僧侶修行の旅

比叡山延暦寺1延暦寺2天台宗浄土信仰比叡山〜法然栄西親鸞道元日蓮南都六宗1南都六宗2南都六宗3鎌倉仏教1鎌倉仏教2鎌倉仏教3布教と交通
浄土宗1浄土宗2知恩院臨済宗1臨済宗2臨済宗寺院浄土真宗西本願寺東本願寺東本願寺[東京]曹洞宗1曹洞宗2永平寺1永平寺2總持寺1總持寺2日蓮宗1日蓮宗2久遠寺1久遠寺2池上本門寺時宗遊行寺1遊行寺2・・・
法話 / 浄土真宗1浄土真宗2浄土真宗3曹洞宗日蓮宗・・・
仏教雑話 / 仏教仏教史1仏教史2仏教史3鎌倉仏教と親鸞親鸞と仏教精神近世の地方寺院と庶民信仰真言僧儀海
 

雑学の世界・補考   

 

  浄土宗 臨済宗 浄土真宗 曹洞宗 日蓮宗 時宗
平安時代 法然          
1133 美作          
1134            
1135            
1136            
1137            
1138            
1139            
1140   栄西        
1141   備中吉備        
1142            
1143            
1144            
1145 比叡山          
1146            
1147            
1148            
1149            
1150            
1151            
1152            
1153   比叡山        
1154            
1155            
1156            
1157            
1158            
1159            
1160            
1161            
1162            
1163   京都/備中        
1164            
1165            
1166            
1167            
1168   〜宋〜        
1169   京都/備中        
1170            
1171            
1172     親鸞      
1173     京都日野      
1174   鎮西        
1175 京都          
1176            
1177            
1178   京都/備中        
1179            
1180            
1181     比叡山      
1182            
1183            
1184            
鎌倉時代            
1186            
1187   〜宋        
1188            
1189            
1190            
1191   宋〜筑前・肥後        
1192            
1193            
1194            
1195            
1196   京都        
1197            
1198            
1199   鎌倉        
1200   京都   道元    
1201     京都 京都    
1202            
1203            
1204            
1205            
1206            
1207 讃岐   越後国府      
1208            
1209            
1210            
1211 京都          
1212 京都・東山大谷          
1213       比叡山    
1214     善光寺/上野      
1215   京都・建仁寺 常陸      
1216     笠間郡稲田郷      
1217            
1218            
1219            
1220            
1221         日蓮  
1222         安房小湊  
1223            
1224       〜宋    
1225            
1226            
1227            
1228            
1229       宋〜京都    
1230            
1231            
1232            
1233            
1234            
1235     京都      
1236            
1237            
1238         鎌倉 一遍
1239           伊予
1240            
1241            
1242         比叡山  
1243       越前    
1244            
1245            
1246            
1247            
1248       鎌倉    
1249       越前    
1250            
1251           太宰府/肥前
1252            
1253         安房小湊  
1254       京都・覺念邸 鎌倉  
1255           伊予
1256            
1257            
1258            
1259            
1260            
1261         伊豆  
1262     京都・善法院      
1263         鎌倉  
1264           京都
1265            
1266            
1267            
1268            
1269            
1270           伊予
1271         佐渡  
1272            
1273            
1274         鎌倉/身延 高野山/熊野/新宮
1275            
1276           太宰府
1277           豊後/薩州/対馬
1278           安芸/備前
1279           伊予/京都/善光寺
1280           松島/平泉/常陸
1281           武蔵八王子/当麻
1282         武蔵池上・宗仲邸 鎌倉/伊豆
1283           尾張
1284           京都/北国
1285           山陰/丹後/伊予
1286           天王寺/京都
1287           播磨/備後/安芸
1288            
1289

( 下図の円の大きさは滞在期間をイメージ化しています )

  摂津・光明福寺
     

浄土宗 法然
  

臨済宗 栄西
 

浄土真宗 親鸞
                           

曹洞宗 道元
  

日蓮宗 日蓮
                            

時宗 一遍 
 
 
比叡山

滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる山。大津市と京都市左京区の県境に位置する大比叡(848.3m)と左京区に位置する四明岳(しめいがたけ、838m)の二峰から成る双耳峰の総称である。高野山と並び古くより信仰対象の山とされ、延暦寺や日吉大社があり繁栄した。東山三十六峰に含まれる場合も有る。別称は叡山、北嶺、天台山、都富士など。
比叡山は、京都市の東北、京都・滋賀県境に位置する、標高848mの山である。古事記には淡海(おうみ)の日枝(ひえ)の山として記されており、古くから山岳信仰の対象とされてきた。
国土地理院による測量成果では、東の頂を大比叡、西の頂を四明岳、総称として比叡山としている。「点の記」では、東の頂に所在する一等三角点の点名を「比叡山」としている。この三角点は大津市と京都市の境に位置するが、所在地としては大津市にあたる。なお、比叡山は、丹波高地ならびに比良山地とは花折断層を境にして切り離されているため、比叡山地、あるいは比叡醍醐山地に属するとされる。
京都の南から見た場合、四明岳と大比叡をともに確認することができ、重量感のある印象である。だが、京都盆地から比叡山を見た場合、四明岳は確認できるが、大比叡の頂は四明岳に隠れてしまう。このときのバランスのとれた三角形の外観は、「都富士」ともいわれる。また、大比叡がみえない場合、四明岳を比叡山の山頂だと見なすことがあり、京福電気鉄道叡山ロープウェイにおいては、四明岳の山頂をもって比叡山頂駅と設定している。
比叡山の山頂からは、琵琶湖や京都市街のほか、比良連峰などの京都北山も眺めることができる。山の東側には天台宗の総本山である延暦寺がある。また、山頂の北の「奥比叡」は「殺生禁断」とされているため、貴重な野生動物や植物の姿を確認することができ、特に、鳥類の繁殖地として有名である。なお、真夏の京都市内と比叡山の山頂近くとでは、気温が5、6℃違うという。
比叡山は、登山も盛んである。京都市左京区修学院から登る雲母(きらら)坂(四明岳まで2時間30分かかるという)は古くから京都と延暦寺を往復する僧侶・僧兵や朝廷の勅使が通った道であり、現在も登山客は多い。滋賀県側からは、日吉大社の門前町・坂本から表参道を経て、無動寺谷を通って登る登山道などがある。山内には大津から京都大原方面へ抜ける東海自然歩道が通っている。
なお、四明岳の表記、あるいは読みには多数の説があり、国土地理院による「四明岳(しめいがたけ、しめいだけ)」のほか、「京都市の地名」では「四明ヶ岳(しめがたけ)」、「四明峰(しみょうのみね)」などを挙げている。比叡山の別称である天台山、ならびに四明岳の名称は、天台宗ゆかりの霊山である中国の天台山、四明山に由来する。
歴史
古事記では比叡山は日枝山(ひえのやま)と表記され、大山咋神が近江国の日枝山に鎮座し、鳴鏑を神体とすると記されている。平安遷都後、最澄が堂塔を建て天台宗を開いて以来、王城の鬼門を抑える国家鎮護の寺地となった。京都の鬼門にあたる北東に位置することもあり、比叡山は王城鎮護の山とされた。
延暦寺が日枝山に開かれて以降、大比叡を大物主神とし小比叡を大山咋神とし地主神として天台宗・延暦寺の守護神とされ、大山咋神に対する山王信仰が広まった。また比叡山山頂の諸堂や山麓の日吉大社などを参拝して歩く回峰行も行われ信仰の山である。「世の中に山てふ山は多かれど山とは比叡のみ山をぞいふ」と慈円が詠んだことでも知られる。  
 
比叡山延暦寺 [天台宗総本山]

 

百人一首で有名な慈円は、比叡山について「世の中に山てふ山は多かれど、山とは比叡の御山(みやま)をぞいふ」と比叡山を日本一の山と崇め詠みました。
それは比叡山延暦寺が、世界の平和や平安を祈る寺院として、さらには国宝的人材育成の学問と修行の道場として、日本仏教各宗各派の祖師高僧を輩出し、日本仏教の母山と仰がれているからであります。
また比叡山は、京都と滋賀の県境にあり、東には「天台薬師の池」と歌われた日本一の琵琶湖を眼下に望み、西には古都京都の町並を一望できる景勝の地でもあります。 このような美しい自然環境の中で、一千二百年の歴史と伝統が世界に高い評価をうけ、平成6年(1994)にはユネスコ世界文化遺産に登録されました。
歴史

 

比叡山は古代より「大山咋神(おおやまくいのかみ)」が鎮座する神山として崇められていましたが、この山を本格的に開いたのは、伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)上人(766〜822)でありました。最澄は延暦7年(788年)、薬師如来を本尊とする一乗止観院(いちじょうしかんいん)(現在の総本堂・根本中堂)を創建して比叡山を開きました。
最澄が開創した比叡山は、日本の国を鎮め護る寺として朝廷から大きな期待をされ、桓武天皇時代の年号「延暦」を寺号に賜りました。
最澄は鎮護国家の為には、真の指導者である「菩薩僧(ぼさつそう)」を育成しなければならないとして、比叡山に篭もって修学修行に専念する12年間の教育制度を確立し、延暦寺から多くの高僧碩徳を輩出することになりました。
特に鎌倉時代以降には、浄土念仏の法然上人、親鸞聖人、良忍上人、真盛上人、禅では臨済宗の栄西禅師、曹洞宗の道元禅師、法華経信仰の日蓮聖人など日本仏教各宗各派の祖師方を育みましたので、比叡山は日本仏教の母山と仰がれています。
比叡山延暦寺の最盛期には三千にも及ぶ寺院が甍を並べていたと伝えていますが、延暦寺が浅井・朝倉両軍をかくまったこと等が発端となり、元亀2年(1571)織田信長によって比叡山は全山焼き討ちされ、堂塔伽藍はことごとく灰燼に帰しました。
その後、豊臣秀吉や徳川家の外護や慈眼(じげん)大師天海大僧正(1536〜1643)の尽力により、比叡山は再興されました。
さらに明治初年の神仏分離や廃仏毀釈の苦難を乗り越えて現在に至っております。
信長焼き討ち以後、千日回峰行や12年篭山行も復興されています。また昭和62年(1987)8月に、世界から仏教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、シーク教、儒教の七大宗教の代表者が集まり、世界平和実現の為に対話と祈りを行う「世界宗教サミット-世界宗教者平和の祈りの集い-」が開催され、以降8月4日に比叡山山上にて毎年開催しております。  
教学

 

比叡山の教学は、開祖伝教大師が『山家学生式(さんげがくしょうしき)』において、比叡山で修学修行する者の専攻を「止観業(しかんごう)」と「遮那業(しゃなごう)」の両業と定めたことを基本としています。
「止観業」とは、中国隋代の天台大師(てんだいだいし)智(ちぎ)(538〜597)が自らの証悟により体系づけた『法華経』を所依とする天台の教理と実践のことをいい、また「遮那業」は、『大日経』を中心とする真言密教のことを指しています。 最澄は、比叡山で修学修行する者は、上記の止観業か遮那業のいずれかを専攻することと定め、日本天台宗の教学の根本をなす柱となりました。
この止観業である「法華一乗(ほっけいちじょう)」の教えと、遮那業である「真言一乗(しんごんいちじょう)」の教えは、共に成仏する為の究極の教えであり、両者に優劣をたてるべきではないと考えました。これを「円(えん・天台法華)密(みつ・真言密教)一致説」と言っており、伝教大師の門弟である慈覚大師円仁(794〜864)や智証大師円珍(814〜891)、五大院安然(841〜902〜)などによって教学的に体系づけられていきました。
ところで止観業で説く法華一乗の実践を「止観(しかん)」といい、「止」とは禅定、「観」とは智慧を指しています。具体的には「四種三昧(ししゅざんまい)」
1. 常坐三昧
2. 常行三昧
3. 半行半坐三昧
4. 非行非坐三昧
という修行形態で示されています。
このうち「常坐三昧」はもっぱら坐禅を行う修行法であり、この法門からは栄西禅師や道元禅師などを生み、禅宗が展開しました。
「常行三昧」は常に歩くという行道の形態の行法ですが、阿弥陀仏を本尊として念仏を唱えることから、この法門からは恵心僧都源信和尚や法然上人、親鸞聖人などの叡山浄土教が興隆しました。
「半行半坐三昧」は『法華経』による法華三昧の行法を指しますが、この法門からは、法華の題目を唱えた日蓮聖人による法華信仰が展開していきました。
「非行非坐三昧」は、坐禅や行道以外のあらゆる修行方法のことであり、写経などの行法があります。もっと端的に言えば、日常生活がそのまま止観の修行であるということになります。すなわち私たちの日頃の行いこそ悟りへの仏道修行であり、おろそかにしてはならないということなのです。
一方、「遮那業」は身と口と意の三業(行為)による真言念誦を指し、即身成仏を目指します。天台宗の密教は台密といい、胎蔵界、金剛界、蘇悉地の三部だてであり、中世以降になって台密13流が興隆し、現在も三昧(さんまい)流、法漫(ほうまん)流、穴太(あのう)流、西山(せいざん)流が伝承されています。
比叡山の修行は、真言密教の不動明王を本尊として礼拝行道する千日回峰(かいほう)行や伝教大師御廟浄土院での十二年篭山行など、現在に伝承されていますが、比叡山の天台仏教の特色は、教えと実践が一致しなければならないという点にあります。
これを「教観双美(きょうかんそうび)」とも「解行一致(げぎょういっち)」とも申していますが、天台大師は「智目行足(ちもくぎょうそく)もて清涼池に到る」と説かれました。すなわち仏の教えをよく学んで智慧の目を養うだけでなく、自らの足で歩むという実践が伴って始めて清涼池のごとき仏が目指す理想の境地「悟り」に到り着くことができると示されたのです。 
祖師

 

伝教大師
一乗止観院(根本中堂)を創建して比叡山を開山し、入唐求法の後、天台宗を開いたのは、伝教大師最澄上人(766〜822)であり、天台宗では「宗祖」と仰いでいます。 最澄の宝号は「南無根本伝教大師福聚金剛」といい、正式には「南無円戒高祖一乗禅密根本伝教大師福聚金剛」と称しています。
天台大師
最澄が天台宗を開くに当って用いた「天台」の名は、中国浙江省にある天台山で悟りを得た天台大師智(538〜597)よりとったもので、日本天台宗では天台大師を「高祖」と仰いでいます。 智の宝号は、隋の晋王広(後の煬帝)より「智者」の号を賜ったので「南無天台智者大師」と称しています。
天台座主
比叡山では、伝教大師の法灯継承者を「天台座主」と称し、伝教大師の後を継いだ義真(781〜833)が初代座主となり、現在は第256世半田孝淳猊下が天台座主に就任しています。
天台の祖師 - 比叡山から輩出した主要な祖師
修禅大師義真 781〜833 初代座主
寂光大師円澄 771〜836 第2世座主、比叡山西塔を開く
別当大師光定 779〜858 大乗戒独立に尽力
慈覚大師円仁 794〜864 第3世座主、比叡山横川を開く
智証大師円珍 814〜891 第5世座主、園城寺を天台別院とする
五大院安然 841〜902〜 天台密教を大成
建立大師相応 831〜918 回峰行の始祖
元三慈恵大師良源 912〜985 第18世座主、比叡山中興の祖
恵心僧都源信 942〜1017 叡山浄土教を確立
檀那院覚運 953〜1007 檀那流の祖
兜率先徳覚超 960〜1034 川流の祖
谷阿闍梨皇慶 977〜1049 谷流の祖
宝地房証真 〜1214頃 叡山中古の学匠
慈鎮和尚慈円 1155〜1225 第62・65・69・71世座主、歌人歴史家
慈眼大師天海 1536〜1643 比叡山再興、東叡山寛永寺創建、山王一実神道提唱
霊空光謙 1652〜1739 安楽律提唱
各宗の開祖 - 比叡山で修行して各宗を開く
聖応大師良忍 1073〜1132 融通念仏宗
円光大師源空(法然) 1133〜1212 浄土宗
見真大師親鸞 1173〜1262 浄土真宗本願寺派、真宗大谷派など
千光祖師栄西  1141〜1215 臨済宗
承陽大師道元 1200〜1253 曹洞宗
立正大師日蓮 1222〜1282 日蓮各宗
慈摂大師真盛  1443〜1495 天台真盛宗
 
延暦寺2

 

滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。比叡山、または叡山(えいざん)と呼ばれることが多い。平安京(京都)の北にあったので北嶺(ほくれい)とも称された。平安時代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。平成6年(1994)には、古都京都の文化財の一部として、(1200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも登録された。寺紋は天台宗菊輪宝。
最澄の開創以来、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であった。天台法華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持った。特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った。
「延暦寺」とは単独の堂宇の名称ではなく、比叡山の山上から東麓にかけて位置する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)などの区域(これらを総称して「三塔十六谷」と称する)に所在する150ほどの堂塔の総称である。日本仏教の礎(佼成出版社)によれば、比叡山の寺社は最盛期は三千を越える寺社で構成されていたと記されている。
延暦7年(788年)に最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を建てたのが始まりである。開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の弘仁14年(824年)のことであった。
延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、融通念仏宗の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている。比叡山は文学作品にも数多く登場する。1994年に、ユネスコの世界遺産に古都京都の文化財として登録されている。
また、「12年籠山行」「千日回峯行」などの厳しい修行が現代まで続けられており、日本仏教の代表的な聖地である。 
歴史

 

前史
比叡山は『古事記』にもその名が見える山で、古代から山岳信仰の山であったと思われ、東麓の坂本にある日吉大社には、比叡山の地主神である大山咋神が祀られている。
最澄
最澄は俗名を三津首広野(みつのおびとひろの)といい、天平神護2年(766年)、近江国滋賀郡(滋賀県大津市)に生まれた(生年は767年説もある)。15歳の宝亀11年(781年)、近江国分寺の僧・行表のもとで得度(出家)し、最澄と名乗る。青年最澄は、思うところあって、奈良の大寺院での安定した地位を求めず、785年、郷里に近い比叡山に小堂を建て、修行と経典研究に明け暮れた。20歳の延暦4年(786年)、奈良の東大寺で受戒(正式の僧となるための戒律を授けられること)し、正式の僧となった。最澄は数ある経典の中でも法華経の教えを最高のものと考え、中国の天台大師智の著述になる「法華三大部」(「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」)を研究した。
延暦7年(788年)、最澄は三輪山より大物主神の分霊を日枝山に勧請して大比叡とし従来の祭神大山咋神を小比叡とした。そして、現在の根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵からなる小規模な寺院を建立し、一乗止観院と名付けた。この寺は比叡山寺とも呼ばれ、年号をとった「延暦寺」という寺号が許されるのは、最澄の没後、弘仁14年(824年)のことであった。時の桓武天皇は最澄に帰依し、天皇やその側近である和気氏の援助を受けて、比叡山寺は京都の鬼門(北東)を護る国家鎮護の道場として次第に栄えるようになった。
延暦21年(803年)、最澄は還学生(げんがくしょう、短期留学生)として、唐に渡航することが認められ。延暦23年(804年)、遣唐使船で唐に渡った。最澄は、霊地・天台山におもむき、天台大師智直系の道邃(どうずい)和尚から天台教学と大乗菩薩戒、行満座主から天台教学を学んだ。また、越州(紹興)の龍興寺では順暁阿闍梨より密教、翛然(しゃくねん)禅師より禅を学んだ。延暦24年(805年)、帰国した最澄は、天台宗を開いた。このように、法華経を中心に、天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想をともに学び、日本に伝えた(四宗相承)ことが最澄の学問の特色で、延暦寺は総合大学としての性格を持っていた。後に延暦寺から浄土教や禅宗の宗祖を輩出した源がここにあるといえる。
大乗戒壇の設立
延暦25年(806年)、日本天台宗の開宗が正式に許可されるが、仏教者としての最澄が生涯かけて果たせなかった念願は、比叡山に大乗戒壇を設立することであった。大乗戒壇を設立するとは、すなわち、奈良の旧仏教から完全に独立して、延暦寺において独自に僧を養成することができるようにしようということである。
最澄の説く天台の思想は「一向大乗」すなわち、すべての者が菩薩であり、成仏(悟りを開く)することができるというもので、奈良の旧仏教の思想とは相容れなかった。当時の日本では僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」は日本に3箇所(奈良・東大寺、筑紫・観世音寺、下野・薬師寺)しか存在しなかったため、天台宗が独自に僧の養成をすることはできなかったのである。最澄は自らの仏教理念を示した『山家学生式』(さんげがくしょうしき)の中で、比叡山で得度(出家)した者は12年間山を下りずに籠山修行に専念させ、修行の終わった者はその適性に応じて、比叡山で後進の指導に当たらせ、あるいは日本各地で仏教界のリーダーとして活動させたいと主張した。
だが、最澄の主張は、奈良の旧仏教(南都)から非常に激しい反発を受けた。南都からの反発に対し、最澄は『顕戒論』により反論し、各地で活動しながら大乗戒壇設立を訴え続けた。
大乗戒壇の設立は、822年、最澄の死後7日目にしてようやく許可され、このことが重要なきっかけとなって、後に、延暦寺は日本仏教の中心的地位に就くこととなる。823年、比叡山寺は「延暦寺」の勅額を授かった。延暦寺は徐々に仏教教学における権威となり、南都に対するものとして、北嶺と呼ばれることとなった。なお、最澄の死後、義信が最初の天台座主になった。
名僧を輩出
大乗戒壇設立後の比叡山は、日本仏教史に残る数々の名僧を輩出した。円仁(慈覚大師、794 - 864)と円珍(智証大師、814 - 891)はどちらも唐に留学して多くの仏典を持ち帰り、比叡山の密教の発展に尽くした。また、円澄は西塔を、円仁は横川を開き、10世紀頃、現在みられる延暦寺の姿ができあがった。
なお、比叡山の僧はのちに円仁派と円珍派に分かれて激しく対立するようになった。正暦4年(993年)、円珍派の僧約千名は山を下りて園城寺(三井寺)に立てこもった。以後、「山門」(円仁派、延暦寺)と「寺門」(円珍派、園城寺)は対立・抗争を繰り返し、こうした抗争に参加し、武装化した法師の中から自然と僧兵が現われてきた。
平安から鎌倉時代にかけて延暦寺からは名僧を輩出した。円仁・円珍の後には「元三大師」の別名で知られる良源(慈恵大師)は延暦寺中興の祖として知られ、火災で焼失した堂塔伽藍の再建・寺内の規律維持・学業の発展に尽くした。また、『往生要集』を著し、浄土教の基礎を築いた恵心僧都源信や融通念仏宗の開祖・良忍も現れた。平安末期から鎌倉時代にかけては、いわゆる鎌倉新仏教の祖師たちが比叡山を母体として独自の教えを開いていった。
比叡山で修行した著名な僧としては以下の人物が挙げられる。
良源(慈恵大師、元三大師 912年 - 985年)比叡山中興の祖。
源信(恵心僧都、942年 - 1016年)『往生要集』の著者
良忍(聖応大師、1072年 - 1132年)融通念仏宗の開祖
法然(円光大師、源空上人 1133年 - 1212年)日本の浄土宗の開祖
栄西(千光国師、1141年 - 1215年)日本の臨済宗の開祖
慈円(慈鎮和尚、1155年 - 1225年)歴史書「愚管抄」の作者。天台座主。
道元(承陽大師、1200年 - 1253年)日本の曹洞宗の開祖
親鸞(見真大師、1173年 - 1262年)浄土真宗の開祖
日蓮(立正大師、1222年 - 1282年)日蓮宗の開祖
武装化
延暦寺の武力は年を追うごとに強まり、強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」と言っている。山は当時、一般的には比叡山のことであり、山法師とは延暦寺の僧兵のことである。つまり、強大な権力を持ってしても制御できないものと例えられたのである。延暦寺は自らの意に沿わぬことが起こると、僧兵たちが神輿(当時は神仏混交であり、神と仏は同一であった)を奉じて強訴するという手段で、時の権力者に対し自らの主張を通していた。
また、祇園社(現在の八坂神社)は当初は興福寺の配下であったが、10世紀末の抗争により延暦寺がその末寺とした。同時期、北野社も延暦寺の配下に入っていた。1070年には祇園社は鴨川の西岸の広大の地域を「境内」として認められ、朝廷権力からの「不入権」を承認された。
このように、延暦寺はその権威に伴う武力があり、また物資の流通を握ることによる財力も持っており、時の権力者を無視できる一種の独立国のような状態(近年はその状態を「寺社勢力」と呼ぶ)であった。延暦寺の僧兵の力は奈良興福寺と並び称せられ、南都北嶺と恐れられた。
延暦寺の勢力は貴族に取って代わる力をつけた武家政権をも脅かした。従来、後白河法皇による平氏政権打倒の企てと考えられていた鹿ケ谷の陰謀の一因として、後白河法皇が仏罰を危惧して渋る平清盛に延暦寺攻撃を命じたために、清盛がこれを回避するために命令に加担した院近臣を捕らえたとする説(下向井龍彦・河内祥輔説)が唱えられ、建久2年(1191年)には、延暦寺の大衆が鎌倉幕府創業の功臣・佐々木定綱の処罰を朝廷及び源頼朝に要求し、最終的に頼朝がこれに屈服して定綱が配流されるという事件が起きている(建久二年の強訴)。
武家との確執
初めて延暦寺を制圧しようとした権力者は、室町幕府六代将軍の足利義教である。義教は将軍就任前は義円と名乗り、天台座主として比叡山側の長であったが、還俗・将軍就任後は比叡山と対立した。
永享7年(1435年)、度重なる叡山制圧の機会にことごとく和議を(諸大名から)薦められ、制圧に失敗していた足利義教は、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出し斬首した。これに反発した延暦寺の僧侶たちは、根本中堂に立てこもり義教を激しく非難した。しかし、義教の姿勢はかわらず、絶望した僧侶たちは2月、根本中堂に火を放って焼身自殺した。当時の有力者の日記には「山門惣持院炎上」(満済准后日記)などと記載されており、根本中堂の他にもいくつかの寺院が全焼あるいは半焼したと思われる。また、「本尊薬師三体焼了」(大乗院日記目録)の記述の通り、このときに円珍以来の本尊もほぼ全てが焼失している。同年8月、義教は焼失した根本中堂の再建を命じ、諸国に段銭を課して数年のうちに竣工した。また、宝徳2年(1450年)5月16日に、わずかに焼け残った本尊の一部から本尊を復元し、根本中堂に配置している。
なお、義教は延暦寺の制圧に成功したが、義教が後に殺されると延暦寺は再び武装し僧を軍兵にしたて数千人の僧兵軍に強大化させ独立国状態に戻った。
戦国時代に入っても延暦寺は独立国状態を維持していたが、明応8年(1499年)、管領細川政元が、対立する前将軍足利義稙の入京と呼応しようとした延暦寺を攻めたため、再び根本中堂は灰燼に帰した。
また戦国末期に織田信長が京都周辺を制圧し、朝倉義景・浅井長政らと対立すると、延暦寺は朝倉・浅井連合軍を匿うなど、反信長の行動を起こした。元亀2年(1571年)、延暦寺の僧兵4千人が強大な武力と権力を持つ僧による仏教政治腐敗で戦国統一の障害になるとみた信長は、延暦寺に武装解除するよう再三通達をし、これを断固拒否されたのを受けて9月12日、延暦寺を取り囲み焼き討ちした。これにより延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害された。この事件については、京から比叡山の炎上の光景がよく見えたこともあり、山科言継など公家や商人の日記や、イエズス会の報告などにはっきりと記されている(ただし、山科言継の日記によれば、この前年の10月15日に浅井軍と見られる兵が延暦寺西塔に放火したとあり、延暦寺は織田・浅井双方の圧迫を受けて進退窮まっていたとも言われている)。
信長の死後、豊臣秀吉や徳川家康らによって各僧坊は再建された。根本中堂は三代将軍徳川家光が再建している。家康の死後、天海僧正により江戸の鬼門鎮護の目的で上野に東叡山寛永寺が建立されてからは、天台宗の宗務の実権は江戸に移った(現在は比叡山に戻っている)。しかし、いったん世俗の権力に屈した延暦寺は、かつての精神的権威を復活することはできなかった。 
修行

 

籠山行
比叡山の修行は厳しい。山内の院や坊の住職になるためには三年間山にこもり続けなければならない。三年籠山の場合、一年目は浄土院で最澄廟の世話をする侍真(じしん)の助手を務め、二年目は百日回峰行を、そして三年目には常行堂もしくは法華堂のいずれかで90日間修行しなければならない。常行堂で行う修行(常行三昧)は本尊・阿弥陀如来の周囲を歩き続けるもので、その間念仏を唱えることも許されるが、基本的に禅の一種である。90日間横になることは許されず、一日数時間手すりに寄りかかり仮眠をとるというものである。法華堂で行われる行は常坐三昧といわれ、ひたすら坐禅を続け、その姿勢のまま仮眠をとる。
十二年籠山では好相行が義務付けられており、好相行を満行しなければ十二年籠山の許可が下りない。好相行とは浄土院の拝殿で好相が得られるまで毎日一日三千回の五体投地を行うものである。好相とは一種の神秘体験であり、経典には如来が来臨して頭を撫でるとか、五色の光が差すのが見えるという記述もあるが、その内容は秘密とされている。早い者で1〜2週間、何年もかかって好相を得る者もいるという。
千日回峰行
千日回峰行は、平安期の相応が始めたとされ、百日回峰行を終えた者の中から選ばれたものだけに許される行である。なお、「千日回峰」と言われているが、実際に歩くのは「975日」で、残りの25日は「一生をかけて修行しなさい」という意味である。
行者は途中で行を続けられなくなったときは自害するという決意で、首を括るための死出紐と呼ばれる麻紐と、両刃の短剣を常時携行する。頭にはまだ開いていない蓮の華をかたどった笠をかぶり、白装束をまとい、草鞋履きといういでたちである。回峰行は7年間にわたる行である。
無動寺谷で勤行のあと、深夜二時に出発。真言を唱えながら東塔、西塔、横川、日吉大社と二百六十箇所で礼拝しながら、約30キロを平均6時間で巡拝する。1〜3年目は年100日、4〜5年目が年200日の修行となる。
5年700日の回峰を満行すると「堂入り」が行なわれる。入堂前には行者は生き葬式を行ない、無動寺谷明王堂で足かけ9日間(丸7日半ほど)にわたる断食・断水・断眠・断臥の行に入る。堂入り中は明王堂には五色の幔幕が張られ、行者は不動明王の真言を唱え続ける。毎晩、深夜2時には堂を出て、近くの閼伽井で閼伽水を汲み、堂内の不動明王にこれを供えなければならない。堂入りを満了(堂さがり)すると、行者は生身の不動明王ともいわれる阿闍梨(あじゃり)となり、信者達の合掌で迎えられる。これを機に行者は自分のための自利行(じりぎょう)から、衆生救済の化他行(けたぎょう)に入る。6年目はこれまでの行程に京都の赤山禅院への往復が加わり、1日約60キロの行程を100日続ける。7年目は200日ではじめの100日は全行程84キロにおよぶ京都大回りで、後半100日は比叡山中30キロの行程に戻る。
満行すると「北嶺大行満大阿闍梨」となる。延暦寺の記録では満行者は47人である。またこの行を2回終えた者が3人おり、その中には酒井雄哉大阿闍梨(2013年9月23日に死去)も含まれる。満行した者はその後2〜3年以内に100日間の五穀断ち(米・麦・粟・豆・稗の五穀と塩・果物・海草類の摂取が禁じられる)の後、自ら発願して7日間の断食・断水で10万枚の護摩木を焚く大護摩供を行う。これも“火炙り地獄”といわれる荒行である。
なお、千日回峰行を終えた者は京都御所への土足参内を行う。通常、京都御所内は土足厳禁であるが、千日回峰行を終えた者のみ、御所へ土足参内が許されている。
また、回峰行者(マラソンモンク)とチベット僧のルン・ゴム・パとの関連が指摘されている。 
境内

 

比叡山の山内は「東塔(とうどう)」「西塔(さいとう)」「横川(よかわ)」と呼ばれる3つの区域に分かれている。これらを総称して「三塔」と言い、さらに細分して「三塔十六谷二別所」と呼称している。このほか、滋賀県側の山麓の坂本地区には本坊の滋賀院、「里坊」と呼ばれる寺院群、比叡山とは関係の深い日吉大社などがある。
三塔十六谷二別所 東塔−北谷、東谷、南谷、西谷、無動寺谷 西塔−東谷、南谷、南尾谷、北尾谷、北谷
横川−香芳谷、解脱谷、戒心谷、都率谷、般若谷、飯室谷
別所−黒谷、安楽谷 
東塔
延暦寺発祥の地であり、本堂にあたる根本中堂を中心とする区域である。
根本中堂(国宝) - 最澄が建立した一乗止観院の後身。現在の建物は織田信長焼き討ちの後、寛永19年(1642年)に徳川家光によって再建されたものである。1953年(昭和28年)に国宝に指定された。入母屋造で幅37.6メートル、奥行23.9メートル、屋根高24.2メートルの大建築である。土間の内陣は外陣より床が3メートルも低い、独特の構造になっている。内部には3基の厨子が置かれ、中央の厨子には最澄自作の伝承がある秘仏・薬師如来立像を安置する(開創1,200年記念の1988年に開扉されたことがある)。本尊厨子前の釣灯篭に灯るのが、最澄の時代から続く「不滅の法灯」である。この法灯は信長の焼き討ちで一時途絶えたが、山形県の立石寺に分灯されていたものを移して現在に伝わっている。嘉吉3年(1443年)に南朝復興を目指す後南朝の日野氏などが京都の御所から三種の神器の一部を奪う禁闕の変が起こると、一味は根本中堂に立て篭もり、朝廷から追討令が出たことにより幕軍や山徒により討たれる。
文殊楼 - 寛文8年(1668年)の火災後の再建。二階建ての門で、階上に文殊菩薩を安置する。根本中堂の真東に位置し、他の寺院における山門にあたる。
大講堂(重文) - 寛永11年(1634年)の建築。もとは東麓・坂本の東照宮の讃仏堂であったものを1964年に移築した。重要文化財だった旧大講堂は1956年に火災で焼失している。本尊は大日如来。本尊の両脇には向かって左から日蓮、道元、栄西、円珍、法然、親鸞、良忍、真盛、一遍の像が安置されている。いずれも若い頃延暦寺で修行した高僧で、これらの肖像は関係各宗派から寄進されたものである。
法華総持院東塔 - 1980年再建。多宝塔型の塔であるが、通常の多宝塔と異なり、上層部は平面円形ではなく方形である。下層には胎蔵界大日如来、上層には仏舎利と法華経1,000部を安置する。
戒壇院(重文) - 延宝6年(1678年)の再建。
国宝殿 - 山内諸堂の本尊以外の仏像や絵画、工芸品、文書などを収蔵展示する。
浄土院 - 東塔地区から徒歩約15分のところにある。宗祖最澄の廟があり、山内でもっとも神聖な場所とされている。ここには12年籠山修行の僧がおり、宗祖最澄が今も生きているかのように食事を捧げ、庭は落ち葉1枚残さぬように掃除されている。
無動寺 - 根本中堂から南へ1.5キロほど離れたところにあり、千日回峰行の拠点である。不動明王と弁才天を祀っている。貞観7年(865年)、回峯行の創始者とされる相応和尚が創建した。
大書院 - 昭和天皇の即位にあわせ東京の村井吉兵衛の邸宅の一部を移築したもので迎賓館として使用されている。
阿弥陀堂
灌頂堂
八部院堂 - 790年草創、1988年再建。  
西塔
転法輪堂(重文) - 西塔の中心堂宇で、釈迦堂ともいう。信長による焼き討ちの後、文禄4年(1595年)、当時の園城寺弥勒堂(金堂に相当し、南北朝時代の1347年の建立)を豊臣秀吉が無理やり移築させたものである。現存する延暦寺の建築では最古のもので本尊は釈迦如来立像(重文)。
常行堂・法華堂(重文) - 2棟の全く同形の堂が左右に並んでいる。向かって右が普賢菩薩を本尊とする法華堂、左が阿弥陀如来を本尊とする常行堂で、文禄4年(1595年)の建築である。2つの堂の間に渡り廊下を配した全体の形が天秤棒に似ているところから「担い堂」の称がある。
瑠璃堂(重文) - 西塔地区から黒谷(後述)へ行く途中にある。信長の焼き討ちをまぬがれた唯一の堂といわれる。様式上、室町時代の建築である。
黒谷青龍寺 - 西塔地区から1.5キロほど離れた黒谷にあり、法然が修行した場所として有名である。  
横川
西塔から北へ4キロほどのところにある。嘉祥3年(850年)、円仁(慈覚大師)が建立した首楞厳院(しゅりょうごんいん)が発祥である。
横川中堂 - 新西国三十三箇所観音霊場第18番札所。旧堂は1942年、落雷で焼失し、現在の堂は1971年に鉄筋コンクリート造で再建されたものである。本尊は聖観音立像(重文)。
根本如法塔 - 多宝塔で、現在の建物は大正期の再建。円仁が法華経を写経し納めた塔が始まりである。
元三大師堂 - 四季に法華経の論議を行うことから四季講堂とも呼ばれる。おみくじ発祥の地である。
恵心院 
 
天台宗

 

仏教とは
仏教という言葉には、3つの意味があります。
先ず、仏陀の教えという意味があります。今から2500年ほど前に、現在のネパール南部でお生まれになった、ゴータマ・シッダールタ(釈迦牟尼仏、釈尊とも言う)の説かれた教えという意味です。
次には、その教えに従って生活をする事で、釈尊と同じように自らが悟りを開き、苦悩の世界から解脱する教えという意味があります。つまり自ら仏に成るための教えということです。
もう一つ大事な意味があります。それは、悟りの世界は全ての生きとし生けるものに平等に与えられており、多くの人々と共にその世界へ行こうと互いに努める教えということです。釈尊は菩提樹の下で悟りを開かれた後、45年にわたる生涯をこの真理を人々に伝えるために過ごされ、その旅の途中で亡くなられました。ですから仏教は釈尊のはじめから、多くの人々と共にということが大前提なのです。
天台宗の起源
釈尊の残された教えは、南は東南アジアの国々へ広まり、北はガンダーラからヒマラヤを越えて中央アジアへと広まり、やがて中国へと伝わっていきます。多くの求法の僧により、数々の経典が伝えられましたが、その中でも「妙法蓮華経」という経典に釈尊の「全ての人に悟りの世界を」という考え方がもっとも明確に述べられています。
この教えに注目し仏教全体の教義を体系付けたのが智(ちぎ)です。智(538年〜597年)はその晩年を杭州の南の天台山で過ごし、弟子の養成に努めたことから「天台大師」と諡(おくりな)され、またその教学は天台教学と称されました。これが天台宗の起源であり、智を高祖と唱えるのはこのためです。
天台大師の教え
天台大師の教えを日本に伝え、比叡山を開いて教え弘めたのは伝教大師最澄(さいちょう)です。その教えは・・・
第一 全ての人は皆、仏の子供と宣言しました。(悉有仏性)
釈尊が悟りを開かれたから、悟りの世界が存在するのではありません。それはニュートンが林檎の落ちるのを見ようが見まいが引力が存在するのと同じことです。悟りへの道は明らかに存在するのです。そして悟りに至る種は生まれながらにして私たちの心に植付けられていると宣言しました。あとはこのことに気付き、その種をどのように育てるかということです。
第二 悟りに至る方法を全ての人々に開放しました。
仏教には八万四千もの教えがあると言われていますが、それらは別々な悟りを得る教えではなく、全ては釈尊と同じ悟りに至る方法の一つでもあるのです。例えば座禅でも念仏でも護摩供を修することでも、巡礼でも、写経でも、もっと言えば茶道、華道でも、また絵画、彫刻でも方法はさまざまでいいのですが、そこに真実を探し求める心(道心)があれば、そのままそれが悟りに至る道です。日常の生活にもそれは言えることです。(四種三昧の修行)
多くの開祖を輩出した天台宗が鎌倉仏教の母山と言われるのも、また日本文化の根源と言われるのもこのことからです。
第三 先ず、自分自身が仏であることに目覚めましょう。
そのために天台宗ではお授戒を奨めています。戒を授かるということは我が身に仏さまをお迎えすることです。仏さまとともに生きる人を菩薩といい、その行いを菩薩行といいます。
第四 一隅を照らしましょう。(一隅を照らす運動)
心に仏さまを頂いた人たちが手を繋ぎ合って暮らす社会はそのまま仏さまの世界です。一日も早くそんな世の中にしたいと天台宗では考え「一隅を照らす」運動を進めています。
先ず自分自身を輝いた存在としましょう。その輝きが周りも照らします。一人一人が輝きあい、手をつなぐことができればすばらしい世界が生まれます。  
天台宗の歴史

 

日本の天台宗は、今から1200年前の延暦25年(806)、伝教大師最澄によって開かれた宗派です。
最澄は神護景雲元年(767、766年誕生説あり)、近江国滋賀郡、琵琶湖西岸の三津(今日の滋賀県坂本)で、三津首百枝(みつのおびとももえ)の長男として誕生。幼名を広野(ひろの)と呼ばれました。
早くからその才能を開花させ、12歳で近江の国分寺行表(ぎょうひょう)の弟子となり、宝亀11年(780)に得度、延暦4年(785)に奈良の東大寺戒壇院で具足戒(250戒)を受け、国に認められた正式な僧侶となられたのです。
受戒後3ヵ月ほどで奈良を離れ、比叡山に分け入り修行の生活に入られました。そして若き僧最澄は【願文】を作り、一乗の教えを体解(たいげ)するまで山を下りないと、み仏に誓いました。その後、延暦7年(788)に日枝山寺(後の一乗止観院)を創建、本尊として薬師如来を刻まれました。
【願文】の中で、
「私たちの住むこの迷いの世界は、ただ苦しみばかりで少しも心安らかなことなどない。(中略)人間として生れることは難しく、また生れたとしてもその身体ははかなく移ろいやすい。」
と、世の中の無常と人間のはかなさを自覚されました。
そして、「因なくして果を得、この処(ことわ)りあることなく、善なくして苦を免がる、この処(ことわ)りあることなし。」と因果の厳しさを述べ、だからこそ生きているときに善いことをする努力を惜しんではならないと考え、『願文』の中で五つの【心願】をたてられたのです。
天台大師智の教えを極めたいと願い、桓武天皇の援助を受けて還学生(げんがくしょう)として唐に渡りました。中国天台山に赴き、修禅寺の道邃(どうずい)・仏隴寺の行満に天台教学を学び、典籍の書写をします。その後禅林寺の翛然(しゅくねん)より禅の教えを受けられ、帰国前には越州龍興寺で順暁阿闍梨から密教の伝法を受けられます。こうして、円密一致といわれる日本天台宗の基礎をつくられたのです。
延暦24年(805)に帰朝してすぐに、高雄山寺で奈良の学僧達に日本で初めて密教の潅頂を授けるなどして、入唐求法の成果を明らかにされました。
当時、「仏に成れるもの、仏に成れないものを区別する」という説もありましたが、最澄は、「すべての人が仏に成れる」と説く『法華経』に基づいて、日本全土を大乗の国にしていかねばならないとの願いが募り、法華一乗による人材の養成を目指しました。
こうした最澄の努力と熱意が通じ、延暦25年(806)1月26日、年分度者(国家公認の僧侶)2名認可の官符が発せられました(天台宗開宗の日)。
2名の年分度者とは、天台教学を学ぶ者(止観業)1名と、密教を学ぶ者(遮那業)1名でした。
その後最澄は、真俗一貫の大乗菩薩戒こそが真に国を護り人々を幸せにすると考え、弘仁9年(818)から翌年にかけて【山家学生式】(さんげがくしょうしき)と呼ばれる一連の上表を行います。さらに弘仁11年(820)、『顕戒論』を著わして比叡山に大乗戒壇の公認を願われたのでした。
しかしその願いも叶うことなく、弘仁13年(822)6月4日、56歳で遷化されました。
そしてその7日後、最澄の願いが聞き届けられ、大乗菩薩戒を授ける得度授戒の勅許が下されたのです。
最澄亡き後、一乗止観院は「延暦寺」の寺額を勅賜され、比叡山延暦寺と呼ばれるようになりました。翌年、弟子の義真が伝法師(後世の天台座主のこと)として後を継ぎます。
第3世座主円仁によって、延暦寺では横川(よかわ)が開かれ、東塔地区も整備されていきます。また、9年間に亘る入唐求法の成果をもとに、天台教学の中に浄土教を取り入れ、密教を拡充していくなど、その功績は多大なものでした。
円仁の没後ほどなく、貞観8年(866)、最澄には「伝教大師」、円仁には「慈覚大師」という諡号(しごう)を清和天皇より賜りました。これは日本における初めての大師号であり、最澄・円仁による天台宗の確立が、いかに日本仏教の発展に寄与したかを示すものであります。
また、第5世座主の円珍(智証大師)や五大院安然らによって密教も体系的に整備され、後に東密(真言宗の密教)に対して台密(天台宗の密教)と称されるようになりました。
その後も多くの人材が比叡山で研鑽に励み、学問も修行も充実していきます。平安時代中期には、第18世座主の良源(慈恵大師)によって諸堂の再建と整備がなされ、論義が盛んに行われて教学の振興がはかられました。さらに弟子の源信(恵心僧都)によって『往生要集』が著わされ、これが後の日本の浄土教発展の基礎となりました。
また、『法華経』や浄土教信仰などは知識人の間に浸透し、『源氏物語』や『平家物語』に代表される古典文学の底流をなしています。円仁が中国からもたらし大成した声明は、日本伝統音楽の源流となり、また能・茶道にも天台の仏教思想が深く入り込んでいるといわれています。
平安末期から鎌倉時代はじめにかけては、法然・栄西・親鸞・道元・日蓮といった各宗派の開祖たちが比叡山で学びました。こうして後に比叡山は日本仏教の母山と呼ばれるようになったのです。
時代は下り、盛栄を誇った比叡山延暦寺も織田信長の焼き討ちにあい、一時その宗勢に陰りが見えましたが、江戸時代になり徳川家康の懐刀と云われた天海(慈眼大師)によってその勢力を盛り返し、特に寛永寺は西の比叡山に対して東叡山と呼ばれ、その影響力を日本全土に及ぼしたのです。  
宗祖・高祖・祖師・開祖

 

宗祖伝教大師 最澄
誕生
約1200年ほど前、今の滋賀県大津市坂本の一帯を統治していた三津首百枝(みつのおびとももえ)という方がおられました。子どもに恵まれなかった百枝は、日吉大社の奥にある神宮禅院に籠もり、子どもを授かるように願を掛けました。神護景雲元年(767)8月18日、願いが叶って男の子が誕生し、広野(ひろの)と名付けられました。この広野こそ、後に比叡山に登り天台宗を開かれた最澄だったのです。お生まれになったところは、現在の門前町坂本にある生源寺といわれています。最澄の誕生日には、老若男女が集い、盛大な祭が行われます。また、近くには幼少期を過ごしたとされる紅染寺趾や、産湯に使われた竈を埋めたといわれるところがあります。
出家
広野は、両親の深い仏教への信仰の影響もあって、12歳のとき、近江の国分寺(現在の大津市石山)に入り、14歳で得度し、「最澄」という名前をいただきました。厳しい修行と勉強に打ち込んだ最澄は、やがて奈良の都に行き、さらに勉学を積みました。そして延暦4年(785)、奈良の東大寺で具足戒を受けました。
具足戒とは、僧侶として守らなければならない行動規範であり、250もの戒めを完備していることから具足戒と呼ばれます。
国家公認の一人前の僧侶となった最澄には、大寺での栄達の道が待っていましたが、受戒後、故郷に戻り、比叡山に籠り一人修行を続けました。そしてすべての人々が救われることを願い、一乗止観院を建てて自ら刻んだ薬師如来を安置し、仏の教えが永遠に伝えられますようにと願って灯明を供えました。(延暦7年(788)年)
このとき最澄は、「明らけく 後(のち)の仏の御世(みよ)までも 光りつたへよ 法(のり)のともしび」と詠まれ、仏の光であり、法華経の教えを表すこの光を、末法の世を乗り越えて(後の仏である)弥勒如来がお出ましになるまで消えることなくこの比叡山でお守りし、すべての世の中を照らすようにと願いを込めたのでした。
この灯火はこのときから大切に受け継がれ、1200年余りを経た今日でも、根本中堂の内陣中央にある3つの大きな灯籠の中で「不滅の法灯」として光り輝いています。
入唐求法
比叡山で修行を続けていた最澄は、みずから天台山に赴いて典籍を求め、より深く天台教学を学びたいと考えます。そこで桓武天皇に願い出て、延暦23年(804)、還学生(げんがくしょう)として中国に渡りました。当時、中国に渡るのは命がけのことで、4隻で構成された遣唐使船のうち、中国に無事たどり着いたのは2隻だけでした。到着した2隻のうちの別の船には、後に真言宗を開かれた空海が乗っていました。
中国に着いた最澄は、今の浙江省天台県に位置する天台山に赴き、修禅寺の道邃(どうずい)・仏隴寺の行満に天台教学を学びます。その後禅林寺の翛然(しゅくねん)より禅の教えを受け、帰国前には越州龍興寺で順暁阿闍梨から密教の伝法を受けました。こうして多くの経典や法具を携えて帰国したのでした。
天台宗の公認
帰国した最澄は、『法華経』に基づいた「すべての人が仏に成れる」という天台の教えを日本に広めるために、天台法華円宗の設立許可を願います。その際、「一つの網の目では鳥をとることができないように、一つ、二つの宗派では、普く人々を救うことはできない。」という最澄の考えが受け容れられ、延暦25年(806)、華厳宗・律宗・三論宗(成実宗含む)・法相宗(倶舎宗含む)に天台宗を加えて十二名の年分度者が許されることになりました。ここに天台宗が公認されたのです。
この日を以て「日本天台宗」の始まりとし、比叡山延暦寺をはじめ多くの天台宗の寺院では、この日を「開宗記念日」として報恩報謝の法要を行っています。
布教・伝道
天台宗が公認された後、最澄は、「国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心有るの人を名づけて国宝と為す。・・・一隅を照らす。此れ則ち国宝なりと・・・」で始まる『天台法華宗年分学生式』(てんだいほっけしゅうねんぶんがくしょうしき)(六条式)を弘仁9(818)年5月13日に天皇に奏上しました。そこには、比叡山での教育方針や修行方法などが示されています。
また最澄は、社会教化・布教伝道のために中部地方や関東地方、さらには九州地方に出かけ、天台の教えを広めました。出向いた各地で協力を得て『法華経』を写経し、これを納めた宝塔を建立しました(六所宝塔)。加えて、旅人の難儀を救うための無料宿泊所を設けました。
大乗戒壇
天台宗の年分度者が認可されたあとも、正式な僧侶となるためには奈良で具足戒を受けなければなりませんでした。最澄は、『法華経』の精神に基づいて、僧侶だけでなくすべての人々を救い、共に悟りを得るためには、戒律は大乗の梵網菩薩戒でなければならないと考えて、比叡山に天台宗独自の大乗戒壇院を建立することを国に願い出ました。しかし奈良の僧侶たちの猛反対にあい、なかなか認可されないまま、最澄は弘仁13年(822)6月4日、56歳で遷化されました。その七日後、最澄の悲願であった大乗戒壇院の建立を許される詔が下されたのです。
最澄は死に臨んで、弟子たちに「我がために仏を作ることなかれ、我がために経を写すことなかれ、我が志を述べよ(私のために仏を作り、経を写すなどするよりも、私の志を後世まで伝えなさい)」と遺誡し、大乗戒をいしずえにすることで誰もが「国の宝」になることを願ったのでした。
最澄の命日の6月4日には、延暦寺をはじめ各地の天台宗寺院で「山家会(さんげえ)」という法要が行われています。
嵯峨天皇は、最澄の死を大変惜しまれ、「延暦寺」という寺号を授けられました。このときから比叡山寺(日枝山寺)から延暦寺とよばれるようになりました。年号を寺号にしたのは、日本ではこれが最初です。
大師号
貞観8年(866)、清和天皇から最澄に「伝教大師」、同時に円仁に「慈覚大師」の諡号が贈られました。大師とは人を教え導く偉大な指導者という意味で、日本ではこれが最初の大師号です。これ以後、最澄は「伝教大師最澄」と称されるようになりました。 
高祖天台智者大師
大師ご誕生
西暦538年、天台大師は中国荊州華容(けいしゅうかよう)県に誕生されました。この年は日本に仏教が伝えられた年です。誕生の時に家が輝いたので皆から光道(こうどう)と呼ばれました。生まれた時から人並みでなく、二重の瞳を持ち、7才のころ喜んでお寺にかよい、一度『観音経(かんのんぎょう)』を聞いただけで覚えてしまったといいます。
17才の時、父の仕える梁(りょう)の国は陳国に攻められて、大師は親族と共に流浪(るろう)の運命となってしまいました。
大蘇開悟(だいそかいご)
18才の時、出家に反対だった両親が亡くなり、兄の許しを得て果願寺で出家し、「智(ちぎ)」と名付けられました。そして一心不乱に修行し、23才の時、当時高名な光州大蘇山の慧思(えし)禅師を訪ね入門を許されました。禅師は「お前とわたしは昔インドの霊鷲山(りょうじゅせん)でお釈迦さまの『法華経(ほけきょう)』を一緒に聞いたことがある」と不思議な因縁を語り、再会を喜んだのです。(霊山同聴(りょうぜんどうちょう))。
大師は『法華経』の重要な修行である四安楽行を教えられ、修行すること14日、薬王品の焼身供養の文に至って忽然(こつねん)と悟りを得ました。(大蘇開悟)。
これを慧思禅師に報告すると、「これはお前とわたししか味わえない高い境地である」と絶賛したのです。
この慧思禅師は、日本の聖徳太子に生まれ替わり『法華経』を弘(ひろ)めたといわれています。
金陵講説(きんりょうこうせつ)
30才。やがて慧思禅師は、大師に陳の首都建康(けんこう)(金陵(きんりょう)・南京)で布教せよと命じました。
大師は27人の弟子を連れて建康の瓦官寺(がかんじ)に移り住み、説法しました。大師の説法は、当時高名な大忍法師が賞賛したばかりでなく、皇帝宣帝(せんてい)までが群臣たちに、大師の『法華経』説法を聞くよう命令するほどすばらしかったのです。やがて名声を聞いて集まる弟子が100人200人と年々増えましたが、逆に悟りを得る弟子の数が少なくなっていることに気付いた大師は、そこで8年間の建康での布教に区切りをつけ、ついに聖地天台山でさらに修行を深める決心をしたのです。
華頂降魔(かちょうごうま)
38才。大師の決心を聞いた宣帝は、勅命(ちょくめい)をもって引き留(と)めましたがその決意は揺(ゆ)るぎませんでした。天台山に入ると、最も美しい場所「仏隴峰(ぶつろうほう)」に至ると、なんとそこは子供のころ夢に見た場所だったのです。さっそく大師はそこに道場を建て、「修禅(しゅぜん)道場」と名付けて修行をしました。そして翌年、天台山の最高峰である華頂峰(かちょうほう)に登り一人坐禅をしていると、雷鳴が響き山地が振動し、悪魔のような恐ろしい情景に大師はびくともせず、ついに暁(あ)けの明星を見て真の悟りを得たのでした。これこそ天台仏教の奥義である欠けたることのない完全な教え、法華円教の悟りでした。これにより大師は「中国のお釈迦さま」と呼ばれるようになりました(華頂降魔)。
放生会(ほうじょうえ)
44才。天台山から流れ出す川や河口では、漁業が行われていました。ところが水死者も多く、魚も多く殺されていました。大師はこれを憐(あわ)れんで衣や持ち物を売り、そのお金でやな(魚を捕る仕掛け)を買い取り、そこを放生(ほうじょう)の場所にしました。そして『金光明経(こんこうみょうきょう)』流水品(るすいぼん)の説教をすると、人々はだんだん殺生(せっしょう)が嫌いとなり、やなが廃止されるようになりました。これを聞いた宣帝は大変感動し、その流域を勅命で放生池(ほうじょうち)と定めました。この大師の放生会は、仏教史上初めてのことです。
光宅寺講説(こうたくじこうせつ)
48才。陳の永陽王(えいようおう)は、大師から受戒し、命も助けられたことがありました。永陽王は、大師を建康の都に迎えようとたびたび要請しましたが、なかなか承知しませんでした。
ついに三度目の願いにより、大師はようやく建康に行き、宮殿で『大智度論(だいちどろん)』や経典をたくさん説いたのです。皇帝は高僧を呼んで難問を質問させましたが、ことごとく明解に答えたので、人々は仏様のように敬(うやま)ったのです。
やがて50才の時、『法華経』の文章を解説した『法華文句(ほっけもんぐ)』を光宅寺で講説しました。
晋王受戒(しんのうじゅかい)
54才。隋(ずい)国が天下統一した後、晋王(しんのう)(後の煬帝(ようだい))は、揚州の禅衆寺を修復して大師を招請しました。
この時、大師は晋王に不思議な因縁を感じて揚州に向かいました。晋王は僧侶千人を招いて供養し(千僧斎(せんそうさい))、願文を記すなどして熱心に仏教に帰依し、受戒を願ったので、大師は、大乗菩薩戒を授けました。晋王は大師に「智者」の号を送り、弟子として一生誠実に仕えたのです。
これから智(ちぎ)禅師は智者大師(ちしゃだいし)として敬(うやま)われることになったのです。
後の煬帝は、日本聖徳太子の遣隋使、小野妹子(おののいもこ)の拝謁(はいえつ)を許し、慧思禅師使用の『法華経』を日本に伝えさせたのです。
玉泉寺講説(ぎょくせんじこうせつ)
55才。大師は晋王が引き留(と)めるのをやっと断(ことわ)り、廬山(ろざん)や南岳(なんがく)を訪(たず)ね、故郷である荊州(けいしゅう)に帰りました。そして56才。故郷の恩に報(むく)いるため玉泉寺を建立し、『法華経』の経題を講義した『法華玄義(ほっけげんぎ)』を説きました。次の年は、仏教の修行内容をまとめた『摩訶止観(まかしかん)』を説きました。これらは先に説いた『法華文句(もんぐ)』と共に天台三大部として伝えられ、それからの仏教にとても有益な大きな影響を与えました。
天台帰山(てんだいきざん)
58才。大師は晋王の願いにより再び揚州に向かいました。そこで王の求めにより『維摩経(ゆいまきょう)』を解説した本を献上しました。この『維摩経』は在家の維摩居士が仏教の深い真理を体得していることを説く経典です。晋王は、これを喜び、いつまでも揚州に留まるよう望みましたが、大師は天台山こそ帰るべき所と告げ、その秋、再び天台山に帰ったのです。
天台山に帰ってみると、昔の道場は荒れ果てていましたが、大師は、なつかしい渓谷や泉石に触れて深く喜びました。
やがて再び天台山に僧侶が続々と集まり、修行を始めたのです。
ご入滅(ごにゅうめつ)
60才。晋王に何度も要請され、大師はついに下山を決意しました。天台山西門まで下(お)りたところ病気になり、石城寺に入り、臨終が近いことを悟りました。そこで大師は弟子達に、「観音様が師匠や友人を伴って私を迎えに来ました。これからは戒律を師とし、四種三昧(ざんまい)に導かれて修行しなさい」と遺言(ゆいごん)し、11月24日未刻(昼2時)に入滅されました。大師は即身仏となられ、肉身塔にまつられ、晋王は天台山に国清寺を建立し、大師の偉業を賛えました。
・・・以来1400年、天台大師の教えは宗祖伝教大師によって日本に伝えられ、今も仏教の根本原理となっているのです。 
天台の祖師達
修禅大師 / 義真(781〜833) 第1世天台座主
平安初期、相模の人。22歳で得度、早くより最澄について天台を学び、延暦23年(804)、師に従って訳語僧(通訳)として入唐。帰朝後、最澄を補佐し、師の没後その遺志を継いで比叡山に大乗戒壇を設立。初の大戒の伝戒師となる。天長元年(824)初代天台座主となった。弟子に円珍がいる。
別当大師 / 光定(779〜858) 実務に徹して比叡山を護持
伊予の人。大同3年(808)、30歳で最澄の弟子となり、大乗戒壇設立のために尽力。円澄入滅後、天台座主不在の18年間を含めた36年間にわたり、延暦寺を護持・運営。延暦寺別当に任命されたところから、別当大師と呼ばれる。墓所は、伝教大師の廟所(比叡山浄土院)の隣に寄り添うようにある。
慈覚大師 / 円仁(794〜864) 第3世天台座主
下野の人。15歳で最澄に師事し、承和5年(838)中国に渡り、五台山・長安等で勉学、会昌2年武宗の仏教弾圧に遭い、艱難辛苦しながら多くの典籍・教法を持ち帰った。帰朝後は天台密教の大成につとめ、関東東北を巡錫して多くの霊場を開いた。
智証大師 / 円珍(814〜891) 第5世天台座主 天台宗寺門派の開祖
讃岐の人。母は空海の姪にあたるといわれ、15歳で比叡山に入り義真に師事した。仁寿3年(853)入唐。天安2年(858)四四一本一千巻の経論典籍とともに帰朝、比叡山山王院に住した。貞観8年(866)園城寺の別当となり、大いに天台の教風を宣揚した。貞観10年(868)安恵に次いで天台座主となる。同年園城寺を賜わると、ここを天台の別院とした。後に円珍の門流は園城寺において、円仁の門流(山門派)に対し寺門派を形成する。
安然和尚 / (841〜?) 五大院先徳 阿覚大師
近江の人。円仁・遍照に学び、比叡山に五大院を構え盛んに天台密教を講述した。『悉曇蔵』等の著がある、天台密教の大成者である。生涯、ただ研究と著作に没頭したので、世にもっぱら五大院の先徳といわれる。
相應和尚 / (831〜918、一説に908) 回峰行の始祖 建立大師 南山大師
近江の人。15歳で円仁の門に入り、宇多天皇の歯痛を鎮めるなどたびたび法験をあらわした。貞観7年(865、一説に貞観6年)回峰行の根本道場として無動寺を建立したので、後に建立大師といわれる。朝廷に奏上して最澄に「伝教」、円仁に「慈覚」の大師号を賜った。
慈恵大師 / 良源(912〜985) 第18世天台座主 元三大師
近江の人。南都の学匠を論破し(応和の宗論)、名声が響き渡った。多くの門下があり、源信・覚運などの偉才を輩出した。学問を奨励し、荒廃した比叡山を復興・拡充したので、叡山中興の祖と仰がれる。角大師・豆大師として庶民に広く信仰される。おみくじの元祖でもある。
恵心僧都 / 源信(942〜1017) 日本浄土教の祖
大和の人。良源に師事し、学才の誉れ高かったが、母の教誡によって栄名を忌み、横川の恵心院に住んで浄業を修し、『往生要集』を著わして日本の浄土教の基礎を築いた。仏像・仏画の制作が多数にのぼる。浄土系各宗から特に尊祟されている。
空也上人 / (903〜972) 空也念仏の祖
京都の人。醍醐天皇の第5皇子とも伝えられる。在俗の修行者として遊行し、天歴2年(948)延暦寺の延昌に戒を受けた。応和3年(963)京都に西光寺(後の六波羅蜜寺)を建てた。常に市井に立って南無阿弥陀仏を称え、庶民に念仏を広めて市聖(いちのひじり)と呼ばれた。その念仏を空也念仏とも称し、踊り念仏の祖とされる。
慈眼大師 / 天海(1536〜1643) 上野寛永寺と創建
14歳で宇都宮粉河寺(こかわでら)の皇瞬僧正に学ぶ。後に比叡山で天台三大部を学び、園城寺でも就学、興福寺で法相・三論等を研究。徳川家康に謁見してより、次第にその信任を得る。のち秀忠・家光にも信頼が厚かった。元和2年(1616)家康が亡くなると、その亡骸を久能山より日光山に移し、奥院廟塔(後の東照宮)を造営する。そして家康に東照大権現の諡号を贈る勅許を得た。また、秀忠に助言し、上野の東叡山寛永寺を創建し、その第1世となった。 
各宗の開祖達 [比叡山で学んだ開祖達]
法然上人 / (1133〜1212) 浄土宗の開祖
岡山県の人。13歳で比叡山に上り、黒谷の青龍寺にこもり経典を読破。「念仏によって正しい生活と往生が得られる」と確信し、1175年浄土宗を開く。
栄西禅師 / (1141〜1215) 臨済宗の開祖
岡山県の人。14歳で比叡山に入り、その後2度にわたって中国に留学。臨済宗黄龍派の禅と戒を学ぶ。帰国後博多の聖福寺を拠点に活動を始め、鎌倉の北条政子など、幕府の援助で京都と鎌倉に活動の拠点を設け、禅の教えが認知されるようになった。
親鸞聖人 / (1173〜1262) 見真大師 浄土真宗の開祖
鎌倉初期、京都の人。9歳で比叡山の慈円の門下に入り、29歳で法然の弟子となり、他力易行門を会得した。35歳で配流の身となってからは越後、関東と教化の旅を続け、在家往生の実を示すため自ら肉食妻帯をした。『教行信証』を著わし、浄土真宗を開いた。90歳、京都に寂す。
道元禅師 / (1200〜1253) 承陽大師 日本曹洞宗の開祖
京都の人。13歳で比叡山に登り、翌年、公円のもとで剃髪し天台の秘奥を学ぶ。後、建仁寺で栄西の高足の明全に師事し、禅宗に帰した。貞応2年(1223)、中国に渡って曹洞宗を学び、帰朝後は京都に興聖寺を開いて、只管打坐を唱導した。寛元2年(1244)、越前に大仏寺(永平寺)を創建し根本道場とした。
日蓮上人 / (1222〜1282) 立正大師 日蓮宗の開祖
安房の人。12歳で安房清澄山に登り、道善に師事。21歳で比叡山に登り修学すると共に、諸所を遊歴し、31歳帰郷。初めて南無妙法蓮華経の題目を唱え、以後『法華経』の法門を弘通した。文永11年(1274)身延山に住し、弘安5年(1282)、池上に寂した。
一遍聖人 / (1239〜1289) 智真 時宗の宗祖
伊予の人。母の死後10歳で出家、太宰府の浄土宗西山流聖達や肥前の清水寺の華台に学ぶ。在俗生活の後再出家し、信濃の善光寺にて他力念仏の安心を得る。以後一所不住の遊行を続け、空也にならって踊り念仏で布教した。
真盛上人 / (1443〜1495) 慈摂大師 天台宗真盛派開祖
伊勢の人。19歳のとき、比叡山西塔の慶秀に師事。恵心僧都に傾倒して浄業を修し、在山20有余年、後に坂本西教寺を再興して根本道場とし、戒律と称名念仏を唱導した。円戒国師の称号がある。 
声明

 

三礼(さんらい)
仏教の基本的な要素である仏(如来)とその教えである法(仏法)、その教えを実践する人(僧)の三つに帰依し、礼拝する声明。経典読誦法要などの最初に唱えられることが多い。
如来唄(にょらいばい)
出典は勝鬘経釈迦歎仏偈である。仏の徳を称える偈文であるが、全文は唱えず一部省略して唱える。
如来妙[色身] 世間[無與等 無比不思議 是故今頂礼]
如来色[無尽 知恵亦復然] 一切法常住 是故我帰依  ([]部分を省略)
また、この偈文はいろいろな旋律で、唱えられてている。
始段唄(しだんばい)では「如来妙色身 世」の部分を独特の旋律で唱え、中唄(ちゅうばい)では「間無與等 無比 不思議」の部分。行香唄(あんきゃんばい)では「如来色 無尽 知恵亦復然 一切法常住 是故我帰依」の部分を唱える。これらの「唄 」は大原魚山の伝法が必要でこの伝法のことを「唄伝」(ばいでん)と言う。
散華(さんげ)
道場に本尊・聖衆を招請し、香を献じ華を散じて供養し奉るために唱えられる曲で、三段からなります。
上段の出典は『金剛頂経』、中段は『倶舎論』、下段は『法華経』巻三化城喩品。中段の句は法要の本尊により異なります。
本儀には三段すべて同音より次第を取り、上段は列立のまま、中・下段で行道を一匝しながら唱えるのであるが、近年は上段のみ同音散華で唱えて行道することが一般的になっています。
四智讃梵語(しちさんぼんご)
梵語讃(ぼんごさん)とはサンスクリット音を漢字で表記した声明曲である。内容は仏の四つの知恵を讃える詩で、鏡のようにあらゆるものを差別なく現し出す智(大円境智)、自他すべてのものが平等であることを証する智(平等性智)、平等の中におのおのの特性があることを証する智(妙観察智)、あらゆるものをその完成に導く智(成所作智)の四つが唱えられる。
起立して唱える「列讃」(れっさん)、歩きながら唱える「行道讃」(ぎょうどうさん)などの通称がある。曲は緩やかな旋律で儀式の始めに唱えられることが多く、道場の静粛を促す。唱え終わってドラとシンバルに似た打楽器である鐃(にょう)と鈸(はち)が鳴らされる。
四智讃漢語(しちさんかんご)
別名、着座讃(ちゃくざさん)ともいう。四智梵語讃が起立して唱えるのに対して着座して唱えるためこのように呼ばれる。内容は梵語讃と同様の内容である。唱え終わって鐃(にょう)と鈸(はち)が奏せられるのも梵語讃と同様である。
諸天漢語讃(しょてんかんごさん)
諸天漢語讃(しょてんかんごさん)は大雲輪請雨経の一節で、仏法護法の天部衆を賛嘆する声明曲である。大般若転読会や護摩、地鎮作法など祈願法要に多く用いられる。曲は定曲という四拍子の曲で、三段に分かれており、各段の終わりに鐃(にょう)と鈸(はち)が打ち鳴らされる。 
全国の寺院

 

延暦寺 / 天台宗の総本山
延暦4年(785)、伝教大師最澄は比叡山に上り草庵を結びましたが、その三年後には一乗止観院を創建し、ここを鎮護国家の根本道場と定めました。これが今日の根本中堂です。
以後、慈覚大師円仁・智証大師円珍や慈恵大師良源の時代とともに整備され、盛時には三塔十六谷三千坊といわれる大寺院に発展しました。しかし、織田信長の焼打ちにあって大多数を焼失し、現存する建造物はほとんどがその後の再建です。
三塔とは東塔・西塔・横川(よかわ)をいい、主な伽藍として東塔には、本尊薬師如来を安置する根本中堂を中心に、大講堂・戒壇院・明王堂・大師堂・伝教大師廟である浄土院などの建物があります。西塔には釈迦堂を中心に、にない堂・黒谷青竜寺等があります。釈迦堂は転法輪堂ともいい、もとは大津の園城寺の弥勒堂金堂でしたが、豊臣秀吉が文禄4年(1595)に山上に移築したと伝えられています。横川には、円仁が創建した横川中堂(首楞厳院)を中心に、元三大師を祀った四季講堂、恵心院、安楽律院等があります。
比叡山は日本仏教の宗家ともいうべきもので、法然・日蓮・親鸞・道元など日本仏教の各宗の祖師がここで学び、あるいはここで出家得度しています。
また、比叡山の守護神として坂本の日吉大社があります。 (大津市・京都市)
滋賀院門跡
滋賀院は坂本にある延暦寺一山の総本坊で、代々の天台座主の御座所として、滋賀院御殿とも呼ばれています。
元和元年(1615)、慈眼大師天海が後陽成天皇から京都の法勝寺を賜って建立したもので、穴太衆積みという自然石の石垣の上に白土塀と勅使門が調和し、風格あるたたずまいを見せています。
また、徳川家光の命によってつくられた池泉築山式庭園はみごとなもの。庭に面した宸殿、その奥の客殿、二階の書院、階段を上がり奥まったところにある仏殿と、豪壮で落ち着きある造りが見られます。 (大津市坂本)
妙法院門跡
妙法院は、平安時代末期に後白河法皇の帰依を受けた僧昌雲が、法皇の御所法住寺殿に隣接して住坊を構えたことに始まる寺院。
鎌倉期には膨大な寺領と勢力を誇るまでに至りましたが、南北朝、応仁の乱などで堂塔を焼失。その後、豊臣秀吉が大仏殿(方広寺)を造営した時、妙法院を大仏経堂に定められたことから再び大きく発展しました。
近世に入って、後白河法皇の御所法住寺殿の御堂として長寛2年(1164)に創建された三十三間堂(蓮華王院)をも管理することになり、また皇族の入寺する門跡寺院として公家文化の伝統を守ってきました。
桃山建築の庫裏をはじめ、大書院や仏像など数多くの文化財があります。また、三十三間堂は、長大な単層入母屋造りで、内陣に並ぶ1001体の観音像は壮観です。
京都五ケ室門跡の一つ。 (京都市東山区東山七条)
三千院門跡
三千院は、延暦7年(788)、伝教大師が東塔南谷に草庵を開いたのに始まり、一念三千院、または円融房と称したのが起源とされています。
その後、清和天皇の勅願により滋賀県東坂本の梶井に御殿を建て、円融房の里坊とされました。また、元永元年(1118)堀川天皇第二皇子・最雲法親王が梶井宮に入室され、皇族出身者が住侍する宮門跡となり、歴代の天台座主を輩出してきました。
応仁の乱後、大原の魚山一帯にあった大原寺(来迎院・勝林院の総称)を管領する政所があった現在の地を一時仮御殿とされ、現在に至っています。
大原は、平安時代初期、慈覚大師(円仁)が中国五台山から伝えた五会念仏により声明梵唄の発祥の地となり、魚山来迎院を開いた良忍上人が天台声明を集大成された地でもあります。また、往生極楽を願う人々の隠棲の地として、往生極楽院を中心に念仏聖による不断念仏・引声念仏が盛んに行われ、天台浄土教の聖地となりました。
境内には国宝の弥陀三尊を祀る極楽院、特に来迎の相を表し、純日本式の座り方(大和坐り)をしている脇士の観音・勢至菩薩は類例がなく有名です。
また、本尊薬師如来(秘仏)などを祀る宸殿、明治の京都画壇を代表する下村観山・竹内栖鳳などの襖絵のある客殿、そして金森宗和の修築による池泉鑑賞式庭園の聚碧園、宸殿前の有清園など四季折々の景観を楽しむことができます。
京都五ケ室門跡の一つ。 (京都市左京区大原)
青蓮院門跡
青蓮院は粟田口にあることから、粟田御所・粟田宮とも呼ばれます。本尊は、熾盛光(しじょうこう)曼荼羅。
開基は伝教大師最澄で、初め青蓮房といって比叡山の東塔南谷にあり、その第12代行玄大僧正に鳥羽法皇(1103-1156)が帰依され、その第7皇子をその弟子とし、院の御所に準じて京都に殿舎を造営して青蓮院と改称されたのが始まりです。
青蓮院は平安時代末から鎌倉時代に及ぶ第3世門主慈円(1155-1225)の時に最も栄えました。慈円寂後20年して第6世門主となった道覚親王が天台座主となって以来、青蓮院は入道親王入寺の寺として明治に至りました。
明治26年(1893)大火にあい、本堂以下多くの貴重な建物が焼失しましたが、その後、清の竹林寺の一堂を移築して本堂とするなど境内が整備されました。
当院の多くの国宝・重要文化財中、青不動明王画像は日本3大不動の一つとして特に知られています。
京都五ケ室門跡の一つ。 (京都市東山区粟田口)
曼殊院門跡
曼殊院は、もともと伝教大師の草創に始まり、是算国師が住持をつとめた時に比叡山西塔北谷に移り東尾坊と称しました。
是算は菅原氏の出身であったため、天暦元年(947)、北野神社が造営されるや、勅命により別当職に補せられました。以後歴代、明治までこれを兼務することになります。
天仁年間(1108-1110)、学僧 忠尋座主が当院の住持であった時、東尾坊を改めて曼殊院と称しました。
現在の地に移ったのは明暦2年(1656)で、八条(のち桂)宮智仁親王の次男良尚法親王(後水尾天皇猶子)の時である。親王は正保3年(1646)に天台座主に任ぜられ、当院を御所の北から修学院離宮に近い現在の地に移し、造営に苦心されました。
庭園、建築ともに親王の識見、創意によるところが多く、江戸時代初期の代表的書院建築で、その様式は桂離宮と深い関連があります。
京都五ケ室門跡の一つ。 (京都市左京区一乗寺)
毘沙門堂門跡
毘沙門堂は、正式には護国山安国院出雲寺毘沙門堂といいます。
最初は比叡山延暦寺の別院でしたが、その後、後陽成天皇(1571-1617)が勅を下して、日光山輪王寺の座主慈眼大師天海に修興を命じ、徳川幕府も寺地を寄進しました。寛文5年(1665)堂宇が完成しました。のちに輪王寺の門跡であった公弁法親王が入寺したことにより、毘沙門堂門跡といわれるようになりました。以後、代々輪王寺宮法親王の兼務の寺となりました。
本尊の毘沙門天は、伝教大師最澄自作とされています。
寺宝の洞院公定の日記は国宝に指定され、南北朝史の貴重な史料とされています。
京都五ケ室門跡の一つ。 (京都市山科区安朱)
寛永寺
寛永寺は東叡山円頓止観院寛永寺といい、比叡山・日光山と並んで、江戸時代には天台宗三大本山の一つでした。
徳川家光の時、上野の山が江戸城の鬼門にあたることから、江戸城鎮護の祈願所として寛永二年(1625)本坊が竣工したので、その年号をとって寛永寺と名付けられました。また喜多院の山号をとって東叡山と称しました。
慈眼大師天海は、釈迦堂・多宝塔・三十番神社・清水観音堂・求聞持堂・弁財天堂・食堂・慈恵大師堂・山王社・別当本覚院等を建立しました。徳川家の菩提寺ということもあって、諸大名も競って諸堂を建立しました。
しかし、幕末の彰義隊の戦争によってほとんど焼失し、後に本堂は喜多院より移されましたが、山内は上地を命ぜられ、本堂・清水観音堂・御廟屋と若干の支院を除いてほとんどが官有となり、後に恩賜公園(現 上野公園)となりました。
本尊は薬師如来。両界曼荼羅図や愛染明王図など数多くの寺宝があります。 (東京都台東区)
輪王寺
輪王寺は日光山輪王寺といい、二荒山(ふたらさん)神社・東照宮とともに、日光の2社1寺として、日光山の運営にあたりました。開創は天平神護2年(766)沙門の勝道上人が初めて日光山内にいたり、四本龍寺を建立しました。当地は回峰修験の道場であり、観音信仰の霊地でした。
嘉祥元年(848)、円仁が勅を奉じここに来て、三仏堂・常行堂・法華堂を創建し、鎮護国家の道場としました。円仁入山の際、山内37ケ寺の支院ができ、その総号を「一乗実相院」といい、円仁を開祖としました。これを機に当山は天台宗に帰することになりました。
江戸時代の元和3年(1617)、天海は徳川家康の遺骸を久能山から日光山に遷座し、山王一実神道の祭祀形式によって家康を東照大権現として祀り、日光廟(東照社)を創建しました。
江戸時代を通じ、代々の日光山主は上野の東叡山寛永寺の宮が兼務し、天台一宗を管理しました。
明治4年(1871)、神仏分離令が発布せられると、東照権現は東照宮となり、輪王寺の称号や東叡山の山号もすべて廃され、寺は旧称の満願寺と改称されましたが、明治16年(1883)に輪王寺の寺号を許され、2年後には門跡号が充許され、今日の日光山輪王寺となりました。
本堂の三仏堂は、明治14年(1881)二荒山境内から現在の地に移されました。
主な国宝として、輪王寺大猷院霊廟や『大般涅槃経集解』等があります。 (栃木県日光市山内)
中尊寺
中尊寺は、関山中尊寺といいます。
嘉祥3年(850)、慈覚大師円仁が東北に遊化した時、当地の藤原興世(おきよ)(817-891)が円仁に帰依して堂宇を造立し、円仁手刻の仏像、書写如経を安置、日吉・白山両権現を勧請して創建されました。
その後、源頼義、義家も寺領を寄進し、貞観元年(859)に清和天皇より「中尊寺」号を与えられました。長治2年(1105)に、藤原清衡が掘河天皇の勅命を受けて、当寺の再興を企て、以後、基衡・秀衡も当寺の維持にカを注いで、盛時は「寺塔四十余宇、禅坊三百余宇」と言われるほど隆盛を極めました。しかし、建武4年(1337)、惜しくも野火のため金色堂をのこして多くの堂塔は焼失しました。
中尊寺は、今なお、金色堂はじめ3000余点の国宝・重要文化財を伝え、東日本随一の平安美術の宝庫です。また、源義経(1159-1189)のゆかりの地としても有名です。
他にも所蔵の宝物として、金銅孔雀文磬、螺鈿八角須弥壇、中尊寺経蔵堂内具等があります。 (岩手県西磐井郡平泉町)
善光寺
善光寺は定額山善光寺といい、天台宗および浄土宗の別格本山です。
本尊である秘仏「一光三尊の阿弥陀如来」は欽明天皇の時代(6世紀)に百済の聖明王から伝えられ、日本最古の仏像といわれています。
推古天皇の10年(602)、本多善光(若麻績東人-わかおみあずまんど)が、国師のお伴で上洛して故郷に帰る途中、難波(今の大阪市浪速区)の堀江に棄てられていた仏像を見つけ、故郷である信濃国麻績の里に持ち帰り祀ったのが善光寺のはじまりです。
一光三尊とは、一つの光背の中に阿弥陀・観音・勢至の三尊が立たれる姿をいいます。
善光寺の特徴は、天台宗・浄土宗の本山を兼ねていることです。天台宗の別格寺で、当寺の別当職であった寺を大勧進といい、浄土宗の別格寺で、主務職を大本願といいます。 大勧進の説によれば、弘仁6年(815)最澄が当寺に詣でて、その基礎をたてたものだといいます。
「牛にひかれて善光寺参り」の言葉の示すように、古くから信州一国に留まらず、全国に知られた名刹で、民間信仰の中心でした。 (長野市元善町)  
 
浄土信仰

 

無条件の救いを説く浄土信仰
貴族守護(国家鎮護)の古代仏教から衆生救済の鎌倉仏教への転換
老荘思想(道教)と儒教の原理的な考え方について書いた過去の記事で、『老荘の無為自然』と『仏教の悟り(解脱)』の類似性を指摘しました。仏教には、出家した僧侶が厳しい修行の中で悟りを目指す『上座部仏教(小乗仏教)』と在家の仏教信者である衆生(一般大衆)を仏法によって救済しようとする『大乗仏教』とがあります。日本仏教では、末法思想と政情不安定によって旧仏教(奈良・平安の仏教)が衰退した平安末期から鎌倉初期にかけて、大乗的な衆生救済の仏教が優勢となりました。
日本の仏教は、鎌倉時代の相次ぐ新宗教の成立によって様相を大きく変えますが、その変化の中核にあったのは、死後に阿弥陀如来が鎮座する西方極楽浄土に往生するという『浄土信仰』でした。そして、阿弥陀如来の『衆生救済の本願(慈悲)』にすがろうとする浄土信仰の大衆化に貢献したのは、学問や修行の経験などないあらゆる階層の人々を救済可能にする『念仏・題目という易行』の登場でした。釈迦の死後2,000年が経過すると釈迦の正法の教えの効力が失われていくという『末法思想』が、浄土信仰の普及を後押ししましたが、平安時代末期(11〜12世紀)には末法の到来を信じさせるような政情不安や社会混乱、天災による飢饉が多く起こっていました。
末法思想が広まった背景には、公家社会(貴族時代)から武家社会(封建時代)への転換に伴う源平の戦乱の恐怖があり、政権基盤の不安定化や相次ぐ天変地異(旱魃・洪水・地震)による民衆の耐えがたい飢餓と貧窮がありました。1,052年に関白・藤原頼通によって阿弥陀如来を本尊とする平等院鳳凰堂が建立されたように、摂関家(藤原家)のような上流貴族の間にも末法思想と浄土信仰が流行していましたが、『民衆の災厄や苦悩』を救済する力(意欲)を古代仏教(天台・真言の平安仏教,南都・北嶺の奈良仏教)は失っていました。天災による飢えと戦乱による被害に苦しむ一般大衆は、政権を担う朝廷(貴族)に訴えても、次期政権を窺う武家(源平の武装勢力)に請願しても、困窮する生活と不安は改善しませんでした。
公家も武家も大きな時代の変革の中で、自己の権力を保持し拡張することに必死であり、貧しい民衆を利用することはあれ積極的に助け出すような姿勢を持っていませんでした。政治の担い手である公家も武家も全く頼りにならないのであれば、比叡山の天台宗や金剛峰寺の真言宗、興福寺を代表とする南都六宗の奈良仏教に救済を求めることになりますが、釈迦が衆生救済を説いた仏教も貴族の既得権益の場と化していて、貧しい民衆の暮らしを顧みることはありませんでした。奈良時代や平安時代の寺院建立が公共事業であり、高僧のほとんどが朝廷の皇族や上流貴族であったことからも明らかなように、平安時代までの古代仏教は『貴族仏教・官製仏教』としての色彩が非常に濃厚でした。
その為、南都・北嶺(興福寺や延暦寺の旧仏教)における仏教経典の研究や密教の加持祈祷の実施などは、大乗仏教的な衆生救済(菩薩行)につながるようなものではなく、飽くまで貴族階級・僧侶階級の繁栄や保護を祈願するという目的のもとに行われていたのです。また、平安時代になると不殺生戒を持っているはずの僧侶が武装して、寺社の所領(荘園)を武力で防衛したり他人の田畑を略奪したりするようになり、大寺社は宗教信仰の場というよりは、軍事的・経済的な一大勢力の様相を呈し、その世俗化(強訴・権力欲・肉食・色欲・高利貸し・金銭欲)は留まるところを知りませんでした。一般大衆は、堕落・腐敗した古代仏教に失望し、寺社相互の権力争いや領土紛争に明け暮れる古代仏教による救済を諦めつつありました。世俗化して衆生救済の責務を放棄した古代仏教は『平安貴族の権力』に守られていましたが、朝廷の貴族勢力が源頼朝(武家の鎌倉幕府)に政権を委託したことで、古代仏教にとって代わる新仏教成立の余地が生まれました。
即ち、『支配者階級の救済を主眼とした伝統仏教』は政治体制(貴族政治)の転換によって急速に衰退し、『一切衆生の救済を説く鎌倉仏教』が台頭してくることになるのです。それは、『学問・教養・経済力・身分・地位・性別』などによって『救済される対象』を選別する古代仏教とは違い、無条件にあらゆる人々を平等に救済するという革新的な仏教、支配階層にとって脅威となる仏教でした。旧仏教(奈良仏教・平安仏教)は貴族仏教であると同時に、『学問仏教・伽藍仏教・祈祷仏教』と呼ばれるような『条件付きの救済』を約束するエリート(選良)のための仏教でした。
これは言い換えれば、難解な仏教経典を解読できるような知性(識字教育)が無い民衆は救われないということ(学問仏教)であり、巨大で豪華な寺社建築を寄贈できるような豊かな経済力が無い貧乏な民衆は救われないということ(伽藍仏教)でした。天台宗や真言宗の祈祷仏教も、高僧による病気平癒や大願成就の加持祈祷を受けられる人は、基本的に貴族階級の上位に属するものが殆どでした。旧仏教は国家仏教あるいは貴族仏教と言われるように、『何らかの身分や条件によって選抜された人間』を主要な救済対象とする宗教であり、貧しくて無知な衆生の生活や悲惨を救い出すような気概・意図をもともと余り持っていなかったのです。
末法の世を救う浄土信仰は、教学的には『仏説無量寿経・仏説観無量寿経・仏説阿弥陀経』という浄土三部経に支えられているわけですが、浄土宗の始祖・法然や浄土真宗の親鸞は、最終的にはこういった経典を研究することは全く不必要であるという結論に達します。専修念仏(せんじゅねんぶつ)の悟りに達する以前の法然は、主に『観無量寿経』に依拠して自己の学識を深め、親鸞のほうは主に『無量寿経』に依拠して自己の念仏称名の阿弥陀信仰を固めていったのですが、法然や親鸞は弟子や民衆に対して教説の学問は不要であり、それらの知識修得にこだわることは救済の妨げになると説きました。
念仏信仰の浄土宗や浄土真宗は『一般大衆(農民・平民)の仏教』であり、あらゆる階層に属する人々を解脱させ救済することを目的としますから、できるだけ救済に至る敷居(必要条件)を低くする必要がありました。その為には、『学識教養・階級身分・経済的富裕・禁欲的戒律』など救済のためのさまざまな条件をつける旧仏教を全否定する必要があり、浄土系の鎌倉仏教では『選択(阿弥陀仏の選択)・専修(一つの行のみに集中)・易行(誰でも可能な簡単な修行)』によって一切衆生を平等に救いだす『専修念仏』という仕掛けを作り出しました。
つまり、『南無阿弥陀仏』(浄土宗・浄土真宗・時宗)という念仏、あるいは、『南無妙法蓮華経』(日蓮宗)という題目を唱えるだけで、輪廻からの解脱と極楽浄土への確実な往生が約束されるという教義を確立したわけです。  
末法思想と鎌倉仏教の台頭
仏教渡来(538年)から長い時が流れた平安時代末期になると、天皇を中心とする貴族階級の権力に陰りが見え始め、武力と荘園(私有地)を権力基盤とする新興の武士階級(平氏・源氏)が勢力を増してきます。日本の古代仏教の総本山には、奈良時代の南都六宗(三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・律宗・華厳宗)があり、仏法によって国家や貴族を守り繁栄させようとする「鎮護国家の思想」が盛んでしたが、東大寺の大仏(盧舎那仏像)を建立した聖武天皇(701-756)の時代に奈良仏教の勢威は頂点に達しました。聖徳太子が17条憲法(604年)で仏教を保護したとされる飛鳥時代の仏教は、国家の平和と繁栄のための宗教と考えられており、仏教の僧侶(官僧)の身分は大和朝廷の律令制に組み込まれていました。
奈良時代には聖武天皇が国分寺や国分尼寺を日本各地に建立し、中国の学識高い高僧であった鑑真(688-763)を招聘して唐招提寺を建立しましたが、この頃から奈良仏教の寺社勢力が権力を増して朝廷の政治に口出しすることが増えてきます。寺社勢力の政治干渉の弊害を嫌った桓武天皇(737-806)は、政務を一新するために平安京遷都(794)を断行しますが、平安時代の仏教は遣唐使として派遣された二人の天才的な学僧・最澄と空海の密教を中心にして展開されます。伝教大師と呼ばれる最澄(767-822)が開祖となった比叡山延暦寺(天台宗)と弘法大師と呼ばれる空海(774-835)が始祖となった高野山金剛峰寺(真言宗)は、日本の密教の二大霊場となり、山岳仏教(鎌倉仏教以前の古代仏教)の中心拠点となりました。
平安時代までの古代仏教は良くも悪くも国家の管理体制が行き届いた「官製の宗教」であり、天皇を頂点とする貴族階級の安寧や祈祷のための仏教でした。平安時代中期くらいから末法思想が流行し始め、従来の古代仏教では対応できない社会不安と民衆の困苦が深刻化してきました。「大集経」に根拠を持つ末法思想(まっぽうしそう)というのは、釈迦の入滅後に長い時間が経過すると仏教の正統な教えが衰退していくという下降史観であり、具体的には「正法(1,000年)→像法(1,000年)→末法(10,000年)」というように仏法の正統な教義が失われていくとされていました。日本では平安時代中期の1052年から末法の世に突入すると伝えられていて、この頃から死後に西方極楽浄土に生まれ変わりたいとする浄土信仰が盛んになり始め、天台宗の僧侶であった源信(恵心僧都, 942-1017)が極楽浄土へ往生するためにはどうすれば良いのかを書いた「往生要集」を著述しました。国家管理方式の官僧になることを嫌って、浄土信仰の民間布教と橋梁など技術教授に尽力した空也(903-972)のような異才を放つ僧侶も平安中期頃から現れ始めました。
本来の末法思想には、末法の時代に天変地異(飢餓・飢饉・疫病)や社会不安(戦乱・略奪・宗教や政治の腐敗)が起こるという悲観的な終末思想は含まれていないのですが、平安末期に次々と起こった天変地異(大雨・旱魃・洪水・台風)による飢餓(飢饉)や疫病を民衆は末法思想と結びつけました。天災による飢饉の問題だけではなく、朝廷の政治権力の不安定化や武装した寺社勢力の世俗化(堕落腐敗)なども顕著になり始め、飢えや寒さ、戦乱に苦しんだ一般民衆たちは弱体化した政治以上に仏教(宗教)に救済を求めました。しかし、政治権力への接近と宗教界内部の派閥闘争によって世俗化が進んでいた奈良・平安時代の古代仏教には、天災の増加と社会不安によって悩み苦しむ民衆を救済するだけの意志と能力がありませんでした。僧兵を抱える奈良の南都・北嶺の寺院は相互に荘園や勢力を競って世俗的な争いを繰り返し、民衆を苦しめる強訴や武装蜂起を起こしたりもしました。密教の本山である延暦寺や金剛峰寺も、難解な学問や過酷な修行に明け暮れるばかりで、庶民の生活や安全を守る菩薩行の実践を優先する僧侶が現れませんでした。
日本が古代社会から封建社会へと転換する平安末期の末法の時代(混乱と困苦の時代)に、古代仏教は「民衆の心の支え」や「民衆救済への動力源」になれなかったことで衰退していくことになります。奈良仏教や天台宗・真言宗などの古代仏教に取って代わる形で、一般庶民を救済する大乗仏教の特色を前面に押し出した鎌倉仏教が台頭してくるのです。法然・親鸞・日蓮・一遍・栄西・道元に代表される鎌倉仏教の最大の特色は、貴族階級の保護と繁栄を祈願した古代仏教と違って、一切衆生(すべての人民)の安寧と往生を祈願する大乗仏教としての性格を色濃く打ち出している点であり、古代仏教にあった本地垂迹説的(神道と仏教の融合的)な多神教(八百万の神々=八万四千の仏)の要素を捨象しているところです。
鎌倉仏教のエッセンスは、「専修(唯一の信仰法の選択)」と「易行(特別な修行や学問が不要であること)」にあり、浄土宗(浄土真宗)の“南無阿弥陀仏”の念仏や法華宗(日蓮宗)の“南無妙法蓮華経”の題目に象徴されるように誰でも簡単に完全な救済と極楽浄土の誓願を得られるようになったのでした。武家政権の鎌倉幕府の時代に入って、仏教は一般大衆化の度合いを強め、貴族階級の鎮護国家の役割や特別に優れた学識を持つ僧侶の学問(修行)から少しずつ分離していくのです。鎌倉仏教の各宗派の開祖の登場によって、国家が律令制の範疇で管理運営する官製宗教であった仏教は、本来の大乗の誓願(利他行)を実践するための「民間信仰の宗教」へと変質を遂げたのです。  
鎌倉仏教と親鸞聖人の自覚 
親鸞聖人や当時の日本の鎌倉時代の人々と同様に、私たちは目的を失った時代に生きています。仏教では、そのような時代を末法と呼びます。つまり、仏の教えが衰え、終末を迎える最後の時代を意味します。この場合、最早、以前に尊ばれた力強いシンボルが完全で意義があるものとして、多くの人の心を動かさなくなっています。このような時代では、人々の信念や決意をかき立て、全く心を動かすシンボルとか神話はあまりありません。鎌倉時代の仏教徒は、当時精神性に訪れた危機に瀕していろいろな解決策を模索していましたが、二十一世紀の今日、私たちは、当時の人たちが抱えていたと同じような問題に向かっています。
鎌倉仏教と親鸞聖人をよく理解するには、ここで一寸歴史について考えねばなりません。というは、歴史とそれが物語る人々の決意と誓約の例を通じて、現代の道を求める私たちは、自分たちの今後進むべき方向を決め、現代において決断する際の手引きを得るからです。親鸞聖人と同様に、私たちが住んでいる時代では、精神面を建て直し、現実の生活での意味と宗教面の遺産を解釈し直すことが必要です。
これを達成できる洞察を得ようとすれば、運動の起きた原点に戻り、当時の問題点を歴史と宗教の面から理解するしかありません。
日本の仏教で鎌倉時代は、独特な時代でした。この時代になって、以前仏教について認めた改革すべき重大な要素が、それぞれの性格と基盤を仏教の伝統に基づき、幅ひろく開花していきました。この時代とそれぞれの独自の人となりとの出会いで、各自が自分なりに自己を啓発し、仏教を、個性的に表しました。もっとも、これらは、最初余り広い範囲に影響を与えなかったのですが。
最近鎌倉仏教が、真に日本の仏教の改革であったかどうかという問題がかなり討論されていますが、ここではそういった論争に立ち入るわけにはいきません。しかし、これら宗祖たちの生涯および教えとそれらを代表すると主張する教団の発展との違いを考えると、それぞれ宗祖らの多様な考え方の中に、改革ないし更新の基盤がひそんでいました。
鎌倉時代に生まれた主な宗派の指導者は、法然、親鸞、および一遍(1239-1289)で、皆浄土教を代表していました。日蓮(1222-1282)は、法華経をたたえ、天台宗の教義を仏教の基盤としました。道元は、中国の曹洞禅を日本にもたらしました。当時のもう一人の高僧であった明恵(1173−1232)は、伝統的な教えに忠実に復帰しようと企てました。このような総ての努力の背景には、仏教の密教と顕教の組織がありました。これは、天台宗と真言宗の、当時の宗教界を支配していた寺院と荘園組織の念入りな行と華麗な儀式から成り立っていました。当時、宗祖・祖師であった人たちは、各々、改革者と見なされたか否かを問わず、独自の意義をもっていました。
鎌倉仏教の新しい宗派は長く続いた社会危機の時代に生まれました。この時代は、平安時代後期に始まり(おそらく十一世紀以降)、騒乱の波は首都の京都でも感じられ始めました。京都の北に聳える比叡山は平安時代の天台仏教の本山で中心地でした。西暦1052年は、日本仏教の歴史では、末法の始めと見なされるようになりました。この頃から首都京都の朝廷と多くの地方の豪族らと間のあつれきが激しくなりました。結局平家の一族が都の支配勢力となり、独裁政府を確立しました。平氏が自分たちの得た新しい勢力を当たり前と思い、驕りはじめると、源氏がやがて天下を取る兆しが出てきました。
源平合戦と言われた戦争は、壇ノ浦の悲しい合戦と幼い安徳天皇の入水による崩御で集結しました。この時点、1185年に鎌倉時代が始まったとされています。しかし、これで全て平穏になったわけではなく、朝廷は、勢力を取り戻そうと企み、これらの動きの結果、1221年に承久(じょうきゅう)の乱が起こりました。後に、十三世紀に至り、中国本土で得た勢力に乗じた蒙古の襲来が危ぶまれ、島国日本の混乱が高まりました。国内の政争と外敵(内憂外患)に加えて、疫病、飢饉、地震がしばしばあり、すべての人々がより悲惨になり、不安に陥れられました。主に上流階級で占められていた伝統宗教の教団も農民の労働に糧を仰いでいました。不安な状態のため、大衆は、その精神面での欲求を満たす新しい考えをもたらす、新らしい指導者が立ち上がることを望んでいました。 
既成の宗教が社会の支配階級による圧政やごまかしから解放されると、今度は、希望を呼び起こし人間の精神を自由に解放するものです。元々あった普遍的な本性と真実の探求心が現れてくるものです。私たちは、このような社会あるいは個人的生活に争乱の起きる時代を、決して喜んだり、望んだりすることはないでしょうが、人の精神面には良いことがあります。その訳は、悲しみの生活と世間に明け暮れる私たちを支えてくれる真実を求めて、私たちが自分の生活自体を深く洞察するようになるからです。
鎌倉時代は、日本にそのような現状打開に拍車をかけました。前にも述べた通り、仏教は様々な新しい精神性の道へと開花していきました。同時に仏教は、今までは出来なかった様式で、もっと大衆の手にたやすく届くようになりました。それまでの仏教は、世間から閉ざされていた貴族の占有物で、主に豪族か朝廷のためであったのです。
このような観点から、鎌倉仏教は、生き生きとした発展を遂げ、おそらく仏教の歴史上、最も人を鼓舞し、意義があった一つの出来事と見ることができます。 鎌倉仏教では、人々が銘々自分たちが長年親しんできた古くからの教えの中に意味を見出そうとしていたことが分かります。新しい型の仏教は、かって仏教を六世紀に朝廷の宗教として受け入れた国からの何ら補助を受けないで始まりました。新しく出てきたものは、あくまでも精神性の自由な表現でした。今日振り返って見ると、親鸞聖人および同時代の人々が決定した事柄、自分たちの命をかけた信仰、並びに此れまでの比叡山での快適な生活と自己満足を捨て、大衆の中で苦労し、難儀をする生活に飛び込んで行くように働いた心の中の力を理解するのは困難です。
法然、親鸞、および日蓮は弾圧を受け、首都から島流しの刑を蒙りましたが、一方道元は、自己に実質上の罰を与えました。歴史に向かって、鎌倉仏教の祖師たちは各々、当時の状勢に自分なりに対応していました。各々が自己の心境と理想に基づいた教えを発展させました。祖師らは、夫々、当時の仏教に不満でしたので、仏陀と同様に、自分達の快適な生活を捨て新しい生き方を探し求めるという個人的にはつらい苦難の道をとりました。主な祖師らが比叡山で天台僧として修行したために、今日でも天台宗は、鎌倉仏教の母であると称しているのは、興味ある点です。僧としての修行の傍ら、天台宗の精神的影響を吸収し、それにより自分達の到達した決断を強固なものにしました。しかし、天台宗が当時の政治と社会の悪と密着し過ぎて、真の精神的な導きとならず、人間として満たされないので、祖師らは、全て、そのような天台宗を教団としては受け入れないと感じました。
初期において、天台宗の教えは、仏教のすべての宗派を壮大に折衷総合されたかたちでまとめていましたので、主な仏教の伝統事項は、全部、比叡山で学べました。禅宗、浄土宗、真言宗(密教)および天台宗がありました。仏陀が生きとし生けるものを解放するためにもたらした色々な手段の一つとして、全ての教えに立派な意義があったのです。しかし、鎌倉仏教の師等は、このような折衷された仏教を打ち壊し、各自がそれぞれ自身にとって重要な唯一の真の悟りと思われた部分を選びました。
法然上人は、念仏に重点を置き、親鸞聖人は、この傾向を継ぎ、それにご自身の信心についての見解を加えました。一遍上人は浄土教の師でしたが、国内を巡回し、出会った人々皆に念仏の教えを施しました。道元は禅を選び、一方、日蓮は、天台宗を純粋な形で、法華経に一心に帰依することで復活させると主張しました。奈良の明恵(みょうえ)上人は、戒律と出家教団を復活しようとする保守的な意図を代表しました。
宗教で何時も出会う問題は、たとえ普遍の真実であっても、真実を探求していくと、人々はばらばらに分裂しがちです。一方、より実践的な宗教は、一般にもっと相対的で、他の教義に寛容な態度を採ります。天台宗を出て新宗派を建てた、鎌倉仏教の宗祖は皆、重要な共通する特徴をいくつか持っています。新しい宗派は、すべて人々の自由意志に基づいており、当時の伝統的な共同・氏族本位の宗教とは違って、信者は自分から決めて新宗派に加わりました。この新しい数々の宗派では、人々が一人一人解放される形をとりました。その際、平安時代の朝廷の仏教と違って、新宗派では、政治指導者に頼んでその教えを受け入れ、布教するのを支援してもらうよう働きかけませんでした。しかも、仏の道に従うことを第一とし、単に社会あるいは政治的問題を扱うのではなく、精神性に専念し、基礎的な問題点として仏教の真実に傾倒したのです。この方針は、是までの仏教の主な勤めは、災難を回避したり、天恵を獲得したりすることで日本(実際には、天皇)を守るという、当時の伝統的な仏教宗派の考えとは、鋭く異なっていました。以前には、病気を治したり雨を降らせたりすることが、国と貴族が仏教を支援した重要なわけでした。 とは言っても伝統的な教団に止まった真摯な求道者と学者が多数居たことを忘れてはなりません。
新鎌倉仏教は、全く単純にした、わかり易い教えで大衆に接しましたが、決して安易なものではなく、かつての出家宗派が使った学者的な教えと仏教語を止め、仏教の中心をなす教えを判りやすくし、仏の教えを世間のあらゆる階級の人に伝えようとしました。仏の教えを単純化しただけでなく、お勤めも単純にしましました。これらの教えは大部分、大衆のための宗教であって、大衆は生活のため懸命に働かなければなりませんでした。農夫、猟師、漁師、商人にとっては、従来の出家制度での複雑で骨の折れる修行の時間などありませんでした。法然上人は、念仏を唱えるだけでよいと主張しましたが、その一方で日蓮は、それ自身十分な勤めとして法華経典の題目を唱えることを教えました。道元が座禅(座って瞑想)を唯一の理想であるとしたのに対して、親鸞聖人は法然に従って念仏を唱えることを唯一のお勤めとしました。これらの師と教えの訴える内容は、いつどこでも通用する普遍的なものでした。救われると言う望みからは、誰も除外されることはありませんでした。偉大な人間愛および人間の福祉に対する関心がこれらのすべての運動の背後にありました。たとえどんな階級でも、どんなに裕福、貧困であっても、どんなに無知でも、弱者であっても、皆すべての人に仏の慈悲が届きました。
最後に、恐らくマイナス要因と見なされるかもしれませんが、新しい運動は、夫々宗派別に分かれる傾向がありました。大乗仏教の概念が末法の概念と合さり、師はそれぞれ自分の教えこそが当時の仏教では唯一の教えであると唱えました。更に、他の形式の教えを尊重しても良いが、それらは真の悟りおよび最終的な救済に必要な保証をもたらすのに無効であると考えました。
法然上人は武士の出で、教えは、より率直でより決定的な特徴を反映していますが、大げさでもなく、また、好戦的でもありません。急成長する運動の責任者として、上人は、より威厳を保たれ、外向性で敬虔な行動をとられました。そして、慈悲心を持った人として登場しました。平安時代の仏教では、貴族階級が優遇されましたが、それと対照的に、上人の教えることは、特に、人々の道徳的・社会的地位にかかわらず、すべての人達を確実に救うことを目標としました。また、上人の人となりについて、伝統的に、情に訴える面が伝えられてきましたが、法然上人は、数世紀に亘ってこの情の面を伝えてきた伝承とは裏腹に、芯の強さがありました。この強さによって、上人は、比叡山当局が加えた迫害に耐えることができ、またその強さ故、最後に上人が島流しされる結果になりました。ほかの諸点の中で、この強さが、特に親鸞聖人のような弟子を上人に引きつけたのです。
法然上人の浄土教は一見歴史を否定するように見えます。即ち、念仏を唱える功徳で、人は、この苦に満ちた不浄の世界(穢土)とは別な浄土に生まれるのです。平家物語で強調する浄土教は、特に幼少な安徳天皇の死と海底の浄土へ入水する物語の中に、この傾向が例証されています。法然上人の教えは、私たちが現在苦しんでいる、ひどい現実の代わりに、別の世界のビジョンを与えてくれます。世俗的な生活の厳しさは、来世への「ウパーヤ(方便、巧みな教育手段)」によって和らげられるのです。方便は、背負っている負担が最も重く、この負担がどんなものか、たやすく表現しない人たちへの慈悲の贈り物です。
親鸞聖人がどのような社会・階級の出であるかというと、藤原氏の血統を引いた人で、聖人の教えの趣旨から貴族出身であることが判ります。聖人は、他の教えと戦ったり、ひどく非難したりしませんでした。もっと正確に言えば、ご自分の和讃と自己告白の中で示されたように、親鸞聖人は感情が豊かな熱血にあふれるお方でした。しかも、内省的で、もっと内向性でご自分の心の世界を突き止められました。
自身の態度と感情を深く内省し、聖人は、運命の問題にたいする手掛かりあるいは解決策を見出すように努力されました。後に示しますが、聖人は、自分が完全ではないと言う気持ちに何年も苛まれ、世の衰退を心の中でご自身のものとして受け止められたようです。聖人は、自身の心の来歴を見つめられ、その結果自分が不完全な人間であると感じた気持ちを、阿弥陀仏を信ずることで、ご自分の意識の中で納得されたのです。自身の心中を巡礼された挙げ句に、親鸞聖人は新しい出発点に立ち、不安および歴史の束縛から解放され、聖人は、この世で建設的な、また意味のある生き方をされることができました。
その後、35歳位から、政治上の流人として日本の辺地に行き、親鸞聖人は、20年間通常の世俗的な生活を送りました。結婚後、家族を養い、大衆に混じって念仏を教えられ、修行されました。老齢に達してから京都へ引退され、そこで引き続き、教え、書き、そして生活され、後の信者のために世に残す学問的遺産および書き物を作成しました。
法然の教えが、大衆の手の届くところまで救いをもたらそうとした点に特徴があるとすれば、親鸞聖人の教えは、その救いをもたらすことが心の中で現実にどう出るかに関心をもっています。法然上人が、救いの現実すべてが歴史を超越するとしたのに対して、実存主義の親鸞聖人は、自身の煩悩と我欲の葛藤の最中でさえ、阿弥陀仏の慈悲が確実に約束されていることを体験されたことで、救いを自己の生活の中に見出そうとされています。
道元(鎌倉時代の曹洞禅の宗祖)は、相当な学問および哲学的な造詣を持った藤原家の一人だったようです。早くから両親を失ったことで、道元は、命の短いこととはかなさをひどく痛感された方です。このはかなさの意識から道元の教えの主なテーマが生まれ、毎日が私たちの最後の日であるかのように私たちは、実行するべきであると主張して、精神修行を緊急に行う必要性を強調しました。しかし、道元は、教義を深く追求し、親鸞聖人が内省的であったのとは違った意味で、主観的であり、内なる心に向けられていました。道元は、亦非常に厳格な人で、宗教に厳格さを求めました。中途半端なやりかたに満足せず、信者は仏教に全身全霊を尽くすことを主張しました。道元が中国で禅師の如浄から学んだ、基本とする言葉は、「身心脱落、脱落身心」でした。
禅宗では、空あるいは人の本性を直接理解することで歴史を超越せんと試みます。末法の教義が歴史上の衰退を若干認めたとしても、禅は、人々には、瞑想と洞察を通じて人々が本来持つ仏性を悟りうる可能性があると基本的に楽観しています。歴史を超越することでその束縛から解放されてこそ、人々は混乱した世の中に落ち着いて生きられるのです。
日蓮は、鎌倉仏教の祖師等の中で最後に現れ、当時最も新しい人であったのですが、師は、しがない漁師出身でした。それで、下層階級出身であることを誇りにし、何とかして、上流階級出の仏教徒に対して自分を見せつける必要がありました。従って、日蓮は、他のどの師より批判的でより好戦的で、考え方は、客観的で、字義通りで、経文に基盤を置きました。指導者たらんと熱烈に望んだ人でしたので、世の中に平和をもたらすために、仏教と世の中を統一する根拠を求めました。更に、愛国者で、当時の他の仏教徒より一般的な社会情勢について良く知っていました。
日蓮は、日本への蒙古襲来の危機を感じ、此の危機によって、国民に警告し、真の仏教国に変えようという使命感に打たれました。日蓮は、歴史と対決した代表者です。彼は、悪を心中で認識せよと要求したり、直接に超越せよとは主張していません。むしろ、日蓮は、「歴史と向かい合って、自分の判断を主張し、かつ、災難を避けるために真実に忠実に従うように。」と要請しています。使命感の為に、日蓮の信者に歴史の真実を見極めよと言っています。創価学会のような日蓮に基づいた今日の現代教団は、日蓮の闘争性および政治的・社会使命に関する感覚を持ち続けています。
鎌倉仏教のこれらの様々な伝統は、各々、私たちの現代とその問題に精神的な考え方を与える源点として有用ですが、親鸞聖人の見地、即ち、ご自身の中で歴史とどう取り組まれたか、宗教的生活を深く個人的に自身でどう理解されたかという点に焦点を絞ると、私たちの時代に役立つ見方が出てきます。聖人が教義を解釈し直し、生活様式を変え始められたことをよく知れば、親鸞の教えの特色が、ますますはっきり判ってきます。自己の意識の中で、歴史と遭遇し、取り組むことで現実の認識につながります。これは、自己の歴史的真実を認め、受け入れることを意味しますが、同時に、それがあくまでも私たちの本性と運命そのものではないと理解しなければなりません。歴史そのものが私たちの宿命ではないのです。その歴史の中でまだ生きている間でも、歴史(自意識としての)の束縛から解放されて、私たちは目的と決意を持って生活できます(自己認識)。
私たちが仏陀の慈悲に抱かれていると親鸞聖人が確信された以上、現代において、私たち人間は、歴史を超越し、またそれを包むなにものかの表れであると知って、歴史の中で行動し参加してもよいことが判ります。そのように自分で明確に認識すれば、自分自身が完全でないことからくる絶望感、或いは世の中で持つ自分達の期待はずれ感から守ってくれます。守るだけでなく、そのような認識は私たちの一生を通じて生きていくときに頼る基点であり、その基点から、歴史上、文化上、および個人的な束縛があっても、私たちは、なお自由であるという逆説についてもっともっとはっきりした、深い見方が得られるのです。  
 
比叡山と法然

 

1145 / 叔父の観学の紹介状をもって、比叡山に登り、西塔北谷の持法房源光に師事する。(異説1147年)
1147 / 東塔西谷の当時碩学と名高い皇円(功徳院の肥後の阿闍梨)の室に入る。
東塔の大乗戒壇院で剃髪受戒して、正式に天台宗の僧侶となる。このときに皇円から源空の名を授けられたと考えられる。竜樹の「菩提心論」(唐・不空訳・全一巻)の「心の源は空寂なり」の一文からとって「源空」と命名したと考えられるようです。
1148 / 天台三大部を読み始める。
1150 / 西塔黒谷の叡空の室に入る。法然房源空の名を受く。
1156 / 求法のため嵯峨清涼寺に7日間参籠、のちに南都の諸宗の学匠を歴訪。
1157 / 信空が叡空の室に入り、法然と法兄弟となる。
1175 / 専修念仏に帰入する。西塔黒谷を出て西山広谷に遊蓮房円照を訪ねる、やがて東山大谷に住す。立教開宗の年といわれる。 
法然1
比叡山に登り、初め源光上人に師事。15歳の時(異説には13歳)に同じく比叡山の皇円の下で得度。比叡山黒谷の叡空に師事して「法然房源空」と名のる。
承安5年(1175)43歳、善導の「観無量寿経疏」(観経疏)によって専修念仏に進み、比叡山を下りて東山吉水に住み、念仏の教えを広めた。この1175年が浄土宗の立教開宗の年とされる。
元久元年(1204)比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起したので、法然は「七箇条制誡」を草して門弟190名の署名を添え延暦寺に送った。しかし興福寺の奏状により念仏停止の断が下され、のち建永2年(承元元年・1207)法然は還俗され藤井元彦を名前として、土佐国(実際には讃岐国)に流罪となった。
法然2
13歳で比叡山に登って剃髪授戒。天台の学問を修めます。はじめ円明房善弘と名乗りますが、久安6年(1150)18歳の秋、黒谷の慈眼房叡空の弟子として法然房源空となり、叡空のもとで勉学に励み、「智恵第一の法然房」と評されるほどになりました。以後、法然上人は遁世の求道生活に入ります。
この時代は、政権を争う内乱が相次ぎ、飢餓や疫病がはびこるとともに地震など天災にも見舞われ、人々は不安と混乱の中にいました。ところが当時の仏教は貴族のための宗教と化し、不安におののく民衆を救う力を失っていました。学問をして経典を理解したり、厳しい修行をし、自己の煩悩を取り除くことが「さとり」であるとし、人々は仏教と無縁の状態に置かれていたのです。そうした仏教に疑問を抱いていた法然上人は、膨大な一切経の中から、阿弥陀仏のご本願を見いだします。それが、「南無阿弥陀仏」と声高くただ一心に称えることにより、すべての人々が救われるという専修念仏の道でした。承安5年(1175)上人43歳の春のこと、ここに浄土宗が開宗されたのです。
法然上人はこの専修念仏(せんじゅねんぶつ)に確信を持つと、比叡山を下り、やがて吉水の禅房、現在の知恩院御影堂の近くに移り住みました。そして、訪れる人を誰でも迎え入れ、念仏の教えを説くという生活を送りました。こうした法然上人の教えは、多くの人々の心をとらえ、時の摂政である九条兼実など貴族にも教えは広まっていきました。しかし、教えが世に広まるにつれ、法然上人の弟子と称して間違った教えを説く者も現れたり、また、旧仏教からの弾圧も大きくなりました。  
法然3
14歳で比叡山に入り正式に出家、天台宗を学ぶ。ところが山の上では高僧までが権力争いに狂奔しており、失望した彼は師を変えていく。最終的に延暦寺中心から離れた場所に庵を結ぶ聖僧・慈眼房叡空(じげんぼうえいくう)に師事し、法名“法然房源空”を与えられる。ときに法然17歳。それからは人々を苦しみから救う方法を思索する日々が続くが、「智恵第一」の名で評されるほど学問を探求するも、なかなか満足する答えを見出せないでいた。
だがしかし!出家から28年目の1175年(42歳)、平安中期の僧侶・源信の「往生要集」を学んでいる時に、中国で5世紀に浄土教を大成した善導大師の思想と出合う。民衆が救済される道は専修念仏=ひたすら「南無阿弥陀仏」の念仏を唱える事=と悟った法然は、他の修行を一切やめ、師に別れを告げて比叡山を下りていく。※この1175年は「回心(えしん)の年」と呼ばれ浄土宗開宗の年とされている。
法然が説く「南無阿弥陀仏」の“南無”とは“お任せします”の意。つまり全身全霊で「阿弥陀仏」に身を委ねるということだ。他宗派まで名が轟くほど学問に長けていた法然が出した結論は、学んだ全ての知識を良い意味で捨て去ることだった。学問が阿弥陀仏を信じんが為にあるのなら、信じ抜いておれば何の仏教知識がいるのかと、教義の解釈論より「南無阿弥陀仏」と行動(念仏を唱える)で示すことが肝要と考えたのだ。
従来の仏教は貴族を対象にした貴族仏教で、教義が高遠で難解すぎるうえ、文字を読めない民衆からはかけ離れたものだった。しかし、度重なる戦で人心はすさんでおり、誰もが心の拠り所となる仏の存在を欲していた。そこに登場したのが「ただ一心に阿弥陀仏のお名前を称えれば、誰もが必ず極楽浄土に入れる」という単純で分かりやすい法然の教え。乾いた砂に水が沁み込んでいく様に、武士、農民関係なく爆発的に浄土宗が普及していった。
※なぜ阿弥陀仏なのか?…阿弥陀は仏になる為の修行の中で48個の誓い(願)をたてた。その中の18番目の願として“私の浄土に生まれたいと思って、わずかでも念仏を唱えた人を救えなければ仏にはならない”としており、仏になったいま、信徒はこの言葉を信じて阿弥陀仏に念仏を唱えている。
一方で、「悟りとは人々が修行や功徳を積んで得られるもの」(自力本願)と考えていた多くの学僧は、法然の念仏重視の思想に疑問を持っていた。そこで天台座主(延暦寺の長)は京都大原に法然を招き、学僧たちと論戦させる(1186年53歳、大原談義)。法然は「人々の修行には限界があり、念じていれば仏の方から助けに来て下さる」と阿弥陀の力を頼って往生する持論(他力本願※悪い意味ではない)を展開し、居合わせた者を感服させた。大問答を制した後は、ますます門徒が増えていく。後白河法皇や関白九条兼実というビッグネームの信仰も得て、彼が説法をする場には平敦盛を討ち取った熊谷直実や、鎌倉の北条政子の姿もあった。1198年(65歳)、九条兼実の薦めで生涯の主著となる「選択本願念仏集」を記す。1201年(68歳)には親鸞が入門してくるなど、有能な弟子も次々に増えていった。
やがて迫害の時代が訪れる。あらゆる階層、いかなる身分の者にも分け隔てなく救いの手を差し伸べる法然。浄土宗があまりに民衆にもてはやされ、浄土宗が宗教界の一大新興勢力になると、旧仏教界は警戒を強め大きく反感を持つようになっていく。法然が「念仏こそ民衆を往生に導く唯一絶対の行」と主張するにつれ、当初は寛容だった他宗派から邪教と呼ばれて激しく非難・弾圧された。人間というものは弱い生き物だ。法然の弟子の中には教えをはき違えたり、“悪事をしても念仏さえ唱えれば極楽に行ける”と都合よく曲解する者も出てきた。また、真面目に学問にいそしむ他宗派の学僧をあざ笑い馬鹿にする弟子もいた。教団はここを叩かれた。法然は一部の弟子の不品行を徹底的に攻撃される。
1204年(71歳)、比叡山の僧侶3千人が念仏禁止を求めて抗議運動を始めたので、法然は事態を深刻に受け止め、“他宗を攻撃してはならない”“悪事を為すべからず”と弟子たちを戒める「七箇条制誡」を起こし、主な門弟189名に署名させて延暦寺に送った。
だが浄土宗人気に危機感を持っていたのは京都の僧侶だけではなかった。翌年、今度は奈良興福寺の宗徒たちが、法然一派の罪科をあげて攻撃し、罪を問うべく朝廷に直訴したのだ。内容は、「阿弥陀仏の救いの光が浄土宗門徒のみに当たり他宗は救われぬとは許せない」「阿弥陀仏だけを供養し釈迦を供養しないのは仏教徒として本末転倒」「仏像や寺を造る善行を積む者をあざけり笑うとは言語道断」「法然は最澄や空海より偉いつもりか」「念仏は心の中で念じること。口で唱えるのは曲解だ」「妻帯、肉食など戒律を破壊している」「既に宗派が8つもありこれ以上必要なし」云々、最後に「全仏教徒が一丸となって訴訟するという前代未聞のことを致しますのは、事は極めて重大だからであります。どうか天皇の御威徳によって念仏を禁止し、この悪魔の集団を解散し法然と、その弟子達を処罰して頂きますよう興福寺の僧綱大法師などがおそれながら申し上げます」と結ばれていた。
そして翌年、後鳥羽上皇を激怒させる決定的な事件が起きる。弟子の住蓮と安楽に感化された宮廷の女官たちが、密かに宮廷から逃げて尼僧となったのだ。出家をそそのかした罪で2名の弟子は処刑、浄土宗は禁教とされ、1207年、法然は僧籍を剥奪されたうえ74歳という高齢にも関らず四国(讃岐)へ流されてしまう。
法然4
法然の出家と修行
法然は1133年、美作国は稲岡荘の押領使であった漆間時国(うるまときくに)の子として生まれた。美作国は現在の岡山県の北東部。押領使とは現在の警察官にあたる。
法然が9歳のとき、争いごとがおきて父が殺される。父は臨終時に幼い法然をよびよせ、「決して仇を討ってはいけない。仇は仇を生み、憎しみは絶えることがなくなってしまう。それならばどうか、すべての人が救われる道を探し、悩んでいる多くの人々を救って欲しい」という遺言を残し、息を引きとった。
法然は母方の叔父に引き取られ、その叔父によって仏教の手ほどきを受けた。15歳のとき、比叡山にのぼって正式に出家し、父の遺言にしたがって天台宗を懸命に学んだ。
法然の比叡山での修行と学問の日々は、実に28年の長きにわたった。その間、ふつうではとうてい不可能であると思われる膨大な量の経典を5度も読み返したと言われる。しかし、彼が求める父の遺言でもあった「すべての人が救われる道」を見つけ出すことはかなわず、法然の苦悩が晴れることはなかった。
「選択本願」「専修念仏」
やがて法然は、唐の善導(ぜんどう)が著した書物の中に「南無阿弥陀仏と念仏を唱えれば、すべての人が漏れなく救われる。なぜならそれが阿弥陀如来の本願(誓い)だからである」という一文を発見した。
長い長い修行と仏典研究の歳月をへて、法然はようやく「阿弥陀の本願を信じ、南無阿弥陀仏と念仏を唱えれば、誰でも極楽浄土に往生できる。」という悟りを得たのだ。このとき法然43歳で、浄土宗が誕生した。
悟りに達した法然は比叡山を下り、「選択本願」「専修念仏」の教えを説く。「阿弥陀の本願を信じ、南無阿弥陀仏と念仏を唱えさえすれば極楽浄土に往生できる。」「必要なことはそれだけであって、お金も学問もきびしい修行も、戒律も必要ではない。」とする法然の教えは、たいへん分かりやすく、また実行も容易で多くの人々が教えに耳を傾けた。
法然は求められれば身分の上下を問わず念仏の教えを説いた。その教えに関白であった九条兼実が帰依したこともあり、浄土宗は爆発的に流行した。あるとき法然は兼実から「念仏の教えは普段からうかがっているが、心得ないこともあるので、なにとぞ書物にして欲しい」との要請を受けた。求めに応じて、1部16章からなる「選択本願念仏集」を書き上げた(法然65歳)。  
法然5-1
天台宗の比叡山で学んだ法然
幼名を勢至丸(せいしまる)と言う法然(ほうねん, 1133-1212)は、美作国(岡山県)の久米南条稲岡荘という荘園の押領使(地方の軍事的な令外官)の子として生まれました。父は漆間時国(うるま・ときくに)、母は秦氏でしたが、勢至丸が9歳の時に、稲岡荘の領主・源内武者定明の不意の夜襲を受けて父を失います。父親が武力で仇討ちをするのではなく、僧侶となって自分の菩提(ぼだい)を弔って欲しいと遺言したため、勢至丸は母親の弟・智鏡房について学問をします。幼少期から法然は圧倒的な学習能力を有しており、後年には文殊菩薩の化身と賞されるほどの深遠な学識を誇ることになりますが、初めて法然に学問を教えた智鏡房は「一を聴いて十を悟る者」として法然の将来の大成を予見したといいます。
勢至丸の学問への優れた適性を惜しんだ智鏡房は、天台宗の総本山である比叡山で本格的な学問をするように勧め、勢至丸は母親との今生(こんじょう)の別れを覚悟して比叡山へと入山し、北谷の持法房・源光に師事しました。この時点ではまだ正式に得度しておらず勢至丸は垂れ髪のままでしたが、その二年後となる1147年(久安3年)に東塔・功徳院に居た皇円(1074-1169頃)の弟子になって剃髪し得度しました。当時の天台宗で座主を輩出する有力な門跡(もんぜき)は、青蓮院(青蓮院門跡)と三千院(梶井門跡)であり、法然が初めに弟子入りした源光と皇円は梶井門跡に属する僧侶であったと言われます。門跡というのは、皇室や有力貴族の子弟が出家して入る格式の高い寺院のことであり、青蓮院(しょうれんいん)や梶井(かじい)の門跡の門主には法親王が多くいたので由緒ある高貴な寺院として尊重されていました。
皇円の下で得度・受戒した15歳の勢至丸は、「菩提心論」の「心の源は空寂である」という言葉から法然房・源空と名づけられました。法然は、中観によって空や真如を体得しようとする比叡山延暦寺での高度な学問を行い、回峰行のような心身を疲弊させ衰弱させるような厳しい山岳修行に耐えました。しかし、高位の公家出身ではない地方武士の子に過ぎない法然は、幾ら学識と人格に優れていても天台宗の座主(ざす)の地位に就くことは出来ませんでした。法然自身、天台宗の比叡山で権勢を得ることには興味がなく、民衆を救済するための真の仏法と実践を求めていました。当時の比叡山は、藤原摂関家を背景にした青蓮院門跡と天台宗での地位を高めてきた梶井門跡が権力闘争を繰り返す「世俗化の弊害」が激しくなっており、真摯に学問と修行に励む法然が悟りを得る場としては適切ではないという問題もありました。
真の仏法の教えにもっと近づきたいと考えた法然は、比叡山の中でも最も世俗化の害が少なかった黒谷(くろたに)へと隠遁し、1150年9月、禁欲的に求道の生活を送っていた慈眼房・叡空(黒谷聖人)に師事します。法然は、黒谷で開かれていた二十五三昧会(にじゅうござんまいえ)という「法華経」や「往生要集(おうじょうようしゅう)」を研究する講会に参加したことで、西方極楽浄土へ往生するという浄土思想や念仏信仰へ関心を向けていきます。「往生要集」を書いた源信は、難解な学問や議論を延々と行う奈良仏教(古代仏教)を非難して、念仏を唱えれば誰でも極楽浄土に行けるというような「易行」と「簡潔を極めた理論」の必要性を説きました。釈迦の正しい仏法の威光と恩恵が薄れていく「末法の時代」には、古代の貴族社会の秩序が崩れて、民衆を天災・飢餓・戦乱の苦しみが襲いました。法然はこういった末法の時代に、「貴賎・貧富・学識の違い」なく一切衆生を救うためにはどうすれば良いのかを考え、造像立塔(寺社・仏像の建築)や学識教養(経典の学問)では無知で貧窮している民衆を救うことは出来ないと結論せざるを得ませんでした。最澄の「山家学生式(さんけがくしょうしき)」で定められた比叡山の学修年限である12年を終えた法然は、比叡山を下山して「浄土教」や阿弥陀信仰(往生思想)を更に深く学ぶために南都仏教の寺院へと足を運びます。
仏教を学ぶ学僧の中では最高の知識水準に達していた法然は、教えを受けるために訪れた法相宗の碩学である蔵俊(ぞうしゅん)や華厳宗の英才である景雅(けいが)の知識を大きく上回っていたため、逆に師としての礼遇を受けたとも言われます。しかし、法然の浄土教理解に大きな影響を与えたのは、(法然よりも前の時代の仏僧である)東大寺別当にもなった永観(ようがん)と東大寺の禅那院に住居を定めていた珍海(ちんかい)です。永観は、阿弥陀仏信仰を説いた善導の「観経疏散善義(かんぎょうしょさんぜんぎ)」を引用して、阿弥陀仏の観念と称名の重要性を「往生拾因(おうじょうしゅういん)」という書物の中に書きました。
これを読んだ法然は、専修念仏(せんじゅねんぶつ)の教義の原点となる「観経疏(かんぎょうしょ)」を読むきっかけを得ました。珍海は、自身の「決定往生集(けっていおうじょうしゅう)」という書物の中で、阿弥陀仏の名前を呼ぶ「称名念仏(しょうみょうねんぶつ)」こそ「正中の正因(往生の正しい原因)」と述べています。しかし、珍海は八正道を基盤に置く観想的念仏(心を集中安定させた念仏)でないと有効ではないとしたので、念仏を唱えさえすれば誰でも極楽往生が約束されるとした法然の浄土宗とはまだ距離がありました。
永観や珍海の念仏称名信仰に決定的な影響を与えたのは、古代中国の僧侶・善導(ぜんどう)の「観経疏(かんぎょうしょ)」であり、法然もまた京都宇治にある平等院鳳凰堂の一切経蔵で観経疏を閲覧する機会を得て、無二無念の念仏信仰へと大きく突き動かされました。そして、観経疏の中に「百即百生(ひゃくそくひゃくしょう)の法」を発見した法然は、教義上の師となる善導こそが阿弥陀如来の化身であると信じるに至ります。煩悩を消し去ることが出来ない凡夫であっても、「称念(念仏を唱えること)」さえすれば全て阿弥陀如来(あみだにょらい)が救済してくれるということを法然は確信したのです。
法然は、ただ一心に念仏を唱える「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」に努めれば良いという「宗教的な回心(えしん)」に到達し、1175年に浄土宗が開祖されたと言われます。1175年の開祖については、その後に公家の九条兼実の病気平癒を祈祷したり受戒したりしているので、専修念仏者(純粋な浄土教信者)とは言えないという異説もありますが、仏教信仰上の念仏への回心が1175年に起こったことはほぼ間違いないとされています。九条兼実は、古代仏教界(延暦寺・興福寺)の圧力によって還俗した晩年の法然を保護・支援したパトロンのような存在でした。浄土教の根底にあるのは、どんなに煩悩や不安に塗れていても念仏を唱えさえすれば、必ず阿弥陀如来が救済して極楽往生させてくれるという「易行(いぎょう)による大衆の救い」なのです。   
法然5-2
専修念仏の浄土宗の開祖となった法然
念仏(「南無阿弥陀仏」)さえ唱えれば確実に阿弥陀如来が極楽往生させてくれるという「専修念仏(選択本願)」の教えへと回心した法然。その貴重な教えを民衆に伝えたいと思った法然は、1175年に、長年仏法を学んだ比叡山を下山して「西山の広谷」という気候風土の悪い場所に布教の拠点を構えました。1180年に平重衡(たいらのしげひら)の乱によって東大寺・興福寺(藤原氏の氏寺)・元興寺などの名刹が炎上しましたが、東大寺の復興がだいぶ進んできた1191年に、法然は東大寺大仏殿の近くで「浄土三部経」を元にした説法を行いました。この説法の中で、法然は「法相・三論・華厳」といった旧仏教だけでなく、「天台・真言」などの密教も批判し、仏の真の救済は浄土宗に窮まるといった話を展開しました。浄土宗には師から弟子へと連綿と語り継がれてきた相承血脈(そうしょうけつみゃく)や奥義口伝などは存在せず、ある意味で法然個人の「宗教的回心」と「浄土教の研究解釈」によって生み出された非正規的な宗教であると言えます。
つまり、法然は1191年の「浄土三部経」に基づく説法によって、古代仏教の骨格を為していた「聖道門(しょうどうもん)の教え=禁欲的な学問や修行によって悟りを開くという聖なる教え」を否定的に評価する教判(仏教教義の価値判断)を行ってみせたわけです。釈迦の正統な法の効果が薄まりつつある「末法の時代」には、従来の仏教の煩悩を消し去ろうとする方法論は有効性が乏しく、真に苦しみや迷いを取り除こうとすれば「弥陀の本願」に念仏で縋る(すがる)ほかはないという他力本願(たりきほんがん)が法然の教えです。法然は、浄土三部教を最高の教えとする教判(きょうはん)によって、念仏を唱えるだけで極楽に導かれる浄土教は「頓教中の頓(とんきょうちゅうのとん=最も迅速なご利益が得られる教え)」であると語りました。法然自身は、天台宗から独立した浄土宗を新たに開設する意志はなかったとされますが、法然は教養のある学僧や修行僧が悟りを開く「聖道門」とは別の、一般大衆が誰でも極楽往生できる「浄土門」を示すために民衆に布教を続けたのです。
法然は、浄土宗には師から弟子へと連綿と語り継がれてきた相承血脈(そうしょうけつみゃく)がないことを公言していました。しかし、天台宗や南都仏教など古代仏教の側から相承血脈(師資相承)がないことを非難された時、中国の僧・道綽(どうしゃく, 562-645)の「安楽集」を読めば、「菩提流支三蔵→恵寵→道場→曇鸞→法上→道綽→善導→懐感→少康」へと受け継がれてきた浄土宗の相承血脈を知ることが出来ると反論しました。民衆が飢餓・天災・戦乱などで絶望に打ちひしがれる末法の時代には、古代仏教(聖道門)の厳格な戒律、過酷な修行、煩雑な学問体系などは「一切衆生の救済」にまるで役に立ちませんでした。そういった社会不安が増大する平安末期の世に生きた法然は、苛烈で難解な「聖道門」に変わる万人を簡単に救済できる「浄土門」を開き、衆生に備わる仏性を具体的に開花させる「極楽往生の実践としての念仏称名(専修念仏)」を広めたと言えます。
法然は1186年に「選択集(せんぢゃくしゅう)」を著述し、1204年には浄土宗拡大を警戒する比叡山延暦寺の武装蜂起を受けて「七箇条制誡(ななかじょうせいかい)」を書いて、専修念仏に努める浄土宗信徒の破戒行為の増長や他宗派に対する挑発を戒めています。1212年に法然は大往生しますが、法然の弟子には證空、源智、聖光、幸西、長西などがいて、後に日本最大の宗教勢力へと拡大する浄土真宗(一向宗)を起こした親鸞も法然に師事していました。  
法然6
本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人
本師〈ほんじ〉・源空〈げんくう〉は、仏教に明らかにして、善悪の凡夫〈ぼんぶ〉人を憐愍〈れんみん〉せしむ。
「正信偈」の「依釈段〈えしゃくだん〉」といわれている段落に、親鸞聖人は、七人の高僧の名をあげて、その徳を讃えておられます。源空上人というのは、親鸞聖人の直接の師であられた法然上人のことです。法然上人(一一三三〜一二一二)は、美作国〈みまさかのくに〉(今の岡山県)に、地方武士の子としてお生まれになりました。上人の九歳のとき、お父上は、抗争に巻き込まれ、夜討ちに遭われて亡くなられたのでした。命終に際して、お父上は、幼い法然上人に、次のようなことを言い遺されたと伝えられています。「仇を恨んではならない。出家して、敵も味方も、ともどもに救われる道を求めよ」と。このような出来事が縁となって、法然上人は、十三歳のときに比叡山に上られ、十五歳のとき出家されたのでした。上人は、はじめ源光〈げんこう〉という僧の弟子となられ、十八歳のとき、叡空〈えいくう〉という僧を師として天台宗の教えを学ばれたのでした。叡空師は、上人の非凡な才能を認め、「法然房」という房号を与えられ、また最初の師の「源光」と、ご自分の名の「叡空」とから、「源空」という名を授けられたのでした。法然上人は、僧侶としての栄達をかなぐり捨てられ、一人の孤独な求道者として、人は、どのようにして悩みや悲しみから離れることができるのか、その道をひたむきに探し求められたのでした。しかし、その願いは、比叡山の伝統の教えによっては満たされることがなかったのです。そこで、上人は、直接、仏の教えに正しい答えを求められました。厖大〈ぼうだい〉な数にのぼるお経と、それらのお経に対する先人たちの注釈書類を虚心に読みあさられたのでした。そのことを親鸞聖人は「本師源空明仏教〈ほんじげんくうみょうぶっきょう〉」(本師・源空は、仏教に明らかにして)と詠んでおられるのです。釈尊の教えであるお経によって道を明らかにされた、ということです。そのような求道の中で出遇われたのが、源信僧都〈げんしんそうず〉による「往生要集〈おうじょうようしゅう〉」の言葉でした。「自分のような愚かな者にとっては、ただ阿弥陀仏の本願を信じて極楽浄土に往生させてもらうしか方法はない」という教えだったのです。自分の努力によって悟りに近づくための教えではなかったのです。源信僧都のお言葉に導かれて、上人は、それまであまり深く関心を向けておられなかった善導大師〈ぜんどうだいし〉の教えに、衝撃的な出遇いをなさったのです。善導大師の「観経疏〈かんぎょうしょ〉」の「一心に弥陀の名号〈みょうごう〉を専念して」というお言葉に遇われたのです。それは、上人の四十三歳のことであったと伝えられています。それが衝撃であったのは、「念仏でもよい」という自力聖道門〈しょうどうもん〉の伝統的な教えとは異なり、「ただ念仏しかない」という教えだったからです。しかも、「ただ念仏」によってのみ救われるということは、誰かがそのように理解したというのではなく、それが「かの仏願に順ずるがゆえに」(同前)と説かれていますように、阿弥陀仏の願われた願いに順う道理だからなのです。法然上人は、やがて比叡山から下りられ、京都の吉水において、貧富・貴賎〈きせん〉を問わず、濁った世を生きなければならない人びと、真の仏教を求める人びとに、「専修〈せんじゅ〉念仏」(専ら念仏を修める)の教えを広められたのでした。この法然上人に出遇われ、その教えをまっすぐに受け取られたのが親鸞聖人だったのです。専修念仏の教えが広まるにつれて、権威を失うことを恐れた比叡山や奈良の伝統仏教からの攻撃が強まり、同じく権威を守ろうとした朝廷によって念仏は弾圧されることになりました。法然上人の門人の四人は死罪に処せられ、法然上人は四国の土佐(高知県)に、親鸞聖人は越後(新潟県)に流罪となられたのでした。法然上人は、四年あまり後に赦免〈しゃめん〉されて京都にもどられましたが、ほどなく、念仏のうちに八十年のご生涯を閉じられたのでした。 
本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人
本師〈ほんじ〉・源空〈げんくう〉は、仏教に明らかにして、善悪の凡夫〈ぼんぶ〉人を憐愍〈れんみん〉せしむ。
法然〈ほうねん〉上人は、人が、次々に襲ってくる悩みや悲しみから、どのようにして解き放たれるのか、その道を真正面から学ぼうとされたのでした。そのために、お若いころから、比叡山で、天台宗の修行や学問に励まれたのでした。そして、まれに見る逸材として、比叡山の誰からも一目も二目も置かれるようになっておられたのでした。比叡山ばかりではなく、南都(奈良)の法相宗〈ほっそうしゅう〉をはじめ、諸宗の宗義の研鑽〈けんさん〉にも努められたのでした。これらの修養によって、法然上人は、当時、日本に伝わっていた仏教の教義の最も深いところを究〈きわ〉められたわけです。このことを、親鸞聖人は「正信偈」に「明仏教」(仏教に明らかにして)と詠っておられるのだと思います。つまり、当時の仏教の教義に精通しておられたということです。しかし、それにもかかわらず、法然上人は、それらの学びからは、心から喜べる人生の答えを見出されなかったのです。そこで、諸宗の教義から離れて、直接、釈尊のみ教えの中に答えを探し求められたのでした。このため、上人は、釈尊の教説である厖大〈ぼうだい〉なお経と、それらのお経に対する先人たちの解釈〈げしゃく〉などを精力的に学ばれたのでした。この意味でも、親鸞聖人は、法然上人のことを「明仏教」(仏教に明らかにして)と讃えておられるのだと思います。諸宗教の一つである「仏教」ではなくして、釈迦牟尼〈むに〉仏の教えの全体を解明されたということです。このような経過の中で、前回述べました通り、法然上人は、「仏説観無量寿経〈ぶっせつかんむりょうじゅきょう〉」と、善導大師〈ぜんどうだいし〉による、その注釈である「観経疏〈かんぎょうしょ〉」に出遇われたのです。善導大師が「仏説観無量寿経」の教説から受け取られた「ただ念仏して」という教えこそが、釈尊のご本意であることを、法然上人はお気づきになられたのです。この劇的な出来事を契機に、上人は、ご自身が「専修〈せんじゅ〉念仏」の道を歩まれるとともに、世の貧富・貴賤・老若・男女・善悪の人びとに、一心に専ら阿弥陀仏の名号〈みょうごう〉を称〈とな〉える念仏を勧められたのです。その勧化〈かんげ〉を受けた多くの人びとの中に、実は、親鸞聖人がおられたのです。「正信偈」には、「憐愍善悪凡夫人〈れんみんぜんまくぼんぶにん〉」(善悪の凡夫人を憐愍せしむ)と述べられていますが、「凡夫」とは、普通の人ということで、真実に目覚められた仏以外の、どこにでもいる人のことです。法然上人は、善悪にかかわらず、真実に目覚めることができていないすべの凡夫を憐れまれたのです。しかし上人は、ご自分以外の凡夫を憐れに思われたということではないでしょう。阿弥陀仏の本願が、善悪にかかわらず、悩み多いすべての凡夫を憐〈あわ〉れんで発〈おこ〉されている慈愛であること、そして凡夫は、本願に素直に従うしかないことを説き示されたのが、釈尊の慈愛であることを、法然上人はまた明らかにされたのです。ここには、悪の凡夫も、善の凡夫も、ともに区別なく見られていることに、注意を向ける必要があると思われます。悪の凡夫は、自分が起こす欲望に自分が支配されて、法律を犯し、道徳に背き、仏が説き示された真実をないがしろにしているのです。善とされる凡夫は、現実には、法律は犯していないかもしれません。また道徳に背く行いはしていないかもしれません。しかし、わずかばかりの自重の努力をもとにして、知らず知らずのうちに、その果報を要求します。また、他人を見下して自らの優越を誇っているのです。これも、仏の真実をないがしろにしているのです。善であろうと、悪であろうと、どちらにしても、愚かで悲しい存在であるのが凡夫なのです。そのように愚かで悲しい存在である凡夫のあり方に、法然上人は、ご自身のすがたを見ておられたのではないでしょうか。凡夫は、どこまでも憐れむべき存在であり、そのような凡夫であるからこそ、摂〈おさ〉め取って捨てられることがない阿弥陀仏の本願が一方的に差し向けられていることを、法然上人は強く受け止められたのです。自棄〈やけ〉になる他はないような絶望の中で思い知らされる歓喜〈かんぎ〉を、身をもって教えておられるのではないでしょうか。   
 
比叡山と栄西

 

1153 / 叡山に登る。 
1154 / 比叡山延暦寺にて出家得度して栄西と称す。以後、延暦寺、吉備安養寺、伯耆大山寺などで天台宗の教学と密教を学ぶ。行法に優れ、自分の坊号を冠した葉上流を興す。
1157 / 静心没す。千明の指導を受ける。
1158 / 千明より虚空蔵求聞持法を受ける。
1159 / 叡山の有弁に従い竹林院で天台教学を学ぶ。
1163 / 叡山を下る。安養寺。千明。金山寺。日応寺。三摩耶の行(穀物を断つ21日間)。 
栄西1
開山千光祖師明庵栄西(みんなんようさい)禅師。永治元年(1141)4月20日、備中(岡山県)吉備津宮の社家、賀陽(かや)氏の子として誕生しました。11歳で地元安養寺の静心(じょうしん)和尚に師事し、13歳で比叡山延暦寺に登り翌年得度、天台・密教を修学します。そののち、宋での禅宗の盛んなることを知り、28歳と47歳に二度の渡宋を果たします。2回目の入宋においてはインドへの巡蹟を目指すも果たせず、天台山に登り、万年寺の住持虚庵懐敞(きあんえじょう)のもとで臨済宗黄龍派の禅を5年に亘り修行、その法を受け継いで建久2年(1191)に帰国しました。
都での禅の布教は困難を極めたが、建久6年(1195)博多の聖福寺(しょうふくじ)を開き、「興禅護国論(こうぜんごこくろん)」を著すなどしてその教えの正統を説きました。また、鎌倉に出向き将軍源頼家の庇護のもと正治2年(1200)寿福寺が建立、住持に請ぜられます。
その2年後、建仁寺の創建により師の大願が果たされることになりました。
その後、建保3年(1215)7月5日75歳、建仁寺で示寂。護国院にその塔所があります。また師は在宋中、茶を喫しその効用と作法を研究、茶種を持ち帰り栽培し、「喫茶養生記(きっさようじょうき)」を著すなどして普及と奨励に勤め、日本の茶祖としても尊崇されています。
栄西2
栄西は1141年に備中国(現在の岡山県)に生まれた。父は吉備津宮(きびつのみや)の神主であった。 8歳のときに仏教の勉強をはじめ、14歳で比叡山延暦寺に入って出家し、天台宗を学んだ。栄西は1168年と1187年の2度にわたって、宋へおもむき、仏教の知識を深く身につけた。2回目の入宋の目的は、インドに渡って釈迦の足跡をたずねることにあったが、当時はモンゴルの勢いが強く、許可がおりず、インド行は、断念せざるを得なかった。
栄西は天台山へおもむき、虚庵懐敞(こあんえしょう)について2年間修行し、臨済宗の禅を学び、1191年に帰国した。
帰国後、栄西は、まず九州で臨済宗の禅を広める活動を始めた。1194年に京にのぼって、さらに禅の布教を行ったが、ここで天台宗の妨害にあい、禅の布教停止を命じられた。そのため栄西は、1198年に「興禅護国論(こうぜんごこくろん)」を著し、禅は天台宗の教えを否定するものではなく、禅を盛んにすることが天台宗を発展させ、国家を守ることにつながると主張したが、天台宗側の攻撃は止まなかった。
そこで栄西は京での布教に見切りをつけ、1199年、鎌倉に下った。朝廷との結びつきの強い天台宗に対抗するため、幕府の保護を受けようとした。鎌倉で栄西は北条政子の帰依を受け、政子が建立した寿福寺の住職となった。
1202年、栄西は2代将軍頼家の後ろ楯を得て、京都東山に建仁寺を建立した。翌1203年に朝廷は、建仁寺に天台宗・真言宗・禅宗の三宗を置くことを認め、1205年には建仁寺を官寺とした(この場合の「官」とは「国」の意味)。栄西は幕府の後ろ楯を得て、朝廷に禅宗を認めさせた。その後、栄西は1206年9月に東大寺大勧進職という位につき、1213年5月には権僧正ともなった。
僧でありながら、幕府や朝廷などの権力・権威に近づき、自分の地位を高めようとする栄西の行動は、当時から多くの批判があった。
1213年6月、鎌倉にもどった栄西は、翌1214年の2月、3代将軍実朝の病気平癒のための祈祷を行い、ついで「喫茶養生記」を献じた。「喫茶養生記」は、日本で最初の「茶」に関する書物として有名である。この中で、茶という当時の日本では一部の人しか知らなかった嗜好品を、健康にもよく、また仏の道にもかなう飲み物であるとして、大いに推賞した。
1215年、栄西は75歳で亡くなった。亡くなった場所については、鎌倉の寿福寺、京都の建仁寺とする2説がある。 
栄西3
「ようさい」ともいう。別名、葉上房、千光法師。鎌倉初期の禅僧で臨済宗の開祖。岡山で神主の家に生れる。13歳で出家して比叡山延暦寺で受戒し、18歳の時に鳥取・伯耆大山寺(だいせんじ)で天台密教の奥義を学んだ。1168年(27歳)、かねてから夢だった宋に博多から渡り、かつて575年に仏僧智(ちぎ)が天台宗を開いた聖地・天台山を訪れた。
当地は禅宗が強く支持を集めており、栄西も大いに感化された。一ヵ月半後に天台の経巻60巻を携えて帰国し比叡山へ戻るが、この頃の延暦寺は僧侶たちが権力争いに明け暮れていたので、仏法復興の為にもインドへ渡って釈迦の足跡を辿りたいと願うようになった。そして1187年(46歳)、19年ぶりに大陸に渡航する。
しかし、宋から陸路インドに入ろうとしたところ、金軍の南下という治安上の問題で許可が出ず泣く泣く帰国することに。だが、博多へ向けて乗船したが船が逆風で難破し温州に漂着。これがきっかけとなって天台山万年寺の高僧と出会い師事し、本格的に臨済禅(南宋禅)の修行を積み、明菴(みょうあん)の道号を与えられる。4年後(1191年)、宗の船に便乗して帰国に成功すると、筑前、肥後を中心に、まず北九州から戒律重視の臨済禅を伝え始めた。これは、当時の京都が天台宗&真言宗という平安時代が生んだ2大勢力の下にあり、すぐに新興宗教となる禅宗の布教活動を開始できる状況ではなかったからだ。
お経もなく、仏を拝むのではなく、座禅を通して自らが仏であることを悟る禅宗。栄西は旧仏教界との対立を避ける為に天台宗だけでなく真言宗も学ぶなど調和に努めたが、禅宗が広がるにつれ、それを快く思わない旧仏教界からの迫害を受ける。1194年(53歳)、比叡山からの告訴を受け、ついに朝廷から禅宗の布教禁止の命が出されてしまう。大宰府で尋問を受けた栄西は「禅は天台宗の復興に繋がる。禅の否定は最澄の否定だ」と主張してその場を押し切り、翌年には博多に日本初の禅寺となる聖福寺を建てた。
圧迫を受けて逆に禅を伝える使命感に火が付いた栄西は、1198年(57歳)、閉塞状態を打破する為に意を決して京都に入り、“禅は既存宗派を否定しておらず、目的はあくまでも仏法復興だ”と「興禅護国論」を記して弁明する。そして翌々年の1200年、今度は誕生から間もない幕府に庇護を求めて鎌倉へ赴き、禅宗の重要性を力説。厳しい戒律など精神性を重んじる禅に鎌倉武士は美学を感じ、将軍頼家や北条政子の帰依を得ることに成功した。そして政子の援助を受けて鎌倉での布教の根拠地となる寿福寺を建てた。
そして!幕府から京都に所有する直轄地を提供してもらうことで、1205年(64歳)、ついに禅寺(建仁寺)を「京都に建てる」という悲願が実現した。※スムーズに建仁寺を創建できるよう、栄西は同寺を禅宗、天台宗、真言宗の三派を学ぶ為の寺とした。
その後も栄西は禅宗の浸透だけにこだわるのではなく、日本仏教全体に活力を与える為に、1206年には東大寺勧進職に就任して同寺の復興に尽力した。朝廷や幕府の間を精力的に立ち回る姿が、比叡山から「政治権力に媚びる慢心の権化」などと批判されたが、この間も浄土宗が弾圧を受け法然が配流されており、逆にそこまでしなければ旧仏教側の妨害の中で新しい禅宗を広められなかったとも言える。1215年、寿福寺にて74歳で病没した。
栄西は2度目の渡航で大陸(宋)から茶の種子を持ち帰ると、長崎県平戸の千光寺、佐賀県背振山(せぶりやま、昔は茶振山と書いた)の雲仙寺・石上坊に植え、これが日本のお茶栽培の原点とされている。そして将軍源実朝に献上した「喫茶養生記」では「茶は養生の仙薬なり、延齢の妙術なり」とその薬効を説き、具体的に栽培の適地や製法、茶のたて方まで細かく解説し、日本における茶文化の祖となった。そして実際に実朝の二日酔いを茶が癒したことで、茶の普及が加速したという。
栄西が茶の栽培に積極的だったのは、単に健康に良いだけでなく、お茶の持つ不眠作用が禅の修行に不可欠と思ったからだ。
宇治以前の京茶の名産地は栂尾(とがのお)だった。栄西が栂尾・高山寺の明恵上人に茶の薬効を話して栽培を薦めた後、同地では茶栽培が盛んになり、栂尾の茶を「本茶」、それ以外のものを「非茶」と呼ばれたほどだったという。
法然は栄西より8歳年上。  
 
比叡山と親鸞

 

