江戸の日本

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雑学の世界・補考   

鎖国時代のロシアにおける日本水夫

最近、日ロ関係はおもに政治経済問題が論じられています。しかし、私たちにとって人間の個人的・文化的関係は重要です。 
民族交流関係はまず第一に文化の出会いの意味をもっているのは明らかです。この意味で古代日本も例外ではありません。奈良時代以前の神話に現れた天之御中主尊・仏教と道教の思想は中央アジア・天竺・中国など古代文化交流の実なのです。 
正倉院の宝物に代表されているように古代・中古日本において国際的な文化交流は盛んでした。 
奈良時代以来存続する校倉造りの建物に、当時の国際色豊かな宮廷文化の様子を物語る数多くの品々が伝えられている。これらの品々は正倉院宝物と呼ばれ、天平文化の余香を伝える高貴な宝物群として世界的にも広く知られている。 
1960年に上海大学の調査団はアジアに伝わる説話を調べ、「平安初期の物語「竹取物語」はチベットに伝わる物語と類似している」と報告しています。形式も内容もほとんどおなじです。 
ヨーロッパ人が初めて日本を知ることになったのはマルコ・ポーロが口述した「東方見聞録」(1298年)です。マルコ・ポーロは日本にきたことはありません。長年滞在した中国で日本の情報に接し「黄金に輝いている宝島、ジパング」伝説をヨーロッパに広めました。1543年、ポルトガル人はヨーロッパ人としては初めて種子島に到来しました。1549年8月15日、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着しました。日本にキリスト教の世紀が始まったのです。 
その当時ヨーロッパ人はイエズス会等の宣教師たちを通じて、キリスト教だけでなく古代ギリシア・ローマの文学作品を含むヨーロッパ文化を日本に持ち込みました。この事実は日欧文化の出会いの一つの出来事になりした。国際貿易をしているロシアの事もあきらかになりました。大槻玄沢(1757-1827)は次のように書いています。 
我国にて「オロシヤ」といふ名は、近き安永、天明の頃よりして、地はいづれの方角といふ事は弁へねども、人々口にする事なりしが、これは150年も100年も以前よりいふ「ムスコビヤ」の事なり…この国、皮革に名あり、蛮舶、この土産を国に齎し来り、その産を以て賈人皮の名とす…このムスコビヤは、もと都府の名にして、全州の総名となるとぞ、惣洲の本名はリュシア又ヲロシーア、又オロシイスコイとも云ふよし。 
江戸時代の初めに、幕府の鎖国令によって日本の国際交流はとだえ、遠洋航海用の船をつくる事を止め、船は太平洋に航海する事がほとんど出来なくなりました。 
日本に関する最初の記録 
日本がロシアの地図にはじめて登場するのは、1655年から1667年にかけて編集された「世界図」(Козмография)(オランダの地理学者メルカトール Mercator の「地図帖」(1569年)を見本とした作品)です。地図としては粗末でしたが、この図に示されたヤパンは、日本への関心を深めていく契機となりました。地図以外に「イアポニア即ちヤポン島」の章が日本の気候、自然、人民の宗教、国政などの事を含んでいます。「日本人は頭の回転が速く…性質は無慈悲です」と。 
モルダヴィア生まれのギリシア人、当時のロシア使節局の通訳官、ニコライ・スパファーリイ(Никола й Спафарий)は、1675年2月に通商関係を結ぶ使節官として北京に派遣され、1678年モスクワに帰って二部からなる手記を使節局へ提出しました。第一部は旅行記、第二部は中国、アムール、サハリン、日本、朝鮮の情報を含む記録です。この本の58章による日本についての記録は北京滞在中に得た事があきらかです。ロシアは清国とのネルチンスク条約(1689年)によってアムール流域の支配を阻止され、通商・植民政策の方向をカムチャッカに転じました。 
18世紀に入るとロシアにおける日本情報は日本人漂流民から直接聴取する時代になりました。その当時、日本では鎖国政治が強化されていました。 
ロシア初の日本情報を伝えた漂流民 
ロシアで記録された最初の日本人漂流民はデンベイ(伝兵衛)です。カムチャッカを初めて征服したコサック50人隊長ウラジーミル・アトラーソフ(Владимир)はカムチャッカ探検を行ってその半島の南部のカムチャダール人部落を制圧しました。その折に、イチャ湖畔に漂着して滞在していた「ギリシア人のような囚人」の消息を伝え聞いて、その「囚人」を訪ね、約2年間カムチャッカで生活を共にします。この間にデンベイはロシア語を習得し、アトラーソフは彼を当時の首都モスクワに連れて行きました。アトラーソフは「第一物語」を1700年6月ヤクーツク支局に提出しました。 
この囚人はウザカ〔大坂〕国の者である。この国は INDO(江戸)の支配下にある。1701年2月モスクワのシベリア局に「第二物語」を提出した。 
デンベイ自身がシベリア局で1702年1月に行った「デンベイの陳述」は、日本人がロシア人に直接与えた最初の日本情報です。アトラーソフの「物語」の最後のページにある記録は(おそらく、日本の原文をロシア人がコピーした)「万九ひち屋たに万ちと本り立半んにすむ伝兵衛」と読めます。大阪の質屋「万九」谷町通り立半町に住むと解釈されます。 
アトラーソフのヤクーツクでの記緑によれば、デンベイは1695年大坂(“ウザカ”)から12隻の船で江戸(“インド”)に穀物や高価な商品を積んで向かったが、暴風雨に遇って帆柱を折られ6カ月漂流してカムチャッカに漂着したと記されています。12名の乗組員のうち3名が「クリール人の農民」に捕えられ、残りは行方不明となり、3名のうち2名は「くさった魚と草木の根」のために死亡していた。デンベイは1699年ヤクーツクにおくられ、1701年12月にモスクワに到着しました。アトラーソフはデンベイに日本の地理、風俗、宗教などの事について色々な質問を出して記録をしました。 
伝兵衛は天地の創造神についても質問された。人々はそれを信じているか、どこで信仰を行うのか、と言われて、こう答えた。天地の創造神は一年は地上に、一年は天界に住む。ただ人々はこの神を知らない。自分たちの神々を人々はいろいろな名前で呼ぶ。アミダカミАмида-ками (阿弥陀・神)、トキТоки(仏か?)ハチマム Хачимам(八幡)、カンノンКаннон(観音)、フド(Фудо不動)、シャ・カイトヴダイШа-Кайтовдай(Шаканiодай =シャカ・ニョダイ=シャカ・ニョライ=釈迦如来の誤記に相違ない)、アミダ Амида、ニョダイНедай(両方でアミダ・ニョダイ=アミダ・ニョライ阿弥陀如来)、コージンКоо-жин (荒神)、ジゴ Жиго(Жизоの誤記であろう。地蔵)、ヤクシЯкуш(薬師)、コクロКокуро(虚空蔵であろう)、シガチマンШигачиман(シハチマンとも読める。シ八幡か?)、コボンドイシ Кобондойш(弘法大師)、イシェシメイИшешме(伊勢神明)、アマグ・サモАмагу-Само(アタゴ・ サマ愛宕様か)、オムネグ Омнег(?)。 
1702年1月プレオブラジェンスコエ村でピョートル大帝に拝謁しました。 
当時30歳の若さであったピョートル大帝は彼の語った日本の情報に興味を抱き、1702年4月3、4人のロシア人の子弟に日本語を教えるように命じ、1705年にはペテルブルグに移して日本語の教師に任命しました。デンベイはロシア人によって記録された大坂方言の特徴を示す42の単語を残しています。彼はかなりロシア語を理解していたようですが、自ら書くことまではうまく出来なかったようです。ピョートル大帝の命令によって日本漂流民デンベイは洗礼をうけてガウリエル(Гавриил)と命名されました。彼は日本人としては最初のギリシア正教徒です。 
1709年冬に遭難し、1710年カムチャッカ南部のアワチャ湾北方に漂着したサニマ(三右衛門?)は、1714年にぺテルブルグに送られてデンベイの助手となりました。サニマは紀州の人で、後に帰化してロシア婦人と結婚し1734年に死去するまでロシア語を教えていました。残した日本語資料も全く知られていません。今後発見される可能性があるとおもわれます。 
なお、1705年にぺテルブルグに最初の日本語学校が開設されたという説があります。20世紀の東洋学者 V・バルトリド博士の代表的著作「ヨーロッパおよびロシアにおける東洋研究史」(1925年)で否定されているように、この学校の存在を裏付ける資料は今のところありません。日本語学校はゴンザを教師として1736年7月科学アカデミーに付属して設立されました。これがロシア初の日本語学校です。 
日露交流史におけるゴンザの役割 
17世紀末から始まるロシアのカムチャッカ遠征は、原住民を征服して毛皮を貢納させ、千島・アリューシャン列島開拓を目指すものでした。1696年12月にカムチャッカに派遣されたアトラーソフ遠征隊は現地人部落を制圧し、城砦を築き赤狐の毛皮を徴収しています。 
その当時、ロシアはカムチャッカ以南の諸島に興味をいだいていました。1726年にヤクーツクのコサック隊長アファナーシー・シェスタコーフ(Афанасий Шестаков )はエカテリーナ一世の命で探検隊を編成し、1729年オホーツクに到着し原住民との戦いで戦死しています。彼の息子ワシーリー・シェスタ コーフ(Василий Шестаков)は1729年9月オホーツクから出港して北千島に向かい、さらにカムチャッカのボリシェレックへ入港し越冬しました。1733年に編成されたシパーンベルグを先遺隊長とするベーリングの第二次カムチャッカ探検隊は、総勢570人に及び、歴史家で地理学者のミュラーや当時学生だったクラシェニーンニコフも含まれています。ベーリング隊長は1734年秋ヤクーツクに到着し、1735年夏の輪送隊の到着を待って、オホーツクに達したのは1736年末です。彼らの目的はカムチャッカにとどまらず、アリューシャン列島とアラスカ、千島列島を経て日本への航路を開発することにありました。 
1737年6月シパーンベルグは日本沿岸に達し、仙台藩の金華山沖の網地島と房州雨津海岸の津山に上陸し、織物やガラス玉を渡して米、野菜、煙草、漬物を手に入れていました。ロシアの東方開拓には食糧調達だけでなく、船や建物などを造らなければなりません。これらの物資をヨーロッパやシベリアから運び込むと大変な日数と費用がかかります。日本との通商はロシアにはどうしても欠かせない国家的課題でした。このような時期にゴンザたちがやってきたのです。 
1729年の夏カムチャッカ最南端のロパトカ岬とアワチヤ湾の間に日本船が漂着しました。この船には17名が乗り組んでいましたが、2人を除いてすべてコサック50人隊長シュティーンニコフ(Штинников)に殺されました。しかし、この悪業が知れて彼は死刑となりました。日本船はファヤイキマル(Фаянк‐маръ)又はワカシワ丸といいます。薩摩の国городСацма から米、綿織物、紫檀、半紙、その他を積んで大坂へ向かうところで悪天候によって大海におし流され、6ヵ月と8日間海上を漂流しました。 
生き残った2人の内の一人はゴンザという11歳の少年で、船の舵手の息子、もう一人はソーザという年輩者でした。 
2人の日本人は上から命令があるまでカムチャッカの官費で養われました。ついに、「日本人をヤクーツクに送れ」と命令があり、1731年ヤクーツクに送られました。ヤクーツクのシベリア支局がゴンザたちの存在を知った時点から、彼らに対する破格の取扱いが始まります。 
ヤクーツクの長官はゴンザたちを国費で扶養し、日本人乗組員を襲ったシュティーンニコフの処刑を命じています。モスクワのシベリア庁の命令で駅馬車で案内人と伍長が指揮する兵士を付けて、イルクーツク、トボリスク、モスクワを経て1733年夏ぺテルブルグに到着し、アンナ・ヨアノウナ女帝の夏の宮殿で女帝の謁見にのぞみました。漂着から4年間に覚えたロシア語を流暢に話すゴンザに、女帝は驚くとともに大いに喜んだことでしょう。 
アンナ・ヨアノウナ女帝はゴンザとソーザにギリシャ正教の洗礼を受けるように命じました。洗礼名は、コジマ・シュリツ(Козьма Шульц)とダミアン・ポモルツエヴ(Дамиан Поморцев)と名付けられてロシア人となりました。この時点で彼らは帰国を諦め、ロシアに骨を埋める覚悟をしました。陸軍幼年学校の修道司祭のもとに通い、ロシア正教を学びました。ロシア正教の教義を学ぶことは、ヨーロッパの文化とロシア人の精神を学ぶことを意味します。1735年にはロシア語を学ぶために、アレクサンドロ・ネフスキー修道院に通っています。ここで教会スラヴ語とロシア語文法の基本を習得し、同年11月に科学アカデミーでロシア語とともにロシアの芸術・文化を学んでいます。同年12月には科学アカデミーの正職員となり、日給10カペイカを貰う身分となりました。この時ゴンザには科学アカデミーのスタッフとして、日本語を教える任務が与えられたのです。 
翌1736年にロシア科学アカデミーは中ヨーロッパにおける最初の日本語学校を開設するように命令しました。2人はアカデミー図書館次長アンドレイ・ボグダーノフ(Андрей Богданов)の指導の下に教師になったのです。 
しかしながら、同9月にソーザは死んでしまいました。ゴンザは一人でロシア兵士の子供たちを教えるようになりました。彼は1739年までの3年間に教育以外に教科書と辞典など次の6冊の著作をうみ出しました。 
(1) 日本語会話入門(1736年)。 
(2) 項目別魯日単語集(1736年)。 
(3) 簡略日本文法(1738年)。 
(4) 新スラヴ日本語辞典(1736-1738年)。 
(5) 友好会話手本集(1739年)。 
(6) Orbis pictus(世界図解)(1739年)。 
11歳で故国を離れたゴンザは漢字は数字しか知らなかったので、ロシア文字で日本語を書きました。この記録は重要な方言資料になっています。 
教師の仕事と同時に、ゴンザ自身、女帝の命令によって科学アカデミーで勉強にはげみました。 
このような業績を可能にしたゴンザは、他の漂流民と違ってロシア語を流暢に話すことができた点でも、特別な才能の持ち主であったことは違いありません。このことは同じ境遇にあったソーザと比較してもあきらかです。ソーザはじめ他の漂流民との違いは、順応し易い適齢にあったことが幸いしたとも言えましょう。私が注目したいのは、ゴンザが知的な基礎となる教育をしっかり受けていたことと、ボグダーノフの導きがあったことです。 
ゴンザの才能を開花させたボグダーノフの功績は、故ペトロワ女史も強調されていたように、特筆されるべきです。1から100までの数字は知っていましたが、平仮名も片仮名もむろん漢字も書けない少年でした。彼女自身も述べていたように、ゴンザの業績はボグダーノフとの共同労作と見るべきでしょう。ボグダーノフは当時のロシアでは並ぶ者がないほどの博識の持主であり、チェコの教育学者コメニウスに傾倒する偉大な教育学者でした。教育学者としてのボグダーノフの面目は、ゴンザの教科書と辞典の単語の配列のしかたに表れています。コメニウスを模倣することなく独自の配列をおこなったのです。 
1736年に日本語学校の開設と同時に、ゴンザの実践的な教育能力の向上を目指して「項目別魯日単語集」を翻訳させ、ロシア語の基本単語を習得させています。次にゴンザが「日本語の会話 戸口の前」と訳した「日本語会話入門」の翻訳にあたらせています。この原書はコメニウスの「開かれた言語の前庭」です。コメニウスが「子どもにとってラテン語をもっと容易に親しみのもてるものにするために」書いた初歩的な会話入門書です。この二著はいずれも日本語学校のテキストとして執筆され実際に教室で使われました。ゴンザは翻訳と執筆の作業が一体となったこのような作業を通じて、ロシア語の基本単語と会話の基礎を習得していったのです。 
このようなボグダーノフの系統的な教育計画に転機が訪れます。それは1736年9月29日のソーザの死です。ゴンザはロシア語とともに日本語も習得しなければならなかったのです。ゴンザの日本語の相手はその時43歳の経験豊かなソーザでした。ソーザの死はゴンザが日本語を忘れていくことを意味します。ゴンザは悲嘆の涙を振り払って、その10日後の10月10日よりソーザが教えてくれた日本語を確かめるかのように「新スラヴ・日本語辞典」の翻訳に猛然と取り組みます。その意味でこの辞典は、ゴンザなりのソーザへの鎮魂の書とも言えるでしょう。 
ゴンザはこの辞典の翻訳作業を進めると同時に「簡略日本文法」を執筆します。ボグダーノフの予定では、辞典よりこの文法書の完成が先だったかもしれません。日本語学校の目的は日本語通訳の養成です。そこで「日本語会話入門」に比べれば高いレベルにある通訳のテキストとして「友好会話手本集」を執筆します。 
ついでコメニウスの世界初の図解百科「オルビス・ピクトゥス」の翻訳にすすみます。この書物は「世界図会」と呼ばれているように「世界の事物と人生の活動におけるすべての基礎を、絵によって表示し、名づけたもの」(コメニウス)です。ボグダーノフはゴンザを日本学者としてだけでなく、自分の後継者として、あるいは学者として世界に通用する人物に育てていこうという意図があったのかもしれません。 
ボグダーノフの意図を理解し、きちんと応えてくれたゴンザは、ボグダーノフの最愛・最高の弟子だったのです。ゴンザの突然の死は、ボグダーノフにはわが身を剥ぎ取られるような深い悲しみだったでしょう。それは又、ロシアにとっても大きな損失でした。ゴンザたちがロシアで破格の待遇を受け、ボグダーノフとこのような師弟関係を結び偉大な業績を残したことは、日本の誇りであるとともにロシアの誇りです。ゴンザはボグダーノフとその家族や、科学アカデミーに勤務する人々にさわやかな強い印象をいつまでも残したことでしょう。ゴンザは日露交流の偉大な先駆者だったのです。 
ぺテルブルグ生まれのドイツ系ロシア人、アッシュ(1729-1807)がゴンザの資料を入手し、母校のゲッチンゲン大学図書館に寄贈して保存しています。アッシュはロシアの高官であるとともに有名なコレクターでもありました。ゲッチンゲン大学のアッシュ・コレクションからゴンザの執筆であると突きとめた村山七郎は、この資料をアッシュはイルクーツクで入手したのであろうと語っています。ゴンザ以降に漂着した日本語教師たちは、ゴンザの業績に深く感服し、大いに励まされたことでしょう。 
1994年に鹿児島において、ゴンザファンクラブが結成されました。参加者はクラブの会報や会議でゴンザの作品と鎖国時代の日露関係史の研究を進める重要な活動を行なっています。 
日本語学校のイルクーツクへの移転 
1739年12月にゴンザは亡くなりましたが、ロシアの日本語に対する興味は変わることなく続いていました。そのため日本語学校はサンクト・ぺテルブルグにも25年間存続していました。日本人の教師はいませんでしたが、ボグダーノフとこの学校の最初の卒業生であったシェナヌイーキン(Петр Шенаныкин)とフェーネフ(Андрей Фенев)が教えていました。ときおりサンクト・ぺテルブルグに日本漂流民が送られてきました。1747年にはヤクーツク市に新しい日本語学校が創立されました。1754年にサンクト・ぺテルブルグとヤクーツク両学校はシベリアの主要都市イルクーツクへ航海学校の一部分として移転しました。 
移転の理由は当時の経済状態にありました。カムチャッカ、アリューシャン列島、アラスカ等の新領土で活動したイルクーツクの裕福な商人と企業家は国際貿易に興味をもちました。大熊良一氏が書いたように18世紀に 
南進をはばまれたロシアは、シベリア北辺を東漸してカムチャッカを征服支配するのであるが、かくして、ロシアの探検航海者たち(ベーリング、シパンベルグ、アトラソフら)によってカムチャッカから北太平洋海域、アレウト列島、アラスカ、北アメリカ大陸の西北太平洋岸へのロシア人の冒険的毛皮商人の進出となるのである。そして、これらロシア人と日本人の接触は、東蝦夷地のアイヌ人と交易が行われていたのを介して行われるようになる。ロシア船が18世紀の末葉に国後〔クナシリ〕島や択捉(エトロフ)島にくるのは、毛皮を求めるロシア人の商社の出先機関が、千島アイヌ人やカムチャダール人の情報をもととして日本人との交易を求めてきたものであると考えられる。 
日本語ができる人間は国際仲介者になる可能性があったことが分かります。 
その当時、日本漂流民の大部分は洗礼をうけ日本姓名の代りにロシアの姓名を貰いました。 
イルクーツク学校初級に関しては、どのような日本語教科書と辞典が使用されていたのか、よくわかりません。サンクト・ぺテルブルグの日本語学校の伝統を継承したのか、シベリアの学校は教材を十分に供給されていたのか。ゴンザの教育資料がサンクト・ぺテルブルグにおける科学アカデミー古文書館に保管されているだけで、詳細は不明のままです。 
注意すべきことは、様々な漂流船は日本の各地の港から出港していたので、乗組員は色々な方言を使っていました。すなわち、南部、伊勢州の出身者は薩摩出身のゴンザの記録をつかうことができなかったのは明らかです。 
タターリノフの「レクシコン」 
1772年サンクト・ぺテルブルグ科学アカデミー会員ドイツ系科学者ゲオルギ(Johann Gottlieb Georgi, 1729-1802)は旅行中イルクーツクで利八、伊兵衛、久太郎、長助並びに久助と会って日本語学校並びに日本国のことを質問しました。そしてその記録(1772年のロシア国旅行)を1775年に出版しました。 
この学校設立の動機となったのは18名がのり込んでいた日本船である。この船は米、布等を積んで日本のサイマチから別の湊に向かって出発したが12月29日にマストと帆柱を失い千島のオネコタン島に漂着した。生き残っていた12名をカムチャッカに連れていった。彼等はペテルブルグにおくられロシア語を学び、後イルクーツクにおくられて来た。日本語教師になった。 
1782年10月24日にロシア科学アカデミー会議はイルクーツクの日本語学校の卒業者アンドレイ・タター リノフ編「レクシコン」(「すなわち日本語でニポンノコトバ、伊呂波と数字…」)を調査しました。編者の事は写本の表紙に平仮名で次のように書いてあります。「にぼんじんのひと、さのすけのむすこ、さんばちごさります」。サノスケと言う日本人はタナ丸の乗組員の一人です。 
タナ丸は様々な食料品を積んで、1744年末南部佐井湊を出港して江戸に向かいました。太平洋で台風にあい、6ヵ月以上漂流して千島の第五島であるオンネコタン島に漂着しました。17人の乗組員中生き残った10人はロシア人たちに見出され、カムチャッカ半島のボリシエレツク港、それからシベリアにつれて行かれました。彼らの中から5名が選ばれサンクト・ぺテルブルグに送られました。サノスケ等はロシアに滞在中、洗礼をうけロシア女性と結婚しました。サノスケの正教名はイワン(Иван)です。 
さんぱち(アンドレイ)編「レクシコン」はゴンザの記録と違って三つの部分にわかれています。すなわち、977のロシア語単語とロシア字で書いた日本語翻訳並びに平仮名で書いた日本語です。タタリノフは、東北弁をつかいました。例えば、「広い」は(fiai)、「とまる」は(ogu)、奉公は(fogo)になっています。「レクシコン」には単語以外、同3部の日本会話と伊呂波(平仮名並びにそのロシア文字で書いた発音)と数字の部分が含まれています。 
恐らく、その当時、イルクーツク学校の生徒は「レクシコン」を教科書として使ったことでしょう。もっともこの辞典が出版されたのは1962年になってからです。 
大黒屋光太夫等 
漂流民として一番有名なのは日本でもロシアでも、大黒屋光太夫(1751-1828)であることは言うまでもありません。 
天明2年末伊勢州白子浦から江戸に向かって千石積の「神昌丸」という船が出ました。数年後、江戸時代の学者桂川甫周は次のように書いています、 
天明2年壬寅の歳12月、勢州亀山領白子村の百姓彦兵衛が持たる船神昌丸に、紀伊殿の運米五百石並江戸の商賈等へ積送る木綿、薬種、紙、饌具等を積載せ、船頭大黒屋光太夫以下合船17人、同13日の巳の刻ばかりに白子の浦を開洋し、西風に帆を揚て夜半ころに駿河の沖に至りしに、俄に北風ふき起り西北の風もみ合て忽柁を摧き、それより風浪ますます烈敷、すでに覆溺すべきありさまなれば、船中の者ども皆々髻を断、船魂に備へ、おもひくに日頃念ずる神仏に祈誓をかけ、命かぎりに働ども、風は次第に吹しきり… 
神昌丸の漂流は7ヵ月間になりました。漂流中に乗組員の一名は死亡しました。そして1783年7月20日、アリューシャン列島中のアムチトカ島に漂着しました。アムチトカ島,カムチャッカ半島、ヤクーツク市それからイルクーツク市に滞在中に11名が病死しました。 
イルクーツクに到着したのは1789年2月7日のことでした。同市滞在は2年間。滞在した神昌丸の乗組員は大黒屋光太夫(幸太夫とも書く)、小市、磯吉、新藏、庄蔵でした。5名の希望は帰国でした。けれども鎖国下、彼等の希望をみたすことはほとんど不可能でした。しかしながら通商・国交を求めるイルクーツクの裕福な商人の興味により漂流民の希望はかなえられました。 
ロシアにおいて、18世紀末に魯米会社が創設されました。国際貿易の拡大は疑いのない事になりました。その当時、光太夫らは有名な学者キリル・グスタヴォヴィチ・ラックスマン(Кирилл Густавович Лаксман)と知り合いになりました。漂流民らの窮状を知ったラックスマンは何くれとなくかれらのうしろ盾となり、帰国嘆願書を作成してやったり、衣食の不足を補ったりなど親身になって世話をしました。三度におよぶ帰国願も梨の礫なのを知った彼は、嘆願書が途中で握りつぶされて中央当局の手に届いていないと見抜きました。折よく彼は勅令を受けて上京することになっていたので、光太夫を促し、彼をつれて上京しました。1791年1月15日にイルクーツクから出て、昼夜兼行、30日あまりでサンクト・ペテルブルグに到着しました。 
イルクーツクとサンクト・ペテルブルグ滞在中、光太夫らは自ら進んで日本国の知識(国家機構、地理的位置、風俗、言語など)をロシア人に伝えました。 
現代ロシア科学アカデミー東洋学研究所サンクト・ぺテルブルグ支部の写本部にいわゆる光太夫文庫が保存されています。 
一.「新板絵入源平曦軍配」   
二.「森鏡邪正録」   
三.「絵本写宝袋」   
四.「番場忠太紅梅箙」   
五.「奥州安達原」   
六.「攝州渡辺簸橋供養」 
七.「太平記」 
この文庫が、初めて私の手に入ったのは1956年のことでした。その当時レニングラード大学を卒業して日本の写本と木版本の目録を作っていたのですが、ある本の珍しい書き込みに気づきました。 
「森鏡」の裏表紙にロシア文字をつかい、次の書き込みがある。 
Японцу даикокуя Кодаю//коно хонва ханнозя наи каки//тига каи танозя.Сор-есоре коно//хонва小浜諌 токужилони тимайно хонто//каете каити кита.Мина 海 Еотосите//此 хон бакари нокорита й сацу моноде//йомунони таиоринай хокани хон га//аритемо намитага коборити домо iомарень 
(ヤポンツダイコクヤコダユ、コノホンハハンノジャナイカキ、チガカイタノジャ。ソレソレコノ、ホンハ小浜諌トクジロニチマイノホント、カエテカイチキタ。ミナ海エオトシテ、此ホンバカリノコリタイサツモノデ、ヨムノニタイオリナイホカニホンガ、アリテモナミタガコボリチドモイオマレニ)。 
ロシア文字中3ヵ所に漢字がありました。右の書はペンで書いたものであって、漢字の書体はロシア字よりまずいものです。同書物にある筆で書かれた漢字はうまく出来たものと見えます。光太夫文庫の書込みの著者は少なくとも2人いました。さらに光太夫自身も漢字・仮名・ロシア文字で書いた形跡があります。 
龜井高孝氏は右の書きこみを詳しく調査し、漂流以前とロシア滞在中の光太夫自身の生活をあきらかにしました。 
数年間、ロシアの様々な状態に住んでいて、光太夫らはその国の人々・風俗・シベリア現地住民・言語・文字・食物・衣服・宗教・芝居・軍隊・国家機関・歴史・国際関係などを次第に理解していきました。帰国後ロシアに対するさまざまな質問にこたえました。 
事実は小説よりも奇なり。サンクト・ぺテルブルグ滞在中驚くべきもののうちエカテリナ二世女帝に拝謁を許されたのはその一つです。 
女主の左右には侍女五六十人花を飾りて囲繞す。其内に崑崙の女二人交り居しとぞ。又此方には執政以下の官人四百餘員両班に立わかれて、威儀堂々と排居たれば心もおくれ進みかねたるに、ウヲロンツヲーフ 御まえ近く出よと有ける故、氈笠を左の脇にはさみ拝せんとせしに、拝するに及ばず直に出よと有により、笠と杖とを下におき、御まえににじりより、かねて教えられしごとく左の足を折敷、右の膝をたて、手をかさねてさし出せば、女帝右の御手を伸、指さきを光太夫が掌の上にそとのせらるゝを三度舐るごとくす。 
光太夫ぺートルボルグに在留のうち、執政べスポロックとりわけ懇にて常に出入す。食事の時なとは妻子ともAをおなしくせしとなり。 
此方の事など尋ねられ、和書並彼方にて作りたる此方の記事の書なんどを見せらる。和書といふは多く絵草紙院本なりしとぞ。 
エカテリナ二世の拝謁の結果として幸太夫・小市と磯吉は帰国した。1782年に、初めて日本に国交を求める使節が派遣された。使節の手紙に「偉大なる全ロシア帝国女帝陛下は、至高の母性と人類の福祉に関する一視同仁の見地から、漂流民たちに保護を加えるべく、大ロシア帝国陸軍中将イルクーツク県およびコルヴィヴァン県総督にして数々の叙勲章を受けたるイワン・アルフェリエヴィッチ・ピーリにかんして、前述の日本帝国臣民が日本の近親者および同胞に再会するように彼らの祖国に送還することを命ぜられた。」 
光太夫等はロシアに滞在中日本語関係の助言を与えて、顕著な足跡を残しました。残念ながら小市は寛政5年(1793年)4月2日に故郷を外から見てロシアの「エカテリナ号」で病死しました。残りの光太夫と磯吉は日本人としてはじめてロシアから帰国しました。 
当時のロシアには、上記のゴンザの教育資料とタタリノフの「レクシコン」以外、日本語の単語をふくんだ印刷作品もありました。すなわち、1772年に69単語を記録したゲオルギの「ロシア国旅行記」並びに285単語をふくんだパラス(Петр Симонович Паллас,1741-1811)の「欽定全世界言語比較辞典」(1787-1789年)。1790-1791年出版の4巻のヤンコヴィチ・デ・ミリエヴオ(Федор Иванович Янкович де Мириево,1741-1814)の「アルファベット順に配列された全世界言語方言比較辞典」です。 
この辞典の第4巻に日本語資料が掲載されています。最初に次の記録があります。 
1791年にサンクト・ぺテルブルグに滞在した日本の伊勢国白子町出身でロシア語を話せた日本人商人コダユは下記の日本語単語の正確な発音と表記とを示した。 
日本語単語の数はパラス比較辞典と大体同じです。けれども、ヤンコヴィチ・デ・ミリエヴォ比較辞典の特質は伊勢弁にあります。 
桂川甫周は、大黒屋光太夫から長い間色々な話を聞いた結果、ロシアについて様々な作品を出しました。そのうち一番有名なものは「北槎聞略」といいます。光太夫自身は江戸時代のロシアについての最も権威あるコンサルタントでした。 
新藏著日本語教材 
大黒屋光太夫らが帰国した時、同船の乗組員の2人は帰化する道を選びました。すなわち、その当時病気になった若松村出身の庄蔵と同村の新藏です。「北槎聞略」に書かれている通り 
右両人は病気にて彼邦の教法を受、姓名を改、イルコツカに止り居る。 
2人ともイルクーツク日本語学校の教師になりました。 
サンクト・ぺテルブルグのロシア民族図書館にこの日本語学校の1809年の写本教科資料一冊が保存されています。著者名はニコライ・ペトロヴィチ・コロティギン(Николай Петрович Колотыгин,?-1810)で、即ち漂流民新藏の洗礼名です。通説では「神昌丸」の水夫であった新藏は仮名文字位しか読めなかったということになっています。教科資料の書体も興味深い事実を示しています。 
仮名表の後「江戸京の記述付その河・町・橋・堀割情報」があります。それぞれの地名は四行からなります。すなわち地名の意味〔直訳〕、ロシア文字で書いた日本語の発音、平仮名、漢字、片仮名書体です。 
それにもかかわらず平仮名書体は片仮名と違っています。例えば 
「Коренная улица хончоо хончоо ほんちょう 本町 モトマチ」 
「Межевая улица Сакаичоо サかいちょう 堺町 サカイマチ」 
次章「全日本国の記述」は次の文句から始まります。 
「Хитоцу нит понно куни ни те нанацуни вари цуке гоза соороо 一、日本国而七ッ割附御座候 ヒトツ、ヒノモトコクニテナンツニワリツケゴサソヲロ」 
旧国名は次のように解明されています。 
「Хигаси нохоо ните нанбу цугару маттмае ひがしほにてなんぶうつがるまつまえ 東保二而南部津軽松前 ヒガシホニテミナミコヲリツガルマツマエ」 
次章「生紳女祈祷と旧約聖書のロシア語へ通訳」に祈祷は次の様に翻訳されています。 
「хотоке самага,ньмаре ма суру,мусумего,iopoкоба насари масей, ほとけさまがんまれまするむすめごよろこびなされ 仏様生マスル。娘子。悦成。」 
「арига такiи,котоде го зари масуру,мария, ありがたひことでごいざりまするまりや хотоке самава,омаини,уцукуси кирей нару,омаи ほとけさまハをまいにうつくしきれいなるをまひ 仏様ヲマイニ。美麗稜鳴。ヲマイ ホトケサマヲマイニミカルハシアヤメイ」 
「нiобоошу,уцукуси киреи нару,таинаино коданъ によぼふてゆうつくしきれひなるたひなひのこだん 女房房しゆ。美麗稜鳴。ハ腹内子胤 オンアつサシユミカルハシアヤメイハラノコヲイン」 
「соо сите,хотоке самага,мумаръ масуру, そうしてホトけさまがんまれまする そして。仏様加。生満数る。ソシテホトケサマガンマレマスル」 
「ватакуси домоно,тама синъ わたくしどものたましん 私共ノ玉心 トモキヨリコこロ」   
新藏の教育資料をタターリノフの「レクシコン」と比較すると、イルクーツクの日本語学校における教授レベルは25年間に高くなった事があきらかになります。平仮名以外片仮名、変体仮名、漢字が学習計画に加わっています。日本の地理と経済上の情報も入っています。右の資料は漂流民の思い出だけでなくて、当時のロシアにあった日本語、オランダ語、中国語並びに日本版地図からとられています。 
この資料の書体は同一ではありません。漢字は筆で書かれてあります。その(黒)墨は時を経ても色あせていません。漢字とは異なって、仮名文字はペンで書かれてあります。片仮名は赤茶けた色に見えます。その書体は平仮名と違って下手なので新蔵の死後、学生の誰かが書いた文字だと思われます。さまざまな間違いもあらわれます(「あさくさ」の代りに「ああさくさ」、「しながわ」の代りに「しながな」、「難波」のかわりに「何和」、「コ」のかわりに「ヤ」、「サン」のかわりに「マン」などがかいてあります)。著者の教育程度は日本の地名並びに歴史用語(高砂、住吉など)の間違った理解の原因になりました。 
新蔵の教科資料によくあらわれるまちがいは漢字(下手な草書と行書)または平仮名文字の書き方です。古文書の字形の点から見るとイルクーツク学校で習慣になっていた異体字のことがあきらかになります。ロシア文字による日本語表記の統一が守られない場合もあります。 
全体に見ればこの教科資料はいくつかの特徴をもっています。まず、新蔵の日本語音声構造のロシア文字による表記はかなり不正確なものです。つぎは、ロシア宗教用語の翻訳の特質です。新蔵は16世紀のキリシタン宣教師の経験を知らなかったので宗教用語の翻訳を自分自身で考えだしました(たとえば、神と偶像と至聖生女の意味で「仏」、「木や石や土ノほとけ」、「仏様生マスル娘子」としています)。 
大槻玄沢・志村弘強編「環海異聞」(1810年)に書かれているとおり  
新蔵、日本学はいろはより仮名書位出来候様子に候得…   
同意見は現代の日本・ロシア・アメリカの歴史家による、イルクーツク日本語学校の研究の成果によって通説になっています。この教科資料によって判断すると、現実はもっと多様であったことが明らかになっています。 
18世紀の終わりに日本語学校が航海学校からイルクーツク古典中学校へ移されたことはその教育水準が向上したしるしです。一般にロシアの古典中学校のレベルは航海学校よりはるかに高いものだったからです。 
1816年にイルクーツク日本語学校は閉鎖になりました。おそらくそのせいで学校の資料は県立古文書館に移管されました。残念ながらこの古文書館も1870年代の大火事で燃えてしまいました。それにもかかわらず学校の教育資料の一部が(新蔵の教科を含めて)イルクーツク市外に残っています。将来その他の教育資料が発見される可能性に希望をいだいています。 
宮城県出身者の思わぬ出来事 
寛政5年(1793)の11月27日に仙台材木を積んだ若宮丸は江戸へむかって石巻港を出港しました。その日には風がなかったのが、間もなく西風が吹き始め、船は陸と反対の方へ流されてしまいました。段々波が荒くなり舵を吹き折られ、大風が帆柱を倒しました。2日後積んでいた米の半分を海中にすてています。船が危なくなったのです。それから、長い漂流が始まりました。160日を漂流した後、寛政6年5月10日の朝はじめて、「乗り船からはるか向こうに、船のようなものを見つけ、よく見定めたところ、大変小さな島であった」。 
若宮丸の水夫達は最初、 
「これまで海上を漂流している間は、蝦夷や松前の方へ流されているとばかり思っていたのに、時ならぬ雪の積った山を見かけたので、これは日本の地を離れた異国であろうと、はじめて思ったのである」。「環海異聞」 
その後、この地はロシア領北太平洋のアリューシャン列島のアッカ小島であることが明らかになりました。その小島に到着して若宮丸が沈み、船頭平兵衛が死んでしまいました。大島幹雄の意見では「平兵衛亡きあと、リーダーシップをとる者がいなかったことがうかがわれる。おそらく、平兵衛が生きていれば、自分か、もしくは一番頼りになる人間を選んだうえで、他のメンバーをくじで決めたように思える」。生き残った15人は翌寛政7年、船でカムチャッカ半島を経由、85日間かかってアジア大陸に上陸しました。漂客はアリューシャン列島のアッカ小島に10ヵ月余り留って、翌1795年6月下旬本国のオホーツクという湊に着岸しました。仙台漂流民は大陸にロシア人と共に数千Km、ヤクーツクとイルクーツクまで踏破したことがあり、珍しいものを色々見せてもらっています。 
ここには馬がいないので犬をもっぱらつかっている。この土地は雪が多く積る土地であるから、もっぱら雪車を用い、薪水の類をはじめ何でも積み、冬になれば海陸ともに数匹の犬にひかせる。「環海異聞」 
漂流民は3組にわけられ(すなわち寛政7年8月18日・寛政8年5月上旬・同年7月3日)馬でオホーツクから出発して翌8年の始めにイルクーツクに着きました。石巻を出港以来3年1ヵ月がすぎていました。この間ヤクーツクで腫れ物の病気のため市五郎が死んでいます。イルクーツクへ到着して、同行者はその地に7年3ヵ月の間、暮すことになりました。漂流民の大部分は国へ帰りたかったことは言うまでもありません。けれども、その当時、帰国の可能性は皆無でした。 
イルクーツクには新しい仲間たちがいました。そこで18世紀の80年代に新藏・庄蔵(Федор Степ анович Ситников)だけでなく、以前の日本漂流民の子孫もすんでいたので若宮丸の乗組員と知り合いになりました。日本語学校も盛んでした。 
日本通詞役はエコロ・イワノイチ・トコロコフといった。この人ははじめは町内村方の間打の役(検地割)を勤め、75枚の俸給であったという。先年勢州の光太夫らが送られてきたことがあってから、日本通詞役を申しつけられた。これはこの時よりも5、60年も以前に、南部(藩)の田名部のあたりから漂流し、この地に永住することになった何某といった者がいた(イルクーツクの墓所に竹内徳兵衛と彫りつけた石塔があった。また享保10年何々と彫った日本字の石塔もあった。これらの類であろうか。思うに光太夫の記にある田名部の辺、佐井村の久助という者だそうである。また思うに南部の奥部竹内徳兵衛の手船が延享某年に漂流してロシアに至り、留まったものと見える。久助とかいうのはこの人数のうちであろう。竹内の実記は別にある)。その人について12歳から17歳まで日本語を習ったことがあった。その後放置しておいたけれども、少々覚えていたので、通訳に申しわたされて光太夫を送る船に乗組み、去る子年(1792)松前まで来たそうである。 
イルクーツクではロシア政府から食費の支給を受け、あとは様々な仕事などで収入をえました。善六と辰蔵がまずロシア正教徒になりました。 
世界一周航海 
仙台難民はシベリアに8年間住んでいました。その当時は帰国の事を考えなかったようです。ところが思いがけないことに、1803年3月のはじめに、イルクーツク奉行の家にそろって出向くようにとの命令がありました。奉行所で明らかになったのは、都府から飛脚の役人が一人到着し、出来るだけ早くロシア首都であったサンクト・ぺテルブルグまで上京するように伝えたそうです。石巻漂流民13人は新藏・役人某一人の案内で数千里の道を踏破しました。 
イルクーツクの町をはなれ、川を渡り、その向うに車馬が引き揃えてあった。役人は先頭の車にのり、一同を乗せてつれて行った。車は2人乗りで、数は七つ。一つの車に4頭の馬である。…一つの車は3人乗りか。ただし役人は一人乗りで都合八車となる…「環海異聞」   
ところが道の悪いシベリアを一日100Kmも旅したおかげで、4月末には帝都サンクト・ペテルブルグへつきました。約7000ロシア里の全行程を44日間で通過しました。帝京に14・5日間逗留して、様々な見物をして、国王アレクサンドル一世に拝謁を仰せ付けられました。 
その当時、ルミャーンツェフ公はアレクサンドル一世に二つの上申書を提出しました。すなわち、一.「日本との貿易について」、二.「広東との貿易について」。二のアイデアは魯亜株式会社の活動家が教唆したものです。 
…帝王もまた近寄られて、直接に問われたことは、あなた方は本国へ帰りたいかと仰せられた。いずれも畏っていると、ガラフが傍から言ったことは、陛下におかれては、あなた方が帰国するのも、ここに止るのも、無理には仰せつけられない。思う通りお受け申し上げお答えするようにとのことであった…津太夫、儀平、左平、太十郎の4人は何とぞ本国へ帰朝いたしたく、お願い奉ります。10年ほども他国におり、ひとえに帰国いたしたいと思いますと答えた…「環海異聞」  
結局、津太夫等4名の漂客はロシアの使節船ナジエジダ号でバルチク海のクロンッシュタット湊から出港して、地球をぐるりとめぐっていたのです。デンマーク・イギリス・カナリア島・ブラジルに到着して、南米大陸を回って、マルキーズ諸島・カムチャッカ半島にとまって、長崎に入湊しました。漂流民たちの11年振りの帰国でした。日本人として初めて世界一周航海をおこなったのです。石巻港をでてから約11年たったのです。太平洋・大西洋・アメリカ・アジア・ヨーロッパ・アフリカ大陸を自分の目で見、帰国の道を選んだ4名と共にレザノフ使節も日本へ出発しました。ナジエジダ号は1年2ヵ月あまりかかって長崎へつきました。 
日本との交易をしようとした第2回遣日使節のレザノフが、いわばロシア政府の息のかかった国策会社といえる毛皮会社の魯米会社(ロシイスコ・アメリカンスカヤ・コンパニヤ)とも関係があったということからしても、ロシア政府が日本に関心をもつにいたった契機がわかる。つまり、その根底に毛皮貿易を基調とし、さらに18・19世紀の時代における西欧の植民地主義国家が、国策的植民地会社(東インド会社など)を設けて東洋や東南アジアに進出してきたのにならって、ロシア政府じたいも、毛皮貿易を中心として国策会社を設けるにいたったものと見るべきである。 
ナデジダ号が3月20日長崎を出港した後に、仙台の漂流民の4名は長崎奉行所に呼び出されました。40日間以上にわたって大槻玄沢の質問に答え、鎖国時代の世界についての知見を述べました。大槻玄沢の作品の名前は「環海異聞」であります。その諸本は江戸時代に有名になりました。   
善六の日露関係の役割 
仙台の漂流民たちがオホーツクからヤクーツクまで行った時、善六がロシア正教の洗礼を受ける予定にしたらしい。帰化するのはイルクーツクに到着してから2ヵ月後の事でありました。この後、善六はピョトル・キセリョフ(Петр Киселев)と名乗っていました。後でイルクーツクの日本語学校の教師でもあって、時々通訳者の仕事を引きうけて、貿易をもしました。 
レザノフはロシアから出発して、帰国の道を選んだ漂流民の4名と共に善六を選びました。使節の決定の理由は善六の通訳としての高い水準でした。けれども、レザノフの意見は変わりました。その変化の理由は使節の手紙に次ぎの様に説明されています。 
「通訳書記官として私が預かっていたキセリョーフをイルクーツクに戻すことにしました。彼はきっとイルクーツクの日本語学校のために役に立つでしょう。彼の行動はいつも称賛に値するものでした。しかし他の日本人たちが、キセリョーフが洗礼を受けたことで、彼に対して憎しみを感じ、彼が罰せられるであろうと呪うのを見て、私は彼をロシアに残すことにしました。私にしてみれば、必要な人間がいなくなってしまうのがとても残念でしかたがありません。私はニコライ・ルミャンツェフ伯爵に対して、キセリョーフがこの1年間、私のために精一杯働いてくれた報酬として、200ルーブルを支払ってくれるようにお願いの手紙を書きました」  
日露関係における、善六の役割はたかく、大黒屋光太夫の役割と比べる事ができます。彼の子孫ディミトリイ ・キセリョフは昭和3年に函館ソ連領事になりました。彼は子供時代に善六の運命についての話を聞いた事があります。 
日本語の方言 
ロシアの領土に漂着した日本漂流民は様々な藩の出身でありました。田舎の水夫で、日本の標準語を話すことができず、ロシアの日本語学校の教師として慣れた方言の言葉をつかいました。すなわち、ゴンザの資料には薩摩方言があらわれます、 
さんぞう(心)―うぐゆす 
たくさん(沢山)―たくせ 
まゆ(眉)―めのけ  
タタリノフの辞典には南部の方言があらわれます、 
おまえ―おまい 
ひとつ(一)―ふとつ 
うさぎ(兎)―うさんぎ 
   ふくろ(袋)―ふぐろ 
新藏の教育資料に伊勢方言があらわれています、 
はは(母)―ふぁふぁ 
くち(口)―くじ  
おまえ(お前)―おまい 
した(下)―ひた 
漢字・仮名で書いた言葉の発音は分かりにくいものであります。この理由でロシア文字で書かれた言葉は方言学者の資料として価値の高いものであります。 
 
近世後期「美人風俗図」の日韓比較

 

朝鮮後期の18世紀後半において、市井に遊ぶ男女の姿や比較的階層の低い妓女達の描写に主な興味をもっていた絵師として申潤福がいる。彼は韓国絵画史上最大の美人風俗画家であり、たいへん個性的な絵師である。申潤福の風俗画は題材をみてもわかるように、水墨画が主流であった朝鮮絵画史において異質なものであり、その絵画はにわかに華やぎを帯びている。不思議なことに朝鮮時代においては、申潤福が現れるまで美人風俗画家は見当たらない。18世紀末から19世紀初頭という時代の変化の中で美人風俗画が新たに生まれたのであり、その生成や衰退の過程で主な役割を果たしたのは申潤福である。それゆえ、朝鮮時代における美人風俗画の諸問題について考察する際、申潤福の画業と関連させて見る視点が必要である。朝鮮時代において美人風俗画家が稀であった理由の一つとしては、朝鮮全般を通じて朱子学を中心とした儒教が統治理念とされ、文学や芸術における儒学的厳しさがその出現を許さなかったことが挙げられる。では、こういった儒教論理に厳格な朝鮮の封建社会に身をおきながらも、申潤福が美人画や美人風俗画を作りえたのは何故なのであろうか。この点に注目して本稿では朝鮮後期に突如現れた申潤福の美人風俗画を、江戸時代後期の日本の美人風俗画と比較してみる。 
18世紀後半から19世紀後半にかけては、日本も韓国も封建社会の爛熟期にさしかかっており、すでに儒教倫理による統治体制に動揺が生じつつあった点では近似した状況をもつ。また、周知のように日本の絵画史において美人風俗画は主題の点でも様式の点でも実に多様であり、様々に展開しており、それに関連研究も進んでいる。 
というのは申潤福は、中国を規範とする傾向がよりいっそう強かった朝鮮の封建社会に身をおくにもかかわらず、妓女を対象とする風俗美人画を描き続けたという点はすでに他の絵師とは異質であるからである。ちなみに、中国の美人風俗画の大部分を占めるのは仕女図と呼ばれる宮廷婦人を主題とした画で、その伝統は古く唐時代に始まり、清朝美人画もおおよそ上流社会の婦人を対象にしたものであったから、中国の美人風俗画家の興味が一般庶民、すくなくとも比較的階層の低い社会の婦人達に向けられたことはほとんどなかった。それに対し、当世の風俗をこらした遊女に視点をおいた申潤福の美人風俗画は、むしろ日本の江戸期の浮世絵美人画ときわめて近い性格をもつ。比較的階層の低い女性を主題とした点から考えると申潤福の美人風俗画は日本のそれと共通するところを見せる。このようなわけで両国の風俗美人画を比較しようと思う。だが周知のように日本絵画史上、とりわけ近世初頭風俗画から浮世絵にかけて、女性の舞姿や遊楽を絵画化したものから、浮世絵以外の美人画としては上方における京派・円山応挙の唐美人画を描いたものなど、多くつくり出され、女性をテーマとしたものは実に多彩を極める。一方、朝鮮では、日本とは全く対照的に、単独像であれ群像であれ、女性をテーマとして描かれた作品はきわめて限られたものである。この点では、両国にかえって大きな格差のあることに気がつく。 
以下申潤福の美人風俗画が持つ絵画性を江戸時代後期の日本絵画史の文脈において理解する。そのための比較対象として特に浮世絵師を選ぶ。彼らを輩出した18世紀後期の江戸は、一大文化圏としての体裁を整えはじめていた。京都・大阪という上方中心だったそれまでの文化圏に加え、新たな文化圏が誕生したのである。その新しい江戸文化圏の新しい芸術として誕生した浮世絵美人画がまず比較分析の対象となるべきであろう。日本美術にそこまで不思議に欠けていた女性の美の美しさを正面から描いた浮世絵美人図の画家のなかで、特に喜多川歌麿と鈴木春信を選び、申潤福の風俗美人図との比較を試みる。日本的な抒情性と装飾性を醸し出す美人図を描いた鈴木春信と、歌麿は春信の才能によって花開いた美人画の様式美にさらに新しい現実美の味わいを加え、浮世絵美人図の頂点を形作ったのである。又、像主とその名前と顔を一致させること以上の表現力を見せた喜多川歌麿と申潤福の描く真の意味での美人画を問題とする。さらに18世紀の日本の美人画を考える場合今一つ見落とすことのできない上方における京派・円山応挙の美人図とを比較する。 
以上、喜多川歌麿、鈴木春信、円山応挙の3人の日本の画家と比較検討を通じて朝鮮後期の唯一の美人画画家である申潤福との比較を行うことによって、彼の美人画が持つ特性が明らかになろう。このように、両国の美人風俗画の共通点と差異を浮かび上がらせることによってほとんど研究されていない朝鮮の美人風俗画の領域にいく分かの光を投げかけることが本稿の目的である。因みに韓国では日本の美人風俗画の本格的な研究はほぼ皆無であり、この比較研究は、その現状を打開する一端となるはずである。
朝鮮後期 美人風俗図/申潤福を中心として 
申潤福考/申潤福に関する史料上の記述と先行研究の概要 
朝鮮後期(1700-1850を代表する画家の一人である申潤福は、朝鮮画壇の流れから見て全く異質な風俗美人図を残した画家である。申潤福は金弘道(1745-1809以前)とともに朝鮮後期の風俗画家の双璧で、金得臣(1754-1822)を含めて三大風俗画家と称されている。しかしながら、伝記が不明なのは勿論のこと、生没年などについても明らかな事実は少ない。ただ、「■園」の落款印章を伴う作品が60点以上伝存しているにすぎない。 
朝鮮時代の画家や士人などを扱った20世紀初頭の人名録である「畫士譜畧」の中には 
「字笠夫。號■園。高靈人。儉使漢■子。畫員。官儉使。善風俗畫」と記されている。これが彼についてのほとんど唯一の記述であり、他には何の手がかりも得られない。この記述 によると、申潤福は字を笠夫、号を■園としていたことがわかる。父の申漢■は英祖の肖像画を描くほどのすぐれた宮廷画員であり、彼自身も宮廷画員として活発に活躍し、さらに儉使に至ったことがわかる。また、申潤福は「畫士譜畧」には金得臣(1754-1822)と金得臣の弟子である金硯臣(1758-?)の間に挟まれて記載されていることから、申潤福の生年は1754年から1758年の間であったと推察できる。さらに、この記述から読みとられることは、申潤福は宮廷画員の家系として繁栄した高靈申氏の直系後孫であり、彼が主に描いたのは風俗画であった、ということだけである。 
ところで、申潤福の父親が申漢■であったことは早くから知られている。申潤福の画風に少なからず影響を及ぼしたと考えられる申漢■記録についても検討してみよう。まず、申漢■に関する代表的な記録は「燃藜室記述別集」に次のように現れている。 
「申漢■。號逸齋。高靈人。英祖2年(1726)丙午年生。畫員。官儉使。善畫」 
そして、先述したように正祖5年(1781)に申漢■は、英祖の御真(王の肖像画)を模写したという記録が記されている。この記述より、申漢■は当時56歳であったことがわかる。そして、韓宗祐は45歳、金弘道はわずか37歳であったことから、申潤福が20代後半頃の朝鮮画壇では、彼の父親である申漢■が、金弘道らとともに、宮廷画員としても御真画家としても存在感の大きい画家として活躍していたことがわかる。さらに、彼の作品として広く知られている「圓崎 李匡師肖像画」より、申漢■は、山水画・花鳥画だけでなく、人物画や肖像画にも優れた技量を発揮していたことがわかる。さらに澗松美術館蔵の「慈母育児」などからは、彼が風俗画にも優れており、申潤福の風俗画に大きな影響を及ぼした人物であることが推測できる。 
それでは申潤福に戻り、彼の名前について検討してみることにする。現時点で確認できた作品で申潤福は主に「■園」または「■園寫」という署名を用いている。この■園は、先述の「畫士譜畧」の中でも示されているように、申潤福の号であることは知られている。一方、澗松美術館蔵の「美人図」には署名「■園」と朱文方印「申可権印」が捺されており、「癸酉」(1813年)制作された「酔画帖」にも同じ朱文方印「申可権印」が捺されている。さらに、国立中央博物館蔵の「嬰児を背負う女人」の向かって右側に「■園申可権字徳如」という八字がある。これらにより、申潤福の名前は申可権であり字は「徳如」を用いたことが確認できる。したがって、「■園」は彼の雅号である可能性が高い。 
さて、「畫士譜畧」以後今日まで、申潤福については近世風俗画関係の諸書のなかに触れられているが、まとまって申潤福を論じたものは、李東洲氏、文一平氏、李亮載氏、李源福氏、洪善杓氏、の諸論があるにすぎない。以下では、これらの先行研究において明らかになったことを整理する。 
第一番目に李東洲氏は申潤福の経歴について、「申漢■(申潤福の父親)の伯父も画員であり、また、申漢の伯父の伯母は画員の門閥である陽川許氏に嫁ぎ、両家門は姻戚関係にあった。そして申漢■の曾祖父も画員であり、さらに岳父は画員門閥である豊基・泰再璧で、泰再璧と画員泰再渓とは兄弟である。したがって申潤福は、4代に亙って二つの画員門閥と人脈関係がある」と述べている。申潤福の周辺人物、つまり親族関係まで明記しているが、この記述の内容の典拠は詳らかに示していない。 
2番目に、文一平氏は、「非常に卑俗なものを描いたため申潤福は図画署より追い出された」と記述している。この記述の内容は、真偽はともかく、これ以降通説とされている。以上の2人の研究者の記述からわかるように、申潤福に関する記述は特に検討されることもなく、根拠も明らかにされぬまま流布してきたため、申潤福の人間像はきわめてつかみにくい状況にあった。しかし、近年李亮載氏、李源福氏によって提示された新たな資料によって、ようやくその人物像への足掛かりが見えてきた。 
近年李亮載氏は申潤福の経歴に関する新資料として、「高靈申氏譜帖」「呉世昌文庫」の「畫士両家譜録」などを調べ、「高靈申氏譜外中人譜」を作成し紹介した。これらにより、ようやく申潤福は申末舟(1429-1503)の直系11番目に当たる人物であることが明らかになった。さらに申潤福が中人である画員として活動した理由として、申末舟の8代前の祖先の申狩眞が庶子であったために、申狩眞より後の子孫は中人となって、申末舟から8代目の世潭、9代目の日興、10代目の申漢■そして11代目になる申潤福の4代が続けて画員として活動することになったことを明らかにされた。 
また、李源福氏は、「■園 申潤福の画境」という論稿に、申潤福についてのさらなる指摘をしている。氏が基にしているのは豹庵蔵書に含まれている「青丘畫史」の記述だが、それは、従来知られていた僅かな申潤福の資料のなかでも最も古いもので、その後の申潤福に関する諸説の源というべき記述がされている。「青丘畫史」の著者は、申潤福と同時代の実学者である李翼(1681-1763)の孫である李九換(1731-1784)であると推測されている。 
「青丘畫史」には朝鮮初期に主に活躍した画家催徑、尹儼(1536-1567)、李汲(1623-?)や、15、6世紀の画家たち、さらには著者李九換と同時代の代表的な画家である催北(1712-1786)についての記述も見られるという。そして、申潤福については「似彷彿方外人、交結閭巷人…」(傍点筆者)とある。ここでいう方外人の意味については様々に考えられるが、図画署に所属していない職業画家、すなわち、方外畫師あるいは方外畫員と解釈することもできる。なお、李源福氏は、申潤福に方外人という言葉が用いられるようになった理由について、まず、彼の生涯や活動といったものがすべて神秘に近いほど隠されていたこと、そして彼が庶子として生まれたことを理由としてあげている。これは方外の意味として範疇の外、庶子という意味があるからであろう。 
さらに最近、洪善杓氏は、文一平氏の記した申潤福の図画署からの追放について、「一時、御用絵師として選ばれ、王室用の冊架図を描いたが、その作品が問題になり、図画署より追い出された」という記述をしている。しかし、この記述については、この他に触れられている文献は無く、根拠も明らかにされていない。 
しかしながら、申潤福の家系は宮廷画員として4代も続けて活躍したにもかかわらず、申潤福以降の代が宮廷画員として務めたという記録はどの文献にも見当たらないことから、文一平氏・洪善杓氏が指摘したとおり、申潤福は図画署から追い出され、彼を最後に高靈申氏の画員家系は衰退したのではないかと推測できる。 
さて、李九換の没年(1784)から考えると、「青丘畫史」に示されている申潤福(1754-58生)の記録というのは、彼の20代から30代の比較的若い時期の姿であると推測される。さらに、「青丘畫史」に記されている申潤福の記録は、図画署から追放されて、宮廷画員ではなく巷間の画家として生活を営んでいた時期のものである可能性が高い。そして、彼が生涯を通じて描いた扇情的な美人風俗画は、彼が世俗の画家として生計のために筆を染めたものであるということは充分に考えられる。 
ここで注意すべき点は、申潤福は先代や彼自身も画員として儉使の職位まで上がっており、その点から考えて見ると、宮廷画員としての一定の評価は得ていたと言えることである。では何故、人々に卑しまれながらも(あるいは宮廷画員の職をあきらめながら)、扇情的な美人風俗図を描き続けたのであろうか。それについてはまず、申潤福が御真を描いたという記録が、「朝鮮王朝実録」をはじめ当時の代表的な中人画員の生涯を記録した「壺山外史」「里郷見聞録」「逸事遺事」など、どの記録にも見当たらないことに注目したい。ここから、申潤福は、父親である申漢■や彼の先輩にあたる金弘道に比べると高い評価を得られなかったことが考えられる。さらに、今のところ根拠は無いが想像しうることとして、宮廷や士大夫階級の趣向に合わない個性的分野、つまり美人風俗画に共感し、独自の絵画世界を形成しようとしたところに、申潤福が宮廷画員を離れ美人風俗画を描いたより根本的な理由があるのではなかろうか。 
以上概要であるが、申潤福の伝記に関する諸説、研究状況を述べてきた。この論文では、主に申潤福と日本の美人画との比較を主眼としているため、申潤福の伝記については、これまでの研究史の流れに従って「美人画や美人風俗画を得意とする画家・申潤福」として今後の論を展開することとする。  
申潤福の基準作 
「■園伝神帖」 
本節は、申潤福の制作年代が明らかな作品における署名「■園」「■園寫」と印章、そして自賛などの材料を提示し、それらをもとに申潤福の美人風俗画の展開やその作風の推移を探ることを目的とする。この作業は、申潤福個人に関する今後の研究に対しても有益となろう。 
申潤福は元来「美人風俗画」を得意とする絵師であったが、第一節で述べたように、その画才は同時代においてあまり評価されず、扇情的ともいえる美人風俗図を主に描いたため「図畫署より追い出された」という説が伝わっている。申潤福が描いた題材は他にも「山水画」「動物画」などがあるとはいえ、確認し得る限りの作画期のなかで彼が全般を通じ描き続けた主題であることと、作品が相当数残されているという2点から、本節では美人風俗画に絞ってその特色を検討する。現存する申潤福の風俗美人画の作品数は明らかでないが、今回の論文の作成にあたっての調査を通じて、申潤福の筆とする作品約60点を確認することができた。未見ながら図版等の資料から判断した限りでは、現時点でさらに10余点を加えることができる。 
まず、現時点で制作年代が確認できた作品の印章・署名と「■園伝神帖」とを比較し、その制作時期を推測してみることにする。 
「■園伝神帖」は総計30枚の美人風俗画で構成されており、その中の第11枚には五言・七言の自賛と「■園」「■園寫」という署名、そして印章が見られる。他に自賛は無く「■園」と署名されるものが4枚、また「■園寫」とともに印章を用いるものが一枚ある。さらに、白文方印「■園」、朱文方印「時中」のみ有するもの2枚、署名も印も施されていないもの12枚が含まれている。 
比較に先立って、「■園伝神帖」では署名・印の使われ方が多様なので、ここでは先ず「■園伝神帖」画における「■園」「■園冩」という落款部分を署名の特徴ごとに類別しておこう。「■園」という署名の書き方の特徴は大きく三つのグループに分類できる。 
一つ目のグループは、「■園」の「■」字の心部の最終二画(点画)が一画一画離れて丁寧に書かれており、心字の第二画が外側に湾曲し跳ね上がる傾向が見られるものである。「園」の場合は「園」字の“くにがまえ”の右の劃が左の劃の中に入るように書かれている。 
二つ目のグループは、「■」字の心部の第二画も第三・四画も一直線に並べられているものである。また、「園」字の“くにがまえ”も丁寧な方形である。 
三つ目のグループは、「■」字の心部は一直線に書いているが、「■」字の心部の最終二画と「園」字の“くにがまえ”の第一画とをつなげて書き、そして「園」字の“くにがまえ”が丸い楕円形になるなど、大きく変化をみせるものである。 
次に、現時点で制作年度が確認できる七つの作品の印章と署名とを上の「■園伝神帖」の署名と比較し、その使用時期を推測してみることにする。 
制作時期の判明する6作品も三つの時期に区分される。第一期の「■園寫」と署名を有する作品は、1805年(乙丑)の制作になる「女人俗帖」中の「チョネをかけている女人」を代表的な例として挙げることができる。この図に用いられている署名は「」字の心部第二画が上側に湾曲し跳ね上がる特徴を示している。しかしながら、「チョネをかけている女人」に付けられている「寫」字と「■園伝神帖」の「路上托鉢」中の「寫」字の書き方は大きく異なっており、相似点が見られない。また「女人俗帖」に用いられている「園」字と比較しても相似点が見られない。「女人俗帖」における「園」字の“くにがまえ”の第二筆が第一筆の中に入るのに比べ、「■園伝神帖」の署名の場合は、すべて「女人俗帖」のそれとは反対の形をしていることが確認できる。したがって、「■園伝神帖」は「女人俗帖」が制作された1805年と離れて制作された作品であると考えていいだろう。 
第2期の、署名「■園」に続いて朱文方印「申可権印」が用いられた最初の作品は、1808年(戊辰)の「酔畫帖」および同年の作品「双鶏図」「嬰児を背負う女人」である。「■園伝神帖」にこの朱文方印「申可権印」を有する作品は見当たらないが、ここでも署名の部分に注目すると、「双鶏図」において署名の「■」字の“くさかんむり”の部分がつながっていないことに気がつく。また「園」字は第一番目のグループとは逆の形、つまり二つの作品に示された“くにがまえ”の第二筆が第一筆の内側に収まった形をしている。「園伝神帖」を調べた結果、「園」字の相似点が見られる作品としては「少年剪紅」「林下投壺」がある。 
そして、第3期の、「■園」の「園」字が丸い楕円形をなし、「■」字の心部から「園」字の第一筆につなげて書くような特徴が見られるものに、1808年以前に制作されたと推測される澗松美術館蔵の「美人図」と、1808年の「酔畫帖」、そして1813年(癸酉)作「行旅風俗図屏風」がある。これらの図版と「■園伝神帖」とを合わせて調べた結果、「■」字と「園」字とをつなげて書くような特徴を示す作品には「少年剪紅」「林下投壺」「年少踏青」がある 。 
これらのことから考察してみると、「■園伝神帖」には、印章・署名が第1期のものと相似する作品は見当たらず、第2期と第3期の「美人図」「酔畫帖」そして「行旅風俗図屏風」の署名の書き方において共通点が見られる。したがって「■園伝神帖」30枚はある時点で一時に作成したものではなく、1808年以後から1813年の間に亙って制作されたものであると考えることができるのではないだろうか。 
なお、申潤福の諱「可権」を採った「申可権印」の印章や「■園申可権字徳如」という署名が、1808年作「嬰児を背負う女人」の右に付された別紙において用いられている点は非常に興味深い。申潤福の父親である申漢■の名が1804年「建立図鑑義図」の制作を最後に公的記録に現れなくなることから、申潤福が自分の実名の印章を用い始めた1808年には申漢■は既に死亡していたのではないかと推測される。すなわち、この父の死と申潤福が本名を用いるようになったこととは関係があるのではないだろうか。というのも、宮廷画員として最高の地位にいる父・申漢■の存在は、画壇の異端者として宮廷を追われた申潤福といえども軽視できるはずはなく、父の在世中に申潤福が自分の実名「申可権」を用いて宮廷の外で自由な活動を展開することは、子として当然憚らざるを得なかったと思われるからである。さらに、朝鮮画壇の代表的な存在であり、申潤福にも大きな影響を与えた金弘道も、この時期、つまり1805-1809年頃に死去したといわれている。申潤福はこれらの画壇の中心人物が死去して初めて「申可権」という本名を表に出し、巷間の画家として花やかに扇情的な美人風俗画を描くことができるようになったのではないだろうか。申潤福が朝鮮画壇では破格の絵を描くことができた背景として、当時の画壇のこのような状況を考慮する必要があろう。 
「女人俗帖」   
前記のように、申潤福の美人風俗画の制作年代を考えてみた。しかし、この様に作品を列挙して比較しても、そこに様式の展開を見出すことは簡単ではない。ここでは、制作年代が推測できる「女人俗帖」をとりあげ、より詳細に検討してみることにしよう。 
1805年に制作された「女人俗帖」中の「チョネをかけている女人」は、申潤福の美人図の中でも制作年代が確定できるものの初例である。「乙丑」と年記署名が入っていることから、この図は1805年に制作されたものであることがわかる。 
なお「チョネをかけている女人」が含まれている「女人俗帖」は、他に「氈帽をかぶっている女人」「チャン衣を着ている女人」「買い物に行く道」の三枚と、さらに「琴の糸を揃える女人」「蓮塘女人図」二枚と、あわせて6枚で構成されている。 
「チョネをかけている女人」に描かれている女性は後ろ姿で佇んでいる。「買い物に行く道」にも2人の女性が描かれているが、そのうち一人の女性は、やはり後ろ立ち姿である。 
申潤福の画稿に写生された女性と本画帖の女性とに一致する姿が見られる点と、「氈帽をかぶっている女人」に自ら「前人未發可謂奇」(前人未だ発せず、奇というべし)と賛している点から、申潤福は当時(1805年)すでに、これまで画壇では重視されていなかった「写生」というものに拠って美人図画法に新生面を開いていたと考えられる。写生という作画態度により申潤福の女性は実在の人間らしくなったのである。 
また、「氈帽をかぶっている女人」「チャン衣を着ている女人」「買い物に行く道」「チョネをかけている女人」は女性の単独像であり、当時の女性の姿を切り取ったにすぎない。これらは申潤福の美人図の作品全体を見渡すと、のちの複雑に画面が構成された美人画より、淡泊な印象を受ける。 
ただ、「女人俗帖」の中には、申潤福の美人図における独自のスタイルを感じさせる「蓮塘女人図」も含まれている。この図では、妓女のように見える女性が足を大きく広げて座っており、チマの下から覗く白い内袴は申潤福の美人画が持つ特有の扇情的な表現といえる。やや頬が張った丸い顔をしており、署名も「園」字が円形を帯びている点などから、この図は澗松美術館蔵の「美人図」と比較的制作年代が近い作品であり、以後の申潤福の画風展開を暗示しているようである。また、本図における蓮と妓女は、ともに絵画表現における連想的な機能をもつモチィーフ、つまり汚泥の中に咲く清らかな蓮を、遊郭というところで生活する妓女に見立たものである。妓女を囲むように咲いている「蓮」(中国音"lian")と、彼女が右手で持っている楽器「笙」(中国音"sheng")の組み合わせも、それぞれ同音である「恋」「生」にちなんだ「恋が生じる」の寓意と読みとることができる。これらは、日本の浮世絵美人図に大いに取り入れられている見立絵を思い起こさせる。 
澗松美術館蔵「美人図」 
申潤福の美人画の中には、特定の像主が存在したことを暗示させる画が数点含まれている。澗松美術館蔵の「美人図」(図1)はそれに相当する好例であろう。この「美人図」は肖像画と美人画の融合という点において、申潤福独自の美人画風をなしえたといえる。本節では、多くの申潤福の基準作の中でも秀作と言われるこの「美人図」について考察してみることにする。申潤福の美人画における画風形成から見て、「女人俗帖」以降を仮に「中期」としたいが、作品の編年が未解決のため、いつをもって中期とするか、その始まりを特定することはできない。しかし、澗松美術館蔵の「美人図」に描かれた容貌を見るに、その表情は幾分類型性を持ちながらも、既に申潤福の美人画としての様相、つまり通常の美人画とは異なる個別性を或る程度示しており、この頃には美人画風形成が遂げられていたと思われる。さらに、顔の表情も、類型化に向かう個性的表現をもって描かれるようになる。このように申潤福の作風の展開を見るならば、今日伝わる多くの作品は、申潤福風の確立以後のものがほとんどと言えよう。ゆえに申潤福の美人風俗図においては年代による作風の展開を的確にたどることは難しい。 
澗松美術館蔵の「美人図」は申潤福の晩年の作品の一つで、制作年代は1805年から1807年頃までと推測される。申潤福の生没年は定かではないが、生年は1745年から大きく外れず、「乙丑」(1805年)、「戊辰」(1808年)、「癸酉」(1813年)などが彼の 晩年作にあたる。そして、「美人図」の向かって左側の自賛(「盤薄胸中万化春 筆端能与物伝神」)につづき、朱文方印「申可権印」白文方印「時中」の二顆、そして、自賛の初頭のところに楕円形の朱文方印が捺されている。この楕円形の朱文方印は申潤福の晩年作に用いられる場合が多く、特に1808年の作になる「酔画帖」帖頭に捺されたものが、それと同一のものである。本図に捺されている款印の輪郭は、左頭部分と右肩部分二カ所が欠けている「酔画帖」のそれよりやや鮮明で整った形をしていることから、本図の制作は1808年以前、つまり1805-7年頃と推測される。申潤福の美人図が持つ特徴というのは、同時代の女性、その中でも妓女を好んで取り上げ描いたところにある。言い換えれば、朝鮮時代における風俗画は上流社会の雅やかな世界を取り上げたものが多いが、申潤福によって、身分に拘泥せず、庶民の姿を盛り込むようになったといえる。 
申潤福の美人図以前にも美人画、麗人図、仕女図などが制作された記録はあるが、それは中国の女性を描いたものであり、仮に李朝の女性を取り上げたとしても宮廷の女性が多かったのである。さらに本「美人図」は、描写の側面において、同時代の肖像画制作に見られる傾向、顔貌表現は極めて精密であるのに比べ、身体の表現は大胆に図式化及び省略化される、例えば金弘道の「仕女図」、および仇英・周肪などの中国の明時代の美人画様式にそって制作したものであり、妓女の生活を主に描いた風俗美人画の延長線上の制作であると言える。しかしながら、本図における申潤福の意図は、ながらく美人の規範として仰がれてきた一つの理想型を示すことにあるのではなく、そこには特定の女性をモデルとしてその個性を捉えようとしている肖像画の傾向が見られる。つまり、本図に描かれた美人の顔は、明らかに或る特定の妓女の顔である。妓女の名までは分からなくとも、顔や身体の表現に見られる実在感は、或る特定の妓女の絵姿であることを想像せしめるのである。図に描かれた妓女の顔の輪郭や小さい目、丸くて高くない鼻などは、その個性的な風貌を示している。そして幅広いチマの襞の描写も自然であり、多分に実感的に表現している。これらのことから、申潤福が自ら望む意図にふさわしい絵画技法を選んでいることもよく理解できるのである。 
もちろんこのような画家の意図は、写生を行う制作過程では直感の後ろに隠れがちなものであろうが、しかし申潤福の場合、制作の後に記述したと思われる自賛によって、彼が本図における意図を明らかに自覚していたと考えられるのである。 
「盤薄胸中萬化春 筆端能与物傳神」(盤薄たる胸中、万化の春。筆端よく物にあずかって神を伝える)というこの自賛が意味するところは、精神さえ若々しく保って筆を運べば、描く対象である妓女の本質を捉えることができるということであろう。実際、申潤福の描く妓女像に対していると、彼自身が妓女のこころにひそむ性格までをも筆におさめているように読みとられる。申潤福自らの賛で記す「傳神」という言辞がまさしく画面に達成されていると思われる。 
小結 
以上、申潤福の伝記及び周辺人物、そして彼の基準作、さらには美人画における画風展開などを大略ながら検討してみた。 
朝鮮後期には多くの風俗図が描かれたが、女性、あるいは美人風俗画が題材に含まれることは少なかった。画題に女性を取り上げ始めたのは言うまでもなく申潤福であり、「■園」という款記を持つ作品はかなり多く残っている。このように、作品上は確かな足跡を残している申潤福だが、経歴には今も不明なところが多く、先述の李源福氏によると、今日伝えられている文献資料の限りでは、申潤福が宮廷画員画家とつとめた可能性は低いと仮説を立てられるほどである。文献資料が少なすぎるという点については、風俗美人画を専ら描いた申潤福は同時代において「大衆的な絵かき」という低い見方をされていたために、文献が残りにくかったということが考えられる。現在遺っている多数の作品は、申潤福が同時代には非常に人気のある職業画家であった可能性を物語っている。現在不明なところの多い申潤福の伝記や師系関係については、他の朝鮮時代の画家や周辺人物の研究にも助けられて、さらなる新たな糸口が得られることを期待するところである。 
従来、扇情的な美人風俗画を主に描いた画家であったという事情から、韓国絵画史において申潤福は他の画員と比すれば異質な画家という扱いを受け、その美人風俗画の画風が考察される機会はこれまで無かったように思われる。現在残っている申潤福の多数の作品の内訳は大半が個々の優れた美人風俗画で、同時代の女性のなまの姿をとらえようとする動きを読みとれる。特に澗松美術館蔵の「美人図」からは、妓女の単なる美しさだけでなく、ありのままのモデルの姿をとらえようとする動きを読みとれる。また、すでに見てきたように、申潤福の美人風俗図には、女性像の描写において「伝神」の意が発揮されたもの、すなわちその性格や心理を捉えようとしたものがある。同時代の朝鮮画壇においては、理想的な(しかし類型的で没個性な)仕女の姿を描くことはあっても、ある人格をもった人間としての女性を描くことは、鑑賞者の側からも画家の側からも要求されなかったことであろう。にもかかわらず、申潤福の美人風俗画においては、題材である女性は単なる絵画制作のためのモチーフとしてだけ存在するのではなく、自らの固有の内面生活を営みつつ人生を生きる存在としての人間像あるいは女性像として表現されたのである。こうした点において申潤福が朝鮮時代の画壇に与えた影響は非常に大きく、申潤福や彼の作品群に対し、さらなる評価がなされるべきであろう。
江戸時代 美人図との比較 
一人立ち美人図との比較 
喜多川歌麿の「更衣美人図」と申潤福の「美人図」との比較 
今章では申潤福の美人図と歌麿の一人立ち美人図との表現上の類似点について考察することにしよう。 
喜多川歌麿は浮世絵版画家として広く知られており、作品数も現在知られているだけで千点以上に及ぶ。それに対し、肉筆画は数は少ないものの、喜多川歌麿の芸術の本領が発揮されている領域と言って良いだろう。そして、どの浮世絵師もそうであるように、数多い版画よりも数少ない肉筆画のほうに、絵師自身の精魂は尽くされていると言える。なかでも「更衣美人図」(図2)は喜多川歌麿の技量が十分醸成されている作である。一方、申潤福「美人図」(図1)は当時としては珍しく、妓女の着衣を脱ぎ始めようとする瞬間がとらえられており、このような女性の裸形を想像できる脱衣の過程や、「端午風情」に見られるヌードに近い描写は、申潤福の官能美の表現の一つであった。そして、このような描写は、浮世絵師歌麿も多くとりあげた表現である。その中でも歌麿の「更衣美人図」は最もすばらしいものの一つである。 
ここで、申潤福の「美人図」と歌麿の「美人図」とを取り上げ、両画家の美人図の持つ類似点について更なる検討をしてみたい。具体的には姿態や顔貌表現、そして髪の表現の3点を取り上げて分析することにする。 
まず、第一番目は衣装の中に体の存在することを確実に感じさせる姿態の表情である。 
申潤福の「美人図」であるが、簡素に彩られ、神経の行き届いた肥痩の少ない描線によって、妓女の細い上体や大きな広がりを見せるチマの下に、体の存在することを確実に感じさせている。つまり、画家申潤福は妓女の姿態や服飾はもちろん、その上、妓女の身体の立体感までをも十分意識しているといえる。 
一方、歌麿の「更衣美人図」は、美女の衣装の色とりどりな模様に洒脱な黒い薄物、その下には赤と白の釘抜きつなぎ模様の下着を重ね着している遊女の肉体の輪郭を、細線を以て描き起しており、見る者をうっとりさせるように完結したかたちで作り上げている。ここから、歌麿もまた人体の立体性の表現を意識していたことがわかる。 
ところで、2人が意識していた人体の立体性の表現は、女性の正面が持つ美しさに対してのみ発揮されたわけでなく、美人の後ろ姿を巧みに描いた作品も数多く遺されている。それらの例を幾つか挙げてみよう。 
申潤福の早い時期の美人図のなかに、女性の後ろ姿を意識的に取り入れて描いた作が現存する。 
例えば、1805年度に制作された国立中央博物館蔵の「女人図画帖」の4枚のうち3枚において、申潤福は女性の後ろ姿に視点を当てている。その中でも「市場に行く道」は、若く健康な女性の正面の姿と、やや痩せ気味の年増の女性の後ろ姿を組み合わせて描き、年齢の異なる2人の女性の体の表裏を立体的に表現するという新しい視点を設けている。 
ここで中国に目を向ければ、かなり早い時期、例えば東晋の顧長康による「女子箴図巻」や、唐代の美人図の名手張萱の「宮女宴楽図巻」など、女性の後ろ姿に関心を示した作例が多く見られる。すなわち、後ろ姿への関心は、中国・韓国を問わず、様々な造形活動において、特に女性の姿を描写する際に取り入れられる可能性を持っている。 
さらにもう2、3の例をあげると、同画帖の一図である「チョネをかけている女人」(国立中央博物館蔵)では、美人の後ろ姿のみが写され、正面からの美人図ばかりを見慣れている眼には、実に新鮮な驚きを与えてくれる作品である。 
ほかに、「双剣対舞」では、旋律に乗って踊り続けている正面姿の舞妓と踊りを一瞬停止している動きのない舞妓のうしろ姿とを対にして描いている。 
一方、歌麿の寛政4年(1792)作「高島おひさ」(ギメ東洋美術館蔵)「難波屋おきた」(ホノルル美術館蔵)は、当時評判の水茶屋の看板娘の前後から見た立ち姿を一枚の紙の表と裏の両面に描いた作品である。身体から持ち物に至るまで、全て表裏をほとんど完全に一致させ、細判に両面摺した珍しい例である。 
歌麿が女の後ろ姿に関心を示し始めたのはかなり早い時期と思われ、その具体的例として、天明元年(1781)〜天明2年(1782)の「契情婦美姿一、二」(東京国立博物館蔵)が挙げられる。上部に遊女(傾城)が書くような文の一部を記し、表題“契情婦美姿”に通わせている小判錦絵である。「契情婦美姿」は吉原の遊女の風俗を描いたシリーズで8枚が知られており、中でも図「契情婦美姿一、二」は、冬の吉原、2階にある遊女の室内を描いたもので、左図の中央に、語りながら廊下を歩いている遊女の一人を後ろ姿でとらえている。 
ただし大久保純一氏は、喜多川歌麿が女性の後ろ姿に関心を示し始めた具体的な例として、天明3年(1783)の「青楼仁和嘉女芸者部・大万度末ひろ屋」を挙げている。この「青楼仁和嘉女芸者部」シリーズは、殊に肢体のバランスもとれており、当時の女性の美点とされた白いうなじが描かれるなど、当時の美人観もうかがえる。「色道大鏡」の著者によれば、「禿の時より磨きたつるには、いづくにおろかはなけれども、耳のわき、うなじのあたりを専に磨べし、いかに余のかたをあらためたりとも、此所黒きはおぼえ劣り拙く見ゆ、生まれつきにもよるべけれど、実は年を重ねてみがきたらむには、そのしるしなくてやはあるべき」とあり、実際、喜多川歌麿の錦絵には女性の白いうなじの美しさを表現した作品「襟粧い」(ギメ東洋美術館蔵)がある。 
以上のように、申潤福と歌麿の「美人図」は、女性の顔面が持つ美しさのみならず、その後ろ姿も意欲的に用いるなど、立体表現に意を払うという共通点を持っている。 
申潤福と喜多川歌麿の類似点の第2点目は、限定された部分の美しさ、特に顔貌表現において、モデルの個性(あるいは性格)をとらえようと努めている点である。朝鮮後期の美人図には、中国美人図の伝統や慣例の影響があって、顔貌の写実的差異、すなわち面貌自体の個性の表現はほとんど存在しないと言って良い。同様に、日本の浮世絵の場合、歌麿以前の鈴木春信(1725-1770)においても、女性の顔貌は、いわゆる夢見る美女の類型的容貌に統一されており、鳥居清長(1752-1815)においても、清長風の健康的な長身の美人という類型的容貌に終始している。朝鮮・日本両国の美人図においては、面貌表現の写実は、あまり重んじられなかったと言ってよい。ところが歌麿は、女性の生き生きとした瞬間の表情・動作をも描き分けている。寛政7年(1795)頃制作した「高名美人六家撰 辰巳路考」(シカゴ美術館蔵)はその良い例であろう。本図の題名「辰巳路考」より、深川と縁のある女性を描いたと思われるが、何かに声をたてて笑っている美人が描きとらえられており、歯と舌がのぞいている。ほほえみ、笑いという表情は、一瞬の表情のゆえ、近世美人図では描写される例に乏しく、そういう点からも珍しい例である。本図は美人図のなかで、類型的なようで、女性の表情を描き分けているところを見せる一枚である。 
両画家の目の表現にも注目したい。中国の顧長康の「傳神寫照 正在阿堵中」という言葉や、「画龍点睛」という言葉からわかるように、人物を描くにあたって、生かすも殺すも目の表現次第であると東洋の伝統では考えられていた。人物図においては顔の表現、特に目を中心とした表現によって、その人物図の出来不出来を左右するのであろう。 
申潤福の妓女の眼の表現は、下瞼の線を二重にするなどにして、僅かながらも目の立体感を持たせており、モデルの目のかたちに即して描こうとしているため、運筆はつとめて慎重である。高くない鼻や小さい口も同様のことが言える。実際、本図と対面していると、妓女の心にひそむ曇りをおびた性格・心理までにも画家が注意を払い、顔に納められているように読みとられる。 
一方、歌麿の寛政5年(1793)「当時三美人」(ニューヨーク公立図書館蔵)は、実在の3人の美人である、高島おひさ、難波屋おきた、富本豊ひなをモデルとした作である。また、この3人を別々に描いたものもある。本図は各美人の個性を、歌麿美人図の枠内ではあるものの、微妙に描き分けていると評されている。例えば、左下の高島おひさは目元は柔和で眉も穏やかに描いてあり、鼻も比較的小ぶりに表現している。これに対して右下の難波屋おきたは、特徴的な切れ上がった目尻、きりりとつりあがった眉、中が高いやや太めの鼻で描かれている。いずれかといえば、難波屋おきたのほうが愛嬌があって評判がよかったようである。この絵は美人図の類型的容貌(規範性)の中で実在のモデルとの肖似性をかなり実現した描写のように見える。 
ただし筆者は、これらの巷間の美人を描いたということによって、肖像画としての意義を見出そうとしているのではない。単独で描かれたそれぞれの3人と「当時三美人」や他の作例に描かれた3美人の顔は、必ずしも一致しない。すなわち、この歌麿の絵は写実的な肖像画ではなく、あくまでも実在の人気のあった美人に託して歌麿特自の美人の典型を創造したものといえる。 
肖似性を追究し、リアリティを目指すことが肖像画とするならば、肖像画と美人図は本来相反する方向性を持った人物表現になる。奥平俊六氏によれば、肖像画が個別性を追究し、視覚的現実の再現に向かうのに対し、美人図は一般性を追究し、時代の好尚を反映した理想化に向かう傾向を持っているという。申潤福と喜多川歌麿は特定の女性を描いたわけであるが、2人の画家は肖像画を指向したのではなく、同時代の人々の好尚において今までにないほんとうらしく感じられるイメージが求められていることを察知し、美人図に取り入れた。その結果として、上のような作品が残されたのであろう。実際、当時の円山応挙など、上方の写生派の台頭が直接・間接的に歌麿の刺激となっていたのである。 
申潤福と喜多川歌麿の類似点の第3点目として、それぞれの髪の表現について考えてみたい。一方は版画で、一方は肉筆画であることなど、一考すべき点はあるが、美人の真実性を強調しようとする髪の綿密な描写は共通していると言える。 
まず、申潤福を見てみよう。朝鮮時代における肖像画において、例えば「趙氏三兄弟像」(個人蔵)や「尹斗緒の自画像」(個人蔵)のように、申潤福は画主の内面を表現する際、「一毫不似便是他人」(一毫も似ざれば便ち是他人なり)というほど、一筆もゆるがせにしない態度で描いた。申潤福の美人図の髪の描写は、柔らかい描線をもって行われた綿密なものであり、妓女そのものの本当らしさに迫る傾向がうかがえる。 
一方、歌麿の寛政6、7年頃の作品「五人美人愛嬌競 兵庫屋花妻」(個人蔵)シリーズでは、美女の表情がクローズアップされている。ほかに、髪の毛の表現に当たっては、生え際や髪の毛などに精巧さを求めている。ただし、「五人美人愛嬌競」シリーズより若干遅い(寛政6-7年頃)作例「青楼七小町 玉屋内花紫」(千葉市美術館蔵)などの歌麿の後期の大首絵には、櫛目跡を表す複雑な毛割など、彫師の技術の進歩が見られる。だが、寛政4年(1792)「大首絵」シリーズほど女性表現の豊かさは伴わなかった。 
「楊貴妃図」について/申潤福の「美人図」との比較 
円山応挙と申潤福の美人図における独自の絵画性を具体的に較べるため、応挙の作としては天明2年作「楊貴妃図」(図3)申潤福のものとしては「美人図」(図1)を取り上げ、その絵画表現の特質について見ていくことにする。 
先ず、応挙の楊貴妃図は、画面左下の落款によって天明2年(1782)6月に制作されたことがわかる。このとき応挙は50歳であり、すでに京都画壇を代表する画家とみなされていた。応挙が本図を制作するさいに参考として用意した画稿が少なからず残されており、この図にも女性の身体を写した下絵やその下絵による「楊貴妃図」が幾つか見られる。したがって、この作品にも写生を標榜した応挙の美人図の様式が十分に発揮されているといえる。 
本図のテーマである楊貴妃は、唐玄宗皇帝の時代の人で、はじめは玄宗第18王子寿王瑁の妃となったが、玄宗が溺愛していた武恵妃が没した後、玄宗皇帝の寵妃になった絶世の美人である。歌と舞とに長じ、音楽にも精通し、人並すぐれて聡く、相手の心をすばやく読みとる機転を備えていたと伝わっている。唐時代、嫋々たるたおやかな美人としてよろこばれた梅妃に対して、楊貴妃は豊満でふくよかな美人として称えられていた。 
つまり、後宮三千の美女に大凡二つの型があって、その一つは豊満型であり、他の一つは痩身型であって、楊貴妃が前者の代表であり、梅妃が後者の代表であったという。しかしながら、応挙の楊貴妃の姿は故事に示されているような豊満型で描かれたことは少なく、なで肩で楚々とした姿態の美人として描かれている。それは、応挙の美人画様式が中国明代の仇英に影響をうけている事に因んでいるのであろう。仇英は明清の中国版画の挿し絵を手掛けており(例えば乾隆44年には「列女伝」の挿絵を制作していた)、ここから、蘇州版画が仇英の影響を受けていた可能性も浮上する。おそらく、中国版画技法の研究が日本でも行われるなかで、応挙自身も版画を実見して唐美人画を制作し、美人画の作風を完成させていったのではなかろうか。実際、応挙の「仇英写美人図」やそれを模写した「卓文君図」は、明清の中国版画との関連を明らかにする美人図であるからである。 
応挙図の女性は、ゆるやかな乙字形をなす樹木を後ろにして、それと対角線をつくるように画面におさめられており、背景には樹木の枝や岩、そして小さな水流などを置き、構図に仄かな奥行きをもたらしている。楊貴妃にまつわる故事を示すように、女性は中国の衣装をまとい海棠の幹に寄りそいながら、枝先の海棠花の一輪を右手にして視線を投げているポーズをとっている。155cmの画面一杯に描かれている人物を描く力量は、「人物正写惣図巻」などで考察したように、写生的で、筆致に寸分の揺るぎも認められない、現実感あふれる美人図であるといえる。 
しかしながら、もとより本図は当時実在した女性をモデルとするものではなく、楊貴妃という中国の歴史上の美人の典型を表すものであるから、その顔や手の表現に一定の制約があることは理解しなければならない。18世紀半ば、京都は中国志向の時代にあったので、美人図や風俗画が描かれることは少なく、王朝時代の悠揚たる長袖をつけた縉紳や緋の袴に身を包む官女など、また、具体的には楊貴妃、西王母のような、中国の画題が採用されたのである。 
応挙はこうした典型を図像として構想するため、理想化した女性の顔貌を工夫したことは言うまでもない。しかし、その工夫の跡を最もよく示しているものほど、一般に類型的であって、対象の個性的特徴を捉えたと見るべきものは殆ど無いと言える。仮に、応挙の美人図を集めると、そこに応挙の年齢の変化による力量の差異からくる巧拙は認められるにせよ、モデルの容貌姿態は判で押したように類型的であり、特に群像となると、どれを見ても同じ型の美人ばかりで変化というものが無い。楊貴妃図は類型化された美人図の典型的な作品としてあげられる。 
いうまでもなく、応挙のこのような美人図は、もはや故事の忠実な絵画化ではあり得ない。すべて応挙自身の表現のために借りられている主題に過ぎない。主題が中国であっても、それらの人物は、応挙の恣意的な自己表現の恰好のモティーフとなっただけである。 
田能村竹田が「山中人饒舌」のなかで「京派羽毛花卉、専力写生、用筆最是柔媚、賦色亦極新鮮(中略)其雖法不古、亦有足観者」と述べている。応挙の京派の特色は第一に「写生」にあり、その筆使いはあくまで「柔媚」、色づかいはひたすら「新鮮」であり、古法に準じていないものではあるが見るべきものがある、と評している。つまり田能村竹田は、応挙が古法に準じていないとはいえ、「写生」を強く意図しており、「用筆柔媚」「賦色新鮮」といった在り方に準じていると評しているのである。 
田野村竹田が評している言葉の中で、まず一番目に「写生」ということについてであるが、これは、人物画の基本基調である対象の個性把握を主眼とする態度、つまり唐宋より清朝美人画に至る「伝神写照」の伝統を継承したということを指しているのではない。 
応挙の中国人物における制作経緯については、「萬誌」「秘聞録」(「明和四年丁亥従七月到十二月」冊より)中の応挙自身が示唆した言葉である「漢人物モ和人物書得タル風ヲ漢ニスベシ」によると、彼の美人・人物画を描く方法というのは、例えば、中国の人物を描く場合、まず日本人を写生してその形態を描いた後、中国の着物を着せ、飾りを付けてそれらしき雰囲気を出すのがよいと述べている。 
以上のことから、応挙が意図している写生というのは、ある女性をモデルとしてその個別性をとらえることではなかったといえるだろう。当時舶来の南蘋の写生的手法、或いはオランダの銅版画や、眼鏡絵などを加味し、一段と写生を推進したことであり、それによって新生面を開いたことであった。それらについては諸氏の詳細なる検討が発表されている。 
前記の田野村竹田の評文の中で応挙に見出されるこの二つの傾向について言うと、「賦色新鮮」の狙いは美人をとりまく雰囲気の表現に置かれており、「用筆柔媚」の狙いは美人そのものの把握にある。これら2点は、背景を欠いた申潤福の美人図とは違った趣向であり、応挙で言えば、彼の作品の中でも、特に楊貴妃図に近接している観がある。当然ながら、これらをもって直ちに申潤福の美人画が、応挙のそれと同軸のものと見なすことはできない。 
美人の背景に海棠花の樹木を配した応挙の楊貴妃図は、色彩を主に取り入れた補景仕女図の一態と見ることができる。補景仕女画というのは、美人の容貌姿態のみを対象とした美人画とは異なり、自然の背景を補益した美人画である。更に具体的に言うと、応挙の「楊貴妃図」は、樹石や籬牆を背景とした美人図であるが、本図は古くから行われた樹下美人図の形式に則ったというよりは、特に清朝の新様式としての美人図の形式に拠ったものである。その美しさは、美人の顔や手の描写に胡粉を用いて表されており、衣服とくに花柄の襟・袖などには厚手の彩色を念入りに施している。こうした点は、白描風で背景を欠いた申潤福の美人図と違った趣向である。一方で申潤福の図像は、元・明間にしばしば白描で描かれてきたものから基本的な形を学び、近くは丁雲鵬による版本「程氏墨苑」(萬暦34年・1606)や、当時朝鮮にも渡来された「八種畫譜」や「十竹斎書畫譜」に代表される画手本などを参考にしたものと見られる。この時期に奇古の人物画で名高かった陳洪綬の影響も考えられる。 
さて、応挙は補景仕女図の一態を、申潤福は白描風の一態をもちいて、それぞれ美人の姿を描写しているが、その筆線はどうであろうか。 
応挙の「楊貴妃図」の場合、右手の袖から袂にかけて施された濃墨による運びの強い描線の流動感は、鑑賞者に心地よい視覚的効果をもたらす。このことは特に仇英の表現に非常に近い。仇英の線には、いわゆる唐美人画に学んだ古拙朴訥なものと、宋画風の爽勁なものと2種あるが、この図の線は後者をうけたものであろう。 
一方、申潤福の美人図と応挙楊貴妃図とを対照させてみると、描線それ自体がもつ表現力や技巧は、応挙のみせる技巧の方がたしかに優れているといえる。筆線の運びにおいて、申潤福の場合はしばしば自制力を見せ、流暢な運筆を控える傾向が顕著である。筆致に抑揚を持たせる点においても、応挙は実に手慣れた技巧を発揮する。楊貴妃の着衣の襞の作り方から、付け立て技法による海棠の幹や枝の描写に至るまで、快いリズム感が画面の随所に見られる。応挙の美人図は主張を極力抑えた鑑賞画としての絵ではあるが、女性の姿態や衣紋の描写に用いられている線描は、彼の確かな写生力を示すとともに、筆線の流れや反転も、美しさを保って流麗に運ばれていると言える。さらに、先ほど検討したように、着衣の中に身体を存在させる写生の痕跡も確かに認められる。 
両図ともに同じ立ち姿であり、どちらも首を俯け、やや伏し目がちにポーズを作る共通点が見られる。しかし、応挙の描く女性の顔つきは、無表情で一定の型を示しているのに対して、申潤福の妓女像の顔の表現、つまり薄い青色を施した細長い目、しっかり閉じている小さな口などからは、控えめながらも翳りをもった表情がはっきりと窺える。それに較べ応挙はまず、時には望遠鏡や鏡を使った写生によって人物のあらゆる形態をつかみ、次に外科書の知識を生かして骨法を確認しながらポーズを構成し、そこに画題にあった衣装を書画譜等を参考に描き加え、更に顔面表現において、相書や「三才図繪」などを用いて理想的な美人図を完成している。そのため、顔つきは無表情に取りすましたような印象を与えている。応挙の美人図に見られる描線は、起筆から終筆まで、どの描線も抑揚に富んだなめらかな動きを見せている。しかしながら、目鼻立ちに用いられた流暢な線を見ていると、あまりに様式化されすぎていて、描かれている女性の表情なり個性といったものを画面から少しも感じ取られない。たとえ中国の古典上の人物といった設定にせよ、女性としての感情なり性格というものが些かも見られない。一方、応挙の「楊貴妃図」との比較において、申潤福の描く妓女像からは、彼女の内面に潜む複雑な心理が、その表情や姿態の描写から伝わってくるのである。いわば、申潤福の美人図に用いられている線描は、描かれる女性の身体や姿態が持つ個別的特徴を促えようと工夫されたものである。 
このように考えれば、同じく女性の姿を描きながら、対象の本質を促えようとした申潤福の美人図は、写生派独自の技法による絵画表現をめざした応挙とは異質の絵画表現を目指した結果であることがわかる。 
現実の美人の実在感のある描写に当たって、写生と伝神という見方は異質のものである。応挙は、人物図においては、「人物正写惣本」に見られるように、実際の写生体験を反映した作品も残したが、美人図に限っては、写生に基づいて現実の美人を描こうとはせず、自分の中で消化された美人の理想形を典型化して描いた。 
応挙による中国美人画とはこういう意味合いを持つものであって、仇英に私淑し、それに倣おうとする応挙の古典臨模趣味の一面によって成立したものなのであろう。そして、応挙の描き出した美人図も、写生的要素と実見とに裏付けられた感動を伴わなければ、現在の我々の眼には没個性な作品にしか映らなくもない。しかし、応挙のねらいはまさにそこのところにあって、独自の美人を描き出すよりも、誰もが美しいと感じる普遍性の方をこそ選んでいるのである。 
男女二人組み合わせ図との比較 
鈴木春信と申潤福の男女二人組み合わせ図 
それでは、喜多川歌麿と申潤福の「一人立ち美人図」に見られる独自の絵画性と相違性について一通り理解した上で、さらに本章では、 
鈴木春信と申潤福の男女2人の人物が組み合わせて描かれた場合の絵画表現の特質について、比較・検討してみたい。このような比較を行う理由は、人物の組み合わせについて考えることによって、人物の構成における両作家の様々な制作傾向や作画態度といったものがうかがえるからである。この比較を通じて、浮世絵初・中期における春信の絵画様式と朝鮮後期における申潤福の絵画様式との相違点が、さらに明らかになると思われる。 
両画家における人物の組み合わせの図柄の傾向は、男女の恋愛や婦女子の日常生活のあらゆる生活場面を主にしたものがもっとも多く、特に男女2人をテーマとして描かれている場合、その2人は非常にバランスよく、緊張感を保っている。 
そのなかでも、男女2人をテーマとしていて画面構成も類似する作品を選び、その描写内容を比較し、それぞれの絵画表現の特質について具体的に見ていくことにする。男女の恋の場面を主題に合わせて、バランスよく表現されている両者の作品のなかで、春信の「雪中相合傘」(図4)と、申潤福の「月下情人」(図5)は大いに興味をそそるものである。 
これらは、しっとりした男女の情感を描いたものであることはもちろん、その基本構成をなすところも非常に近接している。両者ともに男女のアドリブでドラマチックな世界に正面から取りくんでおり、画面の主題を親しみやすい恋愛の場面に仕上げている。ただし、春信の「雪中相合傘」は実存の美人あるいは俳優を描いたのに対して、申潤福の「月下情人」の場合は必ずしも実在の人物ではなく、理想化された人間として描かれ、対象の個別化を離れており、その意味での普遍性をもつ図様である。 
ところで、相合傘の図は、風俗画や浮世絵の画材としてしばしば取り上げられているし、春信もこれ以外に大判、中判、柱絵などに相合傘のモチーフを繰り返し使っている。このことはそれだけ春信の「相合傘」が当時代の鑑賞者の間で人気を博し、それに対する需要も高かったことを推測させる。実際、宝暦期(1751-64)頃、相合傘図は浮世絵の主題として流行していたようである。一方、申潤福の男女2人の組み合わせの場合、自己模倣した作例が見られないことから、月下情人の需要層はかなり限られていたと推測される。 
まず、春信の「雪中相合傘」では、しんしんと降り積もる雪の中に、一本の傘を男は左手で、女は右手で支え合い、そこには恥じらいながら寄り添う恋人同士の情感が秘められている。2人がまとう対照的な黒と白の着物と、それを縁取る赤い着物の裏打ちが、銀世界にたたずむ恋人2人をいっそう印象ぶかく作り上げている。女性は、恋人の方に首を少し傾けた姿、すなわち前節の「立ち姿美人図」に準ずる姿勢で描写されており、穏やかで優しいその顔の表情や柔和な描線と相まって、恋の温かな想いが見るものに伝わってくる。そして、本図の特徴としてはさらに、雪におおわれた垂柳が印象強い背景である点が挙げられる。そこから第一に思い浮かべられるのは、芝居の書き割り的な描写であろう。 
ここで、相合傘が歌舞伎における道行の場面(心中の場へと向かう場面)であることが注目される。心中の目的地まで行く途中の哀艶な場面が、役者絵以外の相合傘図にイメージされたのは当然のことであった。 
ところで春信は、京都の浮世絵師・西川祐信に代表される他の絵師たち(春信に先行する江戸の浮世絵師奥村正信(1686-1764)、石川豊信(1711-85)、鳥居清満(1735-85)の筆になる多種の絵本から図柄を借用し、その組み合わせにより作画したということは以前から指摘されており、事実、春信は、その美人図の構図・着想のあらゆるところを祐信の黒白の絵本の世界から借用している。西川祐信の古典趣味が、春信の手で、美しい色彩と柔軟な描線とを以て一枚絵の上に再現されたのである。しかし、図柄を他から借りながらも、春信は明らかに独自の新鮮な芸術世界を作り出すことに成功している。したがって春信は、本図「相合傘」において、奥村正信をはじめとする江戸浮世絵の先達と同じ図柄を別趣で見せるという面白さを見いだしたのではないだろうか。 
なかでも、春信の画風にもっとも近いと感じられるのは、アレン美術館蔵の豊信の「相合傘」である。図版では見にくいが、この豊信の図で、2人の持つ傘には小さく佐野川市松と瀬川菊之丞の紋が両側に記されている。しかし、実際にあった芝居に取材したというよりは、当代きっての人気役者2人を見立で合わせた作品と思われる。 
また、役者絵に相合傘図を求めてみると、亨保4年春市座「福寿海近江源氏」中の演出に取材したらしい初代鳥居清信の「半七 市村竹之丞 三かつ 三條かん太良」という漆絵や、鳥居清広の紅摺絵で、「笠やさんかつ・中村富十郎 あかねや半七・山下又太郎」という作品を挙げることができる。 
さて、春信の「雪中相合傘」図は、2人への集中度や情感あふれる世界を表現し得た意味において、道行の図のなかでも最も先練されたものである。画面の男女が持つ情感の密度は、単純鮮明な白黒の色調により表現されており、その意味で、男女の黒と白の衣装は象徴的といえるかもしれない。すでに小林忠氏は、この黒と白には、善悪を象徴する「烏鷺図」、広義には「黒白図」という画題が意識されていることや、雪中柳下の男女が「雪中鴛鴦図」を偲ばせると指摘しており、さらに言うならば、白黒の色彩上のコントラストのなまめかしさは、思わず息を飲む緊張と衝迫力を画面に与えている。同時に黒と白は生と死を象徴していると言えるかもしれないし、また何か非現実的な印象を与える色でもあり、俗塵の入りこむ余地のない2人だけの世界が描かれている。 
こういう意味で道行きと黒と白のイメージを重ねる時、それは一層切実で抒情的な恋の図となるのであろう。こういったところから、鈴木春信の錦絵が持つ一つの特色は、色彩表現を含めた描写のすべてが一つの主題に向かって協奏していることであると言える。換言すれば、色面を細分化して散漫な印象を与えるのではなく、大きく広い色のかたまりを明快に対比させて鮮やかな色彩効果を生み出す技法で、意識的な色彩の演出を積極的に試みていると言える。 
一方、申潤福の図「月下情人」は男女2人の人物を組み合わせた作品であり、春信の「雪中相合傘」と違って、現世の関心に応えて作られたものである。つまり、春信の「相合傘図」のように高尚な内容を盛り込んだものとは言い難い。しかし、純粋に造形の美をたずね質を計るならば、意外なほどに充実した、高い達成の度合いを示している。 
申潤福の「月下情人」は、妓女とハルリャン(若衆)との恋の物語という非日常なるテーマが取りあげられた作品であり、相当に風変わりなものであるといえる。 
周りは夜の闇に包まれ、静寂そのもの、画面を斜めに走る古屋の壁には流れるように男女2人がいる。男女の逢った時が描かれたのか、別れるときが描かれたのか、それは決定しがたい。男は右手には手持ち提灯をかざし、左手を懐に入れ、頭を振り向けながら女に何かささやきかけているようである。応答するかのごとく、女は乱れるツゲチマを気にして、右手を添え身をすくめて無関心を装い、視線をさりげなく男へ注いでいる。そして、斜線の古屋と対比させるように、細丸い三日月が夜空に置かれており、寄り添う男女2人の姿を照らし出しているように見える。演劇の舞台で照明を当てられると同じように、人物たちは明るい色調の中に浮かび出され、その周囲は比較的暗く冷たい色調に抑えられている。鼠や薄茶の背景から白く浮き出て見える三日月は、2人だけの世界のために一段と効果を添えている。 
申潤福の視点は、何か恋に関することでもささやいているような男のそぶりと、しなやかな姿勢を持つ女の、その見えぬ心を眉目の間に漂わせるという微かな趣の描写におかれている。この絵の描写は物語性を持ち、舞台演劇のような性格が仕組まれていると言えよう。申潤福の「月下情人」も、春信の「相合傘」と同じように緊張感のある場面や書き割り的な描写、すなわち舞台装置のような背景を持つことから、そのドラマ性という面で共通していると言える。 
特に春信の錦絵には、発想のモーメントを古典和歌の詩情に得た作品にしろ、日常眼に触れた市井の風俗に直接依拠した作品にしろ、常に季節が特定されているものが多い。その中で人物は、三次元の空間において現実の生活を営む存在というより、四季の流れや、時間の流れの中の非現実的な存在として捉えられている場合が多い。春信の「雪中相合傘」は、夜のしじまに包まれた銀世界に雪が霏霏と舞い降りる冬のイメージが演出されている作品であり、直接時間を示すモティーフは描かれていないが、ふけてゆく夜が設定されている光景であることが想像できる。 
また、「雪中相合傘」と同様の組み合わせをもつ図様に、春信の柱絵「吉原大門口」があるが、本図が持つドラマ性は申潤福の「月下情人」と大いに近似する性格を持つ。「吉原大門口」では、別れの場でもあった吉原の入り口大門前で、着物の袖口を重ねて寄り添う遊女と男の交歓の場面が切り取られている。漆墨で潰された背景は、闇をあらわした効果が甚だ大きく、男女2人のみをこの闇中に浮き立たせたのにもまた成功している。「吉原大門口」の背景の墨一色は夜闇を暗示するもので、春信が好んで用いた手法の一つであり、まさに彼の浪漫的なモティーフと合致し、調和するものである。春信の漆墨を用いた夜闇の表現、さらにはその黒一色の背地に支えられ、いっそう浄らかに美しく映える人物表現は、見る人の全てに甘美な夢想を与えてくれるようだが、やはり装飾的な平面性が、強く表面を飾っている。 
一方、申潤福の画面「月下情人」は、季節の特定はできないが、雲間から覗く眉のような三日月の下に附された自賛「月沈沈夜三更両人心事両人知」(月沈沈たる夜三更両人の心事は両人のみ知る)に見える「三更」より、時間の流れが仕組まれていることがわかる。もう一つ、提灯の光は、情趣纏綿たる男女が持つドラマチックな雰囲気をあらわすことに貢献しており、人物描写、背景描写などにも、光と影の効果を楽しむ態度が見られる。 
なお、着物の衣褶は外隈の技法を採って、対象をぼんやりと浮かび上がらせるように薄い墨をひき、夜の雰囲気を表している。朝鮮時代の18世紀後期においては他に例が少ない明暗処理、例えば、わずかではあるが、男性の外出服であるドルマギに胡粉、鼠色、薄藍に紅をきかせるなど、明暗の二様が凹凸によって巧みに施されている。また、「月下情人」と同じく「■園畫帖」に含まれている「酒肆挙盃」を見ても、これも消極的ではあるが確かに明暗の二様、物の立体感を表しているのがわかる。 
鈴木春信と申潤福の共通点と相違点とを検討するため、双方における、女性と男性と2人を組み合わせたものの図様を特に選び、そこに求められる絵画表現の特色、主に図様の性質について考察した。その結果、春信の錦絵には古典文学的要素が強く結びついており、文学的主題を明確に伝え、かつ鑑賞者のイメージが膨らむ表現を心掛けていたことが判明した。また、比較考察のため取りあげた「雪中相合傘」においては、近世大和絵の本質、すなわち装飾的表現と情趣的表現とを促進しつつ、現実性とは相容れない要素、言い換えれば抒情性に富む画面を作り上げていることがわかった。さらに、絢爛たる色調と可憐な人物描写というこれら二つの要素も、春信の画面に非現実的で抒情的な雰囲気を漂わしめているという点で、よく効果を発揮している場合が多いのである。 
一方、申潤福の一人立つ美人図と春信のそれとを比較してみた結果、大きな相違点が有ることに気づいた。まず、春信は写生を重んじる絵師ではなく、他の絵師の作品に倣いながらも、自己の中で十分に消化された人物や背景の型を持ち、描こうとする主題に合わせてそれらを組み合わせ、細部に変化を付けることによって作品を完成していた。次々に行われる他の絵師からの図柄の踏襲は、春信の旺盛な探求心の表れと見てもよいかもしれない。しかしながら、こういう点から申潤福の作品と春信が描く美人図とを比較するとき、両者の相違は大きい。申潤福の美人図を見るならば、彼が「伝神」を念頭におき、実在の妓女の個別性にできるだけ近づけようと努力していたことは一目瞭然である。つまり、春信の錦絵「雪中相合傘」と申潤福の「月下情人」を見比べると、両者とも同じく遊女や妓女を中心テーマとして「美人風俗画」をつくったのであっても、春信は一定の型に沿った美人像を類型的な技法を用いて描き、彼の得意とする抒情的かつ装飾的な効果を高める画面の制作を意図していた一方、申潤福にあっては、類型的に妓女を描くのではなく、一人の明確な個性を備えた存在として描くことに専念していたことがわかる。申潤福が描いた妓女は言うまでもなく名も無い存在であるが、彼はこれらの女性たちをも、一喜一憂する存在感のある人間として捉えようとしていたのである。  
終わりに 
以上、鈴木春信、喜多川歌麿、そして円山応挙などのような18世紀の日本の画家の筆になる美人画と、同じ時代の申潤福の美人図を取り上げその絵画表現の特質を比較を試みた。その結果、美人画あるいは美人風俗画というものがその時代の好尚や流行を単的に示すという特徴は、日本の場合にも韓国の場合にも、同様に見られ、申潤福が描く美人図もそれを具有している。さらに、しばしば少女を対象とした春信の女絵、遊里や街角の小町娘に美の典型を探しあてた歌麿、そして実在人物を理想化された人物として描き、対象の個別化をはなれ、その意味での普遍性を描写した上方の応挙、これら3人の絵画様式つまり美人風俗画の命題は、暢達した描線による適確な写形と賦色の美しさを見せることであり、情緒にみちた画面を作り上げることであった。そして、そのいずれにも申潤福の美人図様式と一致する部分が存在した。ただし京派・円山応挙の場合は、女性の姿を描きながらも、その性格や心理をとらえることよりは、むしろ美人像としての類型によりながら、流派における様式や技巧を示すことに力を注いでいた。 
一方で、流派を持たず、同時代の一世を風靡した鈴木春信・喜多川歌麿などの浮世絵版画においては、それぞれの美の理想像を表現したという点で応挙とは異なる。ここで注目すべき点は、歌麿の場合は西洋の似顔絵や肖像画のような感覚で美人を描いたとは言えないが、対象に対して鋭い観察の目をむけ、面相に対する知識によって女性の表情を描きあげたことは、やはり浮世絵史において画期的なことだったということである。一方、朝鮮における儒教倫理を核とする伝統的道徳観念の衰退は、宮廷外において申潤福の美人画が流行する下地を作り出したと考えられる。そういった状況の中で、技女を絵画の題材として取り上げ、技女の個性へと関心を払い、その性格や心理を捉えようと努力した申潤福の「美人図」は朝鮮絵画史においてはとりわけ異質な作品と考えられる。  
 
参勤交代と日本の文化

 

日本から遠く離れているモロッコの国では、18、19世紀に王様が部族を統制する為に国中を動き回りました。王様の政権の最も重要な特徴は彼の移動性にありました。四万人に上る人が御供して、まるで一年中、移動生活をしているようになり、「王座は鞍のよう」という風に言われていました。日本の近世では、対照的なイメージが目に浮かびます。星のように、大名が太陽である将軍の軌道を回っていました。将軍の政権は、彼自身の移動性に拠ったものではなくて、地方の有力者である大名を移動させることに拠っていました。寛永時代から文久時代までの近世約230年の間、大名を原則として一年おきに、あるいは半年おきに江戸と国元に交代で住まわせ、その妻子は江戸に常住させたのが参勤交代制度でした。 
私はドイツ人のケンぺルが書いた「日本誌」を大学院生の時に読みましたが、日本人の移動、いわゆる行動文化、は大変印象的でした。そのテーマを取り上げて、江戸時代の交通--特に関所と庶民の旅に関する研究をしてきて、それについて本も出しました。今は参勤交代を中心にして、同じ日本人の歴史的な移動性というテーマを続けて研究しております。今回は特に大名行列や参勤交代と日本の文化との関係に絞ってお話をさせていただきたいと思います。 
参勤交代と大名行列 
大名行列 
参勤交代に代表される大名行列は何と言っても江戸時代を象徴するものです。しかし、それは明治時代にも引き継がれ、かつ現代にまで続いていると思います。幕末の日本にミットフォードというイギリス人が滞在していましたが、彼は1906年(明治39)、イギリスの王エドワード七世から明治天皇へ勲章(Order of the Garter)を捧呈する使節団の主席随員として再来日しました。この時、明治政府は彼らを歓待するために大名行列を再演したのです。 
ミットフォードは次のように書きました。「封建制度は終わったが、まだまだその幽霊に私はとりつかれているようだ。目を瞑ると、鎧に身を包んだ侍が東海道の並木にそって歩いている大名行列が見える。それに「したにいろ」「したにいろ」と大きな声で呼びかけているのも聞こえる。」後でも大名行列の再演について触れますが、ここでこの外国人にとっての江戸時代を考えると、そのイメージとして参勤交代が浮かんで来ます。明治初期の元老は徳川時代のすべてが封建的で、文明開化ではないということで、それを拒否していますが、明治維新のわずか38年後に、江戸時代のシンボルとして大名行列を元老たちが喜んで許容するようになったのは驚くべき事ではないかと思います。 
次に、行列のイメージに触れてみたいと思います。大名行列は錦絵、いわゆる「江戸絵」に沢山出てきます--とくに交通ブームの起きた文化・文政時代以後です。双六にも目立ちます。振り出しに大名行列を描いているものが多く、幕府の首都である江戸の一つの大事なイメージです。当時も今もそうであると思います。 
大名行列の絵巻物も沢山造られており、次にお見せしますが(下の図)、それは一般の人のためではなくて、多くは公的な記録のためでした。大名行列は異国人である韓国人、琉球人、あるいはオランダ人などの行列と違い毎年行われていて、比較的珍しくなかったので番付は造られなかったようです。しかし、今申し上げましたよ うに、他の種類の絵は沢山出されていました。 
参勤交代の再現 
江戸時代以降、大名行列はずっと演じられて来ましたが、それは今日まで続いていると思います。 
箱根と二川の大名行列祭りが文化の日に行われているのは、大名行列が日本の伝統(つまり、江戸時代の文化)と同等なものであるという事を強調しているのではないかと思います。岩滝町(京都府)、矢掛町(岡山県)、大井町(静岡県)、豊橋市(愛知県)、玖珂町(山口県)などの各地でも行われています。島田市(静岡県)の場合は10月、元禄時代に始まった帯祭りに付け加えられていて、祭りの最終日に行われています。大名行列の一 部である奴の組はもちろん、京都の時代祭に再演されています。 
新見市では御神幸武器行列祭り、土下座祭りともいう祭りが毎年10月15日に行われています。これは一万八千石の格式である岡山新見藩主が1697年新しく出来た藩の国入りの時に船川八幡宮を守護神としてあがめたお祭りです。藩主は御神輿、お米、道具(鉄砲5挺、弓5挺、槍5本)を神宮へ寄付して、村から25人でお祭 りを起こすべしと命じました。当時から300年以上続いていると言われています。江戸時代に、この祭りの日に郷士が行列をつとめ、武士は土下座して行列を迎えたと言う話もあります(しかし、史料的な証拠は全くありません)。行列は10年前までは二つに別れていて、最初に、64人が勢揃いする大名行列が出て、そして御神輿 が出ます。行列は御神輿を守るということです。最近は町の子供たちを参加させるために子供の大名行列も最後の方に加えられました。 
ところで、このような祭りは今の日本人に江戸時代の歴史を教えるための一つの大事な方法だと思われます。祭りの担当者は行列が出発する前に、その参加者に当時の衣装のつけ方、武器の持ち方などを教えます。この祭りも岡山県の無形民俗文化財になっていています。 
去年の10月にとったビデオを少しご覧になってください。最初の方は神宮を出たところ、次に町を通る部分で、ここには写っておりませんが最後に子供の大名行列が続いています。 
この行列は、1990年代にフランスでも演じられたことがあります。これが、この年代に外国でも演じられたという事は、日本人の誰にとってもそうかも知れませんが、特に新見市の人々にとっては大名行列は日本の江戸文化の象徴であると同時に、過去と現在のつながりが深いものであるということを表わしているように思います。 
参勤交代/幕府大名の権力のシンボル 
参勤交代は、幕府、または大名の封建的な権力を表わしていました。参勤交代の行列は藩の権威と実力を対外的に誇示する、大きなデモンストレーションの効果があったように思います。特に領内と城下町、あるいは江戸市中での行列が、威儀を正した形態を保持したのは領民や他藩に対する幕府または藩の権威を見せるためのものでした。戦争の時と同じように、行列は権威を見せるためであったという事を強調したいと思います。紀州藩参勤交代行列図には藩主の廻り番として70-75人もいます。参勤交代は藩の権威を表わすものと今申しましたが、同時に藩の行列、大名の江戸往来が幕府との従属的な関係を表わしていたことも見逃してはいけないと思います。毎年家来や陪臣が付いている大名120人以上を移動させたのは幕府の権力でした。 
幕府の大名に対する権威の中で、参勤交代は、殆ど最後まで続いた一番強力なものであったと言えるかもしれません。文久時代に参勤交代を緩めていた幕府の権威は急に衰えて、6年の後幕府自体が廃止されました。 
幕府との服従的な関係は大名行列の様々な道具や他の物にも見られます。例えば、南部藩(盛岡藩参勤交代図巻)の場合、挟箱、櫃を覆う朱塗り皮革を使うには幕府の特別な許しが必要でした。藩主の替え馬には、徳川家康から南部藩2代藩主利直が拝領した二疋の虎の斑模様の革が掛けられています。それに、将軍家に献上する南部の馬と鷹も行列に加わっています。ここにスライドはありませんが、火縄銃を覆った猩々緋の皮袋は、2代将軍秀忠から利直が拝領した物です。長刀も対道具も非常に限られた大名にのみ許可されていました。こういう道具類もまた、幕府との従属的関係を強調しているものではないかと言えると思います。 
庶民の対応と「御馳走」(Reception) 
ここまでは主に江戸時代以降の日本人が大名行列についてどう考えたかについて触れましたが、次に当時の江戸時代に生きていた人達のことも取り上げたいと思います。行列をどういう風に見ていたか?どのような応対、つまりどんな「御馳走」(ふるまい)が行われたかということについてです。 
大名行列は幕府、大名の権力のシンボルであったからこそ、庶民がそれを再現して、武士をからかったことは 不思議ではないように思います。大名行列はいろんな意味で「祭り」であったわけです。例えば、幕末日本を訪れたフランシス・ホール(Francis Hall)というアメリカ人は横浜の弁天祭りについて詳しく書いています。1860年に行なった祭りのなかに大名行列が再現されていましたが、藩主の乗り物の中に狐が座っていて、その廻り番は藩士ではなくて、化粧して着物を着ている男3人でした。ホールが説明したように、行列の日だけは庶民は侍を真似しても良く、侍は顔を見せずに、引きこもったままでいたということです。 
庶民は行列に対し敬意を表して土下座をしたと言われていますが、絵巻を見ると殿様が入っている本隊が通る時にしか土下座はしていません。その時、ある人は土下座をちゃんとしていますが、他の人はうずくまっています。殿様が通ったあと人々はまた立ち上がります。 
幕末大坂京町の女の人によると(「幕末明治女百話」という口述歴史の説明にあるように)大名が「お国許からお着きになる時は、大概拝みに行たもんだす・・・拝見する者は暮れがたのこともありましたが、お腹が減って目えがくらんでしもても、チンと辛抱して待ってたもんだす。」と述べています。 
庶民の対応と「御馳走」とはどういう事かと言いますと、 
例えば、(1)盛り砂を立てること、(2)水を振りまくこと、(3)水桶を置くこと、(4)露払いをすること、(5)土下座あるいはうずくまることなどです。 
演劇としての参勤交代(Sankin kotai as theater) 
庶民の側からは、大名行列はある意味では演劇として見られていたのではないかと思います。それは先程のフランシス・ホールの日記にも絵巻にも見られるようです。演劇、あるいは文化的なパフォーマンスとして、参勤 交代は劇的な要素が多く、それについて4、5点あげてみたいと思います。 
行列を演劇だとすれば、道は舞台、行列の人達は俳優、道具は演劇の小道具(prop)、道端の人々は観衆として考えられると思います。紀州藩絵巻の場合、観衆が500人も描かれています。 
行列の大きさ 
最初に資料をご覧になって下さい。大名行列の人数の表は二つ、土佐藩の部表1と他の藩の部表2があります。 
行列の人数は大名の威光を表わしているので、少なくとも元禄時代までは大名は行列の人数そのもので競争したようです。人数が一番多いのはもちろん百万石の加賀藩です。他の藩と違って、その人数は時代が下がってもあまり変わらなかったことは注目すべき点です。 
24万石の土佐藩は貞享から元禄時代にかけてよく2,000人を上回ることがありました。紀州藩は江戸後期になっても、1,322人もの大行列を結成した事が注目されます。 
他の藩の場合、その人数は熊本藩のように急に減少する場合もありましたが、大名の威光を守るために江戸や国許へ入る前に、人足や奴を雇って人数を増やす傾向があったことはよく知られています。 
人数の多さとはもちろん関係がありますが、行列の長さ--つまり行列がどのくらい続いていたかということは、外国人にとっても日本人にとっても大変印象的なことでした。有名な川柳はそれを暗示しています。--あとともは 霞みひきけり 加賀守(かがのかみ)-- 
色彩と物(道具) 
演劇としての参勤交代を考えると、色彩と物(道具)の関係も深いものがあります。古川古松軒とドイツ人のケンぺルは、大名行列を見ると、必ず御供のりっぱな服を詳しく記述しました。行列の同じ組に入っている人はよく同じ服を着て、同じ笠をかぶって、しゃれた格好をしていました。江戸へ入る前に礼服に着替えて見事に見せました。 
道具も大名の威光を見せるためであって、行列を見た外国人、特にケンぺルは非常に詳しくその様子を述べました。道具とはもちろん鉄砲、槍、弓(いわゆる三つ道具)を始めとして、挟み箱、長刀、毛鎗を指しています。「大名の鎗はだまって、名を名乗り」という歌が江戸時代から残っていて、鎗の政治的な意味をよく表わしています。  
動作と音 
演劇としての参勤交代の、「動作」と「音」について少し触れたいと思います。行列は大きな宿場町と城下町 に入る前に「行列を立て」ました。つまり、列を一直線に並べたり、笠を整理したり、足並みを整えたり、鎗などを立てたり、馬に乗ったりする事です。これは俳優が舞台に入る前の準備と同じ事です。大名行列の行進は、 一日平均10里(40Km)ぐらい歩きましたが、城下町を通る時は堂々と歩いて劇を演じました。 
ケンぺルは、「実に規則正しいみごとな秩序を保ち、きぬずれの音や人馬の動きでやむを得ず起きるかすかなざわめき」と書いています。大名行列が割りと静かに通っていた事を意味しています。昭和4年の記録に、当時78歳の男がケンぺルとほとんど同じような感想を述べています。彼によると、「お大名行列と言えば、金紋ず くし先箱に、2本道具一対ときた日には、実にたいしたもんで、それに300人のお供が添えましょう。それで静かさといったら、しんとしたもので、ただ響きますのは、馬の轡(くつわ)の音のみでございます」と言っています。(幕末百話) 
しかし、このしんとした状況は先払いの「したに、したに」や奴の呼び声や踊りや鎗を投げたりする事で一時的に中断しました。奴が威勢のいいかけ声とともに練り歩いた(parade)ことは、他の国のパレード、特に19世紀アメリカのフィラデルフィア市のパレードにも見られるように、行列は男らしさをよく見せたわけです。 
庶民が行列をどんな気持ちで見ていたかは簡単に言えませんが、絵巻物に描かれている子供は感激しているようすです。人に畏敬の念を起こさせたり、同時に人を楽しませたりする事は互いに矛盾しないものであると思います。ここまでの結論として、大名の政権の立場から考えると大名行列は藩の権威と軍事的な力を見せる仕組み(mechanism)であって、庶民はそれに対して十分敬意を払っていました。それと同時に、大名行列が通る街道の近くに住んでいた人々、江戸市内に生活していた人々、あるいは来日した外国人にとって、行列は大変魅力的で、演劇のように見ていたと論じてきました。大名行列を見物したり、錦絵を造ったり、絵双六の背景になったり、あるいは錦絵に見られるように子供は遊びに行列の真似をしたり、地方の祭りに大事な役割を果たしたりもしました。このように江戸時代の文化にかなりの影響を与えたのではないかという風に思います。特殊な旅の表現としての大名行列は物質文化の物をになって交流し、相当広い範囲に影響を与えたわけです。 
「江戸の文化」 
次に参勤交代から生まれた文化--つまり、江戸文化の形成と参勤交代--を2番目のテーマとして取り上げてみたいと思います。 
江戸文化の形式 
「江戸文化」という表現は、江戸の都市の文化=江戸時代の全国の文化という風に使われている傾向があります。ここでこれは「一定方向説」(unidirectional)という風に呼ぶ事にします。つまり、江戸から生まれた文化説と同じです。これはいろんな学問的な論文に見られます。「長野県史通史編5近世2」には、「参勤交代の 定着や江戸の繁栄のなかで、その世紀の後半以降、またとくに18世紀にはいって、城下町は、江戸文化を吸収して、それを近在におよぼす役割をつよくもった」と書いてあります。日本の学研という会社のインターネットの辞書によると、「参勤交代の影響で街道が発達し、江戸の文化が地方に広まった」と述べています。 
この一定方向説には疑問の余地があるのではないかと私は考えています。中央の文化--つまり「江戸文化」--とはなにか?江戸で発生した文化のみと思ってしまうのが問題です。「江戸文化」とは全国に発生した文化であるという事を正確に強調しなければ、「江戸文化」を誤解してしまうことになります。文化という言葉をこ こでは物質的な文化と非物質的な文化との両方の意味で使っています。 
一定方向説は江戸からの交流の事を強調しますが、それはもちろん否定出来ません。しかし、江戸に集まっていた藩の家臣と小者などは地方の人々であった事も見のがしてはなりません。18世紀の江戸の人口の1/4、約25万人は参勤交代で来た者であって、土佐藩の場合、元禄10年(1697)、4,551人の土佐人が土佐以外の、江戸、京都、伏見、大坂に住んでいて、藩の41万人の約1%となりました。内訳はわかりませんが、他の年の数字に近似していれば、ほとんどの人が江戸に集中していて、186人が京都に住んでいました。全部で350人が大坂、京都、伏見の三都市に住んでいました。 
こういう人達がお国で覚えた言葉、習慣、知識などを持ってきて、それが道中で、あるいは江戸にいる間に変質させられて、国元へと環流しました。江戸と往来した家臣は文化--いわば物質文化--を文字どおりに運んで来、かつ比喩的に非物質的な文化も普及させていきました。こういった二重の意味があるわけです。 
藩士たちは文化の交流に大きな役割を果たしました。土佐の森正名は5回も江戸との間を往来しました。彼が 書いた日記を見ると、参勤交代の個人的な意義がよく分かります。土佐はどういう国であるかという事を、初めて考えたのは多分文政11年の最初の旅のころでしょう。つまりこの年より以前、正名の世界は土佐の国の境目 の内側、あるいは城下町周辺に限られていました。高知を出て他の藩を見るまで、自国の有り様は十分には分かり得なかったでしょう。 
正名が高知を出てから最初に出会った城下町は丸亀でした。その城を見て、「天守なし。殿様御住居出来る様なる所見えず。小さきものなり」と判断しました。また城下町を歩いて見て「町は大繁盛、家中は衰微と見ゆ」と書きました。最初の旅だからこそ各城下町14カ所を通った時に必ずメモを残したものと思います。このように他藩の城下町その他の都市を見ることにより、初めて他の世界と高知との比較が出来ました。 
三都である京都、大坂、江戸へ入った時、その大きさに衝撃を受けました。「京都に入てみればさすがに大坂に勝ること遠し。そもそも男女の風俗優にして衣服の美成る事、又大坂に倍せり。御国を出、丸亀の繁盛に驚きしが、大坂へ入て見れば、又十倍に覚申す。京へ入て又倍せり」と書いています。その後、江戸へ着いた後愛宕山に登って「京都、大坂などより広大なる事、十倍もあらんや」と驚いています。このように、彼の計算によると江戸の繁盛の様子は丸亀の百倍とか二百倍になって、高知とは比べものにならない事は明らかでした。 
交流のパターン 
参勤交代が江戸の文化を全国に広げた一方的な現象ととらえるのではなく、より多面的なプロセスだという風に考えたいと思います。(1)江戸から地方へ、だけではなくて、(2)国許から江戸へ、(3)江戸を通して地方から地方へ、あるいは(4)直接に地方から地方へ、のようなパターンも考察しなければならないと考えます。それに忘れてならないのは(5)京都、大坂から江戸へ、あるいは江戸を通して京都大坂から様々な藩へというパターンもありました。次にこの五つの流れのパターンを取り上げてみたいと思います。 
一番盛んなのが、(1)の江戸から地方への交流です。 
吉宗将軍も18世紀の初め頃、日本国内の輸入代用物政策を推進する為に、江戸に集まっていた大名にサトウキビや朝鮮人参の苗を配って、それらの栽培を地方へ奨励しました。 
正名のような藩士は道中で、または江戸で買い物をよくしました。江戸に着いて次の日、ある土佐藩の郷士は錦絵(江戸絵とも言う)を60枚ほど買って、3日後にはさらに10枚を買いました。これは今の絵葉書のように目的地に着いた事を表わす物として、国許の家庭、友人などへ送ったのでしょう。幕末には泥絵も藩士にとって人気のある土産品でした。 
大ざっぱに買い物と言うと、布、衣類、食品、武芸品、美術品、植物などのようなカテゴリーがあげられます。 
さらに、八戸藩士富山家2代目の日記を見ますと、国許の人から、特に本家より頼まれて商品を買って国へ送ったり、持って帰ったりする例も少なくなかったようです。 
植物の買い物として次のような例があげられます。土佐藩士の島田武衛門は江戸の商人からサツキの種や苗を買って高知に居る郷士の友人に送るうちに、サツキの栽培が友人の商売になりました。こういう例も少なくないと思います。 
また帰国の際、友人からの餞別として良く錦絵、画、タバコ入れ、扇子などのような物をもらう事は全く珍しくなかったようです。 
江戸日記を見ますと帰国する藩士は自分の買い物の他に、友人から餞別としてもらった錦絵、画、タバコ入れ、扇子のような物も持って帰っています。土佐藩下級武士小倉貞助は江戸のお土産として団扇36本、財布、糸、子供の簪、真田緒紐付きの日和下駄、絵本6冊、腰帯二筋、利休箸10包、扇子、薬などのような物を買いました。それに、本家より注文された日和下駄も買って持って帰りました。 
非物質的な文化の場合、江戸での経験は藩士のものになって、その人と共に藩へ伝えられました。しかし、江戸で習ったことの起原は江戸に限られていたのではなく、日本の様々な所から来たケースが多いのです。もちろん、外国からのケースもありました。ここで小田野直武の例をあげてみます。 
小田野直武は秋田藩士で参勤交代の際藩主のお供をしました。江戸にいる間、平賀源内の弟子になって西洋(蘭)風の画法を勉強して、杉田玄白の「解体新書」という翻訳書の絵を描きました。蘭癖(ランペキ)大名の 一人である藩主の佐竹義敦も直武に教わって腕の良い画家として知られるようになりました。西洋画法についての本を2册ぐらいも書いています。直武と義敦のお陰で秋田蘭画が生まれました。 
藩士だけではなく、藩主も参勤交代のお陰で交流ができ、遠く離れている秋田藩の藩主佐竹義敦と熊本藩の殿様細川重賢が江戸で知り合って、お互いに蘭学を奨励し合う事になりました。 
陶工の場合も参勤交代の仕組みの中で江戸へ行くチャンスが与えられて、同じ分野の人間との交際が可能になりました。例えば、森田久右衛門という人物は土佐藩の尾戸焼きを改善するために藩主に江戸へ遣わされました。 
画家と陶工だけではなくて、一般的に藩のインテリ--儒者、茶の湯の師、歌人、医者、など--も藩主のお供をして江戸で1年間とか数年間を過ごして、江戸のサロンで他の藩のインテリと交流する事ができ、藩と藩との政治的な境界を超える事が出来たと考えればよいのではないかと思います。あるいは、こうしたネットワーク で明治維新後の日本の近代化--文明開化が日本中に伝播したとも言えると思います。 
土佐藩の有名な儒学家である谷、宮地のメンバーは、よく美濃岩村藩の優れた学者の佐藤一斎の門下生になりました。こうしたケースは、国へ帰ってから藩校の教授になる場合が多いのです。つまり江戸で資格をとって国へ帰ったわけです。 
武芸をやっていた武士もそうでした。例えば、久留米藩士今井湛斎(1769-1840)は5年間江戸で沼田藩士長沼(ながぬま)長平の道場で剣術を学び、教える資格をもらって国へ帰りました。国許では江戸で習ったことを教えて、「江戸での経験」を幅広くいかしました。こういう江戸勤番の武士は江戸のサロンに参加して 幕藩制度の政治的な境界を超えた者です。 
藩士だけではなくて、土佐藩郷士である岩崎弥太郎や町人画家弘瀬絵金は江戸で勉強するために江戸お供の藩士に雇ってもらい、行けるようになりました。その江戸滞在の経験は彼等の生涯に大変重要な位置を占めました。 
岩崎は儒者である安積良斎(1791-1860)の門下生になる為に奥宮忠次郎という藩士の小者に雇われて、奥宮と奥宮の家族と一緒に江戸へ向かい、ゆったりとした60日間の旅をしました。絵金は岩崎ほどよく知られていませんが、1829年18歳で江戸へ出て3年間滞在し、異端的な画家としての評判を取りました。江戸で見た歌舞伎が彼の絵の大事なテーマになり、江戸での経験のおかげで御用絵師となりました。 
江戸文化とは多面的なプロセスで形成されたものと申し上げてきましたが、(2)の「地方から江戸へ」と(3)の 「江戸を通して地方から地方へ」はケースによって区別出来ないので一応ここでは一緒に取り上げます。(2)と(3)の流れとして、現在の段階では次のようなものがあげられます。 
人間の移動/国中の様々な藩からの人々については先に触れました。 
道中のお土産  
江戸語/三河方言など、様々な言葉から発展したことがよく研究されています。 
地方のお寺、神宮(移り神) [例]金比羅大権現(丸亀藩)/水天宮(久留米藩)/豊川稲荷(西大平藩)/浅草稲荷(柳河藩)、こういう神々は屋敷内に移り、幕末 には庶民にもよく祭られていました。 
献上品/つまり藩から幕府への贈り物を指します。地方の名物--例えば、土佐藩の小杉原という紙 とかかつお節--が多いのですが、幕府は要らない品物は献残屋の商人に買い上げさせたりして、また市場に流通させました。こういう風に地方の物が江戸へ流通して、また他所へと廻って行ったわけです。 
江戸藩邸への食品/江戸地回り経済が発展しても、19世紀初期の八戸藩はまだ味噌、大豆、米を江戸藩邸に送っていました。加賀藩の場合、瓦、醤油、漬け物と味噌があげられます。 
国許から食器類を藩邸内のために送った藩も少なくなかったようです。加賀藩と高松藩の例はよく知られています。高松藩で出来た京都うつしの肥前焼は江戸藩邸に送られ、京都の影響は肥前と他の藩を通して江戸にまで及びました。もちろん、この京都うつし焼は中国と韓国の影響も受けましたから、こういう風に参勤交代のお陰で文化の交流がどんなに多面的なプロセスであったかは十分に分かると思います。 
個人への生活用品、食品/布(足袋をつくるための)、紙、にろぎ(魚)とカツオ(鰹)、漬け物、みかん等のような物が土佐藩の宮地馬之助によって送られました。  
(4)は中央を通さず、地方から地方へというパターンです。時間の関係で例は一つしかあげられませんが、一番多いと思われるものは、帰り道で購入したお土産です。 
独特な例として土佐の碁石茶があります。これは醗酵させた黒いお茶です。胡乱茶より濃くて酸っぱい味がします。18世紀から土佐藩の参勤交代の道は北山道に変更され、行列は伊予の国を通りました。そのために伊予の国にある仁尾の商人が碁石茶の事を知り、碁石茶を売る特権を買って、瀬戸内海辺りに仁尾茶の名前で碁石茶 を発売することになったのです。 
江戸文化の形成を考えるにあたって最後に、(5)の京都大坂から江戸へ、あるいは京都大坂から江戸を通して 地方の城下町へのパータンについて触れたいと思います。西日本の各藩は大坂、京都に屋敷を持っていました。参勤交代は、もちろん周知のように、米の販売のために城下町と大坂を結ぶと共に、国中に特産品の生産多様化、あるいは金融を促進した制度でもありました。土佐藩山内家のような藩主は、大坂で一泊二泊するのは普通でし た。京都へ寄らない場合、京都から幕府役人、門跡、役者も大坂の藩邸に招かれました。京都へ寄るとすれば土佐藩の場合、河原町の藩邸に入って休憩してから見物に出ることもありましたが、ここに泊まるにはあらかじめ幕府の許可が必要でした(許可がない場合伏見に泊まったわけです)。京都藩邸の留守居役という役人がいて、彼の大事な仕事は少なくとも二つありました。一つは、情報を集めて藩主に伝えることです。二つ目は、京都または関西の文化人の弟子になりたい土佐の家臣をそういう人たちに紹介することでした。こういう風に京都は重要な情報ネットワークの拠点になりました。 
参勤交代とは江戸、大坂、京都、全国の城下町という拠点を結ぶ 人、物、金の流れと情報知識と文化の流れを作り、ネットワーク化する事も促進して、日本江戸時代の文化形成に強く刺激を与えた制度であったと考えております。   
 
歌麿「百千鳥狂歌合はせ」

 

第一部 人間歌麿について 
今日、発表のテーマは喜多川歌麿を取り上げます。私の興味を引いたのは、世界的に有名なロシア国立エルミタージュ美術館の図書館にあった図書の一冊で、Utamaro. A Chorus of Birdsという本です。率直にいうと、初めてこの絵本を見た時、驚きで自分の目が信じられないくらいでした。なんとも素晴らしい鳥たちでした!その絵本には和歌の韻律に合わせた狂歌も揃っています。この本を旧ソ連と今のロシアで手にした者は、おそらく一人か2人しかいないでしょう。 
ですから、それまでの私にとっては「知られざる歌麿」の一面なのでした。私だけではありません。日本学と日本美術に関わりのある人達の間でも(一般のロシア人はもちろんのこと)ロシアでは、ほとんど知られていない歌麿の創作の分野です。私は新種を発見したかのような印象を受けました。ロシアだけでなく日本でもこのような作品はあまり知られていません。「歌麿といえば美人画の名手として知られている。しかし、歌麿がこうした女性描写とは全く無縁の、虫や草花、鳥などを描いた狂歌絵本の挿絵に、驚くべき緻密で完成度の高い世界を構築していたことは案外知られていない」と安村敏信氏は述べています。 
歌麿の生誕の謎 
小林忠氏の「歌麿の世界」には、喜多川歌麿はan artist without a biography(伝記のない絵師)と指摘されています。人間歌麿については不明な部分が多いのです。 
澁井清氏によると「喜多川を生んだ(1754年生)そのこぶくろ、つまり母、そして男親についても、今のところ確証がない」。 
ある説によれば、歌麿は茶屋の息子とされていますが、Sh. AsanoとT. Clark両氏はつぎのように書いています。「歌麿は吉原の茶屋の息子であったとする説は現在のところ実証されていないが、彼の出版元である蔦屋重三郎(1750-97)がそのような出自であることは確かである、という」と。AsanoとClarkは向井信夫氏の資料を利用して、右の結論を出しました。 
歌麿の出生地は何処であるかということについても、「古くから武州川越説、京都説、大坂説、江戸以外の他郷説などがあり、いずれも定説となるほどの決定的なものは未だないといえます」。この問題と関連して、林美一氏の「艶本で読む歌麿」でも様々な仮説があります。少し長くなりますが引用をさせていただきますと「江戸説あり川越説あり、大坂説あり京都説ありで一定しない。以下に述べる栃木滞在説は京都出生説に関する一説であって、栃木出身の浮世絵研究家、故吉田暎二氏が深い関心を示され」 、栃木市での調査の結果を1941年に発表されたのが最初でありました。「戦後は昭和35年10月平凡社刊の「歌麿の美人画」に再説されているが、それによると、歌麿は京都に生まれ、幼時母親とともに、つてを求めて栃木の釜屋(善野家)を訪ね、更にその紹介で、江戸の狩野派の絵師・鳥山石燕(せきえん)に師事し、浮世絵師として独立する第一歩を踏みだしたが、名をなした後も、しばしば釜屋を訪ね、大作「雪月花」三幅対を執筆した、というものである」ということです。 
歌麿の生まれた場所については次の説があります。「歌麿がいつどこで生まれたかについての資料は、全くないといっていい。生年は宝暦3年とされるが、それも没年からの逆算である。ところが実は、何歳で没したのか、信頼できる資料がないのである…」。 
私はもちろん、これらの見解になにか判断を下したり、他の研究者の立場や見解に対して批判などする権利もなく、個人的な意見を主張することはできません。しかし京都が好きで、「住めば京(みやこ)」をモットーとしていますから、歌麿の出生地が京都であって欲しいと思っています。 
幼年時代 
歌麿の本姓は北川、幼名は市太郎、のち勇助、勇記です。歌麿がどこで生まれたにしても、幼い頃から江戸住まいであったろう、というのが多くの研究者の一致している考えです。近藤市太郎氏(1910-61)は、歌麿が生まれたところがどこ(ひょっとしたらどこかの地方の村にでも)であろうと、若い頃に江戸に来たとの推測をしました。また、「歌麿は比較的早くから狩野派の絵師・鳥山石燕に弟子入りしていた」。 
歌麿の年齢に係わるまた別の新しい資料が鈴木俊幸氏によって発見されました。それは、「明和7年(1770)の東燕志の歳旦帖「ちよのはる」で、なかに幼い筆致で3個の茄子を描き「少年 石要画」という署名がある。少年、つまり元服(16歳)前だから13-4歳だろうか。従来の宝暦3年生まれ説だと明和7年は18歳となり、計算があわない。これまでより4-5歳若返ることになる。--―歌麿の場合、デビューにしても、結婚したと思われる年齢にしても、他の浮世絵師に較べて遅い。だから新資料にもとづいて4、5年ほど年齢を若返らせたほうが妥当な年齢に近づくと、小林美一氏はいう」。 
弟子の身分と期間 
歌麿の研究者の多くは彼が鳥山石燕の教え子であったことを認めます。師弟がどうして互いに知り合ったかは、はっきりしていません。のみならず歌麿は、小さい頃から石燕の弟子になったことを滅多に否定していません。彼らの交際は石燕が没した年(1788)まで続いていたのです。 
デビュー 
歌麿はその初期の頃には、芝居関係の仕事をしていたそうです。歌麿の処女作と考えられているのは、安永4年(1775)11月、江戸中村座上演の浄瑠璃正本「四十八手恋所訳」の表紙絵です。その後も芝居と関係がある幾つかの絵を書いています。役者絵も描き、彼らの似顔絵を発表しましたし、狂言と歌舞伎に関係がある作画も多くなりました。 
歌麿が狂歌本「画本虫ゑらみ」の挿絵を描いて発表しているのは天明8年(1788)です。この作品を観るとき、よく知られている歌麿の美人画、大首画や枕絵の傑作とは全く違うジャンルの作画だと、息を呑んでしまうほどびっくりせざるを得ません。歌麿の虫や草花、鳥たちは、実に緻密で完成度の高い芸術作品であるにもかかわらず、あまり知られていません。このような歌麿を知らない人は日本にも少なくないと私は改めて強調します。「この狂歌絵本とは短歌形式の戯(ざ)れ歌というべき狂歌を、あるテーマで詠み合い、そのテーマに関連した絵と組み合わせて版本としたものだ」。このような作業に熱中した歌麿は絵師にとって不可欠な摺りの技術(雲母摺=きらずり、空摺=からずり、キメ込み等)を駆使した結果、非常にリアルな写実表現を達成できました。その画作に見られる草花や虫たちの細密描写は臨場感に溢れていると言えるでしょう。 
そのころ発表された「潮干のつと」の貝の描写は、「百千鳥」の羽毛表現の写実性とともに、歌麿の独特な創作力や彼の画家としての能力の広さが大きな特徴となって、見事に反映されています。「この歌麿が自然界に目を向けて達成した写実の世界は、そのまま人間描写に活かされる。興味深いのは、写実の極みといわれる「絵本虫撰」を発表した天明8年に、同じく枕絵の最高傑作と目される「歌まくら」を刊行していることである。以後歌麿は女の「真」を描き続けたのであった」との安村敏信氏の感想です。 
まだ絵師の卵であった歌麿がどういうふうに版元の蔦屋重三郎と会って、その擁護を受けるようになったのは明らかにされていませんが、2人が知り合いになったことは、疑いもなく若い絵描きの運命の転換点になりました。 
1782年秋。上野の忍岡にあった豪華な店で宴会が開かれました。今の言葉で言えば、その宴会のスポンサーは蔦屋重三郎だったと思われています。宴会の趣旨は、これまでいくつか違う号を名乗っていた歌麿が、今後使う画号を歌麿とすることを公に発表するということです。そのために歌麿は招待状を用意して、その中に招待客の名前も書き込みました。客は、当時の江戸のボヘミアンである有名な狂歌歌人、浮世絵師たちでした。彼らに紹介されて、その仲間入りした歌麿は画作に没頭しました。その頃、作者清水燕十(ペンネームは怠けの馬鹿人)と共に、黄表紙本をはじめとする多くの作品を生み出しました。 
謎めいた結婚 
歌麿の私生活は謎に包まれています。小林忠氏によると歌麿は奥田屋平兵衛の娘と結婚しました。それは澁井清氏の憶測に由来した判断であります。後者の推測は平兵衛の息子幸蔵の死に因んで、蔦屋が出版した狂歌集「痛み諸白」の中にある歌麿本人の申し立てに基づいているそうです。恐らく、蔦屋は自ら友人になった歌麿のためにその結婚の手はずを整えて、取り決めた見込みがあります。蔦屋のそのような手配りは歌麿の将来の成功を確保させる狙いがあったのではないかと考えさせられます。 歌麿の結婚については、様々な説があります。その一つ目は、歌麿艶本の中に登場する女性の一人。「歌麿の「會本色能知功佐」(えほんいろのちぐさ)には、「勇助・おりよ」なる男女コンビが登場する。勇助とは歌麿の本名だが、この「おりよ」が歌麿の妻の本名ではないかというのである。(中略)澁井清氏はこの女性が歌麿の妻であり、門人「千代女」でもあったとみる。専光寺の過去帳にあった「理清信女」と同一人物で、勇助=歌 麿は寛政2年に愛妻に先立たれたとの見方も成立する。澁井氏は「おりを」が奥田屋平兵衛の娘であるとする」。その二つ目は、澁井氏の説に対して林美一氏は「「おりよ」は歌麿が築地の旗本邸で見初めた女性だとの説を 採り、さらにおりよの死後、歌麿が再婚をしたのでは、と考える」。その三つ目は、歌麿が埋葬されている専光寺と結び付いています。そのお寺の過去帳には北川家に関する記入があります。「「北川歌麻呂妻」は古くから言われていたような歌麿の弟子・ 二代歌麿の妻ではなく(もしそうなら、二代歌麿自身の墓も専光寺にあるはずだ)、歌麿が再婚した女性であり、また、「幻覚童子」はその後妻が歌麿の名跡をつがせるために迎えた養子だというのである」。 
以上のような歌麿をめぐる話題は、結婚の説だけではありません。たとえば、菊池貞夫氏は、次のように述べています。 
「彼[歌麿]の家族構成であるが、彼の身内となると、寛政2年(1790)8月26日没した「理清信女 」という仏の存在が確認されるぐらいです。そしてその仏も専光寺の過去帳によれば、葬るべき菩提寺を持たなかった処から神田白銀町の笹屋五兵衛という檀家の縁者として葬ったということがわかります。この菩提寺を持ってなかったということが、前の歌麿の出生地に関連して諸説を産んでいるといえます。またこの「理清信女」という女性の仏は、彼の母とする説。澁井清氏は歌麿の女房お理おであると仮説し、天明4年(1784)にはすでにこの奥田屋平兵衛の娘と結婚しているとされている。小林忠氏もこの説に同調しているが、林美一氏、鈴木重三氏などは、奥田家の家族構成を考証し、また他の資料を提示して否定的な見解をとっている。こうした最近の論争だけでなくて、歌麿の妻帯については、曲亭馬琴(1767-1848)が、天保6年(1835)刊の「後の為の記」に、「歌麿は妻もなく、子もなし」と記しているかと思うと、「新増補浮世絵類考」(中略)の二代歌麿の条に「故歌麿が妻に入夫せし人なり」という記述がある。先の仏が歌麿の先妻であったのか、歌麿は後妻をもらったのか、また馬琴のいうように晩年そうした者がいなかったのか、色々に推測説がたてられるわけです」。 
とにかく、歌麿はいつ結婚したのか、結婚相手は誰だったのか、それとも、独身であったのか、彼のそばにいた(もし居たとするならば)女性は、一体誰だったのか?―母か、妻か、娘か…   
人間歌麿については、以上のことから想像できるように、まだまだ不明の部分が多いというのが実状です。絵師として割と早く穎脱し、天稟の才に溢れていた歌麿は、私生活では不幸だったと言えるでしょう。 
歌麿の画業 
歌麿の自然を賛美する狂歌絵本、独自のユニークな女絵、春画、歌枕、大首絵等は江戸文化の爛熟期に胚胎しました。概して言えば、彼の名前から切っても切れない、(福田和彦氏の表現によれば)生まれ出ずるべくして生まれたのが浮世絵です。初期歌麿の女絵は先輩の絵師の美人画様式の亜流ではないかといわれています。歌麿は絵本であろうと、艶本であろうと、枕絵であろうとも、生まれつきの才能の持ち主であったおかげで自らの流派を形成して、独特な画作のスタイルとジャンル(美人大首絵を例としてあげてもいいと思います)の草分けになったと言えるでしょう。歌麿の美人画も他の浮世絵師と同様に吉原の花魁、市井の婦女子の風俗画、水茶屋などの評判美人を百花繚乱として描いています。 
歌麿が大首絵を描き始めたのは役者絵の描き様からヒントを受けたからだと思われます。にもかかわらず、耳目を集めた彼のこうした作品(とくに、彼が制作した美人画の大首絵)の特徴については、次のような評価が与えられています。「切断形式をもった大首絵は面輪を拡大描写した構図上の様式ではなく、内面的な心理的な美を形象化した美人画様式の新しい展開であった」。 
50年以上前に出版された本「歌麿」で澁井清氏は、歌麿の大首絵をヨーロッパの巨匠の作品と較べました。「歌麿の大首絵を眺めているとつくづく美しい女の顔である。ふとレオナルドのモナ・リザの原画の大きさほど位あるであろう、そんなに大きくはあるまい。そしてルノアールの女、ルーベンスの女、ゴヤの書いた真珠のようなマハの裸体の首、等が次々と浮かび出てくる。(中略)この大首は世の芸術が捉えた女の中で、もっとも女らしい女の美しい首である。しみじみと歌麿は、偉大な女絵の名手であると今さら乍ら想を新にした」という澁井氏の批評には、歌麿よりも300年程年長のイタリアの画家レオナルド・ダ・ヴィンチ、200年程年長のフランドルの画家であったルーベンス、そしてスペインのすこし(10年)年上のゴヤなどの世界的に認められている傑作作品に匹敵していると主張できる数々の根拠がいくらもあると思います。 
歌麿の女絵だけではなく、別のジャンルの傑作は、男女の風俗画なり、流行を写す錦絵なりが華美を極めたので、江戸、日本だけでなく、「その極だった芸術性は西欧で絶賛され、「ウタマロ」の名が浮世絵の代名詞となって世界に知れ渡るのである」と安田義章氏は書いています。続けて「歌麿の大錦絵である、「歌枕 」の着想の奇抜さ、構図の美しさ、人や自然の描写の見事さは他に類をみない」というのです。 
さらに、歌麿の画作を誉め称える作家・佐野文哉氏は次のように語っています。「浮世絵を江戸時代の芸術として頂点におし上げたのが喜多川歌麿であり、東洲斎写楽であった」と。 
歌麿が達成した最高の仕事が美人の大首絵の創作です。日本の文化研究者、美術史家、芸術評論家の多くの歌麿評価によく見られるのは立派な誉め言葉です。彼の画業の特徴と要素は、概して、次のようなものだと思います。 
植物の描写にある現実主義か自然主義 
美人画の神秘的な魅力 
大首絵の面輪の美しさと内面的な心理的な美 
男女風俗と流行を写す錦絵に感じられる奇抜さ 
臨場感に溢れる吉原の遊里の描写 
風俗画に見られるいわゆる露骨な描写とグロテスクな色っぽさ 
枕絵の男女の色模様の大げさな顛末 
聖母マリアのような母親像の優しさ、等々 
「今歌麿を賞するとき、その刻んだ画業の卓抜さ、その美人画様式の綺麗なる展開と想像性は250年余に渡る浮世絵版画の歴史の中でもっとも強い輝きを見せている。もしも美人画において、春画において歌麿の存在を欠くならば、浮世絵はその美の半ばを失うにちがいない」と福田和彦氏は評価します。 
浮世絵と、その不可欠で大切な一部となる春画(歌麿の春画だけでなく)の重要性について早川聞多氏は次の結論をだします。「浮世絵とは主に江戸時代に描かれた性愛図のことで肉筆と版画と2種類がある。(省略)浮世絵といえば、現代では主に庶民の風俗を描き庶民を客層として描かれたものという通念が広がっており、浮世絵の春画といえばなおさら通俗的な目的、端的にいえば男性専用の道具に過ぎないと見做されがちである。しかし最近の研究によると、浮世絵春画の普及はほとんど全ての階層に及び、しかも老若男女の別なく愛好されていたことがわかっている。(中略)少なくとも好色な男性専用という意味合いに限定されるものではなく、もっと広い意味合いを孕んでいたのである」。 
このような浮世絵に対する高い評価はずっと前から日本国内にあったと思っている方々は、大いに戸惑うだろうと思います。江戸時代の社会のエリートには、庶民、町民のために数多く作られたものは、芸術作品として認められていませんでした。ある意味で浮世絵は今の言葉を利用しますとエロチックなポップアートとして見なされていたからです。版画の作品への(日本国内での)価値観が変わったのは外国からの影響のお陰だったそうです。 
歌麿の版画が、「急に注目を集め高額で取引されるようになったのは1880年代の終わり頃からという」。こうなるために決定的な役目を果たした存在がありました。エドモン・ド・ゴンクールのOUTAMAROという本が、歌麿の画家としての全貌を詳しく紹介して、この絵師の作品の評価を高めました。 
運命の悲劇 
ここでは「運命のいたずら」とか「運命の皮肉」という題を考えていたのですが、「いたずら」も「皮肉」も歌麿の人生に起こった事実の本当の意義を伝えることはできませんから止めました。一体、彼はどんな困難に陥ったのでしょうか。 
寛政2年(1790)。この年は歌麿にとって重要な年でした。仕事は山ほどありましたし、円熟した年齢になって、逞しく、評判のよい巨匠になりつつあったその真っ只中の悲しい出来事。歌麿の妻とおもわれる女性が亡くなりました。澁井清氏によると、「歌麿は、1784年頃には、吉原大門口の酒舗奥田屋兵平衛の娘と思われる「おりを」と結ばれており、その「おりを」は、寛政2年8月6日に死んで、浅草(中略)にあった専光寺に葬られ、戒名を「理清信女」といった」。 
寛政9年(1797)。歌麿にとって掛け替えのない存在、常に励ましと庇護を与えてくれ、創作の刺激人でもあった有名な版元、蔦屋重三郎が47才の若さで亡くなりました。蔦屋の死は歌麿にとって白昼の稲妻のような、突然の打撃だったと思われます。 
数年前の寛政3年、蔦屋が出版した洒落本が幕府の咎めを受け、蔦屋は財産の半分を没収の刑に処されました。「歌麿は、この蔦重の不幸を救うかのように、勝川派の役者似顔絵で用いられていた「大首絵」からヒントを得て、「美人大首絵」という新様式によって美人画を発表したのでした」。 
文化元年(1804)。歌麿は52歳を迎えました。「この頃、歌麿は思わぬ筆禍事件に巻き込まれた。皮肉なことに、ひっかかったのは、美人画ではなく」、江戸でもよく知られた「太閤記」に取材した錦絵でした。つまりこの時代、それと関係があれば、文学作品であろうと、画作であろうと、テーマとしてタブーでありました。江戸の庶民の同情を集めていた豊臣秀吉を描くことも禁止されていました。「そこへ反徳川の気運をあおるような読本「絵本太閤記」。ましてや、それを錦絵にした相手が何度も肩透かしをくわされていた歌麿ともなれば見逃すはずもない」。結局、歌麿は取り調べ中入牢3日に及び、手鎖50日の刑を受けました。その年齢の歌麿にとっては非常に重い罰で、苦しい体験になりました。このような重すぎる刑は歌麿に心理的にも、身体的にも悪影響を与えざるを得ませんでした。 
文化3年(1806)9月20日没。歌麿の伝記には、只一つの事実が明記されています。それは彼が没した年月日です。その遺体は専光寺に埋葬(土葬)されています。 
歌麿は54歳で没するまで、「絵筆をふるい続けた。重い病のなかでも描くことを止めず、版下絵に囲まれてこと切れていたと伝えられる」。では、引き続いて、歌麿の「絵本百千鳥狂歌合わせ」についての話に移りましょう。
第二部 歌麿の「百千鳥狂歌合」の詩的・文法的分析 
それでは、「百千鳥」についてのお話に入りましょう。 
これは、寛政2年(1790)頃に蔦屋出版書肆から開板された、狂歌合せ大本前後編からなる二冊本です。ただし本書は、正確な刊行年が不明で、寛政2年前後と推定されています。 
本書には、前編に7図、後編に8図が収められ、一図の中に2種の鳥が描かれる構図であり、まるで鳥たちが対話をしているかのような印象を持ちます。絵本「百千鳥」は、「図柄も面白く「虫撰」とは別趣のダイナミックな趣きがある。羽毛表現に空摺りを用いたり、細線による毛描にデリケートな変化をつけた色摺りを重ねるといった具合に、技法的にも絶品といってよい工夫が凝らされている。狂歌もなかなか楽しく[中略]ウイットに富んでいる」との安村敏信氏の評価です。同氏は加えて、この素晴らしい仕事を、「虫撰」に次ぐ傑作品としています。 
歌麿は鳥類の生態をうまく捉えています。けれども彼の捉え方は、鳥類学者のそれとは全く違います。歌麿は、心をこめて丁寧に自然界を描写しています。自然を綿密に観察し、動植物たちを念入り眺めた結果、彼の卓越した写生手腕を発揮して、このような作品を生み出すことが出来るようになったと思います。見る者に、自然への親密感と愛着心を与えてくれるようです。 
辻惟雄氏によると、フランスの有名な文学者エドモン・ド・ゴンクールは、彼の著書OUTAMARO(1891)の中で、歌麿の初期の動植物づくしの狂歌本に注目し、次のように述べています。「女性を理想化して描き出すこの画家 が、「絵本百千鳥」「絵本虫撰」「潮干のつと」において、小鳥や虫や貝類を、写真さながらの最高の厳密さ、正確さで描き出している のは全く信じがたいふしぎなことだ」と。   
前述のように、この絵本は前後編からなる二冊大本で、折り畳み式になっています。 
前編の鳥たち―木菟と鷽、鵜と鷺、四十雀とこまどり、むら雀と鳩、かし鳥と鴟■、鴨と翡翠、鷹と百舌 
後編の鳥たち―山雀と鶯、鶉と雲雀、まめまわしと木つつき、山鳥と鶺鴒、燕と雉、ゑながとめじろ、鷦鷯と鴫、鶏と頬白 
では、この中からいくつか取り上げて分析してみましょう。
むら雀   綾織主  
さだめなき 君が心の むら雀 つゐに うき名の はつとたつらむ 
(語彙)「さだめなき」(定め無き)は「変わりやすい、無常である、決まりがない」という意味で用いられている。「つゐに」(副詞)は「結局」の意。「浮き名」は「浮いた噂」の意で使われ、動詞「立つ」と組みをなす。「はつと」は副詞で、現在の「はっと」に同じ。 
(文法)「さだめなき」は「さだめなし」の連体形。「君が心」の「が」は、現在の格助詞の「の」の役を果たす。「心の」の格助詞「の」は比喩を示し、「…のような」の意。 
「浮き名」の後の「の」は主体を示す。「立つらむ(ん)」の「らむ」は動詞の終止形に付く場合、現在の事実について、その原因・理由を推量する意を表し「…のだろう」に当たる。 
(詩的手法)擬喩法と擬人化が使われ、雀のせっかちな性格と生態を通じて、人の定めと人生の無常が見事に表現されている。付け加えれば、有名な諺「雀百まで踊り忘れず」も連想させる。 
鳩   園故蝶 
鳩の杖 つくまでいろは かはらじな たがひに年の まめはくふとも 
(語彙)「杖」は「頼りとするもの」の喩え、普通は、動詞「付く」と組む。「いろ」には、羽毛の色だけではなく、愛情の意味も含まれる。同音異義語として上手に使われている。「かはらじな」は現在の言葉の「変わる」と同じ意(文法的説明は以下を参照)。「たがひに」は現在の「互いに」と同じ。「年の豆」は節分(立春の前日)の夜に播く豆であり、数え年(年齢)あるいは、お正月の意でも利用されている。「くふ」は「食う」。 
(文法)「杖」の後の格助詞を省略。「かはらじな」の「じ」は打ち消し(否定)の推量を表す助動詞で「…ないだろう」の意。「な」は感動や詠嘆の意を表す終助詞で、「…なあ」。「とも」は終助詞であり、仮定条件の表し方を強め「たとえ…でも」の意。 
(詩的手法)鳩という鳥は平和の象徴であり、恋人同士とか夫婦のシンボルでもある。この一首も擬人化により、人間の一生に渡って続く愛情が見事に表現されている。「色」と「杖」にかかる「つくまで」の表現が二重の意味で使われ、2人の愛情の信頼性と強さを強調する。「互いに年の豆は食ふとも」の句は、実に日本らしい見事な言い回しであろう。長年に渡る男女の愛を賛美する一首である。 
かし鳥   大屋裏住 
かし鳥の つたなき声が くどけども なけども君の 耳にとめぬは 
(語彙)「つたなき」は「拙い、あるいは巧みでない」の意の形容詞。「耳にとめぬ」は現在の「耳に止めない」に同じ。 
(文法)「つたなき」は「つたなし」の連用形。「くどけども」と「なけども」の「ども」は動詞の已然形に付いて、逆接の確定条件を表わし、「…のに」とか「けれども」の意。「とめぬ」は「止む」の未然形と、打消しの助動詞「ず」の連体形から成る。末尾の「は」は、終助詞で感動、詠嘆を表わし、文語の係り結びの規則に従って、動詞の連体形や終助詞に付く。 
(詩的手法)前の狂歌と同じく、擬人化の技法が使われている。愛人の様子を描写しながら歌人は巧く片恋の悩みを伝えてくれる。 
   寝語軒美隣  
ふくろうの めはもちながら いかなれば よるはくれども ひるみえぬ君  
(語彙)「いかなれば」は、「どういうわけで」とか「どうして」。 
(文法)「めは」の語形はちょっと可笑しく見えるが、対格の代わりと考えられ、強調の働きも果たしているといえる。「もちながら」の「ながら」は、動詞「もつ」の連用形に付いて、逆説的に「…ても。…のに。…ものの」の作用を表わす。「ども」と「ぬ」の助詞は「く」(来)と「見ゆ」の未然形に付いている。その働きは、前の一首に現れた助詞の「ども」と同じ。 
(詩的手法)この一首には比喩が用いられて、恋人の目は梟の大きな目とは対照的に、皮肉に、風刺的に喩えられている。目の比較だけでなく、渋い擬人化の用法で、愛人の態度もうまく捉えている。 
山雀   紀定丸 
君は床を もぬけのくるみ わればかり ちからおとしの 恋の山雀  
(語彙)言葉の使い方は、現在の短歌の中にある単語の働きに似ている。興味を引くのは、言葉の遊戯のような使い分けである。 
(文法)「君は」の「は」(係助詞)と、「床を」の「を」(対格)の用法が曖昧なのは、表面的に述語が現れていないからである。「は」は「君」を特に強く提示しているのか、主語を表わしているのか判断しにくい。「床を」の対格はどんな動詞に係っているのかも頭を悩ませるところ。この一首の文脈は動詞の脱落を考えさせられる。 
(詩的手法)ここでは、比喩や隠喩(metaphor)が用いられている。「床」と「もぬけの胡桃」の比較は見事な隠喩法となる。「もぬけ」は「蛻の殻」につながる。要するに、人の去った後の家、あるいは寝床の喩えであり、去ってしまった愛人への、片思い(片恋)を連想させる言い回しである。 
鶯   則有遊 
のきちかく ほほうとつぐる 一声は 我が恋中を みたかうぐいす 
(語彙)「ほほう」はびっくりした感情を表わす擬音語。「つぐる」は、「知らせる。伝える」の意だが、ここでは「鳴く」に近い。「我が」は人称代名詞で、現在でも時々使われている、「私の」の意。 
(文法)「軒」と「近く」の後に助詞の省略がある。「つぐる」は「つぐ」の連体形。 
(詩的手法)まず、この狂歌の題名である鳥の名は、その鳴き声「ウグヒス」(昔の人はこのように聞き留めたのかもしれない)に由来すると強調したい。第二に、感情を表わす感動詞のような「ほほう」は、今も使われている擬音語「ホーホケキョ」(鶯の鳴き声)に似ている。この鳥の声は日本で一番美しいと認められているようだ。ゆえに、日本の和歌をヨーロッパの言語に翻訳する場合、ヨーロッパに分布している鳥たちの中から、もっとも綺麗な声がする鳥の名を利用している。英語の翻訳では、春に美しい声で鳴くナイチンゲール(nightingale)、ロシア語の翻訳ではсоловейの使用が目立つ。両者は、鶫(ツグミ)の近縁で小夜鳴き鳥(さよなきどり)のような鳥類に属している。「鶯」の直訳bush warbler"あるいはкамышовка"ではロマンチックな鳥はイメージダウンしてしまう。第三に、疑問の「みたか」と「うぐいす」の逆語順も技法であって、鳥との会話のような印象を与えてくれ、この場面の臨場感も生み出されていると思う。 
鶉   つぶり光 
うつらふの まだらまだらと くどけども 粟の初穂の おちかぬる君  
(語彙と文法)「うつらふ」の語形は、動詞「移る」の未然形に、助動詞「ふ」(動作の継続・反復の意「何度も…。しきりに…」)が付く。「の」は連体修飾語を作り、文語体では、動詞の連体形にも付く格助詞。「まだらまだら」は擬音的な言葉であるが、「まだまだ」を強める語でもあり、その意は「まだるいさま、もたもた」。「くどけども」は動詞「口説く」の已然形「くどけ」と、逆接の確定を表わす接続助詞「ども」(「…のに。…けれども。…だが」の意)から成る。「おちかぬる」は、動詞「落つ」の連用形「落ち」に接尾語「かぬ」の連体形「かぬる」が付き、「落ちることができない」の意。「初穂の」の格助詞「の」は、比喩的に「…のような」の意を表わす。 
(詩的手法)よく似た音の響きにより、鳥の名「うずら」と、動詞「うつらふ」が重なり、言葉の遊戯のようである。「まだらまだら」の擬音・擬態語的な用法により、鶉という鳥の生態が生き生きと描写されて、この場面への読者の関心と臨場感を強めている。「粟の初穂の」も恋人を暗示しているとともに、巧みに比喩的な比較を作り出している。このような見事な隠喩はもとより、この文脈には、擬人化の技法の上手な例の一つがある。 
雲雀   銭屋金持 
大空に おもひあがれる ひばりさへ ゆうべは落つる ならひこそあれ 
(語彙)「おもひあがれる」は、「思い上がる」だが、「気位をもつ。自負する」の意を表わすだけで、現代語のように生意気とか高慢とかの批判的な意味合いはない。「さへ」は「さえ」と同じ。「ならひ」+「こそ」はやや複雑である。「ならひ」は「慣らい・習い」であり、「慣れること。習慣。しきたり」か「世の常。きまり。さだめ」の意のようでもあるが、あるいは、「古くからの謂われ」が一番ぴったりするかもしれない。 
(文法)「おもひあがれる」は、動作・作用が継続している意の「…ている」か、自発の意の「自然に…れる」か、あるいは、可能や尊敬の意を表わす。意味論の観点から見るとどちらでもこの文脈に合う。厳密に言えば、文語体のルール違反とも思われる。「落つる」は動詞「落つ」の連体形。「ならひ」に続く「こそ」(係助詞)はその語句を特に強く指示する。「あれ」は、動詞「有り」の已然形で結びとなる。 
(詩的手法)この狂歌はウィットに溢れている。擬人化の用法により鳥の生態だけでなく、鳥の自負心までも喩えている。まさに古くからの謂われにより、どんなに高く、遠くまで(鳥の名でもある「雲」まで)飛んでいっても夜になると地面近くの寝床か巣に飛び降りるのがきまりである。人の運命や生活様式の隠喩的な言い回しになっている。 
まめまはし   朱楽管江 
忍ぶのに いらざる口の まめまわし つゐさえづりて 名をもらすらむ 
(語彙)動詞「忍ぶ」は、四段活用で(現代語では五段活用)、ここでは「秘密にする」「隠す」の意。「口」は「ことば。ものの言い方」の意味合いであろう。「つゐ」は今の副詞「つい」(「はからずも。おもわず。すぐに」)であるか、接頭語「つい」(「そのまま、ちょっと、突然」)であるか不明であるが、両説ともありうる。 
(文法)「いらざる」は動詞「入る」(「入り用とする。必要とする」)の未然形「いら」に打消の意を表す助動詞「ず」の連体形「ざる」が付く。「いらざる」の意は「役に立たない。無駄な」。「さえづりて」は現代語の「囀る」とほぼ同じ、つまり「鳥がしきりに鳴き続ける」。ここではその文語体形で、今の「さえずって」ではない。「もらすらむ」は「漏らす」(「心の内に思うことを外にあらわす」か「感情を声や表情に出す」の意に、活用語の終止形に付く助動詞「らむ」が付いて、現在起こっている事柄、状況についての推量「今…しているだろう」を表わす。 
(詩的手法)擬人法による寓意的な一首である。秘密(愛人の名前さえ)を守ることができない人の性格を暗示する見事な比喩的文句である。 
木つつき   篠野玉涌 
名にたちて 恋にや朽ん 木つつきの つきくだかるる 人の口ばし 
(語彙と文法)「名にたちて」は「名前・うわさなどがひろがる」か「評判になる」の意。「たちて」は現代語の「たって」と同じ。「にや」は疑問の意で「…ではないか」。「朽ん」は、「朽つ」(腐る、朽ちる、すたれる)の未然形に、助動詞「む(ん)」が付いて「…のような状態になる」の意。「つきくだかるる」は、動詞「砕く」に接頭語「突き」が付いて意味合いを強め、「砕く」の未然形「砕か」に助動詞「る」の連体形「るる」の語形により受け身(受動態)の構文を作る。意味的には、「砕く」は「粉々にする」か「心を痛める」かであろう。語形は受動態であるが可能の働きをも持つ。 
(詩的手法)「木つつき」の名は、それ自体が擬態語であるので、狂歌の中で木霊を返すように反響して鳴り響くかのようである。耳を澄ませば言葉遊びのような音の連続「…キツツキノツキク…」(!)は早口言葉にも似る。「人の口ばし」も擬人化の技法。「くちばし」には「くちばしり(口走り)」への暗示があり、同音異義語の反復でもある。 
山鳥   宮中月麿 
山鳥の ほろほろなみだ せきわびぬ いく夜かがみの かげのみせねば  
(語彙)「ほろほろ」は擬音・擬態語であり、「涙や葉・花びらといった小さく軽いものが、音もなく続いてこぼれ落ちる様子」を表わす。一方、「山鳥、雉、鳩、鶉などの鳥の鳴き声」やその羽音も反映する。「もとは羽音を写す語であったが、鳴き声の直後に羽音が連続するために鳴き声ととらえられていった」。 
(文法)「せきわびぬ」(塞き侘びぬ)は「塞き侘ぶ」の未然形に、否定助動詞「ず」の連体形「ぬ」が付く複合語で、「せきとめかねない」のような意を表わす。「かげの」の格助詞「の」は比喩的表現「…のような」を作る。「みせねば」は「見す」(現代語の「見せる」)の未然形「みせ」に連語「ねば」(…しないのに)が付く。 
(詩的手法)「ほろほろ涙」は、擬音・擬態語と「涙」の組み合わせにより、片思いを悲しむ人の様子が浮かび上がる見事な擬人法です。「いくよ」には同音異義語が隠され、「幾夜」か「行く夜」を連想させる。語彙を組み立てる音の巧い使い方で、恋愛の情や片恋の苦しみを素晴らしく写した抒情詩の一首となっている。この挿絵を見ると、山鳥は本当にその尾が長い(60センチぐらいといわれる)と実感できる。絵の枠内に入れない程長々しい尾であると、歌麿はわざと先を切り取るような工夫を上手にしている。古くからの伝えでは、この鳥の雌雄は峰をへだてて寝るという。「あしひきの 山鳥の尾のしだり尾の 長々し夜を 独りかも寝む」(「百人一首」柿本人麿)にあるように「独り寝」の例が想起される。「山鳥の尾」に「し垂り尾(長く垂れ下がっている尾)」と続けて「長々し夜」に結ぶ序詞として用いられている。 
鶺鴒   萬徳齋  
あつた夜に むねのおどりは なほりても いまに人目の せきれいはうし 
(語彙)「あつた」は、現代語の「会った」に同じ。「なほりても」は「直っても」か「治っても」。形容詞「うし」は「憂い(つらい。いやだ)」の意。 
(文法)「なほりても」は、現代の文法用法とは違い促音便はない。「人目の」の「の」は格助詞で、主語となるものを示す「が」の働き。 
(詩的手法)男女の逢引きの後、胸のおどり(躍り)は治まったが、それを誰かに目撃されると、いやになってしまうというシーンが擬人法により捉えられている。 
鶏   宿屋飯盛 
かけ香の 丁子の口は とづれども まかせぬけさの 鶏の舌  
(語彙)「かけ香」は、「懸・掛香(絹袋入りの香料、室内や首に掛ける)」。「口」は「香料の丁子の入った袋の口」の意。「とづ」は現代語の「閉じる」「まかす」は同じく「任せる」に相当する。 
(文法)「とづれども」は動詞「閉づ」の已然形「とづれ」に、接助詞「ども」(「…のに。…けれども。…だが」の意)が付く。 
(詩的手法)この狂歌の主たる技法は、「かけ香の丁子」と「鶏の舌」を対照させる比喩的な比較である。鳥の舌は、匂い袋の口を閉じることできるのに、朝方に時を伝え知らせる甲高い、調子の鋭い雄鶏の鳴き声は塞ぐことができず、はっきり聞こえると強調する。雄鳥の鳴き声は遠くまで聞こえる。「コケコッコー!」雌鳥はわりと小さな声で「コーコー」と鳴く。「ここよ!ここよ!」と雌鳥が雛に知らせるかのように。 
頬白   芦辺田鶴丸 
いろふくむ 君がゑくぼの ほう白に さしよる恋の とりもちもがな 
(語彙)「いろ」は、「色彩」の「色」と「恋情」の二重の意味をもつ。動詞「ふくむ」は、「心中に持つ。心に留める」。「ゑくぼ」は「えくぼ(靨)」。「さしよる」は「そばへ寄る」か「近寄る」の意で現代語のとほぼ同じ。 
(文法)「いろ」の後、格助詞を省略。「君が」の「が」は現代語の格助詞「の」に当たる。「もがな」は終助詞で、「…であればなあ。…があったらなあ」の意。 
(詩的手法)この狂歌は、頬白の外見とその名前をうまく交錯させている。頬白の頬の靨(白い線)は、有名な「痘痕も靨」のウィットある句も連想させる。「恋のとりもち」は、優れた比喩的表現をなしている。この一首を詠むと、恋はどれほど怪しくて、魔力のあるものかを考えさせてくれるようだ。
以上、数種の狂歌の分析を手短かに述べましたが、このジャンルには様々な深い意味をもつ作品が少なくありません。色々な技法の働きのお陰で、各鳥類の性質と性格、生態だけでなく、それらの巧みに擬人化した描写に よって人間関係、生活問題までも考えさせられます。 
通説では、狂歌とは諧謔・滑稽を詠んだ卑俗な短歌と言われていますが、私の考えでは、このジャンルの作品は本当はもっと高いレベルのもので、「絵本百千鳥狂歌合わせ」もこの観点から絶賛されるだけの価値があると思います。 
狂歌の技法の一つは擬音・擬態語の利用です。それについては、次の第三部「鳥たちの鳴き声」の中で触れることにします。
第三部 鳥たちの鳴き声 
昔から人間は自然との深い触れあいを保ちながら今まで生き残ることが出来ました。時々、我々はこれを忘れて、自然と対立して、身も心もぼろぼろに傷つけられます。それにもかかわらず、世界中の隅々にいる人々が生み出した、自然への愛着とその美しさを賛美する文学作品なり、芸術作品なりは少なくありません。自然にいる生き物に対しても同様だと私には思えます。歌麿の「百千鳥狂歌合」も例外ではないでしょう。 
次に、鳥たちの鳴き声について簡単にお話しすることにします。鳥たちの鳴き声は我々人間の言葉ではどう写されているでしょうか。多くの場合、いわゆる擬音語(onomatopoeia)を利用して、実際の音をまねて言葉に転換します。 
一つの有り触れた例を取り上げましょう。日本語では「コケコッコー」で表わされる雄鶏の鳴き声、異国の言葉ではどう表現されているのでしょうか。 
英語では、cock-a-doo-dle-dooロシア語では、kukare-kuuポーランド語では、kukurykuブルガリア語では、 kukukuri-guフランス語では、cocoricoドイツ語では、kikerikiオランダ語では、koekelekoeスウェーデン語では、kuckeli-kulスペイン語では、quiquiriquiギリシア語では、kikirikuイタリア語では、chicchirichi中国語では、woo-woo-wooかgeer-geer-geer韓国語では、kokiyo-kokoモンゴル語では、geggoo-geggoo-geggooベトナム語では、koukkukuuと朝が来た時を告げます。 
インドのヒンディー語では、kukkukuで表わします。山口仲美氏によれば、東南アジアに行くと、タイでは、 eki ek ekで、インドネシアの中部ジャワでは、ku-ku-ru-yukで、ジャワ島西部では、kong-ke-ro-ngoとなります 
以上の雄鶏の鳴き声を比べて分析してみましょう。似ている擬音語があれば、違うものもあります。英語のcock-a-doo-dle-dooとモンゴル語のgeggoo-geggoo-geggooは同じようには聞こえないでしょう。スラヴ語族のロシア語、ブルガリア語、ポーランド語はよく似ています。しかし、ゲルマン語派中の西ゲルマン諸語の一つであるオランダ語のkoekelekoeはドイツ語のkikerikiよりもスカンディナビア語であるスウェーデン語のkyukkelekyuにもっと近いのではないでしょうか。ロマンス系諸言語の一つであるフランス語のcocoricoは、スペイン語かイタリア語よりもロシア語のkukare-kuuに近いと言えるでしょう。 
要するに、自然に鳴り響く音は、国によって異なる音韻連続で表記されています。音を発生する音波は、話者の耳に当たった時、その話者の言語の音韻体系に応じて写し出されます。だからロシア人がいくら耳を澄ませて集中しても、雄鶏の鳴き声は「クカレクー」としか聞き取れません。世界の言葉は多かれ少なかれ、その構造により異なります。例えば、音韻の数と質、その組み合わせ、音節の構成、音量、音長などです。 
日本語では昔から雄鶏の声はいつも「コケコッコー」と聞き取られていた、というのが一般の考えのようです。しかし、山口仲美氏のデータによりますと、そうではありません。日本人がそういう風に聞き始めたのは明治時代からにすぎません。さて、江戸時代の人々は雄鶏の鳴き声をどう聞き取っていたのでしょうか。答は面白いと 思います。「「とーてんこー」と聞いていたのです。夜明けを意味する「東の天は紅」と書いて「東天紅」と読ませ、鶏の声としていたのです」。 
このような現象を観察すると、擬音語の深みや豊かさも理解でき、広く言えば、音を表わす言葉がどれほど各民族の文化史との堅い絆を持っているかがわかるというものです。 
さて、日本で一番美しく鳴いている鳥、鶯の鳴き声の例を取り上げましょう。一般に「ホーホケキョ」という擬音語でその鳴き声を示します。私が聞くと、u-uh-fukhとしか聞こえません。こう聞こえるのは、元々音痴なものですから…。けれども日本人でも時代によって全く違う形で表記したそうです。それと関連して岡田英樹先 生の「花になくうぐひす」というエッセイから引用させていただきます。 
「古今集」でも「ひとくひとく」と聞きなしている。つまり「人来、人来」だ。 
梅の花見にこそ来つれ鶯のひとくひとくと厭ひしもをる   (古今 俳諧 1011 読人しらず) 
室町時代では、「ツーキヒホシ(月日星)」と聞きなしていて、「ホーホケキョ」との聞きなしが一般化したのは江戸時代になってからだそうだ… 
岡田先生は、「聞きなし」という用語を使っています。一体、聞きなしとは何でしょうか。広辞苑によると、 鳥のさえずりなどの節まわしを、それに似たことばで置き換えること。コノハズクの「仏法僧」、ホオジロの「一筆啓上仕り候」、ツバメの「土喰うて虫喰うて口渋い」が例として上げられています。 
山口仲美氏は、「聞きなし」と関連して、次のように書いています。「実際の鳥の鳴き声をできるだけ忠実に模写しようとする「擬音語」とは、若干性質が異なっている」。鳥たちの鳴き声と関連して、もう一つのテーマに触れなければなりません。それは、鳥たちの鳴き声とその名前との相関です。30年以上前のまだ私が学生だった頃、日本の人たちと旧ソ連で初めて面会した際、たまたま生き物の声比べが話題になりました。この時、何の根拠もなく冗談半分で「日本の烏を、カラスというのはその鳴き声からで、ロシアの烏もカアカアkaa-kaaではなく、karr-karと鳴くからです」と申しました。最近、山口仲美氏の意見もほぼ同様だとわかりました。 
動物の名前も擬音語に由来するものが多い。カラス、ウグイス(昔はウグヒス)、ホトトギス、カリ。みな擬音語からできた鳥の名前。カラス・ウグヒス・ホトトギスは、鳴き声を写す擬音語「カラ」「ウグヒ」「ホトトギ」に、鳥であることを示す接辞「ス」が付いてできた名前。カリは、鳴き声を写す「カリカリッ」が、そのまま名前に」。 
私の昔の仮説を証明するもう一つの資料が近頃見付かりました。これは、A Field Guide to the Birds of Japanという図書で、それによりますと、日本の深山烏の鳴き声は、karararaと記録されています。ロシアの子供向けのテレビ番組の人形の子烏の主人公も、その鳴き声に合わせてkarkusha(カラスちゃん)といいます。日本のほろほろ鳥、はあはあ鳥、そしてジューイチの鳴き声は、juichi juichiとされています。私の考えでは、フクロウ(元々はフクロフ)の名前もその鳴き声に由来すると思います。 
鳥たちの名前が、その鳴き声と密接な関係にあるのは、日本語だけではありません。日本の郭公は、英語では cuckoo、ロシア語では、kukushkaと呼び、日本の鴨のような鳥は、krya―krya―と鳴くのでkryakwa(クリャクワ)と言います。同じく雨燕の声は、ロシアの南に住む人々とウクライナ人に、d'erg-d'ergあるいは、 dzyork-dzyorkと聞き取られ、その鳥をdyergach(ディエルガチ)と呼んでいます。 
どんな言語においても鳥たち、動物の鳴き声を写す言葉だけでなく、自然界に響く音を反映している擬音語のおかげで、多くの場合、その単語の起源まで遡ることができるでしょう。これは主にSound Symbolismと Phonosemanticsという学問の中の重要な課題です。 
「擬音語」は、実際の鳴き声とそれを表す言葉との間に音感の似寄りが感じられる。ところが、「聞きなし」は、両者の間の音感の類似よりも、言葉の意味を最優先させる。 
私の考えでは、「聞きなし」という技法は日本語以外の言葉にはないでしょう。その意味で、ユニークな音韻意味的な単語の使い方です。例えばロシア語には、鳥の鳴き声を表わす言葉のなかで、音と意味の融合が起こるのは、雌鳥の鳴き声の場合しか見られません。kud-kuda kud-kudaは、kuda? kuda?(どこへ、どこへ)と関連づけられています(子供のための歌)。日本語の独特の聞きなしは、どうして可能になったのでしょうか。私見では、何世紀にもわたる、特定の漢字の採用に由来しています。つまり、万葉仮名、変体仮名、当て字などと無縁ではないと思います。もう一つは、 無意味な音の連鎖に、意味を付けたことにあります。中国語や朝鮮語でも、同じような言葉(漢字)の使い方があるのかは、私はまだ調べていません。
まとめ 
喜多川歌麿は、江戸時代において、日本の美術の伝統を継承しながら、これを発展させてきました。多くのジ ャンルに、その腕前の鮮やかさ、絵師としての万能の天才の花を咲かせた存在です。 
歌麿の生み出した美人の大首絵は、日本独特のものですが、世界の女性の肖像画の傑作に匹敵すると共に、万国の美術の普遍性の特徴を感じさせる作品が少なくありません。絵本では、巨匠の観察力の鋭さ、筆の巧みさと狂歌との完璧な釣り合いを味わうことができます。狂歌の中にも見事な技法がたくさん利用されて、水準の高い和歌もあります。これらの絵本は、ただの歌合わせの本ではなく、 一種の最高の芸術品=美術品=工芸品です。 
 
江戸末期における疱瘡神と疱瘡絵

 

奈良時代から度々日本を襲った疫病の大きな波の中で、まず目につくのは疱瘡とハシカであります。この疫病は 不定期的に発生しましたが、殊に江戸中期、つまり18世紀にかなり頻繁に襲ってきたことは、歴史上の事実です。中でも、江戸、大坂、京都の三大都市に多数の被害者が出たことは、都市への人口の集中と増加にかかわりがあると思います。当時の人々は、このような疫病は日本から遠く離れたエミシ(蝦夷)とかエビス(夷)といった野蛮な国から来ると考えていましたが、確かに大陸との接触を介して疫病が進入したことも歴史的な事実でしょう。ですから、江戸時代の多くの文献に見られる「まじない」や民間治療法には、疱瘡にまつわるものが当然多くなっています。そこで、封建時代末期の社会における疫病に対する認識を検討し、疱瘡をめぐる信仰の諸要素を調べ、いくつかの疱瘡絵の内容を分析してみたいと思います。 
山伏と疱瘡 
まず19世紀のある山伏の旅日記を通して、当時の疱瘡対策の2、3点を検討してみたいと思います。その日記は「日本九峰修行日記」といって、著者は野田泉光院という九州のある山伏寺の住職で、大先達でありました。その山伏は6年間にわたる廻国を通じて、この疫病に対する人々の様々な対策を観察する機会を多く持ちました。例えば、ある日の、日記にはこのように書いてあります。あらすじを言いますと、ある村に丁度疱瘡が流行ってたのですが、村中たいへん賑やかで、屋敷のまわりには赤い紙の御幣と注連縄が張ってありました。また、庭にも赤い御幣を立てたり、家の中にも御幣がたくさん掛けてありまして、村の人たちは三味線と太鼓で疱瘡踊りをしているのです。その注連縄や赤い御幣は、様々な疫病との戦いの中で、民衆の創造力がつくり出した伝統的な厄除けの手段であります。疱瘡踊りは、踊り手に引き立てられて、疱瘡神が村を去るように促すもので、これは一種の神送り、疱瘡神送りと言えるでしょう。野田泉光院は他のところで、現世利益で有名なお寺とか神社への巡礼にも触れています。例えば、彼が出雲地方を回った時の鷺大明神の社の宗教的な習慣を記しています。出雲の鷺大明神の近くに住んでいる人たちは、疱瘡予 防のために、その社にお参りして境内の小石を拾って持って帰るのです。そして疱瘡が去った後、その小石を社に返納するのだそうです。この習俗は、いろいろ他の文献にも出て来ます。例えば、「鷺大明神疱瘡守護之記略辞」という文献の中には、次のような歌があります。 
イモハシカ カロキオモキモ ヘダテナク マモラムサギノ カミニワノイシ 
また、「出雲国大社鷺大明神疱瘡守御笠」という文献がありまして、その中には、子どもたちがまだ疱瘡にかからないうちに、その被りものを被らせると疱瘡にかからない、と書いてあります。また同じ文献に、疱瘡神祭りは12日間しなければいけないとも記しています。国学の大家である本居宣長は、「古事記伝」の中でこの笠に触れています。それによりますと、疱瘡が軽いことを祈願する人は、鷺大明神にお参りし、そこの笠を借りて帰り、家で信仰するのです。そして、全快の後は、もう一つ笠を作り、借りてきたのといっしょに神社に返納する。次の祈願者はそこから一つ借りて帰って、二つにして返す。その繰り返しで笠はどんどん増えてくる、と書いています。本居宣長は更に、サギという言葉の語源に言及し、貝原好古の「和爾雅」を引用して、因幡の「白うさぎ」との関係を指摘しています。 
そうだとすると、鷺大明神の利益が、疫病治しであることが理解されてきます。一方、天草における疱瘡神信仰に関する浜田隆一氏の小論文では、「鷺大明神」と、疱瘡対策に登場する「うさぎ」の役割と、「鹿(古語でカセギ)明神」を、ある意味で同一化します。語源分析に全く疑問点がないというわけではありませんが、鷺大明神、鹿明神、うさぎには、さく、さぐ、ふさぐ、といった形態素がいずれにも含まれている、との結論に達しています。それはともかく、話を鷺大明神に戻しますと、神社の周辺の住民たちの行動は、小石を拾うことを媒介として、神社の現世利益的な徳を手に入れるという、ごくありふれた、呪術的なものと言えるでしょう。また、疱瘡守としての笠というものは、病気の「瘡」と同音であることから、特に効果的なものであります。 
「日本九峰修行日記」には、その他にも様々な疱瘡対策が見られます。ある所では観音式会、またある所では欅崇拝であったりしています。また疱瘡の広がるのを防ぐために、旅人を遠回りさせたり、病人を山奥に捨て置いたりすることが記録されています。次の記事は、ある時病気になった山伏を訪ねていった時のものですが、加持祈を行うべきか否かの問題を含んでいます。「安祥坊疱瘡見舞いに行く」と書いてありそれから「安祥坊疱瘡六ケ敷故に祈念す」祈とは書いてないで、「祈念す」とあります。「本尊の前甚宜しからず。又寝むたきこと限りなし。祈気遣はしきに因り、平四郎(野田泉光院の荷物を運ぶ強力)を見舞いに遣わしたるに」、昼過ぎ亡くなったと書いてあります。それで、翌日「中町へ平四郎を悔みに遣はす」とありますから、同じ山伏仲間が疱瘡にかかって亡くなった記事なのです。 
「咒歌」の構造 
以上のような出来事とは別に、旅中の病一般に対して面白いことが読み取れます。それは、一般の人の病に対しては、山伏が「まじない」を使う記事がよく出てきますけれども、山伏自身が病気になった時には、必ず薬を使ったりお医者さんにかかる、という点です。つまり、「まじない」する人は自分を治せないということで、これについては4、5年前に出した本の中にも少し書きました。修験道にはご承知のとおり、呪術的療法がたくさんあります。そして修験道の病気治しの中には、当然疱瘡とかそういう疫病もたくさん含まれています。その手段といいますと、多くは「唱えごと」とか、「咒歌」であります。例えば「修験深秘行法符咒集」という文献の中には、次のような「咒歌」があります。 
ムカシヨリヤクソクナレバイモハシカヤムトモシセジカミアキノウチ 
この歌の呪的効果の基盤となっているものは、遥か昔からの神々との約束でありまして、一種の他力の考え方と言えましょう。この歌には異文のものが多数存在していますが、このことは、いかにこの歌が好んで用いられたかを証明しています。「咒歌」を分析しますと、そこには共通の語源的表現がはっきりと表れていると思います。まず、何を対象としているかということが、はっきり表わされています。先程の歌ではイモとハシカであります、次にその目的は何かというと、「シセジ」、死なないということをはっきり表現しなければならないのです。また「ムカシヨリ」という言葉は、神々との約束を強調するための決まり文句です。それと、「カミアキノウチ」という言葉は、話者と病をはっきり分離させるための言葉です。つまり話者のいる場所は神垣の内であるから、病は入れない、疱瘡のような疫病は入れないということです。呪術的に言えば、その場所の変質であります。話者がどこにいても、「ここは神垣の内」と決めれば、もう病気は入って来られないという呪術的な考え方です。また万一疱瘡にかかっても、死は免れるということ、つまり軽い疱瘡で済むということは、「ヤクソクナレバ」が示すように、神々が必ず守らなくちゃならないことなのです。以上は、「咒歌」の呪的な働きの基本的な要素です。 
次の歌には、神々の加護が比喩的に表されています。 
フルアメニ ミノカサモキヌ マゴノコノ ヌレヌ モ カミノ メグミ ナリケリ 
また疫病の退散を唱える歌もあります。 
チハヤブル カミノオシエノ カゴナレバ ハヤルモガミヲ サシノケゾ スル 
ある修験者の「疱瘡呪守」という文献には、次のような様々な方法が出てきます。まず、護身法と般若心経というごくありふれたものから始まって、 
モガミガワ キヨキナガレノ ミズナレバ アクタハシズム ヌシハサカ エル 
という有名な歌が出てきますが、その次に、いろんな「唱えごと」が出てきます。例えば御札に書く文句として、「越前国湯尾峠東の茶屋孫嫡子」といった有名な言葉その下には、小さく「人は病むとも我は除くぞ」という面白い文句が書いてあります。この文句は民間信仰の中には普遍的に出て来るもので、人はどうでもいいから、自分だけは助かりたい、という考え方ですね。次に、門(かど)に貼る札としては、次のような歌があります。 
ワガナアル カドサトハヨケヨ ホウソウガミ ナキサトナラバ トニモ カクニモ 
直訳すると、私の名前があるところは早く通り過ぎなさい、名前がない里ならどうでもいいけど、といった所でしょうか。この歌にはたくさんの異文もあるんですが、ここで注目されることは、多くの民間伝承の場合は、疱瘡神はまず歓待され、後に見送られるというのが、一般的な習俗ですが、この歌では疱瘡神の追放を歌っています。ただしこの歌をもう一度読んでみますと、別な解釈もできないことはないのです。つまり、「門里ハヨケヨ」という命令形で区切ると、その目的語は疱瘡神ではなく、疱瘡神とは別の悪い疫病神になってくるのではないかと思います。「 疱瘡神無里」、疱瘡神がいない里ならどうでもいいが、疱瘡神がいるこの里は守ってほしい、ということになり、疱瘡神の追放ではなくなってくるわけです。これは非常に大事な点だと思います。それは皆様ご承知のように、疱瘡神は悪神から福神になるという、江戸末期の流行神の伝統的なパターンがここに見られるのです。この歌については、もう一つの問題が残されています。それは「我名」の「我」です。この「我」は誰かということですが、まず考えられるのは、民間伝承の資料の中によく登場する、半分歴史的な、半分伝説的な人物であります。彼らは何らかの形で疱瘡神と関わりのあった人で、疱瘡神のお世話をした人物なのです。その恩返しとして、疱瘡神が守り札や「咒歌」を教えてくれたという、そのような伝説の中に出てくる人物かも知れないのです。また、歴史的に指摘できるような人物も考えられます。例えば、若狭の小浜の六郎左衛門という実在の人の名前だとも言われています。 
更に考えられることは、疫病の守護神としてよく知られている牛頭天王とか、天神であります。「我名」という文句はよく牛頭天王の歌に出てきて、「私の名前を書いてある家を守ります」となっているのが普通です。 
続いて同じ文献には次の歌があります。 
チハヤブル カミノミズガキノ ウチナレバ モ ハシカトモニ カルキモノナリ 
これは、軽く 済むように願われているものです。次に伝統的な疱瘡の薬療法として、小豆とか甘草とか黒豆などで作られた薬の治療法がいろいろ書いてあります。そして、疱瘡全快の直前に行われる、いわゆる笹湯とか酒湯とかいう方法も書 いてあります。それに続けて、次のようなちょっと面白い歌も出てきます。 
ホウソウノ ヤドハトトヘバ アトモナシ コノトコロニハ イモ セザ リケリ 
疱瘡神はどこに住んでいるかと聞かれれば、ここじゃない。だから疱瘡にもかからないというわけです。 
以上の三つの歌から、いろんなことが指摘できると思います。第一は疱瘡にかかる危険を除くこと。疱瘡神を近づかせないという考え方。第二は疱瘡が軽症で済むようにというお願い。第三は疱瘡の痕を残さないということ。つまり、アバタ顔を避けるということです。この三つの目的が大体疱瘡に対する呪的治療法の主なものだと思います。 
疱瘡神祭りの一例 
修験道の山伏は疫病に関する秘法、唱えごとを多数持っていましたが、民間に行われた疱瘡神祭りに参加することもありました。橋本伯寿という甲斐(山梨県)のお医者さんの「断毒論」という本の中に、その国の疱瘡神祭りの習慣を割と詳しく記してあります。それによりますと、「ちかごろ疱瘡神祭りは格別に甚だしく」なって、疱瘡の6日に当たる夜には、親類は勿論のこと、いろんな方を家に招待して、お坊さんとか神主さんとか山伏を請ずるのだそうです。そして赤い御幣を立て、疱瘡神のための神棚を作り、疱瘡の重き、軽きの差別もなく、祭りで騒ぐのです。招待された人たちはいろんな土産物を持って来るのですが、その土産物の中には、流行っている当世の錦絵などもあります。そしてその錦絵を病人の寝ている所に置くのです。それとは別に、餅とか菓子とか酒とか他の土産物は、貰った数の多さでその家の面目を施します。 
疱瘡絵1 
では次に「断毒論」という本に記されている、錦絵、いわゆる疱瘡絵の話に移ります。錦絵というと、普通には浮世絵の一種のことですが、ここではもっと狭い意味で、赤絵と称される一色刷りの版画と解釈すべきじゃないかと思います。このような絵は種痘で疱瘡が退治されはじめた江戸末期から明治の初期にかけても、かなり流行していたと思われます。ここでは東京大学にある疱瘡絵のコレクションを元にして、少しその絵を見てみましょう。疱瘡絵はそれほど数が多くないのですけれど、いくつかに分類ができると思います。その第一は、病よけと悪魔祓いになるような英雄の像です。ここに示しましたのは、ご存じの源為朝の絵で、疱瘡絵にいちばんよく出てくる歴史的な人物です。まわりに書いてあります歌は、 
世の人の 為ともなれともがさをも 守らせ玉ふ運のつよ弓 
という歌です。結局これは、為朝と彼の象徴的武器である弓の力で、疱瘡から人を守る力を示しています。 
次も為朝の絵ですが、下に疱瘡神が地面に伏していて、悪魔が座っています。まわりの歌は非常に読みにくいものですが、 
末の世に 神と祭りし 弓取の よきおさな子を我ハ守らん 
とあります。これも神として崇められた為朝が病気の子どもを守る誓いであります。だから先に触れました呪的な歌のひとつですね。 
次のも同じように為朝ですが、これには一つの「しるし」があります。この赤い手形がそうです。これは、疱瘡神が自分が負けた証明としてサインしたという「しるし」で手を置いたのです。これには別な解釈もあります。それは為朝が自分で手形を押したというもので、その手形は本人と同じような威力を持つというものです。他にも加藤清正の手形というのもあります。これが鬼の残した「しるし」だとすると、鬼が「もう疱瘡は流布させない」という約束をした証明だということになります。 
これは非常に変わったもので、忿怒形の、鬼みたいな武将ですが、為朝のちょっと変わった形だと思います。下は典型的な疱瘡神二人が逃げるところです。こういう場合は、桟俵と御幣を手に持たせていますが、結局、自分を追い出す力を持つ呪的なものです。そして下に小さく書いてあるテキストは、「ためともさまやてのひらのはりガミハまいどのおなじミだからさのミとハおそれぬが こりゃアなんだ おそろしいものが てたぞ うすきミが わるいハ にげろ」という文句です。次の絵には右側には疱瘡神が二つの形で出てきます。 
一つは老人の形で、自分で負ける証明書を持っています。もう一つは子供の形で出てきています。2人とも疱瘡神と書いてあります。そしてまわりには、よく疱瘡絵に出てくるおもちゃとかミミズクとか犬やだるまが描かれています。左側は、鎮西八郎為朝の前に屈伏する疱瘡神が描かれています。この絵は一色刷りではなくて立派な浮世絵です 。こういう絵も多少あります。次に出てくるのは鍾馗です。鍾馗は中国のもので、玄宗が夢に見た悪魔を追い出す伝説的な人物であります。 
文字が非常に読みにくいのですが、「疱瘡の あとなくさめて見し夢の 俤うつる 鍾馗大臣」とあって、最後は全然読めないのですけれど、鍾馗は呪的な先例として考えられます。鍾馗が出てくる例は割と多いのですが、あと一つお見せしましょう。これも鍾馗が疱瘡神と疫病神を退治する絵です。このような場面に出てくる歌を見ますと、いろいろな決まり文句のような言葉が出てくるのです。動詞で言えば「治める」とか「鎮く」とか「すむ」というように、疫病をなくするという動詞が、割によく出てくると思います。 
また、犬が描かれていると、それは「いぬ(去ぬ・往ぬ)」という動詞と同音ということで出てくるのです。犬は「まじない」のところでよく使われた動物で、言語学的に見ますと非常に便利な表象です。 
疱瘡絵2 
次は、獅子舞の絵です。まずこの絵を見ますと、「あくまめハ 見られぬ獅子の勇ミ顔」と読めると思いますけれど、もう一つの絵には、「丸一が 軽く取りなす曲鞠の 十二峠も 祝ふ獅子舞」と書いてあります。獅子舞はもちろん正月とのかかわりで、祭典的、祭り的な性格を持つものですが、もう一方でその力で疱瘡を抑えるという、悪魔祓的な性格も含まれています。丸一というのは、尾張から出てきた獅子舞の一派です。獅子舞は年中出てきてもいいのですが、いちばん典型的な季節は年末とお正月あたりで、神が来訪する正月に好んで舞い出てくるものです。この歌でもう一つ問題になるのは、十二峠という言葉だと思います。これがどういう意味かといろいろ苦労したのですが、疱瘡の病の進行の中に山上げという言い方があって、普通山上げと言いますと、6日目か7日目の一番危 ない時期を言います。 
その山上げが無事過ごせたら、その病人の命には危険がないということがよく言われてます。この山上げを十二峠に直接結び付けられるかどうかが問題です。それとは別に、十二峠は12月じゃないかとも思われます。呪的な考えの上で、1月から12月まで無事に済んだように、十二峠を越えたということ、一年を無事に越えたということによって、もう疱瘡にはかからないというわけです。こういうふうに十二峠についていろいろ考えられますが、先に申しましたように、分類としましては、こういう絵は祝祭的な性格が強いのです。病気を抑えるのではなくて、その時を良い時期に変質させるのです。それは病気にかかった時をお正月などと関係させて、こんな良い時期に病気はあり得ないという呪的な考え方だと思います。 
いずれにせよ、上記の歌は病を取り除くことを目的としたものの一つです。しかし同時に祥的なものや、縁起のいいものを強調することによって疱瘡に対抗するという意味をもっているといえます。 
次の鯛もそうです。ピンピン鯛といって、尻尾を撥ね上げた鯛です。そこに「小つつみの かはりに鯛を 脇はさみ 千万恵びす 万歳の春」と書いてありますが、鯛はもちろん「メデタイ」との同音ということで疱瘡絵に出てくる動物です。万歳が出てくるのはお正月との結び付けです。正月の呪的な力を借りてということです。ここは、 
早咲の 梅のつぼミも 二ツ三ツ 雪に色よき 犬のあし跡 
と書いてあります。雪の下で花開いたばかりの梅は春の訪れを告げるものですが、蘇る命とか、新年という観念を表わしています。言い換えれば、再生の象徴です。そして蕾の赤い色はまた、呪的な効果を裏付けるもので、犬もさっき申し上げましたように「いぬ」という動詞と同音のために出てくると思います。新年というめでたい時期ですから、疱瘡という恐ろしい病気は当然出て来ません。同じようにお正月と結びついている絵として次のものがあります。これは「桃太郎」の絵ですが、蓬の山のはつ曰とさながらに玉の春たつ桃太郎の月完全に消えているところがあって、ちょっと読みにくいので、他の文献でもう少し調べなければいけないのですが、ここで蓬山の初日といっているのは、完全にお正月と結びつけられているのです。また桃太郎の月というのは、まず桃が呪的なものであるということ、桃太郎の月が一番目の月、すなわち正月ということで、呪的な意味が重ねて出てくると思います。 
疱瘡絵3 
三番目のグループは、遊びとか健康を強調するグループです。こういう絵があります。 
軽と すみて子供の 異勢よく 万々年も 祝ふ目出たさ 
という歌が書いてある絵です。「異勢よく」とは、力に溢れて体力のある子供、そういう子供は疱瘡にかからない、健 康であるということを示しています。また、このような歌には、「元気よく」とか「元気よき」とかいうように、「よき」 という言葉が繰り返されています。こうした言葉は健康だけじゃなくて、遊戯的な面も強調していると思われます 。元気で遊んでくれる子供は病気にならないということです。おもちゃを持って遊ぶ子供の絵には、よくだるまも出てきますが、このだるまの絵には「起たかる貌のやさしきたるまかな」と書いてあります。いつも起き上がるだるまは病気から立ち直るというシンボリズムを持つ道具ですから、必ず病気や疫病の時には出てくるのです。 
なお、多くの絵に出てくる黒い線ですが、いろいろな文献を調べてみますと、薬をいちばん危ないところやいちばん気になるところにつけると、そこが守られるという意味で、黒い線を呪的なつもりで描きいれたのではないかと思います。だいたい目と鼻と口あたりが多いようです。またこういう遊戯的で健康を強調する絵の中にはよく「笑う」とか「遊ぶ」とかいった動詞が出てくるのです。それはあくまでも、「笑う」子供は病気じゃない、「遊ぶ」子供は病気にならないということです。中には、「よき」をもって遊ぶと書いてあるものがありますが、それは金太郎のまさかり〔斧〕のことです。まさかりを持って遊ぶ子供、すなわち金太郎は健康な子供の象徴ですから、これも結局病気を乗り越える力を示しているのです。 
この絵では、子供たちが元気に逆立ちしたり、犬に乗ったりして元気に遊んでいることを示しています。そして 
張秡の 達磨も犬も 疱瘡の 見舞にかるき 手遊ひにして 
とはっきり書いてあります。 
こういう絵には、「山を越える」という言葉もよく出てきますが、この「山を越える」は、当然病気の経過の山上げと関係している事です。具体的な山としては、疱瘡絵には蓬山と富士山がよく出てきますが、富士山がいちばん多いようです。 
をさな子か きけむ遊ひの手にかろく 山もあけたるはりぬきの不二 
と書いてあります。為朝とだるまと金太郎が出てくるわけです。 
疱瘡絵4 
次も同じような絵ですが、歌には、 
疱瘡も 三国一の かろと ふしの山をも 上る力童 
とあります。このテキストで注目すべきは、「軽い」という性格を強調していることです。これが、「軽々と」という言葉が決まり文句としてよく出てくる4番目のグループです。例えば次のものにも見えます。 
かると 斧(ヨキ)もてあそぶ 疱瘡が子ハ 山あけるさへ あしのはやさよ 
まさかりを持った金太郎の絵ですが、これも「軽さ」を強調する絵です。さっきも申し上げましたように、疱瘡は止むを得ない病気でしたから、できれば「軽く」済ませてほしいという祈願の心が入っている例です。 
おわりに 
最後に疱瘡絵に見られる呪的なテキストを検討しますと、普通の咒歌と疱瘡関係の咒歌とは、それほど違いがないと思われますが、いくつかの心理的な、また文献学的な要素を見分けることができると思います。厳密に数量的な分析をすることは、資料の数が全然足りないので、ちょっと無理だと思いますが、今まで見てきた疱瘡絵について言えることは、ある意味で意義深いものだと思います。それは一つに、疱瘡という病を直接取り去ろうというような、そういう悪魔祓い的な戦いを表現する絵が少ないということです。そしてもう一つは、「遊んで」とか「元気よく」とか「笑う」とかいうように、子供たちが「遊びながら疱瘡をする」という言葉がよく出てくるということです。一応、このようなテキストを持つ絵は多いということが、言えるのではないかと思います。それは何故かと言いますと、呪的な考え方というよりも、経験的な考え方に重きを置いているからです。疱瘡は何をしてもさけられない病気だったので、病気になっても軽く済むように祈願したのです。民間伝承の諸文献の、その軽く済むようにという祈願の中で、疱瘡神自身のイメージは変わっていったのです。疱瘡神は人間にとって必要である病気を持ってきてくれる神になり、拒否すべき悪い疫病というより、人間が一生に一度、付合わなければならない病を持って来るというイメージになっていたのです。そしてそれは重いものじゃなくて、軽く済ましてくれるのが、疱瘡神の役割になったのだと思います。その意味で疱瘡神は、福神として、良いことを持ってきてくれる神として祀られたのではないかと思います。 
 
江戸

 

漫画的記号としての江戸 
「レトリックとしての江戸」というテーマを頂きまして、普段考えていることを少しお話いたします。アメリカ人に日本を説明する立場に置かれておりますから、半端彼等の視点から日本を見る習慣が付いて居りまして、そういう人間の江戸論は珍妙なものかも知れません。「レトリック」という言葉からして、アリストテレス流に言えば論理が主体の筈ですが、江戸文化のレトリックはもっとナウな線を行っていますから、アリストテレス病も重症の西洋人には分かりにくいのです。江戸という現象は、丁度現在の漫画現象と同種の不可解さがあります。 
こういうものを描き、それを読む日本人とは一体どういう人種なのかと、アメリカのインテリは首を傾げるのです。中には初な読みをして、漫画のモティーフを国民性と結びつけ、日本人は好戦的で色情狂と極めつけたり、社会学者で実際漫画で統計をとり、「日本人は総人口に対してサド・マゾキズムとホモセクシャリティが多い。」と教えてくれた人もあります。日本人は性的に抑圧された民族であって、その抑圧がこういう奇態な形で暴れ出すのだと見る向きもあります。つまり、絵として表現し、絵として読むことが日本人に一番自然な形だからとは誰も言ってくれません。統計にしても精神分析にしても、現象から意味を抽出する方法ですね。そういう見方で漫画に臨んでも、漫画の面白さは余り分からないのではないかと思います。 
例えば「リトロポリス」というシリーズがありまして、何という漫画家か忘れましたけれども、タイトルは「リトロ」、つまり「逆転」「後退」「反復」などの意を「メトロポリス」に掛けた洒落ですが、過剰発達から原始へ逆転する過程を描く上に、東京というメトロポリスをリトロスペクティヴに、つまり未来から振り返って見よう、東京とはどんなものか未だ見ない裏を想像してそこから解釈しよう、ということでもあると思います。それがデザインにも生かされて江戸の戯作的な洒落に満ちています。 
これはちょっと申し上げないと分からないと思うのですが、趣向としましては、技術が発達した日本の都会で、セックスの行為なくして子供が作れるような世界、ハックスリーの「ブレイブ・ニュー・ワールド」みたいな世界が出現しているという設定なのです。機械が子宮の働きをし、精子と卵子がそこで一緒になって、子供が機械からポンと出てくるという形にしたわけです。つまり妊娠の苦しみを味わないで子供が出来る。そうして出てきた子供たちが18才か20才になった時点を問題にしてるんですけれども、その子供たちにまずいところが出て来る。つまり機械が完全でなかったために、生まれてきた人たちが成人しても性行為が出来ないのです。ある意味では、セックスは機械でやればいいんだから問題ではないわけですが、人間性として問題になってくるんですね。それで発明者だったか、製造販売した人だったかの責任者が自殺するわけです。 
これが大変古めかしい、日本的なところですけれども、ビルのてっぺんの自分のアパートの窓から飛び下りるんですね。それを何コマにもして描いてあるのです。落ちていく形が、猫が落ちる時みたいに、体を曲げて描いてあるわけですね。どこの窓も閉まっていて、真っ黒い小さい窓が背景なんですね。そして右側のページはず―っとその全体像を捉えているわけですが、それによって建物がいかに高くて、窓がいかにたくさんあって、落ちて行く人間がまるで虫ケラのように小さいかを表わしているのですね。真四角の冷たいコンクリートの建物と閉まった全く無関心な窓の機械的な行列を背景にして、可死的な人間が、曲がりながら柔らかな形で、小さくなって行くという、その動きを捉えているわけですね。 
これはもう、映画ではできないことをやっているわけです。映画はスクリーンから外に出られないのに、漫画はフレームから出ることも出来ますし、音の効果も字にでるようになっている。そうかと思うと、平面に黒一色で描かなければならないという実に限られた条件をフルに使って、唯の一本線で高層ビルと大空を描き分ける、映画にも小説にも不可能に近い芸当をやってのける。スタイル自体の素晴らしさ、デザイン自体の面白さ、というようなものが意味的な価値を無効にするのが漫画で、読者はそういう面を読むように漫画作品によって訓練されているわけです。視聴覚時代の今、流行作家になりたければ漫画に学べ、というのは人気絶頂の筒井康隆氏の言ですが、確かに田中康夫氏以後の流行作家には漫画的傾向が強いようです。 
字で書いたもの、殊に活字化して立派な本に綴じてあったりすると、読者はその内容を信用することを迫られる。これが絵だと、見る方の見方で見れば良い、つまり作者と読者が対等で、読者がその作品の意味生成、というか生成の可能性に参加しているわけです。何を言いたいのかあやふやな作者と協力して読者が一緒に考えて上げようという格好になります。そういう面で、言葉を使って書かれた小説も漫画的といえます。実は、日本文学全体に亙って、作者がその思考を読者に伝える形になっているものは少なくて、作者の目で見た限りの細部を描いてみせてその判断は読者に任せる形のものの方が圧倒的に多いのです。 
字に書いたというより、絵に描いたものの性質を持った文学と言えます。明治の小説は、それを旧式と考えて日本的な紛画癖から脱却しようと骨折っています。西欧文化は、「ロゴス」という表現を使って「言語」というものを「論理」と一緒くたに考えています。つまり言葉は意味と密着していて絵とは相反するものなのです。そんな馬鹿なことがあるもんか、と江戸っ子なら抗議した所でしょうが、明治の啓蒙文化はそういうロゴスヘの憧れを基礎にしています。 
啓蒙の影響は大変強いのでして、今でも日本人はドストエフスキーに頭が上がらないような感じですが、現在私達を取り囲む漫画や漫画的文化の流行はロゴスへの反逆と言えます。江戸時代の打毀のように、ちゃんと建っている意味などは寄ってたかって片端から敲き演すわけです。 
しかし、絵画癖又は絵画中心主義には、ロゴスをやっつけるという威勢の良さだけではなく、ロゴスから逃避するという卑怯な面もあります。江戸時代の場合は意味を伝えるということが危険な時代でした。社会について発言すれば、例えば大名家の実情に触れる、遊里の性生活を描くというような違法行為になる。基本的には何を言ってもお上を批判することにならざるを得ない。手鎖、島流し、うっかりすると死刑です。従ってもの言わずして言ったが如きスタイルに専心することになります。紛で見せたり音で聞かせるだけでは解釈が固定しにくいので、歌舞伎、浮世絵、見せ物などと、大変発達した視聴覚時代になるのは当然と言えます。 
ナチ時代のドイツにトリック撮影をフルに生かした豪華にして荒唐無稽な映画などが巾を利かせたのも同様の事情によります。江南の場合は殊に、絵入りでない文学作品の場合でも、言いたいことはお互いに分かっているという同朋意識がありますから、作者と読者がぐるになって、ものを言っているような言っていないようなコミュニケーションを作品の中で行なうのです。そういう馴れ合いの場が江戸であり、「江戸は良いとこ」と鳴り物入りの宣伝をしても、実体としての江戸を伝えるような、つまり外向きのコミュニケーションになっていないのが江戸文化と言えます。 
「お江戸」の「エドイズム」 
「ものを言っているような、言っていないような」という変な表現を使いましたが、これは「イエス」と「ノー」を同時に発信するということです。18世紀半端以後、つまり江戸時代の後期になると、この傾向が顕著になります。つまり、江戸時代の文化の中心が上方から江戸へ移った時点が問題になります。前期の近松や西鶴にも「虚実」や「表裏」の概念はありますが、人情や世相の裏に潜む真実を見せようといつ創作態度であり、せりふや説明文に表現されない沈黙の部分に観客や読者が共鳴できる、つまり言葉の裏に何かあると思わせる種類の文学です。 
江戸後期になりますと、平賀源内以下の戯作者に見られる通り、「表」と「裏」を同価値のものとして並べて見せてしまう、たとえ「裏」を見てもその又「裏」があったりして、「本音」に行き着かない、という格好になっています。ものの両面性を見せる、つまり言葉を両義的に使う、というのは遊びの精神の表われですから普遍的なものですが、これが一番巾を利かせるのはブルジョア文化です。フロイトによると、人間の無意識の中では、反対のものも同種のものも関係あるものの一対として並んでいて、これが屡々意識の中にまで浮き上がって来るのだそうです。「イエス」と「ノー」は並んでいるから交換可能で、プレゼントなどを「受け取る」と「上げる」とが精神病患者の頭の中で混交するわけです。 
意識の世界は「超自我」(スーパー・エゴ)がコントロールしていますから、私達は意識の面では行儀良く暮しているわけですが、無意識という性欲の領分に属するものが意識の領分へ押し出されて来ると、理屈に合わない行動に出ることになります。エロスが前面に出て来てロゴスを毀すわけです。こういう現象は西洋のブルジョア文化にも見られるのですが、どうもロゴス信奉が根強いために、わが江戸文化のような言葉の無礼講には追いつきません。「お江戸」とか「江戸っ子」という表現をエロスの表出として考えてみましょう。 
「お江戸」や「大江戸」のように敬意を表す接頭語の付いた都市名は他にないのですが、これは江戸が外から尊敬されているからではなく、江戸の住人が広告のコピーよろしく作り上げたものですね。「京へ上る」に見られるような、由緒ある実体がないのです。「将軍のお膝元」という表現もありますが、江戸の良さを羅列した名所名物を見ますと、将軍の威光は江戸の価値、つまり「お」や「大」の付く資格とは実は関係がないのです。要するに、磨き上げられた上方文化を相手に、駆け出しの江戸が自分で「お」を付けて空威張りしている中に、若さの勢いで自分の方が実際に優勢になった、それに調子付いて増々「大江戸」を振り回すようになった、ということでしょう。こういう田舎のガキ大将的な面が江戸を面白くしています。 
「お江戸」に近い、パリを「輝ける都」(ヴィーユ・ルミエール)とか、ロンドンを「王様の都」(ロイヤル・シティー)などと呼ぶ表現があります。王や女王の居住地であることを誇るわけですが、「お膝元」という表現とは実質的に違います。パリやロンドンを輝かしているのは主として建築と社交生活のファッションですが、その中心は王族貴族で、庶民はこれに憧れて真似るわけです。パリでは一般人が宮廷を見学できるようになっていて、王様の食事などは貴族や町人の居並ぶ前で行なわれる見せ物なのです。 
王様になると、一羽の鴨でも一口ぐらいしか手が付きませんからこれを一般市民に安く売るのです。贅沢とファッションの極地がお金さえあれば手の届きそうな所にあるわけで、江戸の吉原の役割を宮廷が、遊女の役割を王侯貴族がやっていると考えたら良いと思います。江戸では将軍の城と一般市民の関係が薄いのですから、「金の鯱」も「お膝元」も江戸っ子の空威張りに聞こえます。それでは、パリやロンドンの文士などは自分の都市を自慢したかというと、全く逆でして、悪口たらたらなのです。 
サミュエル・ジョンソンの「ロンドンに厭きたら人生に厭きたに等しい」という言葉が頻繁に引用されますが、これは何から何まで揃っているロンドンをいうもので、ジョンソンはむしろロンドンの道徳的暗黒面を見ている風刺家です。ボープ、スウィフトなどの一連が描くロンドンは汚くて臭くて馬鹿や悪者の満ちた都会です。しかも「モック・ヒロイック」(擬英雄詩)という詩型を使いますから、否定的なイメージが英雄詩的な壮大さを持つので、丁度江戸の戯作者の江戸礼讃の逆を行くことになります。こういう風刺家達が、江戸名所とは逆に「ロンドン逆名所」みたいなものを造り上げています。一番悪名高いのは「ロンドン・フリート・ディッチ」、つまり下水道で、犬の死体などを海に流し出す下水道口を、ポープが詩の中で「大海」の代わりに使います。 
スウィフトは「臭い水からお生まれの愛の女神」などと、ロンドン美人を海から生まれたヴィーナスに等える所まではいいのですが、ロンドンは下水道に代表され、ロンドン美人は彼女の化粧室の汚いお虎子から生まれたものと連想されるわけです。清長も歌麿もこんな悪戯はしませんね。都市文化として江戸にしてもパリにしてもロンドンにしても随分似た所がありますし、戯作者たちは東西似たようなジャンルやスタイルを発明しているわけですが、都市のイメージという点になると大分進うのです。一つには江戸という都市が新しかったからですね。都と言えば京都のことだったし、大阪だって栄えた商業都市だったし、自分たちは大体田舎から集まってきている連中だから、侍も労働者も含めて、腹いせに「江戸は良いとこだ」、と威張ったようなところがあったと思います。 
ロンドンの場合は歴史が古いわけでしょう。大袈裟に言えば、ローマの遠征の時からあったわけでして、特にヘンリー八世の時から大分都会として高級になっているわけですね。つまり中流階級の台頭と同時に起こったわけではないのです。「俺が住んでるところはいい所なんだ」とか、「俺は性格が売り物なんだ」なんていうことを言うのは、これはやっぱり中流階級の言うことで、お公家さんやなんかの言うことじゃないわけです。大体、伝統が出来ている都市ではあんまりそういう自覚というか、自慢しようという傾向は出てこないようです。 
今のニューヨークは倒産して重病に悩む老人みたいな格好ですが、大変羽振りの良かった1960年代にはニューヨークっ子は田舎者を相手にする度にニューヨークを貶したものです。随一の都会という自信があるからこそ、サンフランシスコよりも此方の方が良いという必要もなく、むしろ自分で悪口を吐く余裕を見せるという、手の混んだ自慢をやるわけです。パリっ子やロンドン子の悪口にも同様の面があります。もう一つには、政治批判に対する政府の手口が違うということが考えられます。東西共に諷刺家は匈せられますが、徳川方式の方がずっと巧妙でして、似たようなことを言っても餉せられたり見逃されたりで、何処までが安全かという線が見極められないわけです。又、罰せられても、お触れ書きには政府批判をぼかしてありますから、無関係な罪状で罰せられることになります。 
こういう沈黙の法律が一番厳しいと言えます。例えば京伝は遊里を描いたということで手鎖の刑に服すると、別の所で改革政策を茶化したからだと納得して、政治に触れることは止めてしまう、種彦は「偐紫田舎源氏」の板木が没収されると、大奥を諷刺したことがやはりまずかったと理解して、自殺したかどうかはともかく、すぐに死に至る、という風に、気の利いた読みを要求する法律です。人気絶頂の作者を苛めてもの書き全般の見せしめにしているわけですが、やはり才能のある者が上手な批判を書くのですから、彼らの創作力を萎縮させるという効果もあり、巧みな手口と言うべきです。 
これに反してロンドンの場合は、小物を罰して大物の見せしめにする傾向があります。ポープが言いたい放題の悪舌を弄して政府、王族、上流社会をやっつけている間に、チンピラの諷刺家が死刑になっています。実は大物をうっかり苛められない事情もあります。例えばポープがウォールポール首相を思わせる人物を登場させ、これの容姿から行為、頭脳の程度まで散々馬鹿にします。これを罰したのでは、軽蔑すべき低能の親玉が自分であることを白状し、この人物の政治的道徳的犯罪を自分の物であると認めることになります。従って、ロンドンを悪しさまに言って、それが為政者批判に繋っても、巧くやれば安全度は高いのですが、江戸の場合は、何を言ってどう尻尾を捉まれるか分からないので、何でもかんでも褒めておくに越したことはないわけです。 
もう一つは、西洋の文士に見られる啓蒙的姿勢が考えられます。いくら巫曲戯ても、世の民にものを教える、国全体を改良する、という姿勢を捨てそうでいて捨てないのです。「タウン・アンド・カントリー」(都会と田舎)という対立はそういう所から来ていますが、美学的にも道徳的にも田舎のほうが簡素で清らか、自然に近くて健康的、というようなことが説かれています。 
無論東洋ではこんなことは今更論じる必要のない当り前の知識ですが、面白いことに江戸の戯作も歌舞伎も浮世絵も田舎礼賛をしませんし、大自然は茶屋の築山や縁先の蛍より遠くへは目が届かないようです。要するに東洋的伝統を無視して申し合わせたように江戸を人工的、都会的に作り上げているのが江戸文化です。又、ロンドンで力ある人は皆地方に土地財産があって、ロンドンは社交の場、政治的商業的交渉の場であったので、ロンドンの方を「俺の本拠だ」とは考えないのです。 
江戸は他方から一旗挙げに来ている、つまり住み着くべき所であり、たとえ参勤交代で来ている侍でも江戸を本拠と考えたくなるような魅力が江戸にはあるようです。政治にも社会にも、パリ、ロンドン並の問題を抱え乍ら、大きな可能性を持つ新興都市の強みで、江戸は誰にでも同化を求め同朋意識を促します。そこから「大江戸」だの「江戸っ子」だののイメージが作られるわけです。先に褒めて置きさえすれば安全と申し上げましたが、江戸人が厭々ながらそうしたのではなく、急速に成長して行く江戸の中に居て、そこに属する自分を喜々として誇示してもいるのです。 
18世紀ロンドンの意味 
江戸では明和の大火などで町中がほとんど燃えてしまった後、再建の際に一種の新しがりっていうか、新しいスタイルというのがいろいろ出てくる、言葉も流行語やなんかがどんどん増えたりなんかして、江戸らしくなっていったと言うのですが、ロンドンでも1666年に有名な大火があって、8割がた燃えてしまい、その後、建て直すことになったんですが、やっぱりヘンリー八世の時とは大分違った新しい、18世紀的なロンドンが、そこから出来上がってくるわけです。 
ただ江戸と違うところは、そういう建て直しから、ロンドンは建築というものを発見したわけです。建築家が個人として名前が出て、有名になって来たのは17世紀の時代、バロックの時代ですが、イニゴー・ジョーンズなんてのが出てきて、ネオ・クラシシズムだとか、後からバロックとかロココとか呼ばれている、ごてごてしたスタイルが出て来ますが、これも元はと言えば火事のお蔭と言えます。建築家が巾を利かせるということは、ロンドンという都市が建築によって代表されたり、建築を通して鑑賞されたりする静的な空間に作られていることになります。エリザベス朝時代の建築は劇場などでも木造ですね。大火後は石やレンガで造るようになって、不動のロンドンが昔からあったような雰囲気になります。中の模様は変わっても不変の枠組みがあるという点で、戯作的であり乍ら啓蒙の精神を真面目に守るという芸術、文学の構造をロンドンという都市のスタイルが表明しています。 
江戸はと言いますと、ちょいちょい火事が起きる上に、それに備えて建替え易いように簡単に建てたりしますから、見た目にも可変的です。埋立地を作って広がる一方、区画や町名が新しくなるという動的な面もあります。風紀上の理由で吉原が移転されたり芝居小屋が移転されたりする、火事のせいで吉原の遊女たちが「仮宅」に移される、ということがあると、新しい場所についての情報を宣伝的に伝える必要が生じます。流行も変わりますから、吉原よりも品川だ、深川だ、というような宣伝が出て来ます。 
都市文化の中の変動のエネルギーを石の建築のような思想の枠でがっちり固めているロンドンと異なり、江戸は際限なく自己宣伝するように出来ています。それでは、意味として捉えたロンドンはどんなものか、諷刺画でご覧下さい。ロンドンの大火についてジョン・ドライデンという諷刺の親玉が長詩を書いていますが、火事の意味を理性で理解しようとするのです。火事を機に英国というものについて反省する、という道徳的傾向が強いわけです。諷刺家が悪徳を制裁して世直しの手助けをするという、ドライデン流の諷刺感が後の銅版画家、ウイリアム・ホガースに一番強く表われています。資料は、「ア・レイクズ・プログレス」(「当世道楽息子伝」とでも言いましょうか)と題された8枚のシリーズの中の一場面です。一生ケチに暮して大金を溜めた父親が死んで、息子はモダンなプレイボーイと化し、財産は使い果たし、投獄される迄に落ちぶれて瘋癩病院に投げ込まれる所で終ります。 
こつこつ貯えれば成功し、油断して遊べば瞬く間に乞食に落ちるという、西鶴流の方程式がありますが、ロンドンに代表される世相への批判が強烈です。又、主人公が上流のダンデイーを真似て色男になろうとする所が京伝の「江戸生艶気構焼」に似て、アール・マイナー氏の論文がこの二作を比較しています。 
レイクウエルの猿真似を笑いながら実は本物の上流階級の趣味や流行を侮る点、艶二郎の半可通振りを描くことによって本物の通の理想まで棚卸しする京伝の皮肉の二重構造に通じます。唯、ここでも京伝の軽いタッチとは逆に、ロンドンの悪徳をどす黒く描いて、作者の道徳感を前に出しています。御覧の絵は第三図ですから、レイクウエルの遊びもこれでまた健康的な方です。古原なんかよりずっと下級の酒場か何かの一室です。飲んだり騒いだりする中で、ワインを吹きつけ合うものもあり、家具など大分毀されています。主人公は乳房をあらわにした女といちゃついていますが、この女は既に彼の懐中時計を盗み取って、主人公の背後にいる女に手渡しています。 
右手前のは踊り子で、後ろのドアから入って来る大きな銅皿に乗って裸踊りをする準備中ということになっています。見にくいですが、一番後ろでは椅子に乗った女が壁の世界地図に蝋燭で火を点けています。地球の円形と蝋燭という組み合わせが、入り口の男の持つ大皿と蝋燭によって繰り返されていますね。つまり、裸踊りで代表される淫乱な風潮が、英国ないしは世界を破滅させるというメッセージがこの並列に含まれています。次の資料は、「マリッジ・ア・ラ・モード」(「当世婚姻譚」)と題する6枚物の一場面です。吝嗇一筋で貯め込んだ町人の娘と名ばかりあって経済的に傾いている貴族の息子とが、親達の都合で結婚させられ、夫々が浮気な生活に蝕まれ、伯爵夫人にまでなっている町人の娘は、梅毒に犯されているらしい不具の幼女を残して自殺するという戯作らしくない話です。 
御覧の絵は第四図で伯爵夫人の私室ですが、右手に肥った歌手らしいのがくろうとらしい顔付きで歌っている足許には、今まで翫ばれていたらしいトランプが散らばっています。歌手の後ろからフルートで伴奏する男が居り、リボンでカールした髪のままで気取った足の組み方をした男は、何を考えているのか宙を見詰めてチョコレート(というのはココアのこと)を啜っています。幇間みたいな顔の男が右手を広げて冗談を言って自分で笑っているらしいのに、又、隣の女はゴシップでも伝えたくて乗り出していますが、共に全く無視されています。 
黒人の召使いがゴシップ夫人にチョコレートを勧めていますが、これも無視されています。 
左下には黒人の少年が実にあやしい形のがらくたで遊んでいますが、傍に投げ出されたカタログによって、これらが最近の競売で求められた美術品であることが分かります。伯爵夫人は髪結いに髪を結わせている所ですが、彼女に言い寄っている美男はその名もシルバータング(銀の舌)という名のスムーズな弁護土です。この男女の頭上に掛けてある2枚のエロチックな絵は、2人の関係の次幕を予想させますが、貴族女性を取り巻くサロン社交の内実を発く役目も負っています。 
この場面は貴族階級の浅薄さ、悪趣味、堕落を巧みに暴露しています。また、「ザ・フォア・ステージズ・オヴ・クルエルティ」(「四段階残忍咄」)という4枚のシリーズは、左にあるのが初段階で、乱暴な子供が猫を殺したり鳥の首を締めたり喧嘩をしたりしながら成長して、どんな人生を送るかを描いたものです。どの場面もロンドン子なら馴染のある町角などを描いていますから、自分達の住むロンドンが暴力に満ちた恐ろしい町だと思わせます。右の図は最後の第四図で、所もあろうに教会の庭で妊婦をめった切りにして殺したかどで絞首刑に処された主人公が、解剖教室の教材に使われている所です。切り開かれた腹から腸が飛び出して床までぶら下がっているなど、恐ろしく酷い場面に作られています。 
合巻の殺しの描写にしても、北斎などの強姦の絵にしても、肉体性にアイロンを掛けて平らなデサインにしてしまった感じがありますが、このホガースの絵には胸が悪くなるような立体感があります。人間動物の区別なく乱暴を加えた男ですから、ここで切り刻まれても犬に心臓を食べられても身から出た錆ですが、諷刺はそこで止まりません。立ち会う医者たちは、喋り合う者、本を読む者、ほとんどが真面目に勉強していません。逆に解剖に当たる医者たちは残忍そのもので、第一図の悪戯小僧と同じ顔付きで残虐行為に熱中しています。 
しかも死体が目をくり抜かれる痛みで歪んだ表情をしていますから、医者の残忍さが強調されます。医術が人を殺すという皮肉を言ったのは平賀源内だけではないわけです。ホガースの教訓癖を端的に示しているのは次の「ビア・ストリート」(「ビール街」)と「ジン・レイン」(「ジン通り」)と題された一対の銅版画です。これは、ジンの流行でロンドンに酔っぱらいが増え、アルコールによる病気や犯罪が増加している時に、それに対処しようとするのですから、市の衛生局の仕事を一手に引き受けたような作品です。どうせ飲むならビールの方があなたの為になり、ひいてはロンドン市の為、国の為にもなるといっているのです。 
「ビール街」の方には丸々と肥って幸福な人々が働いている様子が描かれています。右手前の男は古本をバスケットに入れて配達する途中で、一寸休んでビールを飲み、中央の2人の女は魚屋で、「鰊大漁の唄」という摺り物を読み、鍵を手にした女中らしい美人を口説いているのは道路工夫で、彼の仲間は後方で休まず働いています。 
若い男女を見てにやにや笑っている人の良さそうな太っ腹の前に新聞がありますが、商業と芸能を奨励する旨の王の議会演説が引用されています。絵描きが梯子の上で、一般人と無関係なジンを絵に描いています。 
向う側の建物の屋根の修繕もビールを片手にやっていますが、この光景を祝福するかの如く、丁度浮世絵の風景なら富土山に当たる位置に、教会の塔が見えます。つまりビールを飲むとリクリエーションになり、社交性を増し、仕事が出来、ロンドンもロンドン子も神の意に適うというわけです。逆に、ジンを飲むと右の絵のようなことになります。先ず中央の女が目に付きます。ショーン・シェスグリーン氏が指摘していますが、この女は左の絵の若い女中と同じ姿勢をしていますから、この女の窮乏とアル中の恍惚状態などが余計目立ちます。子供が階段から落ちるのにも気付かず、嗅ぎ煙草をつまんでいます。 
階段下の若者はアル中の極致に達して骸骨みたいになり乍ら、まだジンの瓶を手離さず、バスケットには「ジン夫人の末路」と題された読売の摺り物が見えます。大工が鋸を、女が鍋釜を入質する程ジンは労働の意欲も手段も奪うというのですが、質屋の前で犬と骨を取りっこする男に至っては、ジンは人間性そのものすら破壊するという勧告を伝えます。後方には酔っぱらいの大喧嘩が繰り広げられ、破れた壁が首吊りの死体を露わにし、気絶したアル中患者が気付け薬替りにジンを与えられたり、死んだ者が埋葬されたりで、ジンと死とが結びつけられています。ちゃんと商売しているのは質屋と階段の下の穴倉のような酒場だけで経済的不健全が丸見えですが、他の建物などは打毀に会ったような状態です。 
教会の塔を含めて、ジンに犯されていない地区は、遥か遠くに薄く描かれていて、ジンに浸った下層階級は市にも国にも見放されていることを示しています。アメリカの禁酒運動のピューリタニズムに比べると、ジンの替わりにビールを飲めという、流石イギリス人の中庸主義のもの分かりの良さがありますが、これだけイエスとノーを対照的に区別するところにロゴス主義の特徴があります。ホガースは極端な例としてお目に掛けました。 
例えばジョン・ゲイの「ベガーズ・オペラ」(「乞食のオペラ」と訳されています)は乞食と犯罪者のロンドンを扱っていますが、そう黒白に分けられず、悪漢がかっこよく出来ていたり、暗黒世界の中にも観客を泣かせる人情があったりして、南北の歌舞伎と春水の人情本を一緒にしたような具合になっています。ホガースにしても、教訓よりも連想や筋の展開の面白さ、細部描写の見事さが魅力であって、馬琴の読本の魅力と似たようなものです。また、絵を見た人が、何処其処のチョコレート・ハウスだとか、何某伯爵を皮肉っているのだとか、分かるように描いてある、ロンドンを熟知した者が虫めがねで見ると、面白い程の情報が見えて来る、その上に着るもの小道具の最新式のものが描かれている、というわけで江戸の草双紙や浮世絵と似た楽しみを与えます。羅列の快楽というエロス的なものを勧善懲悪の枠にきっちり整理して見せているだけの話です。 
江戸自慢の構造 
田中優子氏ほか、江戸時代を宣伝の時代としていますが、特に江戸を宣伝することと「江戸」の名を宣伝に使うこと、おびただしいのが江戸文化です。浮世絵もわざわざ「東錦絵」といい、絵師や作者は「東都」だの「山東」だのと自分の名の上に枕詞みたいに付けています。鰻などは京では下司なものだったのが、江戸で調理法を変えて「江戸前」になって大流行したのだそうですが、実際に江戸前の海で漁れたのか聞くのも野暮というものです。鰹などという平凡な魚を「初鰹」と称して魚類の王に仕立て上げ、しかもこれを江戸で賞昧しなければ初鰹でないみたいな鼻息の荒さです。 
つまり「江戸一はブランド・ネームで、何であれ江戸の製品であることを誇示するわけです。江戸名所、江戸名物、江戸っ子から、式享三馬の店の商品「江戸の水」まで、「江戸」と付くものは何でも最高とする宣伝力は大したものです。ここの所10年ほどニューヨーク市が、観光客の人気挽回のために、ハートのマーク入りで「アイ・ラヴ・ニューヨーク」のスローガンを色々な場所に掲げていますが、江戸人総出演の都市宣伝には及ぶべくもありません。広告に偽りがあるのは当り前ですが、実質が広告に追い付くこともあります。あるレンタカーの会社が「わが社が最高」という広告を出すと、レンタカーに善し悪しがあるとは思ってもみなかった消費者たちは、こんなものにも階級があると勘違いし、しかもこの会社が最高と思いこむ、するとこの会社は一流にのし上がってしまうのです。 
そこへ駆け出しの三流会社が「わが社の方が上」と広告しただけで、大物を見下げる程の成功を納める、ということはあり得ます。「江戸」の宣伝にはこういうフィクションが多いようです。江戸的なもの―役者、遊女、茶屋、商店から小説の類に至るまで―皆評判記が出て、売る万の競争心を煽り、消費者の興味をかき立てるわけですが、先ず茶屋や草双紙がランク付けされて出版される程重要なものという印象を与えますから、それだけで江戸的なものの地位を高めてしまいます。中野三敏氏によると、評判記の最盛期は安永6年(1777年頃)だそうで、それ以後下火になったとしますと、浮世絵、江戸歌舞伎、草双紙の成功に見る通り、江戸の実質が先行の広告に追い付いたからと思われます。 
評判記のピークの14年程前に、源内が「根無草」で江戸を宣伝していますね。御覧の部分はよく引用されますが、隅田川の夕涼みの描写です。ホガースがべったり描き込んでいる細部のように、川面の舟に始まって、川辺の看板、西瓜のたち売り、水売り、鰻屋、浮世絵の見せ物、硝子細工売り、植木屋から玩具屋の屋台へと、祭の雑踏を中空から見る目のように、きょろきょろと動くこと際限がありません。その中の人々を、長命丸の看板に恥じらう母子連れや、掏膜の用心に懐を押える田舎侍の姿にして漫画風にスケッチしています。御賢の「日本古典文学大糸」の活字と違って、版本の字体では表裏一丁、つまり2ページには大した字数は入りませんが、半紙本一丁で、恐らくホガースの大型銅版画一枚分に当たる程のイメージを並べるのですから大した才能です。これは早口な文体で羅列するからだけではなく、見立てが多いからです。 
ホガースも古典のパロデイーが多く、先に御覧の医者の顔が悪戯小憎に見えるというような見立て式の皮肉がありますが、源内は初めから終りまでべったり見立てで、一つの物が二重にも三重にものイメージとして映し出されます。川の風景から鴨の長明が連想されると、硯が海になり、両国橋の名から武蔵、下総の絵図が目に浮かび、川面の舟が木の葉に見えて「土佐日記」の船旅を思わせ、両国橋が昼寝の竜と二重写しになると、軽業の太鼓から雷の太鼓の連想で雷神がおへそを抱えて逃げる姿が見える、という具合に無関係のものを重ね合わせてしまいますから、絵にしたら実に繁雑なものになります。誇張というレトリックで人間の馬鹿さ加減を見せる所、ホガースも源内も同じですが、こと江戸になりますと源内の方は全くべた誉めです。 
例えば盛り上がった素麺を「小人島の不二山」に譬えていますが、「降りつゝ」けで万葉集を思わせる本歌取りの手際もさりながら、富士山を隅田川の風景に滑り込ませる芸当も見ものです。江戸から富士が見えたには違いありませんが、浮世絵などの背景の富士山は如何にも我が物顔にひけらかしている感があります。他国の山を自分の商標にしてしまう江戸の宣伝術は源内あたりに発するようです。資料の途中を省略しましたが、宣伝が調子に乗りますと、「押しわけられぬ人郡集は、諸国の人家を空して来るかと思はれ、ごみほこりの空に満つるは、世界の雲も此処より生ずる心地ぞせらる。」ということになります。 
「ごみほこり」などの否定的なイメージとは裏腹に、何となく江戸が日本の総人口を牽きつけるような、世界の天候を左右するような、有力な都市に見えるから不思議なのは宣伝のレトリックです。資料の後半の部分は「何々あれば何々あり」とソフト・ウェアの広告が性能をリストするように並べて、何でもある江戸を宣伝し、「誠にかゝる繁栄は、江戸の外に又有るべきにもあらず。」という結論に至るわけです。次のは南畝の「寝惚先生文集」の狂詩です。17才や18才でこれだけのものが書けるのはコピー・ライターの奇才ですね。「君見ずや元日のお江戸」と始めて、すぐに「大名小路御門前」が出て来ます。 
お偉い大名が立派な屋敷を並べている所を、江戸に住む者は自由に歩けるというだけで得意がるのですね。先ほどの富土山のように、大名を笠に着て威張るわけで、どうも江戸自慢には他人の褌的要素が強いようです。この詩には、源内の両国橋シーンと同様、早稲売り、万才、宝引(福引き)、年始客など、賑やかに並べられ、元旦というのに借金で首が回わらず、上下はぼろ ぼろでお屠蘇にもあり付けないなどという惨状までが、浮き浮きとした印象を与えます。漢語の慣用語のせいで江戸の町が立派にも見えます。そうかと思うと「武士は食わねど高楊枝」とか「今日は姑、昨日は嫁」のような巷の表現が漢詩の体裁だけは整えて出て来ます。「白髪頭に鍵金なし」と杜甫が憂国を訴えたような格好にもなります。 
こういうごちゃ混ぜの面白さが江戸自慢の世界のようです。パロディーというものは、古典などの雅の要素に俗の要素を重ね合わせることによって高いものを棚卸しするのが普通です。源内と南畝の例に御覧の如く、江戸のパロディーは別に古典を侮辱する目論みがあるわけではなく、雅を笠に着て俗を高級に見せるだけの話で、それも組み合わせが突飛ですから冗談にしか見えません。見立てによる並列の純粋な楽しみが主で、正に反ロゴスのレトリックです。次の「江戸見物」は、「江戸の膝元在郷に異なり」と始まりますが、在郷の人の視点から江戸を見物する詩ではありませんね。 
「膝元」という自慢の表現で江戸者の尻尾が現われています。先刻の「大名小路」が又ひけらかされ、下町になるといきなり仁王門が出て来て、浅草から両国橋、吉原と品川が一緒に並んで、江戸三座の劇場で終ります。どう見てもツーリストが見物して回っているのではなく、自慢の江戸名所を並べているだけです。出てくる地名だの町名だの自体が何となく楽しい、知っている所だから説明がなくても楽しい。地名に慣れた人のセンスをくすぐるように出来ています。基本的には「古事記」や「万葉集」の神の名や山の名の羅列の魔力と同様ですが、戦後に育った私たちの世代には、モンパルナスと聞いただけでやるせないムードになったり、シャンソンにある単純なフランス語を並べられただけで胸がわくわくする、ということがありました。 
「知っている」という自信がある時に起きる現象ですから、南畝の「江戸見物」は江戸者の江戸自慢と言えます。この詩には実際の宣伝文が使ってありますね。「小便無用」は塀の貼り紙にあるものですが、越後屋の唄い文句の「現金掛値なし」が、皮肉な形で七言に収められています。これでは正札付きで現金で買っても結局掛値が入っていることになります。宣伝文をからかった宣伝文です。宣伝のレトリックというのは、工業的な資本主義の時代とそれ以前とでは全く違うのだとW・F・ハウルという人が言っています。大量生産した商品を不特定多数の消費者に売る場合は一律した広告が出来るが、前工業資本主義時代には、今でも商店の売り子に見られる通り、売り手は買い手の性格や趣味に合わせて自分の役を演じなければならないというわけです。 
これは高価だがあなたのような美人には良く似合う、という売り込みをやる場合には、その客を美人と思っていない売り手が、美人であることを疑わない人間のマスクを被ることによって、買い手の自尊心を煽ることになります。実は同じような演出を工業資本主義時代の大手企業もやっているからこそ、マーケット・リサーチ(市場調査)なんかが熱心に行われているのですが、不特定多数が相手ですから、余り微に入り細に入った宣伝は出来ません。例えば人間みな玩具が好きだからと、コンピューターをマウスで操作できるようにすると、わっとマッキントッシュが売れますが、どんな形であれ鼠が嫌いな消費者が半分はいて、これをごっそりIBMに奪われる結果になります。 
江戸というレトリックを見ますと、際限なく宣伝できるのは売り手も買い手も同じ仲間だからであることが分ります。源内も南畝も、マスクを被っています。武士階級であり乍ら町方の者である振りをしたり、古典を生半可に引用する半可通を装ったりしています。彼等が宣伝しているのは将軍や大名の江戸ではなく、町民の江戸です。その上に、吉原にしても芝居にしても天明期とそれ以後に比べると未だ発育盛りの江戸を世界一の都であるかの如く宣伝しています。彼等がひけらかす江戸訛(源内などは江戸語の浄瑠璃で売り出しています。)なるものも、実際には未だ輪郭の朧気な流行語群を駆使して宣伝している感じです。言葉が先行して実体が追い付いていく広告の構造がここにあります。後に京伝その他の町方の江戸者が江戸を語るようになって「江戸」自体も本物のブルショア的江戸になります。江戸の宣伝には仲間うちの楽しみ以外の目的がありません。 
「江戸は良いとこ」とは言っても「一度はおいで」と観光広告はしていません。つまり外部を相手にしていませんから、ホガースのレトリックとは自ら異なるわけです。ホガースにも「おらがロンドン」の面白さが盛り込まれていることは申し上げましたが、不特定多数のイギリス人全般に語りかけますから、普遍的な意味を持つ宣伝文になります。江戸の戯作者や浮世絵師の場合には、口説く必要も薄い仲間が相手ですから、余計遊びが許されます。イエスとノーを並べても問題ないことになります。ロンドンの戯作者達は水道の自慢はせず、下水があるだけでも誇るべき所を、汚い臭いと文句ばかり並べます。下水の不完備から流行病が起ったりすることを社会問題として捉えるからです。江戸の方は、下水の臭いのは当り前で、水道の方を江戸のシンボルにして褒め上げます。 
芝居小屋なども不衛生で悪臭があるのですが、溝の匂いも「芝居小屋の匂いがする」と、劇場への皮肉とも下水への礼賛とも決めがたい発言をします。つまり面白ければ良いので、意図は問題になりません。江戸礼賛全般にそういう傾向があります。「伊勢屋、稲荷に犬の糞」というのは江戸で一番目に付くものを挙げますが、伊勢出身の商店が多かったとしても別にそれを敵視するでもなく、明らかに流行した稲荷信仰を諷刺するようでもなく、犬の排池物まで並べても、江戸を批判しているように見えません。それは七五調のせいで、源内や南畝のスタイルと同様、立ち止まって意味を云々する暇を与えないリズムの良さがあるからです。ポープの詩なども語呂が良いのですが、モック・ヒロイックという形は、対立を強調するので、如何に洒落のめしても肯定と否定とが明らかに区別されてしまいます。 
「江戸っ子」というレトリック 
宣伝される江戸のイメージは時代が下ると変わって来ますが、時間が残り少なくなりましたから、いくらかそれに触れる問題として「江戸っ子」について考えましょう。ロンドンが理想の都として宣伝されていないように、ロンドナー(口ンドン子)にもはっきりしたイメージがありません。例えばジョージ・リロという人が書いた「ザ・ロンドン・マーチャント」(口ンドン商人)という芝居が丁度亨保の頃にヒットします。エリザベス朝時代の芝居は、シェークスピアのもので御存じの通り、主要人物は皆貴族です。それに続く王政復古時代も、先に名の出ましたドライデンの芝居を見ても、主要人物は地位が高くて、最後に王様などが出て来てトラブルが解決して「めでたし、めでたし」というものが多いのです。 
このリロは、唯の商人を主人公にした作品を書いたのですから画期的なわけです。ところがその上演広告が出ると、ロンドン中の芝居通が腹を抱えて笑ったのです。商人を舞台に載せて芝居になる筈がない、というわけですね。それでも珍らしいもの見たさと野次を飛ばしたい芝居通根性で見に行った連中は、すっかり泣かされた、という次第で、「ロンドン商人」は「サラダ記念日」のように一躍有名になったのです。実に退屈な芝居ですが、スペイン相手の戦争に主人公が一肌脱ぐという形で、国益のための英雄に商人を仕立て上げていますから、理想化したイメージと言えます。但し、ここで慧識されているのは商人という階級であって、ロンドン子であることは二の次です。 
開幕するや、「商人といえどもジェントルマンである。」という宣言があって、ブルジョワ上流のジェントルマン階級に商人を押し上げようという意図が明らかです。その上に、結末には結局例の「タウン・アンド・カントリー」の理想を拠り所として、田舎の美しさを褒めることになります。以後似たような芝居が続々と出て来ますが、江戸の十八大通のように商人がスタイルの理想の具現者として大手を振って罷り通るような扱いにはなりません。「江戸っ子」の方は具体的な特長を与えられて理想化されていますが、どう考えても一つのタイプだけには纏まりません。西山松之助氏の受け売りで、明和期以後の「天明期の江戸っ子」と寛政期以後の「文化・文政期の江戸っ子」に分けて考えましょう。 
御存じの通り、天明期というのは田沼式資本主義のお蔭で商業・金融の繁栄した時代ですから、隆盛を極めたのは田沼一家ばかりでなく、大商人と札差という大型銀行家ですね。こういう町人が最新流行の服装で吉原で豪遊したり、団十郎を贔屓にしたりして、江戸趣味の最高級の所を地で行くわけです。こういう所から、江戸の良家の育ちで趣味も良く、金に糸目を付けないという高級江戸っ子のイメージが出て来ます。京伝の「御存知商売物」は南畝が褒めちぎったデビュー作ですが、御覧の絵には作者が机で居眠りしていて、その夢がコンピューターのウインドーの如く二つの場面に分けて描いてあります。夢の中では当時の書糟のジャンルが人物になっていますが、右上の場面には八文字屋本と行成表紙という、江戸で流行らなくなって来ている下り本、つまり上方の本たちが、「青本その他の地本(江戸の本)にけちをつけん」と共謀しています。左下の方では、行成表紙の絵本が地本の中でも幼稚な絵本である赤本と黒本を接待し、「おのおの方の不繁昌は青本がはっこうゆへなれば、けちをつけたまへ。」とけしかけています。 
昼寝中の作者とその夢の内容を同時に見せ、夢の出来事の原因結果の繋がりを並べて見せるのが漫画の素晴らしさですが、このシーンの結びは、「てまへは手をぬらさめ工夫、上方ものにゆだんはならず。」となっています。その上方ものが敵視する江戸者は次の場面の青本に代表されています。絵題箋を付けた表紙のマークが袖に印されているのが青本で、右端に坐っていますが、髪型から服装も垢抜けた美男で、煙管の持ち方もキマっています。洒洛本その他の地本を集めて月並の会、つまり月例の研究会の最中です。この青本が「江戸っ子」の名こそ使われませんが、天明期の江戸っ子を地で行っているようです。愛想が良くて粋であり、抜け目がないというのは商人の気質を表わしたものですね。 
京伝自身が江戸生れの金回わりのいい商人で、好男子にして才人ですから、高級江戸っ子の典型で、それだけにここの青本の描写にも力が入っています。大事なことは、工夫に努める勉強家の青本というイメージです。青本はグループのリーダーであって、地本たちのグループは新規なアイデアを怠たりなく求めるのに共同研究をもってしています。上方側も集まっては共謀作戦を練るのですが、その失敗の理由は新規を求めないし、世事の現状を研究しない怠慢さにあります。天明期で代表される文化には、咄の会だ狂歌連だとグループ活動が目立ちます。 
「通」という理想も特に一人の札差なり材木商なりに集中したイメージではなく、吉原で巾を利かせた18人、本当は何人であっても良いのですが、「十八大通」の名にしている所、高級江戸っ子はグループを指すのみならず、共に学び遊ぶというグループ性を強調したもののようです。江戸の文人が「江戸」というイメージをぐるになって宣伝していると申し上げましたが、「江戸っ子」のイメージの生成も、グループがグループ性を宣伝している向きがあります。 
次の、同じく京伝による「通言総籬」の始めの部分には、江戸っ子の定義に必ず引用される文が出て来ます。「金の魚虎を睨んで」というと怪戦が江戸に出現して見えを切ったよつな格好になりますが、恐らく団十郎の睨みを連想させて、いきなり登場する江戸っ子の姿に注目させる為でしょう。これが実は「お膝元」に生れて水道の水で産湯を浴びている唯の赤ん坊の姿を描写しているのですから大袈裟なこと呆れるばかりです。これが「拝搗の米」即ち精米を食し、乳母が日傘を差し掛けて付き添うような良家の坊ちゃんだと言うのですが、金銀の細螺はじきで遊ぶので金山で有名な「みちのくの山も低きとし」などと加速度的に大仰になっていきます。この描写の中で赤子の江戸っ子が急速に成長していき、流行の本多諸を結う段になると、その髪の先から安房上総が見えるという、助六のせりふを本歌取りしています。 
隅田川の白魚も良い所しか食べないエピキュリアン振りで、日本橋本町の立派な屋敷も放って吉原を貸し切り状態にしてしまう豪遊の様を褒め称えます。こういう大仰な表現は、読者の信用を求めるものではありません。初めから「これは嘘っ八さ」と言うのと同じです。細螺と金山、髷と房総半島という荒唐無稽な組み合わせや、助六のせりふその他の流行語が目的なのです。 
実際に棲息する「江戸っ子」なるものを作者が定義しているのではなく、「江戸っ子」とは「金の鯱」「お膝元」「水道の水」「拝み撞きの米」「乳母日傘」という成句群、つまり言葉が集って作り上げているイメージに過ぎません。漫画が直接視覚に訴える形で絵の裏の意味などを見せようとしないのと同様、意味的内容にはお構いなく言葉を前に出しているのが「江戸」であり「江戸っ子」であると思います。従って江戸っ子も礼賛されるだけではなく、「イエス」と「ノー」の狭間をうろ うろすることになります。 
先程登場した、江戸っ子の手本みたいな青本も、吉原へ行きますと野暮な成金の扱いになり、「錦絵」という巧い名前の遊女が「青本にほれたといふでもなけれど、ためにもなりそふゆへ、相応に茶をいふておきける・・・」、つまりからかうわけです。これも「絵そらごと」の語源はここにあるという洒落の為であって、青本という人物の一貫した性格描写などという野暮なことは、作者も読者も知ったことではありません。洒落本でも川柳でも、冗談を主にしますから江戸っ子のイメージは肯定否定を共存させます。 
例えば、「江戸っ子の虫ぞこない金をもち」という、安永期の川柳には、天明期型江戸っ子の理想の矛盾が見事に描き出されています。流行の先端を行き吉原で立派に遊ぶのはお大尽に限られたことですが、その裏に野暮に金を貯めるという、つまり何事にも応揚な江戸っ子にあるべからざる性質が必要条件になっていることを指摘しています。十八大通の中にもちゃんとルールに従って浪費の末に破産するのもいますが、そこまで行き着くこと自体がスマートではありませんから、真の江戸っ子というものは実体になりにくいのです。 
資料に戻りますと、江戸っ子が仰々しく紹介されているのは、「日本橋」という胸をわく わくさせる地名を出すためのものです。それも場面は実は日本橋ではなく、「ふりさけみれば」となって伊勢町が出て来て、しかもその露路に入って、奉公人口入所、つまり下級職業斡旋所に突き当たり、その筋向いの家が目指す北里喜之介の住居です。発端の大袈裟な江戸っ子宣伝を序に、行き着く所は吹けば飛ぶような「江戸がみ」の累人幇間の家の門口なのです。この門口に立つのは仇気屋の独り息子、お大尽にして吉原通の艶次郎ですから、前の江戸っ子描写は彼の登場への序であることが、後の割書にある上流の息子風の扮装で分かります。そこに至るまでは、言わずして彼の足取りを辿りますから「日本橋」「伊勢町」「新道」と、立派な表通りから裏の露地へ読者を導くことになります。 
江戸っ子の理想と下級な喜之介の住居の組み合わせも滑稽ですが、瑣末な目的の為に大仰に言葉を並べる無駄もエロスの特徴です。ここでは江戸っ子のイメージが風船のようにどんどん膨らまされて、最後に穴の空いた風船のように急に萎んでしまいますね。こいいう果敢さがあるのは、「江戸っ子」が言葉だけで作られているからです。さて、後期の、文化・文政期の江戸っ子はイメージが大分違います。三田村薦魚翁などの語る、或いは落語などでお馴染みの、しきりに「てやんでぇ」と言う類の江戸っ子ですね。身分は勿論、学もお金も無くて、喧嘩早いが気風のいい正直者です。これは天明期の高級江戸っ子と別な、もっと切羽詰った所で「江戸」の可変性を体現しています。 
「宵越の銭は持たぬ」という自慢も日雇い労働者の負け惜しみですが、天明期の江戸っ子にあるお大尽の豪遊をモデルにしていますね。それにしても、一代にして破産という通の運命も、下層になると一日の問題ですからテンポが違います。市場調査をしたり予想によって投資してその成長を待つ、というような資本家の江戸っ子とは逆に、一日が勝負では気の短いのは当り前です。気の短いことを売りものにしている江戸っ子は式亭三馬の作品に登場しますから、一寸「浮世風呂」の男湯を覗いてみましょう。 
資料は「ヨイ ヨイ」、つまり中風か梅毒かで手足の麻陣した病人が、長湯の楊句湯気に当って気絶した所を描いた挿絵です。番頭や客たちが寄ってたかって気付けの法を試みて助けるのですが、天明の文人江戸っ子のサークル意識が、後期の下層の隣組精神に変形しています。湯の中の対話も下町生活の知識を土台にした洒落の交換で、言語上も天明期の通社会を下級にしたような、排他的なサークル意識があります。この絵で目立つのは左端の男ですね。気絶した病人と対照的な、さっぱりとしていなせな男前です。粋な縞柄の着物を尻端折にして、手拭いを肩に掛け、右手に煙草入れを持って、菅笠の替りに着替えを小脇に抱えていますが、「知らざぁ云って聞かせやしょう」などと言いそうな出で立ちです。これは朝湯のシーンですから時間的には大分先ですが、下の巻の午後の湯で威勢の良い啖呵を切るのが、どうもこのオニイサンではないかと思われます。言葉つきからして侍らしい酔っぱらいが水を掛けられたと言い掛りを付けて、誤って捉みかかった相手がこの勇み肌という次第です。 
資料はこの喧嘩を描いた挿し絵ですが、裸にしてしまうとせっかくの江戸っ子もぴったりキマった格好にはなりません。関係ない場面にでも、着物を着て煙草入れを下げた姿を描かなければならない理由はここにあります。つまり天明期の通と同様、後期江戸っ子もスタイルの問題なのです。啖呵の文句を御覧になるとこれがもっとはっきりすると思います。いきなり「なんだ、このごっぽうじんめ」と相手を罰当たり呼ばわりして、安酒に酔った奴だと言う意味で「四文一合湯豆腐一盃がせきの山で、に、に、濁酒の粕食か」と来ます。「に、に、」と力んだ所が「か、か、か、か、」と怒る歌舞伎の荒事師のもの凄い形相を連想させます。それから「知らざあ言って」式に、「誰だと思ってたはごとをつきやあがる。2日の初湯ッから大卅日の夜半まで、是計もいざァ云った亀のねへ東子だ。」と、江戸っ子の名乗りを上げるのに長々しい修飾語を使います。相手を貶すのにも、目高のような小物が孑孑でも追いかけるのが相応なところを、鯨を呑み込もうというのは量見違いだなどと、比愉が大袈裟です。 
「こういっちゃしちもくれんだけれど」などと、「うるさい」という意味の流行語を使いたいために、酔っぱらいに対して要らさる言い訳までしています。流暢な早口でポンポン言っていますが、結局、言っていることには全く意味がない、無駄な言葉の羅列が楽しくて仕方がない、というのが江戸っ子です。ここでも「江戸っ子」は言葉で成り立っています。天明期の「江戸っ子」の場合は、それを定義するという型で余分の言葉を浪費しますが、化政期の場合は「江戸っ子」という人物を作って、その口を通して言葉を浪費する形になります。それ故に、前期の「江戸っ子」は客観的なイメージであり、後期のものは「自祢江戸っ子」のセルフ・サービスと考えがちですが、実は、誰が江戸っ子を語るかの違いだけです。「江戸っ子」や「江戸もの」が文学作品にはかり現われて日記や随筆には稀だという西山氏の指摘は、こういうイメージが実際社会のものでなく、創作上のトリックに過ぎないことを如実に語っています。 
作者たちがサークル活動で言葉をもって捏造した嘘っ八なのです。但し、戯作、歌舞伎、浮世絵のどれを取っても、読者や観客が創作のサークルに入っています。工業資本主義以前の広告と同じ意味で、読者や観客が同じ趣味の人として作品生成に組み込まれています。作者が職業化するにつれて、読者層が広くなり、サークルの輪が無限に広がりますから、嘘っ八も一般観念として定着してしまうことになります。広告が先行して実体が追いつくというのはそういうことです。 
三馬の描く「江戸っ子」が前期のそれよりも具体的で「リアル」な印象を与えるのは、彼自身が喧嘩っ早い下層江戸っ子だったからというよりも、彼の時期には「江戸」という広告が読者層に普及しており、自身も源内以来の宣伝に心酔しているからです。例えばコンピューターのソフト・ウェアの宣伝に乗せられて購入した人が、使ってみるとその面白さに魅せられ、その製品に関する知識を身に付けますから、人さえ見れば口角泡を飛ばしてその製品の面白さを自慢するのと似ています。元々の製造会社の宣伝に尾ひれが付いて、聞く側にもコンピューターの知識があれば、聞くだけでも面白いし、もっと聞きたがるわけです。そんな風にして「江戸っ子」のイメージが定着し、近代の文化にも残ったように思います。 
「表」と「裏」のレトリック 
「嘘っ八」と申し上げましたが、御覧の通り戯作のスタイルには始めから「嘘だよ」と知らせる遊びがあります。書かれている言葉全部が無駄にされるわけです。「虚実」とか「表と裏」という言い回しが、江戸の文学には「これでもか」と言わんばかりに頻出します。江戸時代の前期、つまり上方の文学にもそういう表現は出て来ます。唯、西鶴の場合は、表向きは質素にしておきながら裏は贅を尽くした嫁入り衣装といったような、建前の裏に本音があるような形になっています。 
近松の場合も、作品の筋や人形の仕草という虚構が人情なり社会なりの真実らしきものを見せるという格好に作ってあります。これに反してエドイズムのレトリックは、「虚実」という基本的な対立までをも鴨にして遊んでやろうとするものです。戯作者たちはその創作方針を「うがち」という言葉で表現していますが、これが英文で戯作を語るときには頭痛の種です。私の“to probe”という訳語に疑問を抱かれた棚橋正博氏から葉書を頂きましたが、実はこれは年来悩んでいる問題なのです。「プローブ」(「証明する」という「プルーブ」、“to prove”とは違います。)は、研究社の「新英和大辞典」には、「(医学用の)探り針で探る」とか、「(手などを入れて)深く探る」の意から、比愉的に「真相を突きとめる」の意が生じていることが明らかです。 
「深く」そして「探る」というのが味噌でして、病人の体内にせよ何にせよ、何か立体的なものを相手に、内部の目に見えない部分にある病因なり何なりを突きとめることになります。実際、“toprobe for truth”(「真理を探り当てる」)という慣用語としてこの動詞が一番頻繁に使われる通り、現実というものは立体であって、その内部の難しい所に、その中心的なもの、つまり「意味」が隠されていて、それを憶測でもって冒険的に探求していくというのが英語の世界観です。最終的な「意味」は神の認識とか自我の認識ですが、そういう根源を求心的に探っていくというのが、ホガースに見る通り、西洋的なレトリックの構成です。さて、戯作の「うがち」の方はといいますと、「穿つ」という動詞は「広辞苑」によりますと、「孔をあける」「穴を掘る」の意から、比愉的に「詮索する」「普通には知られていない所をあばく」の意が発成していることが分かります。 
「プローブ」と違うのは、暗中模索ではなくて穴を開けて見えるようにしてしまうことですね。しかも立体に穴を開けて中味を取り出すような、例えば蘭方医の手術みたいなものではなく、障子や壁に穴を開けて覗き見する程度のものです。従って「表と裏」というような二次元的、平面的な世界観にぴったりのものです。「広辞苑」の言う「詮索する」とか「暴く」とかの対象は何かといいますと、例えば洒落本のうがち、つまり一般には知られていない遊里の様子を見せる、というのが一番典型的かと思います。洒落本の読者層については無知ですが、洒落本の文体を理解するだけの読解力も知識もあり、その上に実際の遊里には疎く、それに付いての知識を得る為に洒落本を読む、という様な読者も居たかも知れません。 
そんな読者を想定しても、洒落本というものは外部に向って語りかける、つまり意味を伝える類のものではありません。この特殊なジャンルを楽しむ読解力を読者間に養成しつつ、仲間うちで楽しむ遊びになっています。洒落本が要求する知識もそれが与える知識も、洒落本の中で作られているものであって、実際経験と関係ない約束事の世界、つまり言葉の世界です。例えば遊女高尾に一夜の情けを恵まれた田子作には洒落本は分からないわけです。仲間うちであればこそ、説明が不用になりますから、地の文を極端に省いて対話だけ書けばいい、即ち漫画が直接絵を見せてあとは読者に任せるのと同じ形になります。 
「表」にあるのが言葉にしろ絵にしろ社会現象にしろ、これの「裏」が真理ではなくて、又言葉や絵になっているとすると、「うがち」には、無くても良い所に態々壁を立てて、それに穴を開けるような覗き見趣味があります。要はどちらが「表」でどちらが「裏」かの問題ではなく、両方を並べて見せるのが江戸のレトリックではないでしょうか。歌舞伎の助六は、「浮世風呂」の勇み肌と同様、登場が一番の見せ所ですね。紫の鉢巻に蛇の目傘という変な出で立ちが吉例になっていて、これを見ただけで「ヤンヤ、ヤンヤ」の大喝釆になりますが、登場がこれだけの価値を持たされる程、助六は高度に記号化されているわけで、これに続く演技はドラマの意味という点では全くの浪費です。 
助六も衣装と小道具を除けば、素っ裸の勇み肌と同様、助六性を失うわけです。助六実は曽我五郎という構成も、表が助六でその本質的な裏は曽我五郎だというのではなく、芝居の人気者の2人物を重ね合わせた、見立ての面白さだけが目立ちます。というわけで、先に申し上げましたが、見立ては一般のパロディーと違います。寺社の霊宝を台所用具に見立てると、両者が同価値になること自体が面白いのです。春画は、見るべきでない情景を見せるという意味で、「裏」を暴いていることになるのですが、その中にも、性交中に見える筈のない性器を露出したり、接吻中に見える筈のない唇をちゃんと描いていたりするのは、「表」と「裏」を同時に見たいという願望の表われと思われます。 
表と裏はこのように同時的に並立されることもありますが、「何某実は誰某」というように転換の形を取ることもあります。総体的には、徳川の封建体制が江戸の「表」で、ここでお考え頂きました「お江戸」はその「裏」であり乍ら、広告のレトリックによってこれが「表」に向けられていると言えます。又、そういうお江戸を体制化しているのが吉原とみることが出来ますね。遊女のランクがあり、規則や儀式まで揃っているのですから、幕府の裏の体制になります。ところがその吉原も、京伝の「錦の裏」などに見る通り、昼間の、つまり全く吉原らしくない吉原、という裏を持っています。品川みたいな裏の遊里が出来ると、吉原などは正真正銘の「表」になってしまいます。遊女が男名前で男っぽいはりを売りものにする深川などは、性別からして裏を行っていることになります。そんなわけで、何処かに辿り着けば最終的な裏という形で本音や真理が掴めるというものではありません。 
「意味」というものは「真理」を頂上にした価値体系ですが、見立てによって何でも同価値にしてしまう江戸のレトリックは、意味から逃れるように出来ています。「トゥリヴィアリズム」とか「フェティッシュな時代」という言葉で江戸文化が語られるのはそのせいです。つまらない物に執着することは幼稚で下等に見えますが、「江戸」はそうではありません。「見立て」といい、「表と裏」といい、言語、広く言えば記号、というものに潜在する性質を、抵抗なく活動させる方法だからです。単語を二つ並べただけでも解釈がまちまちになることからも、言語と意味との関係は両面的(或は多面的)で、しかも可変であることが分かります。そこの所を本能的に見極め、江戸中がぐるになって宣伝している「江戸」というものは、現在の西洋文化の「ポストモダン」と呼ばれる現象と同じ性質のものです。それだけ進んでいるのが江戸文化で、ロゴスの面前でエロスが居直ったような、実に威勢のいいものなのです。取り留めのない長談義になりました。御静聴ありがとうごさいました。
資料 根奈志具佐四之倦 
「行(く)川の流はたへずして、しかももとの水にあらず」と、鴨の長明が筆のすさみ、硯の海のふかきに残、すみだ川の流清らにして、武蔵と下總のさかいなればとて、雨國橋の名も高く、いざこと問(は)むと詠じたる都鳥に引(き)かへ、すれ違う舟の行方は、秋の木の葉の散俘がごとく、長橋の浪に伏は、龍の昼寝をするに似たり。かたへには軽業の太鼓雲に響ば、雷も臍をかゝへて逃去(り)、素麺の高盛は、降つゝの手に葉を移て、小人嶋の不二山かと思ほゆ。長命丸の看板に、親子連は袖を掩ひ、編笠提た男には、田舎侍懐をおさへてかた寄(り)、利口のほうかしは、豆と徳利を覆し、西瓜のたち売は、行燈の朱を奪う事を憎。 
虫の声〃は一荷の秋を荷ひ、ひやつこい■は、清水流ぬ柳陰に立(ち)寄(り)、稽古じやうるりの乙は、さんげ■に打消れ、五十嵐のふん■たるは、かば焼の匂ひにおさる。浮絵を見るものは、壷中の仙を思ひ、硝子細工にたかる群集は、夏の氷柱かと疑ふ。鉢植の木は水に蘇、はりぬきの亀は風を以て魂とす。淡雪の塩からく、幾世餅の甘たるく、かんばやしか赤前だれは、つめられた跡所斑に、若盛が二階座敷は好次第の馳走ぶり、燈寵売は世帯の闇を照し、こはだのすしは諸人の酔を催す。髪結床には紋を彩、茶店には薬椀をかゝやかす。 
講釈師の黄色なる声、玉子■の白声、あめ売が口の旨、かやの淡切が横なまり、燈瀧草店は珊瑚樹をならべ、玉濁黍は鮫をかざる。茶舟・ひらだ・猪牙・屋根舟、屋形舟の数〃、花を飾る吉野が風流、高尾には踊子の紅葉の袖をひるがへし、えびすの笑声は商人の仲ケ間舟、坊主のかこひものは大黒にての出合、酒の海に肴の築嶋せしは、兵庫とこそは知られたり。琴あれば三弦あり、樂あれば囃子あり、拳あれば獅子あり、身ぶりあれば声色あり、めりやす舟のゆう■たる、さわぎ舟の拍子に乗(つ)て、船頭もさつさおせ■とろをはやめ、祇園ばやしの鉦太鼓、どらにやう鉢のいたづらさわぎ、葛西舟の悪くさきまで、入(り)乱(れ)たる舟・いかだ、誠にかゝる繁栄は、江戸の外に又有(る)べきにもあらず。 
資料 元日篇 
君不見元日御江戸 大名小路御門前 春風吹送素胞袖 若水汲入雑煎膳 早稲 売声春向姿 万歳楽歌招童児 早来四逡飴宝引 物申年始御祝儀 祝儀嘉例家 家事 目出度兮此一時 一時栄花夢之裏 先生寐惚欲何之 上下敝果犬小賎  憶出算用昨夜悲・昨夜算用雖不立 武士不食高楊枝 今朝屠蘇露未嘗 浮出門 前松竹傍 共謂御慶御愛度 共謂御杯御春長 双六新板年年改 宝引勝負夜夜 深 夜夜年年過松下 白髪頭而無銭金 今日 為姑 昨日姉 憶昔一休御用心  
資料 通言總籬  
金の魚虎をにらんで、水道の水を、産湯に浴て、御膝元に生れ出ては、拝搗の米を喰て、乳母日傘にて長、金銀の細螺はじきに、陸奥山も卑とし、吉原本田の■筆の間に、安房上總も近しとす。隅水の■も中落を喰ず、本町の角屋敷をなげて大門を打は、人の心の花にぞありける。江戸ッ子の根生骨、萬事に渡る日本ばしの眞中から、ふりさけみれば祇風や、伊勢町の新道に、奉公人口入所といふ簡板のすぢむこふ、いつでも黒格子に、らんのはち植の出してあるは、芝蘭の友を旦那と稱ず、江戸がみの、北里喜之介が住居、鮑魚のいちぐらに同じ門口、くだすだれの外に、仇気屋のひとりむすこ 
資料 
イサミ つきとばしてなんだ此ごつぽう人め。四文一合湯豆腐一盃がせきの山で、に、に、濁酒の粕食め。とんだ奴じやアねへかい。誰だと思つてたはごとをつきやアがる。2日の初湯ツから大晦日の夜半まで、是計もいざア云た事のねへ東子だ。ナア、斯う云ちやアしちもくれんだけれど  トリサユルヒト「ハテサまあ能はな イサミ「インニヤサおめへまでがおつかじめる事アねへはな。此方は大体は事アりやうけんして、ちんころがうんこを踏だやうな面で通さアな。無面目も程があらア。何処の釣瓶へ引かゝつた野郎か、水心もしらねへ泡ア吹ア。コレヤイ、六十六部に立山の話を聞アしめへし、あたまツからおどかしをくふもんかへ。石菖鉢の目高なら、支躰相応な子子をおつかけてりやアまだしもだに、鯨や鯱を呑うとは、大それた芥子之助だア。掘抜の足代へ、家鴨が登らうといふざまで、おれに取てかゝつたのが胸屎だ 。 
 
和算と漢算を通してみた日韓文化比較

 

私はもともと数学者であり、数学とは世界中どこでも同じであるというように教育され、そう信じて来た。 いわゆるデカルト哲学で言う知性とは人類共通の普遍なものという考えである。しかし同じ教科書を以て始まった数学が国毎に違うことがありうることを数学史の研究を通じて痛感した。 勿論、伝統数学の枠組みでのことである。かつて鎖国のように互いの往来を極度に制限される状態の中では、民族毎に伝統文化の枠組の中で形成された別個の数学が存在し得るといえる。 
ここでいう数学は特に各民族の合理精神の象徴としての精神的な構成物である。この違いは文化の諸相すべてに同じ程度に表われる。 
文化圏の名に値するものであれば、必ずそこには独自の科学、芸術、文学、宗教の体系があり、異質の文化圏との間にはそれぞれの分野が対応する。例えば韓国と日本を例にとっていうならば、韓国の数学には日本の和算があり、文学、芸術、宗教など各々の文化の諸相は時間軸を中心に置いて相対応している。 
私はこのような異質な文化を生むものの核心には各文化圏、民族圏には独自の原型があるためであり、それが時代の条件の中で各文化の分野を形成してゆくものと信じる。 
又、原型は民族形成時、祖先の平均的な体験の中で形成された。丁度民族語が変わらないように、一旦形成された原型はその後の民族文化の核となって各時代の文化を貫通してゆく。この事実を交響楽にたとえるとわかり易い。原型は楽譜に相当し、各楽器の奏する楽音は異なるものの全体としては調和がある。文化の諸相が夫々違ってはいても一時代の文化が調和するのと同じ理由による。第一、第二・・の楽章は異なっていてもそのモテイフには変わらない。各時代の文化は違っていても常に民族固有の性格原型が貫通するからだ。祖先の平均的な体験の中で最も多くのものは風土との係わり合いの中でなされたものであり、多くの韓国人は故国を離れて異文化圏の中で生活を営んでいる。それらは民族原型を維持しながらも、それをはじめて形成した風土との係わり合いを持ち合わせていない。このことは在米のユダヤ人についても言えることである。 
在日韓国人の文化を考えることは在米ユダヤ人の文化は勿論、国際化しつつある全世界の人々が当面する新しい文化の意味を考えさせるであろう。この事実は在米の日本人についても言えるであろう。 
言語と民族性に深い関係がある。一旦形成された民族語は変わらない。それと同じように民族形成の時期に備わった民族の基本的性格は変わらない。時間的、空間的に離れていても同一民族としての共通性は存在する。原型が失われることは民族として存在しえない状態である。民族とは原型を共有する集合ともいえる。 
風土とそれに対応して形成された社会構造に深い係わり合いをもって形成された原型が、それとの係わり合いが殆ど失われてくる都市、新しい科学技術の作り出す環境の中で自己のアイデンティティの核を維持させるものはどのように変質してゆくであろうか。このことは国際化が進展する中で今後の世界文化を考える上で大きな課題となろう。特に自然環境が急速に破壊されてゆく今日の状況下で民族原型、ひいては人類の原型の変質の意味するものが問われてくる。イデオロギ−の終焉が叫ばれ、民族問題が世界的規模で拡散してゆく状況の中で、民族原型と文化あるいは風土と文化の課題を考えたい。
国によって数学すら異なる  
私は韓国と日本の数学を比較しているうちに奇妙なことに気がついた。日本の和算も韓国の数学も共に中国の算学書を基本的な教科書として採択していた。日本には古いところでは養老令によってきめられている算学制度がある。当時大和朝廷で採択された算学の教科課程は唐のものというよりむしろ、一旦百済あるいは新羅で再編集されたものをそのまま採択している。この事実は新羅と大和の算学制度を比較するとすぐわかる。しかし一応体裁だけはととのっていたもののこのときの日本の算学制度はすぐに立ち消えになってしまった。そのためこの制度はそれほど大きな影響を後世にまで及ぼしていない。そこで比較の対象になるのは江戸時代の和算である。和算の種本となったものの中には秀吉の侵略戦争スベニアとして持ち帰ったものが多かった。当然、はじめの内は日本の数学者達も韓国のそれと共通した算数をやったと見てよい。それが百年くらいたつとまったく異質といって良いくらい違う内容になってくる。 
当時算書は算経と呼ばれもした。「経」という文字からも推察できるようにその内容は手軽に変える性質のものではないというのが韓国、特に朝鮮王朝時代の算学者の考え方であった。しかし、日本の算学者達はそんなことには一切お構いなく、むしろどんどんと美しく楽しいものに作り変えていった。元来いくらでも改良の余地があるのが数学であるというものの、日本の場合は、特にはじめからそうすることを是としていた。韓国算学者達にもそれなりの創造性はあったが、韓国人は何等かの思想的背景がないと創造できない。 
この事実は日本の算学者の集団と朝鮮算学者のそれを比べるとすぐわかる。日本の算学者は関流、曾田流など各流派を形成し各々その技を競い、算額などを神社、佛閣に掲げ新しい算技を競争した。 
一方朝鮮算学者の中核は王朝に寄生した中人と呼ばれる技術官僚であり、時代が下ると共に世襲の傾向が強くなる。官僚制と世襲は固定した標準教科書を遵守させてゆく特に当時の儒学(朱子学)的教養を背景にした数学研究は一層その内容を硬化させた。 
韓国の学者達が最も熱を注いだのが魔法陣の研究であった。朝鮮王朝の数学者にとってはこのような魔法陣は数の調和であり、一種の哲学的な観念すらも伴っていたとみられる。日本の算学者達も魔法陣の研究はしている。しかしそれほどの哲学的な関心はなく、むしろ遊び半分であり、特に三角形に内接する無限の円列の面積の総和などにその創造性を発揮した。 
(A)は朝鮮の算学者が好んで研究した一種の魔法陣である 魔法陣とは1から一定の数までの数字を重複させることなく、又除外することなくならべその総和一定の数を保つようにする。ここでは1から30迄の数をすべて重複させることなく使用し各小六角形の数を93にしている。朝鮮算学者にとってはこれは単なる数の遊びではない。六角形の六は五行説の水に相当する。9個の小六角形を組合せながら一種の啓蒙的な法悦を感じていたと見える。ボエチウス(Boethius)が、スコラ哲学と数学を組合せながら寺院数学を楽しんだ事とその方法において一種の共通性がある。ここでは朱子学と数の組合せとも言えよう。 
(B)は日本の和算家が好んだ問題はいくら狭い空間にも円を書いてゆく。(図B 省略) 
このような考えに関しては、日本で最も有能な実業といわれるソニ−の会長盛田昭夫の主張するスキマ産業論 がある。その内容はAとBの会社が一生懸命がんばっているところへそのまま飛び込んではいけない。むしろそれらの間にできるすき間をねらえという。いくら大会社同士がせり合っていても、必ずその接点のできるところにはすき間がある。その中で一等になりなさいというすすめである。なんとこの考え方が日本的な、三角形に内接する無限の円列のことを対象とする和算の考え方に共通している。これは、和算だけに限らず、日本人の人生観にもよく表われてくる。秀吉がもし、今日生まれたとすれば、至極有能なビジネスマンになったであろう。彼がその部下黒田如水から「いかにして、そのような地位にのぼったか」と聞かれたときに、「自分は何も先のことを考えなかった。ただ一つの仕事をしている間はその仕事をできるだけ忠実に勤めたばかりであった」と答えたという。やはりここにも日本人の空間観があるようだ。どんなところにも自分の力を発揮するに足る空間があるというものであり、それはまた一所懸命、あるいは一生懸命の思想に通じるものであろう。どこでもよい与えられた場所を、そのまま肯定してその中を掘り下げてゆくと、必ず一つの天地がひらけてくるというのだ。「針の穴から天井をのぞく」ことを考える民ならではの発想といえよう。 
一方韓国の算学者の仕事には、和算に見られる狭いところをどんどんきわめていくという態度が見られない。特に三角形に内接する無限円列などは一切興味の対象にすらなれなかった。
算盤 
日本最古の算盤といわれているもので、秀吉軍の前進基地である名護屋城にいた前田家の陣営で使われていたものがある。中国系のもので上段に二つの珠があり、下段に五つの珠がある。恐らくこれもまたその戦争中、朝鮮のどこかで得たものであろう。韓国ではそれと同じものをその後も改良することなく使っていたが、日本では 一旦これが普及しはじめるとすぐに上段の二つの珠の中一つがなくなり、その後、下段の五個の中、一個も外され、結局上の珠は一つ、下の珠は四つということになってしまう。この改良の仕方は極めて現実的で長く算盤を使っていると自然にそのようになってくる。 
算盤はもともと五進法の原理から作られたものであり、韓国人はついぞこの原理の呪縛から離れることができなかったが、日本人はそんな原理にお構いなしに使い易さだけを考えてどんどん珠を外して行った。 
このことは創造性のあるなしとは関係のない価値観の問題であろう。私ははじめのうちはこの算盤の改良の原因を便宜さだけであったと考え、漠然と日本には商業が発達したためだろうと思っていた。西洋ではイタリアのベネチアの商人の例に見られるように計算器具と簿記は商業の発達に平行してなされている。 
しかし韓国では複式簿記が、すでに高麗末15世紀の初めの頃発明され実用化していた。その時期については多少の異論はあるが、朝鮮時代に使われたのは事実であり、その遺物もある。一方、日本に複式簿記が使われ始めたのは、福沢諭吉の紹介によるもので明治以降のことであった。韓国の複式簿記は高麗の首都(開城)の商人が発明したといわれ「松都四介治簿法」と呼ばれている。松都とは開城の別名である。それが発明されたのは商人達の間であったから現実の必要があってのことだが、実用面だけが問題であったとすれば、算盤の改良もできたはずだ。この発明には現実のこともさることながら、むしろその背景には陰陽五行説的な思考があったと指摘されている。(尹根鍋「松都四介治簿法」について) 
具体的にはむしろ易学的な陰陽論による二進法的な論理の展開である。大極があって陰陽に分裂し、それが四家、八掛という具合に展開してゆく。取引きの結果をこういった具合に考えてゆくとその記録が複式簿記のそれに一致するという。
和算発展の理由 
中国系の数学の優れた面は方程式論にあらわれた。ギリシャ数学の特徴がユ−クリット幾何学にあったのとは 対照的であった。それはいみじくも東洋の不可知論なる陰陽論とギリシャの存在論の対照性を具体的に反映しているといえよう。 
特に中国の天元術は算木を利用した器械的代数学であった。この内容は高次の数字係数方程式の解法でありヨーロッパでは1819年英国のホナ−(Horner)によってはじめて発表された。中国ではそれに先立つ事六百年も前になる。天元術に関しては朝鮮、日本にそれを伝えたのは「算学啓蒙」であろうと推測されている。又「算学啓蒙」は算木の列べ方が圖によって示されている。朝鮮算学者はこの算木を最後まで固守した。一方日本の和算家達はすぐに算木をすて、それを直接用いることがなくなり「算学啓蒙」になぞって圖をもってえがきながら理解し、その后それを記号化した。 
こうした過程で、器械代数学か筆算代数、記号代数と発展していった。丁度算盤の珠を一つづつ失くしてゆくのと同じ発想法により算木を気軽に筆算に変えてゆくことによってその内容をより便利にし、新らしく記号代数にまで発展させたのだ。このような韓国人と日本人の数学研究の態度に一貫したパタ−ンがあることがわかる。朝鮮算学者は原理、原則に忠実な正統主義者であり、日本の和算家、元本の原則に拘はらない現実主義の立場であった、といえよう。 
「便利でさえあればすぐに変えてゆく」「多少便利であっても原則は変えることは出来ない、最後まで原則を守る。」 
かかる態度は各自の原型に基づくものであり、容易に変えることが出来ず、歴史展開の様相までにも深く影響を与えて来た。
カナの作り方 
これらの例からみて、韓国人と日本人は合理的な思考においてですら別々の仕方でやるらしいことがよくわかった。 
よく「必要は発明の母」をいわれる。同じ必要という契機があっても、韓国人と日本人の発明品は違うのだ。原型が違うのでまったく違ったものを生みだすという結論に達した。もう一つ例を考えてみたい。 
日本語の文法構造は韓国語と全く一致する。しかし中国語とは基本的に大きく異なる。韓日両国語は膠着語であり、中国語は孤立語と分類されている。世界史の流れからして、韓国と日本の文明は比較的遅い時期になされた。独自の文字を持たなかった韓国人は中国人の発明した漢字を借用していた。日本もその点変りない。 
古代の日本文字は万葉仮名と呼ばれたが、その内容は韓国古代の吏讀とよく似ている。完全に一致するものさえ少なくない。たとえば伊・加などは共通してイ・カと読んでいる。古代日本文化の多くが韓半島から伝わったが恐らく万葉文字も例外でなかったようだ。日本語と韓国語は言語構造が全く同じであったというのもおろか、ある時期においては言語そのものが同じであったと考えられるふしもある。 
韓日両国民が中国文字を使用することで味わった不便さはほとんど同じ程度であったに違いない。この不便さを克服せんがため、日本人はいちはやく仮名を、韓国民はハングル文字を発明した。しかしその内容と発明過程は著しく対照的であった。 
万葉仮名よりかな文字への変化過程については学者によっては少しずつ異なる意見もある。しかし大まかに見て、それらの共通点は次のようになる。 
いわゆる単純化だ。この過程では万葉仮名の一部を切り落として仮名をつくり上げている。別に思想などというものを大上段にふりかざさず、気楽にちょいちょいと削っている。 
韓国のハングル創作の仕方は全く日本と異なり哲学めいたものを正面から打ち出している。 
世宗25年(1443)12月に発布された「訓民正音」(ハングル)はデカルト的な意味の分析と綜合の構造をもつ。ひいき目なしの科学的な創製物であった。しかし思想的背景は、日本人の目から見れば仰々しいと言えよう。 
たとえば母音は天・地・人の三才を象形するものとして、天円地方の哲学を採用し、天は陽だから、それを表わすに〇、地は陰にして□といった具合である。 
ハングルに丸や四角があるのはこのためである。さらにすすんで、発声器官の各部位をかたどったといわれる28個からなる国字(ハングル)の基本要素を五音・五時・五行に分類し、母音を陰陽に対応させてみるなど、当時の東洋思想・中国古典の考えを採用して、陰陽五行説・易学の思想・大極説までを引き出している。これらの古い自然哲学を下敷きにして新しい発明を権威づけているのが特徴といえよう。いわば、韓国人には何等かの 理由なしには新しいものが創造できないらしい。このような考え方は何もハングルに限らず韓国人の一般的傾向でもある。 
「かな」と「ハングル」はその後の日本語と韓国語の変遷の仕方に大きく影響した。「奈良時代の仏典は朝鮮 語で読まれていた」(田村圓澄「続日本古代史の謎」)といわれるくらい、古代に遡るほど両国語は近いものであった。 
にもかかわらず両国語が今日のように一見別物に見られるようになったのはひとえに文字の違いからくるものであったと言えよう。ある分岐点においてちょっとした違いはその後の両者の歴史の流れを完全に異なるものにした。 
かなの創製に見られる日本的発想 
私の知っている限りでもかなの種類は3もある。カタカナ、ひらかな、変態仮名などである。萬葉仮名の不便 さを克服する為とはいえこうしたいくるものかな文字を創製した背景には日本人固有の思考法があるといえよう。普遍性なものよりもその場、その場での要請に応じて適宜なものを作り出し、一旦つくられたものは否定されることなく他のものと共存させる思考法だ。この思考は各分野において流派を形成させる。数学にも関流、会田流をはじめ何種類に及ぶ流派があった。オランダ医学を導入した后にもいくつもの流派があった。 
剣術、柔術あらゆる芸術、武芸にも流派がある。元は萬葉仮名、元は中国数学、元はオランダ医学などは各々一つのものであっても一旦日本の文化世界に流入するとその何處か一部分を強調することでいくつもの流派を立ててゆく。日本語の「立派」という言葉もこのような思想から生れたものではあるまいか? 
私はわづか六個月の京都滞在中奇妙なことに気がついた。私の住居の近くに2軒の「キムラ」という食肉店が ある。チェイン店にしては余りにも近い距離なので不思議に思った。お宅の店は向う側の店とどんな関係なのですか?と聞いたその答は全く意外なものであった。 
「全く関係は御座居ません。私の店はカタカナの「キムラ」でステ−キが専門であちらは平かなの「きむら」でホルモンが専門なのです。」 
その后しばらくしてもう少し離れた場所にロ−マ字で「KIMURA」と看板を立てた肉屋があることに気づいた。まだ何が専門なのかは聞いてはいないがそれなりの専門品目があるのではないか、又その内、漢字の木村 という食肉店が出てくるような気がしてならない。 
果して韓国人であったならこのような事がありうるかを考えて見た。 
ソウルには洪陵という所に有名なカルビ店がある。洪陵カルビと言えばソウルの名物にも数えられる位である。ところがしばらくして少し離れた所に元祖洪陵カルビという看板をかけた店が現われた。もうしばらくすると本物洪陵カルビ店が出現し、その后に又本物元祖洪陵カルビという長たらしい看板も出廻りはじめた。これは一つ の肉屋、カルビ屋さんに関する話であるがあきらかな事は、このような思考がすべての分野に表われることだ。日本人は自分の流派を立てながらほんの僅かな獨自性を誇る、一方韓国人はより普遍なものを求めてゆくと言えよう。その為韓国には流派が形成されない。一方、正統性、原理主義の強い主張のある傾向を帯びてゆく。
和算の発想(単純化) 
日本の和算が発達した理由は前にも少し述べたように中国特有の算木を捨てることによってなされた。もともと中国の算学は方程式との関わりで発達し、その解き方には算木を利用した。 
算木と易占いの卦木を同じように見立てていた傾向もあったようだ。そのためか韓国の算学者は一種の神秘思想に拘り算木に対して執着する度も強かった。日本の算学者は筆算、つまり記号化し、ごく自然に記号代数学をつくりあげる。一旦筆算化するとその便利なことは到底、算木の及ぶところではない。遂に和算特有の円理を生み出す。これは単純化の精神が成功したよい例である。 
文字(かな)、算盤、和算などに見られる日本人の思考は根本的な発明ではない。それよりむしろ、一旦受け入れたものを改良するいわば改良工学的な思考である。今日、日本の経済を成長せしめた家電製品、半導体など の応用にはよくこの考え方が表れている。日本の和算研究家、三上義夫氏はこのことを「単純化を貴ぶ精神」と指摘している。まさにパソコン、テ−プレコ−ダ−、ウォ−クマンなどが単純化によってなされた。 
単純化とはその対象が元来もっていた原則的な「考え」、思想などに拘らないことから可能である。例えば「加」からカがつくられてくるときには、加えるという意味に拘らないから可能なのだ。韓国人は日本人と同じ 加をカと発音しながらも、その意味に拘るためカナ文字を作ることができなかったのだ。このような現象は文字に限らない。韓日間の文化の諸相が殆どこのように同じ程度の差を以て違っている。再び強調する。 
即ちこれらの相違は、原型が異なるためであった。 
原型史観 
世界各地では新しい民族紛争があり、それぞれが分裂・統一を目指している。分離するのも、統一するのもそれらは同じ民族同士で固まっていこうとする民族原型の願いの表れである。国籍と、民族籍を一つにしようと必死になって企図しているのだ。戦後創設された国際連合の加盟国数は60そこそこであったが、今や150カ国におよび、21世紀までには200台に至るという推測もある。 
このような世界情勢の中で真に未来を展望しうる方法は、在来の歴史観ではありえない。私はここで原型史観を主張する。振り返ってみると、今まで多くの歴史観が提出されてきた。古いところでは東洋の春秋史観、ツキ ジデスに代表されるギリシャの歴史観(ヒストリア)、ユダヤの神中心史観などがあり、近いところではマルクス史観、カ−ライルの英雄史観、トインビ−の歴史観もある。 
これらの歴史観は共通して歴史の展開には何か中心となるものがあることを主張する。それは天、法則性、神、経済力、英雄、抑圧された性、歴史意志などであり、最近「歴史の終焉」で一躍有名になったフクヤマはスモス (THMOS、気品、自尊、自負)であると主張する。 
これらすべての歴史家の主張する歴史の核は異なる。しかしよく見ると、すべての時期における歴史展開の原動力はほかならぬ、民族の集合的無意識、すなわち「原型」であることがわかる。民族性は初めて民族が形成されたとき、その成員たちの共通した歴史体験によって形成される。そこには風土、民族融合の過程が大きく反映される。しかし一旦形成された民族の基本的な性格、すなわち原型は変わらない。時代条件の中で微妙な変化はするものの基本的な性格は変わらない。 
言語と思考の間には深い関係がある。「言語は思想の化石」といわれるくらいである。民族語、民族原型は表裏一体となっているのだ。どの民族でも自身の民族語を固守しようとする。それは民族の原型であるからだ。民 族とは原型を共有するもののあつまりなのである。民族の歴史にその原型が貫通するのは民族語が変わらないのと同じ理由による。人間の教育期間は長い。民族語はそこへ生まれたものを代々父母、またはその社会が受け継ぐ。それが民族にとっての「三つ子の魂百まで」となる。民族性には先着効果(The effects of the first settlement )がある。いくら少数とはいえ一定の地域に先に到達したものたちが形成した文化の特性は、その後いくらほかの人種が多く来て一緒に住んでも、先住者を圧倒しないかぎり根源的には変わらない。 
アメリカ語とアメリカ原型は初めて大陸に定着したものたちによって作られた様に、日本列島でも同じことが弥生時代に起こった。以上のことを確認し、要約すると、「原型史観」の基本的な考え方は次のようなものである。 
一 民族には各々独自の原型がある。それらの間に優劣はない。文化相対主義の立場でもある。 
二 原型と時代条件がうまく適応すれば民族の反映をもたらし、その逆は衰退に至る。 
三 民族の滅亡は原型の無自覚な変更と同質である。 
四 新しい文化が外から入ると必ず原型に濾過され、民族独自の性格を表わす。 
五 民族の品格、倫理性は原型にもっとも肯定的に昇華されたときに生まれる。 
六 民族の歴史は「原型と時代的条件の緊張関係」の中で展開される。特に歴史の繰り返し現象は変わらぬ原型と同じような時代的な状況の中で生まれる。 
民族の歴史はその原型に基づいて展開されて来たのだ。 
一方情報化がすすみ、国際化が加速される中で民族文化の普遍的傾向を帯びてくる。イデオロギ−の終焉が現実となった今日、このように原型を中心とした歴史観が説得力をもって来る。各民族は自己の原型を下敷にして 民主的な社会を作り出してゆくものと見られるいわゆる民族・民主々義(ethnocracy)を目指すようになろう。
自然と人間 
人間の生き方は、すべてが自然に適応する形でなされている科学・技術の水準・性格などがそれに対応する社会の構造を異にし、たとえそれら風土と社会構造の関係があからさまに見えないかもしれないが、自然の力があまりにも大きく気がついていないだけのことであって、自然のあり方にさからっては、そもそも人間は存在しようがない。人間の顔付きや体の構造が対称になっているのもまた、安定感や美醜の標準があるのも、すべて地球の引力のためである。 
特に自然の条件は基本単位の社会構造を基本的に規制する韓国と日本の基本的社会単位に多くの一致が見られる。 しかしその内容は大きく異なる。自然条件のためである。 
日本の村の中心には鎮守の森があり、村のはずれには寺、すなわち共同墓地がある。古い村の周囲にはよく環濠がつくられていた。環濠集落は水利施設を中心にして、作られた村ともいえよう。「ムル」と「ミズ」は同じ 系統の言葉である。 
さて水である「ム」があるところに人々は集まり「ムレ」をなす。古代にはムレを牟礼と書いたが、今日では「群れ」となっている。韓国語では「群れ」をムリという。人々が「ムレ」ると「ムラ」ができる。古代にはそ れを牟羅と表わした。今の村だ。 
韓国語でも古代にはムラ(マウル)は牟羅と表わした。中国の史書には「新羅では首都(慶州)を健牟羅という」との記録がある。健は韓国訓みでクンであり、それは大きいという意味である。つまり首都はクンムラ(健 牟羅)「大きい村」であった。数年前、慶州の近くにある古い部落の入口に立てていたものと見られる碑石が発見された。そこには、その部落のことを牟羅と表わしていた。 
ムラが多くあつまると郡になる。日本語での訓みは「コオリ」だ。郡山、下郡、小郡などの地名でお馴染みだ。ところで韓国でも郡はコウルだ。もちろん、古代日本でもコオルをコウルといっていたに違いない。 
郡(コオル)がいくつもあつまると国になる。国を韓国語では奈良という。ちょっと説明が長くなった。ここで以上の内容を整理しておこう。 
        (水)  (群)  (村) → (郡) → (国)    
日本語   ミズ→ ムレ →  牟羅  →  コオリ →     
        ↑                   ↓     
    古代ツングスム(古代高句麗語ミ)    奈良   
        ↓                   ↑     
韓国語   ムル → ムリ → 牟羅  →  コオリ →       
                 (古代)                 
奈良は韓国で国という意味をもつ。万葉集にある、「あをによし 奈良の都」 とあるが、「奈良のみやこ」は国のみやこと解釈するのが自然である。しかしこれほどまでに一致するにも拘らず日韓の原型は大きく違う。
文明と原型 
村を中心とした社会の条件が日本原型をつくった。原型が一旦、形成されると、その人々が他の地域に移住しても、それほど変わるものではない。はじめは九州・大和地方で形成された原型であっても、人々が日本列島に拡散していく中で、原型はほとんどそのままもっていかれた。この事実はアメリカ大陸でのできごとと比べてみるとわかりやすい。 
米国の原型はヨーロッパのものを変形させたものであり、またアメリカ的なものになった。それは一旦米大陸の東部で形成されたが、人々の西進と共に開拓地は拡散してゆく。そのままほとんど全大陸に共通している。 
日本の原型は弥生時代に作られた。おそらくそれがはじめて作られた場所は九州を中心とする日本列島の一部の地域にあったに違いない。 
弥生革命と呼ばれるにふさわしい大変革であった。その内容は縄文時代とは全く異質なものであり、縄文文化 の基盤から自生的に生まれるようななまぬるい変革内容ではない。あえてその例を世界史にとるとすれば、これまた米大陸のできごとと相通ずる。 
縄文はアメリカ・インディアン文化のようなものであり、そこへ先進のいわば白人文化に相当する稲作と金属文化は入り込んでできたものである。 
このとき言語・人種村(共同体)の作り方までが一切変わった。その後の日本文化に縄文の形跡が全くないとはいわない。今日のアメリカ文化、米語の中にもアメリカ・インディアンの影響はある。そのしかしアメリカ・ インディアンと白人の民族原型は完全に異質である。 
民族の原型は、主に社会的な価値基準による行動パターンを指す。一匹、二匹の蟻を見たところで、その生物的な構造は知れるかもしれないが、その組織的な行動パターンは知る由がないのと同様、単位としての民族にとって重要なのは、社会的な行動に表われるパターンなのである。E・H・カーの「国民性の違いはその社会性に認められる」というのはそのことである。 
文明とは科学・技術など、主として人間の知的な成果を基にしてなされるものであり、それがいくら幼稚なものであろうと、それらの前提なくしては文明は成立しえない。 
一方科学・技術の基盤には、それらを作り出した人間の自然に対する解釈の仕方がある。つまり自然観である。それが科学・技術のあり方を決めてゆく。文明観とはそれぞれ民族の持つ自然観によって推進された人間知の壮大なドラマの結果でもある。 
西洋の科学・技術と東洋のそれとの違いは、いうまでもなく両者の持つ自然観の違いからくる。またその自然観そのものが、自然環境から生み出されているのだ。人々の目に映る自然は自然観を生み、また一旦形成された自然観は逆に目に映る自然のあり方を規制するようになる。そのため同じ風土を対象としながらも、自然観の違いで全く別物のように解釈されてくる。 
各民族のもつ自然観はその原型の重要な部分だ。民族の先祖たちが待ち合わせた自分達の自然環境に対する平均的な見方が、民族の自然観でもあるのだ。一旦形成された民族の自然観は、原型の基礎となる。 
同じアメリカ大陸の自然に対して、白人とアメリカ・インディアンのそれに対する解釈は全く違う。 
白人達は、神の名によって徹底的に耕し管理すべき対象であった大陸の大地はアメリカ土着民にとっては偉大な慈悲深き母の皮膚でもあり肉でもあった。 
東洋と西洋の自然観の相違は、それらの先祖が自分たちを取り巻く風土の中から育み出した。東洋人の自然観 は西洋人のそれとは著しく対照的である。自然と人間は引きはなされるべきものでもなく、決して荒々しくもない。老荘の思想がよく引き合いに出されるところだが、自然への没入、あるいはその中での調和・一致を理想とする。 
しかも、ここで重要なことは、同じ東洋文化圏とはいえ、地域によって大きく違うからだ。特に興味を引くのは、地理的に近く、人種的にほとんど変わらないのにも拘わらず、日本人と韓国人の伝統科学・技術が大きく異なることである。そのくらい大きな自然観の差が、その根底にはあるのだ。 
はじめて稲作をし始めた日本列島において、人々はそれに適応する集団を作り、文化を持つようになった。収集・狩猟生活の集団と、定住して営む稲作社会の集団とでは全然異なる価値観が必要であり、その後の長い間に引き続いた日本の稲作文化は、その原型を洗練させはしたが、変えることはなかった。それは日本語の根幹が変わらないのと同じ理由による。 
稲作は大小さまざまな技術を必要とする。もともとそれらの技術はその風土条件によく適応するように考案されたものであった。例えば雨水との密接な関係について、韓国の場合も日本の場合もほとんど同じだ。しかし、日本列島と韓半島の地勢、特に川の構造が異なる韓国のように主として集中豪雨的なものに対するのと日本の雨 期によく見られるように相当長い間じわじわ降る雨に適応するのでは、集団作業の仕方や技術のあり方が当然異なろう。 
近代以後、人々は徐々に自然や土地から離れはじめた。特に科学・技術は自然と人間の間の距離を広げさせる力でもある。しかし、そこでも人間はやはり組織を持って生きてゆくことには変わりない。たとえ作業の対象が 直接に土や自然に関わるものでなく、機械や電力であろうと、ある一定の組織を以て作業に臨む以上、集団の作り方、集団に対する個人の考え方には伝統的な思考法がそのままひきつがれている。つまり原型は変わらず新しい時代に貫通する。 
日本と韓国の村の構造 
日本の村の中心には共同体の神社があり、その周りには環濠あるいは小河川が流れ村のはずれには共同墓地があることはすでにのべた。 
環濠は村人の共同作業によるものであり、その作業は共同体の神を戴いてなされる。神社が村の中心・墓地が村の外に置かれていることは、公と私の中で一つの選択が迫られると常に公(共同体)に忠実であることを象徴的に示している。日本の風土条件が稲作をするために要請したものである。稲作には共同作業の要求されるのは何処でも共通であるとはいえ、特に日本においては村人の強い連帯が必要であった。私を殺し、公(神・上)を優先するのだ。 
一方韓国の農村は低い山すそに自然の流れを中心に構成された。韓国中どこに行っても低い山の見えない所はない。そのすそ野には必ず部落がある。山すその平地が狭く、流れの水量が少ないため部落は血縁中心につくられる。村の背にある山の陽当たりのよい場所には父祖の墓があり、村の前方に檀木すなはち共同体の神がある。いわば韓国の村落の中心は父祖の墓地であり、共同体の神(土地神)は二の次となっている。共同体の神と父祖の墓の位置は日本と韓国では反対といえる。 
韓国人にとって最も大切なのは共同体の神よりも父祖の墓なのだ。父祖の死体 は山に埋められ、大地の気を吸いとる。生存しているその子孫たちは骨肉を以て父祖のそれとつながる。すなわち生きている者達は埋もれた父祖の体を通じて大 地の気を受け入れることが出来ると信じる。その為韓国人の死は単なる死ではなく土に戻ることである。事実韓国語の死は「トラガンダ」すなわち、「戻る」という意味になる。このような考えのもとで‥帝国人は山勢、河川の流れなどを人為的に変造することを極度に避けて来た。 
韓国人の正統主義(原理主義)的傾向は自然の理に忠実にしたがうという所から発し、すべての文化の諸相がその考えを表している。 
一方に日本の共同体(神)中心主義は力のあるものへの服従となりそれが便宜優先の文化となっていった。 
このような違いは風土に適応した村の構造にあると言えよう。
原型の形成  
新大陸特にアメリカ大陸に植民が開始された時、ある一定の土地に村がつくられそれが発展して都市となってゆく。都市には夫々特有の文化パタ−ンがある。それは人口の多少に関係なく最初にその土地に定着した人々のもった文化の特色、都市形成に際しての体験などを反映する。これを先着効果と呼ぶ。それが原型の性格を決定した。日本の原型は彌生時代につくられた。はじめて日本列島に集落をつくった人々はその風土と開拓、征服の様式などに最も多くの影響を受けた原型を形成した。日本の風土の特徴はアニミズム的であり、いみじくもその内容は「日本書紀」に天孫族の印象として記録されている。彌生文化は稲作を主体とするものであり稲作集落の性格、すなわち集団志向は日本の原型に内在する。 
それは又征服、開拓を伴うものであった。 
もともと農耕文化のはじまりは階級社会をつくり出す傾向がある(ジャン・ジャック・ルソ−「人間不平等起源論」)特に稲作にはその傾向が強く、「魏志倭人伝」には倭人の社会がきわめて階級性がきびしかったことをしのばせる内容が記されている。 
日本語の「かしこ」は漢字では賢、恐、謹、可畏などと書かれる。上=神を恐れ自分の分限を守って生きるのを「賢い」と見なす思想と言えよう。日本の宗教の特性は「恐れ」にあるのもその為である。日本の神道は「崇(たたり)」、日本佛教は「地獄の 思想」(梅原猛)、これらはすべて恐れ(かしこむ)意識を底に敷いたものである。 
一方韓国の稲作は人為的な設備がすくなく水利灌漑なども降水を主として利用する天水田と呼ばれるものであった。人為よりも自然が尚ばれた。又韓半島の風土はシャ−マン的な半乾燥的な要素が濃厚である。韓国人は一(自分)が天(神)という思想をもつようになったのは偶然でない。韓国語の一、天、大などは共通して「ハン」という。韓国はすなわち「ハン」国とよむ。ハンの意識が韓国文化の基層にあるといえよう。 
文化の諸相 
韓算と和算の違いは各分野においても同じ程度に表われることは前に述べた。衣裳・遊戯・作法などは勿論、 文学、芸術などにおいてもそうである。同じ時代風潮に対して民衆の反応の仕方もその原型を忠実に表はす幕末の「おかげ参り」と朝鮮王朝末期の世直し思想(東学党)は同じ理由でなされた。即ち、専制政権の衰退と外圧に不安を感じた民衆の反應であった。しかし結末は全く異なる。又、「春香伝」と「金色夜叉」の世界。日本の相撲と韓国のスモウなど表皮は同じに見えてもその精神は全く異なる・・・それらの違いは原型が異なるためであった。 
そのため文化の一分野だけを選んで比較しても、両者の違いから原型の違いを推測できよう。今日脚光を浴びている数学の一分野「フラクタル理論」における部分と全体の在り方を示す自己相似性とも、あるいは仏教思想 の「一即多」「多即一」の現象ともいえよう。 
文化は時代の軸を中心に展開されてゆく。国際化がすすむ中で各国の文化はいかに展開してゆくであろうか。特に自然破壊がすすみ風土との係わり合いが薄くなる条件のもとでは文化に一種のカオス的現象は避けられないであろう。原型の形成に最も大きな影響を与えた自然が破壊された後、そのまま原型をもつことは精神性に不協和音を発せずには治まらない。情報化の急速な発展はそれを加速化させることもありえよう。しかし、一方では在日韓国人の一部に見られる文化意識の中で原型を維持しながらも普遍性への希求が明確化してくることも指摘できよう。それは在米ユダヤ人の場合も同様であり、肯定的なコスモポリタンの型とも言えよう。今日人類に与えられたる課題は、人類文明のカオスかあるいは普遍化の道であろう。 
21世紀は原型の時代であることは前にも述べた。各民族毎の原型が丁度モザイクの様な形であらわれる現象はより普遍なものへ進展する以外、文化としての存在意義は失われてゆくであろう。その可能性は人類の原型 を生んだ風土、自然の保存であることは言うまでもない。 
 
