたり臥す事を好む。皆是、わが身を愛し過す故に、かへつてわが身の害となる。又、無病の人、補薬を妄に多くのんで病となるも、身を愛し過すなり。子を愛し過して、子のわざはひとなるが如し。  
(210)一時の慾をこらへずして病を生じ、百年の身をあやまる。愚なるかな。長命をたもちて久しく安楽ならん事を願はゞ、慾をほしゐまゝにすべからず。慾をこらゆるは長命の基也。慾をほしゐまゝにするは短命の基也。恣なると忍ぶとは、是寿(いのちながき)と夭(いのちみじかき)とのわかるる所也。 
(211)易に曰、「患(うれい)を思ひ、予(かね)てこれを防ぐ」。いふ意(こころ)は後の患をおもひ、かねて其わざはひをふせぐべし。論語にも「人遠き慮(おもんぱかり)なければ、必近きうれひあり」との玉へり。是皆、初に謹んで、終をたもつの意なり。  
(212)人、慾をほしゐまゝにして楽しむは、其楽しみいまだつきざる内に、はやくうれひ生ず。酒食・色慾をほしゐまゝにして楽しむ内に、はやくたたりをなして苦しみ生ずるの類也。  
(213)人、毎日昼夜の間、元気を養ふ事と元気をそこなふ事との、二の多少をくらべ見るべし。衆人は一日の内、気を養ふ事は常にすくなく、気をそこなふ事は常に多し。養生の道は元気を養ふ事のみにて、元気をそこなふ事なかるべし。もし養ふ事はすくなく、そこなふ事多く、日々つもりて久しければ、元気へりて病生じ、死にいたる。この故に衆人は病多くして短命なり。かぎりある元気をもちて、かぎりなき慾をほしゐまゝにするは、あやうし。  
(214)古語曰、「日に慎しむこと一日、寿(いのちながく)して終に殃(わざわい)なし」。言心は一日々々をあらためて、朝より夕まで毎日つヽしめば、身にあやまちなく、身をそこなひやぶる事なくして、寿して、天年をおはるまでわざはひなしと也。是身をたもつ要道なり。  
(215)飲食・色慾をほしゐまヽにして、其はじめ少(し)の間、わが心に快き事は、後に必身をそこなひ、ながきわざはひとなる。後にわざはひなからん事を求めば、初わが心に快からん事をこのむべからず。万の事はじめ快くすれば、必(ず)後の禍となる。はじめつとめてこらゆれば、必(ず)後の楽となる。  
(216)養生の道,多くいふ事を用ひず。只飲食をすくなくし,病をたすくる物をくらはず、色慾をつゝしみ,精気をおしみ,怒・哀・憂・思を過さず。心を平にして気を和らげ、言をすくなくして無用の事をはぶき、風・寒・暑・湿の外邪をふせぎ、又時々身をうごかし、歩行し、時ならずしてねぶり臥す事なく、食気をめぐらすべし。是養生の要なり。  
(217)飲食は身を養ひ、ねぶり臥は気を養なふ。しかれども飲食節に過れば、脾胃をそこなふ。ねぶり臥す事時ならざれば、元気をそこなふ。此二は身を養はんとして、かへつて身をそこなふ。よく生を養ふ人は、つとにおき、よは(夜半)にいねて、昼いねず、常にわざをつとめておこたらず、ねぶりふす事をすくなくして、神気をいさぎよくし、飲食をすくなくして、腹中を清虚にす。かくのごとくなれば、元気よく、めぐりふさがらずして、病生ぜず。発生の気其養を得て、血気をのづからさかんにして病なし。是寝食の二の節に当れるは、また養生の要也。  
(218)貧賎なる人も、道を楽しんで日をわたらば、大なる幸なり。しからば一日を過す間も、その時刻永くして楽多かるべし。いはんや一とせをすぐる間、四の時、おりおりの楽、日々にきはまりなきをや。此如にして年を多くかさねば、其楽長久にして、其しるしは寿かるべし。知者の楽み、仁者の寿は、わが輩及がたしといへども、楽より寿にいたれる次序は相似たるなるべし。  
(219)心を平らかにし、気を和かにし、言をすくなくし、しづかにす。是徳を養ひ身をやしなふ。其道一なり。多言なると、心さはがしく気あらきとは、徳をそこなひ、身をそこなふ。其害一なり。  
(220)山中の人は多くはいのちながし。古書にも山気は寿(じゅ)多しと云、又寒気は寿ともいへり。山中はさむくして、人身の元気をとぢかためて、内にたもちてもらさず。故に命ながし。暖なる地は元気もれて、内にたもつ事すくなくして、命みじかし。又、山中の人は人のまじはりすくなく、しづかにして元気をへらさず、万ともしく不自由なる故、おのづから欲すくなし。殊に魚類まれにして肉にあかず。是山中の人、命ながき故なり。市中にありて人に多くまじはり、事しげければ気へる。海辺の人、魚肉をつねに多くくらふゆえ、病おほくして命みじかし。市中にをり海辺に居ても、慾をすくなくし、肉食をすくなくせば害なかるべし。 
(221)ひとり家に居て、閑(しずか)に日を送り、古書をよみ、古人の詩歌を吟じ、香をたき、古法帖を玩び、山水をのぞみ、月花をめで、草木を愛し、四時の好景を玩び、酒を微酔にのみ、園菜を煮るも、皆是心を楽ましめ、気を養ふ助なり。貧賎の人も此楽つねに得やすし。もしよく此楽をしれらば、富貴にして楽をしらざる人にまさるべし。  
(222)古語に、忍は身の宝也といへり。忍べば殃(わざわい)なく、忍ばざれば殃あり。忍ぶはこらゆるなり。恣ならざるを云。忿(いかり)と慾とはしのぶべし。およそ養生の道は忿・慾をこらゆるにあり。忍の一字守るべし。武王の銘に曰「之を須臾(しゅゆ)に忍べば、汝の躯を全す」。書に曰。「必ず忍ぶこと有れば、其れ乃ち済すこと有り」。古語に云。「莫大の過ちは須臾の忍びざるに起る」。是忍の一字は、身を養ひ徳を養ふ道なり。  
(223)胃の気とは元気の別名なり。冲和(ちゅうが)の気也。病甚しくしても、胃の気ある人は生く。胃の気なきは死す。胃の気の脉とは、長からず、短からず、遅(ち)ならず、数(さく)ならず、大ならず、小ならず、年に応ずる事、中和にしてうるはし。此脉、名づけて言がたし。ひとり、心に得べし。元気衰へざる無病の人の脉かくの如し。是古人の説なり。養生の人、つねに此脉あらんことをねがふべし。養生なく気へりたる人は、わかくしても此脉とも(乏)し。是病人なり。病脉のみ有て、胃の気の脉なき人は死す。又、目に精神ある人は寿(いのちなが)し。精神なき人は夭(いのちみじか)し。病人をみるにも此術を用ゆべし。  
(224)養生の術、荘子が所謂(いわゆる)、庖丁(:料理人)が牛をときしが如くなるべし。牛の骨節(こっせつ)のつがひは間(ひま)あり。刀の刃はうすし。うすき刃をもつて、ひろき骨節の間に入れば、刃のはたらくに余地ありてさはらず。こゝを以て、十九年牛をときしに、刀新にとぎたてたるが如しとなん。人の世にをる、心ゆたけくして物とあらそはず、理に随ひて行なへば、世にさはりなくして天地ひろし。かくのごとくなる人は命長し。  
(225)人に対して、喜び楽しみ甚(し)ければ、気ひらけ過てへる。我ひとり居て、憂悲み多ければ、気むすぼほれてふさがる。へるとふさがるとは、元気の害なり。  
(226)心をしづかにしてさはがしくせず、ゆるやかにしてせまらず、気を和にしてあらくせず、言をすくなくして声を高くせず、高くわらはず、つねに心をよろこばしめて、みだりにいからず、悲をすくなくし、かへらざる事をくやまず、過あらば、一たびはわが身をせめて二度悔ず、只天命をやすんじてうれへず、是心気をやしなふ道なり。養生の士、かくのごとくなるべし。  
(227)津液(しんえき:つばき)は一身のうるほひ也。化して精血となる。草木に精液なければ枯る。大せつの物也。津液は臓腑より口中に出づ。おしみて吐べからず。ことに遠くつばき吐べからず、気へる。  
(228)津液をばのむべし。吐べからず。痰をば吐べし、のむべからず。痰あらば紙にて取べし。遠くはくべからず。水飲津液すでに滞りて、痰となりて内にありては、再(び)津液とはならず。痰、内にあれば、気をふさぎて、かへつて害あり。此理をしらざる人、痰を吐ずしてのむは、ひが事也。痰を吐く時、気をもらすべからず。酒多くのめば痰を生じ、気を上(のぼ)せ、津液をへらす。  
(229)何事もあまりよくせんとしていそげば、必あしくなる。病を治するも亦しかり。医をゑらばず、みだりに医を求め、薬を服し、又、鍼・灸をみだりに用ひ、たゝりをなす事多し。導引(:道教の健康法)・按摩も亦しかり。わが病に当否をしらで、妄に治(じ)を求むべからず。湯治も亦しかり。病に応ずると応ぜざるをゑらばず、みだりに湯治して病をまし、死にいたる。およそ薬治・鍼・灸・導引・按摩・湯治。此六の事、其病と其治との当否をよくゑらんで用ゆべし。其当否をしらで、みだりに用ゆれば、あやまりて禍をなす事多し。是よくせんとして、かへつてあしくする也。  
(230)凡(そ)よき事あしき事、皆ならひよりおこる。養生のつゝしみ、つとめも亦しかり。つとめ行ひておこたらざるも、慾をつゝしみこらゆる事も、つとめて習へば、後にはよき事になれて、つねとなり、くるしからず。又つゝつしまずしてあしき事になれ、習ひくせとなりては、つゝつしみつとめんとすれども、くるしみてこらへがたし。 
(231)万の事、皆わがちからをはかるべし。ちからの及ばざるを、しゐて、其わざをなせば、気へりて病を生ず。分外をつとむべからず。  
(232)わかき時より、老にいたるまで、元気を惜むべし。年わかく康健なる時よりはやく養ふべし。つよきを頼みて、元気を用過すべからず。わかき時元気をおしまずして、老て衰へ、身よはくなりて、初めて保養するは、たとへば財多く富める時、おごりて財をついやし、貧窮になりて財ともしき故、初めて倹約を行ふが如し。行はざるにまされども、おそくして其しるしすくなし。  
(233)気を養ふに嗇(しょく)の字を用ゆべし。老子此意をいへり。嗇はおしむ也。元気をおしみて費やさゝざる也。たとへば吝嗇なる人の、財多く余あれども、おしみて人にあたへざるが如くなるべし。気をおしめば元気へらずして長命なり。  
(234)養生の要は、自欺(みずからあざむく)ことをいましめて、よく忍ぶにあり。自欺とは、が心にすでにあしきとしれる事を、きらはずしてするを云。あしきとしりてするは、悪をきらふ事、真実ならず、是自欺なり。欺くとは真実ならざる也。食の一事を以いはゞ、多くくらふがあしきとしれども、あしきをきらふ心実ならざれば、多くくらふ。是自欺也。其余事も皆これを以しるべし。  
(235)世の人を多くみるに、生れ付て短命なる形相ある人はまれなり。長寿を生れ付たる人も、養生の術をしらで行はざれば、生れ付たる天年をたもたず。たとへば、彭祖といへど、刀にてのどぶゑ(喉笛)をたゝば、などか死なざるべきや。今の人の欲をほしゐまゝにして生をそこなふは、たとへば、みづからのどぶえをたつが如し。のどぶゑをたちて死ぬると、養生せず、欲をほしゐまゝにして死ぬると、おそきと早きとのかはりはあれど、自害する事は同じ。気つよく長命なるべき人も、気を養なはざれば必命みじかくして、天年をたもたず。是自害するなり。  
(236)凡(て)の事、十分によからんことを求むれば、わが心のわづらひとなりて楽なし。禍も是よりおこる。又、人の我に十分によからん事を求めて、人のたらざるをいかりとがむれば、心のわづらひとなる。又、日用の飲食・衣服・器物・家居・草木の品々も、皆美をこのむべからず。いさゝかよければ事たりぬ。十分によからん事を好むべからず。是、皆わが気を養なふ工夫なり。  
(237)或人の曰、「養生の道、飲食・色慾をつゝしむの類、われ皆しれり。然れどもつゝつしみがたく、ほしゐまゝになりやすき故、養生なりがたし」といふ。我おもふに、是いまだ養生の術をよくしらざるなり。よくしれらば、などか養生の道を行なはざるべき。水に入ればおぼれて死ぬ。火に入ればやけて死ぬ。砒霜をくらへば毒にあてられて死ぬる事をば、たれもよくしれる故、水火に入り、砒霜をくらひて、死ぬる人なし。多慾のよく生をやぶる事、刀を以(て)自害するに同じき理をしれらば、などか慾を忍ばざるべき。すべて其理を明らかにしらざる事は、まよひやすくあやまりやすし。人のあやまりてわざはひとなれる事は、皆不知よりおこる。赤子のはらばひて井におちて死ぬるが如し。灸をして身の病をさる事をしれる故、身に火をつけ、熱く、いためるをこらえて多きをもいとはず。是灸のわが身に益ある事をよくしれる故なり。不仁にして人をそこなひくるしむれば、天のせめ人のとがめありて、必わが身のわざはひとなる事は、其理明らかなれども、愚者はしらず。あやうき事を行ひ、わざはひをもとむるは不知よりおこる。盗は只たからをむさぼりて、身のとがにおち入(る)事をしらざるが如し。養生の術をよくしれらば、などか慾にしたがひてつゝしまずやは有べき。  
(238)聖人やゝもすれば楽をとき玉ふ。わが愚を以て聖心おしはかりがたしといへども、楽しみは是人のむまれ付たる天地の生理なり。楽しまずして天地の道理にそむくべからず。つねに道を以て欲を制して楽を失なふべからず。楽を失なはざるは養生の本也。  
(239)長生の術は食色の慾をすくなくし、心気を和平にし、事に臨んで常に畏・慎あれば、物にやぶられず、血気おのづから調ひて、自然に病なし。かくの如くなれば長生す。是長生の術也。此術を信じ用ひば、此術の貴とぶべき事、あたかも万金を得たるよりも重かるべし。  
(240)万の事十分に満て、其上にくはへがたきは、うれひの本なり。古人の曰、酒は微酔にのみ、花は半開に見る。此言むべなるかな。酒十分にのめばやぶらる。少のんで不足なるは、楽みて後のうれひなし。花十分に開けば、盛過て精神なく、やがてちりやすし。花のいまだひらかざるが盛なりと、と古人いへり。 
(241)一時の浮気をほしゐまゝにすれば、一生の持病となり。或(は)即時に命あやうき事あり。莫大の禍はしばしの間こらえざるにおこる。おそるべし。  
(242)養生の道は、中を守るべし。中を守るとは過不及なきを云。食物はうゑを助くるまでにてやむべし。過てほしゐまゝなるべからず。是中を守るなり。物ごとにかくの如くなるべし。  
(243)心をつねに従容としづかにせはしからず、和平なるべし。言語はことにしづかにしてすくなくし、無用の事いふべからず。是尤気を養ふ良法也。  
(244)人の身は、気を以(て)生の源、命の主とす。故(に)養生をよくする人は、常に元気を惜みてへらさず。静にしては元気をたもち、動ゐては元気をめぐらす。たもつとめぐらすと、二の者そなはらざれば、気を養ひがたし。動静其時を失はず、是気を養ふの道なり。  
(245)もし大風雨と雷はなはだしくば、天の威をおそれて、夜といへどもかならずおき、衣服をあらためて坐すべし。臥すべからず。  
(246)客となつて昼より他席にあらば、薄暮より前に帰るべし。夜までかたれば主客ともに労す。久しく滞座すべからず。  
(247)素問に「怒れば気上る。喜べば気緩まる。悲めば気消ゆ。恐るれば気めぐらず。寒ければ気とづ。暑ければ気泄(も)る。驚けば気乱る。労すれば気へる。思へば気結(むすぼう)る」といへり。百病は皆気より生ず。病とは気やむ也。故に養生の道は気を調るにあり。調ふるは気を和らぎ、平にする也。凡(そ)気を養ふの道は、気をへらさると、ふさがらざるにあり。気を和らげ、平にすれば、此二のうれひなし。  
(248)臍下三寸を丹田と云。腎間の動気こゝにあり。難経に、「臍下腎間の動気は人の生命也。十二経の根本也」といへり。是人身の命根のある所也。養気の術つねに腰を正しくすゑ、真気を丹田におさめあつめ、呼吸をしづめてあらくせず、事にあたつては、胸中より微気をしばしば口に吐き出して、胸中に気をあつめずして、丹田に気をあつむべし。この如くすれば気のぼらず、むねさはがずして身に力あり。貴人に対して物をいふにも、大事の変にのぞみいそがはしき時も、この如くすべし。もしやむ事を得ずして、人と是非を論ずとも、怒気にやぶられず、浮気ならずしてあやまりなし。或(あるいは)芸術をつとめ、武人の槍・太刀をつかひ、敵と戦ふにも、皆此法を主とすべし。是事をつとめ、気を養ふに益ある術なり。凡技術を行なふ者、殊に武人は此法をしらずんばあるべからず。又道士の気を養ひ、比丘の坐禅するも、皆真気を臍下におさむる法なり。是主静の工夫、術者の秘訣なり。  
(249)七情は喜・怒・哀・楽・愛・悪・慾也。医家にては喜・怒・憂・思・悲・恐・驚と云。又、六慾あり、耳・目・口・鼻・身・意の慾也。七情の内、怒と慾との二、尤徳をやぶり、生をそこなふ。忿を懲し、慾を塞ぐは易の戒なり。忿は陽に属す。火のもゆるが如し。人の心を乱し、元気をそこなふは忿なり。おさえて忍ぶべし。慾は陰に属す。水の深きが如し。人の心をおぼらし、元気をへらすは慾也。思ひてふさぐべし。  
(250)養生の要訣一あり。要訣とはかんようなる口伝也。養生に志あらん人は、是をしりて守るべし。其要訣は少の一字なり。少とは万の事皆すくなくして多くせざるを云。すべてつつまやかに、いはゞ、慾をすくなくするを云。慾とは耳・目・口・体のむさぼりこのむを云。酒食をこのみ、好色をこのむの類也。およそ慾多きのつもりは、身をそこなひ命を失なふ。慾をすくなくすれば、身をやしなひ命をのぶ。慾をすくなくするに、その目録十二あり。十二少と名づく。必是を守るべし。食を少くし、飲ものを少くし、五味の偏を少くし、色欲を少くし、言語を少くし、事を少くし、怒を少くし、憂を少くし、悲を少くし、思を少くし、臥事を少くすべし。かやうに事ごとに少すれば、元気へらず、脾腎損せず。是寿をたもつの道なり。十二にかぎらず、何事も身のわざと欲とをすくなくすべし。一時に気を多く用ひ過し、心を多く用ひ過さば、元気へり、病となりて命みじかし。物ごとに数多くはゞ広く用ゆべからず。数すくなく、はばせばきがよし。孫思ばく(250)が千金方にも、養生の十二少をいへり。其意同じ。目録は是と同じからず。右にいへる十二少は、今の時宜にかなへるなり。 
(251)内慾をすくなくし、外邪をふせぎ、身を時々労動し、ねぶりをすくなくす。此四は養生の大要なり。  
(252)気を和平にし、あらくすべからず。しづかにしてみだりにうごかすべからず。ゆるやかにして、急なるべからず。言語をすくなくして、気をうごかすべからず。つねに気を臍(ほぞ)の下におさめて、むねにのぼらしむべからず。是気を養ふ法なり。  
(253)古人は詠歌・舞踏して血脉を養ふ。詠歌はうたふ也。舞踏は手のまひ足のふむ也。皆心を和らげ、身をうごかし、気をめぐらし、体をやしなふ。養生の道なり。今導引・按摩して気をめぐらすがごとし。  
(254)おもひをすくなくして神を養ひ、慾をすくなくして精を養ひ、飲食をすくなくして胃を養ひ、言をすくなくして気を養ふべし。是養生の四寡なり。  
(255)摂生の七養あり。是を守るべし。一には言をすくなくして内気を養ふ。二には色慾を戒めて精気を養ふ。三には滋味を薄くして血気を養ふ。四には津液をのんで臓気を養ふ。五には怒をおさえて肝気を養ふ。六には飲食を節にして胃気を養ふ。七には思慮をすくなくして心気を養ふ。是(これ)寿親養老補書に出たり。  
(256)孫真人が曰「修養の五宜(ごぎ)あり。髪は多くけづるに宜し。手は面にあるに宜し。歯はしばしばたゝくに宜し。津(つばき)は常にのむに宜し。気は常に練るに宜し。練るとは、さはがしからずしてしづかなる也」。  
(257)久しく行き、久しく坐し、久しく立、久しく臥し、久しく語るべからず。是労動ひさしければ気へる。又、安逸ひさしければ気ふさがる。気へるとふさがるとは、ともに身の害となる。  
(258)養生の四要は、暴怒をさり、思慮をすくなくし、言語をすくなくし、嗜慾をすくなくすべし。  
(259)病源集に唐椿が曰、四損は、遠くつばきすれば気を損ず。多くねぶれば神を損ず。多く汗すれば血を損ず。疾(とく)行けば筋を損ず」。  
(260)老人はつよく痰を去薬を用べからず。痰をことごとく去らんとすれば、元気へる。是古人の説也。 
(261)呼吸は人の鼻よりつねに出入る息也。呼は出る息也。内気をはく也。吸は入る息なり。外気をすふ也。呼吸は人の生気也。呼吸なければ死す。人の腹の気は天地の気と同くして、内外相通ず。人の天地の気の中にあるは、魚の水中にあるが如し。魚の腹中の水も外の水と出入して、同じ。人の腹中にある気も天地の気と同じ。されども腹中の気は臓腑にありて、ふるくけがる。天地の気は新くして清し。時々鼻より外気を多く吸入べし。吸入ところの気、腹中に多くたまりたるとき、口中より少づつしづかに吐き出すべし。あらく早くはき出すべからず。是ふるくけがれたる気をはき出して、新しき清き気を吸入る也。新とふるきと、かゆる也。是を行なふ時、身を正しく仰ぎ、足をのべふし、目をふさぎ、手をにぎりかため、両足の間、去事五寸、両ひぢと体との間も、相去事おのおの五寸なるべし。一日一夜の間、一両度行ふべし。久してしるしを見るべし。気を安和にして行ふべし。  
(262)千金方に、常に鼻より清気を引入れ、口より濁気を吐出す。入る事多く出す事すくなくす。出す時は口をほそくひらきて少吐べし。  
(263)常の呼吸のいきは、ゆるやかにして、深く丹田に入べし。急なるべからず。  
(264)調息の法、呼吸をとゝのへ、しづかにすれば、息やうやく微也。弥(いよいよ)久しければ、後は鼻中に全く気息なきが如し。只臍の上より微息往来する事をおぼゆ。かくの如くすれば神気定まる。是気を養ふ術なり。呼吸は一身の気の出入する道路也。あらくすべからず。  
(265)養生の術、まづ心法をよくつゝしみ守らざれば、行はれがたし。心を静にしてさはがしからず、いかりをおさえ慾をすくなくして、つねに楽んでうれへず。是養生の術にて、心を守る道なり。心法を守らざれば、養生の術行はれず。故に心を養ひ身を養ふの工夫二なし、一術なり。  
(266)夜書をよみ、人とかたるに三更をかぎりとすべし。一夜を五更にわかつに、三更は国俗の時皷の四半過、九の間なるべし。深更までねぶらざれば、精神しづまらず。  
(267)外境いさぎよければ、中心も亦是にふれて清くなる。外より内を養ふ理あり。故に居室は常に塵埃をはらひ、前庭も家僕に命じて、日々いさぎよく掃はしむべし。みづからも時々几上の埃をはらひ、庭に下りて、箒をとりて塵をはらふべし。心をきよくし身をうごかす、皆養生の助なり。  
(268)天地の理、陽は一、陰は二也。水は多く火は少し。水はかはきがたく、火は消えやすし。人は陽類にて少く、禽獣虫魚は陰類にて多し。此故に陽はすくなく陰は多き事、自然の理なり。すくなきは貴とく多きはいやし。君子は陽類にて少く、小人は陰類にて多し。易道は陽を善として貴とび、陰を悪としていやしみ、君子を貴とび、小人をいやしむ。水は陰類なり。暑月はへるべくしてますます多く生ず。寒月はますべくしてかへつてかれてすくなし。春夏は陽気盛なる故に水多く生ず。秋冬は陽気変る故水すくなし。血は多くへれども死なず。気多くへれば忽(たちまち)死す。吐血・金瘡・産後など、陰血大に失する者は、血を補へば、陽気いよいよつきて死す。気を補へば、生命をたもちて血も自(おのずから)生ず。古人も「血脱して気を補ふは、古聖人の法なり」、といへり。人身は陽常にすくなくして貴とく、陰つねに多くしていやし。故に陽を貴とんでさかんにすべし。陰をいやしんで抑ふべし。元気生生すれば真陰も亦生ず。陽盛(さかん)なれば陰自(おのずから)長ず。陽気を補へば陰血自生ず。もし陰不足を補はんとて、地黄・知母・黄栢等、苦寒の薬を久しく服すれば、元陽をそこなひ、胃の気衰て、血を滋生せずして、陰血も亦消ぬ。又、陽不足を補はんとて、烏附(うぶ:トリカブト)等の毒薬を用ゆれば、邪火を助けて陽気も亦亡ぶ。是は陽を補ふにはあらず。丹渓(の)陽有余陰不足論は何の経に本づけるや、其本拠を見ず。もし丹渓一人の私言ならば、無稽の言信じがたし。易道の陽を貴とび、陰を賎しむの理にそむけり。もし陰陽の分数を以其多少をいはゞ、陰有余陽不足とは云べし。陽有余陰不足とは云がたし。後人其偏見にしたがひてくみするは何ぞや。凡(およそ)識見なければ其才弁ある説に迷ひて、偏執に泥(なず)む。丹渓はまことに古よりの名医なり。医道に功あり。彼補陰に専なるも、定めて其時の気運に宜しかりしならん。然れども医の聖にあらず。偏僻の論、此外にも猶多し。打まかせて悉くには信じがたし。功過相半せり。其才学は貴ぶべし。其偏論は信ずべからず。王道は偏なく党なくして平々なり。丹渓は補陰に偏して平々ならず。医の王道とすべからず。近世は人の元気漸(ようやく)衰ろふ。丹渓が法にしたがひ、補陰に専ならば、脾胃をやぶり、元気をそこなはん。只東垣が脾胃を調理する温補の法、医中の王道なるべし。明の医の作れる軒岐救生論、類経等の書に、丹渓を甚(はなはだ)誹(そし)れり。其説頗(すこぶ)る理あり。然れども是亦一偏に僻して、丹渓が長ずる所をあはせて、蔑(ないがしろ)にす。枉(まが)れるをためて直(なおき)に過と云べし。凡古来術者の言、往々偏僻多し。近世明季の医、殊に此病あり。択んで取捨すべし。只、李中梓が説は、頗(すこぶる)平正にちかし。 
巻第三 / 飲食上 

 

(301)人の身は元気を天地にうけて生ずれ共、飲食の養なければ、元気うゑて命をたもちがたし。元気は生命の本也。飲食は生命の養也。此故に、飲食の養は人生日用専一の補にて、半日もかきがたし。然れ共、飲食は人の大欲にして、口腹の好む処也。其このめるにまかせ、ほしゐまゝにすれば、節に過て必(ず)脾胃をやぶり、諸病を生じ、命を失なふ。五臓の初(はじめ)て生ずるは、腎を以(て)本とす。生じて後は脾胃を以(て)五臓の本とす。飲食すれば、脾胃まづ是をうけて消化し、其精液を臓腑におくる。臓腑の脾胃の養をうくる事、草木の土気によりて生長するが如し。是を以(て)養生の道は先(まず)脾胃を調るを要とす。脾胃を調るは人身第一の保養也。古人も飲食を節にして、その身を養ふといへり。  
(302)人生日々に飲食せざる事なし。常につゝしみて欲をこらへざれば、過やすくして病を生ず。古人「禍は口よりいで、病は口より入」といへり。口の出しいれ常に慎むべし。  
(303)論語、郷党篇に記せし聖人の飲食の法、是養生の要なり。聖人の疾を慎み給ふ事かくの如し。法とすべし。  
(304)飯はよく熱して、中心まで和らかなるべし。こはくねばきをいむ。煖なるに宜し。羮(あつもの)は熱きに宜し。酒は夏月も温なるべし。冷飲は脾胃をやぶる。冬月も熱飲すべからず。気を上せ、血液をへらす。  
(305)飯を炊ぐ法多し。たきぼし(:普通に炊く)は壮実なる人に宜し。ふたたびいい(305:湯を入れ二度炊き)は積聚気滞(しゃくじゅきたい:胃けいれん)ある人に宜し。湯取飯(ゆとりいい:水を多くして炊く)は脾胃虚弱の人に宜し。粘りて糊の如くなるは滞塞す。硬(こわ)きは消化しがたし。新穀の飯は性つよくして虚人はあしゝ。殊に早稲は気を動かす。病人にいむ。晩稲は性かろくしてよし。  
(306)凡(すべて)の食、淡薄なる物を好むべし。肥濃・油膩の物多く食ふべからず。生冷・堅硬なる物を禁ずべし。あつ物、只一によろし。肉も一品なるべし。さい(306)は一二品に止まるべし。肉を二かさぬべからず。又、肉多くくらふべからず。生肉をつゞけて食ふべからず。滞りやすし。羹に肉あらば、さい(306)には肉なきが宜し。  
(307)飲食は飢渇をやめんためなれば、飢渇だにやみなば其上にむさぼらず、ほしゐままにすべからず。飲食の欲を恣にする人は義理をわする。是を口腹の人と云(いい)いやしむべし。食過たるとて、薬を用ひて消化すれば、胃気、薬力のつよきにうたれて、生発の和気をそこなふ。おしむべし。食飲する時、思案し、こらへて節にすべし。心に好み、口に快き物にあはゞ、先(まず)心に戒めて、節に過ん事をおそれて、恣にすべからず。心のちからを用ひざれば、欲にかちがたし。欲にかつには剛を以すべし。病を畏るゝには怯(つたな)かるべし。つたなきとは臆病なるをいへり。  
(308)珍美の食に対すとも、八九分にてやむべし。十分に飽き満るは後の禍あり。少しの間、欲をこらゆれば後の禍なし。少のみくひて味のよきをしれば、多くのみくひてあきみちたるに其楽同じく、且後の災なし。万のむくひて味のよきをしれば、多くのみくひて、あきみちたるに其楽同じく、且後の災なし。万に事十分にいたれば、必わざはひとなる。飲食尤満意をいむべし。又、初に慎めば必後の禍なし。  
(309)五味偏勝とは一味を多く食過すを云。甘き物多ければ、腹はりいたむ。辛き物過れば、気上りて気へり、瘡(かさ)を生じ、眼あしゝ。鹹(しおはゆ)き物多ければ血かはき、のんどかはき、湯水多くのめば湿を生じ、脾胃をやぶる。苦き物多ければ脾胃の生気を損ず。酸き物多ければ気ちゞまる。五味をそなへて、少づゝ食へば病生ぜず。諸肉も諸菜も同じ物をつゞけて食すれば、滞りて害あり。  
(310)食は身をやしなふ物なり。身を養ふ物を以、かへつて身をそこなふべからず。故に、凡(そ)食物は性よくして、身をやしなふに益ある物をつねにゑらんで食ふべし。益なくして損ある物、味よしとてもくらふべからず。温補して気をふさがざる物は益あり。生冷にして瀉(はき)下し、気をふさぎ、腹はる物、辛くし(て)熱ある物、皆損あり。 
(311)飯はよく人をやしなひ、又よく人を害す。故に飯はことに多食すべからず。常に食して宜しき分量を定むべし。飯を多くくらへば、脾胃をやぶり、元気をふさぐ。他の食の過たるより、飯の過たるは消化しがたくして大いに害あり。客となりて、あるじ心を用ひてまうけたる品味を、箸を下さゞれば、主人の盛意を空しくするも快からずと思はゞ、飯を常の時より半減してさい(306)の品味を少づゝ食すべし。此の如くすればさい多けれど食にやぶられず。飯を常の如く食して、又魚鳥などの、さい(306)数品多くくらへば必(ず)やぶらる。飯後に又茶菓子ともち(311)・餌(だんご)などくらひ、或後段とて麪類など食すれば、飽満して気をふさぎ、食にやぶらる。是常の分量に過れば也。茶菓子・後段は分外の食なり。少食して可也。過すべからず。もし食後に小食せんとおもはゞ、かねて飯を減ずべし。  
(312)飲食の人は、人これをいやしむ。其小を養つて大をわするゝがためなりと、孟子ののたまへるごとく、口腹の欲にひかれて道理をわすれ、只のみくひ、あきみちん事をこのみて、腹はりいたみ、病となり、酒にゑひて乱に及ぶは、むけにいやしむべし。  
(313)夜食する人は、暮て後、早く食すべし。深更にいたりて食すべからず。酒食の気よくめぐり、消化して後ふすべし。消化せざる内に早くふせば病となる。夜食せざる人も、晩食の後、早くふすべからず。早くふせば食気とゞこをり、病となる。凡夜は身をうごかす時にあらず。飲食の養を用ひず、少うゑても害なし。もしやむ事を得ずして夜食すとも、早くして少きに宜し。夜酒はのむべからず。若(もし)のむとも、早くして少のむべし。  
(314)俗のことばに、食をひかへすごせば、養たらずして、やせおとろふと云。是養生知不人の言也。欲多きは人のむまれ付なれば、ひかえ過すと思ふがよきほどなるべし。  
(315)すけ(好)る物にあひ、うゑたる時にあたり、味すぐれて珍味なる食にあひ、其品おほく前につらなるとも、よきほどのかぎりの外は、かたくつゝしみて其節にすぐすべからず。さい(306)多く食ふべからず。魚鳥などの味の濃く、あぶら有て重き物、夕食にあしし。菜類も薯蕷(やまのいも)、胡蘿蔔(にんじん)、菘菜(うきな)、芋根(いも)、慈姑(くわい)などの如き、滞りやすく、気をふさぐ物、晩食に多く食ふべからず。食はざるは尤よし。  
(320)飯のすゑり、魚のあざれ、肉のやぶれたる、色のあしき物、臭(か)のあしき物、にえばな(320)をうしなへる物くらはず。朝夕の食事にあらずんばくらふべからず。又、早くしていまだ熟せず、或いまだ生ぜざる物根をほりとりてめだちをくらふの類、又、時過ぎてさかりを失へる物、皆、時ならざる物也。くらふべからず。是論語にのする処、聖人の食し給はざる物なり。聖人身を慎み給ふ、養生の一事なり。法とすべし。又、肉は多けれども、飯の気にかたしめずといへり。肉を多く食ふべからず。食は飯を本とす。何の食も飯より多かるべからず。 
(321)飲食の内、飯は飽ざれば飢を助けず。あつものは飯を和せんためなり。肉はあかずしても不足なし。少くらって食をすゝめ、気を養ふべし。菜は穀肉の足らざるを助けて消化しやすし。皆その食すべき理あり。然共多かるべからず。  
(322)人身は元気を本とす。穀の養によりて、元気生々してやまず。穀肉を以元気を助くべし。穀肉を過して元気をそこなふべからず。元気穀肉にかてば寿(いのちなが)し。穀肉元気に勝てば夭(みじか)し。又古人の言に穀はかつべし。肉は穀にかたしむべからずといへり。  
(323)脾胃虚弱の人、殊(ことに)老人は飲食にやぶられやすし。味よき飲食にむかはゞ忍ぶべし。節に過べからず。心よはきは慾にかちがたし。心つよくして慾にかつべし。  
(324)交友と同じく食する時、美饌にむかえば食過やすし。飲食十分に満足するは禍の基なり。花は半開に見、酒は微酔にのむといへるが如くすべし。興に乗じて戒を忘るべからず。慾を恣にすれば禍となる。楽の極まれるは悲の基なり。  
(325)一切の宿疾を発する物をば、しるして置きてくらふべからず。宿疾とは持病也。即時に害ある物あり。時をへて害ある物あり。即時に傷なしとて食ふべからず。  
(326)傷食の病あらば、飲食をたつべし。或食をつねの半減し、三分の二減ずべし。食傷の時はやく温湯に浴すべし。魚鳥の肉、魚鳥のひしほ、生菜、油膩の物、ねばき物、こわき物、もちだんご、つくり菓子、生菓子などくらふべからず。  
(327)朝食いまだ消化せずんば、昼食すべからず。点心などくらふべからず。昼食いまだ消化せずんば、夜食すべからず。前夜の宿食、猶滞らば、翌朝食すべからず。或半減し、酒肉をたつべし。およそ食傷を治する事、飲食をせざるにしくはなし。飲食をたてば、軽症は薬を用ずしていゆ。養生の道しらぬ人、殊に婦人は智なくして食滞の病にも早く食をすゝむる故、病おもくたる。ねばき米湯など殊に害となる。みだりにすゝむべからず。病症により、殊に食傷の病人は、一両日食せずしても害なし。邪気とゞこほりて腹みつる故なり。  
(328)煮過してにえばな(320)を失なへる物と、いまだ煮熟せざる物くらふべからず。魚を煮るにに煮ゑざるはあしゝ。煮過してにえばなを失なへるは味なく、つかへやすし。よき程の節あり。魚を蒸たるは久しくむしても、にえばなを失なはず。魚をにるに水おおきは味なし。此事、李笠翁が閑情寓寄にいへり。  
(329)聖人其(その)醤(あえしお)を得ざればくひ給わず。是養生の道也。醤とはひしほ(:なめ味噌)にあらず、其物にくはふべきあはせ物なり。今こゝにていはゞ、塩酒、醤油、酢、蓼、生薑、わさび、胡椒、芥子、山椒など、各其食物に宜しき加へ物あり。これをくはふるは其毒を制する也。只其味のそなはりてよからん事をこのむにあらず。  
(330)飲食の慾は朝夕におこる故、貧賤なる人もあやまり多し。況富貴の人は美味多き故、やぶられやすし。殊に慎むべし。中年以後、元気へりて、男女の色欲はやうやく衰ふれども、飲食の慾はやまず。老人は脾気よはし。故に飲食にやぶられやすし。老人のにはかに病をうけて死するは、多くは食傷也。つゝしむべし。 
(331)諸(もろもろ)の食物、皆あたらしき生気る物をくらふべし。ふるくして臭(か)あしく、色も味もかはりたる物、皆気をふさぎて、とゞこほりやすし。くらふべからず。  
(332)すける物は脾胃のこのむ所なれば補となる。李笠翁も本姓甚すける物は、薬にあつべしといへり。尤此理あり。されどすけるまゝに多食すれば、必やぶられ、好まざる物を少くらふにおとる。好む物を少食はゞ益あるべし。  
(333)清き物、かうばしき物、もろく和かなる物、味かろき物、性よき物、此五の物をこのんで食ふべし。益ありて損なし。是に反する物食ふべからず。此事もろこしの食にも見えたり。  
(334)衰弱虚弱の人は、つねに魚鳥の肉を味よくして、少づゝ食ふべし。参ぎ(115)の補にまされり。性よき生魚を烹炙よくすべし。塩つけて一両日過たる尤よし。久しければ味よからず。且滞りやすし。生魚の肉みそ(334)につけたるを炙煮て食ふもよし。夏月は久しくたもたず。  
(335)脾虚の人(:胃腸の弱い人)は生魚をあぶりて食するに宜し。煮たるよりつかえず。小魚は煮て食するに宜し。大なる生魚はあぶりて食ひ、或煎酒(:煮詰めた料理用の酒)を熱くして、生薑わさびなどを加え、浸し食すれば害なし。  
(336)大魚は小魚より油多くつかえやすし。脾虚の人は多食すべからず。薄く切て食へばつかえず。大なる鯉・鮒大に切、或全身を煮たるは、気をふさぐ。うすく切べし。蘿蔔(だいこん)、胡蘿蔔(にんじん)、南瓜、菘菜(うきな)なども、大に厚く切て煮たるは、つかえやすく、薄く切て煮るべし。  
(337)生魚、味をよく調へて食すれば、生気ある故、早く消化しやすくしえつかえず。煮過し、又は、ほして油多き肉、或塩につけて久しき肉は、皆生気なき隠物なり。滞やすし。此理をしらで生魚より塩蔵をよしとすべからず。  
(338)甚腥く脂多き魚食ふべからず。魚のわたは油多し。食べからず。なしもの(3380,3381:塩辛)ことにつかえやすし。痰を生ず。  
(339)さし身、鱠(なます)は人により斟酌すべし。酢過たるをいむ。虚冷の人はあたゝめ食ふべし。鮓は老人・病人食ふべからず、消化しがたし。殊に未熟の時、又熟し過て日をへたる、食ふべからず。ゑびの鮓毒あり。うなぎの鮓消化しがたし。皆食ふべからず。大なる鳥の皮、魚の皮のあつきは、かたくして油多し。食ふべからず。消しがたし。  
(340)諸獣の肉は、日本の人、腸胃薄弱なる故に宜しからず。多く食ふべからず。烏賊・章魚など多く食ふべからず。消化しがたし。鶏子・鴨子、丸ながら煮たるは気をふさぐ。ふはふはと俗の称するはよし。肉も菜も大に切たる物、又、丸ながら煮たるは、皆気をふさぎてつかえやすし。 
(341)生魚あざらけきに塩を淡くつけ、日にほし、一両日過て少あぶり、うすく切て酒にひたし食ふ。脾に妨なし。久しきは滞りやすし。  
(342)味噌、性和(やわらか)にして脾胃を補なふ。たまりと醤油はみそより性するどなり。泄瀉(嘔吐や下痢)する人に宜しからず。酢は多く食ふべからず。脾胃に宜しからず。然れども積聚(しゃくじゅ:胃けいれん)ある人は小食してよし。げん醋(342:げんそ:濃い酢)を多く食ふべからず。  
(343)脾胃虚して生菜をいむ人は、乾菜を煮食ふべし。冬月蘿蔔(らふく)をうすく切りて生ながら日に乾す。蓮根、牛蒡、薯蕷(やまのいも)、うどの根、いづれもうすく切りてほす。椎蕈、松露、石茸(いわたけ)、もほしたるがよし。松蕈塩漬よし。壷廬(ゆうがお)切て塩に一夜つけ、おしをかけ置てほしたるがよし。瓠畜(かんぴょう)もよし。白芋の茎熱湯をかけ日にほす。是皆虚人の食するに宜し。枸杞(くこ)、五加(うこぎ)、ひゆ (343)、菊、蘿摩(らも:ちぐさ)、鼓子花(ひるがお)葉など、わか葉をむし、煮てほしたるをあつ物とし、味噌にてあへ物とす。菊花は生にてほす。皆虚人に宜し。老葉はこはし。海菜(みる)は冷性也。老人・虚人に宜しからず。昆布多く食へば気をふさぐ。  
(344)食物の気味、わが心にかなはざる物は、養とならず。かへつて害となる。たとひ我がために、むつかしくこしらへたる食なりとも、心にかなはずして、害となるべき物は食ふべからず。又、其味は心にかなへり共、前食いまだ消化せずして、食ふ事を好まずば食すべからず。わざととゝのへて出来たる物をくらはざるも、快からずとて食ふはあしゝ。別に使令する家僕などにあたへて食はしむれば、我が食せずしても快し。他人の饗席にありても、心かなはざる物くらふべからず。又、味心にかなへりとて、多く食ふは尤あしゝ。  
(345)凡食飲をひかへこらゆる事久き間にあらず。飲食する時須臾の間、欲を忍ぶにあり。又、分量は多きにあらず。飯は只二三口、さい(306)は只一二片、少の欲をこらゑて食せざれば害なし。酒も亦しかり。多飲の人も少こらえて、酔過さゞれば害なし。  
(346)脾胃のこのむと、きらふ物をしりて、好む物を食し、きらふ物を食すべからず。脾胃の好む物は何ぞや。あたたかなる物、やはらかなる物、よく熟したる物、ねばりなき物、味淡くかろき物、にえばなの新に熟したる物、きよき物、新しき物、香よき物、性平和なる物、五味の偏ならざる物、是皆、脾胃の好む物なり。是、脾胃の養となる。くらふべし。  
(347)脾胃のきらふ物は生しき物、こはき物、ねばる物、けがらはしく清からざる物、くさき物、煮ていまだ熟せざる物、煮過してにえばな(320)を失へる物、煮て久しくなるもの、菓(このみ)のいまだ熟せざる物、ふるくして正味を失なへる物、五味の偏なる物、あぶら多くして味おもきもの、是皆、脾胃のきらふ物也。是をくらへば脾胃を損ず。食ふべからず。  
(348)酒食を過し、或は時ならずして飲食し、生冷の物、性あしく病をおこす物をくひて、しばしば泄瀉すれば、必胃の気へる。久しくかさなりては、元気衰へて短命なり。つゝしむべし。  
(349)塩と酢と辛き物と、此三味を多く食ふべからず。此三味を多くくらひ、渇きて湯を多くのめば、湿を生じ、脾をやぶる。湯・茶・羹多くのむべからず。右の三味をくらつて大にかはかば葛の粉か天花粉を熱湯にたてゝ、のんで渇をとゞむべし。多く湯をのむ事をやめんがためなり。葛などのねば湯は気をふさぐ。  
(350)酒食の後、酔飽せば、天を仰で酒食の気をはくべし。手を以面及腹・腰をなで、食気をめぐらすべし。 
(351)わかき人は食後に弓を射、鎗、太刀を習ひ、身をうごかし、歩行すべし。労動を過すべからず。老人も其気体に応じ、少労動すべし。案(おしまずき)によりかゝり、一処に久しく安坐すべからず。気血を滞らしめ、飲食消化しがたし。  
(352)脾胃虚弱の人、老人などは、もち(311)・だんご(352)、饅頭などの類、堅くして冷たる物くらふべからず。消化しがたし。つくりたる菓子、生菓子の類くらふ事斟酌すべし。おりにより、人によりて甚害あり。晩食の後、殊にいむべし。  
(353)古人、寒月朝ごとに、性平和なる薬酒を少のむべし。立春以後はやむべしといへり。人により宜かるべし。焼酒(しょうちゅう)にてかもしたる薬酒は用ゆべからず。  
(354)肉は一臠を食し、菓(くだもの)は一顆(ひとつぶ)を食しても、味をしる事は肉十臠を食し、菓百顆を食したると同じ。多くくひて胃をやぶらんより、少くひて其味をしり、身に害なきがまされり。  
(355)水は清く甘きを好むべし。清からざると味あしきとは用ゆべからず。郷土の水の味によって、人の性(うまれつき)かはる理なれば、水は尤ゑらぶべし。又悪水のもり入たる水、のむべからず。薬と茶を煎ずる水、尤よきをゑらぶべし。  
(356)天よりすぐに下る雨水は性よし、毒なし。器にうけて薬と茶を煎ずるによし。雪水は尤よし。屋漏(あまだり)の水、大毒あり。たまり水はのむべからず。たまり水の地をもり来る水ものむべからず。井のあたりに、汚濁のたまり水あらしむべからず。地をもり通りて井に入る甚いむべし。  
(357)湯は熱きをさまして、よき比の時のむはよし。半沸きの湯をのめば腹はる。  
(358)食すくなければ、脾胃の中に空処ありて、元気めぐりやすく、食消化しやすくして、飲食する物、皆身の養となる。是を以病すくなくして身つよくなる。もし食多くして腹中にみつれば、元気のめぐるべき道をふさぎ、すき間なくして食消せず。是を以のみくふ物、身の養とならず、滞りて元気の道をふさぎ、めぐらずして病となる。甚しければもだえて死す。是食過て腹にみち、気ふさがりて、めぐらざる故也。食後に病おこり、或頓死するは此故也。凡大酒・大食する人は、必短命なり。早くやむべし。かへすがへす老人は腸胃よはき故に、飲食にやぶられやすし。多く飲食すべからず。おそるべし。  
(359)およそ人の食後に俄にわづらひて死ぬるは、多くは飲食の過て、飽満し、気をふさげばなり。初まづ生薑に塩を少加えてせんじ、多く飲しめて多く吐しむべし。其後食滞を消し、気をめぐらす薬を与ふべし。卒中風として、蘇合円・延齢丹など与ふべからず。あしゝ。又少にても食物を早く与ふべからず。殊ねばき米湯など、与ふべからず。気弥(いよいよ)塞りて死す。一両日は食をあたへずしてよし。此病は食傷なり。世人多くはあやまりて卒中風とす。その治応ぜず。  
(360)うえて食し、かはきて飲むに、飢渇にまかせて、一時に多く飲食すれば、飽満して脾胃をやぶり、元気をそこなふ。飢渇の時慎むべし。又飲食いまだ消化せざるに、又いやかさねに早く飲食すれば、滞りて害となる。よく消化して後、飲食を好む時のみ食ふべし。如此すれば、飲食皆養となる。 
(361)四時老幼ともに、あたたかなる物くらふべし。殊に夏月は伏陰内にあり。わかく盛なる人も、あたたかなる物くらふべし。生冷を食すべからず。滞やすく泄瀉しやすし。冷水多く飲むべからず。  
(362)夏月、瓜菓・生菜多く食ひ、冷麪をしばしば食し、冷水を多く飲めば、秋必瘧痢(:下痢を伴う急性の発熱)を病む。凡病は故なくしてはおこらず。かねてつゝしむべし。  
(363)食後に湯茶を以口を数度すゝぐべし。口中清く、牙歯にはさまれる物脱し去る。牙杖にてさす事を用ひず。夜は温なる塩茶を以口をすゝぐべし。牙歯堅固になる。口をすゝぐには中下の茶を用ゆべし。是、東坡が説なり。  
(364)人、他郷にゆきて、水土かはりて、水土に服せず、わづらふ事あり。先豆腐を食すれば脾胃調(ととのい)やすし。是、時珍が食物本草の注に見えたり。  
(365)山中の人、肉食ともしくて、病すくなく命長し。海辺、魚肉多き里にすむ人は、病多くして命短し、と千金方にいへり。  
(366)朝早く、粥を温に、やはらかにして食へば、腸胃をやしなひ、身をあたため、津液を生ず。寒月尤よし。是、張来が説也。  
(367)生薑、胡椒、山椒、蓼、紫蘇、生蘿蔔(だいこん)、生葱(ひともじ)など、食の香気を助け、悪臭を去り、魚毒を去り、食気をめぐらすために、其食品に相宜しからき物を、少づゝ加へて毒を殺すべし。多く食すべからず。辛き物多ければ気をへらし、上升し、血液をかはかす。  
(368)朝夕飯を食するごとに、初一椀は羹ばかり食して、さい(306)を食せざれば、飯の正味をよく知りて、飯の味よし。後に五味のさい(306)を食して、気を養なふべし。初よりさい(306)をまじえて食へば、飯の正味を失なふ。後にさい(306)を食へば、さい(306)多からずしてたりやすし。是身を養ふによろしくて、又貧に処(す)るによろし。魚鳥・蔬菜のさい(306)を多く食はずして、飯の味のよき事を知るべし。菜肉多くくらへば、飯のよき味はしらず。貧民はさい(306)肉ともしくして、飯と羹ばかり食ふ故に、飯の味よく食滞の害なし。  
(369)臥にのぞんで食滞り、痰ふさがらば、少(すこし)消導の薬をのむべし。夜臥して痰のんどにふさがるはおそるべし。  
(370)日短き時、昼の間、点心(てんじん)食ふべからず。日永き時も、昼は多食はざるが宜し。 
(371)晩食は朝食より少くすべし。さい(306)肉も少きに宜し。  
(372)一切の煮たる物、よく熱して柔なるを食ふべし。こはき物、未熟物、煮過してにえばな(320)を失へる物、心にかなはざる物、食ふべからず。  
(373)我が家にては、飲食の節慎みやすし、他の饗席にありては烹調・生熱の節我心にかなはず。さい(306)品多く過やすし。客となりては殊に飲食の節つつしむべし。  
(374)飯後に力わざすべからず。急に道を行べからず。又、馬をはせ、高きにのぼり、険路に上るべからず。 
巻第四 / 飲食下 

 