1181 / 慈円の下で出家。やがて比叡山での修行生活に入る。
松若丸9歳の時、京都東山の青蓮院を訪れ、出家得度を願い出られました。得度を明日にしよう、と言う青蓮院の慈鎮和尚に示されたお歌は有名です。「明日ありと 思う心の あだ桜  夜半に嵐の 吹かぬものかは」
伯父の範綱(のりつな)につれられて青蓮院(しょうれんいん)の慈円(天台座主)について得度・悌髪(9歳)、法名を範宴(はんえん)と授かった。
1191 / 磯長(しなが)の夢告 (聖徳太子が夢に現われお告げ) 。
1201 / 比叡下山
親鸞聖人は真剣に修行に励めば励むほど、絶対に助からないわが身の姿が知らされ、次のように告白されています。「定水を凝らすといえども識浪しきりに動き、心月を観ずといえども妄雲なお覆う。しかるに一息追がざれば千載に長く往く」(歎徳文)大乗院から見る琵琶湖は美しい。うっそうとした樹木の間から、鏡のように澄み切った水面を眺められ、聖人は、「ああ、あの湖水のように、私の心は、なぜ静まらないのか。静めようとすればするほど、散り乱れる。どうして、あの月のように、さとりの月が拝めないのか。次々と、煩悩の群雲で、さとりの月を隠してしまう。このままでは地獄だ。この一大事、どうしたら解決ができるのか」と、悲泣悶絶せずにおれませんでした。明けて、聖徳太子から「あと10年の命」と予告された最後の年、29歳を迎えられた親鸞聖人は、「天台宗法華経の教えでは救われない」と絶望され、ついに、下山を決意されました。9歳で出家されてより、20年めのことです。
他力念仏者「親鸞」の誕生 / 自分の宿願である出離の道が、山門にいてもとうてい満たされないことを知って、心痛のあまり、頂法寺の六角堂に百日の参籠を始めてから、九十五日目の夜、如意輪観世音の化身である聖徳太子から「末代出離の要路はただ念仏にしくことなり」との夢告を得て吉水の源空(法然)上人を訪ねる。
六角堂の祈願の時のように、親鸞は百日の間、法然のもとに通い続け、煩悩具足の悪人親鸞が、煩悩を身につけたままで仏になる道を尋ね続けた結果、上人の門下となる。このとき法然は「綽空(しゃっくう)」という法名を授けた。
これまで、親鸞、延暦寺で堂僧をつとめる。この年春、親鸞、延暦寺を出て、六角堂に百日を期して参寵、九十五日に聖徳太子の夢告を得て、吉水源空の門に入る(恵書・教証・伝絵)。
親鸞、延暦寺を出て六角堂に参籠。聖徳太子の夢告により法然の門に入る。
京都青蓮院において、後の天台座主・慈円(慈鎮和尚)のもと得度し、「範宴」(はんねん)と称する。出家後は叡山(比叡山延暦寺)に登り、慈円が検校(けんぎょう)を勤める横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)の常行堂において、天台宗の堂僧として不断念仏の修行をしたとされる。叡山において20年に渡り厳しい修行を積むが、自力修行の限界を感じるようになる。
出家後は叡山(比叡山延暦寺)に登り、慈円が検校(けんぎょう)を勤める横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)の常行堂において、天台宗の堂僧として不断念仏の修行をしたとされる。叡山において20年に渡り厳しい修行を積むが、自力修行の限界を感じるようになる。
建久3年(1192年)7月12日、源頼朝が征夷大将軍に任じられ、鎌倉時代に移行する。
六角夢告 / 建仁元年(1201年)の春頃、親鸞29歳の時に叡山と決別して下山し、後世の祈念の為に聖徳太子の建立とされる六角堂(京都市中京区)へ百日参籠[注釈 12]を行う。そして95日目(同年4月5日)の暁の夢中に、聖徳太子が示現され(救世菩薩の化身が現れ)、「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」意訳 - 「修行者が前世の因縁によって[注釈 13]女性と一緒になるならば、私が女性となりましょう。そして清らかな生涯を全うし、命が終わるときは導いて極楽に生まれさせよう。」という偈句(「「女犯偈」」)に続けて、「此は是我が誓願なり 善信この誓願の旨趣を宣説して一切群生にきかしむべし」の告を得る。
この夢告に従い、夜明けとともに東山吉水(京都市東山区円山町)の法然の草庵を訪ねる。(この時、法然は69歳。)そして岡崎の地(左京区岡崎天王町)に草庵を結び、百日にわたり法然の元へ通い聴聞する。 
親鸞1
出家
親鸞は1173年に藤原氏の末流である下級公家、日野有範(ありのり)の子として京都で生まれた。4歳のときに父を亡くし、8歳のときにその母を亡くした。9歳となった親鸞は「愚管抄」の著者として知られる慈円のもとで出家した。ちなみに慈円は関白九条兼実の弟にあたる人物である。出家した年齢から考えると、法然の場合とちがって、「自分の意志」による出家ではなく、おそらく周りの勧めによって親鸞は仏門に入ったのではないかと想像できる。
比叡山に入り、天台宗の僧として修行を続けた親鸞でだが、ある疑問から山をおり、京の六角堂という寺に参籠した(参籠とは、寺に籠もって祈り続けること)。
疑問
親鸞の疑問とはどのようなものであったのか。20代後半に達した親鸞には、どうやら恋人がいたらしいのだ、恵信尼(えしんに)という女性である。当時の仏教の戒律では僧侶は妻帯することはできない、つまり女性を愛することは禁止されていた。これはあくまでも「たてまえ」で、当時の仏教界では戒律をまじめに守る僧は少なくなっていた。むしろ偉い僧ほど「かくし妻」がいるということは、いわば「公然の秘密」であった。
親鸞はまじめな人だった、当時の仏教界の潮流に流されることなく、「僧侶は妻帯してはならない」という戒律を守ろうとして、「恵信尼を愛している」という自分の感情との対立に苦しんだわけだ。
親鸞の疑問とは「どうして僧侶は女性を愛してはならないのか」というものだ。もちろんだめであり、それはお釈迦様の定めたルールだからである。この矛盾の解決のため、親鸞は六角堂に参籠した 。
聖徳太子のお告げ
仏の教えと自分の感情、この矛盾の解決のため京の六角堂にこもった親鸞は、100日間、救世観音に祈り続けることによって解決しようとした。95日目の夜、親鸞の夢に聖徳太子が現れ、「お告げ」を与えた。ちなみに当時、救世観音と聖徳太子は同体であると考えられていた。その「お告げ」とは次のようなものだ。
行者宿報設女犯  我成玉女身被犯
一生之間能荘厳  臨終引導生往生
お告げの意味は次のようになる。
もし仏教を修行中の者が、前世からの宿命で妻帯するのならば、自分が玉女の身となってその妻となり、女犯の罪を犯すことはないだろう。そして一生の間、その身を飾り、死にのぞんでは極楽に導くであろう。
このとき親鸞は29歳であったといいます。「お告げ」を受けた親鸞は比叡山を離れ、法然のもとへ弟子入りした。ちなみに法然の弟子には九条兼実がいた(親鸞の師であった慈円は兼実の弟 にあたる)。 
親鸞2
浄土真宗の開祖。初期鎌倉時代の仏教僧。下級貴族・日野有範(ありのり)の子で幼名松若丸。4歳で父と別れ7歳で母と死別して天涯孤独と成り伯父に育てられるも、1181年(8歳)、源平争乱の真っ只中、飢饉と疫病が蔓延する都の中で、子どもながらに人の死後を憂い比叡山に出家。以後、心の救済を求めて約20年の修業の日々を送る。だが、最澄が開いた日本仏教の最高学府比叡山は、400年の間にすっかり俗化していた。裕福な貴族たちと結んで大荘園の領主となり、僧兵を組織して他派と争い、熾烈な権力争いが飽くことなく続いていた(もちろん、真面目に学問に励む者もいたが)。
親鸞はいっこうに悟りを得ることが出来ない自分自身と、堕落してしまった比叡山への絶望もあって、1201年(28歳)、ついに下山。都で説法していた法然の元へ足を運ぶ。そこで阿弥陀仏の慈悲を全身全霊で体感した親鸞は「たとえ法然上人に騙されて念仏して地獄に落ちようとも後悔せず」と弟子入りを決意する。当時の出家者は独身を守らねばならなかったが、深く愛する女性・恵信尼と出会った親鸞は、30歳の時に法然の許しを得て結婚した(結婚は後の流刑後説もアリ)。昼夜を問わず勉学にいそしむ親鸞は、多くの門弟の中でも目に見えて頭角を表わし、入門4年目にして、法然の肖像を描くことと、師が記した「選択本願念仏集」の書写を認められた。
高い学識を持つ師の法然は、当時の旧仏教の最大勢力、奈良興福寺や叡山延暦寺からも一目置かれており、布教の当初は弾圧もなかった。しかし、浄土宗が栄えるにつれ、信者の激増が危機感を与え圧迫が始まった。1204年(31歳)、法然は綱紀粛正の為に弟子に向けて「七箇条制戒」を記し、親鸞はこれに綽空(しゃっくう)の名で連座署名した。しかし、門徒の中には「念仏を唱えれば何でも帳消しになる」と平気で悪事を行なう者もいて、弾圧はさらに厳しくなった。あげくに朝廷の女官と通じる弟子が出てきて、1207年(34歳)、とうとう朝廷から「念仏停止(ちょうじ)」の命令が下され、弟子の2名が死罪、法然は讃岐に、親鸞は越後(新潟)に流罪となった。この時代は出家者を法で裁けなかったので、わざわざ親鸞を還俗させて俗名・藤井善信(よしざね)と付けてから流した。この後、師弟は二度と再会することはなかった。 1211年(38歳)、親鸞は4年で流罪をとかれたが、法然の死を知り京都へ戻らず、東国で布教活動を始めた。41歳、関東を飢饉が襲う。当時は何回も経典を読むことが人々の救済に繋がるというのが常識だった為、根本経典(三部経)を千回読もうと思い立つが、人の渦に飛び込み伝道する事こそが重要だと悟って中止、約20年にわたって農民と共に暮らし、常陸、下総、下野を中心に、関東から東北まで教えを広めた。
この時代の僧侶は、律令制に従って国家によって認定を受け、寺の奥深くで厳しい戒律を守り、国土の安泰を祈っていた。だから、親鸞のように庶民の輪に入って仏法を説くことは極めて異例だった。この意味で親鸞は自身を「僧にあらず」と言い、一方で心底から阿弥陀を信仰する点では紛れもなく僧なので「俗にあらず」と位置づけた。非僧非俗。
封建制度の下で徹底的に痛めつけられ、他人を押しのけねば生きていけない悲惨な状況の民衆。生活の余裕から善根を積む貴族のようにはいかない。しかし民衆こそ切実に救いを求めていた。なのに多くの宗教者は、人々の弱い心につけこんで神仏を恐れの対象とし、祈祷や呪術に明け暮れている。仏は罰を与えるものではなく、救いを与えるものではないのか。仏罰の怯えの中で安らぎなど得られるはずもない。親鸞は「南無阿弥陀仏」の念仏だけで救われるという師・法然の教えの重要性をますます強く実感していく。
そして、法然が「悪人でも念仏を唱えれば“死後に”浄土に行けるが、善人の方がより救われる」とした思想(浄土宗)をさらに発展させ、「ひとたび念仏を唱えれば臨終を待つことなく“生きながら”にして救われる」(浄土真宗)との考えに至り、親鸞にとっての念仏は、“浄土に行きたい”という意味合いではなく、浄土に行くこと(往生)が決定したことで、阿弥陀に感謝する“報恩”の念仏であると説いた。そして「善人が救われるのは当たり前だが、悪人であればなおさら往生できる」とした(「善人なをもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」=“悪人正機説”)。 
親鸞3
親鸞御影と恵信尼像
1921年に西本願寺でこの書状が見つからなければ、現代人の知る親鸞像はなかったと言っていい。親鸞が比叡山を出て六角堂にこもり、「後世をいのらせたまひけるに」、九十五日目の暁に聖徳太子の示現を得て法然上人に帰したことがそこに書かれている。「恵信尼書状」は青年親鸞の求道のさまが描かれた実に貴重な資料であり、大きな発見だった。「恵信尼書状」により親鸞の比叡山下山の理由は「生死出づべき道」を求め、「後世」を祈るという仏道上の問題であったことがよくわかる。親鸞が法然に帰したのは「教行信証」に書かれているように1201年のことである。これまで何度か書いてきたが、「恵信尼書状」が発見された1921年は1201年と同じく60年に一度巡る干支が「辛酉」の年である。中国で革命の年と言われた辛酉の年に日本で初めに注目したのは、その在世中に601年の辛酉の年を経験した聖徳太子(574-622)だろう。1921年は1201年と同じ辛酉の年であるとともに、また聖徳太子千三百回忌の記念すべき年でもあった。私は聖徳太子の導きが今も続いているのだと思っている。
またこの「恵信尼書状」には、親鸞が聖徳太子の示現を得て「後世のたすからんずる縁にあひまゐらせんとたづねまゐらせて」、法然上人のもとを訪れても、その場ですぐに弟子になったのではなく、またそこから百日間、雨の日も晴れの日も、来る日も来る日も法然上人の言葉を聞いて、やっと納得して法然上人に帰依したことが記されている。「また百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にもまゐりてありしに、ただ後世のことは、よき人にもあしきにも、おなじやうに生死出づべき道をば、ただ一すぢに仰せられ候ひしを、うけたまはりさだめて候ひしかば、上人のわたらせたまはんところには、人はいかにも申せ、たとひ悪道にわららせたまふべしと申すとも、世々生々にも迷いければこそありけめとまで思ひまゐらする身なれば」(「恵信尼消息一」)
こうして195日かけて、半年以上かかってやっと法然上人にどこまでもついていくという決意を固めたのである。おそらくはこれまで学んだ比叡山での聖道門の仏教に照らして法然の教えを考えるとともに、最後は分別を捨てて法然を信じるしかないという気持ちだったのだろう。親鸞の慎重な性格と思索、そして最後はただ信じるというあり方はここにもよく表れている。親鸞の著作を見ると思索とそこからの飛躍が見事に組み合わされているが、本当の思索というものはそういうものだろうと思う。分別知から無分別智へと飛躍するのである。
恵信尼書状に見る「聖道から浄土へ」
この「恵信尼書状」に記された親鸞の言葉から、親鸞の聖道門から浄土門への転向の過程が見えてくる。それは聖道門の教えが間違っていたということではない。その教えが自分にもたらすものを知った結果、次の道を求めざるをえなかったのである。聖道門を下敷きにしながら次の段階に進んでいるのである。やがて「教行信証」として結実する道のりがここから始まっている。それを仏教の根幹をなす「因果の法」を中心に見てみよう。
釈尊の説いた原始仏教は元来理知的な宗教で「因果(縁起)の法」(因果律)を中心としている。ただし単純な因果律だけなら、同じく因果律を基礎とする科学と同様に、理知的に受容するだけで済むだろうが、それが過去世、現世、来世に渡る「三世の因果」となると信が必要となる。それを信じないものにとっては何の価値もないものだろう。それどころか欲望の赴くままに生きたい人間にとってはかえって邪魔に見えるものだろう。残念なことに現代においてはこの因果の法を無視することがまかり通っている。まずこの因果の法を知ることから始めなければならい時代である。「信解脱」は原始仏教の中にもあり、親鸞浄土教ほどではないが、釈尊の言葉を信じることから仏教は始まる。因果の法について言えば、「善因善果、悪因悪果」が中心である。
そう言いながらも、実際にはこの世界では悪徳が栄えるように見えることがある。これについてはすでに釈尊在世中から疑問を持つ者がいたようであり、また現代でも因果の法を語るときには反論されることだろう。釈尊も因果の表れる時間的なずれは認めた上で、時間的にずれることはあっても必ずこの因果は表れ、特にこの世を去ったときにはっきりとそれがわかるとしている。「悪いことをしても、その業は、刀剣のように直ぐに斬ることは無い。しかし、来世におもむいてから、悪い行いをした人々の行きつく先を知るのである。のちに、その報いを受けるときに、劇しい苦しみが起こる。」(「感興の言葉(ウダーナ・ヴァルガ)」)天上から地獄までの悪趣を含めた世界があることは釈尊の言葉にはっきりと説かれている。
こうしてこの世のことだけではなく「三世の因果」が説かれる。その上でさらにそれを越えて「この世とかの世をともに捨てた」彼岸の涅槃の世界が説かれている。「奔り流れる妄執の水流を涸らし尽くして余すことのない修行者は、この世とかの世とをともに捨てる。あたかも蛇が旧い皮を脱皮して捨てるようなものである」(「スッタニ・パータ(ブッダの言葉)」)。親鸞が「生死出づべき道」を求め、「後世」を祈るというのは、「三世の因果」を信じた上で、六道輪廻の中の最高所である天上世界に生まれたいのではなく、仏教が目指した六道輪廻を越えた世界に至ろうとしたからである。
そこに至るのもまた因果の理法による。「苦(果)、集(因)、滅(果)、道(因)」の「四諦」を観じ実践することで可能になる。「道諦」がその実践で、原始仏教では「八正道(正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)」、大乗仏教では「六波羅蜜(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)」が説かれる。その実践を因として煩悩を断じ尽くせばこの世で彼岸に至る。
では現世で煩悩が滅し尽くさなかったら迷いの生死輪廻の中にとどまるかというとそうではない。現世で解脱できなかったとしてもあきらめる必要はなく、釈尊は仮に煩悩が残ったとしても四諦を観じて行じた者は迷いの生存には戻らないと説いている。道諦の因はこの世だけで滅諦の果をもたらすわけでなく、死後にも迷いの生死を離れるという滅諦の果を生じる。これは先に述べた、時間的にずれることはあっても必ず因果は表れ、特にこの世を去ったときにはっきりとそれがわかるとしたことの延長上にあり、「苦(果)、集(因)、滅(果)、道(因)」の「四諦」の因果と「三世の因果」を組み合わせたものである。
「どんな苦しみが生ずるのでも、すべて素因に縁って起こるのであるというのが、一つの観察である。しかしながら素因を残りなく止滅するならば、苦しみの生ずることがないというのが第二の観察である。修行僧らよ、このように二種を正しく観じて、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。すなわち現世における証智か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないこである」(「スッタニ・パータ(ブッダの言葉)」)同様の言葉が十六回繰り返されている。
即ち親鸞の「現生正定聚」「往生成仏」と同様のことが説かれている。釈尊においては自分がそうであるように「此土得聖」が中心だっただろうが、それだけではなく浄土教の「彼土入聖」に当たるものもすでに説かれている。浄土教の原点は確かに原始仏教にある。浄土教はしばしば聖道門から仏教ではないと批判される。それはこれから述べるように聖道門の因果の法の上にさらに浄土の因果の法を説いたからだが、仏教の基本からはずれてはいない。原始仏教の延長上にあり、むしろ浄土門が開かれたことで仏教は完成した面がある。
問題はこの因果の理法が、原始仏教においては此岸の衆生を出発点とし、そこから解脱するか、解脱せず生死の迷いを繰り返すかの、此岸から此岸へか、此岸から彼岸への一方通行の因果であることだ。この因果に基づくと現在の苦の果は過去の迷いの因の結果であり、また現在の苦と迷いが因となって来世の苦をもたらす。この連鎖の中にあることを知らされる。もし過去世において解脱していればもはやこの生に還ってくることはないので、この生があることは過去世で解脱していなかったことを示している。何よりも現世を苦と感じる限りは過去世で解脱があったとは思えない。過去世の迷いが現世の苦となっていると受け取られるのである。
そのため釈尊であっても、自分はこれまで幾生となく無益に生死の苦しみを経巡ってきたと述懐するのである。「わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た、-あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。」(「真理の言葉(ダンマ・パダ=法句経の原典)」)親鸞もまた「世々生々にも迷いければこそありけめとまで思ひまゐらする身なれば」と言うが、これは聖道の因果を信じた結果である。これが実は此岸の衆生を起点とする「聖道の因果」の特徴の一つである。釈尊は実際には還相の如来・菩薩だったはずだが、自ら説いた此岸を起点とするこの因果に基づくとこのように言わざるをえないのである。
これがこの後に述べる浄土を起点とする「浄土の因果」になると違ってくる。法然はこの度の往生は三度目だが、今回はことに往生を遂げやすいと述べるし、また自ら還相の菩薩であることを述べるのである。「命終その期ちかづきて本師源空のたまはく往生みたびになりぬるにこのたびことにとげやすし」(親鸞「高僧和讃」)、「われ、もと極楽にありし身なれば、さだめてかへりゆくべし」(「法然上人行状絵図三十七」)。
これは因果の起点が此土から浄土に転換したことによる。「此岸の因果」では此岸を出発点とするので、その因果によって生死を繰り返し此岸に留まり続けるか彼岸に至るかのどちらかで、生死輪廻か往相かである。「浄土の因果」となると浄土の如来を出発点としてその廻向である往相と還相の両方向が出てくる。真実が循環する因果の法である。往相はどちらにもあるので、還相があるのが「浄土の因果」の特徴である。もし釈尊を還相の如来・菩薩として受け取るなら結果的に浄土の因果を認めることになる。聖道門でも大乗仏教では「久遠実成の釈迦仏」を説き、釈尊はその化現とする。これは浄土教の還相と同様の方向であり、浄土の因果を認めたのも同然だろう。結局仏教、特に大乗仏教としては往相、還相の両相があるのが望ましいのである。このように親鸞浄土教は仏教の因果の完成という意味をもっている。
話を元に戻し、自力の修行で煩悩を絶ち迷いと苦の因果の連鎖を乗り越えることができるなら、生死を越えて涅槃に至り再び生死に戻ることはない。しかしそれができないとなると、生死を繰り返すしかない。この此土の衆生を起点とする「聖道の因果」を信じることは仏教の基本だが、その因果を信じた結果もたらされるが、聖者の場合は出離だが、我々凡夫にとっては出離不能である。これが「機の深信」である。欲望人間にとっての因果の信である。この因果は逃れがたい業の連鎖として、過去も現在も未来も三世に渡り我々にのしかかってくる。今この苦界にいることがその因果が働いている何よりの証しである。
「聖道の因果」は元来因果律というものの理知的な理解を中心として、「生死輪廻」の生命の連続性という三世の生を信じることを組み合わせたものなので、「機の深信」は自分を深く見つめた結果もたらされる理知的な自覚でもある。ただしそれは分別知である。
ここにおいてもう一つの因果が要請される。それはすでに浄土にある如来を起点とする因果である「浄土の因果」である。浄土の如来の本願を因として此土の衆生がここで信心を得て救われる果がもたらされ、さらにそれをまた因として浄土への往生成仏という果がもたらされる。如来を起点、出発点とする如来廻向の因果である。これを信じるのが「法の深信」である。ここでの法は「浄土の因果の法」「如来廻向の因果の法」である。これが他力の世界である。この信は知に対応させれば無分別智でもある。これが「信心の智慧」である。「二種深信」は聖道の因果の信と浄土の因果の信を組み合わせたものである。「二種一具の信」と言われるが、そこには仏教の因果である「二種一具の因果」があり、それを信じるものだ。聖道門の因果を無視してはこの信はなりたたず、「造悪無碍」に陥るのはそのことがわかっていないからである。
この「浄土の因果の法」は、浄土の祖師から始まるが、この時代では法然がその端緒を開き、親鸞の「教行信証」によって完成されたと言っていいだろう。これにより仏教の因果の法が完成したと言える。往相、還相の両相をもった仏教となる。今我々はありがたいことに、すでに法然、親鸞によって完成されたものを受け取ることから始まっているが、これまでにないものを説くことの難しさは想像を絶するものがあるだろう。親鸞はしばしば経典の読み替えを行うが、「浄土の因果の法」を完成させる営みがそこにある。
そのように後に完成した立場から見れば法然の教えを受け取ることは容易だろうが、親鸞は長年比叡山で聖道門の修行をした人間であり、聖道門の因果が身にしみ込んでいる。それから見れば浄土の因果の世界へ進むのは、次の段階といいながらも大転換である。親鸞が六角堂にこもってから法然の弟子になるまでの百九十五日間がその難しさをよく表している。「恵信尼書状」を読みながら感慨深いものがあった。
また六角堂で受けた夢告は観音があなたの妻になるというものだったと考えられている。その夢告を記したのが「熊皮御影」である。これも出展(後期)されている。親鸞の悩みとその解決、その後の親鸞と恵信尼の出会いもここにある。青年の悩みと男女の出会い。その背後に見えるのが法然と阿弥陀仏の存在である。 
親鸞4
「教行信証」「後序」
親鸞聖人の活動は、自分に働いているあるものを表し、伝え続けるものだった。教化、著述はみなその一環であり、そしてその活動は自分のこの世での生とともに終わるようなものではなかった。今回の講題は「教行信証」「後序」に引用された「安楽集」の言葉「前に生まれんものは後を導き、後に生まれんひとは前を訪へ、連続無窮にして、願はくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆゑなり。」から採らしていただいた。私の好きな言葉の一つである。親鸞聖人は自分がこの「無辺の生死海」を尽くそうとする「連続無窮」の働きの中にあることを自覚されていた。また同じく「教行信証」「後序」に引用される法然上人との出会いも、法然上人からの「選択集」の付属も、この「連続無窮」の中にある。無窮の本願の表れである。「無窮」は「無休」となり、「休止せざらしめん」となる。その由来を語る「悲喜の涙」は本願海の潮が溢れ出たものである。
ここに限らず私は親鸞聖人の著述にしばしば「涙」を感じる。自分を飲み込む本願海の潮が、口からは念仏として、目からは涙として溢れ出る。溢れ出る念仏は「非行非善」だが、涙も「非行非善」である。念仏の中に阿弥陀様はおられるが、ナミダの中にもアミダ様はおられる。むしろナミダの中のアミダ様の方が人間の「自然」をよく表しているかもしれない。人がナミダを流す限りアミダ様は消えることなく、浄土教が消えることはない。このことは後で、宮沢賢治と中村久子の項においてもう一度述べたい。
「歎異抄」第二章
この「連続無窮」が人を介して歴史の上に展開しつつ、そのたび毎に直接「本願」から出ていることを表すものとして「歎異抄」の第二章を挙げたい。「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもってむなしかるべからず候か。」ここに浄土教が経典や人を縁とし、本願を因として伝わることがよく表されている。この中で直接の師弟関係があるのは法然と親鸞だけである。それ以前は普通に言う伝授ではない。またはじめにある阿弥陀仏と釈尊の関係も大乗非仏説を定説とする仏教学の常識からは否定される。
しかしこの伝授は間を飛ばして「弥陀の本願まことにおはしまさば、親鸞が申すむね、またもってむなしかるべからず候か。」でも成立する。誰であっても「本願力にあひぬればむなしくすぐるひとぞなき」である。しかしはじめにその存在を知らせていただいたのは経典であり、師である。本願という根本の因があってもこの縁がなければ、地図無くして荒野をさ迷うようなもので、本願と出会うことは極めて難しい。ここに継承ということの重要さがある。比叡山で長く迷いの中にあった法然上人も親鸞聖人も、そのことを誰よりもよく分かっておられた。
この「歎異抄」の第二章の背景には親鸞聖人の長子である善鸞の言動が関東の人々を惑わした事件があると言われている。親鸞聖人から義絶された善鸞は後に祈祷師のようなことをしていたと言われている。ここに親子にしてすでに伝わらないという問題が起きているのである。本願寺の系統では親鸞聖人から孫の如信に伝わったとする。父と子で伝わって当然のはずなのだが、現実には伝わらないこともある。そこで親子、近親者の間で、伝わらなかった例と、困難を越えて伝わった例をあげて継承の問題を考える参考としたい。 
親鸞5
学問修行
出家された聖人は天台宗の僧侶として学問修行に励まれました。聖人が比叡山でどのような修行をされたか定かでありませんが、恵信尼さまの手紙から「堂僧」であったことがわかります。
出家された親鸞聖人は、天台宗の僧侶として、比叡山において、学問修行に励まれました。その頃の比叡山は、天台宗の根本道場であったばかりでなく、日本における最高の仏教総合大学のような存在でした。
比叡山では、天台宗の開祖・伝教大師最澄(七六七〜八二二)が定めた「山家学生式」に従って、十二年間山に寵って、学問と修行に専念する厳しい龍山の制度がありました。また、少し後に、相応(八三一〜九一八)によって形成された、比叡山の峰々の諸堂で読経・礼拝をしながらいい山道を歩きまわる回峰行などの修行も行われていました。
聖人が学問惨行された頃の比叡山は、世俗と変わらぬ階級制度に縛られていたり、僧侶集団が互いに争うなど、俗化していたと言われていますが、心ある修行者ば、命がけで修行に励んでいたことは、間違いありません。
聖人が、比叡山でどのような修行をされたかは、定かではありませんが、後に聖人が書かれた書物から、天台宗の教えを深く学ばれていたことがわかります。また、九歳から二十九歳の二十年間、比叡山で仏道を歩まれたわけですから、さまざまな修行にも、懸命に取り組んだものと思われます。
ただ、「恵信尼消息(聖人の妻・恵信「恵信尼さまのお手紙)」に、「殿(聖人)の比叡の山に堂僧つとめておはしましけるが、山を出でて、六角堂に百日寵らせたまひて」とあることから、比叡山を去られる二十九歳の時点では、聖人は、堂僧であったことがわかります。
堂僧とは、常行堂で不断念仏(常行三昧)を行う修行僧のことです。
常行三昧 / 常行三昧とは、天台宗の修行である四種三昧(常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧)の一つで、堂内の阿弥陀仏像の周囲を、口に阿弥陀仏の名をとなえ、心に阿弥陀仏を念じながら、九十日の間、歩き続ける行のことです。常行とは、常に歩き続けることで、三昧とは、心をひとつに集中して乱さないことです。この行を続けると、目の前に仏さまが現れるといわれています。しかし、これは妄想ではなく、かといって、実体的な仏さまが現れるのでもありません。行者が、深い三昧の境地に入り、真理を確認していることを意味するものなのです。
後に、最澄の弟子・円仁(七九四〜八六四)によって、五会念仏が持ち込まれ、常行三昧が変化していきました。それが、不断念仏(山の念仏)と呼ばれていたようです。
求道の悩み
修行に励めば励むほど迷いの深さを知らされた聖人は、敬慕する聖徳太子ゆかりの六角堂に百日問こもられ、今後の自らの進むべき道を太子に求められました。
出家された親鸞聖人は、天台宗の僧侶として、比叡山において、学問修行に励まれました。聖人が、比叡山でどのような修行をされたかは、明らかではない面もありますが、天台宗は、聖道門の教えで、自らの力をたよりに修行して、煩悩を滅し、さとりに至ろうというものでした。
聖人は、厳しい学問修行によって、自らの心をみがき、仏のさとりを目指されました。しかし、励めば励むほど、煩悩が無くなるどころか、見えてきたのは、自分の心の醜さでした。
後に、聖人の玄孫(孫の孫)の存覚上人が、その時の心境を、「定水の凝らすといえども識浪しきりに動き、心月を観ずといえども妄雲なお覆う(心を一点に集中し、安定させるといっても、ちょうど、水面がすぐ波立ってしまうように、いろいろな想いが浮かんでしまう。清浄なる心(仏)を観るといっても、月がすぐに雲に覆われてしまうように、妄想や妄念に覆われて隠れてしまう)」(「嘆徳文」)と伝えています。
比叡山での修行に行き詰まりを感じた聖人は、六角堂(頂法寺)に百日間参籠することによって、自らの進むべき道を問うことにしました。
聖人が六角堂を選ばれたのは、聖徳太子ゆかりの寺だったからです。聖人は、聖徳太子のことを救世観音の化身と仰ぎ、「和国の教主」と讃え、また、在家仏教の先達として、深く尊敬されていました。
聖道門(聖道教)と浄土門(浄土教) / 聖道門とは、自らの力(自力)をたよりに修行して、この世でさとりを得ようとする教えで、浄土門とは、仏の力(他力)によって、浄土に生まれ、さとりを得ようとする教えです。ただし、一般仏教では、100%自力か100%他力かではなく、聖道門でも他力の部分を認め、浄土門でも自力の部分を認めます。ただ、浄土真宗は、100%他力です。
叡山浄土教 / 天台宗は、基本的には、聖道門の教えですが、比叡山横川において、源信和尚が、浄土教を伝えており、聖人は、それを学んでいたと思われます。しかし、叡山浄土教は、自力の修行によって、浄土に往生しようとする自力の傾向の強いものでした。ただし、法然上人は、源信和尚の「往生要集」の中心は、他力の称名念仏を説くことにあると明らかにされました。
六角堂参籠
聖人が六角堂に参籠されて95日目の暁、聖徳太子の示現をうけられ、吉水の法然上人のもとへ。示現の文には諸説がありますが、代表的なものは2つです。
親鸞聖人が六角堂参籠を決意されたきっかけは、おそらく、法然上人の噂を聞かれたからだと考えられます。京都東山の吉水の地に法然上人という方がいて、出家・在家を問わず、念仏一つで、すべての人が救われる道を説いておられるという噂でした。この法然上人を慕い、多くの人々が集っていましたが、従来の仏教の教えを守っている人々は、出家の者も在家の者も、持戒の者も破戒の者も、平等に救われるなどありえないし、そのような教えは、世の中を乱す、とんでもない邪説であると、激しく批難していました。
しかし、比叡山での修行に行き詰まりを感じていた聖人は、法然上人の教えに強く引かれるものがありました。ただし、この比叡山を捨てて、法然上人の下に行くことは、とても大きな決心のいることでした。その最終判断を、六角堂参籠によって、聖徳太子の指示を仰ごうとされたのでした。
聖人が六角堂に参籠を始めから95日目の暁、聖徳太子の示現(夢告)にあずかったと伝えられています。示現の文については諸説ありますが、その内容は、阿弥陀仏への信仰・在家仏教の道、つまり、法然上人の教えに通じるものであったと考えられます。
この後、聖人は、法然上人の門をたたかれたのでした。
示現 / 示現とは、姿を示し現われるということで、具体的には、聖徳太子(または、そのの本地である救世観音)が夢で現われたということです。俗な言い方をすれば、夢のお告げを受けたということですが、一般的に言われるような、絶対者がお告げをするというものとは違います。夢は、普段意識していないもっと深い領域(深層心理)が現われたものであると考えられます。つまり、聖人は、夢によって、自分の心を確認されたと受け取るべきでしょう。
示現の文 / 示現の文については、はっきりわかっていませんが、次の二つの説が代表的なものです。
 行者宿報の偈
 行者宿報にてたとひ女犯すとも われ玉女の身となりて犯せられん
 一生の間よく荘厳して臨終に引導して極楽に生ぜしめん
 磯長の廟窟偈
 わが身は世を救くる観世音なり 定慧を契る女は大勢至なり
 わが身を生育する大悲の母は 西方教主の弥陀尊なり
 末世の諸の衆生を渡さんがため 父母血肉の身を所生し
 勝地たるこの廟窟に遺留する 三骨一廟は三尊の位なり
法然上人のもとへ
吉水に100日間通い、法然上人のお弟子となられた聖人は、このことを「数行信証」に「雑行を棄てて本願に帰す」と記されました。親鷺聖人29歳、法然上人69歳の時のことです。
親鸞聖人は、法然上人に会いに、吉水の草庵を訪ねられました。そこには、貴族や武士や農民など、さまざまな身分の人が集まっていました。それまでの仏教は、国家仏教であり、貴族と僧侶以外が、仏の教えを聞くことばほとんどありませんでした。そのような仏教をすべての人々に開放し、仏教を本来の姿にもどした人の一人が、法然上人だったのです。
それから百日のあいだ、雨の降る日も、日の照る日も、どんな支障があろうと、欠かさず法然上人のもとを訪ねました。そして、善人も悪人もすべての人が同じように救われていく念仏の道があることを、ただ一筋に仰せくださるのを聞き、これこそ、自らの歩むべき道であると聞き定められました。
聖人は、念仏の教えに遇い、煩悩から逃れられないこの自分の、生きる意味と方向を聞き定めることができたのでした。
聖人29歳、法然上人69歳の時のことでした。聖人は、その時のことを、「難行を棄てて本願に帰す」(「数行信証」)と述べられています。これは、聖人にとって、人生最大の精神的転換でした。
法然上人の教え
法然上人の教えをひと言で言えば「専修念仏」すなわち「ただ念仏して阿弥陀仏に救われる」教えです。上人は主著「選択集」で念仏一つを選び取られました。
法然上人の教えを一言で言えば、「専修念仏」、すなわち、「ただ念仏して、阿弥陀仏に救われていく教え」であると言えます。もう少し正確にいうと、阿弥陀仏が本願の中で、すべての人が救われる道として、念仏を選び取って下さったということから、「選択本願念仏」の教えであると言えます。
法然上人は、主著「選択本願念仏集」(「選択集」)において、さまざな修行の中で、念仏(称名)一つを選び取っておられます。
しかし、それは、法然上人の判断で選び取られたのではなく、念仏することが、阿弥陀仏の本願にかなった行為だからだというのです。阿弥陀仏が、すべての人を救うために、念仏を選び取って下さったのです。
では、なぜ念仏なのでしょう。それについて、法然上人は、念仏は、仏の救いのはたらきが収まった勝れた行であり、誰でも行うことのできる易しい行だからであると言われています。
ただし、「念仏は、勝れた易しい行だから、楽でいい」ということではなく、このような選びの根底には、阿弥陀仏の、すべての人を救わずにはおかないという、平等の大悲心があるということを、忘れてはならないでしょう。
ところで、この念仏は、たくさん称えて、その見返りとして救いが与えられるというものではありません。念仏を称えるということば、必ず救うという仏さまの願い(本願)を受け容れている姿であり、仏さまの救いのはたらきに包まれているということを意味するのです。
親鷲聖人は、法然上人から教えを受け、私が一生懸命修行をして、仏のさとりに近づくという「私から仏」という方向(自力)から、仏さまの救いのはたらきを受け容れるという「仏から私」の方向(他力) へと、一八〇度の転換がなされ、救われたのでした。
「選択本願念仏集」(三選の文) / 「速やかに迷いの世界を離れようと思うなら、二種の勝れた法の中で、聖道門をさしおいて、浄土門に入れ。浄土門に入ろうと思うなら、正行と雑行の中で、雑行を捨てて、正行(阿弥陀仏に関する行のことで、具体的には、読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養の五.正行)に帰せ。正行を修めようと思うなら、助業(読誦・観察・礼拝・讃嘆供養)を傍らにして、専ら正定業(称名)を修めなさい。正定業(正しくく浄土往生が決定する因となる行い)とは、仏の名を称えることである。称名するものは、必ず往生を得る。阿弥陀仏の本願に順ずる道だからである」(意訳)
承元の法難
法然門下での充実した生活は長くは続きませんでした。承元元(1207)年「承元の法難」で念仏が禁止され、法然上人は四国、親鷲聖人は越後に流罪となられました。
吉水において、法然上人のもとで過ごした日々は、大変充実したものであり、それからの親鷲聖人の一生を方向づける、かけがえのない日々でした。しかし、そのような平穏で充実した生活は、長くは続きませんでした。
法然上人のもとへ、多くの人々が集まる事を、快く思っていなかったのが、比叡山や奈良の伝統仏教教団でした。一二〇四(元久元)年、比叡山延暦寺の僧侶たちは、天台座主・真性に、専修念仏の停止を訴えました。それは、念仏の教えを正しく理解していなかったことと、人々が集まることに対しての妬み、そして、法然上人のもとに集まる人々の中に、念仏していれば悪を恐れることばないと、悪事を行ったり、戒律を守って修行する者を軽視したりする者がいたことが原因だったようです。
それに対して、法然上人は、門弟たちに、七箇条制誡を示されました。聖人は、僧綽空と嘗名されています。
これによって、専修念仏に対する批難は、ひとまずおさまったかに見えましたが、一二〇五(元久二)年、奈良・興福寺は、「興福寺奏状」(解脱上人貞慶)をつくり、法然教団の九箇条の過失をあげ、朝廷に専修念仏禁止を訴えました。
これは、従来の仏教教団から見れば当然の理由をあげての批判でしたが、朝廷の中にも、九条兼実をはじめ、法然上人の教えをよろこぶ人々が多くいたこともあってか、最初は、この訴えは、取り上げられませんでした。
しかし、時の権力者、後鳥羽上皇のかわいがっていた女官、鈴虫・松虫が、上皇の留守中に、法然上人の弟子、住蓮房・安楽房の行った念仏会に参加し、そのまま出家したことが、上皇の怒りにふれ、専修念仏禁止の命令が下されました。
そして、住蓮房・安楽房をはじめ、四名が死罪、八名が流罪になりました。法然上人は、藤井元彦という俗名を与えられ、四国「土佐(高知)に流される予定でしたが、実際は、讃岐(香川)」 へ、親鸞聖人は、藤井善信という俗名を与えられ、越後(新潟)に流されました。
この事件を、承元元(一二〇七)年に起こった、法に対する困難な出来事という意味で、「承元の法難」と呼んでいます。
法然上人七十五歳、聖人三十五歳の時のことでした。  
親鸞6-1
親鸞の誕生と比叡山延暦寺での修行
釈迦の死後1,000年間は正しい仏法がそのまま実施される『正法』の時代であり、その次の1,000年間は正法を筆写(表象)したような『像法』の時代となり、正法の時代よりも仏法の威光や効力が弱くなってしまうといいます。『大集経』を根拠にする仏教の末法思想では『像法』の時代が終結すると、仏法の正しい教えの効力が弱まる『末法』の長い時代が始まるとされています。親鸞(1173-1263)は、天変地異や政情不安、戦乱・略奪が渦巻く末法の時代の真っ只中である1173年(承安3年)に、下級公家の家系である日野家に生まれました。親鸞の父親は日野有範(ひの・ありのり)、母親は清和源氏・八幡太郎義家の孫娘・吉光女(きっこうにょ)と伝えられていますが、平安貴族の頂点(摂関家)に君臨する藤原家の流れの中では非常に不遇な立場にありました。日野家は、藤原家北家の傍流に位置する血筋で、日野有範は皇太后大進という皇太后の側近くに仕える閑職の地位に甘んじていましたが、日野家没落の原因を作ったのは親鸞の祖父・日野経尹(つねただ)であったといいます。日野経尹が、朝廷の不興を買ったことで日野家の栄華の道は閉ざされたといいますが、1180年(治承4年)に『以仁王の乱』が起きて日野有範の弟・日野宗業(むねなり)がその騒乱に巻き込まれることになります。
平安時代末期には、軍事力を背景にした平氏・源氏の武士勢力が伸張してきて、古代社会の主権者であった平安貴族の地位を脅かすようになってきますが、権勢を振るう平氏政権を打倒しようとした『以仁王(もちひとおう)の乱』も源平の戦乱の流れの中に位置づけられます。後白河天皇が崇徳上皇を打ち破った『保元の乱(1156)』で平家一門が台頭し、源義朝率いる源氏一門を平清盛の平氏一門が追い落とした『平治の乱(1159)』によって朝廷を圧倒する平氏政権が産声を上げました。その後、1177年に平氏政権を転覆しようとする後白河法皇(1127-1192)の『鹿ケ谷の陰謀(鹿ケ谷事件)』が起き、陰謀の実行に失敗した後白河法皇は1179年の『治承三年の政変(治承三年のクーデター)』によって院政の実権を剥奪されます。豪胆と才覚に恵まれていた皇族の以仁王(1151-1180)は、源頼政(1104-1180)と共謀して平清盛を首班とする平氏政権を打倒せよという令旨(りょうじ)を出しますが、事前に陰謀が露見して以仁王と源頼政は殺害されました。親鸞の叔父の日野宗僕が以仁王の学問の師であったことで、日野家も陰謀に加担していたのではないかという疑念をかけられ、朝廷における日野家の立身出世はいよいよ難しくなりました。
我が子を朝廷の権力闘争に勝ち抜かせることは無理と考えた日野有範は、親鸞を仏教(天台宗)の総本山である比叡山延暦寺に預けて、僧侶としての栄達(身分の上昇)を目指させようとします。源平の戦乱が激しさを増し、古代王朝(平安貴族)の権力が斜陽の過程にある末法の時代に、9歳の親鸞は比叡山延暦寺に入山して厳しい修行と学問の日々に励むことになります。古代の飛鳥時代や奈良時代の頃から、公家の貴族が生きる世界は大きく『朝廷の政界』と『寺社の宗教界』に分かれており、朝廷での栄誉や出世が望めない公家の中には、大寺社に所属する僧侶になるものが多くいました。ただし、世俗から離れた宗教界(仏教界)である『寺社の世界』においても、最高位の僧侶へと立身出世するためには『公家の世界』と同じように、皇族・摂関家・大臣を輩出した貴族などの『高い家柄や身分』が必要でした。
比叡山時代の親鸞は、天台宗の教学と奥義を極めて悟りを開く為に、懸命に過酷な学問や修行に励みましたが、延暦寺での僧侶の出世は『学識・修行・実績』などによって決まるのではなく、『生家の家柄や身分の高貴さ』によって決まるので、(生家の家柄が低い)親鸞が比叡山で高僧となる望みは殆どありませんでした。幾ら学術研究に専心して高い教養を得ても、どんなに苛烈で危険な修行をして煩悩を断ち切っても、『延暦寺での僧侶の評価』にまったくつながらないことに親鸞は疑問を抱きました。更に、親鸞に深い苦悩と絶望を与えたのは、学問を深く修得することや厳しい修行に耐え抜くことが『人間の苦悩や絶望の救済』に全く役立たないということであり、『民衆・俗世から離れた学問研究としての仏教』に原理的な誤りがあるのではないかと考えるようになりました。
つまり、学問や知識を勤勉に蓄積することで涅槃寂静の悟りの境地に達することが出来るという『声聞(しょうもん)の悟り=聖道門(しょうどうもん)』に親鸞は疑惑を抱いたわけです。自分一人さえ苦悩から救えないような『声聞の悟りの道=仏法の学術研究の道』では、『一切衆生を救済する』という壮大な仏教の目的を達成することなどは及びもつかないのではないかと親鸞は思いを巡らします。学鑽によって悟りを開く天台宗の教えに限界を感じ始めた親鸞は、救済宗教である仏教の本質に立ち返る必要があると思い直し、『不安・恐怖・絶望・憎悪が渦巻く末法の世(五濁悪世)』を救う真の仏法を探し始めるのです。
世の中のあらゆる人々、貴賎・貧富・賢愚を問わない一切衆生を救うという壮大な目的に向かう前に、親鸞には絶対にやり遂げなければならないことがありました。それは、末法の世の峻険な現実の前に打ち倒されようとする親鸞自身を救うことであり、親鸞自身の苦悩と迷いを克服することで『仏法には人間の苦を取り除く力がある』ということを証明することでもありました。『人間の抜苦与楽(ばっくよらく)』の道としての仏法を模索する親鸞は、末法思想が波及する中で力を持ち始めた『阿弥陀仏(あみだぶつ)の浄土信仰』に眼を向けていくことになります。末法が始まる1052年(永承7年)に、関白・藤原頼通(ふじわらのよりみち)が建立した京都宇治の平等院鳳凰堂の本尊は阿弥陀如来(阿弥陀仏)です。このように、末法が始まって以後の時代には、貴族の間でも民衆の間でも、人間を極楽浄土へと導いてくれる『阿弥陀如来の本願の慈悲』にすがる人が増えてきたのです。 
他力本願の念仏信仰へと向かう親鸞
生きる事に悩み悟りの道を歩むことに絶望した青年期の親鸞は、『比叡山延暦寺での学術研究・修行実践の道』では人間を究極的な絶望や苦悩から救済することは出来ないと感じるようになり、法然(1133-1212)の専修念仏(ただひたすら念仏を唱える)の仏教信仰に関心を寄せるようになります。法然も親鸞と同じように、元々は、比叡山延暦寺(天台宗)の敬虔で実直な僧侶でした。法然は比叡山で10年の修行をし、奈良仏教(南都仏教)で10年の学究生活を送り、更に比叡山に戻って10年の学問・修行の時間を過ごしましたが、『30年に及ぶ伝統仏教(古代仏教)との格闘』を通して天台宗や奈良仏教では自分と民衆を救済することは出来ないという結論に至りました。唐の僧侶・善導の『観経疏(かんぎょうしょ)』と阿弥陀仏への帰依を説く『浄土教』を読んで、専修念仏(念仏信仰)こそが万民の苦悩を解決する究極的な仏法であると考え、京都の吉水を拠点にして念仏の信仰を広めました。
熱心な学僧であった親鸞も、当時流行していた浄土教の念仏信仰について知識・情報として知っていたので、早速、比叡山の常行三昧堂で念仏の修行を始めましたが、親鸞の悩みや迷いが念仏によって消え去ることはありませんでした。『なぜ、こんなに必死に一生懸命に念仏修行をしているのに私は救われないのだ』という疑念が親鸞を襲いましたが、親鸞が念仏によって救われない理由は正に『念仏を修行(苦行)として捉えている』という一点にあったのです。つまり、親鸞が『南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)』という念仏を必死に唱える時、それが『一生懸命に修行や学問をした人の努力』に対してのみ、阿弥陀仏の救済が与えられるという『自力本願の修行』になってしまっていたのでした。念仏を唱える『称名念仏(しょうみょうねんぶつ)の信仰』の本質は、『阿弥陀如来(阿弥陀仏)の本願』に内在している「無限の慈悲」をただひたすら信じ抜くというところにあるのですが、生真面目な親鸞は『阿弥陀如来の慈悲よりも、自分自身の念仏の修行のほうを優先する』という根本的な間違いを犯していたのでした。
誰でも実施できる易行(簡単な修行)である『念仏』は、飽くまで、絶大な救済の力を持つ『阿弥陀仏の慈悲』を信じきることが重要なのであり、青年の親鸞のように『善行や努力を積み重ねる功徳』によって極楽浄土に行こうとする『修行の発想』では、親鸞が否定した『古代仏教(天台宗・南都仏教)の立場』と変わらないのです。比叡山の常行三昧堂で念仏修行をした親鸞が学んだ事は、『自力本願の善人正機の発想』では人間は救われないということでした。親鸞は、自分自身が煩悩具足(ぼんのうぐそく=煩悩を消尽できない凡人)の悪人であることを自覚して、阿弥陀仏の救済を信じきる『他力本願の悪人正機の発想』を持たなければならないと考えました。親鸞は、自分自身の『修行・学問・善行による功徳=自力本願』では真の極楽浄土に辿り着くことは出来ないと悟り、『善人正機=正しい努力や修行をした人だけが救われるの発想』そのものを捨て去ることでしか人は救われないと思うようになります。
しかし、『思うは易し、行うは難し』であり、阿弥陀仏を徹底的に信じる『絶対他力の念仏信仰』の正しさを思いながらも、親鸞はなかなか自力本願の念仏修行の日々を捨て切れずにいました。決定的な宗教的転回点が未だ親鸞には訪れていなかったのですが、29歳となった親鸞は『他力本願の念仏信仰』の正しさを日本仏教の父である聖徳太子(574-622)に問おうとすることになります。聖徳太子は既にこの世の人ではないので、聖徳太子に垂迹(化身)していたとされる救世観音(ぐぜかんのん)を本尊とする京都烏丸通の六角堂に親鸞は篭もって『他力本願の念仏信仰の真偽』を問いました。 
親鸞の悪人正機説と平等な救済
京都烏丸通の六角堂に篭もった親鸞は、100日間の間、聖徳太子の化身である救世観音に他力本願の念仏信仰について祈願を続けましたが、そうすると95日目の日に聖徳太子が親鸞のもとに示現して『法然のもとに向かって教えを聞け』というお告げを得ることが出来ました。早速、京都の吉水で念仏信仰を説く法然のもとに向かった親鸞は、念仏によって究極の悟りを得た法然に弟子入りをします。百日間の間、毎日法然の教えを受ける為に吉水へと足を運んだ親鸞に、突如、『宗教的な回心=阿弥陀仏への完全な帰依』の時が訪れます。親鸞は浄土教の開祖・法然との邂逅(出会い)によって、阿弥陀仏の本願を無条件に信じる『他力本願の念仏信仰』こそが、末法の世の唯一の救済であることを悟ることが出来たのです。20年間もの長きにわたって比叡山の伝統仏教を学んできた親鸞は、法然との出会いによって『他力本願の念仏者』へと決定的な回心をしたのでした。
この『宗教的な回心』について親鸞の事績・思想について書いた『歎異抄(たんにしょう)』では、『念仏が極楽浄土への種なのか、地獄に落ちる悪業なのかは分からないが、たとえ法然聖人に騙されていたとしても一切の後悔などない』という内容が記されており、親鸞の他力本願の念仏信仰に対する師・法然の決定的な影響力を読み取ることが出来ます。『歎異抄』自体は親鸞の著作ではなく、親鸞の弟子の唯円あるいは覚如の著作と考えられています。『歎異抄』に書かれた親鸞の教えによると、阿弥陀仏の広大無辺な本願(慈悲)を信じて念仏を唱える事が念仏信仰の本質であり、善悪や貴賎、貧富の別などは『救済の成否』に全く関係しないということになります。仏法は、『罪悪深重(ざいあくしんちょう)の罪深い人々』や『煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の欲望強い衆生』を救うために存在するのであり、極楽浄土を司る阿弥陀如来は『善悪・賢愚・貴賎の区別』などにこだわって救済する民衆を選ぶことなどはないということなのです。
阿弥陀仏の本願(慈悲)を超越するほどの善も悪も存在しないというのが親鸞の教えであり、一切衆生の救済は『阿弥陀仏の本願を心から信じて、念仏を唱えさえすれば良い』ということに行き着きます。阿弥陀仏の本願の慈悲を心から信じて、念仏称名をした瞬間に『往生決定(おうじょうけつじょう)』が起こり、いつも念仏を唱え続けなくても確実に極楽往生に行けることが決定するのです。『歎異抄』で念仏を信じる人のご利益について、『信心の行者には、天神地祇(てんしんちぎ)も敬服し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなきゆえなり』という風に記述されており、親鸞は念仏信者のことを『念仏者は無碍(むげ)の一道なり』と簡潔に表現しています。無碍とは『一切の障害や妨げがない』という意味であり、真の念仏信仰に目覚めればあらゆる障害や苦悩を越えた無碍の一道を歩むことが出来るというわけです。
親鸞の説いた悪人正機説(あくにんしょうきせつ)とは、念仏信仰へと信心決定(しんじんけつじょう)すれば、善人であっても悪人であってもあらゆる人々が救われるという教えであり、念仏は煩悩具足の衆生のためにこそあるという思想です。『歎異抄』に示された親鸞の思想は、『極楽往生するために念仏以外の何ものも必要ではない』という教えであり、阿弥陀仏の本願(救済)の慈悲の『信心』と『念仏称名』によって、衆生は仏と同等の存在になれるというものです。親鸞は、阿弥陀仏への信仰心が定まり念仏を唱えることを『信心決定(しんじんけつじょう)』と呼び、金剛(不退転)の信心が得られた時にあらゆる人々は諸仏と同等の位に就くとしています。特に、念仏者は、来世において仏陀となることが確実である『弥勒菩薩(みろくぼさつ)』と同等とされ、阿弥陀仏の誓願は念仏者に『摂取不捨(せっしゅふしゃ)』の利益(往生の確約)を与えるとしています。
摂取不捨というのは、阿弥陀仏の本願(慈悲)を信じる信心決定をすれば、阿弥陀仏は決してその人を見捨てることが無いということ、極楽往生の約束が破られることは絶対にないということです。つまり、信心決定した人が予期せぬ不徳を積んだり、悪事を働いたとしても、それによって極楽往生の権利が消滅したりすることはないのです。鎌倉仏教の中で親鸞を始祖とする浄土真宗がもっとも栄えた背景には、この『摂取不捨による極楽行きの絶対の保証』を考えることも出来ます。しかし、親鸞自身には独立した宗教宗派を打ち立てようという野心はなく、浄土真宗が本格的に巨大な権力を併せ持つ宗教教団になるのは、浄土真宗中興の祖と言われる蓮如(1415-1499)の時代からでした。蓮如は、衰退していた浄土真宗の本願寺を再興した人物であり、京都・山科本願寺を建設するだけでなく、大坂の石山に石山御坊(後の石山本願寺)を建立しました。
蓮如の時期に浄土真宗(一向宗)は一気に勢力を拡大して、強大な戦国大名に匹敵するだけの軍事力と経済力を誇るようになり『仏教国(仏国)』さながらの威光を示していました。細川晴元と結託した日蓮宗の焼き討ちを受けた『天文法華の乱(1532)』で山科本願寺は消失しますが、石山本願寺のほうは顕如の時代の1580年まで存続しており、『石山本願寺城』と呼ばれるほどの難攻不落の要塞となっていました。天下布武(天下一統)を目的とする織田信長と信仰拠点を保持したい石山本願寺門主の顕如(1543-1592)との間に、11年の長きにわたる『石山合戦(石山戦争, 1570-1580)』が起こり、最終的に織田信長が石山本願寺を下して門主である顕如を退去させます。浄土真宗の総本山である本願寺は顕如の時代に最盛期となり、最強の戦国大名であった織田信長を大いに苦しませるほどの軍事力と政治力を誇っていましたが、石山合戦に敗れて石山本願寺が炎上してからは、農民や土豪勢力を糾合した一向宗(浄土真宗)の勢力は徐々に衰退していきました。
時代が進みすぎましたが親鸞の悪人正機の話に戻ると、悪人正機説は『善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや』という有名なフレーズで表されますが、その部分をもう少し長く『歎異抄』(Wikipediaの参考ページ)から引用すると以下のようになります。悪人正機の思想そのものは親鸞の独創ではありませんが、親鸞(浄土真宗)が『無知・無能・欲深(貪欲)・下賎・悪徳であっても救済される』という意味で悪人正機を広めたことで、農民層が幅広く念仏信仰に帰依することになりました。悪人正機については親鸞の師の法然も言及しており、大乗仏教の学説としてはかなり古くから言われていたようで、7世紀の朝鮮の学僧である元暁(がんぎょう)も『遊心安楽道』の中で悪人正機の衆生救済について触れています。
善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。
そのゆゑは、自力作善の人(善人)は、ひとへに他力をたのむこころ欠けたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれら(悪人)は、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。   
親鸞6-2
本願の土壌に根付いたもの 
親鸞聖人は、平家および源氏の武士階級が日本全国の支配をかけて動乱と闘争に明け暮れた、有名な源平戦の時代に、藤原氏の支流、日野家に生まれました。言い伝えでは、かなり幼い時に両親を失ったとされています。父の有範は傍系の皇太后に仕える、官位の低い朝廷の役人でした。親鸞の母親については知られておりませんが、源義親の娘、吉光女(きっこうにょ)であるとも伝えられています。
かつて、日本のしきたりでは、人の名前は生涯を通じて色々な段階を過ぎる度毎に変わりました。
親鸞聖人の幼名は松若丸でした。親鸞について書かれた最も初期の伝記では、聖人を神格化するために、聖人を藤原家の氏神である天児屋根尊の子孫として記載されています。日本の神話では、この神は、日本の国を設立するために地上に降りた初代の天皇家の祖先になった、天照大神(女性の太陽神)の孫に随行したとされています。
貴族であった親鸞聖人は朝廷で見込みのある将来性を持っていたかもしれませんが、聖人の宗教心の故に、九歳の時に出家されました。民間伝承によれば、親鸞聖人は、父母を若くして亡くしたことで、生命のはかなさに打たれたと言われています。唯、現代の研究では、聖人だけでなく、父親も兄弟達も比叡山の天台宗に入門したことが知られており、聖人が出家した理由については、謎に包まれています。ただ、親鸞聖人がほんの幼少だった頃に父の有範が尚生存していたことは、明らかです。隠居後、有範入道と呼ばれ、宗教的生活の道に入りました。親鸞聖人と家族が俗世間を捨てたのは、政治的、経済的理由から、或いは、家族や個人的事情によるものでしょうか、確かなことは知ることができません。
親鸞聖人ご自身は、剃髪し得度を受けた時に、名前、範宴を戴いた比叡山の高位の僧(天台座主、貫主)慈円(1155-1225)の弟子として見られていますが、その後、天台仏教を熱心に学び始めました。聖人は源信(浄土教を広めた)の教えを習得し、「天台宗の思想で、師の鋭い洞察を受けなかった事項は無かった等」と言われています。これらの伝承は厳密に評価するのが難しいのですが、親鸞聖人の著述から、聖人が浄土教の伝統についての広い知識、および人間性と宗教的信仰に突き詰めた鋭い洞察力を持っておられた事が分かります。聖人の解釈の鋭さおよび解釈の方法から、仏教の教えと御自分の人間関係に対して深く内省された事が拝察できます。
ある伝承によれば、親鸞聖人が比叡山で高位につかれ、お寺の貫(門)主にまでなられたとさえ述べられていますが、聖人は比叡山で20年間精進された後、その地位と決別して1201年に山を下り、仏教の真実の求道者として法然上人の門に入られたとされています。伝承とは反対に、聖人の妻恵信尼の手紙には、聖人が寺の一僧侶で常行堂の堂僧としてお勤めになられたこと以外、何もそのような高い地位であったことは、書かれてありません。当時、聖人がご自分の未来の救いについて懸念されていたとも書かれています。聖人は、天台宗の教義と仏教の理想を達成する望みを失ってしまったのです。初期の真宗聖典である嘆徳文には、「(止水に喩えた)瞑想に集中しようとしても聖人の意識の波は揺れ動き、心の月(悟りの象徴)を見ようとしても煩悩の雲に邪魔された。」と記されています。[原文:「定水を凝らすといえども識波しきりに動き心月を観ずといえども妄雲なお覆う」(心を静めようとしても煩悩の波が騒ぎ、法界を観念しようとしても、迷いの雲にかきみだされる。)]
御自分の運命に取り組まれ、聖人は京都の六角堂に百日間こもられました。九五日目に夢告の中で、法然上人を尋ねよとの示現を受けられた。恵信尼の書簡では、この示現は、そのお堂を建立されたと伝えられ、七世紀の日本で仏教を支持された事で有名な聖徳太子によるとされています。当時、法然上人は、既に浄土教の奥義とも言うべき「選択本願念仏集(選択集)(せんちゃくしゅう)」を著されていました。この書により、上人は浄土教がれっきとした独立の宗派であると宣言されましたが、それは、専ら阿弥陀仏の名号を称える(即ち、念仏で南無阿弥陀仏を称える)お勤めに基づき、さらに、阿弥陀仏の第十八願に遡るものです。法然上人は、仏法の最後の時代、つまり末法の時代では、悟りに達する、即ちお浄土で往生するには、僧侶でも一般の人でも念仏だけが唯一の道であると教えられました。
更に100日間、親鸞聖人は法然上人の許に教えを乞い、受けた教えに深く感銘され、ご自分の救いについてもたれていた懸念から解放されました。やがて、聖人は法然上人の書を筆写し、肖像を描くことを許されました。
法然上人が精神性の点で苦悩する人々を受け入れ、すべての人々を、人として短所や欠点があっても、慈悲の念を示された姿は、親鸞聖人にとって、ありのままの私たちを受け入れて下さる阿弥陀仏の限りない無条件のお慈悲を形に示されたものとなりました。法然上人の示されたお手本が親鸞聖人の生涯にわたって励ましとなり、聖人が会われた人なら誰とでもこの教えを分かち合ったのです。
歎異抄の中で、親鸞聖人は、阿弥陀仏の教えは、多くの浄土教伝統の偉大な師を通じて法然へ伝わり、次いで親鸞に届いたと宣言しています。たとえ、聖人は法然上人によって偽られていたかもしれないと言う非難も若干ありましたが、 聖人は法然に従うことに何等後悔せず、それは、聖人にとって究極の悟りと生死の輪廻の業から解脱出来ることを約束し得るような道は、他に無かったからだったと述べられています。念仏に関して批評を受けると、聖人の返答は次の通りでした。
「法然上人のおいでになる所は、他の人がなんと言おうと、例え、地獄へ落ちるだろうと言われても、お供をする。遠い過去から、いつも迷いの世界をさまよって来たこの身なのだから、そうなったとしても、もともとのことであったろうとさえ思っている私なのであるから」と。([恵信尼文書 第三通, 原文では、「上人のわたらせ給はんところには、人はいかにも申せ、たとひ悪道にわたらせたまふべしと申すとも、世々生々(しょうじょう)にも迷ひければこそありけめとまで思ひまいらする身なればと、やうやうに人の申し候ひしときも仰せ候ひしなり。」教行信証のなかで、聖人は、次の様に述べられています。「もっぱら仏陀の慈悲の深さに気を取られているので、私は他の人からの愚弄を心に留めません。」   
これは重要な声明で、聖人の献身と、他の宗派とはっきり線を引き、迫害を受けることさえ辞さないとする程の意欲とを明確に表しています。世間に同調する主義と世間に受け入れて貰いたい気風の私達の時代に対して、親鸞聖人は、精神的な勇気および強さ、すなわち単に皆の後について行こうとする誘惑に打ち勝つべしというお手本を示されています。
自身が一体救われるかと深く失望されたことと、法然上人に会われたことで解放感を味われたことで、聖人の宗教的感受性が強くなられました。自身で深く阿弥陀様の本願に目覚められ、その結果、ご自身が誰かと言う観念が強められ、思想に生気を与えられたのです。聖人は、『弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ』と述懐されています。(歎異抄、後序)
現代語訳 / 阿弥陀さまが五劫というたいへん長い間一生懸命の思案をして考え出された本願をよくよく考えてみれば、ただ親鸞一人のためであった、思えば、私はあれこれの多くの業を持っている罪深い身でありますが、その罪深い私をたすけようとお思いになった阿弥陀さまの本願の素晴らしさ、もったいなさよ。
聖人が浄土教を根本から解釈し直されたのは、御自分の精神的解放と宗教の実体を強く感じられたからであるかも知れません。
その後、聖人は、唯法然上人の弟子であると主張されました。後に法然上人の正当な承継者であると名乗る浄土教宗派から認められませんでしたが、歎異抄第二章で、聖人のみ教えは、釈迦牟尼、善導、法然を通じて表されてきた本願に基づくものであることを示されています。聖人は「法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。」と結ばれています。親鸞聖人は、ご自分が法然上人の本願に関する御教えを本当に理解していると、しっかりと確信しておりました。この確信があったからこそ、弟子達が聖人の信仰に就いて問い質したときに毅然とした態度がとれたとのです。
聖人は、新しい名、綽空を戴き、喜ばれましたが、後に再び法然上人により改名され、善信となられた。宗教指導者は、弟子達の精神性の位づけを示すのにそのような名前を与えたのです。聖人は、流罪に処せられ、師法然から離別後に、親鸞と名乗られましたが、これは、法然上人の御教に対するご自分の解釈が何に由来しているかを示す為でした。これにより、親鸞聖人は、御教えについて師法然よりさらに深く探求され、天親菩薩と曇鸞大師をご自分の宗教上の師と仰がれたことを示し、二人の師の名前から一字ずつ取られ、親鸞とされたことが分かります。
法然上人に帰依されて以来六年目に、聖人は、辺地越後に流されました。比叡山及び奈良の興福寺の教団当局は、法然上人が奉ずる仏教の教えが国を乱すもので、邪宗であり腐敗したと決め付け、亦、多くの法然上人の弟子達がふしだらな行動をしたとして絶えず朝廷に訴えていました。法然上人の弟子達のなかには、伝統的な神々を軽んじ、神道の氏集団宗教に基づいて、仏教も参加するようになった人々の社会連帯感を覆した者もありました。親鸞聖人がその著書で神道に敬意を払いながらも否認し、仏教の迷信的な信念や慣習も否認されているのは、留意すべきです。
法然上人及び親鸞聖人のような高弟達の迫害のきっかけになった事件は、天皇が参詣(熊野詣)で留守の間に天皇の側室(女御)二人が法然教団の二人の僧との会合を持ったことであった。この二人の僧は打ち首になり、親鸞を含めて法然の高弟等は都から配流に処せられました。法然上人は四国の土佐に、親鸞聖人は越後の国府 (現在の新潟市地域) に流されました。僧侶等は還俗させられ、聖人は藤井善信という俗名を受けましたが、その名前を認めず、禿(とく)と言う姓を名乗り、(「はげ」を意味し、僧侶と非僧侶の中間的な髪で無戒の僧に対する蔑称)(聖人は、その上に愚をつけ、「愚禿」と称され)僧侶でも俗人でもない、非僧非俗であると宣言されました。
流罪先の過酷な環境で、流人はそこで死亡するものとされてきました。でも、政冶の中心からは離れていたので、そこの住民達から流人等は援助を受けることが多かったのです。いずれにしても、聖人は、恵信尼と結婚し、六人の子供をもうけました。恵信尼は、娘の覚信尼に宛てた書状を通じて最もよく知られています。これらの手紙で恵信尼は歴史上の出来事について語っており、聖人が比叡山に居られたこと、聖人の宗教的悩み、それから結局法然上人の弟子になられたことの裏付けになっています。恵信尼自身は献身的な伴侶であり、親鸞聖人を慈悲の菩薩である観世音菩薩の化身と思われていたようです。また、かなりの資産と教養を備えられた婦人で、学問もあり、使用人がいた土地を所有しておりました。
親鸞聖人の結婚に関しては、十七世紀ごろから聖人の伝記の中に真宗派内に広まっていた伝えの所為で色々な説があります。法然上人を信奉する関白九条兼実(かねざね)は、上人にお弟子を結婚させて、仏教徒の禁欲の戒律を破ることで、阿弥陀様の無条件な慈悲心を実際に示して下さいと懇願したと言われています。法然上人に選ばれた親鸞聖人は、師の命に従い兼実の娘、玉日姫を娶られたと伝えられています。姫は息子、範意をもうけられましたが、流罪になった親鸞聖人に随行しなかったとされています。さらに聖人の書簡に信者等に「いや女」の息子である、即生房を援助してくれるようにと依頼されています。この中で強く要請されていますので、この方を聖人のもう一人の息子かもしれないと考える学者もいます。
これらの伝承や学説の基になったものは、六角堂の中で聖人が瞑想された時に得られたと言われている親鸞聖人のビジョンです。最も初期の伝記でよれば、この夢のお告げを得たのは1203年で、救世観音が現われ、戒律を犯して、仏法を伝道する聖人の伴侶として女性の姿を取ると親鸞聖人に約束したとされています。特定の年代が引用されていますが、元の文書(親鸞聖人が書かれたこの夢のお告げについての記述の写し)は、日付がなく、聖人のご結婚について人々が推測するきっかけになっています。
親鸞聖人の結婚は、この夢告に関する伝記の見地あるいは恵信尼との結婚に関する話を採るにしても、聖人の行動理念に基づいたものでした。当時、妻帯したり、同棲したりする僧侶がいましたが、彼らの行動は規律を破るものでした。親鸞聖人は、阿弥陀仏陀の本願に対する完璧な信頼を示す事として結婚の教義上の根拠を与え、末法の最後の時代に戒律の理想が得がたく、したがって、不適当であったと言う事実を教えておられます。
越後に流されていた間、仏法を広げようとする聖人の努力については、記録がほとんどありません。一人だけ聖人の教えに帰依した人が記録に残っています。聖人の流罪がとかれた時、家族と共に、関東に向かわれ、鹿島(今の茨城県)地方の稲田の町に定住されました。そこで、聖人は、僧侶でも俗人でもないと言う生活様式を採られ、農民と一緒の普通の生活を送る傍ら、み教えを広めつつ、約20年を過ごされました。聖人は僧侶の地位が剥奪されていましたので、僧侶の特権を持っていませんでした。しかし、使命を持った人であったので、聖人は単に普通の俗人ではありませんでした。
以前関東に行かれた際に、聖人は、仏法の真実を切望する大衆に出会われました。聖人にとって、流罪が、政府の厳重な監視に影響されない地方でみ教えを共に戴くよい機会であると理解されていました。疫病や飢饉、干ばつなどの脅威にさらされている地方で生き伸びている人々が、命のはかなさをいやと言う程体験していたのです。従って、人々は、阿弥陀仏の本願の慈悲と希望の教えを率直に受け入れました。聖人は、あらゆる階級の人々、猟師、農民、商人や武士さえもひきつけました。
信心に基づく新しい集団(僧伽、さんが)の基礎を築き上げた聖人は、60歳の時、理由は不明ですが、京都に戻り、信者との文通や訪問を受けたりして静かに余生を送られた。手紙をやりとりすることで、聖人は、み教えについての多くの疑問や発展途上のさんがで起こる論争に対処されました。あらゆる困難の中で最も大きなな問題は、信者間の論争の解決に聖人の名代として親鸞聖人が派遣された長男の善鸞を勘当することでした。善鸞は、父親から特別な教えを受けと称し、父の息子として権威を主張しようとしたのです。聖人は、其れまでに聞かれた言い分および非難を整理された結果、信者の信頼および尊敬を維持するために、息子と縁を切らなければならないという結論に達されたのです。 
一見引退とも見られた京都居住の間に、聖人は、ご自分の思想の基礎と内容を表す多数の著述をされました。聖人の代表的著作は、顕(けん)浄土(じょうど)真実(しんじつ)教行證(きょうぎょうしょう)文類(もんるい)、略して教行信証です(以下、本典)。この書は、インド、中国、朝鮮および日本で信仰の伝統を育成してきた多彩な師の教えを引用され、親鸞聖人のみ教えの基本となる教義を概説したものです。聖人は、より広い範囲から種々の教典を利用されましたが、ご自分の思想形成の根源として、これらの師のうちから七高僧を選ばれました。即ち、印度の竜樹(りゅうじゅ)大士(西暦150-250)と天親(てんじん)菩薩(ぼさつ)(4,5世紀)、中国の曇鸞(どんらん)大師(476-542)と道綽(どうしゃく)禅師(562-645)および善導(ぜんどう)大師(613-681)、並びに日本の源信和尚(げんしんかしょう)(942-1017)と法然(ほうねん)上人(1133-1212)です。
この主要な著作は、実際には完成することはなく、絶えず手を入れておられた状態でありましたが、このほか親鸞聖人は、注釈の書物および師のみ教えを歌える形式にした、詩である和讃(和語、日本語による歌)を表されました。聖人の最も学術的著作である本典は、漢文で書かれていますが、他の著作および手紙は、教育のない者でも解るように日常使われている言葉で書かれました。これらの書は寄り合いなどでも読めましたが、教行信証は、指導者らが学べるものであったと言えるでしょう。これを使いやすくする為に、現代語訳もあります。
親鸞聖人は、新しい宗派や宗教を始めたりすることを望んだり、意図されなかったかもしれませんが、師のみ教えを正式に文書に残され、これらの著書は、成長の途中にあった宗教的伝統の礎になりました。聖人が(教団のような)組織を作る意図が無かったことは、ご自分の後継者を指定せず、どんなお勤めを実行すべきかに就いて詳しく示されなかったという事実から明らかです。唯、信心を持つ人は、阿弥陀様に抱かれ、必ず救われることに感謝する以外の動機を持たないで、念仏を称えなさいと言われただけです。
親鸞聖人は、九十歳のお年で、1262年の11月28日、京都において、舎弟尋有の宅で安らかに遷化(逝去)されました。息女覚信尼がお傍で看取られ、息男の益方入道と数人の信者達の見舞いを受けました。
親鸞聖人がどのような方であられたかについては、数多くの言い伝えが残っています。しかし、聖人が仏教の深い理解と悟りへの路を求められた最初の時期から、どのように歩まれたか、その手がかりをつかむのには、私達は、聖人がご自身について語られている文章から推察するのが一番良いと思います。
親鸞聖人は、当時の修行僧等とは違って、ご自身の精神性の不安の起こる根源に遡られ、そこから人間性と宗教に対して師自身が現実的に得られた理解に基づいて、仏のみ教えを解釈されました。聖人は、仏教が目指すものは、私達が我欲に振り回される衝動や執着心を克服して、無我に達することだと悟られました。しかし、これらの衝動や執着心は、単に宗教の実践と自己啓発による努力だけでは、どんなに真心を込め、心を捧げた、苦行であっても克服出来ませんでした。聖人のなされた深い洞察から、宗教自身には、実際には、私達が他の人達から自分が優れているとか区別の意識を感じて、反って自分達のわがままな自我を唆し、育成してしまう危険性があることを見抜かれました。自己反省を通じて、どれほど自己が敬虔であっても、所詮は煩悩に悩まされるご自分であるので、唯一の悟りに到達する希望は、阿弥陀様の本願にあると悟られたのです。
親鸞聖人を理解する鍵は、善導大師が始めて述べられた二種類ある深い信心の教えです。宗教的意識には、二つの次元があると見るのがこの教えです。一方では、私たちは、深い精神的なレベルでの不浄のために自分の努力で悟りを得ることは不可能であると観念します。他方、私たちの不浄と不完全さをより深く意識すればする程、私たちは、阿弥陀仏−その光は私たちの暗闇にいる心を照らします−のお慈悲に素直になれるのです。善導大師は宗教的意識のこの二つの相反する点について明言されましたが、親鸞聖人は、ご自分の体でこれらの教えを捉えられました。余りにも聖人の体験が強力でしたので、師は、仏教での宗教生活について新しい理解に到達され、今まで観念的であったみ教えに具体的な中身を与えられたのです。  
聖人には、比叡山での修行に行き詰まりを感じられた体験があり、またそこでご自分に課された義務を果そうと二十年間真摯な苦闘をされましたが、その御苦闘のためにみ教えの解釈に、深みと創意が加わりました。聖人の生活は、ご自身の悪(煩悩)に対する深い自己反省と仏の条件をつけない、一人として見捨てる事のない慈悲に抱かれることに気付くことの両方をあわせたものでした。親鸞聖人は、決してご自分を皆のお手本にしなさいと胸を張って言われるような方ではありませんでしたが、私達が精神性の面で成長し理解する際の案内役になって下さいます。
聖人の素晴らしい点は、ご自分のみ教えがどこまでも自身の精神的な体験をそのまま映し出されていることです。単に定説を慣例に従って言い換えだけのものではありませんでした。親鸞聖人は師のお考えを確立するに当たって広範囲の資料を参考にされましたが、このような各種の文献を私達が読んだだけでは、聖人の到達された結論に行きつくことはできません。ご自身の得られた体験があるので、これらの資料が更に意味深いものになったのです。
親鸞聖人の持たれた二つの相反する形の体験に就いて、ご自身のお言葉を通じて幾つかの例を挙げます。 聖人は、ご自身が不浄な心を持つ者であると、あからさまに告白されています。
浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし
浄土真宗に帰入するけれど、外面は真実らしく見せて、内心はうそいつわりのわが身であって、自分には真実の心はなく、清浄の心もさらにない。
外儀のすがたはひとごとに 賢善精進現ぜしむ 貪瞋邪偽おほきゆゑ 奸詐ももはし身にみてり
誰しも外面の姿は愚悪怠惰を隠して、賢善らしく見せてはいるが、内心には貪欲瞋恚とそれにもとづく邪偽が多く、人をたぶらかすような心が数多く身に満ちている。
親鸞聖人はご自分の邪悪の心について単に一般論からさらに深く追求され、つぎのように慨嘆されました。
是非しらず邪正もわかぬ このみなり 小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむなり
物事の是非も知らず邪正も解らない愚かなわが身である。小さい慈悲さえもないけれども、名聞利養のために人の師となることを好んでいる。
更に、
まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべし
しみじみと心から思い知らされる。なんと悲しいことであろうか。この愚禿釈の親鸞は はてしもない愛欲の海に沈み、名声と利得の高山に踏み迷いながら、浄土にうまれる人 のなかに数えられることを喜ぼうとせず、仏のさとりにちかづくことをうれしくともお もわないことを、本当に、恥じなくてはならない。心をいためなくてはならない。
親鸞聖人は、自身の人間としての能力と洞察力に限りがあることを認識された方でしたが、念仏が真実であることには、確信されていました。
善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします。」(歎異抄・後序)
私は善悪の二つについては全く知りません、というのは、私が仏さまのような明晰な判断力を持ち、善悪をはっきり認識できるならば、善と悪について知っていることになりましょうが、実は私は煩悩をいっぱいもって持っている凡夫で、私の住む世界は不安に満ちた無常の世界。そういう私が、どうして善悪について確かな認識を持つことができましょうか。およそこの世界で人間がすることは、すべて空しいこと、ばかばかしいこと、真実のことは全くありません。ただ念仏のみが真実である。
ここで親鸞聖人ご自身が体験された信心について注目しなければ、聖人の全体像を示したことにならないと思います。聖人はご自分の能力や真実を見抜く力に就いて割り切っておられましたが、阿弥陀様のお慈悲を自身で体験されたことやご自身の生活にとって阿弥陀仏がどのような意味を持つかについては非常に明確でした。ご自分の体験に就いて親鸞聖人は、次のように言われています。
愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行(ぞうぎょう)を棄てて本願に帰す。(教行信証化身土巻 百十八)((現代語訳「愚禿釈の親鸞は建仁元年の歳、(千二百一年)「それまでの自力の雑行を棄てて本願に帰いました。」
そして法然上人の名だたる弟子の一人として、聖人は法然上人の著「撰択集(せんちゃくしゅう)」を写し、師の肖像を描くことを許されました。その際の喜びを次のように残されています。
慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来の矜哀を知りて、まことに師教の恩厚を仰ぐ。慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。(教行信証化身土巻 百十八)
なんと喜ばしいことであろう。いまわたしは心を広大な本願の大地にうちたて、思いを不思議な真実の海にまかせている。深く如来の慈悲の広大を知り、師の教えのご恩に報いたい思いはますます重くなるのを覚える。
親鸞聖人は、先達の高僧等が書かれた書を学ばれ、み教えの深さに気付かれた時に、絶えず数々の感想を述べられています。この御感想が聖人の正信偈(しょうしんげ)(信心の歌)の基になりましたが、正信偈は、浄土真宗信心の概要をまとめたもので、多数の真宗信者が毎日称えています。師が本願を悟られ、阿弥陀仏のお慈悲にあって喜ばれたことが、聖人の勇気の源になりました。ご自身が不浄で、知識も不足していることは、はっきり解っておられましたが、阿弥陀様のお慈悲を信じて,師のみ教えに関しては,毅然とされ明解でした。聖人は、「親鸞におきては」とか「親鸞は」と前置きをされてから、御意見を述べられていますが、これは、「親鸞としては」とか「私の考えでは」と言う様に解釈できると思います。聖人は、今日の言葉で言えば、「(大胆に行動され)ずけずけ言う」ことを躊躇されませんでした。これらのご意見を拝察しても、必ずしも総ての人々が聖人に同意することはない事をご存知であったことが解ります。それでも、師は決してもったいぶった、独り善がりになることはなかったのです。自己中心にならず、しっかりとした自覚を持っておられました。
親鸞聖人は、聖人の教えが真実であることを確信されておりましたが、他の人が皆、師に従えとは要求致しませんでした。又、聖人と意見が違ってもそのような人達を非難するようなことはありませんでした。従って、師の教えについて問われると、聖人は、これは私の信ずる事であって、何を信ずるかは−「面々の御はからひなり」−あなた方めいめいが自分で決める事ですと答えられました。
親鸞聖人のもとを去った弟子との論争の時、聖人は「親鸞は弟子一人ももたず候ふ。」と宣言されました。師に忠実な弟子達に、聖人がかっての弟子に与えた本尊・経文を取り返えす事は出来ないと言われ、その訳は、親鸞聖人の信心もその弟子の信心も同じく阿弥陀仏から戴いているからであって、聖人の持ち物として取り戻す事はできないと説明されました。(歎異抄第六章・口伝鈔第六章)
親鸞聖人が宗教上の信仰と人間関係についてどのように取り組んで行かれたかは、私達が真宗の信仰とそれに基ずく生き方を理解する上から大変重要です。聖人にとっては、人が頭では、お浄土に参らせて戴くことを信じていても、死後の世界がどうであるかについて、自分が持つ曖昧な気持ちを表しても構わなかったのです。聖人が正直に、隠さず、御自分をさらけだされたので、他の人々は皆、自由になれたのです。人を教える身であって、果たして何人が自分は、名声と利益を求める我欲のために教えているのですと認めるでしょうか?聖人には、権威主義・教条主義や支配・優越感を持たれる傾向は全くありませんでした。聖人は、弟子達を平等な仲間として遇され、お話しされるお言葉にも表れていました。聖人にとって、弟子達は、仏の道を共に歩む御同朋・御同行(おんどうぼう;おんどうぎょう)であったし、私達も同様です。
親鸞聖人のご人格が最も明らかに表れているのは、歎異抄第九章で、師唯円房と出逢いです。ある時、唯円房が親鸞聖人に向かって、私は、念仏しても、信心を持つ者なら当然抱く筈の、早く浄土へ行きたいと言う喜びや望みを感じませんと訴えました。親鸞聖人のお答えは見事でした。聖人は、直ちに、私、親鸞も以前、同じ問題と疑いを抱えていたと言われ、唯円房に安心しなさいと答えられました。次いで、阿弥陀様は私たちがどういう人間であるかをご存知で、私たちのような者の為だけに仏の本願を建てられたのですと説明されました。(歎異抄第九章)
法然上人の伝記の中にも同じ様な場面があります。弟子の一人が法然上人のもとに来て本願についても、お浄土に参りたいと言う望みについても疑いを持ちませんが、「とくまいりたきこゝろの、あさゆうはしみじみともおぼへずと仰候」(「朝な夕なに急いでそこに参りたいとも思いませんが。」)と述べたのに対して、法然上人は次の様に答えられたと伝えられています。「まことによからぬ御ことにて候。浄土の法門をきけども、きかざるごとくなるは、このたび三悪道よりいでゝ、罪いまだつきざるもの也と、経にもとかれて候。又此世をいとふ御心のうすくわたらせ給にて候、. . . .」 (「それは、まことに良いことではありません。大経にも浄土の教えを聞いても、聞いていないのと同然になる者は、まだこの三悪(地獄・餓鬼・畜生道)に満ちた世の中から抜け出て、自分の罪から逃れ得ていない人であると説かれています。 また、この世をそんなに嫌っておられるわけでもないでしょう。」)(法然上人行状絵図 第二十三 御法語 巻三 一六二ページ)
私たちはこの両方の出来事を比べてみますと、浄土真宗の伝統外の人々を引き付けた親鸞聖人のお人柄の高さと、人間関係が判ります。聖人は、他人の問題をご自分のものとして親身になって見ることができたのです。決して人の上に立って、人々の誤りを指摘されるような方ではなっかったのです。聖人は、誰も見下したりせず、誰にもご自分の持つ表準に達するようにと要求されることはありませんでした。聖人は、ご自分の弱点や限界をためらいなく認められましたが、同時に師が自ら体験されたことについては、自信を示されました。
親鸞聖人にとっては、本願はすべてのものとの比較や区別を許さないものでした。その点、次のように、述べられています。
弘誓一乗海は、無礙無邊、最勝深妙、不可説不可稱不可思議の至徳を成就したまへり。
本願の誓い−すべての者を救って捨てない阿弥陀仏の誓いを説く教え−は、なにものにもさまたげられない、限りがなく最も勝れた、深遠な、説くことも言い表すことも思い計ることもできない、無上の徳を成就されました。
金剛石のような信心は、絶対的で他に比べようがありません。親鸞聖人が本願が至上であると理解されていた内容は、教行信証の中のお言葉にありますが、これは、聖人の著作や宗教全般に於いて、信心、つまり、真にお任せすることについて書かれた中で最も大切なものの一つです。
よそ大信海を按ずれば、貴賎緇素をえらばず、男女老少をいはず、造罪の多少をとはず、修行の久近を論ぜず。行にあらず。善にあらず。頓にあらず、漸にあらず。
定にあらず、散にあらず、正觀にあらず、邪觀にあらず、有念にあらず、無念にあらず尋常にあらず、臨終にあらず、多念にあらず、一念にあらず。たゞこれ不可思議、不可称、不可説の信楽なり。たとへば阿伽陀薬のよく一切の毒を滅するがごとし。如来誓願の薬は、智愚の毒を滅するなり。
いったい、海のように広い大信について考えてみると、それには、身分の上下や,出家・在家のへだてなく、男女、老幼、の別なく、犯した罪の多少ともかかわりなく、 修行期間の長短も問題とならない。それは、自分が行う行でもないし、自分が行う善 でもなく、また自力ですみやかにさとる教えでもないし、漸次さとりに近づく教えでもない。心静かな観想によるものでも、普通の心で行なう善でもなく、正しい観想でも、まちがった観想でもなく、姿・形のあるものを 観想するものでも、姿・形のない ものを観想するものでもない。平生のきまった作法によるものでも、臨終の作法に よるものでもなく、数多く念仏するのでも、一遍とかぎったものでもない。それはた だ、思惟を超えた、口にも文字にもあらわせない信楽なのである。たとえば、不死の 薬が良く一切の毒を消すように、如来の薬はよく智者や愚者の自力の毒を消すのである。
私達は特に、最後の語句に注意すべきです。本願は私たちの持っている知恵や無知の害を無くしてしまいます。私たちは当然自分の無知を乗り越えようとしますが、知恵の持つ害に気がつき易くないのです。しかし、これこそ親鸞聖人が際立っておられることを示しています。聖人は、私たち自身がつくろう外見と見せかけを見破られ、私たちが他人に対して優位に立ち、権力を持ち、支配しようとする姿勢を見通されました。聖人は、阿弥陀さまの本願の教えに表された精神性の理想像に照らされ、さらされたときに、このような見せかけの姿勢を他人でなく、主にご自分の中に見られていたのです。  
 
比叡山と道元

 

1212 / 比叡山の麓に良観(良顕)の庵室を訪う、ついで横川般若谷千光房に入る。
1213 / 天台坐主公圓に就いて剃髮し、翌10日、戒壇院に於いて受戒す。
4月9日、14歳の禅師は比叡山の座主公円僧正について剃髪し、出家得度されます。比叡山では天台教学を中心に学ばれましたが、経文にある「本来本法性・天然自性身」という文言に大きな疑問をいだかれます。その解決のために園城寺(三井寺)の公胤僧正を訪ね、そのすすめにより建仁寺へ参じられた道元禅師は、栄西禅師の高弟である明全和尚に師事されます。
1214 /  園城寺長史公胤の指示を受け、栄西に参ず。
道元(禅師)、(比叡山にて)一切経を閲覧したまいしに、やがて一塊の大疑団、その胸宇の間に鬱結しきたれり。大疑団とは則ち顯密の二教において倶に談ずる所の「本来本法性、天然自性身」の那一著なり。もし自己の身心にして、本来に法性を存在し、天然に佛身なりとせば、三世の諸佛は何の故に発心出家して、無上正等正覚を願求したもうかと。即ち之を山門(比叡山)の碩学耆徳に歴参質疑したまいしかども、遂に之が理致の指教を受けたまうことを得ず。時に道元(禅師)は偶々三井寺の公胤僧正の観心に明らかなることを聞き、就いて之に質したまう。(公胤僧正は建仁寺の栄西禅師を訪ねるように進言する。) 栄西禅師に謁し、即ち問いて曰く「本来本法性、天然自性身、なんとしてか三世の諸佛は発心求道するや。」栄西禅師曰く「三世の諸佛は有ることを知らず、狸奴白狐は却って有ることを知る」と。道元(禅師)深く其の教示を服膺したまい、是れより留まりて栄西禅師に常侍し、佛祖嫡傳の正宗に帰入して、また四明(比叡山)に帰りたまわず。
1217 / 京都建仁寺に明全に参ず。
1221 / 明全に師資の許可を受く。
1223 / 明全、廓然、亮照等と共に京都を発し、入宋の途に就く。4月 明州慶元府(浙江省寧波)に著す。
求道の志をさらに強くした道元禅師は明全和尚とともに海をわたり、宋(中国)の地を踏まれます。正師を求め諸山をたずね、ついに天童山にて如浄(にょじょう)禅師とめぐりあわれます。道元禅師は如浄禅師を生涯の師として仰ぎ、坐禅修行に励まれます。そして、ついには悟りの境地を認められ印可証明をうけ、お釈迦さまより脈々とつづく正伝の仏法を受け継がれたのでした。
1227 / 28歳の道元禅師は5年におよぶ修行を終え、日本に帰国されます。後年、中国で体得されたことを『眼横鼻直』『空手還郷』という言葉であらわされ、「ありのままの姿がそのまま仏法であり、日々の修行がそのまま悟りである」とお示しです。 
道元1
道元は1200年、京都で生まれました。彼の父源通親は、朝廷内の実力者でしたが、道元が3歳のときに亡くなった。8歳のとき母も亡り、13歳で出家し、延暦寺で学んだ。しかし、「貴族のための仏教」となっていた天台宗に満足できず、比叡山を下り、建仁寺に入って栄西の弟子の明全(みょうぜん)から臨済宗を学んだ。 
道元2
「仏家に、もとより六知事あり」で始まる道元の「典座教訓」は、禅寺(曹洞宗)運営管理に携る六つの役職の中から、食事・湯茶を管掌する典座(てんぞ)を取り上げ、その心構え、仕事に臨む姿勢といった精神的なものから、米の研ぎ方、仕事の手順、食材の扱い方、食膳の整え方に至る手順を記した手引書である。
因みに他の役職には、総監督の都寺(つうす)、事務長の監寺(かんす)、会計・出納の副寺(ふうす)、雲水の監督・指導の維那(いの)、伽藍の整備や田畑・山林を管理する直歳(しっすい)があり、現在の私たちが使っている知事は禅から由来したものと思われる。
ところで、道元が「典座教訓」を著すきっかけとなったのは、若かりし日の彼に大きな衝撃と影響を与えた二人の老典座であった。
その一人は、貞応2年(1223)道元24歳の5月、明州慶元府の港で待てど暮らせど降りてこない天童山の入山許可を待つ船において、日本商船入港の噂を聞きつけ、端午の節句に供する麺汁のだしに日本の椎茸を使おうと買いにきた阿育王山の典座であった。
阿育王山は南宋五山の一つに数えられる大陸の霊地であるから、道元はご馳走するから一晩ゆっくり語り合わないかと老典座に誘いかけたが、彼は明日の供養の支度があるから今すぐ戻らないと間に合わないと行ってしまう。
そのやりとりを道元は「典座教訓」に次のように記している。
「あなたはずいぶんお年を召しているのになぜ坐禅弁道や修行をしないで、こうした煩わしい典座の仕事に励んでいるのか。それで何か良いことでもあるのですか」と私が典座に聞くと、彼は大笑して「外国の青年よ、君はまだ弁道とは何かを理解せず、文字とは何かを知得していないよ」と言った。
私は彼の言葉に驚きうろたえ「文字とはどういうものですか。弁道とはどういうものですか」と聞くのが精一杯だったが、彼は「もし君がその問うところをあやまっていなければ望み無きにしもあらずだがね」と云い、まだわからないようならそのうち阿育王山でも来るがよいと言って立ち去った。
その二ヶ月後、入山許可が降りて道元がやっと足を踏み入れた天童山景徳寺にあの典座が帰郷の途次にと彼を訪ねてきた。その場面の「典座教訓」の記述は簡潔で、
「文字を学ぶ者は文字の故を知ろうとし、弁道する者は弁道の故を納得しようとするであろうね」と典座は云い、「文字とは何ですか」と聞く道元に「12345」と典座は答え、「弁道とは何ですか」と道元が問えば「徧界不曽蔵」と答えた。
それだけである。ホント、禅問答の見本だ。
因みに「道元典座教訓」藤井宗哲訳・解説によれば「徧界不曽蔵」を「宇宙は広く開けっぴろげ」と解している。
もう一人は、道元が天童山景徳寺で修行していたときに出会った老典座で、彼とのやりとりを「典座教訓」では次のように記している。
ある日私が食事を終えて宿舎の超然斎へ向かおうとしたところ、仏殿の前庭で、用さんという典座が杖を持ち、炎天下に笠もかぶらず体中に汗をかきながら一心不乱に苔(たい:きのこ)を干しているのをみかけた。
背は弓のように曲がり長い眉は鶴のように白い用さんの近くに寄って年齢を尋ねると68歳と答えるので、「そんなに辛そうな仕事をどうして寺男にやらせないのですか」と私が聞くと、「他人は私ではないから」と典座が答えるので、「あなたは真面目なのですね。ですが、こんなに強い陽射しが強いのに、どうしてそんなな仕事をしておられるのか」と聞く私に「陽射しの強い今でなければ、いつこれをするときがあるのかな」と逆に問われ私は言葉もなかった。
二人の老典座は、禅修行で大事なことは座禅を組み、お経を唱える事で、文字とは大蔵経(だいぞうきょう)や公案祖録を読むことと思い込んでいた若い道元に痛烈な一撃を喰らわせたのである。
後に道元は「禅苑清規(ぜんねんしんぎ)」によって典座職は大衆の斎粥を司る禅院六知事のひとつであり、衆僧の食事を管掌する役僧である事や、禅の修行において食事作りを含む日常生活の運営自体が修行であると知るのだが、これは道元が身を置いた叡山だけでなく日本の仏教界にはなかった事であったからその衝撃は大きかった。
宋から帰国後一時的に身を置いた建仁寺での、名ばかり典座が自らの手で食事を仕切らず寺男に任せきりにしていただけでなく、典座が台所に入る事を恥とする風潮に危機感を抱き、在宋中に出会った数々の名典座の教えを思い起こして後世に伝えるだけでなく、自ら禅院を営む上での手引書として著したのが「典座教訓」であった。
道元は正治2年(1200)の1月に、内大臣源(土御門)通親を父に、前摂政関白藤原基房(松殿)の娘・伊子(いし)を母に京の松殿の別邸で生まれた。
当時の貴族社会では生まれた子供は母方の家で育てられるのが一般的であったから、祖父の元房は孫をゆくゆくは有力な後継者とすべく英才教育をほどこし、道元は幼少時から聡明さを発揮して「前漢書」「後漢書」「史記」や唐代の帝王学書「貞観政要」を読んでいたといわれる。
しかし、道元が8歳のときに死別した母の伊子は道元の出家を強く望み遺言にその旨をしたためたとされるが、一体何故彼女は父・基房の考えに強く反対したのか。
それは彼女の人生に照らして極めて納得できる事で、彼女は源平争乱期には入京した木曾義仲と16歳で結婚させられて兄師家の摂政実現の生贄にされ、義仲討死後は後白河院政の頂点で辣腕を振るっていた内大臣・源通親に嫁がされるという二度の政略結婚を強いられたからである。
それでは、伊子にとって道元の父であり夫である源通親とはどのような男であったか。
源通親は村上源氏の嫡男でありながら平氏全盛期には高倉院に仕えて平氏の信頼を獲得し、清盛とのさらなる絆を強めて清盛の弟・教盛の娘と結婚するが、平氏が安徳天皇を擁して都落ちする際には、彼らを見切って比叡山に蓄電していた後白河院のもとに馳せ参じ後白河院に忠誠を誓っている。
その後の源通親は、院の寵妃・丹後の局と組んで愛娘大姫の後鳥羽後宮への入内を望む源頼朝を翻弄しつつ、娘任子を入内させている九条兼家との競合を利用して対後白河同盟にあった頼朝と兼実の間に楔を打ち込む一方で、通親自身は権勢を振るう後鳥羽天皇の乳母・藤原範子を妻にして、範子の連れ子・在子を養女にして後鳥羽天皇に入内させて、兼家、頼朝と共に天皇の外戚競争を展開している。
そして、めでたく在子が第一皇子出産の暁には一方的に九条兼家を政界から追放し、天皇の外戚として内大臣にもかかわらず、摂政関白・藤原基通を押し退けて強力な政治力を発揮する。
この親にしてこの子ありというべきか、通親の子・道具(道元の父という説もある)は古女房の藤原俊成卿の娘(定家の姉妹)を離縁して、土御門天皇の乳母・従三位按察局(あぜちのつぼね)と結婚して定家を悲憤させたと、「定家明月記私抄」(堀田善衛)は述べている。
当時の天皇の乳母は絶大な権限を有しており、加階・昇進を望む貴族は天皇への口利きを期待して、乳母に金品や荘園を寄贈をする事が常態化しており、藤原定家もこの事では随分苦労したようである。
源平内乱期に木曾義仲に嫁がされ、源通親全盛期には彼に嫁がされ、まさに乱世に翻弄されたといえる藤原伊子は、裏切りと権謀渦巻く政治の世界にわが子道元を投げ込みたくはなかったのだ。
3歳で父・源通親と、8歳で母・藤原伊子と死別した道元(幼名:文殊)は9歳で「倶舎論」を読んだと伝えられてているが、出家を志した栄西も8歳で読んだとされる「倶舎論」は、4-5世紀ごろ西インドの僧・世親(せしん)によって著された30巻からなる仏教の基礎的教学であり、このことからも道元の強い出家の決意が読み取れる。
13歳になった道元は母方の叔父で後に天台座主となる良顕を叡山に訪ね出家の相談をする。道元を継嗣と願う藤原基房の意を知る良顕は一度は反対するが、結局は彼の意志に逆らえず横川の僧房に彼を預け、あくる年道元は天台座主・公円の導きによって正式に出家し、この時から仏法房道元と名乗る。
当時は出家して鎮護国家の祈念を理とする叡山のような大寺院の僧になるということは、国家公務員として一種の特権的な身分と生活の保証を手に入れることを意味した。
とりわけ、叡山を始めとする南都北嶺(※1)の僧には公務員としての身分保証だけでなく、朝廷・院・公卿の催す仏事や、大寺院の恒例の法会に招かれたり、教学の知識を試す論議にも参加して実績を重ね、その実績を評価されて朝廷から僧官(僧綱※2)に任叙される。これが僧としての立身出世の過程であった。 
※1 南都北嶺(なんとほくれい):南都の諸寺と比叡山。特に興福寺と延暦寺を指す場合が多い。
※2 僧綱(そうごう):僧尼を取締り諸大寺を管理する僧職。僧正・僧都・律師からなる。
しかし、摂関家と内大臣家との間に生まれた道元のようなサラブレッドには、このような階段を一段一段登る必要はなかった。
何故なら、比叡山延暦寺の長官ともいえる天台座主(てんだいざす)は朝廷によって任命される公的な役職で、院政期以降は皇室や摂関家の出身者の就任が常態化しており、例えば63世天台座主・承仁法親王は後白河院の皇子であったし、道元が出家の相談をした良顕は後に承円と名乗り68世、72世の天台座主を務め、祖父藤原基房の異腹の弟・慈円は62、65、67、71世と4回も天台座主を務めている。
備中吉備津神社の一神官の息子であった栄西と違って、いきなり天台座主・公円の導きで出家したたサラブレッドの道元には、忍耐を要する長い長い修行や雌伏を経ることなく、いずれは天台座主への道は用意されていたわけで、母の藤原伊子が彼の出家を望んだのも、醜い政治の世界でなくても息子が栄光を目指せるとの思いがあったからではないか。
しかし、18歳になった道元はそんな栄光に背を向け叡山を後にする。
道元は建保5年(1217)の夏に18歳で建仁寺の明全に入門し、その後明全と共に入宋するのだが、それ以前にも15歳で一度叡山を降りて三井寺の座主・公胤を訪ねている。
この頃の叡山は、清水寺の帰属を巡って興福寺と激しく争い、興福寺の衆徒が春日大社の神木を奉じて大挙して京に押しかけた混乱の責任を取って、道元の出家の師・公円が天台座主を更迭され、代わりに道元の父・源通親が引き下ろした慈円が後任になるといった騒ぎだけでなく、日吉社の神饌を巡る山門(叡山)と寺門(三井寺)の争いが、東大寺・興福寺・金峯寺をも巻き込む大きな抗争に発展して、僧兵が互いの寺院に焼討ちをかけて武闘を展開するという状況にあった。
だから、道元がそうした叡山に愛想をつかして飛びだしたかといえば、そのような武闘や破壊は彼の生前から、つまり律令制度が崩壊する過程で数世紀に亘って展開されており、鎌倉政権樹立により頂点に達しただけの事で、幼少時からこのような事態を見聞きしていた道元にとっては承知の上で出家であった。
彼にとっての問題は出家の理念にあり、道元が身を投じた当時の叡山では「自身本覚(じしんほんがく)、我身即真如(がしんそくしんにょ)」、自分がそのまま真実であり、自分がそのまま仏であるという思念が広く流布しており、その思念の如く修行という漸進的・段階的な過程を経ないで、自分がそのままで即座に仏になれるのであれば、何故出家して厳しい修行に専念する必要があるのかと、自らの出家の根拠への根源的な問いかけが生まれるたのである。
これに関して道元の伝記「建撕記(けんぜいき)」では、
顕密の二教は共に「本来本法性(ほんらいほんほっしょう)、天然自性身(てんねんじしょうしん)」と語っているが、もしそうであるなら、過去・未来・現在の三世の諸仏は何を根拠にして、ことあらためて発心して菩提を求めたのであろうか、とあり、
人は生まれながらにして法性・性身、仏性を身につけているのであるなら、なぜ世俗のままではいけないのか。殊更出家して厳しい修行をする必要はないではないかと、出家の根拠に疑問が生じたとされている。
さらに、道元の弟子懐弉(えじょう)が深草の興聖寺における道元の説教を記録した「正法眼蔵随聞記」によると、
「この国の大師は土瓦の如くに思えて、正師に会はず善友なき故に、迷ひて邪心をおおこし」と道元は述べ、
師も友も見出せないまま孤立した道元は、僧として生きる場所を求めて叡山を去っていったのであろう。
14歳で道元が身を投じた当時の叡山を支配していたのは「自身本覚(じしんほんがく)、我身即真如(がしんそくしんにょ)」、自分がそのまま真実であり、自分がそのまま仏であるという本覚思想であった。
もし本覚思想が唱える通り衆生に本来仏性が具わっているのであれば、何故出家して厳しい修行に専念する必要があるのかとの強い疑問が15歳の道元を突き動かし、密かに山を降りて訪ねた相手が三井寺の高僧として名をはせた公胤であった。
しかし何ゆえに三井寺の高僧・公胤なのか。
公胤は三井寺に入って天台・密教を修め、村上源氏の出であったことから北条政子の頼みで公暁を弟子にした事もあるが、後鳥羽院の信望を得て長吏(トップ)を勤めて三井寺の興隆を成し遂げた実力者であったが、建久9年(1198)に法然上人が著した「選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)」を痛烈に批判する「浄土決疑抄」を書いたものの、後に法然の法門を聞くに及んで深く帰依して専修念仏の唱道者となり、道元が訪ねた時は公職を退き里房で念仏三昧の生活をおくっていた。
九条兼実の「玉葉」に「顕真遁世久しく、念仏の一門に入るに依って、真言の万行を棄つ」と書かれた顕真も、叡山で顕密を修めて名声を高めたにも拘らず大原に遁世し、文治2年(1186)秋には法然上人を勝林院に招いて諸宗の碩学達と「大原問答」を展開し、それを機に法然に深く帰依して念仏三昧に入るものの、文治6年(1190)には朝廷に推されて天台座主になっている。
このように、当時は天台を修めた高位高僧であっても、同じ人格の中に天台・密教という旧仏教と、専修念仏という新仏教が同居する事は珍しくなかった。
であるからこそ、道元は、かつての三井寺の高僧で今は遁世して念仏三昧に暮らす公胤をひそかに訪ねたのである。
ほとばしる思いで本覚思想への疑問、出家の根拠への問いかけをぶつけた若き道元に対して、公胤はそれに直接答えることはしないで、宋では禅が盛んで、建仁寺には、その宋で禅を修めた栄西がいるよ、と示唆した、と、道元の生い立ちを記した書籍の多くは記しているが、
そうではないでしょ?と私が思うのは、
一度は痛烈に批判した法然の専修念仏に今や深く傾倒して念仏三昧の暮らしをする公胤であれば、道元に宋禅や栄西を提示する前に、自らが帰依する法然の「専修念仏」を提示しないはずはない。その時道元はどう反応したのか。法然の専修念仏よりも栄西の宋禅に向かうに至った道元のプロセスを知りたいものだと私はしきりに思う。
道元の伝記「建撕記」によれば、叡山の本覚思想に大きな疑問を抱いた道元に、三井寺の公胤は問題解決の糸口として入宋すること、そのためには宋の虚庵懐敞から臨済宗黄龍派を嗣法した栄西開祖の建仁寺の門を叩くよう進言したとされている。
ここでは道元が建保3年(1215)に75歳で入寂した栄西から直接指導を受けたか否かは脇に置いて、公胤の進言で入宋求法(にゅうそうぐほう)を志すようになった道元が建仁寺の門を叩いたのは正解と言える。何故なら、鎌倉前期に興った新宗派の禅宗では、仏法は書かれた教えよりも師から弟子への人格的陶冶(とうや ※1)を通じてこそ伝えられるとする「教外別伝(きょうげべつでん)」を原則としており、そのためには釈迦から達磨を経て今に至る法脈を伝える師から直に学ばなければならなかった。
であるからこそ数多の禅僧が命の危険をも顧みず中国渡航を熱望したのであり、その逆に鎌倉建長寺開祖の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)や無学祖元のような中国で高名な禅僧があえて辺境の日本に到来して禅宗をひろめたのである。
また、国家機構の面では、当事の国家は外交感覚が欠如していた事もあって外交機能を担うべき専門組織が存在せず、せいぜい名ばかりの担当組織として冶部省に属する玄蕃寮(げんばりょう※2)が存在しただけであり、そのうえ、中国の科挙のような高級官吏任用制度を持たない日本の律令体制では、官吏を養成する教育機関も存在せず、寺院こそが中世における代表的な教育機関であったし、そもそも僧侶には全文が漢文で構成される経典の読書きが不可欠なことから、中国との外交行為に必須とされる漢文能力も国風文化を重んじて漢文から遠ざかっていた貴族よりも僧侶の方が遥かに抜きん出ていた。
このような背景が、とりわけ禅宗における中国との人的交流を活発にし、その中でも日本禅宗の初祖とされる栄西が開いた建仁寺には、中国渡航経験者を始め、漢文能力や中国語能力に秀でた豊かな人材が集まり、最新の中国情報や中国人とのコミュニケーション・ノウハウが蓄積されてていたから、道元のような入宋を志す者にとっては打ってつけの場所であったといえる。
蛇足になるが、入宋間もない道元が出会った老典座との交流や、明全と道元が天童山で遭遇した出来事、これは、戒律の年次を無視して自国の僧を優遇して日本など外国僧を末席に置いた南宋ののやり方に対して、道元が外国僧に対する不当な扱いは仏教の平等に反すると天童山当局や皇帝の寧宗(ねいそう)に訴え、寧宗の勅宣で外国僧に対する待遇を改善させた成果は、まさに建仁寺で習得した語学力・コミュニケーション力の賜物であったと言える。
※1 陶冶(とうや):人材を薫陶育成する事。
※2 玄蕃寮(げんばりょう):律令制で冶部省に属し、仏寺や僧尼の名籍、外交使節の接待・送迎をつかさどった役所。 
道元3
日本禅宗の成立
一般に栄西が中国より禅を伝えたことをもって日本禅宗の出発点とするが、「元亨釈書」や「延宝伝燈録」などの僧伝や「興禅記」(無象静照著)・「将来目録」(入唐求法者が持ち帰った書物等の目録)などの史料から、鎌倉期以前にも禅を日本に伝えた人物が存在したことが知られる。まず飛鳥朝期に道照(629-700)が入唐し、法相宗や成実宗とともに禅を学び、元興寺に禅院を設けている。奈良期には唐僧の道璿(どうせん)が天平8年(736)に来日し、大和大安寺に禅院を設け、門弟の行表に法を伝えている。北宗禅というものであった。平安期に入ると最澄が入唐して円・密・禅・戒の4宗を伝えているが、彼は入唐する前にすでに行表から北宗禅を学んでいた。唐からは牛頭禅と称されるものを伝えた。空海にも「禅宗秘法記」という著述があったといい、在唐時に禅を学んだものと思われる。比叡山では円仁も入唐のおりに禅を学び禅院を設けており、円珍は代表的な禅籍である「6祖法宝檀経」を将来している。さらに平安期には唐僧の義空が南宗禅(以降、日本に入ってくる禅宗はこの南宗禅に属する)を伝えている。日本側の招きに応じたものであったが、数年にして帰国した。また日本から入唐した瓦屋能光(933年ころ没)は中国曹洞宗の祖である洞山良价の弟子となり、中国で没している。永延元年(987)帰国した三論宗の「然(ちょうねん)は宋朝禅を学び、禅宗の宣揚を朝廷に奏請したが許可されなかった。平安末期に禅を伝えた人物に覚阿がいる。覚阿は入宋し、南宗禅のなかの臨済宗楊岐派の禅を伝えて、安元元年(1175)帰国して比叡山に入った。高倉天皇の問法を受けたが、笛を吹くのみであったという。このように、平安期以前において中国の禅宗と関わりをもった僧侶たちが何人かいたが、法孫を残さなかったために、これまでの禅宗史上ではあまり重んじられなかった。しかし覚阿の伝禅などは、後述する大日房能忍におおいに影響を与えることになったのではないかと考えられる。さて、中国からの伝禅という視点のみでは、鎌倉期以降なにゆえに禅宗が受容されていったかが理解できない。その背景には、中国禅を受容できるだけの基盤が日本のなかに存在したとみなければならないとする新しい視点が提示されている。それは、「往生伝」などの説話文学のなかに登場する禅定を修する僧や行的な僧に見出すことができる。また、奈良期における山林修行僧や民間布教僧のなかに位置した看病禅師や、持戒・看病の能力をもって国家に登用されていった内供奉十禅師の存在、平安期には寺院内に置かれた十禅師から四種三昧の修行をもっぱらにし臨終往生への助勢(葬祭)を行なう禅衆へと変化していった事実にも注目する必要がある。中世における禅僧たちがもっていた葬祭や祈祷の能力は、古代の「禅師」たちがもっていたものであったとするのである。さらに、禅的なものを古代からの山林修行の伝統のなかにも見出すことができるとする説もある。つまり、古代仏教のなかから中世における浄土教の展開や法華宗・律宗などの展開のみをみるのではなく、古代の行的仏教のなかからは禅宗の展開もみなければならないという視点である。これらのことを考えると、入宋して禅を伝えた道元についてみるとき、中国からの伝禅という視点とともに、道元の入宋にいたるまでと帰国後の展開、特に道元のもとに参じた人びととの関連においては、古代仏教からの禅的な伝統や行的仏教の系譜などからの影響について考える視点が必要となってくる。  
 
比叡山と日蓮

 

1242 / 清澄山に帰る。京畿遊学(約12年)、比叡山に遊学する。
1253 / 32歳に至るまでの20余年間、鎌倉・京都・比叡山・園城寺・高野山・天王寺等をまわって修業をつとめ、故郷に帰るが、法華経の信仰を強く主張したため念仏者との間に対立が生じ、鎌倉に逃れる。清澄寺で初めて「南無妙法蓮華経」をとなえ立教開宗した。鎌倉に入り、名声の山中に小庵を結び、辻説法による布教活動を始める。 
日蓮1
日蓮聖人は、1222(貞応元)年2月16日、安房国東条郷(現在の千葉県安房郡天津小湊町)でお生まれになり、「善日麿」(ぜんにちまろ)と命名されました。1233(天福元)年、日蓮聖人12歳のとき、生家近くの清澄寺(せいちょうじ)にのぼり道善房に師事、「薬王丸」(やくおうまる)と改名。16歳のとき正式に出家得度し、「是聖房蓮長」(ぜしょうぼうれんちょう)と号されました。若き日の日蓮聖人は、清澄寺にて本尊の虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となしたまえ」と祈願されて以来、鎌倉・比叡山・高野山などを遊学し、ひたすら勉学に励まれました。諸経・諸宗の教学を学んでゆく中で、「法華経」こそが末法の世のすべての人々を救うことのできる唯一の経典であることを確信されます。
そして、10有余年にわたる遊学を終えて恩師道善房の住する清澄寺に戻った日蓮聖人は、1253(建長5)年4月28日早朝、清澄山の旭森(あさひがもり)山頂に立ち、太平洋の彼方から暁闇をやぶってつきのぼる朝日に向かって高らかにお題目を唱え、ついに立教開宗の宣言をされ伝道の誓願を立てられたのです。このとき日蓮聖人32歳、同時に名を「日蓮」と改められました。  
日蓮2
日蓮の疑問
17歳となった日蓮は清澄山を下り、鎌倉・京・比叡山延暦寺・三井寺・高野山金剛峰寺・四天王寺と、多くの寺をまわって修行を積み、仏法の修行に励んだ。この時代の日蓮が何を考えていたのか、後の彼の行動や著作などから想像するしかないのが、日蓮の問題意識は「なぜ日本は平和な国にならないのか」という点にあったのではないかと思われる。
日蓮にしてみれば、「仏を信じる者は救われ、仏を護持する国は平穏になるはずだ。しかし、現実はそうではない。いったいなぜなのか」という疑問があったのだ。
日蓮は、その理由を「現在行われている、人々が信じている仏教が、あやまった教えであるからではないのか。」と考えた。
世の中に勢力争いや内乱が起こったり、天災に襲われたりするのは、政治的な自然的な理由からなのだが、日蓮はそれを宗教的な理由、つまり「あやまった仏教」に原因があると考えた。「正しい仏教の教え」とは何なのか、それを見つけるために日蓮は各地の寺をめぐって修行に励んだのだろう。
各地の寺をまわって修行を積んだ日蓮は、最後に比叡山へもどり、ここでついに「正しい教え」とは何であるのか確信を得た。
自分の思想を確立した日蓮は、1253年に故郷の清澄山に戻り、伝説によれば、清澄山から昇る朝日に向かって「南無妙法蓮華経」と10回唱えたという(32歳)。
また、父と母をみずからの弟子とし、父に妙日、母に妙蓮という法号を授け、自分は二人の法号から1字ずつもらって、日蓮と改名したという伝説もある。実は日蓮はこのときまでは蓮長(れんちょう)と名のっていた。 
天台宗、真言宗、浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗…平安期、鎌倉期には様々な宗教が開かれたが、その中で日蓮宗だけが始祖の個人名が付いた宗教だ。といっても、日蓮自身がそう呼んだのではなく、弟子達が親しみを込めてこう呼び始めた。それほどズバ抜けて個性が強かったということ。一体どんな人だったのか。
千葉・小湊の漁師の家に生まれる。幼名薬王丸。親鸞と道元が貴族、法然が武士、栄西が神官階級出身ということを考えると、庶民出身というのは異例かも。世代的には法然の約90歳下、親鸞の約50歳下になる。1233年、11歳で清澄(せいちょう)寺に入り15歳で出家(1237年)。始めは鎌倉で学び、続いて比叡山、奈良、高野山、東寺、三井寺などで15年かけて各宗の経文を研究し、「釈迦が世に現れたのは法華経を伝える為、末法の世は法華経でなければ救えない」と悟りを開いた。
1253年、31歳で帰郷。4月28日に清澄山頂で、太平洋の日の出に向かって「南無妙法蓮華経(法華経に帰依します)」の題目を高らかに唱え、これが日蓮宗開宗の瞬間とされる。当時関東では禅宗が鎌倉幕府の保護で繁栄し、浄土宗も法然の開祖から約80年が経ち、弟子達の布教努力のおかげでかなり庶民の間に浸透していた。日蓮は山を降りると法華経第一の立場から、「禅天魔、律国賊、真言亡国、浄土念仏無間地獄」(禅宗信者は天魔、律宗信者は国賊、真言宗徒は亡国の徒で、浄土宗信者は地獄に堕ちるだろう)と苛烈に批判を展開。当然ながら他宗の信者は猛反発。特に、地獄堕ちを告げられた浄土宗(念仏宗)信者の怒りは激烈で、日蓮は故郷から追い出され鎌倉に身を移した。
鎌倉で日蓮がとった行動は、町中に立って人々に直接語りかける“辻説法”。他宗教を邪教と呼ぶ過激さは反感を買い人々から罵倒されたが、「南無妙法蓮華経」の題目と共に説かれる功徳に、耳を傾ける者も出てきた。おりしも1257年(35歳)に鎌倉を大地震が襲い、翌年には疫病が発生、飢饉まで重なって大量に餓死者が出た。日蓮はこうした天変地異を、幕府の為政者が邪宗を信仰するが故の国家単位の仏罰と捉え、1260年(38歳)、「立正安国論」を著して執権北条時頼に献上した。そこには禅宗や浄土宗を禁教にせねば内憂外患(国内に憂い生まれ国外より患い来る事)は避けられず、法華経を信じねば日本は滅ぶと書かれていた。しかし日蓮はまだ無名であり時頼はこれを黙殺。一方、日蓮に敵意を抱く念仏宗徒たちは彼の庵を焼き討ちし、世論に圧された幕府は翌年日蓮を逮捕、取り調べもせず伊豆(伊東)へ流した。※今の伊東は温泉のある景勝地だけど当時は世間から隔離されていた。
配流が許されたのは3年後。1264年(42歳)、これより7年前に父が没しており、墓参と病の母を見舞う為に約10年ぶりに故郷に戻ったが、「日蓮は阿弥陀仏の敵」と怨む念仏宗徒数百人の襲撃を受ける。日蓮を守った弟子と友人は殺され、彼自身も左腕を骨折した(小松原の法難)。
4年後の1268年、蒙古から幕府にフビライへの従順を迫る国書が届く。日蓮は「立正安国論」の懸念が当たったと再び幕府に進言し、他宗の代表的寺院11箇所に公開討論を申込むが、これらは全て黙殺され憤激頂点に達する。他宗への批判は輪をかけて激化し、極刑を覚悟した辻説法にも熱が入る。
3年後の1271年(49歳)、幕府に3度目の進言をしたところ、他宗からの告訴も重なってまた捕らわれ、表向きは「佐渡へ流刑」、実際はその途中で斬首という判決になった(龍口の法難)。いよいよ刑執行という時、対岸の江ノ島に激しく稲妻が走り、頭上で巨大な雷鳴が轟いたことから役人が恐れをなし処刑は中止。間一髪で佐渡への遠流となった。

この時の日蓮宗への弾圧は厳しいもので、弟子、信徒、そして話を少し聴いただけの一般人まで捕らえられ、謀反者として重刑に科せられた。
厳冬の島では飢えと寒さに苦しむが、“釈迦は真実(法華経)を語る者は迫害にあうと言われた。この法難こそ正しき道を行く証だ”と、ますます自説に自信を持ち、著作活動に励んで「開目抄」「観心本尊抄」等の代表作を記した。
「観心本尊抄」では信仰の中核となる三大秘法(本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇)を示し、“現実世界こそが釈迦の住む浄土”であり、人は「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることで“生きながら救われる”とした。
1274年(52歳)、北条家は次の執権を争う内紛状態になり、外からは元軍の襲来が目前に迫り、まさに内憂外患そのものの状況になった。ここにきて幕府の態度は一変し、日蓮の流刑を解いて鎌倉に呼び戻す。幕府は根負けした形で「国家の安泰のみ祈る」との条件付で布教を許した。漁師の子に生まれた貧僧・日蓮が、時の政権に認められたのだ。社会的な不安もあり日蓮宗は門徒を増やし、信者によって妙本寺が創建された。しかし、いくら日蓮が「法華経のみを信ぜよ」と言っても幕府は聞く耳を持たぬので、ほどなく鎌倉を去って山梨の山間へ分け入り、身延山(みのぶさん)に隠棲し「報恩抄」を書くなど、弟子の育成に残りの人生を捧げた。
1282年、病に冒された日蓮は湯治にいく途中で容態が悪化し、後事を弟子の六老僧(日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持)に頼み武蔵池上にて60歳で他界した。遺骨は希望に従い身延山へ納骨された。 
日蓮3
日蓮に対する天台教学の影響
仏性 / 「仏性」という用語は直接的には妙法蓮華経にはみえないが、これは仏性が初めて説かれる中期大乗経典の大般涅槃経を依経とする涅槃宗を中国天台宗が吸収したことによるものと考えられる。
法華経の位置付け / 法華経の位置付けは、中国天台宗の流れを汲む天台宗の宗祖最澄の開いた比叡山延暦寺での修行の影響とされる。
そもそも仏教は、開祖である釈迦の教えをその死後に弟子達が書き顕した膨大な量の経典に基づいており、一般には、それらを全て読破することは勿論、ましてや全ての意味を正確に理解することなどはきわめて困難である。中国では、さまざまな宗派が乱立していく中で、「一体どの仏典が仏教の一番肝心な教えなのか」という論点が仏教者の間で次第に唯一最大の関心事となっていったことは、ある意味、時代の必然であったと言える。
天台大師智(ちぎ)は長年にわたる経典研究の結果、法華経(サンスクリット語名「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」(「正しい法"白き蓮の花"」の意)を、釈迦が70数歳にして到達した最高の教えであると結論付け、とりわけ鳩摩羅什(くまらじゅう)の手が入ったと言われる漢訳「妙法蓮華経」を最もすぐれた翻訳とした。
こうした天台大師智の思想の影響を受けて日蓮は法華経を最高の経典とした、という見方が一般的である。と同時に日蓮の心理的内面に即して言えば、何よりも彼は、法華経に書かれている行者の姿と自身の人生の軌跡が符合したことに最大の根拠を見出して、上行菩薩(本佛釈尊より弘通の委嘱を受けた本化地涌菩薩の上首)としての自覚を得るに至ったのである(上行応生)。 
 
南都六宗1

 

奈良時代、平城京を中心に栄えた仏教の6つの宗派の総称。奈良仏教とも言う。
法相宗(ほっそうしゅう、唯識)
倶舎宗(くしゃしゅう、説一切有部)- 法相宗の付宗(寓宗)
三論宗(さんろんしゅう、中論・十二門論・百論) - 華厳宗や真言宗に影響を与えた
成実宗(じょうじつしゅう、成実論) - 三論宗の付宗(寓宗)
華厳宗(けごんしゅう、華厳経)
律宗(りっしゅう、四分律) - 真言律宗等が生まれた
尚、当時からこう呼ばれていたわけではなく、平安時代以降平安京を中心に栄えた「平安二宗」(天台宗・真言宗)に対する呼び名である。当時はまだ寺院ごとに特定宗派を奉じる寺院は少なかった。現在華厳宗の総本山とされている東大寺において、平安時代には別院(院家)として真言宗の「真言院」が置かれる等、次第に密教の影響を受けていくことになる。
又、当初これらは、法相衆・華厳衆等と、「衆」の字を充てていたが、東大寺の大仏が完成した頃(748年頃)には、現在のように「宗」の字が充てられるようになったといわれる。
民衆の救済活動に重きをおいた平安仏教や鎌倉仏教とは異なり、これらの六宗は学派的要素が強く、仏教の教理の研究を中心に行っていた学僧衆の集まりであったといわれる。つまり、律令体制下の仏教で国家の庇護を受けて仏教の研究を行い、宗教上の実践行為は鎮護国家という理念の下で呪術的な祈祷を行う程度であったといわれる。但し、唐に渡り玄奘から法相宗の教理を学び日本に伝えた道昭は、このような国家体制の仏教活動に飽きたらず、各地へ赴き井戸を掘ったり橋を架ける等をして、民衆に仏教を教下する活動を行ったとされる。尚、同じく民衆への教下活動を行った行基の師匠も道昭であったといわれる。
南都六宗の開祖と中心寺院
法相宗 - 開祖:道昭、寺院:興福寺・薬師寺
倶舎宗 - 開祖:道昭、寺院:東大寺・興福寺
三論宗 - 開祖:恵灌、寺院:東大寺南院
成実宗 - 開祖:道蔵、寺院:元興寺・大安寺
華厳宗 - 開祖:良弁・審祥、寺院:東大寺
律宗 - 開祖:鑑真、寺院:唐招提寺
南都六宗自体は、宗派というより互いに教義を学び合う学派の役割が強く、東大寺を中心に興隆し教学を学び合った。中世に入り、凝然、良遍や叡尊らにより、鎌倉仏教の展開に大きく寄与した。 
 
南都六宗2

 

「南都六宗」とは、奈良時代の六つの宗派、三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・律宗・華厳宗をいう。「南都」とは、後に京都(平安京)を北部といったのに対して、奈良(平城京)を指したものである。
日本にはじめて仏教が伝来したのは六世紀の欽明天皇の時代であるが、聖徳太子の時代に至って本格的に招来された。
聖徳太子は、仏教思想をもととした国家社会の構築を目指し、推古15年(607)、最初の遣隋使として小野妹子を派遣したのをはじめとし、その後も、多くの留学生や留学僧を隋に派遣して、積極的に大陸文化の摂取に努めた。さらに太子自らも四天王寺を建立し、敬田・悲田・施薬・療院の四院を設置して貧民救済事業を興し、飛鳥寺・中宮寺・法隆寺等を建立して仏教思想にもとづく政治を行い、飛鳥時代の繁栄を築いた。 
聖徳太子没後、まもなく三論宗が伝わり、次いで法相宗が伝わった。この両宗に付随して成実宗・倶舎宗が伝えられたが、二宗は三論・法相の両教学を学ぶための補助的な学問宗派にすぎなかった。奈良時代になって華厳宗と律宗が伝えられた。
聖徳太子没後、まもなく三論宗が伝わり、次いで法相宗が伝わった。この両宗に付随して成実宗・倶舎宗が伝えられたが、二宗は三論・法相の両教学を学ぶための補助的な学問宗派にすぎなかった。奈良時代になって華厳宗と律宗が伝えられた。 
これら南都六宗は独自に宗派を形成したものではなく、寺院も原則的には官立であり、国家の庇護のもと、鎮護国家の祈願所としての役割を担うと同時に、仏教教理を研究する場所でもあった。
聖武天皇は、国家の安康と五穀豊穣を祈るため全国に国分寺(金光明四天王護国之寺)・国分尼寺(法華滅罪之寺)を建立し、さらにこれらを統括する総国分寺として東大寺を建立した。また、全国的に律令体制が確立されるに伴い僧尼令等が布かれ、仏教も国の統治機構の中に組み入れられていった
平安時代に入ると伝教大師と南都六宗との間で幾多の論争が起った。延暦21年(802)、高尾山神護寺において、伝教大師は南都六宗七大寺の高僧等に対し、天台の三大部を講じて法華一乗思想を宣揚した。南都六宗は伝教大師の講説に反駁することができず、伝教大師を讃歎する旨の書状を桓武天皇に提出した。以後、南都六宗の教勢は次第に衰えていった。
律宗とは、梵網経の盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、「四分律」「梵網経」「法華経」と道宣の著述を所依とする。戒律を持つことによって悟りを得ようとする宗旨である。
律宗は、中国の唐の時代に道宣(596〜667)が四分律南山宗を創唱したことにはじまり、日本には道宣の孫弟子である鑑真(がんじん)によって伝えられた。
天平勝宝6年(754)、鑑真は聖武天皇の勅請をうけて来朝し、東大寺に戒壇院を設け、聖武天皇をはじめとする多くの人に戒を授けた。日本には戒律を授ける正式な戒壇がなかったが、以後、この戒壇院において公式の授戒が行なわれるようになった。
天平宝字三年(759)、鑑真は朝廷より新田部親王の旧宅を賜り、そこに唐招提寺を建立して止住した。以後、唐招提寺は朝廷から驚く外護され、戒律の根本道場として栄えていった。
また、天平宝字五年(761)には、筑紫(福岡県)観世音寺、下野(栃木県)薬師寺にも戒壇が設けられた。東大寺を含む戒壇は日本三戒壇と称され、以後、僧尼の受戒はすべてこの三箇所で行なわれるようになった。
平安時代になると、伝教大師最澄が天台宗を弘め、法華一乗の教えに基づいた大乗戒を主張して、これまでの戒を小乗の戒律として退けた。そして最澄滅後、比叡山に円頓戒壇が建立され、さらには空海の真言宗が興隆したことも加わって、次第に律宗の勢力は衰えていった。
しかし平安末期には、唐招提寺の実範、鎌倉時代には覚盛や西大寺の叡尊等が出て律宗の復興が計られた。
これら東大寺戒壇院、唐招提寺、西大寺を中心とする奈良の律宗を南京律(南部律)と呼ぶのに対し、鎌倉時代の俊ジョウ(しゅんじょう)が中国宋代の南山宗を学んで、京都に創建した泉涌寺(せんにゅうじ)を北京律(ほっきょうりつ)と呼ぶ。 
 
南都六宗(国家仏教)3

 

日本に仏教が伝来したのは、文献の上では538年説と552年説がありますが、538年説が有力視されています。しかし、仏教は大陸の進んだ文化として朝鮮半島からの渡来人を介して、すでに6世紀前半には日本に伝わっていたのではないかと考えられています。
この頃、仏教の受容を巡る激しい対立が起こりました。受容を主張する蘇我氏と否定的な物部氏が対立しましたが、蘇我氏が勝利して、仏教が最初に芽吹いた飛鳥文化が開花しました。
645年の大化の改新に始まる律令制度のもとで中央集権国家が完成し、大宝律令が制定されて、7世紀後半〜8世紀初頭の藤原京に白鳳文化が生まれました。
奈良の平城京で花開いた天平文化の中で仏教が隆盛しました。
聖武天皇の時代、全国に国分寺、国分尼寺建立の詔が発せられ、仏教は国家の手厚い庇護を受けました。
南都六宗が成立したのは、東大寺大仏殿の建立が始まった747年(天平19)頃から大仏開眼供養の前年751年(勝宝3)の間と考えられますが、各宗を統括する宗務所が置かれ、国家の手厚い保護のもとに国家仏教としての国家の管理を受ける体制が整えられました。
仏教の初めは、鎮護国家を祈る国家仏教として成立しましたが、官立寺院であり、仏教の学術研究をする場所でした。当初の各寺院は、学派として自由に研究する場所であり、独立の宗派を形成していませんでした。諸学の兼学が推奨され、学派の対立はありませんでした。この頃の宗は学門上の区分の学派を意味するもので、平安末期にはじまる宗派とは異なるものでした。
754年、国家の要請により、中国から「鑑真」(律宗と天台宗の大家)を平城京に招請して国立戒壇院(1東大寺戒壇院、2大宰府・観世音寺戒壇院、3下野・薬師寺戒壇院)を設置し、国家公務員の身分を持つ公式な僧侶の受戒制度を整えました。国立戒壇の受戒は「年分度者」と呼称され、南都六宗から選ばれた優秀な人物が推薦を受けましたが、毎年10数名の狭き門でした。官僧以外は僧侶として国家から公認されていない存在でした。彼らは「私度僧」といわれ、山林修行によって霊的な力を身に付ける修行を試みる者でした。私度僧は国家から禁止されながらも淘汰されることはありませんでしたが、僧の大部分はこの私度僧であったと考えられます。
南都六宗は1三論宗、2法相宗、3華厳宗、4倶舎宗、5成実宗、6律宗の順に成立していますが、 南都六宗の概要は次の通りです。 
1 三論宗
中国・唐の吉蔵の弟子、高句麗の僧・慧灌によって、625年(推古33)に南都六宗の中で最初にもたらされた宗です。教学内容は、般若経の「諸法は皆な空なり」に基づくものですが、三論とは、鳩摩羅什の訳出した竜樹(150−250頃)の中論、十二門論と、弟子の提婆(170−270頃)の百論の三つの論をいいます。「破邪顕正」、「真俗二諦」、「八不中道」の三科を理論の中心としますが、人間や事物の一切のものに固定的な実体を考えることを否定する「一切皆空」を説くところから「空宗」ともよばれた中観派の宗です。元興寺・大安寺を本拠地としました。
中論では諸法が因と縁によって生起することを有(存在)と説くのが俗諦、一切を空と説くのが真諦です。 有と空を止揚し非有非空の中道に導くことが破邪顕正です。
八不(不生・不滅・不去・不来・不一・不異・不断・不常の八迷)とは、正しい道理を悟る八重の否定ですが、これによって究極の真理である中道が現れ、破邪が顕れる、という考えです。八不は、『般若心経』の不生不滅、不垢不浄、不増不減の六不とは言葉が異なるものの、表現する内容が同じと考えられるところから、六不=八不の表現と見られています。
2 法相宗
中国唐代に玄奘のもたらした唯識系の経論、特に、『成唯識論』に基づいて玄奘の高弟慈恩大師によって創立された宗派です。日本には、道昭、玄ムによってもたらされました。
法相宗の教理は「阿頼耶識縁起」といわれる唯心論的な理論です。
阿頼耶識は六識(眼・耳・鼻・舌・身・意)、七識の未那識の最深層に位置する八識とされる瑜伽行派の独自概念です。
インドでは如来蔵と同一視する考え方があり、玄奘以前の中国ではこの識が「真識」か「妄識」かを巡る論争がありました。
この説は、自己の心身と世界のすべてが、自己の最深層にある阿頼耶識の中に蓄積された過去の経験の潜在余力(習気、種子)から生ずるとする学説に立つものです。
この深層心理学ともいうべき精緻な心理分析の理論を仏教界に提供したことは法相宗の教学の大きな貢献でした。
しかし、悟り(成仏)の可能性について、各人の先天的な資質の差別を(五性格別、三乗説)を認めたことが中国仏教界に大きな衝撃を与え、すべての人に成仏の可能性を認める一乗説(天台宗)との間で激しい論争(三一権実論争)を引き起こしました。
法相宗は中国仏教界の主流を占めることなく衰退しましたが、法相教学の概念の多くが華厳宗の教学に組み込まれました。
法相宗は、日本では南都六宗の中で最も有力な宗派として栄えましたが、中国の三一権実論争を引き継ぐ形で、徳一と天台宗の最澄の間で同じ論争が引き起こされました。
法相宗の本拠地は、元興寺、興福寺、薬師寺です。
鎌倉以降、法相宗の勢力は衰退に向かいましたが、教学は仏教の基礎学として各宗の学僧によって学ばれ今日に至っています。
尚、法隆寺は1980年に独立して「聖徳宗」に、清水寺は1965年に独立して「北法相宗」という新たな宗派を形成しました。
3 「華厳宗
1300年以上の歴史を持ち、中国・唐の初期に華厳経を最高・究極の経典として、その思想を研究した学派です。
地理的には東アジア全域に広まり、日本では東大寺系の教学を確立しました。禅者や念仏者に影響を与え、明恵の密教思想に影響を与えるなど宗派を超えた影響力があります。
華厳教学は時代的にも、地域的にもかなり大きな変容があり一概にまとめることは難しいもいのがあります。
華厳経は、もっとも古い『十地経』が紀元前1世紀頃から2世紀ごろに編集され、華厳経の全体が編集されたのは四世紀頃と推定されています。
華厳とは、美しく飾るという意味で、色とりどりの華によって厳(飾)られたものを意味します。すなわち蓮華蔵の世界ということになります。華厳経は真実教、一乗教、円教と評価されています。
仏教の考え方の基礎を形成した空の思想では、あらゆるものに固定的な実体は無く、縁起という関係性よって現象する、と考えました。
華厳の唯識思想は、空の思想を補完して、その現象は人が認識しているだけであり心の外に事物的存在は無いと考えます。
外界の形ある存在は心が作り出している幻想に過ぎず、あるのはただ(唯)意識だけであり、意識が外界の存在を作り出していると考えることが唯識の思考の特徴です。
心の作用は仮に存在するものとしてその心の在り方を瑜伽行(ヨーガの実践)でコントロールし、悟りを得ようとしました。これを唯識思想といいます。
唯識系の論書を理解するためには、この瑜伽行という深い瞑想の中で真実を見つめる行法の体験が必要です。
華厳経には現実の実践(菩薩行)を強調する特徴があります。真空から妙有への展開が見られます。
華厳経の根本的な特徴は、「事事無碍」(事物・事象が互いに何の障礙もなく交流・融合する「一即一切、一切即一」)の縁起を明らかにする点に見出されます。
華厳経の『入法界品』には、善財童子(求道の菩薩)が文殊菩薩の指導に発心して観音・弥勒菩薩など53人の善知識を歴訪して教えを受け、最後に普賢菩薩から大願の法門を聴聞して普賢の行位を具足し、正覚・自在力・転法輪・方便力などを得て法界に証入するという菩薩の修道の階梯が示されています。東海道五十三次はこれに由来するものです。
『十地品』(十地経)には、菩薩が修習の深まりによって到達する十地の階梯が説かれています。これは実践の体系を組織化した論書でもあります。
日本には、740年、良弁が新羅に留学して帰国した審祥に金鐘寺(東大寺三月堂)で華厳経60巻を講義させたことを最初とします。審祥が学んだ華厳は元暁と法蔵の影響が強い華厳学でした。これが東大寺の学派となりました。
元興寺や薬師寺など法相宗の大寺院でも講義され、西大寺(創建時は西の総国分寺、後、真言律宗の本山)でも兼学されるなど、南都(奈良)で重要な位置を占めました。
華厳宗は東大寺を拠点として「華厳思想」を専門に研究する学派です。
4 倶舎宗
インドの世親(ヴァスバンドウ)が著した教理を中心とする綱要書『阿毘達磨倶舎論』(倶舎論)を研究する宗派です。
この論は上座部仏教の最大の部派「説一切有部」の論書として知られる『大毘婆沙論』の教理を批判して著した論書です。有部に対抗する軽量部の立場から著したもので、大乗仏教に大きな影響を与えました。
ちなみに、大乗仏教も「空の理論」を展開して有部の『大毘婆沙論』を批判して対抗しました。
倶舎論は、唯識三年、倶舎八年といわれ、頭がクシャクシャになる難解な論として定評がありました。専門の南都の学僧でさえ研究に長期間かかったといわれています。
倶舎論は、法相宗の道昭が請来し東大寺などで仏教の教理の基礎学として研究されました。倶舎宗は、独立の宗派ではなく、法相宗の付属の宗として毎年1名の僧の得度が公認されていました。現在もその重要性は仏教研究者から認識されています。
5 成実宗
成実論の研究をする宗派です。成実論は訶梨跋摩(ハリヴァルマン)の著した、主として(上座部)部派仏教の「軽量部」の立場から「説一切有部」の思想を批判し、大乗仏教の教理を取り入れています。鳩摩羅什の漢訳(411-412)が現存しますが、書名の「真実を完成する論」の真実が四諦の教えを指すもので小乗論書との批判を受け衰退します。
日本には、三論宗とともに中国から伝来し、三論宗の寓宗として研究されるにとどまりました。
6 律宗
中国の道宣の説に基づき、『四分律』を重視し、菩薩戒として三聚浄戒の受持を主張する。教理的には唯識の影響を強く受けています。日本には、朝廷の招請により、道宣の孫弟子「鑑真」によって伝来されました。
754年、中国・唐より「鑑真」が招かれて東大寺に戒壇院が置かれ、761年には下野に薬師寺が、筑紫に観世音寺が置かれて僧の授戒制度が確立しました。
正式な授戒を許可された僧の身分は、今日でいう国家公務員の資格を与えられ、これに相応しい俸禄が朝廷より支給され厚遇されました。しかしこの人数は少なく(年10人程度)、大部分は「私度僧」となって山林に交わって修行をしましたが、山岳宗教の修験道との混交が一般的でした。
律宗は、平安初期頃まで栄え、その後次第に衰え、平安中期頃には衰退しました。授戒の儀式は興福寺や東大寺の堂衆という僧に継承されています。
本拠地は唐招提寺です。他に、真言律宗の西大寺があります。 
南都六宗は仏教研究の道場です。今日の寺院と異なり「檀家なし」「葬式はしない」という共通性があります。
南都六宗は学問の道場としての色彩が強く、一人の僧が2宗以上の兼学をし、複数の宗派を兼ねるのはごく普通のことでした。宗派間の垣根は低く、向学心の高い僧はどの宗派の学問でも修めることができました。当然、宗派間で学問上の争いを起こす必然性がありませんでした。
しかし、8世紀頃には、権勢を競い合う風潮があらわれ、学僧の囲い込みが始まり、次第に学僧の奪い合いや確執が表面化するようになりました。
学問研究の自由な姿勢が失われ、排他的となって、他の寺院に出向いて教えを乞う美風が次第に失われて行きました。
僧院(寺院)は、当時、最高の学府を形成するインテリ集団でした。王法の下に管理される仏法でしたが、権勢を競うが如く、自己顕示欲を示して次第に政治の乱れに意見具申をする形で政治に介入するようになりました。
8世紀末、桓武天皇は政権内部で暗闘が収まらず、怨霊の跋扈(当時の貴族の独特の感覚)と仏教界の腐敗(王法から見た独特の視点)を避けるため奈良の都・平城京から京都(平安京)に遷都しました。
桓武天皇は新たな都には新たな護国仏教を待望しました。これに応えたのがスーパスター空海と天才最澄でした。最澄と空海の登場により仏教は学派から宗派に衣替えすることになります。
南都六宗と天台宗はほとんど中国仏教の直輸入です。日本的な工夫は儀式などの通過儀礼しか見られません。
教義の体系は、中国でほぼ完成されており、ただこれを学ぶことが日本の仏教のありようでした。日本人の創意工夫は空海の出現まで待たなければなりません。
空海は、十住心論(『大日経』住心品、『大日経疏』、『菩提心論』等による教相判釈)の教判論で、十玄・六相の教理を持つ華厳宗を第九住心(極無自性心)に位置づけ、三融円諦の教理を持つ天台宗を第八住心(如実一道心)として、華厳宗を天台宗の上に置きました。八不を説く三論宗を第七住心(覚心不生心)に、法相宗(唯識)を第六住心(他縁大乗心)に、縁覚乗(独覚)を第五住心(抜業因種心)に、声聞乗(二乗)を第四住心(唯蘊無我心)に、位置づけています。
空海は『秘蔵宝鑰』巻下に、「九種の住心は自性なし、転深転妙にしてみなこれ因なり。真言密教は法身の説、秘密金剛は最勝の真なり」といっています。この二句は「前の所説の九種の心はみな至極の仏果にあらず」ということです。
仏教哲学を実相論と縁起論の二大系統に分ければ、三論と天台は実相論に、法相と華厳は縁起論に分けられ、真言は実相と縁起の双方を止揚したものと考えられます。
鎌倉新仏教は(布教のために)庶民感覚を取り入れ実践論を単純化し特化した特徴をもつ祖師仏教で教理的な発展は特にありません。教理論としては四家大乗(天台・華厳・法相・真言)の教理で尽きていると考えられます。
後世に、鎌倉新仏教(祖師仏教)の立場から、あからさまな南都六宗の批判がされるようになりました。その要旨は「南都六宗」は、自分一身の解脱を目的とする自利の傾向が強く、あらゆる衆生を救済する大乗の「化他」の精神が乏しい」とするものです。しかし、この批判は本質的な批判とは言えず、一方的な批判と考えられるものです。大乗の化他の精神を世の中に身を持って献身した僧が一体何人いるでしょうか。わが宗は南都六宗を遥かに凌駕する大乗の菩薩を輩出してきたと胸を張れる鎌倉新仏教(祖師仏教)が一体いくつあるというのでしょうか。
仏教の本質を逸脱する思い込みの我見を初心な民衆に刷り込む異様なプロパガンダをしてきた鎌倉新仏教(祖師仏教)が、真実の大乗の菩薩の在り方であったと本当に信じているのでしょうか。自らの立ち位置に疑問を感じる感性を喪失した盲信の輩に、仏教の本質を語る資格があるとは到底考えられません。事実は南都六宗の研鑽がなければ、鎌倉新仏教(祖師仏教)が芽吹く土壌が醸成される可能性もなかったのではないかと考えられます。
南都六宗の日本仏教に与えた影響と功績は甚大であり、計り知れない感謝の念を持つべきだと考えられます。南都六宗の存在なしに、今日の日本仏教の存在はありません。南都六宗の仏教の研鑽があればこそ、これを土壌とするたくさんの日本仏教が花開くことができたのではないかと考えられます。 
 
鎌倉仏教1

 

はじめに
鎌倉時代は日本仏教史において、特徴的な時代でした。 現在に続く宗派の多くがこの時代に成立しています。 それまでの仏教との比較でその特徴を見れば、民衆中心であること、実践方法の単純化、宗教哲学的な深化、政治権力に対しての自立性の主張などがあります。
鎌倉時代に成立した仏教を鎌倉仏教と呼びますが、時代区分としての鎌倉時代と言うより、鎌倉時代が準備され、成立・安定し、やがて崩壊する歴史的潮流とともに生まれてきた仏教と考えるべきで、従って平安時代末期から始まると考えます。
鎌倉時代に至る時代的背景
平安時代末期には、貴族に対する武士階級の台頭など、政治・経済的権力の流動化が強まりました。 そのような中で、それまで貴族階級だけのものであった仏教に対して、民衆の間でも救い希求が高まってきました。
ところが一方で、続発する災害や戦乱は厭世的な雰囲気を高め、これに乗じて末法意識も高まっていました。 末法とは、お釈迦様の教えだけが残り、人がいかに修行して悟りを得ようとしてもとうてい不可能な時代をさします。
このような時代にあって多くの民衆に受け入れられたのが、前述のような特徴を有する鎌倉仏教だったのです。
さらに、鎌倉時代もやがて、外患を契機に衰退し、社会も人心も混乱をきたすこととなりました。
鎌倉仏教諸宗の概観
鎌倉仏教の諸宗を概観します。
大乗仏教の成立とともに興った浄土教は、日本では比叡山を中心に広まりましたが、その流れから、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、良忍の融通念仏宗、一遍の時宗が生まれました。 これらの宗派では、人々を救えるのは従来の自力修行の難行ではなく、仏の心を信じてひたすら「南無阿弥陀仏」と唱える他力であると説きます。 念仏によって極楽浄土に往生し、そこ(末法の現世ではなく)で悟りを開くことを目指すのです。
禅宗は、冥想して身心を統一することで悟りを得ようというもので、唐代の中国で興りましたが、日本にはまず臨済宗、続いて曹洞宗が伝わりました。 臨済宗では「見性成仏」、即ち、仏性は凡夫にも元来備わっているのだから徹見してそれに気付けばそれが悟りだと言い、曹洞宗では只管打坐と言い、坐禅することがそのまま仏の姿であるとします。
日蓮宗(法華宗)では、法華経こそがお釈迦様の悟りのすべてを表す唯一の正法であるとし、南無妙法蓮華経の題目を唱える唱題を説きます。 唱題のみによって、老若男女僧俗貴賎などの区別なく、現世利益と後生菩提の両方が得られるとします。
以上にように鎌倉仏教諸宗には、民衆中心であること、実践方法の単純(易行)化という共通点があります、これは中国から伝えられた禅宗よりも開祖が日本人である浄土系と日蓮宗に顕著であるように見えます。
鎌倉仏教と本覚思想
これら諸宗の祖師たちのほとんど全てが比叡山で学んでいることは重要です。
天台宗は法華経を根本としつつ、密教、禅、戒律、さらに浄土教も含む、総合仏教とも言えます。 ここでとくに注目すべきは、本覚思想と言われる考え方です。
本覚とは、一切衆生(凡夫)が本来的に持っている悟りの意味で、本覚思想は、あるがままの具体的な現象世界をそのまま悟りの世界として肯定する思想です。
本覚思想は、初期の仏教にはありませんでした。 しかし、本覚は大乗仏教に言われる如来蔵あるいは仏性と近い意味を持ちます。 如来蔵あるいは仏性は、凡夫が本来的に有する成仏の可能性であり、修行によってあるいは輪廻転生によってやがて悟りに至ることができることを言ういますが、この凡夫と悟りの距離を近づけていったものが本覚思想ということになります。
まとめ
以上、鎌倉仏教について見ました。 民衆中心の易行化した特長は、時代的な要請であり、その思想的基盤には本覚思想がありました。
なお、即身即仏とする本覚思想では、わざわざ修行をして悟りを開く必要がないことになり、宗教としての堕落の危険性も伴います。 この傾向に江戸時代の寺檀制度が重なって、日本仏教から本来的な宗教性が希薄化されたのではないかと思います。 
 
鎌倉仏教2

 

鎌倉時代というのは、オーバーにいえば、仏教上の革命が行われた時代でした。
というのも、それまでの仏教は、いわゆる貴族仏教であり、貴族を対象として布教し、貴族の支持を得て発展してきたものでした。だから武士や庶民など全く眼中になかったのです。
だいたいからして、庶民に、はげしい修行を積むとか、きびしい戒律を守るとか、難しいお経を読んだり写したりとか、大寺院の建立、修理、寄付などができるわけがありません。お金に困らない裕福な貴族だからこそそんなことができたわけです。
一家の大黒柱たるお父さんが出家なんかしちゃったら、家族はおまんまの食い上げになってしまいますよね。
武士も同じです。ある意味庶民より救われません。だって、極端な言い方をすれば、「人を殺すのが武士の商売」だったのですから、貴族仏教からすれば、まことに救い難い人種とされてしまうわけです。
しかしそれだからこそ武士や庶民の信仰への要求は熱心であり、真剣だったのです。生活のためにやむを得ずに殺生をしているからこそ、ひたすら仏の力にすがって救われたいという信仰要求が強かったのです。
はげしい修行を積むとか、きびしい戒律を守るとかして、自分の力で救われようとすることを「自力本願」と言います。そういうことができない庶民が望んだのが、「ひたすら仏の力によって救われたい」という「他力本願」でした。
簡単にいえば、「念仏さえ唱えれば救われる」のが「他力本願」の仏教です。
親鸞(しんらん)が開いた浄土真宗(元になった浄土宗は法念が開いた)も、日蓮(にちれん)が開いた日蓮宗(法華宗)も、念仏さえ唱えれば救われる仏教です。
浄土真宗の場合は「南無阿弥陀仏」で、日蓮宗の場合は「南無妙法蓮華経」ですね(日蓮宗の場合は念仏といわずに「題目」と言うんですけれど)。
これならどんな庶民でも行うことができます。なんたって「念仏さえ唱えれば救われる」のですから。
浄土系と日蓮系との違いは、浄土系が現世を否定して来世の極楽浄土を求めたのに対し、日蓮系は現世利益を求めた点です。
そんなこともあって、浄土真宗は主に農村の間に、日蓮宗は現世利益を求める町衆、商工業者の間に広まりました。
また、一遍上人(いっぺんしょうにん)が広めた仏教として、時宗(じしゅう)というのもあります。一遍上人は全国を遊行したことで知られています。踊念仏などに特徴がありますが「南無阿弥陀仏」と唱えた点で、念仏仏教の一種です。
そしてこれらの宗教は、日本人によって開かれた仏教として大きな意味をもっています。それまでの仏教は大陸から渡ってきたものですからね。
さて、ここまでずっと「念仏仏教」のことを書いてきましたが、実は北鎌倉には念仏仏教のお寺はたったの一つしかありません。光照寺です。光照寺は時宗のお寺です。
ではあとのお寺はなにかというと、すべて禅宗のお寺です。禅宗も新仏教ではあるんですけれど、大陸からもたらされた点でこれまで説明した念仏仏教系とは違います。
また、念仏や題目を唱えるだけの他力本願の念仏仏教系に対して、禅宗は座禅を組むことによって修行する「自力本願」の宗教であることも大きな違いです。
この、「座禅を組む」という素朴な修行が武士の心意気(心身の鍛錬)と通じるものがあったためか、武士の間に急速に広まったのです。
だから他力本願の象徴である念仏(題目)は当然ありません。
ちなみに禅宗には臨済宗(りんざいしゅう)と曹洞宗(そうとうしゅう)の二つがあり、北鎌倉の禅寺は全て臨済宗です。
というのも、曹洞宗が地方武士の支持を受けたのに対し、臨済宗は幕府の保護の下に発展していったからです。
なにしろ鎌倉に幕府があったわけですからね。当然鎌倉では臨済宗のお寺がメインになるわけです。
ちなみに、建長寺は北条時頼が、円覚寺は北条時宗が創建したお寺です。時頼も時宗も共に鎌倉幕府の、当時の最高権力の座である執権職に就いていた人です。 
 
鎌倉仏教3

 

平安時代末期から鎌倉時代にかけて興起した仏教変革の動きを指す。特に浄土思想の普及や禅宗の伝来の影響によって新しく成立した仏教宗派のことを「鎌倉新仏教」(かまくらしんぶっきょう)と呼称する場合がある。しかし、「鎌倉新仏教」の語をめぐっては後述のように研究者によって様々な見解が存在する。 
概要
鎌倉時代にあっては、国家的事業として東大寺はじめ南都の諸寺の再建がなされる一方、12世紀中ごろから13世紀にかけて、新興の武士や農民たちの求めに応じて、新しい宗派である浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗の宗祖が活躍した(このうち、浄土宗の開宗は厳密に言えば、平安時代末期のことであるが、鎌倉仏教ないし「鎌倉新仏教」に含めて考えられる)。この6宗はいずれも、開祖は比叡山延暦寺など天台宗に学んだ経験をもち、前4者はいわゆる「旧仏教」のなかから生まれ、後2者は中国から新たに輸入された仏教である。「鎌倉新仏教」6宗は教説も成立の事情も異なるが、「旧仏教」の要求するようなきびしい戒律や学問、寄進を必要とせず(ただし、禅宗は戒律を重視)、ただ、信仰によって在家(在俗生活)のままで救いにあずかることができると説く点で一致していた。
これに対し、「旧仏教」(南都六宗、天台宗および真言宗)側も奈良時代に唐僧鑑真が日本に伝えた戒律の護持と普及に尽力する一方、社会事業に貢献するなど多方面での刷新運動を展開した。そして、「新仏教」のみならず「旧仏教」においても重要な役割を担ったのが、官僧(天皇から得度を許され、国立戒壇において授戒をうけた仏僧)の制約から解き放たれた遁世僧(官僧の世界から離脱して仏道修行に努める仏僧)の存在であった。 
「新仏教」6宗の概要
「鎌倉新仏教」とは、一般には次の6宗を示している。
 宗派 / 開祖 / 教義 / 教理の特色 / 主要著書 / 支持層 / 中心寺院
浄土宗 法然(源空)
1133年-1212年 絶対他力、専修念仏 難しい教義を知ることも、苦しい修行も、造寺・造塔・造仏も必要ない。ただひたすらに「南無阿弥陀仏」を唱えることが大切だと説く。 『選択本願念仏集』(1198年ころ)
『一枚起請文』(1212年) 京都周辺の公家、武士、庶民 知恩院(京都市東山区)
浄土真宗(一向宗) 親鸞
1173年-1262年 一向専修、一念発起、悪人正機 法然の教えをさらに進め、一念発起(一度信心をおこして念仏を唱えれば、ただちに往生が決定する)や悪人正機説を説く。 『教行信証』(1224年ころ)
唯円著『歎異抄』 地方武士や農民、とくに下層民 東本願寺・西本願寺(京都市下京区)
時宗(遊行宗) 一遍(智真)
1239年-1289年 全国遊行(賦算、踊念仏) 賦算(念仏を記した札を配り、受けとった者を往生させる)→男女の区別や浄・不浄、信心の有無さえ問わず、万人は念仏を唱えれば救われると説く。 (『一遍上人語録』) 全国の武士・農民 清浄光寺(神奈川県藤沢市)
法華宗(日蓮宗) 日蓮
1222年-1282年 題目唱和、法華経主義、四箇格言 法華経こそが唯一の釈迦の教えであり、題目(「南無妙法蓮華経」)唱和により救われると説く。辻説法で布教した。 『立正安国論』(1260年)
『開目抄』(1272年)』 下級武士、商工業者 久遠寺(山梨県身延町)、中山法華経寺(千葉県市川市)
臨済宗 栄西
1141年-1215年 坐禅、公案 坐禅を組みながら、師の与える問題を1つ1つ解決しながら(公案問答)、悟りに到達すると説く。政治に通じ、幕府の保護と統制を受ける。 『興禅護国論』(1198年) 公家、京・鎌倉の上級武士、地方有力武士 建仁寺(京都市東山区)、建長寺(神奈川県鎌倉市)
曹洞宗 道元
1200年-1253年 出家第一主義、修証一如、只管打坐 ただひたすら坐禅を組むこと(只管打坐)で悟りにいたることを主眼とし、世俗に交わらずに厳しい修行をおこない、政治権力に接近しないことを説く。 『正法眼蔵』(1231年-1253年)
懐奘著『正法眼蔵随聞記』 地方の中小武士・農民 永平寺(福井県永平寺町)