徳川時代思想における萩生徂徠

 

人間の想像力は不思議です。他の動植物には、そんな想像力は見つかりません。おそらく人間だけが想像力と いう力を持っていますので、他の動植物と随分違います。しかし、人間の想像力にも限界があります。もし、想像の<種>がなければ、想像力はもっと乏しくなります。 
今の小説家は良い例です。常に自分の経験にこだわってロマン小説を書いていますので、現代の小説は東西を 問わず、私小説になります。徳川時代も同じであったと思われます。現実の次に、想像と小説と哲学はついてきます。ある面で何年か前は、想像力の点で、サイエンスフィクションの方が現実よりも先でありましたが、今日では科学の進歩の次にサイエンスフィクションがあります。このように、サイエンスフィクションの世界でも、現実が第一、想像力は第二、であります。極端な例を挙げると、金丸元副総理の事件でしょう。この事件を想像できた小説家がいたでしょうか。これこそ「事実は小説よりも奇なり」です。もちろんまもなく、「金のサークル」か、「ゴールデンサークル」というテーマにもとづいた色々な小説が現われるでしょう。そうなれば、金丸さんは、想像の、<種>になったといえます。 
私の祖国、スウェーデンは良い例です。今のスウェーデンの小説は乏しく、ほとんど読む価値はないと思います。小説の想像の種が無くなったからです。ヴァイキングの精神が失われ、福祉の物質主義に生きているので、小説の想像の<種>がほとんど消えてしまいました。同様に、テレビドラマもとても退屈なものになっています。これが良いのかどうかは、わかりません。もし、スターリンの横暴な事件という現実がなければ、ソルジェニーツィ−Solzhenitsyn (1918−)は、そのような小説を書くことができたでしょうか?きっとこの時代に関しての小説はひとつも現われなかったでしょう。そしてノーベル賞も受賞しなかったでしょう。ノーベル賞は、スターリンのおかげだったのでしょうか? 
この他に、才能という要素もあるが、ここでは省きましょう。 
次に萩生徂徠について記します。1666年−1728年、生まれも育ちも江戸でした。彼の父親は幕府の医者でしたが、徂徠が13才頃に事件を起こし、上総(千葉県)に流されてしまいました。12−3年の流罪の刑を受け、家族と一盾ノ田舎で生活をしました。徂徠の13才頃から24才頃までのことで、この時代は彼の今後の考え方に非常に大きな影響を与えました。彼の考えの一つの<種>になったといえます。例えば、彼の最後の書物、<政談>のなかで上総の経験を参考にしています。 
1960年頃に江戸に戻り、増上寺の近くで、貧乏な生活が始まりました。儒学を勉強して、哲学者を目指していたからです。彼は上総にいた時にも儒学を勉強しており、この勉強を増上寺のお坊さんと一緒に続けました。6年後、お寺の住持のおかげで、側用人、柳沢吉保(1658−1714)の官邸に移って、30才で柳沢吉保のお抱えの儒者になり、 その後死ぬまで儒者として仕えました。しかし、1709年の柳沢の退任後、下町に移り儒学の学校を設立しました。その1709−1728年の間に独自の哲学をつくり、1717年頃から著名になっていきます。 
これが彼の簡単な履歴です。一言で言うと、彼は江戸で生まれて江戸で死んだ、本当の江戸っ子でありました。上総の13年間を除いては、一度だけ1706年に柳沢のために甲斐の国(山梨県)に行っただけで、旅行もしませんでした。伊藤仁斎(1627−1705)を、京都っ子というならば、徂徠は江戸っ子であり、伊藤仁斎の古学の精神が 京都の影響を受けているとするなら、徂徠は江戸の雰囲気に影響されたといえます。 
伊藤仁斎の哲学も萩生徂徠の哲学も2人とも、同じ出発点から始まりました。徳川時代の政治と経済の状況の もとで、彼らは想像の<種>を得、彼らの哲学は発展しました。中国から伝わった儒学が、彼らの想像の次の<種>になりました。彼らの時代は徳川封建制度による、典型的な縦社会であり、その時代の中で彼らは、独自の哲学の足場を築いたのであります。よって、儒学の中でも朱子学が中心でありました。彼らの考え方はいつもこの儒学の枠の範囲から出ることはありませんでした。このことが、私の意識を引いた最初のポイントです:仁斎と徂徠の想像は決して儒学の枠組みから離れず、中国の思想は彼らの思想の<種>でありました。 
しかし、儒学の枠組みの中で、2人とも自分の位置をとっていました。若い時から宗時代の朱子学に影響されて、そろって朱子学者になったと思われます。しかし後には、2人とも朱子学を離れて独自の、いわゆる古学を樹立しました。古学とは簡単に言うと、儒学の正統派であり、宗時代の朱子学を批判しながら、もっと古い儒学の思想に帰ろうとしたものです。 
日本の思想史における古学の代表者といえば、山鹿素行(1622−1685)、伊藤仁斎、萩生徂徠の3人であります。徂徠は、他の2人とは異なった古学の思想者でありました。山鹿素行と伊藤仁斎は2人とも、孔子と孟子の時代に帰って、孔子と孟子の執筆の中に、紀元前4、5世紀の哲学の思想を探していました。徂徠はもっと古い思想を求め、真相を中国の一番古い古典に探していました。そしてついに、本当の真相と真実は中国の六経にあると結論づけました。古い中国、三代--夏、殷、周--の<先王聖人>は、「天下国家を治むる道」--先王の道--を作ったので、彼らだけが聖人で、彼ら以外は聖人ではありませんでした。つまり、孔子も孟子も聖人ではありませんでした。 
このように徂徠は、聖人の信奉者--聖人原理主義者、英語で“Confucian fundamentalist”、正統派でありま した。古い中国の10人ほどの聖人(尭、舜、禹、湯、文、武等)だけが聖人であって、これ以外の聖人は、後の中国でも、もちろん日本でも決していませんでした。このように徂徠は、矛盾しているように思われますが、真の“realisto”でありました。 
国家の道は六経にあるので、学者、特に儒学者は、この道を理解するために学問を必要とします。 
そしてまず、 先王の教えである、詩−書−礼−楽、を学びます。 
この先王の教えは、「和風甘雨の万物を長養するがごとし。万物の品は殊なりといへども、その、養ひを得て草はこれを得て以て草を成し、殻はこれを得て以て殻を成す。なほ人の先王の教以て長ずるものはみな然り。竹はこれを得て以て竹を成し、木はこれを得て以て木を成し、へを得て、以てその材を成し、以て六官. 九官の用に供するがごときのみ。そのいはゆる善に習ひて善なりといふも、またその養ひを得て以て材を成すを謂ふ。」 と、<弁名>に述べられています。 
もし人間が、詩−書−礼−楽を学んだら、彼もまた竹と木と草のように長養できると徂徠は言っています。徂徠は中国の古典、特に六経の研究に重点を置き、彼の学校では、いわゆる古文辞学が中心でした。彼の学校では、 中国人のように、中国語で習わなければなりませんでした。もし、中国語を翻訳してしまうと、言葉の本当の意味とニュアンスを失ってしまうからです。聖人の思想を確実に把握するために、古典の中国語も現代の中国語も理解しなければなりませんでした。徂徠自身は、おそらくこのような中国語の理解ができましたが、彼の学生達が理解できたかどうかは疑わしいと思います。 
徂徠の学問には、常に、聖人の道を習うという目的がありました。荀子が「学問は聖人になる」と言ったのに対して、徂徠は「学問は聖人の道を習うため」としていました。 
徂徠の古学は、1717年頃、彼が50才を過ぎた頃から発展し始めました。それ以前の彼の思想も、古学といえなくはありませんでしたが、彼の二つの本、<弁道>と<弁名>(1717)で初めて、彼の古学がはっきりと現れました。この二つの本で彼は、朱子学を厳しく批判し、自分の聖人に関する考えを現しました。六経をきっかけとして、人間と、人間の社会を新しく解釈しました。朱子学と仁斎に反して、人間の性は善ではないと示していました。彼が「聖人の言わざるところなり」と述べているように、聖人は性については、はっきりとしたことを言っていなかったから、徂徠は、性について中立のスタンスをとっており、性善か性悪かについては、「無用の弁」であると述べていました。 
孟子から朱子と伊藤仁斎にいたるまで、すべての人間には聖人になる可能性があると強調していました。彼らは皆、「仁の道」に及ぶことを訴えました。徂徠はそのように楽天的ではなく、人間が自然に聖人になる徳はないと考えました。人間は個人的に才能を持っているが、この才能は天性のものではなく、天と性のつながりは、直接にはありません。各々が持っている個性的な才能を発達させて、社会の役に立つことができます。もちろん人間はそれぞれ違うので、結果もまた、文人になる人もいれば軍人になる人もいるといったように、それぞれなのです。天とのつながりではなく、人間の個人的な才次第である、ということなのです。 
しかし、徂徠は<弁名>で、「気質なるものは天の性なり」と述べているように、天のつながりを否定したわけではありません。性は人間の気質であり、人間が天からいただいたものなのです。 
徂徠にとって、性は才に匹敵し、その上、人間は心を持っており、心の真ん中には志−人間の意志−があります。「心は人間の主宰である」と<弁名>に述べています。人間の心理的な構造はこのようなものであり、この人間の、志、心、性、を養うために、聖人−先王の礼楽の教えがあります。心をコントロールするために、聖人の楽−music− があり、性を養うために、聖人の礼があります。 
徂徠は、<政談>(およそ1727年頃)のなかで、人間を三つのグループに分けました。「勝れて能き賢才と勝れて悪き人とは各別の事、其外の人何れも同様なり。」と述べています。人間は皆、個々の気質の性を持っているので、得手不得手は人間によって違い、それを養うことによって、違うものになれる可能性もあります。下々の人間も、才によって役人になることができます。気質を発展させるために、六経の中の先王の聖人の教えが必要で、古典の教育が必要なのです。 
このように、個性的な人間が、徂徠の思想の中に生まれました。人間は一様に、天性の才を持つものではなく、 天とのつながりを持つものでもありません。徂徠は儒学の哲学者でありましたが、このように儒学を自分なりに 解釈していました。六経と先王を基に、自分の考えを示し、自分の哲学と思想を現しました。 
こうして、個性的な人間が、日本の思想の中に生まれたのです。 
これはちょうど、ヨーロッパにおいて独自の思想を唱えていたデカルト−Rene Descartes(1596−1650)−に 似ていると思います。デカルトは17世紀の重要な人物で、徂徠のように彼なりのアイデアを確立していました。デカルトは「天につながっている人間はいない」と、人間の世界と天の世界を分け、人間の独自の世界をつくりました。徂徠も同様に天と人間の世界を分け、人間を切り離しました。人間の才と才知は天性のものではなく、現実全体を形而上のことと形而下のことの二つに分けました。デカルトも神と人間とを分けましたが、これはヨーロッパでは初めてのことでした。2人の登場する以前は、現実はひとつのものであったのです。 
天と直接の関係のない独自の人間が、徂徠によって初めて日本の思想に生まれました。伊藤仁斎も、孟子と朱子のように、このような現実の分割をしていません。伊藤仁斎は、常に、天と直接の関係のある人間の天性を主張していました。道は直接天から来て、人間の性と心とつながりがありました。逆に、徂徠の道は、天から直接のものではなく、間接的に聖人のみを通して、天とつながることができます。 
しかし、徂徠は天のことを否定していたわけではなく、この面でも、デカルトと平行していました。デカルトも決して神を否定していません。同様に徂徠は、「自然の道理」「天地自然の道理」「天地人の全体の道理」「理の自然の道理」等と繰り返しています。彼にも宇宙観があり、これは<天運の循環>(Cycle of Heaven)(太平策)でありました。「総じて天地の道理、古きものは次第に消失せ、新き物生ずること、道理の常也。天地の間の一切の物、皆如此。古き物を何程いつまでも抱へ置度思ふとも、力に不叶こと也。材木も朽失せ、五殻も年々に出来替、人も年寄たるは死失て新き人入替ること也。又天地の道理、下より段々上て上になる。昇り詰たるは次第に消失て下より入替ること、是又理の常也。道理如斯…一年の内にも、春夏は天の気下へ下り、地の気上へ升り、天地和合して万物成長す。秋冬になれば、天の気は升り、地の気は下り、天地隔りて和合せず、万物枯失る。」(政談) 
彼は、<弁名>のなかでも、同じ様に述べています。 
「天は解を持たず、人のみな知る所なり。これを望めば 蒼蒼然、冥冥乎として得てこれを測るべからず。日月星辰ここに繋り、風雨寒暑ここに行はる。万物の命を受くる所にして、百神の宗なる者なり。至尊にして比なく、能く踰えてこれを上ぐ者なし。故に古より聖帝 . 明 王、みな天に法りて天下を治め、天道を奉じて以てその政教を行ふ。ここを以て聖人の道、六経の載する所は、みな天を敬するに帰せざる者なし。」(弁名) 
彼は結論を、「天なる者は、得て測るべからざる者なり… 知るべからざる者なり」(弁名)と述べています。彼の天についての考え方は、天を敬うこと、敬天という考え方でした。彼の「敬天」は、ラテン語で mutatis mutandis 、デカルトの“faith in God”に近いと私は思います。 
宇宙の全てのものは新旧交代をする、というふうに、天の道理と天道と天命はみな存在するが、これらすべては、聖人を通して人間の道とつながり、具体化されたのです。先王聖人は中国の三代に天と結びついて道を創りました。後の人々は同じように天と直接結びつくことは出来ず、先王聖人の教えと道を学ぶことによってのみ、 天の意志を理解できるのです。つまり、「先王の道」は、天によって裏づけられ、天によって神聖化されているのです。この聖人の創った道は、政治経済の道、国家のinstitutionsであります。一言で言うと政治なのであります。このように、徂徠の道は外的で、物質的で、まさに人間社会の生活のためのものであり、礼、楽、刑、政であります。日本の歴史の中で、道は始めて政治的な道になりました。以前の徳川の儒学者--林羅山から伊藤仁斎まで--は皆、道徳的なsubjectiveな道を主張しており、長い儒学の伝統の中で、道は常に内的でした。逆に徂徠は、世界的なobjective な道を主張しました。 
聖人の道は、人間のための社会の道で、天の道でも地の道でもありません。以前は、天と地と人間の道はひとつのものでありましたが、大胆にも徂徠は、天の道も地の道も聖人の道から分けて、三つの独立した道を創りました。本当に革命的な新しい考え方でした。 
徂徠は、道を聖人の、<作為>に帰したのです。彼の基本的立場は、「先王の道、古は之れを道術といふ。礼楽之れなり。」(辨道)の言葉にしめされています。 
結局、実学<real learning >は、徂徠にとっては経済的な実際的な学問で、朱子学の道徳的な理想的な実学と違います。彼の思想は、抽象的考え方から、確かなのは人間の道だけであるという具体的考え方に移りました。 
当時の徳川封建制度は、中国の三代に樹立した封建社会をモデルとした完全な縦社会であったけれども、現代社会と同様に、制度が不十分であったので、徂徠は、亡くなる1年か2年程前に<政談>を書いて、八代目将軍吉宗に差し上げたのです。これは現代の言葉で言えば、「政治改革」についての論文であったといえます。現代の目で見ると、政談の考えは保守的でありますが、当時では現実的で前向きな考え方でありました。八代将軍吉宗は、おそらくこの長い論文に従って、国をまとめていったのですが、多くは明治時代になってから実現されました。 
徂徠の思想の出発点は、一つは中国の儒学であったこと、もう一つは徳川の封建社会に過ごしていたことでありました。彼の想像力はこの二重の枠組みの中で揺れ動き、この二重の枠組みは彼の想像の<種>となりました。その結果、はこの儒学的な、封建的な枠組みから動くことなく、封建社会の中でもっと厳しい法律の制度を主張しました。古学の哲学の中で、中国の古い三代の先王聖人にもとづいて、彼らの天からの知恵を使って、封建社会の正当化を見つけました。 
このように徂徠の考え方は、いろんな面で現代的−モダン−でありました。以下に、七つにまとめてみましょう。 
(1) 道は、人間社会の法律という道で、人間がつくり人間が従わなければならない道です。私的な理由で、この法律を犯すことは許されなかった。現代と全く同じです。 
(2) 徂徠以前は、道は一つだったけれども、徂徠の道は一つではなくいろんな道になりました。今日は、何でも主義になる可能性がありますが、徂徠の人間の道は、日本の歴史における最初の主義−いわば最初の<人間主義>−でありました。 
(3) 人間は、形而下の存在でしかなく、賢者か学者になる可能性はもっているが、仏や聖人という形而上の人物になることはできない。今日の人間も、教育と学問を通じて自分の才能を発展させることはできますが、キリストかブッダになる可能性はありません。 
(4) 人間の性−nature−は、気質の性であり、形而下の性で、直接天とのつながりはありません。性は良くも悪くもなく、善でも悪でもありません。「性は材なり」「その才を尽くすことはできず」今日の人間も、天のむすびつきを探すことなどせずに、形而下のものの中で理を探しています。 
(5) 朱子学の理は形而上ではなく形而下であり、理は気質の中の法でしかない。徂徠の、器−理−主義は、今日の科学に近いといえます。 
(6) 徂徠の実学は、歴史的な道を勉強する実学であり、彼の場合は言語学でした。中国の古典と中国の歴史と日本の歴史を彼の実学にしました。儒学の中ではあったけれども、合理的な研究だったので、将来のもっと経験的な合理主義への第一歩となりました。彼の後に、山形蟠桃(1748−1821)と福沢諭吉(1835−1901)と西周(1829−1697)等が続いて、現代の儒学、いわば今日の科学になりました。 
(7) 徂徠は保守的だったので、変化は苦手だったけれども、歴史の変化を意識していました。そういう意味でもモダンの人間でありました。 
このように徂徠はとても現代的であったけれども、純粋な儒学の時代である元禄. 享保時代に生きていたので、 その時代の枠から出ることはありませんでした。 
彼は形而下の自分という、徳川時代の人間のための現実的な考え方を示しました。 
もしこの賢い学者、徂徠が、同じ時代に生きていたイギリス人のジョン. ロック−John Locke (1632−1704)−に出会っていたら、彼の頭の中には新しい思想の<種>が生まれたのではないでしょうか? 
なぜならば、福沢諭吉は1862年にイギリスを訪問した時に、ジョン. ロックの思想に出会い、新しい思想の< 種>を得たからです。今日、壱万円札に印刷されているのは、そのおかげなのです。鋭い頭が、新しい思想の<種>をいただいたからなのです。 
想像はいつも<種>の範囲内で動いているのです。 

近世商人の世界 / 三井高房 「町人考見録」

 

問題の提起 
近世商人の世界−三井高房「町人考見録」を中心に−という題名ですが、まずこのテーマに関して一言説明させていただきたいと思います。このような問題を研究テーマとして取り上げた理由は、一般的に言えば、二つあります。その一つは、個人的、もしくは主観的な理由でしょう。私は、チェコの首都、プラハに住んでいますが、ご承知の通りに、去年五月に、プラハ市と京都市は姉妹都市になりました。その結果、京都の歴史や文化などに非常な興味を持っているプラハの市民はいち早く増えています。したがって、近世経済思想史を専攻している私自身は、京都の歴史に密接な関係がある「町人考見録」をチェコ語に訳し、近世初期における上方商人の生活、文化、経済的な活躍などを一般のチェコ人に紹介してあげようというのは、当然ではないかと思います。 
もう一つの理由がございますが、これは、方法論、つまりこれまで近世商人をめぐる研究の方法と関連させる理由とも言えます。江戸時代の商人については、様々な方法で研究が進められてきました。例えば、浮世草子や浄瑠璃の脚本、黄表紙や滑稽本などの、いわゆる文学作品から考察されたもの、あるいは歌舞伎などの舞台芸術から論じたもの、また商家の家訓や店則などを利用して日本的経営理念を追求したもの、そして石門心学と関連させて類推したものなどの研究でしょう。その結果、江戸時代の商人の世界、とりわけ商人の生活・文化・思想などは、しだいに明らかになってきたが、しかし、先の方法論には、それぞれそれなりの限界があって、まだまだ不十分だと思います。 
すなわち、文学作品を利用する方法の場合には、著作に記された商人の生活・意識・思想などがいつ、どこの、どういう階級の商人のものか分かりにくく、さらには、虚構の許される文学作品なので、歴史的な事実かどうか判然としない場合が多いでしょう。また著者は、商人以外のものであったりして、要するに、こうした文学作品は、商人自身の有様や思想より、むしろ商人に対する非商人の態度を表すものだといった方が正しいと思われます。 
さらに、浄瑠璃や歌舞伎などの舞台芸術から論じられたものには、脚本作者の解釈を実際の商人の思想と思い込む心配があります。 
また、商家の家訓や店則を利用する場合には、その内容が当為であるところから、やはり実態とは考えられず、特に商家経営主側の奉公人に対する願望を、奉公人自身の意識・思想と取り違える危険性もあります。 
そして、心学の盛行の中で論じられる場合には、石田梅岩を初めとする町人学者の思想は詳しいが、心学を熱心に聴いた一般商人自身の思想は少しも明らかではないと思います。 
こうした研究方法に共通する限界は、都市生活者としての商人が抱いた思想を歴史的な事実として確定しにくいという点にあります。したがって、この限界を克服するためには、残された史料を批判的に分析して、その史料の上で史実としての商人思想を再発掘する必要があると思います。実在した商人の思想を抽出することが出来る史料は、比較的に多いですが、しかしこうした史料は、とりわけ江戸時代後期のものです。ところが、中期にさかのぼると、恰好な史料が次第に少なくなり、結局初期の史料が極めて少ない。その点から見れば、今日取り上げた「町人考見録」は確かにその貴重な史料の一例ではないかと思います。 
これまでの「町人考見録」の研究の足跡を振り返って見ると、一般的には、宮本又次氏の「近世町人意識の研究」や「大阪町人論」、さらに作道洋太郎氏の「江戸期商人の革新的行動」などの諸研究はまず頭に浮かんできます。こうした研究には、「町人考見録」が、社会学もしくは経営学の観点からとらえられてきたといってもよいでしょう。 
ところが、元禄期前後の新旧商人の交代の状況を実に魅力的に描いているこの著作を、新商人イデオロギー形成の初段階を代表する作品として取り上げた研究は、知っている限り、極めて少ないと思います。したがって、今日は、「町人考見録」の由来を発掘して、その内容を分析しながら、当時の商人世界の思想的な背景について、話を進めたいと思います。
「町人考見録」の由来・成り立ち 
これはかなり有名な話ですが、1673(延宝元)年8月、三井総本家の祖先と言われる、当時52才の三井高(たか)利(とし)は、江戸本町一丁目に「越後屋」という呉服店を開きました。間口九尺(約2・7メートル)の借店で、使用人は10人足らず、かなり小規模な店でした。資本も少なく、武家屋敷のお得意などが一人もいない状態から出発した越後屋は、多数の老舗が立ち並んでいる本町通りの呉服屋の中で一頭地を抜くように、伝統的な商法を改めて、逸脱的な商法を採用する必要がありました。勿論、こうした新しい商法には、大きなリスクがありました。へたをすれば、倒産ということにもなるかも知れない。だが、最初に飛躍的な利益を望めない高利は、諸国商人売りや店(たな)前(さき)売(うり)という独特的な商法を採用しました。これは、当時の一流の呉服店のルーチン的な商法(つまり、まず得意先を廻ってその注文を聞き、後で好みの品物を持って来る見世物商い、あるいは商品を得意先に持参して売る屋敷売りによる掛け売り)と全く違った新しい戦略でした。 
作道洋太郎氏の説明によると、高利が採用した商法は、当時の新町人層の需要に対して、すぐれて適合的な要素を含んでいたから、まさに時流の波に乗るものでした。しかし、利益を薄くして品物を多く売り、全体としての利益を上げるという、今日では常識的な商法が、ルーチン的な同業者たちの大きな反発の起因となりました。結局、越後屋には、「仲間はずれの者」というラベリングがなされて、このラベルは、江戸町人の脳裡に深く刻み込まれていました。 
逸脱者に対するラベリングによって、逸脱者を追放し、既得権益を守ろうとするのは、「家」没落の恐怖感を持っていた同業者たちの本能的な自己防衛の方法でした。中田易直氏の研究によると、本町通りの大呉服店17軒は1735(享保10)年には約半数の店が現実に没落しました。勿論、高利にもそういう恐怖感がありましたが、結局高利の死後に作られた「町人考見録」は、「家」没落の恐怖感に基づいて書かれていったと言っても、決して過言ではないと思います。 
さて、この「町人考見録」の成り立ちを具体的に見てみましょう。その著者は三井高(たか)房(ふさ)という人物だったと思われます。越後屋の開祖である三井高利の長男高(たか)平(ひら)は、三井北家の初代となり、高平と続いた高房は北家の2代目の主でした。彼が高平の長男として1684(貞享元)年正月に京都で生まれました。幼名は元(げん)之(の)助(すけ)、1708(宝永5)年に三(さぶ)郎(ろう)助(すけ)と改め、1716(享保元)年8月33才の時、父の八郎右衛門を襲名して、家を継ぎました。1734(享保19)年51才で隠居して、晩年は仏法を信仰し、髪を剃って宗(そう)清(せい)と改め、1748(寛延元)年65才で没していました。 
ところが、この高房は「町人考見録」の名だけの著者で、実は編者だったといった方が正しいと思われます。「町人考見録」の跋文の末尾に、その由来が、次のように記されています。 
此書は中西宗助、より■■予語而云(よにかたりていう)、先祖親々の功業によつて、同名一致に家業をつとめ、先は時節を得、商に不足なしといへども、町人の盛衰は其主の守りにあり。よつて昔よりの町人の家を失ふ趣を、親に尋てしるし置き、家門の輩にも見せ度旨をすゝむ。故に此事を親に告(つげ)、時に老父七十年来、見および聞き伝ふる処を書記して、予是をあたふ。しば■■序跋を加へ、文義をかざらずして、是を留める者也。 
つまり、高房は、中西宗助のすすめによって、父高平に昔からの町人たちがどのようにして没落していったかを尋ね、序文と跋文だけを加えて、その記録を「町人考見録」と題して遺しました。高房自身によると、実際その発端となったのは、中西宗助という人物でしたが、彼はほとんど知られていない人だから、ここで簡単に紹介したいと思います。 
中西宗助は当時の三井本家の大番頭で、その功績の大きさは、本店筋の氏神とも呼ばれたそうです。彼は1676(延宝4)年に伊勢松坂船江村に生まれました。中西家は元々武家の出身でしたが、戦国時代の終わり頃に没落し、帰農していました。父勘四郎は、一時江戸に商人として店を開いたが、眼病で目が見えなくなったから、松坂に帰ってきました。宗助は1687(貞享4)年に12才で三井の松坂店の丁稚として奉公に入って、やがて京都の本店に転じました。1699(元禄12)年24才で京都本店の支配役 (支配人)となり、ついで35才で京都本店の元〆役、そして1730(享保15)年55才で大元〆役となりました。すなわち、店員として最高位に達しました。1733(享保18)年58才で亡くなりました。彼は、三井家の創業期より守成期に移るまでの大番頭として、店の基礎を確立して、さらに大元方の常務役人として総本家の諸法度や制度の確立を実施しました。要するに、三井家の経営面に大きな足跡を残したから、三井同族と同じような取り扱いを受けて、京都の真妙堂に葬られました。 
ところで、ここで指摘したいのは、次のことです。彼が、1722(享保7)年に三井家の根本的な家法とも いわれる「宗竺遺書」を起草したのは、一般的に認められている事実です。したがって、1726(享保11)年頃に編纂された「町人考見録」も、高房の命令で中西宗助自身に作られて、献上されたものだった可能性が高いと思われます。 
さて、著者あるいは編者の意図を手短に見てみましょう。これは序文と跋文に明確に示されていますが、まず挙げるべきは、家職いわば家業のことでしょう。つまり、既に述べたように、「町人の盛衰は其主の守り」ということにかかっています。序文にも書いてありますが、親苦労し、子楽し、孫乞食する、といわれるように、初代が営々としてきずき上げた資産を孫がつぶしてしまうのは、「みな々同じく職をわするるを以て、先祖大(タイ)業(ゲウ)を空(ムナ)し(シ)くす」ることでした。要するに、当時、家職・家業は家産として、上層商人の保守すべきものだったと思われます。 
勿論、「町人考見録」だけでなく、西鶴の「日本永代蔵」にも同じ観点が表れています。 
時の間(ま)の煙、死すれば、何ぞ金銀瓦(ぐわ)石(せき)にはおとれり。黄泉(くわうせん)の用には立ちがたし。しかりといへども、残して、子孫のためとはなりぬ。ひそかに思ふに、世にある程の願ひ、何によらず銀(ぎん)徳(とく)にて叶(かな)はざる事、天(あめ)の下に五つあり。それより外(ほか)はなかりき。これにましたる宝船(たからぶね)のあるべきや。見ぬ島の鬼の持ちし隠れ笠(がさ)・かくれ蓑(みの)も、暴雨(にはかあめ)の役に立たねば、手遠きねがひを捨てて、近道にそれそれの家職(かしょく)をはげむべし。福徳はその身の堅(けん)固(ご)にあり。朝(てう)夕(せき)油断する事なかれ。殊更、世に仁義を本(もと)として、神仏をまつるべし。これ、和(わ)国(こく)の風俗なり。 
あるいは、 
これを思ふに、銘(めい)々家職を外(ほか)になして、諸芸ふかく好める事なかれ。これらも常々思ふ所の身とはなりぬ。なからず、人にすぐれて器用といはるるは、その身の怨(あだ)なり。公(く)家(げ)は敷(しき)島(しま)の道、武士は弓馬(きゅうば)、町人は算用こまかに、針(はり)口(くち)の違はぬやうに、手まめに当座帳付くべし 
ともかく、商人は家職に専念することがもっとも強く求められたのです。 
又、もう一つ、商人を支えたのは、金銀だと思われます。「町人考見録」の序文に戻ると、 
それ天下の四(シ)民(ミン)士(シ)農(ノフ)工商(カウシヤウ)とわかれ、各(ヲノ)■■其職分(ショクブン)をつとめ、子孫業(ゲウ)を継(ツイ)で其家をとゝのふ。就中(なかんずく)町人は商売それ々にわかるといへども、先は金銀の利足にかゝるより外なし。 
と明確に書いてあります。幕府の御用金融を、両替屋経営の根本的な方針としていた三井家の2代目高平が、「金銀の利足」の大切さを強調したのは、当然のことでしょう。薄利多売主義で、掛け売りなしの現金売り、正札売りの新しい商法は、相互の信用を重く見る旧商人には一種破天荒なものでした。 
西鶴の言葉での「只銀がかねをためる世の中」には、「算用なしに慈悲過たるも、又おろか也」というように、「町人考見録」の跋文に説明されています。しかし、算用一点張りということだけではなかったと思います。ここには、また仁義・人道の大切さも説かれています。 
要するに、宮本又次氏が書いたように、富有な商人に要請されたことは、結局家法を守って、家業に精励して、 相当に生活することでした。
「町人考見録」の分析 
既に述べましたが、「町人考見録」は、三井家以外の人に読ませるためのものではなく、序文の一番最後に書 いてあるように、 
前(ゼン)者(シヤ)の覆(クツガヘル)るを見て、後(コウ)車(シヤ)のいましめのため、見および聞伝ふる京都の町人、盛(セイ)衰(スイ)をあらまし爰にしるす耳 
という教訓を、子孫に、はっきり示すために作られたものです。したがって、三井家の番頭、手代、丁稚によって写されて、三井家の内に参考書として早めに普及してきました。原本は残されていないですが、しかし転写本が極めて多いです。現在、その一つ一つを調査することは、不可能だと思いますが、今日は、三井文庫に所蔵されている代表的な写本を紹介したいと思います。 
同文庫に所蔵されている22本の中でこの写本 (登録番号 特1364/1,2,3)は最も達筆の写本でしょう。上・中・下、合わせて3冊から成るこの写本の文章の末に、「高房」の署名、さらに朱印があります。これは高房自身が写した写本ではなく、むしろ高房から各三井家に頒布したものだろうと思われます。勿論、国立国会図書館や早稲田大学付属図書館などにも所蔵されている写本もありますが、しかし三井文庫以外のものには、高房印がありません。 
さて、実例を引用しながら、同文庫の写本を中心にして、その内容を手短に見てみましょう。多分繰り返しになりますが、「町人考見録」には、当時の京都を中心にする富裕な商人家の盛衰がみごとに浮き彫りにされています。厳密に言えば、本文には京都の50人、跋文には江戸・大阪の5人、合わせて55人の事例がまとめられています。この55家の資産を没落させる様々な原因がいくつかありますが、時間不足で具体的な分析を略して、代表的な例だけを見せていただきたいと思います。 
様々な倒産の原因の中には、まず取り上げるべきは、大名貸しでしょう。当時諸大名は、参勤交代に伴う交通費・滞在費、さらにそれぞれの藩に起こした殖産事業などで相当な金銀を必要としたから、京都の商人・両替屋に貸付け (仕送り)を求めたのです。 
「町人考見録」にまとめられた55人の中には、30人は大名貸しによる破壊を受けたものです。これらは、 諸大名の横暴性を示すものですが、しかし他方、商人の利益追求の意欲と彼らのもろさとを語るものでしょう。17世紀半ばぐらいまでは、この大名貸しがもっとも儲け口でした。「町人考見録」には次のような説明が書いてあります。 
それ大名がしの商売は博(バク)奕(チ)のごとくにて、始少のうちに損(ソン)を見切(きら)ず、それが種(タネ)に成り元(モト)を 動(ウゴカ)さ(サ)ん(ン)とかゝり、(中略)然からば此借(かり)引(ひき)は止(ヤ)み(ミ)可申ことなりに、博(バク)奕(チ)をうつもの、始より負(マケ)ん(ン)とてかゝり候もの、一人もこれなく候。(中略)扠 大名貸の金銀やくそくのごとく、よく取引在之候へば何か此上もなき手回し、人数はかゝり不申、帳面一冊、天(テン)秤(ビン)一(イツ)艇(テイ)にて埒(らち)明(あき)、正真(シヤウシン)の寝て居て金をもふくるといふは此事にて候。 
ところが、この、寝ながらお金儲けのできる魅力は、焦げ付きによる資産つぶれの危険への警戒心を鈍らせたでしょう。 
武士は計略(ケイリャク)をめぐらし、勝(カツ)事を専(セン)とす。是軍(グン)務(ム)の(ノ)職(ショク)也。町人はよきほどを見合、金儲(カネモウケ)して残銀を見切(キツ)て(テ)、徳分を得(エ)んとおもへども、武士は四(シ)民(ミン)の頭(カシラ)、知(チ)謀(バウ)兼(ケン)備(ビ)の役人、中々其手は見通し、却(カヘツ)て(テ)うらをくわせ、先(セン)を取(トツ)て彼かたよりよきほど取込、断(ことわり)を申出す。町人の竹(タケ)鑓(ヤリ)を以て武士の真(シン)剣(ケン)に向(ムカウ)がごとく、相手に不及。それ大名の仕送り、始より理(リ)屈(クツ)の詰(ツマ)ざる事に、誰か大切の金銀を出し可申や。 
つまり、町人を上回る武士の知謀 (いわば真剣)の前に竹槍がいかにもろいかを語っています。それは士農工商 といった、社会的な身分関係を示すものでしょう。従って、三井家では、家法として理屈に合わない大名貸しは原則的に禁止していたようです。 
兵(ヘイ)書(シヨ)にも、敵(テキ)を知(シリ)己(ヲノレ)を知(シル)を以て名将といふ。武士を町人としてはからん事、是敵テキをしらざる也。 
要するに、大名貸しをしないのが一番だということですが、貸した場合には、十分に注意する必要があります。このような考え方は、三井家の経営戦略の本柱に成ったといっても、決して過言ではないと思います。 
さて、大名貸し以外にも、没落のきっかけはいくつかありました。その一つは、金山を採掘したり、山を切り開いたりする大工事でした。このような投機事業については、米沢屋久左衛門の項目に見えている河井又左衛門という人物はちょうどいい例でしょう。彼は、近江の琵琶湖からの水を越前の敦賀の港へ落とす七里半という運河を掘さくして、船を通す計画に着手しました。しかしいくらかお金を使っても、その計画を完成できず、結局家を潰してしまったそうです。 
また、「町人考見録」によく挙げられている、豪商家の没落のもう一つの原因は、奢り・奢侈という悪風です。 
それ奢(ヲゴ)り(リ)に二つ有。身の奢、心の奢也。多は心の奢生ずる故、身に美(ビ)麗(レイ)を好む。(中略)奢は大人は国を失ひ(ウシナヒ)、小人は身を失ふ。祖先はかんなんの功(コウ)を積(ツ)み(ミ)、昼夜金儲(カネモウケ)に身のあぶらを出して、溜(タメ)置(ヲク)金銀を、せめてふやし儲(モウク)る(ル)ことはあらずとも、其身祖先の冥(メウ)加(ガ)を思ひて、よく守るべき所に、さはなくして、かゝる奢りになしはたし、終に家を失ふ事をや。 
このような一般的な例は、次に具体化されています。絶対に許せない奢りの実例としては、まず珍しい名品の茶道具を購入すること、さらに和歌、能、歌舞伎などの遊芸を好むこと、そして仏教の信仰を過ぎて、華美な寺院を建設したり、お寺への金銀の御用達で出入りしたりすること等々の例を取り上げてもいいでしょう。 
さて、この遊芸のもっとも適当な例は新屋伊兵衛だろうと思います。彼の場合には、著者が強調しているのは、自分で家業を忘れて、かえって芸能を好むより、むしろ子供に家業の代わりに歌舞伎や能などを習わせるほうが悪いという観点です。 
然るを子どもに遊(ユウ)芸(ゲイ)をならはし申事、第一其親のあやまり也。(中略)天(テン)笠(ヂク)の獅(シ)子(シ)は百丈の峰(ミネ)より深(シン)谷(コク)へ自(ミズカラ)落(ヲト)して、子(コ)獅(ジ)子(シ)の猛(タケキ)をこゝろみる。鷹(タカ)は巌(ガン)壁(ペキ)に巣(ス)を喰(クイ)、人来て其子を取るといへども、子(コ)鷹(タカ)大(タイ)守(シユ)に養る(ヤシナハル)ゝ事を以て悦び、子を取る事をいとはず。其外の禽(キン)獣(ジウ)も子をつれ餌(ヱバ)をはむ事ををしゆ。然るに人の親として渡世のみちを不教(ヲシヘ)、却(カヘツ)てあしき道に引入るゝ事、禽(キン)獣(ジウ)にも劣(ヲト)り(リ)申候。 
要するに、このような引用には、当時の新商人の家業の永続を中心にする家訓だけではなく、それぞれの個人的な教訓も明確に表れています。 
これまで取り上げた例は、すべて否定的な事例でした。しかし、「町人考見録」の中には、数が少ないですが、勿論、肯定的・積極的な商人の姿も描かれています。この代表的な人物は藤屋市兵衛でしょう。「町人考見録」によると、彼は  
極て(キハメテ)商人心成もの故、段々身上よく成、一生に二千貫目の分限と成り申候。 
そう言うわけで、  
此市兵衛がしまつ咄し、諸人の多しる所、猶草紙永代蔵などに是を書載(ノ)す(ス)。そして、「日本永代蔵」の巻2を見てみると、西鶴は、 
「借屋請状之事、室町菱屋長左衛門殿借屋に居申され候藤市と申す人、慥かに千貫目御蓙候」「広き世界にならびなき分限我なり」 
などのように、この藤屋を「世界の借屋大将」として描いたほど高く評価しています。 
したがって、終に、高房と西鶴との見方を比べてみましょう。「町人考見録」は、すでに述べたように、三井家を担っていく人たちに何を避けるべきかを教えることを第一の目的として書かれています。この点で、当時の一般町人の読者に向けて書かれた「日本永代蔵」が、商人が成功するために何が必要だかを説明しようとしていたことと無関係ではありません。つまり高房の著作は、否定的な実例に基づいていますが、これに対して西鶴の作品には、富の追求の肯定的な例証が挙げられています。しかし、両者の根本には、共通した認識があります。すなわち、不確実さと見通しの立たなさが、商人の生活における中心的な事実だということです。商人は彼らの家の存続を考えなければいけません。運命はすべて自分の手にかかっているのでしょう。たびたび「倹約」「算用」あるいは「賢明」「勤勉」「正直」などという言葉で商人の道徳を表そうとしますが、そのような言葉は、抽象的な原理から導かれた単なる道徳的なお説教や戒めではなく、商人が代々生き延びるための、すなわち武士階級が生まれつき保証されていたものに匹敵するような断続性を獲得するための実践的な戦略だと思われます。
結論 
最後ですが、ある意味で秘密の家訓として書かれた「町人考見録」はどれだけ当時の一般の商人に知られていたのか、つまり新興商人イデオロギーの形成にどのような影響を与えたのかなどを手短に考えてみましょう。 
まず、1757(宝暦7)年に岩垣光定によって書かれた「商人生業鏡」の第一巻の書き出しを見てみましょう。 
或人の曰、四民は士農工商に分かれ、おの■■其職分を勤め、子孫を継で其家をとゝのふ、就中商人は天下の貨財を通じ、(中略)金銀利足の外なし、しかるに田舎の町人は、それ■■々に国の掟を憚り、其うへ目に美麗を見ざるゆへに、心うつる事なし、此故に数代業をつとむ、京江戸大阪の町人は、其先祖あるひは田舎、または人の手代より次第に経て上り、商売を弘め富を子孫に伝へんと、一代身をつめ家職に心をいれ、かんなん幸苦して、其子家を継ぐ、其子は幼少より親がよく教て、つヾまやか成事を見覚して、又其家のあまり富ざるいちに生立せしゆへ、漸々其一代は守り勤む、これも不行跡なれば不続、其孫の世に至りては、家の富る時に出生せしゆへ、金銀の大切といふ事をしらず、(中略)名ある町人二代三代にて家をつぶし、跡形なく成行事、眠前に知る所なり、(中略)百姓職人の家数代伝る事は、一日も怠る時は、忽ち衣食をうしなふゆへに、尤もより勤むるなり、只商家のみ金銀を沢山におもひ、先祖の事も思はず、手代任せにして、其身は業を勤めず、終には家を失ふ事多し、前者の覆るを見て、後車のいましめとすべし。 
さて、この著作を「町人考見録」の序文と比べてみましょう。 
それ天下の四民士農工商とわかれ、各其職分をつとめ、子孫業を継で其家をとゝのふ。就中町人は商業それ■■にわかるといへども、先は金銀の利足にかゝるより外なし。然るに田舎の町人はそれ■■の国主・地頭に憚り、其上めにさのみ美麗を目ざる故に、心におのづからうつる事なし。爰を以ておほく代を累て業をつとむ。京・江戸・大坂の町人は、其元祖、或は田舎又は人手代より次第に経上り、商売をひろげ、富を子孫に伝へんと、其身一代身をつめ、家職の外に心をおかず、かんはんしんくを積で、其子家を継、其ものは親のつましきことを見覚へ、又は其家のさまで富まざるうちに生立習ふ故に漸其一代は守り勤といへども、又其孫の代に至りては、はや家の富貴より育立、物ごとのかんなん、金銀を大切と云う事をしらず。(中略)凡京師の名ある町人、二代三代にて家をつぶし、あとかたなく成行事、眼前に知る所也。(中略)百姓・職人等は数代家を伝ふる事、一日も怠るときは、忽食をうしなふ故に、尤よくつとむ。只商家耳後は手代まかせ、其身は代の続くにしたがひ、家業をわするゝを以て、終に家をうしなふ。前者の覆るを見て、後車のいましめのため、見および聞伝ふる京都の町人、盛衰をあらかし爰にしるす耳。 
前者と後者との共通点が極めて多いので、「町人考見録」の約20年後に書かれたこの「商人生業鏡」の著者が高房の著作をよく知るべきことは疑いないと思います。 
また、1794(寛政6)年に土屋巨禎が書いた「家業相続力草」にも、「町人考見録」からの引用文が発見できます。 
要するに、「町人考見録」は、西鶴の「日本永代蔵」と同様に、かなり早く普及して、一般的に知られたと考えてもよいでしょう。その点から見れば、石田梅岩が「都鄙問答」を出版した約15年前に書かれたこの著作は、18世紀における新商人イデオロギーの形成過程に見落とすことの出来ない役割を果たしたというのは、決して過言ではないと思います。 
  
寿阿弥の手紙 / 森鴎外

 

わたくしは渋江抽斎(しぶえちうさい)の事蹟を書いた時、抽斎の父定所の友で、抽斎に劇神仙の号を譲つた寿阿弥陀仏(1769-1848)の事に言ひ及んだ。そして寿阿弥が文章を善くした証拠として其手紙を引用した。 
寿阿弥の手紙は苾堂(ひつどう)と云ふ人に宛てたものであつた。わたくしは初め苾堂の何人たるかを知らぬので、二三の友人に問ひ合せたが明答を得なかつた。そこで苾堂は誰かわからぬと書いた。 
さうすると早速其人は駿河の桑原苾堂であらうと云つて、友人賀古鶴所さんの許に報じてくれた人がある。それは二宮孤松さんである。二宮氏は五山堂詩話の中の詩を記憶してゐたのである。 
わたくしは書庫から五山堂詩話を出して見た。五山は其詩話の正篇に於て、一たび苾堂を説いて詩二首を挙げ、再び説いて、又四首を挙げ、後補遺に於て、三たび説いて一首を挙げてゐる。詩の采録を経たるもの通計七首である。そして最初にかう云ふ人物評が下してある。「公圭書法嫻雅(公圭、書法は嫻雅)、兼善音律(兼て音律を善くす)、其人温厚謙恪(其人は温厚謙恪)、一望而知為君子(一望して君子為るを知る)」と云ふのである。公圭は苾堂の字である。 
次で置塩棠園さんの手紙が来て、わたくしは苾堂の事を一層精しく知ることが出来た。 
桑原苾堂、名は正瑞、字は公圭、通称は古作である。天明四(1784)年に生れ、天保八(1837)年六月十八日に歿した。桑原氏は駿河国島田駅の素封家で、徳川幕府時代には東海道十三駅の取締を命ぜられ、兼て引替御用を勤めてゐた。引替御用とは為換(かはせ)方を謂ふのである。桑原氏が後に産を傾けたのは此引換のためださうである。 
菊池五山は苾堂の詩と書と音律とを称してゐる。苾堂は詩を以て梁川星巌、柏木如亭及五山と交つた。書は子ミ(すかう)を宗とし江戸の佐野東洲の教を受けたらしい。又画をも学んで、崋山門下の福田半香、その他勾田台嶺(まがたたいれい)、高久隆古等と交つた。 
苾堂の妻は置塩蘆庵の二女ためで、石川依平(よりひら)の門に入つて和歌を学んだ。蘆庵は棠園さんの五世の祖である。 
苾堂の子は長を霜崖と云ふ。名は正旭である。書を善くした。次を桂叢と云ふ。名は正望である。画を善くした。桂叢の墓誌銘は斎藤拙堂が撰んだ。 
桑原氏の今の主人は喜代平さんと称して苾堂の玄孫に当つてゐる。戸籍は島田町にあつて、町の北半里許の伝心寺に住んでゐる。伝心寺は桑原氏が独力を以て建立した禅寺で、寺禄をも有してゐる。桑原氏累代の菩提所である。 
以上の事実は棠園さんの手書中より抄出したものである。棠園さんは置塩氏、名は維裕、字は季余(きよ)、通称は藤四郎である。居る所を聴雲楼と云ふ。川田甕江(をうこう)の門人で、明治三十三年に静岡県周智郡長から伊勢神宮の神官に転じた。今は山田市岩淵町に住んでゐる。わたくしの旧知内田魯庵さんは棠園さんの妻の姪夫(めひむこ)ださうである。 
わたくしは寿阿弥の手紙に由つて棠園さんと相識になつたのを喜んだ。  
寿阿弥の手紙の宛名桑原苾堂が何人かと云ふことを、二宮孤松さんに由つて略知ることが出来、置塩棠園さんに由つて委く知ることが出来たので、わたくしは正誤文を新聞に出した。然るに正誤文に偶誤字があつた。市河三陽さんは此誤字を正してくれるためにわたくしに書を寄せた。 
三陽さんは祖父米庵が苾堂と交はつてゐたので、苾堂の名を知つてゐた。米庵の西征日乗中癸亥十月十七日の条に、「十七日、到島田、訪桑原苾堂已宿」と記してある。癸亥は享和三(1803)年で、安永八(1779)年生れの米庵が二十五歳、天明四(1784)年生の苾堂が二十歳の時である。客も主人も壮年であつた。わたくしは主客の関係を詳にせぬが、苾堂の詩を詩話中に収めた菊池五山が米庵の父寛斎の門人であつたことを思へば、米庵は苾堂がためには、啻に己より長ずること五歳なる友であつたのみではなく、頗る貴い賓客であつただらう。 
三陽さんは別に其祖父米庵に就いてわたくしに教ふる所があつた。これはわたくしが渋江抽斎の死を記するに当つて、米庵に言ひ及ぼしたからである。抽斎と米庵とは共に安政五年の虎列拉に侵された。抽斎は文化二(1805)年生の五十四歳、米庵は八十歳であつたのである。しかしわたくしは略抽斎の病状を悉してゐて、その虎列拉たることを断じたが、米庵を同病だらうと云つたのは、推測に過ぎなかつた。 
わたくしの推測は幸にして誤でなかつた。三陽さんの言ふ所に従へば、神惟徳の米庵略伝に下の如く云つてあるさうである。「震災後二年を隔てて夏秋の交に及び、先生時邪に犯され、発熱劇甚にして、良医交々来り診し苦心治療を加ふれど効験なく、年八十にして七月十八日溘然属\の哀悼を至す」と云ふのである。又当時虎列拉に死した人々の番附が発刊せられた。三陽さんは其二種を蔵してゐるが、並に皆米庵を載せてゐるさうである。 
寿阿弥の苾堂に遣つた手紙は、二三の友人がこれを公にせむことを勧めた。わたくしも此手紙の印刷に附する価値あるものたるを信ずる。なぜと云ふに、その記する所は開明史上にも文芸史上にも尊重すべき資料であつて、且読んで興味あるべきものだからである。 
手紙には考ふべき人物九人と苾堂の親戚知人四五人との名が出てゐる。前者中儒者には山本北山がある。詩人には大窪天民、菊池五山、石野雲嶺がある。歌人には岸本弦がある。画家には喜多可庵がある。茶人には川上宗寿がある。医師には分家名倉がある。俳優には四世坂東彦三郎がある。手紙を書いた寿阿弥と其親戚と、手紙を受けた苾堂と其親戚知人との外、此等の人物の事蹟の上に多少の光明を投射する一篇の文章に、史料としての価値があると云ふことは、何人も否定することが出来ぬであらう。  
わたくしは寿阿弥の手紙に註を加へて印刷に付することにしようかとも思つた。しかし文政頃の手紙の文は、縦ひ興味のある事が巧に書いてあつても、今の人には読み易くは無い。忍んでこれを読むとしたところで、許多の敬語や慣用語が邪魔になつてその煩はしきに堪へない。ましてやそれが手紙にめづらしい長文なのだから、わたくしは遠慮しなくてはならぬやうに思つて差し控へた。 
そしてわたくしは全文を載せる代りに筋書を作つて出すことにした。以下が其筋書である。 
手紙には最初に二字程下げて、長文と云ふことに就いてのことわりが言つてある。これだけは全文を此に写し出す。「いつも余り長い手紙にてかさばり候故、当年は罫紙に認候。御免可被下候。」わたくしは此ことわりを面白く思ふ。当年はと云つたのは、年が改まつてから始めて遣る手紙だからである。其年が文政十一(1828)年であることは、下に明証がある。六十歳の寿阿弥が四十五歳の苾堂に書いて遣つたのである。 
寿阿弥と苾堂との交は余程久しいものであつたらしいが、其詳なることを知らない。只此手紙の書かれた時より二年前に、寿阿弥が苾堂の家に泊つてゐたことがある。山内香雪が市河米庵に随つて有馬の温泉に浴した紀行中、文政九年丙戌二月三日の条κ、「二日、藤枝に至り、荷渓また雲嶺を問ふ、到島田問苾堂、寿阿弥為客こゝにあり、掛川仕立屋投宿」と云つてある。帰途に米庵等は苾堂の家に宿したが、只「主島田苾堂」とのみ記してある。これは四月十八日の事である。紀行は市河三陽さんが抄出してくれた。 
荷渓は五山堂詩話に出てゐる。「藤枝冡荷渓。碧字風暁。才調独絶。工画能詩。(中略)於詩意期上乗。是以生平所作。多不慊己意。撕毀摧焼。留者無幾。」菊池五山は西駿の知己二人として、荷渓と苾堂とを並記してゐる。 
次に書中に見えてゐるのは、不音のわび、時候の挨拶、問安で、其末に「貧道無異に勤行仕候間乍憚御掛念被下間敷候」とある。勤行と書いたのは剃髪後だからである。当時の武鑑を閲するに、連歌師の部に浅草日輪寺其阿と云ふものが載せてあつて、寿阿弥は執筆目輪寺内寿阿曇「と記してある。原来時宗遊行派の阿弥号は相摸国高座郡藤沢の清浄光寺から出すもので、江戸では浅草芝崎町日輪寺が其出張所になつてゐた。想ふに新石町の菓子商で真志屋五郎作と云つてゐた此人は、寿阿弥号を受けた後に、去つて日輪寺其阿の許に寓したのではあるまいか。 
寿阿弥は単に剃髪したばかりでは無い。僧衣を着けて托鉢にさへ出た。托鉢に出たのは某年正月十七日が始で、先づ二代目烏亭焉馬の八丁堀の家の門に立つたさうである。江戸町与力の伜山崎賞次郎が焉馬の名を襲いだのは、文政十一(1828)年だと云ふことで、月日は不詳である。わたくしが推察するに、焉馬は文政十一年の元日から襲名したので、其月十七日に寿阿弥は托鉢に出て、先づ焉馬を驚したのではあるまいか。若しさうだとすると、苾堂に遣る此遅馳の年始状を書いたのは、始て托鉢に出た翌月であらう。此手紙は二月十九日の日附だからである。 
寿阿弥が托鉢に出て、焉馬の門に立つた時の事は、仮名垣魯文が書いて、明治二十三年一月二十二日の歌舞伎新報に出した。わたくしの手許には鈴木春浦さんの写してくれたものがある。 
寿阿弥は焉馬の門に立つて、七代目団十郎の声色で「厭離焉馬、欣求浄土、寿阿弥陀仏々々々々々」と唱へた。 
深川の銀馬と云ふ弟子が主人に、「怪しい坊主が来て焉馬がどうのかうのと云つてゐます」と告げた。 
焉馬は棒を持つて玄関に出て、「なんだ」と叫んだ。 
寿阿弥は数歩退いて笠を取つた。 
「先生悪い洒落だ」と、焉馬は棒を投げた。「まあ、ちよつとお通下さい。」 
「いや。けふは修行中の草鞋穿だから御免蒙る。焉馬あつたら又逢はう。」云ひ畢つて寿阿弥は、岡崎町の地蔵橋の方へ、錫枚を衝き鳴らして去つたと云ふのである。 
魯文の記事には多少の文飾もあらうが、寿阿弥の剃髪、寿阿弥の勤行がどんなものであつたかは、大概此出来事によつて想見することが出来よう。寛政三(1791)年生で当時三十八歳の戯作者焉馬が、寿阿弥のためには自分の贔屓にして遣る末輩であつたことは論を須たない。  
次に「大下の岳母様」が亡くなつたと聞いたのに、弔書を遣らなかつたわびが言つてある。改年後始めて遣る手紙にくやみを書いたのは、寿阿弥が物事に拘らなかつた証に充つべきであらう。 
大下の岳母が何人かと云ふことは、棠園さんに問うて知ることが出来た。駿河国志太郡島田駅で桑原氏の家は駅の西端、置塩氏の家は駅の東方にあつた。土地の人は彼を大上と看ひ、此を大下と云つた。苾堂は大上の檀那と呼ばれてゐた。苾堂の妻ためは大下の置塩氏から来り嫁した。ための父即ち苾堂の岳父は置塩薦庵で、母即ち苾堂の岳母は蘆庵の妻すなである。 
さて大下の岳母すなは文政十年(1827)九月十二日に歿した。寿阿弥は其年の冬のうちに弔書を寄すべきであるのに、翌文政十一年(1828)年の春まで不音に打ち過ぎた。其詫言を言つたのである。 
次に「清右衛門様先はどうやらかうやら江戸に御辛抱の御様子故御案じ被成間敷候」云々と云ふ一節がある。此清右衛門と云ふ人の事蹟は、棠園さんの手許でも猶不明の廉があるさうである。しかし大概はわかつてゐる。苾堂の同家に桑原清右衛門と云ふ人があつた。同家とのみで本末は明白でない。清右衛門は名を公綽と云つた。江戸に往つて、仙石家に仕へ、用人になつた、当時の仙石家は但馬国出石郡出石の城主仙石道之助久利の世である。清右衛門は仙石家に仕へて、氏名を原逸一と更めた。頗る気節のある人で、和歌を善くし、又画を作つた。画の号は南田である。晩年には故郷に帰つて、明治の初年に七十余歳で歿したさうである。文政十一(1828)年の二月は此清右衛門が奉公口に有り附いた当座であつたのではあるまいか。気節のある人が志を得ないでゐたのに、咋今どうやらかうやら辛抱してゐると云ふやうに、寿阿弥の文は読まれるのである。 
次の一節は頗る長く、大窪天民と喜多可庵との直話を骨子として、逐年物価が騰貴し、儒者画家などの金を獲ることも容易ならず、束脩謝金の高くなることを言つたものである。 
大窪天民は、「客歳」と云つてあるから文政十(1827)年に、加賀から大阪へ旅稼に出たと見える。天民の収入は、江戸に居つても「一日に一分や一分二朱」は取れるのである。それが加賀へ往つたが、所得は「中位」であつた。それから「どつと当るつもり」で大阪へ乗り込んだ。大阪では佐竹家蔵屋敷の役人等が周旋して大賈の書を請ふものが多かつた。然るに天民は出羽国秋田郡久保田の城主佐竹右京大夫義厚の抱への身分で、佐竹家蔵屋敷の役人が「世話を焼いてゐる」ので、町人共が「金子の謝礼はなるまいとの間ちがひ」をしたので、ここも所得は少かつた。此旅行は「都合日数二百日にて、百両ばかり」にはなつた。「一日が二分ならし」である。これでは江戸にゐると大差はなく、「出かけただけが損」だと云つてある。  
天民が加賀から帰る途中の事に就て、寿阿弥はかう云つてゐる。「加賀の帰り高堂の前をば通らねばならぬ処ながら、直通りにて、其夜は雲嶺へ投宿のやうに申候、是は一杯飲む故なるベし。」天民の上戸は世の知る所である。此文を見れば、雲嶺も亦酒を嗜んだことがわかり、又苾堂が下戸であつたことがわかる。雲嶺は石野氏、名は世彝、一に世夷に作る、字は希之、別に天均又皆梅と号した。亦駿河の人で詩を善くした。皇朝分類名家絶句等に其作が載せてある。 
皇朝分類名家絶句の事は、わたくしは初め萩野由之さんに質して知つた。これがわたくしの雲嶺の石野氏なることを知つた始である。後にわたくしは拙堂文集を読んでふと「皆梅園記」を見出だした。斎藤拙堂はかう云つてゐる。「老人姓石氏。本為市井人。住藤枝駅。風流温藉。以善詩聞於江湖上。庚子歳余東征。過憩駅亭相見。間晤半日。知其名不虚。爾来毎門下生往来過駅。輒嘱訪老人。得其近作以覧観焉。去年夏余復東征。宿駅亭。首問老人近状。駅吏曰。数年前辞市務。老於孤山下村。余即往訪之。従駅中左折数武。槐花満地。既覚非尋常行蹊。竹籬茅屋間。得門而入。老人大喜。迎飲於其舎。園数畝。経営位置甚工。皆出老人之意匠。有菅神廟林仙祠。各奉祀其主。有賜春館。傍植東叡王府所賜之梅。其他皆以梅為名。有小香国鶴避茶寮鶯逕戛玉泉等勝。前対巌田洞雲二山。風煙可愛。使人徘徊賞之。」庚子は天保十一(1840)年で、拙堂は藤堂高猷に扈随して津から江戸に赴いたのであらう。記を作つたのは安政中の事かとおもはれる。 
天民の年齢は、市河三陽さんの言に従へば、明和四(1767)年生で天保八(1837)年に七十一歳を以て終つたことになるから、加賀大阪の旅は六十一歳の時であつた。素通りをせられた苾堂は四十四歳であつた。 
喜多可庵の直話を寿阿弥が聞いて書いたのも、天民と五山との詩の添削料の事である。これは首尾の整つた小品をなしてゐるから、全文を載せる。「画人武清上州桐生に游候時、桐生の何某申候には、数年玉池へ詩を直してもらひに遣し候へ共、兎角斧正麤漏にて、時として同字などある時もありてこまり申候、これよりは五山へ願可申候間、先生御紹介可被下と頼候時、武清申候には、随分承知致候、帰府の上なり共、当地より文通にてなり共、五山へ可申込候、しかしながら爰に一つの訳合あり、謝物が薄ければ、疏漏は五山も同じ事なるべし、矢張馴染の天民へ気を附て謝物をするがよささうな物と申てわらひ候由、武清はなしに御座候。」武清は可庵の名である。又笑翁とも号した。文晁門で八丁堀に住んでゐた。安永五(1776)年生で安政三(1856)年に八十一歳で歿した人だから、此話を寿阿弥に書かれた時が五十三歳であつた。玉池は天民がお玉が池に住したからの称である。菊池五山は寿阿弥と同じく明和六(1769)年生で、嘉永二(1849)年に八十一歳で歿したから、天民よりは二つの年下で、寿阿弥がこれを書いた時六十歳になつてゐた。 
寿阿弥は天民の話と可庵の話とを書いて、さて束脩の高くなつたことを言つてゐる。其文はかうである。「近年役者の給金のみならげ、儒者の束脩までが高くなり、天民貧道など奚疑塾に居候時分、百疋持た弟子入が参れば、よい入門と申候物が、此頃は天でも五山でも、二分の弟子入はそれ程好いとは思はず、流行はあぢな物に御座候。」寿阿弥は天民と共に山本北山に従学した。奚疑塾は北山の家塾である。北山は宝暦二(1752)年生で文化九(1812)年に六十一歳で歿したから、束脩百疋の時代は、恐らくはまだ二十に満たぬ天民、寿阿弥が三十幾歳の北山に師事した天明の初年であらう。此手紙は北山歿後十六年に書かれたのである。天は天民の後略である。 
次は寿阿弥が怪我をして名倉の治療を受けた記事になつてゐる。怪我をした時、場所、容体、名倉の診察、治療、名倉の許で邂逅した怪我人等が頗る細かに書いてある。 
時は文政十年(1827)七月末で、寿阿弥は姪の家の板の間から落ちた。そして両腕を傷めた。「骨は不砕候へ共、両腕共強く痛め候故」云々と云つてある。  
寿阿弥が怪我をした家は姪の家ださうで、「愚姪方」と云つてある。此姪は其名を詳にせぬが、尋常の人では無かつたらしい。 
寿阿弥の姪は茶技には余程精しかつたと見える。同じ手紙の末にかう云つてある。「近況茶事御取出しの由川上宗寿、三島の鯉昇などより伝聞仕候、宗寿と申候者風流なる人にて、平家をも相応にかたり、貧道は連歌にてまじはり申候、此節江戸一の茶博士に御座候て、愚姪など敬伏仕り居候事に御座候。」これは苾堂が一たびさしおいた茶を又弄ぶのを、宗寿、鯉昇等に聞いたと云つて、それから宗寿の人物評に入り、宗寿を江戸一の茶博士と称へ、姪も敬服してゐると云つたのである。 
川上宗寿は茶技の聞人である。宗寿は宗什に学び、宗什は不白に学んだ。安永六(1777)年に生れ、弘化元(1844)年に六十八歳で歿したから、此手紙の書かれた時は五十二歳である。寿阿弥は姪が敬服してゐると云ふを以て、此宗寿の重きをなさうとしてゐる。姪は余程茶技に精しかつたものとしなくてはならない。手紙に宗寿と並べて挙げてある三島の鯉昇は、その何人たるを知らない。 
寿阿弥は両腕の打撲を名倉弥次兵衛に診察して貰つた。「はじめ参候節に、弥次兵衛申候は、生得の下戸と、戒行の堅固な処と、気の強い処と、三つのかね合故、目をまはさずにすみ申候、此三つの内が一つ闕候ても目をまはす怪我にて、目をまはす程にては、療治も二百日余り懸り可申、目をばまはさずとも百五六十日の日数を経ねば治しがたしと申候。」流行医の口吻、昔も今も殊なることなく、実に其声を聞くが如くである。 
寿阿弥は文政十年(1827)七月の末に怪我をして、其時から日々名倉へ通つた。「極月末までかゝり申候」と云つてあるから、五箇月間通つたのである。さて翌年二月十九日になつても、「今以而金快と申には無御座候而、少々麻痹仕候気味に御座候へ共、老体のこと故、元の通りには所詮なるまいと、其儘に而此節は療治もやめ申候」と云ふ転掃である。 
手紙には当時の名倉の流行が叙してある。「元大阪町名倉弥次兵衛と申候而、此節高名の骨接医師、大に流行にて、日々八十人九十人位づゝ怪我人参候故、早朝参候而も順繰に待居候間、終日かゝり申候。」流行医の待合の光景も亦古今同趣である。次で寿阿弥が名倉の家に於て邂逅した人々の名が挙げてある。「岸本椎園、牛込の東更なども怪我にて参候、大塚三太夫息八郎と申人も名倉にて邂逅、其節御噂も申出候。」やまぶきぞのの岸本虫豆流は寛政元(1789)年に生れ、弘化三(1846)年に五十八歳で歿したから、寿阿弥に名倉で逢つた文政十年(1827)には三十九歳である。通称は佐佐木信綱さんに問ふに、大隅であつたさうであるが、此年の武鑑御弦師の下には、五十俵白銀一丁目岸本能声と云ふ人があるのみで、大隅の名は見えない。能声と大隅とは同人か非か、知る人があつたら教へて貰ひたい。牛込の東更は艸体の文字が不明であるから、読み誤つたかも知れぬが、その何人たるを詳にしない。大塚父子も未だ考へ得ない。  
寿阿弥は怪我の話をして、其末には不沙汰の詫言を繰り返してゐる。 
「怪我旁」で疎遠に過したと云ふのである。此詫言に又今一つの詫言が重ねてある。それは例年には品物を贈るに、今年は「から手紙」を遣ると云ふので、理由としては「御存知の丸焼後万事不調」だと云ふことが言つてある。 
寿阿弥の家の焼けたのは、いつの事か明かでない。又その焼けた家もどこの家だか明かでない。しかし試に推測すればかうである、真志屋の菓子店は新石町にあつて、そこに寿阿弥の五郎作は住んでゐた。此家が文政九(1826)年七月九日に松田町から出て、南風でひろがつた火事に焼けた。これが手紙に所謂丸焼である。さて其跡に建てた家に姪を住まはせて菓子を売らせ、寿阿弥は連歌仲間の浅草の日輪寺其阿が所に移つた。しかし折々は姪の店にも往つてとまつてゐた。怪我をしたのはさう云ふ時の事である。わたくしの推測は、単に此の如くに説くときは、余りに空漠であるが、下にある文政十一(1828)年の火事の段と併せ考ふるときは、稍プロバビリテエが増して来るのである。 
次に遊行上人の事が書いてある。手紙を書いた文政十一年(1828)年三月十日頃に、遊行上人は駿河国志太郡焼津の普門寺に五日程、それから駿河本町の一華堂に七日程留錫する筈である。さて島田駅の人は定めて普門寺へ十念を受けに往くであらう。苾堂の親戚が往く時雑遝のために困まぬやうに、手紙と切手とを送る。最初に往く親戚は手紙と切手とを持つて行くが好い。手紙は普門寺に宛てたもので、中には証牛と云ふ僧に世話を頼んである。証牛は寿阿弥の弟子である。切手は十念を受ける時、座敷に通す特待券である。二度目からは切手のみを持つて行つて好いと云ふのである。寿阿弥は時宗の遊行派に縁故があつたものと見えて、海録にも山崎美成が遊行上人の事を寿阿弥に問うて書き留めた文がある。 
次に文政十一年(1828)年二月五日の神田の火事が「本月五日」として叙してある。手紙を書く十四日前の火事である。単に二月十九日とのみ日附のしてある此手紙を、文政十一年のものと定めるには、此記事だけでも足るのである。火の起つたのは、武江年表に暮六時としてあるが、此手紙には「夜五つ時分」としてある。火元は神田多町二丁目湯屋の二階である。これは二階と云ふだけが、手紙の方が年表より委しい。年表には初め東風、後北風としてあるのに、手紙には「風もなき夜」としてある。恐くは徴風であつたのだらう。 
延焼の町名は年表と手紙とに互に出入がある。年表には「東風にて西神田町一円に類焼し、又北風になりて、本銀町、本町、石町、駿河町、室町の辺に至り、夜亥の下刻鎮まる」と云つてある。手紙には「西神田はのこらず焼失、北は小川町へ焼け出で、南は本町一丁目片かは焼申候、(中略)町数七十丁余、死亡の者六十三人と申候ことに御座候」と云つてある。 
わたくしの前に云つた推測は、寿阿弥が姪の家と此火事との関係によつてプロバビリテエを増すのである。手紙に「愚姪方は大道一筋の境にて東神田故、此度は免れ候へ共、向側は西神田故過半焼失仕り候」と云つてある。わたくしはこの姪の家を新石町だらうと推するのである。  
文政十一年(1828)年二月五日に多町二丁目から出た火事に、大道一筋を境にして東側にあつて類焼を免れた家は、新石町にあつたとするのが殆ど自然であらう。新石町は諸書に見えてゐる真志屋の菓子店のあつた街である。そこから日輪寺方へ移る時、寿阿弥は菓子店を姪に譲つたのだらう、其時昔の我店が「愚姪方」になつたのだらうと云ふ推測は出て来るのである。 
寿阿弥は若し此火事に姪の家が焼けたら、自分は無宿になる筈であつたと云つてゐる。「難渋之段愁訴可仕水府も、先達而丸焼故難渋申出候処無之、無宿に成候筈」云々と云つてゐる。これは此手紙の中の難句で、句読次第でどうにも読み得られるが、わたくしは水府もの下で切つて、丸焼は前年七月の真志屋の丸焼を斥すものとしたい。既に一たび丸焼のために救助を仰いだ水戸家に、再び愁訴することは出来ぬと云ふ意味だとしたい。なぜと云ふに丸焼故の下で切ると、水府が丸焼になつたことになる。当時の水戸家は上屋敷か小石川門外、中屋敷か本郷追分、目白の二箇所、下屋敷か永代新田、小梅村の二箇所で、此等は火事に逢つてゐないやうである。寿阿弥が水戸家の用達商人であつたことは、諸書に載せてある通りである。 
寿阿弥の手紙には、多町の火事の条下に、一の奇聞が載せてある。此に其全文を挙げる。「永富町と申候処の銅物屋大釜の中にて、七人やけ死申候、(原註、親父一人、息子一人、十五歳に成候見せの者一人、丁穉三人、抱への鳶の者一人)外に十八歳に成候見せの者一人、丁穉一人、母一人、嫁一人、乳飲子一人、是等は助り申候、十八歳に成候者愚姪方にて去暮迄召仕候女の身寄之者、十五歳に成候者愚姪方へ通ひづとめの者の宅の向ふの大工の伜に御坐候、此銅物屋の親父夫婦貪慾強情にて、七年以前見せの手代一人土蔵の三階にて腹切相果申候、此度は共恨なるべしと皆人申候、銅物屋の事故大釜二つ見せの前左右にあり、五箇年以前此辺出火之節、向ふ側計焼失にて、道幅も格別広き処故、今度ものがれ可申、さ候はば外へ立のくにも及ぶまじと申候に、鳶の者もさ様に心得、いか様にやけて参候とも、此大釜二つに水御坐候故、大丈夫助り候由に受合申候、 
十八歳に成候男は土蔵の戸前をうちしまひ、是迄はたらき候へば、私方は多町一丁目にて、此所よりは火元へも近く候間、宅へ参り働き度、是より御暇被下れと申候て、自分親元へ働に帰り候故助り申候、此者の一処に居候間の事は演舌にて分り候へども、其跡は推量に御坐候へ共、とかく見せ蔵、奥蔵などに心のこり、父子共に立のき兼、鳶の者は受合旁故彼是仕候内に、火勢強く左右より燃かかり候故、そりや釜の中よといふやうな事にて釜へ入候処、釜は沸上り、烟りは吹かけ、大釜故入るには鍔を足懸りに入候へ共、出るには足がかりもなく、釜は熱く成旁にて死に候事と相見え申候、母と嫁と小児と丁穉一人つれ、貧道弟子杵屋佐吉が裏に親類御坐候而夫へ立退候故助り申候、一つの釜へ父子と丁穉一人、一つの釜へ四人入候て相果申候、此事大評判にて、釜は檀那寺へ納候へ共、見物夥敷参候而不外聞の由にて、寺にては(自註、根津忠綱寺一向宗)門を閉候由に御坐候、死の縁無量とは申ながら、余り変なることに御坐候故、御覧も御面倒なるべくとは奉存候へ共書付申候。」  
此銅物屋は屋号三文字屋であつたことが、大郷信斎の道聴途説に由つて知られる。道聴途説は林若樹さんの所蔵の書である。 
釜の話は此手紙の中で最も欣賞すべき文章である。叙事は精緻を極めて一の剰語をだに著けない。実に拠つて文を行る間に、『そりや釜の中よ』以下の如き空想の発動を見る。寿阿弥は一部の書をも著さなかつた。しかしわたくしは寿阿弥がいかなる書をも著はすことを得る能文の人であつたことを信ずる。 
次に笛の彦七と云ふものと、坂東彦三郎とのコンプリマンを取り次いでゐる。彦七はその何人なるを考へることが出来ない。しかし「祭礼の節は不相変御厚情蒙り難有由時々申出候」と云つてあるから、江戸から神楽の笛を吹きに往く人であつたのではなからうか。 
「坂東彦三郎も御噂申出、兎角駿河へ参りたい参りたいと計申居候」の句は、人をして十三駅取締(=苾堂)の勢力をしのばしむると同時に、苾堂の襟懐をも想ひ遣らせる。彦三郎は四世彦三郎であることは論を須たない。寛政十二(1800)年に生れて、明治六(1873)年に七十四歳で歿した人だから、此手紙の書かれた時二十九歳になつてゐた。「去夏狂言評好く拙作の所作事勤候処、先づ勤めてのき候故、去顔見せには三座より抱へに参候仕合故、まづ役者にはなりすまし申候。」彦三郎を推称する語の中に、寿阿弥の高く自ら標置してゐるのが窺はれて、頗る愛敬がある。 
次に茶番流行の事が言つてある。これは「別に書付御覧に入候」と云つてあるが、別紙は佚亡してしまつた。 
「何かまだ申上度儀御座候やうながら、あまり長事故、まづ是にて擱筆、奉待後鴻候頓首。」此に二月十九日の日附があり、寿阿と署してある。宛は苾堂先生座有としてある。 
次に苾堂の親戚及同駅の知人に宛てたコンプリマンが書き添へてある。其中に「小右衛門殿へも宜しく」と特筆してあるから、試に棠園さんに小右衛門の誰なるかを問うて見たが、これはわからなかつた。 
寿阿弥は此等の人々に一々書を裁するに及ばぬ分疏に、「府城、沼津、焼津等所々認候故、自由ながら貴境は先生より御口達奉願候」と云つてゐる。わたくしは筆不精ではないが、手紙不精で、親威故旧に不沙汰ばかりしてゐるので、読んで此に到つた時寿阿弥のコルレズボンダンスの範囲に驚かされた。 
寿阿弥の生涯は多く暗黒の中にある。抽斎文庫には秀鶴冊子と劇神仙話とが各二部あつて、そのどれかに抽斎が此人の事を手記して置いたさうである。青々園伊原さんの言に、劇神仙話の一本は現に安田横阿弥さんの蔵弆する所となつてゐるさうである。若し其本に寿阿弥が上に光明を投射する書入がありはせぬか。 
抽斎文庫から出て世間に散らばつた書籍の中、演劇に関するものは、意外に多く横阿弥さんの手に拾ひ集められてゐるらしい。珍書刊行会は曾て抽斎の奥書のある喜三二が随筆を印行したが、大正五年五月に至つて、又飛蝶の劇界珍話と云ふものを収刻した、前者は無論横阿弥さんの所蔵本に拠つたものであらう。後者に署してある名の飛蝶は、抽斎の次男優善後の優が寄席に出た頃看板に書かせた芸名である。劇界珍話は優善の未定稿が渋江氏から安田氏の手にわたつてゐて、それを刊行会が謄写したものではなからうか。  
寿阿弥の生涯は多く暗黒の中にある。写本刊本の文献に就てこれを求むるに、得る所が甚だ少い。然るにわたくしは幸に一人の活きた典拠を知つてゐる。それは伊沢蘭軒の嗣子榛軒の女で、棠軒の妻であつた曾能子刀自である。刀自は天保六(1835)年に生れて大正五(1916)年に八十二歳の高齢を保つてゐて、耳も猶聡く、言舌も猶さわやかである。そして寿阿弥の晩年の事を実験して記憶してゐる。 
刀自の生れた天保六年には、寿阿弥は六十七歳であつた。即ち此手紙が書かれてから七年の後に、刀自は生れたのである。刀自が四五歳の頃は寿阿弥が七十か七十一の頃で、それから刀自が十四歳の時に寿阿弥が八十で歿するまで、此畸人の言行は少女の目に映じてゐたのである。 
刀自の最も古い記憶として遺つてゐるのは寿阿弥の七十七の賀で、刀自が十一歳になつた弘化二(1845)年の出来事である。此賀は刀自の父榛軒が主として世話を焼いて挙行したもので、歌を書いた袱紗が知友の間に配られた。 
次に寿阿弥の奇行が穉かつた刀自に驚異の念を作さしめたことがある。それは寿阿弥が道に溺する毎に手水を使ふ料にと云つて、常に一升徳利に水を入れて携へてゐた事である。 
わたくしは前に寿阿弥の托鉢の事を書いた。そこには一たび仮名垣魯文のタンペラマンを経由して写された寿阿弥の滑稽の一面のみが現れてゐた。劇通で芝居の所作事をしくんだ寿阿弥に斯の如き滑稽のあつたことは怪むことを須ゐない。 
しかし寿阿弥の生活の全体、特にその僧侶としての生活が、啻に滑稽のみでなかつたことは、活きた典拠に由つて証せられる。少時の刀自の目に映じた寿阿弥は真面目の僧侶である。真面日の学者である。只此僧侶学者は往々人に異なる行を敢てしたのである。 
寿阿弥は刀自の穉かつた時、伊沢の家へ度々来た。僧侶としては毎月十七日に闕かさずに来た。これは此手紙の書かれた翌年、文政十二年三月十七日に歿した蘭軒の忌日である。此日には刀自の父榛軒が寿阿弥に読経を請ひ、それが畢つてから饗応して還す例になつてゐた。饗饌には必ず蕃椒を皿に一ぱい盛つて附けた。寿阿弥はそれを剰さずに食べた。「あの方は年に馬に一駄の蕃椒を食へるのださうだ」と人の云つたことを、刀自は猶記憶してゐる。寿阿弥の着てゐたのは木綿の法衣であつたと刀白は云ふ。 
寿阿弥に請うて読経せしむる家は、独り伊沢氏のみではなかつた。寿阿弥は高貴の家へも回向に往き、素封家へも往つた。刀自の識つてゐた範囲では、飯田町あたりに此人を請ずる家が殊に多かつた。 
寿阿弥は又学者として日を定めて伊沢氏に請ぜられた。それは源氏物語の講釈をしに来たのである。此講筵も亦独り伊沢氏に於て開かれたのみではなく、他家でも催されたさうである。刀自は寿阿弥が同じ講釈をしに永井えいはく方へ往くと云ふことを聞いた。 
永井えいはくは何人なるを詳にしない。医師か、さなくば所謂お坊主などで、武鑑に載せてありはせぬかと思つて検したが、見当らなかつた。表坊主に横井栄伯があつて、氏名が稍似てゐるが、これは別人であらう。或は想ふに、永井氏は諸侯の抱医師若くは江戸の町医ではなからうか。  
寿阿弥が源氏物語の講釈をしたと云ふことに因んだ話を、伊沢の刀自は今一つ記憶してゐる。それはかうである、或時人々が寿阿弥の噂をして、「あの方は坊さんにおなりなさる前に、奥さんがおありなさつたでせうか」と誰やらが問うた。すると誰やらが答へて云つた。「あの方は己に源氏のやうな文章で手紙を書いてよこす女があると、己はすぐ女房に持つのだがと云つて入らつしやつたさうです。しかしさう云ふ女がとうとう無かつたと云ふことです。」此話に由つて観れば、五郎作は無妻であつたと見える。五郎作が千葉氏の女壻になつて出されたと云ふ、喜多村筠庭の説は疑はしい。 
寿阿弥は伊沢氏に来ても、回向に来た時には雑談などはしなかつた。しかし講釈に来た時には、事果てて後に暫く世間話をもした。刀自はそれに就いてかう云ふ。「惜しい事には其時寿阿弥さんがどんな話をなさつたやら、わたくしは記えてゐません、どうも石川貞白さんなどのやうに、子供の面白がるやうな事を仰やらなかつたので、後にはわたくしは余り其席へ出ませんでした。」石川貞白は伊沢氏と共に福山の阿部家に仕へてゐた医者である。当時阿部家は伊勢守正弘の代であつた。 
刀自は寿阿弥の姪の事をも少し知つてゐる。姪は五郎作の妹の子であつた。しかし恨むらくは其名を逸した。刀自の記憶してゐるのは蒔絵師としての姪の号で、それはすゐさいであつたきうである。若し其文字を知るたつきを得たら、他日訂正することとしよう。寿阿弥が蒔絵師の株を貰つたことがあると云ふ筠庭の説は、これを誤り伝へたのではなからうか。 
刀自の識つてゐた頃には、寿阿弥は姪に御家人の株を買つて遣つて、浅草菊屋橋の近所に住はせてゐた。其株は扶持が多く附いてゐなかつたので、姪は内職に蒔絵をしてゐたのださうである。 
或るとき伊沢氏で、蚊母樹で作つた櫛を沢山に病家から貰つたことがある。榛軒は寿阿弥の姪に誂へて、それに蒔絵をさせ、知人に配つた。「大そう牙の長い櫛でございましたので、其比の御婦人はお使なさらなかつたさうです、今なら宜しかつたのでせう」と刀自は云つた。 
菊屋橋附近の家へは、刀自が度々榛軒に連れられて往つた。始て往つた時は十二歳であつたと云ふから、弘化三(1846)年に寿阿弥が七十七歳になつた時の事である。其頃からは寿阿弥は姪と同居してゐて、とうとう其家で亡くなつた。刀自はそれが孟蘭盆の頃であつたと思ふと云ふ。嘉永元(1848)年八月二十九日に歿したと云ふ記載と、略符合してゐる。 
寿阿弥の姪が茶技に精しかつたことは、伯父の手紙に徴して知ることが出来るが、その蒔絵を善くしたことは、刀自の話に由つて知られる。其他蒔絵師としての号をすゐさいと云つたこと、寿阿弥がためには妹の子であつたこと、御家人であつたこと等の分かつたのも、亦刀自の賜である。 
最後に残つてゐるのは、寿阿弥と水戸家との関係である。寿阿弥が水戸家の用達であつたと云ふことは、諸書に載せてある。しかし両者の関係は必ず此用達の名羲に尽きてゐるものとも云ひ難い。 
新石町の菓子商なる五郎作は富豪の身の上ではなかつたらしい。それがどうして三家の一たる水戸家の用達になつてゐたか。又剃髪して寿阿弥となり、幕府の連歌師の執筆にせられてから後までも、どうして水戸家との関係が継続せられてゐたか。これは稍暗黒なる一問題である。  
何故に生涯富人ではなかつたらしい寿阿弥が水戸家の用達と呼ばれてゐたかと云ふ問題は、単に彼海録に見えてゐる如く、数代前から用達を勤めてゐたと云ふのみを以て解釈し尽されてはゐない。水戸家が此用達を待つことの頗る厚かつたのを見ると、問題は一層の暗黒を加ふる感がある。 
手紙の記す所を見るに、寿阿弥が火事に遭つて丸焼になつた時、水戸家は十分の保護を加へたらしい。それゆゑ寿阿弥は再び火事に遭つて、重ねて救を水戸家に仰ぐことを憚かつたのである。これは水戸家の一の用達に対する処置としては、或は稍厚きに過ぎたものと見るべきではなからうか。 
且寿阿弥の経歴には、有力者の渥き庇保の下に立つてゐたのではなからうかと思はれる節が、用達問題以外にもある。久しく連歌師の職に居つたのなどもさうである。啻に其職に居つたと云ふのみではない。わたくしは寿阿弥が曇「と号したのは、芝居好であつたので、緞帳の音に似た文字を選んだものだらうと云ふことを推する。然るに此号が立派に公儀に通つて、年久しく武鑑の上に赫いてゐたのである。 
次に渋江保さんに聞く所に依るに、寿阿弥は社会一般から始終一種の尊敬を受けてゐて、誰も蔭で「寿阿弥が」云々したなどと云ふものはなく、必ず「寿阿弥さんが」と云つたものださうである。これも亦仔細のありさうな事である。 
次に寿阿弥は微官とは云ひながら公儀の務をしてゐて、頻繁に劇場に出入し、俳優と親しく交り、種々の奇行があつても、曾て咎を被つたことを聞かない。これも其類例が少からう。 
此等の不思議の背後には、一の巷説があつて流布せられてゐた。それは寿阿弥は水戸侯の落胤ださうだと云ふのであつた。此巷説は保さんも母五百に聞いてゐる。伊沢の刀自も知つてゐる。当時の社会に於ては所謂公然の秘密の如きものであつたらしい。「なんでも卑しい女に水戸様のお手が附いて下げられたことがあるのださうでございます。菓子店を出した時、大名よりは増屋だと云ふ意で屋号を附けたと聞いてゐます」と、刀自は云ふ。 
わたくしはこれに関して何の判断を下すことも出来ない。しかし真志屋と云ふ屋号の異様なのには、わたくしは初より心附いてゐた。そして刀自の言を聞いた時、なるほどさうかと頷かざることを得なかつた。兎に角真志屋と云ふ屋号は、何か特別な意義を有してゐるらしい。只その水戸家に奉公してゐたと云ふ女は必ずしも寿阿弥の母であつたとは云はれない。其女は寿阿弥の母ではなくて、寿阿弥の祖先の母であつたかも知れない。海録に拠れば、真志屋は数代菓子商で、水戸家の用達をしてゐたらしい。随つて落胤問題も寿阿弥の祖先の身の上に帰着するかも知れない。 
若し然らずして、嘉永元(1848)年に八十歳で歿した寿阿弥自身が、彼疑問の女の胎内に舎つてゐたとすると、寿阿弥の父は明和五六(1768-69)年の交に於ける水戸家の当主でなくてはならない。即ち水戸参議治保でなくてはならない。  
わたくしは寿阿弥の手紙と題する此文を草して将に稿を畢らむとした。然るに何となく心に慊ぬ節があつた。何事かは知らぬが、当に做すべくして做さざる所のものがあつて存する如くであつた。わたくしは前段の末に一の終の字を記すことを猶与した。 
そしてわたくしはかう思惟した。わたくしは寿阿弥の墓の所在を知つてゐる。然るに未だ曾て往いて訪はない。数其名を筆にして、其文に由つて其人に親みつゝ、程近き所にある墓を尋ぬることを怠つてゐるのは、遺憾とすべきである。兎に角一たび往つて見ようと云ふのである。 
雨の日である。わたくしは意を決して車を命じた。そして小石川伝通院の門外にある昌林院へ往つた。 
住持の僧は来意を聞いて答へた。昌林院の墓地は数年前に撤して、墓石の一部は伝通院の門内へ移し入れ、他の一都は洲崎へ送つた。寿阿弥の墓は前者の中にある。しかし柵が結つて錠が卸してあるから、雨中に詣づることは難儀である。幸に当院には位牌があつて、これに記した文字は墓表と同じであるから仏壇へ案内して進ぜようと答へた。 
わたくしは問うた。「柵が結つてあると仰やるのは、寿阿弥一人の墓の事ですか。それとも石塔が幾つもあつて、それに柵が結ひ繞らしてあるのですか。」これは真志屋の祖先数代の墓があるか否かと思つて云つたのである。 
「墓は一つではありません。藤井紋太夫の墓も、力士谷の音の墓もありますから。」 
わたくしは耳を欹てた。「それは思ひ掛けないお話です。藤井紋太夫だの谷の音だのが、寿阿弥に縁故のある人達だと云ふのですか。」 
僧は此間の消息を詳にしてはゐなかつた。しかし昔から一つ所に葬つてあるから、縁故があるに相違なからうとの事であつた。 
わたくしは延かれて位牌の前に往つた。寿阿弥の位牌には、中央に「東陽院寿阿弥陀仏曇「和尚、嘉永元(1848)年戊申八月二十九日」と書し、左右に「戒誉西村清常居士、文政三年庚寅十二月十二日」、「松寿院妙真日実信女、文化十二(1815)年乙亥正月十七日」と書してある。 
僧は「こちらが谷の音です」と云つて、隣の位牌を指きした。「神誉行義居士、明治二十一年十二月二日」と書してある。 
「藤井紋太夫のもありますか」と、わたくしは問うた。 
「紋太夫の位牌はありません。誰も参詣するものがないのです。しかしこちらに戒名が書き附けてあります。」かう云つて紙牌を示した。「光含院孤峯心了居士、元禄七年甲戌十一月二十三日」と書してある。 
「では寿阿弥と谷の音とは参詣するものがあるのですね」と、わたくしは問うた。 
「あります。寿阿弥の方へは牛込の藁店からお婆あさんが命日毎に参られます。谷の音の方へは、当主の関口文蔵さんが福島にをられますので、代参に本所緑町の関重兵衛さんが来られます。」  
命日毎に寿阿弥の墓に詣でるお婆あさんは何人であらう。わたくしの胸中には寿阿弥研究上に活きた第二の典拠を得る望が萌した。そこで僧には卒塔婆を寿阿弥の墓に建てることを頼んで置いて、わたくしは藁店の家を尋ねることにした。 
「藁店の角店で小間物屋ですから、すぐにわかります」と、僧が教へた。 
小間物屋はすぐにわかつた。立派な手広な角店で、五彩目を奪ふ頭飾の類が陳べてある。店顕には、雨の盛に降つてゐるにも拘らず、蛇目傘をさし、塗足駄を穿いた客が引きも切らず出入してゐる。腰を掛けて飾を選んでゐる客もある。皆美しく粧つた少女のみである。客に応接してゐるのは、紺の前掛をした大勢の若い者である。 
若い者はわたくしの店に入るのを見て、「入らつしやい」の声を発することを躊躇した。 
わたくしも亦忙しげな人々を見て、無用の陂b頭を作すを憚らざることを得なかつた。 
わたくしは若い丸髷のお上さんが、子を負つて門に立つてゐるのを顧みた。 
「それ、雨こんこんが降つてゐます」などと、お上さんは背中の子を賺してゐる。 
「ちよつと物をお尋ね申します」と云つて、わたくしはお上さんに来意を述べた。 
お上さんは怪訝の目を睜つて聞いてゐた。そしてわたくしの語を解せざること良久しかつた。無理は無い。此の如き熱鬧場裏に此の如き闌セ語を弄してゐるのだから。 
わたくしが反復して説くに及んで、白い狭い額の奥に、理解の薄明がさした。そしてお上さんは覚えず破顔一笑した。「あゝ。さうですか。ではあの小石川のお墓にまゐるお婆あさんをお尋なさいますのですね。」 
「さうです。さうです。」わたくしは喜禁ずべからざるものがあつた。丁度外交官が談判中に相手をして自己の某主張に首肯せしめた刹那のやうに。 
お上さんは繊い指尖を上框に衝いて足駄を脱いだ。そして背中の子を賺しつゝ、帳場の奥に躱れた。 
代つて現れたのは白髪を切つて撫附にした媼である。「どうぞこちらへ」と云つて、わたくしを揮いた。わたくしは媼と帳場格子の傍に対坐した。 
媼名は石、高野氏、御家人の女である。弘化三年(1846)生で、大正五年には七十一歳になつてゐる。少うして御家人師岡久次郎(もろをかきうじらう)に嫁した。久次郎に二人の兄があつた。長を山崎某と云ひ、仲を鈴木某と云つて、師岡氏は其季であつた。三人は同腹の子で、皆伯父に御家人の株を買つて貰つた。それは商賈であつた伯父の産業の衰へた日の事であつた。 
伯父とは誰ぞ。寿阿弥である。兄弟三人を生んだ母とは誰ぞ。寿阿弥の妹である。  
寿阿弥の手紙に「愚姪」と書してあるのは、山崎、鈴木、師岡の三兄弟中の一人でなくてはならない。それが師岡でなかつたことは明白である。お石さんは夫が生きてゐると大正五年に八十二歳になる筈であつたと云ふ。師岡は天保六(1835)年生で、手紙の書かれたのは師岡未生前七年の文政十一(1828)年だからである。 
山崎、鈴木の二人は石が嫁した時皆歿してゐたので、石は其齢を記憶しない。しかし夫よりは余程の年上であつたらしいと云ふ。兎に角齢の懸隔は小さからう筈が無い。彼の文政十一年(1828)年に既に川上宗寿の茶技を評した人は、師岡に比して大いに長じてゐなくてはならない。わたくしは石の言を聞いて、所謂愚姪は山崎の方であらうかと思つた。 
若し此推測が当つてゐるとすると、伊沢の刀自の記憶してゐる蒔絵師は、均しく是れ寿阿弥の妹の子ではあつても、手紙の中の「愚姪(=山崎)」とは別人でなくてはならない。何故と云ふに石の言に従へば、蒔絵をしたのは鈴木と師岡とで、山崎は蒔絵をしなかつたさうだからである。 
蒔絵は初め鈴木が修行したさうである。幕府の蒔絵師に新銀町と皆川町との鈴木がある。此両家と氏を同じうしてゐるのは、或は故あることかと思ふが、今遽に尋ねることは出来ない。次で師岡は兄に此技を学んだ。伊沢の刀自の記憶してゐるすゐさいの号は、鈴木か師岡か不明である。しかしすゐさいの名は石の曾て聞かぬ名だと云ふから、恐くは兄鈴木の方の号であらう。 
然らば寿阿弥の終焉の家は誰の家であつたか。これはどうも師岡の家であつたらしい。「伯父さんは内で亡くなつた」と、石の夫は云つてゐたさうだからである。 
此の如くに考へて見ると、寿阿弥の手紙にある「愚姪」、伊沢榛軒のために櫛に蒔絵をしたすゐさい、寿阿弥を家に居いて生を終らしめた戸主の三人を、山崎、鈴木、師岡の三兄弟で分坦することとなる。わたくしは此まで考へた時事の奇なるに驚かざるを得なかつた。 
初めわたくしは寿阿弥の手紙を読んだ時、所謂「愚姪」の女であるべきことを疑はなかつた。俗にをひを甥と書し、めひを姪と書するからである。しかし石に聞く所に拠るに、寿阿弥を小父と呼ぶべき女は一人も無かつたらしいのである。 
爾雅に「男子謂姉妹之子為出、女子謂姉妹之子為姪」と云つてある。甥の字はこれに反して頗る多義である。姪は素女子の謂ふ所であつても、公羊伝の舅出の語が広く行はれぬので、漢学者はをひを姪と書する。そこで奚疑塾に学んだ寿阿弥は甥と書せずして姪と書したものと見える。此に至つてわたくしは既に新聞紙に刊した文の不用意を悔いた。 
わたくしは石に夫の家の当時の所在を問うた。「わたくしが片附いて参つた時からは始終只今の山伏町の辺にをりました。其頃は組屋敷と申しました」と、石は云ふ。組屋敷とは黒鍬組の屋敷であらうか。伊沢の刀自が父と共に尋ねた家は、菊屋橋附近であつたと云ふから、稍離れ過ぎてゐる。師岡氏は弘化頃に菊屋橋附近にゐて、石の嫁して行く文久前に、山伏町辺に遷つたのではなからうか。 
わたくしの石に問ふべき事は未だ尽きない。落胤問題がある。藤井紋太夫の事がある。谷の音の事がある。  
わたくしは師岡の未亡人石に問うた。「寿阿弥さんが水戸様の落胤だと云ふ噂があつたさうですが、若しあなたのお耳に入つてゐはしませんか。」 
石は答へた。「水戸様の落胤と云ふ話は、わたくしも承はつてゐます。しかしそれは寿阿弥さんの事ではありません。いつ頃だか知りませんが、なんでも寿阿弥さんの先祖の事でございます。水戸様のお屋敷へ御奉公に出てゐた女に、お上のお手が附いて妊娠しました。お屋敷ではその女をお下げになる時、男の子が生れたら申し出るやうにと云ふことでございました。丁度生れたのが男の子でございましたので申し出ました。すると五歳になつたら連れて参るやうにと申す事でございました。それから五歳になりましたので連れて出ました。其子は別間に呼ばれました。そしてお前は侍になりたいか、町人になりたいかと云ふお尋がございました。子供はなんの気なしに町人になりたうございますと申しました。それで別に御用は無いと云ふことになつて下げられたさうでございます。なんでも真志屋と云ふ屋号は其後始て附けたもので、大名よりは増屋だと云ふ意であつたとか申すことでございます。その水戸様のお胤の人は若くて亡くなりましたが、血筋は寿阿弥さんまで続いてゐるのだと、承りました。」 
此言に従へば、真志屋は数世続いた家で、落胤問題と屋号の縁起とは其祖先の世に帰着する。 
次にわたくしは藤井紋太夫の墓が何故に真志屋の墓地にあるかを問うた。 
石は答へた。「あれは別に深い仔細のある事ではないさうでございます。藤井紋太夫は水戸様のお手討ちになりました。所が親戚のものは憚があつて葬式をいたすことが出来ませんでした。其時真志屋の先祖が御用達をいたしてゐますので、内々お許を戴いて死骸を引き取りました。そして自分の菩提所で葬をいたして進ぜたのだと申します。」 
わたくしは落胤問題、屋号の縁起、藤井紋太夫の遺骸の埋葬、此等の事件に、彼の海録に載せてある八百屋お七の話をも考へ合せて見た。 
水戸家の初代威公頼房は慶長十四(1609)年に水戸城を賜はつて、寛文元(1661)年に薨じた。二代義公光国は元禄三(1690)年に致仕し、十三年に薨じた。三代粛公綱条は享保三(1718)年に薨じた。 
海録に拠れば、八百屋お七の地主河内屋の女島は真志屋の祖先の許へ嫁入して、其時お七のくれた袱帛を持つて来た。河内屋も真志屋の祖先も水戸家の用達であつた、お七の刑死せられたのは天和三(1683)年三月二十八日である。即ち義公の世の事で、真志屋の祖先は当時既に水戸家の用達であつた。只真志屋の屋号が何年から附けられたかは不明である。 
藤井紋太夫の手討になつたのは、元禄七(1694)年十一月二十三日ださうで諸書に伝ふる所と、昌林院の記載とが符合してゐる。これは粛公の世の事で、義公は隠居の身分で藤井を誅したのである。 
此等の事実より推窮すれば、落胤問題や屋号の由来は威公の時代より遅れてはをらぬらしく、余程古い事である。姶て真志屋と号した祖先某は、威公若くは義公の胤であつたかも知れない。  
わたくしは以上の事実の断片を湊合して、姑く下の如くに推測した。水戸の威公若くは義公の世に、江戸の商家の女が水戸家に仕へて、殿様の胤を舎して下げられた。此女の生んだ子は商人になつた。此商人の家は水戸家の用達で、真志屋と号した。しかし用達になつたのと、落胤問題との孰れが先と云ふことは不明である。その後代々の真志屋は水戸家の特別保護の下にある。寿阿弥の五郎作は此真志屋の後である。 
わたくしの師岡の未亡人石に問ふべき事は、只一つ残つた。それは力士谷の音の事である。 
石は問はれてかう答へた。「それは可笑しな事なのでございます。好くは存じませんが其お相撲は真志屋の出入であつたとかで、それが亡くなつた時、何のことわりもなしに昌林院の墓所にいけてしまつたのださうでございます。幾ら贔屓だつたと云つたつて、死骸まで持つて来るのはひどいと云つて、こちらからは掛け合つたが、色々談判した挙句に、一旦いけてしまつたものなら為方が無いと云ふことになつたと、夫が話したことがございます。」石は関口と云ふ後裔の名をだに知らぬのであつた。 
余り長座をするもいかゞと思つて、わたくしは辞し去らむとしたが、ふと寿阿弥の連歌師であつたことに就いて、石が何か聞いてゐはせぬかと思つた。武鑑には数年間日輪寺其阿と寿阿曇「とが列記せられてゐて、しかも寿阿の住所は日輪寺方だとしてある。わたくしは是より先、浅草芝崎町の日輪寺に往つて見た。一つには寿阿弥の同僚であつた其阿の墓石を尋ねようと思ひ、二つには日輪寺其阿の名が一代には限らぬらしく、古く物に見えてゐるので、それを確めようと思つたからである。日輪寺は今の浅草公園の活動写真館の西で、昔は東南共に街に面した角地面であつた。今は薪屋の横町の衝当になつてゐる。寺内の墓地は半ば水に浸されて沮洳の地となり、藺を生じ芹を生じてゐる。わたくしは墓を検することを得ずして還つた、わたくしは石に問うた。「若し日輪寺と云ふ寺の名をお聞になつたことはありませんか。」 
「存じてをります。日輪寺は寿阿弥さんの縁故のあるお寺ださうで、寿阿弥さんの御位牌が置いてありました。しかし昌林院の方にあれば、あちらには無くても好いと云ふことになりまして、只今は何もこざいません。」 
わたくしはお石さんに暇乞をして、小間物屋の帳場を辞した。小間物屋は牛込肴町で当主を浅井平八郎さんと云ふ。初め石は師岡久次郎に嫁して一人女京を生んだ。京は会津東山の人浅井善蔵に嫁した。善蔵の女おせいさんが婿平八郎を迎へた。おせいさんは即ち子を負つて門に立つてゐたお上さんである。 
寿阿弥の事は旧に依つて暗黒の中にある。しかしわたくしは伊沢の刀自や師岡の未亡人の如き長寿の人を識ることを得て、幾分か諸書の誤謬を正すことを得たのを喜んだ。 
わたくしは再び此稿を畢らむとした。そこへ平八郎さんが尋ねて来た。前に浅井氏を訪うた時は、平八郎さんは不在であつたが、後にわたくしの事を外祖母に聞いて、今真志屋の祖先の遺物や文書をわたくしに見せに来たのである。 
遺物も文書も、浅井氏に現存してゐるものの一部分に過ぎない。しかし其遺物には頗る珍奇なるものがあり、其文書には種々の新事実の証となすべきものがある。寿阿弥研究の道は幾度か窮まらむとして、又幾度か通ずるのである。八百屋お七の手づから縫つた袱紗は、六十三年前の嘉永六(1853)年に寿阿弥が手から山崎美成の手にわたされた如くに、今平八郎さんの手からわたくしの手にわたされた。水戸家の用達真志屋十余代の継承次第は殆ど脱漏なくわたくしの目の前に展開せられた。  
わたくしは姑く浅井氏所蔵の文書を真志屋文書と名づける。真志屋文書に徴するに真志屋の祖先は威公頼房が水戸城に入つた時に供に立つてゐる。文化二(1805)年に武公治紀が家督して、四年九月九日に十代目真志屋五郎兵衛が先祖書を差し出した。「先祖儀御入国の砌御供仕来元和年中(1615-1624)引続」云々と書してある。入国とは頼房が慶長十四(1609)年に水戸城に入つたことを指すのである。此真志屋始祖西村氏は参河の人で、過去帳に拠ると、浅誉日水信士と法諡し、元和二年正月三日に歿した。屋号は真志屋でなかつたが、名は既に五郎兵衛であつた。 
二代は方誉清西信士で、寛永十九(1642)年九月十八日に歿した。後の数代の法諡の例を以て推すに、清西は生前に命じた名であらう。 
三代は相誉清伝信士で、寛文四(1664)年九月二十二日に歿した。水戸家は既に義公光国の世になつてゐる。 
四代は西村清休居士である、清休の時、元禄三年に光国は致仕し、粛公綱条が家を継いだ。 
此代替に先つて、清休の家は大いなる事件に遭遇した。真志屋の遺物の中に写本西山遺事並附録三巻があつて、其附録の末一枚の表に「文政五(1822)年壬午秋八月、真志屋五郎作秋邦謹書」と署した漢文の書後がある。其中にかう云つてある。「嗚呼家先清休君、得知於公深、身庶人而俸賜三百石、位列参政之後」と云つてある。公は西山公を謂ふのである。 
此俸禄の事は先祖書の方には、側女中島を娶つた次の代廓清が受けたことにしてある。「乍恐御西山君様御代御側向御召抱お島之御方と被申候を妻に被下置厚き奉蒙御重恩候而、年々御米百俵宛三季に享保年中迄頂戴仕来冥加至極難有仕合に奉存候」と云つてある。しかし清休がためには、島は子婦である。光国は清休をして島を子婦として迎へしめ、俸禄を与へたのであらう。 
八百屋お七の幼馴染で、後に真志屋祖先の許に嫁した島の事は海録に見えてゐる。お七が袱紗を縫つて島に贈つたのは、島がお屋敷奉公に出る時の餞別であつたと云ふことも、同書に見えてゐる。しかし水戸家から下つて真志屋の祖先の許に嫁した疑問の女が即ち此島であつたことは、わたくしは知らなかつた。島の奉公に出た屋敷が即ち水戸家であつたことは、わたくしは知らなかつた。真志屋文書を見るに及んで、わたくしは落胤問題と八百屋お七の事とが倶に島、其岳父、其夫の三人の上に輳り来るのに驚いた。わたくしは三人と云つた。しかし或は一人と云つても不可なることが無からう。其中心人物は島である。 
真志屋の祖先と共に、水戸家の用達を勤めた河内屋と云ふものがある。真志屋の祖先が代々五郎兵衛と云つたと同じく、河内屋は代々半兵衛と云つた。真志屋の家説には、寛文の頃であつたかと云つてあるが、当時の半兵衛に一人の美しい女が生れて、名を島と云つた。島は後に父の出入屋敷なる水戸家へ女中に上ることになつた。  
河内屋は本郷森川宿に地所を持つてゐた。それを借りて住んでゐる八百屋市左衛門にも、亦一人の美しい女があつて、名を七と云つた。七は島より年下であつたであらう。島が水戸家へ奉公に上る時、餞別に手づから袱紗を縫つて贈つた。表は緋縮緬、裏は紅絹であつた。 
島が小石川の御殿に上つてから間もなく、森川宿の八百屋が類焼した。此火災のために市左衛門等は駒込の寺院に避難し、七は寺院に於て一少年と相識になり、新築の家に帰つた後、彼少年に再会したさに我家に放火し、其科に因つて天和三(1683)年三月二十八日に十六歳で刑せられた。島は七の死を悼んで、七が遺物の袱紗に祐天上人筆の名号を包んで、大切にして持つてゐた。 
後に寿阿弥は此袱紗の一辺に、白羽二重の切を縫ひ附けて、それに縁起を自書した。そしてそれを持つて山崎美成に見せに往つた。 
此袱紗は今浅井氏の所蔵になつてゐるのを、わたくしは見ることを得た。袱紗は燧袋形に縫つた更紗縮緬の上被の中に入れてある。上被には蓮華と仏像とを画き、裏面中央に「倣尊澄法親王筆」右辺に「保午浴仏日呈寿阿上人蓮座」と題し、背面に心経の全文を写し、其右に「天保五年甲午二月廿五日仏弟子竹谷依田瑾薫沐書」と記してある。依田竹谷、名は瑾、字は子長、盈科斎、三谷庵、又凌寒斎と号した。文晁の門人である。此上被に画いた天保五年は竹谷が四十五歳の時で、後九年にして此人は寿阿弥に先つて歿した。山崎美成が見た時には、上被はまだ作られてゐなかつたのである。 
上被から引き出して見れば、被紗は緋縮緬の表も、紅絹の裏も、皆淡い黄色に褪めて、後に寿阿弥が縫ひ附けた白羽二重の古びたのと、殆ど同色になつてゐる。寿阿弥の仮名文は海録に譲つて此に写さない。末に「文政六(1823)年癸未四月真志屋五郎作新発意寿阿弥陀仏」と署して、邦字の華押がしてある。 
わたくしは更に此袱紗に包んであつた六字の名号を披いて見た。中央に「南無阿弥陀仏」、其両辺に「天下和順、日月清明」と四字づゝに分けて書き、下に祐天と署し、華押がしてある。装潢には葵の紋のある錦が用ゐである。享保三年に八十三歳で、目黒村の草菴に於て祐天の寂したのは、島の歿した享保十一年に先つこと僅に八年である。名号は島が親しく祐天に受けたものであらう。 
島の年齢は今知ることが出来ない。遺物の中に縫薄の振袖がある。袖の一辺に「三誉妙清様小石川御屋形江御上り之節縫箔の振袖、其頃の小唄にたんだ振れふれ六尺袖をと唄ひし物是也、享保十一年丙辰六月七日死、生年不詳、家説を以て考ふれば寛文年間なるベし、裔孫西村氏所蔵」と記してある。 
島が若し寛文元年に生れたとすると、天和元年が二十一歳で、歿年が六十六歳になり、寛文十二年に生れたとすると、天和元年が十歳で、歿年が五十五歳になる。わたくしは島が生れたのは寛文七年より前で、その水戸家に上つたのは、延宝の末(1681)か天和の初であつたとしたい。さうするとお七が十三四になつてゐて、袱紗を縫ふにふさはしいのである。いづれにしても当時の水戸家は義公時代である。 
さていつの事であつたか詳でないが、義公の猶位にある間に、即ち元禄三年以前に水戸家は義公の側女中になつてゐた島に暇を遣つた。そして清休の子廓清が妻にせいと内命した。島は清休の子婦、廓清の妻になつて、一子東清を挙げた。若し島が下げられた時、義公の胤を舎してゐたとすると、東清は義公の庶子であらう。  
既にして清休は未だ世を去らぬに、主家に於ては義公光国が致仕し、粛公綱条が家を継いだ。頃くあつて藤井紋太夫の事があつた。隠居西山公が能の中入に楽屋に於て紋太夫を斬つた時、清休は其場に居合せた。真志屋の遺物写本西山遺事の附録末二枚の欄外に、寿阿弥の手で書入がしてある。「家説云、元禄七年十一月十三日、御能有之、公羽衣のシテ被遊、御中入之節御楽屋に而、紋太夫を御手討に被遊候、(中略)、御楽屋に有合人々八方へ散乱せし内に、清休君一人公の御側をさらず、御刀の拭、御手水一人にて相勤、扨申上けるは、私共愚昧に而、かゝる奸悪之者共不存、入魂に立入仕候段、只今に相成重々奉恐入候、思召次第如何様共御咎仰付可被下置段申上ける時、公笑はせ玉ひ、余が眼目をさへ眩ませし程のやつ、汝等が欺かれたるは尤ものことなり、少も咎中付る所存なし、しかし汝は格別世話にもなりたる者なれば、汝が菩提所へなりとも、死骸葬り得さすべしと仰有之候に付、則菩提所伝通院寺中昌林院へ埋め、今猶墳墓あれども、一華を手向る者もなし、僅に番町辺の人一人正忌日にのみ参詣すと云ふ、法名光含院孤峰心了居士といへり。」 
説いて此に至れば、独所謂落胤問題と八百屋お七の事のみならず、彼藤井紋太夫の事も亦清休、廓清の父子と子婦島との時代に当つてゐるのがわかる。 
清休は元禄十二年閏九月十日に歿した。次に其家を継いだのが五代西村廓清信士で、問題の女島の夫、所謂落胤東清の表向の父である。「御西山君様御代御側向御召抱お島之御方と被申候を妻に被下置、厚き奉蒙御重恩候而、年々御米百俵宛三季に」頂戴したのは此人である。此書上の文を翫味すれば、落胤問題の生じたのは、決して偶然でない。次で「元文三(1738)年より御扶持方七人分被下置」と云ふことに改められた。廓清は享保四年三月二十九日に歿した。島は遅れて享保十一年六月七日に歿した。真志屋文書の過去帳に「五代廓清君室、六代東清君母儀、三誉妙清信尼、俗名嶋」と記してある。当時水戸家は元禄十三年に西山公が去り、享保三年に粛公綱条が去つて、成公宗尭の世になつてゐた。 
六代西村東清信士は過去帳一本に「幼名五郎作自義公拝領、十五歳初御目見得、依願西村家相続被仰付、真志屋号拝領、高三百石被下置、俳名春局」と詮してある。幼名拝領並に初御目見得から西村家相続に至るには、年月が立つてゐたであらう。此人が即ち所謂落胤である。若し落胤だとすると、水戸家は光国の庶兄頼重の曾孫たる宗尭の世となつてゐたのに、光国の庶子東清は用達商人をしてゐたわけである。 
過去帳一本の註に拠るに、五郎作の称が此時より始まつてゐる。初代以来五郎兵衛と称してゐたのに、東清に至つて始めて五郎作と称し、後に寿阿弥もこれを襲いだのである。又「俳名春局」と註してあるのを見れば、東清が俳諧をしたことが知られる。 
真志屋の屋号は、右の過去帳一本の言ふ所に従へば、東清が始て水戸家から拝領したものである。真志屋の紋は、金沢蒼夫さんの言に従へば、マの字に象つたもので、これも亦水戸家の賜ふ所であつたと云ふ。 
東清は宝暦二年十二月五日に歿した。水戸家は成公宗尭が享保十五年に去つて、良公宗翰の世になつてゐた。  
真志屋の七代は西誉浄賀信士である。過去帳一本に「実は東国屋伊兵衛弟、俳名東之」と註してある。東清の壻養子であらう。浄賀は安永十(1781)年三月二十七日に歿した。水戸家は良公宗翰が明和二(1765)年に世を去つて、文公治保の世になつてゐた。 
八代は薫誉沖谷居士である。天明三(1783)年七月二十日に歿した。水戸家は旧に依つて治保の世であつた。 
九代は心誉一鉄信士である。此人の代に、「寛政五(1793)丑年より暫の間三人半扶持御滅し当時三人半被下置」と云ふことになつた。一鉄の歿年は二種の過去帳が記載を殊にしてゐる。文化三(1806)年十一月六日とした本は手入の迹の少い本である。他の一本は此年月日を書してこれを抹殺し、傍に寛政八(1796)年十一月六日と書してある。前者の歿年に先つこと一年、文化二(1805)年に水戸家では武公治紀が家督相続をした。 
十代は二種の過去帳に別人が載せてある。誓誉浄本居士としたのが其一で、他の一本には此に浄誉了蓮信士が入れて、「十代五郎作、後平兵衛」と註してある。浄本は文化十三(1816)年六月二十九日に歿した人、了蓮は寛政八(1796)年七月六日に歿した人である。今遽に孰れを是なりとも定め難いが、要するに九代十代の間に不明な処がある。浄本の歿した年に、水戸家では哀公斉脩が家督相続をした。 
これよりして後の事は、手入の少い過去帳には全く載せて無い。これに反して他の一本には、寿阿弥の五郎作が了蓮の後を襲いで真志屋の十一代目となつたものとしてある。寛政八(1796)年には寿阿弥(1769-1848)は二十八歳になつてゐた。 
寿阿弥は本江間氏で、其家は遠江国浜名郡舞坂から出てゐる。父は利右衛門、法諡頓誉浄岸居士である。過去帳の一本は此人を以て十一代目五郎作としてゐるが、配偶其他卑属を載せてゐない。此人に妹があり、姪があるとしても、此人と彼等とが血統上いかにして真志屋の西村氏と連繋してゐるかは不明である。しかし此連繋は恐らくは此人の尊属姻戚の上に存するのであらう。 
寿阿弥の五郎作は文政五(1822)年に出家した。これは手入の少い過去帳の空白に、後に加へた文と、過去帳一本の八日の下に記した文とを以つて証することが出来る。前者には、「延誉寿阿弥、俗名五郎作、文政五年壬午十月於浅草日輪寺出家」と記してあり、後者は「光誉寿阿弥陀仏、十一代日五郎作、実江間利右衛門男、文政五年壬午十月於日輪寺出家」と記してある。後者は八日の条に出てゐるから、落飾の日は文政五年十月八日である。 
わたくしは寿阿弥の手紙を読んで、寿阿弥は姪に菓子店を譲つて出家したらしいと推測し、又師岡未亡人の言に拠つて、此姪を山崎某であらうと推測した。後に真志屋文書を見るに及んで、新に寿阿弥の姪一人の名を発見した。此姪は分明に五郎兵衛と称して真志屋を継承し、尋で寿阿弥に先だつて歿したのである。 
寿阿弥が自筆の西山遺事の書後に、「姪真志屋五郎兵衛清常、蔵西山遺事一部、其書誤脱不為不多、今謹考数本、校訂以貽後生」と云ひ、「文政五(1822)年秋八月、真志屋五郎作秋邦謹書」と署してある。此年月は寿阿弥が剃髪する二月前である。これに由つて観れば、寿阿弥が将に出家せむとして、戸主たる姪清常のために此文を作つたことは明である。わたくしは少しく推測を加へて、此を以つて十一代の五郎作即ち寿阿弥が十二代の五郎兵衛清常のために書いたものと見たい。 
此清常は過去帳の一本に載せてあり、又寿阿弥の位牌の左辺に「戒誉西村清常居士、文政十三(1830)年庚寅十二月十二日」と記してある。文政十三年は即ち天保元年である。清常は寿阿弥が出家した文政五(1822)年の後八年、真志屋の火災に遇つた文政十年(1827)の後三年、寿附弥が苾堂に与ふる書を作つた文政十一年(1828)年の後二年にして歿した。書中の所謂「愚姪」が此清常であることは、殆ど疑を容れない。しかし此人と石の夫師岡久次郎の兄事した山崎某とは別人で、山崎某は過去帳の一本に「清誉涼風居士、文久元酉年七月二十四日、五郎作兄、行年四十五歳(1817-1861)」と記してあるのが即是であらう。果して然らば山崎は恐らくは鈴木と師岡(1835-1906)との実兄ではあるまい。所謂「五郎作兄」は年齢より推すに、寿阿弥(1769-1848)の兄を謂ふのでないことは勿論であるが、未だ考へられない。 
清常の歿するに先つこと一年、文政十二年に、水戸家は烈公斉昭の世となつた。  
清常より後の真志屋の歴史は愈模糊として来る。しかし大体を論ずれば真志屋は既に衰替の期に入つてゐると謂ふことが出来る。真志屋は自ら支ふること能はざるがために、人の廡下に倚つた。初は「麹町二本伝次方江同居」と云ふことになり、後「伝次不勝手に付金沢丹後方江又候同居」と云ふことになつた。 
真志屋文書に文化以後の書留と覚しき一冊子があるが、惜むらくはその載する所の沙汰書、伺書、願書等には多く年月日が闕けてゐる。 
此等の文に拠るに、家道衰微の原因として、表向申し立ててあるのは火災である。「類焼後御菓子製所大被に相成」云々と云つてある。此火災は寿阿弥の手紙にある「類焼」と同一で、文政十年(1827)の出来事であつたのだらう。 
さて二本伝次の同居人であつた当時の真志屋五郎兵衛は、病に依つて二本氏の族人をして家を嗣がしめたらしい。年月日を聞いた願書に、「願之上親類麹町二本伝次方江同居仕御用向無滞相勤候処、当夏中より中風相煩歩行相成兼其上甥鎌作儀病身に付(中略)右伝次方私従弟定五郎と申者江跡式相続為仕度(中略)奉願候、尤従弟儀未若年に御座候に付右伝次儀後見仕」云々と云つてある。署名者は真志屋五郎兵衛、二本伝次の二人である。此願は定て聞き届けられたであらう。 
しかし十二代清常と此定五郎との接続が不明である。中風になつた五郎兵衛が二十歳で歿した清常でないことは疑を容れない。已むことなくば一説がある。同じ冊子の定五郎相続願の直前に、同じく年月日を闕いた沙汰書が載せてある。これは五郎兵衛の病気のために、伯父久衛門が相続することを聴許する文である。此五郎兵衛を清常とするときは、(継承順序は十二代五郎兵衛清常、)十三代久衛門、十四代定五郎となるであらう。 
次に同じ冊子に嘉永七(1854)寅霜月とした願書があつて、これは真志屋が既に二本氏から金沢氏に転寓した後の文である。真志屋五郎作が金沢方にゐながら、五郎兵衛と改称したいと云ふので、五郎作の叔父永井栄伯が連署してゐる。此願書が定五郎相続願の直後に載せてあるのを見れば、或は定五郎は相続後に一旦五郎作と称し、次で金沢氏に寓して、五郎兵衛と改めたのではなからうか。それは兎も角も、山崎久次郎を以て兄とする五郎作は、此文に見えてゐる五郎作即ち永井栄伯の兄の子の五郎作ではなからうか。因に云ふ。寿阿弥を講じて源氏物語を講ぜしめた永井栄伯は、真志屋の親戚であつたことが、此文に徴して知られる。師岡氏未亡人の言に拠れば、わたくしが前に諸侯の抱医か町医かと云つた栄伯は、町医であつたのである。 
わたくしの真志屋文書より獲た所の継承順序は、概ね此の如きに過ぎない。今にして寿阿弥の手紙を顧ればその所謂「愚姪」は寿阿弥に家人株を買つて貰つた鈴木、師岡、乃至山崎ではなくて、真志屋十二代清常であつた。鈴木、師岡は伊沢の刀自や師岡未亡人の言の如く、寿阿弥の妹の子であらう。山崎は稍疑はしい。案ずるに偶然師岡氏と同称(久次郎)であつた山崎は、某(十四)代五郎作の実兄で、鈴木と師岡とは義兄としてこれを遇してゐたのではなからうか。清常に至つては寿阿弥がこれを謂つて姪となす所以を審にすることが出来ない。  
わたくしは師岡未亡人に、寿阿弥の妹の子が二人共蒔絵をしたことを聞いた。しかし先づ蒔絵を学んだのは兄鈴木で、師岡は鈴木の傍にあつてその為す所に傚らつたのださうである。 
わたくしは又伊沢の刀自に、其父榛軒が寿阿弥の姪をして櫛に蒔絵せしめたことを聞いた。此蒔絵師の号はすゐさいであつたさうである。 
師岡未亡人はすゐさいの名を識らない。夫師岡が此号を用ゐたなら、識らぬ筈が無い、そこでわたくしは蒔絵師すゐさいは鈴木であらうと推測した。 
此推測は当つたらしい。浅井平八郎さんは真志屋の遺物の中から、写本二種を選り出して持つて来た。其一は蒔絵の図案を集めたもので、西郭、渓雲、北可、玉燕女等と署した画が貼り込んである。表紙の表には「画本」と題し、裏には通二丁目山本と書して塗抹し、「寿哉所蔵」と書してある。其二は浮世絵師の名を年代順に列記し、これに略伝を附したもので、末に狩野家数世の印譜を写して添へてある。表紙の表には「古今先生記」と題し、裏には「嘉永四辛亥春」と書し、其下に「鈴木寿哉」の印がある。伊沢榛軒のために櫛に蒔絵したのが、此鈴木寿哉であつたことは、殆ど疑を容れない。寿哉は或はしうさいなどと訓ませてゐたので、すゐさいと聞き錯られたかも知れない。 
初めわたくしは寿阿弥の墓を討めに昌林院へ往つた。そして昌林院の住職に由つて師岡氏未亡人を知り、未亡人に由つて真志屋文書を見るたつきを得た。然るにわたくしは曾て昌林院に至りし日雨に阻げられて墓に詣でなかつた。わたくしは平八郎さんが来た時、これに告ぐるに往訪に意あることを以てした。其時平八郎さんはわたくしに意外な事を語つた。それはかうである、近頃昌林院は墓地を整理するに当つて、墓石の一都を伝通院内に移し、爾余のものは別に処分した。そして寿阿弥の墓は伝通院に移された墓石中には無かつた。師岡氏未亡人は忌日に参詣して、寿阿弥の墓の失踪を悲み、寺僧に其所在を問うて已まなかつた。寺僧は資を損てて新に寿阿弥の石を立てた。今伝通院にあるものが即是である。未亡人石は毎に云つてゐる。「原の寿阿弥のお墓は硯のやうな、締麗な石であつたのに、今のお裏はなんと云ふ見苦しい石だちう。」 
わたくしは曩に寺僧の言を聞いた時、寿阿弥が幸にして盛世碑碣の厄を免れたことを喜んだ。然るに当時寺僧は実を以てわたくしに告げなかつたのである。寿阿弥の墓は香華未だ絶えざるに厄に罹つて、後僅に不完全なる代償を得たのである。 
大凡改葬の名の下に墓石を処分するは、今の寺院の常習である。そして警察は措いてこれを問はない。明治以降所謂改葬を経て、踪迹の尋ぬべからざるに至つた墓碣は、その幾何なるを知らない。此厄は世々の貴人大官碩学鴻儒乃至諸芸術の聞人と雖免れぬのである。 
此間寺僧にして能く過を悔いて、一旦処分した墓を再建したものは、恐らくは唯昌林院主一人あるのみであらう。そして院主をして肯て財を投じて此稀有の功徳を成さしめたのは、実に師岡氏未亡人石が悃誠の致す所である。  
真志屋の西村氏は古くから昌林院を菩提所にしてゐた。然るに中ごろ婚嫁のために、江間氏と長島氏との血が交つたらしい。江間、長島の両家は浅草山谷の光照院を菩提所にしてゐたのである。 
わたくしは真志屋文書に二種の過去帳のあることを言つた。余り手入のしてない原本と、手入のしてある他の一本とである。其手入は江間氏の人々の作した手入である。姑く前者を原本と名づけ、後者を別本と名づけることにする。 
原本は昌林院に葬つた人々のみを載せてゐる。初代日水から九代一鉄まで皆然りである。そして此本には十代を浄本としてゐる。 
別本は浄本を歴代の中から除き去つて、代ふるに了蓮を以てしてゐる。これは光照院に葬られた人で、恐らくは江間氏であらう。次が十一代寿阿弥曇「で、此人が始て江間氏から出て遺該を昌林院に埋めた。 
長島氏の事蹟は頗る明でないが、わたくしは長島氏が江間氏と近密なる関係を有するものと推測する。過去帳別本に「貞誉誠範居士、葬于光照院、長島五郎兵衛、□代五郎兵衛実父、□□□月」として「二十日」の下に記してある。四字は紙質が湿気のために変じて読むべからざるに至つてゐる。然るにこれに参照すべき戒名が今一つある、それは「覚誉泰了居士、明和六(1769)年己丑七月、遠州舞坂人、江間小兵衛三男、俗名利右衛門、九代目五郎作実祖父、葬于浅草光照院」と、「四日」の下に記してある泰了である。 
試みに誠範の所の何代を九代とすると、江間小兵衛の三男が利右衛門泰了、泰了の子が長島五郎兵衛誠範、誠範の子が真志屋九代の五郎作、後五郎兵衛一鉄と云ふことになる。別本一鉄の下には五郎兵衛としてあつて、泰了の下に九代目五郎作としてあるから、初五郎作、後五郎兵衛となつたものと見るのである。 
更に推測の歩を進めて、江間氏は世利右衛門と称してゐて、明和六(1769)年に歿した利右衛門泰了の嫡子が寛政四(1792)年に歿した利右衛門浄岸で、浄岸の弟が長島五郎兵衛誠範であつたとする。さうすると浄岸の子寿阿弥と誠範の子一鉄とは従兄弟になる。わたくしは此推測を以て甚だしく想像を肆にしたものだとは信ぜない。 
わたくしはこれだけの事を考へて、二重の過去帳を、他の真志屋文書に併せて平八郎さんに還した。 
わたくしは昌林院の寿阿弥の墓が新に建てられたものだと聞いたので、これを訪ふ念が稍薄らいだ。これに反して光照院の江間、長島両家の墓所は、わたくしに新に何物をか教へてくれさうに思はれたので、わたくしは大いにこれに属望した。わたくしは山谷の光照院に往つた。 
浅草聖天町の停留場で電車を下りて吉野町を北へ行くと、右側に石柱鉄扉の門があつて、光照院と書いた陶製の標札が懸けてある。墓地は門を入つて右手、本堂の南にある。  
光照院の墓地の東南隅に、殆ど正方形を成した扁石の墓があつて、それに十四人の戒名が一列に彫り付けてある。其中三人だけは後に追加したものである。追加三人の最も右に居るのが真志屋十一代の寿阿弥、次が十二代の「戒誉西村清常居士、文政十三(1830)年庚寅十二月十二日」、次が「証誉西村清郷居士、天保九(1838)年戊戌七月五日」である。寿阿弥は西村氏の菩提所昌林院に葬られたが、親戚が其名を生家の江間氏の菩提所に留めむがために、此墓に彫り添へさせたものであらう。清常、清郷は過去帳原本の載せざる所で、独別本にのみ見えてゐる。残余十一人の古い戒名は皆別本にのみ出てゐる名である。清郷の何人たるかは考へられぬが、清常の近親らしく推せられる。 
古い戒名の江間氏親戚十一人の関係は、過去帳別本に徴するに頗る複雑で、容易には明め難い。唯二三の注意に値する件々を左に記して遺忘に備へて置く。 
十一人中に「法誉知性大姉、寛政十(1898)年戊午八月二日」と云ふ人がある。十代の実祖母としてあるから、了蓮の祖母であらう。此知性の父は「玄誉幽本居士、宝暦九(1759)年己卯三月十六日」、母は「深誉幽妙大姉、宝暦五年乙亥十一月五日」としてある。更にこれより溯つて、「月窓妙珊大姉、寛保元(1741)年辛酉十月二十四日」がある。これは知性の祖としてあるから、祖母ではなからうか。以上を知性系の人物とする。然るに幽本、幽妙の子、了蓮の父母は考へることが出来ない。 
十一人中に又「貞誉誠範居士、文政五(1822)年壬午五月二十日」と云ふ人がある。即ち過去帳別本に読むべからざる記註を見る戒名である。わたくしは其「何代五郎兵衛実父」を「九代」と読まむと欲した。残余の闕文は月字の上の三字で、わたくしは今これを読んで「同年五月」となさむと欲する。何故と云ふに、別本には誠範の右に「蓮誉定生大姉、文政五年壬午八月」があつたから、此の如くに読むときは、此彫文と符するからである。果して誠範を九代一鉄の父長島五郎兵衛だとすると、此名の左隣にある別本の所謂九代の祖父「覚誉泰了居士、明和六(1769)年己丑七月四日」は、誠範の父であらう。又此列の最右翼に居る「範叟道規庵主、元文三(1738)年戊午八月八日」は、別本に泰了縁家の祖と註してあるから、此系の最も古い人に当り、又此列の最左翼に居る寿阿弥の父「頃誉浄岸居壬、寛政四(1792)年壬子八月九日」は、泰了と利右衛門の称を同じうしてゐるから、泰了の子かと推せられる。以上を誠範系の人物とする。江間氏と長島氏との連繋は、此誠範系の上に存するのである。 
此大墓石と共に南面して、其西隣に小墓石がある。台石に長島氏と彫り、上に四人の法諡が並記してある。二人は女子、二人は小児である。「馨誉慧光大姉、文政六(1823)年癸未十月二十七日」は別本に十二代五郎兵衛姉、実は叔母と註してある。「誠月妙貞大姉、安政三(1856)年丙辰七月十二日」は別本に五郎作母、六十四歳と註してある。小児は勇雪、了智の二童子で、了智は別本に十二代五郎兵衛実弟と註してある。要するに此四人は皆十二代清常の近親らしいから、所謂五郎作母も清常の初称五郎作の母と解すべきであるかも知れない。別本には猶、次に記すべき墓に彫つてある蓮誉定生大姉の下に、十二代五郎兵衛養母と註してある。清常には母かと覚しき妙貞があり、叔母慧光があつて、それが西村氏に養はれてから定生を養母とし、叔母慧光を姉とするに至つた。以上を清常系の人物として、これに別本に見えてゐる慧光の実母を加へなくてはならない。即ち深川霊岸寺開山堂に葬られたと云ふ「華開生悟信女、享和二(1802)年壬戌十二月六日」が其人であるしかし清常の父の誰なるかは遂に考へることが出来ない。  
次に遠く西に離れて、茱萸の木の蔭に稍新しい墓石があつて、これも台石に長島氏と彫つてある。墓表には男女二人の戒名が列記してある。男女の戒名は、「浄誉了蓮居士、寛政八(1796)辰天七月初七日」と「蓮誉定生大姉、文政五(1822)午天八月二十日」とで、其中間に後に「遠誉清久居士、明治三十九(1906)年十二月十三日」の一行が彫り添へてある。了蓮は過去帳別本の十代五郎作、定生は同本の十二代五郎兵衛養母、清久は師岡久次郎即ち高野氏石の亡夫である。 
定生には父母があつて過去帳別本に見えてゐる。父は「本住院活法日観信士、天明四(1784)年甲辰十二月十七日」、母は「霊照院妙慧日耀信女、文化十二(1815)年乙亥正月十三日」で、並に橋場長照寺に葬られた。日観の俗名は別本に小林弥右衛門と註してある。然るに了蓮の祖母知性の母幽妙の下にも、別本に小林弥右衛門妻の註がある。此二箇所に見えてゐる小林弥右衛門は同人であらうか、又は父子襲名であらうか。又定生の外祖母と称するものも別本に見えてゐる。「貞円妙達比丘尼、天明七(1878)年丁未八月十一日」と書し、深川佐賀町一向宗と註してあるものが即是である。 
了蓮と定生との関係、清久の名を其間に厠へた理由は、過去帳別本の記載に由つて明にすることが出来ない。師岡氏未亡人は或はわたくしに教へてくれるであらうか。 
わたくしが光照院の墓の文字を読んでゐるうちに、日は漸く暮れむとした。わたくしのために香華を墓に供へた媼は、「蠟燭を点してまゐりませうか」と云つた。「なに、もう済んだから好い」と云つて、わたくしは光照院を辞した。しかし江間、長島の親戚関係は、到底墓表と過去張とに籍つて、明め得べきものでは無かつた。寿阿弥の母、寿阿弥の妹、寿阿弥の妹の夫の誰たるを審にするに至らなかつたのは、わたくしの最も遺憾とする所である。 
わたくしは新石町の菓子商真志屋が文政の末から衰運に向つて、一たび二本伝次に寄り、又転じて金沢丹後に寄つて僅に自ら支へたことを記した。真志屋は衰へて二本に寄り、二本が真志屋と倶に衰へて又金沢に寄つたと云ふ此金沢は、そもそもどう云ふ家であらう。 
わたくしが此「寿阿弥の手紙」を新聞に公にするのを見て、或日金沢蒼夫と云ふ人がわたくしに音信を通じた。わたくしは蒼夫さんを白金台町の家に訪うて交を結んだ。蒼夫さんは最後の金沢丹後で、祖父明了軒以来西村氏の後を承け、真志屋五郎兵衛の名義を以て水戸家に菓子を調進した人である。 
初めわたくしは渋江抽斎伝中の寿阿弥の事蹟を補ふに、其尺牘一則を以てしようとした。然るに料らずも物語は物語を生んで、断えむと欲しては又続き、此に金沢氏に説き及ばさざることを得ざるに至つた。わたくしは此最後の丹後、真志屋の鑑札を佩びて維新前まで水戸邸の門を潜つた最後の丹後をまのあたり見て、これを緘點に附するに忍びぬからである。  
真志屋と云ふ難破船が最後に漕ぎ寄せた港は金沢丹後方である。当時真志屋が金沢氏に寄つた表向の形式は「同居」で、其同居人は初め五郎作と称し、後嘉永七(1854)年即安政元年に至つて五郎兵衛と改めたことが、真志屋文書に徴して知られる。文書の収むる所は改称の願書で、其願が聴許せられたか否かは不明であるが、此の如き願が拒止せらるべきではなささうである。 
しかし此五郎作の五郎兵衛は必ずしも実に金沢氏の家に居つたとは見られない。現に金沢蒼夫さんは此の如き寓公の居つたことを聞き伝へてゐない。さうして見れば、単に寄寓したるものの如くに粧ひ成して、公辺を取り繕つたのであつたかも知れない。 
蒼夫さんの知つてゐる所を以てすれば、金沢氏が真志屋の遺業を継承したのは、蒼夫の祖父明了軒の代の事である。これより以後、金沢氏は江戸城に菓子を調進するためには金沢丹後の名を以て鑑札を受け、水戸邸に調進するためには真志屋五郎兵衛の名を以て鑑札を受けた。金沢氏の年々受け得た所の二様の鑑札は、蒼夫さんの家の筐に満ちてゐる。鑑札は白木の札に墨書して、烙印を押したものである。札は孔を穿ち緒を貫き、覆ふに革袋を以てしてある。革袋は黒の漆塗で、その水戸家から受けたものには、真志の二字が朱書してある。 
想ふに授受が真志屋と金沢氏との間に行はれた初には、縦や実に寓公たらぬまでも、真志屋の名前人が立てられてゐたが、後に至つては特にこれを立つることを須ゐなかつたのではなからうか。兎に角金沢氏の代々の当主は、徳川将軍家に対しては金沢丹後たり、水戸宰相家に対しては真志屋五郎兵衛たることを得たのである。「まあ株を買つたやうなものだつたのでせう」と蒼夫さんは云ふ。今の語を以て言へば、此授受の形式は遂に「併合」に帰したのである。 
真志屋の末裔が二本に寄り、金沢に寄つたのは、啻に同業の好があつたのみではなかつたらしい。二本は真志屋文書に「親類麹町二本伝次方」と云つてある。又真志屋の相続人たるべき定五郎は「右伝次方私従弟定五郎」と云つてある。皆真志屋五郎兵衛が此の如くに謂つたのである。金沢氏は果して真志屋の親戚であつたか否か不明であるが試に系譜を検するに、貞享中に歿した初代相安院清頓の下に、「長島撿校」に嫁した女子がある。此壻は或は真志屋の一族長島氏の人であつたのではなからうか。 
金沢氏は本増田氏であつた。豊臣時代に大和国郡山の城主であつた増田長盛の支族で、曾て加賀国金沢に住したために、商家となるに及んで金沢屋と号し、後単に金沢と云つたのださうである。系譜の載する所の始祖は又兵衛と称した。相摸国三浦郡蘆名村に生れ、江戸に入つて品川町に居り、魚を鬻ぐを業とした。蒼夫さんの所有の過去帳に「相安院浄誉清頓信士、貞享五(1688)年五月二十五日」と記してある。  
増田氏の二代三右衛門は、享保四年五月九日に五十八歳で歿した。法諡実相院頓誉浄円居士である。此人が菓子商の株を買つた。 
三代も亦同じく三右衛門と称し、享保八年七月二十八日に三十七歳で歿した。法諡寂苑院浄誉玄清居士である。四代三右衛門の覚了院性誉一鎚自聞居士は、明和六(1769)年四月二十四日に四十六歳で歿した。五代三右衛門の自適斎真誉東里威性居士は、天保六(1835)年十月五日に八十四歳で歿した。此人は増田氏累世中で、最も学殖あり最も文事ある人であつた。所謂田威、字は伯孚、別号は東里である。詩を善くし書を善くして、一時の名流に交つた。文政四年に七十の賀をした時、養拙斎高岡秀成、字は実甫と云ふものが寿序を作つて贈つた。二本伝次の妻は東里が長女の第八女であつた。真志屋が少くも此家と間接に親戚たることは、此一条のみを以てしても証するに足るのである。六代三右衛門はわたくしの閲した系譜に載せて無い、増田氏は世駒込願行寺を菩提所としてゐるのに、独り此人は谷中長運寺に葬られたさうである。七代三右衛門は天保十一(1840)年十月二日に四十四歳で歿し、宝龍院乗誉依心連戒居士と法諡せられた。 
按ずるに此頃に至るまでは、金沢三右衛門は丹後と称せずして越後と称したのではなからうか。文化の末に金沢瀬兵衛と云ふものが長崎奉行を勤めてゐたが、此人は叙爵の時越後守となるべきを、菓子商の称を避けて百官名を受け、大蔵少輔にせられたと、大郷信斎の道聴塗説に見えてゐる。或はおもふに道聴塗説の越後は丹後の誤か。 
八代は通称金蔵で、天保三年七月十六日に六十一歳で歿した。法諡梅翁日実居士である。九代は又三右衛門と称し、後に三輔と改めた。素細工頭支配玉屋市左衛門の子である。明治十年十一月十一日に六十四歳で歿し、明了軒唯誉深広連海居士と法諡せられた。十代三右衛門、後の称三左衛門は明治二十年二月二十六日に歿し、栄寿軒梵誉利貞至道居士と法諡せられた。此栄寿軒の後を襲いだ十一代三右衛門が今の蒼夫さんで、大正五年に七十一歳になつてゐる。その丹後掾と称したのは前代の勅賜に本づく。 
天保元年に真志屋十二代の五郎兵衛清常が歿した時、増田氏の金沢には七十九歳の自適斎東里、五十九歳の梅翁、三十四歳の宝龍院依心、十七歳の明了軒深広、十歳の栄寿軒利貞が並存してゐた筈である。嘉永七(1854)年に最後の真志屋名前人五郎作が五郎右衛門と改称した時に至ると、明了軒が四十一歳、栄寿軒が三十四歳、弘化二(1845)年生の蒼夫さんが九歳になつてゐた筈である。 
わたくしは前に、真志屋最後の名前人五郎作改め五郎兵衛は定五郎ではなからうかと云つた。それは定五郎が真志屋文書に載する所の最後の家督相続者らしく見えるからであつた。しかし更に考ふるに、此定五郎は幾くならずして廃められ、天保弘化の間に明了軒がこれに代つてゐて、所謂五郎作改五郎兵衛は明了軒自身であつたかも知れない。 
真志屋の自立してゐた間の菓子店は、既に屢云つたやうに新石町、金沢の店は本石町二丁目西角であつた。  
わたくしは駒込願行寺に増田氏の墓を訪うた。第一高等学校寄宿舎の西、巷に面した石垣の新に築かれてゐるのが此寺である。露次を曲つて南向の門を入ると、左に大いなる鋳鉄の井欄を見る。井欄の前面に掌大の凸字を以て金沢と記してある。恐らくは増田氏の盛時のかたみであらう。 
墓は門を入つて右に折れて往く塋域にある。上に仏像を安置した墓の隣に、屋蓋形のある石が二基並んで、南に面して立つてゐる。台石には金沢屋と彫り、墓には正面から向つて左の面に及んで、許多の戒名が列記してある。読んで行く間に、明了軒の諡が系譜には運海と書してあつたのに、此には連海に作つてあるのに気が付いた。金石文字は人の意を用ゐるものだから、或は系譜の方が誤ではなからうか。 
拝し畢つて帰る時、わたくしは曾て面を識つてゐる女子に逢つた。恐くは願行寺の住職の妻であらう。此女子は曩の日わたくしに細木香以の墓ををしへてくれた人である。 
「けふは金沢の墓へまゐりました。先日金沢の老人に逢つて、先祖の墓がこちらにあるのを聞いたものですから。」とわたくしは云つた。 
「さやうですか。あれはこちらの古い檀家だと承はつてゐます。昔の御商売は何でございましたでせう。」 
「菓子屋でした。徳川家の菓子の御用を勤めたものです。維新前の菓子屋の番附には金沢丹後が東の大関になつてゐて、風月堂なんぞは西の幕の内の末の方に出てゐます。本郷の菓子屋では、岡野栄泉だの、藤村だの、船橋屋織江だのが載つてゐますが、皆幕外です。なんでも金沢は将軍家や大名ばかりを得意先にしてゐたものだから、維新の時に得意先と一しよに滅びたのださうです。今の老人の細君は木場の万和の女です。里親の万屋和助なんぞも、維新前の金持の番附には幕の内に這入つてゐました。」 
わたくしはこんな話をして女子に別を告げた。美しい怜悧らしい言語の明断な女子である。 
増田氏歴代の中で一人谷中長運寺に葬られたものがあると、わたくしは蒼夫さんに聞いた。家に帰つてから、手近い書に就いて谷中の寺を撿したが、長運寺の名は容易く見附けられなかつた。そこでわたくしは錯り聞いたかも知れぬと思つた。後に武田信賢著墓所集覧で谷中長運寺を撿出して往訪したが、増田氏の墓は無かつた。寺は渡辺治右衛門別荘の辺から一乗寺の辻へ抜ける狭い町の中程にある。 
蒼夫さんはわたくしの家を訪ふ約束をしてゐるから、若し再会したら重ねて長運寺の事をも問ひ質して見よう。  
諸書の載する所の寿阿弥の伝には、西村、江間、長島の三つの氏を列挙して、曾て其交互の関係に説き及ぼしたものが無かつた。わたくしは今浅井平八郎さんの齎し来つた真志屋文書に拠つて、記載のもつれを解きほぐし、明め得らるゝだけの事を明めようと努めた。次で金沢蒼夫さんを訪うて、系譜を閲し談話を聴き、寿阿弥去後の真志屋のなりゆきを追尋して、あらゆるトラヂシヨンの糸を断ち裁つた縫新の期に迨んだ。わたくしの言はむと欲する所のものは略此に尽きた。 
然るに浅井、金沢両家の遺物文書の中には、撿閲の際にわたくしの目に止まつたものも少く無い。左に其二三を録存することゝする。 
浅井氏のわたくしに示したものゝ中には、寿阿弥の筆跡と称すべきものが少かつた。袱紗に記した縁起、西山遺事の書後並に欄外書等は、自筆とは云ひながら太だ意を用ゐずして写した細字に過ぎない。これに反してわたくしは遺物中に、小形の短冊二葉を糸で綴ぢ合せたものゝあるのを見た。其一には「七十九のとしのくれに」と端書して「あすはみむ八十のちまたの門の松」と書し、下に一の寿字が署してある。今一葉には「八十になりけるとしのはじめに」と端書して「今朝ぞ見る八十のちまたの門の松」と書し、下に「寿松」と署してある。 
此二句は書估活東子が戯作者小伝に載せてゐるものと同じである。小伝には猶「月こよひ枕団子をのがれけり」と云ふ句もある。活東子は「或年の八月十五夜に、病重く既に終らむとせしに快くなりければ、月今宵云々と書いて孫に遣りけるとぞ」と云つてゐる。 
寿阿弥は嘉永元年八月二十九日に八十歳で歿したから、歳暮の句は弘化四(1847)年十二月晦日の作、歳旦の句は嘉永元(1848)年正月朔の作である。後者は死ぬべき年の元旦の作である。これより推せば、月今宵の句も同じ年の中秋に成つて、後十四日にして病革なるに至つたのではなからうか。活東子は月今宵の句を書いて孫に遣つたと云つてゐるが、寿阿弥には子もなければ孫もなかつただらう。別に「まごひこに別るゝことの」云々と云ふ狂歌が、寿阿弥の辞世として伝へられてゐるが、わたくしは取らない。 
月今宵は少くも灑脱の趣のある句である。歳暮歳旦の句はこれに反して極て平凡である。しかし万葉の百足らず八十のちまたを使つてゐるのが、寿阿弥の寿阿弥たる所であらう。 
短冊の手迹を見るに、寿阿弥は能書であつた。字に媚嫵の態があつて、老人の書らしくは見えない。寿の一字を署したのは寿阿弥の省略であらう。寿松の号は他に所見が無い。  
連歌師としての寿阿弥は里村昌逸の門人であつたかと思はれる。わたくしは真志屋の遺物中にある連歌の方式を書いた無題号の写本一冊と、弘化嘉永間の某年正月十一日柳営之御会と題した連歌の巻数冊とを見た。無題号の写本は表紙に「如是縁庵」と書し、「寿阿弥陀仏印」の朱記がある。巻尾には「享保八年癸卯七月七日於京都、里村昌億翁以本書、乾正豪写之」と云ふ奥書があつて、其次の余白に、「先師次第」と題した略系と「玄川先祖より次第」と題した略系とが書き添へてある。連歌の巻々には左大臣として徳川家慶の句が入つてゐる。そして嘉永元(1848)年前のものには必ず寿阿弥が名を列して居る。 
先師次第にはかう記してある。「宗砥、宗長、宗牧、里村元祖昌休、紹巴、里村二代昌叱、三代昌琢、四代昌程、弟祖白、五代昌陸、六代昌億、七代昌迪、八代昌桂、九代昌逸、十代昌同」である。玄川先祖より次第にはかう記してある。「法眼紹巴、同玄仍、同玄陳、同玄俊、玄心、紹尹、玄立、玄立、法橋玄川寛政六年六月二十日法橋」である。 
二種の略系は里村両家の承統次第を示したものである。宗家昌叱の裔は世京都に住み、分家玄仍の裔は世江戸石原に住んでゐた。しかし後には両家共京住ひになつたらしい。 
わたくしは此略系を以て寿阿弥の書いたものとして、宗家の次第に先師と書したことに注目する。里村宗家は恐くは寿阿弥の師家であつたのだらう。然るに十代昌同は寿阿弥の同僚で、連歌の巻々に名を列してゐる。其「先師」は一代を溯つて故人昌逸とすべきであらう。昌逸昌同共に「百石二十人扶持京住居」と武鑑に註してある。 
寿阿弥の連歌師としての同僚中、坂昌功は寿阿弥と親しかつたらしい。真志屋の遺物中に、「寿阿弥の手向に」と端書して一句を書し、下に「昌功」と署した短冊がある。坂昌功は初め浅草黒船町河岸に住し、後根岸に遷つた。句は秋季である。しかし録するに足らない。川上宗寿が連歌を以て寿阿弥に交つたことは、苾堂に遣つた手紙に見えてゐた。 
真志屋の扶持は初め河内屋島が此家に嫁した時、米百俵づゝ三季に渡され、次で元文三(1738)年に七人扶持に改められ、九代一鉄の時寛政五(1793)年に暫くの内三人半扶持を滅して三人半扶持にせられたことは既に記した。真志屋文書中の「文化八(1811)年未正月御扶持渡通帳」に拠るに、此後文化五(1808)年戊辰に「三人半扶持の内一人半扶持借上二人扶持被下置」と云ふことになつた。これは十代若くは十一代の時の事である。真志屋文書はこれより後の記載を闕いてゐる。然るに金沢蒼夫さんの所蔵の文書に拠れば、天保七(1836)年丙申に又「一人扶持借上暫くの内一人扶持被下置」と云ふことになり、終に初の七人扶持が一人扶持となつたのである。しかし此一人扶持は、明治元年藩政改革の時に至るまで引き続いて水戸家が真志屋の後継者たる金沢氏に給してゐたさうである。  
西村廓清の妻島の里親河内屋半兵衛が、西村氏の真志屋五郎兵衛と共に、世水戸家の用達であつたことは、夙く海録の記する所である。しかしわたくしは真志屋の菓子商たるを知つて、河内屋の何商たるを知らなかつた。そのこれを知つたのは、金沢蒼夫さんを訪うた日の事である。 
わたくしは蒼夫さんの家に於て一の文書を見た。其中に「河内屋半兵衛、元和中(1615-1624)より麪粉類御用相勤」云々の文があつた。河内屋は粉商であつた。島は粉屋の娘であつた。わたくしの新に得た知識は啻にそれのみではない。河内屋が古くより水戸家の用達をしてゐたとは聞いてゐたが、いつからと云ふことを知らなかつた。その元和以還の用達たることは此文に徴して知られたのである。慶長中(1596-1615)に水戸頼房人国の供をしたと云ふ真志屋の祖先に較ぶれば少しく遅れてゐるが、河内屋も亦早く元和中に威公頼房の用達となつてゐたのである。 
金沢氏六代の増田東里には、弊帚集と題する詩文稿があることを、蒼夫さんに聞いた。わたくしは卒に聞いて弊帚の名の耳に熟してゐるのを怪んだ。後に想へば、水戸の粟山潜鋒に弊帚集六巻があつて火災に罹り、弟敦恒が其燼余を拾つて二巻を為した。載せて甘雨亭叢書の中にある。東里の集は偶これと名を同じうしてゐたのであつた。 
わたくしの言はむと欲した所は是だけである。只最後に附記して置きたいのは、師岡未亡人石と東条琴台の家との関係である。 
初め高野氏石に一人の姉があつて、名をさくと云つた。さくは東条琴台の子信升に嫁して、名をふぢと改めた。ふぢの生んだ信升の子は夭し、其女が現存してゐるさうである。 
浅井平八郎さんの話に拠るに、石は嘗て此縁故あるがために、東条氏の文書を託せられてゐた。文書は石が東条氏の親戚たる下田歌子さんに交付したさうである。 
わたくしは琴台の事蹟を詳にしない。聞く所に拠れば、琴台は信濃の人で、名は耕、字は子臧、小字は義蔵である。寛政七(1795)年六月七日芝宇田川町に生れ、明治十一年九月二十七日に八十四歳で歿した。文政七(1824)年林氏の門人籍に列し、昌平黌に講説し、十年榊原遠江守政令に聘せられ、天保三(1832)年故あつて林氏の籍を除かれ、弘化四(1847)年榊原氏の臣となり、嘉永三(1850)年伊豆七島全図を著して幕府の譴責を受け、榊原氏の藩邸に幽せられ、四年謫せられて越後国高田に往き、戊辰の年には尚高田幸橋町に居つた。明治五年八月に七十八歳で向島亀戸神社の祠官となり、眼疾のために殆ど失明して終つたと云ふことである。先哲叢談続編に「先生後獲罪、謫在越之高田、(中略)無幾王室中興、先生嘗得列官于朝」と書してある。琴台の子信升の名は、平八郎さんに由つて始て聞いたのである。 (大正五年五、六月) 
 
四紀行集 / 松尾芭蕉 
野ざらし紀行(甲子吟行)/鹿島紀行/笈の小文/更科紀行

 

野ざらし紀行(甲子吟行) 
千里に旅立ちて路粮をつゝまず、三更月下無何に入るといひけん、昔の人の杖にすがりて、貞享甲子秋八月、江上の破屋を出づる程、風の声そゞろ寒げなり。 
  野ざらしを心に風のしむ身かな 
  秋十とせかへつて江戸をさす古郷 
関越ゆる日は、雨降りて、山みな雲に隠れけり。 
  霧しぐれ富士を見ぬ日ぞおもしろき 
何某千里といひけるは、此たび路のたすけとなりて、万いたはり心を尽し侍る。常に莫逆の交ふかく、朋友に信あるかな此の人。 
  深川や芭蕉を富士に預け行く  千里 
富士川のほとりを行くに、三つばかりなる捨子の哀げに泣くあり。此の川の早瀬にかけて、浮世の波をしのぐにたへず、露ばかりの命まつ間と捨て置きけん、小萩がもとの秋の風、こよひや散るらん、あすや萎れんと、袂より喰物投げて通るに、 
  猿を聞く人捨子に秋の風いかに 
いかにぞや、汝父に悪まれたるか、母に疎まれたるか。父は汝を悪むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。たゞこれ天にして、汝が性の拙なきを泣け。大井川越ゆる日は、終日雨降りければ、 
  秋の日の雨江戸に指折らん大井川  千里 
  眼前 
  道のべの木槿は馬にくはれけり 
二十日余りの月のかすかに見えて、山の根ぎはいと闇きに、馬上に鞭を垂れて、数里いまだ鶏鳴ならず。杜牧が早行の残夢、小夜の中山に到りて忽ち驚く。 
  馬に寝て残夢月遠し茶の煙 
松葉屋風瀑が伊勢に有りけるを尋ね音信れて、十日ばかり足を留む。 
暮れて外宮に詣で侍りけるに、一の鳥居の陰ほのぐらく、御燈処々に見えて、また上もなき峰の松風、身にしむばかり深き心を起して、 
  三十日月なし千とせの杉を抱く嵐 
腰間に寸鉄を帯びず、襟に一嚢を懸けて、手に十八の珠を携ふ。 
僧に似て塵あり。俗に似て髪なし。我僧にあらずといへども、鬟なきものは浮屠の属にたぐへて、神前に入るをゆるさず。 
西行谷の麓に流れあり。女どもの芋洗ふを見るに、 
  芋洗ふ女西行ならば歌よまん 
其の日のかへさ、ある茶屋に立寄りけるに、てふといひける女あが名に発句せよと言ひて、白き絹出しけるに書付け侍る。 
  蘭の香や蝶の翅にたきものす 
  閑人の茅舍をとひて 
  蔦植ゑて竹四五本のあらし哉 
長月の初め故郷に帰りて、北堂の萱草も霜枯れ果てて、今は跡だになし。何事も昔にかはりて、はらからの鬢白く、眉皺よりて、たゞ命有りてとのみ言ひて言葉はなきに、兄(このかみ)の守袋をほどきて、母の白髮をがめよ、浦島の子が玉手箱、汝が眉もやゝ老いたりと、しばらく泣きて、 
  手にとらば消えん涙ぞあつき秋の霜 
大和の国に行脚して、葛下の郡竹の内と云ふ所にいたる。此処は例の千里が旧里なれば、日頃とゞまりて足を休む。 
  藪より奥に家あり 
  綿弓や琵琶に慰む竹のおく 
二上山当麻寺に詣でて、庭上の松を見るに、凡そ千歳も経たるならん。大いさ牛をかくすともいふべけん。かれ非情といへども、仏縁にひかれて、斧斤の罪を免がれたるぞ幸にしてたつとし。 
  僧朝顔いく死にかへる法の松 
独り吉野の奥に辿りけるに、まことに山深く白雲峯に重なり、煙雨谷を埋んで、山賤の家所々にちひさく、西に木を伐る音東に響き、院々の鐘の声心の底にこたふ。昔より此の山に入りて世を忘れたる人の、多くは詩にのがれ、歌に隠る。いでや唐土の廬山といはんも亦むべならずや。 
  ある坊に一夜をかりて 
  砧打つて我に聞せよや坊が妻 
西上人の草の庵の跡は、奥の院より右の方二町ばかり分け入るほど、柴人の通ふ道のみわづかに有りて、嶮しき谷を隔てたるいとたふとし。かのとくとくの清水は昔にかはらずと見えて、今もとくとくと雫落ちける。 
  露とくとくこゝろみに浮世すゝがばや 
もしこれ扶桑に伯夷あらば、必ず口を漱がん。もしこれ許由に告げば、耳を洗はん。山を登り坂を下るに、秋の日すでに斜になれば、名ある所々見残して、まづ後醍醐帝の御陵を拝む。 
  御廟年を経てしのぶは何を忍草 
大和より山城を経て、近江路に入て美濃に至るに、今須・山中を過ぎて、いにしへ常盤の塚あり。伊勢の守武がいひける、義朝殿に似たる秋風とは、いづれの処か似たりけん。我もまた、 
  義朝の心に似たりあきの風 
  不破 
  秋風や藪も畠も不破の関 
大垣にとまりける夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野を出でし時、野ざらしを心に思ひて旅立ちければ、 
  死にもせぬ旅寝の果よ秋の暮 
  桑名本当寺にて 
  冬牡丹千鳥よ雪のほとゝぎす 
草の枕に寝あきて、まだほの暗き中に、浜のかたへ出でて、 
  曙やしら魚白き事一寸 
熱田に詣づ。社頭大いに破れ、築地は倒れて草むらに隠る。かしこに縄を張りて、小社の跡をしるし、ここに石を据ゑて、其の神と名のる。蓬・荵心のまゝに生えたるぞ、なかなかにめでたきよりも心とまりける。 
  しのぶさへ枯れて餅買ふやどり哉 
  名護屋に入る道のほど諷吟す 
  狂句木がらしの身は竹斎に似たる哉 
  草枕犬も時雨るゝか夜の声 
  雪見にありきて 
  市人よこの笠売らう雪の傘 
  旅人を見る 
  馬をさへながむる雪の朝かな 
  海辺に日暮して 
  海くれて鴨の声ほのかに白し 
爰に草鞋をとき、かしこに杖をすてて、旅寝ながらに年のくれければ、 
  年くれぬ笠きて草鞋はきながら 
といひいひも山家に年を越して、 
  誰が聟ぞ歯朶に餅おふうしの年 
  奈良に出づる道のほど 
  春なれや名もなき山の朝霞 
  二月堂に籠りて 
  水とりや氷の僧の沓の音 
京に登りて三井秋風が鳴滝の山家をとふ。 
  梅林 
  梅白し昨日や鶴をぬすまれし 
  樫の木の花にかまはぬすがたかな 
  伏見西岸寺任口上人に逢うて 
  我が衣にふしみの桃の雫せよ 
  大津に出づる道、山路を越えて 
  山路来て何やらゆかしすみれ草 
  湖水眺望 
  辛崎の松は花よりおぼろにて 
  昼の休らひとて旅店に腰をかけて 
  躑躅いけてその蔭に干鱈さく女 
  吟行 
  菜畠に花見顔なる雀かな 
  水口にて廿年を経て古人に逢ふ 
  命二つ中に活たる桜かな 
伊豆の国蛭が小島の桑門、これも去年の秋より行脚しけるに、我が名を聞きて草の枕の道づれにもと、尾張の国まで跡を慕ひ来たりければ、 
  いざともに穂麦くらはん草枕 
此の僧我に告げて曰、円覚寺大顛和尚、ことしむ月のはじめ、遷化し給ふよし。まことや夢の心地せらるゝに、まづ道より其角が方へ申し遣しける。 
  梅恋ひて卯の花拝む涙かな 
  贈杜国子 
  白けしに羽もぐ蝶のかたみ哉 
二度桐葉子がもとに有りて、今や東に下らんとするに、 
  牡丹蘂ふかく分け出る蜂の名残哉 
甲斐の国の山家に立ち寄りて、 
  行く駒の麦に慰むやどりかな 
卯月の末いほりに帰り、旅のつかれをはらす。 
  夏ごろもいまだ虱をとり尽さず  
鹿島紀行 
洛の貞室、須磨の浦の月見にゆきて、「松かげや月は三五夜中納言」と云けん、狂夫のむかしもなつかしきままに、此秋かしまの山の月見んと、思ひ立つことあり。伴ふ人ふたり、浪客の士ひとり、一人は水雲の僧。ひとりはからすのごとくなる墨の衣に三衣の袋を衿に打かけ、出山の尊像を厨子にあがめ入てうしろにせおひ、杖引ならして、無門の関もさはるものなく、あめつちに独歩して出ぬ。今ひとりは僧にもあらず俗にもあらず、鳥鼠の間に名をかうぶりの鳥なき島にもわたりぬべく、門より舟にのりて、行徳と云処に至る。 
舟をあがれば、馬にものらず、細脛のちからをためさんと、かちよりぞゆく。甲斐国より或人のえさせたるひの木もてつくれる笠を、おのおのいただきよそひて、やはたと云里を過れば、かまかいが原と云ひろき野あり。秦甸の一千里とかや、目もはるかに見わたさるる。筑波山むかふに高く、二峰並び立り。かの唐土に双剣のみねありと聞えしは、廬山の一隅なり。 
  雪は申さずまづむらさきのつくば哉 
と詠しは、我門人嵐雪が句なり。すべて此山は日本武尊のことばをつたへて、連歌する人のはじめにも名付たり。和歌なくば有べからず、句なくば過べからず。まことに愛すべき山のすがたなりけらし。 
萩は錦を地にしけらんやうにて、為仲が長櫃に折入て、都のつとに持せたるも、風流にくからず。きちかう・女郎花・かるかや・尾花みだれあひて、小男鹿のつまこひわたる、いとあはれ也。野の駒、処えがほ(得顔)にむれありく、又あはれ也。日既に暮かかるほどに、利根川のほとりふさと言処につく。此川にて鮭のあじろと云ものをたくみて、武江の市にひさぐものあり。宵のほど、其漁家に入てやすらふ。よるのやどなまぐさし。月くまなくはれけるままに、夜ふねさし下して、鹿島に至る。ひるより雨しきりに降て、月見るべくもあらず。 
麓に根本寺のさきの和尚、今は世をのがれて、此処におはしけると云を聞て、尋ね入て臥ぬ。すこぶる人をして深省を発せしむと吟じけん、しばらく清浄の心をうるに似たり。暁の空いささかはれ間ありけるを、和尚おこし驚し侍れば、人々起出ぬ。月の光、雨の音、只あはれなるけしきのみむねにみちて、いふべきことの葉もなし。はるばると月見に来たるかひなきこそ、ほいなきわざなれ。かの何がしの女すら、時鳥の歌えよまで帰りわづらひしも、我ためにはよき荷担の人ならんかし。 
  おりおりにかはらぬ空の月かげも 
  ちぢのながめは雲のまにまに    和尚 
  月はやし梢は雨を持ながら     桃青 
  寺にねてまことがほなる月見かな  桃青 
  雨にねて竹おきかへる月見かな   曽良 
  月さびし堂の軒端の雨しづく    宗波 
   神前 
  此松の実ばえせし代や神の秋    桃青 
  ぬぐはばや石のおましの苔の露   宗波 
  膝折やかしこまりなく鹿の声    曽良 
   田家 
  かりかけし田面の鶴や里の秋    桃青 
  夜田かりに我やとはれん里の月   宗波 
  賤の子や稲すりかけて月をみる   桃青 
  芋の葉や月まつ里の焼ばたけ    桃青 
   野 
  ももひきや一花すりの萩ごろも   曽良 
  花の秋草にくひあく野馬かな    曽良 
  萩原や一夜はやどせ山の犬     桃青 
帰路自準に宿す 
  塒せよわら干宿の友すずめ     主人 
  秋をこめたるくねのさし杉     客 
  月見んと汐ひきのぼる舟とめて   曽良  
笈の小文 
百骸九竅の中に物有り、かりに名付けて風羅坊といふ。誠にうすものの風に破れやすからん事をいふにやあらむ。かれ狂句を好むこと久し。終に生涯のはかりごととなす。ある時は倦みて放擲せん事を思ひ、ある時は進んで人に勝たむ事を誇り、是非胸中に戦うて是が為に身安からず。暫く身を立てむ事を願へども、これが為にさへられ、暫く学んで愚を暁ん事を思へども、是が為に破られ、終に無能無芸にして只此の一筋に繋る。西行の和歌に於ける、宗祇の連歌に於ける、雪舟の絵に於ける、利休が茶における其の貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化に随ひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。思ふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類す。夷狄を出で、鳥獣を離れて、造化に随ひ造化に帰れとなり。 
神無月の初空、定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して、 
  旅人と我が名よばれん初しぐれ 
  又山茶花を宿々にして 
岩城の住、長太郎と云ふもの此の脇を付けて其角亭において関送りせんともてなす。 
  時は冬よしのをこめん旅のつと 
此の句は露沾公より下し給はらせ侍りけるを、はなむけの初として、旧友、親疎、門人等、あるは詩歌文章をもて訪ひ、あるは草鞋の料を包みて志を見す。かの三月の糧を集むるに力を入れず、紙布・綿小などいふもの、帽子・したうづやうのもの、心々に送りつどひて、霜雪の寒苦を厭ふに心なし。あるは小船をうかべ、別墅にまうけし草庵に酒肴携へ来りて、行衛を祝し、名残を惜しみなどするこそ、故ある人の首途するにも似たりと、いと物めかしく覚えられけれ。 
抑々道の日記といふものは、紀氏・長明・阿仏の尼の文をふるひ情を尽してより、余は皆俤似通ひて、其の糟粕を改むる事能はず。まして浅智短才の筆に及べくもあらず。其の日は雨降り、昼より晴れて、そこに松あり、かしこに何と云ふ川流れたりなどいふ事、誰々もいふべく覚え侍れども、黄奇蘇新のたぐひにあらずば云ふ事なかれ。されども其の所々の風景心に残り、山館・野亭の苦しき愁も、かつは話の種となり、風雲のたよりとも思ひなして、忘れぬ所々跡や先やと書き集め侍るぞ、猶酔へる者の猛語にひとしく、寝ねる人の譫言する類に見なして、人又亡聴せよ。 
  鳴海にとまりて 
  星崎の闇を見よとや啼く千鳥 
飛鳥井雅章公の此の宿に泊らせ給ひて、「都も遠くなるみがたはるけき海を中にへだてて」と、詠じ給ひけるを自ら書かせ給ひて、賜はりける由を語るに、 
  京まではまだ半空や雪の雲 
三川の国保美といふ処に、杜国が忍びて有りけるをとぶらはむと、まづ越人に消息して、鳴海より跡ざまに二十五里尋ね帰りて、其の夜吉田に泊る。 
  寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき 
あまつ縄手、田の中に細道ありて、海より吹上ぐる風いと寒き所なり。 
  冬の日や馬上に氷る影法師 
保美村より伊良古崎へ壱里ばかりも有るべし。三河の国の地つゞきにて、伊勢とは海隔てたる所なれども、いかなる故にか、万葉集には伊勢の名所の内に撰び入れられたり。此の洲崎にて碁石を拾ふ。世にいらご白といふとかや。骨山と云ふは鷹を打つ処なり。南の海の果にて、鷹の初めて渡る所と云へり。いらこ鷹など歌にもよめりけりと思へば、猶あはれなる折ふし、 
  鷹一つ見付て嬉しいらこ崎 
  熱田御修覆 
  磨直す鏡も清し雪の花 
蓬左の人々に迎ひとられて、暫く休息する程、 
  箱根越す人も有るらし今朝の雪 
  ある人の会 
  ためつけて雪見にまかるかみこ哉 
  いざ行かむ雪見にころぶ所まで 
  ある人興行 
  香を探る梅に蔵見る軒端哉 
此の間美濃・大垣・岐阜のすきものとぶらひ来りて、歌仙、あるは一折など度々に及ぶ。師走十日余り、名古屋を出でて旧里に入らんとす。 
  旅寝してみしやうき世の煤はらひ 
桑名よりくはで来ぬればと云ひ、日永の里より馬借りて杖つき坂上るほど、荷鞍うちかへりて馬より落ちぬ。 
  歩行ならば杖つき坂を落馬哉 
と物うさのあまり云ひ出で侍れども、終に季ことば入らず。 
  旧里や臍の緒に泣くとしの暮 
宵のとし空の名残惜しまむと、酒呑み夜更かして、元日寝忘れたれば、 
  二日にもぬかりはせじな花の春 
  初春 
  春立ちてまだ九日の野山哉 
  枯芝ややゝかげらふの一二寸 
伊賀の国阿波の庄といふ所に、俊乗上人の旧跡有り。護峰山新大仏寺とかや云ふ名ばかりは千歳の形見となりて、伽藍は破れて礎を残し、坊舎は絶えて田畑と名の替り、丈六の尊像は苔の緑に埋もれて、御ぐしのみ現前と拝まれさせ給ふに、聖人の御影はいまだ全くおはしまし侍るぞ、其の代の名残疑ふ所なく、泪こぼるゝばかりなり。石の蓮台、獅子の座などは、蓬・葎の上に堆く、双林の枯れたる跡もまのあたりにこそ覚えられけれ。 
  丈六にかげらふ高し石の上 
  さまざまの事おもひ出す桜哉 
  伊勢山田 
  何の木の花とはしらず匂哉 
  裸にはまだ衣更着の嵐哉 
  菩提山 
  此の山のかなしさ告げよ野老掘 
  龍尚舎 
  物の名を先づとふ蘆の若葉哉 
  網代民部雪堂に会 
  梅の木になほやどり木や梅の花 
  草庵会 
  いも植ゑて門は葎のわか葉哉 
神垣のうちに梅一木もなし。いかに故有る事にやと神司などに尋ね侍れば、只何とはなしおのづから梅一もともなくて、子良の館の後に、一もと侍る由を語り伝ふ。 
  御子良子の一もとゆかし梅の花 
  神垣やおもひもかけず涅槃像 
弥生半ば過ぐる程、そゞろに浮き立つ心の花の、我を導く枝折となりて、吉野の花に思ひ立たんとするに、かの伊良古崎にて契り置きし人の伊勢にて出迎ひ、共に旅寝のあはれをも見、かつは我が為に童子となりて、道の便りにもならんと、自ら万菊丸と名をいふ。まことに童らしき名のさまいと興有り。いでや門出のたはぶれ事せんと、笠のうちに落書す。 
  乾坤無住同行二人 
  よし野にて桜見せうぞ檜の木笠 
  よし野にて我も見せうぞ檜の木笠  万菊丸 
旅の具多きは道ざはりなりと、物皆払ひ捨てたれども、夜の料にと紙衣(かみこ)壱つ、合羽やうの物、硯、筆、紙、薬等、昼笥なんど物に包みて、後に背負ひたれば、いとゞ脛弱く力なき身の跡ざまにひかふるやうにて、道なほ進まず。たゞ物うき事のみ多し。 
  草臥れて宿かる頃や藤の花 
  初瀬 
  春の夜や籠り人ゆかし堂の隅 
  足駄はく僧も見えたり花の雨  万菊 
  葛城山 
  猶みたし花に明け行く神の顔 
  三輪 多武峯 
  臍峠 多武峯ヨリ龍門ヘ越ス道也 
  雲雀より空にやすらふ峠哉 
  龍門 
  龍門の花や上戸の土産にせん 
  酒のみに語らんかゝる滝の花 
  西河 
  ほろほろと山吹ちるか滝の音 
  蜻蛉が滝 
布留の滝は布留の宮より二十五丁山の奥也。 
津国幾田の川上に有 大和 
布引の滝 箕面の滝 勝尾寺へ越る道に有り。 
  桜 
  桜がりきどくや日々に五里六里 
  日は花に暮て淋しやあすならう 
  扇にて酒くむかげやちる桜 
  苔清水 
  春雨の木下につたふ清水哉 
吉野の花に三日とゞまりて、曙黄昏のけしきに向ひ、有明の月の哀なるさまなど、心にせまり胸にみちて、あるは摂政公のながめに奪はれ、西行の枝折に迷ひ、かの貞室が是はこれはと打ちなぐりたるに、我いはん言葉もなくて、いたづらに口を閉ぢたるいと口をし。思ひ立ちたる風流いかめしく侍れども、爰に至りて無興の事なり。 
  高野 
  ちゝはゝのしきりにこひし雉の声 
  散る花にたぶさはづかし奥の院  万菊 
  和歌 
  行く春にわかの浦にて追付きたり 
  紀三井寺 
跪はやぶれて西行にひとしく、天龍の渡しをおもひ、馬をかる時はいきまきし聖の事心に浮ぶ。山野海浜の美景に造化の功を見、あるは無依の道者の跡を慕ひ、風情の人の実をうかがふ。猶栖を去りて器物の願ひなし。空手なれば途中の愁もなし。寛歩駕籠にかへ、晩食肉よりも甘し。とまるべき道に限りなく、立つべき朝に時なし。只一日の願ひ二つのみ。今宵よき宿からん、草鞋のわが足に宜しきを求めんとばかりは、いさゝかの思ひなり。時々気を転じ日々に情をあらたむ。もしわづかに風雅ある人に出合ひたる悦限りなし。日頃は古めかしくかたくななりと、悪み捨てたる程の人も、辺土の道づれに語りあひ、埴生葎のうちにて見出したるなど、瓦石のうちに玉を拾ひ、泥中に金を得たる心地して、物にも書付け人にも語らんと思ふぞ、又是旅の一つなりかし。 
  衣更 
  一つぬいで後に負ひぬ衣がへ 
  吉野出て布子売りたし衣がへ  万菊 
灌仏の日は奈良にて爰かしこ詣で侍るに、鹿の子を産むを見て、此の日においてをかしければ、 
  灌仏の日に生れあふ鹿の子哉 
招提寺鑑真和尚来朝の時、船中七十余度の難をしのぎ給ひ、御目のうち塩風吹入て、終に御目盲ひさせ給ふ尊像を拝して、 
  若葉して御目の雫ぬぐはばや 
旧友に奈良にて別る 
  鹿の角先づ一節の別れかな 
  大坂にてある人の許にて 
  杜若語るも旅のひとつ哉 
  須磨 
  月はあれど留守のやう也須磨の夏 
  月見ても物たらはずや須磨の夏 
卯月中頃の空も朧に残りて、はかなきみじか夜の月もいとゞ艶なるに、山は若葉に黒みかゝりて、時鳥鳴き出づべきしのゝめも、海の方よりしらみそめたるに、上野とおぼしき所は、麦の穂波あからみあひて、漁人の軒近き芥子の花の、たえだえに見渡さる。 
  海士の顔先づ見らるゝやけしの花 
東須磨・西須磨・浜須磨と三所に分れて、あながちに何わざするとも見えず。藻塩たれつゝなど歌にも聞え侍るも、今はかゝるわざするなども見えず、きすごといふ魚を網して、真砂の上に干し散らしけるを、鳥の飛び来りてつかみ去る。是をにくみて弓をもておどすぞ海士のわざとも見えず。もし古戦場の名残をとゞめて、かゝる事をなすにやといとゞ罪深く、猶昔の恋しきまゝに、鉄枴が峯に上らんとする、導きする子の苦しがりて、とかく言ひ紛らはすを様々にすかして、麓の茶店にて物食はすべきなど云ひて、わりなき体に見えたり。彼は十六と云ひけん里の童子よりは、四つばかりも弟なるべきを、数百丈の先達として、羊腸険岨の岩根を這ひ登れば、辷り落ちぬべき事あまたたびなりけるを、躑躅根笹に取りつき、息を切らし汗をひたして、漸く雲門に入るこそ心もとなき導師の力なりけらし。 
  須磨の蜑の矢先に鳴くか郭公 
  ほとゝぎす消え行く方や嶋一つ 
  須磨寺や吹かぬ笛聞く木下やみ 
  明石夜泊 
  蛸壺やはかなき夢を夏の月 
かゝる所の秋なりけりとかや。此の浦の実は秋をむねとするなるべし。悲しさ淋しさ、云はむかたなく、秋なりせばいささか心のはしをもいひ出づべき物をと思ふぞ、我が心匠の拙きを知らぬに似たり。淡路嶋手に取るやうに見えて、須磨・明石の海右左に分る。呉楚東南の詠もかゝる所にや。物知れる人の見侍らば、さまざまの境にも思ひなぞらふるべし。又後の方に山を隔てて田井の畑といふ所、松風・村雨故郷といへり。尾上つゞき丹波路へ通ふ道あり。鉢伏のぞき、逆落など恐ろしき名のみ残りて、鐘懸松より見下すに、一の谷内裏やしき目の下に見ゆ。其の代の乱れ其の時の騒ぎ、さながら心に浮び俤につどひて、二位の尼君、皇子を抱き奉り、女院の御裳に御足もたれ、船やかたにまろび入らせ給ふ御有様、内侍局・女嬬・曹子のたぐひ、さまく゛ の御調度もて扱ひ、琵琶・琴なんどしとね蒲団にくるみて船中に投げ入れ、供御はこぼれてうろくづの餌となり、櫛笥は乱れて海士の捨草となりつゝ、千歳のかなしび此の浦にとゞまり、素波の音にさへ愁多く侍るぞや。
更科紀行 
さらしなの里、姨捨山の月見んこと、しきりにすゝむる秋風の心に吹さわぎて、倶に風雲の情を狂すもの又ひとり、越人と云。木曾路は山深く道さかしく、旅寐の力も心もとなしと、荷兮子が奴僕をして送らす。おのおのこゝろざし尽すといへども、駅旅の事心えぬさまにて、ともにおぼつかなく、物ごとのしどろに跡さきなるも、なかなかにおかしき事のみ多し。 
何々と云処にて、六十ばかりの道心の僧、おもしろげもおかしげもあらず、只むつむつとしたるが、腰たわむまで物おひ、息はせはしく、足はきざむやうにあゆみ来れるを、伴ひける人のあはれがりて、おのおの肩にかけたる物ども、かの僧のおひね物と一にからみて、馬につて我を其上にのす。高山奇峰頭の上におほひかさなりて、ひだりは大河ながれ、岸下千尋のおもひをなし、尺地も平らかならざれば、鞍の上しづかならず。只あやふき煩ひのみやむ時なし。 
かけはし、ねざめなど過て、猿が馬場たち峠などは、四十八まがりとかや、九折かさなりて、雲路にたどる心地せらる。かちよりゆくものさへ、めくるめき、たましひしぼみて、足さだまらざりけるに、かのつれたる奴僕いともおそるゝけしき見えず、馬の上にてたゞねぶりに眠りて、落ぬべき事あまたたびなりけるを、跡より見あげて危き事かぎりなし。仏の御心に、衆生のうき世を見給ふも、かゝる事にやと、無常迅速のいそがはしきも、我身にかへり見られて、阿波の鳴戸は波風もなかりけり。 
夜は草の枕をもとめて、ひるのうち思ひまうけたるけしき、結び捨たる発句など、矢立取出て、燈のもとに目をとぢ頭をたゝきてうめきふせば、かの道心の坊、旅懐の心うくて物思ひするにやと推量し、我を慰んとす。わかき時拝みめぐりたる地、あみだの尊き数を尽し、おのがあやしと思ひし事ども、噺つゞくるぞ、風情のさはりと成て、何を云出ることもせず。とてもまぎれたる月影の、壁の破れより木間がくれにさし入て、引板の音、鹿おふ声、処どころに聞えける。まことに悲しき秋のこゝろ、ここに尽せり。いでや月のあるじに酒ふるまはんといへば、盃持出たり。よのつねに一めぐりも大きに見えて、ふつゝかなる蒔絵をしたり。都の人は斯るものは風情なしとて、手にもふれざりけるに、思ひもかけぬ興に入て、玉巵の心地せらるゝも処がら也。 
  あの中に蒔絵書たし宿の月 
  かけはしやいのちをからむ蔦かづら 
  かけはしやまづおもひ出駒むかひ 
  霧はれて桟は目もふさがれず 越人 
姨捨山は八幡と云里より一里ばかり南に、西南に横をれてすさまじく高くもあらず、かどかどしき岩なども見えず、只あはれ深き山のすがたなり。なぐさめかねしといひけんもことわりしられて、そゞろに悲しきに、何故にか老たる人を捨たらんと思ふに、いとゞ涙も落そひければ、(原本此一段なし。一本によりて補ひたり) 
  俤や姨ひとり泣月の友 
  いざよひもまだ更科の郡かな 
  更科や三よさの月見雲もなし 越人 
  ひよろひよろと猶露けしやをみなへし 
  身にしみて大根からし秋の風 
  木曾の橡うき世の人の土産かな 
  送られつ別れつはては木曾の秋 
  (「送られつおくりつ」をよしとす) 
  善光寺 
  月影や四門四宗も只ひとつ 
  吹飛す石は浅間の野分かな 
此紀行終て後、乙州以謂、猶翁之友文かさね及ビ烏の賦、集くに洩ぬることを惜み、後集を加ンとおもひ企ぬ。 
 
石門心学

 

江戸時代に石田梅岩(いしだばいがん、1685-1744)が創始した庶民のための生活哲学です。石門とは、石田梅岩の門流という意味です。陽明学を心学と呼ぶこともあり、それと区別するため、石門の文字を付けました。梅岩は、儒教・仏教・神道に基づいた道徳を、独自の形で、そして町人にもわかりやすく日常に実践できる形で説きました。そのため、「町人の哲学」とも呼ばれています。 
石門心学の思想  
17世紀末になると、商業の発展とともに都市部の商人は、経済的に確固たる地位を築き上げるようになります。しかし、江戸幕府による儒教思想の浸透にともない、商人はその道徳的規範を失いかけていました。農民が社会の基盤とみなされていたのに対して、商人は何も生産せず、売り買いだけで労せずして利益を得ると蔑視されていたからです。 
梅岩が独自の学問・思想を創造したのも、そうした商人の精神的苦境を救うためでした。彼は、士農工商という現実社会の秩序を肯定し、それを人間の上下ではなく単なる職業区分ととらえるなど、儒教思想を取り込むような形で庶民に説いていきました。倹約や正直、堪忍といった主な梅岩の教えも、それまでの儒教倫理をベースとしたものでした。また、商人にとっての利潤を、武士の俸禄と同じように正当なものと認め、商人蔑視の風潮を否定しました。 
これらの新しさとわかりやすさを兼ね備えた梅岩の思想は、新しい道徳観を求める町人の心を次第にとらえていきました。 
石門心学はその後組織化が進み、18世紀末には全国に普及していきました。ただ梅岩の死後は、思想的・学問的意義を失い、民衆のための教化哲学や社会運動という意味を徐々に深めていきます。 
石田梅岩(いしだばいがん)  
石田梅岩は貞享2(1685)年、丹波国桑田郡東懸村(とうげむら、現在の亀岡市東別院町東掛<とうげ>)の農家に生まれました。「梅岩」は号で、本名は興長、通称は勘平です。 
次男であったため、京都に出て上京の呉服商黒柳家に約20年間奉公しました。その間に、市井の隠者小栗了雲(おぐりりょううん)と出会い、思想を深めていきます。梅岩は正式な学問を修めたわけではありませんが、奉公の経験と了雲との出会いが、経済と道徳の融合という独特の思想を生み出す基礎となったと思われます。 
梅岩は享保14(1729)年、車屋町通御池上る東側の自宅で講義を始めました。そこで彼は聴講料を一切取らず、また紹介者も必要としない誰でも自由に聴講できるスタイルをとりました。初めのうちは聴衆も数人という状況でしたが、出張講釈などを続けることで次第に評判は高まっていきました。 
また講義とは別に、毎月3回月次会(つきなみえ)と呼ばれる研究会を開き、その中で多数の門弟を育てました。その月次会での問答を整理したものが、元文4(1739)年に出版された「都鄙問答」(とひもんどう)です。田舎から京都へ出てきた者の質問に、梅岩が答える形式をとっており、教学の基本理念が記されています。 
延享元(1744)年には彼の主張の中核である「倹約」を説いた「斉家論」(せいかろん)を出版しますが、その直後に亡くなりました。なお梅岩自身は、一度も「心学」という言葉は用いていません。 
手島堵庵(てじまとあん)  
梅岩亡き後、石門心学の中心的存在となったのが手島堵庵(1718-86)です。堵庵は京都の商家に生まれ、18才で梅岩の門に入ります。44才の時に家督をその子和庵(かあん)に譲り、以降は心学の普及につとめました。 
梅岩を、真理を求める求道者的存在とするならば、堵庵は庶民を教え導く指導者的存在でした。そして、組織の改革や教化方法の改善に手腕を発揮しました。 
明和2(1765)年には富小路通三条下るに、最初の心学講舎である五楽舎(ごらくしゃ)を設立しました。さらに安永2(1773)年、五条通東洞院東入に脩正舎(しゅうせいしゃ)を、安永8(1779)年、今出川通千本東入に時習舎(じしゅうしゃ)を、天明2(1782)年、河原町通三条に明倫舎(めいりんしゃ)をそれぞれ開設しました。これらの講舎は、その後組織化していく心学教化活動の中心的存在となっていきました。 
また、女性だけの特別講座や、年少者のために日中行う「前訓」(ぜんくん)という講座を開きました。そこでは俗語を用いた講話や、心学の教訓を歌であらわした道歌が用いられ、庶民に広く受け入れられました。 
その結果、民衆に広く受け入れられた心学は、天明・享和(1781-1804)の頃には、京都を中心に社会的一大勢力に発展しました。その背景には、都市部における寺子屋の定着によって、教育の必要性が庶民に浸透したことが挙げられるでしょう。ただ一方で、梅岩の思想の哲学的側面は薄れ、その教えは平易で単純なものになっていきました。 
柴田鳩翁(しばたきゅうおう) 
もとは講談師であった柴田鳩翁(1783-1839)は、文政4(1821)年時習舎の薩埵徳軒(さったとくけん)に入門し、心学を修めました。鳩翁は45才の時に失明しますが、たくみな話術で庶民から武家・公家にまで心学を説いてまわりました。 
特にこの頃になると、心学も一般に浸透したため、大名や代官に依頼され各地を巡回することが多くなりました。越前大野、美作(みまさか)津山、伊勢津などの諸藩では、藩主自らが彼の講釈に耳を傾けました。他にも、京都所司代の松平信順(まつだいらのぶのり)や仁和寺宮(にんなじのみや)済仁入道親王(さいにゅうにゅうどうしんのう)、土御門晴親(つちみかどはれちか)などが鳩翁の講釈を聞いています。 
それらの場で語られた話を、養子である遊翁がまとめたものが「鳩翁道話」です。天保6(1835)年に出版され、明治時代にはベストセラーにもなりました。 
また彼は実践を重んじ、自ら復興した脩正舎を中心に飢饉時の救援活動を推し進めました。天保の大飢饉の折には、長期にわたり施粥を行い、彼の没した翌年の天保11(1840)年には町奉行所より表彰されています。 
京都の富商と心学  
大黒屋三郎兵衛家は越後屋(三井家)や大丸(下村家)とともに、江戸時代、京都有数の呉服屋でした。その第四代当主杉浦利喬(1732-1809)は石田梅岩の門に入り、心学を修めました。利喬は店の者に、「家内之定」や「家業之定」とともに「石田梅岩語録」を読み聞かせていたことからも、心学の思想を経営の理念に取り入れていたことがうかがえます。またその「家内之定」にも、 
家業専に仕、常に倹約を守るべき事 
などとあり、明らかに心学の影響が見て取れます。 
文化6(1809)年に利喬は亡くなりますが、以降も心学は大黒屋の家訓として受け継がれていきました。現在、杉浦家には石田梅岩の肖像画が残されています。 
大黒屋以外にも、心学に傾倒した商家は多く、講舎の運営資金の大半は、そうした商人達によって賄われていたようです。 
また、心学の説く倹約や正直、堪忍(かんにん)などの思想は、さまざまな形で老舗の家訓の中に残され、今に続いています。 
小学校と心学  
明治2(1869)年に日本で最初に発足した京都の小学校では、住民を対象とした社会教育として、儒書の講釈とともに心学の講義が行われていました。小学校には心学の道話師が置かれ、月に6回の講義の席が設けられていました。これは、江戸時代に心学が果たした役割が、明治に入ってもある程度評価されていたからだと思われます。ただ文明開化の流れには対応できず、この制度も明治4(1871)年には廃止されます。 
 
京都のキリシタン遺跡

 

京都とキリシタン(キリスト教)の歴史は、天文18(1549)年に薩摩に上陸し、天文19年12月に堺を経て入洛したフランシスコ・ザビエル(1506-52)に始まります。ザビエル以降も多くの宣教師が入洛し、京都を中心とした地域で布教活動が行われ、織田信長(1534-82)の保護によって浸透を深めていきます。 
この時期に作られたキリシタンの遺跡として、京都には、墓碑や欧風の鐘などが現存していますが、それら以外の遺跡の多くは、豊臣秀吉(1536-98)の追放令や江戸幕府の禁令によって迫害を受け破却されました。 
宣教師と京都  
ザビエルが日本全土の布教許可を得るために入洛したのは、天文法華の乱後十数年、都は復興の途上にあったとはいえ、すでに幕府は事実上崩壊していた時代で、室町幕府第十三代将軍足利義輝(あしかがよしてる、1536-65)は少数の家臣をつれて郊外の北白川に逃れており、後奈良天皇の朝廷も衰えていました。ザビエルが都の大学として期待していた比叡山延暦寺をはじめ京都の諸寺院も世俗化し、戦乱の渦中にまきこまれていました。 
失意の中、滞在わずか11日で離京したザビエルの後、京都布教に着手したのは、ガスパル・ビレラです。 
当時、京都の人々はキリシタンに対して無理解でしたが、入洛から1カ月が過ぎ、堺のキリシタン医師パウロが紹介した建仁寺永源庵主の手引きで、妙覚寺に将軍義輝を訪ねることができたビレラは、この接見をきっかけに公然と町人に説教をはじめました。そしてビレラは、当時京都に勢力を張る三好長慶(みよしながよし)や松永久秀(まつながひさひで)との交渉も行い、永禄3(1560)年のはじめには、将軍に再び謁見、布教の許可を得たのです。 
永禄4(1561)年、京都市内に最初の礼拝堂が建設されますが、相次ぐ戦乱で、礼拝堂は荒廃、布教事情もなかなか好転しませんでした。しかし、比叡山を焼き討ちした織田信長の入京によって事態は一転、信長は仏寺の勢力を抑制する意図もあってか、当時来京していたオルガンティーノら宣教師たちを厚遇しました。この信長の保護によって、新たに教会(南蛮寺<なんばんじ>)や礼拝堂が建設され、京都でのキリシタン伝道事業は絶頂期を迎えたのです。 
バテレン追放令  
このように戦国時代末から宣教師や信者の努力により繁栄にむかった京都のキリシタンでしたが、天正15年(1587)に発せられた豊臣秀吉のバテレン追放令により追放と迫害の時代をむかえることになります。 
この追放令の動機については、さまざまな説がありますが、一つには、キリシタン信者の団結が一向一揆と同様に専制権力にとって脅威となるために発せられたと言われており、これによって京都市中の宣教師は追放され、南蛮寺は破壊されました。 
ただし、宣教師・信者に対する大規模な迫害は、慶長元(1596)年に始まります。この年9月、土佐に着岸したイスパニア船サン・フェリぺ号がイスパニアの侵略の先鋒だとみなされ、その影響で京都においてフランシスコ会の26人の宣教師らが捕らえられ、長崎へ護送され、処刑されました。これは「二十六聖人の殉教」と呼ばれ、迫害の背後には、日本布教をめぐるポルトガル系イエズス会とイスパニア系フランシスコ会の対立があったともいわれています。 
江戸時代の禁教  
江戸時代におけるキリシタンの禁止は、慶長17(1612)年の禁教令にはじまります。徳川政権は当初キリシタンに対して寛大な態度を示していましたが、カトリックの国々への国土侵略の疑惑から禁教に踏み切ります。この慶長17年の法令は幕府直轄領のみを対象としたものでしたが、翌慶長18年にはその効力を全国におよぼす禁教令が出され、以後、この禁教令が明治6(1873)年にいたるまで継承されます。 
京都に禁教の波動がおよぶのは慶長18年のことです。当時の京都所司代板倉勝重(いたくらかつしげ)は、キリシタンへの同情から前年の禁教令を厳しく施行することを躊躇していました。しかし、江戸から上使として大久保忠隣(おおくぼただちか)が派遣され、弾圧の指揮をとることになると、忠隣は、当時京都の西の郊外を中心に散在していたキリシタン寺院(教会)を焼き払い、信者に拷問を加え転向をせまったのです。 
この江戸幕府による最初の弾圧は、慶長19年の大坂冬の陣勃発までつづきましたが、大坂の陣の戦後処理もおわった元和5(1619)年には再度の弾圧が加えられました。最初の弾圧では処刑者が出ることはなかったようですが、元和の弾圧では信者60名以上が七条河原で火刑に処されました。この処刑は「古代ローマ皇帝のネロにまさる残虐の所業」と宣教師が形容するように、京都における最大のキリシタン信徒弾圧で、これ以後、京都において公然としたキリシタンの活動は途絶えてしまいます。 
 
朝鮮通信使

 

朝鮮通信使は、足利・豊臣・徳川の武家政権に対して、朝鮮国王が書契(しょけい、国書)および礼単(進物)をもたらすため派遣した外交使節団のことで、「朝鮮信使」「信使」「朝鮮来聘使」「来聘使」(らいへいし)などとも呼ばれていました。実質的には、江戸時代に12回にわたって来日した使節団のことを指しています。 
江戸時代の朝鮮通信使は、幕府の命を受けた対馬藩主が朝鮮へ使者を派遣し、これを受けた朝鮮側が、正使(文官堂上正三品)、副使(文官堂下正三品)、従事官(文官五・六品)の三使を中心に使節団を編成しました。この三使には、将来朝鮮政府首脳部になるべき人物が選ばれます。 
この通信使の来日は、文化面においても多大な影響を与え、絵画や歌舞伎の題材にも取り上げられるほどでしたが、なかでも、当時の文化人にとっては、先進的な大陸の文化を取り入れる絶好の機会でした。 
朝鮮から江戸まで  
朝鮮王朝(1392年に李成桂<りせいけい/イ・ソンゲ>によって成立)の宮中において三使が国王に挨拶を行った後、通信使一行は、都がある漢陽(ハニヤン、現ソウル)を出発、陸路で釜山浦へ下り、永嘉台(ヨンカデ)から乗船して対馬に渡ります。対馬・壱岐を経て筑前の藍島(あいのしま、福岡県新宮町相島)に至り、日本本土の最初の停泊地、赤間関(あかまのせき、山口県下関市)に到着すると、対馬藩や西国大名の護送船を加えて大船団が構成され、瀬戸内海に入り、上関(山口県熊毛郡)・牛窓(岡山県瀬戸内市)・兵庫(兵庫県神戸市)などの要所要所の港で潮待ち・風待ちをしながら大坂に入ります。 
通信使は、この大坂で幕府が用意した川御座船(かわござぶね)に乗り換えて淀川をさかのぼり、淀に上陸、京都滞在を経て、大津・草津宿へと入ります。その後、一行は、野洲より朝鮮人街道を通って彦根まで行き、中山道を経由して東海道に戻り、江戸へと向かいます。復路はこの行程を逆にたどって朝鮮に帰国しており、往復で半年にも及ぶ長旅でした。 
ちなみに、慶長元(1596)年からの使節団には、1回につき約300-500人の人員が随行しており、寛永13(1636)年以降は、その内の船団関係者約百名が大坂で残留し、江戸を往復する間に長い航海で傷んだ船体を補修して帰路に備えていました。 
来日理由  
室町時代には、6回にわたって通信使が来日しました。来日の理由は、倭寇禁止の要請や将軍襲職祝賀が多く、幕府も同じ認識で迎えており、寛正元(1460)年に来日した通信使は、日本の請いに応じて、大蔵経や諸経を贈呈しています。また、豊臣政権のもとでは、2回にわたり、いずれも文禄・慶長の役(壬申・丁酉倭乱)に関係した交渉を行っています。 
江戸時代には12回来日しましたが、初期の5回までは複雑な理由を秘めていました。たとえば寛永13年の通信使の場合、幕府では「泰平の祝賀」と考えていましたが、朝鮮王朝では、徳川将軍の呼称を従来の「日本国王」から「日本国大君」へと変更したことや、対馬藩主である宗義成(そうよしなり)の国書偽造を暴露した対馬藩家老柳川調興(やながわしげおき)の処分など、朝鮮政策の変化の意味を探り、かつ、柳川氏と対決した宗義成を擁護するために来日しています。 
また、16世紀末、明国で農民の反乱が多発し、加えて元和2(1616)年、中国東北部に後金(後の清国)が建国されるなど、大陸の情勢は緊迫していました。 
朝鮮は、北方より侵入する後金の圧力に対し、明国を支持する方策を堅持していたため、通信使派遣は、南方日本との和平を保つ必要に迫られてのものでもありました。このように通信使の来日は、東アジアの動向とも深く関連しています。 
朝鮮通信使一覧 
  謁見年  西暦  主権者  正使   招聘理由〈日本〉 来聘理由〈朝鮮〉 人員  
01 応永20 1412 足利義持  朴賁 ― 倭寇禁止要請、国情探索 ―  
02 永享元 1429 足利義教  朴瑞生 将軍就任祝賀、前将軍致祭 将軍襲職祝賀、前将軍致祭 ―  
03 永享11 1439 同      高得宗 旧交を復す 交聘を復す、倭寇禁止要請 ―  
04 嘉吉3   1443 足利義勝  下孝文 将軍就任祝賀、前将軍致祭 将軍襲職祝賀、前将軍致祭 約50  
05 寛正元 1460 足利義政  宋処倹 大蔵経要請 日本国王使への回答、大蔵経・諸経の贈呈 約100  
06 文明11 1479 足利義尚  李亨元 ― 旧好を修す ―  
07 天正18 1590 豊臣秀吉  黄允吉 朝鮮の帰服 国内統一の祝賀、献俘答礼 ―  
08 慶長元 1596 同       黄慎 降伏和議 修好、日本軍撤退の要請 309  
09 慶長12 1607 徳川秀忠  呂祐吉 和好を修める 南辺のため対日友好保持、捕虜返還、国情探索 504  
10 元和3   1617 同      呉允謙 大坂平定、日本統一の祝賀 国情探索、捕虜返還、対馬藩牽制 428  
11 寛永元  1624 徳川家光  鄭ャ 家光襲職の賀 将軍襲職の祝賀、捕虜返還、国情探索 460  
12 寛永13  1636 同      任絖 泰平の賀 朝鮮政策確認、対馬藩主擁護、中国対策 478  
13 寛永20  1643 同      尹順之 家綱誕生の賀、日光廟増築 友好保持、清朝牽制、国情探索 477  
14 明暦元  1655 徳川家綱  趙  家綱襲職の賀 将軍襲職の祝賀 478  
15 天和2   1682 徳川綱吉  尹趾完 綱吉襲職の賀 将軍襲職の祝賀 473  
16 正徳元  1711 徳川家宣  趙泰億 家宣襲職の賀 将軍襲職の祝賀 500  
17 享保4   1719 徳川吉宗  洪致中 吉宗襲職の賀 将軍襲職の祝賀 475  
18 寛延元  1748 徳川家重  洪啓禧 家重襲職の賀 将軍襲職の祝賀 477  
19 明和元  1764 徳川家治  趙  家治襲職の賀 将軍襲職の祝賀 477  
20 文化8   1811 徳川家斉  金履喬 家斉襲職の賀 将軍襲職の祝賀 327  
五山と通信使  
京都と朝鮮通信使の歴史には、京都五山、とりわけ天龍寺・東福寺・建仁寺・相国寺との深いつながりがあります。室町時代の京都五山は、仏典の研究ばかりでなく儒学の研鑽にも努めており、そのことは五山文学にあらわれています。 
対馬の厳原(いずはら、長崎県対馬市)にあった朝鮮との外交事務を管掌する以酊庵(いていあん、現西山寺)には、寛永年度から京都の碩学の僧が輪番僧として派遣されていて、慶応2(1866)年の廃止まで、天龍寺から37人、東福寺から33人、建仁寺から32人、相国寺から24人(いずれものべ人数)が赴任しています。 
 
近世後期の京都美術

 

近世後期の京都画壇は、様々な絵画によって彩られますが、その中でも文人画(南画)と写生画の分野においては多くの有名画家を輩出しました。 
文人画とは、中国の士大夫(したいふ、高級官僚)が描いていた絵画のことで、様式的には南宗画(なんしゅうが)とも呼ばれていました。日本に入り、和様化したものを一般に「南画」(なんが)という名称で呼んでいます。 
写生画は、享保16(1731)年、沈南蘋(しんなんびん、生没年不詳)が長崎にもたらした清朝の写実的な画風が大きな影響を与えたと言われています。 
文人画  
日本における文人画(南画)の発生は、中国の明・清時代(17世紀前半)に制作された「八種画譜」(はっしゅがふ)や「芥子園画伝」(かいしえんがでん)などの文人画の木版画譜類が輸入されたことが大きな要因に挙げられます。江戸時代後期には、京都で刊行された人名録「平安人物志」文政5(1822)年版には、画家とは別に「文人画」の項が単独で設けられており、このことからも、当時、京都で文人画家が活躍していたことがわかります。 
日本で初めて文人画に注目したのは、祇園南海(ぎおんなんかい、紀州藩儒臣、1676-1751)や柳沢淇園(やなぎさわきえん、大和郡山藩重臣、1704-58)といった武士の知識人で、彼らに続く当時の代表的な画家といえば、日本文人画(南画)を大成した与謝蕪村(よさぶそん、1716-83)や池大雅(いけのたいが、1723-76)がいます。 
写生画  
京都の写生画家としては、伊藤若冲(いとうじゃくちゅう、1716-1800)がその先駆者として注目され、この若冲よりやや遅れて登場した円山応挙(まるやまおうきょ、1733-95)が写生画を大成したといわれています。応挙の画風は、当時の京都画壇を風靡し、門人は1000人といわれるほどでした。世に言う円山派です。 
この画風は、応挙の門人で気品高い美人画に優れた源g(げんき、1747-97)や奇抜で奔放な作品を描いた長沢蘆雪(ながさわろせつ、1755-99)などの応門十哲や応挙の長男である円山応瑞(おうずい、1766-1829)、次男の木下応受(きのしたおうじゅ、1777-1815)によって継承されます。 
円山派から四条派へ  
応挙を中心にした円山派の全盛時代が終わったあと、文人画家である与謝蕪村の弟子で、のちに応挙の影響を受けた呉春(ごしゅん、松村月渓<まつむらげっけい>、1752-1811)から始まる四条派が、京都画壇を席巻するようになります。 
四条派は円山派の写生的な描写を吸収して、一つの画風をつくりあげました。その画風は、写実的描写力を徹底して深化させることはせず、適度なところで装飾性と調和させ、あわせて詩的情緒にも意を配る、穏健な作風のもので、その結果、世間の幅広い支持をとりつけました。 
この画風は、その後、呉春の弟の松村景文(まつむらけいぶん、1779-1843)や京都郊外の風物を近代的感覚でとらえた岡本豊彦(おかもととよひこ、1773-1845)に引き継がれ、明治以後の近代日本画のいしずえとなっていくのです。なお、京都の商家では、円山・四条派の作品が特に好まれ、現在でも多くの作品が残されています。 
また、この京都の写生画派である円山・四条派(総称して京派とも呼ばれた)に次いで名をひろめた画系に岸駒(がんく、1749?-1838)の岸派や原在中(はらざいちゅう、1750-1837)に始まる原派があり、その他にも円山派全盛期時代に特異な作風で人々の目を驚かせた画家に曾我蕭白(そがしょうはく、1730-81)がいました。 
内裏(京都御所)の障壁画  
江戸時代、火災などにより内裏は焼失再建を繰り返しました。その度に描かれた内裏の障壁画は、幕府の御用絵師である狩野派が中心となってすすめられ、狩野派・土佐派がその絵のほとんどを独占していました。 
しかし、寛政2(1790)年に行われた内裏再建の際には、狩野派や土佐派だけでなく円山応挙や岸駒、原在中などの写生画の絵師も障壁画の制作に加わっています。 
現在、京都御所で見られる障壁画は、安政2(1855)年の内裏再建時に制作されたものですが、この障壁画制作にあたっても円山派や四条派、岸派、原派の絵師が多数参加しています。 
池大雅(いけのたいが、1723-76) 
大雅は、京都の銀座下役の子として生まれました。若いころから書画篆刻(てんこく)が上手で、木版画譜や中国より輸入された絵画を通じて文人画を独学し、宇治の万福寺に出入りして黄檗風の墨画も学びました。ちょうどこの頃、南海や淇園に出会い文人画の研鑽を積みます。 
大雅は、日本文人画(南画)を単なる中国画の亜流にとどめることなく、琳派・大和絵など日本の伝統的な画風や西洋画などを摂取することによって、独自の斬新な絵画様式を完成します。 
与謝蕪村(よさぶそん、1716-83)  
蕪村は俳人として有名ですが、池大雅と並ぶ文人画家としても知られています。蕪村は現在の大阪市都島区毛馬町(けまちょう)で生まれ、20歳頃に江戸に出て早野巴人(はやのはじん、夜半亭宋阿<やはんていそうあ>)に俳句を学び、巴人没後は下総国を中心に放浪生活を送り、宝暦元(1751)年、京都に移住します。 
画風は文人画に日本的自然観を加味したもので、色彩もやわらかく、晩年、謝寅の号を用いて以後、傑作を多く制作しており、代表作には、「野馬図屏風」(やばずびょうぶ、京都国立博物館蔵)などの作品があります。 
蕪村は晩年に松尾芭蕉を偲んで左京区一乗寺の金福寺に茶室芭蕉庵を再興しており、蕪村の墓所もこの寺にあります。 
伊藤若冲(じゃくちゅう、1716-1800) 
若冲は、京都錦小路の青物問屋の家に生まれた町人画家です。彼は老舗の商家の主人でしたが、趣味として習った絵画に没頭し、ついには家を弟に譲って専門画家となってしまいます。はじめ狩野派に学びましたが、写生の重要性を痛感した若冲は、実際に自宅の庭に数十羽の鶏を飼って、そのあらゆる形状を写しとる修練を積んだといわれています。 
こうして若冲は写生的な花鳥画へと深く傾斜していき、特に鶏図を得意としました。代表作には金閣寺の大書院障壁画(重要文化財)などがあり、この障壁画の一部は相国寺承天閣美術館(上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町)で見ることができます。晩年、若冲は伏見区深草石峰寺(せきほうじ)の門前に住したため、墓所は相国寺と石峰寺にあります。 
円山応挙(まるやまおうきょ、1733-95)  
応挙は、丹波国の農家に生まれ、少年期に上京して石田幽汀(いしだゆうてい、1721-86)に師事しました。幽汀は鶴沢探鯨(つるさわたんげい、探山の子)の門人でしたが、その幽汀のもとで江戸狩野派の正統的な画法を修得したのちに、当時流行しはじめたばかりの写実的な西洋画法を眼鏡絵の制作を通して知る一方、中国宋元時代の院体花鳥画にも影響を受けています。 
「絵は応挙の世に出て写生ということのはやり出て、京中の絵が皆一手になつたことじや」(上田秋成「胆大小心録」<たんだいしょうしんろく>)といわれるように、上方を中心に多くの支持者を獲得し、門弟を多数集めた応挙は、写生画の普及に力を尽くしました。 
左京区一乗寺小谷町の円光寺に残されている「雨竹風竹図屏風」などが重要文化財に指定されており、墓所は右京区太秦東蜂岡町の悟真寺(ごしんじ)にあります。 
長沢蘆雪(ろせつ、1755-99) 
蘆雪は、一寸(約3センチメートル)四方の小画面に五百羅漢とその眷属を超細密に描き込んでみせたかと思えば、顕微鏡で見た虫の図を屏風一面に拡大して描くなど、日常的な視覚の粋をはるかに超える大胆な造形を試みています。 
しかし、そうした人の意表をつく奇巧には少しの暗さもなく、常にユーモアをたたえた明るさがあるのは、蘆雪画の特徴であり、応挙の代理で南紀へ下向した際、多くの作品をその地に残しています。 
さらに晩年に描いた水墨画には、月光など光線への関心を深めた抒情的な作風のものもあり、生新な魅力が感じられます。墓所は上京区御前通一条下るの回向院にあります。 
呉春(ごしゅん、1752-1811) 
呉春は京都金座の年寄役松村家の子として生まれた京都町人で、はじめ与謝蕪村について俳諧とともに絵を学びました。月渓の画名で文人画(南画)を描いていた彼は、大坂郊外呉服里(くれはのさと、現大阪府池田市)に滞在中の天明2(1782)年の春、姓を呉、名を春と中国風に改称、翌年に蕪村が没して以後は応挙に接近して、その写生画風に感化されていきます。師の蕪村から受け継いだ俳諧的詩情を応挙ゆずりの平明な写生画風により表現する彼の軽妙で洒脱な画風は、洗練された趣味生活を楽しもうとする市民層に親しく歓迎されました。 
集まる弟子も数多く、呉春はもとより門下生の多くが京都の四条通り界隈に集中して住んでいたため、一門は四条派の通称で呼ばれました。代表作に「白梅図屏風」(逸翁美術館蔵、重要文化財)があり、墓所は師である蕪村と同じ金福寺にあります。 
岸駒(がんく、1749?-1838) 
岸駒は金沢の人で、青年時代、紺屋に奉公をしており、天明の初めごろ上京して絵を学び、しだいに名をあげてきたと言われています。その後、有栖川宮の近侍となり、雅楽助(うたのすけ)の称が与えられ、以後、従五位下に叙せられて、越前守に任ぜられました。沈南蘋の影響を強く受けた岸駒は、岸派を起こし、寛政2(1790)年の内裏造営にあたり障壁画を描いています。平明な円山四条の絵を好む京都町人には、岸駒の「剛健な筆意」はあまりよろこばれず、地方において歓迎されたようです。 
また、岸駒の傲岸なふるまいは京都の人びとの目をおどろかせ、画料の高いことでも有名でした。上田秋成は岸駒のことを山師のような男だと批評しています。墓所は上京区寺町通広小路上るの本禅寺にあります。 
原在中(はらざいちゅう、1750-1837) 
在中は円山応挙の影響を受け、写生を基調に土佐派が描く大和絵の技法と装飾を加えて独自の画風をたて、原派を起こしました。 
彼は山水画や花鳥画を得意とし、作品には障壁画も多く、相国寺(上京区)・建仁寺(東山区)・三玄院(北区の大徳寺塔頭)などに残されています。応挙や岸駒とともに内裏造営の際には障壁画の制作にも携わりました。墓所は中京区寺町通三条上るの天性寺(てんしょうじ)にあります。 
曾我蕭白(そがしょうはく、1730-81) 
若冲や蘆雪とならんで、同じころに異色の画風で世間を驚かせた画家に、室町時代の絵師「曾我蛇足」(だそく)の十世を自称する曾我蕭白がいます。彼は「画を望まば我に乞うべし、絵図を求めんとならば円山主水(応挙)よかるべし」と広言して、応挙の穏健な写生画を非難しており、奇矯で反俗的な激しい性格は「群仙図屏風」(文化庁蔵)など奇怪な相貌を備えた人物画などにそのまま反映しています。 
青壮年期に遊歴した松阪には、障壁画をはじめとする名作がなお多く伝存しています。墓所は上京区堀川通寺之内上るの興聖寺(こうしょうじ)にあります。 
 
天璋院篤姫

 

てんしょういんあつひめ 通称 篤姫(あつひめ) 
別称 一子(かつこ)/敬子(すみこ)/篤君(あつぎみ)/篤子(とくこ、あつこ) 
天保6年-明治16年(1836-1883) 享年48歳 
天璋院篤姫の実父は、薩摩藩島津家の一門・今和泉の5代領主・島津忠剛とされる。鹿児島城下、鶴松城北東にある重臣屋敷・上町で生まれ、島津一子と呼ばれた。幼少から聡明・利発で島津忠剛は「一子が男子であれば」とその器量を評価したと言う。(薩摩藩主・島津斉彬の実子説も有。) 
幼少の折には、小松帯刀らと一緒に学問を学んだとされる。  
徳川将軍の正室を薩摩から出す事になった経緯 
徳川将軍後継問題で、徳川家定のあと、次期将軍に一橋慶喜(徳川慶喜)を推す一橋派(備後福山藩主兼幕府老中・阿部正弘、水戸藩主・徳川斉昭、島津斉彬)と、紀州慶福(徳川家茂)を推す紀州派(紀州藩老中・水野忠央、井伊直弼)らが対立する。 
そんなおり、第13代将軍・徳川家定の正室は2人とも若くして死去していた為、幕府の考えとしては第3正室には健康で元気な女性が良いと言う事になった。 
そんな中、先代11代将軍・徳川家斉の正室であった茂姫(後の廣大院)の血筋を引く者達が、のちの大名家の藩主や正室などに数多くおり、血筋が非常に健康で繁栄していたことから、茂姫の親元であった島津家に、幕府は正室を出すように要求した。 
別の説では、薩摩藩島津本家の島津斉彬が幕府改革の政略の為、将軍に正室を輿入れさせたと言う説もあるが、薩摩側から正室を申し入れしたとは考えにくく、幕府からたまたま正室をと申し出があったようだ。島津斉彬としてはこの機会に、次期将軍は一橋慶喜をと、より一層有利に画策する為、大奥を利用しようと考えた=便乗したというのが正しいようだ。 
将軍の元に御台所(正室)を送り込んで、大奥から政治工作をさせるには、並大抵の姫では勤まらない。このような理由から、重大な役割を担う正室にと抜擢されたのが、島津一門の島津忠剛の娘で聡明・利発な一子である。 
1953年、薩摩藩11代藩主・島津斉彬(なりあきら)は一子を島津本家の養女とした。そして、一子は名を篤子(篤姫)と名を改めることになったのである。
薩摩を出発し江戸へ(2度と戻ることはなかった) 
篤子(篤姫)は3ヶ月間鹿児島城で過ごした後、8月21日に薩摩を出発。途中では海路も使用したとも言われるが最近の研究では、ほぼ陸路を使ったとされている。 
9月24日に大坂に到着して、住吉天満宮参拝。そして、京では近衛邸を訪問し宇治や東福寺などを見物した。 
江戸へ向う途中、箱根では当然温泉にも入浴したであろうし、鎌倉にも寄ったとされている。江戸では芝にある薩摩藩邸に入った。
輿入れ準備 
将軍の正室を島津家から迎えるに当たって、幕府内では島津が外様であることからも紀州藩などの抵抗があり、すぐに輿入れとはならず、篤子(篤姫)は江戸にて約2年の月日を過ごすことになる。 
本来、将軍の正室は公家から迎えるのが正式であったとこから、島津斉彬や一橋派の中心人物、阿部正弘らは知恵を絞り、1856年に篤姫を、島津斉彬の姉が嫁いでいた右大臣・近衛忠煕の養女とした。 
五摂家の筆頭=公家の家格の頂点でもある近衛家の娘とあっては、紀州派も強く反対を唱えることができなくなり、以後、将軍家輿入れに大きく進展する。 
なお、篤姫は近衛忠煕の養女になったことで、篤君と呼ばれるようになり、諱の名を「近衛敬子」とした。 
近衛家には得浄院と称する、島津家より近衛忠煕に嫁いだ郁姫付きの元老女がいた。その得浄院は篤姫が大奥へ入る際の御年寄として抜擢され、幾島と改名し、京から江戸の薩摩藩邸に下向。 
まもなく、篤姫は将軍・徳川家定の第3正室として大奥へ、幾島と共に入るのである。 
幾島は、近衛家の家士・今大路孝由の娘と言う肩書きで大奥に入ったと言われる。  
大奥 
篤君は、ようやく将軍の御台所となり、大奥では篤姫君と呼ばれるようになる。しかし、将軍・徳川家定は生まれながらにして病弱で、この時すでに言葉もうまく話すことすら困難だったとされ、とても世継ぎを期待できる体ではなかった。脚気と言う、疲れやすく体がしびれる病気であったとも言われる。  
大奥は年寄・瀧山(滝山)や当時大奥最大の実力者・歌橋など、ほとんどが紀州派であり、一橋派の政略も担う篤姫君を歓迎する者は少なかった。 
大奥は紀州派と言うよりは、水戸嫌いだから紀州が良いと言う事である。水戸嫌いの理由としては、水戸の徳川斉昭が大奥に倹約(節約)を求めたと言う事もあるが、絶世の美女として知られる大奥女中の唐橋が大奥から水戸藩邸に行った際に、水戸藩主・徳川斉昭が手をつけて妊娠させてしまう。唐橋は公家の娘であり、また生涯奉公、終身不犯を誓った身。将軍家斉でさえ決まりを守り手が出せなかった。その為、大奥は唐橋に手をつけた水戸を嫌ったようだ。 
なお、唐橋は実家のある京に戻り、その後、花ノ井と称して、水戸の徳川斉昭の元に行ったと言われているが、生没年ですら詳しいことはわかっておらず、篤姫君が嫁いだ頃にはすでに大奥に唐橋はいなかったとするのが妥当である。 
この唐橋は、12代将軍・徳川家慶が死去するまで大奥で権力を誇っていた上臈御年寄・姉小路の妹であり、姉の姉小路は大奥を去ってからも、発言力を保っていたとされる。 
しかし、第13代将軍に徳川家定が就任すると、御台所が不在の時期もあったので、徳川家定生母・本寿院や御年寄・瀧山らの発言力が増し、歌橋が大奥最大の権力を誇っていた。 
そんな所に、形式上は大奥で一番偉い人物となる新しい御台所・篤姫君が来たので、本寿院・瀧山・歌橋らはおもしろくない。 
そして、大奥で一橋派として工作する幾島は篤姫君を補佐する一方、江戸城内と薩摩藩との連絡役・密偵役としても活動し、西郷隆盛を通して薩摩江戸藩邸の奥老女・小ノ島と連絡し、大奥の動向を伝え、薩摩藩との連携に大きな役割を果たしたのであった。 
勝海舟の日記では大奥に入った篤姫君が猫を飼い、その猫のエサ代が年間25両だったと記載されている。ちなみに、猫の世話をしたのは御年寄・瀧山の姪で大岡ませ子。
篤姫づきの大奥女中 
幾島以外の篤姫つきの大奥女中を簡潔にご紹介。 
初瀬(はつせ、生没年不詳) 
初名は粂山。父は旗本榊原氏。宿元は甥の榊原七郎右衛門。当初は徳川家祥室・寿明姫付きの中年寄で江戸城西の丸にいたが、寿明姫没後は詰となった。徳川家祥の将軍就任に従って本丸に移る。篤姫が大奥に入ると、ともに大奥に入っていた幾島と篤姫付きの御年寄となる。1862年前後までには大奥で致仕。 
瀧井(たきい、生没年不詳) 
初名は岩野。父は旗本熊倉茂高。 中年寄として篤姫に仕えた。その後、昇進して御年寄となり、名を瀧井と改名。 
川井(かわい、生没年不詳) 
祖父は関正秀か?。弟に小姓組を勤めた関十蔵がいる。中年寄として篤姫に仕えた。1863年の江戸城火事で、西の丸、本丸・二の丸が焼失した際に、他の多くの女中たちとともに暇を出されたが、3年間は諸手当を保証されていたと言われる。  
歌川(うたがわ、生没年不詳) 
初名ふく。父は旗本岡野氏。宿元は又甥の岡野福次郎。 御中臈として篤姫に仕えた。その後、御中臈頭となり歌川に改名。そして中年寄になった。 
袖村(そでむら、生没年不詳) 
初名みや。祖父は青木兼鑑か?。弟に小普請を勤めた青木熊之助がいる。御中臈として篤姫に仕えた。1864年には御中臈筆頭になっている。  
さか(生没年不詳)  
薩摩から篤姫に付き従った女中で、父は薩摩藩士仙波氏。宿元は兄仙波市左衛門。篤姫が薩摩藩主・島津斉彬の娘になった時から世話をしていたと考えられ、以後、篤姫の大奥輿入れにも従い、江戸城開城以降も天璋院に従って千駄ヶ谷に移り、天璋院の女中頭を勤めたと言われている。また、天璋院晩年の旅行の供などもしている。  
くわ(生没年不詳) 
旗本土屋忠兵衛の娘。宿元は甥で御小姓組を勤めた土屋国之丞。 篤姫の御中臈として仕えた。1858年前後で致仕したものと考えられる。  
かよ(生没年不詳) 
沢仁兵衛の娘。宿元は父で小十人組を勤めた沢仁兵衛。祖父は沢実久。篤姫の御中臈として仕えた。 
つよ(生没年不詳) 
旗本太田氏の娘。宿元は兄で小普請などを勤めた太田勝太郎。当初は徳川家定付きの御中臈であったが1857年に篤姫付きの御中臈になる。しかし、1862年に御中臈増人に降格となり、致仕したと考えられる。 
福田(ふくだ、生没年不詳) 
原田氏の娘。宿元は甥の原田八十一郎。 篤姫つきの表使。
ペリー来航・安政の大獄・徳川家定の死去 
篤君が大奥に輿入れとなる頃には、一橋派の中心人物、福山藩主・阿部正弘が幕府の筆頭老中をしていた。 
当時、大老がいなかったので、阿部正弘が実質役人の頂点。(紀州派に配慮して大老昇進は断っていたと言われる。) 
阿部正弘はペリーが来航すると、全国の大名から広く意見を聞くなど、今までの幕府にはなかった政治手腕を発揮。1857年には、世界情勢を見据えてアメリカと日米和親条約を結び下田と函館を開港するなど、日本がアメリカの植民地になることを防ぎ「日本を救った政治家」とされる。 
その阿部正弘が39歳で急死してからは、幕閣を主導した佐倉藩主の老中・堀田正睦が一橋派に好意を示した。そして、福井藩主・松平慶永(松平春嶽)の命を受けた橋本左内や、島津斉彬の腹心・西郷隆盛らも朝廷への工作など京都で暗躍したが、結果的には紀州派が勝り、彦根藩主・井伊直弼が最高職の大老に就任。篤姫らは将軍世継問題で真っ向から対立することになる。 
井伊直弼は大老の地位を利用し強権を発動し、悪政と称される安政の大獄が始まった。 
また、井伊直弼は攘夷の考えである天皇の勅許を得ぬまま、日米修好通商条約を勝手に結び、次期将軍を紀州慶福(徳川家茂)にする考えに反対する者と、日米修好通商条約締結に異を唱えた、一橋派大名や公家など尊王攘夷派・一橋派を100人以上を蟄居・隠居・謹慎とし弾圧。そして、吉田松陰・橋本左内ら優秀な人材8名を斬首した。 
この安政の大獄により江戸幕府はモラルの低下や人材の欠如を招き、反幕派による尊攘活動を激化させる結果となった。 
翌年1858年、幕府は次期将軍には紀州藩慶福にすると決定。その決定からまもなく将軍・徳川家定が死去。 
次期将軍決定に抗議する為、島津藩5000人を軍事訓練し準備を進めていた島津斉彬も発病し死去と、一橋派はたて続けに頼りの人物を失う。 
そんな激動の中、病床の徳川家定と篤姫君はわずか1年半と、実のない結婚生活を送る一方、幕末の動乱の中、自分の運命を切り開いて行くことになる。篤姫君が徳川家定亡きあと、髪をおろして天璋院と名乗ったのは、まだ20歳代前半のときであった。
紀州慶福(徳川家茂)が第14代将軍に就任 
徳川家定の後には第14代将軍として、1858年、慶福(徳川家茂)が就任。 
まだ、13歳と若輩であった為、将軍職としての政治権力は抑制されていたが、家臣からも名君と将来を期待されていた。田安慶頼が将軍後見職につき、江戸幕府は威信回復の為にも尊王を示す為「公武合体」を進め、天皇家より将軍・徳川家茂の正室を迎えるよう画策する。 
候補にあがった敏宮は30歳近くと、年長すぎて合わず、1858年に生まれたばかりのの皇女・富貴宮が第一候補となったが、富貴宮が1859年に死去したために、結果的に徳川家茂と同年の皇女・和宮に絞られ、1860年に孝明天皇もやむなく承諾。 
1862年、幼い徳川家茂に正室として朝廷より仁孝天皇の妹・和宮が大奥へ入る。 
また、島津久光らの工作により1862年に孝明天皇の勅命が下され、将軍後見職に一橋慶喜が就任、大老には同じく一橋派の福井藩主・松平慶永(松平春嶽)がつき、安政の大獄で弾圧した者を処罰し、幽閉されていた者を釈放するなど、今度は開国し一橋派が勢力を盛り返してきた。
和宮の輿入れ 
和宮は少し足が不自由だったが、小柄でとても可愛らしく、身長1m43cm、体重34キロ位だったとの事。6歳の時から有栖川宮家と9年間婚約しており、ずっと有栖川宮家で世話になり学問などをしていた。 
当初、幕府の申し出に対して、和宮はすでに婚約済であった事や、過去に皇女が武家に降嫁した例はない為、孝明天皇は当然拒否回答。しかし幕府はあきらめず、有栖川宮家に和宮との婚約を辞退させるなど、数々の裏工作をおこない、天皇侍従を務めていた公卿・岩倉具視の説得もあって1860年6月20日、孝明天皇は「幕府が攘夷を約束するなら」という条件付きで、やむなく降嫁を認めた。大奥の上臈御年寄だった姉小路も和宮の降下も自ら京に赴き要求したと言う。和宮は姉小路の兄の孫娘である。  
京から出たことのない和宮は、当然のように江戸に行くことを拒否した。しかし、仁孝天皇がまだ1歳の富貴宮を代わりに徳川家へ嫁つがせ、それが受け入れられなかったら退位も辞さないと言う書状を見ると、自分の主張はわがままであると悟り、和宮は徳川家へ行くことを決心したと言う。 
また、一方、徳川家茂にも婚約者がいたと言うので、お互い政略に巻き込まれる形となった。 
数千人を従えた和宮の行列は1861年10月20日京都を発ち11月15日江戸に到着。江戸幕府は衰えぬ威勢を示すため諸藩による警護2万人を和宮のお迎えに動員。駕籠の数800挺、その長さは50kmにも及び、各宿場では行列通過には前後4日要したと言う。 
道路や宿場の準備・警護を入れると総勢20万人も動員したされ、現在の費用に換算すると約150億円も費やした。 
なお、和宮が江戸での暮らしに困らないよう、生母の観行院、乳母の土御門藤子、女官の庭田嗣子(仁孝天皇の典侍)、能登らを江戸での和宮近くに置くため、江戸下向の際に同行した。 
この頃、薩摩藩は天璋院に薩摩帰国を申し出るが、「自分は徳川家の人間だから」と天璋院は帰国を拒否している。
和宮と天璋院 
征夷大将軍で夫の徳川家茂よりも和宮の方が身分は上で、婚儀の際も、将軍・徳川家茂から和宮に挨拶をすると言う前代未聞の現象が起きていた。 
和宮と天璋院の間柄としても年の差10歳ながら、言わば「嫁姑」の関係だが、身分は和宮の方が遥かに上。また、皇室出身・武家出身と生活習慣の違いもあって二人は当初対立したと言う。 
特に、和宮は大奥でも京都御所風の生活を続けようとするが、天璋院は大奥女中1000人の筆頭として、あくまで江戸風(武家風)の生活をするよう説き伏せた。 
一般的に、天璋院と言うと、天璋院(姑)が和宮(嫁)をいじめた事でよく知られるが、NHK大河ドラマなどでは、そんなにひどくは描かれない気がする。 
実際には天璋院も元御台所として、徳川家の為にも和宮と親しくなりたかったとされ、徳川家茂が上洛していた際には、和宮と共に芝の増上寺でお百度参りしたとも伝えられている。 
このように和宮と天璋院がお互い分かりあえたのもつかの間、もともと体が丈夫とは言えなかった将軍・徳川家茂が、1866年7月20日、第二次長州征伐の途上で病に倒れる。天璋院や和宮は急ぎ、医師を江戸から派遣させたが、その甲斐なく、21歳の若さで徳川家茂は大坂城にて病死した。 
前年(1865年)には、和宮生母・観行院も江戸城でなくなっており、続けて親近者を亡くすのである。
徳川慶喜の将軍就任と孝明天皇の崩御 
徳川家茂の死後、朝廷は和宮(徳川家茂死後、静寛院宮)に京へ帰るように勧めたが、天璋院と同じようにそれを断わる。 
大奥としては天璋院を筆頭に御年寄・瀧山らが次期将軍として、田安亀之助(徳川家達)を強く推挙した。 
以前、天璋院らが擁立する予定だった一橋派の徳川慶喜とは、すでに険悪な仲であったとされ、もともと大奥じたいを不要と感じていた徳川慶喜は、天璋院に対して、外様の分家の出で将軍家の正室におさまったと嫌っていたようだ。 
徳川家茂も生前、田安亀之助(徳川家達)を次の将軍にと望んでいたが、田安亀之助(徳川家達)は当時まだ4歳であり、幕政を案じた和宮や幕臣・諸侯らは「国事多難の時に幼将軍は困る」と反対。大奥が推挙していた徳川慶喜も徳川宗家の家督は継いだが、老中らの将軍就任要請は固辞していた。 
徳川慶喜は将軍後見職として、1864年の京都御所で起こった禁門の変で、幕府軍を指揮し長州勢を追い払った手腕などの実績もあった為、業を煮やした孝明天皇は1866年12月5日に徳川慶喜に征夷大将軍の宣下をだし、徳川慶喜はさすがに断れず将軍に就任した。 
ただ、徳川慶喜は、最近の将軍と比較しても大変才覚ある優秀な人物で、本来であれば将軍として名君になったであろうが、国内の混乱でもはや将軍の権力は失墜しており、政治の長と言うよりは、江戸幕府と言う巨大組織全体の代表と言う立場で、なんとか存続を図ろうと苦心したように見受けられる。 
1866年12月25日、徳川家茂が亡くなってまだ5ヶ月と言うのに、孝明天皇が享年37で崩御。滅多に風邪にもならないと言う壮健な孝明天皇であった為、暗殺説なども多くある。 
和宮も天璋院と同じように、短い間に母や夫と兄と言う親近者を失い、以後、和宮も天璋院と協力して徳川家存続の為、力をあわせて尽力する。(天璋院が和宮を利用したと言う説もある。)
鳥羽・伏見の戦い 
幾島は約7年間、篤姫君近くで勤めたが1864年体調を崩し医師の診断を受けおり、1865年頃奉公を辞めている。 
西郷隆盛らと14代将軍を一橋慶喜にと画策した、薩摩藩の江戸藩邸老女筆頭・小ノ島は1866年に引退。大奥の年寄・瀧山も1866年か1867年頃に隠居し、明治には川口(埼玉)で暮らしている。 
また、徳川家家督をついだ徳川慶喜は大奥改革に乗り出し、天璋院は和宮と共に抵抗する。 
1867年、徳川慶喜は大政奉還をして、倒幕運動の大義名分を失わせ、政権を返上しても朝廷に政権担当能力がなかった為、引き続き徳川家を中心に新政府下の実質的な中心役割を果たそうとした。 
これに対し討幕派(薩摩藩の大久保利通や、長州藩、岩倉具視らの一部公家)は、政治上の劣勢を挽回すべく、徳川慶喜や親徳川派の公家を排除し、1867年12月に王政復古を宣言=「王政復古の大号令」ほ出す。 
旧幕府と上級公家を廃して、薩長を中心とした新体制を作り、徳川慶喜に対し官位辞退と領地の一部返上(辞官納地)を要求。さらに薩摩藩が江戸市街で挑発的な破壊工作などを行った為、庄内藩が江戸の薩摩藩邸を焼き討ちする事件もおこり「討薩」を望む声を抑えきれず、徳川慶喜ら旧幕府軍は討薩表を掲げて、京都を軍事力によって鎮圧すべく兵を進めた。 そして、1868年1月、新政府軍と旧幕府軍は鳥羽伏見の戦いとなった。 
鳥羽伏見の戦いでは、最新式兵器の運用に不慣れな旧幕府軍に対して、慣れている新政府軍が有利に戦いを進め、朝敵になったことで幕府軍大将の徳川慶喜が江戸に逃げるなどして、士気が上がらなかった幕府軍は大敗。結果的に薩摩・長州の方が政策も上手だったのかも知れない。
江戸城無血開城 
江戸に逃げ帰った徳川慶喜は、降伏恭順に徹し、天璋院や和宮に面会して、江戸に迫り来る官軍(西郷隆盛ら)との仲介を申し出た。この頃既に天璋院や和宮は徳川慶喜を嫌っており、最初は会おうとしなかったが、徳川家存続の為に会談した結果、天璋院は島津本家に、和宮(静寛院宮)は1月21日に土御門藤子を使者として朝廷に派遣し、共に嘆願。徳川慶喜は罰を受けても仕方ないが、徳川家存続や徳川慶喜の助命を願い出た。 
皮肉にも薩摩・長州勢「官軍」の大総督(最高責任者)は、かつて和宮(静寛院宮)の婚約者だった有栖川宮熾仁親王だった。 
和宮は更に、3月10日、再び土御門藤子を沼津まで来ていた官軍に向わせ、江戸進撃猶予を嘆願。3月11日には侍女・玉島を蕨(埼玉県)に遣わして、官軍の進撃猶予を再度嘆願した。 
しかし、官軍は北は板橋、南は多摩川辺りまで迫り、江戸城総攻撃の日にちまで決定していたが、降伏すると申し出ている徳川慶喜に対しての戦いでは士気が上がらず、天璋院からの嘆願や明治天皇が和宮の嘆願に同意したこと、降伏している相手への攻撃は国際法違反だとイギリスやフランスの理解を得られない事もあり、勝海舟と西郷隆盛の交渉も、降伏する側の勝海舟が有利に進めたと言われている。 
こうして寸前で江戸城総攻撃は中止され、代わりに徳川家は江戸城を明け渡した。 
ちなみに、当初の明治政府は薩摩、土佐、広島、尾張、福井の5藩と岩倉具視など薩摩などに協力した公家を中心にした連合政権。事実上、篤姫出身の薩摩が皮肉にも徳川家を倒した形になったのである。
その後の天璋院と和宮 
江戸城開城の際に、和宮と天璋院は二人して徳川家伝来の家宝を広間に飾り、大奥の品物を一切持ち出すことなく、倒幕軍に明け渡して徳川家の女の意地を薩摩・長州勢らに見せ付けるが、倒幕派の中心は、島津斉彬が藩の下級武士から登用した西郷隆盛や大久保利通ら故郷である元薩摩藩士という皮肉。 
幕府側は、天璋院を薩摩へ無事返すことによって官軍に恩を売ろうと図るが、天璋院は毅然とした態度で拒絶し、天璋院は本寿院と共に一橋邸に退く。天璋院は身寄りのない大奥女中260人〜300人の再就職や嫁入りなどを心配し、徳川宗家の後継者とされた田安亀之助(徳川家達)の養育に専念したと言う。 
一方、和宮は亡き将軍・徳川家茂の生母である実成院とともに田安屋敷へと移り、姉小路は二ノ丸大奥から立ち退いて、京都の実家に戻った。 
徳川宗家の駿府転封が決まると、一橋家にいた天璋院は、明治政府から与えられた千駄ヶ谷の徳川宗家邸宅に移り住んだ。 
明治期は徳川家から少しの援助で過ごし、立派に成長した徳川家達の婚姻を済ませるが、1883年東京の徳川宗家邸で死去、享年48歳。天璋院が亡くなった際、手元に残っていたお金は、わずか三円(現在の価値で約6万円)であったとも言われている。  
江戸幕府崩壊後には勝海舟が天璋院を「姉」と偽り、2人で色々と東京の街に繰り出したようだ。料亭、吉原、芸者屋、隅田川の舟遊びなど。 
そんな勝海舟も女性なのに尊敬すると述べるなど、数奇な運命を辿った天璋院は、上野の寛永寺に、徳川家定の墓と並べて埋葬された。 
一方、和宮(静寛院宮)は、1869年(明治2年)に天璋院を尋ねたあと、一旦京に戻り、聖護院を仮住いとしたが、明治天皇の東京行幸の際、1874年(明治7年)再び東京に入り、麻布市兵衛町の八戸藩・南部信順の元屋敷に居住。11月12日徳川家達を招待、11月29日には天璋院、本寿院らを御殿に招待し、翌年、自らも千駄ヶ谷の徳川宗家を訪問している。 
その後、勝海舟の家で、天璋院と和宮は互いに相手のご飯をよそって仲良く食事するなど、天璋院は和宮は理想の間柄になるが、それも数年と僅かで、和宮は明治10年に病気療治のために滞在していた箱根・塔之沢の環翠楼で病死した。(享年32) 
脚気衝心(脚気による心不全)と考えられている。遺体は、遺言どおり芝増上寺の徳川家茂の側に葬られた。のちに天璋院が塔ノ沢へ旅行した際には、和宮が最後に過した旅館を見て、天璋院は涙したと言う。 
徳川将軍の墓で、夫婦二人の墓が横に並ぶのは天璋院篤姫と和宮の2組だけである。
嫁(和宮)と姑(篤姫) 
大奥で二人の初対面となった際、天璋院は将軍の母として上座に茵(しとね)が敷いてあった。それに対して和宮の座は下座に設けられ、茵も敷かれていなかった。 
そもそも天皇の皇女が武家に降嫁したのは天皇家始まって以来、初めての事。征夷大将軍よりも身分が上の皇女和宮にとって、経験したことの無い大変耐え難い侮辱で、何か不満があると京の孝明天皇に手紙を送り窮状を訴えていた。孝明天皇も怒り、待遇改善の書状を送る他、抗議の勅使を遣わそうとしたと言う。 
和宮は結婚承諾の5条件を嫁ぐ前に出していた。 
御台様ではなく和宮様で呼ぶように 
天璋院は本丸・大奥から出て行くように 
輿入れは京風にする 
大奥でも身の回りは京風に 
毎年1回は京に里帰りする 
このように、大奥では御台所の呼称にせずに、和宮名で呼ぶことがあった為、大奥で朝廷側女中は和宮と呼び、幕府側女中は御台所と呼ぶと言う現象が発生したが、その後和宮に統一された。 
新たな将軍の正室を迎える際には、元御台所は大奥の慣わしとして本丸・大奥の御台所の住居を去って西丸に移るのが一般的。しかし、幕末にはその慣わしも薄れており、天璋院も大奥御殿に残り、和宮と同居して、大奥で采配をした。ただし、これは、若い将軍と御台所を支え、公武合体を強固なものとする幕府側の意向でもあったとされ、天璋院が自ら望んで大奥に留まったのかどうかは良く分かっていない。 
和宮から天璋院への贈りものであるお土産の包み紙に「天璋院へ」と敬称を付けなかった。公家風では一般的であるが、大奥での慣わしとしては不適切で、大奥の女中は不満だったと言う。 
このように、和宮X天璋院の確執と言うよりは、皇女が武家に降嫁した例は初めてだった事からも、彼女らを取り巻く女中同士(天璋院91人、和宮71人)の争いになっていた。 
浜御殿に将軍・徳川家茂、和宮、天璋院の三人で出掛けた際には、和姫と天璋院の二人だけの草履が踏み石の上にあり、将軍・家茂の草履は下に置かれていた。和宮は天璋院が先に降りようとしたのを見て、急ぎ飛び降り、自分の草履を除けて将軍の草履を上にあげ、お辞儀した。この出来事以降、天璋院と和宮の女中たちの争いが収まったと言われている。
日本人で初めてミシンを使った人 
1862年3月25日付(日付は諸説あり)ニューヨーク新聞(現在のニューヨークタイムズ)で、駐日の記者マン・エンさんの記事で下記のような報道があった。 
「先の将軍の御台様に献上したソーイングマシネ(ミシン)は、御台様の大変気に入るところとなり、この度、その返礼として、メーカーであるウイーラー&ウイルソン社に対し、金糸、銀糸で豪華な綾織の日本の織物が贈呈され、同社では、賓客用ショールームに、この珍しい日本の美術品を装飾展示している。」 
どうも、このミシンは、マシュー・ペリー提督が1854年、横須賀に上陸した際に、将軍へ献上したものらしく、アメリカの外交官として始めて江戸を訪れ、徳川将軍に謁見した、タウンゼント・ハリス外交官を通じて、篤姫はウイーラー&ウイルソン社へ返礼の品を贈ったようで、当時の日本では大変貴重なミシン(ソーイング・マシーン)をもらったようだ。 
1850年代はミシンが商品化されたばかりで、アメリカでも大変高価なもの。 
その為、日本人で初めてミシンを使用したのは篤姫(天璋院)と唱える説もある。
年表 
1836年 
天保7年12月19日島津忠剛の娘として誕生。一姫。元服後は敬子。
1853年 
嘉永6年3月島津斉彬の養女になり、鶴丸城に入り、篤姫と改名。 
6月3日アメリカ東インド艦隊率いるマシュー・ペリー提督が4隻の黒船で浦賀沖に来航。 
8月21日江戸に向けて鹿児島を出発。 
10月2日京都・近衛邸に参殿。宇治などを見物後、10月6日伏見を出る。 
10月23日江戸・芝にある薩摩藩邸に入る。 
1854年 
嘉永7年 
(安政元年)1月21日島津斉彬が鹿児島を出発し、江戸へ向かう。(3月6日江戸着) 
2月27日篤姫の実父・島津忠剛が磯別邸で病死(享年49) 
3月3日日米和親条約成立 
ペリー来航で海軍力急務と考えていた島津斉彬が建造した西洋式軍艦が完成し幕府に献上。 
その際、日の丸を日本船章にすべきと献策し、正規に採用された。以後、日の丸は日本の国旗となった。 
11月4日安政東海地震(M8.4)  32時間後には安政南海地震(M8.4)も発生。この両地震から元号を嘉永から安政に改めた。 
伊豆下田に停泊中のロシア軍艦「ディアナ号」は津波により大破沈没。 
1855年 
安政2年この年肝付尚五郎が江戸藩邸の奥小姓として出仕。 
10月2日安政江戸大地震(M6.9) 江戸の町は多数の火災発生 
10月9日阿部正弘は老中首座を譲り、佐倉藩主・堀田正睦(開国派)が幕府主席老中に就任
1856年 
安政3年1月肝付尚五郎が小松家の千賀(お近)の婿となり、小松家家督を継ぎ、小松帯刀となる。 
4月14日右大臣・近衛忠煕の養女となり、篤君と呼ばれるようになる。 
前後して篤姫の養育係として近衛家にいた得浄院(のちの幾島)が京から江戸へ向かう。 
7月17日朝廷より将軍家との婚姻の勅許が出る。篤姫君と呼ばれる。 
11月11日篤姫と幾島が大奥に入り、11月19日に結納。 
12月18日第13代将軍徳川家定と篤姫の婚儀が行われる。 
1857年 
安政4年6月17日一橋派の中心、阿部正弘が39歳の若さで病死。以後、紀州派が頭角を現す。 
この年水戸嫌いの大奥は徳川家定の生母・本寿院、歌橋、瀧山らこぞって徳川慶喜擁立の動きに反発 
1858年 
安政5年3月幕府の海軍伝習所の勝海舟が咸臨丸で薩摩・山川港を訪問。島津斉彬と会談し影響を受ける。 
4月23日大老職に紀州派の井伊直弼(開国派)が就任 
5月1日将軍・徳川家定、紀州藩主・徳川慶福を継嗣とする内意を示す 
6月19日井伊大老は勅許なしで日本が不利で不平等な日米通商条約を結ぶ。 
6月25日井伊大老は次期将軍を紀伊藩・慶福にすると発表。 
7月6日徳川家定死去。享年35歳。篤姫は薙髪し天璋院を号する。 
7月16日養父・島津斉彬、死去。享年50。 
8月8日朝廷が直接水戸藩へ、条約締結を違勅とする勅諚を下賜。安政の大獄が始まる。 
10月25日徳川慶福は13歳で第14代将軍になり、徳川家茂となる。 
12月天璋院は従三位に。 
1859年10月17日江戸城・本丸の火災で天璋院は吹上へ避難、のち西の丸。 
1860年 
万延元年1月13日勝海舟は日米修好通商条約の批准書交換の為、咸臨丸の艦長としてアメリカ・サンフランシスコへ渡米。通訳としてジョン万次郎や福沢諭吉も同行。 
3月3日桜田門の変 井伊大老が水戸藩浪士により暗殺される。享年46。 
8月15日蟄居処分が解けぬまま水戸の徳川斉昭が心筋梗塞で急逝。享年61 
12月5日アメリカ公使館通訳・ヒュースケン、薩摩藩士に殺害される
1861年 
文久元年4月23日島津久光が薩摩藩の実権を掌握。小松帯刀や大久保利通を重用する。 
10月20日和宮が輿入れの為、京を離れ、江戸に向かう。(11月15日江戸・清水邸に入る。) 
1862年 
文久2年2月11日第14代将軍徳川家茂と和宮の婚儀。共に16歳。 
6月10日勅使・大原重徳、島津久光に護衛され江戸に到着 
7月6日一橋慶喜、将軍後見職に就任。 
8月17日勝海舟、軍艦奉行に就任。 
8月21日生麦事件 薩摩藩の行列を乱したとしてイギリス人4名のうち3名を薩摩藩士が殺傷 
1863年 
文久3年2月8日浪士隊 京の警護の為、江戸を出発し中仙道を京に向う(2月23日入京)  
3月4日将軍・徳川家茂、入京 
3月16日近藤勇ら壬生浪士残留組 京都守護職邸で会津藩主・松平容保に拝謁 
6月13日将軍・徳川家茂、江戸に帰る 
6月27日生麦事件の賠償交渉で鹿児島(錦江湾)にイギリス艦隊が7隻が来航 
6月29日高杉晋作 長州藩奇兵隊総督に任命 
7月2日薩英戦争 イギリス艦隊に鹿児島藩の汽船が3隻拿捕されたのを契機に砲撃戦となり、薩摩藩側は全砲台と集成館が全壊し鹿児島城も被害。 
イギリス艦隊は大破1隻・中破2隻 以後、藩主・島津久光から西郷隆盛ら倒幕派の下級武士へ藩の主導権が移る 
8月18日朝廷より壬生残留浪士組に新撰組の隊名が下賜される 
11月15日江戸城で火災。本丸・二の丸焼失により、天璋院は清水邸に移る 
1864年 
文久4年3月27日水戸天狗党の乱。藤田小四郎ら、筑波山で挙兵。 
5月14日勝海舟 軍艦奉行に昇進、安房守と称する。 
6月5日池田屋事件 新撰組が長州藩を中心とする尊王攘夷派を襲撃する。 
7月19日長州藩が、薩摩・会津両藩と京都市の蛤御門(はまぐりごもん)など各所で衝突 禁門の変 
8月2日第1次長州征伐、8月5日にはアメリカなどの四国艦隊、長州藩の下関砲台を占拠 
1865年 
慶応元年1月2日長州で挙兵した高杉晋作らが下関を占領し、以後長州藩の実権を握る。 
4月14日第2次長州征伐 
4月29日清水邸から江戸城・二の丸に天璋院戻る 
8月14日和宮の生母・観行院が脚気と思われる病にて江戸城にて死去。享年40。 
この年天璋院付きの御年寄・幾島が老齢の為、致仕(退官)
1866年 
慶応2年6月7日幕府軍、長州を攻撃 
6月16日イギリス公使・パークス、薩摩藩を訪問 
7月18日幕府軍、石見方面で大敗 
7月20日徳川家茂が大阪城にて死去。(享年21) 
天璋院・瀧山らは、後継将軍に4歳の田安亀之助(後の徳川家達)を推挙。 
12月5日孝明天皇が宣下し、徳川慶喜が第15代将軍に就任。 
12月25日孝明天皇、天然痘?で崩御。(享年47) のち、明治天皇が即位する。 
この頃江戸の薩摩藩邸で老女筆頭の小ノ島(小野島)が隠居。 
瀧山も1866年後半までに御年寄を辞した模様。 
1867年 
慶応3年2月27日パリ万国博覧会開催。幕府、佐賀藩、薩摩藩が出品 
10月3日土佐藩前藩主・山内容堂、大政奉還を建言 
10月14日大政奉還奏請。江戸幕府事実上の終焉。 
11月9日和宮の女官・庭田嗣子、江戸城大奥で亡くなる。享年47歳前後。 
11月15日坂本龍馬(33歳)中岡慎太郎 近江屋で襲撃され、死亡。 
12月8日西郷隆盛・大久保利通・岩倉具視らが御所で明治天皇臨席の元、 
江戸幕府を廃止、摂政・関白その他朝廷の旧制度を廃止=王政復古の大号令 
1868年 
明治元年1月3日鳥羽伏見の戦い 幕府軍15000は総大将・徳川慶喜が旧幕府軍を残したまま江戸に退却した為、新政府軍5000に敗れる。 
1月12日徳川慶喜は江戸城に入り勝海舟と善後策を論じる。 
1月23日勝海舟 陸軍総裁若年寄に任命され、徳川慶喜より全権を任される 
榎本武揚 海軍副総裁に任命 
3月6日近藤勇、土方歳三ら甲陽鎮撫隊(約270名)が甲州勝沼の戦いで板垣退助・伊地知正治ら新政府軍に敗れる。 
一方、西郷隆盛ら新政府軍は江戸城総攻撃を3月15日と決定。 
3月14日明治天皇、五箇条の御誓文を発する 
江戸田町の薩摩藩邸にて、西郷吉之助と勝海舟が会談。江戸総攻撃中止。 
板垣退助 西郷吉之助を訪問し総攻撃中止に抗議。 
4月4日新撰組局長・近藤勇が薩長軍に投降 (4月25日板橋平尾一里塚で斬首。35歳。) 
天璋院に朝廷よりの江戸城退去命令が伝えられる 
4月11日江戸城開城。天璋院は本寿院と共に4月10日に一橋邸へ入る。 
また前後して、天璋院の官位剥奪。 
5月24日徳川家、駿府に封じられ、70万石。 
8月19日榎本武揚、幕府の艦隊8隻を率い品川沖より脱走。 
8月21日会津・母成峠の戦い 新政府軍2000に対して会津藩は白虎隊・新撰組を含めて700で敗退、 大鳥圭介隊、土方歳三隊敗走 
9月22日会津藩が新政府軍に降伏 (会津戦争)。のち会津藩は23万石から3万石に転封 
10月13日明治天皇が江戸城に入り、江戸城は皇居となる。 
10月25日榎本武揚らが函館五稜郭を占領 
1869年 
明治2年5月11日新政府軍、五稜郭を総攻撃。函館で土方歳三戦死 (享年35) 
5月18日榎本武揚 新政府軍に降伏 (函館戦争)。 
1870年 
明治3年8月16日小松帯刀が大阪にて病死(享年36) 
10月9日岩崎弥太郎、土佐商会を設立
1871年 
明治4年7月14日廃藩置県 
11月12日岩倉使節団派遣。岩倉具視を特命全権大使として条約改正、海外視察を行う 
1872年 
明治5年7月19日西郷隆盛、陸軍元帥・近衛都督になる 
9月13日新橋−横浜間の鉄道開業 
1873年 
明治6年1月10日明治政府、徴兵制導入。 
10月24日西郷隆盛、明治政府・筆頭参議の職を辞任し、鹿児島へ帰郷 
10月25日伊藤博文、勝海舟、寺島宗則ら、参議に任命 
11月29日明治政府は大久保利通の独裁体制となり、大久保利通は内務卿に就任 
12月25日島津久光、内閣顧問に任命される (明治8年には隠居)
1876年 
明治9年1月11日廃刀令を発布 
この年 川口(埼玉)で隠居していた瀧山、72歳で没。 
1877年 
明治10年2月15日西南戦争 西郷隆盛らが反乱、薩軍14000は2月21日に熊本城を襲撃。(日本最後の内乱) 
3月3月1日より約1ヶ月間、田原坂で激戦となり、結果的に薩軍は撤退 
9月24日鹿児島県城山陥落。西郷隆盛も鉄砲を受け負傷し自刃(49歳)、桐野利秋らも自刃。西南戦争終結 
10月天璋院は千駄ヶ谷の徳川邸へ移住 
1878年5月14日大久保利通が東京・紀尾井坂にて暗殺される(享年49) 
1880年 
明治13年 姉小路死去(80歳) 
天璋院9月23日から10月31日 熱海・箱根方面で逗留
1882年徳川家達は近衛泰子(近衛忠煕の孫)と結婚 
1883年 
明治16年11月20日天璋院死去。(享年48) 死後、従三位復位。 
1884年 小松千賀(お近)没。推定で享年60歳位。 
1885年この年本寿院、一橋邸にて死去。(享年75) 
1887年12月18日島津久光 鹿児島で国葬 (享年70)  
 
おりょう

 

楢崎龍(ならさきりょう)、おりょう、お龍とも呼ばれる。坂本龍馬の妻。 
1841年6月6日、医師である楢崎将作の長女として生まれた。母は重野貞(または夏)。 
楢崎家は元は長州藩士であったが、楢崎将作は青蓮院宮(のちの中川宮朝彦親王)にも仕えた医者で、京都で内科・外科医を営んでいた。楢崎将作は尊王の志士らとも交流があった為、1858年、安政の大獄では連座して捕えられたが、翌年には釈放されている。 
楢崎将作は若い志士が頼ってくると金品を与え、親切に面倒をみたので、屋敷には絶えず若者が出入りし、数人の食客が滞在していたようだ。坂本龍馬も1864年5月ごろ楢崎将作と親しくなったとされ、楢崎将作の長女である龍を一目見て相思相愛の仲になったという。 
楢崎家はお龍を含め女3人・男2人の5人兄弟で、裕福な家庭であったが、1862年1月29日に楢崎将作が亡くなると、家屋敷も処分するなど楢崎家は次第に困窮生活となり、20歳前後だった長女・お龍は、母や兄弟を養う為に、神奈川宿の旅館・田中家に奉公に出て家計を支えた。しかし、これも尽き果て遂に家族は離散して奉公に出たと言う。 
1863年に天誅組が挙兵失敗した際の残党が原屋五平の隠居所を借り、水口加藤家人住所の表札でしばらく潜んでいたが、男所帯で不便なため、留守番の女を雇いたいと出入りの米商人に頼んだところ、お龍の母(楢崎貞、楢崎夏))が紹介された。この家には才谷梅太郎こと坂本龍馬や、石川誠之助こと中岡慎太郎らもいて、お龍は七条新地の扇岩と言う旅籠の手伝をしていたが、お龍が母を訪ねてくるうちに親しくなり、坂本龍馬はお龍の自由奔放なところを気に入り愛人にしたと考えられる。 
その後、坂本龍馬が世話になっている伏見の寺田屋にお龍を奉公させることにし、寺田屋の女将・お登勢はお龍の名をお春と呼ばせ、自分の養女分として、坂本龍馬付の女中格にした。 
1866年1月21日に薩長同盟が成立。大きな活躍をした坂本龍馬だったが、1月23日、寺田屋に宿泊していた坂本龍馬が伏見奉行配下の捕り方(新撰組)に襲われる事件が起こる、いわゆる寺田屋事件。 
風呂に入っていたお龍が、襲撃を察知し、浴衣をまとうだけで飛び出して坂本龍馬の部屋に危機を知らせたと言われている。 
坂本龍馬は主に銃で反撃し左手の親指を負傷。三吉慎蔵の働きもあり危うく脱出に成功し、お龍は伏見の薩摩藩邸に走り救援を求めた。 
1月29日に坂本龍馬とお龍は三吉慎蔵、吉井幸輔に護衛され京都の薩摩藩邸に移る。 
こうして難を逃れた2人は、まもなく中岡慎太郎の仲人(西郷隆盛説も有)で結婚し、西郷の勧めもあって薩摩(鹿児島)へ湯治に出かける。1866年3月4日に薩摩藩船「三邦丸」が大坂を出港した。この船には西郷吉之助(西郷隆盛)、坂本龍馬、中岡慎太郎、三吉慎蔵、そして、お龍も乗船していた。これが日本初の新婚旅行だといわれているが、最初の新婚旅行に関しては坂本龍馬の薩摩での滞在先でもあった薩摩藩家老・小松帯刀であったとの説もあり。 
3月8日に「三邦丸」は長崎へ入港。その後、霧島温泉郷などで湯治を行い、傷を癒し、4月12日には鹿児島城下に入った。 
そして、6月2日に坂本龍馬はお龍と「桜島丸」で鹿児島を出港し、6月4日に坂本龍馬は長崎にて小曽根邸にお龍を預けた。 
その後、坂本龍馬はお龍を連れて亀山社中の活動の拠点があった下関の豪商・伊藤助太夫のもとに1867年2月10日に到着。お龍は下関に滞在する間、坂本龍馬は海援隊を創設するなど忙しく動いており、1867年9月20日、坂本龍馬は伊藤俊輔に会うため下関を訪れ、お龍が、坂本龍馬に会った最後となった。そして、11月15日、近江屋で坂本龍馬は岡慎太郎と共に絶命している。 
坂本龍馬が暗殺されたときもお龍は下関にいた為、難を逃れたが、暗殺当夜には「血まみれになり、刀を下げてしょんぼりとした龍馬が枕もとに立つ」夢を見たとも言われている。 
龍馬暗殺の知らせが12月2日に下関の伊藤助太夫宅に届くと、お龍は気丈に振舞っていたが、法事を済ませたあとは、髪を切り落として仏前に供え、号泣したという。その後、坂本龍馬と親交のあった三吉慎蔵らの世話になっていたが、海援隊が京都で埋葬した墓参りのため、京に向かい、近江屋にも宿泊して、坂本龍馬の霊を弔った。 
1868年3月には、土佐の坂本龍馬の実家に迎えられたが、生来の気の強さからか、坂本家の家族と馴染めなかったようで、1年ほどで京都に戻っている。 
「どちらかといえば小形(小柄)の身体に渋好みの衣服がぴったり合って、細面の瓜実顔は色あくまで白く、全く典型的の京美人であった」と土佐に記録が残っている。 
京に帰ったあと、坂本龍馬の墓があった東山の麓に室屋を営んだが、生活を維持できず、西郷隆盛や海援隊士を頼り、1872年頃に坂本龍馬の旧友を頼って上京。 
東京では水戸藩出身・陸援隊の香川敬三らが、持ち回りでお龍の面倒をみたが、晩年に「優しくしてくれたのは西郷隆盛だけだった」とも発言している。また、自立するため旅館の仲居などをして転々としながら横須賀へ流れ、30歳のとき旧知の商人・西村松兵衛と再婚して横須賀に住んだ。再婚時の媒酌人は旧海援隊士・安岡金馬。 
晩年は大酒を飲み、酔うと口癖のように「私は龍馬の妻だった」と言っていたようだ。 
坂本龍馬との間に子はなかったが、1874年、34歳の時に西村松兵衛との間に男児を出産してその後入籍したが、その息子は1897年に17歳で死去。晩年は貧しいながら穏やかに暮らしたとされている。 
1906年(明治38年)、お龍は横須賀にて66歳で死去した。のち、西村松兵衛はお龍の分骨を密かに京都東山の坂本龍馬墓に埋葬したと伝わる。 
 
神社に祭られた測量方 / 都築弥厚と石川喜平

 

測量の神様 
かつてベテラン測量士の中には、水準測量の神様と呼ばれる人が存在した。水準測量は排気ガスの漂う国道筋などのけっして良いとはいえない環境の中で、ひたすら冷静に観測をしては歩むという単調な作業である。測量の進み具合のことから、尺取虫にたとえられることもある。高精度が要求される測量では、観測機と標尺間の距離は前後とも同距離の60m程度にすると決められていて、そのときの目的地へ向かうようすからのことである。 
そのとき、周辺の景色や自然環境の変化にも動ずることなく冷静かつ慎重に観測を進め、再測をしないどころか極めて精度よく実施するものだけが測量の神様と呼ばれた。この愚直な神様のことは、名も知れないことに意味があるように思える。 
測量に関連した神様のことでは、今村明恒博士のことを地震の神様と呼ぶものがいる。彼は東京大学助教授であった1905年、雑誌「太陽」への投稿記事で「五十年以内に相模沖を震源とする大地震の発生があるだろう。起きたときには、火災で二十万人にも及ぶ犠牲を出す危険性もある」と関東大地震とその備えについて警告した。18年後に地震が発生し、彼の発言が現実のものとなったことから、一部のものが地震の神様と呼んだのである。 
三重県伊賀市の青山高原には、その地震の神様を祭るという大村神社がある。もちろん、ここに今村明恒が祭られているという話ではない。本殿の横には、二つの不思議な石があって、これが地震の神様の由来だという。ひとつは、「要石」というものである。石の下には、地震を呼ぶという巨大なナマズがいて、そのナマズが暴れないように要石が抑えているというありきたりの話。要石の前には、新しそうなナマズの石像があって、これに水をかけると願いがかなうという。
測量方の祟りを恐れて祭った神社 
地震の神様などと間接的なものではなく、そのものずばり測量の神様はいないのかと探してみると、静岡県富士宮市には、棹地稲荷神社というのがあって、この神社の祭神は、食物、特に稲をつかさどる宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)である。 
「宇賀の神(うかのかみ)は、穀物の神、転じて福の神、白蛇や狐を神として祭る」(広辞苑)という。同神社はその宇迦之御魂を祭るのだが、明治維新のころ土地測量が行われた際に測量に使用した棹を奉納したということから棹地稲荷の名があるという。 
明治初期の測量に用いられた棹の類には、検地用の物差しである間棹、あるいは検地棹などと呼ばれたもの。また、検地用具の一種で竿の先に藁束を付けて、屈曲を取捨し平均を取るときに使用する細見竹、竿の先に紙束を付けた梵天竿といったものがあった。縄や棹といえども直接測量のためには重要な測量機器といったものだから測量にかかる神様には違いないのだろうが、棹の類ではやや物足りない。 
石川県河北郡袋村(現金沢市板屋町)には板屋神社があり、ここには辰巳用水工事の責任者である板屋兵四郎が祭られている。 
神様になった板屋兵四郎(?-1653?)は、能登奥郡の小代官であった。 
寛永九年(1632)加賀藩三代藩主前田利常は、前年の大火を機に金沢城と城下の防火・生活用水の確保を目的とした用水路工事を計画し、その工事責任者として板屋兵四郎を抜擢した。 
計画された辰巳用水は、総延長約10km、うち隧道部は約3.3kmという大工事であった。取り入れ口から城内までの標高差はわずか50mであったから、10m進んでわずか5cmという微妙な傾斜の用水路工事であった。測量や工事の残された記録は少ないが、伝えられているところでは、夜間に提灯を上下させて遠距離地点からこれを観測し等しい高さの点を求め、さらに各点間の距離を得て、これから水路の勾配に見合った高さを決めて工事を実施したという。この時使用された測量器は、「町見盤」と呼ばれる一種の水準儀であった。 
また、堀越えの引水には逆サイホンの原理を使用するなど、測量だけでなく土木工事の面でも先進の技術を用いている。 
ところが、技術の漏洩を防ぐ目的で廃棄されたのだろうか、残された資料は極めて少ない。それどころか兵四郎自身が工事完了後に謀殺されたという説もある。 
板屋神社には以下のような話が伝えられている。 
この地では、兵四郎謀殺があったとされる翌年には、天候不順となり、これは兵四郎の祟りであるとの噂が流れた。そこで、袋村の八幡社に彼の霊を祭って、袋の神(風を袋に封じ込める意)と呼んだという。上辰巳町にも同名の神社があり、やはり兵四郎を主祭神としている。 
正確には、測量者が祭られたというよりは土木技術者ということなのだろうが、それにしても謀殺とか、祟りとかでは後味がよくない。
忠敬も驚く豪農都築弥厚 
測量の神様といえば伊能忠敬、彼を祭る神社はないのだろうか。佐原市の諏訪神社には伊能忠敬の立像があるが、これは単に伊能家の氏神であったことからこの地に像が建てられただけのことで伊能忠敬を祭る神社ではない。 
探索を重ねているうちに、神社に祭られた測量技術者を発見した。 
安城市和泉町の八剣神社の南、半場川に沿った小さな林の中、その名も弥厚公園には、上下姿に両刀を携え、右手には扇子を持った都築弥厚の銅像がある。 
像の主である都築弥厚は1765年、現安城市和泉町本竜寺付近で、米の売買、酒造業、新田経営などを営む豪農都築家に生まれた。身代は先の弥四郎が一代で築いたものだという。二代目の弥厚もまた酒造業と農業などを経営するとともに、当地の代官職を務め近隣の村々の争論の仲裁などもしていた。また、芭蕉の流れを汲む師について俳句を学び、絵や漢詩にも興味を持った人でもあった。残っている俳句は三十数句、そして絵画もたしなみ、ランや梅の絵も描いたと言われる。 
弥厚の住んでいた安城市一体は洪積台地のため水の便が悪く、思うように農地開拓が出来ない状況にあった。そこで、安城野に用水を開削して荒野を開墾し水田化を計画したのが弥厚である。この計画と前後して、享和三年に伊能忠敬(1745-1818)が全国測量のためこの地を訪れている。この際に、弥厚が現地を案内した。 
そのときの様子は、「測量日記(四月十八、十九日)」にも「鈴木弥四郎(都築弥厚のこと)なるもの豪家にして、中根村を残らず所持、右村に酒造を三ヶ所、其村方に一ヶ所、大浜之内にも一ヶ所、合計五ヶ所にして造高七千石に及ぶよし。・・・・伏見屋外新田より案内して止宿まで送る。翌十九日も高浜まで送る」とあって、彼との意見交換や測量技術のことより都築家の規模の大きさに驚いているようすが残されている。 
たしかに、都築家の所有する田畑は八十二町歩(約82h)、生産していた酒造高は六千石といい、当時全国でも指折りのものであったという。
忠敬に教えを請う測量方 
少々寄り道をするが、弥厚のように各地の測量方や絵図方が伊能忠敬測量隊を訪れ行動を共にしたことで、あるいは忠敬との技術的な意見交換によって、のちの測量や地図作成に影響を与えた例は多く見られる。 
例えば、加越能三州の測量を行い、「加越能三州郡分略絵図」などを作成した石黒信由(1760-1836)は、弥厚が忠敬と顔を合わせた、同じ享和三年(1803)の八月三日に現在の新湊市放生津で天文観測する忠敬と会い、翌日は測量に同行した。石黒四十三歳のときである。 
彼は、忠敬と面会したとき使用する測量機器に大いに興味を示し、「同道して、しばらく地理天文学のことを隔意なく歓談して、互い名残り別れけり」と、見聞した測量機器などについてのメモを含めて記録として残している(「測遠用器之巻」石黒信由)。 
一方忠敬の測量日記には「放生津町八ツ頃着、止宿山王町柴屋彦兵衛、此夜曇る雲中に小測」とあるだけで石黒訪問のことには触れられていない。 
讃岐の久米通賢(1780-1841)もまた、文化五年に伊能忠敬の讃岐での測量に接伴案内役を命じられ参加している。 
大阪で測量などを学んだ久米通賢は、文化三年(1806)に高松藩の藩内測量を命ぜられ、助手十人とともに、領内を東から西へ海岸線に沿って測量を始め、内陸部を折り返し、再び東の国境に到っていた。残された地図には「御内御用測量図下書」があり、その実施は忠敬の四国測量に先立つこと二年、久米26歳のときである。測量実施のきっかけは、忠敬測量を聞いた藩主が先手を打ったとの話も伝わるが定かではない。 
「伊能忠敬測量日記」には、久米は西条城下や丸亀城下滞在の忠敬を訪ね、津田村滞在から引田村出立までは日々測量に付き添い、後日徳島領撫養在宿にも訪問した。「讃州高松家中松久米栄左衛門(菓子箱持参)来向き」から始まって「久米栄左衛門日々付添案内。朝夕共に出る」など淡々とした記述だが多く残る。 
さらに一人、徳島藩の岡崎三蔵(?-?)もまた、間接的ながら伊能忠敬と接触している。 
三蔵は、寛政九年(1797)に藩の測量方となってのち、絵図方山瀬佐蔵とともに領内全域の国絵図作成に着手し、43年後の弘化二年(1845)にこれを完了した。絵図は縮尺約千八百分の一の村絵図を作成し、それを郡図(約一万八千分一)とし、さらに国絵図(約四万五千分の一)に編集した。作成された阿波国絵図及び淡路国絵図は、伊能図に劣らない優秀なものである。 
岡崎三蔵が、領内の絵図作成の最中であった文化五年(1808)、伊能忠敬の測量隊が阿波を訪れた。 
三蔵は忠敬の測量方法を確かめようとして、長男の宣平を竹内武助という偽名に仕立て測量隊の手伝いとして、山瀬佐蔵も測量船の漕ぎ手として測量隊に参加させた。岡崎三蔵は、忠敬の測量技術がどのようなレベルにあるかということについて深い関心を持っていたことがうかがえる。 
事後、子の宣平は藩主より忠敬の測量などについて報告を求められたが、忠敬の測量について「特別の義も御座なく」と報告している。
神社に祭られた測量方 
遠回りをしたが、忠敬の大事業の遂行を目の当たりにし、測量量技術について意見交換をした都築弥厚のことにもどろう。 
彼は四十歳半ばのころ、現安城市和泉の北東に広がる五ケ野、安城野と呼ばれる地の開発のため、台地を貫流する用水路の計画を企てる。そして、五十八歳になった文政五年(1822)に土地の和算家石川喜平(1788-1862)の協力を得て用水路の測量に着手した。伊能忠敬の測量技術のことは、石川にも伝えられたであろう。いや弥厚に同行し、直接見聞きしたかもしれない。石川は多くの門弟を抱え、天体観測記録も残した人であるから、忠敬測量隊にまったく興味を示さなかったとは考えにくい。弥厚の計画に従った用水路の測量が終わったのは、4年後の文政九年であった。これほどまでに測量に年月を要したのは、反対農民の抵抗があったからといわれている。 
調査結果を踏まえて、翌年には幕府勘定奉行に都築弥厚の子の名で四千町歩の開拓をもくろむ「新開願書」を提出するが、計画が縮小された形で許可が下りるのは、さらに7年後の天保四年(1833)のことである。その間幕府は、度々役人を現地に派遣し見分を行なったのだが、開墾地が幕府領になることや薪場が無くなり水害の発生などを心配する村々の領主や農民の抵抗が強く、説得に多くの時間を要したのである。残念ながら、その年の9月には弥厚が69歳で病死する。 
用水路はおろか、一坪の開墾も実施しないままの他界である。さらに資金繰りのこともあって安城野開田事業は一枚の測量図を残して挫折したのだ。そして、都築の一族は新開願書を取り下げた。 
弥厚の依頼によって台地を貫流する用水路計画のための測量を行い「水路計画図」を作成した石川喜平(1788-1862)は、碧海郡高棚村(現安城市)の人であった。同じ碧海郡の関流清水林直に和算を学び、免許を受けて村の内外に多くの門弟を持っていたというほか、詳細なことは不明である。 
残された書籍の多くは和算と天体観測記録など暦に関するものが多く、わずかに測量に関するものも含まれているという。 
石川の水路計画図(明治用水土地改良区所蔵)には、現状の流路と台地の輪郭、主要な村村が記入されていて、そこには詳細な水路計画線と用水によって開墾が可能になる農地が水色に彩色されている。 
石川が使用した測量器具(木製の見盤)は、金属製の測量機器が出現する以前に地方(ぢかた)で使用されたもので、目標を見通し、その角度を磁石で読み取る形式で、上部には方角が刻まれ磁石が埋め込まれる形になっている。取り付けられた小さな二本の角材には中心に小穴があけられており、これにより目標を視準したのであろう。 
さて、農民の抵抗などによって実現しなかった弥厚から始まる用水計画は、約40年を経て岡本兵松、伊予田与八郎らの新しい提案者の出現により明治十二年(1879)に着手され、翌年には通水を開始した。岡本らは、弥厚の計画を継承し、計画に疑念を持つ村々の説得に特に力を入れたのだという。用水と以後の整備によって新しく開かれた田は、ほぼ当初の目論見どおりの約6000hにもなり、新開地農業のことは「日本のデンマーク」と呼ばれるようになり、都築弥厚の永年の夢が実現した。 
用水に近い明治川神社には、都築弥厚・岡本兵松・伊予田与八郎らが祭神として祭られ、石川喜平が使用した測量機器なども保存されている。 
ついに、測量の神様にたどり着いたようだ。  
 
長者の山 / 近世的経営の日欧比較

 

「長者の山」 
私の出身はベルギーですが、ベルギーという国は平地で、南部には丘のようなものがありますが、山がありません。そのため日本にやってきた頃から、京都の山が大好きになりまして、よくハイキングに行って山に登ることがあります。しかし、今まで一度も登ったことがなく、そしてこの先も、登ることのできない山があります。それが「長者の山」であり、今日の話の題名にもなっています。なぜそれを題名として選んだかというと、理由は二つあります。まず、山は長者、つまり金持ちになる苦労という、万国共通の課題をよく表しているからです。「長者教」(一六二七年)という、日本の近世において町人の教訓を記した本のなかで、金持ちになる苦労は比叡山の二十倍の高さである山に登り、大河を渡ることに譬えられています。 
「さるほどに、長者の山とてあり。たとへば、ひゑの山を、二十、かさねあげたるほどにて、なりはふくべのごとし。ふもとに大河あり。うぢがわを、百ばかりあはせて、せのはやき事、たきのおつるがごとし。これをわたりて、かの山をあがる人すくなし。それ、かねをもち、かねをまうくるは、つねのせいなり。」 
そして、もう一つの理由は、今日は、日本の商人の典型としてもともと京都にそのルーツをもっている住友家について話すことを選んだからです。戦前には財閥として、現代では系列として有名な住友は、泉屋という商家として始まり、後に大阪の代表的な豪商にまで発展しました。江戸時代初期の創業から、当時「赤金」と呼ばれていた銅の精錬と銅山業を家業としましたが、銅山がまさに住友家の「長者の山」となったわけです。 
では、今日は、近世ヨーロッパと日本の商人はどのようにこの山に登ろうとしたかを比較するという観点から見ていきたいと思います。商売をやるにはどうしても利益追求が大切で、その目的達成のために他の人と協力する必要があります。つまり、継続的・計画的に事業を営み、合理的な経営組織を作る必要があると言えます。どのように商売をするのか、どのような経営組織が使われているか、そしてどのような問題が現れるか、を検討するなかで、その国の文化も見えてくるのではないでしょうか。つまり、今日の発表では近世ヨーロッパと日本の商人の比較を試みたいと思いますが、ヨーロッパのケーススタディとして、現在ベルギーの一部であるフランダース地区に焦点を当ててみたいと思います。御存じのように、ベルギーは一八三〇年に独立した、比較的新しい国です。近世初期には現在のベルギー、オランダとルックセンブルグの地域がネーデルランドとして統治されていた領域でした。南部のフランダースは近世初期、つまり一六世紀には繁栄していましたが、一七世紀は独立を宣言したオランダの黄金時代となりました。日本でフランダースと言えば「フランダースの犬」を連想する方が多いようですが、フランダースが中世から近世初期にかけてヨーロッパで一番繁栄していた地域だったことはあまり知られていません。当時ブルージュ(ブリュッヘ)とアントワープ(アントウェルペン)というような商業都市では各国の商人達が集まって、経済的に、そして経営組織の面でも、大変進んでいた地域でした。とくにアントウェルペンは国際的商業都市となって、ヨーロッパの商業の中心地にまで発展しました。印刷業、生糸、ダイヤモンドのみがき、じゅうたんの制作、いわゆる贅沢品の産業・商業がその経済的繁栄の基盤でした。そして経営の面では、会社の初期的形態も発達し、商法も制定されました。この「アントウェルペン慣習法集成」という商法が、一七世紀の始めにオランダの東インド会社の設立に大きな影響を与えたことも事実です。東インド会社は世界初の株式会社と呼ばれていることは周知のとおりです。しかし、一六世紀の終わり頃からフランダースが政治的・経済的に不安定な状態におちいり、大勢の商人および多くの資本がアムステルダムを始め、ヨーロッパ各地へと移動してしまいます。このため、フランダースの商人は、密接な血縁的関係のネットワークを作って、国際的な商業活動を続けることができました。したがって、フランダースを比較研究の対象として選んだ理由は、私自身がその地域の出身だから、というだけではなく、経営組織が早い時期から非常に進んでいたことに加え、ヨーロッパ各地で活躍していたフランダース出身の商人達が西欧の代表的な経営組織を作っていたからです。
フランダースの場合 
では、フランダースの商人はどのように「長者」になろうとしていたのでしょうか。近世初期のフランダースの代表的な商人、DellaFaille(デラ・ファイェ)家の場合を例に考えてみようと思います。DellaFaille家は織物の商業を中心に富をなし、現在でもベルギーの貴族の一つとして知られていますが、かれらのサクセス・ストーリーは一六世紀のJanDellaFaille(ヤン・デラ・ファイェ)から始まりました。DellaFaille家のその後の発展を四つの段階にわけ、お話ししたいと思います。 
a.弟子入り 
多くの商人の間では、富裕な知人や、商人をしている身柄のもとで、若い時から弟子として働き始めることが通例となっていました。JanDellaFailleも例外ではありませんでした。Janは一五一五年にアントウェルペンで生まれ、イタリアのヴェニスに渡った時は一五歳でした。ヴェニスに本部をもつ同じフランダース出身のMaartendeHane(マールテン・デ・ハーネ)の企業に弟子として入るわけですが、そこで会計と文書の写しに加え、主人のビジネス旅行に同伴したりして、商人としての訓練を受けました。結局一五三九年にアントワープ支店にDeHane企業の支配人として送られますが、そこで感謝しなければならない主人に対し、恩を返すどころか、会社で不正を働き始めます。アントワープとヴェニスは離れていたため、本部の目が届くことなく、比較的簡単に会社の信用を使って、ひそかに個人取引、個人商いを行うことができたのです。会計を偽造し、自分の財産を増やした結果、主人の直接の競争相手になって、最終的には親会社が倒産してしまうという結末に至りました。ここには近世における商人の非常に特徴的な問題点を見い出すことができると思います。それは信用の問題です。近世のいわゆる個人中心主義の現れとも関連していると思いますが、「詐欺」や「騙し」の要素が非常に強く出ています。企業は信用のおける人間を、代理人や代表者として選ぶ必要があることは言うまでもありません。その忠義を高め、信用を確保するためにさまざまな方法が使われました。代理人を親戚から選んだり、代理人を自分の親戚と結婚させたり、そして、会社に出資させるなどの方法がとられました。しかしどの方法をとっても、保障はなく、支配人が雇い主を「裏切った」ケースが非常に多かったようです。JanDellaFailleはヴェニスのdeHaneの企業に出資し、主人の娘と結婚しましたが、その戦略は失敗に終わりました。ドイツ語のTauschen(交換する)とTauschen(騙す)という二つの単語の語源が同じであることも、単なる偶然ではないのです。 
一六・一七世紀頃から経済が国際的に拡大・分散し始めたので、遠隔地に支配人などを派遣するのではなく、当地に住んでいるエージェント、つまり委託代理人を採用するシステムが徐々に増えます。彼等は雇用経営者ではなく、取引きの一定率の手数料を取る臨時代理人(commissionairs)で、必要に応じて採用されていました。たとえば、AはBに依頼されて、外国で商品を買ったり売ったりしたとしましょう。そこで、Aも自分の会社を所有しているので、Aは自分の商品を売るために、BあるいはBの会社を仲買として使う、というわけです。 
b.個人企業 
とにかく、JanDellaFailleはこのように雇用主の信用を裏切って、自分の財産を集めることに成功しました。それを資本に、個人企業として織物、香辛料などをスペイン、ポルトガル、イギリスを相手に輸出入をする遠隔地商業を行いました。 
しかし、個人企業としての活動だけではなく、一六世紀の商法に明文化された「加入」が商人にとって大きなビジネス・チャンスを提供しました。「加入」(participatie)というシステムが確立したため、個人の商人も有限責任で他の企業に出資することができるようになりました。資本家が他の企業に投資し、経営に参加せずに利益配分を受け取るわけですが、責任は出資金額を限度とすることを可能にしたやり方です。つまり、有限責任で、匿名の出資が企業に一般に行われ始めたことが、株式会社への発展に大変重要な要素だったといわれています。JanDellaFailleは個人企業としての取引きと、他の企業への有限責任的投資によって、一六世紀終わり頃までにヨーロッパの他の豪商の中で、最も富裕な企業の一つになりました。 
c.共同企業(コンパニー、compagnie,geselschapvanhandel) 
JanDellaFailleは一五八二年に亡くなりました。事業は共同企業として続けられました。相続は会社財産が分散してしまうという危険性をもっていました。西欧における相続は単独相続、平等分配などさまざまな形でありましたが、それは会社の存続にも大きな影響を及ぼしたことは言うまでもありません。当時フランダースでは平等分配が一般的でした。しかし、例えば、複数の息子がいた場合、その中で企業人としての資質をもつ子供に対し、他の子供よりも多くの財産を受け渡すという傾向が当時の遺言に多く見られます。このようなケースでは、不平等な相続を受けた息子達が裁判を起こしたりしました。相続をめぐる家族の紛争が企業に大きな影響を与えたということです。DellaFaille家にも遺産相続をめぐって争いが起こりました。兄弟のあいだで争いが続き、父親から受け継いだ企業を共同体として続けることが不可能になったので、長男Maartenは一人で、自分の配当をもって、義理の兄と元支配人二人と、一〇年間の会社契約に入ったのです。 
これでコンパニーが成立するわけですが、コンパニーというのはヨーロッパの近世を通じて商業組織の基本的な形態でした。現代用語でいえばパートナーシップあるいは合名会社のようなもので、一六世紀から大きく発展し、法律にも成文化されるようになりました。その特徴は次のようにまとめることができるでしょう。コンパニーということばの語源はラテン語の、「パンを分かち合う」という意味をもっているように、その原点は家族企業だったことが分かります。だんだんこのようなヨコの連帯をもとにする会社形態が多くなります。コンパニーは会社契約に基づいて、決まった存続期間のあいだに、一つの商号と資本の下に共同企業を行うということを意味します。社員が会社の営業に対しての連帯責任を負い、会社契約の登録とともに設立し、法人格を受けます。さらに、契約期間は形式上短い契約期間ではあっても、その契約が六年または一〇年ごとに更新されていることから、事実上長期持続するものが現われる、ということです。規模は大体小さく、二人から八人までの社員がもっとも普通だったようです。彼等は会社に投資し、持ち分の投資率に基づいて、利益配分を受けるわけですが、いつでも分割を請求する権利をもっていました。この原理は「共有」と呼ばれています。さらに、社員は一つ以上の企業に出資することも一般にみられる傾向だった、ということです。数少ない社員の役割分担が行われたと同時に、平等と合議制が強調されるシステムでした。コンパニーのリーダーはコーディネーター・調整者として働き、primusinterparesつまり同輩者中の第一人者のような存在でした。各社員が会社のために第三者に対して代表権をもっていたのです。 
d.貴族の仲間入り 
一五九二年会社契約が終わり、Maartenが商人生活をやめることにして、領地および別荘(huisenvanplaisantie)を購入した後、貴族入りへの第一歩として公務員(行政長官)になったのです。一六一四年というとても早い段階で貴族入りに成功するとともに、商業活動も終わったわけです。当時の商人にとって、貴族の生活振りが理想と考えられていたので、貴族の仲間入り、つまり社会的可動性は商人の目的だったと言えます。一般的に、商人の目的は、会社そのものではなく、家族にとっての繁栄であり、会社はつまり社会的昇進への手段と考えられました。領地、土地(荘園)を購入し、結婚相手を貴族から選んで、政府へ申請することによって貴族の仲間入りすることができました。フランダースの北方に位置するオランダには、商人が都市ブルジョワジーになることは知られています。商人は政治的権限をもっていて、社会的ステータスも高かったようです。一方、フランダースでは、商人の地位が低く、政治的影響力もなかったわけです。しかし、社会的昇進は比較的簡単にできたといえます。当時の貴族は閉鎖的階級ではなかったので、豊かな商人にとって土地所有貴族へのコースは開いていました。貴族には、実業家、企業家が多かったのも、かれらが一九世紀からベルギーの産業化に大きく貢献したことと密接に関わっていると考えられます。 
商人の地位が低く、日本と同じくお金もうけは汚いと見られたことが挙げられます。そのため、富裕な商人はできるだけ社会的奉仕に努めようとしました。そこで祭りなどのようなイベントに資金を供給したり、あるいは福祉施設に寄付をします。一つ面白い現象として「神さん保険」を指摘することができます。それは、この商業取引きがうまくいくと、一定の金額を教会、あるいは養育院のような福祉施設に寄付することによって、社会に対する個人の精神的安心感を保証する手段でした。 
というわけで、相続のトラブル、社員の間の紛争、あるいは社会的可動性のために、会社の存続が短かったことが傾向として挙げることができます。しかし、会社が長期存続できたか否かというよりは、継続そのものが会社にとって重要であったか、あるいはどのような意味をもっていたかを問わなければなりません。とくに固定資本への投資と、いわゆる「伝統」の意味をポイントとして取り上げることができると思います。製造業に関わっている会社、つまりものを作る会社はまた違った特徴をもっていました。製造業の会社は固定資本に大きく出資した会社でした。さらに、品質のいいものを売るには伝統、あるいはブランド(商標)が重要な役割を果たしました。印刷業はその例の一つです。このような部門には日本の「家」に似たような考え方を探ることができます。アントウェルペンのPlantin-Moretus(プランタン・モレトゥス)はその独特な例です。この会社は二つの方針を使って、三〇〇年以上存続しました。それはまず第一に、遺言には、会社財産の非分割が定められたこと。そして、第二に、会社に参加しない遺産相続人の買い占めという方法です。出版社・印刷屋・本屋の創業者であるChristophePlantin(クリストフ・プランタン)には息子がいなかったので、二人の義理の息子を家業に取り入れました。この二人は元弟子で、娘と結婚させました。その一人、JanMoerentorf(ヤン・ムーレントルフ)は一五八九年にアントウェルペン本社を相続することになります。二代目の彼も企業を一体のまま、一番才能のある息子に相続させることを決定します。この規定は彼の意志に従って、その後永遠に遺言に含まれることになります。そのために会社財産が分割されず、会社は長く続けることができました。しかし、これは近世ヨーロッパでも例外的なケースだったといわざるをえません。 
三日本の場合 「家」における「総有」 
a.ビジネス・システムとしての「家」制度 
次に、日本の場合を見ていきたいと思いますが、江戸時代の日本で一般化された「家」概念、「家」意識はビジネスにとって非常に合理的枠組みだったことがよく知られています。一つの家業を中心に富を集めて、分家、別家を作るのは商人の「みち」と見られていました。西鶴は「町人の出世は、下々を取り合せ、その家をあまたに仕分くるこそ親方の道なれ」(『日本永代蔵』iv・1)と書いていますが、暖簾分けをするのは町人の社会的義務で、社会的ステータスをあげるための手段でもあったと言えます。このように、大規模な商家が現れますが、経営体としての「家」の概念は、血縁者と非血縁者、本家・分家・別家を統合しました。 
ヨーロッパの会社の短い存続期間に対して、日本では、家業を含む「家」の永続は逆に当然とみられました。「士農工商」という言葉通り社会的昇進が限定されていたため、「家」の存続そのものが目的となっていました。徳川幕府は相続形態を町人の自由に任せており、商家において家督、つまり当主の地位及び家の財産、の単独相続は「家」全体の繁栄の重要な柱となっていました。非分割の財産の共同所有と共同経営が理想となっていたのです。三井家の場合は商人組織の理想型と見られています。三井高利は自分の個人財産、つまりすべての店と全資本を一体として子供たちにまとめて相続させることを決めました。「身上一致」、つまり共同で所有、経営するべきだと規定していたのです。そこで本家・分家の主人たちは「大元方」(一七一〇)という組織を作り、「家」による経営=「総有」の原理をよく表していると思います。京都の下村家(デパートの大丸の創業者)の場合にも似たようなシステムが見られます。「三家一致」と呼ばれていて、下村の三家が全店の経営を調整する方法でした。 
住友家は三井や下村と違って、大元方のような機関を作っていませんでしたが、一つの「家」として本家、分家、別家が共同で複数の事業を営んでいました。住友の家業を開始したのは蘇我理右衛門(一五七二〜一六三六)でした。彼は若いときから銅吹き(銅の精錬と細工)を身につけて、一九歳から京都で店を構えました。また、「南蛮吹き」という銀銅吹き分けの新技術を、一人の西洋人から習得しました。銅の中に含んでいる金銀を抜き出す技術は当時まだ日本にはなかったため、銅は金銀を含んだまま海外に輸出されていました。この新技術は住友の事業の先駆となり、繁栄の始まりを意味したわけです。理右衛門は屋号を「泉屋」と称しました。住友二代の友以は一六二四年ごろに事業を京都から大阪に移し、住友の銅吹き所は徳川時代を通じて銅精錬業の中心となったのです。すでに一六七八年(延宝六年)に住友家は輸出銅の三分の一を供給しました。三代友信が初めて吉左衛門を名乗り、江戸、長崎に出店を設けました。しかし、それより、事業に最も重要な意味を持ったのは別子銅山の開発(一六九一、元禄四年)であったといえるでしょう。泉屋は幕府に輸出銅(御用銅)を供給し、莫大な富を蓄積したのです。このような銅の鉱業、精錬と輸出は事業の中心、つまり家業でしたが、徳川時代を通じて両替業、札差業、砂糖、薬種などの輸入などという多角経営は分家と別家によって行われました。 
事業のトップにはもちろん当主がいましたが、住友では襲名・吉左衛門と名乗りました。しかし、経営と所有の分離と経営者への権威の大規模な代表権委譲は、ヨーロッパの場合と対照的でした。とくに別家と支配人は家業の重役となり、広い権限をもっていたようです。経営と所有の分離は日本の近世の商業の一番大きな特徴としてよく指摘されています。住友も支配人(番頭)が主人(当主、家長)の代わりに家業経営を担当することが見られ、それは例外ではありませんが、それではなぜそうなったのかを見る必要があると思います。それはやはり、主人として商売にむいていない、あるいは関心をもっていない、あるいは贅沢を好み、富を散財してしまう可能性の持ち主であったことが原因と考えられます。住友家の場合、一八世紀の半ばから二〇年以上続いた「お家騒動」がその直接の原因となったと考えられます。表1を御覧ください。それには住友の歴代の当主が一覧表となっていますが、特に七代目から吉左衛門という襲名を使わなくなったことに気付きます。住友家の「お家騒動」を目に見える形で表しているといえるでしょう。 
同時に、この「お家騒動」は当時のビジネス・システムとしての「家」と「総有」、つまり、「家」的支配、「家」的所有の限度をも明らかにするエピソードです。ビジネス・イデオロギーは家訓・家法によく現れています。住友家の家訓にも本家、分家、別家は協力して、イエ全体の繁栄のために全力を尽くすべきだ、という規定があります。しかし、従来の研究では多くの場合、理想と現実の区別がなされていません。私の見解では、家訓は現実を反映しているのではなく、あくまでもイエはどうあるべきかを描写しているに過ぎないと考えます。 
b.住友の「お家騒動」 
住友家の「お家騒動」を見るにあたって、重要な資料は、「御仕置例類集」でした。この資料は、江戸幕府の最高裁判所であった評定所が一七七一年から集めた判決です。二十年以上にわたったこの騒動は非常に複雑で簡単には説明できませんが、要点だけに触れてみたいと思います。表2をご覧ください。住友の当主は吉左衛門と呼ばれていましたが、泉屋は吉左衛門の個人所有でした。強力な豊後町分家が同等なステータスをもっていたと考えられます。五代当主の友昌は病気のため経営権をその分家の当主であった理兵衛友俊に委任しました。この理兵衛友俊は九年の間、後見人として当主の役割を勤めていました。しかし、友昌がなくなった後、息子の友紀が六代目の当主、吉左衛門となりましたが、経営はそのまま後見人の理兵衛と老分別家が担当していました。彼等は吉左衛門は贅沢が好きで、当主としてふさわしくないといって、親戚、手代のサポートを得た上で、吉左衛門を隠居させようとしました。それは「泉屋吉左衛門・家名前退願一件」に当たります。最初に、町奉行はそれを認めず、訴訟側の敗訴に終わりました。しかし、吉左衛門は当主にふさわしくない行動を続け、そのうえ、隠居するのを断わったため、再び分家・親戚・手代に起訴されました。そして結局安永九年(一七八〇)に訴訟裁許により退隠しなければならなかったのです。その後、息子の万次郎が相続し、本家の所有権を受けますが、理兵衛がまだ経営に関わっているので、泉屋吉左衛門友紀は金銀、江戸の店、ほかの財産を握り、吉左衛門という襲名を譲ることも拒否していました。それから十数年にわたって訴訟が続きます(「泉屋吉左衛門・家督譲渡、差滞候一件」)。家は二つの対立しているグループに分けられていました。つまり吉左衛門のサポート派と理兵衛・万次郎を支持するグループ。逆に、吉左衛門のグループは、理兵衛友俊派は賄賂を使って町奉行に当主を隠居させた、と言って、逆訴訟をするわけです(「泉屋吉左衛門・手代、於江戸表、再応訴状差出候一件」)。結局、吉左衛門は天明五年(一七八五)の裁判判決で五〇日間の「押込」と家督を全部譲渡するよう命じられましたが、その後も、隠居の身分で住友の事業を経営していました。さらに、一七九一年、息子の万次郎を「病気」という正式な理由のため、隠居させ、四歳の孫に継がせたことにも、彼の黒幕としての影響・権限を見ることができます。 
この事件はさまざまな解釈があると思いますが、私は次のように解釈しました。要するに、「家」的支配といっても、個人の意思の対立が強く出てきます。そして、「家」的所有があっても、個人所有が問題となる時もありました。だから、理想としての共同所有・共同経営と、事実上の経営権・所有権のあり方とのギャップがあったといえるのではないかと思います。 
さらに、住友の場合、この紛争は経営・所有の分離の直接的な原因となりました。一八世紀の終わり頃から泉屋は番頭・支配人によって経営されるようになりました。吉左衛門の後に当主となった人は商売への関心をもっていなかったため、経営を支配人と別家に任せました。この傾向は明治期に入ってから、一層強くなり、家長は象徴的な存在になりました。というわけで、日本の商人家は、単独相続と共同経営によって永続を求めた、といえますが、さまざまな矛盾や問題を引き起こす可能性を常に含んでいました。 
最後に 
日本とヨーロッパにおける企業の発展は合理的な経営組織への発展とみなすことができると思います。ヨーロッパの場合、国際経済状況に応じて小規模でフレキシブルな会社形態を生み、そのため所有者は経営者でありました。代理人のネットワーク、「加入」という外からの投資もそのシステムの一部でした。会社契約期間が比較的短かかったにしても、社内紛争、相続をめぐる問題、社会的可動性も会社の存続を限定したと言えます。しかし、忘れてはいけないのは、会社は商人にとって社会的出世のための手段に過ぎなかった、ということです。 
それに対して経営体としての日本の「家」は一種の「タテの法人」として働き、会社に似ている側面もありました。分家・別家を設立することによって「家」の継続や拡大こそが目的と見られたのではないかと思います。「家」全体の繁栄が利益追求を正当化する大きな要因だったと考えています。つまり、商人階級における「家」制度を一種のビジネス・システムと見ることができます。その基本的な原理は「総有」、「家」メンバーの共同所有・共同経営、だったのです。しかし、日本にもヨーロッパと同じく、相続に関わる紛争、社内対立が多かったと考えられます。経営・所有の分離という株式会社の特徴が日本の「家」に内在していたことはしばしば指摘されていますが、その原因は「家」制度の中の矛盾に探ることができると思います。  
 
東海道の歴史

 