(401)東坡(とうば)日(く)、「早晩の飲食一爵一肉に過す。尊客あれば之を三にす。へらすべくして、ますべからず。我をよぶ者あれば是を以つぐ。一に日(く)、分を安すんじて以福を養なふ。二に日(く)、胃を寛(ゆる)くして以気を養なふ。三に日(く)、費(ついえ)をはぶきて以財を養なふ」。東坡が此法、倹約養生のため、ともにしかるべし。  
(402)朝夕一さい(306)を用ゆべし。其上に醤(ひしお)か肉醢(ししびしお:塩辛)か或(あるいは)つけもの(402)か一品を加ふるもよし。あつものは、富める人も常に只一なるべし。客に饗するに二用るは、本汁、もし心に叶はずば、二の汁を用させん為也。常には無用の物也。唐の高侍郎と云し人、兄弟あつものと肉を二にせず、朝夕一品のみ用ゆ。晩食には只蔔匏(ふくほう)をくらふ。大根と夕がほとを云。范忠宣と云し富貴の人、平生肉をかさねず。其倹約養生二ながら則とすべし。  
(403)松蕈、竹筍、豆腐など味すぐれたる野菜は、只一種煮食すべし。他物と両種合わせ煮れば、味おとる。李笠翁が閑情萬寄にかくいへり。味あしければ腸胃に相応せずして養とならず。  
(404)もち(310)・餌(だんご)の新に成て再煮ずあぶらずして、即食するは消化しがたし。むしたるより、煮たるがやはらかにして、消化しやすし。'もち'は数日の後、焼煮て食ふに宣し。  
(405)朝食、肥濃の物ならば、晩食は必淡薄に宣し。晩食豊腴(ほうゆ)ならば、明朝の食はかろくすべし。  
(406)諸の食物、陽気の生理ある新きを食ふべし。毒なし。日久しく歴(へ)たる陰気欝滞(うったい)せる物、食ふべからず。害あり。煮過してにえばな(320)を失へるも同じ。  
(407)一切の食、陰気の欝滞せる物は毒あり。くらふべからず。郷党篇(きょうとうへん)にいへる、聖人の食し給はざる物、皆、陽気を失て陰物となれるなり。穀肉などふたをして時をへるは、陰鬱の気にて味を変ず。魚鳥の肉など久しく時をへたる、又、塩につけて久しくして、色臭(か)味変ず。是皆陽気を失へる也。菜蔬(さいそ)など久しければ、生気を失ひて味変ず。此如なるは皆陰物なり。腸胃に害あり。又、害なきも補養をなさず。水など新に汲むは陽気さかんにて、生気あり。久しきを歴(ふ)れば陰物となり、生気を失なふ。一切の飲食、生気を失ひて、味と臭(か)と色と少にても、かはりたるは食ふべからず。ほして色かはりたると、塩に浸して不損とは、陰物にあらず食ふに害なし。然共、乾物の気のぬけたると、塩蔵の久して、色臭(か)味変じたるも皆陰物也。食ふべからず。  
(408)夏月、暑中にふたをして、久しくありて、熱気に蒸欝(むしうつ)し、気味悪しくなりたる物、食ふべからず。冬月、霜に打れたる菜、又、のきの下に生じたる菜、皆くらべからず。是皆陰物なり。  
(409)瓜は風涼の日、及秋月清涼の日、食ふべからず。極暑の時食ふべし。  
(410)炙もち(311)・炙肉すでに炙りて、又、熱湯に少ひたし、火毒を去りて食ふべし。然れずは津液(しんえき:つばき)をかはかす。又、能喉痺(よくこうひ:慢性咽頭疾患)を発す。 
(411)茄子、本草等の書に、性好まずと云。生なるは毒あり、食ふべからず。煮たるも瘧痢(ぎゃくり:急性下痢)傷寒(しょうかん:高熱疾患)などには、誠に忌むべし。他病には、皮を去切(さりきり)て米みず(411)(しろみず:米のとぎ水)に浸し、一夜か半日を歴(へ)てやはらかに煮て食す。害なし。葛粉、水に溲(こね)て、切て線条(せんじょう)とし、水にて煮、又、みそ(334)汁に鰹魚(かつお)の末(まつ)を加へ、再煮て食す。瀉を止め、胃を補ふ。保護に益あり。  
(412)胃虚弱の人は、蘿蔔(だいこん)、胡蘿蔔(にんじん)、芋、薯蕷(やまのいも)、牛蒡(ごぼう)などうすく切てよく煮たる、食ふべし。大にあつくきりたると、煮ていまだ熟せざると、皆、脾胃(ひい)をやぶる。一度うすみそか、うすじょうゆにて煮、其汁にひたし置、半日か、一夜か間置て、再前の汁にて煮れば、大に切りたるも害なし、味よし。鶏肉、野猪(やちょ)肉なども此如くすべし。  
(413)蘿蔔は菜中の上品也。つねにに食ふべし。葉のこはきをさり、やはらかなる葉と根と、みそ(334)にて煮熟して食ふ。脾を補ひ痰(たん)を去り、気をめぐらす。大根の生しく辛きを食すれば、気へる。然ども食滞ある時、少食して害なし。  
(414)菘(な)は京都のはたけ菜水菜、いなかの京菜也。蕪(かぶ)の類也。世俗あやまりて、ほりいりなと訓ず。味よけれども性よからず。仲景日(く)、「薬中に甘草ありて、菘を食へば病除かず。根は九十月の比(ころ)食へば味淡くして可也。うすく切てくらふべし、あつく切たるは気をふさぐ。十一月以後、胃虚の人くらへば滞塞(たいそく)す」。  
(15)諸菓、寒具(ひがし)など、炙(あぶり)食へば害なし。味も可也。甜瓜(あまうり)は核(さね)を去て蒸食す。味よくして胃をやぶらず。熟柿も木練も皮共に、熱湯にてあたヽめ食すべし。乾柿(ほしがき)はあぶり食ふべし。皆、脾胃虚の人に害なし。梨子(なし)は大寒なり。蒸煮て食すれば、性やはらぐ。胃虚寒の人は、食ふべからず。  
(416)人は病症によりて禁宣(きんぎ)の食物各(おのおの)かはれり。よく其物の性を考がへ、其病に随ひて精(くわ)しく禁宣を定むべし。又、婦人懐胎(かいたい)の間、禁物多し。かたく守らしむべし。  
(417)豆腐には毒あり。気をふさぐ。されども新しきをにて、にえばな(320)を失はざる時、早く取あげ、生だいこん(4170,4171)のおろしたるを加へ食すれば害なし。  
(418)前食未だ消化せんば、後食相つぐべからず。  
(419)薬を服す時、あまき物、油膩(ゆに)の物、獣の肉、諸菓、もち(311)、餌(だんご)、生冷の物、一切気を塞ぐ物、食うべからず。服薬の時多食へば薬力とヾこほりて力なし。酒は只一盞(さん)に止るべし。補薬を服する日、ことさら此類いむべし。凡(およそ)薬を服する日は、淡き物を食して薬力をたすくすべし、味こき物を食して薬力を損ずべからず。  
(420)だいこん(4170,4171)、菘、薯蕷(やまのいも)、芋、慈姑(くわい)、胡蘿蔔(にんじん)、南瓜(ぼぶら)、大葱白(ひともじのしろね)等の甘き菜は、大に切て煮食すれば、つかへて気をふさぎ、腹痛す。薄く切べし。或(あるいは)辛き物をくはへ、又、物により酢を少(すこし)加るもよし。再び煮る事を右に記せり。又、此如の物、一時に二三品くらふべからず。又、甘き菜の類、およそつかえやすき物、つヾけ食ふべからず。生魚、肥肉、厚味の物つづけ食ふべからず。 
(421)薑(はじかみ:しょうが)を八九月食へば、来春眼をうれふ。  
(422)豆腐、菎蒻(こんにゃく)、薯蕷(やまのいも)、芋、慈姑(くわい)、蓮根などの類、豆油(しょうゆ)にて煮たるもの、既に冷へて温ならざるは食ふべからず。  
(423)暁の比(ころ)、腹中鳴動し、食つかへて腹中不快ば、朝食を減ずべし。気をふさぐ物、肉、菓など食ふべからず。酒を飲べからず。  
(424)飲酒の後、酒気残らば、もち(311)、餌(だんご)、諸穀食、寒具(ひがし)、諸菓、醴(あまざけ)、にごりざけ(424)、油膩(ゆに)の物、甘き物、気をふさぐ物、飲食すべからず。酒気めぐりつきて後、飲食すべし。  
(425)鳥獣のこはき肉、前日より豆油(しょうゆ)及みそ(334)汁を以煮て、その汁を用ひて翌日再煮れば、大に切たるも、やはらかになりて味よし。つかえず。蘿蔔(だいこん)も亦同じ。  
(426)鶻突羹(こつとつこう)は鮒魚(ふな:426)をうすく切て、山椒などくはへ、味噌にて久しく煮たるを云。脾胃(ひい)を補ふ。脾虚(ひきょ)の人、下血(げけつ)する病人などに宣し。大に切たるは気をふさぐ、あしヽ。  
(427)凡諸菓の核(さね)いまだ成ざるをくらふべからず、菓(このみ)に双仁(そうじん)ある物、毒あり。山椒、口をとぢて開かざるは、毒あり。  
(428)怒(いかり)の後、早すべからず。食後、怒るべからず。憂ひて食すべからず。食して憂ふべからず。  
(429)腹中の食いまだ消化せざるに、又食すれば、性よき物も毒となる。腹中、空虚になりて食すべし。  
(430)永夜、寒甚(はなはだし)き時、もし夜飲食して寒を防ぐに宣しくば、晩饌(ばんせん)の酒飯を、数口減ずべし。又、やむ事を得ずして、人の招に応じ、夜話に、人の許(もと)にゆきて食客とならば、晩そん(430)(ばんそん)の酒食をかさねて減ずべし。此如かにして、夜少飲食すればやぶれなし。夜食は、朝晩より進みやすし。心に任せて恣(ほしいまま)にすべからず。 
(431)朝夕の食、塩味をくらふ事すくなければ、のんどかはかず、湯茶を多くのまず。脾に湿を生ぜずして、胃気発生しやすし。  
(432)中華、朝鮮の人は、脾胃つよし。飯多く食し、六蓄の肉を多く食つても害なし。日本の人は是にことなり、多く穀肉を食すれば、やぶられやすし。是日本人の異国の人より体気(たいき)よはき故也。  
(433)空腹に、生菓食ふべからず。つくり菓子、多く食ふべからず。脾胃の陽気を損ず。  
(434)労倦(ろうけん)して多く食すれば、必眠り臥す事をこのむ。食して即臥(そくが)し、ねむれば、食気塞りてめぐらず、消化しがたくして病となる。故に労倦したる時は、くらふべからず。労をやめて後、食ふべし。食してねむらざるがため也。  
(435)古今医統(ここんいとう)に、百病の横夭(おうよう)は多く飲食による。飲食の患(うれい)は色欲に過たりといへり。色慾は楢も絶べし。飲食は半日もたつべからず。故飲食のためにやぶらるヽ事多し。食多ければ積聚(しゃくじゅ)となり、飲多ければ痰癖(たんぺき)となる。  
(436)病人の甚食せん事をねがふ物あり。くらひて害に成食物、又、冷水などは願に任せがたし。然共(しかれども)病人のきはめてねがふ物を、のんどにのみ入ずして、口舌に味はヽしめて其願を達するも、志を養ふ養生の一術也。およそ飲食を味はひてしるは舌なり。のんどにあらず。口中にかみて、しばしふくみ、舌に味はひて後は、のんどにのみこむも、口に吐出すも味をしる事は同じ。穀、肉、酒、羹、酒は、腹に入て臓腑(ぞうふ)を養なふ。此外の食は、養のためにあらず。のんどにのまず、腹に入らずとも有なん。食して身に害ある食物といへど、のんどに入(いら)ずして口に吐出せば害なし。冷水も同じ。久しく口にふくみて舌にこヽろみ、吐出せば害なし。水をふくめば口中の熱を去り、牙歯(がし)を堅くす。然共、むさぼり多くしてつヽしまざる人には、此法は用がたし。  
(437)多く物、諸のもち(311)、餌(もち)、ちまき(4370)、寒具(ひがし)、冷麪、麪類、饅頭、河濡(そばきり)、砂糖、醴(あまざけ)、焼酒、赤小豆(あずき)、酢、豆油(しょうゆ)、*魚(鮒:426)、泥鰌(どじょう)、蛤蜊(はまぐり)、鰻*(うなぎ)(4371)、鰕(えび)、章魚(たこ)、烏賊(いか)、鯖(さば)、鰤魚(ぶり)、しおから(338)、海鰌(くじら)、だいこん(417)、胡蘿蔔(にんじん)、薯蕷(やまのいも)、菘根(な)、蕪菁(かぶら)、油膩(ゆに)の物、肥濃(ひのう)の物。  
(438)老人、虚人、物、一切生冷の物、堅硬の物、稠黏(ちゅうねん)の物、油膩(ゆに)の物、冷麪、冷てこはき'もち'、餌(だんご)、粽(ちまき)、冷饅頭、并(ならびに)皮、糯飯(こわいい)、生味噌、醴(あまざけ)の製法好(よ)からざると、冷なると。海鰌(くじら)、海鰮(いわし)、鮪(しび)、梭魚(かます)、諸生菓、皆脾胃(ひい)発生の気をそこなふ。  
(439)凡(すべて)の人、食ふべからざる物、生冷の物、堅硬の物、未だ熟せぬ物、ねばき物、ふるくして気味の変じたる物、製法心に叶はざる物、塩からき物、酢の過たる物、にえばな(320)を失へる物、臭(か)悪き物、色悪き物、味変じたる物、魚餒(あざれ)、肉敗たる、豆腐の日をへたると、味あしきと、にえばな(320)を失へると、冷たると、索麪(そうめん)に油あると、諸品煮て未だ熟せずと、灰(あく)有る酒、酸味ある酒、いまだ時ならずして熟せざる物、すでに時過たる物、食ふべからず。夏月、雉(きじ)食ふべからず。魚鳥の皮こはき物、脂(あぶら)多き物、甚なまぐさき物、諸魚二目同じからざる物、腹下に丹の字ある物、諸鳥みづから死して足伸ざる物、諸獣毒箭(どくや)にあたりたる物、諸鳥毒をくらつて死したる物、肉の脯(ほじし)、屋濡水(あまだりみず)にぬれたる物、米器の内に入置たる肉、肉汁を器に入置て、気をとじたる物、皆毒あり。肉の脯(ほじし)、並塩につけたる肉、夏をへて臭味(しゅうみ)あしき、皆食ふべからず。  
(440)いにしへ、もろこしに食医の官あり。食養によつて百病を治すと云。今とても食養なくんばあるべからず。殊(ことに)老人は脾胃よはし、尤(もつとも)食養宣しかるべし。薬を用(もちう)るは、やむ事を得ざる時の事也。 
(441)同食(くいあわせ)の禁忌多し、其要(おも)なるをこヽに記す○猪(ぶた)肉に、生薑(しょうが)、蕎麦(そば)、こすい(胡*)(4410)、炊豆(いりまめ)、梅、牛肉、鹿(ろく)肉、鼈(すっぽん)、鶴、鶉(うずら)をいむ○牛肉に黍(きび)、韮(にら)、生薑、栗子をいむ○兎肉に生薑、橘皮、芥子(からし)、鶏、鹿(しし)、獺(かわうそ)○鹿に生菜、鶏、雉(きじ)、鰕(えび)をいむ○鶏肉と鶏子(たまご)とに芥子(からし)、蒜(にんにく)、生葱、糯米(もちごめ)、李子(すもも)、魚汁、鯉(こい)魚、兎、獺、鼈、雉を忌(いむ)○雉肉に蕎麦、木耳(きくらげ)、胡桃(くるみ)、鮒、鮎魚(なまず)、をいむ○野鴨(かも)に胡桃(くるみ)、木耳(きくらげ)をいむ○鴨子(あひるのたまご)に、李子、鼈肉○雀肉(すずめ)に李子、醤(ひしお)○鮒に芥子、蒜(にら)、あめ(4411)、鹿、芹(せり)、鶏、雉○魚酢(うおのすし)に麦醤(むぎひしお)、蒜(にんにく)、緑豆(ぶんどう)○鼈肉にひゆ (343)菜、芥子(からし)菜、桃子(もも)鴨(あひる)肉○蟹に柿、橘、棗(なつめ)○李子に蜜を忌(いむ)○橙、橘に獺(かわうそ)肉○棗に葱(ひともじ)○枇杷(びわ)に熱麪○楊梅(やまもも)に生葱(ねぎ)○銀杏(ぎんなん)に鰻*(うなぎ)(4371)○諸瓜に油餅○黍(きび)米に蜜○緑豆(ぶんどう)に榧子(かや)を食し合すれば人を殺す○ひゆ(343)に蕨(わらび)○乾筍(かんじゅん)に砂糖○紫蘇茎葉と鯉魚(こい)○草石蠶(ちょうろぎ)と諸魚○魚鱠(なます)と瓜、冷水○菜瓜と魚鱠と一にすべからず○鮓(すし)肉に髪有るは人を害す○麦醤、蜂蜜と同食すべからず○越瓜(しろうり)と鮓肉○酒後に茶を飲べからず腎をやぶる○酒後芥子及辛き物を食へば筋骨を緩くす○茶と榧(かや)と同時に食へば、身重し○和俗の云、蕨粉(わらびこ)を餅とし緑豆を'あん'にして食へば、人殺す。又日(いう)、このしろ(*魚)(4412)を、木棉子(わたざね)の火にて、やきて食すれば人を殺す。又日、胡椒(こしょう)と沙菰米(さごべ)と同食すれば人を殺す。又胡椒と桃、李、楊梅(やまもも)同食すべからず。又日、松簟(まつたけ)を米を貯(たくわえ)る器中に入おけるを食ふべからず。又日、南瓜(ぼぶら)を、魚膾(なます)に合せ食すべからず。  
(442)黄ぎ(115)(おうぎ:強壮剤の一)を服する人は、酒を多くのむべからず。甘草(かんぞう)を服する人は、菘菜(な)を食ふべからず。地黄(ぢおう)を服するには、蘿蔔(だいこん)、蒜(にんにく)、葱(ひともじ)の三白をいむ。菘(な)は忌(いま)ず。荊芥(けいがい)を服するには生魚をいむ。土茯苓(さんきらい)を服するには茶をいむ。凡(およそ)、此如類はかたく忌むべし。薬と食物とのおそれいむは、自然の理なり。まちん(番木*)の鳥を殺し、磁石の針を吸の類も、皆天然の性也。此理疑ふべからず。  
(443)一切の食物の内、園菜(そののな)、極めて穢(けがら)はし。其根葉に久しくそみ入たる糞汚(ふんお)、にはかに去がたし、水桶を定め置、水を多く入て菜をひたし、上におもりをおき、一夜か一日か、つけ置取出し、印子(はけ)を以てその根葉茎をすり洗ひ、清くして食すべし。此事、近年、李笠翁(りりゅうおう)が書に見えたり。もろこしには、神を祭るに園菜を用ひずして、山菜水菜を用ゆ。園菜も、瓜、茄子(なすび)、壺盧(ゆうがお)、冬瓜(とうが)などはけがれなし。  
飲酒  
(444)酒は天の美禄なり。少のめば陽気を助け、血気をやはらげ、食気をめぐらし、愁(うれい)を去り、興を発して、甚人に益あり。多くのめば、又よく人を害する事、酒に過たる物なし。水火の人をたすけて、又よく人に災あるが如し。邵尭夫(しょうぎょうふ)の詩に、「美酒を飲て微酔せしめて後」、といへるは、酒を飲の妙を得たりと、時珍(じちん)いへり。少のみ、少酔へるは、酒の禍なく、酒中の趣を得て楽多し。人の病、酒によって得るもの多し。酒を多くのんで、飯をすくなく食ふ人は、命短し。かくのごとく多くのめば、天の美禄を以、却て身をほろぼす也。かなしむべし。  
(445)酒を飲には、各(おのおの)人によつてよき程の節あり。少のめば益多く、多くのめば損多し。性謹厚なる人も、多飲を好めば、むさぼりてみぐるしく、平生の心を失ひ、乱に及ぶ。言行ともに狂せるがごとし。其平生とは似ず、身をかへり見慎むべし。若き時より早くかへり見て、みずから戒しめ、父兄もはやく子弟を戒(いまし)むべし。久しくならへば性となる。くせになりては一生改まりがたし。生れ付て飲量すくなき人は、一二盞(さん)のめば、酔て気快く楽(たのしみ)あり。多く飲む人と其楽同じ。多飲するは害多し。白楽天が詩に、「一飲一石の者。徒に多を以て貴しと為す。其の酩酊の時に及て。我与亦異ること無し。笑て謝す多飲の者。酒銭徒に自ら費す」といへるはむべ也。  
(446)凡(そ)酒はただ朝夕の飯後にのむべし。昼と夜と空腹に飲べからず。皆害あり。朝間空腹にのむは、殊更脾胃をやぶる。  
(447)凡(そ)酒は夏冬ともに、冷飲熱飲に宣しからず。温酒をのむべし。熱飲は気升(のぼ)る。冷飲は痰をあつめ、胃をそこなふ。丹渓は、酒は冷飲に宣しといへり。然れ共多くのむ人、冷飲すれば脾胃を損ず。少飲む人も、冷飲すれば、食気を滞らしむ。凡酒をのむは、其温気をかりて、陽気を助け、食滞をめぐらさんがため也。冷飲すれば二の益なし。温酒の陽を助け、気をめぐらすにしかず。  
(448)酒をあたヽめ過してじん(=にえばな)(320)を失へると、或温めて時過、冷たると、二たびあたヽめて味の変じたると、皆脾胃をそこなふ。のむべからず。  
(449)酒を人にすヽむるに、すぐれて多く飲む人も、よき程の節をすぐせばくるしむ。若(もし)その人の酒量をしらずんば、すこししひて飲しむべし。其人辞してのまずんば、その人にまかせて、みだりにしひずして早くやむべし。量にみたず、すくなくて無興(ぶきょう)なるは害なし。すぎては必人に害あり。客に美饌を饗しても、みだりに酒をしひて苦ましむるは情なし。大に酔しむべからず。客は、主人しひずとも、つねよりは少多くのんで酔べし。主人は酒を妄(みだり)にしひず。客は、酒を辞せず。よき程にのみ酔て、よろこびを合せて楽しめるこそ、是宣しかるべけれ。  
(450)市にかふ酒に、灰を入たるは毒あり。酸味あるも飲べからず。酒久しくなりて味変じたるは毒あり。のむべからず。濁酒のこきは脾胃に滞り、気をふさぐ。のむべからず。醇酒の美なるを、朝夕飯後に少のんで、微酔すべし。醴酒(れいしゅ:あまざけ)は製法精(くわし)きを少熱飲すれば、胃を厚くす、あしきを冷飲すべからず。 
(451)五湖漫聞(ごこまんぶん)といへる書に、多く長寿の人の姓名と年数を載て、「其人皆老に至て衰ず。之問ふ皆酒を飲まず」といへり。今わが里の人を試みるに、すぐれて長寿の十人に九人は皆酒を飲ず人なり。酒を多く飲む人の長寿なるはまれなり。酒は半酔にのめば長生の薬となる。  
(452)酒をのむに、甘き物をいむ。又、酒後辛き物をいむ。人の筋骨をゆるくす。酒後焼酒をのむべからず。或一時に合のめば、筋骨をゆるくし煩悶す。  
(453)焼酒(しょうちゅう)は大毒あり、多く飲べからず。火を付てもえやすきを見て、大熱なる事を知るべし。夏月は、伏陰内にあり、又、表ひらきて酒毒肌に早くもれやすき故、少のんでは害なし。他月はのむべからず。焼酒にて造れる薬酒多く呑べからず、毒にあてらる。薩摩のあはもり、肥前の火の酒、猶、辛熱甚し。異国より来る酒、のむべからず、性しれず、いぶかし。焼酒をのむ時も、のんで後にも熱物を食すべからず。辛き物焼味噌など食ふべからず。熱湯のむべからず。大寒の時も焼酒をあたヽめ飲べからず。大に害あり。京都の南蛮酒も焼酒にて作る。焼酒の禁(いましめ)と同じ。焼酒の毒にあたらば、緑豆(ぶんどう)粉、砂糖、葛粉、塩、紫雪など、皆冷水にてのむべし。温湯をいむ。  
飲茶 烟草附  
(454)茶、上代はなし。中世もろこしよりわたる。其後、玩賞して日用かくべからざる物とす。性冷にして気を下し、眠をさます。陳臓器は、久しくのめば痩てあぶらをもらすといへり。母けい(ぼけい)(454)、東坡(とうば)、李時珍など、その性よからざる事をそしれり。然ども今の世、朝より夕まで、日々茶を多くのむ人多し。のみ習へばやぶれなきにや。冷物なれば一時に多くのむべからず。抹茶は用る時にのぞんでは、炊(い)らず煮ず、故につよし。煎茶は、用る時炒て煮る故、やはらかなり。故につねには、煎茶を服すべし。飯後に熱茶少のんで食を消し、渇をやむべし。塩を入てのむべからず。腎をやぶる。空腹に茶を飲べからず。脾胃を損ず。濃茶は多く呑べからず。発生の気を損ず。唐茶は性つよし。製する時煮ざればなり。虚人病人は、当年の新茶、のむべからず。眼病、上気、下血、泄瀉(せつしゃ)などの患(うれい)あり。正月よりのむべし。人により、当年九十月よりのむも害なし。新茶の毒にあたらば、香蘇散、不換金、正気散、症によりて用ゆ。或白梅、甘草、砂糖、黒豆、生薑(しょうが)など用ゆべし。  
(455)茶は冷也。酒は温也。酒は気をのぼせ、茶は気を下す。酒に酔へばねむり、茶をのめばねむりさむ。その性うらおもて也。  
(456)あつものも、湯茶も、多くのむべからず。多くのめば脾胃に湿を生ず。脾胃は湿をきらふ。湯茶、あつものを飲む事すくなければ、脾胃の陽気さかんに生発して、面色光りうるはし。  
(457)薬と茶を煎ずるに、水をえらぶべし。清く味甘きをよしとす。雨水を用るも味よし。雨中に浄器を庭に置てとる。地水にまさる。然共是は久しくたもたず。雪水を尤(もっとも)よしとす。  
(458)茶を煎ずる法、よはき火にて炊り、つよき火にて煎ず。煎ずるに、堅き炭のよくもゆるを、さかんにたきて煎ず。たぎりあがる時、冷水をさす。此如すれば、茶の味よし。つよき火にて炊るべからず。ぬるくやはらかなる火にて煎ずべからず。右は皆もろこしの書に出たり。湯わく時、よくい(458:ジュズダマ)の生葉を加へて煎ずれば、香味尤よし。性よし。本草に、「暑月煎じのめば、胃を暖め気血をます」。  
(459)大和国中は、すべて奈良茶を毎日食す。飯に煎茶をそヽぎたる也。赤豆(あずき)、ささげ(*豆)(459)、蚕豆(そらまめ)、緑豆、陳皮、栗子(くり)、零余子(むかご)など加へ、点じ用ゆ。食を進め、むねを開く。  
(460)たばこは、近年、天正、慶長の比、異国よりわたる。淡婆姑(たんばこ)は和語にあらず。蛮語也。近世の中華の書に多くのせたり。又、烟草と云。朝鮮にては南草と云。和俗これを莨とう(460)とするは誤れり。ろうとうは別物なり。烟草は性毒あり。煙をふくみて眩ひ倒るヽ事あり。習へば大なる害なく、少は益ありといへ共、損多し。病をなす事あり。又、火災のうれひあり。習へばくせになり、むさぼりて後には止めがたし。事多くなり、いたつがはしく家僕を労す。初よりふくまざるにしかず。貧民は費(ついえ)多し。 
色慾を慎む  
(461)素問に、「腎者五臓の本」、といへり。然らば養生の道、腎を養ふ事をおもんずべし。腎を養なふ事、薬補をたのむべからず。只精気を保つてへらさず、腎気をおさめて動かすべからず。論語に曰(く)、わかきときは血気方(まさに)壮なり。「之を戒むること、色にあり」。聖人の戒守るべし。血気さかんなるにまかせ、色欲をほしいまゝにすれば、必(ず)先(ず)礼法をそむき、法外を行ひ、恥辱を取て面目をうしなふ事あり。時過て後悔すれどもかひなし。かねて、後悔なからん事を思ひ、礼法をかたく慎むべし。況(いわんや)精気をついやし、元気をへらすは、寿命を短くする本なり。おそるべし。年若き時より、男女の慾ふかくして、精気を多くへらしたる人は、生れ付さかんなれ共、下部の元気すくなくなり、五臓の根本よはくして、必短命なり。つゝしむべし。飲食・男女は人の大慾なり。恣になりやすき故、此二事、尤かたく慎むべし。是をつつしまざれば、脾腎の真気へりて、薬補・食補のしるしなし。老人は、ことに脾腎の真気を保養すべし。補薬のちからをたのむべからず。  
(462)男女交接の期(ご)は、孫思ばく(250)が千金方曰(く)。「人、年二十者は四日に一たび泄す。三十者は八日に一たび泄す。四十者は十六日に一拙す。五十者は二十日に一泄す。六十者は精をとぢてもらさず。もし体力さかんならば、一月に一たび泄す。気力すぐれて盛なる人、慾念をおさへ、こらへて、久しく泄さざれば、腫物を生ず。六十を過て慾念おこらずば、とぢてもらすべからず。わかくさかんなる人も、もしよく忍んで、一月に二度もらして、慾念おこらずば長生なるべし」今案ずるに、千金方にいへるは、平人の大法なり。もし性虚弱の人、食すくなく力よはき人は、此期にかかはらず、精気をおしみて交接まれなるべし。色慾の方に心うつれば、あしき事くせになりてやまず。法外のありさま、はづべし。つひに身を失ふにいたる。つつしむべし。右、千金方に、二十歳以前をいはざるに意あるべし。二十以前血気生発して、いまだ堅固ならず、此時しばしばもらせば、発生の気を損じて、一生の根本よはくなる。  
(463)わかく盛なる人は、殊に男女の情慾、かたく慎しんで、過すくなかるべし。慾念をおこさずして、腎気をうごかすべからず。房事を快くせんために、烏頭付子等の熱薬のむべからず。  
(464)達生録曰(く)、男子、年二十ならざる者、精気いまだたらずして慾火うごきやすし。たしかに交接を慎むべし。  
(465)孫真人が千金方に、房中補益説あり。年四十に至らば、房中の術を行ふべしとて、その説、頗(すこぶる)詳(つまびらか)なり。その大意は、四十以後、血気やうやく衰ふる故、精気をもらさずして、只しばしば交接すべし。如此(かくのごとく)すれば、元気へらず、血気めぐりて、補益となるといへる意(こころ)なり。ひそかに、孫思ばく(250)がいへる意をおもんみるに、四十以上の人、血気いまだ大に衰へずして、槁木死灰の如くならず、情慾、忍びがたし。然るに、精気をしばしばもらせば、大に元気をついやす故、老年の人に宜しからず。ここを以、四十以上の人は、交接のみしばしばにして、精気をば泄すべからず。四十以後は、腎気やうやく衰る故、泄さざれども、壮年のごとく、精気動かずして滞らず。此法行ひやすし。この法を行へば、泄さずして情慾はとげやすし。然れば、是気をめぐらし、精気をたもつ良法なるべし。四十歳以上、猶血気甚衰へざれば、情慾をたつ事は、忍びがたかるべし。忍べば却て害あり。もし年老てしばしばもらせば、大に害あり。故に時にしたがって、此法を行なひて、情慾をやめ、精気をたむつべし、とや。是によって精気をついやさずんば、しばしば交接すとも、精も気も少ももれずして、当時の情欲はやみぬべし。是古人の教、情欲のたちがたきをおさへずして、精気を保つ良法なるべし。人身は脾胃の養を本とすれども、腎気堅固にしてさかんなれば、丹田の火蒸上げて、脾土の気も亦温和にして、盛になる故、古人の曰、「脾を補ふは、腎を補なふにしかず」。若年より精気ををしみ、四十以後、弥(いよいよ)精気をたもちてもらさず、是命の根源を養なふ道也。此法、孫思ばく(250)後世に教へし秘訣にて、明らかに千金方にあらはせ共、後人、其術の保養に益ありて、害なき事をしらず。丹溪が如き大医すら、偏見にして孫真人が教を立し本意を失ひて信ぜず。此良術をそしりて曰(く)、聖賢の心、神仙の骨(こつ)なくんば、未易為。もし房中を以(て)補とせば、人を殺す事多からんと、各致余論にいへり。聖賢・神仙は世に難有ければ、丹溪が説の如くば、此法は行ひがたし。丹溪が説うたがふべき事猶多し。才学高博にして、識見、偏僻なりと云うべし。  
(466)情慾をおこさずして、腎気動かざれば害なし。若(し)情慾をおこし、腎気うごきて、精気を忍んでもらさざれば、下部に気滞りて、瘡セツ(466)を生ず。はやく温湯に浴し、下部をよくあたたむれば、滞れる気めぐりて、鬱滞なく、腫物などのうれひなし。此術、又知るべし。  
(467)房室の戒多し。殊に天変の時をおそれいましむべし。日蝕、月蝕、雷電、大風(たいふう)、大雨、大暑、大寒、虹げい(にじ)(467)、地震、此時房事をいましむべし。春月、雷初て声を発する時、夫婦の事をいむ。又、土地につきては、凡神明の前をおそるべし。日・月・星の下、神祠の前、わが父祖の神主の前、聖賢の像の前、是皆おそるべし。且我が身の上につきて、時の禁あり。病中・病後、元気いまだ本復せざる時、殊(ことに)傷寒、時疫、瘧疾(おこり)の後、腫物、癰疽いまだいえざる時、気虚、労損の後、飢渇の時、大酔・大飽の時、身労動し、遠路行歩につかれたる時、忿(いかり)・悲、うれひ、驚きたる時、交接をいむ。冬至の前五日、冬至の後十日、静養して精気を泄すべからず。又女子の経水、いまだ尽ざる時、皆交合を禁ず。是天地・地祇に対して、おそれつつしむと、わが身において、病を慎しむ也。若是を慎しまざれば、神祇のとがめ、おそるべし。男女共に病を生じ、寿を損ず。生るる子も亦、形も心も正しからず、或かたはとなる。禍ありて福なし。古人は胎教とて、婦人懐妊の時より、慎しめる法あり。房室の戒は胎教の前にあり。是天地神明の照臨し給ふ所、尤おそるべし。わが身及妻子の禍も、亦おそるべし。胎教の前、此戒なくんばあるべからず。  
(468)小便を忍んで房事を行なふべからず。龍脳・麝香を服して房に入べからず。  
(469)入門曰、婦人懐胎の後、交合して慾火を動かすべからず。  
(470)腎は五臓の本、脾は滋養の源也。ここを以、人身は脾腎を本源とす。草木の根本あるが如し。保ち養つて堅固にすべし。本固ければ身安し。 
巻第五 / 五官

 

(501)心は人身の主君也。故天君(てんくん)と云(いう)。思ふ事をつかさどる。耳目口鼻形此五は、きくと、見ると、かぐと、物いひ、物くふと、うごくと、各其事をつかさどる職分ある故に、五官と云。心のつかひ物なり。心は内にありて五官をつかさどる。よく思ひて、五官の是非を正すべし。天君を以て五官をつかふは明なり。五官を以(もって)天君をつかふは逆なり。心は身の主なれば、安楽ならしめて苦しむべからず。五官は天君の命をうけ、各官職をよくつとめて、恣(ほしいまま)なるべからず。  
(502)つねに居る処は、南に向ひ、戸に近く、明なるべし。陰欝(いんうつ)にしてくらき処に、常に居るべからず、気をふさぐ。又かがやき過たる陽明の処も、つねに居ては精神をうばふ。陰陽の中にかなひ、明暗相半(なかば)すべし。甚(はなはだ)明るければ簾(すだれ)をおろし、くらければ簾をかかぐべし。  
(503)臥(ふす)には必(かならず)東首(ひがしまくら)して生気(しょうげ)をうくべし。北首(きたまくら)して死気をうくべからず。もし君父近きにあらば、あとにすべからず。  
(504)坐するには正坐すべし。かたよるべからず。燕居(えんきょ)には安坐すべし。膝をかゞむべからず。又よりより牀几(しょうぎ)にこしかけ居れば、気めぐりてよし。中夏の人は、つねにかくのごとくす。  
(505)常に居る室も常に用る器も、かざりなく質朴にして、けがれなく、いさぎよかるべし。居室は風寒をふせぎ、身をおくに安からしむべし。器は用をかなへて、事かけざれば事たりぬ。華美を好めばくせとなり、おごりむさぼりの心おこりて、心を苦しめ、事多くなる。養生の道に害あり。坐する処、臥す処、少もすき間あらばふさぐべし。すき間の風と、ふき通す風は、人のはだえに通りやすくして、病おこる。おそるべし。夜臥して耳辺に風の来る穴あらば、ふさぐべし。  
(506)夜ふすには必側(かたわら)にそばたち、わきを下にしてふすべし。仰(あお)のきふすべからず。仰のきふせば気ふさがりて、おそはるゝ事あり。むねの上に手をおくべからず。寝入て気ふさがりて、おそはれやすし。此二(ふたつ)いましむべし。  
(507)夜ふして、いまだね入らざる間は、両足をのべてふすべし。ねいらんとする前に、両足をかがめ、わきを下にして、そばだちふすべし。是を獅子眠(ししめん)と云。一夜に五度いねかへるべし。胸腹の内に気滞らば、足をのべ、むね腹を手を以しきりになで下し、気上る人は、足の大指を、しきりに多くうごかすべし。人によりて、かくのごとくすれば、あくびをしばしばして、滞りたる邪気を吐出す事あり。大に吐出すをいむ。ね入らんとする時、口を下にかたぶけて、ふすべからず。ねぶりて後よだれ出てあしし。あふのきてふすべからず。おそはれやすし。手の両の大指をかがめ、残る四の指にて、にぎりてふせば、手むねの上をふさがずして、おそはれず。後には習となりて、ねぶりの内にもひらかず。此法 、病源候論と云医書に見えたり。夜臥(ふす)時に、のどに痰あらば必はくべし。痰あらばねぶりて後、おそはれくるしむ。老人は、夜臥す時、痰を去る薬をのむべし、と医書にいへるも、此ゆへなるべし。晩食夜食に、気をふさぎ痰をあつむる物、食ふべからず。おそはれん事をおそれてなり。  
(508)夜臥に、衣を以面をおほふべからず。気をふさぎ、気上る。夜臥に、燈をともすべからず。魂魄定まらず。もしともさば、燈をかすかにして、かくすべし。ねむるに口をとづべし。口をひらきてねむれば、真気を失なひ、又、牙歯早くをつ。  
(509)凡(そ)一日に一度、わが首(こうべ)より足に至るまで、惣身のこらず、殊につがひの節ある所、悉(ことごと)く人になでさすりおさしむる事、各所十遍ならしむべし。先百会の穴、次に頭の四方のめぐり、次に両眉の外、次に眉じり、又鼻ばしらのわき、耳の内、耳のうしろを皆おすべし。次に風池、次に項の左右をもむ。左には右手、右には左手を用ゆ。次に両の肩、次に臂(ひじ)骨のつがひ、次に腕、次に手の十指をひねらしむ。次に背をおさへ、うちうごかすべし。次に腰及腎堂をなでさする。次にむね、両乳、次に腹を多くなづる。次に両股、次に両膝、次に脛の表裏、次に足の踝(くるぶし)、足の甲、次に足の十指、次に足の心(うら)、皆、両手にてなでひねらしむ。是(これ)寿養叢書の説也。我手にてみづからするもよし。  
(510)入門に曰(く)、導引の法は、保養中の一事也。人の心は、つねに静なるべし。身はつねに動かすべし。終日安坐すれば、病生じやすし。久く立、久く行より、久く臥、久く坐するは、尤(もっとも)人に害あり。 
(511)導引の法を毎日行へば、気をめぐらし、食を消して、積聚(しゃくじゅ)を生ぜず。朝いまだおきざる時、両足をのべ、濁気をはき出し、おきて坐し、頭を仰(あおのき)て、両手をくみ、向(むこう)へ張出し、上に向ふべし。歯をしばしばたゝき、左右の手にて、項(うなじ)をかはるがはるおす。其次に両肩をあげ、くびを縮め、目をふさぎて、俄(にわか)に肩を下へさぐる事、三度。次に面(かお)を、両手にて、度々なで下ろし、目を、目がしらより目じりに、しばしばなで、鼻を、両手の中指にて六七度なで、耳輪(じりん)を、両手の両指にて挟み、なで下ろす事六七度、両手の中指を両耳に入、さぐり、しばしふさぎて両へひらき、両手をくみ、左へ引ときは、かうべ右をかへり見、右へ引ときは、左へかへりみる。 此如する事各三度。次に手の背にて、左右の腰の上、京門(けいもん)のあたりを、すぢかひに、下に十余度なで下し、次に両手を以、腰を按す。両手の掌(たなごころ)にて、腰の上下をしばしばなで下す。是食気をめぐらし、気を下す。次に手を以、臀の上を、やはらかに打事十余度。次に股膝を撫くだし、両手をくんで、三里(:膝頭の下)の辺をかゝえ、足を先へふみ出し、左右の手を前へ引、左右の足、ともに、此如する事しばしばすべし。次に左右の手を以、左右のはぎ(511:すね)の表裏を、なで下す事数度。次に足の心(うら)湧泉(ゆせん)の穴と云、片足の五指を片手にてにぎり、湧泉の穴を左手にて右をなで、右手にて左をなづる事、各数十度。又、両足の大指をよく引、残る指をもひねる。是術者のする導引の術なり。閑暇ある人は日々かくの如す。又、奴婢児童にをしへてはぎ(511)をなでさせ、足心(あしのうら)をしきりにすらせ、熱生じてやむ。又、足の指を引(ひか)しむ。朝夕此如すれば、気下り、気めぐり、足の痛を治す。甚(はなはだ)益あり。遠方へ歩行せんとする時、又は歩行して後、足心(あしのうら)を右のごとく按(お)すべし。  
(512)膝より下の、はぎのおもてうらを、人をして、手を以、しばしばなでくださせ、足の甲をなで、其後、足のうらを、しきりに多くなで、足の十指を引(ひか)すれば、気を下しめぐらす。みづからするは、尤(もっとも)よし。是良法なり。  
(513)気のよくめぐりて快き時に、導引按摩すべからず。又、冬月按摩をいむ事、内経に見えたり。身を労働して、気上る病には、導引、按摩ともにあしゝ。只身をしづかに動かし、歩行する事は、四時ともによし。尤(もっとも)飯後によろし。勇泉(ゆせん)の穴をなづる事も、四時ともによろし。  
(514)髪はおほくつけづるべし。気をめぐらし、上気をくだす。櫛の歯しげきは、髪ぬけやすくしてあしゝ。牙歯はしばしばたゝくべし。歯をかたくし、虫はまず。時々両の手を合せ、すりてあたゝめ、両眼をあたゝめのすべし。目を明らかにし、風をさる。よつて髪ぎはより、下額と面を上より下になづる事二十七遍、古人、両手はつねに面に在べしと云へるは、時々両手にて面をなづべしとなり。此の如すれば、気をめぐらし、上気をくだし、面色(かおいろ)をうるはしくす。左右の中指を以、鼻の両わきを多くなで、両耳の根を多くなづべし。  
(515)五更におきて坐し、一手にて、足の五指をにぎり、一手にて足の心をなでさする事、久しくすべし。此如して足心(あしのうら)熱せば、両手を用ひて、両足の指をうごかすべし。右の法、奴婢(ぬび)にも命じて、かくのごとくせしむ。或云(あるいはいう)、五更にかぎらず、毎夜おきて坐し、此如する事久しければ、足の病なし。上気を下し、足よはく、立がたきを治す。久しくしておこたらざれば、脚のよはきをつよくし、足の立かぬるをよくいやす。甚しるしある事を古人いへり。養老寿親書(ようろうじゅしんしょ)、及東坡(およびとうば)が説にも見えたり。  
(516)臥す時、童子に手を以(もって)合せすらせ、熱せしめて、わが腎堂を久しく摩(なで)しめ、足心(あしのうら)をひさしく摩(なで)しむべし。みつ゛から如此するもよし。又、腎堂の下、臀(しり)の上を、しつ゛かにうたしむべし。  
(517)毎夜ふさんとするとき、櫛(くし)にて髪をしきりにけつ゛り、湯にて足を洗ふべし。是よく気をめぐらす。又、臥(ふす)にのぞんで、熱茶に塩を加ヘ、口をすすぐべし。口中を清くし、牙歯(がし)を堅くす。下茶よし。  
(518)入門に曰(いわく)、年四十以上は、事なき時は、つねに目をひしぎて宜し。要事なくんば、開くべからず。  
(519)衾炉(きんろ)は、炉上に、櫓(やぐら)をまうけ、衾(ふすま)をかけて火を入、身をあたたむ。俗に、こたつと云。是にあたれば、身をあたため過し、気ゆるまり、身おこたり、気を上(のぼ)せ、目をうれふ。只(ただ)中年以上の人は、火をぬるくしてあたり、寒をふせぐべし。足を出して箕踞(ききょ)すべからず。わかき人は用る事なかれ。わかき人は、厳寒の時、只(ただ)炉火に対し、又、たき火にあたるべし。身をあたゝめ過すべからず。  
(520)凡(およそ)衣をあつくき、あつき火にあたり、あつき湯に浴し、久しく浴し、熱物を食して、身をあたゝめ過せば、気外(ほか)にもれて、気へり、気のぼる。是皆人の身に甚(はなはだ)害あり、いましむべし。 
(521)貴人の前に久しく侍べり、或(あるいは)公廨(くがい:役所)に久しく坐して、足しびれ、にはかに立(たつ)事ならずして、たふれふす事あり。立んとする前より、かねて、みつ゛から足の左右の大指を、しばしば動し、のべかがめすべし。かやうにすれば、しびれなえずして、立がたきのうれひなし。平日、時々両足(りょうそく)の大指を、のべかがめ、きびしくして、ならひとなれば、転筋(てんきん:コブラガエリ)のうれひなし。又、転筋したる時も、足の大指をしばしば動かせばやむ。是急を治するの法なり。しるべし。上気する人も、両足をのべて、大指をしばしば動すべし、気下る。此法、又人に益あり。  
(522)頭ノ辺リに火炉をおくべからず。気上る。  
(523)東垣(とうえん)が曰(く)、にはかに風寒にあひて、衣うすくば、一身の気を、はりて、風寒をふせぎ、肌に入らしむべからず。  
(524)めがねをあい靆(524)と云(いう)。留青日札(りゅうせいにっさつ)と云(いう)書に見えたり。又眼鏡(がんきょう)と云(いう)。四十歳以後は、早くめがねをかけて、眼力を養ふべし。和水晶(わすいしょう)よし。ぬぐふにきぬを以(もって)、両指にて、さしはさみてぬぐふべし。或(あるいは)羅紗を以(もって)ぬぐふ。硝子(びいどろ)はくだけやすし。水晶におとれり。硝子は燈心にてぬぐふべし。  
(525)牙歯(がし)をみがき、目を洗ふ法、朝ごとに、まつ゛熱湯にて目を洗ひあたため、鼻中をきよめ、次に温湯にて口をすゝぎ、昨日よりの牙歯(がし)の滞(とどこおり)を吐すて、ほしてかは(わ)ける塩を用ひて、上下の牙歯(がし)と、はぐきをすりみがき、温湯をふくみ、口中をすゝぐ事ニ三十度、其間に、まつ゛別の碗に、温湯を、あら布の小篩(こふるひ)を以(もって)こして入れ置、次に手と面(かお)をあらひ、おはりて、口にふくめる塩湯を、右のあら布の小ぶるひにはき出し、こして碗に入、其塩湯を以(もって)目を洗ふ事、左右各(おのおの)十五度(たび)、其後べちに入置きたる碗の湯にて、目を洗ひ、口をすすぐべし。是にておはる。毎朝かくのごとくにして、おこたりなければ、久しくして牙歯(がし)うごかず。老てもおちず。虫くはず。目あきらかにして、老にいたりても、目の病なく、夜、細字をよみ書く。是目と歯とをたもつ良法なり。こゝろみて、其しるしを得たる人多し。予も亦(また)、此法によりて、久しく行なふゆへ、そのしるしに、今八十三歳にいたりて、猶(なお)夜、細字をかきよみ、牙歯(がし)固くして一もおちず。目と歯に病なし。毎朝かくのごとくすれば、久しくして後は、ならひてむつ゛かしからず、牙杖(ようじ)にて、牙歯(がし)をみがく事を用ひず。  
(526)古人の曰(いわく)、歯の病は胃火(いか)ののぼる也。毎日時々、歯をたゝく事三十六度すべし。歯かたくなり、虫くはず。歯の病なし。  
(527)わかき時、歯のつよきをたのみて、堅き物を食ふべからず。梅、楊梅(やまもも)の核(さね)などかみわるべからず。後年に、歯早くをつ。細字を多くかけば、目と歯とを損ず。  
(528)牙杖(ようじ)にて、牙根をふかくさすべからず。根うきて、うごきやすし。  
(529)寒月はおそくおき、暑月は早くおくべし。暑月も、風にあたり臥すべからず。ねぶりの内に、風にあたるべからず。ねぶりの内に、扇にてあふがしむべからず。  
(530)熱湯にて、口をすゝぐべからず。歯を損ず。 
(531)千金方曰(く)、食しおはるごとに、手を以(て)、面(かお)をすり、腹をなで、津液(しんえき)を通流すべし。行歩(こうほ)する事数百歩すべし。飲食して即臥せば百病生ず。飲食して仰(あおの)きに臥せば、気痞となる。  
(532)医説曰、食して後、体倦(う)むとも、即(ち)寝(いぬ)る事なかれ。身を運動し、二三百歩しづかに歩行して後、帯をとき、衣をくつろぎ、腰をのべて端坐し、両手にて心腹を按摩して、たて横に往来する事、二十遍。又、両手を以、わき腰の間より、おさへなでて下る事、数十遍ばかりにして、心腹の気ふさがらしめず。食滞、手に随つて消化す。  
(533)目鼻口は面上の五竅(ごきょう)にて、気の出入りする所、気もれやすし。多くもらすべからず。尾閭(びりょ)は精気の出る所なり。過て、もらすべからず。肛門は糞気の出る所、通利ありて滑泄(こっせつ)をいむ。凡(そ)此七竅皆とぢかためて、多く気をもらすべからず。只耳は気の出入なし。然(れ)ども久しくきけば神をそこなふ。  
(534)瓦火桶と云物、京都に多し。桐火桶の製に似て大なり。瓦にて作る。高さ五寸四分、足は此外也。縦のわたり八寸三分、横のわたり七寸、縦横少(し)長短あるべし。或(は)形まるくして、縦横なきもよし。上の形まるき事、桐火桶のごとし。めぐりにすかしまどありて、火気をもらすべし。上に口あり、ふたあり。ふたの広さ、よこ三寸、たて三寸余なるべし。まるきもよし。ふたに取手あり。ふた二三の内、一は取手なきがよし。やはらかなる灰を入置(いれおき)、用ゐんとする時、宵より小なる炭火を二三入て臥さむとする前より、早く衾(ふすま)の下に置、ふして後、足をのべてあたゝむべし。上気する人は、早く遠ざくべし。足あたゝまらば火桶を足にてふみ退け、足を引てかゞめふすべし。翌朝おきんとする時、又足をのべてあたたむべし。又、ふたの熱きを木綿袋に入て、腹と腰をあたゝむ。ふた二三こしらへ置、とりかへて腹、腰をあたゝむべし。取手なきふたを以ては、こしをあたゝむ。こしの下にしくべし。温石(おんじゃく)より速(すみやか)に熱くなりて自由なり。急用に備ふべし。腹中の食滞気滞をめぐらして、消化しやすき事、温石并(ならびに)薬力よりはやし。甚(はなはだ)要用の物なり。此事しれる人すくなし。  
二便  
(535)うへては坐して小便し、飽ては立て小便すべし。  
(536)二便は早く通じて去べし。こらゆるは害あり。もしは不意に、いそがしき事出来ては、二便を去べきいとまなし。小便を久しく忍べば、たちまち小便ふさがりて、通ぜざる病となる事あり。是を転ふ(てんふ:尿閉症)(5360)と云。又、淋(:頻尿)となる。大便をしばしば忍べば気痔となる。又、大便をつとめて努力すべからず。気上り、目あしく、心(むね)さわぐ。害多し。自然(じねん)に任すべし。只津液を生じ、身体をうるほし、腸胃の気をめぐらす薬をのむべし。麻仁(まにん)、胡麻、杏仁(きょうにん)、桃仁(とうにん)など食ふべし。秘結する食物、もち(5361:3種類のもちの総称)、柿、芥子(からし)など禁じてくらふべからず。大便、秘するは、大なる害なし。小便久しく秘するは危うし。  
(537)常に大便秘結する人は、毎日厠(かわや)にのぼり、努力せずして、成べきほどは少づつ通利すべし。如此すれば、久しく秘結せず。  
(538)日月、星辰、北極、神廟に向つて、大小便すべからず。又、日月のてらす地に小便すべからず。凡(そ)天神、地祇、人鬼おそるべし。あなどるべからず。  
洗浴  
(539)湯浴(ゆあみ)は、しばしばすべからず。温気過て肌開(えひら)け、汗出で気へる。古人、「十日に一たび浴す」。むべなるかな。ふかき盤(たらい)に温湯少し入て、しばし浴すべし。湯あさければ温過(あたたかすぎ)ずして気をへらさず。盤ふかければ、風寒にあたらず。深き温湯に久しく浴して、身をあたため過すべからず。身熱し、気上り、汗出(いで)、気へる。甚害あり。又、甚温なる湯を、肩背に多くそそぐべからず。  
(540)熱湯(あつゆ)に浴(ゆあみ)するは害あり。冷熱はみづから試みて沐浴(もくよく)すべし。快(こころよき)にまかせて、熱湯に浴すべからず。気上りてへる。殊に目をうれふる人、こらへたる人、熱湯に浴すべからず。 
(541)暑月の外、五日に一度沐(かみあら)ひ、十日に一度浴す。是(これ)古法なり。夏月に非ずして、しばしば浴すべからず。気、快といへども気へる。  
(542)あつからざる温湯を少(し)盥(たらい)に入て、別の温湯を、肩背より少しづゝそゝぎ、早くやむれば、気よくめぐり、食を消す。寒月は身あたゝまり、陽気を助く。汗を発せず。此如すれば、しばしば浴するも害なし。しばしば浴するには、肩背は湯をそゝぎたるのみにて、垢を洗はず、只下部(げぶ)を洗ひて早くやむべし。久しく浴し、身を温め過すべからず。  
(543)うゑては浴すべからず。飽ては沐(かみあら)ふべからず。  
(544)浴場の盥の寸尺の法、曲尺(かね)にて竪(たて)の長二尺九寸、横のわたり二尺。右、何(いずれ)もめぐりの板より内の寸なり。ふかさ一尺三寸四分、めぐりの板あつさ六分、底は猶(なお)あつきがよし。ふたありてよし。皆、杉の板を用ゆ。寒月は、上とめぐりに風をふせぐかこみあるべし。盤(たらい)浅ければ風に感じやすく、冬はさむし。夏も盤浅ければ、湯あふれ出てあしし。湯は、冬もふかさ六寸にすぐべからず。夏はいよいよあさかるべし。世俗に、水風炉(ふろ)とて、大桶の傍に銅炉をくりはめて、桶に水ふかく入(いれ)て、火をたき、湯をわかして浴す。水ふかく、湯熱きは、身を温め過し、汗を発し、気を上せへらす。大に害有(あり)。別の大釜にて湯をわかして入れ、湯あさくして、熱からざるに入り、早く浴しやめて、あたゝめ過さゞれば害なし。桶を出んとする時、もし湯ぬるくして、身あたゝまらずば、くりはめたる炉に、火を少したきてよし。湯あつくならんとせば、早く火を去(さる)べし。此如すれば害なし。  
(545)泄痢(せつり)し、及食滞、腹痛に、温湯に浴し、身体をあたたむれば、気めぐりて病いゆ。 甚しるしあり。初発の病には、薬を服するにまされり。  
(546)身に小瘡ありて熱湯(あつゆ)に浴し、浴後、風にあたれば肌をとぢ、熱、内にこもりて、小瘡も、肌の中に入て熱生じ、小便通ぜず、腫る。此症、甚危し。おほくは死す。つつしんで、熱湯に浴して後、風にあたるべからず。俗に、熱湯にて小瘡を内にたでこむると云う。左にはあらず、熱湯に浴し、肌表、開きたる故に、風に感じやすし。涼風にて、熱を内にとづる故、小瘡も共に内に入るなり。  
(547)沐浴(もくよく)して風にあたるべからず。風にあはゞ、はやく手を以、皮膚をなでするべし。  
(548)女人、経水(けいすい)来(きた)る時、頭を洗ふべからず。  
(549)温泉は、諸州に多し。入浴して宜しき症あり。あしき症あり。よくもなく、あしくもなき症有。凡(およそ)此三症有。よくゑ(え)らんで浴すべし。湯治(とうじ)してよき病症は、外症なり。打身(うちみ)の症、落馬したる病、高き所より落て痛める症、疥癬(かいせん)など皮膚の病、金瘡(きんそう)、はれ物の久しく癒(いえ)がたき症、およそ外病には神効(しんこう)あり。又、中風(ちゅうぶ)、筋引つり、しゞまり、手足しびれ、なゑたる症によし。内症には相応せず。されども気鬱、不食、積滞(しゃくたい)、気血不順など、凡(およそ)虚寒(きょかん)の病症は、湯に入あたためて、気めぐりて宜しき事あり。外症の速(すみやか)に効(しるし)あるにはしかず、かろく浴すべし。又、入浴して益もなく害もなき症多し。是は入浴すべからず。又、入浴して大に害ある病症あり。ことに汗症(かんしょう)、虚労(きょろう)、熱症に尤(も)いむ。妄(みだり)に入浴すべからず。湯治(とうじ)して相応せず、他病おこり、死せし人多し。慎しむべし。此理をしらざる人、湯治(とうじ)は一切の病によしとおもふは、大なるあやまり也。本草(ほんぞう)の陳蔵器(ちんぞうき)の説、考みるべし。湯治(とうじ)の事をよくとけり。凡(そ)入浴せば実症の病者も、一日に三度より多きをいむ。虚人(きょじん)は一両度なるべし。日の長短にもよるべし。しげく浴する事、甚(はなはだ)いむ。つよき人も湯中に入(り)て、身をあたため過すべからず。はたにこしかけて、湯を杓(ひしゃく)にてそそぐべし。久しからずして、早くやむべし。あたため過(すご)し、汗を出すべからず。大にいむ。毎日かろく浴し、早くやむべし。日数は七日二十七日なるべし。是を俗に一廻(めぐり)二廻と云。温泉をのむべからず。毒あり。金瘡の治のため、湯浴(ゆあみ)してきず癒(いえ)んとす。然るに温泉の相応せるを悦(よろこ)んで飲まば、いよいよ早くいえんとおもひて、のんだりしが、疵、大にやぶれて死せり。  
(550)湯治(とうじ)の間、熱性の物を食ふべからず。大酒大食すべからず。時々歩行し、身をうごかし、食気をめぐらすべし。湯治(とうじ)の内、房事(ぼうじ)をおかす事、大にいむ。湯よりあがりても、十余日いむ。灸(きゅう)治も同じ。湯治(とうじ)の間、又、湯治の後、十日ばかり補薬をのむべし。其間、性よき魚鳥の肉を、少(し)づつ食して、薬力をたすけ、脾胃を養ふべし。生冷、性あしき物、食すべからず。又、大酒大食をいむ。湯治(とうじ)しても、後の保養なければ益なし。  
(551)海水を汲(く)んで浴するには、井水(せいすい)か河水を半ば入れて、等分にして浴すべし。然らざれば熱を生ず。  
(552)温泉ある処に、いたりがたき人は、遠所に汲(くみ)よせて浴す。汲湯(くみゆ)と云。寒月は水の性損ぜずして、是を浴せば、少益あらんか。しかれども、温泉の地よりわき出たる温熱の気を失ひて、陽気きえつきて、くさりたる水なれば、清水の新たに汲めるよりは、性おとるべきかといふ人あり。 
巻第六 / 病を慎しむ 

 