すなわち、他力本願を旨とする浄土系諸宗(浄土宗、浄土真宗、時宗)、天台宗系の法華宗(日蓮宗)、不立文字を旨とする禅宗系の臨済宗と曹洞宗である。
「鎮護国家」の思想のもと、律令国家によって保護された奈良時代の南都六宗(奈良仏教)が仏教研究者集団としての性格をもち、また、平安仏教においては、学問的能力を必要とした顕教にしても、きびしい修行と超人的能力を前提とする密教にしても、貴族仏教としての性格を免れなかったのに対して、上記の6宗は主として新たに台頭してきた武士階級や一般庶民へと広がっていった。
国風文化期に隆盛した浄土教にしても、平安時代にあっては、阿弥陀堂建立の盛行にみられるように経済力の裏づけあってのものであったが、それに対し鎌倉仏教は、概して、
   易行(いぎょう)…厳しい修行ではない
   選択(せんちゃく)…救済方法を一つ選ぶ
   専修(せんじゅ)…ひたすらに打ち込む
の諸特徴を有するといわれ、特に念仏を重んじる浄土系の浄土宗・浄土真宗・時宗に顕著にみられる。浄土系諸門はみずからを「他力易行門」と称し、禅宗(臨済宗、曹洞宗)の実践する坐禅を「自力」のわざであり、「難行」であると批判したが、悟りに到達する方法として一つを選び、それに打ち込むあり方においては、禅宗もまた鎌倉時代に成立した他の「新仏教」諸派に共通する要素をもっていた。
12世紀からの大転換期にあって、人びとは相次ぐ戦乱と飢饉に末法の世の到来を実感し、あたらしい救いを仏教に求めた。こうした要望にこたえたのが、信心や修行のあり方に着目した念仏と題目、および禅の教えであった。これらは、庶民や新興武士階級にも受容できる仏教のあり方だったのである。そして、民衆の生活に奥深く浸透していった点で、鎌倉仏教(「鎌倉新仏教」)は、大陸から伝わった仏教の「日本化」を示す現象として説明される。 
浄土系諸宗の開宗
法然と浄土宗
美作国の豪族の家に生まれた法然(1133年-1212年)は、9歳のとき、同じ荘園に住む武士の夜討ちにあって殺害された父の遺言にしたがい、その菩提をとむらうため仏門に入った。1147年(久安3年)、比叡山延暦寺戒壇で天台座主の行玄を戒師として授戒を受けた。当初は山門(比叡山)で皇円らのもとで天台宗の教学を学んだが、そこでの生活にあきたらず、「悟り」の仏教ではなく、「救い」の仏教を求め、黒谷別所にうつり浄土教の学僧として知られた叡空に学び、「法然房源空」と号した。一切経を読むこと5回におよび、その学識の高さは「知恵第一の法然房」と呼ばれるほどであった。叡空やその師の良忍(融通念仏宗の開祖)は、源信の『往生要集』に発する浄土教の教えを信奉した。しかし、浄土に往生する行法としては念仏以外の諸行を認めていた。
1175年(承安5年)、黒谷別所での修行をへた法然は、もっぱら阿弥陀仏の誓願を信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、中国の唐代の僧善導の著作『観無量寿経疏』に依拠して浄土宗を開いた。阿弥陀仏の誓願(弥陀の本願)とは、阿弥陀仏がまだ「法蔵比丘」とよばれる修行者だったときに立てた48の願のことであり、また、これらの願がすべて成就しなければ仏とはならないと誓い、すべての衆生を必ず救済しようとしたことを指す。ところで、すでに法蔵比丘は十劫のむかしに悟りを開いて仏となっているのだから、願いはすべて成就されていることとなる。法然は、阿弥陀仏が多くの行のなかから48を選び、さらにそのなかで最も平易な行は第十八願の念仏行なのであるから、人は、ただひたすらそのことを信じ、念仏を唱えればよいと説いたのである。ここでは、顕密の修行のすべては難行・雑行としてしりぞけられ、念仏を唱える易行のみが正行とされた。法然は浄土門以外の教えを「聖道門」と呼んで否定し、仏僧たちが口では戒律を尊びながらも実際には退廃した生活を送っている現状を批判した。
1186年(文治2年)、大原勝林院の丈六堂に、延暦寺の永弁・智海・証真、三論宗の明遍、法相宗の貞慶、嵯峨往生院の念仏房、大原来迎院の蓮契、それに念仏僧重源ら20名をこえる学僧や300名をこす聴衆が集まり、法然の真意を聴く大原問答がおこなわれている。ここで、法然は「乱想の凡夫」と自己規定し、それゆえ観念(仏や浄土を心に想い描いて念ずること)ではなく称念(仏や浄土を称えること)、観仏(仏を観ずること)ではなく念仏(仏を念ずること)に専修できると諄々と説いていった。これは、「鎌倉仏教」の名で総称される仏教変革運動の始まりを示す歴史上の一転換点となった。
東山の吉水を本拠に念仏の信仰を説いた法然の教えは、摂関家の九条兼実ら新時代の到来に不安をかかえる中央貴族や平重衡など上級武士、さらに一般の武士や庶民にも広まった。1189年(文治5年)には兼実に授戒しており、1190年(建久元年)には東大寺大勧進職重源の求めに応じて、東大寺で浄土三部経の講説をおこなった。兼実の求めに応えて、その教義を弟子に記させた著作が『選択本願念仏集』であり、その完成は1198年(建久9年)ころと考えられる。また、法然の教えは京ばかりではなく、熊谷直実、宇都宮頼綱、結城朝光ら東国の武士や農民にも広がっていった。
戦乱の世にあって、つねに生きるか死ぬかの生活に身を置く武士たちにとって法然の教えは新しい救いになったのみならず、荘園を支配する公家や天台宗・真言宗の寺院、神社など既存の権威や権力と対抗していくため、阿弥陀如来のみに帰依する一神教的な信仰を受け入れたのである。日本仏教史上初めて、一般の女性にひろく布教をおこなったのも法然であり、かれは国家権力との関係を断ちきり、個人救済に専念する姿勢を示した。
こうした専修念仏の教えは旧仏教からのはげしい反発を受けた。天台座主の慈円は、法然が称名念仏を唱え、それ以外の勤行をしてはならないと説いたことから「愚かな尼入道」の喜ぶところとなり、無知蒙昧な者に念仏が受け容れられたのだと批判している。1204年(元久元年)には、法然は国家権力による弾圧を回避しようと七箇条制戒を弟子たちに示し、その同意を求めた。しかし、法相宗の貞慶(解脱)から批判され、南都北嶺の大衆からも訴えられて、1207年(建永2年・承元元年)、国家からのきびしい弾圧にさらされた(承元の法難)。法然は流刑地への旅の途中でも布教をつづけ、塩飽島(讃岐国)に落ち着いたが10ヶ月あまりで許された。こののち数年間摂津国にとどまり、帰京をゆるされて1211年(建暦元年)に東山大谷にうつったが、翌年、同地で没した。なお、華厳宗の高弁(明恵)は法然死去の直後、『選択本願念仏集』批判の書である『摧邪輪』を著している。
浄土宗が広がった背景には、念仏という作善(善行を積むこと)をおこなうことによって救われるという、その簡便性に理由があったが、一面では、念仏が「能声(のうしょう)」とも呼ばれたように、「音芸」(音の芸能)という性格を有していたからでもあった。また、専修念仏の教えは、浄土門のなかに念仏を唱える回数の多寡により多念義と一念義の論議を生んでおり、法然自身は一念義の立場を認めながらも自身は多念であったが、後述する弟子の親鸞は一念義の立場に立った。
法然門下からは多くの弟子があらわれ、浄土宗の教えを広めていった。のちに浄土真宗の開祖となった親鸞もそのひとりであったが、筑前国の武士の家に生まれた弁長は、京都に出て法然門下となり、その教えを筑後国の善導寺(福岡県久留米市)を本拠に九州一帯に広げて「鎮西派」を立て、その弟子で石見国出身の良忠は東国へ渡って熱心に布教に努めたので鎮西派は関東地方にも広まった。また、京都出身の証空は法然の没後、京都西山の善峯寺を本拠として「西山派」を称した。証空は、大和国の当麻寺で伝説として知られていた当麻曼荼羅を掘り出し、浄土宗の教えをそこに見いだして布教に努めた。
このように、浄土宗の教えは全国に広まっていったが、1227年(嘉禄3年)に再び弾圧を受けた。比叡山の僧兵によって法然の墓があばかれる事件も生じたが、その一方で教義は朝廷内部へも深く食い込み、信者を獲得していった。弟子の源智は、大谷の地に法然の遺骨をおさめ、法然の月命日ごとに開かれていた知恩講をもとにして、のちの浄土宗総本山知恩院を創建した。
親鸞と浄土真宗
日野家出身ともいわれる親鸞(1173年-1262年)は、9歳で比叡山にのぼり、「範宴」の名をあたえられた。20年近くにわたって延暦寺で学んだが悟ることができず、1201年(建仁元年)、京中の庶民が信仰していた六角堂(京都市中京区)に参籠し、そこで聖徳太子の夢告によって法然の門をたたいた。親鸞は師の法然に深く傾倒して「もし法然上人にだまされて、念仏によって地獄に堕ちることとなっても決して悔やまない」と誓ったといわれる。
1207年の承元の法難では僧の身分をうばわれて越後国に配流となったが4年後にゆるされた。すでに肉食妻帯を実行にうつしていた親鸞は、ほどなく法然の死を知るがそのまま越後にとどまった。1214年(建保2年)、42歳の親鸞は妻の恵信尼と子どもたちをともない東国への布教に旅立ち、常陸国で稲田の草庵を営んだ。
親鸞は、師の教えをさらに徹底させて稲田の地で『教行信証』の著述を開始し、絶対他力を唱え、阿弥陀仏を信じる心さえあればよく(信心為本)、信じることによって往生が決定(けつじょう)し(信心決定)、また、おかした罪を自覚する煩悩の深い者(悪人)こそ、むしろ仏が救おうとする人間であるという悪人正機説を説いて、東国の武士や農民に受けいれられた。
親鸞における徹底した絶対他力の姿勢は、願力回向の説によくあらわれている。念仏者である自己が、阿弥陀仏の誓願(弥陀の本願)第十八願に示された「浄土に生まれたいと信じ願う心」に成りきることは、法然にあっては念仏者がまずもって備えておかなければならない条件とされていたが、親鸞にあっては、それすらも阿弥陀仏の側からすでに回向されているとし、信ずる心さえも含めて極楽往生に必要な条件はすべて阿弥陀仏の願力によってすでに実現されていると説く。したがって、ここで唱える念仏は「行」でも「作善」でもなく、そうした性質を失って、純粋に感謝の意味で唱える報恩念仏となる。これは、一種、天台本覚思想に通じる考え方である。
悪人正機説は、弟子の唯円の著した『歎異抄』の一節「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」で著名であるが、これは、法然にしたがって念仏行をおこなっていた親鸞が、みずからをかえりみて第十八願に示されるような純粋な心さえ持てない罪業深い人間であると自覚したところに端を発したと考えられる。「自力作善の人」すなわち「善人」は換言すれば不信心の人なのであり、それに対して、自分の罪深さを自覚し、ひたすら仏の慈悲にすがらざるを得ない人にこそ、むしろ真実の救済がひらかれていると親鸞は主張した。自力の作善をなしうる「善人」が救済されるのであるならば、生業として殺生などを営まざるをえないような「悪人」がいかにして救われないことがあろうか、「悪人」こそはむしろ「弥陀の本願」の正因を宿しているのではないかと親鸞は考えたのである。また、親鸞は阿弥陀仏の前では、誰もが平等なのであり、師もなければ弟子もないとして同じ信仰に立つ人びとを御同朋御同行と呼んだ。こうした親鸞における思想の深化は、常陸国にうつった親鸞が、そこでみた寛喜の大飢饉(1230年-1231年)の惨憺たる光景に遭遇したことと深くかかわっているとの指摘がある。なお、『歎異抄』については、室町時代に現れて浄土真宗(一向宗)の布教に尽力した蓮如が、歎異抄の教えは真宗にとっては大切な聖教であるので、宿善(「宿世の善根」の略。阿弥陀如来に救済される因縁のこと)もなく仏法に真摯に取り組む気のない者に対してはむやみに読ませるべきものではないという趣旨の奥書をしたためている。
1231年(寛喜3年)以降、親鸞は末娘の覚信尼をともない京都へ帰った。帰京後の生活は貧窮していたが、親鸞は極楽往生した者は再び現世にあらわれて人びとを救うという還相回向を説き、『教行信証』を完成させ、さらに、東国にのこした同朋のために和讃をつくった。親鸞はこののち、1256年(康元元年)、東国にあって念仏に呪術をもちこんだ長男の善鸞と義絶し、最晩年には、すべての事物は仏の誓いのままに姿かたちや是非善悪を超越して絶対真理として現われるとして、自力のはからいをすべて捨てて仏法にしたがうという自然法爾(じねんほうに)の境地に達した。90歳で没した親鸞は、みずからの生涯をかえりみて罪業深き一生であったとし、「遺体は灰にして賀茂川に捨てよ」と遺言した。
呪術的な救済を超えて来世への純化された信仰を説く親鸞の教えはのちに浄土真宗と呼ばれる教団をかたちづくることとなり、1272年(文永9年)には大谷御影堂が建立された。御影堂は、覚信尼の再婚相手である小野宮禅念の所有地だったところに建てられ、1321年(元亨元年)には大谷本願寺と改称された。「本願寺」の名称は1332年(元弘2年)に鎌倉将軍守邦親王から、その翌年には後醍醐天皇の皇子護良親王から、それぞれ令旨をえたものである。
承元の法難と信仰の自由
1207年、法然ひきいる吉水教団が延暦寺・興福寺によって指弾され、後鳥羽上皇によって、専修念仏の停止、および法然の門弟のうち安楽房遵西と住蓮房ら4人の死罪、さらに、法然自身と親鸞ら中心的な門弟7人が流罪に処せられ、法然は土佐国(のち讃岐国)に、親鸞は越後国に流された。75歳の法然は僧の身分を剥奪されて「藤井元彦」という俗名をつけられたが、「たとえ死罪となっても念仏は停止しない。辺鄙な土地で田夫野人に念仏を勧めることができるのはむしろ朝恩というべきだ」と語ったといわれる。34歳であった親鸞は、老いた師と別れ、「藤井善信」の俗名で流罪となったが、越後国府で「愚禿(ぐとく)」あるいは単に「禿(とく)」と称し、非僧非俗(僧でも俗人でもない、ただ一個の人間)の立場を打ち出し、終生これを貫いた。親鸞はここで、朝廷に対し「信仰の自由」を主張し、弾圧に対する抗議の意を表明しているが、これは日本思想史上、画期的なできごとと評価される。
一遍と時宗
鎌倉時代中期に「遊行上人」と呼ばれた一遍(1239年-1289年)は、伊予国の豪族河野氏の出身といわれる。10歳のとき母を亡くし、1250年(建長2年)に大宰府近くの原山にいた浄土宗西山派の僧聖達のもとで出家した。聖達の紹介により、肥前国清水に住む華台という高僧に師事して浄土宗の教学を学び、智真の名をあたえられたが、1263年(弘長3年)にいったんは還俗して妻をめとって仏に仕える在俗生活を送った。しかし、所領に絡む事件に巻き込まれたことを契機として輪廻の業を断とうと再出家を決意、信濃国善光寺に参詣した。その後、再び伊予にもどり、修行を重ねて遊行の生活に入り、西国各地の霊場をめぐって参籠した。
1274年(文永11年)ころ、智真は高野山を経て熊野で100日間の参籠をしたとき、その満願の日に熊野権現の神託を受けたといわれる。そのことばは四句から成り、「六字名号一遍法、十界依正一遍体、万行離念一遍証、人中上々妙好華」という偈(げ)のかたちになっていた。これは、各句のかしら文字が「六十万人」となることから「六十万人の偈」と呼称されている。
神託により念仏信仰をさらに深めた智真は、神託中の語より「一遍」を自称して、空也を先師とあおいで古代以来の念仏聖の活動を受けついだ。以後15年にわたり、北は陸奥国江刺から南は薩摩国・大隅国にいたる諸国をくまなく遊行回国した。
時宗では、日常を「臨命終時」すなわち、毎日の生活を臨終の「時」と受けとめて念仏を唱える生き方を説く。一遍は、各地で「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と刷られた算(紙札)を配り、信仰の縁をむすんだ人びとの名を勧進帳に書き記した。この布教活動を賦算(ふさん)といい、記帳した人びとは誰でも救済の対象となった。
これはやがて、身分の上下や貴賤の別、有智・無智の別や男女の別、穢れの有無、また善人・悪人の区別、さらには信心の有無をさえ問うことなく、万人は阿弥陀仏によって救われるという教えとなり、1279年(弘安2年)以降、その喜びと感謝の思いは念仏によってあらわされるべきだと説いて信濃佐久郡の小田切の里で踊念仏をはじめた。一遍は、十劫以前に正覚を得て如来となった阿弥陀仏と、その阿弥陀仏を信ずる一念で浄土に往生することのできる衆生とは根本において同一であると説き、「となふれば仏もわれもなかりけり。南無阿弥陀仏なむあみだ仏」と歌っている(『一遍上人語録』)。このように、一遍の浄土信仰には、天台宗の本覚思想との密接な関係がうかがわれる。
時宗は、その場に居合わせた人がつくる集団という意味で当初は「時衆」と表記された。一遍は、寺をつくらず、生前に自らの著作を全部焼いてしまったが、死後、弟子たちが『一遍上人語録』としてその教義をまとめた。一遍の布教で勧進帳に名を記した人は25万人を超えたといわれる。
時宗の教えは踊念仏や、古来の神々への信仰を取り込んだ教義を通じて民衆や武士に広められた。遊行回国には、高弟の聖戒や尼僧の超一がしたがっており、そのようすは絵巻物『一遍上人絵伝(一遍聖絵)』に活き活きと描写されている。この詞書は聖戒によって書かれており、絵は法眼絵師円伊によって描かれたものである。
一遍没後、他阿弥陀仏(真教)があらわれ、遍歴をつづけながら時衆をまとめていった。その後、他阿弥陀仏の直系(遊行派)と奥谷派、六条派、四条派、一向派など他の諸派のあいだに様々な確執や緊張をともないながら、時宗の教団が確立されていった。こうした状況は、一遍や他阿弥陀仏同様、当時は各地を遍歴する聖が多数いて、みずからの教えをひろめていた事実を反映している。時宗の本山は、1325年(正中2年)に呑海のひらいた神奈川県藤沢市の清浄光寺である。 
法華宗とその広がり
日蓮と法華宗
一遍の活躍と同じころ、古くからの法華信仰をもとに、新しい救いの道をひらいたのが日蓮(1222年-1282年)である。日蓮は安房国長狭郡東条郷の生まれであり、のちに自らの出自を「旃陀羅(せんだら)が子」「片海の石中の賎民が子」と記している。
日蓮は、はじめ地元安房の天台宗清澄寺(千葉県鴨川市)に少童として入り、16歳で僧となり蓮長と名乗った。「日本一の智者になりたい」と願った日蓮は、はじめ鎌倉で学び、ついで京都・比叡山・南都をめぐって天台教学のみならず密教や浄土教、禅の教えも学んだといわれる。当時の天台宗の僧は、園城寺門徒を除けば延暦寺戒壇で授戒を受けることとなっていたので、日蓮も受戒したものと推定される。浄土教の著しい発展のなか、当時の比叡山は哲学的・神秘主義的な天台本覚思想がさかんで、その教義をもって念仏など新興の仏教運動に対する弾圧をくりかえしたが、日蓮は、天台宗のなかに広まりつつあった浄土教との妥協に反発し、新しい法華信仰をもって浄土系と対抗し、末法の世において人びとを救う天台復興を決意した。日蓮は、法華経(妙法蓮華経)を釈迦の正しい教えとして選び、「南無妙法蓮華経」という題目をとなえること(唱題)を重視した。「南無妙法蓮華経」とは「法華経に帰依する」の意であり、「題目」は経典の表題を唱えることに由来する。
1253年(建長5年)、日蓮は安房に帰り、清澄山の旭の森で題目を10回唱えて立教開宗を宣言した。翌年鎌倉にうつり、名越の地に庵をむすんだが、このころの鎌倉では大火・洪水・地震が相次ぎ、疫病もしばしば流行した。1259年(正元元年)には飢饉が全国に広がった。日蓮は、これら打ちつづく天変地異は末法の到来を示すものであり、邪教(専修念仏の教え)のために、正しい法である法華経が見失われてきたためであるとして、1260年(文応元年)、幕府が法華経にもとづく政治をおこなうよう求める『立正安国論』を著し、執権北条時頼の側近に提出した。このまま「邪教」を放置すれば、経典に記された三災七難のうち、まだ起こっていない「自界叛逆難」(反乱)と「他国侵逼難」(外国から侵略をうける災難)も必ず起こるであろうと訴えたのである。日蓮と弟子たちは幕府に期待をかけ、公衆の面前での法論を望んだが、日蓮の行動は念仏者たちの怒りを買い、草庵は焼き討ちされた(松葉ヶ谷法難)。この法難は、『立正安国論』を時頼に建白した約1ヶ月後のことであり、襲撃の背後には幕府の有力者やそれにつらなる仏僧がいたと考えられており、幕府による迫害のなかでも最大のものであった。日蓮はこののち、一時下総国に避難したが再び鎌倉にもどり、幕府によって2年余り伊豆国に配流された。
ゆるされて故郷にもどった日蓮は再び鎌倉で活動した。権力に屈せず、辻説法によって法華経への帰依をうったえ、鎌倉の諸寺に宗論をいどんで、「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」の四箇格言で他宗を激しく攻撃しながら、国難の到来を予言した。かれのひらいた法華宗(日蓮宗)は関東の武士層や商工業者を中心に広まっていったが、折りしも1268年(文永5年)には元からの国書が幕府に届き、日蓮は『立正安国論』で指摘した「他国侵逼難」の予言が的中したとして、執権北条時宗に対し、念仏、禅を退けて国難への対策を知っているみずからを国師として用いるよううったえた。また、時宗、平頼綱、蘭渓道隆、極楽寺の忍性(良観)などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫った。日蓮の教えには「旧仏教」的な要素が多くふくまれ、「われ日本の柱とならん」と述べて、法華信仰に依拠しなければ国が滅ぶと鎌倉幕府にせまったのも鎮護国家の思想のなごりを示す現象といえる。
1271年(文永8年)、日蓮は幕府や他宗を批判したとして佐渡国に配流された。この時期の日蓮は自身が末法の世に法華経をひろめる上行菩薩であるとの自覚に達し、『開目抄』(1272年)を著すなど独自の教義を展開させた。1274年(文永11年)、日蓮はゆるされて鎌倉にもどったが、ほどなく日蓮に深く帰依した甲斐国の地頭波木井実長により寄進された身延山にうつり、久遠寺(山梨県身延町)をひらいた。久遠寺には、天台宗の下級僧出身者など数十人の弟子が集まり、武士、地主、農民、職人などの帰依者が増加していった。
日蓮は、1276年(建治2年)の『妙密上人御消息』のなかで自身が「無戒の僧」で牛や馬のごとき者であるとし、そのような自分が法華経の行によって救われたとしている。佐渡配流以降(「佐後」)の日蓮の思想は、佐渡配流以前(「佐前」)の外向的な姿勢にくらべ内面的性格が強められており、自己を人間以下の者、無戒で罪深き者とする謙虚な姿勢には親鸞の悪人正機に通じる要素も認められる。日蓮は、また『本尊問答抄』のなかで自身を「海人が子なり」、『佐渡御勘気抄』では「海辺の旃陀羅が子なり」などと書き記しており、自分の信仰は、この時代に虐げられていた底辺の人びとの救済を強い動機としていることを表明しているのである。
法華本門の教え
法華宗の広がりの背景には、それに先だつ持経(経典への信仰)の伝統があった。それは、写経や埋経、暗誦(あんじゅ)などのかたちでおこなわれていたが、厳島神社への『平家納経』や、「法華の持者」と称されて常に法華経を暗誦していた後白河法皇、やはり「法華八幡の持者」と称された源頼朝など権力者にも広くみられた信仰のあり方であった。また、平安時代末期に陸奥国宮城郡松島にあって12年間法華経を読誦した見仏のように、鳥羽法皇から仏像や器物をおくられ、法華の行者として広く世に知られた僧もいた。
法華経はまた、元来は天台宗の理論の根拠をなすものとして重視されてきた経典であり、平安時代初期の最澄に始まる天台宗は「天台法華宗」とも称されてきたが、日蓮はその伝統を受けつぎながらも、かれ独自の法華宗、すなわち日蓮宗をはじめたのである。
日蓮の教えは、法華経を唯一の正法とし、時間と空間を超越した絶対の真理とするものであり、他の教義や信仰は否定される。題目は真理そのものであり、そのまま全宇宙をあらわす曼荼羅であるとされ、日蓮は中央に題目を記して周囲に諸仏・諸神の名を配した法華曼荼羅(文字曼荼羅)を本尊(本門の本尊)とした。また、教・機・時・国・序のいずれにおいても法華経が至高であるとする「五綱の教判」を立てた。すなわち、「教」(教え)にはおいては、法華経のうち前半14章を迹門、後半14章を本門とし、本門こそ人びとを救済する法華経であるとし、「機」(素質・能力)においては、末法に生きて素質や能力の低下した人間にふさわしい教えは法華経なのであり、「時」では、現在は末法であることから法華経が正法とされ、「国」では、大乗仏教の流布した日本国にふさわしいのは法華経であり、「序」(順序)では、最後に流布するのは法華経本門の教えであるとした。
さらに日蓮は、天台教学を迹門(しゃくもん)の法華経であり「理の一念三千」と呼んで、その思弁的・観念的なあり方を批判し、みずからの教えを本門として「事の一念三千」を説き、実践的・宗教的な行としての唱題を唱えた。とくに「佐後」は、法華経の呪力に依存するのではなく、法華経に説かれた精神を実践する者、すなわち「法華経の行者」としての自覚が深まっていった。日蓮はまた、法(真理)をよりどころとすべきであって、人(権力)をよりどころとしてはならないとも説いている。かれは、仏法と王法が一致する王仏冥合を理想とし、正しい法にもとづかなければ、正しい政治はおこなわれないと主張した。また、王法(政治)の主体を天皇としたうえで、天皇であっても仏法に背けば仏罰をこうむると考え、宗教上での天皇の権威を一切みとめない仏法絶対の立場に立った。
「五綱の教判」のなかで、信仰における重要な契機として「時」や「国」を掲げるあり方から、こんにちでも、日蓮宗系の各宗派においては、他の宗派にはあまりみられない政治問題への積極的なかかわりがみられる。 
禅宗の広がりと幕府による保護
禅宗の広まりと日本達磨宗
インドの達磨大師(ボーディダルマ)に発し、坐禅を組んで精神統一をはかり、みずからの力で悟りをえようとする禅の教えは、宋の上流階級のあいだにひろまっていた。禅そのものは日本には奈良時代にすでに伝わっていたが、宋での禅宗の隆盛により平安末期以降あらためて注目されるようになった。栄西より少し前にあらわれた大日房能忍(生没年不詳)は、摂津国水田(大阪府吹田市)に三宝寺を建立し、日本で最も早く禅宗をうちたてようとした僧であった。能忍の活動は当時の社会に大きな影響をあたえたが、かれのひらいた日本達磨宗は、多くの人びとに教義を広める過程で中心を失ってしまった。
しかし、後述する栄西や道元の登場によって、禅宗は急速に広がっていった。阿弥陀仏への絶対的な救いを求める浄土門の他力の教えに対し、自力で往生を悟ろうとする禅宗の教えは自力で問題解決を図る武士の時代の風潮とも合致していた。
栄西と臨済宗
備中国の吉備津神社の神官の家に生まれた栄西(1141年-1215年)は、1154年(久寿元年)に比叡山で出家得度したのち、 2度にわたって宋(南宋)へ渡った。1度目は、天台教学を学ぶため1168年(仁安3年)に天台山万年寺を訪れたが、そこはすでに禅の寺院に変わっていた。栄西は禅に魅力を感じたが、同時期に宋に留学していた念仏僧重源の勧めで短期間で帰国し、『天台章疎』60巻を天台座主に献じた。1187年(文治3年)、栄西は再び渡宋し、足かけ5年、天台山と天童山(ともに中国浙江省)で臨済禅を学び、虚庵壊敞より嗣法を受けて、帰国後の1191年(建久2年)に臨済宗をひらいた。当初は聖福寺をひらいた博多や香椎、平戸など九州各地で布教して臨済禅の紹介に努めていたが、やがて京にもどり、禅こそが末法における正しい教えだとして、禅による天台復興を唱えた。しかし、建久5年(1194年)7月5日、日本達磨宗の大日房能忍らの摂津国三宝寺の教団とともに禅宗停止の宣下が下されている。
筑前国筥崎(福岡市東区)の良弁という人物が九州において禅に入門する人びとが増えたことを延暦寺講徒に訴え、栄西による禅の弘通を停止するよう朝廷にも働きかけたためであり、建久6年には関白九条兼実が栄西を京に呼び出し、大舎人頭の職にあった白河仲資に「禅とは何か」を聴聞させ、大納言の葉室宗頼に対してはその傍聴の任にあたらせている。
栄西はこうした動きに対し、遅くとも1198年(建久9年)には、「大いなる哉。心や」ではじまる『興禅護国論』を著し、戒律がすべての仏法の基礎であり、禅は戒を基本とすること、また、禅宗が従来の仏教と根本的に対立するものではないこと、王法を仏法の上において禅を興して国を護り、もって王法鎮護となすことは最澄のひらいた天台宗の教義と何ら変わらないとして反論した。この書は、九州で著されたと考えられ、禅に対する誤解を解き、禅の主旨を明らかにしようとしたものであった。
延暦寺は止観の行と法華経を絶対の権威としており、栄西や上述した法然の教えはそれに違背するものとして、特に京洛の地でかれらの思想が広まることに対してこれを怖れ、徹底的に弾圧を加えようとしたのである。栄西は、これに対し、法然よりはやや妥協的な方法を選んだ。自分の意見が京都では容易に受け容れられないと判断し、1199年(正治元年)には鎌倉に下って北条政子や将軍源頼家に禅の教えを説き、その帰依を受けたのである。
臨済禅は、看話禅(かんなぜん)とも称され、坐禅をくむなかで、師から与えられる禅問答(公案)に答えることで、悟りの境地に達しようという教えであり、京の公卿の文化に対抗心をいだく武士層から新しい教学として迎えられ、歴代の北条氏もこれを保護した。
とはいえ、必ずしも禅宗への帰依が栄西を引き立てたのではなかった。1200年(正治2年)に北条政子の後援で鎌倉に建てた寿福寺も、1202年(建仁2年)に将軍頼家の保護により開かれ、のちに臨済宗総本山となる京都の建仁寺も、当初は臨済禅のみの寺院ではなかった。
栄西がめざしたのは、顕教・密教に禅を加え、禅を柱にして仏教を総合しようということであり、かれ自身は禅僧であると同時に密教僧でもあった。生涯を天台僧として生きた栄西は、大陸の新しい文化や京の文化を伝える僧として鎌倉幕府に認められたのであり、喫茶の風習もその一環として広まったものである。1211年(建暦元年)ころに将軍源実朝に献上した『喫茶養生記』は茶の効能を説いた著作であった。
宋で最新の学術文化を学習した栄西は、中国の建築技術等にも通じており、重源をたすけて東大寺の再建に尽くし、重源亡きあとの東大寺大勧進職となった。栄西はまた、1213年(建保元年)には鎌倉幕府の後援もあって権僧正という僧綱(僧官)になっているが、遁世僧の身でありながら権僧正に任じられるのはきわめて例外的なことであった。慈円や道元は栄西が僧正や大師号宣下をみずから運動していることを批判しているが、幕府要人が栄西に帰依したことによって、禅宗はやがて京都へも広まっていった。
栄西没後も中国の臨済禅との交流は活発であり、渡宋した僧や来日した宋・元の禅僧の活躍によって広まっていった。渡宋した円爾(聖一国師、1202年-1280年))は、帰国後、九条道家の帰依で京都に東福寺を建て、その弟子無関普門(1212年-1292年)は亀山上皇の帰依で南禅寺をひらいた。こうして臨済禅は、王朝国家たる朝廷の保護するところとなった。当初は外来宗教的な要素が濃厚であった臨済宗も、南浦紹明(1235年-1309年)などの活動により、しだいに独自の発展の道をあゆむこととなった。南浦紹明の弟子の宗峰妙超(大燈国師、1282年-1338年)は大徳寺、その弟子関山慧玄(1277年-1361年)は妙心寺を開創した。鎌倉末期には「七朝帝師」となった夢窓疎石(1275年-1351年)があらわれている。
鎌倉では、宋から来日した渡来僧蘭渓道隆(1213年-1278年)が執権北条時頼からの深い帰依を得て建長寺を建て、息子北条時宗は宋から無学祖元(1226年-1286年)をまねいて参禅し、円覚寺を建てて初代住持とした。時宗の子北条貞時は元出身の渡来僧一山一寧に帰依した。こうして臨済宗は、一方では、王朝国家からは独立した東国国家をめざす鎌倉幕府の保護するところとなった。
一山の門下からは最初の日本仏教史といえる『元亨釈書』を著した虎関師錬(1278年-1346年)、五山文学最盛期の中心をになった雪村友梅(1290年-1347年)があらわれた。竺仙梵僊(1292年-1348年)は1329年(元徳元年)に渡来した中国僧で、一山一寧同様、日本の禅宗文化を創始した一人と見なされる。以上掲げた人物以外にも大陸からはたくさんの禅僧が渡来し、いわば「渡来僧の世紀」とも呼ぶべき文化状況が生まれた。
道元と曹洞宗
曹洞宗の開祖である道元(1200年-1253年)は、内大臣であった土御門通親(久我通親)の子息として京に生まれた。道元も幼少にして父母を失い世の無常を感じて仏門に入った人物であり、13歳のとき比叡山で出家して天台教学を学んだ。仏法をきわめるために中国で禅を学ぶことを勧められ、栄西の建てた建仁寺の明全に師事し、1223年(貞応2年)明全とともに渡宋して足かけ5年間禅を学び、最後に天童山の如浄に師事して、ついに悟りの境地(「身心脱落」)の境地に達して、如浄の印可を受けた。曹洞禅は黙照禅(もくしょうぜん)ともいい、公案中心の臨済禅に対し、ひたすら禅に打ち込むことによって内面の自在な境地を体得しようというものである。
上述のように、禅宗は一般に外来宗教の要素が強いともいわれるが、道元の思想についてはしばしば独創性が豊かあると評される。道元が比叡山を離れた時、かれの念頭にあった疑問とは「人が本来、仏であるのならば、どうしてさらに発心修行して悟りを求める必要があるのか」ということであった。すなわち、天台本覚思想に対する根本的な疑問であり、それをどう乗り越えるかということであった。また、宋に渡って船が寧波の港に着き、積み荷のシイタケを買いに来た老僧との対話も、その後の道元の思想形成に強い影響をあたえることとなった。その老僧は、近くの育王山で炊事係をつとめているとのことであり、道元が「どうして、尊年(御高齢)でありながら、坐禅して、禅僧のことばを手がかりに考えるということをなさらず、炊事係のようなわずらわしい雑用に従事しておられるのですか。それが何のお役に立つのですか」と話しかけたところ、「外国の好人、未だ弁道を了得せず、未だ文字を知得せざるあり」と答えた、つまり、あなた(道元)は、書籍に記してあることの本当の意味が分かっていないと「大笑」されたのである。これは、坐禅や勉学にくらべて炊事などの日常的な用務は低級ないし無意味と考えていた道元にとっては大きな衝撃であった。これは、後述する修証一如の思想に大きな影響をあたえることとなる。
道元は、時を経るにつれて仏法が失われていくとする末法思想は、かりそめの教えであり真の教えではないと否定した。そして自力による修行をすすめたが、これは天台本覚の教えで説くところの「人はみな仏性(悟りを得る力)を備えている」からこそ可能だという考えにもとづいている。
1227年(安貞元年)に帰国した道元は、建仁寺で正しい坐禅を説いた『普歓坐禅儀』を著し、禅こそが釈迦より伝えられた正法であると説いたため、延暦寺の僧たちの迫害対象となった。道元は、1230年(寛喜2年)建仁寺を去って深草(京都市伏見区)にのがれて『正法眼蔵』の著作を開始、1234年(文暦元年)、山城国宇治に興聖宝林禅寺を建て、坐禅修行を求める人びとの道場とした。道元は、唐代のきびしい禅を追求したところから「古仏道元」と呼ばれた。
道元は、不立文字を唱え、理論にとらわれず、一切を捨ててただひたすら坐禅に打ちこむことによってありのままの自己が現れ、身心脱落して悟りにいたる只管打坐を唱えた。これが正法禅である。道元は加持祈祷も念仏行を否定して正法禅の運動をつづけたが、それは従来の仏教における贅肉をいっさい削ぎおとす主張でもあったため、延暦寺からの迫害は年を追うごとにいっそう激化した。道元は、貴族の子として生まれた人物ではあったが、世俗的な権勢をいっさい拒否し、六波羅探題の武士であった波多野義重の招きに応じて1243年(寛元元年)越前国志比荘に向かい、永平寺で坐禅中心のきびしい修行と弟子の育成に努めた。
和文で記された道元の主著『正法眼蔵』は、その存在論や時間論、言語論が現代においても注目されている。また、その含蓄深い内容はもとより、言葉づかいや文体その他表現の上でも日本語による宗教的・哲学的論述の最高峰のひとつといわれる。道元は『正法眼蔵』冒頭「現成公按」巻において、「仏道をならふといふは自己をならふ也、自己をならふといふは自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」と説いている。すなわち、仏の道を学ぶということは自己を知るということであり、自己を知るということは自己へのとらわれを取り除くことであり、自己にとらわれなければ現実のすべてが明らかになり、現実のすべてが明らかになれば身心脱落(悟り)に達し、自身と他者との区別もおのずから無くなるというような意味であり、さらに、世俗の一切を捨てて、生活のすべてを修行とすることこそ悟りであると教え、自己放下(じこほうげ)を強調して、煩悩や迷いのもととなる自己意識をうち捨てて本来の自己や真実の自己のあり方にめざめるべきことを説いている。栄西が新しい国家仏教を指向したのに対し、道元は、あくまでも普遍的な思想としての仏教を追い求め、如浄の教えにしたがって政治権力から離れた。世俗化した当時の仏教については臨済禅もふくめて根本からこれを批判している。これは、仏陀本来の精神に立ち帰ることの提唱であり、その点では、道元の思想もまた仏教の純化を指向するものであった。
道元ならではの思想として「修証一如」がある。修証一如とは、「修証一等」とも称し、『正法眼蔵』の巻首「弁道話」のなかで説かれ、「修」すなわち修行と「証」すなわち悟りとは同じ一つのものであって、修行に終わりはなく、また、悟りにも始まりはないという考え方である。したがって、そこにおける坐禅(只管打坐)は、悟るための修行ではなく、すでに悟ったうえでの修行なのだから、たとえば、それが初心者の学問修行であっても、そこには完全な悟りが実現されているとみる。すなわち、道元の説くところにおいては、坐禅は、悟りを得るための手段にとどまらない。坐禅して無心の境地にあるとき、人はすでに覚者すなわち仏陀なのであって、坐禅は仏としての行為(仏行)となる。ただし、仏であるという事実に安住するのではなく、仏であるからこそ、無限の修行を続けていかなくてはならないと理解される。そこから敷衍するならば、生活のすべてが修行なのであり、修行となるような生活をこそ送らなければならない。
孤高の思想家である道元自身には元来一つの宗をおこす意思はなかったと思われるが、永平寺につどった道元の弟子たちは教団化に努めた。永平寺の2代貫主となった孤雲懐奘は道元の教えを『正法眼蔵随聞記』として記し、懐奘の弟子で鎌倉時代末期にあらわれた瑩山紹瑾は、越前国・加賀国・能登国など北陸道を基盤として曹洞宗教団を打ち立てた。坐禅の修行そのものが悟りであるという修証一如(修証一等)の教えはしだいに地方武士のあいだに広まっていった。
なお、この時代の遁世僧は、禅宗のみならず律宗や時宗などもふくめ、一般に顕密諸宗の官僧にくらべて諸国間を移動することが多かった。特に禅宗の場合は各地に「旦過」と称する宿泊施設を設けて僧の逗留に資している。 
旧仏教の刷新
信仰と実践を重んじる「新仏教」があいついで生まれ、武士や庶民に徐々に浸透していったものの、社会的勢力としては南都六宗や天台宗・真言宗などの勢力(旧仏教)が、依然として大きな力を保っていた。特に山門(天台宗)は大勢力を保ち、権門勢力と結んでしばしば新仏教に弾圧を加えた(権門体制)。しかし、「新仏教」の活発な活動に刺激をうけて、いわゆる「旧仏教」内部でも現状の反省と革新への気運が盛り上がってきた。なお、後述するように、「新仏教」と呼ばれる変革運動が実際に社会を動かすような力を持つようになるのは室町時代から戦国時代にかけてのことである。
法相宗
貞慶(解脱) / 1155年-1213年 興福寺の僧の堕落をきらって笠置山に隠棲、戒律の護持・普及につとめ、法然の専修念仏を攻撃した。
華厳宗
高弁(明恵) / 1173年-1232年 京都の栂尾に高山寺を開いた。戒律を重視し、『摧邪輪』を著して法然を批判した。
律宗
俊芿(我禅) / 1166年-1227年 渡宋して戒律を学び、京都に泉涌寺をひらいて台・密・禅・律兼学の道場とした。真言宗泉涌寺派の祖といわれる。
叡尊(思円) / 1201年-1290年 大和の西大寺を復興し、戒律の護持・普及や民衆の教化につとめた。架橋や道路建設などの社会事業も熱心におこなった。
忍性(良観) / 1217年-1303年 叡尊の弟子で鎌倉に極楽寺をひらいた。病人や貧民救済につとめ、奈良に救らい施設北山十八間戸を設営した。
凝然(示観) / 1240年-1321年 学問即行の立場で仏教史はじめ多数の著述をおこない、華厳、戒律の宣揚に努めた。特に『八宗綱要』は日本仏教史上重要である。
真言宗
覚鑁(正覚) / 1095年-1143年 諸流細分した真言宗の修行を大成し、大伝法院流を創唱して、新義真言宗の祖といわれた。
天台宗
恵鎮(円観) / 1281年-1356年 叡尊らの活動に刺激を受けて戒律「復興」運動をおこす。後醍醐天皇の討幕運動に参画、『太平記』編集の責任者でもあった。 
法相宗
京都に生まれ、法相宗中興の祖といわれる解脱房貞慶(1155年-1213年)は、南都の興福寺にはいって叔父にあたる覚憲に師事して法相教学と律を学んだ。しかし1193年(建久4年)、荘園領主として世俗勢力化した興福寺に失望、僧侶の堕落をきらって同寺を出て、弥勒信仰によりながら南山城山中の笠置寺に隠遁した。笠置寺では、海住山寺の再興に尽力し、戒律の復興につとめ、また1205年(元久2年)に浄土宗を批判する『興福寺奏状』をあらわしたが、これは上述の法然弾圧の契機をつくることとなった。1208年(承元2年)、貞慶は再興なった海住山寺にうつっている。
従来の法相宗の基本的教義である「五性各別式」は、人間のなかには仏性をもたない「無性」の者がいるというものであったが、貞慶は良遍とともに「無性」概念は方便として設定されたものであると述べて「悉有仏性」を説き、法相宗のあり方としては自己否定と称されるほど踏み込んだ考えを示した。
なお、海住山寺五重塔は、貞慶の弟子覚真が師の一周忌供養に建立したものであり、国宝に指定されている。
華厳宗
華厳宗中興の祖といわれる高弁(1173年-1232年)は、平重国の子として紀伊国で生まれ、明恵上人の名で知られる。高弁は後鳥羽上皇と北条泰時から帰依をうけた。
1188年(文治4年)、高弁は上覚を師として出家し、東大寺戒壇で受戒した。東大寺の尊勝院で華厳教学を学んだが、21歳のときに国家的法会への参加要請を拒んだのち、東大寺を出て遁世した。1206年(建永元年)、高弁は、後鳥羽上皇の院宣により京都北郊の栂尾に高山寺をひらき、法然の専修念仏に反論する『摧邪輪』をあらわした。かれは、仏陀の説いた戒律を重んじることこそ、その精神を受けつぐものであると主張し、生涯にわたり戒律の「復興」を身をもって実践した。
なお、高弁は栄西より茶の種子を譲られたことから、栂尾はのちに茶の名産地となっている。
律宗
戒律を重んじる律宗では我禅坊俊芿(1166年-1227年)が南宋からの帰国後、京都に泉涌寺を再興し、天台・真言・禅・律兼学の道場とした。俊芿の律は、唐招提寺や西大寺を中心とする奈良の律(南京律)に対し、北京律といわれた。また、宋学(朱子学)を日本に伝えたのも彼であるという。
律宗中興の祖といわれる思円房叡尊(1201年-1290年)は、興福寺の僧を父として現在の奈良県大和郡山市に生まれた。1217年(建保5年)、17歳で京都山科の醍醐寺で出家し、同年中に東大寺戒壇で受戒した。1236年(嘉禎2年)、興福寺の覚盛らとともに東大寺法華堂の観音菩薩の前で自誓受戒し、単にみずからの悟りをめざすのみならず、他人も救済しようとする菩薩僧になることを誓った。叡尊は大和国西大寺を再興し、殺生を悪としてきびしく禁じて戒律「復興」に努める一方、技術者集団をかかえて道路や港湾の修復や架橋、寺社の修造などの公共事業をおこない、非人や貧民・病者の救済など社会事業にも力を尽くして、民衆の教化に努めた。
中国から最新の戒律の教えを取り入れた叡尊の教団にあっては、厳しい戒律を守ることこそが多様な救済活動の原点になっていた。民衆に対しては、分に応じた戒律の護持を勧め、戒律を守れば、その呪術力によって願いがかなうと説き、鎌倉中期以降爆発的に発展した。叡尊は1262年(弘長2年)、金沢実時や三村寺にいた弟子の忍性の招きにより鎌倉を訪れ、実時や新しく執権となった北条時宗に授戒した。叡尊による直接の受戒者は出家者で1,694人、在家者6万人余におよぶと伝えられる。叡尊は、南都北嶺で受戒した官僧に対し、新たに西大寺と唐招提寺に戒壇を設け、遁世僧にも授戒の道をひらき、鎌倉時代の社会に大きな影響をあたえた。朝廷・幕府の権力者から最底辺の民衆にまで厚い支持を集めた叡尊はまた、元寇に際して敵国調伏の祈祷を石清水八幡宮でおこなったことでも知られる。
良観房忍性(1217年-1303年)は、16歳で母を失い官僧となったが、1239年(延応元年)、23歳で叡尊の西大寺再建に勧進聖として加わったことを契機として、叡尊に師事した。1240年(仁治元年)ころ、忍性は叡尊とともに西大寺を拠点として大和国内の宿々に文殊菩薩の図像を掲げて供養をおこない、住人に施物(せもつ)をあたえているが、このような慈善はそののちもしばしば繰り返された。師と同様、社会事業に尽力した忍性は、1243年(寛元元年)、奈良にハンセン病患者を救済するための施設として北山十八間戸を設立し、その経営にあたった。忍性は、1252年(建長4年)、東国に下り、常陸国三村寺(つくば市)に住み、その後、鎌倉に入って北条業時らの保護を受け、1267年(文永4年)、鎌倉の極楽寺を再興してそこを拠点に律宗復興のため尽力した。極楽寺境内には病宿・らい宿・薬湯室・療病院・坂下馬療屋などの施設が整えられた。また、和賀江島の修築や極楽寺坂切通しの開削など鎌倉で港湾の整備や道路整備などの土木事業にたずさわった。同時期に鎌倉で活躍していた日蓮からは「律国賊」と論争を挑まれたことがある。鎌倉はじめ各地に悲田院を設立した忍性は、とくに非人救済に尽力したが、それがことのほか重視されたのは、文殊菩薩信仰によるものである。文殊菩薩が貧窮・孤独・苦悩の姿に変わって人びとの前面にあらわれるという経文が信じられていたからであった。忍性はまた、重源・栄西とならび、東大寺大勧進職となった遁世僧であった。
他に律宗出身の学僧としては、円照(1221年-1277年)とその弟子凝然(1240年-1321年)がいる。特に凝然は、華厳経にも通じ、インド・中国・日本にまたがる仏教史を研究してその編述をおこない、日本仏教の包括的理解を追究して多くの著作をのこした。凝然の著した『八宗綱要』は日本仏教史上重要な文献である。
真言宗
高野山では平安末期に正覚坊覚鑁(1095年-1143年)があらわれて、山内に大伝法院をつくり、民衆への布教につとめたが、金剛峯寺と対立して紀伊国の根来に退いて円明寺(根来寺)を建てた。かれは、諸流細分した真言宗の修行方法を大成し、大伝法院流を創唱した。その後、金剛峯寺方(本寺方)と覚鑁の流れを汲む大伝法院方(院方)との間で抗争が長くつづいた。
鎌倉時代中期にあらわれた俊音房頼瑜(1226年-1304年)は、大伝法院をさかんにしたが、金剛峯寺側が大伝法院に圧迫をくわえたため、1286年(弘安9年)、頼瑜は大伝法院を根来円明寺にうつして高野山から分かれ、大日如来の加持法身説(新義)を唱えて新義真言宗がひらかれた。
天台宗
近江に生まれた円観房恵鎮(1281年―1356年)は、1295年(永仁3年)に延暦寺で出家・受戒し、官僧名としては伊予房道政の名を付けられた。1303年(嘉元元年)、いったん遁世して禅僧となったが、翌年には黒谷にもどり、1305年(嘉元3年)ころ、師の興円にしたがって再び遁世し、以後、師に協力して円戒(天台宗の戒律)護持を主張した。この戒律復興運動は南都の叡尊らの活動に影響を受けたものである。恵鎮は、東大寺の大勧進となったり、法勝寺の復興に尽力するなど重要な役割をにない、『太平記』編纂の責任者も務めた。後醍醐天皇の討幕計画に参画し、文観とともに北条氏を呪咀したため、一時、陸奥国に配流された。建武新政が倒れたのちは足利尊氏の帰依を受け、建武式目の制定にかかわったといわれる。恵鎮は、円戒に関する多くの著作をのこしている。 
「旧仏教」諸派と「新仏教」の関係
このように、「旧仏教」は戒律の「復興」を掲げて、国家からの自立と非人などの社会的弱者や女人もふくんだ個人の救済に努めたが、「新仏教」とりわけ念仏に対する対抗意識も強く、これを排撃する側に加わることもあった。上述した承元元年の弾圧はそのことにより引き起こされたものであった。
そのいっぽう、華厳宗の高弁(明恵)は三時三宝礼により「南無三宝後生たすけさせたまえ」と唱えるだけで成仏できると説き、法相宗の貞慶は唯心の念仏をひろめるなど、表面的には専修念仏をきびしく非難しながらも浄土門諸宗の説く易行の提唱を学びとり、これによって従来の学問中心の仏教からの脱皮をはかろうとした。
教学の面では、いわゆる「旧仏教」の側で「新仏教」に刺激されて集大成の気運が高まった。貞慶や高弁、また三論宗の明遍はじめ超人的な学僧が多数あらわれ、日本独特の教学を成立させた。また、東大寺の宗性は数々の僧伝を集成して日本仏教史を考察しようと努め、華厳教学を宗性に学んだ上述の凝然もまた仏教史を編述した。
鎌倉仏教と天台本覚思想との関連については、鎌倉仏教が本覚思想を否定することによって成立したという見方がこんにちの仏教学界では大勢をしめている。しかし、 鎌倉仏教を天台本覚思想の発展とする考え方も従来から存在しており、島地大等や宇井伯寿らすぐれた仏教学者によっても唱えられている。とくに島地は、「日本には『哲学』がない」と説いた中江兆民に対して、「哲学なき国家は精神なき死骸である」と述べて批判し、日本独自の「哲学」を代表するものとして本覚思想を掲げている。上述した親鸞の願力回向の説や一遍の思想などは本覚思想との連続性がみてとれる。日本思想史を専門とする尾藤正英は、日蓮の思想や道元の思想にも、本覚思想の実践化・具体化の要素があると指摘している。 
鎌倉仏教論
「新仏教」・「旧仏教」概念の提唱
鎌倉仏教を「旧仏教」「新仏教」と呼んで区分する考え方自体は近代以降に成立した比較的新しいとらえ方である。この語が最初に用いられたのは、日本仏教史研究の先駆者とされる村上専精が明治時代に発行した『日本仏教史綱』(1898年-1899年)であり、「新仏教」という表現には高弁(明恵)以下のいわゆる「旧仏教」側の改革の動きをも含めて解説し、こうした動きに加わらなかった既存寺院を「従来仏教」「古宗」と表記している。
大正時代に入ってから、法然・親鸞・栄西・道元・日蓮・一遍によってはじめられた6宗をもって既存宗派と区別する見解が登場した。大正から昭和にかけては辻善之助が「旧宗」「新宗」と分類し、続いて大谷大学の大屋徳城が今日のような「旧仏教」「新仏教」の区分を用いて以降、この呼称が定着した。この6宗を「鎌倉新仏教」と称する見解は、戦後にもひきつがれ、家永三郎・井上光貞らをはじめとして長い間通説となっていたものであるが、ここでは、選択・専修・易行を特徴として広く武士や庶民に信仰の門戸を開いたことが重視される。
一方、前掲したように、奈良仏教や平安仏教、いわゆる「旧仏教」と称されるなかにも「新仏教」6宗に触発されて新しい動きが生まれた。具体的には、華厳宗の高弁(明恵)や凝然、法相宗の貞慶(解脱)、真言宗の覚鑁、西大寺流(後世「真言律宗」と称される教団。新義律宗教団)を開いて広く社会事業を展開した叡尊と弟子の忍性などの仏教活動である。これらについては単純に「旧仏教」と称してよいのかという疑問が提起されている。特に、叡尊・忍性の教団は「新仏教」と称すべき要素を持つのではないのかという指摘が各方面よりなされている。
真言律宗教団について
松尾剛次は、鎌倉新仏教の最も重要な要素を「国家からの自立」と「個人の救済」ととらえ、この2つがあって初めて貴族仏教から脱却して民衆仏教としての鎌倉新仏教が成立したとする立場に立っている。そこで、後世「真言律宗」と称される教団がどの新仏教宗派よりも先に国家公認の戒壇に代わる独自の戒壇を樹立して、独自の授戒を開始し、社会事業を通じて非人などの社会的弱者を救済し、あるいはこれまで国家から授戒を拒否されてきた女性(尼)への授戒を認めるなど、個人の救済を通じて社会に対する布教を行った事実を指摘した。そして、「鎌倉新仏教」と称されてきた6宗が天台宗を母体としていたように、真言律宗は律宗と真言宗に基礎を置きながらも、寺院外で活動する遁世僧を組織し、民衆救済を目的として活発な活動をおこなうなど、実態としては新仏教そのものであるとして、真言律宗教団を鎌倉新仏教の1つとする説を唱えた。
平雅行もまた、叡尊ら西大寺流は、従来の律宗とは戒律に対する考えが異なっており、人間集団としても全く異なることを指摘し、その点で、「鎌倉新仏教」の祖と称しうる内実を備えていると述べている。叡尊らの教団は、鎌倉時代の中期から南北朝時代にかけて爆発的に発展したが、その衰退も急速に進行し、江戸時代には独自の教団を構成することができず、真言宗と律宗に編入されている(それに対し、日蓮宗は室町時代以降天台宗より自立し、特に戦国時代に急速に発展し、江戸時代にあっては独立した宗派とみとめられている)。
さらに、蓑輪顕量・追塩千尋なども、その立脚する立場はそれぞれ異なるものの、真言律宗(西大寺流)を「鎌倉新仏教」の範疇のなかで把握している。
家永・井上説
上述した、家永三郎・井上光貞の見解は、法然・親鸞・栄西・道元・日蓮・一遍によってはじめられた6宗を「鎌倉新仏教」とし、ここでは、選択・専修・易行(反戒律)・在家主義・悪人往生などを特徴として、広く新興武士層や庶民などに対し信仰の門戸が開かれ、階層や身分を超越したあらゆる人びとの救済が掲げられたことが重視されており、多数の研究者の圧倒的な支持を得て定説化されたものである。
鎌倉仏教の研究史に画期をもたらすことになった家永の研究には1947年(昭和22年)の『中世仏教思想史研究』収載の一連の論文がある。家永によれば、天台・真言の平安仏教は、本質的に天皇と国家の消災到福の機能を果たしていくことに存在意義を見いだす「鎮護国家」の仏教にほかならなかったため、そこでは民衆の存在は視野になく、民衆救済は等閑視されており、それゆえ、民衆救済を掲げた「鎌倉新仏教」の画期性が強調される。
浄土教についてさらに深く追究し、克明かつ実証的な研究によって家永説をささえることとなった井上の理論的著作としては1956年(昭和31年)の『日本浄土教成立史の研究』がある。井上の視点には、石母田正の「領主制理論」の強い影響が認められる。石母田は戦後まもなく『中世的世界の形成』(1946年)を刊行し、伊賀国黒田荘(三重県名張市)を舞台として領主東大寺の古代的な荘園支配から武士団というかたちをとりながら在地領主が自立してゆく過程をえがき、このような在地領主層の台頭とそれに並行して展開していく農民の農奴化の動きこそが「領主制」という中世固有の社会関係の形成を示すものととらえた。井上は、このような古代国家の解体および武士団の成長という歴史過程と対応において浄土教の発達を論じているのである。
八宗体制論と顕密体制論
1969年(昭和44年)に日本仏教史研究者の田村圓澄によって初めて提唱された八宗体制論は、法然より始まる鎌倉新仏教の成立を、それ以前の貴族的・祈祷的な鎮護国家的な古代仏教に対し、個人の救済を主眼とする民衆仏教の成立として把握する家永・井上らによって唱えられた知見をベースとしており、1970年代以降の日本仏教史研究に影響をあたえた。田村は論文「鎌倉仏教の歴史的評価」において、『興福寺奏状』中の「八宗同心の訴訟」(伝統仏教八宗が心をひとつにしての訴え)の文言に注目し、八宗(南都六宗および平安二宗)がそのように同心して法然とその教えを排撃しようとする背景には、法然の教義から自分自身のもつ特権を防衛しようとする伝統仏教側の意図があったとみなし、そうした共通の利害にもとづく仏教界の古代的な秩序を「八宗体制」と名づけたのである。
なお、家永・井上の研究によって定説化され、田村圓澄の八宗体制論にひきつがれる通説をまとめると下表のようになる。
 項目 / 家永・井上・田村らの定説による説明
新仏教 法然・親鸞・栄西・道元・日蓮・一遍をそれぞれ祖師とする教団の仏教。
旧仏教と旧仏教改革派 八宗(南都六宗・平安二宗)は旧仏教。華厳宗の高弁(明恵)・律宗の叡尊は旧仏教のなかの改革派。    
新仏教の特色 選択・専修・易行。民衆救済の仏教。
旧仏教の特色 兼学・雑信仰・戒律重視。国家仏教・貴族仏教。
中世仏教 新仏教
布教対象 武士・農民・都市民
社会経済史とのかかわり 荘園制を古代的制度ととらえる。荘園領主である寺社もまた古代的である。
八宗体制論を軸とする田村の見解は、それまで混乱と分裂のイメージでとらえられがちであったいわゆる「旧仏教」の側にも、共通の利害に由来した一定の秩序があったことを指摘した点が従来説とは異なっており、これはやがて次の段階における鎌倉仏教研究にあって大きな課題として浮上していった。すなわち、中世社会において伝統仏教がたがいに共存する体制をどうとらえるかが問題になったのである。
こうしたなか、従来、思想史と宗門史によって進められてきた鎌倉仏教研究を宗教史への総合的な統一のなかで扱うことを提言した黒田俊雄は1975年(昭和50年)、『日本中世の国家と宗教』などにおいて、「新仏教」「旧仏教」という分析概念ではなく、「正統派」「改革派」「異端派」の分析概念を採用した。そして、鎌倉時代にあっても南都六宗や天台宗・真言宗は「顕密主義」という共通の基盤を有しており、むしろ密教化を進めてきた「旧仏教」の方こそが主流であったという「顕密体制論」(「密教を統合の原理とした顕密仏教の併存体制」と規定される)を唱え、これら主流派の寺社勢力に対する異端として法然・親鸞・日蓮・道元らを位置づけ、一方、高弁や叡尊らを改革者と位置づけた。ここでは、従来、古代的とのみ見なされてきた仏教勢力が封建領主の一形態として中世的な変化を遂げていく様態が重視され、黒田自身の提唱した権門体制論の国家像を前提としながら、政治社会史全体のなかで仏教をとらえることで仏教史に新たな視点を提供した。家永・井上らの「旧仏教=古代仏教、新仏教=中世仏教」という図式は完全にくつがえされた。なお、国家的寺院かつ古代寺院であった東大寺が、荘園領主としての中世寺院へ生まれ変わっていく過程については、稲葉伸道、久野修義、永村真らの研究がある。
かつて鎌倉新仏教によって克服されるべき古代的秩序とみなされた「八宗体制」は、日本中世史研究の新たな蓄積をふまえた黒田によって換骨奪胎され、「顕密体制論」として再構築された。そして、田村によって「八宗」と総称され、新仏教によって克服の対象とされた伝統仏教の側こそがむしろ中世における正統仏教とされたのである。黒田による顕密体制論をまとめると、以下のようになる。
 項目 / 黒田説(顕密体制論)による説明
新仏教 法然・親鸞・日蓮・道元による異端の仏教(弾圧を受けた一握りの弟子たちの仏教も含める)。
旧仏教と旧仏教改革派 南都六宗・平安二宗は旧仏教。高弁・叡尊・栄西・一遍は旧仏教改革派。法然・親鸞・日蓮・道元らの大部分の弟子の仏教も改革派に属する。
新仏教の特色 密教の否定。世俗権力と対決したため、異端として弾圧される。
旧仏教の特色 密教化・世俗権力との癒着。中世仏教における正統。
中世仏教 変質した旧仏教(新仏教は異端で少数派)
布教対象 荘園農民
社会経済史とのかかわり 荘園制を中世的制度ととらえる。荘園領主である寺社もまた中世的である。
法然・親鸞の研究からはじまって黒田の顕密体制論をひきついだ上述の平雅行によれば、「改革派」は祈祷を重視した戒律興行、仏法王法相依論の主張、禅律僧の諸活動(勧進、交通路の整備、葬送、慈善救済事業)を特色としており、「異端派」の特色は、雑行・雑信の否定をともなう仏法の一元化、此岸の宗教的平等思想、一切衆生(「穢悪の群生」)という身分思想、そして、顕密仏教の思想的呪縛や宗教的領主支配からの民衆の解放などの諸点である。
平はまた、中世においても、鎮護国家と五穀豊穣を祈念する「旧仏教」は津々浦々に末寺末社のネットワークを張り巡らし、全国一斉に豊作祈願をおこなっていること、なかでも比叡山延暦寺では、天台・真言のみならず南都仏教や浄土宗・禅宗まで仏教のあらゆる教学が講じられる一方、和歌、儒学、農学、医学、天文学から医学、土木技術にいたるまでの諸学が教授されていたことを指摘し、いわゆる「旧仏教」は「中世の知識体系の結節点」でもあったと述べている。いわゆる「旧仏教」はこのように、社会的にも、文化的にもきわめて大きな影響力を保持しており、平はその大きさを「中世社会を貫く文化体系」と表現している。それにくらべれば、いわゆる「新仏教」が同時代にあたえた影響力はほとんどなく、浄土真宗や日蓮宗、曹洞宗が社会的意味合いをもつようになるのは戦国時代に入ってからとしている。すなわち、応仁・文明の乱以後、権門体制がくずれ、伝統八宗(顕密仏教)や五山派が凋落したのに対し、それに代わって一揆(一向一揆・法華一揆)を組織して多くの信者を獲得したのが浄土真宗であり、日蓮宗であった。浄土教においては、浄土真宗にくらべ多数の信者をかかえていた時宗が衰退し、禅宗のなかでは、五山に代わって林下の禅(曹洞宗系、臨済宗のなかでも大徳寺や妙心寺など五山派以外の寺院による禅)が勃興した。仏教界でも下剋上の動きがおこって「異端派」の教えが爆発的に広まっていったのであった。
「遁世僧」という視座
近年、松尾剛次が、官僧および遁世僧という分析視覚を設定して、新たな鎌倉仏教論を展開している。それによれば、国家公務員的な僧侶である官僧に対し、その世界から離脱して遁世僧となった僧を祖師として個人の救済につとめた教団こそが「鎌倉新仏教」と称されるべきであり、その意味からは高弁(明恵)や叡尊も何ら6宗との差異が認められないところから、「鎌倉新仏教」の範疇に含めて考えて問題ないと主張している。松尾は、上述の黒田に対して宗教史の展開は社会経済史の展開に対して自律的だとの見解を採っており、「新仏教」の呼称も中世仏教の新しさを典型的に示すという意味で用いている。松尾独自の視点をまとめると下表のようになる。
 項目 / 松尾説による説明
新仏教 法然、親鸞、日蓮、栄西、道元、一遍、高弁、叡尊、恵鎮などの遁世僧を祖師とする教団の仏教。
旧仏教 官僧僧団(天皇より鎮護国家を祈る資格を認められた僧侶の集団)による仏教。
新仏教の特色 「個人」救済を第一義とする個人宗教。祖師信仰を有する。
旧仏教の特色 鎮護国家の祈祷を第一義とする共同体宗教。
中世仏教 新仏教
布教対象 都市的な場での「個人」
松尾によれば、法然、親鸞、日蓮、栄西、道元、一遍、高弁、叡尊、恵鎮らは、一遍をのぞけばすべていったんは受戒して正式な官僧となった人物であり、なおかつ、官僧集団との対抗関係や協力関係を通して、みずからの立脚すべき道を見いだしていった僧である。松尾は、「鎌倉新仏教」が一応社会的に認められるに至った鎌倉時代後半にあらわれた一遍もまた、事実としては官僧経験のなかった人物であるにかかわらず、延暦寺で学び、延暦寺戒壇で受戒したという一種の神話が『一遍上人年譜略』に記されていることから、遁世僧教団の核となった僧は、官僧から離脱して再出家した二重出家者(遁世僧)であるべきとの観念が流布していたことが裏付けられることを指摘している。そして、従来「旧仏教」にカテゴライズされていた高弁(明恵)、叡尊、恵鎮もふくめて、「新仏教」の祖師と称されるべき新しい仏教活動を開始し、在家信者を構成員とする教団を樹立したのである(松尾は、泉涌寺の俊芿、海住山寺の貞慶、三宝寺の大日能忍もその可能性が高いとしている)。さらに、これらの教団は祖師神話をもち、祖師である遁世僧を核として構成員を再生産するシステムをつくりだしているのであり、具体的には、松尾のいう「旧仏教」が国家的得度によって出家・受戒した僧によって担われ、法衣も律令の授戒制下にあって白色の袈裟を着用することが多かったのに対し、松尾のいう「新仏教」は、天皇とは無関係な独自の入門儀礼のシステムを持ち、「穢れ」や貴賤を超越した色と認識された黒衣を着るなどの違いがある。そして、着衣の色は、それを着ている僧の自己認識を象徴していたと考えられるのである。
さらに、松尾は、官僧が大きな特権を有していた反面、朝廷に仕えることによって「穢れ」を忌避しなければならず、公費によって活動するため、穢れた存在とみられた女人の救済や非人の救済、死穢にふれる葬送、諸国をめぐりさまざまな穢れにふれる可能性の高い勧進などの諸活動に大きな制約があったのに対し、黒い法衣を選んだ遁世僧僧団は、官僧の特権と制約を離れ、教義の母体をどこに置くかにかかわらず、あるいは、戒律を重視する・しないにかかわらず、女人救済・非人救済・葬送・勧進などの諸活動に従事することができたのであり、これこそが「新仏教」と称されるべき内実であると主張した。
「新仏教」概念の有効性について
一方、平雅行は、「鎌倉新仏教」の分析概念が有効であるかについて疑義を呈している。上述の通り、貞慶や良遍が法相宗において従来の教義から逸脱するかのような大胆な論理を展開したことや律宗の叡尊教団が従来とは異なる考え方にもとづいて新しい活動をおこない、その担い手も異なることから、ともに「新仏教の祖」と称されてよい内実を備えている一方、日蓮のめざしたことは「天台宗の復興」であり、南北朝・室町期の日蓮宗寺院は延暦寺の末寺であって日蓮宗僧侶も多くそこで学んでいることから、むしろ「旧仏教の復興」という範疇にふくめてよいとしたうえで、「旧仏教」と「新仏教」を分ける基準が、実は江戸時代にあったことを指摘した。すなわち平は、江戸時代に独自の宗派として認可されたもののうち、中世前半の宗祖をいただいている宗派だけが従来「鎌倉新仏教」と称されてきたのにすぎないと述べ、そうであるならば、「新仏教」はむしろ「江戸新仏教」と呼ぶのが実態としては正確であるとしている。
さらに平は、古代仏教は、9世紀から10世紀を境として、密教を核として諸宗諸信仰の統合がなされ、個人的仏教信仰が発達するという大変貌を遂げており、すでに平安時代中期において、末法思想を喧伝することによって、国司や武士の横暴から世を救い、自らを救うというかたちで民衆の不満を吸収しながら、仏教の民衆化をすでに達成していた事実を指摘した。その根拠として、平安時代の文献には悪人往生や女人成仏の話が多く収載されていること、また、当時おこなわれた「悪僧」たちの強訴にしても、民衆運動としての一側面があったことが掲げられている。
以上のことから、平は、従来、分析用語として用いられてきた「鎌倉新仏教」の呼称は、親鸞や日蓮らの影響力を過大視することを前提にしたものであり、これはむしろ、近世における宗派秩序を中世に投影させることによって生じた誤解ではないかと論じている。もとより、平は「新仏教」(平の用語では「異端派」)の歴史的意義として、上述のように、仏法の一元化(純粋化、絶対化)を進めて社会に批判の眼を向け、人間平等を主張して民衆を解放したことを挙げているが、同時に、鎌倉仏教の分類や定義は、その内在性に即して検討されるべきことを主張しているのである。
「鎌倉仏教」概念をめぐっては、以上のように活発な議論がおこなわれてきたが、こんにちでは鎌倉仏教の変容を時間的推移のなかで探究していくこと、および、経済史および政治史との関係性のなかで鎌倉仏教の全体史を構築していくことが重要な課題となっている。 
 
鎌倉時代の布教と當時の交通

 

原勝郎
佛教が始めて我國に渡來してから、六百餘年を經て所謂鎌倉時代に入り、淨土宗、日蓮宗、淨土眞宗、時宗、それに教外別傳の禪宗を加へて、總計五ツの新宗派が前後六七十年の間に引續いて起つたのは、我國宗教史上の偉觀とすべきものであつて、予は之を本邦の宗教改革として、西洋の耶蘇紀元十六世紀に於ける宗教改革に對比するに足るものと考へる、其理由は雜誌「藝文」の明治四十四年七月號に「東西の宗教改革」として載せてあるから、詳細はそれに讓つて今は省略に從ふ、併ながら講演の順序としては、此等各宗の教義の内容に深入せぬにしても、少くも此等の新に興れる諸宗派を通じての一般の性質を論ずる必要がある。
王朝から鎌倉時代に遷つたのは、一言以て之を被へば、政權の下移と共に、文明が京都在住の少數者の壟斷から脱して、地方の武人にも行きわたるやうになつたのである、勿論この政權の下移に際して、眞の平民即ち下級人民までが政權に參與することを得るやうになつたと云ふ譯ではなく、寧ろ單に器械として使役されたのみに過ぎないので、從て移動のあつた後といへども、依然としてもとの下級の人民であつた、然れども既に社會の中心が政權と共に公卿から武家に下移したる以上、下級人民の立場から云つても、やはり社會の中樞に一歩近づいた譯であつて、社會史の上から論ずれば、下級人民の地位の比較的改良である、換言すれば鎌倉時代に於ては、王朝に於けるよりも、下級人民といふものをより多く眼中に置かなければならなくなつたのである。
時代の趨勢既に此の如くであるから、之に適應する爲めには、文明のあらゆる要素が、いづれも狹隘なる壟斷から離れて普遍洽及のものとなつた、殆ど佛畫に限られ、稀に貴顯の似顏を寫す位に止まつて居つた美術も、鎌倉時代に入ると、多く繪卷物の形に於てあらはれ、單に浮世の日常の出來事が畫題の中に收めらるゝに至つたのみならず、美術の賞翫者の範圍も亦大に擴がり、文學は文選の出來損ひの樣な漢文から「候畢」の文體となり漢字假名交りのものを増加した、但し藝術も文學も文明の要素としてはいづれも贅澤な要素であつて、生計に多少の餘裕あるものでなければ、之を味ひ娯むことが出來ぬ、であるから予と雖、鎌倉時代の水呑百姓が今日の農民の如く文學の教育もあり美術の嗜みもあつたとは思はぬ、然るに宗教は之に反し、當時の樣な人智發達の程度に於ては、殊に一日も缺くべからざる精神上の食物であるから、此の點に於ては如何にしても下層人民を度外に置くことは出來なかつた、要するに極めて玄妙にして而かも難解で、見世物としてはあまりに上品で、而かも高價に過ぐる從來の聖道門の佛教では、到底新時代の一般社會の渇仰を滿足せしむることが出來ず、必や下級人民をも濟度することの出來るやうな宗教が起こらなければならぬ、爰に於て此必要を充足する爲めにあらはれたのは、前に述べた易行門の諸新宗である、尤も易行門と普通に云へば多くは淨土門の諸宗派を斥すので、日蓮宗は天台の復興とこそ云へ、簡易佛教とは自稱して居らぬ、けれども日蓮宗の大體の性質から云へば、やはり鎌倉式の易行宗に似た所がある、また禪宗の如きも教外別傳と云ふからには、爾餘の鎌倉佛教と同日に論じられぬものの如くにも見えるけれども、其手數を必要とせず、つまり直指人心で、階級制度に拘泥することなき點に於て、慥に天台眞言などよりも平民的なるのみならず、悟入につきて豫備の學問を必要なりとせぬこと、正に新時代の宗派である、唯禪宗が不立文字を呼號しながら其實は立文字の極端に流れ易く、それ故に其感化は武士に止まつて、それ以下の下級人民にあまり行はれなかつたのは面白き現象といはなければならぬ。
因みに斷はつて置くが、前に鎌倉時代の文明の特徴として論じた諸の點は同時代に至りて始めて生じた者ではなく、其實は王朝の末に於て既に端緒を啓いたものである、但し機運の熟さなかつた爲めに、充分の發達を遂げ得なかつたのが、政治上の大變動と共に、一時に隆興したのである、故に文明史上に於ては、之を以て鎌倉時代のものとする方が寧ろ適當である、元來政治上の變遷と云ふものは必しも他の文明の諸要素の變遷に先ちて起るものではないが、社會百般の事物將に大に變ぜむとして未だ變すること能はず、只管に氣運の熟するを待て居る際に、之が導火線となつて大變動を起さしむるのは、多くは政治上の出來事である、而してかく政治が文明史に多大の貢献をなすは、單に鎌倉に限つた事ではない、古今東西例證に乏しからぬことである。
扨以上論じ來つた所によりて推すときは、文明を構成する諸の要素の中で、鎌倉時代を最もよく代表し得るものは、此時代に興隆した新宗教であつて、文學美術等は之に亞ぐものであることは明である、であるから今「鎌倉時代の布教と當時の交通」と題して一場の講演を試みるのは、實は宗教の流布を説くのみならずして、旁ら之によつて當時の文明一般の傳播せる徑路を辿らむと欲するのである、但し未研究の足らぬ所からして、今は文學や美術に説き及ぼすことの出來ぬのは、予の甚遺憾とする所である。
尚本論に入るに先ちて、いま一つ斷はつて置かなければならぬのは、此講演の論證の基礎とした根本材料の甚脆弱なものであることである、といふのは、予をして此講演をなすに至らしむるについて、最多く暗示を與へたのは、各寺院に存する縁起であるが、凡そ史料中で何が怪しいと云つても恐らくは此諸寺の縁起ほど信用し難いものはあるまい、いづれの寺院も皆我寺貴しの主義に基きて、盛に縁起を飾り立てるのが普通で、中には飾り損ひて、有り得べからざる事實を捏造する向きもないではない、例へば日蓮や法然の生れぬ以前に出來た法華寺や淨土寺もある、中に無學の甚しい僧侶は禪僧を以て門徒寺の開基としてすまし込んだ縁起を作つて居るのもある、よし假りに一歩を讓つて縁起に誤りが無いとしても、生憎僧侶には同じ樣な名稱が多い、即淨土宗や淨土眞宗に屬する僧侶の名は、多くは三部經中の字を繋ぎ合せたものであるから同じ名が屡※(二の字点、1-2-22)出來する、例へば芝居などによく出て來る西念などいふ僧は、實際幾たりもあり得るもので、甲の寺の縁起に見える西念と、同時代に乙の寺の縁起に載て居る西念と、一々異同を甄別することは容易のことではない、また同一の名稱が數多の僧侶に適用することが出來て、甚曖昧なることもある、例へば淨土眞宗に屬するもので常陸の國に居つた順信といふ僧がある此順信の二字の下に房の一字を加ふれば同じく常陸の僧證信の名となる、然るに證信の名ある僧は必しも順信房と號したもののみではない、外に明法といふ僧侶があつて、これも證信といふ號を持て居る、そして尚此外に單に順信とのみ稱する僧侶も別にある、コンナに混雜して居つては到底安心して考證をすることが出來ぬ、然るに此の如き困難は單に淨土宗と眞宗とに於て出逢ふばかりでなく、時宗にもある、日蓮宗にもある、また禪宗にもある、時宗では阿の字の上にいろ/\の字を加へて名とする習慣であるから時々重複を免れないが、日蓮宗の方はまた二字の僧名の中で上の一字は日の字と定まつて居るから、區別の用としては二番目の字だけであつて、これも同名異人が多い、禪宗に至つては、一人で同時に三以上の號を有して居るのが珍らしくない、殊に少しエライ禪僧になると隨分長い諡がついて居る、若し丁寧に吟味すれば全く同名と云ふことは殆どないが、其うちの二字だけ書いてある場合には屡※(二の字点、1-2-22)他の名僧の諡號と間違ふことがあつて、之を區別するには非常の手數が入る。
此の如く寺院の縁起を土臺として、宗教史を研究するには種々の危險と困難とを伴ふのであるが、それでも全く之を棄てるに忍ばざるのみならず、之を以て研究の根本材料としたのには、亦多少の理由がある、即個々の寺院の縁起の中には信用の出來ぬものあるけれども、さりとて如何なる縁起も盡く信用の出來ぬと云ふ譯ではないのみならず、宮廷にも出入しない、又幕府の眷顧をも得ない僧侶、及び僻陬にある寒寺につきては、縁起の外何等文獻に記載のなきことが多い、而して其他の場合に於けるよりも宗教界に於ては、此等無名の豪傑の手に成る事業が最も多いのであつて見れば、今講演せむとする問題の如きは、有名な本邦の佛教史籍を渉獵するのみに止まらず、世間に忘れられて居る寺や僧侶をも考察の材料とせざるを得ない、換言すれば此點に於て寺院の縁起も忽にし難い好史料である、唯此史料は甚危險な史料であるから之を採用するには一々査照を要するのであるが、予は未充分に此査照を了へて居らぬ、これは甚殘念のことであつて、而して講演に先ちて告白して置かなければならぬ義務があるのである、但し右の危險を自覺して今日演壇に上つた以上、成るべく安全な推論をなすに止め、あまり大膽な結論をなすのを避けるに力めるから、新奇な名論を紹介する能はざると、同時に大抵は動きのない邊で斷ずる積である、それでも尚怪しい所は更に他日の研鑚による外はないことになる。
隨分冗長に過ぎた前置をして、これから愈※(二の字点、1-2-22)本論にとりかゝる順序となつたが、新興の諸宗の地方に傳播した徑路を探ぐるには、五宗派の中で淨土と禪宗との二宗に徴するのが、最穩當な方法だと考へる、何故と云ふに、鎌倉時代に於て北は奧州のはてから西は九州まで、兎に角當時の日本六十六國の全體に及んだのは此二宗で、其他の三宗は東北方には、いづれも傳はつたけれども西は、京畿附近を限り、偶ま大に西進した所で、中國の西端に止まつて居る、即地方に於て前の二宗よりも多く偏在して居ると云てよろしい、就中日蓮宗の如きは殆ど關東地方特有の宗教としても差支ない程地方的制限がある、されば當時の新佛教の傳播を考察して併せて交通の問題にも及ぼさむとするには、先づ淨土と禪との二宗の場合につきて見る方が至當と云はなければならぬ、因て予は今此二宗の場合から歸納して得た結果を査覈するに他の三宗の例を以てせむと欲するのである。
淨土宗にも禪宗にも共通なる點の第一は、兩宗共に其布教上力を專ら東國に注ぎたることである、これは蓋し文明が毎に西方から始まつてそれから次第に東國に及ぼすことを以て習として居つた我國に於ては、當然のことではあるが、鎌倉時代には此歴史的惰性の外にも、尚ほ別に原因がある、それは即鎌倉に新に幕府が出來たが爲めに日本には爰に二つの中心が成立し、一は京都といふ在來の文明の中心で、これと鎌倉といふ政權武力の新中心が兩々相對立することとなつた、成り上がりの首府なる鎌倉は、文物の點に於て容易に京都と比肩することが出來ず、否遂に比肩することが出來なかつたけれども、しかし鎌倉に覇府が開けた爲めに東國の地位は著しく昂上し、今迄輕蔑して入らなかつた、或は入らうとしても受けつけられなかつた東國地方に、高等なる文物が翕然として流れ込むことゝなつた、而して文明の數多の要素の中でも特に政權を利用し得る性質を有する宗教は、文學や美術よりも一層速に其活動の中心を東方に移したので、相模の鎌倉といふものは彼等にとりては是非とも略取せざるべからざる根城であつた、京都の小天地にのみ跼蹐して滿足し得た時代は既に過ぎ去つたのである。
然らば數多き東國の間を、如何なる徑路を傳はつて、此等新佛教の傳道者が鎌倉に向つたかと云ふに、それは王朝以來の東に向ふ大通りを進んだもので、近江の野路、鏡の宿より美濃の垂井に出で、それより箕浦を經て[#「經て」は底本では「輕て」]、尾張の萱津、三河の矢作、豐川と傳はり、橋本、池田より遠州の懸河を通り、駿河の蒲原より木瀬川、酒勾にかゝりて鎌倉に著したのである、即ち今の鐵道線路と大なる隔りはない、日數は日足の長い時と短い時とで一樣には行かぬが、冬の日の短き時には將軍の上り下りなどには、十六七日を要し、春の季や夏の日の長い時なれば十二三日位で達し得たのである、個人の旅行は行列の旅行よりも一層輕便に出來る點から考ふれば、いま少し短期で達し得る樣なものであるが、宿驛に大凡定まりあるが故に甚しき差異はなかつたらしい、それは東關紀行などに照らしても明かである、阿佛尼の旅行には十一月に十四日を費した、最もこれは女の足弱であるから例にならぬかも知れぬ、伊勢路即海道記の著者が取つた道筋は、山坂も險阻であるのみならず日數を費すことも多かつたところから、普通の人は皆美濃路を擇んだものと見える、而して淨土僧禪僧も皆此美濃路に出でたが爲、伊賀伊勢志摩の三國は京都に近き國々でありながら、鎌倉時代を終るまで殆ど新宗教の波動を受けなかつたと云つて差支ないのである。
美濃以東に出でた淨土宗の布教僧は、宗祖法然上人の外數多あるが、其主なるものは相模地方まで傳道した隆寛(法然弟子)と善惠證空(同上)とである、就中善惠の事業はすばらしいもので、其布教路は中山道を信濃に出て、それよりして南は武藏、北は越後に及んで居り、其弟子隆信(立信)は三河地方に淨音法興は美濃から越前にかけて布教して居る、爰に注意すべきことは、同じく北陸道の國々でも、若狹や越前は京畿の布教圈内に入るが、越後は之と異りて、信濃から往復したもので、全くちがつた方面に屬することである、これは善惠の場合に於て然るのみならず聖光の弟子良忠一派の場合について考へても同じである、聖光は所謂鎭西派の開祖で其人自身は東國に關係を有して居らぬけれど、其弟子なる記主禪師即良忠は、實に善惠以後に於ける淨土宗の東國大布教者であつて、大往還に外づれて居る伊賀、志摩、伊豆、安房の四國を除けば、東海道中いづれの國も良忠か若くは其弟子なる唱阿性眞、持阿良心及び良曉等の風靡する所とならぬはない、否單に海道の諸國許りでなく東山道に於て信濃及び上野、下野、北陸の越後[#「越後」は底本では「趣後」]皆此良忠一派の化導を受けて居る、北陸諸國の中、加賀、能登、越中、佐渡は鎌倉時代の中にまだ淨土宗の風化に接しなかつた、これは地勢の不便によると思はれる。
新宗教に特有なる現象として、淨土宗に於ても之を認むることの出來るのは、奧州の布教について割合に大なる盡力をなしたことである、陸奧に入つた淨土宗の布教僧の中には、隆寛の弟子實成房と云ふ者もあるが、それよりも此宗旨の奧州に於ける傳播に與りて大功のあつたのは、源空の弟子の金光坊である、但し此人の足跡は、殆ど陸奧の北端に及んだけれども、遂に出羽には入らなかつた、これは蓋し陸奧出羽兩國間の交通は甚稀で、出羽に入らうとするものは越後よりして進んだからであらう、文治年間の頼朝の泰衡征伐にも、左翼軍をば越後國より出羽の念種關に出でしめ、それより比内まで北上して、それから陸奧の本軍に合せしめたのを見ても、王朝末より以來の北方交通路の有樣がわかる、而して淨土宗の日本海岸に於ける布教は鎌倉時代に在つては、また越後以北に及ぶ遑がなかつたのかも知れぬ。
淨土宗は此の如き布教路を辿り、東國に於て文永弘安の交其活動の盛を極めたのであるが、次に建長の頃より東國に頓に勢を得た禪宗の傳播は、果してどうであつたか之を淨土宗と比較すれば、極めて興味が多い。
抑も禪宗と云ふものは、其宗派としても性質組織大に他の諸宗と異り、其布教も群衆を相手として撫切りをするのではなく、個々の有志者をのみ相手とするのである、從て禪宗僧侶の布教上の活動を批評するには、必しも參禪者の多少のみを以てすることが出來ぬ、加之禪宗の傳播を研究するに別に困難なる事情がある、それは外でもないが、禪宗には他宗と同樣、師資相承といふことがあるのは勿論であるけれど、一人の禪僧で數多の先進に就いた場合が非常に多い、そこで他宗に於けるが如く分明に傳統を辿るのは甚困難であるからである。
禪宗の僧侶で東國に布教した主たる人々は、榮西、道隆、佛源禪師、大休、及び夢窓國師等であるが、一體禪僧と云ふものは、他宗の僧侶よりも一層世間離れがして居りながら、而かも頗る敏活に機微を察し得るものである、そこで鎌倉を取りこまなければ、將來の日本に於ての發展がむづかしいと云ふことは、禪僧の方が淨土宗の人々よりも、一層切實に考へた樣である即彼等の東方に向ふや、其徑路は淨土僧と同じ筋であつたけれど、其道筋を一歩一歩布教しつゝ進んだのではなく、驀地に鎌倉へと志したのである、されば伊賀、志摩の如き殆ど鎌倉時代の禪僧の顧みる所とならざりしこと、淨土宗の場合と同樣なるのみならず、伊勢又は尾張、三河の如き鎌倉街道筋の國々ですらも、禪宗の風化を受くること關東の諸國より後れ、而かも尾、參の兩國の漸次に禪宗の布教を受くるや、京都より東せる禪僧よりは關東よりして西に戻れる禪僧の感化をより多く受けたことは、頗面白き現象と云はなければならぬ、加之なほそれよりも奇妙なことは、後年禪宗界に於て一廉の根據地と目せらるゝに至りたる美濃の如きも其禪宗を接受したのは遙かに關東殊に相武よりも後くれ、近江と共に鎌倉中葉以後のことであつたのは、つまり淨土宗に比べて一層東進の方針の急劇な爲めである。
然らば關東に於ける禪宗は如何なる地方的傳播をなしたか、鎌倉時代に於て關東の禪宗の中心とも稱すべきものは相模武藏甲斐の三國であることは云ふ迄もない、甲斐は京鎌倉間の大道ではないけれど、北は信越を控へ、南は駿河から或は相模から、或は武藏から頻繁なる往來があつたと見え、禪宗の感化早く及んだのみならず、其成効も亦頗る目覺ましいものであつた、されば其甲斐の國に夢窓國師の樣な名僧の生れ出でたのも決して偶然ではない、之に反して一部は鎌倉街道に當て居る伊豆は安房上總と同じく、淨土宗のみならず禪宗の感化を受くることも遲く、且つ薄かつた。
關東に布教した禪僧及び其弟子等は、更に其活動の區域を擴張して信越及び奧州に入つた、即榮西の弟子記外の如きは陸奧の宣教を以て有名であつた、其後では道隆の風化も陸奧の南邊迄は及んだらしい、聖一國師辨圓の東方に於ける活動は甚目覺ましいものとは云ひ難いけれど、其弟子無關は陸奧に入りたりと覺ゆ、又歸化僧なる佛源禪師の如きは、其教化陸奧出羽二國に及んだ、然れども陸奧に入つた禪僧は、盡く佛源禪師の樣に出羽にも入つたのではない、淨土宗の場合に於ける同樣で出羽の禪宗は主として越後から入つたものである。
禪宗中の臨濟と曹洞との二宗派の、地理的分布の大體を述ぶれば、鎌倉時代には東海東山に臨濟割合に多く、曹洞が少い、これは曹洞が臨濟よりも後れて出たので、曹洞の起つた時に此地方には臨濟の地盤既に固まつて居つたからでもあらう、之に反して北陸道には曹洞が多い、即道元(永平)營山(總持)瑩山の弟子明峯素哲歸化僧明極等は主として其活動力を北陸道に集注した、但し其徑路に至つては北陸道を若狹から越後に向て順次に感化したのではなく、越前から海路能登に向ひ、それより加賀へも、また越中へも傳はつた如くに見える、これは當時の海陸交通の關係或は之を餘儀なくしたのかも知れぬ、又上述の曹洞の禪僧の中明峯と明極とは、單に北陸道のみならず、陸羽にも宣教して居る、出羽が鎌倉時代に臨濟よりも多く曹洞の影響を受けたのは、これが爲である。
時代を以てすれば禪宗は建長頃より關東に頓に盛にして鎌倉末葉に至るまで衰へず、中仙道は之に後くるゝこと半世紀、奧羽はそれよりも更に早きこと四分一世紀、これまた注意すべきことで、北陸道に至りては、鎌倉末の二三十年間に至つて始めて盛になつたのである。
以上の如く淨土と禪との二宗の傳播の跡を見れば、大に相類似して居る點がある、即布教地として特に關東に重を措いたことゝ、其傳播をした交通路の状態とである、而して此點に於ては五宗中の殘りの三宗も皆同じ結果を示して居るのが面白い、今先づ淨土眞宗から始めて、此原則を適用して見やう。
眞宗の開祖親鸞は京都の人と云ふことになつて居るけれども、眞宗の東方に於ける傳播の状態を察する時は、或はこれは東國の人の起こした宗教であるまいかとの疑を起こさしむる位である、今こそ眞宗と云ふものは京都風な宗旨であること紛ふ方なき樣であるけれど、鎌倉時代には、矢張關東を先きにした、これは親鸞が越後常陸の間に遍歴した爲と云へばそれ迄であるが、其痕跡は淨土や禪と殆ど同一轍である。
越後、下野、常陸の三國を連結した日本を横斷する線は眞宗の發剏線である、此中で常陸の方面が最多く發展した樣に見える、即改宗の當初三十箇年許りの間に、常陸から下總、武藏、甲斐、相模と云ふ順序に海道筋を押し上つて三河に活動の大勢力を集め、一方に於ては越後から信濃に入り、美濃を犯した、これが即眞宗西漸の始である、然らば此時代に東國の布教に從事したものは誰かと云ふに、これは甚だ答へ難い問題である。
何故と云ふに、東國と西國とを論せず、眞宗の傳播の仕方は餘程外の宗旨と違て居る所がある、他の宗旨で云へば、一人の名僧が足に任せて數箇國を行脚して、數多の歸依者改宗者を作ると云ふ順序になるのであるが、眞宗にありては右の如く諸國を遍歴する僧侶の全く無いではないが、甚僅少である、鎌倉時代に於ける眞宗は、潮の押寄せる樣に、洪水の氾濫する樣に、連續性を以て將棊倒しに傳播したもので、若干の個人が奔走した結果のみではない、他の宗旨から改宗した僧侶は、妻帶して其寺に居直つて、財産を私有にして動かない、俗人の改宗したものは、私宅を變じて寺としたとは云ふものゝ、今日で謂ふ説教所を開始したので、其寺號は數十年、若くは數百年の後に、始めて本願寺から許可になつたものである、故に斯かる俗人の説教所開始以後も、以前と同樣俗事に忙はしく鞅掌したのみならず、僧侶にして改宗した連中も以前より一層深く、而かも公然俗事の間に沒入し、中々遠國などへ布教に出かける餘裕はない、斯樣の次第であるから、眞宗では同一の僧侶の手で數個の寺が開かれた例が甚乏しく、從ひて布教の徑路を探ぐることが困難である、けれども今其等少數者の場合につきて考へると、關東に眞宗を流布せしめたのは、開祖親鸞の外、其弟子と稱する眞佛、了智、教名、明光、親鸞の孫唯善、其外明空、性信、西念、唯信、教念、善性、了海等である、中にも眞佛の一派は最盛に東國に布教した而して其基線より更に東北に進んだ眞宗僧には、陸奧に入つたものに前に擧げた性信や親鸞の弟子の是信房や、無爲信などゝいふ者があり、出羽の方へは淨土、禪と同樣越後からはいつて、明法や源海などゝいふ人があつた、しかしながら眞宗は禪宗ほど北陸に侵入はしなかつたのである。
爰に看過すべからざることは眞宗が三十箇年許り東國に盛に流宣して後、暦仁頃からバツタリと其活動を停止したことである、最も之と同時に近江、美濃、越前、加賀、能登、越中等に於ける盛なる傳道が始まつたのであるから、眞宗が全く活動を止めた譯ではなく、唯關東に於てしたのを、方面を替へて中山道に北陸道に移したものと云ふことも出來る、然るに奇妙なことには、此眞宗が活動を停止した跡へ、同地方即東國に日蓮宗の興隆したことである、日蓮宗の興隆の爲めに眞宗が之を西に避けたのか、或は眞宗が西に向つた空虚に乘じて日蓮宗が傳播し得たのか、其邊はなほ詳に研究して見なければ分明せぬ。
中山道から北陸道にかけて布教した眞宗の僧侶の重なるものを擧げれば、爰にも眞佛及び其派が中々働いて居る、其外には覺如及び其弟子宗信、覺善、覺淳、慶順、乘專、存覺、并びに善鸞法善など云ふ人々である、而して眞宗の氾濫的布教は、飛騨をも度外に置かなかつたが爲めに、越中から之に宣教師を進めて居る、要するに此地方に於ける眞宗の宣教の盛時は覺如以後と見て大なる誤はない。
何よりも不思議の念に堪えぬのは今日本願寺の所在地たる京都及び其附近の諸國、即所謂近畿に於て眞宗の弘布したのが、鎌倉時代の[#「鎌倉時代の」は底本では「鎌、倉時代の」]末十年間であることである、最も其以前にもポツ/\眞宗の寺と云ふものが見えるが、其教[#「教」はママ]は甚少く、擧げて云ふに足らぬ程であつて、正中頃から漸く、活動らしい活動を見るのである、これは主として存覺の弟子なる佛光寺の了源の力である。
日蓮宗に至りては其東國的宗教であること甚明瞭なもので、其傳播の著るしい地方と云へば、關東の八ヶ國に、駿、甲、豆の三國を加へたものであつて、遠江に入ると、其跡甚急に薄くなる、而して此東國地方に於ては文永の末から正應の末にかけての二十年間を以て最活動の盛な時期とするのであるけれども、其以後とても此範圍内に於ては、殆ど弛みなく其活動を持續して、以て鎌倉の末に達して居る、而して此地方に主として盡力した僧侶は宗祖の日蓮を第一とし、日昭、日朗、日頂、日向、日興、日持、日位、日辨、日朗の弟子日像、日善、日像の弟子日源等である。
而して日蓮宗も亦前の三宗と同じく北陲の感化に尠からず注意を持つた、即日蓮の直弟子では日辨が磐城に同日興が陸中まで、日目が陸前に入りたるを首として、日朗の弟子日善の又弟子日圓が岩代に、日持の弟子日圓は磐城に、日向の弟子の日進のその又弟子の日榮は岩代に入いつた、傳説によれば日蓮其人の感化も既に岩代の一部に及んだとのことである、が、それは信ぜられぬとしても、兎に角日蓮宗が東北地方に力を盡くしたのが明である、羽前へは日昭の弟子の日成と云ふ者が入つて布教したが、これも以前の場合と同じく[#「同じく」は底本では「同じ、く」]、越後からして進だのて[#「進だのて」はママ]、陸奧から入つたのではない。
北陸道では日蓮宗は他の宗旨と少しく異つた徑路をとつて布教して居る、これは日蓮が佐渡に配流せられた爲めであるので、一方に於ては北陸道を西から東に進んだものもあるけれど、又佐渡や越後からして海路をも利用し越中、能登等に布教した者もある、此後者のうちで重なるものは、日蓮の直弟子では日向、日乘等で、又弟子では日進の弟子の日榮の越前に赴いたのも、日印(日朗弟子)の越中に布教したのも、日印の弟子の日順日暹の越中に布教したのも皆此順路によつたものと見える。
日蓮宗が京師に入つたのは、日像が永仁年間に傳道したのが始まりで、夫より鎌倉時代の末まで、振はず、衰へずに續いて居る、東方から京都へ入るのに、遠江、三河、尾張等を殆ど素通りにして、眞一文字に京都に突入したのは、日本に於て宗教として勢力を得るには、どうしても京都と云ふ文明の中心を陷れなければならぬと云ふことを、純粹に關東式なる日蓮宗すらも感ぜざるを得なかつたが爲であるらしく考へらるゝが、此時代と兩統迭立の始まつた時代と大差なきことを考へ、而して兩統迭立といふことは、必しも關東の希望ではなく、寧ろ關東の方から讓歩したものとする時は、此日蓮宗が京都に入つた永仁正安の頃といふものは、鎌倉開府以來勢力を失て居つた京都の、日本の中心としての價値が、丁度此頃に回復されたものとも考ふることが出來るので、氣運の變遷から觀察して鎌倉時代史中の一段落と認むることが出來る樣にも思はれる。
日像の京都に於ける活動の影響は、他の畿内諸國には及ばなかつたが、丹波から若狹を經て越前、加賀、能登迄日像自身が巡錫した跡が見ゆるのみならず、其弟子の乘純及び日乘の能登に於ける、日禪の若狹に於ける布教、いづれも同系統に屬するものであるして見れば京都のみならず、中山道、北陸道に於ける日像の功績は、顯著なるものである。
五宗中最後に現はれた時宗に就いて之を考察しても、前に掲げた原則の尚誤らざることを示すに充分である、一遍上人の一宗を建立したのは、近畿に於てしたのであつて而して此宗旨は、遊行宗と稱する程あつて、遍歴化道を主として、千里を遠しとせず邊陲の地までも普く及んで居るけれど、其主なる布教地は矢張關東諸國であることは、二祖たる他阿眞教及び同じく一遍の弟子たる一向上人の活動を見ても明かに分かる、又奧羽に於ける時宗の布教は、其遲く起こつた宗旨の割合にしては、中々盛で、宗祖一遍自身は磐城岩代から陸前邊迄遊行して居るのみならず、二祖眞教も磐城殊に岩代に布教し、二祖の弟子其阿彌は陸中邊まで、湛然は陸奧の北端まで行つて居る、其外一遍の弟子の宿阿尊道といふ僧も陸中邊まで巡錫した、又五祖の安國上人は磐城より陸前迄遊行した、其外時宗の僧侶の出羽に多く入つて布教したことは、他宗の遠く及ばぬ所で、一向上人が岩代から羽前にはいつたのを始めとして無阿和尚、辨阿上人、崇徹、礎念、證阿、向阿等羽前地方に活動して居る、而して此等の僧侶が他宗に於けるが如く羽州に入るに越後よりせずして、岩代より直にせるのは、蓋し遊行の名に背かず、天險をも事とせずして、布教し廻はりしことを徴するに足るものである。
以上は畿内以東につきて觀察した所のものであるが、今にも述べた通り新宗教は、主力を東國に注いだのであるから、畿内以西に於ける布教的活動は其盛な點に於て到底東方と比べものにならぬ、然れども西國はまた西國で、其布教の徑路の研究に面白い點もあるから、一通り之を述べる必要がある。
東國を説明した順序に從つて、先づ淨土宗から始むれば、京師以西には淨土宗が布教上大に重きを措いたと云ふ譯ではないけれど、元來西國は之を東國に比して、京洛文明の影響を被つたこと久しく且つ深いから、源空の新宗教は自ら西方に傳はらざるを得ぬ次第である、けれども其傳播は當時の交通の關係によつて規定せられて居るのは已むを得ざることで即山陰道では、丹波は直接に京都の波動を受けて居るけれども、丹後から以西伯耆に至るまでは、鎌倉時代を通じて殆ど淨土宗の侵略を蒙つて居らぬ、山陽の播磨は猶山陰の丹波の如きものであるが、美作(源空の出生地)から西備中に至るまでの間も、山陰の丹後以西と同じく淨土宗の感化を受けて居らぬ、南海道の紀伊は播磨と同樣であるが、四國に於ては讃岐と伊豫に淨土宗が傳はり、これと前後して向ひ側なる山陽道では備後に傳はり、備後から更に出雲、石見に流布して居る、聖光の弟子良忠が中國に布教した時は、まさしく此徑路によつたものである、又九州に於て豐前の淨土宗は論ずるに足らぬに反し、豐後に於ける傳道の跡見るに足るものあるのは、豐後の佐賀の關が伊豫の佐田岬と相對し、兩國の交通が甚頻繁である爲めで、此等と中國の例并びに北陸の例を併せ考ふれば、當時の布教は必しも陸地傳ひにのみ進んだものでないと云ふことが分かり、從て當時の日本の主要なる交通線の中には海路も少からず含まれて居つたことが明になる。
然しながら九州の淨土宗の主なる活動は、此伊豫から豐後に渡つたものではなく、鎌倉時代の始に於て筑後の善導寺を根據とした聖光及び其弟子蓮阿等の努力によるのである、これが筑前、肥前、肥後と擴がつたが、日薩隅の三州には新宗教の布教者は足を入るゝことが出來なかつた樣に見える。
禪宗の山陰道に落莫なるは、淨土宗の場合と同じである、して見れば、丹後、但馬、因幡、伯耆の四ヶ國は、京都から左程遠くないにも拘はらず、鎌倉時代には天然の不便から、自ら別境をなして居て、一般に注意を惹く度に於て、奧州などにすら及ばなかつたのかも知れぬと思はれる、唯山陰道に於て禪僧の活動として見るに足るものは、法燈國師の弟子の三光國師の、鎌倉時代の末に出雲に活動したことのみである、山陽道は京都から九州に通ずる大道であるけれども、淨土宗の場合に於て見えたと同樣、當時は九州に赴くに主として海路を利用したものゝ如くで、播磨を除いて、其以西備中までは、あまり禪宗の影響を受けて居らず、備後以西に於て始めて其痕跡を見る、三光國師も淨土僧と同樣備後から出雲へ入つたらしい、宗派から云へば播磨には臨濟も曹洞も混入して居るけれど、備後以西は臨濟のみであつた。
南海道の禪宗と云へば紀伊の法燈國師の外、伊豫に傳道した聖一國師の弟子の佛道禪師、并びに南山士雲、寒岩義尹あるのみである。
九州に於て禪宗が他の宗旨に比べて一層の盛況を呈して居るのは、これは蓋し博多が當時支那との交通の要路にあたつて居る所からして、渡唐僧や歸化僧は、多くは暫く爰に滯留し、從つて、九州の禪宗は必しも京都の方からの布教のみによらずに傳播した爲めであらうと思はれる、であるから九州で禪宗の最流行したのは筑前、其次は豐後で、肥前、肥後はまた其次に位して居る、九州の布教に盡力した禪僧の有名なものは、先づ榮西を第一として、その外聖一國師、大應國師、(南浦)南山士雲、及び寒岩義尹などである、寒岩は南山士雲と似て、東國をも風化したのみならず、西國にも巡錫して居る、即南山同樣伊豫に布教し、それから九州に渡つた、但し南山は肥前筑前に傳道したけれども、寒岩は其弟子鐵山等と共に、專ら豐後、肥後の布教に盡力をした、されば禪宗が豐後に盛で、隣りの豐前に寥々として居るのは伊豫からの交通の關係から怪むに足らぬのである、而して寒岩は道元の弟子であるから、豐後と肥後とには筑前に比べて曹洞が多いのである、其外大應は主として力を筑前に注いで居る。
時代を以てすれば、九州の禪宗は仁治建長の間筑前に盛に、豐後より進んで兩肥に及んだのは、鎌倉の末六十年位の間のことである。
眞宗が京師以西に及ぼした影響は、頗る稀薄な状態で鎌倉時代を終つた、但しこれはさすが氾濫的傳播[#「氾濫的傳播」は底本では「※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)濫的傳播」]をなす宗旨だけあつて乘專の如きは近畿布教の序に但馬へも入つた樣である、しかし因幡や伯耆に眞宗が殆ど入らなかつたのは、淨土や禪と同樣である、山陽道に於ては播磨に少しく入つた外にはやはり備後を中心として備中安藝の二國に及んだのみである、此眞宗の備後に於ける布教は專ら親鸞の弟子明光(光昭寺開山)の盡力によるもので、明光は眞宗には珍らしく遍歴布教をした人である、單に山陽のみならず、山陰の出雲も亦明光の手によつて眞宗の教化に接した、而して此明光のとれる布教路が、淨土宗及び禪宗のとつた布教の道筋と符合して居るのは甚面白いことである。
四國では眞宗の波動の及んだのは阿波と伊豫とのみであると斷言して差支ない位で、それも影響が甚少い、そしてこれもやはり明光の宣教の力による者の如くである、九州で鎌倉時代に眞宗の入つたのは殆ど豐後のみであるが、これも伊豫との交通の結果である。
日蓮宗でも山陰布教の微々たることは前の三宗と同樣である、これは純東國的宗旨であるから一層然るのであらうとも思はれる、中に目立つのはやはり出雲で、出雲に布教した人には日尊を始めとして日頼と云ふ者もある、之に對して他宗の場合に於ける如き備後の布教は見えぬが、備中には日印、日圓などの布教があるから、他宗の場合とあまり甚しく矛盾しては居らぬ。
九州では肥前に鎌倉時代の末に日祐(日高弟子)が入つて傳道したが、それよりも顯著なのは日向に入つた日郷の弟子の日叡の成績である、南海道には日蓮宗は全く入らなかつた。
時宗に於ては一遍の足跡は山陰道では但馬にも、伯耆、出雲にも、山陽道では備後に、南海道では、紀伊并びに四國の伊豫は勿論讃岐にも、九州では筑前にも及んだのであるが、其他の遊行僧では、四祖呑海及び、其弟子の隨音といふが、新に石見、隱岐に布教し、二祖眞教が備後と伊豫に巡錫した位のもので、外に取り立てゝ云ふ程のこともない。
終りに臨んで新宗派が從來の宗派を蠶食し、或は新宗派の間に互に相呑噬した樣子を簡單に述べて、此の論を結ぶことにする、淨土宗の最も多く蠶食したのは天台で、眞言之に次ぎ法相又之に次ぐ、新宗の中では禪の淨土に轉じたものもあるけれど、淨土がまた轉じて眞宗になつたことも稀ではない。
禪宗の最も多く侵略したものも亦天台で眞言は之に次ぐ、淨土に對しては侵し方が侵された分より多い。
淨土眞宗に至ては天台を侵略したこと最甚しく、今日現存の鎌倉時代からの眞宗寺で、天台から轉宗したのが二百許りある、眞言の七十三が之に次ぐ、遙かに下るが、之に次では法相である、又眞宗は新宗派の中で淨土と禪とを少しづゝ侵略して居る。
時宗の侵略したのも天台に最も多く眞言之に次ぐ、但し小規模の宗派丈け侵略した數は少い。
以上の四宗がいづれも天台を最も多く侵略して居るのは其以前に天台宗の寺が眞言其他の諸宗よりもすぐれて數多かつた爲でもあらうが、之と全く異つた有樣を示して居るのは日蓮宗で數字に於ては其侵略の度眞宗の多いのには及ばぬけれど、兎に角日蓮宗の最も多く侵略したのは眞言で、天台は却つて其三分一位である、これは注意すべき事だ、又新宗派の中では禪を少しく侵略して居る、眞言亡國、禪天魔を叫んだだけあると云つてもよろしい、但し念佛宗をば無間と譏つたけれど、淨土寺を少しく侵略したのみで、眞宗とは全く沒交渉である、眞言よりは少いけれども、天台も亦侵略を免れなかつたのは、假令日蓮宗が天台の復興を主張するとしても實際此兩宗の間には性質上大差があるからであらうと思はれる。 
 
浄土宗1

 

日本の仏教宗旨のひとつで、法然を開祖とする。本尊は阿弥陀如来(舟後光立弥陀・舟立阿弥陀)。教義は、専修念仏を中心とする。浄土専念宗とも呼ばれる。浄土真宗の別称もある(親鸞を開祖と仰ぐ浄土真宗とは別である)。
承安5年(1175年)、法然は43歳の時に、善導撰述の『観無量寿経疏』(『観経疏』)によって専修念仏の道に進み、叡山を下りて東山吉水に住み、念仏の教えをひろめた。この年が、浄土宗の立教開宗の年とされる。
その『観経疏』にある立教に至らしめた文言は、
一心専念弥陀名号 行住坐臥不問時節久近 念念不捨者是名正定之業 順彼佛願故(意訳)一心に専ら弥陀の名を称えいつでも何処でも時間の短い長いに関係なく常にこれを念頭に置き継続する事が往生への道である。その理由は弥陀の本願に順ずるからである。
「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏に帰依(南無)しますの意。阿弥陀佛の選択によって、浄土宗における念仏はここから始まったと言っても過言ではない。
法然撰述の『選択本願念仏集』が、浄土宗の根本聖典となっており、教義の集大成となっている。
日常勤行で読まれる法然の「一枚起請文」は、死の直前に書かれ、浄土宗の教えの要である称名念仏の意味、心構え、態度について、簡潔に説明している。
歴史
法然の没後、長老の信空が後継となったものの、証空・弁長・幸西・長西・隆寛・親鸞ら門人の間で法然の教義に対する解釈で僅かな差異が生じていた。
嘉禄3年(1227年)、再び専修念仏の停止が命ぜられて、浄土門では大きな被害を受け、以後、法然教団の分派が加速することとなった(嘉禄の法難)。事の発端には、法性寺の寺宝が盗まれた際に、念仏者が盗賊団の一味として疑われたことがある。また、延暦寺の僧徒たちが念仏者を襲撃したりし、『選択本願念仏集』は禁書扱いを受け、東山大谷の法然墓堂も破壊された。なお、この際に幸西は壱岐国に、隆寛は陸奥国に配流されている。法然の遺骸は、太秦広隆寺の来迎房円空に託され、1228年(安貞2年)に西山の粟生野で荼毘に付された。
その後、浄土四流(じょうどしりゅう)という流れが形成される。すなわち、信空の没後、京都の浄土宗主流となった証空の西山義、九州の草野氏の庇護を受けた弁長の鎮西義、東国への流刑を機に却って同地で多念義を広めた隆寛の長楽寺義、京都で証空に対抗して諸行本願義を説いた長西の九品寺義の4派を指す。もっとも当時の有力な集団の1つであった親鸞の教団はその没後(親鸞の曽孫である覚如の代)に浄土真宗として事実上独立することとなりこの4流には含まれておらず、他にも嵯峨二尊院の湛空や知恩院を再興した源智、一念義を唱えた幸西など4流に加わらずに独自の教団を構成した集団が乱立した。だが、中世を通じて残ったのは浄土真宗を別にすると西山義と鎮西義の2つであり、この両義の教団を「西山派」「鎮西派」と称することとなる。
一方、関東においても鎌倉幕府によって念仏停止などの弾圧が行われたが、後には西山派は北条氏一族の中にも受け入れられて鎌倉弁ヶ谷に拠点を築いた。また、鎮西派を開いた第2祖弁長の弟子第3祖良忠も下総国匝瑳南条荘を中心とし関東各地に勢力を伸ばした後鎌倉に入った。その他、鎌倉にある極楽寺は真言律宗になる前は浄土宗寺院であったとも言われ、高徳院(鎌倉大仏)も同地における代表的な浄土宗寺院である(ただし、公式に浄土宗寺院になったのは江戸時代とも言われ、その初期については諸説がある)。だが、西山派は証空の死後、西谷流・深草流・東山流・嵯峨流に分裂し、鎮西派も良忠の死後に第4祖良暁の白旗派の他、名越派・藤田派・一条派・木幡派・三条派に分裂するなど、浄土宗は更なる分裂の時代を迎える事になる。
その後南北朝時代から室町時代にかけて、鎮西派の中でも藤田派の聖観・良栄、白旗派の聖冏・聖聡が現れて宗派を興隆して西山派及び鎮西派の他の流派を圧倒した。特に第7祖の聖冏は浄土宗に宗脈・戒脈の相承があるとして「五重相伝」の法を唱え、血脈・教義の組織化を図って宗門を統一しようとした。第8祖の聖聡は増上寺を創建し、その孫弟子にあたる愚底は松平親忠に乞われて大樹寺を創建した。
応仁の乱後、白旗派の手によって再興された知恩院は天正3年(1575年)に正親町天皇より浄土宗本寺としての承認を受け、諸国の浄土宗僧侶への香衣付与・剥奪の権限を与えられた(「毀破綸旨」)。更に松平親忠の末裔である徳川家康が江戸幕府を開いた事によって浄土宗は手厚い保護を受けることになる。特に知恩院の尊照と増上寺の存応は、家康の崇敬を受けた。元和元年(1615年)に寺院諸法度の一環として浄土宗法度が制定され、知恩院が門跡寺院・第一位の本山とされ、増上寺はこれより下位に置かれたものの、「大本山」の称号と宗務行政官庁である「総録所」が設置された。なお、この際西山派に対しては別個に「浄土宗西山派法度」を出されている。だが、これによって浄土宗は徳川将軍家、ひいては幕藩体制の保護を受けることとなる。
廃仏毀釈の混乱の中から養鸕徹定・福田行誡らによって近代化が図られて白旗派が名越派などを統合する形で鎮西派が統一されて現在の浄土宗の原型が成立する。第二次世界大戦後は金戒光明寺を中心とした黒谷浄土宗、知恩院を中心とする本派浄土宗(浄土宗本派)が分立するが、昭和36年(1961年)の法然750年忌を機に浄土宗本派が復帰、16年後に黒谷浄土宗も復帰した。現在の宗教法人としての「浄土宗」の代表役員は宗務総長、責任役員は内局と呼ばれている。
一方、西山派は現在も浄土宗とは別個に西山浄土宗(光明寺_(長岡京市)が総本山)・浄土宗西山禅林寺派(禅林寺_(京都市)が総本山)・浄土宗西山深草派(誓願寺_(京都市)が総本山)の3派が並立した状態が続いている。また、江戸時代の改革運動の際に分裂した浄土宗捨世派(一心院_(京都市)が本山)の勢力も存在する。
主要寺院
鎮西派
 総本山 
 知恩院…(正式名称)華頂山知恩教院大谷寺(京都市東山区)
 大本山 
 増上寺…(正式名称)三縁山広度院増上寺(東京都港区)
 金戒光明寺…(正式名称)紫雲山金戒光明寺(京都市左京区)
 百萬遍知恩寺(京都市左京区)
 清浄華院…(京都市上京区)
 善導寺…(正式名称)井上山光明院善導寺(久留米市)
 光明寺…(正式名称)天照山蓮華院光明寺(鎌倉市)
 善光寺大本願(長野市)(本堂)定額山善光寺(長野市)
西山派
 浄土宗西山禅林寺派総本山
 永観堂 禅林寺…(正式名称)聖衆来迎山無量寿院禅林寺(京都市左京区永観堂町48)
 西山浄土宗総本山
 粟生光明寺(長岡京市)
 浄土宗西山深草派総本山
 誓願寺(京都市中京区) 
 
浄土宗2

 

浄土宗 
浄土宗のおしえ
浄土宗は、法然上人(ほうねんしょうにん)(法然房源空(ほうねんぼうげんくう))を宗祖と仰いでいる宗旨です。
法然上人は、今から約860年前(1133)に現在の岡山県(当時の美作(みまさか) の国)にお誕生になりました。幼少にして父を失い、それを機会に父の教えのままに出家して京都(滋賀)の 比叡山(ひえいざん) にのぼって勉学し、当時の仏教・学問のすべてを修した後、ただひたすらに仏に帰依(きえ) すれば必ず救われる。すなわち 南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ) を口に出してとなえれば、必ず仏の救済をうけて平和な毎日を送り、お浄土に生まれることができる、という他力のおしえをひろめられました。
当時の旧仏教の中でこの新しい教えを打ち出されただけに、いろいろな苦難がつづきました。貴族だけの仏教を大衆のために、というこの教えは、日本中にひろまり、皇室・貴族をはじめとして、広く一般民衆にいたるまで、このみちびきによって救われたのでした。
法然上人は、どこにいても、なにをしていても南無阿弥陀仏をとなえよ、とすすめておられます。南無阿弥陀仏と口にとなえて仕事をしなさい、その仏の 御名(みな) のなかに生活しなさい、と教えられています。
こうした教えがひろまるにつれて、それが新しい宗教であったため、いろいろなことで迫害をうけました。そのときでも、法然上人はこの教えだけは絶対やめませんという固い決意をあらわしておられます。また、亡くなるときにも、わたしが死んでも墓を建てなくてもよろしい、南無阿弥陀仏をとなえるところには必ずわたしがいるのですといって、その強い信念を示されました。
亡くなってから間もなく800年になりますが、その遺言とは反対にお寺がたくさんできたということは、いかに法然上人の教えがわれわれ民衆と共にあって、その教えを慕わずにおられなかったか、という心のあらわれであります。
南無阿弥陀仏の仏の御名は、すぐ口に出してとなえられます。できるだけたくさん口に出してとなえるほど、私たちは仏の願いに近づくことになるのです。するとわたくしたちはすなおな心になり、今日の生活に必ず光がさし込んできて、活き活きとした、そして、平和なくらしができるようになります。それは明日の生活にもつづいて、日ぐらしの上に立派な花を咲かせてくれます。
法然上人の教えは、今生きることによろこびを感じることであります。
念仏をとなえながら、充実した日々をお過ごし下さい。 
開宗からのあゆみ
法然上人伝の多くが語るように、上人が諸行を捨て専修念仏(せんじゅねんぶつ) に帰したのは、承安5年(1175)の春3月でした。恵心僧都の『往生要集』を読み、その教えにより中国唐代の善導大師の『観経疏』の一心専念の文即ち「一心に 専(もっぱ)ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、時節の久近(くごん)を問わず、念々に捨てざる者、是を正定の業(ごう) と名づく、彼の仏の願に順ずるが故に」の文によったのです。
この時より以後、上人は比叡山を下りて、まず西山の広谷に専修念仏の実践者であった遊蓮房を訪ね、その念仏生活に感激し、 東山の吉水におもむき、そこに草庵をむすび往生極楽の法を説き、念仏を人々にすすめられる生活にはいられました。これまでの 聖道門(しょうどうもん) 各宗の教えは、学問のある者、財力のある者におのずから限られていましたが、法然上人の念仏の教えは、いつでもどこでも誰にでも行える念仏で東山の庵室には老若男女の別なく、多くの人々が集まり集団を形成しました。この時をもって浄土開宗としたのです。
その後、法然上人は洛北大原の勝林院で、天台宗の顕真(けんしん) 法印の発議により、他宗の僧と仏教の教えについて広く意見を交換をすることになりました。三論宗の明遍、法相宗の 貞慶(じょうけい)、天台宗の証真、湛がく(たんがく)、嵯峨往生院の念仏房、東大寺の 重源(ちょうげん) 等、当代一流の僧が参集しました。上人はその席で浄土念仏の法門が今の時代の多くの人々に適した時機相応の教えであることを述べ、集まった上人に深い感銘を与えました。これを後に大原談義とか大原問答といい、時に上人54歳。この頃から次第に念仏の教えが社会に広く受入れられてきたのです。
また建久元年(1190)には、重源の要請により東大寺で浄土三部経の講説を行うなど積極的な伝道教化を進めました。門弟には黒谷別所で兄弟弟子であった信空をはじめ、 感西等がいましたが、この頃から証空、源智、弁長、明遍、熊谷直実などが入門します。
また文治5年(1189)には、時の摂政関白九条兼実公との道交がはじまり、建久9年(1198)には兼実公の請いをいれて、『選択本願念仏集』を書き、これを兼実公に献上されまた。但し病後のためか冒頭の題字と「南無阿弥陀仏往生之業念仏為先」の21字だけは自らが書かれたが、あとの本文16章は口述して門弟に筆記させられたものです。弟子のうち 真観房感西は執筆の役をつとめたといわれ、この草稿本(原本)は今も京都廬山寺に伝えられて国宝となっています。
またこの頃、『観経疏』によって心眼を開かれた上人は、夢定中に於て半金色の善導大師と対面され念仏の法を授けられたと伝えられています。
上人の門弟もふえ、念仏が京都をはじめ北陸、東海、西海にまでひろまるにつれて、これまでの仏教教団からの圧迫もはげしく、とくに元久元年(1204)は比叡山延暦寺の衆徒が専修念仏の停止を座主真性に訴え、翌2年(1205)には奈良興福寺の衆徒が奏状を捧げて念仏の禁断を朝廷に訴えています。
このような時に、上人の弟子の住蓮、安楽が京都東山の鹿ヶ谷で六時礼讃法要をつとめたところ、多くの人が集り発心出家する者が出ました。その中に、後鳥羽院 の熊野行幸の留守をあずかる院の女房が無断で発心出家するという事件が起ました。このことを院に悪意をもって申し上げる者がいたので、住蓮、安楽は死罪になり、さらにその前後の事情もあって、門弟の咎が師の上人まで及び、四国の讃岐へ流罪という事になったのです。時に上人75歳。
配所の化導1年足らずで赦免になり、摂津の勝尾寺に入り、ここで5年の月日を送られ、やがて建暦元年(1211)11月入洛の宜旨が下り、20日慈鎮和尚(慈円)のはからいで東山大谷禅房に入いられ、翌年の正月25日お念仏をとなえつつ安らかに往生をとげられました。世寿80。それより2日前の23日、これまでの念仏の教えを簡潔にまとめられて弟子源智に授けられました。後世『一枚起請文』とよばれ、上人最後の御遺訓となりました。この『一枚起請文』は今も大本山金戒光明寺に伝えられています。 
浄土宗檀信徒信条
一、 私たちは、お釈迦(しゃか)さまが本懐(ほんかい)の教えとして説かれた、阿弥陀(あみだ)さまのお救いを信じ、心のよりどころとしてお念仏(ねんぶつ)の道を歩み、感謝と奉仕につとめましょう。
一、 私たちは、宗祖(しゅうそ)法然上人(ほうねんしょうにん)のみ教えをいただいて、阿弥陀さまのみ名を称(とな)え、誠実と反省につとめましょう。
一、 私たちは、お念仏の輪をひろげ、互いに助け合い、社会の浄化と、平和と福祉につとめましょう。  
極楽浄土とは何 / お浄土 → 極楽浄土
浄土のもともとの意味は、仏国土つまり仏さまの国、世界ということであり、そこは清らかな幸せに満ち、そこに生まれるとどんな苦しみもないところで、例えば薬師如来の東方浄瑠璃世界、大日如来の密厳浄土など、いろいろな仏さまがそれぞれに浄土を築き、そこで説法していると説かれています。その中で極楽浄土は、西方浄土ともいわれ、他に極楽界、 安養界(あんにょうかい) (土)などともいわれています。
阿弥陀仏が仏になる前の法蔵菩薩の時に、「命ある者すべてを救いたい」と願って48の本願(ねがい)をたて、その願いが成就されて築かれた世界です。すなわち、阿弥陀仏が人々を救うためにお建てになった世界。どんな人々であろうとも、 念仏を唱えるならば、命終ののち生まれる(行きつく)ことができる永遠のやすらぎの世界。けがれや迷いが一切ない、真・善・美の極まった世界ですが、単に楽の極まった世界と考えてはいけません。
われわれは浄土において、仏になるために菩薩行をつみ、やがて仏になることができるのです。 48の本願の第18番目を「念仏往生の本願」といい、南無阿弥陀仏を口にとなえるものは、皆極楽に往生できると説かれています。『阿弥陀経』には、西方十万億土の彼方にある国と記されています。 
念仏の意味
念仏とは仏を念ずることであり、その念には次の三つの義がある。
一、 第一には、およそ経典に出てくる念仏の多くは仏を憶念することを 意味します。とくに古い経典にでてくる三念、五念、十念などはこれに属します。
一、 第二には、仏の相好等を見ることで見仏、観仏、観念といいます。
一、 第三には、仏の名を 称(とな) えること即ち称名で、浄土宗でお念仏という場合は、この阿弥陀仏の名号を口に 称(とな) えることと、法然上人はその著『選択本願念仏集』にお示しになっています。 
三部経に説かれていること
浄土三部経(じょうどさんぶきょう) / 浄土宗の教えのよりどころとする経典は「浄土三部経」と言って、一切経の中から、『無量寿経』二巻、『観無量寿経』一巻、『阿弥陀経』一巻の三典を法然上人が選ばれました。
『阿弥陀経』 毎日のおつとめ『阿弥陀経』 / 極楽浄土はどういうところかということが説かれています。それは西方十万億土の彼方にあり、六万の諸仏が念仏の教えの正しいことを証明し、いま現に阿弥陀仏が説法されており、その行者をまもると説かれています。また、その国をなぜ極楽というかといえば、その国の人びとにはなんの苦悩もなく、ただ楽だけを受けるからであると説かれています。
『観無量寿経』 / 釈尊時代の王舎城の妃(きさき)であった韋提希夫人(いだいけぶにん) を対象として極楽浄土に往生する方途が詳説されています。
『無量寿経』 / 阿弥陀仏の修行時代の衆生救済の本願(ねがい)とそのねがいが成就してからの御利益がのべられています。 
弥陀三尊(みださんぞん)の意味
浄土宗寺院の本堂の正面真中におまつりされている仏さまが阿弥陀如来(仏)、 向って右が観音菩薩、左が勢至菩薩です。
菩薩とは、もともとは仏になるために修行する人のことを言いましたが、観音菩薩や勢至菩薩の場合は阿弥陀仏の分身として、その働きを助ける者という考えです。
阿弥陀さまは、どのような人でも区別なくお救い下さいますが、阿弥陀さまが、慈悲として働かれる時には観音菩薩をつかわし、智慧として働かれる時は勢至菩薩をつかわされます。  
阿弥陀さまとお釈迦さま
阿弥陀さまも、お釈迦さまも共に仏さまであり、仏とは悟りを開いた方をさす。悟 りの世界では物事の成り立ちが手に取るようにわかり、悩みも苦しみもない自由で平安な世界です。
お釈迦さまは、今からおよそ2500年の昔、悟りを開いて仏となり、多くの人々を救うために教えを説かれました。その教えが仏教であり、その中でお釈迦さまは、遠い過去に悟りを開き、今も人々に救いの手をさしのべている仏さまの事を説き教えられました。そのお方こそが阿弥陀さまなのです。 
法然上人 [ 法然房源空 ]

 

誕生と父上の非業(1〜9歳)
法然上人(1133-1212)は崇徳帝の長承二年(1133)四月七日(太陽暦五月二十日)、美作国久米南条稲岡庄(現在の岡山県久米郡久米南町)に 押領使 (おうりょうし) (地方の治安維持にあたる在地豪族)である父の漆間時国と、その奥方である母の秦(はた)氏(うじ)のひとり子として誕生され、幼名を 勢至丸 (せいしまる) と名づけられました。その後、両親のふかい 寵愛 (ちょうあい) を一身にうけてすこやかに成長されましたが、保延七年(1141)、父の時国は 預所 (あずかりところ) (荘園を領主から預かって管理する人)の源内武者定明の夜討ちにあって、あえなく非業の最期をとげられました。ときに勢至丸は九歳でした。
父の遺言
父時国は臨終の枕辺にいならぶ家族にむかって、「われこのきずいたむ。人またいたまざらんや。われこのいのちを惜しむ。人あに惜しまざらんや」と、自他一体感にもとづいて、つよく仇討ちをいましめられたのでした。この遺言は仇討ちを当然視する武士の風習、とりわけ曾我兄弟の登場する時代とほど遠くない時代、五十年前ほど以前のことでしたが、それとはまったく逆の方向を示すものとして注目されています。 
出家・修学・隠遁(9〜24歳)
勧覚 (かんがく) のもとへ
四散を余儀なくされた漆間家の一子勢至丸は、悲歎にくれる母親とわかれて、母方の叔父に あたる菩提寺(岡山県勝田郡奈義町高円)の院主である観覚のもとにひきとられて、仏教の手ほどきをうけることになりました。 観覚は勢至丸の器量の非凡であることに気づき、このような辺境な地に埋もれることを惜しんで将来の大成を期待するのあまり、比叡の学府にうつることを勧めました。
比叡山へ
母にいとまを告げた勢至丸が遠く比叡の学府にいたったのは、天養二年(1145)十三歳(一説久安三年、十五歳)のときでありました。まず西塔北谷の 持宝房源光 (じほうぼうげんこう) について受学し、久安三年(1147)、十五歳のとき戒壇院で 戒 (かい) をさずかって文字通り出家者となりました。その後は功徳院阿闍梨皇円の指導のもとに「天台三大部」(『法華玄義』、『法華文句』、『摩訶止観』各十巻)の勉学にいそしみました。
かねてから仏教の学問は「生死をはなるばかり」とみてとっていた上人は、ミイラとりがミイラになるのをおそれ、出離のこころざしをはたそうとして、ついに久安六年(1150)十八歳で皇円のもとを辞し、西塔黒谷にうつり慈眼房 叡空 (えいくう) に師事することになりました。叡空は、この青年のこころざしをことのほか感激して、「年少であるのに出離のこころざしをおこすとは、まさに法然道理のひじりである」と絶賛し、法然房という房号を与え、さらに源光と叡空の一字ずつをとって、源空という 諱 (いみな) をさずけられたのです。かくして 円頓戒 (えんどんかい) の正当の伝承者である師叡空のきびしい指導のもとに、一切経の読破とその実践に若いエネルギーをおしみなく、そそぎこむ求道の生活を続けられることとなりました。 
求道の遍歴(20〜40歳前後)
南都の学匠を訪れる
保元元年(1156)、上人二十四歳のとき比叡山をくだって洛西嵯峨の清涼寺に詣で、三国伝来の 釈迦栴檀瑞像 (しゃかせんだんずいぞう) のみまえに、出離のこころざしをすみやかに実現せんことを祈願し、ついで南都の興福寺に法相宗の碩学 蔵俊をたずね、またあるときは醍醐におもむいて三論宗の学匠 寛雅を、あるときは御室に華厳宗の名匠 慶雅をたずねなどして、一日も早く目的をはたそうと努められました。
しかし「智慧第一の法然房」、「ふかひろの法然房」と讃えられることはあっても、だれひとりとして上人の問いかけに心ゆくまで教えをたれてくれる人はいなかったのです。そのたびごとに重い足をひきずりながら黒谷にもどり、報恩蔵にとじこもって、さらに一切経を読みかえし、くりかえしその実践にはげんだのでしたが、「自分は仏教の基本である戒・定・慧 三学の器ではない」ことを痛感するばかりで、なんの進展も感じられなかったのです。
「昨日もいたづらに暮れぬ、今日もまたむなしくあけぬ。今いくたびか暮らし、いくたびかあかさんとする」という、失意絶望にも似たつよい自責のおもいにかられる日がながく続いたのでした。 不撓不屈 (ふとうふくつ) の上人は「この三学のほかに自分の心にぴったりあった法門はなかろうか。かならずや自分の身に適した修行があるはずである」と焦点をしぼって、求道の旅を続けられました。
『往生要集』に導かれて
上人はまえから関心をよせていた比叡山における大先達である 恵心僧都源信 (えしんそうずげんしん) (942-1017)があらわした『往生要集』を、こころひかれるままに熟読したところ、「 慇懃 (いんぎん) な 勧進 (かんじん) のことばは、ただこの称名の一段だけにある」ことをみぬき、これこそ『往生要集』の本意であるとうけとるまでにいたったのです。
しかし、称名によってかならず往生をなしとげることができるという断定については、源信はみずからのことばをもって語らずに、唐の善導大師(613-681)の「十人は十人ながら、百人は百人ながら、かならず往生することができる」という『 往生礼讃 (おうじょうらいさん) 』のことばを借りていることに、注目せざるを得ませんでした。称名による往生の得失というような重要事項について、断定をくだしている善導大師その人の宗教体験のふかさにこころひかれた上人は、「恵心を用いるともがらは、かならず善導に帰すべし」と、その心情を善導大師にかたむけるようになりました。 
浄土宗をひらく(43歳まで)
善導大師への傾倒は伝統という厚い壁をやぶることでもあったので、強い抵抗を廃除しつつ漸次かためられていきました。 師の叡空との間に観仏と称名との優劣について行われたはげしい論難往復は、その一つのあらわれでした。上人にとってこのような抵抗を廃除することよりも、称名による往生に関して自分のこころのなかに残って消えない疑いを、うちやぶることに懸命でした。つまり上人のこころのなかは、称名によってかならず往生が得られるという確たる証拠を、人の上にこの眼でたしかめたい、直接善導大師にお会いして疑いをはらしたいという気持ちで一杯でありました。
あるとき上人は、西山連峯の吉峯の往生院に 高声 (こうしょう) 念仏の行者である遊蓮房 円照 (えんしょう)をたずね、その霊験に接するとともに、称名による往生を眼のあたりにみとどけることを得て、称名往生に確信をいだくことができました。「浄土の法門と、遊蓮房とにあえることこそ、この世に生をうけた思い出である」と述懐された上人のこころは、このことを指しています。
善導大師に導かれて −「散善義」との出会い −
さらにこれと平行して一方では、国をことにするばかりでなく、六百年のへだたりのある善導大師にお会いする道はただ一つ、 遺 (のこ) された著作に接し、熟読して疑いをはらすよりほか道のないことに気付かれました。
上人はあちら、こちらと宝蔵をかけめぐって、善導大師の著作をさがし求められました。「ひろく諸宗の章疏を被覧し、叡岳になきところのものは、これを他山にたずね、かならず一見をとぐ。黒谷の宝蔵に欠くところの 聖教 (しょうぎょう) をば書写したてまつりて、これを補う」ほどの人であったから、比叡山のどこにも見あたらなかった『 観経疏 (かんぎょうしょ) 』『散善義』を、かろうじて宇治の宝庫にさがしだし、これを一度ならず、二度、三度と読みかえすうちに、「こころのみだれたままで、ただ阿弥陀仏のみ名をとなえさえすれば、本願のみこころによって、かならず往生ができる」という確信をもつにいたりました。ときまさに承安五年(1175)春、上人四十三歳のことでありました。
上人のこころのなかに成立した称名往生に関する確信によって、今までの疑いの雲はのこりなく晴れ、今までとはうってかわったこころの世界が展開するにいたりました。この宗教的回心をさして浄土開宗というのです。したがって浄土開宗とは、既成の他宗教団に対抗して新しく教団をうちたてようという組織的、計画的な意図によって行われたわけではないのです。上人の心底は「ただ善導和尚のこころによって浄土宗をたつ。和尚はまさしく弥陀の化身なり。所立の義あおぐべし。またく源空の今案にあらず」という一語につきるのです。 
大原談義(43〜53歳)
その後、上人は一求道僧として誰からの束縛もうけずに、自由に称名念仏に打ち込むべく、三十年このかた住みなれた比叡の山をおりて、西山の広谷というところに居を占められましたが、しばらくして東山の吉水に住房をうつして、ここを根拠とされることになりました。
「われ聖教をみざる日なし。木曾の冠者花洛に乱入のとき、ただ一日聖教をみざりき」と述懐されているように、嘉永二年(1183)、木曾義仲が京都に乱入した日以外は、称名念仏と聖教の読破にあけくれ、たまたま「たづねいたるものあれば浄土の法門をのべ、念仏の行をすすめる」という静かな生活を続けられていました。
大原談義
上人の日ぐらしはこのようでありましたが、その人格のひかりは暗夜のともしびのように、多くの群萌をひきつけ、その説く専従念仏の教えは各階層の人たちにうけいれられていきました。このなか、とくに南都北嶺の僧たちの注視の眼は、文治二年(1186)の秋、五十四歳の上人をとらえました。それは天台宗の 顕真 (けんしん) (1130〜1192)が発起して上人の主張を聴取し、たがいに意見を交換しようとして、三論宗の明遍(1142〜1224)、法相宗の 貞慶 (じょうけい) (1155〜1213)、天台宗の証真や湛がく (たんがく) 、さらに嵯峨往生院の念仏房(1157〜1251)、東大寺大勧進の俊乗房 重源 (ちょうげん) (1121〜1206)らを洛北大原の里、勝林院に招じて会合を催しました。世にこの会合を大原談義と呼んでいます。
ときに上人は居ならぶ各宗の碩学を前にして、諸宗の法門、修行の方軌、得脱の有様についてのべ、さらにこれに対して浄土の法門こそ現今、万人に適したただ一つの教え( 時機相応 (じきそうおう) の法門)であることを強調されたのです。
この主張は「教えをえらぶにあらず、機をはかろうなり」という上人のことばどおり、いくら教えの優秀さを誇っても、末法の今どき(時)、 人間 (にんげん) の 性 (さが) に翻弄されている自分自身(機)に堪え得ない教えであるならば、その教えは存在理由を失ってしまうというものでした。
成等正覚という深い宗教体験に輝きたもう大聖釈迦牟尼世尊が、すでにこの世を去りたもうて、その人格のひかりは時の経過とともに次第に消え去った現今(時=末法時)、そのひかりに包まれながら直接その教えを仰ぐことができない、いわば教えを乞う師大聖釈尊をもたない自分、しかも人間の性にふりまわされている自分(機=底下の凡夫)にとっては、ただひたすらに時機に適した教え、現在仏であり、しかもすべての 群萌(ぐんもう) をもれなく救いとろうとなさる阿弥陀仏の本願のみこころのままに、そのみ名を南無阿弥陀仏と高声にとなえるよりほかに、出離生死の道はひらかれないという、上人ご自身の体験からにじみでた意見でありました。
上人のこの主張に対して共感をもっても、 反駁 (はんばく) すべき道理は微塵もなく、来聴者にふかい感銘を与えて、この会合の幕は閉じられました。顕真や湛がくはただちに発起して、勝林院や来迎院で不断念仏を始めるという、予想だにしなかったもりあがりのある結果をみるにいたりました。これこそ上人が「機根くらべには源空かちたり」という述懐を証してあまりあると言えましょう。ともかく大原談義は一種の浄土開宗の宣言として、伝統の厚い壁の一画をうちくだいたことを意味するのです。それは上人が比叡山をくだられて十二年目の出来事でありました。 
東大寺での講説(54〜57歳)
浄土三部経の講義 ― 東大寺講説 ―
治承四年(1180)十二月、南都の東大寺や興福寺は 平重衡 (たいらのしげひら) のひきいる軍勢によって焼きうちにあいました。その翌年、東大寺の復興に上人を動員せしめようとする後白河院の内命がくだされましたが、上人はかたく辞退して、その大勧進職に俊乗房重源が推挙されました。
かくして東大寺の復興は重源を大勧進に仰いで進められましたが、文治六年(1190)、上人五十七歳のとき、後白河院の命による重源の特請をうけた上人は、まだ半作りの東大寺大仏殿の軒下で、三日間にわたり浄土三部経を講説されることになりました。ときに南都各宗の碩学や覆面した大衆は、自宗のことについて問いかけて、もしその解答にあやまりがあれば、恥をかかさんばかりの意気込みで会座につらなったので、会場には異常な緊張感がみなぎりました。
しかし上人はこともなげに、称名念仏こそ凡夫出離の最適の教えであることを、浄土三部経の講説をとおして披瀝(ひれき)し、教えが時機に相応してこそ、教えは人に生き、人は教えによって生かされる所以を強調されたのです。この講説はある意味で、南都の諸宗を相手とした浄土開宗の宣言でもありました。今日伝えられている「浄土三部経釈」というのは、このときの講録です。重源はこの翌年、上人に対して十箇条にわたる疑問を提出したので、上人はこれに解答をよせられました。世にこれを『東大寺十問答』といっていますが、その記録は現在に伝わっています。 
上人の活躍と弟子たち(57〜65歳)
法然上人の門弟たち
法然上人はすでに黒谷におられるころから弟子をもっておられました。たとえば上人におくれて叡空のもとに弟子入りした法蓮房信空(1146〜1228)や西仙房心寂は、師の没後に上人の弟子となりました。また承安元年(1171)、上人三十九歳のときには真観房感西(1153〜1200)が弟子入りしました。さらに上人が醍醐に寛雅をたずねられたとき同道した阿性房印西といった人たちも、上人の身辺をとりまいていました。いろいろの階層の人たちが弟子入りしたり、帰依者となったのです。法談に耳を傾け、彼らの称名の声によって上人の身辺が活気づき、道交をふかめるようになるのは、なんといっても、大原談義をさかいとしてそれ以後のことでありました。そのおもだった人たちを、上人の活躍にそってあげてみましょう。
上人は、大原で不断念仏が行われていることを伝えきいた後鳥羽帝の皇姉、上西門院(統子)のお召をうけて浄土の法門を言上されました。それは大原談義がすんで一、二年のうちのことでありました。文治五年(1189)には上人と九条兼実(1149〜1207)夫婦の道交が始まり、ついに上人をして「九条殿と私とは、さきの世からの間柄である」とまで語らしめるほど、親しい関係をむすぶにいたりました。
翌建久元年(1190)に上人は、清水寺における説戒の会座で念仏を勧められたところ、寺家の大勧進沙弥印蔵は感激して、不断念仏を始めるようになりました。またのち西山義の始祖と仰がれる善恵房 証空(しょうくう) (1177〜1247)が、十四歳で弟子入りしたのもこの年でありました。その翌年上人は、兼実の娘で後鳥羽帝の中宮となった宣秋門院(任子)に戒を授けられました。
建久三年(1192)、上人は大和前司親盛入道見仏の招きをうけて、後白河院の追善菩提のために、八坂の引導寺において別時念仏を修し、 六時礼讃 (ろくじらいさん) を行いました。このときが礼讃 諷誦 (ふじゅ) の始まりです。また京都に大番勤仕中の武蔵国御家人、甘糟太郎忠綱が比叡山堂衆の横暴の鎮圧にでむく途中、上人に教えを乞うたのもこの年でありました。
ついで翌年には源頼朝麾下(きか)の豪のもの熊谷次郎直実(〜1208)が、頼朝がとった待遇に対する不満や境地争いに敗訴したので逐電入洛し、 聖覚 (せいかく) (1167〜1235)の紹介で上人の門をたたき、出家して 蓮生 (れんせい) と号しました。
さらに建久六年(1195)には頼朝の御家人、津戸三郎為守(1143〜1242)が東大寺供養に出席する将軍に供奉して上洛中、縁あって上人の門に入ったり、平家没落後、平重盛の孫にあたり、のち上人に常随給仕する人となった勢観房 源智 (げんち) (1183〜1238)が、十三歳で上人の弟子となりました。その翌年に上人は東山の霊山寺で三十七日におよぶ別時念仏を行いました。
さらに翌年には、浄土宗の第二祖と仰がれる聖光房 弁長(べんちょう) (1162〜1238)が、三十六歳にして上人の門をたたき教えをうけ、師弟のちぎりを堅くむすびました。
かくして上人の教えは、年とともに遠近を問わずひろがり、次第に念仏者とその支持者を増加せしめました。このことは上人の好むといなとに拘らず、仏教界内外にたいして新しい勢力を形成しつつあったことを示す物であります。 
建久九年のできごと(65〜66歳)
選択集の撰述
建久八年(1197)、老齢六十五歳の上人は病いになやまれたことがありました。ときに九条兼実はいたく心配されましたが、回復された様子をみとどけて、「浄土の法門については年来うけたまわっているが、まだ心にとどめ得ない点があるので、なにとぞこの際、肝要なことについて記述していただきたい」と懇請されました。上人は門弟の感西や証空や遵西の三人を動員し、執筆の助手役をつとめさせ、 撰述 (せんじゅつ) にとりかかられました。ようやく翌九年春、一部十六章からなる『 選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう) 』が脱稿されました。(この草稿本は京都の廬山寺に蔵されている)
上人の宗教体験の一部を記録した非公開の書『 三昧発得記 (さんまいほっとくき) 』(建久九年一月一日から元久三年正月までの記録)によると、上人はこの『選択集』撰述のさなかである建久九年一月一日から三七日間、毎日七万遍の念仏を行い、称名念仏中に浄土の聖相をまのあたりにみとめられたのです。上人のこの見仏は三昧中のできごとで、称名の行者の不求自得であり、あえて観察の意図があってのことではありませんでした。
ともかく、上人が『選択集』撰述のさなかに三昧中の人であったということは、この書が、上人の深い宗教体験によって裏付けられていることを物語るものであり、「念仏の行、水月を感じて昇降を得たり」という『選択集』巻末のことばは、この辺の消息を伝えるものです。
さらに上人はこの『選択集』撰述のあと、その年の四月に『 没後遺誡文 (もつごゆいかいもん) 』を、また五月に『 夢感聖相記(むかんしょうそうき) 』をしたためられました。前者はいわゆる遺言に属するものですが、上人があえてしたためられたということは、老齢もさることながら、前年からの病いがわざわいして、健康にご自信がなかったためであろうとも思われます。また後者は上人が夢中に半金色の聖者善導大師に会いたもうた体験を記録したもので、四十三歳浄土開宗に直接かかわりのある内容をもつものです。上人が二十数年も以前の体験を、記憶をたどってしたためられたということは、
『選択集』第十六章私釈段でふれられた「 偏依 (へんね) 善導一師」ということに関するあかしの必要性を痛感されたからでしょう。
『選択集』一部の要旨は
おもんみれば、それすみやかに生死をはなれんと欲せば、二種の勝法のなかには、しばらく 聖道 (しょうどう) 門をさしおきて選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲せば正雑二行のなかには、しばらくもろもろの雑行をなげうちてえらんで正行に帰すべし。正行を修せんと欲せば正助二業のなかには、なお助業をかたわらにし選んで正定をもはらにすべし。正定の 業 (ごう) とはすなわちこれ仏名を称するなり。名を称すればかならず生ずることを得。仏の本願によるが故なり。
という一文につきます。「諸師文をつくるにかならず本意一あり。予は選択の一義をたてて選択集をつくるなり」という上人の述懐のように、この書は選択という取捨をもってつらぬいています。生死を出離することについて仏教が説き示す数多い実践のなかから、とくに称名の一行を選びとるのは、あらゆる群萌をもれなく救いとろうとなさる阿弥陀仏の本願のみこころがなさしめたのです。この阿弥陀仏のみ心などについて八種の選択義を説いておられます。
このように『選択集』は阿弥陀仏が示したもうた選択のみこころを開顕するものであり、他面これほど真剣に生死をはなれるただ一筋の道を発見することにとりくんだ書は稀れであります。
しかし選択という取捨をもって臨むところに危険性をはらんでもいました。上人が「こいねがわくば、ひとたび御高覧をへてのち、壁底にうづめて窓前にのこすことなかれ。おそらくは破法の人をして、悪道に堕せしめんことを」という一文で、この書をむすんでいることによって察せられましょう。なぜならば、阿弥陀仏の本願のみこころを説かない天台や真言などの諸宗の教えや、また諸宗で説くところの生死を出離するための実践行をすべて選捨するのが、この書の建前であるからなのです。
ともかく『選択集』は兼実の要請によって撰述されたのですが、その内容はけっして兼実一個人を対象としたものでなく、いわゆる「念仏のひとりだち」を 闡明(せんめい) にした、浄土開宗の宣言書であり、専修念仏者の聖典であります。 
あいつぐ法難(67〜75歳)
『選択集』撰述後も上人は、念仏三昧の人として自ら実践し、さらに他の多くの人を導くこと(自行化他)につとめられました。正治二年(1200)、念仏によって往生することは本望であるが、上人に先だってみまかれば、上人のご臨終、続いて没後の追善はおろか、平常のお給仕すらできない、といって気をやむ病床の愛弟感西に、上人は自分の往生は御房の生没にかかわりないのであるから、こころおきなく念仏を相続せよと、いたわるようにはげまし、臨終の善知識となられました。この秋には大番勤仕のため上洛中であった上野国の御家人、薗田成実が上人の門に入りました。
元久元年(1204)二月、上人は伊豆山源延のために『浄土宗略要文』をしたためられました。上人は専修念仏に対する既成教団からの弾圧の強まることを肌に感じられたので、八月に膝下にあって六ヵ年受教した弁長を 鎮西 (ちんぜい) に帰国させました。弁長は帰国ののち教化活動をこころみましたが、かの地には上人から直接受けた法を素直に伝えない一念義や、金剛宝戒という邪義がひろがっていました。ともかくこのことは、京都をはじめ各地に伝播していた念仏の教えすべてが、上人の真意を伝えるものばかりでなく、かえって上人の名をかりた異説のあったことを物語っています。
元久の法難 ― 制誡七箇条 ―
はたせるかなこの年の十月、叡山三塔の大衆が 専修念仏 (せんじゅねんぶつ) の停止を、ときの天台座主真性に申請しました。上人は彼らのいきどおりをしずめるために、翌月門弟たちを集めていましめ、七箇条からなる制誡をつくり、門弟百九十名の署名をとり、別に誓状をそえて座主に送られました。なぜ専修念仏の停止がさけばれるにいたったかについては、七箇条の制誡の上に読みとることができます。
それによると、念仏以外の行や阿弥陀仏以外の信仰対象をそしったり、念仏以外の行を実践している者を雑行人とののしったり、折伏したり、強いて念仏門にひき入れようとしたり、あるいは阿弥陀仏の本願をたのむ者は造悪をおそれないといって婬酒食肉を勧めたり、上人の説に違反して自分勝手な説(背師自立義)をとなえたり、あまつさえ上人の説といつわる者が続出していたことを知ることができます。
これらは上人の専修念仏に便乗する似て非なる者たちの言行でありますが、その被害者である叡山の衆徒たちは、その責任を上人にとらそうと立ちあがったわけです。
ともかくこの念仏停止の運動は、上人を庇護しようとした兼実が座主に宛てた消息もあって、一応さけることができました。このとき、 安居院 (あぐい) の聖覚法印は法然の命を受けて『登山状』を撰して天台座主のもとに送りました。
興福寺奏状
翌元久二年(1205)正月、上人は霊山寺で別時念仏を行い、八月に入って北白川の二階房で、寒熱が日をへだててきまった時間におこるという一種の熱病にかかられたことがありました。
ついで十月には南都興福寺の衆徒が、後鳥羽院に念仏禁断の奏状に九箇条の過失を書きそえ、上人およびその門弟、とくに法本房行空と安楽房遵西の処罰を強訴しました。その内容は勅許(ちょっきょ)を得ないで一宗をたてたこと、摂取不捨曼荼羅―専修念仏者だけが阿弥陀仏の光明によって救われ、これに対して念仏以外の諸善を行ずる者は光明を預からないことを絵画的に表現したものが流行していること、諸行をもって往生業としないで、称名一辺倒であること、最低の不観不定の口称念仏を勧めることは、最上の観念をすてることであり、念仏の真意をあやまること、阿弥陀仏の名号やその浄土のことを説き示された本師である釈尊を等閑視していること、宇佐や春日などの宗廟大社― 本地垂迹 (ほんじすいじゃく) の神々を礼拝しないなどです。この奏状を八宗同心の願いであるとしたのは、単なる一宗一派の奏状でなく、既成の仏教教団すべての要請であることを示すためでありました。
この年の十二月に専修念仏者の庇護を内容とする宣旨がくだされ、かえって衆徒たちの不満をつのらせたのでした。翌年二月、法本房行空と安楽房遵西が召しだす御教書が発せられ、上人は行空だけを破門されました。ついで衆徒たちは五師三綱を代表にたて、宣旨の内容が寛大なることをするどくつくとともに、念仏禁断の宣旨をくだすべきことを院宣奉行の責任者三条長兼や摂政である九条良経を相手に交渉せしめたのであります。
建永の法難
良経らは念仏禁断の件について慎重に評定をかさねていましたが、三月に急死され、かわって摂政についた近衛家実らによって諸公卿の意見聴取がすすめられました。緊迫した情勢下におかれた上人は、七月に入って兼実の別邸小松殿に移って庇護されることになりました。八月になると衆徒の代表は早急に宣旨をくだすべきことを要請しました。
そうしたなかにあって上人は、十一月に内大臣西園寺(大宮)実宗の戒師をつとめられましたが、翌十二月、門下の住蓮と安楽房遵西の二名が、六時礼讃の哀調に感銘した院の女房と密通したという(捏造)事件がもちあがったので、上人はその責任を免れることができませんでした。兼実は免罪運動を行いましたが、功を奏せず、ついに翌建永二年(1207)二月十八日、上人の四国配流が決定し、安楽房遵西は六条河原で、住蓮は近江の馬淵で処刑されることに決まりました。 
上人の配流・赦免・入滅(75〜80歳)
法然上人の意志
配流の決定した上人は 還俗 (げんぞく) せしめられて藤井元彦という俗名が与えられました。同門の道俗たちのなげきはふかく、老齢の上人に対する気づかいはひとしおでありました。ときに門弟が上人に、「一向専修念仏を停止する旨奏上し、内々に念仏教化なされては」と申し上げたところ、上人は悠々せまらず、「私は流刑を少しも恨んではいない。流罪によって念仏を辺鄙な地方に化導できることは、またとない結構なことである。これはまさに朝廷のご恩とうけとるべきではないか」とさとされました。この上人のことばに柔軟な態度とたぎるような使命感を感じることができます。
またある門弟にたいして「たとえ首をきられるとも、念仏のことだけは言わなければならない」とするどい気魄を示され、聞く人たちをして襟をたださしめました。さらに上人は自分の身のことを気づかっている人たちに、「老齢のことであるから、同じ都に住んでいようと、流罪地にあろうと死ぬときは死ぬのである。今生の別れに気をとめるよりも、お浄土での再会を約束すべきではないか。生きている間は、たとえ遠く住所をへだてていても、南無阿弥陀仏とみ名をとなえるもの同志は、いつもみほとけの慈光のもとにかたく結ばれていることを忘れず、念仏をはげむべきである」と、ねんごろにさとされました。兼実は一夜、上人を法性寺の小御堂に招じてもてなし、別れを惜しまれました。
京を離れて
三月十六日、多くの道俗の涙ながらのみおくりをうけた上人は、下鳥羽から川船で淀川をくだり都をあとにしました。摂津の経ヶ島(神戸市兵庫区)で村人を、播磨の高砂(兵庫県高砂市高砂町)で漁夫を、さらに同じく室の泊(兵庫県揖保郡御津町室津)で遊女をみちびき、同月二十六日讃岐の塩飽島(香川県丸亀市本島町)につき、地頭高階入道西仁の館に入り、のち四国にたって小松庄の生福寺におちつき、教化をかさねられました。流罪の身ではありましたが自由に教化ができてありがたかったと上人は受けとられました。しかし上人にとって、兼実の死(四月五日)をなによりいたまれました。
同年十二月八日、赦免の宣言がくだりましたが、洛中に往還することはかたく禁じられていました。ともかく上人は宣旨のままに摂津国勝尾寺(大阪府箕面市)の二階堂におちつき、四年の歳月を送られました。この間の上人の心境は、「柴の戸をあけくれかかる白雲を、いつ紫の色にみなさん」という三十一文字の歌につきます。来り迎えたもうみ仏を思慕し、心ゆくばかり念仏を続けられた上人の心情が伺われます。また宇都宮頼綱は、上人を勝尾寺にたずねて念仏の人となりました。
帰京 ―『一枚起請文』撰述と法然上人入寂 ―
建暦元年(1211)十一月十七日帰洛を許された上人は、その月の二十日、五年ぶりに京都の地をふまれましたが、旧居吉水の禅房はほとんど荒廃していたので、『 愚管抄 (ぐかんしょう) 』の著者であり、兼実の弟にあたる青蓮院慈円(1155〜1225)の厚意にあまえて大谷の禅房(知恩院勢至堂)に入られました。門弟をはじめ念仏の道俗のあたたかい出迎えに、再会のよろこびをふかくされました。
ご老齢と所労がかさなって上人は翌年の正月から病床につかれました。底冷えのきつい京都、湿気の多い華頂山の禅房の冬は、老齢の上人にとって堪えがたいところでありましたでしょう。高弟の信空は最悪の事態を予期して、「ご入滅ののちは、どこを上人のご遺跡といたしましょうか」とたずねざるを得ませんでした。上人は「私の生涯は専修念仏の 弘通 (ぐつう) にある。遺跡はといえば、念仏の声するところがすべて皆、私の遺跡である」とまで答えられました。
上人の本懐の面目これに過ぎるものがありましょうか。
病床にふした上人の口からはたえず称名の声が聞かれ、枕辺に居ならぶ門弟たちの念仏のはげましとなられました。
「私は極楽から来た身であるから、やがて極楽に還ることは当然である」とも語られました。老衰は日を追うて加わり、二十三日から重態におちいられました。常随給仕首尾十八年の門弟源智は、念仏の肝要について一筆書きとどめて頂きたいと、上人に懇願しました。上人はこともなげに半身をおこして、
もろこし我が朝に、もろもろの智者達のさたし申さるる観念の念にも非ず、また学文をして念の心を悟りて申念仏にも非ず、ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申て、疑なく往生するそと思とりて申外には別の子さい候はす、但三心四修と申事の候は、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するそと思ふ内に籠り候也 此外におくふかき事を存せは二尊のあはれみにはつれ、本願にもれ候へし 念仏を信せん人はたとひ一代の法を能々学すとも 一文不知の愚どんの身になして 尼入道の無ちのともからに同して ちしやのふるまいをせすして 只一かうに念仏すへし
   為証以両手印
   浄土宗の安心起行 此一紙に至極せり
   源空か所存此外に全く別義を存せす
   滅後の邪義をふせかん為めに 所存を記し畢
   建暦二年正月二十三日  源 空 花押
と、生涯の主張を簡潔に言いつくした『一枚起請文』をしたためられました。
かくして同月二十五日午の正中、頭北面西、
「光明へん照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」
の経文をとなえ、眠るがごとく示寂されたのでありました。ときまさに建暦二年(1212)正月二十五日、上人八十歳でありました。 
滅後の法難
『選択集』開板印行
上人がなくなられた年の九月、その主著である『 選択集 (せんちゃくしゅう) 』が開板印行され、大きな波紋をなげかけました。真言の静遍(1166〜1224)や天台の明禅、三井園城寺の公胤(1145〜1216)などは専修念仏を心よく思っていませんでしたが、ひとたび『選択集』をひもといて専修念仏の人ととなりました。栂尾の明恵高弁(1174〜1232)は、上人の智慧と戒徳のすぐれていることに敬意をはらっていましたが、『選択集』をみるにおよんで、専修念仏の道俗が主張する邪見、邪説こそ『選択集』にそのみなもとがあるとし、建暦二年に『 摧邪輪 (ざいじゃりん) 』三巻を、また翌年には『 摧邪輪 (ざいじゃりん) 荘厳記 (しょうごんき) 』一巻を撰しました。
このような『選択集』に対する批難はあとをたたず、『弾選択』を書いた天台の定照、『立正安国論』をあらわした日蓮らが続きました。定照に論争をしかけられた長楽寺隆寛(1148〜1227)は、『顕選択』をあらわして『弾選択』を批判しました。この『顕選択』は叡山の衆徒の反発をひきおこしました。彼らは専修念仏者をみつけ次第、ところかまわず黒衣をひきさくなどの乱暴をはたらいたのです。
嘉禄三年(1227)六月二十二日には上人の墳墓を破却したり、七月六日には陸奥国へ隆寛を流刑にしたり、また叡山大講堂前で『選択集』の板木を焼却したりしました。
嘉禄の法難
上人の遺骸を鴨河へ流すという計画があったので、信空や覚阿らが相談し上人の遺骸を嵯峨の地に移しました。ときに宇都宮頼綱入道 蓮生 (れんしょう) 、千葉入道法阿、渋谷入道道遍、内藤入道西仏など関東御家人の念仏者が警備にあたって、 太秦 (うずまさ) の地に運ぶことができました。
翌年(安貞二年1228)正月二十五日、上人の十七回忌を ト (ぼく) して、西山粟生野の幸阿のもとに遺骸をうつして、ここで信空、証空、覚阿らの門弟がみまもるなかで荼毘に付せられるにいたりました。 
 
知恩院

 

み教え
月影の いたらぬ里はなけれども ながむる人の 心にぞすむ
この和歌は法然上人が詠まれた「月かげ」のお歌です。
月の光はすべてのものを照らし、里人にくまなく降り注いでいるけれども、月を眺める人以外にはその月の美しさはわからない。阿弥陀仏のお慈悲のこころは、すべての人々に平等に注がれているけれども、手を合わせて「南無阿弥陀仏」とお念仏を称える人のみが阿弥陀仏の救いをこうむることができる・・・という意味です。
法然上人は「月かげ」のお歌に、『観無量寿経』の一節「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」のこころを説き、私たちにお示しくださったのです。
法然上人の教えは、厳しい修行を経た者や財力のある者だけが救われるという教えが主流であった当時の仏教諸宗とは全く違ったものでした。
「南無阿弥陀仏」と称えればみな平等に救われる・・・。法然上人のみ教えは貴族や武士だけでなく、老若男女を問わずすべての人々から衝撃と感動をもって受け入れられ、800年を経た今日も、そのみ教えは多くの人々の「心のよりどころ」となっているのです。 
知恩院
法然上人は平安の末、長承2(1133)年4月7日、美作国(現在の岡山県)久米南条稲岡庄に押領使・漆間時国(うるまのときくに)の長子として生まれ、幼名を勢至丸(せいしまる)といいました。勢至丸が9歳のとき父・時国が夜襲され、不意討ちに倒れた時国は、枕辺で勢至丸に遺言を残します。「恨みをはらすのに恨みをもってするならば、人の世に恨みのなくなるときはない。恨みを超えた広い心を持って、すべての人が救われる仏の道を求めよ」。
この言葉に従い勢至丸は菩提寺で修学し、その後15歳(一説には13歳)で比叡山に登って剃髪受戒、天台の学問を修めます。はじめ円明房善弘(えんみょうぼうぜんこう)と名乗りますが、久安6(1150)年18歳の秋、黒谷の慈眼房叡空の弟子として法然房源空(ほうねんぼうげんくう)の名を授けられられました。叡空のもとで勉学に励んだ法然上人は「智恵第一の法然房」と評されるほどになり、以後、遁世(とんせい)の求道生活に入ります。
この時代は政権を争う内乱が相次ぎ、飢餓や疫病がはびこるとともに地震など天災にも見舞われ、人々は不安と混乱の中にいました。ところが当時の仏教は貴族のための宗教と化し、不安におののく民衆を救う力を失っていました。学問をして経典を理解したり、厳しい修行をし自己の煩悩を取り除くことが「さとり」であるとし、人々は仏教と無縁の状態に置かれていたのです。そうした仏教に疑問を抱いていた法然上人は、膨大な一切経の中から阿弥陀仏のご本願を見いだします。それは「南無阿弥陀仏」と声高くただ一心に称えることにより、すべての人々が救われるという専修念仏(せんじゅねんぶつ)の道でした。承安5(1175)年、上人43歳の春のこと、ここに浄土宗が開宗されたのです。
法然上人はこの専修念仏をかたく信じて比叡山を下り、吉水(よしみず)の禅房、現在の知恩院御影堂(みえいどう)の近くに移り住みました。そして、訪れる人を誰でも迎え入れ、念仏の教えを説くという生活を送りました。こうした法然上人の教えは、多くの人々の心をとらえ、時の摂政である九条兼実(くじょうかねざね)などの貴族にも教えは広まっていきました。しかし、教えが世に広まるにつれ、法然上人の弟子と称して間違った教えを説く者も現れ、旧仏教からの弾圧も大きくなりました。
加えて、上人の弟子である住蓮、安楽(じゅうれん、あんらく)が後鳥羽上皇の怒りをかう事件を起こし、建永2(1207)年、上人は四国流罪の憂き目にあいます(建永の法難:けんえいのほうなん)。5年後の建暦元(1211)年に帰京できましたが、吉水の旧房は荒れ果てており、今の知恩院勢至堂(せいしどう)のある場所、大谷(おおたに)の禅房に住むことになりました。翌年、病床についた法然上人は、弟子の勢観房源智上人(せいかんぼうげんち)の願いを受け、念仏の肝要をしたためます。それが「智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」と述べた『一枚起請文』(いちまいきしょうもん)です。そして建暦2(1212)年正月25日、80歳で法然上人は入寂されたのです。
門弟たちは房の傍らに上人の墳墓をつくりましたが、その15年後、叡山の僧兵により墳墓が破却されそうになったため、弟子たちは亡骸を西山粟生野(せいざんあおの)に移し、荼毘にふします。その後、文暦元(1234)年、源智上人は、荒れるがままの墓所を修理し遺骨を納め、仏殿、御影堂、総門を建て、知恩院大谷寺と号し、法然上人を開山第一世と仰ぐようになりました。知恩院の名は、遺弟たちが上人報恩のために行った知恩講に由来します。
ところで、法然上人を祖師と仰ぐ浄土宗の総本山として、知恩院の地位が確立したのは、室町時代の後期とされており、また、知恩院の建物が拡充したのは、徳川時代になってからのことです。徳川家は古くから浄土宗に帰依しており、家康は生母伝通院(でんつういん)が亡くなると知恩院で弔い、また亡母菩提のため寺域を拡張し、ほぼ現在の境内地にまで広げたのです。その後も火災に見舞われるなど、伽藍にいくたびかの盛衰はありましたが、多くの人々の支援によって乗り越え、800年以上、念仏の教えはここに生き続けてきました。
法然上人の御心を受け継ぎ、私たちに生きる喜びをよみがえらせてくれる念仏のふるさと、知恩院。きょうも、人々の心にすがすがしくあたたかい光を照らし続けてくれます。 
大遠忌の歴史
生前に「念仏の声するところ、みな予が遺跡なり」と言い、死後に供養を受けることを望まなかった法然上人でしたが、弟子たちはやはりご供養したいと思うものです。
50年ごとに、人々はお祖師様のご年忌を盛大にご供養してきたのでした。古くは100回忌・200回忌の記録も残っています。あいにく寛永10年(1633)の大火のときに、御影堂、集会堂、方丈などの堂宇とともに知恩院の古記録も焼失してしまいましたが、万治4年(1661)の450回忌以降のことは、書簡や図録などから様子を知ることができます。
法要の形態は、宝永8年(1711)の500回忌のときに定められて以来、平成23年(2011)の元祖法然上人800年大遠忌まで変わらず受け継がれております。しかし、図録や写真を見ると、参詣者の服装は時代とともに変わっています。遠忌を迎える人々の想いも、時代時代で異なっていたことでしょう。
800年前 / 報恩の想いは時とともに盛んに
50年に1度の法然上人の大遠忌―――その歴史をたどりゆけば今から800年前に遡ります。
建暦2年(1212)1月25日に法然上人がご入滅されたとき、遺された弟子たちは悲しみにくれます。師の報恩のため、弟子たちの長老であった法蓮房信空(ほうれんぼうしんくう)が中心となり、世間の風儀に順じて七日七日の仏事をお勤めいたしました。 月忌には追善法会「知恩講」が御廟堂周辺でいとなまれました。月忌の法式を定めた『知恩講私記』は、のちの時代に遠忌法要が確立されるときに影響を与えることになります。翌年には1周忌、さらに翌年には3回忌がお勤めされており、その後も、50回忌、100回忌、150回忌と、 節目ごとの法要は欠かさず行われています。
大遠忌の歴史とはいわば、800年という時間の中で、先達が変わることなく法然上人を讃えてきた道筋を示すものといえましょう。
もっとも、念仏の元祖 法然上人を仰ぐ想いは同じでも、歳月とともに法要のあり方は変化します。
800年の歴史の中で転換点となったのは、大永4年(1524)に当時の天皇である後柏原天皇より出された「大永の御忌鳳詔(ぎょきほうしょう)」でした。 これは、天皇の命により「知恩院にて法然上人の御忌を7日間にわたって勤めよ」と定めるものであり、 以降、毎年1月18日から25日まで法然上人の忌日法要がお勤めされることになります。 もちろん、50年ごとの遠忌も例外ではなく、この詔勅に基づいて行われます。なお、明治10年以降は法要期間が厳寒の1月から陽春の4月に変更されています。
江戸時代になると、徳川家康公と縁の深かった知恩院は、慶長8年(1603)に7万3千石(現在の通貨に換算して約146億円)という大規模な寄進を受け、 御影堂、集会堂、大方丈、小方丈といった大伽藍をいくつも建立します。このときには、山地を平地化するための大工事も併せて行われ、 境内はほぼ今日の形に整えられました。
知恩院は京都東山の中腹に位置するので、多勢の参詣者を迎え入れるのには地形的に適しません。 にもかかわらず、後述するように、1日に10万人をかぞえる遠忌法要の参詣者をも境内に収容できるのは、この造成に由来するのです。
その後、慶長12年(1607)には家康の奏請により知恩院に宮門跡を置く運びになり、慶長16年(1611)、知恩院は法然上人の400回忌を迎えます。 浄土宗の寺院は戦国時代末期から江戸時代初期にかけて全国で多く開創されており、400回忌の頃は知恩院のみならず、浄土宗全体が発展を遂げた時期でした。 新たに造成された伽藍での法要はさぞ盛大だったろうと偲ばれるのですが、あいにく、知恩院は寛永10年(1633)に大火に遭い、記録を消失しています。
50年後の450回忌のおりには、知恩院から浄土宗末寺へ上洛し登嶺するようあらかじめ達しがあり、全国から知恩院へと来集して法要がお勤めされたと伝えられています。
350年前(450、500回忌) / 念願の大師号下賜と法式の確立
盛況だった450回忌のとき、当時の知恩院宮門跡 尊光法親王(そんこうほっしんのう)には1つの願いがありました。 それは、法然上人への贈官と勅会法要(ちょくえほうよう:朝廷から勅使を迎えての法要)によって遺徳を讃えたいということでした。 尊光法親王は幕府の内諾を取り付けようとはかったものの、残念ながらこのときはかなわぬ夢に終わります。
尊光法親王亡き後もこの願いがやむことはなく、幕府への上奏を重ねたところ、ご入滅から486年が経った元禄10年(1697)1月18日、 ついに「円光大師」の大師号が下賜されました。平安時代に朝廷と結びつきの強かった天台宗と真言宗では、「伝教大師」「弘法大師」などの宣下がありましたが、 それ以外の宗派では大師号の下賜は初めてのことでした。 当時知恩院の住職だった秀道(しゅうどう)上人は、あふれる喜びを「宗門の光花、比類なし」という言葉で記しています。
大師号の下賜に知恩院が沸いてから14年後の宝永8年(1711)には、法然上人の500回忌を迎えます。
このときも贈号と勅会法要によって遺徳を讃えたいという願いは強く、先の諡号(しごう)宣下からわずかの歳月しか経っておりませんが、 請願を出したところ認められ、「東漸(とうぜん)大師」と加諡(かし)されることとなりました。
知恩院における法然上人の遠忌は、ここに確立されることになります。500回忌以降の50年ごとの遠忌法要には必ず大師号が下賜されてきましたし、 勅会法要も万延2年(1861)の650回忌まで続きました。遠忌法要の形態についても、声明(しょうみょう)を中心とした法式が500回忌のときに整えられています。来る平成23年の800年大遠忌もこの法式を力強く継承いたします。
また、500回忌のときには、阿弥陀堂を御廟堂周辺より現在の位置に移し、御廟堂の修復と拝殿の新築も行っています。 霊元上皇ご親筆の「華頂山」の額が知恩院三門に掲げられたのもこのときでした。
江戸時代(550、600、650回忌) / 江戸時代の遠忌をめぐって
江戸時代の遠忌法要を記したものに『華頂山大法会図録』があり、550回忌、600回忌、650回忌と遠忌のたびごとに3度刊行されています。
その中には「勅使参堂の儀といい、勅修法会の式といい、またとない壮観で、浄土宗の盛事」であったと、その賑わいぶりが記されます。 勅使が御影堂中心に座りそれを満堂の僧侶が取り囲む図から、法要の厳粛さが伝わります。
遠忌に参詣したのは僧侶だけではなく、大衆も多く含まれていました。鉦(しょう)を叩き太鼓を打ちながら六斎念仏(ろくさいねんぶつ:現在の楷定念仏の源流をなすもの) を愉しむ人々の姿が記録されています。
ところで、この図録は、遠忌のたびごとに3度刊行されていながら、意外なことに、朝廷からの勅使の名前が変わっているなどの若干の改訂以外は、 図と文章にほとんど変更がありません。遠忌の様式が確立され、固定化されたことを示すものと考えられます。 一方、その陰で、法然上人の命日法要である御忌法要が浄土宗内で広くつとめられ、本山参りも盛んになるよう―特に、 遠忌の前後の時期に―努力がなされていたことは見逃せません。その証拠となるものを2つ紹介しましょう。
まず1つは、法然上人ゆかりの二十五霊場めぐりです。
法然上人の二十五霊場は、 僧 霊沢(れいたく)が550回忌を機に発起し、翌年の宝暦12年(1762)に創設されました。巡拝を通じて、ご誕生からご入滅までのご足跡を知り、正しい念仏信仰を持つようにと願ってのことでありました。 また、明和3年(1766)に『円光大師御遺跡二十五箇所案内記』という霊場めぐりのガイドブックが刊行され、ゆかりのある二十五の霊場を選定するだけでなく、それぞれに法然上人ご自詠のご詠歌を1つずつあて、教化の一助とされています。 昭和49年(1974)浄土宗開宗800年を記念し再興され、その後この法然上人二十五霊場の巡拝は、現在まで盛んに続けられております。
また、600回忌を5年後に控えた文化3年(1806)には、毎年の御忌法要および50年に1度の遠忌法要を全国の寺院と檀家に浸透させるため、 『御忌勧誘記』が知恩院から刊行されています。「このたびの遠忌を報恩のことはじめとして、以後は毎年家ごとに御忌をつとめるように」 などと心構えが説かれている他、「新しい衣服を用いるか、洗い清めたものを着るように」「よく手を洗い口をすすいでから仏前に出なさい」と、 御忌をつとめるときの細かい作法までも記されています。もちろん、「知恩院をはじめ京都の本山の御忌や遠忌に参詣するように」との記述もあり、 そのためにはあらかじめ路銭を月掛けで蓄えておくようにと指示しています。
こうした霊場めぐりや本山参拝のガイドブックに促されて、遠忌に参詣した人は多かったことでしょう。 そして、次の時代に交通網が発達したとき、参詣の気運はいよいよ高まることになります。
明治時代(700回忌) / 鉄道時代の遠忌
江戸時代から明治時代に変わっても遠忌法要それ自体は過去を継承する形で行われます。が、欧米から輸入された科学技術が社会を一新させたことで、 遠忌を取り巻く雰囲気も変わりました。特に、交通網や通信網が発達したことは、参詣者へ大きな影響を与えました。
明治44年(1911)、明治時代になって初めての遠忌を迎えます。法然上人の700回忌は、奇しくも親鸞聖人(1173〜1263)650回忌の年にもあたり、 開通した鉄道を利用してかつてない規模の団体参詣者が京都に集まることが予想されました。事前に入念な準備が進められ、団体参拝に関する諸規定を取り決めた上で、明治43年7月には全国の浄土宗寺院に通達を出し、法要期日が3月1日から7日と4月19日から25日であり、団体参拝はこのうち前期のみで受け付ける旨を伝えています。
知恩院と東西本願寺の3つの遠忌法要のために鉄道を利用する団体は、遠忌法要まであと半年と迫った明治43年10月時点の見込みで、60万人にも達しました。 京都駅のみでは参詣者をとても収容しきれないことが判明し、急遽、梅小路駅が設けられることになります。旅館等の宿泊施設も当然不足するので、寺院に依頼して補っています。
遠忌法要は盛大を極め、特に前期1週間の中日に行われた庭儀式は「前代未聞の盛儀」「ただ見る満山これ人」で、この日1日で参拝者は10万人を超えました。 前期1週間を通じてでは、50万人の人出だったと記録されています。写真を見れば、境内を埋め尽くす参詣者に驚きを禁じえません。
1000人を超える布教師が登嶺し、知恩院およびその周辺での記念伝道に励んだ事も、この遠忌の特徴です。 50年後の750回忌の時に知恩院門跡をつとめることになる岸信宏上人も教化活動につとめられ、後に振り返って次の言葉をのこされています。
「この前の明治44年の700年御遠忌当時は、宗教大学に在学中で、全校こぞって知恩院へ参拝し、鹿ヶ谷にあった仏教専門学校を宿舎にして、 期間中毎日知恩院へ通い、天幕伝道や団参のお世話をしましたことを覚えています。」
700回忌の記念事業として、全国の檀信徒から浄財を募り、御影堂修理と阿弥陀堂建替えと華頂女学校の建設が実施されています。
明治時代になって徳川家の後ろ盾を失い、江戸時代と同じように大師号が宣下されるか心配されましたが、重ねて上奏したところ「明照大師」と諡(おくりな)されました。御影堂内部に掲げられる「明照」の額は、明治天皇崩御ののちに、大正天皇より下賜されたものです。
昭和時代(750回忌) / ヌーベル・バーグ時代の遠忌
750回忌がいとなまれたのは昭和36年のことです。およそ50年前の遠忌ですから、この文章をお読みいただいている方々の中にも、参詣された方はいらっしゃることでしょう。
明治時代の遠忌は、鉄道の開通によってかつてないほど多勢の参詣者を迎え入れました。それから50年を経た750回忌について新聞記事は、「大遠忌もヌーベル・バーグ時代とあって」と、 その様子を伝えています。
「ヌーベル・バーグ」とは今では馴染みのない言葉ですが、訳せば「新しい波」であり、 当時のフランスの映画界の新しい潮流を指していうものでした。もちろん、基本となる法要形式は伝統にのっとるわけですが、その環境は、 時代色をふんだんに取り入れた新しいものだったのです。
電気オルガンと合わせての音楽法要があったり、有線テレビが境内18ヶ所に設けられ、堂内に入りきれない参拝者に法要の様子を伝えたり、 飛行機をチャーターして花環とメッセージを投下したり―――今までにない試みが盛り込まれていました。花電車が走ったという記録もあります。 「空陸呼応の立体法要」という新聞の見出しは、今読むと大げさにも思えますが、当時としては新鮮な驚きがあったのでしょう。
参詣者の姿は、着物を着て襟には各参拝団名を記し、 数珠を手にして全国から登嶺するといった具合で、明治時代の遠忌が、尻絡げ(しりからげ)に信玄袋といった風俗だったのとは、大きく趣が変わりました。
しかし、多勢の参詣者が登嶺されたことに変わりはなく、3月1日から1週間の遠忌法要期間の参詣者総数は30万人とも50万人とも言われています。
しかしながら、750回忌のときに果たした歩みの中で最も意義深いことは、第2次世界大戦後分裂していた浄土宗が1つの教団に復したということでしょう。 合併後、最初の浄土門主に推戴された岸信宏知恩院門跡は、これについて次のように語られました。
「いよいよ元祖法然上人750年御遠忌大法要を目の前に迎うることとなりました。…中略…浄土宗が大きく2つに分れているということは何としても遺憾のことでありまして、 またもとの1つの浄土宗の教団に還って、このたびの御遠忌を迎えたいという要請が期せずして浄土両宗団の中に起り、合同の交渉が十余年の間、続けられたのであります。」
そして、大師号も下賜されました。「和順大師」です。知恩院の宿坊である「和順会館」はこの大師号に由来します。 
知恩院の七不思議
鴬張りの廊下 / 仏の誓い
御影堂から集会堂、大方丈、小方丈に至る廊下は、全長550メートルもの長さがあります。歩くと鶯の鳴き声に似た音が出て、静かに歩こうとするほど、音が出るので「忍び返し」ともいわれ、曲者の侵入を知るための警報装置の役割を担っているとされています。また鶯の鳴き声が「法(ホー)聞けよ(ケキョ)」とも聞こえることから、不思議な仏様の法を聞く思いがするともいわれています。
白木の棺 / 不惜身命
三門楼上に二つの白木の棺が安置され、中には将軍家より三門造営の命をうけた大工の棟梁、五味金右衛門夫婦の自作の木像が納められています。彼は立派なものを造ることを心に決め、自分たちの像をきざみ命がけで三門を造りました。やがて、三門が完成しましたが、工事の予算が超過し、夫妻はその責任をとって自刃したと伝えられています。この夫婦の菩提を弔うため白木の棺に納めて現在の場所に置かれ、見る人の涙を誘います。
忘れ傘 / 知恩・報恩
御影堂正面の軒裏には、骨ばかりとなった傘がみえます。当時の名工、左甚五郎が魔除けのために置いていったという説と、知恩院第32世の雄誉霊巌上人が御影堂を建立するとき、このあたりに住んでいた白狐が、自分の棲居がなくなるので霊巌上人に新しい棲居をつくってほしいと依頼し、それが出来たお礼にこの傘を置いて知恩院を守ることを約束したという説とが伝えられています。いずれにしても傘は雨が降るときにさすもので、水と関係があるので火災から守るものとして今日も信じられています。
抜け雀 / 心をみがく
大方丈の菊の間の襖絵は狩野信政が描いたものです。紅白の菊の上に数羽の雀が描かれていたのですが、あまり上手に描かれたので雀が生命を受けて飛び去ったといわれています。現存する大方丈の襖絵には飛び去った跡しか残っていませんが、狩野信政の絵の巧みさをあらわした話といえるでしょう。
三方正面真向の猫 / 親のこころ
大方丈の廊下にある杉戸に描かれた狩野信政筆の猫の絵で、どちらから見ても見る人の方を正面からにらんでいるのでこの名があります。親猫が子猫を愛む姿が見事に表現されており、親が子を思う心、つまりわたしたちをいつでもどこでも見守って下さっている仏様の慈悲をあらわしています。
大杓子 / 仏のすくい
大方丈入口の廊下の梁に置かれている大きな杓子です。大きさは長さ2.5メートル、重さ約30キログラム。このような大杓子はあまりないところから、非常に珍しいものとしてこんにちでも拝観の方が見上げます。伝説によると三好清海入道が、大坂夏の陣のときに大杓子をもって暴れまわったとか、兵士の御飯を「すくい」振る舞ったということです。「すくう」すべての人々を救いとるといういわれから知恩院に置かれ、阿弥陀様の慈悲の深さをあらわしています。
瓜生石 / はげみ
黒門への登り口の路上にある大きな石は、知恩院が建立される前からあるといわれ、周囲に石柵をめぐらしてあります。この石には、誰も植えたおぼえがないのに瓜のつるが伸び、花が咲いて瓜があおあおと実ったという説と、八坂神社の牛頭天王が瓜生山に降臨し、後再びこの石に来現し一夜のうちに瓜が生え実ったという説が伝えられています。また石を掘ると、二条城までつづく抜け道がある、隕石が落ちた場所である等、さまざまな話が言い伝えられている不思議な石です。 
 