-古代から中世- 
古代のシステムから見る遠江 
古代の人がどのような交流をしていたのか、発掘された遺跡や残された書物、文書からさまざまな研究者が説を唱えています。ここでは、お茶街道の金谷-掛川について、諸説からその姿をさぐってみましょう。 
東海道が西と東を結ぶ道として、重要な役割を果たすようになるのは、大和政権が東方への政治的影響力を及ぼし始めた四、五世紀ごろのことといわれます。東海道の歴史において、はじめて遠江のことが出てくるのは、「続日本紀」「三代実録」「続日本後記」などで駅の選定、廃止についての記事がみられる程度で、全体像がわかるものは「延喜式」(905年編纂開始、927年完成、施行967年。平安中期)に記された駅馬、伝馬の記載です。 
遠江国 
駅馬 猪鼻・栗原・□摩・横尾・初倉、各十疋  (□=伊・引・門?) 伝馬 浜名・敷智・磐田・佐野・榛原郡、各五疋 
遠江国の駅馬が、どのあたりに位置するのか、説はいろいろあるようですが、現在のところ以下の駅家説があります。 猪鼻=新居町浜名周辺(他に三ヶ日説、吉美説、伊場説がある) 「更級日記」に「それよりかみは ゐのはなのさか…」と書かれています。 栗原=浜松市伊場 伊場遺跡から発掘された墨書土器「栗原駅長」とあり、その北隣梶子北遺跡にある横長式の建物を馬屋であるとする説もあります。 
□摩=磐田市今ノ浦付近 引摩、門摩との記録がありますが、これらは誤記とされ、今ノ浦のイマをあてて見附付近との説が有力なようです。 横尾=掛川市掛川城公園東側 「掛川誌稿」では掛川城付近にあったとしていますが、他に掛川市街北側西郷付近との説もあります。 初倉=牧之原台地東端(島田市宮上遺跡) 島田市宮上遺跡からは「驛」らしき墨書土器が出土し、この遺跡を駅家とみています。(注1) これは、「延喜式」によって、それまでの制度を拡充整備したと見るべきもので、「屋椋帳」と呼ばれる大法令以前(持統朝あるいは天武朝?)のものらしき木簡(伊場遺跡出土)に「駅」の文字が見られることから、駅制については、大法令以前から「駅評(うまやのこおり)」を中継ぎとした東海道の前身といえる交通網が整備されていたという説があります。(注2) 
古代-中世東海道の経路  
平安以前の東海道の経路については、文献にはほとんど残されていないため推定ですが、時代とともに変わっています。「東海道小夜の中山」をもとに、その経路について記します。  
馬道 (榛原郡金谷町猪土居-島田市吹木・湯日・色尾)  
奈良時代の古道で菊川から初倉の駅家郷へ抜ける道。 菊坂-ヘソ茶屋-吹木-上湯日-湯日-色尾 と、牧之原台地の中腹をぬうコースで、一部当時の面影が残されています。土地の人はこの道のことを「馬道」と呼ぶそうです。 色尾(いろお)道 (榛原郡金谷町猪土居-島田市谷口原・色尾) 平安時代には拓けた道で、菊川から初倉へぬける牧之原台地上の道。 菊坂-ヘソ茶屋-二軒屋原(駒場?)-鎧塚-権言原-谷口原-坂本・色尾 平安から鎌倉時代に利用されたと思われます。 
鎧塚道(道灌道路) 
上記の色尾道で通る鎧塚(よろいづか)以東の道は時代をおって変遷し、色尾道ルートが使われたのち前島へ抜ける道がごく短期間利用され、のちに島田へ直接抜けるコースが室町中期以降に始まります。この古道は残っていないため不明ですが、二軒屋原から鎧塚への道に「道灌沢」という地名が残されています。 このころの東海道を利用できたのは、原則として公用の役人に限られていて、物見遊山の観光旅行は考えらないことでした。中央へ納める税(調・庸)を運ぶにも東海道の利用は認められなかったそうです。
-江戸宿駅制度の成立- 
徳川家康による宿駅制度の設定 
古代から中世にかけて発展した東海道は、やがて国内で最も重要な幹線道路となっていきました。徳川家康は、豊臣政権下にあって関東地方を領土としているころ、すでに江戸・小田原間に宿を設定し、伝馬制度を整えていました。そして慶長五(1600)年の関ヶ原の役で実質上の天下統一を果たした家康は、慶長六(1601)年正月、改めて江戸-京都間の東海道の平均二里(約8km)ごとに宿を設定して伝馬朱印状と伝馬定書を下し、それぞれに伝馬36疋を常備させました。この制定の年(慶長六)が東海道の誕生とされ、2001年には400年を迎えます。 
伝馬制度 
いわゆる「東海道五十三次」とは、江戸日本橋を基点として第一番目の宿である品川宿から京都に至る最後の宿駅の大津宿までの53宿のこと。これらの宿駅は、荷物の輸送などの場合、原則として宿駅ごとに継ぎ送るリレー方式をとることになっていました。このことを伝馬制度といいます。各宿場は伝馬朱印状を持つ公用物資は無償で次の宿まで輸送することを課せられ、そのかわりに旅客を宿泊させる権利と一般の物資輸送で駄賃を稼ぐ権利を持ちました。慶長六年制定時に36疋と定められていた伝馬は、東海道の交通量が激増したため、寛永十五年より各宿人足百人伝馬百疋に拡充されています。 
参勤交代制の影響  
街道の発展を決定づけたのが参勤交代制でした。 諸大名が一定期間江戸に候し(参勤)、また本国に帰る(交代)ことで、寛永十二(1635)年に制定されたとされています。参勤交代によって、大名は一年に一度は街道筋を通ることになり、随行者を含むと年間で五万人以上が東海道を往復しました。しかも始めのうちは江戸幕府に対する軍役として行われていた旅が、後には形式的なものとなり「大名行列」という華美な行列に変化していきます。各大名の格式によって随行者数、諸道具などが厳格に区別されていました。大名行列の人数は多い時代では千人を超えていたといい、その後幕府が随行者数の制限を定めて20万石以上は四百数十人、10万石以上で二百数十人という非常に大きな規模で、これに現地で暢達した人足・馬が加わります。寛永十九(1643)年の参勤交代制度細目の通達により、外様大名は四月、譜代大名は六月と交代月が決められていましたから、この時期に集中して大名行列が街道を通過しました。 参勤交代で街道を通る大名や上級家臣は宿駅の本陣または脇本陣に宿泊し、一般の随行者たちは旅籠屋や大きな寺社に宿泊しました。参勤交代によって街道筋は大いににぎわい、経済的な効果も高かったと思われます。 
宿場の役割  
宿場には、旅人の宿泊や休息と、物資の輸送の二つの役割がありました。宿泊業務には本陣、脇本陣、旅籠屋が、物資輸送の手配や管理には、問屋や年寄りと呼ばれた町の名士がその業にあたりました。宿場は、単なる東海道筋の町として存在しているのではなく、それぞれの宿駅が独自に機能し、連関してその役割を担っていたのです。 幕府は東海道を最も重要な政治の道として位置付けていましたから、その宿場に対してさまざまな助成策を講じ、宿場を繁栄させるための経済活動を許可したりしました。  
こうした東海道と宿場の整備は、やがて情報伝播の促進に大きく作用しました。元禄時代になると一般庶民に経済的余裕ができ、東海道の旅行案内書が刊行され庶民の旅心を誘い、第一次東海道ブームが起こります。宿場を舞台にして人々の交流が生まれ、地域文化は大きく発展していきました。
-江戸庶民の東海道- 
庶民の旅 
慶長六(1601)年に整備がはじまった東海道は、徳川政権の安定によってしだいに軍事的役割の色が薄れ、17世紀を通じて東海道筋の治安は極めてよくなりました。庶民の生活にはゆとりが生まれ、元禄八年には大量の金銀貨が発行されて庶民の間にも通用するようになり、第一次東海道ブームが起こります。領主や主人の許可を得れば、時間があって金銭さえ持てれば、誰でも安全な旅を保証される時代が到来したのです。 
一般の人々が旅に出かけようとするとき、「遊びに行く」では主人の許可がおりませんから、ほとんどが社寺参詣という宗教行為を旅の名目にしました。許されない場合は「抜け参り」と称して無断で旅に出ましたが、目的が参詣であるために帰ってから思い罰を受けることはなく、元の仕事に戻ることができました。さらに、東海道筋の人々も「抜け参り」の旅人に路銭を与えたり、食べ物を供したりして旅を支援しましたから、庶民の旅は社会のシステム上でも恵まれていたといえます。  
出版物の影響  
東海道を旅した各時代の文化人たちは、遠い国の景色や人々のようすを絵画や書物にしたためました。元禄八(1695)年、菱川師宣は「東海道分間絵図」で東海道の散りを紹介し、浮世絵で華やかな三都を描いた「道中記」という旅行案内所も出版され第一次東海道ブームの火付け役となりました。  
十九世紀になると、享和二(1802)年、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の出版がきっかけで、爆発的な第二次東海道ブームが起こりました。弥次郎兵衛と喜多八という一介の庶民がおもしろおかしい伊勢参りの旅を描いたこの本は、人々に東海道の旅への憧れを強く印象づけたのです。  
おかげ参り  
「おかげ参り」とは、特定の年に伊勢神宮への参拝が爆発的に増える現象をいいます。子は親に、妻は夫に、奉行人は主人に断りなく、衣裳に趣向をこらして歌い踊りながら集団で参拝しました。とくに慶安三(1650)年、宝永二(1705)年、文政十三(1830)年 に全国規模で「おかげ参り」が流行。江戸時代の「おかげ参り」は、おおよそ60年周期で流行しましたが、文政十三年の「おかげ参り」には実に500万人近くが参宮に出かけたといいます。 
この「おかげ参り」から3年後の天保四(1833)年、歌川広重の「宝永堂版・東海道五十三次」が出版されました。おかげ参りに出かけた人々は、この浮世絵を買い求めて旅の思い出を語り合ったのでしょう。  
往来する人々  
東海道筋には、参詣の旅に出かける庶民の他に、近江商人や富山の薬売りに代表される行商人、武士、旅僧、御師(おし)、旅芸人等々、実に多様な人々が往来しました。 旅人たちの往来によって口から口へと伝えられる情報は、各地の宿から助郷や人足を通じて村へと伝わるようになり、街道は常に新しい情報源の役割も果たしていました。
金谷宿  
金谷宿は、室町のころはちいさな宿場で、当時は菊川の方が栄えていたといいます。本格的に宿場として利用されるようになったのは、東に大井川、西に小夜の中山峠という難所をひかえて、江戸時代東海道五十三次の主要な宿駅のひとつとなってからでした。 
金谷宿は、金谷本町と金谷河原町の二町にわかれていて、金谷本町が他の宿場と同じように伝馬役を務め、河原町が大井川の川越しを取り仕切る川越役・徒渉(かち/歩行)役目を担っていました。 
天保十四年の記録「東海道宿大概帳(だいがいちょう)」によると、金谷宿の全長は東西16町24間、宿内人口は4,271人、宿内家数は1,400軒でした。 
宿内には本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠51軒(他に木賃宿も)などの宿泊施設と、川合所などの川越し施設があり、宿場に常備しておかなければならない馬や人足の数は人足が155人5分、馬が100疋で、加えて水害にも苦しみ、これらは町の大きな負担となっていました。のちに川越しのための人足を確保するため、周辺の村々が助郷村に組み入れられました(元禄七年)。  
■ 
島田河原町から大井川を渡ると金谷宿の東側の金谷河原町。この金谷宿東側の入り口には、八軒屋橋という板橋がかかっていました。通常宿の入り口に左右一対置かれていた桝形が金谷宿には無く、橋がその役割をしていました。大井川の岸からこの橋までの街道の両側は一町五十間ほど松並木になっていて、橋を渡ると川会所(かわいしょ)、川越し人足の番宿、札場、高札場などが立ち並んでいました。  
河原町から西へ向かって十五軒あたりから先が宿の中心街。本町には三軒の本陣と脇本陣、助郷会所があり、要人の宿泊など町の重要な役割を担っていました。街道の両わきには、これらの施設とともに五十一軒の旅籠が立ち並び、大井川を渡る旅人たちを迎えました。上本町には問屋場や町飛脚があり、人々は農業、旅籠屋、茶店、諸商人などを営んで暮らしていました。 
新町に入り長光寺(ちょうこうじ)の門前を抜けると、金谷宿の西の入り口である土橋に出て、その西側には石畳が敷かれた金谷坂がひかえていました。途中右手には庚申堂があり、中腹まで登ると金谷の町が一望でき、さらに登ると富士山が見えます。金谷坂を登りきると左手から菊川の鎌倉街道につながり、右手には諏訪原城の森が広がっていました。
日坂宿  
日坂宿は、東海道の難所である小夜の中山峠の東側にあり、峠越えの麓集落です。江戸時代以前は西坂、入坂、新坂などと書かれていたらしく、室町時代に京都から鎌倉までの六十三宿を記した文書にも「懸川、西坂、菊川」とあり、紀行文にも同名で出てくることから、古くから峠越えの宿客を迎える小規模な宿が営まれていたようです。 
日坂宿は、西に掛川宿、東に金谷宿という大きな宿場にはさまれ、東海道の宿場としては坂下(現三重県鈴鹿)、由比に次いで三番目に小さな宿場でした。「大概帳」(天保14)によれば、宿の全長は東西6町半、宿内人口は750人、宿内家数は168軒でした。宿内には、本陣と脇本陣が一軒づつ、旅籠屋33軒などで宿場を営んでいました。これらは幕府から定められた宿場の機能で、小さな村にとってはかなりの負担であったと思われます。
掛川宿  
江戸以前の懸河 / 古代、交通の要所として設置されていた遠江五驛のうち横尾駅が現掛川のあたりであろうといわれています。掛川の名については、「吾妻鏡」に「懸河」の地名がはじめて登場しています。中世になると豪族がこの地に館・砦・城を築いていたらしく、応仁期には大きな城邑を築いていたといわれます。 
掛川宿の城下町としての歴史は、今川氏が遠江侵攻の足掛けとして室町時代の文明年間(1469-1487)に家臣朝比奈泰熙(あさひなやすひろ)に掛川古城を築かせた頃から始まります。泰熙は、掛川城(古城)を天王山に築き、この城下町形成にあたって、街道を逆川の南側に変更してます。永正以前の懸河宿は、この天王山あたりを呼んだものと思われます。この懸河という呼称は、松尾曲輪の内、池東の低地の数十歩の間を懸河と呼び、その地形が川の流れが迫って、懸崖であったためではないかといわれますが、西宿のあたりが倉真川と逆川の合流地点であることからきた呼称とも考えられるそうです。 
その後、永正十年(1513)ごろ、この古城の南西方向にある竜頭山に、現在の掛川城の前身となる新城を築き、江戸時代には徳川氏譜代の諸大名が入れ替わり入封し、現掛川城付近が宿場として栄えることになります。   
江戸以降の掛川宿 / 江戸時代の掛川宿は、慶長初期に山内一豊が形成した城下町です。一豊は逆川を利用して城下町を境堀で囲み、境堀内の当初の町は、表通りに木町(喜町)・仁藤町・連雀町・中町・西町、裏町に塩町・肴町・紺屋町・研屋町、横町に瓦町の10の町から成っていました。時を経て境堀東の外側に町並みが発展し、元和6年(1620)に新町として加えられて11カ町となり、さらに文化3年(1806)には下俣町・十九首町が加わって13カ町と発展していくました。「東海道宿村大概帳」(天保14/1843)によると、宿の境は、東側上張村、右側仁藤村から西の境左下俣村、右大池村までとあり、おそらく新町より西町分十王町までの間と思われます。町並は東西8町、宿内人口3,443人、総家数960軒、旅籠屋30軒とあり、川越えを控えた金谷宿よりも宿の規模は小さいのですが、宿周辺の11町(のちには13町)が伝馬町、人馬役町として指定され伝馬宿として栄えていました。伝馬町に対しては、馬1疋につき地子(じし/屋敷課税)を免除する制度がありましたが、その率は一定でなく、平均馬1疋に対して40坪だったのに対して、掛川宿の場合は60坪でした。これは掛川のような城下町は藩体制において運輸・郵送上重要な役割を果たしていたからだと考えられます。
大須賀鬼卵 (おおすかきらん、栗杖亭鬼卵・りつじょうていきらん) 
昔、金谷宿と掛川宿の間、小夜の中山峠西麓の小さな宿場町である日坂宿に「きらん屋(木蘭屋)」というたばこ屋がありました。その障子戸には  
世の中の人と多葉粉(たばこ)のよしあしは けむりとなりて後にこそしれ 
と、狂歌が書いてありました。この歌は白河楽翁(松平定信)の目にとまり、褒美を賜ったと伝えられています。その店の主人が大須賀鬼卵(おおすかきらん)。画や連歌狂歌をたしなむ三河生まれの文人で、日坂を終の住処に江戸の文壇で活躍した人です。 
三河から日坂まで点々と  
鬼卵は、延享元年(1744)河内国(大阪府)佐太村に生まれ、青年時代は伊奈文吾と名乗り、同地の永井氏に仕えた下級武士でした。絵画を好み狂歌連歌に長けた人で、のちに名を大須賀周蔵と改めました。安永8年(1779)39歳の春、妻を伴って三河の吉田(豊橋)に移り住み、画と俳諧に遊びましたが、その地で妻に先立たれました。寛政の初め頃、三島に移り三島陣屋の手代となりましたが、同九年には辞して府中(静岡)に移って須美という養女をもらい、画を生業としました。「東海道名所図会 巻五」には、彼の描いた「正月六日三島祭」の絵があります。須美が医師福地玄斎に嫁いだため、鬼卵は千日詣でに行くといったまま家を出て、少しの間遠州伊達方村(だてかたむら・掛川市)に住み、まもなくすぐ東側の日坂宿に移りました。 
日坂での暮らし 
寛政末年(1800)、齡60に近くなって日坂に移り住んだ鬼卵は、画を描く傍らたばこ屋「きらん屋」を営み生業としました。日坂に来てから二度目の妻を迎えましたが、文政元年その妻にも先立たれています。その初七日の夜、かつて鬼卵が師事した京都の歌人香川景樹が日坂を訪れてこのことを茶屋の女から聞いて、「中空日記」に次のように語っています。  
「小夜の中山こえはてて新坂(にっさか)にとどまる。此の里に大須賀とて世に知られた翁あり、また鬼卵と号す。茶汲み女に、此のをぢ猶たいらいかなりやと問へば「此さき一日年此の妻におくれてのち、こよい初七日のたい夜に待り」といまわしきことをいう。 もろともに 老いての後のわかぐさの つまのわかれは いかにかなしき 大日本人名辞書にいう「鬼卵は小説家なり、日坂の人、栗杖亭と合す。狂歌に秀でる」云々。」  
享和3年(1803)、鬼卵57歳のとき「東海道人物志」という本を著しています。品川から大津まで、53の宿駅ごとに、その地に住む学者、文人、諸芸に秀でた人々を列記した実用書で、京都の菊舎、大阪の播磨屋、江戸の須原屋という三都の書林から出版されていることから、売れ行きのよい本であったようです。東海道を旅する文化人には便利な人名録で、三河から日坂へ点々と移り住んだ経験と才覚が活かされた書物といえるでしょう。 
文化4年に記した「蟹猿奇談」以降は、主に読本(よみほん)に筆をふるい、代表作は「新編復讐、陽炎之巻」(文化4年)「長柄長者黄鳥墳」(同8年)「勇婦全伝、絵本更科草紙」(同8年-文政4年)など、22編を出版し、中には歌舞伎として三都で上演されたものもありました。 
鬼卵は日坂に居している間、寺子屋を開いて近傍の子弟らに読書や習字をおしえており、鬼卵の子弟には岡田無息軒(良一郎)も含め数十人に及んだといいます。また、鬼卵の日坂での暮らしは、掛川の庄屋大庭代助の援助によるともいわれています。 
鬼の卵から仏の卵に 
鬼卵は晩年禅学に傾倒し、長松院14世密仙和尚に参禅して仏卵と号しました。長松院は、曹洞宗寺院では掛川で最も古く文明3年(1472)開山の寺院で、鬼卵の筆による「十六善神」「日の出とからす」「十四世肖像」などの絵が残されています。齡83歳で文政6年2月23日に卒し、長松院に静かに永眠しています。 
現在寺院南側の山にある鬼卵の墓は、参拝する人が多くなったため、平成11年2月の長松院御開山忌にあわせて山門近くに墓を移転する法要が行われます。 
 
天海僧正

 

天文5年-寛永20年(1536-1643) 
「天海僧正は人間の中の仏なり。恨まれるのは出会いが遅かったことだ」(家康) 
通称・南光坊天海。安土桃山-江戸初期の天台宗・大僧正。徳川のブレーンとして家康、2代秀忠、3代家光に仕え、幕府の設立と安定に努めた。別名「幕府の知恵袋」「黒衣の宰相」。陸奥・会津高田出身。蘆名兵太郎。10歳で出家し「隋風」と名乗り、13歳で宇都宮粉河寺に学ぶ。1553年、17歳で比叡山に学僧として入り、三井寺や興福寺でも熱心に学んだようだ。1558年(22歳)、母が病没したため故郷にいったん戻り、24歳で下野国(栃木県)足利学校に学び、29歳で上野国(群馬県)善昌寺で修行を続けたとのこと。1571年(35歳)、比叡山に帰ったが信長による全山焼き討ちで入れなかった。甲府に入り武田信玄の元に逗留。1573年(37歳)、上野国長楽寺で修行し、会津に戻って黒川稲荷堂の住職となる。1590年(54歳)、武蔵国(埼玉県)川越・喜多院の僧正豪海の弟子となり、この頃名前を「天海」と改めた。同年、江戸城に入城した家康に師・豪海の代理として謁見。翌年、常陸国(茨城県)江戸崎不動院と無量寿寺北院を兼務。 
天海は武芸に長じていたようで、1600年(64歳)の関ヶ原合戦に従軍したと思われる。「関ヶ原合戦図屏風」に東軍最後方の家康の傍で、鎧をまとった天海が描かれているからだ(絵には「南光坊」と書かれている)。 
ただし!ここまでは「……と、言われている」。つまり前半生は全くの謎。確定されている経歴はこれ以降。 
1607年、71歳の時に家康から比叡山の探題奉公(幕府の要職)に任命され、信長の焼き討ちで衰退していた延暦寺を再興。これを機に積極的に幕政に参画するようになる。1612年(76歳)、埼玉の喜多院の住職となり同院を関東天台宗の総本山とする。家康は寺領300石を寄進。翌年、日光山第53世貫主を家康から拝命。豊臣家が滅亡した大坂の陣では、合戦の際に作戦会議で家康に意見を述べていることから、戦略にも優れていたようだ。豊臣に余程深い恨みがあったのかも(天海の甲冑は現在大阪城に展示されている)。 
1616年(80歳)、家康は他界の15日前に遺言を天海に伝え、葬儀の導師を務める。僧界トップの大僧正に任ぜられ、家康に「東照大権現」(“権現”は天台系)を贈った。当初、“東照大明神”とする動きがあった。天海は「明神」に猛反対し「権現」として祀られるようになった。秀吉が「豊国大明神」だったからだ。家康の亡骸は静岡・久能山に埋葬され、翌年に日光へ改葬、東照社(東照宮)が建立された。 1625年(89歳)、上野に寛永寺を創建し、同寺は後に徳川家の霊廟となった。京都の鬼門(北東)を比叡山が守るように、江戸の北東を守護するべく“東の叡山”という意味で寛永寺の山号を「東叡山」と名付けた。1636年(100歳)、家光の大号令で日光東照宮が現在のように大増築される。 
以後、1643年に107歳という仰天するほどの長寿で他界するまで、その身を天台宗の布教に捧げた。没後5年目に謚号(しごう、死後の名)として「慈眼(じげん)大師」が朝廷から贈られた。この号が贈られたのは平安時代以来700年ぶり。それほどの快挙だ。天海は仏法だけでなく、風水や陰陽道にも深く通じており、天海がこれらの知識をもとに江戸の都市計画を練ったとされている。 
天海は長生きしただけに「正体」をめぐる伝説も多い。11代足利義澄の子、或は12代足利義晴の子であるとか、第4次「川中島の戦い」を見物していたとか、没年にも諸説あり最高で135歳!だが、最も有名な伝説は「天海=明智光秀説」。これがトンデモ話と笑い飛ばせないのは、奇妙な一致点が山ほどあるからだ。 
家康の墓所、日光東照宮は徳川家の「葵」紋がいたる所にあるけれど、なぜか入口の陽明門を守る2対の座像(木像の武士)は、袴の紋が明智家の「桔梗」紋!しかもこの武士像は寅の毛皮の上に座っている。寅は家康の干支であり、この門を造営した天海は徳川の守護神であると同時に、文字通り“家康を尻に敷く”ようだ。また、門前の鐘楼のヒサシの裏にも無数の桔梗紋が刻まれている。どうして徳川を守護するように明智の家紋が密かに混じっているのか。 
日光の華厳の滝が見える平地は「明智平」と呼ばれており、名付けたのは天海。なぜ徳川の聖地に明智の名が?(異説では元々“明地平”であり、訪れた天海が「懐かしい響きのする名前だ」と感慨深く語ったと伝わる) 
2代秀忠の「秀」と、3代家光の「光」をあわせれば「光秀」。 
天海の着用した鎧が残る。天海は僧兵ではなく学僧だ。なぜなのか。 
年齢的にも光秀と天海の伝えられている生年は数年しか変わらない。 
家光の乳母、春日局は光秀の重臣・斎藤利三の娘。斎藤は本能寺で先陣を切った武将であり、まるで徳川は斉藤を信長暗殺の功労者と見るような異様な人選。まして家光の母は信長の妹・お市の娘。謀反人の子を将軍の養育係にするほど徳川は斉藤(および光秀)に恩があったのか。※しかも表向きは公募制で選ばれたことになっている。 
強力な物的証拠もある。比叡山の松禅院には「願主光秀」と刻まれた石灯籠が現存するが、寄進日がなんと慶長20年(1615年)。日付は大坂冬の陣の直後。つまり、冬の陣で倒せなかった豊臣を、夏の陣で征伐できるようにと“願”をかけたのだ。※この石灯籠、移転前は長寿院にあり同院に拓本もある。 
家康の死後の名は「東照大権現」だが、当初は“東照大明神”とする動きがあった。天海は「明神」に猛反対し「権現」として祀られるようになった。秀吉が「豊国大明神」であったからだ。 
そして極めつけ。光秀が築城した亀山城に近い「慈眼(じげん)禅寺」には彼の位牌&木像が安置されているが、没後に朝廷から贈られた名前(号)が「慈眼大師」。※大師号は空前絶後の名誉。“大師”とは“天皇の先生”の意。つまり、信長を葬った光秀は朝廷(天皇)の大恩人ということ。 
天海の墓は滋賀坂本と家康が眠る日光東照宮に隣接した輪王寺・慈眼堂にある。坂本は明智光秀の居城・坂本城があった場所で、山崎の合戦の際に、この地で光秀の妻や娘も皆死んだ。天海の墓と明智一族の墓まで歩いていける距離にある。そして天海の墓の側には家康の供養塔(東照大権現供養塔)が建っている。明智一族の終焉の地に天海の墓と家康の供養塔…実に意味深だ。 
日光の墓は慈眼堂の拝殿背後にあり、天海の命日(10月2日)は慈眼堂で長講会(じょうごえ、法要)が営まれ、天海の大好物であり、長寿の秘訣という「納豆汁」がお供えされる。 
寛永寺に眠る将軍は、4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定の6人。天海の髪が納められた「天海僧正毛髪塔」もある。 
家光の遺言は「死後も東照大権現(家康)にお仕えする」。これを受け4代家綱が日光に家光廟大猷院を建立した。家光の霊廟は家康の方を向いている。 
光秀であった場合、前半生の経歴を比叡山で出会った「隋風」から買ったのではないか、或は比叡山で亡くなった「隋風」に成りすましていたのではないか、そんな説もある。比叡山にとって光秀は、宿敵・信長を倒した英雄であり、どんな協力も惜しまなかっただろう。
天海僧正 年表
1536年、天文5年 (所伝) 福島県大沼郡会津美里町の高田で誕生。長男。幼名は、兵太郎。父は舩木。母は蘆名氏の娘。  
1546年 10歳 実家の近所の龍興寺(りゅうこうじ)で出家、「隋風」と称します。3年間修行。龍興寺は天台宗の円仁(えんにん)創建の古刹(こさつ、古い寺)。円仁は、最澄の弟子で、最後の遣唐使。天台宗を完成させた世界的な偉人。天台宗は仏教の力で国を導くという国家鎮護を信仰の核にしています。 
1549年 13歳 宇都宮市の粉河寺(こかわでら、現・宝蔵寺、ほうぞうじ)の住職に弟子入り。住職の皇舜は高僧。  
1553年 17歳 天台宗の総本山、比叡山に入山、実全に師事、天台教学を学びます。比叡山は、最澄が山を開いてから、円仁、円珍、良源、源信、良忍、法然、親鸞、一遍、栄西、道元、日蓮など各宗教の祖を生んだので、日本仏教の母とよばれています。またさまざまな芸能を生んだので、「山」といえば比叡山をさしました。  
1556年 比叡山を下山。大津の三井寺(みいでら、現・園城寺おんじょうじ)のに学びます。奈良、興福寺などで学びます。林和成重に日本書紀を学びます。法相(ほっそう)、三輪を学びます。 
1558年 22歳 実母病気のため、時会津へ帰省します。母は逝去。  
1560年 栃木の足利学校に入り、4年間にわたり、儒学、漢学、易学、国学、経済学、天文学、医学、兵学を習得します。天海は、粉河寺、三井寺、興福寺、足利学校と学業を続けます。  
1564年 群馬県太田市世良田の善昌寺に学びます。 
1571年 35歳 比叡山入山を試みますが、比叡山が織田信長により焼き打ちされ果たせませんでした。天海は、 明智光秀の世話で、山門の学僧、衆徒と共に、武田信玄の元に身を寄せます。武田信玄に請われ、山門の学僧と論議をしたり、天台宗について講義したりします。  
1573年  会津に戻り数年間滞在。 
1577年 41歳 蘆名氏の要請を受けて、群馬県太田市世良田の善昌寺(現・長楽寺)で5年間修行。天海は塔頭の住職に。会津若松の黒川稲荷堂の別当(長官)をつとめます。このように若いときから、天海は流浪の学問僧でした。 
1590年 54歳 関東有数の大寺院、川越の無量寿寺の北院(のちの喜多院)に移り、名を天海と改めます。無量寿寺は円仁(えんにん)が創建しました。天海が11歳で入った会津の龍興寺も円仁が創建したものでした。無量寿寺は天台宗の関東総本山で580の寺を従えていました。しかし、このころは北院も中院も荒れ果てており、南院は墓地を残すのみでした。この年天海は、初めて江戸入りを果たした家康に多くの僧とともによばれました(諸説あり)。  
このとき天海は不老長寿の秘薬として、川越の納豆を献上しました。家康は、この納豆をいたく気に入りました。や がてこの納豆は芝崎納豆とよばれ、江戸の名物になりました。いまも芝崎納豆は、神田神社の参道のみやげ店で販売しています。  
天海はいよいよ喜多院を根拠地に関東に根をおろします。 
1589年 蘆名氏が伊達政宗に攻められます。天海は蘆名盛重とともに白川に逃れます。1590年(?)蘆名盛重が常陸の江戸崎に移るのに従い、江戸崎不動尊院を再興し、住職も兼ねます。  
1599年 63歳 北院の住職・豪海没し、天海は無量寿寺北院の第27世住職に。北院は、のちに喜多院になります。天海の飛躍がはじまります。  
1603年 67歳 天海、家康に登用されます。江戸幕府開幕の年です。天海は神田神社に平将門(たいらのまさかど)の霊を大手町(旧称は芝崎)から今の地に分祀(ぶんし)し、江戸の町の守護神にしました。家康が江戸幕府を開いた年です。将門は朝廷に反抗した朝廷の敵でした。天海は、民衆に人気のあった朝敵の将門を江戸の街を守る神様にすることにより、江戸の民が尊皇思想をもたないようにしくみました。 
1607年 71歳 この年から5年間、家康の依頼で比叡山探題奉行となり、内輪もめの激しかった延暦寺の再興に着手します。探題(たんだい)とは、宗教の最高の権威者のことです。延暦寺の南光坊に住したことから、南光坊天海とよばれました。 偶然ながら、喜多院第57世の塩入亮忠(りょうちゅう、1889−1971、大正大学学長)も南光坊住職をつとめた。 家康は、喜多院を東の比叡山と言う意味で、東叡山という山号にしました。(@年号)  
1608年 駿府城で家康に「山王一実神道(さんのういちじつしんとう)」を講義。この後もしばしば家康に招かれ講義します。 家康(1542-1616)の将軍としての在職期間は1603年から1605年までです。その後は大御所として駿河に移転しました。駿河は、京都と江戸の中間にあり、両方ににらみをきかせることが出来ました。  
1609年 73歳 後陽成天皇に天台宗について説きます。天海は天台宗の権僧正(ごんのそうじょう)に。権僧正は、僧正に次ぐ地位です。  
1610年 天台宗の広学堅義(りゅうぎ)探題に選ばれます。  
1611年 僧正に任じられ、後陽成天皇から毘沙門堂門室の号を賜ります。家康は川越で放鷹(ほうよう)し、天海に面会し、寺領を寄贈します。天海は、家康の指示で、川越の無量寿寺北院を喜多院と改め、喜多院を関東天台宗の総本山に定め、山号を東叡山に変更します。家康は、関東天台宗の全権を喜多院に与えることにより、朝廷側の比叡山の勢力を関東に移すことにします。  
1612年 76歳 家康は、川越の無量寿寺北院を喜多院と改め、寺領300石を寄進し、喜多院を関東天台宗の総本山に定め、山号を東叡山に変更します。家康は、関東天台宗の全権を喜多院に与えることにより、朝廷側の比叡山の勢力を関東に移すことに成功します。家康、喜多院に天海を訪問します。  
1613年 77歳 家康は71歳 天海、家康を駿府城に訪問し、天台論議法要をおこないます。家康は喜多院に参詣し、天海の天台論議法要を聴聞します。天海は、日光山の貫首(かんじゅ)も兼任し、日光山の復興にとりかかります。貫首とは、天台宗の大寺の住職のことです。喜多院で、家康と天海が仏法を談じます。家康は、喜多院に寺領500石を寄進します。  
1614年 78歳 家康は72歳 3月 天海、上洛します。4月 御所で『延喜式』の書写を請います。5月 天海、家康に天台血脈を授けます。6月 9日、13日、17日、22日、25日、18日、天海は、駿府城で家康に天台論議法要をおこないます。7月 3日、18日、21日、27日、駿府城で家康に天台論議法要をおこないます。9月 9日、11日、15日、18日、21日、27日、駿府城で家康に天台論議法要などをおこないます。11月 家康の大阪出陣に従って上洛し、家康のために御所の貴重書を借用します。また、天皇、上皇、家康間の講和につとめます。  
1615年 1月 後陽成天皇より御衣、燕尾帽、鳩杖を賜る。6月 二条城で天台論議法要をおこない、家康が聴聞します。10月 江戸城で天台論議法要をおこないます。  
1616年 80歳 家康は74歳 2月 家康の病気見舞いのため、駿府に急行します。4月 藤堂高虎に受戒します。4月2日 家康、駿府にて、本田正純、金地院崇伝(こんちいんすうでん)、天海の3人に遺言します。家康は、自分の死に及び、病床に3人をよび遺言を残しました。天海もその1人でした。それほどまでに天海は頼りにされていました。天海は、家康の神名を東照大権現(とうしょうだいごんげん)とつけました。伊勢神宮の天照大神(あまてらすおおみかみ)を意識し、東国の天照(あまてらす)という意味で東照大権現にしたのでしょう。東照大権現とは、家康が東照という神となって仮に(=権)あらわれている姿ということです。家康をまつる東照宮は全国に100以上あります。このうち、久能山東照宮、日光東照宮、および仙波東照宮を3大東照宮とよびます。川越の仙波東照宮は、1617年、家康の亡きがらを久能山から日光へ運ぶ途中、わざわざ喜多院へ寄り法要が営まれたことにより建立されました。 4月17日 家康が死去します。 天海は葬儀の導師となり、静岡の久能山に埋葬します。このとき家光は13歳。家光は生涯で9回川越を訪問しています。6月 上洛し、家康の神号を奉請します。7月 大僧正に任じられます。9月 江戸にて家康の神号勅許を復命します。10月 日光山にのぼり、東照社造営の縄張りをはじめます。 
1617年 81歳 2月 家康に神号が朝廷から贈られます。神号は天海の主張通り「東昭大権現」でした。天海は導師となり、家康の遺骸を久能山から日光へ移送。 3月15日 駿府の久能山にのぼり、徳川家康の霊柩をみずから掘り起こし、自分が住職をしている川越の喜多院で実に4日間もの大法要を営み、日光におさめました。ご神霊の行列は1300人にも及びました。葬儀の導師をつとめた天海はこのとき81歳でした。今に続く日光の「千人武者行列」は、久能山から日光へのこのときの行列を模したものです。天海は、伊勢神宮の天照大神(あまてらすおおみかみ)に対して、家康を「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」としました。東の天照(あまてらす)という意味です。権現とは「仮の姿」ということで、ほんとは仏様だが、いまは仮に「東の天照大神だ」ということです。家康をまつる東照宮は、全国に130ほどあります。川越の仙波東照宮が、日光東照宮、久能山東照宮とともに三大東照宮とよばれているのは遺骸のコースが、久能山→川越→日光だったからです。川越は日光からの気のエネルギーの中継所でもありました。 3月23日 川越の喜多院に到着。天海、4日間にわたり法要します。以降、一行1300人は、川越から忍(おし)、館林、佐野、鹿沼、日光へ向かいます。 4月16日 家康の神像を正殿に安置します。儀式は天海の「山王一実神道(さんのういちじつしんとう)」でおこないました。山王一実神道は、すべての神の教えは、日吉(ひえ)山王の教えに帰するという教えです。つまり、すべての神々はみな山王の分身であるということです。天海は山王権現を東照大権現に置き換えました。山王一実神道の宗教上の目的は「現世安穏、後生善処」、つまり徳川幕藩体制と徳川家を支える支柱の確立でした。徳川幕府の日本支配と国家安泰をめざしていました。江戸期を通じ家康は神君とよばれました。神(東照大権現)と君主が一体であることを意味します。「神=君」という思想があったからこそ、戊辰戦争でも官軍は、寛永寺は焼いても、どの東照宮も攻撃しませんでした。 4月17日 ご祭礼をおこないます。 4月19日 法華曼荼羅供  
1618年 4月 江戸城内に東照廟を勧請(かんじょう)し、導師をつとめます。  
1619年 5月 上洛し、桓武天皇の廟塔を修造します。8月 伏見城にて、天台論議法要をおこないます。9月 尾張に東照権現を勧請します。  
1620年 2月 花山院忠長の息子(のちの公海)を養子にします。8月 水戸東照宮の縄張りをおこないます。  
1621年 4月 水戸に東照権現を勧請し、導師をつとめます。10月 紀伊に東照権現を勧請し、導師をつとめます。  
1622年 4月 東照権現7回忌法要を日光山でおこないます。  
1623年 7月 上洛します。12月 上野に寛永寺の造営を始めます。12月 最胤(さいいん?)法親王に書状にて、東叡山に皇子を迎えたいという希望を述べる。2代将軍秀忠(1578-1632、在職1605-1623)死去。家光(1604-1651。在職1623-1651)が後を継ぐ。天海は、秀忠、家光の政治顧問格でした。  
1625年 89歳 天海は江戸城の鬼門封じのために上野に寛永寺を建て、将軍家の菩提寺にしました。山号を喜多院から移し東叡山とし、関東天台宗総本山にします。喜多院の山号は以前の星野山にもどしました。比叡山延暦寺は「延暦時代」に建てられました。それに対抗して、「寛永時代」に建てたので寛永寺にしました。また東叡山(とうえいざん)という喜多院の山号を寛永寺に譲りました。東叡山は、関東天台宗の総本山です。東叡山とは、東(関東)の比叡山という意味です。今の上野公園も含む広大な敷地を保有していました。朝廷側の比叡山は全国を支配していましたが、関東の580ほどの寺社は東叡山寛永寺が治めるようになりました。京都御所を仏教面では比叡山が守り、比叡山を神道面で日吉神社が守っています。江戸では、寛永寺、神田神社が鬼門を封じ、増上寺、日枝神社が裏鬼門を封じるようにしました。 天海はまた「家康=北極星」のしかけを施しました。日光東照宮は江戸城の真北に位置します。江戸の街からは日光の男体山(なんたいさん)が見え、男体山の真上に北極星が輝きます。北極星は宇宙を支配する神で、無数の星が北極星をめぐります。家康は、神となり、江戸を守ることになります。「北極星=家康」のしかけをつくったのが天海です。徳川家では、家康だけが神で、あとの将軍は仏です。家康が「神君」とよばれるのは、神であり、君主であるからです。天海は、家康を「東昭大権現(とうしょうだいごんげん)」という神様にし、250年以上にわたり徳川家の安泰をはかり、日本に平和をもたらしました。世界史上希有なことです。 2月24日 川越・三芳野神社の遷宮の導師をつとめます。7月 徳川家光が日光山を参詣します。法会(ほうえ)をとりおこないます。  
1626年 上洛し、宮中で論議法要をつとめます。8月 公海に京都・毘沙門堂門室をゆずります。 
1627年 9月 上野に東照権現を勧請、導師をつとめます。  
1628年 南禅寺金地院(こんちいん)に東照宮を建立します。4月 日光山で東照大権現13回忌の導師をつとめます。  
1632年 96歳 4月 日光山で東照大権現17回忌の導師をつとめます。徳川家光も日光登山をおこないます。7月 沢庵の赦免を乞い、許されます。  
1633年 8月 二の丸東照宮完成し、遷宮を執務します。  
1634年 6月 上洛します。閏7月 比叡山坂本東照宮の正遷宮をすすめます。10月 比叡山諸堂の復旧に着手します。  
1635年 徳川家光より東照権現縁起の撰述の委嘱を受けます。5月 日光山にのぼり東照大権現仮殿遷宮の儀をつとめます。6月 江戸城・紅葉山東照宮の祭祀をつとめます。  
1636年 100歳 4月 東照社の大造替完成。東照大権現21回忌の導師をつとめます。『東照権現縁起(真名本)』上巻が完成します。 
1637年 101歳 寛永寺において『天海版 一切経』を活版印刷する大事業を計画します。一切経とは、仏教経典の全集で、大蔵経(だいぞうきょう)ともよばれます。12年後に完成します。全6323巻です。  
1638年 102歳 川越大火で、喜多院が全焼します。天海を崇敬していた家光は、ただちに喜多院の再建にとりかかります。家光は、江戸城から大切にしていた「家光誕生の間」「春日局(かすがのつぼね)化粧の間」を移築します。これらは、江戸城の唯一の遺構です。春日局は家光の乳母で、家光を将軍に押し立てた立役者です。  
1640年 『東照宮権現縁起絵巻(仮名本)』全5巻が完成します。『東照権現縁起(真名本)』中巻、下巻が完成します。4月 東照大権現25回忌、日光東照社で導師をつとめます。  
1641年 7月 日光山奥院石造宝塔が完成します。  
1643年10月2日 死去 107歳 5月 日光山に相輪橖(そうりんとう)を造立します。9月28日 五か条からなる遺言を述べます。  
五か条の遺言  
1 東照大権現の神威を増すこと。  
2 天台宗を繁栄させること。  
3 天海の後継者には、親王をむかえること。  
4 京都山科の毘沙門堂の門室を再興すること。  
5 天皇の命に違反する罪で配流された人々の赦免をおこなうこと。  
10月2日 天海、寛永寺で死去します。 数えでは108歳です。徳川家康と同じく日光に埋葬されました。日光の天海蔵には、天海の蔵書1万冊が収められています。慈眼大師(じげんだいし)の追号が朝廷から贈られました。この追号(ついごう)は、天台宗では5人目700年ぶりの出来ごとでした。10月17日 天海の柩が江戸・寛永寺から日光山・大黒山の慈眼堂に埋葬されます。家光の大猷院(だいゆういん)が、近くにあります。公海が天海を後継します。  
1644年 10月 日光山、東叡山、比叡山・坂本に天海の御影堂(みえいどう)が創建されます。  
1645年 日光東照社を東照宮にすることが宣下されます。これ以降、東照宮といえば、日光の東照宮を指すことになります。誤解を避けるときは、日光東照宮と記します。  
1646年 3月 日光東照宮の例祭に朝廷から奉幣使(ほうへいし)が派遣されます。以降、伊勢神宮とともに例幣使として毎年派遣されるようになります。  
1648年 4月 慈眼大師の謚号(しごう、おくり名)が朝廷から贈られます)。  
1654年 後水尾天皇の第3皇子・守澄 法親王(しゅちょう ほっしんのう)が日光山門主となります。東叡山を兼帯します。  
1655年 守澄法親王が第179代天台座主(ざす)につきます。2月 守澄 法親王に「輪王寺宮(りんのうじのみや)」の号が勅賜されます。守澄 法親王は、比叡山、東叡山、日光山の三山管領宮(さんざんかんれいのみや)とよばれます。毘沙門堂が門跡(もんせき)寺院に昇格します。(門跡寺院とは、皇族・貴族が住持をつとめる格式高い寺院のことです。) (上記年齢は1月1日生まれ換算の満年齢です。) 
天海僧正 [東照宮御実紀附録巻二十二]
君御若年の程より軍陣の間に人と成せ給ひ。櫛風沐雨の労をかさね。大小の戦ひ幾度といふ事を知らざれば。読書講文の暇などおはしますべきにあらず。またく馬上をもて天下を得給ひしかどももとより生知神聖の御性質なれば。馬上をもて治むべからざるの道理をとくより御会得まし/\て。常に聖賢の道を御尊信ありて。おほよそ天下国家を治め。人の人たる道を行はんとならば。此外に道あるべからずと英断ありて。御治世の始よりしば/\文道の御世話共ありけるゆへ。其比世上にて好文の主にて。文雅風流の筋にふけらせ給ふ様に思ひあやまりしも少からず。」すでに島津義久入道龍伯などもわざ/\詩歌の會を催し。大駕を迎へ奉りし事有しが。実はさるえうなき浮華の事は御好更にましまさず。常に四子の書。史記。漢書。貞観政要等をくり返し/\侍講せしめられ。また六鞜三略。和書にては延喜式。東鑑。建武式目などをいつも御覧ぜられ。藤原惺窩。林道春信勝等はいふまでもなし。南禅寺の三長老。東福寺の哲長老。清原極臈秀賢。水無瀬中将親留。足利学校三要。鹿苑院兌長老。天海僧正など侍座の折から常の御物語にも文武周公の事はいふもさらなり。漢の高祖の寛仁大度。唐の太宗の虚懐納諌の事ども仰出され。さては太公望。張良。韓信。魏徴。房玄齢等が。己をすてゝ国家に忠をつくしたる言行どもを御賞誉あり。本朝の武将にては。鎌倉右大将家の事を絶ず語らせ給ひしとぞ。いづれにも章句文字の末をすてゝ。己をおさめ人を治る経国の要道に。御心ゆだねられし御事は。実に帝王の学と申奉るべき事にこそ。(卜斎記、駿府記) 
天海大僧正と日光
徳川家康公を日光に東照大権現(とうしょうだいぎんげん)として祀(まつ)り、江戸を護る一大霊場として隆盛の極みに導いたのが、当山第53世貫主(かんす)天海(てんかい)大僧正です。家康公・秀忠公・家光公、三代にわたる徳川将軍から生き仏のように崇められた天海は、並はずれた才能を持つ卓越した天台僧でした。  
同時期に活躍した金地院崇伝(こんちいんすうでん)が黒衣の宰相と呼ばれたのに対し、比叡山南光坊に住したので南光坊天海とも呼ばれ、その活動は宗教方面に限られていました。  
慶長18年(1613)、家康公より日光山貫主を拝命すると、本坊・光明院(こうみょういん)を再興し、関東における天台宗の基盤とすべく日光山の整備に努めました。また、その宗教観は家康に強い影響を与え、天海が初めて家康公に会って以来、幾度となく家康公の為に論議[問答議論によってお経の意味を明らかにする儀式]を開き、また、幾度も家康公に天台の教えを授けています。公が薨(こう)じる前年には、山王一実神道(さんのういちじつしんとう)の伝授もありました。天台の神道であるこの教えに基づき、家康公の御遺骸は久能山から日光山へ遷葬、東照大権現として当地に祀られたのです。「(日光にて)関八州の鎮守(ちんじゅ)とならん」との家康公の御遺言どおり、日光山は、京都における比叡山のように、徳川家の或いは徳川幕府の鎮守となったのです。  
その後も、108歳の長寿といわれる天海大僧正は、寛永16年(1639)、家光公に山王一実神道を相承、寛永8年(1631)、寛永17年(1640)の東照大権現17回忌、25回忌の導師、寛永19年(1642)には日光東照宮で法華曼荼羅供の導師を勤めるなど、寛永20年(1643)10月2日、東叡山寛永寺にて入寂される直前まで精力的に宗教活動を続けました。5年後、慈眼大師の諡号を賜い、朝廷から賜る大師号としては史上最後の日本で7番目のお大師様となりました。  
慶安元年(1648)4月20日、東照大権現33回忌には将軍家光公の日光社参がありました。その際将軍は、天海の廟所[墓所]である慈眼堂にも参拝されています。また、寛永寺慈眼堂にて天海7回忌が奉修された際も出席されたり、家光公の天海を慕う気持ちを窺うことができます。慶安4年(1651)4月20日、家光公は死去の際、遺言の通り、祖父家康公と天海大僧正の側近くに、大猷院殿として葬られました。すなわち、現在日光山には家康公、家光公、天海僧正の廟所(びょうしょ)があり、今尚、参詣の人々が絶えないのです。  
 
会津武士道 / 「ならぬことはならぬ」の教え

 

白虎隊の里  
山川健次郎の故郷、会津若松はなんといっても白虎隊の里である。  
戊辰戦争のとき、健次郎とほぼ同年代の少年たちが、城下を見下ろす飯盛山で自刃した。墓前は焼香が絶えず、会津若松を訪れる人は、必ずといっていいほどここに参拝する。  
墓前に立つと、人間の死がいかに厳粛で尊厳に満ちているかをいつも感じる。  
山川健次郎は国家をもっとも大事にした人間だった。  
戊辰戦争に破れた会津の人は亡国の民だった。国を追われ、放浪の生活を余儀なくされた。そこからはいあがった健次郎は、国家のために命をささげた白虎隊の若者たちを、生涯忘れることはなかった。  
幕末、悲劇の会津戦争を体験した。  
会津藩は幕府の命令で京都守護の大役を仰せつかり、年間1千人もの兵を京都に送った。京都には革命の嵐が吹き荒れていて、すべての人が尻込みをした。あえて火中の栗を会津藩が拾った。  
薩摩、長州との確執が深まると、兵員は2千人近くにもなる。失費も大変で、会津の領内は疲弊した。  
朝廷と幕府との間に立って懸命に努力をしたが、西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允、岩倉具視らとの政争に敗れ、朝敵の汚名を着せられ無念の帰国となった。  
いきつくところは戦争だった。  
会津藩は老若男女も参戦し、必死の戦いを繰り広げたが、3千人の死者を出して惨敗した。  
武士の社会では、戦争もありだった。だが、この戦争には武士の情けがなかった。女分捕り隊や物品略奪隊まで編成し、城下を荒らし回り、死者の埋葬も許さない冷酷無残な戦争であった。それが、人情を大事にする会津人の心をひどく傷つけた。 
郡長正の自刃  
会津藩の教育制度は非常に厳格だった。  
サムライは上、中、下の3つの階級に分かれ、上士の者は下士の者を切り捨てる権利を持っていた。これはえらいことだった。自分の判断で相手を切り捨てることができた。しかしそのときの状況が一方的だったり、逆に上士に誤りがあったりした場合は、切腹だった。サムライには責任があった。たとえ子供であっても刀を差したら、悪ガキではすまなかったのである。  
会津戦争後のことだが、壮絶な切腹をした少年がいた。  
旧家老萱野権兵衛の次男郡長正、16歳である。  
権兵衛は戦争の責任を負って自刃、萱野姓は剥奪され、遺族は郡姓を名乗った。  
会津藩は消滅となり、青森県の地に斗南藩を創設し、会津藩の再興を期したが、極寒の地で困苦を強いられ、とても勉学どころではなかった。  
そこで豊前豊津藩に依頼し、明治3年、6人の少年を豊津藩校育徳館に内地留学させた。長正は「食べ物がまずい」と母親宛てに手紙を書いた。不覚にもその手紙を落とし、育徳館の生徒に読まれてしまった。「会津藩の恥辱」として留学生仲間からも糾弾された長正は、豊津藩と会津藩の剣道の試合で完勝したあと、「武士の名誉を汚した」と潔く自刃した。同じ会津の留学生が介錯した。  
武士の対面を汚した場合、たとえ少年であれ、腹を切る。そうした道徳、倫理観が徹底していた。  
育徳館は現在、福岡県立豊津高校となっており、校庭の一画に長正の碑がある。  
「まことに気の毒なことだった。しかし豊津高校生は、そのことを肝に命じ、今でも長正を慕っている」  
卒業生の一人はそう話し、この人は山川健次郎の胸像建設運動が起こったとき、九州地区の募金を担当した。 
遊びの什  
会津藩の子供は六歳から勉強を始める。  
午前中は近所の寺子屋で論語や大学などの素読を習い、いったん家に戻り、午後、一カ所に集まって、組の仲間と遊ぶのである。一人で遊ぶことは禁止だった。孤独な少年は皆無だった。  
仲間は10人1組を意味する「什」と呼ばれ、年長者が什長に選ばれた。年長者が複数の場合は人柄や統率力で什長が選ばれた。  
遊びの集会場は什の家が交替で務めた。  
1歳違いまでは呼び捨て仲間といって、互いに名前を呼び捨てにすることができた。什には掟があり、全員が集まると、そろって8つの格言を唱和した。  
一、年長者のいうことを聞かなければなりませぬ。  
一、年長者にお辞儀をしなければなりませぬ。  
一、虚言をいうてはなりませぬ。  
一、卑怯なふるまいをしてはなりませぬ。  
一、弱い者をいじめてはなりませぬ。  
一、戸外で物を食べてはなりませぬ。  
一、戸外で婦人と言葉を交わしてはなりませぬ。  
そして最後に、「ならぬことはならぬものです」と唱和した。  
この意味は重大だった。駄目なことは駄目だという厳しい掟だった。6歳の子供に教えるものだけに、どの項目も単純明快だった。  
遊びの什は各家が交替で子供たちの面倒をみたが、菓子や果物などの間食を与えることはなかった。夏ならば水、冬はお湯と決まっていて、そのほかは一切、出さなかった。今日ならば様相はまったく違うだろう。団地の町内会が子供を交替で預かるとする。家によって対応はまちまちになるだろうが、おやつにケーキが出るかもしれないし、アイスクリームが出るかもしれない。  
家によって格差が出てくる。しかし会津藩の場合は、全員平等である。これはきわめていい方法だった。間食はしないので、夕ご飯も美味しく食べることができた。唱和が終わると、外に出て汗だくになって遊んだ。普通の子供と特に変わりはなく、駆けっこ、鬼ごっこ、相撲、雪合戦、氷すべり、樽ころがし、なんでもあった。変わったものに、「気根くらべ」というのがあった。お互いに耳を引っ張り、あるいは手をねじり、または噛みついて、先に「痛い」といった方が負けになった。これは我慢のゲームだった。  
年少組のリーダーである什長は、普通は8歳の子供だった。  
このようにして6歳から8歳までの子供が2年間、什で学びかつ遊ぶことで、仲間意識が芽生え、年長者への配慮、年下の子供に対する気配りも身についた。喧嘩の強い子供、賢い子供、人を引きつける子供、さまざまなタイプの子供がいて、それらの子供が混然と交わることで、お互いに競争心も芽生えた。当然、子供の間には喧嘩や口論、掟を破ることも多々あった。 
厳しい罰則  
その場合、罰則が課せられた。罰則は3つあった。  
一、無念、軽い罰則は「無念」だった。  
「皆に無念を立てなさい」と什長がいうと、子供が皆に向かって「無念でありました」と、お辞儀をして詫びた。  
二、竹箆(しっぺ)、これは手の甲と、手の平のどちらかをびしっと叩く体罰である。手の平の方が重かった。これも什長や年長者が決めた。  
三、絶交、「派切る」と称した。もっとも重い罰だった。これは盗みとか刀を持ち出すとか武士のあるまじき行為の場合に適用された。一度、適用されると、その子供の父か兄が組長のところに出かけ、詫びをいれなければ、解除されなかった。これはひどく重罪で、子供の心を傷つけることもあり、滅多になかった。派切ることは子供ではなく最終的には大人が決めた。何事によらず年長者のいうことには絶対服従だったのだ。  
罰則はたとえ門閥の子供でも平等で、家老の嫡男であろうが、十石二人扶持の次三男であっても権利は同じだった。門閥の子供はここで仲間の大事さに目覚め、門閥以外の子供は無批判で上士に盲従する卑屈な根性を改めることができた。  
「ならぬことはならぬ」という短い言葉は、身分や上下関係を超えた深い意味が存在した。  
会津藩の子供たちは、こうして秩序を学び、服従、制裁など武士道の習練を積んでいった。教育がいかに大事かがよくわかる。それをいかに手間隙かけて、大人たちが行なっていたかである。家庭教育と学校、そして地域社会が一体となって教育に当たった。  
なぜこれほどまでに、きめ細かに教育したのか。その理由は幼児教育の重要性だった。当時は士農工商の階級社会である。武士は農工商の模範でなければならなかった。武士はそれだけではない。一朝、事あるときは、君主のために命を投げ出さなければならないのだ。その覚悟が求められた。もっとも恥ずべきことは弁解や責任逃れのいい訳だった。 
凛々しい母親  
幼児教育は母親が受け持った。どこの母親も子供を厳しく育てた。  
母親たちは素読の稽古から帰ると、子供を先祖を祭る神前か仏壇の前に座らせ、「武士の子は死を恐れてはなりませぬ」と切腹の稽古をさせた。武士はいつでも主君のために命を捨てる覚悟が必要だった。会津人の芯の強さ、頑なさは、こうした武士道教育にあった。  
「婦人と言葉を交わしてはなりませぬ」という一節は、昨今の女性からは「封建的」とすこぶる評判が悪いが、これもこの時代では当たり前の社会風潮だった。  
男女の規範は薩摩も長州も同じである。男子は塾や学校があったが、婦女子は家庭で教育を受けた。親は娘に「凛々しくあれ」と説いた。子供たちは、そのような母親から教育を受けた。  
そして娘が嫁ぐとき、父親は娘に懐剣を渡した。一つは身を守るためだが、もう一つは、何事かあれば、家名を汚すことなく、命を絶てという意味だった。  
主君松平容保が京都守護職に就任した文久2年(1862)以降、母親の力はさらに強くなった。男たちが京都に出かけ、母子家庭になったためである。  
当初は1年交替だったが、薩摩や長州との抗争が激化するとともに、1年が2年になり2年が3年になり、父親の長期不在の家庭が増えた。必然的にこれらの少年の監督は、母親が受け持った。  
実はここが重要なところだった。母親や祖父、祖母が教師がわりだったので、頑固さの中にも優しさがあった。  
会津藩の格言の多くは、どれも現代に通じるものばかりだった。  
煙草のポイ捨て、ゴミの投棄、犯罪の多発、こういうことの戒めを盛り込んだ新「ならぬことはならぬ」を幼児教育に取り入れれば、日本の混乱を救うことができるのではなかろうか。そう思わざるを得ないのである。 
柴司の切腹  
切腹は武士道精神の華といわれた。  
「武士道というは、死ぬことと見つけたり」と『葉隠』にあるように、切腹と武士道は密接不可分の関係になった。  
京都で会津藩士柴司が切腹していた。まだ20歳の青年だった。  
新撰組が池田屋を急襲し、薩長土佐などの浪士を斬った。元治元年(1864)六月五日のことである。風の強い日に京都の町に火を放ち、その混乱に乗じて会津藩の本陣や新選組の屯所を襲い、御所に乱入して孝明天皇を拉致し、革命政権を起こさんとする陰謀を画策していた。これを未然に防ぎ、会津藩と新選組の名前は一気に高まった。  
その5日後の6月10日、祇園に近い茶屋明保野亭に長州勢が集まり密議をこらしていると急報があった。会津藩から柴司ら五人、新選組から15人ほどが茶屋に向かった。  
司は柴五郎の家の分家筋の家柄で、兄弟3人で京都に来ていた。  
明保野亭を取り囲むと、突然、2階から一人の男が刀をふりかざしてかけ降りて来た。男は垣根を飛び越えて逃げようとした。司がその男を追い詰めた。男が抜刀し、今にも切りかからん勢いである。司は槍の名手だった。司は咄嗟に男の胸を突いた。鈍い音がして男は倒れた。  
「拙者は土佐藩の麻田時太郎である。なにゆえの狼藉か」  
男が土佐藩と名乗ったことで、司は愕然とした。長州ではなかったのだ。  
「なぜ逃げられたのか」  
司の問いに麻田は黙ったままだった。  
麻田の懐中に鏡があり、司の槍はそれをかすめて脇腹を刺したので、決して重傷ではなかったが、即刻、土佐藩に知らせなければならない。  
会津藩から土佐藩邸に使者が飛び、状況を説明した。土佐藩は意図的に刺されたとして会津藩に厳重な抗議が申し込まれた。  
土佐藩の兵士のなかには会津藩本陣に攻め込め、と叫ぶものもいる、という。  
会津藩は再三、公用人を土佐藩邸に送り、偶発的な事件であり、土佐藩に対する悪意はまったくないと弁明し、麻田を見舞った。  
ところが土佐藩には戦いで手傷を負わされた者は、自ら切腹する習慣があった。武士にはいずこにも厳しい掟があったのである。  
このことが会津藩に伝えられ、事態は深刻になった。麻田が自刃すれば、司もこのままではすまない。事態を沈静化させるためには、司も自刃せざるを得ないことになる。  
司には何ら問題はなかった。  
しかし土佐藩の事情によって事態は意外な方向に発展し、結局、司も自刃に追い込まれた。武士とはそのようなものであった。兄たちは号泣した。  
藩当局はそのかわり次兄外三郎に10石3人扶持を与え、司に代わりて新規召し出しとした。  
長兄幾馬が母に宛てた次の手紙が残されている。  
母上さま、皆様にはいかばかりか、お嘆き遊ばされたと存ずるが、切腹の儀も残すところなく立派に終わることができました。君のために身命を投げ捨てたことが、諸家にも追々伝わり、皆、感嘆いたしております。このように天下へ英名を顕し、かつ外三郎が召し出しに成り、一家を起こすことができたのは異例のことです。これもひとえに司が士道に生きたために、かような御賞誉に預かったのです。誠に身の余りありがたき次第です。かようなことなので、司のことはあきらめてくださるよう願い奉ります。  
現代語に訳すと、このような手紙だった。母は耐えなければならなかった。このことも、あっという間に城下に伝わった。武士の妻にとって、切腹は他人事ではなかった。いつ自分の子供にふりかかるかわからない身近な問題だった。会津藩では妻たちも覚悟が必要だった。 
安川財閥  
健次郎は生粋の教育者だった。  
人を育てることが、好きだった。現場で生徒や学生と触れ合うことに、喜びを感じた。  
明治39年(1906)9月のことである。  
東京の健次郎の自宅に財界の大物が来ていた。  
北九州の大実業家安川敬一郎である。  
安川は旧福岡藩士の家に生まれ、後、安川家の養子になり、福沢諭吉の慶応義塾に学び、石炭の採掘、販売で成功し、日支鉱業を起こし、日清戦争前後から海外に雄飛した。  
この日の用件は九州に、新しい実業専門学校をつくることだった。健次郎に総長就任を要請するため安川が上京したのである。  
安川がなぜ専門学校設立を考えたのか。  
1つは安川の知性である。安川は藩命によって京都、静岡に留学し、勝海舟に洋書の手ほどきを受け、福沢諭吉に学んだ経歴は、当時の社会では、希有のものだった。  
目にとまった森鴎外の論文にも啓発された。  
明治33年頃、鴎外は第12師団の軍医部長として九州小倉に来ていた。  
鴎外は福岡日々新聞に、「吾れもし九州の富人たらしめば」と題し、国の発展によってもたらされた財は、ため込んだり、無駄使いしたりするのではなく、国益のために使うべきだと訴えた。  
鴎外は日清、日露戦争の特需で利潤をあげた貝島、麻生、安川の「筑豊御三家」と呼ばれる炭田王に世の中のために金を使えと注文をつけた。  
安川はこの記事にも刺激を受けた。  
「これからの日本にとって、大事なことは人材の育成です」  
安川はおのれの信念を述べ、「その学校の総裁になっていただきたい」と単刀直入に、健次郎に協力を求めた。  
子孫のために美田を残すのではなく、国家のために貢献したいという安川の考えに健次郎は共感した。  
かねて私学の振興を考えていた健次郎は、全面的に協力すると安川に約束した。  
アメリカの財界人は教育に利益を還元するが、日本にはそういう気風がない。 
明治専門学校開設  
健次郎は東京帝大の全面的な支援のもとに、総裁として学校の建設に着手、明治42年(1909)、明治専門学校(現在の九州工業大学)を開校させる。  
財界人としての安川と、教育者の健次郎が見事に合体した専門学校だった。  
旧制中学校の卒業生、2百人が受験した。英語の試験は健次郎が自ら担当した。  
英語読解の試験に突然、やせ型の老人が現れたと思うと、流暢な英語で、飛行機が飛んだという新聞記事を読みあげた。それが健次郎だった。はじめて聞く本物の英語に受験生はただポカンと口を開けて老人を見つめるだけだった。  
第1回の人学生は採鉱科20人、冶金科15人、機械科20人の55人だった。  
競争率は4倍、優秀な学生を確保することができた。  
官立の高等工業学校は3年制だが、ここは4年制である。1年多くしたのも高度な技術者を養成するためだった。しかも、ここは全寮制だった。  
4年間、全校生徒が日夜をともにして、人間性豊かな技術者を養成せんと、健次郎が決めたのである。学生は毎朝5時にラッパの音で起床、全員で浴槽に飛び込んで冷水摩擦を行ない、それから朝食、授業開始という規律ある日々だった。  
東京帝大総長を務めた教育界の大御所が、朝から寮につめて生徒の育成指導に当たるのだ。  
周囲の人々は、その熱意に打たれた。  
健次郎でなければ、とてもできないことだった。  
会津藩の出身者のなかで、自分は恵まれた立場にある。  
その恩を社会に還元しなければならない。その思いが、健次郎の情熱をかきたてた。  
日本の近代化は、薩長だけでなしえたものではない。  
会津も頑張っていることを、世に示したかった。  
健次郎は教育方針として、徳目8カ条を定めた。それは会津藩校日新館の教えがベースになっていた。  
一、忠孝を励むべし。  
一、言責を重んずべし。  
一、廉恥を修むべし。  
一、勇気を練るべし。  
一、礼儀を濫るべからず。  
一、服従を忘るべからず。  
一、節約を励むべし。  
一、摂生を怠るべからず。  
列強に伍して世界に飛躍するために、必要なことばかりだった。明治専門学校の仮開校式で健次郎は、生徒と父兄に徳目8カ条を詳しく説いた。 
智育と徳育  
生徒諸君、入学おめでとう。  
本校は官立の高等工業学校に、決してひけはとらない学校である。  
諸君は設立者の安川氏の恩を決して忘れてはならない。  
わが校の方針は智育と徳育である。  
従来、学校は橋をかける人、鉄道を敷設する人、船に乗る人、法律に明るい人、鉱山を開く人など仕事のできる人の養成に当たってきた。しかし智育に重きを置き過ぎた結果、道義心がひどく悪くなった。そこで、わが明治専門学校は技術に通じたジェントルマンを養成することになった。諸君はこのことを、くれぐれも忘れないでもらいたい。  
本校の重点事項は、次の通りである。  
一、忠孝を励むべし。  
忠君と孝行は人間、片時も忘れてはならない。今日の若者は孝行を間違えている。父母に対して愛と敬をもたなければならない。世界の強国はイギリス、ロシア、イタリア、オーストリア、ドイツ、フランス、アメリカ、日本である。このなかで国力は日本が一番下である。しかし愛国心は一番である。愛国心を失ったとき、日本民族は滅亡する。  
一、言責を重んずべし。  
いったん口に出したことは、必ず実行することである。日本国民は士族平民の区別なく、国防の任に当たっているから皆、武士である。武士に二言はない。これを忘れてはならない。外国から日本人は当てにならないといわれてはならない。  
一、廉恥を修むべし。  
卑怯なことをしてはならない。おのれの利益のために、他人の利益を顧みず、不正なことをしてはならない。何事も、自分の良心に従って行動することである。  
一、勇気を練るべし。  
勇気は決して粗暴の振る舞いではない。国家のために一命をなげうつ勇気である。勇気を練るには、狼狽しないこと、我慢すること、おのれに克つこと、考えることである。  
一、礼儀を濫(みだ)るべからず。  
礼儀を軽く見てはならない。江戸時代、礼儀は大変重いものだった。ところが明治維新の戦乱で、社会の秩序がくずれ、礼儀を重んずることが薄れた。  
一、服従を忘れるべからず。  
学校では師を敬わなければならない。わが明治専門学校の生徒は、先生に絶対服従である。それを忘れたときは、相当の処分を課す。  
一、節約を励むべし。  
奢侈は亡国のもとである。ローマは大昔、盛んであったが、人民が奢侈に流れたため、滅びた。日本は貧乏国で20幾億という借金がある。同胞の数が5千万とすると、ひとり40円の借金である。もし明治37年に20幾億の借金があったなら、ロシアに対して、どうすることもできなかったであろう。ロシアは日本に対して復讐を考えており、わが国は節約し、いざという場合の国難に備えなければならない。  
一、摂生を怠るべからず。  
第一に飲食に注意する。第二に清潔にする。第三に運動をする。これが大事である。追々、剣術、柔術、弓道場、テニスコート、水泳プールを整備する。  
一、兵式体操  
諸君はいったん緩急あれば、国防に従事しなければならない。兵式体操はもっとも大事な教科である。  
一、英語  
官立高等工業学校の英語は、申し訳程度のものである。わが校は英語を重視している。それは外国語を知らずして、新しい知識を得ることはできないからである。諸君は中学校で英語を学んでいるのだから、英語、フランス語などを自由に使えるようにしなければならない。諸君の入学試験の英語の答案はわが輩が調べたが、英語の力が弱かった。学校としては、1クラスの生徒数を30人から25人に減らし、英語の勉強に力を入れるので、生徒は十分に勉強してもらいたい。  
これらの方針に不同意の者は、入学を取り消してもらいたい。健次郎の訓示は、厳しいものだった。新入生は緊張して健次郎に見いった。学校の方針に従わない者は退学させる、と健次郎は厳しくいった。父兄も度肝を抜かれた訓示だった。こうして明治専門学校は開校した。寮生活を通じて先輩、後輩の結び付きも強く、この学校は独特の校風を形成していった。  
 
俳句・川柳

 

「俳句」と「川柳」、いずれも今日愛好されている和歌であり、これらを知らない人はいないであろうし、俳句と聞いて芭蕉の句の一つくらいは頭に浮かぶのではないだろうか。本項に入る前に、背景として「連歌・連句」、更には「短歌」などを参照していただけると古く風俗歌謡など和歌からの流れが分かるので、本項では俳句と川柳の名が史実上も使われる時代、主に江戸時代以降から入り、現代までの流れを追ってみることにする。  
俳句が成立するための源流は「連歌(れんが)」にあるのだが、連歌は複数の連歌師の共同作業により長大な詩歌が制作されるものなので、17音(5・7・5)の俳句とは形式的に程遠いものである。しかし伝統的で格調の高い連歌から卑俗・滑稽味の強い「俳諧(はいかい)」が生まれ、俳諧の練習又は初級形態として2句間のみの付合(つけあい)である「前句付(まえくづけ)」から派生した懸賞文芸が「雑俳(ざっぱい)」であり、その1つが「川柳(せんりゅう)」であり、連歌・俳諧の第1句である「発句(ほっく)」が独立して「俳句」が誕生した。分かりづらいので図式化すると、  
短歌→連歌→俳諧→発句→俳句  
短歌→連歌→→→発句→俳句  
短歌→連歌→俳諧→雑俳→川柳  
となる。連歌と俳諧は形式的には非常によく似ているのだが(というよりほぼ同じ)、味わってみると2つの違いが素人でもはっきり解かるほど明確である。簡単に述べるなら、主に文語を使用し季語・切れ字等の連歌の式目を踏襲し、自然を取材することの多いのが俳諧であり、口語を使用するので俳言(漢語・俗語)も使用でき、題材や表現が人間そのものに向けられたものが川柳、と言えるかもしれない。これは俳句が連歌の中でも滑稽味をもつ俳諧の連歌の中の「発句」の部分が独立したため滑稽味を含み、かつ場の挨拶という性格を持つため季語が入り、後に続く平句のために余韻を残す。一方、同じ形式でも川柳に季語や余韻が不要なのは、同じ連歌でも平句(4句目以降)の部分が独立したことによる。  
芸能の世界では、その芸を表すために用いる動詞が各々決まっているものが多い。例えば、落語は「噺す」、浪曲は「唸る」、講談は「語る」となり、本項の俳句は「詠む」、川柳は「吐く」「ものす」などと表現されるという。和歌は総じて「詠む」と表されるため、俳句は和歌に近いもの、川柳は定型詩の形で心情・本音を吐き出すもの、と捉えることができそうである。以上、2つの文芸の派生と違いを基礎知識として踏まえ、各々の歩んできた歴史に入ろうと思う。 
俳句(はいく)  
現在、江戸時代に生きた芭蕉が俳人として最も有名であるが、芭蕉の時代は俳句という用語はなく、「俳諧の連歌」もしくは「連歌」の第一句である「発句(ほっく)」を独立させて鑑賞するという試みから5・7・5の17音が長大な連歌から単独のものとなった。要するに芭蕉は「発句」を詠んでいたのであり、厳密に言えば俳諧師・連歌師であり、俳諧の「貞門派」に属していたことから言えば俳諧師である。それまでの俳諧・連歌双方にとって飛躍的に大きな変革をもたらし、「蕉風」と呼ばれる独自の作風を提示したことで知られる。芭蕉は後に再度触れることにして「俳句」という名称の成立から入る。  
江戸時代を通じて俳諧は連歌形式が主流であり、発句のみを抽出して鑑賞することはあっても不動の地位にあったが、明治時代に入ると、正岡子規により従来の座の文芸である俳諧連歌から発句を独立させた個人の文芸として、近代の「俳句」が確立された。この俳句成立より後は、伝統的な座の文芸たる連歌の俳諧を近代文芸として行う場合、俳句と区別して「連句」と呼ぶようになったという。子規により提唱された「俳句革新」の動きは、それまでの連歌・俳諧に大きな転機をもたらすことになる。  
国を挙げて近代化に向かっていた明治維新後の新風と混乱の中、連歌形式の文学(連歌・俳諧)を西洋近代文学の視点から「文学に非ず」と否定した正岡子規(まさおかしき)の「連俳非文学論」に端を発する。時流に乗り、俳句が近代国民文学として興隆し、700年余りも広く国民各層に親しまれ続けた連歌・俳諧は日陰に追いやられた古い文学として軽視されるようになった。連歌形式は座の文芸であるが故に感興に重点が置かれ、単なる個性の表現になり得ない社交的遊戯とも見られたためである。子規の俳句の弟子でもあった高浜虚子(たかはまきょし)は、師に反して俳諧を擁護することもできず、俳諧を「聯句(れんく)」と言い替え、子規の没後には「聯句」を「連句」にすり替えて「連句擁護論」を展開、提唱した。それより俳人が「連句」と称するようになって定着し、追随して文学者らも俳諧を「連句」と呼ぶようになったという。俳句が興隆して1ジャンルを確立し、「俳諧」が俳句や連句を含めた総称的な用語になったため、連句として独立させようとの意図があったためで、現在「俳諧」と言えば発句(後の俳句)と連句(連歌)形式の双方が含まれる。江戸時代以前は「俳諧」と言えば連句(連歌)形式のみを指す言葉であったし、芭蕉は「俳句」の祖であると一般に言われるが、連歌形式の文学の完成者もしくは大成者という表現もできるだろう。  
俳句の成立について触れてみることにする。  
江戸時代、「俳諧(の連歌)」が貞門派、談林派を経て松尾芭蕉により磨かれ、「蕉風」と呼ばれるような詠風を確立し、ほぼ頂点を究めた頃、俳句は世の中に流行するようになり、俳諧師数人が集まり、各々が持ち寄った句を匿名で回し読みし、自分の作品以外で良いと感じたものに投票し、得点が高い順に賞品が与えられるといった遊戯的な「点取俳諧」が始まった。こうした催しを集団で行ったことから俳句が始まったため、俳句は連歌と同様に「座の文芸」であるとされていた。しかし芭蕉が発句を芸術の域にまで高めたことにより、座の文芸から個の文学として見直され、芭蕉以降の単独で詠まれた「発句」を、後世になり俳句の範疇に含めることになった。後世、というのは明治時代初期の、正岡子規の「俳句革新」のことである。  
次に俳句という後の成立に触れてみよう。  
明治期に入り、正岡子規が「俳句分類」の偉業を行うのであるが、芭蕉の芸術性に注目したことで「俳諧から俳句へ」の革新が起こる。この辺りは「連歌・連句」の項でも触れているのだが、子規により提唱された「俳句革新」の動きは、それまでの連歌・俳諧に大きな転機をもたらすことになる。子規の提唱する俳句革新のうねりは、活版印刷による新聞が普及し始めた時期と重なって世に広まっていった。  
国を挙げて近代化に向かっていた明治維新後の新風と混乱の中、連歌形式の文学(連歌・俳諧)を西洋近代文学の視点から「文学に非ず」と否定した正岡子規(まさおかしき)の「連俳非文学論」に端を発する。時流に乗り、俳句が近代国民文学として興隆し、700年余りも広く国民各層に親しまれ続けた連歌・俳諧は日陰に追いやられた古い文学として軽視されるようになった。連歌形式は座の文芸であるが故に感興に重点が置かれ、単なる個性の表現になり得ない社交的遊戯とも見られたためである。子規の俳句の弟子でもあった高浜虚子(たかはまきょし)は、師に反して俳諧を擁護することもできず、俳諧を「聯句(れんく)」と言い替え、子規の没後には「聯句」を「連句」にすり替えて「連句擁護論」を展開、提唱した。芭蕉は「俳句」の祖であると一般に言われるが、連歌形式の文学の完成者もしくは大成者という表現もできるだろう。  
俳句界において芭蕉と子規の登場は、極めて重要であったといえる。この二人について少し掘り下げてみよう。  
「松尾芭蕉(まつおばしょう)」は江戸時代を代表する俳諧師・俳人であり、「俳聖」とも称される。本名は宗房(むねふさ)、当初の号は本名を、のちに別号で桃青(とうせい)と称し、芭蕉は「はせを」と本人は称していたようだ。1644年に伊賀(三重県)上野に生まれ、30才の時に江戸へ出て定住、1680年深川に草庵を結んで活動し、1694年に大坂にて没した。当時流行していた語呂合わせや冗談を多用した作品を初期に書いていたが、貞門俳諧・談林俳諧から漢詩文調「虚栗(みなしぐり)調」の作風を経て、思想性を重視した「蕉風」と呼ばれる独自の作風を確立した。芭蕉は荘子の思想の影響を強く受けたと言われ、諧謔・憂鬱・恍惚・混迷などの人間の所為を誇張して作品の中で表現することで自然(造化)の力の偉大さを浮き彫りにするのだそうだ。筆者は俳句に造詣がない為、これ以上俳風については語ることができないのだが、一般的に蕉風は「匂い付け」と呼ばれる付け合いで知られ、座にいる人が共に感じ取れるような余情・風韻を重視して付け方に生かしたという。生前に「七部集」と呼ばれる選集を後見した以外、「野ざらし紀行」「鹿島紀行」「笈の小文」「更科紀行」「奥の細道」などの俳諧紀行を含め、句集は全て死後に刊行されている。  
「蕉門」と呼ばれている門下から「蕉門十哲」を初めとする多数の優秀な俳人が出ているので、その一部を紹介しておく。  
宝井其角(たからいきかく)第一の弟子である其角は奇抜な作風で知られているが、彼は「江戸座」と呼ばれる一門を開き、江戸俳諧で一番の勢力となった。  
服部嵐雪(はっとりらんせつ)芭蕉の評価・信頼も高く、蕉門の最古参の一人で蕉門にあって其角と並び双璧をなした。雪門の祖となり、江戸俳壇を其角と2分した。  
森川許六(もりかわきょりく)画に通じ、絵画に関しては芭蕉も許六を師と仰いだという。許六の名は芭蕉が与え、槍術・剣術・馬術・書道・絵画・俳諧の6芸に通じていたことから、六の字を付けたとも言われる。  
向井去来(むかいきょらい)芭蕉から最も信頼され、非常なる人格者であったという去来は、俳人としての力量も高く、蕉風の真髄を体得し高雅清寂の作風で知られている。俳論「去来抄」が特に有名で、芭蕉研究の最高の書とも言われる。  
この他、蕉門十哲に入ったり入らなかったりするのだが、各務支考(かがみしこう)は美濃国(岐阜)を中心に活躍したので、一派は「美濃派」と呼ばれた。岩田涼菟(いわたりょうと)、中川乙由(なかがわおつゆう)らは伊勢国(三重)を中心に活躍し、その軽妙な俳風は「伊勢派」と呼ばれ、各務支考の美濃派とともに「支麦調」とも称された。河合曾良(かわいそら)も蕉門十哲に入ったり入らなかったりするが、地誌に詳しい教養人であり、芭蕉の「奥の細道」の旅に同行したことで有名であるが、徳川幕府との関連があったりで身辺がすっきり分からない人物のようだ。  
一方の「正岡子規(まさおかしき)」だが、短命でありつつも生涯を「俳句」に捧げた人物であるように思う。俳句革新運動については先に述べたので、子規の生涯と俳風について探ってみた。伊予松山藩(愛媛)に1867年に生まれ、時の自由民権運動の影響を受け政治家を志し、好奇心・探究心共に旺盛であったため松山を飛び出し、中学中退で江戸に上京する。東京大学予備門に合格したが、喀血をして以来療養もあって落第を繰り返した結果退学し、「子規」(ホトトギスの漢名)と号し、俳句の道に転じて「俳句革新」を志した。日本新聞社に入社し、「日本」紙上を中心に俳句、短歌の革新運動を進めるべく文学活動を行い、日清戦争に従軍記者として参加して大量喀血して以来、病床生活となった。病床でも後進を育てつつ文学活動を続け、形式的で平凡な句を「月並俳諧」と批判し、また古今集を否定して万葉集を高く評価するなど、写実・写生文を提唱して歌壇に新たな流れを作った。子規は歌人・俳人としてのみならず文学者として多岐にわたる活動を行い、中でも特に文学界を覆すほどの俳句・短歌評論を世に広めた功績で有名である。  
さて、俳句と言う用語を用いたのは明治初期の正岡子規で、季語・季題という言葉も明治以降の用語で、芭蕉は「季」と呼んでいる。季語という語を初めに用いたのは水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)、季題と呼び始めたのは高浜虚子のホトトギス派であったことからも、子規から続くホトトギス派が明治期以降の俳句の流れの中心にあったと言えるだろう。正岡子規が俳句の大綱をまとめ、その弟子・高濱虚子が俳誌「ホトトギス」を通じて「花鳥諷詠」を主張し、大きく発展させた後、河東碧梧桐や水原秋桜子らの分派が出来上がったとされ、現代でもホトトギスは最大の俳句結社として多くの門人を抱えているという。  
その後2度目の俳句革新のうねりが1931年、水原秋桜子がホトトギスを脱退し「馬酔木」を独立させたことから生じることになる。秋桜子の脱退は当時大きな衝撃をもたらし、若い俳人達は「新興俳句」と呼ばれたことにより過激な俳句革新運動を起こし、伝統的季語制度を拒否し、西洋文学を模範にして俳句の近代化を模索した。「新興俳句運動」では社会主義・ダダイスムなどに共感する者もあったが、全体として日本の因習的な文化・伝統的な社会構造に反発し、自由な価値観・西洋の個人主義に感化された若者が中心であった。新興俳句の俳句形式は「有季定型」「無季定型」「無季自由律」が鼎立することになったが、これが後に第二次世界大戦における反軍・反戦へと進み、戦況が深刻化する中、特別高等警察、いわゆる「特高」による言論弾圧の対象になった。新興俳句系俳人の自由主義的傾向が軍国政策に反する、として治安維持法を濫用して集団検挙し、投獄した事件として「京大俳句」事件は有名である。  
戦後、特に伝統的な俳句の方法論を重視する作家らは、新興俳句の価値を否定し、永田耕衣や平畑静塔らによって新興俳句に対する「根源俳句」の運動を開始したが、現在まで俳句界は無目的・無主義というような状況が続いているのは、国際化・情報化が急速に進行し、日本人の価値観が一定しないためではないかとも言われている。急速な文明発展により文化の多様化が広がり続ける昨今では、日本人同士であっても価値観・世界観の共有が困難になってきているのだという。世界最短の詩である「俳句」を詠み、味わうために必要とされる共通の世界観―季題や季語も含まれるが、古来より詠まれてきた句や歌の中に現される感覚―を現代人である我々が詠み手と同レベルに感受できるものだろうか。語に対するイメージも人により世代により違うものだろうが、ある方向に導く模範的・教科書的なものとして時代とともに蓄積された歌や句があったからこそ、17字での表現が可能であったのではないだろうか。 
川柳(せんりゅう)  
「川柳」という名が定着するのは明治後半以降であり、柳風狂句・川柳狂句、季なし俳句などと呼ばれていたというが、そもそも「川柳」は柄井川柳(からいせんりゅう)という江戸時代中期に実在した人名に由来する。川柳が誕生する頃の江戸中期から始まった「雑俳」と呼ばれる庶民文芸がある。雑俳は雑多な俳諧の意味の名であり、「前句付」「洒落附」「物者附」「冠沓附」「笠附」「地口」「三段謎」「語呂合せ」「折句」など多様な短詩・語句遊びがあり、機知を楽しむ点が共通している。中でも「前句付」という興行は、出題の前句が77なら575、575なら77の付け句を複数人が解答として出し、良いものに賞品を出すという遊戯的競技であり、川柳はその点者(句の優劣を決める宗匠)であった。点者は大勢いたが、解答数を多く集めるような番付率の高い点者が人気を博しており、柄井川柳は3と5の付く日に興行を行い、「万句合」も興行するなど約30年間、人気の頂点にあったようだ。前句付興行の流行を決定的なものにしたのが、「お題無・575形式の面白くて穿った短詩の募集」を彼が始めたことによるようだ。これが「川柳」と呼ばれ、選んだ作品は「俳風柳多留(はいふうやなぎだる)」という著書になって出版され、当時江戸のベストセラーとなったという。柄井川柳は72歳で没したが、彼が評した句は300万句にも及び、現在も親しまれる多数の名句を世に残した。彼が点者であった約30年間の選句を「古川柳」と呼び、この初期の川柳は「機知」の文芸とも言われ「うがち・おかしみ・かるみ」の三要素が特徴とされる。すなわち、句の軽さに加えて句の内容が穿っている(人情の機微などへの着眼の良さ)ことから生じる可笑しみのことであり、秀句・名句が多いのも、柄井川柳が点者として非常に優れていたことの証明でもあろう。  
柄井川柳没後、彼ほどの優れた選者が出なかったこと、言論・出版への厳しい縛りなどの諸事情もあって川柳の文学性が低下し、江戸・文化年間以降の、句会作品として主に発表されたものは「狂句(きょうく)」と呼ばれている。江戸期の作品は「江戸川柳」とも呼ばれるが、古川柳の機知に対して「形式機知」の文芸であると評されている。天保年間(1830〜1843年)に行われた天保の改革以後、風俗匡正により5世・川柳が「柳風式法」を定めて表現上の事項を制限し、形式の枠を設けたことなどにより内容的に堕落して形骸化し、言葉の「掛け合わせ」を中心とする表面的面白さを競う娯楽になってしまった。無論、古川柳時代以降の歳月のうちに題材・方法的にマンネリズムが浸食し、観念的な作品が横行するなどの背景もあるが、川柳派は衰亡の危機に直面し、川柳の暗黒時代とも呼ばれている。一人の点者と全部が作者という万句合の形態が、次第に複数選者による地域別の月次句会に変容してゆき、絶大な人気を誇った「柳多留」も句会報と成り下がった。  
その後、明治35年以降の文芸復興の波に乗り阪井久良伎(さかいくらき)が現れて子規の短歌、俳句改革の影響を受けて「新川柳運動」を起こし、古川柳の文芸価値を高く評価しつつ、続く狂句の無趣味・低俗を論難する気運が高まった。同時期に井上剣花坊(いのうえけんかぼう)が新聞「日本」に川柳選者として枠を与えられて大ヒットを呼び、柳樽寺派の先達としても活躍を始めたことで、新川柳(現在の川柳)として再興を始めた。久良伎との剣花坊の2人は「川柳中興の祖」と称され、中心となって狂句の「語戯」から新川柳の「文芸」へと生まれ変わらせた。更に戦中・戦後にかけて「六大家」と呼ばれる次世代が登場し、また敗戦によって思想・言論への弾圧が無くなったこともあり、川柳の題材の制約は無くなり、人事・世帯・人情までも扱うという幅広いものになった。  
今日、老人の娯楽的世界としてマンネリ化していた川柳も、1987年の第一生命の企画コンクールとして始まった「サラリーマン川柳」以降、公募川柳が興隆し、一般庶民でも気楽に作品を作ることができる時代になった。流行や世相を巧みに反映させた川柳が数多く集まり優秀作品が選考されるという、初代川柳時代に似た形式が再来したのである。 
まとめ  
文学・文芸論の流れや世情に翻弄され、形式は変わらずとも評価する目が常に遷り変わりつつ現在に至った俳句と川柳であるが、現代という時代背景の下、より近いものになってきた感がある。もちろん冒頭で述べたように味わいは本来的に異質であり、現在もその流れを負っているのだけれども、いずれも無風状態にあり、個々の自由が作風に生かされ、評価もまた同様であるように思われる。しかし川柳はその歴史からもより庶民に近くて誰でも参加できるような敷居が低いイメージを有し、俳句は専業者に俳人と名が付くように文学的イメージが濃い。俳句の文末に述べたように「共通の世界観」がこの2つの文芸の壁のようにも思われ、それこそがこの2つには必要不可欠の条件であり、また今後の課題であるように思う。一世紀あまり先の俳句・川柳がどのような形態になり、どんな作品が「顔」となっているか、生きていれば覗いてみたい気がする。  
 
貝原益軒・養生訓

 

益軒は寛永7年(1630)年、福岡城内に生まれた。江戸時代、三代将軍徳川家光のころである。名は篤信、若いころは医師として剃髪して柔斎、後に蓄髪し損軒と号した。益軒と号するようになったのは晩年のことである。19才のときに黒田藩に仕えたが、22才のときに藩主の怒りにふれて7年のあいだ浪人生活を送っている。この間、江戸、京、大阪、長崎に学び、浪人生活は「民生日用の学」を志させることになった。出仕できるようになってからも、藩費によって京都に留学して朱子学および本草学を学んでいる。帰藩後は朱子学派の儒者として藩主や藩士に儒書を講義するとともに、「黒田家譜」や「筑前国続風土記」を編纂し、朝鮮通信使の応対なども行っている。自然科学については「大和本草」を刊行している。自宅に花や野菜を栽培してその経験に基づいて「花譜、菜譜」を刊行したほか、近隣にすむ農学者宮崎安貞に中国の農書を講義した。益軒は自らの学問を「民生日用の学」と強調、晩年には教訓書「養生訓」「和俗童子訓」をあらわして独特の精神修養法を提示した。儒書としては「大疑録」が重要である。これらの大部分は黒田藩を辞した後、70歳以降に出版されたものである。彼の著作は全部で六十部二百七十余巻に及ぶ膨大なものである。 
巻第一 / 総論上 

 

(101)人の身は父母を本とし天地を初とす。天地父母のめぐみをうけて生まれ、又養はれたるわが身なれば、わが私の物にあらず。天地のみたまもの(御賜物)、父母の残せる身なれば、つつしんでよく養ひて、そこなひやぶらず、天年を長くたもつべし。是天地父母につかへ奉る孝の本也。身を失ひては、仕ふべきやうなし。わが身の内、少なる皮はだへ(皮膚)、髪の毛だにも、父母にうけたれば、みだりにそこなひやぶるは不孝なり。況(いわんや)大なる身命を、わが私の物として慎まず、飲食・色慾を恣(ほしいまま)にし、元気をそこなひ病を求め、生付たる天年を短くして、早く身命を失ふ事、天地父母へ不孝のいたり、愚なる哉。人となりて此世に生きては、ひとへに父母天地に孝をつくし、人倫の道を行なひ、義理にしたがひて、なるべき程は寿福をうけ、久しく世にながらへて、喜び楽みをなさん事、誠に人の各願ふ処ならずや。此如くならむ事をねがはば、先(まず)、古の道をかうが(考)へ、養生の術をまなんで、よくわが身をたもつべし。是人生第一の大事なり。人身は至りて貴とくおもくして、天下四海にもかへがたき物にあらずや。然るにこれを養なふ術をしらず、慾を恣にして、身を亡ぼし命をうしなふ事、愚なる至り也。身命と私慾との軽重をよくおもんぱかりて、日々に一日を慎しみ、私慾の危をおそるる事、深き淵にのぞむが如く、薄き氷をふむが如くならば、命ながくして、ついに殃(わざわい)なかるべし。豈(あに)、楽まざるべけんや。命みじかければ、天下四海の富を得ても益なし。財の山を前につんでも用なし。然れば道にしたがひ身をたもちて、長命なるほど大なる福なし。故に寿(いのちなが)きは、尚書(=書経)に、五福の第一とす。是万福の根本なり。  
(102)万の事つとめてやまざれば、必(ず)しるし(験)あり。たとへば、春たねをまきて夏よく養へば、必(ず)秋ありて、なりはひ多きが如し。もし養生の術をつとめまなんで、久しく行はば、身つよく病なくして、天年をたもち、長生を得て、久しく楽まん事、必然のしるしあるべし。此理うたがふべからず。  
(103)園に草木をうへて愛する人は、朝夕心にかけて、水をそそぎ土をかひ、肥をし、虫を去て、よく養ひ、其さかえを悦び、衰へをうれふ。草木は至りて軽し。わが身は至りて重し。豈我身を愛する事草木にもしかざるべきや。思はざる事甚し。夫養生の術をしりて行なふ事、天地父母につかへて孝をなし、次にはわが身、長生安楽のためなれば、不急なるつとめは先さし置て、わかき時より、はやく此術をまなぶべし。身を慎み生を養ふは、是人間第一のおもくすべき事の至(り)也。  
(104)養生の術は、先(ず)わが身をそこなふ物を去べし。身をそこなふ物は、内慾と外邪となり。内慾とは飲食の慾、好色の慾、睡の慾、言語をほしゐままにするの慾と、喜・怒・憂・思・悲・恐・驚の七情の慾を云。外邪とは天の四気なり。風・寒・暑・湿を云。内慾をこらゑて、すくなくし、外邪をおそれてふせぐ、是を以(て)、元気をそこなはず、病なくして天年を永くたもつべし。  
(105)凡(およそ)養生の道は、内慾をこらゆるを以(て)本とす。本をつとむれば、元気つよくして、外邪をおかさず。内慾をつつしまずして、元気よはければ、外邪にやぶれやすくして、大病となり天命をたもたず。内慾をこらゆるに、其(の)大なる条目は、飲食をよき程にして過さず。脾胃をやぶり病を発する物をくらはず。色慾をつつしみて精気をおしみ、時ならずして臥さず。久しく睡る事をいましめ、久しく安坐せず、時々身をうごかして、気をめぐらすべし。ことに食後には、必数百歩、歩行すべし。もし久しく安坐し、又、食後に穏坐し、ひるいね、食気いまだ消化せざるに、早くふしねぶれば、滞りて病を生じ、久しきをつめば、元気発生せずして、よはくなる。常に元気をへらす事をおしみて、言語をすくなくし、七情をよきほどにし、七情の内にて取わき、いかり、かなしみ、うれひ思ひをすくなくすべし。慾をおさえ、心を平にし、気を和(やわらか)にしてあらくせず、しづかにしてさはがしからず、心はつねに和楽なるべし。憂ひ苦むべからず。是皆、内慾をこらえて元気を養ふ道也。又、風寒暑湿の外邪をふせぎてやぶられず。此内外の数(あまた)の慎は、養生の大なる条目なり。是をよく慎しみ守るべし。  
(106)凡(すべて)の人、生れ付たる天年はおほくは長し。天年をみじかく生れ付たる人はまれなり。生れ付て元気さかんにして、身つよき人も、養生の術をしらず、朝夕元気をそこなひ、日夜精力をへらせば、生れ付たる其年をたもたずして、早世する人、世に多し。又、天性は甚(はなはだ)虚弱にして多病なれど、多病なる故に、つつしみおそれて保養すれば、かへつて長生する人、是又、世にあり。此二つは、世間眼前に多く見る所なれば、うたがふべからず。慾を恣にして身をうしなふは、たとえば刀を以て自害するに同じ。早きとおそきとのかはりはあれど、身を害する事は同じ。  
(107)人の命は我にあり、天にあらずと老子いへり。人の命は、もとより天にうけて生れ付たれども、養生よくすれば長し。養生せざれば短かし。然れば長命ならんも、短命ならむも、我心のままなり。身つよく長命に生れ付たる人も、養生の術なければ早世す。虚弱にて短命なるべきと見ゆる人も、保養よくすれば命長し。是皆、人のしわざなれば、天にあらずといへり。もしすぐれて天年みじかく生れ付たる事、顔子などの如なる人にあらずむば、わが養のちからによりて、長生する理也。たとへば、火をうづみて炉中に養へば久しくきえず。風吹く所にあらはしおけば、たちまちきゆ。蜜橘をあらはにおけば、としの内をもたもたず、もしふかくかくし、よく養なへば、夏までもつがごとし。  
(108)人の元気は、もと是天地の万物を生ずる気なり。是人身の根本なり。人、此気にあらざれば生ぜず。生じて後は、飲食、衣服、居処の外物の助によりて、元気養はれて命をたもつ。飲食、衣服、居処の類も、亦、天地の生ずる所なり。生るるも養はるるも、皆天地父母の恩なり。外物を用て、元気の養とする所の飲食などを、かろく用ひて過さざれば、生付たる内の元気を養ひて、いのちながくして天年をたもつ。もし外物の養をおもくし過せば、内の元気、もし外の養にまけて病となる。病おもくして元気つくれば死す。たとへば草木に水と肥との養を過せば、かじけて枯るるがごとし。故に人ただ心の内の楽を求めて、飲食などの外の養をかろくすべし。外の養おもければ、内の元気損ず。  
(109)養生の術は先(ず)心気を養ふべし。心を和にし、気を平らかにし、いかりと慾とをおさへ、うれひ、思ひ、をすくなくし、心をくるしめず、気をそこなはず、是心気を養ふ要道なり。又、臥す事をこのむべからず。久しく睡り臥せば、気滞りてめぐらず。飲食いまだ消化せざるに、早く臥しねぶれば、食気ふさがりて甚(はなはだ)元気をそこなふ。いましむべし。酒は微酔にのみ、半酣をかぎりとすべし。食は半飽に食ひて、十分にみ(満)つべからず。酒食ともに限を定めて、節にこゆべからず。又、わかき時より色慾をつつしみ、精気を惜むべし。精気を多くつひやせば、下部の気よはくなり、元気の根本たへて必(ず)命短かし。もし飲食色慾の慎みなくば、日々補薬を服し、朝夕食補をなすとも、益なかるべし。又風・寒・暑・湿の外邪をおそれふせぎ、起居・動静を節にし、つつしみ、食後には歩行して身を動かし、時々導引して腰腹をなですり、手足をうごかし、労動して血気をめぐらし、飲食を消化せしむべし。一所に久しく安坐すべからず。是皆養生の要なり。養生の道は、病なき時つつしむにあり。病発(おこ)りて後、薬を用ひ、針灸を以(て)病をせむるは養生の末なり。本をつとむべし。  
(110)人の耳・目・口・体の見る事、きく事、飲食ふ事、好色をこのむ事、各其このめる慾あり。これを嗜慾と云。嗜慾とは、このめる慾なり。慾はむさぼる也。飲食色慾などをこらえずして、むさぼりてほしゐままにすれば、節に過て、身をそこなひ礼儀にそむく。万の悪は、皆慾を恣(ほしいまま)にするよりおこる。耳・目・口・体の慾を忍んでほしゐまゝにせざるは、慾にかつの道なり。もろもろの善は、皆、慾をこらえて、ほしゐまゝにせざるよりおこる。故に忍ぶと、恣にするとは、善と悪とのおこる本なり。養生の人は、ここにおゐて、専ら心を用ひて、恣なる事をおさえて慾をこらゆるを要とすべし。恣の一字をさりて、忍の一字を守るべし。 
(111)風・寒・暑・湿は外邪なり。是にあたりて病となり、死ぬるは天命也。聖賢といへど免れがたし。されども、内気実してよくつつしみ防がば、外邪のおかす事も亦まれなるべし。飲食色慾によりて病生ずるは、全くわが身より出る過也。是天命にあらず、わが身のとがなり。万の事、天より出るは、ちからに及ばず。わが身に出る事は、ちからを用てなしやすし。風・寒・暑・湿の外邪をふせがざるは怠なり。飲食好色の内慾を忍ばざるは過なり。怠と過とは、皆慎しまざるよりおこる。  
(112)身をたもち生を養ふに、一字の至れる要訣あり。是を行へば生命を長くたもちて病なし。おやに孝あり、君に忠あり、家をたもち、身をたもつ。行なふとしてよろしからざる事なし。其一字なんぞや。畏(おそるる)の字是なり。畏るるとは身を守る心法なり。事ごとに心を小にして気にまかせず、過なからん事を求め、つねに天道をおそれて、つつしみしたがひ、人慾を畏れてつつしみ忍ぶにあり。是畏るるは、慎しみにおもむく初なり。畏るれば、つつしみ生ず。畏れざれば、つつしみなし。故に朱子、晩年に敬の字をときて曰、敬は畏の字これに近し。  
(113)養生の害二あり。元気をへらす一なり。元気を滞(とどこお)らしむる二也。飲食・色慾・労動を過せば、元気やぶれてへる。飲食・安逸・睡眠を過せば、滞りてふさがる。耗(へる)と滞ると、皆元気をそこなふ。  
(114)心は身の主也。しづかにして安からしむべし。身は心のやつこ(奴)なり。うごかして労せしむべし。心やすくしづかなれば、天君ゆたかに、くるしみなくして楽しむ。身うごきて労すれば、飲食滞らず、血気めぐりて病なし。  
(115)凡(およそ)薬と鍼灸を用るは、やむ事を得ざる下策なり。飲食・色慾を慎しみ、起臥を時にして(:規則正しく)、養生をよくすれば病なし。腹中の痞満(ひまん:腹がつかえてはること)して食気つかゆる人も、朝夕歩行し身を労動して、久坐・久臥を禁ぜば、薬と針灸とを用ひずして、痞塞(ひさい:腹がつかえて通じがないこと)のうれひなかるべし。是上策とす。薬は皆気の偏なり。参ぎ(115)(じんぎ:薬用人参)・朮甘(じゅつかん)の上薬といへども、其病に応ぜざれば害あり。況(いわんや)中・下の薬は元気を損じ他病を生ず。鍼は瀉ありて補なし。病に応ぜざれば元気をへらす。灸もその病に応ぜざるに妄に灸すれば、元気をへらし気を上す。薬と針灸と、損益ある事かくのごとし。やむ事を得ざるに非ずんば、鍼・灸・薬を用ゆべからず。只、保生の術を頼むべし。  
(116)古の君子は、礼楽をこのんで行なひ、射・御を学び、力を労動し、詠歌・舞踏して血脈を養ひ、嗜慾を節にし心気を定め、外邪を慎しみ防て、かくのごとくつねに行なへば、鍼・灸・薬を用ずして病なし。是君子の行ふ処、本をつとむるの法、上策なり。病多きは皆養生の術なきよりおこる。病おこりて薬を服し、いたき鍼、あつき灸をして、父母よりうけし遺体(ゆいたい)にきずつけ、火をつけて、熱痛をこらえて身をせめ病を療(いや)すは、甚(はなはだ)末の事、下策なり。たとへば国をおさむるに、徳を以すれば民おのづから服して乱おこらず、攻め打事を用ひず。又保養を用ひずして、只薬と針灸を用ひて病をせむるは、たとへば国を治むるに徳を用ひず、下を治むる道なく、臣民うらみそむきて、乱をおこすをしづめんとて、兵を用ひてたたかふが如し。百たび戦って百たびかつとも、たつと(尊)ぶにたらず。養生をよくせずして、薬と針・灸とを頼んで病を治するも、又かくの如し。  
(117)身体は日々少づつ労動すべし。久しく安坐すべからず。毎日飯後に、必ず庭圃の内数百足しづかに歩行すべし。雨中には室屋の内を、幾度も徐行すべし。此如く日々朝晩(ちょうばん)運動すれば、針・灸を用ひずして、飲食・気血の滞なくして病なし。針灸をして熱痛甚しき身の苦しみをこらえんより、かくの如くせば痛なくして安楽なるべし。  
(118)人の身は百年を以(て)期(ご)とす。上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十なり。六十以上は長生なり。世上の人を見るに、下寿をたもつ人すくなく、五十以下短命なる人多し。人生七十古来まれなり、といへるは、虚語にあらず。長命なる人すくなし。五十なれば不夭と云て、わか死にあらず。人の命なんぞ此如くみじかきや。是、皆、養生の術なければなり。短命なるは生れ付て短きにはあらず。十人に九人は皆みづからそこなへるなり。ここを以(て)、人皆養生の術なくんばあるべからず。  
(119)人生五十にいたらざれば、血気いまだ定まらず。知恵いまだ開けず、古今にうとくして、世変になれず。言あやまり多く、行悔多し。人生の理も楽もいまだしらず。五十にいたらずして死するを夭(わかじに)と云。是亦、不幸短命と云べし。長生すれば、楽多く益多し。日々にいまだ知らざる事をしり、月々にいまだ能せざる事をよくす。この故に学問の長進する事も、知識の明達なる事も、長生せざれば得がたし。ここを以(て)養生の術を行なひ、いかにもして天年をたもち、五十歳をこえ、成べきほどは弥(いよいよ)長生して、六十以上の寿域に登るべし。古人長生の術ある事をいへり。又、「人の命は我にあり。天にあらず」ともいへれば、此術に志だにふかくば、長生をたもつ事、人力を以いかにもなし得べき理あり。うたがふべからず。只気あらくして、慾をほしゐままにして、こらえず、慎なき人は、長生を得べからず。  
(120)およそ人の身は、よはくもろくして、あだなる事、風前の燈火(とぼしび)のきえやすきが如し。あやうきかな。つねにつつしみて身をたもつべし。いはんや、内外より身をせむる敵多きをや。先飲食の欲、好色の欲、睡臥の欲、或(は)怒、悲、憂を以(て)身をせむ。是等は皆我身の内よりおこりて、身をせむる欲なれば、内敵なり。中につゐて飲食・好色は、内欲より外敵を引入る。尤おそるべし。風・寒・暑・湿は、身の外より入て我を攻る物なれば外敵なり。人の身は金石に非ず。やぶれやすし。況(や)内外に大敵をうくる事、かくの如にして、内の慎、外の防なくしては、多くの敵にかちがたし。至りてあやうきかな。此故に人々長命をたもちがたし。用心きびしくして、つねに内外の敵をふせぐ計策なくむばあるべからず。敵にかたざれば、必せめ亡されて身を失ふ。内外の敵にかちて、身をたもつも、其術をしりて能(く)ふせぐによれり。生れ付たる気つよけれど、術をしらざれば身を守りがたし。たとへば武将の勇あれども、知なくして兵の道をしらざれば、敵にかちがたきがごとし。内敵にかつには、心つよくして、忍の字を用ゆべし。忍はこらゆる也。飲食・好色などの欲は、心つよくこらえて、ほしいままにすべからず。心よはくしては内欲にかちがたし。内欲にかつ事は、猛将の敵をとりひしぐが如くすべし。是内敵にかつ兵法なり。外敵にかつには、畏の字を用て早くふせぐべし。たとへば城中にこもり、四面に敵をうけて、ゆだんなく敵をふせぎ、城をかたく保が如くなるべし。風・寒・暑・湿にあはば、おそれて早くふせぎしりぞくべし。忍の字を禁じて、外邪をこらえて久しくあたるべからず。古語に「風を防ぐ事、箭を防ぐが如くす」といへり。四気の風寒、尤おそるべし。久しく風寒にあたるべからず。凡(そ)是外敵をふせぐ兵法なり。内敵にかつには、けなげにして、つよくかつべし。外敵をふせぐは、おそれて早くしりぞくべし。けなげなるはあしし。 
(121)生を養ふ道は、元気を保つを本とす。元気をたもつ道二あり。まづ元気を害する物を去り、又、元気を養ふべし。元気を害する物は内慾と外邪となり。すでに元気を害するものをさらば、飲食・動静に心を用て、元気を養ふべし。たとへば、田をつくるが如し。まづ苗を害する莠(はぐさ)を去て後、苗に水をそそぎ、肥をして養ふ。養生も亦かくの如し。まづ害を去て後、よく養ふべし。たとへば悪を去て善を行ふがごとくなるべし。気をそこなふ事なくして、養ふ事を多くす。是養生の要なり。つとめ行なふべし。  
(122)およそ人の楽しむべき事三あり。一には身に道を行ひ、ひが事なくして善を楽しむにあり。二には身に病なくして、快く楽むにあり。三には命ながくして、久しくたのしむにあり。富貴にしても此三の楽なければ、まことの楽なし。故に富貴は此三楽の内にあらず。もし心に善を楽まず、又養生の道をしらずして、身に病多く、其はては短命なる人は、此三楽を得ず。人となりて此三楽を得る計なくんばあるべからず。此三楽なくんば、いかなる大富貴をきはむとも、益なかるべし。  
(123)天地のよはひは、邵尭夫(しょうぎょうふ)の説に、十二万九千六百年を一元とし、今の世はすでに其半に過たりとなん。前に六万年あり、後に六万年あり。人は万物の霊なり。天地とならび立て、三才と称すれども、人の命は百年にもみたず。天地の命長きにくらぶるに、千分の一にもたらず。天長く地久きを思ひ、人の命のみじかきをおもへば、ひとり愴然としてなんだ下れり。かかるみじかき命を持ながら、養生の道を行はずして、みじかき天年を弥(いよいよ)みじかくするはなんぞや。人の命は至りて重し。道にそむきて短くすべからず。  
(124)養生の術は、つとむべき事をよくつとめて、身をうごかし、気をめぐらすをよしとす。つとむべき事をつとめずして、臥す事をこのみ、身をやすめ、おこたりて動かさざるは、甚(だ)養生に害あり。久しく安坐し、身をうごかさざれば、元気めぐらず、食気とどこほりて、病おこる。ことにふす事をこのみ、ねぶり多きをいむ。食後には必(かならず)数百歩歩行して、気をめぐらし、食を消すべし。ねぶりふすべからず。父母につかへて力をつくし、君につかへてまめやかにつとめ、朝は早くおき、夕はおそくいね、四民ともに我が家事をよくつとめておこたらず。士となれる人は、いとけなき時より書をよみ、手を習ひ、礼楽をまなび、弓を射、馬にのり、武芸をならひて身をうごかすべし。農・工・商は各其家のことわざ(事業)をおこたらずして、朝夕よくつとむべし。婦女はことに内に居て、気鬱滞しやすく、病生じやすければ、わざをつとめて、身を労動すべし。富貴の女も、おや、しうと、夫によくつかへてやしなひ、お(織)りぬ(縫)ひ、う(紡)みつむ(績)ぎ、食品をよく調(ととのえ)るを以(て)、職分として、子をよくそだて、つねに安坐すべからず。かけまくもかたじけなき天照皇大神も、みづから神の御服(みぞ)をおらせたまひ、其御妹稚日女尊(わかひるめのみこと)も、斎機殿(いみはたどの)にましまして、神の御服をおらせ給ふ事、日本紀(:日本書紀)に見えたれば、今の婦女も昔かかる女のわざをつとむべき事こそ侍べれ。四民ともに家業をよくつとむるは、皆是養生の道なり。つとむべき事をつとめず、久しく安坐し、ねぶり臥す事をこのむ。是大に養生に害あり。かくの如くなれば、病おほくして短命なり。戒むべし。  
(125)人の身のわざ多し。その事をつとむるみちを術と云。万のわざつとめならふべき術あり。其術をしらざれば、其事をなしがたし。其内いたりて小にて、いやしき芸能も、皆其術をまなばず、其わざをならはざれば、其事をなし得がたし。たとへば蓑をつくり、笠をはるは至りてやすく、いやしき小なるわざ也といへども、其術をならはざれば、つくりがたし。いはんや、人の身は天地とならんで三才とす。かく貴とき身を養ひ、いのちをたもつて長生するは、至りて大事なり。其術なくんばあるべからず。其術をまなばず、其事をならはずしては、などかなし得んや。然るにいやしき小芸には必(ず)師をもとめ、おしへをうけて、その術をならふ。いかんとなれば、その器用あれどもその術をまなばずしては、なしがたければなり。人の身はいたりて貴とく、是をやしなひてたもつは、至りて大なる術なるを、師なく、教なく、学ばず、習はず、これを養ふ術をしらで、わが心の慾にまかせば、豈其道を得て生れ付たる天年をよくたもたんや。故に生を養なひ、命をたもたんと思はば、其術を習はずんばあるべからず。夫養生の術、そくばくの大道にして、小芸にあらず。心にかけて、其術をつとめまなばずんば、其道を得べからず。其術をしれる人ありて習得ば、千金にも替えがたし。天地父母よりうけたる、いたりておもき身をもちて、これをたもつ道をしらで、みだりに身をもちて大病をうけ、身を失なひ、世をみじかくする事、いたりて愚なるかな。天地父母に対し大不孝と云べし。其上、病なく命ながくしてこそ、人となれる楽おほかるべけれ。病多く命みじかくしては、大富貴をきはめても用なし。貧賤にして命ながきにおとれり。わが郷里の年若き人を見るに、養生の術をしらで、放蕩にして短命なる人多し。又わが里の老人を多く見るに、養生の道なくして多病にくるしみ、元気おとろへて、はやく老耄す。此如くにては、たとひ百年のよはひをたもつとも、楽なくして苦み多し。長生も益なし。いけるばかりを思ひでにすともともいひがたし。  
(126)或人の曰(く)、養生の術、隠居せし老人、又年わかくしても世をのがれて、安閑無事なる人は宜しかるべし。士として君父につかへて忠孝をつとめ、武芸をならひて身をはたらかし、農工商の夜昼家業をつとめていとまなく、身閑ならざる者は養生成りがたかるべし。かかる人、もし養生の術をもつぱら行はば、其身やはらかに、其わざゆるやかにして、事の用にたつべからずと云。是養生の術をしらざる人のうたがひ、むべなるかな。養生の術は、安閑無事なるを専(もっぱら)とせず。心を静にし、身をうごかすをよしとす。身を安閑にするは、かへつて元気とどこほり、ふさがりて病を生ず。たとへば、流水はくさらず、戸枢(こすう:戸の回転軸)はくちざるが如し。是うごく者は長久なり、うごかざる物はかへつて命みじかし。是を以、四民ともに事をよくつとむべし。安逸なるべからず。是すなわち養生の術なり。  
(127)或人うたがひて曰。養生をこのむ人は、ひとゑにわが身をおもんじて、命をたもつを専にす。されども君子は義をおもしとす。故に義にあたりては、身をすて命をおしまず、危を見ては命をさづけ、難にのぞんでは節に死す。もしわが身をひとへにおもんじて、少なる髪・膚まで、そこなひやぶらざらんとせば、大節にのぞんで命をおしみ、義をうしなふべしと云。答て曰、およその事、常あり、変あり。常に居ては常を行なひ、変にのぞみては変を行なふ。其時にあたりて義にしたがふべし。無事の時、身をおもんじて命をたもつは、常に居るの道なり。大節にのぞんで、命をすててかへり見ざるは、変におるの義なり。常におるの道と、変に居るの義と、同じからざる事をわきまへば、此うたがひなかるべし。君子の道は時宜にかなひ、事変に随ふをよしとす。たとへば、夏はかたびらを着、冬はかさねぎするが如し。一時をつねとして、一偏にかかはるべからず。殊に常の時、身を養ひて、堅固にたもたずんば、大節にのぞんでつよく、戦ひをはげみて命をすつる事、身よはくしては成がたかるべし。故に常の時よく気を養なはば、変にのぞんで勇あるべし。  
(128)いにしへの人、三慾を忍ぶ事をいへり。三慾とは、飲食の欲、色の欲、睡(ねぶり)の欲なり。飲食を節にし、色慾をつつしみ、睡をすくなくするは、皆慾をこらゆるなり。飲食・色欲をつつしむ事は人しれり。只睡の慾をこらえて、いぬる事をすくなくするが養生の道なる事は人しらず。ねぶりをすくなくすれば、無病になるは、元気めぐりやすきが故也。ねぶり多ければ、元気めぐらずして病となる。夜ふけて臥しねぶるはよし、昼いぬるは尤(も)害あり。宵にはやくいぬれば、食気とゞこほりて害あり。ことに朝夕飲食のいまだ消化せず、其気いまだめぐらざるに、早くいぬれば、飲食とどこほりて、元気をそこなふ。古人睡慾を以、飲食・色慾にならべて三慾とする事、むべなるかな。おこたりて、ねぶりを好めば、くせになりて、睡多くして、こらえがたし。ねぶりこらえがたき事も、又、飲食・色慾と同じ。初は、つよくこらえざれば、ふせぎがたし。つとめてねぶりをすくなくし、ならひてなれぬれば、おのづから、ねぶりすくなし。ならひて睡をすくなくすべし。  
(129)言語をつつしみて、無用の言をはぶき、言をすくなくすべし。多く言語すれば、必(ず)気へりて、又気のぼる。甚(だ)元気をそこなふ。言語をつつしむも、亦徳をやしなひ、身をやしなふ道なり。  
(130)古語に曰、「莫大の禍は、須臾の忍ばざるに起る」。須臾とはしばしの間を云。大なる禍は、しばしの間、慾をこらえざるよりおこる。酒食・色慾など、しばしの間、少の慾をこらえずして大病となり、一生の災となる。一盃の酒、半椀の食をこらえずして、病となる事あり。慾をほしゐままにする事少なれども、やぶらるる事は大なり。たとへば、蛍火程の火、家につきても、さかんに成て、大なる禍となるがごとし。古語に曰ふ。「犯す時は微にして秋毫(:きわめてわずか)の若し、病を成す重きこと、泰山のごとし」。此言むべなるかな。凡(そ)小の事、大なる災となる事多し。小なる過より大なるわざはひとなるは、病のならひ也。慎しまざるべけんや。常に右の二語を、心にかけてわするべからず。 
(131)養生の道なければ、生れ付つよく、わかく、さかんなる人も、天年をたもたずして早世する人多し。是天のなせる禍にあらず、みづからなせる禍也。天年とは云がたし。つよき人は、つよきをたのみてつつしまざる故に、よはき人よりかへつて早く死す。又、体気よはく、飲食すくなく、常に病多くして、短命ならんと思ふ人、かへつて長生する人多し。是よはきをおそれて、つつしむによれり。この故に命の長短は身の強弱によらず、慎と慎しまざるとによれり。白楽天が語に、福と禍とは、慎と慎しまざるにあり、といへるが如し。  
(132)世に富貴・財禄をむさぼりて、人にへつらひ、仏神にいのり求むる人多し。されども、其しるしなし。無病長生を求めて、養生をつつしみ、身をたもたんとする人はまれなり。富貴・財禄は外にあり。求めても天命なければ得がたし。無病長生は我にあり、もとむれば得やすし。得がたき事を求めて、得やすき事を求めざるはなんぞや。愚なるかな。たとひ財禄を求め得ても、多病にして短命なれば、用なし。  
(133)陰陽の気天にあつて、流行して滞らざれば、四時よく行はれ、百物よく生(な)る。偏にして滞れば、流行の道ふさがり、冬あたたかに夏さむく、大風・大雨の変ありて、凶害をなせり。人身にあっても亦しかり。気血よく流行して滞らざれば、気つよくして病なし。気血流行せざれば、病となる。其気上に滞れば、頭疼・眩暈となり、中に滞れば亦腹痛となり、痞満となり、下に滞れば腰痛・脚気となり、淋疝・痔漏となる。此故によく生を養ふ人は、つとめて元気の滞なからしむ。  
(134)養生に志あらん人は、心につねに主あるべし。主あれば、思慮して是非をわきまへ、忿をおさえ、慾をふさぎて、あやまりすくなし。心に主なければ、思慮なくして忿と慾をこらえず、ほしゐまゝにしてあやまり多し。  
(135)万の事、一時心に快き事は、必後に殃(わざわい)となる。酒食をほしゐまゝにすれば快けれど、やがて病となるの類なり。はじめにこらゆれば必後のよろこびとなる。灸治をしてあつきをこらゆれば、後に病なきが如し。杜牧が詩に、忍過ぎて事喜ぶに堪えたりと、いへるは、欲をこらえすまして、後は、よろこびとなる也。  
(136)聖人は未病を治すとは、病いまだおこらざる時、かねてつつしめば病なく、もし飲食・色欲などの内慾をこらえず、風・寒・暑・湿の外邪をふせがざれば、其おかす事はすこしなれども、後に病をなす事は大にして久し。内慾と外邪をつつしまざるによりて、大病となりて、思ひの外にふかきうれひにしづみ、久しく苦しむは、病のならひなり。病をうくれば、病苦のみならず、いたき針にて身をさし、あつき灸にて身をやき、苦き薬にて身をせめ、くひたき物をくはず、のみたきものをのまずして、身をくるしめ、心をいたましむ。病なき時、かねて養生よくすれば病おこらずして、目に見えぬ大なるさいはいとなる。孫子が曰「よく兵を用る者は赫々の功なし」。云意は、兵を用る上手は、あらはれたるてがら(手柄)なし、いかんとなれば、兵のおこらぬさきに戦かはずして勝ばなり。又曰「古の善く勝つ者は、勝ち易きに勝つ也」。養生の道も亦かくの如くすべし。心の内、わづかに一念の上に力を用て、病のいまだおこらざる時、かちやすき慾にかてば病おこらず。良将の戦はずして勝やすきにかつが如し。是上策なり。是未病を治するの道なり。  
(137)養生の道は、恣(ほしいまま)なるを戒(いましめ)とし、慎(つつしむ)を専(もっぱら)とす。恣なるとは慾にまけてつつしまざる也。慎は是恣なるのうら也。つつしみは畏(おそるる)を以(て)本とす。畏るるとは大事にするを云。俗のことわざに、用心は臆病にせよと云がごとし。孫真人も「養生は畏るるを以(て)本とす」といへり。是養生の要也。養生の道におゐては、けなげなるはあしく、おそれつつしむ事、つねにちい(小)さき一はし(橋)を、わたるが如くなるべし。是畏るなり。わかき時は、血気さかんにして、つよきにまかせて病をおそれず、慾をほしゐままにする故に、病おこりやすし。すべて病は故なくてむなしくはおこらず、必(ず)慎まざるよりおこる。殊に老年は身よはし、尤おそるべし。おそれざれば老若ともに多病にして、天年をたもちがたし。  
(138)人の身をたもつには、養生の道をたのむべし。針・灸と薬力とをたのむべからず。人の身には口・腹・耳・目の欲ありて、身をせむるもの多し。古人のをしえに、養生のいたれる法あり。孟子にいはゆる「慾を寡くする」、これなり。宋の王昭素も、「身を養ふ事は慾を寡するにしくはなし」と云。省心録にも、「慾多ければ即ち生を傷(やぶ)る」といへり。およそ人のやまひは、皆わが身の慾をほしゐままにして、つつしまざるよりおこる。養生の士はつねにこれを戒とすべし。  
(139)気は、一身体の内にあまねく行わたるべし。むねの中一所にあつむべからず。いかり、かなしみ、うれひ、思ひ、あれば、胸中一所に気とどこほりてあつまる。七情の過て滞るは病の生る基なり。  
(140)俗人は、慾をほしゐままにして、礼儀にそむき、気を養はずして、天年をたもたず。理気二ながら失へり。仙術の士は養気に偏にして、道理を好まず。故に礼儀をすててつとめず。陋儒は理に偏にして気を養はず。修養の道をしらずして天年をたもたず。此三つは、ともに君子の行ふ道にあらず。 
巻第二 / 総論下 

 

(201)凡(そ)朝は早くおきて、手と面を洗ひ、髪をゆひ、事をつとめ、食後にはまづ腹を多くなで下し、食気をめぐらすべし。又、京門(第12肋骨部)のあたりを手の食指のかたはらにて、すぢかひにしばしばなづべし。腰をもなで下して後、下にてしづかにうつべし。あらくすべからず。もし食気滞らば、面を仰ぎて三四度食毒の気を吐くべし。朝夕の食後に久しく安坐すべからず。必ねぶり臥すべからず。久しく坐し、ねぶり臥せば、気ふさがりて病となり、久しきをつめば命みじかし。食後に毎度歩行する事、三百歩すべし。おりおり五六町歩行するは尤よし。  
(202)家に居て、時々わが体力の辛苦せざる程の労動をなすべし。吾起居のいたつがはしきをくるしまず、室中の事、奴婢をつかはずして、しばしばみづからたちて我身を運用すべし。わが身を動用すれば、おもひのままにして速に事調ひ、下部をつかふに心を労せず。是「心を清くして事を省く」の益あり。かくのごとくにして、常に身を労動すれば気血めぐり、食気とどこほらず、是養生の要術也。身をつねにやすめおこたるべからず。我に相応せる事をつとめて、手足をはたらかすべし。時にうごき、時に静なれば、気めぐりて滞らず。静に過ればふさがる。動に過ればつかる。動にも静にも久しかるべからず。  
(203)華陀が言に、「人の身は労動すべし。労動すれば穀気きえて、血脈流通す」といへり。およそ人の身、慾をすくなくし、時々身をうごかし、手足をはたらかし、歩行して久しく一所に安坐せざれば、血気めぐりて滞らず。養生の要務なり。日々かくのごとくすべし。呂氏春秋曰、「流水腐らず、戸枢(こすう)螻(むしば)まざるは、動けば也。形気もまた然り」。いふ意(こころ)は、流水はくさらず、たまり水はくさる。から戸のぢくの下のくるゝ(枢)は虫くはず。此二のものはつねにうごくゆへ、わざはひなし。人の身も亦かくのごとし。一所に久しく安坐してうごかざれば、飲食とゞこほり、気血めぐらずして病を生ず。食後にふすと、昼臥すと、尤(も)禁ずべし。夜も飲食の消化せざる内に早くふせば、気をふさぎ病を生ず。是養生の道におゐて尤いむべし。  
(204)千金方に曰、養生の道、「久しく行き、久しく坐し、久しく臥し、久しく視る」ことなかれ。  
(205)酒食の気いまだ消化せざる内に臥してねぶれば、必(ず)酒食とゞこほり、気ふさがりて病となる。いましむべし。昼は必(ず)臥すべからず。大に元気をそこなふ。もし大につかれたらば、うしろによりかゝりてねぶるべし。もし臥さば、かたはらに人をおきて、少ねぶるべし。久しくねぶらば、人によびさまさしむべし。  
(206)日長き時も昼臥すべからず。日永き故、夜に入て、人により、もし体力つかれて早くねぶることをうれへば、晩食の後、身を労動し、歩行し、日入の時より臥して体気をやすめてよし。臥して必(かならず)ねぶるべからず。ねぶれば甚(だ)害あり。久しく臥べからず。秉燭(へいしょく=夕方)の比(ころ)おきて坐すべし。かくのごとくすれば夜間体に力ありて、ねぶり早く生ぜず。もし日入の時よりふさゞるは尤よし。  
(207)養生の道は、たの(恃)むを戒しむ。わが身のつよきをたのみ、わかきをたのみ、病の少(し)いゆるをたのむ。是皆わざはひの本也。刃のと(鋭)きをたのんで、かたき物をきれば、刃折る。気のつよきをたのんで、みだりに気をつかへば、気へる。脾腎のつよきをたのんで、飲食・色慾を過さば、病となる。  
(208)爰(ここ)に人ありて、宝玉を以てつぶてとし、雀をうたば、愚なりとて、人必わらはん。至りて、おもき物をすてゝ、至りてかろき物を得んとすればなり。人の身は至りておもし。然るに、至りてかろき小なる欲をむさぼりて身をそこなふは、軽重をしらずといふべし。宝玉を以て雀をうつがごとし。  
(209)心は楽しむべし、苦しむべからず。身は労すべし、やすめ過すべからず。凡わが身を愛し過すべからず。美味をくひ過し、芳うん(209)をのみ過し、色をこのみ、身を安逸にして、おこたり臥す事を好む。皆是、わが身を愛し過す故に、かへつてわが身の害となる。又、無病の人、補薬を妄に多くのんで病となるも、身を愛し過すなり。子を愛し過して、子のわざはひとなるが如し。  
(210)一時の慾をこらへずして病を生じ、百年の身をあやまる。愚なるかな。長命をたもちて久しく安楽ならん事を願はゞ、慾をほしゐまゝにすべからず。慾をこらゆるは長命の基也。慾をほしゐまゝにするは短命の基也。恣なると忍ぶとは、是寿(いのちながき)と夭(いのちみじかき)とのわかるる所也。 
(211)易に曰、「患(うれい)を思ひ、予(かね)てこれを防ぐ」。いふ意(こころ)は後の患をおもひ、かねて其わざはひをふせぐべし。論語にも「人遠き慮(おもんぱかり)なければ、必近きうれひあり」との玉へり。是皆、初に謹んで、終をたもつの意なり。  
(212)人、慾をほしゐまゝにして楽しむは、其楽しみいまだつきざる内に、はやくうれひ生ず。酒食・色慾をほしゐまゝにして楽しむ内に、はやくたたりをなして苦しみ生ずるの類也。  
(213)人、毎日昼夜の間、元気を養ふ事と元気をそこなふ事との、二の多少をくらべ見るべし。衆人は一日の内、気を養ふ事は常にすくなく、気をそこなふ事は常に多し。養生の道は元気を養ふ事のみにて、元気をそこなふ事なかるべし。もし養ふ事はすくなく、そこなふ事多く、日々つもりて久しければ、元気へりて病生じ、死にいたる。この故に衆人は病多くして短命なり。かぎりある元気をもちて、かぎりなき慾をほしゐまゝにするは、あやうし。  
(214)古語曰、「日に慎しむこと一日、寿(いのちながく)して終に殃(わざわい)なし」。言心は一日々々をあらためて、朝より夕まで毎日つヽしめば、身にあやまちなく、身をそこなひやぶる事なくして、寿して、天年をおはるまでわざはひなしと也。是身をたもつ要道なり。  
(215)飲食・色慾をほしゐまヽにして、其はじめ少(し)の間、わが心に快き事は、後に必身をそこなひ、ながきわざはひとなる。後にわざはひなからん事を求めば、初わが心に快からん事をこのむべからず。万の事はじめ快くすれば、必(ず)後の禍となる。はじめつとめてこらゆれば、必(ず)後の楽となる。  
(216)養生の道,多くいふ事を用ひず。只飲食をすくなくし,病をたすくる物をくらはず、色慾をつゝしみ,精気をおしみ,怒・哀・憂・思を過さず。心を平にして気を和らげ、言をすくなくして無用の事をはぶき、風・寒・暑・湿の外邪をふせぎ、又時々身をうごかし、歩行し、時ならずしてねぶり臥す事なく、食気をめぐらすべし。是養生の要なり。  
(217)飲食は身を養ひ、ねぶり臥は気を養なふ。しかれども飲食節に過れば、脾胃をそこなふ。ねぶり臥す事時ならざれば、元気をそこなふ。此二は身を養はんとして、かへつて身をそこなふ。よく生を養ふ人は、つとにおき、よは(夜半)にいねて、昼いねず、常にわざをつとめておこたらず、ねぶりふす事をすくなくして、神気をいさぎよくし、飲食をすくなくして、腹中を清虚にす。かくのごとくなれば、元気よく、めぐりふさがらずして、病生ぜず。発生の気其養を得て、血気をのづからさかんにして病なし。是寝食の二の節に当れるは、また養生の要也。  
(218)貧賎なる人も、道を楽しんで日をわたらば、大なる幸なり。しからば一日を過す間も、その時刻永くして楽多かるべし。いはんや一とせをすぐる間、四の時、おりおりの楽、日々にきはまりなきをや。此如にして年を多くかさねば、其楽長久にして、其しるしは寿かるべし。知者の楽み、仁者の寿は、わが輩及がたしといへども、楽より寿にいたれる次序は相似たるなるべし。  
(219)心を平らかにし、気を和かにし、言をすくなくし、しづかにす。是徳を養ひ身をやしなふ。其道一なり。多言なると、心さはがしく気あらきとは、徳をそこなひ、身をそこなふ。其害一なり。  
(220)山中の人は多くはいのちながし。古書にも山気は寿(じゅ)多しと云、又寒気は寿ともいへり。山中はさむくして、人身の元気をとぢかためて、内にたもちてもらさず。故に命ながし。暖なる地は元気もれて、内にたもつ事すくなくして、命みじかし。又、山中の人は人のまじはりすくなく、しづかにして元気をへらさず、万ともしく不自由なる故、おのづから欲すくなし。殊に魚類まれにして肉にあかず。是山中の人、命ながき故なり。市中にありて人に多くまじはり、事しげければ気へる。海辺の人、魚肉をつねに多くくらふゆえ、病おほくして命みじかし。市中にをり海辺に居ても、慾をすくなくし、肉食をすくなくせば害なかるべし。 
(221)ひとり家に居て、閑(しずか)に日を送り、古書をよみ、古人の詩歌を吟じ、香をたき、古法帖を玩び、山水をのぞみ、月花をめで、草木を愛し、四時の好景を玩び、酒を微酔にのみ、園菜を煮るも、皆是心を楽ましめ、気を養ふ助なり。貧賎の人も此楽つねに得やすし。もしよく此楽をしれらば、富貴にして楽をしらざる人にまさるべし。  
(222)古語に、忍は身の宝也といへり。忍べば殃(わざわい)なく、忍ばざれば殃あり。忍ぶはこらゆるなり。恣ならざるを云。忿(いかり)と慾とはしのぶべし。およそ養生の道は忿・慾をこらゆるにあり。忍の一字守るべし。武王の銘に曰「之を須臾(しゅゆ)に忍べば、汝の躯を全す」。書に曰。「必ず忍ぶこと有れば、其れ乃ち済すこと有り」。古語に云。「莫大の過ちは須臾の忍びざるに起る」。是忍の一字は、身を養ひ徳を養ふ道なり。  
(223)胃の気とは元気の別名なり。冲和(ちゅうが)の気也。病甚しくしても、胃の気ある人は生く。胃の気なきは死す。胃の気の脉とは、長からず、短からず、遅(ち)ならず、数(さく)ならず、大ならず、小ならず、年に応ずる事、中和にしてうるはし。此脉、名づけて言がたし。ひとり、心に得べし。元気衰へざる無病の人の脉かくの如し。是古人の説なり。養生の人、つねに此脉あらんことをねがふべし。養生なく気へりたる人は、わかくしても此脉とも(乏)し。是病人なり。病脉のみ有て、胃の気の脉なき人は死す。又、目に精神ある人は寿(いのちなが)し。精神なき人は夭(いのちみじか)し。病人をみるにも此術を用ゆべし。  
(224)養生の術、荘子が所謂(いわゆる)、庖丁(:料理人)が牛をときしが如くなるべし。牛の骨節(こっせつ)のつがひは間(ひま)あり。刀の刃はうすし。うすき刃をもつて、ひろき骨節の間に入れば、刃のはたらくに余地ありてさはらず。こゝを以て、十九年牛をときしに、刀新にとぎたてたるが如しとなん。人の世にをる、心ゆたけくして物とあらそはず、理に随ひて行なへば、世にさはりなくして天地ひろし。かくのごとくなる人は命長し。  
(225)人に対して、喜び楽しみ甚(し)ければ、気ひらけ過てへる。我ひとり居て、憂悲み多ければ、気むすぼほれてふさがる。へるとふさがるとは、元気の害なり。  
(226)心をしづかにしてさはがしくせず、ゆるやかにしてせまらず、気を和にしてあらくせず、言をすくなくして声を高くせず、高くわらはず、つねに心をよろこばしめて、みだりにいからず、悲をすくなくし、かへらざる事をくやまず、過あらば、一たびはわが身をせめて二度悔ず、只天命をやすんじてうれへず、是心気をやしなふ道なり。養生の士、かくのごとくなるべし。  
(227)津液(しんえき:つばき)は一身のうるほひ也。化して精血となる。草木に精液なければ枯る。大せつの物也。津液は臓腑より口中に出づ。おしみて吐べからず。ことに遠くつばき吐べからず、気へる。  
(228)津液をばのむべし。吐べからず。痰をば吐べし、のむべからず。痰あらば紙にて取べし。遠くはくべからず。水飲津液すでに滞りて、痰となりて内にありては、再(び)津液とはならず。痰、内にあれば、気をふさぎて、かへつて害あり。此理をしらざる人、痰を吐ずしてのむは、ひが事也。痰を吐く時、気をもらすべからず。酒多くのめば痰を生じ、気を上(のぼ)せ、津液をへらす。  
(229)何事もあまりよくせんとしていそげば、必あしくなる。病を治するも亦しかり。医をゑらばず、みだりに医を求め、薬を服し、又、鍼・灸をみだりに用ひ、たゝりをなす事多し。導引(:道教の健康法)・按摩も亦しかり。わが病に当否をしらで、妄に治(じ)を求むべからず。湯治も亦しかり。病に応ずると応ぜざるをゑらばず、みだりに湯治して病をまし、死にいたる。およそ薬治・鍼・灸・導引・按摩・湯治。此六の事、其病と其治との当否をよくゑらんで用ゆべし。其当否をしらで、みだりに用ゆれば、あやまりて禍をなす事多し。是よくせんとして、かへつてあしくする也。  
(230)凡(そ)よき事あしき事、皆ならひよりおこる。養生のつゝしみ、つとめも亦しかり。つとめ行ひておこたらざるも、慾をつゝしみこらゆる事も、つとめて習へば、後にはよき事になれて、つねとなり、くるしからず。又つゝつしまずしてあしき事になれ、習ひくせとなりては、つゝつしみつとめんとすれども、くるしみてこらへがたし。 
(231)万の事、皆わがちからをはかるべし。ちからの及ばざるを、しゐて、其わざをなせば、気へりて病を生ず。分外をつとむべからず。  
(232)わかき時より、老にいたるまで、元気を惜むべし。年わかく康健なる時よりはやく養ふべし。つよきを頼みて、元気を用過すべからず。わかき時元気をおしまずして、老て衰へ、身よはくなりて、初めて保養するは、たとへば財多く富める時、おごりて財をついやし、貧窮になりて財ともしき故、初めて倹約を行ふが如し。行はざるにまされども、おそくして其しるしすくなし。  
(233)気を養ふに嗇(しょく)の字を用ゆべし。老子此意をいへり。嗇はおしむ也。元気をおしみて費やさゝざる也。たとへば吝嗇なる人の、財多く余あれども、おしみて人にあたへざるが如くなるべし。気をおしめば元気へらずして長命なり。  
(234)養生の要は、自欺(みずからあざむく)ことをいましめて、よく忍ぶにあり。自欺とは、が心にすでにあしきとしれる事を、きらはずしてするを云。あしきとしりてするは、悪をきらふ事、真実ならず、是自欺なり。欺くとは真実ならざる也。食の一事を以いはゞ、多くくらふがあしきとしれども、あしきをきらふ心実ならざれば、多くくらふ。是自欺也。其余事も皆これを以しるべし。  
(235)世の人を多くみるに、生れ付て短命なる形相ある人はまれなり。長寿を生れ付たる人も、養生の術をしらで行はざれば、生れ付たる天年をたもたず。たとへば、彭祖といへど、刀にてのどぶゑ(喉笛)をたゝば、などか死なざるべきや。今の人の欲をほしゐまゝにして生をそこなふは、たとへば、みづからのどぶえをたつが如し。のどぶゑをたちて死ぬると、養生せず、欲をほしゐまゝにして死ぬると、おそきと早きとのかはりはあれど、自害する事は同じ。気つよく長命なるべき人も、気を養なはざれば必命みじかくして、天年をたもたず。是自害するなり。  
(236)凡(て)の事、十分によからんことを求むれば、わが心のわづらひとなりて楽なし。禍も是よりおこる。又、人の我に十分によからん事を求めて、人のたらざるをいかりとがむれば、心のわづらひとなる。又、日用の飲食・衣服・器物・家居・草木の品々も、皆美をこのむべからず。いさゝかよければ事たりぬ。十分によからん事を好むべからず。是、皆わが気を養なふ工夫なり。  
(237)或人の曰、「養生の道、飲食・色慾をつゝしむの類、われ皆しれり。然れどもつゝつしみがたく、ほしゐまゝになりやすき故、養生なりがたし」といふ。我おもふに、是いまだ養生の術をよくしらざるなり。よくしれらば、などか養生の道を行なはざるべき。水に入ればおぼれて死ぬ。火に入ればやけて死ぬ。砒霜をくらへば毒にあてられて死ぬる事をば、たれもよくしれる故、水火に入り、砒霜をくらひて、死ぬる人なし。多慾のよく生をやぶる事、刀を以(て)自害するに同じき理をしれらば、などか慾を忍ばざるべき。すべて其理を明らかにしらざる事は、まよひやすくあやまりやすし。人のあやまりてわざはひとなれる事は、皆不知よりおこる。赤子のはらばひて井におちて死ぬるが如し。灸をして身の病をさる事をしれる故、身に火をつけ、熱く、いためるをこらえて多きをもいとはず。是灸のわが身に益ある事をよくしれる故なり。不仁にして人をそこなひくるしむれば、天のせめ人のとがめありて、必わが身のわざはひとなる事は、其理明らかなれども、愚者はしらず。あやうき事を行ひ、わざはひをもとむるは不知よりおこる。盗は只たからをむさぼりて、身のとがにおち入(る)事をしらざるが如し。養生の術をよくしれらば、などか慾にしたがひてつゝしまずやは有べき。  
(238)聖人やゝもすれば楽をとき玉ふ。わが愚を以て聖心おしはかりがたしといへども、楽しみは是人のむまれ付たる天地の生理なり。楽しまずして天地の道理にそむくべからず。つねに道を以て欲を制して楽を失なふべからず。楽を失なはざるは養生の本也。  
(239)長生の術は食色の慾をすくなくし、心気を和平にし、事に臨んで常に畏・慎あれば、物にやぶられず、血気おのづから調ひて、自然に病なし。かくの如くなれば長生す。是長生の術也。此術を信じ用ひば、此術の貴とぶべき事、あたかも万金を得たるよりも重かるべし。  
(240)万の事十分に満て、其上にくはへがたきは、うれひの本なり。古人の曰、酒は微酔にのみ、花は半開に見る。此言むべなるかな。酒十分にのめばやぶらる。少のんで不足なるは、楽みて後のうれひなし。花十分に開けば、盛過て精神なく、やがてちりやすし。花のいまだひらかざるが盛なりと、と古人いへり。 
(241)一時の浮気をほしゐまゝにすれば、一生の持病となり。或(は)即時に命あやうき事あり。莫大の禍はしばしの間こらえざるにおこる。おそるべし。  
(242)養生の道は、中を守るべし。中を守るとは過不及なきを云。食物はうゑを助くるまでにてやむべし。過てほしゐまゝなるべからず。是中を守るなり。物ごとにかくの如くなるべし。  
(243)心をつねに従容としづかにせはしからず、和平なるべし。言語はことにしづかにしてすくなくし、無用の事いふべからず。是尤気を養ふ良法也。  
(244)人の身は、気を以(て)生の源、命の主とす。故(に)養生をよくする人は、常に元気を惜みてへらさず。静にしては元気をたもち、動ゐては元気をめぐらす。たもつとめぐらすと、二の者そなはらざれば、気を養ひがたし。動静其時を失はず、是気を養ふの道なり。  
(245)もし大風雨と雷はなはだしくば、天の威をおそれて、夜といへどもかならずおき、衣服をあらためて坐すべし。臥すべからず。  
(246)客となつて昼より他席にあらば、薄暮より前に帰るべし。夜までかたれば主客ともに労す。久しく滞座すべからず。  
(247)素問に「怒れば気上る。喜べば気緩まる。悲めば気消ゆ。恐るれば気めぐらず。寒ければ気とづ。暑ければ気泄(も)る。驚けば気乱る。労すれば気へる。思へば気結(むすぼう)る」といへり。百病は皆気より生ず。病とは気やむ也。故に養生の道は気を調るにあり。調ふるは気を和らぎ、平にする也。凡(そ)気を養ふの道は、気をへらさると、ふさがらざるにあり。気を和らげ、平にすれば、此二のうれひなし。  
(248)臍下三寸を丹田と云。腎間の動気こゝにあり。難経に、「臍下腎間の動気は人の生命也。十二経の根本也」といへり。是人身の命根のある所也。養気の術つねに腰を正しくすゑ、真気を丹田におさめあつめ、呼吸をしづめてあらくせず、事にあたつては、胸中より微気をしばしば口に吐き出して、胸中に気をあつめずして、丹田に気をあつむべし。この如くすれば気のぼらず、むねさはがずして身に力あり。貴人に対して物をいふにも、大事の変にのぞみいそがはしき時も、この如くすべし。もしやむ事を得ずして、人と是非を論ずとも、怒気にやぶられず、浮気ならずしてあやまりなし。或(あるいは)芸術をつとめ、武人の槍・太刀をつかひ、敵と戦ふにも、皆此法を主とすべし。是事をつとめ、気を養ふに益ある術なり。凡技術を行なふ者、殊に武人は此法をしらずんばあるべからず。又道士の気を養ひ、比丘の坐禅するも、皆真気を臍下におさむる法なり。是主静の工夫、術者の秘訣なり。  
(249)七情は喜・怒・哀・楽・愛・悪・慾也。医家にては喜・怒・憂・思・悲・恐・驚と云。又、六慾あり、耳・目・口・鼻・身・意の慾也。七情の内、怒と慾との二、尤徳をやぶり、生をそこなふ。忿を懲し、慾を塞ぐは易の戒なり。忿は陽に属す。火のもゆるが如し。人の心を乱し、元気をそこなふは忿なり。おさえて忍ぶべし。慾は陰に属す。水の深きが如し。人の心をおぼらし、元気をへらすは慾也。思ひてふさぐべし。  
(250)養生の要訣一あり。要訣とはかんようなる口伝也。養生に志あらん人は、是をしりて守るべし。其要訣は少の一字なり。少とは万の事皆すくなくして多くせざるを云。すべてつつまやかに、いはゞ、慾をすくなくするを云。慾とは耳・目・口・体のむさぼりこのむを云。酒食をこのみ、好色をこのむの類也。およそ慾多きのつもりは、身をそこなひ命を失なふ。慾をすくなくすれば、身をやしなひ命をのぶ。慾をすくなくするに、その目録十二あり。十二少と名づく。必是を守るべし。食を少くし、飲ものを少くし、五味の偏を少くし、色欲を少くし、言語を少くし、事を少くし、怒を少くし、憂を少くし、悲を少くし、思を少くし、臥事を少くすべし。かやうに事ごとに少すれば、元気へらず、脾腎損せず。是寿をたもつの道なり。十二にかぎらず、何事も身のわざと欲とをすくなくすべし。一時に気を多く用ひ過し、心を多く用ひ過さば、元気へり、病となりて命みじかし。物ごとに数多くはゞ広く用ゆべからず。数すくなく、はばせばきがよし。孫思ばく(250)が千金方にも、養生の十二少をいへり。其意同じ。目録は是と同じからず。右にいへる十二少は、今の時宜にかなへるなり。 
(251)内慾をすくなくし、外邪をふせぎ、身を時々労動し、ねぶりをすくなくす。此四は養生の大要なり。  
(252)気を和平にし、あらくすべからず。しづかにしてみだりにうごかすべからず。ゆるやかにして、急なるべからず。言語をすくなくして、気をうごかすべからず。つねに気を臍(ほぞ)の下におさめて、むねにのぼらしむべからず。是気を養ふ法なり。  
(253)古人は詠歌・舞踏して血脉を養ふ。詠歌はうたふ也。舞踏は手のまひ足のふむ也。皆心を和らげ、身をうごかし、気をめぐらし、体をやしなふ。養生の道なり。今導引・按摩して気をめぐらすがごとし。  
(254)おもひをすくなくして神を養ひ、慾をすくなくして精を養ひ、飲食をすくなくして胃を養ひ、言をすくなくして気を養ふべし。是養生の四寡なり。  
(255)摂生の七養あり。是を守るべし。一には言をすくなくして内気を養ふ。二には色慾を戒めて精気を養ふ。三には滋味を薄くして血気を養ふ。四には津液をのんで臓気を養ふ。五には怒をおさえて肝気を養ふ。六には飲食を節にして胃気を養ふ。七には思慮をすくなくして心気を養ふ。是(これ)寿親養老補書に出たり。  
(256)孫真人が曰「修養の五宜(ごぎ)あり。髪は多くけづるに宜し。手は面にあるに宜し。歯はしばしばたゝくに宜し。津(つばき)は常にのむに宜し。気は常に練るに宜し。練るとは、さはがしからずしてしづかなる也」。  
(257)久しく行き、久しく坐し、久しく立、久しく臥し、久しく語るべからず。是労動ひさしければ気へる。又、安逸ひさしければ気ふさがる。気へるとふさがるとは、ともに身の害となる。  
(258)養生の四要は、暴怒をさり、思慮をすくなくし、言語をすくなくし、嗜慾をすくなくすべし。  
(259)病源集に唐椿が曰、四損は、遠くつばきすれば気を損ず。多くねぶれば神を損ず。多く汗すれば血を損ず。疾(とく)行けば筋を損ず」。  
(260)老人はつよく痰を去薬を用べからず。痰をことごとく去らんとすれば、元気へる。是古人の説也。 
(261)呼吸は人の鼻よりつねに出入る息也。呼は出る息也。内気をはく也。吸は入る息なり。外気をすふ也。呼吸は人の生気也。呼吸なければ死す。人の腹の気は天地の気と同くして、内外相通ず。人の天地の気の中にあるは、魚の水中にあるが如し。魚の腹中の水も外の水と出入して、同じ。人の腹中にある気も天地の気と同じ。されども腹中の気は臓腑にありて、ふるくけがる。天地の気は新くして清し。時々鼻より外気を多く吸入べし。吸入ところの気、腹中に多くたまりたるとき、口中より少づつしづかに吐き出すべし。あらく早くはき出すべからず。是ふるくけがれたる気をはき出して、新しき清き気を吸入る也。新とふるきと、かゆる也。是を行なふ時、身を正しく仰ぎ、足をのべふし、目をふさぎ、手をにぎりかため、両足の間、去事五寸、両ひぢと体との間も、相去事おのおの五寸なるべし。一日一夜の間、一両度行ふべし。久してしるしを見るべし。気を安和にして行ふべし。  
(262)千金方に、常に鼻より清気を引入れ、口より濁気を吐出す。入る事多く出す事すくなくす。出す時は口をほそくひらきて少吐べし。  
(263)常の呼吸のいきは、ゆるやかにして、深く丹田に入べし。急なるべからず。  
(264)調息の法、呼吸をとゝのへ、しづかにすれば、息やうやく微也。弥(いよいよ)久しければ、後は鼻中に全く気息なきが如し。只臍の上より微息往来する事をおぼゆ。かくの如くすれば神気定まる。是気を養ふ術なり。呼吸は一身の気の出入する道路也。あらくすべからず。  
(265)養生の術、まづ心法をよくつゝしみ守らざれば、行はれがたし。心を静にしてさはがしからず、いかりをおさえ慾をすくなくして、つねに楽んでうれへず。是養生の術にて、心を守る道なり。心法を守らざれば、養生の術行はれず。故に心を養ひ身を養ふの工夫二なし、一術なり。  
(266)夜書をよみ、人とかたるに三更をかぎりとすべし。一夜を五更にわかつに、三更は国俗の時皷の四半過、九の間なるべし。深更までねぶらざれば、精神しづまらず。  
(267)外境いさぎよければ、中心も亦是にふれて清くなる。外より内を養ふ理あり。故に居室は常に塵埃をはらひ、前庭も家僕に命じて、日々いさぎよく掃はしむべし。みづからも時々几上の埃をはらひ、庭に下りて、箒をとりて塵をはらふべし。心をきよくし身をうごかす、皆養生の助なり。  
(268)天地の理、陽は一、陰は二也。水は多く火は少し。水はかはきがたく、火は消えやすし。人は陽類にて少く、禽獣虫魚は陰類にて多し。此故に陽はすくなく陰は多き事、自然の理なり。すくなきは貴とく多きはいやし。君子は陽類にて少く、小人は陰類にて多し。易道は陽を善として貴とび、陰を悪としていやしみ、君子を貴とび、小人をいやしむ。水は陰類なり。暑月はへるべくしてますます多く生ず。寒月はますべくしてかへつてかれてすくなし。春夏は陽気盛なる故に水多く生ず。秋冬は陽気変る故水すくなし。血は多くへれども死なず。気多くへれば忽(たちまち)死す。吐血・金瘡・産後など、陰血大に失する者は、血を補へば、陽気いよいよつきて死す。気を補へば、生命をたもちて血も自(おのずから)生ず。古人も「血脱して気を補ふは、古聖人の法なり」、といへり。人身は陽常にすくなくして貴とく、陰つねに多くしていやし。故に陽を貴とんでさかんにすべし。陰をいやしんで抑ふべし。元気生生すれば真陰も亦生ず。陽盛(さかん)なれば陰自(おのずから)長ず。陽気を補へば陰血自生ず。もし陰不足を補はんとて、地黄・知母・黄栢等、苦寒の薬を久しく服すれば、元陽をそこなひ、胃の気衰て、血を滋生せずして、陰血も亦消ぬ。又、陽不足を補はんとて、烏附(うぶ:トリカブト)等の毒薬を用ゆれば、邪火を助けて陽気も亦亡ぶ。是は陽を補ふにはあらず。丹渓(の)陽有余陰不足論は何の経に本づけるや、其本拠を見ず。もし丹渓一人の私言ならば、無稽の言信じがたし。易道の陽を貴とび、陰を賎しむの理にそむけり。もし陰陽の分数を以其多少をいはゞ、陰有余陽不足とは云べし。陽有余陰不足とは云がたし。後人其偏見にしたがひてくみするは何ぞや。凡(およそ)識見なければ其才弁ある説に迷ひて、偏執に泥(なず)む。丹渓はまことに古よりの名医なり。医道に功あり。彼補陰に専なるも、定めて其時の気運に宜しかりしならん。然れども医の聖にあらず。偏僻の論、此外にも猶多し。打まかせて悉くには信じがたし。功過相半せり。其才学は貴ぶべし。其偏論は信ずべからず。王道は偏なく党なくして平々なり。丹渓は補陰に偏して平々ならず。医の王道とすべからず。近世は人の元気漸(ようやく)衰ろふ。丹渓が法にしたがひ、補陰に専ならば、脾胃をやぶり、元気をそこなはん。只東垣が脾胃を調理する温補の法、医中の王道なるべし。明の医の作れる軒岐救生論、類経等の書に、丹渓を甚(はなはだ)誹(そし)れり。其説頗(すこぶ)る理あり。然れども是亦一偏に僻して、丹渓が長ずる所をあはせて、蔑(ないがしろ)にす。枉(まが)れるをためて直(なおき)に過と云べし。凡古来術者の言、往々偏僻多し。近世明季の医、殊に此病あり。択んで取捨すべし。只、李中梓が説は、頗(すこぶる)平正にちかし。 
巻第三 / 飲食上 

 

(301)人の身は元気を天地にうけて生ずれ共、飲食の養なければ、元気うゑて命をたもちがたし。元気は生命の本也。飲食は生命の養也。此故に、飲食の養は人生日用専一の補にて、半日もかきがたし。然れ共、飲食は人の大欲にして、口腹の好む処也。其このめるにまかせ、ほしゐまゝにすれば、節に過て必(ず)脾胃をやぶり、諸病を生じ、命を失なふ。五臓の初(はじめ)て生ずるは、腎を以(て)本とす。生じて後は脾胃を以(て)五臓の本とす。飲食すれば、脾胃まづ是をうけて消化し、其精液を臓腑におくる。臓腑の脾胃の養をうくる事、草木の土気によりて生長するが如し。是を以(て)養生の道は先(まず)脾胃を調るを要とす。脾胃を調るは人身第一の保養也。古人も飲食を節にして、その身を養ふといへり。  
(302)人生日々に飲食せざる事なし。常につゝしみて欲をこらへざれば、過やすくして病を生ず。古人「禍は口よりいで、病は口より入」といへり。口の出しいれ常に慎むべし。  
(303)論語、郷党篇に記せし聖人の飲食の法、是養生の要なり。聖人の疾を慎み給ふ事かくの如し。法とすべし。  
(304)飯はよく熱して、中心まで和らかなるべし。こはくねばきをいむ。煖なるに宜し。羮(あつもの)は熱きに宜し。酒は夏月も温なるべし。冷飲は脾胃をやぶる。冬月も熱飲すべからず。気を上せ、血液をへらす。  
(305)飯を炊ぐ法多し。たきぼし(:普通に炊く)は壮実なる人に宜し。ふたたびいい(305:湯を入れ二度炊き)は積聚気滞(しゃくじゅきたい:胃けいれん)ある人に宜し。湯取飯(ゆとりいい:水を多くして炊く)は脾胃虚弱の人に宜し。粘りて糊の如くなるは滞塞す。硬(こわ)きは消化しがたし。新穀の飯は性つよくして虚人はあしゝ。殊に早稲は気を動かす。病人にいむ。晩稲は性かろくしてよし。  
(306)凡(すべて)の食、淡薄なる物を好むべし。肥濃・油膩の物多く食ふべからず。生冷・堅硬なる物を禁ずべし。あつ物、只一によろし。肉も一品なるべし。さい(306)は一二品に止まるべし。肉を二かさぬべからず。又、肉多くくらふべからず。生肉をつゞけて食ふべからず。滞りやすし。羹に肉あらば、さい(306)には肉なきが宜し。  
(307)飲食は飢渇をやめんためなれば、飢渇だにやみなば其上にむさぼらず、ほしゐままにすべからず。飲食の欲を恣にする人は義理をわする。是を口腹の人と云(いい)いやしむべし。食過たるとて、薬を用ひて消化すれば、胃気、薬力のつよきにうたれて、生発の和気をそこなふ。おしむべし。食飲する時、思案し、こらへて節にすべし。心に好み、口に快き物にあはゞ、先(まず)心に戒めて、節に過ん事をおそれて、恣にすべからず。心のちからを用ひざれば、欲にかちがたし。欲にかつには剛を以すべし。病を畏るゝには怯(つたな)かるべし。つたなきとは臆病なるをいへり。  
(308)珍美の食に対すとも、八九分にてやむべし。十分に飽き満るは後の禍あり。少しの間、欲をこらゆれば後の禍なし。少のみくひて味のよきをしれば、多くのみくひてあきみちたるに其楽同じく、且後の災なし。万のむくひて味のよきをしれば、多くのみくひて、あきみちたるに其楽同じく、且後の災なし。万に事十分にいたれば、必わざはひとなる。飲食尤満意をいむべし。又、初に慎めば必後の禍なし。  
(309)五味偏勝とは一味を多く食過すを云。甘き物多ければ、腹はりいたむ。辛き物過れば、気上りて気へり、瘡(かさ)を生じ、眼あしゝ。鹹(しおはゆ)き物多ければ血かはき、のんどかはき、湯水多くのめば湿を生じ、脾胃をやぶる。苦き物多ければ脾胃の生気を損ず。酸き物多ければ気ちゞまる。五味をそなへて、少づゝ食へば病生ぜず。諸肉も諸菜も同じ物をつゞけて食すれば、滞りて害あり。  
(310)食は身をやしなふ物なり。身を養ふ物を以、かへつて身をそこなふべからず。故に、凡(そ)食物は性よくして、身をやしなふに益ある物をつねにゑらんで食ふべし。益なくして損ある物、味よしとてもくらふべからず。温補して気をふさがざる物は益あり。生冷にして瀉(はき)下し、気をふさぎ、腹はる物、辛くし(て)熱ある物、皆損あり。 
(311)飯はよく人をやしなひ、又よく人を害す。故に飯はことに多食すべからず。常に食して宜しき分量を定むべし。飯を多くくらへば、脾胃をやぶり、元気をふさぐ。他の食の過たるより、飯の過たるは消化しがたくして大いに害あり。客となりて、あるじ心を用ひてまうけたる品味を、箸を下さゞれば、主人の盛意を空しくするも快からずと思はゞ、飯を常の時より半減してさい(306)の品味を少づゝ食すべし。此の如くすればさい多けれど食にやぶられず。飯を常の如く食して、又魚鳥などの、さい(306)数品多くくらへば必(ず)やぶらる。飯後に又茶菓子ともち(311)・餌(だんご)などくらひ、或後段とて麪類など食すれば、飽満して気をふさぎ、食にやぶらる。是常の分量に過れば也。茶菓子・後段は分外の食なり。少食して可也。過すべからず。もし食後に小食せんとおもはゞ、かねて飯を減ずべし。  
(312)飲食の人は、人これをいやしむ。其小を養つて大をわするゝがためなりと、孟子ののたまへるごとく、口腹の欲にひかれて道理をわすれ、只のみくひ、あきみちん事をこのみて、腹はりいたみ、病となり、酒にゑひて乱に及ぶは、むけにいやしむべし。  
(313)夜食する人は、暮て後、早く食すべし。深更にいたりて食すべからず。酒食の気よくめぐり、消化して後ふすべし。消化せざる内に早くふせば病となる。夜食せざる人も、晩食の後、早くふすべからず。早くふせば食気とゞこをり、病となる。凡夜は身をうごかす時にあらず。飲食の養を用ひず、少うゑても害なし。もしやむ事を得ずして夜食すとも、早くして少きに宜し。夜酒はのむべからず。若(もし)のむとも、早くして少のむべし。  
(314)俗のことばに、食をひかへすごせば、養たらずして、やせおとろふと云。是養生知不人の言也。欲多きは人のむまれ付なれば、ひかえ過すと思ふがよきほどなるべし。  
(315)すけ(好)る物にあひ、うゑたる時にあたり、味すぐれて珍味なる食にあひ、其品おほく前につらなるとも、よきほどのかぎりの外は、かたくつゝしみて其節にすぐすべからず。さい(306)多く食ふべからず。魚鳥などの味の濃く、あぶら有て重き物、夕食にあしし。菜類も薯蕷(やまのいも)、胡蘿蔔(にんじん)、菘菜(うきな)、芋根(いも)、慈姑(くわい)などの如き、滞りやすく、気をふさぐ物、晩食に多く食ふべからず。食はざるは尤よし。  
(320)飯のすゑり、魚のあざれ、肉のやぶれたる、色のあしき物、臭(か)のあしき物、にえばな(320)をうしなへる物くらはず。朝夕の食事にあらずんばくらふべからず。又、早くしていまだ熟せず、或いまだ生ぜざる物根をほりとりてめだちをくらふの類、又、時過ぎてさかりを失へる物、皆、時ならざる物也。くらふべからず。是論語にのする処、聖人の食し給はざる物なり。聖人身を慎み給ふ、養生の一事なり。法とすべし。又、肉は多けれども、飯の気にかたしめずといへり。肉を多く食ふべからず。食は飯を本とす。何の食も飯より多かるべからず。 
(321)飲食の内、飯は飽ざれば飢を助けず。あつものは飯を和せんためなり。肉はあかずしても不足なし。少くらって食をすゝめ、気を養ふべし。菜は穀肉の足らざるを助けて消化しやすし。皆その食すべき理あり。然共多かるべからず。  
(322)人身は元気を本とす。穀の養によりて、元気生々してやまず。穀肉を以元気を助くべし。穀肉を過して元気をそこなふべからず。元気穀肉にかてば寿(いのちなが)し。穀肉元気に勝てば夭(みじか)し。又古人の言に穀はかつべし。肉は穀にかたしむべからずといへり。  
(323)脾胃虚弱の人、殊(ことに)老人は飲食にやぶられやすし。味よき飲食にむかはゞ忍ぶべし。節に過べからず。心よはきは慾にかちがたし。心つよくして慾にかつべし。  
(324)交友と同じく食する時、美饌にむかえば食過やすし。飲食十分に満足するは禍の基なり。花は半開に見、酒は微酔にのむといへるが如くすべし。興に乗じて戒を忘るべからず。慾を恣にすれば禍となる。楽の極まれるは悲の基なり。  
(325)一切の宿疾を発する物をば、しるして置きてくらふべからず。宿疾とは持病也。即時に害ある物あり。時をへて害ある物あり。即時に傷なしとて食ふべからず。  
(326)傷食の病あらば、飲食をたつべし。或食をつねの半減し、三分の二減ずべし。食傷の時はやく温湯に浴すべし。魚鳥の肉、魚鳥のひしほ、生菜、油膩の物、ねばき物、こわき物、もちだんご、つくり菓子、生菓子などくらふべからず。  
(327)朝食いまだ消化せずんば、昼食すべからず。点心などくらふべからず。昼食いまだ消化せずんば、夜食すべからず。前夜の宿食、猶滞らば、翌朝食すべからず。或半減し、酒肉をたつべし。およそ食傷を治する事、飲食をせざるにしくはなし。飲食をたてば、軽症は薬を用ずしていゆ。養生の道しらぬ人、殊に婦人は智なくして食滞の病にも早く食をすゝむる故、病おもくたる。ねばき米湯など殊に害となる。みだりにすゝむべからず。病症により、殊に食傷の病人は、一両日食せずしても害なし。邪気とゞこほりて腹みつる故なり。  
(328)煮過してにえばな(320)を失なへる物と、いまだ煮熟せざる物くらふべからず。魚を煮るにに煮ゑざるはあしゝ。煮過してにえばなを失なへるは味なく、つかへやすし。よき程の節あり。魚を蒸たるは久しくむしても、にえばなを失なはず。魚をにるに水おおきは味なし。此事、李笠翁が閑情寓寄にいへり。  
(329)聖人其(その)醤(あえしお)を得ざればくひ給わず。是養生の道也。醤とはひしほ(:なめ味噌)にあらず、其物にくはふべきあはせ物なり。今こゝにていはゞ、塩酒、醤油、酢、蓼、生薑、わさび、胡椒、芥子、山椒など、各其食物に宜しき加へ物あり。これをくはふるは其毒を制する也。只其味のそなはりてよからん事をこのむにあらず。  
(330)飲食の慾は朝夕におこる故、貧賤なる人もあやまり多し。況富貴の人は美味多き故、やぶられやすし。殊に慎むべし。中年以後、元気へりて、男女の色欲はやうやく衰ふれども、飲食の慾はやまず。老人は脾気よはし。故に飲食にやぶられやすし。老人のにはかに病をうけて死するは、多くは食傷也。つゝしむべし。 
(331)諸(もろもろ)の食物、皆あたらしき生気る物をくらふべし。ふるくして臭(か)あしく、色も味もかはりたる物、皆気をふさぎて、とゞこほりやすし。くらふべからず。  
(332)すける物は脾胃のこのむ所なれば補となる。李笠翁も本姓甚すける物は、薬にあつべしといへり。尤此理あり。されどすけるまゝに多食すれば、必やぶられ、好まざる物を少くらふにおとる。好む物を少食はゞ益あるべし。  
(333)清き物、かうばしき物、もろく和かなる物、味かろき物、性よき物、此五の物をこのんで食ふべし。益ありて損なし。是に反する物食ふべからず。此事もろこしの食にも見えたり。  
(334)衰弱虚弱の人は、つねに魚鳥の肉を味よくして、少づゝ食ふべし。参ぎ(115)の補にまされり。性よき生魚を烹炙よくすべし。塩つけて一両日過たる尤よし。久しければ味よからず。且滞りやすし。生魚の肉みそ(334)につけたるを炙煮て食ふもよし。夏月は久しくたもたず。  
(335)脾虚の人(:胃腸の弱い人)は生魚をあぶりて食するに宜し。煮たるよりつかえず。小魚は煮て食するに宜し。大なる生魚はあぶりて食ひ、或煎酒(:煮詰めた料理用の酒)を熱くして、生薑わさびなどを加え、浸し食すれば害なし。  
(336)大魚は小魚より油多くつかえやすし。脾虚の人は多食すべからず。薄く切て食へばつかえず。大なる鯉・鮒大に切、或全身を煮たるは、気をふさぐ。うすく切べし。蘿蔔(だいこん)、胡蘿蔔(にんじん)、南瓜、菘菜(うきな)なども、大に厚く切て煮たるは、つかえやすく、薄く切て煮るべし。  
(337)生魚、味をよく調へて食すれば、生気ある故、早く消化しやすくしえつかえず。煮過し、又は、ほして油多き肉、或塩につけて久しき肉は、皆生気なき隠物なり。滞やすし。此理をしらで生魚より塩蔵をよしとすべからず。  
(338)甚腥く脂多き魚食ふべからず。魚のわたは油多し。食べからず。なしもの(3380,3381:塩辛)ことにつかえやすし。痰を生ず。  
(339)さし身、鱠(なます)は人により斟酌すべし。酢過たるをいむ。虚冷の人はあたゝめ食ふべし。鮓は老人・病人食ふべからず、消化しがたし。殊に未熟の時、又熟し過て日をへたる、食ふべからず。ゑびの鮓毒あり。うなぎの鮓消化しがたし。皆食ふべからず。大なる鳥の皮、魚の皮のあつきは、かたくして油多し。食ふべからず。消しがたし。  
(340)諸獣の肉は、日本の人、腸胃薄弱なる故に宜しからず。多く食ふべからず。烏賊・章魚など多く食ふべからず。消化しがたし。鶏子・鴨子、丸ながら煮たるは気をふさぐ。ふはふはと俗の称するはよし。肉も菜も大に切たる物、又、丸ながら煮たるは、皆気をふさぎてつかえやすし。 
(341)生魚あざらけきに塩を淡くつけ、日にほし、一両日過て少あぶり、うすく切て酒にひたし食ふ。脾に妨なし。久しきは滞りやすし。  
(342)味噌、性和(やわらか)にして脾胃を補なふ。たまりと醤油はみそより性するどなり。泄瀉(嘔吐や下痢)する人に宜しからず。酢は多く食ふべからず。脾胃に宜しからず。然れども積聚(しゃくじゅ:胃けいれん)ある人は小食してよし。げん醋(342:げんそ:濃い酢)を多く食ふべからず。  
(343)脾胃虚して生菜をいむ人は、乾菜を煮食ふべし。冬月蘿蔔(らふく)をうすく切りて生ながら日に乾す。蓮根、牛蒡、薯蕷(やまのいも)、うどの根、いづれもうすく切りてほす。椎蕈、松露、石茸(いわたけ)、もほしたるがよし。松蕈塩漬よし。壷廬(ゆうがお)切て塩に一夜つけ、おしをかけ置てほしたるがよし。瓠畜(かんぴょう)もよし。白芋の茎熱湯をかけ日にほす。是皆虚人の食するに宜し。枸杞(くこ)、五加(うこぎ)、ひゆ (343)、菊、蘿摩(らも:ちぐさ)、鼓子花(ひるがお)葉など、わか葉をむし、煮てほしたるをあつ物とし、味噌にてあへ物とす。菊花は生にてほす。皆虚人に宜し。老葉はこはし。海菜(みる)は冷性也。老人・虚人に宜しからず。昆布多く食へば気をふさぐ。  
(344)食物の気味、わが心にかなはざる物は、養とならず。かへつて害となる。たとひ我がために、むつかしくこしらへたる食なりとも、心にかなはずして、害となるべき物は食ふべからず。又、其味は心にかなへり共、前食いまだ消化せずして、食ふ事を好まずば食すべからず。わざととゝのへて出来たる物をくらはざるも、快からずとて食ふはあしゝ。別に使令する家僕などにあたへて食はしむれば、我が食せずしても快し。他人の饗席にありても、心かなはざる物くらふべからず。又、味心にかなへりとて、多く食ふは尤あしゝ。  
(345)凡食飲をひかへこらゆる事久き間にあらず。飲食する時須臾の間、欲を忍ぶにあり。又、分量は多きにあらず。飯は只二三口、さい(306)は只一二片、少の欲をこらゑて食せざれば害なし。酒も亦しかり。多飲の人も少こらえて、酔過さゞれば害なし。  
(346)脾胃のこのむと、きらふ物をしりて、好む物を食し、きらふ物を食すべからず。脾胃の好む物は何ぞや。あたたかなる物、やはらかなる物、よく熟したる物、ねばりなき物、味淡くかろき物、にえばなの新に熟したる物、きよき物、新しき物、香よき物、性平和なる物、五味の偏ならざる物、是皆、脾胃の好む物なり。是、脾胃の養となる。くらふべし。  
(347)脾胃のきらふ物は生しき物、こはき物、ねばる物、けがらはしく清からざる物、くさき物、煮ていまだ熟せざる物、煮過してにえばな(320)を失へる物、煮て久しくなるもの、菓(このみ)のいまだ熟せざる物、ふるくして正味を失なへる物、五味の偏なる物、あぶら多くして味おもきもの、是皆、脾胃のきらふ物也。是をくらへば脾胃を損ず。食ふべからず。  
(348)酒食を過し、或は時ならずして飲食し、生冷の物、性あしく病をおこす物をくひて、しばしば泄瀉すれば、必胃の気へる。久しくかさなりては、元気衰へて短命なり。つゝしむべし。  
(349)塩と酢と辛き物と、此三味を多く食ふべからず。此三味を多くくらひ、渇きて湯を多くのめば、湿を生じ、脾をやぶる。湯・茶・羹多くのむべからず。右の三味をくらつて大にかはかば葛の粉か天花粉を熱湯にたてゝ、のんで渇をとゞむべし。多く湯をのむ事をやめんがためなり。葛などのねば湯は気をふさぐ。  
(350)酒食の後、酔飽せば、天を仰で酒食の気をはくべし。手を以面及腹・腰をなで、食気をめぐらすべし。 
(351)わかき人は食後に弓を射、鎗、太刀を習ひ、身をうごかし、歩行すべし。労動を過すべからず。老人も其気体に応じ、少労動すべし。案(おしまずき)によりかゝり、一処に久しく安坐すべからず。気血を滞らしめ、飲食消化しがたし。  
(352)脾胃虚弱の人、老人などは、もち(311)・だんご(352)、饅頭などの類、堅くして冷たる物くらふべからず。消化しがたし。つくりたる菓子、生菓子の類くらふ事斟酌すべし。おりにより、人によりて甚害あり。晩食の後、殊にいむべし。  
(353)古人、寒月朝ごとに、性平和なる薬酒を少のむべし。立春以後はやむべしといへり。人により宜かるべし。焼酒(しょうちゅう)にてかもしたる薬酒は用ゆべからず。  
(354)肉は一臠を食し、菓(くだもの)は一顆(ひとつぶ)を食しても、味をしる事は肉十臠を食し、菓百顆を食したると同じ。多くくひて胃をやぶらんより、少くひて其味をしり、身に害なきがまされり。  
(355)水は清く甘きを好むべし。清からざると味あしきとは用ゆべからず。郷土の水の味によって、人の性(うまれつき)かはる理なれば、水は尤ゑらぶべし。又悪水のもり入たる水、のむべからず。薬と茶を煎ずる水、尤よきをゑらぶべし。  
(356)天よりすぐに下る雨水は性よし、毒なし。器にうけて薬と茶を煎ずるによし。雪水は尤よし。屋漏(あまだり)の水、大毒あり。たまり水はのむべからず。たまり水の地をもり来る水ものむべからず。井のあたりに、汚濁のたまり水あらしむべからず。地をもり通りて井に入る甚いむべし。  
(357)湯は熱きをさまして、よき比の時のむはよし。半沸きの湯をのめば腹はる。  
(358)食すくなければ、脾胃の中に空処ありて、元気めぐりやすく、食消化しやすくして、飲食する物、皆身の養となる。是を以病すくなくして身つよくなる。もし食多くして腹中にみつれば、元気のめぐるべき道をふさぎ、すき間なくして食消せず。是を以のみくふ物、身の養とならず、滞りて元気の道をふさぎ、めぐらずして病となる。甚しければもだえて死す。是食過て腹にみち、気ふさがりて、めぐらざる故也。食後に病おこり、或頓死するは此故也。凡大酒・大食する人は、必短命なり。早くやむべし。かへすがへす老人は腸胃よはき故に、飲食にやぶられやすし。多く飲食すべからず。おそるべし。  
(359)およそ人の食後に俄にわづらひて死ぬるは、多くは飲食の過て、飽満し、気をふさげばなり。初まづ生薑に塩を少加えてせんじ、多く飲しめて多く吐しむべし。其後食滞を消し、気をめぐらす薬を与ふべし。卒中風として、蘇合円・延齢丹など与ふべからず。あしゝ。又少にても食物を早く与ふべからず。殊ねばき米湯など、与ふべからず。気弥(いよいよ)塞りて死す。一両日は食をあたへずしてよし。此病は食傷なり。世人多くはあやまりて卒中風とす。その治応ぜず。  
(360)うえて食し、かはきて飲むに、飢渇にまかせて、一時に多く飲食すれば、飽満して脾胃をやぶり、元気をそこなふ。飢渇の時慎むべし。又飲食いまだ消化せざるに、又いやかさねに早く飲食すれば、滞りて害となる。よく消化して後、飲食を好む時のみ食ふべし。如此すれば、飲食皆養となる。 
(361)四時老幼ともに、あたたかなる物くらふべし。殊に夏月は伏陰内にあり。わかく盛なる人も、あたたかなる物くらふべし。生冷を食すべからず。滞やすく泄瀉しやすし。冷水多く飲むべからず。  
(362)夏月、瓜菓・生菜多く食ひ、冷麪をしばしば食し、冷水を多く飲めば、秋必瘧痢(:下痢を伴う急性の発熱)を病む。凡病は故なくしてはおこらず。かねてつゝしむべし。  
(363)食後に湯茶を以口を数度すゝぐべし。口中清く、牙歯にはさまれる物脱し去る。牙杖にてさす事を用ひず。夜は温なる塩茶を以口をすゝぐべし。牙歯堅固になる。口をすゝぐには中下の茶を用ゆべし。是、東坡が説なり。  
(364)人、他郷にゆきて、水土かはりて、水土に服せず、わづらふ事あり。先豆腐を食すれば脾胃調(ととのい)やすし。是、時珍が食物本草の注に見えたり。  
(365)山中の人、肉食ともしくて、病すくなく命長し。海辺、魚肉多き里にすむ人は、病多くして命短し、と千金方にいへり。  
(366)朝早く、粥を温に、やはらかにして食へば、腸胃をやしなひ、身をあたため、津液を生ず。寒月尤よし。是、張来が説也。  
(367)生薑、胡椒、山椒、蓼、紫蘇、生蘿蔔(だいこん)、生葱(ひともじ)など、食の香気を助け、悪臭を去り、魚毒を去り、食気をめぐらすために、其食品に相宜しからき物を、少づゝ加へて毒を殺すべし。多く食すべからず。辛き物多ければ気をへらし、上升し、血液をかはかす。  
(368)朝夕飯を食するごとに、初一椀は羹ばかり食して、さい(306)を食せざれば、飯の正味をよく知りて、飯の味よし。後に五味のさい(306)を食して、気を養なふべし。初よりさい(306)をまじえて食へば、飯の正味を失なふ。後にさい(306)を食へば、さい(306)多からずしてたりやすし。是身を養ふによろしくて、又貧に処(す)るによろし。魚鳥・蔬菜のさい(306)を多く食はずして、飯の味のよき事を知るべし。菜肉多くくらへば、飯のよき味はしらず。貧民はさい(306)肉ともしくして、飯と羹ばかり食ふ故に、飯の味よく食滞の害なし。  
(369)臥にのぞんで食滞り、痰ふさがらば、少(すこし)消導の薬をのむべし。夜臥して痰のんどにふさがるはおそるべし。  
(370)日短き時、昼の間、点心(てんじん)食ふべからず。日永き時も、昼は多食はざるが宜し。 
(371)晩食は朝食より少くすべし。さい(306)肉も少きに宜し。  
(372)一切の煮たる物、よく熱して柔なるを食ふべし。こはき物、未熟物、煮過してにえばな(320)を失へる物、心にかなはざる物、食ふべからず。  
(373)我が家にては、飲食の節慎みやすし、他の饗席にありては烹調・生熱の節我心にかなはず。さい(306)品多く過やすし。客となりては殊に飲食の節つつしむべし。  
(374)飯後に力わざすべからず。急に道を行べからず。又、馬をはせ、高きにのぼり、険路に上るべからず。 
巻第四 / 飲食下 

 

(401)東坡(とうば)日(く)、「早晩の飲食一爵一肉に過す。尊客あれば之を三にす。へらすべくして、ますべからず。我をよぶ者あれば是を以つぐ。一に日(く)、分を安すんじて以福を養なふ。二に日(く)、胃を寛(ゆる)くして以気を養なふ。三に日(く)、費(ついえ)をはぶきて以財を養なふ」。東坡が此法、倹約養生のため、ともにしかるべし。  
(402)朝夕一さい(306)を用ゆべし。其上に醤(ひしお)か肉醢(ししびしお:塩辛)か或(あるいは)つけもの(402)か一品を加ふるもよし。あつものは、富める人も常に只一なるべし。客に饗するに二用るは、本汁、もし心に叶はずば、二の汁を用させん為也。常には無用の物也。唐の高侍郎と云し人、兄弟あつものと肉を二にせず、朝夕一品のみ用ゆ。晩食には只蔔匏(ふくほう)をくらふ。大根と夕がほとを云。范忠宣と云し富貴の人、平生肉をかさねず。其倹約養生二ながら則とすべし。  
(403)松蕈、竹筍、豆腐など味すぐれたる野菜は、只一種煮食すべし。他物と両種合わせ煮れば、味おとる。李笠翁が閑情萬寄にかくいへり。味あしければ腸胃に相応せずして養とならず。  
(404)もち(310)・餌(だんご)の新に成て再煮ずあぶらずして、即食するは消化しがたし。むしたるより、煮たるがやはらかにして、消化しやすし。'もち'は数日の後、焼煮て食ふに宣し。  
(405)朝食、肥濃の物ならば、晩食は必淡薄に宣し。晩食豊腴(ほうゆ)ならば、明朝の食はかろくすべし。  
(406)諸の食物、陽気の生理ある新きを食ふべし。毒なし。日久しく歴(へ)たる陰気欝滞(うったい)せる物、食ふべからず。害あり。煮過してにえばな(320)を失へるも同じ。  
(407)一切の食、陰気の欝滞せる物は毒あり。くらふべからず。郷党篇(きょうとうへん)にいへる、聖人の食し給はざる物、皆、陽気を失て陰物となれるなり。穀肉などふたをして時をへるは、陰鬱の気にて味を変ず。魚鳥の肉など久しく時をへたる、又、塩につけて久しくして、色臭(か)味変ず。是皆陽気を失へる也。菜蔬(さいそ)など久しければ、生気を失ひて味変ず。此如なるは皆陰物なり。腸胃に害あり。又、害なきも補養をなさず。水など新に汲むは陽気さかんにて、生気あり。久しきを歴(ふ)れば陰物となり、生気を失なふ。一切の飲食、生気を失ひて、味と臭(か)と色と少にても、かはりたるは食ふべからず。ほして色かはりたると、塩に浸して不損とは、陰物にあらず食ふに害なし。然共、乾物の気のぬけたると、塩蔵の久して、色臭(か)味変じたるも皆陰物也。食ふべからず。  
(408)夏月、暑中にふたをして、久しくありて、熱気に蒸欝(むしうつ)し、気味悪しくなりたる物、食ふべからず。冬月、霜に打れたる菜、又、のきの下に生じたる菜、皆くらべからず。是皆陰物なり。  
(409)瓜は風涼の日、及秋月清涼の日、食ふべからず。極暑の時食ふべし。  
(410)炙もち(311)・炙肉すでに炙りて、又、熱湯に少ひたし、火毒を去りて食ふべし。然れずは津液(しんえき:つばき)をかはかす。又、能喉痺(よくこうひ:慢性咽頭疾患)を発す。 
(411)茄子、本草等の書に、性好まずと云。生なるは毒あり、食ふべからず。煮たるも瘧痢(ぎゃくり:急性下痢)傷寒(しょうかん:高熱疾患)などには、誠に忌むべし。他病には、皮を去切(さりきり)て米みず(411)(しろみず:米のとぎ水)に浸し、一夜か半日を歴(へ)てやはらかに煮て食す。害なし。葛粉、水に溲(こね)て、切て線条(せんじょう)とし、水にて煮、又、みそ(334)汁に鰹魚(かつお)の末(まつ)を加へ、再煮て食す。瀉を止め、胃を補ふ。保護に益あり。  
(412)胃虚弱の人は、蘿蔔(だいこん)、胡蘿蔔(にんじん)、芋、薯蕷(やまのいも)、牛蒡(ごぼう)などうすく切てよく煮たる、食ふべし。大にあつくきりたると、煮ていまだ熟せざると、皆、脾胃(ひい)をやぶる。一度うすみそか、うすじょうゆにて煮、其汁にひたし置、半日か、一夜か間置て、再前の汁にて煮れば、大に切りたるも害なし、味よし。鶏肉、野猪(やちょ)肉なども此如くすべし。  
(413)蘿蔔は菜中の上品也。つねにに食ふべし。葉のこはきをさり、やはらかなる葉と根と、みそ(334)にて煮熟して食ふ。脾を補ひ痰(たん)を去り、気をめぐらす。大根の生しく辛きを食すれば、気へる。然ども食滞ある時、少食して害なし。  
(414)菘(な)は京都のはたけ菜水菜、いなかの京菜也。蕪(かぶ)の類也。世俗あやまりて、ほりいりなと訓ず。味よけれども性よからず。仲景日(く)、「薬中に甘草ありて、菘を食へば病除かず。根は九十月の比(ころ)食へば味淡くして可也。うすく切てくらふべし、あつく切たるは気をふさぐ。十一月以後、胃虚の人くらへば滞塞(たいそく)す」。  
(15)諸菓、寒具(ひがし)など、炙(あぶり)食へば害なし。味も可也。甜瓜(あまうり)は核(さね)を去て蒸食す。味よくして胃をやぶらず。熟柿も木練も皮共に、熱湯にてあたヽめ食すべし。乾柿(ほしがき)はあぶり食ふべし。皆、脾胃虚の人に害なし。梨子(なし)は大寒なり。蒸煮て食すれば、性やはらぐ。胃虚寒の人は、食ふべからず。  
(416)人は病症によりて禁宣(きんぎ)の食物各(おのおの)かはれり。よく其物の性を考がへ、其病に随ひて精(くわ)しく禁宣を定むべし。又、婦人懐胎(かいたい)の間、禁物多し。かたく守らしむべし。  
(417)豆腐には毒あり。気をふさぐ。されども新しきをにて、にえばな(320)を失はざる時、早く取あげ、生だいこん(4170,4171)のおろしたるを加へ食すれば害なし。  
(418)前食未だ消化せんば、後食相つぐべからず。  
(419)薬を服す時、あまき物、油膩(ゆに)の物、獣の肉、諸菓、もち(311)、餌(だんご)、生冷の物、一切気を塞ぐ物、食うべからず。服薬の時多食へば薬力とヾこほりて力なし。酒は只一盞(さん)に止るべし。補薬を服する日、ことさら此類いむべし。凡(およそ)薬を服する日は、淡き物を食して薬力をたすくすべし、味こき物を食して薬力を損ずべからず。  
(420)だいこん(4170,4171)、菘、薯蕷(やまのいも)、芋、慈姑(くわい)、胡蘿蔔(にんじん)、南瓜(ぼぶら)、大葱白(ひともじのしろね)等の甘き菜は、大に切て煮食すれば、つかへて気をふさぎ、腹痛す。薄く切べし。或(あるいは)辛き物をくはへ、又、物により酢を少(すこし)加るもよし。再び煮る事を右に記せり。又、此如の物、一時に二三品くらふべからず。又、甘き菜の類、およそつかえやすき物、つヾけ食ふべからず。生魚、肥肉、厚味の物つづけ食ふべからず。 
(421)薑(はじかみ:しょうが)を八九月食へば、来春眼をうれふ。  
(422)豆腐、菎蒻(こんにゃく)、薯蕷(やまのいも)、芋、慈姑(くわい)、蓮根などの類、豆油(しょうゆ)にて煮たるもの、既に冷へて温ならざるは食ふべからず。  
(423)暁の比(ころ)、腹中鳴動し、食つかへて腹中不快ば、朝食を減ずべし。気をふさぐ物、肉、菓など食ふべからず。酒を飲べからず。  
(424)飲酒の後、酒気残らば、もち(311)、餌(だんご)、諸穀食、寒具(ひがし)、諸菓、醴(あまざけ)、にごりざけ(424)、油膩(ゆに)の物、甘き物、気をふさぐ物、飲食すべからず。酒気めぐりつきて後、飲食すべし。  
(425)鳥獣のこはき肉、前日より豆油(しょうゆ)及みそ(334)汁を以煮て、その汁を用ひて翌日再煮れば、大に切たるも、やはらかになりて味よし。つかえず。蘿蔔(だいこん)も亦同じ。  
(426)鶻突羹(こつとつこう)は鮒魚(ふな:426)をうすく切て、山椒などくはへ、味噌にて久しく煮たるを云。脾胃(ひい)を補ふ。脾虚(ひきょ)の人、下血(げけつ)する病人などに宣し。大に切たるは気をふさぐ、あしヽ。  
(427)凡諸菓の核(さね)いまだ成ざるをくらふべからず、菓(このみ)に双仁(そうじん)ある物、毒あり。山椒、口をとぢて開かざるは、毒あり。  
(428)怒(いかり)の後、早すべからず。食後、怒るべからず。憂ひて食すべからず。食して憂ふべからず。  
(429)腹中の食いまだ消化せざるに、又食すれば、性よき物も毒となる。腹中、空虚になりて食すべし。  
(430)永夜、寒甚(はなはだし)き時、もし夜飲食して寒を防ぐに宣しくば、晩饌(ばんせん)の酒飯を、数口減ずべし。又、やむ事を得ずして、人の招に応じ、夜話に、人の許(もと)にゆきて食客とならば、晩そん(430)(ばんそん)の酒食をかさねて減ずべし。此如かにして、夜少飲食すればやぶれなし。夜食は、朝晩より進みやすし。心に任せて恣(ほしいまま)にすべからず。 
(431)朝夕の食、塩味をくらふ事すくなければ、のんどかはかず、湯茶を多くのまず。脾に湿を生ぜずして、胃気発生しやすし。  
(432)中華、朝鮮の人は、脾胃つよし。飯多く食し、六蓄の肉を多く食つても害なし。日本の人は是にことなり、多く穀肉を食すれば、やぶられやすし。是日本人の異国の人より体気(たいき)よはき故也。  
(433)空腹に、生菓食ふべからず。つくり菓子、多く食ふべからず。脾胃の陽気を損ず。  
(434)労倦(ろうけん)して多く食すれば、必眠り臥す事をこのむ。食して即臥(そくが)し、ねむれば、食気塞りてめぐらず、消化しがたくして病となる。故に労倦したる時は、くらふべからず。労をやめて後、食ふべし。食してねむらざるがため也。  
(435)古今医統(ここんいとう)に、百病の横夭(おうよう)は多く飲食による。飲食の患(うれい)は色欲に過たりといへり。色慾は楢も絶べし。飲食は半日もたつべからず。故飲食のためにやぶらるヽ事多し。食多ければ積聚(しゃくじゅ)となり、飲多ければ痰癖(たんぺき)となる。  
(436)病人の甚食せん事をねがふ物あり。くらひて害に成食物、又、冷水などは願に任せがたし。然共(しかれども)病人のきはめてねがふ物を、のんどにのみ入ずして、口舌に味はヽしめて其願を達するも、志を養ふ養生の一術也。およそ飲食を味はひてしるは舌なり。のんどにあらず。口中にかみて、しばしふくみ、舌に味はひて後は、のんどにのみこむも、口に吐出すも味をしる事は同じ。穀、肉、酒、羹、酒は、腹に入て臓腑(ぞうふ)を養なふ。此外の食は、養のためにあらず。のんどにのまず、腹に入らずとも有なん。食して身に害ある食物といへど、のんどに入(いら)ずして口に吐出せば害なし。冷水も同じ。久しく口にふくみて舌にこヽろみ、吐出せば害なし。水をふくめば口中の熱を去り、牙歯(がし)を堅くす。然共、むさぼり多くしてつヽしまざる人には、此法は用がたし。  
(437)多く物、諸のもち(311)、餌(もち)、ちまき(4370)、寒具(ひがし)、冷麪、麪類、饅頭、河濡(そばきり)、砂糖、醴(あまざけ)、焼酒、赤小豆(あずき)、酢、豆油(しょうゆ)、*魚(鮒:426)、泥鰌(どじょう)、蛤蜊(はまぐり)、鰻*(うなぎ)(4371)、鰕(えび)、章魚(たこ)、烏賊(いか)、鯖(さば)、鰤魚(ぶり)、しおから(338)、海鰌(くじら)、だいこん(417)、胡蘿蔔(にんじん)、薯蕷(やまのいも)、菘根(な)、蕪菁(かぶら)、油膩(ゆに)の物、肥濃(ひのう)の物。  
(438)老人、虚人、物、一切生冷の物、堅硬の物、稠黏(ちゅうねん)の物、油膩(ゆに)の物、冷麪、冷てこはき'もち'、餌(だんご)、粽(ちまき)、冷饅頭、并(ならびに)皮、糯飯(こわいい)、生味噌、醴(あまざけ)の製法好(よ)からざると、冷なると。海鰌(くじら)、海鰮(いわし)、鮪(しび)、梭魚(かます)、諸生菓、皆脾胃(ひい)発生の気をそこなふ。  
(439)凡(すべて)の人、食ふべからざる物、生冷の物、堅硬の物、未だ熟せぬ物、ねばき物、ふるくして気味の変じたる物、製法心に叶はざる物、塩からき物、酢の過たる物、にえばな(320)を失へる物、臭(か)悪き物、色悪き物、味変じたる物、魚餒(あざれ)、肉敗たる、豆腐の日をへたると、味あしきと、にえばな(320)を失へると、冷たると、索麪(そうめん)に油あると、諸品煮て未だ熟せずと、灰(あく)有る酒、酸味ある酒、いまだ時ならずして熟せざる物、すでに時過たる物、食ふべからず。夏月、雉(きじ)食ふべからず。魚鳥の皮こはき物、脂(あぶら)多き物、甚なまぐさき物、諸魚二目同じからざる物、腹下に丹の字ある物、諸鳥みづから死して足伸ざる物、諸獣毒箭(どくや)にあたりたる物、諸鳥毒をくらつて死したる物、肉の脯(ほじし)、屋濡水(あまだりみず)にぬれたる物、米器の内に入置たる肉、肉汁を器に入置て、気をとじたる物、皆毒あり。肉の脯(ほじし)、並塩につけたる肉、夏をへて臭味(しゅうみ)あしき、皆食ふべからず。  
(440)いにしへ、もろこしに食医の官あり。食養によつて百病を治すと云。今とても食養なくんばあるべからず。殊(ことに)老人は脾胃よはし、尤(もつとも)食養宣しかるべし。薬を用(もちう)るは、やむ事を得ざる時の事也。 
(441)同食(くいあわせ)の禁忌多し、其要(おも)なるをこヽに記す○猪(ぶた)肉に、生薑(しょうが)、蕎麦(そば)、こすい(胡*)(4410)、炊豆(いりまめ)、梅、牛肉、鹿(ろく)肉、鼈(すっぽん)、鶴、鶉(うずら)をいむ○牛肉に黍(きび)、韮(にら)、生薑、栗子をいむ○兎肉に生薑、橘皮、芥子(からし)、鶏、鹿(しし)、獺(かわうそ)○鹿に生菜、鶏、雉(きじ)、鰕(えび)をいむ○鶏肉と鶏子(たまご)とに芥子(からし)、蒜(にんにく)、生葱、糯米(もちごめ)、李子(すもも)、魚汁、鯉(こい)魚、兎、獺、鼈、雉を忌(いむ)○雉肉に蕎麦、木耳(きくらげ)、胡桃(くるみ)、鮒、鮎魚(なまず)、をいむ○野鴨(かも)に胡桃(くるみ)、木耳(きくらげ)をいむ○鴨子(あひるのたまご)に、李子、鼈肉○雀肉(すずめ)に李子、醤(ひしお)○鮒に芥子、蒜(にら)、あめ(4411)、鹿、芹(せり)、鶏、雉○魚酢(うおのすし)に麦醤(むぎひしお)、蒜(にんにく)、緑豆(ぶんどう)○鼈肉にひゆ (343)菜、芥子(からし)菜、桃子(もも)鴨(あひる)肉○蟹に柿、橘、棗(なつめ)○李子に蜜を忌(いむ)○橙、橘に獺(かわうそ)肉○棗に葱(ひともじ)○枇杷(びわ)に熱麪○楊梅(やまもも)に生葱(ねぎ)○銀杏(ぎんなん)に鰻*(うなぎ)(4371)○諸瓜に油餅○黍(きび)米に蜜○緑豆(ぶんどう)に榧子(かや)を食し合すれば人を殺す○ひゆ(343)に蕨(わらび)○乾筍(かんじゅん)に砂糖○紫蘇茎葉と鯉魚(こい)○草石蠶(ちょうろぎ)と諸魚○魚鱠(なます)と瓜、冷水○菜瓜と魚鱠と一にすべからず○鮓(すし)肉に髪有るは人を害す○麦醤、蜂蜜と同食すべからず○越瓜(しろうり)と鮓肉○酒後に茶を飲べからず腎をやぶる○酒後芥子及辛き物を食へば筋骨を緩くす○茶と榧(かや)と同時に食へば、身重し○和俗の云、蕨粉(わらびこ)を餅とし緑豆を'あん'にして食へば、人殺す。又日(いう)、このしろ(*魚)(4412)を、木棉子(わたざね)の火にて、やきて食すれば人を殺す。又日、胡椒(こしょう)と沙菰米(さごべ)と同食すれば人を殺す。又胡椒と桃、李、楊梅(やまもも)同食すべからず。又日、松簟(まつたけ)を米を貯(たくわえ)る器中に入おけるを食ふべからず。又日、南瓜(ぼぶら)を、魚膾(なます)に合せ食すべからず。  
(442)黄ぎ(115)(おうぎ:強壮剤の一)を服する人は、酒を多くのむべからず。甘草(かんぞう)を服する人は、菘菜(な)を食ふべからず。地黄(ぢおう)を服するには、蘿蔔(だいこん)、蒜(にんにく)、葱(ひともじ)の三白をいむ。菘(な)は忌(いま)ず。荊芥(けいがい)を服するには生魚をいむ。土茯苓(さんきらい)を服するには茶をいむ。凡(およそ)、此如類はかたく忌むべし。薬と食物とのおそれいむは、自然の理なり。まちん(番木*)の鳥を殺し、磁石の針を吸の類も、皆天然の性也。此理疑ふべからず。  
(443)一切の食物の内、園菜(そののな)、極めて穢(けがら)はし。其根葉に久しくそみ入たる糞汚(ふんお)、にはかに去がたし、水桶を定め置、水を多く入て菜をひたし、上におもりをおき、一夜か一日か、つけ置取出し、印子(はけ)を以てその根葉茎をすり洗ひ、清くして食すべし。此事、近年、李笠翁(りりゅうおう)が書に見えたり。もろこしには、神を祭るに園菜を用ひずして、山菜水菜を用ゆ。園菜も、瓜、茄子(なすび)、壺盧(ゆうがお)、冬瓜(とうが)などはけがれなし。  
飲酒  
(444)酒は天の美禄なり。少のめば陽気を助け、血気をやはらげ、食気をめぐらし、愁(うれい)を去り、興を発して、甚人に益あり。多くのめば、又よく人を害する事、酒に過たる物なし。水火の人をたすけて、又よく人に災あるが如し。邵尭夫(しょうぎょうふ)の詩に、「美酒を飲て微酔せしめて後」、といへるは、酒を飲の妙を得たりと、時珍(じちん)いへり。少のみ、少酔へるは、酒の禍なく、酒中の趣を得て楽多し。人の病、酒によって得るもの多し。酒を多くのんで、飯をすくなく食ふ人は、命短し。かくのごとく多くのめば、天の美禄を以、却て身をほろぼす也。かなしむべし。  
(445)酒を飲には、各(おのおの)人によつてよき程の節あり。少のめば益多く、多くのめば損多し。性謹厚なる人も、多飲を好めば、むさぼりてみぐるしく、平生の心を失ひ、乱に及ぶ。言行ともに狂せるがごとし。其平生とは似ず、身をかへり見慎むべし。若き時より早くかへり見て、みずから戒しめ、父兄もはやく子弟を戒(いまし)むべし。久しくならへば性となる。くせになりては一生改まりがたし。生れ付て飲量すくなき人は、一二盞(さん)のめば、酔て気快く楽(たのしみ)あり。多く飲む人と其楽同じ。多飲するは害多し。白楽天が詩に、「一飲一石の者。徒に多を以て貴しと為す。其の酩酊の時に及て。我与亦異ること無し。笑て謝す多飲の者。酒銭徒に自ら費す」といへるはむべ也。  
(446)凡(そ)酒はただ朝夕の飯後にのむべし。昼と夜と空腹に飲べからず。皆害あり。朝間空腹にのむは、殊更脾胃をやぶる。  
(447)凡(そ)酒は夏冬ともに、冷飲熱飲に宣しからず。温酒をのむべし。熱飲は気升(のぼ)る。冷飲は痰をあつめ、胃をそこなふ。丹渓は、酒は冷飲に宣しといへり。然れ共多くのむ人、冷飲すれば脾胃を損ず。少飲む人も、冷飲すれば、食気を滞らしむ。凡酒をのむは、其温気をかりて、陽気を助け、食滞をめぐらさんがため也。冷飲すれば二の益なし。温酒の陽を助け、気をめぐらすにしかず。  
(448)酒をあたヽめ過してじん(=にえばな)(320)を失へると、或温めて時過、冷たると、二たびあたヽめて味の変じたると、皆脾胃をそこなふ。のむべからず。  
(449)酒を人にすヽむるに、すぐれて多く飲む人も、よき程の節をすぐせばくるしむ。若(もし)その人の酒量をしらずんば、すこししひて飲しむべし。其人辞してのまずんば、その人にまかせて、みだりにしひずして早くやむべし。量にみたず、すくなくて無興(ぶきょう)なるは害なし。すぎては必人に害あり。客に美饌を饗しても、みだりに酒をしひて苦ましむるは情なし。大に酔しむべからず。客は、主人しひずとも、つねよりは少多くのんで酔べし。主人は酒を妄(みだり)にしひず。客は、酒を辞せず。よき程にのみ酔て、よろこびを合せて楽しめるこそ、是宣しかるべけれ。  
(450)市にかふ酒に、灰を入たるは毒あり。酸味あるも飲べからず。酒久しくなりて味変じたるは毒あり。のむべからず。濁酒のこきは脾胃に滞り、気をふさぐ。のむべからず。醇酒の美なるを、朝夕飯後に少のんで、微酔すべし。醴酒(れいしゅ:あまざけ)は製法精(くわし)きを少熱飲すれば、胃を厚くす、あしきを冷飲すべからず。 
(451)五湖漫聞(ごこまんぶん)といへる書に、多く長寿の人の姓名と年数を載て、「其人皆老に至て衰ず。之問ふ皆酒を飲まず」といへり。今わが里の人を試みるに、すぐれて長寿の十人に九人は皆酒を飲ず人なり。酒を多く飲む人の長寿なるはまれなり。酒は半酔にのめば長生の薬となる。  
(452)酒をのむに、甘き物をいむ。又、酒後辛き物をいむ。人の筋骨をゆるくす。酒後焼酒をのむべからず。或一時に合のめば、筋骨をゆるくし煩悶す。  
(453)焼酒(しょうちゅう)は大毒あり、多く飲べからず。火を付てもえやすきを見て、大熱なる事を知るべし。夏月は、伏陰内にあり、又、表ひらきて酒毒肌に早くもれやすき故、少のんでは害なし。他月はのむべからず。焼酒にて造れる薬酒多く呑べからず、毒にあてらる。薩摩のあはもり、肥前の火の酒、猶、辛熱甚し。異国より来る酒、のむべからず、性しれず、いぶかし。焼酒をのむ時も、のんで後にも熱物を食すべからず。辛き物焼味噌など食ふべからず。熱湯のむべからず。大寒の時も焼酒をあたヽめ飲べからず。大に害あり。京都の南蛮酒も焼酒にて作る。焼酒の禁(いましめ)と同じ。焼酒の毒にあたらば、緑豆(ぶんどう)粉、砂糖、葛粉、塩、紫雪など、皆冷水にてのむべし。温湯をいむ。  
飲茶 烟草附  
(454)茶、上代はなし。中世もろこしよりわたる。其後、玩賞して日用かくべからざる物とす。性冷にして気を下し、眠をさます。陳臓器は、久しくのめば痩てあぶらをもらすといへり。母けい(ぼけい)(454)、東坡(とうば)、李時珍など、その性よからざる事をそしれり。然ども今の世、朝より夕まで、日々茶を多くのむ人多し。のみ習へばやぶれなきにや。冷物なれば一時に多くのむべからず。抹茶は用る時にのぞんでは、炊(い)らず煮ず、故につよし。煎茶は、用る時炒て煮る故、やはらかなり。故につねには、煎茶を服すべし。飯後に熱茶少のんで食を消し、渇をやむべし。塩を入てのむべからず。腎をやぶる。空腹に茶を飲べからず。脾胃を損ず。濃茶は多く呑べからず。発生の気を損ず。唐茶は性つよし。製する時煮ざればなり。虚人病人は、当年の新茶、のむべからず。眼病、上気、下血、泄瀉(せつしゃ)などの患(うれい)あり。正月よりのむべし。人により、当年九十月よりのむも害なし。新茶の毒にあたらば、香蘇散、不換金、正気散、症によりて用ゆ。或白梅、甘草、砂糖、黒豆、生薑(しょうが)など用ゆべし。  
(455)茶は冷也。酒は温也。酒は気をのぼせ、茶は気を下す。酒に酔へばねむり、茶をのめばねむりさむ。その性うらおもて也。  
(456)あつものも、湯茶も、多くのむべからず。多くのめば脾胃に湿を生ず。脾胃は湿をきらふ。湯茶、あつものを飲む事すくなければ、脾胃の陽気さかんに生発して、面色光りうるはし。  
(457)薬と茶を煎ずるに、水をえらぶべし。清く味甘きをよしとす。雨水を用るも味よし。雨中に浄器を庭に置てとる。地水にまさる。然共是は久しくたもたず。雪水を尤(もっとも)よしとす。  
(458)茶を煎ずる法、よはき火にて炊り、つよき火にて煎ず。煎ずるに、堅き炭のよくもゆるを、さかんにたきて煎ず。たぎりあがる時、冷水をさす。此如すれば、茶の味よし。つよき火にて炊るべからず。ぬるくやはらかなる火にて煎ずべからず。右は皆もろこしの書に出たり。湯わく時、よくい(458:ジュズダマ)の生葉を加へて煎ずれば、香味尤よし。性よし。本草に、「暑月煎じのめば、胃を暖め気血をます」。  
(459)大和国中は、すべて奈良茶を毎日食す。飯に煎茶をそヽぎたる也。赤豆(あずき)、ささげ(*豆)(459)、蚕豆(そらまめ)、緑豆、陳皮、栗子(くり)、零余子(むかご)など加へ、点じ用ゆ。食を進め、むねを開く。  
(460)たばこは、近年、天正、慶長の比、異国よりわたる。淡婆姑(たんばこ)は和語にあらず。蛮語也。近世の中華の書に多くのせたり。又、烟草と云。朝鮮にては南草と云。和俗これを莨とう(460)とするは誤れり。ろうとうは別物なり。烟草は性毒あり。煙をふくみて眩ひ倒るヽ事あり。習へば大なる害なく、少は益ありといへ共、損多し。病をなす事あり。又、火災のうれひあり。習へばくせになり、むさぼりて後には止めがたし。事多くなり、いたつがはしく家僕を労す。初よりふくまざるにしかず。貧民は費(ついえ)多し。 
色慾を慎む  
(461)素問に、「腎者五臓の本」、といへり。然らば養生の道、腎を養ふ事をおもんずべし。腎を養なふ事、薬補をたのむべからず。只精気を保つてへらさず、腎気をおさめて動かすべからず。論語に曰(く)、わかきときは血気方(まさに)壮なり。「之を戒むること、色にあり」。聖人の戒守るべし。血気さかんなるにまかせ、色欲をほしいまゝにすれば、必(ず)先(ず)礼法をそむき、法外を行ひ、恥辱を取て面目をうしなふ事あり。時過て後悔すれどもかひなし。かねて、後悔なからん事を思ひ、礼法をかたく慎むべし。況(いわんや)精気をついやし、元気をへらすは、寿命を短くする本なり。おそるべし。年若き時より、男女の慾ふかくして、精気を多くへらしたる人は、生れ付さかんなれ共、下部の元気すくなくなり、五臓の根本よはくして、必短命なり。つゝしむべし。飲食・男女は人の大慾なり。恣になりやすき故、此二事、尤かたく慎むべし。是をつつしまざれば、脾腎の真気へりて、薬補・食補のしるしなし。老人は、ことに脾腎の真気を保養すべし。補薬のちからをたのむべからず。  
(462)男女交接の期(ご)は、孫思ばく(250)が千金方曰(く)。「人、年二十者は四日に一たび泄す。三十者は八日に一たび泄す。四十者は十六日に一拙す。五十者は二十日に一泄す。六十者は精をとぢてもらさず。もし体力さかんならば、一月に一たび泄す。気力すぐれて盛なる人、慾念をおさへ、こらへて、久しく泄さざれば、腫物を生ず。六十を過て慾念おこらずば、とぢてもらすべからず。わかくさかんなる人も、もしよく忍んで、一月に二度もらして、慾念おこらずば長生なるべし」今案ずるに、千金方にいへるは、平人の大法なり。もし性虚弱の人、食すくなく力よはき人は、此期にかかはらず、精気をおしみて交接まれなるべし。色慾の方に心うつれば、あしき事くせになりてやまず。法外のありさま、はづべし。つひに身を失ふにいたる。つつしむべし。右、千金方に、二十歳以前をいはざるに意あるべし。二十以前血気生発して、いまだ堅固ならず、此時しばしばもらせば、発生の気を損じて、一生の根本よはくなる。  
(463)わかく盛なる人は、殊に男女の情慾、かたく慎しんで、過すくなかるべし。慾念をおこさずして、腎気をうごかすべからず。房事を快くせんために、烏頭付子等の熱薬のむべからず。  
(464)達生録曰(く)、男子、年二十ならざる者、精気いまだたらずして慾火うごきやすし。たしかに交接を慎むべし。  
(465)孫真人が千金方に、房中補益説あり。年四十に至らば、房中の術を行ふべしとて、その説、頗(すこぶる)詳(つまびらか)なり。その大意は、四十以後、血気やうやく衰ふる故、精気をもらさずして、只しばしば交接すべし。如此(かくのごとく)すれば、元気へらず、血気めぐりて、補益となるといへる意(こころ)なり。ひそかに、孫思ばく(250)がいへる意をおもんみるに、四十以上の人、血気いまだ大に衰へずして、槁木死灰の如くならず、情慾、忍びがたし。然るに、精気をしばしばもらせば、大に元気をついやす故、老年の人に宜しからず。ここを以、四十以上の人は、交接のみしばしばにして、精気をば泄すべからず。四十以後は、腎気やうやく衰る故、泄さざれども、壮年のごとく、精気動かずして滞らず。此法行ひやすし。この法を行へば、泄さずして情慾はとげやすし。然れば、是気をめぐらし、精気をたもつ良法なるべし。四十歳以上、猶血気甚衰へざれば、情慾をたつ事は、忍びがたかるべし。忍べば却て害あり。もし年老てしばしばもらせば、大に害あり。故に時にしたがって、此法を行なひて、情慾をやめ、精気をたむつべし、とや。是によって精気をついやさずんば、しばしば交接すとも、精も気も少ももれずして、当時の情欲はやみぬべし。是古人の教、情欲のたちがたきをおさへずして、精気を保つ良法なるべし。人身は脾胃の養を本とすれども、腎気堅固にしてさかんなれば、丹田の火蒸上げて、脾土の気も亦温和にして、盛になる故、古人の曰、「脾を補ふは、腎を補なふにしかず」。若年より精気ををしみ、四十以後、弥(いよいよ)精気をたもちてもらさず、是命の根源を養なふ道也。此法、孫思ばく(250)後世に教へし秘訣にて、明らかに千金方にあらはせ共、後人、其術の保養に益ありて、害なき事をしらず。丹溪が如き大医すら、偏見にして孫真人が教を立し本意を失ひて信ぜず。此良術をそしりて曰(く)、聖賢の心、神仙の骨(こつ)なくんば、未易為。もし房中を以(て)補とせば、人を殺す事多からんと、各致余論にいへり。聖賢・神仙は世に難有ければ、丹溪が説の如くば、此法は行ひがたし。丹溪が説うたがふべき事猶多し。才学高博にして、識見、偏僻なりと云うべし。  
(466)情慾をおこさずして、腎気動かざれば害なし。若(し)情慾をおこし、腎気うごきて、精気を忍んでもらさざれば、下部に気滞りて、瘡セツ(466)を生ず。はやく温湯に浴し、下部をよくあたたむれば、滞れる気めぐりて、鬱滞なく、腫物などのうれひなし。此術、又知るべし。  
(467)房室の戒多し。殊に天変の時をおそれいましむべし。日蝕、月蝕、雷電、大風(たいふう)、大雨、大暑、大寒、虹げい(にじ)(467)、地震、此時房事をいましむべし。春月、雷初て声を発する時、夫婦の事をいむ。又、土地につきては、凡神明の前をおそるべし。日・月・星の下、神祠の前、わが父祖の神主の前、聖賢の像の前、是皆おそるべし。且我が身の上につきて、時の禁あり。病中・病後、元気いまだ本復せざる時、殊(ことに)傷寒、時疫、瘧疾(おこり)の後、腫物、癰疽いまだいえざる時、気虚、労損の後、飢渇の時、大酔・大飽の時、身労動し、遠路行歩につかれたる時、忿(いかり)・悲、うれひ、驚きたる時、交接をいむ。冬至の前五日、冬至の後十日、静養して精気を泄すべからず。又女子の経水、いまだ尽ざる時、皆交合を禁ず。是天地・地祇に対して、おそれつつしむと、わが身において、病を慎しむ也。若是を慎しまざれば、神祇のとがめ、おそるべし。男女共に病を生じ、寿を損ず。生るる子も亦、形も心も正しからず、或かたはとなる。禍ありて福なし。古人は胎教とて、婦人懐妊の時より、慎しめる法あり。房室の戒は胎教の前にあり。是天地神明の照臨し給ふ所、尤おそるべし。わが身及妻子の禍も、亦おそるべし。胎教の前、此戒なくんばあるべからず。  
(468)小便を忍んで房事を行なふべからず。龍脳・麝香を服して房に入べからず。  
(469)入門曰、婦人懐胎の後、交合して慾火を動かすべからず。  
(470)腎は五臓の本、脾は滋養の源也。ここを以、人身は脾腎を本源とす。草木の根本あるが如し。保ち養つて堅固にすべし。本固ければ身安し。 
巻第五 / 五官

 

(501)心は人身の主君也。故天君(てんくん)と云(いう)。思ふ事をつかさどる。耳目口鼻形此五は、きくと、見ると、かぐと、物いひ、物くふと、うごくと、各其事をつかさどる職分ある故に、五官と云。心のつかひ物なり。心は内にありて五官をつかさどる。よく思ひて、五官の是非を正すべし。天君を以て五官をつかふは明なり。五官を以(もって)天君をつかふは逆なり。心は身の主なれば、安楽ならしめて苦しむべからず。五官は天君の命をうけ、各官職をよくつとめて、恣(ほしいまま)なるべからず。  
(502)つねに居る処は、南に向ひ、戸に近く、明なるべし。陰欝(いんうつ)にしてくらき処に、常に居るべからず、気をふさぐ。又かがやき過たる陽明の処も、つねに居ては精神をうばふ。陰陽の中にかなひ、明暗相半(なかば)すべし。甚(はなはだ)明るければ簾(すだれ)をおろし、くらければ簾をかかぐべし。  
(503)臥(ふす)には必(かならず)東首(ひがしまくら)して生気(しょうげ)をうくべし。北首(きたまくら)して死気をうくべからず。もし君父近きにあらば、あとにすべからず。  
(504)坐するには正坐すべし。かたよるべからず。燕居(えんきょ)には安坐すべし。膝をかゞむべからず。又よりより牀几(しょうぎ)にこしかけ居れば、気めぐりてよし。中夏の人は、つねにかくのごとくす。  
(505)常に居る室も常に用る器も、かざりなく質朴にして、けがれなく、いさぎよかるべし。居室は風寒をふせぎ、身をおくに安からしむべし。器は用をかなへて、事かけざれば事たりぬ。華美を好めばくせとなり、おごりむさぼりの心おこりて、心を苦しめ、事多くなる。養生の道に害あり。坐する処、臥す処、少もすき間あらばふさぐべし。すき間の風と、ふき通す風は、人のはだえに通りやすくして、病おこる。おそるべし。夜臥して耳辺に風の来る穴あらば、ふさぐべし。  
(506)夜ふすには必側(かたわら)にそばたち、わきを下にしてふすべし。仰(あお)のきふすべからず。仰のきふせば気ふさがりて、おそはるゝ事あり。むねの上に手をおくべからず。寝入て気ふさがりて、おそはれやすし。此二(ふたつ)いましむべし。  
(507)夜ふして、いまだね入らざる間は、両足をのべてふすべし。ねいらんとする前に、両足をかがめ、わきを下にして、そばだちふすべし。是を獅子眠(ししめん)と云。一夜に五度いねかへるべし。胸腹の内に気滞らば、足をのべ、むね腹を手を以しきりになで下し、気上る人は、足の大指を、しきりに多くうごかすべし。人によりて、かくのごとくすれば、あくびをしばしばして、滞りたる邪気を吐出す事あり。大に吐出すをいむ。ね入らんとする時、口を下にかたぶけて、ふすべからず。ねぶりて後よだれ出てあしし。あふのきてふすべからず。おそはれやすし。手の両の大指をかがめ、残る四の指にて、にぎりてふせば、手むねの上をふさがずして、おそはれず。後には習となりて、ねぶりの内にもひらかず。此法 、病源候論と云医書に見えたり。夜臥(ふす)時に、のどに痰あらば必はくべし。痰あらばねぶりて後、おそはれくるしむ。老人は、夜臥す時、痰を去る薬をのむべし、と医書にいへるも、此ゆへなるべし。晩食夜食に、気をふさぎ痰をあつむる物、食ふべからず。おそはれん事をおそれてなり。  
(508)夜臥に、衣を以面をおほふべからず。気をふさぎ、気上る。夜臥に、燈をともすべからず。魂魄定まらず。もしともさば、燈をかすかにして、かくすべし。ねむるに口をとづべし。口をひらきてねむれば、真気を失なひ、又、牙歯早くをつ。  
(509)凡(そ)一日に一度、わが首(こうべ)より足に至るまで、惣身のこらず、殊につがひの節ある所、悉(ことごと)く人になでさすりおさしむる事、各所十遍ならしむべし。先百会の穴、次に頭の四方のめぐり、次に両眉の外、次に眉じり、又鼻ばしらのわき、耳の内、耳のうしろを皆おすべし。次に風池、次に項の左右をもむ。左には右手、右には左手を用ゆ。次に両の肩、次に臂(ひじ)骨のつがひ、次に腕、次に手の十指をひねらしむ。次に背をおさへ、うちうごかすべし。次に腰及腎堂をなでさする。次にむね、両乳、次に腹を多くなづる。次に両股、次に両膝、次に脛の表裏、次に足の踝(くるぶし)、足の甲、次に足の十指、次に足の心(うら)、皆、両手にてなでひねらしむ。是(これ)寿養叢書の説也。我手にてみづからするもよし。  
(510)入門に曰(く)、導引の法は、保養中の一事也。人の心は、つねに静なるべし。身はつねに動かすべし。終日安坐すれば、病生じやすし。久く立、久く行より、久く臥、久く坐するは、尤(もっとも)人に害あり。 
(511)導引の法を毎日行へば、気をめぐらし、食を消して、積聚(しゃくじゅ)を生ぜず。朝いまだおきざる時、両足をのべ、濁気をはき出し、おきて坐し、頭を仰(あおのき)て、両手をくみ、向(むこう)へ張出し、上に向ふべし。歯をしばしばたゝき、左右の手にて、項(うなじ)をかはるがはるおす。其次に両肩をあげ、くびを縮め、目をふさぎて、俄(にわか)に肩を下へさぐる事、三度。次に面(かお)を、両手にて、度々なで下ろし、目を、目がしらより目じりに、しばしばなで、鼻を、両手の中指にて六七度なで、耳輪(じりん)を、両手の両指にて挟み、なで下ろす事六七度、両手の中指を両耳に入、さぐり、しばしふさぎて両へひらき、両手をくみ、左へ引ときは、かうべ右をかへり見、右へ引ときは、左へかへりみる。 此如する事各三度。次に手の背にて、左右の腰の上、京門(けいもん)のあたりを、すぢかひに、下に十余度なで下し、次に両手を以、腰を按す。両手の掌(たなごころ)にて、腰の上下をしばしばなで下す。是食気をめぐらし、気を下す。次に手を以、臀の上を、やはらかに打事十余度。次に股膝を撫くだし、両手をくんで、三里(:膝頭の下)の辺をかゝえ、足を先へふみ出し、左右の手を前へ引、左右の足、ともに、此如する事しばしばすべし。次に左右の手を以、左右のはぎ(511:すね)の表裏を、なで下す事数度。次に足の心(うら)湧泉(ゆせん)の穴と云、片足の五指を片手にてにぎり、湧泉の穴を左手にて右をなで、右手にて左をなづる事、各数十度。又、両足の大指をよく引、残る指をもひねる。是術者のする導引の術なり。閑暇ある人は日々かくの如す。又、奴婢児童にをしへてはぎ(511)をなでさせ、足心(あしのうら)をしきりにすらせ、熱生じてやむ。又、足の指を引(ひか)しむ。朝夕此如すれば、気下り、気めぐり、足の痛を治す。甚(はなはだ)益あり。遠方へ歩行せんとする時、又は歩行して後、足心(あしのうら)を右のごとく按(お)すべし。  
(512)膝より下の、はぎのおもてうらを、人をして、手を以、しばしばなでくださせ、足の甲をなで、其後、足のうらを、しきりに多くなで、足の十指を引(ひか)すれば、気を下しめぐらす。みづからするは、尤(もっとも)よし。是良法なり。  
(513)気のよくめぐりて快き時に、導引按摩すべからず。又、冬月按摩をいむ事、内経に見えたり。身を労働して、気上る病には、導引、按摩ともにあしゝ。只身をしづかに動かし、歩行する事は、四時ともによし。尤(もっとも)飯後によろし。勇泉(ゆせん)の穴をなづる事も、四時ともによろし。  
(514)髪はおほくつけづるべし。気をめぐらし、上気をくだす。櫛の歯しげきは、髪ぬけやすくしてあしゝ。牙歯はしばしばたゝくべし。歯をかたくし、虫はまず。時々両の手を合せ、すりてあたゝめ、両眼をあたゝめのすべし。目を明らかにし、風をさる。よつて髪ぎはより、下額と面を上より下になづる事二十七遍、古人、両手はつねに面に在べしと云へるは、時々両手にて面をなづべしとなり。此の如すれば、気をめぐらし、上気をくだし、面色(かおいろ)をうるはしくす。左右の中指を以、鼻の両わきを多くなで、両耳の根を多くなづべし。  
(515)五更におきて坐し、一手にて、足の五指をにぎり、一手にて足の心をなでさする事、久しくすべし。此如して足心(あしのうら)熱せば、両手を用ひて、両足の指をうごかすべし。右の法、奴婢(ぬび)にも命じて、かくのごとくせしむ。或云(あるいはいう)、五更にかぎらず、毎夜おきて坐し、此如する事久しければ、足の病なし。上気を下し、足よはく、立がたきを治す。久しくしておこたらざれば、脚のよはきをつよくし、足の立かぬるをよくいやす。甚しるしある事を古人いへり。養老寿親書(ようろうじゅしんしょ)、及東坡(およびとうば)が説にも見えたり。  
(516)臥す時、童子に手を以(もって)合せすらせ、熱せしめて、わが腎堂を久しく摩(なで)しめ、足心(あしのうら)をひさしく摩(なで)しむべし。みつ゛から如此するもよし。又、腎堂の下、臀(しり)の上を、しつ゛かにうたしむべし。  
(517)毎夜ふさんとするとき、櫛(くし)にて髪をしきりにけつ゛り、湯にて足を洗ふべし。是よく気をめぐらす。又、臥(ふす)にのぞんで、熱茶に塩を加ヘ、口をすすぐべし。口中を清くし、牙歯(がし)を堅くす。下茶よし。  
(518)入門に曰(いわく)、年四十以上は、事なき時は、つねに目をひしぎて宜し。要事なくんば、開くべからず。  
(519)衾炉(きんろ)は、炉上に、櫓(やぐら)をまうけ、衾(ふすま)をかけて火を入、身をあたたむ。俗に、こたつと云。是にあたれば、身をあたため過し、気ゆるまり、身おこたり、気を上(のぼ)せ、目をうれふ。只(ただ)中年以上の人は、火をぬるくしてあたり、寒をふせぐべし。足を出して箕踞(ききょ)すべからず。わかき人は用る事なかれ。わかき人は、厳寒の時、只(ただ)炉火に対し、又、たき火にあたるべし。身をあたゝめ過すべからず。  
(520)凡(およそ)衣をあつくき、あつき火にあたり、あつき湯に浴し、久しく浴し、熱物を食して、身をあたゝめ過せば、気外(ほか)にもれて、気へり、気のぼる。是皆人の身に甚(はなはだ)害あり、いましむべし。 
(521)貴人の前に久しく侍べり、或(あるいは)公廨(くがい:役所)に久しく坐して、足しびれ、にはかに立(たつ)事ならずして、たふれふす事あり。立んとする前より、かねて、みつ゛から足の左右の大指を、しばしば動し、のべかがめすべし。かやうにすれば、しびれなえずして、立がたきのうれひなし。平日、時々両足(りょうそく)の大指を、のべかがめ、きびしくして、ならひとなれば、転筋(てんきん:コブラガエリ)のうれひなし。又、転筋したる時も、足の大指をしばしば動かせばやむ。是急を治するの法なり。しるべし。上気する人も、両足をのべて、大指をしばしば動すべし、気下る。此法、又人に益あり。  
(522)頭ノ辺リに火炉をおくべからず。気上る。  
(523)東垣(とうえん)が曰(く)、にはかに風寒にあひて、衣うすくば、一身の気を、はりて、風寒をふせぎ、肌に入らしむべからず。  
(524)めがねをあい靆(524)と云(いう)。留青日札(りゅうせいにっさつ)と云(いう)書に見えたり。又眼鏡(がんきょう)と云(いう)。四十歳以後は、早くめがねをかけて、眼力を養ふべし。和水晶(わすいしょう)よし。ぬぐふにきぬを以(もって)、両指にて、さしはさみてぬぐふべし。或(あるいは)羅紗を以(もって)ぬぐふ。硝子(びいどろ)はくだけやすし。水晶におとれり。硝子は燈心にてぬぐふべし。  
(525)牙歯(がし)をみがき、目を洗ふ法、朝ごとに、まつ゛熱湯にて目を洗ひあたため、鼻中をきよめ、次に温湯にて口をすゝぎ、昨日よりの牙歯(がし)の滞(とどこおり)を吐すて、ほしてかは(わ)ける塩を用ひて、上下の牙歯(がし)と、はぐきをすりみがき、温湯をふくみ、口中をすゝぐ事ニ三十度、其間に、まつ゛別の碗に、温湯を、あら布の小篩(こふるひ)を以(もって)こして入れ置、次に手と面(かお)をあらひ、おはりて、口にふくめる塩湯を、右のあら布の小ぶるひにはき出し、こして碗に入、其塩湯を以(もって)目を洗ふ事、左右各(おのおの)十五度(たび)、其後べちに入置きたる碗の湯にて、目を洗ひ、口をすすぐべし。是にておはる。毎朝かくのごとくにして、おこたりなければ、久しくして牙歯(がし)うごかず。老てもおちず。虫くはず。目あきらかにして、老にいたりても、目の病なく、夜、細字をよみ書く。是目と歯とをたもつ良法なり。こゝろみて、其しるしを得たる人多し。予も亦(また)、此法によりて、久しく行なふゆへ、そのしるしに、今八十三歳にいたりて、猶(なお)夜、細字をかきよみ、牙歯(がし)固くして一もおちず。目と歯に病なし。毎朝かくのごとくすれば、久しくして後は、ならひてむつ゛かしからず、牙杖(ようじ)にて、牙歯(がし)をみがく事を用ひず。  
(526)古人の曰(いわく)、歯の病は胃火(いか)ののぼる也。毎日時々、歯をたゝく事三十六度すべし。歯かたくなり、虫くはず。歯の病なし。  
(527)わかき時、歯のつよきをたのみて、堅き物を食ふべからず。梅、楊梅(やまもも)の核(さね)などかみわるべからず。後年に、歯早くをつ。細字を多くかけば、目と歯とを損ず。  
(528)牙杖(ようじ)にて、牙根をふかくさすべからず。根うきて、うごきやすし。  
(529)寒月はおそくおき、暑月は早くおくべし。暑月も、風にあたり臥すべからず。ねぶりの内に、風にあたるべからず。ねぶりの内に、扇にてあふがしむべからず。  
(530)熱湯にて、口をすゝぐべからず。歯を損ず。 
(531)千金方曰(く)、食しおはるごとに、手を以(て)、面(かお)をすり、腹をなで、津液(しんえき)を通流すべし。行歩(こうほ)する事数百歩すべし。飲食して即臥せば百病生ず。飲食して仰(あおの)きに臥せば、気痞となる。  
(532)医説曰、食して後、体倦(う)むとも、即(ち)寝(いぬ)る事なかれ。身を運動し、二三百歩しづかに歩行して後、帯をとき、衣をくつろぎ、腰をのべて端坐し、両手にて心腹を按摩して、たて横に往来する事、二十遍。又、両手を以、わき腰の間より、おさへなでて下る事、数十遍ばかりにして、心腹の気ふさがらしめず。食滞、手に随つて消化す。  
(533)目鼻口は面上の五竅(ごきょう)にて、気の出入りする所、気もれやすし。多くもらすべからず。尾閭(びりょ)は精気の出る所なり。過て、もらすべからず。肛門は糞気の出る所、通利ありて滑泄(こっせつ)をいむ。凡(そ)此七竅皆とぢかためて、多く気をもらすべからず。只耳は気の出入なし。然(れ)ども久しくきけば神をそこなふ。  
(534)瓦火桶と云物、京都に多し。桐火桶の製に似て大なり。瓦にて作る。高さ五寸四分、足は此外也。縦のわたり八寸三分、横のわたり七寸、縦横少(し)長短あるべし。或(は)形まるくして、縦横なきもよし。上の形まるき事、桐火桶のごとし。めぐりにすかしまどありて、火気をもらすべし。上に口あり、ふたあり。ふたの広さ、よこ三寸、たて三寸余なるべし。まるきもよし。ふたに取手あり。ふた二三の内、一は取手なきがよし。やはらかなる灰を入置(いれおき)、用ゐんとする時、宵より小なる炭火を二三入て臥さむとする前より、早く衾(ふすま)の下に置、ふして後、足をのべてあたゝむべし。上気する人は、早く遠ざくべし。足あたゝまらば火桶を足にてふみ退け、足を引てかゞめふすべし。翌朝おきんとする時、又足をのべてあたたむべし。又、ふたの熱きを木綿袋に入て、腹と腰をあたゝむ。ふた二三こしらへ置、とりかへて腹、腰をあたゝむべし。取手なきふたを以ては、こしをあたゝむ。こしの下にしくべし。温石(おんじゃく)より速(すみやか)に熱くなりて自由なり。急用に備ふべし。腹中の食滞気滞をめぐらして、消化しやすき事、温石并(ならびに)薬力よりはやし。甚(はなはだ)要用の物なり。此事しれる人すくなし。  
二便  
(535)うへては坐して小便し、飽ては立て小便すべし。  
(536)二便は早く通じて去べし。こらゆるは害あり。もしは不意に、いそがしき事出来ては、二便を去べきいとまなし。小便を久しく忍べば、たちまち小便ふさがりて、通ぜざる病となる事あり。是を転ふ(てんふ:尿閉症)(5360)と云。又、淋(:頻尿)となる。大便をしばしば忍べば気痔となる。又、大便をつとめて努力すべからず。気上り、目あしく、心(むね)さわぐ。害多し。自然(じねん)に任すべし。只津液を生じ、身体をうるほし、腸胃の気をめぐらす薬をのむべし。麻仁(まにん)、胡麻、杏仁(きょうにん)、桃仁(とうにん)など食ふべし。秘結する食物、もち(5361:3種類のもちの総称)、柿、芥子(からし)など禁じてくらふべからず。大便、秘するは、大なる害なし。小便久しく秘するは危うし。  
(537)常に大便秘結する人は、毎日厠(かわや)にのぼり、努力せずして、成べきほどは少づつ通利すべし。如此すれば、久しく秘結せず。  
(538)日月、星辰、北極、神廟に向つて、大小便すべからず。又、日月のてらす地に小便すべからず。凡(そ)天神、地祇、人鬼おそるべし。あなどるべからず。  
洗浴  
(539)湯浴(ゆあみ)は、しばしばすべからず。温気過て肌開(えひら)け、汗出で気へる。古人、「十日に一たび浴す」。むべなるかな。ふかき盤(たらい)に温湯少し入て、しばし浴すべし。湯あさければ温過(あたたかすぎ)ずして気をへらさず。盤ふかければ、風寒にあたらず。深き温湯に久しく浴して、身をあたため過すべからず。身熱し、気上り、汗出(いで)、気へる。甚害あり。又、甚温なる湯を、肩背に多くそそぐべからず。  
(540)熱湯(あつゆ)に浴(ゆあみ)するは害あり。冷熱はみづから試みて沐浴(もくよく)すべし。快(こころよき)にまかせて、熱湯に浴すべからず。気上りてへる。殊に目をうれふる人、こらへたる人、熱湯に浴すべからず。 
(541)暑月の外、五日に一度沐(かみあら)ひ、十日に一度浴す。是(これ)古法なり。夏月に非ずして、しばしば浴すべからず。気、快といへども気へる。  
(542)あつからざる温湯を少(し)盥(たらい)に入て、別の温湯を、肩背より少しづゝそゝぎ、早くやむれば、気よくめぐり、食を消す。寒月は身あたゝまり、陽気を助く。汗を発せず。此如すれば、しばしば浴するも害なし。しばしば浴するには、肩背は湯をそゝぎたるのみにて、垢を洗はず、只下部(げぶ)を洗ひて早くやむべし。久しく浴し、身を温め過すべからず。  
(543)うゑては浴すべからず。飽ては沐(かみあら)ふべからず。  
(544)浴場の盥の寸尺の法、曲尺(かね)にて竪(たて)の長二尺九寸、横のわたり二尺。右、何(いずれ)もめぐりの板より内の寸なり。ふかさ一尺三寸四分、めぐりの板あつさ六分、底は猶(なお)あつきがよし。ふたありてよし。皆、杉の板を用ゆ。寒月は、上とめぐりに風をふせぐかこみあるべし。盤(たらい)浅ければ風に感じやすく、冬はさむし。夏も盤浅ければ、湯あふれ出てあしし。湯は、冬もふかさ六寸にすぐべからず。夏はいよいよあさかるべし。世俗に、水風炉(ふろ)とて、大桶の傍に銅炉をくりはめて、桶に水ふかく入(いれ)て、火をたき、湯をわかして浴す。水ふかく、湯熱きは、身を温め過し、汗を発し、気を上せへらす。大に害有(あり)。別の大釜にて湯をわかして入れ、湯あさくして、熱からざるに入り、早く浴しやめて、あたゝめ過さゞれば害なし。桶を出んとする時、もし湯ぬるくして、身あたゝまらずば、くりはめたる炉に、火を少したきてよし。湯あつくならんとせば、早く火を去(さる)べし。此如すれば害なし。  
(545)泄痢(せつり)し、及食滞、腹痛に、温湯に浴し、身体をあたたむれば、気めぐりて病いゆ。 甚しるしあり。初発の病には、薬を服するにまされり。  
(546)身に小瘡ありて熱湯(あつゆ)に浴し、浴後、風にあたれば肌をとぢ、熱、内にこもりて、小瘡も、肌の中に入て熱生じ、小便通ぜず、腫る。此症、甚危し。おほくは死す。つつしんで、熱湯に浴して後、風にあたるべからず。俗に、熱湯にて小瘡を内にたでこむると云う。左にはあらず、熱湯に浴し、肌表、開きたる故に、風に感じやすし。涼風にて、熱を内にとづる故、小瘡も共に内に入るなり。  
(547)沐浴(もくよく)して風にあたるべからず。風にあはゞ、はやく手を以、皮膚をなでするべし。  
(548)女人、経水(けいすい)来(きた)る時、頭を洗ふべからず。  
(549)温泉は、諸州に多し。入浴して宜しき症あり。あしき症あり。よくもなく、あしくもなき症有。凡(およそ)此三症有。よくゑ(え)らんで浴すべし。湯治(とうじ)してよき病症は、外症なり。打身(うちみ)の症、落馬したる病、高き所より落て痛める症、疥癬(かいせん)など皮膚の病、金瘡(きんそう)、はれ物の久しく癒(いえ)がたき症、およそ外病には神効(しんこう)あり。又、中風(ちゅうぶ)、筋引つり、しゞまり、手足しびれ、なゑたる症によし。内症には相応せず。されども気鬱、不食、積滞(しゃくたい)、気血不順など、凡(およそ)虚寒(きょかん)の病症は、湯に入あたためて、気めぐりて宜しき事あり。外症の速(すみやか)に効(しるし)あるにはしかず、かろく浴すべし。又、入浴して益もなく害もなき症多し。是は入浴すべからず。又、入浴して大に害ある病症あり。ことに汗症(かんしょう)、虚労(きょろう)、熱症に尤(も)いむ。妄(みだり)に入浴すべからず。湯治(とうじ)して相応せず、他病おこり、死せし人多し。慎しむべし。此理をしらざる人、湯治(とうじ)は一切の病によしとおもふは、大なるあやまり也。本草(ほんぞう)の陳蔵器(ちんぞうき)の説、考みるべし。湯治(とうじ)の事をよくとけり。凡(そ)入浴せば実症の病者も、一日に三度より多きをいむ。虚人(きょじん)は一両度なるべし。日の長短にもよるべし。しげく浴する事、甚(はなはだ)いむ。つよき人も湯中に入(り)て、身をあたため過すべからず。はたにこしかけて、湯を杓(ひしゃく)にてそそぐべし。久しからずして、早くやむべし。あたため過(すご)し、汗を出すべからず。大にいむ。毎日かろく浴し、早くやむべし。日数は七日二十七日なるべし。是を俗に一廻(めぐり)二廻と云。温泉をのむべからず。毒あり。金瘡の治のため、湯浴(ゆあみ)してきず癒(いえ)んとす。然るに温泉の相応せるを悦(よろこ)んで飲まば、いよいよ早くいえんとおもひて、のんだりしが、疵、大にやぶれて死せり。  
(550)湯治(とうじ)の間、熱性の物を食ふべからず。大酒大食すべからず。時々歩行し、身をうごかし、食気をめぐらすべし。湯治(とうじ)の内、房事(ぼうじ)をおかす事、大にいむ。湯よりあがりても、十余日いむ。灸(きゅう)治も同じ。湯治(とうじ)の間、又、湯治の後、十日ばかり補薬をのむべし。其間、性よき魚鳥の肉を、少(し)づつ食して、薬力をたすけ、脾胃を養ふべし。生冷、性あしき物、食すべからず。又、大酒大食をいむ。湯治(とうじ)しても、後の保養なければ益なし。  
(551)海水を汲(く)んで浴するには、井水(せいすい)か河水を半ば入れて、等分にして浴すべし。然らざれば熱を生ず。  
(552)温泉ある処に、いたりがたき人は、遠所に汲(くみ)よせて浴す。汲湯(くみゆ)と云。寒月は水の性損ぜずして、是を浴せば、少益あらんか。しかれども、温泉の地よりわき出たる温熱の気を失ひて、陽気きえつきて、くさりたる水なれば、清水の新たに汲めるよりは、性おとるべきかといふ人あり。 
巻第六 / 病を慎しむ 

 

病は生死のかかる所、人身の大事也。聖人の慎(み)給う事、むべなるかな。  
(601)古語に、「常に病想を作す」。云意は、無病の時、病ある日のくるしみを、常に思ひやりて、風・寒・暑・湿の外邪をふせぎ、酒食・好色の内欲を節にし、身体の起臥・動静をつつしめば病なし。又、古詩に曰(く)、「安閑の時、常に病苦の時を思へ」。云意は、病なくて安閑なる時に、初(め)病に苦しめる時を、常に思ひ出して、わするべからずと也。無病の時、慎ありて、恣ならざれば、病生ぜず。是病おこりて、良薬を服し、鍼・灸をするにまされり。邵康節の詩に、其病(んで)後、能く薬を服せむより、病(やむ)前、能(く)自(ら)防ぐにしかず。といへるがごとし。  
(602)病なき時、かねてつつしめば病なし。病おこりて後、薬を服しても病癒がたく、癒る事おそし。小慾をつつしまざれば大病となる。小慾をつつしむ事は、やすし。大病となりては、苦しみ多し。かねて病苦を思ひやり、のちの禍(わざわい)をおそるべし。  
(603)古語に、病は少癒るに加はるといえり。病少いゆれば、快きをたのんで、おこたりてつつしまず。少快しとして、飲食、色慾など恣(ほしいまま)にすれば、病かへつておもくなる。少いゑたる時、弥(いよいよ)かたくおそれつつしみて、少のやぶれなくおこたらざれば、病早くいエて再発のわざはひなし。此時かたくつつしまざれば、後悔すとも益なし。  
(604)千金方に曰(いわく)、冬温なる事を極めず、夏涼きことをきはめず、凡一時快き時は、必後の禍(わざわい)となる。  
(605)病生じては、心のうれひ身の苦み甚し。其上、医をまねき、薬をのみ、灸をし、針をさし、酒をたち、食をへらし、さまざまに心をなやまし、身をせめて、病を治せんとせんよりは、初(はじめ)に内欲をこらゑ、外邪をふせげば、病おこらず。薬を服せず、針灸せずして、身のなやみ、心の苦みなし。初(はじめ)しばしの間、つヽしみしのぶは、少(すこし)の心づかひなれど、後の患(うれい)なきは、大なるしるしなり。後に薬と針灸を用ひ、酒食をこらへ、つヽしむは、その苦み甚しけれど、益少なし。古語に、終わりをつヽしむ事は、始(はじめ)におゐてせよといへり。万の事、始によくつヽしめば、後に悔なし。養生の道、ことさらかくのごとし。  
(606)飲食、色慾の肉欲を、ほしゐまゝにせずして、かたく慎み、風寒暑湿の外邪をおそれ防がば、病なくして、薬を用ひずとも、うれひなかるべし。もし慾をほしゐままにして、つゝしまず、只、脾腎を補ふ薬治と、食治とを頼まば、必(かならず)しるしなかるべし。  
(607)病ある人、養生の道をば、かたく慎しみて、病をば、うれひ苦しむべからず。憂ひ苦しめば、気ふさがりて病くはゝる。病おもくても、よく養ひて久しければ、おもひしより、病いえやすし。病をうれひて益なし。只、慎むに益あり。もし必死の症は、天命の定れる所、うれひても益なし。人をくるしむるは、おろかなり。  
(608)病を早く治せんとして、いそげば、かへつて、あやまりてを病をます。保養はおこたりなくつとめて、いゆる事は、いそがず、その自然にまかすべし。万の事、あまりよくせんとすれば、返つてあしくなる。  
(609)居所(おりどころ)、寝屋(ねや)は、つねに風寒暑湿の邪気をふせぐべし。風寒暑は人の身をやぶる事、はげしくて早し。湿は人の身をやぶる事おそくして深し。故に風寒暑は人おそれやすし。湿気は人おそれず。人にあたる事ふかし。故に久しくしていえず。湿ある所を、早く遠ざかるべし。山の岸近き所を、遠ざかるべし。又、土あさく、水近く、床ひきゝ処に、坐臥すべからず。床を高くし、床の下の壁にまどを開きて、気を通ずべし。新にぬりたる壁に近付て、坐臥すべからず。湿にあたりて病となりて、いえがたし。或(あるいは)疫病をうれふ。おそるべし。文禄の朝鮮軍に、戦死の人はすくなく、疫死多かりしは、陣屋ひきく、まばらにして、士卒、寒湿にあたりし故也とぞ。居所(おりどころ)も寝屋も、高くかはける所よし。是皆、外湿をふせぐなり。一たび湿にあたればいえがたし。おそるべし。又、酒茶湯水を多くのまず、瓜、菓、冷麪を多く食(くら)はざるは、是皆、内湿をふせぐなり。夏月、冷水を多くのみ、冷麪をしばしば食すれば、必(かならず)内湿にやぶられ、痰瘧、泄痢をうれふ。つゝしむべし。  
(610)傷寒を大病と云。諸病の内、尤(もっとも)おもし。わかくさかんなる人も、傷寒、疫癘をわずらひ、死ぬる人多し。おそるべし。かねて風寒暑湿をよくふせぐべし。初発のかろき時、早くつつしむべし。 
(611)中風は、外の風にあたりたる病には非ず、内より生ずる風に、あたれる也。肥白(ひはく)にして気すくなき人、年四十を過て気衰ふる時、七情のなやみ、酒食のやぶれによつて、此病生ず。つねに酒を多くのみて、腸胃やぶれ、元気へり、内熱生ずる故、内より風生じて手足ふるひ、しびれ、なえて、かなはず。口ゆがみて、物いふ事ならず。是皆、元気不足する故なり。故に、わかく気つよき時は、此病なし。もし、わかき人にも、まれにあるは、必(かならず)肥満して、気すくなき人也。酒多くのみ、内かはき熱して、風生ずるは、たとへば、七八月に残暑甚しくて、雨久しくふらざれば、地気さめずして、大風ふくが如し。此病、下戸にはまれ也。もし、下戸にあるは、肥満したる人か、或(あるいは)気すくなき人なり。手足なえしびれて、不仁なるは、くち木の性なきが如し。気血不足して、ちからなく、なへしびるゝ也。肥白(ひはく)の人、酒を好む人、かねて慎あるべし。  
(612)春は陽気発生し、冬の閉蔵にかはり、人の肌膚(きふ)和して、表気やうやく開く。然るに、余寒猶烈しくして、風寒に感じやすし。つゝしんで、風寒にあたるべからず。感冒咳嗽(かんぼうがいそう)の患(うれい)なからしむべし。草木の発生するも、余寒にいたみやすし。是を以て、人も余寒をおそるべし。時にしたがひ、身を運動し、陽気を助けめぐらして、発生せしむべし。  
(613)夏は、発生の気いよいよさかんにして、汗もれ、人の肌膚(きふ)大いに開く故外邪入やすし。涼風に久しくあたるべからず。沐浴の後、風に当るべからず。且夏は伏陰とて、陰気かくれて腹中にある故、食物の消化する事おそし。多く飲食すべからず。温(あたたか)なる物を食ひて、脾胃をあたゝむべし。冷水を飲べからず。すべて生冷の物をいむ。冷麪多く食ふべからず。虚人は尤(もっとも)泄瀉(せっしゃ)のうれひおそるべし。冷水に浴すべからず。暑甚き時も、冷水を以(もって)面目(かおめ)を洗へば、眼を損ず。冷水にて、手足洗ふべからず。睡中に、扇にて、人にあふがしむべからず。風にあたり臥べからず。夜、外に臥べからず。夜、外に久しく坐して、露気にあたるべからず。極暑の時も、極て涼しくすべからず。日に久しくさらせる熱物の上に、坐すべからず。  
(614)四月は純陽の月也。尤 (もっとも)色慾を禁ずべし。雉 (きじ)鶏など温熱 (うんねつ)の物、食うべからず。  
(615)四時の内、夏月、尤 (もっとも)保養すべし。霍乱 (かくらん)、中暑、傷食 (しょうしょく)、泄瀉、瘧痢 (ぎゃくり)の病、おこりやすし。生冷の飲食を禁じて、慎んで保養すべし。夏月、此病おこれば、元気へりて大いに労す。  
(616)六七月、酷暑の時は、極寒の時より、元気へりやすし、よく保養すべし。加味生脈散 (かみしょうみゃくさん)、補気湯、医学六要の新製清暑益気湯など、久しく服して、元気の発泄するを収斂すべし。一年の内時令のために、薬を服して、保養すべきは、此時なり。東垣 (とうえん)が清暑益気湯は湿熱を消散する方也。純補の剤にあらず、其病なくば、服すべからず。  
(617)夏月、古き井、深き穴の中に人を入 (いるる)べからず。毒気多し。古井には先鶏の毛を入て、毛、舞ひ下りがたきは、是毒あり、入 (いる)べからず。火をもやして、入れて後、入(いる)べし。又、醋(す)を熱くわかして、多く井に入(いれ)て後、人入(いる)べし。夏至に井をさらえ、水を改むべし。  
(618)秋は、夏の間肌(はだえ)開け、七八月は、残暑も猶烈しければ、そうり(*理:肌のきめ)(618)いまだとちず。表気いまだ堅からざるに、秋風すでにいたりぬれば、感じてやぶられやすし。慎んで、風涼にあたり過すべからず。病ある人は、八月、残暑退きて後、所々に灸して風邪(ふうじゃ)をふせぎ、陽を助けて痰咳(たんせき)のうれひをまぬがるべし。  
(619)冬は、天地の陽気とぢかくれ、人の血気おさまる時也。心気を閑(しずか)にし、おさめて保つべし。あたゝめ過して陽気を発し、泄(もら)すべからず。上気せしむべからず。衣服をあぶるに、少(すこし)あたゝめてよし。熱きをいむ。衣を多くかさね、又は火気を以(もって)身をあたゝめ過すべからず。熱湯(あつゆ)に浴すべからず。労力して汗を発し、陽気を泄(もら)すべからず。  
(620)冬至には、一陽初て生ず。陽気の微少なるを静養すべし。労動すべからず。此日、公事にあらずんば、外に出(いず)べからず。冬至の前五日、後十日、房事を忌む。又、灸すべからず。続漢書に曰(いわく)、夏至水を改め、冬至に火を改むるは、瘟疫(おんえき)を去なり。 
(621)冬月は、急病にあらずんば、針灸すべからず。尤(もっとも)十二月を忌む。又、冬月按摩をいむ。自身しづかに導引するは害なし。あらくすべからず。  
(622)除日(じょにち)には、父祖の神前を掃除し、家内、殊に臥室のちりをはらひ、夕は燈(ともしび)をともして、明朝にいたり、家内光明ならしめ、香を所々にたき、かまどにて爆竹し、火をたきて、陽気を助くべし。家族と炉をかこみ、和気津々として、人とあらそはず、家人を、いかりのゝしるべからず。父母、尊重を拝祝し、家内、大小上下椒(しょう)酒をのんで歓び楽しみ、終夜いねずして旧(ふる)き歳をおくり、新き年をむかへて、朝にいたる。是を歳を守ると云(いう)。  
(623)熱食して汗いでば、風に当るべからず。  
(624)凡そ人の身、高き処よりおち、木石におされなどして、損傷したる処に、灸をする事なかれ。灸をすれば、くすりを服してもしるしなし。又、兵器にやぶられて、血おほく出たる者は、必(かならず)のんどかはくもの也。水をあたふべからず。甚あしゝ。又、粥をのましむべからず。粥をのめば、血わき出で、必(かならず)死ぬ。是等の事、かねてしらずんばあるべからず。又、金瘡折傷、口開きたる瘡、風にあたるべからず。扇にてもあふぐべからず。、し(624)症(痙攣をおこす病気)となり、或(あるいは)破傷風となる。  
(625)冬、朝(あした)に出て遠くゆかば、酒をのんで寒をふせぐべし。空腹にして寒にあたるべからず。酒をのまざる人は、粥を食ふべし。生薑をも食ふべし。陰霧の中、遠く行べtからず。やむ事を得ずして、遠くゆかば、酒食を以(もって)防ぐべし。  
(626)雪中に跣(はだし)にて行て、甚寒(ひ)えたるに、熱湯(あつきゆ)にて足を洗ふべからず。火に早くあたるべからず。大寒にあたりて、即熱(あつき)物を食飲すべからず。  
(627)頓死の症多し。卒中風(そっちゅうぷ)、中気、中悪、中毒、中暑、凍死、湯火、食傷、乾霍乱(かんかくらん)、破傷風、喉痺、痰厥(たんけつ)失血、打撲、小児の馬脾風等の症、皆卒死す。此外、又、五絶とて、五種の頓死あり。一には自(みずから)くびる。二にはおしにうたる。三には水におぼる。四には夜押厭はる。五には婦人難産。是皆、暴死する症なり。常の時、方書を考へ、又、其治法を、良医にたつねてしり置(おく)べし。かねて用意なくして、俄に所置を失ふべからず。  
(628)神怪、奇異なる事、たとひ目前に見るとも、必(かならず)鬼神の所為とは云がたし。人に心病あり。眼病あり。此病あれば、実になき物、目に見ゆる事多し。信じてまよふべからず。  
(629)保養の道は、みづから病を慎しむのみならず、又、医をよくゑらぶべし。天下にもかへがたき父母の身、わが身を以(もって)庸医の手にゆだぬるはあやうし。医の良拙をしらずして、父母子孫病する時に、庸医にゆだぬるは、不孝不慈に比す。おやにつかふる者も、亦医をしらずんばあるべからず、といへる程子の言、むべなり。医をゑらぶには、わが身医療に達せずとも、医術の大意をしれらば、医の好否(よしあし)をしるべし。たとへば書画を能(よく)せざる人も、筆法をならひしれば、書画の巧拙をしるが如し。  
(630)医は仁術なり。仁愛の心を本とし、人を救ふを以(もって)、志とすべし。わが身の利養を専に志すべからず。天地のうみそだて給へる人を、すくひたすけ、万民の生死をつかさどる術なれば、医を民の司命と云、きはめて大事の職分なり。他術はつたなしといへども、人の生命には害なし。医術の良拙は人の命の生死にかゝれり。人を助くる術を以(もって)、人をそこなふべからず。学問にさとき才性ある人をゑらんで医とすべし。医を学ぶ者、もし生れ付鈍にして、その才なくんば、みづからしりて、早くやめて、医となるべからず。不才なれば、医道に通せずして、天のあはれみ給ふ人を、おほくあやまりそこなふ事、つみかふし。天道おそるべし。他の生業多ければ、何ぞ得手なるわざあるべし。それを、つとめならふべし。医生、其術にをろそかなれば、天道にそむき、人をそこなふのみならず、我が身の福(さいわい)なく、人にいやしめらる。其術にくらくして、しらざれば、いつはりをいひ、みづからわが術をてらひ、他医をそしり、人のあはれみをもとめ、へつらへるは、いやしむべし。医は三世をよしとする事、礼記に見えたり。医の子孫、相つゞきて其才を生れ付たらば、世世家業をつぎたるがよかるべし。此如くなるはまれなり。三世とは、父子孫にかゝはらず、師、弟子相伝へて三世なれば、其業くはし。此説、然るべし。もし其才なくば、医の子なりとも、医とすべからず。他の業を習はしむべし。不得手なるわざを以て、家業とすべからず。 
(631)凡(およそ)医となる者は、先儒書をよみ、文義に通ずべし。文義通ぜざれば、医書をよむちからなくして、医学なりがたし。又、経伝の義理に通ずれば、医術の義理を知りやすし。故に孫思ばく (ばく)曰、凡(およそ)大医と為るには先づ儒書に通ずべし。又曰、易を知らざれば以て医と為る可からず。此言、信ずべし。諸芸をまなぶに、皆文学を本とすべし。文学なければ、わざ熟しても理にくらく、術ひきし。ひが事多けれど、無学にしては、わがあやまりをしらず。医を学ぶに、殊に文学を基とすべし。文学なければ、医書をよみがたし。医道は、陰陽五行の理なる故、儒学のちから、易の理を以(もって)、医道を明らむべし。しからざれば、医書をよむちからなくして、医道をしりがたし。  
(632)文学ありて、医学にくはしく、医術に心をふかく用ひ、多く病になれて、其変をしれるは良医也。医となりて、医学をこのまず、医道に志なく、又、医書を多くよまず、多くよんでも、精思の工夫なくして、理に通ぜず、或(あるいは)医書をよんでも、旧説になづみて、時の変をしらざるは、賤工也。俗医、利口にして、医学と療治とは別の事にて、学問は、病を治するに用なしと云て、わが無学をかざり、人情になれ、世事に熟し、権貴の家にへつらひちかづき、虚名を得て、幸にして世に用ひらるゝ者多し。是を名づけて福医と云、又、時医と云。是医道にはうとけれど、時の幸ありて、禄位ある人を、一両人療して、偶中すれば、其故に名を得て、世に用らるゝ事あり。才徳なき人の、時にあひ、富貴になるに同じ。およそ医の世に用らるゝと、用られざるとは、良医のゑらんで定むる所為(しわざ)にはあらず。医道をしらざる白徒(しろうと)のする事なれば、幸にして時にあひて、はやり行はるるとて、良医とすべからず。其術を信じがたし。  
(633)古人、医也者は意也、といへり。云意(こころ)は、意(こころ)精(くわ)しければ、医道をしりてよく病を治す。医書多くよんでも、医道に志なく、意(こころ)粗く工夫くはしからざれば、医道をしらず。病を治するに拙きは、医学せざるに同じ。医の良拙は、医術の精(くわ)しきと、あらきとによれり。されども、医書をひろく見ざれば、医道をくはしくしるべきやうなし。  
(634)医とならば、君子医となるべし、小人医となるべからず。君子医は人のためにす。人を救ふに、志専一なる也。小人医はわが為にす。わが身の利養のみ志し、人をすくふに志専ならず。医は仁術也。人を救ふを以(もって)志とすべし。是人のためにする君子医也。人を救ふ志なくして、只、身の利養を以(もって)志とするは、是わがためにする小人医なり。医は病者を救はんための術なれば、病家の貴賤貧富の隔なく、心を尽して病を治すべし。病家よりまねかば、貴賤をわかたず、はやく行べし。遅々すべからず。人の命は至りておもし、病人をおろそかにすべからず。是医となれる職分をつとむる也。小人医は、医術流行すれば我身にほこりたかぶりて、貧賤なる病家をあなどる。是医の本意を失へり。  
(635)或人の曰(いわく)、君子医となり、人を救はんが為にするは、まことに然るべし。もし医となりて仲景(ちゅうけい)、東垣(とうえん)などの如き富貴の人ならば、利養のためにせずしても、貧窮のうれひなからん。貧家の子、わが利養の為にせずして、只人を救ふに専一ならば、飢寒のうれひまぬがれがたかるべし。答て曰(いわく)、わが利養の為に医となる事、たとへば貧賤なる者、禄のため君につかふるが如し。まことに利禄のためにすといへども、一たび君につかへては、わが身をわすれて、ひとへに君のためにすべし。節義にあたりては、恩禄の多少によらず、一命をもすつべし。是人の臣たる道なり。よく君につかふれば、君恩によりて、禄は求めずして其内にあり。一たび医となりては、ひとへに人の病をいやし、命を助くるに心専一なるべき事、君につかへてわが身をわすれ、専一に忠義をつとむるが如くなるべし。わが身の利養をはかるべからず。然れば、よく病をいやし、人をすくはゞ、利養を得る事は、求めずして其内にあるべし。只専一に医術をつとめて、利養をば、むさぼるべからず。  
(636)医となる者、家にある時は、つねに医書を見て其理をあきらめ、病人を見ては、又、其病をしるせる方書をかんがへ合せ、精(くわ)しく心を用ひて薬方を定むべし。病人を引うけては、他事に心を用ひずして、只、医書を考へ、思慮を精(くわ)しくすべし。凡(およそ)医は医道に専一なるべし。他の玩好あるべからず。専一ならざれば業精(くわ)しからず。  
(637)医師にあらざれども、薬をしれば、身をやしなひ、人をすくふに益あり。されども、医療に妙を得る事は、医生にあらざれば、道に専一ならずして成がたし。みづから医薬を用ひんより、良医をゑらんでゆだぬべし。医生にあらず、術あらくして、みだりにみづから薬を用ゆべからず。只、略(ほぼ)医術に通じて、医の良拙をわきまへ、本草をかんがへ、薬性と食物の良毒をしり、方書をよんで、日用急切の薬を調和し、医の来らざる時、急病を治し、医のなき里に居(おり)、或(あるいは)旅行して小疾をいやすは、身をやしなひ、人をすくふの益あれば、いとまある人は、すこし心を用ゆべし。医術をしらずしては、医の良賤をもわきまへず、只、世に用ひらるゝを良工とし、用ひられざるを賤工とする故に、医説に、明医は時医にしかず、といへり。医の良賤をしらずして、庸医に、父母の命をゆだね、わが身をまかせて、医にあやまられて、死したるためし世に多し。おそるべし。  
(638)士庶人の子弟いとけなき者、医となるべき才あらば、早く儒書をよみ、其力を以(もって)、医書に通じ、明師にしたがひ、十年の功を用て、内経、本草以下、歴代の明医の書をよみ学問し、やうやく医道に通じ、又、十年の功を用ひて、病者に対して、病症を久しく歴見して習熟し、近代の日本の先輩の名医の療術をも考しり、病人に久しくなれて、時変を知り、日本の風土にかなひ、其術ますます精(くわ)しくなり、医学と病功と、前後凡(およそ)二十年の久きをつみなば、必(かならず)良医となり、病を治する事、験ありて、人をすくふ事多からん。然らば、をのづから名もたかくなりて、高家、大人(たいじん)の招請あり、士庶人の敬信もあつくば、財禄を得る事多くして、一生の受用ゆたかなるべし。此如く実によくつとめて、わが身に学功そなはらば、名利を得ん事、たとへば俯して地にあるあくたを、ひろふが如く、たやすかるべし。是士庶の子弟、貧賎なる者の名利を得る好(よき)計(はかりごと)なるべし。この如くなる良工は、是国土の宝なり。公侯は、早くかゝる良医をしたて給ふべし。医となる人、もし庸医のしわざをまなび、、愚俗の言を信じ、医学をせずして、俗師にしたがひ、もろこしの医書をよまず、病源と脈とをしらず、本草に通ぜず、薬性をしらず、医術にくらくして、只近世の日本の医の作れる国字の医書を、二三巻考へ、薬方の功能を少覚え、よききぬきて、我が身のかたちふるまひをかざり、辯説(べんぜつ)を巧にし、人のもてなしをつくろひ、富貴の家に、へつらひしたしみ、時の幸(さいわい)を求めて、福医のしわざを、うらやみならはゞ、身をおはるまで草医なるべし。かゝる草医は、医学すれば、かへつて療治に拙し、と云まはりて、学問ある医をそしる。医となりて、天道の子としてあはれみ給ふ万民の、至りておもき生命をうけとり、世間きはまりなき病を治せんとして、この如くなる卑狭(ひきょう)なる術を行ふは云かひなし。  
(639)俗医は、医学をきらひてせず。近代名医の作れる和字の医書を見て、薬方を四五十つかひ覚ゆれば、医道をば、しらざれども、病人に馴て、尋常(よのつね)の病を治する事、医書をよんで病になれざる者にまされり。たとへば、ていはい(*稗:ひえ)(639)の熟したるは、五穀の熟せざるにまされるが如し。されど、医学なき草医は、やゝもすれば、虚実寒熱を取ちがへ、実々虚々のあやまり、目に見えぬわざはひ多し。寒に似たる熱症あり。熱に似たる寒症あり。虚に似たる実症あり。実に似たる虚症あり。内傷、外感、甚相似たり。此如まぎらはしき病多し。根ふかく、見知りがたきむづかしき病、又、つねならざるめづらしき病あり。かやうの病を治することは、ことさらなりがたし。  
(640)医となる人は、まづ、志を立て、ひろく人をすくひ助くるに、まことの心をむねとし、病人の貴賎によらず、治をほどこすべし。是医となる人の本意也。其道明らかに、術くはしくなれば、われより、しゐて人にてらひ、世に求めざれども、おのづから人にかしづき用られて、さいはいを得る事、かぎりなかるべし。もし只、わが利養を求るがためのみにて、人をすくふ志なくば、仁術の本意をうしなひて、天道、神明の冥加あるべからず。 
(641)貧民は、医なき故に死し、愚民は庸医にあやまられて、死ぬる者多しと、古人いへり。あはれむべし。  
(642)医術は、ひろく書を考へざれば、事をしらず。精しく理をきはめざれば、道を明らめがたし。博(ひろき)と精(くわしき)とは医を学ぶの要なり。医を学ぶ人は、初より大に志ざし、博くして又精しかるべし。二ながら備はらずんばあるべからず。志小きに、心あらくすべからず。  
(643)日本の医の中華に及ばざるは、まづ学問のつとめ、中華の人に及ばざれば也。ことに近世は国字(かな)の方書多く世に刊行せり。古学を好まざる医生は、からの書はむづかしければ、きらひてよまず。かな書の書をよんで、医の道是にて事足りぬと思ひ、古の道をまなばず。是日本の医の医道にくらくして、つたなきゆへなり。むかしの伊路波(いろは)の国字(かな)いできて、世俗すべて文盲になれるが如し。  
(644)歌をよむに、ひろく歌書をよんで、歌学ありても歌の下手はあるもの也。歌学なくして上手は有まじきなりと、心敬法師いへり。医術も亦かくの如し。医書を多くよんでも、つたなき医はあり。それは医道に心を用ずして、くはしならざればなり。医書をよまずして、上手はあるまじき也。から・やまとに博学多識にして、道しらぬ儒士は多し。博く学ばずして、道しれる人はなきが如し。  
(645)医は、仁心を以て行ふべし。名利を求むべからず。病おもくして、薬にて救ひがたしといへども、病家より薬を求むる事切ならば、多く薬をあたへて、其心ををなぐさむべし。わがよく病を見付て、生死をしる名を得んとて、病人に薬をあたへずして、すてころすは情けなし。医の薬をあたへざれば、病人いよいよちからをおとす。理なり。あはれむべし。  
(646)医を学ぶに、ふるき法をたづねて、ひろく学び、古方を多く考ふべし。又、今世の時運を考へ、人の強弱をはかり、日本の土宜(どぎ)と民俗の風気を知り、近古わが国先輩の名医の治せし迹(あと)をも考へて、治療を行ふべし。いにしへに本づき、今に宜しくば、あやまりすくなかるべし。古法をしらずして、今の宜に合せんとするを鑿(うがつ)と云。古法にかゝはりて、今の宜に合ざるを泥(なずむ)と云。其あやまり同じ。古にくらく、今に通ぜずしては、医道行はるべからず。聖人も、故を温ね新を知以て師とすべし、と、のたまへり。医師も亦かくの如くなるべし。  
(647)薬の病に応ずるに適中あり、偶中あり。適中は良医の薬必応ずる也。偶中は庸医の薬不慮(はからざるに)相応ずるなり。是其人に幸ある故に、術はつたなけれども、幸にして病に応じたる也。もとより庸医なれば、相応ぜざる事多し。良医の適中の薬を用ふべし。庸医は、たのもしげなし。偶中の薬はあやふし。適中は能(よく)射る者の的にあたるが如し。偶中は拙き者の不慮に、的に射あつるが如し。  
(648)医となる者、時の幸を得て、富貴の家に用いらるゝ福医をうらやみて、医学をつとめず、只、権門につねに出入し、へつらひ求めて、名利を得る者多し。医術のすたりて拙くなり、庸医の多くなるは此故なり。  
(649)諸芸には、日用のため無益なる事多し。只、医術は有用の事也。医生にあらずとも少学ぶべし。凡儒者は天下の事皆しるべし。故に、古人、医も儒者の一事といへり。ことに医術はわが身をやしなひ、父母につかへ、人を救ふに益あれば、もろもろの雑芸よりも最(もっとも)益多し。しらずんばあるべからず。然ども医生に非ず、療術に習はずして、妄(みだり)に薬を用ゆべからず。  
(650)医書は、内経本草(ないけいほんぞう)を本とす。内経を考へざれば、医術の理、病の本源をしりがたし。本草に通ぜざれば、薬性をしらずして方を立がたし。且(かつ)、食性をしらずして宜禁(ぎきん)を定がたく、又、食治の法をしらず。此二書を以(もって)医学の基(もとい)とす。二書の後、秦越人(しんえつじん)が難経、張仲景が金匱要略(きんきようりゃく)、皇甫謐(こうほひつ)が甲乙経、巣元方が病源候論、孫思ばく(250)が千金方、王とう(6500)が外台秘要、羅謙甫(らけんほ)が衛生宝鑑、陳無択が三因方、宋の恵民局の和剤(かざい)局方証類、本草序例、銭仲陽が書、劉河間が書、朱丹溪が書、李東垣が書、楊しゅん(6501)が丹溪心法、劉宗厚が医経小学、玉機微義、熊宗立が医書大全、周憲王の袖珍方、周良采が医方選要、薛立斎(せつりゅうさい)が医案、王璽(おうじ)が医林集要、楼英が医学綱目、虞天民が医学正伝、李挺が医学入門、江篁南(こうこうなん)が名医類案、呉崑が名医方考、きょう(6502)挺賢が書数種、汪石山が医学原理、高武が鍼灸聚英、李中梓(りちゅうし)が医宗必読、頤生微論、薬性解、内経知要あり。又薛立斎が十六種あり。医統正脈は四十三種あり。歴代名医の書をあつめて一部とせり。是皆、医生のよむべき書也。年わかき時、先儒書を記誦し、其力を以右の医書をよんで能記すべし。 
(651)張仲景は、百世の医祖也。其後、歴代の明医すくなからず。各発明する処多しといへ共、各其説に偏僻の失あり。取捨すべし。孫思(ばく)は、又、養生の祖なり。千金方をあらはす。養生の術も医方も、皆、宗とすべし。老、荘、を好んで異術の人なれど、長ずる所多し。医生にすゝむるに、儒書に通じ、易を知るを以す。盧照鄰に答へし数語、皆、至理あり。此人、後世に益あり。医術に功ある事、皇甫謐、葛洪、陶弘景等の諸子に越たり。寿(いのち)百余歳なりしは、よく保養の術に長ぜし効(しるし)なるべし。  
(652)むかし、日本に方書の来りし初は、千金方なり。近世、医書板行せし初は、医書大全なり。此書は明の正統十一年に熊宗立編む。日本に大永の初来りて、同八年和泉の国の医、阿佐井野宗瑞、刊行す。活板也。正徳元年まで百八十四年也。其後、活字の医書、やうやく板行す。寛永六年巳後、扁板鏤刻(るこく)の医書漸く多し。  
(653)凡諸医の方書偏説多し。専一人を宗とし、一書を用ひては治を為しがたし。学者、多く方書をあつめ、ひろく異同を考へ、其長ずるを取て其短なるをすて、医療をなすべし。此後、才識ある人、世を助くるに志あらば、ひろく方書ゑらび、其重複をけづり、其繁雑なるを除き、其粋美なるをあつめて、一書と成さば、純正なる全書となりて、大なる世宝なるべし。此事は、其人を待て行はるべし。凡近代の方書、医論、脈法、薬方同じき事、甚多し。殊(ことに)きょう(6502)挺賢が方書部数、同じ事多くして、重出しげく煩はし。無用の雑言亦多し。凡病にのぞんでは、多く方書を検する事、煩労なり。急病に対し、にはかに広く考へて、其相応ぜる良方をゑらびがたし。同事多く、相似たる書を多くあつめ考るも、いたづがはし。才学ある人は、無益の事をなして暇をつひやさんより、かゝる有益の事をなして、世を助け給ふべし。世に其才ある人、豈なかるべきや。  
(654)局方発揮、出て局方すたる。局方に古方多し。古を考ふるに用べし。廃(す)つべからず。只、鳥頭附子の燥剤を多くのせたるは、用ゆべからず。近古、日本に医書大全を用ゆ。きょう(6502)挺賢が方書流布して、東垣が書及医書大全、其外の諸方をも諸医用ずして、医術せばくあらくなる。三因方、袖珍方、医書大全、医方選要、医林集要、医学正伝、医学綱目、入門、方考、原理、奇効良方、証治準縄等、其外、方書を多く考へ用ゆべし。入門は、医術の大略備れる好書也。(きょう)廷賢が書のみ偏に用ゆべからず。きょう(6502)氏が医療は、明季の風気衰弱の時宜に頗かなひて、其術、世に行はれし也。日本にても亦しかり。しかるべき事は、ゑらんで所々取用ゆべし。悉くは信ずべからず。其故にいかんとなれば、雲林が医術、其見識ひきし。他人の作れる書をうばひてわが作とし、他医の治せし療功を奪てわが功とす。不経の書を作りて、人に淫ををしえ、紅鉛などを云穢悪の物をくらふ事を、人にすゝめて良薬とす。わが医術をみづから衒ひ、自ほむ。是皆、人の穢行なり。いやしむべし。  
(655)我よりまへに、其病人に薬を与へし医の治法、たとひあやまるとも、前医をそしるべからず。他医をそしり、わが術にほこるは、小人のくせなり。医の本意にあらず。其心ざまいやし。きく人に思ひ下さるゝも、あさまし。  
(656)本草の内、古人の説まちまちにして、一やうならず。異同多し。其内にて考へ合せ、択(えら)び用ゆべし。又、薬物も食品も、人の性により、病症によりて、宜、不宜あり。一概に好否を定めがたし。  
(657)医術も亦、其道多端なりといへど、其要三あり。一には病論、二には脈法、三には薬方、此三の事をよく知べし。運気、経絡などもしるべしといへども、三要の次也。病論は、内経を本とし、諸名医の説を考ふべし。脈法は、脈書数家を考ふべし。薬方は、本草を本として、ひろく諸方書を見るべし。薬性にくはしからずんば、薬方を立がたくして、病に応ずべからず。又、食物の良否をしらずんば、無病有病共に、保養にあやまり有べし。薬性、食性、皆本草に精からずんば、知がたし。  
(658)或曰、病あつて治せず、常に中医を得る、といへる道理、誠にしかるべし。然らば、病あらば只上医の薬を服すべし。中下の医の薬は服すべからず。今時、上医は有がたし、多くは中、下医なるべし。薬をのまずんば、医は無用の物なるべしと云。答曰、しからず、病あつて、すべて治せず。薬をのむべからずと云は、寒熱、虚実など、凡病の相似て、まぎらはしくうたがはしき、むづかしき病をいへり。浅薄なる治しやすき症は、下医といへども、よく治す。感冒咳嗽(かんぼうがいそう)に参蘇飲(じんそいん)、風邪を発散するに香蘇散、敗毒散、かつ(658)香、正気散。食滞に平胃散、香砂平胃散、かやうの類は、まぎれなくうたがはしからざる病なれば、下医も治しやすし。薬を服して害なかるべし。右の症も、薬しるしなき、むづかしき病ならば、薬を用ずして可也。 
巻第七 / 薬を用ふ 

 

(701)人身、病なき事あたはず。病あれば、医をまねきて治を求む。医に上中下の三品あり。上医は病を知り、脈を知り、薬を知る。此三知を以(て)病を治して十全の功あり。まことに世の宝にして、其功、良相(りょうしょう)につげる事、古人の言のごとし。下(か)医は、三知の力なし。妄(みだり)に薬を投じて、人をあやまる事多し。夫(れ)薬は、補瀉寒熱(ほしゃかんねつ)の良毒の気偏なり。その気(き)の偏(へん)を用(い)て病をせむる故に、参ぎ(115:薬用人参)の上薬をも妄(みだり)に用ゆべからず。其病に応ずれば良薬とす。必其しるしあり。其病に応ざぜれば毒薬とす。たゞ益なきのみならず、また人に害あり。又、中医あり。病と脈と薬をしる事、上医に及ばずといへ共、薬は皆気の偏にして、妄に用ゆべからざる事をしる。故に其病に応ぜざる薬を与へず。前漢書に班固(はんこ)が曰(く)、「病有て治せずば常に中医を得よ」。云意(いうこころ)は、病あれども、もし其病を明らかにわきまへず、その脈を許(つまびらか)に察せず、其薬方を精(くわ)しく定めがたければ、慎んでみだりに薬を施さず。こゝを以(て)病あれども治せざるは、中品の医なり。下医(かい)の妄に薬を用(い)て人をあやまるにまされり。故に病ある時、もし良医なくば、庸医(ようい)の薬を服して身をそこなふべからず。只保養をよく慎み、薬を用ひずして、病のをのづから癒(いゆ)るを待べし。如此すれば、薬毒にあたらずして、はやくいゆる病多し。死病は薬を用ひてもいきず。下医は病と脈と薬をしらざれども、病家の求(もとめ)にまかせて、みだりに薬を用ひて、多く人をそこなふ。人を、たちまちにそこなはざれども、病を助けていゆる事おそし。中医は、上医に及ばずといへども、しらざるを知らずとして、病を慎んで、妄(みだり)に治せず。こゝを以(もって)、病あれども治せざるは中品の医なりといへるを、古来名言とす。病人も亦、此説を信じ、したがって、応ぜざる薬を服すべからず。世俗は、病あれば急にいゑん事を求て、医の良賤をゑらばず、庸医の薬をしきりにのんで、かへつて身をそこなふ。是身を愛すといへども、実は身を害する也。古語に曰、「病の傷は猶癒(いやす)べし、薬の傷は最も医(くす)し難し」。然らば、薬をのむ事、つゝしみておそるべし。孔子も、季康子が薬を贈れるを、いまだ達せずとて、なめ給はざるは、是疾をつゝしみ給へばなり。聖人の至教、則(のり)とすべし。今、其病源を審(つまびらか)にせず、脈を精(くわ)しく察せず、病に当否を知らずして、薬を投ず。薬は、偏毒あればおそるべし。  
(702)孫思ばく曰、人、故なくんば薬を餌(くらう)べからず。偏(ひとえ)に助くれば、蔵気不平にして病生ず。  
(703)劉仲達(りゅうちゅうたつ)が鴻書(こうしょ)に、疾(やまい)あつて、もし名医なくば薬をのまず、只病のいゆるを、しづかにまつべし。身を愛し過し、医の良否をゑらばずして、みだりに早く、薬を用る事なかれ。古人、病あれども治せざるは中医を得ると云、此言、至論也といへり。庸医の薬は、病に応ずる事はすくなく、応ぜざる事多し。薬は皆、偏性(へんしょう)ある物なれば、其病に応ぜざれば、必(ず)毒となる。此故に、一切の病に、みだりに薬を服すべからず。病の災(わざわい)より薬の災多し。薬を用ずして、養生を慎みてよくせば、薬の害なくして癒(いえ)やすかるべし。  
(704)良医の薬を用るは臨機応変とて、病人の寒熱虚実の機にのぞみ、其時の変に応じて宜に従ふ。必(ず)一法に拘はらず。たとへば、善く戦ふ良将の、敵に臨んで変に応ずるが如し。かねてより、その法を定めがたし。時にのぞんで宜にしたがふべし。されども、古法をひろくしりて、その力を以(て)今の時宜に(じぎ)にしたがひて、変に応ずべし。古(いにしえ)をしらずして、只今の時宜に従はんとせば、本(もと)なくして、時宜に応ずべからず。故(ふるき)を温(たず)ねて新をしるは、良医なり。  
(705)脾胃(ひい)を養ふには、只穀肉を食するに相宜(あいよろ)し。薬は皆気の偏なり。参ぎ、朮甘(じゅつかん)は上薬にて毒なしといへども、病に応ぜざれば胃の気を滞(とどこお)らしめ、かへつて病を生じ、食を妨げて毒となる。いはんや攻撃のあらくつよき薬は、病に応ぜざれば、大に元気をへらす。此故に病なき時は、只穀肉を以(て)やしなふべし。穀肉の脾胃をやしなふによろしき事、参ぎの補にまされり。故に、古人の言に薬補は食補にしかずといへり。老人は殊に食補すべし、薬補は、やむ事を得ざる時用ゆべし。  
(706)薬をのまずして、おのづからいゆる病多し。是をしらで、みだりに薬を用て薬にあてられて病をまし、食をさまたげ、久しくいゑずして、死にいたるも亦多し。薬を用る事つつしむべし。  
(707)病の初発の時、症(しょう)を明に見付(みつけ)ずんば、みだりに早く薬を用ゆべからず。よく病症を詳(つまびらか)にして後、薬を用ゆべし。諸病の甚しくなるは、多くは初発の時、薬ちがへるによれり。あやまつて、病症にそむける薬を用ゆれば、治しがたし。故に療治の要は、初発にあり。病おこらば、早く良医をまねきて治すべし。症により、おそく治(じ)すれば、病ふかくなりて治しがたし。扁鵲(へんじゃく)が斉候に告げたるが如し。  
(708)丘処機(きゅうしょき)が、衛生の道ありて長生の薬なし、といへるは、養生の道はあれど、むまれ付かざるいのちを、長くする薬はなし。養生は、只むまれ付(き)たる天年をたもつ道なり。古(いにしえ)の人も術者にたぶらかされて、長生の薬とて用ひし人、多かりしかど、其しるしなく、かへつて薬毒にそこなはれし人あり。是長生の薬なき也。久しく苦労して、長生の薬とて用ゆれども益なし。信ずべからず。内慾を節にし、外邪をふせぎ、起居をつゝしみ、動静を時にせば、生れ付(き)たる天年をたもつべし。是養生の道あるなり。丘処機が説は、千古の迷(まよい)をやぶれり。此説信ずべし。凡(そ)うたがふべきをうたがひ、信ずべきを信ずるは迷をとく道なり。  
(709)薬肆(やくし:薬屋)の薬に、好否あり、真偽あり。心を用ひてゑらぶべし。性あしきと、偽薬とを用ゆべからず。偽薬とは、真ならざる似せ薬也。拘橘(くきつ)を枳穀(きこく)とし、鶏腿児(けいたいじ)を柴胡(さいこ)とするの類(たぐい)なり。又、薬の良否に心を用ゆべし。其病に宜しき良方といへども、薬性あしければ功なし。又、薬の製法に心を用ゆべし。薬性よけれ共、修(こしらえ)、治方に背(そむ)けば能なし。たとへば、食物も其土地により、時節につきて、味のよしあしあり。又、よき品物も、料理あしければ、味なくして、くはれざるが如し。こゝを以(て)その薬性のよきをゑらび用ひ、其製法をくはしくすべし。  
(710)いかなる珍味も、これを煮る法ちがひてあしければ、味あしゝ。良薬も煎法ちがへば験(しるし)なし。此(の)故、薬を煎ずる法によく心を用ゆべし。文火とは、やはらかなる火也。武火とは、つよき火なり。文武火とは、つよからずやはらかならざる、よきかげんの火なり。風寒を発散し、食滞を消導(しょうどう)する類(るい)の剛剤(ごうざい)を利薬と云(う)。利薬は、武火にてせんじて、はやくにあげ、いまだ熱せざる時、生気のつよきを服すべし。此(の)如(く)すれば、薬力つよくして、邪気にかちやすし。久しく煎じて熟すれば、薬に生気の力なくして、よわし。邪気にかちがたし。補湯は、やはらかなる文火にて、ゆるやかに久しく煎じつめて、よく熟すべし。此如ならざれば、純補(じゅんぽ)しがたし。こゝを以(て)利薬は生に宜しく熟に宜しからず。補薬は熟に宜しくして、生に宜しからず。しるべし、薬を煎ずるに此二法あり。 
(711)薬剤一服の大小の分量、中夏(ちゅうか)の古法を考がへ、本邦の土宜にかなひて、過不及(かふきゅう)なかるべし。近古、仲井家(なからいけ)には、日本の土地、民俗の風気に宜しとて、薬の重さ八分を一服とす。医家によりて一匁(もんめ)を一服とす。今の世、医の薬剤は、一服の重さ六七分より一匁に至る。一匁より多きは稀(まれ)なり。中夏の薬剤は、医書を考ふるに、一服三匁より十匁に至(る)。東垣(とうえん)は、三匁を用ひて一服とせし事あり。中夏の人、煎湯の水を用る事は少く、薬一服は大なれば、煎汁(せんじしる)甚(だ)濃(く)して、薬力つよく、病を冶する事早しと云(う)。然るに日本の薬、此如小服なるは何ぞや。曰(く)、日本の医の薬剤小服なる故三あり。一には中華の人は、日本人より生質健(すこやか)に腸胃(ちょうい)つよき故、飲食多く、肉を多く食ふ。日本人は生(うまれ)つき薄弱にして、腸胃よわく食すくなく、牛鳥、犬羊の肉を食ふに宜しからず。かろき物をくらふに宜し。此故に、薬剤も昔より、小服に調合すと云(う)。是一説なり。されども中夏の人、日本の人、同じく是人なり。大小強弱少(し)かはる共、日本人、さほど大(き)におとる事、今の医の用る薬剤の大小の如く、三分の一、五分の一には、いたるべからず。然れば日本の薬、小服なる事、此如なるべからずと云(う)人あり。一説に或人の曰(く)、日本は薬種ともし。わが国になき物多し。はるかなるもろこし、諸蕃国の異舶に、載せ来るを買て、価(あたい)貴とし。大服なれば費(ついえ)多し。こゝを以(て)薬剤を大服に合せがたし。ことに貧医は、薬種をおしみて多く用ひず。然る故、小服にせしを、古来習ひ来りて、富貴の人の薬といへども小服にすと云(う)。是一説也。又曰、日本の医は、中華の医に及ばず。故に薬方を用る事、多くはその病に適当せざらん事を畏る。此故に、決定(けつじょう)して一方を大服にして用ひがたし。若(し)大服にして、其病に応ざぜれば、かへつて甚(だ)害をなさん事おそるべければ、小服を用ゆ。薬その病に応ぜざれども、小服なれば大なる害なし。若(し)応ずれば、小服にても、日をかさねて小益は有ぬべし。こゝを以(て)古来、小服を用ゆと云(う)。是又一説也。此三説によりて日本の薬、古来小服なりと云(う)。  
(712)日本人は、中夏の人の健(すこやか)にして、腸胃のつよきに及ばずして、薬を小服にするが宜しくとも、その形体、大小相似たれば、その強弱の分量、などか、中夏の人の半(ば)に及ぶべからざらんや。然らば、薬剤を今少(し)大にするが、宜しかるべし。たとひ、昔よりあやまり来りて、小服なりとも、過(あやま)つては、則(ち)改るにはばかる事なかれ。今の時医の薬剤を見るに、一服此如小にしては、補湯といへども、接養の力なかるべし。況(や)利湯(とう)を用る病は、外、風寒肌膚(きふ)をやぶり、大熱を生じ、内、飲食腸胃に塞(ふさが)り、積滞(しゃくたい)の重き、欝結(うっけつ)の甚しき、内外の邪気甚(はなはだ)つよき病をや。小なる薬力を以(て)大なる病邪にかちがたき事、たとへば、一盃(ぱい)の水を以(て)一車薪の火を救ふべからざるが如し。又、小兵を以(て)大敵にかちがたきが如し。薬方、その病によく応ずとも、かくのごとく小服にては、薬に力なくて、効(しるし)あるべからず。砒毒(ひどく)といへども、人、服する事一匁許(ばかり)に至りて死すと、古人いへり。一匁よりすくなくしては、砒霜(ひそう)をのんでも死なず、河豚(ふぐ)も多くくらはざれば死なず。つよき大毒すらかくの如し。況(や)ちからよはき小服の薬、いかでか大病にかつべきや。此理を能(く)思ひて、小服の薬、効なき事をしるべし。今時の医の用る薬方、その病に応ずるも多かるべし。しかれども、早く効を得ずして癒(いえ)がたきは、小服にて薬力たらざる故に非ずや。  
(713)今ひそかにおもんぱかるに、利薬は、一服の分量、一匁五分より以上、二匁に至るべし。その間の軽重は、人の大小強弱によりて、増減すべし。  
(714)補薬一服の分量は、一匁より一匁五分に至るべし。補薬つかえやすき人は、一服一匁或(あるいは)一匁二分なるべし。是又、人の大小強弱によりて増減すべし。又、攻補兼(かね)用(う)る薬方あり、一服一匁二三分より、一匁七八分にいたるべし。  
(715)婦人の薬は、男子より小服に宜し。利湯は一服一匁二分より一匁八分に至り、補湯は一匁より一匁五分にいたるべし。気体強大ならば、是より大服に宜し。  
(716)小児の薬、一服は、五分より一匁に至るべし。是又、児の大小をはかつて増減すべし。  
(717)大人の利薬を煎ずるに、水をはかる盞(さかずき)は、一盞(さん)に水を入るゝ事、大抵五十五匁より六十匁に至るべし。是(これ)盞の重さを除きて水の重さなり。一服の大小に従つて水を増減すべし。利薬は、一服に水一盞半入(れ)て、薪をたき、或(あるいは)かたき炭を多くたきて、武火(つよび)を以(て)一盞にせんじ、一盞を二度にわかち、一度に半盞、服すべし。滓(かす)はすつべし。二度煎ずべからず。病つよくば、一日一夜に二服、猶(なお)其上にいたるべし。大熱ありて渇する病には、其宜(ぎ)に随つて、多く用ゆべし。補薬を煎ずるには、一盞に水を入(る)る事、盞の重さを除き、水の重さ五十匁より五十五匁に至る。是又、一服の大小に随(い)て、水を増減すべし。虚人の薬小服なるには、水五十匁入(いる)る盞を用ゆべし。壮人の薬、大服なるには水五十五匁入(る)る盞を用ゆべし。一服に水二盞入(れ)て、けし炭を用ひ、文火(とろび)にてゆるやかにせんじつめて一盞とし、かすには、水一盞入(れ)て半盞にせんじ、前後合せて一盞半となるを、少(し)づつ、つかへざるやうに、空腹に、三四度に、熱服す。補湯は、一日に一服、若(し)つかえやすき人は、人により、朝夕はのみがたし、昼間二度のむ。短日は、二度はつかえて服しがたき人あり、病人によるべし。つかえざる人には、朝夕昼間一日に一服、猶(なお)其上も服すべし。食滞あらば、補湯のむべからず。食滞めぐりて後、のむべし。  
(718)補薬は、滞塞(たいそく)しやすし。滞塞すれば害あり益なし。利薬を服するより、心を用ゆべし。もし大剤にして気塞(ふさ)がらば、小剤にすべし。或(は)棗(なつめ:利尿、強壮)を去り生姜(しょうきょう)を増すべし。補中益気湯などのつかえて用(い)がたきには、乾姜(かんきょう)、肉桂(にくけい)を加ふべき由、薜立斉(せつりゅうさい)が医案にいへり。又、症により附子(ぶし)、肉桂(にくけい)を少(し)加へ、升麻(しょうま)、柴胡(さいこ)を用るに二薬ともに火を忌(い)めども、実にて炒(り)用ゆ。是正伝惑問の説也。又、升麻、柴胡(さいこ)を去(り)て桂姜(けいきょう)を加ふる事あり。李時珍(りじちん)も、補薬に少(し)附子(ぶし)を加ふれば、その功するどなり、といへり。虚人の熱なき症に、薬力をめぐらさん為ならば、一服に五釐(りん)か一分加ふべし。然れども病症によるべし。壮人には、いむべし。  
(719)身体短小にして、腸胃小なる人、虚弱なる人は、薬を服するに、小服に宜し。されども、一匁より小なるべからず。身体長大にして、腸胃ひろき人、つよき人は、薬、大服に宜し。  
(720)小児の薬に、水をはかる盞(さかずき)は、一服の大小によりて、是も水五十匁より、五十五匁入(る)ほどなる盞を用ゆ。是又、盞の重を除きて、水の重さなり。利湯は、一服に水一盞入(り)、七分に煎じ、二三度に用ゆ。かすはすつべし。補湯には、水一盞半を用て、七分に煎じ、度々に熱服す。是又、かすはすつべし。或(は)かすにも水一盞入(れ)、半盞に煎じつめて用ゆべし。 
(721)中華の法、父母の喪は必(ず)三年、是天下古今の通法なり。日本の人は体気、腸胃、薄弱なり。此故に、古法に、朝廷より期の喪を定め給ふ。三年の喪は二十七月也。期の喪は十二月なり。是日本の人の、禀賦(ひんぷ)の薄弱なるにより、其宜を考へて、性にしたがへる中道なるべし。然るに近世の儒者、日本の土宜をしらず、古法にかゝはりて、三年の喪を行へる人、多くは病して死せり。喪にたへざるは、古人是を不孝とす。是によつて思ふに、薬を用るも亦同じ。国土の宜をはかり考へて、中夏の薬剤の半(なかば)を一服と定めば宜しかるべし。然らば、一服は、一匁より二匁に至りて、其内、人の強弱、病の軽重によりて多少あるべし。凡(およそ)時宜をしらず、法にかゝはるは、愚人のする事なり。俗流にしたがひて、道理を忘るゝは小人(しょうじん)のわざなり。  
(722)右、薬一服の分量の大小、用水の多少を定むる事、予、医生にあらずして好事の誚(そしり)、僣率(せんそつ)の罪、のがれたしといへども、今時(こんじ)、本邦の人の禀賦(ひんぷ)をはかるに、おそらくは、かくの如(ごとく)にして宜しかるべし。願くば有識の人、博く古今を考へ、日本の人の生れ付(つき)に応じ、時宜にかなひて、過不及の差(たがい)なく、軽重大小を定め給ふべし。  
(723)煎薬に加ふる四味あり。甘草(かんぞう)は、薬毒をけし、脾胃を補なふ。生姜(しょうきょう)は薬力をめぐらし、胃を開く。棗(なつめ)は元気を補ひ、胃をます。葱白(そうはく)は風寒を発散す。是入門にいへり。又、燈心草(とうしんそう)は、小便を通じ、腫気を消す。  
(724)今世、医家に泡薬(ひたしやく)の法あり。薬剤を煎ぜずして、沸湯(ふっとう)にひたすなり。世俗に用る振薬(ふりやく)にはあらず。此法、振薬にまされり。其法、薬剤を細(こまか)にきざみ、細なる竹篩(たけふるい)にてふるひ、もれざるをば、又、細にきざみ粗末とすべし。布の薬袋をひろくして薬を入れ、まづ碗を熱湯にてあたゝめ、その湯はすて、やがて薬袋を碗に入(れ)、其上より沸湯を少(し)そゝぎ、薬袋を打返して、又、其上より沸湯を少(し)そゝぐ。両度に合せて半盞(はんさん)ほど熱湯をそゝぐべし。薬の液(しる)の自然(じねん)に出るに任せて、振出すべからず。早く蓋をして、しばし置べし。久しくふたをしおけば、薬汁(やくじゅう)出過(ぎ)てちからなし。薬汁出で、熱湯の少(し)さめて温(か)になりたるよきかんの時、飲(む)べし。かくの如くして二度泡(ひた)し、二度のみて後、其かすはすつべし。袋のかすをしぼるべからず。薬汁濁(にごり)てあしし。此法薬力つよし。利薬には、此煎法も宜し。外邪、食傷(しょくしょう)、腹痛、霍乱(かくらん)などの病には、煎湯よりも此法の功するどなり、用ゆべし。振薬(ふりやく)は用ゆべからず。此法、薬汁早く出(で)て薬力つよし。たとへば、茶を沸湯に浸して、其にえばなをのめば、其気つよく味もよし。久しく煎じ過せば、茶の味も気もあしくなるが如し。  
(725)世俗には、振薬(ふりやく)とて、薬を袋に入て熱湯につけて、箸にてはさみ、しきりにふりうごかし、薬汁を出して服す。是は、自然に薬汁出(いず)るにあらず。しきりにふり出す故、薬湯にごり、薬力滞(とどこおり)やすし。補薬は、常の煎法の如く、煎じ熟すべし。泡薬に宜からず。凡(そ)煎薬を入る袋は、あらき布はあしゝ。薬末もりて薬汁にごれば、滞りやすし。もろこしの書にて、泡薬の事いまだ見ずといへども、今の時宜によりて、用るも可也。古法にあらずしても、時宜よくかなはゞ用ゆべし。  
(726)頤生微論(いせいびろん)に曰、「大抵散利の剤は生に宜(し)。補養の剤は熱に宜(し)」。入門に曰、「補湯は熟を用須。利薬は生を嫌はず」。此法、薬を煎ずる要訣(けつ)なり。補湯は、久しく煎じて熟すれば、やはらかにして能(よく)補ふ。利薬は、生気のつよきを用て、はげしく病邪をうつべし。  
(727)補湯は、煎湯熱き時、少づゝのめばつかえず。ゆるやかに験(げん)を得べし。一時に多く服すべからず。補湯を服する間、殊(に)酒食を過(すご)さず、一切の停滞する物くらふべからず。酒食滞塞(たいそく)し、或(あるいは)薬を服し過し、薬力めぐらざれば、気をふさぎ、服中滞り、食を妨げて病をます。しるしなくして害あり。故に補薬を用る事、その節制むづかし。良医は、用(い)やう能(よく)してなづまず。庸医は用やうあしくして滞る。古人は、補薬を用るその間に、邪をさる薬を兼(ね)用(もち)ゆ。邪気されば、補薬にちからあり。補に専一なれば、なづみて益なく、かへつて害あり。是古人の説なり。  
(728)利薬は、大服にして、武火(つよび)にて早く煎じ、多くのみて、速に効(しるし)をとるべし。然らざれば、邪去がたし。局方に曰、補薬は水を多くして煎じ、熱服して効をとる。  
(729)凡(そ)丸薬は、性尤(も)やはらかに、其功、にぶくしてするどならず。下部(げぶ)に達する薬、又、腸胃の積滞(しゃくたい)をやぶるによし。散薬は、細末せる粉薬也。丸薬よりするどなり。経絡にはめぐりがたし。上部の病、又、腸胃の間の病によし。煎湯は散薬より其功するどなり。上中下、腸胃、経絡にめぐる。泡(ひたし)薬は煎湯より猶(なお)するどなり。外邪、霍乱、食傷、腹痛に用(う)べし。其功早し。  
(730)入門にいへるは、薬を服するに、病、上部にあるには、食後に少づゝ服す。一時に多くのむべからず。病、中部に在(る)には、食遠に服す。病、下部にあるには、空心にしきりに多く服して下に達すべし。病、四肢、血脈にあるには、食にうゑて日中に宜し。病、骨髄に在には食後夜に宜し。吐逆(とぎゃく)して薬を納(め)がたきには、只一すくひ、少づゝ、しづかにのむべし。急に多くのむべからず。是薬を飲法也。しらずんば有(る)べからず。 
(731)又曰、薬を煎ずるに砂かん(しゃかん)(731)を用ゆべし。やきものなべ也。又曰、人をゑらぶべし。云意(いうこころ)は、心謹信なる人に煎じさせてよしと也。粗率(そそつ)なる者に任すべからず。  
(732)薬を服するに、五臓四肢に達するには湯(とう)を用ゆ。胃中にとゞめんとせば、散を用ゆ。下部の病には丸(がん)に宜し。急速の病ならば、湯を用ゆ。緩々なるには散を用ゆ。甚(だ)緩(ゆる)き症には、丸薬に宜し。食傷、腹痛などの急病には煎湯を用ゆ。散薬も可也。丸薬はにぶし。もし用ひば、こまかにかみくだきて用ゆべし。  
(733)中華の書に、薬剤の量数をしるせるを見るに、八解散など、毎服二匁、水一盞(さん)、生薑(しょうきょう)三片、棗(なつめ)一枚煎じて七分にいたる。是は一日夜に二三服も用ゆべし。或は方によりて、毎服三匁、水一盞(さん)半、生薑(しょうきょう)五片、棗一枚、一盞に煎じて滓(かす)を去る。香蘇散(こうそさん)などは、日に三服といへり。まれには滓(かす)を一服として煎ずと云。多くは滓(かす)を去(さる)といへり。人参養胃湯(にんじんよういとう)などは、毎服四匁、水一盞半、薑(きょう)七片、烏梅(うばい)一箇、煎じて七分にいたり、滓を去。参蘇飲(じんそいん)は毎服四匁、水一盞、生薑七片、棗一箇、六分に煎ず。霍香生気散(かつこうしょうきさん)、敗毒散(はいどくさん)は、毎服二匁、水一盞、生薑(しょうが)三片、棗一枚、七分に煎ず。寒多きは熱服し、熱多きは温服(おんぷく)すといへり。是皆、薬剤一服の分量は多く、水を用る事すくなし。然れば、煎湯甚(だ)濃(く)なるべし。日本の煎法の、小服にして水多きに甚(だ)異(かわ)れり。局方に、小児には半餞を用ゆも児の大小をはかつて加減すといへり。又、小児の薬方、毎服一匁、水八分、煎じて六分にいたる、といへるもあり。医書大全、四君子湯方(ほう)後(のちに)曰、「右きざむこと(7/33)麻豆の大(の)如(し)。毎服一匁、水三盞、生薑五片、煎じて一盞に至る。是一服を十匁に合せたる也」。水は甚(だ)少し。  
(734)中夏の煎法(せんぽう)右の如し。朝鮮人に尋ねしにも、中夏の煎法と同じと云。  
(735)宋の沈存中(しんぞんちゅう)が筆談と云書に曰、近世は湯を用ずして煮散を用ゆといへり。然れば、中夏には、此法を用るなるべし。煮散の事、筆談に其法詳(つまびらか)ならず。煮散は薬を麁末(そまつ)とし、細布の薬袋のひろきに入(れ)、熱湯の沸上(わきあが)る時、薬袋を入、しばらく煮て、薬汁出たる時、早く取り上げ用(い)るなるべし。麁末の散薬を煎ずる故、煮散と名づけしにや。薬汁早く出(で)、早く取上げ、にゑばなを服する故、薬力つよし。煎じ過せば、薬力よはく成てしるしなり。此法、利湯を煎じて、薬力つよかるべし。補薬には此法用いがたし。煮散の法、他書においてはいまだ見ず。  
(736)甘草(かんぞう)をも、今の俗医、中夏の十分一用ゆるは、あまり小にして、他薬の助(たすけ)となりがたかるべし。せめて方書に用たる分量の五分一用べしと云人あり。此言、むべなるかな。人の禀賦(ひんぷ)をはかり、病症を考へて、加へ用ゆべし。日本の人は、中華の人より体気薄弱にして、純補(じゅんぽ)をうけがたし。甘草、棗など斟酌(しんしゃく)すべし。李中梓(りちゅうし)が曰、甘草性緩なり。多く用ゆべからず。一は、甘きは、よく脹(ちょう)をなすをおそる。一は、薬餌(やくじ)功なきをおそる。是甘草多ければ、一は気をふさぎて、つかえやすく、一は、薬力よはくなる故なり。  
(737)生薑(しょうきょう)は薬一服に一片、若し風寒発散の剤、或(は)痰を去る薬には、二片を用ゆべし。皮を去べからず。かわきたるとほしたるは用るべからず。或曰、生薑(しょうきょう)補湯には二分、利湯には三分、嘔吐の症には四分加ふべしと云。是生(なま)なる分量なり。  
(738)棗は、大なるをゑらび用ひてたねを去(り)、一服に半分入用ゆべし。つかえやすき症には去べし。利湯には、棗を用べからず。中華の書には、利湯にも、方によりて棗を用ゆ。日本の人には泥(なず)みやすし、加ふべからず。加ふれば、薬力ぬるくなる。中満、食滞の症及(び)薬のつかえやすき人には、棗を加ふべからず。龍眼肉も、つかえやすき症には去べし。  
(739)中夏の書、居家必用(きょかひつよう)、居家必備(きょかひつび)、斉民要術(せいみんようじゅつ)、農政全書、月令広義(がつりょうこうぎ)等に、料理の法を多くのせたり。其のする所、日本の料理に大いにかはり、皆、肥濃膏腴(ひのうこうゆ)、油膩(ゆに)の具、甘美の饌(せん)なり。其食味甚(だ)おもし。中土の人は、腸胃厚く、禀賦(ひんぷ)つよき故に、かゝる重味を食しても滞塞せず。今世、長崎に来る中夏人も、亦此如と云。日本の人は壮盛(そうせい)にても、かたうの饌食をくらはば飽満し、滞塞して病おこるべし。日本の人の饌食は、淡くしてかろきをよしとす。肥濃甘美の味を多く用ず。庖人の術も、味かろきをよしとし、良工とす。これ、からやまと風気の大に異る処なり。然れば、補薬を小服にし、甘草を減じ、棗を少、用る事むべなり。  
(740)凡(そ)薬を煎ずるに、水をゑらぶべし。清くして味よきを用ゆ。新に汲む水を用ゆべし。早天に汲む水を井華水と云。薬を煎ずべし。又、茶と羹(あつもの)をにるべし。新汲水は、平旦ならでも、新に汲んでいまだ器に入ざるを云。是亦用ゆべし。汲で器に入、久しくなるは用ゆべからず。 
(741)今世の俗は、利湯をも、煎じたるかすに、水一盞入て半分に煎じ、別にせんじたると合せ服す。利湯は、かくの如く、かすまで熟し過しては、薬力よはくして、病をせむるにちからなし。一度煎じて、其かすはすつべし。  
(742)生薑(しょうきょう)を片とするは、生薑根(こん)には肢(また)多し。其内一肢(また)をたてに長くわるに、大小にしたがひて、三片或(は)四片とすべし。たてにわるべし。或(は)問、生薑(しょうきょう)、医書に其おもさ幾分と云ずして、幾片と云は何ぞや。答曰、新にほり出せるは、生にしておもく、ほり出して日をいたるは、かはきてかろければ、其重さ幾分と定(さだめ)がたし。故に幾分と云ずして幾片と云。  
(743)棗は、樹頭に在(り)てよく熟し、色の青きが白くなり、少(し)紅まじる時とるべし。青きはいまだ熟せず、皆、紅なるは熟し過て、肉たゞれてあしゝ。色少あかくなり、熟し過ざる時とり、日に久しくほし、よくかはきたる時、むしてほすべし。生にてむすべからず。なまびもあしゝ。薬舗(くすりや)及(び)市廛(てん)にうるは、未熟なるをほしてうる故に性あしゝ。用ゆべからず。或(は)樹上にて熟し過るもたゞれてあしゝ。用ゆべからず。棗樹は、わが宅に必(ず)植べし。熟してよき比(ころ)の時とるべし。  
(744)凡(そ)薬を服して後、久しく飲食すべからず。又、薬力のいまだめぐらざる内に、酒食をいむ。又、薬をのんでねむり臥すべからず。ねむれば薬力めぐらず、滞(とどこお)りて害となる。必(ず)戒むべし。  
(745)凡(そ)薬を服する時は、朝夕の食、常よりも殊につゝしみゑらぶべし。あぶら多き魚、鳥、獣、なます、さしみ、すし、肉(しし)ひしほ、なし物、なまぐさき物、ねばき物、かたき物、一切の生冷の物、生菜の熟せざる物、ふるくけがらはしき物、色あしく臭(か)あしく味変じたる物、生なる菓(このみ)、つくりたる菓子、あめ、砂糖、もち、だんご、気をふさぐ物、消化しがたき物、くらふべからず。又、薬をのむ日は、酒を多くのむべからず。のまざるは尤(もっとも)よし。酒力、薬にかてばしるしなし。醴(あまざけ)ものむべからず。日長き時も、昼の間、菓子点心(てんじん)などくらふべからず。薬力のめぐる間は、食をいむべし。点心をくらへば、気をふさぎて、昼の間、薬力めぐらず。又、死人、産婦など、けがれいむべき物を見れば、気をふさぐ故、薬力めぐりがたく、滞やすくして、薬のしるしなし。いましめてみるべからず。  
(746)補薬を煎ずるには、かたき木、かたき炭などのつよき火を用ゆべからず。かれたる蘆(あし)の火、枯竹、桑柴(くわしば)の火、或(は)けし炭(ずみ)など、一切のやはらかなる火よし。はげしくもゆる火を用ゆれば、薬力を損ず。利薬を煎ずるには、かたき木、かたき炭などの、さかんなるつよき火を用ゆべし。是薬力をたすくるなり。  
(747)薬一服の大小、軽重は、病症により、人の大小強弱によつて、増減すべし。補湯は、小剤にして少づゝ服し、おそく効(しるし)をとるべし。多く用ひ過せば、滞りふさがる。発散、瀉下(しゃげ)、疎通の利湯は、大剤にしてつよきに宜し、早く効(しるし)をとるべし。  
(748)薬を煎ずるは、磁器よし、陶(やきもの)器也。又、砂罐(しゃかん)と云。銅をいまざる薬は、ふるき銅器もよし。新しきは銅(あかがね)気多くしてあしゝ。世俗に薬鍋(やくか)と云は、銅厚くして銅(あかがね)気多し。薬罐(やかん)と云は、銅うすくして銅(あかがね)気すくなし。形小なるがよし。  
(749)利薬を久しく煎じつめては、消導(しょうどう)発散すべき生気の力なし。煎じつめずして、にん(320:にえばな)を失はざる生気あるを服して、病をせむべし。たとへば、茶をせんじ、生魚を煮、豆腐を煮るが如し。生熟の間、よき程のにえばな(320)を失はざれば、味よくしてつかえず。にん(320)を失へば、味あしくして、つかえやすきが如し。  
(750)毒にあたりて、薬を用るに、必(かならず)熱湯を用ゆべからず。熱湯を用ゆれば毒弥(いよいよ)甚し。冷水を用ゆべし。これ事林広記(じりんこうき)の説なり。しらずんばあるべからず。 
(751)食物の毒、一切の毒にあたりたるに、黒豆、甘草(かんぞう)をこく煎じ、冷になりたる時、しきりにのむべし。温熱なるをのむべからず。はちく竹の葉を、加ふるもよし。もし毒をけす薬なくば、冷水を多く飲べし。多く吐瀉(としゃ)すればよし。是古人急に備ふる法なり。知(しる)べし。  
(752)酒を煎湯に加ふるには、薬を煎じて後、あげんとする時加ふべし。早く加ふるあしゝ。  
(753)腎は、水を主(つかさ)どる。五臓六腑の精をうけてをさむ故、五臓盛(さかん)なれば、腎水盛なり。腎の臓ひとつに、精あるに非ず。然れば、腎を補はんとて専(もっぱら)腎薬を用ゆべからず。腎は下部にあつて五臓六腑の根とす。腎気、虚すれば一身の根本衰ろふ。故に、養生の道は、腎気をよく保つべし。腎気亡びては生命を保ちがたし。精気をおしまずして、薬治と食治とを以(もって)、腎を補はんとするは末なり。しるしなかるべし。  
(754)東垣が曰く、細末の薬は経絡にめぐらず。只、胃中臓腑の積(しゃく)を去る。下部の病には、大丸を用ゆ。中焦(ちゅうしょう)の病は之に次ぐ。上焦を治するには極めて小丸にす。うすき糊(のり)にて丸(がん)ずるは、化しやすきに取る。こき糊にて丸ずるは、おそく化して、中下焦に至る。  
(755)丸薬、上焦の病には、細にしてやはらかに早く化しやすきがよし。中焦の薬は小丸(しょうがん)にして堅かるべし。下焦の薬は大丸にして堅きがよし。是、頤生微論(いせいびろん)の説也。又、湯は久き病に用ゆ。散は急なる病に用ゆ。丸(がん)はゆるやかなる病に用る事、東垣(とうえん)が珍珠嚢(ちんしゅのう)に見えたり。  
(756)中夏の秤(はかり)も、日本の秤と同じ。薬を合(あわ)するには、かねて一服の分量を定め、各品の分釐(ぶんり)をきはめ、釐等(りんだめ)を用ひてかけ合すべし。薬により軽重甚(だ)かはれり、多少を以(て)分量を定めがたし。  
(757)諸香(こう)の鼻を養ふ事、五味の口を養ふがごとし。諸香は、是をかげば生気をたすけ、邪気をはらひ、悪臭をけし、けがれをさり、神明に通ず。いとまありて、静室に坐して、香をたきて黙坐するは、雅趣をたすけて心を養ふべし。是亦、養生の一端なり。香に四品あり。たき香あり、掛香あり、食香あり、貼(つけ)香あり。たき香とは、あはせたきものゝ事也。からの書に百和香(ひやつかこう)と云。日本にも、古今和歌集の物の名に百和香をよめり。かけ香とは、かほり袋、にほひの玉などを云。貼香とは、花の露、兵部卿など云類の、身につくる香也。食香とは、食して香よき物、透頂香(とうちんこう)、香茶餅(こうさべい)、団茶(だんさ)など云物の事也。  
(758)悪気をさるに、蒼朮(そうじゅつ)をたくべし。こすい(441:ちぐさ)の実をたけば、邪気をはらふ。又、痘瘡のけがれをさる。蘿も(343:こえんどろ)の葉をほしてたけば、糞小便の悪気をはらふ。手のけがれたるにも蘿も(343)の生葉をもんでぬるべし。腥(なまぐさ)き臭(におい)あしき物を、食したるに、こすい(441)をくらへば悪臭さる。蘿も(343)のわか葉を煮て食すれば、味よく性よし。  
(759)大便、瀉(しや)しやすきは大いにあしし。少(し)秘するはよし。老人の秘結するは寿(ながいき)のしるし也。尤(も)よし。然(れ)共、甚秘結するはあしし。およそ人の脾胃につかえ、食滞り、或(は)腹痛し、不食し、気塞(ふさが)る病する人、世に多し。是多くは、大便通じがたくして、滞る故しかり。つかゆるは、大便つかゆる也。大便滞らざるやうに治(じ)すべし。麻仁(まにん)、杏仁(きょうにん)、胡麻などつねに食すれば、腸胃うるほひて便結せず。  
(760)上中部の丸薬は早く消化するをよしとす。故に、小丸を用ゆ。早く消化する故也。今、新なる一法あり。用ゆべし。末薬をのりに和(か)してつねの如くに丸せず、線香の如く、長さ七八寸に、手にてもみて、引のべ、線香より少(し)大にして、日にほし、なまびの時、長さ一分余に、みじかく切て丸せず、其まゝ日にほすべし。是一づゝ丸したるより消化しやすし。上中部を治するに、此法宜し。下部に達する丸薬には、此法宜しからず。此法、一粒づゝ丸ずるより、はか行きて早く成る。 
巻第八 / 老を養ふ 