病は生死のかかる所、人身の大事也。聖人の慎(み)給う事、むべなるかな。  
(601)古語に、「常に病想を作す」。云意は、無病の時、病ある日のくるしみを、常に思ひやりて、風・寒・暑・湿の外邪をふせぎ、酒食・好色の内欲を節にし、身体の起臥・動静をつつしめば病なし。又、古詩に曰(く)、「安閑の時、常に病苦の時を思へ」。云意は、病なくて安閑なる時に、初(め)病に苦しめる時を、常に思ひ出して、わするべからずと也。無病の時、慎ありて、恣ならざれば、病生ぜず。是病おこりて、良薬を服し、鍼・灸をするにまされり。邵康節の詩に、其病(んで)後、能く薬を服せむより、病(やむ)前、能(く)自(ら)防ぐにしかず。といへるがごとし。  
(602)病なき時、かねてつつしめば病なし。病おこりて後、薬を服しても病癒がたく、癒る事おそし。小慾をつつしまざれば大病となる。小慾をつつしむ事は、やすし。大病となりては、苦しみ多し。かねて病苦を思ひやり、のちの禍(わざわい)をおそるべし。  
(603)古語に、病は少癒るに加はるといえり。病少いゆれば、快きをたのんで、おこたりてつつしまず。少快しとして、飲食、色慾など恣(ほしいまま)にすれば、病かへつておもくなる。少いゑたる時、弥(いよいよ)かたくおそれつつしみて、少のやぶれなくおこたらざれば、病早くいエて再発のわざはひなし。此時かたくつつしまざれば、後悔すとも益なし。  
(604)千金方に曰(いわく)、冬温なる事を極めず、夏涼きことをきはめず、凡一時快き時は、必後の禍(わざわい)となる。  
(605)病生じては、心のうれひ身の苦み甚し。其上、医をまねき、薬をのみ、灸をし、針をさし、酒をたち、食をへらし、さまざまに心をなやまし、身をせめて、病を治せんとせんよりは、初(はじめ)に内欲をこらゑ、外邪をふせげば、病おこらず。薬を服せず、針灸せずして、身のなやみ、心の苦みなし。初(はじめ)しばしの間、つヽしみしのぶは、少(すこし)の心づかひなれど、後の患(うれい)なきは、大なるしるしなり。後に薬と針灸を用ひ、酒食をこらへ、つヽしむは、その苦み甚しけれど、益少なし。古語に、終わりをつヽしむ事は、始(はじめ)におゐてせよといへり。万の事、始によくつヽしめば、後に悔なし。養生の道、ことさらかくのごとし。  
(606)飲食、色慾の肉欲を、ほしゐまゝにせずして、かたく慎み、風寒暑湿の外邪をおそれ防がば、病なくして、薬を用ひずとも、うれひなかるべし。もし慾をほしゐままにして、つゝしまず、只、脾腎を補ふ薬治と、食治とを頼まば、必(かならず)しるしなかるべし。  
(607)病ある人、養生の道をば、かたく慎しみて、病をば、うれひ苦しむべからず。憂ひ苦しめば、気ふさがりて病くはゝる。病おもくても、よく養ひて久しければ、おもひしより、病いえやすし。病をうれひて益なし。只、慎むに益あり。もし必死の症は、天命の定れる所、うれひても益なし。人をくるしむるは、おろかなり。  
(608)病を早く治せんとして、いそげば、かへつて、あやまりてを病をます。保養はおこたりなくつとめて、いゆる事は、いそがず、その自然にまかすべし。万の事、あまりよくせんとすれば、返つてあしくなる。  
(609)居所(おりどころ)、寝屋(ねや)は、つねに風寒暑湿の邪気をふせぐべし。風寒暑は人の身をやぶる事、はげしくて早し。湿は人の身をやぶる事おそくして深し。故に風寒暑は人おそれやすし。湿気は人おそれず。人にあたる事ふかし。故に久しくしていえず。湿ある所を、早く遠ざかるべし。山の岸近き所を、遠ざかるべし。又、土あさく、水近く、床ひきゝ処に、坐臥すべからず。床を高くし、床の下の壁にまどを開きて、気を通ずべし。新にぬりたる壁に近付て、坐臥すべからず。湿にあたりて病となりて、いえがたし。或(あるいは)疫病をうれふ。おそるべし。文禄の朝鮮軍に、戦死の人はすくなく、疫死多かりしは、陣屋ひきく、まばらにして、士卒、寒湿にあたりし故也とぞ。居所(おりどころ)も寝屋も、高くかはける所よし。是皆、外湿をふせぐなり。一たび湿にあたればいえがたし。おそるべし。又、酒茶湯水を多くのまず、瓜、菓、冷麪を多く食(くら)はざるは、是皆、内湿をふせぐなり。夏月、冷水を多くのみ、冷麪をしばしば食すれば、必(かならず)内湿にやぶられ、痰瘧、泄痢をうれふ。つゝしむべし。  
(610)傷寒を大病と云。諸病の内、尤(もっとも)おもし。わかくさかんなる人も、傷寒、疫癘をわずらひ、死ぬる人多し。おそるべし。かねて風寒暑湿をよくふせぐべし。初発のかろき時、早くつつしむべし。 
(611)中風は、外の風にあたりたる病には非ず、内より生ずる風に、あたれる也。肥白(ひはく)にして気すくなき人、年四十を過て気衰ふる時、七情のなやみ、酒食のやぶれによつて、此病生ず。つねに酒を多くのみて、腸胃やぶれ、元気へり、内熱生ずる故、内より風生じて手足ふるひ、しびれ、なえて、かなはず。口ゆがみて、物いふ事ならず。是皆、元気不足する故なり。故に、わかく気つよき時は、此病なし。もし、わかき人にも、まれにあるは、必(かならず)肥満して、気すくなき人也。酒多くのみ、内かはき熱して、風生ずるは、たとへば、七八月に残暑甚しくて、雨久しくふらざれば、地気さめずして、大風ふくが如し。此病、下戸にはまれ也。もし、下戸にあるは、肥満したる人か、或(あるいは)気すくなき人なり。手足なえしびれて、不仁なるは、くち木の性なきが如し。気血不足して、ちからなく、なへしびるゝ也。肥白(ひはく)の人、酒を好む人、かねて慎あるべし。  
(612)春は陽気発生し、冬の閉蔵にかはり、人の肌膚(きふ)和して、表気やうやく開く。然るに、余寒猶烈しくして、風寒に感じやすし。つゝしんで、風寒にあたるべからず。感冒咳嗽(かんぼうがいそう)の患(うれい)なからしむべし。草木の発生するも、余寒にいたみやすし。是を以て、人も余寒をおそるべし。時にしたがひ、身を運動し、陽気を助けめぐらして、発生せしむべし。  
(613)夏は、発生の気いよいよさかんにして、汗もれ、人の肌膚(きふ)大いに開く故外邪入やすし。涼風に久しくあたるべからず。沐浴の後、風に当るべからず。且夏は伏陰とて、陰気かくれて腹中にある故、食物の消化する事おそし。多く飲食すべからず。温(あたたか)なる物を食ひて、脾胃をあたゝむべし。冷水を飲べからず。すべて生冷の物をいむ。冷麪多く食ふべからず。虚人は尤(もっとも)泄瀉(せっしゃ)のうれひおそるべし。冷水に浴すべからず。暑甚き時も、冷水を以(もって)面目(かおめ)を洗へば、眼を損ず。冷水にて、手足洗ふべからず。睡中に、扇にて、人にあふがしむべからず。風にあたり臥べからず。夜、外に臥べからず。夜、外に久しく坐して、露気にあたるべからず。極暑の時も、極て涼しくすべからず。日に久しくさらせる熱物の上に、坐すべからず。  
(614)四月は純陽の月也。尤 (もっとも)色慾を禁ずべし。雉 (きじ)鶏など温熱 (うんねつ)の物、食うべからず。  
(615)四時の内、夏月、尤 (もっとも)保養すべし。霍乱 (かくらん)、中暑、傷食 (しょうしょく)、泄瀉、瘧痢 (ぎゃくり)の病、おこりやすし。生冷の飲食を禁じて、慎んで保養すべし。夏月、此病おこれば、元気へりて大いに労す。  
(616)六七月、酷暑の時は、極寒の時より、元気へりやすし、よく保養すべし。加味生脈散 (かみしょうみゃくさん)、補気湯、医学六要の新製清暑益気湯など、久しく服して、元気の発泄するを収斂すべし。一年の内時令のために、薬を服して、保養すべきは、此時なり。東垣 (とうえん)が清暑益気湯は湿熱を消散する方也。純補の剤にあらず、其病なくば、服すべからず。  
(617)夏月、古き井、深き穴の中に人を入 (いるる)べからず。毒気多し。古井には先鶏の毛を入て、毛、舞ひ下りがたきは、是毒あり、入 (いる)べからず。火をもやして、入れて後、入(いる)べし。又、醋(す)を熱くわかして、多く井に入(いれ)て後、人入(いる)べし。夏至に井をさらえ、水を改むべし。  
(618)秋は、夏の間肌(はだえ)開け、七八月は、残暑も猶烈しければ、そうり(*理:肌のきめ)(618)いまだとちず。表気いまだ堅からざるに、秋風すでにいたりぬれば、感じてやぶられやすし。慎んで、風涼にあたり過すべからず。病ある人は、八月、残暑退きて後、所々に灸して風邪(ふうじゃ)をふせぎ、陽を助けて痰咳(たんせき)のうれひをまぬがるべし。  
(619)冬は、天地の陽気とぢかくれ、人の血気おさまる時也。心気を閑(しずか)にし、おさめて保つべし。あたゝめ過して陽気を発し、泄(もら)すべからず。上気せしむべからず。衣服をあぶるに、少(すこし)あたゝめてよし。熱きをいむ。衣を多くかさね、又は火気を以(もって)身をあたゝめ過すべからず。熱湯(あつゆ)に浴すべからず。労力して汗を発し、陽気を泄(もら)すべからず。  
(620)冬至には、一陽初て生ず。陽気の微少なるを静養すべし。労動すべからず。此日、公事にあらずんば、外に出(いず)べからず。冬至の前五日、後十日、房事を忌む。又、灸すべからず。続漢書に曰(いわく)、夏至水を改め、冬至に火を改むるは、瘟疫(おんえき)を去なり。 
(621)冬月は、急病にあらずんば、針灸すべからず。尤(もっとも)十二月を忌む。又、冬月按摩をいむ。自身しづかに導引するは害なし。あらくすべからず。  
(622)除日(じょにち)には、父祖の神前を掃除し、家内、殊に臥室のちりをはらひ、夕は燈(ともしび)をともして、明朝にいたり、家内光明ならしめ、香を所々にたき、かまどにて爆竹し、火をたきて、陽気を助くべし。家族と炉をかこみ、和気津々として、人とあらそはず、家人を、いかりのゝしるべからず。父母、尊重を拝祝し、家内、大小上下椒(しょう)酒をのんで歓び楽しみ、終夜いねずして旧(ふる)き歳をおくり、新き年をむかへて、朝にいたる。是を歳を守ると云(いう)。  
(623)熱食して汗いでば、風に当るべからず。  
(624)凡そ人の身、高き処よりおち、木石におされなどして、損傷したる処に、灸をする事なかれ。灸をすれば、くすりを服してもしるしなし。又、兵器にやぶられて、血おほく出たる者は、必(かならず)のんどかはくもの也。水をあたふべからず。甚あしゝ。又、粥をのましむべからず。粥をのめば、血わき出で、必(かならず)死ぬ。是等の事、かねてしらずんばあるべからず。又、金瘡折傷、口開きたる瘡、風にあたるべからず。扇にてもあふぐべからず。、し(624)症(痙攣をおこす病気)となり、或(あるいは)破傷風となる。  
(625)冬、朝(あした)に出て遠くゆかば、酒をのんで寒をふせぐべし。空腹にして寒にあたるべからず。酒をのまざる人は、粥を食ふべし。生薑をも食ふべし。陰霧の中、遠く行べtからず。やむ事を得ずして、遠くゆかば、酒食を以(もって)防ぐべし。  
(626)雪中に跣(はだし)にて行て、甚寒(ひ)えたるに、熱湯(あつきゆ)にて足を洗ふべからず。火に早くあたるべからず。大寒にあたりて、即熱(あつき)物を食飲すべからず。  
(627)頓死の症多し。卒中風(そっちゅうぷ)、中気、中悪、中毒、中暑、凍死、湯火、食傷、乾霍乱(かんかくらん)、破傷風、喉痺、痰厥(たんけつ)失血、打撲、小児の馬脾風等の症、皆卒死す。此外、又、五絶とて、五種の頓死あり。一には自(みずから)くびる。二にはおしにうたる。三には水におぼる。四には夜押厭はる。五には婦人難産。是皆、暴死する症なり。常の時、方書を考へ、又、其治法を、良医にたつねてしり置(おく)べし。かねて用意なくして、俄に所置を失ふべからず。  
(628)神怪、奇異なる事、たとひ目前に見るとも、必(かならず)鬼神の所為とは云がたし。人に心病あり。眼病あり。此病あれば、実になき物、目に見ゆる事多し。信じてまよふべからず。  
(629)保養の道は、みづから病を慎しむのみならず、又、医をよくゑらぶべし。天下にもかへがたき父母の身、わが身を以(もって)庸医の手にゆだぬるはあやうし。医の良拙をしらずして、父母子孫病する時に、庸医にゆだぬるは、不孝不慈に比す。おやにつかふる者も、亦医をしらずんばあるべからず、といへる程子の言、むべなり。医をゑらぶには、わが身医療に達せずとも、医術の大意をしれらば、医の好否(よしあし)をしるべし。たとへば書画を能(よく)せざる人も、筆法をならひしれば、書画の巧拙をしるが如し。  
(630)医は仁術なり。仁愛の心を本とし、人を救ふを以(もって)、志とすべし。わが身の利養を専に志すべからず。天地のうみそだて給へる人を、すくひたすけ、万民の生死をつかさどる術なれば、医を民の司命と云、きはめて大事の職分なり。他術はつたなしといへども、人の生命には害なし。医術の良拙は人の命の生死にかゝれり。人を助くる術を以(もって)、人をそこなふべからず。学問にさとき才性ある人をゑらんで医とすべし。医を学ぶ者、もし生れ付鈍にして、その才なくんば、みづからしりて、早くやめて、医となるべからず。不才なれば、医道に通せずして、天のあはれみ給ふ人を、おほくあやまりそこなふ事、つみかふし。天道おそるべし。他の生業多ければ、何ぞ得手なるわざあるべし。それを、つとめならふべし。医生、其術にをろそかなれば、天道にそむき、人をそこなふのみならず、我が身の福(さいわい)なく、人にいやしめらる。其術にくらくして、しらざれば、いつはりをいひ、みづからわが術をてらひ、他医をそしり、人のあはれみをもとめ、へつらへるは、いやしむべし。医は三世をよしとする事、礼記に見えたり。医の子孫、相つゞきて其才を生れ付たらば、世世家業をつぎたるがよかるべし。此如くなるはまれなり。三世とは、父子孫にかゝはらず、師、弟子相伝へて三世なれば、其業くはし。此説、然るべし。もし其才なくば、医の子なりとも、医とすべからず。他の業を習はしむべし。不得手なるわざを以て、家業とすべからず。 
(631)凡(およそ)医となる者は、先儒書をよみ、文義に通ずべし。文義通ぜざれば、医書をよむちからなくして、医学なりがたし。又、経伝の義理に通ずれば、医術の義理を知りやすし。故に孫思ばく (ばく)曰、凡(およそ)大医と為るには先づ儒書に通ずべし。又曰、易を知らざれば以て医と為る可からず。此言、信ずべし。諸芸をまなぶに、皆文学を本とすべし。文学なければ、わざ熟しても理にくらく、術ひきし。ひが事多けれど、無学にしては、わがあやまりをしらず。医を学ぶに、殊に文学を基とすべし。文学なければ、医書をよみがたし。医道は、陰陽五行の理なる故、儒学のちから、易の理を以(もって)、医道を明らむべし。しからざれば、医書をよむちからなくして、医道をしりがたし。  
(632)文学ありて、医学にくはしく、医術に心をふかく用ひ、多く病になれて、其変をしれるは良医也。医となりて、医学をこのまず、医道に志なく、又、医書を多くよまず、多くよんでも、精思の工夫なくして、理に通ぜず、或(あるいは)医書をよんでも、旧説になづみて、時の変をしらざるは、賤工也。俗医、利口にして、医学と療治とは別の事にて、学問は、病を治するに用なしと云て、わが無学をかざり、人情になれ、世事に熟し、権貴の家にへつらひちかづき、虚名を得て、幸にして世に用ひらるゝ者多し。是を名づけて福医と云、又、時医と云。是医道にはうとけれど、時の幸ありて、禄位ある人を、一両人療して、偶中すれば、其故に名を得て、世に用らるゝ事あり。才徳なき人の、時にあひ、富貴になるに同じ。およそ医の世に用らるゝと、用られざるとは、良医のゑらんで定むる所為(しわざ)にはあらず。医道をしらざる白徒(しろうと)のする事なれば、幸にして時にあひて、はやり行はるるとて、良医とすべからず。其術を信じがたし。  
(633)古人、医也者は意也、といへり。云意(こころ)は、意(こころ)精(くわ)しければ、医道をしりてよく病を治す。医書多くよんでも、医道に志なく、意(こころ)粗く工夫くはしからざれば、医道をしらず。病を治するに拙きは、医学せざるに同じ。医の良拙は、医術の精(くわ)しきと、あらきとによれり。されども、医書をひろく見ざれば、医道をくはしくしるべきやうなし。  
(634)医とならば、君子医となるべし、小人医となるべからず。君子医は人のためにす。人を救ふに、志専一なる也。小人医はわが為にす。わが身の利養のみ志し、人をすくふに志専ならず。医は仁術也。人を救ふを以(もって)志とすべし。是人のためにする君子医也。人を救ふ志なくして、只、身の利養を以(もって)志とするは、是わがためにする小人医なり。医は病者を救はんための術なれば、病家の貴賤貧富の隔なく、心を尽して病を治すべし。病家よりまねかば、貴賤をわかたず、はやく行べし。遅々すべからず。人の命は至りておもし、病人をおろそかにすべからず。是医となれる職分をつとむる也。小人医は、医術流行すれば我身にほこりたかぶりて、貧賤なる病家をあなどる。是医の本意を失へり。  
(635)或人の曰(いわく)、君子医となり、人を救はんが為にするは、まことに然るべし。もし医となりて仲景(ちゅうけい)、東垣(とうえん)などの如き富貴の人ならば、利養のためにせずしても、貧窮のうれひなからん。貧家の子、わが利養の為にせずして、只人を救ふに専一ならば、飢寒のうれひまぬがれがたかるべし。答て曰(いわく)、わが利養の為に医となる事、たとへば貧賤なる者、禄のため君につかふるが如し。まことに利禄のためにすといへども、一たび君につかへては、わが身をわすれて、ひとへに君のためにすべし。節義にあたりては、恩禄の多少によらず、一命をもすつべし。是人の臣たる道なり。よく君につかふれば、君恩によりて、禄は求めずして其内にあり。一たび医となりては、ひとへに人の病をいやし、命を助くるに心専一なるべき事、君につかへてわが身をわすれ、専一に忠義をつとむるが如くなるべし。わが身の利養をはかるべからず。然れば、よく病をいやし、人をすくはゞ、利養を得る事は、求めずして其内にあるべし。只専一に医術をつとめて、利養をば、むさぼるべからず。  
(636)医となる者、家にある時は、つねに医書を見て其理をあきらめ、病人を見ては、又、其病をしるせる方書をかんがへ合せ、精(くわ)しく心を用ひて薬方を定むべし。病人を引うけては、他事に心を用ひずして、只、医書を考へ、思慮を精(くわ)しくすべし。凡(およそ)医は医道に専一なるべし。他の玩好あるべからず。専一ならざれば業精(くわ)しからず。  
(637)医師にあらざれども、薬をしれば、身をやしなひ、人をすくふに益あり。されども、医療に妙を得る事は、医生にあらざれば、道に専一ならずして成がたし。みづから医薬を用ひんより、良医をゑらんでゆだぬべし。医生にあらず、術あらくして、みだりにみづから薬を用ゆべからず。只、略(ほぼ)医術に通じて、医の良拙をわきまへ、本草をかんがへ、薬性と食物の良毒をしり、方書をよんで、日用急切の薬を調和し、医の来らざる時、急病を治し、医のなき里に居(おり)、或(あるいは)旅行して小疾をいやすは、身をやしなひ、人をすくふの益あれば、いとまある人は、すこし心を用ゆべし。医術をしらずしては、医の良賤をもわきまへず、只、世に用ひらるゝを良工とし、用ひられざるを賤工とする故に、医説に、明医は時医にしかず、といへり。医の良賤をしらずして、庸医に、父母の命をゆだね、わが身をまかせて、医にあやまられて、死したるためし世に多し。おそるべし。  
(638)士庶人の子弟いとけなき者、医となるべき才あらば、早く儒書をよみ、其力を以(もって)、医書に通じ、明師にしたがひ、十年の功を用て、内経、本草以下、歴代の明医の書をよみ学問し、やうやく医道に通じ、又、十年の功を用ひて、病者に対して、病症を久しく歴見して習熟し、近代の日本の先輩の名医の療術をも考しり、病人に久しくなれて、時変を知り、日本の風土にかなひ、其術ますます精(くわ)しくなり、医学と病功と、前後凡(およそ)二十年の久きをつみなば、必(かならず)良医となり、病を治する事、験ありて、人をすくふ事多からん。然らば、をのづから名もたかくなりて、高家、大人(たいじん)の招請あり、士庶人の敬信もあつくば、財禄を得る事多くして、一生の受用ゆたかなるべし。此如く実によくつとめて、わが身に学功そなはらば、名利を得ん事、たとへば俯して地にあるあくたを、ひろふが如く、たやすかるべし。是士庶の子弟、貧賎なる者の名利を得る好(よき)計(はかりごと)なるべし。この如くなる良工は、是国土の宝なり。公侯は、早くかゝる良医をしたて給ふべし。医となる人、もし庸医のしわざをまなび、、愚俗の言を信じ、医学をせずして、俗師にしたがひ、もろこしの医書をよまず、病源と脈とをしらず、本草に通ぜず、薬性をしらず、医術にくらくして、只近世の日本の医の作れる国字の医書を、二三巻考へ、薬方の功能を少覚え、よききぬきて、我が身のかたちふるまひをかざり、辯説(べんぜつ)を巧にし、人のもてなしをつくろひ、富貴の家に、へつらひしたしみ、時の幸(さいわい)を求めて、福医のしわざを、うらやみならはゞ、身をおはるまで草医なるべし。かゝる草医は、医学すれば、かへつて療治に拙し、と云まはりて、学問ある医をそしる。医となりて、天道の子としてあはれみ給ふ万民の、至りておもき生命をうけとり、世間きはまりなき病を治せんとして、この如くなる卑狭(ひきょう)なる術を行ふは云かひなし。  
(639)俗医は、医学をきらひてせず。近代名医の作れる和字の医書を見て、薬方を四五十つかひ覚ゆれば、医道をば、しらざれども、病人に馴て、尋常(よのつね)の病を治する事、医書をよんで病になれざる者にまされり。たとへば、ていはい(*稗:ひえ)(639)の熟したるは、五穀の熟せざるにまされるが如し。されど、医学なき草医は、やゝもすれば、虚実寒熱を取ちがへ、実々虚々のあやまり、目に見えぬわざはひ多し。寒に似たる熱症あり。熱に似たる寒症あり。虚に似たる実症あり。実に似たる虚症あり。内傷、外感、甚相似たり。此如まぎらはしき病多し。根ふかく、見知りがたきむづかしき病、又、つねならざるめづらしき病あり。かやうの病を治することは、ことさらなりがたし。  
(640)医となる人は、まづ、志を立て、ひろく人をすくひ助くるに、まことの心をむねとし、病人の貴賎によらず、治をほどこすべし。是医となる人の本意也。其道明らかに、術くはしくなれば、われより、しゐて人にてらひ、世に求めざれども、おのづから人にかしづき用られて、さいはいを得る事、かぎりなかるべし。もし只、わが利養を求るがためのみにて、人をすくふ志なくば、仁術の本意をうしなひて、天道、神明の冥加あるべからず。 
(641)貧民は、医なき故に死し、愚民は庸医にあやまられて、死ぬる者多しと、古人いへり。あはれむべし。  
(642)医術は、ひろく書を考へざれば、事をしらず。精しく理をきはめざれば、道を明らめがたし。博(ひろき)と精(くわしき)とは医を学ぶの要なり。医を学ぶ人は、初より大に志ざし、博くして又精しかるべし。二ながら備はらずんばあるべからず。志小きに、心あらくすべからず。  
(643)日本の医の中華に及ばざるは、まづ学問のつとめ、中華の人に及ばざれば也。ことに近世は国字(かな)の方書多く世に刊行せり。古学を好まざる医生は、からの書はむづかしければ、きらひてよまず。かな書の書をよんで、医の道是にて事足りぬと思ひ、古の道をまなばず。是日本の医の医道にくらくして、つたなきゆへなり。むかしの伊路波(いろは)の国字(かな)いできて、世俗すべて文盲になれるが如し。  
(644)歌をよむに、ひろく歌書をよんで、歌学ありても歌の下手はあるもの也。歌学なくして上手は有まじきなりと、心敬法師いへり。医術も亦かくの如し。医書を多くよんでも、つたなき医はあり。それは医道に心を用ずして、くはしならざればなり。医書をよまずして、上手はあるまじき也。から・やまとに博学多識にして、道しらぬ儒士は多し。博く学ばずして、道しれる人はなきが如し。  
(645)医は、仁心を以て行ふべし。名利を求むべからず。病おもくして、薬にて救ひがたしといへども、病家より薬を求むる事切ならば、多く薬をあたへて、其心ををなぐさむべし。わがよく病を見付て、生死をしる名を得んとて、病人に薬をあたへずして、すてころすは情けなし。医の薬をあたへざれば、病人いよいよちからをおとす。理なり。あはれむべし。  
(646)医を学ぶに、ふるき法をたづねて、ひろく学び、古方を多く考ふべし。又、今世の時運を考へ、人の強弱をはかり、日本の土宜(どぎ)と民俗の風気を知り、近古わが国先輩の名医の治せし迹(あと)をも考へて、治療を行ふべし。いにしへに本づき、今に宜しくば、あやまりすくなかるべし。古法をしらずして、今の宜に合せんとするを鑿(うがつ)と云。古法にかゝはりて、今の宜に合ざるを泥(なずむ)と云。其あやまり同じ。古にくらく、今に通ぜずしては、医道行はるべからず。聖人も、故を温ね新を知以て師とすべし、と、のたまへり。医師も亦かくの如くなるべし。  
(647)薬の病に応ずるに適中あり、偶中あり。適中は良医の薬必応ずる也。偶中は庸医の薬不慮(はからざるに)相応ずるなり。是其人に幸ある故に、術はつたなけれども、幸にして病に応じたる也。もとより庸医なれば、相応ぜざる事多し。良医の適中の薬を用ふべし。庸医は、たのもしげなし。偶中の薬はあやふし。適中は能(よく)射る者の的にあたるが如し。偶中は拙き者の不慮に、的に射あつるが如し。  
(648)医となる者、時の幸を得て、富貴の家に用いらるゝ福医をうらやみて、医学をつとめず、只、権門につねに出入し、へつらひ求めて、名利を得る者多し。医術のすたりて拙くなり、庸医の多くなるは此故なり。  
(649)諸芸には、日用のため無益なる事多し。只、医術は有用の事也。医生にあらずとも少学ぶべし。凡儒者は天下の事皆しるべし。故に、古人、医も儒者の一事といへり。ことに医術はわが身をやしなひ、父母につかへ、人を救ふに益あれば、もろもろの雑芸よりも最(もっとも)益多し。しらずんばあるべからず。然ども医生に非ず、療術に習はずして、妄(みだり)に薬を用ゆべからず。  
(650)医書は、内経本草(ないけいほんぞう)を本とす。内経を考へざれば、医術の理、病の本源をしりがたし。本草に通ぜざれば、薬性をしらずして方を立がたし。且(かつ)、食性をしらずして宜禁(ぎきん)を定がたく、又、食治の法をしらず。此二書を以(もって)医学の基(もとい)とす。二書の後、秦越人(しんえつじん)が難経、張仲景が金匱要略(きんきようりゃく)、皇甫謐(こうほひつ)が甲乙経、巣元方が病源候論、孫思ばく(250)が千金方、王とう(6500)が外台秘要、羅謙甫(らけんほ)が衛生宝鑑、陳無択が三因方、宋の恵民局の和剤(かざい)局方証類、本草序例、銭仲陽が書、劉河間が書、朱丹溪が書、李東垣が書、楊しゅん(6501)が丹溪心法、劉宗厚が医経小学、玉機微義、熊宗立が医書大全、周憲王の袖珍方、周良采が医方選要、薛立斎(せつりゅうさい)が医案、王璽(おうじ)が医林集要、楼英が医学綱目、虞天民が医学正伝、李挺が医学入門、江篁南(こうこうなん)が名医類案、呉崑が名医方考、きょう(6502)挺賢が書数種、汪石山が医学原理、高武が鍼灸聚英、李中梓(りちゅうし)が医宗必読、頤生微論、薬性解、内経知要あり。又薛立斎が十六種あり。医統正脈は四十三種あり。歴代名医の書をあつめて一部とせり。是皆、医生のよむべき書也。年わかき時、先儒書を記誦し、其力を以右の医書をよんで能記すべし。 
(651)張仲景は、百世の医祖也。其後、歴代の明医すくなからず。各発明する処多しといへ共、各其説に偏僻の失あり。取捨すべし。孫思(ばく)は、又、養生の祖なり。千金方をあらはす。養生の術も医方も、皆、宗とすべし。老、荘、を好んで異術の人なれど、長ずる所多し。医生にすゝむるに、儒書に通じ、易を知るを以す。盧照鄰に答へし数語、皆、至理あり。此人、後世に益あり。医術に功ある事、皇甫謐、葛洪、陶弘景等の諸子に越たり。寿(いのち)百余歳なりしは、よく保養の術に長ぜし効(しるし)なるべし。  
(652)むかし、日本に方書の来りし初は、千金方なり。近世、医書板行せし初は、医書大全なり。此書は明の正統十一年に熊宗立編む。日本に大永の初来りて、同八年和泉の国の医、阿佐井野宗瑞、刊行す。活板也。正徳元年まで百八十四年也。其後、活字の医書、やうやく板行す。寛永六年巳後、扁板鏤刻(るこく)の医書漸く多し。  
(653)凡諸医の方書偏説多し。専一人を宗とし、一書を用ひては治を為しがたし。学者、多く方書をあつめ、ひろく異同を考へ、其長ずるを取て其短なるをすて、医療をなすべし。此後、才識ある人、世を助くるに志あらば、ひろく方書ゑらび、其重複をけづり、其繁雑なるを除き、其粋美なるをあつめて、一書と成さば、純正なる全書となりて、大なる世宝なるべし。此事は、其人を待て行はるべし。凡近代の方書、医論、脈法、薬方同じき事、甚多し。殊(ことに)きょう(6502)挺賢が方書部数、同じ事多くして、重出しげく煩はし。無用の雑言亦多し。凡病にのぞんでは、多く方書を検する事、煩労なり。急病に対し、にはかに広く考へて、其相応ぜる良方をゑらびがたし。同事多く、相似たる書を多くあつめ考るも、いたづがはし。才学ある人は、無益の事をなして暇をつひやさんより、かゝる有益の事をなして、世を助け給ふべし。世に其才ある人、豈なかるべきや。  
(654)局方発揮、出て局方すたる。局方に古方多し。古を考ふるに用べし。廃(す)つべからず。只、鳥頭附子の燥剤を多くのせたるは、用ゆべからず。近古、日本に医書大全を用ゆ。きょう(6502)挺賢が方書流布して、東垣が書及医書大全、其外の諸方をも諸医用ずして、医術せばくあらくなる。三因方、袖珍方、医書大全、医方選要、医林集要、医学正伝、医学綱目、入門、方考、原理、奇効良方、証治準縄等、其外、方書を多く考へ用ゆべし。入門は、医術の大略備れる好書也。(きょう)廷賢が書のみ偏に用ゆべからず。きょう(6502)氏が医療は、明季の風気衰弱の時宜に頗かなひて、其術、世に行はれし也。日本にても亦しかり。しかるべき事は、ゑらんで所々取用ゆべし。悉くは信ずべからず。其故にいかんとなれば、雲林が医術、其見識ひきし。他人の作れる書をうばひてわが作とし、他医の治せし療功を奪てわが功とす。不経の書を作りて、人に淫ををしえ、紅鉛などを云穢悪の物をくらふ事を、人にすゝめて良薬とす。わが医術をみづから衒ひ、自ほむ。是皆、人の穢行なり。いやしむべし。  
(655)我よりまへに、其病人に薬を与へし医の治法、たとひあやまるとも、前医をそしるべからず。他医をそしり、わが術にほこるは、小人のくせなり。医の本意にあらず。其心ざまいやし。きく人に思ひ下さるゝも、あさまし。  
(656)本草の内、古人の説まちまちにして、一やうならず。異同多し。其内にて考へ合せ、択(えら)び用ゆべし。又、薬物も食品も、人の性により、病症によりて、宜、不宜あり。一概に好否を定めがたし。  
(657)医術も亦、其道多端なりといへど、其要三あり。一には病論、二には脈法、三には薬方、此三の事をよく知べし。運気、経絡などもしるべしといへども、三要の次也。病論は、内経を本とし、諸名医の説を考ふべし。脈法は、脈書数家を考ふべし。薬方は、本草を本として、ひろく諸方書を見るべし。薬性にくはしからずんば、薬方を立がたくして、病に応ずべからず。又、食物の良否をしらずんば、無病有病共に、保養にあやまり有べし。薬性、食性、皆本草に精からずんば、知がたし。  
(658)或曰、病あつて治せず、常に中医を得る、といへる道理、誠にしかるべし。然らば、病あらば只上医の薬を服すべし。中下の医の薬は服すべからず。今時、上医は有がたし、多くは中、下医なるべし。薬をのまずんば、医は無用の物なるべしと云。答曰、しからず、病あつて、すべて治せず。薬をのむべからずと云は、寒熱、虚実など、凡病の相似て、まぎらはしくうたがはしき、むづかしき病をいへり。浅薄なる治しやすき症は、下医といへども、よく治す。感冒咳嗽(かんぼうがいそう)に参蘇飲(じんそいん)、風邪を発散するに香蘇散、敗毒散、かつ(658)香、正気散。食滞に平胃散、香砂平胃散、かやうの類は、まぎれなくうたがはしからざる病なれば、下医も治しやすし。薬を服して害なかるべし。右の症も、薬しるしなき、むづかしき病ならば、薬を用ずして可也。 
巻第七 / 薬を用ふ 

 

(701)人身、病なき事あたはず。病あれば、医をまねきて治を求む。医に上中下の三品あり。上医は病を知り、脈を知り、薬を知る。此三知を以(て)病を治して十全の功あり。まことに世の宝にして、其功、良相(りょうしょう)につげる事、古人の言のごとし。下(か)医は、三知の力なし。妄(みだり)に薬を投じて、人をあやまる事多し。夫(れ)薬は、補瀉寒熱(ほしゃかんねつ)の良毒の気偏なり。その気(き)の偏(へん)を用(い)て病をせむる故に、参ぎ(115:薬用人参)の上薬をも妄(みだり)に用ゆべからず。其病に応ずれば良薬とす。必其しるしあり。其病に応ざぜれば毒薬とす。たゞ益なきのみならず、また人に害あり。又、中医あり。病と脈と薬をしる事、上医に及ばずといへ共、薬は皆気の偏にして、妄に用ゆべからざる事をしる。故に其病に応ぜざる薬を与へず。前漢書に班固(はんこ)が曰(く)、「病有て治せずば常に中医を得よ」。云意(いうこころ)は、病あれども、もし其病を明らかにわきまへず、その脈を許(つまびらか)に察せず、其薬方を精(くわ)しく定めがたければ、慎んでみだりに薬を施さず。こゝを以(て)病あれども治せざるは、中品の医なり。下医(かい)の妄に薬を用(い)て人をあやまるにまされり。故に病ある時、もし良医なくば、庸医(ようい)の薬を服して身をそこなふべからず。只保養をよく慎み、薬を用ひずして、病のをのづから癒(いゆ)るを待べし。如此すれば、薬毒にあたらずして、はやくいゆる病多し。死病は薬を用ひてもいきず。下医は病と脈と薬をしらざれども、病家の求(もとめ)にまかせて、みだりに薬を用ひて、多く人をそこなふ。人を、たちまちにそこなはざれども、病を助けていゆる事おそし。中医は、上医に及ばずといへども、しらざるを知らずとして、病を慎んで、妄(みだり)に治せず。こゝを以(もって)、病あれども治せざるは中品の医なりといへるを、古来名言とす。病人も亦、此説を信じ、したがって、応ぜざる薬を服すべからず。世俗は、病あれば急にいゑん事を求て、医の良賤をゑらばず、庸医の薬をしきりにのんで、かへつて身をそこなふ。是身を愛すといへども、実は身を害する也。古語に曰、「病の傷は猶癒(いやす)べし、薬の傷は最も医(くす)し難し」。然らば、薬をのむ事、つゝしみておそるべし。孔子も、季康子が薬を贈れるを、いまだ達せずとて、なめ給はざるは、是疾をつゝしみ給へばなり。聖人の至教、則(のり)とすべし。今、其病源を審(つまびらか)にせず、脈を精(くわ)しく察せず、病に当否を知らずして、薬を投ず。薬は、偏毒あればおそるべし。  
(702)孫思ばく曰、人、故なくんば薬を餌(くらう)べからず。偏(ひとえ)に助くれば、蔵気不平にして病生ず。  
(703)劉仲達(りゅうちゅうたつ)が鴻書(こうしょ)に、疾(やまい)あつて、もし名医なくば薬をのまず、只病のいゆるを、しづかにまつべし。身を愛し過し、医の良否をゑらばずして、みだりに早く、薬を用る事なかれ。古人、病あれども治せざるは中医を得ると云、此言、至論也といへり。庸医の薬は、病に応ずる事はすくなく、応ぜざる事多し。薬は皆、偏性(へんしょう)ある物なれば、其病に応ぜざれば、必(ず)毒となる。此故に、一切の病に、みだりに薬を服すべからず。病の災(わざわい)より薬の災多し。薬を用ずして、養生を慎みてよくせば、薬の害なくして癒(いえ)やすかるべし。  
(704)良医の薬を用るは臨機応変とて、病人の寒熱虚実の機にのぞみ、其時の変に応じて宜に従ふ。必(ず)一法に拘はらず。たとへば、善く戦ふ良将の、敵に臨んで変に応ずるが如し。かねてより、その法を定めがたし。時にのぞんで宜にしたがふべし。されども、古法をひろくしりて、その力を以(て)今の時宜に(じぎ)にしたがひて、変に応ずべし。古(いにしえ)をしらずして、只今の時宜に従はんとせば、本(もと)なくして、時宜に応ずべからず。故(ふるき)を温(たず)ねて新をしるは、良医なり。  
(705)脾胃(ひい)を養ふには、只穀肉を食するに相宜(あいよろ)し。薬は皆気の偏なり。参ぎ、朮甘(じゅつかん)は上薬にて毒なしといへども、病に応ぜざれば胃の気を滞(とどこお)らしめ、かへつて病を生じ、食を妨げて毒となる。いはんや攻撃のあらくつよき薬は、病に応ぜざれば、大に元気をへらす。此故に病なき時は、只穀肉を以(て)やしなふべし。穀肉の脾胃をやしなふによろしき事、参ぎの補にまされり。故に、古人の言に薬補は食補にしかずといへり。老人は殊に食補すべし、薬補は、やむ事を得ざる時用ゆべし。  
(706)薬をのまずして、おのづからいゆる病多し。是をしらで、みだりに薬を用て薬にあてられて病をまし、食をさまたげ、久しくいゑずして、死にいたるも亦多し。薬を用る事つつしむべし。  
(707)病の初発の時、症(しょう)を明に見付(みつけ)ずんば、みだりに早く薬を用ゆべからず。よく病症を詳(つまびらか)にして後、薬を用ゆべし。諸病の甚しくなるは、多くは初発の時、薬ちがへるによれり。あやまつて、病症にそむける薬を用ゆれば、治しがたし。故に療治の要は、初発にあり。病おこらば、早く良医をまねきて治すべし。症により、おそく治(じ)すれば、病ふかくなりて治しがたし。扁鵲(へんじゃく)が斉候に告げたるが如し。  
(708)丘処機(きゅうしょき)が、衛生の道ありて長生の薬なし、といへるは、養生の道はあれど、むまれ付かざるいのちを、長くする薬はなし。養生は、只むまれ付(き)たる天年をたもつ道なり。古(いにしえ)の人も術者にたぶらかされて、長生の薬とて用ひし人、多かりしかど、其しるしなく、かへつて薬毒にそこなはれし人あり。是長生の薬なき也。久しく苦労して、長生の薬とて用ゆれども益なし。信ずべからず。内慾を節にし、外邪をふせぎ、起居をつゝしみ、動静を時にせば、生れ付(き)たる天年をたもつべし。是養生の道あるなり。丘処機が説は、千古の迷(まよい)をやぶれり。此説信ずべし。凡(そ)うたがふべきをうたがひ、信ずべきを信ずるは迷をとく道なり。  
(709)薬肆(やくし:薬屋)の薬に、好否あり、真偽あり。心を用ひてゑらぶべし。性あしきと、偽薬とを用ゆべからず。偽薬とは、真ならざる似せ薬也。拘橘(くきつ)を枳穀(きこく)とし、鶏腿児(けいたいじ)を柴胡(さいこ)とするの類(たぐい)なり。又、薬の良否に心を用ゆべし。其病に宜しき良方といへども、薬性あしければ功なし。又、薬の製法に心を用ゆべし。薬性よけれ共、修(こしらえ)、治方に背(そむ)けば能なし。たとへば、食物も其土地により、時節につきて、味のよしあしあり。又、よき品物も、料理あしければ、味なくして、くはれざるが如し。こゝを以(て)その薬性のよきをゑらび用ひ、其製法をくはしくすべし。  
(710)いかなる珍味も、これを煮る法ちがひてあしければ、味あしゝ。良薬も煎法ちがへば験(しるし)なし。此(の)故、薬を煎ずる法によく心を用ゆべし。文火とは、やはらかなる火也。武火とは、つよき火なり。文武火とは、つよからずやはらかならざる、よきかげんの火なり。風寒を発散し、食滞を消導(しょうどう)する類(るい)の剛剤(ごうざい)を利薬と云(う)。利薬は、武火にてせんじて、はやくにあげ、いまだ熱せざる時、生気のつよきを服すべし。此(の)如(く)すれば、薬力つよくして、邪気にかちやすし。久しく煎じて熟すれば、薬に生気の力なくして、よわし。邪気にかちがたし。補湯は、やはらかなる文火にて、ゆるやかに久しく煎じつめて、よく熟すべし。此如ならざれば、純補(じゅんぽ)しがたし。こゝを以(て)利薬は生に宜しく熟に宜しからず。補薬は熟に宜しくして、生に宜しからず。しるべし、薬を煎ずるに此二法あり。 
(711)薬剤一服の大小の分量、中夏(ちゅうか)の古法を考がへ、本邦の土宜にかなひて、過不及(かふきゅう)なかるべし。近古、仲井家(なからいけ)には、日本の土地、民俗の風気に宜しとて、薬の重さ八分を一服とす。医家によりて一匁(もんめ)を一服とす。今の世、医の薬剤は、一服の重さ六七分より一匁に至る。一匁より多きは稀(まれ)なり。中夏の薬剤は、医書を考ふるに、一服三匁より十匁に至(る)。東垣(とうえん)は、三匁を用ひて一服とせし事あり。中夏の人、煎湯の水を用る事は少く、薬一服は大なれば、煎汁(せんじしる)甚(だ)濃(く)して、薬力つよく、病を冶する事早しと云(う)。然るに日本の薬、此如小服なるは何ぞや。曰(く)、日本の医の薬剤小服なる故三あり。一には中華の人は、日本人より生質健(すこやか)に腸胃(ちょうい)つよき故、飲食多く、肉を多く食ふ。日本人は生(うまれ)つき薄弱にして、腸胃よわく食すくなく、牛鳥、犬羊の肉を食ふに宜しからず。かろき物をくらふに宜し。此故に、薬剤も昔より、小服に調合すと云(う)。是一説なり。されども中夏の人、日本の人、同じく是人なり。大小強弱少(し)かはる共、日本人、さほど大(き)におとる事、今の医の用る薬剤の大小の如く、三分の一、五分の一には、いたるべからず。然れば日本の薬、小服なる事、此如なるべからずと云(う)人あり。一説に或人の曰(く)、日本は薬種ともし。わが国になき物多し。はるかなるもろこし、諸蕃国の異舶に、載せ来るを買て、価(あたい)貴とし。大服なれば費(ついえ)多し。こゝを以(て)薬剤を大服に合せがたし。ことに貧医は、薬種をおしみて多く用ひず。然る故、小服にせしを、古来習ひ来りて、富貴の人の薬といへども小服にすと云(う)。是一説也。又曰、日本の医は、中華の医に及ばず。故に薬方を用る事、多くはその病に適当せざらん事を畏る。此故に、決定(けつじょう)して一方を大服にして用ひがたし。若(し)大服にして、其病に応ざぜれば、かへつて甚(だ)害をなさん事おそるべければ、小服を用ゆ。薬その病に応ぜざれども、小服なれば大なる害なし。若(し)応ずれば、小服にても、日をかさねて小益は有ぬべし。こゝを以(て)古来、小服を用ゆと云(う)。是又一説也。此三説によりて日本の薬、古来小服なりと云(う)。  
(712)日本人は、中夏の人の健(すこやか)にして、腸胃のつよきに及ばずして、薬を小服にするが宜しくとも、その形体、大小相似たれば、その強弱の分量、などか、中夏の人の半(ば)に及ぶべからざらんや。然らば、薬剤を今少(し)大にするが、宜しかるべし。たとひ、昔よりあやまり来りて、小服なりとも、過(あやま)つては、則(ち)改るにはばかる事なかれ。今の時医の薬剤を見るに、一服此如小にしては、補湯といへども、接養の力なかるべし。況(や)利湯(とう)を用る病は、外、風寒肌膚(きふ)をやぶり、大熱を生じ、内、飲食腸胃に塞(ふさが)り、積滞(しゃくたい)の重き、欝結(うっけつ)の甚しき、内外の邪気甚(はなはだ)つよき病をや。小なる薬力を以(て)大なる病邪にかちがたき事、たとへば、一盃(ぱい)の水を以(て)一車薪の火を救ふべからざるが如し。又、小兵を以(て)大敵にかちがたきが如し。薬方、その病によく応ずとも、かくのごとく小服にては、薬に力なくて、効(しるし)あるべからず。砒毒(ひどく)といへども、人、服する事一匁許(ばかり)に至りて死すと、古人いへり。一匁よりすくなくしては、砒霜(ひそう)をのんでも死なず、河豚(ふぐ)も多くくらはざれば死なず。つよき大毒すらかくの如し。況(や)ちからよはき小服の薬、いかでか大病にかつべきや。此理を能(く)思ひて、小服の薬、効なき事をしるべし。今時の医の用る薬方、その病に応ずるも多かるべし。しかれども、早く効を得ずして癒(いえ)がたきは、小服にて薬力たらざる故に非ずや。  
(713)今ひそかにおもんぱかるに、利薬は、一服の分量、一匁五分より以上、二匁に至るべし。その間の軽重は、人の大小強弱によりて、増減すべし。  
(714)補薬一服の分量は、一匁より一匁五分に至るべし。補薬つかえやすき人は、一服一匁或(あるいは)一匁二分なるべし。是又、人の大小強弱によりて増減すべし。又、攻補兼(かね)用(う)る薬方あり、一服一匁二三分より、一匁七八分にいたるべし。  
(715)婦人の薬は、男子より小服に宜し。利湯は一服一匁二分より一匁八分に至り、補湯は一匁より一匁五分にいたるべし。気体強大ならば、是より大服に宜し。  
(716)小児の薬、一服は、五分より一匁に至るべし。是又、児の大小をはかつて増減すべし。  
(717)大人の利薬を煎ずるに、水をはかる盞(さかずき)は、一盞(さん)に水を入るゝ事、大抵五十五匁より六十匁に至るべし。是(これ)盞の重さを除きて水の重さなり。一服の大小に従つて水を増減すべし。利薬は、一服に水一盞半入(れ)て、薪をたき、或(あるいは)かたき炭を多くたきて、武火(つよび)を以(て)一盞にせんじ、一盞を二度にわかち、一度に半盞、服すべし。滓(かす)はすつべし。二度煎ずべからず。病つよくば、一日一夜に二服、猶(なお)其上にいたるべし。大熱ありて渇する病には、其宜(ぎ)に随つて、多く用ゆべし。補薬を煎ずるには、一盞に水を入(る)る事、盞の重さを除き、水の重さ五十匁より五十五匁に至る。是又、一服の大小に随(い)て、水を増減すべし。虚人の薬小服なるには、水五十匁入(いる)る盞を用ゆべし。壮人の薬、大服なるには水五十五匁入(る)る盞を用ゆべし。一服に水二盞入(れ)て、けし炭を用ひ、文火(とろび)にてゆるやかにせんじつめて一盞とし、かすには、水一盞入(れ)て半盞にせんじ、前後合せて一盞半となるを、少(し)づつ、つかへざるやうに、空腹に、三四度に、熱服す。補湯は、一日に一服、若(し)つかえやすき人は、人により、朝夕はのみがたし、昼間二度のむ。短日は、二度はつかえて服しがたき人あり、病人によるべし。つかえざる人には、朝夕昼間一日に一服、猶(なお)其上も服すべし。食滞あらば、補湯のむべからず。食滞めぐりて後、のむべし。  
(718)補薬は、滞塞(たいそく)しやすし。滞塞すれば害あり益なし。利薬を服するより、心を用ゆべし。もし大剤にして気塞(ふさ)がらば、小剤にすべし。或(は)棗(なつめ:利尿、強壮)を去り生姜(しょうきょう)を増すべし。補中益気湯などのつかえて用(い)がたきには、乾姜(かんきょう)、肉桂(にくけい)を加ふべき由、薜立斉(せつりゅうさい)が医案にいへり。又、症により附子(ぶし)、肉桂(にくけい)を少(し)加へ、升麻(しょうま)、柴胡(さいこ)を用るに二薬ともに火を忌(い)めども、実にて炒(り)用ゆ。是正伝惑問の説也。又、升麻、柴胡(さいこ)を去(り)て桂姜(けいきょう)を加ふる事あり。李時珍(りじちん)も、補薬に少(し)附子(ぶし)を加ふれば、その功するどなり、といへり。虚人の熱なき症に、薬力をめぐらさん為ならば、一服に五釐(りん)か一分加ふべし。然れども病症によるべし。壮人には、いむべし。  
(719)身体短小にして、腸胃小なる人、虚弱なる人は、薬を服するに、小服に宜し。されども、一匁より小なるべからず。身体長大にして、腸胃ひろき人、つよき人は、薬、大服に宜し。  
(720)小児の薬に、水をはかる盞(さかずき)は、一服の大小によりて、是も水五十匁より、五十五匁入(る)ほどなる盞を用ゆ。是又、盞の重を除きて、水の重さなり。利湯は、一服に水一盞入(り)、七分に煎じ、二三度に用ゆ。かすはすつべし。補湯には、水一盞半を用て、七分に煎じ、度々に熱服す。是又、かすはすつべし。或(は)かすにも水一盞入(れ)、半盞に煎じつめて用ゆべし。 
(721)中華の法、父母の喪は必(ず)三年、是天下古今の通法なり。日本の人は体気、腸胃、薄弱なり。此故に、古法に、朝廷より期の喪を定め給ふ。三年の喪は二十七月也。期の喪は十二月なり。是日本の人の、禀賦(ひんぷ)の薄弱なるにより、其宜を考へて、性にしたがへる中道なるべし。然るに近世の儒者、日本の土宜をしらず、古法にかゝはりて、三年の喪を行へる人、多くは病して死せり。喪にたへざるは、古人是を不孝とす。是によつて思ふに、薬を用るも亦同じ。国土の宜をはかり考へて、中夏の薬剤の半(なかば)を一服と定めば宜しかるべし。然らば、一服は、一匁より二匁に至りて、其内、人の強弱、病の軽重によりて多少あるべし。凡(およそ)時宜をしらず、法にかゝはるは、愚人のする事なり。俗流にしたがひて、道理を忘るゝは小人(しょうじん)のわざなり。  
(722)右、薬一服の分量の大小、用水の多少を定むる事、予、医生にあらずして好事の誚(そしり)、僣率(せんそつ)の罪、のがれたしといへども、今時(こんじ)、本邦の人の禀賦(ひんぷ)をはかるに、おそらくは、かくの如(ごとく)にして宜しかるべし。願くば有識の人、博く古今を考へ、日本の人の生れ付(つき)に応じ、時宜にかなひて、過不及の差(たがい)なく、軽重大小を定め給ふべし。  
(723)煎薬に加ふる四味あり。甘草(かんぞう)は、薬毒をけし、脾胃を補なふ。生姜(しょうきょう)は薬力をめぐらし、胃を開く。棗(なつめ)は元気を補ひ、胃をます。葱白(そうはく)は風寒を発散す。是入門にいへり。又、燈心草(とうしんそう)は、小便を通じ、腫気を消す。  
(724)今世、医家に泡薬(ひたしやく)の法あり。薬剤を煎ぜずして、沸湯(ふっとう)にひたすなり。世俗に用る振薬(ふりやく)にはあらず。此法、振薬にまされり。其法、薬剤を細(こまか)にきざみ、細なる竹篩(たけふるい)にてふるひ、もれざるをば、又、細にきざみ粗末とすべし。布の薬袋をひろくして薬を入れ、まづ碗を熱湯にてあたゝめ、その湯はすて、やがて薬袋を碗に入(れ)、其上より沸湯を少(し)そゝぎ、薬袋を打返して、又、其上より沸湯を少(し)そゝぐ。両度に合せて半盞(はんさん)ほど熱湯をそゝぐべし。薬の液(しる)の自然(じねん)に出るに任せて、振出すべからず。早く蓋をして、しばし置べし。久しくふたをしおけば、薬汁(やくじゅう)出過(ぎ)てちからなし。薬汁出で、熱湯の少(し)さめて温(か)になりたるよきかんの時、飲(む)べし。かくの如くして二度泡(ひた)し、二度のみて後、其かすはすつべし。袋のかすをしぼるべからず。薬汁濁(にごり)てあしし。此法薬力つよし。利薬には、此煎法も宜し。外邪、食傷(しょくしょう)、腹痛、霍乱(かくらん)などの病には、煎湯よりも此法の功するどなり、用ゆべし。振薬(ふりやく)は用ゆべからず。此法、薬汁早く出(で)て薬力つよし。たとへば、茶を沸湯に浸して、其にえばなをのめば、其気つよく味もよし。久しく煎じ過せば、茶の味も気もあしくなるが如し。  
(725)世俗には、振薬(ふりやく)とて、薬を袋に入て熱湯につけて、箸にてはさみ、しきりにふりうごかし、薬汁を出して服す。是は、自然に薬汁出(いず)るにあらず。しきりにふり出す故、薬湯にごり、薬力滞(とどこおり)やすし。補薬は、常の煎法の如く、煎じ熟すべし。泡薬に宜からず。凡(そ)煎薬を入る袋は、あらき布はあしゝ。薬末もりて薬汁にごれば、滞りやすし。もろこしの書にて、泡薬の事いまだ見ずといへども、今の時宜によりて、用るも可也。古法にあらずしても、時宜よくかなはゞ用ゆべし。  
(726)頤生微論(いせいびろん)に曰、「大抵散利の剤は生に宜(し)。補養の剤は熱に宜(し)」。入門に曰、「補湯は熟を用須。利薬は生を嫌はず」。此法、薬を煎ずる要訣(けつ)なり。補湯は、久しく煎じて熟すれば、やはらかにして能(よく)補ふ。利薬は、生気のつよきを用て、はげしく病邪をうつべし。  
(727)補湯は、煎湯熱き時、少づゝのめばつかえず。ゆるやかに験(げん)を得べし。一時に多く服すべからず。補湯を服する間、殊(に)酒食を過(すご)さず、一切の停滞する物くらふべからず。酒食滞塞(たいそく)し、或(あるいは)薬を服し過し、薬力めぐらざれば、気をふさぎ、服中滞り、食を妨げて病をます。しるしなくして害あり。故に補薬を用る事、その節制むづかし。良医は、用(い)やう能(よく)してなづまず。庸医は用やうあしくして滞る。古人は、補薬を用るその間に、邪をさる薬を兼(ね)用(もち)ゆ。邪気されば、補薬にちからあり。補に専一なれば、なづみて益なく、かへつて害あり。是古人の説なり。  
(728)利薬は、大服にして、武火(つよび)にて早く煎じ、多くのみて、速に効(しるし)をとるべし。然らざれば、邪去がたし。局方に曰、補薬は水を多くして煎じ、熱服して効をとる。  
(729)凡(そ)丸薬は、性尤(も)やはらかに、其功、にぶくしてするどならず。下部(げぶ)に達する薬、又、腸胃の積滞(しゃくたい)をやぶるによし。散薬は、細末せる粉薬也。丸薬よりするどなり。経絡にはめぐりがたし。上部の病、又、腸胃の間の病によし。煎湯は散薬より其功するどなり。上中下、腸胃、経絡にめぐる。泡(ひたし)薬は煎湯より猶(なお)するどなり。外邪、霍乱、食傷、腹痛に用(う)べし。其功早し。  
(730)入門にいへるは、薬を服するに、病、上部にあるには、食後に少づゝ服す。一時に多くのむべからず。病、中部に在(る)には、食遠に服す。病、下部にあるには、空心にしきりに多く服して下に達すべし。病、四肢、血脈にあるには、食にうゑて日中に宜し。病、骨髄に在には食後夜に宜し。吐逆(とぎゃく)して薬を納(め)がたきには、只一すくひ、少づゝ、しづかにのむべし。急に多くのむべからず。是薬を飲法也。しらずんば有(る)べからず。 
(731)又曰、薬を煎ずるに砂かん(しゃかん)(731)を用ゆべし。やきものなべ也。又曰、人をゑらぶべし。云意(いうこころ)は、心謹信なる人に煎じさせてよしと也。粗率(そそつ)なる者に任すべからず。  
(732)薬を服するに、五臓四肢に達するには湯(とう)を用ゆ。胃中にとゞめんとせば、散を用ゆ。下部の病には丸(がん)に宜し。急速の病ならば、湯を用ゆ。緩々なるには散を用ゆ。甚(だ)緩(ゆる)き症には、丸薬に宜し。食傷、腹痛などの急病には煎湯を用ゆ。散薬も可也。丸薬はにぶし。もし用ひば、こまかにかみくだきて用ゆべし。  
(733)中華の書に、薬剤の量数をしるせるを見るに、八解散など、毎服二匁、水一盞(さん)、生薑(しょうきょう)三片、棗(なつめ)一枚煎じて七分にいたる。是は一日夜に二三服も用ゆべし。或は方によりて、毎服三匁、水一盞(さん)半、生薑(しょうきょう)五片、棗一枚、一盞に煎じて滓(かす)を去る。香蘇散(こうそさん)などは、日に三服といへり。まれには滓(かす)を一服として煎ずと云。多くは滓(かす)を去(さる)といへり。人参養胃湯(にんじんよういとう)などは、毎服四匁、水一盞半、薑(きょう)七片、烏梅(うばい)一箇、煎じて七分にいたり、滓を去。参蘇飲(じんそいん)は毎服四匁、水一盞、生薑七片、棗一箇、六分に煎ず。霍香生気散(かつこうしょうきさん)、敗毒散(はいどくさん)は、毎服二匁、水一盞、生薑(しょうが)三片、棗一枚、七分に煎ず。寒多きは熱服し、熱多きは温服(おんぷく)すといへり。是皆、薬剤一服の分量は多く、水を用る事すくなし。然れば、煎湯甚(だ)濃(く)なるべし。日本の煎法の、小服にして水多きに甚(だ)異(かわ)れり。局方に、小児には半餞を用ゆも児の大小をはかつて加減すといへり。又、小児の薬方、毎服一匁、水八分、煎じて六分にいたる、といへるもあり。医書大全、四君子湯方(ほう)後(のちに)曰、「右きざむこと(7/33)麻豆の大(の)如(し)。毎服一匁、水三盞、生薑五片、煎じて一盞に至る。是一服を十匁に合せたる也」。水は甚(だ)少し。  
(734)中夏の煎法(せんぽう)右の如し。朝鮮人に尋ねしにも、中夏の煎法と同じと云。  
(735)宋の沈存中(しんぞんちゅう)が筆談と云書に曰、近世は湯を用ずして煮散を用ゆといへり。然れば、中夏には、此法を用るなるべし。煮散の事、筆談に其法詳(つまびらか)ならず。煮散は薬を麁末(そまつ)とし、細布の薬袋のひろきに入(れ)、熱湯の沸上(わきあが)る時、薬袋を入、しばらく煮て、薬汁出たる時、早く取り上げ用(い)るなるべし。麁末の散薬を煎ずる故、煮散と名づけしにや。薬汁早く出(で)、早く取上げ、にゑばなを服する故、薬力つよし。煎じ過せば、薬力よはく成てしるしなり。此法、利湯を煎じて、薬力つよかるべし。補薬には此法用いがたし。煮散の法、他書においてはいまだ見ず。  
(736)甘草(かんぞう)をも、今の俗医、中夏の十分一用ゆるは、あまり小にして、他薬の助(たすけ)となりがたかるべし。せめて方書に用たる分量の五分一用べしと云人あり。此言、むべなるかな。人の禀賦(ひんぷ)をはかり、病症を考へて、加へ用ゆべし。日本の人は、中華の人より体気薄弱にして、純補(じゅんぽ)をうけがたし。甘草、棗など斟酌(しんしゃく)すべし。李中梓(りちゅうし)が曰、甘草性緩なり。多く用ゆべからず。一は、甘きは、よく脹(ちょう)をなすをおそる。一は、薬餌(やくじ)功なきをおそる。是甘草多ければ、一は気をふさぎて、つかえやすく、一は、薬力よはくなる故なり。  
(737)生薑(しょうきょう)は薬一服に一片、若し風寒発散の剤、或(は)痰を去る薬には、二片を用ゆべし。皮を去べからず。かわきたるとほしたるは用るべからず。或曰、生薑(しょうきょう)補湯には二分、利湯には三分、嘔吐の症には四分加ふべしと云。是生(なま)なる分量なり。  
(738)棗は、大なるをゑらび用ひてたねを去(り)、一服に半分入用ゆべし。つかえやすき症には去べし。利湯には、棗を用べからず。中華の書には、利湯にも、方によりて棗を用ゆ。日本の人には泥(なず)みやすし、加ふべからず。加ふれば、薬力ぬるくなる。中満、食滞の症及(び)薬のつかえやすき人には、棗を加ふべからず。龍眼肉も、つかえやすき症には去べし。  
(739)中夏の書、居家必用(きょかひつよう)、居家必備(きょかひつび)、斉民要術(せいみんようじゅつ)、農政全書、月令広義(がつりょうこうぎ)等に、料理の法を多くのせたり。其のする所、日本の料理に大いにかはり、皆、肥濃膏腴(ひのうこうゆ)、油膩(ゆに)の具、甘美の饌(せん)なり。其食味甚(だ)おもし。中土の人は、腸胃厚く、禀賦(ひんぷ)つよき故に、かゝる重味を食しても滞塞せず。今世、長崎に来る中夏人も、亦此如と云。日本の人は壮盛(そうせい)にても、かたうの饌食をくらはば飽満し、滞塞して病おこるべし。日本の人の饌食は、淡くしてかろきをよしとす。肥濃甘美の味を多く用ず。庖人の術も、味かろきをよしとし、良工とす。これ、からやまと風気の大に異る処なり。然れば、補薬を小服にし、甘草を減じ、棗を少、用る事むべなり。  
(740)凡(そ)薬を煎ずるに、水をゑらぶべし。清くして味よきを用ゆ。新に汲む水を用ゆべし。早天に汲む水を井華水と云。薬を煎ずべし。又、茶と羹(あつもの)をにるべし。新汲水は、平旦ならでも、新に汲んでいまだ器に入ざるを云。是亦用ゆべし。汲で器に入、久しくなるは用ゆべからず。 
(741)今世の俗は、利湯をも、煎じたるかすに、水一盞入て半分に煎じ、別にせんじたると合せ服す。利湯は、かくの如く、かすまで熟し過しては、薬力よはくして、病をせむるにちからなし。一度煎じて、其かすはすつべし。  
(742)生薑(しょうきょう)を片とするは、生薑根(こん)には肢(また)多し。其内一肢(また)をたてに長くわるに、大小にしたがひて、三片或(は)四片とすべし。たてにわるべし。或(は)問、生薑(しょうきょう)、医書に其おもさ幾分と云ずして、幾片と云は何ぞや。答曰、新にほり出せるは、生にしておもく、ほり出して日をいたるは、かはきてかろければ、其重さ幾分と定(さだめ)がたし。故に幾分と云ずして幾片と云。  
(743)棗は、樹頭に在(り)てよく熟し、色の青きが白くなり、少(し)紅まじる時とるべし。青きはいまだ熟せず、皆、紅なるは熟し過て、肉たゞれてあしゝ。色少あかくなり、熟し過ざる時とり、日に久しくほし、よくかはきたる時、むしてほすべし。生にてむすべからず。なまびもあしゝ。薬舗(くすりや)及(び)市廛(てん)にうるは、未熟なるをほしてうる故に性あしゝ。用ゆべからず。或(は)樹上にて熟し過るもたゞれてあしゝ。用ゆべからず。棗樹は、わが宅に必(ず)植べし。熟してよき比(ころ)の時とるべし。  
(744)凡(そ)薬を服して後、久しく飲食すべからず。又、薬力のいまだめぐらざる内に、酒食をいむ。又、薬をのんでねむり臥すべからず。ねむれば薬力めぐらず、滞(とどこお)りて害となる。必(ず)戒むべし。  
(745)凡(そ)薬を服する時は、朝夕の食、常よりも殊につゝしみゑらぶべし。あぶら多き魚、鳥、獣、なます、さしみ、すし、肉(しし)ひしほ、なし物、なまぐさき物、ねばき物、かたき物、一切の生冷の物、生菜の熟せざる物、ふるくけがらはしき物、色あしく臭(か)あしく味変じたる物、生なる菓(このみ)、つくりたる菓子、あめ、砂糖、もち、だんご、気をふさぐ物、消化しがたき物、くらふべからず。又、薬をのむ日は、酒を多くのむべからず。のまざるは尤(もっとも)よし。酒力、薬にかてばしるしなし。醴(あまざけ)ものむべからず。日長き時も、昼の間、菓子点心(てんじん)などくらふべからず。薬力のめぐる間は、食をいむべし。点心をくらへば、気をふさぎて、昼の間、薬力めぐらず。又、死人、産婦など、けがれいむべき物を見れば、気をふさぐ故、薬力めぐりがたく、滞やすくして、薬のしるしなし。いましめてみるべからず。  
(746)補薬を煎ずるには、かたき木、かたき炭などのつよき火を用ゆべからず。かれたる蘆(あし)の火、枯竹、桑柴(くわしば)の火、或(は)けし炭(ずみ)など、一切のやはらかなる火よし。はげしくもゆる火を用ゆれば、薬力を損ず。利薬を煎ずるには、かたき木、かたき炭などの、さかんなるつよき火を用ゆべし。是薬力をたすくるなり。  
(747)薬一服の大小、軽重は、病症により、人の大小強弱によつて、増減すべし。補湯は、小剤にして少づゝ服し、おそく効(しるし)をとるべし。多く用ひ過せば、滞りふさがる。発散、瀉下(しゃげ)、疎通の利湯は、大剤にしてつよきに宜し、早く効(しるし)をとるべし。  
(748)薬を煎ずるは、磁器よし、陶(やきもの)器也。又、砂罐(しゃかん)と云。銅をいまざる薬は、ふるき銅器もよし。新しきは銅(あかがね)気多くしてあしゝ。世俗に薬鍋(やくか)と云は、銅厚くして銅(あかがね)気多し。薬罐(やかん)と云は、銅うすくして銅(あかがね)気すくなし。形小なるがよし。  
(749)利薬を久しく煎じつめては、消導(しょうどう)発散すべき生気の力なし。煎じつめずして、にん(320:にえばな)を失はざる生気あるを服して、病をせむべし。たとへば、茶をせんじ、生魚を煮、豆腐を煮るが如し。生熟の間、よき程のにえばな(320)を失はざれば、味よくしてつかえず。にん(320)を失へば、味あしくして、つかえやすきが如し。  
(750)毒にあたりて、薬を用るに、必(かならず)熱湯を用ゆべからず。熱湯を用ゆれば毒弥(いよいよ)甚し。冷水を用ゆべし。これ事林広記(じりんこうき)の説なり。しらずんばあるべからず。 
(751)食物の毒、一切の毒にあたりたるに、黒豆、甘草(かんぞう)をこく煎じ、冷になりたる時、しきりにのむべし。温熱なるをのむべからず。はちく竹の葉を、加ふるもよし。もし毒をけす薬なくば、冷水を多く飲べし。多く吐瀉(としゃ)すればよし。是古人急に備ふる法なり。知(しる)べし。  
(752)酒を煎湯に加ふるには、薬を煎じて後、あげんとする時加ふべし。早く加ふるあしゝ。  
(753)腎は、水を主(つかさ)どる。五臓六腑の精をうけてをさむ故、五臓盛(さかん)なれば、腎水盛なり。腎の臓ひとつに、精あるに非ず。然れば、腎を補はんとて専(もっぱら)腎薬を用ゆべからず。腎は下部にあつて五臓六腑の根とす。腎気、虚すれば一身の根本衰ろふ。故に、養生の道は、腎気をよく保つべし。腎気亡びては生命を保ちがたし。精気をおしまずして、薬治と食治とを以(もって)、腎を補はんとするは末なり。しるしなかるべし。  
(754)東垣が曰く、細末の薬は経絡にめぐらず。只、胃中臓腑の積(しゃく)を去る。下部の病には、大丸を用ゆ。中焦(ちゅうしょう)の病は之に次ぐ。上焦を治するには極めて小丸にす。うすき糊(のり)にて丸(がん)ずるは、化しやすきに取る。こき糊にて丸ずるは、おそく化して、中下焦に至る。  
(755)丸薬、上焦の病には、細にしてやはらかに早く化しやすきがよし。中焦の薬は小丸(しょうがん)にして堅かるべし。下焦の薬は大丸にして堅きがよし。是、頤生微論(いせいびろん)の説也。又、湯は久き病に用ゆ。散は急なる病に用ゆ。丸(がん)はゆるやかなる病に用る事、東垣(とうえん)が珍珠嚢(ちんしゅのう)に見えたり。  
(756)中夏の秤(はかり)も、日本の秤と同じ。薬を合(あわ)するには、かねて一服の分量を定め、各品の分釐(ぶんり)をきはめ、釐等(りんだめ)を用ひてかけ合すべし。薬により軽重甚(だ)かはれり、多少を以(て)分量を定めがたし。  
(757)諸香(こう)の鼻を養ふ事、五味の口を養ふがごとし。諸香は、是をかげば生気をたすけ、邪気をはらひ、悪臭をけし、けがれをさり、神明に通ず。いとまありて、静室に坐して、香をたきて黙坐するは、雅趣をたすけて心を養ふべし。是亦、養生の一端なり。香に四品あり。たき香あり、掛香あり、食香あり、貼(つけ)香あり。たき香とは、あはせたきものゝ事也。からの書に百和香(ひやつかこう)と云。日本にも、古今和歌集の物の名に百和香をよめり。かけ香とは、かほり袋、にほひの玉などを云。貼香とは、花の露、兵部卿など云類の、身につくる香也。食香とは、食して香よき物、透頂香(とうちんこう)、香茶餅(こうさべい)、団茶(だんさ)など云物の事也。  
(758)悪気をさるに、蒼朮(そうじゅつ)をたくべし。こすい(441:ちぐさ)の実をたけば、邪気をはらふ。又、痘瘡のけがれをさる。蘿も(343:こえんどろ)の葉をほしてたけば、糞小便の悪気をはらふ。手のけがれたるにも蘿も(343)の生葉をもんでぬるべし。腥(なまぐさ)き臭(におい)あしき物を、食したるに、こすい(441)をくらへば悪臭さる。蘿も(343)のわか葉を煮て食すれば、味よく性よし。  
(759)大便、瀉(しや)しやすきは大いにあしし。少(し)秘するはよし。老人の秘結するは寿(ながいき)のしるし也。尤(も)よし。然(れ)共、甚秘結するはあしし。およそ人の脾胃につかえ、食滞り、或(は)腹痛し、不食し、気塞(ふさが)る病する人、世に多し。是多くは、大便通じがたくして、滞る故しかり。つかゆるは、大便つかゆる也。大便滞らざるやうに治(じ)すべし。麻仁(まにん)、杏仁(きょうにん)、胡麻などつねに食すれば、腸胃うるほひて便結せず。  
(760)上中部の丸薬は早く消化するをよしとす。故に、小丸を用ゆ。早く消化する故也。今、新なる一法あり。用ゆべし。末薬をのりに和(か)してつねの如くに丸せず、線香の如く、長さ七八寸に、手にてもみて、引のべ、線香より少(し)大にして、日にほし、なまびの時、長さ一分余に、みじかく切て丸せず、其まゝ日にほすべし。是一づゝ丸したるより消化しやすし。上中部を治するに、此法宜し。下部に達する丸薬には、此法宜しからず。此法、一粒づゝ丸ずるより、はか行きて早く成る。 
巻第八 / 老を養ふ 

 