臨済宗1

 

中国禅宗五家(臨済、潙仰、曹洞、雲門、法眼)の1つ。
中国禅宗の祖である達磨大師から数えて6代目の南宗禅の祖・曹渓山宝林寺の慧能の弟子の1人である南岳懐譲から、馬祖道一(洪州宗)、百丈懐海、黄檗希運と続く法系を嗣いだ唐の臨済義玄(? - 867年)によって創宗された。彼は『喝の臨済』『臨済将軍』の異名で知られ、豪放な家風を特徴として中国禅興隆の頂点を極めた。
大慧宗杲と曹洞宗の宏智正覚の論争以来、曹洞宗の「黙照禅」に対して、公案に参究することにより見性しようとする「看話禅」(かんなぜん)がその特徴として認識されるようになる。
日本へは栄西以降、様々な僧によって持ち込まれ、様々な派が成立した。黄檗宗も元来、臨済宗の一派である。歴史的に鎌倉幕府・室町幕府と結び付きが強かったのも特徴の1つで、京都五山・鎌倉五山のどちらも全て臨済宗の寺院で占められている他、室町文化の形成にも多大な影響を与えた。江戸時代の白隠が中興の祖として知られる。
中国における臨済宗
臨済宗は、その名の通り、会昌の廃仏後、唐末の宗祖臨済義玄に始まる。臨済は黄檗希運の弟子であり、河北の地の臨済寺を拠点とし、新興の藩鎮勢力であった成徳府節度使の王紹懿(中国語版、英語版)(禅録では王常侍)を支持基盤として宗勢を伸張したが、唐末五代の混乱した時期には、河北は5王朝を中心に混乱した地域であったため、宗勢が振るわなくなる。この時期の中心人物は、風穴延昭である。
臨済宗が再び活気に満ち溢れるようになるのは、北宋代であり、石霜楚円の門下より、ともに江西省を出自とする、黄龍慧南と楊岐方会という、臨済宗の主流となる2派(黄龍派・楊岐派)を生む傑僧が出て、中国全土を席巻することとなった。
南宋代になると、楊岐派に属する圜悟克勤の弟子の大慧宗杲が、浙江省を拠点として大慧派を形成し、臨済宗の中の主流派となった。
日本における臨済宗
宗門では、ゴータマ・シッダッタの教え(悟り)を直接に受け継いだマハーカーシャパ(迦葉)から28代目のボーディダルマ(菩提達磨)を得てインドから中国に伝えられた、ということになっている。その後、臨済宗は、宋時代の中国に渡り学んだ栄西らによって、鎌倉時代に日本に伝えられている。日本の臨済宗は、日本の禅の宗派のひとつである。師から弟子への悟りの伝達(法嗣、はっす)を重んじる。釈迦を本師釈迦如来大和尚と、ボーディダルマを初祖菩提達磨大師、臨済を宗祖臨済大師と呼ぶ。同じ禅宗の曹洞宗が地方豪族や一般民衆に広まったのに対し、臨済宗は時の武家政権に支持され、政治・文化に重んじられた。とくに室町幕府により保護・管理され、五山十刹が生まれた。その後時代を下り、江戸時代に白隠禅師によって臨済宗が再建されたため、現在の臨済禅は白隠禅ともいわれている。
伝統
法嗣という師匠から弟子へと悟りの伝達が続き現在に至る。師匠と弟子の重要なやりとりは、室内の秘密と呼ばれ師匠の部屋の中から持ち出されて公開されることはない。師匠と弟子のやりとりや、師匠の振舞を記録した禅語録から、抜き出したものが公案(判例)とよばれ、宋代からさまざまな集成が編まれてきたが、悟りは言葉では伝えられるものではなく、現代人の文章理解で読もうとすると公案自体が拒絶する。しかし、悟りに導くヒントになることがらの記録であり、禅の典籍はその創立時から現在に至るまで非常に多い。それとともに宋代以降、禅宗は看話禅(かんなぜん)という、禅語録を教材に老師が提要を講義する(提唱という)スタイルに変わり、臨済を初めとする唐代の祖師たちの威容は見られなくなった。師匠が肉体を去るときには少なくとも跡継ぎを選んで行くが、跡継ぎは必ずしも悟りを開いているとは限らず、その事は師匠とその弟子だけが知っている。新しい師匠が悟りを開いていなくとも、悟りを開いていた師匠の時代から数世代の間であれば、世代を越えて弟子が悟りを開くことは可能なため、その様な手段が取られる。師匠は、ひとりだけではなく複数の師匠を残して行くこともあれば、師匠の判断で跡を嗣ぐ師匠を残さずにその流れが終わることもある。いくつもの支流に分かれ、ある流れは消えて行き、その流れのいくつかが7世紀から現在まで伝わっている。
悟り
禅宗は悟りを開く事が目的とされており、知識ではなく、悟りを重んじる。 禅宗における悟りとは「生きるもの全てが本来持っている本性である仏性に気付く」ことをいう。 仏性というのは「言葉による理解を超えた範囲のことを認知する能力」のことである。 悟りは師から弟子へと伝わるが、それは言葉(ロゴス)による伝達ではなく、坐禅、公案などの感覚的、身体的体験で伝承されていく。 いろいろな方法で悟りの境地を表現できるとされており、特に日本では、詩、絵画、建築などを始めとした分野で悟りが表現されている。
公案体系
宋代以降公案体系がまとめられ、擬似的に多くの悟りを起こさせ、宗門隆盛のために多くの禅僧の輩出を可能にした。公案は、禅語録から抽出した主に師と弟子の間の問答である。弟子が悟りを得る瞬間の契機を伝える話が多い。
公案は論理的、知的な理解を受け付けることが出来ない、人智の発生以前の無垢の境地での対話であり、考えることから解脱して、公案になり切るという比喩的境地を通してのみ知ることができる。これらの公案を、弟子を導くメソッド集としてまとめたのが公案体系であり、500から1900の公案が知られている。公案体系は師の家風によって異なる。
修行の初期段階に与えられる公案の例:
狗子仏性 - 「犬に仏性はありますか?」「無(む)」この背景には、仏教では誰でも知っている「全ての生き物は仏性を持っている」という涅槃経の知識があるが、その種の人を惑わす知識からの解脱を目的としている。隻手の声 -「片手の拍手の音」弟子は片手でする拍手の音を聞いてそれを師匠に示さなければならない。知的な理解では片手では拍手はできず音はしないが、そのような日常的感覚からの解脱を目的としている。
宗派
建仁寺派
1202年(建仁2年)、中国・宋に渡って帰国した栄西により始まる。栄西は最初に禅の伝統を日本に伝えた。大本山は京都の建仁寺。
東福寺派
1236年、宋に渡り帰国した円爾(弁円)により京都で始まる。本山は京都の東福寺。戦国時代、毛利家の外交僧として活躍した安国寺恵瓊はこの宗派。
建長寺派
1253年、鎌倉幕府五代執権・北条時頼が中国・宋から招いた蘭渓道隆により始まる。本山は蘭渓道隆が開山した鎌倉の建長寺。
円覚寺派
1282年 中国から招かれた無学祖元により鎌倉で始まる。本山は鎌倉の円覚寺。円覚寺は、無学祖元から高峰顕日・夢窓疎石へと受け継がれ日本の禅の中心となった時期もある。明治以降の有名な禅師は、今北洪川・釈宗演・朝比奈宗源。禅を西洋に紹介した鈴木大拙は今北と釈宗演の両師の元に在家の居士として参禅した。また夏目漱石も釈宗演に参じており、その経験は「門」に描かれている。釈宗演の法をついだ両忘庵釈宗活老師が日暮里の地に居士禅の両忘会を再興させ、両忘協会となり、若き日の平塚らいてう等が修行した。その後、両忘協会は人間禅となり居士専門の坐禅修行が続けられている。
南禅寺派
1291年、無関普門により始まる。本山は京都の南禅寺。
国泰寺派
1300年頃、慈雲妙意により始まる。総本山は明治時代に山岡鉄舟の尽力で再興した富山県高岡市にある国泰寺。鉄舟開基の谷中の全生庵も国泰寺派の名刹である。
大徳寺派
1315年、宗峰妙超により始まる。本山は京都の大徳寺。室町時代には応仁の乱で荒廃したが、一休宗純が復興した。
向嶽寺派
甲斐国塩山の向嶽寺を拠点とする向嶽寺派は鎌倉後期から南北朝時代にかけて武家政権と結んだ夢窓派と一線を画し、独自の宗風を築いた。向嶽寺派は無本覚心の弟子である孤峰覚明に師事した抜隊得勝により始まり、抜隊は永和4年(1378年)に入甲し、康暦2年(1380年)には守護武田氏の庇護を得て塩の山に向嶽庵(向嶽寺、山梨県甲州市塩山)を築いた。向嶽寺派は抜隊の遺戒による厳格な戒律を定めていることが特徴で、抜隊の生前から法語などが刊行されている。
妙心寺派
1337年、関山慧玄により始まる。本山は京都の妙心寺。塔頭寺院には、桂春院・春光院・退蔵院・隣華院などがある。末寺3,400余か寺を持つ臨済宗最大の宗派。白隠慧鶴もこの法系に属する。
天龍寺派
1339年、夢窓疎石により始まる。本山は京都嵐山の天龍寺。
永源寺派
1361年 寂室元光により始まる。本山は滋賀県東近江市永源寺地区にある永源寺。末寺は滋賀県を中心に約150か寺。明治13年(1880年)までは東福寺派に属した。
方広寺派
1384年、無文元選により始まる。本山は静岡県浜松市北区引佐町奥山の方広寺。末寺は静岡県を中心に約170か寺。明治37年(1904年)までは南禅寺派に属した。
相国寺派
1392年、夢窓疎石により始まる。本山は足利義満により建立された京都の相国寺。末寺は日本各地に約100か寺。鹿苑寺(金閣寺)・慈照寺(銀閣寺)は当派に属する。
佛通寺派
1397年、愚中周及により始まる。本山は広島県三原市の佛通寺。末寺は広島県内を中心に約50か寺。明治38年(1905年)までは天竜寺派に属した。
興聖寺派
1603年、虚応円耳により始まる。本山は京都の興聖寺。 
 
臨済宗2

 

禅とは 
宗旨
仏心宗、達磨宗とも呼ばれる、いわゆる禅宗は中国で起こり、発展し、やがて日本に伝来された仏教の一宗です。日本に伝わった禅宗には、臨済宗 [りんざいしゅう] や黄檗宗 [おうばくしゅう]、そして曹洞宗 [そうとうしゅう] があります。当ホームページを運営するわが宗門は、その中で、臨済宗と黄檗宗の流れです。
臨済宗や黄檗宗は、お釈迦さまの正しい教え(正法)をうけつがれた達磨大師(初祖)、臨済禅師(臨済宗祖)や、隠元禅師(黄檗宗祖)、さらに禅を日本に伝来された祖師方、そして日本臨済禅中興の祖・白隠禅師 [はくいんぜんじ] から今日にいたるまで、「一器の水を一器へ」移すがごとく伝法された一流の正法を教えとし、我々に本来そなわる尊厳で純粋な人間性(仏性[ぶっしょう])を、坐禅・公案・読経・作務などの修行を通して、自覚(見性)することを旨とする宗派です。
宗祖臨済禅師には、
「赤肉団上 [しゃくにくだんじょう] に一無位 [いちむい] の真人 [しんにん] あり。常に汝等諸人 [なんじらしょにん] の面門 [めんもん] より出入す。未だ証拠せざる者は、看 [み] よ看よ」
という言葉があります。臨済宗の宗旨は、我々に本来そなわる、この一無位の真人を自覚することです。この臨済禅師の言行録は『臨済録』として伝えられ、語録の王と言われます。 
仏心宗
仏心宗と呼ばれるのは、禅宗が、文字や経典をたよらずに、仏の心(正法 [しょうぼう] )を、師匠から弟子へと直接伝えていくことを根本宗旨としているからです。その起源は、有名な「世尊拈華微笑 [せそんねんげみしょう] 」という故事に始まります。
ある時、お釈迦さま(釈迦牟尼仏)が、霊鷲山 [りょうじゅせん] という山に八万のお弟子をお集めになられました。
そこでお釈迦さまは、梵天(インドの神様)が献じられた金波羅華 [こんぱらげ] を手に取り、八万人ものお弟子に示されました。しかし、お弟子はその意味を理解することができませんでしたが、ただ、摩訶迦葉尊者 [まかかしょうそんじゃ] のみが破顔微笑されました。そこで、お釈迦さまは「我れに正法眼蔵 [しょうぼうげんぞう]、涅槃妙心 [ねはんみょうしん] あり、摩訶迦葉に付嘱 [ふしょく] す(我が仏心を摩訶迦葉に授けよう)」と言って、正法を伝授されました。
これが禅宗における師資相承 [ししそうじょう] (師匠から弟子への正法の直接伝達)の始まりと言われます。お釈迦さまのことを、臨済宗では、「大恩教主本師釈迦牟尼世尊」とお呼びして尊崇しています。
達磨宗
達磨宗とは、お釈迦さまから28代目の祖師である菩提達磨大師 [ぼだいだるまだいし] の名前から来ています。達磨大師は、インドから中国に渡られ、嵩山少林寺 [すうざん しょうりんじ] というところで面壁 [めんぺき] 九年の坐禅を修行され、「不立文字 [ふりゅうもんじ]、教外別伝 [きょうげべつでん]、直指人心 [じきしにんしん]、見性成仏 [けんしょうじょうぶつ] 」の宗旨を標榜され、禅宗の初祖と仰がれています。達磨大師の「不立文字、教外別伝…」の意味も、文字や経典をたよらずに、仏の心(正法)を、師匠から弟子へと直接伝えていくということです。つまり、達磨大師の正法をさかのぼれば、お釈迦さまに行き着くことになり、達磨大師の正法は、お釈迦さまの正法と同じということです。
歴史
お釈迦さまの正法は、28代目の達磨大師にうけつがれ、達磨大師より6代目の祖師に、慧能大鑑 [えのうだいかん] 禅師(638〜713)が出現されます。普通、六祖慧能 [ろくそえのう] 禅師とお呼びしています。その慧能禅師より三代をへて、百丈懐海 [ひゃくじょうえかい] 禅師(749〜814)が出られ、『百丈清規 [ひゃくじょうしんぎ] 』をお書きになり、禅宗の規則を制定し、唐代のころより禅宗は叢林 [そうりん] (寺院)の形態を整えていきます。「一日作 [な] さざれば、一日食らわず」という言葉をよく耳にしますが、その言葉を残されたのが、百丈禅師です。
五家七宗
六祖慧能禅師のもとより、南岳懐譲 [なんがくえじょう] 禅師(677〜744)、青原行思 [せいげんぎょうし] 禅師(?〜740)の二大弟子が出現され、数代をへるうちに、やがて中国の禅宗は、雲門 [うんもん] 宗、 仰 [いぎょう] 宗、法眼宗、曹洞宗、そして臨済宗の五宗に分かれます。また臨済宗は楊岐派 [ようぎは]、黄龍派 [おうりょうは] の二派に分かれ、これを総称して五家七宗と呼んでいます。この五家七宗の呼称は、各宗祖の禅的個性によって分かれたものであって、お釈迦さま以来の正法を伝えているのにかわりはありません。
中国から日本へ
日本へ禅がもたらされるは、鎌倉・室町時代です。日本へ渡来した禅は、四十六伝あったと言われますが、そのうち、法をうけつぐ弟子ができ、流派を成したものは二十四流とされます。
現在、臨済宗には妙心寺派、南禅寺派など十四の大本山と、黄檗宗に分かれていますが、その由来はこの禅宗伝来の因縁によるものです。
その二十四流のうち曹洞系の三派を除けば、他はすべて臨済系に属し、しかも栄西禅師(1141〜1215)以外は、楊岐派の禅を伝えています。日本に始めて臨済禅を伝えたのは栄西禅師ですが、それは二十四流の中の一つであって、学校教科書などで日本臨済宗の開祖を栄西禅師と記述するのは適当ではないと思われます。
白隠禅師
さて、現在の日本臨済宗を確立したのは江戸時代に出られた白隠慧鶴 [はくいんえかく] 禅師(1685〜1768)です。
白隠禅師は、法系的には、妙心寺開山の関山慧玄 [かんざんえげん] 禅師の流れに属し、大応国師(南浦紹明 [なんぽじょうみょう] )……大灯国師(大徳寺開山・宗峰妙超 [しゅうほうみょうちょう] )……関山慧玄(妙心寺開山)……白隠慧鶴と次第し、その法系を特に「応灯関の一流」と呼んでいます。白隠禅師は、接化の手段(修行者を悟りに導く手段)として「公案[こうあん](禅問答)」を重視し、独自の公案も創られました。その中の一つに有名な「隻手音声 [せきしゅおんじょう]」があります。両手をパンと打ち、「どちらの手が鳴ったか」と問うのです。
白隠禅師の法を嗣がれた峨山慈棹 [がさんじとう] 禅師から隠山惟 [いんざんいえん] 禅師と卓洲胡僊 [たくじゅうこせん] 禅師が世に出て、現在の臨済宗の法系はこのいずれかに属します。白隠禅師を臨済宗中興の祖と仰ぐのはそのためです。
白隠禅師の教えを一言で言えば、その「坐禅和讃 [ざぜんわさん] 」にある「この身即ち仏なり」の自覚と言ってよいでしょう。それは臨済禅師の「一無位の真人」の自覚と一つのものであり、お釈迦さまが摩訶迦葉尊者に伝えられた「正法眼蔵 [しょうぼうげんぞう]、涅槃妙心 [ねはんみょうしん] 」ということです。この自覚(悟り)のために坐禅を修し、公案を用い、動的坐禅としての作務を行ずるのが、臨済宗の宗旨です。日々の勤行の際に、「逓代伝法 [ていだいでんぽう] 仏祖の名号 [みょうごう] 」として、過去七仏より釈迦牟尼仏(大恩教主)、摩訶迦葉尊者、阿難尊者、……菩提達磨大師(初祖)……臨済義玄禅師(宗祖)……と諷誦 [ふじゅ] するのは、お釈迦さまの正法が絶えることなく現在にまで伝えられていることの認識と、また未来永遠にそれを伝えていくことの誓いのためです。この正法が断絶した時、臨済宗は有名無実化すると言っても過言ではないでしょう。 
経典
開経偈 (かいきょうげ)
この偈は、我々お互いは、この受けがたい人身を受け、遇い難い仏法に遇わせていただいているのであるから、この上ない仏法をよろこび、お釈迦さまのお心を大切に会得し守らねばならない、という内容です。金剛経の前にかならず合掌してお唱えします。
懺悔文 (さんげもん)
私たちは、はかり知れない過去から、知らず知らずのうちに「身・口・意」(三業)から「むさぼり(貪)・いかり(瞋)・ぐち(痴)」(三毒)という悪いおこないをおかしています。いまこそ素直に懺悔します、という意味です。合掌して三遍お唱えします。
三帰戒 (さんきかい)
三帰依戒ともいいます。仏・法・僧(三宝)に帰依(信心の誠をささげること)し、けがれない心で、尊い仏さま・仏さまが悟られた真理・僧侶にすがり、仏さまの弟子となり、以後けっして悪魔や外道のために心を乱してはならぬ、という戒めのご文です。葬儀には、懺悔文につづき三遍お唱えします。
摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経) (まかはんにゃはらみたしんぎょう)
この題目は、インドの古い言葉のサンスクリット語(梵語)を漢字に音訳したもので、「マカ」は大きく優れたということ、「ハンニャ」は智慧の意味で、「ハラミタ」は到彼岸と訳されています。「心経」は文字通り、心のお経ですが、中心となるお経、つまり仏さまの教えのエッセンスとも言えます。ですから、「偉大なる真理を自覚する肝心な教え」(山田無文『般若心経』)とも訳されます。わずか276文字(経名を含む)のこのお経は、宗派を問わず広く読まれるお経です。
消災妙吉祥神呪(消災呪) (しょうさいみょうきちじょうじんしゅ)
正式には『仏説熾盛光大威徳消災妙吉祥陀羅尼』といい、8世紀中頃の不空三蔵によって漢訳されたものです。お釈迦さまが浄居天宮(二度と迷いの世界には環ってこない、聖者・神々の住む世界)で諸菩薩・星宿らに向かって、天災・人災など一切の災難を消除する教えを説かれたのがこのお経です。一心にこの陀羅尼を唱えることによって、一切の災難を消除し、一切の吉祥を成就することができるという不思議な功徳をもつものとされています。
妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五(観音経)
(みょうほうれんげきょうかんぜおんぼさつふもんぼんだいにじゅうご)
『法華経』(妙法蓮華経)というお経は、経中の王などと呼ばれることもあり、お釈迦さまのお説きになったお経の中で、最も尊い経典だとされています。序品(章)から二十八品までありますが、臨済宗で常用されるのはその中の第二十五品『観世音菩薩普門品』です。これは『観音経』とよばれていますが、その後半の偈(韻文で書かれたお経)の部分を『世尊偈』『普門品偈』などといい、独立してお唱えすることがあります。観音さまは、広大無辺な大慈悲心をそなえられた仏さまで、ものに応じて三十三に身を変えて自由自在に人々を済度してくださいます。昔から多くの人々のあつい信仰を集めた仏さまです。このお経を念ずればあらゆる苦難から救われ、多くの幸せが授けられると説かれています。
大悲円満無礙神呪(大悲呪) (だいひえんまんむげじんしゅ)
『大悲呪』は臨済宗で、祖師方へ、また在家の法要など日常頻繁に読誦されるお経です。この「ナムカラタンノートラヤーヤー」という語呂のよいお経は、『千手千眼観自在菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経』という経典の中の陀羅尼部分だけをとり出したものです。千手千眼観自在菩薩(観音菩薩)の広大無辺、無量円満にして無礙融通なる大慈大悲心を表した陀羅尼という意味です。
開甘露門(施餓鬼) (かいかんろもん)
寺院でお盆に行われる山門施餓鬼会や、日課のおつとめにもよく読誦されるお経です。各家のご先祖さま方は、日常、その子孫の方々から手あついご供養を受けておられるのですが、多くの精霊のなかには誰からも供養されず、餓鬼道に堕ちて苦しんでいる霊もたくさんあるはずです。このお経は、そのような餓鬼道におちて苦しんでいる多くの精霊を供養し、済度するためにお唱えするものです。お盆は、目蓮尊者の因縁によって起こり、毎年7〔8〕月15日に行い、『仏説盂蘭盆経』にその本拠が見いだせます。また、施餓鬼は『仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経』に根拠があり、毎日修すべきもので、阿難尊者の因縁に基づきます。今日では、お盆とお施餓鬼の区別があいまいですが、もともとの因縁は全く別のものであることを心得てください。
仏頂尊勝陀羅尼 (ぶっちょうそんしょうだらに)
このお経は、消災呪と共に鎮守火徳諷経でお唱えしたり、大般若会などでお唱えすることもある大切な常用経典です。正しくは、『浄除一切悪道仏頂尊勝陀羅尼』といい、『仏頂尊勝陀羅尼経』の中の呪文の部分をとり挙げたものです。禅宗では、多く滅罪・生善・息災延命のために祈る経典とされています。
金剛般若波羅蜜経(金剛経) (こんごうはんにゃはらみきょう)
般若経典の一つで、『般若心経』についで広く流布しているものです。多くの訳がありますが、一般に用いられているのは、後秦の鳩摩羅什の訳したものです。内容は、仏陀とその十大弟子の一人、須菩提の対話形式で般若思想の要点を簡潔に説いたもので、空の思想を基本としています。この『金剛経』にまつわる話として、中国禅宗の六祖、慧能大師(638〜713)の因縁があげられます。慧能大師が出家する前、市中で薪を売っていたところ、一人の人が『金剛経』を読んでいるのを聞き、心がたちまちカラリと開け(開悟)、禅宗五祖の弘忍大師の門を叩くきっかけになりました。禅宗では特に重んじられる経典で、午課で一日半分ずつ読みます。
大仏頂万行首楞厳神呪(楞厳呪)
(だいぶっちょうまんぎょうしゅりょうごんじんしゅ)
『大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経』の第七巻に載せる呪文で、「仏頂光聚悉怛多般多羅秘密神呪」というのが正式な題目です。今日では、歴代祖師の遠忌(斎会)、津葬などに、行道(お経を読みながら堂内をめぐること)して、あるいは座ってお唱えします。内容は、どんな誘惑に出会っても動揺しない本心(金剛堅固な本心)を説いたものです。このお経は三つの部分からできており、初めの四行を「啓請」、第一会から第五会を「平挙」、終わりの四行を「摩訶梵」といいます。
延命十句観音経 (えんめいじっくかんのんぎょう)
観音さまのご利益を十句に縮めて、唱えやすくしたお経です。その成立については、種々の議論があり一定しませんが、眼目は「延命」、つまり寿命を延ばすことにあります。修行するにしろ、善根を積むにしろ短命では何事も始まりません。このお経は、延命のために観音さまに対しお唱えするものです。
四弘誓願文 (しぐせいがんもん)
これは、仏教徒として心に掲げ精進すべき四つの弘大な誓願であり、すべての仏菩薩が発する四種の誓願でもあります。内容は、
一、数限りない一切の衆生を救済しようと誓うこと
二、尽きることのない多くの煩悩を断とうと誓うこと
三、広大無辺な法門をことごとく学ぼうと誓うこと
四、この上なく尊い仏道を修行し尽くして、かならず成仏しようと誓うこと
です。日課のおつとめや、法事の最後に、ゆっくりと心をこめて三遍お唱えします。
舎利礼文 (しゃりらいもん)
舎利は、梵語を翻訳して骨身、あるいは霊骨の意味とされます。舎利には、骨舎利・髪舎利・肉舎利の三種類がありますが、特にお釈迦さまが入滅して残されたお骨を仏舎利といって尊称しています。禅宗では、お葬式のときなどにお唱えします。このお経は、我々の熱心な信仰心の力と、仏さまから加わる神力により、菩提心を発し、菩薩の行願を果たそうとするものです。何はさておき、強い信心をもって、一心に仏さまを礼拝しましょう、というものです。
白隠禅師坐禅和讃 (はくいんぜんじざぜんわさん)
この和讃を作られたのは、今から250年ほど前にお生まれになった、臨済宗中興の祖といわれる白隠禅師です。そもそも、坐禅は臨済宗(禅宗)の宗旨です。しかし、座ることだけが坐禅ではなく、私たちの日常生活のすべて(行住坐臥)が坐禅です。謡うも舞うも法の声で、その場その場が直ちに浄土で、この身がそのまま仏であるということをわかりやすく説かれたものです。その眼目は「衆生本来仏なり。直に自性を証すれば。此の身すなわち仏なり」といわれます。くり返しくり返し、お唱えしてください。 
年中行事
修正会しゅしょうえ(元旦〜3日)
正月元旦から3日までの禺中ぐちゅうの刻(現在の午前10時)に勤める法要で、新年を祝うとともに、天下泰平、仏法興隆、寺門繁栄を祈祷して、大般若経を転読てんどくします。なお、大般若経を転読することが不可能な場合は、第五七八巻の第十般若理趣分だいじゅうはんにゃりしゅぶんを真読しんどくします。
修正満散会しゅしょうまんさんえ(1月3日)
正月三日間の修正会が無事満了し、一同退散する意味の法要です。三日目の修正会を終えて後、引き続き勤め、修正会回向にかえて修正満散会回向を誦えます。
臨済忌りんざいき(1月10日)
臨済宗祖、臨済義玄禅師の忌日で、報恩謝徳の法要を行ないます。
百丈忌ひゃくじょうき(1月17日)
百丈懐海禅師の忌日で、報恩謝徳の法要を行ないます。百丈禅師は、禅林清規、つまり禅宗寺院の規則を定めた『百丈清規ひゃくじょうしんぎ』 を著した方で、以後の禅林清規の開創者として奉られています。
善月祈祷会ぜんげつきとうえ(1・5・9月の各16日)
正月・5月・9月を善月といい、この三月には特に善をなすべきであるとされ、これらの月の16日、祈祷大般若会を執り行ないます。
仏涅槃会ぶつねはんえ(2月15日)
三仏会の一つ。お釈迦様の入滅の日にちなんで行なう報恩供養の法要で、壇の中央に涅槃像を掛けます。涅槃図の中央には、釈尊が沙羅双樹の下で頭を北に顔を西にして右脇を下に臥し、その周囲に仏弟子、神鬼、動物達が慟哭しているさまが描かれています。
彼岸会ひがんえ(春分の日 ・秋分の日)
彼岸会は聖徳太子の時代から日本のみで行なわれる先祖供養の法要で、春分 や秋分の日が昼夜が半分ずつに正しく分かたれた中正中道の日であることから、涅槃のおさとりを開く仏歓喜日、法悦感謝の日として選ばれた日です。わが宗門ではこの日、施餓鬼会せがきえを 行なうことが多いのですが、地方によっては大般若会だいはんにゃえを行ない、 五穀豊穣を祈祷しているところもあります。
仏誕生会ぶつたんじょうえ(降誕会)(4月8日)
三仏会の一つ。お釈迦様のご誕生を祝う法要で、降誕会ごうたんえ、潅仏会かんぶつえ、俗に花祭りともいいます。浴仏の偈げ
小施食会しょうせじきえ(7 または8月1〜14日)
大施餓鬼会に対して、小施餓鬼会、水施餓鬼会ともいいます。毎晩午後四時、施餓鬼棚に「三界万霊十方至聖さんがいばんれいじほうししん」 の牌を立て、供物を備えて餓鬼を供養する法要です。施餓鬼については、次項を参照のこと。
山門施餓鬼会さんもんせがきえ(7 または8月15日)
盂蘭盆会うらぼんえの当日に行なわれる施餓鬼をいうため、盂蘭盆会、大施餓鬼会ともいいますが、ここで、盂蘭盆会と施餓鬼会は本来、別法要であることを知っておかねばなりません。盂蘭盆会の起源は、『仏説盂蘭盆経』にあります。目連尊者もくれんそんじゃが、餓鬼道におちた母を救い出すためにお釈迦様に教えを乞いました。するとお釈迦様は、7月15日の自恣じしの日 (夏安居げあんごの解散日)にあらゆる僧侶に供養を施せば、必ずその功徳によって母を救え、また他の亡者にも利益が大きいというお示しを与えられ、目連尊者がその通りにされたことに起源を発するものです。施餓鬼はこの盂蘭盆とよく似ていますが、因縁は全く異なります。それは、同じくお釈迦様の弟子、阿難尊者あなんそんじゃが禅定ぜんじょうに入られているとき、餓鬼が現われて尊者にいうに、「尊者は三日後に命尽き、わが餓鬼道に生まれ変わる。それを免れたいのなら、無量無辺の餓鬼と百千の婆羅門ばらもんに無量の飲食を施し、また我が為に三宝を供養したならば、必ず自他ともに、天上にのぼることができるであろう」と。お釈迦様にその方法をお尋ねしたところ、お釈迦様は施餓鬼の法を授け、阿難尊者が初めてその利益を受けられたことを、数説あるうちでも代表的な起源としています。つまり、施餓鬼会は、盂蘭盆会のように日付が限定されていないのです。しかしながら、いつの時代にか、この二つの法要が似ていることなどから、違いが曖昧になり、盂蘭盆会と施餓鬼会を混同するようになったと思われます。また、古くからの土着信仰としてのお盆の先祖供養とも交わってしまったのでありましょう。
達磨忌だるまき(10月5日)
二祖忌の一つ。禅宗始祖、菩提達磨大師の忌日にちなんで行なう法要。初祖忌、少林忌ともいいます。壇の中央に達磨像を掛けます。
仏成道会ぶつじょうどうえ(12月8日)
三仏会の一つ。お釈迦様がブッダガヤの菩提樹の下で成道、つまりお悟りになった日を記念して行なう法要です。お釈迦様は29歳の時、人生の無常苦悩に悩まれて出家され、6年間の苦行をされましたが成道することができず、尼連禅河にれんぜんがに入って沐浴もくよくしスジャータという少女から乳がゆの供養を受けて気力を回復されました。その後、菩提樹の下に坐禅すること数日、ついに仏陀成道の自覚を得られたのです。これにならって、臨済宗や黄檗宗の各専門道場では、12月1日より8日朝までを一日とし、不眠不休の坐禅期間である臘八大摂心ろうはつおおぜっしんが行なわれています。
歳晩諷経・除夜の鐘(大晦日)
月末を三十日みそかといい、12月31日はその最終日ですから、大晦日おおみそかと いいます。一年の終わりにちなんで、諸仏諸祖、土地神や守護神に報恩の勤行をします。そして、108 あると言われる煩悩を消すとも言われる除夜の鐘をついて、自分自身を見つめ直し、一年の埃を落しましょう。
開山かいさん・祖師毎歳忌そしまいさいき( それぞれのご命日)
各寺ご開山をはじめ、歴代祖師の忌日に行なう法要で、特に、開山忌は達磨忌とともに二祖忌と呼ばれます。  
坐禅

 

坐禅とは
お釈迦様は、ブタガヤの菩提樹の下で坐禅をされ、7日7晩の禅定の後に、悟りの境地に入られました。
「坐」は、日本の言葉で「すわる」といいます。「すわる」とは、落ちついて動じない、とか、静止する、定着する、などの意味だと辞典にあります。要するに、動かないように安定させることです。
身体を落ちつけて動じない形に安定させ、心を一ヵ所に集中し定着させる。その身と心とを融合統一し、身心を一如に安定させるのが呼吸です。そこで身・息・心の統一調和をはかるのが「坐」だということになります。
次に「禅」ですが、これは「禅那」といい、サンスクリットの dhyana とか、パーリー語の jhana とかの音写で、静慮と漢訳されます。現代の中国語では、channa と発音するようですが、静慮の意味であることに変わりはありません。ただ静慮という訳は、適訳ではないので余り用いられず、「禅」で通っています。そして、禅那とは、心統一の因だといわれますから、坐ることによって身・息・心を統一し、または統一しつつある状態が坐禅だということになります。
その結果、完全に身・息・心が統一され、安定した状態を「定」といいます。定はサンスクリットで Samadhi といい、「三昧」の文字を当てます。
「定」は、ただ消極的に、あるいは単なる受動的な熟睡したのと同じような状態、つまり何もない恍惚境とは違います。そこには生き活きとした、動き出すものがなければなりません。三昧の世界、定の光明から、再びこの世の正しい姿を映し出す働きが出てきます。いいかえれば、定以前の常識的な見方を越えて、「覚」の立場から世界を再認識するものと言ってもよいでしょう。その照らし見る働きを「慧」と申します。
禅では、「定慧円明」といって、定は必ず慧を発し、慧は必ず定に基礎づけられ、打って一丸となった円かに融け合って明らかなものでなければなりません。
禅の目標は、実にこの「我に在る菩薩」を「見」るところにあるといってもよいでしょう。それを「見性[けんしょう]」といっておりますが、見性して観自在の自由自在、思いのままの日常行為をするところにこそ、禅はあります。そのために行住坐臥において、
衆生無辺誓願度 [しゅじょうむへんせいがんど]
煩悩無尽誓願断 [ぼんのうむじんせいがんだん]
法門無量誓願学 [ほうもんむりょうせいがんがく]
仏道無上誓願成 [ぶつどうむじょうせいがんじょう]
と、四弘 [しぐ]の誓願 [せいがん]に鞭うっていくのです。
それならば、健康になりたいとか、精神的な悩みを解消したいといって門を叩くものに対して、禅は門を閉ざすのかといえば、決してそうではありません。
「大道無門、千差路あり」です。有限的な概念を持ちませんから、科学とも、どんな宗教とも、もちろん一般常識とも、何ものとも衝突するものではありません。一切から超越しておりますから、東西南北どこからでも、自由にお入り下さい。禅は、仏祖の開いておかれた広大の慈門ですから、健康門から入ろうと、煩悩門から入ろうと勝手です。何ものでもついに発菩提せしめずにおかないでしょう。
そうなると、いったい目標はあるのか、ないのか、あるといえばあるし、ないといえばないようにもなりそうです。いいえ、そうではありません。
どの門からは入っても自由ですが、ただ、自分が禅によって救われたら、その福音を他にも分かとう、地上の人々みんながよくなるようにと、それだけはお考え下さい。これを「下化衆生[げけしゅじょう]」といいます。 
すわるにはどうするか
平素の生活の中でこれまで述べたような準備がととのえられたら、いよいよ坐ることになります。『坐禅儀』には、
坐禅せんと欲するとき、閑静処において、厚く坐物を敷き、ゆるく衣帯をかけ、威儀をして斉整ならしめ、しかるのち結跏趺坐す
とあります。この言葉を参考に、わかりやすく説明します。
坐る場所を選ぶ
ここには、まず坐る場所を閑静処、つまり静かなところと規定しております。しかし、現実の問題として、今の都会生活者にはその閑静な場所を選ぶことが容易ではないでしょうが出来るだけ閑静処を選ぶよう工夫した方がよいでしょう。
たとえば、庭の縁側などで自然と一体になって坐るのもいいと思われます。他には、できるだけ外の音や家庭内の雑音が入ってこない書斎や寝室など、精神が集中できる場所を捜して下さい。
また、少々の騒音は我慢するとしても、昔から強い風や、直射日光の当たるところでは坐らないように、と誡められていることを申し添えておきましょう。
道場などでは、本来、坐禅する場所には文殊菩薩を祀りますが、家庭では仏画や墨跡などを掛けるのもいいでしょう。
また、香炉を用意して、線香を立てられるようにしましょう。昨今、アロマテロピーとして知れ渡ってまいりましたが、香は部屋を清らかにし、心を落ち着ける効果があります。
なお、道場では線香一本が燃える時間(約30〜40分)を一[いっしゅ]と呼び、坐禅をする時間の目安にしています。
坐物の準備
場所の選定ができたら、そこに「厚く坐物を敷き」ます。座布団は薄いよりは厚いほうがいいです。決してぜいたくではありません。それに膝のはみ出さない程度に大きいものを使いたいものです。しかし薄いものしかないときは、仕方がないから二枚重ねて用いたらいいでしょう。その上に「坐蒲[ざふ]」という、普通の座布団を二つに折ったくらいの大きさ、厚さのものを尻の下に敷きます。もちろん薄い座布団を二つ折りして代用しても差し支えありません。
服装
次に「ゆるく衣帯をかけ」とありますが、それは着物をゆっくりとつけ、特に帯など強く締めないことです。洋服の場合ならバンドをゆるめるとか、ネクタイをはずすなどすることです。といってダラシなくならないように、「威儀をして斉しく整え」る必要があると、注意しています。厳然としたところがないと、坐禅に緊張味が欠けることになります。
坐る
1.身相を調える
「しかるのち結跏趺坐す」で、このような準備をしてはじめて足を組むことになります。『坐禅儀』には、その方法として結跏趺坐[けっかふざ]と半跏趺坐[はんかふざ]と、二つの方法が示されています。
足は普通のアグラの状態から、先ず、右の足を左のももの付け根にのせ、次に、左の足を右のももの上にのせます。この形を結跏趺坐といいます。
足が組めたら、先ず体を左右に、続いて前後に揺すって中心を決めます。
腰の位置が定まったという感覚を実感するために、右のように、伏せた形から腰の支点を感じながら、順に伸び上がっていくとわかりやすいかもしれません。
結跏趺坐が無理な人は、ひとまず片足だけをももにのせる半跏趺坐で坐って下さい。どちらの足でも、坐りやすい方を選んで下さい。
これも無理な人は、日本式の正座で坐って下さい。その時は、坐蒲を両足の間に挟み込むようしにして坐ると、長時間でも足がしびれないのでいいでしょう。
手は、先ず右手を下腹に組まれた足の上におき、左の掌を右の掌の上におきます。そして、左右の親指を合わせ、支えあうようにします。力を入れずに、中が卵の形になるようにして下さい。この形を法界定印[ほっかいじょういん]といいます。
坐禅をする時、目は開いています。顎を引き、まず、まっすぐ前方を向いたまま、視線だけを約1メートル前方に落とします。そうすると、自然に、目は半分開いた菩薩の半眼状態になります。目を閉じると消極的になり、余計な妄想がわいてきますので、閉じないで下さい。
背筋は、まっすぐに伸ばして下さい。頭のてっぺんが天井に着くような感覚が必要です。下腹部は、気海丹田と呼ぶヘソの下三寸のところに、力が充実している感覚があれば大丈夫です。
2.気息を調える
体が整ったら、次は呼吸を整える調息です。坐禅で一番大切なのは呼吸方法です。息を吸うことよりも、吐くことに主眼を置いて下さい。上記の気海丹田まで、体の中の空気を全部吐きだす感じで、吐ききってください。吐ききれば、自然に吸えます。
数息観というのは、呼吸を整えていくための方法で、一から十まで数えます。ヒトーで静かに長く深き吐き、ツで吸います。フターで長く深く吐き、ツで吸います。これを、何回も繰り返すのです。
呼く息は、自分の気海丹田に吐きかけるように、そして数えるのも気海丹田で数えるという観念でやることが大切です。
3.思量を調える
最後は、心を整える調心です。『坐禅儀』によると、こうあります。
臍腹を寛放し、一切の善意すべて思量することなかれ。念起こらば即ち覚せよ。これを覚すれば即ち失す。久々にして縁を忘ずれば自ずから一片となる。これ坐禅の要術なり。
身も心も解放し、腹の中になんの一物もなく、ゆったりと解放された状態になった上で、是非善悪などの相対的な想念を払い去った、無念無想になります。しかし、実際には、人間は、簡単に無念無想、無心になれません。ですから、妄念が起こったら、すぐさま省覚すれば、その妄念はたちまち切断されます。
また、「覚」するための具体的な方法として、前述の数息観を行なってください。
まとめ
以上、坐相(身)・気息(息)・思量(心)と、三つに分けて説明しましたが、この三つは、元来分けて考えるべきものではありません。本当は呼吸の働きに媒介されて、心と身とが渾然と一つになるというのが坐禅というものです。
身・息・心の三つは、どの一つを取り上げても、他の二つがついてきて調和するものです。坐相が凛然と正されれば、心も息もおのずから正しくなるし、心が願心に充たされれば、姿勢つまり坐相も呼吸も期せずして正しくなるものです。
このようにして、身・息・心が安定不動の状態で一如に調和されることが、すわるということの要だといってよいとおもいます。
願わくは四弘の願輪に鞭うって、ゆったりと、どっしりと、しかも凛然と、東海の天に突っ立った富士山のように、坐りたいものです。
そのためには、家の中で静かに坐れる環境を選び、楽な服装でゆっくりと坐る必要があるのです。毎日毎日、少しづつでもいいですから続けて下さい。 
 
臨済宗寺院

 

妙心寺
正法山妙心寺 京都市右京区花園妙心寺町
花園法皇は宗峰妙超に参禅し、印可(弟子が悟りを得たことを師が認可すること)されています。関山慧玄も宗峰妙超の法を嗣がれます。宗峰妙超は、大燈国師で知られる紫野大徳寺の開山です。
建武4年(1337)、宗峰妙超は、病に伏し重態となられますが、花園法皇の求めに応じて、宗峰妙超没後に花園法皇が師とされる禅僧に、弟子の関山慧玄を推挙され、また、花園法皇が花園の離宮を禅寺とされるにつき、その山号寺号を正法山妙心寺と命名されます。その年の12月22日、宗峰妙超は亡くなられました。妙心寺では、この建武四年を妙心寺開創の年としています。
花園法皇は、妙心寺のそばに玉鳳院を建てられ、そこから関山慧玄に参禅されます。暦応5年(1342)になりますと、花園法皇は仁和寺花園御所跡を関山慧玄にまかせられます。これで妙心寺の寺基が定まるのです。
貞和3年(1347)7月22日、花園法皇は妙心寺に寄せる熱い思いを「往年の宸翰」にしたためられ、翌貞和4年11月11日、世を去られます。五十二歳の生涯でした。
花園法皇が世を去られて三年、関山慧玄は、雲水の指導に専念されますが、延文5年(1360)12月12日に亡くなられます。風水泉わきの老樹の下が、息をひきとられた場所です。装いは行脚の旅姿であったと伝えられます。遺骸が葬られた処、それが開山堂微笑庵の地です。
やがて、妙心寺は、寺号を龍雲寺と改名されます。妙心寺の寺名が消えるのです。妙心寺開創50年を経た頃のことで、開山没後わずか39年後の事です。没収されて34年、その間の事は不明です。龍雲寺と名をかえた妙心寺は、永享4年(1432)春に返されてきます。尾張犬山の瑞泉寺から上京した日峰宗舜が、荒れた開山塔の地を整え開山堂を建てます。ここに妙心寺の中興がなるのです。
戦国期の妙心寺は、発展への大きな転機を迎える時代です。妙心寺の境内地が今日のように広くなるのは、永正6年(1509)のことです。利貞尼という人が、仁和寺領の土地を買い求め、妙心寺に寄進されたからです。
そこには、やがて七堂伽藍が建てられます。また、塔頭も創建されていきます。とくに、塔頭では、龍泉庵、東海庵に加え、大永3年(1523)に聖澤院、大永6年(1526)には霊雲院が創建されます。これで、四派四本庵による妙心寺の運営体制が確立するのです。四派とは、龍泉派・東海派・霊雲派・聖澤派をいいます。四本庵は龍泉庵・東海庵・霊雲院・聖澤院のことです。
明治元年(1868)、神仏分離令が発布されます。各地で廃仏毀釈が起こり、寺院の取り壊し、仏像、経典などが破棄されます。妙心寺もその影響を受けますが、この明治期は、宗議会など今日に至る妙心寺の運営体制の基礎が出来ます。また妙心寺専門道場が設けられたり、今日の花園大学、花園高等学校の前身となる般若林が開設されます。
大正を経て昭和10年(1935)、妙心寺は開創六百年となります。その後の昭和・平成期の妙心寺は、開創七百年への歴史を刻む時代です。
この期には、禅の大衆化や教化活動の促進がはかられ、各地での坐禅会開催、「生活信条」や「信心のことば」の制定、おかげさま運動も起こされます。また、僧風の刷新にもとりくまれます。これらは、記憶に新しい事です。
もう一つ、この期には、防災や諸堂の保存修理など文化保護の事業も進められます。
今日、勅使門、三門、仏殿、法堂、庫裡、開山堂、大方丈、小方丈、浴室、経蔵、塔頭天球院の玄関・方丈、衡梅院方丈、霊雲院書院などをはじめ多くの重要文化財の指定建造物、玉鳳院、東海庵、退蔵院、霊雲院、桂春院などの史跡・名勝指定の庭園などがよく保存されています。また、史跡・特別名勝の指定をうける龍安寺が、ユネスコ世界文化遺産に登録されてもいます。
このように、妙心寺は、関山禅の伝灯を堅持し、臨済宗最大の大本山として展開し、且つ美しい寺観を呈している禅寺なのです。
関山慧玄(無相大師)
関山慧玄(1277〜1360年)は信濃の人で、建治3年、信濃源氏の流れを汲む高梨家に生まれました。高梨家は信仰心の厚い家で、とくに禅に心をよせた家柄でありました。鎌倉に出て仏門に入り、徳治2(1307)年建長寺で大応国師(南浦紹明)に相見し、慧眼という僧名を授けられました。大応国師は翌延慶元(1308)年に示寂しましたが、その示寂後も鎌倉にとどまって修行に専念しました。嘉暦2(1327)年建長寺開山大覚禅師(蘭渓道隆)の50年忌法要が建長寺の西来院で営まれ、関山も列席し、隣席の僧から「今日天下叢林中、明眼の宗師は宗峰和尚(大燈国師)である」と聞き、そのまま鎌倉を去って、霧眠草宿、一路京都に向かい、紫野大徳寺の宗峰和尚に相見し、門弟として入門しました。
大燈国師に相見し、ただちに「如何なるか、これ宗門向上のこと」と門法し、国師が"関字"を答えましたが、国師は関山の態度を見て「作家の禅客、天然自在」と称えたといいます。作家とは禅を手に入れ、自由な創造性をもつ力量ある禅者のことであり、それが天然にそなわっているというのです。修行三昧であった関山はついに"関字"をさとり、その見解を国師に呈したところ、国師はおおいに悦び、"関字"を透過したことを証明し、「関山」の号を授け、また諱の慧眼を慧玄と改めました。「関山号」は国宝として、妙心寺に所蔵されています。
関山の示寂は延文5(1360)年12月12日であり、世寿84歳でありました。遺骸を艮(北東)隅に葬り、塔を建てて微笑塔といい、のち堂を造って、微笑庵と称しました。これが開山堂で、堂に掲げる「微笑庵」という扁額は雪江の筆であります。
死寂に際しては、授翁を召し行脚に出るといい、二人相たずさえて、風水泉の大樹のもとにいたり、関山が承けつぐ仏法の由来を語り、関山が花園法皇の勅請でこの寺を創開したが、たとえ後世関山を忘却することがあっても、この応・燈二祖の深恩を忘却するなら、わが児孫ではない。「汝等請う其の本を務めよ」と遺誡し、立ちながら亡くなったといわれています。 
萬福寺
黄檗山萬福寺 京都府宇治市五ケ庄三番割
黄檗宗は、中国・明時代の高僧隠元隆g禅師が1654年に日本に来られ、伝え、広めた禅宗の一派です。臨済宗の流れをくんでいるのですが、四代将軍家綱より許可を得て、宇治に黄檗山萬福寺を開くことにより、正式に黄檗宗が認められたのです。
萬福寺は中国明朝の伽藍様式を取り入れて、他の宗派にはない中国風な香りを感じることができる寺院です。
総門の屋根の上には摩伽羅(まから)という像があります。摩伽羅とはガンジス河の女神の乗り物で、そこに生息しているワニをさす言葉です。アジアでは、聖域結界となる入り口の門・屋根・仏像等の装飾に使われています。
天王殿正面には、中国で弥勒菩薩(みろくぼさつ)の化身だと言われている布袋さんが弥勒浄土の兜卒天(とそつてん)に椅坐(いざ)された姿で祀られています。すべての不平・不満を笑い飛ばすかのような福徳円満の相をしておられるので、諸縁吉祥、縁結びの神とされています。また、袋の中には財宝が入っているということから、布袋さんの行く所には幸せがもたらされるとされています。 布袋さんと背中合わせには韋駄天(いだてん)をお祀りしてあります。中国では、韋駄天はお釈迦さまをお守りする護法善神(ごぼうぜんしん)の一つです。
萬福寺では本堂を大雄宝殿(だいゆうほうでん)と呼びます。正面には釈迦如来。その両脇には迦葉尊者(かしょうそんじゃ)・阿難尊者(あなんそんじゃ)というお釈迦さまの十大弟子のお二人が祀られています。左右の壁面には十八羅漢が安置されています。日本のお寺では十六羅漢が一般的ですが、萬福寺では「慶友尊者(けいゆうそんじゃ)」「賓頭廬尊者(びんずるそんじゃ)」が加わって十八羅漢」となっています。
その他にも、木魚の原型だといわれている魚梛(ぎょはん・・・開梛〈かいぱん〉)・卍崩の勾蘭(こうらん)などがあります。
また、黄檗僧がもたらした中国風の精進料理である普茶料理もご賞味して頂けます。
ご開山である隠元禅師が日本に伝えた食べ物としては、皆さんがよく知っているインゲンマメ・筍の木の芽あえ等としてよく食べる孟宗竹・夏によく食べるスイカがあり、寒天の名付けの親でもあります。
隠元隆g(大光普照国師)
禅師は、中国明代末期の臨済宗を代表する費隠通容禅師の法を受け継ぎ、臨済正伝32世となられた高僧で、中国福建省福州府福清県の黄檗山萬福寺(古黄檗)の住持でした。
日本からの度重なる招請に応じて、承応3年(1654)、63歳の時に弟子20人他を伴って来朝。のちに禅師の弟子となる妙心寺住持の龍渓禅師や後水尾法皇そして徳川幕府の崇敬を得て、宇治大和田に約9万坪の寺地を賜り、寛文元年(1661)に禅寺を創建。古黄檗(中国福清県)に模し、黄檗山萬福寺と名付けて晋山されることになりました。
禅師の道風は大いに隆盛を極め、道俗を超えて多くの帰依者を得られました。禅師は「弘戒法儀」を著し、「黄檗清規」を刊行して叢林の規則を一変されるなど、停滞していた日本の禅宗の隆興に偉大な功績を残されたことにより日本禅宗中興の祖師といえるでしょう。爾来、禅師のかかげられた臨済正宗の大法は、永々脈々と受け継がれ今日に至っています。
そしてまた、行と徳を積まれた禅師は、ご在世中、物心両面にわたり、日本文化の発展に貢献され、時の皇室より国師号または大師号を宣下されています。 
南禅寺
瑞龍山南禅寺 京都市左京区南禅寺福地町
「南禅寺」は臨済宗南禅寺派の大本山であり、正式名称を「瑞龍山 太平興国南禅禅寺」という。南禅寺の歴史は、鎌倉後期の正応4年(1291)に無関普門を開山とし、東山にある開基亀山法皇の離宮を禅寺に改めた事から始まる。天皇として最初に禅僧となられた法皇は、発願文『禅林禅寺起願事』をしたためられ、その中で「日本で最も優れた禅僧」を南禅寺の住持とするよう定められた。つまり「南禅寺住持」は法系・派を超えた最高の禅僧の代名詞であり、夢窓疎石・虎関師錬・春屋妙葩などの名僧が代々住持に任ぜられる事となる。伽藍は明徳4年(1393)の大火・文安4年(1447)の失火や応仁の乱(1467)等によって荒廃したが、江戸初期に見事再興された。今も建っている三門の楼上からは京都市内が一望できる。しかし、南禅寺は徳川幕府との深い関係の中で再興・興隆しており、楼上からの眺望内に御所が見える構造は何か意図があるように感じられる。
そんな歴史的背景を考えつつも、境内を見れば、勅使門から法堂まで一直線に道がのびている。この道は「禅」に続いている。 
建長寺
巨福山建長寺 神奈川県鎌倉市山ノ内
由比ヶ浜を背に八幡宮の社を右手に巨福呂坂の切り通しを抜けると建長寺である。
当寺は臨済宗建長寺派の大本山であり、鎌倉五山の第一位に位する。建長五年(1253)後深草天皇の勅を奉じ、北条時頼(鎌倉幕府五代執権)が国の興隆と北条家の菩提の為に中国より名僧蘭渓道隆を招き建立した。
創建当初は中国宋の時代の禅宗様式七堂伽藍に四十九院の塔頭を有し厳然たる天下の禅林であった。また、建長寺は日本で初めて純粋禅の道場を開き、往時は千人を越す雲水が修行していたと伝えられるわが国最初の禅寺である。
皇帝の万歳、将軍家及び重臣の千秋、天下太平を祈り、源氏三代・政子並びに北条一族の死没者の冥福をとぶらうこと。
建長五年には丈六の地蔵菩薩を本尊とし、千体の地蔵菩薩像を安置した。
建長寺のある谷は地獄谷と呼ばれ、処刑場であって伽羅陀山心平寺という寺があり、当時は地蔵堂が残っていたという。仏殿の本尊が地蔵菩薩であるのはこの因縁による。そして本尊の胎内には、霊験のあった済田地蔵という小像を収めた。済田地蔵は現在は別に安置している。
蘭渓道隆(大覚禅師)
開山大覚禅師は中国西蜀淅江省に生まれた。名は道隆、蘭渓と号した。
十三歳のとき中国中央部にある成都大慈寺に入って出家、修行のため諸々を遊学した。のちに陽山にいたり、臨済宗松源派の無明惠性禅師について嗣法した。そのころ中国に修行に来ていた月翁智鏡と出会い、日本の事情を聞いてからは日本に渡る志を強くしたという。禅師は淳祐六年(1246)筑前博多に着き、知友智鏡をたよって泉涌寺来迎院に入ったが、智鏡の勧めもあって鎌倉の地を踏むことになった。
鎌倉に来た禅師はまず、寿福寺におもむき大歇禅師に参じた。これを知った執権北条時頼は禅師の居を大船常楽寺にうつし、軍務の暇を見ては禅師の元を訪れ道を問うのだった。そして、「常楽寺有一百来僧」というように多くの僧侶が禅師のもとに参じるようになる。
そして時頼は建長五年(1253)禅師を請して開山説法を乞うた。開堂説法には関東の学徒が多く集まり佇聴したという。こうして、純粋な禅宗をもとに大禅院がかまえられたが、その功績は主として大覚禅師に負っているといえる。入寺した禅師は、禅林としてのきびしい規式をもうけ、作法を厳重にして門弟をいましめた。開山みずから書いた規則(法語規則)はいまも国宝としてのこっている。
禅師はのち弘安元年(1278)七月、衆に偈を示して示寂した。ときに六十六歳。
偈 用翳晴術 三十余年 打翻筋斗 地転天旋
後世におくり名された大覚禅師の号は、わが国で最初の禅師号である。 
東福寺
慧日山東福寺 京都市東山区本町
東福寺は、京都東山月輪山麓に、渓谷美を抱く広々とした寺域を擁しています。
臨済宗東福寺派の大本山として、また、京都五山の一つとして750年の法灯を連綿としてつたえ、360余ヶ寺の末寺を統括し信仰の中心となっています。
東山を背景に国宝三門を始め重要文化財に指定されている大伽藍が甍を並べ、その壮観は古くから東福寺の伽藍面といわれています。
慧日山東福寺は摂政関白九条道家公の「浩基を東大に亜ぎ、盛業を興福に取る」との発願によって創建された大道場です。南都東大寺・興福寺に比肩する大寺院ということで、両寺から各一字をとって東福寺と名付けられました。それは嘉禎2年(1236)より建長7年(1255)まで実に19年を費やして完成し、時の仏殿本尊の釈迦仏像は15米、左右の観音弥勒両菩薩像は7.5米で、新大仏寺と呼ばれていました。
工事半ばの寛元元年(1243)には聖一国師を開山に仰ぎ、天台・真言・禅の各宗兼学の堂塔を完備しましたが、元応元年(1319)建武元年(1334)延元元年(1336)と相次ぐ火災の為に大部分を焼失しました。
延元元年8月、被災後4ヶ月目には復興に着手し、貞和3年(1346)6月には前関白一条経通により仏殿の上棟が行われ、火災後20余年を経て再建され偉容を取り戻しました。その後、足利義持、豊臣秀吉、徳川家康らによって保護修理が加えられ、永く京都最大の禅苑としての面目を伝えましたが、明治14年12月に仏殿、法堂、方丈、庫裡を焼失しました。
明治23年に方丈、同43年に庫裡を再建し、大正6年より本堂(仏殿兼法堂)の再建に着手して昭和9年4月に落成、鎌倉、室町時代からの重要な古建築に伍して、現代木造建築の精粋を発揮しています。
円爾弁円(聖一国師)
東福寺開山聖一国師(円爾弁円)は建仁2年(1202)10月15日駿河国(静岡県)栃沢の米澤家(現存)に生まれました。三井園城寺の学徒として天台の教学を究め、後、栄西の高弟行勇・栄朝ついて禅戒を受けました。
嘉貞元年(1235)33歳で宋に渡り杭州径山万寿寺の無準師範(佛鑑禅師)の膝下にあること六年、無準禅師の法を嗣ぎ、仁治2年(1241)7月帰朝されました。
先ず、筑紫に崇福・承天二寺を建てて法を説き、寛元元年(1243)には九条道家に迎えられて禅観密戒を授けました。次いで東福寺開山に仰がれ、山内の普門院を贈られて常住しました。その後、後嵯峨天皇に『宗鏡録』を進講し、また後深草・亀山両天皇も菩薩戒を授ける等、朝廷・幕府の帰信を次第に深めていかれました。
建仁寺の再建を委ねられ入寺、岡崎尊勝寺、大阪四天王寺、奈良東大寺等の大寺院を監閲し再建復興にも尽力されました。更に延暦寺の天台座主慈源や東大寺の円照らを教導したので、学徳は国中に讃えられました。
弘安3年(1280)10月17日79歳で入定、「利生方便 七十九年 欲知端的 佛祖不傳」の遺偈を残します。これは現存する遺偈としては我国最古のものです。
応長元年(1311)花園天皇より聖一国師と諡されたが、我が国での国師号の初例です。またその後、安永9年(1780)後桃圓天皇より大寶鑑廣照国師と加諡され、さらに昭和5年(1930)「神光」と加号されました。
国師は宋より帰朝の際、一千余の典籍を持ち帰り文教の興隆に多大の貢献をされました。又水力をもって製粉する器械の構造図を伝えて製麺を興し、静岡茶の原種を伝え、博多織の創製、博多焼(博多人形)、博多素麺、博多祇園祭の山、栴檀の木、通天楓、伏見人形の将来等、その遺芳は枚挙に遑がありません。また国師の高弟東福寺第三世大明国師(無関普門)は南禅寺の開山に迎えられ、国師の偉徳を更に顕現しました。 
円覚寺
瑞鹿山円覚寺 神奈川県鎌倉市山ノ内
1282年(弘安5年)、鎌倉時代後期 北條時宗が中国より無学祖元禅師を招いて創建されました。
時宗公は18歳で執権職につき、不安な武家政治の中で心の支えとして、無学祖元禅師を師として深く禅宗に帰依されていました。
時宗公は禅を弘めたいという願いと蒙古襲来による殉死者を(敵味方区別なく、冤親平等に)弔うために円覚寺建立を発願されました。
円覚寺の名前の由来は建立の際、大乗経典の「円覚経」が出土したことから、また、瑞鹿山、山号の由来は開山国師(無学祖元禅師)が佛殿開堂落慶の折、法話を聞こうとして白鹿が集まったという奇瑞から瑞鹿山(めでたい鹿のおやま)とつけられたといわれます。
開山国師(無学祖元禅師)の法灯は高峰顕日、夢窓疎石と受け継がれその流れは室町時代に日本の禅の中心的存在となり、五山文学や室町文化に大きな影響を与えました。
円覚寺は創建以来、北条氏をはじめ朝廷や幕府の篤い帰依を受け、寺領の寄進などにより経済的基盤を整え、鎌倉時代末期には伽藍が整備されました。
室町から江戸時代幾たびかの火災に遭い、衰微したこともありましたが、江戸末期(天明年間)に大用国師(誠拙周樗)が僧堂・山門等の伽藍を復興され、修行者に対し峻厳をもって接しられ、宗風の刷新を図り今日の円覚寺の基礎を築かれました。
明治以降今北洪川老師・釈宗演老師の師弟のもとに雲衲や居士が参集し、多くの人材を輩出しました。今日に至ってもさまざまな坐禅会が行われています。
静寂な今日の伽藍は創建以来の七堂伽藍の形式が伝わっており、山門,佛殿,方丈と一直線に並び、(法堂はありませんが)その両脇に右側、浴室,東司跡、左側、禅堂(選佛場)があります。 
大徳寺
龍寶山大徳寺 京都市北区紫野大徳寺町
臨済宗大徳寺派の大本山で龍寶山と号する。
鎌倉時代末期の正和4年(1315)に大燈国師宗峰妙超禅師が開創。室町時代には応仁の乱で荒廃したが、一休和尚が復興。桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、信長の菩提を弔うために総見院を建立、併せて寺領を寄進、それを契機に戦国武将の塔頭建立が相次ぎ隆盛を極めた。
勅使門から山門、仏殿、法堂(いずれも重文)、方丈(国宝)と南北に並び、その他いわゆる七堂伽藍が完備する。山門は、二階部分が、千利休居士によって増築され、金毛閣と称し、利休居士の像を安置したことから秀吉の怒りをかい利休居士自決の原因となった話は有名。本坊の方丈庭園(特別名勝・史跡)は江戸時代初期を代表する枯山水。方丈の正面に聚楽第から移築した唐門(国宝)がある。方丈内の襖絵八十余面(重文)はすべて狩野探幽筆である。什宝には牧谿筆観音猿鶴図(国宝)、絹本着色大燈国師頂相(国宝)他墨跡多数が残されている。(10月第二日曜日公開)現在境内には、別院2ヶ寺、塔頭22ヶ寺が甍を連ね、それぞれに貴重な、建築、庭園、美術工芸品が多数残されている。 
方広寺
深奥山方広寺 静岡県浜松市北区引佐町奥山
臨済宗方広寺派の大本山。静岡県引佐郡引佐町奥山に所在する。至徳元年(西暦1384年、南朝元中元年)、後醍醐天皇の皇子無文元選禅師によって開かれた。当地の豪族、奥山六郎次郎朝藤が自分の所領の一部を寄進して堂宇を建立し、無文元選禅師を招いたのである。末寺170カ寺を擁し、その大部分は静岡県西部地方に所在する。境内に修行道場である方広寺専門道場がある。
無文元選禅師
方広寺を開山する。元亨3年(1323)後醍醐天皇の皇子として京都に生まれる。
後醍醐天皇が崩御された翌年暦応3年(1340、南朝興国元年)、京都建仁寺において出家し、可翁宗然禅師、雪村友梅禅師について修行する。後に、康永2年(1343、南朝興国4年)、元代の中国に渡って禅の修行をすることを志して、九州博多に行く。当地聖福寺に住職をしておられた無隠元晦禅師に謁して、中国へ渡る意志を告げ、その指示を仰ぐ。やがて、船に乗り、数ヶ月をかけて中国漸江省の温州に着く。福建省の建寧府にある大覚明智寺に古梅正友(こばいしようゆう)禅師を訪ねて参禅修行して大悟する。後に諸方を行脚して天台山方広寺に行く。
元の至正10年、日本の観応元年(1350、南朝正平5年)、帰国する。京都岩倉に帰休庵を結び、やがて美濃(岐阜県)に了義寺、三河(愛知県)に広沢庵を結ぶ。この広沢庵に遠江(静岡県)奥山の豪族奥山六郎次郎朝藤(ろくろうじろうともふじ)が参禅する。至徳元年(西暦1384年、南朝元中元年)、朝藤は禅師の父後醍醐天皇の追善供養と、禅師の師恩に酬いるために、所有する山林の中から50町余りを寄進して、堂宇を建立して禅師を招く。禅師はその招きに応じて当地に移り、その光景が天台山方広寺に似ていることから、この寺を方広寺と名付ける。
以来、師の下に、多数の弟子が集まって参禅弁道する。
康応2年(1390、南朝元中7年)閏3月22日、当寺において遷化(せんげ、亡くなること)する。 
永源寺
瑞石山永源寺 滋賀県東近江市永源寺高野町
南北町時代の康安元年(1361)、近江国の領守佐々木氏頼が、この地に伽藍を建て、寂室元光禅師を迎えて開山され、瑞石山永源寺と号した。
禅師が遷化された後の、応安2年(1369)後光厳天皇は禅師を追崇され円応禅師の諡号をおくられ、さらに昭和3年(1928)4月には正燈国師の称号がおくられている。応仁の乱には、京都五山の名僧がこの地に難を避け修行し、"文教の地近江に移る"といわれるほど隆盛をきわめた。
明応(1492)永禄(1563)とたび重なる兵火にかかり、本山をはじめ、山上の寺院悉く焼失。寛永年間一 絲文守禅師(仏頂国師)が住山し、後水尾天皇の帰依を受け再興された。明治以来、臨済宗永源寺派の本山となり、百数十の末寺を統轄し、坐禅研讃、天下泰平、万民安穏を祈る道場となっている。
寂室元光禅師
禅師は正応3年(1290)岡山県勝山の藤原家に生まれ、5歳で教典を暗誦するほどの神童で、13歳で出家。京都東福寺の大智海禅師のもとで修行し、15歳の時仏燈国師に仕え、18歳で国師の一掌下に大悟された。元応2年(1320)31歳から7年 間、中国天目山の中峰和尚につき修行。帰国されたのちも自然を友に詩や和歌を賦し、生涯行脚説法の旅を続けられた。そして、康安元年(1361)72歳で永源寺に入寺し開山された。山紫水明な仙境をことのほか愛され、貞治6年(1367)78歳で遷化されるまで修行僧の教化に専念された。芳玉禅師、夫一関禅師といった名僧をはじめ、師の高徳を慕って全国から集まった修行僧は二千人もあったといわれている。 
天龍寺
霊亀山天龍寺 京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町
天龍寺は、京都の観光地・嵐山の、桂川中ノ島から渡月橋を渡って北へ向かう観光客で賑やかな通りに面して門を構える。嵐山・亀山を借景に緑豊かな境内が広がる。観光名所の渡月橋や天龍寺北側の亀山公園なども、かつては天龍寺の境内地であったという。
天龍寺の開基は足利尊氏である。暦応2年(1339)8月、後醍醐天皇が崩御したが、その菩提を弔うため、夢窓疎石が足利尊氏に進言し、光厳上皇の院宣を受けて開創されることになった。その後、堂宇の建築が進められ、康永4年(1345)秋、疎石を開山に迎えて後醍醐天皇七回忌法要を兼ねて盛大に落慶法要が営まれた。初め暦応資聖禅寺と号したが、比叡山が暦応の年号を寺号とすることに反対し、抗議したため、幕府は天龍資聖禅寺と改めた。
天龍寺の地は、檀林皇后が創建した檀林寺の跡地で、檀林寺が廃絶した後、建長年中に後嵯峨上皇が新たに仙洞御所を造営し、次に亀山上皇が仮御所としていた地である。暦応4年(1341)7月、地鎮祭を行い、疎石や尊氏が自ら土を担いで造営を手伝ったという。
足利尊氏は、天龍寺造営のために備後国、日向国、阿波国、山城国などの土地を寄進し、光厳上皇も丹波国弓削庄を施入している。しかし造営の資金には足りず、それを補うため、尊氏の弟直義は疎石と相談し、元寇以来絶えていた元との貿易を結び、天龍寺造営の資金に充てる計画を立てた。いわゆる天龍寺船の派遣である。疎石は、博多の商人至本を綱司に推挙し、至本は、「商売の好悪」にかかわらず五千貫を納める約束をし、一方幕府は、この船を当時瀬戸内海に横行していた海賊などから保護する責任を負った。
こうして、康永元年(1342)には五山の第二位に位置づけられ、翌2年には仏殿、法堂、山門などが完成し、3年には霊庇廟(後醍醐天皇霊廟)も落成した。この完成により、翌康永4年(1345)8月に、光厳上皇と光明天皇の臨幸を仰いで、落慶法要と後醍醐天皇七回忌法要を行おうとした。しかしこれを見た延暦寺の僧侶が妬み、疎石の流罪と天龍寺の破却を強訴したため、上皇と天皇は法要当日の行幸を取りやめ、翌日に行幸にて疎石の説法を聴聞したという。
この法要にあたり、朝廷からは金襴衣、紫袍、錦帛、水晶念珠などが下賜され、尊氏からは銅銭三百万、鞍馬三十頭が施入された。さらに観応2年(1351)、疎石は千人収容可能な広大な僧堂を造営している。尊氏は子孫一族家人など、末代に至るまで天龍寺への帰依の志が変わることがないことを誓い、また光厳、光明の両院など、朝廷からも天龍寺は篤い帰依を受けている。
天龍寺の五山十刹の位置づけは、創建当初の五山第二位に始まる。次に至徳3年(1386)に京都五山第一位となり、鎌倉建長寺と同格と位置づけられたが、応永8年(1401)の改定では相国寺を第一位とし、天龍寺は第二位(鎌倉円覚寺と同格)に格下げされた。しかし応永17年(1410)にはまた第一位に戻っている。
天龍寺は創建後、たびたび火災に遭っている。まず延文3年(1358)、雲居庵などを除いて焼失したため、春屋妙葩が再建し、貞治6年(1367)の火災後も妙葩が請われて修復している。応安6年(1373)にもまた炎上し、翌年再建を始めている。さら康暦2年(1380)には公文書の多くが焼失する火災に遭っている。文安四年(1447)、雲居庵を除いてことごとく焼失。応仁2年(1468)には、応仁の乱の戦火に巻き込まれ、焼失している。
この応仁の乱以後、しばらくは火災も少なくなり、復興事業が進められている。しかし、数度にわたる火災の被害は甚大で、天正13年(1585)に豊臣秀吉の寄進を受けるまでは復興はままならなかったようである。秀吉は嵯峨、北山など一七二〇石の朱印を天龍寺に寄進し、この寄進によって本格的な再建が進められた。さらに慶長19年(1614)、元和元年(1615)、寛永10年(1633)にも朱印が寄進されている。
その後文化12年(1815)になって火災に遭い、翌年から再建が始まるが、元治元年(1864)七月には「蛤御門の変」で長州兵の陣所となり、天龍寺は兵火のためにまたも焼けている。
明治に入り、9年9月、他の臨済宗各派と共に独立して天龍寺派を公称し、天龍寺はその大本山となった。また、上地令を受けて、境内地など所有地が上地されている。そんな中、復興事業も始まり、明治32年に法堂、大方丈、庫裡、大正13年に小方丈、昭和9年に多宝殿などが再建された。
夢窓疎石
建治元年(1275)11月1日、伊勢国(三重県)に生まれた。父は源氏の流れをくみ宇多天皇の九世の孫という佐々木朝綱、母は平氏の出身である。疎石四歳の時、一家は甲斐国(山梨県)に移住したが、この年の8月に母を亡くしている。しかし、母によって信仰的に薫育された疎石は、仏像を見れば拝み、お経を唱えていたという。弘安6年(1283)九歳の疎石は父に連れられて平塩山の空阿を訪れた。疎石は空阿のもとで仏典や孔子・老子の典籍などを学び、10歳の時には七日で「法華経」を読誦して母の冥福を祈り、人々はその非凡さを嘆じた。
正応五年(1292)18歳で奈良に行き、東大寺戒壇院の慈観律師に従って受戒した。その後さらに遊学してより深く仏教の教学を学んだが、天台教学の講師が死に臨んで苦しみ、醜態をさらすのを見て、学問的研究だけでは生死の問題を解決することはできないと悟り、禅の教えに傾倒していった。そんなある日、疎石は夢の中で中国の疎山・石頭を訪れ、そこでであった僧から達磨大師の像を預かり、「これを大切にするように」と言われる。目覚めた疎石は自分が禅宗に縁があると考え疎山・石頭から一文字ずつとって疎石と名乗り、夢の縁から夢窓と号したという。
20歳になった疎石は京都に上がり、建仁寺の無隠円範について禅の修行に入った。翌年10月には鎌倉にて高僧に歴参し、いずれの師にもその聡明さを賞賛された。永仁5年(1297)京都建仁寺の無隠に再び侍すが、8月、一山一寧が来日すると、すぐに教えを受けている。正安元年(1299)、一山が鎌倉建長寺に住することになると、疎石も従い、諸家の語録を学び修行を重ねていった。
正安2年(1300)秋、疎石は出羽国に旧知の人を訪ねようとしたが、その人の訃報を聞き、途中にある松島寺にとどまった。当時この地に天台止観を理路整然と講じる一人の僧がおり、疎石もこれを聴講して悟るところがあったが、それはそれまでに聞き学んだ教えが開発されただけで、真実の悟りはやはり禅によるべきであると考えるに至った。
嘉元3年(1305)、疎石は常陸国臼庭に行き、小庵で坐禅三昧の生活を始めた。ある夜、疎石は長時間の坐禅から立ち上がり壁にもたれようとしたが、暗かったために壁のないところにもたれてしまい転倒し、その拍子にすっきりと悟りを得ることができた。すぐに疎石は鎌倉の高峰顕日のもとへ向かい悟ったところを提示すると、顕日は「達磨の意をあなたは得た。よく護持するように」と讃えたという。
正中2年(1325)春、後醍醐天皇が京都南禅寺の住持に疎石を招くが翌年には鎌倉へ赴きその後2年間円覚寺に住した。長年荒廃していた円覚寺は疎石によって復興している。元弘3年(1333)後醍醐天皇の詔により京都臨川寺開山、また南禅寺住持に再任され建武2年(1335)には夢窓国師の号を下賜されるなど、天皇の疎石への崇敬はますます深くなっていった。この頃、足利尊氏が疎石に対して弟子の礼を執り、疎石は尊氏を悔悟させるため怨親平等を説き、安国寺利生塔の建立を勧めた。
暦応2年(1339)8月に後醍醐天皇が崩じると、尊氏は疎石の進言を受け天龍寺の開創事業が始まり、康永4年(1345)には後醍醐天皇七回忌法要を兼ねて盛大に落慶法要が営まれた。観応2年(1351)には僧堂が落成し、疎石は一度は雲居庵に退いたが弟子の教化に当たっている。同年8月の後醍醐天皇十三回忌法要の翌日、疎石は病の兆候を見せて臨川寺に退去し、9月30日、衆生に親しく別れを告げて示寂した。77才であった。疎石の教化を受けた者は13045人いたと伝わり、朝廷からも篤く帰依され、歴朝は疎石の徳を尊び、夢窓・正覚・心宗・普済・玄猷・仏統・大円の七つの国師号を下賜している。 
相国寺
万年山相国寺 京都市上京区相国寺門前町
相国寺(しょうこくじ)は正式名称を萬年山相国承天禅寺と称し、足利三代将軍義満が、後小松天皇の勅命をうけ、約10年の歳月を費やして明徳3年(1392)に完成した一大禅苑で、夢窓国師を勧請開山とし、五山の上位に列せられる夢窓派の中心禅林であった。その後応仁の乱の兵火により諸堂宇は灰燼に帰したが度重なる災禍にもかかわらず当山は禅宗行政の中心地として多くの高僧を輩出し、室町時代の禅文化の興隆に貢献した。後に豊臣氏の外護を受けて、慶長10年(1605)豊臣秀頼が現在の法堂を建立し、慶長14年には徳川家康も三門を寄進した。また後水尾天皇は皇子穏仁親王追善の為、宮殿を下賜して開山塔とした。他の堂塔も再建したが天明8年(1788)の大火で法堂・浴室・塔頭9院のほかは焼失。文化4年(1807)に至って、桃園天皇皇后恭礼門院旧殿の下賜を受けて開山塔として建立され、方丈・庫裏も完備されて漸く壮大な旧観を復するに至った。現在は金閣・銀閣両寺をはじめ九十余カ寺を数える末寺を擁する臨済宗相国寺派の大本山である。
法堂(重文)は桃山時代の遺構でわが国最古の法堂、一重裳階付入母屋造りの唐様建築で本尊釈迦如来および脇侍は運慶作。天井の蟠龍図は狩野光信(永徳嫡子)筆。法堂北の方丈は勝れた襖絵を有し、裏庭は京都市指定名勝となっている。開山塔内には開山夢窓国師像を安置。開山塔庭園は山水の庭と枯山水平庭が連繋する独特の作庭である。その他に寺宝として多数の美術品を蔵している。
夢窓疎石
九歳にして得度して天台宗に学び、後、禅宗に帰依。高峰顕日に参じその法を継ぐ。  正中二年(1325)後醍醐天皇の勅によって、南禅寺に住し、更に鎌倉の浄智寺、円覚寺に歴住し、甲斐の恵林寺、京都の臨川寺を開いた。歴応二年(1339)足利尊氏が後醍醐天皇を弔うために天龍寺を建立すると、開山として招かれ第一祖となり、また、国師は争乱の戦死者のために、尊氏に勧めて全国に安国寺と利生塔を創設した。夢窓は門弟の養成に才能がありその数一万人を超えたといわれる。無極志玄、春屋妙葩、義堂周信、絶海中津、龍湫周沢、などの禅傑が輩出し、後の五山文学の興隆を生み出し、西芳寺庭園・天龍寺庭園なども彼の作庭であり、造園芸術にも才があり巧みであった。また天龍寺造営資金の捻出のため天龍寺船による中国(元)との貿易も促進した。後醍醐天皇をはじめ七人の天皇から、夢窓、正覚、心宗、普済、玄猷、仏統、大円国師とし諡号され、「七朝帝師」と称され尊崇された。 
建仁寺
東山建仁寺 京都市東山区小松町
心安らぐ、名刹の情景。東には東山山麓の緑が映え、西に歩けば鴨の流れ…。祇園の花街の中にあっては静けさに満ち、数々の宝物に包まれた荘厳な佇まい。ここは、日本最古の禅寺「建仁寺」。八百年の歴史と禅の心に、悠久の想いを馳せる…。
日本最古の禅宗本山寺院―建仁寺
臨済宗建仁寺派の大本山。開山は栄西禅師。開基は源頼家。鎌倉時代の建仁2年(1202)の開創で、寺名は当時の年号から名づけられています。山号は東山(とうざん)。諸堂は中国の百丈山を模して建立されました。創建当時は天台・密教・禅の三宗兼学でしたが、第十一世蘭渓道隆の時から純粋な臨済禅の道場となりました。800年の時を経て、今も禅の道場として広く人々の心のよりどころとなっています。
明庵栄西
禅の心と茶の徳を伝える―開山 栄西禅師
開山の栄西という読み方は、寺伝では「ようさい」といいますが、一般には「えいさい」読まれています。字は明庵(みんなん)号は千光(せんこう)葉上(ようじょう)。栄西禅師は永治元年(1141)、備中(岡山県)吉備津宮の社家、賀陽(かや)氏の子として生まれました。14歳で落髪、比叡山で天台密教を修め、その後二度の入宋を果たし、日本に禅を伝えました。また、中国から茶種を持ち帰って、日本で栽培することを奨励し、喫茶の法を普及した「茶祖」としても知られています。 
向嶽寺
塩山向嶽寺 山梨県甲州市塩山上於曽
向嶽寺は山号を「塩山(えんざん)」と称します。山梨県塩山市に所在し、甲府盆地の東北部に 、こんもりと突き出た小高い山の南麓に抱かれるようにたたずんでいます。
この山を『志ほの山 さしでの磯に すむ千鳥 君が御代をば 八千代とぞなく』と古今和歌集に歌われた塩山市の象徴「塩の山」と言い、塩山市と言われる地名はこの山の名に因んでいます。
中門と築地塀 JR中央線塩山駅から住宅街を通り、15分程歩くと寺の外門に到ります。外門を通り抜けると、両側を杉木立ちに覆われ100メートル程まっすぐな参道が続きます。正面には中門と称される総門が行く手を遮ります。室町時代の建造物で、向嶽寺は開創以来幾度もの火災に遭遇し、山内のほとんどの伽藍を消失していますが、この中門だけが残って、室町時代の禅宗様四脚門の代表的遺構として国の重要文化財の指定を受けています。檜皮葺き(ひわだぶき)で彩色や装飾要素がなく切妻屋根の簡素な造りです。また、この門の東西には漆喰(しっくい)製、瓦屋根の築地塀(ついじべい)が配されています。由来によれば、この付近の岩塩から「にがり」をつくり、漆喰に混ぜて築地を強化したと伝えられ、「塩築地」とも称されています。主要建物が南北一直線上に配置されている伽藍の配置上、見透かしを避けるために設けられたものと考えられ33.5mあります。
放生池 この中門は通常開かれることはありませんので、塩築地の東端にある通用門より境内に入ることになります。赤松や杉、檜の木に囲まれた放生池(ほうじょういけ)が目に入ります。瓢箪(ひょうたん)のような形をしていてその丁度くびれの部分に木の橋が架かり、その先に三門跡の礎石が残り、仏殿に到ります。この仏殿は天明6年(1786)の大火災後の再建建造物で「由緒記」によれば、「合棟仏殿開山堂、号して祥雲閣」と記されています。「合棟」つまり仏殿と開山堂を合わせ建てているものです。通例の禅宗仏殿とは異なった意匠による複合建築と言えます。
この仏殿・開山堂の東側に昭和42年(1967)再建成った庫裡。そして仏殿と庫裡の間を進むと再び閉ざされた門・方丈前門(仮称)に到ります。この門をくぐると平成9年(1997)向嶽寺一派の悲願の成就した方丈、書院を目の当りにすることができます。
新築なった方丈を目にしたならば、是非とも方丈裏手に足を運んで頂きましょう。
塩の山南麓斜面に作庭されている庭園です。平成2年(1990)に発掘調査が行われる前まではほとんど埋没した庭園で手を入れられていなかったために、ほぼ原形に近い状態で発掘、修復工事が行われました。平成6年(1994)国の名勝に指定されました。
庭園は方丈からの眺めを主目的に造られ、庭園正面上部の高さ2mを超す「三尊石(さんぞんせき)」をはじめ、上段池泉に注ぐ二ヵ所の滝石組、下段池泉の滝石組など、優れた景観を呈しています。つまり、かつては石に沿って水が流れていたのです。
山梨県に残る古庭園の典型として、さらに発掘調査の成果を基盤とした日本の伝統的庭園の歴史を伝える学術資料としても重要視されています。
抜隊得勝(慧光大円禅師)
向嶽寺の開山は抜隊得勝(ばっすいとくしょう)禅師〔慧光大円禅師〕です。禅師は鎌倉幕府が滅亡する直前の嘉暦2年(1327)10月6日、相模国中村(神奈川県足柄上郡中井町)に生まれました。父の姓は藤氏と伝わります。禅師は4歳の時に父を失いますが、その三回忌に供物を供えるのを見て、亡くなった父はどうしてこの供物を食べるのだろうと素朴な疑問を抱いたと言われます。このことについて後年抜隊禅師は、「少年より一つうたがいおこりて候ひし。そもそもこの身を成敗(裁くこと)して誰そと問えば我と答えるものはこれ何物ぞ。」(『塩山仮名法語』)と疑ったと述べられています。
この疑いが深くなるにつれて出家しようとの志が深まり、ついに正平10年(1355)29歳の正月「衆生を度し尽くして後に正覚を成ずべし。」と決意されます。この決意は阿弥陀如来の前身である法蔵菩薩の大願と同じで極めて注目すべきことです。
出家された抜隊禅師は中国僧・明極楚俊(みんきそしゅん)の高弟(特に優れた弟子)で出世を嫌って山中に庵居していた得瓊(とっけい)を訪ね、自己の心境を披瀝(ひれき)し同じく山居修行を続け、やがてさらに心境が深まるにつれその究めたところをしかるべき師に証明してもらおうと、鎌倉・建長寺に肯山聞悟(こうざんもんご)を、常陸に復庵宗己(ふくあんそうこ)をというように各地を遍歴し正平12年再び得瓊の下に帰ります。13年得瓊の勧めで出雲・雲樹寺に孤峯覚明(こほうかくみょう)を訪ね修行を始めましたが、僅かに60日、その悟りの境地が認められついにその印可を得ることになります。孤峯は千挙を群といい万挙を隊というとして禅師に「抜隊」の道号を授けました。孤峯の法を嗣(つ)いだ抜隊禅師は近江の永源寺に寂室元光(じゃくしつげんこう)を、また能登の曹洞宗・総持寺に峨山紹碩(がさんじょうせき)を訪ねるなど各地を遍しました。その後も伊豆・相模の山中に庵居され、永和2年(1376)には武蔵横山(現八王子市)に移り、さらに永和4年(1378)には以前から志していた甲斐に入り高森(塩山市竹森)に庵居することになります。高森には禅師を慕って800人にも及ぶ僧俗が参集したといいます。ところで、昌秀庵主という人がいて、深く禅師の徳風を慕っていました。昌秀庵主は抜隊禅師の住む庵が風当たりが強く、山道が険しい所にあったため、教えを受ける者たちが苦労しているのを見て、時の領主・武田信成(のぶしげ)に要請して、塩山の地を寄進させ、康暦2年(1380)正月に「塩の山」の麓に庵を創建し抜隊禅師を招き入れています。抜隊禅師54歳の時でした。この庵は、かつて抜隊禅師が近江にいた頃、夢に富士山を見、今、塩山にいて目の前に富士山を眺めていることにちなんで「向嶽庵」と称されました。寺号をつけなかったのは抜隊禅師が道行のすたれることを心配し、修行を専一にという考えによります。
抜隊禅師は初発心時のお考えのごとく、まさに泥まみれになって僧俗の教化に努められました。至徳3年(1386)に上梓された『和泥合水集』は衆生を教化救済するためには、泥まみれ、びしょぬれになることをいとわないことを書名としています。また遠隔の地の人々からの質問に手紙で懇切に答えられた『塩山仮名法語』もあります禅師は至徳4年(1387)2月20日、端座して周りの弟子たちに向かって、「端的(たんてき)是(こ)れ什麼(なん)ぞと看(み)よ、什麼(いんも)に看ば必ず相い錯(あやま)らざらん」と2回にわたって声高に告げ、灯火が消えていくかのごとくに寂したといいます。61歳でした。
その後、天文16年(1547)6月、甲斐の実権を握った守護・武田信玄の朝廷への働きかけによって抜隊禅師に「慧光大円禅師」の諡号(しごう)を賜ることになります。 
佛通寺
御許山佛通寺 広島県三原市高坂町許山
佛通寺は、應永4年(1397年)小早川春平公が愚中周及(佛徳大通禅師)を迎え創建した臨済宗の禅刹である。
佛通寺の名称は、愚中周及の師である即休契了を勧請開山とし、彼の論号(佛通禅師)を寺名にしたことを起因とする。小早川家―族の帰依を受けて瞬く間に寺勢は隆昌し、最盛期には山内の塔中88ヵ寺、西日本に末寺約3千カ寺を数えるに到った。
しかし、応仁の乱の後に荒廃にむかい、小早川隆景の治世になってやや再興したものの、福島家そして続いて浅野家と権力者が変わるにつれて、しだいに当時の面影を失ったのである。しかし、明治期に入ると一転して法灯は大いに挽回され明治38年、参禅道場をもつ西日本唯―の大本山として今日に到っている。
愚中周及(佛徳大通禅師)
美濃(岐阜県)で生まれ、13歳の時に夢窓疎石禅師(天龍寺の開山)の下で修行し、後に春屋妙葩禅師の下で修行した。19歳の時に中国(元の時代)に渡り、金山寺(中国)の住職であった即休契了(彿通禅師)の下で7年間修行に励まれた。
中国から帰国後(1351)、京都の五山叢林を嫌い、京都福知山の天寧寺において多くの弟子の育成を行った。春平の要望に応えて佛通寺を創建(1397)するとともに弟子の育成にあたった。応永16年(1409年)87歳天寧寺(京都府福知山)にて示寂し、佛徳大通禅師と論号された。 
国泰寺
摩頂山国泰寺 富山県高岡市太田
当寺は臨済宗国泰寺派の総本山である。慈雲妙意(清泉禅師慧日聖光国師)を開山とする。
慈雲妙意は、はじめ、当寺南方の二上山中の草庵で独り坐禅に励んでいたが、たまたま、行脚中の孤峰覚明のすゝめにより、紀伊由良の興国寺の法燈国師に参じて豁然大悟、その印記を受けた。慈雲、時に24才。後、再び、二上山へ帰り聖胎長養。正安年間(1300年頃)摩項山東松寺を創開。その禅風を慕って全国から集る雲水、その数を知らず。其の後、後醍醐天皇の帰依を受け、嘉暦2年(1327)には『清泉禅師』の号を賜り、翌年には「護国摩頂巨山国泰仁王萬年禅寺』の勅額を下賜され、東松寺を改めて国泰寺と称すると同時に、「北陸鎮護第一禅刹特進出世之大道場」として京都南禅寺と同格の勅願所となった。
更に、北朝の光明天皇も慈雲妙意に深く帰依され、全国に安国寺を建立された際には、当寺をもって、越中国の安国寺と定められ、将軍足利尊氏も尊崇の念を表し、伽藍の修理、土地の寄進などをした。貞和元年(1345年)6月3日、慈雲は『天に月あり、地に泉あり』の末後の句を残して、72才で示寂。光明天皇より「慧日聖光国師』の論号を受けた。
その後、守護代神保氏の崇信を得ていたが、応仁(1470頃)から天文(1550頃)年間にかけての戦乱、特に上杉勢の越中侵攻によって当寺は荒廃した。しかし、雪庭和尚は後奈良天皇の綸旨を受けて再興し、天正年間(1580頃)には二上山より現在地に移っていたようである。江戸時代に入り貞亨3年(1686)には現在の大方丈が建立され、将軍綱吉は当寺をもって法燈派総本山とし、亨保年間(1720頃)には高壑和尚等によって伽藍の大整備が行なわれ、(現在の法堂は当時のもの)ほゞ現在の形になった。明治維新になると排仏毀釈の余波を受けたが、越受・雪門両和尚は山岡鉄舟の尽力を得て、天皇殿の再建をはじめ諸堂宇の修造に努めた。また、日本を代表する思想家西田幾多郎や鈴木大拙が、若き日に、雪門に参じたことはあまり知られていない事実である。昭和11年には現在の庫裡を再建、42年に観音堂の建立、49年には月泉庭並に龍渕池(放生池)が完成、更に50年に台所。宿泊所を増築し現在の風趣を呈するに至った。
今日も北鎮第一禅刹の名に背かず、雨・雪安居の禅堂規矩を遵守しながら、大衆のために禅堂を開放して団体の坐禅、個人の指導にも一山をあげて努めている。参禅を希望する者、聞法を願う人はお申し出下さい。 
 
浄土真宗

 

日本の仏教の宗旨のひとつである。鎌倉時代初期の僧である親鸞が、師である法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え[1]を継承し展開させる。親鸞の没後にその門弟たちが、教団として発展させる。 
名称
親鸞における「浄土真宗」親鸞の著書に記されている「浄土真宗」・「真宗」(・「浄土宗」)とは、宗旨名としての「浄土真宗」(「浄土宗」)のことではなく、「浄土を顕かにする真実の教え」であり、端的に言うと「法然から伝えられた教え」のことである[2]。親鸞自身は独立開宗の意思は無く、法然に師事できたことを生涯の喜びとした。
宗旨名としての「浄土真宗」宗旨名として「浄土真宗」を用いるようになったのは親鸞の没後である。宗旨名の成り立ちの歴史的経緯から、明治初期に定められた宗教団体法の規定(現在は、宗教法人法の規則による「宗教法人の名称」)により、同宗旨に属する宗派[3]の多くが宗派の正式名称を「真宗○○派」とし、法律が関与しない「宗旨名」を「浄土真宗」とする。過去には、「一向宗」、「門徒宗」とも通称された。 
教義
親鸞が著した浄土真宗の根本聖典である『教行信証』の冒頭に、釈尊の出世本懐の経である『大無量寿経』[4]が「真実の教」であるとし、阿弥陀如来(以降「如来」)の本願(四十八願)と、本願によって与えられる名号「南無阿弥陀佛」を浄土門の真実の教え「浄土真宗」であると示し、この教えが「本願を信じ念仏申さば仏になる」という歎異抄の一節で端的に示されている。
このことは名号となってはたらく「如来の本願力」(他力)によるものであり、我々凡夫のはからい(自力)によるものではないとし、絶対他力を強調する(なお、親鸞の著作において『絶対他力』という用語は一度も用いられていない。[5])。[6]
如来の本願によって与えられた名号「南無阿弥陀仏」をそのまま信受することによって、ただちに浄土へ往生することが決定し、その後は報恩感謝の念仏の生活を営むものとする。そのため浄土真宗では「信心正因 称名報恩」を強調する。あくまでも念仏は、報恩のために発せられるのであって、浄土往生の条件ではない。
『正像末和讃』「愚禿悲歎述懐」に、
「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」「無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども 弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまう」「蛇蝎奸詐のこころにて 自力修善はかなうまじ 如来の回向をたのまでは 無慚無愧にてはてぞせん」
と、「真実の心」は虚仮不実の身である凡夫には無いと述べ、如来の本願力回向による名号の功徳によって慚愧する身となれるとする[7]。
本尊は、阿弥陀如来一仏である。ただし、高田派及び一部門徒は善光寺式阿弥陀三尊形式である阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩を本尊とする。 
習俗
他の仏教宗派に対する真宗の最大の違いは、僧侶に肉食妻帯が許される、無戒であるという点にある(明治まで、表立って妻帯の許される仏教宗派は真宗のみであった)。そもそもは、「一般の僧侶という概念(世間との縁を断って出家し修行する人々)や、世間内で生活する仏教徒(在家)としての規範からはみ出さざるを得ない人々を救済するのが本願念仏である」と、師法然から継承した親鸞が、それを実践し僧として初めて公式に妻帯し子をもうけたことに由来する。そのため、真宗には血縁関係による血脈[8]と、師弟関係による法脈の2つの系譜が存在する。与えられる名前も戒名ではなく、法名と言う。
真宗は、ただ如来の働きにまかせて、全ての人は往生することが出来るとする教えから、多くの宗教儀式や習俗にとらわれず、報恩謝徳の念仏と聞法を大事にする。加持祈祷を行わないのも大きな特徴である[9]。また合理性を重んじ、作法や教えも簡潔であったことから、近世には庶民に広く受け入れられたが、他の宗派からはかえって反発を買い、「門徒物知らず」(門徒とは真宗の信者のこと)などと揶揄される事もあった。
また真宗は、本尊(「南無阿弥陀仏」の名号・絵像・木像)の各戸への安置を奨励した。これを安置する仏壇の荘厳に関しての「決まり」が他の宗派に比して厳密である。荘厳は各宗派の本山を模していることから、宗派ごとに形状・仏具が異る。仏壇に、本尊を安置し荘厳されたものを、真宗では「御内仏」と呼ぶ。真宗においては、先祖壇や祈祷壇として用いない。
真宗の本山には、そのいずれにおいても基本的に、本尊阿弥陀如来を安置する本堂(阿弥陀堂)とは別に、宗祖親鸞の真影を安置する御影堂がある。真宗の寺院建築には他にも内陣に比べて外陣が広いなど、他宗に見られない特徴がある。また各派ともに、宗祖親鸞聖人の祥月命日に、「報恩講」と呼ばれる法会を厳修する。その旨は、求道・弘教の恩徳と、それを通じて信知せしめられた阿弥陀如来の恩徳とに報謝し、その教えを聞信する法会である。またこの法会を、年間最大の行事とする。ただし、真宗各派でその日は異なる。 
依拠聖典
正依の経典は、「浄土三部経」である。七高僧の著作についても重んじる。中でも天親の『浄土論』は、師である法然が「三経一論」と呼び、「浄土三部経」と並べて特に重んじた。親鸞は、『仏説無量寿経』を『大無量寿経』『大経』と呼び特に重んじた。
浄土三部経
『仏説無量寿経』 曹魏康僧鎧訳
『仏説観無量寿経』 劉宋畺良耶舎訳
『仏説阿弥陀経』 姚秦鳩摩羅什訳
七高僧論釈章疏
親鸞の思想に影響を与えた七高僧の注釈書など。
龍樹造『十住毘婆沙論』全十七巻の内、巻第五の「易行品第九」 姚秦鳩摩羅什訳
天親造(婆藪般豆菩薩造)『無量寿経優婆提舎願生偈』(『浄土論』・『往生論』) 後魏菩提留支訳
曇鸞撰『無量寿経優婆提舎願生偈註』(『浄土論註』・『往生論註』)『讃阿弥陀仏偈』
道綽撰『安楽集』
善導撰『観無量寿経疏』(『観経疏』、『観経四帖疏』、『観経義』)[10]『往生礼讃偈』(『往生礼讃』)『法事讃』[11]『般舟讃』[12]『観念法門』[13]
源信撰『往生要集』
源空撰『選択本願念仏集』(『選択集』)[14]
親鸞撰
『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)
『浄土文類聚鈔』
『愚禿鈔』
『入出二門偈頌』(『入出二門偈』)
『浄土三経往生文類』(『三経往生文類』)
『如来二種回向文』
『尊号真像銘文』
『一念多念文意』
『唯信鈔文意』
「三帖和讃」 『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』 
名称について
開祖親鸞は、釈尊・七高僧へと継承される他力念仏の系譜をふまえ、法然を師と仰いでからの生涯に渡り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え[1]」を継承し、さらにその思想を展開することに力を注いだ。法然没後の弟子たちによる本願・念仏に対する解釈の違いから、のちに浄土宗西山派などからの批判を受ける事につながる。
なお、親鸞は生前に著した『高僧和讃』において、法然(源空)について「智慧光のちからより、本師源空あらはれて、浄土真宗ひらきつゝ、選択本願のべたまふ」と述べて、浄土真宗は法然が開いた教えと解した。親鸞は越後流罪後(承元の法難)に関東を拠点に布教を行ったため、関東に親鸞の教えを受けた門徒が形成されていく。
親鸞の没後に、親鸞を師と仰ぐ者は自らの教義こそ浄土への往生の真の教えとの思いはあったが、浄土真宗と名乗ることは浄土宗の否定とも取られかねないため、当時はただ真宗と名乗った。ちなみに浄土宗や時宗でも自らを「浄土真宗」「真宗」と称した例があり、また時宗旧一向派(開祖一向俊聖)を「一向宗」と称した例もある。
近世には浄土宗からの圧力により、江戸幕府から「浄土真宗」と名乗ることを禁じられ、「一向宗」と公称した(逆に本来「一向宗」を公称していた一向俊聖の法統は、本来は無関係である時宗へと強制的に統合される事になる)。親鸞の法統が「浄土真宗」を名乗ることの是非について浄土真宗と浄土宗の間で争われたのが安永3年(1774年)から15年にわたって続けられた宗名論争である。 明治5年(1872年)太政官正院から各府県へ「一向宗名之儀、自今真宗ト改名可致旨」の布告が発せられ、ここに近代になってようやく「(浄土)真宗」と表記することが認められたのである。 
歴史
蓮如の登場まで
親鸞の死後、親鸞の曾孫にあたる覚如(1270年-1351年)は、三代伝持等を根拠として親鸞の祖廟継承の正当性を主張し、本願寺(別名「大谷本願寺」)を建てて本願寺三世と称した。こうした動きに対し、親鸞の関東における門弟の系譜を継ぐ佛光寺七世の了源(1295年-1336年)など他の法脈は、佛光寺や専修寺などを根拠地として、次第に本願寺に対抗的な立場を取ることになった。
この頃の浄土真宗は、佛光寺や専修寺において活発な布教活動が行われ多くの信者を得たが、本願寺は八世蓮如の登場までは、天台宗の末寺として存続していたに過ぎなかった。
蓮如の登場〜石山合戦
室町時代の後期に登場した本願寺八世の蓮如(1415年-1499年)は、当時の民衆の成長を背景に講と呼ばれる組織を築き、人々が平等に教えを聴き団結できる場を提供し、また親鸞の教えを安易な言葉で述べた『御文(御文章)』を著作し、一般に広く教化した。この事により本願寺は急速に発展・拡大し、一向宗と呼ばれるようになった(逆にこの他の真宗各派は衰退することとなる)。
この講の信者の団結力は、蓮如の制止にもかかわらず施政者(大名など)に向かった。中世末の複雑な支配権の並存する体制に不満を持つ村々に国人・土豪が真宗に改宗することで加わり、「一向一揆」と呼ばれる一郡や一国の一向宗徒が一つに団結した一揆が各地で起こるようになる。そのため、この後に加賀の例で記述するような大名に対する反乱が各地で頻発し、徳川家康・上杉謙信など多数の大名が一向宗の禁教令を出した。中でも、薩摩の島津氏は明治時代まで禁教令を継続したため、南九州の真宗信者は講を組織し秘かに山中の洞窟で信仰を守った(かくれ念仏)。
やがて応仁の乱(1467年-1477年)が起こり、当時越前国にあった本願寺の根拠吉崎御坊の北、加賀国で東軍・西軍に分かれての内乱が生じると、専修寺派の門徒が西軍に与した富樫幸千代に味方したのに対し、本願寺派の門徒は越前の大名朝倉孝景の仲介で、文明6年(1474年)、加賀を追い出された前守護で幸千代の兄である東軍の富樫政親に味方して幸千代を追い出した(つまり、加賀の一向一揆は、最初は真宗内の勢力争いでもあった)。しかしその後、本願寺門徒と富樫政親は対立するようになり、長享2年(1488年)、政親が一向宗討伐軍を差し向けると、結局政親を自刃に追い込んで自治を行うまでになった(ただし富樫氏一族の富樫正高は一向一揆に同情的で、守護大名として象徴的に居座っている)。その後、門徒の矛先は朝倉氏に奪われていた吉崎の道場奪回に向けられ、北陸全土から狩り出された門徒が何度も朝倉氏と決戦している。
一方、畿内では、吉崎より移った蓮如が文明14年(1482年)に建立した、京都山科本願寺が本拠地であったが、その勢威を恐れた細川晴元は日蓮宗徒と結び、天文元年(1532年)8月に山科本願寺を焼き討ちした(真宗では「天文の錯乱」、日蓮宗では「天文法華の乱」)。これにより本拠地を失った本願寺は、蓮如がその最晩年に建立し(明応5年、1496年)居住した大坂石山の坊舎の地に本拠地を移した(石山本願寺)。これ以後、大坂の地は、城郭にも匹敵する本願寺の伽藍とその周辺に形成された寺内町を中心に大きく発展し、その脅威は時の権力者たちに恐れられた。
永禄11年(1568年)に織田信長が畿内を制圧し、征夷大将軍となった足利義昭と対立するようになると、本願寺十一世の顕如(1543年-1592年)は足利義昭に味方し、元亀元年(1570年)9月12日、突如として三好氏を攻めていた信長の陣営を攻撃した(石山合戦)。また、これに呼応して各地の門徒も蜂起し、伊勢長島願証寺の一揆(長島一向一揆)は尾張の小木江城を攻め滅ぼしている。この後、顕如と信長は幾度か和議を結んでいるが、顕如は義昭などの要請により幾度も和議を破棄したため、長島や越前など石山以外の大半の一向一揆は、ほとんどが信長によって根切(皆殺し)にされた。石山では開戦以後、実に10年もの間戦い続けたが、天正8年(1580年)、信長が正親町天皇による仲介という形で提案した和議を承諾して本願寺側が武装解除し、顕如が石山を退去することで石山合戦は終結した。(その後、石山本願寺の跡地を含め、豊臣秀吉が大坂城を築造している。)
このように一向一揆は、当時の日本社会における最大の勢力のひとつであり、戦国大名に伍する存在であったが、真宗の門徒全体がこの動きに同調していたわけではない。越前国における本願寺門徒と専修寺派の門徒(高田門徒・三門徒)との交戦の例に見られるように、本願寺以外の真宗諸派の中にはこれと対立するものもあった。
京都に再興
秀吉の時代になると、天正19年(1591年)に、顕如は京都中央部(京都七条堀川)に土地を与えられ、本願寺を再興した。1602年、石山退去時の見解の相違等をめぐる教団内部の対立状況が主因となり、これに徳川家康の宗教政策が作用して、顕如の長男である教如(1558年-1614年)が、家康から本願寺のすぐ東の土地(京都七条烏丸)を与えられ本願寺(東)を分立した。これにより、当時最大の宗教勢力であった本願寺教団は、顕如の三男准如(1577年-1630年)を十二世宗主とする本願寺(西)[15]と、長男教如を十二代宗主とする本願寺(東)[16]とに分裂することになった。
明治維新後の宗教再編時には、大教院に対し宗教団体として公的な名称の登録を行う際、現在の浄土真宗本願寺派のみが「浄土真宗」として申請し、他は「真宗」として申請したことが、現在の名称に影響している。
また、長い歴史の中で土俗信仰などと結びついた、浄土真宗系の新宗教も存在している。 
宗派
現在、真宗教団連合加盟の10派ほか諸派に分かれているが、宗全体としては、日本の仏教諸宗中、最も多くの寺院(約22,000ヶ寺)、信徒を擁する。所属寺院数は、開山・廃寺により変動するため概数で表す[17]。
真宗十派(真宗教団連合)
真宗教団連合は、親鸞聖人生誕750年・立教開宗700年にあたる1923年(大正12年)、真宗各派の協調・連携を図る為に、真宗各派協和会として結成された。加盟団体は以下の10派であり、「真宗十派」といわれる。
 真宗教団連合加盟宗派
 宗派名 / 本山 / 通称 / 本山所在地 / 所属寺院数
浄土真宗本願寺派 本願寺 西本願寺 京都市下京区 約10,500[18]
真宗大谷派 真宗本廟 東本願寺 京都市下京区 約8,900[19]
真宗高田派 専修寺 高田本山 三重県津市 約640[20]
真宗佛光寺派 佛光寺 京都市下京区 約390[21]
真宗興正派 興正寺 京都市下京区 約500[22]
真宗木辺派 錦織寺 滋賀県野洲市 約200[23]
真宗出雲路派 毫摂寺 五分市本山 福井県越前市 約60[24]
真宗誠照寺派 誠照寺 鯖江本山 福井県鯖江市 約70[25]
真宗三門徒派 専照寺 中野本山 福井県福井市 36[26]
真宗山元派 證誠寺 横越本山 福井県鯖江市 21[26]
その他の宗派
 単立寺院・無寺院教団
 宗派名 / 本山 / 通称 / 所在地 / 所属寺院数
(浄土真宗別格本山) 西念寺 稲田の草庵 茨城県笠間市 単立
原始眞宗 大本山願入寺 大網門跡 茨城県東茨城郡 単立
カヤカベ教 (形式的に)霧島神宮 (鹿児島県霧島市)
 明治以降に分派した宗派・団体
 宗派・団体名 / 本山・本部 / 本山・本部所在地 / 所属寺院数
真宗浄興寺派 浄興寺 新潟県上越市 14[26]
真宗長生派 長生寺 横浜市鶴見区 27[26]
真宗北本願寺派 北本願寺 北海道小樽市 1[26]
浄土真宗同朋教団 方今道平等院 石川県鹿島郡 6[26]
淨土真信宗浄光寺派(浄土真宗浄光寺派) 浄光寺 福岡市東区 2[26]
門徒宗一味派  北海道北見市
弘願真宗 聖玄寺 福井県福井市 34[26]
仏眼宗慧日会 霊鷲寺 神奈川県鎌倉市 単立
浄土真宗華光会 華光会館 京都市南区
浄土真宗親鸞会 親鸞会館 富山県射水市
真流一の会
仏教真宗 大菩提寺 熊本県荒尾市
 お東騒動により分派した宗派・団体
 宗派・団体名 / 本山・本部 / 本山・本部所在地 / 所属寺院数
浄土真宗東本願寺派 浄土真宗東本願寺派本山東本願寺 東本願寺派 東京都台東区
本願寺維持財団 東本願寺東山浄苑 京都市山科区
本願寺 本願寺 大谷本願寺 京都市右京区 
 
西本願寺

 

宗名 / 浄土真宗
宗祖 / 親鸞聖人
   ご誕生 1173年5月21日(承安(じょうあん)3年4月1日)
   ご往生 1263年1月16日(弘長(こうちょう)2年11月28日)
宗派 / 浄土真宗本願寺派
本山 / 龍谷山本願寺 (西本願寺 )
本尊 / 阿弥陀如来 (南無阿弥陀仏)
聖典 /
釈迦如来が説かれた「浄土三部経」
 『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』
宗祖親鸞聖人が著述された主な聖教
 『正信念仏偈』(『教行信証』行巻末の偈文)『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』
中興の祖蓮如上人のお手紙 『御文章』
教義 / 阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、念仏を申す人生を歩み、この世の縁が尽きるとき浄土に生まれて仏となり、迷いの世に還って人々を教化する。
生活 / 親鸞聖人の教えにみちびかれて、阿弥陀如来のみ心を聞き、念仏を称えつつ、つねにわが身をふりかえり、慚愧(ざんぎ)と歓喜のうちに、現世祈祷などにたよることなく、御恩報謝の生活を送る。
宗門 / この宗門は、親鸞聖人の教えを仰ぎ、念仏を申す人々の集う同朋教団であり、人々に阿弥陀如来の智慧と慈悲を伝える教団である。それによって、自他ともに心豊かに生きることのできる社会の実現に貢献する。 
本願寺の歴史
本願寺(ほんがんじ)は、浄土真宗本願寺派の本山で、その所在(京都市下京区堀川通花屋町下ル)する位置から、西本願寺ともいわれている。
浄土真宗は、鎌倉時代の中頃に親鸞聖人によって開かれたが、その後、室町時代に出られた蓮如上人(れんにょしょうにん)によって民衆の間に広く深く浸透して発展し、現在では、わが国における仏教諸宗の中でも代表的な教団の一つとなっている。
もともと、本願寺は、親鸞聖人の廟堂(びょうどう)から発展した。
親鸞聖人が弘長2年(1263)に90歳で往生されると、京都東山の鳥辺野(とりべの)の北、大谷に石塔を建て、遺骨をおさめた。しかし、聖人の墓所はきわめて簡素なものであったため、晩年の聖人の身辺の世話をされた末娘の覚信尼(かくしんに)さまや、聖人の遺徳(いとく)を慕う東国(とうごく)の門弟(もんてい)達は寂莫(せきばく)の感を深めた。そこで、10年後の文永9年(1272)に、大谷の西、吉水(よしみず)の北にある地に関東の門弟の協力をえて六角の廟堂を建て、ここに親鸞聖人の影像(えいぞう)を安置し遺骨を移した。 これが大谷廟堂(おおたにびょうどう)である。
この大谷廟堂は、覚信尼さまが敷地を寄進したものであったので、覚信尼さまが廟堂の守護をする留守職(るすしき)につき、以後覚信尼さまの子孫が門弟の了承を得て就任することになった。
大谷廟堂の留守職は、覚信尼さまの後に覚恵(かくえ)上人、その次に孫の覚如(かくにょ)上人が第3代に就任した。覚如上人は三代伝持(さんだいでんじ)の血脈(けちみゃく)を明らかにして本願寺を中心に門弟の集結を図った。三代伝持の血脈とは、浄土真宗の教えは、法然聖人から親鸞聖人へ、そして聖人の孫の如信(にょしん)上人へと伝えられたのであって、覚如上人はその如信上人から教えを相伝(そうでん)したのであるから、法門の上からも留守職の上からも、親鸞聖人を正しく継承するのは覚如上人であることを明らかにしたものである。
本願寺の名前は、元亨(げんこう)元年(1321)ころに公称し、覚如上人の晩年から次の善如(ぜんにょ)上人にかけて親鸞聖人の影像の横に阿弥陀仏像を堂内に安置した。これを御影堂(ごえいどう)と阿弥陀堂(あみだどう)の両堂に別置するのは、第7代の存如(ぞんにょ)上人のときである。5間四面の御影堂を北に、3間四面の阿弥陀堂を南に並置して建てられた。
室町時代の中頃に出られた第8代蓮如(れんにょ)上人は、長禄元年(1457)43歳の時、法灯(ほうとう)を父の存如上人から継承すると、親鸞聖人の御同朋(おんどうぼう)・御同行(おんどうぎょう)の精神にのっとり平座(ひらざ)で仏法を談合され、聖人の教えをだれにでも分かるようにやさしく説かれた。また本尊(ほんぞん)を統一したり、「御文章(ごぶんしょう)」を著して積極的な伝道を展開されたので、教えは急速に近江をはじめとする近畿地方や東海、北陸にひろまり、本願寺の興隆(こうりゅう)をみることになった。しかし上人の教化(きょうけ)は比叡山(ひえいざん)を刺激し、寛正6年(1465)上人51歳の時、大谷本願寺は比叡山衆徒(しゅと)によって破却(はきゃく)された。難を避けられて近江を転々とされた上人は、親鸞聖人像を大津の近松坊舎(ちかまつぼうしゃ)に安置して、文明3年(1471)に越前(福井県)吉崎(よしざき)に赴かれた。吉崎では盛んに「御文章」や墨書の名号を授与、文明5年には「正信偈(しょうしんげ)・和讃(わさん)」を開版(かいばん)し、朝夕のお勤めに制定された。
上人の説かれる平等の教えは、古い支配体制からの解放を求める声となり、門徒たちはついに武装して一揆(いっき)を起こすに至った。文明7年、上人は争いを鎮(しず)めようと吉崎を退去され、河内(大阪府)出口(でぐち)を中心に近畿を教化。文明10年(1478)には京都山科(やましな)に赴き本願寺の造営に着手、12年に念願の御影堂の再建を果たされ、ついで阿弥陀堂などの諸堂を整えられた。上人の教化によって、本願寺の教線は北海道から九州に至る全国に広まり多くの人に慕われたが、明応8年(1499)85歳で山科本願寺にて往生された。
この後、山科本願寺は次第に発展したが、天文(てんぶん)元年(1532)六角定頼や日蓮衆徒によって焼き払われた。そこで蓮如上人が創建された大坂石山御坊(いしやまごぼう)に寺基(じき)を移し、両堂など寺内町を整備して発展の一途をたどった。
しかし、天下統一を目指す織田信長が現れ、大きな社会勢力となっていた本願寺の勢力がその障害となったので、ついに元亀元年(1570)両者の間に戦端が開かれた。本願寺は、雑賀衆(さいかしゅう)をはじめとする門徒衆(もんとしゅう)とともに以来11年にわたる、いわゆる石山戦争を戦い抜いたが、各地の一揆勢も破れたため、仏法存続を旨として天正(てんしょう)8年(1580)信長と和議を結んだ。顕如(けんにょ)上人は、大坂石山本願寺を退去して紀伊(和歌山)鷺森(さぎのもり)に移られ、さらに和泉(大阪府)貝塚の願泉寺を経て、豊臣秀吉の寺地寄進を受けて大坂天満へと移られた。
天正19年(1591)秀吉の京都市街経営計画にもとづいて本願寺は再び京都に帰ることとなり、顕如上人は七条堀川の現在地を選び、ここに寺基を移すことに決められた。阿弥陀堂・御影堂の両堂が完成した文禄(ぶんろく)元年(1592)、上人は積年の疲労で倒れられ、50歳で往生された。長男・教如(きょうにょ)上人が跡を継がれたが、三男の准如(じゅんにょ)上人にあてた譲状(ゆずりじょう)があったので、教如上人は隠退して裏方(うらかた)と呼ばれた。これには大坂本願寺の退去に際して、講和を受けいれた顕如上人の退去派と信長との徹底抗戦をとなえた教如上人の籠城派との対立が背景にあった。その後、教如上人は徳川家康に接近し、慶長(けいちょう)7年(1602)家康から烏丸七条に寺地を寄進され、翌年ここに御堂を建立した。これが大谷派本願寺の起源で、この時から本願寺が西と東に分立したのである。
これより先、本願寺は慶長元年(1596)の大地震で御影堂をはじめ諸堂が倒壊し、阿弥陀堂は被害を免れた。翌年に御影堂の落成をみたものの、元和(げんな)3年(1617)には失火により両堂や対面所などが焼失した。翌年阿弥陀堂を再建し、18年後の寛永(かんえい)13年(1636)に御影堂が再建された。このころ対面所などの書院や飛雲閣(ひうんかく)、唐門(からもん)が整備された。ところが元和4年に建立された阿弥陀堂は仮御堂であったので、宝暦(ほうれき)10年(1760)本格的な阿弥陀堂が再建され、ここに現在の本願寺の偉容が整備されたのである。 
年表
年号 / 西暦 / 事項
承安3 1173 親鸞聖人、京都の日野の地にご誕生
養和元 1181 親鸞聖人、慈円について得度され、比叡山で修行
建仁元 1201 親鸞聖人、法然聖人の専修念仏に帰す
元久2 1205 親鸞聖人、法然聖人から『選択集』を付属され、影像を図画する
承元元 1207 親鸞聖人、承元お法難によって越後(新潟県)に流罪
建保2 1214 親鸞聖人、常陸(茨城県)へ入り関東を教化
元仁元 1224 親鸞聖人、このころ『教行信証』撰述
嘉禎元 1235 親鸞聖人、このころ帰洛
宝治2 1248 親鸞聖人、『浄土和讃』『高僧和讃』を著す
正嘉2 1258 親鸞聖人、『正像末和讃』を著す
弘長2 1263 親鸞聖人、ご往生
文永9 1272 京都東山に大谷廟堂を建立
文永11 1274 覚信尼、大谷廟堂の留守職となる
永仁2 1294 覚如上人、『報恩講式』を著す
永仁3 1295 覚如上人、『親鸞伝絵』を著す
元亨元 1321 初めて「本願寺」と公称
応永22 1415 蓮如上人、ご誕生
永亨10 1438 存如上人、このころ両堂を整備
長禄元 1457 蓮如上人、本願寺第八代を継職
寛正6 1465 比叡山の衆徒、大谷本願寺を破却
文明3 1471 蓮如上人、吉崎(福井県)に坊舎を建立
文明5 1473 『正信偈・和讃』を開版
文明7 1475 蓮如上人、吉崎を退去
文明10 1478 蓮如上人、山科に本願寺を再興
明応5 1496 蓮如上人、大坂石山に坊舎を建立
明応8 1499 蓮如上人、ご往生
天文元 1532 山科本願寺、六角定頼・法華宗徒等により焼かれる
         翌年、寺基を大坂石山へ移す
元亀元 1570 織田信長、大坂石山本願寺を攻め石山戦争始まる
天正8 1580 信長と講和し、紀州(和歌山県)鷺森へ寺基を移す
天正11 1583 和泉(大阪府)貝塚へ寺基を移す
天正13 1585 大坂天満へ寺基を移す
天正19 1591 京都堀川七条へ寺基を移す
慶長元 1596 地震により御影堂や諸堂舎が倒壊
元和3 1617 本願寺両堂焼失
寛永13 1636 御影堂再建
寛永16 1639 学寮(現・龍谷大学)落成
明暦元 1655 承応の教学論争終わる
宝暦10 1760 阿弥陀堂再建
明和2 1765 『真宗法要』刊行
明和4 1767 明和の法論終わる
文化3 1806 幕府より三業惑乱裁断される
明治14 1881 「本願寺」を公称・宗会を開設
大正12 1923 立教開宗700年記念法要を執行
昭和23 1948 蓮如上人450回遠忌法要を執行
昭和36 1961 親鸞聖人700回大遠忌法要を執行
昭和48 1973 親鸞聖人ご生誕800年・立教開宗750年慶讃法要を執行
昭和52 1977 即如門主、法灯を継職
昭和55 1980 即如門主伝灯奉告法要を執行
昭和60 1985 阿弥陀堂昭和修復完成慶讃法要を執行
平成3 1991 顕如上人400回忌法要・本願寺寺基京都移転400年法要を執行
平成10 1998 蓮如上人500回遠忌法要を執行
平成11 1999 御影堂平成大修復起工  
親鸞聖人の生涯
平安時代も終わりに近い承安(じょうあん)3年(1173)の春、親鸞聖人は京都の日野の里で誕生された。父は藤原氏の流れをくむ日野有範(ひのありのり)、母は吉光女と伝える。親鸞聖人は養和(ようわ)元年(1181)9歳の春、伯父の日野範綱(のりつな)にともなわれて、慈円和尚(じえんかしょう)のもとで出家・得度(とくど)をされ、範宴(はんねん)と名のられた。ついで比叡山にのぼられ、主に横川(よかわ)の首楞厳院(しゅりょうごんいん)で不断念仏を修する堂僧(どうそう)として、20年の間、ひたすら「生死いづべき道」を求めて厳しい学問と修行に励まれた。
しかし建仁(けんにん)元年(1201)親鸞聖人29歳のとき、叡山では悟りに至る道を見出すことができなかったことから、ついに山を下り、京都の六角堂(ろっかくどう)に100日間の参籠(さんろう)をされた。尊敬する聖徳太子に今後の歩むべき道を仰ぐためであった。95日目の暁、親鸞聖人は太子の本地である救世観音(くせかんのん)から夢告(むこく)を得られ、東山の吉水(よしみず)で本願念仏の教えを説かれていた法然聖人(ほうねんしょうにん)の草庵を訪ねられた。やはり100日の間、聖人のもとへ通いつづけ、ついに「法然聖人にだまされて地獄に堕ちても後悔しない」とまで思い定め、本願を信じ念仏する身となられた。
法然聖人の弟子となられてからさらに聞法(もんぼう)と研学に励まれた親鸞聖人は、法然聖人の主著である『選択集(せんじゃくしゅう)』と真影(しんねい)を写すことを許され、綽空(しゃっくう)の名を善信(ぜんしん)と改められた。そのころ法然聖人の開かれた浄土教に対して、旧仏教教団から激しい非難が出され、ついに承元(じょうげん)元年(1207)専修(せんじゅ)念仏が停止(ちょうじ)された。法然聖人や親鸞聖人などの師弟が罪科に処せられ、親鸞聖人は越後(えちご新潟県)に流罪。これを機に愚禿親鸞(ぐとくしんらん)と名のられ非僧非俗(ひそうひぞく)の立場に立たれた。
このころ三善為教(みよしためのり)の娘・恵信尼(えしんに)さまと結婚、男女6人の子女をもうけられ、在俗のままで念仏の生活を営まれた。建保(けんぽう)2年(1214)42歳の時、妻子とともに越後から関東に赴かれ、常陸(ひたち茨城県)の小島(おじま)や稲田(いなだ)の草庵を中心として、自ら信じる本願念仏の喜びを伝え、多くの念仏者を育てられた。元仁(げんにん)元年(1224)ごろ、浄土真宗の教えを体系的に述べられた畢生(ひっせい)の大著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を著された。
嘉禎(かてい)元年(1235)、親鸞聖人63歳のころ、関東20年の教化(きょうけ)を終えられて、妻子を伴って京都に帰られた。『教行信証』の完成のためともいわれ、主に五条西洞院(にしのとういん)に住まわれた。京都では晩年まで『教行信証』を添削されるとともに、「和讃」など数多くの書物を著され、関東から訪ねてくる門弟たちに本願のこころを伝えられたり、書簡で他力念仏の質問に答えられた。
弘長(こうちょう)2年11月28日(新暦1263年1月16日)、親鸞聖人は三条富小路(とみのこうじ)にある弟尋有の善法坊(ぜんぽうぼう)で往生の素懐(そかい)を遂げられた。90歳であった。
 
東本願寺

 

本尊 / 阿弥陀如来
正依の経典 / 仏説無量寿経(大経)、仏説観無量寿経(観経)、仏説阿弥陀経(小経)
宗祖 / 親鸞聖人
宗祖の主著 / 顕浄土真実教行証文類(教行信証)
宗派名 / 真宗大谷派
本山 / 真宗本廟(東本願寺)  
東本願寺は、浄土真宗「真宗大谷派」の本山で「真宗本廟」といい、御影堂には宗祖・親鸞聖人の御真影を、阿弥陀堂にはご本尊の阿弥陀如来を安置しています。宗祖親鸞聖人の亡き後、聖人を慕う多くの人々によって聖人の墳墓の地に御真影を安置する廟堂が建てられました。これが東本願寺の始まりです。
東本願寺は、親鸞聖人があきらかにされた本願念仏の教えに出遇い、それによって人として生きる意味を見出し、同朋(とも)の交わりを開く根本道場として聖人亡き後、今日にいたるまで、門徒・同朋のご懇念によって相続されてきました。
親鸞聖人は、師・法然上人との出遇いをとおして「生死出ずべきみち」(凡夫が浄土へ往生する道)を見出されました。人として生きる意味を見失い、また生きる意欲をもなくしている人々に、生きることの真の意味を見出すことのできる依り処を、南無阿弥陀仏、すなわち本願念仏の道として見い出されたのです。
それは混迷の中にあって苦悩する人々にとって大いなる光(信心の智慧)となりました。そして、同じように道を求め、ともに歩もうとする人々を、聖人は「御同朋御同行」として敬われたのです。
どうぞ心静かにご参拝いただき、親鸞聖人があきらかにされた浄土真宗の教えに耳を傾け、お一人お一人の生き方をお念仏の教えに問い尋ねていただきたく存じます。 
沿革
真宗大谷派の本山である真宗本廟(東本願寺)は、当派の宗祖である親鸞聖人(1173〜1262)の門弟らが、宗祖の遺骨を大谷(京都市東山山麓)から吉水(京都市円山公園付近)の北に移し、廟堂びょうどうを建て宗祖の影像を安置したことに起源する。親鸞聖人の娘覚信尼かくしんには門弟から廟堂をあずかり、自らは「留守職るすしき」として真宗本廟の給仕を務めた。爾来、真宗本廟は親鸞の開顕した浄土真宗の教えを聞法する根本道場として、親鸞聖人を崇慕する門弟の懇念により護持されている。
第3代覚如かくにょ上人(1270〜1351)の頃、真宗本廟は「本願寺」の寺号を名のるようになり、やがて寺院化の流れの中で、本尊を安置する本堂(現在の阿弥陀堂)が並存するようになった。こういった経緯により、真宗本廟は、御真影を安置する廟堂(現在の御影堂)と本尊を安置する本堂(現在の阿弥陀堂)の両堂形式となっている。
戦国乱世の時代、第8代蓮如れんにょ上人(1415〜1499)は、その生涯をかけて教化に当たり、宗祖親鸞聖人の教えを確かめ直しつつ、ひろく民衆に教えをひろめ、本願寺「教団」をつくりあげていく。このことから、当派では蓮如上人を「真宗再興さいこうの上人(中興ちゅうこうの祖)」と仰ぐ。
京都東山にあった大谷本願寺は比叡山との関係で一時退転し、蓮如上人の北陸布教の時代を経て、山科に再興。その後、大坂(石山:現在の大阪市中央区)へと移転する。しかし、第11代顕如けんにょ上人(1543〜1592)の時代に、織田信長との戦い(石山合戦)に敗れ、大坂も退去することとなる。この際、顕如上人の長男教如きょうにょ上人(1558〜1614)は、父顕如上人と意見が対立し、大坂(石山)本願寺に籠城したため義絶された。天正10年(1582)に義絶は解かれ、天正13年(1585)本願寺は豊臣秀吉により大坂天満に再興。さらに天正19年(1591)京都堀川七条に本願寺(現在の西本願寺:浄土真宗本願寺派の本山)は移転した。顕如上人没後、一度は教如上人が本願寺を継ぐも、秀吉より隠退処分をうけ、弟(三男)の准如じゅんにょ上人が継職した。
しかし、その後も教如上人は活動を続け、慶長3年(1598)秀吉没、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いを経て、慶長7年(1602)京都烏丸六条・七条間の地を徳川家康から寄進される。慶長8年(1603)上野国妙安寺みょうあんじ(現在の群馬県前橋市)から宗祖親鸞聖人の自作と伝えられる御真影を迎え入れ、同年阿弥陀堂建立。慶長9年(1604)御影堂を建立し、ここに新たな本願寺を創立した。これが当派の本山である「真宗本廟」のなりたちであり、教如上人を「東本願寺創立の上人」とするゆえんである。
真宗本廟は、その後四度にわたって焼失しており、現在の堂宇は明治28年(1895)に再建されたものである。世界最大の木造建築物である御影堂をはじめとする諸堂宇は、100余年の経年により屋根瓦や木部の随所に損傷が見られ、現在その修復工事に取り組んでいる。
江戸時代の東本願寺は、創立時における家康との関係もあって徳川幕府との関係は良好であり、また、寺院と門徒の間には、寺じ檀だん関係(檀那寺と檀家の関係)による結び付きがあった。明治時代に入ると、新政府による神仏判然令(神仏分離令)、廃仏毀釈はいぶつきしゃく(仏教弾圧)の動きが仏教諸宗にふりかかり、東本願寺も苦境に陥った。さらに幕末の戦火で両堂を失っていた東本願寺であったが、厳しい財政状況のなか、あえて新政府への協力を惜しまず、また全国の門徒による多大なる懇念により財政再建が果たされ、明治の両堂再建が成し遂げられた。しかし、一方で教団は、江戸時代の封建制度の流れを汲む体質を残したまま、近代天皇制国家のもと戦争に協力していくことにもなったのである。
そのような中、当派の僧侶である清沢きよざわ満之まんし(1863〜1903)は、教団の民主化と近代教学の確立を願い、宗門改革を提唱し、数多の教学者と聞法の学舎を生み出していった。この潮流は、昭和37年(1962)に「同朋会運動どうぼうかいうんどう」として結実し、爾来、当派の基幹となる信仰運動として、半世紀にわたって展開している。
ただし、こうした「同朋会運動」の潮流は、始めからすべての人たちに受け入れられた訳ではない。昭和44年(1969)、「同朋会運動」に抗する勢力により教団問題が顕在化する。当時、東本願寺の歴代は、法主ほっす※(法統伝承者)・本願寺の住職・宗派の管長の3つの職を兼ね絶大な権能を有していたが、その力を利用しようとする側近や第三者により、東本願寺が私有化され数々の財産が離散するという危機に瀕したのである。
また、数々の差別問題を引き起こし、旧態依然とした教団の封建的体質が根底から問われることになったのである。
こういった教団の本義を見失う危機を経て、当派は、これらを深く懺悔さんげし、昭和56年(1981)、最高規範である「真宗大谷派宗憲」(当派の最高規範)を改正。「同朋社会どうほうしゃかいの顕現けんげん」(存在意義)・「宗本一体しゅうほんいったい」(組織理念)・「同朋公議どうほうこうぎ」(運営理念)を運営の根幹とし、一人ひとりが信心に目覚め、混迷する現代社会に人として本当に生きる道を問いかけていくことを課題とし、純粋なる信仰運動たる「同朋会運動」を軸として歩み続けている。 
親鸞聖人関連書物
顕浄土真実教行証文類(教行信証)
親鸞の主著であり、浄土真宗の根本聖典で、『教行信証』と略称されています。教巻・行巻・信巻・証巻・真仏土巻・化身土巻の6巻からなっており、冒頭に総序、信巻の前に別序、巻末には後序が置かれています。
歎異抄
親鸞聖人の弟子である唯円(ゆいえん)が著したと言われる書であり、親鸞聖人の言葉によりながら、聖人なきあとの異説を歎き、聖人の教えの真意、真実の信心を伝えようと書き記したと言われています。前後2部に分かれ、前半は、親鸞聖人から聞いた法語を記し、後半では、当時行われていた念仏の異議をあげて批判し、真実の信心に目覚めるように、法然上人や親鸞聖人の言行が引かれています。
正信偈
「正信偈」は、私たち真宗門徒にとって、古来からお内仏の前でおつとめしてきたお聖教です。親鸞聖人は、仏教の教えが釈尊の時代から七高僧を経て、自分にまで正しく伝えられてきたことを、深い感銘をもって受けとめられました。この「正信偈」は、親鸞聖人がその感銘を味わい深い詩(偈文)によって、後の世の私たちに伝え示してくださったものです。
御文
第8代蓮如上人が、ご門徒たちに宛てた「御手紙」で、真宗の教えがわかりやすく、しかも簡潔に書き表されています。当時(室町時代)の「御文」は、ご門徒に広く公開され、法座につらなった読み書きが出来ない人々も、蓮如上人の「御文」を受け取った人が拝読するその内容を耳から聴いて、聖人の教えを身に受け止めていかれました。「御文」は、現在約250通が伝えられており、その中で、文明3年(1471年)から明応7年(1498年)にわたる58通と、年次不明の22通の合計80通を5冊にまとめた『五帖御文』が最もよく知られています。
本願寺聖人伝絵
親鸞聖人の曾孫である覚如上人が撰述した聖人の行状絵巻。詞書の部分を集めたものを『御伝ショウ』、図画の部分を軸装したものを「御絵伝」と称し、東本願寺(真宗本廟)をはじめ各寺院で勤められる報恩講の際に拝読されます。 
 
東本願寺 [東京]

 

宗名 / 浄土真宗東本願寺派
宗祖 / 親鸞聖人/見真大師
開基(東本願寺) / 教如上人(第十二世)
本尊 / 阿弥陀如来
本山 / 浄土真宗東本願寺派 本山 東本願寺
教典 / 『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』
( 本山東京本願寺の寺院規則の変更が平成13年4月26日付で認証され、名称が「東京本願寺」より「浄土真宗東本願寺派本山東本願寺」に変更となりました。)  
法統 
念仏の教え
浄土真宗の御開山親鸞聖人(1172〜1262)は、平安時代の終わりに京都で生を受けられ、幼くして両親と死別されました。
9歳の時、青蓮院門跡慈圓和尚のもとで頭を丸め出家され僧侶となられました。
その後20年比叡山で厳しい修行をなされましたが、ついに世の人々を真に救いうる教えが何であるかを悟ることはできませんでした。 源平の争乱が長引き、京の町も荒れ果てて、多くの人々が苦しみ迷っていたのです。
「叡山での修行では、御仏の光を見つけることができないし、ましてや迷える人々に救いの手をさしのべることもできない」と親鸞聖人は思われ、山をおりる決心をされました。
その後、聖徳太子を奉安した六角堂での夢告もあり、新たな教えと出会うこととなるのでした。
その頃京都では法然上人(1133〜1212)がお念仏の教えを広めておられました。 お念仏の教えを聞きに法然上人のもとを訪ねられた親鸞聖人は、まるで雷に打たれたようにショックを受けたのです。
この法然上人のもとで、親鸞聖人は本願他力のお念仏の教えを、あたかも乾いた大地に雨がしみていくように吸収されました。
親鸞聖人は法然上人にお会いできたことを心から喜ばれたのでありますが、その後訪れる悲劇をこの時、一体誰が知っていたでしょうか。 
立教開宗
法然上人の念仏の教えが盛んになってきたことを快く思っていない人たちの陰謀によって、法然上人は土佐に、親鸞聖人は越後に流され(1207)離ればなれにさせられてしまいました。
親鸞聖人は深い悲しみに沈まれましたが、法然上人に教えていただいたお念仏の教えを越後の国でも広めようと思い立たれたのでした。遠く離ればなれになった法然上人のお心に通じるだけでなく、当時の都から離れたところに仏法を弘め人々を救うことが、阿弥陀如来の願いであると思われたのです。
その後、流罪を赦された(1211)親鸞聖人は一刻も早く法然上人と再会しようと、雪深い北陸路をさけ雪解けの早い関東から一路京都を目指されました。
その途中法然上人がお亡くなりになったという訃報を受けた親鸞聖人は、法然上人と再会できないならば、京都へは戻らず関東の地で布教をしようとお考えになり、稲田を中心に布教を始められました。
瞬く間にお念仏の教えは関東一円に広まっていきました。
この頃親鸞聖人は浄土真宗の根本聖典である『教行信証』を著されました。その年(1224)を以て浄土真宗では立教開宗の年としてしています。
その後、関東から京都へ戻られた親鸞聖人は多くの著書を作られ、九十歳で御浄土に還られました。 
本願寺開創
親鸞聖人がお亡くなりになった後、末娘の覚信尼公が親鸞聖人の御骨を京都の大谷というところに御堂を建てて埋葬されました。これを大谷本廟といいます。
その後、親鸞聖人の御弟子の唯円(1222〜1289)という方が聖人のみ教えが正しく伝わっていないことを嘆かれ、『歎異抄』という書物で、その異義を正されました。
時は流れ親鸞聖人の曾孫の覚如上人(1270〜1351)の時代になると、真宗念仏のみ教えは日本中に広まりましたが、その一方で様々な異義もまた現れました。
このような状況の中で覚如上人はお念仏の教えの純粋性を高らかに主張され、大谷本廟を本願寺と改められ、親鸞聖人よりの本流はここ本願寺にあるとし、本願寺を中心として真宗教団全体としての統一を目指されました。
しかし当時の各地の御門徒は覚如上人の純粋にして高潔高邁な理想が理解できず、本願寺に参詣する人もまばらとなり、本願寺は衰退の道をたどるのです。そう、ある人物の登場までは・・・・。 
中興の偉業
参詣する人もない寒々とした状態の大谷の本願寺の一隅で産声が上がりました。御一代で本願寺教団を日本一にされた蓮如上人(1415〜1499)の御誕生です。
幼くして御生母と生き別れられた蓮如上人は大変な御苦労と御苦学の末、親鸞聖人御一流の御法義を修められました。この結果、み教えは、上人の人格の高みを感じさせながらも誰にでもわかるやさしいものとなったのです。
父、存如上人の後を受け42歳で本願寺住職となられた蓮如上人が、近江地方に布教にまわられるとお念仏の教えは、りょう原の火のごとく瞬く間に当時の民衆にひろがり、大谷の本願寺には参詣者が引きも切らず訪れるようになりました。
しかし、あまりにも爆発的にその教えが広まったために他の宗派から反感を買い、様々な迫害を受けるようにもなりました。そしてとうとう比叡山の衆徒により大谷の本願寺は跡形もなく破壊されてしまったのです。これを「大谷破却」といいます。
けれどもこんな事では蓮如上人の布教への情熱を止めることはできませんでした。
親鸞聖人の御真影を南近江にお移しし、今度はお念仏のみ教えを簡潔にまとめた『御文』(おふみ)というお手紙を数多く書かれたのです。
それが蓮如上人に代わって四方八方に広がって、お念仏の声が各地に轟くようになったのです。
しかし蓮如上人の活躍を快く思わない人たちから様々な妨害を受けるようになり、蓮如上人は争いを避け布教の新天地を求るため一路北を目指し旅立たれたのでした。 
本願寺再建
北陸に入られた蓮如上人は吉崎というところに落ち着かれ、北陸の人々に布教されました。 するとわずか一年で近くの越前・加賀は言うに及ばず奥州・出羽にまでお念仏の教えが弘まって、蓮如上人に会いたいという人々で吉崎は大変な賑わいとなり、大谷の本願寺以上の参詣者が集まるようになりました。
けれども、蓮如上人は南近江に預けたままになっている親鸞聖人の御真影を御安置する本堂を建てたいと思い続けておられました。
その思いを実現するため北陸の地を離れ、京都の隣、山科の地に本願寺を再建し御真影をお迎えしました。
その年の親鸞聖人の御命日には盛大な報恩講をお勤めし、お念仏の声高らかに大勢の御同行と一緒に本願寺の再建を親鸞聖人に御報告されました。
やっと念願の本願寺再建を果たされた蓮如上人は関西の各地を布教に歩かれ、所々に坊舎をお建てになりました。
中でも大阪の石山というところに隠居所として建てられた坊舎は、後に荒れ狂う歴史の荒波に飲み込まれることとなるのです。そう、天下大乱の足音はもうすぐそこまで迫っていたのです。 
争乱の足音
応仁の乱に端を発した天下の暗雲は日本全土を覆い尽くし、本願寺もそれと無縁ではいられなくなりました。
このころの本願寺は蓮如上人の曾孫の證如上人(1516〜1554)の時代でした。
證如上人はわずか五歳で父圓如上人と死別され、そして祖父實如上人がお亡くなりになり、十歳で本願寺を背負うという大変な御苦労をされました。
しかし御苦労はそれだけではとどまらず、あろうことか蓮如上人と御同行が心血を注いで建立された山科本願寺は、他宗徒と近江の大名六角氏に攻められ、紅蓮の炎に包まれてしまったのです。
證如上人は大阪石山の坊舎に移り、そこを本願寺と定められました。これが有名な「石山本願寺」です。世の乱れはますます勢いを増し、本願寺の歴史に大きな爪痕を刻み込むこととなるのです。 
戦国の世
顕如上人(1543〜1592)の時代はまさに戦国時代。織田信長が猛威を振るい各地で戦が絶えませんでした。
本願寺とていつ信長に襲われるか分からない緊迫した中で、顕如上人は布教活動をなさっておられました。
ついに本願寺にまでも信長の魔の手が伸びてきました。信長は本願寺を見て、一方的に「ここに城を築くので本願寺を移転せよ」と顕如上人に伝えてきたのです。
当然のことながら顕如上人はこれを頑なに拒否されました。蓮如上人が築かれた法城を再度失うことは思いもよらぬことです。
これに激怒した信長は本願寺を武力で攻めてきましたが、顕如上人は御門徒にこの事態を説明し、よくこれを防がれました。これが歴史の教科書などでお馴染みの、十一年間の長きにわたり繰り広げられた『石山合戦』なのです。
あまりの長期にわたる戦に、時の天皇陛下が和議に立たれたので、長引けば犠牲者が多くでるばかりであると考えられた顕如上人は、信長に石山本願寺を明け渡し、紀州鷺森に移られる御決心をなさいました。
しかし、当時新門であられた長男教如上人(1558〜1614)は、信長の過去の行為から講和後の奇襲も予想されるとお考えになられて、徹底抗戦の構えを崩されませんでした。
が、再度朝廷より和議の命を受け鷺森に退かれました。ついに蓮如上人御苦心の石山本願寺は信長の手に渡ってしまったのです。
顕如上人が鷺森を本願寺とし再興なさろうとしていた矢先、教如上人の予見通り、信長は家臣の丹羽長秀に鷺森襲撃を命じました。しかし命運が尽きたのは、信長の方だったのです。そのときちょうど本能寺の変が起こり、顕如上人も鷺森本願寺も難を逃れました。
その後、顕如上人は貝塚、天満と移られ、その都度本願寺の寺基も移り変わりました。
そして豊臣秀吉から京都七条堀川の地に十万余坪の土地を寄進され、顕如上人はそこに移られ、本願寺の寺基もまたその地に移されたのでした。
戦国の世も終わりに近づき天下太平の槌音が聞こえて参りましたが、この直後に思いもよらぬ出来事が起こるのです。 
東西分立
戦国の世も終わりに近づき、顕如上人は長男教如上人と共に京都堀川の本願寺に移られました。
その翌年(1592)顕如上人が御浄土に御還りになり、教如上人が本願寺を継職され、親鸞聖人御一流の御法義はより一層諸国に弘まろうとしていました。
ところがその三年後、急に時の天下人豊臣秀吉が介入、教如上人は突如として隠居させられる事となりました。
代わりに本願寺を継職されたのは三男の准如上人というお方です。
教如上人は時流を読むのに長けた方でしたので、秀吉は、日本最大の教団に教如上人がおられるのを恐れたのです。
さらに時は流れ、いつしか天下の趨勢は徳川家康の手に落ちていました。家康は京都七条烏丸に寺基を寄進し本願寺を建て、隠居されていた教如上人を招きました。
時の天皇陛下の勅許を賜り、教如上人はこの本願寺に入ることとなりました。
ここに本願寺は二つに分かれ、その位置から准如上人の堀川七条にある本願寺を西本願寺といい、教如上人の烏丸七条にある本願寺を東本願寺と称するようになったのです。
統治能力に優れた家康は、本願寺を東西に分かつことによって、本願寺の力を二分し、幕府の基礎を安泰ならしめたのです。
こで私たちが覚えていなければならないことは、親鸞聖人御一流の御法義に食い違いが生じて東西に分かれたのではないということです。 
昭和の法難
激動の現代にあって、親鸞聖人の法統を受け継がれたのは二十四代闡如上人(1903〜1993)でした。
闡如上人は、終戦後荒廃していた人々の心に、親鸞聖人の御教えにより、広く救済の手を差し伸べられました。
特に、大谷智子御裏方と共に、大谷楽苑を設立し、仏教音楽を通じて戦後日本の文化的復興に尽されて、その御感化は遠く海外にまで及びました。
多くの人々が教化を受けて闡如上人の下に集い、親鸞聖人七百回忌(1961)、並びに蓮如上人の四百五十回忌(1949)の法要も盛大に行われました。蓮如上人四百五十回忌の法要では、京都東本願寺の参詣者だけでも50万人を超えました。
しかし、この一見順風満帆に見えた東本願寺にも、世界の東西冷戦という時代の影響が、暗い影を落とし始めていたのです。
1969年本願寺と包括関係にあった真宗大谷派内部から、当時の反体制革命思想等の影響を受けた僧侶(宗政家)達に煽動され、教義を根底から覆し、親鸞聖人から続いた法統を廃絶しようとする反乱が起きました。
闡如上人は本願寺の法統を守るために、真宗大谷派との包括関係を解き、京都の本願寺を独立させようとされました。そして全国の別院末寺にも独立をするよう命を下されたのでした。
それを受けて闡如上人の長男の興如上人(1925〜1999)は、自身が住職をされている東京本願寺の独立を進められたのでした。 が、悲しきかな1981年改革派は、700年の法統を廃絶するように、宗憲を変更してしまいました。
ここに真宗大谷派は、従来の東本願寺とは全く異なった宗教団体へと変質してしまったのです。そればかりか、1987年「宗本一体」の実現という名目で、京都の本願寺を法的に閉鎖消滅させてしまいました。けれども、御仏の光はどんな時代にも、真に信仰ある人々を見捨てません。希望は残ったのです。 
真の法統
東京本願寺は、1981年6月15日東京都知事の認証を得て大谷派からの独立を達成しました。けれども1987年京都の宗教法人本願寺が閉鎖解散し、法主・住職・法統ともに全て消滅してしまいました。
700年に及ぶ法統が断絶するというこの危機に、興如上人(1925〜1999)は深く歎き悲しまれます。そして念仏三昧のなか阿弥陀如来の願いを憶念され、「これを逆縁として、自ら法統を継承せよ」との御冥意を受けられます。
1988年2月29日、興如上人は「今こそこの御冥意を直ちに具現せねばならない」との使命責務を痛感され、 阿弥陀如来の尊前で、東本願寺第二十五世を継承されました。
同時に、東京本願寺を本山とし、全国独立寺院の数百ヶ寺とともに「浄土真宗東本願寺派」を結成されました。 ここに、親鸞聖人から受け継がれた法統は、浄土真宗東本願寺派本山・東京本願寺において継承されたのです。
興如上人は、御開山親鸞聖人を始め歴代御法主の御真骨を茨城県牛久市に移し、高さ120mの阿弥陀大仏が立っておられる、東京本願寺の施設「牛久アケイディア」の一角に、「東京本願寺本廟」を建てられ、全国の門信徒の心のよりどころとされたのであります。 
法統伝承
御開山親鸞聖人から連綿として受け継がれて参りました東本願寺の美しい伝統は、1999年に遷化された興如上人の後を受け、そのご長男聞如上人(1965〜)へと受け継がれました。平成13年(2001)、21世紀の最初の年に賑々しく東本願寺第26世 大谷光見法主 傳燈式が挙行されました。

本山東京本願寺の寺院規則の変更が平成13年4月26日付で認証され、名称が「東京本願寺」より「浄土真宗東本願寺派本山東本願寺」に変更となりました。これによって、名実ともに東本願寺の正しき法統を受け継ぐ本山として、御開山親鸞聖人立教開宗の御精神に基づき、御歴代上人のお心を体し、御法主台下のお導きのもとに和合の僧伽として、多くの御同行御同朋の方々と共に、新たなる一歩を踏み出すこととなりました。 
関東における歴史 
光瑞寺開創
1591年、教如上人は江戸神田に江戸御坊光瑞寺を開創。江戸における本願寺の録所(教務所・出張所)となる。一説には1603年の開創ともいわれる。
1609年、同じ神田域内で更に広い土地へ移転。俗に「神田明神下」といわれる場所がそれであるが、神田明神は1616年に同所へ移転したので、正確には神田筋違橋外というべきか。
1614年教如上人遷化後、光瑞寺は掛所(別院)となる。
補足:1621年、江戸浅草御堂(築地本願寺)が創建。この頃から東西分立が本格化。1622〜24年、本願寺末刹・輪番所となる。 
浅草へ移転
神田明神下においては、慶長16年(1612)、寛永9年(1632)、そして明暦3年(1657)と、度々火災に見舞われた。特に明暦の大火により、江戸市中ことごとく焼失、死者10万人以上。この頃、東本願寺は14世琢如上人の時代。明暦の大火以後、幕府は「築地か浅草か好きな方を選べ」とし、東本願寺は浅草を選び堂宇を建立。浅草本願寺時代が始まる。ちなみに江戸浅草御坊は築地へ移転し現在に至る。
寛文二年(1662年)頃の浅草本願寺
『江戸名所記』に記された東本願寺
『江戸名所記』は、寛文二年(1662年)に刊行された江戸初期の地誌である。 浅井了意の著といわれ全七巻にわたって、八十余ヶ所の江戸の名所について絵入りで解説し、歌を記している。
その巻二に「東本願寺」の項目があり、江戸時代に出版された地誌に、最初に本願寺が登場するものとなっている。そこには、
一向にたのむは彌陀の本願寺
すつるは雑行ひろひはするな
との歌と共に、教如上人が徳川家康より土地を拝領して東本願寺が創建され、神田に建立された東本願寺が、明暦三年(1657年)の大火を経て浅草へ移ったことが記載されている。また、そこ浅草の東本願寺の様子が、右挿絵に描かれている。(国立図書館 近代デジタルライブラリーより転載)文章中にも、「今は大にはんじょうなれば・・・」と記載されており賑わう山内の様子がわかる。
朝鮮通信使の宿館として使われる
朝鮮通信使の来朝は、慶長十二年(1607年)であったが、それ以降文化八年(1811年)まで、十二回に及び、その内江戸への来訪は十回であった。
江戸における宿館は、当初、馬喰町・誓願寺が充てられていたが、明暦の大火(1657年)に誓願寺が深川に移転したため、爾来、宿館は浅草本願寺が務めることとなった。
朝鮮は江戸時代において、幕府・将軍が結んだ唯一の対等な外交の相手国であり、朝鮮通信使の接待は、幕府にとってほぼ唯一の外交儀礼の機会であった。
同じにそれは、民衆にとっても異文化との交流の、もしくは異国の文物・風俗を見聞できる数少ない、貴重な機会であった。正徳元年(1711年)10月18日に、宝永6年(1709年)に江戸幕府の第六代将軍に襲職した徳川家宣(とくがわいえのぶ)の祝賀を主たる目的として、朝鮮通信使が来聘している。正使は趙泰億(チョ・テオク)であった。
記録によれば、宝永八年(改元して正徳元年)三月より、幕府の命にて浅草本願寺の改修が行われ、七月までに完了している。 『通航一覧』巻一一八)
当時の浅草本願寺は、東西一〇二間、南北一〇九間の広大な寺域に、徳本寺以下二十四の塔頭をもっていたが、ほとんど全ての施設がこの機会に改修をうけたとみられる。しかし、それでも境内の諸施設に収容しきれない分は、境内に仮屋を建て、下官を収容したらしい。
加えて、「鷹部屋」、「馬部屋」が設営されている。これは、将軍に献上される鷹や馬、および将軍に披露される馬技に用いる馬の収容施設である。
また、『正徳信使記録』第七四には、十月二十一日に浅草本願寺において振舞われた献立が詳細に記録されている。饗応の宴は、先ず、七五三の膳が供される。しかし、これは食べるための膳ではなく、歓迎の意を表す儀式の一環である。そしてこれを下げたあと、引替として三汁十五菜の料理がだされ、これを食したのである。
その後、享保四(1719)年、江戸幕府の第八代将軍に(1716年)襲職した徳川吉宗の祝賀を主たる目的として朝鮮通信使が来聘している。
加えて、延享五(1748年 改元して寛延元年)、第九代将軍に(1745年)襲職した徳川家重の祝賀のため、宝暦十三(1763)年には第十代将軍に(1760年)襲職した徳川家治の祝賀のために来聘し、浅草本願寺を宿館として利用している。
このうち寛延元年(1748年)の朝鮮通信使を描いていると推定される、江戸市中を宿館の浅草本願寺へ向かう通信使の行列の絵がある。
天保二年(1831年)頃の浅草本願寺
富嶽三十六景 葛飾北斎に表れた浅草本願寺
天保二年(1831年)〜五年(1835年)の間に刊行されたと考えられている、葛飾北斎の「富嶽三十六景」に、同寺伽藍が「東都浅草本願寺」として描かれる。当時の江戸庶民を驚かせたであろう浅草本願寺の巨大な屋根。雲をつくような火見櫓、空高くあがった凧、そして富士山、これらをほぼ同じ高さに描いたこの作品は、葛飾北斎の構図感覚を象徴しているともいえる。当時の浅草本願寺が、その地域の象徴となる建物、地域のランドマークであったことの証明と言ってもよいであろう。稀代の名浮世絵師、葛飾北斎には、甍の高さと鬼瓦は、富士山と比較する絶好の景色であったと思われる。
天保七年(1836年)ごろの御本山
『江戸名所図会』に表れた東本願寺
『江戸名所図会』全七巻二十冊の中、第六巻に東本願寺の記載があり、その部分は天保7年(1836年)に刊行されているので、当時の御本山の様子がうかがわれる。この図会は江戸の各町について由来や名所案内を記しているので、東本願寺の項目が設けられ、文章と挿絵が掲載されている。その文章には以下の如く記載されている。
第六巻 開陽之部 / 東本願寺
新堀端大通りにあり。開山教如上人(一五五八―一六一四)、その先本山の住職たりしを、豊臣家のはからひとして、順如上人[准如 一五七七―一六三〇。本願寺派](教如上人の舎弟なり)を本寺の門跡に定められ、教如上人をばゆゑなく退隠せしめ、裏屋敷に置かれしを(このゆゑ東門跡をば裏方とはいへり)、神祖[徳川家康、一五四二−一六一六]つひに召し出され、開山上人の真影を御寄附ありて、六条室町の末にて新たに御堂屋敷を下し賜る。それより後、東西とわかる(その後、江戸にて末寺建立ありたき由訴へ、すなはち神田にて寺地を拝領す。一宇を建てて京都よりの輪番所となり、江戸中の門徒を勧化す、その地いま昌平橋の外、加賀屋敷と唱ふところなり。明暦の後[一六五五―五八]、今の地に移されたり)。当寺は朝鮮人来聘のみぎりに旅館となる。
立花会 (毎年七月七日興行す。参詣の人に見物を許す)
開山忌 (毎年十一月二十二日より同二十八日までの間 読経説法等あり 俗にこれを御講と称す 一に報恩講ともいふ そのあひだ門徒の貴賎群参せり)
徳川家康(文中には『神祖』と記載)の寄進にて神田に建立され、明暦の大火以降に、現在の浅草に移転したこと、朝鮮通信使の宿館になったこと等々が簡潔に記載されている。中でも肝要なのは、「江戸中の門徒を勧化す」の一文であると思われる。即ち、御開山親鸞聖人の御教え聞き開く処、聞法求道の場として、大きな働きをしていたとうことであるからである。
江戸名所百人美女 東本願寺(1857年 安政4年)
『江戸名所百人美女』に現れる浅草本願寺
三代歌川豊国・二代歌川国久が描いた『江戸名所百人美女』に風景として「東本願寺」の甍が描かれている。この『江戸名所百人美女』は、江戸各地に美女を配した作品で、歌川豊国が美人図を、歌川国久が景色を描いている。見るとおり、景色はほんの付け足し程度であるが、名所図として浅草本願寺が選ばれたこと、そして高くそびえる本堂の大屋根が描かれたことには、葛飾北斎の『富嶽三十六景』や、明治時代の井上安治の作品とも共通の感覚があったことを思わせる。それは即ち、この大屋根がお同行のみならず、江戸市中の人々に大きく安心させる雰囲気を与えていたのではないかと想像させる。
江戸の川柳に表れた浅草本願寺
十八世紀頃から江戸で大流行りした「江戸川柳」は、江戸っ子が大切にした「粋」や「洒落」が自由に表現され、寺や神社も遠慮なく「題材」にされ、面白おかしく表現されている。しかしそこに詠みこまれた内容を味わいつつその場に立つと、当時の様子が彷彿としてくる。実際に江戸川柳に尋ね入るならば、往時の浅草の東本願寺の報恩講の有り様が、生き生きと甦ってくるようである。以下にその幾つかを示そう。
  .「報恩講・御講(おこう)」との言葉のでるもの
    はりこんで報恩講もはれじや佛壇も
    せめて赤いが御講ろうそく
    世の中の姿は御講限りなり
  「御講日和」との言葉のでるもの
    御講日和にさい銭の雨がふり
  初逮夜の始まる「二十二日」が詠みこまれたもの
    廿二日にしつけ取るいゝきもの
    仕立やの受合二十二日まで
    ※これは、「御講小袖」と言われる着物を新調して報恩講に参詣するのが、
     当時のご門徒方の習わしであったため、こう詠まれている。
  報恩講に参詣する時に、男性が新調して着て入った「肩衣」の言葉の出るもの
    肩衣をかいとりにするいゝ日和
  当時、報恩講がお見合いの場、男女の出会いの場となっていたことについて
    いづもより御こうははでなゑんむすび
    いい天気婿を見つけに七日でる
    箱入りの出歩く御講日和かな
    御こうへはにうわな顔てつれて行く
    御講で見そめ御忌で逢ふ
    恋御宗旨がみんな指さすいい娘
  なかなか良縁に恵まれない娘さんのこと
    来る年も御講に目たつ縁遠さ
    四、五年も御講で目立つ縁遠さ
    二、三年お講で目立つ縁遠さ
  .「御取越(お取越)」の言のでるもの
    御佛事や牛盗人も斎に出る
    只たのめ茎漬の石も御取越
    御取越蝿も他力の生残り
    よき凪やお西お東お取越
    新発智に惚れし女やお取越
    ※当時の浅草の東本願寺が、江戸の生活にいかに浸透していたかを窺い
     知ることができるものであると思われる。
明治43年(1910年)の浅草本願寺
大洪水に襲われ、床下浸水となる / 1910年8月11日、日本列島に接近した台風は、房総半島をかすめ太平洋上へ抜ける際に、各地に集中豪雨をもたらした。利根川、荒川水系の各河川は氾濫するとともに、各地で堤防が決壊。関東平野一面が文字通り水浸しになった。この洪水によって、当時の東京市の中心地や下町に被災し、被害は、死者18人、行方不明者3人、負傷者9人、建物の破壊・流出58棟、床上浸水88,495棟、床下浸水33,871棟、被災者数555,478人にのぼった。また、水が引くのに2週間もかかったと伝えられる。
浅草東本願寺の門、経蔵、御本堂、そして書院が水浸しになっていることが分かる往時の様子が絵葉書等に残されている。 
大正時代から昭和へ
大正12年9月1日、関東大震災が発生。地震には耐えたが、火災で焼失。昭和9年11月26日、定礎式を挙行し、本堂再建が始まる。コンクリート杭を480本打ち込んで基礎を造り、昭和11年には闡如上人御親修のもと、上棟式が行われ、同14年に遷仏法要が厳修された。しかし、第二次大戦末期の昭和20年3月、空襲により被災し、本堂内部は全焼したが、外郭は鉄筋コンクリートのため残った。
東京本願寺へ改称
昭和40年04月、宗祖700回御遠忌が厳修され、同年5月に浅草本願寺の名称を東京本願寺に変更する認証が下りた。翌年、大谷光暢法主のご長男、大谷光紹師が住職に就任した。
昭和48年5月3〜5日 立教開宗750年、親鸞聖人御誕生800年慶讃法要
昭和56年6月15日 大谷派との包括関係を廃止
昭和63年2月29日 東本願寺派結成 25世興如上人、法統伝承を宣言
平成05年4月13日 24世闡如上人遷化
浄土真宗東本願寺派本山東本願寺へ改称
平成10年 蓮如上人500回御遠忌を厳修
平成11年12月24日 25世興如上人遷化
平成13年04月26日 浄土真宗東本願寺派本山東本願寺の名称が文化庁より認証される
平成13年06月01日 第26世聞如上人傳燈式・奉告法要が厳修され、現在に至る 
教え
私たちのみ教え(浄土真宗)
いまから2500年以上前にお釈迦様によってお説きいただいた仏法は、いついかなる時代にあっても変わることのない、普遍の教え、真実の教えです。
その仏教は、インド、中国、そして、朝鮮半島を経て、幾多のご苦労の中、私どもの日本に伝来しました。その中でも、お念仏の教えは、インド、中国の高僧方によってお伝えいただきました。
そのお念仏の教えを日々の生活で悩み苦しむ私たち、苦しみを苦しみとも感じずにいる無明の中の私どもに、お念仏の教えとしてわかりやすくお説きくださったのが、親鸞さまです。
親鸞さまが私たちにお教え下さった浄土真宗のみ教えは、「阿弥陀さまの本願を信じ、念仏申せば仏となる」というお念仏のみ教えです。そのお念仏のみ教えは、私たち一人一人のかけがえのない人生を活かし、受け止め、生きる大いなる道です。
忙しい毎日に追われ、目先のことにとらわれて、人生において大切な意味を見失っています。私どもに伝わるまで長い年月受け伝えていただいた浄土真宗のみ教えは、その苦悩の中、何ものにも妨げられることのない、力強い生き方、明るく確かな真に安心して歩んでいける道へと導いてくださる教えなのです。 
私たちの仏さま(阿弥陀仏)
「五劫があいだこれを思惟し、永劫があいだこれを修行して、それ、衆生のつみにおいては、いかなる十悪・五逆・謗法・闡提のともがらなりというとも、すくわんとちかいましまして、すでに諸仏の悲願にこえすぐれたまいて、その願成就して阿弥陀如来とはならせたまえるを、すなわち阿弥陀仏と申すなり」
阿弥陀さまはすべての生きとし生けるものすべてをお救いくださる仏さまです。阿弥陀さまは、限りない命、限りない光として何ものにも障げられない無限にはたらく仏様です。ですから、阿弥陀如来、無量寿佛、無量光佛、不可思議光如来、尽十方無碍光如来とも申し上げるのです。
長い間の思惟と、長い間のご修行によって、どれほどの業にまみれたものでも、救ってやりたいとお誓いいただいた願いが成就されて、阿弥陀さまとなっていただいているのです。
仏教では沢山の仏さまが説かれていますが、悩み煩わされながら日々を送っている私たち、諸佛に捨て果てられる凡夫を救って下さる仏さまは阿弥陀さまです。阿弥陀さまは私たちの知識でははかりしれないほど大きなお心で、いつも私たちを見守って下さっている仏さまなのです。 
広大なるお心(本願)
「五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも、ただ我等一切衆生をあながちにたすけたまはんがための方便に、阿弥陀如来、御身労ありて、南無阿弥陀仏といふ本願をたてましまして、まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまいらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじと誓ひたまひて、南無阿弥陀仏と成りまします」
浄土真宗では阿弥陀如来の本願を信じることとお教えいただいています。その本願とは、その阿弥陀さまの誓われた願いです。その願いとは、生きとし生けるものすべてを救いたいという、この上なく深い願いです。
『仏説無量寿経』というお経には、四十八の願いが説かれています。これは阿弥陀さまが法蔵菩薩として修行されているときに立てられた誓願であり、その誓願が成就し、阿弥陀さまとなられたことが経典には説かれています。
親鸞さまは、その四十八の願いの中、十八番目の願いが、この世にあってさまざまな不安の中にいる私たちのために立てられた真実の願い(本願)であるといただかれ、蓮如さまはこのことを私たちに平易にお教え下さっているのです。 
仏さまの喚び声(名号)
「南無の二字は、衆生の弥陀如来にむかひたてまつりて後生たすけたまへともうすこころなるべし。 かやうに弥陀をたのむ人を、もらさずすくひたまふこころこそ、阿弥陀仏の四字のこころにてありけりとおもふべきものなり」
お名号とは、「南无阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の六字のことを申します。このお名号には、私ども衆生を救いたいと願っていただいた阿弥陀さまの本願のお心そのままがそなわっているのです。お念仏は「南無」とたのむ私たちを、救おうと立ち上がられ、私の名を称えなさいと仰っていただいた「阿弥陀仏」の名告りであり、私たちを喚んでくださる声であります。 
信じること聞くこと(聞即信)
「信ずる心も念ずる心も、弥陀如来の御方便よりおこさしむるものなりとおもふべし。かやうにこころうるを、すなはち他力の信心をえたる人とはいふなり」
浄土真宗では、信心が肝要とお教えいただいております。真実の信心とは何か。疑いの心、自分の計らう心を捨てて、阿弥陀さまのみ教えを一心に信じる。私どもの身に起こる様々な迷いや疑う心を見とおして「おまえを救うぞ」と、阿弥陀様から願い続けていただいているのです。そのことを私一人のためにしていただいていたという、その心になった時、すでに摂取不捨のもと、すくいとっていただいていたと信じる心が発るのです。そして、その心も、すでに阿弥陀様から頂戴していた心といただけます。そして、我が身に起こる様々な迷いや疑いも、その迷う心も、ああ、阿弥陀様の願いによって受け止めていただいていると報恩感謝の心が発る。仏様の願いがそのまま私の信じる心になるので、その心を他力の信心というのです。 
仰せのままに(たのむ)
「それ、信心をとるというは、ようもなく、ただもろもろの雑行雑修自力なんどいうわろき心をふりすてて、一心にふかく弥陀に帰するこころの疑なきを真実信心とは申すなり。かくのごとく一心にたのみ、一向にたのむ衆生を、かたじけなくも弥陀如来はよくしろしめして、この機を、光明を放ちてひかりの中におさめおきましまして、極楽へ往生せしむべきなり」
「仰せのまま」にとは、私どもにとって大切です。しかし、とても難しいことです。何を信じたらいいのか、ともすればどうしても疑う心になってしまいます。あるがままに受け取り、阿弥陀さまから「たのめ」の喚び声にその仰せのままに「たのむ」心を起こすことがどれほどの安心か。浄土真宗第八代の蓮如さまは、この「たのむ」ことの大切さ、私の自力のはからい、阿弥陀さまへの請い求める心、疑いの心が一切いらないということ、すべてをおまかせすることをお教え下さっております。 
あるがままの姿(凡夫)
「阿弥陀如来のおおせられけるやうは、末代の凡夫、罪業のわれらたらんもの、つみはいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくふべしとおおせられたり」
私どもは、日々の生活に追われ、一喜一憂しています。 仏教では、真相に明らかでない、真実を知らないことを無明と言います。闇の中にいるものがいくら目を開けても本当の姿はみえません。私たちは多くの命に育まれ支えられ、また多くの罪をつくりながら生きています。こうした本当の姿は、一筋の光に照らされてはじめて明らかに知らされるものです。
阿弥陀さまのまことの光に照らされたとき、はじめて私たちの本当の姿が照らし出されます。仏法をいただき、真実に触れることで、ようやく、ありのままがありのままに頂けます。虚仮不実のこの世界のありのままが、また我が身の姿が明らかに知らされた時、同時にそこに阿弥陀さまのはたらきに包まれた明るい道が開けてくることでしょう。 
生死をこえる(後生の一大事)
「人界の生はわづかに一旦の浮生なり。 後生は永生の楽果なり。 たとひまた栄花にほこり栄耀にあまるというとも、盛者必衰会者定離のならいなれば、ひさしくたもつべきにあらず」
私たちは浄土や後生というと遠い先のことのように思ってしまいます。しかしながら、私たちの人生はいつ如何なることになるかわかりません。生死は表裏一体と申します。
この世は常に移り変わる無常の世界であり、そのような中で人生を生きているのです。そうした世にあってどんなに物質文明が進んでも、生死の世界を生きる本質は変わりません。そして、その真実に目覚めたとき、後生の一大事が知らされます。
そしてその後生が解決されたとき、自ずと今の不安、迷い、今生(こんじょう)が解決されてくるのです。後生の解決なくして、今生の解決(真に安心して進んで生ける道)はないのです。蓮如上人はこの今生こそ、その与えられたチャンスとお教え下さっています。今聞くことなくして、いつ聞くのでしょうか。 
お念仏(称名報恩)
「ありがたさとうとさの、弥陀大悲の御恩をば、いかがして報ずべきぞなれば、昼夜朝暮には、ただ称名念仏ばかりをとなへて、かの弥陀如来の御恩を報じたてまつるべきものなり。 このこころすなわち当流にたつるところの、一念発起平生業成といえる義、これなりとこころうべし」
少し以前の日本の風景を思うと、私どものまわりに、毎日の生活の中でお念仏を称えておられるおじいさん、おばあさんがおられたことを思い出します。
仏さまのお心を、真実を、ありのままに聞かせていただくときに、そのご恩報謝の心が起こり、思わずお称えするお念仏、そのお念仏を口に称えることを称名といいます。
真に仏法をいただくと報恩感謝のお念仏となって「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」が私の口から自然に出てくるのです。
そのお念仏、南無阿弥陀仏のお名号は、阿弥陀さまからの喚び声として、いつでもどこでも私どもによびかけられています。ですから、いつでもどこでも誰でもがお称えできるお念仏として私どもにお与えいただいています。
阿弥陀さまのお心をいただいたことは、そこにすでに仏さまの願いが成就されており、私の口からでるお念仏がすでに御恩報謝ともなっています。称名がそのまま仏恩報謝のお念仏となっているのです。お念仏を称えられることはまことに尊いことであり、私の称えたお念仏がまわりの方のお念仏ともなり、ともにお念仏を悦び、互いに敬い、助け合い分かち合う、調和の世界が生まれてくることでしょう。
信心というすがたは名号の体となるもので、さらに言えば、仏さまのお手もとにあるときは本願であり、名号であり、私の心に至って信心となり、口にはお念仏となり、体に現れて合掌礼拝となるのです。
それはすべて南無阿弥陀仏のひとりばたらきなのです。仏さまのみ教えは、私たちがこの身にいただいたとき、はじめて生きた教えとなり、必ずや私たちに生きる力と勇気を与え、そして心の底から悦びに満ちた明るい生活を送ることができるでしょう。 
 