 

(801)人の子となりては、其おやを養ふ道をしらずんばあるべからず。其心を楽しましめ、其心にそむかず、いからしめず、うれへしめず。其時の寒暑にしたがひ、其居室と其祢所(そのねどころ)をやすくし、其飲食を味よくして、まことを以て養ふべし。  
(802)老人は、体気おとろへ、胃腸よはし。つねに小児を養ふごとく、心を用ゆべし。飲食のこのみ、きらひをたづね、其寒温の宜きをこゝろみ、居室をいさぎよくし、風雨をふせぎ、冬あたゝかに、夏涼しくし、風・寒・暑・湿の邪気をよく防ぎて、おかさしめず、つねに心を安楽ならしむべし。盗賊・水火の不意なる変災あらば、先(まず)両親を驚かしめず、早く介保(かいほう)し出(いだ)すべし。変にあひて、病おこらざるやうに、心づかひ有べし。老人は、驚けば病おこる。おそるべし。  
(803)老の身は、余命久しからざる事を思ひ、心を用る事わかき時にかはるべし。心しづかに、事すくなくて、人に交はる事もまれならんこそ、あひ似あひてよろしかるべけれ。是も亦、老人の気を養ふ道なり。  
(804)老後は、わかき時より月日の早き事、十ばいなれば、一日を十日とし、十日を百日とし、一月を一年とし、喜楽して、あだに、日をくらすべからず。つねに時日をおしむべし。心しづかに、従容(しょうよう)として余日を楽み、いかりなく、慾すくなくして、残躯をやしなふべし。老後一日も楽しまずして、空しく過ごすはおしむべし。老後の一日、千金にあたるべし。人の子たる者、是を心にかけて思はざるべんけや。  
(805)今の世、老て子に養はるゝ人、わかき時より、かへつていかり多く、慾ふかくなりて、子をせめ、人をとがめて、晩節をもたず、心をみだす人多し。つゝしみて、いかりと慾とをこらえ、晩節をたもち、物ごとに堪忍ふかく、子の不孝をせめず、つねに楽しみて残年をおくるべし。是老後の境界(きょうがい)に相応じてよし。孔子、年老血気衰へては得るを戒しめ給ふ。聖人の言おそるべし。世俗、わかき時は頗(すこぶる)つゝしむ人あり。老後はかへつて、多慾にして、いかりうらみ多く、晩節をうしなうふ人多し。つゝしむべし。子としては是を思ひ、父母のいかりおこらざるやうに、かねて思ひはかり、おそれつゝしむべし。父母をいからしむるは、子の大不孝也。又子として、わが身の不孝なるを、おやにとがめられ、かへつておやの老耄(ろうもう)したる由を、人につぐ。是大不孝也。不孝にして父母をうらむるは、悪人のならひ也。  
(806)老人の保養は、常に元気をおしみて、へらすべからず。気息を静にして、あらくすべからず。言語(げんぎょ)をゆるやかにして、早くせず。言(ことば)すくなくし、起居行歩をも、しづかにすべし。言語あらゝかに、口ばやく声高く、よう言(ようげん)(806)すべからず。怒なく、うれひなく、過ぎ去たる人の過を、とがむべからず。我が過を、しきりに悔ゆべからず。人の無礼なる横逆を、いかりうらむべからず。是皆、老人養生の道なり。又、老人の徳行のつゝしみなり。  
(807)老ては気すくなし。気をへらす事をいむべし。第一、いかるべからず。うれひ、かなしみ、なき、なげくべからず。喪葬の事にあづからしむべからず。死をとぶらふべからず。思ひを過すべからず。尤多言をいむ。口、はやく物云べからず。高く物いひ、高くわらひ、高くうたふべからず。道を遠く行くべからず。重き物をあぐべからず。是皆、気をへらさずして、気をおしむなり。  
(808)老人は体気よはし。是を養ふは大事なり。子たる者、つゝしんで心を用ひ、おろそかにすべからず。第一、心にそむかず、心を楽しましむべし。是志を養ふ也。又、口腹の養におろそかなるべからず。酒食精(くわ)しく味よき物をすゝむべし。食の精(くわ)しからざる、あらき物、味あしき物、性あしき物をすゝむべからず。老人は、胃腸よはし、あらき物にやぶられやすし。  
(809)衰老の人は、脾胃よはし。夏月は、尤慎んで保養すべし。暑熱によつて、生冷の物をくらへば泄瀉(せつしゃ)しやすし。瘧痢(ぎゃくり)もおそるべし。一たび病すれば、大(い)にやぶれて元気へる。残暑の時、殊におそるべし。又、寒月は、老人は陽気すくなくして寒邪にやぶられやすし。心を用てふせぐべし。  
(810)老人はことに生冷、こはき物、あぶらけねばく、滞りやすき物、こがれてかはける物、ふるき物、くさき物をいむ。五味偏なる物、味よしとても、多く食ふべからず。夜食を、殊に心を用てつゝしむべし。 
(811)年老ては、さびしきをきらふ。子たる者、時々侍べり、古今の事、しずかに物がたりして、親の心をなぐさむべし。もし朋友妻子には和順にして、久しく対談する事をよろこび、父母に対する事をむづかしく思ひて、たえだえにしてうとくするは、是其親を愛せずして他人を愛する也。悖徳(はいとく)と云べし。不孝の至也。おろかなるかな。  
(812)天気和暖(かだん)の日は、園圃(えんぼ)に出、高き所に上り、心をひろく遊ばしめ、欝滞(うつたい)を開くべし。時時草木を愛し、遊賞せしめて、其意(こころ)を快くすべし。されども、老人みづからは、園囿(えんゆう)、花木に心を用ひ過して、心を労すべからず。  
(813)老人は気よはし。万(よろず)の事、用心ふかくすべし。すでに其事にのぞみても、わが身をかへりみて、気力の及びがたき事は、なすべからず。  
(814)とし下寿(かじゅ)をこゑ、七そぢにいたりては、一とせをこゆるも、いとかたき事になん。此ころにいたりては、一とせの間にも、気体のおとろへ、時々に変りゆく事、わかき時、数年を過るよりも、猶はなはだけぢめあらはなり。かくおとろへゆく老の身なれば、よくやしなはずんば、よはひを久しくたもちがたかるべし。又、此としごろにいたりては、一とせをふる事、わかき時、一二月を過るよりもはやし。おほからぬ余命をもちて、かく年月早くたちぬれば、此後のよはひ、いく程もなからん事を思ふべし。人の子たらん者、此時、心を用ひずして孝をつくさず、むなしく過なん事、おろかなるかな。  
(815)老ての後は、一日を以て十日として日々に楽しむべし。常に日をおしみて、一日もあだにくらすべからず。世のなかの人のありさま、わが心にかなはずとも、凡人なれば、さこそあらめ、と思ひて、わが子弟をはじめ、人の過悪を、なだめ、ゆるして、とがむべからず。いかり、うらむべからず。又、わが身不幸にして福うすく、人われに対して横逆なるも、うき世のならひ、かくこそあらめ、と思いひ、天命をやすんじて、うれふべからず。つねに楽しみて日を送るべし。人をうらみ、いかり、身をうれひなげきて、心をくるしめ、楽しまずして、むなしく過ぬるは、愚かなりと云べし。たとひ家まどしく、幸(さいわい)なくしても、うへて死ぬとも、死ぬる時までは、楽しみて過すべし。貧しきとて、人にむさぼりもとめ、不義にして命をおしむべからず。  
(816)年老ては、やうやく事をはぶきて、すくなくすべし。事をこのみて、おほくすべからず。このむ事しげゝれば、事多し。事多ければ、心気つかれて楽(たのしみ)をうしなふ。  
(817)朱子六十八歳、其子に与ふる書に、衰病の人、多くは飲食過度によりて、くはゝる。殊に肉多く食するは害あり。朝夕、肉は只一種、少食すべし。多くは食ふべからず。あつものに肉あらば、さい(306)に肉なきがよし。晩食には、肉なきが尤(も)よし。肉の数、多く重ぬるは滞りて害あり。肉をすくなくするは、一には胃を寛くして、気を養ひ、一には用を節にして、財を養ふといへり。朱子の此言、養生にせつなり。わかき人も此如すべし。  
(818)老人は、大風雨、大寒暑、大陰霧の時に外に出(いず)べからず。かゝる時は、内に居て、外邪をさけて静養すべし。  
(819)老ては、脾胃の気衰へよはくなる。食すくなきに宜し。多食するは危し。老人の頓死するは、十に九は皆食傷なり。わかくして、脾胃つよき時にならひて、食過れば、消化しがたく、元気ふさがり、病おこりて死す。つゝしみて、食を過すべからず。ねばき飯(いい)、こはき飯、もち、だんご、( めん )類、糯(もち)の飯、獣の肉、凡(およそ)消化しがたき物を多くくらふべからず。  
(820)衰老の人、あらき物、多くくらふべからず。精(くわ)しき物を少くらふべしと、元の許衡(きょこう)いへり。脾胃よはき故也。老人の食、此如なるべし。 
(821)老人病あらば、先(まず)食治(しょくち)すべし。食治応ぜずして後、薬治を用ゆべし。是古人の説也。人参、黄ぎ(おうぎ)は上薬也。虚損の病ある時は用ゆべし。病なき時は、穀肉の養(やしない)の益ある事、参ぎ(115)の補に甚(はなはだ)まされり。故に、老人はつねに味美(よ)く、性よき食物を少づゝ用て補養すべし。病なきに、偏なる薬をもちゆべからず。かへつて害あり。  
(822)朝夕の飯、常の如く食して、其上に又、こう(311)餌(もちだんご)、めん(822)類など、わかき時の如く、多くくらふべからず。やぶられやすし。只、朝夕二時の食、味よくして進むべし。昼間、夜中、不時の食、このむべからず。やぶられやすし。殊(ことに)薬をのむ時、不時に食すべからず。  
(823)年老ては、わが心の楽(たのしみ)の外、万端、心にさしはさむべからず。時にしたがひ、自楽しむべし。自楽むは世俗の楽に非(あら)ず。只、心にもとよりある楽を楽しみ、胸中に一物一事のわづらひなく、天地四時、山川の好景、草木の欣栄(きんえい)、是又、楽しむべし。  
(824)老後、官職なき人は、つねに、只わが心と身を養ふ工夫を専(もっぱら)にすべし。老境に無益のつとめのわざと、芸術に、心を労し、気力をついやすべからず。  
(825)朝は、静室に安坐し、香をたきて、聖経(せいきょう)を少(し)読誦(どくじゅ)し、心をいさぎよくし、俗慮をやむべし。道かはき、風なくば、庭圃(ていほ)に出て、従容(しょうよう)として緩歩(かんぽ)し、草木を愛玩し、時景を感賞すべし。室に帰りても、閑人を以薬事をなすべし。よりより几案硯中(きあんけんちゅう)のほこりをはらひ、席上階下の塵を掃除すべし。しばしば兀坐して、睡臥すべからず。又、世俗に広く交るべからず。老人に宜しからず。  
(826)つねに静養すべし。あらき所作をなくすべからず。老人は、少の労動により、少の、やぶれ、つかれ、うれひによりて、たちまち大病おこり、死にいたる事あり。つねに心を用ゆべし。  
(827)老人は、つねに盤坐(ばんざ)して、凭几(しょうぎ)をうしろにおきて、よりかゝり坐すべし。平臥を好むべからず。。  
幼を育ふ  
(828)小児をそだつるは、三分の飢と寒とを存すべしと、古人いへり。いふ意(こころ)は、小児はすこし、うやし(飢)、少(し)ひやすべしとなり。小児にかぎらず、大人も亦かくの如くすべし。小児に、味よき食に、あかしめ(飽)、きぬ多くきせて、あたゝめ過すは、大にわざはひとなる。俗人と婦人は、理にくらくして、子を養ふ道をしらず、只、あくまでうまき物をくはせ、きぬあつくきせ、あたゝめ過すゆへ、必病多く、或(あるいは)命短し。貧家の子は、衣食ともしき故、無病にしていのち長し。  
(829)小児は、脾胃もろくしてせばし。故に食にやぶられやすし。つねに病人をたもつごとくにすべし。小児は、陽さかんにして熱多し。つねに熱をおそれて、熱をもらすべし。あたため過せば筋骨よはし。天気よき時は、外に出して、風日にあたらしむべし。此如すれば、身堅固にして病なし。はだにきする服は、ふるき布を用ゆ。新しききぬ、新しきわたは、あたゝめ過してあしゝ。用ゆべからず。  
(830)小児を保養する法は、香月牛山医士のあらはせる育草(やしないぐさ)に詳(つまびらか)に記せり。考みるべし。故に今こゝに略せり。 
鍼  
(831)鍼をさす事はいかん。曰く、鍼をさすは、血気の滞をめぐらし、腹中の積(しゃく)をちらし、手足の頑痺(がんひ)をのぞく。外に気をもらし、内に気をめぐらし、上下左右に気を導く。積滞(しゃくたい)、腹痛などの急症に用て、消導(しょうどう)する事、薬と灸より速(か)なり。積滞なきにさせば、元気をへらす。故に正伝或問に、鍼に瀉(しゃ)あつて補なしといへり。然れども、鍼をさして滞を瀉し、気めぐりて塞らざれば、其あとは、食補も薬補もなしやすし。内経(ないけい)に、かく々(831:かくかく)の熱を刺すことなかれ。渾々の脈を刺(す)事なかれ。鹿々(ろくろく)の汗を刺事なかれ。大労の人を刺事なかれ。大飢の人をさす事なかれ。大渇の人、新に飽る人、大驚の人を刺事なかれ、といへり。又曰、形気不足、病気不足の人を刺事なかれ、是、内経の戒(いましめ)なり。是皆、瀉有て、補無きを謂也。と正伝にいへり。又、浴(ゆあみ)して後、即時に鍼すべからず。酒に酔へる人に鍼すべからず。食に飽て即時に鍼さすべからず。針医も、病人も、右、内経の禁をしりて守るべし。鍼を用て、利ある事も、害する事も、薬と灸より速なり。よく其利害をえらぶべし。つよく刺て痛み甚しきはあしゝ。又、右にいへる禁戒を犯せば、気へり、気のぼり、気うごく、はやく病を去んとして、かへつて病くはゝる。是よくせんとして、あしくなる也。つゝしむべし。  
(832)衰老の人は、薬治、鍼灸、導引、按摩を行ふにも、にはかにいやさんとして、あらくすべからず。あらくするは、是即効を求むる也。たちまち禍となる事あり。若(もし)当時快しとても後の害となる。  
灸法  
(833)人の身に灸をするは、いかなる故ぞや。曰く、人の身のいけるは、天地の元気をうけて本(もと)とす。元気は陽気なり。陽気はあたゝかにして火に属す。陽気は、よく万物を生ず。陰血も亦元気より生ず。元気不足し、欝滞してめぐらざれば、気へりて病生ず。血も亦へる。然る故、火気をかりて、陽をたすけ、元気を補へば、陽気発生してつよくなり、脾胃調ひ、食すゝみ、気血めぐり、飲食滞塞せずして、陰邪の気さる。是灸のちからにて、陽をたすけ、気血をさかんにして、病をいやすの理なるべし。  
(834)艾草(もぐさ)とは、もえくさの略語也。三月三日、五月五日にとる。然共(しかれども)、長きはあし故に、三月三日尤(もっとも)よし。うるはしきをゑらび、一葉づゝつみとりて、ひろき器(うつわもの)に入、一日、日にほして、後ひろくあさき器に入、ひろげ、かげぼしにすべし。数日の後、よくかはきたる時、又しばし日にほして早く取入れ、あたゝかなる内に、臼にてよくつきて、葉のくだけてくずとなれるを、ふるひにてふるひすて、白くなりたるを壷か箱に入、或袋に入おさめ置て用べし。又、かはきたる葉を袋に入置、用る時、臼にてつくもよし。くきともにあみて、のきにつり置べからず。性よはくなる。用ゆべからず。三年以上、久しきを、用ゆべし。用て灸する時、あぶり、かはかすべし。灸にちからありて、火もゑやすし。しめりたるは功なし。  
(835)昔より近江の胆吹山(いぶきやま)下野の標芽(しめじ)が原を艾草の名産とし、今も多く切てうる。古歌にも、此両処のもぐさをよめり。名所の産なりとも、取時過て、のび過たるは用ひがたし。他所の産も、地よくして葉うるはしくば、用ゆべし。  
(836)艾ちゅう(836)(がいちゅう)の大小は、各其人の強弱によるべし。壮(さかん)なる人は、大なるがよし、壮数も、さかんなる人は、多きによろし。虚弱にやせたる人は、小にして、こらへやすくすべし。多少は所によるべし。熱痛をこらゑがたき人は、多くすべからず。大にしてこらへがたきは、気血をへらし、気をのぼせて、甚害あり。やせて虚怯(きょこう)なる人、灸のはじめ、熱痛をこらへがたきには、艾ちゅう(836)の下に塩水を多く付、或(あるいは)塩のりをつけて五七壮灸し、其後、常の如くすべし。此如すれば、こらへやすし。猶もこらへがたきは、初(はじめ)五六壮は、艾を早く去べし。此如すれば、後の灸こらへやすし。気升(のぼ)る人は一時に多くすべからず。明堂灸経(めいどうきゅうけい)に、頭と四肢とに多く灸すべからずといへり、肌肉うすき故也。又、頭と面上と四肢に灸せば、小きなるに宜し。  
(837)灸に用る火は、水晶を天日にかゞやかし、艾を以下にうけて火を取べし。又、燧(ひうち)を以白石或水晶を打て、火を出すべし。火を取て後、香油を燈(ともしび)に点じて、艾ちゅう(831)に、其燈の火をつくべし。或香油にて、紙燭をともして、灸ちゅう(836)を先(まず)身につけ置て、しそくの火を付くべし。松、栢(かしわ)、枳(きこく)、橘(みかん)、楡(にれ)、棗(なつめ)、桑(くわ)、竹、此八木の火を忌べし。用ゆべからず。  
(838)坐して点せば、坐して灸す。臥して点せば、臥して灸す。上を先に灸し、下を後に灸す。少を先にし、多きを後にすべし。  
(839)灸する時、風寒にあたるべからず。大風、大雨、大雪、陰霧、大暑、大寒、雷電、虹げい(467)、にあはゞ、やめて灸すべからず。天気晴て後、灸すべし。急病はかゝはらず。灸せんとする時、もし大に飽、大に飢、酒に酔、大に怒り、憂ひ、悲み、すべて不祥の時、灸すべからず。房事は灸前三日、灸後七日いむべし。冬至の前五日、後十日、灸すべからず。  
(840)灸後、淡食にして血気和平に流行しやすからしむ。厚味を食(くい)過すべからず。大食すべからず。酒に大に酔べからず。熱(めん)、生冷、冷酒、風を動の物、肉の化しがたき物、くらふべからず。 
(841)灸法、古書には、其大さ、根下三分ならざれば、火気達せずといへり。今世も、元気つよく、肉厚くして、熱痛をよくこらふる人は、大にして壮数も多かるべし。もし元気虚弱、肌肉浅薄(きにくせんぱく)の人は、艾ちゅう(831)を小にして、こらへよくすべし。壮数を半減ずべし。甚熱痛して、堪へがたきをこらゆれば、元気へり、気升(のぼ)り、血気錯乱す。其人の気力に応じ、宜に随(したが)ふべし。灸の数を、幾壮と云は、強壮の人を以て、定めていへる也。然れば、灸経にいへる壮数も、人の強弱により、病の軽重によりて、多少を斟酌すべし。古法にかゝはるべからず。虚弱の人は、灸ちゅう(831)小にしてすくなかるべし。虚人は、一日に一穴、二日に一穴、灸するもよし。一時に多くすべからず。  
(842)灸して後、灸瘡(きゅうそう)発せざれば、其病癒がたし。自然にまかせ、そのまゝにては、人により灸瘡発せず。しかる時は、人事をもつくすべし。虚弱の人は灸瘡発しがたし。古人、灸瘡を発する法多し。赤皮の葱(ひともじ)を三五茎(きょう)青き所を去て、糠のあつき灰中(はいのなか)にてむ(842)し、わりて、灸のあとをしばしば熨(うつ)すべし。又、生麻油を、しきりにつけて発するもあり。又、灸のあとに、一、二壮、灸して発するあり。又、焼鳥、焼魚、熱物を食して発する事あり。今、試るに、熱湯を以しきりに、灸のあとをあたゝむるもよし。  
(843)阿是の穴は、身の中、いずれの処にても、灸穴にかゝはらず、おして見るに、つよく痛む所あり。是その灸すべき穴なり。是を阿是の穴と云。人の居る処の地によりて、深山幽谷の内、山嵐の瘴気、或は、海辺陰湿ふかき処ありて、地気にあてられ、病おこり、もしは死いたる。或疫病、温瘧(おんぎゃく)、流行する時、かねて此穴を、数壮灸して、寒湿をふせぎ、時気に感ずべからず。灸瘡にたえざる程に、時々少づゝ灸すれば、外邪おかさず、但禁灸の穴をばさくべし。一処に多く灸すべからず。  
(844)今の世に、天枢脾兪(てんすうひのゆ)など、一時に多く灸すれば、気升(のぼ)りて、痛忍(こら)へがたきとて、一日一二荘灸して、百壮にいたる人あり。又、三里を、毎日一壮づゝ百日づゝけ灸する人あり。是亦、時気をふせぎ、風を退け、上気を下し、衂(はなぢ)をとめ、眼を明にし、胃気をひらき、食をすゝむ。尤益ありと云。医書において、いまだ此法を見ず。されども、試みて其効(しるし)を得たる人多しと云。  
(845)方術の書に、禁灸の日多し。其日、その穴をいむと云道理分明ならず。内経に、鍼灸の事を多くいへども、禁鍼、禁灸の日をあらはさず。鍼灸聚英(しんきゅうじゅえい)に、人神、尻神(こうしん)の説、後世、術家の言なり。素問難経(そもんなんけい)にいはざる所、何ぞ信ずるに足らんや、といへり。又、曰く、諸の禁忌、たゞ四季の忌む所、素問に合ふに似たり。春は左の脇、夏は右の脇、秋は臍(ほそ)、冬は腰、是也。聚英に言所はかくの如し。まことに禁灸の日多き事、信じがたし。今の人、只、血忌日(ちいみび)と、男子は除の日、女子は破の日をいむ。是亦、いまだ信ずべからずといへ共、しばらく旧説と、時俗にしたがふのみ。凡(およそ)術者の言、逐一に信じがたし。  
(846)千金方に、小児初生に病なきに、かねて針灸すべからず。もし灸すれば癇をなす、といへり。癇は驚風(きょうふう)なり。小児もし病ありて、身柱(ちりけ)、天枢など灸せば、甚いためる時は除去(のぞきさり)て、又、灸すべし。若(もし)熱痛の甚きを、そのまゝにてこらへしむれば、五臓をうごかして驚癇(きょうかん)をうれふ。熱痛甚きを、こらへしむべからず。小児には、小麦の大さにして灸すべし。  
(847)項(うなじ)のあたり、上部に灸すべからず。気のぼる。老人気のぼりては、くせになりてやまず。  
(848)脾胃虚弱にして、食滞りやすく、泄瀉(せつしゃ)しやすき人は、是陽気不足なり。殊に灸治に宜し。火気を以土気を補へば、脾胃の陽気発生し、よくめぐりてさかんになり、食滞らず、食すゝみ、元気ます。毎年二八月に、天枢、水分、脾兪(ひのゆ)、腰眼(ようがん)、三里を灸すべし。京門(けいもん)、章門もかはるがはる灸すべし。脾の兪、胃の兪もかはるがはる灸すべし。天枢は尤しるしあり。脾胃虚し、食滞りやすき人は、毎年二八月、灸すべし。臍中より両旁(りょうぼう)各二寸、又、一寸五分もよし。かはるがはる灸すべし。灸(ちゅう)の多少と大小は、その気力に随ふべし。虚弱の人老衰の人は、灸(ちゅう)小にして、壮数もすくなかるべし。天枢などに灸するに、気虚弱の人は、一日に一穴、二日に一穴、四日に両穴、灸すべし。一時に多くして、熱痛を忍ぶべからず。日数をへて灸してもよし。  
(849)灸すべき所をゑらんで、要穴に灸すべし。みだりに処多く灸せば、気血をへらさん。  
(850)一切の頓死、或夜厭(おそはれ)死したるにも、足の大指の爪の甲の内、爪を去事、韮葉(にらのは)ほど前に、五壮か七壮灸すべし。 
(851)衰老の人は、下部に気すくなく、根本よはくして、気昇りやすし。多く灸すれば、気上りて、下部弥(いよいよ)空虚になり、腰脚よはし。おそるべし。多く灸すべからず。殊に上部と脚に、多く灸すべからず。中部に灸すとも、小にして一日に只一穴、或二穴、一穴に十壮ばかり灸すべし。一たび気のぼりては、老人は下部のひかへよはくして、くせになり、気升る事やみがたし。老人にも、灸にいたまざる人あり。一概に定めがたし。但、かねて用心すべし。  
(852)病者、気よはくして、つねのひねりたる灸ちゅう(831)を、こらへがたき人あり。切艾(きりもぐさ)を用ゆべし。紙をはゞ一寸八分ばかりに、たてにきりて、もぐさを、おもさ各三分に、秤にかけて長くのべ、右の紙にてまき、其はしを、のりにてつけ、日にほし、一ちゅう(831)ごとに長さ各三分に切て、一方はすぐに、一方はかたそぎにし、すぐなる方の下に、あつき紙を切てつけ、日にほして灸ちゅう(831)とし、灸する時、塩のりを、その下に付て灸すれば、熱痛甚しからずして、こらへやすし。灸ちゅう(831)の下にのりを付るに、艾の下にはつけず、まはりの紙の切口に付る。もぐさの下に、のりをつくれば、火下まで、もえず。此きりもぐさは、にはかに熱痛甚しからずして、ひねりもぐさより、こらへやすし。然れ共、ひねり艾より熱する事久しく、きゆる事おそし。そこに徹すべし。  
(853)癰疽(ようそ)及諸瘡腫物(しょそうしゅもつ)の初発に、早く灸すれば、腫(はれ)あがらずして消散す。うむといへ共、毒かろくして、早く癒やすし。項(うなじ)より上に発したるには、直に灸すべからず。三里の気海(きかい)に灸すべし。凡(およそ)腫物(しゅもつ)出て後、七日を過ぎば、灸すべからず。此灸法、三因方以下諸方書に出たり。医に問て灸すべし。  
(854)事林(じりん)広記に、午後に灸すべしと云へり。 
後記  
右にしるせる所は、古人の言をやはらげ、古人の意をうけて、おしひろめし也。又、先輩にきける所多し。みづから試み、しるしある事は、憶説といへどもしるし侍りぬ、是養生の大意なり。其条目の詳なる事は、説つくしがたし。保養の道に志あらん人は、多く古人の書をよんでしるべし。大意通しても、条目の詳なる事をしらざれば、其道を尽しがたし。愚生、昔わかくして書をよみし時、群書の内、養生の術を説ける古語をあつめて、門客にさづけ、其門類をわかたしむ。名づけて頤生輯要と云。養生に志あらん人は、考がへ見給ふべし。ここにしるせしは、其要をとれる也。     
八十四翁 貝原篤信書   正徳三巳癸年 正月吉日  
 
貝原益軒・和俗童子訓 

 

巻之一 / 総論上 
若き時は、はかなくて過ぎ、今老て死なざれば、盗人とする、ひじりの御戒め、逃れ難けれど、今年既に八そじにいたりて、罪を加へざる年にもなりぬれば、かかる不要なるよしなしごと云い出せる罪をも、願はくば、世の人これを許し給へ。年の積りに、世の中のありさま、多く見聞きして、とかく思ひ知りゆくにつけて、考へ見るに、凡そ人は、善き事も悪しき事も、いざ知らざる幼なき時より、習ひ馴れぬれば、まづ入し事、内に主として、既に其性となりては、後に又、善き事、悪しき事を見聞きしても、移り難ければ、幼なき時より、早く善き人に近づけ、善き道を、教ゆべき事にこそあれ。墨子が、白き糸の染まるを悲しみけるも、むべなるかな。此ゆへに、郷里の児童の輩を、早くさとさんため、いささか、昔きける所を、つたなき筆にまかせて、しるし侍る。かかるいやしき書つくり、ひが事きこえんは、いと恥べけれど、高さにのぼるには、必ず低きよりする理あれば、もしくは、いまだ学ばさる幼稚の、小補にもなりなんか、といふ事しかり。  
凡そ、人となれるものは、皆天地の徳をうけ、心に仁・義・礼・智・信の五性を生まれつきたれば、其性のままに従へば、父子、君臣、夫婦、長幼、朋友の五倫の道、行はる。是人の、万物にすぐれて貴き処なり。ここを以て、人は万物の霊、と云へるなるべし。霊とは、万物にすぐれて明らかなる、智あるを云へり。されども、食に飽き、衣を暖かに着、居所をやすくするのみにて、人倫の教えなければ、人の道を知らず、禽獣にちかくして、万物の霊と云へるしるしなし。古の聖人、これを憂ひ、師をたて、学び所をたてて、天下の人に、幼き時より、道を教え給ひしかば、人の道たちて、禽獣にちかき事をまぬがる。凡そ人の小なるわざも、皆師なく、教えなくしては、みづからはなしがたし。いはんや、人の大なる道は、古の、さばかり賢き人といへど、学ばずして、みづからは知りがたくて、皆、聖人を師として学べり。今の人、いかでか教えなくして、ひとり知るべきや。聖人は・人の至り、万世の師なり。されば、人は、聖人の教えなくては、人の道をしりがたし。ここを以、人となる者は、必聖人の道を、学ばずんばあるべからず。其教えは、予(あらかじめ)するを先とす。予すとは、かねてよりといふ意。小児の、いまだ悪に移らざる先に、かねて、早く教ゆるを云う。早く教えずして、悪しき事にそみ習ひて後は、教えても、善に移らず。戒めても、悪をやめがたし。古人は、小児の、初めてよく食し、よくものいう時より早く教えしと也。  
富貴の家には、善き人を選びて、早く其子につくべし。悪しき人に、慣れ染むべからず。貧家の子も、早く善き友に交はらしめ、悪しき事にならはしむべからず、凡そ小児は早く教ゆると、左右の人を選ぶと、是、古人の子を育つる良法なり。必ず是を法とすべし。  
凡そ小児を育つるには、初めて生れたる時、乳母を求むるに、必ず温和にして慎み、まめやかに、言葉すくなき者を選ぶべし。乳母の外、つき従ふ者を選ぶも、大やうかくの如くなるべし。初めて飯をくひ、ものをいひ、人のおもてを見て、よろこび、いかる色を知る時より、常に其の事に従ひて、時々教ゆれば、ややおとなしくなりて、戒むる事やすし。ゆへに、幼き時より、早く教ゆべし。もし、教え戒むる事遅くして、悪しき事を多く見習ひ、きき習ひ、くせになり、ひが事いできて後、教え戒むれども、はじめより心にそみ入りたる悪しき事、心の内に、早くあるじとなりぬれば、あらためて善に移る事かたし。たとへば、小児の手習するに、はじめ風躰悪しき手本をならへば、後に善き手を習ひても、うつりがたく、一生改まりがたきが如し。第一、いつはれる事、次に気随にて、ほしいままなる事を、早く戒めて、必ず偽りほしいままなる事をゆるすべからず。やんごとなき大家の子は、ことに早く、戒め教えざれば、年長じては、勢ひつよく、くらひ高くして、いさめがたし。凡小児の悪しくなりぬるは、父母、乳母、かしづきなるる人の、教えの道知らずして、其悪しき事をゆるし、従ひほめて、其子の本性をそこなふゆへなり。しばらく、なくこえをやめんとて、欺きすかして、姑息の愛をなす。其事まことならざれば、すなはち是、偽を教ゆるなり。又、戯れに、おそろしき事どもを云きかせ、よりより威しいるれば、後におく病のくせとなる。武士の子は、ことに、是を戒むべし。ゆうれい、ばけもの、あやしく、まことなき物がたり、必戒めて、きかしむべからず。或は小児の気にさかひたる者をば、理をまげて、小児の非をそだて、空打などすれば、驕慢の心いでくるものなり。小児をもて遊びて、我心をなぐさめんがためにに様々の言葉にて、そびやかし、くるしめ、いかり、あらそはしめて、ひがみまがれる心をつけ、むさぼり妬む、心ざしをひきいだす。しかのみならず、父母の愛すぐる故、あまえて父母をおそれず、兄をないがしろにし、家人をくるしめ、よろづほしきままにして、人をあなどる。戒むべき事を、かへつてすすめ、とがむべき事を、かへりてわらひよろこび、いろいろ、悪しき事どもを見さかせ、いひ習はせ、仕習はせて、やうやく年長じ、知恵いでくる時にいたりて、にはかに、初めて戒むれども、其悪しき習はし、年と共に長じ、ひさしく慣ひそみて、本性とひとしくなりにたれば、いさめを用ひず。幼き時に、教えなく、年長じてにはかに、いさむれども、したがはざれば、本性悪しくうまれつきたるとのみ思ふ事、いとおろかに、まどひのふかき事ならずや。  
凡そ小児を育つるに、初生より愛を過すべからず。愛すぐれば、かへりて、児をそこなふ。衣服をあつくし、乳食にあかしむれば、必ず病多し。衣をうすくし、食をすくなくすれば、病すくなし。富貴の家の子は、病多くして身よはく、貧賎の家の子は、病すくなくして身つよきを以って、其故を知るべし。小児の初生には、父母のふるき衣を改めぬひて、きせしむべし。きぬの新しくして温なるは、熱を生じて病となる。古語に、「凡そ小児を安からしむるには、三分の餌と寒とをお(帯)ぶべし」、といへり。三分とは、十の内三分を云。此こころは、すこしはう(飢)やし、少はひやすがよし、となり。最古人、小児をたもつの良法也。世俗これを知らず、小児に乳食を、多くおたへてあ(飽)かしめ、甘き物、くだ物を、多くく(食)はしむる故に、気ふさがりて、必脾胃をやぶり、病を生ず。小児の不慮に死する者は、多くはこれによれり。又、衣をあつくして、あたため過せば、熱を生じ、元気をもらすゆへ、筋骨ゆるまりて、身よはし。皆是病を生ずるの本也。からも、やまとも、昔より、童子の衣のわきをあくるは、童子は気さかんにして、熱おほきゆへ、熱をもらさんがため也。是を以、小児は、あたためすごすが悪しき事を知るべし。天気善き時は、おりおり外にいだして風・日にあたらしむべし。かくのごとくすれば、はだえ堅く、血気づよく成て、風寒に感ぜず。風・日にあたらざれば、はだへもろくして、風寒に感じやすく、わづらひおほし。小児のやしなひの法を、かしづき育つるものに、よく云きかせ、教えて心得しむべし。  
小児を育つるには、さきにも聞こえつるやうに、先乳母、かしづき従ふ者を、選ぶべし。心おだやかに、邪なく、慎みて言すくなきをよしとす。わるがしこく、くちきき、偽りをいひ、言葉多く、心邪にしてひがみ、気たけく、ほしゐままにふるまひ、酩酊をこのむを悪ししとす。凡そ小児は智なし、心も言葉も、万のふるまひも、皆其かしづき従ふ者を、見慣ひ、聞慣ひて、かれに似するものなり。乳母、かしづぎ従ふ人、悪しければ、育つる子、それに似て悪しくなる。故に、其人をよく選ぶべし。貧賎なる家には、人を選ぶ事かたしといへど、此心得あるべし。いはんや、位たかく禄とめる家をや。  
凡そ小児を育つるには、専ら義方の教えをなすべし。姑息の愛をなすべからず。義方の教えとは、義理のただしき事を以って、小児の、悪しき事を戒むるを云。是必ず後の福となる。姑息とは、婦人の小児を育つるは、愛にすぎて、小児の心に従ひ、気にあふを云。是必ず後のわざはひとなる。幼き時より、早く気ずいをおさへて、私欲をゆるすべからず。愛をすごせば驕出来、其子のためわざはひとなる。  
凡そ子を教ゆるには、父母厳にきびしければ、子たる者、おそれ慎みて、親の教えを聞てそむかず。ここを以、孝の道行はる。父母やはらかにして、厳ならず、愛すぐれば、子たる者、父母をおそれずして、教行れず、戒めを守らず、ここを以って、父母をあなどりて、孝の道たたず。婦人、又はおろかなる人は、子を育つる道をしらで、つねに子をおごらしめ、気随なるを戒めざる故、其をごり、年の長ずるに従ひて、いよいよます。凡夫は、心くらくして子に迷ひ、愛におぼれて其子の悪しき事を知らず。古歌に、「人の親の、心はやみにあらねども、子を思ふ道に迷ひぬるかな」、とよめり。もろこしの諺に、「人、其子の悪しきを知る事なし」、といへるが如し。姑息の愛すぐれば、たとひ悪しき事を見つけても、ゆるして戒めず。凡そ人の親となる者は、わが子にまさるたからなしとおもへど、其子の悪しき方にうつりてのちは、身をうしなふ事をも、かねてわきまへず、居ながら其子の悪におち入を見れども、わが教えなくして、悪しくなりたる事をばしらで、只、子の幸なきとのみ思へり。又、其母は、子の悪しき事を、父にしらさず、常に子の過をおほひかくすゆへ、父は其子の悪しきをしらで、戒めざれば、悪つゐに長じて、一生不肖の子となり、或は家と身とをたもたず。あさましき事ならずや。程子の母の曰、「子の不肖なるゆへは、母其あやまちをおほひて、父しらざるによれり」、といへるもむべなり。  
小児の時より早く父母兄長につかへ、賓客に対して礼をつとめ、読書・手習・芸能をつとめ学びて、悪しき方に移るべき暇なく、苦労さすべし。はかなき遊びに暇をついやさしめて、慣し悪しくすべからず。衣服、飲食、器物、居処、僕従にいたるまで、其家のくらゐよりまどしく、乏足にして、もてなしうすく、心ままならざるがよし。幼き時、艱難にならへば、年たけて難苦にたへやすく、忠孝のつとめをくるしまず、病すくたく、おごりなくして、放逸ならず。よく家をたもちて、一生の間さいはいとなり、後の楽多し。もしは不意の変にあひ、貧窮にいたり、或戦場に出ても身の苦みなし。かくの如く、子を育つるは、誠によく子を愛する也。又、幼少よりやしなひゆたかにして、もてなしあつく、心ままにして安楽なれば、おごりに慣ひ、私欲多くして、病多く、艱難にたえず。父母につかえ、君につかふるに、つとめをくるしみて、忠孝も行ひがたく、学問・芸能のつとめなりがたし。もし変にあへば、苦しみにたえず、陣中に久しく居ては、艱苦をこらへがたくして、病をうけ、戦場にのぞみては、心に武勇ありても、其身やはらかにして、せめたたかひの、はげしきはたらき、なりがたく、人におくれて、功名をもなしがたし。又、男子、只一人あれば、きはめて愛重すべし。愛重するの道は、教え戒めて、其子に苦労をさせて、後のためよく、無病にてわざはひなきように、はかるべし。姑息の愛をなして、其子をそこなふは、まことの愛をしらざる也。凡そ人は、わかき時、艱難苦労をして、忠孝をつとめ、学問をはげまし、芸能を学ぶべし。かくの如くすれば、必人にまさりて、名をあげ身をたてて後の楽多し。わかき時、安楽にて、なす事なく、艱苦をへざれば、後年にいたりて人に及ばず、又、後の楽なし。  
幼き時より、心言葉に忠信を主として、偽りなからしむべし。もし人を欺き、偽りをいはば、きびしく戒むべし。こなたよりも、幼子を欺きて、偽りを教ゆべからず。こなたよりいつはれば、小児、是に習ふものなり。かりそめにも、偽りを云は、人にあらず、と思ふべし。心に偽りとしりながら、心を欺くは其罪いよいよふかし。又、人と約したる事あらば、必ず其約をたがへざるべし。約をたがへては、偽りとなり、信を失なへば、人にあらず。もし後に信を守りがたき事は、はじめより約すべからず。又、小児には、利欲を教えしらしむべからず。よろづにさとくとも、偽りて、只欲ふかく、人の物をむさぼるは、小人のわざなれば、幼時より、早く是を戒むべし。ゆるすべからず。  
小児の時より、心もちやはらかに、人をいつくしみ、なさけありて、人をくるしめ、あなどらず、つねに善をこのみ、人を愛し、仁を行なふを以って志とすべし。人わが心にかなはざるとて、顔をはげしくし、言葉をあらくして、人をいかり罵るべからず。小児、もし不仁にして、人をくるしめ、あなどりて、情なくば、早く戒むべし。人に対して温和なれども、其身正しければ、幼きとて人あなどらず。  
凡そ小児の教えは、早くすべし。しかるに、凡俗の知なき人は、小児を早く教ゆれば、気くじけて悪しく、只、其心にまかせてをくべし、後に知恵出くれば、ひとりよくなるといふ。是必ず、おろかなる人のいふ事なり。此言大なる妨たり。古人は、小児の初めてよく食し、ものいふ時より、早く教ゆ。おそく教ゆれば、悪しき事を久しく見聞きて、先入の言、心の内に早く主となりては、後に善き事を教ゆれども、移らず。故に、早く教ゆれば人やすし。つねに善き事を見せしめ、聞かしめて、善事に染み習はしむべし。をのづから善にすすみやすし。悪しき事も、すこしなる時、早く戒むれば入やすし。悪長じては、去がたし。古語に、「両葉去らざれば、将に斧柯を用んとす」。といへるがことし。婦人及無学の俗人は、小児を愛する道を知らず、姑息のみにして、ただうまき物を多く食はせ、よき衣を暖かにきせ、ほしゐままに育つるをのみ、其子を愛するとおもへり。是人の子をそこなふわざなる事を知らず。今の世にも、其父、礼をこのみて、其子の幼き時より、しつけを教え、和礼を習はする人の子は、必ず其子の作法よく、立居ふるまひ、人のまじはり、ふつづかならず、老にいたるまで、威儀よし。是其父、早く教えしちからなり。善を早く教え行はしむるも、其しるし又かくの如くなるべし。  
幼き時より、必ずまづ、其このむわざを選ぶべし。このむ所、尤も大事也。婬欲のたはふれをこのみ、淫楽などをこのむ事、又、ついえ多き遊びを、まづ早く戒むべし。これをこのめば、其心必ず放逸になる。幼きよりこのめば、その心癖となり、一生、其このみやまざるものなり。いかにいとけなくして、いまだ心にわきまへなくとも、又、富貴の家に生まれ、万の事、心にかなへりとも、道にそむき、人に害あり。物をくるしめ、財をついやす戯れ、遊びの、はかなきわざをば、せざる理たり。と云きかせ、さとらしめて、なさしむべからず。又、わが身に用なき無益の芸を、習はしむべからず。たとひ、用ある芸能といへども、一向にこのみ過して、其事にのみ心を用ゆれば、必ず其一事に心がたぶきて、万事に通せず。其このむ所につきて、ひが事多く、害多し。いはんや、益なき事をすきこのむをや。凡幼より、このむ所、習ふ事を、早く選ぶべし。  
小児の時より、年長ずるにいたるまで、父となり、かしづきとなる者、子のすきこのむ事ごとに心をつけて、選びて、このみにまかすべからず。このむ所に打まかせで、よしあしをゑらばざれば、多くは悪きすぢに入て、後はくせとなる。一たび悪しき方にうつりては、とりかへして、善き方に移らず、禁めてもあらたまらず、一生の間、やみがたし。故にいまだそまざる内に、早く戒むべし。ゆだんして、其子のこのむ所にまかすべからず。ことに高家の子は、物ごとゆたかに、自由なるゆへに、このむかたに心早くうつりやすくして、おぼれやすし。早くいまし戒めざれば、後に染み入ては、いさ(謙)めがたく、立かへりがたし。又、あしからざる事も、すぐれてふかくこのむ事は、必ず害となる。故に子を育つるには、ゆだんして其このみにまかすべからず。早く戒むべし。おろそかにすべからず。予するを先とするは此故なり。  
小児の時、紙鳶をあげ、破魔弓を射、狛をまはし、毬打の玉をうち、てまりをつき、端午に旗人形をたつる。女児の羽子をつき、あまがつ(天児)をいだき、ひいな(雛)をもて遊ぶの類は、只幼き時、このめるはかなきたはふれにて、年やうやく長じて後は、必ずすたるものなれば、心術におゐて害なし。大やう其このみにまかすべし。されど、ついゑ多く、かざりすごし、このみ過さば、戒むべし。ばくちににたる遊びは、なさしむべからず。小児の遊びをこのむは、つねの情なり。道に害なきわざならば、あながちにおさえかがめて、其気を屈せしむべからず。只、後にすたらざる遊び・このみは打まかせがたし。  
礼は天地のつねにして、人の則也。即(ち)人の作法をいへり。礼なければ、人間の作法にあらず。禽獣に同じ。故に幼より、礼を慎みて守るべし。人のわざ、事ごとに皆礼あり。よろづの事、礼あれば、すぢめ(筋目)よくして行はれやすく、心も亦さだまりてやすし。礼なければ、すぢめたがひ、乱れて行はれず、心も亦やすからず。故に礼は行なはずんばあるべからず。小児の時より和礼の法に従ひて、立居ふるまひ、飲食、酒茶の礼、拝礼など教ゆべし。  
志は虚邪なく、事は忠信にして偽なく、又、非礼の事、いやしき事をいはず、かたち(貌)の威儀をただしく慎む事を教ゆべし。又、諸人に交るに、温恭ならしむべし。温恭は、やはら(柔)かにうやまふ也。是善を行なふ始也。心あらきは、温にあらず。無礼なるは、恭にあらず。己を是とし、人を非として、あなどる事を、かたく戒むべし。高位なりとて、我をたかぶる事なかれ。高き人は、人にへりくだるを以って、道とする事を、教ゆべし。きずい(気随)にして、わがままなる事を早く戒むべし。かりそめにも人をそしり、わが身におごらしむる事なかれ。常にかやうの事を、早く教戒むべし。  
凡そ人の悪徳は、矜なり。矜とは、ほこるとよむ、高慢の事也。矜なれば、自是として、其悪を知らず。、過を聞ても改めず。故に悪を改て、善に進む事、かたし。たとひ、すぐれたる才能ありとも、高慢にしてわが才にほこり、人をあなどらば、是凶悪の人と云べし。凡そ小児の善行あると、才能あるをほむべからず。ほむれば高慢になりて、心術をそこなひ、わが愚なるも、不徳たるをも知らず、われに知ありと思ひ、わが才智にて事たりぬと思ひ、学問をこのまず、人の教えをもとめず。もし父として愛におぼれて、子の悪しきを知らず、性行よからざれども、君子のごとくほめ、才芸つたなけれども、すぐれたりとほむるは、愚にまよへる也。其善をほむれば、其善をうしなひ、其芸をほむれば、其芸をうしなふ。必ず其子をほむる事なかれ。其子の害となるのみならず、人にも愚なりと思はれて、いと口をし。親のほむる子は、多くは悪しくなり、学も芸もつたなきもの也。篤信、かつていへり。「人に三愚あり。我をほめ、子をほめ、妻をほむる、皆是愛におぼるる也」。  
小児に学問を教ゆるに、はじめより、人品善き師を求むべし。才学ありとも、悪しき師に、したがはしむべからず。師は、小児の見習ふ所の手本なればなり。凡そ学問は、其学術を選ぶ事を、むねとすべし。学のすぢ(筋)悪しければ、かへりて性をそこなふ。一生つとめても、善き道にすすまず。一たび悪しきすぢを学べば、後に善き術をききても、移らず。又、才力ありて高慢なる人、すぢわるき学問をすれば、善に移らざるのみならず、必ず邪智を長じて、人品弥悪しくなるもの也。かやうの人には、只、小学の法、謙譲にして。自是とせざるを以って、教をうくるの基となさしめて、温和・慈愛を心法とし、孝弟、忠信、礼義、廉恥の行を教えて、高慢の気をくじくべし。其外、人によりて、多才はかへりて、其心をそこなひ、凶悪をますものなり。まづ謙譲を教えて、後に、才学を習はしむべし。  
子弟を教ゆるには、先其まじはる所の、友を選ぶを要とすべし。其子の生まれつきよく、父の教え正しくとも、放逸なる無頼の小人にまじはりて、それと往来すれば、必ずかれに引そこなはれて、悪しくなる。いはんや、其子の生質よからざるをや。古人の言葉に、「年わかき子弟、たとひ年をおはるまで書をよまずとも、一日小人にまじはるへからず。」といへり。一年書をよまざるは、甚だ悪しけれど、猶それよりも、一日小人にましはるは悪しき事となり。最悪友の甚だ害ある事をいへり。人の善悪は、皆友によれり。古語曰、「麻の中なるよもぎは、たすけざれども、おのづから直し」。又曰、「朱にまじはれば赤し、墨に近づけば黒し。」といふ事、まことにしかり。わかき時は、血気いまた定らず、見る事、きく事、にうつりやすきゆへ、友悪しければ悪に移る事はやし。もろこしにて、公儀の法度をおそれず、わが家業をつとめざるものを、無頼と云。是放逸にして、父兄の教えにしたがはざる、いたづらもの也。無頼の小人は、必ず酒色と淫楽をこのみ、又、博打をこのみて、いさ(諫)めをふせぎ、はぢを知らず、友をひきそこなふもの也。必ず其子を戒めて、かれにまじはりしむべからず。一たび是とまじはりて、其風にうつりぬれば、親の戒め、世のそしり、を、おそれず、とが(咎)をおかし、わざはひにあへども、かへり見ず。もし幸にして、わざはひをまぬがるといへども、大不孝の罪にをち入て、悪名をながす。わざはひをまぬかれざる者は、一生の身をうしなひ、家をやぶる。かなしむべきかな。  
四民ともに、其子の幼きより、父兄・君長につかふる礼義、作法を教え、聖経をよましめ、仁義の道理を、やうやくさとさしむべし。是根本をつとむる也。次に、ものかき、算数を習はしむべし。武士の子には、学間のひまに弓馬、剣戟、拳法など、習はしむべし。但一向に、芸をこのみすごすべからず。必ず一事に心うつりぬれば、其事にをぼれて、害となる。学問に志ある人も、芸をこのみ過せば、其方に心がたぶきて、学問すたる。学問は専一ならざれば、すすみがたし。芸は、学問をつとめて、そのいとまある時の、余事なり。学問と芸術を、同じたぐひにおもへる人あり。本末軽重を知らず、おろかなり、と云べし。学問は本なり、芸能は末なり。本はおもくして、末はかろし。本末を同じくすべからず。後世の人、此理を知らず、かなしむべし。殊に大人は、身をおさめ、人をおさむる稽古だにあらば、芸能は其下たる有司にゆだねても、事かけず。されど六芸は、大人といへど、其大略をば学ぶべし。又、軍学・武芸のみありて、学間なく、義理をしらざれば、習ふ所の武事、かへりて不忠不義の助となる。然れば、義理の学問を本とし、おもんずべし。芸術はまことに末なり。六芸のうち、物かき、算数を知る事は、殊に貴賤・四民ともに、習はしむべし。物よくいひ、世になれたる人も、物をかく事、達者ならず。文字をしらざれば、かたこといひ、ふつづかにいやしくて、人に見おとされ、あなどりわらはるるは口をし。それのみならず、文字をしらざれば、世間の事と詞に通せず、もろもろのつとめに応じがたくて、世事とどこをる事のみ多し。又、日本にては、算数はいやしきわざなりとて、大家の子には教えず。是国俗のあやまり、世人の心得ちがへるなり。もろこしにて、古は、天子より庶人まで、幼少より、皆算数を習はしむ。大人も国郡にあらゆる民(の)数をはかり、其年の土貢の入をはかりて、来年出し用ゆる分量をさだめざれば、かぎりなき欲に従ひて、かぎりある財つきぬれば、困窮にいたる。是算をしらざればなり。又、国土の人民の数をはかり、米穀・金銀の多少と、軍陣に人馬の数と糧食とを考へ、道里の遠近と運送の労費をはかり、人数をたて、軍をやるも、皆算数をしらざれば行なひがたし。臣下にまかせては、おろそかにして事たがふ。故に大人の子は、ことに、みづから算数をしらでは、つとめにうとく、事かくる事多し。是日用か切要なる事にして、必ず、習ひ知るべきわざなり。近世、或君の仰に、「大人の子の学びてよろしぎ芸は、何事ぞ。」と間給ひしに、其臣こたへて、「算数を習ひ給ひてよろしかるべししと辛されける。い上よろしきこたへなりけるとかたりつたふ。凡そたかきもひききも、算数を知らずして、わが財禄のかぎりを考がへず、みだりに財を用ひつくして、困窮にいたるも、又、事にのぞみて算をしらで、利害を考る事もなりがたきは、いとはかなき事也。又、音楽をもすこぶる学び、其心をやはらげ、楽しむべし。されど、もはら(専)このめば、心すさむ。幼少より遊びたはふれの事に、心をうつさしむべからず、必ず制すべし。もろこしの音楽だにも、このみ遇せば、心をとらかす。いはんや日本の俗に翫ぶ散楽は、其章歌いやしく、道理なくして、人の教えとならざるをや。芸能其外、遊びたはふれの方に、心うつりぬれば、道の志は、必ずすたるもの也。専一ならざれば、直に送る事あたはずとて、学間し道を学ぶには、専一につとめざれば、多岐の迷とて、あなた・こなたに心うつりて、善き方に、ゆきとどかざるもの也。専一にするは、人丸の歌に、「とにかくに、物は思ばず飛騨たくみ、うつ墨なはの只一すぢに」、とよめるが如くなるべし。  
富貴の家の子に生まれては、幼き時より世のもてなし、人のうやまひあつくして、よろづゆたかに心のままにて、世界の栄花にのみ、ふける習はしなれば、おそれ慎む心なく、おごり日々に長じやすく、たはぶれ・あてびをこのみ、人のいさめをきらひにくむ。いはんや学問などに身をくるしめん事は、いとたへがたくて、富貴の人のするわざにあらずと思ひ、むづかしく、いたづかはしとて、うとんじきらふ。かかる故に、おごりをおさへて、身をへりくだり、心をひそめ、師をたうとび、古をかうがへずんば、いかにしてか、心智をひらきて身をおさめ、人をおさむる道を知るべきや。  
いやしき者、わが身ひとつおさむるだに、学問なくて、みづからのたくみにはなりがたし。いはんや富貴の人は多くの民をおさむる職分、大きにひろければ、幼き時より、師に近づき、聖人の書をよみ、古の道を学んで、身をおさめ、人を治むる理を知らずんばあるべからず。いかに才力を生れ付りとも、古のひじりの道を学ばずして、わが生れ付の心を以、みだりに人をつかひ、民をつかさどれば、人民をおさむる心法をも、其道、其法をもしらで、あやまり多くして、人をそこなひて、道にそむき、天官をむなしくして職分をうしなふ。しかれば、位高く禄おもき人の子は、ことさら少年より、早く心をへりくだり、師をたつとびて、学ばずんばあるべからず。  
凡そたかき家の子は、幼きより、下なる者へつらひ、従ひて、ひが事を云、ひが事を行なひても、尤なりとかんじ、つたなき芸をも、早く、上手なりとほむれば、きく人、みづからよしあしをわきまへず、へつらひ、偽りてほむるとは知らず、わが云事もなす事も、まことに善き、とおもひ、わが身に自慢して、人にと(問)ひ学ぶ事なければ、智恵・才徳のいでき、すすむべきやうなくて、一生をおはる。ここを以、高家の子には、幼き時より、正直にて知ある人を師とし友とし、そばにつかふる人をも選びて、悪しき事を戒め、善をすすむべし。へつらひほむる人をば、戒めしりぞくべし。富貴の人の子は、とりわき、早く教え戒めざれば、年長じて後、世の中さかりに、おごり慣ひぬれば、勢ひつよくなりて、家臣としていさめがたし。位たかく身ゆたかなれば、民のくるしみ、人の憂ひ、を知らず、人のついえ、わがついえ、をもいとはず、をごりに慣ひては、人をあはれむ心もうすくなる。又、さほど高きしな (品)にのほらざれども、時にあひ、いきほひにのりては、つねの心をうしなひ、人に、無礼を行なひ、物のあはれを知らず、人の情をもわすれて、云まじき事をもいひ、なすまじき事をもなす事こそ、あさましけれ。幼き時より、古の事をしれる、おとなしく正しきいにしえ人を選び用て、師とし友とし、早く学問をつとめさせ、身をおさめ、人をおさむる古の道を教えて、善を行はしめ、悪を戒むべし。善き人を選びて、もし其人にあらずんば、師とすべからず。既に師とせば、是をたうとびうやまひ、其教えをうけしむべし。又、身の養、飲食などの、慎みをも教ゆべし。左右近習の人をよく選びて、質朴にて忠信なる人を、なれ近づかしむべし。必邪佞・利口の人を、近づくべからず。かやうの人、はなはだ、人の子をそこなふものなり。又、邪悪の人にあらざれども、文盲にして学問をきらふ師の教え、人は、善き事をしらで、幼少なる子の、志をそこなふ。左右の人、正しからざれば、父のいさめ、行はれず。心にかなひたるとて、子の害になる人を、近づくべからず。賈誼が言葉に、「太子をよくするは、早く教ゆると、左右を選ぶにあり。」といへり。最古今の名言なり。 
巻之二 / 総論下 

 

幼き時より、孝弟の道を、もっばらに教ゆべし。孝弟を行ふには、愛敬の心法を知るべし。愛とは、人をいつくしみ、いとをしみて、おろそかならざる也。敬とは、人をうやまひて、あなどらざる也。父母をいつくしみ、うやまふは孝也。是愛敬の第一の事也。次に兄をいつくしみ、うやまふは弟なり。又、をぢ、をばなど、凡そ年長ぜる人をいつくしみ、うやまふも弟たり。次にわが弟、いとこ、おひなど、又めしつかふ下部など、其ほどに従ひて、いつくしむべし。いやしき者をも、あなどり、おろそかにすべからず。各其位に従ひて、愛敬すべし。凡そ愛敬二の心は、人倫に対する道なり。人にまじはるに、わが心と顔色をやはらげ、人をあなどらざるは、是善を行なふはじめなり。わが気にまかせて、位におごり、才にほこり、人をあなどり、無礼をなすべからず。  
少年にて、師にあひて物を習ふに、朝は師に学び、昼は朝学びたる事をつとめ、夕べはいよいよかさねなら(習)ひ、夜ふして、一日の中に、口にいひ、身に行なひたる事をかへり見て、あやまちあらば、くひて、後の戒めとすべし。  
人の弟子となり、師につかへては、わが位たかしといへ共、たかぶらず。師をたっとび、うやまひて、おもんずべし。師をたっとばざれば、学間の道たたず。師たる人、教を弟子にほどこさば、弟子これにのっとり習ひ、師に対して、心も顔色もやはらかに、うやまひ慎み、わが心を虚しくして自慢なく、既にし(知)れる事をもしらざるごとくし、又よく行なふ事をも、よくせざるごとくにして、へりくだるべし。師よりうけたる教えをば、心をつくしてきは(究)め習ふべし。是弟子たる者の、師にあひて、教えをうくる法なり。  
論語の、「子曰、弟子入ては則ち孝する」の一章は、人の子となり、弟となる者の法を、聖人の教え給へるなり。わが家に在ては、先親に孝をなすべし。孝とは、善く父母につかふるを云。よくつかふるとは、孝の道を知りて、ちからをつくすを云。ちからをつくすとは、わが身のちからをつくして、よく父母につかへ、財のちからをつくして、よく養なふを云。父母につかふるには、ちからををしむべからず。次に、親の前を退き出てては、弟を行なふべし。弟は、善く兄長につかふるを云。兄は、子のかみ(上)にて、親にちかければ、うやまひ従ふべし。もし兄より弟を愛せずとも、弟は弟の道をうしなふべからず。兄の不兄をに(似)せて、不弟なるべからず。其外、親戚・傍輩の内にても、年老たる長者をば、うやまひて、あなどる事なかれ。是弟の道なり。凡そ孝弟の二つは、人の子弟の、行ひの根本也。尤(も)つとむべし。謹とは、心におそれありて、事のあやまりなからんやうにする也。万の事は、慎みより行はる。慎みなければ、万事みだれて、善き道行なはれず、万のあやまちも、わざはひも、皆慎みなきよりをこる。つつしめば、心におこたりなく、身の慎むわざにあやまりすくなし。謹の一字、尤(も)大せつの事也。わかき子弟のともがら、ことさら是を守るべし。信とは、言に偽りなくて、まことあるを云。身には行なはずして、口にいふは信なきなり。又、人と約して、其事を変ずるも信なきなり。人の身のわざおほけれど、口に言と身に行との二つより外にはなし。行を慎みて、言に情あるは、身ををさむるの道也。「汎く衆を愛す」とは、我がまじはり対する所の諸人に、なさけありて、ねんごろにあはれむを云。下人をつかふに、なさけふかきも亦、衆を愛する也。「仁にちかずく」とは、善人にしたしみ、近づくを云。ひろく諸人を愛して、其内にて取わき善人をば、したしむべし。善人をしたしめば、善き事を見慣ひ、聞慣ひ、又、其いさめをうけ、我過を聞て改るの益あり。此六事は人の子となり、弟となる者の、身をおさめ、人にまじはる道なり。つとめ行なふべし。「行って余力あれば即(ち)用ひて文を学ぶ。」とは、余力はひま也。上に見えたる孝弟以下六事をつとめ行て、其ひまには、又古の聖人の書をよんで、人の道を学ぶべし。いかに聡明なりとも、聖人の教を学ばざれば、道理に通せず、身をおさめ、人に交る道を知らずして、過多し。故に必古の書をまなんで、其道を知るべし。是則(ち)、身をおさめ、道を行なふ助なリ。次には日用に助ある六芸をも学ふべし。聖人の経書をよみ、芸を学ぶは、すべて是文を学ぶ也。文を学ぶ内にも、本末あり。経伝をよんで、学問するは本也。諸芸を学ぶは末也。芸はさまざま多し。其内にて、人の日々に用るわざを選びて学ぶべし。無用の芸は、学ばずとも有なん。芸も亦、道理ある事にて、学問の助となる。これをしらでは、日用の事かけぬ芸を学はざれば、たとへば木の本あれども、枝葉なきが如し。故に聖人の書をまなんで、其ひまには文武の芸を学ぶべし。此章、只二十五字にて、人の子となり、弟となる者の、行ふべき道、これにつくせり。聖人の語、言葉すくなくして、義そなはれり。と云べし。  
凡そ子弟年わかきともがら、悪しき友にまじはりて、心うつりゆけば、酒色にふけり、淫楽をこのみ、放逸にながれ、淫行をおこなひ、一かたに悪しき道におもむきて、善き事をこのまず。孝弟を行ひ、家業をつとめ、書をよみ、芸術を習ふ事をきらひ、少(すこし)のつとめをもむつかしがりて、かしら(頭)いたく、気なやむなどいひ、よろづのつとむべきわざをば、皆気つまるとてつとめず。父母は愛におぼれて、只、其気ずい(随)にまかせて、放逸をゆるしぬれば、いよいよ其心ほしいままになりて、慣ひて性となりぬれば、善き事をきらひ、むつかしがりて、気つまり病をこるといひてつとめず。なかにも書をよむ事をふかくきらふ。凡そ気のつまるといふ事、皆善き事をきらひ、むつかしく思へるきずい(気随)よりおこれるやまひ(病)なり。わがすきこのめる事には、ひねもす、よもすがら、心をつくし、力を用ても気つまらず、囲碁をこのむもの、夜をうちあかしても、気つまらざるを以って知るべし。又、蒔絵師、彫物師、縫物師など、いとこまかなる、むつかしき事に、日夜、心力と眼力をつくす。かやうのわざは、面白からざれども、家業なれば、つとめてすれども、いまだ気つまり、病となると云事をきかず。むつかしきをきらひて、気つまると云は、孝弟の道、家業のしはざなどの、善き事をきらふ気ずいよりをこれり。是孝弟・人倫のつとめ行はれずして、学問・諸芸の稽古のならざる本なり。書をよまざる人は、学問の事、不案内なる白徒(しろうと)なれば、読書・学問すれば、気つまり気へりて、病者となり、命もちぢまるとおもへり。是其ことはりをしらざる、愚擬なる世俗の迷ひ也。凡そ学問して、親に孝し、君に志し、家業をつとめ、身をたて、道を行なひ、よろづの功業をなすも、皆むつかしき事をきらはず、苦労をこらへて、其わざを、よくつとむるより成就せり。むつかしき事、しげきわざに、心おだやかにくるしまずして、一すぢに、しづかになしもてゆけば、後は其事になれて、おもしろくなり、心をくるしむる事もなくて、其事つゐに成就す。又むつかしとて、事をきらへば、心から事をくるしみて、つとむべき事をむづかしとするは、心のひが事なり。心のひが事をば、其ままを(置) きて、事の多きをきらふは、あやまり也。又、「煩に耐ゆる」とは、むつかしきを、こらゆるを云。此二字を守れば、天下の事、何事もなすべし、と古人いへり。是わかき子弟のともがらの守るべき事なり。  
小児の時は、必ず悪しきくせ、悪しきならはし(慣)などあるを、みづから悪しき事としらば、あらためて行なふべからず。又かかる悪しき事を、人のいさめにあひ、戒められば、よろこんで早くあらため、後年まで、ながくその事をなすべからず。一たび人のいさめたる事は、ながく心にとどめて、わするべからず。人のいさめをうけながら、あらためず、やがてわするゝは、守なしと云べし。守なき人は、善き人となりがたし。いはんや、人のいさめをきらひ、いかりうらむる人は、さらなり。人のいさめをきかば、よろこんでうくべし。必ずいかりそむくべからず。いさめをききて、もしよろこんでうくる人は、善人也、よく家をたもつ。いさめをきらひ、ふせ(防)ぐ人は、必ず家をやぶる。是善悪のわかるる所なり。いさむる事、理たがひたりとも、そむきて、あらそふべからず。いさめをききていかれば、かさねて其人、いさめをいはず。凡そいさめをきくは、大に身の益なり。いさめをききて、よろこんでうけ、わが過を改むるは、善、これより大なるはなし。人の悪事多けれど、いさめをきらふは、悪のいと大なる也。わが身の悪しき事をしらせ、あやまちをいさむる人は、たうと(貴)み、したしむべし。わづかなるくひものなどおくるをだに、よろこぶ慣ひなり。いはんや、いさめを云ふ人は、甚だ悦びたうとぶべし。  
幼き時より、善をこのんで行なひ、悪をきらひて去る、此志専一なるべし。此志なければ、学問しても、益をなさず。小児の輩、第一に、ここに志あるべし。此事まへにも既に云つれども、幼年の人々のために、又かへすがへす丁寧につぐるなり。人の善を見ては、我も行なはんと思ひ、人の不善を見ては、わが身をかへりみて、其ごとくなる不善あらば、改むべし。かくの如くすれば、人の善悪を見て、皆わが益となる。もし人の善を見ても、わが身に取て用びず、人の不善を見ても、わが身をかへり見ざるは、志なしと云べし。愚なるの至りなり。  
父母の恩はたかくあつき事、天地に同じ。父母なければ、わが身なし、其恩、ほう(報)じがたし。孝をつとめて、せめて万一の恩をむくふべし。身のちから、財のちから、をつくすべし、おしむべからず。是父母につかへて、其ちからをつくすなり。父母死して後は、孝をつくす事なりがたきを、かねてよく考へ、後悔なからん事を思ふべし。  
年わかき人、書をよまんとすれば、無学なる人、これを云さまたげて、書をよめば心ぬるく、病者になりて、気よはく、いのちみじかくなる、と云ておどせば、父母おろかなれば、まことぞ、と心得て、書をよましめず。其子は一生おろかにておはる。不幸と云べし。  
人の善悪は、多くはなら(習)ひな(馴)るるによれり。善に習ひなるれば、善人となり、悪に慣ひなるれば、悪人となる。然れば、幼き時より、慣ひなるる事を、慎むべし。かりにも、悪しき友にまじはれば、慣ひて、悪しき方に早くうつりやすし。おそるべし。  
師の教をうけ、学問する法は、善をこのみ、行なふを以、常に志とすべし。学問するは、善を行はんがため也。人の善を見ては、わが身に取りて行なひ、人の義ある事をきかば、心にむべ(宜)なりと思ひかん(感)じて、行なふべし。善を見、義をききても、わが心に感ぜず、身に取用て行なはずば、むげに志なく、ちからなし、と云べし、わが学問と才力と、すぐれたりとも、人にほこりて自慢すべからず。言にあらはしてほこるは、云に及ばず、心にも、きざ(兆)すべからず。志は、偽り邪なく、まことありてただしかるべし。心の内は、おほ(蔽)ひくもりなく、うらおもてなく、純一にて、青天白日の如くなるべし。一点も、心の内に邪悪をかくして、うらおもてあるべからず。志正しきは、万事の本なり。身に行なふ事は、正直にして道をまげず、邪にゆがめる事を、行なふべからず。外に出て遊び居るには、必ずつねのしかるべき親戚・朋友の所をさだめて、みだりに、あなたこなた、用なき所にゆかず。其友としてまじはる所の人を選びて、善人に、つねにちかづき、良友にまじはるべし。善人に交れば、其善を見慣ひ、善言をきき、わが過をききて、益おほし。悪友にまじはれば、早く悪にうつりやすし。必ず友を選びて、かりそめにも悪友に交はるべからず。おそるべし。朝に早くおきて親につかへ、事をつとむべし。朝ゐ(朝寝)しておこたるべからず。凡そ、人のつとめは、あした(朝)をはじめとす。朝居する人は、必ずおこたりて、万事行なはれず。夜にいたりても、事をつとむべし。早くいねて、事をおこた(怠)るも、用なきに、夜ふくるまでいねがてにて、時をあやまるも、ともに子弟の法にそむけり。衣服をき、帯をしたるかたちもととのひて、威儀正しかるべし。放逸たるべからず。朝ごとに、きのふ(昨日)いまだ知らざるさきを、師に学びそ(添)へ、暮ごとに、朝学べる事を、かさねがさね、つとめておこたるべからず。心をあらく、おほやうにせず、つづ(約)まやかにすこしにすべし。かくの如くに、日々につとめておこたらざるを、学間の法とす。  
子弟、孫、姪など幼き者には、礼義を正しくせん事を教ゆべし。淫乱・色欲の事、戯れの言葉、非礼のわざ、を戒めて、なさしむべからず。又、道理なき、善と,てはたら正しからざるふだまぶり(札守)、祈祷などを、みだりに信じてまよへる事、禁ずべし。いとけなく若き時より、かやうの事に心まどひぬれば、真心、くせになりて、一生其迷ひとけざるものなり。神祇をば、おそれたうとびうやまひて、遠ざかるべし。なれ近づきて、けがし、あなどるべからず。わが身に道なく、私ありて、神にへつらひいのりても、神は正直・聡明なれば、非礼をうけ玉ばず。へつらひをよろこび給はずして、利益なき事を知るべし。  
古、もろこしにて、小児十歳なれば、外に出して昼夜師に随ひ、学問所にをらしめ、常に父母の家にをかず。古人、此法深き意あり。いかんとなれば、小児、つねに父母のそばに居て、恩愛にならへば、愛をたのみ、恩になれて、日々にあまえ、きずいになり、艱苦のつとめなくして、いたづらに時日をすごし、教行はれず。且、孝弟の道を、父兄の教ゆるは、わが身によくつかへよ、とのすすめなれば、同じくは、師より教えて行はしむるがよろし。故に父母のそばをはなれ、昼夜外に出て、教えを師にうけしめ、学友に交はらしむれば、おごり、おこたりなく、知慧日々に明らかに、行儀日々に正しくなる。是古人の子を育つるに、内におらしめずして、外にいたせし意なり。  
子孫、年わかき者、父祖兄長のとがめをうけ、いかりにあはば、父祖の言の是非をゑらばず、おそれ慎みてきくべし。いかに、はげしき悪言をきくとも、ちりばかりも、いかりうらみたる心なく、顔色にもおらはすべからず。必ず、わが理ある事を云たてて、父兄の心にそむくべからず。只言葉なくして、其せ(責)めをうくべし。是子弟の、父兄につかふる礼なり。父兄たる人、もし人の言葉をきき損じて、無理仏る事を以て、子弟をしゑた(虐)げせむとも、いかるべからず。うらみ、そむけいる色を、あら(顕)はすべからず。云わけする事あらば、時すぎて後、識すべし。或(は)別人を頼みて、いはしむべし。十分に、われに道理なくば、云わけすべからず。  
子弟を教ゆるに、いかに愚・不肖にして、わかく、いやしきとも、甚しく怒(いかり)の(罵)りて、顔色と言葉を、あららかにし、悪口して、はづかしむべからず。かくの如くすれば、子弟、わが非分なる事をばわすれて、父兄の戒めをいかり、うらみ・そむきて、したがはず、かへつて、父子・兄弟の間も不和になり、相やぶれて、恩をそこなふにいたる。只、従容として、厳正に教え、いくたびもくりかへし、やうやく、つげ戒むべし。是子弟を教え、人材をやしなひ来す法なり。父兄となれる人は、此心得あるべし。子弟となる者は、父兄のいかり甚しく、悪口してせめはづかしめらるるとも、いよいよ、おそれ慎みて、つゆばかりも、いかりうらむべからず。  
小児の時は、知いまだひらけず、心に是非をわきまへがたき故に、小人のいふ言葉に、迷ひやすし。世俗の、口のききたる者、学問をきらひて、善人の行儀かたく正しきをそしり、風雅なるをにくみて、今やうの風にあはず、とてそしり、只、放逸なる事を、いざなひすすむるをきかば、いかにいとけなく、智なくとも、心を付て其是非をわかつべし。かくの如くなる小人の言葉に迷ひて、移るべからず。  
いかりをおさえて、しのぶべし。忍ぶとは、こらゆる也。ことに、父母・兄長に対し、少しも、心にいかり・うらむべからず。いはんや、顔色と眼目にあらはすべけんや。父兄に対していかるは、最大なる無礼なり。戒むべし。内に和気あれば、顔色も目つきも和平なり。内に怒気あれば、顔色・眼目あしし。父母に対して、悪眼をあらはすべきや、はづべし。孝子の深愛ある者は、必ず和気あり。和気ある者は、必ず愉(よろこべる)色あり。子たる者は、父母に対して和気を失なふべからず。  
人のほめ・そしりには、道理にちがへる事多し。ことごとく信ずべからず。おろかなる人は、きくにまかせて信ず。人のいう事、わが思ふ事、必理にたがふ事おほし。ことに少年の人は、智慧くらし。人のいへる事を、ことごとく信じ、わが見る事をことごとく正しとして、みだりに人をほめ・そしるべからず。  
幼き時より、年老ておとなしき人、才学ある人、古今世変をしれる人、になれちかづきて、其物がたりをききおぼえ、物に書き付けをきて、わするべからず。叉うたがはしき事をば、し(知)れる人にたづねとふべし。ふるき事をしれる老人の、ものがたりをきく事をこのみて、きらふべからず。かやうにふるき事を、このみききてきらはず、物ごとに志ある人は、後に必、人にすぐるるもの也。又、老人をば、むづかしとてきらひ、ふるき道々しき事、古の物がたりをききては、うらめしく思ひ、其席にこらへず、かげにてそしりわらふ。是凡俗のいやしき心なり。かやうの人は、おひさき(生先)よからず、人に及ぶ事かたし。古人のいはゆる、「下士(げし)は道をきいて大にわらふ。」といへる是也。かやうの人には、まじはり近づくべからず。必悪しきかたにながる。蒲生氏郷いといくけなき時、佐々木氏より、人質として信長卿に来りつかへられし時、信長の前にて、老人の軍物語するを、耳をかたぶけてきかれける。或人、是を見て、此童ただ人にあらず、後は必ず名士ならん。と云しが、はたして英雄にてぞ有ける。凡そわかき人は、老人の、ふるき物語をこのみききて、おぼえおくべし。わかき時は、多くは、老人のふるき物語をきく事をきらふ。戒むべし。又わかき時、わが先祖の事をしれる人あらば、よくと(間)ひたづねてしるしおくべし。もしかくの如(く)にせず、うかとききては、おぼえず。年たけて後、先祖の事をしりたく思へども、知れる人、既になくなりにたれば、とひてきくべきやうなし。後悔にたへず。子孫たる人、わが親先祖の事、しらざるは、むげにおろそかなり。いはんや、父祖の善行、武功などあるを、其子孫知らず、しれどもしるしてあらは(顕)さざるは、おろかなり。大不孝とすべし。  
父母やはらかにして、子を愛し過せば、子おこたりて、父母をあなどり、つつしまずして、行儀悪しく、きずい(気随)にして、身の行ひ悪しく、道にそむく。父たる者、戒ありておそるべく、行儀ありて手本になるべければ、子たる者、をそれ慎みて、行儀正しく、孝をつとむる故に、父子和睦す。子の賢不肖、多くは父母のしはざなり、父母いるがせにして、子の悪しきをゆるせば、悪を長ぜしめ、不義にをちいる。これ子を愛するに非ずして、かへりて、子をそこなふなり。子を育つるに、幼より、よく教え戒めても悪しきは、まことに天性の悪しきなり。世人多くは、愛にすぎてをごらしめ、悪を戒めざる故、慣ひて性となり、つゐに、不肖の子となる者多し。世に上智と下愚とはまれなり。上智は、教えずしてよし、下愚は、教えても改めがたしといへども、悪を制すれば、面は改まる。世に多きは中人なり。中人の性は、教ゆれば善人となり、教えざれば不善人となる。故に教えなくんばあるべからず。  
小児の衣服は、はなやかなるも、くるしからずといへども、大もやう(模様)、大じま(縞)、紅・紫などの、ざ(戯)ればみたるは、き(着)るべからず。小児も、ちとくす(燻)み過たるは、あでやかにして、いやしからず、はなやか過て、目にたつは、いやしくして、下部の服のごとし。大かた、衣服のもやうにても、人の心は、おしはからるみものたれば、心を用ゆべし。又、身のかざりに、ひまを用ひすくすべからず。ひまついえて益なし。只、身と衣服にけがれなくすべし。  
農工商の子には、幼き時より、只、物かき・算数をのみ教えて、其家業を専にしらしむべし。必ず楽府淫楽、其外、いたづらなる、無用の雑芸をしらしむべからず。これにふけり、おぼれて、家業をつとめずして、財をうしなひ、家を亡せしもの、世に其ためし多し。富人の子は、立居ふるまひ、飲食の礼などをば、習ふべし。必ず戒めて、無頼放逸にして、酒色淫楽をこのむ悪友に、交はらしむべからず。是にまじはれば、必ず身の行悪しく、不孝になり、財をうしなひ、家をやぶる。甚だおそるべし。  
小児は十歳より内にて、早く教え戒むべし。性(うまれつき)悪くとも、能(よく)教え習はさば、必よくなるべし。いかに美質の人なりとも、悪くもてなさば、必ず悪しきに移るべし。年少の人の悪くなるは、教の道なきがゆへなり。習を悪しくするは、たとへば、馬にくせを乗付るがごとし。いかに曲馬(くせうま)にても、能き乗手ののれば、よくなるもの也。又うぐひすのひなをか(飼)ふに、初めてなく時より、別によくさゑづるうぐひすを、其かたはらにをきて、其音をきき習はしむれば、必よくさえづりて、後までかはらず。是はじめより、善き音をききてなら(習)へばなり。禽獣といへど、早く教えぬれば、善にうつりやすき事、かくの如し。況んや人は万物の霊にて、本性は善なれば、幼き時より、よく教訓したらんに、すぐれたる悪性の人ならずば、などか悪しくたらん。人を教訓せずして悪しくなり、其性を損ずるは、おしむべき事ならずや。  
子孫、幼なき時より、かたく戒めて、酒を多くのましむべからず。の(飲)みならへば、下戸も上戸となりて、後年にいたりては、いよいよ多くのみ、ほしいままになりやすし。くせとなりては、一生あらたまらず。礼記にも、「酒は以て老を養なふところなり、以て病ひを養なふところなり」といへり。尚書には、神を祭るにのみ、酒を用ゆべき由、をいへり。しかれば酒は、老人・病者の身をやしたひ、又、神前にそなへんれう(料)に、つくれるものなれば、年少の人の、ほしゐままにのむべき理にあらず。酒をむさぼる者は、人のよそ目も見ぐるしく、威儀をうしなひ、口のあやまり、身のあやまりありて、徳行をそこなひ、時日(ひま)をついやし、財宝をうしなひ、名をけがし、家をやぶり、身をほろぼすも、多くは酒の失よりをこる。又、酒をこのむ人は、必ず血気をやぶり、脾胃をそこなひ、病を生じて、命みじかし。故に長命なる人、多くは下戸也。たとひ、生れつきて酒をこのむとも、わかき時より慎みて、多く飲むべからず。凡そ上戸の過失は甚だ多し。酔に入りては、謹厚(きんこう)なる人も狂人となり、云まじき事を云、なすまじき事をなし、言葉すくなき者も、言多くなる。戒むべし。酒後の言葉、慎みて多くすべからず。又、酔中のいかりを慎み、酔中に、書状を人にをくるべからず。むべも、昔の人は、酒を名づけて、狂薬とは云へりけん。貧賎なる人は、酒をこのめば、必ず財をうしなひ、家をたもたず。富貴たる人も、酒にふければ、徳行みだれて、家をやぶる。たかきいやしき、其わざはひは、のがれず。戒むべし。  
小児のともがら、戯れ、多く云べからず。人のいかりををこす。又、人のきらふ事、云べからず、人にいかりそしられて、益なし。世の人、多くいやしきことをいふとも、それを慣ひて、いやしき事云べからず。小児の言葉いやしきは、ことにききにくし。 
巻之三 / 年に随ふて教える法 

 

六歳の正月、始て一二三四五六七八九十・百・千・万・億の数の名と、東西南北の方の名とを教え、其生れ付の利鈍をはかりて、六七歳より和字(かな)をよませ、書習はしむべし。初めて和字を教ゆるに、「あいうゑを」五十韻を、平がなに書て、たて・よこによませ、書習はしむ。又、世間往来の、かなの文の手本を習はしむべし。此年ごろより、尊長をうやまふ事を教え、尊卑・長幼のわかちをもしらしめ、言葉づかひをも教ゆべし。  
七歳、是より男女、席を同してならび坐せず、食を共にせず。此ころ、小児の少知いでき、云事をきき知るほどならば、英知をはかり、年に宣しきほど、やうやく礼法を教ゆべし。又、和字のよみかきをも、習はしむべし。   
八歳、古人、小学に入りし歳也。初めて幼者に相応の礼義を教え、無礼を戒むべし。此ころよりたち居ふるまひの礼、尊長の前に出て、つかふると退くと、尊長に対し、客に対し、物をいひ、いらへこたふる法、せん具を尊長の前にすえ、又、取て退く法、盃を出し、銚子を取て酒をすすめ、肴を出す法、茶をすすむる礼、をもたらはしむべし。又みづから食する法、尊長の賜はる盃と肴をいただき、客の盃をいただきのむ法、尊者に対し、拝礼をなす法、を教え(知)らしむべし。又、茶礼をも教ゆべし。かしづき従ふ人より、まづ孝弟の道を教ゆべし。よく父母につかふるを孝とし、よく兄長につかふるを弟とす。父母をたうとびて、よくつかふる、是人たる者の第一につとめ行なふべき道なる事、かしづきて師となる人、早く教ゆべし。次に、兄長を敬まひ従ひて、あなどるべからざる事を、教ゆべし。兄長とは、兄、あね、をぢ、をば、又いとこの内、其外にも、とした(年長)けてうやまふべき人をいふ。凡そ孝弟の二は、人間の道を行なふ本なり。万事の善は、皆これよりはじまれる事を、教ゆべし。父母・兄長におそれ・慎みて、其教え戒めをよくききて、そむかざる事を教ゆべし。教えをそむきては、むげの事なり。父母をおそれず、兄長をあなどらば、戒めてゆるすべからず。もし人をあなどる事をゆるし、かへりてわらびよろこべば、小児は善悪をわきまへずして、あしからざる事と思ひ、長じて後、此くせやまず、子となり弟となる法を知らず、無礼にして不孝不弟となる。是父母をろか(愚)にして、子の悪をすすめなせるなり。やうやく年をかさねば、弟を愛し、臣僕をあはれみ、師を尊び、友にまじはる道、賓客に対して坐立進退、言葉づかひの法、各其品に従ひて、いつくしみうやまふべき道を、教えしらしむべし。是よりやうやく孝弟、忠信、礼義、廉恥の道を教え行なはしむ。人の財物をもとめ、飲食をむさぼりて、いやしげなる心を戒め、恥を知るべき事を教ゆべし、七歳より前は、猶いとけなければ、早くいね、をそくおき、食するに時をさだめず、大やう其の心にまかすべし。礼法を以て、一一にせめがたし。八歳より門戸の出入し、又は座席につき、飲食するに、必ず年長ぜる人におくれて、先だつべからず、初めてへりくだり、ゆづる事を教ゆべし。小児の心まかせにせず、きずい(気随)なる事を、かたく戒むべし。是れかんよう(肝要)の事なり。  
ことしの春より、真と草との文字を書き習はしむ。はじめより風体正しき能書を学はしむべし。手跡つたなく、風体悪しきを手本としてならへば、悪しき事くせとなり、後に風体善き能書をならへどもうつ(移)らず。はじめは真草ともに、大字を書習はしむべし。はじめより小字をかけば、手すくみてはたらかず。又此年より早く文字をよみ習はせしらしむべし。孝経、小学、四書などの類の、文句長きむづかしきものは、はじめよりよみがたく、おぼえがたく、たいくつ(退屈)し、学問をきらふ心いできて悪しく、まづ文句みじかくして、よみやすく、おぼえやきものをよませ、そらにおぼえさすべし。  
十歳、此年より師にしたがはしめ、先五常の理、五倫の道、あちあら云きかせ、聖賢の書をよみ、学問せしむべし。よむ所の書の内、まづ義理のきこえやすく、さとしやすき切要なる所をとき聞すべし。是より後、やうやく小学、四書、五経をよむべし。又、其ひまに、文武の芸術をも習はしむべし。世俗は、十一歳の頃、やうやう初めて、手習など教ゆ、おそしと云べし。教えは、早からざれば、心すさみ気あれて、教えをきらひ、おこたりに習ひて、つとめ学ぶ事かたし。小児に、早く心もかほばせも、温和にして人を愛しうやまひ、善を行なふ事を教ゆべし。又、心も身のたち居ふるまひも、しづかにして、みだりうごかず、さはがしからざらん事を教ゆべし。  
十五歳、古人、大学に入て学問せし歳也。是より専(もっぱら)義理を学び、身をおさめ、人をおさむる道を知るべし。是大学の道也。殊更、高家の子、年長じては、諸人の上に立て、多くの民を預り、人を治むる職分おもし。必ず小児の時より師をさだめ、書をよませ、古の道を教え、身を修め、人を治むる道をしらしむ。もし人をおさむる道をしらざれば、天道よりあづけ給へる、多くの人をそこなふ事、おそるべし。凡その人も、其分限に応じて、人をおさむるわざ(業)あり。其道を、学ばずんばあるべからず。生質(うまれつき)遅鈍たりとも、これより二十歳までの間に、小学、四書等の大義に通ずべし。若(もし)、聡明ならば、博く学び、多く知るべし。  
二十歳、古、もろこしには、二十にして、かむり(冠)をきるを元服をくは(加)ふと云。元服とは、「かうべのきるもの」とよむ、冠の事也。日本にても、昔は公家・武家共に、二十歳の内にて、かうぶりゑぼし(冠烏帽子)をきたり。其時、加冠、理髪の役ありき。今も宮家に此事あり、今、武家に前髪を去を元服と云も、昔のかふりをきるにたぞらへていへり。元服を加へざる内は、猶わらんべ也。元服すれば、成人の道これより備はる。これより幼少なる時の心をすてて、成人の徳に従ひ、ひろくまたび、あつく行ふべし。其年に応じて、徳行そなはらん事を思ひて、つとむべし。もし元服しても、成人の徳なきは、猶、童心ありとて、昔も、これをそしれり。  
書を読む法  
聖人の書を経と云。経とは常也。聖人の教えは、万世かはらざる、万民の則なれば、つねと云い、四書五経等を経と云い、賢人の書を伝と云。伝とは聖人の教えをのべて、天下後代につたふる也。四書五経の註、又は周程、張朱、其外、歴代の賢人のつくれる書を、いづれも伝と云。経伝は是古の聖賢の述作り給ふ所なり。其載する所は、天地の理に従ひて、人の道を教え給ふ也。其理至極し、天下万世の教えとなれる鑑なり。天地人と万物との道理、これにもるる事なき故、天地の間、是にまされる宝、更になし。是を神明のごとくにたうとび、うやまふべし。おろそかにし、けがすべからず。  
凡そ書をよむには、必ず先手を洗ひ、心に慎み、容を正しくし、几案のほこりを払ひ、書冊を正しく几上におき、ひざまづきてよむべし。師に、書をよみ習ふ時は、高き几案の上におくべからず。帙の上、或(は)文匣、矮案の上にのせて、よむべし。必ず、人のふむ席上におくべからず。書をけがす事なかれ。書をよみおはらば、もとのごとく、おほ(覆)ひおさむべし。若、急速の事ありてたち去るとも、必ずおさむべし。又、書をなげ、書の上をこゆべからず。書を枕とする事なかれ。書の脳を巻きて、折返へす事なかれ。唾を以、幅を揚る事なかれ。故紙に経伝の詞義、聖賢の姓名あらば、慎みて他事に用ゆべからず。又、君上の御名、父母の姓名ある故紙をもけがすべからず。  
小児の記性(おぼえ)をはかつて、七歳より以上入学せしむ。初は早晨に書をよましめ、食後にはよましめず、其精神をくるしむる事なかれ。半歳の後は、食後にも亦、読ましむべし。  
凡そ書をよむには、いそがはしく、早くよむべからず。詳緩(ゆるやか)に之を読て、字々句々、分明なるべし。一字をも誤るべからず。必ず心到、眼到、口到るべし。此三到の中、心到を先とす。心、此に在らず、見れどもみへず、心到らずして、みだりに口によめども、おぼえず。又、俄かに、しゐて暗によみおほえても、久しきを歴ればわする。只、心をとめて、多く遍数を誦すれば、自然に覚えて、久しく忘れず。遍数を計へて、熟読すべし。一書熟して後、又、一書をよむべし。聖経賢伝の益有る書の外、雑書を見るべからず。心を正しくし、行儀を慎み、妄にいはず、わらはず、妄に外に出入せず、みだりに動作せず、志を学に専一にすべし。つねに暇ををしみて、用もなきに、いたづらに隙をついや(費)すべからず。  
小児の文学の教えは、事しげくすべからず。事しげく、文句多くして、むつかしければ、学間をくるしみて、うとんじきらふ心、出来る事あり。故に簡要を選び、事すくなく教ゆべし。すこしづつ教え、よみ習ふ事をきらはずして、すきこのむやうに教ゆべし。むつかしく、辛労にして、其気を屈せしむべからず。日々のつとめの課程を、善きほどにみじかくさだめて、日々をこたりなくすすむべし。凡そ小児を教ゆるには、必ず師あるべし。若(もし)、外の師なくば、其父兄、みづから日々の課程を定めてよましむべし。父兄、辛労せざれば、教えおこなはれず。  
初て書を読には、まづ文句みじかくして、よみやすく、覚えやすき事を教ゆべし。初より文句長き事を教ゆれば、たいくつ(退屈) しやすし。やすきを先にし、難きを後にすべし。まづ孝弟、忠信、礼義、廉恥の字義を教え、五常、五倫、五教、三綱、三徳、三事、四端、七情、四勿、五事、六芸、両義、二気、三原、四時、四方、四徳、四民、五行、十干、十二支、五味、五色、五音、二十四気、十二月の異名、和名、四書、五経、三史の名目、本朝の六国史の名目、日本六十六州の名、其住せる国の郡の名、本朝の古の帝王の御謚、百官の名、もろこしの三皇、五帝、三王の御名、歴代の国号等を和漢名数の書にかきあつめをけるを、そらによみおぼえさすべし。又、鳥、獣、虫、魚、貝の類、草木の名を多く書集めて、よみ覚えしむべし。此外にもおぼえて善き事多し。そらに覚えざる事は、用にたたず。又、周南、召南の詩、蒙求の本文五百九十八句、性理字訓の本編、三字経、千字類合、千家詩などの句、みじかくおぼえやすき物を教ゆべし。右の名目に、編などを多くよみおぼえて後、経書を教ゆべし。初より文句長き、よみがたき経書を教えて、其気を屈せしむべからず。経書を教ゆるには、先孝経の首章、次に論語学而篇をよましめ、皆熟読して後、其要義をもあらあらとききかすべし。小学、四書は、最初よりよみにくし。故に先右に云所の、文句のみじかきものを多くよませて、次に小学をよませ、後に四書・五経をよましむべし。  
凡そ書をよむには、早く先をよむべからず。毎日返りよみを専(もっぱら)つとむべし。返りよみを数十遍つとめ、をはりて、其先をよむべし。しからずして、只はか(捗)ゆかん事をこのみて、かへりよみすくなければ、必ずわすれて、わが習ひし功も、師の教へし功もすたりて、ひろく数十巻の書をよんでも益なし。一巻にても、よくおぼゆれば、学力となりて功用をなす。必ずよくおぼ(覚)ふべし。書をよんでも学すすまざるは、熟読せずして、おぼえざれば也。才性あれば、八歳より十四歳まで、七年の問に、小学、四書、五経等、皆読をはる。四書、五経熟読すれば、才力いでき、学間の本たつ。其ちからを以って、やうやく年長じて、ひろく群書を見るべし。  
小児に初て書を授くるには、文句を長く教ゆべからず。一句二句教ゆ。又、一度に多く授くべからず。多ければおぼえがたぐ、をぼえても堅固ならず。其上、厭倦んで学をきらふ。必ずたいくつせざるやうに、少づつ授くべし。其教えやうは、はじめは、只一字二字三字つつ字をしらしむべし。其後一句づつ教ゆべし。既に字をしり、句をおぼへば、小児をして自読しむべし。両句を教ゆるには、先一句をよみをぼえさせ、熟読せば、次の句を、又、右のごとくによましめ、既(に)熟読して、前句と後句と通読せしめてやむべし。此の如くする事、数日にして、後又、一両句づつ漸、に従て授くべし。其後授くるに、漸、字多ければ、分つて二三次となして、授け読しめ、其二三次、各熟読して、合せて通読せしむ。若(もし)、其中、おぼえがたき所あらば、其所ばかり、又、数遍よましむ。又、甚だよみやすき所をば、わかちよむ時は、よむべからず。是(れ)功を省すの法なり。  
書を読には、必ず句読を明にし、よみごゑを詳にし、清濁を分ち、訓点にあやまりなく、「てには」を精しくすべし。世俗の疎なる謬(あやまり)に従ふべからず。  
書をよむに、当時、略(ほぼ)熟誦しても、久しくよまざれば、必、忘る。故に書をよみおはつて後、既によみたる書を、時々かへりよむべし。又、毎日前の三四五度に授かりたる所を、今日よみ習ふ所に通して、あとをよむべし。此如くすれば忘れず。  
毎日一の善事を知り、一の善事を行なひて、小を積みてやまざれば、必ず大にいたる。日々の功をおこたり欠べからず。はじめは毎日、日記故事、蒙求の故事などの嘉言、善行を一両事づつ記すべし。又、毎日、数目ある事を二三条記すべし。一日に一事記すれば、一年には三百六十条なり。詩歌をよみおぼゆるも此法なり。一日に一首おぼゆれば、一年に三百六十首也。毎日誦して、日々、怠るべからず、久きをつみては、其功大なり。  
小児に初て書を説きかするに、文句みじかく、文義あさく、分明に、きこえやすく云きかすべし。小児に相応せざる、高く、ふかく、まはり遠く、むづかしく、ききにくき事を、教ゆべからず。又、言葉多く、長く、すべからず。言すくなくして、さとしやすくすべし。まづ孝経の首章、論語の学而篇を早く説きかすべし。是本(もと)をつとむるなり。小学の書をと(説)くには、義理を、あさくかろくとくべし。深く重く説べからず。是小児に教ゆる法也。  
小児、読書の内に、早く文義を所々教べし。孝経にていはば、仲尼とは孔子の字なり、字とは、成人して名づくる、かへ名也。子は師の事を云。曾子は孔子の弟子なり、参(しん)は曾子の名。先王は古の聖王の事。不敏は鈍なる事。又、論語の首章をよむ時は、学ぶとは学問するを云。習とは、学びたる事を、身につとめ習ふなり。悦ぶとは、をもしろきといふ意。楽(たのしむ)とは大きにおもしろき意也。かやうに読書のついでに、文義を教ゆれば、自然に、書を暁し得るものなり。  
古語に、光陰箭の如く、時節流るるが如し。又曰、光陰惜むべし(と)。これを流水にたとふ、といへり。月日のはやき事、としどし(年々)にまさる。一たびゆきてかへらざる事、流水の如し。今年の今日の今時、再かへらず。なす事なくて、なをざりに時日をおくるは、身をいたづらになすなり。をしむべし。大禹は聖人なりしだに、なを寸陰をおしみ給へり。いはんや末世の凡人をや。聖人は尺壁(せきへき)をたうとばずして、寸陰をおしむ。ともいへり。少年の時は、記性つよくして、中年以後、数日におぼゆる事を、只一日・半日にもおぼえて、身をおはるまでわすれず。一生の宝となる。年老て後悔なからん事を思ひ、小児の時、時日をおしみて、いさみつとむべし。かやうにせば、後悔なかるべし。  
書をよみ、学問する法、年わかく記憶つ善き時、四書五経をつねに熟読し、遍数をいか程も多くかさねて、記誦すべし。小児の時にかぎらず、老年にいたりても、つねに循環してよむべし。是義理の学間の根本となるのみならず、又、文章を学ぶ法則となる。次に左伝を数十遍看読すべし。其益多し。是学問の要訣なり。知らずんばあるべからず。  
小児の時、経書の内、とりわき孟子をよく熟誦すべし。是義理の学に益あるのみならず、文章を作る料なり。此書、文章の法則(てほん)となり、筆力を助く。朱子も、孟子も熟誦して文法をさとれりといへり。又、文章を作るためには、礼記の檀弓、周礼の考工記を誦読すべし。是等は皆古人の説なり。又、漢文の内数篇、韓・柳・欧・蘇・曾南豊等の文の内にて、心に叶へるを択びて、三十篇熟誦し、そらに書て忘れざるべし。作文の学、必ず此如くすべし。  
四書を、毎日百字づつ百へん熟誦して、そらによみ、そらにかくべし。字のおき所、助字のあり所、ありしにたがはず、おぼへよむべし。是ほどの事、老らくのとしといへど、つとめてなしやすし。況、少年の人をや。四書をそらんぜば、其ちからにて義理に通じ、もろもろの書をよむ事やすからん。又、文章のつづき、文字のおきやう、助字のあり処をも、よくおぼえてしれらば、文章をかくにも、又助となりなん。かくの如く、四書を習ひ覚えば、初学のつとめ、過半は既に成れりと云べし。論語は一万二千七百字、孟子は三万四千六百八十五字、大学は経伝を合せて千八百五十一字、中庸は三千五百六十八字あり。四書すべて五万二千八百四字なり。一日に百字をよんでそらに記(おぼ)ゆれば、日かず五百廿八日におはる。十七月十八日なれば、一年半にはたらずして其功おはりぬ。早く思ひ立て、かくの如くすべし。これにまされる学問の善き法なし。其れつとめやすくして、其功は甚だ大なり。わがともがら、わかき時、此良法を知らずして、むなしく過し、今八そぢになりて、年のつもりに、やうやう学びやうの道すこし心に思ひしれる故、今更悔甚し。又、尚書の内、純粋なる数篇、詩経、周易の全文、礼記九万九千字の内、其精要なる文字をゑらんで三万字、左伝の最(も)要用なる文を数万言、是も亦日課を定めて百遍熟読せば、文学におゐて、恐らくは世に類なかるべし。是学問の良法なり。  
史は古をしるせる書也、記録の事なり。史書は、往古の迹を考へて、今日の鑑とする事なれば是亦経につぎて必よむべし。経書を学ぶいとまに和漢の史をよみ、古今に通ずべし。古書に通せざるは、くらくして用に達せず。日本の史は、日本紀以下六国史より、近代の野史に至るべし。野史も亦多し。ひろく見るべし。中夏の史は、左伝、史記、漢書以下なるべし。朱子綱目の書は、歴代を通貫し、世教をたすけて、天下万世に益あり。経伝の外、これに及べる好著は有べからず。此一書を出すしで、古の事に通じ、善悪を弁じ、天下国家をおさむる道理明かたり。まことに、世の主なり。学者是をこのんで玩覧すべし。殊に国家をおさむる人のかがみとなり、又、通鑑前編・続編をも見るべし。前編、伏犠より周まで、朱子綱目以前の事をしるせり。続編は宋元の事を記す。朱子綱目以後の事也。これにつづきて、皇明通記、皇明実記などを見れば、古今に貫通す。  
小児の時より、学間のひまをおしみ、あだなる遊びをすべからず。手習ひ、書をよみ、芸を学ぶを以、遊びとすべし。かやうのつとめ、はじめは、おもしろからざれども、やうやく習ひぬれば、のちはなぐさみとなりて、いたづ(煩)がはしからず。凡そよろづの事は、皆いとまを用ひて出くるものなれば、いとま(暇)ほどの身のたからなし。四民ともに同じ。かほどの、おしむべき大せつたるいとまを、むなしくして、時日をつひやし、又は、用にもたたざる益なきわざをなし、無頼の小人にまじはり、ひまをおしまずして、いたづらに、なす事なくて月日をおくる人は、ついに才智もなく、芸能もなくして、何事も人におよばず、人にいやしめらる。少年の時は、気力も記憶もつよければ、ひまをおしみ、書をよみおくべし。此の如くすれば、身おはるまでわすれず、一代のたからとなる。年たけ、よはひ(齢)ふけぬれば、事多くしてひまなく、、気カへりて記憶よはくなり、学問に苦労しても、しるし(験)すくなし。少年の時、此ことはりをよく心得て、ひまをおしみ、つとむべし。わかき時、おこたりて、年おいて後悔すべからず。此事、まへにも既に云つれば、老のくせにて、同じことするは、きく人いとふべけれど、年わかき人に、よく心得させんため、かへすがへすつぐるなり。凡その事、後のため善き事を、専(ら)につとむべし。はじめつとめざれば、必ず後の楽なし。又、後の悔たからん事をはかるべし。はじめにつつしまず、おこたりぬれば、必ず後の悔あり  
小児の書をよむに、文字を多くおほえざれば、書をよむにちからなくして、学問すすまず。又、文字をしらざれば、すべて世間の事に通せず。芸など習ふにも、文字をしらざれば、其理にくらくして、びが事おほし。文字をしれらば、又、其文義を心にかけて通じ知るべし。 
巻之四 / 手習法 

 

古人、書は心画なり、といへり。心画とは、心中にある事を、外にかぎ出す絵なり。故に手蹟の邪正にて、心の邪正あらはる。筆蹟にて心の内も見ゆれば、慎みて正しくすぺし。昔、柳公権も、心正ければ筆正しといへり。凡そ書は言をうつして言語にかへ用ひ、行事をしめして当世にほどこし、後代につたふる証跡なり。正しからずんばあるべからず。故に書の本意は、只、平正にして、よみやすきを宗とす。是第一に心を用ゆべき事也。あながちに巧にして、筆蹟のうるはしく、見所あるをむねとせず、もし正しからずしてよみがたく、世用に通ぜずんば、巧なりといへども用なし。黙れども、又いやしく拙きは用にかなはず。  
凡そ字を書習ふには、真草共に先(まず)手本を選び、風体(ふうてい)を正しく定むべし。風体悪しくば、筆跡よしといへども、なら(習)はしむぺからず。初学より、必ず風体すなをに、筆法正しき、古への能書の手跡をゑらんで、手本とすべし。悪筆と悪き風体を習ひ、一度悪しきくせつきては、一生なをらず。後、能書を習ひても改まらず。日本人の善き手跡を習ひ、世間通用に達せば、中華の書を学ばしむべし。しからざれぱ、手跡すすまず。唐筆を習ふには、先(ず)草訣百韻、王義之が十七帖、王献之が鵞群帖、淳化法帖、王寵が千字文、文徴明が千字文、黄庭経などを学はしむべし。又、懐素が自叙帖、米元章が天馬賦などを学べば、筆力自由にはたらきてよし。  
和流・から流共に、古代の能書の上筆を求めて習ふべし。今時の俗筆をば、習ふべからず。手本悪しければ、生れ付たる器用ありて、日々つとめ学びても、見習ふべき法なくして、手跡進まず。器用も、つとめも、むなしくなりて、一生悪筆にてをはる。わが国の人、近世手跡つたなきは、手習の法をしらざると、古代の善き手本をならわざる故也。  
本朝にも、古代は能書多し。皆唐筆をまなべり。唐人も、日本人の手法をほめたり。中世以後、からの筆法をうしなへり。故に能書すくなし。あれども上代に及ばず。近代は弥(いよいよ)、俗流になりし故、時を逐(おい)て拙なくなる。凡そ文字は中華よりいで、真・行・草もからよりはじまる。日本流とてべつ(別)にあるべからず。から流の筆法にちがへるは、俗筆なり。同じくは、からの正流を、はじめより習ふべし。但(し)近世の、正しからざる唐筆をならへば、手跡ひがみ、よこしまにして、よみがたし。文盲たる人は、から流はよみがたしと云。それは、あレき風を習ひたるを見ていへり。からの書は、真字を先(まず)習ひて、それに従ひて行・草をかく。故に筆跡正し。日本流は、真字にしたがはず、字形をかざる故、多くは字画ちがひ、無理なる事多し。  
真字は、ことに唐筆の正しき能書を、始より学ぶべし。和字(かな)も、古の能書を始より学ぶべし。和字には中華(から)流あるべからず。真字には和流あるべからず。和流に真をかくと、から流に和字を書とは、皆ひが事也。此理を知らずして、今時から流にかなを書人あり。しかるべからず。草書には和流もあれども、から流にもとづかざるは俗流なり、正流にあらず。本朝上代の能書、三筆、三跡など、皆から流に本づけり。其後、世尊寺、清水谷など、能書の流を家流と云。是又、中華の筆法あるは、俗流にあらず。俗流をば学ぶぺからず。まことの筆法なし。近代の和流の内、尊円親王の真跡は、からの筆法あり。よのつねの俗流にまされり。真跡にあらざるは、からの筆法なし。習ふぺからず。真跡まれなり。其外、古の筆法をしらで、器用にまかせて書たる名筆、近世多し。世俗は賞翫すれども、古法をしらざるは、皆俗筆なり、学ぶぺからず。  
小児、初て手習するには、先(ず)一二三四五六七八九十百千万億、次に天地、父母、五倫、五常、四端、七情、四民、陰陽五行、四時、四方、五穀、五味、五色などの名目の手本を、真字に書て、大に書習はしむべし。  
「あいうゑを」五十字は、和音に通ずるに益あり。横縦によみ覚ふべし。かなづかひ、「てには」なども、これを以って、知るべし。「いろは」の益なきにまされり。国字も、皆是にそなはれり。片かなは、をそく教え知らしむぺし。  
凡そ文字を書習ふに、高く墨をとり、端正にすりて、すり口をゆがむべからず。手をけがす事なかれ。高く筆をとり、双鈎し、端正に字を書べし。双鈎とは、筆のとりやうなり。凡そ字を書に、一筆一画、平正分明にして、老草に書べからず。老草とは、平正ならず、わがままに、そさうにか (書)くを云。手本を能見て、ちがはざるやうに、しづかに学ぶべし。才にまかせ、達者ぶりして、老草にかけば、手跡あがらず。書を写し習ふにも、平正にかくべし。常の書札などかくにも、手習と思ひて、慎みて正しくかくべし。かくのごとくすれば、手跡進みやすし。手を習ふには、まづ筆の取やうを知るぺし。  
双鈎とは、筆のもちやう也。大指と食指、中指の二指と対してはさむを云。食指一(つ)をかけてはさむをば、単鈎と云。。単鈎は手かたまらずして、筆に力なし。故に双鈎をよしとす。日本流は、多くは単鈎を用ゆ。  
双鈎の法は、まづ筆を大指と食指にてはさむに、大指のはらと食指の中節のわきに筆をあつぺし。此二指はちからを主どる。次に中指をかがめて、筆を指のとがりにつけ、筆をおさえ、次に無名指の外、爪と肉とのきはに筆をあて、上におさえあげて、中指と相対してさしはさみ、中指は外より内におさえ、無名指は内より外へをす、此二指は運動を主どる。大指と食指にて、上にてはさみたる筆を、又、中指と無名指を以て下にてはさみ、堅固にする也。次に小指は無名指の下かどにつらねて、無名指の力をたすく。筆の左にゆき右にゆく時、無名指をたすけて導き送る。筆をとる事、五指ともにあさきをよしとす。あさけれぱ力つよくして、はたらき自由なり。  
虚円正緊は、筆をとる四法也。知らずんばあるべからず。虚とは指を掌に近づけずして、掌の内を、空しくひろくするを云。あぶみの形の如くなるをよしとす。円とは、掌の外、手の甲をまるくして、かどなきを云。虚円の二は掌の形なり。正とは、筆をすぐにして、前後左右にかたよらざるを云。かくの如くならざれぜ、筆の鋒(さき)あらはれ、よこあたりあり。緊とは、筆をきびしくかたくとりて、やはらかならざるを云。上よりぬきとらりれるやうに取てよし。かくのごとくならざれば、筆に力なくしてよはし。正緊の二は筆の形なり。此四法は筆をとる習ひ也。日本流の筆の取やうは、是にことなれり。単鈎にとりて、筆鋒をさきへ出し、やはらかにして、上よりぬき取をよしとす。  
小児の時より、大字を多く書習へば、手、くつろぎはたらきてよし。小字を書で、大字をかかざれば、手、すくみてはたらかず。字を習に、紙をおしまず、大(おおい)に書べし。大に書ならへば、手はたらきて自由になり、又、年長じて後、大字を書によし。若、小字のみ書習へば、手腕すくみて、長じて後、大字をかく事成がたし。手習ふには、悪しき筆にてかくべし。後に筆をゑらばずしてよし。もし善き筆にて書習へば、後悪しき筆にて書く時、筆蹟悪しく、時々善き紙にかくべし。悪しき紙にのみ書ならへば、善き紙にかく時、手すくみて、はたらかず。  
真字をかく法、大字はつづめて、小ならしめ、小字はのぺて大ならしめ、短字は長く、長字は短くすべし。横の筆画はほそきがよし。竪の筆画はあらきがよし。よこに二字合せて、一とする字はひろくすべからず。上下二字合て一字とする字は、長くすべからず。疏は密に、密は疏なるべし。骨多きに宣し。肉多によろしからず。皆是筆法の習ひなり。  
指を以て、筆をうごかす事なかれ。大字は肘をうごかし、小字は腕をうごかす。筆のはたらき自由なるべし。指は取事を主どり、肘腕はうごく事を主どる。指はうごかすべからず。  
筆の取やう正しくして、筆さきの横にあたらざるやうに、筆鋒を正しく直(すぐ)にすべし。筆直に正しければ、筆の鋒あらはれずしてよし。筆がたぶけば、鋒あらはる。筆鋒のあたる所を、あらはれざるやうにかくすべし。左の筆をおこす所、ことにあらはれざるがよし。鳥のくちはしの如く、とがれるはあしし。又、右のかどに肩をあらはすぺからず。鋒はつねに画中にあらしむべし。是を蔵鋒と云。鋒を蔵(かく)すをよしとす。  
入木(じゅぼく)ということ 筆鋒は紙につよくあたるべし、入木と云も此事也。  
手を習ふに、筆のはたらきの神彩(しんさい)を先とし、字の形を次とす。字のかたちよくとも、神彩なければよしとせず。  
はじめは、一流をもは(専)ら習ふべし。後には、諸流の善きを取て、則とすべし。もはら一流を似すべからず。古人の一流に全く似たるをば、書奴(ぬ)と云ていやしむ。  
筆ひたし過すべからず。又、かは(乾)かすべからず、硯は時々あらひ、新水をかへ用ひ、ほこりを去べし。墨をばやはらかにすり、筆をばつよくとるべし。故(に)墨は病夫にすらせ、筆は壮夫にとらしむと云。和流は、これにことなり、筆をやはらかにとる也。  
手習の後は、物をかくに硯池(うみ)の水をそめず、新水を墨する所に入て、墨をすり、時にのぞみてそむべし。  
筆に墨をそむる事、大字をかくにも三分にすぐべからず。ふかくひたせば、筆よはくして力なし。細字は、猶もみじかくそむべし。  
筆をとるに、真書はぢく(軸)をひき(低)く、草は高くとる、行は共間なり。真一、行二、草三と云。  
腕法三あり。枕腕(ちんわん)あり、提腕あり、懸腕あり。枕腕は、左の手を右の手の下に枕にさする也。是小字をかく法也。提腕は肘はつくゑにつけて、腕をあげてかく也。是中字をかく法也。懸腕は腕をあげて空中にかく也。是大字をかく法也。うでを下にさぐれば、はたらかず。是小字、中字、大字を書く三法なり。  
字を学ぶには、必ずまづ真書を大文字に書習ふべし。内閣字府の七十二筆を先うつ(写)すべし。次に行草を習ふべし。凡そ字を書習ふには、真・行・草ともに、古人の能書を法とすべし。東坡が曰、「真は行を生じ、行は草を生ず。真は、人の立(たつ)がごとく、行は、人のゆくがごとく、草は、人の走るがごとし。いまだ不立して、能行(よくゆき)、能走るものはあらず。」といへり。是を以って見るに、真は本也。草は末也。もろこしに先 (まず)真書より学ばしむる故に、字画正してあやまりなし。倭俗は真字を学ばざる故に、文字を知らず、筆画に誤多し。真書を学はざれば、草書にもあやまり多し。本邦近代の先輩、さばかり能書の名を得たる人おほけれど、真書を不学ゆへ、其筆跡、真・草共に多くは誤字あり。証とするにたらず。世俗文盲なる人、真書を早く学べば、手腕(うで)すくむ、といふは誤也。是書法をしらざる人の公事也。初学より真書をよく書習ふべし。初学の時、真・草ともに小字のみ書て、大字を書ざれば、手すくみて、はたらかず。故に初て手習ふには、真・草ともに大に書べし。其後には、次第に細字をも書習ふべし。手のすくむと、はたらくとは、習字の大小にあり。真草によらず。  
文字をかき、書を写すには、筆画を能弁(わきまえ)知りて誤なかるぺし。世俗の字をかくは、筆画に甚だ誤多し。心を用ひて筆画を知るべし。字画を知るには、説文を宗とし、玉篇の首巻、字彙の末巻、及(び)読字彙の内、字体弁徴、黄兀立が字考を以て誤を弁ずべし。字学にも亦、心を用ゆべし。  
書状を書には、本邦の書礼の習あり。必ず書礼を学んで、其法に順ふべし。書礼を学びされば、文字を知る人も、誤る事多し。  
唐流には、筆法の習ひ、猶もこれあり。予、かつて諸書の内を考へ、からの筆法の諸説をあつめて一書をあらはせり。心画軌範と名づく一冊あり。和流には、筆法の伝授とて、字ごとに各々むつかしき習ひあり。唐流には、すべての筆法の習はあれど、和流の如く、かかはりたる法はこれなし。  
世間通用の文字を知るべし。書跡よくしても、文字をしらざれば用をなさず。天地、人物、人事、制度、器財、本朝の故実、鳥獣、虫魚、草木等の名、凡そ世界通用の文字を知るべし。世俗は通用の文字を知るに、順和名抄、節用集、下学集などを用ゆ。順和名抄は用ゆべき事多し。又あやまり多し。功過相半なり。節用集、下学集は誤多し。用ゆべからず。世俗是等の書を用ゆる故、誤多し。近年印行せし訓蒙図彙、和爾雅、倭字通例書、などを選び用ゆべし。今、世俗の通用する漢名・和名、あやまり甚だ多し。能ゑらんで書べし。  
国字(かな)をかくに、かなづかひと、「てには」を知るぺし。かなづかひとは、音をかくに開合あり、開合とは字をとなふるに、口のひらくと合(あう)となり。和音五十字の内、あかさたな、はまやらわは開く音也。江・肴・豪、陽・唐、庚・耕、清・青の韻の字は皆開くなり。をこそとの、ほもよろおは合ふ音なり。東・冬、粛・零、蒸・登、尤・侯・幽の韻の字は皆合へる也。又、和訓の詞の字のかなづかひは、いゐ、をお、えゑ、の三音は、各二字づつ同音なれど、字により所によりて、いの字を用、ゐの字を用ゆるかはりあり。をお、と、えゑも亦同じ。又、はひふへほ、とかきて、わいうゑを、とよむは、和訓の詞の字、中にあり、下にある時のかきやう、よみやうなり。是も和音五十字にて通ずる理あり、是皆かなづかひの習ひ也。五十字によく通ずれば、其相通を知るなり。又「てには」とは、漢字にも和語にもあり。漢字・和語の本訓の外、つけ字を「てには」と云。「てには」と云は、本訓の外、つけ字に、ての字、にの字、はの字、多き故に名づく。又、「てにをは」とも云は、をの字も多ければなり。和字四十八字を、「いろは」と云が如し。学んで時にこれを習ふ、とよめば、ての字、にの字、をの字は、皆「てには」也。やまと歌は人の心をたねとしてよめば、はの字、をの字、ての字、皆「てには」也。又、和語の「てには」、上下相対する習ひあり。ぞける、こそけれ、にけり、てけれ。是、上を「ぞ」といへば、下は「ける」と云、「花ぞちりける」と云べし。「花ぞちりけり」とは云べからず。上にて「こそ」といへば、下は「けれ」と云べし。上にてこそといはば、下にてけりと云べからず。にけり、てけれ、も、これを以って知るべし。又わし、ぞき、と云は、上を「は」といへば、下は「し」と云、上を「ぞ」といへば、下は「き」と云。たとへば「かねのねはうし」、「かねのねぞうき」。此類を云。是皆「てには」の習ひなり。かなづかひ開合と、「てには」をしらで、和文・和歌をかけば、ひが事多くしてわらふぺし。 
巻之五 / 女子に教ゆる法 

 

男子は外に出て、師に従ひ、物を学び、朋友にまじはり、世上の礼法を見聞するものなれば、親の教えのみにあらず。外にて見聞きする事多し。女子はつねに内に居て、外にいでざれば、師友に従ひて道を学び、世上の礼儀を見習ふぺきやうなし。ひとへに親の教えを以って、身をたつるものなれば、父母の教え、怠るべからず。親の教えなくて、そだてぬる女は、礼儀を知らず。女の道にうとく、女徳をつつしまず、且女功の学びなし。是皆父母の子を愛するみちをしらざればなり。  
女子を育つるも、はじめは、大やう男子とことなる事なし。女子は他家にゆきて、他人につかふるものなれば、ことさら不徳にては、舅・夫の心にかなひがたし。いとけなくて、おひさき(生先)こもれるまど(窓)の内より、よく教ゆべき事にこそ侍べれ。不徳なる事あらば、早く戒むべし。子を思ふ道に迷ひ、愛におぼれ、姑息して、其悪き事をゆるし、其性(うまれつき)をそこなふぺからず。年に従ひて、まづ早く、女徳を教ゆべし。女徳とは女の心さまの正しくして、善なるを云。凡そ女は、かたちより、心のまされるこそ、めでたかるぺけれ。女徳をゑらばず、かたち(容)を本としてかしづくは、をにしへ今の世の、悪しき習はしなり。古のかしこき人はかたちのすぐれて見にくきいもきらはで、心ざまのすぐれたるをこそ、后妃にもかしづきそなへさせ給ひけれ。黄帝の妃ほ母(ほも)、斉の宣王の夫人無塩は、いづれも其かたちきはめてみにくかりしかど、女徳ありし故に、かしづき給ひ、君のたすけとなれりける。周の幽王の后、褒じ、漢の成帝の后、ちょう飛燕、其妹、しょうしょうよ、唐の玄宗の楊貴妃など、其かたちはすぐれたれど、女徳なかりしかば、皆天下のわざはひとなり、其身をもたもたず。諸葛孔明は、好んで醜婦を娶れりしが、色欲の迷ひなくて、智も志もいよいよ清明なりしとかや。ここを以、婦人は心だによからんには、かたち見にくくとも、かしづきもてなすべきことはり(理)たれば、心さまを、ひとへに慎みまもるべし。其上、かたちは生れ付たれば、いかに見にくしとても、変じがたし。心は悪しきをあらためて、善きにうつ(移)さば、などか移らざらん。古張華が女史の箴とて、女の戒めになれる文を作りしにも、「人みな、其かたちをかざる事を知りて、其性をかざる事を知る事なし。」といへり。性をかざるとは、む(生)まれつきの悪しきをあらためて、よくせよとなり。かざるとは、偽りかざるにはあらず。人の本性はもと善なれば、幼きより、善き道に習はば、なとか善き道にうつり、善き人とならざらんや。ここを以って、古女子には女徳をもはら(専)に教えしなり。女の徳は和・順の二をまもるべし。和(やわら)ぐとは、心を本として、かたち・言葉もにこやかに、うららかなるを云。順(したがう)とは人に従ひて、そむかざるを云。女徳のなくて、和順ならざるは、はらきたなく、人をいかりの(罵)りて、心たけく、けしき(気色)けうとく、面はげしく、まなこおそろしく見いだし、人をながしめに見、言葉あららかに、物いひさがなく口ききて、人にさきだちてさか(賢)しらし、人をうらみかこち、わが身にほこり、人をそしりわらひ、われ、人にまさりがほなるは、すべておぞましくにく(憎)し、是皆、女徳にそむけり。ここを以、女は、ただ、和順にして貞信に、なさけふかく、かいひそめて、しづかなる心のおもむきならんこそ、あらまほしけれ。  
婦人は、人につかふるもの也。家に居ては父母につかへ、人に嫁しては舅姑・夫につかふるゆへに、慎みてそむかざるを道とす。もろこしの曾大家が言葉にも、「敬順の道は婦人の大礼なり」といへり。黙れば女は、敬順の二をつねに。守るべし。敬とは慎む也。順は従ふ也。慎むとは、おそれてほしゐままならざるを云。慎みにあらざれば、和順の道も行なひがたし。凡そ女の道は順をたっとぶ、順のおこなはるるは、ひとへに慎むよりをこれり。詩経に、「戦々と慎み、競々とおそれて、深き淵にのぞむが如く、薄き氷をふむが如し。」、といへるは、をそれ慎む心を、かたどりていへり。慎みておそるる心もち、かくのごとくなるべし。  
女は、人につかふるものなれば、父の家、富貴なりとても、夫の家にゆきては、其親の家にありし時より(も)、身をひき(低)くして、舅姑にへりくだり、慎みつかへて、朝夕のつとめおこたるべからず。舅姑のために衣をぬひ、食をととのへ、わが家にては、夫につかへてたかぶらず。みづからきぬ(衣)をたたみ、席をはは(掃)き、食をととのへ、うみ・つむぎ、ぬい物し、子をそだてて、けがれをあらひ、婢多くとも、万の事に、みづから辛労をこらへてつとむる、是婦人の職分なれば、わが位と身におうぜぬほど、引さがりつとむべし。かくの如くすれば、舅、夫の心にかなひ、家人の心を得て、よく家をたもつ。又わが身にたかぶりて、人をさしつかひ、つとむべき事におこたりて、身を安楽におくは、舅ににくまれ、下人にそしられて、人の心をうしひ、其家をよくおさむる事なし。かかる人は、婦人の職分を失ひ、後のさいわひなし。慎むべし。  
古、天子より以下、男は外をおさめ、女は内をおさむ。王后以下、皆内政をつとめ行なひて、婦人の職分あり。今の世の慣ひ、富貴の家の婦女は、内をおさむるつとめうとく、お(織)り・ぬ(縫)ひのわざにおろそかなり。古、わが日の本にては、かけまくもかしこき天照大神も、みづから神衣をおりたまひ、斎服殿(いんはたどの)にましましける。其御妹稚日女尊(わかひるめのみこと)も亦しかり。是日本紀にしるせり。もろこしにて、王后みづから玄たんをおり給ふ。公侯の夫人、位貴しといへ共、皆、みづからぬをおれり。今の士、大夫の妻、安逸にほこりて、女功をつとめざるは、古法にはあらず。  
女に四行あり。一に婦徳、二に婦言、三に婦容、四に婦功。此四は女のつとめ行なふべきわざ也。婦徳とは、心だて善きを云。心貞 (ただ)しく、いさぎよく、和順なるを徳とす。婦言とは、言葉の善きを云。いつはれる事をいはず。言葉を選びていひ、にげ(似気)なき悪言をいたさず。いふべき時いひて、不用なる事をいはず。人其いふ事をきらはざる也。婦容とは、かたちの善きを云。あながちに、かざりをもはら(専)にせざれども、女は、かたち(容)なよよかにて、おおし(雄々)からず、よそほひのあてはかに、身もちきれいに、いさぎよく、衣服もあかづきけがれなき、是婦容なり。婦功とは、女のつとむべきわざなり。ぬひ物をし、う(紡)み・つむ(績)ぎをし、衣服をととのへて、もはら(専)つとむべきわざを事とし、戯れ遊び・わらふ事をこのまず。食物、飲物をいさぎよくして、舅・夫・賓客にすすむる、是皆婦功なり。此四は女人の職分也。つとめずんばあるぺからず。心を用ひてつとめなば、たれもなるべきわざ也。おこたりすさみて、其職分をむなしくすべからず。  
七歳より和字(かな)を習はしめ、又おとこもじ(漢字)をもたらはしむべし。淫思なきを古歌を多くよましめて、風雅の道をしらしむべし。是また男子のごとく、はじめは、数目ある句、みじかき事ども、あまたよみおぼえさせて後、孝経の首章、論語の学而篇、曹大家(そうだいこ)が女誡などをよましめ、孝・順・貞・潔の道を教ゆべし。十歳より外にいださず、閨門の内にのみ居て、おりぬひ、うみつむぐ、わざを習はしむべし。かりにも、淫佚(いんいつ)なる事をきかせ知らしむべからず。小歌、浄瑠璃、三線の類、淫声をこのめば、心をそこなふ。かやうの、いやしきたぶ(狂)れたる事を以て、女子の心をなぐさむるは、あしし。風雅なる善き事を習はしめて、心をなぐさむべし。此比(ころ)の婦人は、淫声を、このんで女子に教ゆ。是甚だ風俗・心術をそこなふ。幼き時、悪き事を見聞・習ては、早くうつりやすし。女子に見せしむる草紙も、選ぶべし。古の事、しるせる書の類は害なし。聖賢の正しき道を教えずして、ざれ(戯)ばみたる小うた、浄瑠璃本など見せしむる事なかれ。又、伊勢物語、源氏物語など、其詞は風雅なれど、かやうの淫俗の事をしるせる書を、早く見せしむべからず。又、女子も、物を正しくかき、算数をならぶべし。物かき・算をしらざれば、家の事をしるし、財をはかる事あたはず。必ずこれを教ゆべし。  
婦人には、三従の道あり。凡そ婦人は、柔和にして、人に従ふを道とす。わが心にまかせて行なふぺからず。故に三従の道と云事あり。是亦、女子に教ゆべし。父の家にありては父に従ひ、夫の家にゆきては夫に従ひ、夫死しては子に従ふを三従といふ。三の従ふ也。幼きより、身をおはるまで、わがままに事を行なふべからず。必ず人に従ひてなすべし。父の家にありても、夫の家にゆきても、つねに閨門の内に居て、外にいでず。嫁して後は、父の家にゆく事もまれなるぺし。いはんや、他の家には、やむ事を得ざるにあらずんば、かるがるしくゆくべからず。只、使をつかはして、音聞(いんぶん)をかよはし、したしみをなすべし。其つとむる所は、舅、夫につかへ、衣服をこしらへ、飲食をととのへ、内をおさめて、家をよくたもつを以って、わざとす。わが身にほこり、かしこ(賢)だてにて、外事にあづかる事、ゆめゆめあるぺからず。夫をしのぎて物をいひ、事をほしいままにふるまふべからず。是皆、女の戒むべき事なり。詩経の詩に、「彼(かしこ)にあっても悪(にく)まるる事なく、ここにあつてもいと(厭)はるる事なし。」といへり。婦人の身をたもつは、つねに慎みて、かくの如くなるぺし。  
婦人に七去とて、悪しき事七あり。一にてもあれば、夫より逐(おい)去らるる理たり。故に是を七去と云。是古の法なり。女子に教えきかすぺし。一には父母にしたがはざるは去。二に子なければさる。三に淫なればさる。四に嫉めばさる。五に悪疾(悪しきやまい)あればさる。六に多言なればさる。七に窃盗(ぬすみ)すればさる。此七の内、子なきは生れ付たり。悪疾はやまひなり。是二は天命にて、ちからに及ばざる事なれば、婦(ふ)のとがにあらず。其余の五は、皆わが心よりいづるとがなれば、慎みて其悪をやめ、善にうつりて、夫に去(さら)れざるやうに用心すべし。凡そ人のかたちは、生まれ付たれば、あらためがたかるべけれ。心は変ずる理(ことわり)あれば、わが心だに用ひなは、などか、おろかなるより、賢きにも、移さば移らざらん。黙れば、わが悪しき生まれ付を知りて、ちからを用ひ、悪しきをあらためて、善きに移るべし。此五の内、。したまづ父母に順がはざると、夫の家にありて、。舅、姑にしたがはざるは、婦人第一の悪なり。しかれば夫の去は、ことはりなり。次に妻をめとるは、子孫相続のためなれぱ、子なけれぱさるもむべ也。されど其婦の心和(やわら)かに、行ひ正しくて、嫉妬の心なく、婦の道にそむかずして、夫・舅の心にかなひなば、夫の家族・同姓の子を養ひ、家をつがしめて、婦を出すに及ばず。或(は)又、妾に子あらば、妻に子なくとも去に及ぶべからず。次に淫乱なるは、わが夫にそむき、他の男に心をかよはす也。婦女は万の事いみじくとも、穢行(えこう)だにあらば、何事の善きも見るにたらず。是女の、かたく心に戒め、慎むべき事なり。妬めば夫をうらみ、妾をいかり、家の内みだれてをさまらず。又、高家には婢妾多くして、よつぎ(世嗣)をひろむる道もあれぱ、ねためぱ子孫繁昌の妨となりて、家の大なる害なれば、これをさるもむべ也。多言は、口がましきなり。言葉多く、物いひさがなければ、父子、兄弟、親戚の間も云さまたげ、不和になりて、家みだるるもの也。古き文にも、「婦に長舌あるは、是乱の階(はし)なり。」といへり。女の口のき(利)きたるは、国家のみだるる基となる。といふ意なり。又、尚書に、「牝鶏の晨(あした)するは、家の索(さびしくなる)也。」と云へり。鶏のめどり(牝鶏)の、時うたふは、家のおとろふるわざはいとなるがごとく、女の、男子の如く物いふ事を用るは、家のみだれとなる。凡そ家の乱(みだれ)は、多くは婦人よりをこる。婦人の禍は、必ず口よりいづ。戒むべし。窃盗とは、物ぬすみする也。夫の財をぬすみてみづから用ひ、或(は)わが父母、兄弟、他人にあた(与)ふる也。もし用ゆべく、あたふべき事あらば、舅・夫にとひ、命をうけて用ゆべし。しかるに夫の財をひめて、わが身に私し、人にあたへば、其家の賊なれば、これをさるもむべなり。女は此七去の内、五をおそれ慎みて、其家を出ざらんこそ、女の道もたち、身のさいはひともなるべけれ。一たび嫁して、其家を出され、たとひ他の富貴なる夫に嫁すとも、女の道にたがひぬれぱ、本意にあらず。幸とは云がたし。もし夫不徳にして、家、貧賎なりとも、夫の幸なきは、婦の幸なきなれば、天命のさだまれるにこそと思ひて、憂ふべからず。  
凡そ女子を愛し過して、ほしゐままにそだてぬれぱ、夫の家にゆきて、必ずおご(驕)りおこたりて、他人の気にあはず、つゐには、舅にとうまれ、夫にすさめられ、夫婦不和になり、おひ出され、はぢをさらすものおほし。女子の父母、わが教えなき事をはぢずして、舅、夫の悪しきとのみ思ふ事、おろか也。父母の教え、なかりし女子は、おつとの家にゆき、舅の教え正しければ、せはらしく、たえがたくおもひて、舅をうらみそしり、中悪しくなる。親の家にて、教えなければ、かくの如し。  
女子には、早く女功を教ゆべし。女功とは、をりぬひ、うみつむぎ、すすぎいうあらひ、又は食をととのふるわざを云。女人は外事なし。かやうの女功をつとむるを以って、しわざとす。ことにぬひものするわざを、よく習はしむぺし。早く女のわざを教えざれば、おつとの家に行て、わざをつとむる事たらず、人にそしられ、わらはるるもの也。父母となれる者、心を用ゆべし。  
凡そ女子は、家にありては、父母につかへ、夫に嫁しては、舅・夫に、したしくなれちかづきて、つかふるものなれば、其身をきよくして、けがらはしくすべからず。是又、女子のつとむべきわざたり。  
父母となる者、女子の幼きより、男女の別を正しくし、行儀を、かたく戒め教ゆべし。父母の教へなく、たはれたる行(おこない) あれば、一生の身をいたづらにすて、名をけがし、父母・兄弟にはぢをあたへ、見きく人につまはじきをせられん事こそ、口をしくあさましきわざなれ。よろづいみじくとも、ちり(塵)ばかりもかかる事あらば、玉の盃のそこなきにもをと(劣)りなん。俗のことわざに、万能一心といへるも、かかる事なり。ここを以て、女は心ひとつを貞(ただ)しく潔(いさぎよ)くして、いカなる変にあひて、たとひいのちを失なふとも、節義をかたく守るこそ、此生後の世までのめいぽく(面目)ならめ。つねに心づかひをして、身をまもる事、かた(堅)きにすぎたらんほどは、よかるべし。人にむかひ、やはらかに、ざればみて、かろ(軽) らかなるは、必ず節義をうしなひ、あやまち(過)の出くるもとい(基)なリ。和順を女徳とすると、たはれの心のわうらかにして、まもりなく、かろ(軽)びたると、其すぢかはれる事、云に及ばず。古人は兄弟といへど、幼(幼き)より男女、席(むしろ)を同じくせず、夫の衣桁に、妻の衣服をかけず、衣服も夫婦同じ器にをさめず、衣裳をも通用せず、ゆあみ(沐浴)する所もことなり。是夫婦すら別(わかち)を正しくする也。いはんや、夫婦ならざる男女は、云うに及ばず。男女の分、内外の別を正しくするは、古の道なり。  
古、女子の嫁する時、其母、中門まで送りて、戒めて曰、「なんぢが家にゆきて、必ず慎み、必ず戒めて、夫の心にそむく事なかれ。」といへり。是古の、女子の嫁する時、親の教ゆる礼法なり。女子の父母、よく此理を云きかせ、戒むべし。女子も又、よく此理を心得て、まもり行なふべし。  
又女子の嫁する時、かねてより父母の教ゆべき事十三条あり。一に曰、わが家にありては、わが父母に専ら孝を行たふ理たり。されども夫の家にゆきては、もはら舅・姑を、吾二親よりも、猶おもんじて、あつく愛み敬ひ、孝行をつくすべし。親の方をおもんじ、舅の方をかろんずる事なかれ。舅のかた(方)に、朝夕の見まひを、か(欠)くべからず。舅のかたの、つとむべきわざ、怠るべからず。若、舅の命(おおせ)あらば、慎み行なひて、そむくべからず。凡その事、舅、姑にとひて、その教えにまかすべし。舅、姑、もし我を愛せずして、そしりにくむとも、いかりうらむる事なかれ。孝をつくして、誠を以って感ぜしむれば、彼も亦人心あれば、後は必ず心やはらぎて、いつくしみある理なり。二に曰、婦人別に主君なし。夫をまことに主君と思ひて、うやまひ慎みて、つかふぺし。かろしめ、あなどるべからず。やはらぎ従ひて、其心にたがふべからず。凡そ婦人の道は、人に従ふにあり。夫に対するに、顔色・言葉づかひ、ゐんぎん(慇懃)にへりくだり、和順なるべし。いぶ(燻)りにして、不順なるべからず。おごりて無礼なるべからず、是女子第一のつとめたり。夫の教え、戒めあらば、其命にそむくべからず。うたがはしき事は、夫にとひて其命をうくべし。夫とふ事あらば、ことわりただしくこたふべし。其いらへ、おろそかにすべからず。こたへの正しからず、其理きこえざるは、無礼なり。夫もしいかりせむる事あらば、をそれて従ふべし。いかりあらそひて、其心にさか (逆)ふべからず。それ婦人は夫を以って天とす。夫をあなどる事、かへすがへす、あるぺからず、夫をあなどりそむきて、夫より、いかりせめらるるにいたるは、是婦人の不徳のはなはだしきにて、大なるはぢ也。故に女は、つねに夫をうやまひ、おそれて、慎みつかふべし。夫にいやしめられ、せめらるるは、わが心より出たるはぢ(恥)也。三に曰、こじうと・こじうとめは、夫の兄弟なれば、たさけふかくすべし。又こじうと・こじうとめに、そしられ、にくまるれば、舅の心にそむきて、わが身のためにもよからず。むつましく和睦すれば、舅の心にかなふ。しかればこじうとの心も亦、失なふべからず。又あひよめ(相嫁)をしたしみ、むつまじくすべし。ことさら夫の兄、兄よめは、あつくうやまふべし。あによめ(嫂)をば、わがあねと同じくすぺし。座につくも、道をゆくも、へりくだり、をくれてゆくべし。四に曰、嫉妬の心、ゆくゆくをこ(起)すべからず。夫婬行あらば、いさむべし。いかりうらむべからず。嫉妬はなはだしければ、其けしき(気色)・言葉もおそろしく、すさまじくして、かへりて、夫にうとまれ、すさめらるるものなり。業平の妻の、「夜半にや君がひとり行らん」とよみしこそ、誠に女の道にかなひて、やさしく聞ゆめれ。凡そ、婦人の心たけく、いかり多きは、舅、夫にうとまれ、家人にそしられて、家をみだし、人をそこなふ。女の道におゐて、大にそむけり。はらたつ事あらば、おさへてしのぶべし。色にあらはすべからず。女は物ねんじ(憂さ・つらさを忍び堪えること)して、心のどかなる人こそ、さいはい(福)も見はつる理なれ。五に曰、夫もし不義あり、あやまちあらば、わが色をやはらげ、声をよろこばしめ、気をへり下りていさむぺし。いさめをきかずして、いからば、先(まず)しばらくやめて、後に、おつとの心やはらぎたる時、又いさむべし。夫不義なりとも、顔色をはげしくし、声をいららげ、心気をあらくして、夫にさからひ、そむく事なかれ。是又、婦女の敬順の道にそむくのみならず、夫にうとまるるわざなり。六に曰、言葉を慎みて、多くすべからず。かりにも人をそしり、偽りを云べからず。人のそしリをきく事あらば、心にをさめて、人につたへかたるべからず。そしりを云つたふるより、父子、兄弟、夫婦、一家の間も不和になり、家内をさまらず。七に曰、女は、つねに心づかひして、その身をかたく慎みまもるべし。つとにをき、夜わにいね、ひるはいねずして、家事に心を用ひ、おこたりなくつとめて、家をおさめ、をりぬひ、うみつむぎ、怠るべからず。又、酒・茶など多くこのみて、くせ (癖)とすべからず。淫声をきく事をこのみて、淫楽を習ふべからず。是女子の心を、とらかすものなり。戯れ遊びをこのむべからず。宮寺など、すべて人の多くあそぷ所に、四十歳より内は、みだりにゆくべからず。八に曰、巫・かんなぎなどのわざに迷ひて、神仏をけがし、ちかづき、みだりにいのり、へつらふぺからず。只、人間のつとめをもはらになすべし。目に見えぬ鬼神(おにかみ)のかたに、心をまよはすべからず。九に曰、人の妻となりては、其家をよくたもつべし。妻の行悪しく、放逸なれば、家をやぶる。財を用るに、倹約にして、ついえをなすべからず。をご(奢)りを戒むべし。衣服、飲食、器物など、其分に従ひて、あひにあひ(相似合)たるを用ゆべし。みだりに、かざりをなし、分限にすぎるを、このむべからず。妻をごりて財をついやせば、其家、必ず貧窮にくるしめり。夫たるもの、是にうちまかせて、其是非を察せざるは、おろかなりと云べし。十に曰、わかき時は、夫の兄弟、親戚、朋友、或(は)下部などのわかき男来らんに、なづさ(なれ)ひちかづきて、まつはれ、打とけ、物がたりすぺからず。慎みて、男女のへだてをかたくすべし。いかなるとみ(曰)の用ありとも、わかき男に、ふみ(文)などかよはする事は、必ずあるべからず。しもべを閨門の内に入(いる)べからず。凡そ男女のへだて、かるがるしからず。身をかたく慎むべし。十一に曰、身のかざりも、衣服のそめいろ、もやう(模様)も、目にたたざるをよしとす。身と衣服とのけがれずして、きよ(清)げなるはよし。衣服と身のかざりに、すぐれてきよらをこのみ、人の目にたっほどなるは、あしし。衣服のもやうは、其年よりはくすみて、をい(老)らかなるが、じんじやう (尋常)にして、らうたく(上臈らしく)見ゆ。すぐれてはなやかに、大なるもやうは、目にたちていやし。わが家の分限にすぎて、衣服にきよらをこのみ、身をかざるべからず。只わが身にかなひ、似合たる衣服をきるべし。心は身の主也。たうとぶべし。衣服は身の外にある物なり、かろし。衣服をかざりて、人にほこるは、衣服よりたうとぶぺき、其心をうしな(失)へるなり。凡そ人は、其心ざま、身のふるまひをこそ、よく、いさぎよくせまほしけれ。身のかざりは外の事たれば、只、身に応じたる衣服を用ひて、あながちにかざりて、外にかがやかし、人にほこるぺからず。おろかなる俗人、又、いやしきしもべ、しづの女などに、衣服のはなやかなるをほめられたりとも、益なし。善き人は、かへりて、そしりいやしむぺきわざにこそあれ。十二に曰、わが里の親の方にわたくしし、わが舅、姑、夫の方をつぎにすべからず。正月佳節などにも、まづおつとのかたの客をつとめて、親の里には、つぎの日ゆきて、まみゆべし。夫のかたをすてて、佳節に、わが親の里に、ゆくべからず。舅・夫のゆるさざるに、父母・兄弟のかたにゆくべからず。わたくしに、親の方にをくり(贈)物すべからず。又、わが里の善き事をほこりて、ほめかたるべからず。十三に曰、下女をつかふに、心を用ゆべし。いふかひなきものは、ならはし(慣)悪しくて、ちゑなく、心かだましく、其上、ものいふ事さがなし。夫の事、舅・姑・こじうとの事など、わが心にあはぬ事あれば、みだりに其主にそしりきかせて、それをかへりて忠とおもへり。婦人もし、ちゑなくして、それを信じては、必ずうらみ出来やすし。もとより夫の家は、皆他人なれば、うらみそむき、恩愛をすつる事やすし。つつしんで、下女の言葉を信じ、大せつなる、舅・小じうとの、したしみをうすくすべからず。もし、下女すぐれてかだましく、口がましくて、悪しきものならば、早くおひやるぺし。かやうのものは、必ず家道をみたし、親戚の中をも、いひ妨ぐるもの也。をそるべし。又、下女などの、人をそしるを、きき用ゆる事なかれ。殊に、夫のかたの一類の事を、かりそめにも、そしらしむべからず。下女の口を信じては、舅、姑、夫、こじうと、などに和睦なくして、うらみそむくにいたる。つつしんで讒を信ずべからず。甚だをそるべし。又、いやしきものをつかふには、我が思ふにかなはぬ事のみ多し。それを、いかりの(罵)りてやまざれば、せはしくはらだつ事多くして、家の内しづかならず。悪しき事は、時々いひ教えて、あやまりを正すべし。いかりの(罵)るべからず。すこしのあやまちは、こらえていかるべからず。心の内には、あはれみふかくして、外には行儀かたく、戒めてをこたらざるやうにつかふべし。いるかせなれば、必ず行儀みだれ、をこたりがちにて、礼儀をそむき、とがをおかすにいたる。あたへめぐむべぎ事あらば、財をおしむべからず。但わが気に入たるとて、忠なきものに、みだりに財物をあたふぺからず。  
○凡そ此十三条を、女子のいまだ嫁せざるまへに、よく教ゆぺし。又、書き付けてあたへ、おりおりよましめ、わするる事なく、是を守らしむべし。凡そ世人の、女子を嫁せしむるに、必ず其家の分限にすぎて、甚だをごり、花美をなし、多くの財をついやし用ひ、衣服・器物などを、いくらもかひととのへ、其余の饗応贈答のついえも、又、おびただし。是世のならはし也。されど女子を戒め教えて、其身を慎みおさめしむる事、衣服・器物をかざれるより、女子のため、甚だ利益ある事を知らず。幼き時より、嫁して後にいたるまで、何の教もなくて、只、其生まれつきにまかせぬれば、身を慎み、家をおさむる道を知らず。おつとの家にゆきて、をごりをこたり、舅、夫にしたがはずして、人にうとまれ、夫婦和順ならず。或(は)不義淫行もありて、おひ出さるる事、世に多し。是親の教えなきがゆへなり。古語に、「人よく百万銭を出して、女を嫁せしむる事をしりて、十万銭を出して、子を教ゆる事を知らず。」といへるがごとし。婚嫁の営(いとなみ)に、心をつくす十分が一の、心づかひを以て、女子を教え戒めば、女子の身を悪しく持なし、わざはひにいたらざるべきに、かくの如くなるは、子を愛する道をしらざるが故也。  
婦人は夫の家を以って、家とする故に、嫁するを帰るといふ。云意(いうこころ)は、わが家にかへる也。夫の家を、わが家として帰る故、一たぴゆきてかへらざるは、さだまれる理なり。されど不徳にして、舅、夫にそむき、和順ならざれば、夫にすさめられ、舅ににくまれ、父の家に、おひかへさるるのわざはひあり。婦人のはづべき事、是に過たるはなし。もしくは、夫柔和にして、婦の不順をこらへて、かへさざれども、かへさるべきとがあり。されば、人をゆるすべくして、人のためにゆるさるるは本意にあらず。  
をよそ婦人の、心ざまの悪しき病は、和順ならざると、いかりうらむると、人をそしると、物妬むと、不智なるとにあり。凡そ此五の病は、婦人に十人に七八は必ずあり。是婦人の男子に及ばざる所也。みづからかへり見、戒めて、あらため去べし。此五の病の内にて、ことさら不知をおもしとす。不知なる故に、五の病をこる。婦女は、陰性なり、陰は夜に属してくらし。故に女子は男子にくらぶるに、智すくなくして、目の前なる、しかるべき理をも知らず。又、人のそしるべき事をわきまへず。わが身、わが夫、わが子の、わざはひとなるべき事を知らず。つみもなき人をうらみいかり、あるは、のろ (呪)ひとこ(詛)ひ、人をにくみて、わが身ひとりたてんと思へど、人ににくまれ、うとまれて、皆わが身のあだ(仇)となる事を知らず。いとはかなく(果敢)あさまし。子を愛すといへど、姑息し、義方の教えを知らず。私愛ふかくして、かへりて子をそこなふ。かくおろかなるゆへ、年既に長じて後は、善き道を以って、教え、さとらしめがたし。只、其はなはだしきをおさへ、戒むべし。事ごとに道理を以って、せめがたし。故に女子は、ことに幼き時より、早く善き道を教え、悪しきわざを戒め、ならはしむべからず。  
宝永七庚寅年初夏日 筑前州 益軒貝原篤信撰  
 
江戸商人の経営

 

江戸時代の日本において、最大の産業は農業で、“米本位制”、つまり農民から税金=米を徴収することで、経済の基本が成り立っていたわけだが、世の中が安定してくるにしたがって、商業や手工業が発展し、貨幣経済が発達してくる。そして、米を貨幣に換える場所、として、大坂の堂島が中心地になるわけだ。  
江戸時代の幕開けにあたり、徳川家康が通貨発行権を掌握することで、全国的に貨幣経済は統一されていくのだが、そこで面白いのは“金”“銀”“銭(=銅)”の3つが、並立して流通していたこと。で、銭(銭形平次が投げてるのはこれ)は全国的に通用したが、東(江戸)は金が中心、西(京・大坂)は銀が中心。また、吉原の払いや初鰹のような高級品は金、日用品は銅でなければ取引できなかった、というのも面白い。で、金、銀、銭、それぞれの間で変動相場制が成立していたのだそうな。つまり「金高銀安」とか「銀高金安」なんてのがあり得たのである。  
江戸の市場経済においての最大の商流は、全国の産地→「商品集積地」としての大坂→「大消費地」としての江戸、が中心。これに、「製造・技術開発拠点」である京都と、唯一の貿易港である長崎が主要な経済拠点。京都の「伝統工芸」は、当時は「最先端の技術」なのである。(江戸、大坂、京都、長崎は、当然ながらすべて幕府の直轄地になっていた)  
大坂と江戸の商人の間では、江戸商人から大坂商人への代金支払いと、大坂商人から江戸にある各藩の大名屋敷への貸付、という2つのお金の流れについて、実際の現金を江戸→大坂→江戸と動かすのではなく、江戸商人から江戸の大名屋敷へ直接現金を動かし、間にたった大坂商人は為替で相殺させて決済する、なんていう取引も行われており、そのために両替商が大きな力をもっていた・・・と、この説明だと上手く伝わらないかもしれないが、ようするに、ある種の「金融技術」も充分発達していたようである。  
こうした「経済インフラ」の整備を背景に、いち早く集めた情報を元に、先物取引とか、為替取引とか、タイミングと時期を見計らった商品の移動とか、そういった「市場主義的」な動きで財をなしていた商人も沢山いた。  
当時、大坂の市場で成立した米の価格というのは重要な経済情報で、旗やのろしを使った通信で、全国に伝達されていたという。「旗振り通信」で「岡山まで15分、広島まで27分で通信できたといわれている」などと書かれている。これはすごいな。「儲ける」ための情報がいち早くほしい、というニーズは現代と全くかわらない。江戸までは、途中、箱根の山を飛脚で伝える必要があったので、8時間ほどかかったようだけれど。  
そして、江戸、大坂、京都、長崎、それぞれの都市の機能分担を背景に「江戸店(えどだな)持ち、京商人(きょうあきんど)」とといわれるように、「本店は京(や伊勢や近江や大坂)、江戸には販売拠点」といった展開をする商人も多く出現したのだという。三越(三井越後屋)なんてのもその一つだ。  
江戸時代というのは、幕府の統括の上に、各藩の地方分権が成立していたわけだから、各藩ごとに財政事情があり、それぞれに特産品の生産競争や、他藩との競争もあった。大名も各藩を「経営」しなければいけないから、特産品の生産には力を入れる。また、鎖国とはいえ、長崎を通した貿易には莫大な利権がある。大商人は、そうした各地の差を上手く利用しながら、商売をしていたのである。  
著者によれば、江戸時代の市場経済システムを成立させた要因として「3つの要素のベストミックス」があった、という。  
一つは地域差と多様性。地域ごとの特産品が生まれることで、それを取引しようという動機が生まれるし、比較優位による分業も生まれる。  
次に、制度的枠組み。江戸幕府(公儀)の成立を背景に、統一した貨幣制度や、市場取引ルールの整備が進んだ。これがないと、市場取引なんてできない。  
そして、水運網の整備。なにしろ商品を運べなければ、市場が成立しないのだ。菱垣廻船、樽廻船といった流通組織についても、本書に言及されている。  
こうした時代を象徴するものとして本書に取り上げられている、紅花をめぐる争いは興味深い。紅花は、和服の染料や化粧品の材料として重宝されていたのだが、その産地は出羽国村山郡を中心とした最上川流域(現在の山形県)だった。これを、現地で“花餅”とよばれる半加工品にして、最上川の水運で日本海側に輸送。さらに小浜や敦賀に船で運ばれ、京都の加工業者に持ち込まれる。そこで染料や、それを使った繊維製品、化粧品に加工されて、江戸に出荷されていたのである。そして、原料の産地である山形、加工地である京都、消費地である江戸、それぞれが流通と価格の主導権争いをめぐって、色々な動きがあったことを、本書は記していく。問屋をつくったり、潰させたり、金融を通じて生産地まで支配しようとしたり。やがて、山形から紅花生産のノウハウを上手いこと探り出して、埼玉近辺で生産を始める江戸の業者がでてきたり、でも京都ブランドが重要だから、埼玉でつくった紅花を京都まで送ったり、コストを考えて加工も江戸でやるようにするんだけど、こっそり京都ブランドつけちゃったり。まあ、いつの時代でも、このあたり、商売人の考えることは一緒のようではある。それにしても江戸時代、埼玉が紅花産地だったとは知らなかったなあ。。。  
ほかにも、官民関係とか(幕府と商人の癒着と賄賂なんていう負の側面と、意外なほど都市計画などにも民間の力が使われていた側面も含め)、江戸時代の「M&A」のありようなどなど、トピックは尽きず、江戸時代の市場経済が、おそらくは多くの人が思っている以上に、発達していることがわかる。  
話が前後するが、著書は、本書のプロローグでこんな風に記している。  
「『アングロサクソンの市場原理』が成立するどころか、いまだアメリカがイギリスの植民地だった時代から、わが国では商工業者=企業の競争が繰り広げられ、固有の市場経済システムと競争が存在していたこと、すなわち、江戸時代の競争と市場の実際が、この本を読み進めるうちにイメージされよう」。つまり、そういうことなのである。この手の話を持ち出して、「だから日本は偉いのだ!」という満足感に浸るだけの安易なナショナリズムは、あまり生産的ではないとは思うけれど、そういう事実自体を全く知らないというのもまた、もったいない気がする。  
江戸時代に「市場主義経済」は発達していたけれど「資本主義」や「自由主義」は存在しない。当然ながら、士農工商という身分制度の枠内での話だし、株式会社という枠組みはない。資本と経営の分離なんてもってのほかだろう。商売というのも、結局のところ「家」の継承だし。「株」はあるけれど、それは営業権のことで、今で言えば「相撲の親方株」みたいなものか。「株」を取得し、「株仲間」といわれる、同業者の組織に参加するにあたっては、商人は、一定の品格やらなにやらが問われたという。この辺は、「稼げばいい」って言うのとは違う、美学とか「公」への意識を感じるな。(もっともそれは、裏面で「業界の独占」や「既得権の保持」につながるものだったわけだけれども)  
江戸時代の市場経済をそのまま現代に持ち込むのは、もちろん無理無体な話なんだけれど、でも260年近く平和が続いた、世界史上でも稀有な時代にはぐくまれたビジネスの論理と倫理。  
なにかもうちょっと、学ぶことはあるのかもしれない。  
 
北前船の伝承

 

1 北前船(黒部を中心として)  
米を積み荷として北海道を目指した。佐渡へ行って西南西のワカサ風が吹くと3日で北海道に着いたという。佐渡〜粟島〜飛島と北上し深浦港で認定証をもらった。深浦には200艘並んだ。船頭が問屋と直接交渉し、契約が成立すると鰊肥を積んでアイの風を待った。風にさえ乗れば帰りも3日で帰れた。経済性を競って風待ちをした。3月〜6月が1回目、6月〜8月が2回目の交易となった。  
乗組員は船主、4〜5人の正式乗組員、あとは日雇いであり、この日雇いの採用希望者は多かった。理由は収入が良かったこと(農家の3〜4倍)。船主の家の草むしりをするなどご機嫌をとりながら、採用されるように努めた。  
商談をまとめるために青森、江差は勿論福島まで行った。持ち帰った鰊肥を売り現金化した。この漁肥が富山の農業を支えた。  
2 風の力  
風が大切であった。越中漁民が北海道に移住したのも風の影響が強いと考える。  
明治18〜19年の不漁の年、小船5〜6艘で組んで北海道へ行った。ムシロ帆で陸を右に見ながら進んだ。風を受けるために帆に水を絶えずかけて、帆をぴったりと濡らした。漁群を探し、陸で売りさばいた。太平洋の三陸へ。宮崎浜の漁師がムシロ帆で千葉まで行ったという。  
輪島の舳倉島は鮑の生息地である。鮑を取る海女・海士12人が福岡の宗像郡鐘ケ崎から永禄年間にやってきた。海に境界線はなく、彼らは鮑の生息地、販路を求め韓国までも隣感覚で行っていた。宗像から能登に来たのは獲物と風の影響であろう。  
3 船住まいから陸住まいへ  
早い時代の海士たちは、家を持たず、船で暮らし、結婚し、葬式をするというように、漁師は船の上で生涯を終わるものであった。「船の上に暮らしていた海人は陸に上がったらどうするか」という問題である。すぐ気付くのは船と漁家の間仕切りである。浜の船と家の間取りが三間縦並列になっている。漁家も縦並列、片側廊下という住居になっている。町屋にも漁師の船の構造が入り込んでいる。広く沿海州も含め『池』ともいえる日本海の周辺一帯に注目してみる必要がある。浜のトイレ(汚物)に対するこだわりの希薄性に目をやると、日頃海で用を足せる様式に影響されていることがわかる。  
4 対談要旨  
○ 弁財船について補足を願いたい。  
地乗り−山をみながら、沖乗り−風に乗る行き方があった。ワカサ風(ワカサモン)を受けるために能登へ。律令時代は能登から敦賀へそこから陸路琵琶湖へと向かった。その時も風を利用した。北前船の頃は底がヘラ船で荷は多く積めたが早く進まないので、風を利用する必要があった。  
○ 黒部周辺では浜に道路を作ろうとしたら、「なんでおらの土地にタダで作る」と抗議する風潮があるが、新湊周辺の浜に対する所有意識は?  
ここらでも浜に境界を作ったり、浜争いはよくある。大正8年海老江で網争いをしている。砂浜は大切なものだった。  
○ 地面(浜)以外に川はどうだったか?川も船が停まっている所を自分の屋敷だと思っていたか?  
思っていた。杭を打つのも大変だった。川に降りるために階段を作ったりして所有意識があった。  
○ 恵比寿さんについて。  
鯛を抱えた大漁恵比寿、商売恵比寿等恵比寿にも色々ある。  
○ 恵比寿は気ままな、融通無碍な神。死んだ人も恵比寿という。  
恵比寿は流れ仏。コモで包んであげる。  
○ 私は死体恵比寿を見た。2日後に大漁になると聞きそのとおりになった。  
船の神は女だから、女を乗せる時は2人以上乗せた。大漁になると良い女。  
○ 海の神といえばワダツミ(海神)で立派に聞こえる。それに対して、恵比寿はいろいろ派生していく。風について。タマ風はどこから吹く?  
南西。魚も来るけど、突風で危ない。  
○ タマ風−霊魂、悪霊を含んだ風。  
モンの風は亡霊の風。南西の風で9月26日前後。その日に限って大漁になり、船がひっくり返る。漁師は警戒する。  
○ 富山湾は竜宮といえるだけのアイガメがある。アイは藍色の意味ではなく、多くの魚がいる甕と見れないだろうか。
北前船  
江戸時代から明治時代にかけて活躍した主に買積み廻船の名称。買積み廻船とは商品を預かって運送をするのではなく、航行する船主自体が商品を買い、それを売買することで利益を上げる廻船のことを指す。当初は近江商人が主導権を握っていたが、後に船主が主体となって貿易を行うようになる。上りでは対馬海流に抗して、北陸以北の日本海沿岸諸港から下関を経由して瀬戸内海の大坂に向かう航路(下りはこの逆)及び、この航路を行きかう船のことである。西廻り航路の通称でも知られ、航路は後に蝦夷地(北海道・樺太)にまで延長された。  
畿内に至る水運を利用した物流・人流ルートには、古代から瀬戸内海を経由するものの他に、若狭湾で陸揚げして、琵琶湖を経由して淀川水系で難波津に至る内陸水運ルートも存在していた。この内陸水運ルートには、日本海側の若狭湾以北からの物流の他に、若狭湾以西から対馬海流に乗って来る物流も接続していた。この内陸水運ルート沿いの京都に室町幕府が開かれ、再び畿内が日本の中心地となった室町時代以降、若狭湾以北からの物流では内陸水運ルートが主流となった。  
江戸時代になると、例年70,000石以上の米を大阪で換金していた加賀藩が、寛永16年(1639年)に兵庫の北風家の助けを得て、西廻り航路で100石の米を大坂へ送ることに成功した。これは、在地の流通業者を繋ぐ形の内陸水運ルートでは、大津などでの米差し引き料の関係で割高であったことから、中間マージンを下げるためであるとされる。また、外海での船の海難事故などのリスクを含めたとしても、内陸水運ルートに比べて米の損失が少なかったことにも起因する。さらに、各藩の一円知行によって資本集中が起き、その大資本を背景に大型船を用いた国際貿易を行っていたところに、江戸幕府が鎖国政策を持ち込んだため、大型船を用いた流通ノウハウが国内流通に向かい、対馬海流に抗した航路開拓に至ったと考えられる。  
一方、寛文12年(1672年)には、江戸幕府も当時天領であった出羽の米を大坂まで効率よく大量輸送するべく河村瑞賢に命じたこともこの航路の起こりとされる。前年の東廻り航路の開通と合わせて西廻り航路の完成で大坂市場は天下の台所として発展し、北前船の発展にも繋がった。江戸時代に北前船として運用された船は、はじめは北国船と呼ばれる漕走・帆走兼用の和船であったが、18世紀中期には帆走専用で経済性の高い和船である弁才船が普及した。北前船用の弁才船は、18世紀中期以降、菱垣廻船などの標準的な弁才船に対し、学術上で日本海系として区別される独自の改良が進んだ。日本海系弁才船の特徴として、船首・船尾のそりが強いこと、根棚(かじき)と呼ばれる舷側最下部の板が航(船底兼竜骨)なみに厚いこと、はり部材のうち中船梁・下船梁が統合されて航に接した肋骨風の配置になっていることが挙げられる。これらの改良により、構造を簡素化させつつ船体強度は通常の弁才船よりも高かった。通常は年に1航海で、2航海できることは稀であった。こうした不便さや海難リスク、航路短縮を狙って、播磨国の市川と但馬国の円山川を通る航路を開拓する計画(柳沢淇園らが推進)や、由良川と保津川を経由する案が出たこともあったが、様々な利害関係が介在する複数の領地を跨る工事の困難さなどから実現はしなかった。  
明治時代に入ると、1隻の船が年に1航海程度しかできなかったのが、年に3航海から4航海ずつできるようになった。その理由は、松前藩の入港制限が撤廃されたことにある。スクーナーなどの西洋式帆船が登場した影響とする見解もあるが、運航されていた船舶の主力は西洋式帆船ではなく、在来型の弁才船か一部を西洋風に改良した合の子船であった。  
明治維新による封建制の崩壊や電信・郵便の登場は相場の地域的な格差が無くなり、一攫千金的な意味が無くなった。さらに日本全国に鉄道が敷設されることで国内の輸送は鉄道へシフトしていき、北前船は消滅していった。  
 
日米開国小史

 

   
1、日米国交樹立以前  
海洋国家の道を捨てた日本  
徳川幕府が鎖国する以前は、日本も海洋民族的特性を持っていた。1593(文禄2)年、呂宋(納屋)助左衛門がルソン島(現フィリピン)に渡り、ルソン貿易で財を築いた話は知られている。豊臣秀吉の頃の話だ。その後政権をとった徳川家康も海外貿易を奨励し、多くの日本商人がルソン島のマニラ、安南のトンキン(現ベトナム、ハノイ)やフェイホ(現ベトナム、ホイアン)、カンボジヤのプノンペンやピネアール、シャム(現タイ)等へ積極的に出かけ、現地にいくつかの日本人町さえ出来た。シャムで武勇をはせた山田長政の名は良く知られている。  
1609(慶長14)年、ルソン島の前総督、ドン・ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコがサン・フランシスコ号で新スペイン(現メキシコ)に向けて航海中、暴風に遭い日本の房総の御宿海岸(岩和田村)に漂着した。徳川家康に助けられたロドリゴは、9年前に同じく九州に漂着し家康に仕えた三浦按針(ウイリアム・アダムス)が家康のために新造した船、サン・ブエナ・ベンチュラ号(按針丸)で新スペインに着いた。また1613(慶長18)年伊達政宗の命を受けた支倉常長が、フランシスコ修道会宣教師ルイス・ソテロと共に、日本で造った船サン・ファン・バウティスタ号(伊達丸)に乗り、2年前に来日していた新スペインの使節セバスチャン・ビスカイノを伴って太平洋を渡り、新スペイン経由スペインとローマに向った。スペイン国王に会い通商の許可を得る目的だった。この「慶長遣欧使節団」一行の一部は常長と共に新スペインからヨーロッパに渡り、スペイン国王フェリペ三世に会い、ローマ法王パウロ五世にも会った。しかし日本もキリスト教徒を弾圧し始めたから、それを知ったスペイン国王からは通商の許可が得られず、1620(元和6)年失意の帰国をした事は良く知られている。  
このように、当時の日本人は200トン−300トンもある外洋航海の出来る船を造り、積極的に海外貿易に乗り出した。鎖国されるまでの約50年間に、朱印船と呼ばれ正規の貿易許可を取り渡航した日本船は合計三百数十雙にものぼった。こんな船の中には日本風の座敷が三間もあったり、十六畳の大広間や風呂を据え付けたものまであったという。日本の優秀な造船技術とそのコストの安さから、スペインなどからの買い手もついたほどだった。しかしキリスト教徒の影響増大を恐れる幕府は、1635(寛永12)年全ての日本人や日本船の海外渡航を禁じ、強いて帰国するものは死刑に処し始めた。また大名の貿易用大船保有も禁止され、支那との貿易は長崎だけに限った。幕府は島原の乱の鎮圧に引き続き1639(寛永16)年にポルトガル船来航禁止令を出したが、翌1640(寛永17)年、前年の来航禁止令を打開しようとポルトガルから再度の貿易を願いに来た使節団を捕えて処刑し、翌1641(寛永18)年オランダ商館を平戸から長崎の出島に移し完全な鎖国体制に移行した。しかし、この鎖国により日本は海洋民族的特性を失い、海洋国家として繁栄する道を捨てたのだ。 
日本に来た最初のアメリカ商船とそれに続く交易船  
アメリカのバージニア州やマサチューセッツ州など大西洋沿岸を中心にイギリスからの新教徒移民が根付くに連れて、ヨーロッパ北部からの移民も増え、1750年代には独特の地域と文化ができつつあった。粘り強く疲れを知らず、プロテスタント的精神を持ち、友情や忠誠心はあるが個人主義者でもある、いわゆる「ヤンキー気質」の出来上がりだった。宗教的倫理観や道徳を規範とするが個人主義者で、政府などによる拘束を好まない。こんな独自性の強い特性を持つアメリカ商人達は、イギリスやヨーロッパ、更にはアジアまでと活発に船で交易をし、独立戦争後もその行動範囲は更に拡大した。  
1790(寛政2)年に、早くもこんな一艘のアメリカ船が紀伊に現れたらしいが、記録がはっきりしていない。最初のはっきりした記録は、翌1791年、レディー・ワシントン号(船長、ジョーン・ケンドリック)とグレース号が紀伊大島(和歌山県)の樫野浦(かしのうら)に来た。この2艘はボストンとニューヨークの商船で暴風を避けて紀伊大島に来たと云われているが、夫々90トンと85トンの小さい帆船だ。この商船は、当時北アメリカのイギリス領(現カナダ)西海岸で獲れたビーバーやラッコなどの毛皮を手に入れ、支那の広東に持ち込む貿易を始めた。キャプテン・クックにより1778年に発見されたハワイを中心に貿易航海をしたが、ハワイ産の白檀なども広東に持って行った。帰りの積荷は、土地のインディアンと毛皮と交換する銅、鉄などの素材だった。これはボストンの商人組合が数年前から始めた新しい交易方法だったが、当時、カリフォルニアはまだメキシコ領で入植もまれだったから、サンフランシスコなどまだ歴史に登場しない頃の話だ。そしてハワイでも、アメリカ捕鯨船の寄港が始まる約30年も前の話だ。  
北アメリカのイギリス領では、東海岸で「ハドソンズ・ベイ・カンパニー」が長く毛皮交易を一手に行い、その後「ノースウエスト・ファー・カンパニー」も組織され西へと交易地点を広げた。後にこの二社は合併するが、内陸に交易所を多数造り、白人や土地のインディアン猟師などが持ち込む毛皮とイギリス製工業製品や食料とを交換した。紀伊大島に来た2艘のアメリカ船は、西海岸のバンクーバー島辺りで、こんなイギリス系毛皮交易商と同様に現地のインディアンと取引したのだろう。  
レディー・ワシントン号とグレース号が避難した紀伊大島は紀伊半島最南端にあり、島の南側の雷公神社(鳴神明神社)の前の浜近くに来て船係りしたといわれている。今も大島の北側の樫野崎近くに小さい港もあるが、こんな小さい商船なら島の何処にでも充分な避難場所を確保できただろう。大島の村役人から寛政3(1791)年4月4日、「樫浦沖に異国船渡来」の急報を受けた紀州藩は早速翌日目付や奉行、鉄砲役や手勢を大島に派遣したが、二週間ほど潮待ちの滞在をし出航した後だった。大島の現地には、  
本船はアメリカの商船で、積荷は銅・鉄や火砲、乗組員は100人、偶然にも風浪に遭い流されて貴地に来た。風向きが良くないためここに滞在するが、風向きが好転次第退去する。船主名・堅徳力記(筆者注:ケンドリック)。  
と書かれた漢文書類が残されていたという(「南紀徳川史」)。おそらく乗組員の中に支那人も居て、この書付けを村役人に渡したのだろう。村人が小船に乗って見物に行けば、船中に招き入れ酒肴も饗じたとも伝わっているという。  
日本は当時鎖国をしていたからもちろん商売は出来なかったが、レディー・ワシントン号のジョーン・ケンドリック船長は、今日の日本とアメリカの記録にはっきり残る、日本に足を踏み入れた最初の先進的なヤンキー商人だった。  
次の記録に残る日本に来たアメリカ船は、正式な交易目的で長崎に入港した船だ。もちろん当時、鎖国中の幕府が許可した交易国はオランダと支那だけだから、オランダ政府にチャーターされて長崎に来たのだ。したがって外洋航海中はアメリカ国旗を掲げていても、長崎入港時ははっきりとオランダ国旗を掲げ、オランダ船の入港手続きを踏んで入港した。  
この背景には、ヨーロッパにおけるフランスとイギリスとの敵対関係がある。フランス革命に続いてヨーロッパでは、1792年4月20日、フランスとハプスブルク家連合との戦争が勃発した。かって16世紀の半ばまでオランダはこのハプスブルク家連合に属していたし、それ以降共和国になっていたが、1795年ナポレオンが指揮するフランス革命軍に占領された。これに敵対しているイギリスがフランス及びフランス領を海上封鎖したから、フランス陣営に下ったオランダはバタビア(現インドネシアの首都ジャカルタ、当時の日本名ジャガタラ)から簡単には船が出せない。オランダ本国にしても、それまでの数々の戦争で国力は極端に疲弊していたから、日本へ貿易船を出す余裕など更になかった。したがってバタビアから長崎に交易船を送れないオランダ(当時、バタビヤ共和国)政府のバタビア総督は、主としアメリカ船をチャーターし、定期交易船として長崎に送ったのだ。こんな形で最初に入港したチャーター船は、1797年のイライザ号で500トンの帆船だ。その後1809年までに八艘のアメリカ船が正式なチャーター船として九回長崎に来た。いくら船籍はアメリカであっても、オランダがチャーターしている事実がイギリス軍艦に知れれば、大きなリスクがあっただろう事は想像に難くない。またオランダは、こんなアメリカ船の他に、ブレーメン船やデンマーク船も雇い長崎に送っている。  
中には1800年のエンペラー・オブ・ジャパン号のようにバタビアの正式許可なく交易船として長崎に入港し、オランダに没収された船もある。1803年に来たナガサキマル号は、堂々とアメリカの国旗を掲げて入港し通商を求めたが、長崎奉行に断られた。また1807年に来たボストンのエクリプス号は、ロシアとアメリカの合弁会社にチャーターされカムチャッカに向う途中、ロシアの国旗を掲げて長崎に入港した。オランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフに日本はロシアを非常に警戒していると指摘され、早々にロシア国旗を引き降ろす一幕もあった。これら三艘は何れもバタビアの正式なチャーター船ではなかったが、商機があれば果敢に挑戦するヤンキー気質の典型だった。 
鎖国中に長崎入港のアメリカ船(1797−1809)  
1797(寛政9)年:イライザ号(500トン、船長:スチュアート)  
1798(寛政10)年:イライザ号(500トン、船長:スチュアート)  
1799(寛政11)年:フランクリン号(200トン、船長:デヴェロー)  
1800(寛政12)年:マサチューセッツ号(900トン、船長:ハッチングス)  
(エンペラー・オブ・ジャパン号:長崎に入港したがバタビアの正式許可を受けていないことが発覚し、オランダに没収された)、  
1801(享和1)年:マーガレット号(船長:ダービー)  
1802(享和2)年:サミュエル・スミス号(船長:スタイルス)  
1803(享和3)年:レベッカ号(船長:ディール)  
(ナガサキマル号:アメリカ商船として通商を求め、長崎奉行に拒否された)、  
(筆者注:1804年、1805年はオランダ船が入港した)、  
1806(文化3)年:アメリカ号(船長:リーラー)  
1807(文化4)年:マウント・バーノン号(船長:デイヴィッドソン)  
(エクリプス号:ロシアとアメリカの合弁会社にチャーターされカムチャッカに向う途中、ロシアの国旗を掲げて長崎に入港した)、  
1809(文化6)年:レベッカ号(新出島商館長・クロイトホフが乗船していたため、長崎入港前にイギリス海軍に拿捕され、広東に送られた)。  
注:この年以降はイギリス海軍の制海権が更に強力になり、オランダの国力も極端に疲弊し、チャーターした交易船すら派遣できず、出島のオランダ人の食料さえも欠乏して行った。1811年9月ついにバタビヤを制圧したイギリスが、1813年に旧オランダ出島商館長や関係者を乗せた2隻のイギリス商船を長崎に送り、オランダ船の入港手続き通り入港し、合法的な命令書を提示し、オランダの出島商館の権益を取り上げようとする事件が起った。当時の出島商館長・ヘンドリック・ドゥーフは、「敵国管理下の命令書だ」とこの受け取りを拒否し、出島にオランダの国旗を掲げ続けた。当時この出島と2、3の例外を除き、世界中でオランダ国旗が降ろされてしまったのだ。その後、1815年6月9日のウィーン議定書締結によりネーデルラント連合王国が再び主権を回復し、1817(文化14)年8月からオランダ船の長崎貿易が再開された。 
日本船の難破、漂流と救助  
好むと好まざるとにかかわらず、人知を超えた数奇な運命が個人を巻き込む事件は時にある。海に出て暴風に会い、遭難漂流するのはその一つだ。地球総面積、5億1007万平方kmの内、3億6113万平方kmが海だから、地球表面の約71%が海だ。日本から渡海なしに外国に行く事は不可能だ。「逆もまた真なり」だが、この地政学的特質が、時に日本の歴史を決定ずけてきた。これが長期にわたる鎖国を成功させた一要因でもある。  
江戸期には、幕府公認の菱垣廻船や樽廻船、北国廻船などに使われた比較的大型の廻船でも時として暴風に遭い遭難した。特に秋から冬にかけて、台風や季節風の強くなる頃に難破船が多かったようだ。近年の天気予報は台風の進路をよく予測できる。南方から日本に接近し、日本列島を島なりに沿って北東に進むものが多い。これは日本列島上空を吹く偏西風、ジェット気流の影響を受けるものだろう。また黒潮も九州、四国、東海地方の沖を東に還流する。いったん舵や帆柱を損傷され流されれば、西からの季節風や黒潮に運ばれて太平洋を当てもなく漂う。幸いにカムチャッカ半島やアリューシャン列島近辺に流れ着けば、ロシア人達に助けられる可能性があった。1783年1月(天明2年12月)、船頭・大黒屋幸太夫ら17人乗組みの神昌丸が駿河沖で遭難し、同年7月頃アリューシャン列島アムチトカ島に流れ着き、ロシア人に救助され、エカテリーナ二世に謁見し、9年後の1792(寛政4)年10月、やっと根室に帰国した出来事は良く知られている。当時日本と貿易関係を築きたいロシアが、エカテリーナ二世の使節としてラクスマンを日本に派遣し、その交渉の糸口を開くため幸太夫らを送ってきたのだ。  
一方、十九世紀の前半からアメリカ商人の太平洋を渡るアジア進出が活発になり、太平洋の捕鯨も盛んになった。日米国交樹立以前に、こんな日本人遭難者のなかの幸運な人たちが、広い太平洋上でもアメリカ船に救助されたり、アメリカに漂着したりしている。地獄に仏とはまさにこのことであろう。こんな幸運な人たちは、いってみれば非公式の親善使節のようなものだが、もちろん自分達の意思で渡航したのではない。しかしその内の何人かは、図らずも日米交流史に明確な足跡を残している。  
中でも、現在のアメリカのワシントン州フラッタリー岬に漂着し、マカー・インディアンの奴隷にされ、ハドソンズ・ベイ・カンパニー西海岸交易所のマクローリン博士に救助され、ロンドン経由マカオに着き、アメリカのモリソン号で浦賀に送られて来たが大砲を打ちかけられ、帰国が叶わなかった音(乙)吉、岩吉、久吉。捕鯨船のホイットフィールド船長に助けられ、アメリカで教育を受け自分の意思で帰国し、咸臨丸の通訳として渡米したジョン・万次郎。オークランド号に救助されアメリカで教育を受け、アメリカに帰化し、アメリカの神奈川領事館通訳になり、横浜で初めての日本語新聞を発行したジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)。このような人達は日本開国の歴史に明確にかかわり、その事跡がよく知られている。 
アメリカ船に救助されたりアメリカに漂着した日本人(1805−1854)  
1806年2月:漂流。稲若丸の8人、1806年5月8日、アメリカ船テイバー号(船長、コーネリウス・ソール)に救助され、6月ハワイに上陸。アメリカ商船のアマサ・デラノ船長に乗せてもらい11月マカオ到着。支那の船でバタビア着。1807年アメリカ船マウント・バーノン号(オランダのチャーター船)で2人長崎帰着。善松1人が故郷に帰れた。  
1813年:漂流。督乗丸、尾張の船、船頭重吉他2人、1815年3月24日イギリス商船フォーレスター号(船長、ウイリアム・ピゴット)に救助される。バハ・カリフォルニア、アラスカ、カムチャッカ経由、日本に帰った。  
1832年12月:越後の船の4人、ハワイに漂着。カムチャッカ、オホーツク、択捉経由日本に帰着。  
1832年10月:漂流。宝順丸の3人、岩吉、久吉、音吉、ワシントン州フラッタリー岬に漂着(1833年12月)。マカー・インディアンの奴隷にされたがハドソンズ・ベイ・カンパニーに救助され、ロンドン経由、マカオ着。1837年モリソン号で日本に来たが大砲を打ちかけられ追い返された。  
1835年12月:漂流。肥後の船、船長庄蔵。フィリピンに流れ着きマニラ経由、マカオ着。1837年モリソン号で日本に来たが大砲を打ちかけられ追い返された。  
1839年1月:漂流。富山の北前船・長者丸の治郎吉船長と仲間7人、アメリカ捕鯨船ジェームス・ローパー号(船長、オービッド・キャスカート)に救助されハワイに滞在。8月ハワイ出発、カムチャッカ、オホーツク、アラスカ経由、1843年5月択捉到着。日本帰着。  
1840年6月:アメリカ船アージャイル号(船長、F・ゴッドマン)、3人の日本人漂流者を救助。支那に送られたがその後消息不明。  
1841年1月:漂流。アメリカ捕鯨船ジョーン・ホーランド号(船長、ホイットフィールド)が1841年6月27日、土佐の漁船の5人を鳥島で救助。ホイットフィールド船長、万次郎をフェアヘーブンで教育。万次郎は日本に帰り、徳川の士分に取り立てられる。1860年、咸臨丸の通詞としてサンフランシスコに航海。  
1841年11月:漂流。兵庫の永住丸の13人がスペイン船エンサヨ号に救助される。バハ・カリフォルニアのサン・ルーカス岬に到着後サン・ホゼに滞在。船頭善助と初太郎はアメリカ船アビゲイル・スミス号(船長、ドエイン)でマザトランからマカオに送られる。1844年1月22日長崎に帰る。アメリカ船セントルイス号でマザトランから多吉、弥一郎、伊之助の3人が、スペイン船で他の1人が支那に送られる。1855年に長崎に帰る。  
1842年:漂流。フランシス号(船長、ハッセイ)が聖徳丸の弥佐平、惣七の2人を救助。ホノルルに上陸。ハウエル号(船長、イングル)でマカオに上陸。永寿丸の初太郎とサミュエル・ウエルス・ウイリアムスの家で出遭う。弥佐平は永寿丸初太郎と長崎に帰る。  
1845年2月:漂流。幸宝丸の11人鳥島に漂着。アメリカ捕鯨船マンハッタン号(船長、マーケター・クーパー)に救出される。途中、仙寿丸の漂流者11人が2月9日救助される。マンハッタン号は浦賀で漂流者を引き渡した。  
1847年5月:アメリカ捕鯨船フランシス・ヘンリエッタ号(船長、プール)4人の漂流者を救助。1ヵ月後、海上で日本の漁船に引き渡した。  
1848年:船長、コックスが15人の漂流者を救助し、ハワイのラハイナ島に上陸させた。  
1849年1月:漂流。米国捕鯨船、漂民四人を救助し、内二人を朝鮮釜山浦に護送した。対馬府中藩主宗対馬守がこれを幕府に報じ、二人を長崎に送らせた。  
1850年2月:漂流。4月22日、捕鯨船ヘンリー・ニーランド号(船長、G・H・クラーク)紀伊国日高浦の天寿丸の13人の漂流者を救助。カムチャッカで2人がヘンリー・ニーランド号に残り、2人がアメリカ捕鯨船ニムロッド号に、2人がアメリカ捕鯨船マレンゴ号に移った。3艘のアメリカ船はホノルルまで漂流者を運んだ。漂流者はホノルルから香港、上海経由、1851年9月長崎に帰った。カムチャッカに残った7人の漂流者は、1852年6月10日ロシア船メンチコフ号でシトカを出て、8月9日(嘉永5年6月24日)下田に来たが役人から受け入れられず、リンデンバーグ船長は5日後その近くに漂流者を上陸させ支那に向った。  
1850年12月:漂流。アメリカ商船オークランド号が1851年1月22日、栄力丸の17人を救助し、サンフランシスコに入港。日本開国に利用しようと、オーリック提督の命令で支那に移送。仙太郎はペリー艦隊で横浜に来たが下船せず。後に宣教師ゴーブルと帰国。伝吉はイギリス使節と帰国。彦蔵(ジョセフ・ヒコ)はアメリカ市民になり領事館通詞として帰国。  
1852年4月:アメリカ捕鯨船アイザック・ホウランド号(船長、ウエスト)、太平洋上で三河の国・渥美郡江比間村の与市所有の永久丸で漂流する4人の日本人を救助。ホノルルに上陸。4人のうち岩吉と善吉は釜山・対馬・長崎経由で帰国。他の2人、作蔵と勇次郎はそのまま捕鯨を続け、アイザック・ホウランド号の母港・アメリカのニューベッドフォード及び香港経由、フランス捕鯨船・ナポレオンデルデ号(船長、ローベス)で安政1(1855)年12月12日に下田に帰国。  
1852年10月:越後の船・八幡丸松前沖で難破し9ヶ月漂流。1853年アメリカ商船、日本人漂流者・重太郎を救助。1854年サンフランシスコに上陸。彦蔵(ジョセフ・ヒコ)が重太郎の通訳をする。その後消息不明。  
1854年7月:アメリカ商船レディー・ピアース号(所有主、バロース)サンフランシスコに上陸していた3人のうち1人の日本人、越後国岩船郡枝久村(板貝村とも)水主・勇之助(バロースはDee-yee-noos-keeと呼ぶ。ジョセフ・ヒコによれば積荷監督人)を下田まで連れてきた。 
アメリカ捕鯨船の遭難と船員の救助  
日本でも一方、外国人の遭難者が救助され、長崎で取調べを受け、オランダ商館を通し夫々の国に送還されたケースがある。これはしかし、日本人の遭難に比べればその頻度ははるかに少なかった。  
1770年代にはアメリカ人も大西洋でマッコウ捕鯨をやっていたが、20年もたつと工業用の潤滑油やろうそく原料の需要が大幅に増え、ニュー・ベッドフォードやナンタケットを基地にした大量の捕鯨船が南太平洋に進出した。すぐ北太平洋にも進出し、数こそ多くはなかったが、中には夫婦で船に乗り込む捕鯨船長もあり、1854年5月にはそんな一隻、イライザ・F・メイソン号が箱館に来ている。それほど捕鯨に従事するアメリカ船は多く、不幸にも難破する船もあった。  
1845(弘化2)年から1850(嘉永3)年までオランダ商館長の職にあったJ.H.レフィスゾーンは、その5年間に55人の外国人遭難者を長崎奉行から受け取り、夫々の国に送還した。レフィスゾーンは長崎奉行の遭難者取調べにあたり、英語やフランス語とオランダ語の通訳をして日本側を助け、引き渡された遭難者を入港したオランダ交易船に乗せバタビヤに送った。このうち確認できる4回のケースが23人のアメリカ船の船員の帰国である。55人のうち他の27人はイギリス人との記述がある。 
日本で救助され帰国したアメリカ人(1846−1849)  
1846年6月4日(弘化3年5月11日)、ニューヨークの捕鯨船ローレンス号が千島列島で難破し、23人中の7人が択捉島ルベツに避難できた。日本側の記録では、択捉の侍番所に保護された7人はそのまま越冬のため同所に滞在し、翌年5月31日長崎に向けて出発し、8月19日に到着した。取調べが終わり、江戸からの指示を待っているあいだに1人が死亡したが、残りの6人は全ての持ち物を返却され、奉行から米を貰い、10月27日オランダ船でバタビアに送られた。  
1848年6月7日(嘉永1年5月7日)、アメリカの捕鯨船ラゴダ号で船員が虐待問題で反乱を起し、15人が3艘のボートで逃走し、松前近くの蝦夷地(現在、北海道檜山郡上ノ国町字石崎あたり)に上陸した。日本側の記録によれば、6月7日いったんは薪や食料を与えて立ち去らせたが、再度その近くの江良(現在、松前郡松前町字江良あたり)に上陸したため保護し江戸の指示を求めた。保護のあいだに3人が2回にわたって逃出し、捕らえられては牢に入れられた。長崎へ移送せよとの江戸からの指示の下、15人は長崎に送られたが、逃出して捕獲された3人は拘束状態のまま移送された。取り調べの後オランダ船を待っているあいだにも3人が2回逃走し、再度捕獲され牢に入れられ、残りの船員も監視が強化された。2人が死亡し13人になった。1849年4月26日、アメリカ軍艦プレブル号が遭難者の救出に長崎港に入り、別に保護されていたラナルド・マクドナルドと共に帰国した。  
1848年6月27日(嘉永1年5月27日)、アメリカ捕鯨船プリモス号に乗っていたラナルド・マクドナルドは、自身の冒険記によれば、船が蝦夷地(北海道)の西岸に近づくと、かねてから船長との約束どおり単独でボートに乗り捕鯨船を離れた。そして7月2日(6月2日)利尻島に遭難を装って上陸した。保護されたラナルドは、宗谷を経由して長崎に送られ、10月11日長崎に着いた。長崎奉行の調べが終わると、長崎の通詞たちがラナルドを訪ね、ラナルドは彼等に英語を教えた。1849年4月26日、アメリカ軍艦プレブル号が遭難者の救出に長崎港に入り、捕鯨船ラゴダ号の船員と共に帰国した。  
1849年7月20日(嘉永2年6月1日、松前藩の推定日)、ニュー・ベッドフォードの捕鯨船トライデント号の3人が樺太の近くの島に置き去りにされた。日本人に保護された3人は松前から長崎に送られ、8月9日に到着した。日本側には、「島に置き去りにされた」という理由はスパイの公算が強いとの文書のやり取りが記録されている。レフィスゾーンの助けで取調べが済み、10月24日、オランダ船で帰国した。 
日本に来たアメリカ情報  
アメリカの独立以前、そしてその後ペリー艦隊が浦賀に来るまでに、アメリカの情報はどのくらい日本に来ていたかという設問は調べてみる価値がある。  
「海洋国家の道を捨てた日本」の項でも書いたが、1613(慶長18)年、伊達政宗の命を受けた支倉常長が「慶長遣欧使節団」の責任者としてスペインに派遣された。一行は太平洋を渡り、メキシコに滞在した後ヨーロッパに渡った。当時、常長一行の上陸したアカプルコ辺りから北上してバハ・カリフォルニア半島をさかのぼった北部、すなわち現在のカリフォルニア州サンディエゴの地に新スペイン(現メキシコ)の兵士やフニぺロ・セラ神父がたどり着き、西海岸の領土拡大と布教活動の拠点を築いたのが1769年で、慶長遣欧使節団から156年も後のことである。1613年当時の北アメリカ西海岸の情報は、常長と一緒に日本からメキシコに帰ってきた使節・セバスチャン・ビスカイノ自身がその10年ほど前にこの西海岸を船で北上した探検情報が最新だった。一方この時点の東海岸では、一回目の失敗に続いて1607年、初めてのイギリス植民地がジェームスタウンに出来たばかりだから、北アメリカの内陸は漠とした不明の大陸だった。  
江戸時代に長崎の商人であり学者でもあった西川如見(1648−1724)は天文学にも通じた、天文人文学者である。如見は1708(宝永5)年、オランダ情報を基に『増補華夷通商考』を出版した。この宝永6(1709)年版の巻三に一種の世界地図「地球万国一覧之図」が載っている。中に、日本から太平洋を隔てた東に「北亜墨利加ノ諸国」、「カリフルニヤ」、「モシコ(メキシコ)」、「ペルウ」、「ハラジイル(ブラジル)」、「南亜墨利加ノ諸国」などが記載されている。もちろん当時、アメリカ合衆国などは存在していないから、カリフルニヤやモシコ(メキシコ)などの地名がオランダ経由で伝わったのだ。  
新井白石(1657−1725)が1713(正徳3)年に著わした『采覧異言』にはより詳しく、「ノオルト・アメリカ、北亜墨利加」として各地域の記述がある。『采覧異言』はいわゆる正規刊行本ではないが、白石は幕府に献上されたオランダのウィレム・ヤンツーン・ブローの地図を参照した。「南はマルデルスル、海名、に至る。ソイデ(南)・アメリカを與う。彊(きょう)界相接す。北はグルンランド(グリーンランド)に聯(つらな)る。東はヲセヤヌス。デウカレドヲニウス、海名、に至る。西界は極る所、其を知らず」と書いて、(ブローの)図説によれば南北アメリカは完全に海に囲まれ、細い陸地でつながっている。(ブローの)西図によれば地理学的形状は勢いよく変化に富む。この図では東部と南部が明確なだけである。北部はグリーンランドにつながるように描かれている。西部については、北緯28度以北、あるいは其未蝋(キビラ、Quivira)と呼ばれる地は、その極まる所は不明であると記述している。この北緯28度線はバハ・カリフォルニア半島の中間地点を通るが、新スペインでさえも領土拡張の意図を持って北緯32度43分にあるサンディエゴに進出したのがやっと1769年のことだ。この当時、北アメリカ大陸の中部から北部の西海岸は全く未知の大陸だった 。  
これに関し少し横道にそれるが、明治の初めになって、1700年代のそんな地図(地球儀)を見て来た日本人がいる。明治4(1871)年暮れに日本を出発し、1年9ヶ月かけてアメリカとヨーロッパを回ってきた米欧特命全権大使・岩倉具視はじめ木戸、大久保、伊藤、山口等の一行だ。その記録係を命じられ、「特命全権大使米欧回覧実記」をまとめた久米邦武(くにたけ)の実記の記述に次のように出てくる。カリフォルニアについて「仏国パリの書庫に、1700年代の地球儀あり。太平海あたりの州土は訛謬(かびゅう=過謬=過誤)甚だしく、この州をオーストラリア州を見る如く、北米の西において大なる一島に描きたり」。右に載せた1660年のデ・ウィット地図も全くそんな感じに見える。  
1792(寛政4)年、絵師で蘭学者の司馬江漢(1747−1818)が銅版画で與地全図を発行した。これを見ても、現在のメキシコ湾沿いのメキシコ沿岸、キューバ、テキサス州、アラバマ州、フロリダ州から東海岸のマサチユーセッツ州、メイン州、カナダのノバスコシアまで比較的詳細に記してあるが、西海岸北部はバハ・カリフォルニア半島から精々サンフランシスコの手前辺りまでだ。それ以北についてはやっと1774年、スペイン国王の命により本格的な西海岸北部の探検が行われ、バハ・カリフォルニア半島からフアン・ペレツが派遣された。当時ペレツはバンクーバー島辺りには来ている。1778年にはイギリスのジェームス・クックも探検に来てバンクーバー島に上陸し、ブリティッシ・コロンビア沿岸をベーリンク海峡まで測量した。一方、1776年7月4日にはアメリカで独立が宣言され、やっとアメリカ合衆国が姿を現した。しかしこんな地理的・国政的情報は、司馬江漢の当時まだ日本には届いていなかった。  
諸外国の活動が活発になり、日本との非公式な接触が増すにつれ、『オランダ風説書』が幕府の世界情勢把握の主たる情報源になった。1641(寛永18)年から幕府の要請で始まった風説書は、1842(天保13)年からの『別段風説書』も加えられ、鎖国が続行するに連れて世界情勢を知る重要な窓口だった。また支那からの『唐船風説書』も出された。このような情報入手のルートが確立していた事は、重要で有意義な手だてだった。しかし、すでに多くの歴史家が指摘している通り、問題はその情報を得た後に、時の幕閣たちがどう生かそうとしたのかが、その後の日本の運命を決めている。  
アメリカの独立戦争と合衆国の建国については、1809(文化6)年、オランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフにより伝えられたが、独立の33、4年も後のことだ。その後こんないくつかのオランダからの風説書や別段風説書には、アメリカ・メキシコ戦争、カリフォルニアのゴールドラッシュ、アメリカの日本との通商の期待、日本遠征の企画、ペリー遠征艦隊の香港への集結などを率直に伝えている。  
またペリー艦隊が浦賀に姿を現す前に、琉球から小笠原諸島に航海し貯炭場を確保した後、再び那覇に集結し日本に向った。琉球から薩摩にこのペリー艦隊が最終的には日本に行くとの情報が入り、当時の藩主・島津斉彬は嘉永6(1853)年6月1日、アメリカ軍艦が4月19日以来琉球の那覇に集結している事態を幕府に報告している。この報告の2日後にペリー艦隊が浦賀に姿を現したのだ。斉彬はこの琉球からのペリー艦隊日本遠征情報に接した時は江戸から帰国の途中だったが、江戸詰め家老に幕府への届けを命じると共に、ペリー艦隊がもし6月初旬に浦賀に来て内海に乗り込み武力行使になりそうな場合でも、薩摩藩から先に手出しはするなとも命じている。 
アメリカ政府の日本開国へ向けた公式なアプローチ  
アメリカ国内では、日本との非公式な接触を通し、正式な通商関係を持つべきだとの機運が貿易業界に高まり、アメリカ政府もその対策にのりだした。ペリー提督の日本遠征以前に、日本へ向けた公式な使節の派遣が複数回試みられた。アメリカ政府は支那、コーチン・チャイナ(インドシナ南部地域)、シャム、マスカット(アラビア半島東端)などとの条約交渉を始めていたから、その一環として日本との通商条約締結交渉が計画され指令された。しかし下の表中に説明の通り、使節の死亡や指令書交付の遅れなどのため、アメリカ政府の日本へ向けた初期の通商条約締結計画はその意に反し破綻した。  
1846(弘化3)年、浦賀にやって来た東インド艦隊司令官ビドル提督も、その指令書の内容により、いわゆる「微笑外交」となり、鎖国中の幕府からは通商を拒否された。この時、アメリカ政府の日本へ向けた使節派遣の動機は商業活動の拡大が唯一のものだったから、ビドルが大砲を満載した二艘の軍艦を引き連れては来たが武力を誇示さえもしなかった。後に問題となる人道的、国際公法的な視点はまだなかったわけだ。次章に述べるペリー提督の派遣に当たってアメリカ政府は、商業活動の拡大を推し進め開国を迫るため、問題になり始めた人道的、国際公法的理由を前面に押し出したから、同じ黒船で来てもビドル提督とペリー提督の交渉姿勢は大きく違っている。  
しかし一つ指摘しておきたい事は、次に書くペリー提督の日本派遣も含め、当時アメリカ政府のこれら使節派遣には、イギリスやフランスと異なり、通商で優位に立とうとはしても植民地獲得の意図はなかったことだ。 
ペリー提督以前にアメリカ政府が日本に派遣した使節たち  
ペリー提督が日本に向け派遣される以前から、アメリカ政府はアジア諸国に向け条約締結の使節を派遣し、日本もその対象国の一つだった。日本に向かった使節は、次のような顔ぶれだ。  
•1832(天保3)年アメリカ政府は、エドモンド・ロバーツ(ニューハンプシャー州ポーツマスの豪商)に支那、コーチン・チャイナ、シャム、マスカットなどの条約交渉に続いて日本との条約交渉を命じ信任状も与えていたが、ロバーツは日本には足を向けなかった。詳細な理由は不明だが、アジアの国々は基本的に通商に乗り気ではなかったから、軍艦・ピーコック号の帰国期限も迫り、将軍に対する贈答品の購買資金も不足気味で、時間的かつ予算的制約のための優先順位決定だったのだろう。しかし、ロバーツはシャム及びマスカットと和親條約を結んでいる。  
•1835(天保6)年アメリカ政府は、ロバーツのシャムやマスカットへ批准書を届ける二回目の派遣でも、日本との交渉を命じた。政府は日本へ向けロバーツが持参すべきアンドゥルー・ジャクソン大統領の親書と金時計や剣、ライフルやピストル、その他多くの贈り物を準備したが、1836年、シャムで批准書を交換しマカオに到着したロバーツの突然の死によって、日本行きは不可能となった。しかしこの時期の日本は、文政8(1825)年に出された異国船打払令が天保13(1842)年まで有効だったから、ロバーツが例え長崎に来ても交渉は困難だっただろう。  
•1844年、ジョーン・タイラー大統領の任命によりアメリカと支那との最初の条約を交渉した全権公使ケーレブ・カッシングは、支那に滞在中日本との条約交渉の重要性を認め、政府に日本との条約交渉を提案した。ジェームス・ポーク新大統領は直ちにカッシングに全権を与え日本行きを命じたが、その命令書はカッシングの帰国と行き違いになった。当時アメリカの下院議会では、「アメリカと日本や朝鮮との間に通商条約を結ぶべきだ」との決議がなされるほど、一部の熱心な議員も出始めていた。後任の支那への公使・アレクザンダー・エヴェレットは、赴任途中のリオ・デ・ジャネイロで病気になり、日本との交渉権限を東インド艦隊司令官・ジェームス・ビドル提督に委譲した。  
•1846(弘化3)年7月20日、コロンブス号とヴィンセンス号で日本に来たビドル提督は浦賀に碇を下ろした。ビドルに宛てたバンクロフト海軍長官からの指令書は、日本が開国をし通商条約を結ぶ意思があるか否かを穏やかに聞けというものだったが、幕府からは拒否の返事が返ってきた。ビドルもこれを受け入れ、7月29日おとなしく帰国の途に着いた。  
•アメリカ政府は、ビドル提督の日本からの帰国以前に、病気で遅れて支那に赴任したエヴェレットに対し再度の日本行きを命じたが、更なる病気の悪化により果たせなかった。  
このように、何れの使節派遣も成功しなかったが、ビドル提督のようにアメリカ海軍将官は、ヨーロッパ以外の遠隔地で外交官の役割も担うのが伝統であり、アメリカの合理主義的行動の典型的な一例だ。 
2、和親条約と開国

 

ペリー提督の派遣  
アメリカ政府の試み  
アメリカ政府がペリー提督を日本に派遣する前に、ペリー提督とは少し異なる意図を持った日本開国へ向けた使節の派遣、すなわちエドモンド・ロバーツによる1832年と1835年の試み、そしてケーレブ・カッシングによる1844年の試みなど、通商拡大のみを目指した開国使節派遣については前章の最後に書いた。特にその後を受けて、支那へのアメリカ公使、アレクザンダー・エヴェレットの要請で1846(弘化3)年7月20日浦賀に来たビドル提督は、浦賀奉行を通じ江戸幕府に日本の開国意志を問い合わせた。鎖国を続ける幕府は、その意志のないことをはっきりビドル提督に伝えた。  
しかし1849(嘉永2)年になると、それまでの単なる通商拡大に向けた日本開国の期待だけでなく、日本における遭難したアメリカ捕鯨船乗組員に対する虐待が大きな人道的問題として急浮上した。具体的には前章、「1、日米国交樹立以前」の後半に載せた、日本で救助されたアメリカ人の表の中のローレンス号とラゴダ号の事件である。ラゴダ号船員が蝦夷地で日本側に保護され長崎に送られると、この情報が長崎のオランダ商館から広東のオランダ領事を経由しアメリカ領事館に伝えられた。アメリカ政府は早速軍艦・プレブル号を長崎に派遣し、保護された遭難船員を救助させた。その中の数人が日本の蝦夷地や長崎への移送途中、あるいは長崎で保護中に逃亡を図り、幕府に厳しく身柄を拘束されていたから、これが「虐待問題」として伝えられたのだ。  
アメリカ議会は1850年にこの「日本の虐待」を取り上げ、国務長官もその実態を議会に報告している。また民間人のエアロン・H・パーマー(AaronH.Palmer)も数次に渡り米国政府に、日本を始めアジア諸国への政府特使派遣を建策したが、議会は云うに及ばず民間からの人道問題解決と通商拡大の要求は、アメリカ政府の緊急課題になった。この民間人のエアロン・パーマーは、1851年1月に直接フィルモア大統領にも書簡を送り、特に日本に向けた使節派遣を建言している。  
あわせて、国を超えた通商はヨーロッパ先進諸国の常識になり、技術革新による蒸気船の使用や電気通信も急速に普及し始めた。更にアメリカ西海岸のサンフランシスコから支那へ向かう蒸気船の定期運航も視野に入り始めたから、この定期航路に近い日本に石炭補給基地があれば好都合であり、日本との通商にも期待がかかった。このように人道的問題をも抱合した通商拡大の期待から、日本遠征計画は民間人や業界人はもちろん、政府与党や野党からも支持を受け、蒸気軍艦を複数含む大艦隊を日本に派遣し、武力誇示を主要作戦にした日本開国要求をアメリカ政府に決断させるに至った。  
これは、アメリカ政府が日本開国と通商を期待し、初めてロバーツ特使を任命してから約20年後のことである。この間に技術革新が更に進み、アメリカ経済は繁栄し、海軍に多くの蒸気軍艦が建造され、その機動力は過去に例を見ないほど強力なものになっていた。  
ペリー提督の任命  
1851年5月、アメリカ政府は最初にオーリック提督に全権を委譲し、蒸気軍艦を引き連れた東インド艦隊の日本派遣を命令した。これはすでにオーリック提督が東インド艦隊司令官に任命され、オーリック提督自身からも日本開国交渉の提案があったためだが、しかし国務長官はオーリックの指揮に関する問題でオーリックをすぐに更迭し、1852年2月、全権を委譲し日本開国交渉へ向けた新たな命令がペリー提督に出された。  
ペリーは任命される以前に自ら独自に、日本における遭難船員の取り扱いや、アメリカ捕鯨船の北太平洋での活動を細かく調査し、日本に関するヨーロッパの出版物をも多く読んで万全な準備をし、1851年1月には日本遠征につき独自の基本計画もグレイアム海軍長官に提出していた。ペリーは、遭難した捕鯨船乗組員の正当な救助や保護、船舶の補給基地の整備など、先進諸国ではすでに常識であった国際公法の観点から見た問題解決と、アメリカのアジアにおける通商拡大とに強い問題意識を持っていたのだ。更にペリーが任命されるとき、その条件としてペリーから海軍長官に提出された、東インド艦隊の大幅増強提案が受理され、蒸気軍艦や帆走軍艦など多くの軍艦が東インド艦隊に割り当てられたが、複数の蒸気軍艦を日本に引き連れて行く事はペリーの考えた作戦の骨子をなすものだった。  
このように単なる自国の通商拡大ばかりでなく、人道的問題を含み、当時のヨーロッパやアメリカでは常識になっていた国際公法的な見地から、日本における薪水食料の供給や遭難者の救助、更に定期航路船舶への石炭供給基地確保をも含んだ開国要求が、アメリカ政府の日本遠征の主要目的になっていった。上述の如く、議会でも議論され、貿易業界はじめ民間からも建策が出されるほど注目が集まれば、政府として当然この対策を立てる義務が生じる。当時、国際公法は主として習慣法で、人道主義や倫理観から、国籍に関係なく、困難に直面した船やその乗組員は手厚く保護されるべきだとの考えである。 
ペリー提督に与えたアメリカ政府の遠征目的  
1.日本の島々で難破したり、荒天によってその港に入らざるを得なかったアメリカ人船員とその持ち物は保護されるよう、恒久的な有効処置を取ること。  
2.食料、水、薪などの補給をするため、あるいは災難にあっても航海を続ける上で必要な修理をするため、アメリカ船舶が複数の港に入港できるよう許可を得ること。石炭の補給基地を建設する許可が得られれば非常に好ましい。若し本土に建設できなければ、少なくとも、幾つか有ると聞く近辺の小さい無人の島でも良い。  
3.アメリカ船が積荷を処分するため複数の港に入港し、それを売ったりバーター取引できる許可を得ること。  
アメリカ政府からオランダ政府への頼みごと  
アメリカ政府は1852年2月全権使節としてペリー提督の日本派遣を決めると、オランダのヘーグに駐在するアメリカ代理公使・フォルソムを通じた1852年7月2日付けの書簡で、アメリカから日本に向けた通商交渉使節の派遣とその平和的な目的を、オランダ政府が日本に通告してくれるよう依頼した。  
ほとんど同時期にオランダ政府は、オランダ領東インド総督・バン・トゥイストがオランダ国王・ウィレム三世の言葉を筆記したという名目の1852(嘉永5)年6月25日付けの書簡で、長崎へ赴任する新商館長・ドンケル・クルチウスに命じ、幕府に、オランダ政府が収集したアメリカの日本遠征計画を伝えさせた。この情報は、オランダのアメリカ駐在公使・テスタ男爵が、以前から政府に、アジアに向けたアメリカ使節派遣を熱心に提唱しているエアロン・パーマーから得た情報によるところも大きいように見える。同時に、この日本向けアメリカ使節派遣に対処するオランダの推奨案として、オランダ国王の許可のもと、かって出島の医師だったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの私案を基にしたといわれる、「長崎港での通商を許し、長崎へ駐在公使を受け入れ、商館建築を許す。外国人との交易は江戸、京、大坂、堺、長崎、五ヶ所の商人に限る」など合計十項目にわたる、いわゆる通商条約素案をも示した。これらはオランダ政府が細心の注意を払って準備したものだが、老中首座・阿部伊勢守の命により長崎で翻訳され、江戸に急送され、嘉永5年9月(1852年10月、ペリー初回来航の約9ヶ月前)には幕閣に届いた。  
オランダの新商館長・ドンケル・クルチウスは、このオランダ領東インド総督・バン・トゥイストの書簡とは別に、恒例となっている嘉永5年の『別段風説書』をも提出し、アメリカ政府は国書と共に交渉使節を日本に派遣し、日本漂流民を送還しながら、開港、石炭貯蓄場所提供を要求するようだと、アメリカの日本遠征情報をも伝えた。また船将・オーリックは使節の任を船将・ペリーに譲り、蒸気軍艦・サスケハナ号、サラトガ号、プリモス号、セント・マリーズ号、バンダリア号等が使節を江戸に送る予定で、更に蒸気軍艦・ミシシッピー号、プリンストン号、ペリー号(筆者注:対英戦争・エリー湖の戦いの英雄で、ペリー提督の実兄のオリバー・ペリーから命名された船名)、サプライ号などの軍艦もこれに加わる予定だという。これらの軍艦は海兵隊をも乗船させて上陸戦の用意もしているが、出航は4月下旬以降になろうと言われているとも伝えた。  
しかし上述の、アメリカ政府がヘーグ駐在のアメリカ代理公使・フォルソムを通じ日本に伝えて欲しいとオランダ政府に依頼した、日本に向けた通商交渉使節の派遣とその平和的な目的は、オランダの新商館長・ドンケル・クルチウスが日本に向けジャワを出発した後にオランダ総督・バン・トゥイストの手元に届いたので、日本には届いていない。バン・トゥイストはこの旨を記した1852年9月22日付け書簡をペリー提督に送り、ペリーは日本行きの前にこれを広東で受け取っている。  
フィルモア大統領の国家プロジェクト  
ペリー艦隊の日本遠征プログラムの発足に合わせ、アメリカ政府は更に、日本遠征にかかわる基本戦略を明確にし、ペリー提督にはかってないほど詳細な遠征指令書を作成して与えた。過去の日本に向けた使節派遣には見られない、多くの用意周到な新機軸があり、まさに国家プロジェクトであった。フィルモア大統領も議会で演説し、この日本遠征目的と方針を明らかにした。  
捕鯨業界や貿易業界も、与野党も、多くの国民もこのプロジェクトを歓迎し、1853年にはエド・ローブマンにより遠征を歓迎する「日本遠征ポルカ」まで作曲されている。こんな風に、いかにもアメリカ的な陽気さも漂うペリー艦隊の日本遠征が始まった。  
ペリーは全ての面において、この政府から与えられた遠征指令書に忠実に従った。従来ややもすれば、日本にはペリー個人の勝手気ままな尊大さや頑固さに翻弄された印象がある。しかしペリーは、与えられた権限の中でペリー自身の基本作戦を立て、各地から本国の海軍長官と、当時できた最善の方法で頻繁に情報交換をしていた。これは、遠征終了後の1855年1月30日付けで上院宛に提出された、ピアース大統領の報告書に詳しい。またペリーは、常にこの指令書通りに遂行すべく、状況に応じ選択できる複数の選択肢を準備する努力も惰らなかった。勿論その中には、ペリー流のデモンストレーションや威圧など多くの工夫がある。 
ペリー提督に与えた遠征指令書要旨  
1.艦隊の全軍事力を持って日本の適切な地に赴き、皇帝と面接し国書を手渡すこと。  
2.遭難したアメリカ人は慈悲を持って扱わせること。  
3.拡大した二国間通商の準備を整えること。  
4.鎖国の緩和や遭難者の人道的な取り扱いが拒否された場合、アメリカは日本の非人道的な待遇に懲罰を以って臨むべく明言すること。  
5.合意事項は条約にまとめること。  
6.今回の遠征は平和目的であり、戦争はしないこと。  
7.艦隊の自衛や個人に向けた暴力の排除に限って武力行使を認めること。  
8.寛容さを基本姿勢にするが、提督自身やアメリカの威信は守ること。  
9.友好的遠征目的を日本に理解させること。  
10.ペリー提督に適切な自由裁量権を与えること。  
11.測量により海図を強化すること。  
12.地誌を調べ、物産のサンプルを入手すること。 
和親条約交渉と締結  
国書の授受  
当時のアメリカ海軍の蒸気軍艦建造は、最新技術や新しい試みを次々に取り入れたから、いつも結果がよいとは限らなかった。東インド艦隊に配属された数艘の蒸気軍艦は、故障が多くアジア水域に向け航海できないものもあった。予定した蒸気軍艦がそろわずペリー提督の出発が遅れ、待ちきれなくなったペリーは1852年11月24日、単独で蒸気軍艦・ミシシッピー号に乗りノーフォーク軍港を出発した。ミシシッピー号は東回りで大西洋を南下し、喜望峰を回り、インド洋に出て香港基地に向った。残りの蒸気軍艦は修理が整い次第、ペリー提督の後を追う予定になった。  
こんな背景から、香港に着いても予定された十分な軍艦が手元にないペリーは、これ以上の遅延は許されない日本遠征の最終補給のため、上海への艦隊集合を命じた。しかし支那の内戦で太平天国軍は、南京に首都を移し何時でも上海を窺う位置にあり、主戦力は北上して北京陥落・占領を目指している時期だった。アメリカは支那の内戦には中立を保ち、同じキリスト教徒として太平天国軍は数人のアメリカ人宣教師たちと友好関係にあっても、ペリーは上海のアメリカ商人達から、「保護のための軍艦が必要」と強く懇請される二重苦に遭遇した。このためペリーは更に軍艦をやりくりせざるをざるを得なくなったが、主任務の日本遠征と上海での自国民保護のバランスを取りながら1853年7月、2艘の蒸気軍艦と2艘の帆走軍艦を伴って琉球経由で浦賀に到着した。  
いよいよ4隻のアメリカ軍艦・黒船が嘉永6(1853)年6月3日に浦賀に入って来ると、現地からの緊急通報を受けた幕閣は浦賀奉行に、  
今回浦賀に来た異国船については、平常より一層厳重に警戒し、取締りを入念にし、軽率な行動をとらぬように。海防の四藩にはその旨伝えたから良く相談し、対処方法は任せるから、国体を失せぬようにし、出来るだけ穏便に出航させるように。  
との指示を出した。  
幕閣には前述のごとく前年・嘉永5年の別段風説書の、「これらの軍艦は上陸戦の用意もしている」というオランダ情報があったから、名誉を保てる範囲で出来るだけ穏便に扱い、早く退去させたかったのだ。また、アメリカ使節は蒸気軍艦により日本遠征をすることや、艦隊司令官としてペリー提督の名前も記されていた。更に「1、日米国交樹立以前−日本に来たアメリカ情報」でも書いたように、ペリー艦隊の琉球集結と日本への遠征は薩摩藩からも幕府に情報提供があったほどだが、しかし幕府はほとんど情報公開をしなかったから、一般の日本人にとって、突然現れた4艘のペリー艦隊・黒船の浦賀来航は青天の霹靂だった。  
日本の皇帝か政府高官に直接国書を渡したいと言い張るペリー提督の態度に、長期交渉になったり不測の事態が出現したりして国内の混乱を心配する日本側は、とにかくアメリカの国書だけは受け取る意思をペリーに伝えた。そこでペリーは、日本側の勧める浦賀から峠を越した西側にある久里浜に上陸し、日本代表の浦賀奉行・戸田伊豆守と井戸石見守とがペリーに会い、アメリカ大統領の国書授受を行った。この時ペリー提督は、100人の海兵隊、100人の海軍水兵、そして多くの艦隊士官や2組の軍楽隊など、総勢300人ほどの人員を上陸させている。  
国書授受の席でペリーは、アメリカ大統領から日本皇帝に宛てた国書、ペリー提督を使節に任じた大統領の信任状、ペリー自身が日本皇帝に宛てた「ここに国書をお届けする」と述べた手紙と共に、「この国書の返事を受け取りに、来年の春、再びこの江戸湾に来る」と記した書簡を提出した。今から9ヶ月以内にはまた来航すると、日本側が国書への返事を用意する時間を与えたのだ。  
4艘のアメリカの黒船(初回遠征時)  
 船名/種類/大砲/建造/定員/積載トン  
1.サスケハナ号(旗艦)/側輪蒸気軍艦/9/1850年/300人/2450  
2.ミシシッピー号/側輪蒸気軍艦/12//1841年/268人/1692  
3.プリマス号/帆走軍艦/22/1844年/210人/989  
4.サラトガ号/帆走軍艦/22/1843年/210人/882  
国書受取前後の幕府の対応策  
態度を決めかねていた幕府は、上述の如くついに久里浜でペリー提督と会見し、アメリカ大統領からの国書を受け取った。久里浜でアメリカの国書を受け取った浦賀奉行・戸田伊豆守は、ペリー艦隊がやって来る3年半も前の嘉永2(1850)年12月、老中首座・阿部伊勢守の諮問に答え、江戸湾入口の浦賀近辺の防衛線は全く手薄で、軍船が来れば湾内に入られてしまうと、大幅な防衛強化策を建議していた。しかしこんな建議も充分に実現せず、戸田伊豆守の強い懸念が現実となってしまったのだ。  
幕閣は国書授受が済むとペリー来航を朝廷に上奏し、両山(日光輪王寺と芝増上寺)に世上静謐(せいひつ)の祈祷を命じ、アメリカの国書を諸大名や幕臣に示して建白を許し、江戸近辺の内海に砲台を築き、大船建造の禁を解き、洋式火技奨励の布達を出す等、下記の如くいくつかの対応策を取った。 
嘉永6(1853年)年の幕府の対応  
嘉永6年6月6日:ペリーが国書受取を迫り、測量ボートと蒸気軍艦・ミシシッピー号を江戸湾内部にまで乗入れて測量をした。これに驚いた幕閣は夜中に急遽登城して協議し、アメリカ国書の受取を決めた  
嘉永6年6月9日:久里浜でペリーと会見した戸田伊豆守がアメリカの国書を受け取る  
嘉永6年6月15日:幕府、ペリー来航を朝廷に上奏する  
嘉永6年6月18日:若年寄・本多越中守に武蔵・相模・安房・上総海岸の巡視を命じ、勘定奉行・川路聖謨、目付・戸川安鎮、韮山代官・江川太郎左衛門が随行する  
嘉永6年6月:両山(=日光輪王寺と芝増上寺)に世上静謐(せいひつ)の祈祷を命ずる  
嘉永6年7月1日:アメリカ国書を諸大名、幕臣に示し建白を許す  
嘉永6年7月3日:老中・阿部伊勢守は、隠居している前水戸藩主・徳川斉昭を海防審議に参加させるべく隔日の登城を求める(斉昭はこれを受け入れ、以降、開港拒否、通商拒否の強硬姿勢を崩さない。ペリーの直後、通商を求め長崎に来たロシア使節・プチャーチンの要請について、ロシア使節応接掛・筒井政憲と川路聖謨の和親の必要性上申にも反対し、10月2日、和交の不可を幕府に建議した)  
嘉永6年7月12日:幕府の京都所司代・脇坂安宅、参内してアメリカの国書の訳文を朝廷に奏進する  
嘉永6年7月22日:江川太郎左衛門等に内海台場築造と大砲の鋳造を命ずる  
嘉永6年8月6日:洋式砲術家・高島秋帆を赦免し、江川太郎左衛門の配下とする  
嘉永6年8月15日:台車付き鉄製36ポンド砲25門、24ポンド砲25門の鋳造を佐賀藩に要請する(嘉永4年に反射炉を築造し、翌年新鋳大砲試射に成功していた佐賀藩主・鍋島肥前守は、この年11月、火術局及製煉局を設置し、鋳砲・製艦に具えた)  
嘉永6年8月16日:浦賀奉行・戸田伊豆守と井戸石見守が浦賀での軍艦建造を幕府に請い、後日許可される(安政1年5月4日、洋型軍船鳳凰丸竣工)  
嘉永6年9月:万石以下の旗本や家人へ拝借金及び下賜金を与える  
嘉永6年9月15日:大船建造の禁を解く  
嘉永6年9月21日:洋式火技奨励の布達を出す  
嘉永6年9月:幕府、長崎奉行・大沢定宅に命じ、オランダカピタン・クルチウスに軍艦、鉄砲、兵書を発注する  
嘉永6年11月13日:老中・阿部伊勢守、若年寄・遠藤但馬守など品川台場を巡見し大砲試射を検閲する  
嘉永6年12月:同年7月の江川の反射炉建設の申し立てが允許され、韮山に反射炉を建設する  
特に、老中首座・阿部伊勢守はアメリカの国書を翻訳させ、広く諸大名に示し対策の建言を許した。このように幕閣で直ちに決裁せず、広く建白を許す事はかってなかった。幕府自ら詳しく朝廷に上奏したり広く諸大名の意見を聞く事は新しいやり方であり、挙国一致を期待したものであろうが、阿部伊勢守はじめ幕閣の持った危機感の大きさが分かる。しかし現実に事件が起こった後では、国難に当たって混乱を増殖する皮肉な結果を招く事にもなってゆく。  
嘉永六丑年七月朔日、伊勢守演達  
このたび浦賀表へ渡来のアメリカ船より差出し候書翰の和解二冊、相達し候。このたびの義は国家の一大事にこれあり、まことに容易ならざる筋に候間、右書翰の主意、得と熟覧を遂げられ、銘々存じ寄りの品もこれあり候はば、たとひ忌諱(きき=嫌ったり機嫌を損ねる事)に触れ候ても苦しからず候間、いささか心底相残らず申し聞けらるべく候。  
このたび亜墨利加船持参の書翰、浦賀において受取り候義は、全く一時の権道(ごんどう=目的達成のための臨機応変の処置)にこれあり候間、右に相拘らず、存じ寄りの趣、申し聞けらるべく候。  
和親条約交渉と調印  
国書を渡した後、来年の春にまたこの返事を貰いに来ると言い残し、ペリー艦隊はいったん香港基地に帰った。しかし自信に満ちたペリー提督の心の中に、いくつもの不安があった事も事実だ。日本はアメリカの国書を受け取りはしたが、その対応が全くわからない。最悪の場合は友好の確立も出来ず何の条約さえも結べないかも知れないが、この対策をどうするかだ。また、ロシアやフランス海軍の隠密行動に日本行きの兆候もあった。イギリス海軍も日本に行く事は明らかだ。これらの国々に先を越される危険性を危惧したペリー提督は、早めの日本行きを再度決断し、翌1854年2月13日(嘉永7年1月16日)、更に蒸気軍艦や帆走軍艦、補給船を加えた大艦隊で再来航し、こんどは浦賀を通り越し、江戸湾深く小柴沖にまで入って停泊した。  
これは江戸に向う気迫を見せ、初回より更に規模が大きく最先端を行く海軍力を誇示し、日本に畏怖の念を起させ条約締結交渉を有利に導くペリーの基本作戦だった。蒸気軍艦や炸裂弾砲など近代的軍事力の威力を熟知しているペリーは、全ての大砲や蒸気軍艦の中を隅々まで日本側に見せ、充分にその威力を理解させ、交渉のテコに使ったのだ。これは、ペリーがグレイアム海軍長官に提出していた上述の日本遠征基本計画書にある通りのやり方である。当初東インド艦隊所属としてペリー提督に与えられた2隻のスクリュー推進の蒸気軍艦・プリンストン・II号とアレゲニー号は、ボイラー故障や能力不足で日本に来ることができなかったが、ぺりーは側輪もなくスルスルと動く軍艦を日本人に見せたかったに違いない。 
再来航のアメリカ艦隊  
 船名/種類/大砲/建造/定員/積載トン  
1.サスケハナ号(旗艦)、(1854年2月13日江戸湾小柴沖着)/側輪蒸気軍艦/9/1850年/300人/2450  
2.ポーハタン号(江戸湾で旗艦に変更)、(1854年2月13日江戸湾小柴沖着)/側輪蒸気軍艦/9/1852年/300人/2415  
3.ミシシッピー号、(1854年2月13日江戸湾小柴沖着)/側輪蒸気軍艦/12/1841年/268人/1692  
4.マセドニアン号、(1854年2月13日江戸湾小柴沖着)/帆走軍艦/22/1832年/380人/1726  
5.サラトガ号、(1854年3月4日江戸湾着)/帆走軍艦/22/1843年/210人/882  
6.バンダリア号、(1854年2月13日江戸湾小柴沖着)/帆走軍艦/24/1828年/190人/770  
7.サウザンプトン号、(1854年2月13日江戸湾小柴沖着)/帆走武装補給艦/2/1845年/45人/567  
8.レキシントン号、(1854年2月13日江戸湾小柴沖着)/帆走武装補給艦/2/1826年/45人/691  
9.サプライ号、(1854年3月15日江戸湾着)/帆走武装補給艦/4/1846年/37人/547  
一方の日本側では、再度の日本行きのためペリー艦隊の最終集結基地とした琉球の那覇港に、補給船で石炭を運んだりと準備に余念の無いペリー艦隊の行動が、嘉永6年10月薩摩藩から幕府に報告された。いよいよ国書の返事を受け取りにやって来そうなペリー提督の行動を知った老中首座・阿部伊勢守は、11月1日付けの命令書「老中達し」を出し、「(諮問に対する)諸藩からの建議は詰まるところ和戦の二字だった。再来航時、当方は平穏を旨とするが、最悪時は戦の覚悟を持て」と各藩に命じ、また12月9日、評議所や海防掛け等にその節の手続きを評議させた。  
阿部はまた翌年1月11日付けで、幕府の交渉担当者としての林大学頭、井戸対馬守、鵜殿民部少輔、松崎満太郎の四名を任命し、その準備を命じた。これはペリー艦隊が江戸湾に入ってくる5日前のことだ。  
大艦隊で江戸湾深く小柴沖にまで入って停泊したペリー提督は、こうして浦賀に会見のための応接所を建て待っていた日本側全権、林大学頭のたびかさなる浦賀への艦隊引き戻し交渉にも応じなかった。日本側は12日間にも渡りペリー艦隊の浦賀引き戻しを交渉したが、その間にもペリーは前回同様、熱心に沿岸測量を進め羽田沖あたりまで測量が進んだ。まさに大艦隊を直接江戸に向けそうなペリーの作戦に林大学頭はたまらず、ついに譲歩の姿勢を打ち出し、交渉地を横浜に合意した。浦賀での交渉に固執しすぎてこの大艦隊に江戸に向われては、大混乱になり、その結果はおのずと明らかだ。これも、ペリーが用いた交渉の主導権を握る方策の一つだった。  
日本とアメリカの交渉は、嘉永7(1854)年2月10日、急いで横浜に新しく建てられた応接所で始まった。この応接所を建てた場所は、現在の神奈川県庁の付近である。  
日本側の交渉全権・林大学頭は、幕議で決した通り最初から、通商条約は結べないが、アメリカ国書要求の通り遭難者の親切な取り扱いや薪水食料、石炭などの補給は行うことを明言した。開港場もアメリカ大統領の要求した1港ではなく、ペリーの要求を入れた2港まで開き、下田と箱館とに合意した。下田における外国人の自由徘徊区域の範囲は下田港中心より半径7里と決まり、米国官吏の下田駐在も決まった。ここで合計12条に渡る日米和親条約(日本文)(英文)は3月3日に調印された。  
ペリー提督は人道的な問題を前面に押し出して交渉したから、その主旨は日本側にも良く分り、大きな問題もなく受け入れている。むしろ自由徘徊区域というような、異国人と日本人との安易な交流の方が問題点になった。しかしペリーは、通商条約締結の先延ばしには合意したが、米国官吏の日本駐在という形で通商條約締結に向けた足がかりを組み込む事に手ぬかりは無かった。この第11条の米国官吏の下田駐在は大きな議論になった形跡はなく、日本側は先延ばしにした安心感からか、その本質と影響力を見抜くことができなかったようだ。しかしこの条項こそが、ペリー提督が仕組んだ通商条約締結に向けての「時限爆弾」だったのだ。これについては次の「3、通商条約と内政混乱」の項で述べる。 
嘉永7(1854)年幕閣、応接掛全権、著名大名の動き  
嘉永7年1月16日:小柴沖に停泊したペリー艦隊を浦賀に引き戻す交渉が、林大学頭の手で始まる。一方江戸では幕閣を中心に、徳川斉昭も連日登城して海防の議が持たれる  
嘉永7年1月23日:浦賀を拒否し江戸行きを目論み、羽田沖まで測量を続けるペリー艦隊の行動に危機感を抱いた老中・阿部伊勢守は、徳川斉昭にペリーの強硬な態度を告げ、漂民の人道的取り扱いを許容する外に、貯炭場として無人島を貸与する案を諮った。斉昭は、書を以って不賛成の意を主張  
嘉永7年1月24日:本牧警備の鳥取藩が、もしアメリカ人が不法に台場に侵入すれば逮捕する許可を申請した。これを聞いた林大学頭などの応接掛は、「措置穏便」を主旨とし、一切を応接掛に委ねるよう要請した  
嘉永7年1月28日:林大学頭、浦賀奉行支配組与力香山栄左衛門を米艦に派遣し、参謀長アダムスと交渉させ、横浜を応接地として合意した。香山は更に米艦に派遣され、艦隊を横浜に引き戻した  
嘉永7年2月4日:幕府は神奈川より林大学頭と井戸対馬守を召還し、応接の方針を論議た。林と井戸は和親の利を主張  
嘉永7年2月6日:徳川斉昭も含めた幕議で、米国に通商を許さないことに決し、林、井戸は再び神奈川に赴く  
嘉永7年2月10日:横浜で日米の交渉が始まる  
嘉永7年2月12日:福井藩主・松平慶永は以前から通商不可を唱えていたが、横浜応接の開始を聞くと、鳥取藩主・池田慶徳、徳島藩主・蜂須賀斉裕、熊本藩主・細川斉護等の賛同を得て、老中阿部伊勢守を訪ね、通信交易拒絶の幕議を確立せよと建策した。また、名古屋藩主・徳川慶恕に書簡を送り、老中を説得すべく促した  
嘉永7年2月22日:ペリーから出された神奈川ほか数港の開港要求を検討するため、林大学頭と井戸対馬守が登城し、老中はじめ斉昭等と論議をもつ。斉昭は下田開港にも懸念を示したが、結局下田開港に決定し、両応接掛全権は神奈川に帰着  
嘉永7年3月3日:日米和親条約調印  
嘉永7年4月30日:前水戸藩主徳川斉昭、海防参与の辞職を願い許される(嘉永6年7月3日、幕府は斉昭を海防参与に任命していたが、斉昭の日米和親条約調印への不満による)  
下田追加条約  
調印した和親条約条項のうち、下田の自由徘徊区域の半径7里について、条約調印の4日後に幕府中枢に強い異議がでて、応接掛け林大学頭の「越権」と断定され、区域縮小を再度折衝すべきことが命ぜられた。すなわち、幕議決定し許可した範囲を逸脱し過ぎたということだ。横浜で和親条約調印後に下田を訪れ、ペリー自身の目で港を確認し、同様に箱館港にも行き確認したペリー艦隊は、再度下田に戻ってきた。横浜から下田に出張してきた林大学頭とペリー提督は再度会談を持ち、条約の細部の詰めに入った。林は幕府から「越権」と譴責された下田の自由徘徊区域の縮小に知恵を絞り、熱心に再交渉を持ちかけたが、ペリーはいったん調印したものは変えられないと相手にしなかった。その理由は、すでに調印した和親条約の書類が、サラトガ号でアメリカ議会の批准に向けワシントンに送られた後だったのだ。  
下田で細部にわたって合意した内容は、「日米和親条約付録」あるいは「下田追加条約」として嘉永7(1854)年5月22日調印された。この下田追加条約は、日本文で13条、英文で12条である。これは内容が違うのではなく、すでに調印した日米和親条約(神奈川条約)と下田追加条約の優先順位を述べる項が、日本文では独立した項目になり、英文では一般文として最後に置かれている違いである。 
交渉時の、ペリー提督の特徴的行動  
1.最初から長崎回航を断り、江戸行きを強く示唆し、江戸湾内を測量し、日本側の懸念をかきたて久里浜で国書を受け取らせた  
2.江戸湾に奥深く小柴沖まで入り、安全な停泊地を確保した  
3.二回目の来航では、大艦隊でこの江戸湾内の停泊地まで一気に入り、ここを足がかりに行動した  
4.初回同様江戸行きを強く示唆し、広範囲に江戸湾内を測量し、日本側の懸念をかきたて、交渉地を日本側で用意した浦賀ではなく横浜にさせた  
5.交渉開始後、日本側が人道的に遭難者の救助や薪水食糧の供給を受け入れると、以降の会見には大部隊だった護衛隊をごく少数にし、目立った武器も持参しなくなった  
6.人道的要求が受け入れられるや、大統領からの贈り物をして、珍しい物品を紹介した  
(11日後、日本側も大統領や使節以下への答礼品を贈った)  
7.開港地として日本側提案の長崎を拒否し代替港を要求したが、林大学頭の即答がないと、日本全権の権限を行使して即答せよと迫った  
8.日本側から下田、箱館の開港提案があると、ポーハタン号に林大学頭をはじめ多くの役人を招待し、宴会を持ち友好を演出した  
(日本側も条約調印が終わるとペリー始めアメリカ側を招待して食事を供した)  
9.和親条約調印後、士官数人を連れただけのペリーは、横浜村に上陸し民家を訪ね、近郊を散策した  
10.指令書の中で命令された皇帝にまだ会っていないとの理由で、江戸の街だけでも見るため、品川沖まで蒸気軍艦を乗り入れた  
11.下田に回航したペリーは、上陸の都度後をつける日本側の警固を嫌い、強く抗議してやめさせた  
12.下田で、吉田松陰にアメリカに連れて行ってくれと懇願されたが、幕府の許可が必要だといって密航を受け入れなかった  
13.箱館から帰ったペリーは下田で林大学頭と会い、補足条約を協議し、ほぼ決定すると、ミシシッピー号に招き饗宴を持った  
幕府から朝廷への報告、孝明天皇も納得  
日米和親条約とその追加の下田追加条約がペリー提督と調印され、ほぼ1年半ほど経った安政2(1855)年9月18日、幕府はアメリカ、イギリス、ロシアなどとの和親条約書の写しを朝廷に提出し、京都所司代・脇坂安宅(やすおり)と禁裏付武士・都筑峰重がその経緯を説明した。禁裏付の都筑はつい最近まで下田奉行だったから、アメリカとの交渉の経緯を直接具体的に関白・鷹司政通に口述している。  
脇坂が9月22日付けで老中・阿部正弘はじめの幕閣宛に送った報告書簡によれば、朝廷への報告の経緯について、  
関白殿にお会いしたところ、去る18日の3カ国との条約書写しを持参した折の(自身から関白への)説明と、都築駿河守の(関白への)直話を詳しく天皇に報告し条約書の写しもお見せしたところ、逐次の対応振りを具(つぶさ)にお聞きになり、殊の外叡感(えいかん、=天皇が感心し褒める事)にあらせられ、まず以てご安心になられた。容易ならぬ事情があってもこの様に折り合った事は、誠にご苦労だったろうとの思召しだった。なお更なる交渉があれば国体に拘らぬようにとのお頼みで、この様な事を宜しく申し上げてくれるよう仰せられた。なおまた、各位には一方ならぬご心労があり、その他の係の面々にもご苦労であったろうと察せられておられた。これらのことを各位までよく伝えるようにとのお沙汰であった、と関白殿が申されました。  
この時点での孝明天皇は、おそらく関白・鷹司政通の影響も大きかったと思われるが、条約が薪水食料や石炭の供給と遭難者の救助という人道的な内容であったので、多くの軍艦が来て脅威や圧力を受けたが大事に至らず大変ご苦労だったと、上述の京都所司代・脇坂の幕閣宛報告のように幕府の対応に納得していたのだ。しかし孝明天皇は、次ページ「通商条約と内政混乱」に書くが、タウンゼント・ハリスが来て通商条約交渉を始めると、異人が神国・日本に入り込むことを心から嫌い、幕府と鋭く対立してゆく事になる。 
通商条約への期待  
アメリカ商人の反応とペリーのコメント  
ペリーは、横浜で日米和親条約を締結した後直ちにアダムス海軍中佐に命じ、アメリカ政府の批准を得るため、調印した約定書をサラトガ号でハワイ、サンフランシスコ、パナマ経由ワシントンに届けさせた。この条約締結の話を寄港地のハワイやサンフランシスコで聞いたアメリカの積極的な商人、リード、ドハティー、ドティ、ビドルマン、ピーボディー、エッジャートン達は、早速ホノルルでカロライン・フート号を借り上げ、箱館で商売をしようと条約の開港日に合わせ来日した。日本では入手できない捕鯨船向けの必需品を箱館で売ろうとしたのだ。  
最初に入港した下田でも箱館到着後も、夫々の奉行からこのアメリカ商人たちの上陸は許可されず、箱館では偶然に来合わせたアメリカ北太平洋調査船団の司令官・ジョーン・ロジャース海軍大尉の援けをも得て交渉したが、いずれも商売をする滞在許可は下りなかった。ロジャース大尉はこの状況を箱館からダビン海軍長官に報告している。このように一部には、日米和親条約を通商条約の如く解釈し期待を膨らます商人達もいたのだが、次章に書くタウンゼント・ハリスが安政5年に幕府と締結した日米通商条約が出来るまで、下田奉行や箱館奉行たちが手探りで対応せねばならない時期があったのだ。  
日本ではあまり一般的に解説されていないが、こんな気の早い商人達の苦情も考慮したのだろうか、ペリー提督が帰国後政府に提出した公式遠征報告書の第二巻の中の「日本及び琉球との予想される将来の商業関係について」と題する文中に、自身で締結した日米和親条約に関するペリーのコメントが載っている。いわく、  
貿易業界の一部では故意に、あるいは無知故に、国書と上述した日米和親条約の精神を誤解し・・・あらゆる約束事の中で公認されていない事をあえて行おうとした。  
日本人が受け入れた譲歩を見れば、この条約の内容は最初から日本遠征方針を支持した人達の最も楽観的な期待すらはるかに越えたものである。それは、在来の国際的な法と友誼の資格についてより完全な知識を会得した後に、日本政府が次なる公約に向けて、通商を始めるにあたり合意されるべき、手始めで、断じて最も重要な第一歩である。  
これはいかにもペリー流の、修飾文節が幾重にも重なった、訳し難く、読み難い文章である。要はここでペリーがいいたかった事は、長い鎖国をやっと解いた日本が、これから国際社会の一員としていろいろ学び、ステップを踏んで真に開国しなければならない。そういう条約の精神を理解せず、急いで貿易業界の言い分だけを一方的に押し付けてはだめだ。日本が国際ルールを学び、国際社会の一員になる第一段階に踏み出したばかりなのだ、ということだ。「温かく見守れ」という言葉が出てきそうな文意である。  
ペリー自身の報告書に載せたこんな公式コメントや、林大学頭との交渉過程で無理に通商条約締結に踏み込まず、近い将来は通商条約締結ができるよう、使節あるいは総領事派遣を和親條約の第11条に組み込む事までにとどめた史実から見て、ペリーは、交渉中に大学頭が述べた、「我が国はそもそも自給自足が出来る国だ。他国の産物が無いといっても不満はない」という言い分を聞き、今は通商条約を結ばないという日本の立場をよく理解していたように思われる。ペリーは軍事力を誇示し、交渉では強引に頑固を押し通した尊大な人物との印象が日本の一般通念である。しかし、必ずしもそれだけではなかったと云うのが筆者の見解だ。押すべき時は強硬に押すが、引くべき時はスッと引く柔軟さを合わせ持つ老練な策士ともいえる人物だ。  
アメリカ政府の通商条約締結に向けた動き  
アメリカ議会では大統領の要請に基づき、アダムス海軍中佐のもたらした調印された「日米和親条約」の内容検討を行い、無修正の条約批准に同意した。同時に議会は、更に進んだ「通商条約」の締結を決議し、大統領に、それに向けた次なる行動を求めた。これは前述したビドルマンとドティのように、一般世論として、日本との通商条約締結が強く期待されていた事実の反映である。アメリカ政府は直ちにタウンゼント・ハリスを駐日アメリカ総領事に任命し、同時に通商条約交渉の権限をも与えた。こんな背景から、ハリスが下田に来ることになる。 
3、通商条約と内政混乱

 

タウンゼント・ハリス総領事赴任の背景  
ハリスの起用と指令書  
ペリー提督と江戸幕府の結んだ日米和親条約の第11条により、アメリカ政府はタウンゼント・ハリスをアメリカ駐日総領事として下田に派遣した。  
ハリスは1853年、ペリー提督が香港で日本遠征の準備を整え上海で最終準備完了の停泊をしているとき、ぜひ艦隊に同乗して日本に連れて行ってもらいたいと頼んだ。しかし、ペリーの方針によりハリスの願いは実現しなかった。その後ハリスは経験を買われ、アメリカの駐ニンポー(寧波)領事に任命されニンポーにいた。和親条約締結後、アメリカ政府が駐日総領事の派遣を決めると、ペリー提督とスーワード上院議員(後の国務長官)はハリスを駐日総領事に推薦し、ピアース大統領もこれを受け入れた。同時にアメリカ政府は、ハリスに日本と通商条約を締結する権限をも与えた。1855年9月13日付のマーシー国務長官からハリスに宛てた指令書は、  
貴殿も承知の通り、我が政府代表としてのペリー提督により交渉された日本との条約は、合衆国と彼の帝国間の通商について何も明白な規定がありません。・・・人口の多い彼の国のいくつかの港に往来し、有利な通商を続けられないと云うこともないはずです。駐日総領事として貴殿を選んだ大統領の主な動機は、貴殿の東洋人に対する知識と、実業家としての総括的な理解力と経験により、やがては日本人を説いて感服させ、我が国と通商条約を締結させるだろうという期待からです。下田到着後、この交渉で本省と連絡がつく前に、その目的のため予備交渉をする好機が来るかも知れず、今貴殿にその交渉と条約締結の全権を付与します。  
というものだ。またアメリカ政府はハリスに、日本に赴任する前にバンコックに立ち寄り、シャム政府と通商条約を結ぶように指示もした。ハリスはシャムと条約締結に成功した後、1856年8月21日(安政3年7月21日)、アメリカ蒸気軍艦サン・ジャシント号でオランダ語通訳のヒュースケンと共に下田にやって来た。  
ハリスの決意  
ハリスの気持ちは高揚していたようだ。下田に着く3日前、8月19日に船上で書いた「ハリス日記」に次のような文章がある。  
私は、文明国から派遣され日本に住む最初の正式代表者だ。これは我が人生の新時代で、日本の新体制の始まりとなろう。これから書かれる日本とその行く末の歴史のなかで、名誉を持って語られるよう行動したい。  
これに先立つシャムとの通商条約は、イギリスのすぐ後を継いで交渉し締結した。しかし軍艦を持って来ないアメリカはイギリスより友好的と見られはしたが、威圧的なイギリスのやり方と違って交渉は長引き、ハリスの思うようには進まなかった。最終的に通商条約を締結する事にはなったが、腹を立てたハリスは、  
これが、こんな不正直で卑劣で卑怯な連中との騒動の最後であってもらいたいものだ。ここは嘘をつくことが王族以下全員のルールだ。避けられる限り真実を語らない。・・・こんな国民に会ったことはないし、もう二度とこんなところに送られないことを望む。シャム人と交渉する最適方法は、小型軍艦を二、三艘派遣することだ。十月にバンコックまで河を遡り、祝砲を撃たせるといい。そうすれば、条約締結に私が何週間も費やした日数など不要の事だ。  
と、やはり軍事力をチラつかせ威嚇すべきだったと5月24日の日記に書いた。そんな背景もあって、日本ではうまくやり、必ず成功を勝ち取ろうと気持ちが昂ぶったのだろう。 
ハリス着任時の混乱  
シャムで一仕事を終えたハリスは下田に上陸すると、信任状と着任を報ずる書簡を下田奉行・岡田備後守に提出し、和親条約に基づく総領事着任という訪日目的を伝えた。下田奉行は急ぎ幕府にその取り扱いの指示を仰ぎ、ハリスの「御用所に部屋を分けて欲しい」という要求を断り、とりあえず柿崎の玉泉寺を宿泊地として提供した。  
この時の総領事受け入れをめぐり、幕府とハリスとの間にひと悶着が起きた。その原因は、林大学頭がペリー提督と調印した日米和親条約第11条の日本文にあった。この11条は下に掲げる通り、幕府はその文言中の「両国政府に於いて」を「両国政府の双方に於いて」と解釈した。ところが同時に作られた英文、蘭文、漢文は「両国政府の一方に於いて」となっている。さらに付け加えれば、「よんどころなき義(やむをえない事情)」も英文では「必要と見なした場合」と微妙に違っている。ハリスと下田奉行との交渉で日本側は、日本にはこの條約で言う領事駐在を必要とするやむを得ない事情などないからすぐ帰ってくれと交渉した。一方ハリスは、条約にそう書いてあって、アメリカ政府が必要と認め私を派遣したのだと答え、条約で認められた権利を主張した。しかしすでにこの時、調印した条約文を詳細に検証させていた幕閣は、条約第11条の日本文は間違いで、両国政府の一方の判断で領事を派遣できることを良く理解していたのだが、それでもハリスを上陸させたくなかったのだ。そう書いてある条約を結びながら、それを否定したり先延ばししたりする幕府のやり方は、その後もとことん権利を主張する欧米の外交官との軋轢となっていく。  
日本の歴史上初めて結んだ国際条約の文言は、意識的にか偶然にか厳密性を欠いていた。第11条に限らず、現代ほどその重要性が認識されていなかったこともあるが、条約の目的、有効範囲、改廃規則、平等性などに弱点があり、夫々に問題を引き起こした。  
和親条約第11条(日本文)  
第十一ヶ条:両国政府に於いて、よんどころなき義これあり候模様により、合衆国官吏のもの下田に差置き候義もこれあるべく、もっとも約定調印より十八ヶ月後にこれ無くては、その儀に及ばず候事。 
混乱の原因と更なる不思議  
嘉永7(1854)年3月:条約調印の当初幕府は、「両国政府に於いて」を「両国政府双方に於いて」と理解した。即ちアメリカ単独の理由での派遣は不可ということだ。  
安政2(1855)年6月(ハリス着任以前):幕府は、条約第11条を大目付や目付に評議させた。評議の結果、蘭文と漢文と比較し、日本文だけが違っていることが判明した。蘭文や漢文では、どちらか一方の政府の決定で官吏を送れる。即ち、アメリカはいつでも必要に応じて官吏を送ってくるだろう。大目付や目付の答は、その時が来たら日本からもアメリカに官吏を送るという条件でアメリカ官吏を受け入れよ、と答申した。(この事実は、ハリス着任の1年も前に、この日本文は間違っていると老中が理解していたのだ)  
安政3年7月25日:ハリス着任の報告で、幕閣はアメリカ総領事の信任状と着任報告書簡を受理しない事に決し、この旨を下田奉行に命じた。(幕閣は日本文の間違いに気付いていながら、なぜこうも理屈に合わないことをするのか不思議だ)ハリスは当然受け入れない。  
安政3年7月28日:ハリスは、玉泉寺に止宿を了承。  
安政3年8月5日:ハリスは、玉泉寺を正式に総領事館と定めた。  
安政3年8月17日:下田奉行井上と岡田の再度の要請で、幕府は、評定所一座と海防掛にまたハリスの要求する領事駐在を評議させた。大目付や目付は評議の結果、正式に総領事を駐在させ、駐在に伴う諸規則や手続きを決めておくほうが今後のためによい、と答申した。  
安政3年8月24日:幕府はアメリカ総領事の駐在を許可することに決し、ハリスと話すため目付・岩瀬忠震(ただなり)を下田に派遣した。また、前水戸藩主・徳川斉昭にその事情を告げた。 
日米和親条約補修協約(下田協約)の締結  
ハリスは1857年6月17日(安政4年5月26日)、下田で日米和親条約の補修協約「日米協約」を結んだ。これは、ペリー提督との和親条約締結時から変化した状況に対処し、より細かい規則を定めたもので、次のような9条項からなっている。  
1.最恵国待遇条項により長崎もアメリカに開港する。  
2.下田・箱館に入手不可能品取り扱いのアメリカ人を置き(居住権)、箱館に官吏を置く。  
3.貨幣交換時、6分の吹き替え費用を日本に支払う。  
4.領事裁判(治外法権)。  
5.船舶修理費の支払い。  
6.領事の自由旅行権。  
7.領事の商品直買。  
8.本条約の公式言語を蘭語とする。  
9.本協約発効日。  
これはハリスが駐日総領事として、日米和親条約の範疇内で行った初仕事だ。  
この時すでに日本とオランダは、1856年1月30日(安政2年12月23日)に「日蘭和親条約」を調印していたから、日米和親条約・第9条の最恵国待遇条項により、ハリスの指摘によりオランダに開港した長崎も自動的にアメリカに開港された。さらに重要な点は、限定的ながらも、それまで日本が拒否していたアメリカ市民の居住権が認められたことだ。ハリスはまた、領事裁判という治外法権もはっきり獲得したが、これは後に不平等條約として問題になる。更にまた、領事に限り自由旅行権も認められた。  
この交渉で日本側を説き伏せるのに、アメリカ政府がハリスに与えたという「日本が条約を守らねばアメリカは武力行使をする」といった指令書簡なるものをちらつかせたり、大統領の親書を持ってきた使節であるから、江戸に赴いて差し出すのが国際的礼儀であるなど、圧力をかけながら矢継ぎ早に交渉を進めようとした。しかし日本側もハリスの出方を見ながら決定に時間がかかったから、補修協約の締結に10ヶ月も必要だった。 
修好通商条約へ向けたハリスと幕府との駆け引き  
初期交渉は決裂  
補修協約交渉中からハリスは、自分は大統領の親書を持ってきた使節であるから、江戸に赴いて将軍に直接差し出したいといっていた。そして日本に告げるべき「重大な機密事項」もあるといった。交渉代表者の下田奉行・井上信濃守と中村出羽守は、幕府から全権を委任されているので下田で渡してくれと交渉したがハリスは納得しない。井上と中村は、ハリスのいう機密事項とはまず間違いなく貿易開始と開港場増加の提議であろうと推定し、幕閣にはその旨報告していた。  
一方ハリスは引き続きの交渉で、とにかく江戸に行き将軍に会い、親書を渡し、通商条約交渉のきっかけを作るべく頑固を押し通した。大統領からは、江戸に行き親書を将軍に直接渡せと命令されている。万国の慣例はこのようなものであり、老中にさえも渡せないと、一歩も譲らず妥協しないから交渉はなかなか決着がつかない。また今後ロシア、イギリス、フランスなどが来ても、同じ要求を出すだろうともいった。しかし、日本側が強硬に要求する「重大な機密事項」をあらかじめ幕府の交渉代表者の井上信濃守と中村出羽守に示唆する件と、ハリスがアメリカ大統領の命令だという上府し直接将軍と面会する件とが絡み合い、交渉は決裂状態になった。  
幕府の譲歩とハリスの出府  
こんな交渉過程で老中・堀田備中守もその国際関係の意味するところを考え、基本的にハリスの出府を許すよう方針変更をした。この内達を受けた溜詰め諸侯の松平讃岐守、松平下総守、松平越中守、酒井雅樂頭(うたのかみ)などは、老中・堀田備中守に上府の即時中止を建議したが、それほど幕府内にも強い拒否反応もあったのだ。「溜詰め」というのは、家門大名や元老中などが江戸城に登城したとき黒書院の溜の間に席を与えられることで、親藩や譜代の重臣から選ばれ、老中とともに政務上の大事に参画した役職である。しかし堀田は、更にハリス上府の期日を評議させ、徳川三家にもハリス上府許可の意思を内達した。これを聞いた水戸藩の徳川斉昭・慶篤(よしあつ)親子と尾張藩の徳川慶恕(よしくみ)は反対を唱えたが、そんな反対にも屈せず、堀田はハリスの上府期日を9月下旬と決め、井上信濃守を通じハリスと旅行や登城手続きを協議させた。  
溜詰め諸侯からハリスを上府させる理由を追及されると堀田は、「万国の通則」はこの通りであって、日本が国際社会と交流するには、その慣例に従わねばならないと、自己の信念を説明した。これに納得しない上述の反対派は徳川斉昭の元に集い、ハリス上府反対の大合唱を唱えた。しかし堀田は動ぜず計画を進め、1857年12月7日、安政4年10月21日、ハリスの登城と将軍謁見が実現した。  
江戸城に驚くほど手厚く迎えられたハリスは、将軍・家定に謁見し、自身がアメリカ代表として大統領の国書を持参し、全権を与えられた名誉を述べ、将軍・家定の健康と幸福や日本の繁栄を祈る言葉と共に、アメリカの国旗に包んだ、1855年9月12日付けのピアース大統領の親書を将軍の前で老中・堀田正睦に手渡した。これに対し将軍・家定もよく通る明瞭な声で、  
遠境の処、使節をもって書簡差し越し、口上これを申し、満足に令(のりご)つり候。猶幾久しくも申し通すべく、この段大統領へ宜しく申し述べるべし。  
と答え、森山多吉郎がオランダ語に訳し、ヒュースケンが英語に訳しハリスに伝えた。これで、もめにもめた外交官の上府と将軍謁見が無事に終わり、将軍に謁見したハリスは、親書も直に提出し将軍も直接応答してくれ、やっと面目を施すことになったわけだ。  
ハリスの大演説とその検討  
しかしハリスはここで一息入れず、26日、勢いをかって老中・堀田正睦の役邸を訪ね大演説を行っている。技術革新による蒸気船、電信などのもたらす交易の拡大や素早い情報交換により、急速に変わりつつある世界情勢を説いた。そしてアメリカ大統領は、親書にも書いてあるごとく日本と自由貿易を確立したい旨を伝え、公使を江戸に駐在させたいと述べた。更に領土的野心の無いアメリカと通商条約を締結しておけば、イギリス、フランス、ロシアといった野心的な国に対しても間接的な防衛になる旨をも説いた。すなわち、アメリカと受け入れ可能な通商条約を結んでおけば、仮に他国が過大な要求を出しても、アメリカと同等の内容にする事は可能だということだ。  
このハリスの大演説の後、堀田は更に不明な点を確認し理解を深めるべく、大目付・土岐頼旨(よりむね)、勘定奉行・川路聖謨(としあきら)、目付・鵜殿長鋭(ながとし)、下田奉行・井上清直、目付・永井尚志(なおゆき)などそのブレーンをハリスの泊る蕃書調所に送り、公使の役割やその権限、派遣方法、領事との違い等細かく質問し理解を深めさせた。こんな西洋流の国際慣行を一から勉強する事は、日本にとって不可欠な対応だった。  
幕閣は更に、ハリスのこの堀田邸における演述書を評定所、海防掛、長崎・浦賀・下田・箱館の各奉行に示し意見を求めたが、この答申は意見が割れた。拒否せよという見解こそ無かったが、「受け入れよ」という意見と「諸侯に許否を諮れ」というものとが二分した。そこで幕閣はまたハリスの演述書を諸侯に示し、その許否を諮問した。ハリスは世界情勢を説明し明確に通商開始を要求している。しかし維新史料綱要を見る限り、諸侯の答申は明確に「交易を拒否せよ」というものは久保田藩と鳥取藩の2藩だけで、「交易を許可せよ」と云うのも徳島藩や明石藩などの6藩、その他の20藩ほどは「諸侯協議で決すべし」とか「慎重考慮を要す」と、いわば無責任な回答しか寄せていない。要はどうしてよいやら分からなかった、というのが当時の大多数の諸侯の実態だった。諸侯というのは、自分の領地を持つ一国一城の主のことだ。確かに堀田と違って直接ハリスと話していないから、その印象は薄かっただろうが、今考えて非常に物足りないと感ずるのは筆者一人ではなかろう。  
ハリスの威嚇と通商条約の交渉開始  
老中・堀田備中守は理解してくれるとみたハリスは、さらに条約の基本内容を説明したり、また圧力をかけるため、予定していた幕府の重要な朱子学教育機関である大成殿や学問所の公式訪問を突然キャンセルしてみたりと、1月以上も江戸に留まり影響力を行使した。上述のように評定所や海防掛けに諮問しまた諸侯に諮問し、なかなか意見のまとまらない幕府から条約交渉に入る返事をもらえないハリスはいらいらして待っていたが、1858年1月9日(安政4年11月25日)、久しぶりにハリスを訪れた井上に向かって奥の手を出して恫喝した。この日の「ハリス日記」に次のように書いてある。  
そして話の締めくくりに、私に対するこんな待遇を見れば、この全権使節が交渉を進めるためには、軍艦を率いてきて弾丸を見舞わなければ何も進まないようだといってやった。これ以上何もやる気が無いなら下田に帰りましょうといって話をやめた。気の毒にも信濃守は明らかにうろたえてながら聞いていたが・・・  
本気で武力行使の可能性を示唆したハリスの剣幕に驚いた井上は、ただちに堀田に報告し、12月2日、堀田の役宅で再度ハリスとの会談が実現した。そしてハリスはついに堀田から直接、通商貿易、公使駐在、下田閉港と新港の開港という三つの基本合意を勝ち取り、細部にわたる通商条約作成交渉の開始にこぎつけた。日本の弱みを握ったハリスはその席で、大統領の願いは別に何があるわけでもなく、ただ日本の利益を考えてのことだ。この条約を結ばなければ日本に危難が降りかかるから、そうならないようにしてやりたいだけだ。この点を日本が良く理解していれば、日本が条約を結ばないといってもアメリカが日本を敵視することは無いと、充分に恩を着せ脅しをかけることを忘れていない。堀田は、下田奉行・井上信濃守と目付・岩瀬肥後守とを通商条約交渉全権に任じ、ハリスと細部にわたる条約文の作成交渉を始めさせた。  
しかしここで指摘せざるを得ない事実は、その背景が何であれ、ハリスは態度をはっきりさせない幕府に対し、軍事力に訴えるぞと威嚇作戦を取ったことだ。また、イギリスやフランスの大艦隊がやって来るぞ、とも言っているが、筆者の目から見れば、自国の軍事力を誇示するか他国・イギリスやフランスの軍事力を指摘するかの違いだけで、ペリー提督の作戦と基本的に同じことである。上にも書いたが、ハリスが下田に来る前にシャムで条約を結んだ時も、軍艦を引き連れてきて祝砲を撃たせれば、条約締結の時間をはるかに短縮できたと自身の日記に書いたが、最後は軍事力を示唆しようとハリスは思っていたのだ。日本を預かる老中・堀田備中守や幕閣には、充分な海軍力も無い今、この軍事力を行使するぞという威嚇作戦が最も有効だった。明治以降になって、ペリー提督は軍艦を引き連れて来て威嚇作戦を取ったが、ハリスはそうしなかったという賞賛の声が出たようだが、二人とも同じように軍事力を誇示し威嚇作戦を取ったというのが筆者の見解だ。 
朝廷の影響力  
朝廷の政治介入  
和親条約と開国の前章でも書いたように、ペリー提督来航時には、当時の幕閣の首座・阿部伊勢守が朝廷にアメリカ国書を奏聞し、和親条約締結の報告もしている。今回もまた、幕府はハリスを上府させると決定したときも、将軍・家定と謁見したときの様子をも逐一朝廷に奏聞した。幕府はハリスと通商条約交渉を開始したが、同時に、前述したハリスの堀田邸における演述書も朝廷に奏聞した。このように朝廷は政治の場に明確に姿を現し、幕府も朝廷の権威をもって挙国一致を達成しようと目論んだから、状況は更に複雑になってきた。  
そもそも、慶長5(1600)年9月15日の関ヶ原の戦い以降、大坂の陣で豊臣勢を完全に崩壊させ実力で天下の覇権を手にした徳川家康は、ただちに「禁中並びに公家諸法度」をつくり朝廷をもその制御下に置くことに成功し、それ以降、朝廷の政治向きの口出しは禁止されて来たのが江戸時代の政治の枠組みだ。しかしこれが崩れはじめたのは、文化元(1804)年、長崎に来たロシア使節・レザノフに通商を断り、怒ったロシア軍艦が樺太、択捉、利尻の日本側施設を破壊したが、この出来事を文化4年に幕府が朝廷に報告したことから始まった。  
その後各国の軍艦がたびたび日本に接近し、巷間に外国船渡来の噂がいよいよ高まった。孝明天皇はこんな噂に驚き心配していると、弘化3(1846)年8月29日、朝廷は幕府に「海防勅書」なるものを出し、幕府は海防を強化し天皇を安心させよと命じた。この時、京都所司代にこの天皇の懸念をお沙汰書として伝える武家伝奏は、幕府へ、「文化度の振り合い」として、すなわち文化4年にもロシアとの外交問題を報告してくれたから、今回も外国船渡来の事実を伝え天皇を安心させてはもらえないかと内々頼んだのだ。このように天皇が幕府に海防勅書として命令を出し、幕府もそれに異を唱えなかったこと自体、すでに「禁中並に公家諸法度」に基づく徳川幕府の政治システムの重大な変革であり、朝廷が公然と徳川幕府の政治に介入し始めたのだ。  
またこんな政治的介入の禁止だけでなく、天皇家の養子縁組や親王の宣下、関白・諸大臣や武家伝奏の人事に至るまで、先ず幕府に天皇の「御内慮」を示し、幕府の承認を得てさえいたのだ。若し幕府がその首を縦に振らなければ、たとえ天皇の御内慮といえども実行不可能だったわけだ。この件に関しては、後に朝廷が窮地に立った幕府に、「関白・大臣・武家伝奏の人事にまだ介入する気か」と諮問し、幕府は文久2年12月16日これを辞退する態度を示し終わりをむかえ、一層朝廷の権威が上がっている。  
以上が朝廷の政治介入の端緒であり、朝廷の独立と顕在化の過程だが、更に見落とせない事実は、江戸時代に入り200年以上にもわたって平和を持続する事に大きな役割を果たしてきた儒学の伝統だろう。五常の教えの「仁、義、礼、智、信」、それから派生する五倫の関係の「君臣、父子、夫婦、長幼、朋友」だ。徳川家康が抜擢し幕府の儒学の師に据えた若き林羅山以来、武士の正学として発展した儒学・朱子学の教えから特に国家像を見れば、名目的にもせよ「その頂点に立つ天皇とその臣民」という構造が見える。後に幕府がそんな朝廷の権威を大いに利用もしたが、朱子学を学ぶ武士階級の中にはこの儒学的な「国家の頂点に立つ天皇」という考えが何の不思議もなく根付いて行ったのだ。そして18世紀には、朱子学を大切にする江戸幕府の将軍や幕府親藩の諸侯は勿論、全国の大小名諸侯も、将軍は国家の頂点に立つ天皇から「大政を委任されている」という考えになっていた。すなわち天皇と将軍の関係は、「君臣の大義」にもとずく「天皇に仕える将軍」という上下関係として理解されていったわけだ。  
一方、賀茂真淵や本居宣長と続く「万葉集」、「源氏物語」、「日本書紀」、「古事記」などの研究や、それを引き継ぐ平田篤胤の復古神道を通じた18世紀後半から19世紀前半のいわゆる「国学」の隆盛も、日本古来の天照大神や、ひいては天皇を中心に据える思想の発展を表に押し出す役割を果たした。更に将軍を始め諸大名、あるいはエリート武士が受ける官位は朝廷から下される。これらが尊王の行動を本流に押し上げる重要な要素となっていった。  
また天明の大飢饉(天明2〜8年・1782〜88年)には幕府の膝元の江戸でさえ大規模な打毀しが起るなど、幕威を恐れない民衆蜂起が起こり、幕府の威厳は大幅に低下した。従って幕府は、事ある毎に朝廷の権威にすがる行動が多くなり、それに比例して朝廷の権威が上がったわけだ。  
こんな背景から、国の運命を左右する開国、開港、通商条約締結等は、少なくとも朝廷の同意が必要だとの考えがご三家や親藩の中にさえ普遍化し、朝廷の意向に逆らえば「違勅」に当たるとされたのだ。  
朝廷内政治力学の変化  
弘化3(1846)年以降、朝廷内でもいくつかの重要な変化が起こりつつあった。まずその年2月13日に践祚(せんそ=皇位継承)した孝明天皇は気骨あるリーダーとして、天皇の威厳と権限を充分に使い、日本国の行く末を案じ始めた。すなわち、上述のように政治介入が始まった。またその当時の関白・鷹司政通は、実力者で朝廷内をまとめるオピニオン・リーダーであったが、開国論者で、鎖国以前は海外との交易があったのだから、世界情勢がこうまで変化してしまえば交易をして国力を蓄えたほうが良いと考えていた。  
しかし一方で関白・鷹司政通は、ペリーが来航し手渡した「通商をしたい」というアメリカ大統領の書簡内容と、「各藩の建議は和戦の二字で、再来航時は平穏を旨とするが、最悪時は戦の覚悟を持て」と各藩に命じた幕府の対応策を幕閣から伝えられた後の嘉永6(1854)年12月28日、公家を始め地下家の蔵人、官務、大下記、出納など朝廷内の諸官に至るまで、「即今別状あるわけではないが、この事態を心得ているように」とこれを伝え、多くの諸司へも伝達すべく命じた。こんな朝廷内での関白の対応が、後に幕府外交への多くの公家を含む大衆化した議論を生む素地を造ったようだ。  
そしてハリスが来て通商条約の作成とその調印を迫ると、開国という鷹司政通や幕府の考えに真っ向から反対する公家が台頭し始めた。「自分の代に夷人が神国・日本に入り込んでは、祖先に対し申し開きできない」と外国人を強く嫌う孝明天皇も、当時関白から太閤になっていた鷹司政通のこんな開国論を強く嫌ったので、台頭する新公家集団の考えと行動を強く支持し、その行動力に期待した。孝明天皇は自ら朝廷のリーダーとして行動し、単なる飾り物ではなかった。すなわち朝廷内の政治力学も、長い関白万能の時代から、天皇と革新公家主導へと大きく変わり始めたのだ。 
通商条約の調印と安政の大獄への道  
条約勅許要請と差戻し  
安政4年12月11日(1858年1月25日)、ハリスと日本側全権の井上信濃守と岩瀬肥後守との交渉が、ハリスの滞在先の蕃書調所で始まった。翌1月14日、ハリスは合意に達した条約の成案を提出し速やかに調印を求め、21日、幕府の用意した観光丸で下田に帰った。  
一方幕府は日米修好通商条約について朝廷の理解を得ようと、12月17日、アメリカのペリー提督と直接交渉した林大学頭と目付・津田正路を京都に送り、「鎖国は改め、万国に程よく付き合わねばならない時代になった」と、当時幕府がアメリカから入手した「ペリー提督日本遠征報告書」の翻訳内容までも朝廷に説明させた。朝廷は一応話を聞くとこの「軽量使節」に、用は済んだから帰れと告げ、朝廷の理解を得ることは出来なかった。しかし実際のところは、当時の朝廷が理解していた事情とはあまりにもかけ離れた現実に、その想像力を超え、作り話だろうと疑いさえ生じた可能性もある。ハリスとの交渉が終わると幕府は即刻、老中の堀田と全権交渉委員の岩瀬と川路を京都に送ることに決め出発を命じた。これは朝廷の権威をもって挙国一致を図ろうとする幕府の方針に基づいたものだが、裏を返せば、御三家や譜代大名など幕府内部にさえ大きな反対勢力を抱えた老中たちが、その必要性を充分に説得もできず、また権力を持って服従させる気力も無く、朝廷の権威を利用しようとした安易で姑息な手段だった。  
堀田備中守は、自ら京都に行き直接朝廷に説明すれば何とかなると思ったであろう。しかし、上の「朝廷の影響力」でも書いたように、朝廷内では大きな政治力学的変化が起きつつあった。関白・九条尚忠や太閤・鷹司政通などの影響下で勅許が出そうな状況を孝明天皇側からの秘密情報で感知した新興革新勢力の公家たちは、堀田が関白や議奏を「黄白」すなわち金銀を持って攻落したと怒り、急きょ組織した88人もの公家たちが突如として宮中に押しかけ、「朝廷としてはなんとも言いようがないから、関東でよく考えて決定するように」という関白・九条尚忠の条約許容の勅答案を覆してしまった。数の力で関白に猛反対し、その決定を覆させたのだ。革新派公家たちのこの団結した強訴は、これ以降も時として行われるようになる。このように朝廷は、幕府老中の堀田備中守の説明にも容易に耳を貸さなくなっていた。これは大きな誤算だった。二ヶ月近くも京都で粘ったが、安政5年3月20日「なお三家以下諸大名の意見を聞け」との朝旨に勅許を得る見通しも立たず、堀田は江戸に引き返した。  
大老・井伊直弼の決断と条約調印  
外交問題で朝廷とうまく行かず、後継問題も焦眉の急になっている将軍・家定は大老職を設け、安政5(1858)年4月23日、彦根藩主・井伊直弼を大老に据えた。一方堀田はまた江戸に出てきているハリスに、約束している通商条約の調印を何回も引き伸ばす交渉をしたり、5月6日には条約調印の困難さを説明する将軍・家定の親書を米国のピアース大統領宛に出したりと、種々の条約調印延期策をとった。大統領にまで親書を出されたハリスは、仕方なくまた下田に帰った。  
幕府はいつもの通り、この安政5年5月6日付けのピアース大統領宛の将軍・家定の親書の写しを朝廷に提出したが、これを読んだ孝明天皇は、ハリスはあっさり下田に帰ってしまったし、堀田が帰府して以降幕府から何の音沙汰もなかったから、あるいは幕府が朝廷の許可を得ないまま調印してしまうのではないかと疑い、非常に心配し、関白・九条尚忠にその後の経過を幕府に質問させている。次に書くとおり、孝明天皇のこの心配は一月も経たぬ内に現実のものとなってしまうのだ。  
しかしもちろん、下田に帰ったハリスはこれで諦めたわけではない。下田に帰ってから1ヶ月ほどして、ハリスにまたチャンスがめぐってきた。アメリカ軍艦ミシシッピー号とポーハタン号が相次いで下田に入港し、イギリスとフランス連合は支那との第二次アヘン戦争にかたをつけ、インドも収まったというニュースをもたらした。これを好機と見たハリスはたちどころにポーハタン号に乗り安政5年6月17日小柴沖に来て、幕府に書翰を送り、支那に対する英仏連合の勝利と、近い将来彼らは必ず日本へ大艦隊を率いて来航するだろう。殊にイギリスは30艘から40艘の軍艦を派遣の模様だ。また両国は連合して来るようだと告げた。そして、速やかにアメリカと条約を調印しておけばそれと同等の条約にもなろうが、さもなくばインドや支那の勝利に乗じたイギリス人は勝手な要求を出し、それを拒否すれば戦争という大変な事態にもなろうとも告げた。  
6月18日に小柴沖に停泊中のポーハタン号上でハリスと会見した下田奉行・井上清直と目付・岩瀬忠震(ただなり)は、再度ハリスから先の書翰内容の説明を受けると、大いに驚愕し急いで翌19日登城しハリスの言葉を報告し、条約調印をすべきかの指揮を仰いだ。幕閣の衆議に時間はかかったが、基本的に朝廷からの勅許取得を優先すべく考えていた井伊大老も、渋々ではあるが、「更なる条約調印の延期に努力せよ。しかし、やむを得ない場合は調印もやむなし」と、条約調印をし戦争回避を優先する決断を下した。これは、大艦隊を前にして戦争回避の為に条約調印をする事態になっては、日本の名誉も失墜する事をも含んでいる。朝廷勅許取得よりは戦争回避と日本国の名誉保持が優先するという決断だった。井伊のこの指示に基づき、両全権は再び浜御殿の庭先から観光丸でポーハタン号にとって返し、直ちにハリスと日米修好通商条約の調印を終えた。安政5年6月19日、1858年7月29日だった。  
筆者の知りえた史実は以上の様なものだが、井上と岩瀬の両全権は、再度ハリスと会っても井伊の指示である「更なる調印延期」には言及した形跡はなく、イギリスやフランスとの条約もアメリカと同等の条約に出来ることをハリスに再確認すると、直ちに調印をした。朝廷の勅許や幕府内の議論よりも、日本国家を戦争の混乱に巻き込んではならないし、大艦隊の威力に押されての調印は日本の名誉が立たず、ましてアメリカ以上の条件を押し付けられてはハリスに対しても面目はないと、大きな危機感があったことは事実だろう。  
御三家や親藩の大反対  
同じ日に早くもこの条約調印を聞きつけた福井藩主・松平慶永と宇和島藩主・伊達宗城(むねなり)は井伊大老を訪ね、その真偽を問うと、井伊は、戦争にもなりかねない緊迫した世界情勢の重大さから朝廷の勅許を得ずに調印したことを説明した。その後、徳川斉昭は書簡で、一橋慶喜と徳川(田安)慶頼(よしより)は井伊に面会し、それぞれ朝廷に状況を伏奏し違勅の許しを請えと迫った。特にその後一橋慶喜はその他の閣老とも会い、たかがハリスの「大艦隊が来襲するぞ」という言だけを信じ、朝廷の意に逆らった條約調印は許せない違勅だと叱りつけた。イギリス艦隊が来ても即戦争とはならないだろう。まず交渉があるはずだ。今日本の何処にそんな艦隊が来ているのか、という論法だった。更に6月24日になると福井藩主・松平慶永は、朝早く登城前の井伊の私邸を訪ね勅許なしの条約調印の責任を問い詰めた。同じ日、前水戸藩主・徳川斉昭、名古屋藩主・徳川慶勝(よしかつ)、水戸藩主・徳川慶篤(よしあつ)は登営日でないにもかかわらず登城し、井伊大老になぜ条約の無断調印を行ったのかとその責任を激しく問い詰めた。  
この様に御三家の尾張や水戸、御三卿の田安や一橋から親藩に至るまで、ことごとく「違勅」と反対された井伊直弼は窮地に立ったが、少なくとも御三家や御三卿、親藩にはもっと説明し味方につけておくべきだったと思ったとしても不思議ではないほどの孤立だった。ここで云う違勅とは、将軍・徳川家定が天皇の命令に従わないことで、すなわち「朝敵」になることを意味する。将軍の下で政治を遂行する代表責任者の大老・井伊直弼の判断の誤りから、将軍を朝敵に落し入れる大罪だという意味だ。  
当時徳川幕府の中枢グループで、すでにこれほどまでに天皇を国家の頂点ととらえ、朝廷の意に逆らうことがためらわれていた事実は重要である。名古屋藩祖・徳川義直は家康の第九子でありながら尊王思想の持ち主だったというから、その家系を継ぐ徳川慶勝は尊王主義者であったし、水戸藩でも家康の孫に当たる徳川光圀以来の尊王家で、斉昭は勿論、その実子の慶篤や一橋慶喜もその薫陶を受けて育った尊王主義者だ。いざという時は、幕府より朝廷が大切だという信念だったから、早くから天皇崇拝思想が徳川一門の中枢にあったわけだ。  
上述した如く、ペリー来航以前から、ことあるごとに幕府は朝廷に報告し、ますます朝廷の権威は上がり、外交問題を中心に幕府と朝廷の意見は相反する方向へと急激に加速していく。これに加え将軍家定の後継問題も、井伊の推す徳川慶福(よしとみ、のち将軍・家茂)派と一橋慶喜を推す反対派に分かれて激しく対立していった。  
こんな御三家や親藩の反対活動が頂点に達すると大老・井伊は7月5日、厳しく違勅を唱えた前水戸藩主・徳川斉昭に「急度慎み」、名古屋藩主・徳川慶勝と福井藩主・松平慶永に「隠居・急度慎み」の処分を行い、一橋慶喜の登営を停止する処分をも下した。しかしまた1年後には更なる処分が下される事になる。  
ロシア、イギリス、フランスとも条約締結・・・安政の大獄へ  
安政5年6月19日にアメリカのハリス総領事と修好通商条約を結んだ幕府は、7月11日ロシア使節のプチャーチンともアメリカに順ずる修好通商条約を結び、朝廷に14日付けで、  
先般連絡の通りアメリカと条約を締結したが、その頃よりロシアも渡来したので、アメリカの振合いをもって条約を取結んだが、更にイギリスも同様に条約を締結したいと申し立て、フランスも渡来し同様にしたいという事である。  
と、事実を誠に簡単に届け出た。  
一方の朝廷は幕府に、アメリカとの通商条約締結の説明に来いと三家か大老の上京を強く督促していたが、7月18日に、「三家の内、尾張と水戸は不束のため急度慎みを命ぜられ、他家は幼少で召命を奉じ難く、大老はロシア、アメリカ、イギリスの軍船が来ていて政務繁劇で期日を緩めていただきたい」と云う幕閣からの書簡説明が武家伝奏に出されただけで、三家はおろか重臣は誰も来ない。上述の如く前水戸藩主・徳川斉昭には「急度慎み」、名古屋藩主・徳川慶勝には「隠居・急度慎み」の処罰が下され上洛など出来ないし、7月6日に征夷大将軍・徳川家定は死亡していたから、大老・井伊直弼は国事に忙殺されていてすぐ上洛など出来なかったのだ。ここで、更にまたまたロシアとも条約を結び、イギリスともフランスとも結ぶと言う。「幕府は、こんな風に朝廷をないがしろにするだけだ」と心の底から無力感を味わう孝明天皇は、他の人に天皇の位を譲りたいと、再度真剣に譲位を伝えた。  
こんな譲位の決意を天皇から直に伝えられ危機感を募らせる左大臣・近衛忠煕(ただひろ)は、右大臣・鷹司輔煕(すけひろ)、内大臣・一条忠香(ただか)、前内大臣・三条実万(さねつむ)などを中心に巻き込み策を練りはじめた。渋る関白・九条尚忠が朝議に出席していない中でも、安政5(1858)年8月8日近衛忠煕らは、朝廷から密かに水戸藩に蜜勅を送り、「国内の治平を図り公武合体を強固にし、幕政を改革し、攘夷貫徹せよ」と命ずる事を朝議決定し、即実行に移した。そして三卿、家門一同の隠居に到るまでこの趣旨を伝えよとも命ずる近衛忠煕や鷹司輔煕の署名する副書が付けられた。翌日、この蜜勅と同じ内容の勅書が幕府にも出されたが、意図的に水戸藩には早く伝えるという朝廷の画策である事は明白だった。この勅書を出したことにより、天皇は譲位の決意を変えている。  
身内の御三家や親藩からの違勅の大合唱のみならず、朝廷からさえこの8月8日の勅書で、  
勅答内容に背き軽率に條約調印したことは、大樹(=将軍)は賢明なはずだから、幕閣は何と心得ているのか、(天皇は)不審に思召されている。  
とあからさまに幕閣非難の勅書を出されては、大老・井伊は職権を駆使し牙をむかざるを得ない程までに追い詰められた。この蜜勅が引き金になり、後に大老・井伊直弼の「安政の大獄」と呼ばれる反対派への大弾圧が始まる。このとき、条約調印の件で大老・井伊に激しく「違勅」と詰め寄り上述の如く急度慎み処分を受けていた3名は勿論、水戸藩主・徳川慶篤、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内容堂、佐倉藩主・堀田正睦なども隠居・慎みの処分を受け、この他吉田松陰、橋本佐内、頼三樹三郎、安藤帯刀など多くが切腹・死罪を含む厳しい処罰を受けた。更に、青蓮院門主・尊融親王に隠居・慎み・永蟄居、左大臣・近衛忠煕に辞官・落飾、右大臣・鷹司輔煕に辞官・落飾・慎み、前関白・鷹司政通や前内大臣・三条実万に隠居・落飾・慎み、内大臣・一条忠香に慎み、など公家にも多くの処分者が出た。これが安政7(1860)年3月3日の桜田門外での大老・井伊直弼の暗殺につながる。 
4、初めての遣米使節

 

アメリカで「供揃えを付けた、格式に合う行列を組まねばならぬ」  
遣米使節派遣の背景  
ハリスが強硬に要求する自身の上府と将軍との会見、江戸への公使駐在、通商条約の締結などの難問題は、幕府や譜代大名を始め、朝廷をも巻き込み意見が分かれていた。しかし、戦争に訴えるかもしれないと脅しをかけるハリスは、結局老中・堀田正睦(まさよし)に会い、将軍家定に会い、堀田の役宅で世界情勢について大演説を打ち、通商条約作成に向けフル回転をし始めた。  
そしてついに老中・堀田正睦は井上信濃守と岩瀬肥後守を条約作成の交渉委員に任命し、江戸でハリスと日米通商条約交渉が始まった。この日米修好通商条約の批准書交換に、日本からアメリカの首都・ワシントンへ使節を派遣するという合意は、この交渉中に話し合われた。合計13回に及んだ交渉の中、安政4(1857)年12月23日、第8回目の交渉の最後に話し合われている。この時日本側が、  
条約に関し、貴国から日本に今回も含め3度も使節が来ているから、今度は当方から使節を派遣し、ワシントンで批准書交換をしたいがどうであろうか。  
と提案するとハリスは、「非常に良いお考えです。はっきり決まれば条約にもその旨記載したい。そうなれば私もこの上なく幸福で、我国を見ていただくだけでも有りがたい事です」とすぐ受け入れた。  
条約の最終案が完成すると、支那でのアヘン戦争にかたをつけたイギリスやフランスが大艦隊を引き連れ、戦争覚悟で通商条約交渉ににやってくるぞというハリスの再度の脅し文句に、その前に朝廷から通商条約勅許を取ろうと時間がかかっていた幕閣の不安を煽った。ハリスは、アメリカとの条約調印が出来ていれば、イギリスやフランスが来ても戦争は回避できると言った。大老・井伊直弼の、「アメリカとの条約に調印を済ませて、イギリスやフランスとの戦争回避が先決だ」と、しぶしぶながらの同意を得た井上と岩瀬は、安政5(1858)年6月19日、ハリスと「日米修好通商条約」に調印した。引き続き幕府は7月10日にオランダのクルチウスと、7月11にロシアのプチャーチンと、7月18日にイギリスのエルジンと、9月3日にはフランスのグローと夫々ほぼ同等な修好通商条約を結んだ。この「勅許なしの条約調印」という出来事に、幕府ご三家や譜代大名の中でさえも意見が分かれ、孝明天皇も全く不満で、朝廷を中心に京都では攘夷が叫ばれ始めた。  
こんな背景の中で、日本始まって以来はじめての使節が、条約批准書交換のためアメリカに行くことになったのだ。ここで興味ある事実は、日米修好通商条約の第14条にある最初の文である。いわく、  
第十四条、右の条約の趣は、来る未年6月5日(即ち千八百五十九年七月四日)より執り行うべし。この日限あるいはそれ以前にても、都合次第に日本政府より使節を以て、亜米利加ワシントン府に於いて本書を取替すべし。若し余儀なき仔細ありてこの期限中本書取替し済ずとも、条約の趣はこの期限より執り行うべし。  
このように、取決めた開港日までに条約批准が済まなくてもこの条約は発行する、としている点だ。合意した物事でも上手く進まない日本の政治情勢に、危機感を持つハリスが挿入させたのだろう。  
渡米準備と使節変更  
幕府は早くも條約調印から1月後の安政5(1858)年7月19日、ハリスに遣米使節の乗る船の斡旋を依頼し、8月23日には外国奉行・水野筑後守と永井玄蕃頭(げんばのかみ)、目付・津田半三郎、加藤正三郎に、使節としてアメリカに行き締結した條約批准書を交換すべく命じた。4人の使節と84人の供揃えも含めた総員88人が渡米すると伝えられたハリスは、その物々しさに目を丸くした。  
前述のごとく大老・井伊直弼がしぶしぶハリスとの條約調印を許しはしたが、この頃にはしかし、ハリスと交渉し日米修好通商条約をまとめさせた老中・堀田備中守が、自身で京都に出向いても朝廷から條約勅許を貰えず、一連の責任において6月23日に老中を罷免されていた。9月には井伊が老中・間部詮勝(まなべあきかつ)を上京させ、尊皇攘夷派の弾圧の手始めに上京遊説中の水戸藩士等を検挙させ始め、いわゆる安政の大獄の前哨戦が始まり、直後から幕府内の役人にまで左遷や罷免が行われるから、アメリカへの使節派遣どころではなくなってきた。ハリスが11月14日、遣米使節の乗船する軍艦派遣を香港のタットノール提督に要請するからその書簡を長崎に送ってくれと幕府に依頼したが、それどころではない幕府は、しばらくの猶予をハリスに要請している。  
当初遣米使節に任命されていた外国奉行・永井玄蕃頭は、安政6年2月24日将軍後継問題で反対派に立っていたため井伊直弼により軍艦奉行に左遷され、また使節ではなかったがハリスとの交渉に大いに貢献した下田奉行兼外国奉行・井上信濃守さえも小普請奉行に左遷されてしまった。また一方の使節・水野筑後守は、安政6(1859)年7月27日に横浜で起ったロシア士官の殺害事件の責任をとり更迭されたから、最初に決まった遣米使節は白紙に戻らざるを得なくなった。そこで幕府は新たに9月13日、外国奉行兼神奈川奉行・新見正興、勘定奉行兼箱館奉行兼外国奉行兼神奈川奉行・村垣範正、目付・小栗忠順(ただまさ)を遣米使節に任命した。  
この変更人事を聞かされたハリスは、老中・脇坂安宅(やすおり)に向ってこう非難した。いわく、  
遣米使節は水野筑後守と永井玄蕃頭と聞かされていたが、こんどは新見豊前守と村垣淡路守に変更されたとお聞きした。筑後守の変更は(ロシア士官殺害責任のためと)分るが、玄蕃頭はなぜ変更になるのか合点が行かない。・・・条約調印以来それにかかわったお役人はことごとく左遷され、逆に私に不敬の態度をとった者が取り立てられている。・・・私と親しかった人達が全て退けられたが、これは私に敵対していることになる。  
と感情をむき出しにした。脇坂は、なおも食い下がるハリスを前に国内事情だと説明に勤めたが、なおしつこく攻撃の手を緩めないハリスを、「人選はこちらの都合で決めることで、それを以って敵対している等という言いかたは理解できない」と切って捨てた。  
しかし、ハリスが感情的になった裏にはいささか理由があった。最初にアメリカ総領事として将軍に謁見した時、ハリスは非常に丁寧に迎えられたと満足だった。がしかし今回、条約締結後に公使に昇格し戻ってきたハリスが新任公使として将軍謁見を申し入れ、安政6年10月11日に実現こそしたが、2年前の最初の謁見に比べ大巾に粗略で侮辱さえ受けたとハリスは思ったのだ。ハリスは、自分が市中を登城の折も馬を引いたり荷を背負ったりする通行人は誰も道脇に控えず、前回城内に入ってからの案内者は奉行だったが、今回は無位無官の者で、城中でも不敬の態で下人共が騒ぎたてた。こんな事は瑣末なことだが、最も許せないのは、会った将軍は言葉を掛けてくれないばかりか会釈も返してくれず、前回の老中全員の面会に代わり、間部下総守とその他一人が自分と会っただけでほとんど口も利いてくれなかった。これは自分一個への侮辱ではなく、本国の大統領を侮辱したと同じことだ。こんな軽蔑した取り扱い振りを城中の大勢に見せる意図があったのだろうと、ハリスは次々に不満をぶちまけた。これらが自尊心の強いハリスを痛く傷つけ、怒ったハリスは将軍謁見のやり直しを幕府に求めた。「公使への侮辱はアメリカへの侮辱だ」と迫ったのだ。紆余曲折の末にハリスとの再度の将軍謁見が実現したが、こんな最初の謁見からやり直しの謁見まで取り仕切った外国奉行たちが、今回の新使節に任命された新見や村垣だったのだ。ハリスは、「この奉行たちから不敬な待遇を受けた」と、たいそう立腹したのだった。  
伴走軍艦・咸臨丸の派遣とアメリカ人乗組み  
遣米使節とその従者たちは、アメリカ政府の好意で軍艦・ポーハタン号に乗船し太平洋を渡ることになったが、最初に遣米使節が決まった時、当時使節に任ぜられたばかりの水野筑後守と永井玄蕃頭から日本の軍艦も送るべきだとの提案が出され、幕府もその願いを認めていた。幕府はやっと数艘の軍艦を購入し、長崎で海軍の訓練を始めて4年ばかりの時の話だから、いろいろな議論もあった。  
最初に任命された使節・水野筑後守と永井玄蕃頭の、安政5年8月30日の申請書にはこう書いてある。  
現地に着いて公式に出歩く場合、供揃えを付けた格式に合う行列を組まねばならない。前回の申請は連れて行く人数を抑え、現地で人を雇う予定であった。しかし、雇った現地人に日本式衣服を着せれば、もし今後外国人が日本に来て日本人を雇い、洋服を着せて供に加えたらこれは問題である。この度もフランス人が日本人を雇い、洋装をさせた問題もあったばかりだ。日本から多人数を連れてゆくとそれなりの身繕いをし、食料・飲料も必要になり、この運搬はアメリカ船だけでは足りない。従ってぜひ日本からも蒸気船を出していただきたい。そうすれば、その船に乗り組む日本人水夫を供揃えに加え、現地人などに頼らずとも一石二鳥でうまくゆく。オランダ人から操船術を習い始めて3年も経ち、日本船が1艘も出ないことは誠に残念である。今回は初めての航海ということで案内がアメリカ船で、日本からも軍艦を出すという形式になれば、名義も十分にたつ。操練所の教授たちは4千里の海洋航海で経験を積み、彼の国で軍艦の種別、海軍法制など実地に研究もでき、新発明もあると聞くから海軍建設の勉強にもなる。費用はかかるが、将来のためぜひご英断いただきたい。  
格式に見合った供揃えのため日本軍艦の水夫を使うなどとはよく考えたものだが、とにかく近い将来の海軍建設のためには絶好の機会であり、その経験を積みたいという強い熱意が、こんな理由をも考え付かせたのだろう。  
この申請に対し、操船訓練を受けたとはいえ日も浅く、途中で万一事故にあったらかえって海軍建設の障害になるなど慎重意見も出た。これに対し、  
航海上重要な測量術もマスターしてあり、蒸気船の操船にも問題はない。しかしその時の交渉しだいだが、アメリカ人の航海士と熟練船員を2、3人乗り組ますことができれば、大風に合い進路を失うようなことがあっても安心だろう。しかし常にあるわけではないが、万一のことがあったらそれは致し方ない。  
こう水野、永井等の使節は答えている。このようにして、日本軍艦の派遣とアメリカ人の乗り組が、幕閣により最初から決定されていたのだ。  
咸臨丸の太平洋東行ルート:嵐に流されたが、最短航路を取ろうと北緯43度あたりまで北上し、サンフランシスコを目指した  
上述のように派遣使節が再任され、軍艦派遣の実行に際し、責任者の新しい軍艦奉行・木村攝津守が幕閣からアメリカ士官を咸臨丸に乗り組ませる再確認を取り、ハリスの協力で当時横浜に仮滞在していたブルック大尉の了解を得ることができた。このように日本軍艦派遣とアメリカ人の乗組み計画は、もともと水野筑後守と永井玄蕃頭の発案であったのだ。  
また咸臨丸の選定について、当初軍艦操練所の教授方頭取だった勝海舟が、最初に決まった使節の水野筑後守の内諾を得て、スクリュー推進式軍艦・朝陽丸を整備し渡航準備を進めた。しかしその後、新しい軍艦奉行・井上信濃守が、朝陽丸は小さすぎるからと側輪推進式軍艦・観光丸の派遣に決めた。派遣する日本の軍艦選定を変えたのだ。しかしまた、荒れ狂う北太平洋の帆走航海には「抵抗の少ないスクリュー推進のほうが良い」という日本軍艦に乗り組むことに決まったブルック大尉の助言があり、再度咸臨丸に変更された経緯がある。派遣軍艦の選定が二転三転したわけだが、この時勝海舟や担当技術者は徹夜で咸臨丸の整備を行い、やっと期日までに渡海の準備を完了した。  
事実咸臨丸の航海を通じ、ブルック大尉はじめアメリカ船員11人の乗船は、荒れ狂う太平洋航海成功の重要な要素の一つであった。この時から126年も後年の、1986年になって初めて刊行されたブルック大尉の咸臨丸に乗組んだ時の航海日誌を読む限り、筆者には、日本人だけであったら果たして太平洋横断が成功しただろうかという疑問が湧いてくるが、水野筑後守と永井玄蕃頭の「アメリカ人を乗組ます」という発案が、咸臨丸の安全航海をなしえた基のように思われる。  
少し先走るが、この後の萬延元(1860)年閏3月19日、サンフランシスコから帰路についた咸臨丸は、日本人の操船でハワイ経由無事に帰国できたが、往路の暴風雨下の荒海航海の経験や、ブルック大尉から教えられた実地訓練が大いに役立ったようだ。しかし木村攝津守と勝海舟は、念のため帰路の安全策をも考えたのだろう。日本からサンフランシスコまで一緒に苦労してくれた、ブルック大尉指揮下だったアメリカ人水夫5人を雇い帰路も同行させている。浦賀経由で5月5日神奈川に帰着すると、雇い入れていた往復の航海で共に苦労してくれたアメリカ人水夫達は、神奈川のアメリカ領事へ引き渡された。 
アメリカへ  
出航と太平洋横断、首都・ワシントンへ  
遣米使節団を迎えに来たポーハタン号は、嘉永7(1854)年冬にペリー提督が2回目に来航した時、旗艦として江戸湾に来た。この船は排水量3600トンもある、ペリーの当時では世界でも有数の大型軍艦だ。ハリスの要請で使節団をアメリカまで乗せるため、司令官・タットノール提督は香港で多くの船室を追加してきた。  
使節の新見、村垣、小栗は登城して将軍・家茂からアメリカ大統領に宛てた信書や国務長官宛の書簡、条約批准書、黒印を押した渡米命令書などを受け取り、2日後、築地の軍艦操練所から小船に乗り、品川に回航したポーハタン号に乗り込んだ。総員77人、萬延元(1860)年1月18日の事だ。  
直接サンフランシスコ行きを目指したポーハタン号は、冬の北太平世を吹き荒れる嵐のため途中で直行をあきらめ、2月13日燃料補給のためハワイに寄港し、3月8日無事サンフランシスコに着いた。湾内にあるアメリカ海軍のメーア島造船所にはすでに咸臨丸が無事到着しており、アメリカ海軍の好意で補修のためドック入りをしていた。サンフランシスコでは9日間の歓迎行事をこなし、保養もした一行は、3月17日またポーハタン号でパナマに向け南下した。当時のパナマにはまだ運河などなく、60kmほどの地峡を汽車で横断し大西洋に出たが、日本国の使節が汽車に乗った初めての経験だ。  
大西洋岸のアスピンウォールには、すでに排水量4770トンもある更に大きなアメリカ軍艦・ローノーク号が待っていた。日本使節を首都・ワシントンまで送る使命を帯び、アメリカ政府が準備したのだ。ローノーク号にはマクルーニー提督が乗り組んでいたが、ペリー提督と共にポーハタン号艦長として日本に来た人だ。ここから北上し、首都・ワシントンに通じるチェサピーク湾入り口のハンプトン・ローズに着き、これから一行の面倒を見るアメリカ側代表者の4人に会ったが、皆ペリー提督と共に日本に来た人たちだった。ハンプトン・ローズはジェームス・リバーがチェサピーク湾に流れ込む河口の地名だが、ここにペリー提督が日本に向けて出航した軍港・ノーフォークがある。そもそもこの遣米使節がアメリカに来ることになった原因は、ペリー提督が結んだ日米和親条約とその中に盛り込まれた領事の日本駐在だ。そして総領事としてやってきたハリスが通商条約を結んだことにあるから、当時のアメリカで日本を良く知るいわゆる知日派は、ペリー艦隊に乗り組んだ人たちである。更に、ペリー艦隊のオランダ語通訳だったポートマンも今回の日本使節団への通訳として選任されたから、ペリー艦隊との再会とも言えそうな陣容である。  
批准書交換  
(この節以下の陰暦は日付け変更をしなかった村垣の日記に基ずくもので、実際より1日進んでいる)  
ハンプトン・ローズで軍艦・ローノーク号から川蒸気に乗り換え、チェサピーク湾からポトマック川を遡りワシントンDCの南側、ポトマック川の支流・アナコスシャ川に面した海軍造船所に着いた。副使・村垣淡路守の閏3月25日の日記によれば、  
12時に街のはずれのネービー・ヤード(海軍造船所)へ着船。ここは都府の総海軍所とのことで大きな構えである。頭役とか役人の総代だといって歓迎の挨拶に来た。陸には男女が群れ集まり、家の内外や屋根にまで上って見物している。やがて代表者のデュポン氏一行が我々を案内し上陸すると、ブカナン提督が迎えに出た。この人もペリー渡来のとき、艦長として来た人だ。その他5、6人が来て挨拶したが、見物人が押し寄せて道もないほどになった。そんな中に新聞紙屋という人たちが方々を駆け歩き、何かしきりに書いていた。後で聞けば、即座にその日の新聞紙に刷り、売り出すとの事だった。向こうの二階には写真機を立て掛け、我々の上陸の様子を写すとの事だ。  
と、上陸時の歓迎の様子や混雑のさまを記録している。  
ワシントンでは大歓迎を受けた。上陸からワシントン・ウィラード・ホテルまで5kmほどの距離を騎兵隊や楽隊、銃隊に先導され、一行は多数の馬車に乗ったが、熱狂する観衆が花束を投げ入れ、鐘を鳴らし、2、3町行っては止まり、また止まるという程の歓迎の人波にもまれた。村垣の日記には「まるで江戸の祭りのようだ」と書いている。ホテルは今でも14番街とF通りの角にあるが、100m四方もありそうな5階建ての立派なものだった。アメリカ滞在中はどこに行ってもこんな熱狂的な歓迎が続いた。  
27日にカス国務長官を訪ね、着米の挨拶をし、咸臨丸の修理や軍艦派遣など米国政府の助力に感謝した。国務長官のオフィスは国会議事堂の一角にあったが、普段のまま何の飾り気もなく事務所に通し、事務的な会見だった。前節の「渡米準備と使節変更」に書いたが、アメリカ駐日公使・タウンゼント・ハリスは将軍との公使謁見が粗略すぎたと幕府にねじ込み、外国奉行・村垣範正や新見正興が対応に追われ、もう一度将軍との謁見をやり直させた。ハリスはこの国務長官のカスと比較しても、いかに特異なアメリカ人だったかがわかる。しかし村垣の日記にはカス国務長官との会見をこんな風に書いている。  
この席は外国事務ミニストルが毎日出勤する局とのことだ。机を置き、書籍など取り散らし、少しも取り繕った様子もなくただ平常のように面会し・・・外国の使節に始めて対面するのに少しの礼もなく、平常懇志の人(寺に寄進に来た信徒)が来たようにお茶も出さずに済んだが、全く胡国(夷狄(いてき)の国)という名の通りのやり方だ。  
このニュアンスからも分かるとおり、「礼節の国・日本」では、ハリスの抗議を受け入れ将軍謁見をやり直したのも、礼節に関してそれほど理不尽な要求とは思わなかったからだ。そして、カス国務長官がとったアメリカ伝統の、礼節もなく実務的に合理主義を貫くやり方に面食らったわけだ。  
閏3月28日はいよいよ大統領との会見の日だった。3人の使節は武家の正装の狩衣(かりぎぬ)に萌黄色の烏帽子(えぼし)をかぶり、立派な飾り太刀をつけた。お付きの役人も夫々その格により布衣(ほい)や素袍(すおう)、麻裃で正装した。儀仗兵や騎兵隊、楽隊と共に条約批准書を入れた飾り箱が進み、お付きの役人と共に、夫々1人ずつアメリカの案内人をつけた3使節の馬車が続いた。ホテルを出た行列はホワイトハウスに向かったが、広い道路沿いには相変わらずものすごい見物人の垣ができた。日本人代表団は誇り高々に進んだが、村垣いわく、  
自分たちは正装の狩衣を着て、海外では見慣れぬ装束だから人々は不思議そうに見つめていたが、このんな夷狄の国に来て皇国の光を輝かせる心地がし、おろかな身の程も忘れ誇り顔で行進するのもおかしかった。  
と書いている。正装した日本国の代表が、公式にアメリカ大統領に会うのだという晴れがましさと誇りが強かったのだろう。  
ホワイトハウスでは、大勢の役人や軍人が左右に並ぶ中でブキャナン大統領の歓迎を受け、無事批准書を渡した。後ろには大勢の婦人たちも着飾って控えていた。オランダ通辞の名村五八郎が通訳を勤めたが、オランダ語から英語は前述のポートマンが受け持ったはずだ。批准書交換も無事に済み夕方ホテルに引き上げた。村垣は、  
大統領は背も高く70歳くらいの老翁で白髪穏和で威厳もあったが、商人と変わらない黒ラシャの筒袖股引をつけ、飾りもつけず太刀もつけない。合衆国は世界一、二の大国だが、大統領はいわば総督で、4年に一度全国の選挙で選ばれるという。国王ではないが、将軍から御国書も遣わした関係上国王に会う礼を用いた。しかし上下の別もなく、礼儀など何もなく、狩衣の正装も無益なことのようだった。  
と書いているが、封建社会の支配階級を代表してやってきた村垣には、民主主義国アメリカの習慣は奇異なことばかりだった。しかしアメリカ側は大喜びで歓迎し、海外へは誇り顔で、狩衣姿を写真に撮って新聞に載せたという。初めて外国へ遣いをし、無事に将軍の言葉も伝えることができたので、男に生まれた甲斐があり、本当に嬉しかったとも書いている。  
カス国務長官の夜会やホワイトハウスでの演奏会に出席し、国会議事堂や、その他多くの場所を見学をした。国会議事堂で特別に議会の様子も見たが、審議中は議員たちが演説のため「大声で罵り」、副大統領など一段と高い議長席に座っていたりと、日本橋の魚市場のようだと村垣の目には映った。  
フィラデルフィア、ニューヨークを回る  
批准書交換も終わったので、帰りはまたアスピンウォール経由太平洋岸のパナマに出て、ニューヨークからホーン峰経由で太平洋に出てくるナイヤガラ号に乗って帰る予定であった。ナイヤガラ号は、排水量5540トンもある更に大型の軍艦で、3台のピストンが水平にスクリュー軸に付いている、1995馬力もある最も大型の新鋭艦だった。それまでにも大統領や国務長官はじめ多くの人が、ぜひアメリカを見て帰ってくれとしつこく勧めていた。4月13日になって、使節とパナマで再会するためニューヨークを出航したナイヤガラ号は蒸気機関の故障で引き返し、1月ほどの修理になるとの報告が入った。国務長官は、このまま1月もワシントンに居てもしょうがないし、ちょうど良い機会だから方々の都市を見て歩き、修理の終わるころニューヨークに着けばよい。そして、喜望峰回りで帰国すれば真夏のパナマを通過せずに済むといってくれた。  
村垣の考えでは、「ナイヤガラ号がニューヨークを出たというのは偽りだろう。あんな大船が出航してすぐ故障するなどとは信じ難い」と書いている。しかしアメリカ人の気質を考えれば、筆者は、おそらく船の故障は事実だったように思うがそれ以上は分からない。使節団は、それではボルチモア、フィラデルフィアを回ってニューヨークに行こうと計画変更に合意した。村垣は、このように一旦合意したことも変更せねばならず、わが国の軍艦でなければ乗ってはだめだとつくづく思った。しかし、世界一周できる技術や経験もなく、そんな大型の蒸気軍艦さえないころだから、こんな経験や見聞した新知識を早く日本の皆に伝えたかったろう。しかし帰国してみると大老・井伊直弼は殺害され、尊王攘夷が叫ばれる真っ只中で、皆一様に口を閉ざす以外の方法がなかったから、全く皮肉な結末だった。  
4月17日、いよいよ大統領やカス国務長官にいとまごいをしたが、使節3人には大統領から純金の記念メダルを送られ、以下全ての団員にも国務長官から記念銅メダルが贈られた。いよいよ4月20日、ワシントンのホテルを後に、汽車に乗ってニューヨークを目指した。  
途中ボルティモアで降りるとまた大歓迎が待っていた。ホテルに入り歓迎の食事になったが、消防隊のデモがあり、7階まで簡単に水を噴き上げてみせた。暗くなると花火が上がった。流星や火の玉が砕け散るものがあり、色もさまざまに変わり、明らかに隅田川・両国の花火より優れたものだった。翌21日また汽車に乗ったが、河にかかる1マイルもある長い橋をいくつか渡った。更に驚くべきことは、チェサピーク湾にそそぐサスケハンナ河はその河幅が1kmほどもある広さだが、急流で橋がない。使節団の乗る汽車をそのままフェリーに乗せ対岸につくと、何事も無かったようにまた汽車は走り出した。これは全く驚くべき経験だった。車中で居眠りしているものは、そんなこととは露知らず居眠りを続けるほど自然の出来事だった。かくして夕方フィラデルフィアに到着したが、駅からホテルまで、相変わらず熱狂的な群衆が待っていた。車中の昼食はパンを食べただけで皆空腹を抱えてホテルの食卓についたが、肉料理などと共にやっと出てきた米の飯はバター入りだった。これでは食べられないと交渉し、また別の飯が出てきたが今度は砂糖入りだ。仕方がないからパンを食べるだけだったが、「世界の国々は風俗も食べ物もほぼ一緒で日本だけが特異だから、異国の旅の難儀は筆舌に尽くしがたい」と村垣は書いた。今でこそ日本食レストランは世界中にあるが、当時は確かに大変だったろう。  
フィラデルフィアにアメリカ政府の造幣局があったから、通貨交換比率の交渉の参考にするため、日本の金貨・小判や一分金の分析を依頼した。サンフランシスコでも同様な分析をしたが、これはアメリカ政府のお膝元という意味もあったのだろうか。ここは工業の中心地であり、街の造りもワシントンよりはるかに良く、人々の暮らしも裕福そうだった。23日の現地の新聞記事で、江戸で井伊大老の負傷というニュースに接したが詳細は一切不明だったから、使節一行は大いに心配だった。桜田門の事件は日本に帰ってからはじめて詳細を知ることになる。さて7日ほど滞在した28日、対岸に蒸気フェリーで馬車ごと渡った後また汽車に乗りニューヨークに向かった。  
ニューヨーク湾岸に達し、アムボーイという町で迎えの大きな蒸気船・アリダ号に乗り換え、ハドソン川河口のニューヨーク第1波止場に着いた。アメリカ第一の商業都市にふさわしくおびただしい船が停泊し、海岸には見物人が雲霞のごとく押し寄せていた。ブロードウェーをはじめ街中を馬車で行進するとここにも歓迎の見物人が押し寄せていて、行っては止まり、行っては止まりと際限がなかった。壇上に案内され着席すると、その前を何組もの騎兵隊が行進し、楽隊まで騎乗兵であった。更に、色とりどりの服装で楽隊を先頭に行進する歩兵部隊が次々に通り、気付け薬のウォッカの樽を背負った兵士まで来た。また馬車に乗り、夕方になってやっとメトロポリタン・ホテルに着いた。  
フィラデルフィアもそうだったが、夕方からガス灯に火が入り、戸外は昼のように明るかった。しかしこのような夜の繁華街は2筋くらいで、あとは比較的閑散としていた。村垣は日記に「フィラデルフィアは富裕の商人が多く、諸物を製造する所だから良い品も多く、人々も温順だった。ニューヨークは各国の商船が多数停泊し、方々から人が入り込み、貿易は盛んだが人は薄情で、物価も品質が悪く高い。案内のデュポン氏は、この街には外国人が多く入り込み人品も悪いから、往来にも用心すべしといった。何方も船着の大都会は人情が同じようだ」と書いている。おそらく函館奉行の時の経験から書いたのだろう。  
ニューヨークでも大歓迎を受けたが、ボストンからもぜひ来て欲しいと市長が出てきた。しかしもうこれ以上は動けないと断ったが、今回わざわざ造ったものだと、残念そうに懐中時計を記念に置いて帰った。この金時計はボストンのアメリカン・ワッチ・カンパニー(「ウォルサム」のブランドで知られる)が特別に造ったもので、今も日本の外務省に保存されていると聞く。ニューヨークにはペリー提督の立派な持ち家があり、提督自身は3年前に亡くなっていたが未亡人に会い、日本から使節が来たのはペリー提督の功績だとの世論が再び高まっていることを聞いた。更に娘婿のベルモント氏とも会い、その晩餐会に招かれもした。  
東回りで帰国  
5月12日、いよいよ使節一行はキーン艦長率いる軍艦・ナイヤガラ号に乗船し、明日の出航に備えた。通訳のポートマンも一緒だった。翌日は快晴で、ずっと面倒を見てくれたアメリカ側の案内者・デュポン氏はじめ見送りに来たが、ナイヤガラ号は蒸気力だけで出航した。  
大西洋を南下し、喜望峰を回り、インド洋に出てバタビアを通り、香港を経由し、9月28日浦賀沖にかかった。村垣の目には、快晴で富士山もきれいに見え地球を一周してきた甲斐があったがしかし、日付けを確認すると9月27日だという。「されば1年のうちに1日余分に手に入れたことは一生の得だ。詳しいことは航海者に聞くべし」と書いたが、サンフランシスコへ向かう途中の日付け変更線を知らず、日にちを調整せず日記をつけ続けたからにほかならない。品川沖に停泊した翌日、すなわち正確な9月28日、使節一行は軍艦操練所に上陸した。8ヶ月以上にも及ぶ世界一周の旅だった。 
随行者・玉蟲左太夫が見たアメリカ  
正使・新見豊前守に随行した仙台藩士・玉蟲左太夫は『航米日録』と名づけた日記を書いていた。当時の日本人が見た外国の一例として、その中の特徴的記述をいくつか簡単に列挙してみる。  
船中で  
1月20日(横浜停船)ポーハタン号の船員たちは極めて丁寧で、誰にでもよく物事を教え、少しも隠さない。彼らの日常を見ると、各々その責任範囲を専一に務め少しも怠らず、総官の命令いっか神速に命令遂行する。まるで手の指を使うようだ。  
1月23日(暴風雨)70余名の使節一行は全員魂を失い、一人として声を発せず、病人のようだ。真夜中に風波いよいよ激しく、陶器は砕け水器は破れ、今にも沈没かと思われた。しかし、その仕事に慣れているアメリカ人の挙動に全く変化はなかった。こんな事は彼らにとっては日常的で、我々の示した恐怖の色は一笑に付すだろうと、翌日になり赤面の至りだった。  
1月27日(強い南風)南風が暖かく平日と異なり、皆気分が悪くなった。午前10時ころ船上で音楽が始まった。怒涛が船上に飛び込んでくるにもかかわらず、悠々と演奏を続けた。これを聞くと心中が和み、苦痛を忘れた。外国の音楽でさえこんなに心を癒すから、日本の音楽なら更に良いはずだ。  
2月1日(大雨・強い南風)これまでアメリカ人の様子を観察してきたが、波浪で船が動揺し歩行困難のときは手を取り助け、(波浪が打ち入る自分の船室から避難して)夜中に中層デッキに行っても、「お早う」と言って布団を敷きここに寝なさいと手で示す。日本人の悲嘆の色を見れば「じきじき(すぐ着くよ)」と言っては慰める。そのほか何事にも丁重に世話をし、自分の事は二の次で面倒を見る。その親切は全く感心だ。従って夷人といえども、みだりに卑下してはいけない。この人達へも儒教の五常(仁、義、礼、智、信)の教えを説けば、必ず礼儀の人となるだろ  
サンフランシスコで  
3月12日(メーア島)(別船でサンフランシスコの歓迎式典に参加しメーア島海軍基地に帰ってきたが、そこに停泊中のポーハタン号が撃った祝砲が、運悪く通りかかった海軍基地を統率する提督を打ち倒してしまった。自宅に送られた)提督はこんな重傷を意に介さず、「この度は重傷を受けたが心配するに足りない。45年前メキシコ戦争で死ぬところだったが、一眼を失っただけで40余年の時を過ごせたのは実に天幸だった。今たとえ一命を失っても遺憾とは思わない」と言い、椅子に腰掛け泰然としていたという。この話を聞いて大いに驚いたが、尋常の人ではない。歴史書に載せて恥じない人だ。アメリカには英雄や豪傑が多い事はこれで分かるはずだ。  
3月16日(サンフランシスコ風俗)この湾は金鉱に近く、大きく湾曲して停泊に便利であるから、ヨーロッパやアメリカの商船が隊をなして来る。今も数百艘ほども停泊している。合衆国の諸府やニューヨークとは殊に往来があり、2艘の小型蒸気船が互いに連絡している様は、日本の常飛脚のようだ。フランス、イギリス、オランダなどからここに転居する者が多く、支那人もまた一万五千人ばかり居て、別に一港をなし唐人街と名付けている。また電信機を設置し、サクラメントの方々に通じている。急用を告げたい者は、それなりの金額を出せば数百里の遠方といえども一瞬で通じ、たちどころにその用事の往復ができ、その便利さといったらない。  
3月17日(サンフランシスコ停船)アメリカ船員は、船将の前でもただ脱帽するだけで礼拝はしない。平日でも船将・士官の別なく上下で交わり、たとえ水夫でも、あえて船将を重んじる風も見えない。船将もまた威厳を張らず、同輩のようだ。従ってお互い親密で、事あればお互い力を尽くして助け合う。凶事があれば涙を流して悲嘆する。日本とは相反する事だらけだ。日本では礼法が厳しく、総主などには容易に拝謁できない。あたかも鬼神のようだ。これに準じて、少し位の高い者は大いに威厳を張り、下を蔑視し、情を交える事はいたって薄く、凶事があっても悲嘆の色を見せない。彼らとは大いに違う。こんな風では、万一緩急の時に誰が力を尽くすだろうか。これは、長く平和が続いた弊害だろうと嘆かざるを得ない。しからば礼法が厳しく情交が薄いより、むしろ礼法は薄くとも情交が厚い方を取るのか。自分はあえて夷俗を貴ぶのではないが、最近の我が国の事情を考えれば自ら分かるはずだ。  
ワシントンで  
4月16日(ワシントン)夜、旅館の別部屋で影絵幻灯会が模様された。大統領が来たが、御者一人、女性2、3人を連れただけだった。従僕は連れず、平人と同じだったが、周りの人は何も怪しまず、礼拝する者も居ない。自分たちもその席に行ったが、誰が大統領か判別できなかった。夷人の上下のない平等の風習はこれでよく分かる。  
ワシントン滞留中のことこの地に着いてから、我が役人が厳禁にしたので外出ができない。たとえ外出が許されても、官吏が付き添う。そんな時、たいていの人は時計やラシャ、ビロードといった類の品を求めて市中をうろうろするだけだ。1人で4個も5個も買うなどしているのを見ると、日本に帰って利益を得ようとしているに違いない。そして安いものを買おうと奔走する。実に見苦しい限りだ。自分はぜひ学校を訪ねたいと願ったが、付き添ってくれる官吏など誰もいず、ついにその願いを遂げられなかった。まして貧院、幼院など推して知るべしだ。これらは皆アメリカの風俗などを探索する格好の場所で、第一に行くべき所だ。今回渡海した者は、お奉行始め誰もそんな心のある者はいない。  
ワシントン滞留中のこと日本が万国と貿易するときは諸品の製造も今の十倍も作らねばならないが、限りある人力でどれ程頑張っても、そんな事は決してできない。貨幣の損失は論ずるまでもなく、国が衰弱するだけだ。これを解決するには、蒸気機械を製造し一人で百人分の仕事をする術を始めねばならない。その上で貨幣の改革をすれば、百年千年貿易しても衰弱に陥る懸念はなくなる。  
この時から8年後には徳川幕府が政権を返上し、新しい明治政府ができたが、この間の政変のめまぐるしさに目を奪われ、それだけでこの時代を見がちだ。しかし当時の名も知られない武士の中に、初めて接する異文化に対し、このように優れた観察力と思考能力を持ってよく見据えていた人達がいたのだ。歴史を学ぶ者は、表面にあまり出ないけれど重要な、当時の人間像をよりよく見つめる必要があろう。 
とりあえず幕府が学び実行できた改善策  
軍艦操練所の教育と徽章の制  
軍艦奉行・木村摂津守や軍艦操練所教授方頭取・勝麟太郎一行が咸臨丸でハワイ経由無事帰国し、品川沖に着いたのは万延1(1860)年5月5日のことだ。その10日後には登城し、将軍・家茂に帰国報告をした。またその5ヵ月後には遣米使節・新見豊前守一行もアメリカ政府の用意した軍艦・ナイヤガラ号で帰国し、将軍・家茂に帰国報告をした。しかしこの7ヶ月ほど前には桜田門で井伊直弼が暗殺され、幕府内は相当混乱していたから、アメリカで見聞してきたことも十分報告・実行出来ず、難しい政局が続いた。  
初めて出来た長崎海軍伝習所の後、築地につくられた海軍教授所がより発展し、勝麟太郎が教授方頭取になり御軍艦操練所が開設され、咸臨丸の渡米も成功し無事帰国した。暗い中にもこんな朗報が幕閣を勇気付けたのだろう。万延1年6月17日には幕府の命により、石高に無関係に全国の大名家臣の軍艦操練所入学を許し、夫々の得意学科の測量や算術、造船や蒸気機関、船具運用や帆前調練などを習得させた。  
また11月6日には、幕府や諸藩の艦船に掲揚する「徽章(きしょう)の制」を定めた。すなわち、大船には日の丸の幟(のぼり)を掲げ、公儀の船は中檣に白と紺混じりの吹貫きを掲げ、中黒の帆を使うといった旧来の規則を改め、その代わり白地に赤丸の国旗を艫綱に引き揚げ、白帆を使う。また更に公儀の軍艦には中黒の細旗を中檣に掲げるようにする。従って各藩でも大船が出来次第、夫々公儀の印に紛らわしくないものを定め幕府の許可を取ること、というものだ。特に軍艦などは万国共通の規則で、国旗の掲揚、将官旗の掲揚など必ず行っていたから、こんな規則を学んだ日本もようやくその仲間入りをしたわけだ。  
蒸気軍艦購入と造船局取立て答申  
11月17日にはまた幕閣が、蒸気軍艦購入を英・米両国公使に依頼する件を外国奉行に諮問し意見を求めた。水野忠徳(ただのり)や新見正興(まさおき)、村垣範正(のりまさ)や小栗忠順(ただまさ)などの外国奉行は連名で、外国との通商が盛んになりまた万一のことがあった場合、十分なる海軍が備わっていなければならないから、複数の蒸気軍艦の英米からの購入は直ちに実行する必要があるのみならず、日本で軍艦を建造する設備も備えた造船局を作り、国産の軍艦を造る必要があると答申した。自身では不運にもアメリカ行きのチャンスを逃した水野始め、アメリカをつぶさに見て来た新見、村垣、小栗などの外国奉行の目には日本の著しい遅れがはっきり分かり、2、3艘の蒸気軍艦を購入したくらいではとても間に合わないと、真剣な答申だった。これに基ずき幕閣はアメリカ公使・ハリスに3艘の蒸気軍艦を発注し、日本人留学生の派遣をも合意したが、1861(文久1)年4月に始まったアメリカの南北戦争等の影響で実行できず、アメリカからの購入は先延ばしせざるを得なかった。  
しかしこの2ヵ月後にまたまた坂下門外に於ける老中・安藤信行への襲撃事件が発生し、一命は取り留めたものの、造船局取立てなどの海軍強化策は脇にのけられてしまった。しかし安藤は傷つきながらもアメリカの代わりにオランダと交渉し、蒸気軍艦の建造と日本人留学生の派遣とを合意した。その後実際に3艘の蒸気軍艦がアメリカに発注されるのは、アメリカ駐日公使もハリスからプルーインに交代した文久2(1862)年閏8月21日になってからである。  
発注された1艘目・富士山艦(ふじやまかん)は2年後の1864(元治1)年6月に完成し、翌年の慶応1年12月に横浜に着いた。2艘目の甲鉄艦(こうてつかん)、のちに東艦(あずまかん)と呼ばれる軍艦の納入に関し、発注を受けた当時のアメリカ駐日公使・プルーインの不手際もありゴタゴタがあった。この解決のため、7年前に元咸臨丸の航海士として渡米したことのある勘定吟味役・小野友五郎が、福沢諭吉も連れてその交渉役としてワシントンに派遣され、フランスがアメリカの南北戦争当時に南軍のために建造した蒸気軍艦・ストーンウォールの購入を決めた。このストーンウォール、すなわち東艦は1869(明治2)年に納入されている。この購入経緯については、蒸気軍艦・ストーンウォールを参照 。  
一方の造船所については更に遅れ、勝麟太郎の将軍・家茂への直接の働きかけにより、やっと文久3(1863)年4月24日、神戸海軍所・造船所の取建てが勝麟太郎に命じられた。 
5、開港と攘夷行動