(801)人の子となりては、其おやを養ふ道をしらずんばあるべからず。其心を楽しましめ、其心にそむかず、いからしめず、うれへしめず。其時の寒暑にしたがひ、其居室と其祢所(そのねどころ)をやすくし、其飲食を味よくして、まことを以て養ふべし。  
(802)老人は、体気おとろへ、胃腸よはし。つねに小児を養ふごとく、心を用ゆべし。飲食のこのみ、きらひをたづね、其寒温の宜きをこゝろみ、居室をいさぎよくし、風雨をふせぎ、冬あたゝかに、夏涼しくし、風・寒・暑・湿の邪気をよく防ぎて、おかさしめず、つねに心を安楽ならしむべし。盗賊・水火の不意なる変災あらば、先(まず)両親を驚かしめず、早く介保(かいほう)し出(いだ)すべし。変にあひて、病おこらざるやうに、心づかひ有べし。老人は、驚けば病おこる。おそるべし。  
(803)老の身は、余命久しからざる事を思ひ、心を用る事わかき時にかはるべし。心しづかに、事すくなくて、人に交はる事もまれならんこそ、あひ似あひてよろしかるべけれ。是も亦、老人の気を養ふ道なり。  
(804)老後は、わかき時より月日の早き事、十ばいなれば、一日を十日とし、十日を百日とし、一月を一年とし、喜楽して、あだに、日をくらすべからず。つねに時日をおしむべし。心しづかに、従容(しょうよう)として余日を楽み、いかりなく、慾すくなくして、残躯をやしなふべし。老後一日も楽しまずして、空しく過ごすはおしむべし。老後の一日、千金にあたるべし。人の子たる者、是を心にかけて思はざるべんけや。  
(805)今の世、老て子に養はるゝ人、わかき時より、かへつていかり多く、慾ふかくなりて、子をせめ、人をとがめて、晩節をもたず、心をみだす人多し。つゝしみて、いかりと慾とをこらえ、晩節をたもち、物ごとに堪忍ふかく、子の不孝をせめず、つねに楽しみて残年をおくるべし。是老後の境界(きょうがい)に相応じてよし。孔子、年老血気衰へては得るを戒しめ給ふ。聖人の言おそるべし。世俗、わかき時は頗(すこぶる)つゝしむ人あり。老後はかへつて、多慾にして、いかりうらみ多く、晩節をうしなうふ人多し。つゝしむべし。子としては是を思ひ、父母のいかりおこらざるやうに、かねて思ひはかり、おそれつゝしむべし。父母をいからしむるは、子の大不孝也。又子として、わが身の不孝なるを、おやにとがめられ、かへつておやの老耄(ろうもう)したる由を、人につぐ。是大不孝也。不孝にして父母をうらむるは、悪人のならひ也。  
(806)老人の保養は、常に元気をおしみて、へらすべからず。気息を静にして、あらくすべからず。言語(げんぎょ)をゆるやかにして、早くせず。言(ことば)すくなくし、起居行歩をも、しづかにすべし。言語あらゝかに、口ばやく声高く、よう言(ようげん)(806)すべからず。怒なく、うれひなく、過ぎ去たる人の過を、とがむべからず。我が過を、しきりに悔ゆべからず。人の無礼なる横逆を、いかりうらむべからず。是皆、老人養生の道なり。又、老人の徳行のつゝしみなり。  
(807)老ては気すくなし。気をへらす事をいむべし。第一、いかるべからず。うれひ、かなしみ、なき、なげくべからず。喪葬の事にあづからしむべからず。死をとぶらふべからず。思ひを過すべからず。尤多言をいむ。口、はやく物云べからず。高く物いひ、高くわらひ、高くうたふべからず。道を遠く行くべからず。重き物をあぐべからず。是皆、気をへらさずして、気をおしむなり。  
(808)老人は体気よはし。是を養ふは大事なり。子たる者、つゝしんで心を用ひ、おろそかにすべからず。第一、心にそむかず、心を楽しましむべし。是志を養ふ也。又、口腹の養におろそかなるべからず。酒食精(くわ)しく味よき物をすゝむべし。食の精(くわ)しからざる、あらき物、味あしき物、性あしき物をすゝむべからず。老人は、胃腸よはし、あらき物にやぶられやすし。  
(809)衰老の人は、脾胃よはし。夏月は、尤慎んで保養すべし。暑熱によつて、生冷の物をくらへば泄瀉(せつしゃ)しやすし。瘧痢(ぎゃくり)もおそるべし。一たび病すれば、大(い)にやぶれて元気へる。残暑の時、殊におそるべし。又、寒月は、老人は陽気すくなくして寒邪にやぶられやすし。心を用てふせぐべし。  
(810)老人はことに生冷、こはき物、あぶらけねばく、滞りやすき物、こがれてかはける物、ふるき物、くさき物をいむ。五味偏なる物、味よしとても、多く食ふべからず。夜食を、殊に心を用てつゝしむべし。 
(811)年老ては、さびしきをきらふ。子たる者、時々侍べり、古今の事、しずかに物がたりして、親の心をなぐさむべし。もし朋友妻子には和順にして、久しく対談する事をよろこび、父母に対する事をむづかしく思ひて、たえだえにしてうとくするは、是其親を愛せずして他人を愛する也。悖徳(はいとく)と云べし。不孝の至也。おろかなるかな。  
(812)天気和暖(かだん)の日は、園圃(えんぼ)に出、高き所に上り、心をひろく遊ばしめ、欝滞(うつたい)を開くべし。時時草木を愛し、遊賞せしめて、其意(こころ)を快くすべし。されども、老人みづからは、園囿(えんゆう)、花木に心を用ひ過して、心を労すべからず。  
(813)老人は気よはし。万(よろず)の事、用心ふかくすべし。すでに其事にのぞみても、わが身をかへりみて、気力の及びがたき事は、なすべからず。  
(814)とし下寿(かじゅ)をこゑ、七そぢにいたりては、一とせをこゆるも、いとかたき事になん。此ころにいたりては、一とせの間にも、気体のおとろへ、時々に変りゆく事、わかき時、数年を過るよりも、猶はなはだけぢめあらはなり。かくおとろへゆく老の身なれば、よくやしなはずんば、よはひを久しくたもちがたかるべし。又、此としごろにいたりては、一とせをふる事、わかき時、一二月を過るよりもはやし。おほからぬ余命をもちて、かく年月早くたちぬれば、此後のよはひ、いく程もなからん事を思ふべし。人の子たらん者、此時、心を用ひずして孝をつくさず、むなしく過なん事、おろかなるかな。  
(815)老ての後は、一日を以て十日として日々に楽しむべし。常に日をおしみて、一日もあだにくらすべからず。世のなかの人のありさま、わが心にかなはずとも、凡人なれば、さこそあらめ、と思ひて、わが子弟をはじめ、人の過悪を、なだめ、ゆるして、とがむべからず。いかり、うらむべからず。又、わが身不幸にして福うすく、人われに対して横逆なるも、うき世のならひ、かくこそあらめ、と思いひ、天命をやすんじて、うれふべからず。つねに楽しみて日を送るべし。人をうらみ、いかり、身をうれひなげきて、心をくるしめ、楽しまずして、むなしく過ぬるは、愚かなりと云べし。たとひ家まどしく、幸(さいわい)なくしても、うへて死ぬとも、死ぬる時までは、楽しみて過すべし。貧しきとて、人にむさぼりもとめ、不義にして命をおしむべからず。  
(816)年老ては、やうやく事をはぶきて、すくなくすべし。事をこのみて、おほくすべからず。このむ事しげゝれば、事多し。事多ければ、心気つかれて楽(たのしみ)をうしなふ。  
(817)朱子六十八歳、其子に与ふる書に、衰病の人、多くは飲食過度によりて、くはゝる。殊に肉多く食するは害あり。朝夕、肉は只一種、少食すべし。多くは食ふべからず。あつものに肉あらば、さい(306)に肉なきがよし。晩食には、肉なきが尤(も)よし。肉の数、多く重ぬるは滞りて害あり。肉をすくなくするは、一には胃を寛くして、気を養ひ、一には用を節にして、財を養ふといへり。朱子の此言、養生にせつなり。わかき人も此如すべし。  
(818)老人は、大風雨、大寒暑、大陰霧の時に外に出(いず)べからず。かゝる時は、内に居て、外邪をさけて静養すべし。  
(819)老ては、脾胃の気衰へよはくなる。食すくなきに宜し。多食するは危し。老人の頓死するは、十に九は皆食傷なり。わかくして、脾胃つよき時にならひて、食過れば、消化しがたく、元気ふさがり、病おこりて死す。つゝしみて、食を過すべからず。ねばき飯(いい)、こはき飯、もち、だんご、( めん )類、糯(もち)の飯、獣の肉、凡(およそ)消化しがたき物を多くくらふべからず。  
(820)衰老の人、あらき物、多くくらふべからず。精(くわ)しき物を少くらふべしと、元の許衡(きょこう)いへり。脾胃よはき故也。老人の食、此如なるべし。 
(821)老人病あらば、先(まず)食治(しょくち)すべし。食治応ぜずして後、薬治を用ゆべし。是古人の説也。人参、黄ぎ(おうぎ)は上薬也。虚損の病ある時は用ゆべし。病なき時は、穀肉の養(やしない)の益ある事、参ぎ(115)の補に甚(はなはだ)まされり。故に、老人はつねに味美(よ)く、性よき食物を少づゝ用て補養すべし。病なきに、偏なる薬をもちゆべからず。かへつて害あり。  
(822)朝夕の飯、常の如く食して、其上に又、こう(311)餌(もちだんご)、めん(822)類など、わかき時の如く、多くくらふべからず。やぶられやすし。只、朝夕二時の食、味よくして進むべし。昼間、夜中、不時の食、このむべからず。やぶられやすし。殊(ことに)薬をのむ時、不時に食すべからず。  
(823)年老ては、わが心の楽(たのしみ)の外、万端、心にさしはさむべからず。時にしたがひ、自楽しむべし。自楽むは世俗の楽に非(あら)ず。只、心にもとよりある楽を楽しみ、胸中に一物一事のわづらひなく、天地四時、山川の好景、草木の欣栄(きんえい)、是又、楽しむべし。  
(824)老後、官職なき人は、つねに、只わが心と身を養ふ工夫を専(もっぱら)にすべし。老境に無益のつとめのわざと、芸術に、心を労し、気力をついやすべからず。  
(825)朝は、静室に安坐し、香をたきて、聖経(せいきょう)を少(し)読誦(どくじゅ)し、心をいさぎよくし、俗慮をやむべし。道かはき、風なくば、庭圃(ていほ)に出て、従容(しょうよう)として緩歩(かんぽ)し、草木を愛玩し、時景を感賞すべし。室に帰りても、閑人を以薬事をなすべし。よりより几案硯中(きあんけんちゅう)のほこりをはらひ、席上階下の塵を掃除すべし。しばしば兀坐して、睡臥すべからず。又、世俗に広く交るべからず。老人に宜しからず。  
(826)つねに静養すべし。あらき所作をなくすべからず。老人は、少の労動により、少の、やぶれ、つかれ、うれひによりて、たちまち大病おこり、死にいたる事あり。つねに心を用ゆべし。  
(827)老人は、つねに盤坐(ばんざ)して、凭几(しょうぎ)をうしろにおきて、よりかゝり坐すべし。平臥を好むべからず。。  
幼を育ふ  
(828)小児をそだつるは、三分の飢と寒とを存すべしと、古人いへり。いふ意(こころ)は、小児はすこし、うやし(飢)、少(し)ひやすべしとなり。小児にかぎらず、大人も亦かくの如くすべし。小児に、味よき食に、あかしめ(飽)、きぬ多くきせて、あたゝめ過すは、大にわざはひとなる。俗人と婦人は、理にくらくして、子を養ふ道をしらず、只、あくまでうまき物をくはせ、きぬあつくきせ、あたゝめ過すゆへ、必病多く、或(あるいは)命短し。貧家の子は、衣食ともしき故、無病にしていのち長し。  
(829)小児は、脾胃もろくしてせばし。故に食にやぶられやすし。つねに病人をたもつごとくにすべし。小児は、陽さかんにして熱多し。つねに熱をおそれて、熱をもらすべし。あたため過せば筋骨よはし。天気よき時は、外に出して、風日にあたらしむべし。此如すれば、身堅固にして病なし。はだにきする服は、ふるき布を用ゆ。新しききぬ、新しきわたは、あたゝめ過してあしゝ。用ゆべからず。  
(830)小児を保養する法は、香月牛山医士のあらはせる育草(やしないぐさ)に詳(つまびらか)に記せり。考みるべし。故に今こゝに略せり。 
鍼  
(831)鍼をさす事はいかん。曰く、鍼をさすは、血気の滞をめぐらし、腹中の積(しゃく)をちらし、手足の頑痺(がんひ)をのぞく。外に気をもらし、内に気をめぐらし、上下左右に気を導く。積滞(しゃくたい)、腹痛などの急症に用て、消導(しょうどう)する事、薬と灸より速(か)なり。積滞なきにさせば、元気をへらす。故に正伝或問に、鍼に瀉(しゃ)あつて補なしといへり。然れども、鍼をさして滞を瀉し、気めぐりて塞らざれば、其あとは、食補も薬補もなしやすし。内経(ないけい)に、かく々(831:かくかく)の熱を刺すことなかれ。渾々の脈を刺(す)事なかれ。鹿々(ろくろく)の汗を刺事なかれ。大労の人を刺事なかれ。大飢の人をさす事なかれ。大渇の人、新に飽る人、大驚の人を刺事なかれ、といへり。又曰、形気不足、病気不足の人を刺事なかれ、是、内経の戒(いましめ)なり。是皆、瀉有て、補無きを謂也。と正伝にいへり。又、浴(ゆあみ)して後、即時に鍼すべからず。酒に酔へる人に鍼すべからず。食に飽て即時に鍼さすべからず。針医も、病人も、右、内経の禁をしりて守るべし。鍼を用て、利ある事も、害する事も、薬と灸より速なり。よく其利害をえらぶべし。つよく刺て痛み甚しきはあしゝ。又、右にいへる禁戒を犯せば、気へり、気のぼり、気うごく、はやく病を去んとして、かへつて病くはゝる。是よくせんとして、あしくなる也。つゝしむべし。  
(832)衰老の人は、薬治、鍼灸、導引、按摩を行ふにも、にはかにいやさんとして、あらくすべからず。あらくするは、是即効を求むる也。たちまち禍となる事あり。若(もし)当時快しとても後の害となる。  
灸法  
(833)人の身に灸をするは、いかなる故ぞや。曰く、人の身のいけるは、天地の元気をうけて本(もと)とす。元気は陽気なり。陽気はあたゝかにして火に属す。陽気は、よく万物を生ず。陰血も亦元気より生ず。元気不足し、欝滞してめぐらざれば、気へりて病生ず。血も亦へる。然る故、火気をかりて、陽をたすけ、元気を補へば、陽気発生してつよくなり、脾胃調ひ、食すゝみ、気血めぐり、飲食滞塞せずして、陰邪の気さる。是灸のちからにて、陽をたすけ、気血をさかんにして、病をいやすの理なるべし。  
(834)艾草(もぐさ)とは、もえくさの略語也。三月三日、五月五日にとる。然共(しかれども)、長きはあし故に、三月三日尤(もっとも)よし。うるはしきをゑらび、一葉づゝつみとりて、ひろき器(うつわもの)に入、一日、日にほして、後ひろくあさき器に入、ひろげ、かげぼしにすべし。数日の後、よくかはきたる時、又しばし日にほして早く取入れ、あたゝかなる内に、臼にてよくつきて、葉のくだけてくずとなれるを、ふるひにてふるひすて、白くなりたるを壷か箱に入、或袋に入おさめ置て用べし。又、かはきたる葉を袋に入置、用る時、臼にてつくもよし。くきともにあみて、のきにつり置べからず。性よはくなる。用ゆべからず。三年以上、久しきを、用ゆべし。用て灸する時、あぶり、かはかすべし。灸にちからありて、火もゑやすし。しめりたるは功なし。  
(835)昔より近江の胆吹山(いぶきやま)下野の標芽(しめじ)が原を艾草の名産とし、今も多く切てうる。古歌にも、此両処のもぐさをよめり。名所の産なりとも、取時過て、のび過たるは用ひがたし。他所の産も、地よくして葉うるはしくば、用ゆべし。  
(836)艾ちゅう(836)(がいちゅう)の大小は、各其人の強弱によるべし。壮(さかん)なる人は、大なるがよし、壮数も、さかんなる人は、多きによろし。虚弱にやせたる人は、小にして、こらへやすくすべし。多少は所によるべし。熱痛をこらゑがたき人は、多くすべからず。大にしてこらへがたきは、気血をへらし、気をのぼせて、甚害あり。やせて虚怯(きょこう)なる人、灸のはじめ、熱痛をこらへがたきには、艾ちゅう(836)の下に塩水を多く付、或(あるいは)塩のりをつけて五七壮灸し、其後、常の如くすべし。此如すれば、こらへやすし。猶もこらへがたきは、初(はじめ)五六壮は、艾を早く去べし。此如すれば、後の灸こらへやすし。気升(のぼ)る人は一時に多くすべからず。明堂灸経(めいどうきゅうけい)に、頭と四肢とに多く灸すべからずといへり、肌肉うすき故也。又、頭と面上と四肢に灸せば、小きなるに宜し。  
(837)灸に用る火は、水晶を天日にかゞやかし、艾を以下にうけて火を取べし。又、燧(ひうち)を以白石或水晶を打て、火を出すべし。火を取て後、香油を燈(ともしび)に点じて、艾ちゅう(831)に、其燈の火をつくべし。或香油にて、紙燭をともして、灸ちゅう(836)を先(まず)身につけ置て、しそくの火を付くべし。松、栢(かしわ)、枳(きこく)、橘(みかん)、楡(にれ)、棗(なつめ)、桑(くわ)、竹、此八木の火を忌べし。用ゆべからず。  
(838)坐して点せば、坐して灸す。臥して点せば、臥して灸す。上を先に灸し、下を後に灸す。少を先にし、多きを後にすべし。  
(839)灸する時、風寒にあたるべからず。大風、大雨、大雪、陰霧、大暑、大寒、雷電、虹げい(467)、にあはゞ、やめて灸すべからず。天気晴て後、灸すべし。急病はかゝはらず。灸せんとする時、もし大に飽、大に飢、酒に酔、大に怒り、憂ひ、悲み、すべて不祥の時、灸すべからず。房事は灸前三日、灸後七日いむべし。冬至の前五日、後十日、灸すべからず。  
(840)灸後、淡食にして血気和平に流行しやすからしむ。厚味を食(くい)過すべからず。大食すべからず。酒に大に酔べからず。熱(めん)、生冷、冷酒、風を動の物、肉の化しがたき物、くらふべからず。 
(841)灸法、古書には、其大さ、根下三分ならざれば、火気達せずといへり。今世も、元気つよく、肉厚くして、熱痛をよくこらふる人は、大にして壮数も多かるべし。もし元気虚弱、肌肉浅薄(きにくせんぱく)の人は、艾ちゅう(831)を小にして、こらへよくすべし。壮数を半減ずべし。甚熱痛して、堪へがたきをこらゆれば、元気へり、気升(のぼ)り、血気錯乱す。其人の気力に応じ、宜に随(したが)ふべし。灸の数を、幾壮と云は、強壮の人を以て、定めていへる也。然れば、灸経にいへる壮数も、人の強弱により、病の軽重によりて、多少を斟酌すべし。古法にかゝはるべからず。虚弱の人は、灸ちゅう(831)小にしてすくなかるべし。虚人は、一日に一穴、二日に一穴、灸するもよし。一時に多くすべからず。  
(842)灸して後、灸瘡(きゅうそう)発せざれば、其病癒がたし。自然にまかせ、そのまゝにては、人により灸瘡発せず。しかる時は、人事をもつくすべし。虚弱の人は灸瘡発しがたし。古人、灸瘡を発する法多し。赤皮の葱(ひともじ)を三五茎(きょう)青き所を去て、糠のあつき灰中(はいのなか)にてむ(842)し、わりて、灸のあとをしばしば熨(うつ)すべし。又、生麻油を、しきりにつけて発するもあり。又、灸のあとに、一、二壮、灸して発するあり。又、焼鳥、焼魚、熱物を食して発する事あり。今、試るに、熱湯を以しきりに、灸のあとをあたゝむるもよし。  
(843)阿是の穴は、身の中、いずれの処にても、灸穴にかゝはらず、おして見るに、つよく痛む所あり。是その灸すべき穴なり。是を阿是の穴と云。人の居る処の地によりて、深山幽谷の内、山嵐の瘴気、或は、海辺陰湿ふかき処ありて、地気にあてられ、病おこり、もしは死いたる。或疫病、温瘧(おんぎゃく)、流行する時、かねて此穴を、数壮灸して、寒湿をふせぎ、時気に感ずべからず。灸瘡にたえざる程に、時々少づゝ灸すれば、外邪おかさず、但禁灸の穴をばさくべし。一処に多く灸すべからず。  
(844)今の世に、天枢脾兪(てんすうひのゆ)など、一時に多く灸すれば、気升(のぼ)りて、痛忍(こら)へがたきとて、一日一二荘灸して、百壮にいたる人あり。又、三里を、毎日一壮づゝ百日づゝけ灸する人あり。是亦、時気をふせぎ、風を退け、上気を下し、衂(はなぢ)をとめ、眼を明にし、胃気をひらき、食をすゝむ。尤益ありと云。医書において、いまだ此法を見ず。されども、試みて其効(しるし)を得たる人多しと云。  
(845)方術の書に、禁灸の日多し。其日、その穴をいむと云道理分明ならず。内経に、鍼灸の事を多くいへども、禁鍼、禁灸の日をあらはさず。鍼灸聚英(しんきゅうじゅえい)に、人神、尻神(こうしん)の説、後世、術家の言なり。素問難経(そもんなんけい)にいはざる所、何ぞ信ずるに足らんや、といへり。又、曰く、諸の禁忌、たゞ四季の忌む所、素問に合ふに似たり。春は左の脇、夏は右の脇、秋は臍(ほそ)、冬は腰、是也。聚英に言所はかくの如し。まことに禁灸の日多き事、信じがたし。今の人、只、血忌日(ちいみび)と、男子は除の日、女子は破の日をいむ。是亦、いまだ信ずべからずといへ共、しばらく旧説と、時俗にしたがふのみ。凡(およそ)術者の言、逐一に信じがたし。  
(846)千金方に、小児初生に病なきに、かねて針灸すべからず。もし灸すれば癇をなす、といへり。癇は驚風(きょうふう)なり。小児もし病ありて、身柱(ちりけ)、天枢など灸せば、甚いためる時は除去(のぞきさり)て、又、灸すべし。若(もし)熱痛の甚きを、そのまゝにてこらへしむれば、五臓をうごかして驚癇(きょうかん)をうれふ。熱痛甚きを、こらへしむべからず。小児には、小麦の大さにして灸すべし。  
(847)項(うなじ)のあたり、上部に灸すべからず。気のぼる。老人気のぼりては、くせになりてやまず。  
(848)脾胃虚弱にして、食滞りやすく、泄瀉(せつしゃ)しやすき人は、是陽気不足なり。殊に灸治に宜し。火気を以土気を補へば、脾胃の陽気発生し、よくめぐりてさかんになり、食滞らず、食すゝみ、元気ます。毎年二八月に、天枢、水分、脾兪(ひのゆ)、腰眼(ようがん)、三里を灸すべし。京門(けいもん)、章門もかはるがはる灸すべし。脾の兪、胃の兪もかはるがはる灸すべし。天枢は尤しるしあり。脾胃虚し、食滞りやすき人は、毎年二八月、灸すべし。臍中より両旁(りょうぼう)各二寸、又、一寸五分もよし。かはるがはる灸すべし。灸(ちゅう)の多少と大小は、その気力に随ふべし。虚弱の人老衰の人は、灸(ちゅう)小にして、壮数もすくなかるべし。天枢などに灸するに、気虚弱の人は、一日に一穴、二日に一穴、四日に両穴、灸すべし。一時に多くして、熱痛を忍ぶべからず。日数をへて灸してもよし。  
(849)灸すべき所をゑらんで、要穴に灸すべし。みだりに処多く灸せば、気血をへらさん。  
(850)一切の頓死、或夜厭(おそはれ)死したるにも、足の大指の爪の甲の内、爪を去事、韮葉(にらのは)ほど前に、五壮か七壮灸すべし。 
(851)衰老の人は、下部に気すくなく、根本よはくして、気昇りやすし。多く灸すれば、気上りて、下部弥(いよいよ)空虚になり、腰脚よはし。おそるべし。多く灸すべからず。殊に上部と脚に、多く灸すべからず。中部に灸すとも、小にして一日に只一穴、或二穴、一穴に十壮ばかり灸すべし。一たび気のぼりては、老人は下部のひかへよはくして、くせになり、気升る事やみがたし。老人にも、灸にいたまざる人あり。一概に定めがたし。但、かねて用心すべし。  
(852)病者、気よはくして、つねのひねりたる灸ちゅう(831)を、こらへがたき人あり。切艾(きりもぐさ)を用ゆべし。紙をはゞ一寸八分ばかりに、たてにきりて、もぐさを、おもさ各三分に、秤にかけて長くのべ、右の紙にてまき、其はしを、のりにてつけ、日にほし、一ちゅう(831)ごとに長さ各三分に切て、一方はすぐに、一方はかたそぎにし、すぐなる方の下に、あつき紙を切てつけ、日にほして灸ちゅう(831)とし、灸する時、塩のりを、その下に付て灸すれば、熱痛甚しからずして、こらへやすし。灸ちゅう(831)の下にのりを付るに、艾の下にはつけず、まはりの紙の切口に付る。もぐさの下に、のりをつくれば、火下まで、もえず。此きりもぐさは、にはかに熱痛甚しからずして、ひねりもぐさより、こらへやすし。然れ共、ひねり艾より熱する事久しく、きゆる事おそし。そこに徹すべし。  
(853)癰疽(ようそ)及諸瘡腫物(しょそうしゅもつ)の初発に、早く灸すれば、腫(はれ)あがらずして消散す。うむといへ共、毒かろくして、早く癒やすし。項(うなじ)より上に発したるには、直に灸すべからず。三里の気海(きかい)に灸すべし。凡(およそ)腫物(しゅもつ)出て後、七日を過ぎば、灸すべからず。此灸法、三因方以下諸方書に出たり。医に問て灸すべし。  
(854)事林(じりん)広記に、午後に灸すべしと云へり。 
後記  
右にしるせる所は、古人の言をやはらげ、古人の意をうけて、おしひろめし也。又、先輩にきける所多し。みづから試み、しるしある事は、憶説といへどもしるし侍りぬ、是養生の大意なり。其条目の詳なる事は、説つくしがたし。保養の道に志あらん人は、多く古人の書をよんでしるべし。大意通しても、条目の詳なる事をしらざれば、其道を尽しがたし。愚生、昔わかくして書をよみし時、群書の内、養生の術を説ける古語をあつめて、門客にさづけ、其門類をわかたしむ。名づけて頤生輯要と云。養生に志あらん人は、考がへ見給ふべし。ここにしるせしは、其要をとれる也。     
八十四翁 貝原篤信書   正徳三巳癸年 正月吉日  
 
貝原益軒・和俗童子訓 

 

巻之一 / 総論上 
若き時は、はかなくて過ぎ、今老て死なざれば、盗人とする、ひじりの御戒め、逃れ難けれど、今年既に八そじにいたりて、罪を加へざる年にもなりぬれば、かかる不要なるよしなしごと云い出せる罪をも、願はくば、世の人これを許し給へ。年の積りに、世の中のありさま、多く見聞きして、とかく思ひ知りゆくにつけて、考へ見るに、凡そ人は、善き事も悪しき事も、いざ知らざる幼なき時より、習ひ馴れぬれば、まづ入し事、内に主として、既に其性となりては、後に又、善き事、悪しき事を見聞きしても、移り難ければ、幼なき時より、早く善き人に近づけ、善き道を、教ゆべき事にこそあれ。墨子が、白き糸の染まるを悲しみけるも、むべなるかな。此ゆへに、郷里の児童の輩を、早くさとさんため、いささか、昔きける所を、つたなき筆にまかせて、しるし侍る。かかるいやしき書つくり、ひが事きこえんは、いと恥べけれど、高さにのぼるには、必ず低きよりする理あれば、もしくは、いまだ学ばさる幼稚の、小補にもなりなんか、といふ事しかり。  
凡そ、人となれるものは、皆天地の徳をうけ、心に仁・義・礼・智・信の五性を生まれつきたれば、其性のままに従へば、父子、君臣、夫婦、長幼、朋友の五倫の道、行はる。是人の、万物にすぐれて貴き処なり。ここを以て、人は万物の霊、と云へるなるべし。霊とは、万物にすぐれて明らかなる、智あるを云へり。されども、食に飽き、衣を暖かに着、居所をやすくするのみにて、人倫の教えなければ、人の道を知らず、禽獣にちかくして、万物の霊と云へるしるしなし。古の聖人、これを憂ひ、師をたて、学び所をたてて、天下の人に、幼き時より、道を教え給ひしかば、人の道たちて、禽獣にちかき事をまぬがる。凡そ人の小なるわざも、皆師なく、教えなくしては、みづからはなしがたし。いはんや、人の大なる道は、古の、さばかり賢き人といへど、学ばずして、みづからは知りがたくて、皆、聖人を師として学べり。今の人、いかでか教えなくして、ひとり知るべきや。聖人は・人の至り、万世の師なり。されば、人は、聖人の教えなくては、人の道をしりがたし。ここを以、人となる者は、必聖人の道を、学ばずんばあるべからず。其教えは、予(あらかじめ)するを先とす。予すとは、かねてよりといふ意。小児の、いまだ悪に移らざる先に、かねて、早く教ゆるを云う。早く教えずして、悪しき事にそみ習ひて後は、教えても、善に移らず。戒めても、悪をやめがたし。古人は、小児の、初めてよく食し、よくものいう時より早く教えしと也。  
富貴の家には、善き人を選びて、早く其子につくべし。悪しき人に、慣れ染むべからず。貧家の子も、早く善き友に交はらしめ、悪しき事にならはしむべからず、凡そ小児は早く教ゆると、左右の人を選ぶと、是、古人の子を育つる良法なり。必ず是を法とすべし。  
凡そ小児を育つるには、初めて生れたる時、乳母を求むるに、必ず温和にして慎み、まめやかに、言葉すくなき者を選ぶべし。乳母の外、つき従ふ者を選ぶも、大やうかくの如くなるべし。初めて飯をくひ、ものをいひ、人のおもてを見て、よろこび、いかる色を知る時より、常に其の事に従ひて、時々教ゆれば、ややおとなしくなりて、戒むる事やすし。ゆへに、幼き時より、早く教ゆべし。もし、教え戒むる事遅くして、悪しき事を多く見習ひ、きき習ひ、くせになり、ひが事いできて後、教え戒むれども、はじめより心にそみ入りたる悪しき事、心の内に、早くあるじとなりぬれば、あらためて善に移る事かたし。たとへば、小児の手習するに、はじめ風躰悪しき手本をならへば、後に善き手を習ひても、うつりがたく、一生改まりがたきが如し。第一、いつはれる事、次に気随にて、ほしいままなる事を、早く戒めて、必ず偽りほしいままなる事をゆるすべからず。やんごとなき大家の子は、ことに早く、戒め教えざれば、年長じては、勢ひつよく、くらひ高くして、いさめがたし。凡小児の悪しくなりぬるは、父母、乳母、かしづきなるる人の、教えの道知らずして、其悪しき事をゆるし、従ひほめて、其子の本性をそこなふゆへなり。しばらく、なくこえをやめんとて、欺きすかして、姑息の愛をなす。其事まことならざれば、すなはち是、偽を教ゆるなり。又、戯れに、おそろしき事どもを云きかせ、よりより威しいるれば、後におく病のくせとなる。武士の子は、ことに、是を戒むべし。ゆうれい、ばけもの、あやしく、まことなき物がたり、必戒めて、きかしむべからず。或は小児の気にさかひたる者をば、理をまげて、小児の非をそだて、空打などすれば、驕慢の心いでくるものなり。小児をもて遊びて、我心をなぐさめんがためにに様々の言葉にて、そびやかし、くるしめ、いかり、あらそはしめて、ひがみまがれる心をつけ、むさぼり妬む、心ざしをひきいだす。しかのみならず、父母の愛すぐる故、あまえて父母をおそれず、兄をないがしろにし、家人をくるしめ、よろづほしきままにして、人をあなどる。戒むべき事を、かへつてすすめ、とがむべき事を、かへりてわらひよろこび、いろいろ、悪しき事どもを見さかせ、いひ習はせ、仕習はせて、やうやく年長じ、知恵いでくる時にいたりて、にはかに、初めて戒むれども、其悪しき習はし、年と共に長じ、ひさしく慣ひそみて、本性とひとしくなりにたれば、いさめを用ひず。幼き時に、教えなく、年長じてにはかに、いさむれども、したがはざれば、本性悪しくうまれつきたるとのみ思ふ事、いとおろかに、まどひのふかき事ならずや。  
凡そ小児を育つるに、初生より愛を過すべからず。愛すぐれば、かへりて、児をそこなふ。衣服をあつくし、乳食にあかしむれば、必ず病多し。衣をうすくし、食をすくなくすれば、病すくなし。富貴の家の子は、病多くして身よはく、貧賎の家の子は、病すくなくして身つよきを以って、其故を知るべし。小児の初生には、父母のふるき衣を改めぬひて、きせしむべし。きぬの新しくして温なるは、熱を生じて病となる。古語に、「凡そ小児を安からしむるには、三分の餌と寒とをお(帯)ぶべし」、といへり。三分とは、十の内三分を云。此こころは、すこしはう(飢)やし、少はひやすがよし、となり。最古人、小児をたもつの良法也。世俗これを知らず、小児に乳食を、多くおたへてあ(飽)かしめ、甘き物、くだ物を、多くく(食)はしむる故に、気ふさがりて、必脾胃をやぶり、病を生ず。小児の不慮に死する者は、多くはこれによれり。又、衣をあつくして、あたため過せば、熱を生じ、元気をもらすゆへ、筋骨ゆるまりて、身よはし。皆是病を生ずるの本也。からも、やまとも、昔より、童子の衣のわきをあくるは、童子は気さかんにして、熱おほきゆへ、熱をもらさんがため也。是を以、小児は、あたためすごすが悪しき事を知るべし。天気善き時は、おりおり外にいだして風・日にあたらしむべし。かくのごとくすれば、はだえ堅く、血気づよく成て、風寒に感ぜず。風・日にあたらざれば、はだへもろくして、風寒に感じやすく、わづらひおほし。小児のやしなひの法を、かしづき育つるものに、よく云きかせ、教えて心得しむべし。  
小児を育つるには、さきにも聞こえつるやうに、先乳母、かしづき従ふ者を、選ぶべし。心おだやかに、邪なく、慎みて言すくなきをよしとす。わるがしこく、くちきき、偽りをいひ、言葉多く、心邪にしてひがみ、気たけく、ほしゐままにふるまひ、酩酊をこのむを悪ししとす。凡そ小児は智なし、心も言葉も、万のふるまひも、皆其かしづき従ふ者を、見慣ひ、聞慣ひて、かれに似するものなり。乳母、かしづぎ従ふ人、悪しければ、育つる子、それに似て悪しくなる。故に、其人をよく選ぶべし。貧賎なる家には、人を選ぶ事かたしといへど、此心得あるべし。いはんや、位たかく禄とめる家をや。  
凡そ小児を育つるには、専ら義方の教えをなすべし。姑息の愛をなすべからず。義方の教えとは、義理のただしき事を以って、小児の、悪しき事を戒むるを云。是必ず後の福となる。姑息とは、婦人の小児を育つるは、愛にすぎて、小児の心に従ひ、気にあふを云。是必ず後のわざはひとなる。幼き時より、早く気ずいをおさへて、私欲をゆるすべからず。愛をすごせば驕出来、其子のためわざはひとなる。  
凡そ子を教ゆるには、父母厳にきびしければ、子たる者、おそれ慎みて、親の教えを聞てそむかず。ここを以、孝の道行はる。父母やはらかにして、厳ならず、愛すぐれば、子たる者、父母をおそれずして、教行れず、戒めを守らず、ここを以って、父母をあなどりて、孝の道たたず。婦人、又はおろかなる人は、子を育つる道をしらで、つねに子をおごらしめ、気随なるを戒めざる故、其をごり、年の長ずるに従ひて、いよいよます。凡夫は、心くらくして子に迷ひ、愛におぼれて其子の悪しき事を知らず。古歌に、「人の親の、心はやみにあらねども、子を思ふ道に迷ひぬるかな」、とよめり。もろこしの諺に、「人、其子の悪しきを知る事なし」、といへるが如し。姑息の愛すぐれば、たとひ悪しき事を見つけても、ゆるして戒めず。凡そ人の親となる者は、わが子にまさるたからなしとおもへど、其子の悪しき方にうつりてのちは、身をうしなふ事をも、かねてわきまへず、居ながら其子の悪におち入を見れども、わが教えなくして、悪しくなりたる事をばしらで、只、子の幸なきとのみ思へり。又、其母は、子の悪しき事を、父にしらさず、常に子の過をおほひかくすゆへ、父は其子の悪しきをしらで、戒めざれば、悪つゐに長じて、一生不肖の子となり、或は家と身とをたもたず。あさましき事ならずや。程子の母の曰、「子の不肖なるゆへは、母其あやまちをおほひて、父しらざるによれり」、といへるもむべなり。  
小児の時より早く父母兄長につかへ、賓客に対して礼をつとめ、読書・手習・芸能をつとめ学びて、悪しき方に移るべき暇なく、苦労さすべし。はかなき遊びに暇をついやさしめて、慣し悪しくすべからず。衣服、飲食、器物、居処、僕従にいたるまで、其家のくらゐよりまどしく、乏足にして、もてなしうすく、心ままならざるがよし。幼き時、艱難にならへば、年たけて難苦にたへやすく、忠孝のつとめをくるしまず、病すくたく、おごりなくして、放逸ならず。よく家をたもちて、一生の間さいはいとなり、後の楽多し。もしは不意の変にあひ、貧窮にいたり、或戦場に出ても身の苦みなし。かくの如く、子を育つるは、誠によく子を愛する也。又、幼少よりやしなひゆたかにして、もてなしあつく、心ままにして安楽なれば、おごりに慣ひ、私欲多くして、病多く、艱難にたえず。父母につかえ、君につかふるに、つとめをくるしみて、忠孝も行ひがたく、学問・芸能のつとめなりがたし。もし変にあへば、苦しみにたえず、陣中に久しく居ては、艱苦をこらへがたくして、病をうけ、戦場にのぞみては、心に武勇ありても、其身やはらかにして、せめたたかひの、はげしきはたらき、なりがたく、人におくれて、功名をもなしがたし。又、男子、只一人あれば、きはめて愛重すべし。愛重するの道は、教え戒めて、其子に苦労をさせて、後のためよく、無病にてわざはひなきように、はかるべし。姑息の愛をなして、其子をそこなふは、まことの愛をしらざる也。凡そ人は、わかき時、艱難苦労をして、忠孝をつとめ、学問をはげまし、芸能を学ぶべし。かくの如くすれば、必人にまさりて、名をあげ身をたてて後の楽多し。わかき時、安楽にて、なす事なく、艱苦をへざれば、後年にいたりて人に及ばず、又、後の楽なし。  
幼き時より、心言葉に忠信を主として、偽りなからしむべし。もし人を欺き、偽りをいはば、きびしく戒むべし。こなたよりも、幼子を欺きて、偽りを教ゆべからず。こなたよりいつはれば、小児、是に習ふものなり。かりそめにも、偽りを云は、人にあらず、と思ふべし。心に偽りとしりながら、心を欺くは其罪いよいよふかし。又、人と約したる事あらば、必ず其約をたがへざるべし。約をたがへては、偽りとなり、信を失なへば、人にあらず。もし後に信を守りがたき事は、はじめより約すべからず。又、小児には、利欲を教えしらしむべからず。よろづにさとくとも、偽りて、只欲ふかく、人の物をむさぼるは、小人のわざなれば、幼時より、早く是を戒むべし。ゆるすべからず。  
小児の時より、心もちやはらかに、人をいつくしみ、なさけありて、人をくるしめ、あなどらず、つねに善をこのみ、人を愛し、仁を行なふを以って志とすべし。人わが心にかなはざるとて、顔をはげしくし、言葉をあらくして、人をいかり罵るべからず。小児、もし不仁にして、人をくるしめ、あなどりて、情なくば、早く戒むべし。人に対して温和なれども、其身正しければ、幼きとて人あなどらず。  
凡そ小児の教えは、早くすべし。しかるに、凡俗の知なき人は、小児を早く教ゆれば、気くじけて悪しく、只、其心にまかせてをくべし、後に知恵出くれば、ひとりよくなるといふ。是必ず、おろかなる人のいふ事なり。此言大なる妨たり。古人は、小児の初めてよく食し、ものいふ時より、早く教ゆ。おそく教ゆれば、悪しき事を久しく見聞きて、先入の言、心の内に早く主となりては、後に善き事を教ゆれども、移らず。故に、早く教ゆれば人やすし。つねに善き事を見せしめ、聞かしめて、善事に染み習はしむべし。をのづから善にすすみやすし。悪しき事も、すこしなる時、早く戒むれば入やすし。悪長じては、去がたし。古語に、「両葉去らざれば、将に斧柯を用んとす」。といへるがことし。婦人及無学の俗人は、小児を愛する道を知らず、姑息のみにして、ただうまき物を多く食はせ、よき衣を暖かにきせ、ほしゐままに育つるをのみ、其子を愛するとおもへり。是人の子をそこなふわざなる事を知らず。今の世にも、其父、礼をこのみて、其子の幼き時より、しつけを教え、和礼を習はする人の子は、必ず其子の作法よく、立居ふるまひ、人のまじはり、ふつづかならず、老にいたるまで、威儀よし。是其父、早く教えしちからなり。善を早く教え行はしむるも、其しるし又かくの如くなるべし。  
幼き時より、必ずまづ、其このむわざを選ぶべし。このむ所、尤も大事也。婬欲のたはふれをこのみ、淫楽などをこのむ事、又、ついえ多き遊びを、まづ早く戒むべし。これをこのめば、其心必ず放逸になる。幼きよりこのめば、その心癖となり、一生、其このみやまざるものなり。いかにいとけなくして、いまだ心にわきまへなくとも、又、富貴の家に生まれ、万の事、心にかなへりとも、道にそむき、人に害あり。物をくるしめ、財をついやす戯れ、遊びの、はかなきわざをば、せざる理たり。と云きかせ、さとらしめて、なさしむべからず。又、わが身に用なき無益の芸を、習はしむべからず。たとひ、用ある芸能といへども、一向にこのみ過して、其事にのみ心を用ゆれば、必ず其一事に心がたぶきて、万事に通せず。其このむ所につきて、ひが事多く、害多し。いはんや、益なき事をすきこのむをや。凡幼より、このむ所、習ふ事を、早く選ぶべし。  
小児の時より、年長ずるにいたるまで、父となり、かしづきとなる者、子のすきこのむ事ごとに心をつけて、選びて、このみにまかすべからず。このむ所に打まかせで、よしあしをゑらばざれば、多くは悪きすぢに入て、後はくせとなる。一たび悪しき方にうつりては、とりかへして、善き方に移らず、禁めてもあらたまらず、一生の間、やみがたし。故にいまだそまざる内に、早く戒むべし。ゆだんして、其子のこのむ所にまかすべからず。ことに高家の子は、物ごとゆたかに、自由なるゆへに、このむかたに心早くうつりやすくして、おぼれやすし。早くいまし戒めざれば、後に染み入ては、いさ(謙)めがたく、立かへりがたし。又、あしからざる事も、すぐれてふかくこのむ事は、必ず害となる。故に子を育つるには、ゆだんして其このみにまかすべからず。早く戒むべし。おろそかにすべからず。予するを先とするは此故なり。  
小児の時、紙鳶をあげ、破魔弓を射、狛をまはし、毬打の玉をうち、てまりをつき、端午に旗人形をたつる。女児の羽子をつき、あまがつ(天児)をいだき、ひいな(雛)をもて遊ぶの類は、只幼き時、このめるはかなきたはふれにて、年やうやく長じて後は、必ずすたるものなれば、心術におゐて害なし。大やう其このみにまかすべし。されど、ついゑ多く、かざりすごし、このみ過さば、戒むべし。ばくちににたる遊びは、なさしむべからず。小児の遊びをこのむは、つねの情なり。道に害なきわざならば、あながちにおさえかがめて、其気を屈せしむべからず。只、後にすたらざる遊び・このみは打まかせがたし。  
礼は天地のつねにして、人の則也。即(ち)人の作法をいへり。礼なければ、人間の作法にあらず。禽獣に同じ。故に幼より、礼を慎みて守るべし。人のわざ、事ごとに皆礼あり。よろづの事、礼あれば、すぢめ(筋目)よくして行はれやすく、心も亦さだまりてやすし。礼なければ、すぢめたがひ、乱れて行はれず、心も亦やすからず。故に礼は行なはずんばあるべからず。小児の時より和礼の法に従ひて、立居ふるまひ、飲食、酒茶の礼、拝礼など教ゆべし。  
志は虚邪なく、事は忠信にして偽なく、又、非礼の事、いやしき事をいはず、かたち(貌)の威儀をただしく慎む事を教ゆべし。又、諸人に交るに、温恭ならしむべし。温恭は、やはら(柔)かにうやまふ也。是善を行なふ始也。心あらきは、温にあらず。無礼なるは、恭にあらず。己を是とし、人を非として、あなどる事を、かたく戒むべし。高位なりとて、我をたかぶる事なかれ。高き人は、人にへりくだるを以って、道とする事を、教ゆべし。きずい(気随)にして、わがままなる事を早く戒むべし。かりそめにも人をそしり、わが身におごらしむる事なかれ。常にかやうの事を、早く教戒むべし。  
凡そ人の悪徳は、矜なり。矜とは、ほこるとよむ、高慢の事也。矜なれば、自是として、其悪を知らず。、過を聞ても改めず。故に悪を改て、善に進む事、かたし。たとひ、すぐれたる才能ありとも、高慢にしてわが才にほこり、人をあなどらば、是凶悪の人と云べし。凡そ小児の善行あると、才能あるをほむべからず。ほむれば高慢になりて、心術をそこなひ、わが愚なるも、不徳たるをも知らず、われに知ありと思ひ、わが才智にて事たりぬと思ひ、学問をこのまず、人の教えをもとめず。もし父として愛におぼれて、子の悪しきを知らず、性行よからざれども、君子のごとくほめ、才芸つたなけれども、すぐれたりとほむるは、愚にまよへる也。其善をほむれば、其善をうしなひ、其芸をほむれば、其芸をうしなふ。必ず其子をほむる事なかれ。其子の害となるのみならず、人にも愚なりと思はれて、いと口をし。親のほむる子は、多くは悪しくなり、学も芸もつたなきもの也。篤信、かつていへり。「人に三愚あり。我をほめ、子をほめ、妻をほむる、皆是愛におぼるる也」。  
小児に学問を教ゆるに、はじめより、人品善き師を求むべし。才学ありとも、悪しき師に、したがはしむべからず。師は、小児の見習ふ所の手本なればなり。凡そ学問は、其学術を選ぶ事を、むねとすべし。学のすぢ(筋)悪しければ、かへりて性をそこなふ。一生つとめても、善き道にすすまず。一たび悪しきすぢを学べば、後に善き術をききても、移らず。又、才力ありて高慢なる人、すぢわるき学問をすれば、善に移らざるのみならず、必ず邪智を長じて、人品弥悪しくなるもの也。かやうの人には、只、小学の法、謙譲にして。自是とせざるを以って、教をうくるの基となさしめて、温和・慈愛を心法とし、孝弟、忠信、礼義、廉恥の行を教えて、高慢の気をくじくべし。其外、人によりて、多才はかへりて、其心をそこなひ、凶悪をますものなり。まづ謙譲を教えて、後に、才学を習はしむべし。  
子弟を教ゆるには、先其まじはる所の、友を選ぶを要とすべし。其子の生まれつきよく、父の教え正しくとも、放逸なる無頼の小人にまじはりて、それと往来すれば、必ずかれに引そこなはれて、悪しくなる。いはんや、其子の生質よからざるをや。古人の言葉に、「年わかき子弟、たとひ年をおはるまで書をよまずとも、一日小人にまじはるへからず。」といへり。一年書をよまざるは、甚だ悪しけれど、猶それよりも、一日小人にましはるは悪しき事となり。最悪友の甚だ害ある事をいへり。人の善悪は、皆友によれり。古語曰、「麻の中なるよもぎは、たすけざれども、おのづから直し」。又曰、「朱にまじはれば赤し、墨に近づけば黒し。」といふ事、まことにしかり。わかき時は、血気いまた定らず、見る事、きく事、にうつりやすきゆへ、友悪しければ悪に移る事はやし。もろこしにて、公儀の法度をおそれず、わが家業をつとめざるものを、無頼と云。是放逸にして、父兄の教えにしたがはざる、いたづらもの也。無頼の小人は、必ず酒色と淫楽をこのみ、又、博打をこのみて、いさ(諫)めをふせぎ、はぢを知らず、友をひきそこなふもの也。必ず其子を戒めて、かれにまじはりしむべからず。一たび是とまじはりて、其風にうつりぬれば、親の戒め、世のそしり、を、おそれず、とが(咎)をおかし、わざはひにあへども、かへり見ず。もし幸にして、わざはひをまぬがるといへども、大不孝の罪にをち入て、悪名をながす。わざはひをまぬかれざる者は、一生の身をうしなひ、家をやぶる。かなしむべきかな。  
四民ともに、其子の幼きより、父兄・君長につかふる礼義、作法を教え、聖経をよましめ、仁義の道理を、やうやくさとさしむべし。是根本をつとむる也。次に、ものかき、算数を習はしむべし。武士の子には、学間のひまに弓馬、剣戟、拳法など、習はしむべし。但一向に、芸をこのみすごすべからず。必ず一事に心うつりぬれば、其事にをぼれて、害となる。学問に志ある人も、芸をこのみ過せば、其方に心がたぶきて、学問すたる。学問は専一ならざれば、すすみがたし。芸は、学問をつとめて、そのいとまある時の、余事なり。学問と芸術を、同じたぐひにおもへる人あり。本末軽重を知らず、おろかなり、と云べし。学問は本なり、芸能は末なり。本はおもくして、末はかろし。本末を同じくすべからず。後世の人、此理を知らず、かなしむべし。殊に大人は、身をおさめ、人をおさむる稽古だにあらば、芸能は其下たる有司にゆだねても、事かけず。されど六芸は、大人といへど、其大略をば学ぶべし。又、軍学・武芸のみありて、学間なく、義理をしらざれば、習ふ所の武事、かへりて不忠不義の助となる。然れば、義理の学問を本とし、おもんずべし。芸術はまことに末なり。六芸のうち、物かき、算数を知る事は、殊に貴賤・四民ともに、習はしむべし。物よくいひ、世になれたる人も、物をかく事、達者ならず。文字をしらざれば、かたこといひ、ふつづかにいやしくて、人に見おとされ、あなどりわらはるるは口をし。それのみならず、文字をしらざれば、世間の事と詞に通せず、もろもろのつとめに応じがたくて、世事とどこをる事のみ多し。又、日本にては、算数はいやしきわざなりとて、大家の子には教えず。是国俗のあやまり、世人の心得ちがへるなり。もろこしにて、古は、天子より庶人まで、幼少より、皆算数を習はしむ。大人も国郡にあらゆる民(の)数をはかり、其年の土貢の入をはかりて、来年出し用ゆる分量をさだめざれば、かぎりなき欲に従ひて、かぎりある財つきぬれば、困窮にいたる。是算をしらざればなり。又、国土の人民の数をはかり、米穀・金銀の多少と、軍陣に人馬の数と糧食とを考へ、道里の遠近と運送の労費をはかり、人数をたて、軍をやるも、皆算数をしらざれば行なひがたし。臣下にまかせては、おろそかにして事たがふ。故に大人の子は、ことに、みづから算数をしらでは、つとめにうとく、事かくる事多し。是日用か切要なる事にして、必ず、習ひ知るべきわざなり。近世、或君の仰に、「大人の子の学びてよろしぎ芸は、何事ぞ。」と間給ひしに、其臣こたへて、「算数を習ひ給ひてよろしかるべししと辛されける。い上よろしきこたへなりけるとかたりつたふ。凡そたかきもひききも、算数を知らずして、わが財禄のかぎりを考がへず、みだりに財を用ひつくして、困窮にいたるも、又、事にのぞみて算をしらで、利害を考る事もなりがたきは、いとはかなき事也。又、音楽をもすこぶる学び、其心をやはらげ、楽しむべし。されど、もはら(専)このめば、心すさむ。幼少より遊びたはふれの事に、心をうつさしむべからず、必ず制すべし。もろこしの音楽だにも、このみ遇せば、心をとらかす。いはんや日本の俗に翫ぶ散楽は、其章歌いやしく、道理なくして、人の教えとならざるをや。芸能其外、遊びたはふれの方に、心うつりぬれば、道の志は、必ずすたるもの也。専一ならざれば、直に送る事あたはずとて、学間し道を学ぶには、専一につとめざれば、多岐の迷とて、あなた・こなたに心うつりて、善き方に、ゆきとどかざるもの也。専一にするは、人丸の歌に、「とにかくに、物は思ばず飛騨たくみ、うつ墨なはの只一すぢに」、とよめるが如くなるべし。  
富貴の家の子に生まれては、幼き時より世のもてなし、人のうやまひあつくして、よろづゆたかに心のままにて、世界の栄花にのみ、ふける習はしなれば、おそれ慎む心なく、おごり日々に長じやすく、たはぶれ・あてびをこのみ、人のいさめをきらひにくむ。いはんや学問などに身をくるしめん事は、いとたへがたくて、富貴の人のするわざにあらずと思ひ、むづかしく、いたづかはしとて、うとんじきらふ。かかる故に、おごりをおさへて、身をへりくだり、心をひそめ、師をたうとび、古をかうがへずんば、いかにしてか、心智をひらきて身をおさめ、人をおさむる道を知るべきや。  
いやしき者、わが身ひとつおさむるだに、学問なくて、みづからのたくみにはなりがたし。いはんや富貴の人は多くの民をおさむる職分、大きにひろければ、幼き時より、師に近づき、聖人の書をよみ、古の道を学んで、身をおさめ、人を治むる理を知らずんばあるべからず。いかに才力を生れ付りとも、古のひじりの道を学ばずして、わが生れ付の心を以、みだりに人をつかひ、民をつかさどれば、人民をおさむる心法をも、其道、其法をもしらで、あやまり多くして、人をそこなひて、道にそむき、天官をむなしくして職分をうしなふ。しかれば、位高く禄おもき人の子は、ことさら少年より、早く心をへりくだり、師をたつとびて、学ばずんばあるべからず。  
凡そたかき家の子は、幼きより、下なる者へつらひ、従ひて、ひが事を云、ひが事を行なひても、尤なりとかんじ、つたなき芸をも、早く、上手なりとほむれば、きく人、みづからよしあしをわきまへず、へつらひ、偽りてほむるとは知らず、わが云事もなす事も、まことに善き、とおもひ、わが身に自慢して、人にと(問)ひ学ぶ事なければ、智恵・才徳のいでき、すすむべきやうなくて、一生をおはる。ここを以、高家の子には、幼き時より、正直にて知ある人を師とし友とし、そばにつかふる人をも選びて、悪しき事を戒め、善をすすむべし。へつらひほむる人をば、戒めしりぞくべし。富貴の人の子は、とりわき、早く教え戒めざれば、年長じて後、世の中さかりに、おごり慣ひぬれば、勢ひつよくなりて、家臣としていさめがたし。位たかく身ゆたかなれば、民のくるしみ、人の憂ひ、を知らず、人のついえ、わがついえ、をもいとはず、をごりに慣ひては、人をあはれむ心もうすくなる。又、さほど高きしな (品)にのほらざれども、時にあひ、いきほひにのりては、つねの心をうしなひ、人に、無礼を行なひ、物のあはれを知らず、人の情をもわすれて、云まじき事をもいひ、なすまじき事をもなす事こそ、あさましけれ。幼き時より、古の事をしれる、おとなしく正しきいにしえ人を選び用て、師とし友とし、早く学問をつとめさせ、身をおさめ、人をおさむる古の道を教えて、善を行はしめ、悪を戒むべし。善き人を選びて、もし其人にあらずんば、師とすべからず。既に師とせば、是をたうとびうやまひ、其教えをうけしむべし。又、身の養、飲食などの、慎みをも教ゆべし。左右近習の人をよく選びて、質朴にて忠信なる人を、なれ近づかしむべし。必邪佞・利口の人を、近づくべからず。かやうの人、はなはだ、人の子をそこなふものなり。又、邪悪の人にあらざれども、文盲にして学問をきらふ師の教え、人は、善き事をしらで、幼少なる子の、志をそこなふ。左右の人、正しからざれば、父のいさめ、行はれず。心にかなひたるとて、子の害になる人を、近づくべからず。賈誼が言葉に、「太子をよくするは、早く教ゆると、左右を選ぶにあり。」といへり。最古今の名言なり。 
巻之二 / 総論下 

 