曹洞宗1

 

中国の禅宗五家(曹洞、臨済、潙仰、雲門、法眼)の1つで、日本においては禅宗(曹洞宗・日本達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗)の1つである。本山は永平寺(福井県)・總持寺(横浜市鶴見区)。専ら坐禅に徹する黙照禅であることを特徴とする。
中国禅宗の祖である達磨大師から数えて6代目の南宗禅の祖・曹渓山宝林寺の慧能の弟子の1人である青原行思から、石頭希遷(石頭宗)、薬山惟儼、雲巌曇晟と4代下った洞山良价によって創宗された。
中国における曹洞宗
中国曹洞宗は、洞山良价と彼の弟子である曹山本寂を祖とし、はじめ「洞曹宗」を名乗ったが、語呂合わせの都合で「曹洞宗」となったというのが定説の1つとなっている。また、道元をはじめ日本の禅宗では、洞曹宗の「曹」は曹山本寂ではなく、曹渓慧能(大鑑慧能 638-713年)から採られている、という解釈がなされている。(道元がこのような解釈をした理由は、曹山本寂の系統分派は途絶えていて、道元が学んだのが雲居道膺につながる系統であったためである。)
道元らが提唱した系譜は、前述した南方禅の六祖大鑑慧能にさかのぼり、その弟子青原行思−石頭希遷−薬山惟儼−雲巌曇晟−洞山良价−‥‥とつづく法脈である。曹山本寂の系譜は四代伝承した後に絶伝した一方で、洞山良价の一系譜のみが現在まで伝わっている。洞山良价の禅学思想に基づき、曹洞宗の禅風は「万物皆虚幻、万法本源為佛性」である。
洞山良价から5代下った大陽警玄には弟子がいなかったため、師資の面授を経ずに付法相承する「代付」によって投子義青へと嗣法がなされることで、北宋末における再興が成された。
次代の芙蓉道楷の弟子の代になると、宋の南遷による南宋の成立に伴い、河北に留まる鹿門自覚の系統と、江南に下る丹霞子淳の系統に分かれた。
丹霞子淳の門下には、宏智正覚と真歇清了がおり、宏智正覚は「黙照禅」を提唱し、「看話禅」を提唱する臨済宗の大慧宗杲と対立したことや、多くの弟子を持ち「宏智派」を形成したことで知られ、他方の真歇清了の門下では3代下った天童如浄から道元が日本へと曹洞宗を伝えた。宏智正覚の高弟であった自得慧暉の系統が、「宏智派」ではその後唯一、元末明初に至るまで、中国曹洞宗の法脈を保ち支えていくことになった。この「宏智派」の宗風は、東明慧日や東陵永璵によって日本にも伝えられ、鎌倉・京都の五山禅林にも大きな影響を与えた。
他方、河北に留まった鹿門自覚の系統は、普照一辨(青州希辨)、大明僧宝、玉山師体、雪巌慧満を経て、金代に万松行秀が登場することで隆盛した。彼の弟子には、雪庭福裕、耶律楚材、林泉従倫などがいる。雪庭福裕は元代に皇帝クビライに認められ、「国師」に指名されると共に、現在では少林カンフーの発祥地・中心地として有名な嵩山少林寺を任され中興の祖となった。現在の中国でも、嵩山少林寺(曹洞正宗)が華北地方の拠点として有名である。
以上の主な法嗣をまとめると、以下のようになる。
洞山良价-雲居道膺-同安道丕-同安観志-梁山縁観-大陽警玄-投子義青-芙蓉道楷
 鹿門自覚-普照一辨(青州希辨)-大明僧宝-玉山師体-雪巌慧満-万松行秀-雪庭福裕・・・
 丹霞子淳
  宏智正覚(宏智派)-自得慧暉・・・(東明慧日・東陵永璵)・・・
  真歇清了-天童宗珏-雪竇智鑑-天童如浄(- 道元)・・・
日本における曹洞宗
日本における曹洞宗は道元に始まる。道元は、鎌倉時代に宋に渡り、天童山で曹洞宗の天童如浄(長翁如浄)に師事し、1226年に帰国した。
宗祖・洞山良价から道元までの法嗣は、
洞山良价-雲居道膺-同安道丕-同安観志-梁山縁観-大陽警玄-投子義青-芙蓉道楷-丹霞子淳-真歇清了-天童宗珏-雪竇智鑑-天童如浄-道元
となる。
道元自身は自らの教えを「正伝の仏法」であるとしてセクショナリズムを否定した。このため弟子たちには自ら特定の宗派名を称することを禁じ、禅宗の一派として見られることにすら拒否感を示した。どうしても名乗らなければならないのであれば「仏心宗」と称するようにと示したとも伝えられる。
後に奈良仏教の興福寺から迫害を受けた日本達磨宗の一派と合同したことをきっかけとして、道元の入滅(死)後、次第に禅宗を標榜するようになった。宗派の呼称として「曹洞宗」を用いるようになったのは、第四祖瑩山紹瑾とその後席峨山韶碩の頃からである。 日本における曹洞宗は、中国における曹洞宗の説とは違い、曹渓山慧能禅師(638〜713)と洞山良价(807〜869)の頭文字を取って曹洞宗と呼ぶのを定説としている。
「臨済将軍曹洞士民」といわれるように、臨済宗が時の中央の武家政権に支持され、政治・文化の場面で重んじられたのに対し、曹洞宗は地方武家、豪族、下級武士、一般民衆に広まった。 曹洞宗の宗紋は久我山竜胆紋(久我竜胆紋・久我竜胆車紋)と五七桐紋である。
教義
「正伝の仏法」を伝統とし、「南無釈迦牟尼仏」として釈迦を本尊と仰ぎ、「即心是仏」の心をもって、主に坐禅により働きかける。
曹洞宗の坐禅は中国禅の伝統と異なり、「修証一如」(無限の修行こそが成仏である)という道元の主張に基づいて「只管打坐(しかんたざ)」(ひたすら坐禅すること)をもっぱらとし、臨済宗のように公案を使う(悟りのための坐禅)流派も一部にあるが少数である。
また、道元の著書である『正法眼蔵』自体は仏教全般について記しており、不立文字を標榜する中国禅の立場からはやや異質である。
2005年現在、三大スローガンとして「人権」「平和」「環境」を掲げる。
主な経典
主によまれる経典
 『摩訶般若波羅蜜多心経』『妙法蓮華経観世音菩薩普門品』『妙法蓮華経如来寿量品』『大悲心陀羅尼』『甘露門』『参同契』『宝鏡三昧』『舎利礼文』
基本となる祖録
 『正法眼蔵』-道元が著述(未完。後に弟子が編集)
 『伝光録』-瑩山の提唱を側近がまとめたもの
 『修証義』-明治時代に『正法眼蔵』から文言を抽出して信者用に再編
ご詠歌・和讃
 梅花流詠讃歌 / まごころに生きる(南こうせつ作詞・作曲)
歴史
正治2年(1200年)、京都久我家で生まれた道元は建保2年(1214年)出家し、園城寺・建仁寺で学ぶ。貞応2年(1223年) 明全とともに博多から南宋に渡って諸山を巡り、曹洞宗禅師の天童如浄より印可を受ける。天福元年(1233年)京都に興聖寺を開くが後に越前に移り、寛元2年(1244年) 傘松に大佛寺を開く。寛元4年(1246年) 大佛寺を永平寺に改め、宝治2-3年(1248−49年)、執権北条時頼、波多野義重らの招請により教化のため鎌倉に下向する。建長5年(1253年) 病により永平寺の貫首を弟子孤雲懐奘に譲り、京都で没する。
永平寺2世孤雲は道元が日ごろ大衆に語った法語をまとめた『正法眼蔵随聞記』を著し、道元の教えを記録し広めることにつとめた。道元の死後、遺風を守ろうとする保守派と、衆生教化のため法式も取り入れようとする開放派の対立が表面化する。文永4年(1267年)徹通義介に住職を譲るが、両派の対立が激化(三代相論)したため文永9年(1272年)孤雲が再任する。弘安3年(1280年)孤雲が没し徹通が再任するが内部対立を収拾できず、永仁元年(1293年)永平寺を出て大乗寺を開山する。
永平寺は4世義演の晋住後は外護者波多野氏の援助も弱まり寺勢は急激に衰えた。一時は廃寺同然まで衰微したが、5世義雲が再興し現在にいたる基礎を固めた。徹通の弟子瑩山紹瑾は1321年能登に總持寺を開山し、南朝後醍醐天皇より「日本曹洞賜紫出世之道場」の綸旨を得る。応安5年(1372年)、永平寺も北朝後円融天皇から「日本曹洞第一道場」の勅額・綸旨を受ける。總持寺開山瑩山紹瑾は弟子に恵まれ四哲と呼ばれた逸材を輩出した。四哲の一人峨山韶磧も優れた弟子に恵まれたが、高弟の一人通幻寂霊も通幻十哲と呼ばれる優れた禅僧を輩出し、教線の拡大に寄与した。
峨山韶磧の弟子無底良韶は貞和4年(1348年)、東北地方初の曹洞宗寺院として正法寺を開き、通幻寂霊の弟子石屋真梁は西国大内氏の庇護を受け応永17年(1410年)大寧寺を開き、六百数十ヶ寺に及ぶ末寺を得て「西の高野」と称えられた。
元和元年(1615年)江戸幕府より法度が出され永平寺と總持寺は大本山となり、奥州正法寺と九州大慈寺は本山から外れた。
宗政
21世紀初頭の現在、曹洞宗に所属する約15,000ヵ所寺は、永平寺派の有道会と、總持寺派の總和会に所属が二分されており、宗務総長も両派が1期4年ごとに交代で担当している。閣僚にあたる内局の部長7名も両派でほぼ半数ずつ、宗議会議員(定数72名)も36選挙区ごとに両派から1名ずつ選ばれている。系列の学校法人も永平寺系の駒澤大学、東北福祉大学、總持寺派の愛知学院大学、鶴見大学などに二分されており理事長や学長は実質的にそれぞれの派が指名権を持っている。
著名な寺院
大本山(根本道場)
両大本山の住職を貫首と呼び、2人の貫首が2年交代で管長(宗門代表)となる。尊称として住んでいる場所にちなみ、永平寺貫首を不老閣猊下(ふろうかくげいか)、総持寺貫首を紫雲台猊下(しうんたいげいか)とも呼ぶ。2012年1月22日からは永平寺貫首の福山諦法禅師が管長を務めている。
永平寺-福井県永平寺町(貫首:福山諦法ふくやまたいほう禅師) / 寺紋=久我山竜胆紋(久我竜胆紋・久我竜胆車紋) / 寛元2年(1244年)に、道元が越前の波多野義重の要請で開く。
 東京別院長谷寺-東京都港区
 名古屋別院-愛知県名古屋市東区代官町
 永平寺鹿児島出張所紹隆寺-鹿児島県姶良市平松
總持寺-横浜市鶴見区(貫首:江川辰三えがわしんざん禅師) / 寺紋=五七桐紋 / 元亨元年(1321年)に、瑩山紹瑾が能登の定賢律師の要請で石川県輪島市門前町に開く。明治31年(1898年)に火災で焼失し、明治44年(1911年)に現在地に移転。
 總持寺祖院-明治38年(1905年)より元の地(石川県輪島市門前町)に復興
 北海道別院法源寺-北海道松前郡松前町松城
歴史的には正法寺(岩手県奥州市)が奥羽二州の本山、大慈寺(熊本県熊本市)が九州本山であった期間があるが、元和元年(1615年)の寺院法度により永平寺、總持寺のみが大本山となる。また、江戸時代に来日した明僧、東皐心越によって開かれた曹洞宗寿昌派は祇園寺(茨城県水戸市)を本山とした。心越の法系は道元と別系であったが明治維新後、合同した。
僧堂
大本山僧堂
永平寺-福井県永平寺町 / 總持寺-神奈川県横浜市
専門僧堂
定光寺-北海道釧路市 / 中央寺-北海道札幌市 / 善寳寺-山形県鶴岡市 / 好国寺-福島県福島市 / 永平寺別院長谷寺-東京都港区 / 西有寺-神奈川県横浜市 / 最乗寺-神奈川県南足柄市 / 大栄寺-新潟県新潟市 / 長国寺-長野県長野市 / 可睡齋-静岡県袋井市 / 豊川閣妙厳寺(豊川稲荷)- 愛知県豊川市 / 日泰寺-愛知県名古屋市 / 總持寺祖院-石川県輪島市 / 大乗寺-石川県金沢市 / 宝慶寺-福井県大野市 / 御誕生寺-福井県越前市 / 発心寺-福井県小浜市 / 興聖寺-京都府宇治市 / 智源寺-京都府宮津市 / 洞松寺-岡山県矢掛町 / 瑞應寺-愛媛県新居浜市 / 明光寺-福岡県福岡市 / 安国寺-福岡県福岡市 / 晧台寺-長崎県長崎市 
 
曹洞宗2

 

宗旨・教義(曹洞宗の教え)
宗旨
曹洞宗は、お釈迦さまより歴代の祖師(そし)方によって相続されてきた「正伝(しょうでん)の仏法(ぶっぽう)」を依りどころとする宗派です。それは坐禅の教えを依りどころにしており、坐禅の実践によって得る身と心のやすらぎが、そのまま「仏の姿」であると自覚することにあります。
そして坐禅の精神による行住坐臥(ぎょうじゅうざが)(「行」とは歩くこと、「住」とはとどまること、「坐」とは坐ること、「臥」とは寝ることで、生活すべてを指します。)の生活に安住し、お互いに安らかでおだやかな日々を送ることに、人間として生まれてきたこの世に価値を見いだしていこうというのです。
教義
私たちが人間として生を得るということは、仏さまと同じ心、「仏心(ぶっしん)」を与えられてこの世に生まれたと、道元禅師はおっしゃっておられます。「仏心」には、自分のいのちを大切にするだけでなく他の人びとや物のいのちも大切にする、他人への思いやりが息づいています。しかし、私たちはその尊さに気づかずに我がまま勝手の生活をして苦しみや悩みのもとをつくってしまいがちです。
お釈迦さま、道元禅師、瑩山禅師の「み教え」を信じ、その教えに導かれて、毎日の生活の中の行い一つひとつを大切にすることを心がけたならば、身と心が調えられ私たちのなかにある「仏の姿」が明らかとなります。
日々の生活を意識して行じ、互いに生きる喜びを見いだしていくことが、曹洞宗の目指す生き方といえましょう。
宗歌 / 「曹洞宗宗歌」意訳
曹洞宗宗歌は、お釈迦さまの正しい教え(正法・しょうぼう)が、今日まで脈々と伝えられてきたご様子と、その正法の尊さが示されたものです。
お釈迦さまはある時、大勢のお弟子さまの前で、一本の蓮華の花をかかげられました。それは、この世のあらゆるものが互いにかかわりあい、生かし生かされて存在しているということを、言葉ではなく華を拈ずるという行動で示されたものでした。このとき、お弟子のひとり、迦葉(かしょう)さまだけがお釈迦さまのこころを理解されて微笑まれたのです。お釈迦さまはその時、「私が修行して得たところの正法眼蔵涅槃妙心(しょうぼうげんぞうねはんみょうしん・正法の真髄である仏心)を、いま摩訶迦葉(まかかしょう)に伝える」と宣言されました。「花の晨に片頬笑み」とは、このお釈迦さまがお弟子の摩訶迦葉さまに正法を伝えたという「拈華微笑(ねんげみしょう)」の故事をうたったものです。
お釈迦さまから迦葉さまへと伝えられた正法は、またそのお弟子さまへ、そしてインドの二十八祖達磨(だるま)さまへと伝えられます。達磨さまはさらに中国へ正法を伝えられることを決意され、長い旅路のはてに中国へと渡られ、以後面壁九年(めんぺきくねん)といわれる坐禅を修行されることになります。達磨さまと、中国の二祖となられる慧可(えか)さまの出会いには、大変有名な説話があります。
達磨さまが嵩山(すうざん)少林寺において坐禅の修行を続けられていた時のことです。それは12月9日、身も切れるほどの厳冬のことでした。慧可さまは、遠いインドから来られた達磨さまに道をもとめられ、その切なる願いに腰まで雪に埋もれながら、自らの体を傷つけるほどの強い思いを示されたと伝えられています。
達磨さまは慧可さまの熱意に応え、後に慧可さまにお釈迦さまからの正法が伝えられることになりました。「雪の夕べに臂を断ち」は、こうしてお釈迦さまの正法が中国に根を下ろした次第を述べているのです。
やがてお釈迦さま以来の正法は、中国での修行から戻られた道元さまによって日本に伝えられ、瑩山(けいざん)さまによりひろめられました。「荒磯の波も得よせぬ高岩に」は、荒波が打ち寄せる海岸の、波も寄せ付けないほどの高い岩に、ということです。
「かきもつくべき法ならばこそ」の「かきもつく」は書き尽くすと掻き付く、「法」は教えの法と海苔の二様のかけことばです。「べき」は可能をあらわします。
高岩に掻き付く海苔があるように、尊いおしえであればこそ、それを求め伝えようとする人々によって、書き尽くし、書き残そうとする努力が積み重ねられ正しく伝わるのです。
今一度、私たちは、摩訶迦葉さまの微笑みと慧可さまの断臂(だんぴ)のありように、身命をかけた求道の心と、そのようにして伝えられてきた正法の尊さを静かに学びたいものです。 
歴史
この道元禅師の精神は、その後をついだ永平寺二代の孤雲懐弉(こうん えじょう)禅師、永平寺三代で加賀(石川県)の大乗寺(だいじょうじ)を開かれた徹通義介(てっつう ぎかい)禅師を経て、その弟子瑩山禅師に受け継がれました。そして瑩山禅師のもとには、後に能登(石川県)の永光寺(ようこうじ)を継いだ明峰素哲(めいほう そてつ)禅師、總持寺を継いだ峨山韶碩(がさん じょうせき)禅師が出られ、その門下にも多くの優れた人材が輩出して、日本各地に曹洞禅が広まっていったのです。特に今一つの中国禅宗の流れをくむ臨済宗(りんざいしゅう)が、幕府や貴族階級など、時の権力者の信仰を得たのに対し、曹洞宗は地方の豪族や一般民衆の帰依を受け、もっぱら地方へと教線を伸ばしていきました。
すなわち、鎌倉末期から室町時代にかけては、臨済宗が鎌倉や京都に最高の寺格を有する5ヶ寺を定めて順位をつけた五山十刹(ごさんじっせつ)の制をしき、五山文学を中心とする禅宗文化を大いに発展させましたが、曹洞宗はこうした中央の政治権力との結びつきをさけ、地方の民衆の中にとけこんで、民衆の素朴な悩みにこたえ、地道な布教活動を続けていきました。しかし、長い歴史の間には宗門にも色々な乱れや変化が起こりました。
江戸時代になると、徳川幕府による「寺檀(じだん)制度」の確立によって、寺院の組織化と統制が加えられる一方、宗学(しゅうがく)の研究を志す月舟宗胡(げっしゅう そうこ)、卍山道白(まんざん どうはく)、面山瑞方(めんざん ずいほう)等の優れた人材が出て、嗣法(しほう)の乱れを正して道元禅師の示された面授嗣法(めんじゅしほう)の精神に帰るべきことを主張した宗統復古(しゅうとうふっこ)の運動や、『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』をはじめとする宗典(しゅうてん)の研究、校訂、出版などが盛んに行われました。
明治維新となり、神道を中心に置こうとする新政府は、神仏を分離して仏教を廃止しようとする廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)を断行し、仏教界に大きな打撃を与えました。しかし仏教界の各宗もよくこの難局に耐え、曹洞宗には大内青巒居士(おおうち せいらん こじ)が出て『修証義(しゅしょうぎ)』の原型を編纂し、その後總持寺の畔上楳仙(あぜがみ ばいせん)禅師、永平寺の滝谷琢宗(たきや たくしゅう)禅師の校訂を経て宗門(しゅうもん)布教の標準として公布され、在家化導(ざいけけどう)の上に大きな役割を果たしました。
こうしてわが宗門は、今日全国に約1万5千の寺院と、800万の檀信徒を擁する大宗団に発展し、未来にむけて更に前進しようとしています。 
一仏両祖
お釈迦さま
お釈迦さまは、詳しくは釈迦牟尼(しゃかむに、釈迦族出身の聖者)、世尊(せそん、世に勝れ尊敬される人)等と呼ばれ、釈尊と略称されます。
今から約二千五百年前頃、ネパールのルンビニーに、釈迦族の王子としてお生まれになり、姓をゴータマ、名をシッダールタと申されました。王子として裕福な暮らしに恵まれたものの、深く人生の問題に苦悩され、29歳で出家されました。6年もの厳しい修行の後、ブッダガヤーの地で35歳で成道され、仏陀(ぶっだ、覚者)とお成りになりました。縁起説や諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、一切行苦などに代表される教えを説かれました。
以後、クシナガラの地で入滅される迄、弟子の育成と仏法を伝道される旅をお続けになりました。曹洞宗のご本尊は、このお釈迦さまであります。お釈迦さまが成道され、その教えが説かれ、お弟子さま達により代々連綿と正しく伝えられてきたことによって、現在の私達も仏法に巡り逢うことが出来ているのです。
私達は、このご本尊であるお釈迦さまを礼拝すると共に、仏法僧の三宝を礼拝し、その教えを拠り所に正しく精進して生きていくことによって、お釈迦さまの慈悲と智慧、そして歓喜を、私達の身と心の上に体現していく事が出来るのです。
道元禅師
道元禅師は1200年、京都にお生まれになり、14歳のときに比叡山(ひえいざん)にて得度(とくど)されました。24歳で仏道を求め宋に渡ると如浄(にょじょう)禅師のもとで修行に励まれ、「正伝の仏法」を相続されました。
28歳で帰国した後、正しい坐禅の作法と教えをすすめようと『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』を著され、34歳のときに宇治に興聖寺(こうしょうじ)を建立し、最初の僧堂を開いて修行者の養成と在俗の人びとへの教化を始めました。また、仏法の境地と実践を伝えるべく『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の執筆を続けられ、45歳のときに越前に大仏寺(後に永平寺と改名)を建立しました。
その後も道元禅師は修行の生活を送りながら弟子の育成につとめられ、1253年、54歳でそのご生涯を閉じられました。
瑩山禅師
瑩山禅師は1264年(1268年の説もある)、越前にお生まれになり、8歳で永平寺に入り三世義介(ぎかい)禅師のもとで修行を始めました。
13歳で二世懐弉(えじょう)禅師について正式に僧となると、瑩山紹瑾(じょうきん)と名を改め、19歳になると諸国行脚(あんぎゃ)の志をたて、求道(ぐどう)生活に精進されました。
そして35歳のとき、義介禅師の後を継いで加賀国(石川県)の大乗寺住職となり、2年後に『伝光録(でんこうろく)』をお示しになりました。その門下には優れた人材が集まるようになり、曹洞宗が発展する基礎が築かれました。また、50歳で能登に永光寺(ようこうじ)を開き、そこで『坐禅用心記(ざぜんようじんき)』を撰述されたといわれています。
その後、58歳のとき諸嶽寺(もろおかでら)を寄進されると禅院に改め總持寺と名づけました。1324年、61歳のとき總持寺の住職を峨山(がさん)禅師に譲られ、翌年62歳でそのご生涯を閉じられました。 
両大本山
曹洞宗には、大本山が2つあります。ひとつは福井県にある大本山永平寺(だいほんざん えいへいじ)であり、ひとつは横浜市にある大本山總持寺(だいほんざん そうじじ)です。これを両大本山といいます。両大本山は曹洞宗寺院の根本であり、信仰の源であります。大本山の住職の正式な呼び方は貫首(かんしゅ)といい、「禅師さま」と親しくお呼びしております。
大本山永平寺
大本山永平寺は1244年、道元禅師が45歳のとき、波多野義重(はたの よししげ)公の願いによって、越前(福井県)に大仏寺(だいぶつじ)を建立し、2年後に永平寺と改められたことに始まります。深山幽谷の地にたたずむ山門(さんもん)、仏殿(ぶつでん)、法堂(はっとう)、僧堂(そうどう)、庫院(くいん)、浴室(よくしつ)、東司(とうす) の七堂伽藍(しちどうがらん)では、修行僧が道元禅師により定められた厳しい作法に従って禅の修行を営んでいます。
大本山總持寺
大本山總持寺は1321年、瑩山禅師が58歳のとき、能登(石川県)の諸嶽寺(もろおかでら)を定賢律師(じょうけんりっし)より譲られ、これを禅院に改めて諸嶽山(しょがくさん)總持寺と名づけたことに始まります。1898年に七堂伽藍を焼失し、1907年に能登から横浜市鶴見へ移りました。なお、旧地は總持寺祖院(そいん)として再建され、地域の信仰を集めて今日にいたっています。 
経典
経典とは
仏教は、お釈迦さまが説いた教えを根本とする宗教です。そのため仏教においては、お釈迦さまが説いたことばが絶対の権威をもつものであり、このお釈迦さまの説法をまとめたものを経(経典・お経)といいます。
経ということばは、サンスクリット語(古代から中世にかけて、インドや東南アジアで用いられた言語)である「スートラ」の漢訳ですが、スートラは古代インドの宗教であるバラモン教のさまざまな教えや規則を記した聖典類のことをさしていました。もともと仏教独自のことばではなく、本来の意味は「線」とか「糸」「紐」のことです。
仏教でも、お釈迦さまの教えをまとめたものを、インド古来のスートラという語で呼ぶようになり、中国ではそれを経という字に漢訳しました。
お釈迦さまが亡くなられたのち、その教えは、弟子たちによって口から口へと伝承されました。しかし語り伝えるあいだには記憶の誤りも生じ、しだいに教えの内容も変わることを心配し、弟子たちが集まってお釈迦さまの教えを整理しまとめることになりました。この会議は結集(けつじゅう)とよばれます。
この会議においては摩訶迦葉(まかかしょう)が中心となり、経は多聞(たもん)第一といわれ記憶力にすぐれた阿難陀(あなんだ)によって語られ、また律(教団の規則)は持律(じりつ)第一といわれた優波離(うぱり)が記憶にしたがって語るのを、大勢の弟子たちが聞いたものと照合し、承認してまとめあげたのです。
やがて、この経と律を研究した論が多くつくられるようになりました。これを総称して「経・律・論」の三蔵と呼んでいます。蔵とは「いれもの」という意味で、経と律と論を収蔵しているものということです。
のちには、仏教文献の総量は膨大なものとなったため、一切経あるいは大蔵経と呼ばれるようになりました。
基本経典
正法眼蔵 (しょうぼうげんぞう)
『正法眼蔵』は、道元禅師が1231年8月より1253年1月にいたる、23年間にわたって説示されたもので、その題名が示すように、お釈迦さまから歴代の祖師を通して受け継いだ正しい教法の眼目を、あますところなく収蔵し、提示しようとした著ということができます。
その内容の多くは、道元禅師の深い悟りの境涯を、禅師独特の語法で説示した高度なもので、現代においても、日本の生んだ最高の宗教思想書とも評されています。
『正法眼蔵』は一般に95巻といわれていますが、それは道元禅師には最終的に100巻として仕上げる構想があったところから、のちに弟子たちがその意をくんで、1690年に編集したものです。
道元禅師自身には、自ら編集された75巻と12巻の新草とがあり、その他の巻と合わせてあらためて体系的に組織化していく意図がありましたが、思いなかばに示寂してしまい、それを果たすことができなかったといわれます。そのため、『正法眼蔵』はさまざまな形で伝承され、60巻本、28巻本などの諸本も存在しています。
伝光録 (でんこうろく)
『伝光録』は、瑩山禅師が1300年の1月から、加賀(石川県)の大乗寺で、師匠の義介禅師に代わり、修行僧たちに説き示した説法を、のちになって側近の僧がまとめたものです。
瑩山禅師の説法の記録(提唱録)ですから、禅師自身が筆をとって書いたものではありません。
釈尊をみなもととする坐禅の仏法が、インド・中国・日本の懐装禅師にいたる53人の祖師たちに、どのように正しく伝えられてきたか、各章ごとにさまざまな僧の伝記を引用しながら、各祖師たちの悟道(ごどう)の主題、伝記、悟道の因縁、それらに対する瑩山禅師の解説、修行僧たちに向けての激励のことばを述べ、結びの詩をもってまとめてあります。
本書は道元禅師の教えをふまえて、曹洞禅の教えを53人の祖師の史実のうえに跡づけようとしたもので、『正法眼蔵』とともに曹洞宗における代表的な宗典として尊重されています。
日用経典
修証義(しゅしょうぎ)
『修証義』は、おもに道元禅師の著わされた『正法眼蔵』から、その文言を抜き出して編集されたものです。
明冶の中ごろ、各宗派では時代に適応した宗旨の宣揚をしようとする気運が高まっていました。曹洞宗では曹洞扶宗会(そうとうふしゅうかい)が結成され、多くの僧侶や信者の人々がそれに参加しました。
そのメンバーであった大内青巒(おおうち せいらん)居士(1845〜1918)を中心として『洞上在家修証義』(とうじょうざいけしゅしょうぎ)が刊行されました。これは在家教化のためのすぐれた内容となっていたため、曹洞宗では、ときの大本山永平寺貫首滝谷琢宗(たきや たくしゅう)禅師と大本山總持寺貫首畔上楳仙(あぜがみ ばいせん)禅師に内容の検討を依頼し、1890年12月1日、その名を『曹洞教会修証義』とあらためて公布したのです。その後、『修証義』と改名されて今日にいたっています。
曹洞宗の宗旨は、お釈迦さまから歴代にわたって正しく受け継げられてきた以心伝心の正伝の仏法、只管打坐(しかんたざ)、即心是仏(そくしんぜぶつ)の心を標榜する教えです。『修証義』は、このような心を日常生活のなかでどのように実践し、信仰生活を高めていくかを示しています。
般若心経 (はんにゃしんぎょう)
『般若心経』は膨大な『般若経』600巻の精髄をまとめたもので、字数にしてわずか262文字の短い経典ですが、深遠な仏教の思想と広大な慈悲のいとなみである宗教的実践を簡潔に説いています。この経は、日本ではほとんどの宗派で読まれています。
『般若心経』は、正式には『摩訶般若波羅蜜多心経』と呼ばれ、大いなる(摩訶)、智慧(般若)の完成(波羅蜜多)の真髄を説いた経典のことです。その内容は『般若経』の中心思想である「空」の思想を簡潔に説いています。
この「空」の概念は、ただ単に何物もない・空っぽである、という意味ではありません。すべてのものには「固定的な実体はない」という哲学的概念を含んでいます。
ですから、経文中の「色即是空、空即是色」とは、色(すべての目に見える対象)は空(永遠に変化しないものはない)なのだ、そして空(変化生成するもの)なるものが色(対象世界)なのだ、という意味なのです。
この経典の異訳は全部で8種類ほどあるとされ、なかでも鳩摩羅什(くまらじゅう)訳の『摩訶般若波羅蜜大明呪経(まかはんにゃはらみつだいみょうじゅきょう)』と玄奘(げんじょう)訳の『摩訶般若波羅蜜多心経』がもっともよく知られています。
玄奘訳はのちに読誦用としてもっともひろく用いられるようになり、それが現在、一般に『般若心経』といわれているものです。 
曹洞宗の坐禅

 

曹洞宗の教えの根幹は坐禅にあります。それはお釈迦さまが坐禅の修行に精進され、悟りを開かれたことに由来するものです。禅とは物事の真実の姿、あり方を見極めて、これに正しく対応していく心のはたらきを調えることを指します。そして坐ることによって身体を安定させ、心を集中させることで身・息・心の調和をはかります。
曹洞宗の坐禅は「只管打坐(しかんたざ)」、ただひたすらに坐るということです。何か他に目的があってそれを達成する手段として坐禅をするのではありません。坐禅をする姿そのものが「仏の姿」であり、悟りの姿なのです。私たちは普段の生活の中で自分勝手な欲望や、物事の表面に振りまわされてしまいがちですが、坐禅においては様々な思惑や欲にとらわれないことが肝心です。
道元禅師はまた、坐禅だけではなくすべての日常行為に坐禅と同じ価値を見いだし、禅の修行として行うことを説かれています。修行というと日常から離れた何か特別なことのように聞こえますが、毎日の生活の中の行い一つひとつを坐禅と同じ心でつとめ、それを実践し続けることが、私たちにとっての修行なのです。 
坐禅の作法
1.合掌(がっしょう)・叉手(しゃしゅ)
合掌(がっしょう)
相手に尊敬の念をあらわす作法です。両手のひらを合わせてしっかりと指をそろえます。指の先を鼻の高さにそろえ、鼻から約10cm離します。ひじを軽く張り、肩の力は抜くようにします。
叉手(しゃしゅ)
立っている時、歩く時の手の作法です。左手を、親指を内にして握り、手の甲を外に向け、胸に軽く当てて右手のひらでこれを覆います。
2.入堂の仕方
手は叉手(しゃしゅ)にして、入口の左側の柱(襖・障子等)のそばを、柱側の足(左足)から、坐禅堂に入ります。坐蒲(ざふ)を持って入る場合は、必ず両手で持ちます。坐禅堂に入ったらいったん立ち止まり、聖僧(しょうそう)さまに合掌低頭(ていず)(問訊・もんじん)します。手を叉手にもどして、右足から進んで自分の坐る位置(坐位・ざい)に行きます。なお、堂内では聖僧(しょうそう)さまの前は横切らず、必ず後を通るようにします。
3.隣位問訊(りんいもんじん)・対坐問訊(たいざもんじん)
隣位問訊(りんいもんじん)
坐る両隣の人への挨拶です。自分の坐る位置に着いたら、その場所に向かって合掌(がっしょう)低頭(ていず)します。両隣に当たる二人はこれを受けて合掌します。
対坐問訊(たいざもんじん)
坐る向かいの人への挨拶です。隣位問訊(りんいもんじん)をしたら、合掌(がっしょう)のまま右回りをして向かいに坐っている人に合掌(がっしょう)低頭(ていず)します。向かい側の人は、これを受けて合掌します。
4.足の組み方(結跏趺坐(けっかふざ)・半跏趺坐(はんかふざ))
まず、坐蒲(ざふ)がおしりの中心に位置するようにして、深すぎず浅すぎず坐り、足を組みます。結跏趺坐(けっかふざ)でも半跏趺坐(はんかふざ)でも、大切なことは、両膝とおしりの三点で上体を支えるということです。ただし、体調・体質には個人差がありますから、無理をせず坐り方を工夫すると良いでしょう。
結跏趺坐(けっかふざ)
両足を組む坐り方です。右の足を左の股の上に深くのせ、次に左の足を右の股の上にのせます。
半跏趺坐(はんかふざ)
片足を組む坐り方です。右の足を左の股の下に深くいれ、左の足を右の股の上に深くのせます。
5.手の組み方(法界定印・ほっかいじょういん)
坐禅の時の、手の組み方です。右手を左の足の上におき、その上に左の手をのせて(右手の指の上に左の指が重なるように)両手の親指を自然に合わせます。この手の形を法界定印(ほっかいじょういん)といいます。組み合わせた手は、下腹部のところにつけ、腕と胸の間をはなして楽な形にします。両手の親指はかすかに接触させ、力を入れて押しつけたり、離したりしないようにします。
6.上体の姿勢
背筋をまっすぐにのばし、頭のてっぺんで天井を突き上げるようにしてあごをひき、両肩の力をぬいて、腰にきまりをつけます。この時、耳と肩、鼻とおへそとが垂直になるようにして、前後左右に傾かないようにします。
7.口の閉じ方
舌先はかるく上あごの歯の付け根につけて口を閉じ、口の中に空気がこもらないようにします。
8.視線の位置
目は、半眼といって、見開かず細めず自然に開き、視線はおよそ1メートル前方、約45度の角度におとします。目をつむると眠気を誘うので、目は閉じないようにします。
9.呼吸の仕方(欠気一息・かんきいっそく)
坐禅の姿勢が調ったら、静かに大きく深呼吸を数回します。その後、静かにゆっくりと、鼻からの呼吸にまかせます。
10.左右揺振(さゆうようしん)
上体を振り子のように左右へ、始め大きく徐々に小さく揺すりながら、左右どちらにも傾かない位置で静止し、坐相(ざそう)をまっすぐに正しく落ちつかせます。
11.坐禅の用心
さまざまな思いにとらわれないことです。坐禅をしている間にも、さまざまな思いが浮かんでは消えていくとは思いますが、思いは思いのままにまかせ、体と息を調えて坐ります。
12.止静鐘(しじょうしょう)
坐禅の始まる合図です。参禅者の坐相(ざそう)が調ったころ、堂頭(どうちょう)が入堂して堂内を一巡し、正しい坐にあるかを点検します。これを検単(けんたん)といいます。堂頭が自分の後に巡ってきた時は合掌をし、通り過ぎた後に、法界定印(ほっかいじょういん)にもどします。この後、止静鐘(しじょうしょう)(鐘3回)が鳴ります。止静鐘が鳴ったら堂内に出入りをしてはいけません。
13.警策(きょうさく)の受け方
坐禅中に眠くなったり、姿勢が悪かったり、心がまとまらなかったりした時は、警策(きょうさく)で肩を打ってもらいます。この警策は、聖僧(しょうそう)さまから励ましとしていただくのです。警策は自分から合掌(がっしょう)して受ける方法と、直堂(じきどう)(堂内を監督し警策を行ずる者)が入れる方法と、二通りあります。どちらの場合も右肩を軽く打って予告しますので、そうしたら合掌のまま首を左に傾け、右肩をあけるようにします。受けおわったら合掌(がっしょう)低頭(ていず)して、もとの法界定印(ほっかいじょういん)にもどします。
14.経行(きんひん)の仕方
坐禅を一炷(いっちゅう)(40分ぐらい)行った後、引き続き坐禅をする場合には、途中で経行(きんひん)を行います。経行とは、堂内を静かに歩行することをいいます。坐禅中に経行鐘(きんひんしょう)(鐘2回)が鳴ったら合掌(がっしょう)低頭(ていず)し、左右揺振(さゆうようしん)して足を解き、右まわりで向きを変え静かに立ちあがります。坐蒲(ざふ)を直してから隣位問訊(りんいもんじん)、対坐問訊(たいざもんじん)をし、そのあと叉手(しゃしゅ)にしてしばらくまっすぐに立ち、呼吸を調えてから経行(きんひん)に移ります。歩き方は一息半歩(いっそくはんぽ)といって、一呼吸する間に、足の甲の長さの半分だけ歩を進め、次の一呼吸で、反対の足を同じく半歩だけ進めます。列の前後を等間隔に保ち、堂内を緩歩(かんぽ)します。時間になり、抽解鐘(ちゅうかいしょう)(鐘1回)が鳴るのを聞いたらその場に両足を揃えて止まり、叉手(しゃしゅ)のまま低頭します。その後、普通の歩速で自分の坐位(ざい)に戻ります。
15.坐禅のおわり
放禅鐘(ほうぜんしょう)(鐘1回)が鳴ったら、まず合掌(がっしょう)低頭(ていず)し、左右揺振(さゆうようしん)をして、組んでいる足を解きます。そして、右回りで向きを変えて立ち上がります。(向きを変えてから足を解く作法もあります)立ち上がったら向き直り、坐蒲(ざふ)を元の形に整えて、隣位問訊(りんいもんじん)、対坐問訊(たいざもんじん)をし、合掌の手を叉手(しゃしゅ)にして入堂の時と逆に歩を進めて退堂します。 
 
永平寺1

 

福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗の寺院。總持寺と並ぶ日本曹洞宗の中心寺院(大本山)である。山号を吉祥山と称し、寺紋は久我山竜胆紋(久我竜胆紋・久我竜胆車紋)である。開山は道元、本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏である。
歴史
道元の求法
曹洞宗の宗祖道元は正治2年(1200年)に生まれた。父は村上源氏の流れをくむ名門久我家の久我通親であるとするのが通説だが、これには異説もある。
幼時に父母を亡くした道元は仏教への志が深く、14歳で当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺に上り、仏門に入った。道元には「天台の教えでは、人は皆生まれながらにして、本来悟っている(本覚思想)はずなのに、なぜ厳しい修行をしなければ悟りが得られないのか」という強い疑問があった。道元は日本臨済宗の宗祖である建仁寺の栄西に教えを請いたいと思ったが、栄西は道元が出家した2年後に、既に世を去っていた。
比叡山を下りた道元は、建保5年(1217年)建仁寺に入り、栄西の直弟子である明全に師事した。しかし、ここでも道元の疑問に対する答えは得られず、真の仏法を学ぶには中国(宋)で学ぶしかないと道元は考えた。師の明全も同じ考えであり、彼ら2人は師弟ともども貞応2年(1223年)に渡宋する。
道元は天童山景徳寺の如浄に入門し、修行した。如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐(しかんたざ)」を強調したものであり、道元の思想もその影響を受けている。道元は如浄の法を嗣ぐことを許され、4年あまりの滞在を終えて帰国した。なお、一緒に渡宋した明全は渡航2年後に現地で病に倒れ、2度と日本の地を踏むことはできなかった。
日本へ戻った道元は初め建仁寺に住し、のちには深草(京都市伏見区)に興聖寺を建立して説法と著述に励んだが、旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭う。
越前下向
旧仏教側の迫害を避け新たな道場を築くため、道元は信徒の1人であった越前国(福井県)の土豪・波多野義重の請いにより、興聖寺を去って、義重の領地のある越前国志比庄に向かうことになる。寛元元年(1243年)のことであった。
当初、義重は道元を吉峰寺へ招いた。この寺は白山信仰に関連する天台寺院で、現在の永平寺より奥まった雪深い山中にあり、道元はここでひと冬を過ごすが、翌寛元2年(1244年)には吉峰寺よりも里に近い土地に傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)を建立する。これが永平寺の開創であり、寛元4年(1246年)に山号寺号を吉祥山永平寺と改めている。
寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後漢明帝のときの元号「永平」からであり、意味は「永久の和平」である。
道元以降
その後の永平寺は、2世孤雲懐奘、3世徹通義介のもとで整備が進められた。義介が三代相論で下山し4世義演の晋住後は外護者波多野氏の援助も弱まり寺勢は急激に衰えた。一時は廃寺同然まで衰微したが、5世義雲が再興し現在にいたる基礎を固めた。暦応3年(1340年)には兵火で伽藍が焼失、応仁の乱の最中の文明5年(1473年)でも焼失した。その後も火災に見舞われ、現存の諸堂は全て近世以降のものである。
応安5年(1372年)、後円融天皇より「日本曹洞第一道場」の勅額・綸旨を受ける。
天文8年(1539年)、後奈良天皇より「日本曹洞第一出世道場」の綸旨を受ける。
天正19年(1591年)、後陽成天皇より「日本曹洞の本寺並びに出世道場」の綸旨を受ける。
元和元年(1615年)、徳川幕府より法度が出され總持寺と並び大本山となる。
 
永平寺2

 

曹洞宗大本山永平寺
今から約750年前の寛元2年(1244)道元禅師によって開創された「日本曹洞宗」の第一道場で出家参禅の道場です。
境内は約10万坪(33万平米)、樹齢約700年といわれる老杉に囲まれた静寂なたたずまいの霊域に、七堂伽藍を中心に70余棟の殿堂楼閣が建ち並んでいます。
永平寺の開祖道元禅師は、鎌倉時代の正治2年(1200)京都に誕生され、父は鎌倉幕府の左大臣久我道親、母は藤原基房の娘といわれています。
8歳で母の他界に逢い世の無常を観じて比延山横川に出家されました。 その後、京都の建仁寺に入られ、24歳の春、師明全とともに中国に渡り天童山の如浄禅師について修行し、悟りを開かれて釈迦牟尼仏より51代目の法灯を継ぎ、28歳のときに帰朝されました。帰朝後京都の建仁寺に入られ、その後宇治の興聖寺を開創されました。
寛元元年(1243)鎌倉幕府の六波羅探題波多野義重公のすすめにより、越前国志比の庄吉峰寺に弟子懐弉禅師(永平寺2世)等とともに移られました。
翌2年、大仏寺を建立、これを永平寺と改称し、のちに山号を吉祥山に改めて、ここに真実の仏弟子を育てる道場が開かれました。
以来、御開山道元禅師が説き示された禅の仏法は脈々と相承護持され、今では全国に1万5千の末寺、檀信徒は800万人といわれております。 
歴史 
御開山 道元禅師略伝
永平寺の開山 道元禅師
勅謚
「佛性伝東国師(ぶっしょうでんとうこくし)」孝明天皇
「承陽大師(じょうようだいし)」明治天皇
俗性源氏、村上天皇九代の後胤(こういん)内大臣久我通親(ないだいじんこがみちちか)公を父とし、摂政松殿(藤原基房、ふじわらもとふさ)公の女(むすめ)を母として、正治2年(1200)京都に誕生されました。 3歳で父を失い、8歳で母の亡(ぼう)に逢い、世の無常を感じて13歳の春、比叡山横川般若谷(よかわはんにゃだに)に出家されました。
建保2年(1214)15歳にして京都建仁寺栄西禅師(けんにんじえいさいぜんじ)の門に参じ、貞応2年(1223)24歳の時、栄西の弟子明全和尚(みょうぜんおしょう)と共に求法(ぐほう)のため入宋、諸方の叢林(そうりん)に編算(へんざん)されました。
宝慶元年(1225,日本の嘉禄元年)5月天童山景徳寺(てんどうざんけいとくじ)如浄禅師(にょじょうぜんじ)の下に参じて、堂奥の聴許(ちょうきょ)を許され、釈迦牟尼佛(しゃかむにぶつ)より51代目の法を嗣(つ)がれました。
その後、安貞元年(1227)秋に 帰朝、一時建仁寺に掛錫(かしゃく)し、次いで深草に閑居され、天福元年(1233)春、深草の極楽寺旧蹟を興し、藤原経家(ふじわらのりいえ)や正覚尼(しょうがくに)等の請により観音導利興聖宝林寺(かんのんどうりこうしょうほうりんじ)を開かれました。
これより先、道元禅師は帰朝の第一声として「普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)」一巻を撰述され、誰にでもできる坐禅の行法を説かれました。 さらに、興聖寺を開創するや法を求めて参集する者が多く、在俗のために説法され、佛法の弘法救生(ぐほうくしょう)につとめられました。
文暦元年(1234)の冬には多武峰(とうのみね)の日本達磨宗覚晏(にほんだるましゅうかくあん)の門人孤雲懐奘(こうんえじょう、永平寺2世)が入門し正式に弟子となりました。懐奘禅師は道元禅師より2歳年長で佛教学に精通されており、既に安貞2年建仁寺に掛錫していたころ道元禅師を訪ねて論談法戦(ろんだんほうせん)を試み信伏しておりました。
また、その頃、六波羅探題引付頭(ろくはらたんだいひっけとう)の一人で道元禅師に深く帰依された波多野義重公のもとで「正法眼蔵全機の巻(しょうぼうげんぞうぜんきのかん)」等を説かれるに及びました。 
永平寺の開創
寛元元年(1243)夏、波多野義重公の勧めによって義重公の領地、越前国志比庄(しひのしょう)に移錫されることになり、約10年間住みなれた京洛を後にされました。 本師天童如浄禅師(てんどうにょじょうぜんじ)の遺誡(ゆいかい)に従って深山幽谷(しんざんゆうこく)に居して一個半個を説得し、一人でも多く佛弟子を育成されることになりました。
翌2年7月、義重公や覚念(一説に斉藤基尚)等の外護者(げごしゃ)によって大佛寺(永平寺の前身)が建立され開道説法(かいどうせっぽう)されました。 寛元4年6月、47歳の時大佛寺を永平寺と改めて上堂説法されていますが、それは釈迦牟尼佛の誕生になぞらえ、永平寺の隆盛を尽未来際(じんみらいさい)にわたって祈念されたものでした。この頃盛んに修行僧を指導されると共に、教団の確立のために清規(しんぎ)を定められています。
鎌倉下向
宝治元年(1247)8月、北条時頼一族の北条重時や波多野義重公の請を断ち難く在俗教化(ざいぞくきょうか)の為に鎌倉へ下向し、約半年間名越(なごえ)の白衣舎(びゃくえしゃ)に在って説法され、翌2年3月に帰山されました。
その折りの上堂法語(永平広録巻三)に 
山僧(さんぞう)出で去り半年余り、猶(な)ほ孤輪(こりん)の大虚(たいこ)に処するが若(ごと)し、今日山に帰り山気(さんき)喜ぶ、山を愛するの愛初より甚(はなはだ)し
と帰山の心境を説かれました。これは永平寺山居の心情を強められたものであり、同時に只管打坐(しかんたざ)の峻巖綿密(しゅんげんめんみつ)な家風を物語るものです。
紫衣(しえ)の辞退
また、この頃の出来事として後嵯峨上皇(ごさがじょうこう)が道元禅師に紫衣を贈られようという一件があり、禅師は再三辞退されましたが許されなかったので拝受されましたが、しかし紫衣を一生身につけることなく
永平谷浅しと雖(いえど)も、勅命(ちょくめい)重きこと重重(じゅうじゅう) 却(かえ)って猿鶴(えんかく)に笑われん 紫衣の一老翁(しえのいちろうおう)
という偈(げ)を作って上謝(じょうしゃ)されたといわれます。これは禅師の名利・世俗に対する超然とした態度の一端をあらわしています。
道元禅師の入滅
建長4年(1252)秋頃より道元禅師は病に罹(かか)られました。この年最後の示衆(じしゅ)となった「正法眼蔵八大人覚(しょうぼうげんぞうはちだいにんがく)」は、釈尊最後の垂誡(すいかい)である「遺教経(ゆいきょうぎょう)」にもとづいたもので、禅師の入寂近きを暗示されていました。
翌5年7月弟子懐弉禅師(えじょうぜんじ)に永平寺の住持を譲られ、8月5日には波多野義重公の勧めを受けて療養すべく上洛されました。 越前国を後にされた禅師は、この折弟子義介に永平寺の後事を託して木ノ芽峠より帰山させましたが、これが最後の訣別となりました。
道元禅師は上洛して高辻西洞院(たかつじにしのとういん)の俗弟子覚念の屋敷に入り、8月23日夜半入滅。世寿54歳でありました。
弟子懐弉禅師をはじめ波多野義重公、覚念等は遺骸を荼毘に附し永平寺に持ち帰られ、9月12日に入涅槃の式を挙げ本山の西北隅に塔を建て「承陽庵(じょうようあん)」と名づけました。 
永平寺二代懐弉禅師(えじょうぜんじ)
二代懐弉禅師は師の塔辺に庵を結ばれて生前と異なることなく孝順の誠を尽くされました。さらに道元禅師の「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」95巻や「永平広録(えいへいこうろく)」10巻等の著述を義介(ぎかい、永平寺三代)・義演(ぎえん、永平寺四代)」と共に集大成されました。今日の世界的名著「正法眼蔵」はこの時に校合編集されたものです。
一方、永平寺伽藍の整備にも尽くされ、法弟義介禅師に命じて入宋させ中国五山を見学させましたが、「五山十刹図(ござんじっせつず)」はその折に将来したもので加賀の大乗寺に伝えられています。
懐弉禅師は文永9年(1272)義介禅師に永平寺を譲られ、孝安3年(1280)8月24日、83歳を以て入滅されました。
三世義介禅師は、越前足羽郡(えちぜんあすわぐん)の出身といわれ、永平寺の門前に養母堂を建てて生母に孝養を尽くされること7年間に及びました。
孝安6年(1283)澄海法印(ちょうかいほういん)の請により加賀の大乗寺に移られ、永平寺は法弟義演禅師が四世に住職されました。 
五世中興義雲禅師(ぎうんぜんじ)
四世義演(ぎえん)禅師の滅後の永平寺は、道元禅師を慕って中国より帰化された寂圓(じゃくえん、越前大野宝慶寺)の弟子、義雲が正和3年(1314)に住職されました。
義雲禅師は開基波多野氏の助力の下に伽藍の復興に尽くされ、また、梵鐘(嘉暦の梵鐘、国の重要文化財)を鋳造されました。これ以降の住職は代々義雲禅師の法孫、寂圓派によって法燈が護持されることになりました。
北朝正慶2年(1333)五世義雲禅師が示寂し六世曇希禅師が入寺、暦応3年(1340)永平寺は南北朝の戦火に遭って炎上しましたが曇希禅師の尽力によって復興されました。 
中世の永平寺
九世宗吾禅師の北朝応安5年(1372)に、後圓融天皇(ごえんゆうてんのう)より「日本曹洞第一道場」の勅額を賜り永平寺は出世の道場となりました。文明5年(1473)兵火に逢い伽藍を悉(ことごと)く焼失し応安の勅書も亦(また)焼失したといいます。この頃越前の領主朝倉氏の外護を受けました。
天文8年(1539)後奈良天皇(ごならてんのう)より、「日本曹洞第一出世道場」の追認を賜り、さらに天正19年(1591)後陽成天皇(ごようぜいてんのう)より重ねて「日本曹洞の本寺並びに出世道場」の諭旨(りんし)を賜りました。
20世門鶴は、関東より永平寺に昇住され、慶長7年(1602)8月、山門を再建されるなど伽藍を整備し、高祖大師の350回忌を奉修されました。 
近世の永平寺
元和元年(1615)21世宗奕禅師(そうえきぜんじ)は徳川家康より永平寺法度を受け、「日本曹洞の末派は永平寺の家訓を守るべし」という命が下されました。 また、宗奕禅師は参内し後水尾天皇(ごみずのおてんのう)より大通智光禅師(だいつうちこうぜんじ)の勅号を賜り以後の矜式(きんしき)となりました。
27世英峻禅師(えいしゅんぜんじ)は幕命により下総総寧寺(しもふさそうねいじ)より昇住して以来、関東三ケ寺より昇住することになりました。関東三ケ寺とは下総総寧寺、武蔵龍穏寺(むさしりゅうおんじ)、下野大中寺(しもつけだいちゅうじ)で、この三刹(さんさつ)を以て僧録と為し諸国の僧録を総轄しました。また、承応元年(1652)には高祖大師400回忌が奉修されました。
寛文元年(1661)越前藩主松平光通公(まつだいらみつみちこう)により寺領20石が、延宝4年(1676)には松平昌親公(まつだいらまさちかこう)により寺領20石が加増され都合70石となりました。
元禄2年(1689)35世晃全禅師(こうぜんぜんじ)は永平寺に昇住するや加賀大乗寺の卍山道白(まんざんどうはく)の助力を得て叢規を復興されました。
正徳4年(1714)3月庫院より出火し佛殿・祖堂・僧堂等9棟を焼失しました。39世則地禅師(そくちぜんじ)は龍穏寺より昇住して享保9年頃に伽藍を再建されました。42世江寂禅師(こうじゃくぜんじ)は寛延2年(1749)8月山門を建立。宝暦2年(1752)43世央元禅師(おうげんぜんじ)は高祖大師500回忌を奉修されました。
また、天明6年(1786)4月、小庫裏より出火して書院等5棟を焼失しました。50世玄透禅師(げんとうぜんじ)は龍穏寺より昇住して伽藍を復興すると共に、高祖大師の規範を復古し綱紀を刷新され、また、高祖大師の正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)を開版して、全国に流布せしめんとされました。享和2年(1802)8月高祖大師550回忌を奉修し、翌年、清規復興(しんぎふっこう)の効により、勅願「祈祷(きとう)」の御撫物(おなでもの)を賜りました。これは明治維新まで毎年の例となりました。
60世臥雲禅師(がうんぜんじ)は大中寺より普住され、嘉永5年(1852)に高祖大師600回忌を奉修しました。また、高祖大師御生家久我(こが)家の上奏により、安政元年(1854)4月孝明天皇(こうめいてんのう)より高祖大師へ佛性伝東国師(ぶっしょうでんとうこくし)の謚号(しごう)が下賜(かし)されました。 
明治時代と今日
明治元年(1868)6月、永平寺は太政官(だじょうかん)より関東三ケ寺の僧録を廃止し、宗政は一宗碩徳(いっしゅうせきとく)の公議に依るべきことが許されました。同4年勅願等も廃され三ケ寺からの昇住も止みました。
明治4年(1871)61世環渓禅師(かんけいぜんじ)は宇治興聖寺より昇住され、翌5年(1872)総持寺との両山盟約が成り、東京に曹洞宗宗務局を置き統治することになりました。
明治12年(1879)5月、承陽殿・孤雲閣等の回録の災いに罹(かか)りました。11月明治天皇より佛性伝東国師(ぶっしょうでんとうこくし、道元禅師)に承陽大師(じょうようだいし)の謚号が宣下され、同14年に承陽殿・孤雲閣等が再建されました。
64世悟由禅師(ごゆうぜんじ)は明治35年高祖大師650回忌を奉修されましたが、これに当たって僧堂と佛殿が再建されました。更に明治天皇より「承陽」の勅額が下賜せられました。同42年(1909)9月、皇太子殿下北陸見学の折り永平寺に行啓されました。
67世元峰禅師(げんぽうぜんじ)の昭和5年(1930)5月、大庫院・光明蔵等を新築して再び伽藍を一新し、二祖懐奘禅師(えじょうぜんじ)の650回忌を奉修され、この時、昭和天皇より懐奘禅師へ「道光普照国師(どうこうふしょうこくし)」の謚号が宣下されました。
73世泰禅禅師(たいぜんぜんじ)は戦後まもなく高祖大師700回忌の準備にかかり衆寮・不老閣等を再建され、昭和27年5月より700回忌を奉修されました。
昭和30年代に入るや永平寺も心の観光地として注目されるようになり、今日では全国末派15000ケ寺と、また全国800万人の檀信徒を擁する曹洞宗大本山として鶴見の総持寺と共に発展しています。
昭和55年は二祖道光普照国師孤雲懐奘禅師が入滅して700年に当たり、4月1日より9月30日までの準法要が挙げられました。4月23日から3週間は本法要として、特に5月13日の正当には故高松宮・同妃両殿下を始め比延山延暦寺座主(ざす)故山田恵諦(えたい)猊下、建仁寺管長故竹田益州(えきしゅう)猊下と妙心寺前管長故梶浦逸外(えつがい)猊下の御焼香を賜りました。
また、10月8日には皇太子・同妃両殿下が行啓され、10月30日には二祖国師700回忌も大円成を以て幕を閉じましたが、昭和56年の夜明けと共に豪雪による未曾有(みぞう)の被害を被(こうむ)りました。
昭和60年、77世貫首に丹羽廉芳(にわれんぽう)禅師が昇住され、昭和61年11月には中国を訪問、次いで昭和62年8月ヨーロッパを巡錫、ヨハネパウロ二世と謁見されるなど、ヨーロッパに於ける曹洞禅道場にも立ち寄られ親密を深められました。
さらに平成元年1月にはスリランカを訪問される等、海外への御親化も多くなっている一方、海外からの訪問も多く、昭和61年には本山内に「永平寺国際部」設置し、その対応に当たっています。また、毎月本山に祠堂入牌されたり、先祖供養される方々の台帳整理のため昭和63年からコンピューターを導入し事務を進めています。
平成5年9月6日に丹羽廉芳禅師が遷化され、78世貫首に副貫首であった宮崎奕保(みやざきえきほ)禅師が昇住され11月30日に普山開堂の盛儀を挙げられました。
平成7年6月には、傘松閣の新築が成り、昭和初期に描かれた230枚の天井絵も修復され、11月には道元禅師750回大遠忌事務局が開設されスローガンは「慕古(もこ)」とされました。
平成8年10月には、比延山延暦寺にて天台大師1400年大遠忌法要の導師を努め、11月には、広く一般にお写経を勧めようと宮崎禅師発願による納経塔(のうきょうとう)が完成。さらに中国の浄慈寺・大梵鐘落成10周年記念法要の為に訪中されるなど、道元禅師750回大遠忌に向けて“慕古”の精神のもとに精力的な活動がなされています。 
いろいろな伝承

 

高祖大師紫衣の辞退
昭和4年に劇作家中村吉蔵博士によって「道元と時頼」が発表され、同16年には「道元の一喝」と題する短編が書かれましたが、その当時これらをもとにして帝劇において松本幸四郎主演で上演されたこともあるという逸話です。
道元禅師は越前永平寺に10余年住持している間にただの一度だけ、鎌倉幕府の副元帥北条時頼に法を説くため鎌倉に下向されました。
いよいよ道誉(どうよ)たかくなった宝治年間の終わりには天聴(てんちょう)に達し、後嵯峨上皇は紫衣を賜ろうとしました。高祖大師は再三辞退されましたが許されず、ついにこれを拝受しましたが一生紫衣を用いることなく、
   永平谷浅しと雖も(えいへいたにあさしといえども)
   勅命重きこと重重(ちょくめいおもきことじゅうじゅう)
   卻って猿鶴に笑われん(かえってえんかくにわらわれん)
   紫衣の一老翁(しえのいちろうおう)
という偈をもって上謝したといいます。もとよりのことは史実として疑わしいもので、江戸時代の「永平開山道元和尚行録」(延宝元年刊)等によって初めて語り伝えられるようになった逸話です。
しかし、この話は高祖大師が世人の讃仰のまととなっていたことを物語るものです。 
玄明首座(げんみょうしゅそ)
宝治元年(1247)8月3日、高祖大師は鎌倉に下向し、約半年間北条時頼に菩薩戒(ぼさつかい)を授け、また、俗弟子のために法を説かれましたが、時頼は寺を建立して開山祖師に招請したといいます。高祖大師は「越州ノ小院モ檀那アリ」として辞退されました。
この時西明寺殿(時頼)は、越前の六条の保に二千石の寺領の寄進を申されましたが、高祖大師はこれも受けられなかった。
たまたま、高祖に随行した玄明首座はこの寄進状の使いに当てられ、永平寺に帰って自分の高名を衆中に得意に語ったといいます。
このことを聞いた高祖大師は玄明首座の態度を罰し、堂内より擯出(ひんしゅつ、追い出すこと)し、玄明首座の坐禅していた僧堂の縁を切り取り、土台の土七尺をも掘って捨てたというのです。
これは史実として認められるかどうかあきらかでないにしても、高祖大師の真摯(しんし)にして峻厳(しゅんげん)な姿を伝えるものです。
明治35年5月、高祖大師650回忌に明治天皇より「承陽(じょうよう)」の勅額(ちょくがく)が下賜(かし)されました。この時、大遠忌法要に随喜(ずいき)中の伊藤巨寛等10名が発願して、時の貫首森田吾由(ごゆう)禅師に玄明首座の恩赦を請願しました。
吾由禅師は玄明首座に代わって高祖大師真前で大展懺謝(だいてんさんじゃ)され、650余年ぶりに破門追放が赦免(しゃめん)されることになりました。
いま、承陽殿下段右側に「玄明首座」という位牌が祀られ、その裏に由来が刻まれています。 
虎刎の柱杖(とらはねのしゅじょう)
高祖大師が入宗の修行中、江西の浙翁如炎(せつおうにょえん)和尚に相見のため径山(きんざん)に登らんとした時、路ばたで老虎と逢いしに、持っていた柱杖でもってハネノケたる故に虎刎の柱杖といいます。
また、この柱杖は龍と化して、その頂上には高祖大師が安坐せられていたととも伝えられています。 虎刎の柱杖は建撕記(けんぜいき)には宝慶寺に在りとされていますが、永平寺宝庫にも保存されています。 
火災の難を救った五百羅漢(らかん)
天正元年(1573)8月、越前の領主朝倉義景(よしかげ)が没落し、新たに織田信長の支配するところとなりましたが、この頃になって新支配に対する一揆が多数蜂起しました。
それは主として一向宗によるもので天正2年には永平寺も焼き討ちに会い、北の庄(福井市)へ避難し新永平寺を建立したといいます。
これが今日の鎮徳(ちんとく)寺の由来で、18世祚玖(そきゅう)禅師を開山とし、越前藩時代は永平寺の後見役を勤めていました。
ところで、山門上の五百羅漢は天正の始め、織田信長の軍勢が朝倉氏の残党を追って永平寺に至った時、数少ない雲水の代わりになって、山門楼上(ろうじょう)より列をなして廻り時間をかせいでついには信長軍を退散させたと語り伝えられています。
真意のほどはあきらかでありませんが、山門上の羅漢が修行僧を救ったという護法の三明六通(さんみょうろくつう)を示されたものです。 
豆殻太鼓(まめがらだいこ)
聖宝閣に展示されている太鼓を「豆殻太鼓」といい、豆殻で出来ているといいます。昭和の初めまで浴室入り口の廊下に鼓楼があり、そこで更点等に用いていたようです。
この太鼓、約250年前の享保の中頃、40世大虚喝玄(たいこかつげん)禅師代に寄進されたもので、九頭龍川の西側千石平という山の麓に住んでいた娘の寄進によるといいます。
この娘は先妻の子供で、ある時、継母は自分の娘と先妻の娘に豆を植えさせました。継母は先妻の娘に「いり豆」をわたしましたが、その中の一粒が芽を出し千石余りの豆が採れ、その殻で太鼓を造って永平寺に寄進したものといわれています。 
嘉永の大梵鐘
聖宝閣に保存されている梵鐘で、小さい方は嘉暦2年(1327)5世義雲(ぎうん)禅師が鋳造した梵鐘で重要文化財に指定されています。
いま一つの大きい梵鐘は嘉永5年(1852)8月、高祖大師650回忌を記念して鋳造された鐘ですが、昭和46年(1971)4月100年ぶりに帰ってきたものです。
幕末から明治10年頃までの祖山は疲弊(ひへい)のどん底にあり、とくに明治維新前後は諸規則の改制、地租改正等で生活の目途を失い、明治6年には当山伝来の諸私物及び釣鐘・衣類まで約160品もの法宝を売り払って借金の返済に当てています。
この時、嘉永の梵鐘も売り払われ、転々として東本願寺福井別院に吊られていました。これが昭和46年に返還されたもので、悲劇の梵鐘ともいうべき祖山の歴史を刻みこんでいます。 
菊華の紋章
永平寺の法堂や唐門(勅使門ともいう)等に菊の紋章をみますが、いつ頃より使用されたかは明らかではありません。
しかし、享和元年(1801)50世玄透(げんとう)禅師が古規復興の功績により、皇室より御撫物(おなでもの、陛下のお召し物)を下賜されて、玉体康寧(ぎょくたこうねい)と宝祚延長(ほうそえんちょう)を祈願するようになってからのことと思われます。
降って文政7年(1824)55世縁産大因(えんざんだいいん)禅師の上洛の折、菊の御紋の使用を許可されていますからそれ以降とも考えられます。 
久我龍胆(こがりんどう)の紋
承陽殿を初め、いたる処にみえる久我龍胆の紋は、高祖大師の生家、久我源氏の御紋です。永平寺で久我龍胆が盛んに使用され始めたのは、明治8年(1875)61世環渓(かんけい)禅師が久我建通(たてみち)の猶子(ゆうし)となり、姓を久我に改めてからと思われ、明治14年(1881)9月、承陽殿が再建され、それに使用されたのが先駆をなすと思われます。 
擂粉木(すりこぎ)
大庫院(だいくいん)前にある擂粉木は長さ15尺(約4メートル余)・太さ3尺5寸(1メートル余)という大きさです。このスリコギはもともと明治35年に改築された仏殿の地突き棒で、捨てるには惜しくスリコギとして残したものです。門前の観光みやげに「すりこぎ羊羹」や「永平寺みそ」が売られ永平寺の名物となっています。誰が詠ったものか「身をけずり人につくさんすりこぎのその味知れる人ぞとおとし」と高祖大師の御詠に準えています。 
大珠数(おおじゅず)
祠堂殿(しどうでん)入口の上に掛けてある珠数は、戦後名古屋の大平寺明禅会の岩田喜三郎氏が発願し、世界平和を祈念して寄進されたものです。長さ50尺(約18メートル)・重さ50貫(250キログラム)の大珠数です。 
永平寺の七不思議

 

夜鳴杉(よなきすぎ)
勅使門(唐門)より山門にいたる鬱蒼(うっそう)とした五代杉は夜々風と共にキィー、ヒィーと妙な音色を出します。ある雲水が門前の娘と恋仲におち、逢い引きができなくなった頃、その娘に子供ができ大杉の根本に捨てられたといいます。いま大杉の根本にある祠は、その霊をまつるとか。  
七間東司(しちけんとうす)
東司というのは御不浄(ごふじょう)・便所のことであるが、禅宗では三黙(さんもく)道場の一つでもあります。 七間というのは必ずしも七間を指すのでなく、七間僧堂といわれるごとく、七間(ななま)に区切られた柱の間をいうと思われます。ある時、新到(しんとう)の雲水があわてて褥子(べっす、親指のわれていない足袋)を履いたまま東司に入り、古参の雲水より罰策(ばっさく)を貰い、それを苦にして東司で自殺したという。それ以来その便所より幽霊が出たという。その為一時解体したが、最近になって再び七間にされました。 
山門の柱の礎石がない
山門は寛延2年(1749)今より約247年前に建立された永平寺最古の建物です。その柱の一つ、老梅橋に向かって左側、二番目の柱に礎石がありません。これは山門建立の時、棟梁の娘を人柱として供養したからだという。大建築につきものの一つのジンクスとでもいうべきか。 
首座(しゅそ)単の生首
ある時、首座(百日間の修行中、大衆の一番頭で何事も率先する)に決まった雲水は、やはり門前の娘と恋仲にあったが、百日間の禁足(一歩も境内よりでられないこと)によって他出することが出来ないのを苦に、 相手の娘を殺して、その娘の首を首座単の函櫃(かんき、行季物入れる戸棚)に入れていたという。時がたってだんだん悪嗅がたち、それが発見され大さわぎになったという。首座和尚にとっては安居禁足があまりに厳しく感じられ、弁道専一(べんどうせんいつ)への反感の心情を示したものか。 
中雀門の拳骨和尚の傷蹟
講談、立川文庫で有名な拳骨和尚こと物外不遷(もつがいふせん、1741〜1867)は伊予松山に生まれ幼少より怪力を以て聞こえ、伊予の竜泰(りゅうたい)寺に出家し不遷と称した。27歳頃に3年程永平寺に安居(あんご)し、ある時ささいな事より中雀門の向かって右側から二本目の柱を平手でたたいたという。その蹟が拳骨和尚によるものといわれる。拳骨和尚こと不遷はその後広島県尾道市の済法寺の住職になり、慶応3年11月25日、73歳で遷化(せんげ)し大阪禅林寺に葬られたというが、中雀門の傷蹟ははたして本当かどうか詳(つまびらか)でない。 拳骨和尚の怪力話は各地にあるから永平寺のものもその一つかと思われます。 
仏殿の「足場くれ」
明治30年10月、仏殿の新築工事中に門前大工の富田新左エ門があやまって二の小屋より足をはずし顛落(てんらく)し、頭脳を打破して死亡しました。それ以来、仏殿の左側鴨居(かもい)上に足場を附しています。時折、仏殿の天井を飛ぶムササビの声によるものか。”足場くれ、足場くれ”と聞こえるとか。 
二祖国師の点検
二祖国師は高祖大師に侍すること20年、高祖大師滅後も生きておられる時とかわらず巾瓶(きんびょう)に随侍(ずいじ)されました。それ故、承陽殿入口の扉は必ず少し開けておく。これは二祖国師が真夜中子刻(ねのこく)になると高祖大師の廟所(びょうしょ)を点検・見廻りされるからであるという。現在でも役寮(やくりょう)点検の時には二祖国師とかち会わないようにするという。 

總持寺1

 

神奈川県横浜市鶴見区鶴見二丁目にある曹洞宗大本山の寺院である。山号は諸嶽山(しょがくさん)。本尊は釈迦如来。寺紋は五七桐紋。境内にある鶴見大学を運営している。
能登国櫛比庄(現在の石川県輪島市)の真言律宗の教院「諸嶽観音堂」が、「總持寺」の前身である。能登の「総持寺」は、明治44年(1911年)の寺基移転にともない「總持寺祖院」と改称されている。
1321年(元亨元年) 曹洞宗4世の瑩山紹瑾は、「諸嶽観音堂」への入院を住職の定賢から請われる。また同年に定賢より「諸嶽観音堂」を寄進され、寺号を「總持寺」、山号は「諸嶽観音堂」にちなみ「諸嶽山」と改名し禅院とする。
元亨2年 後醍醐天皇より「曹洞賜紫出世第一の道場」の綸旨を受けて官寺、大本山となり、曹洞宗を公称する。
住職を5つの塔頭(普蔵院、妙高庵、洞川庵、伝法庵、如意庵)からの輪番制となる。
1615年(元和元年)、徳川幕府より法度が出され、永平寺と並んで大本山となる。
栴崖奕堂以降独住制となる。
1898年(明治31年) 火災で焼失する。
1911年(明治44年) 現在地に移転。現在、旧地に總持寺祖院(石川県輪島市門前町)がある。
永平寺派の「有道会」と並ぶ、「總和会」(總持寺派)の中心寺。  
 
總持寺2

 

曹洞宗の歴史
曹洞宗の流れは、インドでお生まれになられたお釈迦さまの教え、おさとしを幾世代にも渡って祖師方が、悟りの生活を通して、師匠から弟子へと受け継がれ、インドから中国そして日本に伝えられてきたものです。
曹洞宗の源はお釈迦さまですから、ご本尊さまはお釈迦さまです。
そして、お釈迦さまの教えを日本に伝えられ、永平寺を開かれた道元禅師を「高祖」(こうそ)とあがめ、總持寺を開き、教えを全国に広められた瑩山禅師を「太祖」(たいそ)と仰ぎ、このお二人の祖師を「両祖」と呼び、この三師を「一仏両祖」としてお祀りしお慕い申し上げ、信仰のまことをささげています。
拝む時は「南無釈迦牟尼仏」と、お唱えして礼拝します。
現在では、全国に約15,000の寺院と、1,200万人の檀信徒がおります。
両祖
曹洞宗は大本山を二つもっています。福井県にある永平寺と、横浜市にある總持寺です。ちょうど、私達が父と母の両親を持つように、道元さまの永平寺と、瑩山さまの總持寺を両大本山とお呼びします。
道元さまが正しい仏教の教えを中国より日本に伝えられ、道元さまから四代目の瑩山さまが全国に広められ、曹洞宗の礎を築かれました。
大本山
大本山總持寺
石川県にあった諸嶽寺を、1321(元亨元)年、太祖瑩山禅師が諸嶽山總持寺と改められたのが始まりです。明治時代の焼失を機に横浜市に移転しました。交通の便もよく、開かれた禅苑として国際的な禅の根本道場として偉容を誇っています。大本山總持寺
大本山永平寺
高祖道元禅師が1244(寛元2年)に、お釈迦さまの教えを正しく伝えられた仏道修行の根本道場であるという高い理想のもとに開山されました。約750年の伝統を誇る永平寺は、今もつねに二百余名の修行僧が日夜修行に励んでいます。  
瑩山禅師について
誕生〜出家
瑩山禅師瑩山紹瑾禅師は、文永5年(1268)10月8日、陽暦に換算して11月21日に、越前の国、多禰邑(たねむら)の豪族瓜生(うりゅう)邸に誕生されました。熱心な観音信者の母に育てられた禅師は、3歳にして観世音前に「ナムナム・・・」と唱えて拝み、5歳頃には土をこねて仏像をつくったり、経を読み、近隣から観音大士の応現と称されました。
禅師8歳の春、母に連れられ永平寺へ登り、3世徹通義介禅師のもとで沙弥(ひな僧)となり、13歳になると、2世孤雲懐弉禅師に随いて得度式(正式出家)を挙げ、幼名行生を紹瑾に改めて僧列に加えられました。
求法の旅〜總持寺開山
以来、本師徹通禅師に従って宗義を学び、仏経祖録の研鑚を積み、諸国行脚の旅に出られ、臨済・曹洞の宗要をたずね、比叡山では天台教学を修し、永平寺に戻られたのは21歳の秋でした。その後、師の徹通禅師に随って金沢の大乗寺に移り、寺門興隆と民衆布教に専念されました。そして28歳で徳島の城満寺を開き道元禅師のみ教えを広め、4年後大乗寺に帰り禅修行道場の体制を固め、その後数ヶ寺を創立するとともに、たくさんの弟子を導かれ教線の拡張をはかり、石川県能登の門前町に總持寺を開かれたのは禅師54歳の時でありました。
曹洞宗の太祖大師と仰がれる瑩山禅師は、正法を広め宗旨を布演することに全生涯を投じ、偉大なる足跡を残して正中2年(1325)9月29日、58歳で亡くなられたのであります。  
總持寺の概要
大本山總持寺の開創
總持寺の正式名は、「諸嶽山總持寺」といいます。その開創は、700年余もの昔にさかのぼります。
日本海にマサカリのように突き出た能登半島の一角、櫛比庄(現在の石川県鳳至郡)に諸嶽観音堂という霊験あらたかな観音大士を祀った御堂がありました。そこの住職である定賢権律師が、ある夜に見た夢の物語から、總持寺のあゆみが始まります。
元亨元年(1321)4月18日の晩のこと、律師の夢枕に、僧形の観音様が現れ、
「酒井の永光寺に瑩山という徳の高い僧がおる。すぐ呼んで、この寺を禅師に譲るべし」
と告げて、姿を消されたというのです。
不思議な事に、その5日後の23日の明け方、やはり能登の永光寺室中(方丈の間)でいつも通り、坐禅をしていた瑩山禅師も同じような夢のお告げを聞きました。
諸嶽観音堂は、真言律宗の教院であり、瑩山禅師はかねてから禅院にしたいと念じていました。夢のお告げで、瑩山禅師は入山しようと観音堂の門前に進みます。すると門前に亭があり、禅師はそこの鐃鉢を打ち鳴らして、2つの屋根の楼門を仰ぎみます。山門の楼上には、「大般若経六百巻」が備えられ、手前には放光菩薩が安置されていました。すると、たくさんの僧侶たちと、律師自らが出迎え、歓迎しております。禅師は前に進み、この楼門をくぐります。おもわず、「總持の一門、八字に打開す(門を八の字のように打開する)」と唱えたのです。諸堂を巡り、その壮観さに驚きました。
このようにして瑩山禅師は、定賢権律師の入山の要請を快く受けいれて、諸嶽観音堂に入院します。
前述の『縁起』本文中に「入寺の後、30日を経てまた夢をみる云々」とあり、禅師の入寺は、元亨元年5月15日(夏安居)結制の日であったことが知られます。
禅師と律師は、ともに夢告が符合することに感応道交して、律師は霊夢によって一山を寄進し、禅師は快く拝受し、「感夢によって總持寺と号するはこの意なり」と述べられておられます。
寺号を仏法(真言)が満ち満ち保たれている総府として、「總持寺」と改名し山号は諸嶽観音堂の仏縁にちなんで「諸嶽山」と決定しました。
翌元亨2年(1322)、瑩山禅師52歳の時、後醍醐天皇は、臨済僧、孤峰覚明和尚を使者として、10種の勅問を下されました。これに対する禅師の奉答が深く帝の叡情にかなったので、同年8月28日、總持寺は「曹洞出世の道場に補任」されて、その住持は紫衣の法服着用を公に認められました。更に、この年、9月14日、藤原行房卿に命じられて「總持寺」の三字の書額を揮毫させ、これを賜りました。ここで、總持寺は官寺となり、一宗の大本山たることが認められ、勅定によって曹洞宗の教団であることを、宗の内外に公称するようになりました。
鶴見が丘への御移転
瑩山禅師によって開創された大本山總持寺は、13000余ヶ寺の法系寺院を擁し宗門興隆と正法教化につとめ、能登に於いて570余年の歩みを進めてまいりました。
しかし、明治31年(1898)4月13日夜、本堂の一部より出火、フェーン現象の余波を受け瞬時にして猛火は全山に拡がり、慈雲閣・伝燈院を残し、伽藍の多くを焼失してしまいました。
明治38年5月、本山貫首となられた石川素童禅師は焼失した伽藍の復興のみでなく、本山存立の意義と宗門の現代的使命の自覚にもとづいて、大決断をもって明治40年3月に官許を得、寺基を現在の地に移されたのであります
国際的な禅苑
現在の總持寺は横浜市の郊外、前に東京湾と房総半島を望み、後に富士の霊峰がそびえる景勝の地、鶴見が丘に位置し、JR鶴見駅より徒歩わずか5分という交通の便の良さに加え、わが国の海の玄関・横浜に位置するところから、国際的な禅の根本道場として偉容を誇っています。このすばらしい地に15万坪の寺域を有し、鉄筋製の大伽藍をはじめの多くの諸堂が建てられ、能登總持寺の開創から数えて591年目の明治44年11月5日、盛大な遷祖式が執り行われました。
山内には、学校法人総持学園として、三松幼稚園、鶴見大学附属中学校・高等学校、鶴見大学、さらに社会福祉法人諸岳会として、總持寺保育園、精舍児童学園等を経営し、社会に貢献しております。
本山に於いても、各種教化事業を推進し、約200名に及ぶ役寮、大衆(修行僧)、寺務職員、パート職員が一丸となって、 寺門の興隆につとめております。  
 
日蓮宗1

 

1.仏教の宗旨の一つ。法華宗とも称する。鎌倉時代中期に日蓮によって興され、かつては(天台法華宗に対し)日蓮法華宗とも称した。
2.仏教の宗派の一つ。
1.1872年(明治5年)、政策「一宗一管長」制に基づいて合同した日蓮門下の全門流の宗号。1874年(明治7年)、日蓮宗一致派と日蓮宗勝劣派に分かれ解散。
2.1876年(明治9年)、日蓮宗一致派が公称を許された宗号。1941年(昭和16年)、三派合同により解散。
3.1941年(昭和16年)、三派合同により成立した現行の「宗教法人・日蓮宗」。身延山久遠寺(くおんじ)を総本山とする。  
宗旨・日蓮宗の概要
開祖である日蓮の主要著作「立正安国論」のタイトルから類推して、国家主義的(ナショナリズム)傾向の強い教えと見る者がいる。 本節では鎌倉仏教の宗旨日蓮宗(法華宗)の宗祖日蓮の教えならびに分派の大要を紹介する。
教え
法華経(妙法蓮華経)を釈迦の正しい教えとして選び、「南無妙法蓮華経」という題目をとなえること(唱題)を重視。「南無妙法蓮華経」とは「法華経に帰依する」の意であり、「題目」は経典の表題を唱えることに由来する。
日蓮に対する天台教学の影響
日蓮は、天台の教観二門(教相門・止観門)を教学の大綱とし、法華経に対しては天台智の本迹分文により、方便品の開権顕実、寿量品の開近顕遠を二門の教意とする。二乗作仏と久遠実成を法華経の二箇の大事とする。などは天台教学を踏襲するとともに、「法華経の行者」としての自覚と末法観を基調とした独自性を示した。
末法観と法華経
日蓮は、鎌倉仏教の他の祖師たちと同様、鎌倉時代をすでに末法に入っている時代とみなしていた。 そして、法華経を、滅後末法の世に向けて説かれた経典とみなし、とりわけ「如来寿量品」を、在世の衆生に対してではなく、滅度後の衆生の救済を目的として説かれたものとみなした。そして法華経にとかれた
   久遠本仏の常住
   遣使還告の譬
   勧持品二十行の偈文
等を「末法悪世の相」を説いたものとみなした。そして当時の現実の世相(鎌倉幕府内部の権力闘争、天変地異、モンゴル帝国からの使者の到来、釈迦を第一に尊ばない禅や阿弥陀信仰の盛行など)を、日本において法華経がないがしろにされてきた結果とみなした。 日蓮にとっては「末法における顛倒の衆生」、「末法重病の衆生」を済度しうる唯一最勝の良薬は「法華経」のみであった。「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」と激しく他宗を攻撃する「四箇格言」は、法華経のみが末法において衆生を救済する唯一のおしえであり、他の教えは、かえって衆生を救済から遠ざけてしまう、という確信に基づくものであった。
五綱教判
法華経を唯一の正法であり、時間と空間を超越した絶対の真理とした日蓮は、教・機・時・国・序のいずれにおいても法華経が至高であるとする「五綱の教判」を立てた。つまり、「教」(教え)にはおいては、法華経のうち前半14章を迹門、後半14章を本門とし、本門こそ人びとを救済する法華経であるとし、「機」(素質能力)においては、末法に生きて素質や能力の低下した人間にふさわしい教えは法華経であり、「時」は末法であることから法華経が正法とされ、「国」は大乗仏教の流布した日本国にふさわしいのはやはり法華経、「序」(順序)は最後に流布するのは法華経本門の教えであるとした。 「五綱の教判」のなかで、信仰における重要な契機として「時」(末法の世である現在)・「国」(日本国)を掲げるあり方から、こんにちでも、日蓮宗系の各宗派においては、他の宗派にはあまりみられない政治問題への積極的なかかわりがみられる。
日蓮の一念三千
日蓮は、天台教学を「迹門の法華経」であり「理の一念三千」と呼んで、その思弁性・観念性を批判し、みずからの教えを本門として「事の一念三千」を説き、実践的・宗教的であらねばならないとした。日蓮はまた、法(真理)をよりどころとすべきであって、人(権力)をよりどころとしてはならないと説いた。かれは、仏法と王法が一致する王仏冥合を理想とし、正しい法にもとづかなければ、正しい政治はおこなわれないと主張したのである。また、王法(政治)の主体を天皇とし、天皇であっても仏法に背けば仏罰をこうむるとし、宗教上での天皇の権威を一切みとめない仏法絶対の立場に立った。
分派
思想面(本仏の位置付け、妙法蓮華経の解釈)から、大別して3つの分派(門流)が成立した。
釈尊を本仏とする一致派
 日昭門流(浜門流)---日蓮宗
  日朗門流(比企谷門流・池上門流)---日蓮宗
  日像門流(四条門流)---日蓮宗
   日奥門流---不受不施派、不受不施日蓮講門宗
  日静門流(六条門流)---日蓮宗
 日向門流(身延門流)---日蓮宗
 日常門流(中山門流)---日蓮宗
釈尊を本仏とする勝劣派
 日目門流より日郷門流のうち小泉久遠寺・北山門流(談所派)---日蓮宗
 日目門流より日尊門流(要山派)---日蓮本宗
 日像門流より日隆門流---法華宗(本門流)、本門法華宗
 日像門流より日真門流---法華宗(真門流)
 日静門流より日陣門流---法華宗(陣門流)
 日常門流より日什門流のうち妙満寺---顕本法華宗
日蓮を本仏とする勝劣派
 日興門流(富士門流)
  日目門流(戒壇派)
   日道門流(石山派)---日蓮正宗
   日郷門流のうち保田妙本寺---単立
  日代門流(西山派)---法華宗興門流
権力との距離という実践面から、桃山時代末期より江戸時代にかけて
受不施派
不受不施派(悲田派・恩田派)
という区分も生じた。
大正期の門下統合運動
大正時代、顕本法華宗の本多日生を牽引役として、門下各派による統合運動が展開された。
1914年(大正3年)には、日蓮門下7宗派の管長が池上本門寺に集まって、「各教団統合大会議」を開催。同年12月、「日蓮門下統合後援会」が組織された。翌1915年(大正4年)6月、一致派の日蓮宗が離脱したのを除く、勝劣派の6宗派の統合が成立した。また、1917年(大正6年)、門下合同講習会が開催され、同年11月には統合修学林を開校するにいたった。
この時期には門下の9宗派による、宗祖日蓮への「大師」号の授与運動が展開され、1914年(大正3年)11月にいたり、宮内省より日蓮にたいする「立正大師」の謚号宣下が行われた。  
宗派・日蓮宗の概要
中世・近世における自称は法華宗であり、ことに中世において日蓮宗は蔑称と捉えられる向きもあった。
1872年(明治5年)成立の日蓮宗
近代では、1872年 (明治5年) 神道国教化を画策する明治政府の仏教統制政策下、教部省布達「一宗一管長」制に基づいて成立した教団を端緒とする。これには、一致派の身延門流、比企谷門流、中山門流、日昭門流、四条門流、六条門流などの他、勝劣派全門流が合同。初代管長には顕日琳 (勝劣派・陣門流)が就任した 。この時、新居日薩(1874年(明治7年)、身延山久遠寺73世、日蓮宗一致派初代管長)らの活動で、身延山久遠寺(山梨・身延門流)、長栄山本門寺(東京池上・比企谷門流)、正中山法華経寺(千葉・中山門流)、具足山妙顕寺(京都・四条門流)、大光山本圀寺(京都・六条門流)、妙塔山妙満寺(京都・什門流)、長久山本成寺(越後・陣門流)を七大本山とする制度を実施した。しかし、これに京都要法寺を始めとする興門派及び八品派や一致派本山から異論が噴出する。教部省に訴えた結果、七本山の企ては頓挫し、管長は一致派・勝劣派に拘らない年番交代となった。
その後1874年 (明治7年) 3月、宗教行政の無理さや教義の違いから日蓮宗一致派と日蓮宗勝劣派に分かれたため、管長も各派別におくこととなる。前者は一致派全門流の合同教団となり、身延山久遠寺の新居日薩が初代管長に就任した。
1876年(明治9年)成立の日蓮宗
1875年(明治8年) 3月、 日蓮宗一致派は派名廃止を政府に求め、 単称日蓮宗 への変更を請願した。 しかし政府も勝劣派等との関連を考え一度は退けたが、 再三にわたる働きかけのため、 1876年 (明治9年) 2月、 承認する。
宗教法人・日蓮宗
成立までの経緯
宗教団体法による統合
大正期の統合運動は、「学林」(=僧侶の養成機関)問題により一致派の日蓮宗が離脱し、また勝劣派による統合も6宗派の個々の自律性を残すものであったが、1939年(昭和14年)4月、宗教団体を戦争協力させることを目的として制定された「宗教団体法」は、"統合運動"の様相を一変させることとなる。
この法律は仏教・神道・キリスト教の各宗教に対し、教団を国家権力下に管理するため宗派合同を求めるものであり、そして1940年(昭和15年)9月、同法第5条を根拠として、政府は神道・仏教・キリスト教の各宗教界代表を招集。1941年(昭和16年)3月末日までに各宗派の自主的合同を終えるよう通達した。
この通達を受け、1940年(昭和15年)12月、本門法華宗・法華宗・日蓮宗・本妙法華宗・顕本法華宗・本門宗・不受不施派・講門派 の日蓮門下八派が出席する門下合同準備会の第一回委員会 (委員長は日蓮宗の柴田一能) が開かれる。委員会は合同に賛成し、宗名・教義・本尊は特別委員会で決めることとなった。その後、3カ月間で、教義や管長推戴について比較的似通った主張をする宗派で合同する方向にまとまる。特別委員の苅谷日任が本迹問題から合同に反対したこともあって八派全ての合同はならず、1941年(昭和16年)3月、日蓮宗第37宗会は、日蓮宗・顕本法華宗・本門宗が各教団解散の上で対等合併する三派合同を承認し、宗名を日蓮宗とすることが決められた。  
概要
身延山久遠寺を総本山とし、宗務院を池上本門寺(東京都大田区池上)に置く日蓮系諸宗派中の最大宗派。中世期に成立していた門流の多くと、思想的潮流の相当部分を包含する。祖山1(総本山)、霊跡寺院14(大本山7、本山7)、由緒寺院42(本山42)、寺院数5,200ヶ寺、直系信徒330万人。なお、日什門流・日興門流は、門流に所属する寺院の一部が日蓮宗に帰属している。
1941年(昭和16年) / 日蓮宗、顕本法華宗(日什門流)、本門宗(日興門流)が、対等の立場で合併(三派合同)して発足。
1946年(昭和21年) / 大本山法華経寺と一部の末寺が離脱し、「中山妙宗」を立ち上げる。讃岐本門寺が離脱し、日蓮正宗に合流。
1947年(昭和22年) / 大本山妙満寺が離脱し、賛同して離脱した日什門流約200ヶ寺で、昭和25年に顕本法華宗をあらためて組織(合同の維持を主張した旧4ヶ本山と末寺180ヶ寺については日蓮宗什師会を参照)
1949年(昭和24年) / 真言宗智山派清澄寺、日蓮宗に改宗。
1950年(昭和25年) / 本山要法寺と末寺50ケ寺が離脱し、「日蓮本宗」を立ち上げる(日蓮宗にとどまった要法寺の旧末寺30ヶ寺は日蓮宗内部で興統法縁会(1941年発足)にとどまり、島根尊門会を組織。本山下条妙蓮寺が旧末寺6ヶ寺とともに離脱し、日蓮正宗に合流。
1954年(昭和29年) / 最上稲荷妙教寺が離脱し、「最上稲荷教」を立ち上げる。
1957年(昭和32年) / 法華宗陣門流大久寺(小田原市)、日蓮宗に改宗。本山西山本門寺と旧塔頭末寺の一部と共に離脱し、単立となる。日向定善寺が離脱し、日蓮正宗に合流。本山保田妙本寺が旧末寺4ヶ寺とともに離脱し、日蓮正宗に合流(のちに単立)。宮崎県の日郷門流寺院が離脱し、「大日蓮宗」を立ち上げる。
1959年(昭和34年) / 本派日蓮宗寂光寺(大津市)、日蓮宗に改宗。
1960年(昭和35年) / 下条妙蓮寺旧末寺(忠正寺)が離脱し、日蓮正宗に合流。妙見宗安国寺(宝塚市)、日蓮宗に改宗。
1964年(昭和39年) / 法華宗本門流上行寺(富士吉田市)、日蓮宗に改宗。
1965年(昭和40年) / 日蓮教団妙栄寺(大阪市)、日蓮宗に改宗。妙法日慎宗日慎院(奈良県吉野郡吉野町)、日蓮宗に改宗。
1968年(昭和43年) / 法華宗真門流本告寺(舞鶴市)、日蓮宗に改宗。
1972年(昭和47年) / 中山妙宗が解散し、法華経寺他19ケ寺が日蓮宗に復帰。単立寺院になった宝晃寺(台東区)、正中山奥之院(市川市)、雄瀧弁天堂(山梨県南巨摩郡早川町)ものちに日蓮宗に復帰した。本派日蓮宗妙蓮寺(大阪市)、日蓮宗に改宗。
1975年(昭和50年) / 法華宗真門流最然寺(京都市)、日蓮宗に改宗。
1981年(昭和56年) / 法華宗真門流恵光寺(大阪市)、日蓮宗に改宗。日蓮宗最上教妙仙寺(宮若市)、日蓮宗に改宗。
1984年(昭和59年) / 妙法宗護法寺(橿原市)、日蓮宗に改宗。
1986年(昭和61年) / 本山修験宗長徳寺(南丹市)、日蓮宗に改宗。
1989年(平成元年) / 大日蓮宗が解散し、日蓮宗に復帰。
2009年(平成21年) / 最上稲荷教が解散し、妙教寺他8ケ寺が日蓮宗に復帰。
2014年(平成26年) / 法華宗真門流日照寺(泉南市)、日蓮宗に改宗。  
主要寺院
現在の日蓮宗宗制では寺院は祖山、霊跡寺院、由緒寺院、一般寺院に分けられている。江戸時代の本末制度に始まる寺格は昭和16年の本末解体で消滅し実態はないが、日蓮宗宗制では総本山・大本山・本山の称号を用いることができると規定されている。
祖山は日蓮の遺言に従い遺骨が埋葬された祖廟がある身延山久遠寺(日蓮棲神の霊山とされる)で、貫首を法主と称する。霊跡寺院は日蓮一代の重要な事跡、由緒寺院は宗門史上顕著な沿革のある寺院で、住職(法律上の代表役員)を貫首と称する。
祖山、霊跡寺院、由緒寺院は「日蓮宗全国本山会」を組織している。総裁は身延山久遠寺内野日總法主、会長は飯田本興寺浅井日彰貫首、事務局長は北野立本寺上田日瑞貫首。
本山妙教寺は平成21年7月に一般寺院として日蓮宗に帰一したが、客員として長らく日蓮宗全国本山会に参加している為、その他本山としてあげておく。
祖山
総本山身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ、身延山、山梨県南巨摩郡身延町)
霊跡寺院
大本山小湊山誕生寺(こみなとさんたんじょうじ、小湊誕生寺、千葉県鴨川市)
大本山千光山清澄寺(せんこうざんせいちょうじ、清澄清澄寺、千葉県鴨川市)
大本山正中山法華経寺(しょうちゅうざんほけきょうじ、中山法華経寺、千葉県市川市)
大本山富士山本門寺根源(ふじさんほんもんじこんげん、重須本門寺、北山本門寺、静岡県富士宮市)
大本山長栄山本門寺(ちょうえいざんほんもんじ、池上本門寺、東京都大田区)
大本山具足山妙顕寺(ぐそくさんみょうけんじ、顕山、京都府京都市)
大本山大光山本圀寺(だいこうざんほんこくじ、光山、京都府京都市)
本山小松原山鏡忍寺(こまつばらざんきょうにんじ、小松原鏡忍寺、千葉県鴨川市)
本山長興山妙本寺(ちょうこうざんみょうほんじ、比企谷妙本寺、神奈川県鎌倉市)
本山寂光山龍口寺(じゃっこうざんりゅうこうじ、片瀬龍口寺、神奈川県藤沢市)
本山海光山佛現寺(かいこうざんぶつげんじ、伊東佛現寺、静岡県伊東市)
本山岩本山実相寺(がんぽんざんじっそうじ、岩本実相寺、静岡県富士市)
本山塚原山根本寺(つかはらさんこんぽんじ、塚原根本寺、新潟県佐渡市)
本山妙法華山妙照寺(みょうほっけざんみょうしょうじ、一谷妙照寺、新潟県佐渡市)
由緒寺院
本山光明山孝勝寺(こうみょうざんこうしょうじ、仙台孝勝寺、宮城県仙台市)
本山宝光山妙國寺(ほうこうざんみょうこくじ、会津妙國寺、福島県会津若松市)
本山靖定山久昌寺(せいていざんきゅうしょうじ、水戸久昌寺、茨城県常陸太田市)
本山開本山妙顕寺(かいほんざんみょうけんじ、佐野妙顕寺、栃木県佐野市)
本山広栄山妙覚寺(こうえいざんみょうかくじ、興津妙覚寺、千葉県勝浦市)
本山常在山藻原寺(じょうざいざんそうげんじ、茂原藻原寺、千葉県茂原市)
本山妙高山正法寺(みょうこうざんしょうほうじ、小西正法寺、千葉県大網白里市)
本山正東山日本寺(しょうとうざんにちほんじ、中村日本寺、千葉県香取郡多古町)
本山長崇山妙興寺(ちょうそうざんみょうこうじ、野呂妙興寺、千葉県千葉市)
本山真間山弘法寺(ままさんぐほうじ、真間弘法寺、千葉県市川市)
本山長谷山本土寺(ちょうこくざんほんどじ、平賀本土寺、千葉県松戸市)
本山長崇山本行寺(ちょうそうざんほんぎょうじ、大坊本行寺、東京都大田区)
本山日圓山妙法寺(にちえんざんみょうほうじ、堀之内妙法寺、東京都杉並区)
本山慈雲山瑞輪寺(じうんさんずいりんじ、谷中瑞輪寺、東京都台東区)
本山法華山本興寺(ほっけざんほんこうじ、飯田本興寺、神奈川県横浜市泉区)
本山妙厳山本覚寺(みょうごんざんほんがくじ、小町本覚寺、神奈川県鎌倉市)
本山明星山妙純寺(みょうじょうざんみょうじゅんじ、星下妙純寺、神奈川県厚木市)
本山経王山妙法華寺(きょうおうざんみょうほっけじ、玉澤妙法華寺、静岡県三島市)
本山大成山本立寺(だいじょうざんほんりゅうじ、韮山本立寺、静岡県伊豆の国市)
本山東光山實成寺(とうこうざんじつじょうじ、柳瀬實成寺、静岡県伊豆市)
本山富士山久遠寺(ふじさんくおんじ、小泉久遠寺、静岡県富士宮市)
本山龍水山海長寺(りゅうすいざんかいちょうじ、村松海長寺、静岡県静岡市)
本山貞松山蓮永寺(ていしょうざんれんえいじ、みまつ蓮永寺、静岡県静岡市)
本山青龍山本覚寺(せいりゅうざんほんがくじ、池田本覚寺、静岡県静岡市)
本山本立山玄妙寺(ほんりゅうざんげんみょうじ、見附玄妙寺、静岡県磐田市)
本山延兼山妙立寺(えんけんざんみょうりゅうじ、吉美妙立寺、静岡県湖西市)
本山徳栄山妙法寺(とくえいざんみょうほうじ、小室妙法寺、山梨県南巨摩郡富士川町)
本山大野山本遠寺(おおのさんほんのんじ、大野本遠寺、山梨県南巨摩郡身延町)
本山法王山妙法寺(ほうおうざんみょうほうじ、村田妙法寺、新潟県長岡市)
本山蓮華王山妙宣寺(れんげおうざんみょうせんじ、阿仏房妙宣寺、新潟県佐渡市)
本山金栄山妙成寺(きんえいざんみょうじょうじ、滝谷妙成寺、石川県羽咋市)
村雲御所瑞龍寺門跡(むらくもごしょずいりゅうじもんぜき、村雲御所、近江八幡市)
本山法鏡山妙傳寺(ほうきょうざんみょうでんじ、二条妙傳寺、京都府京都市)
本山聞法山頂妙寺(もんぽうざんちょうみょうじ、川端頂妙寺、京都府京都市)
本山叡昌山本法寺(えいしょうざんほんぽうじ、小川本法寺、京都府京都市)
本山広布山本満寺(こうふざんほんまんじ、本称広宣流布山本願満足寺、通称寺町本満寺、京都府京都市)
本山具足山妙覚寺(ぐそくさんみょうかくじ、鞍馬口妙覚寺、京都府京都市)
本山具足山立本寺(ぐそくさんりゅうほんじ、北野立本寺、京都府京都市)
本山広普山妙國寺(こうふざんみょうこくじ、堺妙國寺、大阪府堺市)
本山白雲山報恩寺(はくうんざんほうおんじ、紀州報恩寺、和歌山県和歌山市)
本山自昌山国前寺(じしょうざんこくぜんじ、広島国前寺、広島県広島市)
本山松尾山光勝寺(まつおざんこうしょうじ、小城光勝寺、佐賀県小城市)  
 
日蓮宗2

 

お釈迦さまの教え 
"成仏"して生きることを目指す仏教
病気や死への恐れ、人間関係から起こる悩みなど、人の一生にはさまざまな苦しみがつきまとうものです。ときには、自分の思い通りにならないことに対して憤り、その苦しみに振り回されてしまうこともあるでしょう。でも、できることなら苦しみに振り回されず、安らかに生きたいものです。
お釈迦さまの教えには、「人々を苦しめている根本的な原因は何か」、「苦しみから解放されるにはどうすればよいのか」という一貫したテーマがあります。
全ての人が避けることのできない様々な悩みに対し、お釈迦さまは「生きることは苦に満ちている。それは、あらがいようのない真理である。だから、生きることが苦しいのは当たり前ともいえるのだ」と説かれています。これだけを聞くと、なんだか救いのない話のようですね。ですが、お釈迦さまが伝えたかったのはむしろ、その解決方法。苦しみから解放され、安らかに生きるための方法を、仏教の教えとして私たちに残してくださったのです。
仏教が目指す境地は「成仏」、つまり文字どおり仏に成る≠アとです。"仏"とは世の中の真理に目覚め(=さとり)心は何にも乱されず、その智慧を活かして人々の苦しみや悩みを解決しようとする人を指しています。仏教や成仏というと、お葬式や死後の世界などを連想される方もいるかと思います。しかし、お釈迦さまが繰り返し説いていた教えは、私たちがいのちを授かっているこの"現世"で、いかに悩みや苦しみから開放され、イキイキと生きるかということに尽きます。つまり、"今"をイキイキと生きるための智慧、それが仏教なのです。 
この世の真理を解き明かす4つのキーワード
まず、前述のとおり仏教の出発点は、「一切皆苦(人生は思い通りにならない)」と知ることから始まります。なぜ苦しみが生まれるのでしょうか。仏教ではこの原因を、「諸行無常(すべてはうつり変わるもの )」で、「諸法無我(すべては繋がりの中で変化している)」という真理にあると考えます。これらを正しく理解したうえで、世の中を捉えることができれば、あらゆる現象に一喜一憂することなく心が安定した状態になる――。つまり、苦しみから解放される、とお釈迦さまは説かれています。これが、目指すべき「涅槃寂静(仏になるために仏教が目指す"さとり")」です。
少し難しく感じられるかもしれませんが、それぞれをご自身に当てはめて考えていくと、とても納得しやすいお話になるはずです。それでは、これらの4つの言葉についてご説明していきましょう。
一切皆苦―人生は思い通りにならない
まず、お釈迦さまは、私たちの世界は自分の思い通りにならないことばかりである、という真理を説いています。仏教の「苦」とは、単に苦しいということではなく、「思い通りにならない」という意味です。この「苦」には、「四苦八苦」と呼ばれる八つの苦しみが挙げられます。
いかがでしょう。誰もが実感することばかりではありませんか? これらの苦しみを理解するためには、お釈迦さまが掲げた3つの真理を知る必要があります。
諸行無常―すべてはうつり変わるもの
世の中のあらゆるものは一定ではなく、絶えず変化し続けているという真理です。
世の中の物事は常に変化を繰り返し、同じ状態のものは何一つありません。それにも関らず、私たちはお金や物、地位や名誉、人間関係や自分の肉体に至るまで、様々なことを「変わらない」と思い込み、このままであってほしいと願ったりもします。それが、「執着」へとつながるのです。このような苦しみにとらわれないためには、ものごとは必ず変化するのだということ、全てが無常の存在であることを理解することが大切です。
諸法無我―すべては繋がりの中で変化している
全てのものごとは影響を及ぼし合う因果関係によって成り立っていて、他と関係なしに独立して存在するものなどない、という真理です。自分のいのちも、自分の財産も、全て自分のもののように思いますが、実はそうではありません。世の中のあらゆるものは、全てがお互いに影響を与え合って存在しています。自然環境と同じように、絶妙なバランスのうえに成り立っているのです。こう考えると、自分という存在すら主体的な自己として存在するものではなく、互いの関係のなかで"生かされている"存在であると気がつきます。
涅槃寂静―仏になるために仏教が目指す"さとり"
これは、仏教の目指す苦のない"さとり"の境地を示しています。
仏教に限らず、あらゆる宗教は「どうしたらみんなが幸せになれるのか」を追求します。しかし、世の中は自分の思い通りにならないことばかり。そんなとき、人は自分以外のものに原因を求め、不満になり、怒りを抱くものです。仏教では、こうした怒りは全て、自分の心が生み出していると考えます。その原因となっているのが、疑い、誤ったものの見方、プライドや誇り、欲望などの「煩悩」。こうした煩悩を消し去り、安らかな心をもって生きることこそ「涅槃寂静」、つまり"さとり"の境地なのです。そこに到達するためには、先に挙げた"諸行無常""諸法無我"をきちんと理解することが大切です。あらゆる現象に一喜一憂することなく心が安定した状態になれば、結果として幸せに生きることができるのです。
では、思い通りにならない人生をイキイキと生きるためには、どうすればいいのでしょうか? その答えが、後述する「四諦八正道」という教えに示されています。これは、お釈迦さまが苦しみのメカニズムを説き明かし、煩悩をコントロールして生きる方法を具体的に示してくださったものです。 
苦しみのメカニズムと、その克服方法とは?
四聖諦という教えでは、「なぜ苦しみが生まれるのか」や、「どうすれば苦しみを消し去ることができるのか」が説明されています。
つまり、お釈迦さまは「生きるということは思い通りにならないものだから、執着を捨てなさい。執着を捨てれば涅槃に達することができるから、そのために修行をしなさい」と説かれているのです。
その修行として、「八正道」と呼ばれる8つの正しい道が挙げられています。
これらの8つの正しい行動を行うことが、苦しみから開放されるための修行なのです。
また、偏りがない正しさを「中道」といいます。仏教ではこの思想をとても大事にしており、一方に偏ってもう一方を疎かにすることなく、決して両極端のものに執着することなく、自分自身の安らかな心で迷いなく正しく生きることの大切さを伝えています。八正道は、苦しい修行でも楽な修行でもない、この「中道」の実践的な修行の道でもあるのです。 
お釈迦さまの智慧を暮らしに生かそう!
これまで繰り返し説明されているように、世の中のあらゆる出来事や物質は常に変化し、お互いに影響を与え合う相互関係にあります。ものごとには、必ずそれが起こった原因があります。原因に何かしらの関係が縁となって加わり、結果が生じ、報いがあるのです。一切の現象はこういった因縁の相互関係の上に成立しているので、絶対的なものや不変なものはあり得ません。このように、仏教の根本には、あらゆるものは関わり合って存在しているのだという、「縁起」という教えがあります。
もちろん自分自身も同じように「無我」であり「無常」です。そして、何一つ思い通りになるものはなく、望んだとしても完全に手に入れられるものなどありません。それにも関わらず、人間はありとあらゆるものごとへ不変を望み、そこへ執着してしまいます。
仏教では、このジレンマによって苦しみや悩みが生じると説いています。煩悩は因と縁があるから生まれるものであり、それらの原因を取り払えば、煩悩もなくなります。こう考えると、苦しみに満ちたこの世界は、全て人の心が生み出しているものといえますね。
安らかに生きるためにまず知るべきことは、「世の中には思い通りにならないことがたくさんある。自分にとって都合のいいことばかりは起こらない」という現実です。そこを出発点にして、自分や世の中を見つめて、苦しみや悩みを取り去る方法を探しましょう。
いろいろな縁(つながり)によって生かされている私
そこで大切なのは、ものごとにこだわらないこと、偏った見方をしないこと。さらに、この世の全てはお互いに関係しあい、つながっているのだということを理解すること。
世の中のあらゆるものが無常であると知っているから、一期一会の出会いを大切にし、自分をめぐる仕事や人間関係の一つひとつのことも丁寧に謙虚に愛情を込めて行うことができます。全てが縁起によって成り立つものだと知っているから、自分以外のものへ慈悲の心をもって接し、一瞬一瞬を尊く生きることができます。生かされている"いのち"で毎日を大切に生き、自分本位でなく周りへの思いやりを持って行動することは、苦しみの原因である執着をコントロールすることにもなります。
これが"今"をイキイキと生きるお釈迦さまの智慧です。お釈迦さまは、全ての人々を慈しみ、苦しみから逃れて幸せになれるようにと願い、このような教えを今に残されたのです。 
お釈迦さまの生涯
紀元前5〜6世紀頃、インドの北部(現在のネパール)の釈迦族の王子として生まれたお釈迦さまは、幼いころから何不自由のない暮らしを送っていました。しかしいつしか、「生まれてきた者は、年老いて、病気にもなり、そしていつか必ず死んでしまう」という、誰一人として逃れることのできない問題に深く思い悩むようになります。
29歳となったある日、お釈迦さまはこれらの苦しみの解決方法を求め、修行をする決意を固めました。王子としての立場や地位を捨て、妻や息子からも離れ、全てのものを捨てて、旅立つこととなったのです。
お城を出たお釈迦様は、2人の仙人を訪ねて、教えを乞います。しかし、納得する答えを得ることはできませんでした。それからは、自ら答えを見つけようと、心の乱れを抑える苦行、断食の苦行、呼吸を止める苦行など、過酷な修行を自らに課し続けます。ところが、体が極限までやせ細り、骨と皮だけの姿になるまで苦行に励んでもなお、苦しみを解決することはできなかったのです。
苦行を止めたお釈迦さまは、菩提樹の下で静かにこれまでを振り返ります。恵まれすぎていた王宮と、苦しい修行という両極端の生活。そして、そのどちらでもない、今この瞬間の静かな瞑想――。このとき、「極端な生活は極端な考え・心を生み出してしまう」と気づきました。これをきっかけに、ついに苦から解き放たれた"さとり"の境地に達し、ブッダ(=さとりを開いた人の意)となったのです。城を出て6年が経った12月8日、お釈迦さまが35歳のときでした。
この"さとり"の内容をかつて一緒に修行した5人の僧侶に伝えたお釈迦さまは、その後も45年間に渡り、各地方へと教えを説いてまわりました。そして、80歳で死の床に伏す瞬間まで真理を説き続け、多くの人々を進むべき道へと導いたのです。 
法華経の教え 
みんな一人ひとりが仏になれる
法華経は、数ある仏教経典の中でもお釈迦様の教えの集大成と言われる経典で、第一章から第二十八章で構成されています。
前半部分の中心となるお経「方便品第二」には、みんな一人ひとりが仏になれる、そしてどのような人でも「仏の心」(仏性)が備わっていると説かれています。人だけではありません。動物も植物も大地も、全ての生きとし生けるものに「仏の心」はあるのです。
"自分"の心の中を考えてみても、そのなかにはさまざまな側面が存在していることに気がつきます。お釈迦さまは、私たちの心のなかに10の世界が備わっていると説かれました(十界互具)。それは「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏」の世界。これらのそれぞれが、お互いに関わり合い、私たちの一つの思いを成り立たせているのです。
たとえば、あなたが電車のなかで席に座っていたとします。そこに身体の悪いお年寄りがいたら、「席を譲ってあげよう」と思うでしょう。それが仏の心です。でも一方で、「今日は疲れているから、見て見ぬふりをしよう」と思うときもありますよね。それは悪い心が表れているのです。もちろん、人の心はいつも一定ではありません。だからこそ、その仏の心を少しずつ大きくしていくのが、仏教に生きるということ。善いことをする、悪いと思ったことはしない。とてもシンプルですが、仏になるとは、そういうことです。
そんな全ての仏さまに感謝し、手を合わせるのが、日蓮聖人が説いたお題目=「南無妙法蓮華経」の世界です。「南無」とは、一心に仏を信じることで、「妙法蓮華経」の五字には、お釈迦さまが多くの人を教え導いた智慧と慈悲の功徳が、全て備わっているといわれています。全てに備わる「仏の心」を信じ、この「南無妙法蓮華経」のお題目を口に出して唱えることで、自分のなかにある「仏の心」をも呼び現していこうとしているのです。 
お釈迦さまがいつも見守っているって本当?
私たちの住むこの世界は、楽しいこともたくさんありますが、辛いこと、苦しいこと、嫌なこともたくさんありますよね。お釈迦さまの本当の願いは、そんな私たちひとり一人の苦しみを救うことにあります。ですから、生き迷う私たちのためにお釈迦さまは「私はいつもここにいて、教えを説いていますよ」と説いてくれています。
これを"久遠のお釈迦さま"といいます。
法華経の中で最も大切だとされているのが「如来寿量品第十六」のお経です。なぜなら、前述の「過去・現在・未来を超えて、永遠の存在であるお釈迦さまは、私たちをいつも近くで見守り、助けてくださる」ということが書かれているからなのです。
そんなお釈迦さまの"いのち"を私たちは受け継いでいます。"いのち"とは、単に肉体的な生命としての意味ではなく、お釈迦さまの慈悲の心であり、安穏な世の中を願う想いであり、みんながイキイキ生きるという意志でもあります。全ての生きとし生けるものの"いのち"と、お釈迦さまの"いのち"はつながっています。だから、私たちの心のなかにも、"仏"がいらっしゃる―。
とはいえ、「いつも見守っている」と言われても、宇宙の神秘的な話のようで、にわかには信じがたいですよね。これは、科学的な「理解」の世界ではなく、宗教的な「信」の世界のお話になります。苦しみに満ちた世の中にあっても、一心に仏を恋慕し仏さまを信じれば、必ず救いの手をさしのべてくださる。それが、お釈迦さまの無限の救済する力であり、神秘的な力です。
ですから法華経の信仰は、頭で理解するのではなく、心の信心が大切になります。まず第一に、信じる心を持って仏の道を進む努力をすることが「法華経に生きる」ということ。その大切さが、このお経で説かれているのです。 
どんなときも"いのちに合掌"を忘れずに
「常不軽菩薩品第二十」というお経では、人々を礼拝し続けた一人の菩薩「常不軽菩薩」のことが書かれています。この方は、この世に存在する皆が仏の子であり、一人ひとりのなかに仏がいるのだ、というお釈迦さまの教えを信じました。そして、どんな職業の人にでも、どのような地位や身分の人にでも、全て分け隔てなく、「あなたは仏になる人です」と合掌をしたのです。ときには、全てが「仏」になるという真理を理解しない人が悪口を言い、棒で打ち、石を投げつけることもありました。それでも、決して怒ることなく、さらに強く「あなたは仏になる人です」と合掌礼拝を続けられたといいます。
このようにどんなときにも、全ての人に、敬いの気持ちを表し続けたことから、「悩み苦しむ人々を利他の心、慈悲の心で救う方」という意味を込め、「菩薩」と呼ばれるようになったのです。
人はもちろん、動物にも草木にも大地にも"いのち"があります。この"いのち"を、遥か昔から脈々と「仏のいのちを継いできたもの」と受け止め、「ありがたい」と敬いと感謝の思いを込めて手を合わせることが、「合掌する」ということです。
食事のときに「いただきます」と、たくさんのいのちに感謝をして手を合わせますよね。これも、「いのち」に感謝し敬う心を行動に表した姿です。日本人が昔から使っている「もったいない」、「ありがたい」、「おかげさま」という言葉も、同じような心が込められたものだといえます。お寺で、家庭で、様々な場で合掌し礼拝するということには、いずれも感謝と尊敬の意味が込められています。
全ての「いのち」を「仏のいのち」と受け取り、「ありがたい」と感謝の思いを込めて合掌する。ぜひこの心を忘れずに生きていきたいものです。 
あなたも菩薩になろう!―イキイキ生きる6つの方法
「菩薩」といわれる人がいます。法華経を信じて、たくさんの人にお釈迦さまの智慧を広める。人の苦しみを自分の苦しみとして受け止める。困っている人を助ける。世の中の役に立ちたいと願い、それを実行する。こんな生き方ができる人は皆、一人ひとりが菩薩なのです。法華経ではたくさんの菩薩といわれる人たちが登場しますが、その生き方はとても魅力的です。人のために尽くし、相手の身になって考え行動する――、そんな菩薩のような生き方を、私たち一人ひとりが心がけたいものです。
では菩薩になるためには、具体的にどのようなことをすれば良いのでしょうか? その答えとなる『六波羅蜜』では、私たちが心がけるべき6つの修行が説かれています。
もう一つ、大切な教えがあります。
それは自分だけが救われることを考えるのではなく、他の人々のために行動するための智慧「慈悲喜捨」です。母親が子どものことを大切に想うように、この世に生きているあらゆるものに対して心配し、助けてあげられる「慈悲」の心。これに加え、他者の安楽を自分の喜びと感じる「喜」と、自己と他者、敵と味方といった区別なく人を見る「捨」の心を指す教えです。
世の中は全て関わりあっていますから、分け隔てなく全ての人やものに尊敬と感謝の心を持ち、その幸せを願っていれば、きっと自分も幸せになることでしょう。それが、菩薩の生き方です。
今からできることとして、まずは人と接するときに優しく微笑むことから始めましょう。それが、慈悲と布施のはじまりであり、あなたがイキイキ生きる人―「菩薩」になるための大きな一歩です。
泥のなかでも決して泥に染まることなく、美しい花を咲かせる「蓮の花」。世の中は欲が満ちあふれ苦しいことばかりですが、そのなかで私たちは決して悪に染まることなく美しい人生の華を咲かせたいものです。そのための智慧や人生をイキイキと生きるヒントが「法華経」に満ちあふれています。 
日蓮聖人の教え 
なぜたくさんの仏教宗派がありながら、世は乱れるのか?
日蓮宗の宗祖、日蓮聖人は、貞応(じょうおう)元年(1222年)2月16日に現在の千葉県鴨川市に、漁師の子として生まれました。
日蓮聖人が生きた鎌倉時代は、飢饉や流行り病、天災などが相次ぎ、また幕府と朝廷の権力争いが続く混乱した時代でした。そんな中、幕府や朝廷の後ろ盾を得て多くの仏教宗派が教えを広めます。ところが、世の中の混乱は一向に静まりません。為政者は加持祈祷に頼りっきりで民衆の生活を改善する努力を放棄し、一方の寺院は自らの特権にしがみつくばかり。もはや人々は現世の救いをあきらめ、来世に望みを託すしかないというありさまでした。
そんな現状に、この地域の名刹・清澄寺で出家し、勉学に励んでいた若き日の日蓮聖人は疑問を持つようになります。「人を幸せにするはずの仏教宗派がたくさん咲き乱れているのに、なぜ世の中は更に乱れるばかりなのであろうか。そもそも一人のお釈迦さまの教えであるはずの仏法に、なぜこれほど多くの宗派が存在し、その優劣を争っているのだろうか――」。そして、本当に人々を救うことのできる、真の仏法を求める旅がここから始まるのです。
このとき、世の安穏を実現する教えを捜し求めていた日蓮聖人は、仏法の全てを知り尽くしたいという使命感にあふれていました。そのことは「私を『日本第一の智者』となし給え」と21日間、不眠不休で寺の本尊・虚空蔵菩薩に願を立てたというエピソードからも伺えます。 
徹底的な勉学の末、法華経にたどり着く
日蓮聖人は、32歳までの10数年をかけ、比叡山をはじめ、薬師寺・高野山・仁和寺などで仏教の教えを徹底的に学びました。 その結果、来世ではなく現世での在り方を問い、"今をイキイキと生きること"が説かれた「法華経」こそ、混迷した世の中を正し、人々を救う「お釈迦さまの真の教え」である、と確信を得たのです。
建長5年(1253年)4月28日に旭ヶ森(現在の千葉県鴨川市・清澄寺)で、日蓮聖人は初めて「法華経を心の拠り所にします」という意のお題目「南無妙法蓮華経」を唱えます。そしてこのときから、自らを新たに「日蓮」と名乗るようになったのです。法華経のように"太陽の如く明らかで、蓮華の如く清らかでありたい"との願いを込めた「日蓮」という名は、法華経の行者として生き抜く決意のあらわれだったのです。これが日蓮宗のはじまり、立教開宗の日です。 
自らの幸せを願うなら、まず社会の安穏(あんのん)を祈るべし
「この世界こそが仏の在(ましま)す浄土である。この世を捨ててどこに浄土を願う必要があろうか〔来世に望みを託すのではなく、今生きているこの世界にこそ、希望を求め続けるべきだ〕」。
「一身の安堵を思わば、まず四表(しひょう)の静謐(せいひつ)を祈るべし〔自らの幸せのためにも、広く社会全体が平穏無事であるよう願い、そのような世の中になるために皆努力するべきだ〕」。
立教開宗を宣言した日蓮聖人は、当時幕府が置かれていた政治の中心地・鎌倉の町辻に立ち、道行く人々に、法華経を説き続けました。
しかし、「法華経こそが、お釈迦さまの真の教えである」という日蓮聖人の主張は、その当時の仏教各宗派や、その既成仏教を支援していた幕府や朝廷の反感をも買うこととなりました。それでもなお、日蓮聖人は、混迷する国家の救済を目指した渾身の書『立正安国論』を当時の権力者・北条時頼に建白し、法華経を根本とした国づくりをするよう、命をかけて諌めたのです。
『立正安国論』のなかで日蓮聖人は、そもそも世が乱れる根本的な原因は、来世での救いしか求めない民衆の誤った信仰や、加持祈祷(かじきとう)のみに頼る幕府の間違った政策にあると断言。幕府が行いを改めなければ、国内は更に乱れ、外国からの攻撃も受けるにいたるだろうと予言しました。
自らの幸せを願うのであれば、正しい教えのもと、社会全体の幸せを願わなくてはならないと訴えたのが「立正安国」の思想なのです。 
たび重なる法難でより研ぎ澄まされた思想と法華経への信仰
しかし主張が受け入れられることはなく、日蓮聖人は鎌倉松葉谷草庵焼き討ち、伊豆流罪、小松原の襲撃、龍ノ口での斬首の危機など様々な迫害を受けることになります。
一方で「迫害を受けるのは法華経を広める者の証」とその強い意志を曲げることなく法華経を広める日蓮聖人の姿に、人々は心を動かされ、この頃から次第に教えに帰依する人の輪が大きく広がり始めました。
すると今度は、その力を恐れた幕府が日蓮聖人を、佐渡へと流罪にしてしまうのです。
果てるともなく続く逆境の毎日――。しかし、日蓮聖人はひたすら思索を続け、自らの思想を更に研ぎ澄ませていきます。
そうして、ついに日蓮聖人の宗教思想の結晶ともいえる『観心本尊抄(かんじんほんぞんしょう)』を著しました。
お釈迦さまの智慧と慈悲を5文字に宿らせた「妙法蓮華経」。その5文字に心から帰依することを表す「南無妙法蓮華経」というお題目を受け入れ、唱えることで、お釈迦さまの功徳を全て譲り受け、誰もが仏となることができる、そう説かれたのです。 
すべては正しい教えで良い社会をつくるために
『立正安国論』の中で予言された外国からの攻撃が、蒙古襲来というかたちで現実のものとなると、幕府は日蓮聖人の流罪を解き、鎌倉に呼び戻します。しかし、幕府が、『立正安国論』の真意を汲み取ろうとしていないことを悟ると、日蓮聖人は鎌倉を離れ、山梨にある身延山(現在の身延山久遠寺)へと身を置きます。ここで、国の将来を見据え、法華経を受け継ぎ「南無妙法蓮華経」=お題目を広める仏弟子の教育・育成に力を注ぎました。後に、この身延山で学んだ弟子や信徒らによって、教えは全国へと広がることとなったのです。
法華経の行者として激しく生き続けてきた日蓮聖人ですが、その人生ゆえに、満足に親孝行ができなかったことを振り返ることもありました。遠く安房の国が望める身延山の山頂に登っては、亡くなられた両親への追慕に涙したと伝えられます。「その恩徳を思えば、父母の恩・国主の恩・一切衆生(いっさいしゅじょう)の恩なり。その中、悲母(ひも)の大恩ことに報じがたし」。受けた恩を思うならば、人間に生まれて法華経に出会わせてくれた父母の恩、国の恩、全ての人びとの恩にむくいていかなければならない。なかでも母よりうけた大きな恩は、とてもむくいることができないほど重い――。母に対する思慕の深さが伺えます。不屈の精神の持ち主でありながら、こうした温もりのある一面も持ち合わせていた日蓮聖人。それが、多くの人の心を惹きつけてやまない魅力なのかもしれません。
その後も9年間に渡り弟子の育成を続けた日蓮聖人は、長年の厳しい生活で崩した身体を癒すため常陸の国(現在の茨城県)の湯治場へ向かいます。しかし途中、池上宗仲邸(現在の東京都・池上本門寺)で容態が悪化。ついには立ち上がることもできなくなりました。それでも最後の力を振り絞り、弟子たちに『立正安国論』の講義をしたといいます。
10月13日の朝、日蓮聖人は弱冠13歳の経一丸(きょういちまろ、後の日像上人)を枕元に呼び京都での布教を託すと、多くの弟子たちに見守られながら、61歳の生涯を閉じたのです。 
世界へと広がる日蓮聖人の教え
ご入滅後も日蓮聖人が一生涯を捧げた法華経の信仰は、身延山久遠寺(くおんじ)を総本山として、弟子達の手で更に大きく花開いてゆきます。日蓮聖人の遺志を受け継いだ弟子達が、全国各地でお題目の布教に努めたのです。
そして日蓮聖人の悲願でもあった、京都での布教に向かった日像上人は、三度の追放と赦免という法難を受けながらも布教に尽力し、ついに建武元年(1334年)後醍醐天皇より、妙顕寺(京都市上京区)を勅願寺(ちょくがんじ)にするという綸旨(りんじ)を賜ります。このことにより、日蓮聖人の教えは、揺るぎない地位を獲得することになったのです。
室町時代には、京都の民衆の実に7割以上が、日蓮聖人の教えを信仰するようになりました。そして京都での布教の成功をきっかけに、日蓮宗は日本全国へと広がっていきます。
現在では、日蓮宗は日本全国に5000の寺院を有し、信徒は300万人を数えます。またその教えは、世界中へと広がっています。
「民衆の苦悩を取り除き、より良い社会を作りたい」という一心からはじまった日蓮聖人の教えは、数百年の時を越えて、私たち現代人の心に深く生きづいています。 
お題目とは
日蓮聖人が大切にした「法華経」には、どのような人でも全て平等に「仏の心」(仏性)が備わっていると説いてあります。それは、人だけではありません。動物も植物も大地も、全ての生きとし生けるものに「仏の心」はあるのです。その全ての仏さまに感謝し、手を合わせるのが、お題目=「南無妙法蓮華経」の世界です。
「南無」とは、一心に仏を信じること。「妙法蓮華経」の五字には、お釈迦さまが多くの人を教え導いた智慧と慈悲の功徳が、全て備わっているといわれています。
全てに備わる「仏の心」を信じ、この「南無妙法蓮華経」のお題目を口に出して唱えることで、自分のなかにある「仏の心」をも呼び現していこうとしているのです。 
日蓮聖人の生涯
1222年貞応元年 2月16日千葉県安房郡小湊に誕生。幼名・善日麿
1233年天福元年 清澄入山、道善房(天台僧侶)に師事 / 5月12日、父母の元を離れ近くの天台宗清澄寺(現在は日蓮宗)で仏修行に励むこととなった日蓮聖人は、この寺で四年間、寝食を忘れて学問や修行に打ち込みました。そして虚空蔵菩薩に「日本一の智者となしたまへ」と祈願されました。
1237年嘉禎三年 出家得度 / 天台宗清澄寺の道善房を師として正式に出家し、名を「是聖房蓮長」(ぜしょうぼうれんちょう)と改めました。
1238年暦仁元年 鎌倉遊学へ出発。念仏及び禅を修学。
1242年仁治三年 鎌倉遊学より清澄山へ帰還。/『戒体即身成仏』を述作。さらに比叡山へ遊学。
1253年建長五年 立教開宗 / 4月28日早朝、清澄山の旭森(あさひがもり)山頂に立ち、太平洋の彼方に暁闇を破って差し昇る朝日に向かって高らかに「南無妙法蓮華経」と、初めてお題目を唱えついに立教開宗の宣言をされると共に三つの誓願(上記記載)を立てられたのです。同時に名を「日蓮」と改められました。日昭入門
1254年建長六年 辻説法を開始。日朗入門
1258年正嘉二年 静岡県岩本寛相寺にて一切経を閲読。日興入門
1260年文応元年 『立正安国論』を述作。松葉ヶ谷法難 / 7月16日、『立正安国論』を著し、前執権で幕府最高の実力者の北条時頼に送りました。この書は、地震・洪水・飢饉・疫病などの災害が起こる原因は、民衆や幕府の間違った信仰にあるとし、仏教経典を根拠に、正法たる法華経を立てなければ自界叛逆難、他国侵逼離などの災いが起こると説かれています。『立正安国論』が建白されて40日後、幕府や念仏批判に恨みを持っていた僧らにより、松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされましたが難を逃れました。
1261年弘長元年 伊豆法難 / 5月12日、日蓮聖人は、反感を持つ者の讒言(ざんげん)により捕らえられ、伊豆へ流されました。
1263年弘長三年 伊豆流罪赦免
1264年文永元年 小松原法難 / ご説法に赴くため東条の松原の大路にさしかかった日蓮聖人一行は、地頭の東条景信(とうじょうかげのぶ)の軍勢に襲撃され、弟子一人は討ち取られ、自らも眉に三寸の疵(きず)を負わされました。
1271年文永八年 龍口法難・佐渡流罪 / 幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕らえられ、腰越龍ノ口刑場にて処刑されかけますが、江の島の方向から月のように輝くものが飛んできて、刀を三つに折り、処刑役人は目が眩み、その場に倒れ、兵士たちは恐れおののき、斬首の刑は中止され、その後佐渡流罪となりました。
1272年文永九年 2月『開目抄』述作。
1273年文永十年 4月25日『観心本尊抄』述作。/ 7月8日大曼荼羅御本尊を初めて書き顕示。
1274年文永十一年 佐渡流罪より赦免され鎌倉へ帰還 / 4月8日、赦免され鎌倉に戻った日蓮聖人は、平頼綱から蒙古襲来の予見を聞かれますが、法華経を立てよとの幕府に対する3度目の諌暁をおこないましたが、幕府は聞く耳をもちませんでした。身延山入山 / 5月17日、波木井実長の招きで山梨県の身延山に入り、この地で法華経を末法万年に伝える人材養成に務め、大勢の弟子や信者と共に、昼夜に法華経の講義や唱題修行に精進されました。
1275年建治元年 6月『撰時抄』述作。
1276年建治二年 師の道善房死亡。/ 7月21日墓前に『報恩抄』を棒読。
1281年弘安四年 身延に十間四面の大堂建立。
1282年弘安五年 湯治のため身延下山 / 9月8日、常陸の湯で持病を癒そうと出た旅の途中、18日武蔵国池上宗仲公の邸(東京都大田区池上 = 現在の池上本門寺)で養体が悪化し休息されました。 六老僧を制定 / 日蓮聖人は御入滅になることを予感され、池上の地で本弟子六人を定め、力を合わせ法華経流布に精進すことを命じ、日蓮聖人生涯の精神的帰依ともいうべき『立正安国論』の講義をされました。 池上にて御入滅 / 10月13日辰の刻(午前8〜10時)、弟子・信者多数の唱題の中、静かにご生涯を閉じられました。池上の山に季節外れの桜の花が咲き、日昭上人の打つ臨終を知らせる鐘の音が悲しく響きました。 
 
久遠寺1

 

山梨県南巨摩郡身延町にある、日蓮宗の総本山(祖山)。山号は身延山。
文永11年(1274年)、甲斐国波木井(はきい)郷の地頭南部六郎実長(波木井実長)が、佐渡での流刑を終えて鎌倉に戻った日蓮を招き西谷の地に草庵を構え、法華経の読誦・広宣流布及び弟子信徒の教化育成、更には日本に迫る蒙古軍の退散、国土安穏を祈念した。
弘安4年(1281年)に十間四面の大坊が整備され、日蓮によって「身延山妙法華院久遠寺」と名付けられたという。日蓮は弘安5年(1282年)9月に湯治療養のため常陸(加倉井)の温泉と小湊の両親の墓参りに向かうため身延山を下ったが、途中、信徒であった武蔵国の池上宗仲邸(現在の東京都大田区本行寺)にて病状が悪化したため逗留し、6人の弟子「六老僧」を定めて、同地において同年10月13日に死去した。「いづくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候」との日蓮の遺言に従い、遺骨は身延山に祀られた。当地では足かけ9ヵ年の生活であった。
日蓮の身延山での生活は日蓮遺文に記されており、「人は無きときは四十人、ある時は六十人」とあるように、大人数で生活をしていたと考えられている。各地の信徒より生活必需品が多く届けられ、日蓮はこの身延山をインドの霊鷲山に見立て、信仰の山として位置づけている。遺文の3分の2は身延山での生活する中で執筆されており、日蓮真筆の曼荼羅もほとんどがここ身延山で手がけられている。身延山は日蓮教団における最高の聖地であると位置づけられており、日蓮の遺骨は歴代の法主(住職)により、日蓮の遺言通り今日まで護られている。
室町時代の文明7年(1475年)には、11世法主日朝により、手狭になった西谷から現在地に伽藍が移転され、戦国時代には甲斐国守護武田氏や河内領主の穴山氏の庇護を受け、門前町が形成された。江戸時代には日蓮宗が徳川氏はじめ諸大名の帰依を受け発展し、宗門中興三師と賞される日重・日乾・日遠のころ、身池対論を経て対立する不受不施派を排斥して確固たる地位を確立した。その後、日脱・日省・日亨の三師で壮大な伽藍を整えて盛期を迎える。文政4年(1821年)には火災で諸堂を焼失。その後復興されるも、明治8年(1875年)1月に西谷本種坊からの出火により再び伽藍や寺宝を焼き尽くしたが、74世日鑑の尽力とその後の法主等の力により現在に至る。
久遠寺には数多くの経典や典籍・書籍、聖教や古文書類(身延山文書)が所蔵されており、「身延文庫」として一括され身延山宝物館に所蔵されている。
現法主は92世内野日總法主(台東区瑞輪寺より晋山、潮師法縁) 
 
久遠寺2

 

久遠寺縁起 
身延山久遠寺の由緒 
鎌倉時代、疫病や天災が相次ぐ末法の世、「法華経」をもってすべての人々を救おうとした日蓮聖人は、三度にわたり幕府に諫言(かんげん)を行いましたが、いずれも受け入れられることはありませんでした。当時、身延山は甲斐の国波木井(はきい)郷を治める地頭の南部実長(さねなが)の領地でした。日蓮聖人は信者であった実長の招きにより、1274(文永11)年5月17日、身延山に入山し、同年6月17日より鷹取山(たかとりやま)のふもとの西谷に構えた草庵を住処としました。このことにより、1274年5月17日を日蓮聖人身延入山の日、同年6月17日を身延山開闢(かいびゃく)の日としています。日蓮聖人は、これ以来足かけ9年の永きにわたり法華経の読誦(どくじゅ)と門弟たちの教導に終始し、1281(弘安4)年11月24日には旧庵を廃して本格的な堂宇を建築し、自ら「身延山久遠寺」と命名されました。
翌1282(弘安5)年9月8日、日蓮聖人は病身を養うためと、両親の墓参のためにひとまず山を下り、常陸の国(現在の茨城県)に向かいましたが、同年10月13日、その途上の武蔵の国池上(現在の東京都大田区)にてその61年の生涯を閉じられました。そして、「いずくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候」という日蓮聖人のご遺言のとおり、そのご遺骨は身延山に奉ぜられ、心霊とともに祀られました。
その後、身延山久遠寺は日蓮聖人の本弟子である六老僧の一人、日向(にこう)上人とその門流によって継承され、約200年後の1475(文明7)年、第11世日朝上人により、狭く湿気の多い西谷から現在の地へと移転され、伽藍(がらん)の整備がすすめられました。のちに、武田氏や徳川家の崇拝、外護(げご)を受けて栄え、1706(宝永3)年には、皇室勅願所ともなっています。
日蓮聖人のご入滅以来実に700有余年、法灯は綿々と絶えることなく、廟墓は歴代住職によって守護され、今日におよんでいます。日蓮聖人が法華経を読誦し、法華経に命をささげた霊境、身延山久遠寺。総本山として門下の厚い信仰を集め、広く日蓮聖人を仰ぐ人々の心の聖地として、日々参詣が絶えることがありません。 
日蓮聖人の生涯 
「法華経」こそ末法救済の唯一の経典
日蓮聖人は、1222(貞応元)年2月16日、安房国東条郷(現在の千葉県安房郡天津小湊町)でお生まれになり、「善日麿」(ぜんにちまろ)と命名されました。1233(天福元)年、日蓮聖人12歳のとき、生家近くの清澄寺(せいちょうじ)にのぼり道善房に師事、「薬王丸」(やくおうまる)と改名。16歳のとき正式に出家得度し、「是聖房蓮長」(ぜしょうぼうれんちょう)と号されました。
若き日の日蓮聖人は、清澄寺にて本尊の虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となしたまえ」と祈願されて以来、鎌倉・比叡山・高野山などを遊学し、ひたすら勉学に励まれました。諸経・諸宗の教学を学んでゆく中で、「法華経」こそが末法の世のすべての人々を救うことのできる唯一の経典であることを確信されます。
そして、十有余年にわたる遊学を終えて恩師道善房の住する清澄寺に戻った日蓮聖人は、1253(建長5)年4月28日早朝、清澄山の旭森(あさひがもり)山頂に立ち、太平洋の彼方から暁闇をやぶってつきのぼる朝日に向かって高らかにお題目を唱え、ついに立教開宗の宣言をされ伝道の誓願を立てられたのです。このとき日蓮聖人32歳、同時に名を「日蓮」と改められました。 
受難の幕開け
しかし、これはまた日蓮聖人の生涯における受難の幕開けでもありました。日蓮聖人は、末法の世を救いうるのは「法華経」だけであるとし、他宗を強烈に批判されました。このため、他宗派の人々と激しく対立し、その結果「少々の難は数知れず、大難四箇度なり」と日蓮聖人が晩年の著書の中で自ら語られるように、その生涯は迫害と受難の連続でした。清澄寺で最初の説法を行った日蓮聖人でしたが、他宗の熱心な信者だった地頭東条景信の怒りをかい、あやうく捕らえられるところでした。しかし、鎌倉に難を逃れ、松葉谷(まつばがやつ)に草庵を構え、ここで法華経の弘通(ぐづう)を始めました。
この頃から、世の中では天災地変が続出し、まさに末法の世の様相を呈していました。とりわけ1256(建長8)年からの5年間には疫病・飢饉・暴風雨・大火災などの災害が相次ぎ、なかでも1257(正嘉元)年8月23日に鎌倉を襲った大地震では数万人もの死者が出たといわれ、路上に死体が散乱するなど阿鼻叫喚の地獄絵を見るようだったといいます。 
末法と諫言
これらの災いは、誤った仏法が広まってしまったことによる天の諫めであることを直感された日蓮聖人は、経文によってそれを証明しようと駿河の国(現在の静岡県)の岩本実相寺(じっそうじ)の経蔵にこもり、一切経(いっさいきょう)を調べなおされました。そして二年後の1260(文応元)年7月、時の実力者、前執権北条時頼に、諫暁の書として「邪宗を信じるがために、このような災害がおこる。これを改めなければ、経典にあるように自界叛逆難(国内の戦乱)と他国侵逼難(外国の侵略)に見舞われる。他宗を捨て、正しい仏法である『法華経』に帰依すれば、全ての人が末法の世から救われる」ということを説いた「立正安国論」を献上されました。
しかし、この諫言は幕府に受け入れられることはなく、それどころか他宗の激しい怒りをかってしまい、同年8月27日には、松葉谷の草庵を焼き討ちされてしまいます。四大法難の最初である、この松葉谷法難を辛うじて逃れた日蓮聖人は、ひとまず下総の国(現在の千葉県)の富木常忍(ときじょうにん)のところへ身を寄せますが、すぐに鎌倉に戻り、以前にも増して激しく他宗を破折(はしゃく)しつづけました。 
度重なる法難
ところが日蓮聖人は、これをこころよく思わなかった幕府についに捕らえられ、1261(弘長元)年5月12日、伊豆の国(現在の静岡県)伊東へ流罪とされてしまいます。これが四大法難の二つ目、伊豆法難です。幸いにも川奈に住む漁師夫妻にかくまわれ命をつないだ日蓮聖人は、難病に苦しむ地頭伊東八郎左衛門をご祈祷によって全快させました。これにより伊東一門は法華経に帰依することとなり、日蓮聖人は流罪がとかれ鎌倉へ戻る1263(弘長3)年の2月まで、伊東氏の外護を受けながらの配所生活を送りました。この地にとどまった約2年の間に日蓮聖人は「教機時国鈔」(きょうきじこくしょう)を著され、そのなかで、法華経こそが末法の世を救うための経典であることを「五義(五綱の教判)」によって論証されました。
鎌倉に戻った日蓮聖人は、翌1264(文永元)年、母の病気の回復を祈るため安房の国へと戻られました。病が小康を見たため日蓮聖人は再び安房の国での布教活動を開始しました。ところが同年11月11日の夕刻、檀越(だんのつ)の工藤吉隆の招きに応じ工藤邸に向かう途上、東条郷の松原大路(現在の千葉県鴨川市)にさしかかったところで、地頭東条景信の襲撃を受けます。もとより日蓮聖人をこころよく思わなかった景信は、自らの宗派を否定する日蓮聖人を一気に殺害しようと凶行にでたのです。この小松原法難で日蓮聖人は弟子の鏡忍房日暁と、急を聞いて駆けつけた工藤吉隆の二人を失います。また、弟子の乗観房、長英房の二人も重傷を負い、日蓮聖人自身も眉間を斬られ、左腕を折られましたが、幸いにも一命をとりとめました。後に吉隆の遺子は出家して日蓮聖人の弟子となり長栄房日隆と号し、父吉隆と鏡忍房の菩提を弔うためにこの法難の地に妙隆山鏡忍寺を建立します。日隆は後年、土地の名前から山号を松原山、土地の名前を現在の小松原へと変更しました。 
鎌倉での奇跡
それから4年後の1268(文永5)年の正月、日蓮聖人が8年前に「立正安国論」で予言したとおり、日本の服従を求める蒙古からの国書が届きました。これにより日蓮聖人は他宗批判をさらに激化させ、執権北条時宗に再び「立正安国論」を献上します。さらに幕府や他宗の代表11箇所に書状を送り、公場での討論を求めましたが、またもや黙殺されてしまいます。1271(文永8)年には、他宗の人々が日蓮聖人とその門下を幕府に訴え、幕府も迫りくる蒙古襲来の危機感とあいまって、日蓮聖人とその門下に徹底的な弾圧を加えます。
同年9月12日、日蓮聖人はついに捕らえられ佐渡流罪となります。しかし、これは表向きで、実は途中の龍口(たつのくち)において侍所所司平頼綱により密かに処刑されることになっていました。ところが、まさに首を切られようというその瞬間、奇跡が起きます。突如、対岸の江ノ島のほうから雷鳴が轟き、稲妻が走りました。これに頼綱らは恐れをなし、処刑は中止になったといわれています。 
佐渡での決意
この龍口(りゅうこう)法難を奇跡的に逃れた日蓮聖人は同年10月、佐渡へと送られます。厳冬の佐渡で日蓮聖人にあてがわれたのは死人を捨てる塚原の三昧堂でしたが、ここは「上は板間あわず、四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ゆる事なし」と、後に日蓮聖人が「種々御振舞御書」に書き記すとおりのありさまでした。想像を絶する凍えや飢えと戦いながら日蓮聖人は「一期(いちご)の大事を記す」との決意で、「開目抄」の執筆を始め、翌1272(文永9)年2月にはこれを完成させます。日蓮聖人の相次ぐ法難、迫害の連続であったこれまでの人生は、「法華経」の持経者は多くの災難に見舞われるという、お釈迦さまが「法華経」のなかでされた予言を実証するものにほかなりませんでした。日蓮聖人はこのことにより日蓮聖人自らこそ、お釈迦さまより「法華経」の弘通を直接委ねられた本化上行菩薩(ほんげじょうぎょうぼさつ)であるという自覚を強めました。「開目抄」の中で日蓮聖人は『我、日本の柱とならん。我、日本の眼目とならん。我、日本の大船とならん。』という「三大誓願」を記されて、「詮ずるところは天も捨てたまえ、諸難にも遭え、身命を期せん」と、たとえ諸天のご加護がなくとも末法の日本を救うため「法華経」の弘通に一命をささげる決意をされています。 
予言的中
この頃、北条家は執権の座をめぐっての内紛を起こしますが、これはまさに日蓮聖人が「立正安国論」のなかで自界叛逆難(国内の戦乱)として予言したとおりのことでした。日蓮聖人の予言的中によりその霊力に恐れをなした幕府は日蓮聖人に対する態度を一変させます。1273(文永10)年4月には、日蓮聖人は塚原の粗末な小屋から一谷(いちのさわ)の豪族である入道清久の屋敷へと移り住み、ここで「観心本尊抄」をお書きになります。
日蓮聖人は、この「観心本尊抄」で、日蓮教学信仰の中核である『三大秘法』、すなわち「本門の本尊」「本門の題目」「本門の戒壇」を初めてお示しになりました。日蓮聖人は「南無妙法蓮華経」というお題目こそ末法の正法で、このお題目を受持することによってお釈迦さまの救いに導き入られると説かれたのです。また、他宗でいうところの浄土ではなく、娑婆(しゃば)世界、つまり現実のこの世こそが「本門の本尊」、すなわちお釈迦さまがお住まいになる浄土であることも示されました。日蓮聖人は、3ヶ月後の7月8日、この本尊の原理にもとづいて、初めての大曼荼羅である「佐渡始顕の大曼荼羅本尊」を描き示されています。 
身延山ご入山
佐渡流罪を許された日蓮聖人は1274(文永)年3月26日、いったん鎌倉へと戻りますが、同年5月17日には甲斐の国(現在の山梨県)波木井(はきい)郷を治める地頭の南部実長(さねなが)の招きにより身延山へご入山されました。そして、同年6月17より鷹取山(たかとりやま)のふもとの西谷に構えた草庵にお住まいになり、以来足かけ9年の永きにわたりこの身延の山を一歩も出ることなく、法華経の読誦(どくじゅ)と門弟たちの教導に終始されました。この間、波乱の人生を振り返りながら「時」を知ることの大切さを説いた「撰時抄」(1275年)や、亡き旧師道善房を偲んで「知恩報恩」の大切さを述べられた「報恩抄」(1276年)などを著述されています。
1282(弘安5)年9月8日、日蓮聖人は病身を養うためと、両親の墓参のためにひとまず山を下り、常陸の国(現在の茨城県)に向かいましたが、同年10月13日、途上の武蔵の国池上(現在の東京都大田区)にてその波瀾に満ちた61年の生涯を閉じられました。このとき地震が起こり、季節はずれの桜が咲いたといいます。
日蓮聖人の生涯は「法華経」の弘通に、まさに命を賭したものでした。日蓮聖人の教えは時間を越え空間を越えて、今日まで数多くの人々に受け継がれています。事実、身延山久遠寺においては、日蓮聖人のご入滅以来700有余年、法灯綿々と絶えることなく、広く日蓮聖人を仰ぐ人々の心の聖地として、日々参詣が絶えることがありません。 
お題目を唱えるということ
日蓮聖人は『観心本尊抄』のなかで「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我らこの五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えたまう」として、お題目を唱えることの重要さを説かれています。
「釈尊の因行果徳の二法」とは、お釈迦さまが長い時間をかけて行った修行と、その結果得られた徳のことをあらわします。「妙法蓮華経」という五字、すなわち「妙法五字」の中にこそ、お釈迦さまの功徳がすべて含まれているのです。そして「妙法五字」を「受持」すれば、自然とお釈迦さまの功徳をすべて譲り受けることができるのです。お釈迦さまの功徳をすべて受け取るということは、お釈迦さまと同体になるということですから「仏」になる、すなわち「成仏」できるということです。つまり「妙法蓮華経」の五字を「受持」する者は、この世にいながらにして成仏することができる、すなわち「即身成仏」できるわけです。
それでは「受持する」ということはどういうことでしょうか。日蓮聖人は「妙法五字」の受持は「身口意(しん・く・い)の三業(さんごう)」によって成されると説かれています。「身業(しんごう)」とは、「法華経」の教えを身をもって実践すること、「口業(くごう)」とはお題目を一心に唱えること、「意業(いごう)」とは「法華経」の教えを心から信ずることで、この三つの業が欠けることなく一つになってはじめて「妙法五字」の「受持」となるのです。
お題目にある「南無」とは、身命を投げ出して教えに従って生きるという決意を表します。ですから「南無妙法蓮華経」というお題目を唱えるということは「妙法蓮華経」に帰依するということで、お題目を心から信じ、唱え、その教えを実践することによって、この世に存在するすべての人が、お釈迦様の功徳を自然と譲り受け「即身成仏」することができるのです。 
「法華経」 
「法華経」の成立と「二門六段」
「法華経」は、正しくは「妙法蓮華経」といいます。インドでお釈迦さまによって説かれた法華経は、西暦406年、中国の鳩摩羅什(くまらじゅう)によって漢文に訳されました。その後、日本に伝わった「妙法蓮華経」は、聖徳太子の著書「法華義疏(ほっけぎしょ)」のなかで仏教の根幹に置かれるなど、最も重要な経典として扱われます。そして鎌倉時代、日蓮聖人によって「妙法蓮華経」は末法救済のためにお釈迦さまによって留め置かれた根源の教えであると説かれました。
「法華経」は全部で二十八品(ほん)からなっています。この「品」とは章立てのことで、各品に「序品第一(じょほんだいいち)」「方便品第二(ほうべんぽんだいに)」というようにそれぞれの名前と順序が示されています。また「法華経」は思想上の区別から『迹門(しゃくもん)』と『本門(ほんもん)』の二つにに大きく分けられます。さらにそれぞれが「序分(じょぶん)」「正宗分(しょうしゅうぶん)」「流通分(るづうぶん)」の三段に分けて解釈されるため、これを「二門六段」といいます。 
「迹門」と「本門」
『迹門』は序品第一から安楽行品(あんらくぎょうほん)第十四までの前半の十四品で、「開三顕一(かいさんけんいつ)」などが説かれています。「開三顕一」とは「声聞(しょうもん)」「縁覚(えんがく)」であっても「菩薩(ぼさつ)」と同様に成仏できるという教えです。「声聞」と「縁覚」の修行者は、自分自身の悟りの世界のみを追求するために成仏することが許されませんでした。対して「菩薩」は自らの修養のみならず他人に対しても教えを説き、功徳を与えようとする求道者のことです。お釈迦さまが法華経以前の経典において、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗という三つの異なった修行のありかたを示されたことや、説法を受ける人の能力にあわせてさまざまな教えを説いてきたことは、実はすべてが一つの教えに帰結することに導くためであったことが、この『迹門』のなかの「方便品第二」を中心として明かされます。そして、この一つの教えが「一仏乗(いちぶつじょう)」の教えであり、声聞・縁覚、善人・悪人、男性・女性などという別を超え、すべての人々が救済され、成仏できるという教えなのです。
『本門』は従地涌出品(じゅうじゆじゅっぽん)第十五から普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぼっぽん)第二十八までの後半の十四品で、「開近顕遠(かいごんけんのん)」などが説かれています。「開近顕遠」とは、お釈迦さまは、歴史上実在し菩提樹の下で悟りを開いた人物、というだけではなく、実は「久遠実成(くおんじつじょう)」の仏、つまり五百億塵点劫という久遠の過去に悟りを開き、永遠の過去から永遠の未来まで人々を救済しつづけている「本仏(ほんぶつ)」である、という教えです。お釈迦さまが永遠の存在であるということは、諸経で説かれる諸仏はお釈迦さまの分身であるということになります。したがってお釈迦さまこそ唯一絶対の仏、すなわち「本仏」である、ということがこの『本門』のなかの「如来寿量品第十六」を中心として明かされます。 
「二処三会」と「虚空会」
「法華経」は、この「二門六段」という分け方のほかに「二処三会(にしょさんね)」という分け方をすることもあります。お釈迦さまは、古代インドのマガダ国の首都、王舎城の東北にそびえる「霊鷲山(りょうじゅせん)」という山で「法華経」を説かれました。「序品第一」から「法師品(ほっしほん)第十」までは、この「霊鷲山」において「法華経」が説かれる場面なので「前霊山会(ぜんりょうぜんえ)」とします。つづく「見宝塔品(けんほうとうほん)第十一」から「嘱累品(ぞくるいほん)第二十二」は、地上から虚空(こくう)へと場面が移り、ここで「法華経」が説かれるので「虚空会(こくうえ)」とします。「薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)第二十三」から「普賢菩薩勧発品第二十八」までは、ふたたび地上にもどり「霊鷲山」において「法華経」が説かれる場面なので「後霊山会(ごりょうぜんえ)」とします。この二つの場所と三つの場面を「二処三会」といいます。
なかでも「虚空会」は特に重要な場面で、お釈迦さまは空中にあらわれた「七宝の塔」の中に入り東方宝浄世界の仏である「多宝如来(たほうにょらい)」とともに座して「妙法蓮華経」の中心的な教えを説かれます。「虚空会」では、「勧持品(かんじほん)第十三」において「妙法蓮華経」弘通の困難の予言、「従地涌出品第十五」において「本化菩薩(ほんげぼさつ)」の涌出、「如来寿量品第十六」においてお釈迦さまの「久遠実成」の顕示、「如来神力品(にょらいじんりきほん)第二十一」において「本化菩薩」への「妙法蓮華経」弘通の付嘱(ふぞく)、などが説かれています。
「妙法蓮華経」は、単なる経典の名前ではなく、お釈迦さまの教えが最終的に帰結した大法であり、「妙法蓮華経」の妙法五字の中にこそ、お釈迦さまの功徳のすべてが含まれています。したがって「南無妙法蓮華経」というお題目を唱え「妙法蓮華経」に帰依することによって、すべての人々の「即身成仏」が約束されるのです。 
 
池上本門寺

 