 

神奈川開港と外交官の江戸駐在  
神奈川か横浜か  
前章、「初めての遣米使節」から読み続ける読者には少し後戻りする記述になる。安政5年に調印したアメリカ、イギリス、ロシア、オランダ、フランスの5カ国との修好通商条約は、ハリスが条約交渉中に井上信濃守などに再三云っていたように、アメリカ条約を見本にしたほぼ横並びの内容になった。しかし、開港場所について5カ国条約の日本文を細かく読めば、例えば第3条にある神奈川開港の記述は各国で少しずつ違いがある。これはただし、オランダ条約だけは第2条に書いてあるが、アメリカ、オランダ、ロシアは「神奈川港」を開き、イギリスは「神奈川港と町」を、フランスは「神奈川港と村」を開くことになっている。開港日については、イギリスとロシアが1859(安政6)年7月1日、アメリカとオランダが7月4日、フランスは8月15日である。  
アメリカの7月4日は、ハリスが特にアメリカの独立記念日を意識し選んだもので、「愛国心」を強調したかったのだろう。独立後まだ80数年しか経っていない新興国家のアメリカが、歴史あるヨーロッパ勢に先んじて、最初に日本を開国したという誇りの象徴であったのだ。  
日本とアメリカの通商条約が安政5(1858)年6月19日に調印され、ハリスは下田に帰ったが、日本側は早速開港地の詳細検討に入り、外国奉行・永井玄蕃頭(げんばのかみ)や岩瀬肥後守、井上信濃守などが8月4日に現地を調査した。大老・井伊直弼との最終調整で井伊は、交通量の多い東海道沿いの神奈川に夷人が居留する事は問題があると主張したが、条約をハリスと交渉した外国奉行たちは、その交渉過程から、今さら横浜とはいえないと主張した。これは、ハリスとの条約交渉中ハリスが開港地を「神奈川、横浜を開く」としたいと交渉したのに対し、日本側は強引に横浜は神奈川に含まれる土地ではないと言って、「神奈川を開く」としてしまっていたのだ。従って今さら、「神奈川は不都合だから横浜にする」とは言えないというわけだ。しかし結局は、条約交渉中にハリスが品川開港を主張したとき、海が遠浅だということで納得した経緯もあり、今回も井伊直弼の主張通りハリスに、神奈川は遠浅だからという理由で横浜にする同意を求めることにした。しかしこれが、日本側とハリスとで後々までもめることになる。  
ハリスは貿易施設を造る開港場所特定のため、12月18日幕府派遣の蟠龍丸に乗り下田から神奈川にやって来た。日本側からも外国奉行・永井玄蕃頭、同・井上信濃守、同・堀織部正(おりべのかみ)、目付・加藤正三郎なども現場に出向き、3日ほどかけ一帯を見分し、細部決定の交渉に入ることに合意した。  
翌年2月1日からこの実地検分情報をもとに永井と井上がハリスと神奈川で会談し、永井、井上や岩瀬らが大老・井伊と調整・合意した通り、「神奈川は遠浅だから」と横浜村に貿易用の港湾設備や居留地を造るべくハリスの同意を求めた。ハリスは、横浜は船付きの便利も良く建物を建てるにも良い場所だが、条約には「神奈川を開く」となっている。陸路で横浜から神奈川まで2里もあり、途中に山や川があって往来に難渋するから同意できないと頑強に拒否した。日本側は、良い道を付け、切り通しを作り、川には頑丈な橋を架けると約束したが、とにかくハリスは、横浜は東海道沿いでないからだめだとはねつけた。そこで日本側は、箱館や長崎には東海道のような街道はないと詰め寄るとハリスは、箱館や長崎は日本の端にあるからかまわない。しかし日本の中心にある神奈川は箱館や長崎と訳が違い、東海道沿い以外は考えられないと横浜を拒否した。こんな押し問答の交渉が延々と6回も続いたが遂に決着がつかず、2月14日の交渉で、開港日になったらまた話し合おうと物別れに終わった。上述の如く、条約交渉中に日本側に押し切られた神奈川・横浜問題で、今度はハリスが日本側の言い出した横浜を頑強に拒否し、その仇を討った格好になったわけだ。  
結果的に、この交渉延期は日本側にとってまたとないチャンスだった。ハリスとの合意が出来ていなくとも直ちに横浜に運上所を作り、波止場を作り、商家を作り、立派な道を付け、頑丈な橋も架け、外国人向けのお茶屋まで作り始めた。開港日までのたった3ヶ月足らずで、貿易の町、横浜が突然出現してしまったのだ。幕府のやることで、これほど素早かったことは他にあまり例が無さそうである。  
日本側が東海道から少し離れた横浜に港湾設備と運上所や商家を建て始め、外国人居留地区も指定し、3ヶ月足らずで「貿易地横浜」が出現し始めると、安政6(1859)年6月1日公使に昇格し上海から神奈川に戻って来たハリスは大いに不満をつのらせた。そして日米修好通商条約のみならず、この日英通商条約にある「神奈川港と町を開く」という記述に照らしても違約であると、イギリスとの条約まで持ち出して反対し幕府に迫った。アメリカと日本との条約中に、イギリスやフランスのように「神奈川港と町を開く」としなかったことを後悔したのかもしれない。ハリスやオールコックといった駐日公使たちは一緒になって、条約に神奈川と記述されているから、横浜に設備や町を造り貿易港にすることは条約違反だとその都度幕府に抗議した。  
たまりかねた幕府も一応譲歩し、神奈川の町に公使館や商館を建てる地域を割り付けた。しかし現実問題として、日本側が言った様に遠浅の神奈川港には大型の船が近寄れず、早々に商館を横浜に建ててしまった各国の商人たちは誰も横浜から動かなかったから、さすがのハリスやオールコックにも打つ手がなかった。アメリカ商人たちの中には「神奈川と横浜が開港されたと考えれば何も問題ないではないか」、とさえ云う人たちも居たくらいだった。  
江戸に近い横浜は港への出入が容易で、幕府の準備した機能にも恵まれ、たちまち貿易主要港になる。アメリカやイギリスの商人たちは、早速幕府の造った波止場や運上所に接した海岸に沿って土地を求め、倉庫や事務所を造り、日本町と一体となり貿易の町に変身した。アメリカは日本が横浜に建てていた領事館用の建物を嫌い、ドール領事の選定で神奈川の横浜港を見下ろす丘の上の本覚寺を借りて領事館を開いたが、意地でも横浜には行かないぞというハリス公使とドール領事の強い意思を表示しているかのようだった。  
公使の江戸駐在と他の開港場  
日米修好通商条約の第1条に、外交官すなわち公使などの江戸駐在が明記されている。この第1条は唯一といって良いほど、公平に平等に書かれた条項である。すなわち、日本政府が任命する役人をワシントンに駐在させ、アメリカ国内の旅行も自由である。アメリカ政府も江戸に駐在する外交官を任命し、日本の各開港地に領事を置き、外交官あるいは総領事は職務上日本国内の旅行は自由である、という双方向性のあるものだ。  
ハリスの上府と将軍謁見の要求と共に、外国外交官の江戸駐在は、ハリスから通商条約原案が出されると日本国内で最も反対の大きかった事項の一つである。とにかく江戸や京都といった中枢都市に夷人が入ってくる事は、「人心の折り合い」から最も避けたいことの一つだった。条約交渉中の井上や岩瀬に、日本は人心の折り合い上、全てを急がず「漸」を以って臨むと云わせたものだ。皆が理解を示すまでは、急いで江戸に夷人を駐在させないという意味だ。日本側のこの論理を切り崩し外交官の江戸駐在を認めさせるため、アメリカのワシントンにも日本人を駐在させるから、江戸にもアメリカ人を置かせるという決着だった。  
この様に、とにかく外国公使を江戸に駐在させる基本合意はできたが、何時から駐在を許すかで交渉は難航した。安政4(1858)年12月12日の蕃書調所での交渉で、一刻も早くと迫るハリスに、井上や岩瀬は少なくとも3年後でなければ人心は折り合わないと粘った。ハリスは、3年後などとは不誠実極まりない言い方だ。単に時間を稼ぐだけで、人心の折り合いなどとは程遠い。やはり日本人は1日も早く外国人を見て、それに慣れることが先決だとまくし立てた。  
井上と岩瀬は、では3年後と條約に明記しなくとも「貴殿の手心で延ばせないだろうか」と、典型的な日本流で決着を図ろうと試みた。ハリスは、「では1861年1月以前には赴任しないよう自国政府に書き送ります。信濃守様ご承知の如く、私の言に違約はありません」と請合った。しかし実際は、それからたった1年半後の安政6(1859)年6月1日、ハリス自身が公使に昇格して神奈川に戻って来た。これを知った老中・間部(まなべ)下総守がハリスに、公使派遣時期について条約交渉時と約束が大幅に違うが、その違反理由を知りたいと書簡を送った。ハリスは「その件は、1年以上も前に約束通り私が書面に認めワシントンに送ってあります。我が政府がなぜ公使を早く送ったのか、私には理由は分からない。條約も整い開港時期が来たので、公使が居なくては差し支えるとの判断からでしょう」と返答した。これはしかし、自分自身は約束道り書簡をアメリカ政府に送っているから少しも約束を違えていませんよ、と言ったわけだ。もともと正規の外交官教育も無いハリスからさえこの通り手玉に取られた当時の幕閣や交渉委員には、手も足も出ない外交の世界だったようだ。ハリスは公使として赴任すると、幕府から江戸府内の麻布に善福寺を借り受け、アメリカ公使館とした。  
第3条には、下田、箱館、神奈川、長崎に続く開港場を1860年1月1日から新潟、1863年1月1日から兵庫と定め、開市場を1862年1月1日から江戸、1863年1月1日から大阪と定めた。そもそも、下田は不便だからもっと便利な場所で交易したいというハリスの申し立てで、老中・堀田正睦(まさよし)が検討の約束をしていたから、條約には1859年7月4日に神奈川を開港しその6ヵ月後に下田を閉じる合意になっているが、各開港場にはアメリカ人の居留を認めた。井上や岩瀬はハリスとの交渉時、やっとの思いで京都に近い大阪や兵庫の開市や開港時期を「漸を以って」と交渉時点から5年も先に引き延ばしたが、それでも人心は簡単に折り合わず、この江戸、兵庫、大阪の開港・開市を攘夷運動の顕在化と共に延期交渉をせざるを得なくなる。それどころか、朝廷を初めとしますます攘夷の気風が蔓延したのだ。  
開港場の境界線  
開港場にアメリカ人の居留を認めたからには、彼らが土地を借り、家や事務所、倉庫などを建てることにも合意し、第7条に居留する外国人が勝手に出歩ける区域の設定もなされた。基本的には、ペリー提督と結んだ和親條約にある1日で行ける距離の7里を念頭に、居留者は長期滞在者ということで10里までに落ち着いた。すなわち神奈川からは、江戸方面の北東にかけては10里に満たない5里ほどであるが、六郷川筋(現在の多摩川)まで、その他へは10里まで、すなわち北西へはほぼ八王子辺りまで、南西へは小田原の手前の酒匂川(さかわがわ)までになる。箱館は各方面へ10里まで。兵庫については、京都から10里の境以内へのアメリカ人の侵入は禁止され、その他へは兵庫から10里までと決まった。ただし短期滞在になる船乗りなどは大阪への立ち入り禁止に合意した。京都御所から大阪城までの直線距離はほぼ10里だから、長期居留の商人であっても大阪から京都に向かう淀川沿いにはほとんど遡れない規定だ。長崎は公領、すなわち幕府領のみと合意した。  
開港してからは、この境界規則に従い多くの外国人が自由に出歩くことになったが、横浜近辺では川崎大師、金沢八景、鎌倉の大仏、江ノ島、藤沢の遊行(ゆぎょう)寺などが外国人の人気スポットになった。また1854年に来たペリー艦隊もジェームス・モロー博士を中心に多くの動植物標本を収集したが、横浜、長崎、箱館が開港されるやヨーロッパやアメリカで日本の珍しい植物収集の人気が上がり、アメリカの商社・ウォルシュ商会のジョージ・ホール博士、イギリス人のジョン・ヴィーチやロバート・フォーチュンなどの人々の収集が良く知られている。これら収集家は、ヨーロッパやアメリカには無い花や実をつける樹木、潅木、シダ類、花の球根などを求め、横浜、長崎、箱館の郊外までも出かけている。  
しかし時として、このように外出する外国人が被害者になる事件が起きた。次の「攘夷殺人事件」の項で書くが、神奈川や横浜から比較的近い川崎大師や鎌倉の大仏など外国人に人気の高い名所に行って殺害の難に合う不幸な人達が出た。これが大きな外交問題にまで発展する。  
早速横浜にやって来た商人や宣教師たち  
横浜が開港されると一番乗りでやって来た商人は、アメリカ公使・ハリスにより横浜領事に任命されたイーベン・ドールだ。ドールはハリス公使に見込まれ横浜領事として上海からハリスと一緒に横浜に来たが、同時にオーガスティン・ハード商会の横浜の代表者だった。ハリス自身も日本総領事として下田に来る前は、商人として支那に居る時ニンポー領事をしていたが、当事のアメリカ政府は能力と信用ある商人を各地の領事に任用したのだ。未だ小規模な貿易港に高級取りの官吏を本国から派遣しなくとも、現地で活躍するアメリカ商人を領事に任用すれば、彼らは商取引も現地事情も熟知しているから政府にも都合がよく実利があったのだろう。いかにもアメリカ的合理主義だ。  
ドールは、横浜に着き神奈川の高台にアメリカ領事館を開設し国旗を掲揚するや、早速オーガスティン・ハード商会から派遣され、領事館の書記官にも採用したユージン・バン・リードや通訳のジョセフ・ヒコを使って、ナタネ油、ロウ、昆布、スルメ、アワビ、ナマコ等を買い集めさせ、オーガスティン・ハード商会派遣の商船・ワンダラー号(176トン)に積み込んでいる。この船がおそらく開港直後の横浜に入港した商船の第1号だろうが、横浜のアメリカ領事・ドールが抜け目のない商人だったのか香港のハード商会の本社が熱心だったのか、とにかく素早いアメリカ商人の動きだった。その後もこのワンダラー号は、頻繁に横浜、長崎、支那を往復しているのが目撃されている。  
このオーガスティン・ハード商会に負けていないのがウォルシュ商会だった。ジョーン・ウォルシュが支那から長崎に来て開港と同時に商売を始めたが、ハリスにより初代のアメリカ長崎領事に任命されている。ウォルシュ商会の横浜代表者はジョージ・ホール博士だったが、横浜の可能性をいち早くつかみ、真っ先に幕府の用意した外人居留地の2番分譲地の権利を得てレンガ造りの立派な商館を立て始めた。  
冒険心に満ちたホール博士はハーバード大学医学部を出て医者になり、1846年に上海に向い、上海では名の知れた医者だった。しかし8年後に貿易商に転じ、支那や日本の珍しい植物収集にも熱心で、医者より貿易で資産を増やした人だ。筆者はホール博士が横浜に来た日にちをまだ知らないが、横浜が開港した年の1859(安政6)年12月初めには既にウォルシュ商会が立派なレンガ造りの商館を建築中だったから、横浜開港と時を同じくして上海から来たのだろう。ジョーン・ウォルシュの兄のトーマスも横浜に来て、横浜の業績が上がり始めた。ホール博士は、ウォルシュ商会の敷地内に日本国内から収集した珍しい植物を植え、船での出荷に備えた植物園を造っていたから、上述のロバート・フォーチュンなども一時的に植物の保管を依頼している。1862(文久2)年にホール博士がアメリカに帰国するが、その後任にホール博士の親しい友人で、1859年11月2日にアメリカからニューヨーク・トリビューン紙の特派員として横浜に来て住んでいたフランシス・ホールがウォルシュ商会に参加し、パートナーとして出資をし、「ウォルシュ・ホール商会」と新しい社名になった。ジョージ・ホール博士とフランシス・ホールは何の親戚関係にもないが、同じ「ホール」姓が相次いで同じ商社に関わり、商社名もウォルシュ商会からウォルシュ・ホール商会になったから、時として幾つかの歴史記述の中に混同して出てくるが、2人は全くの別人であり、兄弟でもない。  
次に香港に本社を置くイギリスのジャーディーン・マセソン商会が1番分譲地の権利を手に入れ、デント商会が4番と5番を手に入れた。この様に外国商人の中でも資金力のあるアメリカとイギリスの進出が顕著だった。  
商人の進出もこの様に活発だったが、各国の教会も新しく開港された日本での布教に熱心だった。早々とやって来たのは、横浜開港後3ヶ月半あまり後の1859年10月18日、日本語のローマ字表記の標準化に尽力し「ヘボン式」ローマ字として知られ、「ヘボン博士」として日本人に親しまれたアメリカ長老派教会宣教師・ヘップバーン博士だ。当時の日本人は眼病を病む人々が多かったらしく、博士に診てもらえばたちどころに治ったという。博士夫妻は当初、神奈川の成仏寺に住んだ。  
続いて来たのは、上述のフランシス・ホールが住んでいた同じ町、ニューヨーク州エルマイラの町にエルマイラ大学を造り、米国オランダ改革派教会から派遣され、ホールと同じ船で横浜に着いたサミュエル・ブラウン牧師、そして同じ教会派遣のデュエイン・シモンズ医師だ。横浜に着いたのは、ヘップバーンに遅れること僅か2週間だった。  
その後、ヘップバーン博士は神奈川で英学「ヘボン塾」を開き、ブラウン師も横浜で神学「ブラウン塾」を開いた。これらの学校は明治になって統合され、明治学院の基礎になっている。シモンズ医師は間もなく教会から独立し、個人医師として横浜で開業したが、後に神奈川県の医療発展に貢献し、東京大学の前身・大学東校や慶応義塾医学所でも講義を行い、日本の医学発展に大きく貢献した。この様に、開港直後の日本に来たこれら教会関係者は、夫々の道で日本の教育、文化、医療の発展に多大の貢献をし、今もその名がよく知られている。 
攘夷殺人事件の拡大と、幕府の懸念と対策  
攘夷殺人事件  
幕府は新開地・横浜の要所に関門を設けていたが、安全は充分でなかった。横浜で貿易が開始され2ヶ月も経たない安政6(1859)年7月27日の夕暮れ時、悲惨な事件が起こった。ロシア東部シベリア総督のムラヴィヨフが、軍艦7艘を率いて来日し、品川で幕府と長期にわたり日ロ間の課題である樺太や北方諸島の境界を設定する交渉をしていた。この領土境界問題は、アメリカのペリー提督の第1回目の来航の半年後にやってきたロシアのプチャーチン提督が、嘉永6(1854)年12月20日長崎で正式に提起して以来の懸案で、未解決の問題だった。  
その艦隊のポポフ海軍大将配下のロシア士官1人と水夫2人が、横浜の波止場近くで突然抜刀した日本人に襲われ、士官と水夫1人が息絶えた。下手人は不明のままである。ムラヴィヨフは、ロシア士官殺害犯人の捕縛ができない幕府に、「神奈川奉行一向に召捕り候手筈これ無きやに候て、また政府より命ぜられ候ても捗取り申さず候えば、コーウント自分にて手だて致すべくやに候」と、神奈川奉行が捕縛に動かず、幕命が出ても犯人捕縛が出来なければ、ムラヴィヨフは自分で犯人を探すと強く抗議した。こんな背景で、当時の神奈川奉行兼外国奉行・水野筑後守はその責任において更迭された事件である。  
この開港直後の事件を皮切りに、横浜開港後の半年ほどの間に、フランス領事館やイギリス公使館で働く日本人が犠牲になり、またオランダ人船長も犠牲になった。幕府は横浜の出入りを厳重に警戒し、警護の番兵を増やし、防御対策を大幅に強化した。アメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランス等に開港した横浜、箱館、長崎で自由貿易が始まったが、物価が大巾に値上がりし生活が苦しいのは、こんな幕府の行った外国との自由貿易の結果だと不満が増大し、更には朝廷からの勅許を得ずに開港の決断をした異勅だと非難され、「安政の大獄」で恨みを買う大老・井伊直弼が殺害される事態にまで発展した。  
幕閣の懸念と、「江戸・大阪開市、兵庫開港」の延期策  
大老・井伊直弼の跡を継いだ幕閣の中心は久世広周(ひろちか)と安藤信正だったが、外交関係を一手に引き受けた安藤は、精力的に各国公使たちと話を始めた。日本国内の紛糾し離散を加速させる現状を落ち着かせ、人心一致を図るには、その原因の一つの外国貿易の拡大を押さえ、時間をかけて消化する必要がある。中でも、迫り来る更なる開港・開市を延期せねばと考えたのだ。国内関係では、幕府と朝廷の仲を取り持つように期待の高まる「和宮降嫁勅許の御沙汰を賜わる」努力であり、外国関係では、この更なる開港・開市の延期だったのだ。  
そもそもこの更なる開市・開港場の議論は、最初に蕃所調所で行われたタウンゼント・ハリスと日本側の安政4年12月の通商条約交渉でも、最後まで決着がつかず大いにモメた議題だった。ハリスは、江戸の開市がなければ貿易の半分を断るものだと迫り、当初から日本側代表の下田奉行・井上清直と目付・岩瀬忠震(ただなり)は、特に京都に近い大阪の地は絶対に開市できないと拒否したものだ。その後の交渉でも、「江戸の開市は4年後」とまで譲歩しても、大阪はそんなに早急には開けないと、「5年後の開市」を譲らず最後まで粘ったものだったから、更なる開港・開市は誰の目にも最初からの懸念材料だったわけだ。  
ここで筆者が特記したい事実は、あれほど日本側とやり合って、「交渉時から4年後」と云う文久1年12月2日、即ち1862年1月1日からの、大阪・兵庫より1年早い「江戸の開市」を勝ち取ったタウンゼント・ハリスは、いよいよ貿易が始まり攘夷殺人が増え、大老・井伊直弼さえも殺害されるというその後の日本の政情や江戸の機能を理解するにつれ、約1年半後に迫った江戸の開市そのものを不安に思い始め、自分で交渉し勝ち取った江戸開市の延期を真剣に考え始めていた。  
一方、同じ頃の万延1(1860)年8月人心の一致を期待し、「江戸・大阪の開市と兵庫・新潟開港の延期」を探り始めた安藤信正は、フランス代理公使・ベルクールと会い、フランス皇帝に宛て開市・開港を延期したい旨の書翰や使節の派遣を示唆されたし、引き続いてアメリカのハリス公使とも会った安藤は、カス国務長官か大統領に宛てた同様の書翰の提示を示唆されていた。この様に日本側の懸念の広がりと開市・開港の延期が模索される中、万延1(1861)年12月4日、アメリカ公使館通訳・ヒュースケンの殺害という大事件が勃発した。  
もうこれ以上猶予の余地のない幕閣は、文久1(1861)年3月23日、将軍・徳川家茂の日本の国状を述べ、「七年間の両都・両港の開市・開港の延期を要求する直書」をフランス、オランダ、ロシア、アメリカ、イギリスの條約5カ国の元首宛てに出し、合わせて新条約国のプロイセンやポルトガルも含めたヨーロッパ6カ国に向けた開市・開港の延期談判をする遣欧使節の派遣も決定し、外国奉行・竹内保徳(やすのり)が任命された。こう安藤信正や幕閣が外交関係の改善による人心一致の確立に努力する間にも、またイギリス仮公使館・東禅寺への襲撃があり、オールコック公使は危機一髪で暗殺から逃れるという大事件が起った。  
この事件の半年後の文久1(1862)年12月22日、ハリスと同様に開市・開港延期の必要性を理解したイギリスのオールコック公使の協力で、イギリス軍艦・オーディン号に乗り品川を出発しヨーロッパに向かった遣欧使節団は、幸いにも文久2(1862)年5月9日、イギリス外相・ラッセル卿と両都・両港の開市・開港の5ヵ年延期のロンドン覚書に調印する事ができた。そしてこの国際間の協定事項は、條約国で認められたのだった。  
しかし、この様に幕閣の期待通り両都・両港の開市・開港の5ヵ年延期が各国と合意されたのも束の間、次に書く生麦村の殺人事件が続いて起ることになる。 
攘夷殺人及び事件 
(1859年−1864年、主に外国関係。桜田門と坂下門以外の日本人同士の殺害は除く)  
安政6年7月27日(1859年8月25日)ロシア士官1人、水夫2人、暮れ六つ時、横浜波止場で襲撃され2人死亡  
安政6年10月11日(1859年11月5日)小村幸八、フランス領事館の下僕の清国人を惨殺する。小村は慶応元年8月14日に処刑された  
安政7年1月7日(1860年1月29日)イギリス公使館通詞の伝吉、公使館門前で暗殺される  
安政7年2月5日(1860年2月26日)オランダ船長デ・ヴォスとデッケル、横浜で暗殺される  
安政7年3月3日(1860年3月24日)通商条約の締結、安政の大獄などの弾圧政策を憎んだ水戸浪士ら18名は、江戸城桜田門外で大老井伊直弼を暗殺する  
万延元年12月5日(1861年1月15日)アメリカ公使館通訳ヒュースケン、赤羽接遇所から善福寺に帰る途中の中ノ橋付近で薩摩藩士に襲撃され翌日死亡  
文久1年5月28日(1861年7月5日)水戸浪士有賀半弥、武州浪人吉田宇衛門ら同志14名が高輪の東禅寺にあったイギリス公使館を襲撃。オールコック公使は無事だったが、オリファントとモリソンが重傷を負う  
文久2年1月15日(1862年2月13日)井伊直弼の開国路線の継承や公武合体路線を推進する老中安藤信正が、坂下門外で尊攘派の水戸浪士6人に襲撃され重傷を負う  
文久2年5月29日(1862年6月26日)イギリス公使館の東禅寺を警備中の松本藩士伊藤軍兵衛が単身槍をもってイギリス伍長1人を殺害、歩哨1人を傷つけ、藩邸に戻って切腹  
文久2年8月21日(1862年9月14日)武蔵国橘樹郡生麦村で島津久光の行列を乱したと、川崎大師に行く途中のイギリス人4人が藩士に斬りつけられ、1人死亡、2人重傷、1人(婦人)無傷で逃げる  
文久2年12月12日(1863年1月31日)品川御殿山に建設中のイギリス公使館が高杉晋作らにより焼き討ちされる  
文久3年4月10日−4月18日頃まで(1863年5月27日−6月4日頃まで)浪士組を発案・実現した尊皇攘夷論者・清川八郎の江戸・横浜焼き討ち計画が幕府に知れ、清川は殺害され失敗に終わる。  
・文久3年3月28日京都から浪士組と共に江戸に帰った清川の計画は、4月15日に250人程の浪士で江戸と横浜を焼き討ちにした後上京し、京都に居る浪士と共に長州軍に合流し、二条城を占領する計画だった。この江戸・横浜焼き討ち計画を実行するため、4月10日に清川八郎が横浜に潜入し、横浜夷人館焼き討ちのための視察を行った。しかし4月13日、老中・板倉勝静の指示で清川を付け狙っていた幕府の浪士取締・速見又四郎と佐々木只三郎が、麻布一ノ橋で清川を殺害した。  
・また4月14日には浪士組の暴徒が、攘夷先鋒を名として江戸府内の富豪商人を襲撃・強奪を行った。  
・この間、神奈川や横浜では奉行からの指示で、4月13日から18日頃まで在留外国人が緊急避難をした。  
文久3年6月24日(1863年8月8日)長崎で外国船水先案内をしていた重兵衛が何者かに殺害される  
文久3年9月2日(1863年10月14日)フランス陸軍士官アンリ・カミュ、3人で乗馬通行中、井土ヶ谷村字下之前で浪士3人に殺害される  
元治元年10月22日(1864年11月21日)イギリス軍人ボールドウィン少佐とバード中尉、鎌倉鶴ケ岡八幡大門前で殺害される 
生麦事件  
朝廷の攘夷要求と将軍家茂の上洛  
前述の「3、通商条約と内政混乱‐朝廷の影響力」でも書いたが、夷人嫌いの孝明天皇は日本開国の現状を嫌い、神国日本の先祖に申し訳ないと心配し、幕府に影響力を行使し始めた。すなわち伝統的な徳川家康以来の「禁中並び公家諸法度」に反し政治介入を始めたのだ。安政5年の5カ国との通商条約が締結され、神奈川、箱館、長崎が開港され貿易が始まると物不足が顕在化し、諸物価が上がり始め、武士をも含め庶民の生活を直撃した。多くの外国人が日本国内に入り込み、更に京都の膝元の兵庫の開港や大阪の開市が迫っている。こんな中で孝明天皇は、危機意識と共に攘夷の考えを更に確たるものにしていった。  
そんな中で大老・井伊直弼による反対派へ向けた大弾圧・安政の大獄があり、幕府関係だけでなく、朝廷内にも青蓮院宮への「隠居・永蟄居」を始め、左大臣や右大臣の「辞官・落飾」、前関白の「隠居・落飾」など多くの処罰者が出た。しかし桜田門外で突然井伊直弼が殺害された後、朝廷と幕府の関係改善に向け斡旋しようとする大藩が出てきた。  
文久1年3月に長州藩主・毛利慶親が直目付・長井雅楽(うた)の建策を採用し、その「航海遠略」を藩是と定め、これをもって、「国内一致が達成され軍艦の数を増やし士気が奮い立てば、一皇国が五大州を圧倒する事は容易であります」と朝廷に遊説した。朝廷もこれを受け入れ、「天皇もこの考えにご賛同された」と毛利慶親に朝廷・幕府間の関係改善に当たらせた。長井は京都と江戸を往復し1年近くも公武関係の修復斡旋に努力したが、この間に自藩内の反対意見が強力になり、これに呼応するかのごとく朝廷からも長州藩の「航海遠略策」を説明した長井の書簡が朝廷を誹謗しているとの非難も出て、この努力は頓挫してしまった。その後長州は、急激に藩論を180度変え、朝幕間の斡旋を止め尊皇攘夷に突っ走る事になる。  
こんな長州の公武斡旋開始からほぼ1年後、今度は薩摩藩の島津久光も朝廷に建策し、朝廷の命で江戸への勅使護衛に当たることになる。文久2(1862)年4月13日、上府途中の島津久光は手勢千人を引き連れ大阪に着き、その一部を伴い伏見にある薩摩藩邸に入り、16日非公式に近衛邸を訪ね、近衛忠房や議奏・中山忠能、正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる)などに面会し、御所近くの薩摩屋敷に移った。薩摩藩主の実父であっても無官の久光が軍隊を率いて入京できるまでには、親戚筋の公家・近衛忠房や、当時孝明天皇の侍従兼近習で和宮親子内親王と将軍・家茂の婚儀を成功させた岩倉具視の京都所司代・酒井への影響力によるもののようだ。久光はこの3日後、正式に権大納言・近衛忠房に会い国事建言の趣意書を提出した。九項目からなる久光の建策の主要部分が採用され、朝廷から幕府へ勅使が発せられる事になる。  
このころの兵庫、大阪など京都近辺には西国の浪士が集まり不穏な動きが顕在化していたから、朝廷は公武関係の斡旋に熱心で建策も行う久光に、京都で浪士鎮撫の任にあたらせた。なんとこの時、こんな浪士と結んだ自藩の薩摩過激派が、島津久光の反幕府行動を期待して大阪から伏見の寺田屋に入ったことを知った久光は、朝廷の命で浪士鎮撫の任に当る中での自藩の暴挙に困惑し、8人の藩士を送り過激派の説得に向かわせた。説得で過激活動を中止させようとしたが衝突になり、過激派8人が即死し、説得側にも死者が1人出た。  
その後京都警備のため1月以上滞京した久光は、朝廷の命で勅使・大原重徳(しげとみ)を護衛し上府した。勅使・大原は将軍・家茂に会い、「夷狄を掃攘し万民を安んぜられ候えば、叡慮も自ら安んぜらるべく」と朝旨を伝えた。これは攘夷の督促と、安政の大獄で罪を受けていた一橋慶喜や松平慶永の登用の督励だったが、こんな一橋慶喜や松平慶永の登用案は、もともと島津久光の朝廷への献策に基づいたものだった。この上府の帰り道に、久光一行が「生麦事件」を起こすことになる。  
攘夷実行を幕府からの言質に和宮を嫁がせ、勅使・大原が東下しても攘夷に向けた明確な行動を起さない腰の重い幕府の動きを見て、薩摩、長州、土佐の3藩は朝廷から幕府へ更なる攘夷決行の勅使派遣を建言し、朝廷はついに文久2年9月21日、朝儀をもって攘夷を決定し、勅使に三条実美(さねとみ)を選び江戸下向を命じた。前勅使・大原重徳の派遣から半年も経っていない時だ。勅旨は、「攘夷をはっきり決定しなければ人心一致も困難だ。幕府は直ちに攘夷を決定し、『攘夷と拒絶』の期限を奏聞せよ。そして京都を警護する親兵を設置せよ」というものだった。将軍後見役になったばかりの一橋慶喜は条約破棄をしてはならないと開港の必要性を論じ、朝廷の意思を尊重すべく攘夷の意見を述べる政事総裁・松平慶永を翻意までさせていた。しかし朝廷の居丈高な勅命を受け、そんなに方針が隔離してはもう責任がもてないと、10月22日将軍後見職の辞表を出す事態にまでなったがしかし、慶永などの説得でこの辞表は撤回された。君臣の大義をもって朝廷を敬いながら、何とか幕府孤立を避ける打開策を講じようとしたのだろうか。  
このように朝廷から二人もの勅使を受け、これ以上の優柔不断が許されなくなった将軍家茂は、終に攘夷決行と親兵編成の奉答書を朝廷に上提した。更に朝廷に攘夷計画の詳細を報告すべく上洛を決め、文久3(1863)年2月13日、自ら3千人を引き連れて江戸城を出発し、3月4日京都二条城に入った。これに先立って京都に入っていた将軍後見役・一橋慶喜や政事総裁・松平慶永は、将軍が天皇の謁見を得た後江戸に帰り攘夷の方策を立てると関白・鷹司輔煕(すけひろ)に伝えたが、では攘夷期日を先に決めるべきだと迫られた。将軍が攘夷期日を約束するために上洛してくるはずなのに、帰ってからとは全く心外で、これでは幕府から何を云われても全て信頼にはつながらない。  
この頃朝廷では孝明天皇の肝いりで学習院が開かれ、下情上達の道を開くためとして誰でも学習院で時事の建言を許したから、我こそはと思う志士たちが殺到し、将軍や幕府にも陰の圧力になり始めた。一方慶喜や慶永は前関白・近衛忠煕(ただひろ)、関白・鷹司輔煕、中川宮等の朝廷の中枢と会い、このように全て朝廷が政治をやるつもりなら、国家の方針が幕府と朝廷から出るという「政令二途に出づる」弊害を論じ、大政委任か政権奉還か二者択一をすべきだと迫った。また生麦事件に絡む対英交渉が逼迫し戦争も視野に入ったから、在京諸侯の帰藩を許してもらいたいとも申し入れたがしかし、幕府の中枢をもなかなか信じない朝廷からは何の進展も得られない。とても「公武一和」どころではなかった。  
上洛前には、攘夷などすべきではないから朝廷を説き伏せると云っていた一橋慶喜は、京都ではその立場を微妙に変えていたから意見に相違も出たようだ。何の打開策も考えられなくなった政事総裁・松平慶永は、幕府に辞職を再三願ったが、その返事を保留されている間に勝手に帰国してしまった。無責任もここに極まった感である。慶永の身になって考えれば、橋本左内など自藩生え抜きの有能な家臣を安政の大獄で失った今となっては、自分一個の考えも諮問した藩論もその限度にきていたのだろうか。「政令二途に出づる」弊害を論じ将軍の大政奉還を幕府に献策しても、一橋慶喜を初め幕閣は何の反応も示さない。朝廷からは、幕府が攘夷期日を決めたからには交易拒絶の談判は最重要課題だから、政事総裁自身が関東に帰って談判せよとの命令まで出始めた。打つ手の無い慶永とその家臣団は、無断帰国を決めたのだろう。  
それほどまでに朝廷の攘夷姿勢は過激さを加え、かってないほど行動的だったから、将軍後見役・一橋慶喜や政事総裁・松平慶永といえども、なす術がないほどの勢いだった。従って上洛している将軍・家茂も一旦江戸に帰りたいと何度も朝廷の許可を求めたが許されず、ついに出来もしない攘夷期日を空約束する事になってゆく。  
生麦事件とイギリスの賠償要求  
文久2(1862)年8月21日には生麦村で、勅使・大原を護衛し帰国途中の島津久光の行列を乱したと、乗馬通行中のイギリス人4人が警護の薩摩藩士に斬りつけられ、一行のうちリチャードソンが死亡し、2人が重傷を負い、婦人1人だけが無傷で横浜まで逃げきるという大惨事が発生した。  
生麦村の惨事を知った直後の横浜外人居住区では、自分でリチャードソン一行の捜索に生麦まで出かけたイギリスのヴァイス横浜領事や商人たちは勿論、フランスからも、直ちに軍隊を上陸させ連合追討軍を派遣すべしと厳しい議論が沸き立った。しかしイギリスのニール代理公使は、ほぼ確実に戦争に発展するであろう島津久光追討軍を制止し、むしろ幕府との交渉を模索した。  
上述のアメリカ人フランシス・ホールは、この時イギリスのニール代理公使に向けられた横浜外人居住地区内からの非難を、次のように当日の日記に書いている。いわく、  
イギリスの代理公使は、彼の示した明らかな無関心さに多くの人々から強い非難を浴びせられた。リチャードソンを探すため、一隊の派遣を求められると彼は拒絶した。外人居留地のためよりも自分の安全を心配していたと、彼を非難する噂が流れた。彼がリチャードソンの遺体を見た後も、ボロディール婦人の口から直接襲撃の様子を聞いた後も、彼の部下の代理人に、「自分はそんな騒動が発生したという公式報告は聞いていなかった」と云った。事件の起ったちょうどその日の午後、幸運な事にキューパー提督指揮下のイギリス砲艦と蒸気軍艦が入港した。この横浜港に集まったそんな強力な軍艦、すなわち、8艘のイギリス軍艦にフランスとオランダだが、この軍事力で、横浜からおよそ3マイル程の保土ヶ谷宿に泊ったとされるその大行列の主を捕縛しようと大勢が話し合った。この考えにフランス公使は大賛成だったが、提督は更なる情報と司法権が必要だと乗り気ではなく、代理公使は反対を表明した。騒動を恐れた横浜の奉行は、早速保土ヶ谷に使いを出し、行列の主は夜中までに、供回り全員も宿をたたんで安全な場所へ出発した。この主は薩州候に仕える高官だということだ。  
一方、問題を起こした久光の行列を宰領する小松帯刀は同行の大久保一蔵とも相談の上、イギリス側からの追討軍に備え、神奈川に2人の藩士を残し情報収集に当たらせた。この日の大久保利通日記にも、「神奈川にて高崎猪太郎、土師吉兵衛へ夷人挙動探索相託し候。今晩問合せ度々相達し、夜明け高崎猪太郎参り、則出殿云々」と出てくるが、宿泊地の保土ヶ谷からも頻繁に神奈川に残した2人に問合せの使いを出し、厳重に警戒していた様子がわかる。  
当時のイギリス政府はニールからの報告により、武力行使を避けたこのニールの対応を直ちに認めているが、外務大臣・ラッセル卿がニール代理公使に宛てた1862年12月9日付けの下記書簡に明らかだ。いわく、  
先月27日到着の9月15日、16日、19日、21日付けの貴書簡で私は、主要大名の一人に従う従者により英国民の一行に加えられた残忍でいわれない攻撃により、一人が殺害され、二人が大怪我を負い、一行中の一婦人が奇跡的に難を逃れたという報告を受けた。  
この暴挙による受難に対する女王陛下政府の心からの同情を、攻撃された人達に伝えるよう私は貴君に指示する。そしてまた貴君にそんな機会があれば、リチャードソン氏の身内にも同様に伝えてもらいたい。  
私には、日本政府に要求されるべきこの賠償と、条約により保障された日本に滞在するイギリス国民全員の個人的安全を確保すべき方針とにつき、貴君に対し十分な指示を出す義務がある。  
貴君に向けられた(横浜外人居住地区内からの)圧力に抗し、貴君が示した判断と忍耐を女王陛下政府が承認する事を、私は貴君に知らせずにはおけない。更に、若し貴君がそう決っしたとしたら、女王陛下政府は日本と敵対する事についてでも同様である。  
貴君は誠に慎重で、この暴挙を行った大名の従者に即座に復讐すべく艦隊の軍隊を上陸させる行為に賛同しなかった。  
日本政府と大名とに、これほどの暴挙が彼らの上に報復をもたらすという有罪宣告を明白に下すため、現況の中で、今後女王陛下政府が採るべき如何なる方針についても、貴君は本国の指示なしに日本政府に賠償させる事に全力を傾注し、貴君の採る方針にキューパー提督が賛同している事さえ判明すれば、それで(英国政府は)満足である。  
大君政府への賠償要求に関し、貴君はまさに貴君に適切に指示された方針を採用している。女王陛下政府が期待する貴君の要求への結果が次の報告書簡でもたらされたら、それが女王陛下政府が日本に対し採用する方針の最終的な決定となろう。  
このようにラッセル外務大臣は、ニール代理公使の判断と行動に全幅の信頼を寄せ、ニールの判断が英国政府の決定になるとしている。この出来事に興奮し、イギリス、フランスの久光追討軍が出発していれば、ニールの危惧した戦争にも発展していたかも知れない。  
翌年初めに具体的な賠償要求金額の指示を本国から受けたニール代理公使は、文久3(1863)年2月19日、これは将軍家茂が2月13日に京都に向け江戸を出発した6日後であったが、長文の書翰を幕府に送り、生麦事件に関するイギリス政府の賠償要求を伝えた。  
まず幕府に対し、次の条件を20日以内に実行しなければイギリス艦隊の武力を以って適切な処置を講ずると通告した。  
1.この謝罪のため、十分な、公式赦免を乞う書簡を出すこと  
2.この罪科のため、十万ポンド・スターリングを払うこと  
薩摩藩に対しては、次の条件を直ちに実行しなければ海軍力を以って適切な処置を講ずると通告した。  
1.殺そうと襲い掛かった諸人中の主なる者を速やかに捕え吟味し、女王陛下の海軍士官の眼前でその首を刎ねること  
2.二万五千ポンド・スターリングの償金を払うこと  
とその速やかな実行を迫った。  
この島津久光の引起した外国人殺傷事件は、いってみれば幕府にとって二重の重荷であった。そもそも藩主でもない久光の上府と生麦事件は、上述の如く、朝廷による幕府督励の勅使・大原重徳(しげとみ)の護衛という公的行動の帰途に起ったものであり、幕府として単に薩摩や久光を非難できなかった。そして一方イギリスは、条約を締結し国政に責任を持つという公的な立場から、幕府責任をも追及したから、薩摩藩の起こした問題が、自身の管理責任をも問われる問題になってしまったのだ。 
賠償金支払いと幕府首脳の混乱  
戦争の危機と賠償金支払い  
イギリス代理公使・ニールから、前述した生麦事件に対するイギリス政府の賠償要求書は将軍・家茂の江戸城出発の6日後に出されたから、とても20日以内に幕府の返事を得られるものではない。それどころか、京都に着いた家茂は朝廷から明確な攘夷決定と実行を強く要求され、最初の京都滞在予定は10日間くらいであったが、再三の帰国申請にもかかわらず江戸に帰ることも許されず、京都に留め置かれるかっこうになる。  
一方江戸で留守を預る老中はイギリスの要求に返事も出来ず、何回もその回答の延期を交渉した。ニールは家茂不在を知っているし、強い賠償要求は出すが戦争はできる限り避けるという本国の外交方針もある。そこで4回もの幕府の延期交渉に同意したが、ずるずると京都に滞在する家茂の動向に、ニールはもうこれ以上の延期はしないと幕府に通告した。老中も将軍さえ帰ってくれば賠償金を払うとニールに示唆していたが、家茂はなかなか帰らず、イギリス艦隊は横浜に終結し終わっていたから、江戸を預かる幕閣もこのままではイギリスと戦争になると真剣に心配しはじめた。一橋慶喜や松平慶永など幕府の中枢が京都にいる間、江戸で幕政を補佐していた尾張藩主・徳川茂徳(もちなが)や大将軍目代・水戸藩主・徳川慶篤(よしあつ)は、文久3年4月28日朝廷に、「生麦事件の償金の支払いは攘夷鎖港とは別件だから」、と戦争回避のための償金支払いを上申したが、朝廷の強い反発にあわててその提案を引っ込めざるを得なかった。  
将軍・家茂が「攘夷開始期日」と約束した5月10日に孝明天皇は、前日この幕府の「償金支払い上申」が出された事を聞いていたから、  
そもそも攘夷拒絶の期限も今日になったのだから、いよいよ諸臣一同にその心得があるのが当然だ。合わせて、償金の一件は予想外の事になったが、今さら仕方がない事だ。以後こんな事にならず、朝廷で定めた命令通りになるようよく話すのが本筋だ。こんな所で諸臣の気合が緩むようでは、かねてから言ってきたように皇祖神に対し申し訳もなく、かつ両社での参拝祈念や毎朝の祈りの詞にも相違し、これ以上の困苦はない。たとえ皇国の一部が黒土になっても開港交易は決して好ましくない。(償金を支払うなどと)こんな不心得の事を唱える者があればきっと罰を下すから、この天皇の命令を貫徹せよ。  
と震翰に書くほどまでに強硬姿勢になっていた。  
一方江戸の幕閣は5月4日、沿岸警備の諸侯に命じ警備を厳しくさせ、江戸沿岸に居住する婦女老幼の避難を命じた。7日になると横浜駐在の英国領事はニールの指示により、イギリスは生麦事件の賠償金交渉は決裂したと断定し、艦隊司令長官・キューパーに命じ自由行動を開始させると神奈川奉行・浅野伊賀守に通告してきた。翌日には、イギリス軍艦2艘が品川沖に来て付近を測量し始めた。いよいよ軍事行動に出るぞというイギリス海軍のデモンストレーションだ。たまりかねた老中格・小笠原長行(ながみち)は翌9日独断で横浜に出張し、横浜運上所にある全てのメキシコ銀貨をかき集め、英国公使館襲撃の際に遭難したイギリス人に対する扶助料4万ドルおよび生麦事件賠償金40万ドルの合計44万ドル(11万ポンド相当)を英国代理公使ニールに即金で全額支払った。  
これは天皇の意にも反する償金支払いだったが、からくもイギリスとの戦争は回避したのだ。これでやっとイギリスは戦争をせずに幕府に要求した条件には型を付けたが、まだ薩摩の方が残っている。これが次章に書く「薩英戦争」につながるのだ。そして時系列的にはまた翌日の5月10日になると、長州藩が幕府命令の攘夷期日が来たと、下関海峡東側の田ノ浦沖で汐待のため仮停泊していたアメリカ蒸気商船・ペンブローク号を突然砲撃し、5月23日にはフランスの小型報道軍艦・キエンシャン号を、26日にはオランダ軍艦・メデュサ号をと次々に砲撃し下関海峡を封鎖してしまった。これがまた次章に書く「下関戦争」につながるのだ。  
鎖港通告と幕府首脳の支離滅裂さ  
幕府と朝廷の関係もまだ決着が付いていない。朝廷の強い攘夷要求により、将軍・徳川家茂、すなわち将軍後見職・一橋慶喜は開港した三港の鎖港で攘夷を始めよと小笠原長行に命じていたから、そのつもりで京都から帰ってきた小笠原は、前述のごとく独断で44万ドルの賠償金をイギリスに支払わざるを得ないほどイギリスとの関係が緊張していた。しかし小笠原は、イギリスとの戦争を回避するためこの賠償金を支払うや開港場の三港閉鎖交渉を通告する書簡を条約国公使たちに送ったから、こんな不可解な行動に、イギリスをはじめフランス、アメリカ、オランダ公使たちは、日本国内政治における攘夷勢力からの強烈な圧力と幕府の追い詰められた立場をはっきり見て取った。  
もちろん小笠原の「三港鎖港・全員退去」交渉通告に対し、アメリカ、イギリス、フランス、プロイセン(ドイツ)、オランダ5カ国はすかさず、鎖港し在留外国人を退去させれば直ぐに戦争になるぞと一斉に反論した。また仏国公使・ベルクールなどは、三港を鎖港しフランス居留民を退去させれば、その資産分だけでも日本はフランスに対し、「合計127万3千ドル以上もの賠償金を支払わねばならぬ勘定になる」との内訳までも入れた見積りを出し、脅してきた。その裏には更に、条約国側の勝利に決まっている戦争費用の賠償やフランス以外の条約国への賠償金もあるぞ、とのメッセージでもあったはずだ。  
江戸で外交の先端に居る老中格・小笠原長行らとイギリスやフランス、あるいはアメリカ、オランダの公使たちの関係と、まだ京都や大阪にいて動けない将軍家茂と朝廷の関係は、明らかに大きな矛盾を露呈しながら進んでいた。横浜にイギリス軍艦が集結し今にも戦争が始まる事態であるが、江戸の幕閣と京都にいる将軍・家茂や朝廷の意見は食い違ったままだ。イギリスとの戦争だけは回避せねばならないと、5月9日小笠原長行は独断で賠償金を支払った。全く同じタイミングで京都からは、将軍・徳川家茂の「攘夷期限につき、来る5月10日に間違いなく拒絶と決定致しました。また列藩へも布告致します」と云う4月20日付けの奉答に基づき、将軍後見職・一橋慶喜が朝廷の意を奉じ、少なくとも表面的には討死覚悟で外国勢と談判し断然鎖港を完遂しようと、京都から横浜のすぐ近くにまで帰って来ていた。賠償金支払いをせねば今日明日にもイギリスと戦争が始まることを横浜で知った慶喜は、予定された途中の川崎に泊まりもせず急いで江戸に帰り着き、翌5月9日、京都で決定した「5月10日の攘夷」について幕閣と協議した。しかし江戸の幕閣や役人たちは戦争など不可能だと攘夷賛同者は一人も出ず、慶喜一人宙に浮いた格好で孤立してしまった。  
前述の小笠原長行が三港鎖港談判の通告書を外国公使に送る直前に、小笠原から、オランダをも含めた「全条約国と三港鎖港」をするという案件の評議を命ぜられた時に、外国関係の窮状を良く理解し危機感を募らせる江戸の寺社奉行・町奉行・勘定奉行達が連名上書し、  
三港を同時に鎖港し、日数三十日を限り外夷一人も在留なきようにと仰せ出だされた事は、詰まりはご難題で、皇土国境の安危となる。全く不相応な要求であり、無名の戦争に及んでは千萬のご失策で、挽回する事は出来ない。・・・三港を一挙に閉鎖するなどとは是非を論ぜぬ難題で、戦争になり、我が国が蚕食され、天皇の伝統も危ぶまれ、神祖以来のご武徳も廃れてしまう。事ここに到っては、この様な次第を天皇に申し上げ、大将軍職を辞すべし。  
とまで厳しい建言をしていた。が結局、小笠原はイギリスへの償金を支払うと、慶喜の命令どおり三港鎖港通告を出したのだが、そこへ京都から江戸に帰って来た慶喜が「攘夷・鎖港」と叫んでも、「是非を論ぜぬ難題で戦争になる」と、当然慶喜を支持する者など誰もいなかったわけだ。このため慶喜は、またまた関白・鷹司輔熙(すけひろ)に将軍後見職の辞職を願うほどに幕府内の首脳たちは混乱していた。  
一方、まだ大阪・京都に留め置かれ江戸に帰れない将軍・家茂は、大阪や兵庫近辺の海防を視察してお茶を濁していたがしかし、小笠原の独断償金支払いが京都に報告されると、早速京都守護職・松平容保、老中・水野、板倉などが参朝し幕府の不手際を陳謝し、上述の如く将軍後見職・慶喜は辞職願を出し、江戸の将軍目代・徳川慶篤(よしあつ)も辞職願を出した。ここまで外交問題がこじれあわや戦争が始まる間際にも、ただただ朝威を恐れ、筋道を立てて朝廷説得をしようとする幕府首脳は皆無だった。  
朝廷もこれまで将軍・家茂を手元に置いて離さず、これを幕府へ圧力をかける梃子にしてきたが、小笠原長行など江戸の「奸吏」は孝明天皇の意思をも無視してイギリスに償金を渡し、攘夷期限の5月10日をはるかに過ぎても攘夷を始める気配もない。これ以上他に打つ手もなくなった朝廷は、将軍・家茂が江戸に帰れば攘夷を始めるだろうと、大阪城に居る家茂や幕閣からの度重なる「帰府したい」という願いを聞き入れた。家茂はやっと3ヶ月ぶりに大坂城を出発し、老中・水野忠精や板倉勝静などを従え、文久3年6月13日順動丸に乗って海路帰府の途についた。 
6、薩英戦争と下関戦争 

 

背景  
幕府は安政の5カ国条約にしたがって開港したが、当初の期待通り「人心の折り合い」に向かうどころか「人心の離反」が進む逆境になり、井伊大老の安政の大獄で多くの処罰者が出た。こんな状況下で上洛した島津久光は、朝廷にその事後策を建策し、朝廷は久光の案を実行すべく勅使の江戸下向を決め、久光に勅使の護衛を命じた。この江戸からの帰り道で、久光一行は文久2(1862)年8月21日、英国人を殺害するという生麦事件を起こした。イギリスは翌年の5月9日幕府にこの生麦事件の賠償金として44万ドルを支払わせたが、まだ薩摩へ要求した殺人犯人の断罪と賠償金支払いの結論が出ていない。この交渉のためイギリスは、支那艦隊司令長官・キューパーが指揮する艦隊を薩摩に向け、薩摩側の発砲で薩英戦争が始まった。  
一方、その後真っ向から攘夷要求を掲げる朝廷は、文久3(1863)年春に上洛した将軍・家茂にはっきりした攘夷期日とその方策を示せとせまり、家茂は京都で捕虜になったのではと見まがうばかりに留め置かれた。もはや孝明天皇には頭も上がらない。攘夷はどうするのだ、何時行うのだと朝廷から責められ、何の政治的、軍事的裏付けもないまま文久3年4月20日、「5月10日に攘夷決行」と答えてしまった。この5月10日になると、先鋭的な長州の攘夷派は下関海峡でアメリカ商船・ペンブローク号を砲撃した。さらに、次々と海峡を通過するフランスやオランダの軍艦をも砲撃し、実質的な海峡封鎖をしたが、これが外国側に口実を与え下関戦争に突入する。 
薩英戦争  
イギリスの思惑と薩摩の思惑  
こんな風に朝廷からの攘夷要求が激化する中、前章の「5、開港と攘夷行動−戦争の危機と賠償金支払い」で書いたように、イギリスは幕府から44万ドルの生麦事件賠償金を取ったが、肝心な薩摩との交渉がはかどらない。そこでニール代理公使は、イギリス政府の指示通り艦隊司令長官・キューパーと連携し、6月22日(1863年8月6日)旗艦ユーリアラス号はじめ合計7艘の軍艦で横浜を出港し、ニール自身が鹿児島で薩摩藩との直接交渉に乗り出した。鹿児島に着いた艦隊は6月28日、城下の前ノ浜前方に停泊し、ニールは藩主・松平修理大夫(島津茂久・もちひさ)宛に生麦事件の犯人断罪と賠償という要求書をあらためて送り、24時間以内に回答を出せと迫った。内容は前章「5、開港と攘夷行動−生麦事件へのイギリスの要求」で書いた通りである。ニールとキューバーは薩摩に7艘ものイギリス艦隊を見せつけ、威圧によって決着をつけたかった。大艦隊の横浜集結に恐れをなした幕府も5月9日、44万ドルもの大金を一括で支払ったから、彼らは鹿児島でも同様に発砲せず事が運ぶことを強く期待していた。  
薩摩藩政府はこの要求書に対する返書を送り、書簡の往復では「弁知致し難き義これ有り候間」明日「水師提督その餘重役の面々上陸あらんことを乞う」と、書簡では分からないから陸上で直接話そうと誘いをかけた。しかしキューパー提督やニール代理公使は、これを薩摩藩の計略であると感じ上陸を拒否した。そこで薩摩側は更に計略を練り、小船を7艘集めこれにスイカやその他必需品を積み、商人を装った侍を乗組ませ、7艘の軍艦に接近し商人だといって夫々の軍艦に乗り込む。これを合図に陸上から砲撃し、乗り込んだ侍たちが船内を撹乱して勝利しようと謀った。イギリス側もこれも計略だと見破り、旗艦のユーリアラス号のみに1艘の小船の商人の乗艦を許し、武装した警護兵が日本人を取り囲んだ。乗船した日本人は皆「決死の士」として選抜され、久光と茂久に別れの杯をもらった勇者であったが、多勢に無勢、なすすべがなかった。  
この作戦が失敗に帰すと、更にまた薩摩藩家老・川上但馬も書簡をニールに届けたが、ニールは、翻訳のため時間が要るから明朝来いと使者を帰した。艦隊には毛筆書きの日本語をも学んでいた若いイギリス人翻訳官・サトウも乗組んでいたが、翻訳の後に作戦を立てる時間も必要だったのだろう。  
薩英戦争に突入  
明朝また薩摩は2人の伊地知を談判使節として艦隊に送ったが、ニールはそれまで提案された薩摩側の書簡内容を全て拒否し談判は進まなかった。この時イギリス側の測量・偵察隊が鹿児島湾の奥深くの重富(しげとみ)に停泊していた薩摩藩所有の汽船、天佑丸、白鳳丸、青鷹丸の3艘を発見しこれを拿捕した。これはキューパーが賠償金の一部として薩摩の資産を差し押さえるという本国政府の命令に従った行動だったが、これを見ていた薩摩側も終にこらえきれず、7月2日発砲命令が出され、双方からの正式な開戦通告もないまま打ち合いとなり戦いの幕が開いてしまった。  
これはたまたま暴風雨の中の出来事だったが、キューパーは薩摩の砲撃が始まると捕獲した3艘の汽船を焼き払い、7艘の軍艦はいったん湾の北側の磯の方角に向かって単縦陣を作って進み、その陣形のまま海岸に沿って南下しながら、祇園之洲砲台を破壊し新波止砲台や弁天渡砲台などに向かって砲撃した。しかし新波止砲台前辺りから先頭を行く旗艦ユーリアラス号に薩摩砲台の砲火が集中し、艦長以下多数の死傷者を出した。ユーリアラス号が進むこの位置(右・下図の赤印)は、たまたま薩摩藩砲台が訓練用標識を立て十分砲撃訓練を積んだ場所だったから、練習時の照準をそのまま実戦で使えたわけだ。イギリス艦隊では死者13人、負傷者50人が出たという。これに対しイギリス側は炸裂砲弾やロケットと呼ぶ一種の焼夷弾をも多用したから、暴風下の城下町で火災が発生し多くの町屋や仏閣が焼失し、磯にあった斉彬以来の集成館も大被害を受け焼失してしまった。拿捕され焼失した3艘の薩摩所有の蒸気船のほかに、磯近くに停泊する数艘の商船も砲撃され焼失した。  
翌3日には風もなくまた砲火を交えたが、それも散発的に止み、突然イギリス艦隊は横浜に向け引き上げた。旗艦ユーリアラス号の艦長の戦死をはじめ、予想以上に多くの死傷者が出たため一時的な戦意消失と、多くの軍艦修理などのための体勢建て直しであったようだ。  
この戦闘で双方に少なからぬ被害があったが、薩摩ではイギリス艦隊の再来襲を非常に恐れていたし、イギリス艦隊にも多くの修理が必要となり、横浜には再出撃で必要になる陸戦隊も十分でなく、すぐには引き続きの鹿児島出撃が出来なかった。しかし横浜に帰ったニールは1ヶ月後の8月12日幕府に書簡を送り、薩摩がイギリスの要求に従わなければ再度艦隊を鹿児島に派遣すると通告した。  
賠償金の支払い  
イギリス艦隊再来襲を非常に恐れる薩摩では平和解決を模索し、家老代・岩下と応接掛・重野の2人の使者を横浜に送り、9月28日よりニールと交渉に入った。平和構築が目的だから、薩摩もほぼイギリスの言い分を認めざるを得ない。ある程度の交渉の輪郭が見えると岩下は重野を京都にいる久光の元に急派し、交渉内容を説明し指示を仰いだ。久光は「猶また臨機応変、無事を謀るべき旨」を申しつけ、とにかく先ず平和決着を図れと指示した。11月1日ニールと会見した薩摩の使者・岩下たちは、賠償金10万ドル(2万5千ポンド相当)を支払い、犯人処刑を約束する証書を与えた。一方イギリスも薩摩の軍艦購入の周旋をする証書を与えたが、これでイギリスと薩摩藩との生麦事件の賠償交渉が解決した。  
イギリスと交渉した薩摩の使者・岩下らはしかし、約束した賠償金の10万ドルという大金を工面できない。そこでうまく幕府から借金する形で金を用立てることに成功したが、その後これが幕府に返還されたか筆者は知らない。  
歴史的にはここからイギリスと薩摩は急速に接近するが、この薩英戦争でイギリスの実力を理解した薩摩藩が、軍事力増強にイギリスの手を借り始め、将来の人材育成のため、幕府には内緒で留学生をイギリスに送り始めるのだ。また京都に居る久光はこの戦争経験から、必ずや戦争になるであろう横浜鎖港の不可を幕府に強く説き、大阪や兵庫の海防強化を説いたが、強く攘夷を要求する朝廷にその歓心を買おうとすり寄る幕府と薩摩藩との感情的な乖離が始まる。  
イギリス国内の反応  
要求の通り幕府と薩摩藩から賠償金を獲得したニール代理公使は、極めて微妙で困難な政治問題を外務大臣・ラッセル卿の指示どうり処理したと、名誉ある「バス勲章・コンパニオン」を授与された。このバス勲章は軍人や文官に授与されるものだが、大変名誉な勲章のようである。しかし一方イギリスの新聞や議会では、鹿児島の町が焼かれ、罪もない一般人が犠牲になったという議論が巻き起こり、議会の冒頭、偶然に鹿児島の町を焼いてしまったが当初から意図したものではなかったという「女王の遺憾の意」が表明される程までに議論が沸騰した。パルメストン内閣の落ち度だとして反対派の攻撃対象になり、「軍靴や剣を鳴らした外交」と非難された。こんなイギリスの民主主義の声は、次に書く下関戦争にも大きな影響を与える。 
下関戦争  
下関戦争は薩英戦争に比較し、まわりの環境要素が複雑に絡み合っている。朝廷の攘夷要求貫徹を狙う長州、腰の引けた幕府の交渉姿勢、更なる開港・開市期日の到来、外国外交官の思惑、商業利益追求の外国勢の攻勢と、記述もその分膨らんでしまう。  
長州の外国船砲撃事件  
朝廷からの度重なる攘夷圧力でついに将軍・家茂は、やる気も無い攘夷開始を「5月10日」と朝廷に約束したが、攘夷実行を掲げる長州は、文久3(1863)年5月10日になると幕府命令の攘夷期日が来たと、下関海峡東側の田ノ浦沖で汐待のため仮停泊したアメリカ蒸気商船・ペンブローク号を突然砲撃した。それは月のない真夜中のことだったが、将軍・家茂が朝廷に約束した5月10日の攘夷を即実行したのだ。このラッセル商会所有の商船・ペンブローク号は4日前に横浜を出港し、横浜にあるアメリカのウォルシュ・ホール商会の船荷を積み長崎経由で上海に向かう途中だったが、当時長州が自藩で使っていた帆走軍艦・庚申(こうしん)丸と葵亥(きい)丸を使ったアメリカ商船攻撃だった  
下関海峡は最も狭いところで巾600メートルくらいしかなく、うねりながら東西に20キロメートルほども続く狭く細長い海峡だから、潮の満ち干きによる潮流が発生し、西向きに、又は東向きに最高5ノット、即ち時速9キロメートル程の速さで流れる。当時の蒸気船の航行速度は、軍艦でもせいぜい最高時速10ノット程だったから、商船が下関海峡航行時は、安全航行と燃料節約のため時として汐待をした。この時は闇夜だったし蒸気もすぐ上がり、運が良かったのだろうか、ペンブローク号は被害もなく豊後水道に逃げることが出来た。  
これから約2週間後の5月23日、フランスの小型報道軍艦・キエンシャン号が横浜から長崎に行く途中下関海峡を通ったが、長州はまた庚申丸と葵亥丸から砲撃し、陸上の前田、壇ノ浦、専念寺などの砲台からも砲撃した。たまたま潮流は西向きで、この潮流に乗ったキエンシャン号は応戦しながら逃げ切った。長崎に着いたキエンシャン号は、横浜に行くオランダ軍艦・メデュサ号に委託し、下関での砲撃事件を横浜のフランス艦隊司令官・ジョレス提督に報告した。この横浜に行くオランダ軍艦・メデュサ号もまた5月26日下関海峡を通ったが、長州は再び砲撃をし、メデュサ号も応戦しながら通過した。このように長州藩は、半月足らずの間に3艘もの外国船を砲撃し、従って下関海峡は完全に長州による封鎖状態になった。  
アメリカとフランスの個別報復  
国威を侮辱されたと6月1日、まず下関に来て報復砲撃を加えたのが、南北戦争下のアメリカ北軍政府海軍の蒸気軍艦・ワイオミング号だった。ワイオミング号は、たまたま南軍の軍艦を追跡し横浜に来ていて、商船・ペンブローク号が長州から攻撃されたことを知ったのだ。  
国辱を晴らそうとただちに横浜から単独で下関に来たワイオミング号は、陸上からの砲撃をものともせず侵攻し、意識的に出来るだけ北岸の砲台寄りを通過する航路をとったので、海峡の中央付近に照準を定めてあった前田台場や壇ノ浦台場から発射されたほとんど全ての砲弾は頭上をかすめただけだった。ワイオミング号はこうして長州の砲撃を潜り抜け、港に停泊中の長州蒸気軍艦・壬戌(じんじゅつ)丸と帆走軍艦・庚申丸の間をすり抜けながら砲撃した。町の後ろの亀山台場からも砲撃があったが、正確に喫水線に狙いを定めたワイオミング号の11インチ・ダーグレン砲は壬戌丸のボイラーを一撃の下に打ち抜いて爆発・座礁させ、庚申丸は大破し、更に葵亥丸も沈没した。この壬戌丸は、アメリカ公使・プルーインの報告書に因れば、もと「ランスフィールド(Lancefield)」という船名の約600トンの鉄造蒸気船で、長州が11万5千ドルでイギリスのジャーディーン・マセソン商会から買ったばかりの船だった。また葵亥丸は、もと「ランリック(Lanrick)」という船名の帆船で、同じ商会から2万ドルで購入し、大砲を10門備えた船だったと云う。単独で攻撃を終えたワイオミング号にも5人の死者が出たが、悠々と横浜に引き上げた。  
ちなみに、このワイオミング号のマクドゥーガル艦長は、3年前に咸臨丸がサンフランシスコに無事たどり着き、メーア島のアメリカ海軍ドックで修理を受けたが、その補修の陣頭指揮を取った人だ。艦長たるもの自身で船の細部まで、その素材に到るまで良く知っていないといけないと忠告し、勝海舟に「彼に頭上一針をこうむり、すこぶるその云う所、的実なるに感ず」といわせた程の人だった。またこの軍艦には、アメリカの横浜領事館の通訳となっていたジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)も乗組んでいた。  
その4日後、今度はフランスの艦隊司令官・ジョレス提督が蒸気軍艦・セミラミス号とタンクレード号で下関に侵攻し、前田と壇ノ浦台場を砲撃し、陸戦隊を上陸させて守備兵を駆逐し砲台を破壊して去った。これらの報復攻撃は、アメリカとフランスの間に何の連携もなく夫々に直接その侮辱を晴らしたが、長州の砲撃事件すなわち関門海峡封鎖は、攘夷鎖港を進める日本側の動きを突き崩そうとするイギリス、フランス、オランダ、アメリカの4カ国連合艦隊を呼び込むことになってしまう。  
鎖港議論と鎖港交渉使節の派遣  
少し戻るが、いったん5月10日の攘夷を決めた将軍・家茂自身にはもちろんどうやって攘夷を実行したらよいのか考えはなかったようだし、もともと開港の必要性を説いていた将軍後見役・一橋慶喜も、朝廷の攘夷決定を聞くといったんは辞表を出したくらいだったから、攘夷について確たる見通しもなかった。しかし慶喜は、朝廷始め長州も尊攘派の全員が「攘夷・鎖港」と云うなか、将軍が四面楚歌におちいる孤立を避け「将軍職・徳川家を守る」という義務感から朝廷の意思に迎合しようとした。過去からの自身の意見を封じ、朝廷にさらに擦り寄ってでも徳川の存続を図ろうと空約束をしたのだ。しかし最後には、「5月10日の攘夷はできませんでした」と朝廷に将軍後見役辞任の辞表を出そうとしていたようだ。慶喜は朝廷の意思を尊重する方向に舵を切ったが、しかし事がここまで来れば、「禁中並びに公家諸法度」を作り朝廷を制御した「征夷大将軍・徳川家康の江戸幕府」はもはや崩壊していた。  
前章に書いたように、長州が下関海峡でアメリカ蒸気商船を砲撃する前日の5月9日、3港鎖港交渉を命ぜられ江戸に帰っていた老中格・小笠原長行が、生麦事件の賠償金支払い遅延であわやイギリスと戦争になりかけた状況を救うべく独断で44万ドルの賠償金をイギリスに支払った。引き続き江戸に帰ってきた一橋慶喜も江戸の幕閣や役人から3港閉鎖の総反対にあい、「攘夷は出来ません」とまたまた朝廷に辞職を申し出た時だ。  
この様に幕府は朝廷の圧力で5月10日の攘夷開始を約束し、その取り掛かりとして条約国と3港閉鎖交渉開始を決定していたが、その内部の少数の「現在から見た良識派」は、そんなことをしたら大変なことになると危機意識を持っていた。老中・板倉勝静(かつきよ)が主導し、将軍と老中が共に朝廷に鎖港の利害を説明すべきだ。閉鎖にしても、3港の閉鎖すなわち鎖国ではなく、せめて1港は開けておくべきだと朝廷説得を主張しが、将軍後見役・一橋慶喜の反対で実現しなかった。いったん国家の威信をかけて締結した条約を、勝手に鎖港などしたら戦争になることに間違いはなかったから、彼らにはそんな国際常識が少しは理解できていたのだろう。その後幕閣の議論は3港閉鎖か1港閉鎖かで綱引きがあったが、とりあえず横浜港1港の永久閉鎖談判に落ち着いた。この意味は、長崎と箱館ではそのまま貿易を続け、横浜を閉ざし、少しでも朝廷の意に沿った形だけでも作ろうという、姑息な案だったわけだ。  
何とか横浜鎖港交渉の道を探ろうと文久3(1863)年9月14日、板倉勝静などの幕閣はまず、最初に条約を結んだアメリカ公使と200年も付き合いのあるオランダ総領事に話を持ちかけた。両国は、兵庫開港や江戸・大阪開市を延期したのにまたそんな話は聞けないとはっきり断り、アメリカ公使のプルーインは、幕府が横浜鎖港などすれば益々反対派を勢いづかせるだけで、断固として反対派を押さえ込まねば幕府のためにならないとまで伝えた。イギリスやフランスの公使たちも、鎖港の話など聞けないと話し合いにも応じなかった。  
この時アメリカはすでに南北戦争の最中で、日本における外国外交官のリーダー的存在だったタウンゼント・ハリスは退官し、アメリカに帰った後のことだ。1861年、代わりに派遣されたのはプルーイン公使で、アメリカ政府の国務長官・スーワードの外交方針も、イギリス、フランス、オランダなどと十分提携し歩調を合わせるものに変更され、その旨ブルーインに指示されていた。この協調路線は、たとえアメリカ外交にとって最善の選択ではなくても、日本での権益を守る方策として採用せざるを得ないものだった。従って、幕府が親密と思い頼りにしていたアメリカに話しても、イギリスやフランスに話すのと返事は最早たいして変わるものではなかったのだ。  
こんな交渉の始まる直前の9月2日(1863年10月14日)、フランス陸軍士官アンリ・カミュが3人で横浜郊外を乗馬で通行中、井土ヶ谷村字下之前で浪士3人に殺害された。この賠償交渉をしなければならないフランス公使・ベルクールは10月26日、横浜に停泊中の軍艦で、また鎖港談判をしたいという若年寄・田沼玄蕃頭と会うことにした。この会談でベルクールは、陸軍士官殺害の謝罪をする使節をフランスに派遣し、その賠償の決着をつけた後で、「ついては鎖港の儀申したく」と話してはどうかと非公式に提案した。フランス公使にしてもイギリスのように大艦隊を動員できない状況下で、日本がフランスに使節を送り賠償金の決着をつけてくれれば手数が省ける。この提案は、なんとか鎖港交渉をしたい幕府にとっても渡りに船だったからすぐに採用された。横浜鎖港談判使節に任命された外国奉行・池田長発(ながおき)と同・河津祐邦(すけくに)らは12月27日、フランス軍艦・ル・モンジュ号で上海経由フランスに向かった。この鎖港談判使節派遣と、使節・池田長発がその後ヨーロッパ文明を実際に体験して開眼し、更に英・仏・蘭が下関に軍艦を派遣する計画の存在をフランス外務大臣・ドロワン・デ・ルイスから知らされたこの使節一行の突然の帰国は、これから書く下関戦争に向かう連合艦隊に一時的なショックを与えることになる。  
オールコックの攘夷・鎖港への対抗策  
上述のように幕府は、直接フランス、イギリスなどと横浜鎖港談判をしようと外国奉行・池田筑後守、同・河津伊豆守、目付・河田相模守らを先ずフランスに向け派遣したが、休暇でイギリスに帰国していたオールコック公使が日本へ帰ってくる途中、上海でたまたまこの鎖港談判使節一行に出会った。そこで池田はオールコックに、「開市以来、内地の人心多少の不折合いを生じ」そのため和親の外国にも迷惑がかかっているので、「ついては横浜鎖港の義申し談じ候」と、自分達の使節派遣の趣旨をオールコックに説明した。要は、攘夷殺人など過激派の活動で和親の国々に迷惑をかけているので、過激な行為を冷やすためにも横浜を鎖港したいという訳だ。そしてニール代理公使を通じ連絡をしてあるが、フランスの後でイギリスに行くから、公使からもイギリス政府にその旨連絡してもらいたいと頼んだ。びっくりしたオールコックは、自国政府は横浜鎖港など決して快く思わないし、談判は成功するはずがない。自国政府からも日本の状況は良くないから改善策を取れとの特命もあって日本に帰任するところだといった。しかし池田は、自分たちも特命を受けている身だから「鎖閉の義、不理の考案とも察せらるべく候えども」と、たとえ鎖港提案が不条理で不利のようであっても、とにかく予定通り行動しようと決し、使節一行はそのままフランスに向かった。  
時をおかずオールコックが元治元(1864)年1月24日に横浜に帰ってきたが、明らかに新しく明白なイギリス政府の方針変更があった。確かに薩英戦争で鹿児島の町を焼いたことに対するイギリス世論に厳しい意見も多かったから、外務大臣ラッセル卿のその方針は、条約に合意された権益は武力を使っても守るが、その前に日本政府に強くその履行を求め、武力行使については海軍提督や日本に派遣された軍事責任者と緊密に連絡し合意せよ、と明確な指示があった。  
引き続き朝廷の厳しい攘夷圧力により幕府は、横浜鎖港をはっきり打ち出し、それまでにも砲台を築いたり、武器を製作したり、蒸気軍艦や大砲購入に大金を投入したり、兵士を増やし訓練も強化したりと、外国人の目にもその動きは明らかだった。更に幕府は種々の規制を作り、横浜への商品流入を大幅に制限したから、オールコックは権益を守るための策を練り始めた。そして、自国の外務大臣ラッセル卿の命じた基本方針は「条約に合意された権益は武力を使っても守る」ことだが、これに照らしても長州のとった条約国船舶に対する下関海峡の砲撃封鎖は明白な条約違反で、海峡の自由航行が守られねばならないとオールコックは声を大にして断じた。それは、アメリカやフランスは独自に下関に軍艦を派遣し懲罰行動を取ってはいるが、下関海峡の封鎖により、横浜−紀伊水道あるいは豊後水道−下関海峡−長崎のルートがすでに使えなくなり、また兵庫の開港、大阪の開市も近々行われる約束だから、全条約国にとってこの海峡と内海の封鎖は明らかな条約違反だという論理だった。この論理のもとに条約国海軍が長州による下関海峡封鎖を軍事力で開放して見せれば、日本がたとえ横浜を実力で鎖港しても条約国の軍事力でたちまち開放するぞという、戦争の一大デモンストレーションになる。フランス、アメリカ、オランダの公使たちもオールコックの提唱に賛成し、6月19日(1864年7月22日)、幕府がそれをやらなければ軍隊をもって海峡を開放すると、その旨を記述した4カ国共同覚書に調印し、四カ国公使たちも数度にわたり夫々幕府に海峡封鎖解除を要求していたのだ。  
オールコックは、横浜が鎖港されれれば必ず日本と4カ国の戦争になる。その前に軍事力を使って下関封鎖解除をやって見せれば、横浜鎖港を阻止できると考えたのだ。これは、この下関戦争のすぐ後にオールコック公使は本国に召還されたが、その時に外務大臣に出したオールコックの弁明書に明らかである。いわく、  
下関砲撃は、我々が横浜から締め出され、必然的に戦争になることを避けるため必要でした。砲撃の動機、目的、その実行手段に関し、私の弁明とその正当性はこの一点にあります。結果がそれを証明しています。破局は回避され、戦争の危険性は完全になくなったといえないまでも無期限に延期され、横浜における我々の立場は、当面の全ての危機から開放されました。消滅しかかっていた貿易は、前以上に回復しています。  
一方、それまで完全な独立路線を維持していたハリス公使も帰国し、アメリカでは南北戦争も続いていて、後任のプルーイン公使も自国政府の方針通りイギリス・フランス・オランダ公使たちと全面的な協調路線を取ったから、オールコックの主導する攘夷・横浜鎖港への対抗策、すなわち4カ国艦隊を派遣し封鎖された下関海峡を開放する武力行使が決まった。その時のアメリカ政府、すなわち北軍は南北戦争の最中に全ての海軍力を南軍の港湾封鎖に集中的に投入していたから、日本にいたアメリカ軍艦は1艘の小型帆走軍艦・ジェームスタウン号だけだった。帆走軍艦では、操船上他国の蒸気軍艦との統一行動は不可能だ。そこでプルーイン公使は横浜にある民間のハード商会から、600トン程で小型砲3門を備えた蒸気船・ターキャン号を借り上げ、小型帆走軍艦の30ポンド・パロット砲1基を据付け、帆走軍艦の士官・ピアソン大尉と兵士18人を乗せやっと参戦することができた。しかしこんな船でもイギリス海軍の兵を多数救助したから、ある程度の存在感を示すことは出来たようだ。 
4カ国の下関砲撃とその結末  
イギリス、フランス、オランダ、アメリカ4カ国の連合艦隊の出撃準備が整い、まさに下関に向け出航しようとしたそのとき、突然、前述した横浜鎖港談判使節の池田筑後守一行が横浜に帰ってきた。そして、関門海峡でのフランス軍艦・キエンシャン号への砲撃賠償金として三ヵ月後に14万ドルを支払い、幕府はフランス海軍と共同してでも関門海峡の安全航行を確立し、関税率を引き下るという「パリ協定」なるものに調印し、フランス陸軍士官アンリ・カミュの遺族には、遺族扶助金として3万5千ドルを即金で支払ったことが報告された。とにかくフランスと日本は和解したのだ。これはオールコックが主導した下関出撃連合艦隊の崩壊を意味している。  
鎖港談判使節の池田筑後守一行は、ヨーロッパでそのすばらしい文明を目撃し、ますます発展している交通、通信、軍事などの技術力を目の当たりにすると、日本で攘夷・鎖港と騒いでいることがいかに時代遅れかを痛感した。そして何にもましてフランスからもイギリスからも鎖港談判など相手にもされなかったのだ。確かにフランスの外務大臣・ドロワン・デ・ルイスの対応は親切だったが、文久3年5月の長州の下関外国船砲撃事件や今回の横浜鎖港などは、先般フランスが譲歩合意した兵庫・新潟の開港及び江戸・大阪開市日延期の約束を無効にし、条約国に日本の条約遵守を要求させる口実を与えることになる。すなわち戦争になろう、と諭されたのだ。またすでに今回、英・仏・蘭が下関に大艦隊を送る計画が有る事をも知らされ、鎖港の危険を諭されたのだ。池田筑後守はその長い帰国報告書に、朝廷にはこの有様をよく説明し、「御誠実に御奏上御座候はば御氷解在らせらるべき儀と存じ奉り候」と、こんな世界情勢と共にいったん締結した条約遵守義務とをよく説明すれば、朝廷も分かるはずだと書いて出した。本人も、直接京都にまでも行く覚悟だったともいわれている。  
しかし、先鋭化した朝廷に横浜鎖港談判使節の成功を約束している幕府は、3日後の7月22日、談判使節がフランスと結んできたこのパリ協定を直ちに破棄し、池田筑後守に隠居蟄居を、河津伊豆守に逼塞を、河田相模守に閉門を申しつけ、「不埒の至りに候」と使命不履行を厳しく罰した。池田長発には幕閣に会い直接詳しい帰国報告をする機会をも与えぬ程の早業だった。幕府は朝廷に、「横浜鎖港をもって攘夷を始める」と約束してきたてまえ、こうする以外の道は無かったのだ。  
こんな突発事件で頓挫したかに見えた連合艦隊は、幕府がパリ協定を破棄したと聞くやすぐさま下関に向け出港した。16艘もの蒸気軍艦で構成された大艦隊が来ては長州はたまらない。長州には負け戦が分かっているから講和をしようと試みたが、連合艦隊は8月5日から7日にかけて長州を砲撃し、力ずくで台場を壊し、再び海峡封鎖が出来ないようにするための戦争になった。連合艦隊の3日間の砲撃と上陸戦で完敗した長州は、8月14日(1864年9月14日)、現地で約定書を提出し和睦した。これは、  
1.外国船が馬関(下関海峡)通航の折は親切に取扱う。  
2.石炭食料薪水その他入用品を販売する。  
3.船が風破の難に遭った時は無障上陸してよい。  
4.新規台場を造らず旧台場の修繕もせず大砲も置かない。  
5.外国船への砲撃と遠征の賠償金は江戸における交渉に従う  
を停戦条件としたものだった。連合艦隊はその後20日ほども3艘の見張り軍艦を下関付近に滞留させ、長州の協定遵守を監視させた。  
一方幕府も元治1(1864)年9月22日4カ国と横浜で交渉の末、若年寄・酒井忠眦(ただます)は次のような取り決めを結んだが、2ヶ月前には朝廷から幕府に、禁門の変の責任を問う萩藩主・毛利慶親父子征討の命令が発せられていて、長州の暴挙を制御するのは幕府の責任であるから、賠償金は幕府が責任を持つべしという論法を受け入れた決着だった。それは、  
1.長州の下関での外国船に対する暴挙への償金、4カ国が下関を焼かなかった償金、及び同盟艦隊派遣の諸費用として、合計300万ドルを支払う。  
2.合計償金額を6分割し、各国がこの取り決めを批准した日から50万ドルずつ、3ヶ月ごとに支払う。  
3.4カ国の主意は賠償金を得ることではなく、日本との交易である。もし日本が望めば、下関港か内海の適当な港を開き300万ドルの支払いに替えることを認める事もあるが、それは4カ国政府の判断で定め、賠償金の支払いを要求する時は、上述のごとく支払うこと。  
4.日本は調印後15日以内に批准すべきこと。  
この幕府責任に対する賠償金中の「4カ国が下関を焼かなかった償金」とは、前述した薩英戦争後のイギリス国内で、「町が焼かれ罪もない一般人が犠牲になった」と自国政府への非難が集中し、女王が「遺憾の意」声明まで出さざるを得なくなった。従ってこれは、この経験を生かした対応で、いわば注意深く一般市民に危害を加えない、あるいは街を占領まではしない武力行使であったわけだ。英文では「Ransom」という語を使っているが、いわば、街の開放身代金とでもいう性格のものだ。がしかし、これをも恩着せがましく賠償金を取る理由にしたイギリス外交のしたたかさは驚くほどである。  
別の章で書くが、この第3項の「現金支払いか内海開港か」という選択に対し幕府は、港を開かず300万ドルの賠償金支払いを受け入れた。これは当時の幕府年間支出額の四分の一にもあたる莫大な金額だ。この賠償金は4カ国で分配され、最初に実被害を受けたアメリカ、フランス、オランダが夫々78万5千ドル、イギリスが64万5千ドルと決まった。しかしアメリカ政府は、後にこの全額を日本に返還する事になる。  
更に、これは後日判明した事だったが、イギリスの外務大臣・ラッセル卿は、オールコック公使に宛てた1864(元治1)年7月26日付けの書簡で、「今回貴君から受け取った書簡に関し、女王陛下の政府は、日本領域で自衛以外の如何なる軍事行動も取らぬよう明確に命ずる」と書き送った。更に8月8日付けの書簡では、「いまだ大阪の開市が始まらないうちに、内海の航行不能が通商を阻害すると云う理屈が分からないから、至急帰国の上わが政府と相談すべし」と、オールコック公使の帰国を命じていた。またそれから10日後にも、「大阪や京都が閉ざされている限り、通商のためのヨーロッパやアメリカの内海航行は不必要に思われる。・・・従ってそんな状況下で貴君は、キューパー提督に、長州に対する戦争行動に出る要請をすべきではない」と、再度の武力行使不許可の書簡をも送った。これら全ての書翰はしかし、4カ国艦隊が横浜を出航し下関で戦争が始まった後に日本に到着したから、下関戦争に影響を与えなかったと云われている。  
またこの下関賠償金交渉の時すでに条約4カ国側では、アメリカ公使・プルーインがかねて主張する「日本の平和と安定のためには、朝廷が条約を勅許すべし。」と云う意見に完全に同意していて、日本の政情安定化のために不可欠だと、賠償金交渉に先立つ9月6日の会談でも、老中・牧野忠恭(ただゆき)、水野忠精(ただきよ)などに強く主張し、各国とも将軍宛の親書をも提出していた。この条約4カ国側の意見はその約1年後、朝廷の条約勅許及び兵庫先期開港を要求するため、突然4カ国側は軍艦9艘を率いて横浜を出帆し、兵庫沖に出現すると云う行動で強要される事になる。これについては、次章の条約国の兵庫沖への軍艦派遣と条約勅許を参照されたい。 
7、長州征伐と条約勅許 

 

背景(安政5年1月−文久3年5月)  
孝明天皇は、自分の代に神国・日本に夷人が入ってくることは先祖代々に申し開きが出来ないと、通商条約締結を心から嫌い、少なくとも和親条約の線まで引き戻せと強く攘夷を命じた。こんな天皇の意思を無視するかのように、次々に各国と通商条約を結ぶ大老・井伊直弼の強行策に、底知れぬ無力感を味わう孝明天皇は、天皇をやめ譲位することを真剣に考え、後継候補者の名前まで挙げ内意をもらした。一方、通商条約を結んだ井伊直弼は桜田門外で殺害され、京都では過激浪士の暴力沙汰が増え、無法地帯に近い危機的な状況に陥った京都の秩序回復を図ったのが、文久2(1862)年4月13日に上洛した島津久光である。久光は同時に、大老・井伊直弼により罪を受けていた一橋慶喜や松平慶永の起用を朝廷に建策し、幕閣は朝廷の意思としてこの案を受け入れた。  
朝廷の強い攘夷要求に応えるべく、新しい将軍後見役・一橋慶喜や政事総裁・松平慶永の補佐で、将軍・徳川家茂(いえもち)は公武一和の実現のため上洛した。しかし、幕府に大政委任をしている朝廷が政治上ことごとく命令を出しはじめ、攘夷に向け強硬に突っ走り始めた姿を見て、「政令二途に出づる」、すなわち政治的な基本命令が朝廷と幕府から夫々に出ては政治に責任は持てないと、辞職願を出した政事総裁・慶永は正式な許可が下されるのを待ちきれず、勝手に福井に帰国してしまった。  
引き続き京都に滞在しますます朝廷から攘夷要求圧力を受ける将軍・家茂は、とうとう実行不可能な攘夷決行期日を文久3年5月10日と天皇に約束した。これを受け、5月10日に外国船を砲撃した長州は4カ国との下関戦争に巻き込まれ、幕府もまた将軍の攘夷決定責任を問われ、当時の幕府年間総支出額の四分の一にもあたる莫大な賠償金300万ドルを支払わねばならないことになる。  
将軍後見役・慶喜は、自身で江戸の幕閣や諸役人を督励し朝廷の命ずる攘夷鎖港を遂げようと江戸に帰ってみると、老中格・小笠原長行(ながみち)が独断でイギリスに生麦事件賠償金の合計44万ドル(11万ポンド相当)を支払い、その上で、「大君の命により開港場を閉鎖し外国人の退去を命ずる予定だ」という文書を各国に出していた。これに驚いた各国公使は、戦争になるぞと大声を上げ始めた。  
京都から江戸に帰った慶喜は会議を開いたが、慶喜の命じようとする攘夷鎖港を支持する幕閣や役人は皆無だった。誰の支持もなく進退窮まった慶喜は、朝廷に将軍後見職の辞表を出すが受理されなかった。 
朝廷の政変(文久3年8月18日)  
長州と過激派公家の攻勢  
孝明天皇の強い意志による攘夷要求に歩調を合わせ、京都に集まる先鋭的な長州勢や過激浪士の尊皇攘夷の叫びを背景とするように、国事御用掛・三条実美(さねとみ)などを中心とする過激派公家が、急速に関白をも凌ぐほどの勢力となった。天皇の強い攘夷意思に押された将軍・家茂が、5月10日と約束した攘夷期限を過ぎても何も出来ない幕府を見て、忠誠心に駆られる三条実美の強硬論が腰の引けた関白をも圧倒し始めたのだ。京都の治安も乱れに乱れ、毎日どこかで暗殺や放火の噂が絶えず、朝廷内では天皇自ら兵を率い、幕府を譴責し攘夷を行うべしとの意見が強硬になった。  
しかし孝明天皇の気持ちの中には、攘夷は先祖代々に対する約束であっても、皇女・和宮親子内親王を嫁がせた将軍・家茂を切ってまで武力を振るう決心はなかった。それはとりもなおさず肉親を攻める行為だから、攘夷は、なんとしても家茂に実行してもらいたい思いだったのだ。この天皇の思いはしかし、過激派の長州勢や実美らの進もうとする方向、すなわち倒幕に傾斜した行動とはかけ離れたものだった。朝議を主導する三条らの過激派公家は、幕府が「5月10日攘夷」の約束を守らない今となっては、「天皇の御親征、行幸」を行い、動かない幕府を譴責し、全国民を率いて攘夷に臨めば、外国との戦争にも負けることもないだろうと強硬に奏上した。天皇もたまらず、朝議決定された親征と大和の国への行幸を一旦は認め、神武帝山稜や春日大社で攘夷を祈願し、軍議を行う予定だった。しかしこの時、一橋慶喜や京都守護職・松平容保(かたもり)、桑名藩主・松平定敬(さだあき)等は、すぐ武力による攘夷ができないのは、我が国には未だ外国に匹敵する軍事力が整わず時期が早すぎる。もし負けるようなことにでもなれば、反って皇威失墜になると進言していたことも天皇の心配だった。  
孝明天皇の決断と七卿落ち  
悩んだ天皇はしかし、決断し策を巡らした。まず国事御用掛・中川宮朝彦親王に自身の考えを示し十分な理解と支持を得て、文久3年8月16日、前関白・近衛忠熙(ただひろ)と右大臣・二条斉敬(なりゆき)にも同様に話し、過激な公家達と決別をすべく、3人に秘密勅命を出した。  
この三人と孝明天皇の関係は、朝彦親王は身内で長期に亘る参謀的存在だったし、近衛忠熙は孝明天皇を最もよく理解していて、二条斉敬は国事御用掛の急進暴言家・三条実美と対立関係にあったから、まず自分をよく理解し支持してくれる味方を固めたのだ。中心である中川宮はしばらく水面下で動き、守護職・松平容保(かたもり)とかたく連携し、薩摩藩とも連携し細かな行動計画を練り時機をうかがっていた。暴言家公家を制御できず、天皇の御前と朝議での決定が違うという優柔不断の関白・鷹司輔熙(すけひろ)はしかし、この秘密の画策からは全く外されていた。  
ことごとく根回しが済み、中川宮が孝明天皇に時機到来と計画実行を伝える文久3(1863)年8月18日の夜明け前、寅の下刻(午前4時頃)、早くも中川宮や松平容保、所司代・稲葉長門守が参内した。続いて二条斉敬、近衛忠熙も参内し、在京中の多くの大名たちも引き続き次々と参内して来た。その頃には計画通り九門全てが閉鎖され、京都守護職・松平容保の配下や薩摩藩および在京諸藩の武士たちが割り当てられた場所で警備についていた。  
これは過激公家の影響下にある議奏や国事御用掛、その他一切の公家や長州藩士の参内を差し止め、長州藩の堺町門の警備も中止する処置だった。指名者以外の参朝は関白の鷹司輔熙さえも阻止されたが、暫くして関白は勅使により参内を求められやってきた。親征、行幸は中止する旨の言い渡しが行われ、国事御用掛や寄人も廃止され、薩摩藩の乾門警備が復活した。  
それまで国事御用掛・三条実美などと強く連携し、天皇の思い込む攘夷を貫こうと、強い忠誠心で朝廷に尽くしてきたと自負する長州藩の全ての行動が突如として拒否され、参内すら拒まれ、禁門の警備まで取り上げられてしまった。これは青天の霹靂だったが、天皇の意向を大きく逸脱した行為にまで進みすぎたことさえも理解できないほど、長州藩は過激派公家とのみ連携し突っ走ってしまったのだ。あるいは、天皇の意思までも自由に出来ると思い込んでいたのかもしれない。突然に締め出された長州藩士や攘夷派公家は、当初関白に面会しようと鷹司邸に押し寄せたが、関白さえも何が起こったのか分からないほどだった。関白邸に送られた勅使によるそれ以上の強訴は違勅とみなすとの通告に、長州藩士はその夜ついに諦め、一旦の帰国に決した。三条実美や三条西季知(さんじょうにしすえとも)など長州に加勢する尊皇攘夷派7人の公家も長州藩士達と行動を共にした。  
18日付けの朝命で、三条実美、三条西季知その他の過激公家に対し参内、他行、他人面会を禁ずる処置が通告されたが、これは「急度相慎み」の申し渡しだった。従って長州に渡った7人の公家は、朝命に反し京都を脱走したのだ。この朝命に対し長州の三田尻に着いた実美ら7人からは、「先日急度慎みを申し渡されましたが、攘夷については天皇から深い思召しを親しくお聞きしており、永年の外夷掃攘という叡慮貫徹に尽くしたく思い、西国へ下向しました」と届けられた。これがいわゆる「七卿落ち」と呼ばれる出来事だ。  
この一連の出来事は、孝明天皇の命令で朝彦親王が中心になり、京都守護職・松平容保や薩摩藩と結んで実行した、突出しすぎた過激派追い落としの実力行使だったのだ。この政変の直後に孝明天皇は右大臣・二条斉敬、中川宮朝彦親王、前関白・近衛忠熙に宛てた宸翰を出したが、当時の孝明天皇の真の気持ちが書いてある。いわく、  
三条始め無謀で気性の激しい連中の行為に深く心を痛めていたが、少しも朕の考えを採らず、その上言上もなく、浪士輩と申し合わせ勝手次第の事をやっていた。表面上は朝威を高めるなどと言っているが、真実は朕の趣意は通らず、誠に我まま放題だった。「下から出る叡慮」のみで少しも朕の存意は貫徹できず、本当に排除したいと兼がね然るべく伝えていたが、十八日になって望み通り彼らを排除でき、深く喜んでいるところだ。・・・全く不埒極まりない三条始めを排除でき、実に国家のため幸福なことだ。これからは朕の趣意が通ると深く喜んでいる。(「孝明天皇紀」)  
この様に、三条実美などが長州過激派と連携し、孝明天皇の意思を無視して行動したのだと、怒り心頭に発しクーデターを起こした有様が書かれている。  
公武一和派参与の参加  
天皇は早々に前佐賀藩主・鍋島直正、前高知藩主・山内豊信、薩摩藩・島津久光等に上京を命じ、2ヶ月半ほど後には政事総裁辞任の願いを出したまま無断帰国し、幕命で逼塞していた松平慶永も朝廷に詫び状を出し、許されて上洛してきた。しかし朝廷内ではこの慶永の上洛に議奏伝奏から異議も出たが、中川宮や前関白・近衛忠熙など、島津久光に親しい人達の配慮と根回しがあったが、久光はそれほど慶永の参画の必要性を認め、上洛を助けていたのだ。  
勅命により文久3年10月初旬から上洛していた久光は11月15日、建白書を前関白・近衛忠熙を経て朝廷に提出し「朝廷の緩急の所置きについては久光一己の考えでなく、列藩上京の上で天下の公議を採用し、根本策をご決定あらせられたく」と、朝廷と列藩の合議制を提案していた。久光の基本とする点は、従来幕閣は譜代中の譜代藩から任命されるとはいえ、何れも小身で、今日ほど国の内外を問わず問題が山積すればもはや機能しない。大身の大名をも起用し多くの意見を集約する制度にすべきだ。また朝廷においても、政事は摂家(近衛、九条、一条、二条、鷹司の5家)と議奏、伝奏のみに権力が集中しているが、広く皇族方をも含めるべきだという、公武一和をめざす新体制の提案だった。久光の考えの中には、今までの幕閣中心で徳川に都合の良い観点からだけの政治では、最早処理できない諸問題が多すぎるという視点があったから、その陣容は、一橋慶喜、松平慶永、山内豊信、伊達宗城(むねなり)、島津久光などを入れた合議体制を考えていた。  
この「徳川に都合のよい政治」を改めるべきだという点で、松平慶永もほぼ同様に考えていた。この幕府の私政治は「先頃の井伊直弼や安藤信正に始まったのではなく、既に神君・徳川家康の創業の頃より専ら幕府に利のある事のみに務め、朝廷に利のある事はほとんど顧みられず、以後200余年その遺範によるものだから、一挙にこれを脱却しようとする事は本当に難事である。しかし神君より3代ほどのように実力を持つ将軍がいてその政を行うのなら兎も角も、以降はその実力者なしでその政を行うようになっては、到底その私を遂げることはできない。従って今日はその非を改めるに躊躇せず、天下公共の理にもとずき速やかにその私を脱却されるべき」であると考えていた。  
12月30日になると、一橋慶喜、松平容保、松平慶永、山内豊信、伊達宗城等は朝廷の参与に任命され、島津久光も参与になった。それまでの尊攘派・長州閥に取って代わり、公武一和派が主流になったが、これは孝明天皇主導によるクーデター的変革によるものだった。  
一旦帰国した長州藩はしかし、何度も朝廷に弁明を試みたが成功せず、ついにまた兵を率いて上洛し弁明を試みることになる。そして次に書くが、元治元(1864)年7月19日、蛤御門で薩摩藩や幕府側との戦になり、皇居に向けて発砲するという朝敵の立場に落ちてしまう。 
禁門の変  
参与体制の崩壊  
このクーデター的改革の後、急進的公家や長州が攘夷に突き進んだ過激な行為に関し孝明天皇は、元治1(1864)年1月27日将軍始め在京の大名を招き、自筆の勅論を下し、  
全く意外にも、三条実美等は暴説を信用し、国内の形勢を察せず、国家の危機をも考えず、朕の命令をゆがめ、軽率に攘夷の命令を布告し、見境なく倒幕軍を計画した。長門の暴臣は藩主を愚弄し、理由なく夷舶を砲撃し、幕臣を暗殺し、勝手に実美等を本国に誘引した。こんな凶暴の輩は罰せねばならない。  
と、三条実美や松平大膳大夫(だいぜんだいぶ=敬親)の暴臣の行状を激しく非難し、厳しく処罰すべく命じた。それまでは、攘夷過激派の主導を行き過ぎだと思いつつも許容してきた孝明天皇も、ついに軌道修正を断行したのだ。  
さっそく参与の慶永、久光、豊信、宗城など皆が登城し天皇が命じた長州処罰を話し合ったが、なかなか意見がまとまらない。一橋慶喜は前から大膳大夫父子を隠居さすべしとの意見であったが、島津久光や伊達宗城は直ちに討伐軍を発するか大膳大夫父子を大阪に召喚せよといい、山内豊信は将軍は江戸に帰り大膳大夫父子を江戸に召喚せよと主張した。特に久光と豊信の意見が真っ向から対立し、終に合意に至らなかった。  
また文久3年10月3日に上洛以来の島津久光は、孝明天皇が秘密裏に自ら久光に出した時事に関する21項目の質問に奉答したり、幕府が文久3年12月27日鎖港談判使節をフランスやイギリスに送ったが、鎖港などすべき時ではなく、無謀の攘夷を避けまず富国強兵をはかり、大阪・兵庫近海の防備を厳重にすることを幕府に強く建議していた。これは勿論、たった8ヶ月ほど前の薩英戦争の実体験から出た考えで、よほど堅固な台場と大口径の大砲が多数なければ自由に移動する艦砲の威力にはかなわないことを悟っていたのだ。もし外国勢に一番無防備な朝廷の足元の兵庫近海に兵力を動かされたら、また屈辱的な外交から抜け出せなくなるとの強い懸念だった。  
このように今回最初に朝廷から召されて上洛し、独自に朝廷に建策もし、また幕府の進めようとする鎖港談判に強硬に反対する久光の言動に、主導権を持つと強く自負する幕閣達は、「公武融和を阻害するものだ」とその意図を強く疑いはじめた。幕閣は、やっと孝明天皇や朝廷と将軍・家茂の関係が好転してきたのに、幕府が取る朝廷迎合策「鎖港」に反対する久光を強く嫌ったのだ。最初は久光の立場を擁護していた一橋慶喜さえも一転して薩摩に疑いの目を向け始めたが、この時慶喜自身も同様に幕閣との関係が大幅に悪化していたから、慶喜さえもその立場を変えざるを得なくなっていたようだ。中を取り持つ慶永にも幕閣から狡猾者だと疑いの目が向けられ、慶喜からさえうって変わった冷たい態度を取られ、ついに参与の慶永や久光、伊達宗城など公武融和に力を注いだ大名たちは帰国を願い、許されて帰国してしまう。就任からたった2ヶ月あまりで、全員が参与を辞職する異常事態になってしまった。  
久光も慶永も心から朝廷と幕府を思い、何とか日本の政治的安定を願い、何度も上京し努力を重ねてきたと自負していたが、こうも権威主義から抜け出せず、出来もしない攘夷・鎖港を掲げて朝廷に擦り寄ろうとする幕府の行動を見ては、これではどうにも策がないと思っても不思議ではない。特に薩摩藩には、幕府から嫌疑を受ける身だから何を云っても聞き入れられないという強い不満が溜まり始めた。  
今まで外国の武力を恐れ、戦争は避けようと強引に開国を進めてきた幕府が、鎖港などすべきでないと主張する久光や慶永という力強い味方が現れたのに、公武融和という幕意に沿わないと幕閣たちが言い、一橋慶喜もそれに引きずられ、根本を見失い真の味方を切り捨てる過ちを犯した。一旦新しい挙国体制を構築するかに見えた朝幕関係も、また昔の体制に戻ってしまった。  
久光はしかし、自分の主張が幕府から嫌疑を掛けられる危険性を良く知っていた。久光と慶永は時に書簡を交換したり家来が行き来したりと互いによく理解しあっていたから、一橋慶喜の理解を得ることがキーポイントだった。しかしいったんは久光を擁護した慶喜も、慶喜自身と幕閣との間にギクシャクした関係が加速したから、幕閣の剣幕に押され態度を変えてしまったのだろう。  
長州の強訴と失敗  
こんな背景で、孝明天皇の怒りに触れた長州藩主の毛利敬親(たかちか)と子の毛利定広は幕府から国許へ謹慎を命じられていて動けなかったが、久光や慶永も京都から帰国し、将軍・家茂も5月16日大阪城を出発し海路江戸に帰府したから、首脳の席が空になった京都で再び長州藩の急進派が復権を目論み、兵を率い、藩主冤罪の嘆願を名とした強訴が始まった。  
武装した多くの長州藩士が山崎の天王山や伏見の長州屋敷に、別隊が嵯峨・天龍寺に集まり兵力で圧倒しようとの作戦だった。これに対する幕府の禁裏御守衛総督・一橋慶喜や京都守護職・松平容保は、筋を通し許しを請えと長州藩士の入京を固く禁じ、会津・桑名・大垣・薩摩の諸藩兵で禁裏の守備を固めた。  
しかし一部の朝廷内にもまだ長州を許すべきだとの意見は根強く、長州勢の侵攻を陰で助ける一派もあり、長州討伐の勅命が出る前に決着を図ろうと長州藩士や浪士なども混じり、京都守護職・松平容保を人質にして交渉しようと兵を挙げ禁門に迫った。元治1(1864)年7月19日のことだ。蛤御門の近くまで迫った長州軍は、禁門を守る会津、桑名、大垣、薩摩の諸藩兵と激戦になり、結局長州軍は大敗した。朝敵となって敗走する長州軍は自藩の屋敷に放火して逃げたが、京都市中を広範囲に焼く大火にまでなってしまった。 
長州征伐  
長州征伐の朝命  
事態がここまでくれば、孝明天皇には怒りしかない。それに加え、激戦区の中立売門近くで見つかった長州家老・国司信濃(くにししなの)の具足櫃の底から、藩主から信濃に与えられた黒印軍令状も発見された。これでは、長州藩を挙げて朝廷への反抗は明白だった。7月24日ついに朝廷から、  
更に反省の意思もなく、言を左右し危険な意趣を隠し、自から兵端を開き、皇居に向け発砲した罪は軽くない。これに加え、大膳大夫父子は黒印を押した軍令状を国司信濃に与えたとのこと。全軍ではかりごとを巡らした事実は明白である。防長に進軍し、ただちに追討せよ。という朝敵討伐の朝命が出された。  
一方ではまた、歴史の偶然とでも言おうか、長州藩が1年ほど前の文久3年5月に起こした外国船砲撃を受け、8月11日、4カ国連合艦隊が下関海峡にやってきて、海峡封鎖を解くべく砲撃を始めた。これは「6、薩英戦争と下関戦争」に書いた通り長州の完敗であった。  
朝廷から長州討伐命令は早々に出たものの、長い間大軍を動かしたこともなく、ほとんどの大藩が経済的に疲弊しきった中で、幕府内の長州征伐総督がなかなか決定しない。前福井藩主・松平慶永、和歌山藩主・徳川茂承(もちつぐ)などの名前が挙がっても実現せず、ついに2ヶ月もかかって、前名古屋藩主・徳川慶勝の固辞にもかかわらず、幕府から押し付けられてしまった。将軍・家茂から軍事委任の朱印状を交付された総督・徳川慶勝は、10月11日、出征諸藩に向け1ヵ月後の11月11日を期して各部署に着き、十八日攻撃を開始すべく命じた。  
戦わずして決着を図るが、また火種が発火  
しかし朝命による長州征伐とはいえ、出兵する幕府諸藩の経済は疲弊し、その全てに作戦意思が行き渡り意気軒昂であるわけでもなかったし、外国勢が押しかける中で日本を二つに割った戦争などをしては、彼らに付け入る口実を与えかねないという懸念もあったから、あまり大げさな戦闘に頼らず、早く穏和な決着をつけたいのが長州征伐総督・慶勝の腹であった。参謀に任じられた薩摩藩の西郷吉之助は、長州内には急進派(暴党)と保守派(正党)があるが、この二派を一括りにして討伐軍を進めるのは下策である。上策は保守派に説き、長州藩自ら首謀者を罰し恭順の意を示させるべきであると、総督・徳川慶勝に進言した。  
慶勝は早速この進言を採用し、吉之助に交渉を任せた。結果は西郷の思惑通り、藩内で自ら首謀3家老を切腹させ、首級を送り幕府側の首実検にかけ、4参謀を断罪し、山口城を破壊し恭順の意を表した。また長州にいる三条実美などの5人について、少々てこずったが九州の他藩への移転で決着した。ついに元治1年12月20日(1865年1月17日)、討伐軍代表が萩城内を検分し、藩主・敬親父子の謹慎の状況を検察し、長州征伐の兵を引くことができたが、朝命が発せられてから5ヶ月後のことである。  
この様に、長州が戦わずして恭順姿勢をとらざるを得なくなった要因は、禁門の変で朝敵となり天皇から討伐命令が出た事や、その後1ヶ月も経たないうちに4カ国連合艦隊と下関戦争が始まり、これに完敗した事が大きい。これらはすなわち、西郷吉之助が言う長州藩内の「急進派・暴党と保守派・正党」の行動の中で、急進派の行動がことごとく失敗したため、優勢となった保守派のとる恭順姿勢となったのだ。  
しかしここで、長州征伐を考える上でもう一つの重要な要素は、長州の恭順姿勢を確認し兵を引いた総督・徳川慶勝は、長州藩への処分を直ちに明確に申し渡さず、後日の論議とした事である。そして長州藩内では、いったん鳴りを静めた急進派が消滅したわけではなかったから、この総督・徳川慶勝の決着は、一橋慶喜などから見ると全く生ぬるいものだったが、これがまた長州復活の火種を残すことになり、第二次長州征伐と薩長同盟につながってゆく。  
この様に長州征伐に一応終止符を打ち撤兵ができたと思ったのも束の間、早くも12月15日功山寺で自藩内の保守派打倒の挙兵をした萩藩士の高杉晋作が、翌日下関・新地の萩藩会所を襲撃し、2週間後の慶応1(1865)年1月2日、遊撃隊を率いて再び新地の萩藩会所を襲いこれを占拠する事件が勃発した。  
幕府はこの総督・徳川慶勝の撤兵後、長州処分を定め最終決着を着けるため萩藩主・毛利敬親父子や九州に居る元権中納言・三条実美等五人の公家の江戸召致を行おうとしていたから、朝廷は長州の更なる不穏な動きを警戒し「外交案件も解決せねばならない時に、国内問題である長州の取り扱いをはっきりさせて置く必要がある。幕府が元治1年9月にまた再開を命じた参勤交代にも現状を考えると問題があり、永世不朽の国是を直接聞きたい」と、将軍・家茂の上洛を重ねて命じてきた。幕府も早速将軍・家茂の上洛を決定し、家茂は慶応1年5月16日、「萩藩処置き」決着の目的で兵を率い陸路江戸城を出発し、1月後の閏5月22日京都に到着し参内した。 
条約国の兵庫沖への軍艦派遣と条約勅許  
条約国の幕府矛盾の指摘と幕府の賠償金支払い延期交渉  
背景説明として少しさかのぼる。朝廷の強い攘夷要求による幕府の文久3(1863)年5月の三港鎖港通告からくすぶり続ける鎖港問題は、その7ヶ月後にヨーロッパに派遣した横浜鎖港談判使節・池田長発(ながおき)も、鎖港談判が成功せず、元治1(1864)年7月に帰国していた。このため下関戦争直後の同年9月4日から、アメリカ、イギリス、フランスの公使たちや、オランダの総領事が日を次いで横浜鎖港の不条理を幕府に論じ、幕府の抱える矛盾を指摘していた。いわく、  
外国との交際について、朝廷と幕府の間に葛藤が生じている事は最近の諸事情から良く分かっている。通商条約を破棄せよと言うのが朝廷の命令だから、幕府はその命令を無視するか、あるいはその命を奉じて4カ国と戦争をするか、二者択一を迫られている。条約国の承認のないまま破棄すれば、それは戦争を意味する。幕府はこの双方の危機を同時に避けたいと図っていることが、朝廷と条約国の双方から不快に思われるのだ。横浜を鎖港しようとしているが、そうなれば条約国は同盟し武力で港を守ることになり、先般も長門の領主の砲台を破壊したばかりだ。朝廷もこの事はよく知っているはずだが、この上条約を破棄しようとする事は、戦争を望んでいることに他ならない。平和を維持するには、朝廷がこの条約を勅許する以外に道はない。と朝廷の条約批准を迫っていたのだ。  
すでに「6、薩英戦争と下関戦争」でも書いたように、9月22日幕府は4カ国と横浜で交渉の末、若年寄・酒井忠眦(ただます)が下関戦争の最終決着のため、「賠償金の300万ドルを払うか、内海に1港を開く」という賠償条件を取り決め、4カ国と講和を結んだ。しかし一方で長州は、将にこの間にもまだ外国から武器の調達や船舶の調達を加速させていたから、アメリカやフランス、イギリスの武器商人たちが正式に開港されていない下関に来ては内密に商売をした。いわゆる密貿易だが、長州は、下関戦争で被害を受けた船舶をアメリカ商人やフランス商人に売り、新しい船や武器を内密に買ってさえいる。長州の中では、それほど絶えず急進派(正義党)と保守派(俗論党)がつばぜり合いを演じ、主導権が行き来していたわけだ。  
その後幕府は国内情勢を考慮し、「更に内海に1港を開くよりは世論の混乱が少ない」と下関戦争の賠償金300万ドルの支払い決定をしたが、1回目の50万ドルを支払うと、すぐさま残りの支払い延期を交渉し始めた。合意した3ヶ月毎に50万ドルの支払いはいかにも重圧で、とても払い続けられる額ではなかった。しかしこの延期交渉が、次に書く新イギリス公使・パークスの目指す、兵庫遠征計画を推し進める原因の一つを作ることになる。  
条約国の軍艦派遣  
慶応1(1865)年閏5月16日にイギリスの新公使・サー・ハリー・パークスが横浜に赴任したが、オールコック前公使の示唆やウインチェスター代理公使の情報収集と提案により、本国政府のラッセル外務大臣の方針がパークスに指令された。幕府には300万ドルという途方もない大金の支払い能力のないことをよく知っているウインチェスターは、幕府が2回目以降の支払い延期の交渉をすると、残りの賠償金を取るよりはこの機会を利用し、日本側に兵庫を早期に開港させ、朝廷から条約の正式な批准を出させ、輸入税を軽減させるべきだとラッセル外務大臣に提案していた。この提案に基ずき本国からパークスへの指令は、フランス、オランダ、アメリカの在日3カ国代表と話し合い、日本へ次の如く提案し交渉せよとの命令だった。いわく、幕府に課せられた下関事件の賠償金300万ドルのうち3分の2を免除する代わり、ロンドン協約で取決めた期日を待たず、直ちに大阪・兵庫を開市・開港させ、朝廷に通商条約を批准させ、日本への輸入関税を5%に引き下げさせること。  
そしてこの計画遂行のためパークスへ十分な自由裁量権をも与えたが、最初は渋っていたフランスも歩み寄り、フランス、オランダ、アメリカの3カ国はこれに合意しパークスの行動計画が動き出した。イギリスは日本に更に関税率を下げさせ、より有利な貿易をもくろみ始めたのだ。  
そこでこの際、朝廷の膝元であり、将軍・家茂も出張している大阪・兵庫でイギリス政府案を交渉しようと、兵庫遠征を決めたイギリス始め条約4カ国は、イギリス軍艦5隻、フランス3隻、オランダ1隻の合計9隻もの艦隊を整え、夫々の公使たちも乗り込み、9月13日横浜を出航し、3日後には兵庫沖に現れた。連合大艦隊で幕府と朝廷に圧力をかけ、有利な交渉をしようとの作戦だったのだ。  
アメリカは2番目の公使・プルーインが病気療養を口実に帰国し、書記官・通訳のA.L.C.ポートマンが代理公使になっていたが、アメリカの南北戦争はやっと終結したとはいえ、リンカーン大統領が暗殺され、ナポレオン3世がアメリカの隣国・メキシコに皇帝を置きメキシコ国内でも内戦が続いていたから、アメリカ外交もまだ非常に微妙だった。当然アジアへの海軍力の増強はまだなかったし、日本における外交方針もプルーイン公使の時と同様イギリス、フランス、オランダなどとの協調路線だった。ポートマン代理公使は、もともとペリー提督遠征艦隊のオランダ語通訳として来日し、その後も萬延1(1860)年1月にアメリカへ派遣された遣米使節のアメリカ側の通訳として活動し、日本使節を送って日本まで来た日本通だったが、軍艦がないことにはどうしようもなく、イギリス艦隊に便乗し兵庫に向かった。  
幕府の独断決定  
島津久光などが力説していた兵庫・大阪の地理的、軍事的な弱さを突いた突然の軍事力を使った示威行動に、9月23日あわてて大阪からやってきた老中・阿部正外(まさとう)と外国奉行・山口直毅に、4カ国公使たちは直ちに兵庫を開港し条約勅許を出せと要求し、早急に回答がなければ京都に行き朝廷と直接交渉すると迫った。そして朝廷も承諾しなければ、「もはや砲煙弾雨の間に相見るの外なし」と態度は恐ろしく強硬だった。大いに慌てた阿部と山口は、やっとの思いで4カ国側から、回答に要するたった1日だけの猶予をもらい帰ってきた。  
この報告を聞いた将軍・家茂は驚いて、当時禁裏守衛総督として京都に居た一橋慶喜に宛てた緊急直筆書状を出した。いわく「国家重大危急存亡の事件が起ったので、一時も早く下阪して欲しい」というSOSの書付だ。家茂はやはりまだ慶喜を頼りにしていたのだろう。しかし基本方針もない幕閣はまたまた独断行動に出る。帰った大阪城で早速幕議を開いた老中・阿部正外や松前崇廣(たかひろ)は兵庫開港を強く主張し、朝廷への根回しもなく、25日ついに兵庫開港を受け入れる幕議決定を下した。その理由は、到底朝廷への伺いを済ます時間もなく、強いて伺えば朝廷は必ず攘夷を主張するはずだからたちまち戦争ということになり、幾万と言う人々が犠牲になるかも知れない。そこで今回は、時代の流れでもあり、幕府限りの決定とし、ここで幕府が拒否したり回答を延ばしたら条約4カ国はその軍事力を使って京都まで行き、朝廷と直接交渉に持ち込む。これはすなわち幕府が瓦解する直接原因になるという判断だった。  
家茂から「一時も早く下阪して欲しい」というSOSを受けた慶喜は、取るものもとりあえず朝廷に届けを出し大阪に向かった。途中で事態の内容を知った慶喜は、大阪城に到着し再度の幕議を開いたが、すでに決定した幕議以外の名案は出なかった。しかし幕朝関係の改善を最優先に考える慶喜は、朝廷からの勅許取得は自分に任せておいて欲しいと幕閣一同に云い、翌日の将軍・家茂自身の上京と朝廷へ家茂自身での奏上の確約を取りつけ、外国勢からは何とか朝廷の理解を得て勅許を得る期間を確保しようと図った。家茂から頼りにされる慶喜は、あくまでも朝廷と幕府の話し合いを模索したのだ。  
そこで慶喜は外国事務取り扱いの老中・松平康英(やすひで)の協力を得て、大阪町奉行・井上主水正(もんどのしょう)を4カ国艦隊に送り、幕府では兵庫開港を内決したが、かかる重大事は朝廷の勅許を必要とするのでと、更に10日間の猶予を交渉させた。艦隊側は10日あれば必ず勅許を得られるという証拠を示せと詰め寄ったが、井上は、では血判を押そうと刀を抜き自分の指を切りにかかった。これに驚いた艦隊側はそれを制止し、井上の要求する10日間の猶予を与えた。  
朝廷の怒り、将軍・家茂の辞表  
すぐ京都に帰った慶喜は事の顛末を朝廷に奏上した。井上主水正すら10日間の猶予を勝ち得たのに、老中たる阿部や松前はたった1日の猶予しか得られず、その上幕府限りでの兵庫開港を決めた弱腰と独断は許されないと、怒った朝廷は幕府に命じ阿部正外と松前崇廣の官位を剥ぎ、藩地での謹慎を命じた。更に関白の朝議では在江戸の幕閣、大老・酒井忠績(ただしげ)や老中・水野忠精(ただきよ)にも退職の沙汰を出すべく決定さえされたが、朝廷が幕府人事に口出しをし、ましてや老中の更迭を命ずることなどかってなかったから、幕閣はじめ皆は大いに驚き、これは朝廷と手を組んだ一橋慶喜の画策に違いないと思い込んだ。  
そんな慶喜や朝廷に対する反発からか、突然、将軍・家茂も老中・阿部正外や松前崇廣と大して違わない無責任な行動に出る。家茂は前名古屋藩主・徳川茂徳(もちなが)を上京させ、家茂は幼弱不才の身で征長の大任を蒙り、及ばずながら日夜努力していますが、内外多事の今、力及ばず、ただ職務を汚しているだけだと心痛のあまり胸痛が強く、進退窮まっています。自分の家族の内にある慶喜は、長く天子のご前に仕え朝廷の事務にも通じ、大任にも耐えられると思うので、自分、家茂は引退し、慶喜に相続させるため政務を譲ります。自分のときのごとく諸事ご委任下されるよう。と、朝廷に慶応1(1865)年10月1日付けの辞表を提出させ、いま条約国と戦争になっては勝算は立たず、至急に条約勅許を下し、兵庫港に待たせてある条約国艦隊へ条約批准を通告して欲しいと言う、非常に現実的な条約批准の申請書簡も併せて提出した。  
そもそも一橋慶喜が今の職にあるのは、安政の大獄で謹慎の身にあった慶喜を島津久光の建策で朝廷が幕府に勅使を送り取り立てた事によるから、家茂や幕閣は、慶喜が朝廷と企んで家茂に敵対していると映ったのだろう。将軍・家茂は、「それなら将軍職を慶喜に譲る」と朝廷に届け出ると、10月3日、江戸に帰るという布告を出しさっさと大阪城を出発してしまった。  
これを知ってびっくりした朝廷は、家茂の辞表を持参した徳川茂徳に、  
大樹の願いは聞き入れられず、いつ御用が出るかも知れず、勝手に退阪し帰府することは天を軽視する行為で、朝臣の作法ではない。明日参内し自身で奏上すべきである。  
と帰府中止の勅旨を与え、また大いに慌てた一橋慶喜、松平容保、松平定敬なども家茂が帰途の途中で滞在する伏見へ行き、その東帰を中止し二条城に入り、自身で朝廷に奏上するよう強く諌めた。そこで家茂も気持ちを静め二条城へ入ったが、少しでも頼みにした幕閣は大量に朝廷の罪を受け、慶喜は京都に帰って意に反した動きをしているようだし、若い将軍の周りに頼る人物は誰も見当たらなかった。  
条約勅許  
孝明天皇も、将軍・家茂が辞任まで言い出し條約勅許を求める状況には困った。朝廷では条約勅許につき丸一日朝議を開き議論をしても結論が出ない。一橋慶喜から在京諸藩の藩士を召して諮問する提案があり、朝廷は早速30名以上もの在京諸藩士を集め意見を聞き取ったが、薩摩藩以外はほぼ条約勅許の意見だった。これを聞いた天皇も、更に考慮を重ねたがなかなか結論に至らない。時間は経過するばかりであった。一橋慶喜、松平容保、松平定敬、小笠原長行等も再度天皇に勅許を要請した。自身でも7年前に天皇を辞めようと譲位まで言い出したことのある孝明天皇も、辞任を言い出した将軍・家茂の必死な気持ちを考えたのかもしれない。ついに天皇は5日の夜10時ころ決断し、朝廷より幕府へ  
条約について。  
ご許容あらせられたので、適切な処置を取ること。家茂へこれまでの条約面で種々不都合があり(天皇の)お考えに会わないので、新たに取調べ伺い、諸藩に命じ衆議の上取り決めること。兵庫の件は止めること。  
と、三港開港の通商条約は許すが、更に衆議を凝らし不都合な面を修正の上、再度許可を得るように。また兵庫の開港は止めるように、との勅旨を下した。  
幕府は早速7日、朝廷の条約勅許を4カ国の公使へ告げ、早期の兵庫開港は困難だが約束期日通り兵庫を開港し、下関の賠償金は約束通り支払い、輸入税改定の談判は江戸で行うことに合意したが、パークスの軍事力示威作戦が成功したわけだ。 
薩長同盟と将軍・徳川家茂の急逝  
薩長同盟関係の構築  
突然発生した連合艦隊の兵庫集結は、朝廷が條約を勅許することにより一応退散し解決を見たが、今回の将軍・家茂が自ら出動する長州征伐を視野に入れた再度の上洛は、前回の長州征伐から1年も経たないうちの出来事だから、米をはじめとする諸物価がまた急上昇し、庶民は云うに及ばず諸藩の逼迫している財政に追い打ちをかけた。長州の処置につき基本政策がなかなか決定できない幕府は、自陣営内で條約勅許に絡み一橋慶喜と将軍や幕閣間の信頼関係も大幅に薄れ、親藩や譜代大名間でも再度の長州征伐の大義名分がないと消極論が強く、薩摩藩などは大いに反対し動きは更に鈍かった。こんな状況で将軍は大阪に居ても、再度長州征伐軍を編成できる状況ではなく、幕府は何とか長州からそれなりの陳謝を出させ顔の立つ決着を模索したが、長州ものらりくらりと引き伸ばし時間がのみが過ぎた。  
この様に一瞬動きの止まったように見える政局のさなかの慶応1(1866)年12月28日、薩摩藩の黒田了介(清隆)は下関に来て、萩藩の木戸準一郎(桂小五郎)に京都に居る小松帯刀や西郷吉之助と両藩提携の話を煮詰めるよう説得した。また当時幕府の神戸海軍操練所が解散され、その後亀山社中をつくり物資輸送をしながら下関に居た、いわゆる土佐からの脱藩浪士・坂本龍馬もこれを大いに推奨した。これは勿論、幕府の長州処分に対抗しようとする動きの一つだったから、木戸は藩主・毛利敬親(たかちか)の許可を得るやすぐ黒田と共に京都に向かった。  
そもそも、上述した文久3(1863)年8月18日の孝明天皇のクーデターによる主権回復時や、その1年後に起った禁門の変で薩摩藩は、朝廷に建策・建言しながらでも京都守護職を勤める会津藩や幕府と協調してきたのだ。そして島津久光は元治1年正月、なかなか攘夷実行ができず、半年もたたずにまた上洛して来るなどと苦慮している将軍・家茂を温かく迎えたほうが良いとさえ朝廷に建言し、朝廷と幕府の関係改善を模索しさえている。しかしその後、朝廷が圧力をかける攘夷実行を模索し、少なくとも横浜鎖港を攘夷の足がかりにしようと幕府はフランスやイギリスに向け鎖港談判使節を送ったが、島津久光は鎖港などすべき時ではないと繰り返し強くこれに反対した。幕閣はしかし、とにかく朝廷に気に入ってもらい主権を回復したいと出来そうもない約束までしていた時だから、久光の言動を幕府の足を引っ張ろうとするものだと強く疑い始め、最初は久光をかばっていた慶喜さえも次第に冷たくなった。そして元治1(1864)年3月9日、徳川慶喜、松平慶永、伊達宗城、松平容保、島津久光が突然そろって朝廷参与を辞任し、せっかくできた参与体制が崩壊してしまう。こんな経緯がある中で長州の強訴が始まり禁門の変に突入し、天皇から長州征伐の勅命が出て第1次長州征伐があった。この禁門の変も長州征伐も薩摩藩は勅命を大義名分として幕府と共に兵を動かしたがしかし、この辺りから薩摩藩と幕府の方向が明らかに食い違って行ったように見える。  
この元治1年始めの時点での久光や薩摩の見解は、攘夷とは、すなわち国家の主権と尊厳の保たれる日本国を取り戻すことであり、そのためには貿易もし国力と軍事力をつけねばならず、短絡的な無謀な攘夷を避け、海防等を強化すべしということだった。薩英戦争で学んだ教訓も大きかっただろうが、これは明らかに孝明天皇の言い続ける「夷人の入国は神州の瑕瑾(かきん=恥)だから、すぐ攘夷せよ」という攘夷の考えとは違う。幕府はしかし、そんな天皇に擦り寄ってでも失った権威を取り戻したかっただけだ。従って、こんな幕府のやるようにただ単に鎖港をし、しばらく朝廷はじめ国内の過激な言動を冷やせばよいということではなかったのだ。しかし、上述の黒田了介が下関にやってくる20日ほど前には、老中・板倉勝静(かつきよ)と小笠原長行が久光とも親しい松平慶永に書簡を送り、「薩摩藩に不穏当の動きがあるので自重するよう言い聞かせて欲しい」と頼んでさえいるから、京都の藩邸で薩摩藩の活動を主導する小松、西郷、大久保などの反幕府活動として何かをキャッチしていたのだろう。  
さて京都の薩摩藩邸にやってきた木戸は毎日ご馳走は出るがなかなか提携・同盟への話の緒が見つからず、実際に木戸と小松、西郷が薩長同盟に合意し6か条の合意書をまとめたのは、龍馬が心配して話し合いの進展をフォローしに京都にやって来た後の慶応2年1月21日になってだからだ。1月以上もたってのことだった。  
第2次長州征伐と将軍の交代  
朝廷を強引に納得させた幕府の長州藩処分の決定は、藩領から10万石を削減し藩主隠居を命ずるものだった。長州はこの受領回答をずるずる引き延ばし、行き詰まった長州処分を力で決しようと、終に幕府は慶応2(1864)年6月7日第2回目の長州征伐の兵を挙げ、幕府艦隊の周防大島への砲撃と上陸で戦いが始まった。しかし長州とすでに同盟関係を結んだ薩摩藩は幕府の出兵命令を大義名分が無いと明確に拒否し、宇和島藩、芸州藩や佐賀藩も参戦しなかったから、気迫や奇襲戦法に勝る長州は各地の戦いを有利に進めた。幕府先鋒総督の紀州藩主・徳川茂承(もちつぐ)は広島から、老中・小笠原長行は監軍として小倉から参戦したが、苦戦を戦う幕府軍に突然将軍・家茂の死去の知らせが追い打ちをかけ、老中・小笠原長行はたまらず戦線を離脱するという、幕府にとっての最悪事態になった。  
しかし幕閣は1月も徳川家茂の喪を公にせず、老中・板倉勝静や松平慶永、松平容保などが将軍後継に一橋慶喜をくどいたが、慶喜は取りあえず徳川本家の相続だけを受入れた。その後徳川慶喜は長州征伐の中止を朝廷に申請し、最初は渋っていた孝明天皇もしぶしぶこれを認め、朝廷の斡旋でやっと双方の兵を引くことが出来た。  
しかし、この時点で徳川慶喜はまだ征夷大将軍を引き受けていないから、孝明天皇が慶応2(1867)年11月下旬に言い出し、慶喜が12月5日第15代将軍に正式就任するまで、4ヵ月半ほども日本には征夷大将軍がいなかったわけだ。しかしこの20日ほど後には、今度は孝明天皇も急逝してしまうから、ここから急速に歴史が動くことになる。 
8、大政奉還と新体制 

 

背景  
安政5(1858)年6月、朝廷の意に反し幕府がアメリカと通商条約を結ぶと、御三家や親藩内からさえ「違勅」だと大反対の声が沸き起こり、朝廷からは水戸藩に「幕政を改革せよ」と蜜勅が下った。追い詰められた大老・井伊直弼は、将軍後継問題をも含め反対派を大量に処罰したが、後日、井伊自身が桜田門で殺害されてしまう。後を次いだ老中・安藤信正(のぶまさ)は穏健路線で幕朝間の関係修復を模索したが、そんな折に長州が朝廷に、朝廷主導で開国を維持し武備を強化し国威を世界に及ぼすという基本国策「航海遠略策」を建白した。幕府との関係改善を強く望む朝廷も文久1(1861)年6月これを受け入れ、長州に朝廷と幕府間の斡旋を命じ、幕府もこれを受け入れた。しかし安藤もまたこの直後、文久2年1月坂下門外で暴漢に襲われ、一命をとりとめはしたが重傷を負い、この斡旋は実現しなかった。今度は文久2(1862)年4月、薩摩藩の島津久光も朝廷に建策し、井伊直弼により処罰された人達の赦免と一橋慶喜や松平慶永などの人材登用を進言し、朝廷の意思として幕府もこれを受け入れた。  
その後積極的に幕朝間を斡旋しようとする島津久光、一橋慶喜、松平慶永、山内容堂、伊達宗城(むねなり)など、「君臣の大義」にもとづき天皇の意思を尊重しながら公武合体への模索が進む一方、当初は穏健策を取った長州はその藩意を大巾に変え、急進的攘夷へと方向転換した。朝廷内でも急進派公家が、攘夷へ藩意を変えた長州と結び、その影響で朝意も大きく揺れ動いた。しかし、時に天皇の意思をも無視するほどになった過激派公家の行動を排除しようと、孝明天皇自身の明確な意思表示により、ついに朝敵となった過激派公家と長州は孤立し、天皇から幕府に長州征伐が命ぜられた。  
一方、更なる幕府威厳の回復を目論み、朝廷の意に迎合し、実現不可能な「横浜鎖港」を言い出した幕府の行動に、既得権益の保持強化を目指す條約4カ国は、慶応1(1865)年9月、朝廷の條約勅許を求め、大艦隊を率い兵庫・大阪に来て圧力をかけるほどに外交関係が緊迫した。仕方なく孝明天皇は通商条約を認めたが、更に、島津久光が強く主張する鎖港不可論に、昔の夢の再現を目論む幕府と薩摩藩との確執が極まり、幕府に対抗しようと薩摩と長州は「皇国の御為め」と相互連携の秘密同盟を結ぶに到る。長州の明確な処罰を決定しようと再度出兵した幕府は、「大義がない戦争だ」と諸藩の協力を得られず、薩摩藩には出兵を明確に拒否され、苦戦の最中に将軍・家茂が突然亡くなってしまった。 
大政奉還  
徳川慶喜の将軍就任と孝明天皇の死亡、岩倉具視の活動模索  
尊王精神の厚い水戸・徳川家に生まれ、父・斉昭から、「光圀公以来の家訓は幕府より朝廷尊奉を」と教えられ、一橋・徳川家を継いだ後も朝廷を尊奉する一橋慶喜は、将軍後見役になってからも、容易に朝廷の意見を入れない幕閣と折に触れ確執があった。慶喜が朝廷の意を奉じ、攘夷のため横浜鎖港を実行しようと京都から江戸に帰ってきても、江戸の幕閣や役人の協力を得られず挫折したり、條約4カ国艦隊が兵庫に集結し朝廷の條約勅許を強要した時は、慶喜が朝廷と連携し幕府人事にまで介入したと、将軍・家茂が将軍職を辞任しようとする問題にまで発展した事もあった。こんな経歴の持ち主の一橋慶喜が将軍・家茂亡き後の十五代将軍に就任したが、幕府棟梁になっても尊王精神を強く持つ将軍・慶喜は、伝統的な幕府政治と朝廷の間に立ち、時に大きな矛盾をさらけ出すことになる。  
一方、万延1(1860)年8月から翌文久1年の和宮降稼問題では、あまりに幕府よりだったと讒訴され、命まで狙われ、京都の北の山際にある岩倉村に逼塞する岩倉具視は、将軍・家茂が亡くなると朝廷の権威回復の千載一遇のチャンス到来と、前の関白・近衛忠煕(ただひろ)や山階宮晃(あきら)親王が天下一新の行動を起こすべき時だと密かに説き、岩倉村でその実現に策を巡らせ始めた。また一橋慶喜が徳川本家を継ぐと、能力ある慶喜が征夷大将軍になった後の幕府はまた朝廷を圧倒するのではないかと、朝廷と幕府の関係を大いに心配し危機感をつのらせた。逼塞していても密かに政治体制を観察し、情報収集を行い、朝権の強化を強く願っていたのだ。  
こんな岩倉は、内大臣・近衛忠房や薩摩の大久保一蔵と接触を強めていたが、また大原重徳(しげとみ)など多くの行動派公家と陰で密かに謀り、慶応2(1866)年8月30日、22人もの公家が御所に同時に列参し、大原が代表し直接孝明天皇に朝権強化策の進奏をするという実力行動に出た。この集団実力行使は過去にも時として行われ、今回も公家たちが集団訴訟を実行したものだった。大原の進奏いわく、二条関白や朝彦親王は退職し、長州から幕兵を引き、有栖川宮や前の関白・鷹司輔煕(すけひろ)などの幽閉を解き、天皇が早急に諸侯を召し直接国事をはかるようにという直訴だった。岩倉が大原などと計画し、日本の現状を憂慮しその対策を述べた直接行動だったが、結果的に岩倉自身の現役復帰にも良い影響が出るよう画策し期待もしたのだろう。孝明天皇はしかしこの集団直訴を強く嫌い、「真の危機であった4カ国艦隊の兵庫集結時に黙っていて、今そんな件で直訴するとは全くの不敬だ」と10月27日、大原はじめ全員に閉門、差控え、蟄居を命じこの計画は完全に失敗したが、逼塞中の岩倉具視の陰の策動が活発化し始めた頃のことだ。  
不運にもそれから2ヶ月もせずに孝明天皇が急逝すると、若年の数えでまだ15才の睦仁(むつひと)親王(のち明治天皇)が踐祚(せんそ=皇位継承)の儀を行い、関白・二条斉敬(なりゆき)が摂政になった。これから3ヶ月ほど経ち、一応新帝の時代が始まると朝廷は、上述した孝明天皇の怒りに触れた罪で閉門・逼塞していた24人の公家を許し、皇妹・和宮降嫁の件で讒訴され落飾・逼塞していた岩倉具視など4人の入京を許した。上述の如く密かに勤皇志士と接触し活動を開始していた岩倉は、京都に住み朝廷に復帰することこそまだ許されなかったが、月に1度は帰宅し1泊することが出来るようになったのだ。  
兵庫開港正式勅許と長州処分の綱引き  
こんな朝廷の新しい状況下で、征夷大将軍・徳川慶喜は、慶応3(1867)年3月5日に懸案だった兵庫開港の正式な勅許を朝廷へ申請した。この件は前章の「7、長州征伐と条約勅許」で書いたが、将軍・慶喜は、当時の幕閣が4カ国へ出した「ロンドン協約通りの兵庫開港」の約束と、その時に孝明天皇が命じていた「兵庫の開港は止めよ」という勅旨との矛盾を正式に解決したかったのだ。  
将軍・徳川慶喜と幕閣は、決着の遅れた長州処分は国内問題として幕府ペースで処理できるが、現実世界で外交を行う幕府にとって、折に触れ武力行使をチラつかせ太刀打ちできない強大な諸外国を相手にする外交問題を、まず最初に解決しておきたかったのだ。生麦事件と薩英戦争や、長州の下関砲撃事件と下関戦争など、イギリス主導の限定的戦争行為や、1年5ヶ月前に大艦隊で兵庫へ来ての朝廷に対する條約勅許強要など、諸外国の強大な海軍力を充分に経験済みだったから、幕府は主だった大藩に兵庫開港勅許申請の意見具申を命じていたが、その具申到来を待たず3月5日、朝廷に勅許申請を行ったのだ。それほど兵庫・新潟開港や江戸・大阪開市は、幕府にとって緊急課題だったのだ。  
このように将軍・慶喜は困難な外交問題を解決し、余裕を持って長州処分を解決したかったようだが、事実、早くもイギリスとオランダはその年の3月20日、兵庫港・新潟港の開港と江戸・大阪の開市時期が来年、1868年1月1日に迫ったので、本国でその布告を出したいと幕府に了解を求めてきた。その時幕府はすんなりとそれを承認しているが、強大な軍事力を持つ外国勢に対しては、最早こうする以外に手はなかったし、将軍・慶喜もそう考えたようだ。  
その頃薩摩藩の家老・小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵などが、主だった諸侯の松平慶永、山内容堂、伊達宗城、島津久光などが再度上洛した上での話し合い実現を画策していたし、幕府もまた兵庫開港の勅許申請に関し彼らの上洛を促したから、早速久光、宗城、慶永、容堂、夫々が上洛してきた。4人の上洛を知った将軍・慶喜は再三にわたり二条城への登営を命じたが、4人は夫々の理由をつけ登営せず、お互いの藩邸で頻繁に会っては意見の調整をした。  
これは、久光が特に、「幕府が兵庫開港を新聞に載せても良いと言った」というイギリス公使館通訳・サトーからの事実確認情報を基に、将軍・慶喜が諸藩の意見具申による話し合いもせず、勅許も得ず、独断で5カ国に開港・開市布告を許可したことに腹を立て、「勅許を得ずに兵庫開港実施を列国公使に公約した」と幕府を強く非難していたためだ。確かに幕府は上述のように、大藩へ兵庫開港勅許申請の意見具申を命じたが、その具申・結論による公式な朝廷勅許も待たず諸外国に開港・開市の布告を許したから、新将軍になっても幕府の独断行為は昔と変わらず、ただ朝廷をないがしろにするばかりだと、以前にも増して久光は怒りを爆発させたのだ。早速久光、宗城、慶永、容堂の4人は、まず長州処分を先に決めて国論を統一し、次いで兵庫開港など外交を議論すべきだと朝廷と幕府に強く建議した。久光は、先ず内政を固め、その上で公議で外交問題を十分議論して決めるべきという立場であり、将軍・慶喜は、焦眉の急になっている外交問題を先ず解決し、その後十分に内政を固めるべきという立場の正面衝突だ。  
毎日各国公使たちと接する幕閣は、条約にして約束した開港期日をうやむやにすれば、4条約国公使からは、また戦争を口にして押し切られる事は明白だった。しかし久光をリーダーとする、宗城、慶永、容堂の4人組は、そんな事よりは、兵庫開港の正式な勅許を朝廷へ申請した将軍その人が、朝廷の返事も待たず、外国には別の顔を見せる矛盾を看過できなかったのだ。  
摂政関白・二条斉敬の朝議結論  
将軍・慶喜が繰り返し熱心に求める兵庫開港と、懸案の長州処分を朝議すべく慶応3(1867)年5月23日、朝廷から朝彦親王、晃親王、摂政関白・二条斉敬、前関白・鷹司輔煕、内大臣・近衛忠房やその他の中心となる役職が参加し、将軍・慶喜も所司代・松平定敬(さだあき)、老中・板倉勝静(かつきよ)やその他在京の役職を引き連れ、最初は参朝を渋った松平慶永や伊達宗城も召されて参朝し、徹夜の大議論が始まった。しかし島津久光は、朝廷内で将軍と意見を異にする危険性を考えてか、度重なる朝廷の強い要請にもかかわらず病気を理由に参朝しなかった。  
この会議で将軍・慶喜は相当な覚悟と剣幕で朝廷に迫ったようで、夜が明けても、結論が出るまでは退朝しないと居座った。伊達宗城は、「大樹公の今日の挙動は実に朝廷を軽蔑すること甚だしく、言い表しようもなかった」と日記に書いたほど強引な手法とうつったようだ。これは突然に摂政として朝廷を主導せねばならなくなった摂政・二条斉敬を大いに困惑させたが、ようやく翌24日朝議を決し、摂政・二条が出した結論は、  
防長の件につき、昨年上京の諸藩や当年上京の四藩など、各々寛大の所置あるべくとのお沙汰を下されるようにと言上した。大樹においても寛大の所置の言上があった。天皇も同様に思し召されるので、寛大の所置を取り計らうべき事。  
兵庫開港のことは元来不容易で、殊に先帝が止め置かされたが、大樹は余儀なき時勢と言上し、且つ諸藩の建白の趣もあり、当節上京の四藩も同様に申し上げたので、誠に止むを得なく天皇は御差し許しに相成った。ついては諸事をしっかり取り締まるべき事。  
と云う内容だった。これは双方の主張を全て入れた折衷案のようなものだったが、幕府や朝廷にまず長州問題を解決すべしと建議していた久光、慶永、宗城、容堂は、「この朝命は我々が建議したものとは大違いで、我々四藩は、長州問題と同時決定する兵庫開港に同意したものではない。本末転倒し驚愕に耐えない」と抗議文を朝廷に提出しその決定を非難した。これに対し朝廷は、「朝議で決定し幕府に命じたからよく幕府と話をせよ」とこれを諭し、するりと身をかわしてしまった。  
岩倉具視の「済時の策議」  
少し横道にそれるが、ここで一つだけ指摘しておきたいことがある。歴史的にそれが与えた明確な影響が不明のため、多くの歴史書では取り上げていないが、陰で薩摩と連携、策動し、その半年後には突如として朝廷政治の真っ只中に登場する岩倉具視の外交方針、すなわち兵庫開港と日本のとるべき進路についての基本的な考え方である。  
慶応3年3月下旬に将軍・慶喜が大阪城で各国公使を謁見したと聞き、岩倉は朝廷が取るべき方策を国論として述べた「済時の策議」を摂政・二条斉敬に建策した。これは、岩倉具視の積極的な朝廷主導による外交の考えを知る上で重要なものと筆者は考える。その理由は、この時から9ヶ月程も経たない時点、すなわち戊辰戦争が勃発し、将軍・慶喜が東帰・謹慎した直後の明治1年1月15日、外国事務取調掛・東久世通禧(みちとみ)がイギリス、フランス、アメリカなど六カ国の公使たちと兵庫で会見し、王政復古を告知する国書を伝えた。この国書は、「従前の條約は大君の名称を用いるといえども、今より後は天皇のとなえをもって当換すべし。しこうして各国交際の職は、専ら有司等に命ず。各国公使、その旨諒知せよ」と、今まで通りの外交策を継続すると述べている。一面からこれを見れば、将軍・慶喜を追い詰めた朝廷・薩摩・長州の「攘夷」方針を、手のひらを返す如く修正したようにも見えるものだ。筆者には、この岩倉具視の基本的考えが、色濃く反映されたと見えるのだ。  
この岩倉の建策いわく、  
1、朝廷主導で諸外国へ勅使を派遣し外交を始める。2、朝廷が正論で諸外国と通商規則を談判し、開港せざるを得ない兵庫は日本から開港を通告する。3、制度を変革し国政を一新する。4、山林原野を開墾する。5、租税の規則を定め徴収する。6、海外貿易を考究し、小学校を設け五倫の道を教育すべし。  
という建策だ。この六項目を実行し、「兵庫は開港せよ」というものだった。もはや拒否できない兵庫開港は、日本から開港を通告せよ、というものだ。このように岩倉は、朝廷主導で外交をさえやる時期であると建策し、一貫して朝廷主導の国政復活を画策し、その過程で薩摩と急接近したわけだ。  
少し前後するが、筆者がもう一つ岩倉具視の基本的な考えと思う点を挙げておきたい。岩倉具視が岩倉村に逼塞する慶応1年9月、関白二条斉敬を頼って天皇の叡覧に供そうとした「全国合同策」についてだ。その中の「世評の始末」の項目の結びにこう書いている。この時は将軍・徳川家茂が「萩藩処置き」決着の目的で兵を率いて上洛していて、征長勅許奏請のために大坂城から上京した頃に当たるが、いわく、  
現在、天下の禍患逼迫の時に、国内で干戈を動かし骨肉相食むのは、皆これ醜夷の術中に陥らないものはない。蚌鷸(ぼういつ=ハマグリとシギ)の争いは漁夫の利だ。兄弟相鬩(せめ)ぐ隙に乗じ、醜夷の艨艟(もうどう=軍艦)が海を蔽って来襲したら、また何をもってこれを防御しようというのか。  
二回目の長州征伐を薩摩藩はじめ多くが反対している中で強行し、若し同胞が国を二つに割って相争うようにでもなれば、外国勢に漁夫の利を占められるばかりだ、という考えだ。もちろんこれはイギリスの、インドの植民地化や、支那とのアヘン戦争やアロー戦争を通じた香港割譲などの覆轍を踏むなとの警鐘だが、岩倉は、日本の植民地化を最も恐れていたようだ。  
この章の末尾と次章の中の「新政府の外交関係継続の努力」で書くが、新政府の中心人物となった岩倉は、この策議中の意見のように積極的に外国公使達に接し、先手必勝を目指し外交を進めることになる。  
倒幕挙兵の秘密計画  
いっぽうで、この様に独断を続け少しも反省の色がないと幕府を非難する薩摩藩は、大久保一蔵を先頭に少し身の自由を得た岩倉具視と密かに謀り、王政復古計画を練り始めた。また、島津久光は伊達宗城と連名で再度朝廷に書を送り、兵庫開港の結論は幕府に話をせよとの朝廷の返答は全く理不尽だと詰め寄ったが、朝廷はもはやこれを聞かなかった。幕府や朝廷に話し合いで解決しようと出来る事は全て行ったと思う久光にしてみれば、これで全てが終わったのだ。久光はかっけ病を理由に京都藩邸から大阪に引き上げ、薩摩藩論は「倒幕挙兵」にしっかりと固まった。  
慶応3(1867)年8月14日京都の薩摩藩家老・小松帯刀(たてわき)邸を密かに訪ねた長州の御堀(みほり)耕助は、小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵などと会談し薩摩の藩論を再確認したが、小松は最終決定した「倒幕挙兵」という藩論を明確に伝え、御堀とその方策や戦略を協議した。これで、従来からあった薩長両藩の互いの懐の探り合は終わったのだ。9月18日久光は、いよいよ長州と最終的な合意を確立すべく、挙兵倒幕の詳細を煮詰める目的で大久保を長州に派遣し、萩藩主・毛利敬親(たかちか)や藩家老とその手順を協議させた。この時大久保一蔵の日記によれば、毛利敬親は「皇居と天皇を護る事は実に大事であり、玉(ぎょく=天皇)を奪われてしまっては実に致方なき事だと大変なご懸念を示された。返す返すも手抜かりはないと思うが、特別に念を入れ注意するようお頼み成された」と書いている。万一幕府に追い詰められた場合、「玉」、すなわち天皇を京都から脱出させる手はずまで整えたのだ。こうしておかないと自分たちが朝敵にされかねなかったからだが、長州は過去に失敗し、朝敵になった経験から出た対策だった。更に数日後尻を押された広島藩もこの計画に賛同し、薩摩・長州・芸州の三藩同盟を作った。  
長州から帰った大久保は10月6日、新帝踐祚の特赦で罪を許され役職に復帰した倒幕派公家の一人、権中納言・中御門経之(なかみかどつねゆき)の依頼と手引きで岩倉具視に会い、薩摩と長州は硬く同盟した事を伝えた。岩倉村に隠棲しながらも朝廷の権威回復を強く期待し、待ちに待っている岩倉具視から希望した会見だった。そこで大いに安心した岩倉は大久保と王政復古の方策を協議し、新政府に移行した場合の太政官制度を提案し、また戦争になった時に掲げる錦旗の図柄まで示し大久保にその製作を一任した。大久保は早速大和錦などの素材を調達し、長州に製作を依頼し、周防・山口の政事堂と京都薩摩藩邸の奥深くに格納した。後に鳥羽・伏見の戦いでこの錦旗が非常な威力を発揮し、幕府軍総崩れの発端の一つに成るほど重要な働きをするが、岩倉具視の策士らしい先見性と怠りのない準備だった。  
2日後の8日には薩摩、長州、広島各藩の代表が中御門の邸に集まり、前権大納言・中山忠能と中御門に三藩の合意決議内容を説明し、更に小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵が三藩連合の趣旨を連署した書を提出した。そして2人の公家に「討幕の勅命降下」をぜひ斡旋してくれるよう依頼した。これと期を合わせるように、岩倉具視もまた王政復古遂行に関する「王政復古の議」を作成し、天皇の祖父でもある中山忠能を経由し天皇に密奏した。いわく、  
大小の諸外国は国を挙げて富強の策を取り、知識・技術を発展させ万里に雄飛し、世界情勢は一変している。こんな中、我が皇国の政体制度を革新し、萬世にわたる大条理を立て国是を確立し、衆心を一致させねばならない。しかるに、徳川幕府の貧政は名分の紊乱(びんらん=秩序の乱れ)をきたし、これでは万国と対峙不可能である。こんな征夷将軍職は断然廃止し、大政を朝廷に復し、賞罰・与奪の命を全て朝廷から出し、政体制度を革新し、皇国の大基礎を確立し、皇威恢張の大根軸を確定すべし。  
と、王政復古を行い新体制確立を目指すべしという、明確に朝廷主導政治を述べたものだった。  
倒幕の蜜勅  
かねて秘密裏に岩倉具視と連携している前権大納言・中山忠能と権中納言・中御門経之は、上述の如く薩・長・芸の三藩連合の趣旨と合意の決議内容を聞き、朝廷から倒幕の蜜勅を出すべく動き始めた。いまだ陰の立役者である岩倉具視が倒幕勅書の文案を整え、中山忠能が天皇に内奏し宸裁を得たという。これは朝廷の関白や摂政を経由する正規の手順を踏まない、名実ともに「蜜勅」だった。  
薩摩藩に下された明治天皇からの倒幕勅書は慶応3(1867)年10月13日付けで、長州は14日付けであるが、同文で次のように書かれている。いわく  
詔す。源慶喜は累世の威をかり、闔族(ごうぞく=一門)の強をたのみ、みだりに忠良を賊害(=殺傷)し、しばしば王命を棄絶し、遂に先帝の詔を矯めておそれず。万民を溝壑(こうがく=どぶ谷)におとしいれて顧みず、罪悪の至る所、神州まさに傾覆せんとす。朕今民の父母となる、この賊にして討たずんば、何を以てか上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讎(しんしゅう=深い恨み)に報ぜんや。これ朕が憂憤の在る所、諒闇(りょうあん=天皇の喪服期間)にして顧みざるは、万やむを得ざればなり。汝宜しく朕が心を体して賊臣慶喜を殄戮(てんりく=全滅)し、以て速やかに回天の偉勲を奏して、生霊を山嶽の安におくべし、これ朕の願いなり、敢えて懈る(おこたる)ことなかれ。  
慶応三年十月十四日、正二位・藤原忠能、正二位・藤原実愛、権中納言・藤原経之、奉る。  
すなわち、徳川慶喜は先祖の威をかり一門の勢力をもって忠義で善良な者を殺し、朝命を聞かず、先帝・孝明天皇の命令を偽った。万民を苦しめ、悪行がはびこる日本はまさに転覆する事態だ。国民を守るべき自分、天皇は、この賊を討たずして、どう孝明天皇の霊に許しを請い、万民の恨みを晴らすことができよう。これが自分の憤りであり、孝明天皇の喪はまだ明けていないが、万やむを得ない。賊臣慶喜を全滅させ、時勢を一変させ、万民を安心させよ。これが自分の願いであり、早急に実行せよ、という激しいものだ。そして、最後には中山忠能、正親町三条実愛(さねなる)、中御門経之の奉行によると書かれているが、この勅書は明治天皇の命による、この三人の執行であるということだ。裏では当然、岩倉具視が中心として動いていたわけだ。  
本当にこの蜜勅の言うようなこれだけの、慶喜を殺すに値する慶喜自身の悪事があったかといえば、従来心から尊王の慶喜には値しない。慶喜が将軍になって以来、すなわち前年の12月5日からこの時点の10月12日まではむしろ外交に専念し、朝廷を恫喝したのは兵庫開港の勅許を出させた時だけだから、これが万死に値するとは言えないだろう。しかし兵を挙げさせる勅書には、慶喜のみならず家定、家茂の時代からの幕府の行為を悪行として挙げつらい、こう書かざるを得なかったようだ。同時にまた朝廷から、松平容保と松平定敬は朝廷の膝元で幕府を助けたという罪により「誅戮を加えよ」という御沙汰書も出された。  
この蜜勅が薩摩と長州に出されると、大久保一蔵から二藩の代表六人が署名した請書が岩倉と上記三人の公家宛てに出されたが、これらは全て秘密裏に行われたことで、幕府は全く探知できなかったのだ。  
この倒幕の勅書はしかし、次に書く将軍・徳川慶喜からの大政奉還の上表が同じ十四日に出たため、しばらく延期することが急いで天皇に上奏され、薩摩と長州にも伝えられたという。  
土佐藩の大政奉還建白、慶喜の上表  
この時、薩・長・芸の倒幕計画が動くことを知った土佐藩の後藤象二郎は、大政奉還に関わる八項目を前土佐藩主・山内容堂に建策し、大政奉還を幕府に説くよう進言し許しを得た。この八項目は、かねて慶応3年6月、長崎から帰国上洛の途次に後藤と坂本龍馬が合意した「船中八策」を基にしたとも言われているが、船中八策の実史料が未発見のため現在では異論もあるという。  
後藤は、何とか土佐藩が恩を受けたと思う幕府と薩・長の武力衝突を避けたいとの思いで、幕府への建言に先立ち、京都で薩摩藩家老・小松帯刀や西郷吉之助、大久保一蔵らと会い、幕府へ大政奉還の建白をする藩意を伝え了解を求めた。この時はこの建白について、それまで強く拒否を貫いてきた薩摩藩の了解を取れたが、穏和な解決を好む小松帯刀の理解が西郷や大久保の意見を抑えたのかも知れない。翌日の慶応3(1867)年10月3日、後藤はさっそく容堂の命として、これ以外にもはや良策はないと、この大政奉還に関わる八項目を徳川慶喜に建白し直接その詳細を説いた。追い詰められていた慶喜はこの建白に従い、諸侯に諮った後、大政奉還を朝廷に上奏した。  
この大政奉還は、上に述べたように薩長が岩倉具視と蜜策を巡らし、討幕の勅命降下を画策している時期と同時期である。将軍も幕閣も、激しく幕府に対抗する討幕運動のような危険な動きがある事は捕縛者の自白等から知っていたようだが、朝廷から秘密裏に出された「倒幕勅書」までは知らなかった。  
在京の老中・板倉勝静が江戸の老中に宛てた10月9日の手紙に  
当地の今の形勢は実に容易ならず、全く切迫し、天皇の膝元の京都で暴動の兆しがあり、一同大いに心配している。夫々会議で対策を検討している。それというのも、今回松平容堂が当今の形勢は非常に苦しく、重臣・後藤象二郎を国許から派遣し別紙の如く建白書を差し出し、口述でも申し立てたが、現今の状況で行くとどんな危難が起るとも知れず、種々苦慮しているが、国体を一変し王政復古をすればその御名義で散々になった人心もまとまり、国内は治まるだろう。これ以外の良策があればこんなことを建白はしないが、容堂の見込みではこれ以外になく、皇国のため御当家のためと思い心より申し上げるとのことである。上様のお考えでも、今のまま経過すれば実に心配で心休まる暇もないが、何とか対策が無ければならない所だ。王政復古は正大至公の道理であり名義に於いて甚明ではあるが、さて実行する上での具体策は何も無い。さりながら、今すぐ何とか良い考えがあり人心の取りまとめができなくては、蟻集する浮浪はもちろん藩士間にもごうごうとして不穏な動きがある・・・先頃捕縛し自供した者によれば、京都を火の海にし各地から兵を揚げるというような陰謀が露見している。これらは浮浪の徒だけでもなく、陰では大藩の動きもあり長州人が最も関係しているようだ・・・。  
と述べている。この様に将軍・慶喜を直接支える老中・板倉でさえ「王政復古を実行する上での具体策は何も無い」と白状している通り、つまるところ「公議を尽くし聖断を仰ぎ、策を立てる」という事だけで、新体制下でも主導権発揮を期待する幕府から見れば、いわば無策で返上してしまったわけだ。  
この大政返上という考えは、この時に初めて出てきたものではない。過去にも朝廷の態度が強硬になる都度、将軍後見職当時の慶喜自身を始め、松平慶永などからも何回も出てきた考えだった。しかしそう考える慶喜自身にも、公家・堂上だけではそんな力もなく、諸大名だけでも同様だ。さればといって諸藩士だけでは治まらない。すなわち朝廷も幕府も有能者は下の者で、トップにそんな思考能力はないが、これをどう組織すればよいかというアイデアはなかった。しかし将軍・慶喜自身は、土佐藩の建白にある、「上院に公家・諸大名、下院に諸藩士を選補し、公論によって事を行えば、王政復古の実を挙げる事が出来る」という考え方があれば上手く行くと納得したのだ(「昔夢会筆記」)。そして、神祖すなわち徳川家康が天下の覇権を握ったのは天下が平和になることを願ったのであり、天下を私する意図ではなかった。今回自分が大政奉還するのも、同じく天下の平和を願うためだ。「政権を執る」と「政権を返上する」とは取捨異なる行為だが、天下を治め朝廷に奉ずる心は同一だ、との論理で決断したのだった。  
今回大政奉還に当たり、将軍・徳川慶喜は次のように上表した。いわく  
臣慶喜が謹んで皇国の時運の歴史を考えますと、昔、王が綱紐(こうちゅう)を解き、摂政が権を執り、保元・平治の乱で政権が武門に移ってから、祖宗(=徳川家の歴代将軍)に至り、更に寵眷(ちょうけん=寵遇)を受け、二百余年の間子孫が相受し、臣(=慶喜)がその職を奉じたとはいえ、政刑は妥当適切を欠くことが少なくなく、今日の形勢に至ったことは、詰りは薄徳の致す所と慚懼(ざんく=恥じ恐れる)に堪えません。まして当今外国の交際は日増しに盛んになり、いよいよ朝権が一途に出なければ綱紀(こうき=国家の大法・細則)は立たず、従来の旧習を改め、政権を朝廷にお返しし、広く天下の公議を尽くし、聖断を仰ぎ、同心協力し共に皇国を保護すれば、必ず海外の万国と並び立つことになりましょう。臣慶喜、国家に尽くす所はこれに過ぎるものはないと存じます。しかし、なお意見があれば上申すべく諸侯へ命じてあります。この様に本件を謹んで奏聞致します。以上。十月十四日慶喜  
翌日の十五日、朝廷はこの政権の返上を受け入れる許可を出し、一応重要諸議案を公議に付する建前になった。  
建久3(1192)年に源頼朝が征夷大将軍になり鎌倉に幕府を開いて以来、約670年以上にも渡り天皇は政権を武家に委譲してきて、十分な人材も組織もない今日、徳川慶喜から突然、「では政権をお返しいたします」と言われ、朝廷が「よろしい」と答えたタイミングがいかにもおかしい。地に足を付けた常識から考えれば、そんなに簡単に事が運ぶはずがない。事実、摂政・二条斉敬は返答のし様もなかったが、早速やって来た薩摩藩家老・小松帯刀などに脅されて、こう朝議決定せざるを得なかったようだ。  
徳川慶喜の期待  
この日以降、慶喜や京都にいる主だった藩の代表を含め、とりあえずの政治を誰がやるか、摂政・二条を中心に調整の朝議がもたれた。上述の通り討幕の蜜勅を持った西郷吉之助や大久保一蔵は国許へ向かった後だから大きな突き上げも出ず、朝廷が招集を掛けた諸大名が揃うまでは、とりあえず徳川慶喜が遂行してきた職務はそのまま続けるという合意が出来た。そこで10月24日、慶喜は更に将軍職辞任の上表をしたが、招集を掛けてある諸藩主が上京し新たな朝命がでるまでは旧の如くに、という朝命も出された。今まで吹いていた強風が突然静まり、嵐の前の静けさという一瞬だった。  
こんな中で、おそらく慶喜を中心に京都にいる幕閣やそのブレーンは、政権を返す今、上院・下院という体制や国政運営の基本方針の研究も始めたようだ。これが組織的な活動だったか否か筆者には不明だが、例えば当時慶喜の奥詰並・西周助は、慶喜に三権分立やイギリス議会制度の概要を説明している(「西周伝」)。また西周助による「三権分立」の考えや、「欽定、紀元、尺度量衡等を含む禁裏の権」、「公方様が元首になる政府の権」、「上院・下院を定める議政院の権(大名の権)」などを盛り込んだ憲法の基とも見える草案も知られている。  
この様に、徳川慶喜の期待する方向に動くようにも思われた一瞬があった。しかし次に書くように、薩摩から小松、西郷、大久保などが藩論を整え、島津久光の名代として藩主・島津茂久が上京し、岩倉具視も正式に許されて帰宅すると、王政復古のクーデターが決行され、徳川慶喜は追い詰められてゆくことになる。 
戊辰戦争勃発と徳川慶喜の帰東  
王政復古のクーデター  
10月13日付けの倒幕の勅書を受けた薩摩藩の小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵などはすぐに帰国報告し、藩主・島津茂久が兵を率いて上京する藩議を決め準備に入り、茂久は病気の久光の代理として11月23日京都に入った。長州からも毛利内匠が8中隊の兵を7艘の艦船に乗せ、船檣に薩摩と芸州の旗をつけ西ノ宮にまでやって来ていた。  
慶応3年12月8日摂政二条斉敬の主導により、長州赦免の処置と外交問題について朝廷のメンバーと旧幕府及び在京諸侯の合同評議が始まった。しかしこの席には徳川慶喜、松平容保、松平定敬らは病と称して参朝しなかったが、この欠席は表面上、負け戦だった幕府が仕掛けた長州征伐の処置として、長州の赦免を議するのだから、大政奉還した今は「勝手にお決め下さい」という朝廷側への意思表示だったともとれる。しかし実際には、朝廷の王政復古クーデター決行予定が土佐藩の後藤象二郎から越前の松平慶永に極秘に伝えられ、慶永から徳川慶喜に伝えられていたのだ。慶喜は、政権も返上し将軍職も辞職したから、朝廷主導で王政復古を行う事は当然だろうと平静だったという。この幕府の出席しない朝廷評議では、萩藩主・毛利敬親父子とその末家の官位を元に復し入京を許すと同時に、長州の重臣が兵を率いて上京すべきことも命ぜられた。また逼塞していた前右近衛権中将・岩倉具視などが元の如く許され復職し、家に帰ることが出来るようになった。  
この評議は9日の明け方まで続き、摂政・二条斉敬以下の公家主要メンバーは散会と共に退朝したが、岩倉具視と気脈を通じる中山忠能と正親町三条実愛、更に前名古屋藩主・徳川慶勝、前福井藩主・松平慶永、広島藩・浅野茂勲などはそのまま宮中に留まった。名古屋、福井、広島は、あらかじめ岩倉から極秘にクーデターの手順を知らされていたのだ。そして前日の会議で公式に許され復職したばかりの岩倉具視は9日朝、朝命に従いさっそく参朝し、それまで密かに共同で策を練ってきた中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之と共に明治天皇に会い、以前に宸裁を経た王政復古の大策を断行すべきことを上奏した。そしてクーデター開始に当たりまず御所を封じるため、ただちに薩摩の西郷吉之助が朝命により藩兵を指揮し、建礼門、建春門、宜秋(ぎしゅう)門、清所門、乾(いぬい)門などで御所の守りを固め、名古屋、福井、高知、広島の4藩は夫々の兵を集め命じられた部署につき、禁門の守備が完了した。これは御所を封じ、佐幕派の二条斉敬や朝彦親王、あるいは万一慶喜などの参朝でもこれを差し止めるものだった。  
この時までには主だった朝廷の公家、在京諸侯も次々と参朝し、天皇が学問所に出御し、王政復古の勅書を出した。すなわち仮に総裁、議定、参与の三職を新設し、神武創業時のごとく日本の政治を改革するという聖意を述べた。これは旧来あった役職の摂政、関白、征夷大将軍、議奏、伝奏、国事掛、京都守護職、京都所司代などの官職を廃し、征夷大将軍・徳川慶喜の辞職を聞き入れ、摂政・二条斉敬、国事掛・朝彦親王や議奏国事掛・柳原光愛などを罷免し参朝を停める処置だった。有栖川宮熾仁(たるひと)親王が総裁につき、この王政復古を陰で推し進めた中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之が議定に、岩倉具視は参与につき、薩摩の大久保一蔵や西郷吉之助は特別命令により会議に参加することになったが、いわゆる天皇親政を掲げ総裁・議定・参与中心の新体制の出発だ。  
これは、岩倉具視が中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之などと慎重に準備し天皇を巻き込んだクーデターだ。大久保一蔵や西郷吉之助などが御所を警備しそれを支えた形だったが、これは4年前の文久3年8月18日に孝明天皇主導で過激派公家や長州を排除した時と良く似たやり方だ。当時も薩摩藩が会津藩などと共に御所の警備という同じ役回りだった。  
天皇の御前会議と徳川慶喜の大阪城への後退  
天皇の慶応3年12月9日の王政復古勅書表明の後、ただちに新しく任命された総裁・有栖川宮を始め中山、中御門、大原、岩倉などの公家、そして徳川慶勝、松平慶永、山内容堂、浅野茂勲、島津茂久などの諸侯各職が小御所に集まり天皇の前で評議が開催されたが、この会議からまた歴史が大きく動き出す。  
「徳川慶喜公伝」によれば、天皇の御前会議が始まると公家側から、徳川慶喜は政権を返上したが本当の忠誠心から出たものか不明である。慶喜は実績を示す必要があるとの強硬意見が出た。慶喜の辞官・納地を示唆したものだった。これを聞いた山内容堂が、この会議に慶喜を出席させないのは陰険なやり方だ。3、4人の公家が年若い天皇を操り政治的実権を盗もうとしている、と強烈な意見を吐いた。これを聞いた岩倉具視は「天皇の御前での言葉を慎め。このたびの挙は全て天皇の宸断から出たものだ」と叱りつけたという。容堂の発言は事実を突いたものではあったが、天皇の権威をもって宸断だ言われては陳謝するほかなかった。深く策をめぐらしてきた岩倉や中山、正親町三条らは、このクーデターの権威付けを注意深く積み重ねていたのだ。佐幕の武家側と革新を目指す公家・武家側で議論が大沸騰して深夜に及んだが、結局慶喜に大将軍辞職を許し辞官・納地を命ずることに決し、天皇の宸裁を経た。この決定は徳川慶喜に近い徳川慶勝と松平慶永を二条城に派遣して慶喜に諭させることにし、また武力行使に走らないよう会津藩と桑名藩には帰国を命ずることに決定した。この二つの決定は、いかにして幕府と会津・桑名が軍事力使用に打って出て内戦に発展しないようにするか、岩倉などにかなりの考慮と作戦があったように見える。  
すでに怒りに満ちた多くの徳川恩顧の旗本や会津・桑名を始め、彦根・津・大垣など親藩の兵が大挙して詰めている二条城で、翌10日、慶勝と慶永が慶喜に会い会議の決定事項である「辞官・納地」を伝えた。2人は慶喜が奏上する回答の内論として、官位は一等を辞退し、納地は400万石の半分を新政府の入費として差し出す案を示した。慶喜は、この様に怒り立つ旗本や親藩がいる中での即答は避けたい。暫く検討と冷却期間を欲しいと回答を延ばした。尊王の慶喜は基本的に朝廷の命を奉ずるに異存はなかったがようだが、怒り狂った兵たちの暴発が最も怖かった。不用意に暴発し局地戦にでもなれば朝敵になりかねなかったから、それは尊王の慶喜には死ぬより辛いことだったろう。徳川慶喜は二条城の諸隊長を集め「慶喜が切腹したと聞けば好きなようにしてよい。生きている限りは暴発を押さえよ」と命じたほどだ。しかし薩摩の謀略だと益々怒り狂う状況を放置できず、慶永の意見も入れ、いったん二条城から大阪城へ後退した。  
それまで機会を見ては兵を上げる強硬意見だった薩摩の大久保や西郷も、暴発を避けようと、二条城から守りの堅い大阪城に退いた慶喜を見て、13日には様子を見るべく態度を軟化させた。そして岩倉も、早々に慶喜が軽装で上洛し、官位は朝廷の伝統的な辞官で使われる「先内大臣」とし請け書を出すべきだとも示唆していた。しかしこれから10日間ばかりは、慶勝、容堂、慶永などが中心に公家側に説いて、納地をより公平に取扱うべく巻き返しを図りはじめた。そして徳川家が返納する納地については「新政府の政務に必要な分は、徳川領地の中より取調べの上、新政府会議の公論を以て確定する」ということでほぼ合意し、徳川慶喜が上京し自ら奏上し申請する事を待つばかりになった。  
慶喜はしかし、身内を説得するには新政府に必要な経費を全国の高割りで課すべきだとの意見を持っていた。朝廷と徳川慶喜の間を調停する松平慶永とその忠臣・中根雪江は、岩倉具視との根回しに全力を注ぎ、明けて明治1年1月2日、岩倉と中根は慶喜の上京と奏上の詳細手順を詰め、合意段階にまで進んだ。薩摩藩の大久保一蔵の突き上げは激しかったが、岩倉は出来ることなら武力解決を避け、徳川慶喜がおとなしく上京し朝廷の意を尊奉する態度を見せれば、領地返納の件も諸藩の高割りで解決したかったように見える。  
このように新体制で朝廷の会議が進み、少しでも徳川慶喜が有利になるよう松平慶永や山内容堂、徳川慶勝などの斡旋が進む中、幕府側は12月の中ごろまでには、直属の旗本や親藩藩兵を播州街道の西宮や札ノ辻、、奈良街道の河堀口、京都街道の守口、淀、八幡、山崎、枚方及び大坂城外の要所に配置していた。そして新撰組も伏見にやってきた。一方の薩摩と長州も、12月8日には伏見の御香宮神社に薩摩藩が警備部隊を置いていたが、500mほど南に伏見奉行所を見下ろす最前線だった。このように伏見、鳥羽方面を厳重に警備し守りを固める薩摩と長州は、新撰組が伏見に入ると更に伏見警備の兵を増強し、京都市中の巡回も強化し、双方のにらみ合いになっていた。  
鳥羽伏見の戦い  
いっぽうこの頃の江戸では、10月のはじめ頃より西郷吉之助の命令で、江戸市中の浪人を集め挑発的な破壊工作を図り、浪人による略奪や殺傷が繰り返され、市中の撹乱を煽った。幕府江戸警備陣の内偵が進むと薩摩の画策であることが判明し、その中心で隠れ家にもなっている薩摩藩邸への攻撃が命ぜられ、12月25日の夜明けに薩摩藩邸の焼き討ちが行われた。上述の如く辞官・納地も解決するかに見えた28日、江戸における薩摩藩邸焼き討ちのニュースが大阪に届くと、それまで慶喜がやっと押さえていた旗本や会津、桑名の怒りがいっきに爆発した。そこで、  
12月9日以来の非常の御改革(クーデター)は朝廷のご真意ではなく、松平修理大夫奸臣らの陰謀である事は天下に明白である。江戸、長崎などの乱暴や強盗は薩摩の唱導である。これらの奸臣どもをお渡し願いたい。ご採用なければやむなく誅戮をくわえ申す。  
と朝廷宛ての奏聞書を作り、遂に慶喜は討薩の兵を動かさざるを得ない事態にまで沸騰した。そして大阪城から、討薩の奏聞書を朝廷に届けるという名目で一隊が北上を始めた。  
これはしかし、後に慶喜が「一期の失策」と大いに後悔しているが、押さえに押さえてきた怒り狂う味方の暴発を、「例え刺し殺されても会津・桑名の二藩を帰国するよう諭し得ず、いかようにとも勝手にせよ」、と許してしまったことによるものだった(「昔夢会筆記」)。朝敵にだけはなってはならないと自重に自重を重ねたそれまでの慶喜自身の努力が、全て水泡に帰した一瞬だった。  
この徳川慶喜率兵上洛の報に1月3日、急きょ朝議が召集された。討幕派の薩摩を代表する大久保一蔵の錦旗を押し立てた徳川征討の意見と、松平慶永のこれは旧幕府と薩摩の私闘であるという意見がぶつかり議論が激しく沸騰した。慶永の意見は、江戸その他の町で撹乱戦法を取る薩摩の悪行に怒った徳川方が、薩摩だけを討伐しようとする私闘で、決して朝廷に刃向うものではないというものだ。しかし最終的に岩倉具視も徳川征討の意見を出し、会議は徳川征討に決まり急転直下の激突になる。大久保一蔵の激しい突き上げにも耐え、出来るだけ武力衝突を避けたかった岩倉にしても残念であったろうが、京都に向け兵を進める慶喜を、もはや弁護する理由を失ってしまったのだ。  
北上を始めた慶喜の先鋒隊は、明治1年1月3日早くも淀川から宇治川を遡り伏見の京橋に着いた。これを阻止しようとする薩摩藩との間に小競り合いが起ったが、折りしも申の下刻、すなわち午後五時頃鳥羽の方角から聞こえた1発の砲声に触発され、御香宮神社の東の高台に据えた薩摩藩の砲が火を噴き、伏見奉行所を砲撃し始めた。奉行所の新撰組や伝習隊は善戦し、薩摩軍は後退した。しかし翌4日には徳川軍も押し返され淀方面まで後退し、5日官軍が錦旗をなびかせ進軍を開始するとたちまち形勢が変わり、徳川軍は淀城に入り体制の立て直しを目指した。しかし、当時の淀城は幕府老中を勤める稲葉正邦の居城だが、なんと後退する徳川軍の入城を拒んだのだ。淀藩は錦旗を押し立てた官軍に対抗して朝敵となることを明確に拒んだわけだが、これが更なる徳川軍の背走後退につながった。淀城に入れない徳川軍が山崎近くに後退すると、徳川軍が山崎に配備し味方であるはずの津藩からまで突然砲撃をされ大混乱に陥り、勢いに乗る京都からの薩長軍は徳川軍を更に追い落とし、遂に大阪城内にまで後退させてしまった。  
慶喜に言わせれば、薩長からの砲撃が引き金になった。徳川側からの攻撃ではないと言いたかったろうが、錦旗がひるがえり、稲葉正邦の淀城や津藩からまで朝敵になるのを拒んで敵対され、全軍が大阪城にまで後退してしまえば、いやおうなく、一番避けたかった朝敵そのものになってしまったのだ。上述の如く、岩倉具視がこのデザインを大久保一蔵に渡し、大久保の買い揃えた大和錦などの素材で長州が製作した、官軍を象徴する錦旗の威力は絶大なものだった。当時は、それほどまでに天皇に刃向かうことが大罪となり、兵の勇気をたちまちにくじく程恐れ多い行為だったのだ。  
徳川慶喜の東帰  
大阪城内の旗本や会津、桑名諸兵の隊長たちはまだ諦めず、慶喜の出馬を得て、薩長側に再攻撃を仕掛けるよう慶喜に迫っていた。しかし始めから戦意はなく、徳川方の暴発を極力押さえてきた徳川慶喜には、ついに朝敵になっては「謹慎して命を待つ」以外の意思はなく、更なる方策もなかった。1月6日夜の亥の刻、すなわち午後10時ころ、それまで密かに慶喜の意を受け大阪脱出を準備していた側近は、慶喜及び松平容保、松平定敬その他老中・板倉、酒井など少人数を伴い旧幕府軍艦・開陽丸(2590トン)の待つ大阪天保山に向かった。開陽丸は幕府がオランダに発注した軍艦で、日本に到着し幕府に引き渡され、まだ1年にも満たない最新鋭艦だった。  
慶喜一行が天保山に着くと、不運にも沖に停泊するはずの開陽丸は薩摩の軍艦を追討中で認識できなかった。真冬の夜中にうろつくことも出来ず、とりあえず岸近くに停泊する米国軍艦・イロコイ号(USSIroquois、1016トン)に乗り込んだ。突然の珍客に、米艦では酒肴を出して厚くもてなしたという。その内に開陽丸も帰港し、徳川慶喜は結局2時間ほどイロコイ号に滞在し、酒も飲み体も温まったのだろう、さっそく開陽丸に乗り移った。  
徳川慶喜は大政奉還後大阪城に滞在中、外交問題に専念し外国公使たちに何回も謁見したが、特にアメリカのバン・バルケンバーグ公使は慶喜のリベラルな態度に良い印象を持っていた。前年の8月にはバン・バルケンバーグ公使が幕府に書簡を送り、日本政府が米国のサンフランシスコに領事を駐在させることを勧めてさえいる。そんな引き続きの確固たる信頼関係もあり、日本開国当時から條約国中の先輩でもある国の、天保山沖に停泊するアメリカ軍艦を選んだのだろう。  
慶喜は後に、この時のことを「昔夢会筆記」の中で、この時開陽丸が天保山沖に居なかったので、  
しからば繋泊せる米艦に依頼せんと思いたれど、あまりに卒爾(そつじ)なれば、まず仏国公使に紹介せしむるこそよけれとて、使(山口駿河守なりしと覚ゆれど確かならず)をロセスの許に遣わしたるに、ロセスは快く承諾して紹介状を与えたり。一行はそを携えて米艦に赴きたるに、米艦にては仏国公使の紹介ありしためにや極めて優遇し、酒肴を出してもてなしけるが、とかくする中開陽丸帰港したるをもて、更に同艦に転乗したり。  
と言っている。一方、アメリカのバン・バルケンバーグ公使はこの時の状況を、スーワード国務長官宛の報告書簡の中で、  
1月30日(筆者注:旧暦1月6日)の夜中の12時ころ、若年寄の平山図書頭(筆者注:当時外国奉行)が私の居た大阪領事館を訪ねて来て、大君の軍隊は退却中だと云う情報を私に伝え、これ以上アメリカ市民を保護できないので、私自身と市民の安全を図るべく必要な処置を取ってもらいたいと告げてきた。・・・退去が必要になったら何時でも私と公使館関係者を乗せ横浜に行けるよう、合衆国蒸気軍艦・イロコイ号が2、3日前から大阪領事館の向かい約8マイル程の所に停泊中だった。この事実を知った平山は、大君の要請として、大君自身がその夜イロコイ号に乗船し、日本軍艦・開陽丸が早朝大君を江戸に送るため到着するまでイロコイ号に留まる許可を求めてきた。私はイロコイ号のイングリッシュ艦長にその旨書き送った。大阪城を脱出した大君は、首相(筆者注:板倉勝静)と高官たちを従え、1月31日の早朝2時ころ日本の小船でイロコイ号に乗り込み、2時間ほど滞在し、夜明けと共に到着した日本の軍艦に、江戸に行くため乗り込み出帆した。と書き送っている(1869)。  
この様に大阪城から江戸城行きの逃避行を密かに決め、少数の供回りだけで実行に移した徳川慶喜は、アメリカ軍艦に一時退避し、開陽丸で帰府したのだった。徳川慶喜が上述の「昔夢会筆記」の中で言うフランスのロッシュ公使がどう絡んだか筆者には定かではないが、外国奉行たちが必死に手配し回った事は事実であろう。開陽丸が見えない事にびっくりした平山図書頭が、夜中にバン・バルケンバーグ公使を訪ね、状況報告を理由に、徳川慶喜のイロコイ号への緊急避難を頼んだようだ。筆者には、このバン・バルケンバーグ公使の報告が、真実により近い状況だったのではと思われる。  
それまで南北戦争のゴタゴタで軍艦を派遣できなかったアメリカも、この当時はすでにイギリスに次ぐ数の軍艦を日本に滞在させる余裕が出来ていた。そしてこの京・大阪で内戦勃発の時、バン・バルケンバーグ公使はこれらの軍艦に避難し、イギリスやフランスの公使も同様に自国軍艦に非難し、イタリア、オランダ、プロシャなどの外交官も夫々米・英・仏から軍艦への避難を受け入れられていたようだ。  
こんな経緯の後大阪を出航した開陽丸は、途中暴風雨にも悩まされ難航したが、12日、徳川慶喜一行は無事江戸城に帰着した。慶喜が脱出し城主不在になった大阪城は徳川慶勝と松平慶永に託され、2人はその旨朝廷に奏上した。天皇はさっそく大将軍・嘉彰(よしあきら)親王に大阪城を本営とさせ、ここから四方の指揮を取ることを命じると、慶勝と慶永は入城に先立ち大阪城を点検し大将軍を迎える準備に入ろうとした。しかしこの時、長州がやったといい、薩摩だといい、会津だといい原因が定かでないが、混乱に乗じて大阪城は二番櫓、三番櫓、伏見櫓などを残しほぼ全焼してしまった。 
外国公使への情報提供  
六カ国公使へ大政奉還を説明  
少し遡るが上述の如く、慶応3(1867)年10月14日に徳川慶喜が出した大政奉還の申請は翌日勅許され、詳細を知らない江戸詰めの幕閣や役人はもとより、徳川を支える諸藩にも激震を走らせた。当時の幕府は、フランスのレオン・ロッシュ公使と密接に関わり、フランスからの経済援助や軍事援助の交渉をし、また幕府の職制や財政・軍制改革などの意見を交換していたから、慶喜自身も20日この大政奉還の理由を、まずロッシュ公使に宛て親書として出している。いわく、  
日本国は元々朝廷が統治していたが、摂政政治から武家政治に移り、我が祖・徳川家康が天下平定以来、朝廷から政治を任されてきた。今西洋諸国の現状を見れば政権は一途に出て、それが富強の基である。我が国の政権は今、二途に出る勢いになったが、万国と対等な国体にすべきである。これが政権を朝廷に返す理由である。今後も貴国の助力を願う。  
というものだった。徳川慶喜はまず幕府と親しいロッシュ公使に親書を出し、外国に向け仁義を切ったのだ。  
京都詰め老中・板倉勝静は早速このロッシュ宛の慶喜書簡写しを江戸詰め老中に送ったが、京都の状況進展を伝える書簡の中で、「大政奉還のニュースが各国公使の手に入れば、英公使・パークスなどは、そうなれば今日より(徳川慶喜を)大君などと呼べないと、兼ねてからの意見を主張するかも知れない」と強い懸念を示している。こんな老中・板倉の表現からも良く分かるが、イギリスのパークス公使はもとより通訳官・サトーの行動なども含め、彼らが幕府に如何に辛くあたっていたか良く分かる。勿論公式な立場は、本国の指示に従い一見フェアーな行動だっただろうが、老中・板倉さえもが心配するように、少なくとも支那で鍛えてきた発展途上国政府を意のままに操ろうとする、その個性的で攻撃的な側面が良く分かる。  
こんな背景もあり、慶喜が朝廷に出した大政奉還について、幕府外国事務総裁・小笠原長行は22日、京都から届いた慶喜上表書の写し、朝廷からの勅許の写し、「大事件、外夷一條は衆議を尽くし云々」という、とりあえず引き続き慶喜に任された外交案件の処理命令の写しを添え、アメリカ、イギリス、オランダ、フランスなど外国公使宛てに送った。更に小笠原は11月1日、イギリス、フランス、アメリカなど各国公使に、慶喜がロッシュに宛てた書簡を骨子にした、かなり長文の背景説明書簡をも送っている。アメリカのバン・バルケンバーグ公使は、これを丁寧に英文に翻訳し国務長官宛に送っているが、その添付書簡を見ても驚くほど冷静な内容である。朝廷と幕府の関係や徳川慶喜の大政奉還は、公使たちに良く理解されたようだ。  
この時は、約束している兵庫開港・大阪開市期日ががいよいよ1ヶ月ほど先に迫っていたから、アメリカのバン・バルケンバーグ公使、イギリスのパークス公使やフランスのロッシュ公使は、12月初め頃には兵庫や大阪に来てその準備に追われていた。そこで12月16日、徳川慶喜は再度大阪でアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、プロシャ、イタリアなどの公使と会見し、自ら大政奉還から王政復古に至る経緯を説明したから、各国は状況を一層よく理解したと思われる。  
また同様に約束している江戸の開市も、大阪開市と同日である。幕府は慶応3年11月2日、各国公使に書簡を送り、江戸開市は来年3月9日、即ち1868年4月1日に延期を申し入れた。外国公使たちはすでに日本国内の政変を考慮し、万一幕府から江戸開市期日延期の申し出があれば即座に受け入れようと合意済みだったから、これはすんなり受け入れられている。兵庫開港・大阪開市と江戸開市が同日に行われ、若し何処かで異変が起れば、西と東で自国民の保護は難しいから、それを考慮に入れた対応だったのだ。  
アメリカ公使館へ薩摩藩邸焼き討ち情報の提供  
上述の如く、いよいよ1868年1月1日(慶応3年12月7日)の兵庫開港・大阪開市が間近になってきたので、アメリカ公使・バン・バルケンバーグ、イギリス公使・パークス、フランス公使・ロッシュなどは慶応3年12月始めには自国軍艦で大阪に来て、開港・開市の準備を始めていた。  
こんな中、神奈川でアメリカ公使館を預かるポートマン書記官から、慶応3(1868)年12月26日老中・小笠原長行に書簡を送り、「昨日神奈川の奉行から大君政府と薩摩藩を主長にした諸大名との間で交戦があったと告げられたが、重大事件なのでその詳細を知りたい」と要請が出された。上述の如くこれは、京都ですぐに鳥羽・伏見の戦いのきっかけになって行く事件だが、江戸市中取締りで12月25日の夜明け、西郷吉之助の命令で浪士を操り江戸を撹乱し続ける薩摩藩邸を焼き討ちにした事件についてだ。  
ポートマンの書簡いわく、1週間後にサンフランシスコに向けた定期郵便船が出航予定で、サンフランシスコから日本の正確な情報を電報でアメリカ政府宛てに送るが、郵便船出航後合計22日間でワシントンに届く。更にワシントンから1日か2日後にはロンドンとパリに電報連絡ができるので、日本の正確な情報が世界の主要3都市にそれ以外のルート経由より3、4週間早く届く事になる。従ってこの蒸気郵船の出航に間に合わせ、何が起ったのか十分に権威ある情報をぜひ連絡して欲しい。これは、アメリカが日本政府と締結している条約通りの親睦の上に立つもので、日本政府の立場と正当性を世界に発信するため手を貸すものだが、好意的な意図に出るものだと強調している。  
また、アメリカ公使・バン・バルケンバーグが大阪・兵庫に出張中は重要な出来事を本国政府に連絡するよう指示されているポートマン書記官は、この26日付け書簡への幕府回答を待たず、自身で集めた情報でスーワード国務長官宛に第一報の報告書を書いているが、概略次のような内容だ。  
1868年1月19日(12月25日)江戸の方角から横浜まで大砲の音がはっきり聞こえてきた。騒ぎにはならなかったが、異常に多くの砲撃音だった。午後2時頃には横浜に通ずる全ての門が閉鎖され、守備兵が増強され、攻撃に対応できる体制が整ったが、恐らく浪人の攻撃に備えたもののようだった。今まで浪人の攻撃は外国人に向けられたが、今回は日本市民や大名屋敷まで襲われ、横浜に攻め込む意思もあるという。陰には組織的な動きがあり、江戸から命令が出ているとの事である。  
3時頃江戸から知らせが届き、江戸で市街戦があり、大砲が使われ、3ヶ所の薩摩屋敷が破壊されたという。この知らせは、小型の蒸気船が江戸の方向から高速で横浜に近づき、大型蒸気船が時に砲撃しながら追跡して来たのが見えたころやっと届いたものである。横浜から8マイルくらい前方で小型船は止まり、大型船に追いつかれ、接近銃撃戦になった。そして、3本マストの帆船を牽引したもう一隻の蒸気船も追いつき、そこで砲撃はいったん止んだ。横浜の海岸通からよく見えたが、小型船の上甲板の波よけ部分が大きく破壊され、前檣最下部の帆桁も同様だった。暫くして小型船は、3本マストの帆船の牽引を解いた2番目の船に追われ、また最初の大型船にも追われながらも沖に逃げ切ったが、明らかに何とか故障を修理できたようだった。  
夕方遅くやっと神奈川奉行から、いろいろな事が起き連絡が遅くなり申し訳なかったと言う言葉と共に、江戸の街と海で戦いがあり、3ヶ所の薩摩屋敷が焼け落ちたが、横浜の安全と保護対策は取られたと連絡された。  
翌日9時頃また奉行所から連絡が入り、江戸からの情報では、政府の探索で浪人の動きから薩摩屋敷が本拠地になっていて、そこで首領各の何人かを拘束したという。浪人引渡しを通告したが、武力衝突になり、屋敷は焼け落ちた。海軍の状況は不明で、本日になっても成功したという情報はない。上記の小型蒸気船は明らかに薩摩の船で、上手く逃げ切ったようである。  
この様に横浜で知り得た情報をいち早く報告書にまとめている。  
さて、26日付けのこのポートマンから老中・小笠原長行宛ての質問書簡に対し、早速外国奉行・江連加賀守が12月30日付けで回答した。いわく、  
外国事務総裁(=老中・小笠原長行)も了解し感謝している。貴書簡中の、江戸政府と薩摩藩を主長にした諸大名との間で交戦があったという件は誤聞である。これは二、三ヶ月以前より江戸市中で、夜陰に紛れ富豪の家に強盗に入ったり、通行人を脅し金品を剥ぎ取ったりと狼藉を行う者が増え、また江戸北部郊外の下野いづる山に屯集し近村を劫掠(ごうりゃく)し、南部郊外の相模荻野山中にある一小大名の陣屋を焼きその財産を略奪した兇徒もあり、捕縛した者の供述で、仲間は松平修理大夫(=薩摩藩主・島津忠義)の屋敷に潜匿している事が明白になった。また、夜中に江戸市中取り締り・酒井左衛門尉の配下の三田屯所へ銃撃した者があり、その跡を付けこれまた同屋敷に入った事を確認した。このため酒井左衛門尉はこれら兇徒を召捕るので引渡すよう多人数を引連れ交渉したが、薩摩藩邸ではこれを拒否し、かえって邸中から銃撃を始め抵抗してきた。ついに江戸政府の陸軍数隊と江戸在府大名数家の兵隊をも差し向け、島津家の藩邸数ヶ所を包囲し、数百人を討取ったり生捕ったりした。中には品川に停泊中の同家の蒸気船に逃げ込んだ者もあり、これを江戸政府の軍艦で追撃したが逃亡してしまった。国内が多難の折柄以上のような異変も有ったが、外交関係に不都合を生じかねず、大いに心配している。  
というものだった。この直後の明治1(1868)年1月2日、大阪城からこの薩摩藩邸焼き討ちを知った徳川旗本や会津と桑名を主力にする兵が「討薩」を掲げ動き出し、鳥羽・伏見の戦いに突入するから、歴史が大きく動く時だった。ポートマン書記官がこの外国奉行・江連の情報をどう処理したか筆者は知らないが、2週間後の1月12日に徳川慶喜が大阪から江戸に逃げ帰ってくるから、その急変を報告したはずである。  
各国公使へ中立の要請  
旧幕閣は明治1年1月3日、戊辰戦争のきっかけになる「討薩の奏聞書」を朝廷に提出するため大阪城から先鋒隊が出発すると、英、米、仏、蘭、伊、普(プロシャ)の6カ国公使に対し、老中・松平正質(まさただ)、板倉勝静、酒井忠惇(ただとし)の連名で注意を促す書簡を送った。いわく、  
松平修理大夫(=島津茂久)の家来は、日本国内の変革に乗じ不正な挙に及んだので鎮定するつもりである。條約で禁じている私貿易をしたり、日本政府以外へ武器や軍艦を売ったり、非開港場に船を着けたりすることがない様、厳重な條約遵守を貴国臣民へ布告願いたい。・・・薩摩の艦船は全て逮捕し、もし抵抗する場合は武力を用いるよう命じてある。もしそれに乗る外国人が有る場合は、勤めて危難に遭わないようようにしその国の官吏に引き渡すが、もし武力対決になった時は、その者の不了見から出たことであり、生命の安全は保障できない。また武力逮捕になる場合でも、貴国軍艦の介入はないものと信ずる。というものだった。  
この通告書は、いわば日本国内の内紛に関する外国軍事力の中立性を再確認し注意を促したものだが、これを見る限り、諸外国と15年にもわたる外交交渉を通じ経験を積んだ当時の幕閣や外国奉行は、かなりのレベルで外交関係を処理できていたようだ。これに対しアメリカ公使・バン・バルケンバーグは、日本政府の敵は松平修理大夫1人なのか同盟者が居るのかとたずねてきたが、老中・酒井、板倉は修理大夫1人だが、与党するものがあれば誅戮すると回答した。このように急転し分かりにくい日本国内の政治状況の再確認も、各国の主要な懸念事項だった。  
3年半前の下関戦争のときも、英、仏、蘭、米の4カ国間では日本国内の内紛に加担しないという約束が出来ていたが、局外中立は外交の基本だ。しかし老中・板倉勝静などが上記の通告書をわざわざ出した裏には、表面的には中立を保つように見える当時の各国外交官の間でも、現実問題として大きな温度差が存在したからだとも思われる。現在広く知られているが、薩英戦争以来の薩摩藩とイギリスは急速に接近した。イギリス人のグラバーなど武器商人は薩長に武器を大量に売り込み、イギリス公使館通訳・サトーは1866(慶応2)年3月から、若しこれを日本人が書けば必ず死罪にされたほどの幕府非正統論「英国策論」を横浜外人居留地で発行されていたジャパン・タイムスに寄稿したり、薩摩藩士・西郷吉之助や長州藩士とも親しいつながりがあった。この英国策論の日本語バージョンもサトー自身が書き、当時密かに版木印刷され出回っている。ハリー・パークス公使もグラバーの仲介で、イギリス東洋艦隊を指揮する司令官・キング海軍中将と共に招待によるとして鹿児島や宇和島に夫々5日間も滞在し、薩摩藩と宇和島藩の大歓迎を受け、非公式に改革側に好影響を与えている。明らかに老中・板倉などは、こんな薩摩寄りの行動を牽制したかったのだろう。  
また、オランダは当時イギリス寄りだったが、これに対しフランスは明らかに幕府よりで、これ以降も旧幕府方に経済的援助をも意図したほどだが、プロシャやイタリヤはむしろフランス寄りだった。一方のアメリカはより中立で、内紛の一方に加担する可能性があるとの理由から、かって幕府が発注し75%の支払いも済んでいる、横浜に着いたばかりの甲鉄軍艦・ストーンウォールの引渡しを一時拒んだほどだった。しかし、バン・バルケンバーグ公使の心情は、幕府に、特にかってどんな幕府役人にも見たことのない程リベラルな徳川慶喜に好意を持っていたように見える。 
9、明治新政府の始動 

 

背景  
討幕挙兵を決意した薩摩・長州・芸の三藩の行動を知った山内容堂の命による土佐藩士・後藤象二郎らの建言を受け入れ、大政奉還を決意し上表を済ませた将軍・徳川慶喜は、翌日の慶応3(1867)年10月15日、朝廷からその許しを得た。慶喜は24日、正式に上表し征夷大将軍を辞職したが、朝廷が十万石以上の諸侯を招集し事後策を決定するまで旧来通り国政や外交問題の処理を任された。  
一方ほぼ同時期に、逼塞隠棲中の岩倉具視を中心に薩摩藩士・大久保一蔵らの画策する討幕の蜜勅が朝廷から薩摩と長州に下り、それまで逼塞していた岩倉らも正式に許され帰宅することができた。  
この様に、前代未聞の大政奉還という緊迫した状況下でも、摂政・二条斉敬(なりゆき)を中心とする朝廷首脳は迅速な事後策の確立ができず、一方の外交問題である大坂・兵庫の開市開港の時期も来てしまった。そこで慶応3年12月7日、1868年1月1日、外交を任されている幕府もそのまま開市開港を進めた。  
こんな旧タイプの朝廷首脳に対抗する中山忠能(ただやす)、正親町三条実愛(さねなる)、中御門経之(つねゆき)、岩倉具視といった革新公家や大久保一蔵らは、その後の新政府につながる王政復古の大変革、すなわち再度の朝廷内クーデターの実行を画策し、明治天皇の宸裁を得て12月9日これを実行した。摂政・二条斉敬ら旧守派首脳から朝廷内の主導権を奪ったのだ。  
天皇親政を掲げ総裁・議定・参与の三職で出発したクーデター後の新体制は、薩摩や革新公家の主導の下、大政奉還をした徳川慶喜をことさらに排除し、辞官・納地をも求める挙に出た。二条城に集結する徳川旗本、会津藩士、桑名藩士、彦根藩士などはその理不尽さに怒り、彼らの暴発を防ぎその統御に苦しむ慶喜はいったん大阪城に引き上げた。一方、将軍の居ない江戸では薩摩藩士・西郷吉之助の命による挑発的な破壊工作が横行し、これを知った幕府側は江戸の薩摩屋敷を焼き討ちにした。この情報が大阪城に伝わるや、陰謀を重ねる薩摩藩を朝廷から除くべきと、奏上書を掲げ大阪城から京都を目指す旧幕府の兵が動き、伏見や鳥羽で錦旗を押し立てた薩摩、長州の官軍と衝突した。  
心から朝廷尊奉を目指す将軍・徳川慶喜は、官軍と衝突し朝敵となった以上謹慎しか方法がないと、突然大阪城から幕府軍艦に乗り、少数の供を連れ江戸城に帰ってしまった。 
慶喜の謹慎と討幕の進軍  
徳川慶喜が大阪城から江戸に帰る表向きの理由は、ひとまず江戸に帰って再起を図ることだった。後に慶喜が語るところでは、心中にある朝廷尊奉、謹慎の心は隠していたようだから、大阪から同行してきた松平容保(かたもり)や松平定敬(さだあき)は、江戸城に帰っても慶喜に熱心に再挙を説いている。しかし、慶喜にはその意思は全くなかった。慶喜はしかし一方で、朝廷尊奉を旨にしてきたが、朝廷に逆らう意思のない自分が何故こうまでも責められるのかと、釈然としない気持ちでもあったようだ。  
そこで慶喜は、以前から朝廷と幕府の間を取り持ち、新体制下でも議定・内国事務総督として京都に居る松平慶永や山内容堂を頼り、明治1(1868)年1月27日、討幕軍が組織されたのは誠に心外で、鳥羽・伏見の衝突は先供の者たちの行き違いによる衝突で自分の意思ではないと、書簡を送り朝廷への取りなしを依頼した。副総裁の岩倉具視とも連携を取る慶永は、いったん朝廷に向け兵を動かした以上、慶喜が罪に服す姿がなければ解決にならないと、慶喜の書簡内容と「錦地の御見込」、すなわち京都の新体制側の考えとの大差を心配し、慶喜の現状認識の甘さに悩むことになる。慶永は老臣・中根雪江を使い幾つかの機会を捉え、慶喜に謝罪の姿を表明し朝廷の判断を待つべく強く勧めた。しかし慶喜が江戸に帰ってからも、城内では再挙論と恭順論が入り乱れ、強硬論者は慶喜へ直談判すべく次々に押しかけ全くの混乱状態であった。家臣や親藩の暴発を避け二条城から大阪城に引き、大阪城から江戸城に引いた慶喜には、もはや引くべき城もないから、如何に強硬論を統御するかに悩み、歯切れが悪かったのかもしれない。  
京都から東海道、東山道、北陸道と三方から江戸に迫る討幕軍の進軍はかなり早く、1月末頃には、東海道鎮撫総督は桑名に、東山道鎮撫総督は彦根の手前の近江国愛知郡愛知川駅に、北陸道鎮撫総督は小浜に来ていた。あと2ヶ月もすれば江戸まで進軍する事ははっきりしているから、2月12日、慶喜も慶永の勧めの通り上野の東叡山寛永寺内の大慈院にこもり、謝罪の姿で朝裁を待つ態勢をとり、罪もない市民を苦しめることになる官軍の進軍を中止してくれるよう慶永を通し再度の嘆願書を出した。  
しかし一方、徳川慶喜の説得で会津に帰った松平容保は隠居をし家督を譲ったが、謝罪謹慎の姿勢とは程遠く、家臣たちは武装を解かず、江戸にも500人ほどの家臣が居残り武器を集め、城内で調練を行うなどのデモンストレーションを繰り返した。これはいわば武装恭順の姿勢で、奥・羽・越の列藩同盟へとつながってゆき、後に官軍が討伐進軍を開始することになる。  
こんな素晴らしい勢いの官軍にも、全く問題が無かったわけではない。その一つは軍資金の問題が大きかった。勿論新政府を主導する朝廷にそんな大金があるわけは無く、悩んだ首脳は5月15日、急遽の策として新制の紙幣を発行して切り抜けるべく、「十両・五両・一両・一分・一朱」の5種類の紙幣、いわゆる「金札」を「通用十三年限り」として発行した。あわせて従来流通の二分金や一分銀も品位を落として増鋳し、薩摩・福岡・土佐など新政府側の大藩や会津・仙台など東北諸藩もこれに習ったいわゆる「贋造」をはじめた。こんな低品位通貨の増鋳や突然の紙幣大量発行はインフレを引き起こし、流通が滞り、偽紙幣や悪徳商人も横行し、国内の不満は増大した。更にこんな粗悪貨幣に対する外国公使達から度重なる強い抗議もあり、結局贋貨を正貨と引き換えざるを得ず、抜本的な流通貨幣制度の検討と共に、動きの取れなくなった旧藩内の負債や藩札を含め、新政府が全責任を取らざるを得なくなってゆく。 
江戸城開城  
山岡鉄太郎の直訴  
旧幕府の精鋭隊は寛永寺に謹慎する徳川慶喜を護衛したが、その精鋭隊頭は山岡鉄太郎だった。山岡は慶喜に会いその恭順の真意を確かめると、慶喜は「朝廷に対する公正無二の赤心を以て恭順しているが、朝敵の汚名を受ける身になった事は誠に嘆かわしい」と落涙した。慶喜の本心を知った山岡は、自分で慶喜の謹慎・恭順の心を大総督・有栖川宮熾仁(たるひと)親王にまで達したいと決心し幕府重臣たちに建議したが、官軍の中に飛び込めば命はないと誰も取り合わない。そこで山岡は、胆略があると聞く当時の軍事総裁・勝義邦にこの計画を持ちかけた。  
この時の山岡の覚悟は、若し官軍中を突破する時殺されたら、「曲は彼にあり」と心の中は青天白日のように澄んでいた。それは、慶喜恭順の赤心を伝え、江戸中の罪もない市民を巻き込む戦いを避けようとする自分の使命は正しく、それを阻害する者は不正である。国家百万の生霊に代わり、命を捨てる覚悟は出来ていたのだ。勝は山岡の捨て身の決心を聞き、自身でも直接慶喜から恭順謹慎の意思を聞いていたから、許可を取り、山岡に賛意を伝え、自身でも西郷吉之助宛の書簡を書き山岡に託した。いわく、「今官軍が江戸に迫っているが、君臣謹んで恭順している理由は、徳川といえども皇国の一員であるからだ。また皇国は、内紛に乗じた外国の侮りを受けないようにする時である事をも知るからだ。朝廷の御処置が正ならば皇国の大幸、不正ならば皇国の瓦解となろう。自分で哀訴に行きたいが、士民の沸騰は鼎のごとく、鎮撫のため半日も留守にできないが、ここに至っては何の他意もない」と、慶喜の謹慎と士民鎮撫に勤める実情を吐露した。  
幕府の薩摩藩邸焼き討ちの時、薩摩藩の江戸藩邸責任者として捕縛され、勝に助けられ、身請け幽閉の形で勝邸に居た薩摩藩士・益満(ますみつ)休之助は、山岡が益満を同伴し駿府に行きたいと希望している話を聞き、山岡との同行を買って出た。江戸から大総督府のある駿府まで多くの官軍先鋒の薩摩藩兵士の間を抜けるには、これほど心強い味方はなかっただろう。すでに六郷川(今の多摩川)の先には官軍の薩摩藩兵が到達していたが、駿府を目指し江戸を出て六郷川を渡った山岡と益満は、まず隊長の居ると思しき家に入り「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎大総督府へ通る」と大声で断った。その隊長は小声で「徳川慶喜、徳川慶喜」と言っただけで百人ほども駐屯する薩摩藩兵は誰も何もしなかったという。それ以降も益満が先頭に立ち、薩摩藩士と名乗って通った(「山岡先生与西郷氏応接筆記」)。筆者の想像では、六郷川岸の薩摩の隊長は、益満も当然薩摩弁で名乗っただろうから一瞬混乱し、通常「上様」とか「大君」とかの称号で呼ぶ徳川慶喜が誰なのか、とっさに分からなかったのかも知れない。  
この様にして幸運にも無事駿府に着いた山岡は、3月9日、大総督府参謀・西郷吉之助に面会し、慶喜の寛永寺における赤心よりの謹慎と恭順を訴えた。山岡は西郷に向かい、先生はただ戦を望むのか、天子が理非を明らかにするための王師、すなわち官軍ではないのかと迫る山岡の熱意を見た西郷は、慶喜恭順の実効さえ立てば寛典の御処置もあるだろうと話した。  
西郷は征討軍参謀として東海道を攻め上る以前、すなわちこの時より約1ヶ月ほど前には京都にいたが、静寛院宮や天璋院、更に徳川慶喜自身からも朝廷に宛てた助命嘆願書が出た。西郷はこの時、2月3日付けで大久保利通に宛て、「慶喜助命など不届きせんばん。越前や土佐などから寛論が出たのだろうが、朝廷は断然追討をご実行願いたい。ここまで押し詰めたのに追及の手を緩め失敗しては困る。ご英断をもって責め付けていただきたい」と、慶喜を許すな、追討の手を緩めるなと手紙に書いている。この時はまだ幕府の反撃を大いに警戒し味方を戒めていたが、西郷自身も駿河まで進軍し、この様に山岡とも直に話し、もう幕府の反撃は少ないと自身でも判断したのだろう。山岡が恭順の実効とはどんな事かと聞くと西郷は、先日も静寛院宮と天璋院の使者が来たが、ただ恐懼するだけで良く事情が分からないまま帰ってしまった。しかし今先生(山岡)の話で江戸の事情もよく分かったと言い、奥に入って大総督宮に報告、協議し、次の五ケ条の条件を示した。いわく、  
1.江戸城の明け渡し  
2.城中人数の向島への移動  
3.兵器引渡し  
4.軍艦引渡し  
5.徳川慶喜を備前に預かる事  
(筆者注:勝海舟「慶応四戊辰日記」の三月十日には七ケ条になっているが、ここには「山岡先生与西郷氏応接筆記」にある五ケ条を載せた)  
しかしこれを見た山岡は、最初の四ケ条に問題はないが、最後の条件の慶喜を他藩に渡すことは絶対に出来ないと頑強に踏ん張った。そして逆に西郷に、先生はご自分の主君を敵に手渡し平然としていられるか、とさえ質問し切り込んだ(「山岡先生与西郷氏応接筆記」)。自軍の大将を命の保障もない他人の手には決して渡せないという武士の意地であり、君臣の大義でもある。そんなことをすれば、必死に主君を護る家臣団は、最後まで徹底抗戦するだろうという一種の警告でもあったろう。  
それまで西郷自身の行動も徳川慶喜の命を奪う勢いであったが、西郷にも山岡の論理は良く分かり、自分の責任において慶喜を備前に預けない事を保証すると引き受けた。最後に西郷は山岡に一献をふるまい、官軍中の通行手形を出し、山岡と益満は無事江戸城に戻り大久保一翁と勝義邦にこの結果を報告した。これは山岡鉄太郎の胆略のなし得た一大快挙である。徳川慶喜の助命嘆願は、山岡の他にも静寛院宮(故将軍・家茂夫人親子内親王)、天璋院(故将軍・家定夫人篤子)、上野寛永寺座主・輪王寺宮公現親王、一橋茂栄(もちはる)などが行い、帝鑑間・雁之間・菊之間詰めの大名43名の連署陳情なども知られているが、何れも直接成功していない。命を捨てて正義を語ろうとする山岡鉄太郎の気迫のなせる業だったのだろう。  
西郷と勝の談判と城の引渡し  
西郷吉之助は更に軍を進め高輪の薩摩藩邸に入ったところで翌14日、旧幕府陸軍総裁・勝義邦、旧幕府若年寄・大久保一翁、山岡鉄太郎は薩摩藩邸に出向き、西郷と詰めの談判を始めた。徳川慶喜は水戸に隠居謹慎し、江戸城は明け渡し、軍艦・武器を引き渡し、城中の家臣は城外で謹慎し、慶喜の進軍を援けた者の命は助け、江戸市中に暴動が起きない様取締る、という一連の合意が出来た。西郷はこれ以上の進軍を中止する指令を出すとこの合意を持って駿府の大総督・熾仁(たるひと)親王に報告し、その命により更に京都に急行し、三職会議に諮った。会議でもこの報告の通り慶喜の命は助け「寛典に処す」に決まり、天皇の宸裁を得た。  
この時までに江戸に向かっていた三方からの追討鎮撫軍は、江戸城に近いところで2、3km先の芝や市ヶ谷、また7km先の千住にまで詰めていたが、江戸市中を巻き込んだ悲惨な戦争は回避され、謹慎者の命は救われ、罪もない市民の被害は最小限に抑えられた。しかし問題は旧徳川方の歩卒、すなわち一般兵士4千名の処分だった。幕府は江戸や大阪で大量に傭兵し、慶喜東帰の後多くの兵士が江戸に帰り、慶喜の留守に江戸でも雇ったから、多すぎる兵士に給金が遅配し、皆苛立ち1千人余りの脱走兵も出た。殿様が居るからその日その日の米を貰い家族が食にありつけるが、一時にお役御免と放出したら無収入になり、暴動になることは火を見るより明らかだ。勝や大久保の苦心は、こんな軍人の処分を含め、如何にして平穏に江戸城を引き渡すかだったろう。  
先鋒総督との協議は、歩卒4千人は武器を持ったまま官軍に引き渡すことになったが、これはすなわち徳川の兵から官軍の兵になるのだから、少なくとも収入は途切れない。さらに江戸城引渡しには官軍の兵は入れず、上官3、4人だけで引き取りに来ることに合意したから、予想された問題のほとんどは大筋で事前に解決された。  
天皇の宸裁を得たこの5カ条の決定は、4月4日、江戸城に入った勅使により正式に江戸城を預かる徳川慶頼(よしより、田安家当主)に伝えられ、慶頼よりその実行が確約された。その勅旨いわく、  
1.去年12月以来慶喜は連日錦旗に発砲し追討の官軍が差し向けられたが、恭順謹慎し謝罪を申し出たので慶喜の死罪一等を赦し、水戸で謹慎すべし  
2.江戸城を明け渡すべし  
3.軍艦、銃砲を引き渡すべし  
4.城内住居の家臣は、城外に出て謹慎すべし  
5.慶喜の謀反を助けた者は重罪だが、死一等を免ずるので、各自その処置を言上せよ。万石以上の者へは朝裁を下すべし  
いよいよ4月11日江戸城を受け取るため、参謀・海江田武次と木梨精一郎が派遣された。これは当然大きな心理的苦痛を旧幕臣に与えるから、約束により入城に際し軍隊は引き連れないが、城を取り巻く夫々の駐留軍屯所では不測の事態に備え何時でも出動できる態勢をとっていた。旧幕府側からは大目付や作事奉行といった役人が案内に付き、それまで城を預かっていた田安家も2人の使者を出迎えた。城の受け取りが済むとその警固を尾張藩が受け持ち、更に武器や歩兵も受け取り、大きな混乱もなく江戸城引渡しが完了した。  
更に日本国の観点から見れば、政府あるいは国家費用と外交関係を途切れさすわけには行かない。この事務引継ぎも重要な点であり、徳川方は大久保一翁が総裁として新政府側と事務引継ぎを行った。
新政府の外交関係継続の努力  
外務担当組織の強化  
王政復古クーデター直後の慶応3年12月9日、総裁・議定・参与の「三職会議」を設けた事は前節ですでに書いたが、そこで徳川慶喜に辞官・納地を命ずる決定がされた後、徳川慶勝、松平慶永、山内容堂などの巻き返しもあり、この辞官・納地の決着が慶喜に有利に展開するかに見え始めた。そんな中でしかし、周りの強硬論を押さえ切れない慶喜側の薩摩糾弾策から勃発した鳥羽・伏見の戦いのあと、突然徳川慶喜は江戸に帰り、1月7日天皇は慶喜征討令を出した。  
こんな非常事態の中で、勢いに乗る天皇に直属する組織のリーダーシップが強く機能したようだし、組織や責任者も適時必要に応じ変更されたようだ。特筆すべき出来事は、外国事務担当の東久世通禧(みちとみ)は15日、早くも諸外国公使たちと兵庫で会見し、新政府の発足と王政復古の国書を伝え、仁和寺宮嘉彰(よしあきら)親王が外国事務総裁に任ぜられたとも伝えた。また嘉彰親王もあらためて各国公使に書簡を送り、新政府は旧幕府の結んだ諸外国との條約を全て遵守すると約束し、新外国事務総裁は嘉彰親王、また副総裁は三条実美及び東久世通禧と伊達宗城(むねなり)だという外務関係の新組織をも伝えた。  
同時にまた新政府は国内にも布告を出した。いわく、  
外国の件は先帝が長年お悩みになり、幕府はこれを上手く終始できず今日に至ったが、最近は世情も一変し大勢はやむを得ない状況になった。そこで朝議のうえ和親條約(=通商条約)を締結することに決めた。ついては上下心を合わせ、疑惑を持たず、兵備を充実し国威を海外万国に光輝せしめ、祖宗御先帝の神霊に対答遊ばさるべく叡慮に候。  
数ヶ月前までは「攘夷、攘夷」といっていた朝廷の出す布告だから、「疑惑を持たず従え」と、少々歯切れが悪い。しかし、こんな国体維持上の最重要項目の一つ、外交方針と組織をいち早く内外にはっきりさせた事は特筆すべきだろう。  
更に新政府は明治1(1868)年1月17日新たな職制を定め、神祇・内国・外国・海陸軍・会計・刑法・制度の七科を造り、議定と参与がその責任を分担したが、これは三職会議が出来て1月ほど経ってのことだ。直ぐに科は局と名称が変わり、総裁局を新設し三職八局になるが、いよいよ組織だって効率良く多くの決断を下して行くには当然必要な処置だ。これはしかし、まだ地方行政までには分化し影響を与えていないから、旧来の藩が地方行政の中心だった。その記録を見ると、例えば議定が分担する外国関係は「外国事務総督:外国交際、條約、貿易、拓地、育民の事を督す」とあり、参与が分担する外国関係には「外国事務掛:事務を参議し、各課を分務す」とある。以下このように夫々の科の職務が明記されていった。  
これに従って新しい外務組織は、議定副総裁・三条実美、議定・山階宮晃親王、議定・伊達宗城、参与・東久世通禧の4人が外国事務総督を兼ね、外国事務掛は後藤象二郎と岩下佐次右衛門が兼ねた。今の通念からすれば、同時に4人もの外国事務総督はちょっと意外だが、通信に時間のかかる当時、京都から離れた横浜、長崎、兵庫などで決断を下すには、三職会議要員の兼職という意味で政府レベルの権限を持つ4人もの総督を決めたのだろう。  
神戸事件  
この外国事務担当・東久世通禧が、明治1(1868)年1月15日にアメリカ、イギリス、フランス、オランダなど6カ国代表者と兵庫で会見する伏線になったであろうと筆者が思う事件がある。  
それは、当時まだ造成中だった神戸の外国人居留地区内にある三宮神社前で、1月11日の午後に起った。発端は史料により少しづつ食い違いがあるが、西宮警備のため新政府の命により岡山から移動途中の岡山藩家老・日置(ひき)帯刀の行列の直前をアメリカ水兵が横切ろうとし、先供がこれを止めようと発砲し、フランス水兵をも槍で脅し、その辺りで目に入る外国人を追い払った。この報を受けたアメリカ海兵が行列を追いかけ、イギリス護衛兵も追跡に加わり、半分が居留地の門を固め、フランス海軍も上陸してきた。外国人の追跡隊は居留地東境の生田川岸で備前の行列に追いつき、双方の銃撃戦になった。当時の生田川は、現在の神戸市中央区のフラワーロードを流れていたから、その堤防で銃撃戦が行われたわけだ。その後岡山藩家老一行は山の手に引き上げ、死者こそ出なかったが双方に興奮の渦がまいた。居留地内での事件だから外国勢は居留地に軍隊を送り込んで自衛武装し、兵庫港に停泊中の日本側の蒸気船6隻を捕獲した。そして各公使より直ちに通告が出された。いわく、  
1.松平備前守の家臣は何故武力行使をしたのか。各国公使に納得できる説明がない以上、外国に向け干戈を動かしたと判断し、相応の処置を取らざるを得ない。その場合は備前だけでなく、日本全体の問題となろう  
2.神戸事件により各国軍艦は兵庫港内の日本船を差し押さえた  
3.本事件といえども一般市民には無関係である  
4.本事件により各国は居留地警備を行うが、武器を持たない者の通行は差し支えない  
翌日イギリス公使館書記より早速、旧幕府老中外国総裁・小笠原長行(ながみち)宛に事件について面談したい旨の要求書面が届き、小笠原も承知したと答えている。  
この様に、外国公使にとって正式にはまだ江戸幕府が外国との窓口だから、維新新政府も東久世の会見を通じ、現状を早急に外国代表者に明言し、新政府の存在を伝える必要があったと思われる。この東久世との会見で外国公使は、たった1ヶ月ほども前の慶応3年12月16日、元征夷大将軍・徳川慶喜と大阪城で会見した時は、大政奉還はしたが朝命をもって各国との交際はまだ自分の責任だと言っていたのだから、最近まで「攘夷」と言っていた朝廷・新政府派遣の外国事務担当・東久世通禧になかなか厳しい質問を浴びせている。例えば、  
1.布告文では徳川慶喜の大政奉還といい、あなたは徳川慶喜の反逆というが、いったい今内戦中なのか。  
2.徳川慶喜は江戸で罪を待つというが、征討令を出して討つ積もりなのか。  
3.数日前に神戸事件が起り我々は止む無く居留地を自衛していて、あなたは新政府で警備するというが、新政府で全ての責任を持てるのか。  
4.大藩大名の備前が神戸事件の張本人だが、新政府はそんな大藩の取締りができるのか。  
とその覚悟の程をも聞いてきた。東久世はこれらの質問に即座に明瞭に答え、兵庫は薩長の兵で警護し、新政府で全て責任を持つと確約したから、外国公使たちは安堵しその態度を高く評価した。  
こんな対応が出来る東久世通禧は、文久3年の孝明天皇のクーデターに破れ、三条実美などと共に長州に逃れた7卿の1人だから、それなりに気骨ある革新公家だったようだ。当時の朝廷内には、外国人に会ったこともなく顔を見たこともない公家ばかりだったが、東久世が長州に逃れ筑前に滞在している間に、薩摩人としてこっそり開港場の長崎に行き、蘭人医師・ボードウィン、米人宣教師・フルベッキ、英人商人・グラバーなどと会って交流していたから、気後れもなく外国人と明確に話が出来たのだ(「史談会速記録」)。  
ところでこの神戸事件の顛末は、岡山藩家老・日置帯刀の馬廻り士・滝善三郎が発砲を命じたとの届けにより、朝廷が外国との交際を始めるに当たって不容易な事件ということで切腹を命じられ、各国立会いの上2月9日神戸にあった永福寺で切腹が行われた。これに先立ち外国公使側では、この処罰をそのまま受け入れるか刑の執行を免除するか、4時間にもわたる一大議論になった。イギリスとオランダが謝罪をさせ切腹を免除する立場をとり、アメリカ、フランス、プロシャ、イタリアが厳しく刑の執行を求め、多数決で処罰受け入れが決まった。最初に発砲を受けたアメリカや、槍で威嚇されたフランスは厳しい処罰を求め、それにプロシャとイタリアが賛同したもののようだ。  
各国公使と明治天皇の謁見、そして堺事件とパークス襲撃事件  
外国事務総督・伊達宗城は2月14日、6カ国の代表者と大坂の西本願寺で会見し、外国事務局を置き外交諸事に対応すると共に、近日中に天皇が各国公使を謁見するためその上京を要請し、また徳川慶喜征討軍を発したが、横浜や箱館の外国人居住地には新政府の役人を派遣し管理すること等を伝えた。  
旧幕府でも初めのころは、タウンゼント・ハリスから新任公使の将軍謁見と首都訪問は万国の通例だとねじ込まれ、苦い思いをしながら学んだ外交の基本がある。朝廷新政府も、王政復古クーデターのたった2ヶ月あまり後で、今度は天皇の方から公使たちに謁見を言い出したのだから、外交慣例と外交の重要性を十分理解していたわけだし、この謁見により、新政府の国権掌握を強力にデモンストレーションする事をも目論んだわけだ。それまで「攘夷」の姿勢を強固に持ち続けた朝廷は、孝明天皇崩御後たったの1年でその外交ポリシーを180度方向転換したわけだから、その変わり身の早さは、何百年にも亘り幕府の圧政を耐えてきた公家たちの特質が遺憾なく発揮されたものと見ることも出来よう。  
この様にいち早く天皇の外国公使謁見を計画中に、翌15日、堺港内で測量任務中のフランス軍艦・デュプレクス号の兵士が「無許可上陸した」と警備の土佐藩兵士に銃撃され、死者9人負傷者6人を出すという不幸な事件がまた起った。この突発事件に対する天皇の聖旨が直ちに外国事務総督宛に出され、「徹底的に真相を解明し適切な処置を取る事を各国公使へ通達せよ」との命令だった。  
当然フランスのレオン・ロッシュ公使からも19日、外国事務総督宛に堺事件に対し厳重な抗議文と共に、下手人の処罰と補償金支払いの要求が出された。いわく、この書簡が着き次第3日以内に、襲撃のあった場所で、日本官吏とフランス海兵隊立会いの上で下手人全員の首を刎ねること。土佐藩は補償金の15万ドルを遺族に支払うこと。日本政府外国事務担当の最高責任者と土佐候は、フランス軍艦を訪れ海軍司令官に侘びを述べること。これ以降、武器を帯びた土佐藩兵士は開港場に出入りしないこと、などの要求だった。  
この事件に対する新政府の対応は、旧幕府時代の類似事件に比べはるかに素早かった。ロッシュ公使の要求通り、事件から1週間後の23日にはすでに土佐藩兵士20人の処罰が決まり、堺港妙国寺での切腹を命じられ、フランス海兵隊や日本官吏立会いの上全員が次々と切腹をはじめた。11人目の切腹が終わった時ロッシュ公使の書簡が届けられ、これ以上の切腹は止めるように外国事務総督・伊達宗城に依頼が出され、この刑が途中で中止された。11人も切腹すれば十分と、あまりの凄惨さにフランス側が止めたのだ。そしてフランスの要求通り、翌日の24日、外国事務局総督・晃親王と伊達宗城が堺に停泊するフランス軍艦にロッシュ公使を訪ね公式謝罪し、その翌日は土佐藩主・山内豊範(とよのり)もロッシュを訪ね公式に謝罪した。この堺事件も全てフランスの要求通り決着したが、外国の実力を理解する各藩は、神戸事件も同様に外国側の要求に従ったが、その上更に朝廷の決定であれば異の唱えようもなかったのだ。  
しかし天皇の外国公使謁見への災難はまだ終わらなかった。アメリカ、プロシャ、イタリアの三公使は横浜に帰ってしまったが、予定通り2月30日、知恩院に宿泊のイギリスのハリー・パークス公使、相国寺に宿泊のフランスのレオン・ロッシュ公使、南禅寺に宿泊のオランダのファン・ポルスブルック総領事が参朝し、天皇謁見に臨む予定だった。しかし当日になり、パークス公使が来ないまま、ロッシュ公使とポルスブルック総領事は紫宸殿で明治天皇との謁見を終えた。その時白い羽織の紐や袴に鮮血を散らした後藤象二郎が駆け込んで来て、イギリス公使の参朝する道すがら行列に2人の浪士が切り込んだことを告げた。  
後藤によれば、パークス一行がその旅館の知恩院を出発するとすぐ前方に浪士が切り込んだが、後方で公使を案内する後藤象二郎が現場に駆けつけ、前駆・中井弘造と切りあう1人を仕留めた。近くに居たイギリス通訳官のサトーがもう1人の浪士が居たことを見ていたので付近を捜すと、手ひどく切られた浪士が町屋の軒下に倒れていた。この浪士に水を与え介抱し、イギリス人と共に追及すると、その白状により身元が判明した。この間イギリス公使は後方にいて無事だったが、騎兵や士官10人が傷ついたという。天皇の謁見が終わった後、早速外国掛りの山階宮晃親王、東久世通禧、伊達宗城、また内国掛り徳大寺実則(さねつね)、松平慶永などが知恩院に帰ったパークスを見舞ったが、事件の全てを見ていたパークスは落ち着いていて、格別怒りもせず陳謝状を貰いたいと言ったという(「戊辰日記」中根雪江)。パークス公使を襲った2浪士は、自白した三枝蓊(しげる)と死亡した朱雀操と判明したが、2人とも活動的な攘夷志士だった。後藤象二郎が1人の浪士を仕留めたという経緯は通訳官・サトーの記述とかなり異なるが、「戊辰日記」の描写を載せた。  
事件の翌日には三条実美と岩倉具視も陳謝状をパークスに届け、生き残った三枝は士籍剥奪・斬首・三日間梟首の刑に課すことを伝えた。パークスは再度の謁見参朝を了承し、後藤象二郎と中井弘造が身をもってパークスを護ったと礼を述べた。それから二日後の3月3日、改めて天皇とパークス公使の謁見が行われ、フランスとオランダもまた参朝した。一歩対応を誤れば大きな外交問題を引き起こしかねない、神戸事件、堺事件、英公使パークス襲撃事件という三事件が立て続けに起こったが、新政府の素早い明確な対応により全て収束した。  
局外中立要請と中立解除要請  
徳川慶喜が大政奉還し、その後暫く朝廷から旧来通りの責務を与えられた時も、その後官軍が江戸に向かって進軍を開始し、大阪や兵庫、横浜を通過し各地域をその勢力下においてゆく過程でも、旧幕府と新政府は夫々頻繁に外国公使たちに書簡や通達を出している。こんな風に統制の取れたともいえる外国勢との情報交換は、いわゆる国を二分した内戦状況とは全く違って組織立った行動だった。それだけ外国の動静が、新政府とか旧幕府とかには無関係に、国家としての日本へ強い影響を持っていた証でもある。  
すでに前節の「8、大政奉還と新体制」の最後にも書いた通り、明治1年1月3日、旧幕府老中・板倉勝静(かつきよ)は英、米、仏など6カ国へ向け、薩摩の松平修理大夫を鎮定する武力行使を行うので局外中立を保ってもらいたい旨の通達を出した。またこの後形勢が逆転し旧幕府征討軍が組織されると、新政府外国事務総督・東久世通禧は1月21日、外国公使たちに通達を出し、局外中立を要請し各国公使も直ぐその旨の通達を自国民に出しているが、旧幕府と新政府の双方から中立要請が出されたのだ。旧幕府内には崩壊直前に一時フランスの甘言に乗り、資金援助や軍事援助を受けることを謀った小栗忠順(ただまさ)のような動きもあったが、大勢は双方とも外国に頼ることを潔しとせずに嫌い、国内問題への外国勢の影響力を嫌ったのだ。幕府と朝廷は共に日本の独立を重んじ、植民地化を嫌い、強い懸念を抱く共通の明白な倫理観があったとみてよいだろう。  
そして徳川慶喜は水戸で謹慎することになり、官軍は江戸城を解放したがしかし、まだ東北の鎮定が残っている。そこで佐賀藩は閏4月、横浜でアメリカ蒸気船を雇い、陸奥の松島に兵力の移送を図った。アメリカ船主は雇用されたかったようだがしかし、これを知ったアメリカ公使や海軍将官らが局外中立をたてに許可を出さず、佐賀藩が期待していた兵力移送が出来なくなった。これを知った新政府はあわてて局外中立の解除要請を出す羽目になっているが、各国公使から更に徳川慶喜が天皇の命を受け入れた証拠を見せて欲しいと要求され、徳川慶喜の恭順書写まで送ることになった。これは、外国公使としても新政府が真に日本を代表する政府かを確認する手続きだったが、新政府にとっても、国際公法を遵守する重要性を改めて認識する新しい経験だった。  
しかし現実面では、各国公使が徳川慶喜の恭順書写しを見ても直ぐに中立解除にはなっていない。この年の4月2日、幕府がアメリカに発注していた甲鉄軍艦・ストーンウォールが納入のため横浜に入港したが、アメリカのバン・バルケンバーグ公使は局外中立を理由にその引渡しを拒み、直ちに日本の現状と自分の決定を本国のスーワード国務長官に報告した。アメリカが日本から前金まで受け取ったストーンウォール売却の詳細を知る国務長官の最初の反応は、公使の判断は実際的ではないと不同意だったが、最終的に日本の現状から公使の決定を受け入れている。バン・バルケンバーグ公使の決定で、入港時に日本の国旗を掲揚していたストーンウォールはアメリカ国旗を掲揚しなおし、それ以来アメリカ軍艦として横浜に停泊していた。その頃東北にこもる旧幕府グループには、旧老中・板倉勝静や小笠原長行等も参加しこのストーンウォールを手に入れようと画策し始めた。新政府側は、岩倉具視まで乗り出しての度重なる交渉で、ようやく新政府の日本平定を認め中立が解除されたのは明治1年12月28日(1869年2月9日)になってからだった。 
明治天皇の誓文と政体書  
五箇条の御誓文  
明治天皇により明治1(1868)年3月14日に出された、日本の新しい基本理念をうたった五箇条の御誓文はよく知られている。徳川慶喜が公議による意思決定を期待し大政奉還したが、王政復古の朝廷クーデターで表に出た岩倉具視を中心とする公家たちや、大久保利通や西郷吉之助などを中心とする薩摩藩も、この改革を支える諸藩も、同じく公議による意思決定機関の三職会議を造った。「公議決定」こそが当時の重要なキーワードだった。この会議を通じ、日本が諸外国と同等の国になるには旧来の幕府専横政治から抜け出し、広く実力者や有識者の意見を取り入れ国威増強を図ろうとし、その流れがこの国是五章の誓文の元になっていると言えよう。それまで幕府のとった天皇をもないがしろにする抑圧強権政治を改革し、挙国一致を図り、外国に負けまいとする反動だ。  
そして天皇が新しい国是とする五項目は、公議決定、挙国一致国治策遂行、挙国初志貫徹、万国公法採用、知識吸収国威発展の五つであり、大改革に際し天皇自らこの国是を定め万民保全の道を定めるから、心を合わせ努力せよと勅語により激励した。この公布に当たっては、祭場を設け、天皇が総裁、公家、諸侯一同を率い神の前で誓う形をとり、誓文を読み上げ、参列者が「叡旨を奉戴し、死を誓い黽勉(びんべん=努め励む)従事します」との奉答書面に署名した。この署名はその後も追加され、650人以上もの署名があるようだ。  
この国是の誓文は、木戸準一郎(旧名、桂小五郎)の「前途の大方向を定め、天皇自ら公家、諸侯、百官を率い神明に誓い、国是の確定を天下の庶民に知らすべき」との建議に基ずき、議定参与から国是として相応しい案を出させ候補を絞り、福岡孝悌(たかちか)や由利公正に命じその最終文が起草されたという。更に多少の修正の後、天皇の宸裁を得て決定された。このエネルギーは何処に起因するかを見れば、儒学精神に基ずく君臣の大義から天皇こそ君主であり、ペリー提督来航いらい、全て先進諸外国に適わない日本を立て直そうとする義憤であろう。このタイミングで出されたこの五箇条の御誓文は、当時の大きな改革のうねりを集大成したものであり、日本が近代国家へ脱皮する宣言だったわけだ。  
政体書と三権分立の明言  
上述の如く、五箇条の誓文として国是がはっきり表明されると、それに相応しい政府組織が必要になるのは当然だった。それまで機能し必要に応じ修正された三職会議とその分担職責は、いわば暫定政府のようなものだから、新しい政府組織にとって代わられることになる。  
4月の半ば、岩倉具視が大阪に行き三条実美、中山忠能、木戸準一郎、後藤象二郎、福岡孝悌、副島種臣など中心人物と政府組織変更を協議し、京都に帰って正親町三条実愛、小松帯刀、大久保利通などと図り、福岡孝悌と副島種臣とが選ばれ1ヶ月ほどかけ新しい政体機構の草案をまとめた。これが会議にかけられ、宸裁を得て閏4月21日、新政府統治基本法、すなわち政体書が公布された。同時に、「今回御誓文が出され、その実現を目的とする政体職制が改められたが、変更を好んでするのではなく、今までなかった制度や規律を立てるためであり、従前の方針を変更するものでもない。この趣旨を良く理解し、疑いを挟まず、各々その職掌をつくすべし」というお沙汰書も太政官から出されている。1月に組織変更し、4ヶ月目でまた変えたわけだから、変更を好んでするわけではないから疑いを挟むな、と言い訳がましいお沙汰書になっている。この政体書の主な内容は、  
その政体は、五ケ条の御誓文を基本とする。天下の権力は全て太政官に属し、これを立法・行法(=行政)・司法の三権に分ける。立法官と行法官の兼務は禁止する。各府・藩・縣より議員を出す。私に政事を議すを禁じ、全て公論で決すべし。諸官の任期は4年とし公選で選び、将来最初の交代では半数の任期を2年延長し交代する。各府・藩・縣は御誓文を基本に政令を行う。  
その官職は、太政官を議政・行政・神祇・会計・軍務・外国・刑法の七官に分ける。議政官は上・下2局に分け、上局は議定、参与、史官、筆生で構成し、下局は議長2人を置き、議員で諸事項を議する。行政官は輔相(ほそう=宰相)2人、弁事、権弁事、史官、筆生で構成する。外国官は知事、副知事、判官事、権判官事、書記、筆生で構成する。  
の如く細かく職制を定めた。この様に立法・行政・司法の三権分立制をとり、諸官任期を4年にし、立法権を持つ議院を上局・下局の二院制にし、行政権を持つ行政・神祇・会計・軍務・外国の五官をつくり、行政官の輔相2人が他の四官を統括し、地方行政を府・藩・縣で行うと明確にし、新しい国体を目指すものだった。司法権は刑法官に与えた。  
草案を造った福岡孝悌、副島種臣などはアメリカ合衆国憲法とその法制を参考に決定したもののようだが、年が進み国内情勢が変化するに従い、まだ多くの変更が加えられてゆく。 
江戸を東京とすること  
江戸を東京とする建議と明治天皇の東幸  
歴史的に長く天皇が住む京都は、延暦13(794)年に長岡京から平安京として遷都して以来千年以上も続く。その京都に維新政府が出来、旧将軍・徳川慶喜も水戸に謹慎し、江戸城も引き渡され、閏4月24日に議定・三条実美が関東監察使として江戸城に到着した。これは、未だにその去就のはっきりしない奥羽、新潟方面の旧幕藩の攻略につき、大総督や三道鎮撫総督と軍議し方針を確定するためだった。  
こんな時佐賀藩出身で当時軍務官判事に就いていた大木喬任(たかとう)が、佐賀藩論として江戸を東京とし、天皇が東幸すべき案を建議した。それまでにも薩摩藩の大久保利通から大阪に遷都する案や、長州藩の木戸準一郎からも京都を帝都とし、大阪を西京とし江戸を東京とし、状況により天皇が3ヶ所を巡幸する案なども出されたが、何れも薩摩・長州の陰謀くさいとか、いろいろな異議が出て実現しなかった。しかし今となれば、新政府に抵抗する旧幕藩側の素早い恭順を狙う軍関係者から見れば、天皇が自ら東に乗り出す姿勢は大きな圧力として作戦上重要になり、この提案は大きな意味があったはずだ。岩倉具視はこの大木案を天皇の内諾も得て議定にはかり、江戸に居る大総督・熾仁親王や三条実美との意見調整のため、6月19日木戸準一郎と発案者の大木喬任を江戸に派遣した。親王や三条の合意を得て翌月京都に帰った木戸と大木は、その旨報告し、朝議はついにその決行を決めた。  
この頃、一時徳川慶喜が謹慎した上野寛永寺の座主・輪王寺宮公現親王は彰義隊の盟主として新政府軍と戦ったが、上野戦争に破れ仙台に逃れ、陸奥・出羽・越後三国の連合軍盟主として白石城に本拠を置いた。ここには旧幕閣・板倉勝静や小笠原長行も参加し、東北連合軍として新政府に対抗した。この様に東北情勢が一挙に不安定になり、水戸藩などへも影響が及び始めたから、水戸に謹慎する徳川慶喜は自発的に駿府に避難する申請を出し許可されている。こんな東北の問題解決が焦眉の急になったから、7月17日、江戸を東京とし、鎮将府を置いて駿河より東を掌握する中心にし、三条実美が鎮将を兼ね、熾仁親王は会津征伐大総督として東北の鎮圧に集中する組織改正も合わせて行われた。これで、日本全土の平定を完成する体制を創ったわけだ。  
ここで、明治1年7月17日に天皇は、  
朕は今、政治上重要な事柄を自ら裁決を下し、全国民が安らかなるよう鎮め治めている。江戸は東国第一の大都市で、四方から寄り集まる中心地である。然るべく自ら出向き、その政事を視ることとした。従って、今より江戸を東京と称える。これは、朕が日本全国、東西を同一視する理由からである。全国民はこの意図を理解し、遵守せよ。辰七月  
と詔書を出したが、これは江戸を東京とし、自ら出向いて国政を執ろうとする決意を述べたものだ。  
これによりそれまでの江戸は東京となり、江戸府知事も東京府知事と呼ばれることになったが、これから3ヶ月ほどたった10月13日、明治天皇も京都から東幸し、東京城と改めた旧江戸城に入った。ここで明治天皇は、各地の氷川神社の総本社である武蔵一宮・氷川神社(現、埼玉県さいたま市大宮区)に行幸し、京都における賀茂神社や石清水八幡宮と同様これを武蔵国の鎮守とし、東京という帝都と共に勅祭社の鎮守の宮が出来たことになる。その後12月8日に東京城を出立し一旦京都に帰ったが、また翌年3月28日、再度東幸し東京城に入り、引き続き政府の諸機能も移り完全な帝都の機能が動き始めた。  
「慶応」から「明治」への改元  
明治天皇が江戸を東京となすとの詔書を出した後の9月8日、西暦1868年10月23日、天皇はまた年号を「明治」と改元し、新政府は、  
今度、(天皇は)御即位と御大礼を済まされ、先例の通り年号を改められた。就いては、これまで吉凶の兆象に随いるゝ改号があったが、自今は、御一代は一号に定められた。これにより、慶応四年は明治元年になさるべく旨、仰せ出だされた。  
と詔書にもとずく行政官布告を出し、慶応4年9月8日は明治元年9月8日になった。そして今後は、天皇の一代の間に改元はしないと、一代一元制の新規則も明言された。ちなみにこの明治という年号は、中国の周時代の易経に「聖人南面して天下に聽き、明に嚮(む)かって治む」という文から採られたものという。松平慶永の『逸事史補』によれば、恐らく改元があるので五、六の元号案を提出するよう岩倉具視から依頼され、その通り提出した。明治天皇は自ら賢所へ入り籤を引き、明治が選ばれたという。これは、新政府の船出に相応しい典拠のようだ。  
お気ずきの読者も居られようが、筆者は上記の、天皇が「今より江戸を東京と称える」という詔書を出した「7月17日」をすでに「明治1年」と記述している。これは、この時点の時間を当時の人々の時間軸に直せば慶応4年であったが、「慶応四年を明治元年となす」という9月8日付けの天皇の詔書により、1月1日に遡って明治としたという。ここはその適用に従ったことによる一時的な矛盾である。  
ここに至って、新しい首都・東京が出来、年号も明治になり、東京を守る鎮守の宮も造られた。新国家が出発する体制が整ったことになる。  
外国公使への布告と天皇の謁見  
こんな遷都決定について7月29日、東久世通禧によりイギリス、フランス、アメリカなどの諸国公使へ「江戸を称して東京と改める」旨の通知が出された。そして天皇が東京に移った1月後、11月22日にイタリア、フランス、オランダの公使が天皇に謁見し、翌23日にはイギリス、アメリカ、ドイツの公使たちが天皇に謁見している。  
アメリカ公使・バン・バルケンバーグは随従として海軍提督、領事館員や書記官などを引き連れ登城し謁見に臨んだ。天皇の前でアメリカ公使は、  
私が日本に赴任するに当たり、大統領から、これまでの両国和親交際を保持するよう命を受けました。第一番に日本と条約を締結したのは我がアメリカ合衆国であり、この條約締結は日本と日本政府の幸福と発展に大きく貢献したものと信じます。自分が赴任以来、両国の間には毎月世界最大の蒸気郵便定期船が運航し、両国関係はより緊密になりました。その利益は更に増大し、国家に大きな富を与え、文明開化するに従い一層増大するでしょう。両国の交際を更に懇篤にし、両国関係の発展に貢献するのが私の使命であり、最も望ましいことであります。アメリカ政府に代わり、当今の太平と幸福とを皇帝陛下に慶賀致します。そして日本全国が静謐になり、太平と幸福を全うする日が速やかに来ることを祈ります。  
と述べた。これに対し天皇は、  
貴国大統領は安全なりや。朕は常に貴国が平穏であり、両国交際が益々深くなることを祈る。今東京に臨み、はじめて公使に会い、益々両国の交際が盛大になり、万里隔たるとも隣国と思っている。宜しくこの意を諒察して欲しい。かつ公使がつつがなくその職にある事は、朕の深く喜悦するところである。と返答した。  
こんなやり取りは謁見時の形にはまった外交辞令とも取れるが、まだ箱館では榎本武揚などが北海道を平定し、五稜郭にこもって蝦夷島政府樹立を目論んでいる時だから、新政府による一日も早い全国平和の確立を願うバン・バルケンバーグ公使の希望表明は、単なる外交辞令だけでもなかったはずだ。事実、バン・バルケンバーグ公使はこの天皇謁見の2日後、アメリカ国務省宛の報告書で、  
現在のところまだ帝(みかど)の政府が名目的なものであったにしても、帝以外のどんな大名にも、この国を統一し強固な体制を築けないと思われるから、近い将来は必ず現実的な政府になって欲しい。先般の外国公使たちとの謁見では、皆がそんな期待を抱いた。  
と強い希望を表明している。この様な謁見が済んだ1月後に各国は、岩倉具視の折衝でその局外中立を実質解除したから、天皇謁見を通じ、各国公使は安定した新政府が出来つつあることをより実感したに違いない。 
10、中央集権と外交問題 

 

中央集権の強化  
天皇親政の明確化  
土佐藩の建言に背中を押され慶応3(1867)年10月14日に大政奉還を上奏し、その10日後には征夷大将軍職を辞した徳川慶喜は、朝廷内クーデターを成功させ明治天皇を押立てた革新派公家や薩摩藩が主導する朝議により、更なる辞官納地を要求された。これは、征夷大将軍になり叙任した朝廷の正二位内大臣右近衛大将をも辞任し、更に幕府所領の放棄と朝廷への返上を求めたものだった。  
この要求に大反発する部下や親藩の兵たちの暴発を懸念する徳川慶喜は、いったん二条城から大阪城に引いたが、薩摩の西郷吉之助の江戸の町々のかく乱戦術に乗った薩摩屋敷焼き討ちの報が大阪に伝わると、朝廷を毒する薩摩を除き列藩の公議に依る公正な政治を要求する上疏提出のため、大阪城からの武装勢力が京都に向かった。しかし鳥羽・伏見で錦旗を押し立てた官軍と交戦になり、戊辰戦争が始まり、朝廷に弓引く朝敵の体になった徳川慶喜は、京都守護職・会津藩主・松平容保(かたもり)やその実弟で桑名藩主・松平定敬(さだあき)、老中の板倉勝静(かつきよ)や酒井忠惇(ただとし)などごく少数をを率いて江戸城に還り、更には謹慎し水戸に引き取り、江戸城も官軍に手渡された。  
明治天皇は明治1(1868)年3月14日、公卿諸侯を率いて紫宸殿に出て、天神地祇(てんじんちぎ)、すなわち全ての神々を祭り、国是とする五章、「五箇条の御誓文」を約定し、2ヶ月後にはこれに基ずく「政体書」が公布され国家の新組織が現れた。また江戸を東京と定め、江戸城を東京城と呼び、氷川神社を武蔵国の鎮守勅祭社に定め、天皇自ら東京に赴き、東京を帝都とし政治の中心を定めた。また同年の11月には諸外国公使たちを東京城に謁見し、名実共に日本国天皇が国政を行う「天皇親政」の姿を公式なものとした。  
歴史的には、後醍醐天皇の3年間を除き、平氏六波羅政権以来700年以上にもわたって天皇親政が崩れていたわけだが、江戸幕府を最後にまた天皇親政が復活すると、徳川慶喜のみならず多くの封建領主が昔から持つ領国や人民も天皇に返還すべきという考えも強くなってきた。強力な諸外国と対等になるには、天皇を中心に日本国の意思統一が出来、総力を結集して研鑽し、技術・生産レベルを引き上げ、国力を蓄積すべき、という方向だった。しかし政体書で「府・藩・縣は御誓文を基本に政令を行う」と決まったが、旧来の藩体制はそのままで、新政府の活動はかろうじて中枢の薩長両藩の軍事力に支えられているだけだから、真の改革と中央集権はこれからだった。  
版籍の奉還  
禁門の変でいったん朝敵となった長州は、その後苦難を乗り越え密かに薩長同盟を結び、朝廷政権を実現した功績により許されて新政府に復活した。そんな長州の中心となる重鎮・木戸準一郎は、「天皇を中心に国論を統一し、全国民が一致して諸外国に対抗できる国にすべき」という基本命題を常に念頭に考えをめぐらせたようだ。明治1年3月に出された五箇条の誓文もまた、木戸のいう「前途の大方向を定め、天皇自ら公家、諸侯、百官を率い神明に誓い、国是の確定を天下の庶民に知らすべき」との建議から出たが、木戸はまたこれと軌を一にする発想から、版籍奉還を長州藩主・毛利敬親(たかちか)に説き、了解の上で新政府に建言した。  
それは、前述の五ケ条の国是が固まる頃、すなわち2月に朝廷政治の中心に居る三条実美や岩倉具視に書簡を送り、「ご一新の政は無偏無私でやるべきで、国内では才能ある人材を登用し国民を安心させ、国外では外国と並び立ち、これにより国家を建て安泰にせねばならない。至正至公の心で七百年来の旧弊を一変し、三百諸侯の全てにその土地と人民を環納させるべき」と建言し、また盟友の薩摩出身の大久保利通に説き、版籍、すなわち領地と領民を天皇に返すべく動き始めた。しかし岩倉は木戸の建言に賛成ではあったが、これらの言論がすでに漏れて居たため、急速に事が運び過ぎ混乱を招くことを恐れ実行できずにいた。  
11月になり、姫路藩主・酒井忠邦からも同様に、「現行の府藩縣の制度下では、諸藩でその家法・職制など夫々違い、府縣と藩で統一が取れていない。夫々の領地は預かり物だということを忘れ、自分の土地と思う旧弊もある。これでは朝廷の意も浸透しないから、ご一新ということで諸藩の版籍を収め、藩の名称も改めるべし」との建議が出された。これを知った伊藤博文からも、賛同の意見書が出されている。  
この様な思考形態は、上述の木戸準一郎や酒井忠邦だけでなく、国家の頂点に立つ天皇の親政という新しい体制を考えれば、当時広く国民に理解されている儒教思想の「君臣の大義」から見ても、日本全国の土地と人民は天皇に属すべしという考え方は容易に発想され得るものだ。すでに、薩摩藩出身で留学経験者の寺島陶蔵も、慶応3年12月9日の王政復古クーデターを目途に藩論を整え藩主・島津忠義を奉じ西郷吉之助と共に上京する大久保利通に、「そもそも勤皇を唱え最も忠節を尽くすには、その封土と国人とを朝廷に奉還し、自ら庶人となり、志あらば選挙で選ばれる。こうなってはじめて公明正大な勤王家と云うべきだ。幕府はもとより諸侯も、版籍奉還すべき」と建言しているほどだ。  
こんな間にも、東北の戊辰戦争の鎮定や、北海道で榎本武揚を総裁にしての蝦夷共和国設立というさらなる抵抗などもあり、また明治天皇の東幸などで東に西に行き来する新政府首脳の意思疎通もままならなかった。しかし上述の酒井忠邦も言うように、新政府直轄で動く府縣行政と、依然として旧藩主達が取り仕切る藩行政との齟齬なども顕在化し始め、その処置を講ずる必要が迫った。ちなみに明治1年閏4月21日発布の政体書には、新政府が直轄する府や縣には責任者として知府事や知縣事が任命され、「掌繁育人民、富殖生産、・・・」などと、すなわち庶民を教育し繁栄させ、生産を殖やし富の蓄積を図り・・・と、その行うべき職務が明記されている。しかし藩については責任者が諸侯とだけ記載され、職務は空欄だから、その後ある程度の指示が出されても両者の行政に齟齬が生じるのは当然だった。このまま放っておけば旧弊がはびこり取り返しがつかなくなると、早くから版籍奉還の必要性を唱える木戸は大久保とも話を煮詰め、土佐藩出身の後藤象二郎にも説き三藩の合意が固まり、これに佐賀藩も加わった。  
薩摩・長州・土佐・佐賀の四藩の合意により、各藩主の連名で明治2年1月23日、木戸準一郎の草稿といわれる、「朝廷が一日も失ってならないものは『大体』、すなわち天皇の所有に帰さない土地は無くその臣でない者はいないと云う国家の本質であり、一日も見逃し出来ないものは『大権』、すなわち尺土も私有せず一民も私に排除しないという天皇の統治権である。・・・そもそも我ら臣の居る所は天子の土地であり、支配する者は天子の民であり、私有するものではあり得ない。今謹んでその版籍を奉還せん」と連署上表し版籍奉還を申請した。新政府はこの上表を大いに喜び、「天皇が再び東幸する予定であるから、東京で公議をもって裁決する。それまでに先づ版籍を精査し報告せよ」と命じた。これを知った230名にも上る他の諸藩主達も、次々と同様の上表を行った。この事実から、260数年も前に、徳川につくか豊臣につくかと日和見をきめたり相争ったりした頃とは違って、すでに天皇親政には大多数の人々が受け入れる大義が有ったわけだ。  
東京で公議を終えた新政府は6月17日、版籍奉還を上表した各藩主達の願いを聞き入れ、夫々を知藩事に任命した。これで大きな混乱も無く理論的に日本全土が天皇に属し、全国民がその臣民になったわけだが、昔の藩主が知藩事と名前が変わり、「知藩事家禄の制」を定めてその藩の現石の十分一を知藩事個人の家禄として与え藩財政から切り離しはしたが、まだ旧藩主が知藩事であることに変わりなかった。また「官武は一体となり上下で協同すべし、とのおぼしめしを以て、今より公家・諸侯の称を廃し、改めて華族と称える」という達し書が出され、同時に一門以下平士まで全て士族とし、華族・士族に禄が支給され、藩地図、藩収入、藩支出、兵員数、人口など細かく調査して報告させた。これはしかし、中央集権に向けての一歩前進ではあるが、依然として旧藩主達が世襲的に知藩事の職にあり、兵備も藩に所属したから、新政府から見ればまだ十分な改革ではなかった。 
廃藩置県、更なる中央集権に向かって  
廃藩置県の背景  
戊辰戦争で東北鎮定も一段落すると、薩摩藩主・島津忠義やその実父で陰の実力者・島津久光の上に立つことを潔しとしない西郷隆盛は、首脳として新政府の一員にならず静かに帰国し、地元で藩の活動に専念した。それまでほとんど表裏一体のように活動してきた西郷隆盛と大久保利通の考えは、ここにその明らかな差異の片鱗を見ることが出来る。そしてその後、大きな行動パターンの違いが浮き彫りになってゆく。  
一方新政府は、徳川慶喜や旧幕府対抗勢力を討伐すべく征討軍を動かすと、その軍資金目的に参与・会計事務掛・由利公正の建議による金札と呼ぶ太政官札、すなわち紙幣を発行し、また従来流通の二分金や一分銀も品位を落として増鋳し、いくつかの大藩でも通貨の贋造を始めた。このため戊辰戦争が鎮定に向かっても日本経済は大混乱に陥り、米価が急騰し、庶民の生活が大巾に圧迫され、大規模な一揆や紛争が起り、不平を抱く志士はまた要人の暗殺の機会をうかがい始め、国民の不満が爆発した。そんな不満の矛先が、今度は唯一の明治新政府に向けられたのだ。  
例えば、熊本藩士出身で松平慶永の政治顧問として福井藩改革に貢献し、明治政府に参与として参加した横井小楠は、改革派の筆頭として狙われ、明治2年1月5日退朝の途中に京都市中の丸太町で暗殺された。その暗殺犯裁判の最中も、保守派と革新派の争いが起り、裁判の結審と処刑が遅れた。また兵部大輔として新政府の軍務改革を進める山口藩士出身の大村益次郎は、旧征討軍などの藩兵を排除し、一般から徴兵して中央軍を組織しフランス式の軍制を取り入れようとする計画を推進したが、時期が早すぎるとこれに反対する大久保利通との論争になった。こんな大村案は急進的すぎると、士族すなわち旧藩士の恨みを買い、大村益次郎は9月4日京都市中の木屋町の旅館で襲われ重傷を負い、11月5日手術を受けた大阪病院で命を落とした。長州においてさえもこの兵制改革に不満を募らす士族の諸隊が藩庁を囲み、新政府に居る長州の重鎮・木戸孝允が出向いて沈静させるほどまでに沸騰した。更に地方官吏の組織は、旧藩主が版籍奉還により知藩事に任命されてはいるが、幕政当時のまま旧態依然だ。  
こんな状況下で国内政治が混迷すればこの新政府は崩壊すると危機感を持つ岩倉具視、大久保利通、木戸孝允などは、薩長の老公、すなわち島津久光、毛利敬親、西郷隆盛などを再び天皇の補佐と称し中央政府に協力するよう求め、更に勝海舟など広く天下の人材の登用をも目論んだ。しかし長州では不満士族が藩庁を囲むほどまでに不満が爆発し、薩摩では久光自身が新政府の改革を厳しく批判し、終に薩長老公の上京は実現しなかった。  
いつの世もまた権力の集中するところに利権が集まり、不透明な利益誘導が発生する。尊王討幕、天皇親政を旗印にした戊辰戦争が終結に向かうころ、新政府の中にも党派が出来て軋轢が起り、進取の気鋭が消え、質実剛健さが消え、おごりたかぶり、醜聞が絶えなくなってゆく。明治3年の夏には、こんな新政府の堕落に怒った薩摩藩士・横山安武(やすたけ)が7月27日、時弊十ヶ条の「集議院に上る書」を集議院の門扉に竹棒に挟んで置き、津藩邸裏門で切腹し、死をもって建言するという事件が起った。いわく、  
府藩縣とも朝廷の大綱により夫々が徳政を敷くべき時なのに、、旧幕府の悪弊がいつの間にか新政に移り、昨日は非としたものが、今日は是となってしまった。その細かい条目を挙げると、その第一は、輔相(ほしょう)の大任を受けた者からして侈靡驕奢(しびきょうしゃ=おごり、ぜいたくにふける)、上は朝廷を暗誘し、下は飢餓を察しない。その第二は、大小の官員は外に虚飾を張り、内に名利を事とする者が少なくない。その第三は、朝令夕替、万民は狐疑を抱き、方向に迷う。その第四は、道中駅毎に人馬の賃銭が増し、かつ藩では五分の一の税金を取るなど人情の事実を察せず、人心に関心もない。その第五は、直を尊ばず能者ばかりを尊び、廉恥(れんち=心清く恥を知る心)が上に立たないので日に日に軽薄になる。その第六は、官の為に人を求めず、人の為に官を求めるが故に、各局の職を務める者は心を尽くさず、その職事を賃取り仕事と心得るような者がいる。その第七は、酒食の交わりを重んじ、義理上の交わりを軽んずる。その第八は、外国人との約定の立て方が軽率で、物議の沸騰を生ずる事が多い。その第九は、黜陟(ちゅっちょく=功の有無で官位を上げ下げする)の大典は未だ立たず、多く賞罰は愛憎をもってする。故に春日、某の如き廉直の者が却て私恨をもって冤罪(えんざい、=ぬれぎぬ)に陥るなど度々だ。これは、岩倉や徳大寺の意思だったと聞く。その第十は、上下は交錯し、利を征(う)って国が危い。今日の在朝の君子達よ、公平正大の実を上げて欲しい。  
これは、当時の多くの不満を強力に代弁する行動だった。輔相とは宰相と同義語だが、明治1年閏4月21日の組織改革から翌年7月8日の組織改正まで三条実美が輔相を勤め、その後も右大臣としてトップであり、また当時大納言だった岩倉具視と徳大寺実則(さねつね)などを名指しし、新政府をあげて侈靡驕奢(しびきょうしゃ)、すなわちおごりたかぶり贅沢三昧をやり、天皇に道を誤らせ、下々の飢餓とその深刻さを理解していないと死をもって厳しく非難したわけだ。  
この様に益々非難が高まり、処理すべき諸問題が増えるに従い、岩倉、大久保、木戸などは更に危機意識を持ち、再び天皇の命により島津久光や毛利敬親を新政府に参加させようと計画した。岩倉自身が勅使になり、「前途の業は実に不容易で、朕は深く苦慮している。久光、汝は朕の股肱の羽翼である。よく朕の及ばぬ処を助け、皇業に助力し、朕をして復古の成績を遂げしめよ」という天皇の勅語を持ち、明治3年末から大久保、木戸も含め鹿児島と山口に出向いた。しかしその命を受けた後に、久光、敬親とも病気や死亡により結果として出侍できなかったが、久光は西郷隆盛の政府復帰を命じ、西郷の中央復帰に成功した。更にその帰途、西郷の意見により大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允は揃って土佐を訪ね、高知藩大参事・板垣退助や権大参事・福岡孝弟(たかちか)と話し、混迷する新政府を立て直すため、薩・長・土三藩の同心協力を約束した。  
ここで、もはや旧実力者の島津久光、毛利敬親、山内容堂たちに頼らずとも世代交代した西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、山県有朋、井上馨、板垣退助、佐々木高行など、薩長土の出身者が三条実美と岩倉具視という朝廷の中心を補佐する結束と連合が動き始めた。また更なる混迷に備え、天皇の親兵として西郷隆盛が中心になり、薩摩藩から歩兵4大隊と砲隊2隊、長州藩から歩兵3大隊、土佐藩から歩兵2大隊と騎兵2小隊に砲兵2隊という規模の兵力が東京に派遣され、新しい兵制が実行された。この歩兵9大隊・砲隊4隊・騎兵2小隊という規模で構成される「御親兵」・公称1万人の存在は、更なる中央集権に向けた大改革に当たり大きく睨みを利かす存在になり、日本国軍隊の基になってゆく。同時に、西海道鎮台本営を九州小倉に置き熊本と佐賀の兵を当て、東山道鎮台を釜石港に置いた。しかし間もなくこの2鎮台制も改められ、東京、大阪、名古屋、熊本、仙台、広島の6鎮台制へとなってゆく。士族の中には、上述の横山安武に見られる如く大きな不満が鬱積していたから、国軍を率いる西郷隆盛のイメージも強く、多く期待の目で見られるようになっていったようだ。  
廃藩置県の断行  
この様に辛くも瓦解と背中合わせに迷走する新政府は、世代交代したリーダーたちが危機感を持ち、政府組織の立て直しに動き始めた。上述の薩摩藩士・横山安武が命を懸けて改善を要求した朝令暮改や腐敗をなくし、それまで参議や高官が多く、百家争鳴状態で一つの方針で活動できなかった組織の大改革をし、統一された方針を強力に打ち出せるものにせざるを得ないという一点では共通していても、具体論では薩摩勢と長州勢の綱引きや猜疑心が絡み、百論があった。  
そんな中で、大久保利通が陰で岩倉具視と協力し主導するという流れで、政府内の組織改革に着手した。まず新政府組織の多くの弱点を修正するには、1人が大方針を決定する以外に道は無く、トップの右大臣・三条実美の他は参議を木戸孝允一人とし、右大臣が参議の補佐により政府方針を打ち出す方式にしようとした。しかし木戸は、以前から主要参議たちの民主的な合議制を理想として主張していたから、木戸自身がただ一人の参議として参加する方式には応じなかった。これも木戸一人に重責を負わせようとする薩摩勢の策略だろうというほどにも疑ったという説もあるくらい、頑として誰の説得にも応じない木戸の強硬姿勢に、皆が手を焼いたようだ。最終的には大久保の出した、参議に西郷隆盛をも入れた二人とし、これが右大臣と大納言を補佐し、大久保利通以下の主要リーダーは卿となり各省を束ねる方式で政府方針の一元化を図る案に合意され、明治4年6月25日に発令された。  
しかしこの政府組織改革も、以下に述べる廃藩置県の実施と同時に木戸孝允の発案で土佐の板垣退助と佐賀の大隈重信が参議になるから、これこそ朝令暮改の典型だが、廃藩置県という大改革をスムースに行うため大久保はあえて反対しなかったという。  
こんな流れを経て参議になった木戸孝允は、かっての持論である廃藩置県を実行し一層の中央集権を図る方向に動き始めた。薩長土の3藩から1万人規模の親兵が出された今、朝廷はこの近衛兵をもって天下に望み、廃藩置県を断行し一層の中央集権を図り、国論を統一して外国と対峙する時だ。このようにその考えを聞かされた岩倉具視は、更なる中央集権は必要だが、現実に朝廷を支えている薩長土の藩まで廃しては「薄恩だ」と大きな動揺が起る。さらばといってこの3藩だけを特別扱いにすれば大きな不平等になり人心を失うから、藩を廃する事は慎重にすべきだとの考えだった。この反応に落胆はしたが、木戸は更に西郷と話し、大久保と話して基本合意を取り付けた。更に山形有朋、井上馨、西郷従道(つぐみち)、大山巌など主要人物とも話したが、全てが廃藩置県の断行に賛成した。この様に足場を固めた木戸は大久保と共に再度岩倉を説き、西郷もまた岩倉を説いた。木戸や西郷はすでに三条実美をも納得させていたから、薩摩と長州の腹心たちが一体になっている姿を見た岩倉も心を固め、三条実美と共に明治天皇の宸断を得て廃藩置県を実行に移した。  
この難事業は、明治2年1月に鹿児島、山口、高知、佐賀の4藩の自主的版籍奉還から2年6ヶ月後のことだが、天皇の詔書のみにより粛々と実行された、驚くべき行政の大改革だった。かっては自分の領地・領民だと云い、ほぼ独立国の主であった旧藩主たちが、版籍奉還により知藩事になって家禄を受け、家来が士族になり、公家も諸侯と共に華族になり、夫々が国家から名誉と財産を保証されたわけだ。簡単にいえば、天皇にその人民と土地を返還し、その代償として名誉と収入を与えられ、藩財政で困窮する事もなくなり大いに安心していたものが、2年半後の今回、更にその知藩事職も取り上げられたのだ。そして全員が東京在住を求められ、天皇の近くに住まわされた。もちろん中には不満を抱く旧藩主も居たであろうが、それを組織だって爆発させる手段をいつの間にか次々に失い、天皇の下へ、すなわち国家の中へ吸収されてしまったのだ。ここに至り、それまで長く続いた日本の封建制度が完全に崩れ去ったわけだ。  
この版籍奉還の命令は次のような過程を踏んで行われた。明治4年7月14日、まず皇居の小御所に呼び集められた鹿児島藩知事・島津忠義、山口藩知事・毛利元徳(もとのり)、佐賀藩知事・鍋島直大(なおひろ)、高知藩知事・山内豊範(とよのり)が、2年半前に進んで版籍奉還を首唱した事実を明治天皇が褒めたたえ、自分の政治を補佐せよと命じた。いわく、  
汝らは大義の不明や名分の不正を正そうと、進んで版籍奉還の義を唱えた。朕は深くこれを悦び、新たに知事の職を命じた。今また新しく始めるに際し、益々大義を明らかにし、名分を正し、全国民の安寧秩序を保ち、万国と対峙しようとしている。従って藩を廃し縣とし、無駄をなくし簡素にし、有名無実の弊害をなくし、更に国家の大法と細則を定め、政令を一ヶ所から出し、全国にその向かう方向を知らさねばならない。汝らはよく朕の意思に従い、この政治を補佐せよ。  
天皇はまた熊本藩知事・細川護久(もりひさ)、名古屋藩知事・徳川慶勝、徳島藩知事・蜂須賀茂韶(もちあき)、鳥取藩知事・池田慶徳(よしのり)が「郡県の制を立てたい」と申請した事を褒め、「まさにこれから実行するから、朕の意に従い、各自の考えを尽くせ」、と命じた。この様に朝廷や新政府に協力した8藩、すなわち8旧藩主たちを大いに顕彰した上で、引き続いて、これら諸知事をはじめ在京する諸藩の知事全員を大広間に召集し、藩を廃して縣を置く決定を伝えた。すなわち、目の前に列席する知藩事たちを罷免し新しい縣に新しい縣知事を任命するものだ。いわく、  
朕が思うに、新しく始めるに当たり、国内で全国民の安寧秩序を保ち、国外で万国と対峙しようとすれば、名実は一致し政令は一ヶ所から出ねばならない。朕はすでに版籍奉還を聞き入れ、新たに知藩事を命じ、各々はその職を奉じている。しかし数百年来の仕来りや名のみで実のない事々があるが、これでどうやって全国民の安寧秩序を保ち万国と対峙出来るのか。朕はこれを深く考え、今、更に藩を廃し縣とする。これは無駄を省き簡素にし、有名無実の弊害を除き、政令が多岐にわたる憂いを無くするためだ。汝ら群臣は皆朕の意思に従え。  
さっそく太政官はこれにより、「藩を廃し縣を置く」と布告を出し、とりあえず旧藩大参事以下に、罷免された知藩事に代わり各藩の事務を管理すべく命じ、知事が在京せず出席できなかった諸藩には、その翌日その在京参事を召集してこれを命じた。この様に天皇の権威を持って出す命令は、手抜かり無く協力する藩を大いに褒め、その他の藩が異議を唱える隙間さえなかったようだし、また青天の霹靂ともいえる秘密裏の早業だった。木戸孝允、大久保利通、西郷隆盛、岩倉具視など明治政府の中枢が、明治天皇の名を持って出された詔書で行った、何百年も続く封建制度を一挙に葬り去る一大行政改革だったのだ。  
しかし思惑通り無事に実行できるかは、予断を許さない部分もあっただろう。廃藩置県が発布された翌日、右大臣、大納言はじめ参議や諸省の卿たちや、次官級の役人も皆皇居に参集し、これからどう処置すべきか声高の議論になった。そこに少し遅れて参議・西郷隆盛がやって来て、方々で起る興奮した議論を黙って聞いていたが、突然、「この上各藩で異議が出た場合は、兵をもって打ち潰す以外にありません」と大声を出して述べ立てた。この一言でさしもの大議論もやみ、皆静かになったという。これは7月15日の佐々木高行の日記に見えるが、御親兵を統率する参議・西郷隆盛の面目躍如たる情景だったし、天皇自身の詔書と天皇に直属する御親兵の威力に逆らえる気力と武力は、もはや誰も持ってはいなかったのだ。  
この廃藩置県に伴い、政府内部でも大幅な組織変更があり、各省の統廃合や新設があり、人事も一新された。しかし現実には、諸藩内でこの改革を嫌い不満がくすぶる所もあり、政府の政策に反抗し一揆や騒擾に発展するものもあった。大久保や西郷の郷里の鹿児島においてさえそれはあり、一時不穏な空気が流れ、急きょ吉井友實と西郷従道が派遣され解決に当たったほどだった。 
外国との諸問題  
国内ではこの様に、政治体制の中央集権化へ向けた大きな動きが進むうちにも、外交は一日の休みも無く動いていた。この間に生じた、諸外国との大きな外交問題のいくつかを見てみたい。  
東海道と横浜は不安心、パークス公使の抗議  
東海道での出会いを憂慮  
江戸を東京と呼び、政治の中心地と定め、天皇が再び京都から東行する明治2年の初め頃になると、それまで京都にいた公家たちも続々東京にやってくるようになり、諸侯や諸藩士の行き来も頻繁になったから、東海道の交通量も格段に増加した。このため東海道沿いで、貿易港・横浜に居住する各国商人や多数駐留するイギリスやフランスの兵士達との接触も増えてきた。こんな状況下で、あわや第二の生麦事件にもなりかねない状況も出てきたのだ。  
新政府は、条約による東京や新潟の開市が明治1年11月19日すなわち1869年1月1日に迫ったので、それに先立つ8月、大総督府から各藩へ、「外国交際の儀を改めて取結んだが、ついては彼国人に対し粗忽の儀があれば問題が出るから、今後の往来行き違いの節は特に気を付け、軽率な振る舞いが無いよう兵隊の末々まで厳重に取り締まるよう仰せ出だされた」、と通達を出した。また東京開市が始まると、市中に新しく居住し始めた宮親王家や門跡、堂上や諸侯にも行政官から、「各国公使やその他外国人が東京に滞在中方々出歩くが、路上で出会っても、道路は双方で半分ずつ譲り合ってもらいたい。また外国人警護で随行する日本人は下馬会釈などしないから、心得ておいてもらいたい」、とも通達した。前に書いたように、この年の初めから神戸居留地での衝突や堺港での衝突、知恩院付近でのパークス公使襲撃事件など、一歩間違えば外国との戦争にまで発展しかねない事件が連続して起きたから、新政府も外国との関係には特に心を砕いたようだ。 
新政府の繰り返しの布達  
この様に政府があらかじめ通達を出し気をつけていても、東海道筋でイギリス代理副領事やイギリス軍艦艦長一行に対し粗暴な行為があったと、パークス公使が当時の外国官副知事・東久世通禧(みちとみ)に強く抗議してきた。いわく、明治2年3月23日東京駐在イギリス代理副領事・ロバートソンやポルトガル領事・ローレイロ一行4人が横浜に帰る途中、品川近辺で日本の行列に行き逢い馬車を路傍に停めていたが、宮様宮様と声を張り上げる侍が来て下車を促し、下車しないと見ると刀の柄に手をかけ、副領事らは馬車から引き降ろされた。またスタンホープ艦長が大森梅茶屋の辺りで婦人行列に行き逢い、同様に馬車から引き降ろされる粗暴の扱いを受けたという。日本側からは、直ちにその謝罪と、外国人に対する扱いに関し再度通達を出したという政府の対策が回答された。3月27日、今度はフランス公使・ウートレーから外国官知事・伊達宗城に、横浜の町でフランス公使館の通訳官ともう一人のフランス人が往来で殴り倒されたが、この暴挙を止め犯人を捜そうとする役人は誰も居なかった。また3日前にも公使館内の建物に放火され、事務員が殴られた。フランス人にこの様な暴力が振るわれれば黙視しがたいし、今後は自衛処置を取るとの強硬な通告が来た。  
各国と通商条約を結び横浜港で貿易が始ってから、外国人に対する安全確保が十分に出来ず外国人殺傷事件は続発し、幕府でさえ一時これを理由に横浜鎖港を口にし始めた。こんな状況に、横浜貿易の既得権確保、居留自国民の安全確保やその財産保全を口実に、下関戦争の後横浜に引き揚げたイギリス海軍が引き続き横浜に駐屯し、その後陸軍に変わり、フランスも駐屯部隊を参加させた。独立国に外国の軍隊が駐屯する事それ自体が異常な状態だから、幕府内にもそれに続く新政府内にもこれを無くしたいという思いが強かったが、それに代わる安全策を提供できず、外国軍隊の駐屯はすでに既得権になっていた。しかし外国側も明治1年の暮れになって、この異常事態を解決すべく、いったんは日本政府に横浜駐屯外国兵撤去の通知を出していたが、しかしこの様にまた外国人の安全確保が困難になれば、また横浜に駐屯外国兵を置かざるを得ない。  
今回はまた、アメリカ、イタリア、ドイツの公使たちまでが、この安全問題が早急に解決されなければ予定していた関税問題の話し合いに応じないとさえ通告してきた上に、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリア公使から横浜の町の安全が脅かされているため、運上所脇と本町通り角に外国の番兵を立てるから、その施設を造れとも要求してきた。この様な一見些細な事件でも、これが口実になり横浜駐屯外国兵が町の警備に番兵まで出す事態は、横浜が割譲され租借地になったような異常事態だから、これ以上不必要な誤解が生じないよう政府も事件解決の進捗状況を細かくイギリスやフランス公使に伝えている。結局は、1ヶ月ほど後に両事件とも下手人が判明したが、こんなちょっとした事件が国を危うくするきっかけになり得る例として、政府も再度街道筋に高札を立て、文書でも通行人に申し渡した。いわく、  
外国人通行の時、途中において出会いの節は道の半分を譲り通行すべくお触れが出ているが、最近時々不都合な出来事の報告があり、もってのほかの事である。瑣末な行き違いから皇威に関わる程の事態が発生しては誠に相済まないことであり、以後ゴタゴタを起さないようよく心得えること。万一粗暴な行為があった場合、当人はもちろん場合によってその藩主または主宰の者へも厳重なお沙汰が及ぶので、この旨を改めて通達する。  
幸いにも横浜市中の外国人番兵は、町が安全になったとイギリス、フランス、アメリカ、ドイツ公使が認め、6月末に撤収となり、以降は日本人の手で警護を強固にした。しかしまだ軍隊の駐屯そのものが解決したわけではなく、イギリスとフランスの軍隊はそのまま横浜に居座っていた。大納言・岩倉具視や外務卿・澤宣嘉などが折に触れイギリスとフランスの公使に交渉したが、明治4年の暮れに、やっとその約半数を引き揚げさせることに成功した。しかしこれら2カ国は、なかなかその既得権を手放そうとはしなかったのだ。  
文化の違う外国人とどう共存するか、お互いに譲りあい、お互いに尊重しあう以外に道はない。諸侯や公家にも、その従者たちにも、一つ一つ学ばせねばならない開化の過程であった。  
浦上村・耶蘇教徒処分の問題  
キリシタンを拒否する日本  
江戸幕府は、将軍・徳川秀忠の時代からキリシタンを排除し全国的にキリスト教を禁教にし、徳川家光の時代の寛永12(1635)年にオランダと支那の外国船の入港地を長崎だけに限定し、日本人の海外渡航と帰国を全面的に禁じ、いわゆる鎖国が始まった。そして九州の島原の乱を契機に、寛永17(1640)年に宗門改役(しゅうもんあらためやく)を任命しキリシタン取り締まりを強化した。その後幕府は、各藩にも改役の設置を義務付け一層の取り締まり強化に乗り出し、全国から隠れキリシタンが囚われ江戸に送られ、所持品は没収された。  
安政5年にアメリカ、イギリスなど5カ国と修好通商条約が締結され、横浜・箱館・長崎で貿易が始まった。そしてお互いの宗教について、例えば日米修好通商条約の第8条に、  
日本にあるアメリカ人、自らその国の宗法を念じ、礼拝堂を居留地の内に置くも障りなく、並びにその建物を破壊し、アメリカ人宗法を自ら念じるを妨げる事なし。アメリカ人、日本人の堂宮を毀傷(きしょう)する事なく、また決して日本神仏の礼拝を妨げ、神体仏像を毀(やぶ)る事あるべからず。双方の人民、互いに宗旨に付いての論争あるべからず。日本長崎役所に於いて、踏み絵の仕来りは、既に廃せり。  
と、宗教について相互不干渉の条項を認め合った。これは、日仏、日英の通商条約ではもっと簡素に、「第4条、日本に在る仏蘭西人、自国の宗旨を勝手に信仰し、その居留の場所へ宮社を建るも妨げなし。日本に於て踏絵の仕来りは既に廃せり」、「第9条、在留の貌利太尼亜人、自らその国の宗旨を念じ、拝所を居留地の場所に営む事障りなし」と、内容は略同じものだった。  
しかし同時に幕府は、国内政策として、江戸幕府250年来の国禁のキリスト教排斥を保持すべく、開港場で外国人より洋書を購入する時には必ず運上所の改印を受けさせ、キリスト教関係書籍の購入を厳禁してさえいたのだ。  
耶蘇教徒の発見と禁教への圧力  
こんな中で海外貿易が盛んになったが、長崎ではこの通商条約に従って、フランス人のカトリック司祭・ベルナール・プティジャンが元治1(1864)年、長崎に大浦天主堂を建てた。そのうちに、浦上で何代にもわたって信仰を守り続けたいわゆる隠れキリシタン数人が信仰の告白に天主堂を訪れ、プティジャン司教を大いに驚かせ、また喜ばせた。これがきっかけとなり、長崎には多くの隠れキリシタンが居ることが分かり、司教は日本人に向けた布教活動を活発化させた。プティジャン司教は大浦天主堂内だけでなく、こっそりと各村々にも出かけ布教活動をし、聖書を教え宗教具を与え、日本人の信者自身による布教をも活発化させ、そのための経済的援助も惜しまなかった。日本人による布教活動は、周囲の藩や幕府直轄地の天草にまで及んだという。また浦上村にも4ヶ所の小さい礼拝所を造り、キリスト教を信仰する住民もその信仰を少しずつ顕在化させ、「葬式は最寄の寺へ依頼すべし」という規則を公然と守らなくなり、周りの寺々からは奉行所への訴えが多く出された。地元の長崎では仏教徒との摩擦が増え、長崎に入り込む攘夷を唱える志士達の、異教を広める神父の暗殺計画まで噂に上り始めた。  
それまでフランス人や他の外国人に対し遠慮していたようにも見える奉行所は、こんな状況下で万一神父が殺害されたり、かっての島原の乱のように大規模な氾濫でも起ったら大問題と考え始め、その対策に乗り出した。そしてついに慶応3(1867)年6月13日、奉行所は多くの捕り手を動員し主要な教徒68人を捕縛した。これを知ったプティジャン司祭側は、長崎のフランス領事やポルトガル領事を動かし、政治問題として長崎奉行・徳永石見守に穏当な取り扱いを要求し釈放を求め、同時に横浜の各公使に幕府との交渉を要求した。これはフランスだけの問題ではないから、アメリカのバン・バルケンバーグ公使も幕府に書簡を送り、浦上村の耶蘇教徒捕縛の不法を大いに非難し、ただちに釈放すべく勧告してきた。いわく、「内政干渉する積りはないが、ただキリスト教を信じただけで、他に何の罪も無い国民を未だにこんな古い国法で捕縛するなどする限り、文明国とは言えず、将来西洋各国の信を失う」、と警告したものだ。  
しかし、通商条約には上記の如く、宗教の相互不干渉を取決めてあるから、プティジャン司祭の行為は違法行為であり、国法に違反した隠れキリシタンの捕縛は純粋な国内問題だというのが日本側の見解だったから7月7日、当時の外国事務総裁・小笠原長行はフランス公使・ロッシュに書簡を送り、この見解を伝え司祭の布教活動の中止を要求した。この当時のフランスの日本に対する外交活動は、イギリスに対抗し幕府に急接近し、軍備や経済援助まで提供する交渉に熱心だったから、最終的にロッシュ公使は自国の長崎領事やプティジャン司祭に書簡を送り、日本人に対するその布教活動を中止すべく命令している。そして日本側も、捕縛した人々で虚言ではあっても改宗を誓った大多数を釈放し、それに反抗する1人は隔離と監視のため村預けとした。昔なら磔刑(たっけい)になったほどの罪であっても、信者たちにはロッシュ公使との交渉で寛大な処置が下された。また将軍・徳川慶喜は8月7日ロッシュ公使に大阪城で謁見し、この日本の現状を記し理解を求める書簡をフランス皇帝・ナポレオン三世に送っている。  
「明治政府の耶蘇教信者迫害」と抗議する外国勢  
そうこうしている内に戊辰戦争に突入し、幕府は瓦解し、明治新政府が出来て天皇親政となり、その「ご一新の恩赦」が施され、村預けの捕縛者は開放された。そして益々耶蘇教信者は増加し、活動が活発になったから、こと宗教に関し旧幕府の立場とあまり差の無い新政府内では、長崎地方長官の苦慮するところとなった。そしてついに当時の長崎裁判所総督・沢宣嘉(のぶよし)から、  
恩赦で放免する際も穏やかに話して聞かせたが、中には厳罰に処せられてもかまわないなどと言う者も居て、詰まるところフランスの後ろ盾があると思い、新政府でも処分は出来ないと思っている。一方、地元でこれに不満を持つ住民は勝手に信者を殺そうと思うものも居るから、かっての島原のようになっては九州一円の騒乱にもなりかねない。3千人ほどにもなるキリシタンをどう処置すべきか、ご評決下さい。  
と云う申請が出された。これは、かって朝廷内の攘夷急進派の1人で、文久3(1863)年8月18日の孝明天皇による急進派追放で長州に逃れた七卿の1人でもあった、国学者・沢宣嘉の強い考えでもあったのだろう。国学者として、天皇親政の下で日本国本来の神道の隆盛を願う沢宣嘉にとっては、長く国禁の耶蘇教信者の増加をそのまま放置できなかったであろうから、手に負えなくなる前に厳重処分したいというものだ。新政府の心配は更に、若し対策を誤り、耶蘇教を嫌う国民の一部が東北で戊辰戦争を戦う旧幕府勢力と連合するようなことにでもなれば、この長崎に於ける問題だけでなくなってしまう危険性もあることだった。  
早速天皇は明治1(1868)年4月22日、親王や三職以下及び公卿諸侯を召集し長崎裁判所総督から出された申請に対する処置を諮ったが、参与・木戸孝允は信者の巨魁を長崎で厳科に処し、3千人の教徒は10万石以上の西国の諸藩に預ける案を述べた。最終的にはこれが採用され、翌月の閏4月、この案の通り処置すべく木戸孝允を長崎に派遣し、浦上村の耶蘇教徒の処分を命じた。木戸孝允は長崎に来て、閏4月17日これら耶蘇教徒を小倉・福岡・久留米・柳河・鹿児島・熊本など34藩に預け、首謀者の100人あまりを山口・福山・津和野の3藩に預ける処置を決定した。そして「切支丹宗の儀、年来元幕府においても堅く制止したが、旧染の余燼が絶え切らず、近来長崎近傍浦上村の住民で密かにその教えを信仰する者がだんだん萬延しているので、今般広く御評議在らせられ、格別の御仁旨をもってご処置ご決定遊ばされた。これにより別紙の通りお預け仰せ付けられ候事」と、太政官達しが出された。  
早速この処分案を知ったアメリカ、イタリア、ポルトガル、デンマーク、オランダ、フランス、プロシャの長崎領事たちから、「耶蘇教信仰の日本人民が政府による重罪の罰を受けると方々から聞くが、日本政府がその国民を処罰することに異論はないが、こんなやり方は、外国人から見れば今までのように日本が礼儀を知った国だとは思われない。従って、人情的にも今までの親睦の意からも、正しくないと諌言せざるを得ない」と、連盟の上早速圧力をかけてきた。前述のように、相互の宗教への不干渉が条約になっているし、内政干渉にもなる以上、道義上また信義上の問題として迫ったのだ。更に長崎の大浦天主堂の司教たちも、フランスが明治新政府へ政治的干渉を強めるべく訴えるため、横浜のフランス公使館にやって来た。横浜に居たアメリカ長老教会の宣教師・ヘップバーン(ヘボン)博士が、1868年7月25日付けでアメリカのラウリー博士に宛てた書簡(『ヘボン書簡集』、高谷道男)にも、  
長崎地方に一つの事件が起っております。新政府はカトリック信者を迫害しつつあります。信者らをその故郷から、他の地方に移動せしめております。新政府の言うところでは、彼らに善い仏教の教理を教え込み、カトリック教会から学んだ誤れる教理を捨てさすためだとのことです。・・・右の司教はこれらの気の毒な信徒らのため政府の宗教政策に干渉を加えるようフランスの公使に嘆願するため当市に来ておりました。  
と報告している。  
この頃また大阪では、イギリスのパークス公使が三条実美、岩倉具視、外国事務局督・晃親王など新政府トップと会談し、この耶蘇教信者の処置を巡り日英で大議論を行った。交渉の中心になった参議・大隈重信の立場は、「これはあくまで内政問題で、宗教の善悪ではなく、万国公法に鑑みても、自国法の運用に外国の干渉は受けない。外国は何の権利を持って干渉するのか」というものだったが、パークスは例によって苛立ち、大声を上げ、机を叩き、文明の進んだヨーロッパ諸国が今日あるのはキリスト教のためだと議論を展開し、その宗教を弾圧する日本は野蛮国から抜け出していないと迫った。朝から夕方まで昼食抜きの大議論に結論は出なかったが、この時の通訳は、昔オランダ出島の医師であったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男で当時イギリス公使館通訳官のアレクサンダー・フォン・シーボルトが勤めた。後に語るところによると、パークスもこのような毅然とした、万国公法まで持ち出した論理が日本側から出てきたことに驚いていたと言う。それまでの幕府にはない、明確な態度の表明だったのだろう。 
外国公使たちの一時的妥協  
各藩への分預はその後いろいろ変更があり、過酷な取り扱いは無用との命令と共に、翌2年10月までに2800人以上もの人々が19藩に強制移住させられた。直ちに長崎在住の各国領事たちからは抗議が出され、パークス公使側にも日本の耶蘇教徒取り扱いが過酷過ぎるとの情報が続々入り、三条実美や岩倉具視などに直接抗議し、実情調査なども行われた。更にまたイギリス、アメリカ、フランス、ドイツ公使などからも耶蘇教徒に対する寛大な処置を望む書簡が来て、12月18日、三条や岩倉その他が高輪の東京接遇所で公使たちに面会した。そして、「旧来の国法では信者は磔刑(たっけい)に処せられたが、今回は諸藩への分預のみで、家族も離散させず、それなりの手当て金も与え、土地や住居も与えてあり、宗教の善悪をもっての取締りではなく、やっと戊辰戦争も静まりかけた時に奸民が耶蘇教徒に紛れ込み、暴動を企み政府の命令を聞かず、一般人と衝突したりするのを避けるためで、日本の国法上やむを得ない」と、その事情を説明した。これに対し公使側は、百姓たちが従来の農地から強制離脱させられるのは過酷な取り扱いだと、その見解の相違点も明白になった。  
そこでまた翌3年1月9日に外務卿・沢宣嘉と外務大輔・寺島宗則が横浜のイギリス公使館に出向き、英・仏・米・独の4カ国公使と会談し、「長崎の司祭が夜毎に浦上村に来て説法や礼拝を行い、信者は毎週の日曜日に浦上にあるフランス教会に通い、そのうち公然と昼間も往来し始めた。また浦上村の教徒の男一人が庄屋に改心を申し出ると、教徒たちは集団でこの男に暴力を振るい、村中で2派に別れ絶え間ない諍いが起きた。司祭は日本古来の宗教を信じれば天罰が下ると教えたから、信者は多人数で村の弘法大師の堂を壊し、神社の鳥居も避けて通れとも教えている。信者はこの様に徒党を組んで政事に逆らう。従って各藩への分預を決めたのだ」と、沢宣嘉は長崎での自分の経験をもまじえ日本政府の立場を話した。そして日本側は、村人が司祭を訪ねないよう法律で取り締まるから、公使側も司祭が村に来て宣教活動をしないよう取り締まって欲しいと要望した。その後も種々のやり取りがあったが、公使側は最終的に以下の覚書を作成した。いわく、  
覚書。外国人居留地以外で外国人宣教師たちが伝道をし、重大な騒動が起きている事実を日本政府が言明し、日本人キリスト教徒を長崎近辺から移住させる理由の一つは政治的必要性からだと日本政府は考えるので、すでに浦上村から移住させられた日本人キリスト教徒全員が帰村する事を条件に、外国公使たちはその責任においてあらゆる権限を行使し、外国人宣教師たちがそういう行動(筆者注:居留地外の伝道)を取らないよう禁じ、その行動が続く場合は彼らを罰する事を宣言する。パークス。ウートレー。デロング。フォン・ブラント。  
通商条約上に信教の相互不干渉が定めてあったり、外交上の国際慣行として通常は他国の国内政治に干渉はしないから、外国公使たちも、日本側にキリスト教徒へ不当で過酷な取り扱いが無ければ、一時的にこの要求を受け入れざるを得なかった。  
この様に繰り返し多くの圧力がかかったが、この問題は後々まで折に触れ各国との間で問題視され、次ページに述べる岩倉使節団にも圧力としてのしかかって来る。この信教の自由に関する問題は、明治6(1873)年にキリシタン禁制が解かれるまで、日本が西洋諸国すなわちキリスト教国との交際上、避けて通れない改善すべき重要点の一つだった。  
ユージン・ヴァン・リードと「元年者」移民の問題  
ヴァン・リードの来日  
ユージン・ヴァン・リードは、開港日直前にオーガスティン・ハード商会の商船・ワンダラー号に乗って横浜にやって来たハード商会のアメリカ人商人だが、横浜の商売であまりにも広くその名を知られ、また戊辰戦争初期に日本政府が入れ替わるという劇的な政治的混乱に巻き込まれ、外交畑への転進に失敗した人物だ。  
ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)の自伝によれば、ヴァン・リードはアメリカでジョセフ・ヒコと知り合い、ヒコから日本語も少し習ったようだ。そしてヒコが、後に咸臨丸に乗ることになるブルック大尉とフェニモア・クーパー号で日本に向かう直前、サンフランシスコでヴァン・リードとヒコの2人で記念写真を撮っているが、それほどの親友だったのだろう。ハワイのホノルルでフェニモア・クーパー号を下船しブルック大尉と別れたヒコは、そこで偶然にも、サンフランシスコから香港に向かうシー・サーペント号に乗って来た日本に向かう途中のヴァン・リードと出会い、2人は連れ立ってシー・サーペント号で香港に着いた。ヒコと別れたヴァン・リードはその後、香港でオーガスティン・ハード商会に職を得たようだ。  
上海でヒコがアメリカ領事館通訳に採用され、ハリス公使やドール領事とアメリカ軍艦・ミシシッピー号で下田経由神奈川に着いたが、ヴァン・リードの乗るオーガスティン・ハード商会のワンダラー号はこのミシシッピー号と下田で出会い、東風が強いので下田から浦賀近辺までこのミシシッピー号に牽引されて来たから、横浜にはジョセフ・ヒコと同じ日に着いた事になる。そして安政6年6月5日すなわち1859年7月4日、発効した日米修好通商条約で神奈川が公式にアメリカに開港され、横浜を見下ろす神奈川の丘の上にあるアメリカ領事館・本覚寺でハリス公使、ドール領事、ミシシッピー号のニコルソン艦長や士官たち、ジョセフ・ヒコ、そしてこのヴァン・リードが出席してアメリカ国旗を掲揚し、国歌を歌い、シャンペンで乾杯し、正式な領事館開館式を行った。このように、ヴァン・リードが横浜に来たのはオーガスティン・ハード商会のワンダラー号に乗ってであり、ヒコの自伝の1859年7月6日から7月16日の間の記述に「書記・ヴァン・リード」と出てくるから、筆者には、この間にヴァン・リードも領事館書記官の職を得てそれに任命されたように見える。  
その後横浜で成功しようと種々工夫するヴァン・リードは、日本文化を理解し、日本の習慣にも馴染み、日本語も良く話せるようになっていったようだし、書記官を辞し商売に集中し、機会を捉えて広く奔走したようだ。朝廷が幕府へ派遣した勅使護衛として薩摩藩の島津久光が江戸に来て、文久2(1862)年8月その帰り道の生麦で、行列を乱したとイギリス人・リチャードソンを殺害したいわゆる「生麦事件」を起こしたが、その直前に東海道でこの久光の行列に行き逢ったヴァン・リードは、馬から下りて道脇で静かに行列をやり過ごし、久光の駕籠には帽子を取って敬礼し、難なく江戸に向かった(「後は昔の記」林董述、時事新報社、明43年12月)。この様に、被害にあったイギリス人たちに比べ、柔軟に日本の習慣も受け入れることが出来る人物だったようだ。またアメリカ、イギリス、フランス、オランダの4カ国が軍艦を派遣した下関戦争でも、アメリカはまだ南北戦争の最中で日本には小型帆走軍艦1隻しかなかったから、当時のプルーイン公使はオーガスティン・ハード商会から蒸気商船・ターキャン号を借り入れ、これに武装を施し帆走軍艦の海兵隊を乗組ませたが、このターキャン号の賃貸契約にもヴァン・リードが関わった。オーガスティン・ハード商会は、この4年ほど前に英仏連合軍が支那と戦い北京を占領した時も、支那で戦略物資の調達・輸送や船舶の軍事傭船契約で大きなビジネスをしたようだから、これを知る、昔アメリカ領事館の書記だったヴァン・リードがいち早くその必要性をキャッチし、このビジネスをまとめたのだろう。そして自身でもこの蒸気船に乗って下関に行き、戦記を書き、ニューヨーク・トリビューン紙と契約する横浜駐在記者・フランシス・ホールの手でトリビューン紙に掲載されている。更に下関戦争終結後には、このフランシス・ホールがパートナーでもあるウォルシュ・ホール商会の仲介で幕府が大江丸と命名することになるこのターキャン号を購入したが、この商取引にもヴァン・リードが関わり、「諸費用差し引き後、商会には6万ドルの入金になる」、とオーガスティン・ハード商会へ報告している。 
ヴァン・リードへの条約締結全権使節委任と日本側の拒否  
さて少し遡るが、万延1(1860)年1月18日にポーハタン号に乗船し日本を出航した遣米使節一行が、ハワイのホノルルに寄港すると大いに歓迎を受け、使節一行はハワイ国王・カメハメハ四世にも面会した。その時ハワイ側は正使・新見正興(まさおき)に、ぜひ修交通商条約を締結したいと希望を述べていた。新見は日本に帰国してから正式な返答を出すと約束し、帰国した新見の報告に基づき幕府は文久1(1861)年5月11日、アメリカ公使・ハリスを経由しハワイ国王に感謝の贈物をしたが、同時に、「やむおえない国内事情により通商条約は結べない」と伝えている。この様にハワイ側は、何年も前から日本と条約を結ぶ希望を持っていたわけだ。  
ハワイは1778年にキャプテン・クックに発見されて以来、多くの白人の持ち込む疫病がその免疫を持たない原住民の間に蔓延し、1860年代には、原住民の人口が4分の1程度にまで激減していた。また以前に認められていた土地所有法により白人資本が入り込み、1850年代からサトウキビ農場が大規模に経営され始めていたが、とにかく人手が足りず、1864年暮れに制定された移民法により支那から更に多くの移民はあったものの、支那以外からの移民も要望され始めたのだ。  
こんな中でヴァン・リードは、ハワイ王国のワイリー外務大臣とつながりのある自身のネットワークを通じ、日本・ハワイ通商条約の必要性や日本移民の受け入れについて話す機会があり、ヴァン・リード自身も日本に於けるハワイ王国の代表を勤めたいと、直接自身の要望をハワイに出したようだ。こうしてワイリー外務大臣が、オーガスティン・ハード商会と深いつながりのあるという横浜在住のヴァン・リードの名前を知り、日本からハワイに向けた移民の可能性やそのコストを訊ねてきている。そしてワイリー外務大臣は1865年4月6日付でヴァン・リードを日本駐在のハワイ総領事に任じ、日本との通商条約締結や移民導入を推進しようとした。しかしその後ハワイの外務大臣はワイリーからバリグニーに替わったので、ヴァン・リードは1866年の1月にハワイを訪れ、更に通商条約や日本移民受け入れについて話しをした。またこの帰り道に、ヴァン・リードの乗った船がウェーキ島で座礁沈没し、九死に一生を得て横浜に帰り着くというおまけまであった。  
ハワイ総領事の肩書きを手に入れた後ハワイに渡り、バリグニー新外務大臣とも直接面会しホノルルから横浜に帰ってきたヴァン・リードは、当時のアメリカ代理公使・ポートマンの仲介で幕府と接触し、新任総領事の謁見をしてもらおうと試みた。しかし第2次長州征伐に忙しい幕府は、「今は出来ない。後日にまた」と新任総領事の謁見を断っている。この後の慶応2(1866)年5月28日、ポートマンから外国奉行宛の書簡が出されたが、いわく、  
アメリカの忠告により、ハワイの新任総領事は公式に幕府に来日の目的を申し立てる事を延期するが、日本の遣米使節がハワイ国のホノルルに立ち寄った時ハワイ国王にも面会しているから、日本の老中も面会くらいしてくれても良いはずだ。ハワイはアメリカ、ロシア、フランス、イギリスなどとも条約を結んでいるから、小さな島国だといっても日本の国体に関わることも無い。今もし日本が新たな条約を結べないとしても、ハワイ国の貿易代理人を横浜に置く許可を出して欲しい。これを拒否する事は、ハワイを嫌っているようにも解釈されかねない。  
と、少し脅迫めいた文章で書き送っている。しかしこの時期は、幕府の独り相撲の第2次長州征伐で将軍始め主要な幕閣は大阪に出張している時だから、新任総領事を謁見したり、新しい条約など結べる時期ではなかった。しかし7月になって将軍・徳川家茂が突然死亡したことにより、徳川慶喜は何とか朝廷から長州征伐中止の沙汰書を出してもらい、停戦に持ち込んだ。  
この頃にはアメリカの新任公使・バン・バルケンバーグが日本にやって来ていたが、やっと長州征伐に区切りをつけた幕府から、日本・ハワイ通商条約交渉開始の意思を伝達されたバン・バルケンバーグ公使は、あらためてハワイ総領事・ユージン・ヴァン・リードに神奈川在留許可を出して欲しいと申請し、幕府からその合意を得た。ここで一応、「ハワイ総領事・ヴァン・リード」が幕府に受け入れられたのだ。そこでアメリカ公使館では、おそらくヴァン・リードの強い希望によったはずだが、当時日本とイタリア間で締結された通商条約写しを幕府から借り受け、これを基本に条約内容の検討を進め、日本・ハワイ通商条約原案を準備した。そしてバン・バルケンバーグ公使の12月18日の要請により、日本側でも外国奉行・江連加賀守と石野筑前守及び目付・新見正興を条約交渉全権代表に任命した。  
早速、日本側全権代表の3人がハワイとの条約交渉をすべくアメリカ公使館にやって来ると、公使館には誰も正式なハワイ国王の全権委任状を持つ人はなく、提出した書状はヴァン・リードの総領事任命状だけだった。これでは何の交渉も出来ないと当然日本側は交渉拒否を伝えたが、バン・バルケンバーグ公使は、早速ハワイ王国から全権委任状を取り寄せる約束をした。こう記述している筆者にも、全権委任状なしで条約締結を試みたアメリカ公使の態度はちょっと信じられない事態だが、バン・バルケンバーグ公使は本国にアメリカ公使の仲介で日本・ハワイ通商条約を締結する許可を申請していたが、本国からは何の回答も来なかった。このため、こんなお粗末な事態になったのだろう。  
その後ヴァン・リードから幕府に宛てた慶応3(1867)年8月29日付けの書簡で、「ウォルトマン(=ウォーターマン、Waterman)氏から全権使節委任状が届けられ、共同で作成した条約に調印すべく私が全権使節に任じられた。日本側の都合がつき次第、出来るだけ早急にアメリカ公使館で調印を希望する」と、1867年1月21日付けでハワイ国王・カメハメハ五世と外務大臣が署名した、日本政府宛ての全権使節委任状を提示してきた。  
しかしここで思いもかけない横槍が入り、せっかく練り上げたハワイと日本の条約調印が出来なくなる。9月12日、外国奉行・江連加賀守と石野筑前守がバン・バルケンバーグ・アメリカ公使と会談し、  
ハワイ国王署名のヴァン・リードを条約締結全権使節に委任するという書簡を大君、すなわち徳川慶喜に提示したところ、大君は横浜の商人・ヴァン・リードの名前を良く覚えており、条約締結はともかくも、現地商人を全権使節にするなど受け入れられないということになった。更に外国公使の間からも、例え日本政府がそんな者を全権使節として受け入れても、各国公使の列には入れないなどの噂も聞こえてくる。これではまるで日本がハワイ島政府から馬鹿にされたような有様で誠に不快である。これではどういわれようとこれ以上の交渉も調印も出来ないから、バン・バルケンバーグ公使自身がその任に当たって欲しい。  
と申し入れた。更にその旨、ヴァン・リードへも書簡で通達された。  
横浜で有名になりすぎた商人・ヴァン・リードが、その名前を大君・徳川慶喜にまで覚えられてしまい、条約締結が頓挫したという全く皮肉な結末だった。将軍・慶喜にしてみれば、確かにアメリカのペリー提督、イギリスのスターリング提督、ロシアのプチャーチン提督、オランダのクルチウス商館長など一流の地位にある人物と最初の条約を調印して来た過程から見ても、例え条約締結全権使節に任じられたとはいえ、日頃から顔見知りの現役の横浜商人と国家間の最初の条約を調印することなど考えられないことだったのだろう。 
ヴァン・リード主宰の日本人ハワイ移民計画  
落胆したヴァン・リードの顔は想像に難くないが、しかし諦めてはいない。3ヶ月ほどしてヴァン・リードはまた江連加賀守に書簡を送り、今度は、ハワイ国王も親しく知っているし、アメリカ人としての自分のネットワークをも活用して日本とハワイとの橋渡しをし、この日本国のために尽くしたい。ついては適切な役職があれば日本政府に雇われたいと、「将軍・徳川慶喜の大政奉還に感服した」と言いながらこう提案してきた。江連は感謝しながら上層部へこれを上げているが、幕府は今や崩壊の危機に面している最中で、そんなことに関わっている暇はなかった。ヴァン・リードは何とか幕府中枢とコネを作り、まだ条約締結を推進したかったように見える。  
しかし、この直後には幕府と、薩摩・長州中心の朝廷側との間に鳥羽・伏見の戦いが始まり、将軍・慶喜は江戸に待避、謹慎し、突然新政府が旧幕府に取って代わったが、この突然の政変にかかわる混乱の真っただ中に投げ込まれたのが、ヴァン・リードが主宰する日本人のハワイ移民計画だった。  
ハワイ総領事に任じられて以来のヴァン・リードは、まず通商条約を結べばその後に移民計画は自然と付いて来ると考え、条約締結に全力を集中したが、上述のように土壇場で将軍・徳川慶喜の反対で完遂出来なかった。そこでヴァン・リードは移民計画の実行に注力しはじめ、おそらく親しくしていたのであろう半兵衛と呼ぶ旅籠経営者とその仲間に依頼し、ハワイ移民希望者を募り始めたようだ。そしてこの時、かって幕府がアメリカに発注した鋼鉄軍艦・ストーンウォールがハワイ経由で江戸に回航されて来たが、ハワイ政府はこのストーンウォールに託し、明治1年4月3日(1868年4月25日)、ヴァン・リードが準備を進めるハワイ移民の前金の原資としての1925ドルを届けてきた。ここに至って、それまでヴァン・リードが準備し進めてきた移民計画に拍車がかかり、急速に動き出したのだ。  
新政府になった明治1(1868)年4月17日、日本駐在ハワイ国総領事・ヴァン・リードの名の下に神奈川裁判所総督・東久世通禧へ宛て、  
賄いと医者の手当ては除き、給料1ヶ月4ドルで3ヵ年雇用の職人350人が出航準備を整え待っているので、速やかに印章(=パスポート)を交付いただきたい。雇用契約完了の後は、無賃で日本に送り返す事を約す。サイオト号に乗組んでいる日本人の180人に先の鎮台(=幕府・神奈川奉行所)から与えられた印章は返却するので、改めて全員の新しい印章を交付願いたい。  
というパスポートの交付申請が出された。その後1週間あまりにわたり、ヴァン・リードから何回も印章発行の督促状が出されたが、4月24日、神奈川裁判所組頭・高木茂久左衛門から、  
我国人350人を農業手伝いのためハワイへ連れて行きたく、免許を欲しい。その内の180人は旧幕府から免許を受けている等々、という申請は承知している。しかしハワイとは未だ条約を結んでいず、理由のいかんに関わらず許可できない。強いて連れて行きたいのなら、条約を結んだ国の公使が証人になれば許可すると判事・寺島陶蔵から提案している。また180人分はいったん免許が出ているとはいえ、旧政府の処置であり、それを採用する事は出来ない。  
と、ヴァン・リードに宛てた拒否回答が来た。そこでヴァン・リードは折り返し同じ24日付けで、神奈川裁判所判事・寺島陶蔵(宗則)に宛て、  
旧大君政府の処置は新政府でもこれを全て実行する旨、外国公使から聞いている。日本人180名のパスポートは12日前に発行済みであり、この180名は新政府になる3日前からサイオト号に乗船していて、もう10日になる。許可を待つ間の船の毎日の出費もかさみ、これ以上の滞留は出来ない。この船の横浜運上所の入港手続きも終わり、英国領事も(出航に)必要な書類を船長に渡したので、明朝出帆予定である。自分にはもうこれを差し止める権限はない。もし新政府が旧政府の処置を実行しないなら、これまでにかかった費用を払い戻して欲しい。そうでなければパスポートを出し船を出港させて欲しい。我がハワイ政府は、旧大君政府と同様に皇帝陛下の新政府とも親睦を望んでいる。  
と、明治1年1月20日に当時の外国事務総裁・仁和寺宮嘉彰(よしあきら)親王が各国公使宛の書簡で、「今般、天皇が自ら条約を取結ばされるので、以後も引き続き、これまでの通りの條約を全て遵守すべき旨、勅命を受けました」と伝えた言葉の通り、旧幕府政権の約束をも全て実行するよう求めてきたのだ。  
当初ヴァン・リードが幕府にパスポートの申請をし許可された人数は350人分であったが、ハワイ政府から届いた原資で確保できたバーク船・リサイフ号の都合で180人に変更になり、170人分のパスポートはいったん幕府に返却した。そして今回、その理由は不明だが、ヴァン・リードはリサイフ号の代わりにサイオト号を確保し、すでに幕府から発行されたパスポートを持ち船で待っている180人分のパスポートもいったん新政府に返却し、改めて合計350人分を再申請したのだ。ヴァン・リードは4月27日の弁明書の中で、「新政府になったから、旧幕府のパスポートより新政府発行のものが適当と判断したので、180人分も再発行を願い出た」、と言っている。何でもいいからと送り出しだけを考えていたら、ヴァン・リードはこんな良心的なことをせずとも不足の170人分だけを申請すればよいわけで、ハワイ国の総領事として、明らかにハワイと日本両政府間の信義を考慮した行為に他ならない。  
このハワイ行きパスポート発行を船に乗って待っている間に、180人は病気その他の理由で約150人位に減少したようだ。この150人の日本人を乗り込ませた船はイギリス船・サイオト号だったが、パスポート発行の遅れに痺れをきらせたこのイギリス船は、ヴァン・リードから寺島陶蔵への書簡の通り、4月25日パスポートも無しに出航してしまった。この出航を知った神奈川裁判所が、いったいどうなっているのだとヴァン・リードに詰問しても後の祭りだった。ハワイ総領事・ヴァン・リードは、始めから新政府首脳も、「新政府は以後も引き続き、これまでの通りの條約を全て遵守する」と約束したように、政府が変わろうと、いったん外国に約束した事は日本国として実行しなければ国際信義にもとるといい、新政府は、いずれにしても条約未締結国への渡航に印章は発行できないといい、一種の水掛け論だった。新政府は、パスポート発行の結論を待たず、印章なしで勝手に出航した事は日本政府への軽蔑だと、ヴァン・リードの行為を全く許せなかったのだ。  
そこで神奈川裁判所総督・東久世通禧はヴァン・リードがアメリカ人だということで、アメリカ公使・バン・バルケンバーグにその善後策を相談した。アメリカ公使は、アメリカの法律ではその罪状が判明しない限り罰することが出来ない。そのために日本側が今回のヴァン・リードの行為を吟味する必要があるのなら、アメリカ領事館で裁判を行うのが相当だが、運送した船はイギリス船だから、船に関してはイギリスの裁判に委ねるのが相当である。しかし、ヴァン・リードがハワイ国総領事として行った行為なら、アメリカ公使の自分が深く関与する事は出来ないといってきた。これは典型的な不平等条約に基づく領事裁判であり、更に独立国のイギリスとハワイが絡み、アメリカ政府は介入できないという非常に複雑なケースだ。東久世は更に毅然とした態度をもって、不法に無断で連れ出された日本人を連れ戻すが、その費用はヴァン・リードに償わせた上で国外退去にするとアメリカ公使に伝え、合わせて各国公使にも伝え、その意見を求めた。もちろん、自国に直接関係無いことに嘴を入れる公使は誰もいなかったし、アメリカ公使は、イギリス船・サイオト号が横浜を出航する時に、何故横浜裁判所の役人は手をこまねいていてサイオト号の出航許可を出したのかと、逆にいぶかりもしている。  
翌明治2年4月29日、外国官副知事・寺島宗則はアメリカ公使と話をし、公使の勧めで日本の役人をハワイに派遣する腹を決めたが、しばらくして日本人移民が不当待遇に苦しんでいるという噂をも聞き、釈然としない新政府は、その年の9月に使節のハワイ派遣を正式決定し、この明治元年にハワイに渡った、いわゆる「元年者」移民たちの中の帰国希望者40人をハワイから日本に連れ帰っている。しかし総勢150人ほどもハワイに渡った中で、帰国希望者は40人のみだったから、現地の事情は期待より悪かったとしても、言葉が通じない不便があったとしても、4分の3弱の人達はまだ頑張れるという労働環境だったのだろう。だから日本からわざわざ使節がやって来て、帰国という援助の手を差し伸べても、70%以上もの大多数は、自らハワイでの仕事を選び帰国を願わなかったのだ。もっとも、日本政府からハワイ政府と交渉のため使節・監督正(かんとくのかみ)・上野敬介が現地に来て交渉を始めると、上野の報告書によれば、現地の雇用主たちは日本人を手放したくないと、1ヶ月4ドルの給料を15ドルへと大幅に引き上げたという。恐らく勤勉な日本人を再評価しての事だったろう。これから見ると、日本政府が心配したほど搾取される劣悪環境ではなかったようだし、賃金も日本での仕事よりはるかに良くなったのだろう。  
またハワイに残ったこれら移民たちのうち、3年の契約が満了した時点で、約束通りハワイ政府がヴェスタ号に乗せ日本に帰国させた人は11人だった。この3年間にハワイで死亡した不幸な人も居たが、90人が契約終了後もハワイに残ったから、サイオト号の「元年者」移民たちの内の60%がハワイを第二の故郷に選んだ事になる。 
日本駐在ハワイ総領事としてヴァン・リードを受け入れ  
新政府はその後寺島宗則を全権とし、ハワイ王国の全権使節も兼任したアメリカ・デロング公使との間で、明治4(1871)年7月4日に日本・ハワイ通商条約も結んだがしかし、ヴァン・リードを処罰する事はできず、以前の如く横浜に滞在している。そして更に、このハワイ通商条約の発効により、ハワイ王国の船が頻繁に日本に入港するようになった。しかしこれを処理できる適任者も居ない事から10月12日、デロング公使は外務卿・寺島宗則に、「外交には係わらせない」条件でヴァン・リードをぜひ日本駐在のハワイ総領事に認めて欲しいと懇ろな要請をし、寺島宗則も10月19日、ついにこれを受け入れた。  
日本の歴史記述の中にはこの「元年者」移民の事件をもって、当時の明治新政府の怒りをそのまま代弁し、ヴァン・リードを悪徳商人呼ばわりしたものもあるようだが、筆者には、外交官に必要な注意深さやセンスが不足し、政府が入れ代わるという日本の激変するタイミングに合わすことが出来ず、初期投資の回収を急ぎすぎてサイオト号を出航させるなど決定的な間違いを犯し、外交官になれなかった人物とは映っても、必ずしも悪徳商人だったとは思われない。  
新政府はこんな経験から、領事裁判や自主性のない関税率改定など外交の不平等な点も含め、強く条約改正を模索することになってゆく。その条約改正はしかし、次に述べる岩倉使節団の中に書くが、日本側の期待に反し一朝一夕に事が運ばないことを痛感することになる。 
アメリカ政府とハワイ王国との関係  
こんな風に、アメリカとハワイを股に掛けて活動するアメリカ人とハワイとの関係について、少しアメリカ政府の公式見解を記す。アメリカ公使・バン・バルケンバーグの後任として、明治2年10月デロング新公使が日本に着任したが、アメリカの国務長官・フィッシュからデロングに宛て次のような書簡が届いている。いわく、  
日本とハワイ間の条約が、イギリス公使の仲介で締結されようとアメリカ公使の仲介で締結されようと、何の異議を申し立てようとの考えもない。しかしながら、数多くのアメリカ国民がサンドウィッチ島(ハワイ)に居て、中にはそこの高官になっている者が居るが、日本国政府と同様アメリカから独立しているハワイ政府の方針や行動に、アメリカ政府は何の責任も無い事実を、貴官は日本政府に明瞭に理解させねばならない。  
若しサンドウィッチ島に住むアメリカ市民が日本に行き、そこで法律を犯した場合、彼らが単にサンドウィッチ島に住むというだけで罰せられないで済ます事は出来ない。それどころか、彼らがハワイの法律に基づき正当にハワイに帰化した証拠を提示できない限り、アメリカ政府が彼らの上に司法権を及ぼすに何の例外も無い。  
この文頭の「イギリス公使、アメリカ公使」の件は、上述の如く日本政府が条約締結全権使節としてのヴァン・リードを拒否したので、ハワイ政府はアメリカ公使バン・バルケンバーグの仲介を求めた。しかし、なぜか当時のアメリカ国務長官・ワッシバーンから明確な回答が来なかった。そこでハワイ政府は再度イギリスに仲介を求め、イギリスのハリー・パークス公使が明治政府へ接触して来た。アメリカの後任公使・デロングがフィッシュ国務長官にこの経緯を報告し、日本とハワイ間の通商条約締結を仲介する件に関し、本国の指示を求めて受けた回答書簡の一部である。この結果、デロング公使は日本にアメリカ政府の仲介を推奨し、前述の如くハワイ王国の全権使節も兼任したアメリカ・デロング公使を通じ、日本とハワイとの通商条約締結に至った。  
このフィッシュ書簡は特にヴァン・リードだけを意識した書簡ではないが、アメリカ政府の自国民取り扱いと他国政府に対するアメリカ政府の立場の明確な表明だ。そこで、ヴァン・リードがハワイ政府から公式に任命されていた条約締結全権使節の権限を幕府や明治新政府が自ら拒否した形だから、このいわゆる「不法移民」取り扱いについてアメリカ政府に頼れず、条約は無くてもまず自らハワイ政府に使節を送り、移民帰国の交渉をせざるを得なかったようだ。 
日本の「新聞の歴史」に登場するヴァン・リード  
以上は外交畑に躍進しようとしたヴァン・リードの顔である。その流れから少し外れるが、しかしまた、日本の「新聞の歴史」にもヴァン・リードは登場する。ヴァン・リードがジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)と友人であった事は上に書いたが、ヒコは横浜で岸田吟香と組み、元治1(1864)年6月28日最初の日本語新聞といわれる「海外新聞」を発行した。しかしこれは数ヶ月で廃刊になったという。今度は明治1(1868)年閏4月11日、ヴァン・リードと岸田吟香とが組み、日本語新聞の「横浜新報もしほ草」を発行し始めた。発行者は「(横浜の)93番・ヴァン・リード」となっていて、その第1号の始めに岸田吟香は、93番・ヴァン・リードの名の下に、  
さきにヒコゾウの新聞誌ありしが、かの人此の地を去りしのちは久しくその事絶えたりしに、去年正月、我が友人ベーリイ万国新聞紙を版行せしが、これも第十篇まで出版してやみぬ。余(よ)深くこのことをなげきておもえらく、新聞紙ははなはだ有益のものにて、今は世界中文明の国にはこのものなき国はあらず。然るに日本にていまだこの事盛んに行われざるゆえんは、けだし新聞紙の世に益ある事をしるものすくなきと、これを編集する人の自ら学者ぶりて、むずかしき支那文字まじりのわからぬ文を用いる事と、且は出版のおそくなりて、時おくれのめずらしからぬ評(こと)をかきのせることとによる成るべし。余が此度の新聞紙は、日本国内の時々のとりざたは勿論、アメリカ、フランス、イギリス、支那の上海香港より来る新報は即日に翻訳して出すべし。且つ月の内に十度の餘も出版すべし。  
と、「もしほ草」出版にいたる経緯を書いている。  
この時の京都の明治新政府は、3月14日に五箇条の御誓文を出し、閏4月21日に政体書を出す時期だったし、また関東では4月11日に江戸城引渡しが行われた直後だったから、まさに新しい新聞発行のタイミングだったわけだ。「もしほ草」は、閏4月11日の初篇のあと、第2篇が閏4月17日、第3篇が29日、第4篇が21日、第5篇が24日、第6篇が25日、第7篇が28日と頻繁に発行されている。何故第3篇の日付けが閏4月29日なのか不思議だが、あるいは19日の間違いでミスプリントだったのだろうか。新聞発行は届出の許可制で幕府による規制を受けた当時、横浜のヴァン・リードが発行者になることで、治外法権として幕府の規制や、あるいは新政府が6月8日に「新聞発行は官許を得べし」との太政官布告を出し、その後翌年3月に新聞監督責任者の開成学校に関し、「外国人、国字を以て出版する者は、各地運上所にてこれを監し、毎事必ず裁判所に報知すべし」と布告を出し、神奈川裁判所が規制に乗り出すまでなんらの規制も受けなかった。  
このようにヴァン・リードは、開港当時の横浜でいろいろな可能性にチャレンジし、一旗揚げようと努力した、典型的な活動的アメリカ人の一人だったように見える。 
11、米国に於ける岩倉使節団とその活動  