幼き時より、孝弟の道を、もっばらに教ゆべし。孝弟を行ふには、愛敬の心法を知るべし。愛とは、人をいつくしみ、いとをしみて、おろそかならざる也。敬とは、人をうやまひて、あなどらざる也。父母をいつくしみ、うやまふは孝也。是愛敬の第一の事也。次に兄をいつくしみ、うやまふは弟なり。又、をぢ、をばなど、凡そ年長ぜる人をいつくしみ、うやまふも弟たり。次にわが弟、いとこ、おひなど、又めしつかふ下部など、其ほどに従ひて、いつくしむべし。いやしき者をも、あなどり、おろそかにすべからず。各其位に従ひて、愛敬すべし。凡そ愛敬二の心は、人倫に対する道なり。人にまじはるに、わが心と顔色をやはらげ、人をあなどらざるは、是善を行なふはじめなり。わが気にまかせて、位におごり、才にほこり、人をあなどり、無礼をなすべからず。  
少年にて、師にあひて物を習ふに、朝は師に学び、昼は朝学びたる事をつとめ、夕べはいよいよかさねなら(習)ひ、夜ふして、一日の中に、口にいひ、身に行なひたる事をかへり見て、あやまちあらば、くひて、後の戒めとすべし。  
人の弟子となり、師につかへては、わが位たかしといへ共、たかぶらず。師をたっとび、うやまひて、おもんずべし。師をたっとばざれば、学間の道たたず。師たる人、教を弟子にほどこさば、弟子これにのっとり習ひ、師に対して、心も顔色もやはらかに、うやまひ慎み、わが心を虚しくして自慢なく、既にし(知)れる事をもしらざるごとくし、又よく行なふ事をも、よくせざるごとくにして、へりくだるべし。師よりうけたる教えをば、心をつくしてきは(究)め習ふべし。是弟子たる者の、師にあひて、教えをうくる法なり。  
論語の、「子曰、弟子入ては則ち孝する」の一章は、人の子となり、弟となる者の法を、聖人の教え給へるなり。わが家に在ては、先親に孝をなすべし。孝とは、善く父母につかふるを云。よくつかふるとは、孝の道を知りて、ちからをつくすを云。ちからをつくすとは、わが身のちからをつくして、よく父母につかへ、財のちからをつくして、よく養なふを云。父母につかふるには、ちからををしむべからず。次に、親の前を退き出てては、弟を行なふべし。弟は、善く兄長につかふるを云。兄は、子のかみ(上)にて、親にちかければ、うやまひ従ふべし。もし兄より弟を愛せずとも、弟は弟の道をうしなふべからず。兄の不兄をに(似)せて、不弟なるべからず。其外、親戚・傍輩の内にても、年老たる長者をば、うやまひて、あなどる事なかれ。是弟の道なり。凡そ孝弟の二つは、人の子弟の、行ひの根本也。尤(も)つとむべし。謹とは、心におそれありて、事のあやまりなからんやうにする也。万の事は、慎みより行はる。慎みなければ、万事みだれて、善き道行なはれず、万のあやまちも、わざはひも、皆慎みなきよりをこる。つつしめば、心におこたりなく、身の慎むわざにあやまりすくなし。謹の一字、尤(も)大せつの事也。わかき子弟のともがら、ことさら是を守るべし。信とは、言に偽りなくて、まことあるを云。身には行なはずして、口にいふは信なきなり。又、人と約して、其事を変ずるも信なきなり。人の身のわざおほけれど、口に言と身に行との二つより外にはなし。行を慎みて、言に情あるは、身ををさむるの道也。「汎く衆を愛す」とは、我がまじはり対する所の諸人に、なさけありて、ねんごろにあはれむを云。下人をつかふに、なさけふかきも亦、衆を愛する也。「仁にちかずく」とは、善人にしたしみ、近づくを云。ひろく諸人を愛して、其内にて取わき善人をば、したしむべし。善人をしたしめば、善き事を見慣ひ、聞慣ひ、又、其いさめをうけ、我過を聞て改るの益あり。此六事は人の子となり、弟となる者の、身をおさめ、人にまじはる道なり。つとめ行なふべし。「行って余力あれば即(ち)用ひて文を学ぶ。」とは、余力はひま也。上に見えたる孝弟以下六事をつとめ行て、其ひまには、又古の聖人の書をよんで、人の道を学ぶべし。いかに聡明なりとも、聖人の教を学ばざれば、道理に通せず、身をおさめ、人に交る道を知らずして、過多し。故に必古の書をまなんで、其道を知るべし。是則(ち)、身をおさめ、道を行なふ助なリ。次には日用に助ある六芸をも学ふべし。聖人の経書をよみ、芸を学ぶは、すべて是文を学ぶ也。文を学ぶ内にも、本末あり。経伝をよんで、学問するは本也。諸芸を学ぶは末也。芸はさまざま多し。其内にて、人の日々に用るわざを選びて学ぶべし。無用の芸は、学ばずとも有なん。芸も亦、道理ある事にて、学問の助となる。これをしらでは、日用の事かけぬ芸を学はざれば、たとへば木の本あれども、枝葉なきが如し。故に聖人の書をまなんで、其ひまには文武の芸を学ぶべし。此章、只二十五字にて、人の子となり、弟となる者の、行ふべき道、これにつくせり。聖人の語、言葉すくなくして、義そなはれり。と云べし。  
凡そ子弟年わかきともがら、悪しき友にまじはりて、心うつりゆけば、酒色にふけり、淫楽をこのみ、放逸にながれ、淫行をおこなひ、一かたに悪しき道におもむきて、善き事をこのまず。孝弟を行ひ、家業をつとめ、書をよみ、芸術を習ふ事をきらひ、少(すこし)のつとめをもむつかしがりて、かしら(頭)いたく、気なやむなどいひ、よろづのつとむべきわざをば、皆気つまるとてつとめず。父母は愛におぼれて、只、其気ずい(随)にまかせて、放逸をゆるしぬれば、いよいよ其心ほしいままになりて、慣ひて性となりぬれば、善き事をきらひ、むつかしがりて、気つまり病をこるといひてつとめず。なかにも書をよむ事をふかくきらふ。凡そ気のつまるといふ事、皆善き事をきらひ、むつかしく思へるきずい(気随)よりおこれるやまひ(病)なり。わがすきこのめる事には、ひねもす、よもすがら、心をつくし、力を用ても気つまらず、囲碁をこのむもの、夜をうちあかしても、気つまらざるを以って知るべし。又、蒔絵師、彫物師、縫物師など、いとこまかなる、むつかしき事に、日夜、心力と眼力をつくす。かやうのわざは、面白からざれども、家業なれば、つとめてすれども、いまだ気つまり、病となると云事をきかず。むつかしきをきらひて、気つまると云は、孝弟の道、家業のしはざなどの、善き事をきらふ気ずいよりをこれり。是孝弟・人倫のつとめ行はれずして、学問・諸芸の稽古のならざる本なり。書をよまざる人は、学問の事、不案内なる白徒(しろうと)なれば、読書・学問すれば、気つまり気へりて、病者となり、命もちぢまるとおもへり。是其ことはりをしらざる、愚擬なる世俗の迷ひ也。凡そ学問して、親に孝し、君に志し、家業をつとめ、身をたて、道を行なひ、よろづの功業をなすも、皆むつかしき事をきらはず、苦労をこらへて、其わざを、よくつとむるより成就せり。むつかしき事、しげきわざに、心おだやかにくるしまずして、一すぢに、しづかになしもてゆけば、後は其事になれて、おもしろくなり、心をくるしむる事もなくて、其事つゐに成就す。又むつかしとて、事をきらへば、心から事をくるしみて、つとむべき事をむづかしとするは、心のひが事なり。心のひが事をば、其ままを(置) きて、事の多きをきらふは、あやまり也。又、「煩に耐ゆる」とは、むつかしきを、こらゆるを云。此二字を守れば、天下の事、何事もなすべし、と古人いへり。是わかき子弟のともがらの守るべき事なり。  
小児の時は、必ず悪しきくせ、悪しきならはし(慣)などあるを、みづから悪しき事としらば、あらためて行なふべからず。又かかる悪しき事を、人のいさめにあひ、戒められば、よろこんで早くあらため、後年まで、ながくその事をなすべからず。一たび人のいさめたる事は、ながく心にとどめて、わするべからず。人のいさめをうけながら、あらためず、やがてわするゝは、守なしと云べし。守なき人は、善き人となりがたし。いはんや、人のいさめをきらひ、いかりうらむる人は、さらなり。人のいさめをきかば、よろこんでうくべし。必ずいかりそむくべからず。いさめをききて、もしよろこんでうくる人は、善人也、よく家をたもつ。いさめをきらひ、ふせ(防)ぐ人は、必ず家をやぶる。是善悪のわかるる所なり。いさむる事、理たがひたりとも、そむきて、あらそふべからず。いさめをききていかれば、かさねて其人、いさめをいはず。凡そいさめをきくは、大に身の益なり。いさめをききて、よろこんでうけ、わが過を改むるは、善、これより大なるはなし。人の悪事多けれど、いさめをきらふは、悪のいと大なる也。わが身の悪しき事をしらせ、あやまちをいさむる人は、たうと(貴)み、したしむべし。わづかなるくひものなどおくるをだに、よろこぶ慣ひなり。いはんや、いさめを云ふ人は、甚だ悦びたうとぶべし。  
幼き時より、善をこのんで行なひ、悪をきらひて去る、此志専一なるべし。此志なければ、学問しても、益をなさず。小児の輩、第一に、ここに志あるべし。此事まへにも既に云つれども、幼年の人々のために、又かへすがへす丁寧につぐるなり。人の善を見ては、我も行なはんと思ひ、人の不善を見ては、わが身をかへりみて、其ごとくなる不善あらば、改むべし。かくの如くすれば、人の善悪を見て、皆わが益となる。もし人の善を見ても、わが身に取て用びず、人の不善を見ても、わが身をかへり見ざるは、志なしと云べし。愚なるの至りなり。  
父母の恩はたかくあつき事、天地に同じ。父母なければ、わが身なし、其恩、ほう(報)じがたし。孝をつとめて、せめて万一の恩をむくふべし。身のちから、財のちから、をつくすべし、おしむべからず。是父母につかへて、其ちからをつくすなり。父母死して後は、孝をつくす事なりがたきを、かねてよく考へ、後悔なからん事を思ふべし。  
年わかき人、書をよまんとすれば、無学なる人、これを云さまたげて、書をよめば心ぬるく、病者になりて、気よはく、いのちみじかくなる、と云ておどせば、父母おろかなれば、まことぞ、と心得て、書をよましめず。其子は一生おろかにておはる。不幸と云べし。  
人の善悪は、多くはなら(習)ひな(馴)るるによれり。善に習ひなるれば、善人となり、悪に慣ひなるれば、悪人となる。然れば、幼き時より、慣ひなるる事を、慎むべし。かりにも、悪しき友にまじはれば、慣ひて、悪しき方に早くうつりやすし。おそるべし。  
師の教をうけ、学問する法は、善をこのみ、行なふを以、常に志とすべし。学問するは、善を行はんがため也。人の善を見ては、わが身に取りて行なひ、人の義ある事をきかば、心にむべ(宜)なりと思ひかん(感)じて、行なふべし。善を見、義をききても、わが心に感ぜず、身に取用て行なはずば、むげに志なく、ちからなし、と云べし、わが学問と才力と、すぐれたりとも、人にほこりて自慢すべからず。言にあらはしてほこるは、云に及ばず、心にも、きざ(兆)すべからず。志は、偽り邪なく、まことありてただしかるべし。心の内は、おほ(蔽)ひくもりなく、うらおもてなく、純一にて、青天白日の如くなるべし。一点も、心の内に邪悪をかくして、うらおもてあるべからず。志正しきは、万事の本なり。身に行なふ事は、正直にして道をまげず、邪にゆがめる事を、行なふべからず。外に出て遊び居るには、必ずつねのしかるべき親戚・朋友の所をさだめて、みだりに、あなたこなた、用なき所にゆかず。其友としてまじはる所の人を選びて、善人に、つねにちかづき、良友にまじはるべし。善人に交れば、其善を見慣ひ、善言をきき、わが過をききて、益おほし。悪友にまじはれば、早く悪にうつりやすし。必ず友を選びて、かりそめにも悪友に交はるべからず。おそるべし。朝に早くおきて親につかへ、事をつとむべし。朝ゐ(朝寝)しておこたるべからず。凡そ、人のつとめは、あした(朝)をはじめとす。朝居する人は、必ずおこたりて、万事行なはれず。夜にいたりても、事をつとむべし。早くいねて、事をおこた(怠)るも、用なきに、夜ふくるまでいねがてにて、時をあやまるも、ともに子弟の法にそむけり。衣服をき、帯をしたるかたちもととのひて、威儀正しかるべし。放逸たるべからず。朝ごとに、きのふ(昨日)いまだ知らざるさきを、師に学びそ(添)へ、暮ごとに、朝学べる事を、かさねがさね、つとめておこたるべからず。心をあらく、おほやうにせず、つづ(約)まやかにすこしにすべし。かくの如くに、日々につとめておこたらざるを、学間の法とす。  
子弟、孫、姪など幼き者には、礼義を正しくせん事を教ゆべし。淫乱・色欲の事、戯れの言葉、非礼のわざ、を戒めて、なさしむべからず。又、道理なき、善と,てはたら正しからざるふだまぶり(札守)、祈祷などを、みだりに信じてまよへる事、禁ずべし。いとけなく若き時より、かやうの事に心まどひぬれば、真心、くせになりて、一生其迷ひとけざるものなり。神祇をば、おそれたうとびうやまひて、遠ざかるべし。なれ近づきて、けがし、あなどるべからず。わが身に道なく、私ありて、神にへつらひいのりても、神は正直・聡明なれば、非礼をうけ玉ばず。へつらひをよろこび給はずして、利益なき事を知るべし。  
古、もろこしにて、小児十歳なれば、外に出して昼夜師に随ひ、学問所にをらしめ、常に父母の家にをかず。古人、此法深き意あり。いかんとなれば、小児、つねに父母のそばに居て、恩愛にならへば、愛をたのみ、恩になれて、日々にあまえ、きずいになり、艱苦のつとめなくして、いたづらに時日をすごし、教行はれず。且、孝弟の道を、父兄の教ゆるは、わが身によくつかへよ、とのすすめなれば、同じくは、師より教えて行はしむるがよろし。故に父母のそばをはなれ、昼夜外に出て、教えを師にうけしめ、学友に交はらしむれば、おごり、おこたりなく、知慧日々に明らかに、行儀日々に正しくなる。是古人の子を育つるに、内におらしめずして、外にいたせし意なり。  
子孫、年わかき者、父祖兄長のとがめをうけ、いかりにあはば、父祖の言の是非をゑらばず、おそれ慎みてきくべし。いかに、はげしき悪言をきくとも、ちりばかりも、いかりうらみたる心なく、顔色にもおらはすべからず。必ず、わが理ある事を云たてて、父兄の心にそむくべからず。只言葉なくして、其せ(責)めをうくべし。是子弟の、父兄につかふる礼なり。父兄たる人、もし人の言葉をきき損じて、無理仏る事を以て、子弟をしゑた(虐)げせむとも、いかるべからず。うらみ、そむけいる色を、あら(顕)はすべからず。云わけする事あらば、時すぎて後、識すべし。或(は)別人を頼みて、いはしむべし。十分に、われに道理なくば、云わけすべからず。  
子弟を教ゆるに、いかに愚・不肖にして、わかく、いやしきとも、甚しく怒(いかり)の(罵)りて、顔色と言葉を、あららかにし、悪口して、はづかしむべからず。かくの如くすれば、子弟、わが非分なる事をばわすれて、父兄の戒めをいかり、うらみ・そむきて、したがはず、かへつて、父子・兄弟の間も不和になり、相やぶれて、恩をそこなふにいたる。只、従容として、厳正に教え、いくたびもくりかへし、やうやく、つげ戒むべし。是子弟を教え、人材をやしなひ来す法なり。父兄となれる人は、此心得あるべし。子弟となる者は、父兄のいかり甚しく、悪口してせめはづかしめらるるとも、いよいよ、おそれ慎みて、つゆばかりも、いかりうらむべからず。  
小児の時は、知いまだひらけず、心に是非をわきまへがたき故に、小人のいふ言葉に、迷ひやすし。世俗の、口のききたる者、学問をきらひて、善人の行儀かたく正しきをそしり、風雅なるをにくみて、今やうの風にあはず、とてそしり、只、放逸なる事を、いざなひすすむるをきかば、いかにいとけなく、智なくとも、心を付て其是非をわかつべし。かくの如くなる小人の言葉に迷ひて、移るべからず。  
いかりをおさえて、しのぶべし。忍ぶとは、こらゆる也。ことに、父母・兄長に対し、少しも、心にいかり・うらむべからず。いはんや、顔色と眼目にあらはすべけんや。父兄に対していかるは、最大なる無礼なり。戒むべし。内に和気あれば、顔色も目つきも和平なり。内に怒気あれば、顔色・眼目あしし。父母に対して、悪眼をあらはすべきや、はづべし。孝子の深愛ある者は、必ず和気あり。和気ある者は、必ず愉(よろこべる)色あり。子たる者は、父母に対して和気を失なふべからず。  
人のほめ・そしりには、道理にちがへる事多し。ことごとく信ずべからず。おろかなる人は、きくにまかせて信ず。人のいう事、わが思ふ事、必理にたがふ事おほし。ことに少年の人は、智慧くらし。人のいへる事を、ことごとく信じ、わが見る事をことごとく正しとして、みだりに人をほめ・そしるべからず。  
幼き時より、年老ておとなしき人、才学ある人、古今世変をしれる人、になれちかづきて、其物がたりをききおぼえ、物に書き付けをきて、わするべからず。叉うたがはしき事をば、し(知)れる人にたづねとふべし。ふるき事をしれる老人の、ものがたりをきく事をこのみて、きらふべからず。かやうにふるき事を、このみききてきらはず、物ごとに志ある人は、後に必、人にすぐるるもの也。又、老人をば、むづかしとてきらひ、ふるき道々しき事、古の物がたりをききては、うらめしく思ひ、其席にこらへず、かげにてそしりわらふ。是凡俗のいやしき心なり。かやうの人は、おひさき(生先)よからず、人に及ぶ事かたし。古人のいはゆる、「下士(げし)は道をきいて大にわらふ。」といへる是也。かやうの人には、まじはり近づくべからず。必悪しきかたにながる。蒲生氏郷いといくけなき時、佐々木氏より、人質として信長卿に来りつかへられし時、信長の前にて、老人の軍物語するを、耳をかたぶけてきかれける。或人、是を見て、此童ただ人にあらず、後は必ず名士ならん。と云しが、はたして英雄にてぞ有ける。凡そわかき人は、老人の、ふるき物語をこのみききて、おぼえおくべし。わかき時は、多くは、老人のふるき物語をきく事をきらふ。戒むべし。又わかき時、わが先祖の事をしれる人あらば、よくと(間)ひたづねてしるしおくべし。もしかくの如(く)にせず、うかとききては、おぼえず。年たけて後、先祖の事をしりたく思へども、知れる人、既になくなりにたれば、とひてきくべきやうなし。後悔にたへず。子孫たる人、わが親先祖の事、しらざるは、むげにおろそかなり。いはんや、父祖の善行、武功などあるを、其子孫知らず、しれどもしるしてあらは(顕)さざるは、おろかなり。大不孝とすべし。  
父母やはらかにして、子を愛し過せば、子おこたりて、父母をあなどり、つつしまずして、行儀悪しく、きずい(気随)にして、身の行ひ悪しく、道にそむく。父たる者、戒ありておそるべく、行儀ありて手本になるべければ、子たる者、をそれ慎みて、行儀正しく、孝をつとむる故に、父子和睦す。子の賢不肖、多くは父母のしはざなり、父母いるがせにして、子の悪しきをゆるせば、悪を長ぜしめ、不義にをちいる。これ子を愛するに非ずして、かへりて、子をそこなふなり。子を育つるに、幼より、よく教え戒めても悪しきは、まことに天性の悪しきなり。世人多くは、愛にすぎてをごらしめ、悪を戒めざる故、慣ひて性となり、つゐに、不肖の子となる者多し。世に上智と下愚とはまれなり。上智は、教えずしてよし、下愚は、教えても改めがたしといへども、悪を制すれば、面は改まる。世に多きは中人なり。中人の性は、教ゆれば善人となり、教えざれば不善人となる。故に教えなくんばあるべからず。  
小児の衣服は、はなやかなるも、くるしからずといへども、大もやう(模様)、大じま(縞)、紅・紫などの、ざ(戯)ればみたるは、き(着)るべからず。小児も、ちとくす(燻)み過たるは、あでやかにして、いやしからず、はなやか過て、目にたつは、いやしくして、下部の服のごとし。大かた、衣服のもやうにても、人の心は、おしはからるみものたれば、心を用ゆべし。又、身のかざりに、ひまを用ひすくすべからず。ひまついえて益なし。只、身と衣服にけがれなくすべし。  
農工商の子には、幼き時より、只、物かき・算数をのみ教えて、其家業を専にしらしむべし。必ず楽府淫楽、其外、いたづらなる、無用の雑芸をしらしむべからず。これにふけり、おぼれて、家業をつとめずして、財をうしなひ、家を亡せしもの、世に其ためし多し。富人の子は、立居ふるまひ、飲食の礼などをば、習ふべし。必ず戒めて、無頼放逸にして、酒色淫楽をこのむ悪友に、交はらしむべからず。是にまじはれば、必ず身の行悪しく、不孝になり、財をうしなひ、家をやぶる。甚だおそるべし。  
小児は十歳より内にて、早く教え戒むべし。性(うまれつき)悪くとも、能(よく)教え習はさば、必よくなるべし。いかに美質の人なりとも、悪くもてなさば、必ず悪しきに移るべし。年少の人の悪くなるは、教の道なきがゆへなり。習を悪しくするは、たとへば、馬にくせを乗付るがごとし。いかに曲馬(くせうま)にても、能き乗手ののれば、よくなるもの也。又うぐひすのひなをか(飼)ふに、初めてなく時より、別によくさゑづるうぐひすを、其かたはらにをきて、其音をきき習はしむれば、必よくさえづりて、後までかはらず。是はじめより、善き音をききてなら(習)へばなり。禽獣といへど、早く教えぬれば、善にうつりやすき事、かくの如し。況んや人は万物の霊にて、本性は善なれば、幼き時より、よく教訓したらんに、すぐれたる悪性の人ならずば、などか悪しくたらん。人を教訓せずして悪しくなり、其性を損ずるは、おしむべき事ならずや。  
子孫、幼なき時より、かたく戒めて、酒を多くのましむべからず。の(飲)みならへば、下戸も上戸となりて、後年にいたりては、いよいよ多くのみ、ほしいままになりやすし。くせとなりては、一生あらたまらず。礼記にも、「酒は以て老を養なふところなり、以て病ひを養なふところなり」といへり。尚書には、神を祭るにのみ、酒を用ゆべき由、をいへり。しかれば酒は、老人・病者の身をやしたひ、又、神前にそなへんれう(料)に、つくれるものなれば、年少の人の、ほしゐままにのむべき理にあらず。酒をむさぼる者は、人のよそ目も見ぐるしく、威儀をうしなひ、口のあやまり、身のあやまりありて、徳行をそこなひ、時日(ひま)をついやし、財宝をうしなひ、名をけがし、家をやぶり、身をほろぼすも、多くは酒の失よりをこる。又、酒をこのむ人は、必ず血気をやぶり、脾胃をそこなひ、病を生じて、命みじかし。故に長命なる人、多くは下戸也。たとひ、生れつきて酒をこのむとも、わかき時より慎みて、多く飲むべからず。凡そ上戸の過失は甚だ多し。酔に入りては、謹厚(きんこう)なる人も狂人となり、云まじき事を云、なすまじき事をなし、言葉すくなき者も、言多くなる。戒むべし。酒後の言葉、慎みて多くすべからず。又、酔中のいかりを慎み、酔中に、書状を人にをくるべからず。むべも、昔の人は、酒を名づけて、狂薬とは云へりけん。貧賎なる人は、酒をこのめば、必ず財をうしなひ、家をたもたず。富貴たる人も、酒にふければ、徳行みだれて、家をやぶる。たかきいやしき、其わざはひは、のがれず。戒むべし。  
小児のともがら、戯れ、多く云べからず。人のいかりををこす。又、人のきらふ事、云べからず、人にいかりそしられて、益なし。世の人、多くいやしきことをいふとも、それを慣ひて、いやしき事云べからず。小児の言葉いやしきは、ことにききにくし。 
巻之三 / 年に随ふて教える法 

 

六歳の正月、始て一二三四五六七八九十・百・千・万・億の数の名と、東西南北の方の名とを教え、其生れ付の利鈍をはかりて、六七歳より和字(かな)をよませ、書習はしむべし。初めて和字を教ゆるに、「あいうゑを」五十韻を、平がなに書て、たて・よこによませ、書習はしむ。又、世間往来の、かなの文の手本を習はしむべし。此年ごろより、尊長をうやまふ事を教え、尊卑・長幼のわかちをもしらしめ、言葉づかひをも教ゆべし。  
七歳、是より男女、席を同してならび坐せず、食を共にせず。此ころ、小児の少知いでき、云事をきき知るほどならば、英知をはかり、年に宣しきほど、やうやく礼法を教ゆべし。又、和字のよみかきをも、習はしむべし。   
八歳、古人、小学に入りし歳也。初めて幼者に相応の礼義を教え、無礼を戒むべし。此ころよりたち居ふるまひの礼、尊長の前に出て、つかふると退くと、尊長に対し、客に対し、物をいひ、いらへこたふる法、せん具を尊長の前にすえ、又、取て退く法、盃を出し、銚子を取て酒をすすめ、肴を出す法、茶をすすむる礼、をもたらはしむべし。又みづから食する法、尊長の賜はる盃と肴をいただき、客の盃をいただきのむ法、尊者に対し、拝礼をなす法、を教え(知)らしむべし。又、茶礼をも教ゆべし。かしづき従ふ人より、まづ孝弟の道を教ゆべし。よく父母につかふるを孝とし、よく兄長につかふるを弟とす。父母をたうとびて、よくつかふる、是人たる者の第一につとめ行なふべき道なる事、かしづきて師となる人、早く教ゆべし。次に、兄長を敬まひ従ひて、あなどるべからざる事を、教ゆべし。兄長とは、兄、あね、をぢ、をば、又いとこの内、其外にも、とした(年長)けてうやまふべき人をいふ。凡そ孝弟の二は、人間の道を行なふ本なり。万事の善は、皆これよりはじまれる事を、教ゆべし。父母・兄長におそれ・慎みて、其教え戒めをよくききて、そむかざる事を教ゆべし。教えをそむきては、むげの事なり。父母をおそれず、兄長をあなどらば、戒めてゆるすべからず。もし人をあなどる事をゆるし、かへりてわらびよろこべば、小児は善悪をわきまへずして、あしからざる事と思ひ、長じて後、此くせやまず、子となり弟となる法を知らず、無礼にして不孝不弟となる。是父母をろか(愚)にして、子の悪をすすめなせるなり。やうやく年をかさねば、弟を愛し、臣僕をあはれみ、師を尊び、友にまじはる道、賓客に対して坐立進退、言葉づかひの法、各其品に従ひて、いつくしみうやまふべき道を、教えしらしむべし。是よりやうやく孝弟、忠信、礼義、廉恥の道を教え行なはしむ。人の財物をもとめ、飲食をむさぼりて、いやしげなる心を戒め、恥を知るべき事を教ゆべし、七歳より前は、猶いとけなければ、早くいね、をそくおき、食するに時をさだめず、大やう其の心にまかすべし。礼法を以て、一一にせめがたし。八歳より門戸の出入し、又は座席につき、飲食するに、必ず年長ぜる人におくれて、先だつべからず、初めてへりくだり、ゆづる事を教ゆべし。小児の心まかせにせず、きずい(気随)なる事を、かたく戒むべし。是れかんよう(肝要)の事なり。  
ことしの春より、真と草との文字を書き習はしむ。はじめより風体正しき能書を学はしむべし。手跡つたなく、風体悪しきを手本としてならへば、悪しき事くせとなり、後に風体善き能書をならへどもうつ(移)らず。はじめは真草ともに、大字を書習はしむべし。はじめより小字をかけば、手すくみてはたらかず。又此年より早く文字をよみ習はせしらしむべし。孝経、小学、四書などの類の、文句長きむづかしきものは、はじめよりよみがたく、おぼえがたく、たいくつ(退屈)し、学問をきらふ心いできて悪しく、まづ文句みじかくして、よみやすく、おぼえやきものをよませ、そらにおぼえさすべし。  
十歳、此年より師にしたがはしめ、先五常の理、五倫の道、あちあら云きかせ、聖賢の書をよみ、学問せしむべし。よむ所の書の内、まづ義理のきこえやすく、さとしやすき切要なる所をとき聞すべし。是より後、やうやく小学、四書、五経をよむべし。又、其ひまに、文武の芸術をも習はしむべし。世俗は、十一歳の頃、やうやう初めて、手習など教ゆ、おそしと云べし。教えは、早からざれば、心すさみ気あれて、教えをきらひ、おこたりに習ひて、つとめ学ぶ事かたし。小児に、早く心もかほばせも、温和にして人を愛しうやまひ、善を行なふ事を教ゆべし。又、心も身のたち居ふるまひも、しづかにして、みだりうごかず、さはがしからざらん事を教ゆべし。  
十五歳、古人、大学に入て学問せし歳也。是より専(もっぱら)義理を学び、身をおさめ、人をおさむる道を知るべし。是大学の道也。殊更、高家の子、年長じては、諸人の上に立て、多くの民を預り、人を治むる職分おもし。必ず小児の時より師をさだめ、書をよませ、古の道を教え、身を修め、人を治むる道をしらしむ。もし人をおさむる道をしらざれば、天道よりあづけ給へる、多くの人をそこなふ事、おそるべし。凡その人も、其分限に応じて、人をおさむるわざ(業)あり。其道を、学ばずんばあるべからず。生質(うまれつき)遅鈍たりとも、これより二十歳までの間に、小学、四書等の大義に通ずべし。若(もし)、聡明ならば、博く学び、多く知るべし。  
二十歳、古、もろこしには、二十にして、かむり(冠)をきるを元服をくは(加)ふと云。元服とは、「かうべのきるもの」とよむ、冠の事也。日本にても、昔は公家・武家共に、二十歳の内にて、かうぶりゑぼし(冠烏帽子)をきたり。其時、加冠、理髪の役ありき。今も宮家に此事あり、今、武家に前髪を去を元服と云も、昔のかふりをきるにたぞらへていへり。元服を加へざる内は、猶わらんべ也。元服すれば、成人の道これより備はる。これより幼少なる時の心をすてて、成人の徳に従ひ、ひろくまたび、あつく行ふべし。其年に応じて、徳行そなはらん事を思ひて、つとむべし。もし元服しても、成人の徳なきは、猶、童心ありとて、昔も、これをそしれり。  
書を読む法  
聖人の書を経と云。経とは常也。聖人の教えは、万世かはらざる、万民の則なれば、つねと云い、四書五経等を経と云い、賢人の書を伝と云。伝とは聖人の教えをのべて、天下後代につたふる也。四書五経の註、又は周程、張朱、其外、歴代の賢人のつくれる書を、いづれも伝と云。経伝は是古の聖賢の述作り給ふ所なり。其載する所は、天地の理に従ひて、人の道を教え給ふ也。其理至極し、天下万世の教えとなれる鑑なり。天地人と万物との道理、これにもるる事なき故、天地の間、是にまされる宝、更になし。是を神明のごとくにたうとび、うやまふべし。おろそかにし、けがすべからず。  
凡そ書をよむには、必ず先手を洗ひ、心に慎み、容を正しくし、几案のほこりを払ひ、書冊を正しく几上におき、ひざまづきてよむべし。師に、書をよみ習ふ時は、高き几案の上におくべからず。帙の上、或(は)文匣、矮案の上にのせて、よむべし。必ず、人のふむ席上におくべからず。書をけがす事なかれ。書をよみおはらば、もとのごとく、おほ(覆)ひおさむべし。若、急速の事ありてたち去るとも、必ずおさむべし。又、書をなげ、書の上をこゆべからず。書を枕とする事なかれ。書の脳を巻きて、折返へす事なかれ。唾を以、幅を揚る事なかれ。故紙に経伝の詞義、聖賢の姓名あらば、慎みて他事に用ゆべからず。又、君上の御名、父母の姓名ある故紙をもけがすべからず。  
小児の記性(おぼえ)をはかつて、七歳より以上入学せしむ。初は早晨に書をよましめ、食後にはよましめず、其精神をくるしむる事なかれ。半歳の後は、食後にも亦、読ましむべし。  
凡そ書をよむには、いそがはしく、早くよむべからず。詳緩(ゆるやか)に之を読て、字々句々、分明なるべし。一字をも誤るべからず。必ず心到、眼到、口到るべし。此三到の中、心到を先とす。心、此に在らず、見れどもみへず、心到らずして、みだりに口によめども、おぼえず。又、俄かに、しゐて暗によみおほえても、久しきを歴ればわする。只、心をとめて、多く遍数を誦すれば、自然に覚えて、久しく忘れず。遍数を計へて、熟読すべし。一書熟して後、又、一書をよむべし。聖経賢伝の益有る書の外、雑書を見るべからず。心を正しくし、行儀を慎み、妄にいはず、わらはず、妄に外に出入せず、みだりに動作せず、志を学に専一にすべし。つねに暇ををしみて、用もなきに、いたづらに隙をついや(費)すべからず。  
小児の文学の教えは、事しげくすべからず。事しげく、文句多くして、むつかしければ、学間をくるしみて、うとんじきらふ心、出来る事あり。故に簡要を選び、事すくなく教ゆべし。すこしづつ教え、よみ習ふ事をきらはずして、すきこのむやうに教ゆべし。むつかしく、辛労にして、其気を屈せしむべからず。日々のつとめの課程を、善きほどにみじかくさだめて、日々をこたりなくすすむべし。凡そ小児を教ゆるには、必ず師あるべし。若(もし)、外の師なくば、其父兄、みづから日々の課程を定めてよましむべし。父兄、辛労せざれば、教えおこなはれず。  
初て書を読には、まづ文句みじかくして、よみやすく、覚えやすき事を教ゆべし。初より文句長き事を教ゆれば、たいくつ(退屈) しやすし。やすきを先にし、難きを後にすべし。まづ孝弟、忠信、礼義、廉恥の字義を教え、五常、五倫、五教、三綱、三徳、三事、四端、七情、四勿、五事、六芸、両義、二気、三原、四時、四方、四徳、四民、五行、十干、十二支、五味、五色、五音、二十四気、十二月の異名、和名、四書、五経、三史の名目、本朝の六国史の名目、日本六十六州の名、其住せる国の郡の名、本朝の古の帝王の御謚、百官の名、もろこしの三皇、五帝、三王の御名、歴代の国号等を和漢名数の書にかきあつめをけるを、そらによみおぼえさすべし。又、鳥、獣、虫、魚、貝の類、草木の名を多く書集めて、よみ覚えしむべし。此外にもおぼえて善き事多し。そらに覚えざる事は、用にたたず。又、周南、召南の詩、蒙求の本文五百九十八句、性理字訓の本編、三字経、千字類合、千家詩などの句、みじかくおぼえやすき物を教ゆべし。右の名目に、編などを多くよみおぼえて後、経書を教ゆべし。初より文句長き、よみがたき経書を教えて、其気を屈せしむべからず。経書を教ゆるには、先孝経の首章、次に論語学而篇をよましめ、皆熟読して後、其要義をもあらあらとききかすべし。小学、四書は、最初よりよみにくし。故に先右に云所の、文句のみじかきものを多くよませて、次に小学をよませ、後に四書・五経をよましむべし。  
凡そ書をよむには、早く先をよむべからず。毎日返りよみを専(もっぱら)つとむべし。返りよみを数十遍つとめ、をはりて、其先をよむべし。しからずして、只はか(捗)ゆかん事をこのみて、かへりよみすくなければ、必ずわすれて、わが習ひし功も、師の教へし功もすたりて、ひろく数十巻の書をよんでも益なし。一巻にても、よくおぼゆれば、学力となりて功用をなす。必ずよくおぼ(覚)ふべし。書をよんでも学すすまざるは、熟読せずして、おぼえざれば也。才性あれば、八歳より十四歳まで、七年の問に、小学、四書、五経等、皆読をはる。四書、五経熟読すれば、才力いでき、学間の本たつ。其ちからを以って、やうやく年長じて、ひろく群書を見るべし。  
小児に初て書を授くるには、文句を長く教ゆべからず。一句二句教ゆ。又、一度に多く授くべからず。多ければおぼえがたぐ、をぼえても堅固ならず。其上、厭倦んで学をきらふ。必ずたいくつせざるやうに、少づつ授くべし。其教えやうは、はじめは、只一字二字三字つつ字をしらしむべし。其後一句づつ教ゆべし。既に字をしり、句をおぼへば、小児をして自読しむべし。両句を教ゆるには、先一句をよみをぼえさせ、熟読せば、次の句を、又、右のごとくによましめ、既(に)熟読して、前句と後句と通読せしめてやむべし。此の如くする事、数日にして、後又、一両句づつ漸、に従て授くべし。其後授くるに、漸、字多ければ、分つて二三次となして、授け読しめ、其二三次、各熟読して、合せて通読せしむ。若(もし)、其中、おぼえがたき所あらば、其所ばかり、又、数遍よましむ。又、甚だよみやすき所をば、わかちよむ時は、よむべからず。是(れ)功を省すの法なり。  
書を読には、必ず句読を明にし、よみごゑを詳にし、清濁を分ち、訓点にあやまりなく、「てには」を精しくすべし。世俗の疎なる謬(あやまり)に従ふべからず。  
書をよむに、当時、略(ほぼ)熟誦しても、久しくよまざれば、必、忘る。故に書をよみおはつて後、既によみたる書を、時々かへりよむべし。又、毎日前の三四五度に授かりたる所を、今日よみ習ふ所に通して、あとをよむべし。此如くすれば忘れず。  
毎日一の善事を知り、一の善事を行なひて、小を積みてやまざれば、必ず大にいたる。日々の功をおこたり欠べからず。はじめは毎日、日記故事、蒙求の故事などの嘉言、善行を一両事づつ記すべし。又、毎日、数目ある事を二三条記すべし。一日に一事記すれば、一年には三百六十条なり。詩歌をよみおぼゆるも此法なり。一日に一首おぼゆれば、一年に三百六十首也。毎日誦して、日々、怠るべからず、久きをつみては、其功大なり。  
小児に初て書を説きかするに、文句みじかく、文義あさく、分明に、きこえやすく云きかすべし。小児に相応せざる、高く、ふかく、まはり遠く、むづかしく、ききにくき事を、教ゆべからず。又、言葉多く、長く、すべからず。言すくなくして、さとしやすくすべし。まづ孝経の首章、論語の学而篇を早く説きかすべし。是本(もと)をつとむるなり。小学の書をと(説)くには、義理を、あさくかろくとくべし。深く重く説べからず。是小児に教ゆる法也。  
小児、読書の内に、早く文義を所々教べし。孝経にていはば、仲尼とは孔子の字なり、字とは、成人して名づくる、かへ名也。子は師の事を云。曾子は孔子の弟子なり、参(しん)は曾子の名。先王は古の聖王の事。不敏は鈍なる事。又、論語の首章をよむ時は、学ぶとは学問するを云。習とは、学びたる事を、身につとめ習ふなり。悦ぶとは、をもしろきといふ意。楽(たのしむ)とは大きにおもしろき意也。かやうに読書のついでに、文義を教ゆれば、自然に、書を暁し得るものなり。  
古語に、光陰箭の如く、時節流るるが如し。又曰、光陰惜むべし(と)。これを流水にたとふ、といへり。月日のはやき事、としどし(年々)にまさる。一たびゆきてかへらざる事、流水の如し。今年の今日の今時、再かへらず。なす事なくて、なをざりに時日をおくるは、身をいたづらになすなり。をしむべし。大禹は聖人なりしだに、なを寸陰をおしみ給へり。いはんや末世の凡人をや。聖人は尺壁(せきへき)をたうとばずして、寸陰をおしむ。ともいへり。少年の時は、記性つよくして、中年以後、数日におぼゆる事を、只一日・半日にもおぼえて、身をおはるまでわすれず。一生の宝となる。年老て後悔なからん事を思ひ、小児の時、時日をおしみて、いさみつとむべし。かやうにせば、後悔なかるべし。  
書をよみ、学問する法、年わかく記憶つ善き時、四書五経をつねに熟読し、遍数をいか程も多くかさねて、記誦すべし。小児の時にかぎらず、老年にいたりても、つねに循環してよむべし。是義理の学間の根本となるのみならず、又、文章を学ぶ法則となる。次に左伝を数十遍看読すべし。其益多し。是学問の要訣なり。知らずんばあるべからず。  
小児の時、経書の内、とりわき孟子をよく熟誦すべし。是義理の学に益あるのみならず、文章を作る料なり。此書、文章の法則(てほん)となり、筆力を助く。朱子も、孟子も熟誦して文法をさとれりといへり。又、文章を作るためには、礼記の檀弓、周礼の考工記を誦読すべし。是等は皆古人の説なり。又、漢文の内数篇、韓・柳・欧・蘇・曾南豊等の文の内にて、心に叶へるを択びて、三十篇熟誦し、そらに書て忘れざるべし。作文の学、必ず此如くすべし。  
四書を、毎日百字づつ百へん熟誦して、そらによみ、そらにかくべし。字のおき所、助字のあり所、ありしにたがはず、おぼへよむべし。是ほどの事、老らくのとしといへど、つとめてなしやすし。況、少年の人をや。四書をそらんぜば、其ちからにて義理に通じ、もろもろの書をよむ事やすからん。又、文章のつづき、文字のおきやう、助字のあり処をも、よくおぼえてしれらば、文章をかくにも、又助となりなん。かくの如く、四書を習ひ覚えば、初学のつとめ、過半は既に成れりと云べし。論語は一万二千七百字、孟子は三万四千六百八十五字、大学は経伝を合せて千八百五十一字、中庸は三千五百六十八字あり。四書すべて五万二千八百四字なり。一日に百字をよんでそらに記(おぼ)ゆれば、日かず五百廿八日におはる。十七月十八日なれば、一年半にはたらずして其功おはりぬ。早く思ひ立て、かくの如くすべし。これにまされる学問の善き法なし。其れつとめやすくして、其功は甚だ大なり。わがともがら、わかき時、此良法を知らずして、むなしく過し、今八そぢになりて、年のつもりに、やうやう学びやうの道すこし心に思ひしれる故、今更悔甚し。又、尚書の内、純粋なる数篇、詩経、周易の全文、礼記九万九千字の内、其精要なる文字をゑらんで三万字、左伝の最(も)要用なる文を数万言、是も亦日課を定めて百遍熟読せば、文学におゐて、恐らくは世に類なかるべし。是学問の良法なり。  
史は古をしるせる書也、記録の事なり。史書は、往古の迹を考へて、今日の鑑とする事なれば是亦経につぎて必よむべし。経書を学ぶいとまに和漢の史をよみ、古今に通ずべし。古書に通せざるは、くらくして用に達せず。日本の史は、日本紀以下六国史より、近代の野史に至るべし。野史も亦多し。ひろく見るべし。中夏の史は、左伝、史記、漢書以下なるべし。朱子綱目の書は、歴代を通貫し、世教をたすけて、天下万世に益あり。経伝の外、これに及べる好著は有べからず。此一書を出すしで、古の事に通じ、善悪を弁じ、天下国家をおさむる道理明かたり。まことに、世の主なり。学者是をこのんで玩覧すべし。殊に国家をおさむる人のかがみとなり、又、通鑑前編・続編をも見るべし。前編、伏犠より周まで、朱子綱目以前の事をしるせり。続編は宋元の事を記す。朱子綱目以後の事也。これにつづきて、皇明通記、皇明実記などを見れば、古今に貫通す。  
小児の時より、学間のひまをおしみ、あだなる遊びをすべからず。手習ひ、書をよみ、芸を学ぶを以、遊びとすべし。かやうのつとめ、はじめは、おもしろからざれども、やうやく習ひぬれば、のちはなぐさみとなりて、いたづ(煩)がはしからず。凡そよろづの事は、皆いとまを用ひて出くるものなれば、いとま(暇)ほどの身のたからなし。四民ともに同じ。かほどの、おしむべき大せつたるいとまを、むなしくして、時日をつひやし、又は、用にもたたざる益なきわざをなし、無頼の小人にまじはり、ひまをおしまずして、いたづらに、なす事なくて月日をおくる人は、ついに才智もなく、芸能もなくして、何事も人におよばず、人にいやしめらる。少年の時は、気力も記憶もつよければ、ひまをおしみ、書をよみおくべし。此の如くすれば、身おはるまでわすれず、一代のたからとなる。年たけ、よはひ(齢)ふけぬれば、事多くしてひまなく、、気カへりて記憶よはくなり、学問に苦労しても、しるし(験)すくなし。少年の時、此ことはりをよく心得て、ひまをおしみ、つとむべし。わかき時、おこたりて、年おいて後悔すべからず。此事、まへにも既に云つれば、老のくせにて、同じことするは、きく人いとふべけれど、年わかき人に、よく心得させんため、かへすがへすつぐるなり。凡その事、後のため善き事を、専(ら)につとむべし。はじめつとめざれば、必ず後の楽なし。又、後の悔たからん事をはかるべし。はじめにつつしまず、おこたりぬれば、必ず後の悔あり  
小児の書をよむに、文字を多くおほえざれば、書をよむにちからなくして、学問すすまず。又、文字をしらざれば、すべて世間の事に通せず。芸など習ふにも、文字をしらざれば、其理にくらくして、びが事おほし。文字をしれらば、又、其文義を心にかけて通じ知るべし。 
巻之四 / 手習法 

 

古人、書は心画なり、といへり。心画とは、心中にある事を、外にかぎ出す絵なり。故に手蹟の邪正にて、心の邪正あらはる。筆蹟にて心の内も見ゆれば、慎みて正しくすぺし。昔、柳公権も、心正ければ筆正しといへり。凡そ書は言をうつして言語にかへ用ひ、行事をしめして当世にほどこし、後代につたふる証跡なり。正しからずんばあるべからず。故に書の本意は、只、平正にして、よみやすきを宗とす。是第一に心を用ゆべき事也。あながちに巧にして、筆蹟のうるはしく、見所あるをむねとせず、もし正しからずしてよみがたく、世用に通ぜずんば、巧なりといへども用なし。黙れども、又いやしく拙きは用にかなはず。  
凡そ字を書習ふには、真草共に先(まず)手本を選び、風体(ふうてい)を正しく定むべし。風体悪しくば、筆跡よしといへども、なら(習)はしむぺからず。初学より、必ず風体すなをに、筆法正しき、古への能書の手跡をゑらんで、手本とすべし。悪筆と悪き風体を習ひ、一度悪しきくせつきては、一生なをらず。後、能書を習ひても改まらず。日本人の善き手跡を習ひ、世間通用に達せば、中華の書を学ばしむべし。しからざれぱ、手跡すすまず。唐筆を習ふには、先(ず)草訣百韻、王義之が十七帖、王献之が鵞群帖、淳化法帖、王寵が千字文、文徴明が千字文、黄庭経などを学はしむべし。又、懐素が自叙帖、米元章が天馬賦などを学べば、筆力自由にはたらきてよし。  
和流・から流共に、古代の能書の上筆を求めて習ふべし。今時の俗筆をば、習ふべからず。手本悪しければ、生れ付たる器用ありて、日々つとめ学びても、見習ふべき法なくして、手跡進まず。器用も、つとめも、むなしくなりて、一生悪筆にてをはる。わが国の人、近世手跡つたなきは、手習の法をしらざると、古代の善き手本をならわざる故也。  
本朝にも、古代は能書多し。皆唐筆をまなべり。唐人も、日本人の手法をほめたり。中世以後、からの筆法をうしなへり。故に能書すくなし。あれども上代に及ばず。近代は弥(いよいよ)、俗流になりし故、時を逐(おい)て拙なくなる。凡そ文字は中華よりいで、真・行・草もからよりはじまる。日本流とてべつ(別)にあるべからず。から流の筆法にちがへるは、俗筆なり。同じくは、からの正流を、はじめより習ふべし。但(し)近世の、正しからざる唐筆をならへば、手跡ひがみ、よこしまにして、よみがたし。文盲たる人は、から流はよみがたしと云。それは、あレき風を習ひたるを見ていへり。からの書は、真字を先(まず)習ひて、それに従ひて行・草をかく。故に筆跡正し。日本流は、真字にしたがはず、字形をかざる故、多くは字画ちがひ、無理なる事多し。  
真字は、ことに唐筆の正しき能書を、始より学ぶべし。和字(かな)も、古の能書を始より学ぶべし。和字には中華(から)流あるべからず。真字には和流あるべからず。和流に真をかくと、から流に和字を書とは、皆ひが事也。此理を知らずして、今時から流にかなを書人あり。しかるべからず。草書には和流もあれども、から流にもとづかざるは俗流なり、正流にあらず。本朝上代の能書、三筆、三跡など、皆から流に本づけり。其後、世尊寺、清水谷など、能書の流を家流と云。是又、中華の筆法あるは、俗流にあらず。俗流をば学ぶぺからず。まことの筆法なし。近代の和流の内、尊円親王の真跡は、からの筆法あり。よのつねの俗流にまされり。真跡にあらざるは、からの筆法なし。習ふぺからず。真跡まれなり。其外、古の筆法をしらで、器用にまかせて書たる名筆、近世多し。世俗は賞翫すれども、古法をしらざるは、皆俗筆なり、学ぶぺからず。  
小児、初て手習するには、先(ず)一二三四五六七八九十百千万億、次に天地、父母、五倫、五常、四端、七情、四民、陰陽五行、四時、四方、五穀、五味、五色などの名目の手本を、真字に書て、大に書習はしむべし。  
「あいうゑを」五十字は、和音に通ずるに益あり。横縦によみ覚ふべし。かなづかひ、「てには」なども、これを以って、知るべし。「いろは」の益なきにまされり。国字も、皆是にそなはれり。片かなは、をそく教え知らしむぺし。  
凡そ文字を書習ふに、高く墨をとり、端正にすりて、すり口をゆがむべからず。手をけがす事なかれ。高く筆をとり、双鈎し、端正に字を書べし。双鈎とは、筆のとりやうなり。凡そ字を書に、一筆一画、平正分明にして、老草に書べからず。老草とは、平正ならず、わがままに、そさうにか (書)くを云。手本を能見て、ちがはざるやうに、しづかに学ぶべし。才にまかせ、達者ぶりして、老草にかけば、手跡あがらず。書を写し習ふにも、平正にかくべし。常の書札などかくにも、手習と思ひて、慎みて正しくかくべし。かくのごとくすれば、手跡進みやすし。手を習ふには、まづ筆の取やうを知るぺし。  
双鈎とは、筆のもちやう也。大指と食指、中指の二指と対してはさむを云。食指一(つ)をかけてはさむをば、単鈎と云。。単鈎は手かたまらずして、筆に力なし。故に双鈎をよしとす。日本流は、多くは単鈎を用ゆ。  
双鈎の法は、まづ筆を大指と食指にてはさむに、大指のはらと食指の中節のわきに筆をあつぺし。此二指はちからを主どる。次に中指をかがめて、筆を指のとがりにつけ、筆をおさえ、次に無名指の外、爪と肉とのきはに筆をあて、上におさえあげて、中指と相対してさしはさみ、中指は外より内におさえ、無名指は内より外へをす、此二指は運動を主どる。大指と食指にて、上にてはさみたる筆を、又、中指と無名指を以て下にてはさみ、堅固にする也。次に小指は無名指の下かどにつらねて、無名指の力をたすく。筆の左にゆき右にゆく時、無名指をたすけて導き送る。筆をとる事、五指ともにあさきをよしとす。あさけれぱ力つよくして、はたらき自由なり。  
虚円正緊は、筆をとる四法也。知らずんばあるべからず。虚とは指を掌に近づけずして、掌の内を、空しくひろくするを云。あぶみの形の如くなるをよしとす。円とは、掌の外、手の甲をまるくして、かどなきを云。虚円の二は掌の形なり。正とは、筆をすぐにして、前後左右にかたよらざるを云。かくの如くならざれぜ、筆の鋒(さき)あらはれ、よこあたりあり。緊とは、筆をきびしくかたくとりて、やはらかならざるを云。上よりぬきとらりれるやうに取てよし。かくのごとくならざれば、筆に力なくしてよはし。正緊の二は筆の形なり。此四法は筆をとる習ひ也。日本流の筆の取やうは、是にことなれり。単鈎にとりて、筆鋒をさきへ出し、やはらかにして、上よりぬき取をよしとす。  
小児の時より、大字を多く書習へば、手、くつろぎはたらきてよし。小字を書で、大字をかかざれば、手、すくみてはたらかず。字を習に、紙をおしまず、大(おおい)に書べし。大に書ならへば、手はたらきて自由になり、又、年長じて後、大字を書によし。若、小字のみ書習へば、手腕すくみて、長じて後、大字をかく事成がたし。手習ふには、悪しき筆にてかくべし。後に筆をゑらばずしてよし。もし善き筆にて書習へば、後悪しき筆にて書く時、筆蹟悪しく、時々善き紙にかくべし。悪しき紙にのみ書ならへば、善き紙にかく時、手すくみて、はたらかず。  
真字をかく法、大字はつづめて、小ならしめ、小字はのぺて大ならしめ、短字は長く、長字は短くすべし。横の筆画はほそきがよし。竪の筆画はあらきがよし。よこに二字合せて、一とする字はひろくすべからず。上下二字合て一字とする字は、長くすべからず。疏は密に、密は疏なるべし。骨多きに宣し。肉多によろしからず。皆是筆法の習ひなり。  
指を以て、筆をうごかす事なかれ。大字は肘をうごかし、小字は腕をうごかす。筆のはたらき自由なるべし。指は取事を主どり、肘腕はうごく事を主どる。指はうごかすべからず。  
筆の取やう正しくして、筆さきの横にあたらざるやうに、筆鋒を正しく直(すぐ)にすべし。筆直に正しければ、筆の鋒あらはれずしてよし。筆がたぶけば、鋒あらはる。筆鋒のあたる所を、あらはれざるやうにかくすべし。左の筆をおこす所、ことにあらはれざるがよし。鳥のくちはしの如く、とがれるはあしし。又、右のかどに肩をあらはすぺからず。鋒はつねに画中にあらしむべし。是を蔵鋒と云。鋒を蔵(かく)すをよしとす。  
入木(じゅぼく)ということ 筆鋒は紙につよくあたるべし、入木と云も此事也。  
手を習ふに、筆のはたらきの神彩(しんさい)を先とし、字の形を次とす。字のかたちよくとも、神彩なければよしとせず。  
はじめは、一流をもは(専)ら習ふべし。後には、諸流の善きを取て、則とすべし。もはら一流を似すべからず。古人の一流に全く似たるをば、書奴(ぬ)と云ていやしむ。  
筆ひたし過すべからず。又、かは(乾)かすべからず、硯は時々あらひ、新水をかへ用ひ、ほこりを去べし。墨をばやはらかにすり、筆をばつよくとるべし。故(に)墨は病夫にすらせ、筆は壮夫にとらしむと云。和流は、これにことなり、筆をやはらかにとる也。  
手習の後は、物をかくに硯池(うみ)の水をそめず、新水を墨する所に入て、墨をすり、時にのぞみてそむべし。  
筆に墨をそむる事、大字をかくにも三分にすぐべからず。ふかくひたせば、筆よはくして力なし。細字は、猶もみじかくそむべし。  
筆をとるに、真書はぢく(軸)をひき(低)く、草は高くとる、行は共間なり。真一、行二、草三と云。  
腕法三あり。枕腕(ちんわん)あり、提腕あり、懸腕あり。枕腕は、左の手を右の手の下に枕にさする也。是小字をかく法也。提腕は肘はつくゑにつけて、腕をあげてかく也。是中字をかく法也。懸腕は腕をあげて空中にかく也。是大字をかく法也。うでを下にさぐれば、はたらかず。是小字、中字、大字を書く三法なり。  
字を学ぶには、必ずまづ真書を大文字に書習ふべし。内閣字府の七十二筆を先うつ(写)すべし。次に行草を習ふべし。凡そ字を書習ふには、真・行・草ともに、古人の能書を法とすべし。東坡が曰、「真は行を生じ、行は草を生ず。真は、人の立(たつ)がごとく、行は、人のゆくがごとく、草は、人の走るがごとし。いまだ不立して、能行(よくゆき)、能走るものはあらず。」といへり。是を以って見るに、真は本也。草は末也。もろこしに先 (まず)真書より学ばしむる故に、字画正してあやまりなし。倭俗は真字を学ばざる故に、文字を知らず、筆画に誤多し。真書を学はざれば、草書にもあやまり多し。本邦近代の先輩、さばかり能書の名を得たる人おほけれど、真書を不学ゆへ、其筆跡、真・草共に多くは誤字あり。証とするにたらず。世俗文盲なる人、真書を早く学べば、手腕(うで)すくむ、といふは誤也。是書法をしらざる人の公事也。初学より真書をよく書習ふべし。初学の時、真・草ともに小字のみ書て、大字を書ざれば、手すくみて、はたらかず。故に初て手習ふには、真・草ともに大に書べし。其後には、次第に細字をも書習ふべし。手のすくむと、はたらくとは、習字の大小にあり。真草によらず。  
文字をかき、書を写すには、筆画を能弁(わきまえ)知りて誤なかるぺし。世俗の字をかくは、筆画に甚だ誤多し。心を用ひて筆画を知るべし。字画を知るには、説文を宗とし、玉篇の首巻、字彙の末巻、及(び)読字彙の内、字体弁徴、黄兀立が字考を以て誤を弁ずべし。字学にも亦、心を用ゆべし。  
書状を書には、本邦の書礼の習あり。必ず書礼を学んで、其法に順ふべし。書礼を学びされば、文字を知る人も、誤る事多し。  
唐流には、筆法の習ひ、猶もこれあり。予、かつて諸書の内を考へ、からの筆法の諸説をあつめて一書をあらはせり。心画軌範と名づく一冊あり。和流には、筆法の伝授とて、字ごとに各々むつかしき習ひあり。唐流には、すべての筆法の習はあれど、和流の如く、かかはりたる法はこれなし。  
世間通用の文字を知るべし。書跡よくしても、文字をしらざれば用をなさず。天地、人物、人事、制度、器財、本朝の故実、鳥獣、虫魚、草木等の名、凡そ世界通用の文字を知るべし。世俗は通用の文字を知るに、順和名抄、節用集、下学集などを用ゆ。順和名抄は用ゆべき事多し。又あやまり多し。功過相半なり。節用集、下学集は誤多し。用ゆべからず。世俗是等の書を用ゆる故、誤多し。近年印行せし訓蒙図彙、和爾雅、倭字通例書、などを選び用ゆべし。今、世俗の通用する漢名・和名、あやまり甚だ多し。能ゑらんで書べし。  
国字(かな)をかくに、かなづかひと、「てには」を知るぺし。かなづかひとは、音をかくに開合あり、開合とは字をとなふるに、口のひらくと合(あう)となり。和音五十字の内、あかさたな、はまやらわは開く音也。江・肴・豪、陽・唐、庚・耕、清・青の韻の字は皆開くなり。をこそとの、ほもよろおは合ふ音なり。東・冬、粛・零、蒸・登、尤・侯・幽の韻の字は皆合へる也。又、和訓の詞の字のかなづかひは、いゐ、をお、えゑ、の三音は、各二字づつ同音なれど、字により所によりて、いの字を用、ゐの字を用ゆるかはりあり。をお、と、えゑも亦同じ。又、はひふへほ、とかきて、わいうゑを、とよむは、和訓の詞の字、中にあり、下にある時のかきやう、よみやうなり。是も和音五十字にて通ずる理あり、是皆かなづかひの習ひ也。五十字によく通ずれば、其相通を知るなり。又「てには」とは、漢字にも和語にもあり。漢字・和語の本訓の外、つけ字を「てには」と云。「てには」と云は、本訓の外、つけ字に、ての字、にの字、はの字、多き故に名づく。又、「てにをは」とも云は、をの字も多ければなり。和字四十八字を、「いろは」と云が如し。学んで時にこれを習ふ、とよめば、ての字、にの字、をの字は、皆「てには」也。やまと歌は人の心をたねとしてよめば、はの字、をの字、ての字、皆「てには」也。又、和語の「てには」、上下相対する習ひあり。ぞける、こそけれ、にけり、てけれ。是、上を「ぞ」といへば、下は「ける」と云、「花ぞちりける」と云べし。「花ぞちりけり」とは云べからず。上にて「こそ」といへば、下は「けれ」と云べし。上にてこそといはば、下にてけりと云べからず。にけり、てけれ、も、これを以って知るべし。又わし、ぞき、と云は、上を「は」といへば、下は「し」と云、上を「ぞ」といへば、下は「き」と云。たとへば「かねのねはうし」、「かねのねぞうき」。此類を云。是皆「てには」の習ひなり。かなづかひ開合と、「てには」をしらで、和文・和歌をかけば、ひが事多くしてわらふぺし。 
巻之五 / 女子に教ゆる法 

 