東京都大田区池上にある日蓮宗の大本山。寺格は大本山、山号を長栄山、院号を大国院、寺号を本門寺とし、古くより池上本門寺と呼ばれてきた。また日蓮聖人入滅の霊場として日蓮宗の十四霊蹟寺院のひとつとされ、七大本山のひとつにも挙げられている。
歴史
弘安5年(1282年)9月8日、病身の日蓮は身延山を出て、湯治のために常陸(茨城県)へ向かう。9月18日に武蔵国池上郷(東京都大田区池上)の池上宗仲の館に到着。生涯最後の20数日間を過ごすこととなる。同年同月に、池上氏館の背後の山上に建立された一宇を日蓮が開堂供養し、長栄山本門寺と命名したのが池上本門寺の起源という。
同年10月13日に日蓮が没すると、池上宗仲は法華経の字数(69,384)に合わせて六万九千三八四坪を寺領として寄進し寺院の基礎が築かれ、以来「池上本門寺」と呼びならわされている。その後は日蓮の弟子・日朗が本門寺を継承した。
池上氏館の居館部分は本門寺西側の谷の一帯にあったと考えられており、現在は、1276年(建治2年)建立された池上氏館内の持仏堂(法華堂)を起源とする本門寺の子院・大坊本行寺の境内となっている。本門寺は、鎌倉・室町時代を通じて関東武士の庇護を受け、近世に入ってからも加藤清正や紀伊徳川家等諸侯の祈願寺となり栄えた。
江戸時代、不受不施派を奉ずる本門寺は、身池対論を経て久遠寺の傘下に収まった。第二次世界大戦の空襲によって五重塔、総門、経蔵、宝塔を除く堂宇を焼失したが、戦後順次復興した。 
由来
池上本門寺は、日蓮聖人が今から約七百十数年前の弘安5年(1282)10月13日辰の刻(午前8時頃)、61歳で入滅(臨終)された霊跡です。
日蓮聖人は、弘安5年9月8日9年間棲みなれた身延山に別れを告げ、病気療養のため常陸の湯に向かわれ、その途中、武蔵国池上(現在の東京都大田区池上)の郷主・池上宗仲公の館で亡くなられました。
長栄山本門寺という名前の由来は、「法華経の道場として長く栄えるように」という祈りを込めて日蓮聖人が名付けられたものです。そして大檀越の池上宗仲公が、日蓮聖人御入滅の後、法華経の字数(69,384)に合わせて約7万坪の寺域を寄進され、お寺の礎が築かれましたので、以来「池上本門寺」と呼びならわされています。
毎年10月11日・12日・13日の三日間に亘って、日蓮聖人の遺徳を偲ぶ「お会式法要」が行われ、殊にお逮夜に当たる12日の夜は、30万人に及ぶ参詣者で賑わいます。
そして池上本門寺は「日蓮聖人ご入滅の霊場」として700年余り法灯を護り伝えるとともに、「布教の殿堂」として、さまざまな布教活動を展開しています。 
 
時宗

 

鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派。開祖は一遍。総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺(通称遊行寺)。 
時衆と時宗
他宗派同様に「宗」の字を用いるようになったのは、江戸時代以後のことである。開祖とされる一遍には新たな宗派を立宗しようという意図はなく、その教団・成員も「時衆」と呼ばれた。末尾に附した文献を見ても明らかなように、研究者も室町時代までに関しては時衆の名称を用いている。時衆とは善導の「観経疏」の一節「道俗時衆等、各發無上心」から来ており、一日を6分割して不断念仏する集団(ないし成員)を指し、古代以来、顕密寺院にいた。「時宗」と書かれるようになったのは、1633年(寛永10年)の『時宗藤沢遊行末寺帳』が事実上の初見である。
思想
浄土教では阿弥陀仏(阿彌陀佛)への信仰がその教説の中心である。融通念仏は、一人の念仏が万人の念仏と融合するという大念仏を説き、浄土宗では信心の表れとして念仏を唱える努力を重視し、念仏を唱えれば唱えるほど極楽浄土への往生も可能になると説いた。 時宗では、阿弥陀仏への信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できると説いた。仏の本願力は絶対であるがゆえに、それが信じない者にまで及ぶという解釈である。
時宗(時衆)の語源は、「日常を臨命終「時」(臨終)と心得て、常に念仏を唱える故に「時」宗といわれる」とする説もあるが、時宗総本山の遊行寺のウェブサイトには念仏を中国から伝えた善導大師が時間ごとに交代して念仏する弟子たちを「時衆」と呼んだ事が起源である、と明記されている。 
歴史
中世
一遍亡き後、彼が率いた時衆は自然消滅した。それを再結成したのは、有力な門弟の他阿真教である。それ以後続く歴代の遊行上人は、諸国を遊行し、賦算(ふさん)と踊念仏を行った。
4代目を巡って当麻道場無量光寺と藤沢道場清浄光院(のち清浄光寺)に分裂し、やがて藤沢道場が優勢となった。遊行上人を引退すると、藤沢道場に入って藤沢上人と称した。室町時代中頃に猿楽師の観阿(観阿弥)、世阿(世阿弥)で知られる時衆系の法名を持つ者が見られ、同朋衆、仏師、作庭師として文化を担うなど全盛期を迎えたが、多数の念仏行者を率いて遊行を続けることは、様々な困難を伴った。教団が発展する中で、順調な遊行を行うために権力への接近が始まり、幕府や大名などの保護を得ることで大がかりな遊行が行われるようになると、庶民教化への熱意は失われ、時宗は浄土真宗や曹洞宗の布教活動によって侵食されることになった。
近世
江戸幕府の意向により、様々な念仏勧進聖が「時宗」という単一の宗派に統合され、その中の12の流派に位置付けられた(「時宗十二派」)。主流は藤沢道場清浄光寺および七条道場金光寺を本寺とする「遊行派」であった。一時期より衰退したとはいえ、幕藩体制下では、幕府の伝馬朱印状を後ろ盾とした官製の遊行が行われ、時宗寺院のない地域も含む全国津々浦々に、遊行上人が回国した。時宗が直接的に衰退したのは、明治の廃仏毀釈であると思われる。
近代
1871年(明治4年)、寺領上知令や祠堂金廃止令により、時宗寺院は窮地に陥る。さらに廃仏毀釈で、金城湯池であった島津藩領や佐渡の時宗寺院が壊滅状態となった。昭和に入り、1940年(昭和15年)、一遍上人に「証誠大師」号を贈られている。これに対し、太平洋戦争(大東亜戦争)中は時宗報国会を組織し、満州の奉天に遊行寺別院を設けるなど政府に協力した。戦争中の1943年(昭和18年)、一向派が離脱し浄土宗に帰属した。2004年(平成16年)、遊行73代・藤沢56世他阿一雲上人が病気により引退した。 
法式
戒名は法名と呼び、男は「阿弥陀仏」号、女は「一房」号ないし「仏房」号を附した。現在では男性は「阿」号、女性は「弌」(いち)号を用いる。一向派では性別問わず「阿」号、当麻派は男は「阿弥」号、女は「弌房」号である。
宗紋
折敷に三文字 - 宗内では「隅切り三」と呼ぶ。一遍の出身である河野家の家紋。 
 
遊行寺1 / 清浄光寺

 

清浄光寺(しょうじょうこうじ)は、神奈川県藤沢市にある時宗総本山の寺院。藤沢山無量光院清浄光寺と号す。近世になって法主(ほっす)・藤沢上人と遊行上人が同一上人であるため遊行寺(ゆぎょうじ)の通称の方が知られている。藤沢道場ともいう。 
開山・中近世
俣野(現在の藤沢市西俣野、横浜市戸塚区俣野町、東俣野町)の領主だった俣野氏の一族である俣野五郎景平が開基。景平の弟である遊行上人第四代呑海は、三代智得の死後にその跡を継いで時宗総本山であった当麻道場(無量光寺)に入山しようとするが、呑海が遊行を続けている間に北条高時の命令により当麻にいた真光が止住するようになっていたため、正中2年(1325年)に俣野領内の藤沢にあったという廃寺極楽寺を清浄光院として再興したのが開山と言われる。当時は現在より400mほど北の、光徳と呼ばれる場所にあった。以後、この寺を藤沢道場と呼びここに独住するようになった遊行上人を藤沢上人と称するようになる。伝承では、現在の西俣野の北部の道場ヶ原にも呑海上人の関係する寺があったと言伝えられている(古遊行寺)。その後、伝承によると領地六万貫を足利尊氏より寄進されたとされている。藤沢四郎太郎によるという説もある。次第に当麻道場をしのぐ影響力を持つようになり、藤沢は門前町として発展するようになった。
延文元年(1356年)八代渡船が梵鐘を鋳造した。梵鐘には「清浄光院」と陽刻がされていてこの時までは、清浄光院と名乗っていたことが分かる。その後に清浄光寺と改称。応永年間に2度焼失し、より広い堂宇が再興された。
永正10年(1513年)北条早雲と三浦道寸、太田資康との戦いにより全山焼失。清浄光寺は三浦道寸と通じていたために、後北条氏と敵対関係に陥った。そのため後北条氏の玉縄城主に旧領の返還を求めたが、復興が許されなかった。
永正10年(1513年)1月29日本尊の阿弥陀仏は駿河国府中の長善寺に移されたが、永正17年(1520年)に二十四代遊行上人他阿不外によって甲府一蓮寺に置かれた。
その後、二十五代遊行上人他阿仏天が一連寺から敦賀井川の新善光寺に本尊を移す。
元亀2年(1571年)には甲斐国の武田信玄から藤沢200貫、俣野の内100貫の土地が寄進されたが、後北条氏攻略が失敗したため実現しなかった。
三十二世遊行上人他阿普光は、天正19年(1591年)に常陸国の佐竹義宣に招かれ、水戸に水戸藤沢道場(後の神応寺)を建立し、時宗の本拠とする。
普光は甲府一蓮寺の天順を清浄光寺貫首とし、天順は慶長12年(1607年)に清浄光寺を再興させた。これは後北条氏時代の焼失から、94年後のことであった。
寛永8年(1631年)に江戸幕府寺社奉行から諸宗本山へ出された命により、清浄光寺から「時宗藤沢遊行寺末寺帳」を提出、幕府から時宗274寺の総本山と認められる。
寛文5年(1665年)敦賀井川の新善光寺から清浄光寺へ本尊が戻る。
清浄光寺は、浅草日輪寺、甲府一蓮寺、山形光明寺、京都法国寺、大浜称名寺の5寺の住職任命権を持ったが、貞享4年(1687年)頃から各諸派の独立を求める動きに、それらが本山と名乗ることを許し、上位の総本山という位置づけとなった。
徳川綱吉の生類憐れみの令では、江戸市中の金魚の保護所となった。
元文2年(1737年)10月15日浅草の日輪寺塔頭宝珠院より現在の本尊:阿弥陀如来坐像を移す。 
近代以降
明治元年10月10日(1868年11月23日)には、東京行幸の際に明治天皇が宿泊した。明治維新後には、それまで幕府より与えられていた回国の御朱印を失い、遊行上人は随時御信教として地方に出向くことになり、これにより遊行上人と藤沢上人は同一人となる。
明治13年(1880年)の藤沢の大川火事で中雀門を残して焼失。明治44年(1911年)7月6日の火災では、書院、居間、番方庫裡および国宝(旧国宝)『一遍上人絵詞伝』(遊行上人縁起絵)を焼失した。
この時代には東海道を通る失業者などが身を寄せる場所になっており、昭和5年(1929年)の恐慌の際には、設けられた無料接待所を訪れた者は1年で11,000人を数えた。
昭和44年(1969年)には真教の650年遠忌が行われ、河野静雲の句碑が建てられる。翌45年には一遍像造立、万葉植物園造成。昭和52年(1977年)に遊行寺宝物館を設置、全国に散在していた一遍関係の絵巻物を展示する。 
学寮
延享5年(1748年)に、それまで時宗の学寮が無かったことから、清浄光寺の藤沢学寮、七条道場(金光寺)の七条学寮が設けられた。その後浅草日輪寺に浅草学寮も設けられ、明治27年(1894年)に清浄光寺に移されて、東部大学林と称する。明治36年(1903年)に西部大学林(七条学寮)も合併して、宗学林と改称。
大正5年(1916年)に藤嶺中学校(現:藤嶺学園藤沢中学校・高等学校)を併設、後に学校法人藤嶺学園となるが、それと別に僧侶養成機関としての時宗宗学林も存続している。 
 
遊行寺2

 

時宗総本山 遊行寺
「遊行寺」と呼ばれ、親しまれているこのお寺は、時宗の総本山で『藤澤山無量光院 清浄光寺』といいます。時宗の法主が遊行上人といわれるところから遊行上人のおいでになるお寺ということで、遊行寺と呼ばれるようになりました。 また、藤沢は遊行寺の門前町として生まれ、「藤澤山」の山号が町の名となり、やがて東海道の宿場町に発展し、今日の藤沢市となりました。
時宗の教え
時宗を開いた一遍上人は、全国を遊行し手ずから念仏札を配る賦算を行い、踊り念仏を通じて人びとに「南無阿弥陀仏」の念仏の教えを弘めました。
一遍上人は、南無阿弥陀仏の教えがひとりでも多くの人に、そして、末代までも弘まればいいと考えていました。そのため、自らの思想を示す書物などは、亡くなる直前にすべて焼き捨てています。現在、一遍上人の生涯やその思想は、国宝『一遍聖絵』などから知ることができます。
そして、わずかに遺る一遍上人の法語から窺える教えは、南無阿弥陀仏と称える瞬間に西方極楽世界に往生することができるとし、信心が確立しなくても口に任せて称えれば往生が可能であるとしています。 
遊行寺縁起
現在の藤沢市西俣野、横浜市戸塚区俣野町、東俣野町の領主だった俣野氏の一族である俣野五郎景平が開基です。
景平の弟であった遊行第四代呑海上人は、遊行三代智得上人の入寂後にその跡を継いで時宗総本山であった当麻道場(無量光寺)に入山しようとしましたが、呑海上人が遊行を続けている間に北条高時の命令により当麻に真光上人がいたため、1325年に俣野領内の藤沢にあったという廃寺極楽寺を清浄光院として再興したのが開山と言われます。
以後、この寺を藤沢道場と呼びここに独住するようになった遊行上人を藤沢上人と称するようになりました。
次第に現在の藤沢市は門前町として発展するようになりました。
1513年北条早雲と三浦道寸、太田資康との戦いにより全山を焼失してしまいました。
清浄光寺は三浦道寸と通じていたために、後北条氏と敵対関係に陥りました。
そのため後北条氏の玉縄城主に旧領の返還を求めましたが、復興は許されませんでした。
1631年に江戸幕府寺社奉行から諸宗本山へ出された命により、清浄光寺から「時宗藤沢遊行寺末寺帳」を提出、幕府から時宗274寺の総本山と認められました。
江戸時代には徳川綱吉の生類憐れみの令で、江戸市中の金魚の保護所となり放生池に放たれました。
明治元年10月10日(1868年11月23日)には、東京行幸の際に明治天皇が宿泊されました。
明治維新後には、遊行上人は随時御親教として地方に出向くことになり、この頃から遊行上人と藤沢上人は同一人となりました。
明治13年(1880)の藤沢の大川火事で中雀門を残して焼失しました。
明治44年(1911)7月6日の火災では、書院、居間、番方庫裡および国宝(旧国宝)『一遍上人絵詞伝』(遊行上人縁起絵)を焼失してしまいました。
この時代には東海道を通る失業者などが身を寄せる場所になっており、昭和5年(1929)の恐慌の際には、設けられた無料接待所を訪れた者は1年で11,000人を数えたそうです。
昭和44年(1969)には真教上人の650年遠忌が行われ、河野静雲の句碑が建てられました。
翌45年には一遍上人像造立、万葉植物園造成されました。
昭和52年(1977)に遊行寺宝物館を設置、全国に散在していた一遍上人関係の絵巻物を集め展示しています。 
遊行寺略年譜
西暦 / 年号 / 事項
1325 正中二 遊行四代呑海上人 遊行寺を開く
1356 延文元 鐘完成
1435 永享七 関東管領足利持氏 遊行寺に仏殿120坪を造営寄進
1513 永正十 兵火により遊行寺全焼 本尊を駿府(静岡県)長善寺に移す
1591 天正十九 徳川家康 遊行寺へ百石寄進
1603 慶長八 遊行三十二代普光上人 伏見城に於いて徳川家康にまみえる
1607 慶長十二 普光上人 再建された遊行寺に入住
1625 寛永二 弥三郎(法名臨阿弥陀仏) 四十八段(いろは坂)寄進
1661 寛文元 本堂客殿庫裏を焼失
1664 寛文四 本堂を上棟
1694 元禄七 徳川綱吉 金魚銀魚の類を遊行寺の池に放生(ほうじょう)すべき旨を発令
1782 天明二 本堂入仏式厳修
1788 天明八 惣門再建上棟
1794 寛政六 遊行寺焼失
1799 寛政十一 遊行寺再興
1816 文化十三 鐘楼堂建立上棟
1831 天保二 藤沢宿茅場より出火、書院・居間以下諸堂焼失
1832 天保三 広間・庫裏、台所御番方上棟
1836 天保七 藤沢付近凶作、本山より領内の人々にほどこす
1838 天保九 宗祖一遍上人550年御遠忌 大玄関及び大書院上棟 / 本堂の復興完成はならず
1839 天保十 観音堂及び茶亭上棟
1856 安政三 熊野瑜伽権現両社拝殿再興上棟 大型台風のため被害甚大
1859 安政六 中雀門上棟
1880 明治十三 遊行寺類焼 中雀門及び倉庫3棟以外焼失
1897 明治三十 遊行寺再興 宗祖一遍上人600年遠忌
1911 明治四十四 書院居間番方庫裏焼失、国宝「一遍上人絵詞伝」焼失
1915 大正四 時宗宗学林に籐嶺中学校併設開校
1919 大正八 時宗宗学林及び藤嶺中学校全焼
1923 大正十二 関東大震災 本堂他倒壊
1937 昭和十二 本堂復興
1975 昭和五十 時宗開宗700年記念慶讃法要修行  宝物館及び大書院等建立
1989 平成元 宗祖一遍上人700年御遠忌
2004 平成十六 国宝「一遍聖絵」(絹本着色一遍上人絵伝)遊行寺の所有となる
2014 平成二十六 地蔵堂建立 
宗祖一遍上人と藤沢
藤沢山無量光院清浄光寺は、藤沢道場といわれ、近世では遊行寺の俗称でしられています。(以下、遊行寺と呼びます)この寺は浄土念仏門の一流である時宗総本山です。
鎌倉時代の末に世に出た一遍智真を宗祖と仰いでいます。
しかし、一遍上人は「法師の跡とは跡なきを跡とす」(『一遍上人語録』)といったと伝えられ、宗門や寺院の建立を否定された一遍上人でしたから、遊行寺と一遍上人とは直接の関係はありません。
遊行寺を創始したのは、一遍上人を祖師とし、それから遊行四代当山開山呑海上人です。一遍上人の孫弟子の呑海上人の開基ですから、ここで一遍上人について説明しましょう。
一遍上人についての伝記には『一遍聖絵』(全12巻)と『一遍上人縁起絵』(全10巻)があります。それらによりますと、「一遍ひじりは俗姓は越智氏、河野四郎通信が孫、同七郎通広が子なり」(『聖絵』)といわれています。河野家は古代より、伊予(愛媛県)の名族越智氏の子孫といわれています。ところが、承久3年(1221)におこった承久の乱に通信は後鳥羽上皇方につき、鎌倉北条氏にそむいたので、敗戦後に捕らえられ奥州江刺郡(現・岩手県北上市)に流罪となり、その地で客死しました。一族の所領も没収されました。
一遍上人は通信の第五子別府七郎左衛門通広の二男として延応元年(1239)伊予で生まれました。10歳で母に死別、父の命を受けて出家しました。九州大宰府の聖達上人の門に入り浄土の法門を授かったといいます。一遍上人の学んだのは浄土宗西山流の念仏義です。
一遍上人は聖達上人について12年の修業をつんだのち、故郷伊予の道後に帰り約8年間半僧半俗の生活を送りました。のち一大決心をして信濃の善光寺にこもります。ここで念仏一筋に生きるべきであると自覚するのです。
そののち、伊予の窪寺というところで念仏ひとすじに日々を送り、ついに自分の信仰を確立し、念仏の教えを一切衆生に勧める願をたてられたのでした。生きとし生けるものに念仏を勧める旅に出られたのは文永11年(1274)の春であり、それからのちは往生するまで16年間、ほぼ日本全国を歩いて人々に念仏をすすめられたのです。この16年間におよそ25万1千人に念仏の札を配ったといわれています。
そして正応2年(1289)8月23日、神戸兵庫の島において51歳をもってその旅の生涯を終えています。今も神戸市兵庫区の真光寺にその墓はあります。
さて一遍上人は、文永11年に遊行の旅に出て弘安5年(1282)まですでに8年間、九州・四国・山陽・近畿・奥州・関東の一部をまわっています。弘安5年春、常陸・武蔵を経て3月1日こぶくろ坂から鎌倉に入ろうとします。鎌倉は幕府の所在地、将軍は惟安親王、執権は北条時宗でした。当時の鎌倉は蒙古襲来の後でその処理に追われており、同時に禅宗の寺院が北条氏の保護を受けて盛んになるのをみて各宗の高僧たちの中で鎌倉にくるものが多かったのです。また都会の繁栄の中に仕事と食物を求めてくる浮浪の人々も多かったのです。まさにありとあらゆる階層の人々が、せまい鎌倉市中にひしめいていたのです。浮浪者の取締を厳しくしていた鎌倉に、乞食のような恰好をした僧尼の一団が入れる訳はなかったのです。
しかし、鎌倉は東国第一の都、一遍上人は、ここに住む人々を念仏勧進からもらすことはできません。どんなことがあっても鎌倉に入らなければならなかったのです。そのためには法難も覚悟のことで、「鎌倉市中に入る状況で、そののちの念仏勧進の成果がきまるであろう」と決意してのことであったのです。
一遍上人の一行は執権時宗の行列とこぶくろ坂の入口で出会います。結果は市中には入れず「人びとに念仏を勧めるのが私の使命である。それなのに鎌倉市民への布教を禁止されるようではここで死のう」と一遍上人はいいます。警護の武士は「鎌倉の市外は禁止されていない」と教えたので、その晩は道のほとりで野宿をしていると、鎌倉中の僧も俗人も大勢集まって来て供養をしたといいます。
翌二日片瀬の浜の「館の御堂」で断食して別時念仏を修業し、5日間つづけておこなっています。一遍上人がはじめて藤沢の地に足跡を印したのです。のちにこの藤沢に、遊行四代呑海上人が遊行寺を開き、それが時宗の総本山になろうとは一遍上人自身の思いもよらないことであったでしょう。一遍上人が入寂されたのちは同行人であった遊行二祖真教上人が教団を統率し、一遍上人の教えのままに諸国を歩き念仏をすすめられました。それからのち代々の遊行上人は他阿の名をついで遊行し今日におよんでいます。この一遍上人・真教上人の念仏の一流を時衆(近世以降は時宗と称している)とよんでいます。 
遊行二祖真教上人と当麻山
一遍上人は、その死に先立って、持っていた書籍などを焼き捨てて「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」といったといわれます。また「自分の死後は大げさな葬礼の儀式を行ってはならない。遺骸は野に捨てて獣に食べさせよ、ただし信者たちが仏縁を結ぶために供養するという場合は門弟たちは手出だしをしてはならない」といましめています。そのため信者たちの申し出をみとめて、彼らによって墓所がつくられ、管理されていたのです。また「念仏勧進は私の一生涯だけのことである」といわれたにもかかわらず、遊行二祖真教上人によって念仏勧進の旅が続けられたのには次のような理由があります。
一遍上人を失った時衆たちは、一遍上人を慕って念仏してはやく浄土へ往生しようと、神戸の北方にある丹生山へわけ入り、山中の極楽浄土寺という廃寺で念仏しているとき、そこへ淡河(粟河)という土地の領主が念仏の札をいただきたいと申し出たのです。
時衆たちの中心である真教上人は「自分たちは今衆生済度に向かっているのではない。自分たち自身がここで往生しようとしている。だから札はあたえられない」とことわりました。しかし領主はこのように望む者がいる以上はぜひいただきたいと頼むので、やむなく念仏の札をあたえたのです。
そこで時衆たちは相談して、このように念仏の札を求める人がいる以上、念仏勧進をするのがよいのではないかということになって、真教上人を指導者にとあおいで念仏勧進の旅に出られたのです。これが時衆(宗)教団の事実上の成立ということです。
全国を遊行した真教上人は、嘉元2年(1304)1月10日弟子の遊行三祖智得上人に遊行を相続させ、量阿を改めて自分の阿弥陀仏号である他阿を名乗らせました。
当麻山(現・神奈川県相模原市南区、無量光寺)に独住された真教上人は、各地の信者からの願いによって、門弟たちを派遣し道場に住まわせ布教に専念させています。正和5年(1316)の頃には、諸国に百余ヵ所の道場になったと真教上人自身が書かれている記録が、「七条文書」に残されています。真教上人は文保3年(1319)1月27日、83歳で当麻山で入寂するまで、教団の中心として門弟たちを指導されたのです。
真教上人が当麻山で入寂されたのち、中国地方を遊行していた智得上人は、その年の4月6日に因幡国(鳥取県)味野西光寺で、遊行四代呑海上人に遊行を相続させて当麻山へ帰ってきました。智得上人は嘉元2年(1304)正月に遊行を相続されてから16年になり、真教上人に従って遊行した年数を加えると30年近くにもおよぶ遊行の旅でした。智得上人が当麻山に入って間もなく、中国地方を旅していたのちの呑海上人に宛てた手紙があります。
その中に、「私も人々の要請で、自分の意志とは関係なく当麻山に住むことになったが、しかし体はここにあるけれども、心はいつも遊行のつもりです」と述べられています。
智得上人は当麻山に入寺してからわずか一年、元応2年(1320)7月1日60歳で入寂されてしまいます。智得上人の後継者である呑海上人は、当麻山には入らず遊行すること6年、正中2年(1325)1月11日、武蔵国芝生宿(横浜市西区)で遊行五代安国上人に遊行を相続させて、遊行寺を建立されてそこに独住されたのです。 
遊行寺の創建
遊行上人が寺に居住するようになったはじまりは、一遍上人のあとを継いで時衆の指導者になった真教上人からです。当時、遊行上人の寺での居住は、今日の遊行寺における上人の場合とことなり、遊行上人の位をつぎの上人に相続してから、わずかな時衆と生活をともにした独住とよばれる、いわば過酷な本来の遊行生活から身をひいた隠居の生活でした。
時宗総本山清浄光寺(以下、遊行寺と呼びます)の開山上人である呑海上人は、俣野の庄(現在、藤沢市と横浜市を分断する境界線となりましたが、両市に俣野の地名が残っています。)の地頭俣野五郎景平の実弟です。景平は遊行二祖真教上人に帰依し明阿弥陀仏の法号を与えられていた武将で、このことが縁となって、遊行四代呑海上人も遊行二祖真教上人の門に入ったといわれ、時に永仁3年(1325)、31歳であったといいます。正安3年(1301)、真教上人は京都七条仏所から寺地を寄進されており、呑海上人に命じてここに七条道場金光寺を創建させています。
呑海上人が藤沢の地に遊行寺を開いたのは正中2年(1325)です。呑海上人は、藤沢に住んでまる二年後の嘉暦2年(1327)2月18日に63歳で入寂されています。これからのち、遊行上人を引退すると藤沢に住み、これを藤沢上人と呼んでいます。また清浄光院が清浄光寺と称するようになった時期は後光厳天皇による「清浄光寺」勅額が遊行寺の本堂に掲げられており、延文元年(1356)銘の鐘には「清浄光院」とありますから、この年から後光厳天皇の没年、応安4年(1371)の間という事になります。
以下年譜的に主要な遊行寺の移り変わりを紹介します。
遊行六代一鎮上人の時、足利尊氏より6万貫の寺領と本堂を寄進され寺の基礎が確立したと伝えられます。遊行八代渡船上人の時、延文元年の銘文が陽刻された梵鐘が鋳造されています(県指定文化財)。
応永23年(1416)上杉禅秀の乱が起こり、足利持氏に属した上杉氏定は禅秀方に敗れ、遊行寺で自害、またこの乱で禅秀方の武将も多く戦死し、岩松満純の遺骸が当寺に葬られています。この年将軍足利義持、遊行寺および七条道場金光寺の時衆、諸国遊行に際して、人夫・馬を無事調達すべく諸国に令を発しています。
応永31年(1424)のころ、時宗四条派本山四条道場金蓮寺と本末を争って、将軍足利義量は四条道場を七条道場金光寺の末寺にするよう決定しました。四条七代浄阿上人文阿はそれに従ったところ、四条の時衆は反対して上人を追い出し、寺に火をかけたといいます。
応永33年(1426)再度火災に遭い、藤沢道場は炎上消失しています。永享7年(1435)関東管領足利持氏は、藤沢道場の仏殿120坪を造営寄進しています。
永正10年(1513)三浦義同(入道道寸)と伊勢長氏(北条早雲)の戦いの戦火をうけて全焼。そののち慶長12年(1607)に遊行三十三代普光上人まで94年間も再建されることなく、代々遊行上人は当寺に独住することがなかったのです。
慶長18年(1613)、遊行三十四代燈外上人は幕府より伝馬(てんま)五十疋(ひき)の手形を受け、そののちはこの威光のもとに遊行回国を行いました。寛永年中、客殿および庫裏を改造しました。
また寛文元年(1661)4月に本堂、客殿、庫裏を消失しています。
そこで寛文4年(1664)6月には、本堂の上棟を行ない、尾張前大納言光友は、木曽山中の材木数千株をほどこしており、天和元年(1681))に落慶法要を営んでいます。
寛政6年(1794)1月には、藤沢山方丈一宇残らず消失し、同11年に再建されましたが、天保2年(1831)12月には、藤沢宿茅場より出火、仏殿・日供堂・惣門・二王門等をのぞくほか、すべて焼失しています。天保4年より10年にわたって再建されています。
しかし、明治13年(1880)11月には再度藤沢宿の大火により、中雀門・倉庫三棟をのぞいてすべて類焼しています。
再建されたのは明治30年に入ってからのことです。明治5年には一宗一管長制により遊行寺は時宗総本山となりました。 
遊行寺の本尊 / 阿弥陀如来
時宗寺院の本尊は一般には阿弥陀如来像です。なかには薬師・観音・地蔵をも本尊とする寺もあります。寺の来歴によって本尊はさまざまです。しかし、本来は「南無阿弥陀仏」の名号を本尊としたものと思われます。遊行寺は創建以来しばしば火災のために焼失しており、永正10年(1513)の兵火によって約一世紀近い歳月にわたって再建不能の状況下におかれました。この永正10年1月29日に本尊は静岡の長善寺に移され、そののち永正17年(1520)冬に、本尊は甲府の一蓮寺に移されました。このときの本尊は「円光もましまさず、蓮華座もなく、観音には御手もうせ同く御光も蓮華もうせ玉ひ、勢至も同前にやつれさせ玉ふ」状態であったと伝えられています。さらに本尊は遊行二十五代仏天上人によって、一蓮寺から敦賀井川新善光寺に移され、さらに再建された遊行寺に安置されたのは寛文5年(1665)のことです。ところが、現在の本尊は阿弥陀如来座像で、高さ六尺一寸(184cm)、慈覚(じかく)大師作と伝えられ、浅草日輪寺塔頭(たっちゅう)の宝珠院が浅草寺からゆずり受けたものです。宝永5年(1708)夏、遊行四十八代藤沢二十三世賦国(ふこく)上人が日輪寺に滞在したとき、この仏像をみて大仏であるから、本山の本堂に安置するのがふさわしいといわれましたがそのままとなり、元文2年(1737)10月に遊行寺に移されたのであります。脇檀には宗祖一遍上人・遊行二祖真教上人・遊行四十二代藤沢十九世尊任(そんにん)上人の各像が安置されています。 
 

 

 
法話

 

浄土真宗1
 1 釈尊の説教を頂戴される聖人
いま手元に、安井広度先生を代表者とした親鸞聖人全集編集同人(八人)により刊行された『親鸞聖人全集教行信証』2を置いている。昭和三十六年五月三十日の初版発行、定価四百五十円である。東本願寺では、親鸞聖人七百回御遠忌が無事勤修された直後のことになる。この全集こそ、宗門の学者が派を越えて結集し、全力を傾注して世に問うたものである。
全十八冊。この刊行が始まった昭和三十年、私は、学業も生活も日本育英会の奨学金に依存する貧乏学生であった。なぜかお金がなかった。指導を受けていた藤島達朗先生から、全集刊行を教わっても、すぐには入手できず、学部を出て大学院に進み、かたわら教学研究所に嘱託から助手に採って頂いてから、給料全部で既刊分を買った。
その全集本の『教行信証』1と2は、稲葉秀賢先生が中心となり、藤原幸章、細川行信、幡谷明の諸先生が携わられた。学寮から明治以降の真宗学が凝縮している。
その2の二九七頁の中央に、
『阿弥陀経』言不可以少善根福徳因縁得生彼国聞説阿弥陀仏執持名号
を諸本を対校して訓(よ)み(真宗聖典三四八頁参照)を示した上で、〈〔底本〕「不可…生彼国」十四字、右に補記〉と注意してくださってある。そこで、近年宗門から出た坂東本コロタイプのこの箇所を確認すると、親鸞聖人が当初はお釈迦さまの教えを「阿弥陀仏を説くを聞きて名号を執持せよ」と頂いておられたことが分かる。その凛然たる態度に身の置き所のない感動を覚える。
住職を四十一年勤めて息子に譲った。三十戸に満たない門徒だが、ほぼ全戸に月参りしてきた。拝読するのは阿弥陀経である。この頃気づいたのだが、短時間で読了する阿弥陀経なのに、親鸞聖人はその前半、極楽の荘厳を著書にご引用にならない。「十方微塵世界の念仏の衆生をみそなわし摂取してすてざれば阿弥陀となづけたてまつる」。以下五首の弥陀経和讃にも、すばらしい極楽の描写は出ない。極楽に憧れて、善根功徳を積み重ねて、極楽に往生することは「不可」だとお釈迦さまが仰せられるのだ、と。
それでも福徳を気にする人のために、親鸞聖人は元照律師の著作を引いて、補説される(真宗聖典三五一頁)。それはまさしく「信心のひとにおとらじと疑心自力の行者も如来大悲の恩をしり称名念仏はげむべし」(疑惑和讃七)という励ましで、改めて、親鸞聖人の峻厳(しゅんげん)な聞法の姿と同朋への暖かい思いやりとに頭が下がる。こんなことに気づいたのも、譲職の効能であろうか。 
 2 諸仏の声
十方恒沙の諸仏は 極難信ののりをとき 五濁悪世のためにとて 証誠護念せしめたり(真宗聖典四八六頁)
先日、ある聞法会に参加した時、ある方の今の聞法生活に至るまでの歩みを聞いた。自分の息子さんを亡くされ、その死をどのように引き受けたらよいのかに苦しみ、それまでの自分自身が保てなくなり、精神科の病院に通っていることまで話しをされた。そして仏教に解決の糸口を求めて話を聞いているということだった。しかし色々な法話等を聞いてもやはり難しいと話されていた。「難しい」にも色々な意味合いと響きがあるが、その方には苦悶の顔があった。そして最後に自分なりの教えの了解を話され、息子さんの死を何とか受け止めようとされていた。
私たちは、様々な出来事、友人、先生と言われる人と出会いながら生きている。出会いには様々なものがあり、そのすべてが意味のあるものとはなりえず、そのほとんどが不信感や猜疑心に覆われてしまうことだってある。その中で、たまたま出会った真宗の教えを通して生きる意義、喜びを得たいと求めている。
念仏といい、信心といい、このような宗教心が芽生えることによって私たちは、生きる意義を得るという。そしてその芽生えの事実を改めて振り返ると、そこには一切衆生を救わんとする弥陀の慈悲の深きことを知る。しかし弥陀の慈悲というがどこでそれを確かめることができるのだろうか。自分の中で作り出した「物語」にしか過ぎないかもしれない。
清沢満之は、「無限」(如来)との出会いを求めて歩んでいた。自分の頭で考え出した無限ではなく、病気をし、様々な批難中傷を受けるといった壮絶な人生の中でその出会いをかちとっている。さらに自分が経験したそれまでの人生を、無限との出会いという視点から改めて振り返っている。
教えとの出会いとは、言葉と人(「よき人」)との出会いにあると言われる。ここでいう「人」とは「事実」との出会いと私は受けとっている。言葉だけでなく、人との出会いにおいて、弥陀の慈悲が事実として働いていることを知る。そしてその出会いは、さらに他の様々な出来事等への眼を開いていく。自分の中で弥陀の慈悲を確かめるのではなく、出会おうとして出会えるものではないという偶縁によってこのような眼が開かれていくことが大事なことだといえる。
何も信じられるものがなくなったといわれる現代においても、不信感や疑い等を深く見つめると同時に、どこまでも深いところで出来事や人を信じる生き方が求められているように思う。そこにあらゆる事実を担っていく力、言うなれば空の手で担う力が与えられるように思う。 
 3 そらした視線
「点滴の針跡が痛々しい黒ずんだ両腕のぶよぶよ死体が、時には喉や下腹部から管などをぶら下げたまま、病院から運びだされる。どうみても、生木を裂いたような不自然なイメージがつきまとう。…死に直面した患者にとって、冷たい機器の中で一人ぽっちで死と対峙するようにセットされる。」(『納棺夫日記』青木新門著)
人の生き死について、今も忘れられない出来事がある。記憶の奥に留めてきたことだが、最近『納棺夫日記』を読んでいて、ふと思い出されてきた。
学生時代、弁当配達のバイトをしていた。店主は、古希を過ぎた老女で、店の看板が台風で飛ばされても修繕しない弁当屋さんだった。五〇個程度であったか,数名の学生が手分けして、古い軽トラで配達するのが仕事だった。
配達先に、市内最大の病院があった。客人は、休息時間がままなら無い看護師たちである。配達着の白の割烹着姿で「どうも」と挨拶すれば、「給湯室に置いておいて」と、短いやり取りがすめば、急いで次の配達場所へ移動する。
その病院へ配達に行ったある日、看護師を通じて、別に弁当一つの注文が来た。翌日、ナースセンターで病室の番号だけを教えてもらって、いつもと違う階の、階段に近い部屋にやってきた。
ノックをしてドアを開けると、そこは、さながら集中治療室だった。ビニールシートの膜に覆われたベッドの中で、口を呼吸器で覆われた老婆が、いくつもの生命維持装置と見受けられる医療器械に、身体を繋がれていた。真っ先にその老婆と目が合い、思わず息を呑んだ。合った目を斜め下にやった先に、ドア横のイスに座る付き添いの婦人が目に入った。婦人に弁当の箱を一つ渡し、「明日も」と約束して帰った。
翌日だったと思う。頼まれた弁当をその病室へ持っていくと、半開きになったドアから、ただ布団が敷かれたベッドが置いてある光景が目に入った。呼吸器を付けた老婆も付き添いの婦人も、そこにはいなかった。あの老婆は、亡くなったのだと直感した。病室が並ぶ病棟は、しかし、普段と何も変わらなく、看護師たちが、相変わらず忙しそうだった。
その時、人の生き死にとは、こんなものか、と思ったことが忘れられないでいる。あっけなさとかではなく、人の生き死にが、放り出された、その剥き出しな有様に、戸惑いを覚えたのだ。
『納棺夫日記』に綴られた納棺夫である著者の言葉は、しばし頁を捲(めく)ることを忘れさせ、私に迫った。「死を忌むべき悪としてとらえ、生に絶対の価値を置く今日の不幸は、誰もが必ず死ぬという事実の前で、絶望的な矛盾に直面することである。…仕事柄、火葬場の人や葬儀屋や僧侶たちと会っているうちに、彼らに致命的な問題があることに気づいた。死というものと常に向かい合っていながら、死から目をそらして仕事をしているのである。」(『同』)
弁当配達の通りすがり私が、ベッドの上で死に直面する見ず知らずの老婆と、たった一度、目が合った。しかし思わず私は、その合った視線をそらしたのである。私は、その視線の合った老婆に、まもなく訪れるであろう死を直感し、その死から目をそらしたのだ。
あの時までも、あの時からも、ずっと死から目をそらして生きてきた私なのではないか。今は、ただそう認めるしかない。そう思い切ると,急に親鸞が気になりはじめた……。 
 4 越後での家庭生活
仏教各宗の中で真宗は、肉食妻帯、在家仏教と称されるのが特色の一つである。それは特別に滝に打たれるような荒行をしたり、世間との交渉を断って仏道を求 めるのではなく、普通の家庭生活・社会生活を営みながら仏道を歩むことから、そのようにいわれるのである。
それは仏法を聞き念仏申す身となり、人生を荘厳していくことである。賜った命を人間として日暮らしの中でつくしていくことでもあろう。
そのゆえんは、宗祖が妻帯され家庭をもつ身で「教え」を明らかにされたからである。否、家庭をもって「生死する命」をつくす中で、いかに救われていくか が課題であったといえよう。
宗祖が恵信尼公と結婚された時期について京都説と越後説とがあるが、近年の研究では前者が有力となっている。宗祖の結婚について大きな契機となったの が、六角堂参籠の九十五日の暁に、「聖徳太子の文をむすびて、示現にあずからせ給いて」(恵信尼消息、聖典六一六頁)の夢告である。いわゆる「女犯偈」と いわれる「行者宿報設女犯」以下の四句である。おそらくこの夢告を得た近い時期に宗祖は結婚されたと考える。
とすれば、承元元年(一二〇七)宗祖三十五歳の時、越後に流罪となるが、少なくとも小黒女房が生まれていたであろう。家族を伴って越後に向われたのであ る。
宗祖が明らかにされた信仰・思想体系は越後での生活が基本になっていると考えられる。
比叡山や京都で生活されていた宗祖は、陸路を長距離歩かれ、海路を船に乗られたことなどは初めての経験であったであろう。越後の居多ヶ浜に上陸され国府 で暮らされたのであるが、流人の身であり、役人の監視下であった。
自らの力で農耕を営み、家族を支えていかなければならない。自然の恩恵にありがたさを感じるとともに、一方で冬は豪雪となり北風の猛吹雪の日が続いたこ ともあったであろう。あるいは荒れる海にも出て魚を追う漁民の姿、山へ入って狩猟をし、生計をたてる人。いわば「殺生」という罪業に直面しながら懸命に生 き抜いている人々を、宗祖は眼のあたりにされたのである。
また、優しい自然と厳しい自然の中で、互いに支えあい、協力しあっている純朴な民衆、逆に妬み憎しみあう人間どうしの醜い争い等々、一般民衆とともに同 じ家族をもつ日常を営む中で、宗祖はそれらを肌で体得されたのである。
我々は生まれて生きて死んでいく「生死の命」をつくしている。その限られた命を、「教え」を聞き「化生」(和讃)して人間らしく荘厳していきたいもので ある。それは時を超えた「無量寿」に聞き、目覚めることである。
宗祖の越後生活を推測する時、我々と同じ視線をもって感得されたことを基盤に「教え」として示してくだったことを身近に感じる。 
 5 「親鸞」の名のり
時々、「親鸞」とは誰なのだろうと考える。おかしいかもしれないが、私は、一体誰を「親鸞」と呼んでいるのだろう、と疑問に思うのである。
たしかに「親鸞」の書いたものが残され、不明なことが多いながらその生涯が伝えられている。そして七五〇年にわたって、その人の教えに生きた人々があって、いま、私がその教えに縁をいただいている。それが私の前にある「親鸞」という人の事実である。だがいつの間にか、この「親鸞」という人を、宗祖と呼び、聖人といただくようになっているが、私がこの人の何を知っているのだろう。私はやはりそのように問い返さざるを得ない。
そんなとき、いつも立ち戻るのが「親鸞」という名のりの問題である。肩書きがなくなったらただの人というが、現代では、名が私とはこういうものであると明示することはほとんどない。しかし、「親鸞」という名はそれとはちがう。そこには明確な主張がある。
宗祖の名は「親鸞」の他に、比叡山時代の「範宴」、法然上人と出遇って名のった「綽空」、そして「親鸞」とともに生涯使用された「善信」がある。「綽空」は、末法という時代を課題にした道綽という人と、その道綽の提起した課題に浄土宗独立という形で応答した法然(源空)という人、その二人の名を合わせた名である。法然はその「綽空」の名において『選択本願念仏集』の流通を宗祖に託したのであった。それはいわば師から託された課題的な名といってよいだろう。しかし宗祖は、その名を返上して新たな名を名のる。
その名のりについては諸説があるが、宗祖は、『選択本願念仏集』をどこまでも戴き、善く信じる者であり続ける立場に自らを決したに違いない。つまり、師から託された課題への自己全体を挙げての応答、「善信」への改名である。そして「親鸞」。この名は流罪以後に名のられたものに違いない。それは師との別離を機に、どこまでも師の教えを善く信じようとする存在が、なお遺された教言を尋ね続けていく営みを象徴する名であるといってよい。
「親鸞」という名は、天親と曇鸞からとられたという。その二人が表しているのは、師の教えに生きる弟子の営みである。つまり天親の『浄土論』と曇鸞の『浄土論註』の関係からわかるように、師の教えを生みだした根源、すなわち阿弥陀の本願のはたらきを自他に明らかにしてやまない営みこそ、曇鸞の示した学びである。そこに師なき後を歩む弟子の営みがあると見定めたところに、「善信」は「親鸞」と名のりつつ生きる者となったのである。その二つの名のりの結晶化が「(愚禿釈)親鸞」の名のもとに編まれた『教行信証』に他ならない。
「親鸞」とは誰か、「親鸞」とは師の教えを尋ね続けるその営みにこそおられる。あの真筆『教行信証』(坂東本)を手に取り、私はそのことにいつも立ち返らされる。 
 6 親鸞を学ぶ 親鸞に学ぶ
欣求浄刹の道俗、深く信不具足の金言を了知し、永く聞不具足の邪心を離るべきなり。 (聖典二三七頁)
と述べられています。それは、私達が念仏を申せば申すほど、かえって信心が遠ざかってしまうことを言われているのかも知れません。
そして、その信心が得られない者にとって、念仏とはそのまま「聞」という学びを徹底するものでなければならないと、いわれているのだと思います。
しかし、真宗における学びとは、どのような方法を持っているのかということは、私達一人ひとりに与えられた課題であります。私はそれを、親鸞を学び、親鸞に学ぶものだと考えています。
親鸞を学ぶとは、言うまでもなく『教行信証』をはじめとして、親鸞の残された言葉そのものを学んでいくことであります。しかし、その学び方は、決して親鸞を対象化した学びであってはなりません。
むしろ、親鸞の目によって聖教を読みなおしていくような学びでなければならないのです。それを親鸞聖人は、「真宗」の一言で表わしているのではないかと思います。
私達は真宗というと、浄土真宗と結びつけてしまいます。しかし、親鸞にあっては、浄土と真宗は、決してそのまま一つの言葉として、表現されているわけではありません。
むしろ、真宗というものを徹底して見ていくという、そこに浄土という世界が拡がり、また浄土の真実は、真宗という表現となっていると、宗祖は言われていると思うのです。ここでいう真宗こそ、物事に対する私達の態度であり、思考の方法を示すものだと私は思うのです。
それは、親鸞において、真・仮・偽と表現される現象と真実の関係の中で、一切のものを、この構造の中で捉えようとする思惟の歩みそのものだと言えると思います。
そして、この真宗の立場に立って、仏教を捉え直し、浄土思想そのものも「仮」として問い続けたものこそ、親鸞の残された言葉に他ならないのです。ですから、親鸞を学ぶとは、決して親鸞の言葉の外から学ぶものであってはならないのです。むしろ親鸞の言葉によって、学ばなければならないと思うのです。
そのために、私達は、親鸞に学ぶことを同時にしていかなければならないのです。
親鸞に学ぶとは、「親鸞」にまでなった念仏者の道程を学ぶことであります。それは、むしろ「愚禿」という名告りへの、宗教心の旅ということが出来るでしょう。
そして、その「愚禿」の名告りをさせたものこそ、流罪であり、そこから見えてきた社会―世間であったのだと思うのです。
それは、どこまでも、信不具足に立った、聞不具足の自覚を深めていくものではないかと、流罪八百年の今、強く思っています。 
 7 釈尊と親鸞聖人
仏教とか親鸞聖人の真宗が私の人生の具体的な関門となったのは、大谷大学で恩師山口益先生の仏教学に出遇うことができたからであった。末寺の長男として生まれ、寺の後継者として特別な扱いを受けながら大切に養育されてきたが、高校生になる頃には、それが重荷となり、周囲の敬愛に満ちた束縛から解放される自分の未来を考えるようになった。このままでは田舎の末寺に埋もれた人生となってしまう。あまりにも不本意である。自分の未来はこのままでよいのであろうか、自分に相応しい別の未来があるのではないか、と。そこには、仏教とか真宗は眼中になく、自分の未来への漠然とした大志だけがあった。
私の高校生の頃は、塾や予備校もなく、ときどき全教科の模擬試験があるだけの大らかな時代であった。仏教といえば京都というイメージがあったのか、担任の先生からは京都大学を受験してはどうかと薦められた。私自身も京都では京大に、東京では早稲田大学に憧れを抱いていたので、そのことを父に告げると、寺の後継者は大谷大学に進学すべきであり、京大などに行く必要はないと一蹴された。谷大に行かないのなら学費は出さないとまで言われ、頑固な父を恨みつつ、泣く泣く谷大の門をくぐった。そのとき父は「谷大でしっかり仏教を勉強してこい。それでも仏教に回心できず、仏教に人生を委ねる決意が沸いてこないのなら無罪放免してやる。青春時代の四年間などは短いものだ。」と、私を押し出した。
谷大での仏教への学びは、私としてはかなり真剣であった。卒業後の人生について決断しなければならなかったからである。授業だけでなく、仏書屋や古本屋を巡り歩きながら真宗学や仏教学に関する仏教書を求め読みあさった。そのとき、山口益著『空の世界』(理想社)に出遇った。それまで乱読してきた仏教書にはない信頼の置ける確かさがそこにあった。難解ではあったが、新鮮であった。入学したときは真宗学科を専攻するつもりでいたが、三回生となったとき躊躇なく仏教学科を専攻し、山口先生の指導の下で、縁起・空性・無我という徹底した自我崩壊の原理を前にして呆然自失し、一方では「自己とは何か」と自我を問うことのない唯物史観に虚構を感じ、ニーチェのニヒリズムに共感していたとき、
本願の名号は正定の業なり。至心信楽の願を因とす。等覚を成り、大涅槃を証することは、必至滅度の願成就なり。如来、世に出興したまうゆえは、ただ弥陀本願海を説かんとなり。 (聖典二〇四頁)
という「正信偈」の六句が、釈尊と親鸞聖人となって面前に立ち現れたのである。恩師の学問と父の信念とに導かれての出遇いであった。
今年の報恩講においても、面前に立ち現れてくださる世尊と宗祖の御前で、回心懺悔して仏恩報謝の念仏をいただける勝縁が待っている。 
 8 地獄=大悲の本願に遇うところ
秋葉原での無差別殺人事件の犯人が、(真偽はわかりませんが)人を殺せば死刑になれると思ったとか、ネットで殺人の予告をすれば誰か止めてくれると思ったと言っている事がマスコミを通して漏れ聞こえてきた時、それならなぜ人を巻き込むようなことをしないで、自殺しないんだという怒りをおぼえたのは、遺族だけではないでしょう。しかしその一方で、「彼の気持ちがよくわかる」「自分もいつ同じことをするかわからない」という多くの反応が起こったことに、人間の立てた善悪の観念ではとても解決のつかない、精神の闇が深まっていることを憶わずにはおれません。
犯行の背景には、ワーキングプアなどの雇用問題・経済問題があるとコメントする政治家や評論家もいますが、世界を破壊したいという衝動は、そうした経済などの条件問題とは全く次元の異なる問題にその根はあるのでしょう。その根とは、世界全体が自分を拒絶する敵であるという感覚であり、それは自分はこの世界にあって、全くのよそ者であるという、底知れない孤立感です。
自殺はもちろん悲惨なことであり、自殺しようとするところまで追い込まれるということは、苦しいことではありますが、そこには自己愛があります。つまり、苦しみのただ中で、苦しい自分を助けて、楽になりたいという、自分への愛着がそこには動いています。ところが、世界を破壊し、無差別に人を殺したいという、底知れぬ衝動に駆られるときには、その自分そのものも破壊し尽くしたいという、出口の全くない絶望的な精神状態がそこにはあるのです。
親鸞聖人が「正信偈」で、浄土の教えに帰した大切な先輩として仰いでおられる「七高僧」の一人である源信僧都は、その著『往生要集』で、人間にとって一番苦しい地獄は「無間地獄」であり、それは「孤独無同伴」つまり孤独な世界であると、はっきりとおっしゃっておられます。そして真宗の根本経典である『仏説無量寿経』に説かれる、阿弥陀如来の本願の第一願には「地獄・餓鬼・畜生」がないことを誓われています。つまり、その地獄に生きるものはまた、餓鬼・畜生の生き方をせずにはおれないと、阿弥陀の本願は、衆生の苦しみを智慧によって見抜き、大悲しておられるのです。
親鸞聖人がその本願に触れ、本願に生きることになったのは、親鸞聖人自身が本願の目当てである孤独の地獄をくぐられたからでありましょう。非道な行動をとることは、人倫からは許すことのできないことではありますが、人間の立てた愛や善悪の価値観の虚偽を痛いほど知り、孤独の地獄にあって、世界を恨み、絶望するということは、機縁さえ熟すならば、親鸞聖人を殺そうとした板敷山の弁円がそうであったように、大悲に触れて懺悔がおこる、重大な意味があるということを、親鸞聖人から教えられるのです。 
 9 親鸞が出遇った釈尊
宗祖親鸞聖人はどこで釈尊と出遇ったのであろうか。もとより、様々な仏典によって教主世尊・大聖としての釈尊を遙かに礼拝していたであろうが、直接的には『無量寿経』において出遇ったにちがいない。同経では、まず聴衆として、釈尊の直弟子たちの名前が列挙され、続いて、大乗の菩薩たちの名前が列挙された後に、釈尊の生涯が伝記(仏伝文学)に基づいて説かれている。その内容は、言葉の限りを尽くしての賛嘆に満ちあふれている。
ちなみに、この釈尊の伝記の部分は、現存する同経のサンスクリット原典にはなく、漢訳の際に挿入されたのであろうが、この挿入はきわめて重要であったと考えられる。そこには、大乗の菩薩たちへの釈尊の授記によって浄土への往生が説かれるという漢訳者の了解が込められていると見なされるからである。原典の場合は、ここに釈尊の伝記がなくても、そこには自明なこととして釈尊は絶対的な存在としてあり得ていたのであるが、漢訳ではそのことを明示し、かれら大乗の菩薩たちは、釈尊の授記を得た菩薩たちであることを再確認しておく必要があったということであろう。
ここに説かれている伝記は、大方の伝記にならいながら、要を得て巧みに釈尊の生涯を辿りつつ、釈尊が群生を荷負する大乗の菩薩たちにとっての大聖であることを説き、釈尊から記別を授けられた菩薩たちがここに来会していることを示すためである。そのような手続きを経て、まさしく同経の主題である本願について、阿難の問いが起こされることになる。
ところで、ここに説かれている釈尊の伝記の記述において注目しなければならないのは、大乗経典、特に■永平寺1 福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗の寺院。總持寺と並ぶ日本曹洞宗の中心寺院(大本山)である。山号を吉祥山と称し、寺紋は久我山竜胆紋(久我竜胆紋・久我竜胆車紋)である。開山は道元、本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏である。 ■歴史 ■道元の求法 曹洞宗の宗祖道元は正治2年(1200年)に生まれた。父は村上源氏の流れをくむ名門久我家の久我通親であるとするのが通説だが、これには異説もある。 幼時に父母を亡くした道元は仏教への志が深く、14歳で当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺に上り、仏門に入った。道元には「天台の教えでは、人は皆生まれながらにして、本来悟っている(本覚思想)はずなのに、なぜ厳しい修行をしなければ悟りが得られないのか」という強い疑問があった。道元は日本臨済宗の宗祖である建仁寺の栄西に教えを請いたいと思ったが、栄西は道元が出家した2年後に、既に世を去っていた。 比叡山を下りた道元は、建保5年(1217年)建仁寺に入り、栄西の直弟子である明全に師事した。しかし、ここでも道元の疑問に対する答えは得られず、真の仏法を学ぶには中国(宋)で学ぶしかないと道元は考えた。師の明全も同じ考えであり、彼ら2人は師弟ともども貞応2年(1223年)に渡宋する。 道元は天童山景徳寺の如浄に入門し、修行した。如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐(しかんたざ)」を強調したものであり、道元の思想もその影響を受けている。道元は如浄の法を嗣ぐことを許され、4年あまりの滞在を終えて帰国した。なお、一緒に渡宋した明全は渡航2年後に現地で病に倒れ、2度と日本の地を踏むことはできなかった。 日本へ戻った道元は初め建仁寺に住し、のちには深草(京都市伏見区)に興聖寺を建立して説法と著述に励んだが、旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭う。 ■越前下向 旧仏教側の迫害を避け新たな道場を築くため、道元は信徒の1人であった越前国(福井県)の土豪・波多野義重の請いにより、興聖寺を去って、義重の領地のある越前国志比庄に向かうことになる。寛元元年(1243年)のことであった。 当初、義重は道元を吉峰寺へ招いた。この寺は白山信仰に関連する天台寺院で、現在の永平寺より奥まった雪深い山中にあり、道元はここでひと冬を過ごすが、翌寛元2年(1244年)には吉峰寺よりも里に近い土地に傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)を建立する。これが永平寺の開創であり、寛元4年(1246年)に山号寺号を吉祥山永平寺と改めている。 寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後漢明帝のときの元号「永平」からであり、意味は「永久の和平」である。 ■道元以降 その後の永平寺は、2世孤雲懐奘、3世徹通義介のもとで整備が進められた。義介が三代相論で下山し4世義演の晋住後は外護者波多野氏の援助も弱まり寺勢は急激に衰えた。一時は廃寺同然まで衰微したが、5世義雲が再興し現在にいたる基礎を固めた。暦応3年(1340年)には兵火で伽藍が焼失、応仁の乱の最中の文明5年(1473年)でも焼失した。その後も火災に見舞われ、現存の諸堂は全て近世以降のものである。 応安5年(1372年)、後円融天皇より「日本曹洞第一道場」の勅額・綸旨を受ける。 天文8年(1539年)、後奈良天皇より「日本曹洞第一出世道場」の綸旨を受ける。 天正19年(1591年)、後陽成天皇より「日本曹洞の本寺並びに出世道場」の綸旨を受ける。 元和元年(1615年)、徳川幕府より法度が出され總持寺と並び大本山となる。浄土経典であるが故の大切な記述が含まれていることである。それは、
成等正覚,示現滅度,拯済無極。(釈尊は「覚り」を成し遂げられ、その入滅においては大般涅槃を示現されたけれども、救済されなければならない衆生に極まりがない)(聖典四頁)
という、大切な一文である。
この一文の中の「成等正覚示現滅度」は、宗祖の『正信偈』において、
成等覚証大涅槃(「覚り」をなし、大涅槃を証することは)(聖典二〇四頁)
と詠まれている一文とまっく同意である。「等正覚」とは、釈尊の「覚り」のことで、「等覚」「正等覚」とも漢訳されるsamyaksambodhi(三藐三菩提)の意訳である。「滅度」とは「大般涅槃」「大涅槃」「無上涅槃」のことに他ならない。従って、『正信偈』における、
成等覚証大涅槃必至滅度願成就(同右)
は、「釈尊が「覚り」を成し遂げられて、その入滅において大涅槃を証明され、滅度を示現されているから、私たちを必ず滅度に至らしめるという本願はすでに成就されている」と了解されるべきではなかろうか。しかしこれまでのところ、この句が釈尊自身のこととして解釈されていないようであるが、私はここに宗祖が出遇った釈尊を看取するのである。 
10 宗祖の姿を求めて
教学研究所では、昨年『親鸞聖人行実』を改訂し発行した。ここ数年改訂作業にかかわり、発行を終えて、親鸞聖人を憶うということの意味を改めて考えている。
私たちは、九歳で出家し、二十九歳で法然上人に出遇い、流罪ののち関東で布教し、京都に戻って沢山の著述に力を尽くされたという、大まかな宗祖の生涯は知っている。しかし、私たちが思っている宗祖は、それだけではないのはどうしてであろう。私たちの思う宗祖は、その大まかな生涯以上に、もっと肉がつき、豊かであるはずである。私たちは、実在が疑われたほどに、生涯を知る確実な手がかりが少ないこともよく知っているが、その宗祖像はどのように出来上がったものであろうか。そして果たしてそれは、正しいものであるだろうか。
私の宗祖像、つまり私の憶う宗祖のお姿は、様々なところから形成されているはずである。親や先輩の話、法話、聖教、その他の書物、学校…。そして宗祖像にも時代性がある。かつてはマルクス史観的な階級闘争に宗祖が位置づけられたこともあった。そのような生々しい人間親鸞といった見方や、あるいはさらに近世に遡れば、奇瑞を起こし、神もが尊敬する貴人としての親鸞。このような宗祖像はその時代性を背負っている。つまり人間親鸞と言うところには、近代化する社会において生き生きと生きることが失われていく中、まさしく生々しく生き生きと生きる人間という理想が、親鸞に求められ、重ねられたのであろう。また、近世の伝記であれば、厳しい身分制度、そして幕藩体制下の寺檀制のもと、日々忍従しつつ暮らす人々にとってその忍従を宥めるよき教えとなって用いたのであろうことは想像できる。それと同じように、私たちも、私たち自身(の思想)を補完するものとして宗祖という存在を利用してしまうことがある。
しかし、宗祖の生涯のほとんどが不明であるという事実は、その私たちの宗祖像が本当に正しいのであろうか、自分の考えを投影しているのではないのかと、どこまでも私たちの宗祖像を問い直していく。勿論、そこには絶対に正しいという宗祖像などない。私たちの宗祖像は、常に必ず問い直されるものとしてある。これは宗祖像だけでなく、真宗という教えの受け取りもそうである。皆それぞれ、自分なりの教えへの受け取りがある。しかし果たしてそれは宗祖のお心であるのか。そう問い直す場が、聞法である。宗祖像であれ、教えの受け取りであれ、どちらも常に固定化を破り、問い直していくところに、真宗という仏道の大切な営みがある。
だからこそ私たちは、いつでも新しく宗祖に出遇うことができるのである。その宗祖像は、人ごとに違ってよく、同じである必要はない。私たちは語り合うところに、いつでも様々な宗祖に出遇うことができる。そう、私たちには、宗祖像が無限に開かれている。いつでも新しく、私たちは親鸞聖人の姿を求め続けていくことができる。 
 

 

11 『伝絵』中の親鸞聖人―箱根示現の意味―
親鸞聖人の曾孫覚如上人は『本願寺聖人伝絵』上下二巻十五段を制作し、聖人を顕彰した(康永本)。「伝絵」中に、ア「六角告命」の段、イ「蓮位夢想」の段、ウ「定禅夢想」(「入西鑑察」の段)、エ「箱根示現」の段、オ「熊野示現」の段と、仏神の示現・夢告の段に三分の一を割いてあるのが目を引く。
これらのなかで、本地(来)の仏が衆生済度のために、権りに神に姿を変えて現れる本地垂迹思想に依り、聖人は弥陀の化現として表されている。覚如上人の「伝絵」制作の意図のひとつに、本願念仏の教えを広めた親鸞聖人を、「生身の弥陀如来」として讃仰することがあったと考えられる。
これらのなかでエの「箱根示現」の段についてその意味を考えてみたい。
「箱根示現」は、関東から帰洛する親鸞聖人一行が、箱根の山中で日が暮れて困っていた所、箱根神社の神官が一夜をもてなした。聖人が理由を尋ねると、われ尊敬をいたすべき客人…かならず慇懃の忠節を抽でて、殊に丁寧の饗応を儲くべし、と権現の夢告があったからと答えたという。
聖人が箱根神社に立ち寄ったという伝承は「伝絵」以外の史料には見えない。そもそも本となる伝承があったのか、また覚如上人の創作なのかはわからない。この段はこれまで「念仏者は、無碍の一道…信心の行者には、天神地祇も敬伏」(『歎異抄』第七条)することを説いた段として理解されてきた。しかし、なぜ箱根神社でそのことを言わなければならなかったのか。他の神社でもよかったのではないか。道中には鶴岡八幡神社や三島大社、尾張の熱田神宮、近江の多賀大社など有名な神社がある。しかし、それらの神社ではなくて、箱根神社でなければならなかったのであろうか。また、箱根権現は、なぜ聖人を「尊敬を致すべき客人」と夢告したのか。
覚如上人が「伝絵」に「箱根示現」の段をいれた理由を、その祭神にあると考える。箱根神社の祭神は、ニニギノ尊、コノハナサクヤヒメノ尊の夫婦神と、子のヒコホホデノ尊の三柱である。そして、ヒコホホデノ尊の本地は勢至菩薩とされている。『仏説観無量寿経』に、「住立空中」の弥陀三尊が現じたように、勢至菩薩は観音菩薩とともに阿弥陀如来に脇侍としてつかえている。ここに、箱根権現でなければならない必然性があった。それこそ本地垂迹思想で説明できるのである。
ところで、「伝絵」のなかで、すでに勢至菩薩の示現とされた人物がいた。それは法然上人で、幼名を勢至丸といい「智慧第一の法然房」と称されていた。したがって、「伝絵」解釈では法然上人を勢至菩薩の示現として、弥陀三尊とみてきた。しかし、法然上人は聖人を教え導いた師匠であって、法然上人が、聖人を礼拝する形をとっていない。ところが「箱根示現」の段を設けることによって、勢至菩薩(法然上人)が弥陀如来(親鸞聖人)を尊敬するかたちとなって解決するのである。
親鸞聖人を「生身の弥陀如来」として崇敬させるうえで、「箱根示現」の段はそれを補完し証明す意味をもっていたのである。 
12 如来が出興する「世」とは
如来所以興出世 唯説弥陀本願海(聖典二〇四頁)
―釈尊がこの世に生まれ出られたのは、ただ阿弥陀の本願海を説くためである― と『正信偈』にはっきりと述べられている。それが親鸞聖人から釈尊へと向けられた眼差しであり、敬いである。この二句には『大無量寿経』を通して釈尊の教えに直に触れ、本願に帰した仏弟子としての自覚が顕わされていると聞かせて頂いた。
親鸞聖人が生まれた時代とは貴族と武家との政権争いによる動乱期であり、さらに飢饉や疫病によって都には死者があふれ、死臭が鼻をついたという。それはまさに恐れと不安に満ちた時代である。「死」がむき出しにされ、同時に「死」に迫られての「生」がむき出しにされていた世界だったといえよう。親鸞聖人にとって、如来が出興すべき「世」とは釈尊在世時代の過去の出来事ではなく、まさに親鸞聖人が生きた「その時」の事に他ならない。
さて、親鸞聖人の生まれたそのような時代からおよそ八〇〇年以上が過ぎ、今を生きる私たちは便利で快適な生活が送られるようになった。しかし、言い換えれば「便利で快適」な時代とは「死が見えない」時代とも言えないだろうか。やはり人間にとって死とは何事にも代えがたい恐れを孕み、私自身、死を遠ざけたところに幸せがあると思っているのである。そして、死から離れた幸せをこそ頂点として、生活の進歩と向上をさらに求め続けているのだ。その先に本当の満足はあるのだろうか。
今年の五月、臓器移植法の改正に伴い様々な議論が交わされ深く考えさせられた。そもそも臓器移植とはかつては夢のような話だったのが「出来る限り長く生きていたい」、或いは「なんとか生き長らえてほしい」、そういう素朴でありつつも切なる願いを受けて医学は発達し、高い医療技術を我々は手に入れた。そして、臓器移植が夢の事ではなくなったのだ。実際に生きた臓器が求められる現場からは、違った意味で「死を乗り超え」ようとしていることの強い意志が表われているように感じる。そしてそれが科学技術を手に入れた人間の必然性であるともいえる。
私はこのことを書いて医学や臓器移植についての善し悪しを言及したいのではない。ただ、生きた臓器がやりとりされる時代を生きる者として、死を遠ざけ、生のみを求め続ける人間の姿がさらに際だって見えてきたと感じるのである。
これらのことを合わせて考えてみると、釈尊在世の時代、親鸞聖人在世の時代、そして私たちが生きている今と時代は全く違っているが、死をめぐる混乱は何一つ変わっていないといってもいいだろう。だからこそ「今、現に在して」法を説きたもう如来が出興すべき「世」とは「常に」なのだといえる。今こそ、釈尊の声に耳を傾ける時だと確かめておきたい。 
13 「和讃」に親しむ
自坊で毎月声明や勉強会を門徒とともに行っている。二十数年が経ち「正信偈」、『歎異抄』、「和讃」、『唯信鈔文意』などを読みながら解釈や宗祖のいわんとするところを提示している。また、宗祖、蓮如上人の生涯、あるいは本願寺東西分派などの歴史的な話も順次行った。
特に多数の和讃を紹介、読誦した時は、筆者もそのわかりやすさや讃歌にあらためて心うたれることがあった。和讃は宗祖が「ヤハラゲホメ」と左訓されるように、経、論、釈の深い教理を和語をもって意味をわかりやすくされ、諷誦するようにされた歌である。和語の『教行信証』ともいわれる。
『三帖和讃』の「浄土和讃」、「高僧和讃」は宗祖七十八歳の時脱稿され、八十三歳の時に再治された。その喜びを描かれたのが著名な「安城の御影」である。蓮如上人の孫、顕誓は『反故裏書』で「世に申伝へけるは、『和讃』御所作をなされ御歓悦の御かたちをうつさせられ侍る、画工は朝円法眼と云云」(『真宗聖教全書』第三巻九五七頁)と、宗祖が「和讃」完成で歓ばれ、自画像を描かせたと伝え聞いていると記している。
宗祖が高齢にもかかわらず、「浄土和讃」一一八首、「高僧和讃」一一九首(蓮如文明版)の多数を著され、また宗祖八十歳代半ばで「正像末和讃」一一六首を加えられた。七五調の四句一章形式の讃歌は、拝読したり聞く門徒にとって心に印象深く残る。宗祖は難解な漢文を解読できない者にわかりやすくするため心血を注いで和讃を作成してくださったのである。また、流暢な語調や教義的に組織だてられている内容は改めて必読、口誦することが求められているように思う。
筆者が好む和讃が多々あるが、たとえば左掲の和讃もその一つである。
本願力にあひぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水へだてなし (「天親讃」聖典四九〇頁)
特に「功徳の宝海」に魅せられる。宝海は苦海に対応する文言であろうが、宗祖は「海」と「水」を喩えにされていることが多い。右掲の「煩悩の濁水」、「弘誓の智海」、「名号不思議の海水」、「智願海水」、「他力の信水」等々である。煩悩は本願を信ずるとそのまま同化、一味になるもっともわかりやすい比喩として海、水を宗祖は提示して下さったと考えられる。海は清濁、大小の川の水をみな受け入れてくれる身近な自然であろう。もちろん『願生偈』に「能令速満足功徳大宝海」(聖典一三七頁)とあり、宗祖も読誦しておられたのはいうまでもない。
筆者は「正信偈」を日常的にお勤めする時、「帰入功徳大宝海必獲入大会衆数」(聖典二〇六頁)の箇所で、前掲の「和讃」を思いおこす。特に「宝海」に思いをはせる。
多くの「和讃」を味読することは、門徒としての自覚をより一層促されるのではないだろうか。 
14 悪人こそがすくわれる
阿闍世と言えば『仏説観無量寿経』の序分に説かれる、「王舎城の悲劇」の一方の主人公で、父を殺し、仏を傷つけようとした五逆、謗法の大悪人です。宗祖親鸞聖人は、『大般涅槃経』を『教行信証』「信巻」に引用して、その阿闍世のすくいを説かれて、浄土真宗の信心を明らかにしておられます。そこで阿闍世は「一闡提」といって、「仏がすくおうと思ってもその手がかりがない者」としてえがかれています。「すくわれないもののすくい」、つまり悪人がどのように成仏道に立てるかということが浄土真宗の信心の内容だということなのです。
『教行信証』のこの部分はまた、『仏説無量寿経』に説かれる法蔵菩薩の第十八の願の「すべての者をすくうけれども、ただ五逆と正法を誹謗したものを除く」という言葉の意味を明かしている、と宗祖が受け止めていらっしゃいます。宗祖にとって阿闍世のすくいが自らのすくいであるということです。それは実は、同時に自らも、すくいからもれるべき五逆と謗法のものであるという自覚に立っているということでもあります。
このような「悪人のすくい」が浄土真宗の大きなしるしであるのは間違いありません。しかし、このことは実は法然・親鸞のお二人が特別に考えられたことなのではないのです。仏教は実はその初めから「悪人・阿闍世のすくい」を一つのテーマとしてきました。阿闍世のすくいを述べた経典がたくさんあるのです。そこで阿闍世のすくいは「無根の信を得た」と説かれています。阿闍世の側には根拠がない信心だというのです。それはちょうど宗祖がおっしゃる「阿弥陀さまからいただいた信心」のことです。
私たちはどこかに仏がいて、それに自分がであうのだろうと考えています。「自覚」という言葉で示されるのは、善悪を自分で決め、その延長に仏やすくいをおいて疑いもしない、そういう偽りが照らし出されることです。仏とであったから悪人と名づけられる者になるのですし、また悪人であるという自覚こそが仏とであった証拠なのです。真なるものとであうから偽であることがわかるのです。正しい教えを聞こうとも、仏になろうとも思ってもいないのが私のすがたです。そういう自分のすがたに目覚めること以外に、私たちに仏道が成り立つ根拠はありません。このことこそが「南無阿弥陀仏」という言葉で示される浄土真宗の「信心」であり、仏教であるしるしなのです。
すくわれる者ではないという自覚から深められていった宗祖親鸞の仏道が、時間を超えてまっすぐお釈迦さまの説かれた教えにつながっています。 
15 往生極楽のみちをといきかんがため
先日、御門徒の方々と親鸞聖人の御旧跡を巡る時間を共にした。ゆかりの地を巡りながら、その地で語り継がれる聖人のお姿を想った。また同じ頃、地元の博物館で「安城の御影」が公開され、そのお姿にお遇いすることができた。御遠忌を間近に控え、各地で聖人の足跡を尋ねる機会が増えている。八百年の時代を超えて聖人のお姿を想う。
時を経て聖人在世中と現代では時代は大きく変わった。御旧跡に立ち、眺める景色も、そこに住む人々もすっかり違っている。その変化の度合いはますます急激なものとなり現代を生きるわれわれを呑み込んでいるように感じる。自然科学や社会科学の発達はその技術と知識で人々の世界観を大きく変えた。生活の利便性を向上させ、当時では考えられなかったような社会が実現しているのである。
そんな社会のなかにあって、八百年もの時代を超えて、さらに釈尊からは二千五百年もの時代と国を超えて、その教えがこの時代を生きる自分とどう関わってくるのか、戸惑いながら考える。今、親鸞聖人のしめされた教えに聞いていこうというのはどういうことであるのか。変わりゆく世界のなかで、教えがその時代その時代の衆生に応えていくということはどういうことであるのかと考えさせられるのである。
『歎異抄』第二条には聖人と門弟とのやり取りが記されている。「おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり」(聖典六二六頁)。関東から尋ねてこられた門弟に対して、あなた方がはるばる尋ねてこられたお気持ちは、「往生極楽のみちをといきかんがため」である、と。そしてその「みち」は、よきひと法然上人によって出遇った「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」(聖典六二七頁)というお念仏の教えであることを伝えておられるのである。おそらくさまざまな質問をもって参上したであろう門弟に対して、それらへの回答ではなく、それらの問いをつつんだ、ただひとつの根源的な問いを言い当てるこの場面は印象的である。そしてこのことは、現代のわれわれも同じく、たとえ時代が変わろうとも、「往生極楽のみちをといきかん」というところでしか聖人とつながる道はないのだと教えられてあるように思う。
教えは時代の相を言い当てるのではなく、その時代を生きる人間の苦悩の根源を言い当てるのである。「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」とは、その苦悩の根源に応答する如来の本願の勅命である。その勅命に従うことによって、聖人もまた時代を超えて七祖に出遇っていかれたのであろう。 
16 本当の自分とは
私は京都の大谷専修学院に、週一回ではあるが、学院生と共に仏教を学ぶご縁を頂いている。学院生は、スタッフと共同生活をしながら、その生活を通して仏の教えを聞き、学んでいる。その姿から、私自身の学びの姿勢を振り返る機会に恵まれている。
その専修学院で、先日、座談会が開かれ、そこに参加した。座談会ではいくつかのテーマが出されていたが、その中の一つに、「本当の自分とは何か」というものがあった。
他人との生活の中で私たちは、友達や先生、あるいは家族からどのように自分は見られているのかという、他人の「目」を気にして生きている。またその「目」を気にして、他人に気に入られるように、嫌われないように、いろんな自分を作っている。いろんな顔をもつ自分がいる中で、本当の自分とは一体何なのか、自分は何のために生きているのか、自分を生きるとはどういうことなのかという問いが生まれてくるというものであった。座談では、実際に自分が感じることや、聖典の言葉を持ち寄りながら、そのテーマについて話し合われた。
本当の自分とは何か、という問いそのものはとても大切なものであることはいうまでもない。しかし、「日頃の自分」とはまた別に、「本当の自分」があるということになると、その自分に、「日頃の自分」を無理に当てはめようとする。そこに「本当の自分」と「日頃の自分」とに自己分裂が起こり、「本当の自分」に振り回され、逆に自分を見失ってしまうことになる。
清沢満之は、「自己とは何ぞや」(大谷大学編『清沢満之全集』第八巻三六三頁、以下『全集』と略)という問いが人世の根本問題であるとした。これはどういう意味があるのだろうか。
満之は、人間関係に苦しみ、不治の病に罹る中で、自らの人生の意義を問う日々を送っていた。その中で、次のように言っている。
人生の意義は不可解であるという所に到達して、ここに如来を信じるということを惹起したのであります。(『全集』第六巻一六一頁)
様々な思いが交錯する中で、人生の意義は、「不可解」(不可思議)であることに到達したとある。この不可解とは、問おうとしている自分自身の思慮分別が崩れたことを意味している。そしてこのことから「如来を信じる」のである。満之は本当の自己とは、「今、如来を信じている自己」以外にないという結論に至ったのである。
私たちは、「本当の自分とは何々である」ということを具体的に示すことによって安心しようとする。それは今の自分に満足できずにもっと違う自分がいると思いたいからである。しかしそれは同時に何かを見失うことであることに気づいていないのである。
「自己とは何ぞや」という問いは、本当の自分に対する答えをどこか外に求めるものではなく、それを探し求めている自分そのものが問われることに、本当の意義がある。それはまた、「日頃の自分」の中にすでにはたらいている課題を照らし出す意義がある。自分を超えて自分にはたらき続ける仏の願い、ここに気づくことが大切なのである。 
17 雑行を棄てて本願に帰す
宗祖親鸞聖人は、二十九歳の時、自力作善の心を棄て、本願他力の浄土門に帰入された。この慶びを、後年『教行信証』「化身土巻」に「雑行を棄てて本願に帰す」(聖典三九九頁)と記されている。「雑行」とは、「正行」に対してであり、「正行」とは弥陀他力回向の「念仏」である。それは「大行」ともいわれる。「雑行」は、念仏以外の自力作善の行である。「本願に帰す」とは、自力作善の心を棄て、他力の念仏を頂く身となることである。
しかし、「雑行を棄てて本願に帰す」ことの難しさを痛感する。“ご門徒”も、お内仏にお参りして念仏を称えることも少なくなり、また念仏を称えても、追善供養・現世利益を求める自力作善の念仏であることが多いのではないだろうか。「個の自覚の宗教へ」という、五十年前の同朋会運動発足時のスローガンは遠くなっている。
遺骨とお墓、追善供養がお参りの中心となり、亡き人へ追慕の情を抱くことを、信心と勘違いされている。それは聞法の抜け落ちたお参りである。わたし自身が教えを頂き教えに問われることがないお参りである。それは、極言すればご本尊を無視し、必要としないお参りである。情を超えて不変の法に遇わなければならない。
また、健康・家内安全など現世利益で称える念仏も多く見受けられる。弥陀の「本願」と「わたしの願」の認識に大きなずれがある。
弥陀は、煩悩を断つことができず生死流転の闇を迷い続けている一切全て、このわたしたちを、真実覚りの世界、浄土極楽に往生させようと、願を建てて下さった。しかし、煩悩まみれのわたしたちは、本願を自分の欲にすり替えてしまっている。
ある“ご門徒”の家にお参りすると、お内仏の戸袋の前に紙の束が置いてあった。「…ジャンボ宝くじ」の文字が見えた。その“ご門徒”は、《わたしの願いを叶えてほしい。わたしの願いは、たくさんのお金を手に入れることである。宝くじに当たったら家を買い、旅行に行って、貯金をして…》と妄想をえがく。このわたしの願いとは、煩悩から生じている欲である。わたしの願と、阿弥陀如来の本願を勘違いし、同一と思いこんでいるのである。弥陀の超世の願、本願までも、自分の欲を叶えることとして受け取っている。我欲を叶えるために、阿弥陀如来をも利用しようとする、煩悩熾盛のわたしがいるのである。
親鸞聖人は、
浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし(聖典五〇八頁)
と、「愚禿悲歎述懐和讃」に詠われている。これこそが、わたしたちのすがたであろう。
親鸞聖人は、「愛欲の広海に沈没し名利の太山に迷惑し」「いずれの行もおよびがたき」「底下の凡愚」と、自身を厳しく見据えられ、雑行を棄てて「本願に帰」されたのである。
この聖人の生きざまと教えを頂かなければならない。煩悩熾盛・罪業深重のわが身の事実を頷き懺悔し、「本願他力」の念仏を頂く身とならなければならないのである。 
18 斉しく悲引したまうや
親鸞聖人を宗祖とするということは、決して聖人の言葉を金科玉条とするということではありません。むしろ、そのように受け取ることを拒絶するものこそ親鸞聖人の言葉です。
それはある意味では、宗教が、そのままの形では伝承することができないとする、仏教の末法思想と通底するものであります。
その時に、易行をもって宗教の伝承を可能としようとされたのが、法然上人の選択念仏の思想だったともいえるでしょう。
しかし親鸞聖人は、その法然上人との出遇いによって、自らを愚禿と名告り、愚禿の心によって賢者の信を受けとめていくことが、いかにして可能かを生涯の課題とされたのでありましょう。その思索と苦悩の記録こそが『愚禿鈔』ではないかと思います。
そして、その思索を通して、易行として伝えられるものと、難信として断絶するものの絶対的矛盾を受けとめた時に、はじめて宗教心が大菩提心として伝承されることを顕らかにされたのが『教行信証』として私達に残された言葉だと思われます。
『教行信証』には、「己が能を思量せよ」(聖典三三一頁)、「己が分を思量せよ」(同三六〇頁)と私達に教誡されています。
それは「己の能」の自力無効によって、浄土の思想が全ての者の救いを完遂することを顕らかにすると同時に、その救いが一人ひとりの「己の分」によって異なった相を持ち、その異なりによって普遍的な救いとなることを示されているのでありましょう。そのことを「広大異門に生まる」(聖典二四五頁)と示されています。
ですから,親鸞聖人にとって顕真実とは、浄土を顕すことだけでなく、同時に穢土を顕すものでなければなりません。そして、この浄土と穢土の二つの世界の用きこそが、私たちの生に真実を与えるものであります。親鸞聖人は、この真実を生きた者として、私たちに、これから生きていく根拠と力を自覚させることで宗祖として用きつづけているのです。
そのような、宗祖としての言葉は、何よりも親鸞聖人自身の、愚禿としての自覚の中にある絶望と、その絶望を通した先にある希望を示すからこそ私達に具体的な力となって作用するのであります。
「悲しきかな、愚禿鸞」と悲嘆される言葉をそのまま、「悲しきかな、垢障の凡愚」と呼びかけられた、その憶いを受けとめることこそ、私達が親鸞聖人を宗祖とするということに他なりません。
そして、この絶望を通して伝わるものこそ末法思想として表現された宗教心をもって人間を成就する力となるといわれているのでしょう。「浄土真宗は、在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまうをや」(聖典三五七頁)という言葉こそ、私達が親鸞聖人を宗祖として生きる事に与えられる課題だと思えてなりません。そこから、親鸞聖人を学び、親鸞聖人に学ぶ学び方が明らかになるのではないかと思います。 
19 御遠忌に遇う慶び
宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌も、いよいよ第三期法要をお迎えすることになり、すでに多くの方々に、この尊い御法要の勝縁にお出遇いいただいたことです。宗務にたずさわる私たちも役目として、参拝くださる人々をお迎えさせていただいています。五十年ごとにお勤まりになる御遠忌にお遇いできるのは、生涯において二度という方もいらっしゃるでしょうが、一度限りという人が多いのではないでしょうか。それだからこそ五十年ごとの大法要にお遇いすることは尊い御縁なのです。
お参りくださる方々のお顔を拝見していると、どなたも慶びにあふれておられるようです。その雰囲気は言葉で交わさなくても、その姿を通して伝わってくるものです。五十年前の七百回御遠忌の様子を教学研究所の大先輩である宮城先生は、全体を包んで、御遠忌中にあふれていました生命感というものは、尊く力強いものでありました。百万を越える人々が、一人の師の教を中心に、しかも七百年後の今日心を一つにして集まったということは驚くべきことです。(『教化研究』第三二号「編集後記」) と記しておられます。宗祖と仰ぐ親鸞聖人がお説きになった真実の教えを拠り所として生きている人々のつながりを「生命感」と感じ取られたのでしょう。
親鸞聖人のお言葉に、遠く宿縁を慶べ。(総序、聖典一四九頁) とあります。悩み苦しみながらなんとか生きている者をこそ、拯い取ろうと願い続けていてくださる阿弥陀如来に、今お遇いできた慶びを情感をこめて記しておられます。お念仏もご信心も、この私のために仏さまが、すでに用意してくださっていたことに、今、気づいた慶びなのでしょう。
「慶」の字には、めでたい時に祝いものとして鹿の皮を贈ることを表していて、よろこぶの意とともに、祝うとか、たまわったものという語意があるようです。必ずたまわることが約束されていたものを、今、この私がいただけたという大きな慶びでしょう。親鸞聖人が晩年にお書きになった『唯信鈔文意』には,慶喜するひとは、諸仏とひとしきひととなづく。慶は、よろこぶという。信心をえてのちによろこぶなり。(聖典五五五頁) とあります。私の得た信心は、生きとし生ける者すべてを拯い取るという阿弥陀如来の大慈悲心そのものなのです。そのお心をいただいて慶喜する人の姿を通して、さらに衆生を救済したいという仏さまの慈悲心がひろがっていくと述べておられるのでしょう。
この御遠忌に間近くお遇いさせてもらいながら、全国から、また海外からもお参りになる方々の慶びにあふれた姿に接して、親鸞聖人がお亡くなりになって七百五十年という年月はたっても、聖人がいただかれた仏法が確かにあることを実感しています。御遠忌を御縁として、今を生きる私を貫いて伝わり、伝わっていく浄土真宗の御教えを確かめさせていただきたいものです。 
20 師の言葉とともに生きる
近年、真宗門徒にとって最も大切な法要である報恩講でのお話を依頼されることが多くなった。ご法中方が報恩講のお勤めをされている間、私は控え室でひとり『真宗聖典』を読むことが多い。ご法中方の声明を聞きながら聖典を読んでいると、いつもより深く宗祖の言葉が響いてくる。そして、思いがけない発見をすることがある。
ある日、宗祖が晩年に頻繁に使われる言葉があることに気がついた。それは師・法然上人からいただかれた「義なきを義とす」という言葉である。『歎異抄』に「念仏には無義をもって義とす」(聖典六三〇頁)という言葉が語られていることは承知していたが、聖人八十六歳のときに認(したた)められた『尊号真像銘文』にもその言葉がある。「他力には義のなきをもって義とすと、本師聖人のおおせごとなり。義というは、行者のおのおののはからうこころなり」(聖典五三二頁)と述べられている。また、関東のご門徒に送られた手紙にも「行者のはからいのなきゆえに、義なきを義とすと、他力をば申すなり。善とも、悪とも、浄とも、穢とも、行者のはからいなきみとならせ給いて候えばこそ、義なきを義とすとは申すことにて候え」(五九三頁)と書き記されている。
晩年の親鸞聖人は何故にこれほどまで「義」にこだわられたのだろうか。そこには阿弥陀さまの誓願を「他力」という表現で伝えることにたいへん苦労されている姿が伝わってくる。言葉も絶え果てた世界を文字で伝えることの厳しさを知らされる。関東のご門徒に対して手紙という手段を用いて,なんらかの言葉で語らねばならない。宗祖は具体的に善、悪、浄、穢という私たちが立場として取りやすい事柄を示して、このようなことを「はからい」というと語られている。そして所々に散見される言葉は「ただ、仏にまかせまいらせ給えと、大師聖人のみことにて候え」(聖典五九三頁)である。若い頃に師・法然上人から聞いた言葉をいつも憶念され、生涯にわたって師の言葉とともに生きられた聖人の姿を思い浮かべる。  ひるがえって、私は先師から「法は法自身によって伝わる」というような言葉を聞いたことを思い出す。報恩講で貴重な時間をいただいて、仏法を語ろうとすればするほど上滑りしそうなとき、先師からいただいたこの言葉に安心し、「法」に託してお話を続けさせてもらっている。先師もまた、仏法をどのように語るか苦労されたのかもしれない。先ほどの言葉は、その苦労の中から生まれ出たものであるように、私は感じている。
親鸞聖人が「他力」をいかに伝えるか、師・法然上人の言葉を繰り返し繰り返し、手紙に認めておられる姿を思うとき、聖人が師の言葉とともに生きられたことをあらためて感じる。
宗祖親鸞聖人の徳を讃嘆する報恩講という場でお話をさせていただく身として、仏法が正しく伝わっていくか心配しつつ、聖人が師・法然上人から聞き取られた言葉をいつも憶念されていた姿を思いながら、お話をさせていただいている。 
 

 

21 人間であることの問い
実家でもある田舎の寺を手伝わせて頂くようになって今年で六年が過ぎた。月参りが盛んな地域で、親しくご門徒さんと顔を合わせられる大切な時間だと思ってお勤めさせて頂いている。ほとんどの家ではどなたかお一人が私の後ろに参られるのだが、一件だけ必ず家族でお参りされるお宅がある。
そのご家族が熱心になられるのには理由がある。六年前の夏、高校生の息子さんをクラブ活動中に心不全で亡くされ、それがご縁となって皆でお参りされるようになったのだった。息子さんのご両親と妹、そして祖父母の五人が毎月必ず一緒にお勤めをする。そのような一家族の姿をそういうこともあると簡単に片付けてしまえばそれまでであるが、なにしろ毎月必ず、家族そろってという姿勢に何か強い意志を感じさせられる。  お勤めを終えて茶の間で雑談をしていると、「あの子は今何しているんだろうね?」「あの世で頑張っているのかね?」と、まるでどこかで生きているかのような会話に度々なるのだが、私はその会話を大事にすべきだと思っている。なぜならそのような会話となって現われ出る亡くなった息子さんへの尽きせぬ思いが家族を動かし、毎月必ず仏前へと歩ませていると感じるからだ。
言うまでもなく、諸行無常という仏教の教えからすれば亡くなったことを受けとめることが教えに適うことではあろう。しかし、受けとめられない人の心があるのではないか。私には親しい人の死に向き合う一家族の姿を通して、このお釈迦さまと親鸞聖人の姿が思い起こされる。
若き日のお釈迦さまは人の死を目のあたりにされて「生まれることなく老いることなく病むことなく死ぬことのない、悲しみなくけがれのない、無上な、寂静な涅槃を求めねばならないではないか」(山口益編『仏教聖典』一八頁)と、出家を決意されたと伝えられている。そしてお城を棄てて托鉢乞食をしながら導師たるべき師をもとめて歩み出されたのだった。また親鸞聖人は、比叡山での修道に実りを見い出せないままに、「生死出ずべきみち」とは何かを求めて、
百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にも、参りてありしに、(『恵信尼消息』聖典六一六頁)
と、法然上人のもとに足を運ばれた。若き日のお釈迦さまと親鸞聖人は、ともに生き死んでいくいのちをいかに生きるのかにまどい、自らの足で師を求めて歩み出されたのであった。この誰もが道を求めてやまない、人間であることの問いを、一家族の亡き人への尽きせぬ思いが私に教えてくれたのだと思う。
思い起こせば六年前、寺を守っていこうと決心し、意気揚々と自坊に帰ってきた私の姿が確かにあった。その同じ年の夏、若くして亡くなられた高校生の葬儀を勤めさせて頂き、生死の問いこそが門徒さんと私の間を繋ぐものだと確認したはずであった。あれから六年、また今年も夏が近づいてきた。私自身は、その問いを頂き続け歩み続けてきたであろうか。自己自身を振り返らずにはいられない。 
22 親鸞聖人にとっての本願
親鸞聖人は、自らの回心の体験を『教行信証』の後序に、「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」(聖典三九九頁)と記している。建仁元(一二〇一)年は、聖人二十九歳の時で、法然上人の「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」(聖典六二七頁)という教えに出遇った年である。普通なら「ただ念仏せよ」という教えには、「念仏に帰す」と応答する。しかし宗祖は、如来の本願に帰すと言われる。つまり宗祖において、「念仏して弥陀にたすけられる」という法然上人の教えは、如来の本願に帰すこととして頷かれたのである。それは、念仏を救いの手段とすることの問題性、自分に都合の良い救いを実現しようとする人間関心に念仏が取り込まれることの問題性を見抜き、それと法然上人の念仏とが決定的に違うことを明確にすることであった。
本願に帰すということが宗祖にとってどれほど大切であったかは、『教行信証』全体が真実教としての『大無量寿経』の論書であること、つまり本願とその成就という関心で貫かれていることを見れば明らかである。それでは、親鸞聖人は、どのように本願ということを確かめておられるのであろうか。
  法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
  覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪
  建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
  五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方  「正信偈」(聖典二〇四頁)
「正信偈」はその冒頭、阿弥陀如来の恩徳を述べるところで、阿弥陀そのものではなく、いきなり因位の法蔵のことを述べている。親鸞聖人が見ておられた阿弥陀如来とは実体的なものではなく、具体的には、法蔵菩薩が誓われた本願というはたらきであった。法蔵菩薩が、その説法を聞いて自らもその様な世界を作りたいと誓った仏の名が、「世自在王仏」という一人の仏であった。一人の仏の名であるけれども、世自在という名は、すでに法蔵菩薩が、自ら発願して起こすべき願の課題をすでに表現している。それは、世において自在であること。生きとし生けるものすべてが、いきいきと自らの人生を自在に全うしていくという世界という名のりである。その世自在王仏のもとでまず最初に法蔵菩薩が取った態度が、「国を棄て、 王を損てて、行じて沙門と作り」(聖典十頁)ということである。本当に一人ひとりが自在であるためには、先ずは、私たちが日常的に依りどころとしているような、社会や秩序を立場とすることを止める必要があると法蔵菩薩に託して親鸞聖人は説く。それは別に、世捨て人となれということを言っているのではない。それは、私たちの作っている社会や秩序は、結局は誰かの犠牲の上に成り立っているものであることを示されているのである。その根にあるものは、私たちの自我を主体とする執着心である。どこまでも自分を立てていくこころである。そのことを私たちに、自らの態度で法蔵菩薩は示しているのであると思う。
その法蔵菩薩が、誓願(本願)を建てるにあたってまずされたことが、「覩見諸仏浄土因」と言われるように、徹底して、諸仏の浄土の因を見ることであった。浄土がきれいだと結果だけを見るのではなく、その因を見られた。それが「国土人天之善悪」と言われる人間の欲望とそれによって作られる苦しみや悩みの世界を徹底的に見ることであった。
このように親鸞聖人は、阿弥陀の本願を、どこまでも人間がその欲望によってお互いを傷つけあっている現実を徹底して見据え、そのようなあり方から人間を開放するはたらきであると確かめておられたのではないだろうか。 
23 つねならざる年
遇うということは、その人が生きた時代に、その人の背後にある世界に遇うということでもあるだろう。
親鸞聖人が三部経の千部読誦を発願された年は、一二一四(建保二)年であるという。最終的に読誦は中止された。千部読誦の発願という出来事の背後に時代全体を覆う闇を感じる。それは、困難を前にして何ともならないという諦念であり、何もしたくはないという無気力である。
時代を覆う闇は、千部読誦の発願と同じ年に起きた別の出来事の背後にも感じられる。この年の六月、将軍・源実朝は日照りが続いたため、栄西に依頼し、自ら八種の戒律を守って法華経を読誦した。将軍が自然の恩恵を求めて祈願することは極めて珍しいことである。
鎌倉時代の政治に関する記録である『吾妻鏡』によれば、一二一四年の夏は洪水、日照りなどが相次ぎ、季候は不安定であった。人間の生活は自然の動きに左右される。異常な事態を前に人々は天を仰ぐしかなかったと思われる。
このような異常な季候は政治情勢にも影響する。民衆のみならず、為政者も安定した季候を望む。実朝が祈願した結果、雨が降ったと『吾妻鏡』は伝えている。山本幸司氏によれば、「実朝が単なる政治的支配者にとどまらず、天水の支配力を持つレイン・メーカーの霊能まであわせ持つ人物として描かれていることは、その真偽とは別に当時の人びとの実朝に対する最大級の評価を表していることになる」(山本幸司『頼朝の天下草創』、 「日本の歴史」第九巻、講談社)。つまり、実朝による祈願は、将軍としては前例のないことであり、実に異常なことであったのである。
一方、天皇が祈願することは珍しいことではなかった。実朝以前の政治状況を概観するなら、武力による支配は鎌倉幕府が、祭祀や儀礼を通じての支配は朝廷が分担していたように見える。ところが、実朝が将軍であった時代には、幕府と朝廷の間における支配の分担の境界線があいまいになり、将軍が祭祀や儀礼の領域にまで進出してきた。
伊藤喜良氏によれば、「国土安穏・万民快楽・徳政の興行というような帝王としての役割は、少なくとも初期における源氏将軍にはそのような権威はそなわっていなく、将軍では代位できなかった」。その後、幕府による支配の長期化に伴い、将軍・実朝は支配の基盤をより強固なものとするために朝廷から「呪術的要素や儀礼」を「移入」した(伊藤喜良『日本中世の王権と権威』、思文閣出版)。先に述べたように一二一四年は夏の季候が安定しない年であったと同時に、将軍による支配のありようが変化した年でもあったのである。このような時期に、親鸞聖人の関東での生活がはじまったのである。
一二一四年は、その時代を生きた人々にとって異常な年であった。今日から見れば、そのような異常な年を幾度も経験しながら、人類は歴史を形成してきた、と言うこともできるだろう。人類が経験したことのない事態に直面している今、忘れてはならないことは、異常な年を経て今があるという事実である。異常な年も連綿とした歴史の流れの中にある。歴史の中で孤立したり、隔絶したりしているわけではない。この一年は確かに未来へとつながっているのである。 
24 慙愧和讃における宗祖の「かたち」
よしあしの文字をもしらぬひとはみな まことのこころなりけるを 善悪の字しりがおは おおそらごとのかたちなり (『真宗聖典』五一一頁)
右は、文明本三帖和讃の最後に載る二首の和讃の内の一つである。宗祖晩年(八十八歳のころ)の作で、通称「慙愧和讃」と呼ばれる。なぜそう呼ばれてきたのか、この和讃の不思議な魅力を思う。
「よしあしの文字をもしらぬ」の「しらぬ」は古語で「付き合いがない」「関係がない」「用がない」の意。だからはじめの二句は、「善だ悪だというような尺度でものごとを決めたり選んだりしている生活には縁がない人は皆、まことの心をもっている」という意味。「まことのこころ」は「いつわりのない誠実な心」の意。
昨年の十一月、本山の仕事で北海道に出向いた際、アイヌの人たちにお会いした。皆アイヌ差別と戦ってきた勇者であるが、ものの見方が柔軟で、特に自然に対する敬虔の念が深い。アイヌとはカムイに対することばで、アイヌは人間、カムイは神の意味である。「両者は紙の裏と表の関係で、もしカムイがいなかったらアイヌもいない。友達のような間柄です」と教えてくれた。そういえばアイヌ民族は文字をもたない。すべてカムイから「まこと」をもらってアイヌはアイヌ(人間)らしく生きているので、文字は不要なのだろう。
都を離れ越後・関東において宗祖が触れた人々もそういう人たちだったに違いない。それは、夜明けと共に起き、外の空気に触れて今日の天候を知り、田畑に出て大地に汗して働く人たちであり、一日の仕事が終わると、夕日に向かって今日一日を感謝し、自然の恩恵に頭をさげる人たちであった。宗祖は、そのような人たちの「まこと」に感動すると同時に、今まで求め続けてきた仏道の歩みが、実際は善悪の文字づらにこだわり、その是非を競うという「おおそらごとのかたち(おおきなまちがいをしているすがた)」ではなかったかと気づかされたのであろう。
しかし、「文字づらにこだわる」という「かたち」―書を著し、手紙をしたため、和讃を作り、あらゆる努力をつくして念仏の大道を人々に伝えようとする、その宗祖の「かたち」は晩年になっても変わらなかった。ただ、そのかたちが「おおそらごと」であることへの慙愧は、年とともに深まっていったに違いない。宗祖八十八歳の和讃と言われるこの和讃が「慙愧和讃」と呼ばれる所以ではないかと思われる。 
25 御遠忌をお勤めして
今年は大震災の年として誰の心にも銘記され続けるでしょう。そして、宗門に身を置く方は皆、震災に思いを寄せつつ、同時に宗祖の七百五十回御遠忌の年として、御遠忌を勤修して意味があったのか、御遠忌は何だったのかと考え続けていくに違いありません。
かつて、ナチスの強制収容所を生き抜いたV・E・フランクルは、生きる意味を問うことについて、その問いの立て方の問題に言及しています。私たちは、人生に、あるいはさまざまな出来事に何かを期待します。そして、その期待が裏切られる時、私たちはきっと人生の意味を問い、何のために生きるのかと自問することでしょう。しかし、フランクルは、
わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ(『夜と霧 新版』一二九頁、みすず書房)
と、人生から問われているのは自分の方なのだとして,問いの百八十度方向転換を説きます。そしてフランクルはさらに、
生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。…中略…生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。(同一三〇頁)
と続けます。人生から問いかけられ、答えを迫られているのは私であり、私がなすべきは課題を果たし、要請を充たす義務を引き受けることである、と教えるのです。
このフランクルの言葉に、私は、宗祖の六角堂参籠を想起します。宗祖は、六角堂に参籠し、夢告を受けて、法然上人のもとへと向かいました。その夢告は、「あなたがいかなる存在であろうが関係ない、あなたが歩む仏道はすでにある、問題はあなたが仏道を歩もうとするかどうかなのだ」、そう宗祖に問いかけたのではないか。そしてそこに宗祖の問いに方向転換があったのではないかと思うのです。つまり、仏道はいかに自己を救うのかという仏道に対する問いから、あなたはいかに仏道に立とうとするのかという、自己に対する仏道からの問いへと転換があったのではないか。そして、夢告を得てすぐさま吉水に向かった宗祖に、私は、自己を引き受け、立ち上がった人間の姿を見るのです。
私たちは、宗祖の七百五十回御遠忌をお勤めしました。御遠忌に何かを期待していた時は過ぎ、すでに御遠忌からの問いに答える責務を負っています。御遠忌をいかに引き受け、課題を果たしていくのか。その課題は、一人ひとり、生きる現場によって一様ではありません。ですが御遠忌は、立ち上がっていく契機を斉しく与えてくれたのだと思います。 
26 篤信者に学ぶ
日常生活の中で真宗の教えが生かされてはじめて念仏者であることはいうまでもない。単に知識として学ぶだけではない。
小生は歴史分野を研究対象にしており、論文作成で史料調査をした中で感動した印象深い真宗の篤信者が何人かいる。現在も時に思いおこし考えさせられることが多い。
江戸時代中頃、大坂商人に平野屋五兵衛(高木宗賢)という篤信者がいた。彼は大坂今橋一丁目(現在、中央区北浜付近)に住し、両替商(金融機関)を営んでいた。そこは当時、大坂商人を動かす二大銀行のひとつであった。もう一人は天王寺屋五兵衛で、双方とも今橋に居住し、「天五に平五、十兵衛横丁」と称された最有力両替商であった。
平野屋五兵衛は大坂商人に影響力の大きい家職であり、一方で真宗信者として知られていた。彼は東本願寺(大谷派)初代講師の恵空に師事していた。
恵空は教義・歴史・儀式・遺跡などの総合的著書『叢林集』九巻などを著した学僧で、俊秀な門弟を育成した高倉学寮の中心的人物である。当時、講師などの学僧は学寮内の安居で講義するのが基本であった。
しかし、恵空は学寮以外でもたびたび法話を行った。先述の平野屋が施主となって天満本泉寺(現四条畷市)で、恵空を招いて法話会を毎年行った。宝永六年(一七〇九)より計六回である。
大桑斉氏によると、学寮外での恵空の講話は本泉寺で合計九回、八尾別院二回、難波別院一回、長浜別院二回である。ほとんどが大坂あるいはその周辺であった。その法話会を催したのは平野屋五兵衛を中心とする大坂商人らであり、教学者を招いて自らの信仰深化に務めたのである。真宗を日常生活、職業生活に生かそうとしたのであろう。
恵空と平野屋との接点は光徳寺(柏原市)である。平野屋は代々光徳寺門徒であり、光徳寺の支坊が大坂北久太郎町(中央区)にあった。恵空伝の信頼できる『恵空老師行状記』には、二十一歳から二十七歳までは不明朗で記載されていない。その期間、恵空は光徳寺でいわゆる役僧をしていたといわれる(暁烏敏編『恵空語録』)。
恵空はおそらくこの時期に法務のかたわら、勉学に励み、一方で平野屋五兵衛と接触する機会をもったと考えられる。また、五兵衛も恵空の人柄、求道・勉学にとりくむ姿勢に共感し、支援したり師事したのであろう。
五兵衛も商人道を形成する中で真宗に依った価値観をもって職業生活を実践したと考えられる。大坂商人の家訓に「商い」は「報恩行」として行うなどとある。
五兵衛は大坂商人・大黒屋道誓とともに学寮の経蔵一棟を寄進し、広く教団の人材育成に尽力したことでも知られる。
僧侶は篤信者・念仏者が育成されることを願い情熱を注ぐが、逆にご門徒が僧侶を育成することも多々あったことであろう。僧俗ともに真摯に教えを聞き学ぶというところに、門徒としてお育ていただくことをあらためて気づかせていただく。 
27 弟子一人ももたず
親鸞は弟子一人ももたずそうろう
『歎異抄』第六条の言葉である(聖典六二八頁)。ならば、宗祖には師匠はいなかったのだろうか、弟子はいなかったのだろうか。否、宗祖には「よきひと」法然上人という師がいることを私たちは知っている。そして、真仏をはじめとした多くの門弟がいることも知っている。ならば、宗祖はどうして「弟子一人ももたず」と宣言したのだろうか。
私が学生時代から、ずっと教えを受けてきた先生が、先日私の叔父と初めて対面した。その際、先生は叔父に「義盛君は私の友なんです」と話してくださったそうである。私としては、その先生から多くの教えを受けたし、当然師と慕う方である。しかし、私が師と慕っていたその先生は、私を弟子ではなく友、すなわち共に念仏往生の仏道を歩む者として見ていてくださっていたのである。その先生の言葉によって、私もともに念仏の仏道を歩もうと言うメッセージを聞いた。
「師」と慕っている方が「友」と敬ってくださる、一見矛盾するような感もあるが、これが浄土真宗の伝統であろう。
宗祖はその九十年の御生涯を通して多くの人に念仏の教えを弘めたが、宗祖にとって信心とは自らの力で発起するものではなく、また自らの力で他の人に発起させるものでもなかった。信心とは、どこまでも阿弥陀如来のはたらきによって発起するものであり、阿弥陀如来の前では誰もが煩悩具足の凡夫、一人ひとりが仏弟子である。だからこそ、宗祖は師弟関係を越えた人間一人ひとりの姿を見つめて「弟子一人ももたずそうろう」と宣言された。そして、多くの門弟から師と慕われながらも「弟子一人ももたずそうろう」と宗祖は宣言し、門弟を「とも同行」と敬った。宗祖は門弟をどこまでも、法然上人より受けた選択本願念仏の教えを共に聞く仲間として敬ったのである。重ねて述べるが、阿弥陀如来の前にあっては、師であろうと弟子であろうと、同じ煩悩具足の凡夫であり、仏弟子なのである。
蓮如上人はそのことを、
とも同行なるべきものなり。これによりて,聖人は御同朋・御同行とこそかしずきておおせられけり。(聖典七六〇頁)
と了解されている。思えば、
他力の信心うるひとを うやまいおおきによろこべば すなわちわが親友ぞと 教主世尊はほめたまう(聖典五〇五頁)
と和讃にあるように、私たちが釈尊と敬い、教主世尊と仰ぐ方もやはり、同じ念仏往生の仏道を歩む者として私たちを敬い、しかも「わが親友」とほめてくださる。
ならば、私たちが師から受けるのは教えだけではない。教えとともに敬いを与えられている。そして、共に仏道を歩んでいこうと呼びかけられ、歩み続ける原動力をも与えられている。
これが御同朋・御同行の道理なのだろう。 
28 有縁の法による
先日、日蓮宗主催のセミナーに参加した。このセミナーは日蓮宗教師・寺族・檀信徒を対象に二十年以上開催されている。今回、当教学研究所も招待を受け、聴講することができた。
二百人を超える会場のほぼ全員(私と本願寺派の一名を除く)が、おそらくは日蓮聖人を宗祖と仰ぐ方々だった。日蓮聖人といえば、その著『立正安国論』で、「法然というものあり。『選択集』を作る。すなわち一代の聖教を破し、あまねく十方の衆生を迷わす」と述べ、念仏の教えに対して異論を唱えた人物である。いささかアウエーの感がないわけではなかったが、同じ仏教でありながら立場の違う方々の考えに直接触れられることに胸躍った。それは親鸞聖人の教えのみを学んでおけばそれでよしとしようとする(これは聖人の願いではなく、したがって教えを学ぶことにはならないだろう)、私の閉鎖的かつ怠惰な日頃の姿勢への自身が抱く危機感の裏返しでもあった。
今回のテーマは「震災と祈り―立正安国とは何か」だった。開会に先立って「南無妙法蓮華経」とお題目が唱えられた。外部宗教学者一名、そして宗派講学識と呼ばれる碩学二名によって発題と討議がなされた。「よいことをしたからといって、よい結果が出るとはかぎらない不条理の世界だからこそ、この世は菩薩行をするのにふさわしいんです」と語られた碩学のおひとりの言葉は力強かった。その後すぐに「そう信じたいのです」と言い直されたところにはその方の実直な人柄がうかがえた。
セミナーの議論のひとつは、昨年物議を醸した震災天罰論についてどのように受け止めていくかであった(日蓮聖人は「国が正法を失えば大災害がおこる」と言い、弟子にあてた手紙には「天この国を罰す」という表現がある)。震災を単に「生死無常」ととらえることは無責任対応に陥りやすい、そうではなくむしろ「天罰」という言葉で受け止めたほうが、自分のこととして主体的に考えていけるのではないか、というのが全体の論調だった。
議論はさらに、生き残った者ができることは何かということに進んだ。一人ひとりが法華信仰を確かめ直していかなければならないという見解に大変共感を覚えた。「法華信仰」の部分を「親鸞の教え」に置き換えれば、私たち真宗門徒の取るべき姿勢となるだろう。
それぞれがその縁にしたがって、それぞれの宗祖に出遇っている、出遇いたいと願っている。このことを実感したセミナーだった。 
29 民の如く生きる親鸞聖人
宗祖七百五十回御遠忌を機縁として、各地で親鸞聖人と浄土真宗をテーマとした展覧会が開催された。聖人と門弟たちの自筆や御影、絵伝などを間近に拝見することで、聖人たちの面影と真宗の息吹を感じたように想う。一見、他の文化財と同じような展示物に見えても、浄土真宗の教えを伝えるために時代を超えて遺された宝物類は、黙してはいるが何かを語ろうとしているのである。
出展された宝物のなかに、親鸞聖人が「花押(かおう)」を記された自筆の書状が数通あった。花押とは署名の一種で、今でいうサインである。元々は名前を崩し字で書いたものであったが、聖人の時代には筆者の意志や主張を文字に込めてデザインした花押が登場していた。すると、花押からは筆者の人格や思想が読み取れるのである。
聖人が何の文字を花押とされたのかは謎であり、あるいは「鸞」を崩したものかという意見もあるが、一説に「如民」と読めるのではないかという興味深い見解がある(『花押読み解き小事典』)。 もし聖人が、 「如」と「民」をデザインして自身のサインとされていたとすれば、そこには何が込められているのだろうか。
聖人の書状は、ほとんどが関東門弟宛であるから、「民」の語からは聖人が終生親しんだ関東の門弟たち、「ゐなかのひとびと」を連想できると思う。もし聖人が「私は民の如く生きる者である」と花押に込められていたとすれば、様々な理解が可能であろうが、私はまず最晩年の聖人が書状で「信心の人は如来に等し」「弥勒に同じ」と繰り返し説かれていたことを思い起こす。
この教えは『教行信証』などにも説かれているが、注意しておきたいことは、京都や奈良の「いみじき僧」(高位の僧侶たち)に向けたのではなく、関東のいなかの人々へ向けて教説されたことである。その根拠は「信巻」に示され、のちに『唯信鈔文意』に展開された元照律師の文、
具縛の凡愚・屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法なり。「世間甚難信」と謂うべきなり。(聖典二三八頁)にある。
聖人が凡愚・下類とされるような「民」と身近に接し、共に生きたのは流罪地越後であり、特に二十年に及ぶという関東時代であったことは疑いない。この人々に向かって、信心を獲た人は煩悩の身のままで無上大涅槃にいたる、如来と等しい位の仏者である。これが煩悩に縛られた凡愚、あるいは下類とされた人々が世俗の常識を超えて仏となる道、本願の仏道であると、聖人は告げられている。
いなかの人々という「民」と同じ凡愚であるという自覚と、本願他力の教えを身証し伝えるのはこの人たちであるという信頼を、聖人は抱き続けた。聖人は関東を離れ京都でその生涯を終えられたが、終生、民の如く生きる関東の仏者の一人であり続けたことが、聖人の花押に込められているように想うのである。 
30 「であい」の大切さ
毎年、高校の恩師から年賀状をいただいている。高校を卒業してからであるから、もう十数年になる。今年の年賀状には、「この三月で高校教師を退職します」と記されていた。私には、高校時代にこの先生から言われた、いまだに忘れられない、大事な言葉がある。
先生は、私が高校二年生の時の担任で、英語を担当される女性の方であった。何事にも非常に厳しく、豪快で、かつ生徒一人ひとりと真向かいになって相談にのってくれる方であった。高校の中で唯一寺院出身であった私に対しては、特に進路について大変心配をし、様々なアドバイスをして下さった。
はっきりとは記憶していないが、進路を決める三者面談の時であったと思う。進路に悩む私に対して、先生は次のようなことを言われた。「偏差値や就職率で大学を選ぶことは大切なことだ。しかし、本当に大切なのは、大学に進学して、一人の先生、一人の友達にであうことだ」と。当時は、成績の悪い私に対するなぐさめの言葉としか思えなかった。しかし、大学に進学し、少しずつではあるが、親鸞聖人の言葉に触れていくにつれ、先生から言われた言葉の重みを感じるようになった。
親鸞聖人は、『教行信証』「化身土巻」に、
愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。(聖典三九九頁)
と記され、また『歎異抄異抄』第二条には、
親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。(聖典六二七頁)
と述べられている。これは、聖人が二十九歳の時、「よきひと」法然上人の「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」という教えとのであいを通して、阿弥陀の本願に帰依されたことを表している。さらに、『高僧和讃』には、
曠劫多生のあいだにも 出離の強縁しらざりき 本師源空いまさずは このたびむなしくすぎなまし(聖典四九八頁)
と記されている。曠劫多生という長い間、生死を離れる強縁である阿弥陀の本願を知らなかった、もし法然上人がおられなかったならば、一生涯をむなしく過ごしていただろう、と。親鸞聖人が生涯をかけて念仏者として生きていくことを決定できたのは、法然上人とのであいによってであった。
また親鸞聖人は、流罪の地の越後や、その後身を置かれた関東でたくさんの方とであわれ、その方々と共に念仏の教えを聞き、仏道を歩んでいかれた。その意味で、親鸞聖人が歩まれた仏道は、法然上人を始めとするたくさんの方々とのであいを抜きには考えることは出来ないだろう。
現在、全国各地の方々とであう場に身を置いて仕事をさせていただいている。先生ご自身がどのような意図で「であいが大切だ」と言われたのかは分からないが、ただ、今の私にとって「であい」が元気や勇気を与えてくれていることは間違いない。 
 

 

31 心がおこる
「発心」という言葉は、道心をおこす、菩提心をおこす、という意から転じて、一般には仏門の入門に限らず、目的意識を持って何かを思い立つ意として用いられる。
あるとき、タレントの小泉今日子さんが、「いつ歌手になろうと思ったのですか?」と尋ねられ、「歌手になってからです」と答えていたことに、なるほどと思った。歌手になる前から明確な動機があるはずだと思うと、ぽかんとしてしまうが、歌手になってみてから、はっきりと歌手になりたいと思った、と言うのは率直な思いだったのではないか。目指したきっかけはあったとしても、その気になるということは、その場に身を置くことで、場のほうから引き出してもらうものなのかもしれない。
さて、この私が、お念仏の教えを聞かせてもらおうと思ったのはいつですかと尋ねられるとどうであろう。お寺に生まれたことが大きなきっかけとしてあるにせよ、いつの間にか聴聞の場に身を置いていた。しかし、実感として大きなことは、聴聞の場に身を置くことを通して、聴聞していかねばならないという心を引き出してもらっているということである。私が思い立って聴聞の場に足を運んでいる、というより、教えのほうから聴聞する気を起こしてもらっているように感じるのである。聞法する機会に出遇ったことは不思議としかいってみようがないが、私が、先立って教えを聞こうという心をおこすのではない。教えに触れて、教えを聞いていこうという心を賜るのである。
親鸞聖人は、
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。(「総序」聖典一四九頁)
と、念仏の教えに出遇わせてくださった「宿縁」に対する慶びを表白されている。そして、その慶びについて、
「慶」は、うべきことをえて、のちによろこぶこころなり。(『一念多念文意』聖典五三九頁)
と言い表しておられる。つまり、念仏の教えに出遇いえて「のちに」、出遇うべく願われ続けてきたという「宿縁」を知り、よろこんでおられるのである。かねてから「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」(『歎異抄』)と呼びかけられてあったことを今知り、その願いに応えるべきわが身を知らされる。そのよろこびは、目標を実現したときだけの達成感のような、ひと時のよろこびではないのである。教えに出遇うからこそ、教えから問われ続け、教えに聞き続けていく身をいただく。聞法の場は、私を立ち止まらせる場ではなく、教えに触れてみて、いよいよ聞いていかねばならないという心がおこる、歩みだしの場であることを教えられてあるように思う。
すでに聞かせていただいていること、共に聞かせていただく人たちの姿。それらに背中を押されて、私はなんとか聴聞の場に足を運べているのだと感じている。 
32 明易や
明易や 花鳥諷詠 南無阿弥陀 (高浜虚子)
六月下旬のある席で、この高浜虚子(一八七四〜一九五九)の俳句を知る機会を得た。「明易」とは、夜が明けるのが早い、夏至前後の短い夜のことを意味する季語であり、ここでは、「短い明易い人間」(虚子談)を意味している(以下、『高浜虚子の世界』〈角川学芸出版、二〇〇九年〉他参照)。そして「花鳥諷詠」というのは、「春夏秋冬四時の移り変りに依って起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂」という、「客観写生」と共に虚子が提唱した俳句の理念である。この句は、虚子が八十歳の時(昭和二十九年)の句である。「明易」という季語を前に、自らの人生を思い起こす時浮かび上がる、花鳥諷詠と南無阿弥陀(仏)を詠み上げた句と思われる。
高浜虚子は、正岡子規に師事したことが知られている。その子規との出会い、そして朋友の河東碧梧桐との確執、その後勃興する新興俳句との関わりという俳句人生を思い起こしながら、「俳句は『花鳥諷詠詩である』と断じた事は、私の一生のうちの大きな仕事であったと思う」という辞が示すように、虚子自身が出会った俳句が、この花鳥諷詠であったことがわかる。  この花鳥諷詠とともに,ここに南無阿弥陀仏がある。虚子は東本願寺の門徒であり、若い時には、暁烏敏、そして句仏上人(大谷光演)との出会いがある。虚子の辞世の句は、句仏上人十七回忌の時(昭和三十四年)に詠んだ、「独り句の推敲をして遅き日を」が知られている。あまり表に出ることはないが、虚子の俳句には、この南無阿弥陀仏への「信仰」があることが、これらの俳句によって知ることができる。
俳句については初学の筆者だが、季節の移り変わりの機微の一つひとつに季語があり、その季語によって映し出される詩情の世界を、十七文字に表現する俳句のもつ魅力、形容しがたい力強さを感じるものの一人である。この花鳥諷詠とともに虚子は、「客観写生」を唱える。あらゆる主観を離れ、小さな感動をも消し去ろうとする姿には、厳しさが同居している。「俳句は沈黙の文芸であります」という虚子には、言葉を超えた沈黙を生きる姿があるように思う。このように主観を離れ自然を詠むということの中には、単なる自然賛美とは違うものがあると思うが、これからまた探っていきたいと思う。
主観を離れ、そのままありのままに見ていくというのは、阿弥陀仏の心に通ずるものがあるようにも思う。そのままありのままというのは、その現象の根源を照らし出す光であり、あらゆる生死勤苦の姿を浮かび上がらせる眼差しだともいえる。そこに、本願を建立しようとする、不可思議なる法蔵菩薩の初一念の声がある。  六月のこの季節、虚子の大切な句を知る機会を得たことから感じたことを記させていただいた。 
33 手話から問われたこと
テレビの歌番組で「いのちの理由」という歌が流れていた。ベテランの女性歌手が手話をまじえて優しく語りかけるように歌っていた。テレビの字幕に歌詞が表示されており、歌詞と手話が対応していて、手話にまったく知識がない私でもわかるところはあった。そのなかで「幸せ」という部分は、あごに手を当てて下になでるような表現をされていた。この部分はどういう意味でこのような仕草をされるのか、たいへん気になった。インターネットで手話の研究所のホームページを開いて問い合わせたところ、あなたの住んでいる町の近くに県立聴覚障害者センターがありますからそこを紹介しますといわれ、県立聴覚障害者センターに電話した。
手話を習いたいということではなく、ただ表現の由来を知りたいということだけでたいへん失礼ではないかと伝えたが、どうぞお越しください、ということで直ちに訪問することになった。私のために一人の方が時間をさいて応対してくださった。あごに手を当てて下に長く伸ばすのは「好き」という表現ですと言われた。「幸せ」という単一の表現はありませんので他の表現で表します、ということであった。
いろいろな話をうかがっているうちに、聴覚障害の人たちが置かれている状況に話が展開していった。昨年の東日本大震災のとき、避難情報などは防災無線で呼びかけられましたが、聴覚に障害のある人たちは聞き取ることができません。それで、今何が起きているのかわからない。聴覚に障害のある人たちは目から入ってくる情報が頼りです。津波などの情報がわからないため、逃げ遅れて多くの人が亡くなりました、という話をされた。さらにその方は、その歌を知りませんので私見となりますが、と断られたうえで、手話に関心をもっていただけるのはありがたいですが、歌に手話をつけて表現するのは聞こえている人たちの文化です、そこに聴覚障害の人がいたのでしょうか。誰を対象に歌っているのでしょうか。そこまで掘り下げてほしい、と言われた。また、手話はコミュニケーションの手段です。役所などの窓口に手話ができる人がいれば、聴覚障害の人たちの世界はずいぶん変わります。医療機関にかかろうと思っても、まず対話が成り立たないとだめです。バリアフリーといいますが、アクセスの問題があります。利用可能にしていくという仕組みが社会の側にあります。社会の側が変わっていくことが大事です。このような多岐にわたる話を聞くことになった。
「聞こえる人たちの文化です」ということばには強く響くものがあった。「共に生きる」と標榜している私たちであるが、どのような人と共に生きようとしているのか。最も基本的なことが問われているように感じた。終生、世の人々と共に生きることを願われた宗祖親鸞聖人に、身を入れて尋ね直さねばならない。 
34 山を出でて
「山を出(い)でて、六角堂に百日こもらせて給いて…」これは、親鸞聖人命終の知らせを受けた越後住いの妻恵信尼が末娘覚信尼へ宛てた返信の手紙の冒頭の一節である。「山を出でて…」―私はこの文字を読むと、曽我量深先生が『精神界』に載せられた「出山(しゅっせん)の釈尊を念じて」という文の次の一節を思う。「我は徒(いたずら)に出家入山の釈尊を逐(お)ふて、出山の釈尊を知らなかった。釈尊は已(すで)に山を出でて、聚落(じゅらく)に来り、又霊山法華(りょうぜんほっけ)の会座を没(もっ)して王宮(おうぐう)に降臨ましましたではないか。惟(おも)ふに釈尊入山の後を遂ふは小乗仏教であり、釈尊出山の大精神より出立するが大乗仏教である」と。
「山を出でる」ということは大乗仏教の道を歩む者の必然の道であると曽我先生はおっしゃる。そうであれば、この恵信尼の手紙の冒頭は、親鸞によって誓願一仏乗たる浄土の真宗が開かれる契機となった出山の経緯を覚信尼に伝える大事な手紙となる。手紙は出山からはじまって六角堂夢告→法然上人との出会い→上人への帰依→下妻での夢→恵信尼の親鸞帰依の表白→覚信尼への同意の催促…と続く。長い手紙だが,内容は豊かで深い。
『大経』が説く釈尊の入山は、「老病死を見て世の非常を悟る。国の財位を棄てて山に入りて道を学したまう」と述べられている。しかし、その入山においての悟りは、梵天による転法輪の勧請によって出山へと転じ、「もろもろの庶類のために請せざる友と作(な)る」のである。仏道とは、この入山から出山へと転ずる道程を指すのだろう。世間に背を向けて山に入って学んだ者が、そのままそこに居座ったら仏道は消滅する。声聞とはそこに居座る者を言う。だから「声聞は…仏道の根芽を生ずべからず」と曇鸞は言う。
ふりかえって恵信尼の手紙を読むと、冒頭の短い文のあと、「山を出でて…」と親鸞の出山を語りだす。推定だが、恵信尼は覚信尼の手紙の中に、父への不信が潜んでいることを感じたのではないか。あのころの時代は、古代から中世への急激な転換期で、世情が混乱を極め、加えて地震・台風・洪水・冷害・干ばつ・大火などが頻発し、その結果として凶作・飢饉・疫病などがうち続き、民衆は明日ともしらぬ命におびえながら苦境にあえいでいた。
しかし、そのような苦悩に寄り添うべきはずの仏教は、密教的修法による加持祈祷や浄土教的な臨終来迎往生説などによって一時的な慰安を与えるに過ぎなかった。そのような社会の雰囲気の中に育った覚信尼は、父の臨終に何の奇瑞も起こらなかったことに疑問をもち、その父の一生の歩みが声聞的であったと誤解したのではないか。
「山を出でて」からはじまる恵信尼の手紙は、その覚信尼の不信を氷解させ、親鸞への崇敬と帰依の念を生じさせた。そのように思うと、覚信尼から始まる本廟護持の精神は、この手紙から出発したように思われる。ともあれ、この恵信尼の手紙は、われわれ真宗人が立脚すべき地(じ)を示したものと言えるのではないだろうか。 
35 念仏の本源を尋ねる
親鸞聖人は、法然上人の教えによって頂かれた称名念仏について、
「選択易行の至極」(行一念釈・聖典191頁)
と言って、一切の衆生を平等に救うために選び取られた究極の易行であると言われる。正に念仏は、誰もがたやすく、どこでも、いつでも出来る行であり、だからこそ、一切の人々が漏れることなく、平等の救いが実現されるのである。
しかし、親鸞聖人は、その究極の易行をただ単に頂かれただけではなく、なぜそのような易行念仏を選択されたのかと、阿弥陀仏の選択の願心を尋ねていかれる。そこで、
「煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることをあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう」(『歎異抄』聖典627頁)
と、本願をおこされた本意を明らかにされたのであった。阿弥陀仏はなぜ念仏を選びとられたのか、その本源を尋ねると、そこには正に煩悩具足の凡夫としての自己のためであったと、自己のすがたが明らかにされるのである。念仏を選びとられた本願を明らかにすることは、同時に真実の自己自身を明らかに知らされることにもなるのである。正に念仏を尋ねていくことは、真実の自己自身との出遇いでもあり、そのことによって、はじめて念仏を頂くことが出来るのではないだろうか。正に、選択の願心の本意を尋ねることが、信心の課題であることが窺われる。
曽我量深先生は、そのような行の一念について、
「最後最終の一声」と言われ、それに対して信心の発起する信の一念については「最初の一念」を示すと言われる(『開神』「「行の一念」と「信の一念」」『曽我量深選集五巻』108頁)。
その事を川の流れに譬えれば、行の一念は、あらゆる念仏を伝え流れてきた歴史伝統の最終最後の到達点であり、信の一念は、そうした流れが涌き出る本源の泉を尋ねあてたことになる。
私たちはその本源を尋ねることを辞め、伝えられた結果の念仏ばかりを我が物に奪い取ってはいけない。どこまでも流れついた最後の念仏をもとに、その念仏がどこから起こってきたのか、その本源を尋ねていかなければならない。そうでなければ、一声の念仏は最後とは頂けずに、念仏を手段として、更なる結果を求めることになるであろう。そこでは念仏は自力の念仏となり、臨終来迎を祈る念仏となってしまう。
そうではなく、念仏は最後の一声であり、その念仏の一声において、人生のあらゆる経験がこの一声に到達するためのものであったと、あらためて自分の人生を捉え直すことができるのではないだろうか。曽我量深先生は、日々の念仏とはこの最後の限りなき連続であると明かされた。
正に念仏を選択された本源の願心を尋ねあてたとき、念仏は最終最後の一念であると肯かれるのである。お念仏申すとは、そうした大いなる流れの中に自己を見出し、その流れにまかせきる自身として、そこに立って生きていくことではないだろうか。 
36 「いなか」はどこにあるか
いなかのひとびとの、文字のこころもしらず、あさましき愚痴きわまりなきゆえに、やすくこころえさせんとて、おなじことを、たびたびとりかえしとりかえし、かきつけたり。……(聖典559頁)
以前から「いなか」という言葉の語感が気になっていた。「いなか」という言葉は都会から遠く離れた土地、あるいは郷里といった意味で用いられることが多いように思われる。親鸞聖人の時代も同じ意味で「いなか」という言葉が用いられたのだろうか。『日本国語大辞典』(小学館)によれば、「いなか」は「中世では京都郊外よりさらに外の地、また単に地方の意にも使われたらしい」とあり、この他にも「上代のいわゆる両貫貴族の本貫の地、すなわち生産を営む場をさす場合」もあったと説明されている。「いなか」が「生産を営む場」に近い意味で用いられている例として『方丈記』の次の部分を挙げることができる。
……京のならひ、何わざにつけても、みなもとは田舎をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやは操もつくりあへん。……(『日本古典文学大系』第30巻、岩波書店)
鴨長明は養和元年(1181)年前後の時期を回想して、当時の世の中の動きについて述べている。親鸞聖人が出家された時期のことである。都の物質的な豊かさは「いなか」から集積された富を基礎としている。豊かさの源泉は「いなか」にあったのである。長明は災害に関する記述を通じて、「いなか」に依存した都の生活が脆弱であることを指摘している。物質的な豊かさに内実がないと認識していたからこそ長明は必要最小限の「方丈」(畳の間で言えば四畳半)の生活を実践したのである。
もう少し広い視野から解釈するならば、鴨長明や親鸞聖人の時代には、「いなか」から都へと向かう富の流れが変化しつつあった。平安時代後期において「院の権力は、諸国の富を集め、蕩尽する装置として機能した」。だが、平氏政権の終わりとともに、支配者が統率する一極集中的な「蕩尽する装置」にもほころびが生じて、「荘園領主の経済圏と金融業者の経済圏とが互いに支えあい、表裏を成す体制」へと移行した(本郷恵子『蕩尽する中世』新潮社)。当時の人々は都の華美な文化が朽ち果てる姿を眺めつつ、「みなもとは田舎」という実感を共有していたのではないだろうか。
現代においても「みなもとは田舎」という表現は過去のものではない。都市の内部で自給自足の経済圏が確立できない以上、つねに「みなもとは田舎」である。だが、生産・流通・消費が世界市場と結びついた現代において、一国の内部に「いなか」を発見することは稀である。例えば、コンピュータ機器を分解すると、複数の国で製造された部品が国境を越えて一つの枠の中に収まっていることに気がつく。このような場合、生産の場である「いなか」を特定することはできるのだろうか。おそらく、現代の「いなか」は、複数の国々がつながり合う関係性の中に存在するのだろう。 
37 花からの愛情
「癒し」ということが最近よく言われるが、それはいま私たちが、さまざまなストレスで日々疲れ切っていることの裏返しであろう。確かにそうだと思う。
昨年の春以来、大阪の南河内から京都の教学研究所まで通勤している。京都駅から高倉会館の裏手にある教学研究所の建物まで歩いて十五分程度だが、その途中に、道路際に鉢植えの花をいくつも並べておられる家がある。四季折々に、いろんな花が顔をのぞかせている。毎朝その家の前を通りながら、何かホッとするものを感じさせてもらっている。
長い花だと、下の方から上の方へ次々と二ヶ月ぐらい咲き続けるものもある。最後の一輪が咲き終わる時には、長い間楽しませてくれて有り難うと、お礼を言いたい気持ちになったりもする。花の世話をしておられるその家の方を見かけることもあるのだが、「いつも楽しませてもらっています」と挨拶をさせて頂きたいところだが、見ず知らずの私がいきなり声をかけたら、きっと驚かれるであろうと、そのことは果たせないでいる。
以前、平野修先生が、「化身土末巻」の『大集経』「月蔵分」の「地の精気・衆生の精気・正法の精気」(聖典三七七頁)に触れての講義の時であったと記憶しているのだが、「皆さんは、なぜ私たちが花によって癒されると思いますか。それは、花たちが私たちに愛情をそそいでくれているからですよ」というお話をされたことがある。
多くの人は、この話を聞いたときに、動物でもない植物である花に愛情というような心があるはずがない、と思うにちがいない。そのような私たちの思いを、平野先生は見透かしておられたのだろう。その言葉に続いて「月蔵分」の「地の精気」という経言を紹介されて、「このように大地に心があるように、花にも心があるんですよ。」と話された。
私はそれ以来、いろんな花に出会うたびに、とくに行きずりに花に出会うとき、平野先生のその言葉を思い出す。そしてますます、花たちが私たちに愛情をそそいでくれているということは間違いのないことだ、という感を深めている。ご縁を頂いたお寺の法話でも、時にこのお話を紹介している。
いのちというものが、いよいよ見えにくくなっているという現状がいま社会の中にある。先日も大阪でホームレスの人たちを手当たりしだいに襲っている若者の記事が載っていた。他人のいのちを軽く扱ってしまうということは、おそらく自分のいのちの尊さにも出会えていないのであろう。そしてその根本には、彼ら自身が「愛されている」という実感を持ったことがない、ということがあるのではないか。
七五〇年前、親鸞聖人はどのように花々と出会っておられたのであろうか。 
38 教如上人と「ふるさと」
本年は東本願寺を創立された教如上人の四百回忌に当たる。上人は信長・秀吉・家康と対応し苦労されたことでも知られる。
上人の人格形成の一端は「頭」ではなく「肌」から感じとられたことが大きく影響していたのではないかと考える。上人は大坂(石山)本願寺で永禄元年(一五五八)誕生され、二十三歳まですごされた。その間、全国各地から本山へ上山した門徒の姿、同朋・念仏者が集う解放的な寺内の環境などを眼前にした日常であった。その環境が自ずと上人の人格や志願を育くんだといえるのではないだろうか。誰もが「ふるさと」の風景が生涯忘れられないのと同様である。
上人四歳の時、親鸞聖人三百回御遠忌が十昼夜盛大に厳修された。御影堂、阿弥陀堂で法要があり、初めての行道が行われ、沢山の参詣者があった。幼い上人にとってたいへん印象深い法要であったことだろう。
祖父・証如上人の時にできた寺内町には、各地から商人や手工業者らが集まり自由に営業する念仏者の活動、あるいは寺内各町の「綱引き大会」、能の観賞など文化的な行事が活々と繰り広げられた。そのような同朋・同行の姿を見ながら上人の日常は過ぎていった。
しかし、上人十三歳の時、信長との石山合戦が始まる。各地から番衆として門徒が上山し、本山・御真影を護るための必死のはたらきを上人は見られた。各門徒にはそれぞれ家族もあったことである。その心情も上人は察知していたであろう。
石山合戦終結の和睦に対し、父から義絶されながらも徹底抗戦を主張し籠城した上人の決意の背後には、上述の門徒・同行の行動があったと考えられる。宗祖を慕う真摯な門徒の心に共感された上人といえよう。上人の消息に「宗祖聖人の御座所を仏敵の信長軍の馬のひづめにけがされるのは無念」とある。この文言の根底には門徒が本山を死守してきた心情がうかがえる。
「本能寺の変」後、本願寺は鷺森から貝塚,そして天満へ移転するが、その際、上人は秀吉政権の中枢にいた千利休に積極的にはたらきかけ、大坂に天満本願寺を成立させた。
また、上人は東本願寺創立以前、隠居中の文禄五年(一五九六)、大坂に「大谷本願寺」を建立した足跡がある。その地は敢えて大坂城の北,渡辺である。これも天満本願寺と同様、旧縁の大坂本願寺を意識してではないだろうか。
上人は東本願寺御影堂建設中に巨大な梵鐘を鋳造している。これは現在の東本願寺阿弥陀堂内に安置されている。その銘に「大坂大工浄徳」とある。「浄徳」の人物については不明であるが、法名であることから大坂の門徒と推定される。先の大谷本願寺の梵鐘銘にも大工は大坂の「我孫子杉本」(現大阪市住吉区)の家次という。
教如上人はこれらの職人に大坂本願寺時代に出会ったのだろう。二十三歳まですごされた大坂本願寺・寺内町には「仏国土」ともいえる「報恩行」で活動する門徒の世界の雰囲気があり、それが上人の願われた教団のかたちとなっていったのではないだろうか。 
39 芯
子どもたちが巣立って、二十年が経った。まだ核家族という言葉の珍しかった頃には、老い二人の日が、こんなに早く訪れようとは思いもせずにいただけに、驚くのである。
世界にも前例のない経済成長を遂げた日本の激しい変わり方は、一人ひとりの人生や家族の生活、さらには、社会状況や自然の生態系にまで及んでいることは、「身土不二」の教語に照らしても、道理の示す所である。
ところで、我が家では事情あって、五、六年前から、家事のほとんどが我が務めと相成り、一年を通して台所に立つことになっている。朝、台所からコトコトと聞こえる包丁の音で、目を醒ましていた頃の気分はとっくに消えて、時に哀れをもよおすこともあったが、ほどなく、「台所も、これまた聞法の道場よ」と、心は決まってきた。
少年の頃から寺で四世代、十三人の大世帯の中で育ったので、食事の手伝いも珍しくなく、学生の頃の自炊生活も、今は助けとなっている。
気がつけば、素早く要領よく、しかも栄養も片寄ることなく作るということが、出勤前の朝食の準備の掟となっていた。
南瓜、玉葱、キャベツ、人参、大根、椎茸に玉子に竹輪、すり胡麻、出しじゃこ、そこへ時には季節の青物と前日の残飯を入れての味噌仕込みの雑炊が、三百六十五日、朝食の定番となっている。
ところで地元の朝市から、丸ごと求めてきた特大のキャベツを、上の葉から切り離しては使って一ヶ月ばかりが経ったころ、その真ん中あたりが脹れ出してきたのであった。そして冬が近づきキャベツにとって替わった白菜も、春間近のころには花芽がのぞき出してきた。根を切られても、なおその芯が含んでいる養分を糧に、生命を継ぎ生きんとするその姿に、私は驚いた。生命の要は、まさに「芯」にあったのである。
「マニュアル」や「システム」の改革も必要であろう。だが何よりもまず家庭や学校で親や教師が、この子やこの生徒のその「芯」はどこにあるのか、と見守り育むところに、そして一方で子どもや生徒達は、自分に向けて下さっているその気持ちを、じっと胸に手を当てて聞いてみるところに、心が通い合いそれぞれの歩む道が見つかってくるに違いない。
仏性すなわち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまえり。すなわち、一切群生海の心なり。(『唯信鈔文意』聖典五五四頁)
との、聖人の教語を思い浮かべるほどに、いかに五濁悪世の度合いが進もうとも、人類のみならず、無辺なる衆生のすべてに通底する「いのち」(仏性)こそが私達人間にとっても「芯」であるという事実に目醒めるところにしか道はないとの思いが、年々に深まってくるのも、加齢のためとばかりとは、思われないのである。
この人間の道を、聖人との出遇いのなかに生涯を尽くされた教育者の、
私どもは、自分の生涯でただ一度、それも五十年、六十年前にお会いしただけでも、一緒にいて離れないという実感がする人があります(中略)一度も出会ったことがなくても、場合によっては生涯、自分と一緒にいる人があるわけです。 (廣小路亨「一期一会」『縁に随う』)
との遺語が、いよいよ身に沁みるのである。 
40 思いと願いが声になって
真宗大谷派仙台教区主催で行われた「3・11東日本大震災・心に刻む集い」に教学研究所のメンバー二名とともに参席した。あの震災から二年と二日たった三月十三日のことである。杜の都・仙台の中心部にある会場の仙台国際センター大ホールは約千人の聴衆でほぼ満席だった。招待席には原発事故で全町民が避難を余儀なくされ、現在は福島県いわき市の仮設住宅で過ごす多くの方々が座っていた。
嘆仏偈が厳粛に勤められ、集いは始まった。震災に遭い、震災問題と向き合う二人の僧侶が登壇し、いまの思いを「私は聞く」という形で吐露した。
私は聞く、あなたの悲しみが分からないから。
私は聞く、お前には分からないという慟哭を。
この最初の二句には、これまでの支援がいかに精神的な重圧のなかでなされてきたか、いかに苦労の多いものであったかが綴られていた。さらに「聞く」対象は被災者の叫び、汚染された大地の呻き、素朴であるがゆえに胸が痛まざるをえない子供の願いなどへと広がっていった。そして「今に生きる。今に生きる。南無阿弥陀仏」で閉じられた。
次にさまざまな立場にある七人がリレートークの方式で思いを語った。当時実家を離れて高校生活する自分に「あなたはそこにいなさい」とメールを残したのを最後に津波で流された母親との思い出を語る大学生、「申し訳ないという気持ちでやっている」「支援する者・される者の関係をこえて、人と人という関係ができてきた」と語る被災地で支援活動する人たち、「本当に申し訳ない」と涙する甲状腺検査の数値が思わしくない子供を持つ母親、「なぜ検問を受けて一時帰宅しなければならないのか」とやるせない心情を述べる原発事故のために故郷を離れて生活をする人などの声が会場に響きわたった。
最後に被災地で支援ライブを行っている二組の歌い手によるライブがあった。「三百六十五歩のマーチ」「上を向いて歩こう」など十曲以上が歌われ、会場は一体感で包まれた。「自分たちはなにかを言うよりも、歌で思いを伝えたい」。そう語る男性ボーカルの声は、支援のあり方のヒントを教えてくれているようだった。それは「自分のフィールドで自分のできることをする」ということである。したがって支援のあり方は人それぞれであり、被災地に出向く形もあれば出向かない形もあるのである。
翌日、私たちは石巻市の大川小学校に向かった。津波で全校児童百八人のうち七十四人が死亡・行方不明となった小学校である。変わりはてた校舎の横には慰霊碑が建てられ、多くの人がお参りに来ていた。「おとうさんおかあさん、もっとみんなといっしょにいたかったよ」。そんなたくさんの声なき声がこだましているかのようだった。
二年たっても震災・原発問題はまだまだ終わっていない、風化させてはならない。このことを身をもって再確認した三日間だった。 
 

 

41 真宗移民の記憶
真宗の移民といえば、明治初期の海外移民が思い浮かぶが、江戸時代にも集団移民があった。いわゆる労働移民とは異なる、真宗の信仰と生活習慣を護り続けた人々を「真宗移民」と呼ぶ。
最初は、天明の大飢饉と間引きの流行により荒廃した関東幕府領を、越後門徒の移住によって回復させようという合法的移民であった。北陸地方は間引きの悪習がなく、人口も多い真宗地帯であった。しかし北関東の荒廃は続き、やがて藩が禁じる非合法的移民(走り人)が始まる。親鸞旧跡寺院の稲田西念寺良水は笠間藩(茨城県)と語らい、真宗移民によって間引きを絶ち農村復興を目指した。北陸前田藩領からの移民は関東旧跡巡拝を口実にしたが、やがて発覚し頓挫する。その後、真宗移民の引受先となったのが同じく飢饉で荒廃した相馬中村藩(福島県浜通り地方)である。
文化八年(一八一一)の入植以来、真宗移民は藩より厚遇されたが、信仰や習俗を巡って地域との摩擦は消えず、移民門徒は真宗寺院や講を中心に結束し信仰を護り続けた。以降も移民は続き、各地の真宗寺院や門徒の支援を受け相馬を目指し、約三十年間で移民数約九千人、開墾地は約三万石に達したという。
真宗移民の尽力で復興を遂げたかにみえた相馬中村藩を天保の大飢饉が襲うが、弘化二年(一八四五)より藩民一体の一八〇年に及ぶ復興計画(報徳仕法)を実施する。この計画は明治維新で途絶えたが、真宗移民はこの時も尽力したという。
前田藩領内では縁者から移民が出たことが発覚すれば厳罰を受ける。送り出した人々は移民を懐かしむことも許されず、真宗移民は歴史の彼方へ消えたかに見えた。しかし、移民の子孫たちは先祖が北陸出身であることを語り継いでいた。3・11直後、子孫たちは支援に駆けつけた越中門徒に、故郷を同じくする自分たちの先祖について問うたという。二百年の時を超えた再会である。
現在、原発災害が特に深刻な福島県浜通り地方は、放射線による健康不安とともに、人口流出による地域衰退への危機感が増している。この過疎化と高齢化の加速は、実は全国でも起こっている問題である。国の農林業政策への不信感、更に地球温暖化が原因とされる近年の異常気象が地域住民の不安を煽り、郷土の荒廃が進みつつある。
原発災害は自然界が長い時間をかけ減らした放射線量を逆戻りさせた。地球温暖化と同じく人間がもたらした人災であり、目先の政策では解決しない。私たちは、この事実を便利さを求め続けた業果と受けとめ、未来世代に害を残さぬよう、今の生活を問い直さなければならない。原発被災地と同質の問題が全国で起きている今、かつてこの地の復興に尽くした真宗移民の歴史に学びたい。時代は変わっても、復興の手がかりは真宗移民の記憶のなかに遺されているはずである。 
42 凡夫の歴史
福井県を訪れた際、勝山市にある白山神社へ連れて行っていただいた。養老元(七一七)年に創建された古社で、中世以降、白山信仰の拠点寺院であった平泉寺の旧境内である。平泉寺は、四十八社、三十六堂、六千坊といわれるほどの巨大な宗教都市を築いていたが、一向一揆勢力の攻撃により全山焼失したという。その後近世にやや復興したが、明治の神仏分離・廃仏毀釈によって平泉寺は廃寺となり、今は遺構をのこすのみである。その平泉寺の廃墟跡に立ち、一向一揆と対立した人びとの逃げまどう姿を想像しつつ、織田信長によって虐殺された一向一揆の人びとや戦国の戦乱で亡くなっていった人びとのことを思った。一向一揆の戦いがもつ意味をあらためて考えさせられたひとときであった。
学生の時、聖人の御生涯以外の歴史にはほとんど興味がなかった。しかし入所以来、広く仏教史から近現代の教団の歴史まで学び、考える機会をいただいて、よく戸惑いを覚えた。それまでは、歴史の一部分を切り取ってあれは間違いだ、これは大事だといって済ませていればよかったが、知るほどにそれでは済まないことや異なる見方にであってしまう。そして、歴史に対する善悪の判断や、否定、肯定は簡単にできるものではないということを知り、戸惑うのであった。それは単に判断がつかないという戸惑いではなく、自分の立ちどころがどこにあるのかと歴史を通して問い直される経験であったと思う。
歴史は単なる事柄の羅列、時間の経過ではなく、人の生きた歴史である。そして、それは「凡夫(ただひと)」(聖典九六五頁)が生きた歴史である。英雄や偉人の歴史もまた「凡夫」の生きた歴史である。すばらしい業績に意味がないということではなく、誰もが「凡夫」であるという一点を外すならば、結果として、人間の中に正邪や上下といった価値体系を作り出すほかない。どの人の歴史も、様々な縁によって生きた存在の歴史の他ではなく、その歴史が、逆に、縁によって様々な在り方をしてきているわが身を浮かび上がらせる。「凡夫」の生きた歴史は、わたしが「凡夫」であることを証しするのである。そして歴史の方が、「凡夫」であるお前はどう生きるのか、と問うてくるのである。
だから私にとって歴史を知ることは、歴史の中におぼろげに浮かび上がる人間の姿、物言わぬ他者との対話のようなものの気がする。「なぜこのような歴史になったのか。あなた方は何を、なぜ、どのように求めたか」。その問いは、自ずと自分自身に還ってくる。「あなたこそ凡夫であることを見失って、何を求め、どう生きようとしているのか」。歴史は、そう私に問いかけ、見守ってくれているようにも思えてくる。こうして、教団を含めた、歴史を学ぶことは、いつの間にか、私にとって真宗の学びの一つとして大切なものとなっていた。 
43 親鸞聖人と『観阿弥陀経』
『観阿弥陀経』とは、『観経阿弥陀経集註』、『観無量寿経註・阿弥陀経註』などとも呼ばれる親鸞聖人の著作である。この著作は、料紙に『観無量寿経』と『阿弥陀経』が書写され、その経文の行間、経文の上下の欄外、紙背に善導大師の著作を中心に、こと細かく註記が施された巻物仕立てのものである。
昭和十八(一九四三)年二月に西本願寺より発見され、翌年影印本が刊行されている。影印本の解説には、「二経を分離して両巻とし」とあることから、もとは一巻であったと考えられる。高田派専修寺には存覚書写本が所蔵されているが、それには「観阿弥陀経」と題号が付され、奥書には「二経一巻」と記されている。ここから、「観阿弥陀経」が原題名ではなかったか、と指摘されている。
もちろん、『観阿弥陀経』という経典が存在するわけではない。しかし、二経に註記が施された聖人の著作に「観阿弥陀経」という題号が付されるところには、『観経』と『阿弥陀経』を「二経一巻」として受け止めていかなければならない必然性があることが示唆されているのではないだろうか。その意味で、「観阿弥陀経」という題号に、重要な意味があるように思われる。
『教行信証』「化身土巻」に、
愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。(聖典三九九頁)
と述べられるように、親鸞聖人は二十九歳の時、法然上人の本願念仏の教えとの出遇いを通して、阿弥陀如来の本願に帰依された。それから越後へ流罪となる三十五歳までの約六年間、法然上人のもとで多くの門弟と共に、本願念仏の教えを懸命に聞き続けられたのだろう。『観阿弥陀経』は、筆跡や引用文などから、吉水にいた頃にはほぼ完成していた、と先学によって推測されている。吉水時代に親鸞聖人がどのような学びをしていたのかを具体的に示す史料はほとんどないため、『観阿弥陀経』は、若き聖人の学びが窺える重要な著作と言えよう。
『観経』の流通分に、
汝好くこの語を持て。この語を持てというは、すなわちこれ無量寿仏の名を持てとなり。(聖典一二二頁)
と説かれ、『阿弥陀経』には「名号を執持せよ」と勧め、そのことを六方の諸仏が証誠することが説かれている。『観経』と『阿弥陀経』に一貫して説かれていることこそ、本願念仏である。法然上人の本願念仏の教えを、この二つの経典の上に確かめようとした著作が『観阿弥陀経』ではないだろうか。このような親鸞聖人の学びは、主著『教行信証』にも展開するものと考えられる。その意味で、『観阿弥陀経』は、親鸞教学の原点を明らかにする著作と言えるだろう。
「本願念仏の教えに出遇ってほしい」。『観阿弥陀経』は、私にそのように呼びかけているように感じる。 
44 「伝親鸞聖人筆」名号について
「伝親鸞聖人筆」とする六字名号と十字名号が二幅づつ、高山教区内の四か寺に伝来する。六字名号には「善信(花押)」とあり十字名号にはない。署名・花押、書体も聖人真筆ではない。それらの寺院は御旧蹟でもなく伝来は不明である。
以前、これと同様の六字名号を新潟県と富山県の御旧蹟寺院で見た。富山の寺院では、転宗した際聖人から授与されたものと伝えていた。「伝聖人筆」とする同じ書体の六字と十字の名号が、岐阜(飛騨)、新潟、富山の寺院に伝来することから、もっと広範囲で多数存在する可能性があり、製作された場所や意図がずっと気になっていた。
近頃知人が、先祖の高山の豪商に伝わった「親鸞聖人筆」六字名号と「由緒書」を見せてくれた。名号には「善信(花押)」とあり、先の「伝聖人筆」の六字名号と全く同じである。「由緒書」には次のように記されていた。
「延享三(一七四六)年に、信濃国戸隠山の修験者から十字・九字・六字三幅の名号を譲ってもらった。その後、宝暦十三(一七六三)年七月二十九日に名号の極め書きを頼んだ。十字・九字・六字の名号は、安貞二(一二二八)年秋、五十六歳の聖人が戸隠山に参籠して奉納したもので、六字は聖人が六角堂へ参籠した時、感得した名号である。近年、戸隠山の宝庫から三幅が発見されたので、東本願寺門跡に上覧のため上洛する途次商家に逗留した。主が“御開山様”の真筆を拝見することは“宿縁浅からず”“隨喜感嘆ふかく仏祖の大悲善巧の恵”と感じ譲渡を願い出た。すると戸隠山行勝院は“辞退なく譲書を相添、授与した」
とある。「伝聖人筆」名号の出処が戸隠山の修験者と判明した。飛騨の二か寺の十字名号は、この商家から出たものかもしれない。また他に九字名号が存在する可能性もある。
贋作の「聖人筆」名号が出回るのにはいろんな要件がある。いわゆる「聖人御旧蹟」には、聖人の遺品が伝来しているはず、という先入観がある。当時、ほとんどの真宗の僧侶・門徒は聖人真筆を知らない。「善信(花押)」があれば、偽物という疑念をもたない。聖人が越後に流罪中、北信濃や善光寺へ参籠したという伝承が既にあり、それを背景として、戸隠山では「親鸞聖人真筆名号」を創出し、出開帳をしながら広範囲に売り歩いた。ターゲットは真宗寺院や篤信の豪商であった。門徒、特に篤信の門徒は疑うより先に合掌礼拝の対象としたため、このような門徒の崇敬の念を利用したのである。売り渡した後は、冥加の無い者には拝ませないよう秘蔵させたようである。
真宗門徒は、親鸞聖人を「御開山様」と称して崇敬し、「正信偈」や「和讃」などの聖教に念仏の教えを深く戴く伝統に生きている。加えて遺品(聖教・名号などの手跡)に生前の聖人の聞思の姿や息吹を感じ取る情も抱いたと思う。「伝聖人筆」名号の真偽は重要である。しかし、本願念仏の教えを相続している門徒にとって、「善信(花押)」は、真筆か否かを超え、本願念仏の確かさを証すものとして受けとめられてきたのである。 
45 人知の闇
2011年に宗祖の七百五十回忌御遠忌法要が勤まった。しかし、その法要に先立つ3月11日に発生した東日本大震災は、今でも多くの爪痕を残すと共に、人々の心の中に大きな悲しみと痛みをもたらしている。復旧・復興に全力を挙げて取り組まれている現在でも、今なお先の見通しがつかない極めて深刻な危機を招いているのが福島第一原子力発電所爆発による放射能汚染事故である。この事故は、そこに住んでいる人々に不安と怒りと悲しみを二年経った今も与え続けている。当時、御遠忌中に配布された挨拶文の中に、
原子力発電所の極めて深刻な事態は、経済至上・科学絶対主義と表される人知の闇が、まさしく露わになった事実であり、私たちの生活の根底から問い直させる、大変重要な意味をもっている。
という文章がある。
今なお続く原発事故問題に対し、二年以上経った今でも、完全な解決策が示されているわけではない。逆に、この先どの様になるかさえ、その最終的な真の結論については誰一人知る人はいないのではなかろうか。それにもかかわらず、国は原発の安全性を改めて主張すると共に、海外に向けて輸出しようとしている。何故、あのような悲惨な事故が起こったのかに対する総括や問題の解決策も示されてはいない。それよりも、今も現状に苦しむ人々の痛みや悲しみを受け止めることなく、ひたすら「科学絶対主義」を信じ、そこに何らの疑いも挟むことなく、それを裏付けに「経済至上」に邁進しようとするのであろうか。そこに、人間の幸せがあるかのような幻想を抱かせようとしていることに、危機感を感ぜずにはいられないのである。その根本にある課題とは何なのか。
私たちは、人間のもつ知恵により全ての幸せが達成できると信じて疑わない。今日の社会の繁栄はその知恵の結晶によって成立してきたと考えているし、その様な社会をひたすら求めていたのも、実は私たちである。しかしその事を根底から問い直させているのが原発問題ではないだろうか。その事は「想定外」と言葉に聞き取れると思う。つまり、「想定」そのものが人知の象徴であるならば、それが「外」れた事は、正に科学万能を疑わない人知そのものが問題である事を示しているのではなかろうか。何故なら、全てを「数値化」し、それを基準に判断していく人知そのものが、実は「闇」であると教えられているからである。
宗祖が、何故私たちに阿弥陀仏を仰ぐ生き方を勧められるのかといえば、それは光としてはたらく阿弥陀仏によって自らの闇が知らされる以外に、本当の生き方はないと頷かれたからである。私たちはどこまでも仏の教えに依らない限り、他者への痛みを感じることなく互いに傷つけ合う生き方しかできないのではなかろうか。その様な現実を、大悲して止まないところに阿弥陀仏の願いがある。私たちは、どこまでも教えを通して人知の闇が破られ慚愧するところに、共なるいのちを生きる道が開かれるのではないかと思う。 
46 師教の恩厚を仰ぐ
『小倉百人一首』の撰者として名高い藤原定家(一一六二〜一二四一)は、宗祖と十一歳上の同時代人である。彼は一一八〇年(十八歳)から五十六年間にわたり、ほぼ毎日日記を綴った。その全文が、のちに『明月記』と題して世に出、公家の世から武士の世へと転換していく中世初期の社会のありさまが知れる貴重な史料となった。
その日記の一二〇七(建永二)年一月から三月にかけての記を見ると、宗祖が越後へ遠流となった「承元の法難」に関する生々しい記事が散見される。まず一月二十四日の日記に、次のような記事があらわれる。
「専修念仏ノ輩(やから)停止(ちょうじ)ノ事、重ネテ宣下スベシト云々(専修念仏を広める人々に対して、再び停止せよとの天皇の命令がおりた)」〔以下( )内は意訳〕と。続いて二月九日、「近日、只一向専修の沙汰。搦メ取ラレ、拷問サルト云々。筆端ノ及ブ所ニアラズ(近頃は、毎日一向専修の人々の裁判がどうなったのかという話ばかり。今日は数人が捕縛されて拷問を受けているとのこと。その有り様は筆に書きとめられないほど過酷なものである)」。
そして二月十八日、裁決が出、住蓮・安楽など四名斬首、法然・親鸞など八名、俗名を与えられて遠流に処され、三月十六日、還俗させられ俗名藤井元彦となった法然が鳥羽の近くで乗船したと言われている。
この三月十六日の出来事については、『親鸞聖人正明伝』に更に詳しく、次のように語られている。
「(三月十六日)午ノ時(正午)、源空上人、華洛(京都)ヲ出テ配所ニ赴タマフ。(中略)同十六日卯初刻(午前五時),善信聖人(親鸞)出京ナリ。コレ空上人イマダ都ニマシマス内ニ、片時モ先立テ洛ヲ出ムトテ,兼テ送使ノ許ヘタノミタマヘバナリ(わずかな時間でも先に出発して都を出たいと思い、前もって送使役の人に頼んでおいたからである)」。
流刑の地へ出発する師の背中を弟子が見送ることは、師に我が身の罪を背負わせることになる。そう直感した宗祖は、すべての罪を一身に背負い、暁天のときを待って越後の国へと旅立たれたのだろう。一方、法然上人の伝記には、配所に旅立つときの上人の言葉が次のように残されている。
「流刑さらにうらみとすべからず(中略)、念仏の興行、洛陽(京の都)にしてとしひさし、辺鄙(へんぴ)におもむきて、田夫野人(でんぷやじん)をすすめん事、季来(としごろ)の本意なり。しかれども時いたらずして、素意いまだはたさず。いまの事の縁によりて、季来の本意をとげん事、すこぶる朝恩ともいふべし」(『法然上人行状絵図』第三三)
この言葉は、やがて宗祖の目にも止まっただろう。宗祖はこれを受けて、『教行信証』「後序」末で「深く如来の矜哀を知りて、良(まこと)に師教の恩厚を仰ぐ」と述べておられる。法難を逆縁として、「朝恩(朝廷の恩)」といただかれた師法然と、それを「師教の恩厚」と仰いで、ここに凡愚救済の仏道があきらかに開かれる時が熟したとして、「慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し」と受けられた宗祖との見事な応答が、「承元の法難」という一過性の出来事に永遠の真理性をもたらしたのである。  
47 言葉の歴史
改めて言葉の歴史は大切であると痛感することがある。それは言葉の歴史を知ることによって前よりも聖教の意味が明らかになった時である。しかし言葉の歴史を知るということはなかなか容易なことではない。日本語や漢文だけでも各々に長い歴史があるし、さらにそれが翻訳語や仏の教えの言葉となると、事情がより複雑になるからである。
そもそも仏教の経論はインドから日本へと翻訳されながら伝来している。訳者は言葉では表現できない真実を表現しなければならないだけでなく、原語の意味と完全に一致しない、それと近似する言葉を用いることによってしか翻訳することができない。そのために意味が複雑になるのだろう。
またそれ以外に意味が複雑になるのは、数種類のサンスクリット語などの原語が、一つの言葉に漢訳されるからであると思われる。現代の日本語からみると一つの言葉の中に、数種類の原語からの意味と、中国や日本での伝統的な意味と時代特有の意味、そして漢字そのものがもつ意味が混在する。そしてその混在することから起こる混乱と、さらにはそこに現代人の語感と、個人的な感情や意図が加わることによって新たな意味が創り出される。
これはもちろん仏教術語だけではない。例えば自然という言葉についても同様だったようである。明治の頃もともと日本で用いられていた自然と、外来語の訳語として用いられるようになった自然との間で混乱があった。しかもその混乱の中にいる人は、そのことに気づかなかったという。
ところがそのような言語的な問題を、仏教における過去の先輩たちは超えておられる。もちろんそれは仏のお力や善知識からの教えによるものであり、信仰上の実体験に基づくものであるが、一つには多読であり多聞によるものだろう。親鸞聖人が仏教術語について、あれほど偏りのない語感をお持ちなのも、様々な経論に通じておられたからであると思われる。
ただ言葉の歴史が大切であるとしても、気にかかるのは、歴史と個人的な感情についての曽我量深先生の次の言葉である。
個人的感情は妄念である。個人的感情も歴史にうらづけられたとき真実である。 (『歎異抄聴記』真宗大谷派宗務所出版部二七五頁)
ここでの歴史とは、念仏に生きる者にとっての歴史的背景や事実のことであり、それは法蔵菩薩から七高僧そして親鸞聖人まで伝えられた伝統的な精神のことである。ただそれらのことを私たちに伝えてくださるのは仏や善知識や聖教である。聖教はその中の一つであり、誰もが確かめることのできることからも、やはり重要であると思われる。
しかしどうしても聖教の言葉自体にとらわれてしまう。聖教は人間を絶対的な自由に導くものであるにも関わらず、気づかぬうちに個人的な感情のまま他者を否定し、自らを肯定し正当化してしまう。そのようになるのは凡夫の身としてはやむをえないことではあるものの、ただ悲歎し慚愧するのみである。
そうであるからこそ曽我先生の言葉には、私たちにもそのことに気づいてほしい、個人的な感情や思いに終始することなく聖教の言葉にたずねてほしい、そのような意味が含まれているように思われてならない。 
48 自己とは何ぞや
自己とは他なし 絶対無限の妙用に乗托して任運に法爾にこの境遇に落在せるものすなわちこれなり(『清沢満之全集』〈大谷大学編、岩波書店刊、以下『全集』〉第八巻三六三頁)
これは、清沢満之(一八六三〜一九〇三)が、『臘扇記』(一八九八年八月)に記した一連の文章の中にある一節である。当時満之は、人間関係に悩み、また肺結核を煩いながら、現実に差し迫る「死」を前にしていた。その中にあって人生の意義(「死後の究極」)を尋ね、畢竟「不可思議」であるということから、真実の自己は、絶対無限の妙なる働きに乗托して、現前の境遇に落在せるものであると決着したのである。ここに念仏への目覚めが表現されているといえる。
念仏への目覚めが、「自己とは何ぞや」という問いとともに表現されている。この問いはわが身への深いまなざしと自覚をうながしていく響きをもっているといえるだろう。もちろんこの一文は、満之自身が記したものだが、同時に満之を超えたものとして、以後の満之を導き、そして今の私たち一人ひとりに問いかける。
この一節の後には、次のような内容が続いている。
絶対吾人に賦与するに善悪の観念を以ってし避悪就善の意志を以てす。いわゆる悪なるものもまた絶対のせしむる所ならん。しかれども吾人の自覚は避悪就善の天意を感ず。これ道徳の源泉なり。吾人は喜んでこの事に従わん(同上)
ここに善悪の観念が与えられることが記されている。満之は「無限の境界には善悪なし」(『全集』第二巻一二六頁)としているが、冒頭にみた一節は、善悪を超えた不可思議なる世界、真実によって自我分別が破られる世界を意味する。その善悪を超えた世界から、今度は善悪の観念が開かれると記される。
この善悪について、満之は「吾人をして絶対を忘れざらしむるものこれ善なり」として、念仏(絶対)への目覚めを善悪の基準としている。ここには念仏する歩み、念仏する生活(願生浄土の道)が示されているのである。
善悪を超えた世界から善悪の世界へと転換していくというのは、自己に本来そなわる関係存在(同朋)への眼を開いていくことを意味する。
有限無限の関係はついに吾人が無限に対する信仰を発得せしめ、他力信仰の結果は吾人の同朋に対する同情となり、同情の開展する所は道徳を策進して真正の平和的文明を発達せしむるに至るべきなり、(「他力信仰の発得」『全集』第六巻二一五頁)
自己への深い眼は、自己に本来そなわる同朋への眼を開く。自己への眼差しが、狭い自己に閉じこもるのではなく、同朋への世界を開いていく。また同朋ということが、観念の中に閉じこもるのではなく、自己への目覚めを伴ったリアルな内容として頷かれてくることが示されている。
昨年(二〇一三)は、満之生誕百五十周年の年にあたり、満之の出現の意味が改めて確かめられる。ここで示される同朋への眼をもう一度確かめ直していきたいと思う。 
49 念仏における二つの特徴
曽我量深師は、親鸞聖人と法然上人の念仏における趣の違いを次のように指摘する。
「法然聖人は果して本願を憶念することに依りて念仏を唱へられた乎、将(は)た念仏の声に導かれて本願力を憶念せられた乎。是れ須要の研究問題である。此憶念と称名との因果前後の関係が法然、親鸞二師の信念の色味を異ならしめた要点である。親鸞聖人は先づ本願力を憶念して、此憶念の心が顕はれて称名となった。然るに、法然聖人の傾向は正しく反対であった。彼は先づ忽然として称名の声が現はれ、此声の上に本願力の虚しからざることを憶念し給ひた」(「大闇黒の仏心を見よ」『曽我量深選集二巻』三〇三頁)。
これは、法然上人には「日課七万遍」などと言われる、毎日お念仏を称えていた伝承があるのに対して、親鸞聖人にはそのようなお念仏を熱心に励むことがなく、その相違を論じているものである。
この二つの違いを単純化して表せば、先に念仏を称えてから本願を憶念するか、本願を憶念してから、そこに自然に念仏を申すかの違いである。その一つ目の特徴は意志実行の念仏で、この念仏の声に往生決定や本願力を証し、開顕しようとするものと表されている。もう一つは瞑想的な感謝の想いから出る念仏で、まず決定往生を確信し、その確信が感謝の想いとなり、その表明としての念仏の声となったものと言われる。
師は、この違いは教義意見の違いではなく、人格上の相違であると言われる。私は、この違いは、その生きられた時代の違い、その立場による課題の違いであるとも思うのである。
というのも、法然上人の時の課題は、新しく浄土宗を独立し、専修念仏を広めていくことにあった。そのような新しい宗を興こす場合は、まずもって念仏を称えることが重視されたのではないだろうか。それに対して、親鸞聖人の立場は、すでに多くの専修念仏者が居るなかでは、むしろ真実に念仏する意義、念仏をする心の在り方をよくよく思案することが課題となったと思われる。そのような課題の違いから、それぞれの特徴が出てきたと言えるのである。
そこで問題は、我々が生きている現代の状況にはどのような課題があるかである。この事をよくよく考える必要があるのではないだろうか。現代は、核家族化がすすみ、御内仏の無い家が増え、信心が相続せず、念仏を申す機会など、圧倒的に減少しているといえよう。
このような教えが伝統相続していくことの危機的な状況にあっては、法然上人のように念仏を称える声、念仏を称えるすがたを積極的に表現する必要があるのではないだろうか。念仏に生きる人を通さなければ、どれだけ理屈を重ねても、阿弥陀仏の本願のはたらきや浄土の存在についても、伝わらないからである。
具体的に称えられる念仏の声、御本尊を前に合掌・念仏を申す後ろすがた、そうしたことがだんだん貴重となってきているのである。 
50 露伴のなかの親鸞聖人
他力に頼って自己を新にしようとするにしても、信というものは自己によって存するのであるから、即ち他力に頼る中に自力の働(はたらき)がある。自力によって自己を新にせんとするにしても、自照の智慧は実に外囲の賜物であるから、自力による中に他力の働がある。
(『努力論』改版、岩波文庫、二〇〇一年、四五頁)
これは幸田露伴の著書『努力論』の一節である。露伴は『五重塔』などの作品によって知られた小説家だが、今日では娘の幸田文の方が有名であろう。
露伴の『努力論』は一九一二(明治四十五)年に刊行された。題名を見ると努力することを奨励しているように見えるが、露伴は「一所懸命に努力しよう」と主張しているわけではない。露伴は「人が努力するということは、人としてはなお不純である」、「努力を忘れて努力する、それが真の好いものである」(「初刊自序」、『努力論』改版、二五頁)と述べている。
先の一節は親鸞聖人の御消息から着想を得て書かれたものであるが、その内容は『努力論』の基調ともかかわる。幸田露伴が参照した御消息は次のとおりである。
他力のなかには自力ともうすことはそうろうとききそうらいき。他力のなかにまた他力ともうすことはききそうらわず。他力のなかに自力ともうすことは、雑行雑修・定心念仏・散心念仏とこころにかけられてそうろうひとびとは、他力のなかの自力のひとびとなり。他力のなかにまた他力ともうすことはうけたまわりそうらわず。(聖典五八〇頁)
幸田露伴は、努力を自己目的化することに批判的であった。『努力論』の後半では宇宙全体を貫流する「気」について語られている。露伴は「気」の循環を説きつつ、個人と宇宙との調和した関係を描いている。『努力論』は、その題名とは無関係であるかのような内容を含んでいるのである。
露伴の主張は当時の時代状況とも結びついている。『努力論』は日露戦争と「大正デモクラシー」との間の時期に刊行された。日本は日露戦争以後、西欧列強と肩を並べる存在になった。ひとまず「富国強兵」の理想が実現したかのように見えた時代であるが、人々の生き方も変化していく。人々の視線は、対外関係だけでなく、国内の政治的、経済的不平等に向けられる。ここに「大正デモクラシー」が幕を開ける。
このような時代のなかで「富国強兵」の理想と表裏一体の関係にある「努力」や「立身出世」という生き方も限界に達した。夏目漱石が小説「それから」のなかで描いた「高等遊民」の姿は、「努力」や「立身出世」とは対極の生き方を体現していた。
親鸞聖人の言葉は、「努力」や「立身出世」という生き方が限界に達した時代にあって、この時代の底を流れるものとつながっているように思われる。 
 