 

岩倉使節団の結成  
条約改正の議論  
版籍奉還のあと廃藩置県をやり遂げた新政府内に、懸案であった領事裁判権を撤廃し、関税自主権を回復し、名実共に平等な条約を模索する条約改定の議論が起り始めた。特に前ページのヴァン・リードの項で記述したように、ハワイへの「元年者移民」で問題になった、日本の規則に反し移民を送り出したと怒る新政府が、当事者のヴァン・リードを直接処罰もできないという領事裁判権を撤廃する願望は特別に強かった。しかしこんな治外法権を撤去し、関税自主権を回復し、各国と対等の条約にしようとすれば、日本国内の法制度を外国と同等に整備し、外国人との雑居が出来るようにしなければならない事もまた明白に理解されていた。そのためには、早急に各国の制度、文化、風俗、技術、産業、交通、軍備など良く勉強した上で対策を立てることが必要と考えられたのだ。  
こんな中で、明治3(1870)年4月の外務省内評議では、今から約2年後に各国と条約再検討の機会が来るが、今から準備し議論を煮詰める必要があると建議され、モデルとして、イギリスが過去から現在までに結んだ諸條約を翻訳し、内容をよく理解し、諸條約国と互角に議論できる準備をせねばならないと提案された。そしてこのための取調掛を任命し、翻訳方数名の任命をも決めたのだった。  
もっともこれ以前に、新政府が出来た当初の明治1年の暮れにも、当時の東久世外国官副知事より各国公使へ、新政府になったから旧幕府の締結した条約を改正したいと申し出た事があった。しかし、「何処をどの様に変えたいか具体的提案がなければ、本国と連絡を取り談判の手筈も整えられない」と各国から回答され、国内ではまだ蝦夷共和国の動きにからみ戦争もある混乱期だったから、外務卿・澤宣嘉が2年半後に再開したいと答え、この件は沙汰止みになった経緯がある。そこで今回はその2年半後を目指し、準備を整えての再チャレンジだったのだ。  
そして各省からは、新条約に向け夫々どんな改定が必要か意見が出されている。例えば輸出入関税について、大蔵省の大久保卿から太政官正院に宛て、  
現條約は、輸出入物品税や貿易規則など全て條約書に盛り込み、その改正は日本と条約国の合意が無ければ変更できず、自主の権利を妨害されている。・・・今回の条約改正で昔の失策を挽回し、累年の宿弊を正し、日本固有の権利として保持したい。・・・この点を良く検討し、万国普通の公理に則り、従来闊歩した宿弊から脱し、至公の條約に改定し、現條約の輸出入税目などは全て我国の意志で決め、物産の多寡や流通の実情に応じ適正に処分決定できれば、物産の利益や富強に向けた基礎が出来、従って特別な威信も備わるから、この条約改正は実に国家の隆盛に関わる重大事である。  
と申請が出された。前ページの「廃藩置県」の項でも述べたが、自ら参議の職から引き下がり、大蔵卿として国家の財政を見始めた大久保利通にとって、輸出入関税一つ変えるにも条約改正のように大掛かりな交渉が無ければ改正できないという現条約の弱点、すなわち「関税の自主権」を回復する事は焦眉の急であった。  
新政府によって廃藩置県を断行し、真に内政を統一した今、次に外政に着手する事は討幕を決意した時からの課題だったし、不平等條約の領事裁判権や関税の自主権回復は一人前の独立国になるための通過関門であり、大いに議論が沸き立った。更に外国公使との交渉に際しても、イギリスのハリー・パークス公使のように、感情に任せて机を叩き大声を出すなどの非礼極まる振る舞いが旧幕府時代からあり、新政府になっても変わらなかった。対等国間の国際慣例からすれば、こんな非礼極まる行為は、日本がその政府に申し立てその公使を召還させる権利もあるが、日本とイギリスの国力の差から新政府はそれも我慢してきた経緯もある。三条実美が勅を奉じ、特命全権大使を欧米に派遣しようと決定する直前の明治4年9月、岩倉具視に書簡を送りその意見を聞いた中に、次の一節が有る。いわく、  
各国政府や各国在留公使も、東洋は一種違った国体や政治風土だと認識し、異なった対応と異なった慣用手段で談判に臨み、我が国の法律が行き渡るべき事も彼らに及ぼす事が出来ない。我が権利に帰すべき事もそう出来ない。我が規則に従うべき事も従わす事が出来ない。我が税法に従うべき事も、彼らをそれに従わせられない。我らが自由に処置すべき道理がある事も、これを彼らと協議せねばならない。その他国内外に関する全てに亘り、彼らと対等で東西平等の交際ができない。甚だしい例では、公使の喜怒により、公然の談判も困難を受けるようになる。そもそも対等国の政府は、在留公使で不適当な者があれば、公法によってこれをその本国に送還するほどの権限があるべき筈なのに、この様に陵辱を受ける関係の下では、対等平等の国権を有するとは云えない。平等対等の交際をしているとは云えない。  
と、その不平等と公使の暴挙とを挙げている(「岩倉公実記」)。  
こんな経験もあり、早急に分裂した国体を建て直し、国権を中央政府に統一し、制度や法律を一新し、筋の通った政治を行い、民権を確立し、政令一途国論を統一し、列国と比肩できる基礎を建てねばならないという事が、国を挙げての悲願だった。そのために各国に使節を派遣し、新政府発足を伝え和親を促進し、万国公法に基づく条約に改定したいと日本の論点を説明し、前交渉を行い、更に欧米の政治システムや法整備を学び、科学技術の進展や軍備の調査などを目的に、米欧に向けた使節派遣が決定されたのだ。  
使節の任命と約束  
明治天皇は明治4(1871)年10月8日、右大臣・岩倉具視を特命全権大使に、参議・木戸孝允、大蔵卿・大久保利通、工部大輔(たいふ)・伊藤博文、外務少輔(しょうゆう)・山口尚芳(なおよし)を特命全権副使に任じ、その他の書記・理事・随行・通訳など合計48名に米国と欧州派遣を命じた。使節団の11月4日の発遣式にあたり天皇は、  
今般、汝らを使いとして海外各国に赴かせるが、朕は素より汝らがよくその職を尽くし使命に耐える事を知っている。よって今、国書を与える。よく朕の意を知り、努力せよ。朕は今から、汝らがつつがなく帰朝する日を祝すことを待っている。遠洋の渡航だから、万が一にも自重せよ。と云う勅語を下すと、自ら国書を岩倉全権大使に授けた。  
こうして岩倉使節団がアメリカやヨーロッパに出発することになったが、しかし当初は、岩倉、木戸、大久保といった新政府の原動力であり中枢である人々が、長期にわたり外国に行くことに多くの異論があった。主要な使節団人員決定に関し朝議で時間を費やしたが、参議・西郷隆盛が太政大臣・三条実美を補佐し、更に大蔵省の監督までし、板垣退助以下皆で政府の責任を持つとの合意によりようやく人選が決まった。そして更に出発を前にした11月7日、海外に行く使節一同と国内で政務をとる一同の間に意思の疎通は欠かせないし、同じ方向で協力せねばならないと、基本事項についての誓約書を作った。これは12ヶ条にわたる基本事項の合意書で、その目的とするところは、  
万一議論矛盾し目的差違を生ずる時は、国事を誤り国辱を醸すべきにより、ここにその要旨の条件を列し、その事務を委任担当する諸官員連名調印し、一々遵守してこれに違背なきを証す。と云うものだった。  
岩倉使節団の出発前にこんな約束までなされたが、つまるところこれは、これまで過去に例を見ないスピードで変革してきたが、使節団の帰国までこれ以上何も変えるなということだ。万一変える時は、外遊中の全権大使一行の意見を聞けということだ。現実面ではしかし、今までの改革の歪から毎日のように矛盾が国内の方々で噴き出すから、改革が一段落するまで現状維持はとうてい不可能だったし、外国にいる一行に連絡するだけでも時間がかかる。三条を支えると言った西郷は、その後こんな約束には見向きもせずどんどん改革を進めたから、結果的に気休めの約束に過ぎなかった。  
またその裏を返せば、それまで西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通、岩倉具視などが、いかに変革エネルギーの中心になって改革を主導していたかを物語るものだが、今回は国内を預かる一方の旗頭の西郷隆盛にとって、必要な時の必要な変革は避けて通れないものでもあったのだ。 
アメリカの首都・ワシントンへの旅  
日本出発  
明治4年11月10日(1871年12月21日)に東京を出発した使節一行は、同年11月2日付の外務大輔より各国公使宛書簡の付属書によれば、この時の総員は48人で、12日に横浜から太平洋郵便蒸気船・アメリカ号に乗船し、最初の上陸地・サンフランシスコに向け出航した。そしてアメリカ駐日公使・デロングもこの一行に付き添っている。当時全権大使随行として参加した久米邦武が記録・編纂した、「特命全権大使・米欧回覧実記」(以下「実記」)にこの船の記述があるが、4554トンの大型蒸気船で、合計92人収容の上等・次等の客室があったという。その他の大部屋などを合わせれば、1500人は収容できただろう大船だった。  
このアメリカ号はニューヨークの造船所で造られ、当時アメリカでは最大の木造蒸気側輪船で、1869年に太平洋郵便蒸気船会社に引き渡され、アメリカ政府と契約しサンフランシスコと横浜・香港間の定期郵便船として就航した。当時最新の大型郵便客船だったが、しかし残念なことに、岩倉使節団を乗せた翌年8月24日、横浜に停泊中火災が発生し沈没してしまった。また同じ頃就航した木造姉妹船のジャパン号も、それから2年後に香港出航後火災が発生し沈没しているから、一般客を乗せる木造船に火は禁物で、消火ポンプを備えてはいても火災には弱かった。  
このアメリカ号には、使節団と共にアメリカや欧州に行く留学生の54人も一緒だったが、この留学生の中には4人の若く幼い女子も含まれていた。こんな若き留学生たちの事跡は、また記述する機会が来るであろう。  
サンフランシスコ  
横浜出航以来、航海22日をかけて太平洋を渡ったアメリカ号は、明治4年12月6日(1872年1月15日)無事サンフランシスコに着いた。サンフランシスコでは現地駐在の日本国領事・ブルックスをはじめ領事館員の出迎えを受け、モントゴメリー街のグランド・ホテルに入った。ほぼ12年前の日本から、日米修好通商条約の批准書を携えた幕府の使節が来て以来の大型使節団だから、サンフランシスコは全市を挙げて歓迎した。  
知事が歓迎のためホテルを訪れ、陸海軍の将官が歓迎に訪れ、サンフランシスコ駐在の各国代表者が訪れ、豪商たちも歓迎に訪れた。ホテルの前では砲兵隊の楽団が使節を歓迎する演奏をし、多くの市民が集まった。その前で岩倉全権大使がスピーチを行い、日本から同行したアメリカ公使・デロングがその内容を読み上げ、自らもスピーチを行った。岩倉具視のスピーチいわく、  
天皇陛下の勅命を奉じ締盟各国に使いするその始めにサンフランシスコに来て、諸君より懇篤な接待を受け喜びに耐えない。我が国がアメリカと親しい関係を築いて以来、両国が強い友情で結ばれているのは真に通商の力による。それにより、我が国民が開化の国風を知る事が出来、海外の技芸・学問・物産・製造及び機械の諸術を研究し、良く理解したいと思う。今回の使節派遣の真意は、各国との親誼をより固くすることと、公正な政府とその国民の心の広さが、どのような繁栄をもたらしたかを見るためである。また、貴国の技芸・学問・物産・機械から、大小の学校、訴訟裁判の法制に至るまで良く見て、将来我が国に実施する参考としたい。これが我が国の繁栄への道であり、貿易は両国に利益をもたらすであろう。諸君のこのような心遣いと歓迎を天皇に伝え、日本全国の民衆も感謝に耐えないことと確信する。  
日本ではかって人々が断固として尊皇攘夷と叫び、岩倉具視が中心人物の1人として徳川慶喜の征討軍を発し、戊辰戦争が始まって以来ほぼ4年後に行われた岩倉のこの、「両国が強い友情で結ばれているのは真に通商の力による」というスピーチだったが、如何に当時の日本国内の政治変化と西欧化が急であったか、改めて心を動かされるものだ。  
一方、この10年前に始まり4年間続いたアメリカの南北戦争では、アメリカ合衆国が北部と南部に二分し、4年間に北軍で36万人、南軍で25万人、合計61万人にも上る戦死者を出した。筆者は2年にわたる戊辰戦争の戦死者数の詳細を知らないが、勝手に約1万5千人程と想定しても、日本国を二分し政府が入れ替わったほどの日本の国内戦争とアメリカを二分した南北戦争との戦死者数を比較してみると、日本の戦死者はアメリカの40分の1以下と、当時の日米の文化的背景や生死感、及び勝敗の思考形態の二国間での特異性が際立つ事も事実だ。  
使節団が渡米したこの時のアメリカでは、南北戦争の激戦地・ゲティスバーグの戦いで敗北し追い詰められ、更にまた激戦地・ピータースバーグをも撤退して南下途中の南軍総司令官の将軍・リーを捕虜にし降伏させた、北軍総司令官の将軍・グラントが大統領になっていたが、岩倉使節団は首都・ワシントンでこの南北戦争の英雄・グラント大統領に会う事になる。  
使節団はその後サンフランシスコにある大きな馬車製造工場を見学し、ブランケットやカーペットを造る毛織物工場を見学し、動物園や植物園、博物館などの建ち並ぶ公園を訪れた。更にサンフランシスコ湾内を蒸気船で遊覧し、かって咸臨丸を修理したメーア島の海軍造船所も見学した。また女学校や小学校も見学し、サンフランシスコの名士たちから自宅に招待されてもいるが、全てにおいてアメリカの裕福さを実感する体験だったようだ。  
ワシントンへの大陸横断鉄道の旅  
サンフランシスコで歓迎を受け先進技術を見学した後の12月12日、サンフランシスコから船で対岸のオークランドに渡り、そこから汽車で首都・ワシントンDCに向けアメリカ大陸横断の旅に出た。この旅は、使節一行と留学生の外にも同行しているデロング公使の家族も一緒だったから、全員が5両の客車に分乗していた。  
汽車はオークランドからサンフランシスコ湾の東海岸を南下し、湾の終端辺りで東に折れて山を越え、サンオーキン平野を流れるサンオーキン河を渡り、サンオーキン平野の中でも比較的大きなストックトンの町を経由し、そこから北上しカリフォルニア州の州都・サクラメントに着いた。ストックトンの手前の平野を横断する汽車の窓からは、地平線が果てしなく続き、北東方向には山も樹木も見えず、ただ青草が地平線まで絨毯の様に続き、まるで青草の海原の中を行くようだった。現在でも、南北に650km、東西に100kmもある細長く広大なこの平野を車でドライブする時は、ほとんど耕地になってはいるが、当時使節一行が見た広い風景がある。  
サクラメントで12泊し、州議会を表敬訪問し州政府のシステムを学んだ後、一行はまた汽車で東に向かいシェラネバダ山脈を越え、ネバダ州を横断し、12月26日(1872年2月4日)の早朝、ロッキー山脈の西麓にあるユタ地区ソルトレーク湖東岸のオグデン駅に着いた。この1872年当時のユタはまだ州になっていないから、オグデンも人口3千人ほどの町だった。オグデンに着くまで、シェラネバダ山脈を越える最中の外気は吹雪いて寒く一面の雪景色だったが、客車の窓ガラスは2重で蒸気暖房も良く効いていたから、花毛氈の上に腰かけ銀世界を眺めながらの快適な汽車の旅で、日本では想像もつかない旅だったようだ。オグデンを出るといよいよロッキー山脈を越えることになるが、ロッキーにも大雪が積もり汽車は動かないという。そこでオグデンの南にある中心都市・ソルトレーク・シティーのホテルで除雪を待つことになったが、ここにも雪はかなり積もっていた。ソルトレーク・シティーには18日間も缶詰になり、やっと明治5年1月14日(1872年2月22日)オグデンから汽車に乗り、東に向けて出発することが出来た。  
途中ワイオミングの広大な丘陵地帯の草原を過ぎ、ミズーリー河岸のネブラスカ州オマハに着いたが、オグデンからオマハまでの約1600kmを3日間も汽車に乗りっぱなしだった。ここで汽車を乗り換え、更に引き続き約800kmの汽車の旅で、18日にやっと大都市・シカゴに着き、ホテルに入ることができた。シカゴはこの前年の10月に大火があり、繁華街の大半を焼き、2万もの家が消失した。岩倉使節一行はこの被災地を見て回ったが、世話になっているアメリカの災害を見て、5千ドルの寄付も忘れなかった。  
シカゴのホテルで1泊した一行は、19日の夜にまた汽車に乗り、インディアナ州、オハイオ州、ペンシルバニア州、デラウェア州を過ぎ、21日の午前11時にメリーランド州バルチモアに着いた。バルチモアは当時27万人の大都市だったから、市中を通る鉄道は、安全のため北駅で客車をいったん切り離し、夫々を6頭の馬で南駅まで牽引し、あらためて機関車に接続するという珍しい体験をした。そして最終地のワシントンDCに向かい、午後3時に議事堂の傍らにある駅に無事到着した。  
駅には日本から派遣されている現地駐在辨務使・森有礼をはじめ、アメリカ政府の接待係代表が出迎え、岩倉使節一行はアーリントン・ホテルに入った。明治4(1871)年12月12日にサンフランシスコを出発してから、翌年1月21日まで、1月以上をかけて首都・ワシントンに着いたのだ。カリフォルニア州都のサクラメント表敬訪問を除き、大陸横断に7日を想定していた予定を大巾に超過し、ロッキー山脈越えで雪に前進を阻まれ、ソルトレーク・シティーで18日間も缶詰になりながらも、汽車によるアメリカ大陸横断はインパクトの強い体験だったようだ。  
アメリカでは、特に南北戦争が終わった直後から政府の後押しで鉄道網開発が促進され、多額な投機的民間資金も投入され、全国的に急速に蒸気鉄道網が設置されて行った。この1866年から1873年にわたる鉄道建設ブームはやがて終息し、経済危機にもつながってゆくが、岩倉使節一行の大陸横断時は鉄道事業拡大の最も華やかな時期だった。 
大統領会見と条約改定交渉  
グラント大統領の歓迎と会見  
汽車で明治5(1872)年1月21日ワシントンDCに着き、雪の降る中アーリントン・ホテルに腰を落ち着けた岩倉使節一行は、綺麗に晴れ上がった25日、正副大使は衣冠の正装で、書記官は直垂姿で、明治天皇よりの国書をホワイトハウスに持参し、グラント大統領と会見し直接手渡した。国書いわく、  
朕、天の加護を得て萬世一系の皇統を継ぎ、天皇の位に就いて以来、未だ使節を派遣し和親の各国訪問をしていない。よって朕が信任する宰相右大臣・岩倉具視を特命全権大使となし、参議・木戸孝允、大蔵卿・大久保利通、工部大輔・伊藤博文、外務少輔・山口尚芳を特命全権副使となし、各々に全権を与え、貴国及び各国に派出し、訪問の礼をおさめ、益々朕が親好の意を表したい。かつ貴国と結んだ条約改正の時期は迫り来年であるが、朕が希望し意図するところは、人民に開明各国と等しい公権と公利を保有さすべく従来の条約を改正したいが、我が国の開化は未だ行き渡らず、政治や法律も異なり、時間をかけずしてその希望成就はない。故に、努めて開明各国に行われる諸制度を選び、我が国に適するものを採り、徐々に政治と習慣を改め、文明諸国と対等の位置を保ちたい。ここに我が国の事情を貴国政府に諮り、その考案を得て、現今と将来に向けた制度改良の手段を商議させる。使節帰国の上条約改正を審議し、朕の希望と意図を達成したい。この使節は朕が信任する重臣であり、大統領閣下、その発言を信用され、待遇されんことを望む。かつ心から大統領閣下の康福と貴国の安寧を祈る。  
この様に、出来るだけ早く日本国内に西洋に比肩できる適切な制度を導入し、その上で西洋諸国と対等な条約改正を行いたいと、強い期待を表明している。使節の帰国を待って、条約改正を審議するというものだ。岩倉全権大使と会見し、日本の国書を受取ったグラント大統領は、  
我が合衆国と最初に和親貿易の条約締結を行った日本から派遣された使節を、また最初に受け入れる光栄は歴史に名を留め、我が国と我が在職期間中の美事である。・・・一国の繁栄と幸福は、彼我の有益なる点を比較し、互いにその長所を取り政治法律を改正し、人権を尊重し、全国の富強を図るには学術を採用することである。・・・日本はその建国以来長い歴史があり、我が合衆国は新国のひとつに過ぎないがしかし、我が国は旧制を改める政治を行い、すこぶる繁栄している。そもそも人民が富強幸福を受ける理由は、外国と交際し貿易を鼓舞し、人の功労を尊重し、実学を用いて工作技芸を奨励し、国内の運輸を便利にし往来する交通を迅速かつ大量にし、移住してくる人民はこれを好み、他国の改革や才芸が集まる。出版を制限せず、人の信心や優れた能力を束縛せず、宗教を自由にし、我が国民は勿論我が国に居住する外国人といえども一切制限はしない事による。これは、従来の経験に照らし、疑いのない方法である。閣下が奉命する、公法に基づく条約改正の交渉は我輩の喜びであり、両国間の貿易方法の修正は重要で望むところでもあり、国交の増進は決して怠ってはならず、真実この美事に賛成するところである。  
この様に、グラント大統領をはじめフィッシュ国務長官などアメリカ政府首脳は、日本の条約改正の希望に対し非常に友好的な考えを表明した。多国間に渡る条約改正という国際的な交渉経験がない岩倉使節団一行は、このグラント大統領の考えに大喜びし、「条約改正交渉に向けた法整備を習得し、条約改正の予備交渉をする」という初期の目的を超えて行動する事になる。しかしそれは、アメリカはよいとしても、その後各国を回り、それ以外の国々との交渉を考えると難点が少なくないことを理解し、条約交渉の難しさを痛感することになる。  
この時のアメリカの国をあげての歓迎振りは、この大統領の言葉にもある通りで、サンフランシスコからワシントンまでの旅行中も、使節一行は至る所で身に沁みて感じていた。これは言葉だけでなく、1872年1月30日のアメリカ議会で、岩倉使節一行歓迎のための「5万ドルの予算」を計上した事でも良く分かる。  
アメリカとの条約改正調印の試みと断念  
こんなアメリカ政府の真に友好的態度に勇気付けられ、2月3日、岩倉大使と四人の副使をはじめ、アメリカ駐在辨務使・森有礼やサンフランシスコ駐在領事・ブルックスも参加し、フィッシュ国務長官と第一回会談が始まった。先日大統領に手渡した国書に記載された天皇の方針と大使・副使に委任された権限を読んでいる国務長官は、  
長官:この度の使節には、条約を締結する権限はないと理解してよろしいですか?  
岩倉:条約中、改正すべき条件を協議、討論する権限があります。我々はただこれを論ずるだけで、今回の談判で互いに述べ合った事を日本で取り結ぶべき条約の基とし、天皇陛下の批准後に本書を取り交わす運びです。  
(この回答は「イエス」「ノー」がはっきり答えられていない。国務長官は再び、)  
長官:使節公は、草案書に調印する権限をお持ちですか?  
岩倉:その通りです。談判の結果を記載すべき書面に署名する権限があります。  
長官:貴国天皇陛下よりの書翰中には、その権限を与えていません。今あなたの言われることに従えば、別途その権限を与えられているようですね。  
岩倉:そうです。  
長官:この書翰には条約の条項を取決める権限は与えられていません。ただこれを論ずることのみです。  
(続いて日本での批准のタイミングの会話の後に、)  
長官:草案に署名する事は政府がその条約を履行するということで、すなわち条約だから、すでに改正をした事と同様です。  
岩倉:我々はただ、今度改めるべき条約条項を論じたいのです。そして我が政府の許可なしにはこれを決定せずとの約束だから、談判の結果を記載する書面に調印することは出来ます。  
長官:それは困難ではありません。我が方でも上院と大統領の許可を必要とするからです。  
こんな会話を見ると、出だしはうまくかみ合っていない。通訳の問題もあっただろうし、ここで日本語に訳された「草案書」という技術用語の理解が同じではなかったようにも見える。しかし、最終的にフィッシュも各条項の交渉に入ることに異存はなかったが、条約批准のタイミングを大いに気にしていた。アメリカで批准するには上院議員の3分の2以上の賛成がなければならず、2年毎にその3分の1が入れ替わるから、短期間に批准しないと上院の意見が変わる可能性があり、現政府としては大きな問題になる可能性もあった。従って現政府がやるからには、上院での批准まで出来るタイミングでないと、交渉の意味そのものがなくなるのだ。この時はグラント大統領の第1期めで、1869年3月4日に就任していたから、残すところあと1年という時期だった。  
2日後の2月5日、再びフィッシュ国務長官と会談した岩倉は冒頭、  
前回の会談の折に、自分の持参した国書に全権委任の文面がないとのお話しがあったので、その後自分の方から森少辨務使を通じ相談に及びましたが、早速同人へ必要とお思いなさる内容をお伝えいただき、これにより、当方では副使を帰国させ、天皇陛下より必要事項を明記した国書を願い受ける積りに決定しました。  
と、岩倉の新しい方針を伝えた。更なる史料を持たない筆者はこの発言から推定するしかないが、岩倉の命令で、更に突っ込んでフィッシュ国務長官と話した森有礼に、あるいは国務長官から「すぐやる方が良い」とのアドバイスがあったのかも知れない。そして、森もアメリカの友好的態度をを好機と捉え、アメリカと条約の本交渉をし、すぐ調印するよう岩倉に進言したのかも知れない。当然同行の木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳などとも協議したであろう岩倉具視は、アメリカとの条約改定・調印を決断し、副使・大久保利通と伊藤博文を日本に急きょ帰国させ、条約調印の権限を委譲する新しい委任状を申請し持ち帰ることに決定したのだ。そして新委任状入手を前提に、フィッシュ国務長官と条約改定交渉を継続している。  
そこで大久保と伊藤は明治5年2月12日にワシントンDCを出発し、3月24日横浜に着いた。早速アメリカでの状況を政府に説明し、条約交渉の要点を  
1.内地雑居の漸次拡大  
2.治外法権の撤廃  
3.信教の自由と外教禁令高札撤去  
として改正条約締結全権委任状を稟議申請した。しかし、これは当初の使節派遣目的を変更する事になるため、政府内で議論が起き許可を得るのに1月半もかかった。しかし最終的に同意を得て、5月17日新しい全権委任状を携えて横浜を出発し、6月17日再びワシントンDCに帰って来た。しかしこの4ヶ月間に、ワシントンに滞在する岩倉使節を取り巻く状況はすでに大きく変わっていたのだ。  
少し遡るが、日本政府は大久保・伊藤の要請による岩倉具視への改正条約締結全権委任状を発する事に決定すると、直ちに関係各国に向け、条約の改訂交渉と調印は岩倉使節団が出先で各国と行うとの通達を出した。これに基づき各国公使たちは自国政府と対策を協議し、あるいはイギリス公使・パークス等も打ち合わせのため召還・帰国をし始めた。そんな公使の1人、ドイツ公使・フォン・ブラントはアメリカ経由で帰国の途中、ワシントンDCで岩倉と会見した。これはまだ大久保利通と伊藤博文が新しい全権委任状を取りに日本に帰国中の事だが、フォン・ブラントいわく、日本政府の決めた外国を回っての条約改定交渉と調印は、むしろ日本政府にとって大きなマイナスであろうと述べた。その理由は、現条約に記載してある「最恵国待遇条項」にある。すなわち、アメリカとの交渉中少しでも日本側が譲歩した項目は次の交渉国にとっての既得権になり、たとへ瑣末なことでも日本側の各国への譲歩は次々に積み重なり、最終的に全ての国へ多くの譲歩をする事になってしまう、という実務上の論理だった。こんな考えは、条約交渉をしたこともない岩倉はもとより外国通を自負する伊藤博文さえも考え及ばなかったし、木戸や大久保も勿論知らなかった。  
これにはフォン・ブラントに会った岩倉をはじめ木戸や山口は大いに驚いた。言われてみれば理論上その通りで、例え岩倉といえども意見のすり合わせなしに、出先でそんなに多くの譲歩や変更の決定は出来ない。ブラントの忠告を聞いて驚愕した木戸などからは、「こんな事もあろうかと外国通を自認する伊藤を連れてきたのに、気が付かないとは困ったことだ」と恨み節も出たようだ。こんな騒ぎの後にワシントンDCに帰ってきた大久保利通、伊藤博文を含め、岩倉はアメリカと約束した条約改定調印の対策を話し合ったが、外国での本交渉と調印は中止に決定し、伊藤に一任しこの変更をフィッシュ国務長官と協議させた。汗水たらし日本から飛んで帰ってきたばかりの伊藤は、「他人の言う事を聞いて、困ってくると俺に背負わせる」と文句をいいながらも、フィッシュ国務長官に掛けあわざるを得なかった。  
伊藤は国務長官に会うと、新しい全権委任状は日本政府から交付されたが、交渉国が多いヨーロッパのロンドンかパリで一括交渉し調印したいので、アメリカからも交渉全権使節をヨーロッパに派遣して欲しいという希望を述べた。アメリカも日本での交渉ならいざ知らず、ヨーロッパまで出張し日本と条約改定交渉をする理由はないから、「お気の毒ながらそれは出来ない」とフィッシュ長官は受け入れず、条約交渉調印は白紙に戻ったという(「後は昔の記」、林董述、東京時事新報社、明治43年)。  
この著述者・林董(ただす)は、当時岩倉使節団に二等書記官として随行した林董三郎(とうさぶろう)であるから、アメリカで岩倉具視の取った条約調印の決断とドイツ公使・フォン・ブラントに会った後のその修正の経緯は、ほぼこの通りだったと思われる。これは、当時の明治政府首脳がいかに条約改定を強く望み、不平等条約といわれる各国との通商条約改定に熱心だったかが良く分かる出来事だ。当時のアメリカ政府はグラント大統領をはじめとして、日本との通商条約改定に非常に前向きで、第2期も大統領に当選したグラント大統領の下でフィッシュ国務長官も続けて国務長官を務めた。そんな経緯から、4年後の明治9(1876)年に日本政府の提案で、フィッシュ国務長官と再び改税条約が話し合われた。そして翌年引き続き、ヘイズ新大統領とエヴァーツ新国務長官の下で後に「吉田・エヴァーツ条約」と呼ばれる税権を回復した改税条約が調印されたが、その後イギリスやドイツの反対で施行できず、幻の条約に終わった。  
結果的に思わぬドタバタ劇で時間を費やしてしまった岩倉大使一行は、6月19日ホワイトハウスで大統領に謁見し友好と親切に感謝し、岩倉具視はフィッシュ国務長官の自宅も訪れ、感謝の意を表し暇乞いをした。そして一行は22日、夕方の汽車でワシントンを出発し、ボストン経由でイギリスに向かった。 
アメリカ国内の視察と研鑽  
以下の各項目は、幾つか興味深い記述が出てくる、久米邦武の「実記」を中心に書く。その「アメリカ合衆国の部」の最後に、  
アメリカの本質は、欧州から最も自主と自治の精神にたくましい人々が集まり、この国を主導している。その上、国土が広く肥沃で産物が豊富だから、自由な生産市場を開き、全てが繁栄し、世界の全勝者になった。これが米国の米国たるゆえんだ。  
と久米に言わせた国だ。この佐賀藩出身の久米は、帰国後明治政府の国史編纂を行う修史館と内閣臨時修史局に勤め、明治21年から帝国大学・文科大学教授となる歴史学者だ。  
地政学的体験  
既にサンフランシスコで多くの工場や教育関係を視察し、州都・サクラメントで州政府の実際をも見学した後、大陸横断の汽車の旅では、身をもって国の大きさを体験した。そしてシカゴやピッツバーグ、フィラデルフィアやバルチモアなど繁栄する大都市をも通過しその経済活動を垣間見て来たが、東部から西部に向けたアメリカ開拓史にも強く心を動かされたようだ。久米邦武の「実記」に次のような記述がある。  
一行の汽車がサンフランシスコから海岸山のトンネルを出て、はるかに広々とひろがるカリフォルニアの平地が、天に連なり地平線となっている様を見て以来、米国の開拓当時の様子を思い、皆の心に触れるものがあった。そして川を見ればその廻船や灌漑の様子に注意し、野を見ればその畑作りや道路に注意し、山を走ればその材木や鉱物に注意し、村の駅を過ぎればその生活状況に注意し、車中では皆が見るもの全てに開拓の話にならないものはなかった。すでにネバダやユタの貴金属鉱山の話を載せたが、ロッキー山で険しい地形の鉄路敷設、ミシシッピー河の水運、オマハでトウモロコシと移民、その他橋梁建設や道路修理、モルモン教徒が塩地を開墾し羊毛を紡織する等、全て荒地開拓の強い印象が残った。今シカゴを発しこの州(オハイオ)に来て見れば、野は熟し林は茂り人家は多く、すでに堂々たる開明・シヴィルの地域だ。・・・米国の人口の現今の全数は、我が国にほぼ相当する。しかしその数十倍もある国土をよく開墾している実績を見れば、非常に驚くべきことである。現地に行き実情を目撃すれば、かえって我が国の怠惰こそ驚くべきことのように思われる。  
これは、広大な自然を相手に開拓が進んだ現状を汽車の旅で実体験し、強い印象を受けた記述だ。現代は汽車の代わりに車だが、アメリカ大陸の横断は同様に強い印象を受ける。  
ワシントン府と連邦政府  
合衆三十七州の首府にして、独立の縣をなす。その全地を総じて「ディストリクト・オブ・コロンビア」と云う。これは久米邦武の「実記」の記述だが、続けてワシントンDCについて、  
合衆国の連合を盟約した後三十七州が相互に話し合い、規則を定め、入費を収集し、主者を公選し大政府を建てた。よってこの政府には法則と制度が所属し、土地と人民は各州の支配になり、大政府は必ずしも土地と人民を所有する必要がない。しかし大政府を設けた理由は、その大政府の地でなければ、他州に所属しては不都合なことがあるためである。だんだんと合衆国に統合する時、土地を許し与え大政府の所有にしたのだ。・・・全縣の人口は十三万七百人で、その内ワシントン府の人口は十万九千百九十九人である。バージニアとメリーランドの両州は共に昔、英人の開拓殖民した始めから多くの黒人を使役したので、縣中に黒人が多く、総人口の内四万四千人は黒人である。一般の風俗は非常に悪い。  
という。そしてここは大政府の所在地だから、全国の官吏や将士、議員や代理人、外国公使など旅費の支給を受けた旅客が多く集まる事で繁盛しているから、物価の高い事は全国一だった。しかし、市中にはホテルなど広大な建物は多いが、商業都市ではないから景気状況は寂しかった。  
市街は議事堂を中心に四っつの大路が配置され、中でも街の中心部を貫く最大のペンシルベニア・アベニューは、長さ4マイル、道幅160フィートもあった。そして議事堂と大統領館の間は往来が激しく、建物は特大で、貨物の行き来も錯綜していた。久米はまた、「道路が念入りに作られているのは、商業国の長所だ」という。ペンシルベニア街などはその好例で、160フィート(約50m)もの広さの道路の中央を車道とし、左右を人道とし、人道の広さは約20フィート(約6m)で、レンガを敷き詰め歩行に便利に出来ていた。  
また馬車や汽車といった「車」利用の有用性を記述し、  
西洋人は荷物を背負う事をしないし、馬にも荷物を負わせない。したがって荷物の運搬力は日本人の数十倍もある。そして馬一匹の力で三十トンの荷を動かす能力を持つようになった。こんな言い方をすれば、人々は疑い、にわかには信じないだろう。しかしこれは甚だ平易な理屈で、あえて驚くには当たらない。それは車輪の造り方が精巧で、道路が素晴らしく良いからだ。およそ一トンの重量は二十人が背負う重さで、馬なら七匹に付ける分に相当する。然るに精巧な車輪で運搬すれば、健康な馬一匹で十分だ。これを鉄軌道上で行えば、たった八ポンドの力で動かせる。車輪が重量物を運搬するに最適である事は、今なら日本全国のやや知識のある者は十分知っているはずだ。しかし、その摩擦と回転の抵抗力の理屈を知らねばならぬ。・・・その国に入ってその道路の精巧さを見れば、その政治の良し悪し、人民の貧富などが直ちに分かるほどだ。  
と、首都・ワシントンの道路の素晴らしさと共に記述している。確かに日本は一、二の例外を除き、地理的にもまた歴史的にも、戦略上の重要点として、意識して道路をより広くより平にと改善して来なかったから、広い滑らかな道路造りはよほど印象深かったのだろう。  
議会と共和政治の得失  
久米はまた、「議会は米国の最上位の政府で、大統領は行政の権を統率し、副大統領は立法の長となり、大審官は司法の権を取る」と、その政治形態を説明している。次いで米国憲法が合意に至る大議論とその民主主義を尊ぶ国民性を述べ、  
この様に議論を尽くし、日月を経て決定した憲法だから、よく道義にかない人々に受け入れられている様は、あたかも天の教えを戴くが如くで、独立宣言以来九十六年経ち、三十七州もの多くの州が加わっても変動する事もない。しかし各州で自主権を主張し、大統領の権限をおさえ、人民の間の討論は年を追って益々盛んになっている。・・・米国の国民はこんな政治体制の下で暮らしているから、百年も経てば、三尺の子供でも君主を戴くことを恥じるようになる。この習慣が日常のことになり、その弊害を知らないだけでなく、ただそれを長所と思い込み、世界中にこの国是を広めようとする。短時間の話でもそういう印象を与える。到底そういう考え方を変えそうもない、純粋な共和国の国民達である。・・・議員を公選し法律を多数決で決めるのは、一見実に公平に見える。しかし上下院の議員全員が最高の俊才達ではありえないから、卓見や深い思慮が必ずしも議員の理解するところとはならない。故に大議論の後に多数決で決めれば、上策が採用にならず下策が採られる事が多い。選任者達が一旦草起したものは、議論があっても十中八、九は必ず原案に決まる。従って下部で賄賂が無いとも言えず、行政官吏の私見が陰で立法院の議論を低めたり高めたりしないとも限らない。これらは全て共和政治の残念なところだ。  
これは、「儒教」と「君臣の大義」の下に教育を受けた当時の日本人・久米邦武の、天皇親政の政治形態とアメリカの民主的共和政治形態についての考え方の一端を知る、非常に興味あるコメントでもある。また、「ただそれ(民主的共和政治)を長所と思い込み、世界中にこの国是を広めようとする」というくだりは、当時から約140年も経った現代のアメリカにもそのまま当てはまる観察である。  
ワシントン府の主要施設の見学と女性論  
首都・ワシントンでは、大久保と伊藤が明治5年2月12日に日本に向け出発の後、使節一行は2月25日から、白い花崗岩造りの特許局、印刷局、ドイツから購入した大反射望遠鏡を備えた天文台、大蔵省と紙幣印刷局、海軍省造船所、郵政局、農務局、アナポリス海軍学校、病院などを次々と見学して回った。  
特に3月27日、フィッシュ国務長官やロビンソン海軍省長官らと共にメリーランド州アナポリスの海軍学校を訪問したが、久米にとって恐らく始めて見る珍しい体験を通じ、興味あるコメントを書いている。青い芝生でおおいつくされた広大な校庭の所々には木を植えて、極めて清潔な雰囲気の中で行われる訓練を見学した後に、校舎の中で昼食会に招かれた。それは、集まった男女数百人の立食パーティー形式で、素晴らしい食事と酒類も出され、狭い館内に溢れんばかりの男女の参会者は夫々に弾む会話を楽しんでいた。そして食事が終わると、講堂で男女の舞踏会が始まった。久米のコメントである。  
米国は、官邸に女性を入れることを禁じない。海陸の軍校にも婦人が参観に集まり、訓練が終われば舞踏会を開き、男女が互いに手を取り合って舞踏し歓楽を尽くす。これが共和政治の風俗だ。・・・我が一行が横浜から米艦に乗り込んだ時から、全く変わった珍しい風俗や習慣の真っただ中で、我々の挙動は彼らの関心の的になり、彼らの挙動も我々には不思議に見えた。・・・中でも最も不思議だったのは男女の交際だ。日本では妻が舅や姑に仕え子が父母に仕えるが、彼らは、夫が自分の妻に仕えるのが道徳だ。明かりを持ち、履物を揃え、食べ物を取ってやる。衣装を直し、上り下りには手助けをする。座る時は椅子を進め、歩く時は荷物を持ってやる。婦人が少しでも怒れば愛をささやき、敬意をこめ、恐れ入って侘びを述べ、それでも受け入れられなければ、室外に出され食事をもらえない事もある。男女が船や車に同乗する時は、立派な男が立って席を譲り、婦人は辞退もせずにその席に着く。婦人が着席するため歩み寄れば、みな起立して敬意を表し、同席している間は控え目に、大声を慎み、常に婦人に先を譲る。婦人はあえて辞退することもない。婦人が座を立てば、皆は始めてホッとした表情になる。・・・これが大体西洋一般の風俗だが、米英はことに甚だしい。英は女王を立てる国だからこれを増長し、米は共和政治だから、男女同権論が普及している。近年米国では、婦人が参政権を持つべきだとの議論があり、ある州ではすでに公許したと云う事だ。・・・要するに、男女の義務は自ずから別のものだ。婦人を国防の任務に就けないこともまた明らかだ。東洋の教えは、婦人は内を治め外務を行わない。男女の違いをはっきりと見分けることには自ずから条理がある。識者は慎重に考えを巡らさねばならない。  
久米はこの様に、アメリカやイギリスの女性のあり方に否定的だった。  
フェリーとニューヨークの喧騒、ウエストポイント陸軍学校  
四月中は、アーリントンを訪れた程度でほとんどその活動はなかったが、5月5日夜、寝台車に乗ってワシントン北駅を出発し、ニューヨークなどの北部視察を始めた。夜だから車窓からは草原や林が影のように見えるだけだったが、久米はその中を飛ぶ蛍を見たと書いている。早朝、ニューヨークからハドソン川をはさんだ対岸の人口8万人余りのジャージー・シティー駅に着いたが、この駅はニューヨークに渡る基点だから常に喧騒を極めていた。鉄道駅から馬車に乗り換えて波止場に着くと、波止場と同じ高さのフェリーの甲板に馬車ごと引き込む方式で乗船が終わった。待合室の建物に入って馬車が停止したと思っていると実はもうフェリーの中で、すでに船は動き出し四方は水で、またたくまにニューヨークの波止場に着いてしまったという。その手際のよさと設備の巧妙さに、愉快この上もなかった。  
ニューヨークの市街に入ると道路の上を行く鉄橋があり、その上を汽車が走るという巧妙な仕掛けもあった。ブロードウェーの大道りはニューヨーク第一の繁華街で、レンガ舗装の広い道を乗合馬車がひっきりなしに走り、1分も待たずに次々とやって来る。この街の喧騒さに至っては、多くの車が常に通りを塞ぎ、四、五台の馬車が並走するのは通常で、左に向かうとすぐ右から割り込み、後から追い越すと思えば横から回り込み、御者もその操縦の腕を競い、一日中混雑している。世界中にこんな混雑は例を見ない。ホテルに入って通りに面した部屋に入ると、時には万雷が来る様に、時には松林に大風が吹くように、大音が鳴り響きとどろき渡り、言葉も通じないほどだった。  
ニューヨーク市民の日用品、雑貨、食料売買など日常生活の中心をなすマーケットや広大なセントラル・パークを見た一行は、ハドソン川を蒸気船で遡りウエストポイント陸軍学校に来た。通常夏の始まる西洋暦の6月は期末試験や卒業式などがある季節だが、ウエストポイント陸軍学校でもその季節で、生徒の父兄や親戚の男女が集まりホテルも満員の状況だった。  
陸軍省長官も来場し広い校庭で卒業操練があり、一連のプログラム終了後校内で食事会がもようされ、来場の男女も招待された。陸軍と海軍の伝統が違うのだろうが、海軍学校の時と違い男女は別室に別れて会食し、混雑も見られなかったという。翌日はまた校内施設や陸軍学校生徒の軽砲隊の試験を見、暗くなった8時過ぎから、400mほど離れて灯された明かりをめがけた炸裂弾砲発射の試験を見たが、的中はごくわずかだったという。久米のコメントは、  
米国では大小砲の的射ちを見ることが多かった。その命中度は、我が邦人に比べ非常に低い。いつも未熟だナと思う。手指の技や臨機応変の才に関しては、我が邦人は常に欧米人より優れている。  
炸裂弾砲発射のあと花火が打ち上げられた。西洋人はみな支那や日本の花火の技のほうが高いという。また久米のコメントだ。  
発射時にまっすぐ打ち上げる方式はなく、落下傘方式で吊り下げ降下する技もなく、星になって四方に錯乱しすぐ消滅してしまうのは、見ていて飽き足らない。しかし、化学に長じ火薬作りに詳しく、かつ費用を惜しまないから、飛び出す星々が綺麗なことは本当に目が覚めるようだ。ここが西洋の長けている点だ。最近日本では大花火を禁じ、その長所を捨てて稚拙な業だけになってしまったが、惜しむべき点である。  
この後更に北上し、アルバニー、シラキュース、ナイヤガラを見て、ボストンに回り、ニューヨーク経由ワシントンに帰ってきた。明治5年5月17日、すなわち1872年6月22日だった。首都・ワシントンではすでに議会も終わり、夏休みが始まって、官庁街は閑散としていた。しかし日本へ委任状を取りに帰った大久保利通と伊藤博文はまだ帰ってきていないから、6月17日まで更に1月も待つことになる。  
アメリカからイギリスに向かう  
ワシントンを出発した岩倉大使一行は、フィラデルフィア、ニューヨークを経由しボストンに向かった。ニューヨークからは客船に乗り込み、明治5(1872)年6月28日早朝、船はナラガンセット湾の北の奥にあるロードアイランド州の州都・プロビデンスに着き、港近くのボストン・プロビデンス鉄道会社の駅から汽車に乗り、マサチューセッツ州の州都・ボストンに向かった。プロビデンスからボストンは、北東に片道65kmの距離である。当時のプロビデンスは良港に恵まれ早くから商工業の開けた街で、大きな貿易港でもあった。  
当時のボストンは人口25万人の大都市で、おそろしく地価の高い所だったという。ボストンを含むニューイングランド地方は、イギリスの植民地としてアメリカ大陸で2番目に出来て殖民が成功した地方で、歴史的に非常に古い土地だったが、当時マサチューセッツ州は綿・羊毛紡績で全米第一の生産高を誇っていたし、その他の工業生産も非常に高い地域だったから、使節一行はそんな大工場を幾つか視察した。  
ボストンやプロビデンスでは熱狂的な歓迎を受け、久米はサンフランシスコ以来の盛会だったと書いている。特に、嘉永6(1853)年6月に浦賀にやって来て幕府にアメリカの国書を渡し、翌年1月に再来航し日米和親条約を締結したペリー提督は、このプロビデンスから南に約40kmほど離れたロードアイランド州ニューポートの出身だから、この地域から熱烈歓迎を受けた一要因でもあったのだろう。我が州出身のペリー提督が開国した国・日本から使節団がやって来てくれた、という感慨を込めた大歓迎でもあったはずだ。  
またこの地域は昔からアジア貿易に船を出す船主も多かったから、日本が開国する以前から、オランダのチャーター船として何艘ものボストン船が長崎に来ていた。そんな事もあり、ボストンでは日本の茶や工芸品などが早くから知られていた事もあったろう。  
岩倉使節一行は7月3日、いよいよイギリスに向かうため、ボストン港からボストン・リバプール間を運行する英国キュナード社の定期郵船・オリンパス号(2415トン)に乗組んだ。ボストンの街からは、ボストン港の出入り口にあるロングアイランド島の灯台辺りまで、7艘の船に100人以上もの別れを惜しむボストン市民が乗り込み見送りに来た。この灯台のあたりでいったんオリンパス号は停船し、船上で見送り人と共に最後のお別れ会が開かれた。久米は次のように書いている。いわく、  
灯台の前まで来てここに船を止め、ボストンの下院議長・テイス氏を上席につけた立派な食席を設け、郵船の中で別れの宴を張った。そしてスピーチを行い、別れを告げた。米国の人は外国人を家族のように待遇し、よしみを通じ兄弟のようだ。殊にボストンに来てから5日の間、市中や付近の村々からは互いに親しみやよしみを通じ、親切極まりなかった。出船に際し、港口まで送って来てこの盛餐を設けたことは、東洋諸国の人に昔を回想させ、冷や汗が流れる思いをさせた。ああこの開明の際にあたり鎖国の夢を醒まし、和やかな世界交際が出来る事を、我が日本の全ての人々は、大事な事だと心に命じなければならない。  
アメリカとの別れに際し、そのフランクさと親切さが久米の心の琴線に触れ、感傷的ともいえるコメントを書いた。確かについ5、6年前までは「攘夷」を叫んで外国人排斥をしてきた日本だったから、昔を回想し、「冷や汗が流れる思い」をし、鎖国と世界友好の落差の大きさがよほど印象深かったに違いない。 
12、初期のお雇いアメリカ人 

 

初期のお雇いアメリカ人:ラファエル・パンペリーとウイリアム・P・ブレイク  
ハリス公使に依頼した、鉱山・鉱物学者の派遣  
幕府が行った、鉱山技師のアメリカからの招聘は早かった。それは、遣米使節団・副使として日本とアメリカの修好通商条約批准書をアメリカで交換し、半年ほど前に江戸に帰ってきていた外国奉行兼箱館奉行・村垣範正(のりまさ)が、文久1(1861)年3月14日付けで、アメリカ公使・タウンゼント・ハリス宛に出した公式依頼状から始まっている。いわく、  
今般、蝦夷地において鉱山等の開発検査のため、貴国坑師のうち最もその業に熟練の者を両人雇いたいので、彼らの呼び寄せを早々に取り計らわれるべく頼み入る。更に1ヵ年の1人当りの給料も概略承知いたしたく、また貴国にて用いられている(筆者注:馬で牽引する)乗車並びに荷車、各1種1輌あて取り寄せ方をも頼みたく願い入る。  
と云うものだった。  
このアメリカ人の招請は、長崎海軍伝習所でオランダ人・ペルス・ライケンが教師に雇われ、その後任にヴィレム・カッテンディーケが来たが、安政6(1859)年に長崎海軍伝習所が閉鎖され帰国した以降では、昔国外追放処分にあった罪を許され、文久1(1861)年4月18日に幕府顧問に雇われた元出島のオランダ商館医師・フィリップ・フォン・シーボルトに次ぐ、ごく初期のお雇い外国人の招聘である。  
蝦夷地開発に重要な、鉱山の開発−老中・阿部伊勢守の方針−  
さてこの蝦夷地鉱山の開発は、外国奉行兼箱館奉行・村垣範正の出した依頼状の5年ほど前、安政3(1856)年7月ころより当時の箱館奉行・竹内保徳(やすのり)などがより一層の蝦夷地産業開発に意を注ぎ、市渡(いちのわたり)や川汲(かっくみ)で各種鉱山の開発や、古武井の熔鉱炉建設などを幕府に建議し、当時、勘定吟味役から箱館奉行に昇進したばかりの村垣範正も関係し、蝦夷地産業の開発と合わせ、少しずつ鉱山開発・試掘の活動があった。この2年ほどはクリミア戦争のためロシアの南下はなかったが、アメリカ、イギリス、ロシアなどと締結した和親條約のため、箱館に入港するアメリカ船やイギリス船が増加し、和親条約は締結していなくとも、多くの傷病兵を抱え困窮したフランス軍艦さも入港した。このように急速に蝦夷地の存在が重要になり、ロシアとの境界もいまだ確定できていないから、幕府も蝦夷地の開発を急がざるを得ない状況になった。当時の幕閣首座・阿部伊勢守はこんな状況を踏まえ、安政3年11月1日付けで竹内保徳、堀利煕(としひろ)、村垣範正の箱館三奉行宛に蝦夷地開発方針の通達を出した。いわく、  
蝦夷地開拓は大業、不容易であるが、当今の時勢から捨て置けない。お前たちの答申はもっともだ。従って(筆者注:蝦夷地は)大名に委ねるのではなく全てを奉行に任せるから、大いに蝦夷地に土着する者が増える様に取り計らえ。入植者はまず重要な海岸部へまとめ、人数が増加するごとに三十里先、四十里先へと開拓を進めよ。(筆者注:出先官吏の)支配組頭などは置かず、季節に限らず奉行自ら手分けして村々を回り、アイヌや土着した村民の訴えを聞き取り、実力のある者を取り立てよ。(筆者注:昔のような)蝦夷地請負は止め、公儀が直接手を下し、運送船はもとより鯨漁船なども造り、魚鯨漁に努力し、その収入を開墾の費用に当て、そのほか金・銀・銅・鉄の鉱山を開き、炭鉱の開発などにも十分に意を用いよ。 と云うものだ。  
この文中の「お前たちの答申」とは、約3年前の嘉永6(1854)年12月、ロシア使節・プチャーチンが長崎で提起した、ロシアとの樺太や択捉島近辺の境界線を確定する目的で、幕府が安政1(1854)年2月、堀利煕と村垣範正を実地調査のため蝦夷地及び久春古丹(クシュンコタン、=樺太)に出張させていた。この現地調査中に請負制で虐げられ困窮するアイヌを見て、ロシア人がこんな人心乖離のスキを突き侵入する危険性を見て取った村垣と堀は、10月に帰府の上、2人の現地調査結果に基づく蝦夷地警衛とその開発につき、「東西の蝦夷地を直轄とし、北蝦夷地の日露国境は不定のままとして置くべき」と、伊勢守宛に報告書と共に建議した。これにより幕府は、安政2年3月4日これを実行に移し、松前藩から東西蝦夷地を上地させている。更に安政3年2月、幕府から改めてより具体的な蝦夷地開拓方針についての諮問が箱館奉行宛に出されたが、前回と同様に幕府直轄の答申をし具体策を建議したものを指す。阿部伊勢守のこの「蝦夷地開発は幕府直轄で」という方針は、基本的に、堀と村垣の当初からの上申意見を採用したもののようだ。  
そして更に、この村垣自身の東西蝦夷地や北蝦夷地の実地見分報告書の中にも、  
全蝦夷地の南側7割の内4割ほどは、山岳や雑木・雑草が生い茂る湿地に属す土地だが、その中から湧き出す物産は少なくない。開闢以来人手の入らない土地だから、金・銀・銅・鉄・鉛・錫等の気を含む色石が山合や谷間に流出している場所が方々にあり、砂鉄に至っては、海岸や川端に5、6里も堆積した場所が多くある。  
と報告しているから、自身の現地調査からも、鉱山開発の多くの可能性を実感していたのだろう。  
文久1(1861)年に外国奉行兼箱館奉行として、樺太などロシアとの北方領土駆け引きもより重要になってきた箱館赴任を再度命ぜられた村垣が、進展の遅い鉱山開発を促進し少しでも現地収入を増やすべく、アメリカで見聞して来た金鉱やその他金属鉱山の開発を念頭に、更に効率よく大規模な鉱山開発を行う重要性を考えハリスに依頼したものだった。  
パンペリーとブレイクの日本到着  
この外国奉行・村垣の要請を受けたハリスは、3月16日付けで早速サンフランシスコの知り合いの商人・ブルックス宛の依頼状を書き、その手配を頼んだ。カリフォルニアでは1849年以来金鉱が積極的に開発され、アメリカ政府はカリフォルニアはもちろんアリゾナやニューメキシコなどでも各種鉱山開発に積極的だったから、優れた技術者を雇うにはサンフランシスコを中心にアメリカ西部は最適地だった。この出来事を契機に、日本のサンフランシスコ駐在領事の役割を自ら演じてパンペリー、ブレイクと雇用契約を結び、後日の慶応3(1867)年9月28日付けを以て幕府から正式に日本国領事の肩書きを与えられるチャールス・W・ブルックスに雇われたパンペリーは、後に鉱山技術者・地質学者・考古学者・探検家として著名なハーバード大学教授になり、ブレイクもまた政府の技術者からカリフォルニア大学やアリゾナ大学教授になる人たちである。ブルックスについては、ハリスが書簡を書いたチャールス・ブルックスの「鉱山技師の招聘」や、その頁内の他項を参照されたい。  
ブレイクとパンペリーは1861年11月23日、サンフランシスコから快速航洋大型帆船・キャリングトン号に乗りハワイ経由横浜に向かい、途中の航海で難航し大巾に遅れはしたが、1862(文久2)年2月20日無事に横浜港沖に着いた。上陸は23日だったが、全ての航海で横浜に入港する外国人同様、パンペリーは北西に雪化粧で聳え立つ富士山の印象が強烈だったようだ。この後、折に触れ綺麗に聳え立つ富士山に触れているが、鉱山・地質学者の目からの興味もあったのだろう。上陸すると横浜駐在アメリカ領事・ベンソンとオリファント商会社員・ブロワーが迎えてくれたが、箱館行きが決まるまでの滞在先は彼らの家で部屋を借りる事になった。  
横浜近郊の散策と箱館行きの準備  
神奈川奉行所に到着を報告した後、箱館に行く前に面会した江戸に居る箱館奉行・糟屋筑後守は非常な紳士で、その親切さと優雅さは、パンペリーが昔会ったローマ法王・ピウス9世のような物腰だったと云う。パンペリーはこの時の奉行との会話を次のように書いている。いわく、  
奉行は、日本の沿岸に近づいた時の海の色、水や魚の味、そのほか何からであっても、日本に埋蔵される金属類の多寡を判定出来ましたかと聞きながら、話の本題に入ってきた。奉行は、我々の「否」の言葉に少し驚いたようだった。これは、日本の役人や北京の外務部の役人と会った時、答えねばならないまず最初に出てくる、似たような長い質問だ。  
この奉行の言葉に代表されるのは、それまで日本古来の、いわゆる「山師」たちが一種の経験からそうであろうと思っていた「山相学」などが当時ポピュラーであった事を示唆するものだ。朝夕山の霊気を見て鉱脈を探そうとするような山相学に対し、ブレイクとパンペリーの2人は、科学的・体系的な地質学上の鉱山開発手法を教授し実施しようとやって来たのであり、そんな科学的手法が日本で待たれていたわけだ。更に奉行は、数時間もかけて日本に持ってきた測量天文経緯儀、水準器、クロノメーター(経線儀)、六分儀、気圧計などを熱心に見て回り、自身でも科学の勉強をする時間がほしいものだと言っていたという。  
その後もなかなか箱館行きの予定が定まらず更に時間の余裕が出来た2人は、4月2日にフランシス・ホールや商社員・ロバートソンなどの仲間4人で馬に乗り、大山まで遠足・登山に出かけた。2人の横浜到着後1ヶ月半も箱館行きが決まらなかった理由は、ブレイクとパンペリーが横浜に着く直前に、老中・安藤信行が坂下門外で水戸藩浪士の襲撃を受けた事件があったばかりで、またも幕政が混乱していた時だから、直ぐには箱館行きの計画が固まらなかったのだろう。横浜から西方にくっきり見える丹沢山地はなかなか興味を引く山々だが、中でも大山は一番横浜に近く丹沢山地の南東側にあり、形も良く、現在でも関東百名山の一つとして人気が有る。当時、横浜に居た外国人にも興味を抱かせ、「横浜から10里以内」と条約で合意された自由行動区域の中で最も遠出の出来る遠足目標地だったようだ。  
この大山遠征について、ニューヨーク・トリビューン紙記者・フランシス・ホールは例によってその横浜滞在日記の中に長い記述を残しているが、ブレイクやパンペリーにとってこの遠征は、日本の文化にどっぷり浸かる初体験だった。郊外の普通の日本宿に何日も泊り、日本の食事をし、始めて日本の生活を体験したパンペリーいわく、  
日本滞在中多くの習慣に馴染み、箸が使えるようになり、刺身も食べる事ができたが、日本の2インチ幅の(箱型の)木枕にバランスよく頭を乗せて寝ることだけは、頭と首に木枕をくくり付けても上手く行かず、全く絶望的だった。  
と云うほど当時の習慣の木枕に戸惑ったようだ。蝦夷地と云う更なる僻地を探査する事になる2人には、程よい異文化の初体験だったろう。しかしパンペリーは、蝦夷と云う僻地を覚悟していたのか、日本語の文字の読み書きはとうに諦めてしまったが、会話を何とかものにしようと努力していたし、歴史的観点から当時の幕府の政治的立場を理解しようともしていたように見える。  
箱館に向かう  
アメリカのハリス公使と交代する新しいプルーイン公使が4月25日、サンフランシスコからリングリーダー号で横浜に到着した。この船は更に、同行して来たライス箱館駐在領事を乗せ箱館に向かう予定を知ったパンペリーとブレイクは、神奈川奉行に掛け合い、幕府は直ちに外国奉行を横浜に差し向け、リングリーダー号での2人の蝦夷行き計画を決定した。  
このアメリカのライス領事は、ハリス総領事の下田赴任より約9ヶ月遅れで突然箱館に着任し、ハリスもこれを後で知ったほどだったが、1857(安政4)年4月以来だから箱館駐在は長い。この時はアメリカに一時帰国し、また戻ってきた時だった。パンペリーやブレイクもこの横浜から箱館への数日の船旅で、恐らくライスから蝦夷地の情報を貰っただろうと思う。  
1862年5月9日(文久2年4月11日)、パンペリーとブレイクはこのリングリーダー号で無事箱館に着いた。また、あらかじめ別船でサンフランシスコのチャールス・ブルックスが横浜に送った分析に必要な物品、すなわち、硫酸、塩酸、硝石、酢酸、酒石酸、曹達、亜硫酸鉄、硝酸銀、酢酸鉛などの試薬類、顔料、大小ロート、濾紙、各種びん類などの分析器具類も、また多くの鉱山や鉱物、地質学関係の書籍類も一緒に届いた。筆者は2人が持参した書籍類の詳細を知らないが、例えば持参したといわれる「レールの地学」などは当時の最先端の地質学専門書で、チャールス・ダーウインにも大きな影響を与えたといわれているものだ。これは、あるいは同じLyellの「TheStudent'sElementsofGeology」の方だったかも知れないが、その他、ブリタニカ百科事典、アップルトン機械工学辞典等々、理工鉱学関係書籍もサンフランシスコのチャールス・ブルックスの購入リストの一部に見える。こんな例を見ても、持参した専門書は当時欧米での先端書籍類だったはずだ。  
箱館奉行所では早速2人に仮の宿泊所を提供し、しばらくしてブレイクから提案された「箱館鉱山学校」の見取り図によって、実験や研究、講義の出来る、ガラス窓を造り付けた西洋式のしっかりした建物の建築に取り掛かった。  
箱館奉行所からは新知識習得のため5人の役人が指名され、西洋科学を学び専門知識のある武田斐三郎(あやさぶろう)、大島惣左衛門の2人、鉱山担当・奉行所勘定役の立(たち)勝三郎と岩尾勝右衛門の2人、そして通詞兼生徒として宮川三郎。これらの5人は、パンペリーとブレイクにとっては同時に補助要員、警護役、そして鉱山学を学ぶ生徒でもあったが、5人の外更に、恒例の目付けも1人付いた 。  
これら5人の中で、長崎でロシア使節・プチャーチンとの会談に蘭語通詞として参加した後幕命で箱館に赴任していた武田斐三郎は、安政3(1856)年8月、箱館奉行支配・諸術調所教授役に任じられた。もともと大阪で緒方洪庵の適塾で学んだ蘭学者の武田は、箱館奉行・村垣の許可の下、安政4年4月に来日したばかりのアメリカの箱館領事・ライスの事務所や時々箱館に入港するイギリス船などを随時訪れ、英語の習得と諸術知識の向上に努めていた。また赴任して以降各種鉱石の分析なども箱館で行い、箱館近くの古武井(こぶい)村の砂鉄を原料とする高炉(現・函館市高岱町−たかだいちょう)を造っている。更に安政4(1857)年には、箱館の「五稜郭」で知られる洋式砲台を設計し、塁濠、役宅、備砲、掘割など合計18万3千両の予算で、元治1(1864)年に完成させている。また文久1(1861)年4月にはアムール河口・ニコラエフスク辺りにまでも幕府船・亀田丸で出かけロシアの状況探索をするなど、多くの分野で箱館奉行が蝦夷地を治める現地頭脳となっていた人物だ。  
この洋式砲台の築造は、安政1年12月(1855年1月)と云う早い時期から当時の箱館奉行・竹内保徳と堀利煕(としひろ)がその必要性を建議し、幕府船・亀田丸の箱館奉行所への配備も翌年4月、コルベット型かフレガット型軍艦2艘の配備を緊急要請していたものだ。この亀田丸は、既に「カロライン・E・フート号でやって来たアメリカ商人たち」でも書いたように、下田でディアナ号を失ったロシア使節・プチャーチン提督が伊豆の戸田浦で緊急に造船し、安政2(1855)年3月に完成したヘダ号をモデルに日本側が建造した、いわゆる「君沢型」と呼ばれる2檣スクーナーの内の1艘である。  
武田はこんな優秀な人物だったから、当時箱館内澗町二丁目に住んだ雑貨・清酒類を販売する商人で町名主を勤めた小嶋又次郎に見込まれたのだろう、その娘・美那子と結婚したという。この小嶋又次郎は、ペリー艦隊が箱館に来た時その行動を細かく観察し、「亜墨利加一条写」という170頁以上にも上る記録を残している。小嶋又次郎もまた、隠れた町の学者とも呼べる人物だったようだ。  
大島惣左衛門すなわち大島高任(たかとう)は日本で始めて、砂鉄ではなく鉄鉱石を原料に連続出銑する西洋式の釜石高炉を安政4(1858)年12月に成功させ、明治になって岩倉使節団に随行したり、後に開拓事業などでもその名前が良く知られている。従ってこの2人は、当時の日本でも最先端を行く冶金、洋式軍備、鉱山開発、天文・航海術などの専門家だったわけだ。  
また通詞・宮川三郎(後に塩田三郎)は、箱館に居た仏国神父・メルメ・カションからフランス語と英語を習い非常に優秀だったから、仏国全権公使・ドゥ・ベルクールが文久1(1861)年10月老中に書簡を送り、フランス公使館で通弁学生として雇いたいと懇請したほどの若者だが、現地の箱館奉行も手放さない貴重な人物だった。翌文久3年(1863)年には横浜鎖港談判使節・池田筑後守に通弁御用出役・調役格として随行し、明治になって外務省に出仕した人物である。  
こう日本側の人選が決まると、パンペリーとブレイクは早速現地に出向いての実地調査を計画し、1862(文久2)年5月23日、使用人も含めた合計11人のキャラバン隊が編成され、箱館を出発した。日本政府との契約はまず蝦夷地を探査し、応用可能な洋式採鉱技術と冶金技術の伝授だったから、現地の状況調査は不可欠であったのだ。 
一回目の現地調査  
函館山を背にして港を見下ろす奉行所を出発した一行は、函館湾の北岸沿いを西に進むと、湾の中央辺りから大野川沿いに北上し、唯一の水田耕作が始まっているオーノ・大野村に向かった。現在もこの辺りの地図を良く見ると、大野川西岸の村内地区に「水田発祥之地」という碑(現・北斗市村内)があるが、大野村についてパンペリーは、  
数年前までこの地(筆者注:蝦夷地)は松前藩に所属していたが、幕命により松前、仙台、津軽、南部、安房の五藩に分かたれ、幕府直轄地としても広い地域を所領するようになった。昔は漁師などが海沿いに住むだけでかなりの収入もあり、それ以外の活動は禁じられていたようだ。分割後は本土からの入植が計画され、多くの資源活用のためあらゆる職業の育成が考えられ始めた。この実現のため、百姓やその他多くの人々に土地を適切な価格で頒布し、役人の公用旅の引継ぎ用にも徴用できるよう、農耕馬も貸し与えた。こうして大野村では、何軒もの農家が、品質は劣るが耐寒性の米を収穫し、生糸生産のため充分な養蚕も行われている。 という記述をしている。  
ここで筆者はこの「安房」を問題にするのだが、事実幕府は、下見を終えたペリー提督が箱館を去るとすぐ安政1(1854)年6月26日、松前藩に命じ開港地となる箱館とその近辺を上地させ、幕府直轄地とし奉行所を設けた。更に翌安政2年2月22日、松前藩に命じ松前城付近を除く全蝦夷地をいったん上地させ、仙台藩・弘前(津軽)藩・盛岡(南部)藩・久保田(秋田)藩・松前藩の5藩にこの広大な地域の分割警備を命じ、安政6年9月には蝦夷地警備の4藩、すなわち仙台・弘前(津軽)・盛岡(南部)・久保田(秋田)に庄内藩、会津藩を加えた6藩に蝦夷各地を分け与えて夫々の警備・開拓・経営を命じている。前述の如く幕閣・阿部伊勢守の基本方針は、「蝦夷地の経費は、その場所から上がる収納金で支弁しながら開拓すべきもの」であったから、現地の生産活動の活性化に意を用いたわけである。  
この様に、「安房」は蝦夷地の経営には参加していないが、パンペリーは、こんな幕府の蝦夷地経営の経過説明の中で出てきた「秋田」を「安房」と聞き違え上記のように記述したのだろうか。あるいは恐らく、パンペリーの質問に答えた日本人の記憶違いで、「秋田」を「安房」と言い間違えてパンペリーに説明したのだろうか。いずれにしても、細かく聞き取り調査をした形跡が良く分かる記述だ。  
この大野村から大野川に沿ってよく木の茂った谷に分け入ると、すぐ近くのイチノワタリ・市渡(いちのわたり、現・北斗市市渡)で、岩がむき出した急流の流れに面し、鉛を採掘している鉱山に着いた。パンペリーの観察によると鉱石は、亜鉛混じりの黄鉄鉱と黄銅鉱を含んだ方鉛鉱で、主としてマグネサイト系の脈石で、脈は炭酸カルシウム珪質粘土と緑岩で構成されていた。蝦夷地の鉱山はポンプ設備を使わず、排水のため坑道入口より低くは掘っていなかったが、坑道は天井が低く狭くても木材でよく補強されていた。後にパンペリーとブレイクが現地で発破を仕掛ける方式を導入するまでは、片方がノミでもう一方が槌で、柄に突きがね付きのハンマーを使い、非常に効率の悪い掘り方だった。掘った鉱石は手で選り分け、粉砕していた。しかしパンペリーが驚いたのは、日本のしかもこんな山の中で、粉砕方法は、効率の悪さを別にすればイギリスのコーンウォルやドイツと同じ原理を使用していることだった。その後、水洗、溶解、精錬を経て鉛を得ていたが、その規模は小さいものだったという。  
その後また北上し、現在の大沼公園の近くのスクノぺで一夜を明かし、モクレン、ブナ、シラカバ、モミジ、カシなどの茂る森を抜け、コマンガダケ・駒ケ岳の頂上に立った。眺めはすばらしく、北には噴火湾(=内浦湾)が広がり、その向こうにあたかも海中から突き出ているようにも見えるオーウッス・大有珠山が見え、硫黄に覆われた崖が輝いて見えていた。駒ケ岳から下り、更に北上しつつ、深い森や湿地の丸太道を通りながら噴火湾の岸辺にまで到達した。  
駒ケ岳の北側の海岸を回ると山肌には明らかに火山灰に打たれ枯れた大木が多く見え、7、8年経ったと思われる下生えがかなりの木に成長していたが、露出地層が見える崖を見るかぎり、永い間にこんな噴火が繰り返された歴史がはっきり分かったと云う。更に山すその海岸を東南に回ってシカベ・鹿部村(現・茅部郡鹿部町)に着いたが、浜辺に70℃から75℃もある幾つもの温泉が湧き出し、その上に小屋掛けをし病人が訪れていた。更に行くと、黒い砂鉄が波にもまれ固まった砂浜が続いていた。そのまま海岸を進み、ミルクのように白い斑岩の上を流れる澄んだカクミ・川汲(かっくみ)川を遡り、川汲には温泉もあったが、暫く行くと川汲鉱山(現・函館市川汲町)に出た。ここには少し望みのありそうな金鉱と、少し離れて銅鉱脈上に現れた金鉱だが、両方ともすでに廃坑にされていた。2番目のものは坑道の入口付近で見る限り黄銅鉱で、人件費の安い蝦夷だったら採掘に望みがなくもなさそうだった。その後また川筋を引き返し、ウォサツベ・尾札部(おさつべ)村(現・函館市尾札部町)から16丁の櫓と櫂で漕ぎ水の上を飛ぶような速さの船に乗った。  
この船旅は強い印象を与えたようだ。パンペリーは、常に陸地近くを通り周りの景色が良く、澄んだ水の中は海底の岩が良く見え、長い昆布が生え、海草やイソギンチャクや貝がびっしりと付き、その色も鮮やかだった。崖からは幾つもの滝が落ち、遠くには火山が見え、崖には各種の地層も顔を出していたと書いている。一旦、小さい漁村のトトホケ・椴法華(とどほっけ)村で一夜を明かし、翌日また馬の旅を続けた。椴法華村は現在の函館市銚子町椴法華だが、この辺りでは最東端の恵山(えさん)岬にある。このエサン・恵山は活火山で、日産2.5トン余りの幕府の硫黄採取場があり、一行はそこを訪れた。パンペリーの観察では、この半島一帯が昔の大きな火山の噴火口だったろうと云う。この硫黄採取場から南に海岸まで降り、ニエタナイ村で一泊した。  
翌日ここから海岸沿いに箱館に向かったが、コブイ・古武井(こぶい)村(現・函館市古武井町)辺りの浜にはいたるところ大量の砂鉄が見られ、長い間に周りの崖から崩れ波に洗われ堆積したもののようだと云う。この古武井の砂鉄を見た時に、パンペリーと武田や大島の間で溶鉱炉の話が出たのだろうか、あるいは箱館への道の途中だから、武田の建設した古武井の高炉そのものを見たかも知れない。パンペリーは、  
武田はオランダの本を参考に、高さがおよそ10mほどで、水車駆動のシリンダー型フイゴを備えた高炉を造った。参考にした本には細部情報がなく、残念ながらフイゴは弱すぎ、煉瓦は十分な耐火性がなかった。数百貫の銑鉄を溶解したが、成功とは呼べなかった。しかしこの出来事は、今後の事業の実証例になるだろう。もう一人の侍の大島は、多くの試行錯誤の末、南部藩で似たような企画を成功させている。  
と武田や大島の高炉建設とその結果を記述している。また箱館への道すがら、更に幾つかの有望な黄銅鉱鉱脈を発見し、第一回目の探査旅行は終わった。  
当時たまたま箱館や蝦夷地でハシカが大流行していて、探査旅行に参加した侍たちの家族にも患者が出ていたので、2ヶ月以上も箱館で足止めされる事になった。パンペリーとブレイクはこの間に冶金や鉱物・鉱山について学問的な講義を行ったが、系統だった基礎的な学問が不足している事や、この分野の日本語の術語が定まっていない中での講義はなかなかの難事だったと云う。数学を駆使しての航海術に習熟している武田斐三郎などにも、冶金・鉱山学などの科学的な面に応用する数学は新分野であり、苦労もあったようだが、彼らの努力は大変なものだったとパンペリーは記述している。 
二回目の現地調査と爆破作業の実施  
それまで流行っていたハシカもようやく下火になったので、1862(文久2)年8月5日、今回は主として西海岸を目的に探査旅行に出発した。1日目は前回のルートを取って北上し、噴火湾沿岸のワシノキ・鷲ノ木(現・茅部郡森町字鷲ノ木)まで行き泊った。この噴火湾は、ここから対岸のエドモ岬(現・伊達市南有珠町エントモ岬)まで約40マイル程もある円形の湾だと記述している。この海岸を北上し大きな漁師村のヤムクシナイ・山越内(現・二海郡八雲町山越)に来ると、近くの海岸と崖の間に数千坪にも及ぶ湿地が広がり、その中のいたるところに生暖かい温泉が吹き出して、タール状に固まった石油分を露出させていた。そしてパンペリーは、近くの僧侶たちはこれを燃やして灯火とするだけでなく、油分を使い墨を造っていたと記述している。僧侶たちは親切にもてなしてくれたが、パンペリーがボーリングで深い穴を開け石油を自噴させる話をすると、信じられないといった面持ちで話しを聞いていたと云う。事実、エドウィン・ドレークがアメリカのペンシルベニア州タイタスヴィルで最初の石油掘削のボーリングに成功したのが1858(安政5)年8月で、パンペリーが日本へ来る3年前の話だ。パンペリーとブレイクはそんな最新情報をももたらしたのだが、日本の蝦夷地では夢物語だったのだろう。  
少し北の宿泊地・ユーラップ(現・二海郡八雲町、遊楽部・ユーラップ・川に名を残す)の手前でアイヌ部落を通ったが、会った村の男たちは長いヒゲをさすり、口に当てた手を優雅に下げながら、アイヌ流の挨拶をした。パンペリーは彼らの特徴を和人と比較し、簡単な歴史と生活を書き、現在は穏和で性質の良い人々だと書いている。「現在は」と断って書いているのは、当時から約200年程前にあった日高の酋長・シャクシャインの蜂起の戦いの決戦場でもあったというすぐ北のクンヌイ・国縫(くんぬい)やこの辺りで、アイヌの人々が不当な商売を強いる和人に抵抗した歴史を聞いたのだろう。  
さて一泊の後、ユーラップ海岸をクンヌイ・国縫(現・山越郡長万部町字国縫)まで北上し、ここから国縫川に沿って内陸に進んだ。海岸を離れると、暑い日だったので2cm以上もある茶色のアブや黄色のアブ、ハエや蚊などの攻撃にさらされながらもトシベツの谷(現・後志利別・シリベシトシベツ・川の谷)に下り、やっと国縫金山の役人宅にたどり着いた。大変な1日だった。この国縫金山は砂金採取の金山で、翌日その収集法を視察したが、流れる川水に長さが60cm、幅が30cm程のマットを沈め、砂金を含む土手の周りの粘土や砂を鍬で取りマットの上に流すと、重い砂金はマットの上に沈み土は流れ去る。このマット上の堆積物を別の板皿の上に移し砂金を選り分ける方式だった。これは日本の昔から佐渡金山などで行われた方法で、「ねこ流し」と呼ばれたようだ。周りの状況から長年砂金取りが行われていたようだったが、収穫は微々たるものだったと云う。  
またもと来た道を引き返し、国縫から海岸を北上し、宿泊場所のウォシマンベ・長万部(おしゃまんべ)村に着いた。翌日長万部から内陸に入り、日本海側のオーダスツ・歌棄(現・寿都郡寿都町歌棄・うたすつ)を目指し、途中から朱太(しゅぶと)川を船で下り、川口近くでまた馬に乗り換え、やっと歌棄村に着いた。ここから岩山続きの道を日本海側海岸に沿って北上し、イソヤ・磯谷村(現・寿都郡寿都町字磯谷町)を目指した。磯谷から尻別(しりべつ)岬の高見に登ると、眼下の内陸に向かって緩やかに起伏し、シリベツ・尻別川に沿った広大な葦原が広がっていた。尻別川を渡ったが北側はライデン・雷電山に続く山々が立ちはだかり、雷電山の山裾を回ると溶岩のむき出した荒れた台地だった。これを北に下ると急流の流れる谷で、日暮れにユノナイ温泉(現・岩内郡岩内町字敷島内・しきしまない)に着いた。この谷には幾つもの硫黄鉱泉が湧き出し、岩内町の宿の系列宿が幾つもあり、湯の温度は40℃から50℃だった。ここの湯も、一回目の探査で訪れた川汲(かっくみ)温泉と同様、雪のように白い石英を含んだ斑岩と密接に関係していると云う。  
翌日はまた険しい雷電山の続きを下り、海から内陸の山々に続く広い平野にあるイワナイ・岩内町(現・岩内郡岩内町)に着いた。岩内は蝦夷地でも主要な町の一つで、役人が駐在していたが、役所で挨拶が済むと早々、火山のイワオウノボリまで行く旅に必要な馬と案内人を付けて貰う話をした。イワオウノボリは現在の虻田(あぶた)郡倶知安町(くっちゃんちょう)字岩雄登(いわおと)、すなわちイワオヌプリ、別名、硫黄山のことだ。現在では北海道ニセコ・リゾート山地の中心に近く、良い道も付き大いに開発が進んでいる土地だが、当時開けていた北西の岩内町から入るにしても大変な僻地で、山の中だったわけだ。翌日早朝に案内人たちは乗馬と荷馬合わせて26匹の馬を連ねてやって来たが、平らな草原を通り越して山道にかかると、何処にもないほどの悪路の連続だった。基本的に深い湿地帯で、葦がびっしり生え、鋭い剣を逆立てしたような道の連続だった。すると山合に突然樹木が途切れ、周りをびっしりと笹に覆われた綺麗な沼が現れた。この緑の絨毯は、その向こうを取り囲む黒や灰色に聳え立つゴツゴツした岩山や崖が、キラキラ光る硫黄や鮮やかな赤や黄色の縞模様に覆われた山肌と鋭い対比をなしていた。この沼は、おそらく現在の大沼だろうと思われる。沼の脇を通り低い峠を越すと、山裾の硫黄採集場に着いた。山の頂上まで行って周りを見晴らそうとしたが、突如として霧が巻いてきて不調に終わってしまった。  
翌朝頂に立つと、このイワオウノボリは亜硫酸ガスなどを多量に噴出している典型的な大規模噴気孔火山で、この頂上からの観察から、周りに少なくとも15の山頂が見えた。近くは羊蹄山から、南東地平線にはすでに訪れた恵山や駒ケ岳が認識できたが、これらは大昔の巨大火山の名残であろうとパンペリーは云う。今地図を見れば、確かに噴火湾が大昔の巨大噴火口で、それを取り巻く恵山、駒ケ岳、遊楽部岳、狩場山、大平山、ニセコアンヌプリ、羊蹄山、恵庭岳、樽前山、有珠山などその外輪山を形成しているように見えなくもない。そして更なる観察では内陸に入る事の困難さも見て取れた。この公儀の硫黄採掘場は14基の釜が操業し、月産30トン余りの産出量であった。  
岩内に引き返すとさらに海岸を北上し、船で遡れるほど大きく、川口辺りまで一面小石が積もったシリブカ川を渡り、馬に乗ったり船に乗ったりしながら小さい漁村・オーウスベツ(筆者注:現茅沼村あたりか)に着いた。翌日はカイヤノベツ川を遡り、1マイル程内陸に入ると、沙岩とけつ岩が堆積した中に最高4フィートの厚さがある3つの接合面を持つ高品質の瀝青炭を発見した(筆者注:後の旧茅沼炭鉱あたりか)。オーウスベツ村の海は非常に綺麗で、船に乗る村人が岩からアワビを捕っていた。これをスープにして食べたが、牡蠣に匹敵するほど美味で、日本人の大好物だった。日本人は全ての海産物を好み、ナマコ、イカ、ウニ、各種海草類など多くの素晴らしい食材があると云う。  
更に北上して探査を続けたかったが、冬篭りの前にもっと鉱山を調べたかったので、この一般探査旅行を終える事に決定した。8人の櫂の漕ぎ手と4人の櫓の漕ぎ手で操る船は帆も揚げ、短時間で岩内町に帰り着いた。8月25日に岩内を出船し、雷電岬を回り磯谷に着船した。その後も馬に乗り、また船に乗り、小さい漁村で泊り、オウスベツ村に着いた。この村には大きな更生刑務所が建設中であり、刑務所内で軽作業をしながら更生を図る施設で、アメリカの州刑務所に習ったものだと云う。川沿いや川底を馬で遡り苦労しながら10kmほど上ると、幾つかの小屋掛けがある温泉に出た。湯の温度は54℃から58℃で、石灰と鉄分を含み、多くの湯治客が居た。パンペリーの記述からはこれ以上の地名特定が出来ず良く分からないが、筆者の想像では、現在の臼別温泉(うすべつおんせん、せたな町大成区)ではないかと思われる。翌日また海辺に戻り、クマイシ・熊石村(現・二海郡八雲町熊石)に着いた。  
トマリガワから内陸に向かい、東側に向かう山越えに入ったが、途中で大きなヒグマに出会ったりし、夕暮れにやっとユーラップ鉱山(現・北海道二海郡八雲町八雲温泉近辺、鉛川沿い、八雲鉱山とも呼ぶ)に着いた。ここは鉛鉱山で広い土地を掘った跡があり、46℃の温泉も出て鉱石洗浄に使っていたが、市渡の鉛鉱山同様に鉛の出鉱量は多くなかった。ここでパンペリーとブレイクは、日本鉱山史上初めて火薬を使い、発破による採掘法を実演して見せた。パンペリーは次のように記述している。いわく、  
ここで、かって日本で試みられた事のない、最初の火薬による採掘作業を実施した。日本人は(火薬を詰める穴の)穿孔方法はすぐ理解したが、最初は、火薬を仕掛け、火薬を詰めた穴を塞ぎ、導火線に火をつけるというどんな作業もやれなかった。そこに居て各工程を見る事もせず、皆が坑道を飛び出してしまった。爆破が終わると、土砂が崩れ、向こう見ずの外人共は瓦礫の山に埋まってしまっただろうと期待しながらすぐ戻って来た。何時間もの労働力を使い、従来のやり方で1日に掘れる量よりはるかに多い掘削を行った爆破の結果が分かると、彼らの喜びは表現できないほどだった。この後は現場で穴塞ぎや着火方法を学び、すぐに助けも借りず、全ての工程を自分たちで出来るようになった。  
パンペリーは、このような発破作業ができるようになれば、後は排水のための効率よいポンプ系統を導入すれば、高効率の鉱山開発が出来るだろうと書いている。パンペリー自身は、すぐにでもこういうやり方をこのユーラップ鉱山に設置したかったようだが、冬に向かった事と、その後日本の政治が更なる尊皇攘夷で不安定化する中、外国人の安全も考えた幕府は契約更新をしない事になって行き、排水ポンプの設置は不可能になってしまう。  
この後一行は、ユーラップ鉱山から鉛川を下り遊楽部川に出て、噴火湾に出たところで今回来た道を引き返し、1862(文久2)年9月14日箱館に帰着し、40日あまりに渡る2回目の探査旅行を終えた。2人は箱館に帰ると早速奉行所に出向き、探査旅行の口頭報告をした。  
2回目の探査旅行から箱館に帰った後も、本格的な冬になる前にアメリカ式の金の選別方法を導入しようとブレイクは国縫金山を再度見に行き、パンペリーは発破で採掘をして見せたユーラップの鉛鉱山に行った。更なる情報集めと発破作業試験の継続だったわけだが、忍び寄る冬の寒さには勝てず、引き揚げざるを得なかった。1862年11月21日(文久2年9月30日)付でパンペリーは箱館奉行・糟屋筑後守に、この更なる発破実験で岩の硬さにもよるが、従来の手掘りの2倍から4倍の生産性を挙げられる事が分かったと報告している(「パンペリー遊楽部調査報告」、北海道大学附属図書館北方資料室)。  
後日パンペリーは2回に渡る探査旅行の地質観察を元に、「地質踏査図−日本・南蝦夷地方の大要」を作成している。この種の地図としては恐らく日本始まって以来のものだろうが、2人が日本を離れる前に作成し奉行所に提出したのか、それより後になったのか、あるいは日本政府の手にあるのかないのか、筆者は知らない。しかしこの踏査図は、パンペリー著述の「AcrossAmericaandAsia、byRaphaelPumpelly、Leypoldt&Holt、1871」に載っている。 
契約の更新中止と帰国  
この頃の江戸や横浜の状況は、一行が2回目の探査旅行から箱館に帰着したちょうどその日の9月14日、すなわち文久2年8月21日に生麦事件が起きていた時だ。攘夷を言い募る朝廷は先鋭化し、勅使をもって幕府に京都警備を強化させ、9月24日幕府は会津藩主・松平容保(かたもり)を新設の京都守護職につけた。更に朝廷は、「まだ攘夷をしないのか」と12月3日、朝廷からの攘夷督促の勅使・三条実美が京都を出発し、これにより翌文久3(1863)年2月13日に将軍・家茂が攘夷の報告に京都に向け江戸を出発するという時だった。  
こんな中の蝦夷地のアメリカ人による鉱山開発は、攘夷グループの非難の対象でもあったようだ。ブレイクが1863年1月8日、即ち文久2年11月19日付けで箱館奉行・糟谷筑後守に出した書簡内容から見ると、箱館奉行は文久2年10月14日付けで、「可及的速やかに日本を離れられる期日を以て」と、パンペリーとブレイクへ解雇通知を出している。パンペリーも、  
攘夷主義者が大君を非難する言葉の中に、アメリカ人を雇い国家の資源を惜しげもなく夷人のスパイどもに投げ与えていると、我々に関係する言葉もある。追い詰められる立場を自覚し始めた江戸政府は、数多の緩和政策をやめざるを得ず、最初に我々との契約を中止した。これが1863年2月に起ったのだ。私のこの政府との関係は全て気持ち良いものだったが、日々に強くなる反自由主義者の脅迫の増長を見る事は誠に残念だった。  
と、これから本格的に改善しようとしていた鉱山開発が、途中で中止せざるを得なくなった残念さを語っている。  
基礎調査が終わり、冬の間に教育を施し、春から本格的に開発に取り掛かろうとしていた中で突然の契約中止だから、個人的には非常に残念な幕切れだったわけだ。箱館の学校での講義も、講義資料の翻訳遅れや契約中止などで捗った形跡がないが、それ以上の事は筆者もまだ知らない。ブレイクはあまりの残念さからか、箱館を去る前に糟谷筑後守に宛て、「日本人留学生を同伴して帰国したい」と提案し、また帰路の上海から再度村垣淡路守に宛てて、「留学生をアメリカに派遣したらどうか。自分が面倒を見る」と提案している。こんな風に、なんとか日本のためにと思う親切心もしかし、当時の政情から実現不可能な提案だったのだ。  
別れに際して2人は、探査旅行に参加した5人の日本人とは心から別れを惜しみ、彼らもそれぞれに記念品を贈ったようだ。また箱館奉行・村垣範正や糟屋義明などの計らいで、幕府からパンペリーとブレイクへ蝋色蒔絵文机・硯箱のセットや手箱など日本の工芸品を記念に贈っている。更に文久2年12月23日(1863年2月11日)付けの、新しい箱館奉行・小出秀実(ひでざね)からアメリカ国務長官・ウイリアム・スーワード宛てに出した感謝書簡も日本の記録にある。  
この様な経緯で、せっかく始まった蝦夷地鉱山開発も尊皇攘夷のうねりの中で中途半端な結果になってしまった。その後この鉱山開発や地質学調査の活動は、明治新政府になり組織された開拓使に受け継がれてゆくが、明治5(1872)年に開拓使顧問・ケプロンの要請でアメリカから来日した地質学者・ライマンの活動まで待たねばならなかった。
開拓使顧問・ケプロンの評価  
パンペリーとブレイクの離日から約8年の後、日本の北方開拓の目的で明治政府の作った開拓使の次官・黒田清隆の懇請で、アメリカ合衆国大統領・グラントの下で農務局長となっていたホーレス・ケプロンが、明治4(1871)年8月、明治政府の開拓使顧問として来日した。ケプロンは明治8(1875)年5月に帰国するまで、北海道の総合的開発に多大な貢献をした事は良く知られている。  
このケプロンが、明治8(1875)年3月15日付で開拓使長官・黒田清隆宛に提出した、開拓使顧問在任4年間をまとめた報告書、「Reports and Official Letters to the Kaitakushi(開拓使顧問ホラシ・ケプロン報文)」がある。ケプロンはこの報告書の最初に、ウイリアム・ブレイクから得た1862年当時のパンペリーとブレイクの鉱山・地質探査及び教育活動の概略報告を載せている。そして報告書の巻頭にあるケプロンから黒田に宛てた書簡の中で、パンペリーとブレイクの活動を収録する必要性を次のように述べた。いわく、  
ブレイク博士からの報告に関し、たぶん一言説明が要りましょう。その報告書には1862年に蝦夷の一部を探査した結果が盛り込まれていますが、その探査の本来の利益だけでなく、のちに開拓使主催の下に実測された多くの詳細事項に渡る再確認にから見ても、この報告書に収録する価値があります。  
日本の後の歴史学習の中で、あまり知られて来なかった蝦夷地におけるパンペリーとブレイクの鉱山・地質探査及び教育活動ではあったが、開拓使顧問・ケプロンは、自分たちの先駆者としてこの様に敬意を表し、その指摘している内容を再確認し、その価値を認めたのであろう。  
上の記述の如く、初めて蝦夷地の地質学上の踏査を行い、最初に発破採鉱方式を導入し、ユーラップ鉱山の効率を改善し、後の茅沼と思われる辺りで高品位瀝青炭の露頭鉱床を確認し、幾ヵ所かで銅・鉛鉱山の可能性を指摘し、イワオヌプリや恵山の硫黄鉱山を視察・確認するなど、当時としては先進的な鉱山開発の実践・指導・教育を行った先導者たちだった。残念ながら当時は、「尊皇攘夷」の嵐が吹きまくる時で、せっかく2人を招請した幕府もこの嵐に抗する事ができず、途中で計画を休止せざるを得なかったのだ。 
「お雇い」という事  
お雇い外国人の始め  
お雇い外国人と云う言葉は、その招聘が活発化し、ここに記述したラファエル・パンペリーやウイリアム・P・ブレイクを含む幕末から明治新政府の初期、そして更に明治20年頃まで良く使われたようだ。またこれを、「時の権力者や政府に直接雇われ、日本に滞在した外国人」と定義すれば、古くは、1600(慶長5)年に九州・大分の海岸、現在の臼杵市大字佐志生(さしう)に漂着し、その後その世界知識や航海・造船技術を評価され徳川家康に仕えた三浦按針ことイギリス人のウイリアム・アダムスが初めての人であろう。もちろんウイリアム・アダムスと共に同じ船で漂着したオランダ人・ヤン・ヨーステンも同様だったが、それ以来、三浦半島の逸見(へみ、現在の横須賀市西逸見町)に領地を与えられ、三浦按針という純粋な日本名を名乗ったウイリアム・アダムスのほうが良く知られて来たようだ。  
その後徳川幕府も末期になり、いよいよアメリカのペリー提督が蒸気軍艦・黒船を率いて浦賀に来ると、海防の遅れを痛感した幕閣は直ちに嘉永6(1853)年9月、長崎奉行・大沢定宅に命じオランダに軍艦、鉄砲、兵書を発注させた。2年後の安政2(1855)年8月25日オランダ国王は木造蒸気軍艦・スームビング号を幕府に寄贈し、大砲6門を装備した日本で初めての蒸気軍艦・観光丸が誕生し、日本で初めての海軍伝習が長崎で始まった。この時に、長崎海軍伝習所教授役に任じられたスームビング号艦長のペルス・ライケンとその部下たちが、上記のウイリアム・アダムスたちに次ぐ「お雇い」になったわけだ。また4年前に幕府が発注した大砲12門装備の軍艦・咸臨丸が、安政4(1857)年8月5日いよいよオランダから長崎に届けられ、長崎海軍伝習所に所属し、日本海軍の訓練に使われた。今度はカッテンディーケがペルス・ライケンの後任として長崎海軍伝習所教授役に任じられ、幕府のお雇いになった。  
面白い例では、元出島のオランダ商館医師・フィリップ・フォン・シーボルトが、昔長崎から国外追放された罪が許され、文久1(1861)年4月18日から約半年間に渡り、幕府の顧問として雇われた例もある。  
またアメリカ人に関しては、このパンペリーとブレイクの後、蝦夷地・北海道の開拓に関連して、今でも良く名前が知られている開拓使顧問・ホーレス・ケプロン(1871年)や札幌農学校初代教頭・ウィリアム・クラーク(1876年)がいる。また動物学者で東京大学教授・エドワード・モース(1877年)も大森貝塚発見・発掘者として知られている。しかしもっと以前の1860(安政7)年にも、咸臨丸のサンフランシスコ初渡航時に日本側に請われて乗組んだジョーン・ブルック大尉とその部下や、帰りにも日本側に請われて咸臨丸に乗組んだアメリカ人水夫たちをもお雇いと見ることも出来る。ここではしかし、現在殆ど知られていないが、幕府の正式要請でアメリカからやって来たラファエル・パンペリーとウイリアム・ブレイクを、「初期のお雇いアメリカ人」として取り上げた。  
この様にお雇い外国人の活動は、地球規模の航海術や造船、蒸気軍艦や搭載火器の操練など、日本になかった新技術の伝習から始まっている。当然といえば当然ながら、日本人の特性とも言うべき、すぐさま新しいものを取り入れる柔軟さを示す事例である。  
お雇いの増加  
諸外国と和親条約を結び、修好通商条約を結んで開国に踏み出した日本は、それまでオランダから蘭書を買うにも強い制限を設けていたが、急速に外国文明に追いつき、文明の利器を使いこなし、諸外国と同等な法治国家となるべく外国文化を勉強し始めた。これらの教授役としてあるいは顧問役として、幕府は言うに及ばず主要な藩も、その後の明治政府も、多くの外国人を雇い入れ近代化発展の助けとしたのだ。  
特に明治政府になって、学問分野は言うに及ばず法律、金融、経済、鉱工業、農業、軍事などあらゆる実務分野にお雇い外国人が招聘され、その人数も、明治政府関係のいわゆる官雇用だけで、明治1年から22年までの統計数字で約2300人にも上るというから、半端な人数でない事が分かる。また招聘先も、イギリス、アメリカ、フランス、清国などからが多く、総人数の約80パーセント弱を占めたようだが、その出身国は14、5カ国にも上るという。この官雇用以外にも、宣教師の活動や、私的に招く高等学校や大学等の活動を通じた教師招聘はこの官営統計に表れていないから、現実ははるかに多かった事だろう。  
この様に多くの専門家を外国から招聘し、日本国内でその文化技術の理解・習得とその向上に当たった事は重要政策の一つであり、短期間に西洋に追いついた原因の数多くをここに求める事ができよう。すなわち、教育こそが重要な国策の一つである事を実証する歴史的事実である。 
13、福井のお雇い米国人 

 

福井のお雇いアメリカ人: ウィリアム・エリオット・グリフィス (William Elliot Griffis)  
明治新政府の教育政策 − ウィリアム・グリフィスの招聘  
明治新政府になると、明治1(1868)年3月14日に天皇の出した五箇条の御誓文の中の、「智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし 」という条項に則り、旧幕府が西洋医学を中心として開いた「医学所」を「医学校」として6月26日に早々に再開し、儒学を中心とした「昌平坂学問所」を「昌平学校」として29日に再開した。また旧幕府が「蕃書調所」を新設し「開成所」と改称していた洋学中心の組織をも10月27日に再開したが、間もなく「開成学校」に名称変更された。またこれより少し早い3月始め頃からすでに明治新政府は、政府が直轄する府・県に小学校の設置を命じてもいた。  
医学校や昌平学校を開く当時は、まだ勝海舟が大総督府参謀・西郷隆盛と駿府で会談し、如何にして江戸市民を戦火から守り徳川慶喜の罪を軽くしようかと交渉し、4月11に江戸城が無血開城され、徳川慶喜が水戸謹慎のため上野寛永寺・大慈院を出発したと云う早い時期だ。そのすぐ後で彰義隊が上野で官軍に完敗した5月11日から、僅か1月半後の事だった。  
こんな新政府の素早い学校設置・再開の処置は、今後は教育こそが国家の根幹政策の一つだという新政府首脳の考えを則実行に移したものだ。更に翌2年7月8日に新政府は官位の制を改め、これら高等教育施設を統合した「大学校」を設立し、8月24日、統括長官・大学別当に元福井藩主・松平春嶽を任じた。  
この様な経緯があり、日本の新しい大学校の大学別当になった松平春嶽としては、自分の地元の福井藩でも洋学を強化し模範を示さねばと考えたのだろう。自藩からアメリカのラトガース大学に留学している日下部(くさかべ)太郎の縁を頼り、その留学先から、いち早くお雇い外国人としてアメリカ人教師を招請しようとした。明治2年6月17日に版籍奉還をし、そのまま福井知藩事となっていた前福井藩主・松平茂昭(もちあき)の肝いりもあったはずだが、日下部太郎の時と同様再び、当時長崎から上京し開成学校の教頭になっていたグイド・フルベッキ(Guido Verbeck)を通じ、前年にラトガース大学を卒業しアメリカにいる27才のウィリアム・グリフィスに声がかかったのだ。グリフィスは次のように書いている。いわく、  
私が大学の理事をしている時、アメリカ人で教頭をしているG・F・フルベッキ宣教師を通じ、越前の福井に行きアメリカの基本方針に基づく科学学校を創設し、自然科学を教授してほしいと越前守から招請を受けた。  
こんな背景があって、グリフィスは早速日本に旅立つ事になる。ただしここで筆者は、グリフィス記述の通り、「the American superintendent」を「アメリカ人で教頭をしている」と上記の様に訳したが、フルベッキは、実はオランダ国籍である。  
後にグリフィスは1903年の著書、『Sunny Memories of Three Pastorates(三牧師館時代の楽しき思い出), Andrus & Church, 1903』の中で、「日本の国土を踏む前に、教えたり、会ったり、交友したりで、おそらく300人ほどの帝(みかど)の国人を知っていた」と書いている。日本を去って30年も後の思い出の記だが、来日前に「300人」もの日本人がニュー・ブランズウィック近辺を訪ねていたとは、事実とすれば全くオドロキだ。あるいは、グリフィスの故郷・フィラデルフィアも訪れた、万延元(1860)年に日米修好通商条約の批准書交換のため、幕府が派遣した77人もの遣米使節団や、慶応3(1867)年アメリカを訪れ、サンフランシスコやニューヨークで興行したという足芸・手品・曲独楽(きょくごま)など帝国日本芸人一座一行の17名などをも含めたのかも知れない。とにかく来日前のグリフィスは、1866(慶応2)年暮れから突如としてラトガース大学とその付属学校に留学し始めた多くの日本人の若者を教え、ニュー・ブランズウィックを訪ねる日本人とも多くの交流があった事は確かだ。また教え子で1870(明治3)年のラトガース大学理学部卒業の直前に亡くなった、福井出身の優秀な日下部太郎の印象も強く、日本と日本人に強い興味があったはずで、そんな時に受け取ったフルベッキ宣教師を通じた福井への招請に応えたのだ。  
グリフィスの福井行き準備  
こうしてグリフィスは1870年12月29日(明治3年11月8日)に来日し、福井に行き、廃藩置県の後東京に戻り、合計3年7ヶ月あまりの間日本に滞在する事になる。この時期は、明治新政府があの奇跡的な「廃藩置県」を断行し中央集権の基盤を固め、岩倉使節団が長期外遊し、西郷隆盛が朝鮮出兵を唱え入れられず下野し、佐賀の乱が勃発し、また日本から台湾出兵が行われ多くの兵士がマラリアに苦しんでいたという時期だった。グリフィスは振り返って、  
私は、「大日本」の歴史の中の最も波乱に飛んだ4年間をここで過ごした。ほぼ1年間は、封建社会の真っただ中で古式豊かな生活のある、西洋文明から隔離された、内陸奥地の一大名の藩都で孤独に過ごした。首都で私は、よくぞ「国家の開花期」とも呼ばれたそんな時期を過ごし、帝国大学の一教師として全国から生徒を選抜し、1872、1873、1874年にわたる画期的時代に起ったすばらしい発展、改革、危機、華やかな出来事の目撃者だった。  
と語っているが、全くグリフィスの言う通り、廃藩置県を断行して中央集権を図った明治新政府が、新国家建設に向け多くの改革を軌道に乗せ始めた時期だった。  
さて横浜に着いたグリフィスは、東京に行き、元越前守・松平春嶽の上屋敷に招かれ食事を馳走され、福井行きの準備の一環として、まず一緒に福井で講義に協力してくれる通訳を探し始めた。グリフィスは、かって幕府が万延元(1860)年に日米修好通商条約の批准書交換のため派遣した遣米使節団に、年若い通詞として随行し、その率直さと朗らかさでアメリカ女性の心を捉えたといわれる一番の人気者、通称「トミー」こと立石斧次郎を良く見知っていた。当時使節団は、グリフィスの故郷・フィラデルフィアの造幣局などを訪れているから、「トミーと呼ばれる快活な若者をよく見かけた」とグリフィスも言っているが、こんな時に目にしたのだろう。グリフィスはこのトミーが東京に居る事を知ると早速白羽の矢を立て、越前の役人が交渉を始めた。トミーはしかしあまりの田舎行きに、年間手当て・金貨で千ドルという破格な提案をも受けず、この交渉は失敗に終わった。トミーはこの1年後、長野桂次郎として岩倉使節団に随行しているが、「恐らくトミーはそんなチャンスを探していたようだ」とグリフィスは言っている。しかし幸運にも、岩淵という20歳位の若者が福井での通訳を引き受けてくれる事になった。  
グリフィスは更に、外務省の許可の下に福井藩と、  
福井の学校で3ヵ年に渡り化学と自然科学を教授し、商売はせず、飲酒もしない。福井藩は月300ドルの報酬を払い、ヨーロッパ風の家を建て、契約終了後は横浜まで送り届ける。  
という日本文と英文の雇用契約書を作った。宗教に関しては記述がなく、日曜日は完全な自由が保障された、とグリフィスは言う。  
この外務省の許可取得の要求は、明治1(1868)年8月22日という早い時期から明治政府が各藩に布告を出し、「諸藩、外国人雇い入れの際は、外国官の指揮を受けよ」と命じていたし、翌年の2月7日付でも、競って外国から専門家を雇い始めた政府内の諸官に、「外国人雇い入れの年月、人名、月給等を外国官へ申し報じ、以後雇い入れの節は、同官に照会の上、願出すべし」とも命じていた。これはまだ明治4(1871)年7月18日に文部省が組織される前の事であるが、最初は人材難で、横浜などから十分な審査もなく外国人を雇うような事例も多々あり、公正な雇用を実現し、優秀な人材を確保しようとする新政府の意図による要求だったようだ。 
福井の生活  
いよいよ1871(明治4)年2月22日、通訳・岩淵、警護役・中村、勘定役・江森、2人の使用人、グリフィスの賄い方の夫婦の合計8人で、横浜から太平洋郵便会社の蒸気船・オレゴニアン号に乗り神戸に向かった。神戸から大阪・天保山に着き、大阪の越前屋敷に泊り、淀川を遡り、琵琶湖の南岸・大津から北岸・海津まで蒸気船で渡り、敦賀を通り、福井に出るルートだったが、3月4日ついに福井に到着した。琵琶湖には1869(明治2)年3月からすでに蒸気船が運航されていて、その後に鉄道・東湖線(現在の東海道本線)が東岸を通るまで物流の中心であったという。  
グリフィスの記述では、福井には親切な人々が大勢いて、最初から印象が良かった。ニューヨークに行ったことがあるという佐々木(権六)と呼ぶ侍が、グリフィスがとりあえず滞在する日本の侍屋敷を洋風に居心地良く改造し、ガラス窓も入れ、ベッドと洗面台も、質の良い家具も備え付け、赤々と火の燃えるアメリカの「ピークスキル・ストーブ」まで据え付けてくれていた。ニューヨークのマンハッタンからハドソン川を70kmほど北に遡った東岸のピークスキルの街は、昔オランダ移民から始まったといわれる街だが、ピークスキル・ストーブ会社やピークスキル製造会社などによりこの工業都市で製造されるストーブは、当時アメリカで有名ブランドだったし、グリフィスにとっては、「故郷」の見慣れたストーブだったわけだ。こんなストーブまで入れ赤々と火を焚いていたのだから、グリフィスの心の琴線に触れたのだろう。「気に入ってくれたと思うが」と片言の英語で言ったこの佐々木は、以降グリフィスの右腕になって行く人物だ。  
福井藩の版籍奉還後は、当時の福井藩主・松平茂昭が知藩事としてそのまま福井に居たが、グリフィスは翌朝早速城郭内にある藩庁に行き、松平知藩事と面会を済ませた。最初の挨拶が済み、話が進み緊張が解け、冗談も出始めると会話が楽しくなり、これなら上手くやっていけそうだと、和やかな親切な対応に心から安心したようだ。グリフィスいわく、  
一年間の滞在中、いつも変わりない親切を受けた。知事や役人から、学生、市民、子供に至るまで私を理解し、微笑み、お辞儀をしながら「先生、おはよう」と迎えてくれ、尊敬と、思いやりと、調和と、親切以外の何ものもなかった。目を開かされた思いだった。ピストルも護衛も必要なかった。皆と心が打ち解けあい、福井は幸せな思い出ばかりだった。  
しかし一方でグリフィスは、これから3年も住む町だからと期待を膨らませ、馬で町を見て歩いた。しかしグリッフィスの目に映った現実は、人々は貧しく、みすぼらしい家に住み、アメリカの小奇麗に手入れされた町並みに比べ荒廃の進む城下町の風景があった。それでもどこかにもっと立派な通りがなかろうかと探しあぐねたが、そんなものは何処にもなかった。「色収差のないレンズ」を通してみる福井の現実に、気持ちが重く沈みこみ、グリフィスはそのショックが大きかった様子を鋭く描いている。当時内戦が終わったばかりの日本では、物質面で欧米との貧富の差は隠しようもなく、工業生産が上がり、貿易が増え、日本の国が物質的に裕福になるまでには、まだまだ時間が必要な時期だったのだ。  
グリフィスにはもう一つの目的があった。それは教え子で、ニュー・ブランズウィックのラトガース大学卒業を目前に夭折してしまった日下部太郎の親に会い、その努力の様子を伝え、クラスの主席を通した名誉の証、「ファイ・ベータ・カッパ」協会の金の鍵を手渡す事だった。グリフィスの到着を知った日下部の父親が、日本風にミカンの手土産を持ち、玄関ではなく勝手口から会いに来た。50過ぎの悲しみに満ちた顔をした人物だった。岩淵の通訳を通し父親が言うには、異国の地で亡くなった息子を嘆き悔やんだ母親は死に、全部で5人の子供も死に、幼い2人の男の子がいるだけだという。グリフィスが金の鍵を手渡すと、父親はその鍵を額に押し頂き、うやうやしく受取ったと云う。  
さて福井の藩校・明新館は非常に大きかった。本丸の中の、かって松平春嶽の屋敷だという建物だ。生徒数も800人もいて、英学、漢学、儒学、医学、軍学の部門があり、英語はまだ2、3年と新しく、生徒も少なく、長崎に留学した日本人が教えていた。医学の部には多くの蘭書があり、フランス製の人体解剖模型もあった。図書館には英語の本もあったが、かって日下部太郎が集め使った書籍も一緒にあったと云う。  
余暇には近郊を散策し、福井から東に聳える白山に登り、鯖江、勝山、大野といった街にも行き、9月には約束のグリフィスが住む洋風住宅が完成し、仮住まいから引越しをした。見通しの良い足羽川岸に建つ福井で始めての洋風住宅だったから、早速知藩事や役人が訪れ、グリフィスが言うには2万人もの市民が見物に来たという。石を積み上げた暖炉と煙突、瓦屋根、壁紙、ガラス窓、洋服だんす、伸縮テーブル、椅子、本棚、チャールス・ディケンズ風の机など、全て居心地良く出来ていた。 
廃藩置県のショック  
殆ど突如として明治4年7月14日、すなわち1871年8月29日に明治天皇が「廃藩置県」の詔書を出し、それまでの知藩事は交代し、新しい県令(後の県知事)が任命される事になった。版籍奉還後2年を経て出されたこの廃藩置県で、それまでの、昔から続いた封建社会が完全に終焉を迎えたのだ。そして、知藩事すなわち前福井藩主・松平茂昭は東京移住が命ぜられ東京に行く事になったが、その別れの日には3千人に上る侍が正装して福井城に参集し、大広間に集まった。この席に招かれたグリフィスは、  
前頭を青々と剃り上げ、武家風の男髷に結い、いかめしく正装した侍たちは家格に則って居並び、右ひざ横にまっすぐ置いた刀の柄に手を添えて正座しているのは、3千人の福井藩の侍たちだった。頭を垂れた侍たちの心中は、この重大な事態に対する思いでいっぱいだった。それは、彼らの封建的領主への惜別以上のものだ。七百年にもわたる、先祖達から伝わる制度の厳粛な埋葬式典だったのだ。夫々の顔は、あたかも過去を見つめ、かすんだ未来を見定めようとするような、遠くを見ている表情だった。  
と書いている。それまで知藩事と名は変わっても昔の封建時代同様の福井藩主であった松平茂昭が、「大名華族」にはなっても「個人」になる瞬間だった。古い封建制が完全に崩壊し、それなりの身分の侍が住んだ大きな屋敷は次々に取り壊され、侍の命に次いで大切だった鎧兜や弓矢、槍、旗指物、馬具、陣羽織や野袴、手回り道具一式という封建時代の遺物は二束三文で買われていった。城での惜別の会の後の松平茂昭は、グリフィスの家をも訪ね別れを述べたという。  
松平茂昭が東京に去ると、福井の有能な人たちもあるいは明治政府に出仕し、あるいは他県の県令や権令になり次々と福井を去り、他県出身者が県令として福井に赴任して来た。これは明治政府の意図した方針であり、グリフィスも上手いやり方だと書いてはいる。昔福井藩の財政を立て直した由利公正(三岡八郎)は早くから明治政府内にいて、この時は東京府知事になったし、グリフィスにピークスキル・ストーブまで買って待っていた佐々木権六は内務省勤務にと、夫々東京に出た。福井藩校・明新館の多くの教師たちも東京で職に就いたから、「最も親しい友人たちも優秀な生徒たちも居なくなり、我慢できないほどの孤独感に襲われた」とグリフィスも書くほど周りに誰も居なくなってしまった。  
この様な日本の変革を目の当たりにするグリフィスは、その過程で当然自分の身の振り方も考えただろう。翌年の1872年1月10日、グリフィスはこう書いている。いわく、  
何ヶ月か前に東京の政府に宛て、工業技術専門学校設立を促すプランとその詳細記述を送っていた。明らかにそのような企画が出来たようだ。今日東京府知事から手紙が来て、首府・東京に出てそんな学校の教職につくよう親しく招請するものだった。また同じ手紙の束の中に、帝国大学の外国人教頭を通じた文部卿からの手紙で、ほぼ開校が決まった専門学校の教授職に就くよう招請するものもあった。直ちに回答を欲していた。  
どんなに強靭な意思をもってしても、半年以上も仲間の西洋人にも会えず、周りの支持者も親しい人も次々と居なくなる中で、孤独を通し異文化と向き合っていれば、こんな大変革を前にまだ若いグリフィスの気持ちが動く事は非難できない。そして特に、グリフィスを招請した福井藩が消滅し、その首脳たちや親友たちも皆東京に出てしまった事は、福井に来た理由を失った事に等しい。また廃藩置県で福井藩がなくなった後は、グリフィスの給与も日本政府が払い始めたが、そんな中で日本政府の文教のトップ・文部卿から招請が来れば、旧福井藩との契約期間が残っていても、何とか中央集権化が急速に進む中心地・東京に出たいのは人情だろう。当時、明治政府の文部卿は初代の大木喬任(たかとう)だが、新しい学制を制定する過程でグリフィスの推奨する工業技術専門学校設立について、当時大学南校の教頭だったフルベッキの意見も聞いただろうし、フルベッキもグリフィスの東京招請に熱心だったようだ。  
新しい役人に替わった福井県庁には、その旨の指示が東京政府からもあったようだが、地元福井県庁の教育責任者が簡単にそれを受け入れるはずもない。県庁からは、グリフィスの気持ちの動きを知り当然強く引き止めてきたし、文部卿からの招請状の到来を知った多くの福井市民も県庁にグリフィス引き止めの嘆願書を出したとも伝えられた。しかし、グリフィスの心は決まっていた。そして粘り強く県庁と話しもつけ、福井を辞し東京に出る事にした。その後福井には、グリフィスの交代教師として同じラトガース大学出身のマーチン・ワイコフが来ているから、グリフィスの東京行きにはフルベッキも協力し、ラトガースと話しをつけたように見える。  
突然の東京行きになったが、出発の前日は、朝から晩までグリフィスに別れを惜しむ人達が押しかけてきた。それまで7日間も雪が降り続き、人の背丈ほどもに積もり、まだ雪の降り続く1872年1月22日の暗い早朝、大勢の人々に見送られ、一行は福井を出発した。10ヶ月あまりの短い福井滞在だったが、ほとんどどんな外国人も経験した事のない、こんな古い田舎町での体験と福井から東京に出る長旅は、その後のグリフィスを著名な「日本学者」にする目を開かせたようだ。 
東海道を登る  
吹雪の早朝に福井を発った一行は、20kmほど南の武生(たけふ)の街で、そこまで雪道を見送りに来た人達と最後の別れの食事会を持った。あまりの吹雪に乗馬もカゴも出してもらえない一行は、雪の中を先に進む事にしたが、暗くなり、ついに雪に隠れた道を見失い、進む事も引き返す事もできず遭難の一歩手前まで追い詰められた。夜遅くまでさ迷った挙句、やっとの思いで今宿と云う小さな村にたどり着いた。翌日もまた雪の降る中を出発し、峠を上り湯尾村の茶屋で休み、今庄村を通り、ついにグリフィスは人に背負われて雪の峠道を登り、夜の9時もとうに過ぎてやっと名も知れぬ村で宿に入った。  
こうして大雪の中を北国街道を南下しながら近江の国に入り、伊吹山の麓を回って美濃の国に入り、中山道を通って関が原を過ぎ、大垣を通り、名古屋に出た。こんな道すがら、3人だけ許されて福井から同行しいるグリフィスの元生徒から、途中の常盤御前の墓前や関が原の古戦場などで日本の歴史を関心を持って聞き、それなりの情報を集めている。グリフィスは後の1876年に、著書 『The Mikado's Empire (皇国)』の中で日本の神話時代から1872年までの歴史を書いているが、こんな実体験を通した見聞や情報収集が大きく貢献したように見える。  
当時の幹線道路・中山道や東海道に出て、こんな歴史上の史跡だけでなく、グリフィスは日本の新しいシステムによる急発展の姿をも目に留めている。すでに福井に行く途上の琵琶湖で日本人運行の蒸気船に乗ったが、帰りの大垣辺りではもう電気通信用の電柱が立ち並び電線が張られ、今にも大都市間の電信が完成しようとする姿を見たし、街では多くの人力車が行き交い、馬やカゴに替わりつつあった。そしてすでに明治4年3月に発行された最初の郵便切手が使われ始め、同じく5月に制定された新貨条例による新しい一円銀貨も発行され流通し始めていた。10日あまりの旅の途中でグリフィスは、日本のこんな日常生活様式の大きな変化を目撃している。  
浜松近くに来ると、途中の静岡で再会すべくグリフィスは、静岡で教師をする同じラトガース大学同級生のワーレン・クラークに知らせの手紙を出した。静岡に近づくと遠方に馬を引いてやって来る旧友・クラークの姿を認め、グリフィスとクラークは東海道上で懐かしい再会を果たした。2人は静岡・駿府城の堀端に建つクラークの家に着き、旧交を温めたが、この静岡でグリフィスは、17、8年も前にペリー提督が将軍に送った、すでに古く錆付いてしまったミシン、自分の故郷・ペンシルベニア州フィラデルフィアの載った1851年当時の古い地図、旧式な分光器、その他細々とした古くなった贈物を目にし、かって日本に君臨した最後の徳川15代将軍が「謹慎した街」で見る古式豊かな贈物の数々に、諸行無常、栄枯盛衰を目の当たりにする思いだった。  
東京での活動  
陸路の長旅を終えたグリフィスは2月2日、東京築地のフレンチ・ホテル(築地ホテル館)に腰を落ち着けたが、ほぼ1年ぶりに見る東京は全く変わっていた。先ず物乞いがいなくなり、番屋がなくなり、築地の番兵が消え、市内警備用の障害物は撤去され、帯刀者がいなくなり、多くの侍屋敷が消え、新しい礼儀作法が戻り、丁髷が減って洋装が増えていた。皆が帽子をかぶり、靴をはき、コートを着ていた。馬車が増え、いたるところで人力車が走り、店には洋物が増えていた。兵士は軍服を着てシャスポー銃を持ち、川には橋が架かり、ポリスは制服を着ていた。病院、学校、大学が出来て、高等女学校(官立女学校)も出来ていた。新橋−横浜間の鉄道も完成間近だった。金貨・銀貨が流通し、貧窮者収容施設も出来ていた。ドイツ人医学教授の一団が上野の古い修道院に住み、蝦夷地開拓使顧問・ケプロン将軍とアメリカ人科学者スタッフが芝の将軍家浜御殿に住んでいた。現在はブルックリンで勉強に励む息子を待つ井伊掃部守の屋敷には、フランス軍事顧問団の将校たちがいた。この様に、古い江戸の街が消え去り、新しい首都・東京が出来つつあったのだ。  
こんな東京で新しい生活が始まったが、もともとグリフィスが3月頃にも開校と期待し上京した工業技術専門学校は、グリフィスが教える化学と物理学以外の教師不足で組織化が大巾に遅れ、開校の中止に至った。はじめ時間のあるグリフィスは、大学南校(東京大学の前身)のアメリカ人英語教師・エドワード・ハウスの代理を務めたりしたが、最終的に、専門学校教師の代案として要請された大学南校で、正式に化学、生理学、比較言語学を教える事から始めた。これはフルベッキ教頭の下での教師職で、とりあえずグリフィスの顔も立つ妥協案だったらしい。しかし、当時大学南校が集めたレベルの低い教師陣やグリフィス自身の経済的必要性もあり、グリフィスの担当教科が次第に拡大し、物理学、化学、地理学、生理学、文学、法学にまで及んだ。フルベッキ教頭に次ぐ地位と実力に自尊心は満足しても、物理学や化学の実験準備に多くの時間を取られ、まだ教科書も満足にない多くの教科を教える事に大変な努力を要したらしい。大学とはいえ出来たばかりで、上級学生が居ない中等学校程度の教育課程の当時としても、これ程多くの分野を教えること自体に無理があったはずだ。  
グリフィスの給料は福井時代と同じ月額300ドルだったが、東京では福井から附いて来た3人の学生の他に2人増え合計5人も食客が居たようだし、完全なアメリカ生活様式で、賄い人も居て、東京の物価は福井より高かっただろうから、経済的にあまり余裕が無かったようだ。翌年7月に文部省から、グリフィスの交渉によると思われる月額30ドルの昇給があったが、こんな妥協とオーバーワークが後々までくすぶり続け、ついに離日の決断に繋がってゆく。  
しかしこんな大学南校での多忙な日常も、首都・東京の多彩さは地方都市・福井とは比較にならない。アメリカ人や日本人との交流の中で、著名人ほか多くの人達との交流や面識の輪が広がっている。東京では開拓使顧問・ホレス・ケプロンとそのスタッフ科学者たち。横浜では宣教師のサミュエル・ブラウンやジェームス・ヘップバーン。日本人では、1872(明治5)年5月7日に大学南校を訪れ、グリフィスの授業や実験をも視察した明治天皇。グリフィスがラトガースで岩倉具視や勝海舟の子息たちの面倒を見た繋がりだけでなく、教頭・フルベッキの長崎時代からの強い人脈も加わり、三条実美や岩倉具視始め多くの明治政府を造った首脳たちとの交流があった。自身も参加した明六社の文化人たちとの交流も活発だった。  
また教える生徒たちも、上述のようにグリフィスは、「帝国大学の一教師として全国から生徒を選抜した」と言っているが、大学南校に全国から優秀な人材が集まった事は確かだ。後の日本外交の分野で活躍した小村寿太郎も、1870(明治2)年当時、日向国・宮崎県から上京し大学南校に入った一人だった。、グリフィスが初めて日本に来て東京で福井行きの準備をしている間、約1月ほど大学南校で英語授業の援けをしたが、この時に小村寿太郎の聡明さを知り、福井から戻り、再び大学南校で2年間に渡り英語や法学を小村に教えることになった。後に小村が、アメリカ大統領・セオドア・ルーズベルトの仲介で日露戦争の講和交渉をし、ポーツマス条約を締結・調印する日本全権に決まった時、グリフィスはアメリカに居て、1905年7月30日付けの「ニューヨーク・タイムズ」紙に寄稿し、昔の教え子の男爵・小村寿太郎全権大使の紹介記事を書いている。その記事は、その昔、おそらく大学南校・英語コースの卒業論文にでも相当したであろう英文のエッセイで、小村寿太郎が提出した10ページあまりの、小村自身の書いた自伝を紹介した部分がある。いわく、  
学生時代と同様、快活で、楽しく、民主的で、仕事熱心な小村男爵は、昔からの教育により、今回の特別任務と今世紀の政治家に課せられた責務に対し、比類なき資格を備えている。その教育は、ユニークで多面的なものだった。1874年、二年間に渡る毎日の子弟関係の仕上げとして私に提出した、10ページに渡り大判用紙に書かれた彼の自伝は、各語のスペルや句読点、言い回しや文体、発想の広がりや人生観など、若干20歳の若者にしてはむしろ驚くべきものであり、この著作は、それ自体注目に値する作品になり、その多面性のため並外れた物語になっていた。付言すれば、彼の若い頃の生活は、封建時代の平均的侍を特色付ける単一な狭い標準ではなく、立体的なものだったと言えよう。  
もちろんこのグリフィスのニューヨーク・タイムズ上の記述ははるかに長く、まだ多くのことを述べているが、小村の印象が如何に強かったのかの例として、ごく一部を引用した。  
辞任と帰国の決断  
このようにして約1年が経ったが、1873(明治6)年7月に事件が起った。明治政府の組織も発足当初から頻繁に大きく変わってきたが、1871(明治4)年9月には文部省ができ、大木喬任が初代文部卿に就任し、多くの近代的な教育制度が出来始めた。当時、アメリカや欧州を視察した岩倉使節団に文部省を代表する理事として参加して帰国した、田中不二麿(ふじまろ)が文部大輔(たいふ)として文部卿に次ぐ中心人物だった。帰国後も更に種々の教育制度改革を進めたが、その中に、明治政府が当初から使っていた日本流の「太政官布告の休日制」の原則実施があった。当時、日本のそれまでの太陰太陽暦は、1873(明治6)年1月1日を以て欧米流の太陽暦すなわちグレゴリオ暦に改められていたが、旧暦当時から続く休日習慣は、まだ毎月、1日・6日・11日・16日・21日・26日が休みと云うものだった。これはいわゆる「1・6休日制」で、日本にも昔から七曜はあったと聞くが、今日のように日曜日を休日・安息日とするいわゆる欧米キリスト教国の習慣ではなかった。これもしかし、その後の1876年(明治9)年3月12日に改められ、官公庁で土曜半休・日曜休日制が実施されることになって行く。  
さて文部省からこの「1・6休日制実施」通達が大学南校にも届いたが、基本的にキリスト教の安息日である日曜も働けと云うこの通達に、真っ向から反対したのがグリフィスだった。勿論この日本流は欧米流より月間あるいは年間の休日数は多いがしかし、キリスト教に根ざすこの「日曜=安息日」の習慣は容易に変更や妥協できるものではなかったのだ。福井藩との契約でも日曜休日を認めさせているグリフィスは、英語を話す教師たちと図り、厳しく「ノー」を突きつけたようだ。雇用主の文部省にとっては、お雇い教師たちの反乱かとも映ったろう。  
これが、文部大輔・田中不二麿の激しい怒りをかった。グリフィスは後の1900年の著作、「Verbeck of Japan (日本のフルベッキ), Fleming H. Revell, 1900」の中で当時の事情を、  
先ず最初にやろうとした事は、外国人教師にとって休息日の日曜を廃止した事だ。これは、厳粛に約束され、契約書にも明記された事項に対する直接の違反だ。明らかに、担当する政治家とその後に隠れる文部省の役人たちは、彼らの考える計画を実現するため勝手に約束を破ったのだ。・・・(日曜は休日にすべきだというこの抗議は)日本に居たアメリカ人側からは見れば非常に丁寧に行われたが、知られている限り、すぐさま当時(文部省を)取仕切っていた人物の激しい怒りをかった。この人は自分の覚えている限り、典型的な日本の政治家で、利権屋で、かって会ったことのあるどんな生き物の中でも、すぐアメリカ人の「ボス」を思わせる程の人物だった。この典型的な政治家の取った処置は、(アメリカ人のボスと)全く良く似ていて、その直後に、そのアメリカ人教師(グリフィス自身)に対し、もう契約更新はしないという通告がなされたのだ。  
と書き、怒りをあらわにしている。  
グリフィスは更に続けて書き、この後それ以上こんな下っ端役人などを相手にせず、すぐ、昔ニュー・ブランズウィックで留学中のその息子の面倒を見て、日本に来てからも数回も食事を共にしていて親しい、右大臣・岩倉具視にこの出来事を簡単に連絡した。するとすぐ政府内である妥協ができたようで、文部省からグリフィスに新規の同等な地位と3年契約が伝えられた。恐らくこの新規契約は、この年にそれまでの「南校」が「開成学校」に改称され幾分システムが変わったが、それに伴うもののようだ。しかしすでに、グリフィスの心の琴線は切れてしまった。グリフィスの断りの返事に困惑した文部省は、低姿勢で再度グリフィスの希望を聞いてきた。そこで両者の話し合いで、グリフィスが予ねて旅行したいと考えていた中部・東北日本に行けるよう6ヶ月の契約延長に合意したと書いている。  
筆者には実際、グリフィスが敬虔なクリスチャンとしてアメリカで受けた高等教育への誇りや、もともと新しい専門学校の「化学と物理学の教授」として福井から出て来たのだと云う、自身のプライドが強く底辺に流れていたように見える。日本でも余暇を見つけては聖書教室を開き、帰国後は牧師になった人物だから、「日曜=安息日」に教師の仕事で働く事などは、とても受け入れられなかったのだろう。普通なら、アメリカから来た一教師と雇い主の文部大輔との争いは、その勝敗は分かりきっている。しかし、とに角幸いにもこうして、1874(明治7)年夏までの日本滞在が合意できた。やはり岩倉具視の影響力が大きかったであろうが、この間の1873(明治6)年暮れには、グリフィスがラトガース時代に良く知っている、当時日本からラトガースに留学していた畠山義成が開成学校の校長として赴任して来たが、こんな事もグリフィス有利に、穏やかな帰結に向けて働く要素だったのかも知れない。更にこの時には、ラトガース大学教授のデイヴィッド・モルレーも文部省顧問として招請され1873(明治6)年6月に来日していたから、ラトガース出身者らでグリフィスを理解し間接的にサポートする環境も有ったようにも見える。  
更に興味深い事は、当時文部省がグリフィスの契約切れを念頭に探した交代教師は、静岡で教える、上記のラトガース出身のワーレン・クラークだったと云うから、当時の日本の高等教育発展に深く絡んだ、いわば「ラトガース・コネクション」が浮かび上がる。  
ラトガース・コネクション  
ウィリアム・グリフィスとワーレン・クラークの事跡を調べる中に必ず登場する、筆者が「ラトガース・コネクション」と呼びたい一群の人達がいる。彼等はラトガース大学で学んだアメリカ人と日本人達のつながりだが、明治新政府の首脳たちとも色濃い関係を持つので、このラトガース大学について簡単に記述する。  
ラトガース大学  
この大学は、アメリカ合衆国の歴史の一面を体現している大学と言って良いほどアメリカ史と共にある学校の一つだ。現在はニュージャージー州立大学だが、イギリス植民地時代から続く古い大学の一つで、1766年11月10日にオランダ改革派教会の大学として、当時の英国王・ジョージ三世のシャーロット王妃に因み、「クイーンズ・カレッジ」としてニュー・ブランズウィックに創立され、初等教育機関の付属予備学校(grammar school)も併設された。以降、独立戦争当時は多くの学校関係者が戦争に参加し、独立宣言後は学校運営の経済的危機に見舞われ、二度も一時閉鎖を余儀なくされたという。そんな学校経営の経済危機を救ったのが、ジョージ・ワシントン将軍の下で独立戦争を戦いその後成功したニューヨークの慈善家・ラトガース大佐であったが、以降その名誉を称え、「ラトガース大学」と称した。更にその経済基盤を強固にしたのが、1864年に、「モリル法(Morrill Act of 1862)」による「連邦政府助成大学(land-grant college)」に認定され、農業・技術・化学の3部門を持つ、、ニュージャージー州を通じて経済的に連邦援助される「ラトガース科学学校(Rutgers Scientific School)」が追加創設され、1868年から理学士(Bachelor of Science)の卒業生を出している。またこのモリル法そのものも、その審議中に南北分裂の影響を色濃く受け、成立に反対していた南部諸州が連邦脱退した影響で突然成立した経緯がある。その後この大学の組織下にいくつもの学科や大学が増設され、1924年に総合大学・ラトガース大学として組織されたが、創立以来多くの局面でアメリカ史に大きく影響を受けて来た学校だ。  
日本人の留学  
この様な歴史の中で、1859(安政6)年にアメリカのオランダ改革派教会から宣教師として日本に派遣され、長崎の洋学所・済美館で英語を教えていたグイド・フルベッキ(Guido Verbeck)の紹介状を持った2人の若者が、1866(慶応2)年の秋、乗ってきた船の船長に連れられニュー・ヨークのアメリカ・オランダ改革派教会・フェリス牧師を訪ねて来た。彼らは日本を密出国してアメリカ留学に来た肥後藩出身の横井佐平太(当時、変名で伊勢佐太郎を名のる)と横井大平(だいへい、当時、変名で沼川三郎を名のる)の兄弟だったが、牧師は2人をニュー・ブランズウィックに伴い、下宿を探しラトガース大学付属予備学校に入れ親切に面倒を見た。彼ら兄弟は、日本からのラトガース留学生の第1号だった。次にまた翌年の夏、フルベッキの紹介で福井藩出身の日下部太郎がラトガース大学付属予備学校経由でラトガース大学理学部へ留学し、先に来ていた横井佐平太・大平の兄弟にも会った。幕府は下関戦争後の慶応2(1866)年5月13日、4カ国と新しく合意した「改税約書12カ条と運上目録」に調印したが、その第10条で海外渡航希望者には公儀の海外行御印章(パスポート)を発行する事に合意している。日下部は、この正規の印章・パスポートを受け渡航して来た最初の1人であると云う。  
彼らはこの付属予備学校で、当時ラトガース大学生でもあったウィリアム・グリフィスからもラテン語学習などで指導を受けたが、学業に励んだ日下部太郎は大学の理学部卒業を目前に病気のため1870(明治3)年4月13日現地で亡くなった。大学側ではその成績と努力に感銘し卒業証書を発行しているが、こんな日下部に深い友情を感じたグリフィスは、当時の福井藩からの教師の求人に応え、日本に来ることにした。またグリフィスのラトガース大学の友人で級友のワーレン・クラークも、静岡藩からの教師の求人に応え後を追って来日したが、このグリフィスとクラークがここに記述したラトガース・コネクションの中心人物である。  
その後、こんなラトガースに日本の多くの若者が留学したが、横井佐平太や勝小鹿のように大学付属予備学校を出てアナポリスの海軍学校に進む若者も居たし、、松村淳蔵(変名:市来勘十郎)のようにラトガース大学理学部に入った後にアナポリスに転校し卒業した人も居た。畠山義成(変名:杉浦弘蔵)はロンドン留学経由で1868年ラトガース大学理学部に入り、途中で明治政府の呼び戻しのためと聞くが、ラトガースを3年で退学し岩倉使節団と共にヨーロッパに渡った。畠山はワーレン・クラークと親交が深く、後にクラークが東京の開成学校で教鞭を取る時、畠山が学校長であったというめぐり合わせもある。畠山が校長赴任の時は、まだグリフィスも開成学校で教えていた。吉田清成(変名:永井五百助)もロンドン経由で1868年ラトガース大学理学部に入ったが、3年で退学帰国し、大蔵省に入った。1874年にアメリカ駐在全権公使になり、4年後の7月25日、懸案であった日本の関税自主権回復を盛り込んだ「吉田・エヴァーツ条約」に調印したが、イギリス・フランス・ドイツの反対に遭い、幻の條約に終わった。この松村、畠山、吉田は良く知られている、薩摩藩が密かにイギリスに送った15名の留学生の一部である。また日下部太郎を除けば、ラトガース大学の最初の正規卒業生は、1875(明治8)年に理学部卒業の服部一三(長州出身)であった。1884年当時農商務省御用掛であった服部は、ニューオーリンズで開催された万国博覧会の会場でラフカディオ・ハーン(後の小泉八雲)に会い、6年後に日本に来たハーンが、文部省普通学務局長になっていた服部の斡旋で島根県松江の英語教師の職を得たというエピソードも知られている。ただし小泉八雲は、ラトガースと直接の関係はない。  
日本からの留学生をこんな形で受け入れ始めたアメリカ・オランダ改革派教会とラトガース大学の善意については、1872年1月にアメリカに着いた岩倉使節団もこれを良く理解し、ボストンからイギリスに出発する前日、岩倉具視と大久保利通の名前でフェリス牧師に書簡を送り、その厚意と友情に深く感謝した。  
当時来日したラトガース大学関係者  
この他にも、幕末から明治初期にかけてアメリカから、2代目アメリカ公使・ロバート・プルーイン(1833年卒)、横浜に来たアメリカ・オランダ改革派宣教師・ジェームス・バラ(1857年卒)、長崎に来て広運館(旧・済美館)でも英語を教えた改革派宣教師・ヘンリー・スタウト(1865年卒)、上述したウィリアム・グリフィス(1869年卒)とワーレン・クラーク(1869年組)、グリフィスの次に福井に来たマーチン・ワイコフ(1872年卒)などがラトガース大学の卒業生あるいは在籍した人で、当時日本に来て知られている人々である。  
更に卒業生ではないが、ラトガース大学で数学・物理学・天文学教授だったデイヴィッド・モルレー(David Murray)が、明治6(1873)年に日本政府に招聘され、6年間にわたり文部省顧問の役職に就き、明治の教育制度と教育法整備に大いに貢献した。この人選に当たっては、1872年当時まだアメリカに滞在して居た岩倉使節団が、アメリカの著名な教育機関に対し日本の教育に関するアドバイスを求めた。これに対し非常に明確で完璧な回答を寄せたモルレー教授に対する認識が一気に高まり、来日の招請がなされた(「In Memoriam, David Murray, 1915」)。またこの招聘は畠山義成の強い推薦もあったと聞くが、モルレーは、1863年から1876年までラトガース大学の教授としてラトガース大学要覧(Catalog)に載っているから、理学コースを取った上記の日下部太郎、松村淳蔵、畠山義成、服部一三などは、このモルレー教授の講義を聴いたはずだ。来日期間中の前半の3年間、すなわち1873年から1876年までは、ラトガース大学の教授としてもまだ大学要覧に載っている。この理由は、ラトガース大学評議員会がモルレーに対し3年の休職を認めていたためである。  
特にまた、日本への2代目アメリカ公使を勤めたロバート・プルーインは、1853年−1882年までラトガース大学評議員(Trustee)をも勤め、フェリス牧師の要請により他の慈善家と共に、ラトガースへの最初の留学生・横井佐平太と大平兄弟がニュー・ブランズウィックに着いてからの費用の一部も用立てている。 
14、下関賠償金の返還  

 

下関賠償金返還の原点:スーワード(スワード、とも)国務長官の書簡から  
バンクス外交委員長宛の書簡  
幕府と条約4カ国が下関戦争の賠償取極めに合意した時からおよそ3年2ヶ月も経つ頃、アメリカの国務長官・ウィリアム・スーワードから下院外交委員長・ナサニエル・バンクスに宛てた、1868(明治1)年1月8日付けの1通の書簡がある。いわく、  
拝啓、名誉をもって以下の如くご通知します。1864年10月22日付けで合衆国も参加して結んだ日本との取極め書の条項により、本政府は日本政府より、本質的に相当する理由のない、この取極め書に述べられる賠償金支払い分としての金貨・60万ドルを受領しました。この総額は合衆国登記公債に投資され、議会の処分決定を待っています。  
敬具  
ウィリアム・H・スーワード  
下院外交委員会委員長N・P・バンクス閣下  
この金貨・60万ドルは、「下関戦争」に書いた合計300万ドルの下関賠償金のうち、アメリカに支払われるべき78万5千ドル分の半分に相当する金額と、その公債の利子も含め、当時アメリカ政府の手に渡っていたものであった。通常ならアメリカ政府の歳入として国庫に納入されてもおかしくない入金だが、その後に残りの支払い分や長期に渡る公債の利子も合わさり、アメリカ国内で後に「日本賠償金基金」とも呼ばれ、その処分について民間をも巻き込んだ熾烈なロビー活動が繰り返され、アメリカ議会では15年もかけて繰り返しその処分方法が論じられ、ようやく1883(明治16)年2月、日本がアメリカに支払った全賠償金額を日本政府に返還する決定がなされたと云うものだ。  
本質的な疑問  
そもそもアメリカ国務省では、何故このように登記公債に投資するなどの特別処理がなされたのか。明らかに当時のスーワード国務長官が決定したものだが、バンクス委員長宛てに、「本質的に相当する理由がない」と書いた以外、その詳しい経緯を公にしていない。「相当する理由がない」、即ち受け取る理由のない賠償金なら、あるいは取り過ぎた賠償金なら、なぜアメリカがこんな賠償要求をしたのか。またこの300万ドルという金額そのものは、一体現今の価値でどの位か、あるいは「取りすぎだ」と言うほど膨大なものだったのか知りたいところだ。  
更に筆者の知り得た範囲内で、日本の歴史学者の間には、米国内の世論は「取りすぎだ」との気運が強く、スーワード国務長官はその世論に配慮して登記公債に入れたと見る向きもある。しかし、若年寄・酒井忠眦(ただます)が横浜で4カ国と下関賠償取極め書を取り交わした元治元(1864)年9月22日頃や、下に書くようにこの翌年、ニューヨーク・トリビューン紙にフランシス・ホールの下関賠償記事が載った1865年2月15日頃のアメリカは、まだ南北戦争の最中だったし、これから2ヵ月後の4月14日には、リンカーン大統領が観劇中に暗殺され、同時にスーワード国務長官自身の命も狙われ、大怪我をした時だ。また、実際にアメリカ政府が日本からの入金を受領し始めた1866年8月頃までは、南北戦争は終結したとは云いながら、まだテキサス州の各地に小競り合いは残っていた。そんな長期の内戦や大統領暗殺という大事件があった当時のアメリカ世論に、このアジアの片隅の下関賠償金に関し、「取りすぎだ」と云うそんな気運が発生したり、スーワードがその世論を考慮したりする余裕や必要があったのだろうかと疑問に思う。  
また、スーワードがこのバンクス宛の書簡を書いた約1年前の1867年3月末には、スーワード国務長官が主導し、アメリカ合衆国が720万ドルでロシア帝国領のアラスカ購入に調印したが、多数の共和党議員からさえ「スーワードの愚行」とか「スーワードの巨大冷蔵庫購入」などとからかいの声も出て、更に強い非難と反対意見も出された。スーワードの粘り強い説得に、最終的にこのアラスカ買収条約は上院議会で認められ、下院からも予算が付けられたが、今から振り返れば、当時「巨大冷蔵庫」と非難されたアラスカは、その後金が発見され、一大原油・天然ガス田が発見され、地政学的リスク面でも重要になったアラスカの地は、アメリカにとって金額に換算できない程の要所となっている。最近ロシア通の友人・M氏から聞くところによると、ロシアのステックル公使とスーワード国務長官との間で調印されたこのアラスカ譲渡がいかにも残念だった旧ソ連邦では、「アラスカは売却でなく、100年の租借をさせただけだ」と云う事になっていて、未だ領有権は正式には移動していない、という説が在る程だという。後にアメリカと強く張り合った社会主義国・ソ連邦にとって、本当に残念だったわけだ。  
この様に自身の強い信念に基づいて行動し、永い間外交を得意とする上院議員でもあったスーワードが、そんなに簡単に世論に迎合する政治家だったのかとの疑問も出る。そこで、日本賠償金基金を造るという処置を取った理由を推考しながら、民間からの基金獲得ロビー活動を含め、返還に至る推移を追って見たい。 
賠償金、300万ドルの大きさとその根拠  
”高額さ”の推定の試み  
筆者には、当時の300万ドルが現在どんな金額に相当するか知る術もない。しかし、この300万ドルが如何に高額であったかは、次の幾つかの数字を見れば感覚的に理解する事は出来る。  
先ずこの300万ドルという金額を当時のドル・両の交換比率「一ドル三分換え」で換算すると、225万両の大金だ。下関戦争の前年、文久3(1863)年当時の徳川幕府「貨幣方歳出」、即ち現金歳出は金換算で705万7千両だと云う(「両から円へ」、山本有造著)。これに「米方歳出」の約66万石を、当時の米の単価、1石を2両1分で金換算した148万5千両を合計すると、総歳出額は854万2千両になる。従ってこの賠償金額300万ドル、すなわち225万両は、現金支出と現物支給の米を合わせた総歳出額の26%強になる。文久3年の幕府年間歳出額の四分の一強という、大変高額な賠償金額だったわけである。  
またこの賠償交渉をした2年前、すなわち文久2(1862)年8月29日、当時の幕府が更に蒸気軍艦を購入しようと、幕閣・板倉勝静(かつきよ)がアメリカ公使・プルーインと会談した。その時のやり取りの中でプルーインは、アメリカで最近造船された軍艦の例として、船の長さが20−25間の約千トン級の蒸気軍艦で16万ドル、長さが35間の約千五百トン級で、大馬力のエンジンを搭載して30万ドル位の値段だと言っている。これから見ると300万ドルという賠償金額は、どんな武器を艤装するかにもよろうが、35間・千五百トン級の蒸気軍艦が一度に10艘も購入できる金額だった。  
更に他の例を見れば、文久3(1863)年5月9日に幕府が生麦事件に関連してイギリスに払った賠償金は44万ドルで、その後の薩英戦争で薩摩藩がイギリスに払った10万ドルとの合計54万ドルの賠償金と比べれば、この300万ドルはその5倍以上にもなる。  
勿論幕府は、こんな莫大な現金を右から左に出せるわけがないが、交渉に当たった若年寄・酒井忠眦は、3ヶ月ごとに六分割した50万ドルの支払いを約束した。すなわち、若し、下関かあるいは瀬戸内海に適当な1港の開港をしないならば、300万ドルを1年半で払い切るという約束だった。  
下関賠償取極め書の締結に至る経緯  
アメリカの内戦中、すなわち1861年から1865年に渡る南北戦争当時は、それまでの日本でタウンゼント・ハリス公使が貫いて来たアメリカ独自外交路線から、スーワード国務長官の決断で大幅な方針変更をし、イギリス、フランス、オランダと良く協調した外交路線に切り替えざるを得なかった事情は、すでに「下関戦争」の項目で書いてある。  
長州は下関海峡で、文久3(1863)年5月10日にアメリカ商船・ペンブローク号を砲撃し、5月23日にフランスの小型報道軍艦・キエンシャン号を、また5月26日にオランダ軍艦・メデュサ号をも砲撃し、これにより海峡は封鎖状態になった。アメリカのプルーイン公使は、下関海峡でペンブローク号が砲撃を受けたと云う報告を受けると、たまたま南軍の軍艦探索のため横浜に寄港していたアメリカ政府すなわち北軍の軍艦・ワイオミング号の艦長・マクドゥーガルと図り、6月1日にワイオミング号が単独で下関に侵攻し、長州兵守備の諸砲台と交戦しながら長州の蒸気軍艦・壬戌(じんじゅつ)丸と帆走軍艦・庚申(こうしん)丸を撃沈し、帆走軍艦・癸亥(きい)丸を大破させて横浜に引き揚げた。アメリカが国威に侮辱を受けたとして行った懲罰行動だった。その後、フランスもまた軍艦を派遣し、同様に単独で下関に侵攻し、懲罰行動として砲台を破壊して去った。  
このように、オランダ以外の2国は夫々に国威に受けた侮辱を直接晴らしたが、この海峡封鎖を理由に日本に軍事圧力をかけ、当時幕府が言い出していた横浜鎖港を阻止し、更なる貿易港も獲得しようとしたのがイギリスのオールコック公使だったのだ。そしてスーワードの指示で、「他国との協調外交」に方針転換していたアメリカのプルーイン公使がこのイギリスの武力外交戦略を協調的に支持し、フランスもオランダも支持したのだ。アメリカとフランスは、すでに侮辱を晴らしたのに、被害も受けていないイギリス主導の武力外交を共同してやろうとしたわけだ。  
これが条約4カ国と長州との下関戦争に至る経緯であり、幕府による長州征伐も開始され、下関戦争に完敗した長州に代わり幕府が日本政府としての管理責任を取り、若し瀬戸内海に適当な1港の開港をしないなら、アメリカも含め合計300万ドルもの賠償金を支払う羽目になったわけである。  
ペンブローク号への賠償  
下関で砲撃されたアメリカ商船・ペンブローク号の船主・ラッセル商会からの損害賠償請求書により、プルーイン公使は幕府に1万ドルの賠償金支払いを求めていた。この時期は、「開港と攘夷行動」の最後に書いたように、幕府がイギリスに生麦事件の賠償金の44万ドルを支払うや条約4カ国に三港鎖港通告を出し、将軍後見職・一橋慶喜が朝廷の命ずる攘夷を指揮しようと単独で江戸に帰ったが、江戸の幕府諸役の総反対にあって立ち往生をした頃だった。幕府はプルーイン公使のもとに外国奉行を派遣し、ペンブローク号の賠償金は支払うが、人心が安定するまで支払いの延期を願いたいと交渉し、プルーインの同意を得た。  
その後この件は、薩英戦争や朝廷内の「文久3年8月18日」の孝明天皇によるクーデターなど大事件の陰で解決が遅れ、1年近くも遅延された。痺れを切らしたプルーインは、未払いの賠償金に遅延の利息支払いを要求するなど圧力をかけ始め、やっと元治1(1864)年7月1日、幕府はその支払いを承諾すると云う経緯があった。この解決は、ちょうど下関戦争が始まる1月前の事だった。  
この様に、被害にあったと主張するペンブローク号へ日本政府から1万ドルの賠償金が支払われ、事件としては解決した。しかしその上で下関戦争が始まり、下関賠償取極め書による合計300万ドルの賠償金のうち更に78万5千ドルがアメリカへの支払いという成り行きが、ここでスーワード国務長官が言う、「本質的に相当する理由のない賠償金」の重要な視点の一つである。  
賠償金300万ドルの根拠と取極め書の批准  
さて、下関戦争が始まる直前の京都では、誤解を解こうと焦る長州が「禁門の変」を起こし朝敵となり、怒った孝明天皇の命令で幕府が長州征伐に入る時だった。こんなタイミングで4カ国艦隊が下関を砲撃し、たちまち長州に封鎖された海峡を開放したが、その戦果報告をする条約国公使たちと会った老中・牧野忠恭(ただゆき)や水野忠精(ただきよ)は、基本的に償金は支払うが更なる開港にはすぐ同意せず、回答を延期していた。こんな状況下で、4カ国と日本政府の代表・若年寄・酒井忠眦(ただます)との交渉が元治1年9月22日即ち1864年10月22日に横浜で行われたが、その7日後の10月29日付けでアメリカのプルーイン公使がスーワード国務長官宛に出した報告書簡・65号に次のように書いている。いわく、  
この取極め書に盛り込んだ、”賠償金の取立てが条約国側の目的ではなく、日本とのより良い関係の樹立を望んでおり、より満足度が高くかつ相互利益のある基盤を確立したいという願いが主要目的である”と云う宣言部分は、私の心から賛同するものです。私の判断では、若しこれが実現すれば、条約国にとっては名誉な事で、利益促進になります。若し、賠償金だけが侮辱の償いになるという見解が支配的になれば、それは大きな災難になりましょう。・・・日本代表者との会談に先立ち、イギリス公使と私は賠償金を200万ドルと合意し、その金額で4カ国への配分に問題はなかろうと考えていました。・・・フランス帝国公使の、賠償金額は300万ドルに決めようとの提案に、遠征費用の賠償金としては、(筆者注:高額な要求金額の方が)賠償金支払いの代わりに開港の方向へ流れを誘導するだろうとの思いで直ちに同意しました。若し大君が他の港の開港を嫌い、その代わりに賠償金と遠征費用の支払いをするにしても、合意した金額は不適切ではないでしょう。しかし大君が開港を言い出しても、そのまま了承するか、あるいは罰金として適度な支払い金額となりましょうが一部の金額支払いを含めて了承するか、これは4カ国側の選択であります。  
この様に、フランス公使の増額提案とそれに同調したアメリカのプルーイン公使の後押しという経緯があって、この300万ドルという高額な賠償金額が4カ国側で決められたのだった。そして日本側も横浜での賠償取極め交渉で、その第1条に記載する様に、「各国に拂うべき高を三百万ドルラルと取極たり。右高の内に、是まで長門の諸侯暴業をなせしに付き、拂うべき総ての償金も加え在るべし。右の償金、及び下関を焼かざる償金、並びに各国同盟船隊の諸雑費を云うべし」と、300万ドルという金額をそのまま飲まざるを得なかった。条約国側は、最初からこの賠償金を高額に設定し、何とか横浜鎖港を阻止し、瀬戸内海にもう1港の開港をさせようとの思いだったが、長州征伐で少しでも幕府優位に流れを引き寄せようと苦しんでいる最中の幕府にとって、新たに問題を複雑にするだけの更なる開港場の合意などは、最も避けたいものだった。こんな状況下では、非常に高額でも、金銭での解決しか方法が無かったのだ。残念ながらこの点で、プルーイン公使の読みと期待が見事に外れた事になる。  
このスーワード国務長官宛の下関賠償取極め締結の報告書簡・65号は、老中・阿部豊後守と水野和泉守の署名で通知した日本側の賠償取極め書批准を知らせる11月29日付けの書簡・67号と共に、翌年の2月始めにアメリカ国務省に着いたようだ。スーワード国務長官は1865年2月9日付けの折り返しの返信で、  
10月28日付け貴書簡64号、10月29日付け65号、11月29日付け66号、11月29日付け67号、並びに同日付けの個人覚書等を受領し、それらに関する貴君の議事録も認可しました。条約国と日本政府との間で昨年10月22日に合意された取極め書の写しが、貴書簡65号に添付されています。この正式な原文書が届き次第、その批准のため上院に提出する予定です。  
この下関の賠償取極め書は、その後1866年1月26日にアンドリュー・ジョンソン大統領により批准のため上院に提出され、上院審議の後、同年4月9日に合意・批准されている。これによりアメリカ政府と議会は、下関戦争の賠償取極め書を正式に認めたのだ。  
しかしここで、スーワードの催促がなくとも、当然プルーインは取極め書の日本の批准済み原書をすぐ別送したはずだと推定すれば、国務省には遅くとも1865年3月か4月には着いていたはずだ。賠償取極め書の上院合意を期待してジョンソン大統領が提出した上述の日付け、「1866年1月26日」は、取極め書の批准原本到着から9ヶ月程も経った後となり、如何にも遅い。実にこの理由は、リンカーン大統領が暗殺目的で銃撃されたと同じ1865(慶応1)年4月14日夜、リンカーン暗殺組みの別の1人がスーワード国務長官の命も狙っていたのだ。自宅の寝室で刃物で襲われたスーワードは命を取り留めたが、顔に大怪我をした。同時にスーワードの息子で国務次官補をしていたフレデリック・スーワードも大怪我をした。筆者の推定では、ジョンソン大統領の議会提出の遅れは、こんなスーワード自身の事故や、当時の副大統領から、暗殺されたリンカーン大統領の後を継いで就任したジョンソン大統領への突然の交代など、アメリカ政府と国務省の事務処理の大巾遅れが大きな理由だったと思われる。 
なぜ合衆国登記公債に入れたのか  
日本側の賠償金支払い決定と、50万ドルの支払い通知  
幕府は慶応1年3月10日すなわち1865年4月5日、老中・水野和泉守と諏訪因幡守の署名で各国公使に書簡を送り、下関賠償取極め書に依る瀬戸内海の開港は困難だという国情を述べて、賠償金支払いの選択を告げた。いわく、  
下関または内海にある一港を開くか、又は約書に載せる償金を渡すか、二ヶ条の内一ヶ条を選定すべきを約した。国内の形勢を熟察すると、新たに一港を開く事は我が国内に差支えが有るのみならず、また各国のためにも極めて不都合を生ずる事が必然となる。・・・再応勘弁を尽くしたが、償金の方に決定せざるを得ない。しかるに長州の処置は未だ平常に至らないので、償金六回の内、第一回に渡すべき金額は六月中に渡す事にした。因って次回の方は、来る寅年六月中まで一ヶ年延期される事を望む。  
と、初回の50万ドルは支払うが次回は1年延期して欲しいと、すでに支払い延期を口にし始めた。長州征伐を開始し大軍を動かしている幕府には、その戦費もままならない中、とても3ヶ月毎に50万ドルの支払いなどできなくなったのだ。  
またここで注目すべき点は、アメリカ国内の事情である。上述の如く、この日本側書簡の日付けから9日後にリンカーン大統領が暗殺され、スーワード国務長官も重傷を負う出来事があり、従ってアメリカ政府の賠償取極め書の批准はもっと先の話になる点である。即ち、アメリカが取極め書の批准もしない内に日本では賠償金の支払いを始めると通告したのだ。  
これに対しアメリカのプルーイン公使は3日後、「自国政府から何の指示もないが、我が政府は、日本政府の償金支払い決定を受け入れる事に疑いはないと確信する」と、とりあえず返事をした。更にイギリス、フランス、オランダと根回しをした9日後、支払い延期については、「取極め書の批准前でもあり、貴書簡を自国政府に送ったから、イギリス、フランス、オランダ政府と打ち合わせの上、自国政府の指示があろう」との回答もしている。この件をスーワード国務長官に報告する4月24日付けのプルーイン書簡によれば、この時点でのイギリスとオランダは瀬戸内海の1港開港を強く望み、フランスはある程度賠償金を取りたいとの思惑があったようで、各国の本音は少しずつズレがあったようだ。  
更にここで、5月始め頃にプルーイン公使は任期を終えて帰国の途につき、書記官・ポートマンが代理公使としてアメリカ公使館を引き継いでいる。この頃から、リンカーン大統領暗殺とスーワード国務長官重傷の影響で、アメリカ国務省からの指示が突如として途切れ、ポートマンは兎に角、イギリス、フランス、オランダと全く歩調をそろえなければ仕事が出来なくなって行く。  
ポートマン代理公使の報告  
さて日本側の老中・水野和泉守と諏訪因幡守が約束したように、慶応1(1865)年6月末になるといよいよ最初の賠償金支払いが始まった。ポートマン代理公使はスーワード国務長官宛に、1865年8月22日付けでこの旨の報告書・48号を送付した。いわく、  
今月18日の朝、私に知らせるためにやって来た外国奉行1人が待っていて、日本政府は下関賠償金の初回50万ドルの支払い準備が出来たと告げてきました。・・・そして、早朝もう1人の外国奉行も同じ目的で横浜に行き、午後には他の条約国公使たちにも同様な通知が行くはずだとの事です。この突然の通知に対する彼の公使たちの意見を確認する目的で、彼等を落胆させないよう直ちに横浜に行きました。かっての4月、ご老中に我々の決定を伝えてある事から、申し出の金額を受け取る以外の方法はないとの意見に一致しました。・・・この賠償金の処置に関する国務長官閣下のご指示は、疑いもなくすでに郵送されている事と存じます。この賠償金受領の同意に何の疑いも抱かなかった理由の一つは、受領命令書簡を近々受信すると思ったからであります。直ちに日本政府の申し出を受けなければ、初回の支払いは永久に延期されますし、またこの取極めに関し、イギリスとフランス政府は実質的に批准したと聞いております。  
と述べ、25万ドルずつ、指定された横浜のオリエンタル銀行とマーカンタイル銀行へ、条約4カ国公使への連名で入金されたものを保管するよう依頼してある、とも報告した。  
スーワード国務長官の反応  
ポートマン代理公使書簡・48号に対する、1865年11月20日付けの国務長官の返信は次のようなものだ。いわく、  
貴君からの8月22日付けの書簡・48号の受領を連絡します。大統領は、その中で述べられた、西欧条約国のために日本政府が申し出て支払った賠償金受領に関する貴君の処置に関し、不認可とする理由は何もないようだと言っています。現在のところ当国務省では、賠償金の処分に関し2つの問題があります。第1は、上院が取極め書をまだ認可していない事。第2は、関係ヨーロッパ諸国との折り合いをつけているところです。これらの問題は来月(12月)中にはめどがつくと思われ、その頃に議会も召集され、私が提議した件に関する欧州側の返事も来るでしょう。  
日本側の支払い開始を、「不認可とする理由は何もないようだ」と、いかにも歯切れが悪いが、これで判る通り幕府が第1回の50万ドルを支払った時点のスーワード国務長官の立場とアメリカ政府の状況は、取極め書の上院認可・批准待ちと、欧州と賠償金分配について意見調整の最中だった。すなわち幕府は、アメリカ政府が取極め書の批准をする以前に、賠償金支払いを始めたのだ。  
分配に関する欧州との調整  
少し前後するが、すぐ上のスーワードからポートマン宛の書簡に、「関係ヨーロッパ諸国との折り合いをつけているところです」と出て来るが、それに関する書簡がある。これは1865年9月8日付けで、スーワード国務長官がパリ駐在のアメリカ公使・ジョーン・ビゲローに宛てたものだ。いわく、  
ドロワン・デ・ルイス氏(筆者注:フランス外相)がデ・モントーロン侯爵に命じ、敵対行為に続く下関海峡自由航行への抵抗を克服する目的で共同で執り行った取極め書の中の、3カ国による日本からの取り立て条件の改正案を本政府へ提案して来ました。・・・その提案内容の概要は真剣に反論する程のものではなく、本件に関しては、特にイギリスとフランス双方が我が政府より大きな利害関係があり、本国に非常に近いパリ駐在のイギリス公使はその政府から十分な指示も受けられるので、出来る事ならその適切な調整はパリで行われるのが望ましいと思います。従って本件は、貴君の裁量に委任します。  
この書簡中に述べてあるフランス外相からスーワード国務長官に出された提案書は、下関の貿易はあまり期待できず海峡も安全でないから、フランスはむしろ、内海の新港開港より賠償金を取りたいと云う主旨の、1月5日付け文書で出されたものだ。スーワードがこの取り扱いを考慮中に例の暗殺・傷害事件が起ったのだろう。病床から復帰して間もなく、スーワード自身がこのようにまた処理し始めたようだ。  
スーワードがこの書簡で、「特にイギリスとフランス双方が我が政府より大きな利害関係がある」と言った賠償金分配あるいは開港と賠償金選択については、フランスとイギリスが中心になっていろいろの提案があった。当時考えられた賠償要素は、派遣大艦隊の費用補償、アメリカ商船とフランス・オランダ軍艦に加えられた砲撃の賠償、精神的補償などであるが、スーワードのこの「欧州に任す」態度は、「我が国の取り分は二義的で、欧州との協調路線ははずさない」と云う強い意味合いがあるように見える。  
こんなやり取りの中で、1866年1月のイギリスからの提案で、急速にヨーロッパ3カ国政府の合意ができ始めたようだ。この最終的合意は、各国の派遣した軍艦や兵士数には無関係だった。先ずアメリカ、フランス、オランダの3カ国船舶への砲撃の賠償として、日本政府が批准こそ拒否したが、かって横浜鎖港談判使節・池田筑後守一行がフランス政府と合意した、フランス軍艦・キエンシャン号砲撃の賠償金・14万ドルを基礎に、先ずこの3カ国が14万ドルずつを取り、残りの258万ドルを4等分し、各国とも64万5千ドルずつの配分とする。すなわち、アメリカ、フランス、オランダが78万5千ドル、イギリスが64万5千ドルの配分だった 。  
横道にそれるかも知れないが、下関戦争を主導し最多数の軍艦を派遣したイギリスが、この様に自らの取り分を他国より少なくした理由には興味がある。筆者の感想は次のようなものだ。「下関戦争」のページに書いたように、当時のイギリス政府は、下関のこの軍事行動を危惧し、外務大臣・ラッセル卿は日本に居るオールコック公使に宛て、数次に渡り武力行使禁止の書簡を送っていた。この命令書簡の日本への郵送タイミングの違いで下関戦争が終わってしまったのだが、条約で合意している兵庫・大阪の開港・開市にはまだ早く、外国船の瀬戸内海通航が国際公法上の大きな疑問点の一つだった。日本と条約4カ国との修好通商条約にも規定がなく、外国商船が「領海」と見なされかねない狭い海峡を通って瀬戸内海に入ること自体に、「勝手に日本領土内に侵入した」とクレームの対象になりかねない危険があったのだ。まして自国の船舶が砲撃されてもいないそんな戦争で多額の賠償金を取るのだから、派遣した軍艦と兵士数などに応じて自国が突出した賠償金を取れば、薩英戦争の時とは違い確かに下関の町は焼かなかったが、またイギリス国内に理由もなく軍艦を派遣し高額な賠償金を取ったなどと強い反対意見が出るかも知れない。どうもそんな点を考慮した決定のように見える。しかし表面上は勿論、外務大臣・クラレンドン伯爵の言う、「こんな遠方の特異な国で、例外なく全ての管理事項を統制する根源であるべき利益共同体だという希望と願いの証拠として、条約4カ国が日本で共有するそんな利益共同体だと云う宣告を明言する事のみのため」になれば、この条件で納得しようと云う理由付けだった。すなわちこの戦争は、「共同利益を守るための戦争」だったと云う訳だ。だから賠償金も、アメリカ、フランス、オランダへ夫々14万ドルずつ配分した残額は、4カ国で等分にするのだと、改めて強調したかったようだ。  
さて日本が横浜で支払った第1回分のメキシコ銀貨・50万ドルは、各国配分が合意されるまで10万6千250ポンドに換金してイギリス政府に預けられ、合意したこの分配比率で分けられたアメリカ取り分の2万7千802ポンド1シリング8ペンス、すなわち、13万833ドル33セントをアメリカのロンドン駐在・アダムス公使が受領し、1866年7月21日スーワード国務長官に届ける手続きを取った。アダムス公使にこの背景を説明し、受領・送金という一連の行動を指示する1866年4月23日付けのスーワードの書簡があるが、いわく、  
賠償金の分配に関して、・・・皇帝政府(筆者注:フランス)はイギリス提案の採用に問題はなく、若しこの分配方式が合衆国政府で採用されれば、すぐにでも、すでに日本政府が支払った賠償金の第一回分に当たる50万ドルに適用できます。去る2月12日、ビゲロー氏(筆者注:交渉を任されたフランス駐在公使)は本省より、分配提案は合衆国上院の憲法規定上の承諾が得られるという前提で大統領により合意されたと通知され、合わせて、当提案は本政府の明確な合意事項として対処するよう命ぜられました。  
この様に、大統領自身が「上院承認が得られる」と云う条件付で、この欧州3カ国との分配案に合意したのだ。付け足しになるが、現在も時に見られる大統領のみの外国との条約締結行為は、現在では「行政協定」と呼ばれ、過去にはフランクリン・D・ルーズベルト大統領が、非常事態の下での包括的上院決議内の行政府特権行為として前面に押し出し、以降、時として上院の合意なしで締結される事もあるようだが、原則上アメリカ憲法では、外国との条約締結は上院の承諾が必要と規定しているから、当時のスーワード国務長官は憲法規定に則った行動を取る積りだった。上述の如くジョンソン大統領は1月26日、下関取極め書の合意を求め上院に提出し承認を得ていたから、それに関連するヨーロッパとの賠償金分配は過去の経験からも上院の承諾は間違いないと、スーワードは「明確な合意事項として対処する」ようフランス駐在公使・ビゲローに指示したのだ。  
ここで筆者にとって、このスーワード国務長官のアダムス公使宛書簡の日付けとその内容が特に重要だ。上述のように上院の承認を受けて大統領が日本との取極め書に批准署名した4月9日以降のこの4月23日付け書簡でも、依然として、「若しこの分配方式が合衆国政府で採用されれば」と言い、「分配提案は合衆国上院の憲法規定上の承諾が得られるという前提で合意されたと通知した」と言って、「取極め書の批准」には全く触れていない点である。即ち、上院が済ませた日本との取極め書承認は、この上院が行う「欧州3カ国との憲法規定上の承諾」と関連は有るが違うものである事が明白である。依然としてこの時点では、欧州3カ国との分配金協定に関する、上院がなすべき承諾は済んでいないのだ。  
合衆国登記公債へ投資した理由  
さてイギリス駐在公使・アダムスは、イギリス政府から受領した第1回入金分の国務省宛送金手続きを取ったが、その後約2、3週間ほどでワシントンに届いたと仮定すれば、1866年8月中には国務省へ実質入金になったと思われる。アメリカの第39議会・第1期は1866年7月29日から夏休みに入ったから、議会は閉会中であった。また、幕府が1866年1月8日にオリエンタル銀行に振り込んだ第2回目の50万ドルと5月16日の3回目の50万ドルは、4カ国で4等分され、ポートマン代理公使がポンドに交換した5万6千770ポンド16シリング8ペンスを、5月29日付けで英国系国際金融業者・ベアリング兄弟会社を通じ国務省に送った。従って、1回目から3回目までの入金は、相前後して国務省が受領したと思われる。2回目、3回目の分配で、4等分したためイギリスが多く取りすぎた金額分は、あまり時を置かず精算されている。  
スーワード国務長官は、この入金受領時に「合衆国登記公債」に入れたはずである。以上述べた事実関係から筆者が見る限り、公債に入れたその理由は、第1回分入金の時点で、スーワードの1866年4月23日付けアダムス公使宛の書簡にあるように、「合衆国上院の憲法規定上の承諾が得られる」という前提で許可した、賠償金配分に関する上院の承諾がまだ出ていない点である。この承諾が出るまでは、と公債に入れ別勘定にしたのだ。  
またスーワードは、上述のヨーロッパ勢との分配交渉をパリ駐在のビゲロー公使に任せた事実から推定すれば、「ヨーロッパの都合で決めてかまわない」と、個人的にも、アメリカ政府として多額な賠償金分配を要求する意思はなかったように見える。従って、このページの最初に掲載した下院外交委員長・バンクスに宛てた書簡にも、「本質的に相当する理由のない賠償金」と、個人的見解をも入れたのだ。この面から見ても、議会の議論に任せようと、合衆国登記公債への預託は自然な流れだったと見える。  
従ってスーワードが公債へ投資した理由は、「取りすぎだ」という世論に配慮した行動ではなく、合衆国憲法に基づく、ヨーロッパとの分配比率合意に対する上院承諾がまだ取れていない手続き上の理由と、自身も好ましく思わないこの賠償金を議会の議論に委ね、アメリカの正義を検証しようとの強い思いもあったように思われるのだ。スーワードのこの判断が無ければ、当然その後の長い議会議論も無かったろうし、賠償金の返還も無かった事だろう。 
外交の厳しさ  
これで終わった訳ではない賠償金の取立て  
外交面の厳しさは、これで終わった訳ではない。幕府はようやく300万ドルの内150万ドルを払ったのみで、まだ半分の150万ドルの支払いが残っている。こんな中で、「長州征伐と条約勅許」で書いたように、アメリカ、イギリス、フランス、オランダがかねて強く要求していた「朝廷の條約勅許と兵庫の先期開港」を求め、直接朝廷と交渉すると言って条約4カ国は9艘の軍艦を兵庫沖に進め脅しをかけた。孝明天皇がたまらず条約を勅許した事を受け、幕府はこれを条約4カ国に伝えると共に、4カ国との改税談判も近々行うし、下関賠償金も約束通り支払うと再確認を入れた。  
しかしこんな状況下で幕府は、くすぶり続ける長州処置に決着を付けようと第2次長州征伐を決めたが、第1次征伐に引き続き、この海・陸2軍を動かす費用が莫大になり、またまた賠償金支払いにめどがつかなくなった。第3回分の50万ドル支払いを慶応2(1866)年3月30日と約束していた幕府は、何とかその資金手当てを付け上述のようにやっと支払いはしたが、第4回目の50万ドル以降の目途は全く立たない。そこでまた水野忠精・板倉勝静など幕閣6名連名で4カ国公使に書簡を送り、朝廷の条約勅許も得たし改税談判も約束通り行うからと、4回目以降の支払い延期を交渉し始めた。  
この幕府の延期要請により、ポートマン代理公使はスーワード国務長官に取り扱いの指示を求める書簡を送ったが、1866年7月18日付けのスーワードの返事は、  
そんな支払い延期に対する十分な担保もなく、取極めを正直に誠実に実行するという適切な保証もない今は、支払い延期を容認できない、というのが大統領の意見であります。  
と、日本の要求をはっきり拒絶している。アメリカが批准した下関賠償取極め書にある日本の約束は、他の事情と無関係に実行してもらわねばならない、と云うのが外交上の原則論であったのだ。  
しかしポートマン代理公使がこの本国からの指示を待っている間に、将軍・徳川家茂が急逝し、日本の政情が大きく動き始める。その後、第15代将軍に徳川慶喜が就任し、孝明天皇が急逝し、それまで暗黙の了解で督促をしなかった外国公使達から再び賠償金支払いを督促された幕府は、慶応3(1867)年4月12日に再び賠償金残高・150万ドルの支払いの2年延長を求め交渉した。しかしこれから9ヵ月後には幕府が壊滅して政権が入れ替わり、この残額の支払いは明治政府が完済せねばならない事になって行く。この負債を引き継いだ明治政府はいろいろ議論の末、アメリカ政府に対しては、明治7年7月31日、即ち1874年7月31日を以て横浜オリエンタル銀行経由で全ての支払いを終えた。 
日本を良く知るアメリカ人の視点−適切な賠償金なのか−  
横浜居住ジャーナリスト、フランシス・ホールの意見  
少し視点を変えた記述をここに入れる。筆者が折に触れ引用している横浜居住のジャーナリストでウォルシュ・ホール商会のパートナー、フランシス・ホールの視点を見てみたい。ホールが1864(元治1)年11月15日に寄稿し、翌年2月15日のニューヨーク・トリビューン紙に掲載されたという記事の内容だ。下関で砲撃されたペンブローク号の荷主はこのウォルシュ・ホール商会だったから、そのコメントは特に興味がある。これは、下関賠償取極めが日本政府と条約4カ国とで締結された日から、約3週間後の記述である。いわく、  
ここ横浜では、毎日、日本の外国奉行が我が代表達と密室にこもり、エンフィールド銃とアームストロング砲(筆者注:婉曲的にイギリスを示唆する)の説得力のお陰で準備された、譲歩案の条件を詰めていた。その第一の利点は、周防灘あるいは瀬戸内海の通過が自由になった事で、以来何回通過しても危害はない。次の利点は、外国向けの輸出貿易が、今まで何ヶ月も横浜の貿易をマヒさせ貿易業者を破壊し尽くす脅威にさらして来た、日本政府の全ての妨害や制限から直ちに開放された。・・・大君が平和を買い取った条件は、・・・300万ドルの賠償金支払いと云う戦勝者の仲間内で分け合う最高の強奪金か、新しい港の開港かで、大君にその選択の権利がある。なおまたこの条件は、合衆国政府の許可が必要だが、我が政府は、一方を不必要と言って拒否し、他方を法外な要求だと言って拒否するよう望むものである。・・・新港の開港は、日本と我々双方にとって更なる紛糾のもとをもたらす。・・・300万ドルの支払いは日本にとって困難だが、大阪のように優れた他の港を開く事でもっと当惑するよりは、何とか支払おうと努めるだろう事は明らかだ。従って、日本に示されたこの2つの選択案は、「金を出すか、命を出すか」と言う、馬に乗って疾走してくる国道強盗団(筆者注:アメリカの駅馬車を狙う強盗団)と同じやりかたである。  
この皮肉を含んだ記事はまだまだ長く続くが、これだけでフランシス・ホールの視点は良く分かる。瀬戸内海も通航できる様になったし、日本政府の陰に隠れた貿易制限と云う意地悪も無くなった。アメリカの国威への侮辱を直接晴らしたし、請求して満額支払われたペンブローク号への損失補償で十分ではないのか、まだ「強奪」をするのか、と云う訳だろう。さすがに横浜に住むジャーナリスト・ホールは、新規開港等はとても出来ないと云う幕府の窮状を良く察知していたようだ。  
福井藩に招請された教師、ウィリアム・グリフィスの意見  
「福井のお雇い米国人」に書いたウィリアム・グリフィスは、1870(明治3)年12月末に来日し、福井と東京で通算約3年半を過ごしたのち故郷に帰り、1876年に著書「The Mikado's Empire(皇国)」を出版し、日本の紹介に大きく貢献した。この著作の最後部の追記の中で、下関戦争の賠償金について厳しいコメントを残している。ペンブローク号の攻撃から下関賠償取極め書と300万ドルの賠償金、及びその4カ国間の分配額を簡単に記述した後で、  
以上が偽りのない事実である。この事件の正義を見てみたい。国際法に因れば、下関海峡の航行権は条約に規定がなく、各国は海岸から1リーグ(筆者注:4.8km)沿いを領海にする権利があり、海峡への進入と航行を大砲で制御できるから、日本は完全に下関海峡を封鎖する権利があった。アメリカ、フランス、オランダの軍艦は夫々十分な仕返しをしたが、かってないほど流血の戦いに意欲的なイギリス公使・オールコックは、イギリスの海軍力をかき集め、この砲撃遠征を組織化する中心人物だった。イギリス国王陛下の政府から、この不必要で不正な戦争行為を禁止する命令が、艦隊が出航した後に届けられた。その後オールコック卿は、状況説明を求められ召還された。  
合衆国の取った行為は最も羨望に値しないものだ。先ず第一に、ペンブローク号にはそこに停泊する権利がなかった。・・・この事件を聞きつけたアメリカ公使は、日本に海峡閉鎖の権利があることを知り、この法律知識の有効さを日本人に教え、切迫した内戦の恐怖のいくらかを緩和する事さえできたと思われる。彼はその反対に、あらゆる可能な報復をするためワイオミング号を送り込み、ペンブローク号船主の、1万ドル!!!もの損害賠償請求書を突きつけたのだ。・・・  
外国人によって知らされた日本政府だけが心から陳謝し、不条理なペンブローク号賠償金が支払われ、合衆国は(筆者注:その上さらに余分に)2千ドルを手に入れた。2隻の蒸気船の沈没と、恐らく50人の日本人の血を流すことで我が国旗に対する”侮辱”は拭われている。まだ軍事力の復讐を続けられるのか?  
キリスト教文明にとって不幸な事に、そうなったのだ。(殺人と盲目軍隊の主唱者で、タウンゼント・ハリスの平和主義、フェア・プレー、忍耐、止まぬ勇気の前に悪意を持って自分の怒りを隠す人)ラザフォード・オールコック卿の扇動するこの残酷な復讐の三重行為(筆者注:英・仏・蘭の3国を指す)に、アメリカ公使が参加し、合衆国は再び不必要な戦争行為に恥辱を受け、隠者のように無知な弱国で既に過度の消費で貧窮した国から、”賠償金”と云う婉曲な語法を使い、法外な不正な強要で金を取ったのだ。・・・ 権威者達よ、「The Mikado's Empire」の中の日本の歴史の光の中でや、R.L.プルーイン公使の”1863−1865年・外交書簡集”、F.O.アダムスの「日本の歴史」、更に「下関」(E.H.ハウス)、東京、1875年版を読んでみて欲しい。と、こう書いている。 
アメリカ民間人の正義感がどの辺りに発現するのか、よく知ることが出来よう。ただ上述のホールとこのグリフィスの状況把握の違いは、ホールは当時横浜で貿易を自ら行い、幕府が陰で行った貿易制限で悪影響を受けた困難までも記述しているのに対し、明治になって来日したグリフィスには、その視点は何も無い。 
アメリカ議会での結論  
日本賠償基金が公になるまで  
アメリカ下院議会の議事録には、最初に提出されたスーワード国務長官の書簡を基に、下院外交委員会から議題として出されたと思われるやり取りがいくつか記録されている。例えば、1869(明治2)年12月には財務長官に、この60万ドルが現在何処でどうなっているかの公式確認がなされている。また1870年2月7日、日本が支払った賠償金をそのまま国庫に入れる議案が出され、反対八十四、賛成八十一、棄権五十二でからくも否決されたことが載っている。筆者にとってこの下院の否決は、アメリカ政府と議会の意思が、日本に「返還する」と云う一事において一致した局面だったと映る。これ以降の議論は、「どのように返還するか」と云う点で、長年に渡りなかなか両院の一致点を見出せなかったようだ。  
一方、1870年6月の上院議会議事録では、長州の封鎖する下関に単独で侵攻した、アメリカ蒸気軍艦・ワイオミング号の士官と乗組員に賠償金の一部を賞金として与える案が提出された。1872年3月の下院議会ではスーワード国務長官の書簡を公式印刷に付すよう決議している。5月にはこの基金を使って日本のアメリカ公使館や領事館の土地建物の借用代にあて、残りを日本政府に返還しようと決め、その経緯を公式印刷に付すよう決めている。  
1873(明治6)年1月に上院議会にまわされると、日本の教育向上のために使うべきだと、民間からの嘆願書が出始めた。こんな嘆願書がその後もいくつか提出され、議論そのものが下院に戻され、また上院に回されと、なかなか両院の意見がまとまらなかった。議会での議題・日本賠償基金が公式印刷に付されると、この情報を聞きつけた民間でも議論が巻き起こり、少しでもその利益にあずかろうと多くの嘆願書が出される事は自然な成り行きだ。この議会議論は当然アメリカ駐在の辨務使・森有礼の耳にも入り、1872年の初めにアメリカにやってきた岩倉使節団の耳にも入り、日本も積極的にロビー活動を展開した。しかしこんな上院や下院の議論は、まだ全て実現するまでには至らなかった。  
日本のロビー活動  
スミソニアン協会が運営する博物館充実のため、日本政府との関係を深めるスミソニアン協会のジョセフ・ヘンリー教授は、この日本からの賠償金が未だ一般会計に入れられず、基金として国務省の管理下にあることを知った。ヘンリー教授はこの話をワシントンに居る日本政府代表の辨務使・森有礼と話したが、森がその基金を使った日本の教育向上の必要性を熱心に語る姿に、さっそく上・下両議院共同図書委員会に宛てた嘆願書を起草し、1872年1月10日付けで提出した。その中で、スミソニアン協会は日本政府と協力し、自然科学や民俗学の資料収集、隕石や地磁気観測などの協力関係構築に動いているが、そんな話し合いの中で日本政府の森公使は、江戸に、西欧諸国やアメリカを代表する科学・文学の粋を集めた立派な図書館を併設する国立教育機関を設立し、教育向上の中心となる大学を造りたいと熱望している。ついては、  
合衆国と日本の間には親しい関係が続いている事を念頭に、かって賠償基金として知られるものを得ているわけですが、この基金を、ここに推奨する教育機関の利益のため議会により適切に充当して頂きたいと思います。共同図書委員会のご考慮のため謹んで提案致しますが、もし貴委員会の賛同が得られれば、合衆国議会に提出して頂きたいというのがこの書簡の目的であります。・・・更に付け加えれば、日本とのかかわりは、何物にも益して、単に商業貿易の利益のみならず他のより高尚な動機付けにより行動し、彼らが我々の忠告を受け入れ、我々の教育方式を採用するよう完全な信頼関係を強化する事に帰着します。  
この嘆願書は、共同図書委員会から外交委員会に廻され、その実現が検討された。  
アメリカ議会には様々な働きかけがあり、好意的に受け取られたと云われるこのジョセフ・ヘンリー教授の嘆願だけでは、なかなか突破口にはならなかったようだ。確かに、下に述べる新聞や雑誌にも載るほど民間の注目を集める効果は大きかったし、外交委員会を動かす影響力はあった。上記のチャールズ・ランマンは日本公使館秘書として森有礼に雇われていたアメリカ人だが、この後も長く陰でロビー活動をし、私的に他の弁護士とも組んだ活動をも押し進めたようである。しかし、かって賠償金を支払った国・日本政府の影が少しでもちらつけば、こんな多額の懸案は感情的にもそのまま受け入れられるはずはなく、純粋なアメリカ世論そのものか又は議員の大勢に、「また日本に我が善行を施す」と云う、強い自発的な環境が整わなければ成功しない事は現在と同じであったろう。  
1882(明治15)年6月13日付けのニューヨーク・タイムス紙の社説に、次のようなものがある。いわく、  
日本基金返還法案に関する昨日の上院の動きは、共和党にとって不面目なものだった。この恥辱は2、3人の議員のふるまいで深くなり、中でもカンザス州のインガルス氏とプラム氏が群れを抜いて悪かった。18年前合衆国政府は、2、3のヨーロッパ勢に引きずられ、日本から強要した金額の分け前として78万5千ドルを受け取った。この金はスーワード国務長官により合衆国公債に投資され、以来利息が増え続けている。昨日の上院の委員会で、スーワード氏が1864年に購入した債券を取り崩し、78万5千ドルを贈物として日本へ贈呈しようと、23対20で可決していた。議会の討論の中でカンザスの上院議員たちは、日本政府の代理者たちが法案に対しロビー活動をし、悪名高い事実として、若し可決されれば、一部の金は決して日本に届かないと非難したのだ。・・・インガルス氏とプラム氏は、この全ては日本政府に雇われた陳情活動の結果だと断言した。こんな状態では、”贈物”として日本に贈呈する事は、苦心して仕上げた侮辱にあたる。  
一部の議員にはこの新聞報道の様に映り、ロビー活動をする日本政府に賠償金など返還できないと、真っ向から反対する人達が居た事は確かだ。外務省・外交史料館、明治15年史料によれば、アメリカ上院議会のこの一連の議論で吉田清成公使や高平小五郎代理公使の名前まで暴露され、泡を喰らった高平が、井上外務卿へ宛てた6月9日付けの報告書簡や、ついに法案は可決されなかったと帰国中の吉田に緊急報告した6月21日付けの書簡もある。またこんな議会動向を、アメリカのロビイストの1人から12月の書簡情報で知った外務卿・井上馨は、ワシントンに赴任した公使・寺島宗則宛に1883(明治16)年1月15日付けの書簡を送り、「また償金に関し、この際我方より返還を促すような形跡が有っては不都合だから、全て米政府の為す所に任せて置き、我より干渉しないよう致したく、この旨進言します」と伝えているほどだ。  
従ってこのように、日本政府はアメリカ公使館を通じ一時熱心に返還を求めロビー活動をしたが、この活動が顕在化すればするほど一部の議員の鋭い反発を招き、外務省から、「手を引け」と指示を出さざるを得なくなったのだ。金儲けのため日本政府と組んだアメリカ人職業ロビイストに踊らされた格好の日本外交は、まだ未熟だったようだ。外務省・外交史料館史料には、当時のアメリカ人ロビイストが仲間たちに、「償金返還後に」と約束した14万ドル以上にも上る報酬金額の報告例もあるが、ここではその細部までは踏み込まない。  
アメリカの、ある雑誌の見解  
日本に学校・教育機関を造るのではなく、アメリカ西海岸に造れという意見もあった。そんな例として、サンフランシスコで発行される「Overland Monthly and Out West」誌の1873(明治6)年2月号に次の様な論文記事が載っている。これは6ページにも渡る長いものだが、次のように要約できる。  
日本賠償基金という名の下にアメリカ政府に保管される基金を、無条件で、あるいは教育と云う特別目的のため、日本政府に返還させるための嘆願書の署名集めが、カリフォルニア大学の教授陣に送られて来た。それは、日本政府への直接返還にムリがあっても、より良い教育と、我々の高い文明の利益を日本人に及ぼそうという深い訳があると云うものだ。  
この様な命題が提示されれば、太平洋に面する我がカリフォルニア州は強い興味に引かれる。それは、正義や人道主義の観点から全合衆国民は等しく感動するが、地理学的位置と通商関係からいって、カリフォルニア州民は、日本開国と、信頼と文明世界との通商の自由なる入口という点に強く係わっているからだ。  
送付された嘆願書は、今この基金は元利合計で80万ドル以上になり、1872年3月12日のフィッシ国務長官からの情報をもとに、コネチカット州公立学校教育長官・ノースロップ氏により作られたもので、無条件返還を求めるものだ。  
本論文は、そんな前例のない返還議論で、何が正義で賢明なやり方か、読者に問うものである。  
こんな前置きで、上記ジョセフ・ヘンリー教授の嘆願書や、日本に女学校設立のため返還すべきというアムハースト大学のジュリアス・スティール教授の意見を紹介している。さらに、この論文の筆者の見解として、日本に返還して教育機関を造るよりは、アメリカの教育機関に投資して教育を委託すれば、はるかに効果がある。日本公使館秘書・ランマン氏によれば、日本からアメリカに500人ほどの留学生があり、現在200人は滞米しているだろうという。同時に中国からも多くの留学生が来ている。日本同様中国が支払った賠償金もあるが、ウィリアム・スーワード氏の意見では、中国賠償金は西海岸での教育機関に配分すべきであるという。これら二つを合わせ、西海岸にある教育機関で彼らの教育ができるようにすることがベストである、と断じている。  
議会の最終決定  
議論に長い年月を費やす間に、その後日本から完済された賠償金も合わさり、利息で基金が倍以上に膨らんだ。基金に付いた利息まで返還するか、基金の管理費用徴収の減額をするかなどと、ロビイストの影響もあったのだろうが、ああでもない、こうでもないと、本質から外れ始めた議会の議論に、1879年12月、当時のヘイズ大統領から一般教書を通じ、  
日本と支那から何年か前に受領し、利子の累積で今かなりの額になった賠償金の処置につき、再び議会の注意を喚起したい。これら基金の内、アメリカ市民にとって正当に受領すべきものは直ちに受領し、本政府により厳密に公正な要求額以上に受領されたものは、適切な方法で、正当な国に返還すべきであります。  
と、政府の推奨する返還の原則方針まで出され始めた。1881年に就任したアーサー大統領もこのヘイズ前大統領の原則方針を支持し、また退役後に大歓迎を受けて日本訪問から帰ったグラント元大統領も、「不適切な賠償金受領だとかねて思っていたが、日本に行って、その通りだと良く分かった。利子無しの元金返還だけでも日本は歓迎する」と、1882年7月24日付けでウィリアムス下院外交委員長宛てに個人書簡を送っている。このグラント元大統領は現役中に、下関賠償金の残額支払いを免除すべきだと議会に強く働きかけたが同意を得られず、仕方なしに日本から最後の賠償金を受取った人だ。この様に過去の大統領や現役大統領から強い働きかけが続いた1882年の下院では、利息も含めた150万ドルほどの返還に傾いたが、これも1票の差で否決された。  
翌1883(明治16)年には両院調停委員会に委ねられ、下院は賛成・可決し、最後の上院議会に提出された。上院には少数派だが、原則論として返還反対の論陣を張り続けたモリル上院財務委員長のような議員もいた。日本基金の返還議論が大詰めに近づいた時期の上院議事録、1883年2月16日に、このモリル上院議員の2時間にも及ぶ長い演説の記録が載っている。昔のメキシコとの条約まで持ち出して、日本との条約締結の歴史を述べ、日本に返還する理由は何処にもないと再度激しく反対した。そして最後に、「若し上院が返還に合意するにしても、基金の利子などは返還できない」と長広舌をふるっている。  
しかし、この上院議会の議論が最後だった。議会では1883(明治16)年2月22日に返還法案を制定し、2月23日アーサー大統領が署名し、日本が支払った賠償金額と殆ど同じ、78万5千ドル87セントの日本への無条件返還が正式決定された。この時点までに日本賠償基金関連の総額は、183万9千533ドル99セントにも上っていたという。そして14万ドルが単独懲罰に下関に向かったワイオミング号と下関戦争に参加したターキャン号の賞金として分けられ、残りの91万4千ドル余りは国庫に収められた。まるで日本の講談や落語に出て来る「大岡越前守のお裁き、三方一両の損」に似ていても、「三方が得」をした話だ。この「相当する理由のない」賠償金返還の実現が、スーワード国務長官が期待した「アメリカの正義」の実行だったのだろう。 
日本政府への返還と資金活用  
返還  
当然この日本への返還は、日本駐在アメリカ公使・ビンガムを通じてなされたが、当時の国務長官・フレリングハイゼンからビンガム公使宛の1883(明治16)年3月21日付けの書簡にこう記されている。  
ここに、合衆国国務長官である私宛に合衆国財務省が振り出し、貴殿宛に私が裏書した78万5千ドル78セントの小切手を同封します。  
ここに述べる合計金額は、1883年2月22日付けの議会決議に基づき履行すべく、これを日本政府宛に支払うよう貴殿に命ずるものであり、これは、1864年10月22日に日本と結んだ、一般に「下関賠償金」と呼ばれる取極め条項に従って、合衆国が日本政府から受領した金額の返還であります。  
この書簡により貴殿が命令を遂行するに当たり、その機会を利用し、本政府が永年に渡り抱き続け、日本にこのお金を返還したいという願いが議会議決により実行出来るようになったという大統領の持つ満足感と、日本国民とその政府の繁栄と進歩に係わる全ての面で、合衆国政府が持つ友好的な気持ちの更なる証拠として、日本政府に必ずや受領して貰えるはずだという大統領の気持ちとを、日本の外務大臣に伝えて貰いたい。  
ビンガム公使はこれを4月19日に受け取ると、早速この件を井上外務大臣に伝え、井上は折り返し日本政府は喜んで受領する旨の返書を送り、小切手の宛先は外務大臣・井上馨宛てに願いたいと伝えている。4月22日付けのこの書簡の中で井上は、  
この返書で閣下に断言できる事は満足の至りでありますが、日本帝国政府は、1866年10月22日付け締結の下関取極め書に従って日本政府が合衆国政府に支払った償金の自発的返還は、閣下の政府の友好の更なる証明であるのみならず、常に合衆国と日本との関係において鼓舞されてきた、いわゆる正義と公明正大な精神の明らかな発露であるとみなしており、また確信を持って言える事は、それが、現在幸運にも両国国民の間に存続している相互信頼や心からの善意と友好とを永続させ、且つ強化させるものであるということであります。  
従って帝国政府は、提案された金額の受領を躊躇するものではなく、適切な人物を小切手の受領人に指名して欲しいという閣下の要請に従い、閣下のご都合により、帝国外務大臣たる本官宛てに裏書されん事を願うものであります。  
こうして長期に渡り懸案だった賠償金の返還は無事終了し、再び日本政府の元に戻った。  
横浜港の改良に役立った返還金  
付帯条件なしでアメリカ政府から返還された78万5千ドル78セントは、こうして日本政府が受領し、翌明治17年に円貨に交換された金88万4千508円20銭が日本でも公債に投資され、その適切な使用用途の決断を待つ事になった。  
明治21(1888)年2月に就任した外務大臣・大隈重信の主導で進められた横浜築港工事は、このアメリカから返還された基金を使い、開港以来の古い港湾設備を改築し、大型船が使える桟橋や接岸埠頭を造ろうとする大規模なものだった。しかしこれは、国家主導ではあっても、通常の内務省管轄工事ではなく、外務省主導という異例なやり方だった。神戸港などにあったという、民間人・加納宗七が旧生田川尻に造り、その後も自力で増設もした小野浜船溜り(加納港)のような民営の埠頭設備はなく、国が改築・運営する官営港湾方式だった。それまでなかった大規模な防波堤で広く港の外側を蔽い、大型船が直接接岸できる鉄製の桟橋を造り付け、鉄道との連絡も考慮したものだったという。そして実際の工事の施行も神奈川県庁が行うというように、日本の外交政策と密接に関連した外務省主導、大隈主導の改築だったようだ。  
この様な経緯で明治22(1889)年11月に着工され、明治27(1894)年3月に完成という横浜港の大桟橋改築には、アメリカから返還された基金が中心になった。この公債に入れられていた基金は、明治20年12月現在までに金124万4千円にまで膨らんでいた(外務省・外交史料館、第18巻・明治18年史料)。こんな資金手当てがあったからこそ、外務省主導の改築に成功したのだろうし、国際貿易に貢献するという見地からも、返還金の活用として的を得たものだったわけだ。  
筆者のコメント  
この「下関賠償金の返還」を考える上で、アメリカの政治上、いくつかのポイントがある。先ず、スーワード国務長官が日本が支払う賠償金を合衆国登記公債に入れ、別勘定口座を造った。その上でスーワードは、その処理方法を議会の議論に委ねた。次に、アメリカには日本より明確に、立法・行政・司法の三権分立体制があるという政治システムの違いである。これを項目別に列記すれば、  
1.政府が日本との賠償取極め書を批准したくとも、憲法規定により、上院議会の承認が不可欠である。  
2.政府がイギリス、フランス、オランダと賠償金の分配比率を取決めたくとも、憲法規定により、上院議会の承認が不可欠である。  
3.行政府の長である大統領が賠償金を日本へ返還したくとも、立法府である両議会の承認なしには実行できない。  
従って上記3点と共に、議会議論の中で正義の実行に焦点が当たったが、結論的には、  
1.南北戦争中で独自外交ができず、英・仏・蘭と共同で日本に高額な賠償金を請求すると云う止むを得ない成行きになったが、政府即ちスーワード国務長官は、一時的手段として賠償金を受領した。  
2.議会の結論が出るまで、スーワード国務長官は受領した賠償金を公債に入れ、別勘定として保管した。  
3.スーワード国務長官は議会に提議し、議会議論を通じて受領か返還かの正式結論を待った。大統領のみが単独で返還を決済したのではない。  
4.ジョンソン大統領が暫定的に受け入れた賠償金の欧州3ヵ国との分配比率は、結果的に、政府も議会も理由のない高額の受領だと認定し、返還を決めた。  
5.スーワード国務長官が受領した賠償金を公債に入れ、その後の議論の口火を切った。この議論にはジョンソン大統領、グラント大統領、ヘイズ大統領、アーサー大統領が関わっているが、誰か1人のみの決断ではなく、永年に渡る政府と議会の議論の末の返還の決定であった。  
6.議会議論に時間がかかったのは、返還するかしないかではなく、いくら返還し、余剰金をどう処分するかの議論だった。これに、議会へのロビー活動が影響を与えた。  
7.日本政府のアメリカ議会へのロビー活動が暴露されると、議員の一部に強い反発が起った。 
15、幻の改税条約 

 

明治新政府の財政困窮と、全面的な条約改正から「改税条約」への方針変更  
吉田・エヴァーツ条約  
この「吉田・エヴァーツ条約」と呼ばれるアメリカとの改税条約は、明治11(1878)年7月25日、アメリカのワシントンで日本駐米公使・吉田清成とアメリカ政府国務長官・ウィリアム・エヴァーツ(エバーツ、とも)との間で調印され、翌年4月8日ワシントンで批准された。この条約の文書名は、「日本国合衆国間現存條約中或箇條を改定し且両国の通商を増進する爲めの約書」という長い名前である。  
その内容は、「安政5年の貿易章程や慶応2年の改税約書は廃棄する」事。「日本は海関税やその他のゥ税を自由に賦課し、外国貿易のゥ規則制定の権利は日本政府に属す」事。「輸入品税額は、他国より輸入の同種類品に課すものより超過しない」事。「輸出品に輸出税を課さない」事。「ゥ規則違犯の沒入品あるいは罰金は、日本政府の要求を合衆国領事裁判所に訟える」事。「更に二港を合衆国人民並に商船來往貿易のために開く」事、等を取決めてある。  
この様に、望んでいた輸出入の関税権は日本政府の手に取り戻す事ができた。だがしかし、この条約の第10条に記載された、  
この約書は、日本と他の締盟各国と、現実この約書と均しき所の約書あるいは現存條約の重修(ちょうしゅう=改正)を取結び、右現行の時に至り施すヘし。  
という、「アメリカ以外の条約国がこれと同等な条約を結んだ時に発効する」とする約束条項があったが、その後、引き続く明治政府と他の条約国との改税交渉で、イギリス、ドイツ、フランスと云う主要条約国が日本の関税権回復を盛り込む条約を認めず、アメリカと締結した条約のこの第10条を満足できなくなり、実施不可能な「幻の条約」になってしまったというものだ。  
なぜこんな事態が発生したのか、その経緯を書いてみたい。  
財政に悩む明治新政府  
戊辰戦争を通じ、朝廷とそれを支える薩摩・長州軍や、それに引き続く明治新政府軍は、その膨大な戦費の手当てに困っていた。鳥羽・伏見の衝突の後朝廷側は、明治1(1868)年1月7日に「徳川慶喜征討の令」を発し、組織を固めるため早くも17日にその職制を定めた。これは、総裁以下に神祇・内国・外国・海陸軍・会計・刑法・制度の7科を設け、岩倉具視や中御門経之(なかのみかどつねゆき)が会計事務総裁にもなり、その下で福井藩で藩財政再建や藩札発行など財政経験が豊かであった参予・三岡八郎(由利公正)等に会計事務総裁掛を命じ、戦費捻出に当たらせた。  
三岡等は早速建議して、地租を抵当に「会計御基立金」3百万両という大金の公債を募集し、これを京都・大坂・江戸・兵庫・大津・伊勢などの富豪商人に借用証文を書いて半ば強制的に割り当てた。『鴻池文書』や『三井家奉公履歴』等に、大阪や京都の富豪商人へ宛てた朝廷側の脅迫まがいの文書も残っているという。また閏4月には太政官札(だじょうかんさつ)すなわち金札を発行し全国流通を目論んだ。この金札は通用期限13年の臨時通貨で、印刷した紙幣だった。更なる不足分は、豪商からの献納金や借入金など多くの臨時処置を取りつじつまを合わせ、また、貨幣司出張所を大坂に設けて幕府時代から流通する二分金や一分銀を増鋳するなどの対策も採った。  
しかし、発行した合計4千8百万両ともいわれる金札は信用が低く多くの混乱を生じ、ついに明治2(1869)年5月28日、金札発行を取りやめざるを得なくなった。更に、流通・兌換期限を明治5年までと短縮したが、こんな混乱に乗じたニセ札や、違法な贋貨である諸藩が勝手に鋳造した低品位の二分金が出回り、各国公使から贋貨取締りの強い要望が繰り返し出されるなど、外交問題にまで発展した。  
新政府の地租の改正  
さて一方、新政府の通常の国家収入はどうなっていたのだろうか。上述の会計事務総裁掛・三岡八郎などの臨時戦費を手当てする対策と平行し、明治1年5月10日、「租税司」を会計官の下に設置して国家歳入の整備を始めた。そして8月、「税法はしばらく従来の慣例により、且つ没収した旧幕府の家来達の領地は、隣接する府・藩・県に管轄させる」との通達を出した。このように明治新政府になってもしばらくは、旧幕府時代同様に、国家の財政はその大部分が農民の地租で賄われる構図だった。内戦に係わる特別費用や旧幕府時代からの重圧など、多くのしわ寄せを肩代わりせねばならない農民の多くは不満を募らせ、又凶作もあり、減税や村役人の公選、土地所有者への不満など、明治元年からの3年間に90件もの農民一揆が各地で発生したというから、誠にすさまじい数字だ。ものすごい不満が渦を巻いていたのだ。  
戊辰戦争に終止符が打たれた後も、明治2年6月25日には版籍奉還後の旧藩主への「知藩事家禄の制」を定め、その家来は平士以上を総て「士族」とし、公卿・諸侯を「華族」とし、それら明治維新に功労のあった華族・士族への恩賞は「賞典禄」として保証されたから、新政府はいわゆる国家の収入を確保し再配分する責任が生じたのだ。それまで藩財政のやりくりに苦しんできた旧大名・藩主たちは「知藩事家禄の制」の恩恵で個人の生活は安定したが、それを肩代わりした明治新政府は、これらの家禄・賞典禄が国家歳出の40パーセントにも上ったといわれる財政難に悩む事になる。  
こう改革を進める明治新政府は、当時国家収入の80パーセントをも占めたといわれる年貢米中心の地租を組織的に徴収せねばならず、特に明治4年の廃藩置県後には、それまでは旧幕府の各藩内で処理され表に出なかった各地の租税の違いが全国的に浮き彫りになり、農民層の不満を一気に高めたと云う。一方でまた280年前のような「太閤検地」に類する検地・検見などを更に続ければ、不満の溜まった農民層が暴発する危険性が間近に迫っている事もよく認識していたようだ。  
こんな中で、当時明治政府に出仕していた神田孝平(たかひら)が、新しい地租の評価方法を考え出し、「田税改革議」として明治3(1870)年6月に建議した。この古くから百姓いじめととらえられてきた検地・検見(けみ)・石盛(こくもり)等に代え、税収の元となる検地と同様の目的を達成する新方法、いわゆる「沽券(こけん、=地券)税法」は、田地の自由売買を基にした地主の申告て地価を決め、それに比例した地租を現金で納入するやりかたで、それまで多くの農民一揆や騒擾に困惑していた明治新政府にとって、土地および租税政策の理論的な一つの根拠となった。  
この神田孝平は、漢学と蘭学を学び、会津藩校の教授から幕府の蕃書調所の数学教授になった、美濃国すなわち現在の岐阜県出身の洋学者で、文久1(1861)年12月に「農商弁」と題する論文を書いて以来、「税法改革ノ議」(明治2年)や「田税改革議」(明治3年)を書いて明治政府に新税法を建議し、要望によりこれを明治5年、「田税新法」と題し出版した。更に「江戸市中改革仕方案」(明治1年)や「貨幣四禄」(明治7、8年)、「鉄山を開くべきの議」(明治8年)、その他多くの論文を発表し、また蘭語の翻訳本なども出版している啓蒙思想家でもあった。  
明治新政府は結局、概ねこの「田税改革議」に沿った地租徴収方法を採用し、種々の試行錯誤もあったようだが、地価算定には地主申告額に政府の定めた基準による修正を加える事とし、明治6(1873)年7月28日に「太政官布告・第272号・地租改正法」を発し、農地、宅地、寺社地など全ての土地毎に沽券(地券)を交付し、毎年沽券額面の3%の地租徴収を行ってきた。この地租改正法には、将来的に物品税や家屋税を導入した後に地租を1%まで減額するとも定めてはいたがしかし、明治9年には佐賀の乱や台湾出兵で高騰していた米価が30%以上も下落し、地価算定方法への農民層の更なる不満が鬱積して一揆も起り、ついに明治10(1877)年1月4日、朝議決定後に明治天皇が地租を「百分の二分五厘」、すなわち2.5%にするので諸経費を削減せよと云う、「地租削減の詔勅」を発する程に追い詰められている。  
過去の貿易関税の改定  
ここで話題にする、当時の明治政府が大きな問題と考えた条約による輸出入関税、すなわち当時「海関税」とも呼ばれたものには、旧幕府時代に、概略次のような改定の経緯があった。  
江戸幕府が安政5(1858)年に各国と初めて結んだ通商条約には、例えば、日米条約の第4条に規定した付属貿易章程・第7則を見れば、第1類から第4類まで輸出入関税税率が規定されている。例えば輸入品で、金銀貨幣・装飾用の金銀及び居留者の家財・書籍などは輸入関税0パーセント、船具・石炭・パン・塩漬け食料などは5パーセント、酒類は35パーセント、その他は一律20パーセントと云う具合だ。また輸出品は、金銀貨幣・棹銅以外は一律5パーセントだった。  
しかしその後、「長州征伐と条約勅許」の中の「条約国の軍艦派遣」で書いた通り、慶応1(1865)年9月、イギリスの主導でイギリス軍艦5隻・フランス3隻・オランダ1隻の合計9隻を兵庫に派遣したイギリス、アメリカ、フランス、オランダの4カ国は、朝廷の条約勅許・兵庫の早期開港・関税の引き下げなどの要求を突きつけた。追い詰められた朝廷は条約を勅許し、幕府は江戸で関税交渉を開く合意でやっと難局を切り抜けた。老中・水野忠精(ただきよ)は勘定奉行・小栗忠順(ただまさ)と外国奉行・菊池隆吉(たかよし)を改税交渉責任者に指名し、小栗等は翌慶応2(1866)年1月からイギリスのパークス公使やアメリカのポートマン代理公使、フランス公使館書記官・カション等と折衝を重ねた。そして同年5月13日、老中・水野忠精が「江戸協約」とも呼ばれる新しい「改税約書十二カ条及び運上目録」に調印したのだった。  
これはその約定書前文に、「輸入輸出の諸品全て価五分の運上を基本とし、右運上目録を猶予無く改むべき趣を約束し・・・」とあるごとく、輸入品にも基本的に5パーセントの一律関税を適用し、輸入関税の大巾な引き下げをしたものだ。従って安政5年条約の関税は、申告される商品価格への規定税率の課税であったが、この新しい改税約書の方式は、輸出入関税が基本的に5パーセントと云う低率に抑えられ、且つ品目が細くその課税額と共に明示された、すなわち当時の価格の5パーセントに固定された、という体裁になっている。この税額はその第2条に、  
この度の約書に添えたる運上目録は、調印の日より日本と右四ヶ国と取結びたる条約の内に併せたれば、日本来る壬申年中、1872年7月1日に至り改むべし。  
と、その税額見直し期日が明示されてはいるがしかし、これはすなわち、調印時より6年間はその「税額」が固定されるものだったのだ。  
安政5年以降の貿易の進展によりインフレも起り、輸出入商品の価格は上がる傾向だったが、慶応2(1866)年5月13日調印の「改税約書」の新方式は、低税率と共に、貿易価格が上昇しても税額は変わらない税額固定方式だ。そして以下に述べる大蔵省租税頭・松方正義らが言う様に、大巾に輸入関税が引き下げられたため日本への輸入商品が急増したのだ。当時担当した老中・水野や勘定奉行・小栗などは、こんな方式の違いがその後の税収入に及ぼす影響や、多国間条約書の中に明示した税率が如何にその変更が困難なものか、理解できなかったもののようだ。輸入が急増し、日用品さえ輸入に頼るといった構図になろうとは思いもよらなかったであろう。これが明治新政府になって、大きな負の遺産としてのしかかる事になって行く。  
更なる特別出費と改税条約の模索−関税自主権の回復−  
明治7(1874)年2月になると、それまで新政府首脳の1人だった江藤新平が地元の佐賀で新政府に対する大規模な士族反乱を起こし、素早い行動を取った明治政府に鎮圧されはしたが、軍隊を動かした政府は余分な出費を重ねる事になった。また明治4(1871)年に、琉球のご用船員が台風で避難した台湾で現地人に大量に殺害されると云う宮古島島民遭難事件が起った。これがきっかけになり、明治7年5月、琉球を日本領土とする明治政府は台湾に出兵し、永い交渉の末に支那との間に講和を結び、支那は日本に50万両の見舞・賠償金を支払い解決した。しかし明治政府は、台湾出兵と船舶購入で2千万円以上もかかったと言われる多大な臨時費用が重なり、更なる国内生産の増進と財政収入増加への対策が必要になった。  
こんな経緯があった明治7年4月25日、大蔵省租税頭・松方正義らが大蔵卿・大隈重信宛に「税則改定の建議書」なるものを提出し、輸出入関税の改定は焦眉の急だと建議した。これは「海関税改正議」としても知られていると聞くが、いわく、  
国土に土地柄や気候の異なりがある。故に産物は自ずから同じくはない。人に職業や巧拙の別がある。故に造工(ぞうく、=造作)はまた自ずから別である。このため彼の無は此の有を賞賛し、甲の過は乙の不足を補い、互いに生計の道を計らざるを得ない。これが貿易が起った要因である。故に貿易は人生の必須であり、止む事の得ざるもので、庶民が豊かになったり貧困になったり、これに与える影響は少なくない。中でも海外貿易に至っては一国の貧富や強弱に大いに関係し、上手くその制限を定める事は真に経国の大業である。  
こう論を進めて、わが国でも近年益々海外貿易が発展し、その大きさは内国貿易に比肩するほどであるから、その制御は日本の今日の急務であり一日もおろそかに出来ない、と述べた。そして、世界の学者の間には自由貿易論と保護貿易論があるが、未だ判然とした結論が無いし、各国も一定せず、その国勢と事態により夫々選択をしている。近来の日本では、安い輸入関税でどんどん増える輸入商品すなわち完成品に比べ、輸出は茶や絹糸・蚕卵など、いわば半製品とでも呼ぶものであり、その他は米・麦や石炭・銅など天然素材に過ぎず、輸入額の四分の一しかない。更に、  
しだいに邦人の好み、尚多く輸入の品物に偏り、衣食・居住・日用・必須の品類に至るまで悉く彼が風習に習い、洋品の流行は駸々として日に盛んになる勢いである。すなわち輸入はいよいよ増多して、決して減少する情況には無い。  
と、多くの日用品までも輸入完成品に頼るほどで、この輸入超過で貴重な現金すなわち正貨は出て行き、このため内地の人民は年来の生業を失い、富者は落ちぶれ、職工に仕事も無く、正業もない人々が巷に満ち、困窮者が道にあふれ、大変な状態になる事は後世の知者を待たずとも明白である。  
しかし例え条約を改めても、旧来の如く税則が条約に付属する形では、彼等に「可否・取捨ての権」を与える事になり、改定しない方が良い。条約改定の期日になっても各国は従来の習慣を主張し、天地の公理を顧みず、一国の通義を蔑視し、自分達の強盛を誇示し、ただ己の利益を図るばかりである。しかし自主権が無ければ、国家は国家でなくなってしまう。今日こそ、有意決断の時である。例え平等条約に改正できなくとも、自分の手足を縛り自分の利害・禍福を制御出来ない状態に放置しておくべきではない。従って輸出入関税の改定、即ち「関税自主権の回復」は焦眉の急だ、と云うわけだ。国内産業を振興するには、ある程度の保護貿易もやむを得ない、と云うものだった。  
それまで苦しい予算の中でも何とかやりくりして進めている、鉄道・海運や道路・橋梁・堤防整備などの事業予算を確保せざるを得ない大蔵省内では、こんな勧業政策のための保護貿易議論も盛んになり、国内産業を発展させ税収を上げるため、貿易関税すなわち関税自主権の回復に切り込まざるを得ないという状態になった。終に翌明治8(1875)年7月23日、当時の大蔵卿・大隈重信から外務卿・寺島宗則宛ての海関税改正、すなわち輸出入税改正の、共闘書状が出されている。いわく、  
外交の条約改正の期日は、今を隔たる4年前、即ち明治5年7月(西洋1872年なり)であった。然るにその後遅延し、数年の星霜を経ても尚、未だに改正する事ができない。その間止むを得ない事故が有ったとはいえ、これは要するに因循で、苟且(かりそめ)にも空しく歳月を費やすのみである。然らば即ち、又何日遅れでその改正を期すべきか。これは実に国家の命脈に関する最大事だから、決してこれを度外視できない事は論を待たない。従ってその海関税等は、その得失により国家の安危に関わり、貿易の盛衰に大きく関わる。故に速やかに改定し、その大権を我国に全収(筆者注:我が国の関税自主権を回復)せねばならない一大主要の急務である。・・・中でも新条約(筆者注:慶応2年5月13日調印の現行条約)の如きは、これを旧条約(筆者注:安政5年の通商条約)に比べれば、その不利は言を待たない。もとより一時の結約だから、これを旧に復する事は難かしく無いはずである。然りと言えども、依然置いて手を下さない理由は、他でもなく、条約改正の期を待って将に大いに改革釐正(りせい=改正)し、その大権を収有したいと思うからであった。・・・然りと言えども、今速やかに条約の改正に着手する事ができなければ、宜しく先ず海関税則改正の大本を立て、その大権を収有し、以て多少の弊害を除くに越した事はなかろう。故に、条約改正の大本を立て税則の改定をしなければその独立の国権を保つ事ができない理由を、既に再度これを正院に上申したのだが、今日に至るまで何等の下命を得ていない。従ってその弊害は日に甚だしく、必ず不測の大患を招く事を良く知る必要がある。今又更に前議の趣旨を挙げて、これを上申しようとしている。然れども、これは特に当省の負荷のみではない。殊に外務事務のごときは、専ら貴省の担任するところである。今日国家が多少の弊害を受けている事は、恐らくは、皆これ条約の改正をしないからで、その利害得失実地の形態はもとより貴省の良く熟知する所であろう。然らば即ち、貴省もまたその責に任ぜざるを得ない。請う、その国家の大本を確立する所以の方策を設け、もって廟堂に建議せられん事を。・・・これ実に国家の大事なるを以て、貴省に於いても、必ずその力をこの議の決定に尽くされん事を希望す。依ってこの段、照会に及び候なり。  
この様に、国内産業を増進し困窮する国家財政に少しでも貢献させるべく、条約の全面的改正が無理なら貿易関税の見直し、即ち関税権の回復が急務である事を訴え、共闘を呼びかけたものだ。そしてその年の11月10日、寺島外務卿より三条太政大臣に宛て、「条約改正は緊要ではあるが、現今この全面的改正は困難であり、とりあえず、海関税改定を英・米・仏・独駐在公使を通じ交渉させたい」と申請が出され、翌明治9年1月18日、太政大臣許可が出された。  
当時の不平等条約改正については、勿論これ以前から明治政府内に大きな問題意識があり、それは「岩倉使節団(米国)」の最初に記述した通りだったし、岩倉具視自身がアメリカでフィッシュ国務長官と条約改正交渉を始め、その後挫折した経緯はその中の「大統領会見と条約改定交渉」に書いた通りだった。岩倉使節団が帰朝した後の明治7(1874)年4月25日、外務卿・寺島宗則のリーダーシップで外務省内に各省代表者を集めた「外国条約改締書案取調局」開設を建議し、太政大臣はこれを許可し、当時の外務大丞・森有礼を理事官・主任に指名し、集中的な準備が始まっている。それを上述の大隈重信から寺島宗則宛ての提案の如く、「まずは輸出入の改税、即ち関税自主権の回復だけでも行い、国家財政の改善に当てよう」と方針変更をしたものだった。  
しかし、この結果アメリカと調印されたこの吉田・エヴァーツ条約について、幾つかの歴史記述の中で、時には、「寺島宗則が西南戦争後の財政難のため、税権回復を中心に交渉した」と説明する向きも有る。これはしかし、西南戦争は明治10(1877)年2月14日の西郷隆盛による閲兵式翌日、15日の「問罪出兵」から始まっているから、この見方は正しくない。上述の如く、西南戦争勃発の1年以上も前から、方針変更をした改税交渉が始まっていたのだ。 
日本政府の改税条約交渉  
アメリカとの交渉開始  
大蔵卿・大隈重信から外務卿・寺島宗則宛てに出された上述の文面の下に書いた如く、海関税改正交渉開始について三条太政大臣の許可を得た寺島宗則は、駐日アメリカ公使・ジョーン・ビンガムとも話し、条約改正についてアメリカ側の感触が非常に良い事を実感した。そしてビンガム公使は、条約改正については、先ず日本政府からアメリカ政府へ正式な書翰を出して欲しいと伝えてもいた。これに意を強くした寺島は明治9(1876)年3月9日、英・仏・露・独・米の現地駐在公使に「公式訓状」と「内諭別翰」とを送り各国政府と改正交渉に入りたいと上申し、最終的な太政大臣許可を受けた。  
そこで寺島は早速4月25日付けの書翰を、1年半程前の明治7年9月9日付けで駐米特命全権公使になっていた吉田清成宛に送り、アメリカ政府との交渉開始を命じた。ビンガム米国公使は、日本に赴任以来条約改正に非常に協力的だったから、外務卿・寺島宗則にとって初めての経験になる公式交渉を、先ずアメリカ政府と行おうとしたようだ。4月25日付けの吉田公使への書翰にいわく、  
幸い我国在留米国公使・ビンガム氏からは、到着以来いろいろ内意を告げ知らされた件もあり、種々内談した後、今ようやく実行できる段階になった。従って、別紙甲乙2種類の訓状内容に基ずき、米国政府と交渉を開始してもらいたい。・・・当面は税目の1件を改正し、外民支配の論は先ず後日に譲る積りである事をビンガム氏に伝えた書翰の写しも参考のため添付するので、程好く米国国務卿と交渉し調印できるよう、尽力してもらいたい。他の結盟各国へも追って談判を開始する含みだが、ビンガム氏周旋の事でもあり先ず米国から手を付けるので、その辺も含んで交渉を開始し、先方の反応振りなどを観察し、詳細に報告してもらいたい。  
と書き、交渉開始の指示を出した。そして、この書翰に添付されたその「海関税の義に付いての訓状」、すなわち米国政府に公開しても良い公式外交命令書翰には、  
今や諸般紛雑の事件、漸くこれを落着させたので、政府はこの機に乗じ条約重修に着手せんと欲するものである。現存の条約を重修して我が国権を拡張せんとするに当っては、必ずしも増補改定せざるを得ないものが尠くない。従って、その条款の中に就いて至重至要とするものは、現存の条約、殊に1866年の新定約書に掲げる貿易章程と税関征税(せいぜい=強制的な税の取り立て)の二者に関する条款である。・・・結局我が政府は現存の条約中に掲載してある輸出税を廃し、且つ、その条約中及び1866年の新定約書中にある、我が政府が輸入税を課収する権を抑制する諸条款を刪去(さんきょ=削除)しようとするものである。各国の中、若し前条諸述の趣旨に同意するものがあれば、我が政府はその同意する国に対し、その臣民の貿易及び居留のため新港を開き、又その国に対し全ての輸出税を廃止するものである。  
と、輸出税は全廃し新貿易港を開くから、輸入税を自由に賦課変更できる税権を回復したい。この様な交換条件を出して交渉に臨もうとしたのだ。  
こうして外務卿・寺島宗則は先ずアメリカと話を始めたわけだが、下に書くように、日本とアメリカの合意はイギリスの、特に日本駐在英国公使・ハリー・パークスの強い反感を買うことになる。  
駐日アメリカ公使・ジョーン・A・ビンガムの協力  
当時の日本駐在アメリカ公使は、明治6(1873)年5月31日に任命され、その後ほぼ12年2ヶ月間に渡りその職にあったジョーン・A・ビンガムだった。日本のアメリカ大使館史料によれば、これは現在までも、米国駐日大使・公使の中での最長記録だと云う。上の寺島宗則から吉田清成に宛てた書翰中にも「幸い我国在留米国公使・ビンガム氏からは、到着以来いろいろ内意を告げ知られ・・・」と書くように、アメリカのビンガム公使は、日本の諸外国との不平等條約の是正には公正な立場で協力し、イギリス公使・ハリー・パークスと張り合った人である。ビンガム公使は1877(明治10)年1月30日付けのフィッシュ国務長官に宛てた報告書の中でも、  
日本国総理大臣・三条実美公の命で27日付け東京タイムス紙に載った、1876年7月1日より1877年7月1日までの日本政府の財政報告と予想の写しをお送りいたします。今会計年度予想歳入表に依れば、輸出入税の予想歳入はただの$1、762、554で、同年度の予想租税歳入は約$61、000、000ですが、その中、$46、556、743が国民に課せられた地租です。私がこのように言うのは適切だと思いますが、日本で種々の貿易にかかわる外国人は、彼らが言う所の1866年の貿易約書を根拠に、その巨大な利益や収入に対する税金は何も支払っていません。  
この様に述べ、日本の歳入の約76%を地租が占めると云う異常な租税構造がある一方で、貿易で巨利を得る外国貿易商達への課税は無いと報告し、その不平等さや日本の不利益を看過出来なかったようだ。従ってこの改税交渉に当たっては、外務卿・寺島宗則に種々の協力を惜しまなかったように見える。そしてその後、新しいエヴァーツ国務長官になると、日本の事情や財政状況を更に細かく、例えば、「西南戦争の鎮圧費用は月々4百万ドルも掛かると云われています」等と報告している。  
ちなみに、この明治10年当時の為替レートは、1ドル=1円10銭程だったようだから、上のビンガム書翰中の地租歳入$46、556、743は、ほぼ5、120万円になる。ちなみにまた、上述の、明治10年の明治天皇の「地租削減の詔勅」で減税する地租0.5パーセントは、これから逆算すると、ほぼ850万円にも上る国税の減税になったようだし、西南戦争の鎮圧には月々440万円も費やしていた事になる。  
吉田清成駐米公使の動き  
この様な環境下で、外務卿・寺島宗則からの上述した公式外交命令書翰を基に駐米特命全権公使・吉田清成は6月8日、早速フィッシュ国務長官と話を始めた。かく云う吉田清成自身も、駐米公使に任命される前は大蔵省に在籍し、大蔵卿・大隈重信の下で大蔵少輔としてこの改税議論にも深く関与していたから、この交渉については、かって薩摩藩の松木弘安すなわち寺島宗則らに率いられ英国に留学し、引き続き米国にも留学して、英語を良く操る外交官と云う以上の理解と情熱があったはずだ。  
第1回会見の席上で吉田から、「アメリカに輸出税は全廃し新貿易港を開くから、輸入税を自由に賦課変更できる税権を回復したい」と云う概略説明を聞いたフィッシュ国務長官は、すぐに次の質問を投げかけた。では若し、  
1.アメリカ人以外の外国人が日本の商品をアメリカに輸出しようとする時も、  
2.アメリカ人が日本の商品をアメリカ以外の他国に輸出しようとする時も  
日本は同じく輸出税を廃止するのか、というものだった。  
しかし、日本の行う多国間貿易上、国務長官の簡単なこの質問は、若し日本が個別交渉方式を選択すればその矛盾を一挙に突くもので、原理的に各国個別交渉では解決できない本質的な弱点となるものだ。これは勿論、吉田がこの第1回会談で即答出来るものではなかったし、国務長官もそれ以上の議論も質問も行わず、これは重要議題だから大統領と話をしようと引き取っている。  
吉田はすぐ日本に電報を打ち、この質問が出た事を伝えた。これを見た寺島は、「税則改正の義は、もとより他の結盟各国とも同様の談判に渉る積りであり、特に米政府のみに関係する事ではなく、ただその意向を相尋ねたいと云うことであり・・・」と、この様に説明してくれと、折り返しの電報と書翰を送り吉田に指示を出した。確かに寺島から吉田宛の、上記明治9(1876)年4月25日付けの書翰には、「先方の反応振りなどを観察し、詳細に報告してもらいたい」とは述べているが、なかなか一筋縄では行かない交渉だと、改めてはっきり分かったはずだ。  
この寺島よりの電報を受けた吉田は6月29日フィッシュと面会した。フィッシュいわく、  
アメリカは日本に協力したいと思う事は真実だが、自国の利益も考慮せざるを得ない。日本の提案に合意した後日本がアメリカ製品に高い輸入関税を設定すれば、アメリカ製品が日本市場に流通しなくなる事は自然である。日本はこの見返りに、日本からの輸出品を無税にし新たな貿易港を開くと言うが、アメリカに利益があるとは言い難い。従って、日本政府が他の国々と合意するまでは、新輸入税を設定しても他国より高くしないと云う条件なら合意できる。また日本が他国にも最恵国待遇を与える条約がある限り、アメリカが日本有利の条件を認めその引き換えに日本がアメリカのために新貿易港を開いても、他国も同様に新貿易港の要求を出す事が出来、他国のために有利さを与える事になる。  
アメリカは真実日本を助けたいと思っているし、日本が一日でも早く真の独立国家となれるよう心から希望しているがしかし、国際間の競争原理がある以上、自国だけ不利になる事は許容できないと云うのがフィッシュ国務長官の言葉だった。当然である。  
この時、明治9(1876)年6月はまだ第二期目のグラント大統領であり、4年前の明治5(1872)年1月21日にワシントンに着いた岩倉具視一行が面会したのもこのグラント大統領とフィッシュ国務長官だった。これについては既に上述した如く、当時の岩倉具視は不平等条約を改正したいとこのフィッシュ国務長官と協議し、グラント大統領から非常に良い手ごたえを得たが、他国との関係で条約改正を諦めた経緯がある。従って4年前と同様、アメリカの立場は日本に対し非常に好意的であった事は事実だ。  
吉田清成自身も各国と並列して交渉を進めざるを得ないという意見ではあったが、何とか改税したいとの強い思いからであったろうが、吉田私案とでも呼べる「改税条約案」を整え寺島宗則に送っている。しかし残念な事に、翌1877年3月4日でグラント大統領の二期目の任期も終わり、国政はヘイズ新大統領とエヴァーツ新国務長官に委ねられたから、吉田清成公使は新たな人脈を築く事から始めねばならなかった。しかし新大統領になっても、アメリカが日本を助けようとする好意は引き続き強かったから、交渉は進展する事になる。  
寺島宗則の他国との交渉開始  
以上の様に友好的なアメリカ政府の立場は判明したが、他の条約国との交渉も不可避である事も判明した。そこで外務卿・寺島宗則はいよいよ他の条約国との交渉を決断した。現地駐在日本公使などの情報から、改税交渉に当たってイタリヤやドイツなどからは恐らく異論は出ないだろうが、必ず異議を出すのはフランスやイギリスだろうと云うのが寺島の判断だった。寺島は明治9(1876)年11月27日付け書翰をイギリス駐在・上野景範公使とフランス駐在・中野健明臨時代理公使に送り、非公式かつ秘密裏に現地政府の意向を探るべく命じた。その結果あまり強い反対がなさそうなら、日本駐在のイギリスやフランスの公使達に公式な話を通そうとしたのである。  
当時の在フランス日本公使館には、外務省・日本外交文書史料に「マルシャル」と云う名前で登場する、フレデリック・マーシャル(FredericMarshall)と云うイギリス人が雇用されていた。いわゆる現地公使館の「お雇い」とも呼べる立場の人物で、まだあまり名の通らない日本外交の情報発信を担っていたようだ。フランス駐在の中野代理公使はこのフレデリック・マーシャルを通じ、イギリス駐在上野公使とも連携し、イギリス政府の意向を探りに出た。当時のフランス政府の日本向け外交は、中野代理公使の言う「全て英国の所為に習い取り計らう処があり、兎角英政府の返事を待ち、その上で何れへとも百方に着手仕るべくと、相控えて居ります」という状況だったからだ。  
この様にして半年ほど経った頃、フランスの中野健明から寺島宗則に宛た明治10(1877)年5月4日付けの書翰が届いた。この書翰いわく、「イギリスの上野公使と協議し探りを入れたが、英仏両政府とも我が請求通り海関税権の談判に取り掛かる様子はない」と云うものだった。ここで外務卿・寺島宗則には多くの思案があったはずだが、結局アメリカ政府とだけでも更に煮詰めるべく決意したようだ。そして同時に、駐日各国公使とも話を始め、結局は主要国・イギリスの在日公使・ハリー・パークスとの談判が中心になって行く。  
アメリカと改税条約調印  
当時のアメリカでは大統領交代の時期に入ってしまったのだが、吉田清成駐米公使は明治10(1877)年2月7日付けの寺島宗則宛の書翰で、これまでに自身に委譲されてきた権限は「アメリカ政府の意見を聞け」と云うだけのもので、更に交渉を推し進めるには、次の権限を付与願いたいと申請した。いわく、  
1.他国が合意したら発効するという条項を入れ、条約に調印する事  
2.または、他国に課する税に超過しないと云う1条を入れ、条約に調印する事  
3.ある年限以内に双方が条約改定交渉をするという条項を入れること  
4.この他条約に関し、日本から要求すべき沿海貿易の権利等のこと  
この様に、次期新大統領や新国務長官とも強力に話が出来るよう、条約調印の権限委譲を求めたのだ。  
この頃から日本国内では西南戦争が勃発し、薩摩出身の寺島外務卿も国内事情でも忙しくなっただろうし、上述の如くイギリス政府やフランス政府の出方を探る時期で、寺島から吉田向けのタイミングの良い指示が出ていない。そうこうする内にアメリカ政府でも恒例の夏休みが始まる7月も間近になり、寺島からの適切な指令の発信も少なくなっていたので、吉田は独自の対策を取る事にしたようだ。吉田はこれまでに寺島と頻繁に連絡を取り、ある程度煮詰まった改税條約案を作っていたが、これを基に第7条に条約発効条件を加え、6月23日、エヴァーツ国務長官宛に日本からの指示に基づいた「吉田私案」として提出し、その旨寺島にも書翰で報告している。  
そんな状況下で、上述の如くイギリスやフランス政府の改税条約まで進む意思のないことを知らされた寺島は、出来たらアメリカとは条約の調印をしようと腹を決めたわけだ。そして7月11日付け書翰で吉田宛に、  
今まで報告してもらったアメリカ政府との交渉経緯は良く承知している。これは欧州列国とも影響し合うので、当方の手加減もあり、米国限りの調印もどうかと差し控えてはいたが、現在のところでは、欧州列国すなわち英仏等の政府の考えも次第に分かってきた。そちらで予想していたように、米国だけ調印の運びに着手し、いわゆる各国で調印の上実施しべしと云う条項を付けたものにすべきだとの結論に達した。別紙写しの通り上申し廟議伺いを出したので、近々結論が出るはずである。  
との連絡を出した。これは全く偶然にも、上述の「吉田私案を出しました」というアメリカからの報告と行き違いになったようだが、寺島のアメリカと調印したいという上申書へは、7月24日、右大臣・岩倉具視の許可が出された。なお寺島宗則としては、イギリス等からアメリカとだけ交渉したと云う嫌疑を出されて外交関係がつまずく事を恐れ、公然と全条約国との交渉も開始する方針を決定し、アメリカとの条約の詳細修正を行い、この旨指示を出している。  
吉田清成はエヴァーツ国務長官やスーワード国務副長官などと精力的に会談し、幾つかの質問や修正の後、明治天皇が署名した3月21日付け委任状により、特命全権公使として明治11(1878)年7月25日、エヴァーツ国務長官と改税条約書すなわち、「日本国合衆国間現存條約中或箇條を改定し且両国の通商を増進する爲めの約書」に調印した。ちなみにこのスーワード国務副長官(フレデリック・W・スーワード)は、1872年以前に頻繁に登場するウィリアム・H・スーワードの子供である。  
そしてこの条約は、1878(明治11)年12月18日にアメリカ上院で承認され、批准が済んだ事をエヴァーツ国務長官から駐米臨時代理公使・吉田二郎宛ての書翰で通知されている。この吉田二郎は吉田清成とは別人である。また日本でも、明治12(1879)年7月1日に「日米約書布告」が太政大臣・三条実美の名前で公布された。  
ヨーロッパ諸国との改税条約談判  
外務卿・寺島宗則は明治11(1878)年2月初旬、太政大臣の許可の下、イギリス・フランス・ベルギー・ドイツ・オランダ・ロシア・オーストリア・イタリアの各国駐在公使達に向け、正式な訓状と内達を送り、  
条約重修に於いて、海関収税の権を我が政府の手に収握すべきの要旨は、別紙訓状に委細その意を悉し(しっし、=良く説明し)てある。これが我が政府の締盟各国政府に対し要求する所の第一眼目だから、訓状に付した各書類をも通覧され、よくその条理と事実とを詳らかにし、任国政府に照知し、我が政府主意の所在を明示し、その意に協同して重修の談判に着手する事を請うべし。  
と、海関収税の権、即ち関税自主権の回復へ向けた談判開始を命じた。また同時にイギリス公使・ハリー・パークス宛に、条約改正の正式談判を開始すべく別紙訓状の如く駐英公使・上野景範に命ずるので、本国へも通知してもらいたいとの書翰も出し、公然と各国政府との交渉を明言した。  
この様にして夫々の任地の日本公使達は各国政府と交渉を開始したが、例えば、ロシアは独自外交を基本に反応し、フランスはイギリスの出方も窺い、ドイツは国内自由旅行権を問題にしと、夫々の立場の違いがあった。  
特にイギリスは、日本政府が保護貿易に急傾斜する事を極端に恐れると共に、日本がアメリカと合意した改税条約に密約があるのではないかと疑い、日本駐在公使・ハリー・パークスから届くネガティブな種々の報告に困惑の体さえあったようだ。明治11(1878)年11月7日付けの駐英公使・上野景範から外務卿・寺島宗則宛の報告書翰いわく、  
当国の外務卿輔に於いてはあくまでも自由貿易の主義に固着し・・・喋々(ちょうちょう、=口数の多い事)保護税法の非なるを弁論相成り、・・・保護税法に類するの件は一切承諾いたし難しとの事にこれあり。もっとも右談判中、今回日本政府が条約改正を要求するは、国費の不足を補うが為に海関税を増加するの目的にあらずして、保護税法を設用せんとする主義なれば、甚だ遺憾なりと繰り返し弁明これあり。・・・サー・ハリー・パークス氏よりの報告書の中に、日本政府の財政の不始末と条約改正に付き、日本政府の主義は不適当なるを詳らかに申越し相成り、右等を以て、実際に主任の者(筆者注:英国外務省の担当者)は、その取極め方に甚だ困却する旨、内話(ないわ、=非公式な話)これあり候。また今度、米国政府と吉田公使調印致し候条約書は、・・・当外務省に於いては日本政府はこの条約改正に臨み、米政府と別に特別なる内密条約を為したるにはあらざるかと疑念が相生じ候趣にて、・・・聊か(いささか)気色(きしょく)に触れ候(=不快に思う)模様に見受け候。・・・今度の条約改正の条件は大蔵卿よりサー・ハリー・パークス氏へ縷々談判相成り、あらあら同氏に於いては同意の趣に承知致し居り候所、このごろ同公使より当国外務卿へ宛てたる内報告書に依れば、実に意外の事にて、税額を増加せんとするは薩摩騒乱の費用を補わんが為にして、既にそれが為には巨万の紙幣発行相成りたり。また大蔵卿大隈氏の説に依れば、日本政府の主意は保護税を行う事なりしに、今保護法を行わんと英政府に請求するは、我を欺きたる処分にして、万一保護法の日本に行わるるに於いては、商法の衰退を来たすは論を待たず。且つ日本に於いては、現に国家の理財を管する人といえども経済の道には甚だ迂闊なるを以て、保護税法、自由貿易の如何なる結果を来たらすかを知る者無し。かくの如き不熟練の人に税権を取り捨てするの権を勝手に相任せば、将来恐るべき患害を招くに至らん。且つ日本には未だ充分の議院もこれなきを以て、一切政治上の変換取り捨ては僅かに廟堂二三大臣の権に属し、朝政暮変実に定まりなき政府なれば、これに通商統括の権を掌握せしめばその危篤甚大なりとす云々。頻りに我が政府を罵言(ばげん、=ののしる)し、慨嘆に耐え申さず候。同公使の条約改正事件に付き妨害を為すは、右等の事によってもご推知これ有りたく候。  
この様に報告し、イギリス政府の保護貿易への強い警戒や日本がアメリカと締結した改税条約への猜疑心、更に、パークス公使自身も日本政府に対する非難や悪口を報告し、明白に妨害工作を行っていると記述している。  
当時このハリー・パークス公使の妻は健康を害し里帰りをしていたが、パークスは里帰り中の妻に頻繁に手紙を書いている。その中にこの条約改正についても触れている箇所があるが、1879(明治12)年1月5日付では、  
アメリカは日本と条約に調印しました―これはとんでもない条約です!、他の国々が似たような条約に合意するまでは発効しないという一カ条により、自国が不利に落ち入らぬように守っていて、他の一カ国である我が国は、当然そんな条約には調印などしません。彼等アメリカ人は、完全に日本人の手に任せ切っているのです。アメリカ人の目的は勿論見え透いていて、アメリカ人は日本人に、アメリカは日本のためを思っていると思い込ませ、若し調印が出来なければ、それは特にイギリスやフランスといった国々の反対のせいだと思わせたいのです。  
2月14日にもまたこれに触れて、  
(個々の固定税額の交渉を日本が拒否している)阻害要因は、アメリカとの新条約のせいです。アメリカは日本の全ての要求を受け入れましたが、他の全ての国が合意したら、と云う条件付です。アメリカは、他の全条約国が合意する事などはないと良く知りながら調印し、従って自分たちはどんな危険も冒さず日本の言う通りにすると云う、全く偽りの条約を調印したのです。しかし日本にとっては、関税に自由裁量権を与えるといったアメリカとの条約の手前、それとは全く反対の、関税を固定し、それが他の国々との条約によって拘束されると云う様なものに合意するなどの事は、当然難しい事です。  
今回日本政府が改税権を回復しようと一生懸命に交渉している、「江戸協約」とも呼ばれる慶応2(1866)年5月13日調印の「改税約書十二カ条及び運上目録」は、当時イギリス政府の命令で、赴任したばかりのこのハリー・パークス公使が中心になり、軍事力を背景に日本に押し付けたものだ。その個々の税額を交渉するのなら兎も角も、日本とアメリカが調印した改税条約は、改税権自体をそっくり日本に渡すもので、イギリス政府にとっても、ハリー・パークスにとっても全く受け入れる事など出来なかったのだ。更にこれは、日本の自主権を認めないものであることも、良く知っての上のことだったのだ。  
ヨーロッパ各国との改税談判の決裂  
改税交渉のやり方で駆け引きがあり、開催場所での駆け引きがあったが、つまるところは、日本は改税権の奪回が主目的であり、ヨーロッパ各国、特にイギリスはその保護貿易への危険性を憂慮した。またハリー・パークス公使は日本の後進性を理由に大反対をしている。ハリー・パークスから妻に宛てた7月28日付けの手紙に、  
当地の状況は、仕事の方向性が定まりません。コレラが流行し、グラント将軍(筆者注:アメリカ前大統領)の世界漫遊旅行の立ち寄りに日本人はすっかり心を奪われ、改税条約交渉など何処かへ行ってしまったようです。しかし我が政府は、日本政府からの現実的な提案を要求していますが、日本からはまだ出されていません。そんな提案が出された時は検討のために母国に送付されますが、その時は私も帰国しソールスベリー卿とどう対処すべきか相談できるように提案する積りです。  
と書くように、パークスは1879(明治12)年7月15日、寺島外務卿に宛て、「日本政府が各国と共同交渉に向けた草案を提出するまでは、英国政府は交渉に応じない」旨の通告を出した。ここで云う草案とは、日本側が個別税額の提案をする事だがしかし、外務卿・寺島宗則の方針、すなわち税権回復は当初から明確に表明されているから、イギリスの言う個別税額交渉とはどこまで行っても平行線である。  
確かに、大量のアヘンを横浜に持ち込み日本税関に摘発された横浜在留のイギリス商人・ジョーン・ハートレーが、明治11(1878)年2月のイギリス領事裁判で、持ち込んだアヘンは医療用だとの理由付けで無罪になったり、翌明治12年7月にコレラ隔離のため神戸港外に停泊させていたドイツ船・ヘスペリア号が神戸から横浜に向かったが、日本側の防疫規則で横須賀の長浦港に隔離停船させられた事を不服とし、自国軍艦同伴で横浜へ強硬入港を企てたりと、日本の主権を無視する事件が発生し、大いに国民の議論を掻き立てた。改税だけでなく不平等条約自体を改正しなければ、全く意味がないと云うものだ。  
この様な外交上のゴタゴタの矢面に立った寺島宗則に国内の意見も大きく影響はしただろうが、基本的に平行線になってしまった日本外交とヨーロッパ諸国、特にイギリス外交とは相容れず、外務卿・寺島宗則の辞職以外の決着がなくなった。明治12年9月に寺島宗則のあとを継いだ外務卿・井上馨は森有礼を駐英公使にし更なる条約改正に努力したが、終に成功は無かった。この様な経緯で、当然アメリカと締結した改税条約も第10条を満足せず、幻の条約になってしまったのだ。
16、グラント将軍の世界周遊と日本立寄り、琉球所属問題 

 

南北戦争時と大統領時のグラント将軍  
日本に善意を示したグラント大統領  
ユリシーズ・S・グラント将軍は南北戦争の英雄であり、その人気をもってアメリカ合衆国の大統領を1869年から1877年までの2期、8年にわたり務めた人である。グラント大統領時代には、明治4(1871)年秋にサンフランシスコに到着し翌年1月ワシントンを訪れた、日本からの特命全権大使・岩倉具視に率いられた視察団を大歓迎している。日本の国書を受け取ったグラント大統領は岩倉具視に、  
閣下が奉命する、公法に基づく条約改正の交渉は我輩の喜びであり、両国間の貿易方法の修正は重要で、望むところでもあり、国交の増進は決して怠ってはならず、真実この美事に賛成するところである。  
と言ったほどに、日本の条約改正を支持し歓迎した人である。これはグラント大統領の外交基本方針にもよるものだが、こうしたアメリカ政府の支持表明に意を強くした岩倉具視の条約改正の試みは、「11、岩倉使節団(米国)」の中の「大統領会見と条約改定交渉」に書いた通りだった。しかし残念ながら、日本側が多国間に渉る交渉の困難さを知り、これを実現できなかったものだ。  
それから4年半後のグラント大統領の第2期目、すなわち明治9(1876)年6月、当時の外務卿・寺島宗則からの指示で、駐米特命全権公使・吉田清成がフィッシュ国務長官と日本が関税自主権を回復する改税条約交渉を開始した。これは、ヘイズ新大統領になった明治11(1878)年7月25日、エヴァーツ新国務長官との間で「吉田・エヴァーツ条約」とも呼ばれる新改税条約として調印に成功した。この経緯は、その「吉田・エヴァーツ条約」に書いた通りだった。  
この様に日本に対し非常に友好的で公正だったグラント将軍は、大統領を辞めるとすぐ2年をかけた世界周遊旅行に出発し、ヨーロッパから中東、アジアと廻り、清国訪問の後日本に到着した。勿論日本では大歓迎を受け、日光など地方にも足を延ばしたが、そんな当時の日本をめぐる外交問題の一つ、琉球所属問題とグラント将軍の日本滞在について書いてみる。本題に入る前に、グラント将軍の南北戦争時代と大統領時代について簡単に触れる。  
グラント将軍の南北戦争時代  
南北戦争と呼ばれる4年間も続いたアメリカ合衆国の内戦は、折に触れて書いているが、例えばこの内戦中は、アメリカの日本に対する外交方針も大きく変わらざるを得なかった事情は、「6、薩英戦争と下関戦争」の中の「鎖港議論と鎖港交渉使節の派遣」に書いた通りだった。  
オハイオ州で1822年に生まれたグラントは、ウエスト・ポイント陸軍士官学校を1843年に卒業後、セントルイス第4歩兵師団少尉に任官した。テキサスの所属を巡って勃発した1846年から1848年のアメリカ・メキシコ戦争に参戦し、リオ・グランデ川からメキシコを攻め、後に大統領にもなるザカリー・テイラー将軍の下で兵站部少尉として活躍した。この時には、テイラー将軍から多くの事を学んだという。その後スコット将軍の指揮下でメキシコ・シティーの戦いでも活躍し、軍功により中尉に昇進した。この時アメリカ軍は首都・メキシコ・シティーを占領し、アメリカ・メキシコ戦争に決着を付ける重要要素になった。終戦後は各地に勤務し、1854年に大尉として勤務したカリフォルニアを最後に退役し、セントルイスへ帰った。  
しかし南北戦争が始まると、1861年に大佐に任命され義勇兵を組織し、准将に任ぜられ、第21イリノイ州義勇兵・歩兵連隊長になった。そしてジョーン・フリモント少将により、作戦上の要所の一つ、ミシシッピー川とオハイオ川の合流地点・カイロ地区の布陣を任された。このミシシッピー川の30km程下流には南軍の陣地もある、要所の一つだった。引き続く幾つかの戦闘で勝利したグラントは、1863年リンカーン大統領により義勇軍少将に任じられた。しかしこんな各地の戦闘では、勿論グラントも成功ばかりではなかった。前線の責任分担で降格にも当たる部署を与えられたグラントは、退役を考える所にまで追い詰められた時もあったようだ。この頃から大酒飲みの習慣も増え、海軍がニューオルリーンズを制圧し、1863年にグラント軍が南軍の主要ルートのミシシッピー川を北から南まで制圧する頃には、リンカーン大統領にまで大酒飲みの報告が上がる事もあったようである。  
南軍の主要補給ルートのミシシッピー川が北軍の制圧下に置かれる頃から、戦況が少しずつ変わり始めた。直ぐ下に書くゲティスバーグの戦いに次ぐ多くの戦死者を出したチカモーガの戦いの後、1863年10月、リンカーン大統領は北軍に新しくオハイオ連隊、テネシー連隊、カンバーランド連隊を統合したミシシッピー師団を組織し、グラントに指揮を任せ、南軍を重点的に北と西から追い詰める構図になった。グラント指揮のミシシッピー師団は侵攻の速度を緩めず、1863年11月南軍の重要拠点、テネシー州のチャタヌガを陥落した。更にシャーマン将軍に引き継がれたこの師団は南軍の主要拠点の一つ・ジョージア州に侵入し、1864年9月中心都市・アトランタを陥落し、そのまま大西洋岸のサヴァンナにまで到達した。  
同じ頃また北部では1863年7月に、南北戦争最大の決戦になったゲティスバーグの戦いがあり、南北両軍の死傷者が、3日間で5万1千人にものぼるという一大消耗戦を戦った。それは銃弾の飛び回る戦場を突撃するという白兵戦だったが、そのあまりに犠牲者の多い凄惨な戦に、その年の11月19日、ゲティスバーグの戦闘が展開された丘に大きな墓地を作り、追悼の会が模様された。ここで来賓として招かれたリンカーン大統領が、2分間ほどだったと言われる非常に短いものだったが、後に最高の演説と称えられる「ゲティスバーグ演説」を行っている。  
このように、ミシシッピー川を制圧し、チャタヌガを陥落し、南軍の中心地・ジョージアにまで攻め入った北軍ミシシッピー師団侵攻の中心を担ったグラントの功績が賞賛され、1864年3月リンカーン大統領により陸軍中将に任ぜられ、北軍総司令官に任ぜられた。この陸軍中将という位は、アメリカの陸軍歴史上、ジョージ・ワシントン将軍に次ぐ2人目のものだったという。首都・ワシントンに居を移したグラントはリンカーン大統領と作戦を協議し、更なる攻撃力増強のため輸送路の鉄道の整備・延長を続け、電信網を延長し、補給物資の供給体制を経済面からも確立し、総合戦闘能力の更なる拡充に努めた。それまでにもリンカーン大統領は、早くから鉄道と電信の重要性を悟り、ホワイトハウス内にも直接電信を引き込み、鉄道輸送網と電信網を南軍の10倍もの速さで拡充し、これを政府と軍隊の統制下に置いて来たが、更なる総合補給・通信網が完成して行った。  
南軍はその首都をヴァージニア州のリッチモンドに据えていたから、北軍の首都・ワシントンからは150km程南である。こんな背景で、最終的に南軍の総司令官・ロバート・リー将軍と北軍総司令官・ユリシーズ・グラント将軍の直接対決戦になったのだ。それまでほぼ互角に戦ったように見える南軍も、徐々に武器や補給物資の補充、兵士の徴兵補充に窮して来た。義勇兵の募集や機動力、通信能力、武器や補給物資調達とその輸送能力ではるかに勝る北軍は優勢に立ち、南軍の首都・リッチモンドに迫った。南軍のリー将軍のリッチモンドからの退却要請で、デービス南部連合国大統領や閣僚は汽車で脱出し退却を図り、翌4月3日、首都・リッチモンドは陥落した。リー将軍も何とかリッチモンドを脱出したが、グラント自身がリーを追討し、間もなくリッチモンドの西100km程にあるバージニア州アポマトックスで北軍に包囲され、孤立した。  
1865年4月7日付けのグラントからリーへ降伏を求める書翰には、次のように書いてある。いわく、  
1865年4月7日  
将軍、先週の戦闘結果で、この戦における北ヴァージニア陸軍一分隊の更なる抵抗は望みがなくなった事実を、貴殿ははっきりと悟ったはずである。本官もそう感ずるので、それに関する本官の義務として、南部連合国陸軍中の”北ヴァージニア陸軍”として知られる一部隊の降伏を求める事により、更なる流血の惨事を避ける方向に進みたいと考える。  
R.E.リー将軍へ  
U.S.グラント中将  
グラントからリーに宛てたこの降伏を勧める書翰を受け入れ、4月9日、終に南軍総司令官・リーは北軍総司令官・グラントに降伏した。この時グラントは、武器は没収したが、南軍兵士に必要に応じた個人用の馬と食料を与えて帰省させるという、人道的で寛大な処置を取った。南部深くジョージア州まで逃れたジェファーソン・デービス南部連合大統領と閣僚は、5月5日最後の閣議で南部連合国の閉国を決め、デービス自身は10日に北軍に逮捕された。こうして、4年にも渡る南北戦争に一応の決着を付けたグラントは、1866年7月25日、陸軍大将に昇進した。これが、終生「将軍」と呼ばれるゆえんである。  
グラント将軍の大統領時代  
このページの最初の節に「日本に善意を示したグラント大統領」という題をつけたが、その中で岩倉具視に伝えた「閣下が奉命する、公法に基づく条約改正の交渉は我輩の喜びであり・・・」と云う言葉は、実際には単に善意と言うだけでなく、グラント大統領の外交基本方針であったことを指摘しておく必要がある。グラント将軍が大統領に選出され、その1869年3月4日の就任演説の中で、外交方針について次のよに述べている。いわく、  
外交方針については、衡平法(こうへいほう)が個人同士お互いの公正な振舞い方を求めると同様に、国家間でも公正に振る舞い、何処であれ国民の権利が危うくなったり、あるいは、我が国の国旗がたなびく所である限り、アメリカ生まれ外国生まれに関わらず、法律を遵守する我が国民を保護します。私は全ての国々の権利を尊重し、我が国に対しても、同様に尊重する事を要求します。若し如何なる国といえども我が国に対しこの原則から逸脱すれば、我が国も同様に彼等に対処せざるを得ません。  
この様に、独立国家がお互いの権利を尊重し「公正、公平無私、偏見のなさ」で交流する事を外交の基本方針にしていたわけだから、新興国の日本といえども、その例外にはしなかったのだ。この道徳律に基づく衡平法は、イギリスで発展しアメリカもその伝統を法体系の基礎にしたのだが、当時の日本に対するアメリカとイギリスの態度は、水と油ほどの違いがある。アメリカの後進国に対する正義ある公正な態度に対し、イギリスは東洋の後進国で、自分達の利益のみの追求が多かったわけだ。  
グラント将軍は国民の盛大な人気に支えられ大統領に就任し、就任式当日は、それを祝う8個師団にも上る陸軍軍隊の行進があったという。筆者にとって当時の1個師団が何人で構成されたか定かではないが、歩兵・騎兵・砲兵・工兵や輜重兵など1万人と見ても、8万人規模の軍隊行進だったわけだ。就任当初、その期待と人気の高さが分かる数字だ。大統領としての第1期目には、疲弊した南部のより一層の復興、アメリカ・インディアンの処遇、黒人に投票権を与える憲法修正第15条などが、解決すべき大きな問題点だった。  
グラント将軍は2期に渡り大統領を努めたから、流動的な政治上の駆け引きの中でも、第2期に向けても当初、それなりの支持があったと見るべきだろう。しかし第1期の初めとは違い、かなりの非難、中傷もあったようだ。1873年3月4日の就任演説の最後をこう締め括っている。いわく、  
私はどんな階級も地位も欲しいとは言わなかったし、どんな外部の影響も受けず、影響力の強い知人達とかかわって来なかったが、国家の存続そのものに関わる脅威に対しては、私の責務を果たすべく解決策を見つけてきた。私はどんな昇進や命令を請う事なく、どんな党派や個人に対する復讐心を抱く事無く、義務を忠実に果たしてきた。それにもかかわらず、戦争中も、1868年の大統領職の候補だった時から今回の選挙期間を通じても、政治史の中にかってなかったほどの罵倒と誹謗を受けて来たが、今日、国民の皆さんの評決による無罪の判決が下された事により、全てを忘れ去る事ができ、私が汚名回復・天下晴れての身になれたことを感謝します。  
こう述べている事からも、その厳しい現実を読み取る事ができる。  
アメリカ政府は南北戦争が終わるとその復興に資金を投入し、民間資金も動員され、西部に向かって土地開発やそれに関わる鉄道網の急速な新設・発展があった。製鉄所はフル回転し、鉄道建設から派生する各種ビジネスが繁栄したが、しかし同時に投機的な資金投入も急拡大し、需要を大きく上回る設備投資になってしまった。今流に言えば、「鉄道バブルの崩壊」だっただろう。このバブル崩壊に至るまでには勿論、いわゆる「アメリカン・ドリーム」を実現し、大金持ちになった人達も居たわけだ。  
しかし、こんな過剰投資がアメリカ国内で急激な景気減速を招き、同時期にヨーロッパで起った急速な景気後退も影響し、終に1873年9月、アメリカの2大銀行が破綻しニューヨーク株式取引所の10日間の臨時閉鎖という経済パニックが起り、4分の1にも当たる鉄道会社が倒産し、多くの個人ビジネスも破産し、その後6年にも渡る長期経済不況に突入した。経済学者が指摘するようなグラント政権の対策にも問題があったようだが、こんな経済状況の急変がグラント大統領の2期目の足をすくう大きな要因の1つとなった。更にこれに輪をかけた政府内のスキャンダルも次々と発覚し、自身では3期目の大統領職にも意欲的であったがしかし、同じ共和党のラザフォード・ヘイズに破れ、ヘイズが新大統領に当選した。 
グラント将軍の世界周遊  
世界周遊の旅に出発  
グラント将軍はラザフォード・ヘイズ大統領が就任した後、1877年5月17日フィラデルフィアを出航し、世界周遊の旅に出発した。フィラデルフィアから船でデラウェア川を下り、大西洋を渡り、リヴァプールからロンドンに向かった。これは、出発に際し当時のエヴァーツ国務長官が各国駐在アメリカ公使宛てに出したその年の5月23日付け公式書翰を見ると、前大統領であり、かつ南北戦争を終結し国家再統一への勝利に導いたグラント将軍への特別な対応であった事がよく分かる。いわく、  
諸君、前合衆国大統領、ユリシーズ・S・グラント将軍は今月17日、フィラデルフィアからリヴァプールに向け出航しました。  
ルートや旅行地域、また外国滞在期間はこの出発時点では決まっていませんが、その旅行目的は、この国のために、軍務と公務とで16年間にも渡る絶え間ない献身的な努力の後に、数ヶ月の休養と保養をしっかり取るという事です。  
公職を離れた後に訪れた全国各地の人々からの、グラント将軍に対する例の如く熱烈な敬意と尊敬を表明する時や、そしてまた、退職直後からヨーロッパへ出発する直前まで、公衆の前に姿を見せる時は、いつも、国民から将軍へ感謝の気持ちが高まるのが常に良く分かります。  
こんな一般市民の感情を最大限共有し、同時に現大統領の望みにもより、その国を訪ねる時は、将軍の旅が快適なものとなるよう、アメリカ政府外交官や領事官たちの協力を願うものです。諸君は本省の希望に先立って、政府の全職員から共和国の市民一人に至るまで、広く公務上も個人的にも非常に名声の高い将軍へ、多くの人々からの充分な配慮や敬意を示すべく、愛国的な悦びがあろう事とすでに確信しています。  
当時グラント将軍の大統領という公務では、政治上、経済運営上に多くの困難があり、また政府内のスキャンダルも幾つか指摘され人気を落としたが、総じて見れば、こんな風に国務長官の公式文書にも滲み出る、ある種の全国的な「感慨深さ」とも呼べる気持ちがあった事も事実だった。これは勿論、旧北軍地域を中心にしたものの見方ではあるが、この1877年という年はちょうど独立後100年を経過し、次のバイ・センテニアル・二百年祭に向かい踏み出す年だったから、よくも合衆国が二つに割れず、ここまで乗り越えたものだという気持ちだったのだろう。かく言う筆者も、次のバイ・センテニアル・二百年祭を現地で自分の目で見ているから、そんな気持ちが良く分かる気がする。しかし、現在でも深南部の田舎の白人たちの中には、北部の人達を「ヤンキー」と言って嫌う人達が居る事もまた事実である。  
ヨーロッパから日本へ向かう  
ロンドンからベルギー、スイスと廻り、また英国内のグラスゴー、バーミンガム等にも寄り、ドーバー海峡を渡りフランスのパリに来た。当時のフランスは第三共和政になって間もまくで、将軍でもあったマクマオン大統領と下院の主導権争いというフランス政界のゴタゴタに巻き込まれ利用されないようにと、その訪問タイミングを3ヶ月もずらすなど、個人的な旅行とはいえ、アメリカの前共和党大統領で将軍でもあるグラントの側にも苦労があったようだ。  
ニース郊外から、アメリカ政府がグラント将軍専用に用意した地中海艦隊所属のヴァンダリア号に乗り、地中海諸島巡りと、エジプトに向け出発した。初代のヴァンダリア号はペリー提督と共に日本に来た帆走軍艦(6百トン)だが、この第2代のヴァンダリア号はスクリュー推進の蒸気軍艦(2千トン)である。  
その後またギリシャを通りイタリヤのローマ、フローレンス、ベニス、ミラノを訪れた。更にまた北上し、オランダ、ドイツ、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、ロシア、オーストリアと廻った。スペイン、ポルトガルにも行き、引き返して、客船でスエズ運河を通りインドのボンベイ(現ムンバイ)に出たが、フィラデルフィア出発から既に1年9ヶ月が経っていた。  
インドを出るとマラッカ海峡を通過し、シャム(現タイ)に寄り、コーチン・チャイナ(現ベトナム)に寄り、清国に向かった。マカオから香港、広東、天津、北京を訪問したが、この時の清国皇帝は1875年に3歳で帝位についた、当時まだ7歳という幼少の愛新覚羅載湉(さいてん)・光緒帝だった。光緒帝はあまりの幼年で、基本的には個人旅行の名目から、グラント将軍はあえて面会を請わなかったようだ。  
こんな状況だったから、当時軍機大臣だった恭親王(愛新覚羅奕訢(えききん)、咸豊帝の弟、グラント一行はPrince Kungと呼ぶ)が皇帝の代理として接待に当たった。ここで恭親王は、天津の直隷総督兼北洋通商大臣・李鴻章(グラント一行はViceroy、Li Hung Changと呼ぶ)からの強い要請により、日本と清国との間にある「琉球所属問題」を持ち出し大いに弁舌をふるったが、これは改めて下に記述する。  
長崎到着と歓迎  
北京を出発したグラント将軍一行は天津から蒸気軍艦・リッチモンド号(2600トン)に乗り日本に向かった。この軍艦は1860年に進水した木造軍艦だったが、グラント将軍と同じく南北戦争に参戦し、南軍の拠点ニューオーリンズを海から制圧する海軍砲撃作戦に参加して北軍が勝利し、同じ頃、北からグラント指揮の陸軍がミシシッピー川を制圧した事と合わせ、南軍の生命線で重要な輸送路・ミシシッピー川全域を北軍の制御下においた。そんな南北戦争の「戦友」とでも呼べる軍艦で、当時はアメリカ海軍・アジア水域の旗艦だった。  
1879(明治12)年6月21日、軍艦・リッチモンド号は長崎に入港したが、そこにはグラント将軍を国賓として出迎えるための日本側の代表者たち、天皇の名代・伊達宗城(むねなり)やアメリカ駐在公使・吉田清成を始め多くの人々が居たし、アメリカの日本駐在・ビンガム公使、長崎駐在・マンガム領事を始め長崎在留の外国人たちが居た。旧宇和島藩主だった伊達宗城は当時政界から引退していたが、外国からの賓客を接待する任務を務める立場にあった人だ。また吉田清成は1874年からアメリカ駐在公使として日米外交に関わって来たから、グラント将軍とはその大統領時代からの旧知の間柄で、吉田清成がアメリカと締結した改税条約は、グラント大統領時代に本交渉が開始されていたものだ。また、アメリカのビンガム公使は長く下院議員を務めたが、1872年に落選の憂き目にあい、当時のグラント大統領がビンガムを日本駐在公使に任命した経緯があった。  
長崎での6月23日の公式歓迎夕食会の席上、長崎県令・内海忠勝がグラント将軍の歓迎の意を表し健康を祝す乾杯の後、グラントは日本や東洋諸国に対するアメリカの基本姿勢について短い演説をした。これは既に上述したグラント大統領の第1期目の就任演説でも明らかだが、アメリカは日本も含めた諸外国と公正な関係を築くというものであった通り、日本とも常に公正な友好関係を築く努力をしてきたし、近年の素晴らしい日本の発展もあり、こんな関係の永続を願うという主旨のものだった。  
長崎では学校や博覧会場を訪れ、名勝地や旧跡や寺院を訪れ、市民の大歓迎を受けた。長崎から横浜に向かう航海は、その途中瀬戸内海を通過し兵庫・大阪を経由するものだったが、兵庫・大阪地方にはコレラが蔓延し多くの死者がでているとの情報が入った。兵庫港に着いても上陸できず、当初の計画に反し、大阪や京都の訪問を諦めざるを得なかった。しかし7月2日、横浜への航海の途中で駿河湾内に入り、10人ほどで静岡に上陸し街中を見学した。茶屋に寄ったり、寺でお茶に呼ばれたり、食事をふるまわれたりと、一時の散策を楽しんだようだ。  
横浜上陸と歓迎  
グラント将軍の乗った軍艦・リッチモンド号は、日本の軍艦に先導され、7月3日の朝に横浜港に入った。横浜港にいた多くの各国の軍艦からは将軍歓迎の祝砲が放たれ、リッチモンド号は日本国旗を掲げ、国旗に敬意を表する祝砲を撃った。恒例の到着歓迎のため、日本や外国軍艦の艦長たちがリッチモンドを訪れ、アメリカのヴァン・ブーレン総領事も訪れた。グラント将軍は天皇の名代・伊達宗城、アメリカのビンガム公使、吉田清成駐米公使、その他多くの海軍将官に伴われハシケに乗り移り、祝砲や各国軍艦からの登舷礼が行われ、アメリカ国歌が演奏される中で横浜に上陸した。そこには日本政府の高官が出迎えていたが、かねてからグラント大統領とは顔見知りの右大臣・岩倉具視が先ず進み出てグラント将軍と握手し、歓迎の意を表した。その他、当時の内務卿・伊藤博文、榎本武揚、外務卿・寺島宗成などの重鎮が出迎え、特別列車が待っている蒸気鉄道・横浜駅に向かった。  
こうして東京に着いたグラント将軍を街中が歓声をあげて迎え、政府の国賓として、明治2年に浜離宮に建てた西洋風石造りの延遼館がその宿所として提供された。翌日4日午後、グラント将軍夫妻、同行の子息・グラント大佐と書記・ヤングが明治天皇と謁見した。この謁見にはビンガム公使や東洋艦隊司令長官なども随行したが、謁見に際し明治天皇は勅語として次の如く述べた。いわく、  
久しく貴名を聞き居りしが、今親しく面会し、欣喜の至りなり。又かって大統領お勤め中は我が国人に対し別段のご交誼に預かり、殊に岩倉大使参向の節は種々ご歓接を蒙りたり。右等貴君の日本交際に付き特別なるご厚志は、永く記憶いたし居り候。この度は世界一周の壮遊をお催しにて、当国へもご来臨相成り、上下一般歓喜いたし居り候。緩々ご逗留にてご遊覧あられよ。  
今日は貴国独立の期日に当たり候よし、この日に於いて初面会を遂げ、右の歓を申し候は、別して目出度き事に存じ候。  
これに対しグラント将軍は、  
陛下、本日私をここに歓迎して頂き、また日本到着以来、貴国政府及び国民の皆様から私が受けた大いなる親切心に、非常なる喜びを感じております。この様な貴国の歓待の中に、我が国に対する友好の情が良く見て取れます。この様な友情の念は合衆国からも発揮され、党派に関係なく、日本に関するあらゆる出来事に最大なる関心を抱き、日本の繁栄を心から願っている事を申し上げます。そんな心持をお伝えできる事を嬉しく思います。アメリカは貴国の隣人であり、日本の進歩発展の努力に常に共感し、支持を致します。ここに改めて陛下の手厚いおもてなしに感謝し、陛下の末永く幸福なる在位を祈念し、また日本国の繁栄と独立を祈念致します。  
明治天皇が親しく、立ったまま西洋流に外国要人と面会するのは恐らく初めてだったろうから、グラント一行は、ぎこちなく振舞う天皇を見ている。しかし、皇后もグラント婦人にねぎらいの声をかけているから、その会見は西洋流の作法に則って行われたようだ。  
天皇との非公式会談  
7月17日になるとグラント一行は日光に向け出発し、31日に延遼館に帰った。明治天皇とグラント将軍が公式に会見した後、天皇は非公式な個人会談の機会を望み、8月10日、その会見がグラントの滞在する浜離宮内にある中島茶屋で実現した。天皇自ら浜離宮まで出かけたわけだが、天皇から日本国についての意見を求められたグラントは、次の如く述べた。  
第一に農業改善や国民の進歩について詳しく理解でき、更なる発展を願うと述べた。かって黒田清隆の主宰する開拓使時代に、お雇いとして日本に来たホーレス・ケプロンは、このグラント将軍の大統領時代にその下で農務局長を勤めていたが、1871年7月その職を辞して来日したから、グラントはそんな経緯を通じ、日本農業の発展を注意深く見守っていたようだ。次に西欧諸国の官吏は利己主義に執着し、清や日本の国権を尊重せず、切歯扼腕に耐えないと述べた。更に立法権を付与した議会の創設について日本国内の議論が盛んだが、国民の理解が向上するまで急がず、立法権を付与しない顧問議会から始め、慎重に行うべきだと述べた。また、返す当ても無く外債を発行し借金する事は、厳に慎むべきである。現在の日本の外債は小額で、償還期限前にでも返せるものは返した方が国益になろうと云う意見だった。  
グラントは話を進め、支那の恭親王や李鴻章との会談で話題となった琉球問題についての話に移った。グラントの基本的立場は、個人旅行であり、外交官でもなく、どんな政府の権限も持ち合わせていないがしかし、平和の維持と云う観点から無視する事もできない。琉球所属に関する日本側と清側の主張も聞いたが、清側は先般の日本の台湾出兵に鑑み、日本は琉球を領有し再度台湾を占領し、清国が太平洋に出る道を閉鎖しようとの思惑があるのではと危惧している。日本が更に清国と対話し、相手の心情を察し、寛大な心で一歩を譲る事ができれば穏和な解決に繋がろう。断言するわけには行かないが、自分の理解では、琉球諸島を分割し太平洋に出る道を開いてやる事が解決に繋がろうと、解決の一案を示した。この問題の重要点は、双方の譲歩で解決する事が最も大切で、日清2カ国以外の諸外国の干渉は絶対に避ける必要があると付け加えた。  
グラントは更に話を進め、日本人は皆利発で勤勉に働き、工業も起っているが、税金が高く貯蓄が薄い。現行の、輸入税が5%などという低すぎる税率を規定した関税条約があるうちは、国内産業発展の足かせになる。また輸出品への課税はむしろ国益に反するとの意見を述べた。貿易を制御する権利ほど重要なものはないと述べ、貿易の繁栄により地租税を軽減でき、地租税軽減が農業繁栄と国力向上につながる重要点だと述べた。又学校の設置や学制は西洋に決して劣っていないとの認識を示した。同席した太政大臣・三条実美は、日本は清国に対し最友好国としての気持ちを持っているが、尊厳を傷つけることなく友好関係を保持したいと答えている。この琉球所属に関する日本側と清側の主張については、改めて以下に述べる。  
この後8月12日、グラント将軍一行は箱根山裾の宮ノ下温泉に向かい、16日には三島で静岡県主宰の歓迎昼食会に臨み、日光以外の地方にまで足を伸ばしている。2ヶ月以上に亘る日本訪問を終えたグラント将軍一行は、9月3日横浜を発ち、サンフランシスコ経由で帰国した。  
クララ・ホイットニーの見た、日本でのグラント将軍  
グラント将軍が日本に着いたころ、クララ・ホイットニーという、ほぼ20才になろうとする若いアメリカ人女性が東京に居た。この人は後に、勝海舟と長崎女性・梶玖磨との子供、梶梅太郎と結婚する人である。クララの父・ウィリアム・ホイットニーは、森有礼が、会頭・渋沢栄一の主宰する東京会議所の援助で設立する「商法講習所」(筆者注:後の一橋大学)の初代教師としてアメリカから招かれた人だ。クララは日本に来てから長く日記をつけていたが、その中に出て来るグラント将軍の描写を略記する。  
グラント将軍が明治天皇と公式に会見した翌日の7月5日、東京や横浜の在日アメリカ人が、3年ばかり前に出来た上野の精養軒でグラント歓迎会を開いた。クララ一家はその席に招待されたが、そこで初めて会ったグラント夫妻をこう描写している。いわく、  
間もなく静かになり、「あそこに見えたわ!」というささやきと共に、集まった人達が将軍一行が通れるよう道を明けた。最初に将軍とグラント婦人が現れ、姿を見た楽団員が国家の演奏を始めた。ヘップバーン博士と婦人が続き、その後にマッカティー博士と婦人が続いて入ってきた。ビンガム判事(筆者注:公使)と令嬢、ワッソン婦人、H・S・ヴァン・ブーレン将軍(筆者注:総領事)、デニソン領事、その他多くの人が続いていた。そして私達が次々と前に進み出て、将軍に紹介された。シモンズ博士がママを紹介し、森さんが私を紹介した。この時、私の敬愛する国の前大統領閣下に初めて会った私の気持ちは特別だった。将軍は親切に私の手を取り、優しい言葉で「はじめまして、ウィットニーさん」と言われた。私は顔を上げて将軍の青い瞳と正直そうな日焼けした顔を見ると、その上には輝かしい星条旗が掲げてあり、自国への誇りと、自分はアメリカ人だと云う感謝の気持ちがこみ上げてきた!。私の敬愛する国の恥になるような行為は、決してしません。将軍はがっしりした体つきで、そんなに背は高くなく、ヒゲを生やした正直そうな顔つきで、戸外や旅行に出て日に焼け、優しそうな青い瞳の、暖かく友好的なしぐさで、肖像画から想像できる通りの人だった。グラント婦人は非常にでっぷりし、軽い斜視で、私はむしろガッカリさせられたが、にこやかな笑みを造り、本当に賢明で親切そうだった。  
8月18日の日付けでこんな記述もある。いわく、  
今朝は早くから、幾つもの用事に出かけた。先ず永田町の洗濯屋に寄って、最近テーブル掛けやシーツなどの仕上げが悪いと苦情を言い、そこから築地に回った。先ずアメリカ大使館に行き客間で待つと、ビンガム婦人が優しく優雅に微笑みながら出でこられた。私のごく親しい友人と、その涼しく、日陰で、静かな客間から離れ難くて、2時間近くも長居をしてきた。2人でいろいろな事を話したが、主にコレラとグラント将軍の事だった。ビンガム婦人が言うには、グラント将軍暗殺の噂は、全く根も葉もないことだと云う。判事(筆者注:公使)宛てに非常に侮辱的な手紙が来た事は確かだった。その中で匿名の人物が、将軍や、彼等が「お追従者」と呼ぶ、ワシントン駐在の吉田公使や、その他の高官を罵っていた。更にその中で、将軍の滞在費が既に15万ドルもの国民負担となり、もうこれ以上我慢ならない。彼等は、無数のアメリカ国旗が提灯や扇子やなにやらに描かれたのを見ると、怒りを抑えられないと書いてあった。判事はこの手紙を見るとすぐ、外務卿・寺島氏に手渡したが、寺島氏は、同様な通牒を受け、すでに信用できる警官を派遣し、忌まわしい脅迫犯人はイギリス人!だった事を突き止めたと、個人的に伝えてきた。しかし政府は既に、命を狙われた人達の保護に幾重にも手を廻している。グラント将軍は今月の27日か28日には帰国の予定だ。ビンガム婦人は、アメリカ政府の首長には、ヘイズ氏より将軍の方が適していると思っておられる。若しまたグラント氏が大統領になるのなら、あの大酒飲みは止めて欲しい。  
この様に日本で大歓迎を受けるグラント将軍を、陰で面白く思わない外国人、特にイギリス人が大勢居た様だ。上述のように、グラント将軍は日本を対等な隣人として扱ったから、利益追求に走るイギリス商人の不満の矛先が向けられたのだろう。
グラント将軍と琉球所属問題  
日本と清国間の琉球問題―清国側の主張―  
グラント将軍一行が北京で恭親王に会った時、天津の直隷総督・李鴻章の要請により、恭親王が「琉球所属問題」を持ち出し大いに弁舌をふるった事は、上で少し触れた。李鴻章はこれ以降も、直隷総督兼北洋通商大臣として積極的に外交に関わり、いわゆる満州・女真族の打ち建てた清国朝廷を支え、本来の外交を統括する機関・総理各国事務衙門(がもん)に取って代わってゆくわけだが、これから日本にも行くグラント将軍に、抜け目無く先回りをし自国の主張を伝え、日本政府や天皇にばかりでなく世界にも伝わる事を期待したのだ。  
この時はすでに、日清間の条約・日清修好条規が明治4(1871)年7月29日に締結されていたわけだが、当時の大蔵卿・伊達宗城と李鴻章のこの条約交渉中に出て来た、日本側提案による「先島諸島の割譲」を李鴻章が拒否したという経緯があったから、そこに接続する琉球所属問題は、清国から見ても重要な課題だったのだ。まして日本政府の琉球処分強硬策に抗しきれなくなると、琉球から清国へ密使が派遣され、琉球王国崩壊とその主権侵害を阻止するため外交的援助を要請して来ていたから、李鴻章にとってグラント将軍の訪問は大きなチャンスだった。  
恭親王は、琉球は何世代にも渡り宗主国・支那の従属国であり、支那から冊封使が送られ、琉球からは入貢があり、現在の清王朝だけでなくその前の明王朝でもそうだった。しかし琉球王は日本本土に連れて行かれ、退位させられ、独立国は消えてしまった。これは国際法上の違法行為で、日本政府は、日本の北京駐在公使や清の東京駐在公使を通じての話し合いにも応じない。清の東京駐在公使などは怒りのあまり、辞任を申出ている程だと伝えた。これは清国にとって深刻な問題であり、我が皇帝への侮辱であり、我が主権の侵害であり、もはや忍耐も限界に達し、干戈に訴える道しか残っていない。天津で李鴻章からもグラント将軍に話した通り、この解決にぜひ将軍の力を借りたいと述べた。  
この様な話を聞いたグラント将軍は、自分は一個人の旅行者でどんな政府権限をも持ち合わせていない。恐らく日本でも日本の主張がある事は疑いないが、故意に清国に被害を与えようとしているとも思えない。自分は清国側の主張を聞いたから、日本の主張も聞いてみたい。その上で、自分に出来る事があったら平和のために尽くしたい、と答えている。そして、自身が大統領であった時に解決した、イギリスとアメリカの間に発生した損害賠償解決の事例を、国際問題解決策の一例として話した。  
この損害賠償の事例と云うのは、これまで数ヶ所で触れているが、アメリカの南北戦争中に、公式には局外中立を宣言していたイギリス国内の造船所で、南軍向けに強力な軍艦を造り秘密裏に南軍に売った、軍艦・アラバマ号に関するものである。南軍はこのアラバマ号や類似の英国から購入した軍艦を使い、海上で北軍の商船を襲い、大被害を与え恐れられた。これを容認できない当時のスーワード国務長官が、局外中立を宣言したイギリスのこの不法行為を英国内の法廷に告訴し、損害賠償を求めたものだった。しかしその後長期に渡りイギリスは無視していたが、1871年にアメリカと条約を結び、スイスのジュネーブで5カ国からの5人の裁定者によりこの争議を調停しようと合意し、その結果、1872年に英国が謝罪し、アメリカに金貨・1千550万ドルの支払いをする調停案を受け入れ解決したと云うものだ。  
この様に李鴻章は、グラント将軍の清国訪問を好機と捉え、グラント将軍の日本への影響力に期待したわけだ。そしてグラント将軍が東京に着くと、恭親王は駐日清国公使に命じ、グラントに支那側の詳細事実を直接伝え、説明させた。いわく、  
支那は琉球王が即位すると、適任者であれば、正使・副使を派遣し勅論と法令を授ける事を常として来た。琉球からの貢献は隔年一回、硫黄・銅・銀・鉛を贈り、福建州経由で北京に送って来た。また琉球からの留学生を北京の大学に受け入れて来た。この制度は西暦1649年から続き、支那の公式記録に載っている。琉球が支那に接触して来たのは隋朝の時で、明の洪武年間から入貢し、諸島を併せ琉球国と名づけ、王を中山王と称し、尚の姓を贈り、福建人36族をその国に入れ国の改進を助けさせた。それ以来この関係は今に至るまで継続している。琉球が西暦1854年にアメリカと、55年にフランスと、59年にオランダと条約を締結したが、その文章や暦法は全て清の法によっている。しかしその後、日本は強制的に、1872年に琉球王を日本の藩王(筆者注:藩主)に任じ、外国交際の事務を全て日本国・外務省に取り上げ、1874年琉球を内務省の管轄に移し、琉球人民の多くの嘆願も聞かず、琉球から清への入貢も禁じてしまった。  
この様に、清国側の論理とその正当性、すなわち日本の違法性を説明させた。  
日本と清国間の琉球問題―日本側の主張―  
前述の明治天皇との非公式会談でグラントが話した琉球問題への忠告に先立って、グラント一行が日光を訪れていた7月22日、内務卿・伊藤博文と陸軍卿・西郷従道がグラントを訪問し、琉球所属に関する日本側の見解を細かく述べていた。いわく、  
日本は千年来、琉球を管治し、琉球諸島を南島あるいは沖縄と呼んで来た。日本の古史に寄れば、琉球人は日本国に来朝し入貢した事実が載っている。元明天皇の時・西暦707年に琉球人に位階を授け物を贈り、元正天皇の時・715年にも琉球人が来朝し、735年に日本政府が琉球に碑を建て、地理・里程・港口・食水の所在を示した。また南島は大宰府の管理に属し、その地方の産物・赤木を献じた事が載っている。西暦1156年、源為朝という者が伊豆の大島に流されたが、近海の航海で多くの島々を発見し、琉球に来て王族の娘を娶り、一子をもうけたが、これが後の舜天王である。舜天王の後継は三代で絶えたが200年後に王統を回復し、今王・尚泰はこの血脈である。琉球は日本の「いろは」に相当する四十八文字を使用し、日本特有の神道を信仰している。西暦1841年将軍が薩摩藩主に琉球を賜って以来、今に至るまで薩摩に属している。その間に琉球は日本に臣礼を失したため、将軍の命により島津氏がこれを討伐し、琉球王を捉え、十五ヶ条を定めて誓書を出させ、これを遵奉させた。  
更に続けて、それ以降、明治政府になって定めた日本国内の統制に基づく一連の琉球処分の経過を説明した。そして、琉球はこの様に一旦薩摩に降伏し誓書を出しながら、支那貿易をしたいため、支那に向かっては薩摩に降伏していない独立国を公言していたのだと断じた。この薩摩に降伏し誓書を出した以降も薩摩藩が統治してきた事実により琉球は独立国ではなく、だから、琉球御用船が暴風で遭難し殺害された台湾の牡丹社事件では、日本が出兵したのだ。支那政府が琉球はその従属国あるいは独立国だという主張は受け入れられない、と説明した。  
グラント曰く、この件はアメリカのビンガム公使に委ねるが、近年の日本の発展は驚嘆すべきものがあり、軍備や陸海軍の整備が進み、清国は日本の敵ではない。従ってこの琉球問題は、日本がより高所からの配慮が出来る面があろうと述べた。続けて、今回の世界周遊でよく分かったが、ヨーロッパ各国の意図は、日本や清を従属国にしたいと思っている。この旅行で東洋に入り、シャムや支那や日本でその意図が明白に見え、血が煮えくり返る程の怒りを感じた。シャムや支那ではアヘンを売りつけられ、一般人を奴隷にすると等しいような犯罪が行われているし、日本ではつい先日も、検疫で日本側に隔離されたドイツ商船(筆者注:ヘスペリア号)をドイツが自国軍艦(筆者注:砲艦・ウルフ号)を送って開放させるのを見た(筆者注:1879年7月15日、この会見の7日前に横浜で起った)。そんな事は、どんな国もアメリカに対しては絶対しない事だ。琉球問題がこじれ、万が一日本と清の間に戦争が起きれば、それはすなわち、ヨーロッパ列強の思う壺である。グラントは、このように自身の観察を通じた意見を述べ、諸外国の介入こそ避けねばならないと強調した。そして、とにかく日清の和親保全が今日の急務であり、互いに一歩を譲り紛議を解決できることを望む、と結んだ。  
琉球所属問題のその後の展開  
このグラント将軍の忠告を受け、その後日清両国政府の平和解決を模索する対話が再開されている。グラントは帰国後、この日本側の主張内容を清国宛に書簡として送ったようだが、翌1880(明治13)年8月から開始された北京に於ける外交交渉で、度重なる折衝で合意が形成され、台湾に近い宮古島と八重山列島以南を清国へ割譲し、沖縄本島とそれ以北を日本領とする、いわゆる「琉球分割条項」が出来上がり、調印の約束がなされた。この報告に接した外務卿・井上馨は、  
グラント氏の互譲の説を施行する場合と相成り、誠に以て両国人民の幸福を維持するは、野生(筆者注:自分)に於いて本懐、この事に御座候。  
と清国駐在・宍戸公使宛てに書き、必ず国内から、領土の割譲に等しいとの異論が出て、自分はその攻撃を直接受ける事は必然だが、それでよいと書き送ったほどだった。  
しかしこれは、それまで繰り返し必死に琉球王国存続を日本へ嘆願し、行き詰まると今度は清国にその救済を嘆願し続ける琉球愛国の人々には、国を分断するこの妥協案は受け入れられないものだった。何にも増して、それは主権侵害そのものと映ったのだろう。その必死の抗議活動は李鴻章にも影響を与え、ついに清国の政界を動かし、琉球分割の条約調印の延期にまで持ち込んだのだ。  
この頃、1871年に回教徒の反乱に乗じロシアが占領した清国・新疆(しんきょう)の伊犂(イリ)地方をめぐり、清とロシアが争っていた事件に解決の糸口が見えはじめ、琉球問題で日本とロシアが提携し清に敵対する危険が減少したと清が感じたことも影響したようだという。突然に清国側から、北洋大臣・李鴻章と南洋大臣・劉坤一の再審議が必要だから、約束した調印を延期する、との公式書翰が来た。この時日本側との交渉窓口は総理衙門だったが、実力者・李鴻章の調印反対に、総理衙門が抗し切れなかったもののようだ。日本側は交渉に先立って、総理衙門代表者・事務王大臣の「全権委任状あり」と言う口頭確認だけで済まし、書面の照合をしなかったと、11月18日付けの機密信で宍戸公使が井上外務卿に報告している。結果的にこれは、調印権限の無い総理衙門代表者と話を進めていた事になる。  
これは一方で、引き続き琉球所属問題が宙に浮く事になり、その後なお日清双方で話し合い決着の努力が有ったと聞くが、日清戦争にまで持ち越され、1895年に下関で結ばれた日清戦争講和条約で初めて国境が画定される事になって行く。  
 