男子は外に出て、師に従ひ、物を学び、朋友にまじはり、世上の礼法を見聞するものなれば、親の教えのみにあらず。外にて見聞きする事多し。女子はつねに内に居て、外にいでざれば、師友に従ひて道を学び、世上の礼儀を見習ふぺきやうなし。ひとへに親の教えを以って、身をたつるものなれば、父母の教え、怠るべからず。親の教えなくて、そだてぬる女は、礼儀を知らず。女の道にうとく、女徳をつつしまず、且女功の学びなし。是皆父母の子を愛するみちをしらざればなり。  
女子を育つるも、はじめは、大やう男子とことなる事なし。女子は他家にゆきて、他人につかふるものなれば、ことさら不徳にては、舅・夫の心にかなひがたし。いとけなくて、おひさき(生先)こもれるまど(窓)の内より、よく教ゆべき事にこそ侍べれ。不徳なる事あらば、早く戒むべし。子を思ふ道に迷ひ、愛におぼれ、姑息して、其悪き事をゆるし、其性(うまれつき)をそこなふぺからず。年に従ひて、まづ早く、女徳を教ゆべし。女徳とは女の心さまの正しくして、善なるを云。凡そ女は、かたちより、心のまされるこそ、めでたかるぺけれ。女徳をゑらばず、かたち(容)を本としてかしづくは、をにしへ今の世の、悪しき習はしなり。古のかしこき人はかたちのすぐれて見にくきいもきらはで、心ざまのすぐれたるをこそ、后妃にもかしづきそなへさせ給ひけれ。黄帝の妃ほ母(ほも)、斉の宣王の夫人無塩は、いづれも其かたちきはめてみにくかりしかど、女徳ありし故に、かしづき給ひ、君のたすけとなれりける。周の幽王の后、褒じ、漢の成帝の后、ちょう飛燕、其妹、しょうしょうよ、唐の玄宗の楊貴妃など、其かたちはすぐれたれど、女徳なかりしかば、皆天下のわざはひとなり、其身をもたもたず。諸葛孔明は、好んで醜婦を娶れりしが、色欲の迷ひなくて、智も志もいよいよ清明なりしとかや。ここを以、婦人は心だによからんには、かたち見にくくとも、かしづきもてなすべきことはり(理)たれば、心さまを、ひとへに慎みまもるべし。其上、かたちは生れ付たれば、いかに見にくしとても、変じがたし。心は悪しきをあらためて、善きにうつ(移)さば、などか移らざらん。古張華が女史の箴とて、女の戒めになれる文を作りしにも、「人みな、其かたちをかざる事を知りて、其性をかざる事を知る事なし。」といへり。性をかざるとは、む(生)まれつきの悪しきをあらためて、よくせよとなり。かざるとは、偽りかざるにはあらず。人の本性はもと善なれば、幼きより、善き道に習はば、なとか善き道にうつり、善き人とならざらんや。ここを以って、古女子には女徳をもはら(専)に教えしなり。女の徳は和・順の二をまもるべし。和(やわら)ぐとは、心を本として、かたち・言葉もにこやかに、うららかなるを云。順(したがう)とは人に従ひて、そむかざるを云。女徳のなくて、和順ならざるは、はらきたなく、人をいかりの(罵)りて、心たけく、けしき(気色)けうとく、面はげしく、まなこおそろしく見いだし、人をながしめに見、言葉あららかに、物いひさがなく口ききて、人にさきだちてさか(賢)しらし、人をうらみかこち、わが身にほこり、人をそしりわらひ、われ、人にまさりがほなるは、すべておぞましくにく(憎)し、是皆、女徳にそむけり。ここを以、女は、ただ、和順にして貞信に、なさけふかく、かいひそめて、しづかなる心のおもむきならんこそ、あらまほしけれ。  
婦人は、人につかふるもの也。家に居ては父母につかへ、人に嫁しては舅姑・夫につかふるゆへに、慎みてそむかざるを道とす。もろこしの曾大家が言葉にも、「敬順の道は婦人の大礼なり」といへり。黙れば女は、敬順の二をつねに。守るべし。敬とは慎む也。順は従ふ也。慎むとは、おそれてほしゐままならざるを云。慎みにあらざれば、和順の道も行なひがたし。凡そ女の道は順をたっとぶ、順のおこなはるるは、ひとへに慎むよりをこれり。詩経に、「戦々と慎み、競々とおそれて、深き淵にのぞむが如く、薄き氷をふむが如し。」、といへるは、をそれ慎む心を、かたどりていへり。慎みておそるる心もち、かくのごとくなるべし。  
女は、人につかふるものなれば、父の家、富貴なりとても、夫の家にゆきては、其親の家にありし時より(も)、身をひき(低)くして、舅姑にへりくだり、慎みつかへて、朝夕のつとめおこたるべからず。舅姑のために衣をぬひ、食をととのへ、わが家にては、夫につかへてたかぶらず。みづからきぬ(衣)をたたみ、席をはは(掃)き、食をととのへ、うみ・つむぎ、ぬい物し、子をそだてて、けがれをあらひ、婢多くとも、万の事に、みづから辛労をこらへてつとむる、是婦人の職分なれば、わが位と身におうぜぬほど、引さがりつとむべし。かくの如くすれば、舅、夫の心にかなひ、家人の心を得て、よく家をたもつ。又わが身にたかぶりて、人をさしつかひ、つとむべき事におこたりて、身を安楽におくは、舅ににくまれ、下人にそしられて、人の心をうしひ、其家をよくおさむる事なし。かかる人は、婦人の職分を失ひ、後のさいわひなし。慎むべし。  
古、天子より以下、男は外をおさめ、女は内をおさむ。王后以下、皆内政をつとめ行なひて、婦人の職分あり。今の世の慣ひ、富貴の家の婦女は、内をおさむるつとめうとく、お(織)り・ぬ(縫)ひのわざにおろそかなり。古、わが日の本にては、かけまくもかしこき天照大神も、みづから神衣をおりたまひ、斎服殿(いんはたどの)にましましける。其御妹稚日女尊(わかひるめのみこと)も亦しかり。是日本紀にしるせり。もろこしにて、王后みづから玄たんをおり給ふ。公侯の夫人、位貴しといへ共、皆、みづからぬをおれり。今の士、大夫の妻、安逸にほこりて、女功をつとめざるは、古法にはあらず。  
女に四行あり。一に婦徳、二に婦言、三に婦容、四に婦功。此四は女のつとめ行なふべきわざ也。婦徳とは、心だて善きを云。心貞 (ただ)しく、いさぎよく、和順なるを徳とす。婦言とは、言葉の善きを云。いつはれる事をいはず。言葉を選びていひ、にげ(似気)なき悪言をいたさず。いふべき時いひて、不用なる事をいはず。人其いふ事をきらはざる也。婦容とは、かたちの善きを云。あながちに、かざりをもはら(専)にせざれども、女は、かたち(容)なよよかにて、おおし(雄々)からず、よそほひのあてはかに、身もちきれいに、いさぎよく、衣服もあかづきけがれなき、是婦容なり。婦功とは、女のつとむべきわざなり。ぬひ物をし、う(紡)み・つむ(績)ぎをし、衣服をととのへて、もはら(専)つとむべきわざを事とし、戯れ遊び・わらふ事をこのまず。食物、飲物をいさぎよくして、舅・夫・賓客にすすむる、是皆婦功なり。此四は女人の職分也。つとめずんばあるぺからず。心を用ひてつとめなば、たれもなるべきわざ也。おこたりすさみて、其職分をむなしくすべからず。  
七歳より和字(かな)を習はしめ、又おとこもじ(漢字)をもたらはしむべし。淫思なきを古歌を多くよましめて、風雅の道をしらしむべし。是また男子のごとく、はじめは、数目ある句、みじかき事ども、あまたよみおぼえさせて後、孝経の首章、論語の学而篇、曹大家(そうだいこ)が女誡などをよましめ、孝・順・貞・潔の道を教ゆべし。十歳より外にいださず、閨門の内にのみ居て、おりぬひ、うみつむぐ、わざを習はしむべし。かりにも、淫佚(いんいつ)なる事をきかせ知らしむべからず。小歌、浄瑠璃、三線の類、淫声をこのめば、心をそこなふ。かやうの、いやしきたぶ(狂)れたる事を以て、女子の心をなぐさむるは、あしし。風雅なる善き事を習はしめて、心をなぐさむべし。此比(ころ)の婦人は、淫声を、このんで女子に教ゆ。是甚だ風俗・心術をそこなふ。幼き時、悪き事を見聞・習ては、早くうつりやすし。女子に見せしむる草紙も、選ぶべし。古の事、しるせる書の類は害なし。聖賢の正しき道を教えずして、ざれ(戯)ばみたる小うた、浄瑠璃本など見せしむる事なかれ。又、伊勢物語、源氏物語など、其詞は風雅なれど、かやうの淫俗の事をしるせる書を、早く見せしむべからず。又、女子も、物を正しくかき、算数をならぶべし。物かき・算をしらざれば、家の事をしるし、財をはかる事あたはず。必ずこれを教ゆべし。  
婦人には、三従の道あり。凡そ婦人は、柔和にして、人に従ふを道とす。わが心にまかせて行なふぺからず。故に三従の道と云事あり。是亦、女子に教ゆべし。父の家にありては父に従ひ、夫の家にゆきては夫に従ひ、夫死しては子に従ふを三従といふ。三の従ふ也。幼きより、身をおはるまで、わがままに事を行なふべからず。必ず人に従ひてなすべし。父の家にありても、夫の家にゆきても、つねに閨門の内に居て、外にいでず。嫁して後は、父の家にゆく事もまれなるぺし。いはんや、他の家には、やむ事を得ざるにあらずんば、かるがるしくゆくべからず。只、使をつかはして、音聞(いんぶん)をかよはし、したしみをなすべし。其つとむる所は、舅、夫につかへ、衣服をこしらへ、飲食をととのへ、内をおさめて、家をよくたもつを以って、わざとす。わが身にほこり、かしこ(賢)だてにて、外事にあづかる事、ゆめゆめあるぺからず。夫をしのぎて物をいひ、事をほしいままにふるまふべからず。是皆、女の戒むべき事なり。詩経の詩に、「彼(かしこ)にあっても悪(にく)まるる事なく、ここにあつてもいと(厭)はるる事なし。」といへり。婦人の身をたもつは、つねに慎みて、かくの如くなるぺし。  
婦人に七去とて、悪しき事七あり。一にてもあれば、夫より逐(おい)去らるる理たり。故に是を七去と云。是古の法なり。女子に教えきかすぺし。一には父母にしたがはざるは去。二に子なければさる。三に淫なればさる。四に嫉めばさる。五に悪疾(悪しきやまい)あればさる。六に多言なればさる。七に窃盗(ぬすみ)すればさる。此七の内、子なきは生れ付たり。悪疾はやまひなり。是二は天命にて、ちからに及ばざる事なれば、婦(ふ)のとがにあらず。其余の五は、皆わが心よりいづるとがなれば、慎みて其悪をやめ、善にうつりて、夫に去(さら)れざるやうに用心すべし。凡そ人のかたちは、生まれ付たれば、あらためがたかるべけれ。心は変ずる理(ことわり)あれば、わが心だに用ひなは、などか、おろかなるより、賢きにも、移さば移らざらん。黙れば、わが悪しき生まれ付を知りて、ちからを用ひ、悪しきをあらためて、善きに移るべし。此五の内、。したまづ父母に順がはざると、夫の家にありて、。舅、姑にしたがはざるは、婦人第一の悪なり。しかれば夫の去は、ことはりなり。次に妻をめとるは、子孫相続のためなれぱ、子なけれぱさるもむべ也。されど其婦の心和(やわら)かに、行ひ正しくて、嫉妬の心なく、婦の道にそむかずして、夫・舅の心にかなひなば、夫の家族・同姓の子を養ひ、家をつがしめて、婦を出すに及ばず。或(は)又、妾に子あらば、妻に子なくとも去に及ぶべからず。次に淫乱なるは、わが夫にそむき、他の男に心をかよはす也。婦女は万の事いみじくとも、穢行(えこう)だにあらば、何事の善きも見るにたらず。是女の、かたく心に戒め、慎むべき事なり。妬めば夫をうらみ、妾をいかり、家の内みだれてをさまらず。又、高家には婢妾多くして、よつぎ(世嗣)をひろむる道もあれぱ、ねためぱ子孫繁昌の妨となりて、家の大なる害なれば、これをさるもむべ也。多言は、口がましきなり。言葉多く、物いひさがなければ、父子、兄弟、親戚の間も云さまたげ、不和になりて、家みだるるもの也。古き文にも、「婦に長舌あるは、是乱の階(はし)なり。」といへり。女の口のき(利)きたるは、国家のみだるる基となる。といふ意なり。又、尚書に、「牝鶏の晨(あした)するは、家の索(さびしくなる)也。」と云へり。鶏のめどり(牝鶏)の、時うたふは、家のおとろふるわざはいとなるがごとく、女の、男子の如く物いふ事を用るは、家のみだれとなる。凡そ家の乱(みだれ)は、多くは婦人よりをこる。婦人の禍は、必ず口よりいづ。戒むべし。窃盗とは、物ぬすみする也。夫の財をぬすみてみづから用ひ、或(は)わが父母、兄弟、他人にあた(与)ふる也。もし用ゆべく、あたふべき事あらば、舅・夫にとひ、命をうけて用ゆべし。しかるに夫の財をひめて、わが身に私し、人にあたへば、其家の賊なれば、これをさるもむべなり。女は此七去の内、五をおそれ慎みて、其家を出ざらんこそ、女の道もたち、身のさいはひともなるべけれ。一たび嫁して、其家を出され、たとひ他の富貴なる夫に嫁すとも、女の道にたがひぬれぱ、本意にあらず。幸とは云がたし。もし夫不徳にして、家、貧賎なりとも、夫の幸なきは、婦の幸なきなれば、天命のさだまれるにこそと思ひて、憂ふべからず。  
凡そ女子を愛し過して、ほしゐままにそだてぬれぱ、夫の家にゆきて、必ずおご(驕)りおこたりて、他人の気にあはず、つゐには、舅にとうまれ、夫にすさめられ、夫婦不和になり、おひ出され、はぢをさらすものおほし。女子の父母、わが教えなき事をはぢずして、舅、夫の悪しきとのみ思ふ事、おろか也。父母の教え、なかりし女子は、おつとの家にゆき、舅の教え正しければ、せはらしく、たえがたくおもひて、舅をうらみそしり、中悪しくなる。親の家にて、教えなければ、かくの如し。  
女子には、早く女功を教ゆべし。女功とは、をりぬひ、うみつむぎ、すすぎいうあらひ、又は食をととのふるわざを云。女人は外事なし。かやうの女功をつとむるを以って、しわざとす。ことにぬひものするわざを、よく習はしむぺし。早く女のわざを教えざれば、おつとの家に行て、わざをつとむる事たらず、人にそしられ、わらはるるもの也。父母となれる者、心を用ゆべし。  
凡そ女子は、家にありては、父母につかへ、夫に嫁しては、舅・夫に、したしくなれちかづきて、つかふるものなれば、其身をきよくして、けがらはしくすべからず。是又、女子のつとむべきわざたり。  
父母となる者、女子の幼きより、男女の別を正しくし、行儀を、かたく戒め教ゆべし。父母の教へなく、たはれたる行(おこない) あれば、一生の身をいたづらにすて、名をけがし、父母・兄弟にはぢをあたへ、見きく人につまはじきをせられん事こそ、口をしくあさましきわざなれ。よろづいみじくとも、ちり(塵)ばかりもかかる事あらば、玉の盃のそこなきにもをと(劣)りなん。俗のことわざに、万能一心といへるも、かかる事なり。ここを以て、女は心ひとつを貞(ただ)しく潔(いさぎよ)くして、いカなる変にあひて、たとひいのちを失なふとも、節義をかたく守るこそ、此生後の世までのめいぽく(面目)ならめ。つねに心づかひをして、身をまもる事、かた(堅)きにすぎたらんほどは、よかるべし。人にむかひ、やはらかに、ざればみて、かろ(軽) らかなるは、必ず節義をうしなひ、あやまち(過)の出くるもとい(基)なリ。和順を女徳とすると、たはれの心のわうらかにして、まもりなく、かろ(軽)びたると、其すぢかはれる事、云に及ばず。古人は兄弟といへど、幼(幼き)より男女、席(むしろ)を同じくせず、夫の衣桁に、妻の衣服をかけず、衣服も夫婦同じ器にをさめず、衣裳をも通用せず、ゆあみ(沐浴)する所もことなり。是夫婦すら別(わかち)を正しくする也。いはんや、夫婦ならざる男女は、云うに及ばず。男女の分、内外の別を正しくするは、古の道なり。  
古、女子の嫁する時、其母、中門まで送りて、戒めて曰、「なんぢが家にゆきて、必ず慎み、必ず戒めて、夫の心にそむく事なかれ。」といへり。是古の、女子の嫁する時、親の教ゆる礼法なり。女子の父母、よく此理を云きかせ、戒むべし。女子も又、よく此理を心得て、まもり行なふべし。  
又女子の嫁する時、かねてより父母の教ゆべき事十三条あり。一に曰、わが家にありては、わが父母に専ら孝を行たふ理たり。されども夫の家にゆきては、もはら舅・姑を、吾二親よりも、猶おもんじて、あつく愛み敬ひ、孝行をつくすべし。親の方をおもんじ、舅の方をかろんずる事なかれ。舅のかた(方)に、朝夕の見まひを、か(欠)くべからず。舅のかたの、つとむべきわざ、怠るべからず。若、舅の命(おおせ)あらば、慎み行なひて、そむくべからず。凡その事、舅、姑にとひて、その教えにまかすべし。舅、姑、もし我を愛せずして、そしりにくむとも、いかりうらむる事なかれ。孝をつくして、誠を以って感ぜしむれば、彼も亦人心あれば、後は必ず心やはらぎて、いつくしみある理なり。二に曰、婦人別に主君なし。夫をまことに主君と思ひて、うやまひ慎みて、つかふぺし。かろしめ、あなどるべからず。やはらぎ従ひて、其心にたがふべからず。凡そ婦人の道は、人に従ふにあり。夫に対するに、顔色・言葉づかひ、ゐんぎん(慇懃)にへりくだり、和順なるべし。いぶ(燻)りにして、不順なるべからず。おごりて無礼なるべからず、是女子第一のつとめたり。夫の教え、戒めあらば、其命にそむくべからず。うたがはしき事は、夫にとひて其命をうくべし。夫とふ事あらば、ことわりただしくこたふべし。其いらへ、おろそかにすべからず。こたへの正しからず、其理きこえざるは、無礼なり。夫もしいかりせむる事あらば、をそれて従ふべし。いかりあらそひて、其心にさか (逆)ふべからず。それ婦人は夫を以って天とす。夫をあなどる事、かへすがへす、あるぺからず、夫をあなどりそむきて、夫より、いかりせめらるるにいたるは、是婦人の不徳のはなはだしきにて、大なるはぢ也。故に女は、つねに夫をうやまひ、おそれて、慎みつかふべし。夫にいやしめられ、せめらるるは、わが心より出たるはぢ(恥)也。三に曰、こじうと・こじうとめは、夫の兄弟なれば、たさけふかくすべし。又こじうと・こじうとめに、そしられ、にくまるれば、舅の心にそむきて、わが身のためにもよからず。むつましく和睦すれば、舅の心にかなふ。しかればこじうとの心も亦、失なふべからず。又あひよめ(相嫁)をしたしみ、むつまじくすべし。ことさら夫の兄、兄よめは、あつくうやまふべし。あによめ(嫂)をば、わがあねと同じくすぺし。座につくも、道をゆくも、へりくだり、をくれてゆくべし。四に曰、嫉妬の心、ゆくゆくをこ(起)すべからず。夫婬行あらば、いさむべし。いかりうらむべからず。嫉妬はなはだしければ、其けしき(気色)・言葉もおそろしく、すさまじくして、かへりて、夫にうとまれ、すさめらるるものなり。業平の妻の、「夜半にや君がひとり行らん」とよみしこそ、誠に女の道にかなひて、やさしく聞ゆめれ。凡そ、婦人の心たけく、いかり多きは、舅、夫にうとまれ、家人にそしられて、家をみだし、人をそこなふ。女の道におゐて、大にそむけり。はらたつ事あらば、おさへてしのぶべし。色にあらはすべからず。女は物ねんじ(憂さ・つらさを忍び堪えること)して、心のどかなる人こそ、さいはい(福)も見はつる理なれ。五に曰、夫もし不義あり、あやまちあらば、わが色をやはらげ、声をよろこばしめ、気をへり下りていさむぺし。いさめをきかずして、いからば、先(まず)しばらくやめて、後に、おつとの心やはらぎたる時、又いさむべし。夫不義なりとも、顔色をはげしくし、声をいららげ、心気をあらくして、夫にさからひ、そむく事なかれ。是又、婦女の敬順の道にそむくのみならず、夫にうとまるるわざなり。六に曰、言葉を慎みて、多くすべからず。かりにも人をそしり、偽りを云べからず。人のそしリをきく事あらば、心にをさめて、人につたへかたるべからず。そしりを云つたふるより、父子、兄弟、夫婦、一家の間も不和になり、家内をさまらず。七に曰、女は、つねに心づかひして、その身をかたく慎みまもるべし。つとにをき、夜わにいね、ひるはいねずして、家事に心を用ひ、おこたりなくつとめて、家をおさめ、をりぬひ、うみつむぎ、怠るべからず。又、酒・茶など多くこのみて、くせ (癖)とすべからず。淫声をきく事をこのみて、淫楽を習ふべからず。是女子の心を、とらかすものなり。戯れ遊びをこのむべからず。宮寺など、すべて人の多くあそぷ所に、四十歳より内は、みだりにゆくべからず。八に曰、巫・かんなぎなどのわざに迷ひて、神仏をけがし、ちかづき、みだりにいのり、へつらふぺからず。只、人間のつとめをもはらになすべし。目に見えぬ鬼神(おにかみ)のかたに、心をまよはすべからず。九に曰、人の妻となりては、其家をよくたもつべし。妻の行悪しく、放逸なれば、家をやぶる。財を用るに、倹約にして、ついえをなすべからず。をご(奢)りを戒むべし。衣服、飲食、器物など、其分に従ひて、あひにあひ(相似合)たるを用ゆべし。みだりに、かざりをなし、分限にすぎるを、このむべからず。妻をごりて財をついやせば、其家、必ず貧窮にくるしめり。夫たるもの、是にうちまかせて、其是非を察せざるは、おろかなりと云べし。十に曰、わかき時は、夫の兄弟、親戚、朋友、或(は)下部などのわかき男来らんに、なづさ(なれ)ひちかづきて、まつはれ、打とけ、物がたりすぺからず。慎みて、男女のへだてをかたくすべし。いかなるとみ(曰)の用ありとも、わかき男に、ふみ(文)などかよはする事は、必ずあるべからず。しもべを閨門の内に入(いる)べからず。凡そ男女のへだて、かるがるしからず。身をかたく慎むべし。十一に曰、身のかざりも、衣服のそめいろ、もやう(模様)も、目にたたざるをよしとす。身と衣服とのけがれずして、きよ(清)げなるはよし。衣服と身のかざりに、すぐれてきよらをこのみ、人の目にたっほどなるは、あしし。衣服のもやうは、其年よりはくすみて、をい(老)らかなるが、じんじやう (尋常)にして、らうたく(上臈らしく)見ゆ。すぐれてはなやかに、大なるもやうは、目にたちていやし。わが家の分限にすぎて、衣服にきよらをこのみ、身をかざるべからず。只わが身にかなひ、似合たる衣服をきるべし。心は身の主也。たうとぶべし。衣服は身の外にある物なり、かろし。衣服をかざりて、人にほこるは、衣服よりたうとぶぺき、其心をうしな(失)へるなり。凡そ人は、其心ざま、身のふるまひをこそ、よく、いさぎよくせまほしけれ。身のかざりは外の事たれば、只、身に応じたる衣服を用ひて、あながちにかざりて、外にかがやかし、人にほこるぺからず。おろかなる俗人、又、いやしきしもべ、しづの女などに、衣服のはなやかなるをほめられたりとも、益なし。善き人は、かへりて、そしりいやしむぺきわざにこそあれ。十二に曰、わが里の親の方にわたくしし、わが舅、姑、夫の方をつぎにすべからず。正月佳節などにも、まづおつとのかたの客をつとめて、親の里には、つぎの日ゆきて、まみゆべし。夫のかたをすてて、佳節に、わが親の里に、ゆくべからず。舅・夫のゆるさざるに、父母・兄弟のかたにゆくべからず。わたくしに、親の方にをくり(贈)物すべからず。又、わが里の善き事をほこりて、ほめかたるべからず。十三に曰、下女をつかふに、心を用ゆべし。いふかひなきものは、ならはし(慣)悪しくて、ちゑなく、心かだましく、其上、ものいふ事さがなし。夫の事、舅・姑・こじうとの事など、わが心にあはぬ事あれば、みだりに其主にそしりきかせて、それをかへりて忠とおもへり。婦人もし、ちゑなくして、それを信じては、必ずうらみ出来やすし。もとより夫の家は、皆他人なれば、うらみそむき、恩愛をすつる事やすし。つつしんで、下女の言葉を信じ、大せつなる、舅・小じうとの、したしみをうすくすべからず。もし、下女すぐれてかだましく、口がましくて、悪しきものならば、早くおひやるぺし。かやうのものは、必ず家道をみたし、親戚の中をも、いひ妨ぐるもの也。をそるべし。又、下女などの、人をそしるを、きき用ゆる事なかれ。殊に、夫のかたの一類の事を、かりそめにも、そしらしむべからず。下女の口を信じては、舅、姑、夫、こじうと、などに和睦なくして、うらみそむくにいたる。つつしんで讒を信ずべからず。甚だをそるべし。又、いやしきものをつかふには、我が思ふにかなはぬ事のみ多し。それを、いかりの(罵)りてやまざれば、せはしくはらだつ事多くして、家の内しづかならず。悪しき事は、時々いひ教えて、あやまりを正すべし。いかりの(罵)るべからず。すこしのあやまちは、こらえていかるべからず。心の内には、あはれみふかくして、外には行儀かたく、戒めてをこたらざるやうにつかふべし。いるかせなれば、必ず行儀みだれ、をこたりがちにて、礼儀をそむき、とがをおかすにいたる。あたへめぐむべぎ事あらば、財をおしむべからず。但わが気に入たるとて、忠なきものに、みだりに財物をあたふぺからず。  
○凡そ此十三条を、女子のいまだ嫁せざるまへに、よく教ゆぺし。又、書き付けてあたへ、おりおりよましめ、わするる事なく、是を守らしむべし。凡そ世人の、女子を嫁せしむるに、必ず其家の分限にすぎて、甚だをごり、花美をなし、多くの財をついやし用ひ、衣服・器物などを、いくらもかひととのへ、其余の饗応贈答のついえも、又、おびただし。是世のならはし也。されど女子を戒め教えて、其身を慎みおさめしむる事、衣服・器物をかざれるより、女子のため、甚だ利益ある事を知らず。幼き時より、嫁して後にいたるまで、何の教もなくて、只、其生まれつきにまかせぬれば、身を慎み、家をおさむる道を知らず。おつとの家にゆきて、をごりをこたり、舅、夫にしたがはずして、人にうとまれ、夫婦和順ならず。或(は)不義淫行もありて、おひ出さるる事、世に多し。是親の教えなきがゆへなり。古語に、「人よく百万銭を出して、女を嫁せしむる事をしりて、十万銭を出して、子を教ゆる事を知らず。」といへるがごとし。婚嫁の営(いとなみ)に、心をつくす十分が一の、心づかひを以て、女子を教え戒めば、女子の身を悪しく持なし、わざはひにいたらざるべきに、かくの如くなるは、子を愛する道をしらざるが故也。  
婦人は夫の家を以って、家とする故に、嫁するを帰るといふ。云意(いうこころ)は、わが家にかへる也。夫の家を、わが家として帰る故、一たぴゆきてかへらざるは、さだまれる理なり。されど不徳にして、舅、夫にそむき、和順ならざれば、夫にすさめられ、舅ににくまれ、父の家に、おひかへさるるのわざはひあり。婦人のはづべき事、是に過たるはなし。もしくは、夫柔和にして、婦の不順をこらへて、かへさざれども、かへさるべきとがあり。されば、人をゆるすべくして、人のためにゆるさるるは本意にあらず。  
をよそ婦人の、心ざまの悪しき病は、和順ならざると、いかりうらむると、人をそしると、物妬むと、不智なるとにあり。凡そ此五の病は、婦人に十人に七八は必ずあり。是婦人の男子に及ばざる所也。みづからかへり見、戒めて、あらため去べし。此五の病の内にて、ことさら不知をおもしとす。不知なる故に、五の病をこる。婦女は、陰性なり、陰は夜に属してくらし。故に女子は男子にくらぶるに、智すくなくして、目の前なる、しかるべき理をも知らず。又、人のそしるべき事をわきまへず。わが身、わが夫、わが子の、わざはひとなるべき事を知らず。つみもなき人をうらみいかり、あるは、のろ (呪)ひとこ(詛)ひ、人をにくみて、わが身ひとりたてんと思へど、人ににくまれ、うとまれて、皆わが身のあだ(仇)となる事を知らず。いとはかなく(果敢)あさまし。子を愛すといへど、姑息し、義方の教えを知らず。私愛ふかくして、かへりて子をそこなふ。かくおろかなるゆへ、年既に長じて後は、善き道を以って、教え、さとらしめがたし。只、其はなはだしきをおさへ、戒むべし。事ごとに道理を以って、せめがたし。故に女子は、ことに幼き時より、早く善き道を教え、悪しきわざを戒め、ならはしむべからず。  
宝永七庚寅年初夏日 筑前州 益軒貝原篤信撰  
 
江戸商人の経営

 

江戸時代の日本において、最大の産業は農業で、“米本位制”、つまり農民から税金=米を徴収することで、経済の基本が成り立っていたわけだが、世の中が安定してくるにしたがって、商業や手工業が発展し、貨幣経済が発達してくる。そして、米を貨幣に換える場所、として、大坂の堂島が中心地になるわけだ。  
江戸時代の幕開けにあたり、徳川家康が通貨発行権を掌握することで、全国的に貨幣経済は統一されていくのだが、そこで面白いのは“金”“銀”“銭(=銅)”の3つが、並立して流通していたこと。で、銭(銭形平次が投げてるのはこれ)は全国的に通用したが、東(江戸)は金が中心、西(京・大坂)は銀が中心。また、吉原の払いや初鰹のような高級品は金、日用品は銅でなければ取引できなかった、というのも面白い。で、金、銀、銭、それぞれの間で変動相場制が成立していたのだそうな。つまり「金高銀安」とか「銀高金安」なんてのがあり得たのである。  
江戸の市場経済においての最大の商流は、全国の産地→「商品集積地」としての大坂→「大消費地」としての江戸、が中心。これに、「製造・技術開発拠点」である京都と、唯一の貿易港である長崎が主要な経済拠点。京都の「伝統工芸」は、当時は「最先端の技術」なのである。(江戸、大坂、京都、長崎は、当然ながらすべて幕府の直轄地になっていた)  
大坂と江戸の商人の間では、江戸商人から大坂商人への代金支払いと、大坂商人から江戸にある各藩の大名屋敷への貸付、という2つのお金の流れについて、実際の現金を江戸→大坂→江戸と動かすのではなく、江戸商人から江戸の大名屋敷へ直接現金を動かし、間にたった大坂商人は為替で相殺させて決済する、なんていう取引も行われており、そのために両替商が大きな力をもっていた・・・と、この説明だと上手く伝わらないかもしれないが、ようするに、ある種の「金融技術」も充分発達していたようである。  
こうした「経済インフラ」の整備を背景に、いち早く集めた情報を元に、先物取引とか、為替取引とか、タイミングと時期を見計らった商品の移動とか、そういった「市場主義的」な動きで財をなしていた商人も沢山いた。  
当時、大坂の市場で成立した米の価格というのは重要な経済情報で、旗やのろしを使った通信で、全国に伝達されていたという。「旗振り通信」で「岡山まで15分、広島まで27分で通信できたといわれている」などと書かれている。これはすごいな。「儲ける」ための情報がいち早くほしい、というニーズは現代と全くかわらない。江戸までは、途中、箱根の山を飛脚で伝える必要があったので、8時間ほどかかったようだけれど。  
そして、江戸、大坂、京都、長崎、それぞれの都市の機能分担を背景に「江戸店(えどだな)持ち、京商人(きょうあきんど)」とといわれるように、「本店は京(や伊勢や近江や大坂)、江戸には販売拠点」といった展開をする商人も多く出現したのだという。三越(三井越後屋)なんてのもその一つだ。  
江戸時代というのは、幕府の統括の上に、各藩の地方分権が成立していたわけだから、各藩ごとに財政事情があり、それぞれに特産品の生産競争や、他藩との競争もあった。大名も各藩を「経営」しなければいけないから、特産品の生産には力を入れる。また、鎖国とはいえ、長崎を通した貿易には莫大な利権がある。大商人は、そうした各地の差を上手く利用しながら、商売をしていたのである。  
著者によれば、江戸時代の市場経済システムを成立させた要因として「3つの要素のベストミックス」があった、という。  
一つは地域差と多様性。地域ごとの特産品が生まれることで、それを取引しようという動機が生まれるし、比較優位による分業も生まれる。  
次に、制度的枠組み。江戸幕府(公儀)の成立を背景に、統一した貨幣制度や、市場取引ルールの整備が進んだ。これがないと、市場取引なんてできない。  
そして、水運網の整備。なにしろ商品を運べなければ、市場が成立しないのだ。菱垣廻船、樽廻船といった流通組織についても、本書に言及されている。  
こうした時代を象徴するものとして本書に取り上げられている、紅花をめぐる争いは興味深い。紅花は、和服の染料や化粧品の材料として重宝されていたのだが、その産地は出羽国村山郡を中心とした最上川流域(現在の山形県)だった。これを、現地で“花餅”とよばれる半加工品にして、最上川の水運で日本海側に輸送。さらに小浜や敦賀に船で運ばれ、京都の加工業者に持ち込まれる。そこで染料や、それを使った繊維製品、化粧品に加工されて、江戸に出荷されていたのである。そして、原料の産地である山形、加工地である京都、消費地である江戸、それぞれが流通と価格の主導権争いをめぐって、色々な動きがあったことを、本書は記していく。問屋をつくったり、潰させたり、金融を通じて生産地まで支配しようとしたり。やがて、山形から紅花生産のノウハウを上手いこと探り出して、埼玉近辺で生産を始める江戸の業者がでてきたり、でも京都ブランドが重要だから、埼玉でつくった紅花を京都まで送ったり、コストを考えて加工も江戸でやるようにするんだけど、こっそり京都ブランドつけちゃったり。まあ、いつの時代でも、このあたり、商売人の考えることは一緒のようではある。それにしても江戸時代、埼玉が紅花産地だったとは知らなかったなあ。。。  
ほかにも、官民関係とか(幕府と商人の癒着と賄賂なんていう負の側面と、意外なほど都市計画などにも民間の力が使われていた側面も含め)、江戸時代の「M&A」のありようなどなど、トピックは尽きず、江戸時代の市場経済が、おそらくは多くの人が思っている以上に、発達していることがわかる。  
話が前後するが、著書は、本書のプロローグでこんな風に記している。  
「『アングロサクソンの市場原理』が成立するどころか、いまだアメリカがイギリスの植民地だった時代から、わが国では商工業者=企業の競争が繰り広げられ、固有の市場経済システムと競争が存在していたこと、すなわち、江戸時代の競争と市場の実際が、この本を読み進めるうちにイメージされよう」。つまり、そういうことなのである。この手の話を持ち出して、「だから日本は偉いのだ!」という満足感に浸るだけの安易なナショナリズムは、あまり生産的ではないとは思うけれど、そういう事実自体を全く知らないというのもまた、もったいない気がする。  
江戸時代に「市場主義経済」は発達していたけれど「資本主義」や「自由主義」は存在しない。当然ながら、士農工商という身分制度の枠内での話だし、株式会社という枠組みはない。資本と経営の分離なんてもってのほかだろう。商売というのも、結局のところ「家」の継承だし。「株」はあるけれど、それは営業権のことで、今で言えば「相撲の親方株」みたいなものか。「株」を取得し、「株仲間」といわれる、同業者の組織に参加するにあたっては、商人は、一定の品格やらなにやらが問われたという。この辺は、「稼げばいい」って言うのとは違う、美学とか「公」への意識を感じるな。(もっともそれは、裏面で「業界の独占」や「既得権の保持」につながるものだったわけだけれども)  
江戸時代の市場経済をそのまま現代に持ち込むのは、もちろん無理無体な話なんだけれど、でも260年近く平和が続いた、世界史上でも稀有な時代にはぐくまれたビジネスの論理と倫理。  
なにかもうちょっと、学ぶことはあるのかもしれない。  
 
北前船の伝承

 

1 北前船(黒部を中心として)  
米を積み荷として北海道を目指した。佐渡へ行って西南西のワカサ風が吹くと3日で北海道に着いたという。佐渡〜粟島〜飛島と北上し深浦港で認定証をもらった。深浦には200艘並んだ。船頭が問屋と直接交渉し、契約が成立すると鰊肥を積んでアイの風を待った。風にさえ乗れば帰りも3日で帰れた。経済性を競って風待ちをした。3月〜6月が1回目、6月〜8月が2回目の交易となった。  
乗組員は船主、4〜5人の正式乗組員、あとは日雇いであり、この日雇いの採用希望者は多かった。理由は収入が良かったこと(農家の3〜4倍)。船主の家の草むしりをするなどご機嫌をとりながら、採用されるように努めた。  
商談をまとめるために青森、江差は勿論福島まで行った。持ち帰った鰊肥を売り現金化した。この漁肥が富山の農業を支えた。  
2 風の力  
風が大切であった。越中漁民が北海道に移住したのも風の影響が強いと考える。  
明治18〜19年の不漁の年、小船5〜6艘で組んで北海道へ行った。ムシロ帆で陸を右に見ながら進んだ。風を受けるために帆に水を絶えずかけて、帆をぴったりと濡らした。漁群を探し、陸で売りさばいた。太平洋の三陸へ。宮崎浜の漁師がムシロ帆で千葉まで行ったという。  
輪島の舳倉島は鮑の生息地である。鮑を取る海女・海士12人が福岡の宗像郡鐘ケ崎から永禄年間にやってきた。海に境界線はなく、彼らは鮑の生息地、販路を求め韓国までも隣感覚で行っていた。宗像から能登に来たのは獲物と風の影響であろう。  
3 船住まいから陸住まいへ  
早い時代の海士たちは、家を持たず、船で暮らし、結婚し、葬式をするというように、漁師は船の上で生涯を終わるものであった。「船の上に暮らしていた海人は陸に上がったらどうするか」という問題である。すぐ気付くのは船と漁家の間仕切りである。浜の船と家の間取りが三間縦並列になっている。漁家も縦並列、片側廊下という住居になっている。町屋にも漁師の船の構造が入り込んでいる。広く沿海州も含め『池』ともいえる日本海の周辺一帯に注目してみる必要がある。浜のトイレ(汚物)に対するこだわりの希薄性に目をやると、日頃海で用を足せる様式に影響されていることがわかる。  
4 対談要旨  
○ 弁財船について補足を願いたい。  
地乗り−山をみながら、沖乗り−風に乗る行き方があった。ワカサ風(ワカサモン)を受けるために能登へ。律令時代は能登から敦賀へそこから陸路琵琶湖へと向かった。その時も風を利用した。北前船の頃は底がヘラ船で荷は多く積めたが早く進まないので、風を利用する必要があった。  
○ 黒部周辺では浜に道路を作ろうとしたら、「なんでおらの土地にタダで作る」と抗議する風潮があるが、新湊周辺の浜に対する所有意識は?  
ここらでも浜に境界を作ったり、浜争いはよくある。大正8年海老江で網争いをしている。砂浜は大切なものだった。  
○ 地面(浜)以外に川はどうだったか?川も船が停まっている所を自分の屋敷だと思っていたか?  
思っていた。杭を打つのも大変だった。川に降りるために階段を作ったりして所有意識があった。  
○ 恵比寿さんについて。  
鯛を抱えた大漁恵比寿、商売恵比寿等恵比寿にも色々ある。  
○ 恵比寿は気ままな、融通無碍な神。死んだ人も恵比寿という。  
恵比寿は流れ仏。コモで包んであげる。  
○ 私は死体恵比寿を見た。2日後に大漁になると聞きそのとおりになった。  
船の神は女だから、女を乗せる時は2人以上乗せた。大漁になると良い女。  
○ 海の神といえばワダツミ(海神)で立派に聞こえる。それに対して、恵比寿はいろいろ派生していく。風について。タマ風はどこから吹く?  
南西。魚も来るけど、突風で危ない。  
○ タマ風−霊魂、悪霊を含んだ風。  
モンの風は亡霊の風。南西の風で9月26日前後。その日に限って大漁になり、船がひっくり返る。漁師は警戒する。  
○ 富山湾は竜宮といえるだけのアイガメがある。アイは藍色の意味ではなく、多くの魚がいる甕と見れないだろうか。
北前船  
江戸時代から明治時代にかけて活躍した主に買積み廻船の名称。買積み廻船とは商品を預かって運送をするのではなく、航行する船主自体が商品を買い、それを売買することで利益を上げる廻船のことを指す。当初は近江商人が主導権を握っていたが、後に船主が主体となって貿易を行うようになる。上りでは対馬海流に抗して、北陸以北の日本海沿岸諸港から下関を経由して瀬戸内海の大坂に向かう航路(下りはこの逆)及び、この航路を行きかう船のことである。西廻り航路の通称でも知られ、航路は後に蝦夷地(北海道・樺太)にまで延長された。  
畿内に至る水運を利用した物流・人流ルートには、古代から瀬戸内海を経由するものの他に、若狭湾で陸揚げして、琵琶湖を経由して淀川水系で難波津に至る内陸水運ルートも存在していた。この内陸水運ルートには、日本海側の若狭湾以北からの物流の他に、若狭湾以西から対馬海流に乗って来る物流も接続していた。この内陸水運ルート沿いの京都に室町幕府が開かれ、再び畿内が日本の中心地となった室町時代以降、若狭湾以北からの物流では内陸水運ルートが主流となった。  
江戸時代になると、例年70,000石以上の米を大阪で換金していた加賀藩が、寛永16年(1639年)に兵庫の北風家の助けを得て、西廻り航路で100石の米を大坂へ送ることに成功した。これは、在地の流通業者を繋ぐ形の内陸水運ルートでは、大津などでの米差し引き料の関係で割高であったことから、中間マージンを下げるためであるとされる。また、外海での船の海難事故などのリスクを含めたとしても、内陸水運ルートに比べて米の損失が少なかったことにも起因する。さらに、各藩の一円知行によって資本集中が起き、その大資本を背景に大型船を用いた国際貿易を行っていたところに、江戸幕府が鎖国政策を持ち込んだため、大型船を用いた流通ノウハウが国内流通に向かい、対馬海流に抗した航路開拓に至ったと考えられる。  
一方、寛文12年(1672年)には、江戸幕府も当時天領であった出羽の米を大坂まで効率よく大量輸送するべく河村瑞賢に命じたこともこの航路の起こりとされる。前年の東廻り航路の開通と合わせて西廻り航路の完成で大坂市場は天下の台所として発展し、北前船の発展にも繋がった。江戸時代に北前船として運用された船は、はじめは北国船と呼ばれる漕走・帆走兼用の和船であったが、18世紀中期には帆走専用で経済性の高い和船である弁才船が普及した。北前船用の弁才船は、18世紀中期以降、菱垣廻船などの標準的な弁才船に対し、学術上で日本海系として区別される独自の改良が進んだ。日本海系弁才船の特徴として、船首・船尾のそりが強いこと、根棚(かじき)と呼ばれる舷側最下部の板が航(船底兼竜骨)なみに厚いこと、はり部材のうち中船梁・下船梁が統合されて航に接した肋骨風の配置になっていることが挙げられる。これらの改良により、構造を簡素化させつつ船体強度は通常の弁才船よりも高かった。通常は年に1航海で、2航海できることは稀であった。こうした不便さや海難リスク、航路短縮を狙って、播磨国の市川と但馬国の円山川を通る航路を開拓する計画(柳沢淇園らが推進)や、由良川と保津川を経由する案が出たこともあったが、様々な利害関係が介在する複数の領地を跨る工事の困難さなどから実現はしなかった。  
明治時代に入ると、1隻の船が年に1航海程度しかできなかったのが、年に3航海から4航海ずつできるようになった。その理由は、松前藩の入港制限が撤廃されたことにある。スクーナーなどの西洋式帆船が登場した影響とする見解もあるが、運航されていた船舶の主力は西洋式帆船ではなく、在来型の弁才船か一部を西洋風に改良した合の子船であった。  
明治維新による封建制の崩壊や電信・郵便の登場は相場の地域的な格差が無くなり、一攫千金的な意味が無くなった。さらに日本全国に鉄道が敷設されることで国内の輸送は鉄道へシフトしていき、北前船は消滅していった。  
 
日米開国小史

 

   
1、日米国交樹立以前  
海洋国家の道を捨てた日本  
徳川幕府が鎖国する以前は、日本も海洋民族的特性を持っていた。1593(文禄2)年、呂宋(納屋)助左衛門がルソン島(現フィリピン)に渡り、ルソン貿易で財を築いた話は知られている。豊臣秀吉の頃の話だ。その後政権をとった徳川家康も海外貿易を奨励し、多くの日本商人がルソン島のマニラ、安南のトンキン(現ベトナム、ハノイ)やフェイホ(現ベトナム、ホイアン)、カンボジヤのプノンペンやピネアール、シャム(現タイ)等へ積極的に出かけ、現地にいくつかの日本人町さえ出来た。シャムで武勇をはせた山田長政の名は良く知られている。  
1609(慶長14)年、ルソン島の前総督、ドン・ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコがサン・フランシスコ号で新スペイン(現メキシコ)に向けて航海中、暴風に遭い日本の房総の御宿海岸(岩和田村)に漂着した。徳川家康に助けられたロドリゴは、9年前に同じく九州に漂着し家康に仕えた三浦按針(ウイリアム・アダムス)が家康のために新造した船、サン・ブエナ・ベンチュラ号(按針丸)で新スペインに着いた。また1613(慶長18)年伊達政宗の命を受けた支倉常長が、フランシスコ修道会宣教師ルイス・ソテロと共に、日本で造った船サン・ファン・バウティスタ号(伊達丸)に乗り、2年前に来日していた新スペインの使節セバスチャン・ビスカイノを伴って太平洋を渡り、新スペイン経由スペインとローマに向った。スペイン国王に会い通商の許可を得る目的だった。この「慶長遣欧使節団」一行の一部は常長と共に新スペインからヨーロッパに渡り、スペイン国王フェリペ三世に会い、ローマ法王パウロ五世にも会った。しかし日本もキリスト教徒を弾圧し始めたから、それを知ったスペイン国王からは通商の許可が得られず、1620(元和6)年失意の帰国をした事は良く知られている。  
このように、当時の日本人は200トン−300トンもある外洋航海の出来る船を造り、積極的に海外貿易に乗り出した。鎖国されるまでの約50年間に、朱印船と呼ばれ正規の貿易許可を取り渡航した日本船は合計三百数十雙にものぼった。こんな船の中には日本風の座敷が三間もあったり、十六畳の大広間や風呂を据え付けたものまであったという。日本の優秀な造船技術とそのコストの安さから、スペインなどからの買い手もついたほどだった。しかしキリスト教徒の影響増大を恐れる幕府は、1635(寛永12)年全ての日本人や日本船の海外渡航を禁じ、強いて帰国するものは死刑に処し始めた。また大名の貿易用大船保有も禁止され、支那との貿易は長崎だけに限った。幕府は島原の乱の鎮圧に引き続き1639(寛永16)年にポルトガル船来航禁止令を出したが、翌1640(寛永17)年、前年の来航禁止令を打開しようとポルトガルから再度の貿易を願いに来た使節団を捕えて処刑し、翌1641(寛永18)年オランダ商館を平戸から長崎の出島に移し完全な鎖国体制に移行した。しかし、この鎖国により日本は海洋民族的特性を失い、海洋国家として繁栄する道を捨てたのだ。 
日本に来た最初のアメリカ商船とそれに続く交易船  
アメリカのバージニア州やマサチューセッツ州など大西洋沿岸を中心にイギリスからの新教徒移民が根付くに連れて、ヨーロッパ北部からの移民も増え、1750年代には独特の地域と文化ができつつあった。粘り強く疲れを知らず、プロテスタント的精神を持ち、友情や忠誠心はあるが個人主義者でもある、いわゆる「ヤンキー気質」の出来上がりだった。宗教的倫理観や道徳を規範とするが個人主義者で、政府などによる拘束を好まない。こんな独自性の強い特性を持つアメリカ商人達は、イギリスやヨーロッパ、更にはアジアまでと活発に船で交易をし、独立戦争後もその行動範囲は更に拡大した。  
1790(寛政2)年に、早くもこんな一艘のアメリカ船が紀伊に現れたらしいが、記録がはっきりしていない。最初のはっきりした記録は、翌1791年、レディー・ワシントン号(船長、ジョーン・ケンドリック)とグレース号が紀伊大島(和歌山県)の樫野浦(かしのうら)に来た。この2艘はボストンとニューヨークの商船で暴風を避けて紀伊大島に来たと云われているが、夫々90トンと85トンの小さい帆船だ。この商船は、当時北アメリカのイギリス領(現カナダ)西海岸で獲れたビーバーやラッコなどの毛皮を手に入れ、支那の広東に持ち込む貿易を始めた。キャプテン・クックにより1778年に発見されたハワイを中心に貿易航海をしたが、ハワイ産の白檀なども広東に持って行った。帰りの積荷は、土地のインディアンと毛皮と交換する銅、鉄などの素材だった。これはボストンの商人組合が数年前から始めた新しい交易方法だったが、当時、カリフォルニアはまだメキシコ領で入植もまれだったから、サンフランシスコなどまだ歴史に登場しない頃の話だ。そしてハワイでも、アメリカ捕鯨船の寄港が始まる約30年も前の話だ。  
北アメリカのイギリス領では、東海岸で「ハドソンズ・ベイ・カンパニー」が長く毛皮交易を一手に行い、その後「ノースウエスト・ファー・カンパニー」も組織され西へと交易地点を広げた。後にこの二社は合併するが、内陸に交易所を多数造り、白人や土地のインディアン猟師などが持ち込む毛皮とイギリス製工業製品や食料とを交換した。紀伊大島に来た2艘のアメリカ船は、西海岸のバンクーバー島辺りで、こんなイギリス系毛皮交易商と同様に現地のインディアンと取引したのだろう。  
レディー・ワシントン号とグレース号が避難した紀伊大島は紀伊半島最南端にあり、島の南側の雷公神社(鳴神明神社)の前の浜近くに来て船係りしたといわれている。今も大島の北側の樫野崎近くに小さい港もあるが、こんな小さい商船なら島の何処にでも充分な避難場所を確保できただろう。大島の村役人から寛政3(1791)年4月4日、「樫浦沖に異国船渡来」の急報を受けた紀州藩は早速翌日目付や奉行、鉄砲役や手勢を大島に派遣したが、二週間ほど潮待ちの滞在をし出航した後だった。大島の現地には、  
本船はアメリカの商船で、積荷は銅・鉄や火砲、乗組員は100人、偶然にも風浪に遭い流されて貴地に来た。風向きが良くないためここに滞在するが、風向きが好転次第退去する。船主名・堅徳力記(筆者注:ケンドリック)。  
と書かれた漢文書類が残されていたという(「南紀徳川史」)。おそらく乗組員の中に支那人も居て、この書付けを村役人に渡したのだろう。村人が小船に乗って見物に行けば、船中に招き入れ酒肴も饗じたとも伝わっているという。  
日本は当時鎖国をしていたからもちろん商売は出来なかったが、レディー・ワシントン号のジョーン・ケンドリック船長は、今日の日本とアメリカの記録にはっきり残る、日本に足を踏み入れた最初の先進的なヤンキー商人だった。  
次の記録に残る日本に来たアメリカ船は、正式な交易目的で長崎に入港した船だ。もちろん当時、鎖国中の幕府が許可した交易国はオランダと支那だけだから、オランダ政府にチャーターされて長崎に来たのだ。したがって外洋航海中はアメリカ国旗を掲げていても、長崎入港時ははっきりとオランダ国旗を掲げ、オランダ船の入港手続きを踏んで入港した。  
この背景には、ヨーロッパにおけるフランスとイギリスとの敵対関係がある。フランス革命に続いてヨーロッパでは、1792年4月20日、フランスとハプスブルク家連合との戦争が勃発した。かって16世紀の半ばまでオランダはこのハプスブルク家連合に属していたし、それ以降共和国になっていたが、1795年ナポレオンが指揮するフランス革命軍に占領された。これに敵対しているイギリスがフランス及びフランス領を海上封鎖したから、フランス陣営に下ったオランダはバタビア(現インドネシアの首都ジャカルタ、当時の日本名ジャガタラ)から簡単には船が出せない。オランダ本国にしても、それまでの数々の戦争で国力は極端に疲弊していたから、日本へ貿易船を出す余裕など更になかった。したがってバタビアから長崎に交易船を送れないオランダ(当時、バタビヤ共和国)政府のバタビア総督は、主としアメリカ船をチャーターし、定期交易船として長崎に送ったのだ。こんな形で最初に入港したチャーター船は、1797年のイライザ号で500トンの帆船だ。その後1809年までに八艘のアメリカ船が正式なチャーター船として九回長崎に来た。いくら船籍はアメリカであっても、オランダがチャーターしている事実がイギリス軍艦に知れれば、大きなリスクがあっただろう事は想像に難くない。またオランダは、こんなアメリカ船の他に、ブレーメン船やデンマーク船も雇い長崎に送っている。  
中には1800年のエンペラー・オブ・ジャパン号のようにバタビアの正式許可なく交易船として長崎に入港し、オランダに没収された船もある。1803年に来たナガサキマル号は、堂々とアメリカの国旗を掲げて入港し通商を求めたが、長崎奉行に断られた。また1807年に来たボストンのエクリプス号は、ロシアとアメリカの合弁会社にチャーターされカムチャッカに向う途中、ロシアの国旗を掲げて長崎に入港した。オランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフに日本はロシアを非常に警戒していると指摘され、早々にロシア国旗を引き降ろす一幕もあった。これら三艘は何れもバタビアの正式なチャーター船ではなかったが、商機があれば果敢に挑戦するヤンキー気質の典型だった。 
鎖国中に長崎入港のアメリカ船(1797−1809)  
1797(寛政9)年:イライザ号(500トン、船長:スチュアート)  
1798(寛政10)年:イライザ号(500トン、船長:スチュアート)  
1799(寛政11)年:フランクリン号(200トン、船長:デヴェロー)  
1800(寛政12)年:マサチューセッツ号(900トン、船長:ハッチングス)  
(エンペラー・オブ・ジャパン号:長崎に入港したがバタビアの正式許可を受けていないことが発覚し、オランダに没収された)、  
1801(享和1)年:マーガレット号(船長:ダービー)  
1802(享和2)年:サミュエル・スミス号(船長:スタイルス)  
1803(享和3)年:レベッカ号(船長:ディール)  
(ナガサキマル号:アメリカ商船として通商を求め、長崎奉行に拒否された)、  
(筆者注:1804年、1805年はオランダ船が入港した)、  
1806(文化3)年:アメリカ号(船長:リーラー)  
1807(文化4)年:マウント・バーノン号(船長:デイヴィッドソン)  
(エクリプス号:ロシアとアメリカの合弁会社にチャーターされカムチャッカに向う途中、ロシアの国旗を掲げて長崎に入港した)、  
1809(文化6)年:レベッカ号(新出島商館長・クロイトホフが乗船していたため、長崎入港前にイギリス海軍に拿捕され、広東に送られた)。  
注:この年以降はイギリス海軍の制海権が更に強力になり、オランダの国力も極端に疲弊し、チャーターした交易船すら派遣できず、出島のオランダ人の食料さえも欠乏して行った。1811年9月ついにバタビヤを制圧したイギリスが、1813年に旧オランダ出島商館長や関係者を乗せた2隻のイギリス商船を長崎に送り、オランダ船の入港手続き通り入港し、合法的な命令書を提示し、オランダの出島商館の権益を取り上げようとする事件が起った。当時の出島商館長・ヘンドリック・ドゥーフは、「敵国管理下の命令書だ」とこの受け取りを拒否し、出島にオランダの国旗を掲げ続けた。当時この出島と2、3の例外を除き、世界中でオランダ国旗が降ろされてしまったのだ。その後、1815年6月9日のウィーン議定書締結によりネーデルラント連合王国が再び主権を回復し、1817(文化14)年8月からオランダ船の長崎貿易が再開された。 
日本船の難破、漂流と救助  
好むと好まざるとにかかわらず、人知を超えた数奇な運命が個人を巻き込む事件は時にある。海に出て暴風に会い、遭難漂流するのはその一つだ。地球総面積、5億1007万平方kmの内、3億6113万平方kmが海だから、地球表面の約71%が海だ。日本から渡海なしに外国に行く事は不可能だ。「逆もまた真なり」だが、この地政学的特質が、時に日本の歴史を決定ずけてきた。これが長期にわたる鎖国を成功させた一要因でもある。  
江戸期には、幕府公認の菱垣廻船や樽廻船、北国廻船などに使われた比較的大型の廻船でも時として暴風に遭い遭難した。特に秋から冬にかけて、台風や季節風の強くなる頃に難破船が多かったようだ。近年の天気予報は台風の進路をよく予測できる。南方から日本に接近し、日本列島を島なりに沿って北東に進むものが多い。これは日本列島上空を吹く偏西風、ジェット気流の影響を受けるものだろう。また黒潮も九州、四国、東海地方の沖を東に還流する。いったん舵や帆柱を損傷され流されれば、西からの季節風や黒潮に運ばれて太平洋を当てもなく漂う。幸いにカムチャッカ半島やアリューシャン列島近辺に流れ着けば、ロシア人達に助けられる可能性があった。1783年1月(天明2年12月)、船頭・大黒屋幸太夫ら17人乗組みの神昌丸が駿河沖で遭難し、同年7月頃アリューシャン列島アムチトカ島に流れ着き、ロシア人に救助され、エカテリーナ二世に謁見し、9年後の1792(寛政4)年10月、やっと根室に帰国した出来事は良く知られている。当時日本と貿易関係を築きたいロシアが、エカテリーナ二世の使節としてラクスマンを日本に派遣し、その交渉の糸口を開くため幸太夫らを送ってきたのだ。  
一方、十九世紀の前半からアメリカ商人の太平洋を渡るアジア進出が活発になり、太平洋の捕鯨も盛んになった。日米国交樹立以前に、こんな日本人遭難者のなかの幸運な人たちが、広い太平洋上でもアメリカ船に救助されたり、アメリカに漂着したりしている。地獄に仏とはまさにこのことであろう。こんな幸運な人たちは、いってみれば非公式の親善使節のようなものだが、もちろん自分達の意思で渡航したのではない。しかしその内の何人かは、図らずも日米交流史に明確な足跡を残している。  
中でも、現在のアメリカのワシントン州フラッタリー岬に漂着し、マカー・インディアンの奴隷にされ、ハドソンズ・ベイ・カンパニー西海岸交易所のマクローリン博士に救助され、ロンドン経由マカオに着き、アメリカのモリソン号で浦賀に送られて来たが大砲を打ちかけられ、帰国が叶わなかった音(乙)吉、岩吉、久吉。捕鯨船のホイットフィールド船長に助けられ、アメリカで教育を受け自分の意思で帰国し、咸臨丸の通訳として渡米したジョン・万次郎。オークランド号に救助されアメリカで教育を受け、アメリカに帰化し、アメリカの神奈川領事館通訳になり、横浜で初めての日本語新聞を発行したジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)。このような人達は日本開国の歴史に明確にかかわり、その事跡がよく知られている。 
アメリカ船に救助されたりアメリカに漂着した日本人(1805−1854)  
1806年2月:漂流。稲若丸の8人、1806年5月8日、アメリカ船テイバー号(船長、コーネリウス・ソール)に救助され、6月ハワイに上陸。アメリカ商船のアマサ・デラノ船長に乗せてもらい11月マカオ到着。支那の船でバタビア着。1807年アメリカ船マウント・バーノン号(オランダのチャーター船)で2人長崎帰着。善松1人が故郷に帰れた。  
1813年:漂流。督乗丸、尾張の船、船頭重吉他2人、1815年3月24日イギリス商船フォーレスター号(船長、ウイリアム・ピゴット)に救助される。バハ・カリフォルニア、アラスカ、カムチャッカ経由、日本に帰った。  
1832年12月:越後の船の4人、ハワイに漂着。カムチャッカ、オホーツク、択捉経由日本に帰着。  
1832年10月:漂流。宝順丸の3人、岩吉、久吉、音吉、ワシントン州フラッタリー岬に漂着(1833年12月)。マカー・インディアンの奴隷にされたがハドソンズ・ベイ・カンパニーに救助され、ロンドン経由、マカオ着。1837年モリソン号で日本に来たが大砲を打ちかけられ追い返された。  
1835年12月:漂流。肥後の船、船長庄蔵。フィリピンに流れ着きマニラ経由、マカオ着。1837年モリソン号で日本に来たが大砲を打ちかけられ追い返された。  
1839年1月:漂流。富山の北前船・長者丸の治郎吉船長と仲間7人、アメリカ捕鯨船ジェームス・ローパー号(船長、オービッド・キャスカート)に救助されハワイに滞在。8月ハワイ出発、カムチャッカ、オホーツク、アラスカ経由、1843年5月択捉到着。日本帰着。  
1840年6月:アメリカ船アージャイル号(船長、F・ゴッドマン)、3人の日本人漂流者を救助。支那に送られたがその後消息不明。  
1841年1月:漂流。アメリカ捕鯨船ジョーン・ホーランド号(船長、ホイットフィールド)が1841年6月27日、土佐の漁船の5人を鳥島で救助。ホイットフィールド船長、万次郎をフェアヘーブンで教育。万次郎は日本に帰り、徳川の士分に取り立てられる。1860年、咸臨丸の通詞としてサンフランシスコに航海。  
1841年11月:漂流。兵庫の永住丸の13人がスペイン船エンサヨ号に救助される。バハ・カリフォルニアのサン・ルーカス岬に到着後サン・ホゼに滞在。船頭善助と初太郎はアメリカ船アビゲイル・スミス号(船長、ドエイン)でマザトランからマカオに送られる。1844年1月22日長崎に帰る。アメリカ船セントルイス号でマザトランから多吉、弥一郎、伊之助の3人が、スペイン船で他の1人が支那に送られる。1855年に長崎に帰る。  
1842年:漂流。フランシス号(船長、ハッセイ)が聖徳丸の弥佐平、惣七の2人を救助。ホノルルに上陸。ハウエル号(船長、イングル)でマカオに上陸。永寿丸の初太郎とサミュエル・ウエルス・ウイリアムスの家で出遭う。弥佐平は永寿丸初太郎と長崎に帰る。  
1845年2月:漂流。幸宝丸の11人鳥島に漂着。アメリカ捕鯨船マンハッタン号(船長、マーケター・クーパー)に救出される。途中、仙寿丸の漂流者11人が2月9日救助される。マンハッタン号は浦賀で漂流者を引き渡した。  
1847年5月:アメリカ捕鯨船フランシス・ヘンリエッタ号(船長、プール)4人の漂流者を救助。1ヵ月後、海上で日本の漁船に引き渡した。  
1848年:船長、コックスが15人の漂流者を救助し、ハワイのラハイナ島に上陸させた。  
1849年1月:漂流。米国捕鯨船、漂民四人を救助し、内二人を朝鮮釜山浦に護送した。対馬府中藩主宗対馬守がこれを幕府に報じ、二人を長崎に送らせた。  
1850年2月:漂流。4月22日、捕鯨船ヘンリー・ニーランド号(船長、G・H・クラーク)紀伊国日高浦の天寿丸の13人の漂流者を救助。カムチャッカで2人がヘンリー・ニーランド号に残り、2人がアメリカ捕鯨船ニムロッド号に、2人がアメリカ捕鯨船マレンゴ号に移った。3艘のアメリカ船はホノルルまで漂流者を運んだ。漂流者はホノルルから香港、上海経由、1851年9月長崎に帰った。カムチャッカに残った7人の漂流者は、1852年6月10日ロシア船メンチコフ号でシトカを出て、8月9日(嘉永5年6月24日)下田に来たが役人から受け入れられず、リンデンバーグ船長は5日後その近くに漂流者を上陸させ支那に向った。  
1850年12月:漂流。アメリカ商船オークランド号が1851年1月22日、栄力丸の17人を救助し、サンフランシスコに入港。日本開国に利用しようと、オーリック提督の命令で支那に移送。仙太郎はペリー艦隊で横浜に来たが下船せず。後に宣教師ゴーブルと帰国。伝吉はイギリス使節と帰国。彦蔵(ジョセフ・ヒコ)はアメリカ市民になり領事館通詞として帰国。  
1852年4月:アメリカ捕鯨船アイザック・ホウランド号(船長、ウエスト)、太平洋上で三河の国・渥美郡江比間村の与市所有の永久丸で漂流する4人の日本人を救助。ホノルルに上陸。4人のうち岩吉と善吉は釜山・対馬・長崎経由で帰国。他の2人、作蔵と勇次郎はそのまま捕鯨を続け、アイザック・ホウランド号の母港・アメリカのニューベッドフォード及び香港経由、フランス捕鯨船・ナポレオンデルデ号(船長、ローベス)で安政1(1855)年12月12日に下田に帰国。  
1852年10月:越後の船・八幡丸松前沖で難破し9ヶ月漂流。1853年アメリカ商船、日本人漂流者・重太郎を救助。1854年サンフランシスコに上陸。彦蔵(ジョセフ・ヒコ)が重太郎の通訳をする。その後消息不明。  
1854年7月:アメリカ商船レディー・ピアース号(所有主、バロース)サンフランシスコに上陸していた3人のうち1人の日本人、越後国岩船郡枝久村(板貝村とも)水主・勇之助(バロースはDee-yee-noos-keeと呼ぶ。ジョセフ・ヒコによれば積荷監督人)を下田まで連れてきた。 
アメリカ捕鯨船の遭難と船員の救助  
日本でも一方、外国人の遭難者が救助され、長崎で取調べを受け、オランダ商館を通し夫々の国に送還されたケースがある。これはしかし、日本人の遭難に比べればその頻度ははるかに少なかった。  
1770年代にはアメリカ人も大西洋でマッコウ捕鯨をやっていたが、20年もたつと工業用の潤滑油やろうそく原料の需要が大幅に増え、ニュー・ベッドフォードやナンタケットを基地にした大量の捕鯨船が南太平洋に進出した。すぐ北太平洋にも進出し、数こそ多くはなかったが、中には夫婦で船に乗り込む捕鯨船長もあり、1854年5月にはそんな一隻、イライザ・F・メイソン号が箱館に来ている。それほど捕鯨に従事するアメリカ船は多く、不幸にも難破する船もあった。  
1845(弘化2)年から1850(嘉永3)年までオランダ商館長の職にあったJ.H.レフィスゾーンは、その5年間に55人の外国人遭難者を長崎奉行から受け取り、夫々の国に送還した。レフィスゾーンは長崎奉行の遭難者取調べにあたり、英語やフランス語とオランダ語の通訳をして日本側を助け、引き渡された遭難者を入港したオランダ交易船に乗せバタビヤに送った。このうち確認できる4回のケースが23人のアメリカ船の船員の帰国である。55人のうち他の27人はイギリス人との記述がある。 
日本で救助され帰国したアメリカ人(1846−1849)  
1846年6月4日(弘化3年5月11日)、ニューヨークの捕鯨船ローレンス号が千島列島で難破し、23人中の7人が択捉島ルベツに避難できた。日本側の記録では、択捉の侍番所に保護された7人はそのまま越冬のため同所に滞在し、翌年5月31日長崎に向けて出発し、8月19日に到着した。取調べが終わり、江戸からの指示を待っているあいだに1人が死亡したが、残りの6人は全ての持ち物を返却され、奉行から米を貰い、10月27日オランダ船でバタビアに送られた。  
1848年6月7日(嘉永1年5月7日)、アメリカの捕鯨船ラゴダ号で船員が虐待問題で反乱を起し、15人が3艘のボートで逃走し、松前近くの蝦夷地(現在、北海道檜山郡上ノ国町字石崎あたり)に上陸した。日本側の記録によれば、6月7日いったんは薪や食料を与えて立ち去らせたが、再度その近くの江良(現在、松前郡松前町字江良あたり)に上陸したため保護し江戸の指示を求めた。保護のあいだに3人が2回にわたって逃出し、捕らえられては牢に入れられた。長崎へ移送せよとの江戸からの指示の下、15人は長崎に送られたが、逃出して捕獲された3人は拘束状態のまま移送された。取り調べの後オランダ船を待っているあいだにも3人が2回逃走し、再度捕獲され牢に入れられ、残りの船員も監視が強化された。2人が死亡し13人になった。1849年4月26日、アメリカ軍艦プレブル号が遭難者の救出に長崎港に入り、別に保護されていたラナルド・マクドナルドと共に帰国した。  
1848年6月27日(嘉永1年5月27日)、アメリカ捕鯨船プリモス号に乗っていたラナルド・マクドナルドは、自身の冒険記によれば、船が蝦夷地(北海道)の西岸に近づくと、かねてから船長との約束どおり単独でボートに乗り捕鯨船を離れた。そして7月2日(6月2日)利尻島に遭難を装って上陸した。保護されたラナルドは、宗谷を経由して長崎に送られ、10月11日長崎に着いた。長崎奉行の調べが終わると、長崎の通詞たちがラナルドを訪ね、ラナルドは彼等に英語を教えた。1849年4月26日、アメリカ軍艦プレブル号が遭難者の救出に長崎港に入り、捕鯨船ラゴダ号の船員と共に帰国した。  
1849年7月20日(嘉永2年6月1日、松前藩の推定日)、ニュー・ベッドフォードの捕鯨船トライデント号の3人が樺太の近くの島に置き去りにされた。日本人に保護された3人は松前から長崎に送られ、8月9日に到着した。日本側には、「島に置き去りにされた」という理由はスパイの公算が強いとの文書のやり取りが記録されている。レフィスゾーンの助けで取調べが済み、10月24日、オランダ船で帰国した。 
日本に来たアメリカ情報  
アメリカの独立以前、そしてその後ペリー艦隊が浦賀に来るまでに、アメリカの情報はどのくらい日本に来ていたかという設問は調べてみる価値がある。  
「海洋国家の道を捨てた日本」の項でも書いたが、1613(慶長18)年、伊達政宗の命を受けた支倉常長が「慶長遣欧使節団」の責任者としてスペインに派遣された。一行は太平洋を渡り、メキシコに滞在した後ヨーロッパに渡った。当時、常長一行の上陸したアカプルコ辺りから北上してバハ・カリフォルニア半島をさかのぼった北部、すなわち現在のカリフォルニア州サンディエゴの地に新スペイン(現メキシコ)の兵士やフニぺロ・セラ神父がたどり着き、西海岸の領土拡大と布教活動の拠点を築いたのが1769年で、慶長遣欧使節団から156年も後のことである。1613年当時の北アメリカ西海岸の情報は、常長と一緒に日本からメキシコに帰ってきた使節・セバスチャン・ビスカイノ自身がその10年ほど前にこの西海岸を船で北上した探検情報が最新だった。一方この時点の東海岸では、一回目の失敗に続いて1607年、初めてのイギリス植民地がジェームスタウンに出来たばかりだから、北アメリカの内陸は漠とした不明の大陸だった。  
江戸時代に長崎の商人であり学者でもあった西川如見(1648−1724)は天文学にも通じた、天文人文学者である。如見は1708(宝永5)年、オランダ情報を基に『増補華夷通商考』を出版した。この宝永6(1709)年版の巻三に一種の世界地図「地球万国一覧之図」が載っている。中に、日本から太平洋を隔てた東に「北亜墨利加ノ諸国」、「カリフルニヤ」、「モシコ(メキシコ)」、「ペルウ」、「ハラジイル(ブラジル)」、「南亜墨利加ノ諸国」などが記載されている。もちろん当時、アメリカ合衆国などは存在していないから、カリフルニヤやモシコ(メキシコ)などの地名がオランダ経由で伝わったのだ。  
新井白石(1657−1725)が1713(正徳3)年に著わした『采覧異言』にはより詳しく、「ノオルト・アメリカ、北亜墨利加」として各地域の記述がある。『采覧異言』はいわゆる正規刊行本ではないが、白石は幕府に献上されたオランダのウィレム・ヤンツーン・ブローの地図を参照した。「南はマルデルスル、海名、に至る。ソイデ(南)・アメリカを與う。彊(きょう)界相接す。北はグルンランド(グリーンランド)に聯(つらな)る。東はヲセヤヌス。デウカレドヲニウス、海名、に至る。西界は極る所、其を知らず」と書いて、(ブローの)図説によれば南北アメリカは完全に海に囲まれ、細い陸地でつながっている。(ブローの)西図によれば地理学的形状は勢いよく変化に富む。この図では東部と南部が明確なだけである。北部はグリーンランドにつながるように描かれている。西部については、北緯28度以北、あるいは其未蝋(キビラ、Quivira)と呼ばれる地は、その極まる所は不明であると記述している。この北緯28度線はバハ・カリフォルニア半島の中間地点を通るが、新スペインでさえも領土拡張の意図を持って北緯32度43分にあるサンディエゴに進出したのがやっと1769年のことだ。この当時、北アメリカ大陸の中部から北部の西海岸は全く未知の大陸だった 。  
これに関し少し横道にそれるが、明治の初めになって、1700年代のそんな地図(地球儀)を見て来た日本人がいる。明治4(1871)年暮れに日本を出発し、1年9ヶ月かけてアメリカとヨーロッパを回ってきた米欧特命全権大使・岩倉具視はじめ木戸、大久保、伊藤、山口等の一行だ。その記録係を命じられ、「特命全権大使米欧回覧実記」をまとめた久米邦武(くにたけ)の実記の記述に次のように出てくる。カリフォルニアについて「仏国パリの書庫に、1700年代の地球儀あり。太平海あたりの州土は訛謬(かびゅう=過謬=過誤)甚だしく、この州をオーストラリア州を見る如く、北米の西において大なる一島に描きたり」。右に載せた1660年のデ・ウィット地図も全くそんな感じに見える。  
1792(寛政4)年、絵師で蘭学者の司馬江漢(1747−1818)が銅版画で與地全図を発行した。これを見ても、現在のメキシコ湾沿いのメキシコ沿岸、キューバ、テキサス州、アラバマ州、フロリダ州から東海岸のマサチユーセッツ州、メイン州、カナダのノバスコシアまで比較的詳細に記してあるが、西海岸北部はバハ・カリフォルニア半島から精々サンフランシスコの手前辺りまでだ。それ以北についてはやっと1774年、スペイン国王の命により本格的な西海岸北部の探検が行われ、バハ・カリフォルニア半島からフアン・ペレツが派遣された。当時ペレツはバンクーバー島辺りには来ている。1778年にはイギリスのジェームス・クックも探検に来てバンクーバー島に上陸し、ブリティッシ・コロンビア沿岸をベーリンク海峡まで測量した。一方、1776年7月4日にはアメリカで独立が宣言され、やっとアメリカ合衆国が姿を現した。しかしこんな地理的・国政的情報は、司馬江漢の当時まだ日本には届いていなかった。  
諸外国の活動が活発になり、日本との非公式な接触が増すにつれ、『オランダ風説書』が幕府の世界情勢把握の主たる情報源になった。1641(寛永18)年から幕府の要請で始まった風説書は、1842(天保13)年からの『別段風説書』も加えられ、鎖国が続行するに連れて世界情勢を知る重要な窓口だった。また支那からの『唐船風説書』も出された。このような情報入手のルートが確立していた事は、重要で有意義な手だてだった。しかし、すでに多くの歴史家が指摘している通り、問題はその情報を得た後に、時の幕閣たちがどう生かそうとしたのかが、その後の日本の運命を決めている。  
アメリカの独立戦争と合衆国の建国については、1809(文化6)年、オランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフにより伝えられたが、独立の33、4年も後のことだ。その後こんないくつかのオランダからの風説書や別段風説書には、アメリカ・メキシコ戦争、カリフォルニアのゴールドラッシュ、アメリカの日本との通商の期待、日本遠征の企画、ペリー遠征艦隊の香港への集結などを率直に伝えている。  
またペリー艦隊が浦賀に姿を現す前に、琉球から小笠原諸島に航海し貯炭場を確保した後、再び那覇に集結し日本に向った。琉球から薩摩にこのペリー艦隊が最終的には日本に行くとの情報が入り、当時の藩主・島津斉彬は嘉永6(1853)年6月1日、アメリカ軍艦が4月19日以来琉球の那覇に集結している事態を幕府に報告している。この報告の2日後にペリー艦隊が浦賀に姿を現したのだ。斉彬はこの琉球からのペリー艦隊日本遠征情報に接した時は江戸から帰国の途中だったが、江戸詰め家老に幕府への届けを命じると共に、ペリー艦隊がもし6月初旬に浦賀に来て内海に乗り込み武力行使になりそうな場合でも、薩摩藩から先に手出しはするなとも命じている。 
アメリカ政府の日本開国へ向けた公式なアプローチ  
アメリカ国内では、日本との非公式な接触を通し、正式な通商関係を持つべきだとの機運が貿易業界に高まり、アメリカ政府もその対策にのりだした。ペリー提督の日本遠征以前に、日本へ向けた公式な使節の派遣が複数回試みられた。アメリカ政府は支那、コーチン・チャイナ(インドシナ南部地域)、シャム、マスカット(アラビア半島東端)などとの条約交渉を始めていたから、その一環として日本との通商条約締結交渉が計画され指令された。しかし下の表中に説明の通り、使節の死亡や指令書交付の遅れなどのため、アメリカ政府の日本へ向けた初期の通商条約締結計画はその意に反し破綻した。  
1846(弘化3)年、浦賀にやって来た東インド艦隊司令官ビドル提督も、その指令書の内容により、いわゆる「微笑外交」となり、鎖国中の幕府からは通商を拒否された。この時、アメリカ政府の日本へ向けた使節派遣の動機は商業活動の拡大が唯一のものだったから、ビドルが大砲を満載した二艘の軍艦を引き連れては来たが武力を誇示さえもしなかった。後に問題となる人道的、国際公法的な視点はまだなかったわけだ。次章に述べるペリー提督の派遣に当たってアメリカ政府は、商業活動の拡大を推し進め開国を迫るため、問題になり始めた人道的、国際公法的理由を前面に押し出したから、同じ黒船で来てもビドル提督とペリー提督の交渉姿勢は大きく違っている。  
しかし一つ指摘しておきたい事は、次に書くペリー提督の日本派遣も含め、当時アメリカ政府のこれら使節派遣には、イギリスやフランスと異なり、通商で優位に立とうとはしても植民地獲得の意図はなかったことだ。 
ペリー提督以前にアメリカ政府が日本に派遣した使節たち  
ペリー提督が日本に向け派遣される以前から、アメリカ政府はアジア諸国に向け条約締結の使節を派遣し、日本もその対象国の一つだった。日本に向かった使節は、次のような顔ぶれだ。  
•1832(天保3)年アメリカ政府は、エドモンド・ロバーツ(ニューハンプシャー州ポーツマスの豪商)に支那、コーチン・チャイナ、シャム、マスカットなどの条約交渉に続いて日本との条約交渉を命じ信任状も与えていたが、ロバーツは日本には足を向けなかった。詳細な理由は不明だが、アジアの国々は基本的に通商に乗り気ではなかったから、軍艦・ピーコック号の帰国期限も迫り、将軍に対する贈答品の購買資金も不足気味で、時間的かつ予算的制約のための優先順位決定だったのだろう。しかし、ロバーツはシャム及びマスカットと和親條約を結んでいる。  
•1835(天保6)年アメリカ政府は、ロバーツのシャムやマスカットへ批准書を届ける二回目の派遣でも、日本との交渉を命じた。政府は日本へ向けロバーツが持参すべきアンドゥルー・ジャクソン大統領の親書と金時計や剣、ライフルやピストル、その他多くの贈り物を準備したが、1836年、シャムで批准書を交換しマカオに到着したロバーツの突然の死によって、日本行きは不可能となった。しかしこの時期の日本は、文政8(1825)年に出された異国船打払令が天保13(1842)年まで有効だったから、ロバーツが例え長崎に来ても交渉は困難だっただろう。  
•1844年、ジョーン・タイラー大統領の任命によりアメリカと支那との最初の条約を交渉した全権公使ケーレブ・カッシングは、支那に滞在中日本との条約交渉の重要性を認め、政府に日本との条約交渉を提案した。ジェームス・ポーク新大統領は直ちにカッシングに全権を与え日本行きを命じたが、その命令書はカッシングの帰国と行き違いになった。当時アメリカの下院議会では、「アメリカと日本や朝鮮との間に通商条約を結ぶべきだ」との決議がなされるほど、一部の熱心な議員も出始めていた。後任の支那への公使・アレクザンダー・エヴェレットは、赴任途中のリオ・デ・ジャネイロで病気になり、日本との交渉権限を東インド艦隊司令官・ジェームス・ビドル提督に委譲した。  
•1846(弘化3)年7月20日、コロンブス号とヴィンセンス号で日本に来たビドル提督は浦賀に碇を下ろした。ビドルに宛てたバンクロフト海軍長官からの指令書は、日本が開国をし通商条約を結ぶ意思があるか否かを穏やかに聞けというものだったが、幕府からは拒否の返事が返ってきた。ビドルもこれを受け入れ、7月29日おとなしく帰国の途に着いた。  
•アメリカ政府は、ビドル提督の日本からの帰国以前に、病気で遅れて支那に赴任したエヴェレットに対し再度の日本行きを命じたが、更なる病気の悪化により果たせなかった。  
このように、何れの使節派遣も成功しなかったが、ビドル提督のようにアメリカ海軍将官は、ヨーロッパ以外の遠隔地で外交官の役割も担うのが伝統であり、アメリカの合理主義的行動の典型的な一例だ。 
2、和親条約と開国