 

51 「よきひと」からのメッセージ
「よきひと」というと、まず『歎異抄』第二章のお言葉が浮かんできます。親鸞聖人は師である法然上人からの言葉を
「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。」と語られます。
親鸞聖人が「よきひと」とおっしゃったのは、その師の言葉が法然という単なる一個人の言葉ではなく、本願に出遇い念仏申す身となった人の言葉であるという受けとめがあるからです。その言葉の背景には、第十七の本願による脈々と流れ続けている念仏の大行の歴史、そしてその大行に出遇っていった大信(信心)の伝統、すなわち親鸞聖人が『正信念仏偈』に歌いあげられ、顕らかにしてくださった浄土真宗の世界があるのです。
また親鸞聖人の『御消息』(聖典五六四頁)には
「それこそ、この世にとりては、よきひとびとにてもおわします」
というお言葉があります。ここでは、「よきひとびと」の前に置かれている「この世にとりては」という言葉が気がかりになります。「この世にとりては」という言葉で親鸞聖人は何を言おうとされているのでしょう。
「この世」とは文字通り、私たちが人びとと共に現実に生きているこの社会のことでしょう。宗教が歴史的社会的現実に対してどう関わるべきなのか、宗教と政治の関係性、それはいつの時代においても大きなテーマです。聖徳太子の政治の背景には、『十七条憲法』に象徴されるように仏教精神がありました。対外的にも中国や朝鮮半島の国々と平和外交を展開されました。今日の安倍首相の国内外への政治姿勢には大いに危うさを感じている者の一人ですが、その姿勢の背景にも彼の思想と宗教観があるのでしょう。
御消息のこの言葉は、聖覚のお書き物を勧められる言葉に続いて述べられたものです。聖覚の書かれた『唯信鈔』は、一二二一年の承久の乱直後に書かれたものですが、その大混乱については一切触れられていません。にもかかわらず親鸞は「この世にとりては、よきひとびと」と言われるのです。聖覚も親鸞もこの世の現実を無視されたのでしょうか、決してそうではないでしょう。
親鸞聖人がこの世の現実にどのように向かい合おうとされたのか、その真意をくみ取ることは容易ではありませんが、真宗門徒はそれを見出し歩もうと努力してきました。真宗教団のこれまでの歴史的な歩みは、その苦闘の足跡とも言えるのではないでしょうか。
同朋会運動の中で蓬茨祖運先生は大きな仕事をされた方ですが、「僧伽と還相」という講義(聞思の人・蓬茨祖運集上)で、
「教団僧伽というものは人であると言いたい気持ちがする。…念仏によって人間が自己を本当に回復できる。…そこから本当の僧伽をつくっていく。そのつくり方は、どこかに場所を求めていくのではなく、その人自身がなっていくのではないかと思う」(一〇九頁)
と語っておられます。蓬茨先生のお仕事の背景にあるものが何か、そのことがいま想われます。 
52 在家止住
蓮如上人の
「末代無智の、在家止住の男女たらんともがらは」(聖典八三二頁)
で始まる「御文」は誰もがよく聞き、日常的にも親しんでいる。上人は第十八願の念仏往生の誓願を簡潔に述べられているのが主旨である。
この中にある「在家止住」の文言に筆者は心がひかれる。我々は滝にうたれ、山にこもるなど修行をしなくて、家庭生活を営みながら仏道を歩み、仏心を聞けるからである。いわゆる修行は特別な人ができるのであり、一般職業に従事している人は不可能に近い。
また、在家・家庭生活を営む中で、人間関係や周辺環境、あるいは怒りやおごりに接し、悩んだり苦しんだりする。罪業や我執を感得するのも家庭生活の中からではないだろうか。もちろん、楽しみや喜びも家庭生活や出会いの中から、わかちあえることが多い。
そのようなことを考えると、宗祖の家庭生活はどのようであっただろうかと推測する。宗祖は自らの私的なことは語っておられない。であるから、「恵信尼文書」や覚信尼の行状から推察せざるをえない。
宗祖と恵信尼との結婚の時期は従来より諸説がある。また最近、梅原猛氏が「玉日」との結婚も背定的に論じておられる(「芸術新潮」二〇一四年三月号)。
少なくとも越後時代は家庭をもっておられたことは確かである。越後での宗祖の具体的な生活基盤・実態などは明確にできないが、承元五年(一二一一)宗祖三十九歳の時、息男信蓮房が誕生している。いわば「子育て」をしながらの日暮らしであられた。また、越後の厳しい寒さ、自然の恵み、温かい人の心、人間同士の醜さ、漁業、狩猟にたずさわる人々などの風景を眼前にされ、肌で感じられたことと推察できよう。
また、「恵信尼文書」にある、宗祖が高熱の病気、恵信尼が夢でみられた夫婦の会話などから、あらためて宗祖の教えを多視的に求めようと筆者は考える。
覚信尼は宗祖五十二歳の時、関東で誕生され、宗祖が帰洛後、命終されるまで側におられた。宗祖命終の十年後、覚信尼は再婚された小野宮禅念の土地に大谷廟堂を建立された。
特筆すべきことは、廟堂・御真影・敷地すべてを、覚信尼が宗祖の門徒、墓所に寄進したことである。所領拡大に精根をむける当時の一般的風潮の中で、覚信尼は廟堂等を門徒共有にしたのである。それは廟堂が永遠に維持・相続されることを願いとされたからであろう。
覚信尼が常に宗祖の身近におられ、「同朋精神」を自ずと身につけてこられた結果でもあろう。家族や宗祖の門弟方との何気無い会話や「うしろ姿」をみて育たれ、体得された覚信尼の人柄・真宗精神の行状としても考えられるのではないだろうか。 
53 相手の話を聞く
以前、本山・同朋会館に、
人間を尊重するということは、相手の話を最後まで静かに聞くことである。(安田理深師)
ということばが掲げられていた。全国から奉仕団や研修会等で上山される方々が聞法し、様々な話を交わす。 そんな場において、ことさらに味わいがあることばだと感じたのだが、我が身に問えば「相手の話を最後まで静かに聞く」ことが容易ならないといつも思い知らされている。
先日、原発事故による被災が今なお続いている福島を訪れた。地元の方々にお話を伺うと、震災当時のことや、今も苦しんでおられる状況を色々とお話しくださった。涙ながらに話をされる姿などに触れると、私に何かできることはないのだろうかという思いを改めて持つ。しかしそこで印象的だったのは、こちらからお願いしてお話しいただいた方々の多くが、「話を聞いてくださってありがとうございました」と口々におっしゃったことであった。
「話を聞いてくれる人がまだいる。そう思えるだけで明日からもうちょっとだけがんばってみようかな、という気持ちになります」。そう言われたとき、今の原発の問題を外から眺め、「どうしたらいいか」「私は何をすべきか」ということばかりを考えていた私には、「まずは私たちの話を聞いてください」と叱られたように感じられ、はっとした。それがいつでも自分のところだけで「どうすべきか」と考えていて、「相手の話を聞く」ことが抜け落ちる私の姿である。
このことは心がけ一つで劇的に変われるような根の浅いものではないと思う。表向きは静かにしていたとしても、心の中では黙っていないようなものを抱えていて、耳を傾けても私はせいぜい自分の都合でしか人の話を聞けない。
蓮如上人が、聞法において、
一句一言を聴聞するとも、ただ、得手に法をきくなり。ただ、よく聞き、心中のとおり、同行にあい談合すべきことなり(『蓮如上人御一代記聞書』一三七条 聖典八七九頁)
と指摘されている。このことを私は、「法を得手に聞いてはいけない」とおっしゃったのではなく、「得手にしか聞けないことを知らされていく大切さ」を説かれているのだといただいている。 そのはたらきこそが聞法の場が持っている座の功徳であると教えられているのではないか。談合することでしか、自分の「得手に聞く」姿には気づいていけない。 「よく聞き、談合する」ということは、自分の聞かせてもらったところを語ることでもあるし、「相手の話を最後まで静かに聞く」ことでもある。だれもが得手にしか聞けない者として、 「一人では聞法はできない」ということをはっきりされたのが蓮如上人のことばであったのだと思う。
共にたずねる人があることが在り難いことであり、「相手の話を最後まで静かに聞くこと」は、他人を尊重することに留まらず、自身の歩みを大切にしていくことに重なっている。 
54 東国伝道八〇〇年
東国とは、古くは京都より東の地方を指し、やがて関東・東北の国々を意味した。四十一歳の親鸞聖人が上野国「さぬき」(群馬)に至ったのは建保二(一二一四)年とされ、「浄土三部経千部読誦」の逸話が妻恵信尼によって伝えられている。すると、本年は聖人の東国伝道開始より八〇〇年目に当たる。この春、教学研究所「真宗の歴史研究班」は、この地域の風土と歴史を直に感じ、今後の研究の糧とするため、主に茨城県の笠間から常陸太田を中心とした関東御旧跡を参拝した。
茨城県は三年前の東日本大震災において,県内全域で震度5弱以上の本震と同規模の余震を観測し、北茨城市などの沿岸部は最大六・九mの津波に遭い、原発災害の影響を受けた。特に笠間など八市は震度六強の烈震であり、現在も残る震災の傷跡を目にすると今さらながら被害の大きさに気づかされた。
この地域に伝わる浄土真宗の歴史が、聖人とその門弟たちの伝道を始原とすることに変わりはないが、それに加えて、この始原を受け伝えてきた真宗門徒の歴史についての関心が、特に震災以降高まってきたように思われる。それは、江戸時代後期に北陸地方から北関東に移住し、飢饉などの災害によって荒廃した村々の復興へ力を尽くしたとされる「真宗移民」の歴史についてである。
現在の笠間から水戸へかけての一帯には聖人の東国伝道を偲び、また真宗移民の記憶を伝える寺院が点在する。聖人の稲田草庵跡とされる西念寺は
「かの国(加賀藩領)にあふれる民俗を引き入れ、荒田を開発せしめ風儀をここに移さば」(「入百姓発端之記」)
と記した移民史料を伝え、近接する林照寺は移民門徒による本堂再建の逸話と「蓮如上人四幅絵伝」を伝えている。真宗移民は単なる移民労働者ではなく、真宗門徒としての生活文化を持ち込むことが期待されていたのである。
また門弟唯信を開基とする宍戸の唯信寺は、十九代唯定の時代に西念寺と共に北陸門徒より移民を募り、入植門徒の子孫は現在でも唯信寺門徒の七割を占めるという。いずれも文化文政年間(一八〇〇年代前半)のことである。農民など庶民の移動が厳しく制限されていた当時、移民たちは関東旧跡巡拝を口実に北陸を離れたとされ、同寺本堂に掲げられる当時の通行許可証である「往来切手の事」からは苦難の歴史が偲ばれる。
今回、私は御旧跡を訪ねながら、移民門徒の歩んだ道をたどっているような想いに駆られた。一説に移民門徒は更に東国を進み、やがて福島県浜通り北部の旧相馬中村藩領(相双地方)に到達した。聖人五五〇回忌の年(一八一一)のことである。聖人が志した東国伝道は後世の真宗門徒によって受け継がれ、この地に浄土真宗が根づいていった。現在、東電の原発災害が続く仙台教区浜組相双地域では、震災復興が実現する世界を共に考える場として「相馬親鸞教室」を開催し、真宗移民の歴史を学んでいる。 
55 直感すること
将棋の世界に羽生善治さんという天才がいる。デビュー以来、数々の記録を打ち立て、獲得したタイトルは八十を超える(歴代一位)。さる五月には通算八度目の名人位に返り咲き、四十三歳になった今も現役トップの棋士だ。羽生名人は著書のなかで自身の棋風について次のように語る。
これまで公式戦で千局以上の将棋を指してきて、一局の中で、直感によってパッと一目見て「これが一番いいだろう」と閃いた手のほぼ七割は、正しい選択をしている。
直感力は、それまでにいろいろ経験し、培ってきたことが脳の無意識の領域に詰まっており、それが浮かびあがってくるものだ。まったくの偶然に、何もないところからパッと思い浮かぶものではない。(『決断力』角川書店)
また、学問の世界には島薗進さんという多才な学者がいる。元東京大学教授(現上智大学グリーフケア研究所所長)で、宗教学、近代日本宗教史、死生学を専門とし、さまざまな社会問題に対して提言を行うオールラウンダーだ。昨年の日本生命倫理学会では、原発放射線被曝問題に関するシンポジウムで発題し、そのなかで学問に取り組む自身のスタンスをおおよそ次のように語った。
私は実践的・フィールド的な感覚を好んで研究をしてきました。ここがおかしいというところをついていけば、大事なものが出てくるであろうということです。
島薗さんも直感を大切にしていることが分かる。「ここがおかしい」というこの直感は、幅広い知識に裏付けされたものだからこそ、そこを掘り下げていけば「大事なものが出てくる」のであろう。
宗祖親鸞聖人もこのような直感力の持ち主だったのではなかろうか。法然上人に出遇ったとき、宗祖は次のように直感したと私は想像する。
―この人は本当のことを語っている―
二十年におよぶ比叡山での学びと苦悩が深かった分、それはとてつもなく研ぎ澄まされた直感だったであろう。そして、この直感は宗祖の強靱な聞思によって確かめられていき、
親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり(聖典六二七頁)
という信念となった。
また本願の教えとして『教行信証』に体系化された。
慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来の矜哀を知りて、良に師教の恩厚を仰ぐ。(聖典四○○頁)
そのような視点であらためてこの大書を拝読したい。その上で、今度は頭を真っ白にした状態で拝読し、宗祖のおこころを直感してみたい。 
 
浄土真宗2

 

人は死んだらどうなるの?
人は死んだらゴミになるといった人がいます。いかにも唯物的な考え方ですね。事実はゴミではなく、灰になるのでしょう。灰は事実で、ゴミは一つの価値観です。ゴミは無用なもの、不必要なモノの代名詞です。人間の最後がゴミならば、人間の存在はゴミへの途中でしょうか。
それにしても、なぜ私たちは「人は死んだらどうなるのか」と問うのでしょうか。おそらく、それは私たちがどこから来てどこに行くのかがわからない、その存在の不安からおきているのでしょう。それは来た先と行き先を問いながら、実は、現在の自分を問うているのです。
現在ただ今の自分がわからない、その迷いが「人は死んだらどうなるのか」と死後を問わせるのです。インドに古くからある輪廻(りんね)の考え方は、そういう問いに、霊魂不滅の立場から、生まれ変わり死に変わりする人間の在り方を示すものです。それは、死後のよき再生を願って、いまの不幸を耐えて来世のために頑張りなさいと教えます。
日本においては、人は死んだら霊となり、その霊となった死者に対して、生者が慰霊・鎮魂・祭祀をしないと、死者に祟られ、災いをもたらされると考えられています。それはこの世の吉凶禍福がすべて霊の支配下にあるとする考え方です。
インドの輪廻の思想も、日本の霊の宗教も、いずれの場合も、この現在の矛盾と不正と過ちを作り上げてきた私たち自身の愚かさに目を向けることを妨(さまた)げています。それに対して浄土真宗の教えは、我は「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)」、我が世は「火宅無常(かたくむじょう)の世界」であると、どこまでも過去を背負い、未来をはらむ自分のこの「現在」をごまかさず問うものであります。
そのような自分の「現在」を問わないで「人は死んだらどうなるのか」と考えることは、私たちを出口のない路(みち)に迷わせ、神秘的な世界に惑わすこととなるだけでしょう。 
真宗にとって供養とは?
宗教の形でいえば、供養ほど、私たちの身近なものはないでしょう。法事・法要にお墓参り、先祖供養に水子供養、さらには針供養に人形供養、全部ひっくるめて供養という名で、私たちの宗教的行為が語られています。
それだけではなく、若い人たちまでもがテレビの影響なのでしょうか。心霊写真などと称した霊のたたりに恐怖して、「供養してもらわないと」と思わず口に出す今日このごろの状態です。
一体全体、供養とは何でしょうか。もともと供養とは、「食物や衣服を仏法僧の三宝に供給する」ことを意味しています。決して、亡くなった人から祟られたりすることのないようにと願って供養するなどということはないのです。
それがいつの間にか、供養が祟りと災いから、自分の身を守るための道具にされてきたのです。それは、私たち自身が仏教を利用して自分の欲望を満足させようとしてきた結果であります。
供養は、仏さまの大いなる世界を私がいただいたことの表現です。それが、死者を供養しないと私が祟られる、私に災いが起こる、だから供養しなければならないと、供養が自分の欲望を満足させる道具になっていることが問題なのです。
そうではなくて、供養とは、「仏法僧の三宝」として現されている真実の世界に対してなされるものです。本当に尊敬されるべき世界、本当に大切にされるべき世界を見いだすことです。それは自分を中心にして生きているものが、自他平等のいのちを現す仏さまの世界に、われもひとも共に生きることのできる世界を見いだすことです。その感動が供養の形をとるのです。 
南無阿弥陀仏って何?
仏さまに手をあわせるときに、心に何か思い浮かべますか。口に何か言いますか。それとも何も思わない。何も言わない。ただ習慣として手をあわせているだ けですか。どうでしょうか。
たとえば、こんなことはないですか。仏さまに手をあわせて、病気を治してもらいたい。お金をたくさんもらいたい。いい暮らしがしてみたい。幸せになりたい。そして最後に、何か言わないとカッコもつかないので、そこで「なんまんだぶつ、なんまんだぶつ」とお念仏を称えたことないですか。
もしあれば、そういうお念仏は、自分の都合を満足させるために、私の根性で仏さまを念ずる私の念仏です。それはどれほど一生懸命に称えようと、私による人間の行(ぎょう)であります。この私が問題になることはありません。
それに対して、親鸞聖人が法然上人をとおして、我が身にいただかれたお念仏は、それとは全く反対に、仏さまが私を念ずる、仏さまの行です。仏さまの呼びかけです。親鸞聖人は「大」の一字を加えて大行(だいぎょう)と表しています。仏さまの大いなるおはたらきと言ってもいいでしょう。
つまりお念仏は、あらゆることを自分中心にしてしか考えない私たちに、仏さまが「それでいいのか」と問うてくださる呼びかけです。人を踏みつけ、傷つけ、時として殺しあって、人間であることを見失っている私たちに、人間であることを回復せしめる根源のことばです。
私たちが南無阿弥陀仏と念仏申すときは、仏さまが私を呼びかけてくださるときです。お念仏は、人間を見捨てない仏さまの願いが、まさしく南無阿弥陀仏の言葉となって、私たちにまで届けられた仏さまの名告りなのです。決して、私たちの欲望を満足させる呪文ではありません。 
いま浄土とは…
浄土は仏さまの世界です。その仏さまの世界に生まれることが私たちにとっての救いです。それが真宗の基本的な教えです。浄土とは、安楽国とも安養国ともいわれる阿弥陀如来の国土です。私たち人間の生きる世界になぞらえて国土として現されています。
人間の救いがなぜ国土として、つまり、浄土として現されているのでしょうか。それは私たちの救いが、個人的な私一人の心の安らぎにとどまらないからです。もちろん、私たちの心が落ち着き、心が安らかになることは大事なことでしょう。
しかし、人間の救いということになりますと、ただ単に私一人の心が安らぐことでは本当の救いになりません。あらゆる人々と共に安らぐことが成り立たないと、私たちは救われないのです。
なぜなら、人間は、文字どおり、人と人との間柄を生きる存在だからです。私たちは関係を生きています。世界とともにある存在です。他者とともに生きる存在です。
ですから、私たちが日々感じる喜びも悲しみも、それはかかわりの中で起きる感情であります。生活をともにする相手が悲しんでいるときに、私ひとりが喜べますか。悲しいはずです。それが人間を生きることの具体的な姿です。
そのような私たちの生きることの現実が、真宗が浄土をもって人間の救いを明らかにしてきた根本的な理由です。浄土とは阿弥陀経に「倶会一処(くえいっしょ)」(ともに一つ世界に生きる)とあります。あなたも私もともに生きることのできる世界です。
それは、決して私たちが普通に考えているような死後の世界としての「あの世」ではありません。また、ユートピアとしての理想郷でもありません。それは、人間を見失ったものに人間を回復させる仏さまの世界なのです。
そういう人間回復の大地としての浄土こそが、人を傷つけ踏みつけてやまない私たちの誰もが、何よりもいただかなければならない世界なのです。 
亡き人を縁として
「五代前の先祖がたたっていますよ」と言われると、ドキッとする人は多いかもしれません。しかし、「亡くなったお母さんがたたっていますよ」と言われれ ばどうでしょう。ほとんどの人は、「私のお母さんはそんな人ではありません」と怒り出すのではないでしょうか。つまり、先祖が迷っているとか、祟っているというのは、亡くなった人のことをはっきりと受け止められていない私たちの心のすき間につけ込んでくるものなのです。そして、ほとんどの場合、それにはお金がからんでいます。
亡くなった人は、すでに喜怒哀楽はありません。ですから、お内仏(仏壇)に何々を供えろと言うことはありません。また言うことをきかないと化けて出るぞということも言いません。にもかかわらず、生きている私たちの方が、亡くなった人をどうにかしないといけないと勝手に思いはからっているのです。
それは、一見すると亡くなった人を大切にしているようですが、実は自分の人生を守ってもらいたいという気持ちや、災いが自分におよぶことを恐れる気持ちからきていることが多いのではないでしょうか。お祓(はら)いなどが流行るのもこのためです。
亡くなった人は、自らの身をもって、人は必ず命を終えていかねばならないということを教えてくれています。限りある人生をどのように生きるのかと呼びかけているのです。近しい人の死は、特にこのことを感じさせられます。亡き人と向き合うことにより、私たちは初めて自分の人生についてよく考えることができるのです。
お墓参りに出かけるのも、法事を勤めるのも、それは亡くなった人の生き方に思いをはせ、自分の生き方を見つめ直す大切な機会なのです。 
お経に遇う
お坊さんが「ニョーゼーガーモン、イチジーブツ」と読んでいる声だけを聞いていると、お経には訳のわからないことが書かれているように思うかもしれません。しかし、お経には迷い苦しみを越えていく釈尊の教えが説かれています。いわば釈尊からのメッセージが詰まっているのです。ですから、お経を読むということは、本来は釈尊の教えに出遇うことなのです。
ところが、私たちは自分が迷いの人生を送っているとは、日ごろ思っていません。そのため、自分がお経に出遇う必要があるとは感じておらず、他人事のよう に考えています。亡くなった人にお経を読んであげないといけないというのも、そのあらわれです。亡くなった人がお経を聞いているかどうかを、確かめたことがないにもかかわらずです。
ましてや、お経をお坊さんだけに読ませて、自分は聞くこともなく済ませているのであれば、それは亡くなった人を大事にしているのではありません。単に自分がすっきりしたいだけの気やすめにすぎません。お経はどこまでも、私たちに対する呼びかけであるというのが大事な点です。
たとえば、親鸞聖人が真実の教と仰いだ『大無量寿経』には、次のような言葉があります。
「吉凶禍福(きっきょうかふく)、競(きそ)いておのおの之(これ)を作(な)す。一(ひとり)も怪しむものなきなり。」
これは、吉凶や禍福にとらわれている人間の姿を教えようとする釈尊の言葉です。自分に都合の良いことばかりを追い求め、お互いに競い合い、しかも自分のしていることを正しいと信じ込んで怪しむこともない生き方が見据えられています。
日ごろは疑ったこともない自分の生き方を見つめ直すこと、これがお経との出遇いによって始まるのです。この意味で、お経は私たちの生き方を照らし出すものだといえます。 
朱印をしない理由
そんなに古い歴史をもつわけではありませんが、参拝した記念に朱印を押してくれるところが数多くあります。寺の名前や仏教の言葉などが添えられる場合もあります。
回ったお寺の数だけ朱印が増えていくことは楽しみでありましょう。また、八十八箇所とか三十三所というように決められた場所をすべて回ったときには、何らかの達成感があることもわかります。
でも、ちょっと待ってください。お寺とは朱印を集めるためにお参りするところなのでしょうか。それならば、一度朱印をもらえば、二度とお参りすることはないでしょう。大事なのはお参りしたことがあるかどうかではなくて、お参りして教えに出遇(あ)ったかどうかです。また、どんな教えに出遇ったかということであるはずです。
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は、師の法然上人との出遇いをとおして、生涯を「ただ念仏」の教えに生きられた方です。それは念仏を称える時、どんな者も 決して見捨てることのない仏の世界が、いつでも憶い出されてくるからでした。逆の言い方をすれば、貪(むさぼ)りや憎しみの心に翻弄(ほんろう)されて、何が大切であるかをすぐに見失っていく自分であることをよく知っておられたからでした。
私たちはどうでしょうか。一度お参りしたから大丈夫とか、教えはこの前に聞いたからもう聞かなくてもいい、などといえるでしょうか。さまざまな問題が次々と起こってくる状況の中で、何を本当の拠(よ)りどころとして生きていくかが、いよいよ問われてきているのが現代です。お寺を回ったというような達成感に腰を落ち着けてしまうのではなく、教えを聞き続けようと立ち上がる必要があるのではないでしょうか。 
お守りを持たない理由
どこの神社でもお守りは売られていますし、お寺でも置いていないところの方が珍しいくらいです。形もさまざまで、昔からのお札(ふだ)、かばんなどにぶらさげるもの、またかわいいシールになっているものまであります。
効力にもいろいろあって、合格祈願や恋愛成就などの願いごとをかなえるためのもの。交通安全や家内安全といった無事を祈るもの。また、厄除けや病気平癒など嫌なことの消滅を願うもの、などなど。
しかし、本当に効力があると思っている人はどれだけいるでしょうか。願ったとおりにならなかったからといって、お守りを買った先を訴えたという話を聞くことはあまりありません。お守りが気休めでしかないことを実はわかっているのです。わかっていながら、軽い気持ちで、だんだんとはまり込むのです。
たとえば、交通事故にあったのはお守りを忘れたからだとか、商売がうまくいかなくなったのは始めた日が悪かったからだとか、不幸が続くのは名前の画数が悪いからだとか。問題の原因さがしに追われたり、もっと効力のあるお守りをさがし求めたり、振り回されていくのです。
自分にとって良いことを追い求め、都合の悪いことを避けようとする、これは人間の性分といっていいでしょう。しかし、良いことだけを追い求める生き方は、必ず悪いことを恐れるようになります。そして悪いことが続くと、自分の人生までも呪ったりするのです。
どのような状況に投げ出されたとしても、自分の人生は誰とも代わることはできません。しかし、それは同時に誰とも代わる必要のない人生なのです。お守りをもたないということは、良し悪しを越えて、現実と向き合っていこうとする生き方の表現なのです。 
 
浄土真宗3

 

1 落ちるまんまで、落とさんぞ
仏教とは知識だけで救われるものではないというお話です。
美濃の国(今の岐阜県)に、あるお婆さんがおりました。このお婆さんは、大変な物知りでございました。読み書きさえ出来ないお婆さんでありましたけれども、お参りしている時には、一言も聞き漏らすまいと、命がけに聞いているものですから何時の間にか、お文さまであろうとお説教で聞いた事は、すべて頭へ覚えておりました。
そのようなお婆さんでありますから、周りの方々から褒め讃えられたお婆さんでありましたけれども、ふとした病が元で、明日をもしれんという身になってからは、今までの喜びはどこへやら、一変いたしまして「地獄へ落ちる。地獄へ落ちる」と七転八倒の苦しみを始めました。
そのような苦しむお婆さんをなんとかしてあげたいと思う実の娘さんは京都の本願寺まで香樹院御講師に教えを聞きに行かれました。そこで香樹院御講師に母のことを伝え、助けを求めましたところ香樹院御講師は「自分勝手に、地獄へ落ちるというならば仕方が無いなあ。残念ながら落といてしまえよ」と申されました。これを聞かされた娘さんは悲しみのあまりその場で泣き崩れてしまいました。堪えきれない心のまま帰路に着こうとしたその時、香樹院御講師に呼び止められると「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。凡夫じゃもんの。地獄へ落ちるは今更の事ではないぞ。石の自性は、沈むのが石の自性なら凡夫の自性は落ちるのが凡夫の自性でないか。その落ちるに間違いのないそのものを、落ちるまんまで、落とさんぞと呼んでくださいますところの御勅命じゃが、それでも自分勝手に落ちるつもりかいや」と阿弥陀さまの慈愛のこころを頂いたのでございます。
その言葉を聞いた娘さんは寛喜の涙に咽び入りながら、母の元へと急いで帰り、母へ香樹院御講師の御言葉を涙ながらにそのまま伝えましたところ、この親思うところの娘の一念と、大悲の親の、「助け救わにゃあおかんぞ」のこの一念とが見事に一つになって、お婆さんの胸のどん底へと到り届きましてついに、しぶといところのお婆さんもやがて、御恩の称名、喜びながら、めでたく浄土往生を遂げられました。 
2 当たり前のことにこそ
世の中には、自分と年齢も生活環境も趣味も全く違った実に多様な人々がいます。私は東京に住み始めてから、新しい出会いがとても増えました。最近は特に年上の方に出会う機会が多いのですが、やはりそういう方々は、いろいろな面で手本となることが多く、私がまだまだ未熟なのだと気付かされる毎日であります。
その知り合いの中に、とても旅行が好きで、特に海外旅行には週末を利用して頻繁に出かけているという方がいます。その方に海外の話をよく聞かせてもらうのですが、「海外に行くと自分がいかに幸せな生活を送っているのかということを思い知らされる。今の自分の生活に感謝しなくてはならない」と聞いた話が特に印象に残っています。
私は、毎日本堂で報恩感謝のお念仏を称えているつもりでいましたが、この話を聞いた時、自分には感謝の気持ちが足りないのではないのかと、ふと疑問が浮かびました。なぜなら、話を聞いて始めに思い浮かんだ気持ちが、改めて感謝を感じる体験ということを自分は最近まったく経験していない、と羨んでしまったからです。何も特別な体験だけが感謝に繋がるわけではありません。毎日の何気ない生活、朝起きて、ご飯を食べて、仕事をして帰宅し、夜寝床に就くというような当たり前のことにこそ感謝しなければならないのです。どんな些細な出来事にも感謝の気持ちから南無阿弥陀仏と手が合わさる、ということが大事なのです。先の旅行の話を聞いた時にも南無阿弥陀仏とすぐに手を合わせることができたら良かったなと今になって思います。
善導大師は、南無阿弥陀仏の「南無」というのは「帰命」ということであると説かれています。「帰命」とは、自己中心的な思いに立った生き方をしていた自分が、阿弥陀如来の本願を聞き、うなずかされ、真実なる生命の声にうながされて初めて、阿弥陀如来に全面的に頭が下がるということです。この帰命という言葉の意味をしっかりと心に留めて、どんな時でも感謝の気持ちを忘れず、「ありがとうございます」とお念仏を称える日々を送らせていただきたいものです。 
3 煩悩に向き合う 不断煩悩得涅槃
私たちは、この世に生を受けた時以来すべからず、一説には八万四千あるともいう煩悩の心を持っているものです。それは死ぬまでなくなりません。その煩悩に身も心も任せすぎると、自分自身を滅ぼしてしまうこともよくあり、それは今も昔も変わりません。
宗祖親鸞聖人がお書きになられた正信偈の中に「不断煩悩得涅槃」という一文があります。煩悩を断たずして、涅槃の境地を得るということです。煩悩を断たずに涅槃を得ると聞くと、自分の好き勝手に欲のまま行動していても、涅槃の境地に至ると考えそうなものですが、そうではないのです。
確かに阿弥陀如来は、煩悩にまみれた人間こそ、一人残らずお浄土に救い取りたいと願い誓われています。しかし煩悩にまみれた生活をしてもよいとは仰っていません。煩悩に身をまかせて生活をするということは、自分があれをしたい、これをしたいと自己中心的な生活となってしまい、他のことを考えなくなってしまいます。とても涅槃の境地に至る状態とは言えないでしょう。阿弥陀如来は知らず知らずのうちに煩悩まかせになっていることをしっかりと自覚して欲しいと願われているのです。私たちはその願いに気づき、煩悩と向き合っていかねばなりません。それが不断煩悩得涅槃につながっていくのではないでしょうか。
仏様の尊前には花瓶・香炉・鶴亀(燭台)の三具足が備えられてます。お供えした花を仏様の方に向けずに私たちの方へ向けるのは、仏様からの回向を表しているからです。お香を焚くのは、良い香りが隅々まで行き渡るように、全ての人々に行き届く仏様の慈悲の姿を表しています。鶴亀の蝋燭は、仏様の知恵を表し、鶴は千年、亀は万年と言うように、長い時間、仏様の大いなる知恵で私たち人間を導いて下さることを表しているのです。いつでもどこでも私たちみんなのことを見守り、手を差し伸べているよとの阿弥陀如来の思いがそこに詰まっているのです。
日々のお仏壇のお給仕も仏様の願いを味わいながら心を込めていたしましょう。 
4 その人はその人であっていい
今月二日、バンクーバー冬季五輪の選手団が帰国した。各競技とも盛り上がっていたが、特に冬の競技の花形といわれるフィギュアスケートは見応えがあった。氷上を優雅に舞う各選手の姿に、感動を覚えた方々も多いことだろう。
よくメディアに取り上げられる事だが、フィギュアスケートの採点基準は素人目にはわかりづらい。芸術性を求められる競技なので、その基準はスピン、ジャンプ、ステップの出来栄えや難度だけでなく、他にもテーマ曲を正しく表現できているか、さらには選手の衣装までを評価対象としているのである。他の競技がタイムの差や得点といったように明確な判断基準があるのに対して、フィギュアスケートは優劣がつけにくい競技と言われる所以である。
男子では四回転ジャンプを決めた選手が銀メダル、四回転を封印した選手が金メダルだった。両者とも確かにすばらしい演技であったが、これでは四回転という大技の醍醐味が無いようにも思える。失敗する恐れがある大技に果敢に挑む姿勢は評価されるべきではないだろうか。選手それぞれの良さが最大限に尊重される採点とはまた難しいものだと痛感した。
『仏説阿弥陀経』には「地中蓮華 大如車輪 青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光微妙香潔」とある。「極楽浄土の池の中にある蓮華の花には様々な色があり、青い花は青色、黄色い花は黄色、赤い花は赤色、白い花は白い光を放っていて、それらは奥深く高潔なものだ」という意味である。青い花が黄色や赤色の光を出す必要はない。青い花は青いままでいい、人はそれぞれ顔も形も違うけれども、その人はその人であっていい。別の誰かになる必要はないのだ。
「参加することに意味がある」とは五輪精神であるが、競技である以上、順位がつき優劣が決まる。メダルを取った選手もいれば、予選で敗退してしまった選手もいる。だが、どの選手にもそれぞれの輝きがある。五輪という晴れ舞台で力を尽くしてきた選手たちを笑顔で迎え、讃えたいものである。 
5 心に罪深き鬼を飼っていないか
先日のテレビ放送で、普通の人間では難しい海の中での緻密な作業において評価が高く、それまでにも世界各国で数々の潜水作業の仕事をしてきた潜水士のドキュメンタリーが流された。その中に、その潜水士が以前に橋を建築した場所へ潜る機会があった時に見た海底の姿は、橋を建築した当初の海藻が生い茂る海の姿ではなく、見渡す限り一面岩だらけという、まるで砂漠のような海の姿に変わっていたという話があった。
これについて、その潜水士は、橋の建造によって影響を受けた海流が起こした海水温の変化、またそれにともない、その海流が運んでいた栄養となる物質も欠如した事などが原因として考えられると分析していた。そして、その事実を目の当たりにしたとき、一流の技術を持つ潜水士として今まで自分のしてきた行動が、地球規模でみて一流の自然破壊者でもあったということに気づかされ、自分の行動に初めて罪の意識が生まれたという。それからは海を再生するために、ボランティアとして様々な活動をし、失われ続ける自然と向かい合いあうようになったと話されていた。
このように、人間にとっては良いことをしているつもりでも、自然にとっては大変迷惑なことをしている場合が、実は私たち一人一人にも例外なくあるものです。知らず知らずのうちのことなので、それと気づかず日々を過ごしてしまいがちですが、それに気づかされることによって、自分がそんなことをしていたなんて思いもよりませんでした、お恥ずかしい限りです、と自分の言動を改めることができます。
自分が気づかないうちに行ってしまった悪いことには、悪いことをしたという意識がありません。ですから悔いることもありません。言い換えれば、後悔しなければ、人は悪いとも感じないとも言えるでしょう。自分が悪いと気づいていないことは大変恐ろしいことではないでしょうか。今月、豆まきがありますが、心に罪深き鬼を飼っていないか、今一度自らを振り返ってみてはいかがでしょう。 
6 私たちを包む暖かい光
年も改まり、また気持ちを新たに仏さまのみ前で襟を正してこれから一年を過ごさせて頂きたいと思います。寒くなった気候とも相まって、身が引き締まるとはこの事でしょう。
寒さが厳しくなると、日なたと日陰では過ごしやすさが違います。暖かい日の光があるからこそ、日中はいくらか暖かいものです。もしこの光がなければ、毎日つねに暗くて寒い中、生きていかねばなりません。なんと過ごしにくいことでしょうか。太陽がなければ次に来る春もなく、もちろん昼夜もなく、毎日が真冬の夜中のような状態なのかもしれません。太陽の光の暖かみ、ありがたみを実感できる良い季節だと感じます。
「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」と『観無量寿経』に説かれております。阿弥陀様の光はあらゆる方向の世界を照らしてくださっています。また十二の光にも例えられて、無碍光と讃えられる光はさまたげられる事がありません。すなわち、日陰がないのです。さらに炎王光と讃えられ、最高の輝きを持つ光。不断光とも讃えられ、絶えることなく常に照らしてくださる光でもあります。また超日月光とも讃えられ、日の光や月の光とは比べられない光です。私たちはなんとありがたい光を受けて一日を送らせていただいているのでしょうか。
太陽の光は暖かくとてもありがたいものですが、それでも日陰が出来てしまいます。ですが、その日陰ですら照らしてくださるのが阿弥陀様の光なのです。深い悩みや迷いの闇の中という内面の日陰でただ身震いをするのではなく、すでに暖かい仏さまの光が私たちを包んでいるのです。その暖かさに私たちは気付かねばなりません。お念仏を称える私たちを迎え入れて、決して見放すことがない。それが阿弥陀様という仏さまなのです。
ただ日々を寒い寒いと言って過ごすだけでなく、阿弥陀様の暖かい光のありがたさ。そのような光に出会わせていただいた、ご縁のありがたさ。寒い日々ではありますが、皆様心も体も暖かくしてお過ごしください。 
7 本当の価値
私たちはたくさんの人や物に支えられて生かされています。
以前、私の家の近くのご住職が草刈をしていたところ、足を虫にかまれてひどくはれ上がり、動くのも困難になるということがありました。その方の、「足が動かないことが、どれだけ不便なのかということと、こういう怪我をしてみて初めて足が動くありがたさと、家族のありがたみを感じました」という言葉を聞いて、私は深く頷かせられました。今の世の中、物が溢れている状態が当たり前になっています。またスイッチ一つで結構なんでもできてしまうので手助けをあまり必要としません。何とはなしに生活していると気づかないものですが、このご住職のように当たり前だったものが当たり前でなくなったときに、はたと気づかせていただくのです。
本願寺第八世・蓮如上人は、廊下を歩かれていた際、落ちていた紙切れを拾い上げ、「仏法領の物を、あだにするかや」と仰り、その紙切れを両手で押し戴かれたそうです。
紙切れを頂くというのは、ただ物としての紙切れを拝むということではありません。その紙一枚を製造するに当たっても、自然の恵みや人の技術が必要であり、表面上だけでなく、それらも含めて紙切れ一枚の本当の価値となるのです。たかが紙切れ一枚ではない、仏様からの頂き物なのだ、何事も粗末にしてはいけない、と蓮如上人は説いて下さっているのです。
人間というものは現状にはなかなか満足せず、さらに上へ上へと考えてしまうものです。この欲望には限りが無く、次から次へと物を手に入れようとします。先にも書きましたが、その手に入れた物は、そこにあるのが当たり前の物ではないのです。それらの背後にある本当の価値に目を向けた時に、それが有り難いものなのだと気づくことができるのです。
皆さんも年末の大掃除の際には、ご家庭にある物一つひとつへ感謝の思いをこめて埃を払ってみてはいかがでしょう。
きっと今まで以上に晴れやかな心で新年を迎えることができるのではないでしょうか。 
8 ほんの一瞬
街中の紅葉も深まり、カメラを片手に街中を散策に出かけた時のことでした。何気なくシャッターを切ったときピントがずれていたことに気付き、もう一度同じ場所を撮ろうとしましたが、そこには先ほどと同じものはありませんでした。同じ場所、同じ背景ですけれど、風になびく木々の揺れの違いや、街中を走る車や人達など、そこには同じものは存在していませんでした。
最近は、日本のアニメーションが海外でも大変人気があり、日本の文化を代表するものの一つとして認知されてきています。ご承知の通り、このアニメーションというのは、セル画という静止画が元になっています。一枚一枚のセル画には人物や背景が描かれていますが、ちょっとずつ姿勢やものを動かしたようにしてあり、それが何枚も繋ぎ合わされて一つの動画アニメになっているのです。
私たちの日常生活を動画として考えるならば、写真を撮るというのは生活の中から一枚の静止画を切り取る作業と言えるでしょう。ただその一枚はほんの一瞬です。その一瞬が過ぎれば、違う一枚になっていくのです。
日本各地で色鮮やかな紅葉の季節が訪れていますが、やがて冬が訪れると枯れ落ちるのが自然の流れです。しかし、色づいた紅葉のように、いつまでも若く綺麗でありたいというのは誰しもが望んでいることかもしれませんが、この世に存在するものは一瞬一瞬の刹那に変化しているのであり、その刹那ごとに生じては滅し、滅しては生じて続いていくのが事実です。
だからといってそのことに失望し、刹那的に生きなさいということではありません。むしろその一瞬一瞬を大切にして欲しい、二度と戻らないその瞬間の意味を深く考えて欲しいというのが仏様の願いです。一瞬が一時間になり、一日、一週間、一月、一年と積み重なって私たちの生活が営まれ、いのちが続いていくのです。一瞬一瞬を生かされていることに気付くこと、これはとても大切なことなのです。 
9 十円玉の数とお念仏の数
先日、お盆に実家へ帰省した際、古い友人から、一つの昔話を聞いた。それは、その友人が以前に会社の旅行で海外へ行ったときの話で、空港で家族が見送ってくれた際に、おばあちゃんが出発の前に意外なモノを手渡してくれたという。その意外なモノとは、両手いっぱいの十円玉だった。そして「何か困ったことがあったらいつでも電話しなさいよ」と、おばあちゃんから言われたそうだ。そこまで言って少し笑ったあと、友人は「やさしいおばあちゃんでしょ」と言った。
それを聞いた私は、国際電話は高いから「十円玉ではいくら入れても足りないだろう」とか、「海外では十円玉を使うことのできる公衆電話はないだろう」などと多少ナナメから話しを聞いていた。
しかし、"その十円玉の数に見合うほどおばあちゃんは孫を心配し、大事に想っているのだ"というふうに肯いてみると、忙しい毎日の生活の中でついつい忘れているさまざまな事に気づかされ、また、そのようなたくさんの思いやりや支えの上に私たちの人生が成り立っているのだと、自分を見つめ直すことのできる、よい機会となった。
また、よく門徒の方から、お念仏は何回唱えたらいいですか?と聞かれることがあるが、"数に規定や、いつどこで合掌しなければいけないという指定はない"と答えると、不思議そうな顔をされる事がある。
先に書いた十円玉の数とお念仏の数は、心配と喜びの数ともいえるのではないだろうか。何枚でも、親の心配と御恩の数だけ渡したくなるものであり、これをお念仏に置き換えると何回でも唱えずにはいれなくなくなるものといえるだろう。
日常生活において、そのように考えることが自然とできた時、今、なんとなく唱えなければいけないと思い称えているお念仏が、阿弥陀仏の勧める南無阿弥陀仏という報恩感謝のお念仏に置き換わるのではないか、と思う。
私もまた、たくさんの支えによって、今をいただいていることに改めて感動し、人生をお念仏と共に生かさせていただこうと思えてくる。 
10 たかが夢?
皆様は、夢をどのように考えるでしょうか。私は最近よく夢を見るのですが、目が覚めると、「夢を見た」ことは覚えていますが、その内容まで鮮明に覚えていることはあまりありません。
世の中には、「夢は観念の作用であり、疲れた意識の乱舞であって、何の実在性も真実性もない幻だ」と言い切る人もいますが、夢の中でも現実の生活そのものであり、全く変わったところがないという経験をされた方もいるのではないでしょうか。
しかし夢は、事実として厳然たる実在性をもって、夢の中の私たちを苦しめ、悩ませ、驚かせ、悲しませ、ややもすれば覚めた後の私たちの生活にまで、大きな影響を与えることがあります。
例えば、ある日見た夢が正夢になった、逆夢になったということもあるでしょう。また今まで神社仏閣に参ったことがない人が、生々しい恐ろしい事故に遭った夢を見て飛び起きた朝などは、急に参拝したくなったということもあるかもしれません。夢には不可思議とも思える神秘性があるようにも思えますが、心理学などでもいまだ全容が解明されていないのが現実です。
御開山親鸞聖人は、夢を多く見られた方であったとされています。そして、自らが見た夢を夢告であるとされました。なぜなら、聖人が何かに悩み苦しんでいるときに必ず夢を見たからです。比叡山の六角堂で救世観音よりこの夢告を得て、山を下り師匠の法然上人の門下に入った聖人は、山での仏道修行に限界を感じていられたのです。聖人の夢告には、救世観音や如意輪観音があらわれましたが、聖人はそれを仏様からのおはからいと受け取ったのでしょう。
私たちが何気なく見ている夢ですが、その夢も全て、もしかしたら凡夫に向けての阿弥陀さまのおはからいかもしれません。この無意識から働きかけてくる夢を、たかが夢と終わらせるのではなく、必然的にご縁を頂いて見ているのだと頂くのも興味深いと思います。 
 

 

11 後世へ伝えること
近年若者の宗教離れが深刻であると言われ続けていますが、はたしてその原因はどこにあるのか、またそれは事実なのでしょうか。
多くの人が情報源とするマスコミの影響は決して少なくなく、世間で騒がれた事件を起こした一部のカルト教団などによって、宗教にマイナスのイメージが植え付けられてしまったのが実際であり、若者の宗教離れを加速させる原因の一つともいえるかもしれません。
しかし全てがそうというわけでもなく、例えば正月の初詣や盂蘭盆会でのお墓参り、寺院観光には多くの方々が参詣に訪れていますし、アクセサリーとしての腕輪念珠をする若者もたくさんいます。意識するしないは別にして、宗教に本当に無関心な訳ではないように見えます。
以前ある寺院で、誰に言われたわけでもなく被っていた帽子を脱ぎしっかりと一礼や合掌をしたり、通りがかるお坊さんの挨拶に声を出して返していたりする若者の姿を多く見ました。逆に、挨拶を返さなかったり帽子を脱がないなど配慮に欠ける様子が、逆に年配の方に多く見受けられました。
過去、現在、未来と時間の流れる中で命を頂いている私たち。先人の方々が良いお手本を示してこそ、輝ける未来社会へと進んでいけるのではないでしょうか。しかしながら、核家族化が進み、地域社会も崩壊している現代社会においては世代間で伝えられてきたことが、なかなか伝えられなくなっています。こうしたことも宗教離れの一因ともいえますが、だからこそ今、一人ひとりが自分を見つめ直し、自分が両親、祖父母から伝えられてきた真宗の作法、お念仏の有り難さを今一度思い出し、子や孫へはもちろんのこと、より多くの方々へ伝えていくことが何より重要な勤めであり、また自分たちのお念仏の実践へとも繋がっていくのです。
南無阿弥陀仏と手を合わせ感謝のお念仏を称える、その姿をしっかりと後世へ伝えることは、仏様から託されたとても大切な自分の役割なのです。 
12 子猫が一匹
ある日のことでした。本願寺の倉庫から猫の鳴き声が聞こえてきたのです。倉庫の中を見てみると、子猫が一匹。しかし鳴き声は複数で、他にもいるようでした。親猫らしき姿は周囲に見あたりません。食べ物の無い倉庫で、親猫ともはぐれ、やせ細りながら、親猫を探す呼び声を発していたのです。
何とかして助けてあげたいと思ってゆっくり近づいて、そっと手を伸ばすものの、親猫でないものが近づくとビックリするのか、子猫は逃げていきます。物の多い倉庫の中、小さい子猫たちが相手では鬼ごっこにもなりません。小さな隙間に入られては、私の手では届かないのです。何とかしてあげたいが、倉庫から出してあげるにはどうしたらいいだろうか、またその後子猫たちが安心して暮らす場所はあるだろうかなどと考えているうちに時間ばかりが過ぎていきました。
結局、倉庫にいた都合三匹の子猫を無事に助けることができましたが、子猫と鬼ごっこをするうちに、ふと気づきました。仏さまからみれば、私はこの子猫と変わらない存在なのです。仏さまの私を救うために立てられた願い、そして私を救おうと伸ばしてくださっている手、それらを信じられずに逃げ回っていたのではと。ただ仏さまを信じて疑わず、その手にゆだねてしまえばよいのに、それができない私だったのです。
生まれたばかりの赤ちゃんが母親をしたって頼りにし、やがて「ママ」と呼ぶようになるのは、母親が慈愛をこめて何度も何度も「ママですよ」と名乗り、呼び続けているからです。私の方から仏さまにお助け下さいとてを伸ばしているより前に、実は先に仏さまの方から、お前を救うぞと手を差し伸べて下さっているのです。
浄土真宗の仏さまである阿弥陀さまは、私たちを救う手立てと、私たちのいずれ行き着く極楽浄土を、五劫という長い間考えられたのです。そしてさらに長い間修行なされて、私を今救おうとしてくださっているのです。子猫は、私にその事を教えてくれたのでした。 
13 「一期一会」
「一期一会」という言葉があります。これは、江戸時代の末期に幕府の大老と なった井伊直弼の言葉であり、著書である「茶湯一会集」という茶道の心得書の 中に出てきます。
一般的にこの「一期一会」を、物や人との一つ一つの出会いを大切にするとい うニュアンスで使っている人が多いと思われますが、別に間違いではありません 。しかし、この言葉にはもっと奥深い意味があるのです。
私たちの出会いには喜怒哀楽のいろいろな出会いがあると思います。その中で 、一期一会と思える出会いとはどんなものかと問われたら、強く記憶に残るよう な特別な出会いが思い浮かぶのではないでしょうか。ですが、それだけが大切な 出会いではなく、普段の私たちの生活を含めた全てが大切にすべき出会いなので す。私たちがほぼ毎日のように会っている人たちとの出会いもこの「一期一会」 に含まれているのです。
この「一期一会」は始めに述べたように茶道の言葉です。茶道では、毎回同じ 主人がお茶を入れ、同じお客がそれをいただくということは珍しいことではあり ません。そういったくり返しの連続であっても「一期一会」なのです。なぜなら 、各人はもとより、一切のものが時間と空間によって変化しているからです。そ のため、茶道ではこの一回の茶会が一生で一度の出会いと説くのです。その事を お互いに心得ているからこそ主人と客人が万事に心を配り、誠意をもってお互い に最善を尽くすのであり、ここから「一期一会」という言葉が生まれてきたので す。ですから、私たちの日々の生活においても決して同じ出会いはなく、どれも が一生に一度の出会いなのです。
私たちの命は「無常」の中に生かされているのです。生かされるためには多くの出会いがあってはじめて成立しているのだという事をしっかりと理解し、「一 期一会」を大切にしたいものです。 
14 モノサシ
昔、三河に篤信な妙好人の老夫婦が住んでいました。その夫はある晩、吹き荒れたすさまじい東風によって家の戸が立てるガタガタという音で目を覚まします。すると、当時、京都にあった御本山(本願寺)の伽藍が気になり、すかさず横に寝ていました奥さんを起こします。「この嵐では御本山さまが心配じゃ。今から嵐を止めに参ろう」と。
そして老夫婦は話し合い、家にある出来るだけ大きな風呂敷を探し出して、凍える様な嵐の中、家の裏にある小高い丘に登ります。二人は風呂敷の四隅をしっかり持ち広げ、「なんまんだぶ、なんまんだぶ。これで少しでも風が弱くなれば有難いのぉ」「本当ですね。なんまんだぶ、なんまんだぶ」と冷たい風雨も忘れ、風が弱まるのを待ちました。結局、風が弱まり、老夫婦が家に帰れたのは夜も明けるころでした。
この二人の行動はすぐに村の人々へ伝わりましたが、その村ではこの夫婦に対しての意見が大きく二つに分かれました。一方では、「風呂敷ごときで、あの大風が防げるはずがない。しかも御本山はここから五十里以上も離れた京都にあるのに、なんと馬鹿なことをしたんだろう」と非難する声です。もう一方では、「なんと、この夫婦は有難いのだろうか。私たちも見習わなければならん」と賞賛する声です。
この老夫婦を非難する声はもっともな話でしょう。私たちも「そんなつまらない、役に立たないことをしても無駄じゃないか」とついつい思ってしまいます。それが人間のモノサシであり、現代の多くの人間がこの様なものの考えをしているのかもしれません。しかし、この老夫婦が行ったことは果たして非難されるべき事でしょうか?
この老夫婦が行ったことはたとえ愚かなことであったとしても、この老夫婦の心持ちは大変素晴らしいものであり、この老夫婦とそれを賞賛した人々の心は仏のモノサシといえるでしょう。
この様な人々を素直に賞賛することが出来るでしょうか?知らず知らずのうちに自分だけのモノサシで物事をはかっていませんか? 
15 明日ありと 思う心の あだ桜
今年も桜の季節がやってきました。この季節を迎えると、我々浄土真宗の僧侶の心には一首の歌が浮かびます。
明日ありと 思う心の あだ桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは
この歌は、わずか九才の少年が詠んだ歌と言われています。この少年は幼い頃に両親と死に別れ、叔父のもとで生活をしていましたが、世の無常を感じ、僧侶になることを決意しました。そして僧侶になる試験を受けにお寺まで行きましたが、着いたのは日もとっぷり暮れた夜でした。少年が「今からでも試験をして欲しいのですが」と尋ねると、試験官は「今日はもう時間も遅いし、明日に試験をしましょう」と答えました。
それを聞いて少年は冒頭に紹介した歌を詠みました。いま綺麗に咲き誇っている満開の桜も、もし夜に嵐が吹き荒れれば、明日までには全て散ってしまうでしょう。同じように、人の命にも明日があるという保障はありません、と少年は歌にのせて自分の思いを告げたのです。すると試験官はハッと気付かされ、すぐに試験を始めたそうです。少年は見事に合格し、僧侶になりました。この少年こそが浄土真宗の宗祖、親鸞聖人です。
このエピソードは今から約八百年前のことです。この頃と現代とは環境も全く違いますが、「明日もわからぬ人の命」というのは変わることのない事実です。医療が発達して治る病気も増えましたが、それでも病気で亡くなる方は絶えません。また、多くの方々の命を奪う凶悪な事件や悲惨な事故が、毎日どこかで起こっています。
しかし、これらを人ごとだと思い、何をするにも「明日から」とか「明日でいいや」としてしまう人も多いのではないでしょうか。明日には、あなたが当事者になるかもしれないのです。咲き誇っている桜の花を見て「綺麗だな」で終わるのではなく、この歌を思い出し、今を大切に過ごすことが大事なのです。もう一度いいますが、明日を約束されている人などいないのです。 
16 横載五悪趣
「あ〜した、天気に、なあ〜れ〜。」
懐かしいかけ声にふと振り返ると、空高く小さくも色鮮やかな靴が舞い上がっていた。
そこにいた子供達は、小さな身体を躍動させながら、笑顔をいっぱいに振りまいていた。
今私は、人生の岐路に立っていた。家庭や仕事、幾十もの想いを巡らせながら、どの選択が正解なのかを模索していた。考えても考えても出ない答えを・・。
人が考える正解には、正しい答えは無い。この人にはこの人の、あの人にはあの人の答えがあり、それも人それぞれの主観であり、煩悩渦巻く本性が根底にはある。いつからか笑顔を忘れている自分がいた。そんな自分の心に、子供達のいっぱいの笑顔が太陽のように光輝き、昔持っていた純真な心が呼び覚まされていった。
これはある私小説の下りである。
親鸞聖人が述べておられる「横載五悪趣(おうぜごあくしゅ)」について、大無量寿経では、"横"という字は阿弥陀如来が衆生を必ず救うという願いを表し、"載"という字には切るという意味が、そして"五悪趣"は迷いの世界のことを指していると説かれています。これは、阿弥陀如来が一人も漏らさず迷いの世界の絆を横ざま(本願力)によって断ち切るとおっしゃっておられるということです。
私たち衆生は、「幸せになりたい、健康でいたい」などいろいろな想いを巡らせ、努力したり願ったりしておりますが、それらは全て私たちの煩悩うずまく本性から生まれたものであります。浄土真宗の教えをいただくということは、このような煩悩や迷いの心を断ち切っていただく仏心を頼りとして信じるということですから、信じることは自分で思いたってするのではなく、阿弥陀如来よりいただいたものとなるのです。
子供のような素直で純真な心を今一度思い起こし、仏さまへの報恩感謝の心をいつまでも持ち続けたいものです。 
17 「恩」
「恩に着せる」「恩に着る」「恩を仇で返す」「恩を売る」など、世の中には「恩」を使う言葉がたくさんありますが、使われ方によって、いい意味だったり悪い意味だったりします。仏教では恩を非常に大切にしており、古来より、人は恩を知り(知恩)、心より感じ(感恩)、それに報いなければいけない(報恩)と説かれています。
恩という字は「因」に「心」と書きます。恩を知ることや、恩を感じることは、私たちの「心に因る」のです。ですから、もし私たちが誰かに親切にされた時、素直な心を持っていれば、その恩に感謝して自然とそれに伴った行動がわき起こってくるものなのです。しかし、私たちはついつい疑いの心を持ち、その好意の裏には何か思惑があるのではないかと勘ぐってしまうことがあります。
江戸時代中期の中根東里という学者が著した書物『東里新談』にこんな言葉があります。「施して報を願わず、受けて恩を忘れず」(人にモノを送ってお礼を期待するな、人からモノをもらったらすぐにお礼をしなさい)
この、施して報を願うとは、自らの行為を誇り、それによって慢心することと言え、まさに「恩に着せる」事ではないでしょうか。また、受けて恩を忘れずとは、人からもらった恩を、恩と感じて、それに報いようとする行いであり、報恩感謝と言えます。
仏事においても同じ事です。仏様から受けているご恩を、素直に感じて、それに報いようとする事が大切なのです。しかし、誰しもはじめは煩悩による疑いの心があるものです。ましてや仏様のご恩は目に見えないもので、科学万能の現代に育った私たちにはなかなか受け取りづらいものですが、それでも仏様がくださるご恩の深さを知り、心より感じることが出来れば、感謝するお念仏が自然と沸き起こってくるのです。
さまざまな人の思惑が交差する世の中においても、私たちが素直な心でいれば、いろいろな人からたくさんの恩を受けている事に気づき、感謝の日々を送っていけるのではないでしょうか。 
18 お正月
お正月には、多くの方々が神社・仏閣へ初詣、初参りに行く様子がテレビなどで報道されます。
「今年も一年無事健康で過ごせますように、交通事故に遭いませんように、商売が繁盛しますように、望みの大学に合格しますように、もっとお金が貯まりますように...」
などなど、それぞれに願い事をされたことでしょうが、それらはどうしても自分中心の願い事やお祈り事が多くなってしまうものです。
しかし、どんな願い事にせよ、叶えばとても嬉しいことです。また難しい願いであればあるほど「自分一人の力ではない。神様仏様のお力によるものだ」と感謝の念も湧いてくることでしょう。
ですが、仏様の教えでは、願いが叶わなくても感謝を申し上げなければならないのです。
仏様は、どうしてもみんなに本当の幸せを与えたいと強い願いをもって、常に私たちに目を向け、誰であってもどんなことがあっても区別することなく、平等に働きかけてくださっています。
ですから、願いが叶ったときでも、願いが叶わなくて生きる望みもないというようなときでも、仏様は常に私たちに目を向けて下っているのです。
親鸞さまは「逆縁」といって、自分に都合の悪い出来事に出会ったとしても、それがかえって大切なことに気づかせてくれることもあり、「仏様のお導きであった」と受け取らせていただいています。
例えば、泥棒に入られて大切なものを盗まれたとしても、前述の教えからいくと喜び、感謝申し上げねばならない、となります。
自分には盗まれるだけのものが手元にあった、それだけの財産を持てるということは幸せなことだ、盗まれてみて初めて気づかせていただいた、ありがたい、ということです。
しかしながら、なかなかそのような心情にはなれないのが性です。普通は怒ってしまうでしょうね。
日々の生活の中で、なかなか気づかせていただけないことに、目を向けて欲しいと願われているのが仏様です。
一年の計は元旦にあり。
自分にとって都合の良い願い事、お祈り事ばかりではなく、本来あるべき仏様との関わり方を、今年も一年目指していきたいものであります。 
19 「命を大切に」
車を運転していると、ふとある標語が目に止まりました。
『命は大切に。交通ルールはしっかり守ろう』
車を運転される方だったら、誰でも運転中にヒヤリとしたことやハッとした経験があるでしょう。車の重量は1tくらいあります。それが40km以上のスピードで走り、道路を行き交っていると考えると恐ろしいですね。車が多く普及している現在、その便利な車によって毎日多くの人の命が失われているのも事実です。命の大切さはみんなわかっていることですが、失われてから気づくのでは遅いのです。今、ここで、私たちが命の大切さを実感していかなければなりません。
お釈迦さまは「人生は苦である」と仰いました。確かに世の中には思い通りにならないことは多く、現代社会では人々のストレスもたまる一方で、「たった一度の人生だから、自分の思い通りに生きなければ損だ」となるのもやむを得ないことです。人生において、自分の役に立つか立たないか、楽か辛いか、などの尺度は必要です。しかし「こんな風に生きれば損だ」「あんな風に生きれば得だ」と、自分の人生を損得で勘定してそれだけで良いのでしょうか。
命に損得はありません。あるとすれば「尊く生きたか」「無駄に生きたか」ではないでしょうか。その基準から見れば、自分の利益になることばかりをし、楽をして生きた結果、ずいぶんと得をした人生だったとしても、自分の人生を無駄に生きたということも充分あり得ます。反対にどのような辛い日々を過ごしたとしても、尊く生きた、真実に生きたということもあり得るはずです。
損したり、思い通りにならなかったことが無駄に生きたということではありません。お釈迦さまも「この世に無駄なものは何一つない」と仰っています。ましてや私たちの命は、多くの命の支えによって成り立っているのです。「自分だけが」という思いを超えていくところに、本当に意味で「命を大切に」していくことになるのではないでしょうか。 
20 機事あれば、必ず機心あり
ここ十数年の間に、私たちの生活はどんどん変化してきています。特に携帯電話やパソコンの普及によってワープロやEメールなどを使用する機会が増えた反面、自分で文字を書くという機会が減っています。そのせいでしょうか、いざ自分で何か漢字を書く必要があった時に、その漢字が出てこないことがあります。
また現代では、都会になるほど地域社会のつながりは薄く「向こう三軒両隣」の顏や名前は知っているけれどもどんな人かわからないことも多いのではないでしょうか。そんな現代で、人気があるものにインターネットがあります。これは電子機器を使って利用するのですが、ボタン一つで商売や調べ物ができたりと大変便利なものです。さらに、それだけではなく新しい社会としても機能しており、たとえば遠くに住んでいて顏も名前も知らない人と知り合ったり、仲良くなったりすることも可能です。かたや顏や名前は知っていても交流が薄い、かたや顏や名前は知らなくても交流が深い、面白いですがどこか変ですね。こんなねじれが様々な事件や事故を起こしている原因の一つかもしれません。
大谷光紹台下御遺著「弥陀をたのめ」の中で、台下は、中国の昔の書である「荘子」に出てくる「機械あれば、必ず機事あり、機事あれば、必ず機心あり」という言葉を引用されています。台下の御言葉によれば、「機事」というのは機械によって一つの仕事ができる、機械を使う仕事ができる、ことであり、「機心」というのは、機械を使って仕事をしていると、いつの間にか心まで機械のようになってしまう、ということだそうです。
機械や道具を使って仕事をしているうちに、いつの間にか今度は心まで道具に使われてしまっている、そんなことを感じることはないでしょうか。自分の足下をしっかりと見据えて下さい。大きな落とし穴があいているかもしれませんよ。 
 

 

21 「聞く」
私たちが、わからないことを質問して解決することを「聞く」といいますが、その聞の字が出てくることわざをいくつか探してみましょう。
1. 下問を恥じず 知らずば人に問え
2. 聞くは一時の恥聞かぬは一生の損
3. 聞くは一時の恥聞かぬは末代の恥
4. 聞くはその時の恥聞かざれば一生の恥
5. 問うは当座の恥問わぬは末代の恥
6. 負け惜しみは一生文盲
と、ざっと上げただけでも六つもでてきます。  しかもこれらは全部、自身の疑問をそのままにせず、出来るだけ早く先達にうかがって解決する事の大切さを教えることわざです。
このようにわからない事を質問して解決する事を「聞く」といいますが、大切な教えを享受することも「聞く」と表します。この二つの「聞く」は同じ字ですが同じ意味でしょうか。
わたしたち浄土真宗の御開山聖人の説かれた有名なお言葉に「平生業生」(生きている平生に、往生の業事が完成する)があります。その言葉通りに、今生きているこの世界で往生を決定するには、何よりも阿弥陀様より賜る他力のご信心に気付かせていただかなければなりません。その手段が聞といえるのです。その理由の一つを、仏説阿弥陀経に垣間みることができます。
阿弥陀経は、如是我聞に始まり、聞仏所説 歓喜信受 作禮而去と、聞に始まり聞に終わるなど、その重要さを説かれております。つまり、お経をふまえましても、阿弥陀様から賜る他力のご信心は「聞」つまり聞法が大切ということがみえてきます。  
このように「聞」という字を味わいますと、平生業成を成すために一刻も早くご信心を決定させていだだく大切な手段を表した一文字としてわかってきます。
わたしたちは、自問自答を繰り返しながらそのつど仏法にわが身を照らし合わせることによって私たちの無明の闇が浮かび上がってくるのです。
手を合わせてお念仏を称えさせて頂ける仏恩のありがたさに感謝いたしましょう。 
22 ありがとう
「孝行したいときには親なし」と言いますが、最近、私は友人に「お前は親孝行しているか?」と聞かれました。その友人は、自分の親に「ありがとう」と言いたくても、恥ずかしさが先に立ち、なかなか言い出せなかったそうです。しかしある時、友人は母親がしていた食事の支度を手伝った際、それまでなかなか言えなかった「お母さん、いつもありがとうね」という言葉をやっとの思いで言ったのです。するとその言葉を聞いた友人の母は、何も言わずにしゃがみこんで号泣されたそうです。
この話を聞いて、今まで親孝行をしてきたのか、一回でも親のために何かをしたのか、と自らを振り返ってみました。しかしよく考えてみると、今まで、私は親が子供のために何かをしてくれるのは「当たり前のことだ」と思っていたので、親のために何かをしたことがほとんど無いことに気づかされました。全く恥ずかしい限りです。
そこで先日、私も両親に感謝に気持ちを伝えよう、まずはそれを親孝行の第一歩にしようとの決意を胸に実家に帰省しました。ですが、やはり友人同様になかなか言い出すことがむずかしく、日にちばかりがどんどん過ぎていきました。帰る前日の夜になって、ようやく母とゆっくりと話せる機会が出来ましたので、「お母さん、今までありがとうね」と言いました。母は「急に何を言っているの。子供が親を頼るのは当たり前のことなんだから、いいんだよ」と言ってくれましたが、感謝の思いを伝えることができて本当に良かったと思いました。
子供の頃は素直にありがとうといえた記憶がありますが、大きくなるに従い、言えなくなっている自分がいます。また今度のことでそんな自分であるということに築かされました。今、伝えなければ、一生言えないかもしれません。私たちの一生は、一瞬一瞬の積み重ねです。一瞬のちの確証がないからこそ、今この一瞬を大切に、今しか出来ないという気持ちで物事にあたる事が大切でしょう。 
23 避けがたいことを避けがたいと知る
最近の報道を見ますと、嫌な事件のニュースばかりどんどん増えてきています。その中でも、多くなってきたのは、若者による無差別的な犯行です。無差別的、つまり、特に動機はないことが多く、強いてあげるなら人生の苦に対する反発と思えます。何とも身勝手で、自分にしか苦はないと思っているのでしょうか。
釈尊は、「世の常の人々は避けがたいことにつき当たり、いたずらに苦しみ悩むのであるが、仏の教えを受けた人は避けがたいことを避けがたいと知るから、このような愚かな悩みを抱くことはない」と説かれました。
人は誰でも老いや病気や死など、どうしても避けがたい事実にいずれ直面するでしょう。その時に、目の前の事実を「避けることの出来ない当たり前のこと」と受け入れることこそ、安らぎの道であると釋尊は説かれているのです。
そもそも苦しみや悩みというのは、物事が自分の思い通りにならないところに生まれるものですから、自分の思い通りにならないのならば、その思いを変えれば良いのではないでしょうか。
「人間万事塞翁が馬」という故事成語があります。
『准南子(人間訓)によると、塞に住む翁の馬が逃げてしまったが、その馬が北方の駿馬を率いて戻ってきました。喜んで翁の息子がその馬に乗ったのですが、落馬をして足の骨を折ってしまいました。しかし、そのおかげで戦士にならず命長らえたそうです。』
これは、世の吉凶・禍福(わざわいとしあわせ)は転変常なく何が幸で何が不幸か予測しがたいという喩えです。
「禍福はあざなえる縄のごとし」ということわざもあります が、その幸も楽も、不幸も苦も基準があるわけではなく自分の思いが幸か不幸か決めるものです。
苦しみから逃れるのが宗教ではなく、その苦しみに出会ったときに、物事を正しく見ていかに対応するかという「柔和忍辱」の心を養うのが仏教なのです。 
24 「見ざる・言わざる・聞かざる」
昔からよく『口は災いのもと』と言いますね。自分の失言はもちろんのこと、相手に良かれと思った一言が、相手の気分を害したり、嫌な気持ちにさせてしまった、ということは、誰しも一度は経験したことがあるでしょう。
皆さん鏡で自分の顔を見てください。言うまでもなく目は二つ耳も二つ、鼻も二つあるけれども、口は一つです。世界文化遺産である日光東照宮に「見ざる・言わざる・聞かざる」の有名な三猿の彫刻があります。「見ざる・聞かざる」が、二つある目や耳を両手で押さえるのはわかりますが、一つしかない口を押さえている「言わざる」も片手ではなく両手で押さえています。それぐらいしないと口というものは押さえられないのかもしれません。
『十悪』という仏様の教えがあります。これは「殺生・偸盗・邪婬・妄語・両舌・悪口・綺語・貪欲・瞋恚・愚痴」の十個の悪業を指しますが、その中に、嘘をつくという意味の妄語、二枚舌を使うという意味の両舌、悪い言葉という意味の悪口、かざりことばという意味の綺語と、実に口に関することが四つもあるのです。どうやら人という生き物は少なからず噂話やお喋りが好きであり、ついつい「一を聞いて十を知る」ではなく「一を聞いて十を話す」くらいになってしまうようです。仏教では、聞くということをとても大切にしています。聞く耳をしっかりと持ち、二つを聞いて一つを喋るくらいの生活を心がけなさい、という仏様のお諭しではないでしょうか。
人と人が心を通じ合わせるためには、会話がとても大事です。会話せずとも以心伝心といけば最高ですが、なかなかそうはいかないものです。最近では、電子メールなどによる文字での会話も多いようですが、話し言葉にせよ、文字にせよ、その一言、一文字が人と人とを繋ぐ大切なご縁を育んでいくものとなるのですから、日頃より和顔愛語(穏やかな顔で優しい言葉を話す)の気持ちで接していくことを心がけたいですね。 
25 敬い、思いやり、感謝の心
親鸞様は、歎異抄で「私は亡き父や母を供養するために念仏したことは一度もありません」と仰っております。これは亡き方々を敬わなくていいと仰っているのではありません。親鸞様は、いくら親のことを思って「どうか成仏できますように」とか「あの世で幸せに暮らせますように」と祈ったところで、自分にそんな力なんか無い、と気づかれたのです。もし、私たちにそんな力があれば、迷信に振り回されたりはしないのですが、力がないゆえに信じてしまうのです。それ故に、私たちは「生死の苦海」に溺れているような状態で、むしろ自分たちの足下の方が覚束ないはずなのです。まずはそれに気づかなくてはなりません。またそれに気づいて欲しいと仏様やそのお手伝いをしているご先祖様、親鸞様は願われているのです。
しかし、その声は、なかなか私たちには届きにくいので、仏様やご先祖様は、残されたものたちに、何とか気付かせようと必死に働きかけているのです。お参りもその働きかけの一つなのですが、では「お参りに来たけど、何をすればいいの?」という方もいるでしょう。仏様の教えは、ご縁を大切にして、敬い、思いやり、感謝の心で生活させていただきましょうというものです。当たり前と言えば当たり前のことなのですが、迷信に惑わされ、大量の情報に溺れてしまっていると、なかなかできないことなのかもしれません。何かと忙しい毎日を送っている私たちですが、仏様の前に座り、手を合わせてお参りをすると心静かになるものです。その時には、ぜひ考えてみて下さい。ご縁を大切にしているだろうか。敬い、思いやり、感謝の心を忘れてないだろうか、と。そのように自らを振り返り、それ以降、充実した日々を過ごして欲しいのです。
敬い、思いやり、感謝の心のある生活では、争いごとは起こりません。何かと暗い世情の現代を少しでも明るくしていきたいと仏様はいつでも見守っておいでなのです。 
26 「つつしむ」
春になると街中のいたる所で新生活応援フェアの文字が躍り、新しい事を始める方も多いことでしょう。また次々と新商品が広告され、発売される季節でもありますので、購買意欲もかき立てられますね。
ご承知の通り、私たちには「欲」がありますから、物が欲しくなってしまうのは仕方のないことです。しかし、それに心を奪われて自分を見失うと、周りが見えなくなって、人に迷惑をかけたり、知らないうちに誰かを傷つけたりしてしまいます。
だからといって、欲が無くなればいい、という訳にもいきません。なぜなら三大欲をはじめとして、私たちの生活は欲の上に成り立っている部分が多いからです。もし無くなってしまったら、私たちの営みもできなくなってしまうかもしれません。ではどのように「欲」と向き合っていくのが良いのでしょうか。
私の好きな言葉に「少欲知足」(大無量寿経)というものがあります。意味は「少しの欲で足りると知る」ということです。百獣の王ライオンは、お腹が満たされているときに、目の前をエサとなる草食動物が通っても襲いません。腹八分が体に良いと言いながら、お腹いっぱいに食べ、更に別腹だといってデザートを食べたりするのは、人間だけなのです。とどまるところを知らない欲に身をまかせるのではなく、「ほどほど」にすることが大事なことなのです、と仏さまは教えて下さっているのです。
古来より日本には「つつしむ」という素晴らしい習慣があります。これを「慎む」と書いた場合は、いきすぎた行動をして身の破滅を招いたりしないように、自らを戒めるという意味になります。また「謹む」と書いた場合は、相手を尊重し、それに応じる気持ちがあるという意味になります。
「欲」に心を奪われれば、道を踏み外しかねない私達の本質を見抜いた仏さまのありがたいお諭しが「少欲知足」です。「つつしみの心」を持って日常生活をおくるということは、仏さまの思いを受け止めて生活することといえるでしょう。 
27 諸行無常
今年も早いもので厳しかった寒さもやわらいで春のあたたかい風が吹き始め、本山境内の桜も咲き、春を感じさせる季節となりました。
春、夏、秋、冬という四季は順序よくやってきますが、私たちの寿命、人生の終わりというのは、順序とは関係なく誰にでもやってくるものだ、というのは、みなご承知のことだと思います。 しかし私たちは、「死なんて、まだ先のことだ」と、いくつになってもさし迫ったこととは考えていないものですから、「死」は誰にとっても思いがけず、にわかに自分のところにやってくると感じるのです。
「祇園精舎の鐘の音 諸行無常の響きあり」という詩がありますが、この世のあらゆる現象は変化して止まないという諸行無常は、三宝印という仏教の大切な教えの一つです。 古来より私たち日本人は諸行無常を日々の生活の中に感じ、心得ながら生きていました。色々なもののはかなさを感じる故に、それらの大切さを大事にしていたのです。 現代は科学が発達し、便利な世の中になっています。スイッチを押せば何でもできるような今では、一つ一つ物事の大切さは感じにくいでしょう。現代ではどこへでかけるにも早く目的地に着くことができます。旅行をするからといって、家族や友人と今生の別れを偲ぶ人はないでしょう。 かつて旅に出るといえば、まさに命がけのこと、今生でもう会えるかどうかわからないほどだったのです。色々なものが便利になった分、時間や物事一つ一つの大切さ、人との出会いのありがたさが薄れてしまっているようです。
仏さまは「今まさにあなたの心は何を感じているの」と常に問いかけて下さっているのです。仏さまと向かい合うということは、自分自身の心と向かい合うということなのです。いつ自分に諸行無常の風が吹くかも知れないというときに、あなたは何を感じ、何をしようとしているのか、その一瞬一瞬が繋がって一時間となり、一日となり、一週間となり、私たちの人生になっていくのです。 
28 私たちの姿が映る鏡
苦しいこと、辛いこと、悲しいこと、嫌なことなどがなく、毎日が楽しく、楽に過ごしたいと思うことは誰にでもあることでしょう。
ですが、実際の生活ではなかなかそうはいかないということは誰もがわかっていることです。
仕事でもプライベートでも、同僚・先輩後輩、家族、友人知人とぶつかり合って不平不満が出ることもしばしばですが、だからといって一人きりで生きてゆくことができるかというとどうでしょうか。
やはり周りにいる人々と支え合っているからこそ生きていくことができるのです。
あるテレビ番組で、体の不自由なあるお子さんの人生が紹介されていました。
その子は普段、周りの人たちに助けてもらっているから、何か自分でできることで、他の人の役に立ちたいと考えていました。
そこで思いついたのが、養護施設での人形劇です。友達と一生懸命に練習して発表の日を迎え、見事な劇を披露して施設の方々に喜んでもらえました。その子も役に立てたと満足したようでした。
それからしばらくすると、その子の考えに変化が出てきました。役に立ちたいと頑張って何かをしたけれども、よく考えてみたら、自分が元気に生きているだけでも他の人の喜びになっているんだ、役に立っているんだと。生きていることのすばらしさに気づいたのでしょうね。
いいことも悪いことも、喜びも苦しみも含めて、生きている、更に言えば生かされているということなのです。それが当たり前になってしまい、不平不満ばかりになっていてはそのすばらしさには、なかなか気づきません。
当たり前のことが、本当は当たり前のことではないのだよ、と教えて下さるのがみ仏さまの教えなのです。本当に今のままの自分でいいのかい、今一度振り返ってみたらどうだい、と私たちの姿が映る鏡を目の前に示して下さっているのが仏様です。その鏡に自分の姿を映してみて下さい。どんな姿が映っているでしょうか。本当の姿を知ることで、当たり前なことが当たり前ではなくなり、そのありがたさが感じられてきます。
仏様はいつでも私たちのそばにおいでになり、見守って下さっています。 
29 帰るべき場所
ある日、道端で土人形と、木の人形が口論をしていました。
木の人形が「おい土人形、お前は一雨降ったら簡単に流れて無くなってしまうではないか? お前はなんと弱いのだ。俺は雨がどれだけ降ろうと大丈夫だ。しかし、お前は雨が降って無くなってしまうのではないかと心が安まるときがないだろう」と自信満々に土人形に言います。
それに対して土人形は「俺はたしかに一雨降ると無くなってしまうもろい存在だ。しかし俺はどれだけ大雨が降っても、ただ故郷の土に帰るだけだ。しかしお前はどうだ。一度大雨が降って流されてしまったら何処にたどり着くかも分からないぞ。」と言いました。(司馬遷著「史記」より)
木の人形は自分が丈夫であるということを頼りにしています。しかし、丈夫さを頼りにしている木の人形も、例えば火の中にくべられてしまいますと、あっという間に燃えて無くなります。逆に土の人形は火に燒かれると、焼き物となり、丈夫になります。しかし、土人形はこの様な反論はしなかったのです。ただ「俺には帰るべき場所がある」とだけ答えているのです。
私達も木の人形のように、若さ、体の丈夫さ、名誉、財産など頼りとしているものが色々とあります。しかしこれらはいつかは失ってしまう、不確かなものです。私達はこの不確かなものを頼りに生きていることで苦しみ、更には、周りの人をも傷つけていることになかなか気づきません。
土の人形は雨が降ってしまうと無くなってしまう、はかない存在ではありますが、帰るべき場所のあることのありがたさ、を教えてくれているのです。旅行に出かけて楽しく遊べるのも、帰ってきてホッとできる自分の家があるからではないですか。あてのない旅路は辛いものです。人生という旅路の、帰る場所はどこでしょう。仏様のお導きによって、いのちの帰る場所であるお浄土へ参らせていただくことが真の安心で、心の拠り所となる、それこそが一番大事なことであると親鸞聖人は説いて下さっておられます。 
30 「怨憎会苦」
お釈迦さまが教えて下さった八苦の中に、「怨憎会苦」というのがあります。「怨憎会苦」とは、「怨み、憎しみ合うもの」が「会わなければならない」という「苦しみ」です。人生どこにいっても「会いたくない人」と会うものです。地域でも職場でも、顔を見るのもいやな人が、一人や二人はいるものです。そんな時はお釈迦さまの言われることは本当だなと思うのですが、みなさんはどうでしょう。
しかし、よく考えてみますと、「怨み憎しみ合うものが会う」というのも本当ですが、「会ううちに憎しみ合うようになる」ということもあります。初めは、「いい人」だと思っていた人が、一緒にいる間に「いやな人」になるということが私たちには多いのではないでしょうか。嫁姑の関係も最初のうちは自慢の嫁であっても、しばらくすると「いい嫁ですが」となり、最後はお嫁さんの愚痴ばかりとなっていくこともあるように。何も嫁と姑に限ったことではなく、地域でも職場でもあることです。
人間は悲しいことに、人やものの長所を見るよりも、短所の方が先に見えてしまうのです。そして短所が気になりだすと、そこから目が離れなくなり、長所を全く見なくなります。それで「会ううちに怨み憎しみ合うようになる」のです。そしてお互いに苦しめ苦しむのです。「漢書」に「短を捨て長を取る」という言葉があります。欠点や短所を知ることは大切ですが、それを気にし、そこを責めながら生きる人生は、他を損なうと同時に自分自身を損なう、自損損他の人生です。美点や長所を知って、そこを大切に伸ばすことが、素晴らしい人生を実現する秘訣でしょう。
人間というのは他の人やものの短所を探しだして文句をいうだけでなく、自分の肉体の短所まで探して文句をいうのです。しかしこの肉体が、今、ここにあることの不思議に気づいたら、本当は文句なんか言えないのです。短所ばかり気にしてみている人は、生かされている「いのち」の不思議に気づいていない人なのかも知れません。 
 

 

31 正しく聞く
広く見聞して知識を蓄えることは、過去を知り未来を知るための備えとなります。人間は常に明日を見つめ、未来を見つめて生きる生きものです。明日を失い、未来を失ったら人間は生きられなくなります。それほど人間にとっては明日が、未来が大切なのです。それなのに、私たちは明日をよく考え、未来をよく見極めて生きているかというとそうではないようです。太陽が昇ってから、その日のことを考え、目の前のことにあわてるということが多いのではないでしょうか。あわてないためにもしっかりと見聞することが大事です。
聞くということは、耳さえ不自由でなかったら、簡単なことのように思っていますが、私たちは、この耳で聞いているようで案外聞いていないのです。私たちは、耳に心地いい言葉や、自分に都合のいい話は聞いていますが、そうでないものは、全く聞いていないということがよくあります。これは見るということに関しても同じようで、私たちの目は自分の都合で、自分の都合のいいようにしかものを見ないようです。
私たちは、きちっと聞いたようでも、間違って聞いたり、自分の都合のいいように聞いていることが多いのです。その証拠に、一つ話を聞いても、人によって聞いているところが違いますし、そして、その受け取りもまちまちです。ご法話を聞く時も同じで、蓮如上人は「蓮如上人御一代記聞書」で
「一句一言を聴聞するとも、ただ、得手に法をきくなり。ただ、よく聞き、心中のとおり、同行にあい談合すべきことなり」
と仰ってます。正しく聞くためには、聞いた者同士で、聞いた話を話し合うことです。話し合うことによって、偏った自分の聞き方が修正されます。
また仏教を聞く上で一番大切なことは、どのようなお話でも他人事に聞かないことです。どれほど素晴らしいご法話を聞いても、他人事と聞くならば、それはただテレビのワイドショーで噂話を聞いただけと同じです。自分のことと聞いていく時、ご法話はそのまま自分の仏道となるのです。 
32 「眼施」
多くの「いのち」に生かされて生きているのが私たちですから、自分の身体も、自分の持ちものも、全て、他の「いのち」によって与えられたものです。よってお釈迦さまは、自分の身体も持ちものも、みんなに施すことを仏道の第一に挙げられているのでしょう。でも分け与えるものを何にも持たない人は、どうしたらいいでしょうか。お釈迦さまは、無財の七施といって、他の人に分け与えるものが何にもない人でも、分け与えるもののあることを教えて下さいました。しかもそれは誰にでもできることであり、日常生活の中で行えることばかりなのです。
その中の一つに「眼施」というのがあります。これは「やさしきまなざしであり、そこに居るすべての人の心が和やかになる」ものです。
私たちは、主体性だとか、自主性ということをよく口にしますが、人生は、どのような「まなざし」の中で生きるかによって決まります。「冷たいまなざし」の中で生きると、私たちは知らないうちに冷たい心の人間になってしまいます。「意地の悪いまなざし」を意識し、負けるものか、跳ね返してやると頑張っていると、いつの間にか、頑張っている本人も意地の悪い人間になってしまいます。「眼施」である「やさしいまなざし」の中で生きて、初めて、やさしい心の人間になることができるのです。
ですが世の中、「やさしいまなざし」ばかりではありません。どちらかというと「冷たいまなざし」「意地の悪いまなざし」の方が多いでしょう。だから「冷たいまなざし」「意地の悪いまなざし」の方が気になり、そちらに引っ張られて、自分もつい冷たく、意地悪いまなざしになってしまうのです。人は「まなざし」で人を殺しも、生かしもするのです。
常に「やさしいまなざし」を見失わないように、「やさしいまなざし」の中で生きるように心がけて、「やさしいまなざし」の持ち主になれるのです。見失いそうになったら、仏さまの前に座るのです。仏さまの「やさしいまなざし」の前で、「やさしさ」を取り戻して下さい。 
33 「心の広さ」
お釈迦さまは、言葉には耳に心地よいものと、そうでないものがあることを教え、耳に心地よい言葉を気持ちよく聞くだけでなく、その反対の言葉も「慈しみの思いを心にたくわえ怒りや憎しみの心をおこさないように」聞いて受け入れる人が「心に広い人」であると教えて下さってます。
私たちはどうしても自分の耳に心地よい言葉だけを聞いて、そうでないものをシャットアウトして聞こうとしません。言葉だけでなく、自分と考えの近い人だけを集め、考えの違う人を排斥したりもします。どちらにしましても、自分の物差しを最優先させ、自分の物差しに合う人だけを集め、自分の物差しに合わない人を非難したり、中傷したり、排斥して、自分の世界を自分で狭めながら生きているようです。
「心の広い、狭い」は、どれだけ自分と異質なものを持っている人を理解し受け入れることができるかによって、決まるのではないでしょうか。自分と異質なものを持った人を排斥し、同質のものだけが集まれば、話もよく合い、気持ちが良いかもしれませんが、視野をだんだん狭め、結局「井の中の蛙」になってしまいます。また、同質のものだけが集まっていると、物事が順調にいっているときは良いのですが、問題が起こったときに困ります。その時には、反対の意見も聞く、異質なものを持った人も大切にしていくという「心の広さ」があれば、良い方向が見出せるはずです。
家庭においても、地域においても、職場においても同じ事がいえるでしょう。お互いが異なるものを持った人を尊重しながら、それぞれが持ち味を出し、お互いに補い合っていくことが大切です。頭ではわかっていても実践するのはなかなか難しいですが、そのためにはお互いに、異質なものを受け入れる「心の広さ」がなければなりません。人生は障害の多い道、それも曲がりくねった道を進むようなものです。人生はアクセル役だけではなく、しっかりしたブレーキ役がいないと、安心して進めないような道なのです。異なる役割を果たしてくれる異なったものを持つ人を大切にすることは、この人生を全うする上でも何よりも大切といえるでしょう。 
34 相共に賢愚なること、鐶の端なきがごとし
人間的に素晴らしい人に出会って、「私と人間のできが違う、私はダメなつまらない人間だ」と、劣等感にさいなまれたことがないでしょうか。また、素晴らしい仕事をした人に会って、「私には、あんなことはできない」と、やってみようとも思わず、はじめからあきらめたり、更には「私は粗末な人間」と居直ってみたり、ひどい場合は親や周りに責任を押しつけたりすることがないでしょうか。
聖徳太子の「十七条憲法」の第十条には
忿を断ち、瞋を棄て、人の違うを怒らざれ。人みな心あり。心おのおの執れることあり。彼の是はすなわち我の非にして、我の是はすなわち彼の非なり。我必ずしも聖に非ず。彼必ずしも愚に非ず。共にこれ凡夫のみ。是非の理。たれかよく定むべき。相共に賢愚なること、鐶の端なきがごとし
とあります。どれほど素晴らしい人でも聖ではありません。どれほどつまらない私も、一から十まで愚ではありません。時には自分で驚くほど素晴らしいことを言ったり、したりします。しかし、それもたまたまであって私の全てではありません。一から十まで間違いのないという完璧な人間もいません。どれほど素晴らしい人間にも、一つや二つ問題はあるものです。反対に、一から十まで間違いという人間もいません。必ず素晴らしいところを持っているものです。
「共にこれ凡夫」とは、どれほど素晴らしく見え、どれほど素晴らしいことをした人間も、その時の縁で何をしでかすかわからない危うい、人のことは見えていても自分の将来は何も見えない悲しい、自分中心の、存在ということです。いばることもいりませんが、卑下することもいりません。
他の人と比べて勝った負けたでなく、私は私として、同じにはなれないがあの人のようになりたい。同じ事はできなくともあの人のやったようなことはやりたいと、他の人を良き手本とし、他の人の仕事を良き見本として、私は私として頂いた「いのち」を精いっぱい生きたいものです。 
35 「精進」
私たちは、ややもすると毎日の生活を疎かにし、何か事があると、はりきったりするものです。しかし事あるときだけはりきっても、人は高く評価してくれません。やはり、人間は普段の行いが大切でしょう。人から信頼されるのも、また人から軽く見られるのも、みんな普段の行い次第です。
「阿含経」に、「声聞は精進をもって力となる」という言葉があります。声聞とは、文字通り、仏様の声を聞く人ということであります。(後には違う意味づけがされますが)何を力にして生きているのかと言いますと「精進」を力にしていると教えて下さっています。「精進」の「精」は「不雑」、「進」は「不間」という意味ですから、すなわち、「精進」とは、あれもこれもでなく、これだけはと、間を空けずにコツコツと努力していくことなのです。
ですから「常が大事」ということの実践が「精進」であるといっていいでしょう。コツコツと「常を大事」に続けていくところに、自ずから、信用もでき、信頼もされる人生になるのです。
若い者は、お仏壇に手を合わすことがないと愚痴っている人に、「あなたはどうですか」と聞くと、「親の命日には欠かさず仏壇に手を合わせています」とのこと。「毎朝や毎晩はどうですか」と続けて聞くと、「何かと忙しいので」と答えられます。そこで「きっと若い方も、毎日忙しいのでしょう」と言うと「忙しいと言い訳をしてはいけませんね」と気づかれました。朝夕の勤めとしてお仏壇に参る自分の姿が、いつか若い人をお仏壇の前に座らせる力となるのです。常のあり方が、自分自身を育て、周りの人を育てていくのです。そしてその人生が、他の人を導き、他の人を大きく変えるような素晴らしい人生となるのです。
「平生業成」という教えがあります。臨終を目前にして、あわてても、なかなかみ教えは聞けません。平生に聞いて、間違いなく「仏に成る」という大事業を成就しておきなさいという言葉です。み教えを聞く人は「常が大事」と今を生きる人になるということです。 
36 泰山、大河、大海
中国の歴史書「史記」には「泰山が大きな山になったのは、どのような小さな土塊でも、辞退することなく受け入れたからであり、大河も大海も、どのような小さな川の水も受け入れた故に、大きく深いものになったのです」とあります。これを人間に例えれば、大人物といわれる人は、どれほどつまらないと思われる意見でも、他の人の言葉に耳を傾け、受け入れて参考にすることによって、大人物になるということでしょう。
人間の大きさ、深さはどれだけのものが受け入れられるのかという包容力によるのです。どれだけすばらしい才能に恵まれ、どれほどすばらしい考えを持っていても、包容力のない人は大人物になることはできませんし、また、その考えは通りません。
人間は、自らに才能があると、それを振り回して、周りの相手かまわず切りまわり、結局自らの身を滅ぼすことになりやすいのです。「能ある鷹は爪を隠す」というのは、なかなかむずかしいことで、立派な爪があるとついつい使いたくなります。実力・才能のあるものほど、謙虚に人の意見をよく聞くことが大切です。
また、すばらしい考え、正しい意見を言うときは、謙虚に述べるべきです。正しい意見にはみんな賛成するしかないのですから、正しいことは正しいと大きな声で高圧的な態度で言えば、反発され意見が通りません。
自分の小さなものさし、自分流のゆがんだものさしで、他の人や他の意見を計って取捨選択すれば、受け入れる人や意見はわずかなものになってしまいます。自分のものさしを捨て、その人をそのままに、その意見をそのままに聞いていく、取捨選択は最後の最後、事に当たるときに考えればいいのです。はじめから、自分の思いで取捨選択するのでは、人も集まらない、他の人の意見も聞けないという悲しい結果に繋がっていくでしょう。何かを成そうとするとき、謙虚な態度で泰山や大河、大海の如くどっしりと構えることも時には大切なことです。 
37 「好きな道に辛労なし」
好きなことをしているときは、時間の過ぎるのが早く、疲れも残りません。反対に、嫌々ものをしているときは、時計の針が止まっているのかのごとく時間が経ちませんし、やたらと心身共に疲れが残ります。
同じ事をするにしても、それに取り組む私たちの心のあり方によって、辛労なしとなったり、苦痛になったりします。生きていくためには、嫌いなことにも取り組まなければならないこともしばしばあります。そんなとき嫌いなものでも好きになれば、同じ事をしても、辛労のない疲れの残らない、楽しい日暮らしになります。「好きな道に辛労なし」という言葉の通り、好きになることが、物事を遂げる上では大切なことの一つです。とはいえ、嫌いなものは嫌いという人もいるでしょう。
ですが、私たちが嫌いといっているものは「食わず嫌い」なものが多いのではないでしょうか。誰にでも食わず嫌いの食べ物が一つくらいあるものです。食べたことがない物を食べるには勇気がいります。確かにいつも食べている物は味もなじんでいますし、何かにつけて安心です。しかし、それでは人生に広がりがありません。珍味といわれるものは一癖あって、なじみにくく、嫌いな方も多いでしょうが、何度か食べているうちに美味しくなり、病みつきになってしまうこともあります。
ですから、物事が好きになる方法は、自分の経験を盾にした小さな枠から出て、それに慣れ親しむことが第一です。私たちの好き嫌いは、向こうに問題があるのでなく、こちらにも問題があるのです。「私はこれは嫌い、これはできない」と自分で自分を限定した上に、自分のものさしで他を量って、好き嫌いをいうのです。自分で自分を限定すること、また、全てのものに自分のものさしを当てることをやめて、ありのままにそのものを受け入れ、慣れ親しめば、嫌いなものはなくなり、みんな好きになります。みんな好きになれば、何をしても辛労なしという人生が実現するでしょう。 
38 「怨憎会苦」
「四苦八苦」の中に「怨憎会苦」というのがあります。「怨憎会苦」とは、「怨み、憎しみ合うもの」が「会わなければならない」という「苦しみ」です。人生○○年もあると「会いたくない人」と会ったり、顔を見るのもいやになる人が、一人や二人はいたりするものです。またはじめは「いい人」だと思っていた人が、一緒にいる間に「いやな人」になるという「会ううちに怨み憎しみ合うようになる」ケースもしばしばあるようです。
息子さんにお嫁さんを迎えた姑さんが、はじめはお嫁さんの自慢話ばかりしていたのが、しばらくすると自慢話が陰をひそめ「いい嫁ですが......」と不満げな口ぶりになり、しまいには口から出てくる言葉は、お嫁さんのグチばかり、という話はよく耳にします。
だけど、これは嫁姑だけに限った話ではありません。私たちは悲しいことに、人やものの長所を見るよりも、短所の方が先に見えてしまうのです。そして短所が気になりだすと、そこから目が離れなくなり、長所を全く見なくなり、「会ううちに怨み憎しみ合うようになる」のです。
欠点や短所を知ることは大切ですが、それを気にして、そこを責めながら生きる人生は、他を損なうと同時に自分自身を損なう人生です。また人間というのは他の人やものの短所を探し出して文句をいうだけでなく、自分の肉体の短所まで探して文句をいうのです。もう少し身長があれば、痩せていれば、この鼻が高かったら、目が切れ長だったらなどなど。しかし、この肉体が、今、ここにあることの不思議に気づいたら、本当は文句なんか言えないのです。ましてやその肉体は、文句をいわれても不平不満を言わずに、日夜私のために働いてくださっているのですから。短所ばかり気にしてみている人は、生かされている「いのち」の不思議に気づいていないのかもしれません。
美点や長所を知ってそこを大切に伸ばすことが、素晴らしい人生を生きる秘訣の一つです。 
39 「大事の前の小事」
「大事の前の小事」ということわざには反対の二つの意味があります。一つは、大事を行うには、小事を慎重にしないと、油断から思わぬ失敗をするという意味です。二つには、大事の前では小事にかまっていられないという意味です。一つの言葉に反対の意味があるのは面白いですね。でもどちらが本当で、どちらがウソということではなく、どちらも本当なのでしょうね。
さて、私たちがこの人生をどう生きるかは、一人ひとりにとっての大事であります。ましてや、迷いの世界である此岸に「いのち」をいただいている私たちが、仏様のみ教えを聞き、さとりの世界である彼岸にお導きいただけることは、わが人生の大事であり、「いのち」の一大事です。
お釈迦様はお聖教にて、
道を修める者は、その一歩一歩を慎まなければならない。
志がどんなに高くても、それは一歩一歩到達されなければならない。
道は、その日その日の生活の中にあることを忘れてはならない。
と一歩一歩、一日一日の大切なことを教えて下さっています。一歩をおろそかにし、一日を無駄にすることが、仏道において恐ろしいことなのです。小事をおろそかにして、さとりの岸に至るという大事は達せられないのです。どんなに堅固な堤防でも、虫のあけた小さな穴や数センチのひび割れから崩れるのです。最新技術の詰まったシステムビルも、ちょっとした漏電やネズミが配線をかじっただけで、設備が動かなくなってしまいます。全く不可能と思われたさとりの岸にわたるという大事も、毎日の日暮らしの中で、み教えを聞き、実践することによって実現していくのです。
ですが、つい忙しいから、疲れたからと言ってまた明日、また明日と、今日一日おろそかにしてしまいがちです。そんなことぐらいと大雑把にみ教えを聞く姿勢が、仏道の歩みをストップさせているのです。お釈迦さまのお言葉を真摯に受け止め、日々、精進に励ませて頂きたいものです。 
40 「心得たと思うは心得ぬなり」
「親の心 子知らず」との言葉があります。人間は自分勝手なもので、自分の都合のいいときに「お父さん」「お母さん」と近づいて、用事を頼んだりします。
しかし、自分にとって都合が悪くなると、近づくどころか父母にさえ背を向けて離れていきます。そんな背を向けて離れていく子のことを案じ続けてくれるのが父母なのです。
親がものを言うと、言い終わる前に「言いたいことはよくわかっている」と反発したり、途中で立って最後まで聞かないようなことは、誰にでも記憶にあることでしょう。
心得たと思うは心得ぬなり、心得ぬと思うは心得たるなり『蓮如上人御一代記聞書』
という言葉があります。子どもに反発されたり、聞いてもらえなかったりしても、嫌な顏をせずにまた言葉をかけてくれるのは親だけです。そんな時、子どもは「親の心ぐらいわかっている」と心得顔でいますが、本当は何もわかっていないのです。何がわかっていないのかというと、親の言う言葉はわかっているのですが、何度も何度も言わずにいられない親の心がわかっていなかったのです。
親の心を本当に「心得た」ならば、ありがとうと頭が下がるはずです。しかし、ありがとうの言葉も、頭の下がることもなく「心得た」と言っているのは「心得ぬ」証拠です。何度言われても親の心が受け取れない、何と「心得ぬ」私であったかという方が、親の心を受け取れている、「心得たる」姿なのです。
何かにつけて、あれも心得ていると思い上がる私たちですが、何事も、自分が当面して苦労すると始めてわかってきます。当然、父母の恩も、自分が子を養うことに当面してわかっていくことなのです。子ができて、初めて父母の恩を知ることができた、という話も聞いたことがあります。親は子を育てることによって、子に育てられているのです。子に教えられて親になり、親に養育してもらって子は成長します。互いに敬い、思いやり、感謝しあう、それが真の親子の姿でしょう。 
 

 

41 み教えの本末・終始を聞く
古代中国の書物『礼記』に「物に本末あり事に終始あり」とあります。どのような問題でも、本当に解決しようと思えば、その問題がなぜ起こったのか、始まりはどうであったのかを正しく把握しなくてはいけません。物事には、必ず本と末、始めと終わりがあり、それをしっかりと心得ることが大切です。物事の本末、終始が明らかになれば、どのように難しい問題でも解決したようなものです。
実は、み教えを聞くことにおいても、「何故この教えは説かれたのか、誰のための教えであったのか」と、み教えの本末・終始を聞くことが大切なのです。
それを親鸞聖人は、  しかるに『経』に「聞」と言ふは、衆生、仏願の 生起・本末を聞きて疑心有ることなし。これを 「聞」と曰ふなり。(教行信証 信巻) とお説き下さいました。「経」とは『大無量寿経』(大経)です。「聞」とは、大経の要「阿弥陀如来の本願」(仏願)を聞くことです。「衆生」とは、あらゆる世界(十方)の生きとし生けるものです。しかし、私一人がそこから抜けると、生きとし生けるもの全てになりません。衆生=私なのです。
ですから、この私が、「阿弥陀如来の本願」は、誰のために、どうして起こされたのか(生起)ということと、そのためにどのようなことがなされ、その結果はどうなったのか(本末)を聞いて、疑いの心が無くなり、そのまま受け入れることが、み教えを聞いてゆくことなのです。
親鸞聖人は『歎異鈔』にて「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえ に親鸞一人がためなりけり。」 と仰っています。
しかし、私達は、私のためにみ教えが説かれ、本願が起こされていたとは受け取れないのです。聖教に悪人と出てきても、法話で地獄行きの人間だと言われても、他人事だと思い、なかなか私のためと自覚できるものではありません。ですが、「阿弥陀如来の本願」は、AさんもBさんもみな等しくさんも救いたいという誓いですが、まず「私」を救いたいという願なのです。 
42 「千里の行も一歩より始まる」
「今日一字を覚え、明日一字を覚え、久しければ則ち博学となる」
これは江戸時代の儒者・中井竹山の言葉です。また似たようなことわざで
「千里の行も一歩より始まる」や「ローマは一日にして成らず」があります。
何事も一つ一つの積み重ねが大切です。私たちは結果だけ見て、私もあの人のようになりたい、私もあんなものを手に入れたい、どうしたら手っ取り早く、どうしたら楽にそれが実現できるかを考えますが、どのようなことでもまず一から始めるしかないのです。
世には様々な記憶術のようなものがあったりしますが、仮にそれを使ったとしても、何かを覚えようと思って覚えることは大変です。
しかし繰り返しや積み重ねが記憶術にも勝るときもあります。例えば皆さんが毎日通る通学通勤などの道のりを思い浮かべてみてください。
まず花屋さんがあって、その先にコンビニ、角を曲がると電気屋さんという具合にすぐに思い出せるのではないでしょうか。同じ道を毎日通ると知らず知らずのうちに自然と覚えてしまうもの。更には、あの家の飼い犬はいつも居眠りしているなどという、覚える必要のないことまで覚えていたりしませんか。
「千里の行も一歩より始まる」のことわざのもととなったのは、
「合抱の木も毫末より生じ、九層の台も塁土より起こり、千里の行も足下より始まる」
という老子の言葉です。一人では到底抱えることのできないような大木も、初めは、小さな枝葉から大きくなったのです。
また、天にとどく程の高い塔も、まず基礎の土盛りから始まったのです。
千里の遠方へ行く旅も、足下の一歩から始まるのです。同じように、着実に一歩ずつ進むことによって大事業をも成し遂げられるのです。
仏教の大切な行の一つに「精進」がありますが、「精は雑に対する言葉、進は不間ということ」という意味です。あれもこれもではなく、一つでもいいから、間も開けずに進むことが、何よりも大切な姿勢なのです。 
43 「塵を払い垢を除く」
釋尊の弟子・周利槃陀伽はもの覚えが悪いのが有名で、他の弟子の中には彼を軽んじている者もいました。ある時、周利槃陀伽は釋尊のもとを去ろうとしました。
「お釈迦さま、私のようなものは迷惑をかけるばかりで、さとりをひらくことなど到底考えられません。ここを出ようと思います」
「周利槃陀伽よ、本当にそう思っているのか」
「思うも思わないも、私のような愚か者は、この世にいません」
すると釋尊は他の弟子を集め、全員に
「もし愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち『賢者』である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、『愚者』だと言われる」と説かれました。
のちに周利槃陀伽は、釋尊から教えられた「塵を払い垢を除く」という言葉の通り、精舎の掃除をしながら、ついには塵や垢とは次々に起こってくる自らの煩悩のことであったと、自分を軽んじていたお弟子たちもより早くさとりをひらいたのです。
親鸞さまは御和讃にて
浄土真宗に帰すれども  真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて  清浄の心もさらになし
とうたっておられます。
仏さまのみ教えを聞くまでは、自分には「真実の心」「真実の身」「清浄の心」もあると思っていました。しかしみ教えをたずねていくと、私には「真実の心」のない。わが身は「虚仮不実の身」である。他人を思いやるより、わが身かわいいの心ばかりで「清浄の心」を持ち合わせていない。み教えに照らされて、ようやく自分という人間がよくわかりました、と親鸞さまは告白されているのではないでしょうか。
み教えを聞くということは、色々なことを覚えたり、知ったりすることでなく、自分自身に出会うことなのです。自分自身を知らない人は自分に「真実の心」があると思い、どこまでも自分を善しとし、他の人を悪しとして責めてしまいます。まず自分を知ることこそ、自分自身の幸せの道であり、他の人を幸せにする道なのです。 
44 五百着の衣
ある国の妃から、五百着の衣を供養されたとき、阿難尊者は快く受け入れました。王様は妃よりこれを聞いて、もしや阿難が貪りの心から受けたのではあるまいかと疑い、阿難を訪ねて聞きました。
「尊者は、五百着の衣を一度に受けてどうしますか?」阿難は答えました。
「大王よ、多くの比丘は破れた衣を着ているので、彼らにこの衣を分けてあげます。」
「それでは破れた衣はどうしますか?」「破れた衣で敷布を作ります。」
「古い敷布は?」「枕の袋に。」
「古い枕の袋は?」「床の敷物にします。」
「古い敷物は?」「足ふきを作ります。」
「古い足ふきはどうしますか?」「雑巾にします。」
「古い雑巾は?」「大王よ、わたしどもはその雑巾を細々に裂き、泥に合わせて、家を造るとき、壁の中に入れます。」
仏さまの教えでは、自分の周りにあるものは一つとして「わがもの」ではない。全てはみな、ただご縁によって、自分の元にきたものであり、しばらく預かっているだけだと考えます。
蓮如上人は、廊下を通られているとき、紙切れが落ちているのをご覧になって、「仏法領(如来からいただかれた物)の物を粗末にするのか」と仰って拾い上げ、それを両手で押しいただかれたということであります。紙切れ一つのようなものでも、大切にして粗末にしてはならない、活かして使っていかなければならないのです。
また預かっているだけですから、手放す時がきたら執着せずに、見返りを期待せずに、喜んで手放さないとなりません。自分で汗水流して働いて稼いだお金や、そのお金を使って、手に入れた大切なものであったとしても、です。普段私たちが思っている常識のものさしでははかれないのが、仏さまのものさしなのです。
ですから、自分の宝物が盗まれても喜びなさいとなります。それが手元にあったということは自分には富があって幸せだったということがわかり、その宝物によって盗んでいった人も幸せになれるかもしれない、となるからです。人のものを盗むのは良くないのは当然ですが、仮にそうなったときが来たら皆さんは喜べますか? 
45 「人間の命はどれくらいあると思うか」
ある時、お釈迦さまが一人の僧に尋ねました。 「人年の命ははかないものだが、どれほど生きていることができるだろうか」 すると僧は答えました。 「数年の間ともいうべき短いのが私たちの命です」 お釈迦さまは 「お前は仏教がよくわかってないね」 と言われました。また二人目の僧に聞きました。 「人間はどれくらい生きられるものだろうか」 僧は答えます。 「ご飯を食べている間は確実に生きていることができるでしょう」 お釈迦さまはまた 「お前も仏教の心がつかめていない」 と言われました。そして三人目の僧に聞きました。 「人間の命はどれくらいあると思うか」 すると僧は答えました。 「確実に生きているといえるのは、息を吸って次に吐く瞬間だけです」 するとお釈迦さまは褒められました。 「その通り。お前は仏教の心をよく把握している」
自分の命はあと数年、あと数十年は大丈夫と私たちは思っています。しかし、命は極めてはかないものです。いつ自分が事件事故、災害に遭遇するかもしれない、いつ不治の病に冒されるかもわからないというのが本当のところです。にもかかわらず、自分は大丈夫だと思い込み、今日しておかなければならないことを明日に、明後日に延ばしてしまいます。
蓮如上人は『蓮如上人御一代記聞書』に  「今日の日はあるまじきと思えと仰せられ候う」 と言われ、何事も急いでやり、今日できることはその日の内に済まされました。
確実に生きているといえるのは、今の一瞬だけです。ですから一瞬一瞬を大切に生きていく心構えが必要だと先達の方々は仰せになられているのです。「一瞬一瞬を大切に生きる」ということは「一瞬一瞬を有意義に生きる」ということです。そうすることで毎日毎日を心新たに、充実した気持ちで生きてゆくことができるのです。 
46 捨つるも取るもいずれも御恩なり
動物実験について書かれたある本に、化粧品を作るための実験として使われていたウサギの話が載っていました。
それによると、ウサギは涙腺が発達していないので、異物を目に入れられても涙を流して洗い流すことができないのだそうです。また痛い目に遭わされても、泣き叫んだりしません。この特性を利用して、化粧品の原料をウサギの目に注入して実験を行います。目の粘膜が悪くなり、役にたたなくなったウサギは処分されます。その数は年間で何十万匹にもなるそうです。何気なく使っている化粧品の陰にある多大なる犠牲に驚きを禁じ得ません。
また内に目を向けてみると、私たちの身体の中では、心臓や腎臓、肝臓などの臓器が四六時中働いて私たちのいのちを支えてくれています。健康なときには気づきにくいですが、私たちがまだ意識のない母の胎内にいるときから、いのちが終わるときまで、文句一ついわず、御礼も要求せず、黙々と動いてくれているのです。
蓮如上人は「万事につきて、よきことを思ひつくるは御恩なり、悪しきことだに思ひ捨てたるは御恩なり。捨つるも取るもいずれも御恩なり」と仰せになられています。
例に出したウサギをはじめ、生きていくために頂かねばならない多くのいのち、私たちの臓器などに支えられている私たちの生活を振り返ってみれば、何もかもが「御恩」「おかげさま」の中にあるのです。自分の力だけで何もかもできればいいですが、そうはいきません。ですから生きるということは迷惑をかけていくということなのです。迷惑をかけるということはつながりを持つということです。たくさんのいのちとつながりを持って生かされている私たちなのです。それを当たり前だと思ってしまえば、御恩を忘れ、感謝の心を失います。当たり前だと思っている生活を今一度見つめなおして、それまで見えてなかったかもしれない驚きを知ることが大切なのではないでしょうか。そこからおかげさまの感謝の心が生まれてくるのです。 
47 「さてその後は死ぬるばかりぞ」
「世の中は 食うて稼いで 寝て起きて さてその後は 死ぬるばかりぞ」 一休禅師
仕事や用事に追われて「忙しい、忙しい」と思いながらの日々も多いことでしょう。「忙」のりっしんべんは「心」を表したもの、つまり「忙しい」というのは心を亡くした状態なのです。朝起きてご飯を食べ、仕事して寝るをただただ繰り返す毎日では、あまりに悲しい人生です。
「雑阿含経」というお経にこんな話があります。 「広い海底に、目が不自由な一匹の亀がいて、百年に一回、海面に浮上する。大海には、真ん中に亀の頭が入るほどの穴が一つあいている流木が、一本流れている。百年に一回浮かび上がる亀の頭が、その穴に入ることがあるか?」 お釈迦さまが阿難尊者に問いました。 「そんなことは、ほとんど考えられません」 阿難尊者の答えにお釈迦さまは諭します。 「誰でも、そんなことは全くあり得ないと思うだろう。しかし、全くないとは言い切れないのだ。人間に生まれることは、今の例えよりも、更にあり得ない難いことなのだ。」
地球ができて、生物が発生して、人間ができて、そして自分は両親から生まれました。何十億年よりもっと前からの、多くの縁が重なってここにいるのです。大げさな話のようですが、自分が今いのちをいただいているのは当然のことではなく、本当にありがたいこと、有ることが難しく滅多にないことなんです。
いのちを粗末に扱うような事件や事故が毎日のように報道されています。ものの使い捨てが当たり前になり、ついには人のいのちも使い捨てられる時代になってしまったのでしょうか。いのちすらモノのように扱う、それでは敬いや思いやり、そして感謝の心も育たず、「死ぬるばかりぞ」のさみしい一生です。一休さんの歌の通りにならないように、まずは一人ひとりが考えていかねばなりません。 
48 慈しみ
牛久浄苑にて、墓参に向かうご家族と同行している時のこと。 私の後ろを歩いていた二十歳くらいのお嬢さんが、お母さんとこんな話をしていました。
「あの大仏様は怒った顔をしているのかな?」
阿弥陀様が憤怒の形相と思われてはマズイので、ちょっと振り返り、
「あれはね、怒っているんじゃありませんよ。あれはね、ええ〜っと...」 とまで口に出して、「慈悲」という言葉を呑み込みました。現代っ子に「慈悲」といって果たして理解してもらえるのだろうかと。それで、「あれはね、慈しみのお優しい表情なんですよ」と言ったのです。
するとお嬢さんは、少々戸惑いながらも「はあ、そうなんですか」と言って、今度は私には聞こえないように言ったつもりでしょうけど、私には聞こえてしまいました。
「イツクシミってナニ?」
いきなりで恐縮ですが、鯛の仲間に随分と変わった習性を持つ魚がいます。メスが数千個の卵を産むと、オスはそれを全部口の中に入れてしまうのです。卵から稚魚に孵化するまでは一週間程かかりますが、オスは口の中には大切な自分の子供が入っている訳ですから、餌を食べる事もできません。そうしてまさに命がけで新しい生命を育むわけです。では、無事に孵化した稚魚がお礼の一言も云うのかといえば、さっさと大海原へ泳ぎだしてしまいます。単なる本能・習性だと言ってしまえばそれまでですが、何の見返りも求めず尽くすこの親の姿、守ろうとする姿に慈しみの本質を感じます。
阿弥陀如来は私たちに一体どんな見返りを求めていますかと問われれば、何もないと答えるよりほかありません。見方によっては一方的とさえ言える阿弥陀如来のお誓い、普段拝んだり感謝しない私を、ためらう事なく救わんとする如来のお働きを慈悲というのでありましょう。先例に挙げた魚が「ネンブツダイ」と名付けられているのは何かの偶然でしょうか。 
49 赤色赤光白色白光
地中蓮華 大如車輪 青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光 微妙香潔
<訳> 池の中には車輪のように大きな蓮の花があり、青い花は青い光を、黄色い花は黄色い光を、赤い花は赤い光を、白い花は白い光を放ち、いずれも美しく、その香りは気高く清らかである。
これは『仏説阿弥陀経』の一節です。
蓮の花は清らかな水では育たず、泥の田で育ちます。泥の田というのは苦しみや煩悩を表しています。蓮の花はその泥が汚いからといって逃げ出したりはしません。その苦しみや煩悩を養分として育ち、煩悩の汚れの無い美しい花を咲かせます。これは、命が終った後の話ではなく、今生きている現実から逃げることなく、ここを自分が育つための場所と捉えて生き抜くための教えだろうと思います。
さいた さいた チューリップの花が
ならんだ ならんだ あか しろ きいろ
どの花みても きれいだな
という有名な唱歌があります。歌詞が前出の阿弥陀経の一節に似ていますね。
私たちは果たして、赤・白・黄色と花が並んでいる、それを見てどの花見てもきれいだなと感動を持って言えるでしょうか。
「どの花が一番きれいだろう」と比較していないでしょうか。「どの花みてもきれいだな」と言えるのは仏の目だろうと思うのです。ここで説かれる花は、実は人間を譬えています。生まれた場所や、皮膚の色、職業や、顔の形などで差別する心を持っていて、どの花みてもきれいだなという心が起こらない。それぞれの色が輝いていることを見抜けないところに地獄というものがあるのです。そこを見抜くための目、いままで掛けていた色眼鏡を外すということを、仏法聴聞を日々重ねていく中で気づかせていただきたいものです。 
50 不平不満
暑い夏の日、とある大学のバスケットボール部の練習風景です。
体育館ではバタバタバタ、キュッキュッ、走る音、止まる音、人の声、さまざまな音が聞こえてきますが、肝心のボールの音はしません。
「早くボール使った練習したいよな。走るの、もう飽きたよ」
「これじゃまるで陸上部だな」
休憩時間となり、部員たちはタオルで汗をぬぐいながら口々に不満を言います。
練習が再開され、ようやく監督からボールを使う指示が出ました。するとどうでしょう、先ほどまで文句を言っていた部員たち、なんとも楽しそうにコート中を走り回っています。ボール一つ手にすることによってとても生き生きとしているのです。
しかし明日にはまた同じ不満を言い、ボールを与えられたら嬉々として練習に励むわけですが、こうして徐々に上達するのでしょうね。急激に上達するような「魔法の練習方法」でもあれば便利なのですが、現実的にはこうやって反復練習する事が向上への近道のようです。
私たち仏教のみ教えを聞くものにとっても同じことではないでしょうか。 法話を聞いたり本を読んだりして、一時的に心が安らいだという経験をされた方も多いでしょう。しかし残念な事に、せっかく安らいだ気持ちも長くは続きません。
地域、会社、学校などの人間関係その他日常の生活に埋没し、つい、不平不満をこぼしてしまいます。
よく浄土真宗は「何もしなくていい教え」と思われがちです。確かに私のはからい(自力)によって浄土往生するわけでは決してなく、全ては阿弥陀さまによって往生が定まるのですから、そういった意味では「何もできる事はない」かも知れません。しかし、こうして生かされているあいだに何もしなくて良いという事にはならないのです。たとえ明日にはまた不満を言ってしまうかも知れないけれど、少しの時間でも割いて仏法を聞く、お念仏を称えるといった習慣を身に付けてゆきたいものです。 
 

 

51 厳しい「慈悲」
七高僧のお一人、源信僧都と弟子たちが住む草庵近くに鹿が迷い込んできました。すると僧都は、その度に飛んでいって力任せに鹿を殴るので、鹿は悲鳴を上げて逃げていきます。
何度も繰り返されるその様子に弟子たちは、
「鹿はそんなに悪いことをする動物でもないし、何も殴らなくても......」 と僧都をなじる者さえ出てきましたが、僧都は、
「これが慈悲というものではないか? 私も鹿が憎い訳ではなく、命の限り生きて欲しいと思っている。この山に私とお前たちだけしかいないなら、三度の飯を二度にしても鹿に与えてやりたいが、山裾には至る所に罠が仕掛けられ、猟師も沢山いる。わたしが可愛がったらどういうことになるか? 猟師にまですり寄っていくことになるまいか? だから、人間は恐ろしいものだから近づくなと教えてやるのだ」と話をしました。
僧都の胸のうちを聞いた弟子たちは、鹿を殴り続ける師の姿に、厳しい「慈悲」の姿を学んだのです。同情と慈悲は似ていますが、実は異質なものです。同情は、思いやりの心の動く有様で常に温かいものです。ですから美しいように思いがちです。しかし、よく考えてみると同情され続けた挙げ句にダメになってしまうこともあるでしょう。同情する側の心に優越感が潜んでいることもあり、必ずしも良い結果をもたらすとは限りません。
対して慈悲は、いつも温かいものとは限りません。時には僧都のように、はた目には非常に厳しく、冷たいものだったりします。ですが、それは本当に相手の身になって考えるからこそ出来る行為なのです。
子供を叱らない、または叱れない大人が増えたと世間では言われます。何をしても無関心あるいは無関心を装うような大人ばかりに囲まれた彼らの目に、私たちはどのように映っているのでしょう。他人事ではないはずです。 
52 「モノとお前自身のどちらが大切か?」
昔々、ある裕福な家庭の若者が大きな宴に参加しました。
着飾った若者は歌っては飲み、飲んでは踊り、しまいには疲れ果て、仲良くなった美女と庭先の木陰で寝てしまいました。
目覚めると、隣で寝ていたはずの美女がいません。しかも、いつも首に掛けていた大切な首飾りが見当たらないのです。若者はあの女が盗んだに違いない、と慌てふためきます。
「若い女を見なかったか?」と尋ね回っているうちにお坊さんに出会います。
「大事な首飾りを盗まれました。あれは私にとって一番大切なモノです。それを盗んだ女です」
お坊さんはそれには答えず、逆に問いかけました。
「モノとお前自身のどちらが大切なのか?」
あれを無くしたら生きていけない。これこそ私の命だと思い込んでいるモノ。例えば財産や名誉、地位をはじめ、目に見えるモノや見えないモノなど様々ですが、それらは私たちの欲や煩悩、つまり執着心が姿を変えて現れているに過ぎません。
自分にとって大事なものには違いありませんが、「私そのもの」ではないのです。
考えれば野生動物はごく僅かの例外を除けば、貯えたり収集したりする事はありません。人だけが競って財を成そうとした結果が現代社会と言えましょう。しかしせっかくため込んだ財産も生活のための道具に過ぎないのであり、それを所有する人が逆に支配されるようでは、人生とは誠に味気ないものではないですか。
裕福な若者から盗んだ女は、その首飾りを売って、自分が住む貧しい村の人々に食べ物を施しました。しかし、同情してその罪を許せば、困っていれば人からモノを盗んでもいいのだという誤った考えを持ってしまうかも知れません。盗みは許されない罪であるとお釈迦さまも説いておられます。
大事なことはモノそのものに罪があるのではなく、それを所有したり取り扱う人間の心の有り様ではないでしょうか。あるから幸せ、ないから不幸という考え方、こんな有るか無いかの世界ではない、束縛されない自由な生き方を仏法は教えてくれるのです。 
53 子煩悩
その家では、農閑期になると、一家の大黒柱である父は大阪へ出稼ぎに行きます。
妻との間には就学前の小さな男の子が一人おりますが、胸を患い、時に激しく咳き込むのでした。この事は、子煩悩の父にとって大きな悩み苦しみでありましたが、妻にくれぐれも我が子のことを頼み、遠く離れた地で働く父でした。
お正月、束の間の里帰りをした父。久々の我が家、そして可愛い我が子を膝に抱き上機嫌でお酒をいただきます。こうしていると厳しい出稼ぎ現場の疲れが融けてゆくようです。
酔いも手伝ってか、ウトウトまどろんでいたこの父を目覚めさせたのは、息子の激しい発作でした。久しぶりに息子の病の重大さを目の当たりにして、ただただ狼狽えるばかり。
「はて、妻はどこにいる? 息子がこれほど苦しんでいるというのに、何故気が付かない?」 と周囲を見回すと、妻は炬燵の向こうで突っ伏したまま眠っていたのでした。
その姿に憤った父、思わず声を荒げて、
「おい、お前! この子を何とかせんか!」
妻はあまりの大声に慌てて顔を上げると、何事が起きているのかをすぐに察知し、子供に薬を与え介抱したのでした。
息子もようやく落ち着きを取り戻し、ほっと胸をなで下ろした父でしたが、妻の憔悴しきった姿を見て愕然としました。
「ああ、私は子煩悩だ、などといいながら、本当に愛していたのは息子ではなく、子煩悩を演じる自分であった。妻は日々、このような息子の発作と対峙しながら家を守り、私を温かく迎えてくれたのに、情けなくも私はその妻を罵ってしまった。そんな自分は息子の看病すら出来ないではないか」
そして涙を流して、すまなかった、申し訳なかったと妻に手をついたのでした。
「あなたのお陰でこの子も私も暮らせるのです。有り難いことです、」と妻は申したそうです。 この夫婦はともに、お寺参りを欠かさない、お念仏の家で育ったそうです。 
54 「蜘蛛の糸」
芥川龍之介作『蜘蛛の糸』という有名な物語があります。
カンダタという極悪人がその死後、当然のように地獄に堕ちてしまいますが、ある日、一本の細い銀色の糸が自分の目の前に降りてくるではありませんか。 お釈迦様が彼が生前、蜘蛛の命を救ったことを覚えておられ、救いの手を差し伸べられたのです。 急いで蜘蛛の糸をたぐり登ったカンダタ、途中地獄の方を眺めると、おびただしい罪人どもがこの細い糸にぶら下がっており、今にも糸が切れそうです。 思わず叫びました。 「この蜘蛛の糸は俺だけのものだ。お前たちは 来るんじゃない」 その瞬間、カンダタのぶら下がっているところからぷつりと糸が切れてしまい、地獄へ真っ逆さまに堕ちていったのでした。
私が子供の頃、学校の授業の中で先生からは「カンダタはやはり悪者。だから、自分だけ助かろうとして、その報いで再び地獄に戻されたのです。皆さんは日頃からはしっかりと良い事に励み、皆と仲良くいたしましょう」といった感じでお話しされた事を思い出します。
それから数年後、今度はお寺で再び、この『蜘蛛の糸』を聞きました。布教使のお話はいきなり、「誠にカンダタはかわいそうなお人じゃ...」で始まるのです。道徳の時間ではカンダタのような悪者はこうなる、という具合に悪者の代表のように非難されたのに。
「ここに参詣をしておる者一人ひとりが、もしカンダタの様な境遇であったならば、『おりろ!』とは叫ばんかの?親鸞様はご自身みずからを『心は蛇蠍の如くなり』と申された。カンダタは紛れもない、この私たちの心の有り様を表しておる」と。
この布教使のお話は、「少なくとも自分はカンダタの様な非道い悪人ではない」などと思い上がっていた私に、実は彼こそが自分自身の本当の姿であると気付かせて下さったのです。 
55 パソコン
小学生が当たり前のようにパソコンを操る時代、なんでも「検索」すれば様々な情報が手に入ります。また、ある話題についてパソコンを通じて語り合うことが出来る「掲示板」や「チャット」なども大流行。
インターネットは文字通り、今や世界中に網羅され、その特性をフルに活用すれば大変便利なものです。
例えば主婦の方が「今晩のおかずは何にしよう?」などと悩んだなら、パソコンの前に座りキーワードとなる「おかず・今晩」を画面に入力すれば、なんと数十万件の関連ページが瞬時に表示されるのです。多すぎてむしろ悩みそうですね。
そんな便利なパソコンですが、最近は犯罪に利用されたり、思わぬトラブルに巻き込まれたりするケースが増えてきています。成人向けの「チャット」でも、パソコン画面の中では、発言者が本当に成人なのかどうか確認できません。またある掲示板が、暴力的な発言や特定の人を名指しで中傷するなどといった行為がエスカレートし、ついに閉鎖されるという事態も今や珍しいことではありません。
大切なことは問題の原因がパソコンやネットにあるのではなく、実はそれを使う私たちにあるということです。特に「掲示板」や「チャット」では相手からはこちらが見えないという安心からか、何を言ってもいい、相手が傷つこうが構いはしないという意識が持たれがちです。逆に今までチャットの中で友人だと思っていた人から嫌なことを言われたとたんに、相手を非難し始める。所詮は苦楽を共にした訳ではない、仮想空間における友情などその程度のものかもしれません。
今後もどんどんパソコンは身近になりますが、しかし私たちが生身の人間である以上、社会から孤立しては生きていけません。画面の中のバーチャル(仮想)空間では、今晩のおかずは決められても、明日ありと思う心の問題はどうにもならないのではないのでしょうか。
このコーナーも本山ホームページに掲載されていますが、どうかそこを入り口として、お寺の門をくぐって頂くことを切に願うばかりです。 
56 「いただきます」
言葉はコミュニケーションの方法として生活に不可欠なものですが、最近、テレビや雑誌などでしばしば日本語の乱れが話題になります。
以前読んだある本に、こんな事が書かれてありました。それは、イギリスの旧家へ嫁がれた方が書いたものです。...ある日、彼女のお宅へ日本から友人が訪れました。ちょうどお昼時でしたので、
「お食事は?」と尋ねたところ、
「来る途中レストランでいただいて参りました」と友人は答えたのですが、この「いただく」という言葉に、この本の筆者は違和感を憶えたといわれるのです。彼女によれば、
「誰かにご馳走になったのでもなく、自分で食事代も払ったのに『いただく』というのはおかしくありませんか?」ということです。
確かに、お食事を作って下さった方、ご馳走になった方にも「いただく」という言葉を使います。しかし、いただくという言葉は、たった、それだけのものでしょうか。言葉の表面にばかり執らわれて、自分の都合良く言葉を受取ってばかりいると、大切な事を見失いがちになるでしょう。  みなさんの今日の晩ご飯はなんですか? 魚・牛・豚・鶏はもちろんのこと、野菜もお米も、お茶の一杯まですべて、ついさっきまで生きていた「いのち」を私たちは食材として食べています。
私たちが「いただきます」と手を合わせて言うのは、そのいのちの恵みに対して心から申しあげる言葉なのです。
仏さまがいらっしゃる極楽浄土は、「言葉の要らない世界」と説かれます。一方、言葉一つ間違えれば、大きな問題が起こるのが私たちの住む娑婆世界です。
普段何気なく使っている言葉だけに、その大切さが分からなくなっていないでしょうか。私たちは一人では生きていけません。互いに支え合うためにも、言葉を通して心まで通じ合う真のコミュニケーションが必要です。
「いただく」に限らず、聞こえてくる言葉が真に伝えようとするこころに耳を傾けなくては、とあらためて考えさせられました。 
57 三つの髷 (もとどり)
法然上人のもとで大勢が聴聞に励んでいた頃、お弟子の一人が故郷に帰りたいと申し出ました。すると上人は、
「おや、髷も切らずに帰るのかね?」 と仰ったので、このお弟子は、
「はて、出家した私のどこに髷が? 上人のおっしゃる意味が私には分かりません」 と尋ねました。そこで上人は、
「お前さんは故郷へ帰って、ここで学んだ知識で人々を驚かそう、そして有名になろうと考えてはいませんか? またそれを利用して生活の糧を得ようなどとは思っていませんか?」 と答えられたのです。さらに続けて、
「知識をもって人を驚かそうとする我慢勝他の心、それによって有名になろうとする名聞の心、そして経済的にも恵まれようとする利養の心の三つの髷が私には見えるのです」
すっかり自分の心を見透かされてしまったこのお弟子、直ちに自ら書きためた書物を焼き捨て、裸一貫で帰ったと伝えられます。
せっかく勉強したのに何てもったいない、と考える読者も多いのではないでしょうか。中には法然上人って、ちょっとイジワルな人だと感じる方もいるかも知れませんね。
でもこのお弟子に限らず、私たちがもし、「世間のほとんどの人が知らない知識」を手に入れたとしたら、「優越感」を持つことはないでしょうか。かといって、仏法を聴聞することを全く止めてしまったのでは意味がありません。
聴聞は大切、だけど自分自身が偉くなったなんて考えたら大間違い、考えれば当たり前のことです。だって、仏法とは全て仏さまが私たちを導くためにご用意下さったものであり、それを聞いて知ったからといって、自分が偉くなるわけでもなんでもないのですから。
そこで蓮如さまのお言葉をひとつ。
「王法(世俗の法律)をもってさきとし、内心にはふかく本願他力の信心を本とすべき」
自慢げにひけらかすなんてもってのほか、との上人の仰せ。耳が痛くなるお言葉です。 
58 「親死ぬ子死ぬ孫死ぬ」
一休禅師のお話として伝えられている有名な物語です。
むかし裕福な商人が、孫が生まれたお祝いに、何かめでたいことばを書いて欲しい、家宝にするから、と一休さんに頼みました。
「喜んで書きましょう」と気軽に引き受けた一休さん、さらさらと書いた言葉はなんと、『親死ぬ 子死ぬ 孫死ぬ』。
それを見た商人、顔を真っ赤にして怒ります。
「私は、めでたい言葉と言ってお願いしたのに、死ぬ死ぬ死ぬとは何事ですか」
そこで一休禅師、慌てず騒がずさらりと、
「なるほど、ではなにか、お前のところでは、『孫死ぬ 子死ぬ 親死ぬ』の方がめでたいのかな」と言ったのです。
商人はますます怒って帰ろうとすると、一休さんは、
「お前さんにはこの言葉のめでたさが分からんようだな。年寄りのあんたより先に、せっかく生まれた孫が不治の病にでもなったらどうする?代わってやりたいと嘆いても代われんだろう?」
年老いたものから順番どおりに死ぬということは実はとても難しいことです。
もしも自分の家族が年齢の順に亡くなったとすれば、それこそ家族みんなが長生きをし、仏さまより頂戴した命をまっとうしたということで、めでたいのです。
しかし現実はどうでしょうか。
時代を問わず、若者がある日突然、命を落とすことは、毎日どこかで必ずあるのです。
順番だなんて、最初から無いのです。
また順番通りにいかなかった家族が不幸だという考え方の根底には、「死」イコール「不幸の象徴」のように決めつけてしまう事に問題があるのではないでしょうか。
家族や最愛の人を失う辛さ悲しみは誰しも共通のものです。
しかし、生まれたものがいつか必ず死ぬことは避けられません。
ならば人生とは「生」も与えられ「死」も与えられたものだと言えましょう。
その、せっかく与えられた生を精一杯生きて欲しい、と一休さんは言いたかったのかも知れませんね。 
59 「無明」
三人の子供たちにゾウの絵を描かせました。
前からゾウを見た子供は長くて大きな鼻を描き、横から見た子供は、大きな耳と大きなお腹を、後ろから見た子供は大きなお尻とシッポだけを描いたそうです。そして、絵を描き終えた子供たちが互いの絵を見て、これはゾウの絵ではない、あなたのも、あなたのもゾウではない、私の絵こそゾウであると言い争うのです。
この寓話は、私たちが実は、物事の一部分だけしかとらえていないのに、つい、全部理解したつもりになっている様子を表します。
自分がどういう場所に座ってゾウの絵を描いたのか、事の始まりはここにあると思うのです。
私たちは、とかく手に入りやすい答えを求め、その答えが自分以外の大勢の意見と同じだと安心します。
しかしその安心は、まったく異質なものに対しては、時として激しい嫌悪感を抱いたり、敵意をむきだしにする時もあります。
仏教では、自分の本当の姿を知らずに、悩み、もがく様子を「無明」といいます。
光が無いから手探りで歩き、目の前にどんな危険があろうと気付かないのです。
仏法は、そんな私自身とこれから歩むべき道を光で照らして下さいます。あせって急ぎすぎれば、時につまずいたり、転んだりするかもしれません。でも、自分が今どこにいるのかが明らかになることは、私にほんとうの安心と勇気を与えてくれます。
光がもっと大きくなれば、今度は他人の姿をも照らして下さいます。すると、ああ、この人にはこういう事情があったのかと、他人が進もうとしている道も見えてくることでしょう。お互いの道は時に交わったり、重なったりしています。「無明」を生きている間は、そこで争いが生まれます。
しかし、お互いの道がはっきり見えれば、ゆずることだって、ともに歩むことだって出来るはずです。争う必要のない世界、異なるものどうしが異なったままで歩める世界を、どうか仏法に聞いていただきたいのです。 
60 「お陰さま」
これは、とある草野球チームの試合中の出来事です。
守備についたA君のもとへ、平凡なフライが飛んできました。
彼はグラブを構えボールを見据えていたのですが、夜間照明の光のせいか、ボールはグラブをかすめ彼の左目に直撃したのです。
A君はその場にうずくまってしまいましたが、大変気の毒な事にチームメイトは「どうせ照れ隠しの演技だろう」ぐらいにしか思わなかったのだそうです。
ところが一向に立ち上がってこないので、さすがにみんなが心配して様子を見にいきますと、哀れにもまぶたは腫れ上がり、出血はするわで、大変な事になっていたのです!!すぐさま病院に運ばれ、眼科の先生方二人により念入りな検査と手当てを受けた結果、大事に至らなかったのは不幸中の幸いでした。
みんな、見るからに痛々しい姿のA君に口々にこう言いました。
「だいじょうぶ?災難だったね」
まあ、もともと彼のエラー(!?)が原因だし、結果的に打撲で済んだのですから、みんな口で言うほど、同情しているとも思えないのですが・・・。A君はそんな彼らに、こう漏らしました。
「いやあ、助かった」
「???」みんなA君がケガのせいで少し混乱しているのか、と少々心配になりましたが、 「目の前が真っ暗になったときは、これでもう光を失ったかと思いましたよ。打撲で済んでよかった。ありがたい」というのです。
人はいざ自分自身に災難が降りかかると、不幸を嘆き、他を恨みがちです。 しかし、若い頃から家庭環境の中で仏法に親しんでいた彼は、「お陰さま」と手を合わせたのでした。
仏法には、良きにつけ、悪しきにつけ、全て「お陰さま」と引き受けてゆく強さがあります。
そしてその強さとは、からだをいくら鍛えてもなかなか手に入らない強さなのです。なぜなら、それはみ法を聞きひらき、仏さまから授かる強さなのですから 。 
 

 

61 自分中心のメガネ
事件の容疑者が捕まるたび、近所や知り合いの方がいいます。「なぜあの人が...」と。
ふだん真面目そうな人、優しいひと、そんな風にみられている人間でも、「縁」がもよおせば信じられないことをしてしまいます。それは裏を返せば私の姿でもあるわけです。
親鸞聖人は「なにごとも心にまかせてしまえば、極楽へいきたいがために人を千人でも殺すだろう。それができないのは、そこまでやるほどの業縁が自分にないだけのこと。自分の心が美しいからではありません」とするどく見抜かれています。
「邪智世間智」という言葉があります。これは普段私たちが自分中心のメガネをかけて全てのものを推しはかっていることを意味します。例えば、あの人が好きとか嫌いとか、これは正しいとか間違っているとかの判断は全てこのメガネによるというのです。自分の都合次第で、これまで大嫌いだった人間が好きになれるのも、このメガネのせいなのです。
そんなメガネをかけている私ですから、仏教がいくら、「全てのものは移り変わり、永遠に変わらないものはない。また全てのものは互いに関係し、支え合って存在する」と説き、この言葉を頭で理解したとしても、いざ自分のこととなると、はなはだ怪しいかぎりなのです。
高度に文明が発達した現代社会に住む私たちは、命がほかの多くの命によって支えられ、生かされているという事実に、少し気付きにくくなっているのかも知れません。しかし、いったん気がつくと、これまで見えていなかったことが見えてきます。すると痛みも伴うかもしれません。
でも大丈夫。誰もけっしてひとりじゃないんです。恐れず一緒に見ていきましょうよ。
「一人いて喜ばは、ふたりと思うべし。ふたりいて喜ばは、三人と思うべし。その一人は親鸞なり。」あたたかい、親鸞様のお言葉です。 
62 まっすぐに見る
村の大きな松の木の下に「この曲がった松の木をまっすぐに見ることのできたものには褒美を与える」という立て札が立ちました。
さあ大変、村中が大騒ぎです。村人の中には弁当持参で一日中じっと見ているものもいましたが、その松は幹はもちろんのこと、枝も曲がりっぷりがよく、ものの見事にねじれていて、どこからどう見ても曲がっているのです。
そこへふと、お坊さんが通りかかって、立て札を読むなり、お付きの小僧さんに「まっすぐに見えたから、褒美をもらってきておくれ」と言うのです。あっという間になぞを解いてしまったお坊さんの言葉に、村人たちは戸惑うばかり。そこで、村人の一人がおそるおそる尋ねました。
村人:「お坊さま、どうやったら、この松がまっすぐに見えるのでしょうか。私には曲がってしか見えないのですが...」
お坊さま:「そりゃ私が見ても、この木はよおく曲がっているとも」
村人:「ですが、まっすぐに見えたんですよね」
お坊さま:「その通り、まっすぐに見えたよ」
村人:「ならば曲がっていないのですよね」
お坊さま:「いいや、よく曲がっておる。見事な曲がりっぷりだよ」
村人たちは訳が分からずチンプンカンプン。
そこでこのお坊さんが云うには、
「あなたたちは、この曲がった松の木をまっすぐに見ようとするからダメなんだよ。いいかい、まっすぐに見るというのは、この松を見て『何ともよく曲がっておるの』と感心することが『まっすぐ』なんだよ。わかるかな。曲がったものを曲がっていると見ること、それがまっすぐということなのだよ」とのこと。
お釈迦さまの教えの中に正見(正しくものごとを見る)という教えがあります。私たちは普段、ちゃんとものを眺めているつもりですが、自分勝手な都合のよい見方や考え方をして、自分の意見ばかりを主張してはいないでしょうか。仏教では、物事を正しく見ることから正しい心、つまり正しい考えが生まれてくると説きます。仏法とは常に自分の心を問いただすことが大切なのだ、と教えて下さっているのです。 
63 人間も自然の一部
結婚式などに出席すると、晴れてさえいれば「良いお天気でよかったですね」などと、皆が口々に言います。子どもの運動会となればなおさらですが、ここで私たちが言う「良いお天気」とは、つまりは「晴れ」のことですね。
なんだ当たり前じゃないか、と思うのも当然ですが、では快晴が何週間も何ヶ月も続いたら、どうでしょう。
夏ならば海の家は大繁盛で、電気店ではエアコンが飛ぶように売れることでしょう。一見なんの問題もないようですが、水不足となれば農業にとって深刻な問題となります。工業にも大きな影響がでるかもしれません。とても「良いお天気」などと浮かれてはおられないのです。「そろそろ一雨欲しいなあ」などと言っていても、自分が旅行に出かける時だけは晴れて欲しいと思うもの。結局、私の都合を最優先に考えてしまうんです。
春になると桜の花が美しく咲きますが、都合良く週末に満開を迎えるとは限りません。せっかく満開になっても、風が吹いて雨も降るかも知れません。自然とは私の勝手な思いとは関係なく、その営みを続けています。
あふれるモノや情報で、そんなことすら忘れがちですが、よく考えると人間も自然の一部なのです。私たちは、土や水、光の力を借りて作物を実らせますが、肝心の土を作ることはできませんし、太陽そのものを作ることはできません。全て与えられたものばかりです。そして、それらの自然を恵んでくれる地球という星は、果てしない宇宙の中で他の惑星や恒星と深く関わり合いながら存在しています。
地球の自然を含む宇宙全体の働きかけがあってはじめて、桜の花は開き、海水浴にもいけるのです。大きな事を言うようですが、人生の営み全てが自然のお陰様、お陰様の人生でございましたと謙虚になると、自分一人で生きていたのではない、生かされていたのだという事実が、新鮮な驚きとして心に響いてくるのではないでしょうか。 
64 一粒の米の重さ
「一粒の米の重さはどれくらいだと思うか」
ある時、お釈迦さまは弟子の阿難尊者にお尋ねになりました。
「お米は小さいものでございますから、とても軽いものと考えます」と阿難尊者が答えると、
「その重さは須弥山(しゅみせん)よりも重いものである」とお釈迦さまは仰せになりました。
須弥山というのは、仏教の世界観で宇宙の中心をなす巨大な山のことで、十六万由旬(一由旬=約七キロメートル)もの高さがあります。
現代に生きる私たちもお釈迦さまのお尋ねには、同じように答えるのではないでしょうか。
お米一粒は秤にかけても針はほとんど動きませんし、お金に換算したとしてもわずかの値打ちにもなりません。だから阿難尊者のお答えは科学的、合理的見方としては正解です。
しかし、お釈迦さまが「須弥山よりも重い」と仰ったのは、もちろん、秤にかけた重さではありません。この一粒ができあがるまで、春から秋までに受けた恵みの重さは量り知ることのできない広大無辺なものである、そのご恩を忘れてはいけない、との教えであります。
少し考えただけでも、お米が私たちの御膳にのるまでどれほどの恵みがあることでしょうか。太陽の光、大地の熱、水などの自然の恵み、子育てをするように大切に稲の世話をする人々、お米を運搬する業者、販売店、炊事してくれる家族......。無数の恵みのお陰様で、やっと私にいただけるのですね。
目に見えないものはついつい忘れがちです。ましてや使い捨てが当たり前になってしまっている現代、お釈迦さまの教えをしっかりと心にとどめ、お陰様の日々を暮らさせていただきたいものです。 
 
曹洞宗

 

「仏さまのこと、ご先祖さまのこと」 1
仏さまというのは、どのような方のことを言うのでしょうか。
私たちの一番身近な仏さまは、お釈迦さまです。お釈迦さまは、今からおよそ2500年前にインドにおられた方です。
生、老、病、死という、私たち人間にまつわる苦しみを離れるために出家して坐禅修行されました。この身と心さえもいつかは滅びてしまう(諸行無常)から自分のものではなかった(諸法無我)、この身と心は自分というとらわれ無しに皆の幸福のために働かせることができるのだと観察され、教え、自ら実践されたのです。
總持寺の仏殿におられるお釈迦さまを拝みますと、そのようなお姿が目に浮かんでまいります。仏さまは、人間として生きるべき道を悟り、皆の幸福のために実践し、教えた方です。
私たちのご先祖さまがたも、同じような方々でした。生前には直接に私たちがどう生きるべきか優しく厳しく教えてくださいましたし、この世を去られてからも私たちが手を合わせるたびに、しっかり生きていこうという心を起こしてくださいます。
私たちの心の中に生きて、私たちの生きるべき道を示してくださいます。
ご先祖さまがたが示してくださる道を、私たちは手を合わせて正しく受けて実践し、また道を教えてくださったことに感謝して手を合わせるのです。私たちがご先祖さまがたの教えを素直に受ける心を持ってはじめて、ご先祖さまがたは仏さまとして道を示すことができます。
ご先祖さま教えてください、と私たちが思う時に、ご先祖さまは仏さまと成る、成仏されるのです。
ご先祖さまがたは仏さまです。新しいご先祖さまが生前中教えてくださったことをしっかりと受け継ぎましょう。古いご先祖さまがつないでくださった命の大切さも学びましょう。
ご先祖さまがたを、お釈迦さまや高祖(※道元禅師)さま、太祖(※瑩山禅師)さまと同じように先生として敬い、導いていただくことで、仏さまとして私たちの心の中に共に生きてくださるのです。
仏さまの世界は遠いあの世ではありません。もうすぐお彼岸、ご先祖さまへの気持ちを新たにしてお迎えしたいものです。 
「峨山様の歩いた道」 2
平成27年の大本山総持寺二祖峨山禅師様650回大遠忌を記念して、本年5月15日一泊二日の日程で、「峨山道ウォークツアー」が実施されました。
「峨山道」というのは、石川県羽咋市の永光寺様と、輪島市門前町大本山總持寺祖院様を結ぶ、50キロを超える山道です。峨山禅師様がこの二つのお寺の住職を兼ねておられた時、その山道を行き来して、両寺をお守りしたので、峨山様の道と呼ばれるようになりました。
私も20年程前、祖院での修行中、三回、一泊二日をかけて全行程を歩きました。地元の自治体や、ボランティア、大本山總持寺祖院が協力して実施された催しに参加したのです。
50数キロの行程は、平地も有りますが、山あり、谷あり、雨風の中、炎天下とヘトヘトになって歩いたことを思い出します。
そんな時、何よりの励ましになりましたのは、行く先々での「お接待」でした。弁当、水筒、雨具などを担いで歩きますが、所々に休憩所があり、「お菓子、果物、飲み物」が用意されています。そしてもっとも疲れを癒してくれるのが、地元の方々の笑顔とお話でした。
二日目の後半、ある山中で休憩をとった時のことです。地元の中年の女性からこんな話を聞きました。「この村の、○○さんのお宅には、峨山様に、お茶をふるまった、お釜がまだ残っていますよ。」「隣村には、峨山様がお休みになった家の子孫の方がいますよ。」と、それは嬉しそうに話されるのです。聞いていて、こちらも何か楽しくなってきたのを覚えています。
相当昔のことですから、全てが事実とは、言えないかもしれませんが、まぎれもないことは、峨山様が、ここを歩かれ、その土地の人々と、ふれあい、そして教えを説かれたということです。歩くお姿そのままが教えであります。その「お徳」を慕い、大切な事として、伝えられてきたのです。この女性も、嫁いできてから伝え教えられたのです。
峨山様のことを多くの人々が、大切にして伝えてきたからこそ、650年後の今、聞かしていただける。伝えていく為には、伝えられてきたという尊さに気が付かねばなりません。大事に伝えてきてくださった、その思いを今度は、私達が伝える番です。峨山様の歩かれた道は、今の私達につながっているのです。私達もまた、未来につなげて行かなければならないのです。峨山様の道を歩いてまいりましょう。 
「日々の行いと共に伝える」 3
本日は、「伝える」ということについてお話をさせていただきます。大切なことを伝えるということは、本当に難しいですね。
以前にこんな経験をしました。お檀徒のお宅で、ご法事まで時間がありましたので待っておりますと、半分開いたふすま越しに、隣の部屋にいるお檀徒のAさんと小学生のお孫さん、「おじいちゃん」と「ぼく」の会話が聞こえてきました。内容は良く分かりませんでしたが、何かあったのでしょう。「ぼく」が、突然「バカ!じいちゃん。」といったのです。腹立ちまぎれに、勢いで言ってしまった言葉かもしれません。すると「おじいちゃん」は、少し強い口調ながらゆっくりこう言いました。
「だめだ。バカなんて言っちゃだめだ。どうしてそんなことをいう。いけないんだよ、自分が言われたらどう思う、嫌だろう、だから人には言ってはいけないんだ。じいちゃんは、一度も言ったことが無いぞ、そうだろう。」
「ぼく」は、小さくうなずいて、黙ってしまいました。きっと分かったのだと思います。
聞いていて、なるほどと感じました。特に『じいちゃんは、一度も言ったことが無いぞ。』という言葉は、心に響きました。きっと「おじいちゃん」はそうして暮らしてきたのだと思います。そんな優しく、穏やかなお人柄です。「ぼく」もそれを見てきている、知っているから納得したのでしょう。
「じいちゃん」は、一度も言ったことが無い。だからこそ、いけないことはいけない、と、ハッキリと言切り伝えることができたのだと思います。普段からやっていればこそ伝わるのです。
明年は、大本山總持寺二祖峨山禅師様の650回大遠忌です。そしてそのメインテーマは『あい、承る』と書きます、「相承」です。
江川禅師様は、『「相承」とは、仏さまのみ教えを学び、受け継ぎ、そして実践を通して丁寧に伝える事。』とお示しくださっています。「伝える」とは、日々の実践、普段の行いの中で、ゆっくりと、しかしながら、確実に伝わっていきます。
「ぼく」は、また「バカ」と言ってしまうかもしれません。けれどすぐに「じいちゃん」のことを思い出して、やめようと心に誓うと思います。そしていつの日か、自分の子供や、孫に、周りの人々にきっと「大切なこと」を伝える日が来るでしょう。日々の行いと共に。 
「人と上手につきあうコツ」 4
仏さまは、自分だけでなく他の人も、他の人だけでなく自分も、皆ともに平和な幸福(しあわせ)を育みましょう、と教えておられます。
他の人とのつきあい方は、なかなか難しいものですが、古くお釈迦さまの教えとして、布施、愛語、利行、同事という、四攝法(ししょうぼう)と呼ばれる四つ教えが大切にされてきました。これはそのまま、人と上手につきあうコツとなり得る教えです。
まずは、相手のかたが何をしているのか、何を求めているのか、理解することが大切ですね。相手の立場に身を置いて、相手になりきって、相手の心を知ることが第一です。これを「同事」と言います。
その心が分かったら、相手に必要な手助けを差し上げます。私が相手に与える、という気持ちではなく、自分の身体がケガすれば思わず自分の手を添え手当てするように、自然に相手と一体になって、分け隔てなく必要なものを差し上げます。これを「利行」と言います。
もし相手が、優しい言葉を求めていたり、知識や指導が必要な時には、相手の気持ちとひとつになって、慈しみに満ちた言葉を分け隔てなく差し上げます。これを「愛語」と言います。
あるいは、自分の持っているものであったり、平和な幸福の中で生きていく智慧が求められている時には、「これは自分のもの」と囲い込まずに、分け隔てなく差し上げます。これを「布施」と言います。
相手の気持ちになりきって、自分と他の人との境目をなくしていく「同事」の心で、相手とひとつになって行動していくということですね。でも、ここでご用心!相手になりきる、相手を察することもまた、相手がこちらに何かを求めてはじめて、できることなのです。求められていない相手にとっては、お節介になることもあるのです。
太祖瑩山禅師さまは坐禅の際の心がけとして、『坐禅用心記』の中で、「十たび言わんと欲して、九たび休し去り」と仰っておられます。
十回言おうと思っても、ぐっとこらえて九回言うのをやめる、そのくらいの自分の慎みで他の人たちと接していくこと。
坐禅に親しみこの姿勢を自分でしっかり保つことが、相手の気持ちになりきる、しっかり察することが出来ることへつながります。一方で、自分の身と心も正しく育むこととなるのです。 
「めぐりあい」 5
越後の国の良寛さんが、玉島の円通寺というお寺で修行しているとき、そのお寺に仙桂さんという修行僧がおりました。仙桂さんは一言もしゃべらず、身なりをかまうことなく、そうかといってお経を唱えるでもなければ、坐禅することもなく、ただ毎日黙々と畑を耕し野菜を上手に作っては、寺に来る人達に施しているのでした。そのころ毎日修行に励む良寛さんには、同じお寺にいながらも仙桂さんのことが全く眼にはいりませんでした。そして時間がすぎ、師匠様から悟りの境涯をみとめられた良寛さんは、ふるさとの越後の国、出雲アへ帰るのですが、ある日、お経を読んでいるとき、ハッと突然、円通寺にいた仙桂さんの存在に気づくのです。「彼こそ、ひたすら自分のつとめを果たし、人の幸福を優先させ、黙々と大地に向かって修行していたのだ。」と悟るのです。「あのころ、毎日一緒にいながら、真に仏の道を志す仙桂さんに、なぜ気づかなかったのだろう。」と、良寛さんはめぐりあい≠ノ気づかなかったことを大変に後悔しました。
人生はめぐりあい≠フ連続だと言われます。「もしあのときあの人に出会っていなかったら・・・・」とか「あのときあんなことさえなかったら・・・・」というように、私たちの周りにはさまざまなめぐりあい≠ェあり、その不思議なめぐりあい≠フなかで生かされています。めぐりあい≠ヘ仏教でいう縁≠ナす。さまざまな縁≠ノよって生かされているはずの私たちなのに、誰の世話にもなっていないと、自分一人で生きていると思い込んでしまっては、一度かぎりの人生を、うかうかと過ごすことになりかねません。テレビや新聞書物の中にも、仕事や遊びの中にも、人との出会いの中にも、私たちを支え生かさせていただく縁≠ヘ無数です。知っている人、知らない人といった条件や、好き嫌いの区別を越え、善し悪しにかかわらず、その一つ一つのめぐりあい≠おろそかにせず、自分自身でうけとめ、そして大切にして行くこと、そんな日々の歩みこそお釈迦様の教える修行であり、人間としての生き方でありましょう。 
「遅い春がさく」 6
私の住む東北山形の北部は大変に雪の深いところです。遅い春は4月に入ってもなかなか顔を見せてくれません。ようやく春の風が吹き渡る下旬、残雪の冬枯れの景色が一変するのです。うめ、水仙、こぶし、モクレン、さくら、椿などの花々がいっぺんに色付き、一気に咲きそろいます。雪国に住む者には、それはそれは待ち遠しくこころウキウキする季節なのです。
「百花、春至って誰がために開く」という言葉があります。咲きそろう花々は誰の為に咲くのでしょうか。私たちに「きれいだネ」と褒めてもらうためでしょうか。それとも蜂や蝶を集める為でしょうか。花は決して評価を期待したり、思惑をいだいて咲いてくれるのではありません。花はただ花本来が備わった本領、つまり本来の性質、力のままに、時節と因縁を待って開花するだけなのです。
瑩山禅師様は、「人には人それぞれに個性や才能が備わっている、それは他者のためのものではなく、その人それぞれに与えられたかけがえのない性質であり力であるから、その本来備わった性質、力を発揮する努力を怠ってはならない」と示されています。
日ごろ、私たちは何かにつまずけば、つまずいた原因を他者に押し付け、苦しくなると自分のことしか考えられなくなってしまいます。あれやこれやと考えれば考えるほど、視野がどんどん狭くなって苦悩に深く落ち込んでいきます。そっと満開の花を眺めてはどうでしょう。他者とくらべてばかりいる自分、思い悩んでいる自分が見えてくるはずです。自分に備わる本領は、きっと出口はいっぱいあることに気付かせてくれます。4月はスタートの月、思い悩む自分をリセットしてみてはどうでしょう。何の計らいも無く自然に咲き、ただ精一杯に咲きそろう花々のように、私たちも自分の本領を磨く日送りに心掛け、精進していきたいものです。 
「輝くいのち」 7
東日本大震災がおきてから、三年の月日が経とうとしています。被災された方々が一日も早く安寧な生活に戻られることを心より願っております。
また、私たちは、大震災によって多くの事を学び、感じました。人と人の絆の強さ。人を思いやるやさしい心。礼節。勇気。義にあふれた自らの務めを全うした人々の姿。日本人として、心打たれました。そして、『死は理不尽であること』また、善悪や道理などの全くおよばない「なぜ、何故!?」という『ただただ非情なものである』という事をあらためて思いました。
修証義というお経には、
『いのちの儚さはまるで露のようで、いつ、どこの道の草に落ちるともかぎらない。ましてや、いのちは流れるときの中で一時もとどまることはない』
『過ぎ去った時は二度と帰らない。いのちの終わりはアッという間にやって来て権力も財産も家族や友人もそれを止めることはできない。ただ一人黄泉という亡くなった人の国へ行くだけです。』
と、説かれています。しかし、限りあるいのちが虚しいのではありません。
限りあるいのちだからこそ輝かしいものになるのです。
仏教はたった一つの大切ないのちを思い、すばらしいものにしていく為の教えなのです。
もうひとつ感じたことは『あたりまえの大切さ』です。
日々のくらしの中の小さなあたりまえ。大震災はそれも壊しつくしました。ふと交わすほほえみも、つないだ手の愛しさや子供たちの笑い声。まあいいか・・・。あとでいいか・・・。あたりまえだと信じているから言わなかったありがとうやごめんなさい。それらは本当に大切なかけがえのない宝ものです。
露のいのちがいつ落ちるか分からないのだから、過ぎ去った時は二度と帰らないのだから、目の前にあるあたりまえだと思っている小さな事をもう一度見つめなおして、大切にして下さい。
それは自分自身のまごころを伝える、ということに他なりません。そして、頂いたまごころにはまごころをもって応えてください。大切な人のために。
限りあるいのちを輝かせる生き方をして下さい。 
「よき人に出会う」 8
ご本山には、毎日多くの人が散歩に来られます。時々、私はその人達と話をします。最初は朝の挨拶だけであった人なのに、顔なじみになった為、親しみを込めて自分の心の思いを語られた人がいらっしゃいました。
「私は姑のお陰で、今、とても幸福です。そして人は尊いものですね」と語られ次の様なお話をしてくれました。
私の姑は三年前に亡くなりました。私の夫は三人兄妹の次男です。そんな私は姑と同居をしました。
その後、三十年間、姑と一緒に生活しているうちに、高齢になった姑を介護するようになりました。そして介護しているうちに、気がつきました。私はこの人に育てられていたのだ、と。姑は私に対して事あるごとに「ありがとう。」と言って、いつも合掌をしてくれたのです。
吉田兼好の「徒然草」に「よき人の、のどやかに住みなしたる所は、さし入りたる月の色も一きはしみじみと見ゆるぞかし」と言う文があります。
「よき人」とは「心の美しい人」のことです。よき人の住む家にさしこむ月の光は、ことのほか美しいものです。
この女性は、お姑さんと一緒に住んでいるうちに、折々の縁により、幼かった頃の自分が、親に深い愛情で育ててもらったことを思い出しました。今が、育ててもらった親に対して、その恩に報いる時だと思ったそうです。
相手を思いやる心から「愛語」が生まれます。「愛語」は自分と他の人との生き方を変えることができます。「ありがとう」と言って合掌してくれたお姑さんの言葉が「愛語」です。
この女性にとっては、お姑さんが「よき人」となり、自分の心に月の光がさしこんできたようなものです。そして、自分の中にもある、人としての尊さを自分で発見できたのだと思います。 
「静けさ」を承け継ぐ 9
皆様、年末の大掃除できちんと整理整頓し、すがすがしい新年をお迎えでしょうか。
私共布教教化部では、ご本山関連の幼稚園や保育園へ毎月一回、坐禅指導をしています。園児たちに坐禅を教える時、最初に苦労するのは言葉です。専門用語を使えば当然わかりませんので、出来るだけ単純な言葉使いをし、わかりやすいたとえで指導します。すると、思いがけず、それまでの一般向けの指導でいささか解りづらかったところが、いくつも浮き彫りになりました。
園児へ教えることで坐禅指導を整理整頓すること出来ました。お蔭で図らずも色々大切な気付きを得たのです。 
お釈迦様が最後に遺された八つの教えの一つに、遠離、つまり、世間のしがらみから遠く離れなさい、というみ教えがあります。そのために静かなところに一人住みなさい、と言い遺されたのです。道元禅師様はそのみ教えを承けさらに、静けさを願いなさい、と勧められました。
一人静かに出来る空間、皆様方お持ちでしょうか?例えば、ご自分のお部屋。好きなものに囲まれ落ち着く場所でもありましょう。お気に入りの品々。いつでも情報を伝えてくれるテレビやパソコン。しかしそれらは、自分のこだわりを助長させ、世間の雑踏を部屋に持ち込んでしまうものでもあるのです。
年末にお済ませのこととは思いますが、お部屋を今一度整理整頓し自分を縛りつけるものは遠ざける。そのような空間で、ご自身の日常に、「静けさ」を親しむ時間を設けてみてはいかがでしょう。整理整頓し静かに時を過ごせば、今まで見落としてきたことを見つけ、気付かなかったことに気付けるのではないでしょうか。
お釈迦様・道元禅師様に倣い、瑩山禅師様や峨山禅師様もまた「静けさ」の大切さを承け継がれました。そのご遺徳の結果として現在、大都会の喧騒の中にあって静寂を保つ稀有な修行道場が、この鶴見の地にあるのです。
承け継がれてきた「静けさ」を、どうか皆様方にも承け継いでいただきたい。
ご本山では一月から各種坐禅会を開催予定しております。お部屋の模様替えの参考にしていただく意味でも、足をお運びいただきたいと存じます。
まずは身近なお部屋から調えていただき、そして行く行くは赴かれる先々で「静けさ」を顕わしていただく皆様であって欲しい、とお祈り申し上げます。 
「おもてなし」 10
肌寒い初冬のある日、御先祖様の供養に来山された家族がありました。親子四人でした。中学生の姉妹は真剣に、焼香をしていました。御経が終って法話をしていると、妹は、私を真直ぐ見ながら、話を聞いてくれました。聞きながら、少女は少し微笑み、うなづいてくれました。それは、「布施」についてのことでした。一つのケーキを二つに分け合って食べたら、もっと美味しくなるという話です。
貪りのない施し、見かえりを求めない施しについての話です。少女は、話が終り、帰る時に私を見ながら、にっこりと頬笑んでくれました。
現代人の求める宗教観は、理性に耐え得る宗教でなければなりません。それに一番近いのが、禅ではないでしょうか。
禅は奇跡めいたことは一切言わず、世界をただありのままに見よと言います。
ここに花が咲いている、よく見なさい。ただそれだけのことです。
目の前にある、この世界をそのまま、ありのままに見るということです。
自分の分別や欲望から存在を見るのではなく、存在そのものになって存在を見る。花を見るときには花になる。子どもと話すときは、子どもになる。いつでも、どこでも、そのものになりきることです。
先頃、オリンピック招致委員の滝川クリステルさんが、「おもてなし」の話をして、話題になりました。
これは、見返りを求めない心であり、「布施」の心であります。
見知らぬ人を招く時に、この布施行が、相手の存在を受け入れることであり、相手の「いのち」に触れることになると思います。
私は供養の時に微笑んでくれた少女に、この、「おもてなし」を感じました。 
 