ツュンベリーの記録 / 江戸参府随行記

 

この人物はスウェーデンの医学や植物学の学者で、1743年生まれ。リンネなどに師事して医学博士となりました。オランダ船の船医となって世界一周旅行をし、1775年8月に長崎に着いて、その翌年オランダ商館長フェイトの侍医という名目で江戸参府旅行に随行し、その年の3月4日(日本暦の一月)に江戸に向け出発し、6月30日に長崎に戻りました。品川着が4月27日で、江戸発が5月25日ですから、ほぼ一ヶ月江戸に滞在したことになります。また、往路に二ヶ月近く、帰路は一月強かかっていたことがわかります。ツュンベリーはその年の12月に長崎を離れ、のちに旅行記を書いて出版しました。この旅行記の中では、日本に関する部分がいちばん資料的に充実しているといわれます。それは、日本人が提供する資料がそれだけ多く、きちんとしていた事を意味しています。そのため、江戸中期の日本人の様子が、じつによくわかるのです。その日本篇の翻訳が、ツュンベリー(高橋文訳)『江戸参府随行記』平凡社東洋文庫(1994)です。有名な本なので、ご存じの方が多いと思いますが、参考になる記述がたくさんありますので、【日本人の長所】を述べている部分をピックアップしてみます。 
「地球上の三大部分に居住する民族のなかで、日本人は第一級の民族に値し、ヨーロッパ人に比肩するものである。・・・その国民性の随所にみられる堅実さ、法の執行や職務の遂行にみられる不変性、有益さを追求しかつ促進しようという国民のたゆまざる熱意、そして百を超すその他の事柄に関し、我々は驚嘆せざるを得ない。・・・また法の執行は力に訴えることなく、かつその人物の身上に関係なく行われるということ、政府は独裁的でもなく、また情実に傾かないこと、・・・飢餓と飢饉はほとんど知られておらず、あってもごく稀であること、等々、これらすべては信じがたいほどであり、多くの(ヨーロッパの)人々にとっては理解にさえ苦しむほどであるが、これはまさしく事実であり、最大の注目をひくに値する。私は日本国民について、あるがままを記述するようにつとめ、おおげさにその長所をほめたり、ことさらその欠点をあげつらったりはしなかった。」 
「このように極端な検査(長崎での持ち物検査)が行われるようになった原因は、オランダ人自身にある。・・・原因にはその上に、数人の愚かな士官が軽率にも日本人に示した無礼な反発、軽蔑、笑いや蔑みといった高慢な態度があげられよう。それによって、日本人はオランダ人に対して憎悪と軽蔑の念を抱くようになり・・・その検閲はより入念により厳格になってきた」(長崎のオランダ人は、奴隷をたくさん連れてきてこき使っていて素行が悪く、密輸などやりたい放題で、そのため日本側は反感を持ち、必死で検査をしていたという話です) 
「日本は一夫一婦制である。また中国のように夫人を家に閉じこめておくようなことはなく、男性と同席したり自由に外出することができるので、路上や家のなかでこの国の女性を観察することは、私にとって難しいことではなかった」(これは長崎から江戸までどの地方でも同じだったらしいです。江戸時代から明治初期に日本に来た外国人は、日本の女性がシナや朝鮮の女性とはまったく違う扱い――つまり奴隷ではない扱い――を受けていることに驚いた記録を残しています。とくに朝鮮との違いに驚いたらしいです) 
「そこでは宿の主人から、かつて私が世界のいくつかの場所で遇されてきたより以上に、親切で慇懃なあつかいを受けた」 
「この国の道路は一年中良好な状態であり、広く、かつ排水の溝をそなえている。・・・上りの旅をする者は左側を、下りの旅をする者は(上りから見て)右側を行く。つまり旅人がすれ違うさいに、一方がもう一方を不安がらせたり、邪魔したり、または害を与えたりすることがないよう、配慮が及んでいるのである。このような状況は、本来は開化されているヨーロッパでより必要なものであろう。ヨーロッパでは道を旅する人は行儀をわきまえず、気配りを欠くことがしばしばある。・・・さらに道路をもっと快適にするために、道の両側に灌木がよく植えられている」(これが、最初に出てくる、江戸への往路での交通規則の記録です。左側通行が明記されています。この習慣または制度は、いつごろからのものなのでしょうか) 
「里程を示す杭が至る所に立てられ、どれほどの距離を旅したかを示すのみならず、道がどのように続いているかを記している。この種の杭は道路の分岐点にも立っており、旅する者がそう道に迷うようなことはない。このような状況に、私は驚嘆の眼を瞠った。野蛮とは言わぬまでも、少なくとも洗練されてはいないと我々が考えている国民が、ことごとく理にかなった考えや、すぐれた規則に従っている様子を見せてくれるのである。一方、開化されているヨーロッパでは、旅人の移動や便宜をはかるほとんどの施設が、まだ多くの場所においてまったく不十分なのである。ここでは、自慢も無駄も華美もなく、すべてが有益な目標をめざしている。それはどの里程標にも、それを立てさせたその地方の領主の名前がないことからもわかる。そんなものは旅人にとって何の役にも立たない」 
「(瀬戸内を船で通ったときの描写)投錨するとかならず、日本人はしきりに陸に上がって入浴したがった。この国民は絶えず清潔を心がけており、家でも旅先でも自分の体を洗わずに過ごす日はない」 
「注目すべきことに、この国ではどこでも子供をむち打つことはほとんどない。子供に対する禁止や不平の言葉は滅多に聞かれないし、家庭でも船でも子供を打つ、叩く、殴るといったことはほとんどなかった。まったく嘆かわしいことに、もっと教養があって洗練されているはずの民族に、そうした行為がよく見られる。学校では子供たち全員が、非常に高い声で一緒に本を読む。・・・」 
「海岸に臨みかつ国のほぼ中央に位置した大阪は、地の利を得て国の最大の貿易都市の一つになっている。国中のあらゆる地方からあらゆる物が信じ難いほど大量に供給されるので、ここでは食料品類が安く購入でき、また富裕な画家や商人が当地に住みついている」 
「その国のきれいさと快適さにおいて、かつてこんなにも気持ち良い旅ができたのはオランダ以外にはなかった。また人口の豊かさ、よく開墾された土地の様子は、言葉では言い尽くせないほどである。国中見渡す限り、道の両側には肥沃な田畑以外の何物もない」 
「(大阪から京都への道の感想)私はここで、ほとんど種蒔きを終えていた耕地に一本の雑草すら見つけることができなかった。それはどの地方でも同様であった。・・・農夫がすべての雑草を入念に摘みとっているのである。雑草と同様に柵もまたこの国ではほとんど見られず、この点では名状し難いほどに幸運なる国である」(ツュンベリーは植物学者でもあるので、雑草の種類に注意を払っており、こういう感想が出たらしい。また柵云々とは、ヨーロッパではその地その地の領主たちが、防衛のために柵で農地や領地を囲うために、農民を苦役する伝統があり、それとの比較をしたらしい。話は飛びますが、幕末から明治にかけて来日した欧米人は、日本の家屋にカギらしいカギが無いのに泥棒などの事件がほとんど起こっていない事に驚く記事をたくさん書いています。飛脚がたった一人で現金を運んでいても、事故はほとんど起こらなかったらしいです) 
「天皇は町なかに自分の宮廷と城を有し、特別な一区画のように濠と石壁をめぐらし、そこだけでも立派な町をなしている。・・・軍の大将である将軍は、最高権力を奪取した後もなお、天皇には最大の敬意を表していた」 
「そして国のアカデミーのように、印刷物はすべて天皇の宮廷にだけ保管されるので、すべての本はまた当地の印刷機で印刷されるのである」(これは京都での印象で、すこし誤解があるのだろう) 
「(江戸について二人の医師と接触して)二人とも言い表せないほどにうちとけ、進んで協力し、学ぶことに熱中した。そして前任者にはなかった知識を私が持っていたことから、次々と質問を浴びせてきた。・・・彼らの熱心さに疲れ切ってしまうことがよくあったが、彼らと一緒に楽しくかつ有益な多くの時を過ごしたことは否めない」(これらの日本人から、植物の標本などを入手したらしい) 
「日本のすべての町には、火災やその他の事故に備えて行き届いた配慮がなされている。寝ずの番をする十分な数の確かな見張り番が、あらゆる地点に置かれており、暗くなると夕方早々から外を廻りはじめる」 
「江戸の家屋はその他の点では、他の町と同じく屋根瓦で覆われた二階屋であり、その二階に住むことはほとんどない」 
「私はまた、日本の魚類についての彩色図を載せた、大きな四つ折りの二巻からなる印刷本も買うことができた。これは、この国で出版された最高に美しい本の一つであり、その図はヨーロッパで素晴らしい賛辞を得るに違いないと思えるほどに、うまく彫版で印刷され、かつきれいに彩色されている」 
「(一行のなかの)日本人は自分たちの通常の食事様式を守っていた。一日三回食事をし、そしてたいていは魚と葱を入れて煮た味噌汁を食べる」 
「鳥通りという通りにいる多数の鳥類を見た。あらゆる地域からここへ集められたものであり、有料で見せたり、また販売したりしている。町中にはまた、かなり上手に造られた庭園があり、温室はないがいろいろな種類の植物、樹木、そして灌木がある。それらは他からここへ運ばれ、手入れされ、栽培され、そしてまた販売もされている。ここで私は使えるかぎりの金で、鉢植えのごく珍しい灌木や樹木を選んで購入することにした」(この購入植物は、アムステルダムの植物園にまで送られたらしい) 
「(日本人の)国民性は賢明にして思慮深く、自由であり、従順にして礼儀正しく、好奇心に富み、勤勉で器用、節約家にして酒は飲まず、清潔好き、善良で友情に厚く、率直にして公正、正直にして誠実、疑い深く、迷信深く、高慢であるが寛容であり、悪に容赦なく、勇敢にして不屈である」 
「日本人を野蛮と称する民族のなかに入れることはできない。いや、むしろ最も礼儀をわきまえた民族といえよう」 
「自由は日本人の生命である。それは、我儘や放縦へと流れることなく、法律に準拠した自由である」 
「日本人は、オランダ人の非人間的な奴隷売買や不当な奴隷の扱いをきらい、憎悪を抱いている。身分の高低を問わず、法律によって自由と権利は守られており・・・」(日本人が自由だという事と、法律の適用が身分によらず公正という事がよほど印象的だったらしく、数回記されている) 
「この国民の好奇心の強さは、他の多くの民族と同様に旺盛である。彼らはヨーロッパ人が持ってきた物や所有している物ならなんでも、じっくりと熟視する。そしてあらゆる事柄について知りたがり、オランダ人に尋ねる。それはしばしば苦痛を覚えるほどである」 
「この国民は必要にして有益な場合、その器用さと発明心を発揮する。そして勤勉さにおいて、日本人は大半の民族に群を抜いている。彼らの銅や金属製品は見事で、木製品はきれいで長持ちする。その十分に鍛えられた刀剣と優美な漆器は、これまでに生み出し得た他のあらゆる製品を凌駕するものである。農夫が自分の土地にかける熱心さと、そのすぐれた耕作に費やす労苦は、信じがたいほど大きい」 
「節約は日本では最も尊重されることである。それは将軍の宮殿だろうと粗末な小屋のなかだろうと、変わらず愛すべき美徳なのである」 
「またこんなにも人口の多い国でありながら、どこにも生活困窮者や乞食はほとんどいない。一般大衆は富に対して貪欲でも強欲でもなく、また常に大食いや大酒飲みに対して嫌悪を抱く」 
「清潔さは、彼らの身体や衣服、家、飲食物、容器等から一目瞭然である。彼らが風呂に入って身体を洗うのは、週一回などというものではなく、毎日熱い湯に入るのである」(この清潔好きと風呂好きも、相当印象的だったらしい) 
「日本人の親切なことと善良なる気質については、私はいろいろな例について驚きをもって見ることがしばしばあった」 
「国民は大変に寛容でしかも善良である。やさしさや親切をもってすれば、国民を指導し動かすことができるが、脅迫や頑固さをもって彼らを動かすことはまったくできない」 
「正義は広く国中で遵守されている。・・・裁判所ではいつも正義が守られ、訴えは迅速にかつ策略なしに裁決される。有罪については、どこにも釈明の余地はないし、人物によって左右されることもない。また慈悲を願い出る者はいない」(他の国々を知っている当時のヨーロッパ人にとって、身分の上下によらない日本の裁判の公正さは驚くべきものだったらしい) 
「(外国人に対しても)・・・いったん契約が結ばれれば、ヨーロッパ人自身がその原因をつくらない限り、取り消されたり、一字といえども変更されたりすることはない」 
「正直と忠実は、国中に見られる。そしてこの国ほど盗みの少ない国はほとんどないであろう。強奪はまったくない。窃盗はごく稀に耳にするだけである。それでヨーロッパ人は幕府への旅の間も、まったく安心して自分が携帯している荷物にほとんど注意を払わない」(その後の二百数十年の間に、外国人が激増し、それとともに、凶悪な犯罪が増えてしまったようです) 
「国民の内裏に対する尊敬の念は、神そのものに対する崇敬の念に近い」 
「道路は広く、かつ極めて保存状態が良い。そしてこの国では、旅人は通常、駕籠にのるか徒歩なので、道路が車輪で傷つくことはない。そのさい、旅人や通行人は常に道の左側を行くという良くできた規則がつくられている。その結果、大小の旅の集団が出会っても、一方がもう一方を邪魔することなく互いにうまく通り過ぎるのである。この規則は、他に身勝手な国々にとって大いに注目に値する。なにせそれらの国では、地方のみならず都市の公道においても、毎年、年齢性別を問わず――とくに老人や子供は――軽率なる平和破壊者の乗り物にひかれたり、ぶつけられてひっくり返り、身体に損害を負うのが珍しいことではないのだから」(これが二度目の左側通行の説明です。歩く人全員が左側通行を守っているようです。ここでは「規則」という言葉を使っています。何らかの文章になった規則があったのか、それともそのように奨励されていたのでしょうか) 
「刃は比類ないほどに良質で、特に古いものは値打ちがある。それはヨーロッパで有名なスペインの刃を、遙かに凌ぐものである」 
「私は、神道信奉者らが祭日や他の日にどのような心境でこの社にやってくるかということが漸次わかってきたが、そのさい非常に驚くことが多かった。彼らは何かの汚れがある時は、決して己れの神社に近付かない」 
「なかでもこの国の二、三の寺社は特に注目されており、あたかもイスラム教徒がいつもメッカを訪ねるように、国のあらゆる地方からそこへ向けて遍路の旅が行われる。特に伊勢神宮はその一つであり、この国最古の神、すなわち天の最高の神天照大神を祭っている、社は国中で最も古くかつ最もみすぼらしく、今ではいろいろ手を尽くしても修復できないほどに古びて朽ちている。なかには鏡が一つあるだけであり、まわりの壁には白い紙片がかけられている。・・・老若男女を問わずすべての信者は、少なくとも一生に一度はここへの旅をする義務があり、そして多くの信者は毎年ここに来る」(ツュンベリーの旅は式年遷宮の六年後なので、それほど古くなっていたとは思えない。伝聞による記述かもしれない。白い紙片とは紙垂のこと) 
「寺社の聖職者以外にも二、三の異なる聖職がある。なかでも盲目の聖職は最も特殊なものの一つと言えよう。それは盲人だけからなっており、他には類を見ないものであるが、国中にある」(盲人がどくとくの権利をもっていたことも江戸時代の特色で、だからこそ塙保己一のような盲目の大学者も出たわけです) 
「この国の男性が娶れる婦人は一人だけで、何人も娶ることはない。夫人は自由に外出できるし、人々の仲間にはいることもできる。隣国のように隔離された部屋に閉じこめられていることはない」(隣国とはシナのことらしい) 
「国史は、他のほとんどの国より確かなものであろうとされ、家政学とともに誰彼の区別なくあらゆる人々によって学ばれる」(いまの教育よりずっと良かったですね) 
「法学についても広範囲な研究はなされていない。こんなにも法令集が薄っぺらで、裁判官の数が少ない国はない。法解釈や弁護士といった概念はまったくない。それにもかかわらず、法が人の身分によって左右されず、一方的な意図や権力によることなく、確実に遂行されている国は他にない。法律は厳しいが手続きは簡潔である」(おそらくツュンベリーは、江戸の警察組織については知らなかったのでしょう。もし調べていたら、人口に対してあまりにも警察官の数が少なく、にもかかわらず犯罪の少ないことに驚いたでしょう) 
「測量術については、かなり詳しい。したがって一般的な国とそれぞれの町に関する正確な地図を持っている。一般的な国の地図の他に、私は江戸、都、大阪、長崎の地図を見た。さらにたいへんな危険をおかして、禁制品であるそれらを国外へ持ち出すこともできた」 
「子供たちに読み書きを教える公の学校が、何か所かに設けられている」(江戸時代の日本人の識字率は世界最高だったと言われています。今も最高です) 
「工芸は国をあげて非常に盛んである。工芸品のいくつかは完璧なまでに仕上がっており、ヨーロッパの芸術品を凌駕している」 
「紙は国中で大量に製造される。書くという目的の他、印刷、壁紙、ちり紙、衣服、包装用等々であり、その大きさや紙質はまちまちである」 
「日本で製造される漆器製品は、中国やシャム、その他世界のどの製品をも凌駕する」 
「日本人が家で使う家具は、台所や食事のさいに使う物を除けば、他は極めて少ない。しかし衣服その他の必需品は、どの町や村でも、信じられないほど多数の物が商店で売られている」(村でも同様であることを記しています。江戸時代の町人農民の貧しさを強調する人たちに読んでほしい) 
「日本の法律は厳しいものである。そして警察がそれに見合った厳重な警戒をしており、秩序や習慣も十分に守られている。その結果は大いに注目すべきであり、重要なことである。なぜなら日本ほど放埒なことが少ない国は、他にほとんどないからである。さらに人物の如何を問わない。また法律は古くから変わっていない。説明や解釈などなくても、国民は幼時から何をなし何をなさざるかについて、確かな知識を身に付ける。そればかりでなく、高齢者の見本や正しい行動を見ながら成長する」(現在の高齢者よ、昔の高齢者を見習いなさい!) 
「ここでは金銭をもって償う罰金は、正義にも道理にも反するものと見なされる。罰金を支払うことで、金持ちがすべての罰から解放されるのは、あまりにも不合理だと考えているのである」(たしかに!) 
「日中は、寺男が寺院の鐘をついて時刻を知らせる。また、茶屋や宿屋はどこも非常になごやかな雰囲気で、喧嘩や酔っぱらいには滅多にお目にかからない。それに比べて北欧の西部地方は、それらがあまりにも日常的で、まったく恥ずべきことである」 
「当地では犯罪の発生もその処罰も、人口の多い他の国に比して確かにずっと少ないといえよう」(日本の犯罪もついに外国に追い付いてしまいました!) 
「日本では農民が最も有益なる市民とみなされている。このような国では農作物についての報酬や奨励は必要ない。そして日本の農民は、他の国々で農業の発達を今も昔も妨げているさまざまな強制に苦しめられるようなことはない。農民が作物で納める年貢は、たしかに非常大きい。しかしとにかく彼らはスウェーデンの荘園主に比べれば、自由に自分の土地を使える。(スウェーデンの農民が農業以外の苦役に従事しなければならない例をいくつかひいて)日本の農民は、こうしたこと一切から解放されている。彼らは騎兵や兵隊の生活と装備のために生じる障害や困難については、まったく知らない。そんなことを心配する必要は一切ないのだ」 
「農民の根気よい草むしりによって、畑にはまったく雑草がはびこる余地はなく、炯眼なる植物学者ですら農作物の間に未知の草を一本たりとも発見できないのである」 
「日本には外国人が有するその他の物――食物やら衣服やら便利さゆえに必要な他のすべての物――はあり余るほどにあるということは、既に述べたことから十分にお分かりいただけよう。そして他のほとんどの国々において、しばしば多かれ少なかれ、その年の凶作や深刻な飢饉が嘆かれている時でも、人口の多いのにもかかわらず、日本で同じようなことがあったという話はほとんど聞かない」(それでも何回かは飢饉があった――という話がこのあとにありますが、江戸時代の飢饉についての戦後の教育は、あまりにも大げさです。たしかに飢饉の記録はありますが、それは当時の人にとっても異常だったからこそ記録に残されているのであって、その記録の無い期間や無い地方は、ずっと食物は豊富で平穏だったわけです。そういう眼で見ますと、江戸時代は世界の水準に比べて、じつに飢饉が少なかったと言える――と、石川英輔さんはじめ、正統史観の研究者が述べています。板倉聖宣氏は、江戸時代の農民が飢えてなどいなかった事を「物理学の保存則」を使って論理的に証明した有名な学者ですが、その講演を聴いた左翼教師が「お前は江戸時代の農民が可哀想だとは思わないのか」とじつに非科学的な反論をしたそうです) 
「商業は、国内のさまざまな町や港で営まれており、また外国人との間にも営まれる。国内の商取引は繁栄をきわめている。そして関税により制限されたり、多くの特殊な地域間での輸送が断絶されるようなことはなく、すべての点で自由に行われている。どの港も大小の船舶で埋まり、街道は旅人や商品の運搬でひしめき、どの商店も国の隅々から集まる商品でいっぱいである」(ツュンベリーにとって印象的だった江戸中期日本人の実態を表すキーワードには、「身分差別がない」「女性が奴隷ではない」「清潔」「正直」「公正」「勤勉」「節約」「巧みな工芸」「商品が豊富」「犯罪の少なさ」などいろいろありますが、「自由」という言葉も頻繁に出てきます。おそらく、来る前に聞いていたことと反対の自由な日本人の姿を見たのでしょう。下層の農民や上役に仕える武士にすら自由がある、と述べています。この点についても、戦後の教育はおかしいです。たとえば二宮尊徳は農民の出ですが、頼まれて武士階級の指導者になっています。江戸に日本初の私立図書館をつくった小山田与清は、農家の生まれです) 
解説者の感想  
巻末に木村陽二郎という人が解説を書いていますが、そのなかで、次のように言っています。  
「・・・ツュンベリーのこの書を読むと、自分の小学生時代の日本を思い出す。ツュンベリーの時代と私の小学生のころの日本との差は、小学生のころと現在の日本との差よりずっと少ないような気がして、やはり昔がなつかしくなるのである」  
まったく同感です。この本には、日本人の欠点とか、日本の原始的な面とかもいくつかは書かれていますが、それらもすべて含めても、上と同じ感想を持ちます。ツュンベリーは、日本人の一部に見られる素行の悪さが、悪いオランダ人の影響だとしていますが、この60年間に日本人が受けた外国人の悪行は、天文学的な数にのぼります。国内に住む不良外国人も激増してしまいました。自信を失った日本人が悪い影響を受けるのは当然です。 
江戸から明治初期にかけての日本人の記録  
欧米人が当時の日本人をどのように見ていたかの記録を丁寧に調べた本として、渡辺京二『逝きし世の面影(日本近代素描I)』葦書房(1998)があります。この本は、たしか和辻哲郎賞を受賞したはずです。この本の著者は、第一章で述べています。  
「実は一回かぎりの有機的な個性としての文明が滅んだのだった。それは江戸文明とか徳川文明とか俗称されるもので、十八世紀初頭に確立し、十九世紀を通じて存続した古い日本の生活様式である。明治期の高名なジャパノロジスト、チェンバレンに「あのころ――1750年から1850年ごろ――の社会はなんと風変わりな、絵のような社会であったことか」と嘆声を発せしめた特異な文明である」  
江戸時代の日本人に自由が無かったと錯覚している人は、ぜひこの本を読んでほしいと思います。当時のヨーロッパや他のアジア諸国の実情をよく知っているツュンベリーにとって、とても印象的だった江戸中期の日本人の「自由」を再確認することができます。  
 
最後の将軍

 

人物をみていないのに慶喜擁立の執拗さ  
慶喜擁立派の執拗さは、正弘の死をみてもなお絶望せぬことであった。かれらに私心がなく、ただ憂国慷慨の情のみで動いているだけに、反対派はそれをあからさまに難ずることができなかった。幕府内部では少壮の秀才官僚群がことごとく慶喜擁立を支持し、諸大名のほとんどが慶喜に望みをつなぎ、京の公卿、門跡でさえ、「一橋卿が世に立てば」と、ぎょう望した。しかも世間のたれもが、つまり数人をのぞくほか、一橋慶喜という人物を見ていないのである。さらに年端のゆかぬ若者であるために過去に実績があろうはずがなく、むろんその能力を知るに足るほどの著作物もない。  
「英明ニシテスコブル胆略アリ」という噂だけが世間を駐けまわり、世間を踊らせ、下級志士などは慶喜を救国の英雄と見、それを憧憬し、ほとんど狂舞せんばかりであった。これほど奇妙な英雄の作られかたは史上なかったであろう。当の慶喜は、当惑しきっていた。  
「これほどい馬鹿なはなしはない」と、この聡明すぎる若者は、それらのすべてがわかっている。世間は、列強の侵犯を前にして日本滅亡の予感に戦慄している。その危機感や恐怖、憂憤に堪えきれず、これを一個の英雄に肩がわりさせ、すこしでも気を楽にしたいという気持がはたらき、そこで英雄の出現を幻想し、たまたま慶喜を見つけてこれこそそうだと思い、自分のつくった妄想におどりはじめたのであろう。こまる、と思った。  
「たとえおれが征夷大将軍になったとしても何をすることもできない」と、慶事は平岡円四郎に言っていた。  
が、かれの擁立派は頓着せず、ついに窮したあまり、京の朝廷にまで運動した。朝廷から将軍家にむかい、慶喜を立てよ、と勅命をもって指名してもらおうとしたのである。  
むろん、幕府成立以来、そういう前例はない。 
安政の大獄で慶喜は隠居慎  
慶喜の罪も、登城停止からさらに重くなっている。隠居慎であった。  
「なんということだ」慶喜はこの沙汰を受けたときひとことだけ言い、あとは沈黙した。黙さざるをえない。井伊は極端な密偵政治を布き、偵吏が江戸と京に充満しているといってよかった。壁に耳、という諺は、市中のちょぼくれにさえ謡われた。慶喜が刑を受けるにあたって不穏の言葉をひとことでも吐けば、どこをどう伝わって、「すわこそ、御謀叛」と、井伊が待ちかまえたように襲いかかって慶喜を死に追いやってしまうであろう。  
隠居慎という刑は、屋敷全体を牢にするという意味にひとしい。諸門は、閉ざしたままである。慶喜自身は居室で謹慎し、その雨戸はとぎされ、わずかに隙間を五、六センチあけて日光をさし入れる。  
月代を剃ることも不可である。  
「長髪にてごぎあそばさるべし」という幕命のただし書きがある。自然、髪は、市中不如意の浪人体になる。  
平素ならば家来どもが、毎朝次室や廊下にきて御機嫌伺いをするのだが、それも厳禁された。むろん家来どもが外部と接触交通することも停止であり、たとえ地震がおこっても江戸城へ御見舞の使者を出すことさえ禁止事項の一つである。  
慶喜は、二六時中、雨戸の閉まった居室にいる。慎という以上、麻峠を着用していた。端座し、ひたすらに読書するしかない。  
話し相手さえなかった。気に入りの平岡円四郎までがこの大獄に連座し、御役御免差控という刑に処せられていた。 
攘夷論でなかった慶喜に春嶽は落胆  
「世界万国が天地の公道にもとづいて互い好しみを通ずる今日、わが国家のみ鎖国の旧套をまもっていることは不可能である。なるほど掃部頭(井伊直弼)は本来捷夷家でありながら墨夷(アメリカ)の虚喝に腰がくだけ、勅許も待たずして独断調印したのがいまの条約である。不正といえば不正である。しかしこの不正はあくまでも国内の事情であり、相手の国々は関知せぬ。それをいまになって破却すべしということは不信義であり、世界に日本の恥をさらすのみである。破却には必戦の覚悟が要ろう。たとえ勝ったとしてもしょせんは名目なき戦いにて、後世ひとの笑いものになろう。まして敗ければ恥のうわ塗りになる。それをしも、春嶽はなお押すか」  
大久保はおどろき、春嶽様の本意はそこにない、といった。春嶽様は本来開国論者である。しかし京都朝廷とそれを押しあげている西国雄藩、国内世論などを考え、ひとまず攘夷論を立て、人心をなだめ、国論統一をはかった上、「そのあとゆるゆると機を見、策を立て」と大久保が説明すると、「小細工である」と、慶喜は即座にいった。京都朝廷をこそ命がけで説破し、その蒙を啓き、清国の二の舞をせぬようにせねばならぬ、といった。  
この慶喜の説を大久保忠寛からきき、松平春嶽はしばらく言葉もなく沈思した。  
(意外である。かの御人は、攘夷家ではないのか)というおどろきもある。同時に愚物、といわれた不満もつよい。春嶽人となって以来、ひとから才を讃美され、世から賢侯といわれ、家臣から明君といわれてきた。それを嬉しくも思っていないが、愚物とはなんということであろう。  
(あの方は論客であっても、将軍の御器量ではないかもしれぬ)と、春嶽は自分が抱いていた慶喜像を修正せぎるをえなくなった。 
慶喜は容易に将軍にならない  
慶喜は、容易に将軍にならない。  
すでに前将軍家茂は大坂で死んでいる。慶応二年七月二十日である。将軍の死に、幕閣はろうばいした。とりあえず家茂の死を極秘にし、つぎの将軍として慶喜を候補とした。朝廷もそれを当然とし、松平春嶽ら有志大名たちも一も二もなく慶喜を目し、懸命にかれをくどいた。が、当の慶喜は頑としてうけなかった。  
日は、むなしく経ってゆく。  
表むき、将軍はいぜんとして家茂であり、公文書もその名で出されていたが、しかし現実の家茂は、この残暑、大坂城内の奥に安置されている死骸あった。徳川幕府はその死体によって支配されていた。  
「いったい、どうするのか」と、時の天子孝明帝も憂憤された。帝はほとんど病的な保守主義者であり、その点でたれよりも佐幕主義者であり、現行の朝幕体制を熱烈に是認し、掌あってこその是であをと信じておられた。帝にあっては長州藩も朝敵であり、「その朝敵が国もとで割拠して内乱をおこし、そとはそとで列強が環視して隙あらば日本を侵そうとしているときに征夷大将軍が空位であってよいものか」ということであったであろう。  
が、慶喜は、どういうわけか承知しない。  
幕閣としては、他に適当な候補をもたなかった。慣例上継承権をもつ者としては幾人かいる。しかしみな適当ではなかった。江戸の大奥が推戴しようとする田安家の亀之助は幼童であり、田安家当主の慶頼は愚人であり、尾州の徳川慶勝はすでに大名として董が立っている。慶喜のほかいない。そのことは、人事感覚に明敏すぎるほどの慶喜自身がもっともよく知っているはずであるのに、「しかし、私は立たない」と、たれに対しても慶喜はいった。 
多くの敵に囲まれて将軍職に推される  
(これは、断じてことわらねばならぬ)と、ほとんど熱情的におもっていた。慶喜の理性にあっては、現下の情勢がみえすぎるほど見えている。いまさら将軍になってなにになるであろう。  
第一、将軍になればそれを率いて立つべき江戸の幕臣と大奥が慶喜に心服していないことは、たれよりも慶喜白身がよく知っていた。かれらは慶喜に対し逆意をさえもっているようであった。もし慶喜が将軍になれば幕府役人は公然怠業をするであろう。慶喜のあわれさは、それが幕臣だけではなかったことである。慶喜の実家の水戸家でさえ、市川派と称する反烈公主義者たちは、「もし一橋卿が将軍におなりあそばすことがあればわが身があぶない。武力をもってでも阻止せねばならぬ」と放言していた。  
さらにそれ以上のおろかしい事態が京都でおこっている。さきに阿部豊後守(陸奥白河侯)と松前伊豆守(松前侯)のふたりが老中を罷免されたが、両藩の藩士はこれを慶喜のしわぎであるとし、  
「もし一橋卿が将軍になられ、われらがその命に服従せねばならぬことになれば、武士として一日も生きているわけにはいかない。もしそうなれば、卿のお館に討ち入るつもりである」と、京の諸藩公用方のあつまりで公言したということを、慶喜はきいている。古来、これほど敵意をもたれて将軍職に擬せられた者があるであろうか。  
「わしは、将軍の地位に執着などない」と、謀臣原市之進だけには慶喜は語っていた。 
幕府の武力が衰え盟主でなく、千載の賊になることを恐れた  
豊臣秀吉も徳川家康も、その直属の家来をのぞいては、外様大名の君主ではなく盟主であった。諸侯からかつぎあげられて秀吉は関白になり、家康は将軍になり、封建制の頂点にすわった。その「盟主」の勢いがさかんなときには諸侯に対し、一種君主のごとく臨むことができたが、こんにちのように勢いがおとろえ、諸侯に対する統制力が弱くなれば、地金が露われ、所詮は盟主でしかないことがあきらかになる。いま進行中の第二次長州征伐についてもそうであった。薩摩藩は幕府の動員命令に服さず、頑として出兵しようとしない。法理論ふうにいえば将軍の命令は主命ではない。薩摩藩としてはそれをきかずとも忠不忠の問題にはならないのである。これをもってしても、将軍が単に盟主にすぎぬことがわかるであろう。  
(盟主は、武力さかんでなければならない)それが、盟主の原理であった。武力さかんなればこそ、徳川家は三百諸侯を三百年にわたって庄伏しつづけてきた。かれら諸侯は、武力を怖れて属していた。しかしいまはその武力がむざんに衰え、進行中の長州征伐にあっても、わずか三十七万右の一外様藩に、幕軍がさんざん敗れつつある。その戦場からも敗報が到着していた。もはや盟主ではない。その時勢に将軍家を継ぐなどということは、なにごとを意味するかを慶喜は知っていた。  
「千載の賊になることだ」と、慶喜は原市之進にいった。 
突然の長州征伐、胆力なき慶喜  
が、この参内からわずか六日後、慶喜は突如、長州大討込をやめると言いだし、京都政界をぼう然とさせた。  
理由は、わからない。とにかくとりやめであり、しかも何事も正式のすきな慶喜は武家伝奏を通じ、朝廷へ中止の沙汰書を賜わらんことを願い出た。出征宣言が八月五日であり、中止宣言は同月十四日であった。これには孝明帝も激怒された。  
理由は、やがて明瞭になった。進行中の対長州戦争では小倉ロの戦線のみがやや幕軍に有利であったが、それが意外にもこの八月二日、戦勢逆転し、高杉晋作指揮下の長州奇兵隊が幕府例の小倉城下に乱入し、小倉藩はこれをふせぎきれず、城主小笠原豊千代丸はみずから城に火を放って退却し、この戦線を指導していた老中の小笠原長行も幕府軍艦に逃げこみ、戦場を離脱し、長崎経由で兵庫港へ去った。小笠原が京にもどって慶喜に敗戦を報告したのは十二日である。幕軍の足なみそろわず、いまやとうてい長州軍には勝てませぬ、と小笠原は、自分の逃走を正当づけるためもあって、一言一句、悲観にみちた報告をした。慶喜は、「勝てぬか」と何度も念を押した。勝てませぬ、と小笠原はなんども答えた。慶喜の頭脳は回転した。勝てぬとわかっているいくさに出陣するには慶喜はあまりにも明敏な頭脳をもちすぎていた。かつ、家祖家康のような、勝てぬいくさを勝てるようにするほどの剛胆さや実戦経験はない。  
「やめる」といいだしたのは、小笠原長行が辞去した直後である。原市之進ら慶喜の側近はそれを諒とした。たとえ天下に変節漢の恥をさらそうとも征って敗軍の将になるよりはましであった。この小倉口敗戦のためという中止理由は、二条関白に対してもはっきりとそういった。  
「結局は、腰ぬけか」と、在京諸藩の士はおもい、宮廷の佐幕派公卿でさえこれをもって幕府の前途にひそかに見切りをつけた。在京の諸侯のうち、対長州強硬論看であつた京都守護職松平容保などは悲憤し、当初大討込に反対だった松平春嶽も、−世間は、この意外に接して、幕府をどう見るであろう。  
と、憂慮した。春嶽のみるところ、徳川三百年のあいだ、この場合の慶喜ほどの愚行をした男もいないであろう。しかも慶喜は愚人ではなく、家康と吉宗をのぞけば、慶喜ほどの政治的頭脳をもった男もいまい。しかもその教養は、家康と吉宗をはるかにしのぐであろう。しかしながらもっとも愚昧な将軍でさえなさなかった愚行を、慶喜は連続的に演じている。  
つまるところ、あのひとには百の才智があって、ただ一つの胆力もない。胆力がなければ、智謀も才気もしょせんは猿芝居になるにすぎない」といった。 
大政奉還を秘かに望んでいた  
慶喜がこの大政奉還案を知ったのは、後藤らが十分に幕府要人や諸藩の工作をしとげたあとのことであり、大目付の永井尚志からきいた。永井は、勇を鼓してこの動きを申しのべた。が、勇気は無用であった。  
(まさか)と、永井がわが目を疑ったのは、慶喜が実に相違して怒りもせず、取りみだしもせず、むしろ目の色があかるすぎることであった。永井は、次の間で慶喜の感情をおそれ、ひたすらに平伏しつづけている。慶喜はいった。  
「そうか」それだけである。それのみを言い、あとは沈黙した。慶喜は永井にはいわなかったが、この瞬間ほどうれしかったことはなかったであろう。慶喜は、この徳川十五代将軍という、つるぎの刃の上を踏むよりも危険な職に就いていらい、慶喜がつねに自分の逃げ場所として考えてきたのはそのことであった。事態がにっちもさっちもゆかなくなれば、政権という荷物を御所の塀のうちに投げこんで関東へ帰ってしまう。あとは朝廷にてご存分になされ」というせりふさえかれは考えていた。が、この胸奥の秘策は死んだ原市之進に語ったことがあるのみで、慶喜はたれにも洩らしたことがない。  
(さすがは、容堂である)と、慶喜は自分の胸の奥を見ぬいた容堂にひそかに感嘆した。慶喜はこの洞察が、容堂どころか容堂でさえ生涯謁見したことがないかれの藩出身の坂本によってなされたことを知らなかった。  
このあと、容堂の代理者である後藤は精力的な下工作をつづけ、ついに経藩にも半ば賛成させ、ついに正式に幕府に対し大政奉還をすすめる建白書を提出するまでにこぎつけた。この日、慶応三年十月三日である。 
大阪城から逃亡  
適当にあしらうほか慶喜には方法がなかった。やがて奥にひっこみ、板倉と大目付の永井尚志をよび、−江戸へ帰る。  
といった。板倉はおどろいた。いま主戦論でわきかえっている域内でそのようなことがもし洩れれば、慶喜の身はどうなるかわからない。それに、板倉自身がもはや主戦論者であり、このまま帰東することは逃亡と同様ではないか。永井も、不服であった。慶喜は、もはやその幕僚からも孤立していた。この両人をも、だまさねばならなかった。  
「関東に戻って、しかるのち存念がある」と、関東で割拠抗戦する意思があるかのごとくいった。板倉、永井はよろこんだ。となれば、どうあっても慶喜に江戸城に帰ってもらわねばならないが、当面、この城内の沸騰をどうするか。とうてい、この大坂城から脱出することすら不可能ではないか。  
「どうなされまする」「わからぬのか」慶喜は、じれったがった。天保山港(大坂港)には将軍座乗檻の開陽がいる。そこまで身一つでたどりつけば、あとほ錨をあげるだけだ。  
−将士を捨てて。という表情を、板倉はした。しかし慶喜はいった、あれは予の将士ではない、すでに群衆である。慶喜はさらに、「肥後守殿(松平容保)も越中守穀(松平定敬。桑名藩主)も予とともに参られよ」と、かれらを顧み、いった。この会津藩主と桑名藩主を残してゆくのは、危険このうえもない。城内でもっとも昂奮しているのは会津兵と桑名兵であり、かれらは慶喜が去ったあと、容保と定敬を探してこの大坂城に籠城し、京の新政府軍と戦うであろう。それをさせぬためには、両侯を半ば人質として連れ去らねばならない。  
(さて−?)と、板倉は両侯をみた。主君が単身逃走したあと、会津、桑名兵はこの他郷でどうするのであろう。結局は落ちぎるを得ず、それも惨澹たる落去になるにちがいない。  
が、容保とその実弟は、すでに非常のばあいでございます、およばずながら上様のお身をお護りつかまつりたい、といった。この純良すぎる兄弟は、あくまでも慶喜の護身のためについてゆくのだとおもっていた。  
「脱出は、予にまかせよ」慶喜は、こうなれば、−大名育ちとは思えぬほどに機敏であった。すぐ奥を出、ふたたび群臣の詰めている大広間に出た。廊下にも人があふれていて、慶喜にせまり、その袴をとらえんばかりにして陣頭への出馬を切望した。慶喜はついに上段から立ちあがり、「承知した。出陣となれば即刻がよい。さればこれより打って立とう。みな、用意せよ」と叫んだ。満堂どよめき、歓声をあげ、慶喜が奥へひっこむと同時に出戦支度のためどっと室外へとびだし、持ち場持ち場にかけだした。慶喜は奥に入ると、すぐ容保、定敬、それに板倉勝静、さらには大目付や外国総奉行など八、九人を連れだした。みな平服であった。城内を駈けたが、混雑と夜陰のため、たれもそれが自分たちの主将であるとは気づかない。時刻は夜十時ごろである。城の後門からひそかに忍び出た。このとき城門の衛兵が、「たれか」と銃をかまえて誰何した。慶喜はすかさず、「御小姓の交代である」いった。才能というほかない。とっさにこの智恵が出るがために慶喜はひとから権詐紆謀のひとであるといわれるのであろう。ともあれ、慶喜は自軍のすべてをあぎむいた。  
天満八軒家から川舟に乗り、川をくだって天保山沖に出たときはまったくの深夜で、洋上に闇がこめ、幕艦がどこにいるのかわからない。ただ目の前に大き鬼米国軍艦が停泊しているのがわかった。慶喜は、朝までこの軍艦で休もうと言い、交渉方を外国方の者に命じた。米国艦長は、その申し出を快諾し、このおもわぬ訪客のために酒肴を出してもてなした。夜が明けると、開陽艦の所在がわかったので米艦からポートを出してもらい、それへ移乗した。艦はすぐ蒸気をたき、朝もやのなかを出航した。大坂城内で慶喜らの失踪を知ったのはこの時刻であった。  
慶喜は、艦が紀淡海峡を南下しはじめたとき、もはや大丈夫とおもったのであろう、板倉らせ船室によび、はじめて自分の心境と今後の方針をあきらかにした。江戸に帰ったあとは抗戦などせぬ、ひたすらに恭順する、その一事をつらぬく、といったのである。  
(謀られた)と、かれらはおもった。容保、定敬にしてもまわりは海であり、手もとに自分の家来は一兵もおらず、慶喜に圧力をくわえる手段はなにもなかった。  
「肥後守穀、おわかりくだされたな」と、慶喜は念をおした。容保は白い顔を伏せ、卓子を見つめている。しかし慶喜と生死を共にすると平素覚悟している以上、これはうなずかぎるをえないであろ。 
容保らを棄て絶対恭順  
ついで慶喜のとらねばならぬ政略は、絶対恭順であった。他の何ものを犠牲にしてもこのひとすじをつらぬかねばならぬとおもった。慶喜は、現世のなまのあの顔見知りの京都の公卿、大名、策士どもに恭順するのではなく、後世の歴史にむかってひたすらに。恭顆し、賊臭を消し、好感をかちとり、職名をのぞかれんことをねがった。それ以外にあの策士どもと太刀打ちできる手はない。ひたすらに弱者の位置に自分を置こうとした。この国の芝居好きたちは悲劇ずきでとりわけ非運の英雄を愛し、義経を愛し、そのために判官びいきということばすらあるほどであった。慶喜は、その主題に生きようとした。  
その主題をつらぬきつづけるかぎり、世は澎湃として慶喜を判官であるとしつづけるであろう。さらには慶喜が判官であるかぎり薩長は赤っ面の仇役として世間に印象されてくるであろう。それが権謀家としての慶喜の手にのこされた最後の札であった。  
かれはその恭順せまもるためには、容赦なく他をも犠牲にした。かれは幕臣に論告し、「江戸には住むな。知行所のある者はそこに住み、暮らしの道を立てよ」と言い、かれらを当惑させたり、反感をもたせたりした。あわれだったのは、京都以来、慶喜のために犬馬の労をとってきた松平容保、定敬の兄弟であった。かれら会桑両藩主が、朝廷と薩長から憎悪されているところから、これに登城を禁じ、江戸から退去させた。棄てられた、といっていい。容保は会津へ帰り、定敬はその領国の伊勢桑名が官軍の威力範囲内にあるため国へも帰れず、敗残の藩兵をひきい、越後拍崎へ去った。かれらはすでに朝敵でもあり、いま徳川家からもすてられた以上、もはや山野に戦ってほろびるほかなかった。容保は慶喜の無情をうらみ、「なんすれぞ大樹(将軍)、連枝(将軍の一門)をなげうつ」との詩をつくってひそかにそのうらみを託した。  
慶喜の恭順ぶりは日とともに徹底の度をくわえた。二月十二日、ついに江戸城を出て上野寛永寺大慈院で謹慎し、罪を待つ姿勢をとった。さらに四月十一日、勝海舟をして江戸城を明けわたしめ、官軍が入城する朝、慶喜は上野の大意院を出、謹慎他の水戸へむかうべく、江戸を去った。  
翌明治二年九月、慶喜は謹慎を解かれ、同時に時勢からもわすれられた。その前後、慶喜は水戸から、徳川の新封地である静岡に移っている。  
以後、歴史のなかで慶喜は永久に姿を没した。  
 
幕末

 

桜田門外の変は倒幕の推進者を躍動させ招来を早めた  
この桜田門外から幕府の崩壊がはじまるのだが、その史的意義を説くのが本篇の目的ではない。ただ、暗殺という政治行為は、史上前進的な結局を生んだことは絶無といっていいが、この変だけは、例外といえる。明治維新を肯定するとすれば、それはこの桜田門外からはじまる。斬られた井伊直弼は、その最も重大な歴史的役割を、斬られたことによって果たした。三百年幕軍の最精鋭といわれた彦根藩は、十数人の浪士に斬りこまれて惨敗したことによって、倒幕の推進者を躍動させ、そのエネルギーが維新の招来を早めたといえる。この事件のどの死者にも、歴史は犬死をさせていない。  
残されたお静と松子については、大久保利通日記は、「治左衛門、戦死致し候ところ、母子の悲哀は申すばかり無く候ヘビも、義において断ずるところ尋常にあらず、この上は娘の心底、一生再嫁せざるの決定にて、母子ともその志操、動かすべからず」と、事変直後に書いている。  
ところが、その翌年の文久元年九月、母親は亡夫の故郷の鹿児島に帰り、その十二月、治左衛門の長兄の俊斎を婿にして結婚させてしまっている。  
俊斎の直話を集録した「維新前後実歴史伝」(大正二年六月、啓成社刊)では、俊斎談といったかたちで、「時に文久元年十二月某日、俊斎故ありて故日下部伊三次の養子となり、海江田武次と称す」海江田姓は、日下部の原姓である。  
「娶すに、松子をもつてせり」その間の機微は、わからない。要するに俊斎、すなわち海江田武次は風雪のなかで無事生きのこり、維新後は、弾正大忠、元老院議官などに任ぜられ、松子は子爵夫人になり、お静も、しずかな余生を送っている。  
なお次兄雄助は、薩摩藩工作のために西走したが、鹿児島についた三月二十三日、藩庁はこの桜田事件の関係者を到着の夜、早々に切腹させている。理由は幕府への遠慮であった。 
清河の亡き妻へのやさしさ  
そのころ、清河は小石川伝通院裏の山岡の家で起居していたのだが、伝馬町の牢に手をまわしてお蓮の消息をしらべたところ、すでに先月、病死していることをはじめて知った。  
(殺されたか)も、同然であった。獄中で一年も送れば体の繊弱な者なら十中八九は死ぬ。  
お蓮の獄死を知った夜、清河は山岡の女房に灯油を無心し、台所のすみを借りて夜おそくまで出羽庄内清川村の母親へ長い手紙を書いた。山岡の女房がその横彦を障子のかげからみたとき、ひどく子供っぽい顔だったという。  
清河がこのとき美しいひらがな文字で母にあてた手紙が残っている。  
−さてまたおれんのこと、まことにかなしきあはれのこといたし、ざんねんかぎりなく候。(中略)なにとぞわたくしの本妻とおぼしめし、あさゆふのゑかう(回向)御たむけ、子供とひとしく御恩召くだされたく、繰り言にもねがひあげ申し候。  
清河にはこういうやさしさがある。さらに筆をなめながら戒名も考えたらしく、−清村院貞栄香花信女とおくり名いたし候。と書き送った。が、その夜から数カ月後の文久三年二月八日、滑河は、幕府が江戸で徴募した二百三十四人の浪士団とともに中山道板橋宿を京をさして出発している。 
土佐幕末における藩主山内家への憎悪  
そのくせ武市は別として、彼等がはたして真実の天皇好きかどうかについては、弥太郎には疑問がある。  
かれら土佐郷土には奇怪な感情がある。藩主山内家への憎悪である。この憎悪は、どの土佐郷土の家系にも代々伝えられ、二百余年十数代つづいてきた。  
もはや種族的な憎しみになっているもので、かれらのたれもが、自分たちを山内家の家来だとはおもっておらず、長曾我部侍である、と思っていた。こういう藩はほかにはない。  
もともと山内家というのは、他国者である。藩祖山内一豊が関ケ原の功名で遠州掛川六万石の小身から一挙に土佐一国を与えられたもので、藩祖一豊が本土からつれてきた連中の子孫が、すべて藩の顕職につく。  
長曾我部家の遺臣秤は帰農させられて、「郷士」の格をあたえられたが、おなじ藩士でも、上士から「外様」として蔑視されている。  
藩祖入国。のころは、かれらはしばしば叛乱をおこし、討伐されたが、最後には、浦戸湾の浜でわなを設けて大虐殺されたという史実がある。山内家から、国中の郷土(当時、一領具足とよばれた)に布令がまわり、相撲の大試合をするというのであった。力自慢の連中が、二日、三日の行程をかけて浦戸の浜にあつまってきたが、山内家ではその周囲に鉄砲隊を伏せ、一斉に射撃した。水中に逃げる者は、舟の上から槍で突き殺した。このとき殺された者は千人を越えた。  
その後、郷土どもは怖れておとなしくなったが、憎悪だけが残った。いま、専権がゆらぎはじめるとともに、その家系の連中が、「われらは山内家の家来ではない。天皇の家来である」とさわぎはじめるのは当然であった。  
(それだけのことだ)弥太郎は、冷たい眼でかれらをみている。むりはなかった。岩崎家は、おなじ在郷の出ながら、先祖がめずらしく長曾我部家の遺臣ではなく、家紋は「三蓋菱」で、戦国のころ、長曾我部家にほろぼされた安芸氏の遺臣の家で、家伝に怨恨の伝説がなかった。 
吉田東洋は郷士であったが上士へ取り立てられたから暗殺される  
山内家入国後、長曾我部の遺臣から上士にとりたてられた数少ない家系のひとつで、いわば武市らと同種族なのである。  
(見誤った。・・・)東洋は、同種族だからこそ、自分の出身種族の叛意に複雑な腹立ちを覚えるのだろう。  
(あの男の家系が一介の郷土なら、薩長の人材よりもさらにすぐれた志士になっていたろう。吉田家は二百年、暖衣を着すぎた)しかもいまは栄達の極にある。藩主も隠居の容堂も、東洋を家臣とはみず、師弟の礼をとり、「東洋先生」とよんでいる。藩からこれほどまでの優遇をうけている東洋が、郷土どもにかつがれるはずがない。  
(斬るか)と、武市が決意したのは、この夜で軋る。武市は、田淵町の徒党から刺客八人をえらび、これを三組に分けた。 
逃げの小五郎  
桂とはそういう男だ、「わしの剣は、士大夫の剣だ」と、かつてこの男は幾松にめずらしく自慢したことがある。  
「士大夫の剣とはどういうことどす?」「逃げることさ」桂が塾頭をつとめた斎藤弥九郎の道場には六方条から成る有名な壁書があった。そのなかで、「兵(武器)は兇器なれば」という項がある。  
−一生用ふることなきは大事といふべし。  
出来れば逃げよ、というのが、殺人否定に徹底した斎藤弥九郎の教えであった。自然、斎藤の愛弟子だった桂は、剣で習得したすべてを逃げることに集中した。これまでも、幕吏の自刃の林を曲芸師のようにすりぬけてきた。池田屋ノ変のときも、この男は特有の直感で、寸前に難を避けた。あの日、集まることになっていた同志のなかでの、唯一の生き残りである。  
「わしは無芸な男だがね。これだけが芸さ」芸とすれば十日本一の芸達者だろう。どういう天才的な刺客も、桂の芸にはかなわな「桂はんは、きっと生きてお居やす」と、幾松は、対馬藩の大島友之助に断言した。  
「わかるかね」「そんなこと。わからしまへんどしたら、幾松は桂のおなごやおまへんえ」幾松は、なん日も京の焼跡をさまよっては桂をさがした。失望しなかった。ある日、京の難民が多数大津にあつまっているといううわさをきき、(あるいは)と、出かけてみた。  
桂はいなかった。落胆して、京へもどる駕籠をさがすために町外れまできたとき、松並木の根方根方に乞食小屋がずらりとならんでいる。その小屋の一つをふとのぞくと、妙に祥のあたらしい乞食が、菰の上に大あぐらをかいてこちらを見ている。しきりとたばこをくゆらせていた。幾松は息がとまった。桂である。 
死んでも死なぬ井上聞多  
そのとき、葵の定紋入りの提灯をかざした警固役人が一人、見廻りにきた。高杉は気の早い男だから、「こいつ。−」と、抜き打ち、横ざまに斬っぱらった。が切先が及ばず、さらに踏みこむと、役人はよほど意気地のない男らしく、わっと逃げ出した(英国公使館の通訳官アーネスト・サトウの手記によると、「これらの警護兵は旗本の次男、三男からあつめた隊の看であった。みな両刀を帯び、兵は藤の草で編んだ円い平たい帽子、士官は饅頭型の漆を塗った木の帽子をかぶり、ハオリという外套を着、ハカマというペティコードみたいなズボンをはいていた」)  
と同時に、長州方も逃げ出した。もはや放火は成功した、とみたのだ。伊藤俊輔も百姓じみた短い脚をもつれさせながら、懸命に逃げた。にげるとなれば、俊輔が一番早かった。  
が、属平づらの聞多はずぶとい。大胆な男ではないが天性、恐怖心がにぶく出来ていた。聞多はふと気になって五、六歩で踏みとどまった。  
もう一度、放火現場にひき返し、たんねんに調べてみた。案じたとおり、火が消えかけている。  
(いかんな)この男には、他の同志とちがい、思想というほどのものはないが、なによりも仕事というものが大好きだった。のしっ、と本館の中に忍びこんだ。そこからハメ板の切れっぱしや飽層をかかえてきてわらの上へのせた。その下に新しい火薬を一つ差し入れ、導火線なしで火をつけた。ばっと、勢いよく燃えはじめた。  
聞多は逃げた。ところが、暗いために方角を失い、柵の破れ穴が見つからず、やむなくやみくもに柵をよじのぼって、むこう側へ飛んだ。  
が、なかなか地上に着かず、体を叩きつけられてから気づくと、深い空濠の底に落ちこんでいた。普通ならば墜落死するところだが、聞多は、体中をさすってみたが、小骨一つ折れていなかった。なにか、そういうぐあいに体が出来ている男らしい。  
泥まみれのまま聞多は大いそぎで濠から掻きあがったが、なお逃げなかった。そこで濠ごしに火の燃えを注意ぶかく観察し、やがて火柱がどつと屋根をつきぬけるのをみて、しゃがんだ。  
このあと聞多は、脱糞して、逃走している。 
桂の倒幕の情熱は松陰の刑死体をみたときからはじまり、幕府の瓦解も始まった  
高杉は、企画家である。藩邸で数日、ぎょろぎょろと眼を光らせるばかりで、たれが来てもだまっているときが、この男のもっとも不気味なときだった。  
たとえば、御穀山焼打よりちょっとあとのことだが、雨の夜、「俊輔、葬式をする。支度せい」と、命じた。俊輔は、へっとかしこまり、十人分の葬式衣裳と棺桶、車、などを、藩邸のなかを駈けまわってすばやく整えた。  
「整えましてございます」「よし。あすは松陰先生の門人一同でお葬式をする。お前も出ろ」と高杉はいった。この異常児は、だしぬけにいうから粗放なようにみえるが、じつはそうではない。ちゃんと藩の重役に、許可をえてある。しかもその許可折衝は容易なものではなかった。安政六年、江戸伝馬町の獄で幕更のために斬られた吉田松陰は、いわば幕府にとって乱臣賊子である。長州藩重役の一部では幕府に遠慮して、反対論があったが、高杉は、井上聞多をして巧妙に口説かせた。  
−聞多は、口説き上手じゃ。  
高杉はそんな所を買っていた。かといって、聞多は松陰の門人ではなかった。このさい友人の物故師匠ということで、周旋をしてやったにすぎない。  
俊輔は、卑賎のあがりながら。も、門人のはしくれである。  
翌日、みなで出かけた。  
葬式、といっても、改葬である。松陰の死骸は、刑場の小塚原の土中にある。刑死直後俊輔は、桂小五郎の従者として刑場にゆき、幕更に懇験して棒詰めの死体をもらいそれを刑場付近に埋葬した。  
その死体の惨状をおぼえている。首胴が切り離されているのは当然としても、からだは下帯一つない赤裸であった。衣類は、幕吏が剥ぎとってしまったものだろう。  
俊輔は、師匠の首の髪をすいてまげを結ってやり、桂は、自分の補絆をぬいで師匠の胴に着せ、さらに同行した松陰の友人で藩の典医だった飯田正伯は、自分の帯を解き、黒羽二重の着物をぬいで、松陰に着せた。  
(おのれ幕府め)と、かれらは、慄える思いで、暴虐・酷烈な政府を呪った。桂小五郎にとって倒幕の情熱は、この安政六年十月二十八日の早暁の小塚原で、赤裸の刑死体をみたときからはじまったといっていい。さらにいえば、幕府の瓦解はこの朝からはじまったといえるだろう。 
数ヶ月前では烈士であった最後の攘夷志士は斬首罪人となった  
当時、二条城にいた浪士取締方の顕助は大いに驚き、即夜、川上邦之助、松林繊之助、大村貞助を監禁した。  
「捕縄はせぬ。武士として遇するゆえ、かれらに連繋があったかどうか、ありていに申してもらいたい」「あった」と、三士とも昂然として答えた。なお攘夷志士としでの誇りをもっていたのであろう。  
新政府の刑法事務局では、英国側がこれらの一味の存在に気づいていないことを奇貨としてひそかに隠岐島へ送った。  
ただ、三杖と、死んだ朱雀に対しては極刑をもって臨んだ。  
かれらの士籍を削り、平民に落し、朱雀の死屍から首を切りはなして、栗田口刑場に梟した。  
同じ梟首台に、三枝の生首もならんだ。  
処刑の場所は栗田口であり、方法は、武士に対する礼ではなく、斬首である。  
梟首は、三日。  
ほんの数カ月前なら、かれらは烈士であり、その行為は天誅としてたたえられ、死後は、叙勲の栄があったであろう。  
かれらは、その「壊夷」のかどで壌夷党の旧同志によって処刑され、ついに永遠の罪名を着た。  
幕末、志士として非命に集れた者は、昭和八年「殉難録稿」として宮内省が編纂収録したものだけで、二千四百八十余人にのぼっている。そのうち、おもな者は大正期に贈位され、すべては靖国神社に合祀された。ただ二人、三枝と朱雀だけはそのなかにふくまれていない。 
吉田松陰  
思想家松陰は純粋で純真  
司馬 思想的人間における気質としての器ということで松陰を考えてみると、この人は思想家の中ではもっとも根源的な存在じゃないか、思想家以外になりようがない人だという感じがします。私は、松陰を子どもの時からあまり好きでなく、大人になってふと興味を持った時に、こんな純粋で純真な人がいたかと驚いたわけです。ちょうど因幡の白兎が毛をむかれて、赤裸になって、そよ風に当っても肌や骨が痛むという具合でいる人が松陰なんじやないか。思想家としての松陰の器を、ガラスの券にたとえると、ガラスの器は非常に薄くて、今にもこわれるんじゃないかというような感じがあるんですが、思想を盛上げる器、もしくは思想を湧き出させる器というのが人間にあって、私はそういう気質をほとんど持っていないんですけれど、そういう気質を持ってきた人ということで、日本の思想史を考えることができる。  
松陰は優しさから分かり易い文を書く  
われわれの文章は明晰で、人にわかりやすく書かなければならないのに、それはひとつの心得として持っているにすぎない。松陰の場合、彼らにわかるように書くのは、必要があってそうしていたわけです。それは功利的に成立していたのではなく、優しさから成立しているわけです。この少年にはこういう書き方で訴えたい。だから優しく自分の心におおい隠すところがなくて、全部さらけ出して、なおかつ少年の心にまで踏み込んで、文章をかゆいところまで行届かせるということになって、松陰には巧まずしてああいう文章日本語が成立してしまったのだと思います。  
橋川 そういう具体的な要件がないと、いくら天才でもちゆうではああいう文章は作れないわけでしょう。  
司馬 なにしろ松下村塾というとかっこうよく聞えますけれども、本質的にはただの寺小屋でしょう。初めて千字文の修業をしたり、簡単な漢文の読み方を教わったりしに来る少年達を教える初等教育の場ですから、松陰としては自分が持っている教養やボキャブラリトでは話ができないというところがありましたでしょう。  
江戸末期に人民のことを考える思想がでてくる  
司馬 いずれにしても、松陰が生きた歴史的段階では、人民というフィクションを据えて、思想形成をするということは、事実上不可能だったと思います。江戸幕藩体制における人民というのは、さっき使った言葉をもう一度使えば、公約数であって、具体的に人民というのはどうかという形では出てきにくいし、後世の歴史が考えているほどに江戸庶民というのは苦しくなかったと思うんです。そして士大夫が人民のことを考え、国家を担うべきであるという考えが、江戸未期にははっきりとあるわけです。歴史を考える上で、天皇というフィクションを一つ強烈に作り上げれば、人民のこともはっきりする。天皇を据えなければ人民のことははっきりしない。簡単な図式でいいますと、天皇を捉えることによって、人民が平等になるんであって、将軍も熊公も同じなんだということがやっと言えるし、考えられるんであって、この場合、天皇というフィクションをわれわれは高く評価しなければいけないと思うんです。後世の対天皇感覚で、つまり後世の生臭さで感じちゃいけないと思う。私は歴史的法則で物を見るというのは苦手な方ですし、松陰における天皇の問題については非常に無感動にそれを受け止める方なんですけれども。もう1つ、ことわるまでもありませんが、私は明治以後の天皇制を好みません。  
松陰像が国家体制に吸収された  
橋川 大まかに言って、明治初期の松陰像は蘇峰を含めてまさに革命家松陰ですね。ところが明治国家が安定期に入ると、革命の要素は後退し、いわゆる勤皇史観に基づく維新精神の化身ということになり、あるいは純粋な誠意によって人を動かした殉国の教育者という形になって、いずれも国家体制の中に安全に吸収されてしまう。して最後には単なる誠心誠意の人物という無内容な模範として教科書に封じこめられる。  
つまり松陰像というものは、革命という本質が空虚になるにしたがって、もはや復原が不可能なほどに曖昧化してしまったのではないか。もとはかなりハッキリしていたのが、今になって原松陰像というものを掘り出すことには、かなり困難がともなうほどになっているんじゃないか。だからわれわれが具体的に松陰像をつくり上げようとする時にも、いろんな点で行詰ったり、矛盾したりすることになるんだと思うんです。  
松本 人間そのものとしては、松陰はたえず思い起こされるような契機を持っていますけれど、松陰という人間に付着した思想ということになると、一言では整理しきれない複雑なものがある。つまり、松陰の思想というのは、その生涯をとってみても時期的に推移ないしは転換を経ているように思いますし、思想内容から言っても、多くの矛盾を含んだ思想家だと思います。  
『諌孟余話』の評価にしても、結論的にいえば、明治以降の天皇制国家の重要なイデオロギー的支柱になるような側面と、諌争諌死の精神などに表われているような主体的実践者の自立精神、つまり伝統的な思想状況の中から、近代的個人の主体的精神に代りうるものとして注目される側面と、両方の面を指摘できると思います。  
 
「明治」という国家

 

勝海舟は日本国という思想をもった奇跡的存在  
老中の一人が、勝に対して質問しました忘は手もとに原典をもっていませんから、記憶だけで申しあげます。  
「勝。わが日の本と彼国とは、いかなるあたりがちがう」というようなことだったと思います。勝海舟は、自分の度胸と頭脳にあぐらをかいているような男ですから、「左様、わが国とちがい、かの国は、重い職にある人は、そのぶんだけ賢うございます」と、大面当をいって、満座を鼻白ませたといいます。この一言は封建制の致命的欠陥をつき、しかも勝自身の巨大な私憤をのべています。勝は、アメリカヘゆく威臨丸においても、艦長室にいながら(軍艦操練所教授方頭取)、正規の指揮官はつまり提督ともいうべき軍艦奉行は、門閥出身の木村摂津守喜毅(一八三〇〜一九〇一)で、勝よりも実務の能力がひくい上に、勝よりも七つも年下なのです。この木村という人は明治後、「芥舟」という号をつけ  
て隠遁して世に出なかったという、じつにきれいな人なのですが、明治後の速記録に、勝についてこう語っています。「(身分を低くとどめられていたために)始終不平で、大変なカンシャクですから、誰も困っていました」威臨丸の航海中も船酔いだといって艦長室から出て来ず、木村提督のほうから相談の使いをやると勝は「どうでもしろ」という調子で、「はなはだしいのは、太平洋の真中で、己はこれから帰るから、バッテーラ(ボート)を卸してくれ」という始末だったといいます。船酔いだけでなく「つまり不平だったんです」と、おだやかで人を中傷することがなかった木村芥舟が語っています。私は勝海舟が、巨大な私憤から封建制への批判者になり、このままでは日本はつぶれるという危機感、そういう公的感情(もしくは理論)へ私憤を昇華させた人だと思っています。海舟は偉大です。なにしろ、江戸末期に、  
「日本国」という、たれも持ったことのない、幕藩よりも一つレベルの高い国家思想−当時としては夢のように抽象的な−概念を持っただけでも、勝は奇蹟的な存在でした。しかもその思想と、右の感情と、不世出の戦略的才能をもって、明治維新の最初の段階において、幕府代表(勝は急速に立身してすでにそこまでになっていました)として、幕府みずからを自己否定させ、あたらしい″日本国″に、一発の銃声もとどろかせることなく、座をゆずってしまった人なのです。こんなあざやかな政治的芸当をやってのけた人物が、日本史上いたでしょうか。そのバネが、右のことばです。″アメリカでは、政府のえらい人はそれ相当にかしこい。日本はちがう″。 
小栗は難事業をみごとに実施  
−新国家はどうあるべきか。古ぼけて世界の大勢に適わなくなった旧式の徳川封建制国家の奥の奥にいながら、そんなことを考えつづけていました。むろん、小栗構想の新国家は、あくまでも徳川家というものをコンパスのシンにして、円をえがこうとするものでした。小栗は渾身の憂国家でしたが、しかし人と語りあって憂国の情を弁じあうというところはありません。真の憂国というのは、大言壮語したり、酔っぱらって涙をこぼすというものではありません。この時代、そういう憂国家は犬の数ほどたくさんいて、山でも野でも町でも、鼓膜がやぶれるほどに吠えつづけていました。小栗の憂国はそういうものではなく、日常の業務のなかにあたらしい電流を通すというものでした。  
げんに、かれはそれをやれる位置にいたのです。  
アメリカから帰ったあと、数年して小栗は、幕府の財務長官である勘定奉行の職に就いて金庫の中身を知り、ついで、こんどはお金を使うほうの陸軍奉行や軍艦奉行になり、さらには、これら幕府の軍制をフランス式に変えるべく設計し、みごとに実施に移しました。難事業で、矛盾にみちていました。武士制度という日本の伝統的なものを一挙に解体することは幕藩否定−つまり自己否定になりますからそいつには手をふれず、それを残したまま、直参の子弟を洋式陸軍の士官にし、庶民から兵卒を志願でもって募集するという、いわば新旧二重構造の軍制でした。とくに海軍を大いに充実させようとしました。ヨーロッパの帝国主義に対しては、ヨーロッパ型の国をつくる以外に、独立自尊の方法がなかったのです。いま考えても、それ以外に方法はみつかりません。 
明治国家は外国から借りた金はすべて返し信用を勝ち得た  
「金の話が出たついでに申しますと、明治国家は、貧の極から出発しました。旧幕府が背負った外債もむろんひきつぎました。あらたに明治国家は借金もしました。それらを、貧乏を質に置いても、げんに明治・大正・昭和の国民は、世界じゅうの貧乏神をこの日本列島によびあつめて共にくらしているほどに貧乏をしましたが、外国から借りた金はすべて返しました。  
「国家の信用」というのが、大事だったのです。  
私は一九八七年の春はロンドンにいって、そこで、ラテン・アメリカのある国が、先進国から借りた金、これは返せません、ということをわざわざ記者会見して言明した、ということをきき、明治国家を思って、涙がこぼれる思いでした。律義なものでした。  
これは、自画自賛しているわけではありません。  
第二次大戦後、たくさんの新興国家ができ、借金政策で国をやっている処が多く、しかも堂々と返さないといったような国もいくつかあります。  
それらとは、時代がちがうのだ、ということを言いたかったのです。  
十九世紀の半ばすぎという時代において、古ぼけた文明の中から出て近代国家を造ろうとしたのは、日本だけだったのです。そのことの瞼しさをのべたかったのです。いったん返すべきものを返さなければ植民地にされてしまうのです。でなくても、国家の信用というものがなくなります。国家というのも商売ですから、信用をなくしてしまえば、取引ができなくなるのです。信用がいかに大事かということは、江戸期の人達も、その充実した国内の商品経済社会での経験で、百も知っていたのです。 
小栗と栗本は幕府が滅んでも横須賀ドックが役立つこと知り建設した  
かれは、前にのべた横須賀の巨大なドックの施工監督に、幕臣の栗本瀬兵衛をえらびました。  
歴史のなかで、友情を感ずる人物がいますが、栗本瀬兵衛などはそうですね。いい男です。  
幕府の御医師の子で、幕臣きってのフランス通でした。横浜開港後は主として外務国事をあつかい、外国奉行になったりしました。幕府瓦解後は、官に仕えず、新聞記者として終始しましたが、和漢の学問・教養は明治初年第一等の人物です。風貌は秀才肌でなく、豪放磊落、およそ腹に怪しき心をもつという所がなく、直参が生んだ武士的性格の代表者ともいうべき人物でしょう。かれは、生涯、勝ぎらいで通しました。明治後、栗本鋤雲の名で知られています。  
横須賀ドック工事の目鼻がついたある日−栗本の書いたもの(「鞄庵遺稿」)によれば、元治元年十二月中旬のよく晴れて風の激しい日だったようです−大男の栗本が横浜税関を出て、官舎に帰ろうとしていると、背後に馬の蹄のとどろく音がして、二騎駈けてきます。横須賀を検分しての帰りの小栗上野介で、「やあ、瀬兵衛殿、よくなされたな、感服、感服」と、声をはりあげた。栗本のしごとをほめたのです。  
私は、小栗のこのことばを言いたくて、えんえんとここまで喋ってきたわけなのです。  
あのドックが出来あがった上は、たとえ幕府が亡んでも″土蔵付き売家″という名誉をのこすでしょう。  
小栗はもはや幕府が亡びてゆくのを、全身で悟っています。貧の極で幕府が亡んでも、あばらやが倒壊したのではない、おなじ売家でも、あのドックのおかげで、″土蔵つき″という豪華な一項がつけ加えられる、幕府にとってせめてもの名誉じゃないか、ということなんです。  
小栗は、つぎの時代の日本にこの土蔵が−横須賀ドックが−大きく役立つことを知っていたし、願ってもいたのです。 
薩長土肥の藩風の多様さが財産  
佐賀藩士大隈重信は、むろん家中きっての秀才でした。が、無個性な人間や、詰めこみ勉強を、親の仇のようににくんでいました。後日、かれは自分の藩の詰めこみ勉強をののしって、「独自の考えをもつ人物を育てない」といいましたが、あるいはそうかもしれません。しかし、実直で有能な事務官タイプの人材を多くもつことができます。げんに佐賀藩は、京都から東京に移った新政府に、有能な行政官と事務官を提供することになったのです。  
薩摩の藩風(藩文化といってもよろしい)は、物事の本質をおさえておおづかみに事をおこなう政治家や総司令官タイプを多く出しました。  
長州は、権力の操作が上手なのです。ですから官僚機構をつくり、動かしました。  
土佐は、官にながくはおらず、野にくだって自由民権運動をひろげました。  
佐賀は、そのなかにあって、着実に物事をやっていく人材を新政府に提供します。  
この多様さは、明治初期国家が、江戸日本からひきついだ最大の財産だったといえるでしょう。 
新国家のプランがないので大挙欧米見学に発つ子供っぽさ  
西郷はプランがないために弱りきっていたところでしたから、津田のもとから帰ってくると、めずらしく昂奮していました。盟友の大久保にもそのことを語ります。ついに、西郷は、「われわれが津田先生を頭として仰ぎ、その下につこう」と、いいます。  
西郷のすばらしい一面だと思います。  
同時に、明治維新勢力が、どんな新国家をつくるか、という青写真をもっていなかったことをもあらわしています。もっていないのがあたり前ですね。まったく文化の質のちがう日本が、にわかに欧米と出くわして、それから侵されることなく、それらとおなじ骨格と筋肉体系をもった国をつくろうというのですから、これは、青写真があるほうがおかしいのです。日本のような国が他にあって、それが先例になっていたとしたら、べつですがね。  
さっぱりわからないため、いっそ外国を見にゆこうじゃないか、ということで、廃藩置県がおわって早々の明治四年秋、岩倉具視を団長(正しくは全権大使)とする五十人ほどの革命政権の権官が、大挙欧米見学に発ちます。  
「国家見学」というべきものでした。世界史のどこに、新国家ができて早々、革命の英雄豪傑たちが地球のあちこちを見てまわって、どのように国をつくるべきかをうろついてまわった国があったでしょうか。  
これは、明治初期国家の、好もしい子供っぽさでした。この中に長州の総帥木戸孝允もいます。薩摩の大久保利通、また伊藤博文もいます。西郷は、留守番でした。 
廃藩置県は維新以上の革命  
私は、明治国家というものを一個の立体物のような、この机の上に置いてたれでもわかるように話したいのです。はじめて出会った外国の人に説明しているような気持で話そうと思っています。  
明治四年(一八七一)の廃藩置県。この日本史上、最大の変動の一つについてお話します。これは、その四年前の明治維新以上に深刻な社会変動でした。  
同時に、明治維新以上に、革命的でもありました。  
大変なものでした。日本に君臨していた二百七十の大名たちが、一夜にして消滅したのです。士族−お侍さんですね−その家族の人口は百九十万人で、当時の人口が三千万としますと、六・三%にあたります。これらのひとびとが、いっせいに失業しました。  
革命としかいいようのない政治的作用、外科手術でした。これが他日、各地に士族の反乱をよび、また西南戦争(明治十年)という一大反作用を生む撓みになりました。ところが当座はじつに静粛におこなわれました。  
静粛といっても、無事ということではなく、火薬庫からおおぜいで火薬を運びだすような危険を学んでいたことはいうまでもありません。深夜、作業員たちが、火気を厳禁しつつ、粛々と、火薬を運びだす光景を思わせます。一つまちがえば大爆発をおこすのです。ぶじ、運びだされました。  
反乱という爆発は、後日おこります。ただし今回はその爆発については述べません。  
大名や士族にとって、廃藩置県ほどこけにされたことはありません。  
明治維新は、士族による革命でした。多くの武士が死にました。この歴史劇を進行するために支払われた莫大な経費−軍事費や、政略のための費用−はすべて諸大名が自腹を切ってのことでした。  
そのお返しが、領地とりあげ、武士はすべて失業、という廃藩置県になったのです。なんのための明治維新だったのか、かれらは思ったでしょう。  
大名・士族といっても、倒幕をやった薩長をはじめいくつかの藩、もしかれらだけが勝利者としての座に残り、他は平民におとすというのなら、まだわかりやすいのです。しかし事実は、勝利者も敗者も、ともに荒海にとびこむように平等に失業する、というのが、この明治四年の廃藩置県という革命でした。えらいことでした。要するに、武士はいっせいにハラキリをしましょう、ということでした。 
明治国家とキリスト教  
明治国家とキリスト教という話をします。  
といって、宗教くさい話をするつもりはありません。第一、私はキリスト教には関心がありますが、クリスチャンじゃありません。  
ごぞんじのようにキリスト教には、大別して旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)の二つがあります。  
明治時代はふしぎなほど新教の時代ですね。江戸期を継承してきた明治の気質とプロテスタントの精神とがよく適ったということですね。勤勉と自律、あるいは倹約、これがプロテスタントの特徴であるとしますと、明治もそうでした。これはおそらく偶然の相似だと思います。今回の主題は、この偶然の相似についてのことです。  
もっとも″似ている″というのは、くりかえしますが、勤勉と自律、あるいは自助、それに倹約といった重要徳目だけで、他は似ていません。厳密好きな人がこれを聴いていて、苦情をおっしゃるといけませんので、ヘチマとヒョウタンが、蔓のぐあいや葉が似ているという程度の似方だと申しあげておきます。またキリスト教の一特徴は、教義の上で妥協ということがありません。その点、日本の仏教にせよ、神道にせよ、また風土全体が、大変妥協好  
きでやや無原則でもあります。明治の精神とプロテスタンティズムが似ている、といえば、とんでもない、とクリスチャンの方でお怒りになる方がいらっしやるかもしれませんから、あらかじめ予防線を張っておきます。 
竜馬は国民第一号  
さて、この神戸海軍塾時代、勝は塾頭に土佐浪士坂本龍馬をえらびました。  
坂本はもともと素朴な尊攘家で、江戸で勝を訪ね、返答によっては勝を開国派の好物として斬ろうと思っていましたが、勝の話をきいて頓悟し、その門人になります。「日本一の勝先生の門人になった」と大よろこびで故郷の姉に手紙を書いていますが、もともと坂本は土佐の高知にいるときに、オランダ国憲法に関心をもった時期があり、すでに″国民″たるべき素地をもっていたと思います。勝は、この坂本を神戸海軍塾の塾頭にしました。かって長崎におけるカッテンディーケの位置が神戸では勝、勝の位置が坂本でした。両人が話し合う内容は、しばしば深刻をきわめたであろうことは想像に難くありません。  
私が、いま話している主題をことさらに文法化しますと、文脈としては、勝が神戸海軍塾をひらいてひろく諸藩の士や浪人をあつめたのは、ひょっとすると″国民″をそこから得たかったのかもしれません。しかし、なにぶん危険で、かつ危険思想でもありますから、たれに対してもそんなことを言おうとは勝は思っていない。勝は、坂本を得て、かれを″国民″あるいは第一号(勝は、なお幕臣ですから)にしたかったのかもしれません。おそらく勝という瓶子に満ちた蒸留漕が、坂本という瓶子に移されたのかもしれません。勝は、明治後の座談をみても、自分がふれあったひとびとのなかで最大の人物を、西郷隆盛と坂本龍馬としているようであります。勝としては、身動きのとれぬ幕臣という立場上、坂本を得たことは、どんなにうれしかったことでしょう。坂本という稀代の瓶子に日本最初の酒を移すことによって、勝の洒はすばらしい自由と、普遍性をもちました。  
神戸海軍塾が閉鎖されますと、こんどは坂本が長崎にゆき、塾時代の土佐系の浪土たちとともに亀山社中(のち海援隊)をおこします。海軍実習と貿易をめざす結社ですが、坂本はこの結社の″憲法″として、同志は浪士であること、藩に拘束されないことをかかげます。″国民″の育成ととれないでしょうか。  
いまでもなお、人類とか世界とかというのは多分に観念のものであるように、封建身分制社会で″国民″あるいは″日本人″などというものは″火星人″というに近い抽象的存在でした。そのように、宙空にうかんだ大観念の一点に自分を置いたとき、地上の諸事情・諸状勢はかえってよく見えてくるものです。かつ、未来まで見えます。さらには、打つべき手までつぎつぎと発想できます。  
坂本は、長崎で″国民集団″をつくりました。その資金は、一種の株式会社募集のやり方であつめました。勝の紹介で、越前、長州、土佐、薩摩からあつめたのです。  
かれは、たとえ新政権ができてもそれに参加するつもりはない、ということは、大政奉還後に薩摩の西郷にそういって、さすがの西郷を一瞬、小さくさせたような光景を演じていますから、十分その思想が想像できるのです。  
かれの志は、貿易にありました。そのためには、国は統一されねばならない。その段階として「薩長秘密同盟」を思いたち、じつにいいタイミングに、長州の桂小五郎(木戸孝允)を京都によび、薩摩の西郷と手をにぎらせます。  
が、その後、倒幕の状勢は膠着の状態にあり、機をみて「大政奉還」というアイデアを投じて状況を一変させます。ほどなく刺客のために集れるのですが、その間において新国家の構想をまとめもしました。「船中八策」とよばれるのがそれですが、じつに先進的なものでした。 
江戸の遺産である武士の心と生活を明治国家は滅ぼした  
西郷が東京に居たたまれなくなったのは、じつは政論・政見の相違といったものよりも、馬車に乗り、ぜいたくな洋風生活をとり入れて民のくるしみ(百姓一揆が多発していました)を傲然と見おろしているかのような官員たちの栄華をこれ以上見ることに耐えられなくなったからでした。西郷は、真正の武士でした。  
しかも、その″東京政府″は、西郷がつくったのです。西郷はこれらの現状を見て″討幕のいくさはつづまるところ無益だった″とこぼしたり、「かえって徳川家に対して申しわけなかった」といって、つねに恥じ入る心をあらわしていた、という話を福沢はきいています。福沢はかっての町人にその経済を見習え、などといって、着流しの町人姿でいることが多うございました。さらには、一階級たるべきことをとなえ、平等をねがい、「国民」を設定し、国民が主人である、政府は国民の名代人にすぎない、といったりしました。さらには、「門閥制度は親のかたきでござる」ともいいました。だから、制度としての士族保存をいっているのではないのです。前時代の美質をひきつげ、といっているのです。革命というのはじつに惨憺たるもので、過去をすべて捨て去るものですが、過去のよかったものを継承しなければ社会や人心のシンができあがらない、ということをいいたかったのでしょう。  
西郷も、廃藩置県に同意したことでは、国民の設定については大きく賛成したということになります。が、かれには、かれ自身が一身で解決できないほどの矛盾がありました。かれは、武士がすきだったのです。とくに薩摩武士が好きだったのです。人間として信頼できるのはこの層だと思っていました。この層を制度として生かせば″国民″はできあがらない。かといって、かれにとって宝石以上のものである武士を廃滅させることはできない。  
西南戦争の真の原因はそこにあります。  
同時に、これをほろぼした政府は″議論″をもって滅ぼさず、権力と武力をもって滅ぼしたのです。あまつさえ、その″武士″である敵を″賊″としました。福沢のなげきは、この″賊″ということにあります。せっかく欧米とくに新教国と、精神の面で張り合って十分遜色のない″武士の心と生活″というものを、政府は″賊″としたということを、福沢は、国家百年のために惜しみかつ、心を暗くしたのです。『丁丑公論』の文章の激越さは、その憤りにあります。  
西南戦争における当初の薩摩士族軍(私学校軍)は、約一万二千でした。西郷は、反乱について終始積極的ではありませんでした。かれら郷党人が決起するというので、かれはやむなく、勝海舟にいわせると、身をわたしてしまったのです。以後、西郷は、作戦についてなんの意見ものべていません。自殺するようにして身をゆだね、七カ月の戦いのあと、政府軍の重囲のなかで、別府晋介をかえり見、「晋どん、このへんでよかろう」首を刎ねよ、といって自害しました。  
この戦いの規模は、大変なものでした。九州各地の旧藩の士族が呼応し、総勢三万にたっしました。薩摩を中心とする日本最強の士族たちが死ぬことによって、十二世紀以来、七百年のサムライというものは滅んだのです。  
滅んだあとで、内村鑑三や新渡戸稲造が書物のなかで再現しますが、それはもはや書斎の″武士″だったのではないでしょうか。さらには、政府は、軍事教育や国民教育を通じて武士的なものを回復しようとしますが、それらは、内村や新渡戸の武士道ではなく、ひどく痩せて硬直化した、きわめて人工的な武士像でした。西南戦争を調べてゆくと、じつに感じのいい、もぎたての果物のように新鮮な人間たちに、たくさん出くわします。いずれも、いまはあまり見あたらない日本人たちです。かれらこそ、江戸時代がのこした最大の遺産だったのです。そして、その精神の名残が、明治という国家をささえたのです。 
明治憲法の不備で国が滅びた  
まことにこの点、明治憲法は、あぶなさをもった憲法でした。それでも、明治時代いっぱいは、すこしも危なげなかったのは、まだ明治国家をつくったひとびとが生きていて、亀裂しそうなこの箇所を肉体と精神でふさいでいたからです。この憲法をつくった伊藤博文たちも、まさか三代目の昭和前期(一九二六年以後四五年まで)になってから、この箇所に大穴があき、ついには憲法の″不備″によって国がほろびるとは思いもしていなかったでしょう(ついでながら一九二八年の張作霖の爆殺も統帥者の輔弼<輔翼>によっておこなわれましたが、天皇は相談をうけませんでした。一九三二年、陸軍は満洲事変をおこしましたが、これまた天皇の知らざるところでした。昭和になって、統帥の府は、亡国への伏魔殿のようになったのです)  
 
外人から見た日本人

 

『東方見聞録』 マルコ・ポーロ
マルコ・ポーロ (Marco Polo, 1254~1324) はベネチアの商人で、1275年に元の大都に至り、フビライ帝に厚遇され17年間中国にとどまった。
1292年に泉州を発ち、1295年にベネチアに帰った。
『東方見聞録』は、ジェノバの捕虜(※クルゾラの戦い)となっていた1298年に同囚のルスチケルロに口授したもの。黄金の宮殿の描写は、平泉の中尊寺金色堂の話を聞き伝えたものと言われる。食人の習慣については、誰かにかつがれたものか、本人のホラなのかわからない。
チパング(日本国)は、東のかた、大陸から千五百マイルの大洋中にある、とても大きな島である。住民は皮膚の色が白く礼節の正しい優雅な偶像教徒であって、独立国をなし、自己の国王をいただいている。この国ではいたる所に黄金が見つかるものだから、国人は誰でも莫大な黄金を所有している。
この国王の一大宮殿は、それこそ純金ずくめで出来ているのですぞ。我々ヨーロッパ人が家屋や教会堂の屋根を鉛板でふくように、この宮殿の屋根はすべて純金でふかれている。したがって、その値打ちはとても評価できるようなものではない。
しかしこの一事だけは是非とも知っておいてもらいたいからお話しするが、チパング諸島の偶像教徒は、自分たちの仲間でない人間を捕虜にした場合、もしその捕虜が身代金を支払い得なければ、彼らはその友人・親戚のすべてに「どうかおいで下さい。わが家でいっしょに会食しましょう」と招待状を発し、かの捕虜を殺して――むろんそれを料理してであるが――皆でその肉を会食する。彼等は人肉がどの肉にもましてうまいと考えているのである。 
『書簡』 フランシスコ・ザビエル
フランシスコ・ザビエル (Francisco de Jassu y Xavier, 1506~1552) はスペイン生まれの宣教師で、イエズス会創設に参加、1542年からインドのゴアを中心に布教に当たった。
1547年アンジロウに出会い日本布教を決意し、1549年8月鹿児島に上陸し同地で布教した。
1550年8月平戸に移り、10月京都へ向け出発、11月に山口で布教、12月に堺に到着した。
1551年1月京都に入るが天皇拝謁・延暦寺訪問とも果たせず、3月に平戸に戻った。4月から山口で布教し、9月にポルトガル船到着の報を聞いて豊後府中に赴いた。11月に同地を出航し、翌1552年2月ゴアに帰着した。
第一に、私たちが交際することによって知りえた限りでは、この国の人びとは今までに発見された国民のなかで最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で、悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます。大部分の人びとは貧しいのですが、武士も、そうでない人びとも、貧しいことを不名誉とは思っていません。
大部分の人は読み書きができますので、祈りや教理を短時間に学ぶのにたいそう役立ちます。彼らは一人の妻しか持ちません。この地方では盗人は少なく、また盗人を見つけると非常に厳しく罰し、誰でも死刑にします。盗みの悪習をたいへん憎んでいます。彼らはたいへん善良な人びとで、社交性があり、また知識欲はきわめて旺盛です。
彼らは道理にかなったことを聞くのを喜びます。彼らのうちで行なわれている悪習や罪について、理由を挙げてそれが悪であることを示しますと、道理にかなったことをすべきであると考えます。
私はこれほどまでに武器を大切にする人たちをいまだかつて見たことがありません。弓術は非常に優れています。この国には馬はいますが(彼らは)徒で戦っています。彼らはお互いに礼儀正しくしていますが、外国人を軽蔑していますので、(私たち外国人に対しては)彼らどうしのようには礼儀正しくしません。財産のすべては衣服と武器と家臣を扶持するために用い、財宝を蓄えようとしません。非常に好戦的な国民で、いつも戦をして、もっとも武力の強い者が支配権を握るのです。
(日本人たちは)好奇心が強く、うるさく質問し、知識欲が旺盛で、質問は限りがありません。また彼らの質問に私たちが答えたことを彼らは互いに質問しあったり、話したりしあって尽きることがありません。
日本人は白人です。日本の国の近くには中国の国があり、前に書きましたように、(日本の)諸宗派は中国から伝えられたものです。中国はたいへん大きな国で、平和で、戦争はまったくありません。そこにいるポルトガル人からの手紙によりますと、正義がたいへん(尊ばれている)国で、キリスト教国のどこにもないほど正義の国だそうです。日本や他の地方で今まで私が会った限りでは、中国人はきわめて鋭敏で、才能が豊かであり、日本人よりもずっと優れ、学問のある人たちです。
(日本へ行く神父は)考えも及ばないほど大きな迫害を受けなければなりません。昼間はずっと、そして夜になっても大勢の訪問客に押しかけられ、質問攻めにあってたいへんてこずり、そして断わりきりないような指導者(階級の)人たちの家に招かれます。神父は祈り、黙想し、観想する時間がありませんし、霊的に内省する(余裕)もありません。少なくとも初めのうちはミサ聖祭を挙げることもできません。(神父は)質問に答えるのに絶えず追われて、聖務日課を唱える時間もなく、食事や睡眠の時間さえもありません。日本人はほとんど問題がないような(小さなことでも)とくに外国人にうるさくつきまとって(質問し)、外国人たちを馬鹿にして、いつもあざ笑っています。 
『東洋遍歴記』 メンデス・ピント
フェルナンド・メンデス・ピント (Fernado Mendes Pinto, 1509?~1583) はポルトガルの商人で、1537年頃からインドを手始めにアジア・アフリカを広く遍歴し、日本を四度訪れた。
1551年の三度目の訪日時にフランシスコ・ザビエルと親交を結んだが、その時には相当な財産を蓄えていた。
1554年4月に四度目の訪日のためゴアを発ったが、途中マラッカでイエズス会の修道士になった。
1556年7月に九州に着き、11月に離日したが、この間にピントはイエズス会を脱会した。
1558年にポルトガルに戻り、1578年頃『遍歴記』を書いた。
その寺院というのはすこぶる壮麗・豪華で、彼らの司祭に当たる坊主たちは私たちを手厚く迎えてくれた。この日本の人々はみな生来大変に親切で愛想がいいからである。
したがって、ゼイモト(※ディオゴ・ゼイモト)が善意と友情から、また、先に述べたように、ナウタキン(※種子島直時)から受けた礼遇・恩顧の幾分かに応えるために贈ったわずか一挺の鉄砲が因で、この国は鉄砲に満ちあふれ、どんな寒村でも少なくとも百挺の鉄砲の出ないような村や部落はなく、立派な町や村では何千挺という単位で語られているのである。このことから、この国民がどんな人たちか、生来どんなに武事を好んでいるかがわかるであろう。
そしてこれら日本人というのは世界のどの国民よりも名誉心が強いので、彼は、自分の前に生ずるいかなる不都合も意に介さず、自分の意図を万事において遂行しようと決心した。
この日本人というのは、そのあたりの他のどの異教徒よりも道理に従うものだ、と私が何度も言うのを読者諸氏は聞いてきたのではあるが、坊主たちは他の人々よりも多くのことを知っているという生来の自負心と自惚れのために、一旦自分の言ったことを否定したり、自分の信用に関する議論で他人に譲ることは、たとえそのために千回その生命を危険に曝そうとも、名誉を損なうものと見なすのである。
それは、彼らがそのあたりの他の異教徒よりも元々優れた理解力を持っていることは否定し難い人々だからで、したがって、彼らを信仰へ改宗させるためにに注がれる努力は、コモリンやセイロンのシンガラ人よりは、この人々における方が、より大きな実りを結び、したがって、より効果的であろうと思われる。 
『日本巡察記』 ヴァリニャーノ
アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノ (Alejandro Valignano, 1539~1606) はイタリアの宣教師で、イエズス会の巡察師として日本を三度訪れた。
初来日は1579(天正7)年7月で、島原半島の口之津に上陸し、長崎と豊後府中(大分)を訪れた。
翌年3月には瀬戸内海航路で堺に至り、織田信長に歓迎され、畿内各地を巡回した。9月に豊後、11月に長崎に戻り、そこで一連の会議を開催した。
1582(天正10)年2月20日、天正少年使節団を伴ったヴァリニャーノは、長崎を出航しゴアに向かった。
1590(天正18)年7月、ヴァリニャーノは少年使節団を伴い長崎に上陸した。
翌年3月に豊臣秀吉に謁見し、間もなく長崎に戻った。
1592(天正20)年10月、ヴァリニャーノは長崎を出航し、マカオに向かった。
三度目の来日は1598(慶長3)年8月で、このときはほとんど長崎にとどまり、1603(慶長8)年1月に離日した。
以下は、第1回日本巡察にもとづいて執筆された『日本諸事要録』(1583)からの抜粋である。本書は長らくイエズス会機密文書として眠っていたが、1954年に初めて出版された。
人々はいずれも色白く、きわめて礼儀正しい。一般庶民や労働者でもその社会では驚嘆すべき礼節をもって上品に育てられ、あたかも宮廷の使用人のように見受けられる。この点においては、東洋の他の諸民族のみならず、我等ヨーロッパ人よりも優れている。
国民は有能で、秀でた理解力を有し、子供達は我等の学問や規律をすべてよく学びとり、ヨーロッパの子供達よりも、はるかに容易に、かつ短期間に我等の言葉で読み書きすることを覚える。また下層の人々の間にも、我等ヨーロッパ人の間に見受けられる粗暴や無能力ということがなく、一般にみな優れた理解力を有し、上品に育てられ、仕事に熟達している。
牧畜も行なわれず、土地を利用するなんらの産業もなく、彼等の生活を保つ僅かの米があるのみである。したがって一般には庶民も貴族もきわめて貧困である。ただし彼等の間では、貧困は恥辱とは考えられていないし、ある場合には、彼等は貧しくとも清潔にして鄭重に待遇されるので、貧苦は他人の目につかないのである。
日本人の家屋は、板や藁で覆われた木造で、はなはだ清潔でゆとりがあり、技術は精巧である。屋内にはどこもコルクのような畳が敷かれているので、きわめて清潔であり、調和が保たれている。
日本人は、全世界でもっとも面目と名誉を重んずる国民であると思われる。すなわち、彼等は侮蔑的な言辞は言うまでもなく、怒りを含んだ言葉を堪えることができない。したがって、もっとも下級の職人や農夫と語る時でも我等は礼節を尽くさねばならない。
しかして国王及び領主は、各自の国を能うる限り拡大し、また防禦しようと努めるので、彼等の間には通常戦争が行なわれるが、一統治権のもとにある人々は、相互の間では平穏に暮らしており、我等ヨーロッパにおけるよりもはるかに生活は安寧である。それは彼等の間には、ヨーロッパにおいて習慣となっているような多くの闘争や殺傷がなく、自分の下僕か家臣でない者を殺傷すれば死刑に処されるからである。
日本人はきわめて忍耐強く、飢餓や寒気、また人間としてのあらゆる苦しみや不自由を堪え忍ぶ。それは、もっとも身分の高い貴人の場合も同様であるが、幼少の時から、これらあらゆる苦しみを甘受するよう習慣づけて育てられるからである。
また彼等は、感情を表すことにははなはだ慎み深く、胸中に抱く感情を外部に示さず、憤怒の情を抑制しているので、怒りを発することは稀である。
次に述べるように、日本人は他のことでは我等に劣るが、結論的に言って日本人が、優雅で礼儀正しく秀でた天性と理解力を有し、以上の点で我等を凌ぐほど優秀であることは否定できないところである。
彼等の間には、罵倒、呪詛、悪口、非難、侮辱の言葉がなく、また戦争、借用者、海賊の名目をもってなされる場合を除けば、盗みは行なわれず、(窃盗)行為はひどく憎悪され、厳罰に処せられる。
だが彼らに見受けられる第一の悪は色欲上の罪に耽ることであり、これは異教徒には常に見出されるものである。…最悪の罪悪は、この色欲の中でもっとも堕落したものであって、これを口にするには堪えない。彼等はそれを重大なことと考えていないから、若衆達も、関係のある相手もこれを誇りとし、公然と口にし、隠蔽しようとはしない。
この国民の第二の悪い点は、その主君に対して、ほとんど忠誠心を欠いていることである。主君の敵方と結託して、都合の良い機会に主君に対し反逆し、自らが主君となる。反転して再びその味方となるかと思うと、さらにまた新たな状況に応じて謀反するという始末であるが、これによって彼等は名誉を失いはしない。
日本人の第三の悪は、異教徒の間には常に一般的なものであるが、彼等は偽りの教義の中で生活し、欺瞞と虚構に満ちており、嘘を言ったり陰険に偽り装うことを怪しまないことである。…既述のように、もしこの思慮深さが道理の限度を超えないならば、日本人のこの性格から、幾多の徳が生まれるであろう。だが日本人はこれを制御することを知らぬから、思慮は悪意となり、その心の中を知るのに、はなはだ困難を感じるほど陰険となる。そして外部に表われた言葉では、胸中で考え企てていることを絶対に知ることはできない。
第四の性格は、はなはだ残忍に、軽々しく人間を殺すことである。些細なことで家臣を殺害し、人間の首を斬り、胴体を二つに断ち切ることは、まるで豚を殺すがごとくであり、これを重大なこととは考えていない。だから自分の刀剣がいかに鋭利であるかを試す目的だけで、自分に危険がない場合には、不運にも出くわした人間を真っ二つに斬る者も多い。…もっとも残忍で自然の秩序に反するのは、しばしば母親が子供を殺すことであり、流産させる為に、薬を腹中に呑みこんだり、あるいは生んだ後に(赤子の)首に足をのせて窒息させたりする。
日本人の第五の悪は、飲酒と、祝祭、饗宴に耽溺することである。その為には多くの時間を消費し、幾晩も夜を徹する。この饗宴には、各種の音楽や演劇が伴うが、これらはすべて日本の宗教を日本人に教えた人々が考案したもののように思われる。この飲酒や類似の饗宴、過食は、常に他の多くの堕落を伴うので、これによって日本人の優秀な天性がはなはだしく損なわれている。
彼等のことごとくは、ある一つの言語を話すが、これは知られている諸言語の中でもっとも優秀で、もっとも優雅、かつ豊富なものである。その理由は、我等のラテン語よりも(語彙が)豊富で、思想をよく表現する(言語だ)からである。
上述のすべての点において、真実の精神が彼等の心の中に宿るならば、彼等は我等よりも優れた素質を有すると言いうる。なぜなら、彼等が天性として有するものに我等が到達する為には、我等は大いなる努力を必要とするからである。
彼等は生来その性格は萎縮的で隠蔽的であるから、心を触れ合おうという気持を起こさせ、納得せしめることが必要である。なぜならば、信仰や真実で堅固な徳操に到達する為、及び心の曇りを除いて不快や誘惑を退ける為には、日本人の天性であり、習性となっているこの萎縮的性癖ほど大きい障害はないからである。
したがってこの報告書の中でたびたび言及したように、我等が習慣や性格のまったく反対である外国人であり、また政治上の統治という問題には触れず、それによって彼等を援助するようなことはまったく無く、かえって既述のように大きい不幸が惹起しているにもかかわらず、我等が日本に居住することを日本人が認めているのは驚嘆に値する。これにより、日本人がいかに道理に従う人々であるかが判明する。 
『日本見聞録』 ドン・ロドリゴ
ドン・ロドリゴ、本名ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコ (Rodrigo de Vivero y Velasco, 1564~1636) はメキシコの政治家で、江戸初期に日本に漂着し見聞記を残した。
1608年6月からフィリピン臨時総督としてマニラに滞在したロドリゴは、次期総督と交代のため1609(慶長14)年7月メキシコへの帰路に着いた。
しかし台風のためロドリゴを乗せたサン・フランシスコ号は上総国岩和田村(千葉県御宿町)の海岸で難破し、地元民に救助された。
大多喜藩主本多忠朝に厚遇されたロドリゴ一行は、江戸へ送られ徳川秀忠と会見し、さらに駿府城で徳川家康とも会見した。
豊後でサンタ・アナ号が遠洋航海に耐えないことを確認したロドリゴは、江戸に引き返した。そして江戸湾に停泊中だった按針丸を提供され、サン・ブエナベンツーラ号と改名し、1610年8月1日(慶長15年6月13日)出航した。
同号は10月27日、無事にマタンチェルに到着した。ロドリゴは日本で救助され厚遇されたためか、カトリックらしい偏見はあるものの、日本人に対しかなり好意的である。
日本に於ては地震を恐れ、大身等の通常睡眠し又居住する室は石を以て造らず、而も其巧妙に工作し、金銀の各種の型及び色を用ひ、啻に天井のみならず、床より上方に至るまで常に見るべきものあり。予はトノの居りし室に至り坐に着きて暫く語りたる後、彼は武器庫を示したるが、一箇の騎士の所有にあらず、國王の所有するものなりと思はれたり。
此市(江戸)及び街路には觀るべき物甚だ多く、市政も亦大に見るべき所あり。ローマ人の政治と競ふことを得べし。市街は互に優劣なく、皆一様に幅廣く又長くして直なること西班牙の市外に勝れり。家は木造にして二階建なるものあり、而して外觀に於ては我が家屋優良なれども、内部の美は彼遙に勝れり。又街路はC潔にして何人も之を蹈まずと思はるゝ程なり。
次に宮中(江戸城)の第一室あり、床も壁も天井も見るべからず。何となれば床には疊(tatames)と稱し我が席よりも遙に美しきものあり。疊は端に金の織物、金にて花を(繍 繡)出せる天鵞絨等の飾を施し、方形にして机の如く互に並べ合はすべき甚だ精巧なるものなり。壁は皆木と板とを以て造り、金銀竝に繪具を以て狩獵の繪を畫けり。天井も亦之に同じく、木地は見ることを得ず。我等外國人は此の第一室にて觀たる所に勝りたるものは望むべからずと考へしに、第二室は之より好く、第三室は更に之に勝り、内に進むに從ひ益々巧妙にして美麗なり。
予は五日間旅行して終に駿河(Surrunga)に着きしが、太子の豫告に依り各所に於て大に款待せられたり。若し此野蠻人の間にデウス缺けず、我國王の臣下たらば、予は古郷を捨てゝ此地を選ばんとす。
駿河より都まで八十レグワにして、道は平坦にして愉快なり。途中數個の水多き河あれども、一方より他方に曳船にて渡り、船は甚だ大にして旅客の馬自由に之に入ることを得べし。旅客者多數なれども途中無人の地に宿泊することなし。何となれば前に述べたる如く、日本國中一レグワの四分の一の不毛の地なく、若し村小にして家屋處々に散在せば驚くこと少なきも、此の如く廣大にして交通盛に、又街路及び家屋のC潔なる町々は世界の何れの國に於ても見ることなきこと確實なり。
予は思ふに、當地(大坂)は日本國中最も立派なる所にして、人口は二十萬あり、海水其家屋に波打つが故に、非常に潤澤に海陸の贈物を具有せり。家屋は二階建を通常とし、構造巧なり。
日本人は戰を好み、支那人、高麗人、テレナテ人(Therenates)其他マニラ付近の何れの國民よりも勇敢なり。彼等は長銃を用ひ、其發射は確實なれども、速度遅し。又大砲を有すれども、少數にして操方拙なり。戰爭に於ては好く命令に服從す。但し今は何國とも戰はず、又之と戰爭を開く者あるべしとも思はれず。大支那若し其武力を用ふることあるも、日本には地勢上攻陥不能なる城多數あり。
此國は天の授けたる特別優良なる物を有し、氣候はイスパニヤの氣候に似たり、但し冬は遙に寒冽なり。饑餓及び疫病を知らず、又其話を聞きたることなし。其國の最大なる不幸は、貧民に對する富者の壓迫酷使なり。然れども小麥、大麥及び米に不作の年なく、収穫多量なるが故に、能く諸人を養ひ、寧ろ外國の人及び船の來りて糧食を輸出せんことを希望せり。
日本人は飲酒の悪癖あり、之より他の更に大なる惡事を生ず、即ち己の有する妻を以て滿足せず、力の限多くせんとし、時には百人を超ゆることあり。彼等は妻に對して忠實ならざれども、彼女等は之に反し、嫁したる婦人の夫に背きて不義を行ひたるを聞くことは甚だ稀にして、珍しき事なり。日本人は甚だ鋭敏なれども堅實ならず、商賣に巧妙にして、此業に於て他人を欺くこと最も巧妙なる者を尊重す。
日本は嘗て他の國民より敗られ又は征服せられたることなし。支那人及び高麗人は來り戰ふこと數次なりしが、常に手を頭に當てゝ引還したることは他の人達の記するが如し。彼等は穎知にして互に禮儀を重んず。
彼等の市政は優良にして、之を治むる者は非常なる注意を以て公事に當れり。家屋は甚だC潔にして、市外に至る迄大にC潔にす。其土地は金銀に富み、若し鑛夫及び水銀あらば更に多量を収むべし。小麥はイスパニヤよりも良く、産額又多量にして通常1アネガ(フアネガ(Fanega)にして64、6アレア(1アレアは10m平方に當る)より50アネガ(Fanega穀量にして1フアネガ55.5リットルに當る)を収納すれども、日常の食料は米なり。パン(pan)は果物の如く少量に食し、肉は狩獵に依りて殺したるものゝ肉の外は食せず。狩獵及び漁業の獲物は鹿・兎・鶉・鴨其他川及び湖上の鳥類等我等よりも多く有せり。
日本人の政治は世界の諸國に就きて予が知るものに勝れり。デオス(Dios(神))を識らざる國民にして、此の如く完全にして慈悲に適へる法律を有するは忌々しき事と思はる。此國に於ては前に述べたるが如く、惡事は皆罰するが故に、盗賊少く彼等の爲めに道路の不安なる事全然なし。
婦人は持參金なくして嫁し、貴人及び大身達は其身分に相當なりと考ふる數の夫人を有し、或は50人60人を超ゆることあれども、第一を以て最も大なる夫人とし、此人の子女を最も尊敬す。然れども他の何れの夫人寵幸せらるゝも之を侮辱となすことを得ず。甚だ貧窮なる者は唯一人を養ひ、他は其資力に應じて二人又は四人を養へり。
日本國民は勇敢傲慢にして、之を誇ること思慮ある理智の人の如くならず寧ろ野蠻人に似たり。何となれば啻に戰場に於て勇敢なるのみならず、若し犯罪の爲め死刑の宣告を受けたる時は、刑吏の之を執行するを欲せず、自殺するが故なり。
此國人は物を與ふるに吝なり。又性急にして忍從ならざるを常とす。
此六十六箇國には多數の都市あり、廣大にして人口多く、C潔にして秩序正しく、欧洲に於て之と比較すべきものを發見すること困難なるべし。而して陸路を行くこと二百レグワを超ゆるも人の居住せざる地一レグワを見ること稀なり。家屋市街及び城郭は善美にして、これを過賞すること難し。人民の數非常に多く、悉く國内に容るゝこと能はざるが如し。人口二十萬の市多く、都の市は八十萬を超えたり。此等の住民若しイスパニヤ土人の如く野蠻ならば恐るゝに足らざれども、彼等は長銃を有し最も熟練せる兵士の如く巧妙に之を用ふ。又弓、矢、鎗、及びカタナ(cathanas)と稱する劍及び短劍を有す。而してイスパニヤ人と同じく勇敢なるのみならず議論及び理解の能力に於ても之に劣ることなし。
是故に國内には常に甚だ多數の武装せる兵士ありと言ふことを得べし。又力あり名譽を重んずる國民なるが故に、其勇氣に付十分に信頼することを得べし。而して軍事上の訓練に於ては我等に劣る所あれども、生命を輕しとすることに於ては、劣る所なきのみならず、只外見の爲め之を失ふ者も多數あり。 
『金銀島探検報告』 セバスティアン・ビスカイノ
セバスティアン・ビスカイノ (Sebastian Vizcaino, 1548~1615) はスペインの探検家で、日本の東方にあるとされた伝説上の金銀島探索の目的を持って訪日した。
ドン・ロドリゴが帰国すると、ビスカイノは答礼大使に任命され、サン・フランシスコ号で1611年6月10日(慶長16年4月30日)浦賀に上陸した。
江戸で徳川秀忠、駿府で徳川家康に謁見後、浦賀に戻って金銀島探検の準備を進めた。10〜12月には東北地方を探検し、仙台を経て根臼まで北上し、そこから江戸に引き返した。
1612(慶長17)年5〜7月には、京都・大坂・堺を訪れて江戸に戻った。9月16日(陰暦8月21日)ようやく浦賀を出航し、日本の東方を探索したが、台風に遭って探検を断念し浦賀に戻った。
サン・フランシスコ号は破損が激しいため、伊達家と慶長遣欧使節団のサン・フアン・バウティスタ号に同乗する契約を結んだ。同号は1613年10月27日(慶長18年9月14日)出航し、12月サカトラに到着した。
ビスカイノは江戸での交易が不調だった上に金銀島も発見できなかったためか、八つ当たり気味に日本人の悪口を並べている。
此國に於ては皇帝も領主等も少しも確定安全なる事なし。蓋し他の人々の官職を有するは暴力に據る所にして、力多き者多く達成するが故なり。
貴族は禮儀正しきが、又虚榮心、没常識及び慢心大にして、血統及び武器を重んず。又外見を張るが故に収入多額なれども常に負債を有す。此の如くなるは又皇帝の事(政策の意なり)に因る所なり。
一般人民は甚だ惡しく、予は之を誇張することを好まざれども、世界に於て最も劣惡なる者なり。彼等は金錢の爲め子女及び妻女を賣却す。
浮浪人又は無職の人なし。彼等の生活は何に依るか直に明白となり三日以上一所に居ることを得ざるが故にして、職無く主人無き者を發見すれば之を斬る。
此國は長さ及び幅五百レグワを超ゆるに係らず、言語は一にして文字の書方も一様なり。男女共に皆讀み書き又計算をなし、商賣の事に甚だ機敏にして猶太人も彼等には及ばず。又神は此の惡しき國民に其希望する所を悉く與へ給へるが如く、甚だ優雅にして疫病の何たるかを知らず、病の流行することなく、内科醫又は外科醫の必要なし。
彼等は大なる者も小なる者も皆試合供應酒宴をなし、一年の大部分は之を行へり。領主及び司祭は一層甚だしく皆逸樂の生活をなせり。 
『日本大王国志』 フランソア・カロン
フランソア・カロン (Francits Caron, 1600~1673) はフランス系オランダ人で、オランダ東インド会社の日本専門家として活躍し、平戸のオランダ商館長もつとめた。
カロンは1619(元和5)年、貿易船の料理方手伝いとして初来日し、1626(寛永2)年2月にはオランダ商館助手になった。この頃には日本語に能通しており、翌年には台湾長官ピーター・ヌイツの江戸参府の際に通訳をつとめた。
ヌイツに従いいったん台湾に渡ったが、末次船拘留事件で捕虜となり、大村に抑留された。
1630(寛永7)年5月にバタビヤ(ジャカルタ)に赴いて状況を報告し、10月には交渉のため日本に戻った。
ようやく1632(寛永9)年にオランダ船出航禁止の解除を勝ち取り、その報告のためバタビヤに赴いた。
1633(寛永10)年には商館長次席として平戸に赴任し、1634(寛永11)年3月と1636(寛永13)年5月に徳川家光に謁見した。
1636年6月には平戸に戻り、バタビヤ商務総監フィリップス・ルカスゾーンの質問に答えて『日本大王国志』を執筆した。
島原の乱の最中の1638(寛永15)年初、カロンはバタビヤに赴き、そこで平戸のオランダ商館長の辞令を受けた。9月に平戸に戻り、1639(寛永16)年2月の前商館長ニクラス・クーケバッケルの離日とともに館長職を継いだ。
6月にカロンは幕府に献上した迫撃砲の実射を麻生で行い、幕府側を満足させた。
1640(寛永17)年4月、カロンは江戸に参府し商館を長崎に移す計画を阻止しようと運動したがはかばかしくなく、家光への謁見もかなわなかった。
11月、平戸で「今後商館長は一年以上日本に滞在すべからず」との命令を受けたカロンは、これを承諾して翌年2月長崎を発ちバタビヤに向かった。
『日本大王国志 (Besechrijvinghe van het machtigh Coninckrijck Iapan) 』は1645年にオランダで出版され、ケンペルの『日本誌』が出るまで唯一の日本紹介書として重視された。
位置の高下を問わず、夫人はすべて政治上または社会的の事業に関係せず、一意主人に仕えることに力め、それが女の守るべき道であるとして教えられている。仮に尋ねた所で何らの返事を得ず、主人は怒って沈黙するのが通例である。故に賢い夫人は主人が毫も不満足を起こさぬように注意警戒する。
微罪と雖も死に当たる。特に盗みはたとえ一スタイフェルでも死に値す。賭博は死罪、殺人は過失であっても、謀殺であっても死罪、その他我々の本国で死刑に当たるものは皆当国でも同様である。刑法上の事件は個人の犯罪により個人が死に処せられるのみならず、父・兄・弟及び男子は連座して殺され、金財産は没収せられ、母・姉妹及び女子は奴隷に下され売却される。
日本国民殊に無邪気のように見える婦人は、悲痛の色を示さず、従容泰然として死に就く。
この国民は特に迷信的でも無ければ宗教的でも無い。彼等は朝夕、食膳・食後・あるいは時々祈ることも無い。一ヵ月に一度寺院に参詣する者は信心深いと言わざるを得ぬ。
僧侶並に貴族大身中には男色に汚れているものがあるが、彼らはこれを罪とも恥ともしない。
夫婦の間に自由選択は無い。凡そ結婚は双方の両親、両親が無ければ最も近い親戚の相談決定する所である。一夫一婦を本則とするが、妻が夫の気に入らぬ場合、夫は適当且つ名誉ある方法を以て妻を離別し得る。
彼らは子供を注意深くまた柔和に養育する。たとえ終夜喧しく泣いたり叫んだりしても、打擲することはほとんど、あるいは決して無い。
この国民は信用すべしと認められる。彼らは第一の目的である名誉に邁進する。また恥を知るを以て漫に他を害うことは無い。彼らは名誉を維持するためには喜んで生命を捨てる。 
『江戸参府旅行日記』 ケンペル
エンゲルベルト・ケンペル (Engelbert Kaempfer, 1651~1716) はドイツの医学者・博物学者で、1690〜92(元禄3〜5)年にオランダ商館の医師を勤めた。
在任中の1691年2月〜5月と1692年3月〜5月の二度にわたって、長崎・江戸間を往復した。
著書『日本誌 (Geschichte und Beschreibung von Japan) 』は死後の1717年にまず英訳本が出版され、ドイツ語版は1777〜79年にようやく出版された。東洋文庫版は、その第二巻第五章に当たる。
それから馬に乗っている日本人は、遠くから見ると非常に滑稽な姿勢をしている。なぜかというと、日本人は元来背が低く肩幅が広い体格をしているし、そのうえ馬上で大きな帽子をかぶり、幅が広くふくらんだ外套を着、ダブダブのズボンをはいているので、背丈と横幅がほとんど同じくらいになってしまうからである。
田畑や村の便所のそばの、地面と同じ高さに埋め込んだ蓋もなく開け放しの桶の中に、この悪臭を発するものが貯蔵されている。百姓たちが毎日食べる大根の腐ったにおいがそれに加わるので、新しい道がわれわれの眼を楽しませるのに、これとは反対に鼻の方は不快を感ぜずにはいられないことを、ご想像いただきたい。
そしてどんな小部屋でもきれいに飾ってあって、そうでないのを見受けることがないのは、国内の材料でこと足りるからである。従ってきれいにしておくことが一層容易なのである。家は杉や松の材木で建てられ、前から後ろへ風通しが良いように開け放すことができるので、大へん健康的な住居と考えてよい。
しかしながら、これらの法律を厳密に考察すると、われわれキリスト教徒の国々よりも、この大きな異教の国では、刑場が人間の肉体で満ち溢れ、犯罪人の血で煙ることは少ない。平生は自分の生命をそれほどとも思っていないこのタタール人的な強情な国民も、全く避け難い死刑に対する恐怖の念で甚だしく抑制され、犯罪の減少を可能にしている。
だから中国人が日本の国を、中国の売春宿と呼んだのは不当ではない。なぜなら中国では娼家と売春とは厳罰を課してこれを禁止しているからである。だから若い中国人は情欲をさまし銭を捨てに、よく日本にやってくるのである。
さて、長崎からの同伴者のような、人間のくずみたいな連中は除外しなければならないが、旅館の主人らの礼儀正しい応対から、日本人の礼儀正しさが推定される。旅行中、突然の訪問の折りにわれわれが気付いたのであるが、世界中のいかなる国民でも、礼儀という点で日本人にまさるものはない。のみならず彼らの行状は、身分の低い百姓から最も身分の高い大名に至るまで大へん礼儀正しいので、われわれは国全体を礼儀作法を教える高等学校と呼んでもよかろう。そして彼らは才気があり、好奇心が強い人たちで、すべて異国の品物を大へん大事にするから、もし許されることなら、われわれを外来者として大切にするだろうと思う。
住民は均整がとれていて小柄である。ことに婦人に関しては、アジアのどんな地方でも、この土地の女性ほどよく発育し美しい人に出会うことはない。ただ、いつもこってりと白粉を塗っているので、もしもその楽しげで朗らかな顔つきが生気を示すことがなかったら、われわれは彼女たちを操り人形だと思ったであろう。
見附の宿場はずれの小さい部落の手前には、ふしだらな女性が大勢いた。戸外には俄雨でずぶぬれになった瀕死の僧侶がうつぶせになっていた。それでもまだ生きている証拠にうめき声を出していたので、みんなは彼のことを死んでいるとは考えず、手荒く扱わないようにしていた。しかし、石も涙を流すかもしれないこうした場面にも、日本人は全く冷淡であった。 
『ベーリングの大探検』 S・ワクセル
S・ワクセル (Sven Waxell, 1701~1762) はスウェーデン人で、ロシア海軍に入り1733〜49年のベーリングの探検航海で副官を務めた。
探検の一環として、1739(元文4)年には日本遠征が行なわれ、スパンベヤ司令の第一船「天使長ミカエル」号とワルトン副指令が率いる第二船「希望」号がはぐれ、別々に日本人と接触した。
すると二隻の漁船がこぎ寄せてきた。漁民が船に上がってきて、新鮮な魚、米、大きいタバコの葉、塩漬けにしたキュウリなどをはじめいろいろな小さい売り物をひろげた。だがそれを売ろうとするのではなく、水夫たちに、何か小さい持ち物と交換してほしいという態度をして見せるのであった。彼らの交易態度はすこぶる合理的で、眼識も相当に高いものであった。
スパンベヤは、日本人の観察とその形態をつぎのように描いている。日本人は、なよなよしていて発育不十分な感じで、身長だけは中背に見えるが、これならば正しくたくましい壮者というような男に遭遇することはほとんどなかった。
そのはじめて来た舟艇は、ふたたび姿を現した。こんどはその船にいろいろな細かな品物を積んできて、それを買わせるか、またはロシアの品物と交換したい様子をして見せた。なかでも異彩を放ったものは、漆黒の染め味を出しているリンネルであった。司令も世界中これほどすばらしい染め色の出ているものを見たことがないといっていた。
スパンベヤ司令は、その後さらに数日にわたって日本の沿岸をまわって、つぶさにその実態を観察した結果、この国は容易ならない国であることを知った。彼は、よくもこの国を目ざして来たものと喜びにたえなかった。その一端をあげてみるとしても、まずその無数の船舶を見ただけでもわかることで、ヨーロッパで見られるものと比較しても、けっして見おとりのしない優秀なものが少なくない。同じく貨幣を収集してみても、十分にその優秀な文化を反映している。その他はいうにおよばず、その能力はあなどれない国民性をもっている。彼は口をきわめて、よくもこの国に来ることができた、日本こそ、やがて親交を結ぶべき国であると叫んだ。 
『江戸参府随行記』 C・P・ツュンベリー
C・P・ツュンベリー (Carl Peter Thunberg, 1743~1828) はスウェーデンの医学者・植物学者で、1775(安永4)年8月に長崎に着き、翌年春にオランダ商館長フェイト (Arend Willem Feith) の江戸参府に随行、同年12月離日した。
『1770年から1779年にわたるヨーロッパ、アフリカ、アジア旅行記 (Resa uti Europa, Afrika, Asia, förrättad ären 1770-1779) 』は1788〜93年にかけてスウェーデンで出版され、東洋文庫版はその日本に関する部分(第3巻の全部と第4巻の一部)である。
日本帝国は、多くの点で独特の国であり、風習および制度においては、ヨーロッパや世界のほとんどの国とまったく異なっている。そのため常に驚異の目でみられ、時に賞讃され、また時には非難されてきた。地上の三大部分に居住する民族のなかで、日本人は第一級の民族に値し、ヨーロッパ人に比肩するものである。しかし、多くの点でヨーロッパ人に遅れをとっていると言わざるを得ない。だが他方では、非常に公正にみてヨーロッパ人のうえをいっているということができよう。他の国と同様この国においても、役に立つ制度と害をおよぼす制度、または理にかなった法令と不適切な法令の両方が共存していると言える。しかしなお、その国民性の随所にみられる堅実さ、法の執行や職務の遂行にみられる不変性、有益さを追及しかつ促進しようという国民のたゆまざる熱意、そして100を超すその他の事柄に関し、我々は驚嘆せざるを得ない。このように、あまねくかつ深く祖国を、お上を、そして互いを愛しているこんなにも多数の国民がいるということ、自国民は誰一人国外へ出ることができず、外国人は誰一人許可なしには入国できず、あたかも密閉されたような国であること、法律は何千年も改正されたことがなく、また法の執行は力に訴えることなく、かつその人物の身上に関係なく行なわれるということ、政府は独裁的でもなく、また情実に傾かないこと、君主も臣民も等しく独特の民族衣装をまとっていること、他国の様式がとりいれられることはなく、国内に新しいものが創り出されることもないこと、何世紀ものあいだ外国から戦争がしかけられたことはなく、かつ国内の不穏は永久に防がれていること、種々の宗教宗派が平和的に共存していること、飢餓と飢饉はほとんど知られておらず、あってもごく稀であること、等々、これらすべては信じがたいほどであり、多くに人々にとっては理解にさえ苦しむほどであるが、これはまさしく事実であり、最大の注目をひくに値する。
通詞は洋書の大愛好家であり、日本へやってくる商人から毎年一冊ないし数冊の洋書を購入する。彼らは本を所有しているだけでなく、それを熱心に読み、かつ学んだことを記憶する。その上、ヨーロッパ人から何かを学ぼうという意欲に燃えており、あらゆる事柄、とくに医学、物理学、自然誌に関してたえず多くの質問をあびせるので、しばしばうんざりさせられる。
日本の陶磁器は藁を使ってごく丁寧にきちんと荷造りされているので、輸送中に割れることはまずない。これら陶磁器類は、見た目にはたしかに美しくも粋でもなく、どちらかといえば粗野で、厚ぼったく下手な塗りである。したがってこの点では、広東から輸出される中国製品には遥かに劣るが、熱に強いという長所があり、火の上においても簡単にひび割れするようなことはない。
日本人には平気で放屁するという悪癖がある。ヨーロッパならば大変な不作法となるが、日本人は恥ずべきこととは思っていない。他の点では、礼儀をわきまえた他民族と同じくきちんとしてる。
まったく奇異に思えるのは、幼女期にこのような家に売られ、そこで一定の年月を勤めたあと完全な自由を取り戻した婦人が、はずかしめられるような目で見られることなく、後にごく普通の結婚をすることがよくあることである。
日本人にとって、一般に羞恥はあまり美徳ではなく、また不貞はひろく行なわれているようである。女性は時どき仕切りのない場所で入浴しており、オランダ人が一度ならず目の前やそばを通っても、身を隠すような気配はほとんどない。
日本は一夫一婦制である。また中国のように夫人を家に閉じ込めておくようなことはなく、男性と同席したり自由に外出することができるので、路上や家のなかでこの国の女性を観察することは、私にとって難しいことではなかった。
既婚女性が未婚者とはっきり区別できるのは、歯を黒くしているからである。日本人の好みでは黒い歯はまさしく美しいものとされている。だが、大半の国なら家から夫が逃げだしてしまうしろものだ。大きな口にぎらぎらした黒い歯が見えるのは、少なくとも私にとっては醜く不快なものであった。
このような状況に、私は驚嘆の眼を瞠った。野蛮とは言わぬまでも、少なくとも洗練されてはいないと我々が考えている国民が、ことごとく理にかなった考えや、すぐれた規則に従っている様子を見せてくれるのである。一方、開化されているヨーロッパでは、旅人の移動や便宜をはかるほとんどの設備が、まだ多くの場所においてまったく不十分なのである。
注目すべきことに、この国ではどこでも子供をむち打つことはほとんどない。子供に対する禁止や不平の言葉は滅多に聞かれないし、家庭でも船でも子供を打つ、叩く、殴るといったことはほとんどなかった。まったく嘆かわしいことに、もっと教養があって洗練されているはずの民族に、そうした行為がよく見られる。学校では子供たち全員が、非常に高い声で一緒に本を読む。そのような騒々しい場所では、ほとんど聴力を失ったようになる。
その国のきれいさと快適さにおいて、かつてこんなにも気持ち良い旅ができたのはオランダ以外にはなかった。また人口の豊かさ、よく開墾された土地の様子は、言葉では言い尽くせないほどである。国中見渡す限り、道の両側には肥沃な田畑以外の何物もない。
私はヨーロッパ人が滅多に入国できないこの国で、長い旅の間に、珍しい道の植物をたくさん採集することができるであろうと想像していた。しかしこうした望みが、この国ほど当てはずれになった所はない。私はここで、ほとんど種蒔きを終えていた耕地に一本の雑草すら見つけることができなかった。それはどの地方でも同様であった。このありさまでは、旅人は日本には雑草は生えないのだと容易に想像してしまうだろう。しかし実際は、最も炯眼な植物学者ですら、よく耕作された畑に未知の草類を見いだせないほどに、農夫がすべての雑草を入念に摘みとっているのである。
各家に不可欠な私的な小屋(厠)は、日本の村では住居に隣接して道路に向けて建てられている。その下部は開いているので、通りすがりの旅人は表から、大きな壷のなかに小水をする。壷の下部は土中に埋められている。尿や糞、また台所からの屑類は、ここでは耕地を肥沃にするために極めて丹念に集められているが、暑熱下にしばしばそこから非常に強く堪え難いほどの悪臭が発生する。
江戸と都を結ぶ街道のあちこちに、たいていは足に障害のある乞食がいた。この国の他の場所では障害者はごく稀だったので、これは私には極めて異常なことに思われた。
日本人は体格がよく柔軟で、強靭な四肢を有している。しかし彼らの体力は、北ヨーロッパ人のそれには及ばない。男性は中背で、一般にあまり太っていないが、何回かはよく太った人を見た。
一般的に言えば、国民性は賢明にして思慮深く、自由であり、従順にして礼儀正しく、好奇心に富み、勤勉で器用、節約家にして酒は飲まず、清潔好き、善良で友情に厚く、率直にして公正、正直にして誠実、疑い深く、迷信深く、高慢であるが寛容であり、悪に容赦なく、勇敢にして不屈である。
自由は日本人の生命である。それは、我儘や放縦へと流れることなく、法律に準拠した自由である。法律はきわめて厳しく、一般の日本人は専制政治化における奴隷そのものであると信じられてきたようである。しかし、作男は自分の主人に一年間雇われているだけで奴隷ではない。またもっと厳しい状況にある武士は、自分の上司の命令に服従しなければならないが、一定期間、たいていは何年間かを勤めるのであり、従って奴隷ではない。日本人は、オランダ人の非人間的な奴隷売買や不当な奴隷の扱いをきらい、憎悪を抱いている。身分の高低を問わず、法律によって自由と権利は守られており、しかもその法律の異常なまでの厳しさとその正しい履行は、各人を自分にふさわしい領域にとどめている。
礼儀正しいことと服従することにおいて、日本人に比肩するものはほとんどいない。お上に対する服従と両親への従順は、幼児からすでにうえつけられる。そしてどの階層の子供も、それらについての手本を年配者から教授される。その結果、子供が叱られたり、文句を言われたり打たれたりすることは滅多にない。
この国民は必要にして有益な場合、その器用さと発明心を発揮する。そして勤勉さにおいて、日本人は大半の民族の群を抜いている。彼らの鋼や金属製品は見事で、木製品はきれいで長持ちする。その十分に鍛えられた刀剣と優美な漆器は、これまでに生み出し得た他のあらゆる製品を凌駕するものである。農夫が自分の土地にかける熱心さと、そのすぐれた耕作に費やす労苦は、信じがたいほど大きい。
節約は日本では最も尊重されることである。それは将軍の宮殿だろうと粗末な小屋のなかだろうと、変わらず愛すべき美徳なのである。節約というものは、貧しい者には自分の所有するわずかな物で満足を与え、富める者にはその富を度外れに派手に浪費させない。節約のおかげで、他の国々に見られる飢餓や物価暴騰と称する現象は見られず、またこんなにも人口の多い国でありながら、どこにも生活困窮者や乞食はほとんどいない。一般大衆は富に対して貪欲でも強欲でもなく、また常に大食いや大酒のみに対して嫌悪を抱く。同時に、土地をタバコや他の無用な栽培には費やさないし、穀物は造酒と称するような有害なものの製造には利用されない。
清潔さは、彼らの身体や衣服、家、飲食物、容器等から一目瞭然である。彼らが風呂に入って身体を洗うのは、週一回などというものではなく、毎日熱い湯に入るのである。その湯はそれぞれの家に用意されており、また旅人のためにどの宿屋にも安い料金で用意されている。
正義は広く国中で遵守されている。君主が隣国に不正を働いたことはないし、古今の歴史において、君主が他国に対して野望や欲求を抱いた例は見いだせない。この国の歴史は、外国からの暴力や国内の反乱から自国を守った勇士の偉業に満ちている。しかし他国やその所有物を侵害したことについては、一度も書かれていない。日本人は他国を征服するという行動をおこしたことはないし、一方で自国が奪い取られるのを許したこともない。
正義と忠実は、国中に見られる。そしてこの国ほど盗みの少ない国はほとんどないであろう。強奪はまったくない。窃盗はごく稀に耳にするだけである。それでヨーロッパ人は幕府への旅の間も、まったく安心して自分が携帯している荷物にほとんど注意を払わない。だがこうした一方で、少なくともオランダ商館に働く底辺の民衆は、桟橋からまたは桟橋への商品の荷揚げまたは荷積みのさいに、特に砂糖や銅をオランダ人からくすねることを罪とは思っていないのである。
迷信は他の国民に比して、この国民の間により広くより深く行き渡っている。それは彼らがほとんど学問を知らないことと、異教の神学や無知な僧侶らがこの国民に教え込んだ原理によるものである。このような迷信は祭り、神事、神聖なる約束事、ある種の治療法、吉凶による日取りの決め方等々に見られる。
高慢は国民の大きな誤りの一つといえよう。いくつかのアジア民族が傲慢にも馬鹿げた思い込みをしているように、自分たちの神聖なる起源は神、天、太陽、月に他ならないと思いこみ、自分らは他の人種よりすぐれてると信じこんでいる。とくにヨーロッパ人は劣ると思っている。
前述した日本人の高慢、正義、そして勇気について知っていれば、この国民が怒りを抱けば、自分の敵に対してまったく容赦しないということについて驚くことはなかろう。彼らは尊大で大胆であると同様にまた、極めて執念深く無慈悲でもある。そして己れの激しい憎悪をむき出しにすることなく、しばしばそれを異常なまでの冷淡さの内に隠し、復讐の好機をねらう。この国民ほど、激情に流されることのない者を、私は知らない。
貞節は既婚未婚を問わず、まずまず守られてはいるが、それにもかかわらずこの国では不貞はありふれている。相手に不貞をはたらかれて屈辱をうけた者が自殺することもある。また当地では、ある男たちが妾を持つという不名誉な悪習がある。
一般的に言って、日本の学問はヨーロッパの水準より遥かに劣っている。しかしながら国史は、他のほとんどの国より確かなものであろうとされ、家政学とともに誰彼の区別なくあらゆる人々によって学ばれる。日本人は、自国の繁栄と存続のために最も必要にして有益なものは農業であると考えており、世界で日本ほどことさら農業に重きをおいている国はない。
工芸は国をあげて非常に盛んである。工芸品のいくつかは完璧なまでに仕上がっており、ヨーロッパの芸術品を凌駕することもある。ただ、一方ではヨーロッパの水準に達しないものがある。日本人は鉄や銅を使って非常に良い仕事をする。絹地や木綿地は、他のインド地域からの生産品より勝ることもあるがほぼ同程度である。漆器製品、それも特に古い物は、これまでにそれを生産した他のどの民族の品にも勝っている。
日本の法律は厳しいものである。そして警察がそれに見合った厳重な警戒をしており、秩序や習慣も十分に守られている。その結果は大いに注目すべきであり、重要なことである。なぜなら日本ほど放埓なことが少ない国は、他にはほとんどないからである。さらに人物の如何を問わない。また法律は古くから変わっていない。説明や解釈などなくても、国民は幼時から何をなし何をなさざるべきかについて、確かな知識を身につける。そればかりでなく、高齢者の見本や正しい行動を見ながら成長する。国の神聖なる法律を犯し正義を侮った者に対しては、罪の大小にかかわらず、大部分に死刑を科す。
このような国では農作業についての報酬や奨励は必要ない。そして日本の農民は、他の国々で農業の発達を今も昔も妨げているさまざまな強制に苦しめられるようなことはない。農民が作物で納める年貢は、たしかに非常に大きい。しかしとにかく彼らはスウェーデンの荘園主に比べれば、自由に自分の土地を使える。
商業は、国内のさまざまな町や港で営まれており、また外国人との間にも営まれる。国内の商取引は繁栄をきわめている。そして関税により制限されたり、多くの特殊な地域間での輸送が断絶されるようなことはなく、すべての点で自由に行なわれている。どの港も大小の船舶で埋まり、街道は旅人や商品の運搬でひしめき、どの商店も国の隅々から集まる商品でいっぱいである。とくに大商業都市はそうである。またこれらの商業都市、とりわけ国の中心地に位置する都では、いくつかの大きな市が催され、品物の売買のために国中から人々がどっと集まる。 
『日本幽囚記』 ゴロヴニン
ワシリー・ミハイロヴィッチ・ゴロヴニン (Vasilii Mikhailovich Golovnin, 1776~1831) はロシアの海軍軍人で、1811(文化八)年に国後島で捕虜となり、二年二ヶ月にわたって函館および松前に幽閉された。
1804年にロシアの遣日使節レザーノフが来日し通商を求めたが、幕府に拒否されると武力強圧策を皇帝に進言した。レザーノフが明確な命令を出さずにペテルブルグに戻った後、フォヴォストフ大尉が自己の判断で1806年9月に樺太を襲撃した。
この報せを受けた幕府は東北諸藩の兵力を動員し、北方警備に当てた。フォヴォストフはその後も千島に武力侵攻を続たため、幕府は1807年12月にロシア船打ち払い令を出した。
ゴロヴニンを艦長とするディアナ号は、1809年9月にカムチャツカに到着した。1811年には千島諸島の測量に従事していたが、7月11日に国後島に上陸したところを、ゴロヴニン以下ロシア人七名が日本側の捕虜となった。
一行は最初は函館、後には松前に幽閉され、奉行所の尋問を受けた。
1812年4月には、ムール少尉を除くロシア人六名が脱獄したが、九日後には全員が逮捕され、再び松前の獄舎に幽閉された。夏にリコルドが率いるディアナ号が国後島に来航し、高田屋嘉兵衛ら日本人数名をカムチャツカに拉致した。
1813年6月、ディアナ号は再び国後島に来航し、交渉のため水兵のシーモノフとアイヌ人通訳アレクセイが出牢して国後島に向った。交渉は妥結し、ディアナ号は9月28日に函館に入港し、ロシア人捕虜全員を収容してカムチャツカに帰還した。
『日本幽囚記 (1811-13) 』は1816年にロシア海軍印刷局から出版され、直ちにヨーロッパ各国語に翻訳された。このうちドイツ語からオランダ語への重訳が1817年に出ており、それを馬場佐十郎らが日本語訳した『遭厄日本紀事』が1825(文政8)年に出た。
「日本人もわれわれと同様に、直角三角形の(と私はそれを圖示した)兩邊の平方の和は斜邊の平方に等しいと思ってゐますか」 「むろん、その通りです」と彼は答へた。「何故です」とわれわれがたづねると、彼は最も争ひ難い方法でそれを證明した。といふのは兩脚器で紙上に圖形を描き、三つの正方形を切りぬき、そのうち兩邊の長さから取った二つの正方形を折つたり切つたりし、それを斜邊から作つた正方形の上にのせて、ぴつたりとその全面積を蔽つてしまつたのである。
さて私は、「日本側がわれわれを優遇し、釋放に同意したのは、彼等が臆病なためであり、ロシヤの報復を恐れたためである」といふ一部の批評についてもう自分の意見を述べてもよいであらう。私自身としては、われわれに對する日本側の態度は、全く彼等の人間愛に根ざすものと考へてゐる。その理由は次の通りである。もし現在日本側が恐怖心に押されたのだとしたら、その同じ恐怖心のため彼らが最初からロシヤとの和解を求めない筈はないではないか。ところが實際は、日本側では武力に訴へてもわれわれを打佛はうとした。のみならずわれわれが存命してゐるばかりでなく、日本側で大いに一同の健康保持に苦勞してゐる時に、われわれ一同は殺害されたとまで、リコルド君に傳へさせたではないか。しかし讀者はこの物語によつて、ロシヤ側が日本のために何をし、日本側がわが方のために何をしたかを知られたら、この點について自ら判斷がつくであらう。
われわれが美コの一つに數えてゐる資質のうち、現在日本人に缺けてゐるものが一つだけある。それはわれわれが剛毅、勇氣、果斷と稱するものであり、また時には男らしさといふものである。しかし彼らが臆病であるとしても、それは日本の統治の平和希求的な性質によるものであり、この國民が戰爭をしないで享受して來た永い間の太平のためである。いやむしろ流血の慘事に慣れてゐないためだと云つたがよからう。
罪惡のうちで最も日本人を支配してゐるのは肉慾らしい。日本人は法律上の妻は一人しか持つことは出來ないが、畜妾の權利を持つてゐるので、裕福な連中は遠慮なくこの權利を用ひ、破目をはづすことも屢々である。
復讐心もまた昔は、主として日本人特有の罪惡の一つに數へることが出來た。昔は身に蒙つた恥辱に對する復讐の義務は、恥辱をうけた側の子孫が恥辱を加へた方の子孫に對して復讐の義務を果すまで、祖父から孫までも、甚だしきは曾孫までも傳承したものである。しかし日本人たちの斷言するところによると、この凶暴な情熱は今では人の頭にそれほど強い作用を及ぼさず、恥辱はすぐに忘れられるやうになったそうである。
日本人は節儉ではあるが、吝嗇ではない。その證據として、彼らが常に守錢奴を大いに卑しみ、吝嗇ものについて彼等の仲間うちに辛辣なアネクドートが澤山できてゐることを擧げることが出來る。
日本の國民教育については、全體として一國民を他國民と比較すれば、日本人は天下を通じて最も教育の進んだ國民である。日本には讀み書きの出來ない人間や、祖國の法律を知らない人間は一人もゐない。日本の法律はめつたに變らないが、その要點は大きな板に書いて、町々村々の廣場や人目にたつ場所に掲示されるのである。
日本人は農業、園藝、漁業、狩獵、絹および綿布の製造、陶磁器および漆器の製作、金屬の研磨については、殆んどヨーロッパ人に劣らない。彼らは礦物の精煉もよく承知して居り、いろいろな金屬製品を非常に巧妙に作つてゐる。指物および轆轤業は日本では完成の域に達してゐる。その上、日本人はあらゆる家庭用品の製造が巧妙である。だから庶民にとつてはこれ以上、開化の必要は少しもないのである。
繪畫、建築、彫刻、製版、音樂そして恐らく詩についても、日本人はあらゆるヨーロッパ人より遥かに後れてゐる。彼らは各種兵學を通じてまだ赤ン坊で、航海術は沿岸航海以外には全く知つてゐないのである。
日本人はあらゆる階級を通じて、應對が極めて鄭重である。日本人同志の禮儀正しさは、この國民の本當な教養を示すものである。
しかし國民の總數に比すると、宗教的偏見を脱却した日本人の數は甚だ少數で、全體として見れば日本人は極めて信心深いどころか、迷信的でさへある。日本人は妖術を信じ、その妖術についていろいろの昔話をするのが好である。
日本では布教される各種の宗教や教派がいろいろと違ってゐるにも拘はらず、それは政府にも社會にも少しも不安を與へない。市民は誰でも好きな宗教を信じ、また好きなだけ幾らでも宗旨を代へる權利を持つてゐる。また良心に覺るところがあるとか、また何かの都合があるとかで轉宗しても、誰も何とも云はないのである。
日本政府はその立法上に極めて重大な缺陥が澤山あることを覺つてゐる。その缺陥のうちでも最も重大な點は刑罰の苛酷さであるが、政府はこれを一氣に變更することを恐れて、順を逐うて、極めて緩慢に改正してゐる。
とはいへ日本人の嫉妬ぶりは他のアジヤ民族のそれとは全然比較にならない。私から見ると、日本人は嫉妬ぶかいとは云へない。彼らは用心ぶかいだけだ。いやもつとあつさり云へば、日本人は西洋人よりも嫉妬ぶかくないとさへ考へてゐる。
日本人は自分の子弟を立派に薫育する能力を持つてゐる。ごく幼い頃から讀み書き、法制、國史、地理などを教へ、大きくなると武術を教へる。しかし一等大切な點は、日本人が幼年時代から子弟に忍耐、質素、禮儀を極めて巧みに教へこむことである。われわれは實地にこの賞讃すべき日本人の資質を何度もためす機會を得た。
日本では熱烈に論爭することは、大變に非禮で粗暴なことと認められてゐる。彼らは常にいろいろ申譯をつけて、自分の意見を禮儀正しく述べ、しかも自分自身の判斷を信じてゐないやうな素振りまで見せる。また反駁する時には決して眞正面から切り返して來ないで、必ず遠廻しに、しかも多くは例を擧げたり、比較をとつたりしてやつて來る。
日本には土臺のほかには石造の建築物はない。その原因は激烈な地震である。木造家屋は多くは一階建であるが、二階建もあることはある。しかし暖かな氣候のため、どの建物も概して手輕に出來てゐる。部屋部屋を區切る屋内の仕切りは、必ず移動式になつてゐるので、それを取り拂ふと、一軒の家屋を一つの部屋に變へることが出來る。
そのうへ名士や富豪はみな家の側に庭園を持つてゐる。日本人はこの方にかけては、なかなかの數寄者である。かれらは園藝がなかなか巧者で、庭造りのためなら何も惜まないといふ連中が澤山ゐる。しかし日本家屋の最上の装飾であり、最も賞賛すべき装飾と認むべきものは、上下を通じて守られてゐる小ざつぱりと清潔なところであらう。
日本人はヨーロッパ人に比べると、食が大變に細い。われわれは監禁中、運動しなくても、ひとりで日本人の二人前は食べてゐた。また旅行中はこちらの水兵一人前でおそらく日本人の三人が滿腹する位であつたらう。
日本人は至つて快活な氣風を持つてゐる。私は親しい日本人たちが暗い顔をしてゐるのを見たことは一度もない。彼らは面白い話がすきで、よく冗談をいふ。勞働者は何かする時には必ず歌を歌う。
これについて特記すべき點は、日本の銅器が極めて精巧にできてゐることである。われわれは日本で使つてゐた薬罐の丈夫さに何度も驚かされたものである。薬罐は何ケ月も囲爐裏に掛けつぱなしになつてゐても、少しも痛まないのであつた。
日本で出來るほどの漆器類はどこに行つても出來はしない――といふことはもうヨーロッパ人も知つてゐる。
鋼製品はどうかといふと、日本の大小刀は、おそらくダマスク製を除いて、世界中のあらゆる同種の製品を凌駕してゐる。それは極端な試練に堪へるものである。鋼その他あらゆる金屬の研磨にかけては、日本人は一頭地を抜いてゐる。彼らは金屬の鏡まで作るが、それはガラスの鏡と同様に立派に反射するのである。われわれは日本の指物や大工道具をたびたび見たが、それは丈夫さから云つても、仕上げの美事さから云つても、イギリス製にほとんど劣らない。
日本の陶器は支那の陶器より遥かにすぐれてゐる。ただ大變に高價で、全國の需要をみたせない位に僅かしか生産しないので、日本人は支那から澤山の陶器を輸入してゐる。
しかし日本人は上等の綿布は作れないか、でなければ作らうとは思はないらしい。われわれは人並みの綿布は一度も見たことがなかつた。われわれの持つてゐた東インド産のハンカチやうすものの襟巻を見ると、日本人たちはそれが綿織物だとは信じないのであつた。
日本人は金屬の像を鑄造し、石造や木造を刻むことも出來るが、われわれが松前の寺院で見た偶像から判斷すると、この藝術は日本ではまだ非常に未完成の状態にある。また繪畫や、製版や、印刷にかけても日本人は、これらの藝術がまだいはば小兒時代にあるヨーロッパ諸民族に比べても、なほはるかに立ちおくれてゐる。しかし彫像以外の彫刻にかけては日本人はかなり器用である。また貨幣も、金、銀、銅貨を通じて相當によく鑄造してある。
日本人は手工にかけて仕事ずきであると同様に、産業にかけても倦むことを知らない國民である。ことに漁業は巧妙で、非常に熱心にこれに從事してゐる。
日本人の商賣好きは、どの町どの村に行つてもよく現はれてゐる。ほとんどどの家にも、いろいろな必要品を賣る店がついてゐる。イギリスに行くと、數十萬もする寶石店の隣りに牡蠣屋があると云つた光景をよく見かけるが、それと同様に日本でも高價な絹織物を商ふ商人と、草鞋商人とが隣り同志に暮らしたり、店を開いたりしてゐるのである。日本人はあらゆる秩序を通じて實にイギリス人と似てゐる。彼らはイギリス人と同様に清潔と極端な正確さを要求する。イギリスではどんな下らぬ品にも品名、價格、使用法、製造者または工場の名、さては褒賞をうけたことなどを書きこんだ印刷物が附いてゐるが、日本人もこれと同様にほとんどあらゆる商品に小さな印刷物を附けてゐる。
日本人は工兵の方の學問についても、兵學の他の領域と同様に、大して判つてゐない。われわれの見ることを得た日本の要塞や砲臺は、全くでたらめな構造で、(この構築者たちは經驗とか築城學の法則はおろか、常識さへ守つてないぞ)と考へるほど滑稽にできてゐた。
われわれは日本水夫の敏捷さをたびたび目撃した。かれらが海岸ぞひの猛吹雪を冒し、また潮の干滿が殘りなく猛威を振ふ河から海への落ち口の世にも物凄い潮流を冒して、あの大きな船を輕快巧妙に操つてゐるのは驚くべきものがある。かういふ海員にはどんな期待でも掛けることが出來る。日本の水夫は仕事が多難で危険なだけ報酬も澤山とつてゐるけれども、金使ひの荒らさはイギリスの船員に似てゐる。何ケ月も生命がけで稼いだ金を、酒店や賣笑婦に數日の中に使つてしまふのである。 
『江戸参府紀行』 シーボルト
フランツ・フォン・シーボルト (Philipp Franz Jonkheer Balthasar von Siebold, 1796~1866) はドイツの医学者・博物学者・日本学者で、1823(文政6)年に来日し、1829(文政11)年にシーボルト事件で追放されるまで、日本の蘭学界にとてつもなく大きな影響を与えた。追放後はオランダで日本関連資料の整理に当たり、『日本』『日本植物誌』『日本動物誌』を出版した。
その後日本の開国に伴い、シーボルトの入国禁止令も解除されたため、1859(安政6)年に再来日して1862(文久2)年まで滞在した。
東洋文庫版の『江戸参府紀行』は、大著『日本 (Nippon) 』の第2章である。
1826(文政9)年参府時の商館長はヨハン・ウィレム・ドゥ・スチュルレルで、シーボルトとその助手のハインリヒ・ビュルガーが同行した。日本人は通詞の他、シーボルトの門人の高良斎・二宮敬作・石井宗謙・西慶太郎、画家の登与助、シーボルトの召使の伊之助と熊吉らが同行した。
一行は2月15日に長崎を出発、4月10日に江戸に着き、5月1日と4日に将軍家斉に拝謁した。帰りは5月18日に江戸を発ち、7月7日に長崎に着いた。
察するに昔の日本の船は朝鮮のものの模倣であって、年代記の記述によれば、日本人は紀元前4 – 3年に朝鮮の船を知っていた。われわれが神社の奉納画で見るような古代の日本船の絵はこうした見解の正しいことを示している。ともかくそれは独特な構造をもっていて、今日にいたるまで支那の造船術からほとんど受けついでいるものもないし、ヨーロッパの造船術からの影響は皆無である。
勤勉な農夫は自然の蕃殖力と競う。驚嘆すべき勤勉努力によって火山の破壊力を克服して、山の斜面に階段状の畑をつくりあげているが、これは注意深く手入れされた庭園と同じで――旅行者を驚かす千年の文化の成果である。
しかし(小倉)藩の下級武士の家族や召使が住んでいる町はずれでは、裕福な暮らしというのは当てはまらないように見える。それゆえ私の助力をもとめてやって来たたくさんの患者は、――たいていは慢性の皮膚病・眼病であるが――痼疾の梅毒や胸・腹部の古い疾患に起因する彼らの症状によって、われわれがこの町にはいって来た時に驚いたこぎれいな住居は、ただ貧困をかくしているに過ぎないことを打ち明けていた。
日本人は自分の祖国に対しては感激家で、先祖の偉業を誇りとしている。教養ある人も普通の人も天皇の古い皇統に対し限りない愛情を抱き、古い信仰や風俗習慣を重んじる。それゆえ外国人が、日本人の民族性に追従し、彼らの宗教や風俗習慣を尊重し、そして原始時代の伝統や神として崇められた英雄の賛美に好意をもって耳をかたむけるのは、非常に結構なことである。
われわれの出発前まだ出島にいたころ、博物学の知識を少しは持っていた給人に、ヨーロッパ人が日本で集めることが許されている天産物のコレクションやその他の珍しい物を見せて、私の関心事に彼を引きつけておいた。日本人特有の知識欲と自然の珍しい物に対する愛着とは、ある秘密の目的を私がとげようと努めていた時には、いつも役に立った。
日本において国民的産業の何らかの部門が、大規模または大量生産的に行なわれている地方では一般的な繁栄がみられ、ヨーロッパの工業都市の人間的な悲惨と不品行をはっきり示している身心ともに疲れ果てた、あのような貧困な国民階層は存在しないという見解を繰り返し述べてきたが、ここでもその正しいことがわかった。しかも日本には、測り知れない富をもち、半ば餓え衰えた階級の人々の上に金権をふるう工業の支配者は存在しない。労働者も工場主も日本ではヨーロッパよりもなお一層きびしい格式をもって隔てられてはいるが、彼らは同胞として相互の尊敬と好意とによってさらに堅く結ばれている。
日本の国民は小さい町の中でも、しつけの良い従順な多数の家族に比較できる。長老――高官や大名は自分たちの家族のことで、たえ難い心痛を覚えることがヨーロッパではよくあるのは遺憾にたえないが、日本ではそういう懸念は滅多になく――彼らは子供を家庭で教育し、あるいは学校で勉強させる。
川を渡ってまもなくわれわれは府中に着き、この土地の産物である有名な木工品や編細工品を見るために、長い街道を歩いて通り過ぎた。この地方は竹で編んだたいへんよくできている籠やときには高価な木で作った種々の家具、その他の漆器・人形・石の彫刻等々で、全国的に有名である。午後にこれらの製品がたくさんわれわれのところに運ばれて来たが、実際に技巧の入念なことはどんなにほめてもよいほどである。しかしこの商人たちは、われわれが自信をもって言い値の4分の1に値切ってもさしつかえないほど法外の値段をふっかけてくる。
全住民のうちの大名という階級をわれわれによく示しているのは、この人たちの愛すべき家族たちであった。端正・礼儀作法と上品、心からの親切・誠実・誇りの影さえみせぬつつましやかな教養などはお丈夫な老候(薩摩藩主・島津重豪)にも、子供たちや夫人たちにも現われていた――要するにこれらすべては、教養あるヨーロッパ人の尊敬に値する特性である。
私は、たとえば宿の主人のような低い階層の日本人との交際についてたいへんきびしく自分の意見を述べたことに対し、実に申訳けないと思う。この善良な男とその家族は、読者は是認されるに相違ないが、静かな夜を淋しく過ごすわれわれをできるだけ愉快にしようとして、本当に最善をつくしたのである。
こんなに多くの人間が住んでいる都会では高度の贅沢とひどい貧乏の両極端がみられる。大名たちの食膳に出すためには、一升の米から数粒を、しかもいちばん大きくて上質のものをえらび出し、何度も洗ってさらに調べ、たいた釜の中からただ真ん中のところだけを使うので、20分の1以上はむだになってしまう。同様に魚類・野菜類・そのほかの食品ならびに酒類は大名屋敷ではむだに使われる。これに反して乞食などの最低の階級の者は、人の住む家にさえも住めず冬の寒空にあわれな露命をつないでいる。まったく江戸にみるよりひどい貧困と甚しい贅沢とはこの国のどこにも見受けられない。食料品の値段は非常に高く、おそらく日本の他の地方の城下町より五倍は高い。
全国の財貨が集まる非常に重要な商業都市では、罪を犯す幾多の機会が生じる。それでも実際の犯罪者はまれであるということを、われわれは日本人全体の名誉のために言っておかなければならない。数をあげると、一年中、大坂の町で約百人の犯罪者が死刑に処せられるだけである。
ちょうど妹背山(Imose Jama)という外題で有名な芝居が上演された。役者の中にはたくさんの一流の芸術家がおり、彼らはヨーロッパにおいてさえ一般の拍手を受けたであろう。国民性と情熱のたくまない表現とがひとつになった彼らの身振りや台詞回しは全く賞賛に値するものであったし、彼らの高価な衣装はその印象を高め、劇場そのものの貧弱な設備を忘れさせた。
大坂の町からは、特別な設備をして糞尿を積んだ汚穢舟がよくやってくるが、これは日本じゅうで使われている肥料で、夏期にはいろいろな野菜や穀物に施すのが普通である。そのため六、七および八月にはすべての地方、特に大都会周辺の地方は悪臭に満ちていて、すばらしい自然を楽しむのにたいへん妨げとなることがよくある。 
『フリゲート艦パルラダ号』 ゴンチャロフ
I・A・ゴンチャロフ(Ivan Alexandrovich Goncharov, 1812~1891)はロシアの作家で、1852〜55年にプチャーチン提督が率いるフリゲート艦パルラダ号に同乗し、アフリカ・ジャワ・シンガポール・香港・小笠原・日本・フィリピン・朝鮮を経てシベリアに到った。
父島でコルヴェット艦オリヴーツァ号・運送船メシニコフ侯号・スクーナー船ヴォストーク号と落ち合ったパルラダ号は、三隻を従えてロシア暦1853年8月10日(嘉永6年7月16日)長崎に入港した。
すぐさま長崎奉行所との交渉に入ったが埒が明かず、11月11日(和暦10月23日)パルラダ号は上海に向かった。
12月22日に再び長崎に入港したプチャーチンは、幕府全権川路左衛門尉らと交渉を重ねた。
1854年1月21日(嘉永7年1月4日)、パルラダ号は長崎を出航し、ペリー艦隊と入れ替わりに那覇に入港した。
2月9日に那覇を出航したパルラダ号は、フィリピン滞在を経て3月9日に済州海峡の巨文島に上陸し、4月9日に三度長崎に入港した。
4月15日に出航して朝鮮の東海岸を探査しながら北上し、ハヂ湾でディアナ号を待った。
本書は1858年に出版された。岩波文庫版『日本渡航記』に訳出されているのは、1853年6月の香港滞在から1854年2月の琉球出発までである。
我々がフランス語を、スウェーデン人がドイツ語を、學者がラテン語を知つてゐるやうに、日本人はみな支那語を知つてゐる。彼等は日本語でも、支那語でも書くが、支那文字を自己流に發音するだけである。總じて言語も、進行も、習慣も、服装も、文化も、教養も、何も彼も支那から傳來したものである。
日本人でも別に變つたところはない。ただ服装と、例の愚劣極まる髪型が目障りになるだけのことである。その他の點ではこの國民は、ヨーロッパ人と比べなければ、相當に開けて居り、應待も氣樂で氣持がよく、又あの獨特の教養は極めて注目すべきものがある。
彼等は大砲や小銃を見て廻り、イギリスで購入した新式表尺のついた小銃の説明を傾聴した。すべてが彼等に物珍しかつた。日本人達は餘り露骨に見せまいと自制してはゐたが、その好奇心には幼稚な、子供じみたところが澤山あつた。
美しい顔は殆んど見かけなかつたが、特色のある顔は非常に多く、大部分が、いや殆んど全部がさうである。
まづ眼につくのは、中庭や、茣蓙を敷いた木造の階段や、それから當の日本人のなみはづれたC潔さである。この點は全く感服せざるを得ぬ。彼らは身體も、衣服も、C潔でこざつぱりとしてゐる。
日本人は何の臭氣も出さない。頭を見ると、髷の下はきれいに剃り上げた盧頂である。むき出しの腕は、廣い袖から奥の方まで見え、日に焦げてこそゐるが、C潔だ。その動作は禮儀正しく、その應待は鄭重である。一口に云へば誰に見せても立派な人間なのだ。ただ彼等を對手にしては仕事は出來ない。引きのばして、ちょろまかして、嘘をついて、その揚句が拒絶するのだ。毆るには可哀さうだ。彼等は、たとひ拒絶すまいと思つたり、前例のない事件をやらうと思つたりしても、それがよい事でも、少なくとも進んではやれないやうな制度を作つてゐるのだ。
彼等のあの無感動の蔭に、どれだけの生命が、どれだけの陽氣さが、剽輕さがかくされてゐることだらう!豊かな才能、天分があることは、些細な事柄にも、つまらぬ會話にも現はれてゐる。だが又、内容といふものがない。本来の生活力が全く沸き盡き、燃え盡きて、C鮮な新原則を求めてゐる、といふことも判る。日本人は非常に活潑で、天眞爛漫である。支那人のやうな、愚劣なところが少い。
私は遂に日本の婦人を見た。男子と同じ袴で、咽喉を包む上着を着て、頭だけが剃つてない。立派な身装りの婦人は、ピンで後から髪をとめてゐる。みんな色黒で、大變見苦しい!
戰爭に訴へて日本に強制することとなるかも知れない。だがこの點においても日本は支那よりも遥かに優越してゐる。もし日本がヨーロッパから軍事技術を取り入れて港灣を堅めたならば、如何なる攻撃を受けても、安全となるであらう。日本を滅ぼし得るものは反亂だけである。
私達はどういふ結果になるかをお互に色々と論議し合つた。幼稚で、未開な癖に狡猾な日本人を相手のことで、確かな結論を下せなかつたからである。
だが現在でも日本をして一擧に開國させることが出來る。と云ふのは日本は餘りにも弱小であつて、如何なる戰爭にも堪へ得ないからである。
彼等は、あらゆるアジア人と同様に、官能の擒となつてゐて、その弱點を蔽くさうとも、責め立てようともしないのである。この點について何か詳しく知りたいことがあつたら、ケムペルかトゥンベルグの本を讀んで戴きたい。
日本人は一日に三度食事をするが、それは非常に攝生を守つた食べ方である。朝の起床時(彼等は大變な早起で、夜明け前のこともある)と、正午頃と、最後は晩の六時である。食事の量は非常に少いので、食慾の旺盛な者には日本の正餐では前菜にも足りない程である。 
『日本遠征記』 M・C・ペリー
M・C・ペリー (Matthew Calbraith Perry, 1794~1858) は米国の海軍軍人で、艦隊を率いて1853(嘉永6)年7月浦賀に来航し、翌1854(嘉永7)年神奈川で日米和親条約を締結した。
ペリーが蒸気船ミシシッピ号を率いてノフォークを出航したのは1852年11月24日で、翌1853年5月に上海でサスケハナ号に乗り換え旗艦とした。
ペリー艦隊は5月26日に那覇に入港し、ここを基地に沖縄本島と小笠原諸島を探査した。
7月2日、蒸気船サスケハナ号・ミシシッピ号および帆船プリマス号・サラトガの四隻は浦賀沖に停泊し、浦賀奉行所との交渉に入った。
7月14日、ペリーは乗員約300人を従えて浦賀に上陸し、フィルモア大統領の親書を戸田伊豆守・井戸石見守に手渡した。
7月17日、艦隊は江戸湾を去り那覇に向った。ペリーは琉球に交易所と石炭貯蔵所を開設させた後、香港に戻った。
1854年1月、蒸気船サスケハナ号・ミシシッピ号・ボーハタン号に帆船四隻を加えたペリー艦隊は香港を出航し、琉球を経由して2月13日に江戸湾に入った。
3月8日、ペリーは約500名を率いて横浜に上陸し、林大学頭を筆頭とする日本側代表と条約締結の交渉に入った。
3月31日、横浜で日米和親条約への署名が行なわれた。ペリーは開港場に指定された下田と箱館を調査した後、香港に戻った。
『日本遠征記』は、ペリーおよび士官数名の通信や日記に基づき、ペリーの監修の下にフランシス・L・ホークスが編纂したもので、1856年に議会の特殊刊行物として数十冊が刊行された。
日本人は極めて勤勉で器用な人民であり、或る製造業について見ると、如何なる國民もそれを凌駕し得ないのである。
彼等は外國人によつて齎された改良を觀察するのが極めて早く、忽ち自らそれを會得し、非常な巧みさと精確さとを以てそれを模するのである。金属に彫刻するのは甚だ巧みであり、金属の肖像を鑄ることもできる。
木材及び竹材加工に於て、彼等に優る國民はない。彼等は又世界に優るものなき一つの技術を有してゐる。それは木材製品の漆塗りの技術である。他の諸國民は多年に亙つて、この技術に於て彼らと形を比べようと試みたが成功しなかつた。
彼等は磁器を製作してゐるのだし、また或る人の語るところによれば支那人よりももつと立派に製作することができると云ふ。兎に角、吾々が見た日本磁器の見本は甚だ織巧美麗である。但し或る筆者の語るところによると、最良質の粘土が盡きたために、現在では嘗てのやうに立派に製造することができないと云ふ。
彼等は絹をつくる。そのうちの最良品は支那の絹よりも上等である。…木綿織物もつくられてゐるが、その製造にはさまで熟練してゐない。
必要にして、且つ交通の多い處には、屡々石で立派な橋をつくつてゐるが、トンネルをつくる技術を知らないやうである。土木工學上の或る原理を知つてゐてそれを適用してはゐるが、工兵學の原理を少しも知らない。…彼等は數學、機械學及び三角法を幾らか知つてゐる。このやうにして彼等は同國の甚だ立派な地圖をつくつたのであつた。
日本人は、活潑な氣性を有する多くの他の人民と同様に、珍奇なものに對する強い好奇心を有して居り、屡々はむしろ瞞着されるのも辭さないのである。
だが迷信が障害となつてゐる。死人に觸れることは汚れとされてゐるのである。このやうな研究をしないのだから、内科醫及び外科醫の知識もつまり不完全であることが明らかである。
藥品は大抵動植物であり、化學の知識は非常に乏しくて鑛物藥品を用ひようとしない。けれども醫用植物學については非常に意を用ひて研究して居り、彼らの療法は一般に有效であると云はれてゐる。
普通教育制度に似たものもあるやうである。何故ならばメイランが、あらゆる階級の男女兒童は差別なく初等學校に通學せしめられると述べてゐるからである。それが國家によつて維持されてゐるものかどうかについては語つてゐない。その學校で生徒等は全部讀み書きを教はり、自國の歴史についての知識をすこし手ほどきされるのである。かやうにして、最も貧しい農夫の子供にも大抵は學問が出來る仕組なのである。
日本音樂の中には、ヨーロッパ人とアメリカ人との耳に適ふやうなものがない。但し序に一言すれば、日本人は音樂を熱烈に愛してゐる。
すでに述べたやうに彼等は解剖學を全く知らない。従て彼等は彫刻家でもないし又肖像畫家でもない。彼等は遠近法を知らないので風景を描くことができない。然し一つの物體を表現する際の細部の正確さ、物の本質を眞實に把握する點では、彼等に及ぶものがない。彼らの不完全なのは構圖である。
彼らが藝術としての建築を知つてゐると云ふことはできない。但し甚だ巧みに石を彫つてそれを配置するのである。寶石造りも上手ではない。
これ等の日本役人は、何時もの通り、その好奇心を多少控へ目に表はしてゐたが、しかも、汽船の構造及びその装備に關するもの全部に對して、理解深い關心を示した。蒸気機關が動いてゐる間、彼等はあらゆる部分を詳細に檢査したが、恐怖の表情をせず、又その機械について全く無智な人々から期待されるやうな驚愕を少しも表はさなかつた。
日本人は何時でも、異常な好奇心を示した。それを滿足させるためには、合州國から持つて來た珍しい仕掛の色々な品物、種々の機械装置、巧妙珍奇な色々の發明品が、充分な機會を與へてくれた。彼等は、彼等にとつて驚くべき程不思議に見えるあらゆる物を、極めて詳細に檢査する事だけに滿足しないで、士官や水兵につきまとひ、あらゆる機會を捕へては衣服の各部分を檢査したのである。
疑もなく日本人は、支那人と同じく、非常に模倣的な、適合性のある、素直な人民であつて、これ等の特性のうちに、假令高級な文明の比較的高尚な原理や、比較的良好な生活ではなくとも、外國の風俗習慣が比較的容易に輸入されることを約束されてゐるのが見出されるだらう。
一言もつて云へば、日本人の饗應は、非常に鄭重なものではあつたが、料理の技倆について好ましからざる印象を與へたに過ぎなかつた。琉球人は明かに、日本人よりもよい生活をしてゐた。
二人の夫人は何時までも慇懃で、玩具の頸振り人形のやうに絶えず頭を下げた。彼女等は絶えず賓客に微笑をもつて挨拶してゐたが、微笑をしない方がよかつたらうと思ふ。唇を動かす毎に嫌な黒齒と色の褪せた齦が露れたからである。町長婦人はひどく鄭重で、自分の赤ん坊をつれてきたほど善良な性質であつた。賓客達はその赤ん坊をできるだけ可愛がらなければならないと感じた。但しその顔は垢だらけであり、一體にきたならしい様子だつたので、止むを得ず抱いたり頬ずりしたりして可愛がつたが、それは全く苦痛な努力であつた。
下流の人民は例外なしに、豊に滿足して居り、過勞もしてゐないやうだつた。貧乏人のゐる様子も見えたが、乞食のゐる證據はなかつた。人口過剰なヨーロッパ諸地方の多くの處と同じく、女達が耕作勞働に從事してゐるのも屡々見え、人口稠密なこの帝国では誰でも勤勉であり、誰をでも忙しく働かせる必要があることを示してゐた。最下流の階級さへも、氣持ちのよい服装をまとひ、簡素な木綿の衣服をきてゐた。
日本の社會には、他の東洋諸國民に勝る日本人民の美點を明かに示してゐる一特質がある。それは女が伴侶と認められてゐて、單なる奴隷として待遇されてはゐないことである。女の地位が、キリスト教法規の影響下にある諸國に於けると同様な高さではないことは確だが、日本の母、妻及び娘は、支那の女のやうに家畜でも家内奴隷でもなく、トルコの妾房(ハーレム)に於ける女のやうに浮氣な淫樂のために買ひ入れられるものでもない。一夫多妻制の存在しないと云ふ事實は、日本人があらゆる東洋諸國民のうちでは最も道コ的であり、洗練されてゐる國民であるといふ勝れた特性を現はす著しい特徴である。
既婚婦人が常に厭わしい黒齒をしてゐることを除けば、日本婦人の容姿は惡くない。若い娘はよい姿をして、どちらかと云へば美しく、立居振舞は大いに活潑であり、自主的である。それは彼女等が比較的高い尊敬をうけてゐるために生ずる品位の自覺から來るものである。
下田は進歩した開化の様相を呈して居て、同町の建設者が同地のC潔と健康とに留意した點は、吾々が誇りとする合州國の進歩したC潔と健康さより遙に進んでゐる。濠があるばかりでなく下水もあつて、汚水や汚物は直接に海に流すか、又は町の間を通つてゐる小川に流し込む。
民衆は皆日本人獨特の鄭重さと、控へ目ではあるが快活な態度とをもつてゐる。裸體をも頓着せずに男女混浴をしてゐる或る公衆浴場の光景は、住民の道コに關して、大に好意ある見解を抱き得るやうな印象をアメリカ人に與へたとは思はれなかつた。これは日本中到る所に見る習慣ではないかも知れない。そして實際吾々の親しくした日本人もさうではないと語つた。然し日本の下層民は、大抵の東洋諸國民よりも道義が優れてゐるにも拘らず、疑もなく淫蕩な人民なのである。入浴の光景を別とするも、通俗文學の中には淫猥な挿繪と供に、或る階級の民衆の趣味慣習が淫蕩なことを明かにするに足るものがあつた。その淫蕩性は啻に嫌になる程露骨であるばかりでなく、不名誉にも汚れた堕落を表はすものであつた。
函館はあらゆる日本町と同じやうに著しくC潔で、街路は排水に適するやうにつくられ、絶えず水を撒いたり掃いたりして何時でもさつぱりと健康によい状態に保たれてある。
吾々は、日本造船者の方法又は技倆に何等特異なものを見なかつた。下繪を畫き雛型をつくるための科學的法則を有するか否か、船の排水量を確かめるための科學的法則を有するか否かは疑はしく、又法律が全部の船舶を一つの型及び大きさに制限して居るから、恐らくそれらを必要としないであらう。
實際的及び機械的技術に於いて日本人は非常な巧緻を示してゐる。そして彼等の道具の粗末さ、機械に對する知識の不完全を考慮するとき、彼等の手工上の技術の完全なことはすばらしいもののやうである。日本の手工業者は世界に於ける如何なる手工業者にも劣らず練達であつて、人民の發明力をもつと自由に發達させるならば日本人は最も成功してゐる工業國民(マニュファクチャ−リング・ネーションズ)に何時までも劣つてはゐないことだらう。他の國民の物質的進歩の成果を學ぶ彼等の好奇心、それを自らの使用にあてる敏速さによつて、これ等人民を他國民との交通から孤立せしめてゐる政府の排外政策の程度が少ないならば、彼等は間もなく最も惠まれたる國々の水準にまで達するだらう。日本人が一度文明世界の過去及び現在の技能を所有したならば、強力な競争者として、将來の機械工業の成功を目指す競争に加はるだらう。
遠征隊の士官達が持ち歸つた繪入りの書物や繪畫のうち数個が今吾々の前にあるが、日本人のそれに示してゐる美術の性質をよく調べると、この注目すべき人民は他の非常に多くの點に於けると同じく美術にも驚くべき發達を示してゐることが著しく眼につく。
すでに述べたやうに汽船の機關が日本人の間に烈しい興味をよび起した。彼等の好奇心は飽くことを知らないやうであり、又日本の畫家達は機會ある毎に絶えず機械の諸部分を描き、その構造と運動の原理とを知らうとしてゐた。艦隊の二囘目訪問の際ジョーンズ氏は、機關全體を正しい釣合で畫いた完全な繪畫を日本人がもつてゐるのを見た。機械の数個の部分も適當に描かれてゐて他國で描かれてもこれ以上はできないほど正確で立派な繪圖であつたと彼は語つてゐる。
日本の宗教は偶像崇拜であるから、多數の彫刻をもつてゐる。從つて石造や金属像や木像が寺院や祠や路傍に澤山ある。これ等の彫像の千篇一律の手法には一般に大いに手工業上の熟練さが現はれてゐるが、いづれも藝術的作品と云ふことはできない。
低い周圍の家屋に比較してやゝ立派な諸所の寺院や門以外には、アメリカ人に對して日本建築の高い理想を印象づけた建築を見なかつた。この藝術部門中の最も立派な見本は、幾つかの石の堤道と石橋であつた。それらのものは屡々簡単にして雄渾なローマ式アーチを土臺にして設けられてゐるのであつて、その設計や疊石法は、他の國の最も科學的にして藝術的な構造のものにも匹敵する。
教育は同帝國到る所に普及して居り、又日本の婦人は支那の婦人とは異つて男と同じく知識が進歩してゐるし、女性獨特の藝事にも熟達してゐるばかりでなく、日本固有の文學にもよく通じてゐることも屡々である。
地震によつて生じた災禍にも拘はらず、日本人の特性たる反撥力が表はれてゐた。その特性はよく彼等の精力を證するものであつた。彼等は落膽せず、不幸に泣かず、男らしく仕事にとりかゝり、意氣阻喪することも殆どないやうであつた。 
『日本滞在期』 ハリス
タウンゼンド・ハリス (Townsend Harris, 1804-1878) は米国の外交官で、1856(安政3)年に初代駐日総領事として下田に赴任し、1858(安政5)年幕府と日米修好通商条約を締結した。
1853年、上海にいたハリスはペリー艦隊への同行を希望したが拒絶された。ハリスは駐日総領事を希望して帰国して運動し、ピアス大統領はペリーにも相談し、ハリスを派遣することとした。
1855年10月17日、ハリスは単身ニューヨークを出航し、インドでオランダ語通訳のヒュースケンと合流した。
1856年5月にタイとの条約を締結した後、8月21日に下田に到着した。
和親条約の英文では、総領事の駐在は一方の国が必要と認めれば派遣できるとなっていたが、日本文では両国が必要と認めた場合にのみ可能となっていた。そこで日本側は駐在を拒否しようとしたが、ハリスはこれを押し切って9月3日に柿崎の玉泉寺に入った。
1857年6月17日、ハリスはアメリカ人の居住権、長崎での薪水食糧等の供給、領事旅行権等を内容とする下田条約を下田奉行との間で締結した。
11月、ハリスは下田を発ち江戸の蕃書調所に入った。
12月7日、ハリスとヒュースケンは江戸城で将軍家定に謁見した。
1857年2月、ハリスは病を得て下田で静養した。
7月23日、ミシシッピ号が下田に入港し、英仏がインドと中国を屈服させたことを伝えた。ハリスはこれをタネに条約締結を迫った。
日米修好通商条約は1858年7月29日、ボーハタン号上で調印された。
柿崎は小さくて、貧寒な漁村であるが、住民の身なりはさっぱりしていて、態度も丁寧である。世界のあらゆる國で貧乏に何時も附き物になっている不潔さというものが、少しも見られない。彼らの家屋は、必要なだけのC潔さを保っている。土地は一吋もあまさず開墾されている。
料理は立派なもので、見る目も至って綺れいで、C潔なものであった。私は、彼らの料理に甚だ好い印象をうけた。
そして、我々一同はみな日本人の容姿と態度とに甚だ滿足した。私は、日本人は喜望峰以東のいかなる民族よりも優秀であることを、繰りかえして言う。
日本の法典は少し殘酷である。殺人、放火、強盗、大竊盗、それに父親に對する暴行には死罪が科せられる。
日本人はC潔な國民である。誰でも毎日沐浴する。職人、日雇の勞働者、あらゆる男女、老若は、自分の勞働を終ってから、毎日入浴する。下田には澤山の公衆浴場がある。料金は錢六文、すなわち一セントの八分の一である!富裕な人々は、自宅に湯殿をもっているが、勞働階級は全部、男女、老若とも同じ浴室にはいり、全裸になって身體を洗う。私は、何事にも間違いのない國民が、どうしてこのように品の惡いことをするのか、判斷に苦しんでいる。
又或る時ヒュースケン君が温泉へゆき、眞裸の男三人が湯槽に入っているのを見た。彼が見ていると、一人の十四歳ぐらいの若い女が入ってきて、平氣で着物を脱ぎ、「まる裸」となって、二十歳ぐらいの若い男の直ぐそばの湯の中に身を横たえた。このような男女の混浴は女性の貞操にとって危檢ではないかと、私は副奉行に聞いてみた。彼は、往々そのようなこともあると答えた。そこで私は、處女であると思われている女と結婚して、床入りの時そうでないことを知ったときには、男の方はどうするかと問うた。副奉行は、「どうにも」と答えた。
さて話題は、いつもの日本式のものへ移った。この人たちの淫奔さは、信じられないほどである。要件がすむや否や、彼らが敢て談ずる一つの、そして唯一の話題がやってくる。
私は、日本人のように飲食や衣服について、ほんとうに儉約で簡素な人間が、世界のどこにもあることを知らない。寶石は何人にも見うけられない。黄金は主として、彼らの刀劍の飾りに用いられている。ある特殊の場合は、金絲の入った錦織が緋や黄色のものとともに用いられるが、そんなことは滅多にない。それらは例外であって、法則ではない。着物の色は黒か灰色である。貴人のものだけが絹布で、その他すべての者の布は木綿である。日本人は至って欲望の少ない國民である。
なんとかして眞實が囘避され得るかぎり、決して日本人は眞實を語りはしないと私は考える。率直に眞實な囘答をすればよいときでも、日本人は虚偽をいうことを好む。
私は、どんな種類の美術品をも精巧に作るという點について、日本人の習性を買いかぶってきたと思う。彼らの政府の特性は、富と奢侈のために品物を作る腕前をふるうことを、禁じているように見える。奢侈禁止法は、形、色彩、材料と、すべての衣類の着換時を嚴しく取締っている。それだから、家具の贅澤なぞは、日本では知られていない。この國では、大名の邸宅の家具ですら、アメリカの謹直で堅實な職工の家に見られるものの半分の値打ちもないといって憚らない。純朴と質素は、この國の重要な格律となっている。それは最もおどろくべき方法によって實施されている。官憲の取締によって、日本人のあらゆる行為を抑壓しようとすることが、絶えざる仕事となっている。
見物人の數が増してきた。彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない――これが恐らく人民の本當の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開國して外國の影響をうけさせることが、果してこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるか、どうか、疑わしくなる。私は、質素と正直の黄金時代を、いずれの他の國におけるよりも、より多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と滿足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる。
私は、スチーム(蒸氣)の利用によって世界の情勢が一變したことを語った。日本は鎖國政策を抛棄せねばならなくなるだろう。日本の國民に、その器用さと勤勉さを行使することを許しさえするならば、日本は遠からずして偉大な、強力な國家となるであろう。 
『長崎海軍伝習所の日々』 カッテンディーケ
カッテンディーケ (Willem Johan Cornelis Huyssen van Kattendijke, 1816~1866) はオランダの海軍軍人で、1857〜59(安政4〜6)年に長崎の海軍伝習所の教官団長をつとめた。同伝習所は1855年7月設立され、ベルス・ライケンを団長とする第一次教官団が11月に到着した。
カッテンディーケ中佐は幕府から注文を受けた蒸気船咸臨丸を長崎に回航するとともに、第二次教官団を率いてライケンと交代するよう命令を受けた。
咸臨丸は1857年3月26日にレフートスロイスから出航し、9月21日長崎港に到着した。教官団は伝習所で教えるとともに、天草・五島・対馬・福岡・鹿児島等に練習航海に出た。
1859(安政6)年1月、幕府は練習艦の朝陽丸と咸臨丸を江戸に呼び寄せ、伝習所は練習航海ができなくなった。
3月10日、カッテンディーケは長崎奉行から伝習所閉鎖を告げられた。教室での講義は4月18日をもって停止された。
11月4日、カッテンディーケら教官団七名は商船で長崎を発ち、27日にバタヴィアに到着した。しかしポンペ軍医やハルデス機関士ら数名は、日本に残った。
この二世紀にもわたる長い間の平和は、国民の性格に影響を及ぼさずには済まなかった。歴史に伝えられるキリスト教掃滅の暴虐は、全く言語に絶し、今なお人心を戦慄せしめるものがある。その暴虐に比べると今の国民の温良さはまた格段で、日本人はたとい死は鴻毛のごとく軽く見ているとはいえ、かりそめにも暴虐と思われることは、いっさい嫌悪する。
ラウツ教授は知識欲に燃えているのが日本人の特徴であると言っているが、まことに至言である。例えばポルトガル人の渡来以来、日本人は如何によくヨーロッパ人の知識を咀嚼して自己のものにしおおせたか、これは世人の熟知するところである。
日本人は物解りは早いが、かなり自負心も強い。我々のしていることを見て、直ぐさま他人の助けを藉らずともできると思い、その考えの誤りであることを諭されても、なかなか改めようとはしない。その上、非常に頑固で、陳腐な観念にコビリついている。
私は一般に日本国民は、辛抱強い国民であると信じている。彼等はお寺詣りをするのが、努めであると考えており、我々がお寺に詣でることをも非常に喜ぶ。彼等の年長者に対する尊敬心および諸般の掟を誠実に遵守する心掛けなど、すべて宗教が日本人に教え込んだ性質であり、また慈悲心が強く惨虐を忌み嫌うのは、日本人の個性かとさえ思われる。
私はこうも考える、すなわち日本にはあまり貧乏人がいないのと、また日本人の性質として、慈善資金の募集に掛るまでに、既に助けの手が伸ばされるので、それで当局は貧民階級の救助には、あまり心を配っていないのではなかろうかと。
日本では婦人は、他の東洋諸国と違って、一般に非常に丁寧に扱われ、女性の当然受くべき名誉を与えられている。もっとも婦人は、ヨーロッパの夫人のように、余りでしゃばらない。そうして男よりも一段へり下った立場に甘んじ、夫婦連れの時でさえ、我々がヨーロッパで見馴れているような、あの調子で振る舞うようなことは決してない。そうだといって、決して婦人は軽蔑されているのではない。私は日本美人の礼賛者という訳ではないが、彼女らの涼しい目、美しい歯、粗いが房々とした黒髪を綺麗に結った姿のあでやかさを、誰が否定できようか。しかしいったん結婚すると、その美しい歯も、忽ちおはぐろで染めて真黒にする。
私に最も力抜けを覚えさせたことは、日本人が非常に大切な問題を扱う場合に、いとも事なげに扱うかと思えば、反対に何でもないことにダラダラと数ヶ月も審議に時を費やすといった頼りない態度であった。
日本人の悠長さといったら呆れるくらいだ。我々はまた余り日本人の約束に信用を置けないことを教えられた。
自分は日本人のすること、為すことを見るにつけ、がっかりさせられる。日本人は無茶に丁寧で、謙譲ではあるが、色々の点で失望させられ、この分では自分の望みの半分も成し遂げないで、ここを去ってしまうのじゃないかとさえ思う。
我々は若い娘たちに指輪を与えた。その娘たちはどうしたのか胸もあらわに出したまま、我々に随いて来る。見たところ、彼女たちは、われわれがそれによほど気を取られていることも気付かないらしい。我々が彼女たちの中で一ばん美貌の娘に、最も綺麗な指輪を与えたことが判ると、数名の娘たちは我々の傍に恥ずかしげもなく近寄って来て、その露出した胸を見せ、更に手をさわらせて、自分こそ一ばん美しい指輪をもらう権利があるのだということを知らそうとする。こんな無邪気な様子は他のどこでも見られるものではない。しかしこの事実から、これらの娘たちは自分の名誉を何とも思っていないなどと結論づけようものなら、それこそ大きな間違いである。
この国が幸福であることは、一般に見受けられる繁栄が、何よりの証拠である。百姓も日雇い労働者も、皆十分な衣服を纏い、下層民の食物とても、少なくとも長崎では、申分のないものを摂っている。もし苦力[クーリー]などが裸体のまま、街頭に立っていたとすれば、それは貧乏からではなくて、不作法のせいであると言う。それも尤もなことで、上流者は駕籠でなければ、町に決して出ないのである。
下層の日本人は、互いに礼儀というものを全然知らない。男も女も、また男の子と娘も、一つの同じ大きな風呂に入っていることが往々ある。我々がその風呂の傍を通ることがあれば、彼等はその風呂から飛び出し、戸口に立って眺めている。
これに反して、町人は個人的自由を享有している。しかもその自由たるや、ヨーロッパの国々でも余りその比を見ないほどの自由である。道徳および慣習に違反する行為は、間諜の制度によって、たちまち露見し、犯人は逮捕せられる。市民はそれを歓迎しているようだ。そうして法規や、習慣さえ尊重すれば、決して危険はない。
民衆はこの制度の下に大いに栄え、すこぶる幸福に暮しているようである。日本人の欲望は単純で、贅沢といえばただ着物に金をかけるくらいが関の山である。何となれば贅沢の禁令は、古来すこぶる厳密であり、生活第一の必需品は廉い。だから誰も皆、その身分に応じた財産を持つことができるのである。上流家庭の食事とても、至って簡素であるから、貧乏人だとて富貴の人々とさほど違った食事をしている訳ではない。日本人は頑健な国民である。苦力や漁師たちは、少なくとも長崎においては、冬でもほとんど裸で仕事をしている。しかも彼等は、歌をうたい冗談を喋りながら、すこぶる快活に仕事をしているのである。
日本人が他の東洋諸民族と異なる特性の一つは、奢侈贅沢に執着心を持たないことであって、非常に高貴な人々の館ですら、簡素、単純きわまるものである。すなわち大広間にも備え付けの椅子、机、書棚などの備品が一つもない。江戸城内には多数の人間がいるが、彼等は皆静粛を旨とし、城内は森閑としている。これはヨーロッパの宮廷にて見かける雑踏の騒音とは、まさに対蹠的な印象を受ける。
私は日本人ほど、無頓着な人種が他にもあるとは信じない。八、九月の頃、長崎市およびその付近でコレラ病が発生し、莫大な犠牲者を生じた時でも、住民は少しも騒がなかった。それどころか、彼等は町中行列を作り、太鼓を叩いて練り歩き、鉄砲を打って市民の気を浮きたたせ、かくして厄除けをしようとしていたようであった。
日本人の死を恐れないことは格別である。むろん日本人とても、その近親の死に対して悲しまないというようなことはないが、現世から彼あの世に移ることは、ごく平気に考えているようだ。彼等はその肉親の死について、まるで茶飯事のように話し、地震火事その他の天災をば茶化してしまう。だから私は仮りに外国人が、日本の大都会に砲撃を加え、もってこの国民をしてヨーロッパ人の思想に馴致せしめるような強硬手段をとっても、とうてい甲斐はなかろうと信ずる。そんなことよりも、ただ時を俟つのが最善の方法であろう。
一般にいって上海と長崎の間には大きな相違がある。何といっても、長崎のほうが勝っている。両市とも約六万の人口を有する商業都市であるから比較に便利である。長崎の町は広くて真直ぐで舗装されているに反し、上海のほうは狭隘で曲って、ごみごみしている。
私はこの支那の滞在中でも、ああ日本は聖なる国だと幾たび思ったことか。日本は国も住民も、支那に比べれば、どんなによいか知れない。だから二月四日の金曜日に、無事長崎番所付近に上陸して、菜種咲く畔を横切り、山を越え谷を渡って、幾町かを歩み、再び出島に帰り着いたその節は、ほんとに仕合せだと感じた。
想像力に非常に富んでいるところは、日本人とイタリー人がよく似ている。そうして祖先の英雄的行為を語る場合など、非常に昂奮するところなども、両者の似た点である。
人は何と言おうが、とにかく日本人ほど寛容心の大きな国民は何処にもいない。そうしてもし彼等の寛容心が、ただどうであろうが構わないという無頓着の結果でなかったならば、この点において我々キリスト教徒はたしかに教え導かるべきであろう。
私は日本の海軍士官が、全然部下の乗組員のことに関係しないのは、日本人の持って生まれた尊大心からであると思う。彼等は乗組員がどんなふしだらなことをしても、未だかつて叱責したことがない。それに触れては手を汚すという気持ちがそうさせないのである。こうした結果、下層民は前にも言ったとおり、全然上層民と関係がないから、誰にも抑制されることがない故、公衆の前でも平気でどんな乱暴でも働くということになる。
日本人は旺盛な独立心をもっているが、しかし水兵たちはその上官さえ、その育ちと経験によって水兵たちの信頼を獲得するだけの人物であるならば、彼等はよくその船内における自己の地位を弁えている。日本人はそのくらいのことは十分心得ている。そうして我々が時に大声で叱咤せねばならぬような場合には、我々の声におとなしく従い、与えられた命令を迅速に遂行するのである。
思うに日本海軍士官に、厳格なる船内規律の如何に必要であるかを認識せしめ、また彼等の先入観をいっさい取り除かしめる唯一の方法は、彼等をごく幼少の頃に、ヨーロッパ式軍艦に乗せて勤労を見習わしめることである。日本人は一般にすこぶる軽率である。
また彼等の物事に飽きっぽい性質は、常に士官の純科学的養成に一大障碍である。日本人は敏捷であるから、必要だとさえ感得するならば、如何なる学問でもごく僅かな時間のうちに、ただ上っつらの知識だけではあるが、苦労なしで覚えることができる。しかし悪いことには、ちょっと始めると直ぐさま彼等の好奇心は満腹して、忽ち他の変わったものに目をつける。何事でも徹底的に学ぶ辛抱というものが、彼らには欠けている。
日本人がその子らに与える最初の教育は、ルッソーがその著『エミール』に書いているところのものと非常によく似ている。多くの点において、その教育は推奨さるべきである。しかし年齢がやや長ずると親たちはその子供たちのことを余り構わない。どうでもよいといった風に見える。だからその結果は遺憾な点が多い。
私は或る階級の日本人全部の特徴である自惚れと自負は、すべて教育の罪だと思う。二百五十年の間、全く他国民と交渉を持たず、そうして外国人といえば、常に流刑者とばかり見るように教えられてきた日本国民が、井中の蛙のごとき強烈なる国民的自負を持つのも、あながち驚くには当たらない。日本人は非常に物わかりが早い。しかしまたその一面、こうした人々によくある通り、どうも苦労をしないで、あれもこれも直ぐ飽いてしまう。彼等は人倫を儒教によって学び、徳を磨くことに無限の愛を感じ、両親、年長者および教師に対し、最上の敬意を払い、政府の力や法規を尊重すること、あたかも天性のごとくである。その反対に、最も慎重に扱わねばならぬ事柄でも茶化してしまうような、軽薄な国民でもある。
日本人の悪い一面は不正直な点である。私はこれを始終経験した。これは皆その隣人を、あたかも密偵のごとくに思わしめるような政府の政治組織が悪い結果であると思う。外国人の関係する問題などが起こった場合、明瞭にこの日本人の不正直さが現われてくる。
私は彼等を高慢な、うわべを飾る、すれからしの、何でもむずかしいことは嘘をついて片づけてしまうという手合いと思っている。この他では、日本はつき合ってまことに気持ちの良い国民である。しかし決して物事を共にすべき相手ではない。善良なところも多々あるが、言葉の真の意味における友情などということは全く知らない。
他所では何処でも精神的文明が発達するにつれて、婦人は男子と相並んで社会上立派な地位を占めている。然るに日本の婦人は幾ら大切にせられ、自分の自由を持ってるとはいえ、男子に対しては絶対にあがめ奉ることを強いられている。
決して日本が一ばん不行儀な国であるとは言わないが、しかしまた文明国民のなかで、日本人ほど男も女も羞恥心の少ない国民もないように思われる。風呂は大人の男も女も、また若い男女も皆一緒に入るのであるが、男も女も真っ裸で風呂から町に出ているのを往々見かける。
この切腹から考えても、真の日本人は恥を受けるよりも、死を選ぶことが判る。だから日本人は勇敢な国民であることを疑わない。
私はこうした、まんざら不良でもない日本人観を持って日本を去った。ああ日本、その国こそは、私がその国民と結んだ交際並びに日夜眺めた荘厳な自然の光景とともに、永く愉快な記憶に残るであろう。 
『大君の都』 オールコック
ラザフォード・オールコック (Rutherford Alcock, 1809~1897) は英国の外交官で、1859(安政6)年に初代駐日公使として赴任した。前年、エルギン伯によって日英修交通商条約が締結された。広東にいたオールコックは辞令を受け、1859年6月4日長崎に到着した。6月26日、オールコックは軍艦サンプソン号で江戸に到着し、住居を高輪の東禅寺に定めた。9月末、オールコックは箱館を視察し、ホジソンを領事に任命して10月末江戸に戻った。
1860(安政七→万延元)年3月24日、大老井伊直弼が暗殺された。8月25日、オールコックは将軍家茂に謁見した。9月4日、オールコック一行は富士登山に出発、伊豆を旅行し3週間ほどで帰着した。11月27日、英人マイケル・モースが狩猟中銃の暴発で日本人役人を負傷させ、オールコックは1000ドルの過料と3ヶ月の禁固を言い渡し香港に追放した。
1861(万延二)年1月15日、米国公使館通訳ヒュースケンが暗殺された。オールコックは各国の公使と諮り横浜に移ったが、3月2日江戸に戻った。その直後オールコックはモース裁判の件で香港に出張し、5月末長崎に戻った。オールコックはオランダ総領事デ・ウィットらとともに大坂から東海道を歩いて7月2日神奈川に帰り着いた。7月4日、江戸の英国公使館(東禅寺)が襲撃され、オリファント書記官が重傷を負ったが、公使館員に死者はなかった。
1862(文久元)年1月23日、竹内下野守保徳を全権とする使節団が英国艦オーディン号で、ヨーロッパに向けて江戸を出航した。3月23日、オールコックは森山榮之助と淵辺徳蔵を伴い、これを追った。5月にロンドンに到着したオールコックは、本書 (The Capital of the Tycoon) を出版する手はずを整え、翌年に出版された。
長崎の町の山の手の部分の概観は、半ば荒廃した都市のようである。その理由の一半は道路の道幅にあり、他の一半はおびただしい人口をもつ中国の諸都市と比較してみたことにあると思う。商店には、品物が乏しいような感じがした。陶磁器・漆器・絹製品などがあるだけだ――江戸を相手に商売をしてるのではないであろうから、まったく見くびるのはどうかと思うが、それにしてもあまり心をひきつけるものはない。
かれらを、その類似点や相違点をも合わせて、全体的に考えてみると、日本のワビング(ロンドンのテームズ川ぞいのドックのある地区で、ロンドンの海からの入り口をなしている)ともいうべきこの港町から判断しただけで、すぐに数世紀にわたってかれらのなかに住みついた中国人居留民から悪習を教えこまれ、またオランダ人その他の外国人からも過去・現在をつうじて悪習を教えこまれながらも、愛想がよくて理知的で、礼儀正しい国民であり、そのうえに上品で、イタリア語とまちがえるような一種の柔らかなことばを話すという結論をえることができる。市が開かれる広場でのかれらのあいさつは、からだを低く折りまげてする品位があって入念なおじぎである。
いたるところで、半身または全身はだかの子供の群れが、つまらぬことでわいわい騒いでいるのに出くわす。それに、ほとんどの女は、すくなくともひとりの子供を胸に、そして往々にしてもうひとりの子供を背中につれている。この人種が多産系であることは確実であって、まさしくここは子供の楽園だ。
私は読者に、立体鏡の筒を目にあてがって、新しい時代や他の民族についての先入見や周囲の対象をことごとくしめだすようにおねがいする。このことは、まえまえから考えていたことで、そうすれば読者は、われわれの祖先がプランタジネット王朝(イギリスの王家:1154−1399)時代に知っていたような封建制度の東洋版を、よく理解することができるであろう。われわれは、12世紀の昔にまいもどるわけだ。なぜなら、「現在の日本」の多くの本質的な特質に類似したものは、12世紀にしかもとめられないからである。
よく手入れされた街路は、あちこちに乞食がいるということをのぞけば、きわめて清潔であって、汚物が積み重ねられて通行をさまたげるというようなことはない――これはわたしがかつて訪れたアジア各地やヨーロッパの多くの都市と、不思議ではあるが気持ちのよい対照をなしている。
日本人は、いろいろな欠点をもっているとはいえ、幸福で気さくな、不満のない国民であるように思われる。ところで、その欠点のうちでもっとも重要なことは、かれらには、軍事的・封建的・官僚的なカースト――これは、カーストというよりも、階級といった方がよいかも知れぬが、どちらも似たり寄ったりだ――があるということだ。
たしかに日本人は、なんでも二つずつというのを好むようだ。二元的原理が人間の組織のなかにはいり、全自然に浸透しているのをわれわれは知っているが、日本の特質のなかには、この二元的なものが、どこよりもひときわ念入りに進歩しているようだ。ある博学な医者が主張するように、われわれが外見上二つの目と耳をもっていると同じく、頭のなかには二つの完全な頭脳がはいっていて、そのおのおのが両者を合わせた機能のすべてを果たし、また独立したいくつもの思考さえ同時に営むことができるということが事実だとすれば、日本人の頭脳の二重性はあらゆる種類の複合体を生み、政治的・社会的・知的な全生活のなかにゆきわたり、これらをいわば二重化する方法を生み出してきたと見なすことができるであろう。日本では、ただひとりの代表だけと交渉するということは不可能だ。元首から郵便の集配人にいたるまで、日本人はすべて対になって行動する。
名詞に性がないということ、また三人称の「かれ」「彼女」「それ」などのあいだの差異を示す人称代名詞がないということは、日本語の文法上の顕著な事実なのだが、このことは、奇妙にも、公衆浴場の混浴その他の日常生活の習慣の面でも実践されているようだ。たしなみということについてのわれわれのいっさいの観念とはまったく反対のことが日本で行なわれていながら、しかもヨーロッパではそんなことをすれば必然的に生ずると思われる結果が日本でも生じているかどうかということを自信をもっていえるほど、われわれはまだその国民や社会生活に通じているとはいえないようだ。
すべてこういったことのなかで、われわれが第一に知ることは、妙に自己を卑下する傾向であり、個人主義・自己主張がある程度欠けているということだが、これは、他面、かれらの国民性のなかのあるものにひじょうに反している。日本人は、自分の種族や国家を誇り、自分の威厳を重んじ、すべて習慣やエチケットが規定するものを怠ったり拒絶したりすることによって自分たちに投げかけられる軽蔑とか侮辱にたいして、きわめて敏感である。それゆえ、当然のことながら、かれらは儀式張って堅苦しい国民である。かれらが軽蔑とか侮辱に敏感であるのにまったく正比例して、他人を腹立たせたり、他人の気にさわることを避けるために、ひじょうに気を使う。
だがいまでは、長い経験からして、わたしはあえて、一般に日本人は清潔な国民で、人目を恐れずたびたびからだを洗い(はだかでいても別に非難されることはない)、身につけているものはわずかで、風通しのよい家に住み、その家は広くて風通しのよい街路に面し、そしてまたその街路には、不快なものは何物もおくことを許されない、というふうにいうことをはばからない。すべて清潔ということにかけては、日本人は他の東洋民族より大いにまさっており、とくに中国人にはまさっている。中国人の街路といえば、見る目と嗅ぐ鼻をもっている人ならだれでも、悪寒を感じないわけにはゆかない。
それは、女が貞節であるためには、これほど恐ろしくみにくい化粧をすることが必要だというところをみると、他国にくらべて、男がいちだんと危険な存在であるか、それとも女がいちだんと弱いか、のいずれかだということである。
日本人の外面生活・法律・習慣・制度などはすべて、一種独特のものであって、いつもはっきりと認めうる特色をもっている。中国風でもなければヨーロッパ的でもないし、またその様式は純粋にアジア的ともいえない。日本人はむしろ、ヨーロッパとアジアをつなぐ鎖の役をしていた古代世界のギリシア人のように見える。かれらのもっともすぐれた性質のある点では、ヨーロッパ民族とアジア民族のいずれにもおとらぬ位置におかれることを要求するだけのものをもっているのだが、両民族のもっとも悪い特質をも不思議にあわせもっている。
どの役職も二重になっている。各人がお互いに見張り役であり、見張り合っている。全行政機構が複数制であるばかりでなく、完全に是認されたマキャヴェリズムの原則にもとづいて、人を牽制し、また反対に牽制されるという制度のもっとも入念な体制が、当地ではこまかな点についても精密かつ完全に発達している。
日本人は、おそらく世界中でもっとも器用な大工であり、指物師であり、桶屋である。かれらの桶・風呂・籠はすべて完全な細工の見本である。
しかしながら、そこにある建て物はけっして独創的なものではない。事実、それらは木造の建築物で、中国式の建て物をすこし修正したものにすぎない。寺院や門や大きな家は、いちじるしく中国風で、ただかたちが改良され、ひじょうによく保たれている。
かれらはきっときれい好きな国民であるにちがいない。このことは、われわれがどんなことをいい、あるいはどんなことを考えても、かれらの偉大な長所だと思う。住民のあいだには、ぜいたくにふけるとか富を誇示するような余裕はほとんどないとしても、飢餓や貧乏の徴候は見うけられない。
かれらの全生活におよんでいるように思えるこのスパルタ的な習慣の簡素さのなかには、称賛すべきなにものかかがある。そして、かれらはそれをみずから誇っている。
自分の農地を整然と保っていることにかけては、世界中で日本の農民にかなうものはないであろう。田畑は、念入りに除草されているばかりか、他の点でも目に見えて整然と手入れされていて、まことに気持ちがよい。
この土地は、土壌と気候の面で珍しいほど恵まれており、その国民の満足そうな性格と簡素な習慣の面でひじょうに幸福でありつつ、成文化されない法律と無責任な支配者によって奇妙に統治されている。わたしは「成文化されない」といったが、その理由は、閣老たちはわたしに成文の法典があるとはいうものの、わたしはいままでいちどもその写しを手にしたことがないし、それにかれらがわたしを誤解させていないかぎりは、それはいまだかつて印刷されたことがないからだ。
民族のある体質的な特徴は、ある道徳的な特徴とともに、世代から世代へと伝えられる。日本人のばあいにもこの例外ではなくて、うそをつくその性癖はなにか最初の体質が完全に身についてしまったに相違ない。それでもなおその上に、日本人はその性質のなかになにか上品で善良なものの痕跡を多くとどめている。
日本中どこでも、男はとくに計算がへたらしくて、この点ではヨーロッパ人の「くろうと」の好敵手たる中国人よりもはるかに劣っている。不思議なことに、女は、その主人よりもはるかに計算が上手である。それで、足し算や掛け算をするときには、かならず主婦の調法な才能にたよったものだ。
たしかに、乞食はいる。首都のなかやその周辺にはかなり多数いる。とはいえ、かれらは、隣国の中国におけるように無数にいるとか飢餓線上にあるのをよく見かけるというような状態にはまだまだほど遠い。
聞くところによれば、地代は地方によって、そしてまた土地の生産性にしたがって異なるようである。しかしながら、日本人はきわめて質素で窮乏しており、一般に貧しく見えるところから判断すると、耕作者にのこされるのは、かろうじて生きてゆくに足るだけの米と野菜、それにかれらがいつも着ているたいへん粗末でわずかばかりの着物を買うのにやっとのものだけらしい。
一般に、婦人たちの特徴になっているのは、おだやかな女らしいつつしみ深い表情と挙動であり、男たちのなかでも身分のいやしくない者は、その態度にある種の洗練さと優雅さがうかがえる。一方、下層階級の人びとでさえ、つねにたいへん礼儀正しく、他人の感情と感受性にたいする思いやりをもち、他人の感情を害することを好まない。そのような気持ちは、世間一般が野卑で粗野な束縛のない放縦が広く行なわれているなら、とてもたもちつづけることができないであろう。
商品や客をのせた何千という舟が広い水面をおおっており、どの橋にも外国人を見ようとする人びとが驚くほどぎっしりつめかけていた。まったく日本人は、一般に生活とか労働をたいへんのんきに考えているらしく、なにか珍しいものを見るためには、たちどころに大群衆が集まってくる。
日本人は、女には家庭の軽労働をさせ、男が戸外の重労働をするという点で、文明のすすんだ国のなかでひときわ目立っているように思えるのである。
全体のこの牧歌的な効果をそこなっていた唯一のものは、奇妙なことだが、婦人たちだった。歯を黒くして赤い紅をつけているとはいえ、彼女たちのもっともみにくいいやな点は、けっしてその顔ではないのである。実際、大君や大名がいかに絶対的かつ専断的な権利を行使しているかを考えると、十六歳以上ともなれば女が着物をまとわないで外へ出るのは重い犯罪であり、不行跡だとする法令がなかったとは、不思議ではないにしても残念なことだと思える。
現在日本を現実に支配しているのは、一種の封建的貴族制であると思われるが、これはある点ではロンバルディア公国(六世紀にイタリア北部ロンバルディアに樹てられ、774年シャルルマーニュゲルマン人の一派・ランゴバルド族によって倒された王国)やメロヴィンガ王朝(481 – 751年)のフランスや昔のドイツで、特定の家から王を選んだころの状態を思わせるものがある。貴族や領主の連邦が土地を所有し、サクソン時代やプランタジネット朝(1154 – 1399年)初期のイギリスの豪族と大体同じように支配権を享受しているように思われる。
わたしは、この著者の説にまったく賛成であって、日本人の悪徳の第一にこのうそという悪徳をかかげたい。そしてそれには、必然的に不正直な行動というものがともなう。したがって、日本の商人がどういうものであるかということは、このことから容易に想像できよう。
ある国においては、真理にたいする愛はほとんど認めがたい。日本はそんな国である。虚偽・賭博・飲酒はさかんに行なわれているし、盗みや詐欺もかなり行なわれており、刃傷沙汰も相当多い。しかし、わたしの意見をのべておくと、こういったことはキリスト教の律法のもとにおかれ、キリスト教の美徳を行なうのにもっと好都合な条件のもとにおかれていると信じられる多くのヨーロッパの国々におけるよりも、はるかに多いというわけではない。
政府は、封建的な形態を保持しており、行政のもとになっているのは、これまでに企てられたなかでももっと巧妙な間諜組織である。この組織は、必然的に文明化をさまたげる作因となり、知的・道徳的進歩にたいするひとつの障害として作用する。
わたしのいっているのは、男女の関係、法律によって認められた交わり、そして婦人の地位である。この点にかんしては、不当にも多くの讃辞が日本人に与えられてきたとわたしは信じている。ここでは日本人が国民全体として他国民より不道徳であるかないかといった問題には立ち入りたくない。しかしながら、父親が娘を売春させるために売ったり、賃貸ししたりして、しかも法律によって罪を課されないばかりか、法律の認可と仲介をえているし、そしてなんら隣人の非難もこうむらない。
日本政府がとっている制度ほど、思想・言論・行動の自由を決定的に抑圧する制度は、ほかに考えることが困難だ。さらにわたしは、日本の政治制度は、人間の最上の能力の自由な発達と相いれず、道徳的・知的な性質が当然熱望するものを抑圧する傾向にあり、正常にして根絶しがたいすべてのものをつちかい、発揮する手段を与えないと信じる。
物質文明にかんしては、日本人がすべての東洋の国民の最前列に位することは否定しえない。機械設備が劣っており、機械産業や技術にかんする応用科学の知識が貧弱であることをのぞくと、ヨーロッパの国々とも肩を並べることができるといってもよかろう。
日本人は中国人のような愚かなうぬぼれはあまりもっていないから、もちろん外国製品の模倣をしたり、それからヒントをえたりすることだろう。中国人はそのうぬぼれのゆえに、外国製品の優秀さを無視したり、否定したりしようとする。逆に日本人は、どういう点で外国製品がすぐれているか、どうすれば自分たちもりっぱな品をつくり出すことができるか、ということを見いだすのに熱心であるし、また素早い。
このように、世界でも最良の道路をもっておりながら、通信の速度と手段にかんする点では、かれらは他の文明世界に三世紀もおくれている。しかもこのひじょうに原始的な郵便も、人びとの必要にはなんの関係もなく、政府とその役人のあいだの連絡を保っておくのに役立っているだけである。
個人や公共の建て物の大きさなり価値については、もし日本の精神文明なり道徳文明がそんなもので評価されるとするなら、日本人にとっては酷なことであろう。かれらには建築と呼びうるようなものはない。…したがって、世界最大の都市のひとつである江戸の街路ほど、むさくるしくみすぼらしいものはない。大名の屋敷でさえ、同じような建て方の低い一列のバラックにすぎず、ただ屋根が高いだけだ。
すべての職人的技術においては、日本人は問題なしにひじょうな優秀さに達している。磁器・青銅製品・絹織り物・漆器・冶金一般や意匠と仕上げの点で精巧な技術をみせている製品にかけては、ヨーロッパの最高の製品に匹敵するのみならず、それぞれの分野においてわれわれが模倣したり、肩を並べることができないような品物を製造することができる、となんのためらいもなしにいえる。
だが、人物画や動物画では、わたしは墨でえがいた習作を多少所有しているが、まったく活き活きとしており、写実的であって、かくもあざやかに示されているたしかなタッチや軽快な筆の動きは、われわれの最大の画家でさえうらやむほどだ。
漆器については、なにもいう必要はない。この製品の創始者はおそらく日本人であり、アジアでもヨーロッパでもこれに迫るものはいまだかつてなかった。…日本人はきわめてかんたんな方法で、そしてできるだけ時間や金や材料を使わないで、できるだけ大きな結果をえているが、おそらくこういったばあいの驚くべき天才は、日本人のもっとも称賛すべき点であろう。
すなわち、かれらの文明は高度の物質文明であり、すべての産業技術は蒸気の力や機械の助けによらずに到達することができるかぎりの完成度を見せている。ほとんど無限にえられる安価な労働力と原料が、蒸気の力や機械をおぎなう多くの利点を与えているように思われる。他方、かれらの知的かつ道徳的な業績は、過去三世紀にわたって西洋の文明国において達成されたものとくらべてみるならば、ひじょうに低い位置におかなければならない。これに反してかれらがこれまでに到達したものよりもより高度な、そしてよりすぐれた文明を受けいれる能力は、中国人を含む他のいかなる東洋の国民の能力よりも、はるかに大きいものとわたしは考える。 
『一外交官の見た明治維新』 アーネスト・サトウ
アーネスト・サトウ (Ernest Mason Satow,1843~1929) は英国の外交官・日本学者で、公使館付通訳官として来日し、前後25年にわたって日本に滞在して日本語と日本文化に精通した。日本語通訳官に採用されたサトウは、北京に数ヶ月滞在した後、1862(文久2)年9月横浜に到着した。当時オールコックは不在で、ニール陸軍大佐が臨時代理公使をつとめていた。
1863(文久3)年8月、サトウはアーガス号に搭乗して薩摩藩との戦闘に参加した。
1864(文久4→元治1)年3月、オールコックが帰任した。9月、サトウはキューパー提督付き通訳官として長州藩との戦闘に参加した。12月28日、サトウは英国海軍士官を暗殺した清水清次の処刑に立ち会った。このときオールコックはラッセル外相に召還され、帰国の途に着いた後だった。
1865(元治2→慶応1)年7月初旬、ハリー・パークス公使が着任した。サトウは江戸の公使館へ移り、パークスの輔佐のひとりに起用された。10月30日、サトウは清水の共犯者間宮一の処刑に立ち会った。11月1日、英米仏蘭の連合艦隊は幕閣との談判のため大坂に向い、サトウはパークスに随行した。
1866(慶応2)年3月6日、サトウは日本伝習兵の観兵式を観覧した。11月26日、横浜に大火があり、サトウは書物とノートの多くを失った。12月、サトウは政治情報の収集にプリンセス・ロイヤル号で長崎に赴き、宇和島・土佐・肥後藩士らと会談した。
1867(慶応3)年1月、サトウはアーガス号で鹿児島に赴き、英国人一行は薩摩藩の歓待を受けた。アーガス号は宇和島を経て1月11日に兵庫に入港し、サトウは西郷隆盛と会談した。4月、サトウはパークスと徳川慶喜との会談を通訳した後、画家のワーグマンとともに陸路で江戸に戻った。7月、サトウは同僚のミットフォードと新潟から金沢・福井・宇治を経て大坂まで陸路を旅行した。9月、サトウは英国水兵殺人事件の調査のため長崎に赴いた。12月、サトウは書記官に昇進した。
1868(慶応4→明治1)年1月8日、サトウは大坂城でパークスとフランス公使ロッシュが徳川慶喜に謁見するのに同席した。2月4日、備前兵が神戸の外国人居留地を攻撃したが、英米の守備軍に撃退された。サトウは京都でこの事件の解決に当たり、3月に備前藩士滝善三郎の切腹に立ち会った。3月23日、諸外国の公使は京都で明治天皇に謁見する予定だったが、行列が二名の凶漢に襲われ、パークスは宿舎の智恩院に引き返した。3月26日、パークスが天皇に謁見し、通訳にはミットフォードが付いた。5月22日、パークスは大坂で再び天皇に謁見し、サトウはミットフォードとともに陪席した。9月18日から10月17日まで、サトウは書記官のアダムズとともに蝦夷に出かけた。
1869(明治2)年1月5日、サトウはパークスに随行して東京で天皇に謁見した。2月24日、サトウは賜暇を得て横浜を出航し、帰国の途に就いた。
本書は、1921年にロンドンのシーレー・サービス会社から出版された。序文によると本書の前半はシャム滞在中だった1880年代前半に書かれたが、その後未完成のまま放り出されていた。サトウは1907年以後は英国のデボンシャイアに隠棲したが、親戚から勧められて1919年以後再び筆を進め、ようやく完成した。本書は、日本では終戦まで25年間禁書とされていた。
日本の商人も、往々同様な手段で相手に返報されたが、不正行為を差引きすれば日本の方がはるかに大きかった。そんなわけで、外国人たちの間に、「日本人と不正直な取引者とは同義語である」との確信がきわめて強くなった。両者の親善感情などは、あり得べくもなかったのである。
何度繰りかえして言っても、とにかく大名なる者は取るに足らない存在であった。彼らには、近代型の立憲君主ほどの権力さえもなく、教育の仕方が誤っていたために、知能の程度は常に水準をはるかに下回っていた。このような奇妙な政治体制がとにかく続いたのは、ひとえに日本が諸外国から孤立していたためであった。ヨーロッパの新思想の風がこの骨格に吹き当たったとき、それは石棺から取り出されたエジプトの木乃伊(ミイラ)のように粉々にこわれてしまったのである。
私は、日本語を正確に話せる外国人として、日本人の間に知られはじめていた。知友の範囲も急に広くなった。自分の国に対する外国の政策を知るため、または単に好奇心のために、人々がよく江戸から話をしにやっていた。私の名前は、日本人のありふれた名字(訳注:佐藤)と同じいので、他から他へと容易につたわり、一面識もない人々の口にまでのぼった。
黒山のような群集が、どこへ行っても私たちのあとからついてきて、衣服にさわったり、いろいろな質問を発したりしたが、それらの態度は至って丁寧だった。私は、日本人に対する自分の気持が、いよいよあたたかなものになってゆくのを感じた。
また、彼らは、天皇ミカド(訳注:孝明天皇)の崩御を知らせてくれ、それは、たった今公表されたばかりだと言った。噂によれば、天皇ミカドは天然痘にかかって死んだということだが、数年後に、その間の消息に通じている一日本人が私に確言したところによると、毒殺されたのだという。この天皇ミカドは、外国人に対していかなる譲歩をなすことにも、断固として反対してきた。そのために、きたるべき幕府の崩壊によって、否が応でも朝廷が西洋諸国との関係に当面しなければならなくなるのを予見した一部の人々に殺されたというのだ。
私はいつも、日本の舞踏、というよりもその身振りに、はなはだもって感心しないのだ。日本の踊りは、多少とも優美な(あるいは不自然に気取った)肢体の動作によって、三絃のリュートの伴奏で唄われる唄の文句を表現するのである。
翌日、越前の首都で、人口四万の福井に着いた。この町も街路が清掃されていた。晴れ着を着た見物人が列をつくって店先に並んでいたが、そのありさまはあたかも席料を出してイギリス議会開院式に臨席する女王を拝観する時の光景に似ていた。私はまだ他のどこにおいても、こんなに大勢の美しい娘たちのいる所を見たことはなかった。
私たちには、さして高官でもない伊藤(博文)のような人物がこうした二役の兼任に適していると考えられたり、また一般の人民が容易にそれらの人間に服従するということが奇妙に感じられたのだが、私の日記にも書いてあるように、日本の下層階級は支配されることを大いに好み、権能をもって臨む者には相手がだれであろうと容易に服従する。ことにその背後に武力がありそうに思われる場合は、それが著しいのである。伊藤には、英語が話せるという大きな利点があった。これは、当時の日本人、ことに政治運動に関係している人間の場合にはきわめてまれにしか見られなかった教養であった。もしも両刀階級の者をこの日本から追い払うことができたら、この国の人民には服従の習慣があるのであるから、外国人でも日本の統治はさして困難ではなかったろう。
天皇ミカドが起立されると、その目のあたりからお顔の上方まで隠れて見えなくなったが、しかし動かれるたびに私にはお顔がよく見えた。多分化粧しておられたのだろうが、色が白かった。口の格好はよくなく、医者のいう突顎プラグナサスであったが、大体から見て顔の輪郭はととのっていた。眉毛はそられて、その一インチ上の方に描き眉がしてあった。 
『シュリーマン旅行記 清国・日本』 ハインリッヒ・シュリーマン
ハインリッヒ・シュリーマン (Heinrich Schlieman, 1822~1890) はドイツの考古学者で、1871年にトロイアの遺跡を発掘した。
それに先立つ1864年世界漫遊に旅立ち、1865年4月に清国、6月に日本を訪れた。
道を歩きながら日本人の家庭生活のしくみを観察することができる。家々の奥の方にはかならず、花が咲いていて、低く刈り込まれた木でふちどられた小さな庭が見える。日本人はみんな園芸愛好家である。日本の住宅はおしなべて清潔さのお手本になるだろう。
日本人が世界でいちばん清潔な国民であることは異論の余地がない。どんなに貧しい人でも、少なくとも日に一度は、町のいたるところにある公衆浴場に通っている。
「なんと清らかな素朴さだろう!」始めて公衆浴場の前を通り、三、四十人の全裸の男女を目にしたとき、私はこう叫んだものである。私の時計の鎖についている大きな、奇妙な形の紅珊瑚の飾りを間近に見ようと、彼らが浴場を飛び出してきた。誰かにとやかく言われる心配もせず、しかもどんな礼儀作法にもふれることなく、彼らは衣服を身につけていないことに何の恥じらいも感じていない。その清らかな素朴さよ!
(豊顕寺の)内に足を踏み入れるや、私はそこに漲るこのうえない秩序と清潔さに心を打たれた。大理石をふんだんに使い、ごてごてと飾りたてた中国の寺は、きわめて不潔で、しかも退廃的だったから、嫌悪感しか感じなかったものだが、日本の寺々は、鄙びたといってもいいほど簡素な風情ではあるが、秩序が息づき、ねんごろな手入れの跡も窺われ、聖域を訪れるたびに私は大きな歓びをおぼえた。
僧侶たちはといえば、老僧も小坊主も親切さとこのうえない清潔さがきわだっていて、無礼、尊大、下劣で汚らしいシナの坊主たちとは好対照をなしている。
一方、金で模様を施した素晴らしい、まるでガラスのように光り輝く漆器や蒔絵の盆や壷等を商っている店はずいぶんたくさん目にした。模様の美しさといい、精緻な作風といい、セーブル焼き(フランスの代表的な陶器)に勝るとも劣らぬ陶器を売る店もあった。
木彫に関しては正真正銘の傑作を並べている店が実に多い。日本人はとりわけ鳥の木彫に秀でている。しかし石の彫刻は不得手であり、たまに見かける軟石を使った石彫もつまらないものである。大理石は日本ではまったく知られていないようだ。
さらに、大きな玩具屋も多かった。玩具の値もたいへん安かったが、仕上げは完璧、しかも仕掛けがきわめて巧妙なので、ニュルンベルクやパリの玩具製造業者はとても太刀うちできない。たとえば玩具の小鳥が入っている鳥籠は五〜六スーで売られているが、小鳥は機械が起こすほんのわずかな風でくるくる廻るようになっているし、仕掛けで動く亀などは三スーで買える。日本の玩具のうちとりわけ素晴らしいのは独楽で、百種類以上もあり、どれをとっても面白い。
日本人は絵が大好きなようである。しかしそこに描かれた人物像はあまりにリアルで、優美さや繊細さに欠ける。
他国では、人々は娼婦を憐れみ容認してはいるが、その身分は卑しく恥ずかしいものとされている。だから私も、今の今まで、日本人が「おいらん」を尊い職業と考えていようとは、夢にも思わなかった。ところが、日本人は、他の国々では卑しく恥ずかしいものと考えている彼女らを、崇めさえしているのだ。そのありさまを目のあたりにして――それは私には前代未聞の途方もない逆説のように思われた――長い間、娼婦を神格化した絵の前に呆然と立ちすくんだ。
日本の宗教について、これまで観察してきたことから、私は、民衆の生活の中に真の宗教心は浸透しておらず、また上流階級はむしろ懐疑的であるという確信を得た。ここでは宗教儀式と寺と民衆の娯楽とが奇妙な具合に混じり合っているのである。 
『明治日本体験記』 グリフィス
ウィリアム・グリフィス (William Elliot Griffis, 1843~1928) は米国の牧師・東洋学者で、1870〜74(明治3〜7)年に日本に滞在し、福井と東京で西洋式教育制度の導入に尽力した。
帰国後の1876年に出版した『皇国 (The Mikado’s Empire) 』がベストセラーになり、東洋学者としての名声を確立した。東洋文庫の『明治日本体験記』は、その第二部である。
グリフィスはラトガース大学古典学部で牧師になる勉強をしたが、そこで数人の日本人留学生と交流し、日本への関心を抱くようになった。
福井の明新館が米国人の理化学教師を求めていたところ、オランダ改革派教会外国伝導局の名誉主事フェリス(John H. Ferris)の推薦を受けたグリフィスが就任することになった。
グリフィスは1870(明治3)年12月29日に横浜に上陸し、翌年2月16日まで東京にとどまり、大坂経由で3月4日に福井に到着した。福井での待遇はよく、グリフィスは順調に親日感情を育てて行った。
7月18日に廃藩置県の決定が伝えられ、10月1日越前藩主松平重昭が正式に退位した。
1972(明治4)年1月22日にグリフィスは福井を発ち、東海道経由で2月3日に東京に着いた。
1874年7月に帰国したグリフィスは、ニューヨークのユニオン神学校で牧師になる準備をするとともに、弟子の今立吐酔を助手に『皇国』の執筆を進めた。
1876年、同書はニューヨークのハーパー・アンド・ブラザーズ社から出版され、30年以上の長きにわたって米国で最も人気のある日本歴史書として読み継がれた。
グリフィスは牧師になるくらいだから、当然キリスト教至上主義者で、日本が西洋の尖兵となってアジアにキリスト教を広めることを期待していたらしい。
けれども日本人は石鹸を表す言葉を知らないし、今日になってもそれを使ったことがない。にもかかわらず、どのアジア人よりも身なりも住居も清潔である。
日本の法律は乞食を人間とみとめていない。乞食は畜生である。乞食を殺しても訴えられも罰せられもしない。道路に死んで乞食が横たわっている。いやそんなことがあろうかと思うだろうが、事実そうなのである。
娘は十七歳ぐらいで姿が美しく、後ろに大きな蝶結びのある広い帯できちんと着物をむすび、首には白粉が塗ってある。笑うと白い美しい歯が並ぶ。まっ黒の髪が娘らしく結ってある。日本で最も美しい見物は美しい日本娘である。
日本を無双の自然美、礼儀正しい国民、善良で勇敢な男、美しい娘、やさしい婦人の国として描いたらどうか。それなのに乞食、血だらけの首、胸のわるくなるような傷跡、殺人の現場、暗殺者の蛮勇、数世紀の君主専制によって高潔な人間性が踏み消されるのを、なぜ持ちこむのか。いけないはずがない。見栄を張らない真実がうわべだけ立派な虚偽よりよいからだ。また真実をかくすのは罪である。アメリカ人はあまり上手に何でも信じてしまうほど気が大きく、修辞的な詐欺師や真実を握りつぶす人に迷わされて、日本について最も誤った考えを抱くが、それを正すのは探り針のような筆の力のみである。私の筆は誰よりも早くその誤った考えを正しては記録するだろう。私は一八七一年の日本の真の姿を描く。
この武士が日本の「文武」階級を形成している。「学者・紳士」がアメリカ人「おはこ」の賛辞であるが、日本では「学者・兵士・紳士」になるのが武士の望みである。
これは一見乱暴な組合せのようだが、その精神がこのアジアの帝国の若い命を燃え立たせて、キリスト教国の科学と言葉の流入から学ぼうと思わせるのである。
動物を極端に哀れむのは日本人の特徴である。それは仏の慈悲の教えの結果である。
日本の住民や国土のひどい貧乏とみじめな生活に私は気がつき始めた。日本はその国について書かれた本の読者が想像していたような東洋の楽園ではなかった。
実際の日本人の生活がどんなものか知り始めると、よく知ることがパン種のように軽蔑を生じてきた。私は人種や国籍が違うことを神に感謝した。それが偽善的であるとは思わない。
日本人のように遊び好きであったといってもいいような国民の間では、子供特有の娯楽と大人になってからの娯楽の間に境界線を引くのは必ずしも容易ではない。実際、ここ二世紀半の間に外国人がやってくる以前から、この国の主な仕事は遊びであったといってもいいだろう。オールコック氏の本の中で最も楽しい表現の一つは「日本は子供の天国である」であった。さらに氏は日本はまた遊びを愛する人にとって非常に楽しい住処であると付け加えたかも知れない。この点では中国人と日本人の性格の対照は極端である。中国の学校では初歩読本、三歩格古典のまさに最後の文章の一つに「遊びは益なし」と書かれてある。
この問題を研究する人は、日本人が非常に愛情深い父であり母であり、また非常におとなしくて無邪気な子供を持っていることに、他の何よりも大いに尊敬したくなってくる。子供の遊びの特質と親による遊びの奨励が、子供の方の素直、愛情、従順と、親の方の親切、同情とに大いに関係があり、そしてそれらが日本では非常にきわだっていて、日本人の生活と性格のいい点の一つを形成していると私は思う。
暑い時の日本の町では、生きている彫像の研究にすばらしい機会がもてる。働く人はよくふんどし一枚になっている。女性は上半身裸になる。身体にすっかり丸みがついたばかりの若い娘でさえ、上半身裸でよく座っている。無作法とも何とも思ってないようだ。たしかに娘から見ると何の罪もないことだ。日本の娘は「堕落する前のイブ」なのか。
一八七一年の日本の進歩の記録はすばらしい。天皇の政府はもう不安定ではない。国家の軍隊が組織された。陰謀や反乱が鎮圧された。出版物が文明の原動力の一つになった。すでに数種の新聞が東京で創刊された。地方の古い支配の形態が国家のそれに吸収された。租税と行政が国じゅうに平等化された。封建制度が死んだのだ。使節団がヨーロッパへ派遣された。使節団の構成は「大君」を代表する身分の低い手先役人でなく、日本と真の統治者のために弁じる皇国の貴族や閣僚であった。 天皇は古い伝統を捨てて、今、国民のなかに現われ、屈辱的な忠誠を求めない。すべての階級間の結婚が許され、階級制度が消えつつある。被差別階級が法によって守られる市民になった。武士の刀が廃止された。国内の平和と秩序は驚くほどだ。進歩はどこへ行っても合言葉だ。これが神のみわざでなくてなんだろう。
しかし、アジア的生活の研究者は、日本に来ると、他の国と比べて日本の女性の地位に大いに満足する。ここでは女性が東洋の他の国で観察される地位よりもずっと尊敬と思いやりで遇せられているのがわかる。日本の女性はより大きな自由を許されていて、そのためより多くの尊厳と自信を持っている。
放蕩が日本人の性格の一番の特色であるという外国人の間に広まっている信念にも、日本では肉体の純潔が未知のものに近いという考えにも私はくみしない。というのは事実はそうでないと信じているからである。
欧米諸国の女性と比べ、標準的に見て、日本の女性は美しいものへのあの優雅な趣味では全く同等の資格があり、服装や個人の装身具においてもよく似合って見える。また礼儀作法が女性らしく上品であることでもひけをとらない。美、秩序、整頓、家の飾りや管理、服装や礼儀の楽しみを生まれながらにして愛することでは一般に日本女性にまさる女性はない。
この本に書いたことで誤りやすいところがあるのは充分に承知しているが、確かに言えることは、イエス・キリストの宗教のみが日本人の心に新生をもたらし、日本の社会を清め、国家に新しい造血をすることができることである。イエス・キリストの教える精神道徳のみが、とりわけ純潔が、日本人にアメリカ人と同じ家庭生活を与えることができる。アメリカ人の過ちや罪、アメリカ社会の腐敗や失敗にもかかわらず、その家庭生活、社会生活は、日本人よりも計り知れないほどに高く純粋であると信じる。
日本人一般の道徳的性格は、率直、正直、忠実、親切、柔和、鄭重、孝行、愛情、忠誠などである。真理のための真理愛、純潔、節制は持ち前の美徳ではない。高度の、苦しいまでの名誉の感覚が武士によって養成された。普通の職人や農民は精神的におとなしい羊である。実際に商人は知能が平凡で、道徳的性格が低く、この点で中国人以下である。日本の男性は他のアジア諸国ほど女性に横柄でなく、むしろ鄭重である。政治意識や社交能力では田舎の人は赤ん坊で、都市の職人は少年である。農夫はその性質のどんなに細い繊維にまでも迷信が深くしみ込み染まっている、紛れもない異教徒である。
真のキリスト教を中心に集まるこれらの力と、一つの国を起し、一つの国を倒す全能の神の下に、日本はやがて世界の主要な国々と平等な位置を占め、太陽とともに前進する文明国として、日本が世界の歴史の舞台に今こそ登場しつつあるアジア諸国の指導的立場を取るであろう。私はそのような希望を強く胸に抱いている。 
『日本その日その日』 E・S・モース
E・S・モース (Edward Sylvester Morse, 1838~1925) は米国の動物学者で、腕足類の研究のため1877(明治10)年6月18日来日した。
日光見物の後、江ノ島で腕足類の研究を始めたが、そこで発足間もない東京大学生物学講座の動物学教授に招請された。
9月にモースは東大の学生を動員して大森貝塚を発掘調査し、その後数回にわたって本格的な発掘を行なった。
モースは大学で進化論を講義したが、当時のお雇い外国人には宣教師も多く、モースを攻撃する者が多かった。
モースは米国での公演のため、11月に帰国した。
1878(明治11)年5月、モースは二度目の来日をした。東大で講義する一方、7〜8月には北海道を旅行し、標本採集を行った。
翌1879(明治12)年5月には、長崎・熊本・鹿児島でも標本採集や貝塚の調査をした。
1882(明治15)年6月、モースは陶器蒐集のため三度目の来日を果たした。
7月26日、モースはビゲロウ (William Sturgis Bigelow, 1850~1926) およびフェノロサ (Ernest Francisco Fenollosa, 1853~1908) とともに、京都・広島・岩国・和歌山・奈良等を回って美術品を蒐集した。この三人の貢献によって、ボストン美術館の日本美術コレクションは、日本国外では最も充実したものになった。
本書は、1917年にボストンで出版された。モースは大の親日家で、日本人の鄭重さや正直さを大いに賞賛し、「それに比べて米国人と来たら…」と批判する。執筆時のモースは80歳近い老人で、「米国の最大の脅威は若い男女の無頼漢的の行為である」というボストンの警察署長の言葉に深く共鳴し、若者への嫌悪感を強めていたらしい。
日本の町の街々をさまよい歩いた第一印象は、いつまでも消え失せぬであろう。――不思議な建築、最も清潔な陳列箱に似たのが多い見馴れぬ開け放した店、店員たちの礼譲、いろいろなこまかい物品の新奇さ、人々の立てる奇妙な物音、空気を充たす杉と茶の香。我々にとって珍しからぬ物とては、足の下の大地と、暖かい輝かしい陽光と位であった。
巡査がいないのにも係らず、見物人は完全に静かで秩序的である。上機嫌で丁寧である。悪臭や、ムッとするような香が全然しない…これ等のことが私に印象を残した。そして演技が終って見物人が続々と出てきたのを見ると、押し合いへし合いするするものもなければ、高声で喋舌る者もなく、またウイスキーを売る店に押しよせる者もない(こんな店が無いからである)。只多くの人々がこの場所を取りまく小さな小屋に歩み寄って、静かにお茶を飲むか、酒の小盃をあげるかに止った。再び私はこの行為と、我国に於る同じような演技に伴う行為とを比較せずにはいられなかった。
日本人がいろいろな新しい考案を素速く採用するやり口を見ると、この古い国民は、支那で見られる万事を死滅させるような保守主義に、縛りつけられていないことが非常にハッキリ判る。
汽車に間に合わせるためには、大きに急がねばならなかったので、途中、私の人力車の車輪が前に行く人力車の甑にぶつかった。車夫たちはお互に邪魔したことを微笑で詫び合っただけで走り続けた。私は即刻この行為と、我国でこのような場合に必ず起る罵詈雑言とを比較した。
人々が正直である国にいることは実に気持がよい。私は決して札入れや懐中時計の見張りをしようとしない。錠をかけぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使いは一日に数十回出入りしても、触ってならぬ物には決して手を触れぬ。
いろいろな事柄の中で外国人の筆者達が一人残らず一致する事がある。それは日本が子供たちの天国だということである。この国の子供達は親切に取扱われるばかりでなく、他のいずれの国の子供達よりも多くの自由を持ち、その自由を濫用することはより少なく、気持のよい経験の、より多くの変化を持っている。
汽車に乗って東京へ近づくと、長い防海壁のある入江を横切る。この防海壁に接して、簡単な住宅がならんでいるが、清潔で品がよい。田舎の村と都会とを問わず、富んだ家も貧しい家も、決して台所の屑物や灰やガラクタ等で見っともなくされていないことを思うと、うそみたいである。
同様に見えるばかりでなく、彼等は皆背が低く脚が短く、黒い濃い頭髪、どちらかというと突き出た唇が開いて白い歯を現わし、頬骨は高く、色はくすみ、手が小さくて繊細で典雅であり、いつもにこにこと挙動は静かで丁寧で、晴々しい。下層民が特に過度に機嫌がいいのは驚く程である。
外国人は日本に数ヶ月いた上で、徐々に次のようなことに気がつき始める。即ち彼は日本人にすべてを教える気でいたのであるが、驚くことには、また残念ながら、自分の国で人道の名に於て道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を、日本人は生れながらに持っているらしいことである。衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正しさ、他人の感情に就いての思いやり…これ等は恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である。
日本人の清潔さは驚く程である。家は清潔で木の床は磨き込まれ、周囲は綺麗に掃き清められているが、それにも係らず、田舎の下層民の子供達はきたない顔をしている。
我々に比して優雅な鄭重さは十倍も持ち、態度は静かで気質は愛らしいこの日本人でありながら、裸体が無作法であるとは全然考えない。全く考えないのだから、我々外国人でさえも、日本人が裸体を恥じぬと同じく、恥しく思わず、そして我々に取っては乱暴だと思われることでも、日本人にはそうでない、との結論に達する。たった一つ無作法なのは、外国人が彼等の裸体を見ようとする行為で、彼等はこれを憤り、そして面をそむける。
日本に数年住むと、日本の最も荒れ果てた場所にいる方が、四六時中、時間のいつを問わず、セーラムその他我国の如何なる都市の静かな町通りにいるよりも安全だということを知る。
田舎の人々――農民――は、概して不器量である。男の方が女よりもいい顔をしていて、時々知的な顔を見受ける。私は綺麗ともいうべき娘を五、六人見た。
外国人の立場からいうと、この国民は所謂「音楽に対する耳」を持っていないらしい。彼等の音楽は最も粗雑なもののように思われる。和声の無いことは確かである。彼等はすべて同音で歌う。
仕事をしていると男、女、娘、きたない顔をした子供達等が立ち並んで、私を凝視しては感嘆これを久しゅうする。彼等はすべて恐ろしく好奇心が強くて、新しい物は何でも細かに検査する。
然し私は誰からも、丁寧に、且つ親切に取扱われ、私に向かって叫ぶ者もなければ、無遠慮に見つめる者もない。この行為と日本人なり支那人なりが、その国の服装をして我国の村の路――都会の道路でさえも――を行く時に受けるであろう所の経験とを比較すると、誠に穴にでも入りたい気持がする。
日本人が丁寧であることを物語る最も力強い事実は、最高階級から最低階級にいたる迄、すべての人々がいずれも行儀がいいということである。世話をされる人々は、親切にされてもそれに狎れぬらしく、皆その位置をよく承知していて、尊敬を以てそれを守っている。
日本の舟夫たちは優秀だとの評判があるにかかわらず、非常に臆病であるらしく、容易なことでは陸地から遠くへ出ない。今日私は遠方へ行くので、彼らを卑怯者といわねばならなかった。
日本人のこれ等及び他の繊美な作品は、彼等が自然に大いなる愛情を持つことと、彼等が装飾芸術に於て、かかる簡単な主題(Motif)を具体化する力とを示しているので、これ等を見た後では、日本人が世界中で最も深く自然を愛し、そして最大な芸術家であるかのように思える。
我国では非常に一般的である(欧洲ではそれ程でもない)婦人に対する謙譲と礼譲とが、ここでは目に立って欠けている。馬車なり人力車なりに乗る時には、夫が妻に先立つ。道を歩く時には、妻は夫の、すくなくとも四、五フィートあとにしたがう。その他、いろいろなことで、婦人が劣等な位置を占めていることに気がつく。…酌量としていうべき唯一のことは、日本の婦人が、他の東洋人種よりも、遥かに大なる自由を持っているということだけである。
日本の召使の変通の才は顕著である。私は四人雇っているが、その各の一人は、他の三人の役目をやり得る。
東京へ近づくにつれ、特にこの都会の郭外で、私は子供達が、田舎の子供達よりも、如何に綺麗であるかに注意した。この事は、仙台へ近づいた時にも気がついた。子供達の間に、このような著しい外観の相違があるのは、すべての旅館や茶店が女の子を使用人として雇い、これ等の持主が見た所のいい女の子を、田舎中さがし廻るからだろうと思う。彼等は都会へ出て来て、やがては結婚し、そして彼等の美貌を子孫に残し伝える。これはすくなくとも、合理的な説明であると思われる。
日本人の特性は、米国と欧洲とから取り入れた非常に多数の装置に見られた。ある国民が、ある装置の便利さと有効さとを直ちに識別するのみならず、その採用と製造とに取りかかる能力は、彼等が長期にわたる文明を持っていた証例である。これを行い得るのは、只文明の程度の高い人々だけで、未開人や野蛮人には不可能である。
和服を着た人々の群を見ると、そのやわらかい調和的な色や典雅な折り目が、外国の貴婦人達の衣服と著しい対照を示す。小柄な体躯にきっちり調和する衣服の上品さと美麗さ、それから驚嘆すべき程整えられ、そして装飾された漆黒の頭髪――これ位この国民の芸術的性格を如実に表現するものはない。
国中が朝鮮の高圧手段に憤慨し、日本の軍隊が鎮南浦まで退却することを余儀なくされた最中に、私は京都へ行く途中、二人の朝鮮人と同じ汽車に乗り合わした。私も、朝鮮人はめったに見たことが無いが、車室内の日本人達は、彼等がこの二人を凝視した有様から察すると、一度も朝鮮人を見たことが無いらしい。二人は大阪で下車した。私も、切符を犠牲にして二人の後を追った。彼等は護衛を連れていず、巡査さえも一緒にいなかったが、事実護衛の必要は無かった。彼等の目立ちやすい白い服装や、奇妙な馬の毛の帽子や、靴やその他すべてが、私にとって珍しいと同様、日本人にも珍しいので、群衆が彼らを取りまいた。私は、あるいは敵意を含む身振か、嘲笑するような言葉かを発見することが出来るかと思って、草臥れて了うまで彼等の後をつけた。だが日本人は、この二人が、彼等の故国に於て行われつつある暴行(壬午軍乱)に、まるで無関係であることを理解せぬ程莫迦ではなく、彼等は平素の通りの礼儀正しさを以て扱われた。自然私は、我国に於る戦の最中に、北方人が南方でどんな風に取扱われたかを思い浮かべ、又しても私自身に、どっちの国民の方がより高く文明的であるかを訊ねるのであった。
火葬場への往復に我々は、東京の最も貧しい区域を、我国の同様な区域が開いた酒場で混雑し、そして乱暴な言葉で一杯になっているような時刻に、車で通った。最も行儀のいいニューイングランドの村でも、ここのいたる所で見られる静けさと秩序とにはかなわぬであろう。これ等の人々が、すべて少なくとも法律を遵守することは、確かに驚く可き事実である。ボストンの警視総監は、我国を最も脅かすものは、若い男女の無頼漢であるといった。日本には、こんな脅威は確かに無い。事実誰でも行儀がよい。
日本人は造園芸術にかけては世界一ともいうべく、彼等はあらゆる事象の美しさをたのしむらしく見えた。
日本の農夫は、一日に五、六回、主として米、大根、魚等の食物を食う。実際測ったところによると(医学生である竹中は私にかく語った)、日本人の胃は外国人のそれよりも大きい。これは、彼等が米を多量に摂取するからかも知れない。田舎の子供達が、文字通りつめ込んだ米のために、まるくつき出した腹をしているのを見ては、驚かざるを得ぬ。
粗野で侵略的なアングロ・サクソン人種はここ五十年程前までは、日本人に対し最も間違った考えを持っていた。男性が紙鳶をあげ、花を生ける方法を学び、庭園をよろこび、扇子を持って歩き、その他女性的な習慣や行為を示す国民は、必然的に弱くて赤坊じみたものであると考えられていた。 
『日本紀行』 イザベラ・バード
イザベラ・バード (Isabella L. Bird, aka Mrs. J. F. Bishop, 1831~1904) はイギリスの旅行家・探検家で、世界各地を旅して数多くの旅行記を残した。
日本へは1878(明治11)年6月に上陸し、日光・新潟・山形・秋田を経て北海道に渡り、アイヌ人の村落を調査した。
上陸してつぎにわたしが感心したのは、浮浪者がひとりもいないこと、そして通りで見かける小柄で、醜くて、親切そうで、しなびていて、がに股で、猫背で、胸のへこんだ貧相な人々には、全員それぞれ気にかけるべきなんらかの自分の仕事というものがあったことです。
日本人は洋服を着るとえらく小柄に見えます。どの洋服も不似合いで、貧弱な体型と国民全体の欠陥であるへこんだ胸とO脚が誇張されます。
その後わたしは本州奥地と蝦夷の千二百マイル(約千九百二十キロ)を危険な目に逢うこともなくまったく安全に旅した。日本ほど女性がひとりで旅しても危険や無礼な行為とまったく無縁でいられる国はないと思う。
これほど自分の子供たちをかわいがる人々を見たことはありません。だっこやおんぶをしたり、手をつないで歩いたり、ゲームをやっているのを眺めたり、いっしょにやったり、しょっちゅうおもちゃを与えたり、遠足やお祭りに連れていったり、子供がいなくては気がすまず、また他人の子供に対してもそれ相応にかわいがり、世話を焼きます。
なぜか子供は男の子が好まれるとはいえ、女の子も同じようにかわいがられます。子供たちはわたしたちの抱いている概念から言えば、おとなしすぎるししゃちほこばってもいますが、外見や態度は非常に好感が持てます。
疥癬、しらくも、輪癬、眼炎、不健康そうな発疹が流行っているのを見るのはつらいことです。それに村民の三割以上に疱瘡のひどい痕があります。
新しい馬はらくだのように体を揺らして歩き、小佐越で放免したときはほっとしました。小佐越は高原にある小さな村で、とても貧しく、家々は貧困に荒れています。子供たちはとても汚くて、ひどい皮膚病にかかり、女性たちは重労働のせいで血色が悪くて顔つきが険しく、木を炊く煙を大量に浴びているのでとても醜くて、その体つきは均整がとれているとはとてもいえません。
両側には住まいがあり、その前にはかなり腐敗した肥料の山があって、女性たちがはだしでその山を崩し、どろどろになるまでせっせと踏みつけています。みんな作業中はチョッキとズボンという姿ですが、家のなかでは短いペティコートしかつけていません。何人かの立派な母親たちが、なんら無作法と思わずにこの格好でほかの家を訪問するのをわたしは目にしています。幼い子供たちはひもに下げたお守り以外なにも身につけていません。人も衣服も家も害虫でいっぱいで、不潔ということばが自立して勤勉な人々に対しても遣われるなら、ここの人々は不潔です。
ヨーロッパの国の多くでは、またたぶんイギリスでもどこかの地方では、女性がたったひとりでよその国の服装をして旅すれば、危険な目に遭うとまではいかなくとも、無礼に扱われたり、侮辱されたり、値段をふっかけられたりするでしょう。でもここではただの一度として無作法な扱いを受けたことも、法外な値段をふっかけられたこともないのです。それに野次馬が集まったとしても、無作法ではありません。
ついきのうも革ひもが一本なくなり、もう日は暮れていたにもかかわらず、馬子は一里引き返して革ひもを探してくれたうえ、わたしが渡したかった何銭かを、旅の終わりにはなにもかも無事な状態で引き渡すのが自分の責任だからと、受け取ろうとはしませんでした。
彼らは丁重で、親切で、勤勉で、大悪事とは無縁です。とはいえわたしが日本人と交わした会話や見たことから判断すると、基本的な道徳観念はとても低く、暮らしぶりは誠実でも純粋でもないのです。
わたしは野次馬に囲まれ、おおむね礼儀正しい原則のたったひとつの例外として、ひとりの子供がわたしを中国語で言うフェン・クワイ――野蛮な鬼――と呼びましたが、きつく叱られ、また警官がついさっき詫びにきました。
日本人は子供がとにかく好きですが、道徳観が堕落しているのと、嘘をつくことを教えるため、西洋の子供が日本人とあまりいっしょにいるのはよくありません。
彼らは汚く、ぎっしり集まっています。この家の女性たちはわたしが暑がっているのを知ると、気をきかせてうちわを取り出し、丸一時間わたしをあおいでくれました。代金を聞くと、それはいらないと答え、まったく受け取ろうとしません。これまで外国人を一度も見たことがない、本にわたしの「尊い名前」を書いてもらったからには、お金を受け取って自分たちを貶めるわけにはいかないというのです。
吉田は豊かで繁栄しているように見え、沼は貧しくてみすぼらしいものの、山腹から救出された沼のわずかな農地は吉田のそれと同じようにすばらしく整然として手入れが行き届き、完璧に耕されています。また日当たりのいい米沢の平野の広い農地と同じように、気候に合った作物をふんだんに産します。そしてこれはどこでもそうなのです。「無精者の畑」は日本には存在しないのです。
ごちそうだということを示すために、ぺちゃぺちゃ、ごくごくと音をたてて食べたり飲んだり派手に息を吸ったりするのは正しいことです。作法では厳然とそう定められており、これは西洋人にとってはとても困ったことで、わたしはこのお客さまの食べ方にもう少しで笑い出してしまうところでした。
どこでも警察は人々に対してとてもやさしく、反抗しない相手には、二言三言静かに発するか、手をひと振りするかすれば事足ります。
港には二万二千人の見物人が町外から集まったと警官が教えてくれました。それでも三万二千人の行楽客に対して、警官は二五人いれば事足りるのです。その場を引き上げた午後三時まで、わたしはひとりの酔っ払いも見かけませんでしたし、粗野な振る舞いや無作法な態度をただの一度も目にしませんでした。しかもいちばん人で込んだところですら、みんな暗黙に了解しているかのように輪をつくり、息のできる空間をわたしに残してくれたのです。
午前五時には豊岡の全住民が集まり、朝食をとるあいだ、わたしは外にいる村人全員ばかりか、土間に立ってはしごを見上げている四十人以上の人々の注目の「的」となりました。人々は宿のあるじからいついなくなってくれるのかと訊かれると、「こんなにめずらしいものを一人占めするとはずるいし、隣人の思いやりに欠ける。外国人の女性なんて、いま見ておかなければ、一生見られる機会はないかもしれない」と答えました。それで彼らはいてもいいということになったのです!
そこかしこで出会う親切な人々について話したいのですが、馬子ふたりは特に親切で、わたしが辺鄙な内陸で足止めをくわされるのを怖れて蝦夷行きを急いでいると知ると、そっとわたしを抱き上げて馬に乗せてくれたり、乗るときに背中を踏み台代わりにしてくれたり、野草の赤い実を集めてくれたり、手を尽くしてわたしに協力してくれました。赤い実は礼儀上食べたものの、なにか嘔吐剤のような味がしました。
わたしの宿泊費は(伊藤の分も含めて)一日三シリング未満で、これまでほぼどこに行っても、快適にすごしてもらいたいという心温まる思いやりがありましたし、日本人ですら足を踏み入れない一般コースをはずれた小さくて素朴な村落に泊まることが多いことを考えると、宿泊設備は、蚤と臭気をのぞけば、驚くほどすばらしく、世界のどの国へ行っても、同じように辺鄙なところで同等の宿泊設備は得られないと考えるべきでしょう。
日本の女性は独自の集いを持っており、そこでは実に東洋的な、品のないおしゃべりが特徴のうわさ話や雑談が主なものです。多くのことごと、なかんずく表面的なことにおいて、日本人はわたしたちよりすぐれていると思いますが、その他のことにおいては格段にわたしたちより遅れています。この丁重で勤勉で文明化された人々に混じって暮らしていると、彼らの流儀を何世紀にもわたってキリスト教の強い影響を受けてきた人々のそれと比べるのは、彼らに対してきわめて不当な行為であるのを忘れるようになります。わたしたちが十二分にキリスト教化されていて、比較した結果がいつもこちらのほうに有利になればいいのですが、そうはいかないのです!
しばらくそのまま馬を引いていたところ、鹿皮を積んだ荷馬の行列を連れたふたりの日本人に会いました。ふたりは鞍を元に戻してくれたばかりでなく、わたしが乗るあいだ鐙を支えてくれ、別れ際には丁重にお辞儀をしました。これほど礼儀深くて親切な人々をどうして好きにならずにいられるでしょう。
黄色い肌、馬毛のように硬い毛髪、弱々しいまぶた、細長い目、平たい鼻、へこんだ胸、モンゴロイド特有の顔立ち、脆弱な肉体、男のよろよろした足取り、女のよちよちとした歩き方など、総じて日本人の外見からは退化しているという印象を受けますが、それに対しアイヌからはたいへん特異な印象を受けます。
伊藤が夕食用に鶏を買いましたが、一時間後に絞めようとしたら、嘆き悲しんだ売り主がここまで育ててきた鶏が殺されるのを見るのはしのびないとお金を返してきました。ここは未開の辺鄙な場所ですが、勘は美しいところだと告げています。 
『東洋紀行』 グスタフ・クライトナー
グスタフ・クライトナー (Gustav Kreitner, 1847~93) はオーストリーの軍人・外交官で、1877〜80年にハンガリー貴族セーチェーニ・ベーラ伯爵の東洋旅行に同行した。
一行は1878(明治11)年6月に上海から汽船で長崎に着き、瀬戸内海航路で神戸に上陸した。
大阪・京都を見物後、富士山に登頂してから東京に入った。
8月にクライトナーは単身で南北海道を踏査し、9月に上海で一行と合流した。
この日本旅行が機縁となり、クライトナーは1884年に横浜領事、後に総領事となったが、45歳で死亡し横浜外人墓地に葬られた。
脱線はこの程度にして再び長崎に話を戻してみると、町の辻裏の雑然とした営みは、品位、道徳、美徳に関するわたしたちの観念と正反対である。しかし男女を問わず、日本人はおしなべて親切で愛想がよい。底抜けに陽気な住民は、子供じみた手前勝手な哄笑をよくするが、これは電流の如く、文字通り伝播する。
プロテスタントの宣教師の話では、中国ではおよそ三万人の住民がキリスト教に改宗している。中国人の場合、一度改宗すればその人はいつまでもキリスト教徒のままである。例えば、ある宣教師が十六年前にある村で300人の人に洗礼を施していた。宣教師がその村を再び訪れた時には、信者は十六年前より増えていた。これに比べて、日本では改宗させるのははるかに容易だが、この国の民衆は宗教の面でも「去る者は日々に疎し」という諺に忠実である。
日本人の召使いはどんな場合でも信頼できる。彼らは心底正直者で、何日家を留守にしても盗みを働く心配はない。
山門の前あたりから、はや道端に露店が並び、菓子、小間物、日本製彫り物、櫛、ガラス器、喫煙具等を売っている。売り子の女たちは真底愛想がよいので、外国人などはつい買う気にさせられてしまう。日本人がいろいろの点で人気があるのも、この親切さや素朴さのおかげであることは確かである。
日本女性の地位は、たった今述べたことからも明らかなように従属的である。女性の役割は受動的なもので、夫は、妻とか娘の心の動きなどはまったく無視し、自分の好きなように、そして自分の欲する通りに家庭内をとりしきる。
日本の田舎の人は富の恩恵を受けていない。生活は惨めなものである。米を食べることのできる裕福な家庭は数える程ほどしかない。
旅行者なら誰でも、日本の国土と国民の虜となって日本から去っていく。このことは日本人のほうも心得ていて、外国人に好かれようと努力する。
実際に眺めてみると、期待した程のものではなかった。東京は大きな村という感じだった。そして、町の無数の貧弱な木造家屋の中に高々と聳え立っている帝の居城さえも、宮殿というよりもむしろバラックといった趣であった。
しかし、心の飛躍を阻む民族的慣習を根絶することを政府は怠っている。文化の発展の基礎は、公衆道徳にある。しかし、日本人には公衆道徳がまったく欠如している。この面での日本人の考え方は、ヨーロッパ人のそれとはまったくかけ離れている。ヨーロッパ人たるわたしは、一挙手一投足ごとに、ヨーロッパ人の風俗や習慣の概念とはまったく相容れない場面に出くわすのである。…柵の奥にはそれぞれ五〜十人の娘がいて、けばけばしい着物で飾り立て、一片の羞恥心さえもあるとは思えない程に平然と落ち着きはらって、通行人たちの目に身をさらしている。どんな町の路地、どんな小さな村にも共同浴場があり、そこでは、日本人は男女の区別なく、ひとつの浴室に集まる。
日本の発展と、強い影響を及ぼすその文化とには多くの賞讃が寄せられている。が、わたしは、日本讃美にとりつかれるのは、たいていの場合、深い基盤を欠いた、一時の浅薄な熱狂にすぎない、と見ている。 
『日本の面影』 ラフカディオ・ハーン
ラスカディオ・ハーン (Lafcadio Hearn, 1850~1904) はギリシア生まれのジャーナリスト・作家で、1890(明治23)年に通信記者として来日、1896(明治29)年に帰化し小泉八雲と名乗った。
この間、松江中学校や熊本第五高等学校で英語を教え、「神戸クロニクル」紙の記者を経て東京帝国大学英文科の講師となった。
本書 (『Glimpses of Unfamiliar Japan』) は来日後初の作品集で、1894年ボストンとニューヨークで出版された。ハーンの日本賛美と西洋批判はモースよりさらに極端で、近代化・産業化への強い反感が日本にのめり込む素地になったらしい。
日本の生活にも、短所もあれば、愚劣さもある。悪もあれば、残酷さもある。だが、よく見ていけばいくほど、その並外れた善良さ、奇跡的と思えるほどの辛抱強さ、いつも変わることのない慇懃さ、素朴な心、相手をすぐに思いやる察しのよさに、目を見張るばかりだ。
日本がキリスト教に改宗するなら、道徳やそのほかの面で得るものは何もないが、失うものは多いといわねばならない。これは、公平に日本を観察してきた多くの見識者の声であるが、私もそう信じて疑わない。
まるでなにもかも、小さな妖精の国のようだ。人も物もみんな小さく、風変わりで神秘的である。
旅人が、社会変革を遂げている国を――とくに封建社会の時代から民主的な社会の現在へと変わりつつあるときに突然訪れれば、美しいものの衰退と新しいものの醜さの台頭に、顔をしかめることであろう。そのどちらにも、これから日本でお目にかかるかもしれないが、その日の、この異国情緒溢れる通りには、新旧がとてもうまく交じり合って、お互いを引き立てているように見えた。
そのとき私は、それらの人々の足が、なんと小さくて格好がいいかに気づいた。農民の日焼けした素足も、ちっちゃなちっちゃな下駄を履いた子供のきれいな足も、真っ白い足袋を履いた娘たちの足も、みんな同じように小さくて格好がいい。足袋は、親指のわかれた白い靴下のようなものであるが、牧神ファウヌスの切れこみのある白い足の上品さに通ずるとでもいおうか、真っ白な足下に神話的な香りを添えている。何かを履いていようが、裸足であろうが、日本人の足には、古風な均整美といえるものが漂っている。それはまだ、西洋人の足を醜くした悪名高き靴に歪められてはいない。
街道沿いでは、小さな村を通り抜けざまに、健康的で、きれいな裸体をけっこう見かける。かわいい子供たちは、真っ裸だ。腰回りに、柔らかく幅の狭い白布を巻いただけの、黒々と日焼けした男や少年たちは、家中の障子を取り外して、そよ風を浴びながら畳の上で昼寝をしている。男たちは、身軽そうなしなやかな体つきで、筋肉が隆々と盛り上がった者は見かけない。男たちの体の線は、たいていなめらかである。
田舎の人たちは、外国人の私を不思議そうな目で見つめる。いろんな場所で私たちがひと休みをするたび、村の老人が、私の洋服を触りに来たりするのである。老人は、謹み深く頭を下げ愛嬌のある笑みを浮べて抑えきれない好奇心を詫びながら、私の通訳に変わった質問をあれこれぶつけている。こんなに穏やかで優しい顔を、私はこれまで見たことがない。その顔は、彼らの魂の反映であるのだ。私はこれまで、怒鳴り声をひとつも耳にしたことがないし、不親切な行為を目にしたこともないからである。
この村落は、美術の中心地から遠く離れているというのに、この宿の中には、日本人の造型に対するすぐれた美的感覚を表してないものは、何ひとつとしてない。花の金蒔絵が施された時代ものの目を見張るような菓子器。飛び跳ねるエビが、一匹小さく金であしらわれた透かしの陶器の盃。巻き上がった蓮の葉の形をした、青銅製の茶托。さらに、竜と雲の模様が施された鉄瓶や、取っ手に仏陀の獅子の頭がついた真鍮の火鉢までもが、私の目を楽しませてくれ、空想をも刺激してくれるのである。実際に、今日の日本のどこかで、まったく面白味のない陶器や金属製品など、どこにでもあるような醜いものを目にしたなら、その嫌悪感を催させるものは、まず外国の影響を受けて作られたと思って間違いない。
これまで立ち寄った小さな田舎の村々と変わらず、ここの村の人たちも、私にじつに親切にしてくれた。これほどの親切や好意は想像もできないし、言葉にもできないほどである。それは、ほかの国ではまず味わえないだろうし、日本国内でも、奥地でしか味わえないものである。彼らの素朴な礼儀正しさは、けっしてわざとらしいものではない。彼らの善意は、まったく意識したものではない。そのどちらも、心から素直にあふれ出てきたものなのである。
この国の人はいつの時代も、面白いものを作ったり、探したりして過ごしてきた。ものを見て心を楽しませることは、赤ん坊が好奇心に満ちた目を見開いて生まれたときから、日本人の人生の目的であるようだ。その顔にも、辛抱強くなにかを期待しているような、なんともいえない表情が浮かんでいる。なにか面白いものを待ち受けてる雰囲気が、顔からにじみ出している。もし面白いものが現れてこないなら、それを見つける旅に、自分の方から出かけてゆくのである。
日本人は、野蛮な西洋人がするように、花先だけを乱暴に切り取って、意味のない色の塊を作り上げたりはしない。日本人はそんな無粋なことをするには、自然を愛しすぎていると言える。
神道は西洋科学を快く受け入れるが、その一方で、西洋の宗教にとっては、どうしてもつき崩せない牙城でもある。異邦人がどんなにがんばったところで、しょせんは磁力のように不可思議で、空気のように捕えることのできない、神道という存在に舌を巻くしかないのだ。
と同時に、同じような理由で、日本の古い庭園がどのようなものかを知った後では、イギリスの豪華な庭を思い出すたびに、いったいどれだけの富を費やしてわざわざ自然を壊し、不調和なものを造って何を残そうとしているのか、そんなこともわからずに、ただ富を誇示しているだけではないかと思われたのである。
私が思うに、日本の生徒の平均的な図画の才能は、西洋の生徒より少なくとも五十パーセントは上回っている。この民族の精神は、本来が芸術的なのだ。
しかし、心得るべきことは、どんなに貧しくて、身分が低いものであろうと、日本人は、不当な仕打ちにはまず従わないということである。日本人が一見おとなしそうなのは、主に道徳の観念に照らして、そうしているのである。遊び半分に日本人を叩いたりする外国人は、自分が深刻な誤りを犯したと思い知るだろう。日本人は、いい加減に扱われるべき国民ではないのである。あえてそんな愚挙に出ては、あたら命を落してしまった外国人が何人もいるのである。
日本人のように、幸せに生きていくための秘訣を十分に心得ている人々は、他の文明国にはいない。人生の喜びは、周囲の人たちの幸福にかかっており、そうであるからこそ、無私と忍耐を、われわれのうちに培う必要があるということを、日本人ほど広く一般に理解している国民は、他にあるまい。 
日蘭交流史
1. 幕開け − オランダ船漂着
1598 年6月のある晴れた日の午後。ロッテルダムの港では、5隻の船が長い航海の途に就こうとしている。目的地はモルッカ諸島、別 名スパイス・アイラン ド。そこで胡椒など様々なスパイスを調達し、更にその先にある銀の王国“日本”を目指す。大砲や鉄砲で武装した5隻の船は、北海の荒波に乗り出した。その直後、乗組員たちはもう一つの重要な任務を知ることになる。それは、南米やアジアの各地に散らばるポルトガルとスペインの拠点を襲撃し、敵軍に可能な限りの打撃を与えることだった。大航海時代、どの勢力も生き残りをかけた熾烈な戦いを避けることはできなかった。
この航海は歴史の1 ページに刻まれる出来事となった。今から数えること400年前、1隻のオランダ船が初めて日本に漂着した。 1598年6月27日にロッテルダム港を出港した5隻の船団のうち、生き残ったたった1隻、それがリーフデ(慈愛)号である。リーフデ号は1600年4月19日、ついに異国の地を見たのだった。船団のうちの1隻、ヘローフ(信仰)号は、マゼラン海峡にさしかかる前にロッテルダム港に引き返していた。他の3隻はと言うと、ブライデ・ ボートスハップ(福音)号はスペインに、そしてトラウ(信義)号はポルトガルに襲撃され、ホープ(希望)号は嵐に襲われ海に沈んで行った。
1600 年4月19日、豊後の国さしふ佐志生(大分県臼杵市)の沖はいつもと様子が違っていた。疲れ切った姿の巨大な帆船が、碇を下ろし横たわっている。 佐志生の人々は、惨めな姿のオランダ人 − そこには少なくとも1人のイギリス人が含まれていた − を難破船から助け出し、その一方で、珍しさのあまり、船内から運び出せるものを全て持ち去った。リーフデ号は19門の大砲と、大量の鉄砲、火矢、砲弾を積んでいた。最初は110人いた乗組員も、航海を終えた時にはたった24人が生き残るのみとなっていた。その中には、後に八重洲さんとして知られるヨーステン・ファン・ローデンスタイン、そして三浦按針ことイギリス人のウイリアム・アダムスがいた。リーフデ号の船尾木像は、オランダの有名な哲学者エラスムスをかたどったもので、これは現在、東京国立博物館に展示されたいる。
時の権力者徳川家康は、漂着したオランダ船に多大な興味を示 した。船に載まれていた武器が、一番の目当てだった。リーフデ号が運んできた武器は全て没収さ れ、ヤン・ヨーステンとウイリアム・アダムスは大坂、次いで江戸に上るよう命じられた。そこで2人は、ポルトガル語の通訳を介して取り調べを受けることになる。運良く彼らの返答は家康の気を良くし、臼杵で被った損害も補償された。日本に残った乗組員のほとんどは、その後貿易に携わったり、日本人女性と結婚 している。この漂着者たちは、地図や航海術、造船術の知識、さらには西洋諸国の戦況に関する情報など、非常に役立つものを握っていた。そのため幕府はウィ リアム・アダムスとヤン・ヨーステンを重用する。そして、領地や屋敷、幕府の相談役としての地位を彼らに与えた。東京に今でも残る按針通りや東京駅の八重洲出口という地名から、2人の漂着者の過去を今でもうかがい知ることができる。彼らの忠誠がもたらした最大の成果は、幕府からオランダに発行された朱印状、つまり通商許可証である。しかしその特権を行使するのは1609年まで待つことになる。漂着から9年、ようやくオランダ船が平戸に入港し、日蘭貿易が本格的に始まる。
徳川家康がオランダ人を重用したのには、もう一つの理由があった。その頃、家康はキリスト教弾圧に本腰を入 れ始めていた。カトリック系のキリスト教に改宗した熱狂的な信者たちが、幕府の権威を脅かしていた。そこで“紅毛人”つまりオランダ人の知識に幕府が目を付けたのである。プロテスタント系のオランダ人は、目的は貿易だけであり、キリスト教布教には一切関わらない方針だった。この時期のオランダ人の日本漂着と、それに続く幕府との信頼関係の構築は、まさに時節を得ていた。
こうして、日本とオランダの関係が幕開けを迎えることとなった。
2. 日蘭関係の萌芽
ポ ルトガル人が日本に到着したのは1543年。日本にとってオランダは、最も付き合いの長い西洋国ではない。中国や朝鮮、台湾などアジアの国々との関係に至っては、当然のことながら更に時代を遡る。徳川幕府の鎖国時代において、日本との貿易を許されていたのは、オランダと中国のみだった。鎖国時代は 1641年から1853年まで続く。この200年間、オランダは唯一の西洋国として無二の地位を確立した。オランダは、自国はもとよりヨーロッパ各国の化 学、医学、知識、産物、兵器などを、長崎湾に浮かぶ扇型の人工島“出島”を通じて日本に紹介する。それと引換えに、オランダは日本の品物や知識を西洋の世界に輸出し、富を築いた。両国にとって出島は、“新しい世界への窓”以上の大切な意味を持っていた。
これ以降の日蘭関係は大きく 五つの時代に分けることができる。東インド会社が平戸の商館で活躍した1609年から1641年。出島時代の1641年から 1853年。明治維新前から第二次世界大戦前の1853年から1940年。第二次世界大戦中の1940年から1945年。そして戦後から現在に至る五つの時代である。
3. 平戸オランダ商館時代 (1609-1641)
徳川家康を初代将軍とし、徳川幕府が成立したのは1603年。既に家康は、貿易を許可する朱印状をオランダに与えていた。朱印状は リーフデ号漂着から生き 残った乗組員に託され、彼らが日本のジャンク船でパタニ(現タイ)に到着した1605年、ようやくオランダ側の手に渡った。朱印状を受け取ったのは、リーフデ号の生存者クアーケルナーク叔父である、オランダ東インド会社の艦長マテリーフだった。オランダ東インド会社(VOC)は、その数年前の1602年に 設立されている。それまでアジア各地に散らばっていた小規模なオランダの貿易会社を、一つの強大な組織にまとめたのが東インド会社だ。多くの船を一斉に集め商船団を組み、世界の貿易を一手に掌握することを目指していた。また、世界で最初の株式会社としても知られている。しかし、東インド会社は単なる貿易会社ではなく、オランダ政府は外国政府と通商関係を結ぶ権限も与えていた。二回目に発行された朱印状では、幕府はオランダが日本のすべての港に入港できる許可を与えており、貿易を強く奨励する意が読み取れる。この朱印状は現在、オランダのハーグ国立中央文書館に保管されている。
実際にオランダ船が日本の港に入港し、将軍の意に添うことができたのは1609年。その年、最初の東インド会社の公式船団2隻が平戸に到着した。そしてオレンジ公マウリッツ王子からの国書が受け渡され、日本とオランダとの貿易が初めて正式に認められた。ジャック・スペックスは、平戸オランダ商館の初代館長に任命されている。九州の北西の端に位置する平戸は、中国や台湾との貿易に有利な立地である。が、残念ながら当のオランダ人は、平戸に商館が置かれたことをそれほど歓迎しなかった。なぜなら、裕福な商人のほとんどは、平戸ではなく長崎周辺に住んでいたからである。
オランダ人は漂着して以来1641年までは、自由に外を出歩くことができ、日本人との接触についても何ら制限を受けていなかった。オランダ人は平戸に鋳造所を建設し、井戸の掘削も行っていた。日本人の職人を雇い入れた時には、彼らの技術の高さに感嘆したという。しかし、日本における最大の目的であるはずの貿易はというと、あまり順調ではなかった。アジアにある他の東インド会社からの船が、計画通り日本に到着していなかったこと、そして東インド会社は中国に商館を持っていなかったため、日本で最も需要が高かった生糸を十分に供給することができなかったことがその理由である。この問題を解決するため、オランダ人は積荷を満載したポルトガル船を襲うという手段に出た。当然ポルトガル人これに反発し、オランダ人の海賊行為に対する抗議を幕府に申し入れた。その結果、幕府は日本領海内での積荷略奪を禁止した。
朱印船貿易がさかんになる一方で、幕府は“南蛮人”および“紅毛人”ら外国人との接触に対し、にわかに規制を強化した。1614年、 幕府はキリシタン禁令 を発布し、日本で布教活動をする宣教師や一部の有力なキリシタンをマカオに追放した。禁令は厳しく実行され、多くのキリシタンが殉教の死を遂げた。また、 地下活動に入った者もいた。続く1621年には、日本人が許可なく外国船に乗り込むことが禁止され、やがて海外に渡航することも全面的に禁止された。 1639年には、外国人を父に日本人を母に持つ混血児たちが、日本から追放された。その中には平戸のオランダ商館長ファン・ナイエンローデの娘もいた。彼女はバタビア(現在のジャカルタ)に流されている。一度日本を去った混血児らは、日本の家族と連絡を取ることさえも許されなかった。親子の絆を引き裂く、 非情な裁きである。このように追放された混血児たちが、故郷恋しさのあまり絹の着物地にしたためた“ジャガタラ文”と呼ばれる手紙が、平戸郷土観光館に展示されている。こしょろという女性が書いた手紙も、ジャガタラ文の一例である。1657年になると幕府は規制を緩め、家族の近況を書き記した“音信”を送ることを許可した。コルネリア・ファン・ナイエンローデも、平戸に住む家族に向けて音信を送っている。こちらも平戸郷土観光館で所蔵されている。
ポルトガル人を日本人から隔離するために幕府が出した結論は、人工島の建設だった。これが出島の始まりである。1636年、ポルトガル人は出島に住居を定められた。彼らの出島暮らしは、島原の乱において、キリシタン反乱軍幇助の容疑で国外追放を命じられる1639年まで続くことになる。この戦いでオランダ人は幕府側について戦ったが、結果は散々であった。が、オランダ人はこの痛手を無駄にはしなかった。ポルトガル人を追放しても今まで通り日本に輸入品を供 給できるから、ここは一つオランダ人に任せてくれと、幕府を粘り強く説得した。
ポルトガルに雨が降れば、オランダにも小雨が降る。これは、あるオランダ人艦長の名言である。ポルトガル人が追放され、出島は主人を失った。オランダ人を役人の目の届くところに置いておきたい幕府は、これで格好の囲い場所を得た。1640年、幕府はオランダ人を出島に隔離するためのもっともらしい理由を見つけた。当時、平戸のオランダ商館には、火災から商品を守るため石造りの倉庫が2棟あった。商館長のフランシス・カロンはヨーロッパの習慣に倣い、倉庫の破風に“Anno Christi 1640”、つまりキリスト生誕から1640年と記した。この一件が災いとなり、オランダ人はいよいよ出島に移転させられることになった。幕府はオランダ商館の取り壊しを命じ、オランダ人は1641年、平戸を後にし長崎港に浮かぶ出島に居を移した。以来、日本との接触が許された西洋国は唯一、オランダのみ となった。
4. 出島時代(1641-1853)
出島へのオランダ商館移転は、当初はオランダ側に厳しい状況を強いると思われていたが、幸いにも結果はその逆と出た。出島の面積は約 1万5千平方メート ル。アムステルダムにあるダム広場とほぼ同じ広さである。オランダ人は日本にとって世界への窓としての役目を担うようになった。西洋の科学や諸物がオラン ダ人の手を通じて日本に紹介され、“蘭学”として花開いた。フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは間違いなく、蘭学の発展に寄与した最も有名な人 物 だろう。シーボルトは日本人の学者に、西洋の医学や薬学、その他文化的に価値の高い知識を教授した。また、たくさんのオランダ語が日本語に借用されるようになった。その中でも“ビール”は、日本人の生活に最も溶け込んでいるオランダ語と言えるだろう。
幕府は日本人と外国人との接触に対し、制限を次第に強化した。オランダ人もまた厳しい規則に縛られ生活していた。出島から無許可で外出することは許されず、女性が出島に立ち入ることも禁じられた。ただし円山の遊女だけは、出島で一夜を過ごすことを許されている。例外は、“江戸参府”だけで、この時ばかり はオランダ人も出島の外に出ることが公式に認められた。彼らは一年中暇を持て余していたようだ。ただしオランダ船が入港する8月から10月の間は、出島の 住人も忙しい日々を送った。貿易船から積荷を下ろし、荷を振り分けて、商人に売り渡す。そして船は再び日本の品物を満載し、東インド会社の豪商のもとに 去って行く。故郷からの便りが届くのもこの時期だった。
オランダ商館が出島に移転して以来、幕府が課した規制が痛手となり、平戸 時代ほどの利益を上げることはできなくなっていた。出島では、商品の値段は事前に決められ、売れ残った商品はすべて持ち帰らなければならなかった。規制は確かに厳しかったが、そんな中でも東インド会社はある程度の収益を上げており、 生糸と引換えに金、銀、銅、樟脳などを日本から輸出していた。更に、漆器や陶磁器、茶も、日本からバタビアやヨーロッパに送り出していた。
窮屈な生活を強いられていた出島でも、赴任を希望する東インド会社の商館員が絶えなかったらしい。その最大の理由は、幕府が公式な貿易の外に、個人的な貿易を一定額まで認めていたことにある。このサイドビジネスのおかげで、商館員はかなりの副収入を手にすることができ、その額は通常の年俸の20倍にも達することがあったようだ。当時の商館長の年俸は1200ギルダーだったが、3万ギルダーもの副収入を懐にしていたという記録が残っている。
18世紀に入ると、日本とオランダのそれぞれの政治的な理由から、出島での貿易が不振に陥った。幕府は、貿易船の隻数や金銀交換レー トなどについて、新たな規制を相次いで設け、それらはオランダ側の利益を圧迫した。また同じ頃、ヨーロッパではフランス革命が勃発し、一時は負け知らずだったオランダも制海権 を失うほどになっていた。1795年から1813年の間、出島に入港できたオランダ船は僅か数隻。その結果、出島に居住していた東インド会社の商館員たちは、収入源を断たれてしまった。商館長ヘンドリック・ドゥーフはやむをえず、食料や衣服などを日本人の好意に頼っていた。しかし、ドゥーフはここで時間を無駄に過ごしていない。彼は蘭和辞書の編集を手がけ、日本の役人とも良好な関係を保っていた。なによりもドゥーフは出島にオランダの旗を掲げ続けた。出島の三色旗はその頃、地球上ではためく唯一のオランダ国旗だった。 
5. 蘭学 − オランダに学ぶもの
16世紀の万国共通語はポルトガル語である。オランダ人と日本人が最初に会話をしたときも、ポルトガル語の通訳が介在していた。ポル トガル人が日本から追放されると、次第にオランダ語が日本における第一外国語の地位を獲得し、オランダ語を使えることが通訳や翻訳者にとって不可欠の条件となった。“阿蘭陀通詞”と呼ばれた通訳は、世襲制に基づいており、多い時にはその数150人にのぼった。彼らは通商、外交、そして文化交流の事務役をつとめた。また、阿蘭陀通詞は西洋科学を広める上でも重要な役割を果たしていた。通詞の能力が向上するにつれて、西洋の国々が非常に高い水準の科学的知識を有していることを、日本の為政者たちが認識し始めた。
1720年、八代将軍吉宗はキリスト教関係以外の洋書の輸入禁制を緩和する。それから間もなく学 術洋書が日本に輸入されるようになっ た。オランダ語を通じ て学ぶ学問は“蘭学”と総称され、杉田玄白など高名な学者が卓越した成果をおさめた。玄白は1771年から1774年にかけて、ドイツ人クルムスの『解剖 図譜(Ontleedkundige Tafelen)』を翻訳し、『解体新書』として世に出ることとなった。『解体新書』の翻訳で直面した様々な苦労を、杉田玄白は『蘭学事始』にまとめてい る。この2編の書物は、日本の蘭学塾における必須の書となった。シーボルトが始めた長崎の鳴滝塾、江戸の芝蘭堂、そして緒方洪庵が創立した大坂の適塾など が、蘭学塾として名を馳せるようになる。そこでは医学はもとより、天文学や数学、植物学、物理学、化学、地理、用兵術など様々な学問が幅広く学ばれた。
日本に西洋科学の知識を伝えることが、図らずも東インド会社商館員の重要な役目となった。そこでオランダ側は、学術専門の商館員を日 本に送り込んだ。カス パル・スハムベルゲンの医学は、カスパル流として日本人に踏襲された。ヘンドリック・ドゥーフは、フランソワ・ハルマの蘭仏辞典に基づいて、蘭和辞典『ハルマ和解』を監修した。さらには詩をたしなむ程、日本語も上達した。コック・ブロムホフは、日本の工芸品や日常品などを収集した。しかし、最も有名な“オランダ”の学者と言えば、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトをおいて他にない。
1823年に来日したフォン・シーボルトは、日本の国家や民族、文化についてできる限り多くの情報を収集するという使命を帯びていた。植物学、医学、薬学 に博識だったシーボルトは、日本において最も尊敬を集めた東インド会社の商館員となった。彼は長崎近郊の土地を授かり、鳴滝塾を創立した。そこで患者を治療し、医学や生物学を教え、植物園を構えた。多くの学者や患者、武士と接触できる立場にあったため、日本の生活にまつわる様々な品物を収集することが可能であった。シーボルトは薬草に関する知識を授けた礼に、日本人蘭学者からある物を受け取っている。それは葵の紋が染め付けられた着物だった。また秘密裏に、国外持ち出し禁止の日本地図も入手していた。これらは当時、外国人が所有することを禁じられていたものばかりである。これが発覚し、シーボルトは 1829年にスパイ容疑で国外追放及び再入国禁止の処罰を受けることになる。“シーボルト事件”として知られるこの事件によって、彼は妻と娘おいねを残して日本を去った。後においねは日本最初の女医として、素晴らしい功績を残した。シーボルトが日本で収集した膨大なコレクションは、現在オランダのライデン国立民族学博物館に収蔵されている。
6. 江戸参府 −オランダ人、日本を旅する
毎年行われた江戸参府は、オランダ人と日本人の役人が公式に面会する機会を与えた。日本各地の大名と同様、出島のオランダ商館長も江戸に上り、将軍に謁見するよう命じられていた。そして、風説書と呼ばれる諸外国の政情を著した報告書の提出が義務づけられていた。
江戸参府は、商館長を先頭に、商館医と商館員数名、それに加えて阿蘭陀通詞と長崎の役人も随行し、一団はおよそ150人から200人で構成された。全行程を終えるには約3ヶ月を要した。“紅毛人”の行列には行く先々で好奇の眼差しが浴びせられ、江戸参府は通算およそ170回も行われた。長崎から下関までを陸路で、そして兵庫もしくは大坂の港まで船で渡り、東海道を東に進み江戸に至った。静岡県掛川市には、江戸参府の帰途に客死したオランダ商館長ヘンミィの墓が今でも残っている。
江戸で将軍に謁見するには、数々の高価な贈物が必要とされた。遠眼鏡、西洋医学の道具や薬、大砲、地球儀、さらにはシマウマやラクダ、サルなど南国の珍しい動物なども贈られている。西洋科学の書物も、特に喜ばれた。1638年に将軍に贈られた銅製のシャンデリアは、外交問題の解決に一役買った。この大燈篭は現在も、徳川家康を奉る日光東照宮に安置されている。この大燈篭の御礼に、将軍はオランダ人に高価な絹の着物を下賜した。
7. “阿蘭陀”美術
オランダ人の出島での生活や江戸参府の様子は、日本人絵師を大いに刺激した。出島の暮らしぶりを描いた長崎絵は、長崎を訪れる旅行者の最適な土産物となっ た。またオランダ人の姿が陶器の絵柄にもなった。オランダから運ばれてきた絵画や絵本なども、絵師に創作のアイデアを与えていた。司馬江漢は一度も見たことのないオランダの風景を描いているが、その絵にはオランダに無いはずの山が描かれている。
川原慶賀は、フォン・シーボルトの個人的なアシスタントとし て、19世紀初期の出島の様子を絵筆で克明に記録している。これら長崎絵やオランダ人の絵柄をあしらった陶器、その他オランダにまつわる工芸品は、長崎県立美術博物館、長崎市立博物館、神戸市立博物館で見ることができる。
8. 花の時代の終わり − 江戸時代末期
19世紀は世界の政治情勢が大きく変化した時代である。オランダは海の覇権を失い、代わりにアメリカとイギリスが勢力を拡大していた。アヘン戦争 (1839-1842)でイギリスは中国に対し、国際貿易港として5つの港を開港し、香港を割譲するよう要求した。日本を追放されオランダで研究生活を送っていたフォン・シーボルトは、オランダ国王ウィレム2世にこう進言した。将軍に直ちにアヘン戦争の結果を知らせ、鎖国を撤廃するよう促すべきである、と。ウィレム2世がシーボルトの助言に従い書いた国書は1844年、正式な儀式を経て長崎奉行を通じ幕府に手に渡された。幕府はオランダ国王の配慮には感謝したものの、助言に従うことは拒否した。しかしオランダはドンケル・クルチウスを出島の商館長として送り込み、再度将軍に開国を勧告した。1852年、クルチウスは、アメリカが武力で日本に開国を迫ろうとしている、と将軍に忠告をした。しかし幕府は最後まで忠告に耳を貸すことなく、1853年のペリーの黒船来航を迎えてしまった。
9. 日本の近代化
1853 年のペリーの黒船来航を境に、日本は鎖国を捨て、急速な近代化に向かうこととなった。それから50年の間に、日本は封建社会から近代的な西洋デモクラシーの社会へと急変した。オランダ人はそれまでの特権的な役割は失ったが、両国の親密な関係に変わりはなかった。開国当初、日本と諸外国との公式な折衝はすべてオランダ語で行われていた。つまり日本人とアメリカ人との最初の会話にも、オランダ語が仲介役を果たしていたわけである。しかし、日本人は世界の列強の力関係が変化していることを察知した。そして西洋諸国に追いつこうと、幕府はアメリカとヨーロッパに使節団を派遣した。それと同時に、幕府は近代化の礎を築くため、西洋の専門家や学者を日本に招いた。造船、海軍、医学、薬学、土木の分野で、オランダ人は日本の近代化を支援することになった。
ペリー来航の直後、将軍はドンケル・クルチウスにオランダから蒸気艦を派遣するよう要請した。それを受けてオランダ政府は、日本に軍艦スンビン号を献上した。この船は後に“観光丸”と改名される。航海術や砲術、更には造船術の教育を目指して、長崎に海軍伝習所が設立された。スンビン号の艦長だったファビウスと乗組員が、最初の教師として教壇に立った。あの勝海舟も生徒として名を連ねていた。観光丸の成果を見届けてから、幕府は2隻目の蒸気艦の発注を決定する。この船はヤパン号という名で日本に到着したが、“咸臨丸”と改名された。この船が、勝海舟をアメリカに運んだ船である.
ヤパン号に乗って、エンジニアのハルデスと、海軍医のポンペ・ファン・メールデルフォールトが来日した。ハルデスは日本で最初の船舶修理工場と造船所を設立した。これが後に三菱重工長崎造船所へと発展する。
ポンペ・ファン・メールデルフォールトは、フォン・シーボルトの足跡に続き、長崎に最初の西洋式病院を建設した。さらにポンペの業績はA.F.ボードワン、C.G.マンスフェルト、K.W.ハラタマ、A.C.J.ヘールツに受け継がれ、 近代的な医学教育体系の発達に大きく寄与した。大阪大学医学部の基礎は彼らオランダ人が築いたものである。ハラタマは大阪に化学専門学校の舎密局(せいみきょく)を創立し、そこで薬学と化学を教えた。またハラタマと彼の生徒は、日本で最初の近代硬貨に使用された合金を開発している。
10. 洪水から日本を守る
日本政府が招聘したオランダの水工技術者の残した業績は、今でもはっきりとした姿を残している。山がちな日本の国土で繰り返される洪水を食い止めるため、 彼らオランダ人はこの挑戦に立ち向かった。また、近代的な港湾の建設にも力を入れるため、C.J. ファン・ドールンが最初のオランダ人技術者として日本に招かれた。彼は福島県に安積疏水を開削した。猪苗代湖畔には、ファン・ドールンの銅像が建てられて いるが、この銅像は第二次世界大戦のために供出されそうになったところを地元住民が反対し、現在に至っている。
日本政府の要請を受けて、ファン・ドールンはさらに数名の技師を日本に呼び寄せた。こうして来日したのが、ヨハネス・デ・レイケである。デ・レイケは学位こそなかったが、実地で申し分のない技術を磨いていた。またA.G.エッシャーも仲間の一人だった。彼は世界的に有名な画家 M.C.エッシャーの父であり、画家のエッシャーは父が日本から持ち帰った浮世絵に多大な影響を受けたと言われている。
ヨハネス・デ・レイケの招聘は、日本にとって最高の選択となった。彼は日本に30年以上滞在し、土木局長、つまり内務省事務次官級の役人にまで昇進した。 おそらく彼は日本において、高級官僚として認められた唯一の外国人であろう。デ・レイケの卓越した技術は、大阪の淀川、そして木曽三川の治水工事で存分に発揮された。木曽三川の河口付近では、流れの異なる3本の川が合流しており、洪水が頻繁に起こっていた。ヨハネス・デ・レイケは、防波堤や水制、さらに土壌の浸食を防ぐため木を植えるといった工法を用いた。オランダは山がないため、デ・レイケは砂防ダムを建設した経験など全くなかったにも拘らず、このような 技術も使いこなすことができた。更に彼は大阪港、長崎港、横浜港など日本の近代港湾の設計にも携わった。この時期、合わせて12人のオランダ人水工技師が来日し、日本人の生活を洪水から守るために力を尽くした。
オランダからの技術者招聘のほかにも、明治政府は日本の学者をオランダへ派遣していた。西周や津田真道はライデン大学に学び、福沢諭吉もオランダに遊学し た。
日本の開国を契機に、日本とオランダは正式な外交関係を結んだ。1859年、横浜に最初のオランダ領事館が置かれ、後に東京に大使館が開かれた。また1868年には神戸にオランダ領事館が設置された。しかしながら、インドネシアにおける日蘭の武力衝突は、長年にわたる両国の友好の歴史を以ってしても、 残念ながら回避できなかった。
11. 歴史の闇(1942-1945)
第二次世界大戦は、長きにわたる日蘭関係において、一瞬の断絶をもたらした最初で唯一の出来事である。天然資源の確保と大東亜共栄圏 の構想を実現するため、1942年1月10日、日本軍はインドネシアに侵入した。当時オランダの植民地だったインドネシアは、石油や天然ゴム、胡椒、スパイスなど天然資源が たいへん豊富だった。2ヶ月間にわたる戦闘の末、オランダ国軍は降伏した。そして4万人ものオランダ兵が捕虜として収容所に連行された。それに引き続き、 インドネシアに住んでいたオランダ人の一般市民も強制労働キャンプに移送され、遠くは長崎や北九州の炭坑に連れられて行った。
日本軍のインドネシア占領が終戦と共に終わり、最終的にインドネシアは独立を果たした。大戦後、オランダは植民地主義の列強から離脱 し、日本は1951年 まで米軍に占領された。この間、過去に培ったはずの日蘭関係は覆され、大戦による傷跡は今でも二国間関係に影を落としている。
12. 日本とオランダの現在(1945-)
1952年、オランダは日本との国交を正式に正常化した。江戸時代から明治にかけてオランダが果たした特別な役割はもはや過去のもの となり、多くの日本人にとってオランダはヨーロッパ諸国のうちの一つになってしまった。
1950 年代後半、日本とオランダの関係は、経済、文化、科学技術の分野で、新しいスタートを迎えた。KLMオランダ航空が日本に就航し、フィリップスは 松下電器産業の成功の基礎作りを支援した。オランダの切り花が輸入されるようになり、日本人の暮らしに花を添えた。1960年代に入ると、アムステルダム のコンセルトヘボウ・オーケストラが日本人の音楽を聴く喜びを与え、ファン・ゴッホやレンブラントの名画がたくさんの観衆の心を奪った。蘭学の息吹は、それぞれの大学で脈々と引継がれている。
しかし、オランダが再び日本人の意識に登るようになったきっかけは、東京オリンピックだろう。柔道は、 1964年に開催された東京オリンピックで、初めて 公式種目として認められた。金メダルは日本人選手が独占するに違いない、と日本中の誰もが期待していた。しかし、オランダ人選手アントン・ヘーシングに よってその期待は打ち砕かれた。柔道無差別級でヘーシングが神永選手から金メダルを勝ち取った時、どれほど多くの日本人が涙を流しただろうか。アントン・ ヘーシングは今でも偉大なスポーツマン、そして一部の世代には最も有名なオランダ人として知られている。
1983年、日本とオラ ンダの関係は、長崎県西彼町のオランダ村開園を機に、大きな飛躍の時を迎えた。オランダ風車が最初に建てられ た。それに続いて東インド会社の帆船やオランダ風の建物が姿をあらわし、オランダ製品と共にたくさんの日本人観光客を呼び寄せた。ゴーダチーズや木靴などが人気を集めた。オラ ンダの絵本作家ディック・ブルーナが創作した“Nijntje”(ナインチェ)は、日本ではうさこちゃんやミッフィーちゃんとして親しまれ、世代を問わず多くの日本人の心を掴んでいる。オランダ村が成功をおさめたため、拡張計画が打ち出された。それが1993年、佐世保市にオープンしたハウステンボスである。
“ハウステンボス”は、オランダ国王の宮殿にちなんで付けられた名前である。長崎ハウステンボスは、規模そして内容とも最初に造られ たオランダ村をはるかに凌ぐスケールを誇る。ハウステンボスの理念は、単なるテーマパークに留まらず、人々が暮らし、働き、余暇を楽しむことのできる本物の“コミュニティー” を創ることにある。オランダの有名な建築物が原寸大で立ち並び、ハウステンボス宮殿までもが再現されている。宮殿のなかには美術館がある。ハウステンボス内のレストランでは、オランダをはじめヨーロッパ各地の料理を味わうことができる。オランダ王室は、長崎ハウステンボスに本物の宮殿 と 同じ絵画を飾ってはならないと言う。そこでオランダの有名な若手画家ロブ・スホルテを招き、壁画の間を造ってしまったのだ。彼の壁画“Apres nous le Deluge”(フランス語で“あとは野となれ山となれ”という意味)は内外に誇るべき素晴らしい作品として、来訪者を魅了している。
長い歴史にも消されなかったオランダの足跡は、目だけでなく耳でも感じることができる。
現在日本語に残っているオランダ語からの借用 語は、主に鎖国時代に その起源を遡ることができる。多くの日本人はそうとは気付かずに、オランダ語の言葉を日々使っているのではないだろうか。その良い例が、ビール、コー ヒー、ガラス、ピストル、オルゴール、おてんばなど、オランダ語の音をそのまま真似たものである。また、病院や盲腸、炭酸などオランダ語の意味を漢字に転 換したものなどもある。これらの言葉は、オランダの影響が日本人の日常生活にいかに色濃く残っているかを示す、ほんの一例に過ぎない。  
[詳細情報]   外人が見た日本人
 
唐人お吉 (斎藤きち)

 