 

ペリー提督の派遣  
アメリカ政府の試み  
アメリカ政府がペリー提督を日本に派遣する前に、ペリー提督とは少し異なる意図を持った日本開国へ向けた使節の派遣、すなわちエドモンド・ロバーツによる1832年と1835年の試み、そしてケーレブ・カッシングによる1844年の試みなど、通商拡大のみを目指した開国使節派遣については前章の最後に書いた。特にその後を受けて、支那へのアメリカ公使、アレクザンダー・エヴェレットの要請で1846(弘化3)年7月20日浦賀に来たビドル提督は、浦賀奉行を通じ江戸幕府に日本の開国意志を問い合わせた。鎖国を続ける幕府は、その意志のないことをはっきりビドル提督に伝えた。  
しかし1849(嘉永2)年になると、それまでの単なる通商拡大に向けた日本開国の期待だけでなく、日本における遭難したアメリカ捕鯨船乗組員に対する虐待が大きな人道的問題として急浮上した。具体的には前章、「1、日米国交樹立以前」の後半に載せた、日本で救助されたアメリカ人の表の中のローレンス号とラゴダ号の事件である。ラゴダ号船員が蝦夷地で日本側に保護され長崎に送られると、この情報が長崎のオランダ商館から広東のオランダ領事を経由しアメリカ領事館に伝えられた。アメリカ政府は早速軍艦・プレブル号を長崎に派遣し、保護された遭難船員を救助させた。その中の数人が日本の蝦夷地や長崎への移送途中、あるいは長崎で保護中に逃亡を図り、幕府に厳しく身柄を拘束されていたから、これが「虐待問題」として伝えられたのだ。  
アメリカ議会は1850年にこの「日本の虐待」を取り上げ、国務長官もその実態を議会に報告している。また民間人のエアロン・H・パーマー(AaronH.Palmer)も数次に渡り米国政府に、日本を始めアジア諸国への政府特使派遣を建策したが、議会は云うに及ばず民間からの人道問題解決と通商拡大の要求は、アメリカ政府の緊急課題になった。この民間人のエアロン・パーマーは、1851年1月に直接フィルモア大統領にも書簡を送り、特に日本に向けた使節派遣を建言している。  
あわせて、国を超えた通商はヨーロッパ先進諸国の常識になり、技術革新による蒸気船の使用や電気通信も急速に普及し始めた。更にアメリカ西海岸のサンフランシスコから支那へ向かう蒸気船の定期運航も視野に入り始めたから、この定期航路に近い日本に石炭補給基地があれば好都合であり、日本との通商にも期待がかかった。このように人道的問題をも抱合した通商拡大の期待から、日本遠征計画は民間人や業界人はもちろん、政府与党や野党からも支持を受け、蒸気軍艦を複数含む大艦隊を日本に派遣し、武力誇示を主要作戦にした日本開国要求をアメリカ政府に決断させるに至った。  
これは、アメリカ政府が日本開国と通商を期待し、初めてロバーツ特使を任命してから約20年後のことである。この間に技術革新が更に進み、アメリカ経済は繁栄し、海軍に多くの蒸気軍艦が建造され、その機動力は過去に例を見ないほど強力なものになっていた。  
ペリー提督の任命  
1851年5月、アメリカ政府は最初にオーリック提督に全権を委譲し、蒸気軍艦を引き連れた東インド艦隊の日本派遣を命令した。これはすでにオーリック提督が東インド艦隊司令官に任命され、オーリック提督自身からも日本開国交渉の提案があったためだが、しかし国務長官はオーリックの指揮に関する問題でオーリックをすぐに更迭し、1852年2月、全権を委譲し日本開国交渉へ向けた新たな命令がペリー提督に出された。  
ペリーは任命される以前に自ら独自に、日本における遭難船員の取り扱いや、アメリカ捕鯨船の北太平洋での活動を細かく調査し、日本に関するヨーロッパの出版物をも多く読んで万全な準備をし、1851年1月には日本遠征につき独自の基本計画もグレイアム海軍長官に提出していた。ペリーは、遭難した捕鯨船乗組員の正当な救助や保護、船舶の補給基地の整備など、先進諸国ではすでに常識であった国際公法の観点から見た問題解決と、アメリカのアジアにおける通商拡大とに強い問題意識を持っていたのだ。更にペリーが任命されるとき、その条件としてペリーから海軍長官に提出された、東インド艦隊の大幅増強提案が受理され、蒸気軍艦や帆走軍艦など多くの軍艦が東インド艦隊に割り当てられたが、複数の蒸気軍艦を日本に引き連れて行く事はペリーの考えた作戦の骨子をなすものだった。  
このように単なる自国の通商拡大ばかりでなく、人道的問題を含み、当時のヨーロッパやアメリカでは常識になっていた国際公法的な見地から、日本における薪水食料の供給や遭難者の救助、更に定期航路船舶への石炭供給基地確保をも含んだ開国要求が、アメリカ政府の日本遠征の主要目的になっていった。上述の如く、議会でも議論され、貿易業界はじめ民間からも建策が出されるほど注目が集まれば、政府として当然この対策を立てる義務が生じる。当時、国際公法は主として習慣法で、人道主義や倫理観から、国籍に関係なく、困難に直面した船やその乗組員は手厚く保護されるべきだとの考えである。 
ペリー提督に与えたアメリカ政府の遠征目的  
1.日本の島々で難破したり、荒天によってその港に入らざるを得なかったアメリカ人船員とその持ち物は保護されるよう、恒久的な有効処置を取ること。  
2.食料、水、薪などの補給をするため、あるいは災難にあっても航海を続ける上で必要な修理をするため、アメリカ船舶が複数の港に入港できるよう許可を得ること。石炭の補給基地を建設する許可が得られれば非常に好ましい。若し本土に建設できなければ、少なくとも、幾つか有ると聞く近辺の小さい無人の島でも良い。  
3.アメリカ船が積荷を処分するため複数の港に入港し、それを売ったりバーター取引できる許可を得ること。  
アメリカ政府からオランダ政府への頼みごと  
アメリカ政府は1852年2月全権使節としてペリー提督の日本派遣を決めると、オランダのヘーグに駐在するアメリカ代理公使・フォルソムを通じた1852年7月2日付けの書簡で、アメリカから日本に向けた通商交渉使節の派遣とその平和的な目的を、オランダ政府が日本に通告してくれるよう依頼した。  
ほとんど同時期にオランダ政府は、オランダ領東インド総督・バン・トゥイストがオランダ国王・ウィレム三世の言葉を筆記したという名目の1852(嘉永5)年6月25日付けの書簡で、長崎へ赴任する新商館長・ドンケル・クルチウスに命じ、幕府に、オランダ政府が収集したアメリカの日本遠征計画を伝えさせた。この情報は、オランダのアメリカ駐在公使・テスタ男爵が、以前から政府に、アジアに向けたアメリカ使節派遣を熱心に提唱しているエアロン・パーマーから得た情報によるところも大きいように見える。同時に、この日本向けアメリカ使節派遣に対処するオランダの推奨案として、オランダ国王の許可のもと、かって出島の医師だったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの私案を基にしたといわれる、「長崎港での通商を許し、長崎へ駐在公使を受け入れ、商館建築を許す。外国人との交易は江戸、京、大坂、堺、長崎、五ヶ所の商人に限る」など合計十項目にわたる、いわゆる通商条約素案をも示した。これらはオランダ政府が細心の注意を払って準備したものだが、老中首座・阿部伊勢守の命により長崎で翻訳され、江戸に急送され、嘉永5年9月(1852年10月、ペリー初回来航の約9ヶ月前)には幕閣に届いた。  
オランダの新商館長・ドンケル・クルチウスは、このオランダ領東インド総督・バン・トゥイストの書簡とは別に、恒例となっている嘉永5年の『別段風説書』をも提出し、アメリカ政府は国書と共に交渉使節を日本に派遣し、日本漂流民を送還しながら、開港、石炭貯蓄場所提供を要求するようだと、アメリカの日本遠征情報をも伝えた。また船将・オーリックは使節の任を船将・ペリーに譲り、蒸気軍艦・サスケハナ号、サラトガ号、プリモス号、セント・マリーズ号、バンダリア号等が使節を江戸に送る予定で、更に蒸気軍艦・ミシシッピー号、プリンストン号、ペリー号(筆者注:対英戦争・エリー湖の戦いの英雄で、ペリー提督の実兄のオリバー・ペリーから命名された船名)、サプライ号などの軍艦もこれに加わる予定だという。これらの軍艦は海兵隊をも乗船させて上陸戦の用意もしているが、出航は4月下旬以降になろうと言われているとも伝えた。  
しかし上述の、アメリカ政府がヘーグ駐在のアメリカ代理公使・フォルソムを通じ日本に伝えて欲しいとオランダ政府に依頼した、日本に向けた通商交渉使節の派遣とその平和的な目的は、オランダの新商館長・ドンケル・クルチウスが日本に向けジャワを出発した後にオランダ総督・バン・トゥイストの手元に届いたので、日本には届いていない。バン・トゥイストはこの旨を記した1852年9月22日付け書簡をペリー提督に送り、ペリーは日本行きの前にこれを広東で受け取っている。  
フィルモア大統領の国家プロジェクト  
ペリー艦隊の日本遠征プログラムの発足に合わせ、アメリカ政府は更に、日本遠征にかかわる基本戦略を明確にし、ペリー提督にはかってないほど詳細な遠征指令書を作成して与えた。過去の日本に向けた使節派遣には見られない、多くの用意周到な新機軸があり、まさに国家プロジェクトであった。フィルモア大統領も議会で演説し、この日本遠征目的と方針を明らかにした。  
捕鯨業界や貿易業界も、与野党も、多くの国民もこのプロジェクトを歓迎し、1853年にはエド・ローブマンにより遠征を歓迎する「日本遠征ポルカ」まで作曲されている。こんな風に、いかにもアメリカ的な陽気さも漂うペリー艦隊の日本遠征が始まった。  
ペリーは全ての面において、この政府から与えられた遠征指令書に忠実に従った。従来ややもすれば、日本にはペリー個人の勝手気ままな尊大さや頑固さに翻弄された印象がある。しかしペリーは、与えられた権限の中でペリー自身の基本作戦を立て、各地から本国の海軍長官と、当時できた最善の方法で頻繁に情報交換をしていた。これは、遠征終了後の1855年1月30日付けで上院宛に提出された、ピアース大統領の報告書に詳しい。またペリーは、常にこの指令書通りに遂行すべく、状況に応じ選択できる複数の選択肢を準備する努力も惰らなかった。勿論その中には、ペリー流のデモンストレーションや威圧など多くの工夫がある。 
ペリー提督に与えた遠征指令書要旨  
1.艦隊の全軍事力を持って日本の適切な地に赴き、皇帝と面接し国書を手渡すこと。  
2.遭難したアメリカ人は慈悲を持って扱わせること。  
3.拡大した二国間通商の準備を整えること。  
4.鎖国の緩和や遭難者の人道的な取り扱いが拒否された場合、アメリカは日本の非人道的な待遇に懲罰を以って臨むべく明言すること。  
5.合意事項は条約にまとめること。  
6.今回の遠征は平和目的であり、戦争はしないこと。  
7.艦隊の自衛や個人に向けた暴力の排除に限って武力行使を認めること。  
8.寛容さを基本姿勢にするが、提督自身やアメリカの威信は守ること。  
9.友好的遠征目的を日本に理解させること。  
10.ペリー提督に適切な自由裁量権を与えること。  
11.測量により海図を強化すること。  
12.地誌を調べ、物産のサンプルを入手すること。 
和親条約交渉と締結  
国書の授受  
当時のアメリカ海軍の蒸気軍艦建造は、最新技術や新しい試みを次々に取り入れたから、いつも結果がよいとは限らなかった。東インド艦隊に配属された数艘の蒸気軍艦は、故障が多くアジア水域に向け航海できないものもあった。予定した蒸気軍艦がそろわずペリー提督の出発が遅れ、待ちきれなくなったペリーは1852年11月24日、単独で蒸気軍艦・ミシシッピー号に乗りノーフォーク軍港を出発した。ミシシッピー号は東回りで大西洋を南下し、喜望峰を回り、インド洋に出て香港基地に向った。残りの蒸気軍艦は修理が整い次第、ペリー提督の後を追う予定になった。  
こんな背景から、香港に着いても予定された十分な軍艦が手元にないペリーは、これ以上の遅延は許されない日本遠征の最終補給のため、上海への艦隊集合を命じた。しかし支那の内戦で太平天国軍は、南京に首都を移し何時でも上海を窺う位置にあり、主戦力は北上して北京陥落・占領を目指している時期だった。アメリカは支那の内戦には中立を保ち、同じキリスト教徒として太平天国軍は数人のアメリカ人宣教師たちと友好関係にあっても、ペリーは上海のアメリカ商人達から、「保護のための軍艦が必要」と強く懇請される二重苦に遭遇した。このためペリーは更に軍艦をやりくりせざるをざるを得なくなったが、主任務の日本遠征と上海での自国民保護のバランスを取りながら1853年7月、2艘の蒸気軍艦と2艘の帆走軍艦を伴って琉球経由で浦賀に到着した。  
いよいよ4隻のアメリカ軍艦・黒船が嘉永6(1853)年6月3日に浦賀に入って来ると、現地からの緊急通報を受けた幕閣は浦賀奉行に、  
今回浦賀に来た異国船については、平常より一層厳重に警戒し、取締りを入念にし、軽率な行動をとらぬように。海防の四藩にはその旨伝えたから良く相談し、対処方法は任せるから、国体を失せぬようにし、出来るだけ穏便に出航させるように。  
との指示を出した。  
幕閣には前述のごとく前年・嘉永5年の別段風説書の、「これらの軍艦は上陸戦の用意もしている」というオランダ情報があったから、名誉を保てる範囲で出来るだけ穏便に扱い、早く退去させたかったのだ。また、アメリカ使節は蒸気軍艦により日本遠征をすることや、艦隊司令官としてペリー提督の名前も記されていた。更に「1、日米国交樹立以前−日本に来たアメリカ情報」でも書いたように、ペリー艦隊の琉球集結と日本への遠征は薩摩藩からも幕府に情報提供があったほどだが、しかし幕府はほとんど情報公開をしなかったから、一般の日本人にとって、突然現れた4艘のペリー艦隊・黒船の浦賀来航は青天の霹靂だった。  
日本の皇帝か政府高官に直接国書を渡したいと言い張るペリー提督の態度に、長期交渉になったり不測の事態が出現したりして国内の混乱を心配する日本側は、とにかくアメリカの国書だけは受け取る意思をペリーに伝えた。そこでペリーは、日本側の勧める浦賀から峠を越した西側にある久里浜に上陸し、日本代表の浦賀奉行・戸田伊豆守と井戸石見守とがペリーに会い、アメリカ大統領の国書授受を行った。この時ペリー提督は、100人の海兵隊、100人の海軍水兵、そして多くの艦隊士官や2組の軍楽隊など、総勢300人ほどの人員を上陸させている。  
国書授受の席でペリーは、アメリカ大統領から日本皇帝に宛てた国書、ペリー提督を使節に任じた大統領の信任状、ペリー自身が日本皇帝に宛てた「ここに国書をお届けする」と述べた手紙と共に、「この国書の返事を受け取りに、来年の春、再びこの江戸湾に来る」と記した書簡を提出した。今から9ヶ月以内にはまた来航すると、日本側が国書への返事を用意する時間を与えたのだ。  
4艘のアメリカの黒船(初回遠征時)  
 船名/種類/大砲/建造/定員/積載トン  
1.サスケハナ号(旗艦)/側輪蒸気軍艦/9/1850年/300人/2450  
2.ミシシッピー号/側輪蒸気軍艦/12//1841年/268人/1692  
3.プリマス号/帆走軍艦/22/1844年/210人/989  
4.サラトガ号/帆走軍艦/22/1843年/210人/882  
国書受取前後の幕府の対応策  
態度を決めかねていた幕府は、上述の如くついに久里浜でペリー提督と会見し、アメリカ大統領からの国書を受け取った。久里浜でアメリカの国書を受け取った浦賀奉行・戸田伊豆守は、ペリー艦隊がやって来る3年半も前の嘉永2(1850)年12月、老中首座・阿部伊勢守の諮問に答え、江戸湾入口の浦賀近辺の防衛線は全く手薄で、軍船が来れば湾内に入られてしまうと、大幅な防衛強化策を建議していた。しかしこんな建議も充分に実現せず、戸田伊豆守の強い懸念が現実となってしまったのだ。  
幕閣は国書授受が済むとペリー来航を朝廷に上奏し、両山(日光輪王寺と芝増上寺)に世上静謐(せいひつ)の祈祷を命じ、アメリカの国書を諸大名や幕臣に示して建白を許し、江戸近辺の内海に砲台を築き、大船建造の禁を解き、洋式火技奨励の布達を出す等、下記の如くいくつかの対応策を取った。 
嘉永6(1853年)年の幕府の対応  
嘉永6年6月6日:ペリーが国書受取を迫り、測量ボートと蒸気軍艦・ミシシッピー号を江戸湾内部にまで乗入れて測量をした。これに驚いた幕閣は夜中に急遽登城して協議し、アメリカ国書の受取を決めた  
嘉永6年6月9日:久里浜でペリーと会見した戸田伊豆守がアメリカの国書を受け取る  
嘉永6年6月15日:幕府、ペリー来航を朝廷に上奏する  
嘉永6年6月18日:若年寄・本多越中守に武蔵・相模・安房・上総海岸の巡視を命じ、勘定奉行・川路聖謨、目付・戸川安鎮、韮山代官・江川太郎左衛門が随行する  
嘉永6年6月:両山(=日光輪王寺と芝増上寺)に世上静謐(せいひつ)の祈祷を命ずる  
嘉永6年7月1日:アメリカ国書を諸大名、幕臣に示し建白を許す  
嘉永6年7月3日:老中・阿部伊勢守は、隠居している前水戸藩主・徳川斉昭を海防審議に参加させるべく隔日の登城を求める(斉昭はこれを受け入れ、以降、開港拒否、通商拒否の強硬姿勢を崩さない。ペリーの直後、通商を求め長崎に来たロシア使節・プチャーチンの要請について、ロシア使節応接掛・筒井政憲と川路聖謨の和親の必要性上申にも反対し、10月2日、和交の不可を幕府に建議した)  
嘉永6年7月12日:幕府の京都所司代・脇坂安宅、参内してアメリカの国書の訳文を朝廷に奏進する  
嘉永6年7月22日:江川太郎左衛門等に内海台場築造と大砲の鋳造を命ずる  
嘉永6年8月6日:洋式砲術家・高島秋帆を赦免し、江川太郎左衛門の配下とする  
嘉永6年8月15日:台車付き鉄製36ポンド砲25門、24ポンド砲25門の鋳造を佐賀藩に要請する(嘉永4年に反射炉を築造し、翌年新鋳大砲試射に成功していた佐賀藩主・鍋島肥前守は、この年11月、火術局及製煉局を設置し、鋳砲・製艦に具えた)  
嘉永6年8月16日:浦賀奉行・戸田伊豆守と井戸石見守が浦賀での軍艦建造を幕府に請い、後日許可される(安政1年5月4日、洋型軍船鳳凰丸竣工)  
嘉永6年9月:万石以下の旗本や家人へ拝借金及び下賜金を与える  
嘉永6年9月15日:大船建造の禁を解く  
嘉永6年9月21日:洋式火技奨励の布達を出す  
嘉永6年9月:幕府、長崎奉行・大沢定宅に命じ、オランダカピタン・クルチウスに軍艦、鉄砲、兵書を発注する  
嘉永6年11月13日:老中・阿部伊勢守、若年寄・遠藤但馬守など品川台場を巡見し大砲試射を検閲する  
嘉永6年12月:同年7月の江川の反射炉建設の申し立てが允許され、韮山に反射炉を建設する  
特に、老中首座・阿部伊勢守はアメリカの国書を翻訳させ、広く諸大名に示し対策の建言を許した。このように幕閣で直ちに決裁せず、広く建白を許す事はかってなかった。幕府自ら詳しく朝廷に上奏したり広く諸大名の意見を聞く事は新しいやり方であり、挙国一致を期待したものであろうが、阿部伊勢守はじめ幕閣の持った危機感の大きさが分かる。しかし現実に事件が起こった後では、国難に当たって混乱を増殖する皮肉な結果を招く事にもなってゆく。  
嘉永六丑年七月朔日、伊勢守演達  
このたび浦賀表へ渡来のアメリカ船より差出し候書翰の和解二冊、相達し候。このたびの義は国家の一大事にこれあり、まことに容易ならざる筋に候間、右書翰の主意、得と熟覧を遂げられ、銘々存じ寄りの品もこれあり候はば、たとひ忌諱(きき=嫌ったり機嫌を損ねる事)に触れ候ても苦しからず候間、いささか心底相残らず申し聞けらるべく候。  
このたび亜墨利加船持参の書翰、浦賀において受取り候義は、全く一時の権道(ごんどう=目的達成のための臨機応変の処置)にこれあり候間、右に相拘らず、存じ寄りの趣、申し聞けらるべく候。  
和親条約交渉と調印  
国書を渡した後、来年の春にまたこの返事を貰いに来ると言い残し、ペリー艦隊はいったん香港基地に帰った。しかし自信に満ちたペリー提督の心の中に、いくつもの不安があった事も事実だ。日本はアメリカの国書を受け取りはしたが、その対応が全くわからない。最悪の場合は友好の確立も出来ず何の条約さえも結べないかも知れないが、この対策をどうするかだ。また、ロシアやフランス海軍の隠密行動に日本行きの兆候もあった。イギリス海軍も日本に行く事は明らかだ。これらの国々に先を越される危険性を危惧したペリー提督は、早めの日本行きを再度決断し、翌1854年2月13日(嘉永7年1月16日)、更に蒸気軍艦や帆走軍艦、補給船を加えた大艦隊で再来航し、こんどは浦賀を通り越し、江戸湾深く小柴沖にまで入って停泊した。  
これは江戸に向う気迫を見せ、初回より更に規模が大きく最先端を行く海軍力を誇示し、日本に畏怖の念を起させ条約締結交渉を有利に導くペリーの基本作戦だった。蒸気軍艦や炸裂弾砲など近代的軍事力の威力を熟知しているペリーは、全ての大砲や蒸気軍艦の中を隅々まで日本側に見せ、充分にその威力を理解させ、交渉のテコに使ったのだ。これは、ペリーがグレイアム海軍長官に提出していた上述の日本遠征基本計画書にある通りのやり方である。当初東インド艦隊所属としてペリー提督に与えられた2隻のスクリュー推進の蒸気軍艦・プリンストン・II号とアレゲニー号は、ボイラー故障や能力不足で日本に来ることができなかったが、ぺりーは側輪もなくスルスルと動く軍艦を日本人に見せたかったに違いない。 
再来航のアメリカ艦隊  
 船名/種類/大砲/建造/定員/積載トン  
1.サスケハナ号(旗艦)、(1854年2月13日江戸湾小柴沖着)/側輪蒸気軍艦/9/1850年/300人/2450  
2.ポーハタン号(江戸湾で旗艦に変更)、(1854年2月13日江戸湾小柴沖着)/側輪蒸気軍艦/9/1852年/300人/2415  
3.ミシシッピー号、(1854年2月13日江戸湾小柴沖着)/側輪蒸気軍艦/12/1841年/268人/1692  
4.マセドニアン号、(1854年2月13日江戸湾小柴沖着)/帆走軍艦/22/1832年/380人/1726  
5.サラトガ号、(1854年3月4日江戸湾着)/帆走軍艦/22/1843年/210人/882  
6.バンダリア号、(1854年2月13日江戸湾小柴沖着)/帆走軍艦/24/1828年/190人/770  
7.サウザンプトン号、(1854年2月13日江戸湾小柴沖着)/帆走武装補給艦/2/1845年/45人/567  
8.レキシントン号、(1854年2月13日江戸湾小柴沖着)/帆走武装補給艦/2/1826年/45人/691  
9.サプライ号、(1854年3月15日江戸湾着)/帆走武装補給艦/4/1846年/37人/547  
一方の日本側では、再度の日本行きのためペリー艦隊の最終集結基地とした琉球の那覇港に、補給船で石炭を運んだりと準備に余念の無いペリー艦隊の行動が、嘉永6年10月薩摩藩から幕府に報告された。いよいよ国書の返事を受け取りにやって来そうなペリー提督の行動を知った老中首座・阿部伊勢守は、11月1日付けの命令書「老中達し」を出し、「(諮問に対する)諸藩からの建議は詰まるところ和戦の二字だった。再来航時、当方は平穏を旨とするが、最悪時は戦の覚悟を持て」と各藩に命じ、また12月9日、評議所や海防掛け等にその節の手続きを評議させた。  
阿部はまた翌年1月11日付けで、幕府の交渉担当者としての林大学頭、井戸対馬守、鵜殿民部少輔、松崎満太郎の四名を任命し、その準備を命じた。これはペリー艦隊が江戸湾に入ってくる5日前のことだ。  
大艦隊で江戸湾深く小柴沖にまで入って停泊したペリー提督は、こうして浦賀に会見のための応接所を建て待っていた日本側全権、林大学頭のたびかさなる浦賀への艦隊引き戻し交渉にも応じなかった。日本側は12日間にも渡りペリー艦隊の浦賀引き戻しを交渉したが、その間にもペリーは前回同様、熱心に沿岸測量を進め羽田沖あたりまで測量が進んだ。まさに大艦隊を直接江戸に向けそうなペリーの作戦に林大学頭はたまらず、ついに譲歩の姿勢を打ち出し、交渉地を横浜に合意した。浦賀での交渉に固執しすぎてこの大艦隊に江戸に向われては、大混乱になり、その結果はおのずと明らかだ。これも、ペリーが用いた交渉の主導権を握る方策の一つだった。  
日本とアメリカの交渉は、嘉永7(1854)年2月10日、急いで横浜に新しく建てられた応接所で始まった。この応接所を建てた場所は、現在の神奈川県庁の付近である。  
日本側の交渉全権・林大学頭は、幕議で決した通り最初から、通商条約は結べないが、アメリカ国書要求の通り遭難者の親切な取り扱いや薪水食料、石炭などの補給は行うことを明言した。開港場もアメリカ大統領の要求した1港ではなく、ペリーの要求を入れた2港まで開き、下田と箱館とに合意した。下田における外国人の自由徘徊区域の範囲は下田港中心より半径7里と決まり、米国官吏の下田駐在も決まった。ここで合計12条に渡る日米和親条約(日本文)(英文)は3月3日に調印された。  
ペリー提督は人道的な問題を前面に押し出して交渉したから、その主旨は日本側にも良く分り、大きな問題もなく受け入れている。むしろ自由徘徊区域というような、異国人と日本人との安易な交流の方が問題点になった。しかしペリーは、通商条約締結の先延ばしには合意したが、米国官吏の日本駐在という形で通商條約締結に向けた足がかりを組み込む事に手ぬかりは無かった。この第11条の米国官吏の下田駐在は大きな議論になった形跡はなく、日本側は先延ばしにした安心感からか、その本質と影響力を見抜くことができなかったようだ。しかしこの条項こそが、ペリー提督が仕組んだ通商条約締結に向けての「時限爆弾」だったのだ。これについては次の「3、通商条約と内政混乱」の項で述べる。 
嘉永7(1854)年幕閣、応接掛全権、著名大名の動き  
嘉永7年1月16日:小柴沖に停泊したペリー艦隊を浦賀に引き戻す交渉が、林大学頭の手で始まる。一方江戸では幕閣を中心に、徳川斉昭も連日登城して海防の議が持たれる  
嘉永7年1月23日:浦賀を拒否し江戸行きを目論み、羽田沖まで測量を続けるペリー艦隊の行動に危機感を抱いた老中・阿部伊勢守は、徳川斉昭にペリーの強硬な態度を告げ、漂民の人道的取り扱いを許容する外に、貯炭場として無人島を貸与する案を諮った。斉昭は、書を以って不賛成の意を主張  
嘉永7年1月24日:本牧警備の鳥取藩が、もしアメリカ人が不法に台場に侵入すれば逮捕する許可を申請した。これを聞いた林大学頭などの応接掛は、「措置穏便」を主旨とし、一切を応接掛に委ねるよう要請した  
嘉永7年1月28日:林大学頭、浦賀奉行支配組与力香山栄左衛門を米艦に派遣し、参謀長アダムスと交渉させ、横浜を応接地として合意した。香山は更に米艦に派遣され、艦隊を横浜に引き戻した  
嘉永7年2月4日:幕府は神奈川より林大学頭と井戸対馬守を召還し、応接の方針を論議た。林と井戸は和親の利を主張  
嘉永7年2月6日:徳川斉昭も含めた幕議で、米国に通商を許さないことに決し、林、井戸は再び神奈川に赴く  
嘉永7年2月10日:横浜で日米の交渉が始まる  
嘉永7年2月12日:福井藩主・松平慶永は以前から通商不可を唱えていたが、横浜応接の開始を聞くと、鳥取藩主・池田慶徳、徳島藩主・蜂須賀斉裕、熊本藩主・細川斉護等の賛同を得て、老中阿部伊勢守を訪ね、通信交易拒絶の幕議を確立せよと建策した。また、名古屋藩主・徳川慶恕に書簡を送り、老中を説得すべく促した  
嘉永7年2月22日:ペリーから出された神奈川ほか数港の開港要求を検討するため、林大学頭と井戸対馬守が登城し、老中はじめ斉昭等と論議をもつ。斉昭は下田開港にも懸念を示したが、結局下田開港に決定し、両応接掛全権は神奈川に帰着  
嘉永7年3月3日:日米和親条約調印  
嘉永7年4月30日:前水戸藩主徳川斉昭、海防参与の辞職を願い許される(嘉永6年7月3日、幕府は斉昭を海防参与に任命していたが、斉昭の日米和親条約調印への不満による)  
下田追加条約  
調印した和親条約条項のうち、下田の自由徘徊区域の半径7里について、条約調印の4日後に幕府中枢に強い異議がでて、応接掛け林大学頭の「越権」と断定され、区域縮小を再度折衝すべきことが命ぜられた。すなわち、幕議決定し許可した範囲を逸脱し過ぎたということだ。横浜で和親条約調印後に下田を訪れ、ペリー自身の目で港を確認し、同様に箱館港にも行き確認したペリー艦隊は、再度下田に戻ってきた。横浜から下田に出張してきた林大学頭とペリー提督は再度会談を持ち、条約の細部の詰めに入った。林は幕府から「越権」と譴責された下田の自由徘徊区域の縮小に知恵を絞り、熱心に再交渉を持ちかけたが、ペリーはいったん調印したものは変えられないと相手にしなかった。その理由は、すでに調印した和親条約の書類が、サラトガ号でアメリカ議会の批准に向けワシントンに送られた後だったのだ。  
下田で細部にわたって合意した内容は、「日米和親条約付録」あるいは「下田追加条約」として嘉永7(1854)年5月22日調印された。この下田追加条約は、日本文で13条、英文で12条である。これは内容が違うのではなく、すでに調印した日米和親条約(神奈川条約)と下田追加条約の優先順位を述べる項が、日本文では独立した項目になり、英文では一般文として最後に置かれている違いである。 
交渉時の、ペリー提督の特徴的行動  
1.最初から長崎回航を断り、江戸行きを強く示唆し、江戸湾内を測量し、日本側の懸念をかきたて久里浜で国書を受け取らせた  
2.江戸湾に奥深く小柴沖まで入り、安全な停泊地を確保した  
3.二回目の来航では、大艦隊でこの江戸湾内の停泊地まで一気に入り、ここを足がかりに行動した  
4.初回同様江戸行きを強く示唆し、広範囲に江戸湾内を測量し、日本側の懸念をかきたて、交渉地を日本側で用意した浦賀ではなく横浜にさせた  
5.交渉開始後、日本側が人道的に遭難者の救助や薪水食糧の供給を受け入れると、以降の会見には大部隊だった護衛隊をごく少数にし、目立った武器も持参しなくなった  
6.人道的要求が受け入れられるや、大統領からの贈り物をして、珍しい物品を紹介した  
(11日後、日本側も大統領や使節以下への答礼品を贈った)  
7.開港地として日本側提案の長崎を拒否し代替港を要求したが、林大学頭の即答がないと、日本全権の権限を行使して即答せよと迫った  
8.日本側から下田、箱館の開港提案があると、ポーハタン号に林大学頭をはじめ多くの役人を招待し、宴会を持ち友好を演出した  
(日本側も条約調印が終わるとペリー始めアメリカ側を招待して食事を供した)  
9.和親条約調印後、士官数人を連れただけのペリーは、横浜村に上陸し民家を訪ね、近郊を散策した  
10.指令書の中で命令された皇帝にまだ会っていないとの理由で、江戸の街だけでも見るため、品川沖まで蒸気軍艦を乗り入れた  
11.下田に回航したペリーは、上陸の都度後をつける日本側の警固を嫌い、強く抗議してやめさせた  
12.下田で、吉田松陰にアメリカに連れて行ってくれと懇願されたが、幕府の許可が必要だといって密航を受け入れなかった  
13.箱館から帰ったペリーは下田で林大学頭と会い、補足条約を協議し、ほぼ決定すると、ミシシッピー号に招き饗宴を持った  
幕府から朝廷への報告、孝明天皇も納得  
日米和親条約とその追加の下田追加条約がペリー提督と調印され、ほぼ1年半ほど経った安政2(1855)年9月18日、幕府はアメリカ、イギリス、ロシアなどとの和親条約書の写しを朝廷に提出し、京都所司代・脇坂安宅(やすおり)と禁裏付武士・都筑峰重がその経緯を説明した。禁裏付の都筑はつい最近まで下田奉行だったから、アメリカとの交渉の経緯を直接具体的に関白・鷹司政通に口述している。  
脇坂が9月22日付けで老中・阿部正弘はじめの幕閣宛に送った報告書簡によれば、朝廷への報告の経緯について、  
関白殿にお会いしたところ、去る18日の3カ国との条約書写しを持参した折の(自身から関白への)説明と、都築駿河守の(関白への)直話を詳しく天皇に報告し条約書の写しもお見せしたところ、逐次の対応振りを具(つぶさ)にお聞きになり、殊の外叡感(えいかん、=天皇が感心し褒める事)にあらせられ、まず以てご安心になられた。容易ならぬ事情があってもこの様に折り合った事は、誠にご苦労だったろうとの思召しだった。なお更なる交渉があれば国体に拘らぬようにとのお頼みで、この様な事を宜しく申し上げてくれるよう仰せられた。なおまた、各位には一方ならぬご心労があり、その他の係の面々にもご苦労であったろうと察せられておられた。これらのことを各位までよく伝えるようにとのお沙汰であった、と関白殿が申されました。  
この時点での孝明天皇は、おそらく関白・鷹司政通の影響も大きかったと思われるが、条約が薪水食料や石炭の供給と遭難者の救助という人道的な内容であったので、多くの軍艦が来て脅威や圧力を受けたが大事に至らず大変ご苦労だったと、上述の京都所司代・脇坂の幕閣宛報告のように幕府の対応に納得していたのだ。しかし孝明天皇は、次ページ「通商条約と内政混乱」に書くが、タウンゼント・ハリスが来て通商条約交渉を始めると、異人が神国・日本に入り込むことを心から嫌い、幕府と鋭く対立してゆく事になる。 
通商条約への期待  
アメリカ商人の反応とペリーのコメント  
ペリーは、横浜で日米和親条約を締結した後直ちにアダムス海軍中佐に命じ、アメリカ政府の批准を得るため、調印した約定書をサラトガ号でハワイ、サンフランシスコ、パナマ経由ワシントンに届けさせた。この条約締結の話を寄港地のハワイやサンフランシスコで聞いたアメリカの積極的な商人、リード、ドハティー、ドティ、ビドルマン、ピーボディー、エッジャートン達は、早速ホノルルでカロライン・フート号を借り上げ、箱館で商売をしようと条約の開港日に合わせ来日した。日本では入手できない捕鯨船向けの必需品を箱館で売ろうとしたのだ。  
最初に入港した下田でも箱館到着後も、夫々の奉行からこのアメリカ商人たちの上陸は許可されず、箱館では偶然に来合わせたアメリカ北太平洋調査船団の司令官・ジョーン・ロジャース海軍大尉の援けをも得て交渉したが、いずれも商売をする滞在許可は下りなかった。ロジャース大尉はこの状況を箱館からダビン海軍長官に報告している。このように一部には、日米和親条約を通商条約の如く解釈し期待を膨らます商人達もいたのだが、次章に書くタウンゼント・ハリスが安政5年に幕府と締結した日米通商条約が出来るまで、下田奉行や箱館奉行たちが手探りで対応せねばならない時期があったのだ。  
日本ではあまり一般的に解説されていないが、こんな気の早い商人達の苦情も考慮したのだろうか、ペリー提督が帰国後政府に提出した公式遠征報告書の第二巻の中の「日本及び琉球との予想される将来の商業関係について」と題する文中に、自身で締結した日米和親条約に関するペリーのコメントが載っている。いわく、  
貿易業界の一部では故意に、あるいは無知故に、国書と上述した日米和親条約の精神を誤解し・・・あらゆる約束事の中で公認されていない事をあえて行おうとした。  
日本人が受け入れた譲歩を見れば、この条約の内容は最初から日本遠征方針を支持した人達の最も楽観的な期待すらはるかに越えたものである。それは、在来の国際的な法と友誼の資格についてより完全な知識を会得した後に、日本政府が次なる公約に向けて、通商を始めるにあたり合意されるべき、手始めで、断じて最も重要な第一歩である。  
これはいかにもペリー流の、修飾文節が幾重にも重なった、訳し難く、読み難い文章である。要はここでペリーがいいたかった事は、長い鎖国をやっと解いた日本が、これから国際社会の一員としていろいろ学び、ステップを踏んで真に開国しなければならない。そういう条約の精神を理解せず、急いで貿易業界の言い分だけを一方的に押し付けてはだめだ。日本が国際ルールを学び、国際社会の一員になる第一段階に踏み出したばかりなのだ、ということだ。「温かく見守れ」という言葉が出てきそうな文意である。  
ペリー自身の報告書に載せたこんな公式コメントや、林大学頭との交渉過程で無理に通商条約締結に踏み込まず、近い将来は通商条約締結ができるよう、使節あるいは総領事派遣を和親條約の第11条に組み込む事までにとどめた史実から見て、ペリーは、交渉中に大学頭が述べた、「我が国はそもそも自給自足が出来る国だ。他国の産物が無いといっても不満はない」という言い分を聞き、今は通商条約を結ばないという日本の立場をよく理解していたように思われる。ペリーは軍事力を誇示し、交渉では強引に頑固を押し通した尊大な人物との印象が日本の一般通念である。しかし、必ずしもそれだけではなかったと云うのが筆者の見解だ。押すべき時は強硬に押すが、引くべき時はスッと引く柔軟さを合わせ持つ老練な策士ともいえる人物だ。  
アメリカ政府の通商条約締結に向けた動き  
アメリカ議会では大統領の要請に基づき、アダムス海軍中佐のもたらした調印された「日米和親条約」の内容検討を行い、無修正の条約批准に同意した。同時に議会は、更に進んだ「通商条約」の締結を決議し、大統領に、それに向けた次なる行動を求めた。これは前述したビドルマンとドティのように、一般世論として、日本との通商条約締結が強く期待されていた事実の反映である。アメリカ政府は直ちにタウンゼント・ハリスを駐日アメリカ総領事に任命し、同時に通商条約交渉の権限をも与えた。こんな背景から、ハリスが下田に来ることになる。 
3、通商条約と内政混乱

 

タウンゼント・ハリス総領事赴任の背景  
ハリスの起用と指令書  
ペリー提督と江戸幕府の結んだ日米和親条約の第11条により、アメリカ政府はタウンゼント・ハリスをアメリカ駐日総領事として下田に派遣した。  
ハリスは1853年、ペリー提督が香港で日本遠征の準備を整え上海で最終準備完了の停泊をしているとき、ぜひ艦隊に同乗して日本に連れて行ってもらいたいと頼んだ。しかし、ペリーの方針によりハリスの願いは実現しなかった。その後ハリスは経験を買われ、アメリカの駐ニンポー(寧波)領事に任命されニンポーにいた。和親条約締結後、アメリカ政府が駐日総領事の派遣を決めると、ペリー提督とスーワード上院議員(後の国務長官)はハリスを駐日総領事に推薦し、ピアース大統領もこれを受け入れた。同時にアメリカ政府は、ハリスに日本と通商条約を締結する権限をも与えた。1855年9月13日付のマーシー国務長官からハリスに宛てた指令書は、  
貴殿も承知の通り、我が政府代表としてのペリー提督により交渉された日本との条約は、合衆国と彼の帝国間の通商について何も明白な規定がありません。・・・人口の多い彼の国のいくつかの港に往来し、有利な通商を続けられないと云うこともないはずです。駐日総領事として貴殿を選んだ大統領の主な動機は、貴殿の東洋人に対する知識と、実業家としての総括的な理解力と経験により、やがては日本人を説いて感服させ、我が国と通商条約を締結させるだろうという期待からです。下田到着後、この交渉で本省と連絡がつく前に、その目的のため予備交渉をする好機が来るかも知れず、今貴殿にその交渉と条約締結の全権を付与します。  
というものだ。またアメリカ政府はハリスに、日本に赴任する前にバンコックに立ち寄り、シャム政府と通商条約を結ぶように指示もした。ハリスはシャムと条約締結に成功した後、1856年8月21日(安政3年7月21日)、アメリカ蒸気軍艦サン・ジャシント号でオランダ語通訳のヒュースケンと共に下田にやって来た。  
ハリスの決意  
ハリスの気持ちは高揚していたようだ。下田に着く3日前、8月19日に船上で書いた「ハリス日記」に次のような文章がある。  
私は、文明国から派遣され日本に住む最初の正式代表者だ。これは我が人生の新時代で、日本の新体制の始まりとなろう。これから書かれる日本とその行く末の歴史のなかで、名誉を持って語られるよう行動したい。  
これに先立つシャムとの通商条約は、イギリスのすぐ後を継いで交渉し締結した。しかし軍艦を持って来ないアメリカはイギリスより友好的と見られはしたが、威圧的なイギリスのやり方と違って交渉は長引き、ハリスの思うようには進まなかった。最終的に通商条約を締結する事にはなったが、腹を立てたハリスは、  
これが、こんな不正直で卑劣で卑怯な連中との騒動の最後であってもらいたいものだ。ここは嘘をつくことが王族以下全員のルールだ。避けられる限り真実を語らない。・・・こんな国民に会ったことはないし、もう二度とこんなところに送られないことを望む。シャム人と交渉する最適方法は、小型軍艦を二、三艘派遣することだ。十月にバンコックまで河を遡り、祝砲を撃たせるといい。そうすれば、条約締結に私が何週間も費やした日数など不要の事だ。  
と、やはり軍事力をチラつかせ威嚇すべきだったと5月24日の日記に書いた。そんな背景もあって、日本ではうまくやり、必ず成功を勝ち取ろうと気持ちが昂ぶったのだろう。 
ハリス着任時の混乱  
シャムで一仕事を終えたハリスは下田に上陸すると、信任状と着任を報ずる書簡を下田奉行・岡田備後守に提出し、和親条約に基づく総領事着任という訪日目的を伝えた。下田奉行は急ぎ幕府にその取り扱いの指示を仰ぎ、ハリスの「御用所に部屋を分けて欲しい」という要求を断り、とりあえず柿崎の玉泉寺を宿泊地として提供した。  
この時の総領事受け入れをめぐり、幕府とハリスとの間にひと悶着が起きた。その原因は、林大学頭がペリー提督と調印した日米和親条約第11条の日本文にあった。この11条は下に掲げる通り、幕府はその文言中の「両国政府に於いて」を「両国政府の双方に於いて」と解釈した。ところが同時に作られた英文、蘭文、漢文は「両国政府の一方に於いて」となっている。さらに付け加えれば、「よんどころなき義(やむをえない事情)」も英文では「必要と見なした場合」と微妙に違っている。ハリスと下田奉行との交渉で日本側は、日本にはこの條約で言う領事駐在を必要とするやむを得ない事情などないからすぐ帰ってくれと交渉した。一方ハリスは、条約にそう書いてあって、アメリカ政府が必要と認め私を派遣したのだと答え、条約で認められた権利を主張した。しかしすでにこの時、調印した条約文を詳細に検証させていた幕閣は、条約第11条の日本文は間違いで、両国政府の一方の判断で領事を派遣できることを良く理解していたのだが、それでもハリスを上陸させたくなかったのだ。そう書いてある条約を結びながら、それを否定したり先延ばししたりする幕府のやり方は、その後もとことん権利を主張する欧米の外交官との軋轢となっていく。  
日本の歴史上初めて結んだ国際条約の文言は、意識的にか偶然にか厳密性を欠いていた。第11条に限らず、現代ほどその重要性が認識されていなかったこともあるが、条約の目的、有効範囲、改廃規則、平等性などに弱点があり、夫々に問題を引き起こした。  
和親条約第11条(日本文)  
第十一ヶ条:両国政府に於いて、よんどころなき義これあり候模様により、合衆国官吏のもの下田に差置き候義もこれあるべく、もっとも約定調印より十八ヶ月後にこれ無くては、その儀に及ばず候事。 
混乱の原因と更なる不思議  
嘉永7(1854)年3月:条約調印の当初幕府は、「両国政府に於いて」を「両国政府双方に於いて」と理解した。即ちアメリカ単独の理由での派遣は不可ということだ。  
安政2(1855)年6月(ハリス着任以前):幕府は、条約第11条を大目付や目付に評議させた。評議の結果、蘭文と漢文と比較し、日本文だけが違っていることが判明した。蘭文や漢文では、どちらか一方の政府の決定で官吏を送れる。即ち、アメリカはいつでも必要に応じて官吏を送ってくるだろう。大目付や目付の答は、その時が来たら日本からもアメリカに官吏を送るという条件でアメリカ官吏を受け入れよ、と答申した。(この事実は、ハリス着任の1年も前に、この日本文は間違っていると老中が理解していたのだ)  
安政3年7月25日:ハリス着任の報告で、幕閣はアメリカ総領事の信任状と着任報告書簡を受理しない事に決し、この旨を下田奉行に命じた。(幕閣は日本文の間違いに気付いていながら、なぜこうも理屈に合わないことをするのか不思議だ)ハリスは当然受け入れない。  
安政3年7月28日:ハリスは、玉泉寺に止宿を了承。  
安政3年8月5日:ハリスは、玉泉寺を正式に総領事館と定めた。  
安政3年8月17日:下田奉行井上と岡田の再度の要請で、幕府は、評定所一座と海防掛にまたハリスの要求する領事駐在を評議させた。大目付や目付は評議の結果、正式に総領事を駐在させ、駐在に伴う諸規則や手続きを決めておくほうが今後のためによい、と答申した。  
安政3年8月24日:幕府はアメリカ総領事の駐在を許可することに決し、ハリスと話すため目付・岩瀬忠震(ただなり)を下田に派遣した。また、前水戸藩主・徳川斉昭にその事情を告げた。 
日米和親条約補修協約(下田協約)の締結  
ハリスは1857年6月17日(安政4年5月26日)、下田で日米和親条約の補修協約「日米協約」を結んだ。これは、ペリー提督との和親条約締結時から変化した状況に対処し、より細かい規則を定めたもので、次のような9条項からなっている。  
1.最恵国待遇条項により長崎もアメリカに開港する。  
2.下田・箱館に入手不可能品取り扱いのアメリカ人を置き(居住権)、箱館に官吏を置く。  
3.貨幣交換時、6分の吹き替え費用を日本に支払う。  
4.領事裁判(治外法権)。  
5.船舶修理費の支払い。  
6.領事の自由旅行権。  
7.領事の商品直買。  
8.本条約の公式言語を蘭語とする。  
9.本協約発効日。  
これはハリスが駐日総領事として、日米和親条約の範疇内で行った初仕事だ。  
この時すでに日本とオランダは、1856年1月30日(安政2年12月23日)に「日蘭和親条約」を調印していたから、日米和親条約・第9条の最恵国待遇条項により、ハリスの指摘によりオランダに開港した長崎も自動的にアメリカに開港された。さらに重要な点は、限定的ながらも、それまで日本が拒否していたアメリカ市民の居住権が認められたことだ。ハリスはまた、領事裁判という治外法権もはっきり獲得したが、これは後に不平等條約として問題になる。更にまた、領事に限り自由旅行権も認められた。  
この交渉で日本側を説き伏せるのに、アメリカ政府がハリスに与えたという「日本が条約を守らねばアメリカは武力行使をする」といった指令書簡なるものをちらつかせたり、大統領の親書を持ってきた使節であるから、江戸に赴いて差し出すのが国際的礼儀であるなど、圧力をかけながら矢継ぎ早に交渉を進めようとした。しかし日本側もハリスの出方を見ながら決定に時間がかかったから、補修協約の締結に10ヶ月も必要だった。 
修好通商条約へ向けたハリスと幕府との駆け引き  
初期交渉は決裂  
補修協約交渉中からハリスは、自分は大統領の親書を持ってきた使節であるから、江戸に赴いて将軍に直接差し出したいといっていた。そして日本に告げるべき「重大な機密事項」もあるといった。交渉代表者の下田奉行・井上信濃守と中村出羽守は、幕府から全権を委任されているので下田で渡してくれと交渉したがハリスは納得しない。井上と中村は、ハリスのいう機密事項とはまず間違いなく貿易開始と開港場増加の提議であろうと推定し、幕閣にはその旨報告していた。  
一方ハリスは引き続きの交渉で、とにかく江戸に行き将軍に会い、親書を渡し、通商条約交渉のきっかけを作るべく頑固を押し通した。大統領からは、江戸に行き親書を将軍に直接渡せと命令されている。万国の慣例はこのようなものであり、老中にさえも渡せないと、一歩も譲らず妥協しないから交渉はなかなか決着がつかない。また今後ロシア、イギリス、フランスなどが来ても、同じ要求を出すだろうともいった。しかし、日本側が強硬に要求する「重大な機密事項」をあらかじめ幕府の交渉代表者の井上信濃守と中村出羽守に示唆する件と、ハリスがアメリカ大統領の命令だという上府し直接将軍と面会する件とが絡み合い、交渉は決裂状態になった。  
幕府の譲歩とハリスの出府  
こんな交渉過程で老中・堀田備中守もその国際関係の意味するところを考え、基本的にハリスの出府を許すよう方針変更をした。この内達を受けた溜詰め諸侯の松平讃岐守、松平下総守、松平越中守、酒井雅樂頭(うたのかみ)などは、老中・堀田備中守に上府の即時中止を建議したが、それほど幕府内にも強い拒否反応もあったのだ。「溜詰め」というのは、家門大名や元老中などが江戸城に登城したとき黒書院の溜の間に席を与えられることで、親藩や譜代の重臣から選ばれ、老中とともに政務上の大事に参画した役職である。しかし堀田は、更にハリス上府の期日を評議させ、徳川三家にもハリス上府許可の意思を内達した。これを聞いた水戸藩の徳川斉昭・慶篤(よしあつ)親子と尾張藩の徳川慶恕(よしくみ)は反対を唱えたが、そんな反対にも屈せず、堀田はハリスの上府期日を9月下旬と決め、井上信濃守を通じハリスと旅行や登城手続きを協議させた。  
溜詰め諸侯からハリスを上府させる理由を追及されると堀田は、「万国の通則」はこの通りであって、日本が国際社会と交流するには、その慣例に従わねばならないと、自己の信念を説明した。これに納得しない上述の反対派は徳川斉昭の元に集い、ハリス上府反対の大合唱を唱えた。しかし堀田は動ぜず計画を進め、1857年12月7日、安政4年10月21日、ハリスの登城と将軍謁見が実現した。  
江戸城に驚くほど手厚く迎えられたハリスは、将軍・家定に謁見し、自身がアメリカ代表として大統領の国書を持参し、全権を与えられた名誉を述べ、将軍・家定の健康と幸福や日本の繁栄を祈る言葉と共に、アメリカの国旗に包んだ、1855年9月12日付けのピアース大統領の親書を将軍の前で老中・堀田正睦に手渡した。これに対し将軍・家定もよく通る明瞭な声で、  
遠境の処、使節をもって書簡差し越し、口上これを申し、満足に令(のりご)つり候。猶幾久しくも申し通すべく、この段大統領へ宜しく申し述べるべし。  
と答え、森山多吉郎がオランダ語に訳し、ヒュースケンが英語に訳しハリスに伝えた。これで、もめにもめた外交官の上府と将軍謁見が無事に終わり、将軍に謁見したハリスは、親書も直に提出し将軍も直接応答してくれ、やっと面目を施すことになったわけだ。  
ハリスの大演説とその検討  
しかしハリスはここで一息入れず、26日、勢いをかって老中・堀田正睦の役邸を訪ね大演説を行っている。技術革新による蒸気船、電信などのもたらす交易の拡大や素早い情報交換により、急速に変わりつつある世界情勢を説いた。そしてアメリカ大統領は、親書にも書いてあるごとく日本と自由貿易を確立したい旨を伝え、公使を江戸に駐在させたいと述べた。更に領土的野心の無いアメリカと通商条約を締結しておけば、イギリス、フランス、ロシアといった野心的な国に対しても間接的な防衛になる旨をも説いた。すなわち、アメリカと受け入れ可能な通商条約を結んでおけば、仮に他国が過大な要求を出しても、アメリカと同等の内容にする事は可能だということだ。  
このハリスの大演説の後、堀田は更に不明な点を確認し理解を深めるべく、大目付・土岐頼旨(よりむね)、勘定奉行・川路聖謨(としあきら)、目付・鵜殿長鋭(ながとし)、下田奉行・井上清直、目付・永井尚志(なおゆき)などそのブレーンをハリスの泊る蕃書調所に送り、公使の役割やその権限、派遣方法、領事との違い等細かく質問し理解を深めさせた。こんな西洋流の国際慣行を一から勉強する事は、日本にとって不可欠な対応だった。  
幕閣は更に、ハリスのこの堀田邸における演述書を評定所、海防掛、長崎・浦賀・下田・箱館の各奉行に示し意見を求めたが、この答申は意見が割れた。拒否せよという見解こそ無かったが、「受け入れよ」という意見と「諸侯に許否を諮れ」というものとが二分した。そこで幕閣はまたハリスの演述書を諸侯に示し、その許否を諮問した。ハリスは世界情勢を説明し明確に通商開始を要求している。しかし維新史料綱要を見る限り、諸侯の答申は明確に「交易を拒否せよ」というものは久保田藩と鳥取藩の2藩だけで、「交易を許可せよ」と云うのも徳島藩や明石藩などの6藩、その他の20藩ほどは「諸侯協議で決すべし」とか「慎重考慮を要す」と、いわば無責任な回答しか寄せていない。要はどうしてよいやら分からなかった、というのが当時の大多数の諸侯の実態だった。諸侯というのは、自分の領地を持つ一国一城の主のことだ。確かに堀田と違って直接ハリスと話していないから、その印象は薄かっただろうが、今考えて非常に物足りないと感ずるのは筆者一人ではなかろう。  
ハリスの威嚇と通商条約の交渉開始  
老中・堀田備中守は理解してくれるとみたハリスは、さらに条約の基本内容を説明したり、また圧力をかけるため、予定していた幕府の重要な朱子学教育機関である大成殿や学問所の公式訪問を突然キャンセルしてみたりと、1月以上も江戸に留まり影響力を行使した。上述のように評定所や海防掛けに諮問しまた諸侯に諮問し、なかなか意見のまとまらない幕府から条約交渉に入る返事をもらえないハリスはいらいらして待っていたが、1858年1月9日(安政4年11月25日)、久しぶりにハリスを訪れた井上に向かって奥の手を出して恫喝した。この日の「ハリス日記」に次のように書いてある。  
そして話の締めくくりに、私に対するこんな待遇を見れば、この全権使節が交渉を進めるためには、軍艦を率いてきて弾丸を見舞わなければ何も進まないようだといってやった。これ以上何もやる気が無いなら下田に帰りましょうといって話をやめた。気の毒にも信濃守は明らかにうろたえてながら聞いていたが・・・  
本気で武力行使の可能性を示唆したハリスの剣幕に驚いた井上は、ただちに堀田に報告し、12月2日、堀田の役宅で再度ハリスとの会談が実現した。そしてハリスはついに堀田から直接、通商貿易、公使駐在、下田閉港と新港の開港という三つの基本合意を勝ち取り、細部にわたる通商条約作成交渉の開始にこぎつけた。日本の弱みを握ったハリスはその席で、大統領の願いは別に何があるわけでもなく、ただ日本の利益を考えてのことだ。この条約を結ばなければ日本に危難が降りかかるから、そうならないようにしてやりたいだけだ。この点を日本が良く理解していれば、日本が条約を結ばないといってもアメリカが日本を敵視することは無いと、充分に恩を着せ脅しをかけることを忘れていない。堀田は、下田奉行・井上信濃守と目付・岩瀬肥後守とを通商条約交渉全権に任じ、ハリスと細部にわたる条約文の作成交渉を始めさせた。  
しかしここで指摘せざるを得ない事実は、その背景が何であれ、ハリスは態度をはっきりさせない幕府に対し、軍事力に訴えるぞと威嚇作戦を取ったことだ。また、イギリスやフランスの大艦隊がやって来るぞ、とも言っているが、筆者の目から見れば、自国の軍事力を誇示するか他国・イギリスやフランスの軍事力を指摘するかの違いだけで、ペリー提督の作戦と基本的に同じことである。上にも書いたが、ハリスが下田に来る前にシャムで条約を結んだ時も、軍艦を引き連れてきて祝砲を撃たせれば、条約締結の時間をはるかに短縮できたと自身の日記に書いたが、最後は軍事力を示唆しようとハリスは思っていたのだ。日本を預かる老中・堀田備中守や幕閣には、充分な海軍力も無い今、この軍事力を行使するぞという威嚇作戦が最も有効だった。明治以降になって、ペリー提督は軍艦を引き連れて来て威嚇作戦を取ったが、ハリスはそうしなかったという賞賛の声が出たようだが、二人とも同じように軍事力を誇示し威嚇作戦を取ったというのが筆者の見解だ。 
朝廷の影響力  
朝廷の政治介入  
和親条約と開国の前章でも書いたように、ペリー提督来航時には、当時の幕閣の首座・阿部伊勢守が朝廷にアメリカ国書を奏聞し、和親条約締結の報告もしている。今回もまた、幕府はハリスを上府させると決定したときも、将軍・家定と謁見したときの様子をも逐一朝廷に奏聞した。幕府はハリスと通商条約交渉を開始したが、同時に、前述したハリスの堀田邸における演述書も朝廷に奏聞した。このように朝廷は政治の場に明確に姿を現し、幕府も朝廷の権威をもって挙国一致を達成しようと目論んだから、状況は更に複雑になってきた。  
そもそも、慶長5(1600)年9月15日の関ヶ原の戦い以降、大坂の陣で豊臣勢を完全に崩壊させ実力で天下の覇権を手にした徳川家康は、ただちに「禁中並びに公家諸法度」をつくり朝廷をもその制御下に置くことに成功し、それ以降、朝廷の政治向きの口出しは禁止されて来たのが江戸時代の政治の枠組みだ。しかしこれが崩れはじめたのは、文化元(1804)年、長崎に来たロシア使節・レザノフに通商を断り、怒ったロシア軍艦が樺太、択捉、利尻の日本側施設を破壊したが、この出来事を文化4年に幕府が朝廷に報告したことから始まった。  
その後各国の軍艦がたびたび日本に接近し、巷間に外国船渡来の噂がいよいよ高まった。孝明天皇はこんな噂に驚き心配していると、弘化3(1846)年8月29日、朝廷は幕府に「海防勅書」なるものを出し、幕府は海防を強化し天皇を安心させよと命じた。この時、京都所司代にこの天皇の懸念をお沙汰書として伝える武家伝奏は、幕府へ、「文化度の振り合い」として、すなわち文化4年にもロシアとの外交問題を報告してくれたから、今回も外国船渡来の事実を伝え天皇を安心させてはもらえないかと内々頼んだのだ。このように天皇が幕府に海防勅書として命令を出し、幕府もそれに異を唱えなかったこと自体、すでに「禁中並に公家諸法度」に基づく徳川幕府の政治システムの重大な変革であり、朝廷が公然と徳川幕府の政治に介入し始めたのだ。  
またこんな政治的介入の禁止だけでなく、天皇家の養子縁組や親王の宣下、関白・諸大臣や武家伝奏の人事に至るまで、先ず幕府に天皇の「御内慮」を示し、幕府の承認を得てさえいたのだ。若し幕府がその首を縦に振らなければ、たとえ天皇の御内慮といえども実行不可能だったわけだ。この件に関しては、後に朝廷が窮地に立った幕府に、「関白・大臣・武家伝奏の人事にまだ介入する気か」と諮問し、幕府は文久2年12月16日これを辞退する態度を示し終わりをむかえ、一層朝廷の権威が上がっている。  
以上が朝廷の政治介入の端緒であり、朝廷の独立と顕在化の過程だが、更に見落とせない事実は、江戸時代に入り200年以上にもわたって平和を持続する事に大きな役割を果たしてきた儒学の伝統だろう。五常の教えの「仁、義、礼、智、信」、それから派生する五倫の関係の「君臣、父子、夫婦、長幼、朋友」だ。徳川家康が抜擢し幕府の儒学の師に据えた若き林羅山以来、武士の正学として発展した儒学・朱子学の教えから特に国家像を見れば、名目的にもせよ「その頂点に立つ天皇とその臣民」という構造が見える。後に幕府がそんな朝廷の権威を大いに利用もしたが、朱子学を学ぶ武士階級の中にはこの儒学的な「国家の頂点に立つ天皇」という考えが何の不思議もなく根付いて行ったのだ。そして18世紀には、朱子学を大切にする江戸幕府の将軍や幕府親藩の諸侯は勿論、全国の大小名諸侯も、将軍は国家の頂点に立つ天皇から「大政を委任されている」という考えになっていた。すなわち天皇と将軍の関係は、「君臣の大義」にもとずく「天皇に仕える将軍」という上下関係として理解されていったわけだ。  
一方、賀茂真淵や本居宣長と続く「万葉集」、「源氏物語」、「日本書紀」、「古事記」などの研究や、それを引き継ぐ平田篤胤の復古神道を通じた18世紀後半から19世紀前半のいわゆる「国学」の隆盛も、日本古来の天照大神や、ひいては天皇を中心に据える思想の発展を表に押し出す役割を果たした。更に将軍を始め諸大名、あるいはエリート武士が受ける官位は朝廷から下される。これらが尊王の行動を本流に押し上げる重要な要素となっていった。  
また天明の大飢饉(天明2〜8年・1782〜88年)には幕府の膝元の江戸でさえ大規模な打毀しが起るなど、幕威を恐れない民衆蜂起が起こり、幕府の威厳は大幅に低下した。従って幕府は、事ある毎に朝廷の権威にすがる行動が多くなり、それに比例して朝廷の権威が上がったわけだ。  
こんな背景から、国の運命を左右する開国、開港、通商条約締結等は、少なくとも朝廷の同意が必要だとの考えがご三家や親藩の中にさえ普遍化し、朝廷の意向に逆らえば「違勅」に当たるとされたのだ。  
朝廷内政治力学の変化  
弘化3(1846)年以降、朝廷内でもいくつかの重要な変化が起こりつつあった。まずその年2月13日に践祚(せんそ=皇位継承)した孝明天皇は気骨あるリーダーとして、天皇の威厳と権限を充分に使い、日本国の行く末を案じ始めた。すなわち、上述のように政治介入が始まった。またその当時の関白・鷹司政通は、実力者で朝廷内をまとめるオピニオン・リーダーであったが、開国論者で、鎖国以前は海外との交易があったのだから、世界情勢がこうまで変化してしまえば交易をして国力を蓄えたほうが良いと考えていた。  
しかし一方で関白・鷹司政通は、ペリーが来航し手渡した「通商をしたい」というアメリカ大統領の書簡内容と、「各藩の建議は和戦の二字で、再来航時は平穏を旨とするが、最悪時は戦の覚悟を持て」と各藩に命じた幕府の対応策を幕閣から伝えられた後の嘉永6(1854)年12月28日、公家を始め地下家の蔵人、官務、大下記、出納など朝廷内の諸官に至るまで、「即今別状あるわけではないが、この事態を心得ているように」とこれを伝え、多くの諸司へも伝達すべく命じた。こんな朝廷内での関白の対応が、後に幕府外交への多くの公家を含む大衆化した議論を生む素地を造ったようだ。  
そしてハリスが来て通商条約の作成とその調印を迫ると、開国という鷹司政通や幕府の考えに真っ向から反対する公家が台頭し始めた。「自分の代に夷人が神国・日本に入り込んでは、祖先に対し申し開きできない」と外国人を強く嫌う孝明天皇も、当時関白から太閤になっていた鷹司政通のこんな開国論を強く嫌ったので、台頭する新公家集団の考えと行動を強く支持し、その行動力に期待した。孝明天皇は自ら朝廷のリーダーとして行動し、単なる飾り物ではなかった。すなわち朝廷内の政治力学も、長い関白万能の時代から、天皇と革新公家主導へと大きく変わり始めたのだ。 
通商条約の調印と安政の大獄への道  
条約勅許要請と差戻し  
安政4年12月11日(1858年1月25日)、ハリスと日本側全権の井上信濃守と岩瀬肥後守との交渉が、ハリスの滞在先の蕃書調所で始まった。翌1月14日、ハリスは合意に達した条約の成案を提出し速やかに調印を求め、21日、幕府の用意した観光丸で下田に帰った。  
一方幕府は日米修好通商条約について朝廷の理解を得ようと、12月17日、アメリカのペリー提督と直接交渉した林大学頭と目付・津田正路を京都に送り、「鎖国は改め、万国に程よく付き合わねばならない時代になった」と、当時幕府がアメリカから入手した「ペリー提督日本遠征報告書」の翻訳内容までも朝廷に説明させた。朝廷は一応話を聞くとこの「軽量使節」に、用は済んだから帰れと告げ、朝廷の理解を得ることは出来なかった。しかし実際のところは、当時の朝廷が理解していた事情とはあまりにもかけ離れた現実に、その想像力を超え、作り話だろうと疑いさえ生じた可能性もある。ハリスとの交渉が終わると幕府は即刻、老中の堀田と全権交渉委員の岩瀬と川路を京都に送ることに決め出発を命じた。これは朝廷の権威をもって挙国一致を図ろうとする幕府の方針に基づいたものだが、裏を返せば、御三家や譜代大名など幕府内部にさえ大きな反対勢力を抱えた老中たちが、その必要性を充分に説得もできず、また権力を持って服従させる気力も無く、朝廷の権威を利用しようとした安易で姑息な手段だった。  
堀田備中守は、自ら京都に行き直接朝廷に説明すれば何とかなると思ったであろう。しかし、上の「朝廷の影響力」でも書いたように、朝廷内では大きな政治力学的変化が起きつつあった。関白・九条尚忠や太閤・鷹司政通などの影響下で勅許が出そうな状況を孝明天皇側からの秘密情報で感知した新興革新勢力の公家たちは、堀田が関白や議奏を「黄白」すなわち金銀を持って攻落したと怒り、急きょ組織した88人もの公家たちが突如として宮中に押しかけ、「朝廷としてはなんとも言いようがないから、関東でよく考えて決定するように」という関白・九条尚忠の条約許容の勅答案を覆してしまった。数の力で関白に猛反対し、その決定を覆させたのだ。革新派公家たちのこの団結した強訴は、これ以降も時として行われるようになる。このように朝廷は、幕府老中の堀田備中守の説明にも容易に耳を貸さなくなっていた。これは大きな誤算だった。二ヶ月近くも京都で粘ったが、安政5年3月20日「なお三家以下諸大名の意見を聞け」との朝旨に勅許を得る見通しも立たず、堀田は江戸に引き返した。  
大老・井伊直弼の決断と条約調印  
外交問題で朝廷とうまく行かず、後継問題も焦眉の急になっている将軍・家定は大老職を設け、安政5(1858)年4月23日、彦根藩主・井伊直弼を大老に据えた。一方堀田はまた江戸に出てきているハリスに、約束している通商条約の調印を何回も引き伸ばす交渉をしたり、5月6日には条約調印の困難さを説明する将軍・家定の親書を米国のピアース大統領宛に出したりと、種々の条約調印延期策をとった。大統領にまで親書を出されたハリスは、仕方なくまた下田に帰った。  
幕府はいつもの通り、この安政5年5月6日付けのピアース大統領宛の将軍・家定の親書の写しを朝廷に提出したが、これを読んだ孝明天皇は、ハリスはあっさり下田に帰ってしまったし、堀田が帰府して以降幕府から何の音沙汰もなかったから、あるいは幕府が朝廷の許可を得ないまま調印してしまうのではないかと疑い、非常に心配し、関白・九条尚忠にその後の経過を幕府に質問させている。次に書くとおり、孝明天皇のこの心配は一月も経たぬ内に現実のものとなってしまうのだ。  
しかしもちろん、下田に帰ったハリスはこれで諦めたわけではない。下田に帰ってから1ヶ月ほどして、ハリスにまたチャンスがめぐってきた。アメリカ軍艦ミシシッピー号とポーハタン号が相次いで下田に入港し、イギリスとフランス連合は支那との第二次アヘン戦争にかたをつけ、インドも収まったというニュースをもたらした。これを好機と見たハリスはたちどころにポーハタン号に乗り安政5年6月17日小柴沖に来て、幕府に書翰を送り、支那に対する英仏連合の勝利と、近い将来彼らは必ず日本へ大艦隊を率いて来航するだろう。殊にイギリスは30艘から40艘の軍艦を派遣の模様だ。また両国は連合して来るようだと告げた。そして、速やかにアメリカと条約を調印しておけばそれと同等の条約にもなろうが、さもなくばインドや支那の勝利に乗じたイギリス人は勝手な要求を出し、それを拒否すれば戦争という大変な事態にもなろうとも告げた。  
6月18日に小柴沖に停泊中のポーハタン号上でハリスと会見した下田奉行・井上清直と目付・岩瀬忠震(ただなり)は、再度ハリスから先の書翰内容の説明を受けると、大いに驚愕し急いで翌19日登城しハリスの言葉を報告し、条約調印をすべきかの指揮を仰いだ。幕閣の衆議に時間はかかったが、基本的に朝廷からの勅許取得を優先すべく考えていた井伊大老も、渋々ではあるが、「更なる条約調印の延期に努力せよ。しかし、やむを得ない場合は調印もやむなし」と、条約調印をし戦争回避を優先する決断を下した。これは、大艦隊を前にして戦争回避の為に条約調印をする事態になっては、日本の名誉も失墜する事をも含んでいる。朝廷勅許取得よりは戦争回避と日本国の名誉保持が優先するという決断だった。井伊のこの指示に基づき、両全権は再び浜御殿の庭先から観光丸でポーハタン号にとって返し、直ちにハリスと日米修好通商条約の調印を終えた。安政5年6月19日、1858年7月29日だった。  
筆者の知りえた史実は以上の様なものだが、井上と岩瀬の両全権は、再度ハリスと会っても井伊の指示である「更なる調印延期」には言及した形跡はなく、イギリスやフランスとの条約もアメリカと同等の条約に出来ることをハリスに再確認すると、直ちに調印をした。朝廷の勅許や幕府内の議論よりも、日本国家を戦争の混乱に巻き込んではならないし、大艦隊の威力に押されての調印は日本の名誉が立たず、ましてアメリカ以上の条件を押し付けられてはハリスに対しても面目はないと、大きな危機感があったことは事実だろう。  
御三家や親藩の大反対  
同じ日に早くもこの条約調印を聞きつけた福井藩主・松平慶永と宇和島藩主・伊達宗城(むねなり)は井伊大老を訪ね、その真偽を問うと、井伊は、戦争にもなりかねない緊迫した世界情勢の重大さから朝廷の勅許を得ずに調印したことを説明した。その後、徳川斉昭は書簡で、一橋慶喜と徳川(田安)慶頼(よしより)は井伊に面会し、それぞれ朝廷に状況を伏奏し違勅の許しを請えと迫った。特にその後一橋慶喜はその他の閣老とも会い、たかがハリスの「大艦隊が来襲するぞ」という言だけを信じ、朝廷の意に逆らった條約調印は許せない違勅だと叱りつけた。イギリス艦隊が来ても即戦争とはならないだろう。まず交渉があるはずだ。今日本の何処にそんな艦隊が来ているのか、という論法だった。更に6月24日になると福井藩主・松平慶永は、朝早く登城前の井伊の私邸を訪ね勅許なしの条約調印の責任を問い詰めた。同じ日、前水戸藩主・徳川斉昭、名古屋藩主・徳川慶勝(よしかつ)、水戸藩主・徳川慶篤(よしあつ)は登営日でないにもかかわらず登城し、井伊大老になぜ条約の無断調印を行ったのかとその責任を激しく問い詰めた。  
この様に御三家の尾張や水戸、御三卿の田安や一橋から親藩に至るまで、ことごとく「違勅」と反対された井伊直弼は窮地に立ったが、少なくとも御三家や御三卿、親藩にはもっと説明し味方につけておくべきだったと思ったとしても不思議ではないほどの孤立だった。ここで云う違勅とは、将軍・徳川家定が天皇の命令に従わないことで、すなわち「朝敵」になることを意味する。将軍の下で政治を遂行する代表責任者の大老・井伊直弼の判断の誤りから、将軍を朝敵に落し入れる大罪だという意味だ。  
当時徳川幕府の中枢グループで、すでにこれほどまでに天皇を国家の頂点ととらえ、朝廷の意に逆らうことがためらわれていた事実は重要である。名古屋藩祖・徳川義直は家康の第九子でありながら尊王思想の持ち主だったというから、その家系を継ぐ徳川慶勝は尊王主義者であったし、水戸藩でも家康の孫に当たる徳川光圀以来の尊王家で、斉昭は勿論、その実子の慶篤や一橋慶喜もその薫陶を受けて育った尊王主義者だ。いざという時は、幕府より朝廷が大切だという信念だったから、早くから天皇崇拝思想が徳川一門の中枢にあったわけだ。  
上述した如く、ペリー来航以前から、ことあるごとに幕府は朝廷に報告し、ますます朝廷の権威は上がり、外交問題を中心に幕府と朝廷の意見は相反する方向へと急激に加速していく。これに加え将軍家定の後継問題も、井伊の推す徳川慶福(よしとみ、のち将軍・家茂)派と一橋慶喜を推す反対派に分かれて激しく対立していった。  
こんな御三家や親藩の反対活動が頂点に達すると大老・井伊は7月5日、厳しく違勅を唱えた前水戸藩主・徳川斉昭に「急度慎み」、名古屋藩主・徳川慶勝と福井藩主・松平慶永に「隠居・急度慎み」の処分を行い、一橋慶喜の登営を停止する処分をも下した。しかしまた1年後には更なる処分が下される事になる。  
ロシア、イギリス、フランスとも条約締結・・・安政の大獄へ  
安政5年6月19日にアメリカのハリス総領事と修好通商条約を結んだ幕府は、7月11日ロシア使節のプチャーチンともアメリカに順ずる修好通商条約を結び、朝廷に14日付けで、  
先般連絡の通りアメリカと条約を締結したが、その頃よりロシアも渡来したので、アメリカの振合いをもって条約を取結んだが、更にイギリスも同様に条約を締結したいと申し立て、フランスも渡来し同様にしたいという事である。  
と、事実を誠に簡単に届け出た。  
一方の朝廷は幕府に、アメリカとの通商条約締結の説明に来いと三家か大老の上京を強く督促していたが、7月18日に、「三家の内、尾張と水戸は不束のため急度慎みを命ぜられ、他家は幼少で召命を奉じ難く、大老はロシア、アメリカ、イギリスの軍船が来ていて政務繁劇で期日を緩めていただきたい」と云う幕閣からの書簡説明が武家伝奏に出されただけで、三家はおろか重臣は誰も来ない。上述の如く前水戸藩主・徳川斉昭には「急度慎み」、名古屋藩主・徳川慶勝には「隠居・急度慎み」の処罰が下され上洛など出来ないし、7月6日に征夷大将軍・徳川家定は死亡していたから、大老・井伊直弼は国事に忙殺されていてすぐ上洛など出来なかったのだ。ここで、更にまたまたロシアとも条約を結び、イギリスともフランスとも結ぶと言う。「幕府は、こんな風に朝廷をないがしろにするだけだ」と心の底から無力感を味わう孝明天皇は、他の人に天皇の位を譲りたいと、再度真剣に譲位を伝えた。  
こんな譲位の決意を天皇から直に伝えられ危機感を募らせる左大臣・近衛忠煕(ただひろ)は、右大臣・鷹司輔煕(すけひろ)、内大臣・一条忠香(ただか)、前内大臣・三条実万(さねつむ)などを中心に巻き込み策を練りはじめた。渋る関白・九条尚忠が朝議に出席していない中でも、安政5(1858)年8月8日近衛忠煕らは、朝廷から密かに水戸藩に蜜勅を送り、「国内の治平を図り公武合体を強固にし、幕政を改革し、攘夷貫徹せよ」と命ずる事を朝議決定し、即実行に移した。そして三卿、家門一同の隠居に到るまでこの趣旨を伝えよとも命ずる近衛忠煕や鷹司輔煕の署名する副書が付けられた。翌日、この蜜勅と同じ内容の勅書が幕府にも出されたが、意図的に水戸藩には早く伝えるという朝廷の画策である事は明白だった。この勅書を出したことにより、天皇は譲位の決意を変えている。  
身内の御三家や親藩からの違勅の大合唱のみならず、朝廷からさえこの8月8日の勅書で、  
勅答内容に背き軽率に條約調印したことは、大樹(=将軍)は賢明なはずだから、幕閣は何と心得ているのか、(天皇は)不審に思召されている。  
とあからさまに幕閣非難の勅書を出されては、大老・井伊は職権を駆使し牙をむかざるを得ない程までに追い詰められた。この蜜勅が引き金になり、後に大老・井伊直弼の「安政の大獄」と呼ばれる反対派への大弾圧が始まる。このとき、条約調印の件で大老・井伊に激しく「違勅」と詰め寄り上述の如く急度慎み処分を受けていた3名は勿論、水戸藩主・徳川慶篤、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内容堂、佐倉藩主・堀田正睦なども隠居・慎みの処分を受け、この他吉田松陰、橋本佐内、頼三樹三郎、安藤帯刀など多くが切腹・死罪を含む厳しい処罰を受けた。更に、青蓮院門主・尊融親王に隠居・慎み・永蟄居、左大臣・近衛忠煕に辞官・落飾、右大臣・鷹司輔煕に辞官・落飾・慎み、前関白・鷹司政通や前内大臣・三条実万に隠居・落飾・慎み、内大臣・一条忠香に慎み、など公家にも多くの処分者が出た。これが安政7(1860)年3月3日の桜田門外での大老・井伊直弼の暗殺につながる。 
4、初めての遣米使節