(1841-1890) 幕末から明治期にかけての伊豆国下田の芸者。唐人お吉(とうじんおきち)の名で知られる。
下田一の人気芸者
1841年(天保12年)、尾張国知多郡西端村(現在の愛知県南知多町内海)に船大工・斎藤市兵衛と妻きわの二女として生まれ、4歳まで内海で過ごし、その後、一家は下田へ移る。7歳の時河津城主向井将監の愛妾村山せんの養子となり琴や三味線を習った。14歳で村山家から離縁され芸者となりお吉と名乗ったきちは、瞬く間に下田一の人気芸者となる。
唐人お吉
1857年(安政4年)5月、日本の初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが玉泉寺の領事館で精力的に日米外交を行っている最中、慣れない異国暮らしからか体調を崩し床に臥せってしまう。困ったハリスの通訳ヘンリー・ヒュースケンはハリスの世話をする日本人看護婦の斡旋を地元の役人に依頼する。しかし、当時の日本人には看護婦の概念がよく解らず、妾の斡旋依頼だと誤解してしまう。そこで候補に挙がったのがお吉だった。
当時の大多数の日本人は外国人に偏見を持ち、外国人に身を任せることを恥とする風潮があったため、幼馴染の婚約者がいたお吉は固辞したが、幕府役人の執拗な説得に折れハリスのもとへ赴くことになった。当初、人々はお吉に対して同情的だったが、お吉の羽振りが良くなっていくにつれて、次第に嫉妬と侮蔑の目を向けるようになる。ハリスの容態が回復した3か月後の8月、お吉は解雇され再び芸者となるが、人々の冷たい視線は変わらぬままであった。この頃から彼女は酒色に耽るようになる。
最期
1867年(慶応3年)、芸者を辞め、幼馴染の大工・鶴松と横浜で同棲する。その3年後に下田に戻り髪結業を営み始めるが、周囲の偏見もあり店の経営は思わしくなかった。ますます酒に溺れるようになり、そのため元婚約者と同棲を解消し、芸者業に戻り三島を経て再び下田に戻った。お吉を哀れんだ船主の後援で小料理屋「安直楼(あんちょくろう)」を開くが、既にアルコール使用障害となっていたお吉は年中酒の匂いを漂わせ、度々酔って暴れるなどしたため2年で廃業することになる。
その後数年間、物乞いを続けた後、1890年(明治23年)3月27日、稲生沢川門栗ヶ淵に身投げをして自殺した。満48歳没(享年50)。
その後、稲生沢川から引き上げられたお吉の遺体を人々は「汚らわしい」と蔑み、斎藤家の菩提寺も埋葬を拒否した為、河川敷に3日も捨て置かれるなど下田の人間は死後もお吉に冷たく、哀れに思った下田宝福寺の住職が境内の一角に葬るが、後にこの住職もお吉を勝手に弔ったとして周囲から迫害を受け、下田を去る事となる。
戒名・釋貞歡尼(しゃくていかんに)。  
お吉の存在は、1928年(昭和3年)に十一谷義三郎が発表した小説『唐人お吉』で広く知られることとなる。
部分的なフィクションの可能性
斎藤きちの経歴については諸説あり、芸者ではなく洗濯や酌婦で生計を立てていたとする説もある。元来資料が少ない上に後年の小説、戯曲等で描かれたフィクションの部分が史実の様に語られている可能性も高く、一概に伝わる経歴の正誤を断定する事は困難である。 
唐人お吉 1
「本当にコンさまがそうおっしやったのですか。このきちにもう玉泉寺には来るなと。」「本当です。でも、おキチさん。コンスル(領事)はあなだがキライになったのではない、あなたのタメを思って言ったことです。日本語で、どう表現するか、そう、生木を引き裂くというコトバがありますね。おキチさんとツルマツさんが恋仲であると、ミスター・ハリスは知ってしまったのです。とにかく今夜はこのまま帰ってください、おキチさん」
「たとえどのようなお気持でおっしゃったにせよ、きちはこのまま帰るわけにはまいりません。玉泉寺へ通い、コンさまにお目にかかることが私のつとめなのですもの」
「弱りましたネ。でもコンスルの気持は変りませんよ」
ヘンりー・ヒュースケンとお吉との押し問答が下田市郊外柿崎村・玉泉寺前の石段下で続けられたのは、安政四年(1857)5月25日宵のことである。ヒュースケンは米国の初代日本駐在総領事に任じられたタウンセンド・ハリスに仕える書記兼通訳官だった。お吉が初めて玉泉寺の門をくぐり、ハリスにお目見えしたのが二十二日、わずか三日しか経っていないのに事実上の解雇を言い渡されたのである。
さらに、前日の二十四日には給金のほかに支度金として二十五両の大枚を奉行所から支給されている。
自分をハリスの許に差し出すについて奉行所役人の森山多吉郎は、唐土のに王将のに事を持ち出し、洋妾になって国を救ってほしいと頭を下げた。「それにな」と、森山はお吉の泣きどころを衡いてきた。
「お前が承知してくれたなら、鶴松には苗字帯刀を許し、御作事大工頭の組下にもしようとお奉行も言っておられる」
恋仲である船大工の鶴松は、かねがね帯刀を許される身分への憧れが強く、口癖のように「刀が差してえ」と言ってはお吉を困らせていた。その上、自分には支度金二十五両のほかに一年の給金百二十両をくれるという。
日ごろ船頭たちの汚れ物の洗濯や繕い物をして母親のきはと生計をたてているお吉にとって、一生涯見ることのない大金である。お吉の気持が揺れた。その矢先に当の鶴松が訪ねて来た。
「吉ちゃん、この通りおいらからも頼む。なに、一年間といえば永えようでも考えようで短くもならあ。目をつむってがまんしてりゃすぐに終るさ。おいらも晴れてお前と一緒になれる日を待っているぜ」
「本当に待っていてくれるんだね。このからだが汚れていてもいいんだね」
こうして玉泉寺の門をくぐるようになり、四日目の宵なのである。ハリスと夜を過さなくてもよいと聞いて嬉しくはあったが、しかし途方にくれるお吉でもあった。
その後のお吉に対する世間の目は、予想以上に冷たく非情だった。船頭たちからの仕事もお吉一家には回ってこなくなり、網元の家での宴席に侍る仕事もめっきりと減った。
当初はさほど生活に困ることもなかったが、やがて困窮した。六月と七月にも給料は貰ったが、月十両の筈が六月には七両、七月は五両。一応大金ではあるが、あぶく銭の性格の金で、自分たちも派手に使っただろうし、周囲からたかられもしたに違いない。七月には母のきはと姉婿宗五郎の連署で奉行所宛に嘆願書を差し出した。世聞が受け入れてくれないので生活にも困るというわけである。翌月、三十両が下賜されたが、これは手切金で、奉行所とも縁が切れた。世間の目は相変らず冷たく、「洋妾(らしゃめん)」と刻印された十七歳のお吉には辛いことであった。その後、お吉の生活は転々とする。
望郷の念にかられたお吉は傷心を癒やそうと生れ故郷の知多郡内海にも足を踏み入れたが、
『らしやめん』『唐人お吉』と、子供たちにまではやされた。恋人の鶴松と横浜で同棲もしたが、生れ故郷での蔑視には耐えられないものがあったであろう。幼ない日を過した内海の白砂も青松も、心を慰める手段にはなり得なかった。
お吉は三島で芸者に出、さらには稼いだ小銭を元手に下田で『安直楼』という名の小料理屋を開いたが永くは続かなかった。屋号からお吉のふてくされた気持が察せられる。アルコールに溺れた彼女には「きすぐれ」のあだながつけられた。やがてせっかくの家や家財も借金のかたに取られ、お吉は病に倒れる。
明治二十三年(1890)三月二十七日、身も心もぼろぼろになってお吉は、稲生沢川の淵に身を投げて死んだ。この淵には『お吉ケ淵』の名が残っている。五十歳だった。  
真実のお吉 2
幕末、開国の一舞台となった下田。その片隅の悲話「唐人お吉物語」は小説になり舞台で上演などもされ、全国的に有名になっています。しかしそこで語られ演じられている事は今日の歴史資料や伝聞等により判明した史実とは、かなりかけ離れた物と断言できます。
それは明治の下田の開業医である開国史研究者「村松春水」の、お吉を題材にした小説風の原稿を、昭和初年、作家十一谷義三郎が史実実話と銘打って「唐人お吉」を発表したことによるものだったからであり、生前春水は「私の原稿は十一谷の儲け仕事に色々と利用されたが、それについて氏から何らの挨拶もなかった。」と明言しているからです。
ここでは「下田物語」や地方史研究所より引用した「真実のお吉」像を紹介してみます。

お吉は天保12年11月10日、船大工市兵衛の次女として愛知県半田(知多半島)で生まれ4歳で下田に移り住み7歳で養女、14歳で養母おせんや知人の奨めにより芸者となりました。 一説では「洗濯女」とも言われ、港に入った船乗りなどの身の回りの世話をする宿専属の、酒の相手やまた体も提供していたとも言われています。
生まれつきの瓜実顔で漁村の女にしては垢抜けていて、その美貌は評判になりました。また美声でもあり新内の明鳥が得意だったことから「新内のお吉」「明鳥のお吉」と呼ばれ、もてはやされたと言い事です。
安政4年(1857)お吉17歳の時、幕府側かアメリカ側どちらからの要望であるか、これが第一の問題点でもありますが、お吉はアメリカ領事館のハリスの元へ奉公に上がることになりました。日本人の欧米コンプレックスのためか、また物語中にて悪巧みな役人が弱い町人を虐める構図の方が観客に受けるためか、日本側のハリス懐柔策でお吉が国の犠牲として連れて  行かれたという物語になってしまったようです。しかし昭和時代アメリカ進駐軍が日本政府に要求した慰安婦の事例と照らし合わせ、またハリスは江戸から帰った安政5年〜翌2月までおさよと言う優しい気性の娘を支度金20両月給7両2分で囲っていた事実、また江戸滞在中もおりんと言う18歳になる寺仕込みの使用人を三ヶ月ほど仕えさせていたいう事から、ハリス側から、召使いあるいは看護婦の名目の下、日本の若い娘を要求をしていたのだと言う説の方が説得力がある様感じます。また下田奉行所支配頭取・伊差新次郎自らが、お吉をハリスの元へ奉公に行けと口説いたと言う説も、幕府の役人が出るまでもなく町や組合などの世話役や頭がその役に当たったと言う方が、現代でも日常起こりえる日本らしい風景に感じます。
さてその安政4年5月22日の夜、お吉は五人の役人につきそわれ引き戸駕籠に乗せられ領事館へと出向いて行きました。そして翌朝帰って行きました。しかし三夜でお吉に腫物があると言うことで、ハリスより奉行を通して自宅療養を申しつけられてしまいました。よってお吉がハリスの元に通ったのはこの三夜だけだったのです。物語で演じられているような献身的看病や異人との恋愛感情などは、資料には全く存在していません。
何故わずか三夜かぎりでお吉がハリスの付き添いをおろされたのか、これも諸説ありますが本当のことははっきりはしていません。 ハリスの人道説や病気説、プロの女であるお吉の性格に嫌悪を感じた・反対にお吉は老いた異人を好まなかったと言う説等色々ありますが、後日事実上の手切れ金30両をうけ取った時12両は前借り金の返済として奉行所に引かれ た事や、ご用役人が女達の待機している間騒がしかったとなどの記録から(また後半生からも)金遣いの荒い派手好きな女だったと言えるのではないかと思います。また前述のおさよや秘書官のヒュースケン侍女おふくやおきよ、そしておまつなどとは長期間に深いと関係を持ったと言うことから、お吉のみが特異のケースであったと言えるでしょう。
お吉のその後は、三島や横浜での芸妓生活、鶴松との髪結業の開業、また安良里の船主亀吉の後援で安直楼を開くも二年で廃業となるなど、波乱の生涯を過ごしました。そして明治24年、51歳(数え)の時、事故なのか自ら身を投じたのか増水した河川に入水し命を落としたです。晩年は乞食の集団に身をおき、子供達からは唐人と石を投げられさげすまれながらも、人からの施しは一切受け付けず、旧知の名家を回り寄食しました。
その時分の事が大きく取り上げられ、下田の人々がお吉をなじり蔑んだことになってしまったのです。一部には罵声や嘲笑を浴びせた人々もいましたが、それはお吉のプライドの高さと酒癖の悪さが原因であり、その哀しい性格が災いしていたと言えるのでしょう。しかし、もしハリスの元へ奉公に出なくて済んだのなら、唯の酒飲みで気位の高い芸者で一生を終わっていたかも知れません。一時代の動乱に巻き込まれた、不幸な女だったことには違いありません。  
唐人お吉 3
元町で暮らした日々
唐人お吉(一八四一〜一八九一)が元町で過ごした数年間の、おそらく生涯を通じて最も幸せだった日々の話である。それには、併せてその前後のお吉が歩んだ人生についても記述する必要があると思う。
米国初代総領事ハリスが下田に来航し、玉泉寺を領事館としたのは安政三年(一八五六)八月のことである。もともと病弱だったハリスは、条約締結への心労もあってか、年の暮れから健康を害し、年が明けると吐血、下田奉行に身の回りの世話をする女性の派遣を要請した。当時、日本人は外国人を夷人(毛唐)呼ばわりし、看護のためとはいえ、夷人のもとへ赴く女など居なかった。困り果てた奉行が目をつけたのは、港に出入りする船員たちの衣類の洗濯で生計を立てる母親を助けて、自らは芸者として働いていた当時十六歳、評判の美人斎藤きち(通称明烏のお吉)であった。
お吉には鶴松という四歳年上の大工の恋人がいた。奉行からの再三の要請を拒みつづけるお吉に、奉行は「お国のためだ。身を投げうってくれ」と、対価として一ヶ月十両、支度金二十五両の条件を示した。下男の給料が一ヶ月一両二分だったころのこと、それは途方もない大金だった。一方、奉行は鶴松に対してはいずれ武士に取り立てるからといってお吉と別れるように迫った。あこがれの武士と聞いて鶴松の心は動いた。鶴松の心変わりを知り、それを詰(なじ)ったお吉だったが、そのうちに諦めて奉行の要請を受入れ、幕府が用意した引戸駕篭に乗せられて玉泉寺の門をくぐった。安政四年五月二十二日のことである。
しかし、そのときはなぜか三夜で帰される(お吉の体に腫れのもができていたとの説がある)。村に戻ったお吉を村人は夷人に肌を許した女、「唐人お吉」と呼んで蔑み、姿を見ると石まで投げつけた。
安政五年六月八日、下田をひき払って江戸に向うハリスに同行したお吉は、江戸到着後、幕府から手切金を渡された。ハリスが条約締結の使命を了えたあとは、ハリスに従いてアメリカまで行く覚悟を決めていたお吉は、その金の受取りを拒否したが、幕府の役人から渡航条例があって出国はできないと説得され、しぶしぶそれを受け取り、そのあと忽然と姿を消した。しばらく江戸にいたあと、上洛し祇園で芸者となって、倒幕をはかる勤王志士たちに陰で力を貸していたともいわれる。
一方、鶴松は江戸で幕府に一旦は武士に取り立てられたものの、明治維新で幕府そのものが崩壊、職を失うと、新たな職を求めて新開地横浜にやって来た。このとき、鶴松が住んだのが下田出身者が多く住む元町五丁目土方坂の「下田長屋」であった。そして、近くの造船所(吉浜町)で船大工の仕事についた。
ある夜、仕事を終えた鶴松はひとり紅灯(こうとう)の巷を歩いていた。と、そこへ編笠を被った新内流しの粋な女が通りかかった。……この辺になると、もう芝居(戯曲)や小説の世界であるが……見れば、それはお吉であった。お吉も放浪の末、新開地横浜(太田町)にやって来ていたのである。二人は、たちまち元の恋仲にもどり、その夜から鶴松の長屋で一緒に住むようになる。明治元年(一八六八)、お吉二十八歳、鶴松三十二歳であった。
ほぼ十年振りに横浜で再会したお吉と鶴松は、その夜から元町五丁目にあった「下田長屋」で新婚生活を営むようになる。
この「下田長屋」について、作家十一谷義三郎は、随筆「唐人お吉を語る」(昭和四年刊)の中で、「鉱山長屋に似たバラック風の建物だったと横浜古老談」と記しているが、おそらく、それは安政七年(一八六○)、幕府が外国人居留地をつくったとき、元町との間を隔離するための運河(堀川)の造成に当った労働者(土方)住居用に建てた長屋と思われる。このときは各地から大勢の出稼ぎ労働者が集まったが、その中でも下田からの出稼ぎが多く、それらの人たちが住んだことから「下田長屋」や「土方坂」の名がついたものと思われる。
「長屋」にお吉を迎えた鶴松は、翌日から仕事に一層精出すようになり、お吉はお吉で、女房らしく髪を丸髷に結い、好きだった酒も断って、鶴松の帰りを待ちながら家事にいそしんだ。
このころ、いまも五丁目にある小料理屋石川屋は米屋を営んでいて、お吉もしばしばこの店を訪れている。店には女主人門倉知加(一八四三〜一八八二)のほかに小川かめ(一八四九〜一九二三)もいた。二人ともお吉(一八四一〜一八九一)と年齢が近いせいもあって、何かにつけてお吉の身の回りの相談に乗っていたらしい。特に、のちに「石川屋」が米屋から酒屋に転じたときの初代「石川屋」の女主人となったかめは、姉御肌で面倒見がよく、お吉より年齢が八歳年下であったにもかかわらず、馴れない土地でのお吉を思って、細かく気を配り、いろいろと世話を焼いていたらしい。お吉が当時坂下にあった髪結いの店を手伝うようになったのもかめの紹介があってのことと思われる。鶴松の帰りを待つあいだ、お吉はこの店で髪結いの腕を磨いた。お吉がのちに下田で髪結いの店を始めたのもこのときの素地があったからである。
かつては「唐人お吉」の名であれほど周囲から蔑まれていたお吉も、ここではごく普通の女(ひと)として迎えられ、平穏で、こころ休まる日々を送ることができた。
こうして足掛け四年の歳月が流れた。やがてお吉も鶴松も望郷の念にかられるようになる。明治四年(一八七一)、二人は意を決して下田に戻った。もともと大工だった鶴松は自分で家を建て、そこでお吉は元町で習いおぼえた髪結いの店を開いた。「お吉の店に行けば、横浜や長崎で流行の髪型〈唐人髷(まげ)〉を結ってもらえる」というので女たちは押しかけ、店は繁盛した。が、それも束の間。お吉が村に戻ったことを知った昔の馴染み客がお吉の「新内明烏」を聞きたいと酒席へ招き、最初は躊躇していたお吉もやがてその席へ顔を出すようになり、勧められるままに酒を一合、二合……五合、一升と飲み進み、そのうちに酒乱の気味を呈するようになる。そして、それがもとで鶴松との間でいい争いが絶えなくなり、ついに二人は喧嘩別れすることになる。
お吉は、三島で再び芸者となり、鶴松は再婚後、急死。二年あまりで下田に戻ったお吉は、再び髪結店を開くが、四二歳になったとき、地元の船主から小料理屋兼遊女屋「安直楼」の経営を任されることになる。ところが、女将(おかみ)の身でありながら、客前で大酒を呷(あお)り、酒乱と化すお吉の姿を見て、客足は次第に遠のき、店は二年で廃業に追い込まれる。
それからのお吉は、自暴自棄となった。一人朝から酒を呷り、やがて、精神も肉体もぼろぼろになり、半身不随となって、その日の暮らしにも事欠くようになった。村中をもの乞いして歩くお吉は、そのうちに疲れ果て、ついに明治二四年(一八九一)三月二七日、豪雨の中、稲生川上流の門栗ヶ淵に身を投げて、五一歳の生涯を閉じることになるのである。
こうして、改めてお吉が辿った人生を見てみると、時代の波にもまれながら必死に生きたお吉にとって、生涯唯一心休まる日々が送れたのは、元町で過ごしたあの数年間しかなかったのではないかと思われるのである。 
お吉ヶ淵 静岡県下田市河内
明治24年(1891年)3月27日の豪雨の夜、一人の女性が下田街道沿いの稲生沢川の淵に身投げをした。その女性の名は斎藤きち。“唐人お吉”と呼ばれた女性である。
きちの生涯は、幕末の動乱期に翻弄され流転した。幼い頃に下田に移り住んで、14歳で下田一の人気芸妓となったきちであるが、安政4年(1857年)に人生を決定付ける転機が訪れる。当時下田に滞在していたアメリカ総領事のハリスの“身の回りの世話”をするよう説得されるのである。
胃潰瘍で倒れたハリスとしては看護をしてくれる女性を希望したと言われるが、幕府はこれを愛妾の要求と解釈してきちに白羽の矢を立てたのである。期間として約2ヶ月の勤めであったが(最初の3日間で一旦暇を出されるが、支度金25両のこともあってきちの側から再び世話を願い出ている)、異国人の私的な身の回りの世話をしたという偏見や、その報酬の高さ(月給10両)からくる妬みのせいか、その後きちは下田の町で「唐人お吉」と呼ばれ、迫害を受けるようになるのである。
ハリスと共に江戸へ赴いたきちは、そこで職を解かれた直後に行方をくらました。そして明治維新頃に横浜に現れ、かつて将来を誓い合った男と偶然再会して所帯を持つ。二人して下田に戻ったが、結局いさかいが絶えなくなって離縁。きちは再び下田を離れて三島の遊郭で芸者として働きに出る。数年後、蓄えを持って下田に戻り、支援を受けて小料理屋「安直楼」を始めるが2年で破綻する。その頃には既にアルコールによる障害が出始めており、生活もすさんでいき、ついには物乞い同然の身にまで堕ちてしまう。そして悲劇的な死を遂げてしまうのである。
淵から引き揚げられた遺体は引き取り手もなく、菩提寺も埋葬を拒否したため、3日間もその土手に放置されたままだったという。結局、宝福寺の住職が遺体を引き取り境内に埋葬したのである(これが現在の墓所)。死んでからまで下田の人々から嫌われ続けたきちであるが、彼女自身はこの土地を離れては戻ることを繰り返している。それを考えると、「世をはかなんで」投身自殺したとされる最期も、もしかすると彼女の本意ではなかったような印象も出てくる。
歴史の表舞台に出ることもなく、翻弄されるだけで消えてしまったようなきちであったが、突如としてその存在が人々の目に触れるようになる。昭和2年(1927年)に村松春水が書いた小説『実話唐人お吉』、翌年その版権を買った十一谷義三郎が著した『唐人お吉』を下敷きにしたサイレント映画が立て続きに公開され、彼女の名前は全国に知られるようになった。そして昭和8年(1933年)、この地を訪問した新渡戸稲造が、このお吉ヶ淵を詣でて供養のための地蔵を建立した。これが現在の“お吉地蔵”であり、またお吉ヶ淵は小公園化され、命日には「お吉祭り」と称して下田の芸者をはじめとする多くの女性がこの地を訪れて冥福を祈るようになっている。
ハリス
1804-1878。アメリカの外交官。40代になって貿易業を営み、東洋に在駐する。かつて公務に就いていた関係から、日本総領事を希望して就任を勝ち取る。下田の玉泉寺を領事館として赴任し、将軍との謁見を成功させ、1958年に日米修好通商条約締結までこぎ着ける。条約後は下田から江戸に移り、5年9ヶ月間日本に滞在する。アングリカン・チャーチの熱心な信者であり、生涯独身を貫く(生涯童貞であったとも言われる)。また日本の風習なども理解・賞賛しているが、唯一混浴の習慣だけは理解できないとしているなど、性的に潔癖な性格を持っていたとの説もある。
「唐人お吉」の映画
昭和5年(1930年)に2本続けて公開される。その後8年間に6回も映画化されており、当時非常に人気のあったコンテンツであったと考えられる。最初にきちの生涯を書いた村松春水は、下田に移り住んできた眼科医師。きちに関する聞き取り調査をおこない、郷土誌の『黒船』に発表し、次いで単著を刊行する。(村松がきちに興味を持つきっかけとなったのはある人物との出会いであると言われるが、その人物はきちにハリスの元に仕えるよう説得した、下田奉行の伊佐新次郎であったとも伝わる)。版権を買い取って本格的な小説にまとめた十一谷義三郎は、川端康成や横光利一と共に『文藝時代』に参加した小説家。『唐人お吉』がヒットして、流行作家となる。
新渡戸稲造
1862-1933。教育者。『武士道』の作者として世界的に著名。新渡戸がお吉地蔵を建立したのは最晩年であり、依頼直後にカナダへ渡りその地で客死したため、完成されたものは見ていない。 
物語「唐人お吉」
唐人お吉の物語
「唐人お吉」と聞いても今や「聞いたことはある」程度の人たちがほとんどではないだろうか。とくにインターネットを操る世代以降の人たちは…。
和服姿の女性が主人公だというイメージから「番町皿屋敷」や「四谷怪談」といった怪談ものとゴッチャになっている人も少なくないくらいだ。
「唐人お吉」が一大ブームになったのは、もう80年以上も昔…昭和初期のことだから無理もない。
そこで、このレポートでは、そもそも「唐人お吉」とは、どんな物語なのか? また、その物語はいかにして、かつて一大ブームをまきおこしたのか?…について解説を試みる。
唐人…とは、「唐」の国の人という意味なので、もともとは中国や朝鮮の人を指していた言葉だが、やがて広く「外国人」を意味するようになった。
お吉…は、本名を「斎藤きち」という伊豆下田に実在した女性。物語のうえで職業は芸者。「きち」を漢字で「吉」と書くのは芸者名らしい。
唐人お吉…物語の舞台は伊豆下田。時は、アメリカから黒船がやってきて、いよいよ日本が開国することとなり、ペリー提督率いる黒船艦隊が去った2年後の安政3(1856)年。横浜が国際港として建設されるまでの間、臨時に開港された下田に初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが着任したところから始まる。
ペリーが結んだ日米和親条約に続いて、日米通商修好条約を結ぶことを使命としたハリスは、江戸にのぼって将軍との直談判を望むが、下田奉行はのらりくらりとそれをかわす。
ストレスによって病の床に伏したハリスの元へ看護婦の名目で下田一の芸者だったお吉を通わせる要求がハリス側からあり、江戸への足止めに利用できると考えた下田奉行はも嫌がるお吉を“お国のため”にと説得する。
お吉と将来を誓ったはずの船大工、鶴松には、政治力によって侍に取り立てると約束し、強引にお吉と別れさせた。
心の支えだった鶴松にも裏切られたお吉は、仕方なく嫌々ハリスの元に通い、ハリスに尽くす。
ハリスが下田から去った後も、お吉は世間から異人に肌を許した「唐人」と罵られ、次第に酒に溺れていくようになってゆく。
鶴松と再会し、横浜で一緒に暮らすも喧嘩は絶えず、わずか数年で離別。しかも、その直後、鶴松はぽっくり病でこの世を去ってしまう。
下田に戻って小料理屋を開くお吉だが、世間の風当たりはまだまだ強く、店も長くは続かない。
失意のお吉は、乞食にまで身を落とした挙げ句、入水自殺によって、つらく悲しい生涯を終えた。…とされる。
美人だったばかりに時代に翻弄され、国の犠牲になった幕末の悲劇のヒロイン…それが、長い間、人々の同情を集め、人気を誇った「唐人お吉」物語である。
お吉を歴史から発掘した医師と、広めた小説家
「唐人お吉」の物語が誕生するきっかけを作ったのは、静岡県焼津出身の医師、村松春水(むらまつ しゅんすい)。
明治維新後、静岡での開墾作業に就いていた老人に、お吉の話を聞き興味を覚えた春水は、明治29(1896)年、33歳で下田に居を移し、眼科医院を開くかたわら、下田を中心とする開国史を研究するようになる。
このきっかけとなった老人こそ、お吉を説得してハリスの元へ行かせた元下田奉行、伊佐新次郎だったという。
春水は30年にわたる研究の末、大正14(1925)年に郷土誌「黒船」に論文を発表。昭和2(1927)年には「実話唐人お吉」として書籍化された。
その版権を川端康成と同窓の十一谷義三郎(じゅういちやぎさぶろう)が買い取り、昭和3(1928)年に小説「唐人お吉」を中央公論に発表。次いで昭和4(1929)年から一年間、東京朝日新聞に「時の敗者 唐人お吉」連載し、人気を博す。
昭和4(1929)年に万里閣書房から書籍化された「唐人お吉」は、現在の東海汽船の前身である東京湾汽船が、東京〜大島〜下田を結ぶ観光航路を宣伝するため、1万冊を買い取って乗船客に配布し、ブームをあおった。伊豆急行が下田まで通る32年前の話である。
前述の通り、小説家、十一谷 義三郎は東京帝国大学文学部英文学科で、後にノーベル文学賞を受賞した川端 康成と同窓。年齢は1897(明治30)生まれの十一谷の方が2歳上だ。奇しくも出身も同じ関西圏で、早くに父親を結核で亡くしたのも同じだった。そんな二人が良きライバルだったのは、想像に難くない。
1924(大正13)年、川端が帝大を卒業した年この年、文学仲間が集まって同人雑誌『文藝時代』を創刊する。もちろん、そこには十一谷もいた。
2年後の1926(大正15)年、この同人誌に川端が後世に名を残す名作を発表した。「伊豆の踊子」である。この時、川端康成27歳。同年、川端は結婚もしているから、まさに幸せの絶頂だったことだろう。
それからさらに2年後の1928(昭和3)年、川端に対抗するように、十一谷が発表したのが「伊豆の踊子」と同じく、伊豆の女性を主人公に書いた「唐人お吉」である。
十一谷が、無名の郷土史家から版権を買い取ってまで、また、当時の世相を読み、必ずヒット作を生み出したかったのには、川端に対する対抗意識があったに違いない。
さらに推察されるのは、十一谷が抱える宿命だ。十一谷は父だけでなく、弟も結核で亡くしていた。功を急ぐ気持ちは、こんなところにもあったかもしれない。
十一谷は「唐人お吉」に続いて発表した「時の敗者唐人お吉」の大ヒットにより、31歳で国民文芸賞を受賞した。
そして、「唐人お吉」で注目された、わずか7年後…1937(昭和12)年4月2日、39歳の若さで結核により亡くなっている。
「唐人お吉」に心酔した昭和初期の世相
昭和5(1930)年以降「唐人お吉」は、映画化、舞台化、歌謡曲化が進み、ブームは全国的に広がっていった。
この頃の日本は不況のどん底。
昭和6(1931)年には満州事変が勃発し、中国へ進出する日本とアメリカの緊張関係が増していった時代。
国民の間で反米感情が高まっていたことから、「唐人お吉」の物語中、開国を強要したとみられるハリスと、その犠牲となったお吉への同情心が「唐人お吉」のブームを支えていたとも言える。
戦後も中山あい子など数々の作家が「唐人お吉」をリメイクしており、現在も伊豆下田観光の目玉として、お吉の命日にあたる3月27日には「お吉まつり」が開催されているが、かつてのようなブームには結びついていない。
また、お吉の顔写真は、幕末の国民的ヒーロー坂本龍馬の写真と並んで紹介されることも少なくないが、現在最も多く目にする「19歳のお吉」をはじめ、ほとんどの写真が観光客向けのヤラセであることは残念だ。
ちなみに1963年4月7日から12月29日までNHKで放映された1作目の大河ドラマ「花の生涯(原作・舟橋聖一)」は、桜田門外の変で暗殺された幕末の大老、井伊直弼の生涯を描いた作品だが、第18話(1963年8月4日放映)「お吉・お福」では、当時28歳の朝丘雪路がお吉を演じていた。
ハリスを演じていたのは、なんと日本人の久米明。ハリスと共に下田に着任した通訳のヒュースケン役は岡田眞澄だったというから驚く。見てみたい…!
が、残念ながら当時はビデオテープが高価だったため、NHKにも録画は残されておらず、現在は見ることが出来ない。
黒澤明と並び、海外でも評価の高い溝口健二が昭和5(1930)年に監督したサイレント映画「唐人お吉」のフィルムも現在は4分間の予告編フィルムしか残っていない。
お吉さんの没後120年以上…、空前のお吉ブームから80年以上が経ち、世間では、かつて人気を呼んだ「唐人お吉」の物語を知る人も少なくなった。 
 
江戸の街道

 

   
東海道  
京まで五十三次(大坂まで五十七次) / 江戸時代に整備された日本橋を起点とする五街道の一つ。江戸と京を結ぶ幹線道路として、中山道とともに江戸幕府により整備された。  
品川宿(しながわしゅく) 日本橋より二里  
東海道第一次。本陣一、脇本陣二、旅籠九十三軒、戸数千五百六十余、人口六千八百九十余人。奥州・日光道中の千住、中山道の板橋、甲州道中の内藤新宿と並ぶ江戸四宿の一つ。宿場は目黒川を挟んで南北二宿に別れ、町並みは九町四十間あまりだったが、後には新町が出来ている。江戸に出入りする人々の送迎の場、吉原と並ぶ遊興の場として、また宿場周辺には桜や紅葉の見所があり見物客などで賑わい、四宿の中では一番の繁栄を極めた。  
宿場の成立は、慶長六年(1601)、家康が駅馬三十六疋を置かせて宿駅に指定したのが始まりだが、小田原北条氏の支配した天正十一年(1583)の「北条氏照朱印状」に「品川宿」と書かれていることから、天文年間には宿場としての機能があったものと思われている。  
享保三年(1718)、飯盛女は旅籠一軒に二人と定められたが、品川宿では明和元年(1764)に五百人まで抱えることが許され、吉原につぐ色里となった。天保十四年の記録では、飯盛女を置く飯盛旅籠が九十二軒、水茶屋も六十四軒を数え、置かない平旅籠が十九軒だけで、後には三千六百人を超す数となり、ついには検挙者を出す事件も生んだ。幕末の記録では、この宿に遊びに来る客は、薩摩藩士と芝増上寺の僧侶で大半を占めたという。  
『東海道中膝栗毛』「うち興じて、ほどなく品川へつく。弥次郎兵へ 海辺をばなどしな川といふやらん と難じたる上の句に、きた八とりあへず さればさみずのあるにまかせて いとおもしろく歩むともなしに、鈴が森にいたり」  
六郷の渡し  
渡船渡し。六郷川(多摩川)には慶長五年(1600)に家康により架けられた六郷大橋が架かっていた。しかし、元禄元年(1688)、大洪水によりその橋が流失すると、以降、架橋されず渡船渡しとなった。  
「玉川六郷川の本名也。又多摩とも書す。多摩は武蔵の郡名也。六玉川の其一つにして、古詠多し。又入間里にては入間川といひ、海道筋にては六郷里なれば六郷川といふ。むかしは大橋あり。武蔵国三大橋の其ひとつ也。長サ百九間ありといふ。洪水に度々損するゆへ、元禄年中より船渡しとなる。又此河上より水道を作りて樋をふせ、江戸京橋より南の人家の用水とす」  
『東海道中膝栗毛』「大森といへるは麥稾ざいくの名物にて、家ごとにあきなふ 飯にたくむぎはらざいく買たまへこれは子どもをすかし屁のため それより六郷の渉をこへて、万年屋にて支度せんと、腰をかける」
 
川崎宿(かわさきしゅく)  
東海道第二次。本陣二、旅籠七十二軒、戸数五百四十余、人口二千四百三十余人。
 
神奈川宿(かながわしゅく)  
東海道第三次。本陣二、旅籠五十八軒、戸数千三百四十余、人口五千七百九十余人。  
『東海道中膝栗毛』「はやかな川のぼうばなへつく夫よりふたりとも、馬をおりてたどり行ほどに金川の臺に来る。爰は片側に茶店軒をならべ、いづれも座敷二階造、欄干つきの廊下、桟などわたして、浪うちぎはの景色いたってよし」注:ぼうばな(棒端)棒の先端という意味だが、宿駅のはずれには、棒の先端に「これより何宿」と書いてあったから宿場のはずれを「棒端」「棒鼻」といった。
 
保土ヶ谷宿(ほどがやしゅく)  
東海道第四次。本陣一、脇本陣三、旅籠六十七軒、戸数五百五十余、人口二千九百二十余人。  
『東海道中膝栗毛』「はや程ヶ谷の駅につく。両側より旅雀の餌鳥に出しておく留おんなの顔は、さながら面をかぶりたるがごとく、真白にぬりたて、いづれも井の字がすりの紺の前垂を〆たるは、扨こそいにしへ、爰は帷子の宿といひたる所となん聞へし(中略) おとまりはよい程谷ととめ女戸塚前てははなさざりけり と打わらひ過行ほどに、品野坂といふところにいたる。是なん武州相州の境なりときけば 玉くしげふたつにわかる国境所かはればしなの坂より すでにはや、日も西のはにちかづきければ、戸塚の駅になんとまるべしと、いそぎ行道すがら」
 
戸塚宿(とつかしゅく)  
東海道第五次。本陣二、脇本陣三、旅籠七十五軒、戸数六百十余、人口二千九百余人。  
『東海道中膝栗毛』「弥二「ヱヽばかアいわつし。ヲヤもふ戸塚だ。笹屋にしよふか北「とつさんや弥二「なんだ北「こゝじあアねつからお泊なせへといつて、ひつぱらねへの弥二「ほんにそのはづだ。爰はどなたかおとまりと見へて、みな宿屋に札がはつてあるきた「コウむかふの内がいきだぜ弥二「コレ、あねさん。とめてくれる気はなしかはたごや女「イエ今晩はおとまりで、あいやどはなりませぬ弥二「なむさんそふだろふトだん/\やどをさがせども、みなふさがりとめぬゆへ大きにこまり、まごつきあるきとめざるは宿を疝気としられたり大きんたまの名ある戸塚に それより宿はづれにいたるに、漸くはたごやの合宿なきていにみゆるあれば、やがてこゝにたよりて弥二「なんとわしらをとめてくんなせへてい主「おふたりかへ。おとまりなされませ。当宿はやどやはみなふさがりましたが、私かたばかりあたりませぬ」
 
藤沢宿(ふじさわしゅく)  
東海道第六次。本陣一、脇本陣一、旅籠四十五軒、戸数九百十余、人口四千八十余人。  
『東海道中膝栗毛』 「弥「コウ貴様たちやア藤沢か。アノ宿も大分きれいになつたの。問屋の太郎左衛門どのは達者かの」  
馬入(相模)川の渡し  
渡船渡し。  
『東海道中膝栗毛』「ト此内はやくも馬入のわたしにつく。北八こゝは何といふ川と人にとひしに只わたしばと斗こたへけるを弥二郎きゝて 川の名を問へばわたしとばかりにて入が馬入の人のあいさつ 此川は、甲斐の猿はしより流れおつるよし。やがてむかふにわたりたどり行程に、此に白籏村といへるは、そのむかし、義経の首こゝに飛来りたるをいはひこめて、白はたの宮といへる」注:白旗の宮は馬入川のはるか手前にあり、この記述は誤り。
 
平塚宿(ひらつかしゅく)  
東海道第七次。本陣一、脇本陣一、旅籠五十四軒、戸数四百四十余、人口二千百十余人。
 
大磯宿(おおいそしゅく)  
東海道第八次。本陣三、旅籠六十六軒、戸数六百七十余、人口三千五十余人。  
『東海道中膝栗毛』「それより大磯にいたり、虎が石を見て北八よむ 此さとの虎は薮にも剛のものおもしの石となりし貞節 弥次郎兵へとりあへず 去ながら石になるとは無分別ひとつ蓮のうへにや乗られぬ 斯打興じて大磯のまちを打過、鴫立沢にいたり」注:「虎が石」大磯の延台寺にある「虎子石」のことで、大磯の長者の遊女虎御前にちなんだ石とされている。  
酒匂川の渡し  
夏期(三月〜九月)は歩行(かち)渡しで、冬期(十月〜二月)には仮橋が架かった渡し。  
『東海道中膝栗毛』「曽我の中むら小八わた八まんの宮を打すぎ、さかわ川にさしかゝりければ われ/\はふたり川越ふたりにて酒匂のかはに〆てよふたり 此川をこへゆけば小田原のやど引はやくも道に待うけてやど引「あなたがたは、お泊でござりますか弥「きさまおだわらか。おいらア小清水か白子屋に、とまるつもりだ客引「今晩は両家とも、おとまりがございますから、どふぞ私方へお泊下さりませ弥二「きさまの所はきれいか宿「さやうでござります。此間建直しました新宅でござります弥二「ざしきは幾間ある宿「ハイ十畳と八畳と、みせが六でうでござります弥二「すいふろはいくつある宿「お上と下と二ツづゝ、四ツござります弥二「女はいくたりある宿「三人ござります弥二「きりやうは宿「ずいぶんうつくしうござります」
 
小田原宿(おだわらしゅく)  
東海道第九次。本陣四、脇本陣四、旅籠九十五軒、戸数千五百四十余、人口五千四百余人。城下町との併宿。宿建人馬は100人100疋とされ、伝馬100疋を常備していた。江戸を出立した旅人の多くは、箱根越えを控え、この小田原宿で二泊目の宿を取ったことから、桑名宿についで旅籠の数が多くなっている。また、ここ小田原宿は、箱根七湯と称される湯本・塔ノ沢・堂ヶ島・宮の下・底倉・木賀・芦之湯の温泉場を控え、長期滞在の湯治客でも賑わっていて、江戸時代の後半になると、旅人は宿場以外の宿の宿泊は禁じられていたにもかかわらず、一夜湯治と称して温泉宿に泊まる旅人の数も多くなった。そのため宿場の旅籠組合は、小田原藩や道中奉行に再三訴えたが、幕府はこうした短期宿泊を公認したため、以来、東海道往来の際に箱根で一〜二泊する旅人の数は増え続けた。そんな事情もあって、城下町の宿場ではめずらしく飯盛女が置かれたが、宿場の財政は好転せず、安政六年(1859)の記録では、旅籠の数は八十八軒と減少し、公用通交の旅客を支障無く泊まらせることができる家が十八〜十九軒で、かつ家具・夜具ともに常備してある宿は三〜四軒だったという。  
『東海道中膝栗毛』「ほどなく小田原のしゆくへはいると、両かはのとめおんな女「おとまりなさいませ/\トよびたつるこへかしましく弥次郎しばらくかんがへ 梅漬の名物とてやとめおんなくちをすくして旅人をよぶ 此しゆくのめいぶつういろうみせちかくなりて北「ヲヤこゝの内は、屋根にでへぶでくまひくまのある内だ弥二「これが名物のういろいだ北「ひとつ買て見よふ。味へかの弥二「うめへだんか。頤がおちらあ北「ヲヤ餅かとおもつたら、くすりみせだな弥二「ハゝゝゝゝ、こうもあろうか ういろうを餅かとうまくだまされてこは薬じやと苦いかほする やがてやどやへつきければ、ていしゆさきへかけだしてはいりながら「サアおとまりだよ。おさん/\。お湯をとつてあげろ。宿の女ぼう「おはやうございますト茶をふたつくんでもつてくる。此内下女たらゐに、ゆをいれてもつてくると、弥二郎女のかほをよこめに、ちらと見て、小ごへに北をよびかけ弥二「見さつし。まんざらでもねへの北「あいつ今宵ぶつてしめよふ弥二「ふてへことをぬかせ。おれがしめるハ」
 
箱根宿(はこねしゅく)  
東海道第十次。箱根関所、本陣六、脇本陣一、旅籠三十六軒、戸数百九十余、人口八百四十余人。御状宿として、御用物だけを継ぎ立て、その他は小田原から三島まで継ぎ通した。箱根宿は元和四年(1618)、小田原宿〜三島宿の箱根八里の中間に、小田原宿から五十戸、三島宿から五十戸を移転させ、新しく設置された宿場で、小田原藩と三島代官双方の支配を受けた。宿の町並は、東の小田原宿側から新谷(屋)町、関所を通って新町、小田原町が小田原藩支配、次の三島町、そして西端の芦川町が三島代官支配となっていた。  
『東海道中膝栗毛』「けふは名にあふ筥根八里、はやそろ/\と、つま上りの石高道をたどり行ほどに、風まつりちかくなりて弥次郎兵へ 人のあしにふめどたゝけど箱根やま本堅地なる石だかのみち 北「コレ/\松明を買はねへか。こゝの名物だ弥「べらぼうめ。もふ日の出る時分、松明がナニいるものか北「夜があけてもいゝはな。おめへかつてとぼせばいゝ、ゆふべのかわりに弥「おきやアがれ北「ハゝゝゝゝハゝゝゝゝ又こゝに湯本の宿といふは、両側の家作きらびやかにして、いづれの内にも見目よき女二三人ヅゝ、店さきに出て名物の挽もの細工をあきなふ。(中略) それより御関所を打過て 春風の手形をあけて君が代の戸ざゝぬ関をこゆるめでさた 斯祝して峠の宿に悦びの酒くみかはしぬ」  
箱根関所  
はじめ慶長期に箱根権現の近くに設けられたとされ、箱根宿駅が開設された年の翌元和五年(1619)、宿の中に新たに設置された。関所の管理は幕府から委任された小田原藩が行い、番士と呼ばれる藩の役人が交代で勤めた。開設の当初は、「入り鉄砲、出おんな」について厳しく取締りが行われていたが、寛永十年(1633)以降には鉄砲改めを省略し女改めが主体となり、人見女という女性を二名置き、江戸方面から出る女性を厳重に改めた。  
箱根峠  
東海道三大難所の一つ。箱根八里といわれ、険しい峠道を無事に越すと「山祝い」を行う旅人もあった。
 
三島宿(みしましゅく)箱根宿より三里二十八町  
東海道第十一次。本陣二、脇本陣三、旅籠七十四軒、戸数千二十余、人口四千四十余人。もともとこの地は、伊豆国府で「国府(こう)」あるいは「府中」と呼ばれていた地で、足柄越え(御殿場道)の旧東海道(官道)時代から宿の機能を備えていたらしい。その後、伊豆の白浜にあった三島社が移され、三島と呼ばれるようになり、戦国期にはすでに三島宿と呼ばれていた。また、御殿場道の分岐の他に、ここから下田道が通っていたことから交通の要衝として重視され、幕府直轄地となり代官所(後に韮山代官所に併合)が置かれた。宿内は最初に伝馬役を負担した伝馬町・久保町・大中島町・小中島町の四町を中心に二十一町からなる東海道でも屈指の宿場町となり、その大部分の旅籠では飯盛女を抱え、三島女郎衆と俗謡にも歌われ全国にその名を知られた。  
『東海道中膝栗毛』「既に其日も暮にちかづき、入相のかね幽にひゞき、鳥もねぐらに帰りがけの駄賃馬追立て、とまりを急ぐ馬士唄のなまけたるは、ほてつぱらの淋しくなりたる故にやあらん此とき、やうやく三しまのしゆくへつくと、両かはより、よびたつる女のこへ/\〃「お泊なさいませ/\弥二「ヱゝひつぱるな。こゝをはなしたら泊るべい女「すんならサアおとまり弥二「あかすかべイ(あかんべえ)」
 
沼津宿(ぬまづしゅく)三島宿より一里半  
東海道第十二次。本陣三、脇本陣一、旅籠五十五軒、戸数千二百三十余、人口五千三百四十余人。城下町との併宿。  
『東海道中膝栗毛』「此所にて餅などとゝのへ、少しは腹の虫をやしなひ、たがひにちからをつけ合、はなしものして、漸沼津の駅につく。こゝにて先足をやすめんと、宿はづれの茶屋へはいる」
 
原宿(はらしゅく)  
東海道第十三次。本陣一、脇本陣一、旅籠二十五軒、戸数三百九十余、人口千九百三十余人。原宿一帯の海岸を「田子の浦」と称し、富士を望む景勝地として知られた。  
『東海道中膝栗毛』「このはなしにまぎれて、あゆむともなしに、小すわ大すわを打過、ほどなく原のしゆくへつく。こゝにてつれのさぶらひにわかれて まだめしもくはず沼津をうちすぎてひもじき原のしゆくにつきたり 北八「ヱゝおめへまだ、そんなしみつたれをいふハ」  
田子の浦(たごのうら)  
富士川東岸の砂丘の辺をいい、白砂青松風光明媚の勝地で、ここからの富士の眺望は東海第一といわれた。
 
吉原宿(よしわらしゅく)  
東海道第十四次。本陣二、脇本陣三、旅籠六十軒、戸数六百五十余、人口二千八百三十余人。  
『東海道中膝栗毛』「頓て元吉原を打すぎ、かしは橋といふ所にいたる。此所より富士の山正面に見へて、すそ野第一の絶景なり。弥次郎取あへず 餅の名のかしは橋とて旅人のあしをさすりて休やすらん 斯て吉原の駅につく。棒ばなの茶屋女共、いづれも黄色なる声/\に、「お休なさいやアせ。さけウあがりやアし。米の飯をあがりやアし。こんにやくと葱のお吸物もおざりやアす。おやすみなさいやアし」  
富士川の渡し  
渡船渡し。  
『東海道中膝栗毛』「それより久沢の善福寺といへるに、曽我兄弟の石碑あるをおがみて北八 今曽我に機縁を結ぶわれ/\は外に一家も壱もんもなし 富士川のわたし場にいたりて弥次郎兵へ ゆく水は矢をいるごとく岩角にあたるをいとふふじ川の舟 此渉を打越けるに、はや日も西の山の端にちらつき、おのづから道急ぐ」注:「善福寺」は「福泉寺」の誤。東海道名所図会に「其側久沢といふに福泉寺といふ寺あり。ここに曽我兄弟の石塔あり」とある。
 
蒲原宿(かんばらしゅく)  
東海道第十五次。本陣一、脇本陣三、旅籠四十二軒、戸数五百余、人口二千四百八十余人。  
『東海道中膝栗毛』「馬士唄の竹にとまる雀色時、やう/\蒲原の宿にいたる(後編上了) 道中膝栗毛後編下 此宿の御本陣に、お大名のお着と見へ、勝手は今膳の出る最中」
 
由比宿(ゆいしゅく)  
東海道第十六次。本陣一、脇本陣一、旅籠三十二軒、戸数百六十余、人口七百十余人。  
『東海道中膝栗毛』「此はなしのうち由井のしゆくにつくと、両がはよりよびたつるこへちやや女「おはいりなさいやアせ。名物さとうもちよヲあがりやアせ。しよつぱいのもおざいやアす。お休なさいやアせ/\弥二「ヱゝやかましい女どもだ 呼たつる女の声はかみそりやさてこそ爰は髪由井の宿 それより由井川を打越、倉沢といへる立場へつく。爰は蚫栄螺の名物にて、蜑人すぐに海より、取来りて商ふ。爰にてしばらく足を休めて 爰もとに売るはさゞゐの壷焼や見どころおほき倉沢の宿 それより薩捶(正しくは土篇)峠を打越、たどり行ほどに、俄に大雨ふりいだしけれ」注:倉沢(くらさわ)『東海道名所図会』に「薩捶山東の麓西倉沢茶店に栄螺鮑を料理て価ふなり」とあり、その頃、倉沢は東海道第一の眺望といわれた。
 
興津宿(おきつしゅく)  
東海道第十七次。本陣二、脇本陣二、旅籠三十四軒、戸数三百十余、人口千六百六十余人。  
『東海道中膝栗毛』「半合羽打被き、笠ふかくかたぶけて、名におふ田子の浦、清見が関の風景も、ふりうづみて見る方もなく、砂道に踏込し足もおもげに、やうやく興津の駅にいたり、爰にあやしげなる茶店に立寄」
 
江尻宿(えじりしゅく)  
東海道第十八次。本陣二、脇本陣三、旅籠五十軒、戸数千三百四十余、人口六千四百九十余人。この江尻宿は清水湊の港町でもある。  
『東海道中膝栗毛』「猶あめはしきりにふりつゞきて、いつこうしやれもむだもいでばこそ、たゞとぼ/\とあゆみなやみて、ほどなく、江尻のしゆくをうち過けるに、こゝにて雨もはれければ 降くらし富士の根ぶとをうちすぎて江尻に雨の霽あがりたり 雨やみたればおのづから、行かふ人の足もかろげに、からしり馬の、鈴の音もいさましく、シャン/\/\」 注:からしり馬本馬の荷物三十六貫の半量を一駄とする馬。
 
府中宿(ふちゅうしゅく)  
東海道第十九次。本陣二、脇本陣二、旅籠四十三軒、戸数三千六百七十余、人口一万四千七十余人。駿府城下町との併宿。  
『東海道中膝栗毛』「此はなしに弥次郎北八も大きにけうに入、あゆむともなしに、府中のしゆくにつく。先伝馬町に宿をかりて、それより弥二郎がしるべのかたへたづね行。こゝに金子のさいかくとゝのひ、大きにいさみ出してやどへかへり、なんでもこよひは、かねてきゝおよびし、あべ川丁へしけこまんと、きた八もろとも、其の¥したくをして、やどのていしゆをまねき弥二「モシ御ていしゆわつちらア是から、二丁町とやらへ見物にいきてへもんだが、どつちのほうだねてい主「安倍川の方でござります北八「遠いかねてい主「爰から廿四五町ばかしもあります。なんなら馬でも、雇てあげましやうか北八「こいつはいゝ、弥二「から尻にのつて、女郎買もおもしろい/\。頓て爰よりから尻馬に打乗、ゆくほどに、かの安倍川まちといへるは、あべ川弥勒の手前にて、通筋よりすこし引こみて大門あり。爰にて馬をおり廓に入て見るに、両側に軒をならべて、ひきたつるすがゞきの音賑しく、見せつきのおもむきは、東都の吉原町におほよそ似たり。客とおぼしきが黒き木綿に紋のつきたる羽折などきて、手拭のさきを結ずしてかぶり、おくり行茶屋の女は、焼杉の駒下駄をひきずり、客人の神と見へしは、おほくは股引草鞋にて、いづれも祖父ばしよりなり。そゝりてやいに前垂がけの競あれば、棒のさきにもつこうなどくゝりつけて、かつぎあるくひやかしあり。行かふ男女は、開帳参の人のごとく、更に風俗定まらず、又繁昌は言斗なし」  
安倍川の渡し  
歩行(かち)渡し。  
『東海道中膝栗毛』「やがて此駅を打立けるが、今もどりし道をますぐに、ほどなく弥勒といへるにいたる。爰は名におふあべ川もちの名物にて、両側の茶屋、いづれも奇麗に花やかなりちやや女「めいぶつ餅をあがりヤアし。五文どりをあがりやアし/\弥二「おいらアゆふべ、弐朱がもちをくつて来たから、モウこゝではくふめへ北八「そふさ/\ト此内あべ川の川ごし道に出むかひて「だんな衆おのぼりかな弥二「ヲイ。きさまなんだ川ごし「かはごしでござります。やすくやらずに、おたのん申ます北八「いくらだ川ごし「きんにようの雨で水が高いから、ひとりまへ六十四文北八「そいつは高い川ごし「ハレ川をマアお見なさいト打つれて川ばたに出弥二「なるほど、ごうせいな水せいだ。コレおとすめへよ川ごし「ナニおまい、サアそつちよヲつんむきなさろト二人をかたぐるまにのせて川へざぶ/\とはいる」
 
丸子宿(まるこしゅく)  
東海道第二十次。本陣一、脇本陣二、旅籠二十四軒、戸数二百十余、人口七百九十余人。  
『東海道中膝栗毛』「ト川ごしはすぐに川かみのあさいほうをわたってかへる北「アレ弥次さん見ねへ。おいらをばふかい所をわたして、六十四文ヅゝふんだくりやアがつた 川ごしの肩車にてわれ/\をふかいところへひきまはしたり 夫より手越のさとにいたるに、又もや俄雨ふり出して、たちまち車軸をながしければ、半合羽とり出し打かづき、足をはやめてほどなく丸子の宿にいたる。こゝにて支度せんと茶やへはいり北八「コウ飯をくをうか。爰はとろゝ汁のめいぶつだの」
 
岡部宿(おかべしゅく)  
東海道第二十一次。本陣二、脇本陣二、旅籠二十七軒、戸数四百八十余、人口二千三百二十余人。  
『東海道中膝栗毛』「ト打つれていそぎゆくほどに、はやくも大寺かわらのさか道をうちこへて、おかべのしゆくにいたりければ 豆腐なるおかべの宿につきてげりあしに出来たる豆をつぶして 先この駅にやどをとりて、川のあくまでしばらくたびのつかれをぞやすめける(二編了) 東海道中膝栗毛三編 (前略)爰にかの弥次郎兵衛喜多八は、大井川の川支にて、岡部の宿に滞留せしが、今朝御状箱わたり、一番ごしもすみたるより、聞とひとしくそこ/\に支度して、はたごやを立出けるに、はや諸家の同勢往来の貴賤櫛のはをひくがごとく、問屋駕宙をかけり、小荷駄馬飛で走る、街道のにぎはひさましく、ふたりもともにうかれたどり行ほどに、朝比奈川をうちこへ、八幡鬼嶋をすぎ、白子町にいたる」
 
藤枝宿(ふじえだしゅく)  
東海道第二十二次。本陣二、旅籠三十七軒、戸数千六十余、人口四千四百二十余人。  
『東海道中膝栗毛』「それより平嶋口田中を打過、藤枝の宿近くなりて 街道の松の木の間に見へたるはこれむらさきの藤えだの宿 此しゆくの入口にて、ふろしき包ちよいとかたにかけたる、田舎のおやぢ、馬のはねたるにおどろき、にげるひようしにきた八へつきあたると、きた八水たまりの中へころげて、大きにあつくなり、おきあがりて、田舎ものw3おひつとらへて北八「コノ親仁め、まなこが寒烏の黒焼でもくらやアがれおやぢ「コリヤハイ、御めんなさい」
 
嶋田宿(しまだしゅく)  
東海道第二十三次。本陣三、旅籠四十八軒、戸数千四百六十余、人口六千七百二十余人。町並九町四十間、大井川の川留・川明を道中奉行に知らせる飛脚蕃十人が交代で詰めていた。嶋田宿付近は幕府領で、初めは嶋田代官が置かれ、一時田中藩領となるが、寛政六年(1794)からは駿府代官所の支配に入り出張陣屋が置かれた。  
『東海道中膝栗毛』「爰を出て行ほどに、大井川の手前なる、嶌田の駅にいたりけるに、川越ども出むかひて、「だんなしゆ川アたのんます弥二「きさま川ごしか。ふたりいくらで越す川ごし「ハイ今朝がけに、あいた川だんで、かたくるまじやアあぶんない。蓮台でやらずに、おふたりで八百下さいませ弥二「とほうもねへ。越後新潟じやアあんめへし、八百よこせもすさまじい」  
大井川の渡し  
川越人足による歩行(かち)渡し。嶋田側と金谷側にそれぞれ加宿の河原町があり、川庄屋の下、川越役人の詰める川会所が設けられ川越人足を管理した。この渡しは十七世紀半ばまでは川越人足に頼らない自分渡しが主流であったが、旅人の増加とともに川越を助ける人足が現れ、料金を取った。万治年間頃から川越人足を専業とする者が現れ、旅人に法外な川越賃を請求するなどの不法な行為が目立つようになったため、元禄九年(1696)に川庄屋が任命され、川越の統制と管理が行われるようになり川越制度が整った。こうして川越賃銭は川会所で定める公定料金(川札)となった。賃銭は最も簡単な肩車が川札一枚で、増水して補助人足が付くと二枚必要となる。最高級の輦台になると台札三十二枚と川越人足十六人、水切り手張人足四人分の、合計五十二枚の川札が必要になった。  
『東海道中膝栗毛』「弥次郎兵衛北八爰をのがれ、いそぎ川ばたにいたり見るに、往来の貴賤すき間もなく、此川のさきを争ひ越行中に、ふたりも直段とりきはめて、蓮台に打乗見れば、大井川の水さかまき、目もくらむばかり、今やいのちをも捨なんとおもふほどの恐しさ、たとゆるにものなく、まことや東海第一の大河、水勢はやく石流れて、わたるになやむ難所ながら、ほどなくうち越して蓮台をおりたつ嬉しさいはんかたなし」
 
金谷宿(かなやしゅく)  
東海道第二十四次。本陣三、脇本陣一、旅籠五十一軒、戸数千余、人口四千二百七十余人。宿場の町並は、大井川の渡し場となる加宿(河原町)に続いてあった。  
『東海道中膝栗毛』「斯うち興じて金谷の宿にいたる。両側の茶やおんな「おやすみなさいまアし/\かごかき「もどりかごのつていじやござい北八「コウ弥次さんかごはどふだ弥二「イヤ、気がない。手めへのるならのつていかつし北八「そんなら日坂まで乗ふか」
 
日坂宿(にっさかしゅく)  
東海道第二十五次。本陣一、脇本陣一、旅籠三十三軒、戸数百六十余、人口七百五十余人。  
『東海道中膝栗毛』「それより此坂を下り、日坂の駅にいたる頃、雨は次第につよくなりて、今はひと足もゆかれず。あたりも見へわかぬほど、しきりに降くらしければ、或旅籠屋の軒にたゝずみ弥二「いま/\しい。ごうてきにふるハ/\北八「はなやの柳じやアあるめへし。いつまで人のかどにたつてもゐられめへ。ナント弥次さん、大井川は越すし、もふこの宿にとまろうじやアねへか弥二「ナニとんだことをいふ。まだ八ツ(午後二時)にやアなるめへ。今から泊てつまるものか」
 
掛川宿(かけがわしゅく)  
東海道第二十六次。本陣二、旅籠三十軒、戸数九百六十余、人口三千四百四十余人。城下町との併宿。  
『東海道中膝栗毛』「ほどなくかけ川の宿にいたる。棒鼻の茶屋おんな「おめしよヲあがりまアし。鯵とこんやくと、干大根のおすいものもおざりまアす。鮹のせんば煮もおざりまアす。おやすみなさいまアし/\」
 
袋井宿(ふくろいしゅく)  
東海道第二十七次。本陣三、旅籠五十軒、戸数百九十余、人口八百四十余人。  
『東海道中膝栗毛』「原川を打すぎ、はやくもなくりのたてばにつく。こゝは花ござをおりてあきなふ 道ばたにひらくさくらの枝ならでみなめい/\にをれる花ござ 程なく袋井の宿に入るに、両側の茶屋賑しく、往来の旅人おの/\酒のみ、食事などしてゐたりけるを弥次郎兵衛見て こゝに来てゆきゝの腹やふくれけんされば布袋のふくろ井の茶屋 此しゆくはづれより、上方ものと見へて、桟留の布子に銀ごしらへの脇差をさし、花色羅紗のしやうぞくかけし合羽をきたる男、供ひとりつれて、あとになりさきになり」
 
見附宿(みつけしゅく)  
東海道第二十八次。本陣二、脇本陣一、旅籠五十六軒、戸数千二十余、人口三千九百三十余人。  
『東海道中膝栗毛』「みかのはしをうちわたり、大くぼの坂をこへて、はやくも見付の宿にいたる北八「アゝくたびれた。馬にでものろふか馬かた「おまいち、おまアいらしやいませぬか。わしどもは役に出たおまだんで、はやくかへりたい。やすくいかずい。サアのらしやりまし弥二「きた八のらねへかきた八「安くば乗べいト馬のそうだんができて、北八こゝより馬にのる。この馬かたは、すけごうに出たるひやくせうゆへ、いんぎんなり弥二「コレ馬士どん、爰に天龍への近道があるじやアねへか馬士「アイそつから空へあがらしやると、壱里ばかしもちかくおざるハ北八「馬はとをらぬか馬士「インネ。かち道でおざるよト爰より弥二郎はひとりちか道のほうへまがる。北八馬にて本道をゆくに、はやくもかも川ばしを打わたり、西坂さかい松のたてばにつく」注:みかのはし(三香野橋)磐田郡田原村(現磐田市)の太田川に架した橋。  
天竜川の渡し  
渡船渡し。  
『東海道中膝栗毛』「はなしのうち、程なく天龍にいたる。此川は信州すわの湖水より出、東の瀬を大天龍、西を小天龍といふ。舟わたしの大河なり。弥次郎此所に待うけて、倶にこの渉しをうちこゆるとて 水上は雲より出て鱗ほどなみのさかまく天龍の川 舟よりあがりて建場の町にいたる。此所は江戸へも六十里、京都へも六十里にて、ふりわけの所なれば、中の町といへるよし」
 
浜松宿(はままつしゅく)  
東海道第二十九次。本陣六、旅籠九十四軒、戸数千六百二十余、人口五千九百六十余人。城下町との併宿。  
『東海道中膝栗毛』「それよりかやんば(萱場)、薬師新田をうちすぎ、鳥居松近くなりたる頃、浜松のやど引出向ひてやど引「モシあなたがたアおとまりなら、おやどをお願ひ申ます北八「女のいゝのがあるならとまりやせうやど引「ずいぶんおざります弥二「とまるから飯もくはせるかやど引「あげませいで北八「コレ菜は何をくはせるやど引「ハイ当所の名物薯蕷でもあげませう北八「それが平か。そればかりじやアあるめへやど引「ハイそれにしゐたけ、くわゐのよふなものをあしらひまして北八「しるがとうふに、こんにやくのしらあへか弥二「マアかるくしておくがいゝ。そのかわり百ケ日には、ちとはりこまつせへやど引「コレハいなことをおつしやる、ハゝゝゝゝ。時にもふまいりました弥二「ヲヤもふはま松か。思ひの外はやく来たわへ さつ/\とあゆむにつれて旅衣ふきつけられしはままつの風 やど引さきへかけぬけて「サア/\おつきだアよやどのていしゆ「おはやくおざりました。ソレおさん、おちやと湯だアよ弥二「イヤそんなに足はよごれもせぬていしゆ「そんならすぐにおふろにおめしなさいまし」
 
舞坂宿(まいさかしゅく)  
東海道第三十次。本陣二、脇本陣一、旅籠二十八軒、戸数五百四十余、人口二千四百七十余人。三方を遠州灘と浜名湖に囲まれた地で、たびたび風水害の被害にあったため、明暦三年(1657)、幕府は新居関所奉行と遠州代官に命じて石垣で宿囲いするが、その後も風水害の被害は絶えず、天和二年(1682)と元禄十六年(1703)に「宿囲み」の延長工事を行い、舞阪宿はほぼ全周が高さ九尺の石垣に囲まれた。  
『東海道中膝栗毛』「ほどなく蓮沼、つぼ井むらを打過、舞坂の駅にいたる」  
今切の渡し  
浜名湖はもともと淡水湖で、湖から浜名川が遠州灘にそそいでいて、鎌倉時代には浜名川に浜名橋が架かり、橋のたもとには橋本宿があって賑わっていた。しかし、明応八年(1499)の地震と津波で川は埋まり、土地が陥没して湖と海がつながってしまう。これが今切で、この結果、橋本宿は廃れ舞浜の対岸の新居に新たに宿が作られ、舞阪・新居間を船で結んだ。この渡船の渡しを「今切の渡し」という。  
『東海道中膝栗毛』「是よりあら井まで壱里の海上、乗合ぶねにうちのりわたる。げにも旅中の気さんじは、船中おもひ/\の雑談、高声にかたり合、笑ひのゝしり打興じゆくほどに、頓てなかばわたりて、乗合の人/\〃もはなしくたびれ、めい/\柳ごりに肘をもたげて、いねぶりをするもあり、又この風景に見とれて、只黙然としてゐるも有」
 
新居宿(あらいしゅく)  
東海道第三十一次。本陣三、旅籠二十六軒、戸数七百九十余、人口三千四百七十余人。新居関所を併設。この地を領していた今川氏は、この新居宿の渡船場を利用して関所を構えた。徳川幕府が宿駅を整備した時も、幕府はこの新居宿の関所を残し、特に西国からの鉄砲の入りを取り締まることとなった。新居宿に関所を設けたことから「今切渡船」は新居宿が単独で運営し、新居宿はこの渡船料で潤ったが、一方の舞阪宿は浜松宿までの片継となり財政的に苦しかったという。また、この新居宿も舞阪宿と立地条件はあまり変わらず、たびたび風水害に悩まされ、元禄十二年(1699)の暴風雨では関所が大破し、百二十戸が流失、百九十二戸が損壊する被害を受け、関所と宿の一部を移転した。この結果、舞阪・新居間二十七町だった渡船が一里に延長している。  
『東海道中膝栗毛』「ほどなくふねはあら井のはまにつきければ、のり合みな/\ふねをあがり、お関所を打過ける。弥二郎北八もふねをあがり 舞坂をのり出したる今切とまだゝくひまもあら井にぞつく さるにても、腰のものゝながれたるは、前代未聞のはなしのたねと、みづから打笑ひつゝ北八 竹篦をすてゝしまひし男ぶりごくつぶしとはもふいはれまい それよりふたりは、此あら井のしゆくに酒くみかはしてあしをやすめぬ。(三編了) 道中膝栗毛四編 (前略)東海道に名だゝる今切の渉になん。そのかみ明応の比山の奥より、螺貝あまたぬけ出、それより海上あしくなりたりしを、元禄年中、公の命によりて、海上に数万の杭をうち、蛇籠をふせ、往来渡船の難渋をすくひ給はりし、御恵の有がたさに、風和らぎ浪低なりてわたるに難なく、かの弥次郎兵衛きた八、爰を打わたりて、あら井の駅に支度とゝのへ、名物のかばやきに腹をふくらし、休みゐたるに、げにも往来の貴賤絶間なく、舟場へ急ぐ旅人は、足もそらに出ふねをよばふ声につれてはしり、問屋へかゝる宰領はくちやかましく、果役をふるゝ馬ざしについてのゝしる」
 
白須賀宿(しらすがしゅく)  
東海道第三十二次。本陣一、脇本陣一、旅籠二十七軒、戸数六百十余、人口二千七百余人。  
『東海道中膝栗毛』「このうちはやくもしらすかの駅にいたる。はいりくちのちや屋女、おもてに出よびたつるを見て、弥次郎兵へ 出女の顔のくろきも名にめでゝ七なんかくす白すかの宿 此宿をうちすぎ、程なく汐見坂にさしかゝるに、是なん北は山つゞきにして、南に蒼海漫々と見へ、絶景まことにいふばかりなし」
 
二川宿(ふたかわしゅく)  
東海道第三十三次。本陣一、脇本陣一、旅籠三十八軒、戸数三百二十余、人口千四百六十余人。町並十二町程の小規模な宿場。西隣に城下町でもある大きな宿場が有り、この宿に泊まる旅人が少なく、宿場の経営が苦しく本陣も経営的に苦しかった事から、火災による焼失などで本陣建物の再建ができず、世襲職の本陣職が後藤家、紅林家、馬場家と変わった。  
『東海道中膝栗毛』「かく打わらいてゆくほどに、境川といふにいたる。爰は遠江三河のさかいにて橋あり。弥次郎地口にてよめる 遠州へつぎ合せたる橋なればにかはの国といふべかりける 程なくふた川の駅に着く。此ところ家毎に、強めしをあきなふ見ゆれば 名物はいはねどしるきこはめしやこれ重筥のふた川の宿 両側の茶屋ごとに、旅人を見かけて呼たつる女「お休なさりまアし。あつたかなお吸物もおざりまアす。無塩の肴で、酒でもお飯でもあがりまアし」
 
吉田宿(よしだしゅく)  
東海道第三十四次。本陣二、脇本陣一、旅籠六十五軒、戸数千二百九十余、人口五千二百七十余人。城下町との併宿。下りは赤坂宿まで継ぎ立て。  
『東海道中膝栗毛』「ふせう/\〃に荷をひつかたげゆくまゝに、やがて吉田のしゆくにいたる 旅人をまねく薄のほくちかと爰もよし田の宿のよねたち 此しゆくはづれより、遠国同者とは見ゆれ共、少しきいたふうしやべる手合五六人、高声にはなして行」
 
御油宿(ごゆしゅく)  
東海道第三十五次。本陣二、旅籠六十二軒、戸数三百十余、千二百九十余人。下りは吉田宿が継ぎ通し、上りだけを継ぎ立てた。この御油宿と隣の赤坂宿の間は、十六町と短く、伝馬も一般の五十疋ではなく二十五疋づつ赤坂宿と分担する片継ぎの宿駅。  
『東海道中膝栗毛』「弥次郎あとよりたどりゆくに、ほどなく御油のしゆくにいりたるころははや夜にいりて、両がはより出くるとめ女、いづれもめんをかぶりたるごとく、ぬりたてたるが、そでをひいてうるさければ、弥次郎兵へやう/\とふりきり行すぐるとて その顔でとめだてなさば宿の名の御油るされいと逃て行ばや 弥次郎兵衛あまりに草臥ければ、先此所はづれの茶店に腰をかけたるに、あるじの婆々「アイ茶アまいりませ弥次「モシ赤坂まではもふ少しだのばゞ「アイたんだ十六丁おざるが、おまへひとりなら、此宿にとまらしやりませ。此さきの松原へは、わるい狐が出おつて、旅人衆がよく化され申すハ」
 
赤坂宿(あかさかしゅく)  
東海道第三十六次。本陣三、脇本陣一、旅籠六十二軒、戸数三百四十余、人口千三百余人。下りだけを継ぎ立て、上りは藤川宿が継ぎ通した。御油宿と合わせて一宿の小さな宿駅だが、旅人の引き止めで飯盛女を多数抱えていたことで名高い宿となった。  
『東海道中膝栗毛』「二三尺手ぬぐひをとき、きた八が手をうしろへまはしてしばる。きた八おかしく、わざとしばられていると弥次「サア/\さきへたつてあるけ/\ト北八をくゝり、うしろからとらへて、おつたて/\あか坂のしゆくにいたる。はやいづれのはたごやにもきやくをとめて、かどにたちいる女も見へず。弥二郎は、やどからむかひの人が、もはや出そふなものと、うろつく内北八「コウ弥次さん、いゝかげんに解てくんな。外聞のわりい。人がきよろ/\見てわりいはな弥次「ヱゝくそをくらへ。ハテ宿はどこだしらん北八「ナニおれはこゝにゐるものを、だれがさきへ、やどをとつておくものだ」
 
藤川宿(ふじかわしゅく)  
東海道第三十七次。本陣一、脇本陣一、旅籠三十六軒、戸数三百余、人口千二百十余人。上りを御油宿まで継ぎ立て。  
『東海道中膝栗毛』「かくて藤川にいたる。棒鼻の茶屋、軒ごとに生肴をつるし、大平皿鉢みせさきにならべたてゝ、旅人のあしをとゞむ。弥次郎兵衛 ゆで蛸のむらさきいろは軒毎にぶらりとさがる藤川の宿 それより此宿をうちすぎ、出はなれのあやしげなる茶みせに休みて北八「なんだか、ごうてきにむしがかぶる。ばあさん素湯はあるめへかちゃ屋のばゞ「ハアさゆはござらぬ。水をしんぜませうか」
 
岡崎宿(おかざきしゅく)  
東海道第三十八次。本陣三、脇本陣三、旅籠百十二軒、戸数千五百六十余、人口六千四百九十余人。城下町との併宿。  
『東海道中膝栗毛』「打わらひつゝ行ほどに、あづき坂を過、岡の江ゆふせん寺を打こへて、大平川にいたる 岸に生ふ芹のあをみに小鴨まで水にひたれる大平の川 それより大平村を過行ほどに、岡崎の駅にいたる。こゝは東海に名だゝる一勝地にて、殊に賑しく、両側の茶屋、いづれも奇麗に見へたり(中略) 女郎おくり出て、さま/\〃のしやれもあれどもりやくす。弥次郎北八、しじうこのていを見て、女郎かいのからしり馬でかへるもおかしいと、打わらひながら 三味せんの駒にうち乗帰るなり岡崎ぢろしゆ買に来ぬれば かくてふたりも此所を立出、宿はずれの松葉川を打こへ、矢矧のはしにいたる」
 
池鯉鮒宿(ちりうしゅく)  
東海道第三十九次。本陣一、脇本陣一、旅籠三十五軒、戸数二百九十余、人口千六百二十余人。  
『東海道中膝栗毛』「西田海道より半里ばかり北の方に、名にしおふ、八ツ橋の旧跡を思ひて 八ツはしの古跡をよむもわれ/\がおよばぬ恥をかきつばたなれ ほどなく池鯉鮒の駅にいたる」
 
鳴海宿(なるみしゅく)  
東海道第四十次。本陣一、脇本陣二、旅籠六十八軒、戸数八百四十余、人口三千六百四十余人。  
『東海道中膝栗毛』「これよりすこしみちをはやめ行ほどにはやくもなるみのしゆくにつきければ 旅人のいそげば汗に鳴海がたこゝもしぼりの名物なれば かくよみ興じて田ばた橋をうちわたり、かさでら観音堂にいたる」
 
熱田(宮)宿(あつた(みや)しゅく)  
東海道第四十一次。本陣二、脇本陣一、旅籠二百四十八軒、戸数二千九百二十余、人口一万三百四十余人。東海道はここから海を渡って桑名に向かう。そのため船待ちで留まる人が多く、また熱田神宮の門前町でもある事から、東海道随一の旅籠の数を誇る宿場となった。  
『東海道中膝栗毛』「それよりとべ村、山ざき橋、仙人塚をうちすぎ、やうやく宮の宿にいたりし頃は、はや日くれ前にて、棒鼻より家毎に、客をとゞむる出女の声姦し。「あなたがたアおとまりじやおませんか。お湯もちんとわいておます。おあいきやくはおません。おとまりなされませ/\」  
七里の渡し  
宮から桑名の湊まで船で伊勢湾を横断する文字通りの海道。現在は埋め立てられて一帯は陸続きとなっているが、当時はまだ海が深く入っていて、この七里の航海を嫌う旅人は、陸路を佐屋まで行き、そこから木曽川を舟で下って桑名に入った。  
『東海道中膝栗毛』「出ふねをよぶこへ「ふねが出るヤアイ/\此ときやどやの女おこしにきたり「モシいんま壱番ふねでおます。御ぜんをあげましよ弥次「ヲイ/\北八サアおきやトふたりはおき出て、手水つかふ内ぜんも出くひしまひ、かれこれするうち、やどのていしゆ「おしたくはよふおざりますか。舟場へ御案内いたしましよ北八「それは御苦労、サア弥次さん出かけやせうトそこ/\にしたくして、おもての方へ出かける。やどの女ぼう、おんな「御きげんよふ。又おくだりに弥次「アイおせはになりやしたトいとまごひしてふなばへ行、ていしゆこゝまでおくり来り「せんどうしゆ、おふたりさまじや、たのみますぞ弥次「ときにわすれた。御ていしゆさん。夕べおやくそくのかの小便の竹のつゝはていしゆ「ホンニちんときらしておきましたに、ドリヤ取てまいりしよかいトていしゆかの竹のつゝをとりにかへる。此わたし船、七里のかいじやう、一人まへ四十五文ヅゝ、其外駄荷のりものみなそれ/\〃にちんせんをはらひ、ふねにのる。此ときていしゆ竹のつゝをとつて来たり「サア/\お客さまそこへなげますぞ北八「なんだ火吹竹か弥次「これをあてがつてナ、とやらかすのだ。よし/\。イヤ御ていしゆさん、大きにおせは。サア是で大丈夫だ。ハゝゝゝゝ おのづから祈らずとても神ゐます宮のわたしは浪風もなし かく祝しければ、乗合みな/\いさみたち、やがて船を乗出して、順風に帆をあげ、海上をはしること矢のごとく、されど浪たひらかなれば、船中思ひ/\の雑談に、あごのかけがねもはづるゝばかり、高声に笑ひのゝしり行ほどに、あきなひ舟、いくそうとなく漕ちがひて「酒のまつせんかいな。めいぶつかばやきたて、だんごよいかな。ならづけでめしくはつせんかいな/\」
 
桑名宿(くわなしゅく)  
東海道第四十二次。本陣二、脇本陣四、旅籠百二十軒、戸数二千五百四十余、人口八千八百四十余人。宿場の町並は二十六町で城下町との併宿。桑名藩の城下町として発展し、伊勢神宮の一の鳥居があるようにここから伊勢路が南に延び、港を抱えた交通の要地であるため、宮に次ぎ旅籠の数が多い。  
『東海道中膝栗毛』「此内はやくも舟はくわなのきしにいたるのり合「きたぞ/\。小便にこそぬれたれ、舟はつゝがなく桑名へきた。めでたい/\トみな/\これよりあがりて、此しゆくによろこびの酒くみかはしぬ。(四編下了) 東海道中膝栗毛五編上 宮重大根のふとしくたてし宮柱は、ふろふきの熱田の神の慈眼す、七里のわたし浪ゆたかにして、来往の渡船難なく、桑名につきたる悦びのあまり、めいぶつの焼蛤に酒くみかはして、かの弥次郎兵衛喜多八なるもの、やがて爰を立出たどり行」
 
四日市宿(よっかいちしゅく)  
東海道第四十三次。本陣二、脇本陣一、旅籠九十八軒、戸数千八百十余、人口七千百十余人。  
『東海道中膝栗毛』「それより此所を立出、はつ村八幡を打過、七ツ家あくら川にいたりし頃、四日市の宿引出向ひて「これはおはやうございます。わたくしおやどをおたのみ申上ます弥次「わつちらア帯屋へ行やす宿引「イヤ今夕は、お大名さま、おふたかしらおとまりで、帯屋は両家とも、おさし合でござりますから、わたくしかたにおとまり下さりませトいふはうそなり。御小身さまのおとまりで、下宿はわづかなれども、それをいゝたてに、やど引わがかたへとめんとするけいりやくなり。ふたりともぼんくらなればまことゝおもひて弥次「そんなら、きさまの所はいくらでとめるやど引「ハイそれはいかやうとも弥次「ゆうべは宮の斧屋にとまつたが、とんだ叮嚀にした。百五十で燭台をつけてめしをくはせるか。そして酒も菓子も出したから、コリヤアだまつてもゐられめへと、別に茶代を弐百やるつもりの所、やつぱりやらなんだから、大きに安かった。きさまの所もそのつもりで馳走するがいゝやど引「かしこまりましたトだん/\はなしながら打つれて、ゆくともなしに四日市のぼうばなにいたれば、やど引かけだして「サア是でござります。コレおとまりさなじややどの女房「おはやうおつきなさいましたトあいさつのうち、ふたりはわらじをときながら見まはせば、いたつてむさくろしき宿にて、入くちに、すゝけかへつてよこにいがみたるぜんだなと、こはれかゝりしへつついのあるうちなり(中略)はや一ばん鶏の告わたる声/\〃、馬のいなゝきおもてにきこへ、弥次郎兵へきた八、いそぎおき出て支度とゝのへ、やがて此しゆくをたちいづるとて やう/\と東海道もこれからははなのみやこへ四日市なり それより濱田村を打すぎ、赤堀にさしかゝりたる(中略)打興じ行ほどに、はやくも追分にいたる」江戸を立った弥次郎兵衛、喜多八の珍道中は、この追分から伊勢路(参宮道)に入り東海道と別れる。この先、二人は伊勢参りをすませると京・大坂に遊ぶが、その道筋は初瀬を抜けて大和路を通り、宇治から伏見そして伏見街道を通って京に入った。その後、難波でさらに遊んで膝栗毛を終えている。
 
石薬師宿(いしやくししゅく)  
東海道第四十四次。本陣三、旅籠十五軒、戸数二百四十余、人口九百九十余人。
 
庄野宿(しょうのしゅく)  
東海道第四十五次。本陣一、脇本陣一、旅籠十五軒、戸数二百十余、人口八百五十余人。
 
亀山宿(かめやましゅく)  
東海道第四十六次。本陣一、脇本陣一、旅籠二十一軒、戸数五百六十余、人口千五百四十余人。城下町との併宿。
 
関宿(せきしゅく)  
東海道第四十七次。本陣二、脇本陣二、旅籠四十二軒、戸数六百三十余、人口千九百四十余人。
 
坂下宿(さかのしたしゅく)  
東海道第四十八次。本陣三、脇本陣一、旅籠四十八軒、戸数百五十余、人口五百六十余人。  
鈴鹿峠  
箱根峠、大井川とともに東海道の三大難所の一つに数えられた。
 
土山宿(つちやましゅく)  
東海道第四十九次。本陣二、旅籠四十四軒、戸数三百五十余、人口二千六百九十余人。
 
 
水口宿(みずくちしゅく)  
東海道第五十次。本陣一、脇本陣一、旅籠四十一軒、戸数六百九十余、人口二千六百九十余人。城下町との併宿。
 
石部宿(いしべしゅく)  
東海道第五十一次。本陣二、旅籠三十二軒、戸数四百五十余、人口千六百余人。
 
草津宿(くさつしゅく)  
東海道第五十二次。本陣二、脇本陣二、旅籠七十二軒、戸数五百八十余、人口二千三百五十余人。
 
大津宿(おおつしゅく)  
東海道第五十三次。本陣二、脇本陣一、旅籠七十一軒、戸数三千六百五十余、人口一万四千八百九十余人。北国街道が分岐し、琵琶湖の水運の要港として物資が集積した交通の要衝で、大津の町には加賀藩や彦根藩・旗本の蔵屋敷が立ち並んだ。宿場は北国街道の分岐点から関清水町にかけての通称「八町筋」に本陣や旅籠が集中していた。また、京への物資の輸送拠点でもあり、荷車の牛車が通うため、大津・京間の街道には車輪の幅に合わせて車石と呼ばれる平たい石が敷き詰められていた。
 
京都
伏見宿(ふしみしゅく)  
東海道第五十四次。本陣四、脇本陣二、旅籠三十九軒、戸数六千二百四十余、人口二万四千二百二十余人。秀吉の伏見城築城により伏見は城下町として発展するとともに、京都に通じる伏見街道、大坂への大坂道、大津への大津街道が交差する交通の要地となった。家康が政権を握ると、伏見城は破却されたが幕府は伝馬所を設置し大坂方面への継ぎ立てのため伝馬百疋を常備させた。こうして東国からの物資は京を通らず、大津街道から淀を経て大坂方面に至る宿駅になる。また、西国大名が参勤交代で江戸に向かう街道ともなり、大津街道〜大坂道も東海道と称されるようになった。  
淀宿(よどしゅく)  
東海道第五十五次。旅籠十六軒、戸数八百三十余、人口二千八百四十余人。木津川、宇治川、桂川が合流する淀は、古くから水上交通の要衝であり軍事的な要地とされた。秀吉がこの地に淀城を築き、側妾茶々にその城を与え、茶々が淀殿と呼ばれることになったことはよく知られている。家康もこの淀の地を京都守護の目的から重視し、新たに淀城を築き淀藩を置いた。寛永十年(1633)に藩主となった永井尚政により河川の大規模な整備が行われ陸の交通が確保されると、宿駅としての整備も行われ、淀六町のうち池上・納所・下津・新町の四町が地子免除となり伝馬業務を行い、大坂、伏見、京都を結ぶ交通の要衝として発展した。  
枚方宿(ひらかたしゅく)  
東海道第五十六次。本陣一、旅籠六十九軒、戸数三百七十余、人口千五百四十余人。  
守口宿(もりぐちしゅく)  
東海道第五十七次。本陣一、旅籠二十七軒、戸数百七十余、人口七百六十余人。  
 
中山道

 

京まで六十九次 / 江戸時代に整備された日本橋を起点とする五街道の一つで、東海道とともに江戸と京を結び、多くの旅人が往来した本街道。この街道を参勤交代に使用していた大名は、江戸末期では加賀前田家、越後高田榊原家など三十家で、東海道の百四十六家に比べると少ないが、大井川や天竜川のような大きな川がなく、川止めが少なかったことから、比宮(なみのみや:徳川家重夫人)、五十宮(いそのみや:徳川家治夫人)、楽宮(さきのみや:徳川家慶夫人)、和宮(徳川家茂夫人)などの姫君の輿入れ行列に使用された。
板橋宿(いたばししゅく) 江戸日本橋より二里半(10q)  
中山道第一番目の宿駅。宿町の長さは滝野川境から前野村境までの二十町九間で、平尾宿・中宿・上宿の三宿からなる。本陣は一軒で中宿にあり、脇本陣が三軒あって平尾宿・中宿・上宿にそれぞれ置かれていた。『中山道宿村大概帳』によれば旅籠屋五十四軒とされる。戸数五百七十余、人口二千四百余人。日本橋寄りの平尾宿には飯盛女(宿場女郎)を抱えた旅籠が軒を列ね、中宿には馬継ぎ場や自身番・問屋場・量目改所が有り、上宿には木賃宿(下級旅籠)が建ち並ぶ。  
戸田の渡し(とだのわたし)  
次の蕨宿の手前には荒川が有り戸田の渡しが有った。戸田の渡船場の渡船の権利は北岸の下戸田村が持ち、その権利を巡って蕨宿との間で争いも起きている。天保十三年(1842)の「中山道戸田渡船場微細書上帳」によれば戸数四十六軒、人口二百二十余人(内船頭八人、小揚人足三十一人)、渡船数十三艘(馬船三艘、平田船一艘、伝馬船一艘、小伝馬船八艘)となっていた。大名などの大通行になる時は、近隣の下笹目村、浮間村から馬船を定助船として徴発した。
蕨宿(わらびしゅく) 板橋宿より二里十町(約9q)  
中山道第二宿。宿町には本陣一、脇本陣一が置かれ旅籠屋二十三軒が有ったが、荒川の出水などで川止めになる場合に備え、東の隣村塚越村にも本陣が置かれた。蕨宿の本陣を一の本陣あるいは西の本陣、塚越村の本陣を二の本陣あるいは東の本陣と呼んだ。戸数四十余、人口二百二十余人。また、旅籠には平旅籠と飯盛旅籠が有り、平旅籠は普通の旅客が利用する一般的な旅籠だったが、飯盛旅籠には飯盛女がいて強引な客引きで旅人を困らせた。そのため、江戸末期には一般旅人が安心して泊れるように平旅籠の講(旅館組合)が組織されたという。  
この蕨の地は、室町期の貞治年間(1362〜67)、足利氏の一門である渋川義行が武蔵国司として蕨城を築き居城、以降渋川氏一族が領していた。長禄元年(1457)九州探題渋川満頼の孫渋川義鏡が幕府の命により関東探題として武蔵下向を命ぜられ蕨城に依る。戦国期に入り小田原北条氏の武蔵進出で、蕨城をめぐる攻防が繰り返され、義鏡の子義尭の時に破られ北条氏の支配に下った。その後渋川義基の時代、大永六年(1526)には扇谷朝興軍に攻められ落城。義基は北条方に逃れ、永禄十年(1567)北条氏康の援助で城を奪回するが同年の国府台の戦に参戦し討死、一族は散り散りになった。家康が関東に入封すると幕府領となり、廃城となった城址には家康の鷹狩時に休所として使われる御殿が建てられた。
浦和宿(うらわしゅく) 蕨宿より一里十四町(約5.5q)  
中山道第三宿。町並みは十町四十二間で下町・中町・上町からなっていた。本陣は中町に一軒、脇本陣が上町に二軒、中町に一軒あって、旅籠屋の数は十五軒だったとされる。旅籠が十五軒という数字でも分かる通り、この浦和宿は江戸から近い事もあり宿場町としてはあまり発展しなかったが、二七市場で賑わっていた。毎月二・七の日が市日で、上町が二日・十七日、中町が七日・二十二日、下町が十二日・二十七日となっていて、三ケ所で月二回づつ開かれていた。これは本陣を勤める星野家の祖権太兵衛が、天正十八年(1591)、秀吉の岩槻攻めにあたって道案内を勤め、豊臣方を有利に導いた功績から、周辺での市場開設を許され、関東一般市場取締役に任ぜられたことに由来する。この時、権太兵衛は苗字帯刀も許され星野姓を名乗ったとされる。家康の関東入封後は名主役となり本陣職を命ぜられた。
大宮宿(おおみやしゅく) 浦和宿より一里九町(約5q)  
中山道第四宿。町並みは九町半、旅籠屋二十五軒、問屋四軒で、宮町に本陣一が置かれ、脇本陣が九軒と、中山道の宿場では脇本陣の数が一番多い。この外、北沢家に紀州鷹場本陣が置かれ、松本家とともに鷹場鳥見役を勤めていたという。戸数三百十余、人口千五百余人。  
この大宮宿は武蔵国一宮の氷川神社の門前町として栄えた町だったが、街道が神社の参道を兼ねて迂回して中を通っていたため、神社の中を通るのは好ましくないと、寛永五年(1628)、関東郡代伊奈忠次の指揮で一の鳥居から北へまっすぐに直進させ、門前にあった町家を街道の両側に移住させ宿場町とした。このことから宿の名が大宮宿となったという。  
ここから西に川越道が分れた。
上尾宿(あげおしゅく) 大宮宿より二里(約8q)  
中山道第五宿。町並み十町十間、本陣一、脇本陣三、旅籠屋数四十一軒で、茶屋が数軒有り、飯盛女が「宿村大概帳」によれば四十九人いたという。戸数百八十余、人口七百九十余人。現在の仲町付近が上尾宿の中心で、本陣・脇本陣・問屋場・高札場などが集中している。
桶川宿(おけがわしゅく) 上尾宿より三十四町(約3.7q)  
中山道第六宿。町並み九町半、本陣一、脇本陣一、旅籠三十六軒。本陣の遺構として建物の一部が現存している。戸数三百四十余、人口千四百四十余人。  
宿場の外れに、弘治三年(1557)開基と伝える曹洞宗大雲寺という寺があり、その境内には「女郎買い地蔵」と呼ばれる地蔵がある。この桶川宿も飯盛女が多く、このお地蔵さんが宿の飯盛女を買いに錫杖をついてお出かけになった。困った和尚は地蔵の背中に鎹(かすがい)を打ちつけ、鎖で縛ってしまったのだと伝えられている。これは、寺の若い坊主が頭を隠して一人の飯盛女に通い、怪しんだ人が後をつけると、その坊主は大雲寺に入っていった。この事を住持に告げると、住持は「きっと見つけ出し仕置しよう」と約し、次の日に鎖で縛られた地蔵が立っていた。住持は若い僧に、その罪を地蔵が被るので今後戒律を守り修行に勤めるよう諭して、一件を落着させたのだろう。
鴻巣宿(こうのすしゅく) 桶川宿より一里三十町(7q)  
中山道第七宿。町並み十七町、本陣一、脇本陣一、旅籠五十八軒。小田原北条氏の家臣小池長門守が開発した市宿新田に、慶長七年(1602)、本宿村(北本市)の宿駅を移して鴻巣宿と改称した。戸数五百六十余、人口二千二百七十余人。  
宿の手前に、関東十八壇林の一つ浄土宗勝願寺がある。この寺は、鎌倉時代に箕田郷松ヶ岡に創建され、天正元年(1573)、惣誉清巌が現在地に移し再建したもので、境内には関東郡代伊奈忠次・忠治父子の墓が有る。また、宿外れの追分から北へ延びる館林道(行田道)は、将軍家が日光社参時に使用する日光街道、日光御成街道の混雑を避けて通行する大名が使用する脇街道の役目をはたしていた。  
久下の長土手(くげのながどて)  
鴻巣から熊谷の間の荒川に沿った堤防上の道で、景勝の地として知られた。時代劇などで馴染んだ土手上の街道を行くのどかな旅人の情景が浮かぶが、反面、物騒な場所でもあったという。この土手の下に権八地蔵と呼ばれる地蔵がある。この権八というには、歌舞伎で知られる盗賊白井権八で、路銀に困った権八はこの地蔵の前で上州の絹商人を殺害し三百両奪った。権八は地蔵に「このことは黙っていてくれ」と祈ったところ、石地蔵は「吾れは言はぬが汝言うな」と口をきいた。そこから別名「物言い地蔵」とも呼ばれている。
熊谷宿(くまがやしゅく) 鴻巣宿より四里六町四十間(約23q)  
中山道第八宿。町並み十町十一間、本陣二、脇本陣一、旅籠十九軒。また熊谷宿は忍藩領で、忍藩の陣屋もあった。戸数千七百十余、人口三千二百六十余人。二、七に市が立ち白木綿・太織物などが売買されていた。またこの熊谷宿には、忍藩の方針で飯盛女は置かれなかった。途中安永年間(1772〜81)に二年間ほど置いたが、近隣の若者達が帰村しないのですぐに廃止となっている。  
宿場にある高城神社は延喜式にも記されている古社で、鎌倉時代には熊谷氏の氏神として尊崇されたが天正十三年(1591)、豊臣勢の兵火で焼失、のち忍藩主によって社殿が再建された。隣にある浄土宗蓮生山熊谷寺は源平一の谷の戦で名をはせた熊谷直実の開山。直実は建久三年(1192)、久下直光との所領争いで敗れ、剃髪し上洛して蓮生坊と名を改め念仏の行に励んだといわれる。寺域は広く、本堂・庫裡・鐘楼・宝蔵などが有り、熊谷直実ゆかりの品々が保管されている。  
宿を出てしばらく行くと秩父道が分れ、室町期に始まった秩父札所めぐりの巡礼たちが往来した。
深谷宿(ふかやしゅく)  
中山道第九宿。町並み東西十町、南北三町、本陣一、脇本陣四、旅籠八十軒で、中山道の宿駅中もっとも旅籠が多く、飯盛女も大勢いて遊廓もあり、人口でも男性より女性の方が二割近く多い宿駅だった。戸数五百二十余、人口千九百二十余人。こうした女郎目当ての客も多く、そのために旅籠の数が多くなったのだろう。宿の外れには「みかえり松」と呼ばれる松も有り、女との別れを惜しむように男達がそこで振り返ったのだという。  
この深谷には、室町末期から江戸初期までは深谷上杉氏の築いた深谷城が有ったが、寛永四年(1627)に廃城となっている。
本庄宿(ほんじょうしゅく) 深谷宿より三里二町(約12.2q)  
中山道第十宿。町並み十七町三十五間、本陣二、脇本陣二、旅籠七十軒。人馬継問屋六ヶ所という中山道最大の宿場町。戸数千二百十余、人口四千五百五十余人。宿は深谷宿と並んで歓楽街として賑わい、飯盛女の数も百人をはるかに越えていた。また田村作兵衛が勤めていた田村本陣(北本陣)と内田七左衛門が勤めていた内田本陣(南本陣)二つの本陣間の競争も激しく、一年先の参勤交代や帰国に合わせて諸大名の国元や江戸屋敷に書状を送ったり出向いて予約を取ったといわれる。  
ここ本庄にも城(本庄城)が有ったが、慶長十七年(1612)、城主小笠原左衛門佐信之が下総古河へ転封となり廃城となった。  
宿場の手前に、三国街道の追分が有る。  
勅使河原の渡し(てしがわらのわたし)  
武蔵国と上野国の境を流れる神流川の渡しで、川には中洲が有って本庄側から中洲までは橋が架かり、上野国側へ渡る時に渡船を利用していた。また常水の時は上橋、出水になると舟越、川幅が二十間を越すと川留めになったという記述もある。
新町宿(しんまちしゅく)  
中山道第十一宿。他の宿場よりおよそ五十年遅れて出来た宿駅で、慶安四年(1651)に落合村と笛木村が合体して作られた。本陣二、脇本陣一、旅籠四十三軒、戸数約四百、人口千四百三十余人。  
烏川(柳瀬川)渡船(からすがわとせん)  
渡船の経営は、新町宿、小林伊左衛門、倉賀野宿の三者で行っていた。そのため両岸の中島村、岩鼻村は渡船の権利を奪われ悔しい思いをしていたという。渡った岩鼻河原には刑場があり、近くの観音寺境内に刑場に散った者たちの供養塔がある。また、寛永五年(1793)に岩鼻代官所が設けられ代官の陣屋があった。
倉賀野宿(くらがのしゅく) 新町宿より一里十八町(約5q)  
中山道第十二宿。町並み九町十六間、本陣一、脇本陣二、問屋三、戸数二百九十余、人口二千三十余人。上町・中町・下町に分れ、各町に問屋場が有り交替で取り行っていた。  
この倉賀野宿は日光例幣使街道の起点で、宿場の手前がその追分となっている。朝廷から遣わされる例幣使が京を立ち中山道を下って、ここ倉賀野から日光へ向った。この例幣使の行列は大掛かりなもので、行列が通り過ぎるのに三日から四日かかったという。さらに例幣使を勤める公卿は当時財政的に非常に困窮していた事から、道中の宿々で寄進を募るため長逗留していたことから、宿場にとっては大迷惑な行列だった。  
近くに有る倉賀野城址は、十五世紀はじめ倉賀野孫太郎行泰が烏川淵に築いた城で、旗本十六騎で戦国を生き抜いた武将だったが、小田原北条氏と共に滅び城も廃城となった。  
慶長六年(1601)、前田慶次郎は直江兼続に誘われ、減封になった上杉景勝の下に仕えるべく、雪深い米沢の地に赴いた時の道中の記録を『前田慶次道中日記』として残した。慶次郎はこの旅程で、中山道を関ヶ原からここ倉賀野宿まで下っている。この宿場一覧とは逆の道筋となる道中記であるため宿場の記述が前後するが、一日の行程を記した記事をその日泊まった宿場毎に紹介しよう。  
「六さかもと(坂本)より安中に三十里安中よりくらがの(倉賀野)に廿五里以上五十五里そのあたりの家に休らへば、けわひ(化粧)そこなひたる女の、ほうべに(頬紅)ぬりたるあり、行衛をとヘば、涙にむせび都より人にかどわされてきぬ、人のかたちよく生れたるほど、物うきはなしといふ、その女のかほ(顔)は、よこ(横)に三寸も長くて、出はごに歯がすに付、ところどころは(歯)の正躰の見ゆるあたりは、くちば(朽葉)いろ(色)にて、はぐきになのは(葉)つき、いひ(飯)つぶはさまり、物をいへば、もよぎいろ(色)なるいき(息)をふく書付ていらざれども、かゝる人かどはしぬるは、人の心のさまざまなるをしらんためなり、安中、板はな(鼻)の町、高さき(崎)をとほり、くらが野(倉賀野)にとまる」  
と有り、中山道の第十七番目の宿場坂本宿を発って安中宿、板鼻宿、高崎宿を通り、ここ倉賀野宿に着いた。翌日の慶次郎の日記には、  
「七くらが野(倉賀野)より柴のわたり(渡り)に十五里柴渡よりきざき(木崎)に十五里き崎(木崎)より引田に十五里以上四十五里柴のわたり、高崎新田町にとゞまる」  
と有るように、ここで中山道と別れ、後に日光例幣使街道と呼ばれるようになる道を通り、子供二人を連れた慶次郎一行は米沢に向った。  
(原文はカタカナ・ひらがな交じり文だが、読みやすくするためカタカナをひらがなに直すとともに、()内に漢字を付し、意味をつかみやすくした。以下同)  
佐野の並木(さののなみき)  
粕沢橋を過ぎると「粕沢の滝」と呼ばれる滝があり、立場茶屋も出ていた景勝地。ここから上佐野にかけて松の並木が続き、「佐野の並木」と呼ばれていた。
高崎宿(たかさきしゅく) 倉賀野宿より一里十九町(約5q)  
中山道第十三宿。ここは井伊直政が築いた高崎城の城下町で、代々幕閣が城主を勤めていたことから諸大名は遠慮してこの宿では宿を取らなかった。そのため、本陣・脇本陣とも置かれなかったという。旅籠の数は十五軒、問屋三軒とされ、商工業が発達していて一般の旅人はこの宿で旅に必要な物を購入するなどした。本町(三日八日)、田町(五日十日)、新町(二日七日)とそれぞれ六斎で十八日市が立っていた。また、この高崎は三国街道との分岐点で、江戸と信越を結ぶ問屋、仲買の大商家が現れ賑わった。  
この地は徳川氏が江戸に入府する前までは和田と呼ばれ、和田氏の居城和田城が有り、東山道和田宿(和田駅)と呼ばれていた。この地を領していた和田氏は小田原北条氏が関東に進出するとその配下に与し、北条氏の滅亡とともに滅び、和田城跡に家康の命で井伊直政が城を築き、名も高崎城と改めた。
板鼻宿(いたはなしゅく) 高崎宿より一里三十町(約7q)  
中山道第十四宿。町並み十町三十間、本陣一、脇本陣一、旅籠五十四、問屋場二、戸数三百十余、人口千四百二十余人。この板鼻宿は旅籠屋の数も多く、商店・茶屋が九十軒あり繁盛していた。旅籠屋のほとんどは飯盛女や下女を抱えていたという。これはこの先に碓氷川が有り川留めで滞留する事があったためとされる。  
碓氷川の歩渡し(うすいがわのかちわたし)  
当初、ここは「歩渡し」で架橋が禁止されていたが、冬季には仮土橋が架けられる。宝暦二年(1752)からは常設の土橋が架けられた。
安中宿(あんなかしゅく) 板鼻宿より三十町(約3q)  
中山道第十五宿。ここ安中は安中城下の町で、うち宿の町並みは四町、本陣一、脇本陣二、旅籠十七軒が有り、戸数六十余、人口三百四十余人の小宿だった。そのため宿駅の困窮が甚だしく、文政五年(1822)には、道中奉行石川忠房の裁断で向こう二十五年間、助郷の数を二十五人二十五疋の継立てに半減している。また当初禁じられていた飯盛女も、嘆願を繰り返した結果、嘉永七年(1854)に黙認の形で置けるようになった。その数も当初五十七人が幕末には百人を越えたという。  
安中城は、永禄二年(1559)、安中越前守忠政が築き城下町が形成された。戦国期には上杉・武田の戦に巻き込まれたが、のち武田方となり天正三年(1575)、長篠の戦に従軍し討死。その後、慶長十九年(1614)、井伊直政の長男直勝が江州佐和山から三万石で入り城を再建。その後、水野氏、堀田氏、内藤氏、板倉氏と城主が代わる。
松井田宿(まついだしゅく) 安中宿より二里十六町(約9.7q)  
中山道第十六宿。この宿も安中藩領で町並み九町八間、本陣二、脇本陣二、問屋二、旅籠十四軒、戸数二百五十余、人口千余人、市は三、八の六斎市。ここ松井田宿は信州各藩の城米が集まる中継地となっていて廻米の半分がここの米商人(宿米)に売られ(払い米)、残り半分が倉賀野から舟で江戸に送られた。このためこの宿は「米宿」と呼ばれ繁栄した。  
碓氷関所(うすいせきしょ)  
江戸に幕府が置かれるとこの上野国は信州から関東への入口として重要視され、慶長十九年(1614)には関長原(現関所より半里北)に仮番所が置かれた。その後、元和九年(1623)、現在地に移されると諸設備が整備され、安中藩が管理していた。関所には常時番頭二名以下十数人の番士が守衛にあたっていたという。
坂本宿(さかもとしゅく)松井田宿より二里十五町七間(約9.7q)  
中山道第十七宿。町並み六町十九間、本陣二、脇本陣二、旅籠四十軒、戸数三百七十余、人口七百三十余人。寛永二年(1625)、幕命により付近の住民や安中・高崎藩の領民を移住させてつくられた宿場町。東西に八間一尺の道路、その中央を幅四尺の用水が流れ、宿場を東西に二分し、十七の橋を架け、宿場を守るため家屋の屋根に斜角を持たせ、軒を接して建てられた計画的な町作りがなされた。難路の峠を控えた宿場として人手が必要なため、近在からの助郷の数も多く、飯盛女も置かれ賑わった。  
『前田慶次道中日記』「五もち月(望月)よりかるいざは(軽井沢)に五十里かるいざは(軽井沢)より坂本に十五里以上六十五里もち月(望月)の駒にのり、八幡の町、塩なだを過岩村田にはかゝらず、北の野中をすぐにかるいざわ(軽井沢)まで奥道五十里の間、馬つぎ十一所かと覚えたり、臼井の峠に上れば、熊野の権見をうつし奉る社頭在、神鈴の声幽にして道もをく(奥)まる山かげに、きねが袖ふる里かぐら、折にふれて静也、坂本につき、しばしまどろめば、夢めみる我が京落の友、拙唱作る向東に去北行路の難、□に隔古郷を涙した不乾、我夢朋友を高枕上、破窓そうの一宿短衣寒是より東関の上野道也」と記され、望月宿を馬で発ち、軽井沢宿を経て坂本宿まで一気に二百六十キロの道のりを稼いでいる。  
碓氷峠(うすいとうげ)  
上り口は狭く坂は急で道も悪かったという。三百mほど上った所に堂峰番所があり、裏番所と呼ばれ、碓氷関所を通らずに山中を抜ける旅人を取り締まるために設けられていた。番所から一qほど進んだ所に二体の地蔵が有り、上り地蔵、下り地蔵と呼ばれ、室町期からここを通る旅人の無事を願ってきたという。ここから少し上ると坂本宿が一望できる「覗」という場所が有り、頂上近くには「弘法の井戸」と呼ばれる刎石山頂には珍しい湧水の井戸が有り旅人の喉を潤し疲れを癒したという。山頂には小左衛門が勤めた羽根石茶屋本陣、四軒茶屋などが有って旅人が休憩できた。この山頂と坂本宿の標高差は五百四十mで、ここから道はしばらく平坦となり絶景を眺めながら行く。再び「座頭ころがし」と呼ばれた上り坂を昇ると茶屋(大和屋)、さらに進むと茶屋本陣(丸屋六右衛門)や往時には十三軒もの茶屋が立ち並ぶ峠の中心部に達し、「ワラビ餅」などを振る舞って賑わった。
軽井沢宿(かるいざわしゅく) 坂本宿より二里十六町(約9.7q)  
中山道第十八宿。町並み六町二十七間、本陣一、脇本陣四、旅籠二十一軒、戸数百十余、人口四百五十余人。ここ軽井沢宿は展望が開け浅間山を近くに望む景勝と峠を越えた最初の宿ということもあり新町が出来るほど賑わい、旅籠の多くは客引きのため飯盛女を抱えていた。中には四百人を超える飯盛女を抱える旅籠屋も有ったという。しかし、天明三年(1783)の浅間山の大爆発で甚大な被害を蒙り、さらに二度の大火に見舞われ、加えて天明の大飢饉と後年称される大飢饉が襲い、宿場は再興する余力も無いほど疲弊した。その後、宿場はやや回復し、嘉永三年(1850)には飯盛女の数が百人を超え、遊廓化した旅籠まで現れるが宿駅制度が廃されると宿場町は衰退した。  
この軽井沢が蘇るのは明治十八年(1885)、宣教師A・C・ショー氏が軽井沢を訪れ、日本に滞在する西欧人等の保養地として開発した事で、現在のような別荘地として発展する。ちなみに軽井沢が別荘地として人気を博し、都会から人が多く訪れるようになると、当初静かな保養地としてそこを利用していた西欧人たちはそんな喧噪を嫌い、新たな地を求めて信越国境の野尻湖などへ移っていった。
沓掛宿(くつかけしゅく) 軽井沢宿より一里五町(約4.5q)  
中山道第十九宿。町並み五町二十八間、本陣一、脇本陣三、旅籠十七軒、戸数百六十余、人口五百余人。この宿も浅間山の大噴火と飢饉で衰退したが、天保十四年(1843)ころにはやや回復し宿場としての体裁も維持できたという。また、この沓掛宿は草津へ抜ける草津道の起点となっていて、草津温泉往来の湯治客で賑わった。  
借宿(かりしゅく)  
沓掛宿と追分宿の中間、女街道との分岐点に有り、両宿が一杯の時はこの宿で泊まった。立場、茶屋、穀屋、造酒屋などが有り、商人・職人・茶立て女・中馬稼ぎなどで賑わいをみせていた。
追分宿(おいわけしゅく) 沓掛宿より一里三町(約4.3q)  
中山道第二十宿。軽井沢宿・沓掛宿とともに軽井沢三宿の一つ。町並み五町四十二間、本陣一、脇本陣二、旅籠三十五軒、戸数百余、人口七百十余人。ここ追分宿は越後へ通じる北国街道との追分で、交通の要所として幕府も重視し、古くから飯盛女を置くことを許可していた。三宿の中でもっとも大きな宿場町で、元禄十三年(1700)の記録には飯盛女が二百人とされ、宿場全体が歓楽地として賑わっていた。
小田井宿(おだいしゅく)追分宿より一里十町(約5q)  
中山道第二十一宿。町並み八町四十間、本陣一、脇本陣一、旅籠五軒、戸数百余、人口三百十余人。『木曽路名所図会』に「駅内二丁ばかり、多く農家にして旅舎少なし、宿悪し」と書かれた寒宿だったが、隣の追分宿が男たちの歓楽地だったことから、大名の夫人や姫君はそこを避けてここで宿を取った。幕末、徳川家に降嫁した皇女和宮もここに宿したという。そのためこの小田井宿は「姫の宿」とも呼ばれていた。  
皎月原(かないがはら)  
中山道の名所の一つで、この「かないが原」は「明神の馬に乗り給ふ馬場」と言われ、芝に輪乗りをしたような跡(皎月の輪)があり、草が生えないという。ここで馬術を習得した押兼団右衛門(小諸藩馬術師範)の「皎月歌碑」が建っている。
岩村田宿(いわむらたしゅく) 小田井宿より一里七町(約4.7q)  
中山道第二十二宿。ここは内藤美濃守の城下町で、町並みは九町三十間、新町・中宿・下宿とあり、中宿と下宿に問屋が有って半月交替で勤めていた。本陣・脇本陣とも置かれておらず、城下町の堅苦しさを嫌った旅人は素通りする事が多く、旅籠も九軒と少ないが、物資集散の地として商業が盛んだった。『木曽路名所図会』に「駅内の町五六町あり、相対して巷をなす。某余散在す。善光寺へ別れ道あり、又小諸の道二里なり、又甲州路の道筋あり。当駅は内藤美濃守の領地也。商人多し」と書かれているように、この岩村田の町から善光寺道、大仁田道が分かれている。
塩名田宿(しおなだしゅく) 岩村田宿より一里十町(約5q)  
中山道第二十三宿。中山道の整備にあたり北にあった旧塩名田村と南の舟久保・町田の住民を移して千曲川岸に形成された宿駅で、慶長七年(16029)宿駅として機能を始めた。町並みは東西四町二十八間、東から下宿・中宿・河原宿となっている。本陣二、脇本陣一、旅籠七軒、戸数百十余、人口五百七十余人。隣の八幡宿との距離は短いが、ここに宿駅を設けたのは千曲川の往還を確保するためだったとされる。千曲川往還橋は急流だったため洪水のたびに橋が流されることから、宿場の任務は橋の確保と修築で向こう岸の御馬寄村と共同で管理にあたった。この宿は小諸藩領でここから小諸城下に通じる小諸道が通っている。
八幡宿(やわたしゅく) 塩名田宿より二十八町(約2.8q)  
中山道第二十四宿。宿駅整備にあたり、北の御牧原南麓にあった蓬田・桑山村と根際街道と呼ばれていた道筋にあった八幡村を街道沿いに移して宿場とした。当初は荒町といい宿内の大字は三つ(蓬田・桑山・八幡)に分かれている。町並み七町二十五間、本陣一、脇本陣四、旅籠三、戸数百四十余、人口七百十余人で、宿建人馬二十五人二十五疋と他の宿駅の半分になっていた。宿間の距離が短いがここに宿が置かれたのは、この辺りの地質が強粘土質で、春の雪解けや長雨があると泥沼と化し、小松枝、苅敷などを敷いても人馬の通行に支障をきたしていたからといわれている。
望月宿(もちづきしゅく) 八幡宿より三十二町(約3q)  
中山道第二十五宿。当初、望月宿は鹿曲川(かくまがわ)の右岸にあったが、寛保二年(1742)に大洪水が有り新町五十戸ことごとく流失し、その後、左岸の現在地に移転した。町並み六町余、本陣一、脇本陣一、旅籠九軒、戸数八十、人口三百六十余人。八幡宿同様宿建人馬二十五人二十五疋と他の宿駅の半分となっている。  
この望月の地は、奈良時代末に信濃国に設けられた最初の御牧(勅旨牧=御料牧場)が有った地として知られている。その後徐々にその制が整備され、御牧の数は平安期に信濃国に十六、上野国九、武蔵国四、甲斐国三の合計三十二牧となり、毎年二百四十疋の馬が朝廷に貢上された。信濃は八十疋の貢上で、内二十疋が望月の駒で、宮中における駒牽(こまびき)の行事が八月十五日の満月の日だったこともあり、望月の駒は多くの和歌に読まれその名声は全国に及んだ。  
『前田慶次道中日記』「四下のすは(諏訪)より和田に五里和田より長くぼ(長久保)に二里半長くぼ(長久保)より望月に二里半以上十里和田峠はこゆれども、みちはまだ長くぼ也漸あしだ(芦田)に付ば、もちみしにかはりて、あれはてたるさまなり、広野人稀にして尚禽獣不乱行烈を、田村烟絶ては更鶏犬の無聞鳴声を、こその里にとゞまるべからずとて、野経の露に袖をひたし、もち付(望月)の町に付、在鮭けいの羮風味満つ歯頬けうに是より関東道也」と、下諏訪宿から和田峠を経て長久保宿、芦田宿、ここ望月宿までの行程が記されている。
芦田宿(あしだしゅく) 望月宿より一里八町(約4.8q)  
中山道第二十六宿。ここ芦田宿は中山道が整備される前、慶長二年(1597)に芦田城主の命で岩間忠助と土屋右京左衛門が新しく宿を作ったと伝えられ、町並みは東西六町、東町・中町・西町・上町からなっている。宿開設以来、その土屋家が本陣・問屋を兼ねた名主となっていた。本陣一、脇本陣二、旅籠六軒、戸数八十、人口三百二十六人。  
宿の西外れに芦田七井戸の一つで、明暦三年(1658)、浅野宮君御東下の時、供御用水となり後代々姫君御東下の供御用水となった井戸があった。近年まで砂の間から豊富な水を湧かせていたが、県道工事で水脈を断ち湧水は止まってしまった。このすこし先に上田道が分れている。  
笠取峠の松並木(かさとりとうげのまつなみき)  
慶長七年(1602)頃、幕府より赤松七百五十三本が小諸藩に下知され、芦田宿の外れより北西に起伏している山の麓を南東に十五町に渡って植え付け、長久保入口の頂上まで並木道とした。その後、小諸藩の補填など保護が加えられ明治末には数百本あったが、松の寿命や台風による倒木などで、現在百余本となっている。街道の松並木が両側に現存しているものは全国でもまれで、箱根の杉並木とともに往時の街道の面影を保つ貴重な遺跡となっている。この松並木を過ぎると笠取峠の頂上で、立場茶屋「小松屋」があって、旅人が床几に腰を下ろし「笠取名物三国一のちからもち」を食べて休息したという。
長久保宿(ながくぼしゅく) 芦田宿より一里十六町(約5.6q)  
中山道二十七宿。当初、依田川に沿った下河原にあったが、寛永七年(1630)、洪水で町が流失したため、現在地に移転した。町並み七町五十二間、本陣一、脇本陣一、旅籠四十三軒、戸数百八十余、人口七百二十余人。宿はL字型に竪町と横町からなっていて、初めは下町・中町と呼ばれた竪町だけであったが、規模の拡大とともに横町が生まれた。ここ長久保宿は東に笠取峠、西に和田峠、さらにこの宿から北に上田・松代へ至る北国街道の大門峠を控える宿場だったことから宿泊客も人馬の往来も多く、軽井沢宿以西和田宿までの十一宿中では追分宿に次ぐ数の旅籠屋が有り、安永九年(1780)には飯盛女も置かれた。この時、助郷村の若者との間でしばしば問題が起り、助郷二十ヶ村で飯盛女の撤廃を訴願したが、宿場の繁栄上公に許可したもので廃止すれば宿の経営に影響するという事で、示談が成立した。それは、「助郷村の若者には酒食を禁じ、飯盛女は出さない、違反した旅籠屋には飯盛女を置くことを禁ず」というものだったという。  
今に残る本陣の石合家は寛永頃(1624頃)の建造で、中山道本陣中、現存する最古の建物といわれている。
和田宿(わだしゅく) 長久保宿より二里(約8q)  
中山道第二十八宿。宿は初め下町、中町、上町からなっていたが、和田峠を控えて宿泊する旅人も多く手狭になったため、正徳三年(1713)に橋場新田が作られ四町となった。町並み七町五十八間、本陣一、脇本陣二、旅籠二十八軒、戸数百二十余、人口五百二十余人。和田宿の旅籠は規模が大きく、出桁造り、格子戸の宿場建物の代表的な建築だったといわれ、文久元年(1861)再建の遺構が「歴史の道資料館(かわちや)」として公開されている。本陣は和田城主大井信定の娘婿長井氏が宿創設以来勤めていた。本陣建物の御殿部分、門は売却され丸子町竜顔寺と向陽陰に残存しているが、居室部分が遺構として残り、他の部分も復元され一般公開されているほか、文久元年建造の脇本陣翠川家の御殿部分も現存し、江戸期の脇本陣の遺構としてその姿をとどめている。  
宿の近くの和田城址は、戦国時代大井信定の居城だったが、信濃に進出した武田勢に仙の倉矢が崎の戦で敗れ、父子共に自害し滅ぼされた。  
和田峠(わだとうげ)  
標高1,600mの和田峠は中山道最大の難所として知られた。特に冬期は大量の雪が降り積もり、雪掘り、砂まき、ソダ柵、枝折などを施しても通行が出来なくなる事はしばしばだったという。峠越えのこの区間は、宿間五里十八町と長く、人馬の疲労もはなはだしく、後には峠の途中に施行所(お助け小屋)が設けられた。この施行所は江戸呉服町の豪商かせや与兵衛が金千両を幕府に寄付し、その金の利子百両を二分して、この和田峠と碓氷峠に文政十一年(1818)に設置したものだという。ここでは毎年十一月末より三月まで立ち寄った旅人に粥一杯、馬には年中小桶一杯の煮麦を施していた。その後、山崩れ(山抜け)により流出し、嘉永五年(1852)に現在地に再建された。この施行所からしばらく行くと東餅屋といわれた場所に辿り着く。ここには茶屋本陣はじめ五軒の茶屋があり、そこを過ぎてようやく頂上に辿り着いた。
下諏訪宿(しもすわしゅく) 和田宿より五里十八町(約21.8q)  
中山道第二十九宿。町並み七町四十三間、本陣一、脇本陣一、旅籠四十軒、戸数三百十余、人口千三百四十余人。この下諏訪宿は信濃国一宮の諏訪大社下社の門前町として発展し、温泉に加え諏訪湖を望む景勝があり、さらに甲州道中の追分でもあった事から旅人・商人等の宿泊で大いに賑わった。本陣の岩波家は、現住建物として今も使われ、名庭園として知られた庭に面した一部分が一般にも公開されている。  
下社秋宮の前が甲府経由で江戸に上る甲州道中(甲州街道終点)との追分で、宿の西は伊奈道への分岐点となっている。  
『前田慶次道中日記』「二宮のこし(宮ノ越)よりなら井(奈良井)ヘ五里なら井(奈良井)より本山に三里本山より下の諏訪に四里以上十一里やこ原(薮原)・よし田、とりゐ(鳥居)峠を下れはならゐ(奈良井)の町行末の道をなら井(奈良井)の宿ならば日高くとても枕ゆふべく、せばのこがね山、本山の町ききやう原を分けつゝ塩尻峠に上れば、冨士の山はそこ也すみの山のひがし(東)なるらし富士の雪北は黄に南は青くひかし(東)白西紅井に染色の山とよみ侍れば、此富士の山を染色の山にして、雪にいとしろ(白)きは染色の山のひがし(東)なるへしとおもひ侍るはかり也、暮るまで詠をれば、ふじ(富士)のけぶりのよこ(横)おれて雲となり、雨となり、たゞ白雲のみあとを埋めは、峠を下り、諏訪の湯本の町に更闌け人寐付ぬ」と、宮ノ越宿から薮原宿、鳥居峠、奈良井宿、本山宿、塩尻峠を経てここ下諏訪宿までの行程が記されている。さらに次の日の記事には「三日は湯本に猶とどまる、明はなれた湖上をみれば、たゞかゞみをかけたるやう也こほらぬは、神やわたり(渡り)しすは(諏訪)の海宮めぐりしつゝ、社壇を見るに、廻廊は傾き高楼は破れ、千木の片殺朽残て広前の橋板半は改り、木すゑふりにし森の木の葉、霜を羽ぶきて鳴からす、八帳破れては灯しび邃かすかなり、玉の簾落ては*内顕たり、まこと神さびて不覚涙した欄干たりあなはふと涙ことはれ神の慮心の外はことのは(言の葉)もなし、其日しも、古しへの朋友来り昔語りに傾数盃を」と有って、慶次郎がこの宿でのんびりと過ごした様子が記されている。  
塩尻峠(しおじりとうげ)  
諏訪郡と筑摩郡境に有り、太平洋側と日本海側との分水嶺になっている峠で、南に諏訪盆地が見渡せ、八ヶ岳・霧ヶ峰、晴れた日には富士山も見える。西には飛騨山脈(北アルプス)の山々が眺まれる景勝地。前田慶次郎も道中記の中で「塩尻峠に上れば、冨士の山はそこ也すみの山の東なるらし富士の雪北は黄に南は青くひがし白西紅井に染色の山とよみ侍れば、此富士の山を染色の山にして、雪にいと白きは染色の山の東なるべしと思ひ侍るばかり也」とその景観を記している。戦国期には天文十七年(1548)の武田晴信と小笠原長時の塩尻峠の戦いなど数々の戦の舞台にもなっている。峠付近には人家もなく立場もなかったことから、宝暦十四年(1764)に御小休本陣が設けられ茶屋も営まれた。また街道の北側には赤松千二百本が植えられ塩尻峠の松並木と呼ばれていたが、近年に道路工事と小学校建設で伐採され面影もなくなっている。  
江戸初期、大久保長安が整備した中山道は、下諏訪から三沢(岡谷市)、小野(辰野市)、牛窪峠を越えて木曾桜沢(木曾楢川村)に至る最短コースが取られていたが、長安の死後、元和二年(1616)頃、先の道筋が廃止され、新たにこの塩尻峠を越え塩尻・洗馬・本山の三宿を経て木曾に向う道筋となった。
塩尻宿(しおじりしゅく) 下諏訪宿より二里三十三町(約11q)  
中山道第三十宿。町並み七町二十八間、本陣一、脇本陣一、旅籠七十五軒、戸数百六十余、人口七百九十余人。ここ塩尻宿は幕府領であったことから、塩尻陣屋が一時置かれていた。
洗馬宿(せばしゅく) 塩尻宿より一里三十町(約7q)  
中山道第三十一宿。町並み五町五十間、本陣一、脇本陣一、旅籠二十九軒、戸数百六十余、人口六百六十余人。宿の手前は北国脇往還善光寺道との追分になっていて、近くに伝説「おうたの清水」が有る。盛夏の頃、木曾義仲の軍勢と出会ったこの郷の今井四郎兼平が、義仲の馬をこの清水で洗い馬の疲れを癒したと伝えられる泉で、これが洗馬の名の由来となった。この洗馬宿は善光寺詣での人々や御岳講の人々で賑わい、旅籠の数は二十九軒だが、そのうち十八軒の旅籠は間口十間以上、建坪百坪以上という二階建ての大旅籠で、多くの使用人や飯盛女を雇っていた。また、北陸から運ばれて来る塩漬けの鮭や鰤を煮て、その煮汁に大根などの野菜を煮込んだ「洗馬(せんば)汁」は、全国に知られたこの宿の名物料理。
本山宿(もとやましゅく) 洗馬宿より三十町(約3q)  
中山道第三十二宿。町並み五町二十間、本陣一、脇本陣一、旅籠三十四軒、戸数百十余、人口五百九十余人。小野新道の廃止に伴い塩尻宿、洗馬宿とともに慶長十九年(1614)に設立された宿駅。宿場は南から上町・中町・下町に区分されていた。この本山宿の周辺では昔から蕎麦が栽培されていて、寛文十年(1670)の丹羽式部少輔宿泊の条に「そば切り」献上の記述が有り、これが文献に現れる最初とされ、宝永二年(1705)刊行の『風俗文選』(森川許六編)に「蕎麦切というは、もと信濃国本山宿より出てあまねく国々にもてはやされける。云々」と記されたように、本山宿の名産として知られ、また「蕎麦切り」発祥の地でもあるとされる。  
本山宿は宿場を通っていた国道十九号線を宿の東裏に通すバイパスを作り、宿場全体の保存をはかった。その結果、町割も路地も残され、宿内の各戸は街道に面した外観をそのまま残そうと努力し、生活しながら付近の遺構と町並みを保存している。  
贄川関所(にえかわせきしょ)  
贄川宿の手前に設けられた関所で、創設は建武二年(1334)頃と古く、源義仲の子孫讃岐守家村が設け、四男家光に守らせたという。戦国期には妻籠番所とともに再び設けられたとされるがその資料はない。その後、石川備前守が木曾支配中に口留番所とした。慶長七年(1602)には福島関所の副関として、幕府指定の山村氏の私設関所として設けられたが、寛保元年(1741)、幕府の公式関所となった。この関所の任務は、野麦峠や権兵衛街道のおさえと女改め、木材の密移出の取締り(白木改め)などを行っていたという。
贄川宿(にえかわしゅく) 本山宿より二里(約4q)  
中山道第三十三宿。町並み四町六間、本陣一、脇本陣一、旅籠二十五軒、戸数百二十余、人口五百四十余人。宿の規模は小さく、わずかな農業と兼業の旅籠屋、茶店、商店、職人がいたと『木曾巡行記』(1838刊)に記されている。これより馬籠宿までの木曽路十一宿の常備人馬は半数の二十五人二十五疋となる。
奈良井宿(ならいしゅく) 贄川宿より一里三十一町(約7q)  
中山道第三十四宿。町並み八町五間、本陣一、脇本陣一、旅籠五軒、戸数四百余、人口二千百五十余人。奈良井宿は旅籠、伝馬関係の人は少なく、大半が櫛塗物関係と職人、小商店で構成される特異な発展をみせた宿場町。貞享二年(1685)刊の『岐蘇路の記』(貝原益軒)に「奈良井の町、民家百軒ばかり有、此町に、わん、おしき、まげ物などをぬりておほくうる」とあり、宝暦三年(1753)の『千曲之真砂』にも「此宿椀、折敷、曲もの、重箱のたくるの細工する。名物也」とある。また、天保九年(1838)の『木曾巡行記』には「宿内、出郷平沢は、往古より檜物、がらく細工、塗物等職業いたし、先年は夫々利徳有之故土着の人数も相増凡三千人余も有之夫々渡世せし也」とあり、宿の繁栄ぶりを伝えている。  
この奈良井宿は現代に至り、国道からはずれたため、宿場の町並みが昔のまま残り、昭和五十三年「伝統的建造物郡保存地区」に選定され、町並みの保存が地域の人々によって維持されている。  
鳥居峠(とりいとうげ)  
標高千百九十七mで、木曽川と奈良井川(犀川の上流)との分水嶺になっている。峠の開削は『三代実録』の元慶三年(879)の記事に現れる「県坂岑」(あがたざかみね)とされ、戦国時代木曾氏が御嶽の遥拝所として鳥居を建てたので鳥居峠と呼ばれるようになったとされる。鳥居峠は木曾防衛の要として、たびたび合戦場となり、天正十年(1582)二月、木曾義昌は織田慎忠の軍と呼応し、武田勝頼の将今福昌和と戦ってこれを破っている。このことが武田家滅亡の因ともなったといわれている。
薮原宿(やぶはらしゅく) 奈良井宿より一里十三町(約5.3q)  
中山道第三十五宿。町並み五町二十五間、本陣一、脇本陣一、旅籠十軒、戸数二百六十余、人口千四百九十余人。宿は下町、中町、上町と続き町の裏側に職人町が有り古府町と呼ばれていた。また、六軒町高台には御鷹匠役所が置かれ、尾張藩から鷹匠および役人が出張し、捕らえてきた仔鷹をここで飼育した。当初、この役所は妻籠と須原宿に置かれていたが、荻曾の山から下ろす仔鷹が優秀であったことからここに移されたという。この薮原宿は、境峠を越え奈川を経て野麦峠に至る飛騨街道奈川道との追分にもなっている。
宮ノ越宿(みやのこししゅく) 薮原宿より一里三十三町(約7.3q)  
中山道第三十六宿。町並み四町三十四間、本陣一、脇本陣一、旅籠二十一軒、戸数百三十余、人口五百八十余人。宿は上町、本町、中町、下町からなり、木曽川の水を利用した用水が往還通りに布設され、生活・防火・馬の飲料水として使用されていた。  
この宿のある宮ノ越は、木曽義仲所縁の地で、以仁王の令旨を受けて旗挙げした場所とされる旗挙げ八幡宮や義仲の菩提寺となったの徳音寺(臨済宗妙心寺派)、義仲の養親中原兼遠の菩提寺林昌寺(臨済宗妙心寺派)など多くの史跡が町の周辺に散在している。徳音寺には木曽義仲の墓とともに母小枝御前、愛妾巴御前の墓がある。  
『前田慶次道中日記』「霜月朔日野尻よりすはら(須原)へ一里半すはら(須原)より荻原に二里荻原より福じま(福島)に二里福しま(福島)より宮越ヘ一里半以上八里すはら(須原)・荻原をすぐれば、道のかたはらに大きなる鳥井(鳥居)あり、いかなる宮ばしらぞとと(問)へば、是より奥道廿里ありて、木曾の御獄と申山に権見たゝせたまふ、こゝよりその瑞籬のうちなりと云、木曾のかけはしはもと見し時はまるき(丸木)なと打わたしわたしして置ぬれば年々大水に流うせなどして、行かひも五月などはとどまることあり、太閤馬宿あらため玉ひ、広さ十間、長さ百八十間に川の面をすぢかひにわたし、車馬往来の運送、旅人相逢の行脚、或いは都に上り、或いは東に下る、貴賤よろこばずといふ事なし、信濃路や木曽のかけ橋な(名)にしおふ、とはこの事にやと、ね覚(寝覚)の床巴かふなと詠やる、此渕は義中(義仲)のおもひのともゑ(巴)といふ女房、此河伯のせひにて木曾義中(義仲)に思ひをかけ、妻になりしゆへに、ともへ(巴)か渕といへり、又或いは義中(義仲)あはづにてうせにし時、ともえ(巴)はおん田の八郎といふ武士を、義中(義仲)のまのあたりにてうち見参にいり、いとまかふて木曽に下り、此渕に身をな(投)けしゆへに、巴がふち(淵)ともいへり或いは義中(義仲)に別れ、あはづの国分寺にて、物具ぬぎ、忍ひて東国に下りしを、和田小太郎義盛たつね出し、妻になしぬ、やかて浅井奈か母なりと云、是も物に記せり、たゞいにしへより巴が渕とは、いふなるへし、野談はまちまちなり、ふくじま(福島)をも過、宮のこし(宮ノ越)に留」と記され、野尻宿から須原宿、「木曽の桟」を経てこの宮ノ越宿までの行程が記されている。
福島宿(ふくしましゅく) 宮ノ越宿より一里二十八町(約6.8q)  
中山道第三十七宿。町並み三町五十五間、本陣一、脇本陣一、旅籠十四軒、戸数百五十余、人口九百七十余人。ここ福島は、戦国期に木曽氏の城下町として誕生し、江戸時代には木曽代官の陣屋が置かれ、関所を抱える宿場町となった。この福島関所は中山道で碓氷関所とともに重要視された関所で、代官山村氏が守護していた。  
木曽川の断崖に臨む要害の地に設けられた関所には上番四人、下番二人が常時詰め、「女上下とも手形要す。男上下は手形要らず。鉄砲改め」と高札に書かれていて、入り鉄砲と出女を厳しく取り締まっていた。京へ六十六里三十二町、江戸へ六十八里二十七町の地で、道中のほぼ中間にあたる宿場とされた。  
木曽の棧(きそのかけはし)  
棧は懸け橋のことで、懸崖に橋を掛けて通路としたもので、古来より危険な通行路だったが、木曽は嶮岨な山間地であったため幾つもの棧が掛けられていた。しかし、この地を領した木曽氏によって道路が整備され、次第にその数は減少していった。ただ、福島から上松の間の波計の棧(はばかりのかけはし)が残り、木曽の棧と呼ばれる難所として江戸期まで残されていた。慶長六年(1601)、中山道経由で米沢へ向う前田慶次郎も道中記に、「木曾のかけはしは、もと見し時は丸木など打渡し渡しして置ぬれば、年々大水に流れ失せなどして、行かひも五月などは留まることあり、太閤馬宿あらため玉ひ、広さ十間、長さ百八十間に川の面をすぢかひに渡し、車馬往来の運送、旅人相逢の行脚、或いは都に上り、或いは東に下る、貴賤よろこばずといふ事なし、信濃路や木曽のかけ橋名にしおふ、とはこの事にや」とこの木曽の棧のことを記している。そんな危険な棧道だったが、正保四年(1647)、火事で焼失したのをきっかけに改造され、中間の八間だけをのこして両側を石垣に改められ、さらに寛保元年(1741)には全部石垣に改造された。
上松宿(あげまつしゅく) 福島宿より二里十四町(約9.4q)  
中山道第三十八宿。町並み五町三十一間、本陣一、脇本陣一、旅籠三十五軒、戸数三百六十余、人口二千四百八十余人。ここ上松宿の南外れには尾張藩の材木役所があり、木曽の山林を管理していた。幕府直轄だった木曽が元和元年(1615)に尾張藩領とされた時には、木曽代官の山村氏が山方、村方の管理支配を行っていたが、寛文五年(1665)、林政改革と称し尾張藩は山村氏から山林管理権を取り上げ、この材木役所を設けて藩の直轄管理とした。藩は留山(保護林)を設定し、停止木、留木(禁木)制度を実施したという。  
寝覚の床(ねざめのとこ)  
上松宿の近くに有って、木曽川の激流が長年月をかけて侵食し造られた奇勝。古くから中山道木曽路随一の景勝地として知られ、立場茶屋やそば屋などの店が有り、旅人の旅の疲れを癒していた。
須原宿(すはらしゅく) 上松宿より三里八町(約12q)  
中山道第三十九宿。町並み四町三十五間、本陣一、脇本陣一、旅籠二十四軒、戸数百余、人口七百四十余人。当初、宿は現在の場所より下流の川岸にあったが、正徳五年(1715)六月の洪水でそのほとんどが流失し、享保二年(1717)、現在地に移転。移転に際し、町作りが計画的に設計され、道幅を五間と広く取り、町の真ん中に用水路を通し、町裏には犬道という抜け道を設け、宿の両入口を鍵形に曲げ、宿内中央で「く」の字形に折り鉄砲に備えた。また宿内往還に豊富な湧水を引いて七ケ所に水場を設け、同時に水通しという排水溝を造るなど、模範的な宿場作りがなされている。
野尻宿(のじりしゅく) 須原宿より一里三十町(約7q)  
中山道第四十宿。町並み六町、本陣一、脇本陣一、旅籠十九軒、戸数百余、人口九百八十余人。町は北から上町、中町(本町)、横町とあって、宿場内は七曲りといわれるように大きく曲がっている所が多い。横町のはずれには「お大石様」と呼ばれる岩上の祠があり、伝説をつたえている。その近くには野尻家益の館跡にその子孫野尻太郎左衛門が創建したとされる龍泉庵が有り、地蔵菩薩が安置されている。  
『前田慶次道中日記』「卅日中津川よりまご目(馬籠)ヘ二里まご目(馬籠)より妻子(妻籠)に三里妻子(妻籠)より野尻に三里以上八里木曾の山道、河水も落合の宿、妻子(妻籠)の里に休らへば、狐狸の返化かとうたがふばかりけわひたる女あり、山家のめづらかなりし見物也、里はづれのそば道をべに坂といへば、けはひたる妻戸(妻籠)の妻のかほの上にぬりかさぬらしべに坂の山、駒がへり、らてんなど云難山をこし、野尻にてさむさには下はらおこす野尻哉」と記し、慶次郎は、中津川宿から落合宿、妻籠宿を経てここ野尻宿に至った。  
木曽谷の難所  
野尻宿と三留野宿の間は、中山道で最も危険な道だった。その道中、五橋〜羅天間には長さ七間の投渡橋と五間二尺の欄干付片端板橋、与川渡に六間二尺の欄干付板橋、牧ヶ沢に十二間の片欄干橋と五間の板橋があった。貝原益軒の『木曽路の記』に「信濃路は皆山中なり、就中木曽の山中は深山幽谷にて、山のそばづたひに行くがけ路多し、殊更、野尻とみとのの間、尤もあたうき路なり、此間左は山中なり、その山のかたわらのわづかなる石おほき道を行、右は数十間高きがけにて、屏風を立たる如なる所もおほく、其下は木曽川の深き水也、此間かけはし多し、まへにある名を得し木曽のかけはしよりあやうし、いつれも川の上にかけたる橋にあらず、そは道のたえたる所にかけたる橋なり」と記されている。  
前田慶次郎は「べに坂の山、駒がへり、らてんなど云難山をこし」と記している。
三留野宿(みどのしゅく) 野尻宿より二里十八町(約5.8q)  
中山道第四十一宿。町並み二町十五間、本陣一、脇本陣一、旅籠三十二軒、戸数七十余、人口五百九十余人。ここ三留野の宿は、成立して間もない万治元年(1658)に火事で焼失し、その後も延宝六年(1678)、天和元年(1681)、宝永元年(1704)といずれも町の中心部を焼失する大火に見舞われ、宿場は衰頽し、他の宿が発足当初よりその規模を倍にする中、三留野は規模を縮小させた。宿駅廃止後の明治にも大火が有り、本陣などの建物の遺構は失われている。
妻籠宿(つまごしゅく) 三留野宿より一里十八町(約5.8q)  
中山道第四十二宿。町並み二町三十間、本陣一、脇本陣一、旅籠三十一軒、戸数八十余、人口四百十余人。本陣を勤めた島崎家は馬籠の島崎家と縁戚関係に有り、明治の文豪島崎藤村の兄が養子に入っている。さらに藤村の母の生家で、藤村の名作『夜明け前』の青山寿平次の家でもある。「木曽路はすべて山の中」で始まるこの作品には馬籠や中津川など木曽路の宿場町が数多く描かれている。  
現在、脇本陣の林家とともに復元され、公開されている。宿の先は、飯田街道の追分となっていて、元善光寺へ通じている。  
宿の手前には木曽義昌が天正十二年(1584)に小牧・長久手の戦で徳川方の攻撃に備えて築いた妻籠城址が有る。慶長五年(1600)、関ヶ原の戦で中山道を上っていた徳川秀忠は、戦が終った時には、まだこの妻籠城に止宿していた。  
前田慶次郎はこの宿で、「狐狸の返化かとうたがふばかりけわひたる女あり」と記した化粧の濃い女に会い、「山家のめづらかなりし見物也」とその情景を楽しんでいる。  
馬籠峠(まごめとうげ)  
古くは妻籠峠と呼んでいた峠で、三留野から妻籠にかけての狭い谷間を見通すことができた。峠には茶屋など数軒の集落が有り、旅人に糯米に栗を入れた強飯(栗おこわ)を売っていた。頂上の馬籠峠と書かれた碑には「白雲や青葉若葉の三十里」と子規の句が刻まれている。
馬籠宿(まごめしゅく) 妻籠宿より二里(約8q)  
中山道第四十三宿。町並み三町三十三間、本陣一、脇本陣一、旅籠十八軒、戸数六十余、人口七百十余人。天正十二年(1584)、小牧・長久手の戦で徳川方の菅沼・保科・諏訪の軍が陣を置いた所とされる陣場下の坂道に設けられた宿駅。一段一段石垣を築いて家屋を建てた町で、坂と石畳の宿場。かってこの地で馬籠城を守った島崎監物の後裔島崎家が問屋を兼ねて本陣を勤めていた。ここは島崎藤村の生誕地で、宿場は明治二十三年の大火で焼失し宿場の遺構は石畳と枡形だけとなっているが、近年、宿場の町並みが再建され、本陣跡には、焼け残った土蔵と復元された建物が藤村記念館として一般に公開されている。  
馬籠城址は宿場の南、荒町集落の小高い丘の上にあり、永禄元年(1558)、木曽義昌が築城し島崎監物が守っていたが、徳川方に攻められ妻籠城に撤退したと伝えられるが、城の遺構は残されていない。  
美濃・信濃国境(みのしなのくにざかい)  
新茶屋と呼ばれる集落が国境で、立場茶屋が有り名物のわらび餅を売っていた。集落の西端に藤村筆の「是より北、木曽路」の碑が有り、近くには芭蕉の「送られつ送りつ果は木曽の穐」という句碑も建っている。さらに行くと十曲峠にさしかかり、曲がりくねった道が大雨で崩れないように石を敷き詰めた石畳となっていた。「落合の石畳」と呼ばれた道筋で、近年、保存会が出来て石畳道の復元がなされた。
落合宿(おちあいしゅく) 馬籠宿より一里五町(約4.5q)  
中山道第四十四宿。町並み三町三十五間、本陣一、脇本陣入一、旅籠十四軒、戸数七十余、人口三百七十余人。町は横町、上町、中町、下町からなり、桝形になっている横町と上町の境に常夜燈が有って、現在もその姿を残している。中町の本陣は井口家が庄屋・問屋を兼ねて勤めていた。文化十二年(1815)に大火でそれまでの建物は焼失するが、その時建てられた建物が現在に伝えられ、建坪百三十二坪、加賀前田侯より火事見舞いで送られたという表門の門構え、玄関付き、上段の間、次の間、萩の間、鶴の間、牡丹の間と有り、さらに火急の時に備えて姿見の障子をはずして逃げ出せる欄間、忍び武士の天井、抜け穴などが仕掛けられ、本陣としての防備が施されたもので、中山道に残る八つの本陣のなかでも往時の姿を留めた建造物となっている。井口家の現住住居だが市指定史跡として保存されている。  
文政版道中志には「名物に火縄あり。昔落合五郎兼能といふ者居住なり。駅の西方に杉の大樹多くある林あり。その中に落合五郎が霊をまつる祠あり。此の宿賎し。」と書かれているという。
 
中津川宿(なかつがわしゅく) 落合宿より一里(約4q)  
中山道第四十五宿。町並み十町七間、本陣一、脇本陣一、旅籠二十九軒、戸数二百二十余、人口九百二十余人。町は淀川町、新町、本町、横町、下町とあり、宿の東外れからは飛騨街道が分岐し、横町から恵那山道が分れている追分の宿場として、穀物、塩、酒、呉服、木綿、紙類などを扱う商家が多く、三・八の日に市が立ち賑わっていた。日本画家の前田青邨画伯はここ新町の乾物屋で生まれた。  
『前田慶次道中日記』「廿九おくて(大湫)より中津川ヘ六里こゝも名におふ大井の宿、駒ば(駒場)のはし(橋)をわたり、中津川に付は椎のは(葉)おりし(敷)きていひ(飯)かしきなどす、みつ野ゝ里に妹をゝきて、とよ(詠)みしは妹なり、東路の名こそはか(変)われ、芋の葉汁よし、是より信野也」と記され、この日の行程は大湫宿からこの中津川宿までとなっている。
大井宿(おおいしゅく) 中津川宿より二里十八町(約9.8q)  
中山道第四十六宿。町並み六町三十間、本陣一、脇本陣一、旅籠四十一軒、戸数百十余、人口四百六十余人。宿は阿木川岸に有り、東から横町、本町、竪町、茶屋町、橋場と続く。それぞれの町が、街道を直角に曲げる枡形によって区切られ、それが六ヶ所も有り、整然とした町割となっている。  
槙ヶ根追分(まきがねおいわけ)  
尾張、伊勢に向う下街道との分岐点。尾張商人や伊勢参りで上る人、善光寺詣でで下る人たちが多く利用していた。
大湫宿(おおくてしゅく) 大井宿より三里半(約14q)  
中山道第四十七宿。大久手とも書く。町並み三町六間、本陣一、脇本陣一、旅籠三十軒、戸数六十余、人口三百三十余人。本陣の建物は無いが、脇本陣保々家の主屋、表門などが旧状を留めている。宿は小規模だが、明かり取りの虫かご窓やこま寄せなどが残され、当時の宿場の風情を醸し出している。  
『前田慶次道中日記』「廿八大田より神の大寺まで五里大寺よりをくて(大湫)へ三里以上八里都にありし、名も床く、ふしみ(伏見)の里をとほり神の大寺にまいりつゝ、をくて(大湫)の町に宿り定む、冬までもをく手はからぬ稲葉哉」と記し、太田宿を立って伏見宿、御嵩宿を経てこの大湫宿までを一日の行程としている。「神の大寺」は可児大寺で、御嵩宿に有る願興寺のこと。  
琵琶峠(びわとうげ)  
峠の登り口には馬頭観音や石碑が並び、狭い石畳の坂道となる。頂上近くはさらに道が細くなり、両側から大きな山石がせまっている。頂上からは伊吹山や鈴鹿山脈が一望でき、江戸に下る皇女和宮もここから京を振り返り歌を詠んだ。その「住み慣れし都路出でてけふいくひいそぐともつらき東路へのたび」の歌碑が建ち、その心情が偲ばれる。
細久手宿(ほそくてしゅく) 大湫宿より一里半(約6q)  
中山道第四十八宿。町並み三町四十五間、本陣一、脇本陣一、旅籠二十四軒、戸数六十余、人口二百五十余人。当初、大湫宿から御嵩宿の間には宿駅が無く、山道も多く長丁場なことから、両宿の名主が、街道整備を行っていた大久保長安に宿の設置を嘆願。慶長十一年(1606)、長安の命を受けた国枝与左衛門が自力で仮宿を置いたが、放火され全焼する。長安は慶長十五年(1610)に与左衛門に米百俵を与えて宿の再建を命じ、正式な宿駅となった。ここ細久手宿は、創宿以来幾たびかの大火をくぐりぬけ、古びた家並、赤壁の土蔵などが続いた時代を感じさせる風情の有る宿場となっている。  
物見峠謡坂・西洞坂(ものみとうげうとうざか・さいとざか)  
藤木峠藤木坂、諸木坂と山坂が続く区間で、物見峠は和宮降嫁の時、御休憩所が建てられた場所。東に木曽御岳・赤石山脈(中央アルプス)を望み、西には伊吹山か一望でき、中山道の道筋を遠くまでたどることのできる地点。謡坂を下ると谷合の道となり、しばらく行くと急坂となり牛の鼻かけ坂とも呼ばれた西洞坂が有る。牛馬も鼻をこすりつけるほどの急坂であったことから、通行には難儀をしたという。ここを過ぎ平坦な道にでると、そこに和泉式部廟所が有る。和泉式部はこの地で歿したという言い伝えで設けられたものという。
御嵩宿(みたけしゅく) 細久手宿より三里(約12q)  
中山道第四十九宿。町並み四町五十六間、本陣一、脇本陣一、旅籠二十八軒、戸数六十余、人口六百余人。宿は東から上町、仲町、下町と続き、宿外れに可児大寺あるいは可児大師と呼ばれる天台宗の寺院願興寺がある。御嵩宿はこの願興寺の門前町として発展した町で、そこが宿場となった。  
願興寺の先に、「鬼の首塚」と呼ばれる塚がある。この鬼というのは鬼岩の岩窟に住んでいた「関の太郎」という鬼で、可児薬師の市に現れ美女をさらったり、数々の悪業を行ったことから市が寂れたという。そこで案じた村人が、市の日に村民は手のひらに判を押して集まることにし、それを知らずに美少年に化けて現れた鬼を発見し切り殺したとされる。その首を都へ運ぶ途中、急に首が転がり、首が「ここが首の留まる所」と言ったので、そこに埋葬したと言い伝えられた。文政版道中志には「関の太郎の首塚あり。むかし関の太郎といふ盗賊あり。それを刑したる首塚なり」と記されている。
伏見宿(ふしみしゅく) 御嵩宿より一里八町(約4.8q)  
中山道第五十宿。町並み五町十六間、本陣一、脇本陣一、旅籠二十九軒、戸数八十余、人口四百八十余人。中山道と兼山道との分岐点で、初め御嵩宿へ助人馬を出す助宿的な存在だったが、元禄七年(1694)、街道の整備に伴い木曽川岸の土田(どた)宿に代わって正式に宿駅となった。とはいへ近くの商業地兼山から新村湊を経て木曽川を使う舟の交通が発達していたため、名ばかりの宿場だったらしく、町は発展せず天明三年(1783)には十三戸もの家が廃家するなど衰頽していた。嘉永元年(1848)には本陣はじめ二十六戸が焼失して本陣は再建されず脇本陣だけが再建され、遊女屋を設けるなど宿の維持に苦労していた。  
太田の渡し(おおたのわたし)  
木曽川の渡船場。「木曽のかけはし、太田の渡し、碓氷峠が無くばよい」と詠われた中山道三大難所の一つに数えられていた。木曽川の川湊新村湊から土手上の松並木の道(現在松は無い)を下ると船着場となる。この道筋は寂しく追い剥ぎも出たといわれている。元は太田宿の対岸にあたる土田宿が渡し場となっていたが、川幅も広く流れも急な木曽川はしばしば氾濫し、渡し場も土田宿から徐々に上流へ移動していったという。また、中山道の宿駅から外された土田宿は尾張藩が使った名古屋街道の宿駅として存続し、本陣もそのまま置かれていた。
太田宿(おおたしゅく) 伏見宿より二里(約8q)  
中山道第五十一宿。木曽川の左岸に設けられた尾張藩領の宿駅で、町並み六町十四間、本陣一、脇本陣一、旅籠二十軒、戸数百十余、人口五百余人。宿は東から上町、中町、下町とつづき、上町に一ケ所、中町に二ケ所問屋場が有った。尾張藩はこの太田宿に、木曽川を上下する川船を監視するため錦織奉行支配下の川並番所を設け、船荷の改め、抜荷の取締り、狩下げ筏を管理していた。また西のはずれには尾張藩太田代官所が天明二年(1782)に設置され、恵那から鵜沼まで統括した行政の中心地となり、宿場は東西に延び、旅籠屋・駕篭屋・遊女屋・商家が立ち並び繁栄した。中町には庄屋・問屋を兼ねた脇本陣林家の明和六年(1769)に建てられた建物が現存し、国の重要文化財に指定されている。  
『前田慶次道中日記』「廿七赤坂より河手(河渡)に五里、河手(河渡)より売間(鵜沼)ヘ四里売間(鵜沼)より大田渡に二里以上十一里河手(河渡)、みろく縄手、さけをうるま(鵜沼)の町過て大田のわたりなり」と有り、中山道を下って赤坂宿から河渡宿、鵜沼宿を経てここ太田宿に達した事が記されている。  
岩屋観音(いわやかんのん)  
岩屋観音は岩山の洞窟に祀られた観音石像で、勧請は推古天皇の時代とされている。当初、この辺りは通行が困難な地だったが、享保十五年(1730)に大工事を行い通行を容易にした。参道には太田宿、鵜沼宿の有力者や京・江戸・越後・信州などの商人の寄進者の名が刻まれた石柱が立ち並び、広い地域から信仰されていたことが知れる。ここから長坂・乙坂を登るとうとう峠で、木曽川・犬山城・美濃平野が一望できる。
鵜沼宿(うぬましゅく) 太田宿より二里(約8q)  
中山道第五十二宿。町並み七町三十八間、本陣一、脇本陣一、旅籠二十五軒、戸数六十余、人口二百四十余人。宿内を南流する大安寺川で東町と西町に分れ、西町には本陣・問屋場・脇本陣が並んで建ち、その前の往還を水抜きが東西に流れていた。脇本陣の野口家は、大谷刑部少輔吉継の三男大谷九右衛門吉短を祖とする。関ヶ原で敗れた吉短は、野口村に潜み、やがて鵜沼村に移り名を野口甚兵衛と名乗って百姓となり、問屋・庄屋を務めるようになったという。
加納宿(かのうしゅく) 鵜沼宿より四里十町(約17q)  
中山道第五十三宿。町並み二十一町三十間、本陣一、脇本陣一、旅籠三十五軒、戸数八百余、人口二千七百二十余人。加納城の城下町として発展した加納は、宿場町と城下町が渾然一体となった町で、宿の入口には番所が設けられていた。加納城は関ヶ原で勝利した徳川家康が、美濃国を東国への備えとして重要視し、関ヶ原後築いた最初の本格的な城で、慶長十年(1605)に完成し、亀姫の聟奥平信昌を十万石で入城させ、加納城初代城主とした。  
河渡の渡し(ごうどのわたし)  
長良川の渡船場。長良川は常水の時の川幅は五十間ほどであったが、洪水時には百五十間にもなったという。御入用金で修理される渡船二艘が常備され、武士は無料、商人は荷一駄に付き人馬とも十八文、一般の旅人六文とされていた。
河渡宿(ごうどしゅく) 加納宿より一里十八町(約5.8q)  
中山道第五十四宿。町並み三町、本陣一、旅籠二十四軒、戸数六十余、人口二百七十余人。渡船場に設けられた宿で、長良川の洪水の度に水害に悩まされていたことから、文化十年(1813)、美濃代官が幕府の貸付金二千両をもって宿場全体を五尺高く土盛りし、宿全体を大改修した。
美江寺宿(みえじしゅく) 河渡宿より一里八町(約4.8q)  
中山道第五十五宿。町並み五町十九間、本陣一、旅籠十四軒、戸数百三十余、人口五百八十余人。本陣は加納藩主が建て、問屋山本金兵衛が管理し脇本陣は置かれない小宿で、長良川の氾濫の度に泥水に漬かり、宿としての条件は最悪だった。幕末頃には雲助、博徒、無頼漢が横行し、中山道で最もがらの悪い宿場として旅人からは敬遠された。しかし、これらの徒によって浪費される金によって飯盛女、酒場が繁盛し、宿場は栄えていたという。  
本陣裏に美江寺城址が有り、城は美濃国守護土岐氏の部将和田八郎が居館を構えたことに始まる。以来和田氏の居城となっていたが、斉藤道三が美濃の実験を握った時、和田氏は土岐氏に従ったため、道三に攻められ美江寺城は落城、焼失した。  
呂久の渡し(ろくのわたし)  
揖斐川の渡船場。川幅は平水で五十間、中水で七十間、大水で百間に及び、薮川が揖斐川に注ぐため急流となり水深も深く、難所の一つと云われる。中山道が整備される以前より交通の要所であったことから、この渡しは設けられていた。
赤坂宿(あかさかしゅく) 美江寺宿より二里八町(約8.8q)  
中山道第五十六宿。町並み七町十八間、本陣一、脇本陣一、旅籠十七軒、戸数二百九十余、人口千百二十余人。かつては杭瀬川が宿の脇を流れ、数百艘の川舟が出入りする赤坂湊として賑わった。また、赤坂宿近くの岡山は、徳川家康が関ヶ原の戦で最初に陣を置いた場所で、戦勝を記念して勝山と名付けた小さな小山があり、将軍専用の宿泊所「お茶屋敷」が設けられていた。  
『前田慶次道中日記』「関ヶ原より赤坂ヘ三里(略)ほのほのと赤坂とこそやらに、日暮れて来る」と記され、大津から船で琵琶湖を渡り前原湊から北国街道を上って関ヶ原に至った慶次郎が、さらに足を延ばしてこの赤坂宿で宿をとった事が知れる。  
青墓(あおはか)  
元東山道の宿駅で、平安末期から鎌倉期には多くの遊女や傀儡師のいた宿として知られる。青墓の長者大炊家の関係では、源義朝と延寿、夜叉御前、さらに美濃源氏との関係も深く、照手姫水汲みの井戸の話なども伝わり、長者の管轄下に多くの遊女がいたとされ、その中には芸能や文学に秀でた者が多かったと云われている。この青墓は戦国期まで宿として存続していたと推測されている。  
熊坂長範物見の松(くまさかちょうはんものみのまつ)  
大盗賊の熊坂長範が、「熊坂長範隠しうまや」と呼ばれる古墳に馬を隠し、古墳(綾戸古墳)の松の木から東山道を通る旅人を物見させ、旅人から金品を奪うなどこの地方を荒らしまわっていたという。その古墳の北側には願証寺と国分尼寺跡が有り、近くの美濃国府跡とともにこの地方の古代の政治中心地だった。
垂井宿(たるいしゅく) 赤坂宿より一里十二町(約5.2q)  
中山道第五十七宿。町並み七町、本陣一、脇本陣一、旅籠二十七軒、問屋三軒、戸数三百十余、人口千百七十余人。垂井宿は美濃路の起点となる追分の宿場町として賑わった。美濃路は中山道と東海道を結ぶ脇街道で、利用者も多く、ここから大垣、墨俣、起、萩原、稲葉、清須、名古屋を経て東海道の宮宿に達する重要な役割を担った。この辺りの中山道は松並木だったが、戦後まもなく切り倒され、現在、脇街道の美濃路に松並木が残り往時を偲ぶ姿を留めている。また、この地は美濃紙の発祥地で、宿には紙屋塚が有り紙屋の守護神「紙屋明神」が祀られている。さらに南宮神社(美濃一宮南宮大社)への道「御幸道」が通じ、その入口には大鳥居が建っている。  
垂井宿より北へ5キロほどの所に竹中半兵衛重治の子重門が、関ヶ原の戦の功績で旗本となり、五千石を領して構えた陣屋がある。  
藤古川古戦場・桃配山(ふじこがわこせんじょう・ももくばりやま)  
王権継承を巡り対立(壬申の乱672年)した大友王子と大海人王子の両軍が、関ヶ原の藤川(藤古川)を挟んで対峙し戦った合戦場跡。この西に小山が有り、ここに陣を取った大海人王子が兵士に桃を配り士気を鼓舞したことから桃配山と呼ばれる。それから約千年の後、関ヶ原に万全の陣を布く石田三成ら西軍に対し、徳川家康は関ヶ原での最初の陣をここ桃配山に置き、桃を配って勝利したという大海人王子の故事に倣って家康も桃を配ったという。  
また、平安時代にはこの付近に長者館が有って遊女(野上の遊女)が多くいたことでも知られている。吉田の少将が長者の家に泊まり遊女花子と結ばれるが、別離の後、花子は少将への恋慕の情がつのり、とうとう狂女になってしまったという話も伝わり、そんな花子の守り本尊を祀った観音堂が近くの真念寺境内にある。
関ヶ原宿(せきがはらしゅく) 垂井宿より一里十四町(約5.4q)  
中山道第五十八宿。町並み十二町四十九間、本陣一、脇本陣一、旅籠三十三軒、問屋六軒、戸数二百六十余、人口千三百八十余人。ここ関ヶ原宿は北国街道、伊勢街道の分岐点で、三街道が交差するため人馬の通行も多く、旅籠には飯盛女も置かれ大変な賑わいを見せていた。  
「関ヶ原は、むかし不破ノ関のあった地で、美濃の不破郡にある平原。近江の伊吹山脈と美濃の養老山脈との相つらなる処。中仙道と北国街道との交差点になっている四通八達の要路である」と記される様に交通の要地であった事から、慶長五年(1600)、石田三成ら西軍はここに陣を布き、東から来る家康軍を迎え撃つ事となった。  
『前田慶次道中日記』「菩堤山のふもと関ヶ原まで付、予がめしつかふ高麗人、いたくわづらひて馬にても下るましきなれば、菩堤の城主に文そへて預をく、楚慶寉人とて子ふたりあり、これは奥につれて下る、親子の別かなしむ、楽天が慈烏失其の母を唖々吐哀音をといへり、此ひとこま(高麗)人なれば、不如禽の悲に、是さへ涙の中だちとなりぬ」と有り、慶次郎の召し使う高麗人が体調を崩し、道中を共にする事が出来なくなり関ヶ原菩提の城主に預ける事となるが、その高麗人には子供二人がいて、奥州に下る子供との別れを悲しむ親子を慶次郎は優しく見守っている様が伺える。  
不破関跡(ふわせきあと)  
壬申の乱後、天智大王(大友王子)が東国からの防衛地点としてこの地を重視、東山道に設けた関跡。東海道の鈴鹿関、北陸道の愛発関とともに古代三関の一つ。  
今須峠(いますとうげ)  
美濃国の西端にある峠。一条兼良の『藤川の記』に「伊増たうげといふはみののさかひにて堅城とみえたり」と記され、古来より嶮要の地とされ、馬も滑るほどの急坂だったが、峠の頂上には茶屋が有り、旅人で賑わった。この峠の手前藤下村の集落の西外れに義経の母常盤御前の墓が有る。義経を追って東国へ下る途中、土賊に教われ殺害された。これを哀れんだ源氏所縁の青墓の長者がこの地に墓を建てたという。この墓の傍に「義朝の心に似たり秋の風」と詠んだ芭蕉の句碑が有る。
今須宿(いますしゅく) 関ヶ原宿より一里(約4q)  
中山道第五十九宿。町並み十町五十五間、本陣一、脇本陣二、旅籠十三軒、問屋七軒、戸数四百六十余、人口千七百八十余人。美濃国最期の宿場で、濃州三湊と米原湊を結ぶ九里半街道の荷継ぎ宿として北国街道の荷継ぎ宿関ヶ原宿と荷継ぎを巡り度々争った。
柏原宿(かしわばらしゅく) 今須宿より一里(約4q)  
中山道第六十宿。町並み十三町、本陣一、脇本陣一、旅籠二十二軒、問屋五軒、戸数三百四十余、人口千四百六十余人。東山道の宿駅として古くから存在し、町は東町、宿村町、市場町、今川町、西町と続き近江国内で一番長い町並みを形成していた。ここ柏原は伊吹艾(もぐさ)の名産地として知られ、『木曽路名所図会』にも「此駅は伊吹の麓にして名産伊吹艾の店多し」と記されている。宿の近くには倒幕を企てたとして鎌倉幕府により逮捕され鎌倉へ送られる途上、幕命によりこの柏原の地で殺された公卿北畠具行の墓が有る。
醒井宿(さめがいしゅく) 柏原宿より一里十八町(約5.8q)  
中山道第六十一宿。町並み八町二間、本陣一、脇本陣一、旅籠十一軒、問屋七軒、戸数百三十余、人口五百三十余人。醒井の地名の起こりは、居醒の清水に由来するといわれ、清水にまつわるさまざまな伝説が有る。宿の手前加茂神社の石垣から沸き出していて、日本武尊の腰掛石、鞍掛石などが並び、往来する旅人が杖を置いて休息したという。この外、十王水、西行水と呼ばれる泉が周辺に沸き出し、醒井の名勝として知られる三水四石を生んだ。文政期の道中案内には「この宿駅に三水四石の名所あり。すなはち、日本武尊居寝の清水、十玉の水、西行の水これ三水。日本武尊腰掛石、くらかけ石、蟹石、明神影向石これ四石」と書かれ、宿場の中にきれいな水が流れる「水の宿」として知られた。
番場宿(ばんばしゅく) 醒井宿より一里(約4q)  
中山道第六十二宿。町並み一町十間、本陣一、脇本陣一、旅籠十軒、問屋六軒、戸数百七十余、人口八百余人。慶長八年(1603)、北村源十郎が米原港を築き、中山道と港を結ぶ米原道との合流点に旧東山道の宿を移転して作られた宿駅。  
「…ところは江州阪田の郡、醒ヶ井から南へ一里、磨鉢峠の山の宿場で、番場という処がござんす」という長谷川伸の名作『瞼の母』の中で、番場の忠太郎が、めぐり合えた母に向って云う台詞。ここ番場宿はその「番場の忠太郎」所縁の宿でもあり、宿場にある蓮華寺に、「忠太郎地蔵」が祀られ「南無帰命頂礼親をたづぬる子に親を子をたづぬる親には子をめぐりあわせ給え」という長谷川伸の言葉が刻まれている。またこの蓮華寺は一向上人の開基で、六波羅探題北条仲時が、北朝の光厳天皇と後伏見・花園両上皇、十六皇族を奉じて南朝軍と戦い、仲時以下四百三十余人が、この寺の本堂前庭で自刃している。
鳥居本宿(とりいもとしゅく) 番場宿より一里一町(約4q)  
中山道第六十三宿。町並み十町、本陣一、脇本陣一、旅籠三十五軒、戸数二百九十余、人口千四百四十余人。彦根藩主井伊直孝が中山道から彦根城に通ずる道(彦根道)を建設し、その合流点に東山道の宿だった、元東海道、中山道当初の宿場小野宿を移転し鳥居本宿とした。この地の名産は雨合羽で、最盛期には十八軒もの店が軒を連ねていたという。  
小野(おの)  
古代からの宿駅だったが、中山道の整備に伴い宿駅機能は鳥居本宿へ移された。この小野の集落の近くには小野小町の出生地を伝える小野塚が有る。
高宮宿(たかみやしゅく) 鳥居本宿より一里十八町(約5.8q)  
中山道第六十四宿。町並み七町十六間、本陣一、脇本陣二、旅籠二十三軒、戸数八百三十余、人口三千五百六十余人。高宮宿は多賀大社の門前町として栄えた宿駅で、高宮布の産地として知られた。多賀大社は伊邪那岐命・伊邪那美命を祀る官幣大社で、江戸中期には多賀講もでき「伊勢へ七たび、熊野へ三たび、お多賀さんへは月まいり」などと謡われ、「お多賀さん」と親しまれた大社。ここの名物が「お多賀杓子」で、「おたまじゃくし」の語源ともいわれている。
愛知川宿(えちがわしゅく) 高宮宿より二里(約8q)  
中山道第六十五宿。町並み五町三十四間、本陣一、脇本陣一、旅籠二十八軒、戸数百九十余、人口九百二十余人。
武佐宿(むさしゅく) 愛知川宿より二里十八町(約9.8q)  
中山道第六十六宿。町並み八町二十四間、本陣一、脇本陣一、旅籠二十三軒、戸数百八十余、人口五百三十余人。ここ武佐宿は湖東と伊勢を結ぶ八風街道の分岐点となっている。
守山宿(もりやましゅく) 武佐宿より三里半(約14q)  
中山道第六十七宿。町並み十一町五十三間余、本陣二、脇本陣一、旅籠三十軒、問屋三軒、戸数四百十余、人口千七百余人。
草津宿(くさつしゅく) 守山宿より一里半(約6q)  
東海道第五十二宿、中山道第六十八宿。町並み東西四町三十八間、南北七町十五間余、本陣二、脇本陣二、旅籠七十二軒、戸数五百八十余、人口二千三百五十余人。ここ草津は東海道と合流する追分宿で、本陣も二つ有り、多くの旅人で賑わった。
大津宿(おおつしゅく) 草津宿三里二十四町(約14.4q)  
東海道第五十三宿、中山道第六十九宿。町並み東西十六町五十一間、南北三十六町十九間、本陣二、脇本陣一、旅籠七十一軒、戸数三千六百五十余、人口一万四千八百九十余人。中山道最後の宿で東海道の宿駅大津は、商業の町として東海道でも有数の町であったことから、多くの人々でごったがえしていた。琵琶湖舟運の集荷場として、街道筋には米穀類の問屋、幕府および各藩の蔵屋敷が建ち並び、米相場もここで決まったといわれる。  
江戸より京まで百三十二里の長い道中は、余すところあと三里となる。 
 
甲州道

 

下諏訪まで四十五宿三十一次 / 徳川家康が江戸に幕府を開くと、古くからあった交通路の東海道・東山道(中山道・奥州道)を、江戸を起点とした街道に整備した。その時、関東の防備となる要地甲斐国に通じる道の整備を、大久保長安に命じて開通させたのが甲州道であった。  
始めは甲府までの道中だったが、中山道下諏訪宿まで延伸し、家康没後、東照宮が日光へ移されるに及んで、奥州道と併設した日光道が開通し、幕府直轄の五街道の制度が整い、甲州道中も整備された。しかし、この甲州道中は、新たに作られた宿駅が多く、伝馬業務を相宿・合宿で行なう宿が多かったため、次数よりも宿場の数が多い変則的な街道で、宿駅の数え方も三十一次、三十三次など、さまざまとなっている。
内藤新宿(ないとうしんしゅく) 日本橋より二里  
甲州道中第一次(つぎ)。町並み九町十間余、本陣一(寛政期には三軒となっている)、旅籠二十五軒(後には五十二軒に増加)、戸数六百九十余、人口二千三百七十余人。  
始めこの甲州道中第一番目の宿は高井戸宿だったが、日本橋からの距離四里余と長かったことから、継立ての人馬が苦労した。そこで、浅草阿部川町の名主高松喜兵衛(後喜六と改名)を筆頭に四名連署の請願を出し、元禄十一年(1698)に認められ、新しく作られた宿駅。幕府がまとめた地誌『新記』には「内藤新宿は昔は萱野芦原なりしが、元禄十一年、内藤氏の旧邸あるを以て、其儘内藤と名附、人馬継立の駅亭とせらる」とあり、高遠藩内藤氏の江戸屋敷跡地を利用して作られた事から内藤新宿という宿場名となり、現在ではただ新宿と呼ばれるようになった。この新宿は、甲州裏路と呼ばれた青梅道(街道)との追分で、品川、板橋、千住とともに江戸四宿の一つとして大いに賑わった。天保年間(1830〜43)に刊行された『飛鳥川』には「四ッ谷大路の田舎馬、引きもきらず。内藤新宿のうかれめ(浮かれ女)に、引手茶屋も物好きを顕はし、四ツ手駕もしげ/\通ひ、頗る賑はひのみやびあれど、元是杓子の名ある駅妓なり」と記され、飯盛女(杓子)が置かれ、一種の色町として繁栄した。しかし、こうした繁栄が風紀の紊乱をもたらし、明和元年(1764)、八代将軍吉宗によって宿駅は廃止された。その後、明和九年(1772)に老中田沼意次が、冥加金百五十両を毎年上納する条件で再開させた。  
高井戸宿(たかいどしゅく) 内藤新宿より下高井戸宿まで二里  
甲州道中第二次。元甲州道中第一番目の宿駅として設けられたが、内藤新宿が作られ、道中二駅目の宿場となった。下高井戸宿と上高井戸宿の二宿の合宿で、宿間は十二町四十間となっている。下高井戸宿の町並み右側(杉並区側)十八町、左側(世田谷区側)十三町四十間、本陣一、旅籠三軒、戸数百八十余、人口八百九十余人。上高井戸宿の町並み六町、本陣一、旅籠二軒、戸数百六十余、人口七百八十余人。問屋場はそれぞれ一軒づつあり、上十五日が下高井戸宿、下十五日が上高井戸宿と半月交替で荷を取り扱った。  
布田宿(ふだしゅく) 上高井戸宿より国領宿まで一里十九町  
甲州道中第三次。初め上石原宿、下石原宿の二宿の合宿で「石原宿」と称したが、やがて人家が増え、国領宿、上布田宿、下布田宿が形成され、『新記」に「上布田、下布田、上石原、下石原、国領の五宿、総称して布田宿とす」と有るように、後には五宿を総称して布田宿と呼ばれた。国領宿の町並み七町半余、旅籠一、戸数六十余、人口三百余人。国領宿より三町で下布田宿に至り、町並み三町三十七間、旅籠三、戸数九十余、人口四百二十余人。下布田宿より上布田宿まで二町、町並み五町五十八間、旅籠一軒、戸数六十余、人口三百十余。上布田宿より下石原宿まで八町、町並み六町四十間、戸数九十余、人口四百四十余人。下石原宿より上石原宿まで七町、町並み五町五十一間、旅籠四軒、戸数七十余、人口四百十余人と『宿村大概帳』に有り、本陣・脇本陣は置かれていなかった。問屋の継立ては国領宿の一日から六日より始まり、順番に六日づつ交替で務めた。  
この石原宿は、江戸期に甲州街道が整備される以前より、江戸と小田原を結ぶ鎌倉街道(古東海道)の中継地として知られ、太田道灌が主君扇谷上杉定正の居館のあった相模国糟屋(現伊勢原市)に通った道でもある。道灌の弟資忠の妻はこの地の豪族石原出雲の女という。国領からは元三大師として知られる深大寺への道が通じ、参詣客で賑わった。また、布田は古くは補陀とも書かれ、布多天神が祀られている事でも知られている。この布田宿町が調布という市の名前になったのは、万葉集に「玉川に曝す調布(てづくり)さらさらに何ぞこの児のここだ愛しき」とあるように、古来からこの地方では織布が盛んで、布を租税として納めていた事から付けられた名前で、近代になって生まれた地名。  
府中宿(ふちゅうしゅく) 上石原宿より一里十町  
甲州道中第四次。武蔵国府のあった地で、始め東山道に属し上野国府からここへ官道の支路(川越道)が延びていた。しかし、これでは交通が頗る不便だったため、宝亀二年(771)、東海道に組み入れられ、官道も相模国府(現海老名市)から座間・町田を経てここに通じる形になった(古東海道)。江戸口から新宿・本町・番場宿と並び、三宿からなっている。町並み東西十二町六間、本陣一、脇本陣二、旅籠二十九軒、問屋場三軒、戸数四百三十余、人口二千七百八十余人。  
中心は本町宿で、甲州道中ができる前から、川越道、相模道(鎌倉道・古東海道)に沿った宿として古くから形成されていた。新宿は五十嵐采女が中心となって宿立てをした事から、采女宿と呼ばれ、番場宿も同様に矢島茂右衛門らが宿立てを行なったことから茂右衛門宿と呼ばれた。府中宿で公認の飯盛旅籠ができたのは安永六年(1777)とされ、最初二軒だけだったが、後には八軒に増えている。  
日野の渡し(ひののわたし)  
多摩川の渡船場。甲州道の開設当初は下流の四ッ谷村から対岸の満願寺村に渡っていたことから「満願寺の渡し」と呼ばれていた。その後、上流(現在の日野橋より二百m上流)に移動し、「日野の渡し」と名が変わる。渡しの管理運営は日野宿が行ない、その利益が宿にもたらされたという。  
日野宿(ひのしゅく) 府中宿より二里  
甲州道中第五次。江戸口から下宿・中宿・上宿と続き、町並みは東西九町余、本陣一、脇本陣一、旅籠二十軒、戸数四百二十余、人口千五百五十余人。中宿から高幡不動へ通じる高幡道(不動道)と呼ばれた道が別れていた。日野宿に宿泊する旅人は少なかったが、富士参りの富士講の旅人が定宿としていた。これは、日野宿には平旅籠しかなく、飯盛女がいなかったことから講中に好まれたためという。  
横山宿(よこやましゅく) 日野宿より一里二十七町四十八間  
甲州道中第六次。八王子の宿場で総称を横山宿といい、八王子十五宿といった。八王子宿の本宿は横山宿と八日市宿で、伝馬業務を助ける加宿十三宿があった。東から街道沿いに横山宿、八日市宿、八幡宿、八木宿、追分を経て久保宿、嶋の坊宿と続き、その北側に新町、本宿、横町、本郷宿、南側に馬乗宿、子安宿、寺町、上野原宿、小門宿の十五宿からなり、町並み東西三十五町四間、本陣二、脇本陣二、旅籠三十四軒、問屋場二、戸数千五百四十余、人口六千二十余人とされる大きな宿場町。八王子宿の追分は、案下道(陣場街道)との追分となっている。  
駒木野宿(こまきのしゅく) 横山宿より一里二十七町  
甲州道中第七次。町並み東西十町、本陣一、脇本陣一、旅籠十二軒、問屋場三軒、戸数七十余、人口三百五十余人。町並みは下宿・中宿・上宿と続き、中宿が中心となっていて、ここに小仏関所が置かれていた。継ぎ立ては小仏宿との相宿。  
小仏関所は、駒木野関所とも呼ばれ、関東四関の一つで、「入り鉄砲、出女」を厳しく取り締っていた。関所の守りは当初、八王子千人同心が警備についていたが、元和九年(1623)専任の関守として四家が定められ、常勤となった。  
小仏宿(こぼとけしゅく) 駒木野宿より二十八町  
甲州道中第七次。町並み二十町四十七間、旅籠十二軒、戸数五十八、人口二百五十余人。駒木野宿との相宿で、本陣・脇本陣は置かれず、伝馬継立ての業務を半月交替で行なっていた。旅籠も農家兼業の木賃宿だけだったという。小仏の名の由来は、奈良時代に僧行基が山に寺(小仏山宝珠寺)を設け、小さな仏を安置したことによるとされている。  
小仏峠(こぼとけとうげ)  
小仏峠の標高は548mで、笹子峠とともに甲州道中の二大難所として知られ、荻生徂徠の『峽中紀行』などに道中の難儀の様子が記されている。峠頂上が武蔵国と相模国の国境で、戦国時代には小田原北条氏が国境の備えとして、この地に警備の隊を常駐させていた。江戸期に入ると、駒木野に関所が設けられる迄、関東警固の要地として八王子千人同心が警備にあたった。  
小原宿(おばらしゅく) 小仏宿より一里二十二町  
甲州道中第八次。町並み二町半、本陣一、脇本陣一、旅籠七軒、戸数六十余、人口二百七十余人。次の与瀬宿との相宿で、甲府方面への継ぎ立てを行なう片継ぎの宿場。本陣家屋が現存し、神奈川県下では唯一の現存建物として相模湖町教育委員会の管理により、一般に公開されている。  
与瀬宿(よせしゅく) 小原宿より十九町  
甲州道中第八次。町並み六町五十間、本陣一、旅籠六軒、戸数百十余、人口五百六十余人。相模国を流れる一番大きな川相模川の渓谷にそった宿で、木材の川流し、舟運で成り立っていた集落で、幕府の番所も置かれていた。宿場としての継ぎ立ては、江戸方面の伝馬だけを扱う片継ぎ宿で、ここを出て小原宿を通過し、小仏宿まで継いだ。「此宿左裏相模川有之。右川筋にて鮎之漁猟有之」と書かれた宿で、鮎料理が評判の宿として知られたが、安藤広重の『広重甲州道中記』で「与瀬の宿入口茶屋に休。あゆのすしをのぞむ。三人手つだいて出来上がり出す。甚だ高値、其の代りまづし」と酷評され、打撃を受けたという。武田家の旧臣坂本家が本陣を務め、次の吉野宿の本陣とともに甲州道中では規模の大きな本陣だったという。  
吉野宿(よしのしゅく) 与瀬宿より三十四町二十八間  
甲州道中第九次。町並み三町二十間、本陣一、脇本陣一、旅籠三軒、戸数百余、人口五百二十余人。この宿も相模川に沿ってある宿場で、江戸と甲府の中間点(共に十八里)に位置し、本陣を中心にあらゆる業種が軒を連ね、旅人に必要な物品を提供する宿場だった。本陣は名主吉野家が務め、与瀬本陣坂本家とともに甲州道中最大規模の本陣であったという。  
関野宿(せきのしゅく) 吉野宿より二十六町  
甲州道中第十次。町並み一町十六間、本陣一、脇本陣一、旅籠三、戸数百三十、人口六百余人。甲州道中で一番小さい町並みで、街道沿いは僅か二十五戸だったという。相模国最後の宿場で、宿場の先にある境川が相模国と甲斐国の境をなしている。
上野原宿(うえのはらしゅく) 関野宿より三十四町  
甲州道中第十一次。宿場は新町と本町に別れ、町並み六町十八間、本陣一、脇本陣二、旅籠二十軒、問屋場二軒、戸数百五十余、人口七百八十余人。伝馬継ぎ立ては上十五日を本町が行ない、下十五日は新町と交互に行なっていた。この宿の手前で、八王子から別れた案下道(陣場街道)が合流する。この案下道は甲州道の裏街道として古くから知られており、花井の集落に口留番所があったという。『津久井日記』には「商人軒を並べ、織もの、畑物、干魚、うつは、何くれとなくひさくにそ、酒売門には鮎の魚ほこら顔にならべ立るも、所の名物なれこそ」と記され、その商業活動が盛んだったことが伺える。  
また、『勝山記』に「天文二十三年極月、晴信様の御息女を相州へ送る。ひきめの役は小山田弥三郎殿、御供の騎馬三千、人数一万、請取渡は上野原にて御座候、相州より御迎にて遠山殿、是も五千許にて候」とあり、戦国期から一万五千人もの人数を引き受けられる集落として発展していた。  
鶴川の渡し(つるかわのわたし)  
「増水時、徒歩(かち)渡し」とされ、甲州道中唯一の徒歩渡しだった。増水時とは夏季四月から九月までで、冬期十月から三月は板橋が架けられていた。橋と渡しの管理は上野原宿と次の鶴川宿が共同で行なっていたが、ここの渡し人足は無頼の徒が多く、法外な渡し賃を請求したり脅し取って旅人と度々問題を起こしていたという。  
鶴川宿(つるかわしゅく) 上野原宿より十八町  
甲州道中第十二次。町並み二町三十間、本陣一、脇本陣二、旅籠八軒、戸数五十余、人口二百九十余人。鶴川の川留めに備えた宿で、渡し人足の横暴で、恣意的に川留される事もあったという。ある時、諏訪因幡守が江戸参勤の折、川留に遇ったが飛脚が来ると飛脚だけを通し、またすぐに川留となり、諏訪家の家中が怒り自力で渡河した。その後、鶴川宿の宿役人は厳しく咎められたという。  
野田尻宿(のだじりしゅく) 鶴川宿より一里三町三十間  
甲州道中第十三次。町並み五町余、本陣一、脇本陣一、旅籠九軒、戸数二百九十余、人口六百余人。当時の旅籠の様子を安藤広重は「小松屋と云へるにとまる。広いばかりにて、きたなき事おびただし、へのような茶をくんで出す旅籠屋は、さてもきたなきのた尻の宿」と『広重甲州道中記』で書いている。さらに続けて「塩あじ半切、汁菜、平氷どうふいも菜、飯」と夕食の献立も載せている。賄い付きの旅籠とはいえ、天保十二年(1841)になっても、山間の宿屋ではこの程度の食事が普通だったらしい。  
犬目宿(いぬめしゅく) 野田尻宿より三十一町  
甲州道中第十四次。町並み五町二十六間、本陣二、旅籠十五軒、戸数五十余、人口二百五十余人。この宿は、甲州道開設時に、現在の集落より南方の斜面にあった犬目村の集落を街道に沿って移転させて出来上がった。  
鳥沢宿(とりさわしゅく) 犬目宿より下鳥沢宿まで一里六町十四間  
甲州道中第十五次。この鳥沢宿は、下鳥沢宿と上鳥沢宿の合宿で、半月交替で継ぎ立てを行なった。宿間は五町三十間、下鳥沢宿は下町、中町、上町の三町からなり、町並み四町三十間余、本陣一、脇本陣二、旅籠十一軒、戸数百四十余、人口六百九十余人となっている。この宿の町並みは、人馬継ぎ立てや駕篭の乗降を考えて、街道筋から奥まって建てられていた事から、道幅が広くなった現代でも、街道に沿って家並みが続き、往古の面影を留めている。上鳥沢宿は下宿、中宿、上宿と続き、町並み七町十七間、本陣一、脇本陣二、旅籠十三軒、戸数百五十余、人口六百五十余人となっている。  
鳥沢という名の由来は、次宿の猿橋宿の申と、前宿の犬目宿の戌の間にある事から、十二支の並びで申戌の間の酉の付く鳥沢という名を付けたという。  
猿橋(さるはし)  
桂川に架かる橋。橋桁を用いず、両岸から四層にせり出したはね木を設け、それを支点に木のけたを架け渡す「肘木けた式橋」という独特の構造を持つ橋で、岩国の錦帯橋、木曽の桟とともに「日本三大奇橋」の一つとなっている。伝説によれば、推古天皇の頃、百済からの渡来人志羅呼(芝耆麿)が猿の群れが川を越える様子を見て発案し、架橋に成功したとされる。また、「算橋」が訛って「猿橋」となったという説も有る。ともあれ、その渓谷の美しい景観に溶け込んだ構造物として高く評価され、国の名勝にも指定されている。  
猿橋宿(さるはししゅく) 上鳥沢宿より二十六町半  
甲州道中第十六次。町並み三町三十四間、本陣一、脇本陣二、旅籠十軒、戸数百三十余、人口五百四十余人。景勝「猿橋」を見物しようと、旅籠や茶屋に宿泊したり休息する旅人で宿は賑わった。  
駒橋宿(こまはししゅく) 猿橋宿より二十二町  
甲州道中第十七次。町並み十町五十四間、旅籠四軒、戸数八十余、人口二百六十余人。本陣も脇本陣も無く、町並みは十一町弱と長いが、家並の間に田畑がある寂しい宿場であったという。現在は国道から外れたおかげで、古い家並を残し、旧観を留めた静かな佇まいを見せている。  
大月宿(おおつきしゅく) 駒橋宿より十六町二十六間  
甲州道中第十八次。町並み四町余、本陣一、脇本陣二、旅籠二軒、戸数九十余、人口三百七十余人。この宿場も家並の間に田畑があり、旅籠も二軒だけという寂しい宿場。大月という名の由来は、宿場手前の三島神社にあった大欅を大槻と呼んだことから、「大月」の名が起こったという。」また、別説には宿内の「不動堂」(無遍寺)から見た月が、扇山と高畑山の低い所から出て、月が大きく見えたことから「大月」という名が起こったともいわれる。宿をでるとすぐに大月の追分がある。ここは、甲州道から東海道へ抜ける「豆州相州道」が別れていた。豆州相州道は谷村を経て桂川沿いに吉田に至り、上吉田で鎌倉道と合流し籠坂峠を越えて東海道の豆州三島宿、相州小田原宿へと通ずる脇往還として利用された。  
花咲宿(はなさきしゅく) 大月宿より下花咲宿まで十三町四十二間  
甲州道中第十九次。下花咲宿と上花咲宿からなる合宿で、継ぎ立ては上花咲宿が上十五日、下花咲宿が下十五日と交替で行なった。下花咲宿の町並みは四町十六間、本陣一、脇本陣二、旅籠二十二軒、戸数七十余、人口三百七十余人とされ、上花咲宿は、下花咲宿より五町五十八間で、町並み四町十一間、本陣一、脇本陣二、旅籠十三軒、戸数七十余、人口三百余人とされる。  
初雁宿(はつかりしゅく) 上花咲宿より下初雁宿まで三十五町三十六間  
甲州道中第二十次。下初雁(初狩)宿と中初雁(初狩)宿の二宿の合宿で、宿間は八町二十四間、継ぎ立てを中初雁宿が上十五日、下初雁宿が下十五日と交替で行なっていた。下初雁宿の町並み七町、本陣二、脇本陣二、旅籠十二軒、戸数百五十余、人口六百十余人。中初雁宿の町並み十町四十四間、本陣一、脇本陣一、旅籠二十五軒、戸数百余、人口四百五十余人。前宿の花咲村、初狩村周辺は甲斐国郡内領と呼ばれ「郡内織」という良質な絹織物の産地として知られた。花咲宿、初狩宿の女性たちはそれらの織物に携わっていた。また、天保七年の大飢饉を切っ掛けに起こった郡内騒動と呼ばれる宿駅を巻き込んだ一揆の舞台ともなった。
白野宿(しらのしゅく) 中初雁宿より一里八町  
甲州道中第二十一次。町並み五町十二間、本陣一、脇本陣一、旅籠四軒、戸数八十余、人口三百十余人。この白野宿は、次宿阿弥陀海道宿、次々宿黒野田宿との相宿で、継ぎ立てを一月のうち二十三日から晦日まで白野宿が行なった。天保の「郡内一揆」勢はこの宿の天神坂に集結したという。  
阿弥陀海道宿(あみだかいどうしゅく) 白野宿より十八町  
甲州道中第二十一次。元禄年間以降、吉窪村落に新たに作られた宿駅。町並み四町、本陣一、脇本陣一、旅籠十四軒、戸数七十余、人口三百三十余人。白野宿、黒野田宿との相宿で、継ぎ立ては十六日から二十二日までを担った。宿場入口近くに阿弥陀堂があって、行基が刻んだ阿弥陀如来像が祀られていたという。そのことからこの辺りを「阿弥陀が谷」と呼んでいたといい、それが訛って「阿弥陀海道」となったと云われている。  
黒野田宿(くろのだしゅく) 阿弥陀海道宿より十二町  
甲州道中第二十一次。町並み四町、本陣一、脇本陣一、旅籠十四軒、戸数七十余、人口三百三十余人。白野宿、阿弥陀海道宿との相宿で、一日から十五日まで人馬継ぎ立て業務を行なっていた。難所とされる笹子峠を控えた宿場で、三宿の中では一番賑わっていたという。賑わったとは云え、旅籠はみすぼらしかったらしく、安藤広重は『甲州道中記』に「扇屋へ行く、断る故若松屋といへるに泊る。此家古く、今きたなし、前の小松屋(野田尻宿)に倍して、むさいこといはん方なし、壁崩れ、ゆか落ち、地虫座敷をはひて、畳あれども、ほこり埋み、蜘蛛の巣まとひし破れあんどん、欠け火鉢一つ、湯呑形の茶碗のみ家に過ぎたり」と記している。  
笹子峠(ささごとうげ)  
甲州道中最大の難所と云われる標高1096mの峠。黒野田宿を出て、沢沿いに広重が『道中記』の中で「笹子峠と云ふ大難所、さみしき山也、殊之外高し深山也」と記した山道を登り、鬱蒼とする杉林の中を行く。しばらくすると中の茶屋(笹子茶屋/三軒茶屋)が有り、全盛期には旅人の憩いの場として栄えたという。そこからさらに登ると「矢立ての杉」と呼ばれる杉の大木が有る。源頼朝が富士の巻狩りで射た矢がこの杉に当たって立ったからという伝承が有り、戦国期には戦場に向う武士がこの杉に矢を射立て、武運を祈願したとも言い伝えられた杉木で、広重も「夫より又のぼりて、矢立の杉、左にあり、樹木生茂り、谷川の音、諸鳥の声、いと面白く、うかうかと越えて、休む」と記し画にも書いている。またさらに登り天満宮が祀られている山頂に達し、ようやく下りになる。下る途中には『五街道中細見記』に「名物あま酒茶屋」と記された甘酒茶屋が有った。また、反対からの登り口の沢沿いにも「桃の木茶屋」と呼ばれた三軒の茶屋があったという。現在はすべて跡地だけとなっている。  
駒飼宿(こまかいしゅく) 黒野田宿より二里五町三十二間  
甲州道中第二十二次。町並み四町余、本陣一、脇本陣一、旅籠六軒、戸数六十余、人口二百七十余人。次宿の鶴瀬宿との相宿で、人馬の継ぎ立てを二十一日から晦日までこの宿で担った。  
鶴瀬宿(つるせしゅく) 駒飼宿より十八町  
甲州道中第二十二次。町並み三町半余、本陣一、脇本陣二、旅籠四軒、戸数五十余、人口二百四十余人。人馬の継ぎ立ては駒飼宿との相宿で、一日から二十日までこの宿が務めた。この宿の入口には甲州一二関の一つとされる鶴瀬番所(口留番所)が設けられていて、「入鉄砲に出女」を取り締まっていたが、『津久井日記」に「はや鶴瀬の関近し、女二人はここよりうら山に入ぬ」と、同行の女が番所を抜けるため裏道を通ったことが公然と記されていて、境川番所(上野原)同様、かなり甘く形式化していたという。  
勝沼宿(かつぬましゅく) 鶴瀬宿より一里三町  
甲州道中第二十三次。宿は東から上町、仲町、本町、下町、富町、堰合と続き、町並みは十二町と長く、本陣一、脇本陣二、旅籠二十三軒、戸数百九十余、人口七百八十余人とされる。この勝沼の地は、武田信虎の弟次郎五郎信友が館を構え勝沼氏を称していた。しかし、二代信元の時、永禄三年(1560)、「逆心の文あらはれて勝沼五郎どの御成敗」(『甲陽軍鑑』)と記され、勝沼氏は本家に攻められ二代で滅びている。上町の南、日川右岸の段丘上に、その館跡があったが遺構はほとんど残されていない。  
栗原宿(くりはらしゅく) 勝沼宿より三十一町三十六間  
甲州道中第二十四次。町並み六町、本陣一、脇本陣一、旅籠二十軒、戸数二百四十、人口千五十余人。毎月四、九の日に六斎市が立ち、物資の集散もあって、茶屋などが立ち並び宿場は繁栄していたという。  
石和宿(いさわしゅく) 栗原宿より一里二十町三十間  
甲州道中第二十五次。町並み六町余、本陣一、脇本陣二、旅籠十八軒、戸数百六十余、人口千百四十余人。石和は、この地に住していた石和(武田)五郎信光が、兄の宗家武田有義の死により、宗家を継ぎ甲斐国守護となって以来、信虎が躑躅ヶ崎に移すまで甲斐国の守護所として政治の中心となっていた。  
石和の渡し(いさわのわたし)  
別名「川田の渡し」といい、笛吹川の渡し。四月から十一月までが渡船、十二月から三月にかけては長さ六十間余の仮橋を架けて通行していた。石和河岸からは身延詣での舟が発着し、講中の人々の通路として賑わった。  
甲府(柳町)宿(こうふしゅく) 石和宿より一里十九町  
甲州道中第二十六次。甲府の城下町に付属した宿場で、柳町の町並み東西南北四町四十七間、本陣一、脇本陣一、旅籠二十一軒、戸数二百余、人口九百余人。旅籠屋は柳町二丁目から三丁目の両側に軒を連ね、最盛期には三十四軒が営業していたとされ、安永二年(1773)には一軒につき二人の飯盛女を置く事が公認されていた。この他、甲府の城下町は城屋町、和田平町、下一条町、上一条町、金手町、工町、八日町、片羽町、西青沼町の九ヶ町からなっていた。  
韮崎宿(にらさきしゅく) 柳町宿より三里二十町五十間  
甲州道中第二十七次。町並み十二町、本陣一、旅籠十七軒、戸数二百三十余、人口千百四十余人。この宿の街道沿いの家並みは、鋸歯状に道路に一定の角度をつけて斜に建っていた。これは斜交家屋といわれ、宿場の設立時に街道に面した家屋をそのようにするよう取り決めて作った計画的な町作りで、中山道塩名田宿など他の宿場にもみられる。鉄砲を避けるためとか、街道の埃が風で家の中に吹き込むのを防ぐためとか諸説あるが、馬繋ぎの柵や石の位置から馬の荷物を積み降す際に、通行の邪魔にならないようこのように作られたと考えられている。こうした町作りからも伺えるように、この韮崎宿は、富士川の舟運が開かれ荷物の集散地として賑わい、馬宿としても栄えた町だった。  
台ヶ原宿(だいがはらしゅく) 韮崎宿より四里  
甲州道中第二十八次。町並み九町半、本陣一、旅籠十四軒、戸数百五十余、人口六百七十人。この台ヶ原宿は次宿教来石宿、次々宿蔦木宿三宿との変則的な相宿。甲府・江戸方面の人馬継ぎ立ては一日から二十五日まで韮崎宿へ、武家荷物は丸一月間韮崎宿へ継いだ。諏訪方面へは一日から二十五日は蔦木宿へ、二十六日から晦日までは教来石宿へ継ぎ立てた。  
教来石宿(きょうらいししゅく) 台ヶ原宿より一里十四町  
甲州道中第二十八次。町並み四町三十間、本陣一、脇本陣一、旅籠七軒、戸数百四十余、人口六百八十余人。江戸方面への武家荷物は取り扱わず、その他の荷物を一日から二十五日は台ヶ原宿へ、二十六日から晦日は韮崎宿へ継いだ。諏訪方面へは二十六日から晦日の間だけ蔦木宿へ継いだ。申し合わせ内容も複雑で、違反が多く訴訟になることもあった。この教来石宿は、休息、伝駅業務を目的とした宿というよりも、甲斐・信濃国境にあったことから国境の防備的な性格をもっていたという。  
蔦木宿(つたきしゅく) 教来石宿より一里六町  
甲州道中第二十九次。町並み四町半、本陣一、旅籠十五軒、戸数百余、人口五百余人。『金草鞋十三編』に「あくれば、二里半ほどゆきて、つた木の宿にいたる。この宿にも大さかや源えもんというよき宿屋あり」と記し、「名にめでで蔦木のしゆくやたび人にからみつきたるとめ女ども」と狂歌に詠って、飯盛旅籠の風景など宿場の様子を描いている。  
金沢宿(かなざわしゅく) 三里四町二十五間  
甲州道中第三十次。町並み八町、本陣一、旅籠十七軒、戸数百六十余、人口六百二十余人。甲州道中が甲府まで完成し、その後下諏訪まで延伸された時に造られた新宿で、当初は宮川と矢ノ川の扇状地権現原平に設けられ「青柳宿」と称した。しかし、この地域が宮川の氾濫などで度々水害に見舞われる事から、大火で全焼したのを期に慶安四年(1641)、現在の地に移って「金沢宿」と改称した。  
上諏訪宿(かみすわしゅく) 金沢宿より三里十四町  
甲州道中第三十一次。町並み五町余、本陣一、旅籠十四軒、戸数二百三拾余、人口九百七十余人。この上諏訪宿のある地は、室町期にこの地方を支配していた諏訪氏の本拠地で、諏訪宗領家が武田氏に滅ぼされるまで諏訪地方の中心地だった。宿の手前(江戸より)に追分があり、大門道が分れている。大門道はここから矢ヶ崎を通り上川沿いに湯川に出て、柏原を経由して大門峠に通じていた。
下諏訪宿(しもすわしゅく) 上諏訪宿より一里十二町  
甲州道中終宿。諏訪大社の門前町、温泉町、そして中山道第二十九宿として栄えた宿場町。ここから江戸へは行程五十三里余、諏訪湖を眺め、甲斐駒ヶ岳、富士山を仰ぎ見ながら、清流にそって笹子峠、小仏峠の狭い道を抜け小仏関所を通って江戸に至った。一方、中山道は行程五十五里余り、宿場の数は二十八宿、途中和田峠、碓氷峠の難所を越え、浅間山の噴煙を眺めながら高原の爽やかな空気を満喫して、碓氷の関所を通り江戸に達した。 
 
日光道

 

日光鉢石まで二十一次 / この日光街道は、元和三年(1617)、徳川家康の廟所が久能山から日光に移されてから、奥州道を利用して整備された。このため、この道中は将軍の東照宮社参で使用されたため、その折にはさまざまな規制が街道の宿町村に触れ出された。  
享保十三年(1728)、将軍吉宗の社参に際し、幕府が大目付・勘定奉行・作事奉行・普請奉行・目付六人の連署による触書を街道各宿駅、沿道の村々に通達した覚には、  
「申三月覚当四月、御成の節、道中宿々ならびに宿間の百姓、家居の男女共、寛文三卯(1663)の通り、女並びに子供は軒下に指し置き、男は後ろの方に罷りあり候ように心得られるべく候。もっとも出家・聲女座頭は指し出し申し間敷く候。盛砂の儀、宿々そのほか野間共盛砂仕り、並びに宿々には手桶を並べ指し置き候よう申しつけられるべく候。但し、手桶、盛砂、十間に一つ程指し置くべく候。御成、還御の筋は、途中にて若し夜に入り候儀もこれあり候はば、宿々村々御道通り家々の前にあり合せ候提灯または行灯にても指し出し候ように申しつけられるべく候」とあり、天保十四年(1843)の社参の覚書には、「一、便所は凡そ十町に一ケ所の割りで葭簾囲で作っておけ。一、畑の畝は見通しのよいように直しておくこと。一、通行以前に犬を出さないようにし、大きな穴を掘り、その中に入れて置くこと。一、二階は閉め切りにして目張りしておくこと。一、村境杭、道標等は新しく立直すように」などと細かく指示していた。
千住宿(せんじゅしゅく) 日本橋より二里八町(約4.7q)  
奥州街道・日光街道第一宿。本陣一、脇本陣一、旅籠五十五軒、遊女屋三十六軒、人口九千五百余人。日光街道では宇都宮とここに貫目改所が有った。千壽とも書く。  
千住という名の由来は、嘉暦二年(1327)、荒川より出土した千手観音像からとも、足利義政の妻千壽姫の生地だったことからとも云われ、諸説有って定かでは無い。文禄三年(1594)、伊奈忠次を普請奉行に千住大橋が架けられてから、橋の周辺に人が集まり住むようになった。寛永二年(1625)、日光道中・奥州道中の初宿に定められ宿場町として発展する。また、文政十年(1827)刊の佐藤信淵が著した『経済要録』には、「江戸千住近在の民は、漉き返し紙を製すること毎年十万両に及ぶ」と記され、『新編武蔵風土記稿』にも、「村民戸ごと世にいう浅草紙といふものを漉きて生産の資とす。(中略)農隙に浅草紙といへる紙を漉きて江戸にひさげり」とあるように、ここ千住は漉き返し紙の産地としても知られている。  
漉き返し紙というのは再生紙のことで、宮中で使用した書類を年末に焼却処分しているのを見た後水尾天皇が、「無駄なことを」と清涼殿の下の泉に浸して漉き直させたことに始まるという。これが江戸に伝わり、千住近郊の農家の副業となって生産され、浅草の紙問屋に卸され「浅草紙」として流通した。この「浅草紙」は、「還魂紙」、「並六」などと呼ばれ、その品質から「落とし紙」として利用され、「まぐそがみ」などとも呼ばれた。その製法は市中で使い古された紙クズを大釜で煮立て、それを石臼でドロドロにして紙酸き船に満たし、これに布袋葵の根を叩きつぶしてしぼり汁を加える。こうして出来た白濁水を簀桁ですくい上げて水を切り、板に貼る付けて乾燥させる。この方法を応用したのが、江戸名産の浅草海苔で、その発祥は寛永年間(1624〜43)頃とされている。  
『おくのほそ道』(松尾芭蕉)旅立の項に、「弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧〃として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峯幽にみえて、上野谷中の花の梢又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝく。」とあり、芭蕉は上野谷中から舟に乗り大川を遡って千住に入った。  
草加宿(そうかしゅく) 千住宿より二里八町(約4.7q)  
奥州街道・日光街道第二宿。本陣一、脇本陣一、旅籠六十七軒、人口三千六百十余人。慶長元年(1596)に設けられた奥州街道の草加・越谷間は、当時八条・大相模を通る迂回路だったが、篠葉村の大川図書が中心となり、幕府の許可を得て新道開削を行ない、茅原を開き沼を埋め立てて草加・越谷をほぼ直線で結ぶ草加新道を築いた。この事が基となり、その後、図書は付近の住民とともに宿駅を設ける願いを出し、寛永七年(1630)、近隣九ヶ村で構成された新しい宿駅「草加宿」が誕生する。草加の名の由来は、茅(草)などを刈って開いたことによるとされている。  
名物の「草加せんべい」は、街道の草加松原で茶店を出していた「おせん婆さん」が、ある時、客に出す団子が腐りやすいと嘆いたところ、それを聞いた客の武士が「団子を薄くのばし、それを天日で乾かし、火で焼いてみなさい」と教えた。それがいつしか宿場の名物となり、世間に広まったという俗説もある。「草加せんべい」は醤油せんべいで、醤油が一般に普及し始めたのは江戸時代末期の文化・文政年間(1804〜30)といわれるので、その頃に始まった可能性はあるが、明治八年(1875)発行の『武蔵野国郡村史』にもその記載がないことから、明治時代の末期に盛んになったと考えられている。  
『おくのほそ道』には、「ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨を重ぬといへ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若生て帰らばと定なき頼の末をかけ、其日漸草加と云宿にたどり着にけり。」とあり、旅の最初の宿を、この草加宿でとったことが知れる。  
越谷宿(こしがやしゅく) 草加宿より一里二十八町(約7q)  
奥州街道・日光街道第三宿。町並み十八町四十八間、本陣一、脇本陣四、旅籠五十二軒、人口四千六百余人。  
宿の近く、元荒川の側に徳川秀忠が慶長九年(1604)に建てた越谷御殿が有った。明暦の大火で江戸城が焼失した時、この御殿の建物が江戸城復旧のため移築されたという。  
粕壁宿(かすかべしゅく) 越谷宿より二里三十町(約11q)  
奥州街道・日光街道第四宿。町並み十町二十五間、本陣一、脇本陣一、旅籠四十五軒、戸数七百七十余、人口三千七百余人。粕壁は春日部とも書いた。この宿は米の集積地として知られ、毎月四、九日に開かれる六斎市には多くの人々で賑わった。当初、岩槻藩領であったが、元和五年(1619)、岩槻城主高力忠房の浜松転封により幕府の直轄地となった。宿を出てしばらく行くと「関宿往還」(せきやど道)との追分がある。  
「春日部」の語源は、「春日」と「部」からなり、「春日」は雄略天皇の皇女春日大姉の春日、「部」は皇族に仕えている人を御名代部と呼んだことから、その「部」をとった。つまり春日大姉に仕える人々という意味で「春日部」といい、そう呼ばれた人々がこの地に住んでいたという説が有る。また、「春日」は第二十七代安閑天皇の后春日山田皇女からきたという説もある。これとは別に、この辺りは低地で川も浅く、水が出た後に壁状の土砂がよく堆積したことから、川の「粕あたり」と云う意味で「糟ヶ辺」「粕壁」となったという説もある。江戸時代に宿名として「粕壁」が用いられ地名となった。昭和十九年に町村合併で「春日部」町となり現在に至っている。  
杉戸宿(すぎとしゅく) 粕壁宿より一里二十一町(約6.2q)  
奥州街道・日光街道第五宿。元和元年(1615)に近郊の家々を集めて作られた。本陣一、脇本陣二、旅籠四十六軒、戸数三百六十余、人口千六百六十余人。  
杉戸という名の由来は、その昔、日本武尊の東征で真間の入江を渡る時、薩手島の南岬に上陸、そこには鬱蒼とした杉が繁り水門(みなと)を覆っていたことから、その地を「杉門」と名付けたという言い伝えがあり、ここに利根川の渡しが有った頃、「杉津」「杉渡」あるいは「杉門」と書かれ、「すぎと」と称されていた。それが杉の戸と書くようになったという。渡しのあった利根川は当時江戸湾(東京湾)に注いでいたが、幕府は江戸を洪水から守るため、まず元和七年(1621)、伊奈忠治に命じて瀬替えをし渡良瀬川に分流、さらに承応三年(1654)には伊奈忠克に命じて鬼怒川と合流させ、大平洋にそそぐ河川とした。こうして従来の利根川は廃川となったが、東部の水不足を補うため用水路となり、古利根川として現在に至っている。  
御成街道追分(おなりかいどうおいわけ)  
日光御成街道との合流点。御成街道は、元和三年(1617)、久能山にあった家康の廟所が日光に移された時、二代将軍秀忠が日光に向った時に使用した道で、江戸本郷追分から中山道と分れ、岩淵を経て荒川を渡り、川口、鳩ヶ谷、大門、岩槻の四宿を通って幸手宿に至り、奥州道を経て日光へ通う道。その後、日光への道は奥州街道を利用した日光街道が設けられるが、江戸期を通じて十三回、将軍の日光参詣に使用された。  
幸手宿(さってしゅく) 杉戸宿より一里二十五町(約6.7q)  
奥州街道・日光街道第六宿。本陣一、旅籠二十七軒、人口三千八百八十余人。日光街道、御成街道の合流する宿場で、筑波道の起点、さらには権現堂川などの開削により江戸への水運基地として廻船問屋などが立ち並ぶ物流の中継地として栄えた。  
「さつて」の地名は、高野永福寺由来『龍燈山展燈記』に日本武尊が東征の折、薩手島に上陸したとあり、「薩手」と書かれているのが初見とされ、その後、下川辺庄の一地区名だったとされる。「幸手」という文字が使われるのは、慶長四年(1599)、伊奈備前守忠次が内国府間(うちこうま)の野原太郎右衛門へ宛てた書状の中に「幸手領幸手町」と書かれている事から、家康の関東入封頃には「幸手」の文字が使われていたと思われる。  
栗橋宿(くりはししゅく) 幸手宿より二里三町(約8.2q)  
奥州街道・日光街道第七宿。本陣一、脇本陣一、旅籠二十五軒、戸数四百余、人口千七百四十余人。慶長年間(1596〜1615)、栗橋村の池田鴨之助、並木五郎平が願い出て、今の上町に開宿し、次第に宿の体裁が整って、元和二年(1616)、正式に宿駅となり栗橋宿が誕生した。宿の外れには「静御前」の墓が有る。  
栗橋関所(くりはしせきしょ)/ 幕府は元和二年(1616)、関東十六津をみだりに渡ることを禁じた。そこで、ここ房川渡の渡船場に役人を派遣し取り締まるだけだったが、日光街道に関所が無いことから、寛永元年(1624)頃、ここに街道随一の関所を設け、東海道の箱根、中山道の碓氷とともに「出女、入り鉄砲」を厳しく取り締まることとなった。関所の番士には加藤・足立・宮田・島田の四家が代々勤め、屋敷を宿の西の八坂神社の近くの堤防の手前に構えていた。  
房川渡(ふさかわのわたし)/ 利根川の渡し(渡船場)。『宿村大概帳』によると「常水川幅四十間程、船渡なり」とあり、「川越半里」といわれるほど長かったという。渡し賃は、「水丈八、九尺を常水として往来船で一人十文、茶船(十石積)は十二文、荷物は一駄につき二人分、なお水一尺増すごとに人馬、荷物とも五文増し」と寛政三年(1791)のお達しにあるという。  
中田宿(なかたしゅく)栗橋宿の利根川を挟んだ対岸  
奥州街道・日光街道第八宿。『略記』に「地名の起こり、さだかならす、元和十年(1624)、日光道中の宿駅と定む」と有り、利根川を挟んだ対岸に有る宿場。江戸を立ったほとんどの旅人が、二日目には栗橋宿かここ中田宿に宿を取ったという。  
古河宿(こがしゅく) 中田宿より一里二十町(約6q)  
奥州街道・日光街道第九宿。本陣一、脇本陣一、旅籠三十一軒、戸数千百余、人口三千八百六十余人。この宿は、古河の城下町に作られた宿場で、町は城下町と宿場町からできている。将軍の日光社参の時に宿泊所としたのは、家康の関東入部で小笠原秀政が入城して以来、代々譜代の大名が城主を勤めた古河城で、街道から城への入口には御茶屋を設け、そこで休息して城の御成門から入城した。  
野木宿(のぎしゅく) 古河宿より二十五町二十間(約2.8q)  
奥州街道・日光街道第十宿。本陣一、脇本陣一、旅籠二十五軒、戸数百二十余、人口五百二十余人。  
現在、ここには宿場の面影は全く残されていない。
間々田宿(ままだしゅく) 野木宿より一里二十七町(約6.8q)  
奥州街道・日光街道第十一宿。町並み九町二十間、本陣一、脇本陣一、旅籠五十軒、戸数百七十余、人口九百四十余人。元和四年(1618)に宿駅に指定された宿場で、日光を上として土手向町、上町、上中町、下町からなっていた。  
小山宿(おやましゅく) 間々田宿より一里二十三町(約6.4q)  
奥州街道・日光街道第十二宿。慶長十三年(1608)から元和五年(1619)までこの地を領した本多正純の居城小山城の城下町として発展した町で、町並み十二町十三間、本陣一、脇本陣二、旅籠七十五軒、戸数四百二十余、人口千三百九十余人とされる(『宿村大概帳』)。宿の外れから日光道中の脇往還壬生道が分れている。壬生道はここから北西に進み、飯塚・壬生宿を経て楡木に至り、中山道倉賀野から分れた日光例幣使街道と合流し、奈佐原・鹿沼・文挟・板橋の宿々を通って今市で再び日光道中と合流する。  
日光街道には十二ケ所に将軍の休憩施設として御殿が設けられていて、ここ小山にもその一つ「小山御殿」が有った。この御殿は、元和八年(1622)、秀忠社参の際に「小山評定」の吉例に倣って設けられたとされ、東西百間余、南北五十間余、北は小山城と接し三方に堀が廻らされ、座間・広間・台所などで構成されていたという。しかし、御殿を使用した将軍は秀忠・家光・家綱の三人、御止宿六回だけで、天和二年(1682)、幕府の財政難から廃止された。「小山評定」とは、慶長五年(1600)、会津の上杉征伐のため東進した家康とその連合軍だったが、大坂にいた石田三成が家康を挟撃しようと五大老の一人毛利輝元を総大将に反家康の軍を起こしたため、上杉軍との決戦目前で軍を止め、小山城で黒田長政等諸将と軍議したことをいう。  
ここ小山は下野守藤原秀郷の子孫、四郎政光が都賀郡太田からこの地に移り居城を構え小山氏を称したことから始まる。政光は頼朝に従い信頼を受け、小山氏は鎌倉期には下野国の広い地域を得て隆盛を極め、関東の豪族となったが、南北朝期に十代小山義政が隣接する宇都宮氏と争い、関東管領足利氏満の軍勢に攻められ落城。以後、小山氏は凋落。その後、小山氏の支族結城泰朝が入って、小山氏を再興した。戦国期に入ると、関東に進出した小田原北条氏に従い、天正十八年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めにあたって、当主小山政種が小田原城に籠城したため所領は没収され、結城秀康に与えられた。家康が天下を取ると、当初は宇都宮藩領とされたが、慶長十三年(1608)、本多正純が三万三千石で小山城に入った。  
新田宿(しんでんしゅく) 小山宿より一里十一町(約5q)  
奥州街道・日光街道第十三宿。本陣一、脇本陣一、旅籠十一軒、戸数五十余、人口二百四十余人。  
小金井宿(こがねいしゅく) 新田宿より二十九町(約3q)  
奥州街道・日光街道第十四宿。町並み六町四十二間、本陣一、脇本陣一、旅籠四十三軒、戸数百六十余。元は金井村といい、現在地より西に有ったが、慶長九年(1604)、現在地に移住し村名に「小」をつけて「小金井村」と称するようになった。  
石橋宿(いしばししゅく) 小金井宿より一里十八町(約5.9q)  
奥州街道・日光街道第十五宿。町並み五町二十八間、本陣一、脇本陣一、旅籠三十軒、戸数七十余、人口四百十余人。石橋の地名の起源については、「村名の起こりさだかならざれど、むかし池上明神前の水流に石橋あり、今は土橋なれど土人は石の橋と唱う。これ村名の起こるところなりぞ」と古書にあるという。  
雀宮宿(すずめのみやしゅく) 石橋宿より一里二十三町(約6.4q)  
奥州街道・日光街道第十六宿。町並み五町二十間、本陣一、脇本陣一。江戸時代初期、下横田村の街道沿いに集まった集落が分村し台新田村となり、寛永年間に宿駅となったといわれる。  
宇都宮宿(うつのみやしゅく) 雀宮宿より二里一町(約8q)  
奥州街道・日光街道第十七宿。本陣二、脇本陣一、旅籠四十二軒、荷物貫目改所、戸数千二百十余、人口六千三百五十余人。日光道中と奥州道中の分岐点で、日光参詣の将軍、藷侯の宿泊地であり、宇都宮藩の城下町として大いに栄えた。飯盛女も多く、嘉永年間には旅籠四十五軒となり、そのうち四十二軒が飯盛旅籠だったという。天保年間の飯盛女は百八十二人で、うち子供が三十九人と有る。この子供というのは、幼少の者のことで、子守り等で何年か過ごした後に「食売女」(飯盛女の幕府での公式の呼び名)になるもので、台所仕事をする「水仕」、給仕などをする「出居女」としても使われた。彼女らの親は貧困のために子供を身売りし、その身代金は三両から五両だったとされる。年齢や容貌などに応じ、もっと高額の者もあったという。こうした親たちの多くは、親自身が助かるためというより、子を餓えさせないための苦肉の策でもあった。  
宇都宮の地名の由来は、下野国一の宮二荒山神社の「一の宮」から転訛したという説と、神社の別号「宇津宮神社」からでたという説がある。「宇都宮」が定着したのは、康平六年(1063)、藤原宗円が日光座主・宇都宮社務検校職に任ぜられ、亀ガ丘城(宇都宮城)に入り、宇都宮氏を名乗った事から始まる。  
静桜(しずかさくら) / 宇都宮宿と徳次郎宿の中宿として立場の有った野沢村にある桜の古木。古来より一枝に一重と八重の花をつける珍しい桜として知られる。名の由来は、奥州に落ちのびた義経の元へ向う途中、静御前がこの地を通った時に挿した桜の枝が根を張り、大木に育ったという伝説と、他の桜より遅く咲くことから静桜と名付けたという話が伝わる。  
徳次郎宿(とくじろうしゅく) 宇都宮宿より二里十三町(約9.3q)  
日光街道第十八宿。宿は三宿からなり、下徳次郎宿の町並み三町十二間、仮本陣一、仮脇本陣一、中徳次郎宿は二町五十一間、本陣一、脇本陣一、上徳次郎宿は三町十四間、本陣一、脇本陣二と有り、旅籠は三宿で七十二軒、問屋各宿に一所、総戸数百六十余、総人口六百五十余人となっていた。この徳次郎宿が三宿となった経緯は「元和三年(1617)、日光へ御鎮座あらせられし頃は、上徳次郎宿のみにて人馬を継立てしが、中下の二村も願ひにより享保十三年(1728)より上中下合宿と定められ、一月を三分して上十日を中徳次郎、中十日を上徳次郎、下十日を下徳次郎と割て人馬継立を役す。此割方、上中下の次第に配当せざるゆへは、三村合宿となりし時、中旬は往還の旅人も多くして継立混雑なるべければ、仕馴たる方にて扱ふべしとて上徳次郎を中旬と定められ、ついに永例となる」と『日光道中略記』に記されている。  
徳次郎という名の由来は、日光に大きな勢力を持っていた一族に久次郎(くじら)氏が有り、その久次郎氏が奈良時代末期に日光二荒山神社から御神体を智賀都神社に勧請し、日光の久次郎に対し外久次郎(そとくじら)と称したことによるとされている。  
大沢宿(おおさわしゅく) 徳次郎宿より二里十四町(約9.4q)  
日光街道第十九宿。町並み四町四間、本陣一、脇本陣一、旅籠四十一軒、戸数四十余、人口二百七十余人。宿は日光街道整備後に作られた家並が宿駅となったもので、『日光道中略記』には「むかしは大沢と唱えしを、元和三年(1617)日光御鎮座の後、街道ひらけしより宿場の数に入りて大沢宿とあらためて唱う」とある。飯盛女を置くことを許されていて、茶屋・旅籠は大いに賑わったという。  
宿の出口近くに、日光街道に設けられた将軍の御休所十二ケ所の一つ大沢御殿が有った。この御殿は寛永三年(1626)に大沢の稲荷山を切りくずして着工され、翌四年に完成した。しかし、ここを使用したのは家光と家綱だけで、以後の休息所は宿内にある竜蔵寺が使われ、御殿には留守居が居るだけであったという。  
今市宿(いまいちしゅく) 大沢宿より二里(約8q)  
日光街道第二十宿。町並み七町二十一間、本陣一、脇本陣一、旅籠二十一軒、戸数二百三十余、人口千百二十余人。宿内の道路には中央に水路が走り、壬生道・会津西街道の合流する交通の要所として市が立つなど大いに賑わいをみせていた。古書には「開発の年代は詳ならず。むかしは『今村』といひしを、宿駅となりて近郷の民移住し、次第に賑わって市場となりしかば、今市宿と改め、毎月一と六の日を市の定日として諸品を売買す」とあるという。  
鉢石宿(はちいししゅく) 今市宿より二里(約8q)  
日光街道第二十一宿。町並み五町余、本陣二、旅籠十九軒、戸数二百二十余、人口九百八十余人。元和三年(1617)、日光に東照宮が鎮座したのに伴い、正保元年(1644)に日光道中の最終駅として設置され、以後日光参詣の人々で賑わった。  
鉢石の由来は、この付近の地質が砂岩・粘板岩などの古生層からなり、その一部を石英斑岩・花崗岩が貫いて鉢を伏せたような形で地表に現れたものを「鉢石」と呼んだことによる。 
男体山 
竜頭の滝 
 
奥州道

 

白河まで二十七次 / 奥州道は江戸時代に定められた五街道の一つで、日本橋から陸奥国白河までの官道として整備され、慶長七年(1602)、東海道・中山道に次いで伝馬制が布かれ道中奉行が管轄した。元和三年(1617)に日本橋から宇都宮までが日光道中となり、奥州道中の宿継ぎは宇都宮までは日光道と併設し、そこから白河までが単独の奥州道中となる。
宇都宮宿(うつのみやしゅく) 雀宮宿より二里一町(約8q)  
奥州街道・日光街道第十七宿。本陣二、脇本陣一、旅籠四十二軒、荷物貫目改所、戸数千二百十余、人口六千三百五十余人。日光道中と奥州道中の分岐点。  
白沢宿(しろさわしゅく)  
奥州道第十八次。本陣一、脇本陣一、旅籠十三軒、戸数七十余、人口三百六十余人。  
氏家宿(うじいえしゅく)  
奥州道第十九次。本陣一、脇本陣一、旅籠三十五軒、戸数二百三十余、人口八百七十余人。  
喜連川宿(きつれがわしゅく) 氏家宿より二里  
奥州道第二十次。本陣一、脇本陣一、旅籠二十九軒、戸数二百九十余、人口千百九十余人。喜連川藩の城下町で、町並十七町三十間で荒町・河原町・台町・上町・仲町・本町・下町・田町の八町からなっている。この他に武家屋敷地があって、町方との往来は禁止されていた。  
佐久山宿(さくやましゅく) 喜連川宿より二里三十町  
奥州道第二十一次。本陣一、脇本陣一、旅籠二十七軒、戸数百二十余、人口四百七十余人。  
大田原宿(おおたわらしゅく)  
奥州道第二十二次。本陣二、脇本陣一、旅籠四十二軒、戸数二百四十余、人口千四百二十余人。大田原城の城下町。  
鍋掛宿(なべかけしゅく)  
奥州道第二十三次。本陣一、脇本陣一、旅籠二十三軒、戸数六十余、人口三百四十余人。下り芦野宿までの片継ぎ。  
越堀宿(こしほりしゅく)  
奥州道第二十四次。本陣一、脇本陣一、旅籠十一軒、戸数百十余、人口五百六十余人。上り大田原宿までの片継ぎ。  
芦野宿(あしのしゅく)  
奥州道第二十五次。本陣一、脇本陣一、旅籠二十五軒、戸数百六十余、人口三百五十余人。  
白坂宿(しらさかしゅく)  
奥州道第二十六次。本陣一、脇本陣一、旅籠二十七軒、戸数七十余、人口二百八十余人。  
白川宿(しらかわしゅく)  
奥州道第二十七次。白河とも書く。本陣一、脇本陣二、旅籠三十五軒、戸数千二百八十余、人口五千九百五十余人。白河藩の城下町(白川城)で、宿内町並は南北三十一町で、通りに添って新町・天神町・中町・本町・横町・田町・向寺町と並び、天神町から田町までの五町を特に通り五町と読んでいた。白川宿の常備人馬は他の宿と同様の二十五人・二十五疋で、上りは白坂宿へ、下りは脇往還となる仙台道(奥州松前道)の宿場踏瀬宿へ月初めの十日間を継ぎ、以後二十日間は大田川宿まで継ぎ立てを行った。  
 
日光例幣使街道 

 

日光例幣使街道1  
(にっこうれいへいしかいどう) 徳川家康の没後、東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道である。中山道の倉賀野宿を起点として、楡木(にれぎ)宿にて壬生通り(日光西街道)と合流して日光坊中へと至る。なお、楡木より今市(栃木県日光市)までは壬生通り(日光西街道)と共通である。現在、栃木県日光市から鹿沼市、栃木市、佐野市、下都賀郡岩舟町、佐野市、足利市、群馬県太田市、伊勢崎市、高崎市に至る路線が「日光例幣使街道」または「例幣使街道」と呼ばれている。特に日光市から鹿沼市にかけての区間には日光杉並木が現存する。  
例幣使街道2  
徳川家康の死去後、家光により日光東照宮が造営され、毎年、京都御所から東照宮へ例幣使が遣わされた。その使者が通った道を例幣使街道といい、東照宮を造った宮大工が通った文化伝承の道でもあった。  
例幣使街道は、御所から御幣を日光東照宮へ遣わす勅使が利用した道である。京都から中山道を下り、上野国(群馬県)倉賀野宿で別れ、玉村、五料、木崎、太田を経て、下野国(栃木県)に入り、八木、佐野、栃木から楡木(にれき)で日光壬生街道に、今市で日光街道に合流して、日光に到着していた。このうち、倉賀野宿から今市宿までを例幣使街道と呼ぶようで、江戸幕府は重要なルートとして道中奉行のもとで管理していた。  
家康の死後、遺言により元和三年(1617)四月、日光東照社が造営されたが、京都御所は正保二年(1645)十一月、東照宮の宮号を授けたので、日光東照宮と呼ばれるようになった。朝廷は、古いしきたりに従い、翌年の四月、日光に臨時のささげものをしたが、翌正保四年から家康の命日の四月十七日に、金のご幣(金幣)を奉納するため、勅使が派遣されるようになり、幕府が滅びるまで続いた。  
例幣使とは、日光東照宮の春の例大祭(4月17日)にご幣(金幣)を奉納するため、京の朝廷より派遣される勅使のことで、公卿が充てられた。例幣使の行列は五十人〜八十人ほどで、大名も宿泊のための本陣をゆずるほどの絶大な権威をもっていた。例幣使が通る時の街道沿線の気の使い方は、宿場役人、宿場から周辺の百姓に至るまで大変なものだったらしく、藤村の書いた小説『夜明け前』で、「お肴代もしくは御祝儀何両かの献上金を納めさせることなしに、かってこの街道を通行したためしがないのも日光への例幣使であった。」と記している。  
例幣使側のこのような我儘や狼藉は公家の幕府に対する不満が背景にあったといわれる。  
倉賀野宿の町はずれにある三叉路が中山道から例幣使街道へ入る追分で、今も道標と常夜燈が残っている。常夜燈は文化十一年(1814)五月に建てられたもので、建立者の中に当時の力士の名前がある。柏戸、雷電、鬼面山などの力士の他、木村庄之助、式守鬼一郎という行司もあった。  
下野国(栃木県)の最初の宿場が八木宿だが、宿場の上下に四本ずつ八本の松の木があったことから名がつけられたといわれる。現在は足利市福居町となっていて、八木節の発祥の地である。県道の八木宿交差点のあたりに旅籠が並び、遊女もいて宿場町は賑わったとあるが、その面影は現在はまったく残っていない。  
梁田宿跡には「本陣2軒、旅籠32軒、総戸数105軒あった」と書かれた看板があった。次の宿場の天明宿までは二里半というから約十キロであるが、この先、渡良瀬川に突き当たり、当時の道は消えている。しかたがないので、川崎橋を渡り、寺岡に出ると、国道293号に合流する。街道とは関係はないが、近くにある足利フラワーセンターには大藤があり、一見に値する。花好きとしてもう一つのが、館林のつつじ。関東一と言ってもよかろう。  
免鳥町を過ぎると現在は佐野市になっている天明宿に着く。当地で作られる佐野鋳物は千年の歴史があり、西の芦屋、東の天明といわれた。梵鐘や茶道で使われる茶釜の製作を得意としているようである。佐野厄よけ大師は厄除け元三慈恵大師を安置して、厄除け、方位除けの祈願を続け、正月になると大祭を開催し、百万人の参拝者が訪れる賑わいをみせる。徳川家康の遺骨を久能山から東照宮に遷葬の際には、この寺に一泊するなど徳川幕府との縁も深かったところのである。とはいえ、現在の佐野市に、例幣使時代のものは望めない。  
次の宿場は佐野から二千五百メートル程の犬伏宿だが、徳川家にとって歴史的な地である。徳川秀忠は上杉氏の会津征伐のため、慶長五年(1600)七月十九日に江戸を発ち、大庵寺で休みをとっていた。大庵寺は佐野昌綱により現在地に移された浄土宗寺院である。真田昌幸、信幸、幸村はこれに合流するために七月上旬に上田を発ち、二十一日にここに到着したが、その時、石田三成からの書状(密書)が真田父子の元に届けられた。真田父子はここで関ヶ原合戦を前に東西に分かれる決断をしたと言われている。  
県道11号に沿って行き、岩舟町で左折すると、富田宿のあった大平町富田に到着。日立の工場が二つあったが、宿場があったことを想像するものはなにもない。更に歩くと、栃木市内に入る案内があったので入っていった。栃木は皆川氏が統治していたが、慶長十四年改易に遭い、城が取り壊された。その後、幕府領、旗本領と大名領に細分化されたが、宝永元年、足利藩戸田氏の所領になり、明治を迎えている。市内を流れる巴波川を利用した河運で北関東屈指の賑わいを見せる商人街でもある。  
明治維新の後、栃木県の県庁が置かれたが、宇都宮県と合併し、現在の栃木県が誕生した際、時の三嶋県令が自由民権運動が激しかった栃木を嫌い、宇都宮を県庁にしてしまった。更に、鉄道が曳かれる時、河運業者の反対で通らなかったことから県内の中心地としての座を追われた。最近は、古い家や倉を博物館として公開している家が数軒あり、蔵の町として宣伝している。  
小説「路傍の石」の作家、山本有三の出生地で記念館がある。墓は近龍寺にあるので、おまいりをした。嘉右ヱ門町には代官岡田嘉右ヱ門の大きな屋敷が右側にある。左側の大きな商家は、天明年間創業の油屋傳兵衛で、味噌・田楽の暖簾が懸かっていた。  
合戦場宿は東武日光線の沿線にあり、駅名にもなっているが、戦国時代、宇都宮軍と栃木軍とが戦かったことから名が付いた。日立製作所の創業者の一人、小平浪平の出身地で生誕の地と刻まれた大きな石があった。  
金崎宿(西方町)には本陣だった古澤家がある。思川を小倉橋で渡って、堤防をしばらく歩いて国道121号に合流する。堤防には桜並木が続き、桜の名所だが、以前のような凄さはない。このあたりは、西方町で立派な門と蔵のある大きな屋敷が続く。  
楡木宿に入る手前の追分交差点で、壬生街道(国道352号)と合流する。厳密には、例幣使街道はここで終わりということだろう。  
追分から少しで楡木(にれぎ)宿。現在は鹿沼市に属する。このあたりは小生が勤めていた会社の近くでよく知っているが、宿場を語るようなものは残っていない。赤ん坊を抱いて向かい合わせ、泣かせた方が負けという泣き相撲で有名な生子神社(いきこじんじゃ、鹿沼市樅山)がある。毎年九月十九日以降の最初の日曜日に行われる行事で、文久年間(1860年代)より続くと伝えられるものである。ここから宇都宮に通じる楡木街道は、昔は宇都宮から鹿沼に行くのに使ったが、現在は立派なバイパスができたので、利用することが少なくなった。  
鹿沼宿は江戸時代、東照宮で仕事に携わった職人が当地に留まったといわれ、今でも木工業が基幹産業である。屋台が旧市内に二十七台あり、それに、楡木町に三台(うち一台は山車)、上大久保(かみおおおくぼ)の一台を加え、三十一台の屋台が現存している。今宮神社の秋祭りには山車が競り合うぶっつけは祭のメインになっている。屋台は、江戸の屋台の系統を引く踊り屋台から発展したものと考えられ、唐破風の屋根を載せた単層館型で、四輪を内車式に付けたものだが、日光山社寺の豪華な彫刻の影響を受け、全面が豪壮な彫刻に飾られている。  
鹿沼宿を出ると、いまでも残る杉並木の下を通る。日光街道にも杉並木があるが、ここの方が江戸の街道の雰囲気を残していると思う。自動車が通るので、排気ガスで枯れないかと心配で、保存方法を考えてもらいたい。  
杉並木の中にある東武日光線の文挟(ふばさみ)駅のあたりに、宿場があったのだろうが、そのようなものがあったとは思えない静かな佇まいである。  
杉並木が途切れたところが板橋宿。ここには通る時には必ず立ち寄る蕎麦屋があり、比較的古い家が残っているが、江戸時代のものではないのでは?  
また、杉並木に入る。しばらく行くと右側に家が見え、今市宿に入る。ここで、宇都宮から来た日光街道に合流し、日光に向かっていくことになる。  
例幣使街道3  
例幣使街道とは、京都(きょうと)の朝廷から徳川家康(とくがわいえやす)を神として祀る日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)に、毎年幣帛(へいはく)(神に供えるもの)を納めるために利用された道のことです。  
例幣使街道は、倉賀野宿(くらがのしゅく)〔現在の群馬県高崎市(ぐんまけんたかさきし)〕で中山道(なかせんどう)と分かれ、下野国(しもつけのくに)〔現在の栃木県(とちぎけん)〕に入り、楡木宿(にれぎじゅく)〔現在の栃木県鹿沼市(とちぎけんかぬまし)〕で日光道中壬生通り(にっこうどうちゅうみぶどおり)に合流するまでの間の街道のことです。現在でも地元では鹿沼市から日光市(にっこうし)までの国道121号線のことを例幣使街道と呼んでいます。  
江戸時代(えどじだい)、朝廷は伊勢神宮(いせじんぐう)〔三重県(みえけん)〕や日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)に奉幣(ほうへい)(神に供える品物を納めること)を行う勅使(ちょくし)(天皇の使者)を毎年派遣しました。これらの人々を例幣使といい、彼らが利用した街道であることから例幣使街道と名付けられました。日光東照宮に派遣される例幣使は、正式には日光例幣使(にっこうれいへいし)といいます。日光例幣使として選ばれたのは公家の人々で、この制度は正保(しょうほう)3年(1646年)から慶応(けいおう)3年(1867年)までの221年間、一回も中止することなく続けられたそうです。一行は50〜70人ほどの集団で、毎年4月1日に京都(きょうと)を出発し、中山道(なかせんどう)・例幣使街道を通り、4月15日に日光に到着しました。そして16日に持参した供え物〔金紙の幣束(へいそく)〕を納め、帰りは宇都宮(うつのみや)、江戸を経由し東海道(とうかいどう)で京都に帰るのが一般的でした。  
例幣使街道は本来、年に一度だけ例幣使が日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)に供え物を納めるために使われた道でしたが、しだいに北関東(きたかんとう)や東北地方(とうほくちほう)と中山道(なかせんどう)を結ぶ道として利用されるようになりました。そして、それにともない宿場(しゅくば)も発展していきました。なかでも栃木(とちぎ)宿は町の中心を流れる巴波川(うずまがわ)を利用した船による運送が盛んとなり、商業都市として大きく発展しました。現在でも巴波川沿いには蔵の町並が残り、当時のにぎわいが感じられます。また、江戸(えど)を通らずに京都(きょうと)まで行くことができるこの道は、あまり費用がかからずに藩士(はんし)や各種番役を京都や大阪(おおさか)に派遣できたということも、この街道が発展した理由の一つです。  
例幣使街道4  
例幣使とは、神前に幣帛を奉納するため朝廷から派遣される勅使である。派遣先は伊勢神宮のみであったが、正保4年(1647)、幕府からの要請を受けて日光東照宮にも例幣使を派遣することになった。それ以来、明治維新前の慶応3年(1867年)までの221年間、1回の中断もなく続いた。  
日光例幣使の一行は毎年京都を旧暦4月1日明け六つ、今の暦で5月中頃午前4時に出発し、中山道を経て4月11日に倉賀野宿から日光例幣使街道に入り、東照宮の春の大祭の初日である4月15日に日光に到着する。翌日午前中に、例幣使は奉幣の儀式を終え、昼過ぎには日光を離れて帰路に着く。帰路は日光街道で宇都宮を経て、東海道を通って4月末に京都に帰った。往復30日の旅だった。一日平均40kmを歩く健脚である。  
公務出張に選ばれた公家達は、神聖な使命を受けた高貴な装いの裏で、道中に特権的立場を最大限に利用して私服を肥やすことが常態であったといわれる。  
信州の長い山道をこえ上州の平野部に到達した例幣使の一行は一息つく思いであったろう。ここからはただ平坦な道をひたすら日光に向かってあるくだけである。難所とよばれる場所もないかわりに歌枕として知られる景勝地もない。人に聞けば街道筋の各宿場には競うように飯盛女が客を引くという。  
倉賀野宿の東の木戸から中山道と分かれて東に向かい楡木で日光壬生通りと合流するまでの道を例幣使街道とよぶ。この街道は、明和元年(1764)に道中奉行の管轄となり、五街道並みの扱いを受けるようになった。例幣使街道は楡木から壬生通りをたどり、今市で日光街道に合流する。今市までを例幣使街道とよぶ場合もある。  
1.倉賀野宿(群馬県高崎市)  
倉賀野宿(くらがのしゅく)とは、中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸から数えて12番目の宿場である。日光へ向かう日光例幣使街道が分岐している。かつては江戸時代、烏川を利用した舟運搬の河岸があった。現在の群馬県高崎市倉賀野町にあたる。天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、倉賀野宿の宿内家数は297軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠32軒で宿内人口は2,032人であった。  
例幣使街道の常夜灯及び道しるべ  
例幣使街道とは日光東照宮の旧暦4月14日の大祭に、幣帛(へいはく:神様にささげるもの)を供するため、京都から派遣(はけん)された勅使(ちょくし)が通るための街道のことです。中山道と例幣使街道は、倉賀野宿の東で分かれています。この分岐点(ぶんきてん)に石造りの「道しるべ」と「常夜灯(じょうやとう)」がが建てられています。道しるべは高さ1.64mで、西面には「従是右江戸道左日光道」、東面には「南無阿弥陀仏亀涌水書」とあります。常夜灯は高さ3.73メートルメートルで、正面(西面)には「日光道」、南面に「中山道」、北面に「常夜燈」、東面に「文化十一年(1814)甲戌正月十四日高橋佳年女書」と刻まれています。また、基台には312名の寄進者の名が刻まれ、その中には江戸時代の有名力士、雷電為右衛門(らいでんためえもん)の名も見られます。  
倉賀野宿 倉賀野宿(高崎市)は江戸から12番目、新町宿と高崎宿の間の宿場町です。日光例幣使街道との分岐点で烏川を利用した利根川舟運の最大の拠点として発展し、本陣1箇所、脇本陣2箇所が設置され旅籠、宿屋関係は60余棟、舟問屋74軒、舟150余艘あったとされ飯盛女も多数働いていたそうです。宿場は約1キロ、下町、中町、上町の3つに分かれていて中町に施設が集中し中心的な役割を持ち下町の閻魔堂(阿弥陀堂)で中山道と日光例幣使街道が分岐していました。現在は建て替えが進み連続した古い町並みはあまり見られませんが、時折見せる町屋(商家建築)が当時の繁栄を見る事が出来ます。  
倉賀野/紀行 中山道のJR倉賀野駅の南付近が倉賀野宿の中心であった。街道の北側の高札場跡には越前奉行と太政官の定書き立て札が復元されている。奉行の定は不審者を告発したものには銀貨を褒美に与えるというものである。キリシタンを見つけたものに対する褒美が一番多かった。 脇本陣の建物は一、二階の全面的な千本格子が見事である。道向かいのベイシアマート駐車場には本陣跡の石碑が、すこし先の右手倉賀野仲町山車倉前には「中仙道倉賀野宿中町御伝馬人馬継立場跡」の碑が建っている。古い家が残る町並を東に進んでいくと、中町交差点の南西角に旅籠風の家が、北東角には倉賀野町道路元標があった。 下町交差点で道は二手にわかれ、追分地点には石柱道標、文化11年(1814)の道標を兼ねた常夜燈、その後に閻魔堂がある。道しるべには「従是左日光道右江戸道」と刻まれており、常夜燈には正面「日光道」、右側面「中山道」とある。ともに「日光道」とあるのが例幣使街道で、ここが起点となった。 JR高崎線の玉村街道踏切を渡る。金属工業団地をぬけ、粕川をわたり、「綿貫町南」交差点をこえた先で旧道は日本原子力研究所にぶつかって途絶える。 綿貫町交差点を右折して、敷地の北縁に沿って国道354号を東進する。左手に不動尊が鎮座する不動山古墳をみて、街道は井野川を渡る。昔は鎌倉橋のすぐ下流に土橋が架けられていた。橋をわたり土手を右に入ると、両岸に橋脚台の痕跡がのこっている。土橋跡から旧道が復活している。200mほど進み国道と合流する辺りに一里塚があったというが、それらしき跡は残っていない。 
2.玉村宿(群馬県佐波郡玉村町)  
玉村町 玉村町の歴史は古く、小泉大塚越遺跡3号古墳は全長72mの大型の前方後円墳で6世紀後半には大きな権力を持つ豪族が存在していた証明であり、他の古墳からは人面付円筒埴輪や日本最大級の馬形埴輪などが発見され他地域と異なる独自性も垣間見れます。律令制度の中で玉村町でも多くの荘園が存在し、中でも玉村御厨は、伊勢神宮の荘園(神領)として125町あり毎年30反の麻布を献上していたそうです。鎌倉時代に入ると上野国守護の安達氏の家臣玉村氏が周辺を支配しますが戦国時代には玉村町を本拠とする大名が存在せず周囲に割拠する国人領主や、上杉氏、武田氏、小田原北条氏などの大大名の影響を受ける事になります。江戸時代に入ると朝廷から日光東照宮へ幣帛を奉献するための勅使が通る為に日光例幣使街道が開削され玉村町では玉村宿、五料宿が宿場町として設置され多くの人達が利用し賑ったそうです。五料宿には日光例幣使街道唯一の関所が設けられ重要視された一方で利根川舟運の舟着き場や渡し舟の発着場としても多いに賑ったとされ、玉村宿は佐渡奉行街道と交差する交通の要所で本陣や50軒の旅籠、問屋場なども設置され繁栄したそうです。  
玉村宿/紀行 関越自動車道をくぐり高崎市と玉村町との境になっている滝川にさしかかる。角渕からやってきた佐渡奉行街道(三国古道)は滝川大橋の東詰から左岸に沿って北に向かった。 ここから玉村宿に入る。慶長10年(1605)代官伊奈備前守忠次が開削して玉村新田を開いた。付近の住民を移して玉村新田町が形成され、後に上新田・下新田両村に分かれる。その後両村で玉村宿がつくられた。上新田・下新田に1軒ずつ問屋が置かれ半月交代で務めた。 日光例幣使街道が道中奉行の管轄下に入ると、玉村は最初の宿場町として繁栄する。例幣使は例年旧暦4月11日夕刻に玉村宿に到着して木島本陣に宿泊し、翌12日早朝出発した。宿は一直線で延長約2.5kmもあり、日光例幣使道十三宿中でも最も規模が大きく繁盛した宿場であった。旅籠屋62軒のうち半分以上の36軒に飯盛女が置かれ、玉村は歓楽街の様相を呈していった。 玉川宿はまた佐渡奉行街道の第1番目の宿場町でもある。毎年春から秋にかけて佐渡送り囚人が護送され、玉村宿には十数軒の囚人宿があったという。囚人宿は佐渡送りだけでなく、他の護送中の罪人にも利用された。そのなかに国定忠治もいる。 上新田集落をすすんでいくと、左手に玉村八幡宮の赤い鳥居がでてくる。この参道が上・下新田をわける境界線になっている。角地に古い佇まいをみせているのは「泉屋醸造元井田酒造」で、上の問屋跡である。店の脇から中庭をのぞくと造り酒屋の象徴ともいうべきレンガ造りの高い煙突が酒蔵の中央にそびえていた。 井田酒造の奥に玉村八幡神社がある。玉村八幡神社は、烏川畔にある角淵(つのぶち)の八幡宮が元宮で、源頼朝が建久4年(1193)那須野に狩した折、鎌倉の由比ケ浜に似ているとして鶴岡八幡宮を分霊したものである。伊奈代官が玉村を開いたとき、この角淵八幡をここに遷座した。 同じ路地を神社と反対方向にはいると称念寺境内に「家鴨塚」がある。ヤクザ国定忠治の病気をきづかう目明しが家鴨の生血を飲ませた話が説明板に記されている。目明しも犯罪者あがりのならず者だった。家鴨こそいい迷惑を被った。 右手加賀美氏宅は、下の問屋大黒屋跡である。古い建物はみられないが植木が茂る門構えの家だ。玉村宿は幾度もの大火で全焼し宿場町を偲ばせる建物は残っていない。 右手に土蔵とレンガ造りの家、その奥に高い煙突が立つのは「太平人」町田酒造店である。 店先に「玉村道路元標」の石標があり、そのむかいの路地入口に「木島本陣跡歌碑」の案内標識がたっている。 案内にしたがって路地をはいり右におれると、民家の庭先に屋根を被った歌碑があった。天保14年(1843)帰路も中山道を辿った例幣使参議有長の歌である。往路は中山道−例幣使街道、帰路は日光街道−東海道を辿る慣例に反し、この使者は帰りも中山道を歩くつもりであった。 玉むらのやどりにひらくたまくしげふたたびきそのかへさやすらに 今回無事使命を果たし、玉村宿にふたたび戻ってきたが、前途の木曽路も一路平安であることを祈る 街道に戻って東に向かうと右手バス停付近に例幣使道の絵図入り案内板がある。図に寄ればこのあたりに高札場があった。 その先の下新田交差点を直進する。ここを右折すると角渕から烏川をわたる佐渡奉行街道にはいっていく。 上飯島交差点手前に石仏群があるが、この辺りに玉村宿の下木戸があった。道は、ゆるやかに右に曲がって工業団地を斜めに横切っていく。  
3.五料(ごりょう)宿・五料関(群馬県佐波郡玉村町)  
日光例幣使街道の宿場町の一つ。現在の群馬県玉村町五料、利根川の右岸に位置する。1601年、前橋藩により街道唯一の五料関所が設けられ、関所に接する形で数軒の宿による小さな宿場町が形成された。例幣使街道の渡し船の渡船地点でもあり、舟運の中継地にもなっていたため、交通の要衝として評価され1616年には関所が幕府公認になった。 
五料宿 五料宿の地名の由来は西光寺を中興した良海の稚児千代寿丸が渡船の転覆で亡くなり"御霊"を供養した事からだと推定されています。天正年間には倉賀野宿との間に伝馬の制度のような仕組みがあったとされ、那波氏の家臣石倉氏が関所を設け管理していたそうです。慶長6年(1601)に前橋藩によって関所が設けられましが、元和2年(1616)に幕府から正式に関所として認められ、元禄10年(1697)に再び幕府の指定を受けています。正保3年(1646)、朝廷から日光東照宮への例幣使が恒例化すると例幣使街道も整備され街道中唯一の関所だった五料関所は重要視され上野国の関所の中でも最も取り締まりの厳しい関所の一つとされました。関所は前橋藩により管理され目付1人、番士2人、足軽6人、中間2人が業務を行いその他にも村役人が補佐していました。五料宿は利根川流域16ヶ所の「定船場」の一つだった事もあり舟運の取締りが厳しく禁制品が江戸に持ち込まれないように船中が改められました。又、五料宿は利根川舟運の河岸も設置され主に木材の輸送で利用されました。  
五料/紀行 工業団地を通り過ぎ「日清日露戦役紀念碑」「聖跡記念碑」の先で斜め左に残っている旧道に入る。旧道といっても沿道の前半は工場団地の延長のような風景で、旧道の終わり頃に若干の住宅街を通り抜けて国道354号に出た。 合流点の北側に常楽寺がある。入口に多くの石仏にまじって道標がある。「利根川渡船・玉村町小泉道」「烏川渡船・神保原本庄町道」と刻まれている。 五差路交差点を右斜めの旧道にはいると五料宿である。五料集落は利根川沿いに南に延びているが宿場はその北端に設けられた関所の手前の短い区間である。 芝根郵便局の先に立つ案内標識に従って左の露地をはいると、すぐに五料関所跡の案内板があった。道の両側に関所門の沓石として、柱穴を穿った方形の石が残されている。関所は戦国時代からあったもので、街道をいく旅人や利根川を利用する舟運業者から関銭を取っていた。元和2年(1616)に幕府公認の関所となり元禄10年(1697)に幕府指定の関所となった。舟運の取締りに加え日光例幣使の通行を確保することが特務として課された。五料の関所は日光例幣使街道唯一の関所である。 
4.柴宿(群馬県伊勢崎市)  
柴宿(しばしゅく)は、現在の群馬県伊勢崎市柴町にあった日光例幣使街道の宿場町。倉賀野宿から数えて3つ目。「芝宿」と表記する場合もあった。宿場町としては4町から5町程度の小規模なものであった(1町は約100メートル)。しかし、柴宿の東側に「加宿」と呼ばれる付帯的な宿場町として中町・堀口が連なり、全体として14町余りのかなりの規模の宿場町を構成していた。本陣は柴宿にあり、代々の関根甚左衛門が勤めた。問屋場は、柴宿および加宿中町・加宿堀口が10日ごとの持ち回りで負担した。1805年時点での規模は、107戸・431人、宿石高は約730石で、本陣1軒・脇本陣1軒・旅籠10軒となっていた。多少遡る天明年間(1781-1788年)中期に加宿を含めた規模の資料が残されており、それによると219戸・805人、宿石高は柴宿分が約803石、加宿分が約1400石となっている。小規模な宿場であったため、例幣使は休憩するのみで通過し宿泊することは多くはなかったが、1865年(慶応元年)などには宿泊したという記録も残されている。当初、柴宿付近の日光例幣使街道は一直線であったが、1729年に柴宿が北に移転し、中町・堀口との間で枡形が構成された。宿場町の成立時期が明確になっていることは珍しく、またこの経緯から、柴宿エリアは自然発生的な宿場町ではなく都市計画に基づいて作られたという特徴を持つ。日光例幣使街道のほか、柴宿からは神梅で銅山街道と合流する大胡道が分岐していた。  
柴宿(伊勢崎市) 柴宿(伊勢崎市)は中山道の倉賀野宿から3番目の宿場にあたり、例幣使一行は玉村宿で宿泊し、柴宿の関根家(本陣)で休息することが常だったとされます。柴町八幡神社や本陣跡、雷電神社、泉龍寺などの名所、旧跡が見られる一方で町並み的には本陣の表門と黒松以外は多くが近代化され当時の雰囲気はあまり感じられません。当時は桜並木があった事から近年になり植樹され、水路も復元されています。  
柴/紀行 利根川に架かる五料橋を渡るとすぐ柴宿に入る。橋の下流からわずかに旧道が残っている。例幣使は4月12日六つ半(7時ごろ)五料関所を通過して柴宿に向かった。柴宿は中町、堀口村を加えて、毎月10日ずつ柴宿・堀口村・中町と交替で問屋場を勤めた。 柴宿の通り(国道354号)の南側には並木と水路が整えられ、その中ほどに立派な門構えの柴宿本陣、関根甚左衛門宅がある。本陣の在処を旅人に知らせるかのように、一本の松が門前から歩道に張り出している。 街道はその先で右におれていく国道からはなれ、一筋東の水路沿いの旧道を南にくだって中町の総鎮守雷電神社の前で再び国道に合流する。 朱色の鳥居と白木の社殿は新築されたばかりの初々しさを湛えている。境内にのこる溶岩は天明3年(1783)の浅間山大噴火に伴うものである。それ以前は神社の南側に延びている道が例幣使街道の旧道であったが、大噴火によって街道もろとも宿場全体が北に移転した。 国道はまっすぐな道を中町、堀口町と通り抜ける。 東京福祉大学を通り過ぎ、左手の大正寺公民館の敷地内に東日光道」「南本庄道」「西五料道」と書かれた小さな道標がある。 下道寺町で左にまがった先、右手豊受歯科の所に「伊勢崎織物大絣発祥の地」と書かれた大きな碑がある。 その先道が右にまがるところの左手道端に設けられた狭い三角地帯に見過ごしそうな小祠がある。覗き込むと祠内には庚申塔があって傍らに「三ツ橋伝説と芭蕉句碑」と書かれた木柱が立っている。かってこの場所に三ツ橋が架かっていたそうだ。今は道の下に溝のような細い水路が通っているだけである。すぐ先右手の民家の脇に一角を設けて芭蕉句碑と松の木(三橋牛打の松)が植えてある。松に因む伝説があるようで、松を詠んだ芭蕉の句碑が建てられたというわけだ。橋と松と芭蕉の取り合わせを考え合わせても結局よくわからない史跡だった。 例幣使が休んだという延命寺をすぎ、道はおおきく右にカーブして下蓮町にはいる。 左手に上州名物焼まんじゅうの店「忠治茶屋」がでてくる。看板には国定忠治と赤城の山が紺染めされている。 忠治茶屋のすぐ先を右斜めに入っていくのが旧例幣使街道である。 田畑の中をすすむと右手に「右赤城」の案内板が立っている。その方向をながめやると赤城山の四つの峰がくっきりと見えた。東海道では「左富士」をみた。見える方向にまで神経を使う日本人の感覚の繊細さには驚かざるを得ない。と同時に、なぜここだけに桝形のような道筋がつけられたのか、不思議でもあった。ゆるやかな曲線をえがきつつもこれまでの一本道に近い道筋を急に方形に迂回しなければならないような池や山などの自然障害物が横たわっていたわけでもなかろう。作為的に右赤城を創り出したとすれば興ざめな話ではある。 畑中の道から車道に出る角に道標がある。「右五りやう東日光道左ほん志やう」と刻まれている。ここを左折し、東日光道に向かう。下蓮町交差点で今までの本道、国道354号にもどる。。 やがて菅原神社の付近で国道をはなれて広瀬川に突き当たる。昔はここに「竹石(たけし)の渡し」があって広瀬川を舟で渡っていた。今は武士(たけし)橋を渡る。 
5.境宿(群馬県伊勢崎市)  
境宿(伊勢崎市) 境宿(伊勢崎市)は当初は柴宿と木崎宿の間宿扱いでしたが文久3年(1863)に正式に宿場町に格上げとなりました。境宿の全長は463m、道幅は14m程、生糸を中心に物資が集められ2と7の付く日は市が立ち「六斎市」と呼ばれていました。寛政3年(1791)には小林一茶が本陣を勤めていた俳人専車を尋ねましたが、あいにく留守で「時鳥我が身ばかりに降る雨か」の句を残しています。織間本陣は寛文2年(1662)に伊勢崎藩士鶴田弥太郎氏の家を移築した格式のある家屋で旧堺町指定史跡に指定されていたようでしたが現在は石碑のみが建っています。  
境/紀行 旧道は武士橋を渡って最初の信号を左に入り長谷川たばこ店の前の路地を右折する。古い家並みがのこっているわけではないが、幅一間の細い道が民家の間を自然なうねりをつくって続いている。旧街道の雰囲気をのこす裏通りである。300mほどいったところにひときわ高い松がみえ、近づくと丁字路の角に「一本松稲荷」がある。築山に松が植えられ一里塚だったのではないかとも言われている。塚の上に御嶽神社、塚の脇に稲荷神社がある。 国道と合流する地点に「旧例幣使街道」の標柱が立つ。日光方面からくる旅人の為の標識である。間もなく再び国道をはずれ、今度は右の旧道に入っていく。逆「く」の字の短い旧道を終わると国道「境萩原」の信号にでる。この辺りに境宿の西の木戸があった。 境は古く室町時代から広瀬川東岸の舟着場として集落を形成し、例幣使が通うことになったころには柴宿と次の木崎宿の間の宿として繁昌し始めた。正式に宿駅となったのは幕末の文久3年(1863)のことで、通常例幣使街道の宿場としては数えられていない。 右手スーパーマーケット、アバンセ駐車場に「日光例幣使街道織間本陣跡」の立派な碑がある。いつまでとは記されていないが、ここには江戸時代に建てられたわら葺平家建ての主家が町指定史跡として残されていたようだ。大名や例幣使や公卿門跡衆の休泊を主記す関札も50余保存されているという。織間本陣の家主は俳人として知られ、小林一茶が江戸から信州へ行く途中に訪ねてきている。あいにく家主は不在で会うことができず、一茶は「時鳥(ほととぎす)我が身ばかりに降る雨か」の一句を残して立ち去った。 沿道には蔵造りの家をふくめて古い家が多く見られ、宿場の面影をうかがうことができる。街道から一筋北にはいったところにある飯島歯科は、織間家の前の境宿本陣跡といわれている。建物はあたらしく、標識等もない。 京呉服銭屋は店構えこそコンクリート造りにシャッタードアの現代風であるが、その長い奥行きには土蔵や主家、植え込みなどが続いている大きな屋敷だ。 板倉屋薬局は石造りの建物で、大正ロマンの風情がある。 宿場もつきるあたりに水戸屋という和菓子屋がある。店先に「日光例幣使街道かりやど宿」と書かれた新しい石標を立てている。仮宿とは幕末までずっと間の宿だったことを意味しているらしい。織間本陣を利用した50余人とは幕末のころの話であろう。 東町信号の先で街道は桝形になっていて、「ながしま」そば屋の角を右に入る。裏道に天明7年(1787)の道標が立つ。読み難いが横の説明標によれば「此方世良田たてはやし道」「右江戸なかせ左日光きさき道」「右こくりやういせさき」と刻まれているという。 枡形道は国道を横断し稲荷神社に突き当たる。神社入口に「時鳥(ほととぎす)招や麦のむら尾花」の芭蕉句碑がある。これから先は旧道の道筋が失われ、境栄地区の住宅街を右斜め方向にすすんで県道312号に出る。 県道のすぐ右手の女塚公民館前に女塚薬師道しるべが建っている。卵型の石に「右薬師湯泉道」、「左太田・日光」と刻まれている。もともと法楽寺にあったものをここに移した。その法楽寺は東武伊勢崎線の手前に女塚稲荷神社とならんであった。今は建物はとりこわされて空き地になっており、赤いキャップをかぶった地蔵と馬頭観音が静かにたたずんでいるだけである。 県道は東武伊勢崎線を越えて区画整理された住宅街をジグザグに進み、左手に子育て地蔵尊を見ながら三ツ木橋で早川を渡る。街道は伊勢崎市から太田市に入り、国道17号をくぐってその先の小角田(こすみだ)交差点で県道14号に出、そこを左折して次の小角田北交差点を右折する。 二つの交差点の中間あたりに県道をよこぎる旧道がのこっているが、両方向ともにすぐ先で消失している。南北に走る県道14号は南に向かうと徳川家発祥の地、世良田を経て利根川の平塚河岸まで、北は県道69号から国道122号で足尾銅山跡まで、足尾の銅を江戸に運ぶために開かれた「古銅(あかがね)街道」である。 
6.木崎宿(群馬県太田市)  
群馬県新田町は、現在は市町村合併によって太田市に編入されました。新田町は新田義貞が鎌倉幕府倒幕のために挙兵した生品(いくしな)神社のある町です。この新田町には、かつて天皇の使者が徳川家康が神として祀られている日光東照宮へ参拝するために通る例幣使(れいへいし)街道が通っていました。  
新田町には木崎宿(きざきじゅく)という宿場があり、随分と繁盛していたと語られています。木崎宿に軒を連ねる宿屋には、1軒について2名の「飯盛り女」という給仕を置くことが認められていました。呼び名は飯盛り女ですが、実際は売春婦であり、各宿屋とも大勢の飯盛り女を抱えていました。  
今から20年ほど前に木崎の大通寺という寺で、墓地の改修が行われたときのことです。大勢の飯盛り女たちの古い墓石を調査していた学者たちが、墓石に刻まれた彼女たちの生国が越後の地蔵堂村(旧分水町)が多いことに気づきました。そして、その没年から数えると、彼女たちは幼いときに良寛様と「まりつき」をして遊んだ童女たちであったと結論づけられたのでした。彼女たちの平均死亡年齢は数え年で20歳そこそこであり、一番若い娘は12歳でした。1日に10人もの客をとらされ続けた結果の早没だったのです。  
良寛様は、この頃、地蔵堂村一円を托鉢して回れた国上山の五合庵で暮らしておいででした。当時、良寛様を悪く言う人たちは、「食べ物を他人から恵んでもらいながら、子供と「まりつき」はないだろう」と指をさし、眉をひそめて、良寛様を乞食坊主とさげすんでいたのでした。地蔵堂村を流れる信濃川は、毎年、大洪水に見舞われました。貧しい農家の父母たちは家族が喰ってゆくために、愛しい娘を泣く泣く女郎に売らなければならなかったのでした。良寛様は、今、目の前で「てまり」をついて遊んでやっている幼女たちが、やがて成長すると木崎宿に売られてゆく定めを熟知しておいででしたが、それに対して何もしてやることのできないご自身の非力、不甲斐なさに、心の中でザンザと涙雨を降らせて詫びながらも、必死で笑顔をつくり、必死で「てまり」をついて遊び相手をつとめておいでだったのです。  
木崎宿 木崎宿は日光東照宮に京都の朝廷から例幣使が参拝する為に寛永19年(1642)に開削された日光例幣使街道の宿場町です。街道は中山道の倉賀野宿から日光街道の楡木宿までで、その間15の宿場が設けられ、例幣使の宿泊や休息に利用されました。中でも木崎宿は文化元年の旅籠の数は27軒程でしたが後に63軒となり日光例幣使街道最大の宿場町となりました。又、木崎宿は多くの飯盛女を抱える旅籠が軒を連ねた宿場町として知られ、弘化2年(1845)には260人以上の飯盛女がいたそうです。現在に伝わる木崎音頭(木崎節)は越後から飯盛女として売られた女性が伝えたとされ、そこで唄われた色地蔵は現在でも長命寺境内前にある小堂に祀られています。  
木崎/紀行 旧例幣使街道は国道354号にすこし乗り最初の信号を左折して新田中江田町交差点で右折して県道312号の旧道筋にはいる。先ほど消失していた旧道は昔ここにつながっていた。 静かな中江田の集落の中を進んでいくと間もなく右手に三本辻地蔵があり、傍に平成6年のあたらしい道標が設置されている。各面に「太田日光道三本辻地蔵尊」「四ば倉がの道」「旧日光例幣使道」「秩父中瀬道」と刻まれている。中瀬は平塚河岸の利根川対岸で、中瀬の渡しが両岸を結んでいた。 左手に大きな二本の銀杏の巨木がそびえる医王寺があり、この辺りから木崎宿に入る。日本誉蔵元山崎酒造をみて、新田木崎町信号にさしかかる。 この交差点左手前角に「日光例幣使道木崎宿東太田宿日光西柴宿京都」と書かれた新しい道標がある。東面に「北大通寺銅山道南前島利根川」とあるのは銅街道をしめす。県道311号を北西にたどって新田上江田町交差点で県道69号に合流して北上する。銅街道の終点は県道14号沿いの平塚だったが、元禄年間に利根川が浅くなったため平塚河岸は廃止され、下流の前島河岸に移された。それにともない、銅街道は上江田町から東南にくだって木崎宿を通るようになったものである。 裏面には赤書きで「平成十六年三月吉日飯盛女供養塔建てる会新田町観光協会」とある。木崎宿も多くの飯盛旅籠があることで知られていた。わざわざ観光協会が彼女等のために供養塔を建てようと考え付くほどである。この道標が供養塔を兼ねたものなのか、他の場所にある/建てる予定なのか、その辺はしらない。 交差点の一角を、家の側面を看板書きでうめつくしたようなあずまや理容店が占めている。交差点をわたった右手の「さいとう接骨院」は問屋跡である。歩道沿いに小さな松の木が植えられているが昔から斉藤問屋は大きな松の木で知られていた。 その手前の空地は茂木本陣の跡地といわれている。 「県指定史跡反町館跡2.4km」の案内がある信号交差点を右手に入った所に貴先神社がある。入口の両側には石組みの上に大きな常夜燈が立つ。境内は飾り気がない静けさである。「木崎」はこの神社名「貴先」からきたらしい。なお、反町館とは中世前期に新田一族の館として築造された平城で、新田義貞の本拠地新田荘の中心地にある。 左手、長命寺の前に茅葺きの地蔵堂があり、石碑には「新田町指定重要文化財木崎宿色地蔵指定平成12年4月6日」と記されている。施主に名をつらねる「茂木」「斉藤」はそれぞれ本陣、問屋を勤めた人物であろう。覗き窓から暗闇の中最高感度で撮影した写真には大きな赤帽をかぶったつぶらな瞳の女性顔が写っていた。 もともとは子育て地蔵であったが、木崎宿に売られてきた飯盛女達の安らぎの場として信仰を得、いつしか「色地蔵」と呼ばれるようになった。木崎宿は玉村宿と並ぶ女郎宿といわれ、多くの女性が越後から売られてきて飯盛女となった。彼女達が伝えた民謡「新保広大寺くずし」がもとになって木崎音頭となり、やがて八木節として引き継がれることになる。 木崎下町の三方の辻に、お立ちなされし石地蔵様は、男通ればニコニコ笑い、女通れば石持て投げる、これがヤー本当の、色地蔵様だがヤー。 街道はその先で左折して旧道に入る。かどに「日光例幣使道上州木崎宿太田宿江一里三拾町平成十年十月吉日」と記された石碑がある。 集落をでると田圃の中ののどかな道をゆくがまもなく工業団地にぶつかって旧道は途絶え県道312号にもどる。 すぐに常楽寺の先の二股を右にとって再び旧道にはいり、そのさきで県道を横断してそのまま旧道をたどっていく。宝泉中学で旧道は失われ区画整理された住宅街をぬけて県道にもどる。かっては中学校から宝町交差点にぬける道がついていたと思われる。 由良の集落に入って県道の道はばが狭くなり、旧街道の趣がのこる道筋にさしかかる。左から来る道との合流点に立派な医薬門を構えた旧家がある。 街道が右に曲がる角に文久3年(1863)創業の島岡酒造が大きな屋敷を構えている。白壁の酒蔵に囲まれて「群馬泉」の大きな白文字看板をつけたレンガ造り大煙突がそびえている。醸造をやめて酒卸業に転換した元造り酒屋が多い中で、島岡酒造は活発そうにみえた。 
7.太田宿(群馬県太田市)  
日光例幣使街道7番目の宿場。現在の群馬県太田市の市街地周辺であり、それ以前は「新田荘(にったのしょう)」と呼ばれていた。  
中世は大田郷と称していた(『正木文書』)。1643年の太田宿成立以前の太田が、どのような町であったのかは古記録を焼失し詳細は不明である。  
1170年大田郷田3町7反畠4反10代在家3宇(『正木文書』)。  
1469年金山城築城。  
1565年太田市での買い物の記事(『長楽寺永禄日記』)。  
1580年10月12日武田勝頼は上杉景勝に9月20日「太田宿以下之根小屋悉撃砕」と宛てた(『上杉家文書』)。  
1590年館林藩領となる。橋本家が榊原康政から本陣にとりたてられ建物諸道具を下賜される。  
1643年太田宿が整備される。  
1645年日光例幣使街道を制定。太田宿はその宿場となる。  
1680年天領となる。以後明治維新まで天領。  
1764年9月17日道中奉行管轄になる。  
1864年5月天狗党宿泊。6月追討軍宿泊。11月天狗党駐留。岩松万次郎を尊攘の盟主へ画策するが失敗。これは前年から金井之恭・大館・橋本父子・本島自柳らと藤田小四郎が既に計画していた。周辺都市では追討軍、藩兵、農兵が封鎖や接近を始めていた。  
1866年5月-1867年村方騒動により十人衆慣行廃止。  
1868年1月周辺地域で農兵銃隊取立反対運動が起きる。  
1868年3月8日東山道軍本隊は旧幕軍(衝鋒隊)が8日太田に宿営と情報を得た。9日未明太田を夜襲、点検するが幕軍はおらず居合わせた幕軍先触を捕虜にし梁田にいると情報を得て会議、休息後出立した。(梁田戦争)。  
1868年3月13日一揆が通過し14軒を打ち壊し。諸藩と官軍が共闘し鎮圧。  
1868年7月30日・8月14日水藩脱走奸徒追討隊が宿泊。山口正定は先年の止宿を深謝。  
1872年8月末明治維新により太田宿廃止。  
太田市 太田市は関東屈指の古墳存在地域で、国指定史跡に指定されている天神山古墳や女体山古墳をはじめ確認されているだけで800基以上の古墳が存在しています。特に出土した人物や動物、建物などを模った形象埴輪の精巧性や美術性は他の地域を越えるものとして挂甲武人埴輪が国宝に塚廻り古墳群出土埴輪は国指定重要文化財に指定されています。平安時代末期になると太田市一帯は新田一族が領主となり、周辺地域を開発、運営し大きな功績を残しています。鎌倉時代末期になると新田義貞が台頭し、鎌倉幕府を倒幕、最盛期を迎えますが南北朝の動乱の末、延元3年(1338)藤島荘灯明寺畷で戦死します。その後、新田一族と称する岩松氏が周辺を収めますが戦国時代になった享禄元年(1528)、後に由良氏を名乗る横瀬国繁によって岩松氏が忙殺され金山城を掌握します。由良氏は上杉氏、小田原北条氏、武田氏といった大大名に度々主君を変えることで領土拡大を図りますが天正18年(1590)、当時組していた小田原北条氏が滅ぶと牛久領(茨城県牛久市)に移封となります。江戸時代に入ると朝廷から日光東照宮へ幣帛を奉献するための勅使が通る為に日光例幣使街道が開削され太田市では太田宿、木崎宿が宿場町として設置され多くの人達が利用し賑ったそうです。  
太田/紀行 聖川という小さな川を渡り蛇川にさしかかる。蛇川の椿森橋を渡った右手に木の道標らしいものがあるが、字は消えて読めない。 県道2号に合流、東武桐生線のガードをくぐって太田市街地に入ってくる。八瀬川にかかる永盛橋東詰め、公衆トイレの横に「旧日光例幣使道」の石碑が建っている。このあたりに太田宿入口の木戸があった。 本町交差点を左に1kmほど行くと大光院がある。家康が徳川家の始祖である新田義重を追善供養するために建てられた。例幣使は4月12日、大光院に参詣した後昼食をとる習わしになっていた。往復2kmの寄り道は割愛した。 左手、「太田行政センター」の看板わきに「太田宿本陣跡地」の碑が置かれている。後ろには「本陣ホール」というがらんとした建物がある。太田宿や本陣跡地に関する説明は一切ない。太田宿本陣は、橋本家が勤め代々金左衛門を名乗っていた。建物は昭和58年(1983)に失火により全焼したという。 街道は太田駅の北側を東西に横断する繁華な通りである。宿場町を偲ぶ手がかりを求めて歩いている内にスバル富士重工の広大な敷地にはいってしまった。大街道での大きな街であるのにこれほどそっけない宿場を歩いたのは、岩城相馬街道の助川宿(日立)をおいて他に記憶がない。最後の申し訳でもなかろうが、東本町の県道323号(館林道)分岐点に追分石地蔵と道標があった。道標には「右たてはやしこか道左日光道やきさの駅」と記されている。 旧道はここから富士重工の工場敷地を右斜めにでていたのだが、スバル工場で失われてしまった。町の真ん中に自動車工場が陣取っているのは異様な光景である。もとは自動車工場ではなかった。太田市うまれの農家の長男であった中島知久平は海軍機関学校を卒業して、ここに戦闘機工場をつくった。昭和のはじめには中島飛行機会社は三菱重工と並ぶ航空機製作会社となった。敗戦で飛行機生産は中止、富士重工として自動車生産を開始、スバルというヒット商品を生むに至る。 東部伊勢崎線のガードをくぐって新島町交差点を左折する。街道とは縁遠い景観である。作業所の多い風景からやがて復活した旧道の道筋に合流し、川を渡った先左手に「日光例幣使道馬洗い場跡」の碑がある。その先左手に地蔵堂がある。格子のすきまから除くと赤エプロンを肩からかけ首をすくめたような地蔵がみえた。 その先、国道122号との五差路を左斜めによこぎり、すぐ県道128号線を渡ったところに「鳥居のない神社」がある。賀茂神社だ。長文の由緒書を要約すれば、次のようなことだ。 「例幣使の一行が鳥居の下で休んでいた時、鳥居の上の大蛇の危険を知らせようとした犬を家来が切り捨ててしまった。例幣使は犬を手厚く弔らい、村人は元凶となった鳥居を取り払ってしまった」 神社前の旧道をたどり、コンビニ前の変則四差路の右前角に新しい「日光例幣使道台之郷の辻」の石標と、「北丸山桐生道」「東福居佐野道」「南龍舞小泉道」「西太田道」と記された道標をみて、二股の左の道をすすんで県道128号に合流する。 広々とした風景のなかに三匹のタヌキ親子が穂をのばしたススキの大株のなかにたたずんでいた。 しばらく歩いて「矢場」信号を左折する。最初の十字路を右におれて矢島工業団地の北縁をいくのが旧道である。旧道の延長として交差点の西方にのびる道は旧道ではないらしい。 県道を真直ぐにすすんできた街道が突如直角にまがって大きく迂回するのがどうも気になる道筋である。工場団地ができるまえは山か沼地でもあったのだろう。途中に「日光例幣使道」の新しい標識が設けてあるが道端に散乱する産業廃棄物はおよそ旧街道とかけ離れた光景である。 群馬県(太田市矢場町)から栃木県(足利市新宿町)に入ってようやく街道の雰囲気を取り戻した。八坂神社の入口鳥居左手前に「村社八坂神社」と書かれた石柱があるが、その台座は道標になっていて、「東佐野福居道西太田伊勢崎道北足利道」と書かれている。 佐野は天明宿、福居は八木宿のことである。 新宿町(あらじゅく)十字路で県道128号にもどり、左折したすぐ右手に「旧例幣使街道新宿の辻」の木札があり、「ここは例幣使道と館林道の分岐点で、その道標であった辻地蔵は、北約百メートルの勢至堂脇に残されている。」と記されている。矢場川の手前にその勢至堂があり、石地蔵の台座に「右ハたてはやし」「左ハさの」とあった。 
8.八木宿(栃木県足利市)  
日光例幣使街道の8番目の宿場。現在の栃木県足利市福居町八木。宿場の周りに8本の松があったことより八木の地名が付いた。八木節ゆかりの地である。1845年時点では96戸542人で、例幣使街道の宿場町の中ではごく小規模なものであった。本陣・脇本陣は設置されていた。本陣は寺山家がつとめ、屋号は千代本を名乗った。しかし公家諸大名の宿泊は稀であったとされる。一般庶民階級は、公家諸大名が宿泊する宿場町を避ける傾向があったことから、一般旅行者を主たる対象とする宿場町であったとされる。  
八木宿(栃木県足利市) 下野の御家人のなかで、独特で大きな成長をとげたのは、源姓足利氏です。源義家の三男義国は、足利郡内の私領を譲られ、梁田御厨を成立させました。藤姓足利氏滅亡後、名実ともに源姓足利氏が足利壮を領有化。後に義兼の居館跡に建てた堀内御堂が足利氏の氏寺として興隆することとなります。 例幣師街道の宿場町であった八木宿(現足利市福居町)は、隣接する梁田宿(現足利市梁田町)とあわせて繁栄をみせ、多くの旅籠が軒を連ねていました。 八木宿の旅籠で働く飯盛女たちが歌った「新保広大寺くずし」が八木節の原型ともいわれ、明治時代になって、山辺村(現堀込町)の渡辺源太郎(初代堀込源太)がアップテンポに編曲し、現代の八木節となったといいます。足利織姫神社の石段を登る途中で、堀込源太の声を聴くことができます。  
八木/紀行 矢場川を新宿橋で渡った左手に「旧例幣使街道」の木札が立っており、「東下野国日光まで二十里六丁」「西上野国倉賀野まで十一里十八丁」と墨書きされていた。東西で国が違うのがうれしい。西の群馬県が上野国、東の栃木県が下野国、ともに人名・地名としてはなじみある上野(うえの)と下野(しもの)であるが、これを「こうずけ」、「しもつけ」と読むのは容易ではない。 そのわけを言おう。 古代、現在の群馬県と栃木県にまたがって毛野国(けぬのくに)があった。律令制に基づいて毛野国は西の上毛野国(かみつけぬのくに)と、東の下毛野国(しもつけぬのくに)に分割された(京に近いほうが上である)。その後、713年に施行された諸国郡郷名著好字令によって、全国の国名が漢字2文字に統一された。最初、「野」をとって「上毛」「下毛」とする案もでたが「上毛」はともかく「下毛」はいかがなものかと、反対がでた。そこで「毛」の字をとることにして「上野」「下野」となったのだが、読み方はなぜか、「上毛(かみつけ)」「下毛(しもつけ)」のままにおかれた。本来なら「かみつぬ」「しもつぬ」となったところである。 「毛」の字は国名からはずされたが、地域名としては上毛、東毛、西毛として群馬県にのこされている。栃木県に下毛はみあたらない。間接的に、上毛と下毛をむすぶJR両毛線の名にその痕跡をとどめるのみである。 ちなみにかっては九州福岡県南部に上毛(こうげ)郡、大分県北部に下毛(しもげ)郡があったから、下毛国があってもおかしくはなかった。私は『忠臣蔵』で「上野(こうずけ)」の読み方をはじめて知った。「野」は古代、「け」と読まれていたのだろうと推測していた。 街道はその「毛」論争を引き起こした下野国にはいり、堀込町交差点にさしかかる。角にある宝性寺に八木節元祖堀込源太の碑と墓がある。木崎宿など例幣使街道筋の宿場に越後から売られてきた飯盛女たちが歌っていた越後民謡が盆踊り歌となり、木崎音頭となって八木宿にも伝わってきた。明治末頃に八木の隣村堀込村の馬方堀込源太がそれを進展させて「八木節」を完成させた。堀込源太は各地に招かれ飼い葉桶を叩きながらその美声で盆踊りの音頭をとった。 ところで、堀込交差点を北に2kmもいけば足利市内にいたる。なぜこの歴史ある大都市を例幣使は通らなかったのか。例幣使街道は徳川家発祥の地を通る。祖先新田氏の本拠地でもある。家康の聖地日光に詣でる旅人が新田氏の宿敵足利氏の地を通ることは許されなかった。 「ようこそ八木節のふるさとへ」の看板がむかえる八木宿へ入ってくる。現在の足利市福居町である。昔は宿内に八本の松があったので八木と呼ばれた。 郵便局辺りから東武鉄道福居駅入口辺りまで500mほどの短い宿場だが、他宿にまして多くの飯盛女をおいていた。特に街道の一路北の旧栄町を中心とする「廓街道」は近隣の飯盛女を集めて繁盛していたという。栄町の遊郭は昭和のはじめまで賑わった。その路地を歩いてみたが一軒だけ「○○道場」という看板を掲げた古い建物をみかけたほかは普通の住宅地となっている。 八木宿交差点に「旧例幣使街道八木宿本陣跡」と書いた大きな看板を掲げる寺山商店が本陣跡である。 路傍に「八木宿」の立て札があった。 例幣使街道六番目、下野国最初の宿場である。例幣使は、毎年4月11日太田宿に泊まり、八木や梁田で小休止し、12日佐野天明宿泊りとなるのが通例であった。八木節は、当宿で働く越後出身の女性が歌った「くどき節」を原形として、初代堀込源太が創作した民謡で、ここ八木宿は、八木節発祥の地である。西太田宿まで2里10丁東梁田宿まで30丁堀込二丁目商工振興会足利市教育委員会足利市重要文化財指定足利市八木節連合会 街並のところどころに宿場時代の面影をのこす建物が見られる。島岡紙印刷の建物は二階の手摺に風情を残している。その向かいの福居薬局も奥行きの深い敷地に重厚な瓦屋根をのせた土蔵をのぞかせる旧家のようだ。 右手に黒々とした板造りの家がある。二階の板窓は格子で保護されている。このあたりに大黒屋という庄屋宅があった。 左手の「母衣輪(ほろわ)神社」は八木宿の鎮守として崇敬されている。母衣とは飾りまたは流れ矢を防ぐために鎧の背につけるもの。古く倭建命が東征の折、武具(母衣)を奉納したと伝えられる。境内のイチョウは推定樹齢2〜300年という古木で、足利市重要文化財(天然記念物)に指定されている。 東武伊勢崎線の踏切を越えて行くと、左手に古い立派な家がある。二階窓手摺がなまめかしい旅籠風の建物につづいて実直そうな門構えの武家風屋敷が並んでいる。増田医院の本家のようである。 
9.梁田宿(栃木県足利市)  
梁田/紀行 道が大きく左に曲がる角のY字路に自然石の庚申塔とまだ新しそうな道標があり、「東南久野ヲヘテ館林方面ニ至ル」「東梁田佐野方面xx」と刻まれている。 国道50号の大きな交差点を横断し、「梁田町」信号交差点を通り過ぎ、700mほど先の丁字路を左折して旧梁田宿場街にはいっていく。コンビミとうなぎや金箱の店が目印だ。 渡良瀬川から流れてくる朝霧で町は息をひそめたような静けさに沈んでいる。通りはたかだか500mほどで渡良瀬の土手に突き当たる。 中ほどにある長福寺の入口に「梁田宿」の案内板が立っている。総戸数105軒という小さな宿場に本陣が2軒もあったのは驚きだ。梁田宿は戊辰戦争に巻き込まれている。梁田宿の飯盛女も八木に劣らず評判だった。幕軍が飯盛女を相手に楽しんでいたところを官軍に急襲され、恥辱的敗戦をきした。幕軍の死者64名が渡良瀬川畔の戦死塚に葬られたが、その碑は後長福寺に移された。 本陣があったという辺りの家並みをながめてみるが、それらしき建物はみあたらなかった。沿道の家並みは建て替えられていて昔の面影はない。 道は渡良瀬川に突き当たって、梁田宿は終わる。渡良瀬川の河川敷は赤茶けた芝生が広がるゴルフ場である。かってはここから対岸の川崎天満宮付近へ船で渡った。ふりかえると梁田の田園に気嵐が揺らいで幻想的な風景が展開していた。 川崎橋で渡良瀬川をわたる。霧がうすくのこって川面はまだ眠りからさめていない。今は清らかな流れで、中洲に水鳥が羽を休める平和な光景だが、明治時代はこの川に足尾銅山から排出された鉱毒が流れ込んで渡良瀬川沿岸の田畑を荒廃させてしまった。公害の原点となった川である。我国最初の公害問題に立ち向かった男を次の宿場で知ることになる。 川を渡り堤防伝いに梁田宿旧道の対岸付近までもどり、堤防下の川崎天満宮に降りる。堤防から赤城山と妙義山のなだらかな山並みが遠くに眺められた。 例幣使は必ず川崎天満宮に参拝する習わしになっていた。例幣使が残し3人の和歌の短冊が保存されているという。その中の1人は天保14年(1843)、玉村宿の本陣に泊まったときに歌を残している綾小路有長である。 行きかえり旅の願ひも天満るかみのめぐみをやなだにぞ知る 渡良瀬川堤防下の道が旧街道の道筋である。道は東に向かいガードをくぐって集落の端で道なりに左に曲がっていく。最初の四つ辻を右に折れる。その角に上部が欠けた石仏が二体、向かいの窪地にも如意輪観音等の石仏がある。 旧道はその先で途絶え、県道128号に出て、尾名川、出流(いずる)川をわたる。出流川橋から1kmほどあるくと右手の小山(岡崎山)の北裾で右の旧道に入って行く。入口に一本松地蔵尊があり「日光例幣使街道(元三大師入口)」の案内板が立っている。 旧道は旗川に沿って北に進み県道67号と合流する。この付近に一里塚があった。合流点手前左手に古い道標が2基ある。元文5年(1740)と、寛政3年(1791)建立のもので、双方に「佐野道」とあるのがこれからめざす道である。 県道を右折して整然とした寺岡の町並みの中をすすむ。旗川の手前の丁字路を左に入る。角にかまえる家は門と土蔵を両袖に配した立派な家である。 街道は土手にあがり、そこから例幣使は旗川を歩いて渡った。旗川は、冬は水が枯れ夏でも深さは50cmほどの浅い川である。渡り場の土手下に立っている地蔵は寛文10年(1670)の古いもので、例幣使街道の整備時期に建てられた。 
10.天明宿(栃木県佐野市)  
天明(佐野)/紀行 白旗橋を渡り、土手道を左折する。この道が寺岡村(足利市寺岡町)と免鳥村(佐野市免鳥町)の境をなす。左下の河川敷を利用したゲートボール場から一汗かいた高齢者の一団が用具を手にして引揚げてきた。隣の牛舎では暇をもてあました番犬が不審者をみつけて吠えちらす。その先の丁字路(電柱に「洋服直し田島」の看板)が寺岡渡河地点の対岸にあたる。ここを右折して土手を下り、旧道の雰囲気がのこる免鳥集落を通り抜ける。 日光例幣使街道両毛線の第二足利街道踏切兼変則十字路を斜め右方にわたり、花岡集落にはいる。ここはさらに趣のある家並みである。漆喰をふんだんに塗り固めた白壁土蔵がまぶしい。「船渡川」という姓がなんとも江戸的でうれしくなる。 「芦畦(あしぐろ)の獅子舞」の収蔵庫、アルミ柵に囲まれた聖天宮の常夜燈、唐突に立つ新しい日光例幣使街道石柱などを見て才川の清流をわたる。 その先両毛線の第一足利街道踏切をわたって斜め前方の旧道延長をすすみ佐野市街地にはいっていく。 大橋町六差路交差点をこえて直進すると秋山川に突き当たる。左手に「諏訪大明神帝釈天王水神宮」と書かれた石碑が三猿を浮彫にした台座に立っている。かってはここに猿橋があって秋山川を渡ったのだが、今は右手の中橋を渡る。短いながら古い石橋で風情を感じさせる橋である。街道は中橋を渡ったところから左におれて県道67号大町交差点に出る。ここから県道沿いに一直線の天明宿が始まる。 天明宿は佐野市の中心であるが、地名としては中橋から例幣使街道に並行して東西にのびる天明町に残るのみである。 佐野は鋳物で有名である。藤原秀郷が河内国から鋳物師(いもじ)を連れてきて武器などを作らせたのが始まりと言われている。佐野の鋳物師は8月1日の八朔に宮中へ燈籠を捧げる習わしになっていた。近衛天皇の時代(1141年〜1155年)に、天命(てんみょう)家次という鋳物師が鉄の燈籠を捧げたところ、その燈籠の光は天までも届いた。天をも明るくしたとして「天明」という苗字を宮廷から贈られた。以降、佐野の鋳物師は天明の鋳物師として全国に知られるようになった。宿場名が佐野でなく天明になったのは鋳物の所為といえなくもない。 天明宿を歩くまえに関東三大大師である佐野厄除け大師(惣宗寺)に寄っていく。もと春日岡にあったものが佐野信吉の佐野城築城の際ここに移転してきた。 垂木の先を金色に輝かせた山門をくぐると怪しげに鈍い輝きをはなつ金の梵鐘が目を引く。鐘楼の下に来てどのように感動してよいものか考えてしまった。素朴な印象は「金メッキじゃないの」という疑問。次に、「純金なら柔らかくて打てばへこむんじゃないの」という疑問。合金なのだろう。案内板には「金の釣鐘」としか書いていない。多分この鐘は撞かないのだろうな。 右手奥に東照宮がある。天海徳川家康の霊柩を久能山より日光遷霊の途中、元和3年(1617)3月27日惣宗寺に一泊したのが縁で、諸大名の寄進により造営された。 墓地の入口に田中正造の墓が立つ。田中正造は佐野市に生まれ明治23年(1890)の第1回衆議院議員選挙で当選し、生涯足尾銅山の鉱毒問題に取り組んだ元祖エコ活動家である。その話に感動した石川啄木の歌を刻した碑がそばに建っている。 夕川に葦は枯れたり血にまとう民の叫びのなど悲しきや 青梅街道が成木の石灰を、三国街道が佐渡の金を、そして足尾の銅を江戸に運んだのが銅(あかがね)街道である。田中正造を理解するにはこの道を歩くに限る。 肝心の本殿が一番印象薄かった。祈願受付は大きな間口を開けて、各種祈願料のメニュが掲げられている。月祈願が5千円、毎日祈願は1万円、特別祈願になると3万円から5万円にはねあがる。費用対効果でいえば毎日祈願1万円が割安にみえる。願書受付のように、あるいは集団健康診断のように、すべてが流れ作業である。 門前で佐野ラーメンを食って宿場入口の大町に戻った。 天明宿の家並みはモダンな建物に混じって古い家が多く残っている。左手に重厚な屋根造りの家が二軒ならびそのとなりには蔵造りの店が続いている。近寄ってみるとその一軒には「大真縫製株式会社」と墨書きされた板看板がかかっていた。 本町交差点角の「土佐屋」は昔ながらの屋根付き看板を出している。交差点から昭和通りにはいった左手にある4軒長屋風建物が昭和時代の懐かしさを起こさせる。一階の出入り口の様子こそちがえ、二階の造りは見事に4軒そろって同じであった。 右手の創業弘化元年(1844)創業の菓子司「大坂屋」は重厚な店蔵で、二階の格子と板看板が紋様白壁を両側に配して端正な佇まいを見せている。 次の交差点手前左手の小沼呉服店も間口一杯に紺暖簾をかかげ、一階屋根には唐破風屋根付き立て看板を乗せた趣ある店である。「家紋のまち佐野」キャンペーン参加店のようだ。 その先群馬銀行の前に「あいさつ通り」と題したパネルが設置され、この辺りに本陣があったことが記されている。 駅入口交差点を左にとって佐野城跡の城山公園に向かう。途中、駅前南口ロータリーに司馬遼太郎の記念碑がある。彼は戦時中の一時期、ここに住んだ。そのときの町の印象が良かったようである。 この町は、13世紀からの鋳物や大正期の佐野縮など絹織物による富の蓄積のおかげで町並には大きな家が多く、戦時中に露地に打水などがなされていて、どの家もどの辻も町民による手入れがよくゆきとどいていた。軒下などで遊んでいるこどももまことに子柄がよく、自分がこの子らの将来のために死ぬなら多少の意味があると思ったりした。 駅の北口から城址公園に直結している。 佐野の歴史は平安時代の武将藤原秀郷にさかのぼる。天慶3年(940)天慶の乱で平将門を破り下野守になった秀郷は、犬伏宿北方4kmにある唐沢山に唐沢山城を築いた。その子孫が佐野氏である。慶長7年(1602)、第30代唐沢山城主佐野信吉の時、家康の山城禁令で唐沢山城は廃され春日岡に城を移した。その後間もなく佐野氏は改易となり、佐野藩は井伊家領や天領に細分された。築かれたばかりの佐野城(春日岡城)も廃城となった。今は石垣、濠、石畳が残るばかりである。 駅の自由通路を通り抜けて再び街道にもどる。 「佐野女子高入口」信号をこえた次の信号交差点を左折して県道141号(唐沢山公園線)に入る。右手に大谷石と思われる石蔵、その先でJR両毛線の「例幣使街道踏切」をわたり、続いて東武佐野線の高架下をぬける。道は妙願寺に突き当たり、右折して犬伏宿にはいっていく。妙願寺の大屋根は優に三階建ての高さに匹敵して目を見張らせた。 
11.犬伏宿(栃木県佐野市)  
犬伏/紀行 堀米町交差点をこえると、犬伏上町、仲町、下町、新町と往時の宿場割を維持している。家並みは概して新しいが所々に面影を残す家や土蔵もみかけられる。 圧巻なのは、下町の犬伏小学校向かいの旧家であろう。複雑に入り組んだ甍、医薬門をはさんで両袖にながくめぐらされた土壁と格子板の塀は肌色に統一されて暖かい。塀に仕切られたくぐり戸や覗き窓が愛らしさを増す。東端にどっしりと構える土蔵は一部の漆喰がはがれてひなびた屋敷全体と調和を保っている。かっての商家であったらしい。 本陣は向かいの小学校にあった。今は碑もない。郵便局の東隣の蔵造りの柳月堂も古そうな店である。 民家の敷地奥にめずらしい形の小さな蔵をみた。越屋根が立派で櫓のようだ。 その先の十字路を北に4kmほどいったところが唐沢山で、平安の昔そこに藤原秀郷が城を築いた。 犬伏新町の東端にあるこんもりとした小山は米山古墳で、北関東最大の前方後円墳であるという。街道傍に不動堂がある。 街道は米山古墳をまわりこむように坂を下り、東北自動車道の高架下を通ってすぐ左に折れ道なりに右にまがって川を渡る。元は自動車道高架手前から続いていたはずだ。関川町の短い旧道沿いに天保2年(1831)の立派な常夜燈がある。車道から50m離れただけで旧街道の落ち着きが残っている。 すぐに車道にもどり三杉川をこえ両毛線の第二佐野街道踏切を越えて交通のはげしい県道67号に合流する。前方に横たわる丘陵は三毳山(みかもやま)で、万葉の時代から歌にも詠われた古い土地柄である。 下野の三毳の山の小楢のすま妙(ぐわ)し児ろは誰が筒(け)か持たむ(巻143424) 下野の三毳山に生えている小楢のみずみずしい若葉のように美しい娘は、誰の食器を手にするのだろう。誰の食事の世話をし、誰の妻になるのだろうか。 三毳山の南麓あたりに律令時代の官道、東山道の三鴨駅家(うまや)があった。北側は金属加工工場地帯で、万葉の里どころではない。産業団地を過ぎ上り坂の手前の二股に地蔵堂があり、台座に「右日光道左いわ舟にっこう似ぬける道」と刻まれている。地蔵はめずらしく青色の前掛け姿であった。 街道は右を行き、佐野市を離れて下都賀郡岩舟町下津原に入る。 
12.富田宿(栃木県栃木市)  
富田(とんだ)/紀行 岩舟町に入ってすぐ右手に「慈覚大師誕生の郷」の案内標柱が立っている。慈覚大師、円仁は最澄の高弟で非常に優秀だった。出生地については壬生という説もある。壬生寺には産湯の井戸まであった。 岩舟町下津原から静、和泉と県道67号を東進する。岩船駅南方に馬宿という地名が残っている。馬家のなごりではないかと考えられ東山道三鴨駅家比定の根拠の一つとされた。 和泉交差点で県道11号を横断する。岩船町にはいってここまで3度、県道の北側に残る短い旧道をゆく区間があった。いずれも車が通らないことを除いてはあまりかわらない風景である。 旧街道は和泉交差点の次ぎの丁字路、岩船静和郵便局の手前を左にはいる。天満宮のところで左にまがり県道11号を大きく横切ってパチンコ店の前から旧道の続きを歩く。弓なりにすすんで再び県道の変則四差路交差点を斜めに横切る。ここから大平町富田地区である。 複雑な四差路の中央に例幣使街道の標識がたっていて、ここで曲がるのではないと教えている。その先小公園のところを左に入っていく。結局先ほど左にでていた道に合流し、旧富田宿場街にはいっていく。右手に薬師堂があり、昔はここに宿場の南木戸が設けられていた。 街並は整っていて広い敷地に大きくて立派な家が多い。左手民家のブロック塀に「旧例幣使街道京都…(中仙道)高崎−足利−佐野−富田宿−栃木−今市−日光」と書かれたパネルが貼り付けられている。街道歩きの好きな主人の家だろうか。「富田宿」にだけ下線がしてある。 宿場の中心付近と思われる富田交差点の左手角の和久井氏宅が本陣跡である。南入口門に富田宿本陣跡の標柱がある。建物は白壁土蔵のほかは新しく建て替わっている。 八坂神社を通り過ぎ道が右にまがるところに明治時代の洋館を思わせる建物がある。用水路の西側にある大平下病院の前身であろうか。その先碓井クリニックの北隣は道沿いに二階建て蔵造りの家が建つ広い敷地だ。 この庭に樹齢300年のモチノキがあるというのでのぞいていると、おばあさんが出てこられて案内してもらった。雌雄二本あるうち、水路に近い雄の木が枯れたという。「かわいそうに。水を吸えなくなった。」水路の護岸工事で庭が乾燥したというのである。 そこから300mほどの沿道は格子造りの古い家が残り宿場の面影が色濃い家並みである。右手の旅籠屋島田屋安兵衛跡といわれる家は連子格子が見事な主屋と右側に控える棟門が上格の旅籠を偲ばせる。 紅柄塗りの地蔵堂のところで宿場は終わる。道が広く直線となり、ここから以北は区画整理がなされたことがうかがえる。旧道は県道「ぶどう団地入口」交差点をかすめ、右斜めの細道にはいっていく。すぐ左手に胴部分の竿から上がない常夜燈がある。竿には「日光山」「太平山」等と刻まれている。石段の両側に狛犬が控える立派なものだ。 その先は田圃の中を在来の家と開発住区がまじりあい、旧道の道筋は殆んどが失われている。永野川近くになって旧道がのこり、川沿いの民家の前を通りぬけて堤防にでる。土手下に十九夜塔など古い石仏が隠れていた。永野川に架かる永久橋の古い方をわたる。 堤防の道をすすみ最初の丁字路で右におりて堤防下の道を北にたどるのが旧道の道筋である。すぐに堤防の道に合流し、県道11号の川連交差点にさしかかる。 右手の林に川連天満宮がある。この場所は中世時代、川連氏の城があったところである。昭和50年代まで、交差点のすぐ北の両毛線跨線橋の下は掘割の跡とおもわれる低地になっていた。 川連交差点を横断し、「栃木南高校入口」信号を左折してまもなく栃木市境町に入る。 
13.栃木宿(栃木県栃木市)  
栃木宿(栃木県栃木市) 栃木の商都としてのきっかけは例幣使街道の宿場町となったことからはじまります。 さらなる発展の原動力となったのは、巴波川の舟運での江戸との交易であるといわれています。江戸からは日光御用の荷や塩が、栃木からは木材や農産物などが運ばれ江戸の終わり頃には栃木の商人達は隆盛を極めました。その豪商達が白壁土蔵を巴波川の両岸に建てていきました。栃木市の蔵の街並みは、かつて栄華を極めた商都としての歴史が築いてきたものなのです。  
栃木/紀行 町工場地帯をすぎてその先両毛線の高架下をくぐり、境町で東西に走る広い通りにでる。旧道はそこから右に一筋移動して水路沿いの道を北に入る。クランク状に曲がるので鍵の手のようだが、最近まですんなりと一本の道であった。駅前の整備事業で斜めの近道が削られた結果現状のギザギザ形になったものである。 県道を離れて道なりに北に進むとすぐ右手の路地口に「例幣使道」の案内標柱がある。東山道から説き起こしたユニークな道標だ。例幣使道の案内のうち「東へ(約300m)旧沼和田村川間の分去れから左へ巴波川大橋を渡り栃木町を経て日光・宇都宮方面へ」とあるのが、これから歩こうとする道である。「旧沼和田村川間の分去れ」とは旧道が新県道31号と合流する地点を指す。そこを直角に左折していく。 「旧沼和田村川間の分去れ」までの間に同様の標柱が3ヶ所にあった。 開明橋で巴波(うずま)川をわたったところが栃木宿入口である。すぐ先の栃木警察署前で「蔵の街大通り」に合流する。私は蔵が好きだ。小細工を施さずに愚直にたたずむ地味な姿が好きである。白壁も、薄黒壁も、土壁も、海鼠壁も、板壁でも、石蔵でも、家紋がなくてもよい。漆喰がはがれていたり、土壁がくずれて藁が露出しているのも親しげで好ましい。どこかでピンク色の土蔵さえみた。 しばらく蔵ばかり見て歩く。建物の前に説明板が立っている特別のものもあれば、営業中の普通の店舗である場合も多い。蔵でなくとも古くて風情ある木造建築も多い。一々説明するのは省く。 栃木は皆川広照が天正19年(1591)に築いた栃木城の城下町として始まり、皆川氏没落後は巴波川の船荷集積所として、また例幣使街道の宿場として発展した。例幣使は4月13日、本陣の長谷川宅で昼食をとるのが習わしであったという。場所は倭町交差点の先左手ということだが、何の手がかりも見つけられなかった。 栃木宿は万町交番前の信号交差点で終わる。旧道はここを左折、すぐに五差路を右斜めに鍵の手状にまがっていく。ゆるやかなうねりを描く細道をとりまく家並みはまさに小江戸の雰囲気である。町名の「嘉右ヱ門」は当地屈指の旧家岡田嘉右衛門に由来する。岡田嘉右衛門は江戸初期この地に移住して荒地を開墾し新田を開発した。名主役本陣を勤めた他、畠山氏の領地時代には代官職を代行している。その広大な屋敷が畠山陣屋跡・岡田記念館として保存されている。 神明神社の向かいも千本格子が美しい商家である。江戸情緒豊かな道をすすんでいくと芳ばしい臭いが漂ってきた。ヤマサみそ製造工場で、白壁土蔵の屋根ごしに白い煙突がみえる。 左手の二股路に栃木市最大級という庚申塔がどっかと坐っている。寛政12年(1800)の建立だ。 その先の油伝(あぶでん)は天明年間(1781〜89)の創業という老舗である。油屋からはじまり2代目から味噌の醸造を始めた。暖簾といい、門構えといい、簾のアーケードといい、時代劇映画に格好のセッティングを提供している。店の板塀の前に「日光例幣使道」の石標とがっしりした案内板が立っていて、このあたりは古い家並みが残っていると、宣伝している。江戸時代に日光東照宮の例祭(陰暦4月16日)には、朝廷から幣帛を供えるために、毎年勅使が差遣された。これが日光例幣使である。この奉幣使は京都から中山道を下り、倉賀野宿(群馬県高崎市)で分れ、梁田宿(栃木県足利市)・天明宿(佐野市)・栃木宿・楡木宿(鹿沼市)を経て、今市で日光街道に合流して東照宮に到着する。この倉賀野宿・楡木宿間を一般に日光例幣使街道と称している。栃木宿から次ぎの合戦場に向かう道筋は、古い家並みが残り往時を偲ばせてくれる。 旧街道は「例幣使通り」交差点をこえ、大町郵便局の先の二股を右に行く。分岐点に新しい道標が立つ。ここに栃木宿の北木戸があった。平柳町1丁目交差点で県道3号に合流し、栃木市から下都賀郡津賀町合戦場にはいる。 
14.合戦場(かっせんば)宿(栃木県栃木市)  
合戦場/紀行 東武日光線をわたるとそこはもう合戦場宿である。何の合戦場であったかといえば、戦国時代の大永3年(1523)、宇都宮忠綱と皆川宗成の軍が戦った川原田合戦である。宇都宮忠綱は鹿沼地方を制圧した勢いに乗じて皆川(栃木宿の北西6kmの地)めざして侵攻してきた。河原田(合戦場宿の西方1km)で迎えうった皆川軍は激戦のなかで当主宗成と弟の成明が討死、皆川方は総崩れの状態にあったとき小山・結城・壬生氏の連合軍が皆川方に駆けつけて宇都宮軍を敗走させた。 郵便局手前の交差点を左におれて、東武日光線の西側にある磐根神社による。途中、左手に医薬門を構えた大きな家がある。立板塀をめぐらせ、主屋の壁面も板で覆われた暖かい感じのする家である。旧本陣かと思ったがそうではない。 線路をこえ磐根神社の古びた石鳥居をくぐってすがすがしい表参道をいくと慶長元年(1596)創立の古社が静まり返った森の中に鎮座していた。 街道に戻り、合戦場郵便局の道むかいにある板造りの二階建ての家は日立製作所の創業者小平浪平生の生家である。小平浪平は、明治7年この地で生まれた。 すぐ先「合戦場公民館入口」の路地に面して建つ家は若林繁氏宅で脇本陣跡である。その向かいの秋田章氏宅が本陣跡。いずれも建物は新しく、往時をしのばせる面影はない。合戦場宿は500mほどの小さいもので、すべてがここに集まっているようだった。 宿場をぬけ升塚集落の右手に「升塚」の案内標識が立っている。街道からすこし入った一角に小さな塚が築かれ上に「升塚」と刻まれた板碑が立っている。これが合戦場宿の由来となった川原田合戦の戦死者を葬ったものである。 街道沿いに石蔵が目に付くようになってきた。石材は大谷石で、独特の肌合いをみせている。宇都宮に近づいてきている。 街道は家中地区にはいってすぐ右斜めの短い旧道にはいる。途中右手に赤い地蔵堂があった。 
15.金崎宿(栃木県栃木市)  
金崎/紀行 家中集落をぬけるとしばらく単調な道が続く。 北関東自動車道の下を通り上新田交差点で3号バイパスと交叉し「重要文化財薬師如来」の案内標識をすぎると東部金崎駅に近づく。そのあたりから宿場がはじまるのだが、そのような雰囲気は感じられない。 数軒の古そうな家が残っている。そのうちの一軒は一階が見事な格子造りで、二階窓のてすりや入母屋造りの一階入口などは遊郭を思わせる建物である。門から中をのぞくと内側にも門があってその後ろには姿のよい松の木と白壁の土蔵がみえた。 宿場のはずれに旧本陣の古澤利氏宅がある。長い黒板塀に棟門のある大きな屋敷である。 金崎宿の散策はそれで終わる。 例幣使街道最後の宿場としては少々ものたりなかった。 旧街道は集落の終わりにある宮崎商店前の二股を右に入る。すぐに思川の土手につきあたり、国道293号に出て思川に架かる小倉橋を渡る。見晴らしが良く、遠くに見える雪で輝く山は男体山であろう。橋をわたると鹿沼市だ。 
16.楡木宿(栃木県鹿沼市)  
楡木/紀行 橋を渡って堤防をしばらく歩いて国道293号に合流する。 まもなく右手に小さな磐裂根裂(いわさくねさく)神社がある。合戦場にあった磐根神社も祭神は磐裂神、根裂神だったから、磐裂根裂は磐根のフルネームのようだ。磐を砕き根を裂く開墾の神、農耕の神ということであろうか。 磯町集落には敷地もやたらと大きく立派な門構えの家が目立つ。感心しながら豊かな農家を眺め歩いていくうちに終点の楡木追分に到達する。 分岐点に見慣れた追分道標があった。 
17.奈佐原宿(栃木県鹿沼市) 
18.鹿沼宿(栃木県鹿沼市)  
鹿沼宿(栃木県鹿沼市) 鎌倉期、日光山を信仰した源頼朝により、鹿沼を筆頭に66ヶ村を神領として日光山に寄進されました。戦国時代には、日光山と供に鹿沼を支配する各領主より、庇護されてきました。後に豊臣秀吉に帰順し、徳川の代に宿として少しづつ徐々に形成し始めます。壬生道中・例幣師街道の宿場町として鹿沼は発展を続け、人口も慶長年間のころより3〜4倍以上に増え、鹿沼のシンボルともいえる今宮神社の例大祭における「彫刻屋台」が完成していくのです。現在では10月第二の土曜・日曜日に毎年開催され、昔の庶民の「粋」「力」の競い合いを今に伝えています。 
19.文挟(ふばさみ)宿(栃木県日光市) 
20.板橋宿(栃木県日光市) 
21.今市宿(栃木県日光市)  
日光街道の20番目の宿駅(宿場町)である。現在の栃木県日光市今市。今市宿は江戸時代に下野国都賀郡にあった宿場町。もと今村と呼ばれていたが宿駅となって住民が宿に集まって活況を呈し、定市が開かれるようになったことから今市宿となったと云われている。この宿は一街道の単なる一地方宿ではなく、日光街道のほか、壬生道、会津西街道、日光北街道などが集まる交通の要衝に立地する宿駅であった。日光例幣使街道と日光街道の追分には地蔵堂がある。ここに安置されているのは像高2メートルの石造地蔵菩薩坐像である。もと空海(弘法大師)が大谷川含満ヶ淵の岸辺に建てた石仏と云われ、大水で流されて今市の河原に埋もれていたのをここに堂を建て安置したものと云われている。徳川吉宗が日光参詣した折、この地蔵が白幕で覆われているのを見て、後は白幕で覆わないよう命じ、この地蔵堂の後ろで朝鮮人参を育てさせたという。正確な造像時期は不明だが、室町時代頃の作と推定されている。天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、今市宿の本陣は1軒、脇本陣1軒が設けられ、旅籠が21軒あり、宿内の家数は236軒、人口は1,122人であった。 
 

 

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