 

アメリカで「供揃えを付けた、格式に合う行列を組まねばならぬ」  
遣米使節派遣の背景  
ハリスが強硬に要求する自身の上府と将軍との会見、江戸への公使駐在、通商条約の締結などの難問題は、幕府や譜代大名を始め、朝廷をも巻き込み意見が分かれていた。しかし、戦争に訴えるかもしれないと脅しをかけるハリスは、結局老中・堀田正睦(まさよし)に会い、将軍家定に会い、堀田の役宅で世界情勢について大演説を打ち、通商条約作成に向けフル回転をし始めた。  
そしてついに老中・堀田正睦は井上信濃守と岩瀬肥後守を条約作成の交渉委員に任命し、江戸でハリスと日米通商条約交渉が始まった。この日米修好通商条約の批准書交換に、日本からアメリカの首都・ワシントンへ使節を派遣するという合意は、この交渉中に話し合われた。合計13回に及んだ交渉の中、安政4(1857)年12月23日、第8回目の交渉の最後に話し合われている。この時日本側が、  
条約に関し、貴国から日本に今回も含め3度も使節が来ているから、今度は当方から使節を派遣し、ワシントンで批准書交換をしたいがどうであろうか。  
と提案するとハリスは、「非常に良いお考えです。はっきり決まれば条約にもその旨記載したい。そうなれば私もこの上なく幸福で、我国を見ていただくだけでも有りがたい事です」とすぐ受け入れた。  
条約の最終案が完成すると、支那でのアヘン戦争にかたをつけたイギリスやフランスが大艦隊を引き連れ、戦争覚悟で通商条約交渉ににやってくるぞというハリスの再度の脅し文句に、その前に朝廷から通商条約勅許を取ろうと時間がかかっていた幕閣の不安を煽った。ハリスは、アメリカとの条約調印が出来ていれば、イギリスやフランスが来ても戦争は回避できると言った。大老・井伊直弼の、「アメリカとの条約に調印を済ませて、イギリスやフランスとの戦争回避が先決だ」と、しぶしぶながらの同意を得た井上と岩瀬は、安政5(1858)年6月19日、ハリスと「日米修好通商条約」に調印した。引き続き幕府は7月10日にオランダのクルチウスと、7月11にロシアのプチャーチンと、7月18日にイギリスのエルジンと、9月3日にはフランスのグローと夫々ほぼ同等な修好通商条約を結んだ。この「勅許なしの条約調印」という出来事に、幕府ご三家や譜代大名の中でさえも意見が分かれ、孝明天皇も全く不満で、朝廷を中心に京都では攘夷が叫ばれ始めた。  
こんな背景の中で、日本始まって以来はじめての使節が、条約批准書交換のためアメリカに行くことになったのだ。ここで興味ある事実は、日米修好通商条約の第14条にある最初の文である。いわく、  
第十四条、右の条約の趣は、来る未年6月5日(即ち千八百五十九年七月四日)より執り行うべし。この日限あるいはそれ以前にても、都合次第に日本政府より使節を以て、亜米利加ワシントン府に於いて本書を取替すべし。若し余儀なき仔細ありてこの期限中本書取替し済ずとも、条約の趣はこの期限より執り行うべし。  
このように、取決めた開港日までに条約批准が済まなくてもこの条約は発行する、としている点だ。合意した物事でも上手く進まない日本の政治情勢に、危機感を持つハリスが挿入させたのだろう。  
渡米準備と使節変更  
幕府は早くも條約調印から1月後の安政5(1858)年7月19日、ハリスに遣米使節の乗る船の斡旋を依頼し、8月23日には外国奉行・水野筑後守と永井玄蕃頭(げんばのかみ)、目付・津田半三郎、加藤正三郎に、使節としてアメリカに行き締結した條約批准書を交換すべく命じた。4人の使節と84人の供揃えも含めた総員88人が渡米すると伝えられたハリスは、その物々しさに目を丸くした。  
前述のごとく大老・井伊直弼がしぶしぶハリスとの條約調印を許しはしたが、この頃にはしかし、ハリスと交渉し日米修好通商条約をまとめさせた老中・堀田備中守が、自身で京都に出向いても朝廷から條約勅許を貰えず、一連の責任において6月23日に老中を罷免されていた。9月には井伊が老中・間部詮勝(まなべあきかつ)を上京させ、尊皇攘夷派の弾圧の手始めに上京遊説中の水戸藩士等を検挙させ始め、いわゆる安政の大獄の前哨戦が始まり、直後から幕府内の役人にまで左遷や罷免が行われるから、アメリカへの使節派遣どころではなくなってきた。ハリスが11月14日、遣米使節の乗船する軍艦派遣を香港のタットノール提督に要請するからその書簡を長崎に送ってくれと幕府に依頼したが、それどころではない幕府は、しばらくの猶予をハリスに要請している。  
当初遣米使節に任命されていた外国奉行・永井玄蕃頭は、安政6年2月24日将軍後継問題で反対派に立っていたため井伊直弼により軍艦奉行に左遷され、また使節ではなかったがハリスとの交渉に大いに貢献した下田奉行兼外国奉行・井上信濃守さえも小普請奉行に左遷されてしまった。また一方の使節・水野筑後守は、安政6(1859)年7月27日に横浜で起ったロシア士官の殺害事件の責任をとり更迭されたから、最初に決まった遣米使節は白紙に戻らざるを得なくなった。そこで幕府は新たに9月13日、外国奉行兼神奈川奉行・新見正興、勘定奉行兼箱館奉行兼外国奉行兼神奈川奉行・村垣範正、目付・小栗忠順(ただまさ)を遣米使節に任命した。  
この変更人事を聞かされたハリスは、老中・脇坂安宅(やすおり)に向ってこう非難した。いわく、  
遣米使節は水野筑後守と永井玄蕃頭と聞かされていたが、こんどは新見豊前守と村垣淡路守に変更されたとお聞きした。筑後守の変更は(ロシア士官殺害責任のためと)分るが、玄蕃頭はなぜ変更になるのか合点が行かない。・・・条約調印以来それにかかわったお役人はことごとく左遷され、逆に私に不敬の態度をとった者が取り立てられている。・・・私と親しかった人達が全て退けられたが、これは私に敵対していることになる。  
と感情をむき出しにした。脇坂は、なおも食い下がるハリスを前に国内事情だと説明に勤めたが、なおしつこく攻撃の手を緩めないハリスを、「人選はこちらの都合で決めることで、それを以って敵対している等という言いかたは理解できない」と切って捨てた。  
しかし、ハリスが感情的になった裏にはいささか理由があった。最初にアメリカ総領事として将軍に謁見した時、ハリスは非常に丁寧に迎えられたと満足だった。がしかし今回、条約締結後に公使に昇格し戻ってきたハリスが新任公使として将軍謁見を申し入れ、安政6年10月11日に実現こそしたが、2年前の最初の謁見に比べ大巾に粗略で侮辱さえ受けたとハリスは思ったのだ。ハリスは、自分が市中を登城の折も馬を引いたり荷を背負ったりする通行人は誰も道脇に控えず、前回城内に入ってからの案内者は奉行だったが、今回は無位無官の者で、城中でも不敬の態で下人共が騒ぎたてた。こんな事は瑣末なことだが、最も許せないのは、会った将軍は言葉を掛けてくれないばかりか会釈も返してくれず、前回の老中全員の面会に代わり、間部下総守とその他一人が自分と会っただけでほとんど口も利いてくれなかった。これは自分一個への侮辱ではなく、本国の大統領を侮辱したと同じことだ。こんな軽蔑した取り扱い振りを城中の大勢に見せる意図があったのだろうと、ハリスは次々に不満をぶちまけた。これらが自尊心の強いハリスを痛く傷つけ、怒ったハリスは将軍謁見のやり直しを幕府に求めた。「公使への侮辱はアメリカへの侮辱だ」と迫ったのだ。紆余曲折の末にハリスとの再度の将軍謁見が実現したが、こんな最初の謁見からやり直しの謁見まで取り仕切った外国奉行たちが、今回の新使節に任命された新見や村垣だったのだ。ハリスは、「この奉行たちから不敬な待遇を受けた」と、たいそう立腹したのだった。  
伴走軍艦・咸臨丸の派遣とアメリカ人乗組み  
遣米使節とその従者たちは、アメリカ政府の好意で軍艦・ポーハタン号に乗船し太平洋を渡ることになったが、最初に遣米使節が決まった時、当時使節に任ぜられたばかりの水野筑後守と永井玄蕃頭から日本の軍艦も送るべきだとの提案が出され、幕府もその願いを認めていた。幕府はやっと数艘の軍艦を購入し、長崎で海軍の訓練を始めて4年ばかりの時の話だから、いろいろな議論もあった。  
最初に任命された使節・水野筑後守と永井玄蕃頭の、安政5年8月30日の申請書にはこう書いてある。  
現地に着いて公式に出歩く場合、供揃えを付けた格式に合う行列を組まねばならない。前回の申請は連れて行く人数を抑え、現地で人を雇う予定であった。しかし、雇った現地人に日本式衣服を着せれば、もし今後外国人が日本に来て日本人を雇い、洋服を着せて供に加えたらこれは問題である。この度もフランス人が日本人を雇い、洋装をさせた問題もあったばかりだ。日本から多人数を連れてゆくとそれなりの身繕いをし、食料・飲料も必要になり、この運搬はアメリカ船だけでは足りない。従ってぜひ日本からも蒸気船を出していただきたい。そうすれば、その船に乗り組む日本人水夫を供揃えに加え、現地人などに頼らずとも一石二鳥でうまくゆく。オランダ人から操船術を習い始めて3年も経ち、日本船が1艘も出ないことは誠に残念である。今回は初めての航海ということで案内がアメリカ船で、日本からも軍艦を出すという形式になれば、名義も十分にたつ。操練所の教授たちは4千里の海洋航海で経験を積み、彼の国で軍艦の種別、海軍法制など実地に研究もでき、新発明もあると聞くから海軍建設の勉強にもなる。費用はかかるが、将来のためぜひご英断いただきたい。  
格式に見合った供揃えのため日本軍艦の水夫を使うなどとはよく考えたものだが、とにかく近い将来の海軍建設のためには絶好の機会であり、その経験を積みたいという強い熱意が、こんな理由をも考え付かせたのだろう。  
この申請に対し、操船訓練を受けたとはいえ日も浅く、途中で万一事故にあったらかえって海軍建設の障害になるなど慎重意見も出た。これに対し、  
航海上重要な測量術もマスターしてあり、蒸気船の操船にも問題はない。しかしその時の交渉しだいだが、アメリカ人の航海士と熟練船員を2、3人乗り組ますことができれば、大風に合い進路を失うようなことがあっても安心だろう。しかし常にあるわけではないが、万一のことがあったらそれは致し方ない。  
こう水野、永井等の使節は答えている。このようにして、日本軍艦の派遣とアメリカ人の乗り組が、幕閣により最初から決定されていたのだ。  
咸臨丸の太平洋東行ルート:嵐に流されたが、最短航路を取ろうと北緯43度あたりまで北上し、サンフランシスコを目指した  
上述のように派遣使節が再任され、軍艦派遣の実行に際し、責任者の新しい軍艦奉行・木村攝津守が幕閣からアメリカ士官を咸臨丸に乗り組ませる再確認を取り、ハリスの協力で当時横浜に仮滞在していたブルック大尉の了解を得ることができた。このように日本軍艦派遣とアメリカ人の乗組み計画は、もともと水野筑後守と永井玄蕃頭の発案であったのだ。  
また咸臨丸の選定について、当初軍艦操練所の教授方頭取だった勝海舟が、最初に決まった使節の水野筑後守の内諾を得て、スクリュー推進式軍艦・朝陽丸を整備し渡航準備を進めた。しかしその後、新しい軍艦奉行・井上信濃守が、朝陽丸は小さすぎるからと側輪推進式軍艦・観光丸の派遣に決めた。派遣する日本の軍艦選定を変えたのだ。しかしまた、荒れ狂う北太平洋の帆走航海には「抵抗の少ないスクリュー推進のほうが良い」という日本軍艦に乗り組むことに決まったブルック大尉の助言があり、再度咸臨丸に変更された経緯がある。派遣軍艦の選定が二転三転したわけだが、この時勝海舟や担当技術者は徹夜で咸臨丸の整備を行い、やっと期日までに渡海の準備を完了した。  
事実咸臨丸の航海を通じ、ブルック大尉はじめアメリカ船員11人の乗船は、荒れ狂う太平洋航海成功の重要な要素の一つであった。この時から126年も後年の、1986年になって初めて刊行されたブルック大尉の咸臨丸に乗組んだ時の航海日誌を読む限り、筆者には、日本人だけであったら果たして太平洋横断が成功しただろうかという疑問が湧いてくるが、水野筑後守と永井玄蕃頭の「アメリカ人を乗組ます」という発案が、咸臨丸の安全航海をなしえた基のように思われる。  
少し先走るが、この後の萬延元(1860)年閏3月19日、サンフランシスコから帰路についた咸臨丸は、日本人の操船でハワイ経由無事に帰国できたが、往路の暴風雨下の荒海航海の経験や、ブルック大尉から教えられた実地訓練が大いに役立ったようだ。しかし木村攝津守と勝海舟は、念のため帰路の安全策をも考えたのだろう。日本からサンフランシスコまで一緒に苦労してくれた、ブルック大尉指揮下だったアメリカ人水夫5人を雇い帰路も同行させている。浦賀経由で5月5日神奈川に帰着すると、雇い入れていた往復の航海で共に苦労してくれたアメリカ人水夫達は、神奈川のアメリカ領事へ引き渡された。 
アメリカへ  
出航と太平洋横断、首都・ワシントンへ  
遣米使節団を迎えに来たポーハタン号は、嘉永7(1854)年冬にペリー提督が2回目に来航した時、旗艦として江戸湾に来た。この船は排水量3600トンもある、ペリーの当時では世界でも有数の大型軍艦だ。ハリスの要請で使節団をアメリカまで乗せるため、司令官・タットノール提督は香港で多くの船室を追加してきた。  
使節の新見、村垣、小栗は登城して将軍・家茂からアメリカ大統領に宛てた信書や国務長官宛の書簡、条約批准書、黒印を押した渡米命令書などを受け取り、2日後、築地の軍艦操練所から小船に乗り、品川に回航したポーハタン号に乗り込んだ。総員77人、萬延元(1860)年1月18日の事だ。  
直接サンフランシスコ行きを目指したポーハタン号は、冬の北太平世を吹き荒れる嵐のため途中で直行をあきらめ、2月13日燃料補給のためハワイに寄港し、3月8日無事サンフランシスコに着いた。湾内にあるアメリカ海軍のメーア島造船所にはすでに咸臨丸が無事到着しており、アメリカ海軍の好意で補修のためドック入りをしていた。サンフランシスコでは9日間の歓迎行事をこなし、保養もした一行は、3月17日またポーハタン号でパナマに向け南下した。当時のパナマにはまだ運河などなく、60kmほどの地峡を汽車で横断し大西洋に出たが、日本国の使節が汽車に乗った初めての経験だ。  
大西洋岸のアスピンウォールには、すでに排水量4770トンもある更に大きなアメリカ軍艦・ローノーク号が待っていた。日本使節を首都・ワシントンまで送る使命を帯び、アメリカ政府が準備したのだ。ローノーク号にはマクルーニー提督が乗り組んでいたが、ペリー提督と共にポーハタン号艦長として日本に来た人だ。ここから北上し、首都・ワシントンに通じるチェサピーク湾入り口のハンプトン・ローズに着き、これから一行の面倒を見るアメリカ側代表者の4人に会ったが、皆ペリー提督と共に日本に来た人たちだった。ハンプトン・ローズはジェームス・リバーがチェサピーク湾に流れ込む河口の地名だが、ここにペリー提督が日本に向けて出航した軍港・ノーフォークがある。そもそもこの遣米使節がアメリカに来ることになった原因は、ペリー提督が結んだ日米和親条約とその中に盛り込まれた領事の日本駐在だ。そして総領事としてやってきたハリスが通商条約を結んだことにあるから、当時のアメリカで日本を良く知るいわゆる知日派は、ペリー艦隊に乗り組んだ人たちである。更に、ペリー艦隊のオランダ語通訳だったポートマンも今回の日本使節団への通訳として選任されたから、ペリー艦隊との再会とも言えそうな陣容である。  
批准書交換  
(この節以下の陰暦は日付け変更をしなかった村垣の日記に基ずくもので、実際より1日進んでいる)  
ハンプトン・ローズで軍艦・ローノーク号から川蒸気に乗り換え、チェサピーク湾からポトマック川を遡りワシントンDCの南側、ポトマック川の支流・アナコスシャ川に面した海軍造船所に着いた。副使・村垣淡路守の閏3月25日の日記によれば、  
12時に街のはずれのネービー・ヤード(海軍造船所)へ着船。ここは都府の総海軍所とのことで大きな構えである。頭役とか役人の総代だといって歓迎の挨拶に来た。陸には男女が群れ集まり、家の内外や屋根にまで上って見物している。やがて代表者のデュポン氏一行が我々を案内し上陸すると、ブカナン提督が迎えに出た。この人もペリー渡来のとき、艦長として来た人だ。その他5、6人が来て挨拶したが、見物人が押し寄せて道もないほどになった。そんな中に新聞紙屋という人たちが方々を駆け歩き、何かしきりに書いていた。後で聞けば、即座にその日の新聞紙に刷り、売り出すとの事だった。向こうの二階には写真機を立て掛け、我々の上陸の様子を写すとの事だ。  
と、上陸時の歓迎の様子や混雑のさまを記録している。  
ワシントンでは大歓迎を受けた。上陸からワシントン・ウィラード・ホテルまで5kmほどの距離を騎兵隊や楽隊、銃隊に先導され、一行は多数の馬車に乗ったが、熱狂する観衆が花束を投げ入れ、鐘を鳴らし、2、3町行っては止まり、また止まるという程の歓迎の人波にもまれた。村垣の日記には「まるで江戸の祭りのようだ」と書いている。ホテルは今でも14番街とF通りの角にあるが、100m四方もありそうな5階建ての立派なものだった。アメリカ滞在中はどこに行ってもこんな熱狂的な歓迎が続いた。  
27日にカス国務長官を訪ね、着米の挨拶をし、咸臨丸の修理や軍艦派遣など米国政府の助力に感謝した。国務長官のオフィスは国会議事堂の一角にあったが、普段のまま何の飾り気もなく事務所に通し、事務的な会見だった。前節の「渡米準備と使節変更」に書いたが、アメリカ駐日公使・タウンゼント・ハリスは将軍との公使謁見が粗略すぎたと幕府にねじ込み、外国奉行・村垣範正や新見正興が対応に追われ、もう一度将軍との謁見をやり直させた。ハリスはこの国務長官のカスと比較しても、いかに特異なアメリカ人だったかがわかる。しかし村垣の日記にはカス国務長官との会見をこんな風に書いている。  
この席は外国事務ミニストルが毎日出勤する局とのことだ。机を置き、書籍など取り散らし、少しも取り繕った様子もなくただ平常のように面会し・・・外国の使節に始めて対面するのに少しの礼もなく、平常懇志の人(寺に寄進に来た信徒)が来たようにお茶も出さずに済んだが、全く胡国(夷狄(いてき)の国)という名の通りのやり方だ。  
このニュアンスからも分かるとおり、「礼節の国・日本」では、ハリスの抗議を受け入れ将軍謁見をやり直したのも、礼節に関してそれほど理不尽な要求とは思わなかったからだ。そして、カス国務長官がとったアメリカ伝統の、礼節もなく実務的に合理主義を貫くやり方に面食らったわけだ。  
閏3月28日はいよいよ大統領との会見の日だった。3人の使節は武家の正装の狩衣(かりぎぬ)に萌黄色の烏帽子(えぼし)をかぶり、立派な飾り太刀をつけた。お付きの役人も夫々その格により布衣(ほい)や素袍(すおう)、麻裃で正装した。儀仗兵や騎兵隊、楽隊と共に条約批准書を入れた飾り箱が進み、お付きの役人と共に、夫々1人ずつアメリカの案内人をつけた3使節の馬車が続いた。ホテルを出た行列はホワイトハウスに向かったが、広い道路沿いには相変わらずものすごい見物人の垣ができた。日本人代表団は誇り高々に進んだが、村垣いわく、  
自分たちは正装の狩衣を着て、海外では見慣れぬ装束だから人々は不思議そうに見つめていたが、このんな夷狄の国に来て皇国の光を輝かせる心地がし、おろかな身の程も忘れ誇り顔で行進するのもおかしかった。  
と書いている。正装した日本国の代表が、公式にアメリカ大統領に会うのだという晴れがましさと誇りが強かったのだろう。  
ホワイトハウスでは、大勢の役人や軍人が左右に並ぶ中でブキャナン大統領の歓迎を受け、無事批准書を渡した。後ろには大勢の婦人たちも着飾って控えていた。オランダ通辞の名村五八郎が通訳を勤めたが、オランダ語から英語は前述のポートマンが受け持ったはずだ。批准書交換も無事に済み夕方ホテルに引き上げた。村垣は、  
大統領は背も高く70歳くらいの老翁で白髪穏和で威厳もあったが、商人と変わらない黒ラシャの筒袖股引をつけ、飾りもつけず太刀もつけない。合衆国は世界一、二の大国だが、大統領はいわば総督で、4年に一度全国の選挙で選ばれるという。国王ではないが、将軍から御国書も遣わした関係上国王に会う礼を用いた。しかし上下の別もなく、礼儀など何もなく、狩衣の正装も無益なことのようだった。  
と書いているが、封建社会の支配階級を代表してやってきた村垣には、民主主義国アメリカの習慣は奇異なことばかりだった。しかしアメリカ側は大喜びで歓迎し、海外へは誇り顔で、狩衣姿を写真に撮って新聞に載せたという。初めて外国へ遣いをし、無事に将軍の言葉も伝えることができたので、男に生まれた甲斐があり、本当に嬉しかったとも書いている。  
カス国務長官の夜会やホワイトハウスでの演奏会に出席し、国会議事堂や、その他多くの場所を見学をした。国会議事堂で特別に議会の様子も見たが、審議中は議員たちが演説のため「大声で罵り」、副大統領など一段と高い議長席に座っていたりと、日本橋の魚市場のようだと村垣の目には映った。  
フィラデルフィア、ニューヨークを回る  
批准書交換も終わったので、帰りはまたアスピンウォール経由太平洋岸のパナマに出て、ニューヨークからホーン峰経由で太平洋に出てくるナイヤガラ号に乗って帰る予定であった。ナイヤガラ号は、排水量5540トンもある更に大型の軍艦で、3台のピストンが水平にスクリュー軸に付いている、1995馬力もある最も大型の新鋭艦だった。それまでにも大統領や国務長官はじめ多くの人が、ぜひアメリカを見て帰ってくれとしつこく勧めていた。4月13日になって、使節とパナマで再会するためニューヨークを出航したナイヤガラ号は蒸気機関の故障で引き返し、1月ほどの修理になるとの報告が入った。国務長官は、このまま1月もワシントンに居てもしょうがないし、ちょうど良い機会だから方々の都市を見て歩き、修理の終わるころニューヨークに着けばよい。そして、喜望峰回りで帰国すれば真夏のパナマを通過せずに済むといってくれた。  
村垣の考えでは、「ナイヤガラ号がニューヨークを出たというのは偽りだろう。あんな大船が出航してすぐ故障するなどとは信じ難い」と書いている。しかしアメリカ人の気質を考えれば、筆者は、おそらく船の故障は事実だったように思うがそれ以上は分からない。使節団は、それではボルチモア、フィラデルフィアを回ってニューヨークに行こうと計画変更に合意した。村垣は、このように一旦合意したことも変更せねばならず、わが国の軍艦でなければ乗ってはだめだとつくづく思った。しかし、世界一周できる技術や経験もなく、そんな大型の蒸気軍艦さえないころだから、こんな経験や見聞した新知識を早く日本の皆に伝えたかったろう。しかし帰国してみると大老・井伊直弼は殺害され、尊王攘夷が叫ばれる真っ只中で、皆一様に口を閉ざす以外の方法がなかったから、全く皮肉な結末だった。  
4月17日、いよいよ大統領やカス国務長官にいとまごいをしたが、使節3人には大統領から純金の記念メダルを送られ、以下全ての団員にも国務長官から記念銅メダルが贈られた。いよいよ4月20日、ワシントンのホテルを後に、汽車に乗ってニューヨークを目指した。  
途中ボルティモアで降りるとまた大歓迎が待っていた。ホテルに入り歓迎の食事になったが、消防隊のデモがあり、7階まで簡単に水を噴き上げてみせた。暗くなると花火が上がった。流星や火の玉が砕け散るものがあり、色もさまざまに変わり、明らかに隅田川・両国の花火より優れたものだった。翌21日また汽車に乗ったが、河にかかる1マイルもある長い橋をいくつか渡った。更に驚くべきことは、チェサピーク湾にそそぐサスケハンナ河はその河幅が1kmほどもある広さだが、急流で橋がない。使節団の乗る汽車をそのままフェリーに乗せ対岸につくと、何事も無かったようにまた汽車は走り出した。これは全く驚くべき経験だった。車中で居眠りしているものは、そんなこととは露知らず居眠りを続けるほど自然の出来事だった。かくして夕方フィラデルフィアに到着したが、駅からホテルまで、相変わらず熱狂的な群衆が待っていた。車中の昼食はパンを食べただけで皆空腹を抱えてホテルの食卓についたが、肉料理などと共にやっと出てきた米の飯はバター入りだった。これでは食べられないと交渉し、また別の飯が出てきたが今度は砂糖入りだ。仕方がないからパンを食べるだけだったが、「世界の国々は風俗も食べ物もほぼ一緒で日本だけが特異だから、異国の旅の難儀は筆舌に尽くしがたい」と村垣は書いた。今でこそ日本食レストランは世界中にあるが、当時は確かに大変だったろう。  
フィラデルフィアにアメリカ政府の造幣局があったから、通貨交換比率の交渉の参考にするため、日本の金貨・小判や一分金の分析を依頼した。サンフランシスコでも同様な分析をしたが、これはアメリカ政府のお膝元という意味もあったのだろうか。ここは工業の中心地であり、街の造りもワシントンよりはるかに良く、人々の暮らしも裕福そうだった。23日の現地の新聞記事で、江戸で井伊大老の負傷というニュースに接したが詳細は一切不明だったから、使節一行は大いに心配だった。桜田門の事件は日本に帰ってからはじめて詳細を知ることになる。さて7日ほど滞在した28日、対岸に蒸気フェリーで馬車ごと渡った後また汽車に乗りニューヨークに向かった。  
ニューヨーク湾岸に達し、アムボーイという町で迎えの大きな蒸気船・アリダ号に乗り換え、ハドソン川河口のニューヨーク第1波止場に着いた。アメリカ第一の商業都市にふさわしくおびただしい船が停泊し、海岸には見物人が雲霞のごとく押し寄せていた。ブロードウェーをはじめ街中を馬車で行進するとここにも歓迎の見物人が押し寄せていて、行っては止まり、行っては止まりと際限がなかった。壇上に案内され着席すると、その前を何組もの騎兵隊が行進し、楽隊まで騎乗兵であった。更に、色とりどりの服装で楽隊を先頭に行進する歩兵部隊が次々に通り、気付け薬のウォッカの樽を背負った兵士まで来た。また馬車に乗り、夕方になってやっとメトロポリタン・ホテルに着いた。  
フィラデルフィアもそうだったが、夕方からガス灯に火が入り、戸外は昼のように明るかった。しかしこのような夜の繁華街は2筋くらいで、あとは比較的閑散としていた。村垣は日記に「フィラデルフィアは富裕の商人が多く、諸物を製造する所だから良い品も多く、人々も温順だった。ニューヨークは各国の商船が多数停泊し、方々から人が入り込み、貿易は盛んだが人は薄情で、物価も品質が悪く高い。案内のデュポン氏は、この街には外国人が多く入り込み人品も悪いから、往来にも用心すべしといった。何方も船着の大都会は人情が同じようだ」と書いている。おそらく函館奉行の時の経験から書いたのだろう。  
ニューヨークでも大歓迎を受けたが、ボストンからもぜひ来て欲しいと市長が出てきた。しかしもうこれ以上は動けないと断ったが、今回わざわざ造ったものだと、残念そうに懐中時計を記念に置いて帰った。この金時計はボストンのアメリカン・ワッチ・カンパニー(「ウォルサム」のブランドで知られる)が特別に造ったもので、今も日本の外務省に保存されていると聞く。ニューヨークにはペリー提督の立派な持ち家があり、提督自身は3年前に亡くなっていたが未亡人に会い、日本から使節が来たのはペリー提督の功績だとの世論が再び高まっていることを聞いた。更に娘婿のベルモント氏とも会い、その晩餐会に招かれもした。  
東回りで帰国  
5月12日、いよいよ使節一行はキーン艦長率いる軍艦・ナイヤガラ号に乗船し、明日の出航に備えた。通訳のポートマンも一緒だった。翌日は快晴で、ずっと面倒を見てくれたアメリカ側の案内者・デュポン氏はじめ見送りに来たが、ナイヤガラ号は蒸気力だけで出航した。  
大西洋を南下し、喜望峰を回り、インド洋に出てバタビアを通り、香港を経由し、9月28日浦賀沖にかかった。村垣の目には、快晴で富士山もきれいに見え地球を一周してきた甲斐があったがしかし、日付けを確認すると9月27日だという。「されば1年のうちに1日余分に手に入れたことは一生の得だ。詳しいことは航海者に聞くべし」と書いたが、サンフランシスコへ向かう途中の日付け変更線を知らず、日にちを調整せず日記をつけ続けたからにほかならない。品川沖に停泊した翌日、すなわち正確な9月28日、使節一行は軍艦操練所に上陸した。8ヶ月以上にも及ぶ世界一周の旅だった。 
随行者・玉蟲左太夫が見たアメリカ  
正使・新見豊前守に随行した仙台藩士・玉蟲左太夫は『航米日録』と名づけた日記を書いていた。当時の日本人が見た外国の一例として、その中の特徴的記述をいくつか簡単に列挙してみる。  
船中で  
1月20日(横浜停船)ポーハタン号の船員たちは極めて丁寧で、誰にでもよく物事を教え、少しも隠さない。彼らの日常を見ると、各々その責任範囲を専一に務め少しも怠らず、総官の命令いっか神速に命令遂行する。まるで手の指を使うようだ。  
1月23日(暴風雨)70余名の使節一行は全員魂を失い、一人として声を発せず、病人のようだ。真夜中に風波いよいよ激しく、陶器は砕け水器は破れ、今にも沈没かと思われた。しかし、その仕事に慣れているアメリカ人の挙動に全く変化はなかった。こんな事は彼らにとっては日常的で、我々の示した恐怖の色は一笑に付すだろうと、翌日になり赤面の至りだった。  
1月27日(強い南風)南風が暖かく平日と異なり、皆気分が悪くなった。午前10時ころ船上で音楽が始まった。怒涛が船上に飛び込んでくるにもかかわらず、悠々と演奏を続けた。これを聞くと心中が和み、苦痛を忘れた。外国の音楽でさえこんなに心を癒すから、日本の音楽なら更に良いはずだ。  
2月1日(大雨・強い南風)これまでアメリカ人の様子を観察してきたが、波浪で船が動揺し歩行困難のときは手を取り助け、(波浪が打ち入る自分の船室から避難して)夜中に中層デッキに行っても、「お早う」と言って布団を敷きここに寝なさいと手で示す。日本人の悲嘆の色を見れば「じきじき(すぐ着くよ)」と言っては慰める。そのほか何事にも丁重に世話をし、自分の事は二の次で面倒を見る。その親切は全く感心だ。従って夷人といえども、みだりに卑下してはいけない。この人達へも儒教の五常(仁、義、礼、智、信)の教えを説けば、必ず礼儀の人となるだろ  
サンフランシスコで  
3月12日(メーア島)(別船でサンフランシスコの歓迎式典に参加しメーア島海軍基地に帰ってきたが、そこに停泊中のポーハタン号が撃った祝砲が、運悪く通りかかった海軍基地を統率する提督を打ち倒してしまった。自宅に送られた)提督はこんな重傷を意に介さず、「この度は重傷を受けたが心配するに足りない。45年前メキシコ戦争で死ぬところだったが、一眼を失っただけで40余年の時を過ごせたのは実に天幸だった。今たとえ一命を失っても遺憾とは思わない」と言い、椅子に腰掛け泰然としていたという。この話を聞いて大いに驚いたが、尋常の人ではない。歴史書に載せて恥じない人だ。アメリカには英雄や豪傑が多い事はこれで分かるはずだ。  
3月16日(サンフランシスコ風俗)この湾は金鉱に近く、大きく湾曲して停泊に便利であるから、ヨーロッパやアメリカの商船が隊をなして来る。今も数百艘ほども停泊している。合衆国の諸府やニューヨークとは殊に往来があり、2艘の小型蒸気船が互いに連絡している様は、日本の常飛脚のようだ。フランス、イギリス、オランダなどからここに転居する者が多く、支那人もまた一万五千人ばかり居て、別に一港をなし唐人街と名付けている。また電信機を設置し、サクラメントの方々に通じている。急用を告げたい者は、それなりの金額を出せば数百里の遠方といえども一瞬で通じ、たちどころにその用事の往復ができ、その便利さといったらない。  
3月17日(サンフランシスコ停船)アメリカ船員は、船将の前でもただ脱帽するだけで礼拝はしない。平日でも船将・士官の別なく上下で交わり、たとえ水夫でも、あえて船将を重んじる風も見えない。船将もまた威厳を張らず、同輩のようだ。従ってお互い親密で、事あればお互い力を尽くして助け合う。凶事があれば涙を流して悲嘆する。日本とは相反する事だらけだ。日本では礼法が厳しく、総主などには容易に拝謁できない。あたかも鬼神のようだ。これに準じて、少し位の高い者は大いに威厳を張り、下を蔑視し、情を交える事はいたって薄く、凶事があっても悲嘆の色を見せない。彼らとは大いに違う。こんな風では、万一緩急の時に誰が力を尽くすだろうか。これは、長く平和が続いた弊害だろうと嘆かざるを得ない。しからば礼法が厳しく情交が薄いより、むしろ礼法は薄くとも情交が厚い方を取るのか。自分はあえて夷俗を貴ぶのではないが、最近の我が国の事情を考えれば自ら分かるはずだ。  
ワシントンで  
4月16日(ワシントン)夜、旅館の別部屋で影絵幻灯会が模様された。大統領が来たが、御者一人、女性2、3人を連れただけだった。従僕は連れず、平人と同じだったが、周りの人は何も怪しまず、礼拝する者も居ない。自分たちもその席に行ったが、誰が大統領か判別できなかった。夷人の上下のない平等の風習はこれでよく分かる。  
ワシントン滞留中のことこの地に着いてから、我が役人が厳禁にしたので外出ができない。たとえ外出が許されても、官吏が付き添う。そんな時、たいていの人は時計やラシャ、ビロードといった類の品を求めて市中をうろうろするだけだ。1人で4個も5個も買うなどしているのを見ると、日本に帰って利益を得ようとしているに違いない。そして安いものを買おうと奔走する。実に見苦しい限りだ。自分はぜひ学校を訪ねたいと願ったが、付き添ってくれる官吏など誰もいず、ついにその願いを遂げられなかった。まして貧院、幼院など推して知るべしだ。これらは皆アメリカの風俗などを探索する格好の場所で、第一に行くべき所だ。今回渡海した者は、お奉行始め誰もそんな心のある者はいない。  
ワシントン滞留中のこと日本が万国と貿易するときは諸品の製造も今の十倍も作らねばならないが、限りある人力でどれ程頑張っても、そんな事は決してできない。貨幣の損失は論ずるまでもなく、国が衰弱するだけだ。これを解決するには、蒸気機械を製造し一人で百人分の仕事をする術を始めねばならない。その上で貨幣の改革をすれば、百年千年貿易しても衰弱に陥る懸念はなくなる。  
この時から8年後には徳川幕府が政権を返上し、新しい明治政府ができたが、この間の政変のめまぐるしさに目を奪われ、それだけでこの時代を見がちだ。しかし当時の名も知られない武士の中に、初めて接する異文化に対し、このように優れた観察力と思考能力を持ってよく見据えていた人達がいたのだ。歴史を学ぶ者は、表面にあまり出ないけれど重要な、当時の人間像をよりよく見つめる必要があろう。 
とりあえず幕府が学び実行できた改善策  
軍艦操練所の教育と徽章の制  
軍艦奉行・木村摂津守や軍艦操練所教授方頭取・勝麟太郎一行が咸臨丸でハワイ経由無事帰国し、品川沖に着いたのは万延1(1860)年5月5日のことだ。その10日後には登城し、将軍・家茂に帰国報告をした。またその5ヵ月後には遣米使節・新見豊前守一行もアメリカ政府の用意した軍艦・ナイヤガラ号で帰国し、将軍・家茂に帰国報告をした。しかしこの7ヶ月ほど前には桜田門で井伊直弼が暗殺され、幕府内は相当混乱していたから、アメリカで見聞してきたことも十分報告・実行出来ず、難しい政局が続いた。  
初めて出来た長崎海軍伝習所の後、築地につくられた海軍教授所がより発展し、勝麟太郎が教授方頭取になり御軍艦操練所が開設され、咸臨丸の渡米も成功し無事帰国した。暗い中にもこんな朗報が幕閣を勇気付けたのだろう。万延1年6月17日には幕府の命により、石高に無関係に全国の大名家臣の軍艦操練所入学を許し、夫々の得意学科の測量や算術、造船や蒸気機関、船具運用や帆前調練などを習得させた。  
また11月6日には、幕府や諸藩の艦船に掲揚する「徽章(きしょう)の制」を定めた。すなわち、大船には日の丸の幟(のぼり)を掲げ、公儀の船は中檣に白と紺混じりの吹貫きを掲げ、中黒の帆を使うといった旧来の規則を改め、その代わり白地に赤丸の国旗を艫綱に引き揚げ、白帆を使う。また更に公儀の軍艦には中黒の細旗を中檣に掲げるようにする。従って各藩でも大船が出来次第、夫々公儀の印に紛らわしくないものを定め幕府の許可を取ること、というものだ。特に軍艦などは万国共通の規則で、国旗の掲揚、将官旗の掲揚など必ず行っていたから、こんな規則を学んだ日本もようやくその仲間入りをしたわけだ。  
蒸気軍艦購入と造船局取立て答申  
11月17日にはまた幕閣が、蒸気軍艦購入を英・米両国公使に依頼する件を外国奉行に諮問し意見を求めた。水野忠徳(ただのり)や新見正興(まさおき)、村垣範正(のりまさ)や小栗忠順(ただまさ)などの外国奉行は連名で、外国との通商が盛んになりまた万一のことがあった場合、十分なる海軍が備わっていなければならないから、複数の蒸気軍艦の英米からの購入は直ちに実行する必要があるのみならず、日本で軍艦を建造する設備も備えた造船局を作り、国産の軍艦を造る必要があると答申した。自身では不運にもアメリカ行きのチャンスを逃した水野始め、アメリカをつぶさに見て来た新見、村垣、小栗などの外国奉行の目には日本の著しい遅れがはっきり分かり、2、3艘の蒸気軍艦を購入したくらいではとても間に合わないと、真剣な答申だった。これに基ずき幕閣はアメリカ公使・ハリスに3艘の蒸気軍艦を発注し、日本人留学生の派遣をも合意したが、1861(文久1)年4月に始まったアメリカの南北戦争等の影響で実行できず、アメリカからの購入は先延ばしせざるを得なかった。  
しかしこの2ヵ月後にまたまた坂下門外に於ける老中・安藤信行への襲撃事件が発生し、一命は取り留めたものの、造船局取立てなどの海軍強化策は脇にのけられてしまった。しかし安藤は傷つきながらもアメリカの代わりにオランダと交渉し、蒸気軍艦の建造と日本人留学生の派遣とを合意した。その後実際に3艘の蒸気軍艦がアメリカに発注されるのは、アメリカ駐日公使もハリスからプルーインに交代した文久2(1862)年閏8月21日になってからである。  
発注された1艘目・富士山艦(ふじやまかん)は2年後の1864(元治1)年6月に完成し、翌年の慶応1年12月に横浜に着いた。2艘目の甲鉄艦(こうてつかん)、のちに東艦(あずまかん)と呼ばれる軍艦の納入に関し、発注を受けた当時のアメリカ駐日公使・プルーインの不手際もありゴタゴタがあった。この解決のため、7年前に元咸臨丸の航海士として渡米したことのある勘定吟味役・小野友五郎が、福沢諭吉も連れてその交渉役としてワシントンに派遣され、フランスがアメリカの南北戦争当時に南軍のために建造した蒸気軍艦・ストーンウォールの購入を決めた。このストーンウォール、すなわち東艦は1869(明治2)年に納入されている。この購入経緯については、蒸気軍艦・ストーンウォールを参照 。  
一方の造船所については更に遅れ、勝麟太郎の将軍・家茂への直接の働きかけにより、やっと文久3(1863)年4月24日、神戸海軍所・造船所の取建てが勝麟太郎に命じられた。 
5、開港と攘夷行動

 

神奈川開港と外交官の江戸駐在  
神奈川か横浜か  
前章、「初めての遣米使節」から読み続ける読者には少し後戻りする記述になる。安政5年に調印したアメリカ、イギリス、ロシア、オランダ、フランスの5カ国との修好通商条約は、ハリスが条約交渉中に井上信濃守などに再三云っていたように、アメリカ条約を見本にしたほぼ横並びの内容になった。しかし、開港場所について5カ国条約の日本文を細かく読めば、例えば第3条にある神奈川開港の記述は各国で少しずつ違いがある。これはただし、オランダ条約だけは第2条に書いてあるが、アメリカ、オランダ、ロシアは「神奈川港」を開き、イギリスは「神奈川港と町」を、フランスは「神奈川港と村」を開くことになっている。開港日については、イギリスとロシアが1859(安政6)年7月1日、アメリカとオランダが7月4日、フランスは8月15日である。  
アメリカの7月4日は、ハリスが特にアメリカの独立記念日を意識し選んだもので、「愛国心」を強調したかったのだろう。独立後まだ80数年しか経っていない新興国家のアメリカが、歴史あるヨーロッパ勢に先んじて、最初に日本を開国したという誇りの象徴であったのだ。  
日本とアメリカの通商条約が安政5(1858)年6月19日に調印され、ハリスは下田に帰ったが、日本側は早速開港地の詳細検討に入り、外国奉行・永井玄蕃頭(げんばのかみ)や岩瀬肥後守、井上信濃守などが8月4日に現地を調査した。大老・井伊直弼との最終調整で井伊は、交通量の多い東海道沿いの神奈川に夷人が居留する事は問題があると主張したが、条約をハリスと交渉した外国奉行たちは、その交渉過程から、今さら横浜とはいえないと主張した。これは、ハリスとの条約交渉中ハリスが開港地を「神奈川、横浜を開く」としたいと交渉したのに対し、日本側は強引に横浜は神奈川に含まれる土地ではないと言って、「神奈川を開く」としてしまっていたのだ。従って今さら、「神奈川は不都合だから横浜にする」とは言えないというわけだ。しかし結局は、条約交渉中にハリスが品川開港を主張したとき、海が遠浅だということで納得した経緯もあり、今回も井伊直弼の主張通りハリスに、神奈川は遠浅だからという理由で横浜にする同意を求めることにした。しかしこれが、日本側とハリスとで後々までもめることになる。  
ハリスは貿易施設を造る開港場所特定のため、12月18日幕府派遣の蟠龍丸に乗り下田から神奈川にやって来た。日本側からも外国奉行・永井玄蕃頭、同・井上信濃守、同・堀織部正(おりべのかみ)、目付・加藤正三郎なども現場に出向き、3日ほどかけ一帯を見分し、細部決定の交渉に入ることに合意した。  
翌年2月1日からこの実地検分情報をもとに永井と井上がハリスと神奈川で会談し、永井、井上や岩瀬らが大老・井伊と調整・合意した通り、「神奈川は遠浅だから」と横浜村に貿易用の港湾設備や居留地を造るべくハリスの同意を求めた。ハリスは、横浜は船付きの便利も良く建物を建てるにも良い場所だが、条約には「神奈川を開く」となっている。陸路で横浜から神奈川まで2里もあり、途中に山や川があって往来に難渋するから同意できないと頑強に拒否した。日本側は