 

「観音さまの申し子」 11
十一月二十一日は「太祖降誕会」の日です。この日は、大本山總持寺をお開きになられた御開山・瑩山紹瑾禅師さまの誕生された記念日です。
太祖とは、太いと言う字に祖先の祖とお書きします。曹洞宗では、瑩山さまを尊称して申し上げる呼び名です。
瑩山さまは、文永元年西暦一二六四年の十月八日に出生されたと伝えられます。この日を太陽暦にしますと十一月二十一日にあたります。
誕生の地は、越前の国多祢邑といわれますが、これが何処にあたるのかについて昭和四四年ご本山は、当時の福井県武生市帆山町、現在の越前市帆山町として、そこに「瑩山禅師御誕生地顕彰碑」を建立しました。
私たちは瑩山さまをお慕いして観音さまの申し子と申し上げ、これはお母さまが大変熱心な観音信仰者だったからです。
お母さまが一八歳のときです。それまで七・八年生き別れになっていました実母に会いたいため、京都清水の観音さまに七日参りの願をかけておまいりをしていたところ、六日目の参拝の道ばたで十一面観音さまの頭部を見つけられました。
不思議なご縁を感じ、その観音さまに「もし願いが叶えられましたならばお体を補いいたします」と願をかけたところ、それが叶い実母と巡り会うことができました。よろこばれたお母さまは、お体を補修して一生の念持仏としたのです。
瑩山さまは、お母さまが三七歳のときの初産の子でした。この観音さまに願をかけたところ、朝日をのみこむ夢をご覧になられ身ごもったことを知らされたと伝えられます。
お母さまが観音さまに祈願して授かった子として申し子といわれる所以がここからきているのです。
観音信仰に生きたお母さまの念持仏十一面観音さまは、瑩山さまに護られ今も能登半島の羽咋市・永光寺内に奉られています。 
「二祖峨山さま」 12
大本山總持寺では、毎年十月十二日から十五日まで御征忌の行持が執り行われます。これは、御開山・瑩山紹瑾禅師さまと二祖峨山韶碩禅師さまのお二方に対します報恩法会です。
特に平成二十七年には二祖峨山さまの六百五十回大遠忌をお迎えいたします。大遠忌は五十年に一度つとめられるおまいりです。
ご本山においては、開祖さまと二祖さまは別々のものではなく一体として崇め「瑩峨御両尊」と尊称申し上げます。平成三十六年には、開祖瑩山さまの七百回大遠忌もお迎えいたします。この勝縁にあたり、ご本山では相承―大いなる足音がきこえますか―をかかげて、この精神のもとに明年より總持寺大報恩法会を修行いたします。
二祖峨山さまは開祖瑩山さまのあとをつがれ、ご本山の発展と曹洞宗の教線拡充にその基礎をきづかれました。
九十一年のご生涯のうち、總持寺の住持職を約五十年に及びつとめられました。その間、人材育成をはかり多くの弟子を養成しました。その中で五院二十五哲と称されます優れた弟子が育ち、日本各地におもむき教線を敷き、今日の曹洞宗の発展に尽くしたのです。
ところで、禅の教えに「把住・放行」という言葉があります。把住とはつかんではなさず自由を許さないこと。放行とは逆にすべてをまかせてしまうことです。
これは、師が弟子の心境を常に観察しつつ必要に応じて軌道修正をしながら導いていくという禅の極意です。
二祖峨山さまは、お師匠さまから受け継いだこの宗風を如何なく発揮され、柔軟心をもって、ときには厳しく、ときには自由にまかせ一人ひとりの弟子を指導しました。
弟子たちも二祖峨山さまの心を受け継ぎ個々の状況に応じて人びとの指導対応にあたったからこそ、曹洞宗の教えはひろく受け入れられ全国に発展していったのです。 
「かかわり合いの中に生かされて」 13
「和尚さん、物じゃなく心なんだよ。誰かとつながっていないと人は生きていけないでしょ」。
これは石巻のある仮設団地で自治会お世話役を一生懸命なさっている木村さんの言葉です。人の集まれるような行事を企画し、その都度一軒一軒声掛けして回る木村さんですが、実は震災前は地域の方とはほとんど交流が無かったそうです。
なぜ今そうなさっているのかお尋ねすると、「生かされた命だからやらなくてはと思うんです」。
津波にのまれながらも一本の木にしがみついて耐え、自分は民家の2階に救い上げてもらったが、回りを流されていく方々をどうすることも出来なかった。そうして紙一重で助かった我が身、自らの命のありがたみに気付いた言葉、それが「生かされた命だから」。
その生かされた命をどう生きるか?お考えになったのです。
そしてもうひとつ大きな出会いがありました。避難所に行ったものの、知らない人ばかりで不安に押しつぶされそうになる自分に「大丈夫ですか?木村さんですよね?」声を掛けてくださった方があったが一体どなたなのか分からなかった。その方は木村さんがお住まいの地域の町内会長さんだったそうです。どれだけ安堵しどれだけ励まされたことか。
自分はそれまで気にしていなかったのに向こうはしっかりと見ていてくださった。それがご縁でそのまま避難所も仮設住宅もその会長さんと共にお世話役に就いたと仰います。「あの時の自分と同じように不安に駆られている方々のお役に少しでも立てたなら」。木村さんが精力的に人のお世話をなさるのはそんな願いがおありなのです。自分のことは少し横に置きながら、人のためにと頑張っていらっしゃいます。
実際、遠くに住む弟さんから一緒に住もうと誘われたそうですが「まずはこの団地をどうにかしなければならない。やる事いっぱいあるからね。まあそれから考えますよ」。明るくいきいきとした表情で仰っていました。
人とかかわり合うことは時に束縛や不自由さを感じるかもしれません。でも私たちはそのかかわり合いの中で共に生かされているのです。
かかわり合うことは「喜びも悲しみも分かち合う布施の教え」の実践にほかなりません。自他共に心安らかに生きるためのほとけ様の教えです。人と人の関係が希薄になりつつある現代にあってかかわり合うことを大切にして参りたいものです。 
「あなたの安らぎは私の安らぎ」 14
とても暑かった去年の夏、津波で被災した石巻、門脇小学校の前で一生懸命向日葵のお世話をする三十代の女性にお会いしました。「大きいですね!向日葵」「295センチあるんですよ」「よくここまで育てましたね、大変だったでしょう?」「いーえ、大丈夫ですよ」
そうおっしゃった彼女ですが実際はご苦労がおありでした。4月から会社帰りに毎日水やりに草取り、雨の日も風の日もかんかん照りの中もお世話を続けていらっしゃる。心ない方に柵を壊されることもあった。始めた当初は地元の方も怪訝そうに見る。それでも通っていたお子さん達がいつか校舎に来た時に、あまりにも目を覆いたくなるような光景だから、せめて向日葵が咲いていたなら少しでも心が安らぐんじゃないか、そんな思いで続けさせて頂いていますと教えて下さいました。
すると続けるうちに地元の方もご挨拶下さるようになったそうです。彼女のひたむきに謙虚に人のために尽くし続ける姿勢が皆さんに通じたのですね。
「最初は子どもたちのためと思っていたけど地域の方や遠くから見学に来る方みんなの向日葵になってきたんです」
「花を見て笑顔になってくれるのが私は嬉しいんです」と仰っていました。
花を見た方が心安らいでくださる。それがご自身の心の安らぎにもなっているのですね。
また、ご自身の根底には津波で家族を亡くし辛い思いをしているご友人に何もしてあげられないでいたことがあるとも教えて下さいました。
人の悲しみやつらさを自分のこととして受け止め、他の安らぎや幸せのために尽くしていく。そうしてみんなが心安らいだところに私たち一人一人の安らぎも共にある。『あなたの安らぎは私の安らぎ』です。誰もが幸せに生きていける仏さまの教えです。彼女の向日葵のように、人を笑顔にできる安らぎを与えられる、そんな花をご一緒に咲かせて行きたいですね。 
「ばあちゃんへ」 15
かれこれ十五年以上前。蝉の声がやけにうるさく感じた、暑い夏の午後。
当時私は二十三、四歳、祖母は七十に手が届くか届かないかだったと記憶している。年齢はあやふやだが、その日の祖母の言葉と、映像はやけに鮮明に覚えている。
大きなテーブルを挟んで、二人でスイカを食べていた。スイカの果実が赤から限りなく白に近いピンクにかわり、もう一すくいいけるかどうか悩んでいると、祖母は私に向かって言った。「あたしがあんたのこと、わからんようになったら、それはあんたの為だからなぁ」一瞬意味が理解できず、おそらく私はとんでもなく間延びした表情をしたと思う。ばぁちゃんは「あたしが病気で苦しんだら、それもあんたの為だ」と続けた。
ばぁちゃん、まさか認知症が…、ではなかった。
よくよく話を聞くと…
もし病気になったら、沢山沢山迷惑をかけるだろう。苦しみもする。しかしそれを見て、あんたは「もう苦しまなくていい」、「あの世に逝ってもいいよ」と思うだろう。そうすれば悲しみは少なくて済む。
これは昔からおばあちゃん子であった私を、思いやっての発言だった。ほっとしたのと同時に、少し腹が立ったのを覚えてる。
ばぁちゃんに関し、もう一つ忘れられない光景がある。
ばぁちゃんの孫、私にとっては妹。その妹が死んだ時だ。
火葬の日。あなたは子どものように駄々をこね、火葬の釜の扉が閉まらないよう必死で抵抗した。事実あの時あなたは子どもだった。その尋常じゃない様子に、支えなくちゃならないとその場にいた家族は誰もが思った。
今思うと、ばぁちゃんを世話し、暴れるのをとりおさえ、なだめざるを得ないことで、あなたの娘でもある、私の母は正気を保ったのだ。支えてるつもりが、実は支えられていた。
そして四年前。予告通り、病気になり、愚痴をこぼさず、旅立った。
今年もお盆の季節がやってくる。
ありがとう。
ばぁちゃんが家族に残してくれた慈しみと悲しみ。『慈悲』に包まれ、今、生かされてるよ。
今年も御馳走用意して、待っているから。 
「幽霊の話」 16
先日お檀家から質問を受けました。「幽霊はいるの?」というものです。
この質問は、意外と多く、その度に私は幽霊を「確かに最近見かけることが多いですね。」とお答えいたしております。
全国各地のお寺には、幽霊が描かれた掛け軸が多数存在します。
ほどけたばさばさの長い髪、着崩れた服から両方の手を前にだらりとたらし、さみしげな表情をうかべ、今にも「怨めしや〜」と掛け軸から声が聞こえてきそうな、そんな風に書かれた絵です。皆様はお寺、もしくはテレビ等でご覧になられたことありますでしょうか?
以前、曹洞宗の先輩和尚様から聞いたお話です。
所謂幽霊の絵で描かれる長い髪、あれは『後ろ髪引かれる想い』という言葉があるように、過ぎ去ったもの、つまり過去に対していつまでも執着している心を表したものである。
また前にだらしなく出されている両手は『欲しい欲しいの手』といって、未だ来ぬもの、つまり今はまだおとずれてない未来ばっかりに気持ちが向いてしまっている、その欲望の気持ちを表している。過去にとらわれ、未来ばっかりに手をのばし、『今』をないがしろにしてしまっている状態。
幽霊にはもう一つ特徴があります。足が描かれていないというものです。そうです。『地に足がついていない』ということです。ふわふわしたなんとも頼りない生き方。『今』をしっかり『生きてない!』
ここに幽霊の完成です。
禅の言葉に「看脚下」というものがあります。自分自身の足元をしっかりと見なさい、という意味から、よくよく自分を見つめ、『今ここ』瞬間瞬間を生きなさいとの教えです。過ぎた『今』を過去と呼び、『今』の積み重ねが、未来となる。『今』をぼんやりと過ごしては、過去も未来も良いものとはなりませんね。
さて、ふと思えば、なるほど。禅宗の僧侶が、頭を丸め、また歩くときは、『叉手』といって胸の前でしっかりと手を組む姿は、〈今を生きる〉という姿勢を表しておるものでありましょう。幽霊とならぬよう、ご一緒に、怠らず精進致しましょう。 
「よき出会いを求めて」 17
将来、看護師になることを夢見る一人の少女がおりました。
しかし、彼女は、「人を愛するということは、どういうことか。」という疑問にぶつかり、看護師の仕事に希望が持てなくなりました。
そんな時、ある病院の研修で、一人の看護師さんに出会いました。
その看護師さんは、足のけがで入院していた少年に、リハビリをするように勧めておりましたが、その少年はなかなかリハビリをしようとしません。
やがてその少年は、自分の手に持っていた積み木を、その看護師さん目がけて投げつけました。積み木は、看護師さんの額に当たり、そこから一筋の血が流れ出しました。
それを見た少年は、とっさにその場から逃げようとして、二・三歩よろよろと歩きかけました。
するとその看護師さんは、額から血を流しながら、「歩けてよかったねえ。」と言って、その少年を抱きしめました。
「人を愛するということは、こういうことか。」
少女は、その看護師さんとの出会いの中で、人を愛するということについて学んだといいます。
このように、その時の出会いが、その人の人生に大きな影響を及ぼすことがございます。ほとんど絶対的に、その人の人生を決めてしまうことさえあります。
ですから、誰と出会い、どういうものに巡り会うかということが、私たちの人生において最も重要な意味を持っているのです。
瑩山禅師様は、お若い頃に方々のお寺を訪ねられて、そこで色々なことを学ばれました。そうして、終には徹通義介禅師様との出会いの中で、大いなるお悟りをお開きになられました。それはまさしく、優れたお師匠様との出会いを求めた修行の旅であったのです。
自らの人生をより深く、より有意義に生きていくために、私たちもまた、よき出会いを求めていく努力を惜しんではなりません。
加えて、自分自身の存在が、他人にとってよき出会いとなれるように、お釈迦様や両祖様のみ教えを真摯に学びながら、日々の精進を重ねて参りましょう。 
「尊い命を大切に生きよう」 18
四月八日はお釈迦様の誕生日・花まつりの日です。別の言い伝えでは、五月の満月の日が誕生日だという説もございますが、日本ではだいたい四月八日となっているようです。
地方によっては旧暦の四月八日に合わせて行われているところもございますが、各地で花祭りの行事が厳かに、また華やかに営まれております。
お釈迦様はお生まれになるとすぐに七歩歩まれ、一方の手で天を指さし、一方の手で地を指さしながら、「天上天下唯我独尊」とおっしゃったと言われています。これは「天にも地にも命は一つ」という、尊い命の宣言に他なりません。
私たちの命は、それがどんなに小さなものであっても、天にも地にもたった一つしかない、かけがえのない尊い命であり、その尊い命をお互いに大切にしていくことが、お釈迦様の誕生のお言葉に込められた願いでもあるのです。
このような尊い命を大切に生きるためにも、日々精進を重ねながら、より良い方向へと進んでいく努力を怠ってはなりません。それは単に財産を増やすとか、名誉栄達を得るということだけではなく、むしろ自分自身の内なる心の向上に努めるということです。
「玉は琢磨によりて器となる。人は練磨によりて仁となる。」という言葉がございますが、どんなに素晴らしい原石であったとしても、磨かなければ光を放つことはありません。それと同じように、人は日々精進を重ねることによって、はじめて人となるのです。
『法句経』の中に、
ひとの生を うくるはかたく やがて死すべきものの いま生命あるはありがたし 正法を 耳にするはかたく 諸仏の 世に出づるも ありがたし
という言葉がございます。
私たちは、そのありがたい命・受けがたい命を幸いにして受けることができました。その上、正しいみ教えに出会うこともできました。
そのことに喜びと感謝の心を抱きながら、お釈迦様、道元禅師・瑩山禅師の両祖様のみ教えにしたがい、尊い命をよりよいものにしていく努力をお互いに続けて参りましょう。 
 
日蓮宗 

 

いのちに合掌 1
ではご法事の場合という設定でお話をさせていただきます。
皆様方と同じなのですが、欲令衆を唱えて、お自我偈でお焼香、本尊抄を読んで、お題目の時ですね。必ず「合掌をお願いします。大きな声でご一緒にお題目をお唱えいたしまして、仏様に供養をいたします」と声をかけます。みんな大きな声で唱えますので、それが一番やはり理屈よりも、まず大事と思いずっと実践をしております。
終わって、必ず法話をするわけですが、基本的にはやはりまず故人の追悼の言葉ですね。よいところを褒める。それから、お葬儀の打合せの時にリサーチをして、テレビは何を見ていましたか?食べ物は何が特に好きでしたか?嫌いなものはありましたか?そういったエピソードを聞いておくことは、非常に大事と思っています。
また、最近は「魂の繫がり」という話をしております。
人間というのは誰しもですね、横軸と縦軸の交わるところにおります。
横軸は今こうして一緒にお題目を唱えて、今一緒に生きている川越の人、埼玉の人、日本の人、ずーっと世界の人が一緒に生きている。今を一緒に生きているのが横軸です。
縦軸というのは、自分がおりますと、必ず、お父さん、お母さんがいて、そのまたお父さん、お母さんがいて、ずーっと、繋がっているわけです。
さっきの横軸は独楽のこの肉の部分、そして縦軸の方は独楽の芯の部分。縦軸の芯が真っ直ぐになっていないと、独楽もですね、グルグルグルグル、変なふうな形で回ってしまう。だから縦軸は特に大事です。
人間というのは錯覚をしておりまして、生きているものだけで生きている、とそう思ってしまいます。横軸だけですね。でもそうじゃないんだ。人間っていうのは、生きているものと、縦軸の先に亡くなったものと一緒に生きているのがこの世界です。
亡くなった人は、過去は関係ないってことではなく大聖人の御妙判『諸法実相抄』にも「三世各別あるべからず」とあります。
過去と現在と未来と三世がそれぞれ別々にあるのではなく、密接に繋がっている。「三世各別あるべからず」で、生きている人も亡くなった人も一緒に生きているのがこの世界、と仏教は教えます。
女優の若尾文子さんをご存知ですか?最近コマーシャル出ていますよね。真っ白な犬と戯れてですね。会話しているコマーシャルやっています。あれはソフトバンクですかね。犬が会話するんですね。
ご主人が世界的に有名な建築家で黒川紀章さん。この前の前の参議院選挙に立候補しましてね。皆様方もテレビではご覧になったと思うんですが、お金を出しまして、こういう四角いガラス張りの透き通った車を作って、そこに若尾文子さんとね、黒川紀章さんが並びまして、「一票お願いします」と選挙運動をやっておりました。
残念ながら落選したんですが、覚悟の選挙みたいなことを言っていて、平成19年10月12日に亡くなりました。大聖人のお命日、前の日ですね。
その当時、若尾文子さんが、一歳年上74歳、黒川紀章さんが73歳。年が明けましてから、親しい人が集まりまして「偲ぶ会」というのをテレビのニュースで放送していました。
若尾文子さんがマイクをもちまして、ご挨拶をしていたんですけども、あれ、女優さんっていうのは言うこと違うなって思って書き留めたんですが、はじめこう言ったんです。
「うちの主人の肉体が亡くなっちゃったんです」とおっしゃってね。
「うちの主人の肉体が亡くなっちゃった」とおっしゃって、普通は癌でこうなりましたとかですね。脳梗塞で倒れましたからって言い方するんですけども、のっけからそうおっしゃったんですね。
でも確かにその通りですね。亡くなりますと、一緒に話をしたり、ご飯を食べたり、時には喧嘩をしたりってできなくなりますからね。もう二度と会えないってことになります。肉体の方はね。そういうことになります。「あっそうだな」と思っておりましたら…。
その次にですね。これはあの「ある人から教わったんですけど」っていう前置きがあったんですけども、「ある人から教わったんですけれども、人間っていうのは二度死ぬっていうふうに教わった」とおっしゃったんですね。
「あれ、二度死ぬって何かな」と思いましたらば、一度目はですね。心臓が止まってお別れをした時ですね。
「二度目は」ですね、「うちの主人のことが皆様方から忘れられてしまって記憶がなくなってしまった時だ」とおっしゃいました。記憶がなくなってしまった時だって「ですからどうぞ忘れないでいつまでも思い出してやってください」というご挨拶だったのですけれども。
その時に思いましたのは、黒川紀章さんについて新聞やテレビが取り上げなくなっても、おうちの方の記憶と記憶が繋がっていくので、世間の記憶が薄らいでも、近しい人の記憶がなくなることはないんじゃないか思いました。
でも仏教の方では、記憶と、記憶というよりも、亡くなりますと「魂と魂の繋がり」だってお教えるので、「いやーもっと深い気持ちで繫がっているんだけれど」と思いながら書き留めまたものです。
「魂」っていうのは、「大和魂」とか、あるいは「職人魂」とか、私はジャイアンツ・ファンで報知新聞をとってたんですけども、「ジャイアンツ魂」なんて言います。最近、読売と朝日が喧嘩はじめたりしてジャイアンツ魂もおかしいんですけども…。
魂っていうのは字引を引きますと、こういうふうに出てきます。「肉体を離れた精神的本体」とかですね。肉体を離れた精神的本体、また逆にですね「肉体に宿って不思議な力のあるもの」なんて出てきます。
漢字で書きますとね。あの人間の方の魂は「云う偏」に右は「鬼」みたいに書きますね。こう書いてね。最後こう「ム」って書きますね。「コン(魂)」とも言いますね。
亡くなった人のたましいも漢字で一字ですね。ご存知のとおり。亡くなった人の魂も漢字で一字です。お塔婆に何々の霊と書いてありますね。「霊」(たましい)ですけど、これですね。「雨」って書いてですね。それで並木の「並」って書きますね。けれども「霊」これ略字なんです。で、元の字はね。こういう字なんです。
字引引きますと「たましい」って出てきますけれども、これ雨は同じなんですが、その下に丸がちょんと三つありますね。この丸い点というのが、これは天から降ってくる雨の雫。普通の雨の雫じゃなくて、清らかな雨の雫をあらわします。
で、下に人間みたいな形が二つございますね。両脇にあります。これは確かに人間を表すのですが、普通の人間ではなくて神に仕える清らかな巫女さんをあらわします。神社に行きますねと、真っ赤な袴に真っ白な着物を着た巫女さんです。ですから雨を隠しましてこの下に女って書くと巫女っていう字なんです。巫女って字なんですね。
霊っていうのは、「たましい」という意味です。でも霊なもんですから、最初は、あの亡くなった人だけの「たましい」って使うかと思ったんですけども、これは、生きている人にもよく使いますよ。
例えば、相撲の白鵬が大関から横綱になります時に相撲協会から使者が来まして、「横綱に推挙します」と口上を言うんですね。紋付袴で手をついて口上を言うんです。
私は貴乃花ファンだったんですけども、貴乃花は法華経の「『不惜身命』で頑張ります」と言ったんです。身命を惜しまず命懸けで頑張ります、と言ったんですね。
白鵬はなんと言ったかといいますと、「相撲道に全身全霊で頑張ります」と「全身全霊で」と言いました。全身全霊ですから身も心も魂も全てでという意味です。これはよく使います。
この間も参議院選挙の時にも自民党の谷垣さんがね。谷垣さんは日蓮宗の檀家で、あっ、奥さん亡くなられましたが、「自民党のために全身全霊で頑張ります」と言っていました。
私、この「霊」というのを、違う言葉に置き換えますと、「心」っていう字に根っこの「根」と書く言葉があるんですが、「霊」とは「心根」ということじゃないかと思うんですね。
今日の仏様、○○さんは「心根優しかったね」と言いますとと、その人の芯っていいますか、核っていうのは、一言でわかりますね。そのいい心根がぐっとこう結晶したみたいなものを仏教では魂とこう言っています。
これは「魂の繋がり」ですよね。「記憶と記憶の繋がり」ですと、こうやって本堂までお運びいただいてですね、お経をあげさせてもらえないんじゃないかと、こう思うんです。
こうやってお運びいただいて、お経をあげさせてもらうのは、記憶と記憶じゃなくて、魂と魂が繋がっているからと思います。
何故かって言いますと、故人が(○○さんが)仏壇の中から、息子さんや娘さんを見てですね、「もうじき三回忌だからお寺へ行って坊さんにお経をあげてもらいなさい」なんて言わないんですよね。そうは言わないけれども、こうやってお運びいただくということは、間違いなく魂と魂が継がっているからだと思います。
宗教っていうのは必ず拠り所の教典があって、私どもは法華経なのですが、キリスト教はご存知の通り聖書ですね。オバマ大統領は、聖書の上に手を置いて「頑張ります」って誓いました。
日本は仏教の国で、「法華経」がお経の王様といわれ、聖徳太子以来大事にされたお経です。総理大臣も必ず就任の時には、お経の上にこう手を置いて、宣誓すると少し違うんじゃないかとこう思うんですけども…。
そしてその法華経は一部八巻二十八品って言います。八巻っていうのは、昔はあの忍者の巻物みたいなものが八つあったので八巻ですね。法華経一部は八巻があって、二十八品、小説で言えば第一章から第二十八章まであって、その中の一番大事なところが第十六の如来寿量品、その中に「生きてあるがごとく一緒」という意味の言葉があります。それが、
常在此不滅(常に此にあって滅せず)
常住此説法(常に此に住して法を説く)
です。
つまり、亡くなった故人と、魂と魂がつながった時には「生きてあるがごとく一緒」なんですね。それを実際のお経文では「常在此不滅」「常、在、此、不、滅」(じょう、ざい、し、ふ、めつ)「常にここにあって」って読みます。
亡くなったお母さんもね、日蓮聖人も、お釈迦様も、常にここにあって魂と魂が繋がった時には「常にここにあって滅せず」ですから、「生きてあるがごとくに一緒」ですよ、ということなんです。
次の「常住此説法」についてですが、本堂のご本尊は一塔両尊四士ですが、仏様とも、魂と魂がつながった時には、インドのお釈迦様の本体の本仏の釈尊も、日蓮聖人とも、魂と魂がつながった時には常に「常、住、此、説、法」「常住此説法」で「常にここに住して教え(法)を説いている」。その教えを説く声が聞こえてきますよ、と説かれています。
魂の繫がりは非常に大事です。魂と魂が繫がっているということは、生きているものだけで生きているのではなくて、亡くなった人もともに一緒に生きているんだっていうことですね。
先程お題目をご一緒にお唱えいたしました。こうしてお集まりいただいて、ご一緒にご供養いただきました。故人の○○様は、あの霊山浄土の日蓮聖人のね、右か左にいらっしゃっています。
ところで、川越には天台宗の喜多院という大きなお寺がありまして、そこに「多宝塔」、木造の多宝塔があります。ご本堂のご本尊をまつっているのが、多宝塔という塔なのですが、その中にある「ご本尊」っていうのは何かって言いますと、お檀家の方には、お仏壇の真ん中一番高いところに曼荼羅本尊という文字の曼荼羅をかけてもらっています。この「ご本尊」というのは一言で言いますと、「根、本、尊、崇」(こん、ぽん、そん、すう)といって「根本尊崇」。「尊」は尊重の尊で、「崇」は崇拝の崇です。ですから根本から尊重されて崇拝されるものをご本尊といいます。
ご本尊の中のお祖師様、日蓮聖人は、法華経をお持ちになっている。法華経を説いているお姿です。
今日は亡くなったお母様のご供養。日蓮聖人の右か左にいらっしゃって、ニコニコしながら皆様のお気持ちを受け止めていらっしゃると信じております。 
いのちに合掌 2
正福寺の院首をしております稲垣宗孝と申します。
正福寺では保育園を経営しております。「たちばな保育園」と申します。
食事になりますと子ども達の中でリーダーが「姿勢を正しましょう。手を合わせましょう。ご挨拶を致しましょう。いただきます。」と指示をし、終わりますと、同じ作法で「ごちそうさまでした」と挨拶します。
午前、午後のおやつの時を含め一日三度この挨拶をしています。
この「合掌」ですが、そもそもは、インドで仏様や菩薩に対して敬意を表するための礼儀作法でありました。
それがインドとともに東南アジアの方面では日常生活の中に溶け込んで挨拶になっているようですし、我が国では、仏教の信行作法以外では、食事の作法とし定着しているようです。
考えてみれば、動物でも、魚でも、植物でも、その命をいただいて生きているわけですから、命に感謝して合掌することは、非常によい習慣で、これまで同様これからも続けて行くべきだと思います。
ところで、この命ですが、動物や植物は人間等に食されることにより、その命は尽きると思われています。もっとも、食される動物等の供養を行う場合もありますので、一概に、なくなってしまうとも言えないのでしょうが、感覚として、それらの命が、魂として死後も存続するとは考えにくいでしょう。
ところが、人間は亡くなっても、命が無くなったとは考える人ばかりではない。心の中にある仏性、仏の命は永遠であると信じている人々もいます。人間に宗教があるのはそのためです。
例えば、法華経、知来書量品第16の中で「例え大火に焼かるると見る時も、我が此の土は安穏にして…」とありますように、「大火に焼かれるような苦しみの中でも、仏の命に入れば安穏である」とお釈迦様は仰っておられます。
人世の諸々の苦しみから離れて、仏の世界に入れば永遠の命が約束される、だから人間の魂は死なないと仰せなのでしょうが、そうなんだけれども、やはり、肉体の死は人間の苦しみの中で、一番重いものです。
死んでしまえば、妻も子どもも、財産も全て消えてしまう。だから一時でも長く生きたいと言うのが人間の情です。
従って仏の世界に入れば死なないんだと言われても、身体のある限り死にたくない。これが人間の本心でしょう。
そこでお釈迦様は、繰り返しますが、人生には逃れることのできぬ「老病死」の苦しみがあるんだと仰っています。
ところで、若い方等の中には、「生まれてめでたいと思っていたら、その後にすぐ老病死がくっついているので暗いなあ」と思う人があるようです。感覚としてそのような気持ちになるかも知れませんが、これは間違いで、お釈迦様は「人は生まれればめでたいけれど、その後は、喜びや悲しみ、楽しみや苦しみ色々なものが混ざり合って老年を迎えるんだ。そして、そこに行くまでに亡くなってしまう方もあるけれども、そして、何とか老年を迎えても、次いで病と死が訪れる。ですから、人生に老病死は当然で、むしろそれをちゃんと認識して生きなさい」と仰せになっています。
それでも、そのようなお釈迦様の戒めを知りましでも、なかなか本当に納得できないのが我々です。特に若いときは、健康で適当にお金もあり、家族も元気で、仕事も何とか進んでいれば、そのようなことは考えようとしません。
また、色んな勉強や修養を積んで、人生を理解していると思われているような人でも、なかなか自分の心の仏性、命を見ようという所までは行きません。残念ですが。
しかも、自分が逆境になったときでも、お釈迦様の仰っていること素直に信じ切れるかどうか。難しいのも事実です。
しかしながら、また反面、ちょっと見れば平凡な方が、例えば大病になったとして、あわてふためいて泣き悲しむかというとそうではなく、堂々とした、穏やかな最後を迎える方もおられます。
これは、平成1 7年のことです。例えばKさんとしましょう。
お寺の檀家のKさんが亡くなられたのは6 7歳でした。
お母様と2人暮らしで、地元では大きな規模のデパートに勤めておられました。そのころは仕事も忙しく、なかなかお話しをすることもできませんでしたが、お母様の葬儀の際、引導文の中に私が母上の思い出を書いていたものですからそのことを「結構な文( おふみ) をいただきありがとうございました」と大層喜ばれ、その後仏事を通して話す機会が多くなりました。
中学卒なんですが、それで課長までなられました。しかも女性でその地位につく人は少ないそうです。努力に加え並みの能力ではなかったのでしょう。
そのKさん、お母様の亡き後は、時間が出来たのでしょう、短大へ行ったり、海外旅行をしたり、悠々自適の日々でしたが、「好時魔多し」と申しますか、60歳頃になって膵臓を患われました。始めは内科治療でしたが、遂に癌に移行、66歳の時、手術をすることになりました。
膵臓癌というのはなかなか回復が困難と言われています。本人も一心に回復を願い信仰をしておられましたし、私も力一杯祈念を致しました。
手術は成功し退院をされ、しばらくしてお寺にお参りになりました。明るく話されるものですから、膵臓癌は延命が難しいといわれているが、案外これは良くなるのではないかと思っていましたら、半年後、遂に亡くなられました。
もうお母様も亡くなっておられますので、身内の人は誰もいません。ただお一人です。どんな葬儀になるかと思っていましたら、なんと200人を超える方々が会葬され別れを惜しんでおられました。多くの方々とよほど深い親交があったのでしょう。
まもなく職場の上司であり、Kさんの姉のような方である浅野様という方が、葬儀のお礼に来られまして、故人の遺言だと言って、かなりの大金の寄附をされました。お寺の修理の使おうが、仏具を求めようが使途はご自由にとのこと。
驚きました。果たして、頂いていいものかと思案をしていますと、浅野さんは、「これは彼女が手術を受ける前に私も手伝い、世話になった方々へ遺品分けをするときに、お寺に持参するように言われていたものですので、何卒お納め下さい」と念を押されましたので頂戴いたすことにしました。本当に感慨無量のものがありました。
手術前には既に自分は死ぬと思っておられたのでしょうが、出来るだけ明るく振る舞っておられました。私も、一時は回復されるのではと思ったほどです。
だけど亡くなられました。その時には既に死後の用意がしてありました。気丈夫で潔い方です。
ですけれども、やはり私は、彼女は毎夜毎夜、涙を流しながら、命のはかなさを恨んだと思います。
お釈迦様は法華経、知来書量品第十六で「常に悲感を懐いて心遂に醒悟す」と仰せになっておられますけれども、恐らくKさんは、涙に洗われた目で、心の中の仏性を見つめ、それを仏の命と確信されたのでしょう。そして、自分の心の中にある仏の命に合掌して、亡くなる何日かの日々をすごされたのではないかと思います。
人生67歳の他界は今日では惜しみの多い年令です。今や、90歳や95歳の人もかなりおられます。しかし、お釈迦様の目から見れば、90歳も100歳も一瞬です。長寿は結構ですが、大切なのは、仏様から頂いた命を生かす生き方が出来たか、身体が亡くなっても、その命は来世で修行できるという確信が得られるかどうかだと、Kさんの生きざま、死に様を見て、私はつくづくと考えさせられます。
「いのちに合掌」「命に合掌する」と言うことは、私達が自分自身の心に向かい合掌することで、心の中に「仏性・仏の命」があることを自覚することだと思います。なかなか自覚できなくても、それを念じ、その思い、動作を繰り返すことで仏の命が備わっていることを信じようとすることでしょう。
そして、お釈迦様は「全ての衆生に仏性あり」と仰っているわけですから、自分のみならず、みんな仏性を持っている。仏の命を持っていることになります。ですから、挨拶の時合掌し会う、東南アジアの作法は、お互いの仏性を拝んでいることになるのでよい作法だと思います。
先ずは、自分の命に合掌し、次は自分に近い方々、即ち家族の命に合掌、そして、地域の人々の命に、さらに社会の人々へと広げていくような心になればどんなにすばらしいかと思うこの頃です。
ご静聴感謝します。お題目一唱お願いします。 
いのちに合掌 3
皆さんこんにちは。私は神奈川県横浜市蓮久寺住職の鈴木浄元と申します。どうぞよろしくお願い申し上げます。
私が住んでおります横浜市も人口がたくさん増えまして、多くの人が住んでいる所でございますけれども、いいような悪いような話がございまして、人が多くなっても仲間同士、絆というのが薄くなっている。
今問題になっている孤立死というものがございます。横浜の旭区という地区で、昨年の12月でございます。新聞の切り抜きを持って参りましたが、普通のお家で母親77歳、そして重度の障害を持った息子さん44歳が孤立死をなさっていた。亡くなっていたという話でございます。周りの人は気付かないで、しばらく経ってから、お二人の死が確認されたと、本当に悲しいことでございます。
人口が多くなっても隣の人が何をしているか、死んでることも分からないようなそのような世の中になってしまったのは悲しいことでございます。町内会に入っていれば、民生委員の方が見回りに来てくれたかもしれません。けれども町内会に入っていないで孤立して亡くなったのでございます。お母さんはきっと重度の障害をお持ちの息子さんと一緒に慎ましく暮らしていらっしゃったと思います。けれども自分が体を悪くなさいましてお亡くなりになって先に亡くなって、その後息子さんも亡くなったと推察するのでございます。
この報道、新聞記事を読みまして、お母さんって偉いなあと思ったのでございます。子供のために働いて、息子のために食事を作ってあげていた。自分の体、病院に行くことも出来ない。けれどもお母さんは一生懸命、子供を養っていたのでございます。お母さんの偉大さというのが改めて感じられたのでございます。
けれども今はそのようなことばかりではございません。子供を捨ててしまう親もいるわけでございます。大聖人様の時代も同じでございます。親孝行な子供は少ないとおっしゃられておられます。
「一谷入道御書」というお手紙がございます。その中に若き夫婦が、夫は妻を愛し、妻は夫をいとおしむ。父母は薄い衣を着てる。
「我はねやは熱し、父母は食せざれども我は腹に飽ぬ。…是は第一の不孝のもの」なり、とおっしゃっておられます。
お父さんお母さんがいても自分はあったかい寝巻きを着ていてもお母さんには薄い寝巻きしかあげない。自分はお腹いっぱい食べてもお父さんお母さんには食べ物を与えない人がいると、これは親不孝の大事のものであるというふうにおっしゃられているわけでございます。このようなことではいけない。やはり恩ある父母を孝養を尽くすということが大切であると大聖人様は私たちに教えていただいているのでございます。
先だってお彼岸がございました。あるお檀家さんの法事がございました。そのご親戚の中に皆さんもご存知かと思いますが、歌手の二葉百合子さんがいらっしゃいました。その二葉百合子さんが歌って大ヒット致しました「岸壁の母」という歌がございます。そのモデルとなったのは石川県出身の端野いせさんでございます。
いせさんは明治32年に石川県羽咋郡にお生まれになり、ご縁がありまして青函連絡船の乗組員である旦那さんと一緒になりまして女のお子さんをもうけたのでございますが、昭和の5年の頃に相次いで旦那さんと娘さんを亡くしてしまいました。函館の資産家である橋本家というおうちから新二さんという男の子を養子にもらいました。新二さんと共に昭和6年に東京の大森に引っ越して参りました。洋裁をしながら生計をたてて息子さんと暮らしておりました。
新二さん、その新二さんは、その養子になった新二さんは大学に入りましたけれども自分は兵隊さんになると言って満州に行くことになりました。満州に行って兵隊さんになるんだ、お母さん申し訳ないですけれども兵隊さんになることを許して下さい、といせさんにお願い致しまして、満州に渡りました。
昭和19年のことでございますが、激しい戦闘で中国の牡丹江という所で新二さんは行方不明になってしまいました。いくら手紙を出しても戻ってこない。本当に心配で心配でならない親心でございます。いせさんはそれでもしんじは帰ってくる、必ず帰ってくると神仏にお願いをしたのでございます。シベリアに抑留された方がたくさんいらっしゃいました。その中に入っているのではないか、そう思ったいせさんでございます。
終戦になりました。引き揚げ船が日本に参ります。多くの方が大陸から日本に戻ってくるのでございます。兵隊さん、そして一般の方、多くの方が引き揚げ船に乗って戻って参ります。京都の舞鶴港という所でございます。いせさんは名簿を見ても、その中に新二さんの名前はないけれども、ひょっとして帰ってくるんじゃないかと思い、その日を目にするために、ひと針ひと針縫いながらお金を貯めて鈍行列車に乗って京都舞鶴まで迎えに行ったのでございます。ああ今日も船に乗ってなかった。岸壁に立って涙を流されたのでございます。そういった方がたくさんその岩壁にいらっしゃったそうです。
それを見て「岸壁の母」という詩が作られました。歌になって全国の人に共感を呼びまして、岸壁の母、二葉百合子さんがまたセリフ入りで歌うことによってまたまたヒットしたということでございます。岸壁に立って、新二、新二とただひたすらに待っていた、いせさん。これも母心。この強いこの母の思いというものが届いたということは、それからだいぶ経った後のことでございました。
新二さん、亡くなっていたという、思っていたけれども、実は中国で生きていらっしゃいました。戦友が訪ねて行って、この方は端野いせさんの息子さん、新二さんだろうということが分かりました。けれども新二さんは帰ってくることは出来ません。中国の人となってレントゲン技師となって家族をもうけているわけでございます。家族のこともあり、今更日本に帰れないということでございます。
けれど、いせさんはやはり会いたい、ひと目でも会いたい、息子新二に会いたいと願い続けました。
何度も戦友たちの勧めによりまして、新二さんはお手紙を書いたのでございます。お母さんにお手紙を書いた。けれどもその時お母さんは病におかされました。病院で81歳、昭和56年7月1日に81歳でお亡くなりになりました。お手紙が着く頃には残念ながら亡くなっていったのでございます。
けれどもその母親の思いが息子さんに通じまして、新二さんに通じまして、親子の絆が結ばれたということがこの岸壁の母のお話でございます。
「三世諸仏の慈悲心は母の苦労と変わらざりけり。」
「三世諸仏の慈悲心は母の苦労と変わらざりけり。」
仏様の心というのはお母さんが我が子を愛する気持ちと同じである。子供が苦しんでいれば早く治るようにして、病気ならば早く病院へ連れていって看病してあげたい、お腹がすいていたら美味しいものを食べさせてあげたいという気持ち、早く治るようにという気持ちで仏様も私たちを導いてくださるのでございます。
法華経譬喩品第三に「今此の三界は皆これ我が有なり。その中の衆生は悉くこれ我が子なり。しかも今此の所は諸の患難多し、唯我一人のみ能く救護をなす。」というお経文があります。
その仏様の慈悲心を知り、私たちは仏の子として自覚を持ちまして生活していく、このことが私たちにとりまして一番大切なことなのであります。
岸壁の母の端野いせさんのお話をさせていただいて、母親の愛情の深さその心というものは仏様の心と一緒であった。そのことに気付いて私たちは日夜、「いのちに合掌」の精神で、お題目の修行を続けていかなければならないということをお話させていただいて私のお話を終わらせていただきます。
最後にお題目を三返お唱えさせていただきます。 
いのちに合掌 4
高座説教、テーブル法話、講演、人権問題講演など、テーマを頂くとそれに対応できる。フットワークは軽いです。依頼されたことには全力で対応したいです。
「白露の己が心を玉にしてもみじに置けば紅の玉」
自分の心をひとつの白露と例えて考えてみた時に、その白露がちょうど赤く染まった紅葉の上にがぽつんと落ちた時には、きれいな紅色に染まって自分の目にその白露の光をみせてくれる。
しかしながら、仔細にそのもみじの葉を見てみますると、その紅葉の葉には茶色に染まったところもあれば、虫に食われて穴の空いているところもある。赤いところに白露が落ちた時には赤く、紅色に染まり、茶色に染まったところにその白露が落ちた時には茶色に自分の目に見せてくれる。
しかしながら、ちょうど穴の空いているところに上から白露が落ちたとするならば、葉にとどまることなくして下の泥にまぎれてしまう。自分のこの、心というものもこの白露のように明るく紅色にも染まり茶色にも染まり、そしてまた泥水の中にもまぎれてしまうものではないでありましょうか。
自分の近くの小学校に磨光小学校という学校があります。まこうの「ま」は磨く、「こう」は光と書きます。まあ磨けば光るとも読める校名でありますが、その磨光小学校の3年に伊藤ゆき子ちゃんという女の子がおります。誠に元気がよいクラスでも人気者の彼女でございますが、お父さんは伊藤敏明さん38歳、お母さんは裕子さん35歳。誠に親子仲良く暮らしております。
先年おばあさんを亡くされておりましたけれども、本当に3人の親子は仲良く暮らしてございましたが、ただ一つ心配なことが、このゆき子ちゃん周りの子供と比べて見た時に少し発達が違っていたようでありました。
3歳の頃になりますると、まずお母さんが「ねえあなた、少しゆき子、周りの子供と比べてみた時にちょっと違うような気がするんだけれど」
「そうかねえお前、私にはそんなふうには見えないけれども」というような会話が幾度かなされた挙句、
「ねえあなた、いっそお医者さんに相談してみましょうかしら」
「あー、お前が気になるのならばそれもよかろう。一度、先生に相談してみたらどうだ」
と言うので病院に行って先生に色々と調べてもらって診てもらいましたところ、
「お母さん、確かにお母さんが心配するようにゆき子ちゃんは少し他の子供と比べた時に発達が遅いようですね。体の方も脳の方も少し他の方とは…。まあそんなに気にする程ではありませんから、もう少し様子を見てみましょう」
というので、それから1年、2年と様子を見ながら元気なゆき子ちゃんを育てておりました。
ちょうどその年が小学校に入学するという年になり、学校ではあらかじめゆき子ちゃんをオオルリ学級に入れようということで親御さんの敏明さんと裕子さんと相談を致しました。
「なんとか先生、普通学級に入れて他の子供と一緒に勉強させてやってくれませんでしょうか」
強い両親の、お父さんお母さんのその希望に、学校の方でも「それならば」というので、普通学級で勉強することになりました。みんなの中に入ってやはり学校生活は楽しいものでありました。
1年、2年、3年と学校生活をして参りまして、やはり一番楽しみであったのは運動会でありました。ゆき子ちゃんはその運動会の中でも駆けっこが一番好きでありました。
しかしながらゆき子ちゃん、他の子供と比べて少し走るのが遅かったものですから、いつ走っても一番ビリでした。
1年の時も2年の時もビリでありました。それでもみんなと一緒に駆けっこをするというのが本当に楽しみで、楽しくて楽しくて仕方がないゆき子ちゃん。3年生のその時には本当に前の晩からはしゃいで、その日になりますと
「お父さん、行ってきます」
という元気なゆき子ちゃんの声に
「随分ゆき子、今日は元気がいいね、にこにこしてるね、何かいいことでもあったの」
「うん。昨日、運動会の練習の時に隣で走ってたあけみちゃんが「ヨーイドン」と一緒に走った時に、途中で転んだの。そして足くじいたの。だけども明美ちゃん、絶対運動会に出るって言うから、ゆき子ね、きっと明美ちゃんを抜いて7番目になれるかもしれないの」
「あーそうか、それでニコニコしてたのか。がんばんなさいよ。お父さんも仕事片付けたら応援に行くからね」
と言って、元気に送り出す。お母さんも弁当をこさえて後から学校の方に参りました。
競技が進んでいって、3年生の徒競走の番になり、1組目、2組目が終わって3組目のゆき子ちゃんの番になりました。それでは位置についてヨーイドンというピストルの合図とともに8人の子供たちがいっせいにパアっと走り出しました。
その日は仕事の都合でお父さんはついに運動会に来ることが出来ませんでした。
運動会が全て終わって、お母さんと一緒にゆき子ちゃんは手をつないで、ニコニコ、ニコニコしながら帰ってきました。お父さんはそのゆき子ちゃんのにこにこしている顔を見て
「おー、ゆき子どうだった、駆けっこは。7番目になれたか」「ううん、8番目」「8番目か」「あなたね、ゆき子ったらね、こうだったんですよ。
ヨーイドン、というピストルの音と一緒にみんなが走り出した。途中まで行ってゆき子が明美ちゃんを抜いたかと思った時に明美ちゃんがキャーと言って転んでしまったの。
そしてなんとか先にゆき子は行ったんだけれども、さっと立ち止まって、振り向いて明美ちゃんのそばに行って耳元でこちょこちょこちょっと何かしゃべったかと思うと、明美ちゃんを起こして手を繋いで一緒に走り出したの。
ゴールの所まで来るとゆき子ったらねえ、明美ちゃんの背中をぽんっと押して明美ちゃんを先に入れてあげたの。で、ゆき子はやっぱり8番目だったというわけ。
そのゆき子ちゃんのすることを見て校長先生がまず手を叩いてくれたの。「ゆき子ちゃん偉い、ゆき子ちゃん偉い」って。
その校長先生の声と拍手につられて他の先生方がやはり拍手をしてくれて、「ゆき子ちゃん偉い、ゆき子ちゃん偉い」
その先生方の声にまた周りの子供たちも拍手をして、「ゆき子ちゃん偉い、ゆき子ちゃん偉い」の大合唱になったのよ、あなた」「そうか、それは偉い8番目だったな、うん。で、ゆき子、明美ちゃんに何て言ったの」「うん、明美ちゃんの耳元にね、『痛いの痛いの飛んでけー、南無妙法蓮華経』って言ったの」「あー、そう言ったのか」「うん、だって死んだおばあちゃん、ゆき子が小さい時に転んだら、『痛いの痛いの飛んでけー、南無妙法蓮華経』って言ってくれたもん。そしたらゆき子、全然痛くなくなったんだよ。だから同じことを明美ちゃんにしてあげたの」「そうか、ゆき子偉いぞ、偉いぞゆき子」
このゆき子ちゃんの心は自分共もどなた様でも一様に持っている心であります。それは人を敬うという心、そしてそれはまた、まさに合掌の心、そのものであります。敬いの心を持ち、合掌の心を持って、お題目を唱えて、私たちは安穏な社会づくり、人づくりに努めて参りたいものです。 
いのちに合掌 5
私は、北海道の函館本行寺の住職をしております原顕彰と申します。
現在、宗門では「いのちに合掌」という運動を展開しております。今日は日蓮宗の宗徒として、このスローガン実践の前に、基本的にはどのような心構えを持ったらよいかということを私なりに考えお話させていただきたいと思います。
ここで今日、私が一番申し上げたいことは、それは、私たちは常日頃、法華経をお上げしていますが、特に「お自我偈」一番大事なお経ですが、そのお自我偈の中に
而実不滅度 常住此説法
というお経文が出て参ります。「しかも実には滅度せず。常にここに住して法を説く」と。
お釈迦様は常にここにおられて法を説いている、ということですが、それでは私たちは現実にそのお釈迦様の法を一度でも聞いたことがあるのかと問われますと、いや恥ずかしながら私自身でさえ、聞いたことがないんです。
お自我偈に説かれたんですから、それが本当のことでなければなりません。私たちもそのお自我偈でいう「常住此説法」とお釈迦様の説法を一度でも聞いていなければならないんですが、聞いたことがない。これは大きな問題ではないかと思うのです。
ただ、私自身考えますと、お釈迦様の説法というのは耳にしたことはないんですが、色々亡くなった人たちの声とかを聞いたり、また、不思議な体験というのは結構あります。しかしその亡くなった人の声を聞いたり、不思議な体験をするというのは現在はあまりないです。
それではいつ聞いたのかといいますと、私は小学校4年生でお寺へ養子に参りました。その小学校、中学校の頃の本当に純粋な心を持った、そういう時にこそ、亡くなった人の声とか不思議な体験、そういうものを経験しているんですが。
例えば、子供の頃に御檀家さんと一緒に寒修行して終わって来まして、茶の間でみんな夕食を食べておりました。昔は茶の間の干し物竿に干し物を干しておりましたが、その竿が半分だけ「ガタガタガタ」と揺れたのであります。
私はその竿を指さして「あーすごいね」と言って指さしているんですが、その音を聞いているのは、12、3人の寒修行の方が居ったんですけど、2人か3人だけだったのです。
「あ、本当に若さん揺れてますね」って言うんですが、残りの7、8人の人は「いや、何も揺れてないよ」とキョトンとしている。竿の半分だけが揺れる。しかもそれが「ガタガタガタ」と揺れるんですが、半分の人たちは「いや、そんな音聞いていないし、竿自体が揺れていない」と、そういうことがありました。
また、私の叔母は主人を早く亡くしてひとり身で、子どもがいなかったんです。それで自分が死んだら、跡を頼む、供養して欲しい、ということだったんですが。ある朝、真っ暗闇から白い布に包まれた御骨箱が飛んできたんですね。ふっと夢の中で。そして頬ずりをする。
普通、御骨箱に頬ずりされたらゾッと寒気がするんですけど、そうじゃないんです。可愛がっている犬か猫が自分の顔に頬ずりをしているように、懐かしく温かく感じたんです。目が覚めますと、その叔母が亡くなった、という電話が、すぐ入りました。
また、函館には大火が多いんですが、昭和9年の大火で2200人の人が亡くなった。ある川で、昔は、橋は全部木で造った橋ですから、火によってその橋が焼け落ちちゃうんですけど。それでも火に追われて来た人たちがドンドンドンドン川に入って亡くなっていく。
それで、そこに慰霊堂というのが建てられたんですけど、その慰霊堂で仏教界の慰霊祭を行った。そうして、丁度、川向いにもうちの同じ大火で檀家が亡くなったところがありまして。その川向いの檀家に行くために衣を着たまま、三十三回忌法要だったんですが。それで、川の真ん中まで行きましたら、突然、右足が動かなくなったんです。
小学校の5年生で、まだ子供だったものですから、先代の住職を呼んで、来てもらったら「ここでたくさん亡くなったんだからお題目を三回唱えなさい」と、子ども心に「南妙法蓮華経、南妙法蓮華経」と三回唱えましたら、右足が嘘のように動くようになった。
このように、子供の頃には色々亡くなった人の声を聞いたり、不思議な体験を経験しているんですけれども、大人になればなるほど、だんだん経験しなくなってしまった。これは私の心に欲が出たり、怒りの心や嫉妬の心などの三毒が邪魔したり、いろんなことで自分の心が汚れたり汚れてきてしまって、そういう亡くなった人の声も聞かなくなったり、体験もしなくなったんではないかと思います。
やはり心を清めるというのは大事なことかと思います。お釈迦様もスッタニパータという一番古いお経の中に、「世は燃えている。心を静めよう」ということを説かれております。
「世の中が燃えている」とは、家が燃えているのか、山が燃えているのか、とそうじゃないんです。家や山が燃えているわけじゃない。
人の心が燃えている。煩悩の心、嫉妬の心。そういう三毒の心で世が燃えている。心が燃えてて、本物の心がなくなって見えなくなってしまっている。ですから、心を静めて、本物の世の姿を見なさい、という戒めの言葉です。
私たちはなかなかそういう心を無にしたりすることもできないのです。心を無にして子どもの頃に帰るためには、やはりもう一度、心を無にしたり、生きがいを持ち、人生の目的を持つ必要があると思うのです。また、もう一つは、死の覚悟をすること。日蓮聖は教えられておりますが。「まず臨終のことを習うて、後に他事を習うべし」というお言葉ございます。
死の覚悟をまずすると。
それから生きがいを持つ。
自分の生きる目的っていうのを持つ。その人その人によって生きがいも大、中、小あると思いますが。
小さい「生きがい」の一つの例え話ですが。私は、生活保護施設を、今100人収容している施設の方の世話をしている。生活保護施設ですから、誰も身寄りがないという人たちが多いんです。そういう人達が亡くなると簡単な葬儀をして、そうしてお骨を無料で預かってあげている。
お礼にっていうので、お寺の草取りをそこの元気な人が2、30人来ては、一ヶ月に一回来てやってくれる。それがお骨の預かり料、だって言ってるんですが。
ある時、その収容者の1人、お婆さんが当時ですね、500円ずつ小遣いをひと月に一回もらう。もらった小遣いを、皆は「今日はジュースを買う」「みかんを買う」とか言って元気な人が店に行って買ってくるんですけども、そのお婆さんだけは、その500円をもらとすぐ枕の下に隠してしまう。
何回やっても500円もらうとそれを隠してしまう。ある時、施設長さんが「おばあちゃん、おばあちゃん、そんなお金なんか死ぬ時は持っていけないんだから。皆がこうやって一緒に、楽しんで飲んだり食べたりする時に、一緒に買ってもらったりして、飲んだり食べたりしたらどうか?」こう言いましたら、
「いやいや、私は死ぬ時にしたいことがあるからお金を貯めている。」
「なんなのかね?」と聞きましたら、
それはその生活保護施設は当時は、死ぬと座棺。丸いお棺に「押し込められる」。足を折ってそうして座って、座ったままでお棺の中に入んなきゃダメで。
「あれが嫌で私はじーっと小さい時から、あっちに貰われこっちに貰われ、いろんな窮屈な思いをしてきてのびのびとした気持ちで暮らしたことがないんだ」と、「だから死ぬ時だけでも、寝棺と言って、今は全部寝棺なんですけど。寝てお棺に納めてもらおう、その寝棺にして欲しいんだ」と。
聞くところによると、その寝棺にしますと生活保護のお葬式代が出ない。ですからお棺のお金から、火葬のお金から埋葬のお金。全部自分が出さなきゃならないので、そのために自分は貯めているんだと言うのです。お婆ちゃんにとっての生きがいっていうのは、要するに寝棺でゆっくり寝て死んでいきたいと、それだけが生きがいだったんです。
私は子ども心に「あー、人の生きがいとか、幸せっていうのは、これでもよいのかな」と、何も偉くなったりお金持ちになったり、有名人になったりとそれだけが生きがいじゃないと、こうやって5年も10年ももらった500円を枕の下に隠してまで寝棺で死んでいきたい。これもまた人生で、これもまた、小さな生きがいなのかなと。
その人その人に与えられた運命、道があります。どんなに偉くなろうと、どんなにお金持ちになろうと思っても、なれない人の方が多い。そういう人達はじゃぁどういう生きがいを持っていくか。
今のお婆ちゃんのように、こういった寝棺で死んでいくのが生きがいだと。それもまた認めてあげなきゃならないんじゃないかなと思います。
私たちも同じです。そういう生きがいとか、自分自身の生きがい。自分のできる範囲内の生きがい。人生の幸せ。それと心を無にすると。また最後の死の覚悟をすると。
日蓮聖人は「まず臨終を習うて、後に他事を習うべし」と、おっしゃられます。死ぬ時の覚悟。御檀家さんだけじゃなくて。私たち自身が死の覚悟をきちんと決めてから、それから毎日の生活、というのを考えなきゃなんない。その手本をしてみせなきゃ、とも思うのであります。
そして、この心を無にして生きがいを持って、死の覚悟。これができますと、先程、忘れてしまったという子供の頃のあの純粋無垢な心。亡くなった人の声が聞こえたり、不思議な体験をする、ああいう心にまた帰れるんではないかと。
こういう心になって始めて、冒頭申し上げました、「常住此説法」、仏様の説法する声が聞こえてくるのではないか、と。亡くなった人の声、不思議な体験、それどころかお自我偈に説かれているこの「常住此説法」、ずーっと何千年も何万年も前からお釈迦様がここにおられて法を説かれている。
法華経は仏教で最高の教えです。この最高の教えの真髄がお自我偈。お自我偈の中に出てくる「常住此説法」。
私たちが、それを、現実のものとして受け止めて、現実、お釈迦様の説法を聞くようでなければ、この法華経のお自我偈というお経は、偽物になっちゃう。お釈迦様は嘘つきになっちゃう。
私たちは、ですから一生に一回でもこの仏様の説法を、確かに聞くという義務があるのじゃないかなと。それこそが私たちに与えられた人間として生まれてきた、自分たちの一番の義務でないのかと思うのであります。
法華経を信仰する。日蓮聖人の教えを継ぐ、私たちの義務ではないかと。仏様の説法を聞く、そういう義務があるんだと、そう思うのでなければ、冒頭の「いのちに合掌」の宗門のスローガンも生きてこないと思うのであります。
日蓮聖人、波乱万丈の人生を送られて、身延の生活に入られて初めて、心静かに、山や川や自然界の姿を静かに眺められたんでしょう。
その折のお言葉が「吹風も、ゆるぐ木草も、流るる水の音までも、此山には妙法の五字を唱へずと云ことなし。」と。
日蓮聖人にとっては、吹く風も木草が揺れる姿も流れる川の水までも、仏様の説法に聞こえる。それどころか日蓮聖人は、そういう仏様のさとりの境地になられて、身延での生活を終えられたんじゃないかなと思うのであります。
ですからこそ、私たちは、折角このもらった人間としての命を、日蓮聖人の教えお釈迦様の教え、この世を仏国土に変えると、そういう大理想に向かって行かなければならないのであります。私たちは、法華経に説かれる「仏性」。お互いの仏性に「いのちに合掌して」、この大きな目的、仏国土建設、という目的に向かって邁進していかなければならないと、そういう義務があるんではないかと思います。
私は日蓮宗のこの「いのちに合掌」の運動の展開以前に、日蓮宗宗徒として、こういう心構え、「常住此説法」の仏様の説法を一度でも聞くという、心構えでいなければならない、ということをお話させていただいた次第でございます。お題目を三唱しまして、法話を、終わらせていただきたいと思います。 
いのちに合掌 6
私は、神奈川県は、横浜から参りました辻本学真と申します。
皆様に、一つお尋ねを、申し上げますが、人類が進化していく、その中で、私どもの祖先も実は四本、手と足を使って歩いていた時期があったのをご存知でしょうか。
けれども、ある時、突如として立ち上がっていく。ではなぜ立ち上がったかということを今、人類の祖先を研究している学者が研究した結果、だんだんわかってまいりました。
四足で歩くということになりますと、食べるものを口でくわえるくらいしか確保できなかった。けれども、立ち上がって手が使えるということになりますと、手で食べるものを確保できた。この人間だけがそういうふうになってきたという部分を進化と申しています。
ところが私共この手が自由に使えるということを考えた時に、良いこともしますけれども、悪いこともする。例えば、戦争に行って銃の引き金を引くのもこの手でございます。良い方では合掌をして拝む、ということを私たちはできる。誠に尊い行為であります。
大聖人様をもととして、お題目を唱えるということから、合掌ということが言われておりますが、これは尊い姿です。手を合わせていれば、悪いことはない。手を離して拳を握れば人を打つ、あるいは何か考える行為に繫がっていくわけでございます。
まず、私共はこの合掌ということを常にやって参りましょう。それから、命というものを考えた時に、動物、生きている牛や馬や、やぎや色々なその動物の種がどのくらいあるか。
ある学者がそれをずーっと数えていったら、なんと動物だけで170万種。それは動物だけ。もうひとつは、この草や木ですね。草や木はどのくらいあるかと申しますと180万種。これをトータルしますと350万種になります。
まぁ、途方もない命ですね。そのいのちがこの地球上にあって、私たちは人間に生まれているということを考えた時にそれは大変不思議なことであります。それを大聖人様も考えて下さいとおっしゃっています。
そしてこの命の根源は仏様から伝わってきている。妙法蓮華経如来寿量品というのは、その仏様、如来の寿命がどのくらい長いかということを実は説き示している教えなんですよ。
それは時間的な長さだけではなくて、空間的な距離もそこに含まれて、永遠ということを、法華経は説いているわけであります。
私たちの人間の営みの中で、一つ申し上げたいことがあります。「織物」というものをよく考えてみますると、縦糸と横糸があるんです。
その縦糸というのはずーっと親、親、親を辿っていった時間の流れ、縦の流れ、横糸というのは自分の一生だろうと思います。
その自分の一生の横糸を強くすることは、これは、まぁ努力でございますけれども、ただその横糸が縦の糸に支えられているということを私たちはあまり認識していないのです。
その縦糸が弱ければ布をバっと引っ張りますとバラバラになります。これはある意味では、家族崩壊にも重なっていくわけですね。どんなに自分が強いと思っていても、縦に支えられているというその認識がなくなってしまうと、家の中はバラバラになります。そういう縦糸と横糸が丈夫であることが大事なんだと申し上げたいわけであります。
この経糸こそは先祖の流れを意味します。
実は、この春、長崎県の方へお彼岸のお説教に参りまして、長崎は特に大村というところ、あれは大村藩の領内でございますけれども、その第19代大村義前(よしあき)公以来、このお題目の信仰が非常に広がっていったところであります。
そういう土地柄である大村のこの8ヶ寺というお寺が大勢のお檀家を抱えておりますが、その中の2ヶ寺、彼杵郡の東彼杵(ひがしそのぎ)の妙法寺、それから川棚(かわたな)の常在寺という2ヶ寺で7日間、お話をして参りましたが…。
その東彼杵の妙法寺というお寺で朝、住職と打ち合わせをいたしておりましたら、お説教師さん、今日はお檀家の方が赤ちゃんをお連れになりますのでお経頂戴をお願い申し上げますとおっしゃった。
私も初めてでございますから、ご住職が「まぁ高座に上がっていただければわかりますので、いつものようにお経頂戴をして下さい。」とおっしゃいました。
そうして時間になりまして、ご法要のあと、高座に上がってお話をさせていただいたわけですが、そのお題目でずっとこう高座に上がって、高座で一応全部用意を致しまして、まだお題目が続いている中で、ご住職は、赤ちゃんを抱っこしたお母さんをお宮参りのような形をとって、高座の前にお連れになられました。
「御経頂戴をお願い申し上げます」ということで、そのお題目をずっと唱えている中を
「御経頂戴、今身より仏心に至るまでよく持ち奉る南妙法蓮華経、本日参詣の善童女、そして発育増進、智慧明良」
というふうにこの御経巻をそーっと頭に乗せて拝んでおりますると、なんとお母さんがその赤ちゃんの外から、一生懸命こう手を合わせて、若いお母さんですけれども、お題目を唱え、その周りの御信徒もその姿をご覧になっている。その皆さんが一生懸命お題目をあげて手を合わせていらっしゃる姿に私も感動したんですね。
あー、これは一人がお題目を挙げているんではなくて、その姿にまた誘われながら、周りの全参詣の皆さん方が一心に手を合わせられている。その個と全体、全体と個というものがひとつになってお題目の世界ができ上がっている、これこそが大聖人のおっしゃられた浄土のお姿ではないか、とつくづく感じ、私も高座の上で、もう涙が出て参りました。
この命、赤ちゃんがそのお題目の中で包まれてそしてお聞きになって、お母さんと赤ちゃんとが一つになっています。私は、きっとこの子は将来大きくなって、立派な人になれるな、こんなに小さい時からお題目の声をお聞きになって育っていくのだからと思って、お話の方へ入らせていただきました。そのお母さんもさがられましてから、横の方で私の話を聞いて下さいました。
これこそが命に向かっての合掌。この赤ちゃんの命がスクスク育っていくことを、親も思うけれども、この会座、皆さんが参加されている会座の妙法寺の檀信徒の方々も、それを祈っていらっしゃるんだな、そういう世界を感じた次第でございますが…。
大聖人も
「魚は水に住む、水を宝とす。木は地の上において候あいだ、地を宝とす。人は食によって生あり、食を財とす。命と申すものは、一切の宝の中の第一の宝なり」
とご指南くださっています。
まさにこの命というものを私たちはいただいている。そのことをこの親子に感じていただいたら、私はその子どもがまた大きくなってからも、同じ世界の中で生きていかれるのではないか、そう思いながらこの彼岸を過ごさせていただいた次第でございます。 
いのちに合掌 7
身延山久遠寺で朝の朝勤のメンバーになっておりまして、言い訳になりますが、そのお勤めを済まして出掛けて参りました。ちょっと中央高速の方も渋滞しておりまして、遅くなりましたことお許し下さいませ。
よろしいでしょうか。それではあの、10分という時間をいただきながら、お話させていただきます。
色々なことを話させてもらってますけども、考えたところ、やはり究極は何かということに絞りまして、これでなきゃならない、日蓮宗僧侶となった以上は大聖人の言われている「今すぐと仏となる」全てそれから早く一日も早く仏になりなさい悟りなさいと大聖人のご遺文を拝読しておりますと、大聖人は色々な法門を説いてきたけれども、究極は成仏に限ると、まあ皆さんもご承知のことと思いますけれども、成仏ということがなかなか叶わないわけでございます。
で、仏様の教えの中で常不経菩薩が但行礼拝であれだけの行をされて仏になった、というところ、簡単なようで徹底して拝みまくった。全ての人に、自分が出来ないことを、拝んで拝んで拝んで、どなたにも区別無く拝んで、ようやく仏になれたということですけれども、我々は信徒の前でお話をして拝んで「合掌は尊いですよね、合掌は尊いですよね」と言っていてもなかなかそれが実行出来ない。
なぜならば私たちは、悲しいかな好き嫌いがあって、そしてあいつ好かないからといって素直に合掌出来ないじゃないですか。
仏様の教えはそれを乗り越えて、あの人は嫌いだから合掌するのはやめましょう、あの人に対して頭を下げるのはよしましょうなんていうことをケチなことを言わないで、徹底して合掌する。
その合掌する心になれること。これが我々が残されたですね、人生においてあと何年生きられるか分からないですけれども、「合掌」「合掌」です。但行礼拝。
で、この日蓮宗もそうです。「いのちに合掌」、ほらあ、自分が尊いから合掌するわけです。自分自身を磨くために合掌するわけです。
ところが、大聖人が、心の迷い、曇りを取るのは南無妙法蓮華経と唱えてお題目を唱えると、この曇りが消えていくとは言っております。
ですけれども自分一人で合掌礼拝をして修行をしていてもなかなか磨かれていかない、と思うのです。
私は最近考えることは、合掌というのは私がどなたかに合掌する、一生懸命合掌をする、こちらの人にも合掌する、そうするといずれその人から合掌した人から合掌されるようになって私たちは磨かれていくのではないか。
自分一人が修行して、お題目は尊いからといって捉えていてもなかなか生涯生きているうちにこの心を磨きあげるのは遠いのではないかと思うのです。
夫婦がおります。奥さんに対して合掌しています。
女房は尊い、身延山で団体の人が登ってくると、女房のおかげだ、という話をします。奥さんに素直に合掌出来るか、その奥さんに対して、「おまえのおかげでありがたいよ、自分の人生はあなたのおかげで尊かったよ」というふうに素直に合掌出来るか。
やってます。
だけれども合掌しているんだけれどもやはりそこが凡夫です。つまらない顔をされたとか、返事が何かつんとしていたりすると、「なんだおまえの態度がそれならば、俺だって考えがあるぞ」と言って、はっきりとものを言ってしまって2、3時間黙ってしまう。一日、口をきかないでいるというようなことが多々あります。
だけれども、人生短い間なのに、そんなつまらないことで夫婦の間でも理解出来ないようでどうするんですか。こういうふうに思うようになってきたわけでございます。
信徒に早く仏になりましょう、早く悟りを得ましょうと言いながら、自分自身はもう心が乱れていて、家族に対しても合掌が出来ないような坊さんであるならば、もう坊さんは諦めて辞めた方がいいんじゃないか、とそのくらいに思えるのです。
私が、この成仏ということを教えてもらったのは、身延山短期大学に20歳で入った時に室住一妙先生という先生の祖書を習う中で、
「早く何を置いても仏になることが一番重要です。仏教というのは仏様の教えと書くけれども、仏様が我々がどのように生きたらいいのか、ということを教えてくれる仏の教えなんだよ、と同時には成仏、仏教というのは仏になる教えでもあるんだよ。」
「仏になるということは難しく考えれば大変ですけれども、仏となるということを考えた時に大切なものは何かということに目覚めた人、気が付いた人を仏というんだ」と。
我々はもうボケてしまっていて、世の中の欲に負けたりして、そして本当に大切なことは何か、ということを間違えて考えている人もいます。
私らもそうかもしれません。だけれども、本当に大切なものは何かと、大聖人のご遺文を拝読していくと、さあ、大聖人は、大切なものは「心の宝」と言っておりますけれども、その心の宝というのは、心の持ち方、大聖人の法門は「志の法門」と言えると書いてあります。
「志の法門」、何かと言った時に「事理供養御書」の中で成仏のことを語られております。その仏になるということは難しい。先師先哲は自分の命を投げ出してようやく仏になれたけれども、我々凡夫は先師先哲と同じように、飢えた鬼にお腹をすかした鬼に命を投げ出すというようなことはかなわない、出来ない。
ならば、仏になれないのかと言った時にいや、そうじゃないよ、凡夫には凡夫なりに仏になれる道がある、と書いてあった
それは「志の法門」だ。「観心の法門」とも言っております。「観心の法門」とは何ですか。「観心本尊抄」の「観心本尊」というのは「本当に尊いものは何か?」心を観るということでございます。
大聖人がその心を観るということは、大聖人が身延山9カ年の生活の中で山中でひもじい思いもしました。寒さに負けて腹の気の病にかかって下痢病が一年近く続いた。命、臨終というものを大聖人も覚悟されたわけですけれども。
その中にあって言われていることは、飢饉が続いた時に皆さんの家庭でも食べるものは少ない、皆さん信徒の方も食べるものが少ない中にあって、上野殿だとか、その松野殿だとか、富士の裾野の人たち、その静岡の信徒の方々が、山の中の大聖人のもとへ食べるものを届けてくれたと。
この食料、米というもの、餅というもの、その芋というものは、これは芋じゃない、米じゃない、命そのものだと言っている。日蓮聖人の命をつないでくれた食料であるから、この米は命そのものだ。
そして大聖人は礼状を書かれる中にあって、その礼状の中にこういうことが書いてある。この米が大変あっても供養してくださるとは限らない。このお米、食料を山の中の日蓮坊に届けてくれるあなたのその心が尊いんだ。その命を繋いでもらいたい。
大聖人が苦労して食べるものがない。そこへ届けたいというその食料は多い少ないじゃないだろう。あなたの志の成せる技である。その志、心の持ち方が私は尊いと思います。ありがとうございます。その志に対する「合掌」「礼拝」なんです。
ですから大聖人はお釈迦様の教えを広めるに当たって、信徒から受けたその恩、そういうものを身で感じて、それを法門として、池上宗仲の兄弟にも着るもののお礼状、ですから大聖人が「事理供養御所」の中で、尊いものは着るものをいただくことだ、寒い時に着るものをいただくことが尊い、食べるものがない時に食料をいただけることが尊い、考えたならば無いものをいただくことは尊い。今身延山中で寒い飢えと闘っている日蓮に対しては着るものと食料はありがたいんですよといって、大聖人はお礼状を書かれているわけでございます。
我々が日蓮大聖人のその教えを守っていく、日蓮聖人の生き方というのは今目覚めなきゃならない、今が幸せでなくてどうするんだ、という念仏がはびこってた時代に念仏の阿彌陀さんの信仰は、今諦めて亡くなった後、来世に救われるという教えで信徒の方が大勢でてきた。
それを見て大聖人はおかしい、死んだ後に救われるなんて教えはおかしい。今救われて死んだ後も救われる、今救われて父母をも救うことができる教えはこの法華経お題目の教えをおいて他にはないだろう。お題目の功徳は過去、現在、未来の三世に渡る功徳がある。今一生懸命私たちが信仰して合掌して磨き合って仏になれたとするならばその功徳によって大切な父母をも救います。そして今私どもが生きているうちに仏になれたとするならば、自分の大切な子や孫にその功徳を伝えることが出来るのではないかと思うわけでございます。
私が20歳で、その室住先生がですね、授業が始まると「すぐに仏になれ、すぐに仏になれ」、そして大聖人の教えを室住先生は教えてくださった。
私は一番前でこうやって聞いていたけれども、うとうとうとうとと寝だした。
そしたら、室住先生が「おい、寝るんじゃない。起きろ、顔を洗ってこい。」
「冗談言うな、こっちは授業料払ってる立場だぞ」と思ったけれども授業を聞いて、また眠ったら「本当にトイレ行って顔洗ってこい」と言われまして、私は顔をトイレで洗った覚えがあります。
そしてそれからはですね、シャープペンシルの芯を手のひらに刺したり、ボールペンでですね、寝ないようにって言って起きていてそして、室住先生のその仏になる全てそれから、その教えを受けたわけでございます。
身延山で御開帳しますと、宿坊で御開帳しますと、その「今すぐと仏となる、全てそれから。真心は尊きものとひれ伏して宇宙全てが拝む日もくる。そして宇宙全てを拝む日もくる。宇宙全ての人が宇宙全ての人に対して拝む日もくる」というそのフレーズを語りながら頑張っているわけでございます。
私は身延山布教師になる時に功刀部長さんが
「布教院、出たろ?」「えっ、布教院って何か知らないから行ってません。」「大丈夫、大丈夫。布教研修所は出たよね。」「いや、それも行ってないんです。」「大丈夫、なんとかなる」
と言われて図々しく身延山でお話をさせていただいたわけでございます。
本日はこんな皆さん大先輩の前でお話をさせていただきましてありがとうございました。 
いのちに合掌 8
はい、皆さんこんにちは。私は山口県山陽小野田市妙蓮寺住職、吉本光良です。
今から一週間前、春の選抜高校野球が開幕になりました。その開幕式で東日本大震災の被災地であります宮城県石巻工業高校の阿部翔人主将が宣誓をしました。
この新聞に写真が出ておりますが、「東日本大震災から1年、多くの人が苦しみ悲しみの中を経験致しました。」と始まるそれでこの宣誓の中でこういう文章がありました。
「人は誰でも答えのない悲しみを受け入れることは苦しくて辛いことです。しかし日本が一つになり、その苦難を乗り越えることが出来れば、その先には必ず幸せが待っていると信じています。だからこそ、日本中に届けます。感動、勇気、そして笑顔を。」
素晴らしい宣誓をしてくれました。次の日、多くのメディアが取り上げて一大ニュースとして賑わさせました。
私は山口県の出身ですけども、山口県長門市仙崎生まれの金子みすゞという詩人がおります。昭和初期の原風景を詩にした童謡詩人と言われた金子みすゞさんであります。
この金子みすゞさんは、仙崎から下関へ嫁いで参りまして、結婚して一人の娘さんをもうけました。ところが夫が、いわゆる放蕩で不治の病をえまして、その病をみすゞさんにうつしてしまいました。
答えのない悲しみの中で一生懸命に、詩をつづり、その苦しみの中でも娘を思い、色んな詩を作ってくれました。その中で一番有名なのが『わたしと小鳥と鈴』であります。
わたしが両手を広げても お空はちっとも飛べないが 飛べる小鳥はわたしのように 地面(ぢべた)をはやくは走れない
もうすぐ春の繁殖期がきまして、雀たちが軒先に巣を作って、そして幼い小鳥が地べたに降りてよちよちしております。それを捕まえられると思って私も何回も追っかけたんですけれども、今はその小鳥の姿もなかなか見ることが出来ません。追っかけていきますと、ばたばたばたーっと屋根の上に上がってしまいます。
飛べる小鳥はわたしのように 地べた地面(ぢべた)をはやくは走れない わたしが体をゆすっても  きれいな音は出ないけど あの鳴る鈴はわたしのように たくさんの歌は知らないよ
鈴はリーンリーンといい音は出しますけれども、あくまでもリーンリーンだけであります。それに比べて私は色々な童謡も歌えるよ、そして、
鈴と小鳥と それからわたし みんな違って みんないい
今では文部省の推薦もありまして小学生の低学年の方はみんな知っている歌であります。詩であります。ところが、
みんな違って みんないい
と言いながら、なかなか腑に落ちません。心の底に届いておりません。それが今のこの日本の現状であります。
法華経の薬草喩品第五の中に『三草二木の喩』というのがあります。
「ある時、干ばつが続いて大きな木も小さな草も今にも枯れそうな時に、しとしとと雨が降り出して、草も萌えあがり、小さな木も大きな木も息を吹き返す、という喩え話であります。この雨というのは、すなわち法華経の教えであり、全ての人が仏の慈悲の光の中でその本来の姿をちゃんとあらわし、仏の姿をあらわすんだと。だけれども小さな草は小さな草、大きな木は大きな木、小さな木は小さな木、それぞれみんな違うんだ。それでもやっぱりみんな仏の姿なんだ。」
という喩えであります。
同じく金子みすゞの詩に『土』というのがあります。
こッつんこッつん ぶたれる土は よいはたけになって よい麦生むよ
昔は冬の寒い時は、麦畑に霜柱が立ちますので、その麦畑、芽の上から踏んでいきます。そして立派な麦が育ちます。
こッつんこッつん ぶたれる土は よいはたけになって よい麦生むよ 朝からばんまで ふまれる土は よいみちになって 車を通すよ
人がいっぱい踏み付けるところはそこが道になる。
ぶたれぬ土は ふまれぬ土は いらない土か
そしたら踏まれもしない、ぶたれもしない土はいらないのか。
いえいえそれは 名のない草の おやどをするよ
やっぱりあちらこちらでその草が生えて、そしてその命をまっとうするよ。みんなみんなそれは違って仏なのよ、仏の姿なのよ、それが法華経の教えの根本であります。
その誰でも仏になるということを、礼拝の行として実践したのが、法華経の20番目に出ております『常不経菩薩品』の常不経菩薩であります。
「私はあなたを礼拝致します。あなたもきっと菩薩の道を行じてきっと仏になれる筈でございます。しっかり頑張ってください、あなたもきっと仏になれますからしっかり頑張ってください。」
会う人会う人にみんな拝んでいった。
これが宗門運動の『但行礼拝』であります。すべての人の中に必ず仏を見る、仏を認めるということであります。みんな違ってみんないい、みんな仏の姿なんだということが腑に落ちていれば、心の奥底で納得出来れば、自然に出来る姿であるはずであります。
それを『如来寿量品第十六』の仏の悲願として、皆様方は『毎自の悲願』ということで何度もお聞きになっていると思います。
毎に自らこの念をなす 何を以ってか衆生をして 無上道に入り
無上道というのは最上の道、仏になる道、みんなが仏になれる道であります。その道にみんな入って速やかに仏身を成就して、みんな仏の姿を表してくださいよ、それが法華経の根本の願い、最上の願いだと存じます。
それをそのまま詩にしたのが宮沢賢治の『雨ニモマケズ』という詩であります。雨ニモマケズという詩は宗門運動発行の『但行礼拝パンフレット』の中に入っております。
金子みすゞさんの詩から言いますと、この東日本大震災の後に流行りました『こだまでしょうか』というのがあります。
「遊ぼう」っていうと 「遊ぼう」っていう。 「ばか」っていうと 「ばか」っていう。 「もう遊ばない」っていうと 「遊ばない」っていう。そうして、あとで さみしくなって、 「ごめんね」っていうと 「ごめんね」っていう こだまでしょうか いいえ、だれでも。
この詩が震災の後、公共広告機構のCMとして流れました。その後、金子みすゞのブームが起りました。
金子みすゞの、その心こそが一番最初に申し上げましたけれども、あの石巻工業高校の主将が言った答えであるかもしれません。
「人は誰でも答えのない悲しみを受け入れることは苦しくて辛いことです。しかし日本が一つになり、その苦難を乗り越えることが出来れば、その先に必ず大きな幸せが待っていると信じています。」
日蓮大聖人のお言葉からいえば、それこそが『立正安国論』の、
「汝信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ」
みんなが仏になる道を歩みましょう。その心を持って合掌をしてお題目を唱えて、みんなが拝み合うことが出来たならば、それこそがこの立正安国お題目結縁運動のお題目の輪を広げることになるのかと思います。
仏の心と仏の心がこだまする世界、それを今、皆様方と共にお題目結縁運動でお題目の輪を広げていきましょうというのが但行礼拝の運動だと信じます。
どうぞ皆様これからもお題目の輪を広げていっていただきたいと存じます。ありがとうございました。 
いのちに合掌 9
皆さんこんにちは。青森県永昌寺の住職、田端義宏と申します。しばらくお付き合いいただきたいと思います。
日蓮宗では平成19年より平成34年までの16年間、日蓮聖人ご降誕800年を期して、「立正安国・お題目結縁運動」という宗門運動を開始致しまして、既に1期4年が過ぎ、2期2年目に入ろうとしております。
宗門運動とはそれぞれのお上人様がやっている活動、それぞれのお寺でやっている活動とはまた違った、宗門全体で同じ方向に向かって、同じ足並みを整えて、同じ目的に向かって進んでいこうという運動だと思います。
では、宗門とは、日蓮宗とは一体どういう教団なのだろうか。日蓮宗では全国を11の教区に分け、その11の教区をさらに細分して74の管区に分けて、それぞれが、宗務所を中心として色々な活動を行なっております。その中にお寺の数は5178の寺院協会結社、お寺さんがあります。皆さん方のお寺もその一つに当たります。お上人方の数は8294人いらっしゃいます。8294人のお上人と5178のお寺さんがこれまでいろんな活動を皆さんと共にやって参りました。
従来、宗門運動というと、どうも宗務院が行う運動になりがちだったり、またはお上人やお寺さんの活動が宗門運動で、お檀家の皆さんは関係ないという風な受け止め方をされがちでした。
でも今度の「立正安国・お題目結縁運動」は違います。5178のお寺、8294人のお上人では足りない。もっともっとたくさんの方々に一緒に参加してもらいたい。
宗門は通常、檀信徒の数が385万人とも言われております。じゃあ、385万人でこの運動を推進したら数倍の力、または時間的にも広がりも多くなるのではないだろうか。そういう意味でこれまでと違ったお上人とか宗務院とか、お寺だけの活動ではない、檀信徒の皆さんと一緒にやる活動、そして世の中の皆さんに訴えていく活動、それが「立正安国・お題目結縁運動」という運動です。
でもこの名前ですと、なんか大上段に振りかぶってちょっとあまりにも日蓮宗のお上人方の言葉になってしまいます。それをもう少し簡単に出来ないだろうか。噛み砕いた言葉が、「敬いの心で安穏な社会づくり、人づくり」の運動ですよ、という解釈が付け加えられました。
これは、対社会的には但行礼拝という常不軽菩薩の行った、あの但行礼拝の精神で、立正安国の社会づくりをしようという社会運動です。
ですからお寺の中だけの運動ではありません。社会に向かってそれぞれがお檀家としてだけじゃない、社会人としても日蓮宗のご信者さんは違いますね、日蓮宗のお寺は違いますね、と言われるような活動を行なっていきましょう。
もう一つは宗門内部に向かっては「お題目結縁」という、お題目を通して宗門を再生していこう、これまでの宗門から新しい宗門に生まれ変わっていこうという、いわゆる信仰運動というのがこの運動の主旨だと思います。そしてそれをもっと簡単なもっと分かりやすい言葉に変えたのが、「いのちに合掌」というスローガンです。
第1期ではこの「いのちに合掌」、特に自死の問題にスポットをあて、年間3万人を超える自死者をなんとか減らそうという形で取り組んで参りました。第2期に入ってもこの「いのちに合掌」はそのまま継続し、さらにもっともっと進めていくような方向で現在取り組んでおります。
手を合わせる合掌、些細な行為です。皆さんの右の手と左の手を合わせるだけです。それだけで果たして世の中は変わるんだろうか。問題だと思います。
でも合掌には力があることを私は学びました。私は忘れられない合掌を二つ感じております。 
一つは、私の父であり師匠である、前住職の合掌でした。私の父は101歳で亡くなりました。90歳を超えてからは足腰がだいぶ弱くなって、100歳の頃には車椅子に座っておりました。いつも食堂でご飯を食べた後、車椅子に座っているのですが、私が車に乗って外出をする時、どういうわけかその車椅子から立ち上がって、私の車が見えなくなるまで窓から合掌してくれるんです。
私にとっての父のイメージは、おっかない人。子供の頃から厳しくされた師匠です。親父です。怖い親父が私の車が見えなくなるまでずっと合掌して見送ってくれる。ちょっと気持ちが悪いもんで、ある時、聞いたんです。なんでですかって聞いたら、いや、車で事故が起きないように、向こうへ行っての仕事がちゃんと出来るように、私なりに拝むしか出来ないから、お前に応援してるんだよって言ってくれました。
あの厳しい親父が私の車を、私を合掌で送ってくれた姿に私は感動しました。親父に対する見方が変わりました。
もう一つは、私の母の合掌です。母は89歳で亡くなりました。だいぶ弱って入院し、病院のベッドで寝たきりになりました。言葉が出なくなりました。ものが言えなくなっちゃったんです。それまではいっぱい言葉を言っていた母でしたけれども、言葉が言えなくなった母がその後とった行動は、ただただ合掌することでした。
お医者さんが来る、合掌する。お見舞いのお檀家が来る、合掌する。私たちが行く、合掌する。ただただ合掌するだけ、言葉はありません。でもその合掌がどういうわけか、人を変える。看護婦さんも合掌してくれました。お医者さんもお母さん元気ですかと言って、合掌してくれるんですね。
合掌は小さな行為だけれども、とても大きな力を持っているんじゃないか。そして、人を変える、人を変えるだけじゃない、自分が変わり、人が変わり、世の中が変わっていく、そういう力を持っているのが合掌ではないかと思いました。
「いのちに合掌」というテーマはそういう意味ではとても大きな意味を持つテーマであり、力のある運動だと思います。「立正安国・お題目結縁運動」というと大上段に振りかぶった何か凄い宗教的な運動になりますが、それを「いのちに合掌」という言葉に変えただけで、とても身近な、しかも上人だけではない385万人と言われる日蓮宗徒全員が出来る、しかもお年をとっても寝たきりでも出来る、言葉を使わなくても出来る活動、これが合掌という活動だと思います。
私のお寺の境内の入口に掲示板があります。そこに時々、内容を変えた掲示をしております。私はこういう言葉を書いたことがあります。
「握れば拳、開けば掌、振り上げればげんこつ、合わせれば合掌」
手のひら一つですが色々変わります。握れば拳です。開けば掌。お腹を撫でたり、頭を撫でたりできます。振り上げればげんこつですよ。その振り上げたげんこつを合わせれば合掌に変わるんですよ、という意味のことを書きました。物事は色々変化するんだよ。また、変化させなきゃいけないんだよ。
「立正安国・お題目結縁運動」という難しい言葉も、変化させれば合掌というひとつの行いにまで集約されます。と同時に、その合掌という小さな行為の中に、「立正安国・お題目結縁運動」という素晴らしい内容が秘められているんだ。私は社会づくりに繫がる、また人づくりに繫がる大きな意味をもった出発点が、合掌という行為ではないかと思います。
ハーバード大学の教授で国際政治学者、そしてアメリカの頭脳とか知性と言われたサミュエル・ハンチントンという方が数年前に本を出しました。21世紀は、文明の衝突の時代ですということを書きました。当時は、文明は集約されてひとつにまとまっていくだろうという時代に、サミュエル・ハンチントンは、違う文明が衝突してもっともっと激しい争いの世がくるだろうと予想されました。現在、世界はイスラム、キリスト教、いろんな思想が文明がぶつかってまさに混沌とした時代になっております。
その異質な文明と文明が一つに溶け合う、統合されていく、私は合掌という姿は、まさに異質なものが共にひとつに重なり合っていく姿が合掌なのではないかと思います。そういう意味ではこの運動はとても大きな、宗門の中の運動だけではない世界に通ずる、大切な運動ではないかと思います。
もうひとつこういう文章を本で読みました。草柳大蔵さんがその著書の中で書いた言葉でした。
「家庭にあっては親は子供を恐れ、教室にあっては教師は生徒の機嫌を取り、社会にあっては年長者は年若い者から頭が固いとか権威主義者と言われるのを恐れて、軽口と冗談ばかり言っているようになった。」
まさに現在の日本の教育環境といいますか、世の中を表しているなあと思ったんですけれども、ふと見るとなんとこの文章は今から2500年前、ギリシャの哲学者プラトンが当時の古代ギリシャの社会を書いた文章だったそうです。なぜそういう時代になったのか、こう書いてあります。
国家や社会に規範がなくなり、全てが自由と開放に置き換えられたためだ。全てが自由と開放に、そして規範がなくなった。柱がなくなった、魂がなくなった時に人々は、世の中は、家庭は、教育は、崩れていくんだと思います。そしてこうなった時にこの古代ギリシャは滅び去ったと書いてあります。古代ギリシャはあっという間に滅び去ってしまいました。
私は今の日本の社会の様子を見ていると、この古代ギリシャとそっくりの状態で後を追いかけている。しかも急な坂を転がり落ちているような気がしてなりません。もしも今この時代に日蓮聖人がいらっしゃったならば、どういう『立正安国論』を書くだろうかな。どういう言葉を私たちに問いかけるだろうかな。その思いを胸に秘めながら、私たちはこの立正安国・お題目結縁運動、また「いのちに合掌」という小さな合掌の中に集約させていきたいなと思います。
東日本大震災では15854人の方が亡くなり、3155人の方がまだまだ行方不明だそうです。とても痛わしい限りです。でもあの災害をただ大変な災害だったと終わらせないで、あの災害から学ぶことはたくさんあったはずです。
「いのちに合掌」の「いのち」、これは人の命だけではない、動物や植物の命、物の命、時の命、色々な命が大切なのだということを私たちは学ばされたと思います。どうぞこれからみんなで一緒に「いのちに合掌」をテーマに、宗門運動を盛り上げていただきたいなと思います。お題目を三返お唱えして終わりにしたいと思います。 
いのちに合掌 10
「曇りなきひとつの月を持ちながら浮世の雲に迷いぬるかな。」
曇りのない素晴らしい月を心に持っておりますが、浮き世のいろんなことのことによってですね、真っ黒になってしまいます。
汚れきってしまった心の月を皆様方どうぞご信仰によってきれいに洗い流すことがご信心ではないでしょうか。
さて、夢なら覚めて欲しい。これは夢だったんだろうか。しかし現実に起きました。昨年の平成23年3月11日、東日本を襲ったあの地震です。なんとマグニチュード9ということ、そして平静ならば30秒の揺れですよね。しかしあの時の地震はなんと5分15秒というじゃないですか。
人間を飲み込み、人家を飲み込んでしまったあの津波、80倍から90倍というすごい津波でした。
その時に避難している体育館で、8歳になる一人の少女がテレビのインタビューに答えておりました。
「私は自分のうちがあって、お父さんお母さんがいて当たり前だと思っていたんです。今は自分の家もなくなってしまった、お父さんお母さんも行方不明になってしまった。なんて今までの当たり前だったことが嬉しかったんだろうか」と涙を流しながら話をしておりました。
私たちも普段当たり前のことに、感謝しているんだろうか。この少女も一瞬の間に当たり前だったことがなくなってしまった。この目でものが見える、この耳でものが聞こえる、この歯でものが噛める。当たり前かもしれない。しかしながらこの当たり前のことが私たちは当たり前でなくなってしまった時、はじめて「あの時は有り難かった」と思うんじゃなくて、普段この当たり前のことに報恩感謝の気持ちを持つことが大切ではないでしょうか。この少女の幸多かれを私は心から祈りたいと思います。
そしてこの年の11月、皆様方もご承知だと思いますが、あの被災地にブータンから国王夫妻がやって参りました。そして、被災地の方々を見舞われました。
その国王夫妻の素晴らしいこと、私は今でもこの目から離れません。あの合掌のきれいなことです。素晴らしい合掌だったじゃないですか。あの被災地にいる本当に苦しい人たちがあの合掌を見て、感動致しました。そして子供たちを集めて話をされました。子供たちは涙を流しながら話を聞いておりました。
国王は、子供たちに向かってですね、「皆さん龍を見たことがありますか?今年は辰年ですよね、私はその龍を見たことがあるんですよ。皆様はどうですか?」と話された。
みんな首をかしげていた。すると国王は「龍はみんなの心の中にいるもんなんだよ。一人一人の心の中に龍がいるんだよ。その龍というのは経験を食べながら生きているものなんだ、成長していくものなんだよ」と子供たちに話された。
その国王の心にいる龍というのは仏心なんですよ。仏心を指して言っているんですよ。その龍は経験を食べながら大きくなっているというのは、仏道修行をしながらどんどんどんどん大きくなっていくものなんだよと話されたのです。
その国王の言う仏心というものは私たちもみんな持っているじゃないですか。仏性、仏心皆様方もみんな心の中に素晴らしい仏性があり、仏心があり、仏力があり、みんな兼ね備えて持っているのです。
昔、江戸時代に中江藤樹という儒学者がおった。その儒学者は素晴らしい心の教育をあちこちに講演して歩かれた。1608年、1648年の頃の人ですよ。なんと40歳でこの世を去った方です。素晴らしい儒学者だった。
その中江藤樹先生はあちこちに頼まれて心の教育をして歩いたと言われている。ある時、先生が一山向こうの村で話を頼まれた。
先生はその山を超えて行くには2時間3時間歩かなければ、向こうの村に着かなかった。それを「はいはい」と言って二つ返事で引き受けた。さあ、向こうの山に向かうには山越えをしなきゃならない。やっとその場所に着いて、2時間の話を終えて帰りかけた。もう辺りは真っ暗だった。
すると村人が「先生、泊まっていってくださいよ。」「いやいや、明日早いから、今日は失礼するよ。」
そして、まっ暗い山道を超えなければならなかった。その山というのは暗くなると、追い剥ぎが出ると言って有名な山だったんですよ。藤樹先生はそれを分かりながら山越えをして家路を急いだ。ちょうど中腹まで来た時に、噂通り「身ぐるみ脱いて置いて行け」とものすごい勢いで山賊が出てきた。
すると藤樹先生は「やっぱり出たか。お前が有名な山賊か。分かった。まあ私はまだ命が惜しい、身ぐるみくらい脱ぐのは簡単なことだ。」
そして藤樹先生は自分の着ているもの全て脱いでふんどし一つになった。「さあ持って行け。」持っている風呂敷包みも全部放ってやった。
するとその山賊がですね、「お前びっくりしねえのか。」 「いや、びっくりはしねえ。お前が山賊ということは知ってたからだよ。」「そうか、お前、職業何なんだ。」「まあ職業ってほどじゃないけど、私は儒学と言って、心の教育をみんなに広めて歩いているんだよ。」「なんだその儒学って。心の教育というのは。」「いやあ、お前に言っても分からないだろうな。心の教育というのはそれぞれに仏心、ほとけ心があるということをみんなに教え導いているんだよ。」
するとその山賊は、「仏心。その仏心というのは俺にもあるのか。」と言った時に中江藤樹先生、「お前にもあるかな。まあ、お前にもあるだろう。」「どこにあるんだ。」「どこにあるって。じゃあ、お前、俺と同じような裸になってみろ。」すると、山賊は言われた通りに着ているものを脱いだ。
そしてふんどし一つになった時に中江藤樹先生が、「お前、犬だって猫だってふんどしなんかしねえぞ、お前。それも取れ。」「そんな恥ずかしいみっともないこと出来ねえ!俺は猫と犬と違うよ。」と言ったその時、中江藤樹先生が、「そうか、お前は素晴らしい仏心を持っているじゃないか。今、恥ずかしいと言っただろう。猫と犬とは違うと言っただろう。その心がまさに仏心という素晴らしい心なんだよ」とその山賊に語った。
そして「お前は本当にそんな素晴らしい心を持ちながらなんで山賊というみっともないことをやっているんだ。」
それを聞いた山賊はその場で涙を流しながら、「そうか、俺にもほとけ心があったんだ。先生の言う通り、本当にみっともなかった」と言って、その中江藤樹先生の前にひざまずき、「申し訳なかった。今日から先生の弟子にしてください」と手を合わせて謝ったんです。
その後立派な先生の弟子になり、真っ当な道を歩むようになったという話です。
誰もが仏心を持っている。それがどこにあるか分からず、私たちは今日まで来ているじゃないですか。
日蓮大聖人は、「当体蓮華鈔」というご文書の中に、
貧しい人が家はお金がない。子供が3人もいるがおいしいものも食べられないと泣いている。そうじゃないでしょう。あなたの家には素晴らしい一家だんらんがあるではないですか。家族の和はお金では買えませんよ。それに早く気付いてください。
「貧女が家中の秘蔵を忘れ、龍の身内の玉を宝と覚ざるが如し。我々凡夫の仏性というのは、雲の中の水、土の中の金、そしてまた、石の中の火、木の中の花。」とお示しくださっております。
「雲の中の水。」
見えますか。見えませんよね。でもあれほどの雨が降ってくるじゃないですか。気がつかず、見えないだけですよ。私たちの心の中と一緒ですよ。
「土の中の黄金。」
あの土の中にあれほどの黄金があったのが見えたんだろうか。佐渡ヶ島の金山にしても掘ってみたらあれほどの金が出たじゃないですか。
そしてまた、「石の中の火。」
石と鉄をすり合わしたら、あれほどの火花が飛び交うじゃないですか。あの石の中に火のあるのが見えるんだろうか。見えませんよね。でもあれほどの火花が飛び交う。全く私たちの心と一緒なんですよ。
「木の中の花。」
3月の後半、4月の頭にかけて、あの桜の木に素晴らしい花が咲くじゃないですか。あの木の中にあの素晴らしい花があるのが見えるんだろうか。見えなかった。でも満開になった時の桜の素晴らしさ。
確かに心の中には素晴らしいものが私たちもみんな持っているんですよ。ただ、それに気がつかず終わってしまっているわけですよね。せっかくこの世の中に素晴らしい心を持ちながら生まれてきた私たちじゃないですか。この心で私たちは生かされているわけじゃないですか。
どうか、この素晴らしい心を持っている私たち、この素晴らしい命を大切にし、これからも素晴らしい生き方をしていかなければならない。
「慰めを求めて泣きし我なれど、捧げて生きる喜びを知る。」
今まで慰められて、人様から、優しい声を掛けてもらった。
しかし、これからは、私たちもこの素晴らしい、いただいた命を、人々に捧げて生きる喜びを知ることが大切ではないか、とつくづく思うのです。
生かされているこの命に感謝し、すべてのものの恩恵に、合掌の日々を繰り返して、過ごすことをお勧めいたします。
ご聴聞ありがとうございました。 
 

 

いのちに合掌 11
ご紹介に預かりました大阪の欣心寺(ごんじんじ)の東でございます。
今、皆様方と一緒にお題目をご唱和させていただきました。
何故でしょう。
つい私たちはものが始まる前にお題目をお唱えしましょう、とお声をかけて、そして共にご唱和させていただきます。私がお声をかけて、じゃあしましょうか、というそれに対して、お題目をご一緒に唱えているのか。それとももっと大きな意味があって唱えているのか。少しそこのところから考えていってみるとお題目という大きな意味が見えてくるのではないでしょうか。
人を見れば仏と思え。ものを見れば菩薩と思え。人様の姿、これは仏様として私たちにいつも働きかけてくれている、ありがたい慈悲の世界という思いを、いかに自分で持つか、というところであると思います。
私たちは自分の存在を自分だけのものと思っている場合が結構ございます。
今おられる方で奥さんの方。奥さんの最低必要条件というのはなんでしょうか?
もしご主人がおられれば、ご主人としての最低必要条件はなんでしょうか?
これをお聞きしますとね、まあ皆さん方もそうでしょうけど、ちょっと悩んで色んなこと考えられると思います。
しかしこれはものすごく単純なことなんです。
旦那がいることが奥さんの必要条件。というのは旦那がいるから奥さんであり、いなければ奥さんじゃないし、奥さんがいるから旦那である。また子供がいるから親であり、親がいるから子供である。
相手によって今の自分の存在を認めさせていただいているということが私たちの日常生活であり、全ての存在によって私が今いる。
そのことに対して感謝を申し上げる、それがお題目に始まりお題目に終わる私たちの生活であります。
しかし、それはどういう形の中で私たちの存在を認めていくのかということになりますと、私たちは仏様を離れて存在はしていないということが、一つの条件になって参ります。
私たち全てのものは母親の胎内から離れ、まあ今、現実的に平均寿命から致しますと80何歳というところまでは生きる、まあこれが今の日本人の平均寿命であります。
生物学的に考えますと、母の胎内に宿って、自分の命が終わってしまう、それで個体がなくなってしまうというのが生物学的なものの考え方でございます。
しかしそれで本当に自分というものは無くなるのでしょうか?
否であります。
私たちの命はずっと存在し続けているのであります。私たちがこの世に生をうけるのは、自分の業因業果により輪廻転生し、父母の体をいただいて私たちはこの世に出現する。
また仏様の意思を引き継いで、迷える衆生がおればその迷える衆生を救わんがために願を以って生まれてくる。
その時に父母の体を借りて今私たちは存在しているということであります。
このことを日蓮大聖人は忘持経の事ということの中で
「我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり。」
自分の肉体の全て父母から受け継いだものであるとおっしゃっておられます。
そしてそれの裏付けとしては法華経方便品には、
「諸欲の因縁を以って/三悪道に墜堕し/六趣の中」
これは六道、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天までの世界です、それに
「輪廻し/備さに諸の苦毒を受く/受胎の微形」
これは母親の体内に宿して
「世世に常に増長し」
生まれて、そして肉体が成長していく、と説かれ、また法師品の中には、
「妙法華経を/受持することあらん者は/清浄の土を捨てて/衆生を哀れむが故に生ずるなり/当に知るべしこの(如きの)人は/生ぜんと欲する所に自在なれば/能く諸のこの悪世において/広く無上の法を説くなり」
と説かれております。
今生、今持っている肉体だけが命の存在ではありません。
お釈迦様が法華経の如来寿量品をお説きになられました。仏様の命は始めなく終わりなく、永遠不滅であるとお説きになられたわけです。
これをぱっと考えてしまいますと時間だけが永遠のように思いますけれども、永遠の存在とは時間だけの無限性を言うのではなく、そのことにより空間的にも無限大の存在になるということであります。
空間的に無限大になるということは、今私たちの存在している全ての空間、それは仏の存在ということになれば、今私たちが存在している私自身もその仏の存在の中に住してる、住んでいるということであります。
下の地獄界から上の菩薩界に至る苦界の存在は無始の仏界、永遠なる仏様に包まれ、仏様の世界も無始の九界の中におのずから備わっている、ということが大聖人の開目抄の中に説かれております。
このことにより私たちの命は久遠の御本仏といつも共に存在しているということであります。
始めに皆様方とご一緒にお題目をお唱えしたこのお題目は、そういう大きな意味を持ったお題目でございます。私たちの命は仏様に備わる命であり、仏様に備わっている命であるのであります。
本来人々に備わっていることを、このことをご存知であった常不軽菩薩というお方は、道行く方々に対し、合掌礼拝されました。
私たちの命の根本の礼拝はここにあるのでございますが、単なる合掌では意味がございません。
仏様に備わる命であり、仏様に備わっている命、その方に対して無限の過去、久遠と申しますが、その時に仏様よりいただいた仏様の種、その種を忘れてしまったことを思い出していただくために、種を復活させるために、唱えるお題目、これが日蓮大聖人の弟子檀那、日蓮宗の教師の方、檀信徒の方がお唱えしていただくお題目でございます。
現代に生きる人々にとって、仏様と共に生きていると考えておられる方はどれぐらいおられるでしょうか。
仏教徒といわれる方でもこのような思いを持った方は少ないように思います。
このような方を法華経では心を失った子、失心の狂子と申しますが、この子のためにお釈迦様は、私どもが先程お唱えしたお題目というお薬を留め置かれまして、日蓮大聖人に現在の私たちに服するようにとお渡しになられたのです。
お題目をお唱えさせていただいて、受け手となる人々が心に仏様を備える命、仏様に備わっている命ということで、お互いにお題目をお唱えし合える世の中、そして久遠御本仏釈迦牟尼仏と常に一緒に存在できる常寂光土という浄土をこの世に顕現することが私たちのお題目を唱える者の役割でございます。
この地球という物体は今の宇宙物理学からすれば30億年か40億年後には消えてしまいます。しかし、仏様が述べておられる真の存在の常寂光土という所はそういうものを越した世界にございます。
私たちの信仰の世界は真にその常寂光土を作るため、そのためにはお互いに仏様の命としてその身を持ち、共に生きていることを敬いながら、まだお題目を知らない方、常寂光土という本当の真の浄土があるということを知らない方のために広めていく、それが私たちの真に願うお題目の在り方だと存じます。
どうぞこれからもご一緒にご精進して参りましょう。本日は誠にありがとうございました。
それでは共にお題目の世界へ入らせていただきまして、ここが常寂光土の入口になるよう、皆さん方と共にご祈念申し上げたいと思います。 
いのちに合掌 12
本日は皆様ご苦労様でございます。私は金沢全性寺の住職で吉田と申します。
今日は石川一部檀信徒研修会ということで若い方の参加が多いと聞きまして楽しみにして参りました。
先程、お経の稽古をなさっていましたけれど、初めてお経を読まれたような若い方もいらっしゃったようですが、分かりましたか、難しいですよね。漢字で書かれたお経は難しい。
しかしですね、お釈迦様の教えというのは、本当のところは易しく説かれております。
今日いらした8人の若い方の中には高校や大学を受験なさった方がいらっしゃるそうですけれども、第一志望校に皆さん入られましたでしょうか。
そうですか、残念でしたね、思うようにいきませんね。その思うようにいかないということをお釈迦様は苦だと、苦しみだとおっしゃったわけです。
皆様方もご経験があるかと思いますが、
「いい学校に行きたい」、それもダメ。
「お金が欲しい、小遣いもっと欲しい」、それも思うようにならない。
「大きな家に住みたい、立派な車が欲しい」と思っても思うようにならない。
「憎らしい人、嫌な人と一緒に座りたくない」と思っても隣同士になってしまう。
「病気をしたくない、年を取りたくない」と思っても病気をするし、年を取る。
思うようにならない、それをお釈迦様は苦だとおっしゃったわけです。
そしてどのようにすれば、その苦を克服して安らかに楽しく生きることが出来るか、言葉を換えて申し上げますとどうすれば仏になれるかということを説かれたのが、仏の教え、仏教なんです。
鎌倉時代に生きられました日蓮聖人はですね、法華経を信じて修行をする以外に心安らかに生きる道はないと悟られました。
そしてですね、法華経を修行するその肝心は何かというと、お題目を信じ唱えて、全ての人を敬うことだと。国境を越え、肌の色の違いを越え、主義主張や、信仰を越え、男女の別を超え、善人悪人の別を越えて、全ての人を敬うことだ、つまり全ての人々が持っている成仏する可能性・仏性を敬うことだというふうに教えられました。
これこそが合掌の心ですね。
じゃあ、具体的にどうすればいいか。
ひとつ、まず仏様の御加護を深く信じる。どんな不幸にあっても、どんな悲しみ、苦しみ、病気、どんな悲惨な状況に置かれてもお題目を信じて疑わない。いい時も悪い時もお題目しかないと信じきる。それが基本です。
で、二つ目。四恩報謝ということを教えられております。
四つの恩に報いよ、というのが日蓮聖人の生涯を貫くテーマですね。教えです。四恩というのはここに書いて参りましたけれども、一切衆生の恩、父母の恩、国主の恩、三宝の恩ということなんです。これは先ほど申し上げました、「全ての人を敬え」ということと、その心は同じですね。
三宝の恩というのは、仏様の御恩と置き換えてもよろしいかと思うのですが、一切衆生の恩、国の恩、仏様の御恩を返せと言われても私たちに出来っこないじゃないか、と思われるかもしれませんが、日蓮聖人はですね、そうじゃないよ、出来るよとおっしゃっているわけです。
そこで、何からまず手をつければいいか、何が基本なのかというと、親への報恩ということなんです。自分を産んでくれた親、育ててくれた親への孝養というのが基本ですよ、ということなんだと思います。
ここにいる皆さん方もそのうち結婚をなさるでしょう。若いうちに結婚をするというのは、未熟な二人が結婚をして、そして子供を授かって、そして未熟なまま子育てをし、教育をせんといかんわけですよ。
ですからね、いつの世も親というのは概ね未熟なんです。学校の先生もそうですね、大学を出て20歳過ぎで学校の先生になるわけです。未熟な人が学校の先生になって、ものを教えんといかん。
だからね、未熟であるということは時として間違いを犯すということなんです。人間は必ず間違うんですけれども、未熟であれば余計に間違うことが多い。またそこから学ばんといかんのですけれども。
日蓮聖人はですね、未熟な親に対し、孝行せよ、敬え、赦せとおっしゃるわけですよ。
話は突然変わりますが、うちの檀家にですね、校長先生をしている人がいます。で、その先生は優秀で京都大学を出て、親が学校の先生だったから、自分も学校の先生になりたいっていって先生になりました。
そして先生になったらすぐ、大恋愛をしまして、その両方の親は大反対。家が釣り合わない、そして母親同士が全然気が合わない、顔を見るのも嫌、口をきくのも嫌、隣に座るのなんてとんでもない、というくらい母親同士が嫌がりましてですね。
「しょうがない、二人で家を出よう」というところまでいきましたら、親の方が折れまして、めでたく結婚したわけです。それでまあその後、母親同士は相変わらず憎み合ってたんですが、順調にいって、その方も校長先生までいかれた。
そうこうしているうちにですね、校長先生の母親が末期のガンになられました。手遅れだと。
余命4ヶ月。で、校長先生は一生懸命その母親の看病やら見舞いやら行ってしましたけれども、奥さんの母親がですね、見舞いに来てくれない。一度でいいから見舞いに来てくれればなあと思って「お母さんお願いしますから見舞ってやってください」と頼もうかとここまで言葉が出そうになったけれども、いやいやそう言ってお母さんに見舞ってもらっても、頼んで見舞ってもらった、という思いが残るから自発的に見舞ってくれるのを待とうと思ってたら、とうとう見舞いに来てくれないうちに校長先生の母親が亡くなってしまった。
それ以来ですね、その校長先生のこの胸には太いトゲが一本刺さっているわけですよ。
そして数年後、今度は奥さんのお母さんがやはりガンになって余命3ヶ月。
ちょうどその頃にお盆でその校長先生は全性寺に、お参りに来られて、
「お上人さんちょっといいでしょうか」と言われるから、
「どうぞどうぞ、なんだったでしょう」って言ってお話を聞きましたら、
実はこんなこんなで、と言われるわけです。
で、「先生、お気持ちは分かるんですけど、もう答えは出てるんでしょう」と言ったら、
「はい」と。
「今までのことは水に流して、覚悟してお母さんが苦しまれないように仏様にお願いすると共に、精一杯の看病をなさったらどうですか」。と申し上げますと、
「分かりました」と言ってお帰りになった。
その先生がどうされたかといいますと、自宅があって病院があって学校がある。自転車で通勤出来る距離なんです。
そこで、「俺が見舞いに行ける日は毎日でも見舞いに行こう、極端なことをいえば、下の世話でも私でよければさせてもらおう」、という覚悟で。本当にほとんど毎日行かれたそうですよ。
2ヶ月頃過ぎた頃ですね、ちょうどいい日和のお昼だったそうですが、先生が行かれたら食事を終わったお母さんがベッドの上に起き上がられまして正座をして先生に手をついて、
「先生、ありがとうございます。そして私はあなたに謝らんといかん。お母さんが病院に入られた時に見舞いに行かんといかんな、行かんといかんなと思いながらとうとう行く機会を失って、亡くなられてしまった。本当に申し訳ないことをした。あれ以来そのことが私の肩にずっしりと重荷となって今日まできましたけど、どうぞ赦してください」と謝られた。
それでまあ、校長先生もここにあったトゲが抜けたわけですね。その後、医者の言う通り亡くなられました。
葬式が終わって四十九日、納骨に来られて、納骨が終わってあと、お膳が出まして、お酒を私に注ぎに来て下さっておっしゃったことが、
「お上人さんに水に流して覚悟しなさいって言ってもらえてよかった。母が喜んでくれたのはもちろん良かったんですけど、家内が喜んでくれました。そして夫婦の絆が深まったと思います。家内の兄弟たちもみんな喜んでくれた。本当にありがとうございました。だけどね、それだけじゃないんですよ」と言われた。
私も一瞬びっくりしましてね、「どういうことですか」と尋ねましたら、
「母が亡くなって、正直言うとほとんど毎日見舞いに行ってましたから、ちょっとだけホッとしました。でもそういうことより母が亡くなって以来、自分の胸があったかいんです。こういう安らいだ気分、気持ち、心持ちになったのは生まれて初めてです」とおっしゃった。
それを聞きましてですね、「私はもしかしたらそういう心の安らぎというのは味わったことないかもね。先生よかったですね」ということをお話したんですけれども、
この話の中でですね、日蓮聖人の教えが偲ばれるんですけれども、
「親は親たらずとも子は子として成すべきを成せ。」
ということが一つ。
「師は師たらずとも、先生は先生たらずとも、弟子は弟子たれ。主君は主君たらずとも家臣は家臣としての役目を果たせ。」
という、そういったことが思い浮かべられます。
四条金吾さんとか池上兄弟に教えられたのはこの辺のことだろうと思います。仏の教えに素直であれ、忍耐せよ、そして赦せと教えられたのだと思います。
「親は親足らずとも子は子たれ。」
なぜそう言われるか。それはね、理由は探せばあるんでしょうけれども、こうする以外に心が安らぐことはないんです。
皆さんに特に若い方にお伝えしときます。世の中というのは、いつの世も悪いんです。お釈迦様の時代にも戦争がありました。釈迦族は滅ぼされてしまいました。で、ずっと世の中というのは大体悪いんです。
しかし、悪い世の中をちゃんと生きてきた人たちがたくさんいる。今の世の中もいいとは言えません、でもあなた方はしっかり生きていっていただきたい。決して世の中に絶望して欲しくないと思います。
二つ目。自分が平凡な人間だと思ったら、どうぞ結婚して出来れば二人や三人の子を授かって育ててください。子供っていうのは可愛いんですよ。でもね、結構に苦労するんです。
でも二人や三人の子供を育てるというぐらいの苦労は味わってください。今は子育てが難しい時代だと言われておりますが、あえてそれは申し上げておきます。
三つ目。親を敬って親孝行してください。親を敬う一つの表れとして、親に対して敬語を使ってください。
そして、「おはようございます、おやすみなさい、いただきます」を言う時には合掌をしてみてください。あなたが変わると親が変わってくれると思います。
ここにいられるお年を召した方にお願いいたします。自分の過去を振り返り、悔やまれることがあったとしても、そして未熟であっても、忸怩たる思いをいだきながらでも、間違があれば指摘し、正しいことを教えてやって下さい。
自分が出来てなくっても正しいと思ったことは子や孫にこうせえと教えてやらんといかんのです。そういう責任があるんです。
どうぞ正しいと思ったことを子や孫にお伝えいただきたい。
日蓮聖人は、
「自分自身が仏にならないでいては、どうして父母を救うことができようか。ましてや他人を救うことはそれ以上にできないことだ。」
と教えられています。
皆さんが「為すべきを為して」心安らかなよき人生を送られますように願いまして、私の法話とさせていただきます。 
いのちに合掌 13
合掌ほど素晴らしい祈りの姿はございません。合掌とは二つの手を胸の前に合わせて祈ることです。
あるお仏壇屋のコマーシャルで可愛い女の子が、私とは違いますよ…、
「お手てとお手てを合わせて幸せなあむ」
と言っていますけども、これは手のシワとシワを合わせてという行為と、誰もが求める幸福の「幸せ」という言葉の語呂合わせなんですね。
それとは反対に手を握りしめて合わせると節と節とが合いますから、これ「不幸せ」というような話もあります。
誰だって不幸せにはなりたくないですよね。
ところで皆さんにお尋ねしますけれども、右の手と左の手と同じ形をしているでしょうか。よーくご覧になって下さい。確かに良く似ています。でも、もしおんなじ形ならば合わせることができますか。右と左の手は対照的に反対の形をしているんです。まぁ、鏡の世界と同じだと考えていただいて結構です。
その反対のものが向き合い合わさっているのが実は合掌の心、祈りの世界なんです。
インドの人たちは食事をする時は右の手を使い、お尻を拭く時は左の手を使うと聞いたことがあります。もっとも左利きの人なら逆かもしれませんけども、インドの人たちは清潔なものを扱う時と、そうでないものを扱う時にはこの二つの手を使い分けているそうです。なるほどなぁと感心しました。
ところが、この人たちは、人に出会うごとに使い分けているはずの二つの手を合わせて「ナマステ」と挨拶し合うんです。
「どんな意味なんですか」と訪ねると、
「あなたを尊敬します」ということですよと答えてくれました。
そして「ナマス」とは私たちがお唱えする「南無妙法蓮華経」の「南無」と同じ意味なんだとも教えてくれました。私はその時、妙法蓮華経の第二十番目の章、常不軽菩薩品にある不軽菩薩の祈りにも通じている心だなと考えさせられました。
不軽菩薩という方は出会う人ごとに私はあなたを拝みます。決して軽蔑しません。なぜならあなたはいつの日か仏様になられる方ですから、と言ってこの二つの手を合わせて、これが自分の一番大切な修行なんだと信じ抜かれたお方なんです。
これは「ただ礼拝を行ず」ということから「但行礼拝」と呼ばれていますけれども、今私たち、日蓮宗が推し進めている宗門運動の道しるべともなる大事な心がけでございます。
お互いがお互いを尊敬し合い、助け合い、仏の子として自覚を持ち、この世界を仏様の願いに叶う清らかな世界にしていく。実はこれが日蓮聖人の正しい教えを立てて、国を安んじるという「立正安国」の精神なんです。
ちょっと話が飛躍致しました。話を元に戻します。
二つの手を合わせるというのは真反対と思われていたものが合体している姿です。清らかなものと濁ったものとを合わせることを清濁併呑と申しますけれども、お題目の信仰はただ合わせ呑むだけではございません。
濁った世界に根を下ろしながらも、地上に清らかな花を咲かせる、そこに南無妙法蓮華経の祈りがあるんです。
わかりやすく申しあげますと、悩みがあるから悟りもある。苦しみがあればこそ喜びも生まれてくる、ということなんです。
先般の甲子園、春の選抜野球大会で選手宣誓をしたのは東日本大震災の被災地、石巻工業高校の主将阿部翔人くんでした。 
あの大球場で「苦難を乗り越えればこそきっと幸せはやってきます」と言った言葉は日本中に感動を与えました。
やっぱりこれからの日本は、こんな若者たちのエネルギーが必要なんだと思わされました。
が、同時に、私のような高齢者の出番はもうないのかなとも、感じさせられました。
そう考えた時、若さ、それから老いたというこの二つの気持ち。二つの手のように真反対のものなんです。それならば若者と年寄りは心を合わせられるべき時が来ているんだとも考え直しました。
日蓮聖人のお言葉に心は…、失礼しました。体は違っても心がひとつになることを「異体同心」、そういう言葉でお説きになっておられます。
この苦難の時代を乗り越えるには、そういう若者と年寄りの合体がまさに必要な時ではないでしょうか。
手のひらのことを掌(たなごころ)と申します。でも心を棚上げにしてちゃダメですよね。
心の棚に生き方の整理をしていく。お互い手をつなぎ合ってそして生きていく。
日蓮宗徒である私たち。お題目のご縁をいただくものはまさにこの心がけで手を合わせるべきだと思います。 
いのちに合掌 14
この手を合わせるという合掌でございますが、合掌ですぐに私たちが思い出すのは、「いただきます」という時でございます。
一般のご家庭においては、まず食卓を囲んでそして食事をいただく時に、「いただきます」というのが昔からの風習でございました。最近のテレビでもNHKのドラマなんかでよく「いただきます」とやっております。
この「いただきます」なんですけれども、聞いたお話ですが、ある小学校に入ってきた1年生の担任の先生です。
みんなで合掌して「いただきます」と、食事を「いただきましょう」と言ったんですけれども、どういうわけか一人だけそれをしないで、「なんでやらないの」と言ったら泣き出してしまった子がいたそうでございます。
その時はそれで終わって、どうしてかなと思っていたそうですけれども、その後、その子のお母さんが学校へやってきたそうです。
校長先生と担任の先生を前にしまして、うちの子になぜ合掌をさせて「いただきます」ということを強制するのかということで、大変厳しい抗議の言葉を述べたそうであります。
「いただきます」、これをなぜあなたに、先生に言わなくちゃいけないの、なぜ学校でしなくちゃいけないんですか。うちの子は給食代を私がちゃんと払っているんです。親が払った給食代で食べる給食なのに、なぜ合掌して感謝して、先生にお礼を言わなくちゃいけないんですか。大変厳しい剣幕でそんなことを言ったそうでございます。
1年生の先生は、その剣幕に負けてたじたじとして、「どうも申し訳ありませんでした、それぞれのご家庭の有り様っていうのを考えておりませんでした。」と謝ったそうです。
結局それで済んでしまったんですけれども、それを話してくれた私の知人がそんなことでいいんでしょうか、いただきますというのはそんなことなんでしょうか、合掌というのはそんなことなんでしょうかと大変嘆いておいでになりました。
私も同感でございます。「いただきます」というのは先生に対して言うことではないと私は思います。まずその食事を作ってくださった方への思い、これももちろんでございます。
しかしそれだけではなくて、その食事をいただく時には、その食材の命を私たちは頂戴しているわけでございます。お米、小麦、そしてまた肉、野菜これは全て生命でございましょう。その生命をいただいて、私たちは自分の生命を長らえることが出来るのでございます。
日蓮宗では食法というのがございまして、
「天の三光に身を温め、地の五穀に精神を養う」と、
ここからはじまる感謝と、そしていただいた生命を自分の身をもっていかに生かしていくかということを考えていきたい、これがこの食法の根本精神だと思うんですけれども。実はそれこそが私はお題目の一番底に流れている仏様のおっしゃりたかったことではないかと思うんです。
共に生き、共に生かされている自分というものをまず知ること、そこから私たちの生き方というものがおのずと導き出され、そしておのずと自身の生き方というものがふつふつと湧いてくるはずでございます。
そういったものを無くしてしまった、いただきますという気持ちを無くしてしまったその挙句が今の社会ではないかと思うんです。
合掌というものも小林一茶の句ではございませんけれども、
「やれ打つな蝿が手をする足をする」
という言葉がございますけれども、夢中になった時に一生懸命になった時にそして全てを他に委ねて生きようとする時におのずと出てくるのが合掌の姿なのです。
(合掌の姿)
この形では手を上げることはもちろん出来ません。また言い返す言葉もございません。ただただ他の力に身を委ね、そして精一杯に生きていく、それが合掌の姿であり、そこにまた「いただきます」という感謝の気持ちが入った時に私たちは誠に今、生かされている自分というのを感じるんじゃないかと思います。
手を合わせて合掌し、そして高らかに南無妙法蓮華経とお題目を唱えます時に私たちはその私たちを生かして下さっている全て、そして世界、そしてそこにいる自分が繫がれているんだということをしっかりと身を持って心の底から感じることが出来るんじゃないかと思っております。
合掌し、お題目を唱え、その心がこの社会におのずと滲み出していくような私たち日蓮宗徒でありたいと願っております。
どうか皆様方お一人お一人手を合わせ、お題目を唱える中で、共に世界中が手を携え合っているという姿、そしてまたその中に生かされている自分ということを感じていただきたいと念願する次第でございます。 
いのちに合掌 15
お題目を唱えてください、と申し上げなくても、ご一緒にたくさんのお題目を頂戴し、誠にありがたいことでございます。
今日は日頃からお世話になっております。実成寺さんの行事にお招きをいただき、お話をさせていただく場所を頂戴し本当に有難く思っております。
お上人様方もおられるようでございますが、今日は檀信徒の皆様にお話をさせていただきます。
ご当山でも桜の花がちらほら咲いておりますが、
「桜の花は人恋し。」「桜の花は人恋し。」こういう言葉がございます。
日頃、お花見されますか?
お花見をなさる時に桜の木の下に昔は茣蓙(ござ)を敷いたようですね。今はビニールシートでしょうか。なぜ茣蓙(ござ)を敷くかというと、茣蓙(ござ)ならば空気・水を通すので根っこに優しい、ということ。
今はビニールシートですから空気も水を通しませんで、その上を人が歩いておりますから、根っこには大変悪いのだそうでございます。
と同時に、お花見をされる時にだいたいお酒を召し上がる方は、宴の方に夢中になってしまいまして、なかなか上に咲いているお花を見上げることがないようでございますが、桜の花というのは、下をむいて咲いているんだそうですね。
ですから、お花見においでになった時には、上を見上げて、
「綺麗だね。」「今年もよく咲いたね。」「嬉しいね。」
こういう気持ちでお花を見てあげると桜の花も大層喜ぶんだそうです。
「桜の花は人恋し」ということでございますが、私自身のことで恐縮ですが、
「今年の桜は見られないかもしれないなぁ」と…。
いや、去年のことですから、来年の桜は、ですが…。
実は日頃の不摂生がたたったか、仕事をやりすぎたかわかりませんが、病名でいえば癌というような名前がついているようなものにかかりまして…、
静岡県の県立がんセンターというところで見てもらいましたらば、右の歯肉ですね。歯茎ですね。歯茎にだいぶ進行のものがあると。それが下の顎の骨まで触っていて、このままほっといたら、というような話でございますから、まあ外科手術をすればなんとか大丈夫であろう、というような、先生の指導によりまして手術を受けました。
それで申しましたところの部位でございますから、その歯茎と歯、そうですね。歯と歯茎とその歯茎がのっている顎の骨を、右半分削除致しました。
削除を致したあとはどうするのだろうな、自分が寝ている間の仕事ですから、私はわかりませんが、左足の腓骨という骨を取りまして、ここへくっつけるっていうんですね。すごいですね。今の医学っていうのはね。
それでそれが無事成功して12時間後くらいに目が覚めて、痛くもなんともないもんですから、これは助かったわいというような状態なのですが、面白いですよ。
申しましたように、足の腓骨、あのすねの横にある細い方の骨です。これをちょん切ってこうつけるんですが、骨だけじゃ付きませんから、こう皮、皮っていうんですか、皮膚というんでしょうかね。それをくっつけた状態でここへ移植をして血管をこう手術でくっつけて、そうするとうまくいけば、その細胞が動き出すということなのですが、ここにいますからうまいことくっついたのですが、足の皮ですので、ここからすね毛がでるんですよ。
嘘のような話ですが、私最初、なんだろう。いくら、この口の中を掃除をしても何かくっついているなあ。煩わしいなと思って先生に聞いたら、
「いやそれすね毛です」って。
「どうしたらいいんですか」って言ったら、「自分でピンセットで抜いてください」って言う。
こんな調子でございますが、その時にお聖人様の
「病によりて道心は起こり候うか。」
というお言葉ではございませんが、経験しなくてもよいことかもしれませんが、経験できて、そして、再びこの娑婆で命をいただけたなと思った時に、思わず手を合わせたのは、私が和尚だからでしょうか。
最初のうちはそういう手術でございますから、言葉も出ませんし口も開きませんでした。
「今大丈夫ですか?」「言うことわかりますか?」
その時に先生が、病院の先生が「大丈夫ですか?どうですか?」、毎日来てくださる時に、声も出ないし、口も開きませんから、
「大丈夫です、痛くもありません、順調です」という全て意思表示をする時に手を合わせることが当たり前のようになりました。
私が和尚だということはわかっていますから、先生の方も「そうですかそれはよかったですね」と自然に手を合わせて返してくれたのを有難く思いました。
そうこうするうちに檀信徒の方々、役員さんをはじめ、お話できる日にちになって参りました時に、私がそういう病を得た、ということで、檀信徒の方々も、
「実はお上人さん、私もね、胃の方がね。」「私も肝臓がね。」「私もどこどこがね…。」
二人に一人とも三人に一人とも言われておりますけれども、
今まで、「亡くなりました…。」「あっ残念でしたね。」
ということで、すんでいた檀家さんとの話し合いの中で共通な話題がこの病気でありましたから、そういう思いをぶつけていただけるということに気がついたんであります。
これも病の御利益でしょうか?
桜の花を見上げて見れることが無かったように、檀信徒の方々の思いを、果たして、和尚として、菩提寺の住職として、どれだけ目を向け耳を傾け心を通わせていたであろうかと、そういうようなことを思うようになったわけでございますが、それはそれ。私も生身の凡夫でございますから、やっぱり欲が出るものだなと思いました。
最初は手術がうまくいけばね。それだけで十分。いのちが助かればね、それだけで有難い。しかしこれが日に日に良くなってまいりますと、よくしたもんで、「あっ帰ったら、あれもしたいね、これもしたいね」。
そのうち声が出てくるようになると、病室でお経本を開いて方便品か御自我偈か読めるようになって祈願する。
自分の「身体健全闘病平癒」。
その時にふと思ったのは、癌センターという病院ですから、全ての人がそういう病で入院もし、手術もされている。離れた時には余命が何ヶ月という方も、実はいらっしゃるわけでございます。
自分だけの祈りでよいのかと、今更ながら気付かさしていただいて、自分の「身体健全闘病平癒」を祈る時は、それを欲している人々の思いもいたっての「身体健全」であり「闘病平癒」であるべきであろう。
皆様方も手を合わせて祈られることは、たくさんおありになろうかと思いますが、手を合わせるということはどういうことでしょうか?
昔の人は歌にして教えてくれていますよね。一緒にやってみてください。
「右仏 左私と合わせての うちぞゆかしき 南無の一声」
「右仏、左私と合わせての うちぞゆかしき 南無の一声」
私たちは日蓮宗でありますから、この右手が仏様を表しますよ。お釈迦様ですよね。たくさんの仏様がいますけれども私たちはお釈迦様であります。日蓮宗でありますから、その中にお祖師様もお入れ下さい。ご守護の神様もお入れください。
お釈迦様、お祖師様、日蓮様、ご守護の神様と、凡夫のその私たちが一つになるところに「南無」という祈りの言葉が発せられてくる、こういう歌でございます。
実はこの歌を深く掘り下げてくれた方がおられまして、そのご紹介をさせていただきますが、私たち「布教師」と呼ばれるものでございますが、私はこのような布教師さんになりたいなぁと思った方に京都の三木随法上人という方がおられました。
この三木随法上人は、亡くなられる前に、手を合わせる合掌ということについて、このようなことをお書きになっております。
「ちょっとお聞きください。少し前までは合掌礼をするお坊さんが多かったのですが、合掌礼とは手を合わせて拝むということですね。最近では「よっ」こんにちはと片手をあげて挨拶することの方が多くなりました。法衣の姿もめっきり減った中で、合掌礼をすることによって坊さんらしさが気づけるかもしれません。」
「信者さんが、お坊さんに向かって合掌をする人が、今はまだ少し残っていますので、合掌礼を勧める今が最後のチャンスかもしれません。幼稚園や保育園、収容道場でも食事の時だけではなく、朝夕の挨拶の合掌礼を指導し、各寺院で行事や信行会でも多いに指導していき、合掌礼が日蓮宗徒のシンボルとなるまで広めていければよいと思います。」
結構意識をしながら修行のつもりで実行しなければならないだろうと思います。今、皆様方のお手元にはないかもしれませんが、私たち和尚には宗務院本部から布教方針、日蓮宗はこういう普及をして教えを広めて行こうねという冊子が届いてまいります。
この中に合掌で礼をする「合掌礼」という項目がございまして、もう菩提寺のお上人から度々お聞きになっていると思いますが、実は今お話、お読みした、三木随法上人のお書きになったものが、この布教方針の大本になっている。
そういうことをおっしゃられた三木随法上人さんのような布教師になりたいなと思って…。この方も胃癌という病気で、病名で言えば胃癌という病で、お亡くなりになったんですが、三木随法上人の真似をしようと思って、病気の方だけ先に真似をしてしまいました。
中身の方はこれから真似をするんですが。その三木上人が、こういうことを最後の年賀状でお書きになっているので、ご紹介をして、締めくくりにさせていただきます。
遠くの方は見えないかもしれませんが、こういう年賀状をいただきました。「合掌の似合う人なりたい」と書いてあります。
「合掌の似合う人になりたい」。
この合掌の姿を実践されていた三木随法上人でございますが、その方も「合掌の似合う人になりたい」、つまり手を合わせて人を拝む。物を拝む。全てを拝む。
そういう心の中に形として手を合わせる、それを実践していく、そういう人が合掌の似合う人であろうと、私は受け止めさせていただいております。
この病を一つのよき縁として私も「合掌の似合う人」、志していきたいと思っております。
皆様におかれましても、ご住職のご指導よろしきを得て、日蓮聖人のお喜びになる、お釈迦様の愛でてくださるご修行をお願い申し上げまして本日の解説の行とさしていただきます。
ご聴聞、誠に有難うございました。 
 

 

 
 

 

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仏教雑話 

 

 
仏教 

 

仏教とは何か?
「仏教」と聞くと、皆さんは何をイメージするでしょうか? 「葬式」や「法事」といった、人の死に関わる行事を思い浮かべる人が多いかもしれません。 このように現代の日本では、私達の身近な場面に仏教という宗教が入り込んでいます。世界史の教科書を見ても、仏教はキリスト教・イスラム教と並んで 三大宗教の一つとされています。しかし、仏教の起源をたどってみると、「仏教=宗教」という側面はそれほど強くはないのです。それでは、仏教がいつ どこで生まれ、どのように伝えられて、我々日本人に身近な宗教として感じるられるようになったのでしょうか? この「仏教への誘い」では、その歴史を 分かりやすくひもといていきたいと思います。
仏教は今から約2500年前のインドで誕生しました。キリスト教が紀元後まもなく、イスラム教が7世紀前半に誕生したとすると、仏教は三大宗教の中では最も 歴史が長いということになります。キリスト教の名前が「キリスト(神)の教え」に由来するように、仏教も「仏(ほとけ)の教え」に由来します。「ほとけ」 とは、仏教を開いたガウタマ・シッダールタのことを指します。ガウタマ・シッダールタの生い立ちなどについては、第2回以降で触れたいと思います。
ここで、「ほとけ」とガウタマ・シッダールタがどうして同じものなのかという疑問が湧くと思います。実は、ガウタマ・シッダールタには別名が数多くあって、 「ほとけ」もその1つなのです。「ほとけ」の由来にはいくつかありますが、その中に「ブッダ(buddha=仏陀)」の音に漢字をあてたという説があります。「ブッダ」 とはガウタマ・シッダールタが悟りを得た後に名づけられた尊称であり、「目覚めた人」、すなわち「この世を貫く真理を理解した人」という意味です。英語で仏教を 表す"Buddhism"もこの「ブッダ(buddha)」から派生しており、「ブッダの教え」を意味しています。その他に、「シャカ(釈迦)」という呼び名もあります。 この呼び名は、ガウタマ・シッダールタがシャカ族の出身であることに由来しています。
次に「ほとけの教え」を簡単に説明しましょう。仏教では、この世は苦しみに満ちており、現実は汚れや苦悩に満ちていると見なします。この見方は、一見して 非常にネガティブに聞こえるかもしれませんが、日常を振り返ってみると、「好きな人に振り返ってもらえない」「嫌いな食べ物が入っている」といった不満を 毎日のように私たちは感じていることに気付くはずです。仏教では、このような現実を「苦しみ」ととらえ、この「苦しみ」から抜け出して穏やかな心になることを 目指していきます。
「苦しみ」から抜け出す方法について、仏教は「正しい理解を得ること」だと説きます。つまり、最初に苦しみにあえぐ現状をありのままに「理解」してから、 次に自分が苦しんでいる原因についてはっきりと「理解」し、最後にこの苦しみを鎮めるための正しい方法を「理解」して穏やかな心を手に入れます。
この一連の流れを見ると、病気の治療法によく似ていると思いませんか? 「苦しみ」という語を「病気」に置き換えてみると、それがはっきりすると思います。 自分が病気であることを知り、その原因を突き止めた上で、医者から薬を処方してもらい、医者の指示通りに薬を服用すれば病気は回復します。このように、仏教は 「正しい知」というものを非常に重んじており、「知恵の宗教」と呼ばれる由縁はここにあるといえます。 
釈迦と同時代の思想家たち
仏教が誕生した頃というのは、それまで大きな力を持っていたアーリヤ人とインド先住民族の混血が進んでいました。また商工業の発達等によって価値観も多様化していました。 そういった新しい時代の流れの中から、それまでの権威を認めない様々な思想家たちが誕生しました。当時は、仏教もそのなかのひとつだったのです。
『沙門果経(しゃもんかきょう)』という仏典では、仏教以外の六人の思想家を「六師外道」(ろくしげどう)と呼んで紹介しています。この「外道」という言葉は「道を外れた者」 を意味し、見方によっては非常に失礼な表現なのですが、ここではひとまず「仏教以外の者」という風に考えておきましょう。彼らの思想は、今日的な視点から、唯物論、 決定論(もしくは運命論)、懐疑論、快楽主義、苦行主義、虚無主義などといったラベルを貼られています。もちろん、現代的な意味とは多少中身を異にする場合もありますし、 複数の考え方に跨るようなものもありますので、「〜論」「〜主義」という名前で一括りにすることはできません。それでは、以下に彼ら六人の思想家の見解を見ていきましょう。
アジタという人は、地・水・火・風という4つの元素だけが人間を構成すると考えました。そして、善業楽果(良いことをすれば、結果も良くなる)・悪業苦果(悪いことをすれば、結果も悪くなる)を否定し、死んだら無となるという説を唱えました。パクダも似たような考え方ですが、要素の数を先ほどの4元素に苦・楽・霊魂を加えた7つとする点が異なります。彼ら2人には、唯物論的な考え方が共通していると言えます。また、プーラナという人物も、善業楽果、悪業苦果を否定し、その見解は道徳否定論などと呼ばれています。この道徳否定論的な側面は、先の2人にも共通していると言えるでしょう。
ゴーサーラという人は、生き物は先の4元素に虚空・苦・楽・霊魂・得・失・生・死を加えた12の要素から成ると考え、すべては運命によって決定されていると唱えました。また、サンジャヤは、「来世があるかないか」などといった、明確な答えの出せない問題に対する判断中止を唱えました。サンジャヤの説は、不可知論、もしくは懐疑論、ゴーサーラの説は、決定論、宿命論などと呼ばれていますが、ここにも道徳否定論の入り込む余地があります。ニガンタ・ナータプッタは、物事に関する一面的な判断を禁じ、その説は多面主義(非極端説)、不定主義、相対主義などの様々な名前で呼ばれています。彼は、現在も残っているジャイナ教の実質的な開祖でもあります。このジャイナ教については、稿を改めて説明したいと思います。
では、彼らの思想を大胆にまとめるとどうなるでしょうか? 「人間はモノからできていて、死後は無になる(唯物論)、あるいは死後の存在があるかどうかは明確でない(懐疑論、不可知論)。ということは、良いことをしても悪いことをしても来世にその報いはない(道徳否定論)、もしくは結果はすでに運命によって決まっている(運命論、決定論)。だったら、何をやっても良いじゃないか。自分の好きなことだけをやって、楽しく生きようではないか(快楽主義)」といったところでしょうか? 現代でも同じですが、こういった発想というのは、当時のインドの人たちには大きな脅威だったと思われます。しかし、道徳否定論、快楽主義などと言いながらも、世俗を離れた生活をしていたっぽいところが、何ともインドらしいですね。 
仏教とジャイナ教
みなさんは、ジャイナ教という宗教を御存知でしょうか? ジャイナ教というのは、前回、六師外道のひとりとして触れたニガンタ・ナータプッタを事実上の開祖とする宗教です。 「生き物を傷付けてはいけない」という教え(=不殺生)を厳格に守ることで有名で、信者はみんな菜食主義を徹底しています。 また、インド独立運動で活躍したマハトマ・ガンジーの非暴力運動(原語は不殺生と同じく「アヒンサー」)に大きな影響を与えたことでもよく知られています。
実は、仏教とジャイナ教の間には、かなりの共通点があります。それもそのはず、両者が生れたのは同じ時代、同じ地域だったのです。 さらには、仏教の開祖である釈迦とジャイナ教の開祖マハーヴィーラは、同じく王族階級の出身でした。その結果、たくさんの共通点が生れました。 それらは、信者が守るべき戒め、開祖の呼び名、お経の登場人物、お経に出てくる表現や比喩など、様々な点に認められます。 特に、お経に出てくる表現の類似は、非常に興味深いものがありますので、一例を挙げてみましょう。仏教の『ダンマ・パダ』という古いお経には、次のようなフレーズがあります。 「戦場に於て百萬人に勝つとも、一の自己に克つ者こそ實に最上の戦勝者なれ。〔103〕」(『真理のことば』中村元訳、岩波文庫) 一方、ジャイナ教の『ウッタラッジャーヤー』という古いお経には、次のようなフレーズがあります。 「勝利しがたい戦闘において百万の敵に打ち勝つ者にとっても、一つの自己を克服することが最高の勝利である。(9・34)」どうでしょうか。 あまりの類似に、驚く方も多いかと思います。西洋で仏教やジャイナ教についての学問が始まった頃、学者たちは両者の違いに気付かなかった、などという話も耳にします。 出来すぎた話のようにも思えますが、これほどまでに共通点があれば、あながち作り話でもなさそうです。
さて、2つのものの間に共通点が見られる場合には、どう考えれば良いのでしょうか? 誰もがすぐに思いつくのは、A→B、もしくはB→A(この場合だと、「仏教→ジャイナ教」、もしくは「ジャイナ教→仏教」)という影響関係ではないでしょうか。確かに、このような影響関係もあったことでしょう。しかし、この2つの宗教の共通性の場合には、もっと古いところに遡らなければなりません。つまり、「共通の母体(X)→ A, B」という関係なのです。言い換えますと、「兄と弟がそっくりなのは、親が同じだから」といったところです。そして、この場合の親に相当するものは「沙門宗教」などと呼ばれます。このように、仏教とジャイナ教は親を同じくするため、「双子の宗教」だとか「姉妹宗教」などとも呼ばれているようです。
しかし、両者には相違点もたくさんあります。一例を挙げると、仏教は、大乗仏教の誕生などの大きな展開を見せ、中央アジア、中国、朝鮮半島を経て、日本にまで伝わりました。 他にも、チベット、モンゴル、東南アジアなどに広がっています。しかしながら、インド本国では13世紀頃に衰退してしまいました。 一方、ジャイナ教には大きな展開もなく、インドの外へと広がることもありませんでしたが、衰退せずに生き残り、現在でもインドに根付いています。 このように2つの宗教が異なった運命を辿った要因は複雑ですが、それぞれの宗教が自分らしさを確立していった結果だと言えるでしょう。 幼い頃はそっくりだった兄弟姉妹が、成長する中でそれぞれの個性を育み、似ても似つかない2人の大人になったようなものです。 
釈迦の十大弟子
釈迦には非常にたくさんの弟子がおり、その中には様々な人物がいました。彼らの中でも、とりわけ有能で、釈迦の信頼が厚かったと思われる10人の直弟子は、 しばしば「十大弟子」と呼ばれています。
彼らにはそれぞれ得意なジャンルがありました。その得意なジャンルでナンバーワンだという意味で、全員「〜第一」という別名を持っています。 例えば、「知恵第一」と言った場合には、「知恵に関して非常に優れており、そのジャンルにおいてはナンバーワンである」ということを意味します。 現在、十大弟子として広く知られているものは、『維摩経』というお経の弟子品(「品」は現代の「章」に当たります)における記述にもとづいています。 10人のうちの何人かを取り出して「四大弟子」などと呼ぶこともありますが、この10人はほぼ確定しており、誰かが他の人物と入れ替わったりすることはないようです。 それでは、以下に10人の弟子とその得意ジャンルを見ていきましょう。
十大弟子のなかでも、シャーリプトラ(舎利弗)とマウドガリヤーヤナ(目連)の二人は、釈迦の教えを広めるのに大きな功績がありました。 二人とも、もともとは、六師外道のひとりである懐疑論者サンジャヤのもとで修行していましたが、釈迦の教えに感銘を受けて改宗したと伝えられています。 その際、二人はサンジャヤの弟子250人を連れて弟子入りしたそうです。シャーリプトラは「知恵第一」と呼ばれ、一方のマウドガリヤーヤナは、「神通第一」 (「神通」とはいわゆる「超能力」のことです)と呼ばれています。
釈迦の入滅後に教団の最長老としてお経の編纂会議を主宰したマハー・カーシャパ(大迦葉)は、清貧の行者として有名であり、「頭陀第一」と呼ばれています。 スブーティ(須菩提)という弟子は、空性の理解に優れていたため、「解空第一」と呼ばれ、空思想を説く『般若経』という経典群にしばしば登場します。 他にも、弁舌さわやかで「説法第一」と呼ばれるプールナ・マイトラーヤニープトラ(富楼那)、様々な議論に巧みであったことから「論議第一」の人と呼ばれるマハー・カーティヤーヤナ(大迦旃延)も有名です。
弟子の中には釈迦の息子やいとこ等々、身内の者も含まれていました。釈迦の息子のラーフラ(羅睺羅)は、教団の規則を守ることなどに緻密であったため、 「密行第一」と呼ばれています。また、釈迦のいとこにあたるアニルッダ(阿那律)は、修行によって失明してしまいましたが、肉眼では見えないものを見通す力を手に入れたので、 「天眼第一」と呼ばれました。同じく釈迦のいとこにあたるアーナンダ(阿難)は、長い間、釈迦の側で奉仕して、他の誰よりも多くの説法を聞いたため、「多聞第一」と呼ばれ、 釈迦が入滅した後、お経の編纂会議では、教えをまとめるのに中心的な役割を果たしました。他にも、かつて釈迦の一族おかかえの理髪師をしていたウパーリ(優波離)がいます。 彼は、教団の規則を守るのに厳格だったため「持律第一」と呼ばれ、お経の編纂会議では、教団の規則(律)をまとめるのに中心的役割を果たしました。
彼ら10人の像は、日本でも奈良の興福寺や京都の清涼寺で見ることができます。 
 
仏教史1

 

釈迦
仏教の開祖。釈迦牟尼(しゃかむに)、釈迦牟尼世尊(しゃかむにせそん)、釈尊(しゃくそん)とも呼ばれる。生没年にはさまざまな説があるが、前565〜前 486年説、前 465〜前 386年説などが有力とされている。
釈迦は梵語(サンスクリット語)のシャーキヤ【S】akyaを音写したもの。もともと北インドの一部族の名だったが、その部族出身の仏陀という意味で広く使用されている。釈迦牟尼世尊の牟尼は聖者の意で、釈迦族出身の聖者を意味する。
俗姓をゴータマ、名をシッダルタといい、現在のネパール南部のターライ盆地にあったカピラバスツー城で、シュッドーダナ(浄飯)王を父、マヤ(摩耶)夫人を母として生まれた。
国王になるための教育を文武両面で受け、16歳でヤショダラ(耶修陀羅)女と結婚、1子ラーフラをもうけたが、29歳(19歳説も)で出家した。出家の動機について仏伝には「四門遊観」があげられている。
釈迦が王宮にいたとき、城から遊びに出ようとした。東の門から出たときには老人、南門では病人、西門では死者を見た。ところが、北門から出たときに出家者が歩いているのを見、心を強く動かされ、出家を決意したといわれる。「生老病死」といった人間の本源的な苦悩の解決が出家の目的だったのである。
出家した後、6年間(19歳説では11年間)にわたって苦行を続けたが、肉体を苦しめるだけの苦行では目的が達成できないことを知り、菩提樹の下で思索、瞑想にふけり、35歳で成道(じょうどう)した。
悟りを得た釈迦はサールナート(鹿野苑=ろくやおん)に行き、かつての同僚であった5人の修行者を相手にはじめて説法をした。これは「初転法輪」と呼ばれ、「中道」と「四諦」が説かれたといわれている。
その後も釈迦は一カ所に止まることなく、主としてガンジス河の中流域で、民衆の機根に応じてさまざまな教えを縦横に説いた。ラージャガハ(王舎城)ではビンビサーラ(頻婆沙羅)王をはじめ宮廷の人々を教化し、故郷でも父王や親族に自らの悟りを伝え、導いた。従弟のアーナンダ(阿難陀)や一子ラーフラも帰依している。
西に東に、北に南に。教えを説く旅を死の寸前まで続けた釈迦は、80歳でクシナガラで入滅した。
教えの中心は、初期の仏教教典によれば、四諦(したい)、八正道(はっしょうどう)、十二因縁(じゅうにいんねん)、縁起(えんぎ)などであったとされる。因果の理法を明確に知るとで、物質や自我に対する執着によって生じる苦悩から自由になることができると説いた。釈迦の教えは譬喩(ひゆ)や例え話が多く、わかりやすかった。実践の方法も極端な苦行などを避け、倫理面を重視した方法を採用したので、さまざまな階層の人々に受け入れられた。
その教説は生前は筆記されなかったが、亡くなった後、数度にわたる「結集(けつじゅう)」が行われ、多数の仏教経典にまとめられた。 
縁起
釈迦の教えの中核のひとつ。梵語(サンスクリット語)のpratityasamutpadaの意訳で、因縁生起(いんねんしょうき)を略したものだ。
因とは果を生起させる直接の原因、縁とは外的・間接的な原因を指し、因と縁とが関係しあって、あらゆる現象が生起していることを意味している。広義には法(ダルマ)と同一視され、宇宙の万物の生滅変化を貫く理法とみなされた。最も狭義には部派仏教で説かれた業感縁起(ごうかんえんぎ)を指す。人間の幸不幸、社会生活の成功・失敗を、人間の行為(業)の結果とするものだ。
唯識法相(ゆいしきほっそう)では阿頼耶識(あらやしき)に縁起の原理を求める頼耶縁起、『大乗起信論』では如来に縁起の原理を求める真如縁起(しんにょえんぎ)や如来蔵縁起、華厳では法界縁起(ほっかいえんぎ)が説かれる。
また、宇宙の構成要素である四大(地水火風)に空と識を加えた六大縁起も説かれた。
神社・仏閣の起こりや由来、功徳を伝える説話。 
仏教小史
インドの釈迦(しゃか)の創唱した世界宗教。キリスト教、イスラム教とともに世界3大宗教に数えられる。
根本となっているのは釈迦が菩提樹下で成道し、80歳で入滅するまで北インド各地で説いた教説にある。仏の教えという意味で「仏法」、仏となるための修行の意味を含めて「仏道」と呼ばれることもある。
釈迦の本意は自らが悟った真理を広く社会に開き、苦悩に沈む民衆を救うところにあった。当時インドで大きな勢力を誇っていたバラモンの哲学を打ち破り、カーストによる差別を認めない立場を貫き、人間の平等を訴えた。
「釈迦は人間の価値は現実の人間の存在と行為によってきまるものであるとし、真理を発見し、真理に基づく正しい生活を確立しようとした。したがって、仏教の最大の特色は、神と人との関係において宗教が成立するのではなく、人間自身に根ざし、人間自身の生き方を根本問題とするところにある」とする視点もある。
釈迦を中心として出家信者の集団が構成され、それに在家信者が加わり、釈迦の教団は次第に広がっていった。釈迦の死後、その教えは数度にわたる「経典結集(けつじゅう)」経て、三蔵(大蔵経)の形で膨大な経典としてまとめられた。
第2回経典結集の前後から(釈迦滅後100年ごろ)、戒律の解釈をめぐって仏教教団に分裂が起こり、上座部系統と大衆部系統に分かれた。戒律の規定に厳格な立場をとるグループと寛大な立場をとるグループの争いだった。根本二部分裂の時代である。
さらに、マウリヤ朝時代も分裂は続き、上座部が12、大衆部が6部の18(あるいは20)の分派に分かれた。これを枝末分裂という。上座部系統は次第に思弁哲学的傾向を強め、閉鎖的な僧院生活に閉じこもりがちで、小乗仏教として大衆部系統から排斥された。
大衆部系統は大乗仏教興起の運動を起こし、上座部系統の流れをくむ部派仏教の出家信者中心のいき方に対して、在家信者を中心とした民衆救済を目的とする活動を展開した。このころ「般若経(はんにゃきょう)」「華厳経(けごんきょう)」「維摩経(ゆいまきょう)」「法華経(ほけきょう)」「大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)」などの大乗経典も成立した。
2世紀末、南インドに現れた竜樹(ナーガ−ルジュナ)は空観を中心として仏教の体系化をはかった。「中論」「十二門論」「大智度論」などを著し、後の中国、日本の仏教に大きな影響を与え、「八宗の祖」と呼ばれている。
さらに、4〜5世紀に出た無著(アサンガ)、世親(ヴァスバンドゥ)の兄弟によってインドにおける大乗仏教は完成された。兄弟の開いた唯識派は、竜樹の開いた中観派とともに大乗仏教の2つの流れを形成したが、7世紀以後、仏教はヒンズー教、イスラム教などに押され、インドでは衰えた。
その後、仏教は世界各地に伝えられ、各地でそれぞれ独自の発展を遂げた。スリランカ、ミャンマーには上座部仏教、ジャワ、スマトラ、ボルネオなどには大乗仏教、カンボジアには大乗仏教のち上座部仏教、ベトナムには大乗仏教が伝わった。シルクロードの諸国では西域仏教が行われ、チベットではラマ教として発展した。
仏教が中国へ伝来したのは後漢の明帝の永平10年(67)とされるが、紀元前後にも西域諸国を通じて、すでに伝えられていたと見られる。天山南路、天山北路などのシルクロードを通って、仏教は中国に伝来したのである。
当初は一部の貴族や知識階級に広まり、大きな勢力となることはなかったが、後漢末から魏・西晋時代になると、インド、西域から来朝する僧も多くなり、経典の翻訳も行われ、次第に世間の注目を集めるようになった。
呉の支謙、西晋の竺法護ら優秀な漢訳者に加え、西域から鳩摩羅什(くまらじゅう)が入朝し、経典を数多く翻訳、中国独自の仏教の発展に大きく貢献した。法顕(ほっけん)、玄奘(げんじょう)などインドへの求法者も生まれた。
6世紀には達磨(だるま)によって禅宗が伝えられ、臨済宗、曹洞宗の2大派が生まれた。
隋代には智〇が「法華経」によって天台宗を開き、吉蔵が三論宗を大成した。唐代には浄土宗、法相宗、華厳宗、真言宗などが成立、仏教は黄金時代を迎えるが、会昌の法難(842年)を機として、次第に中国の仏教は衰退していった。
日本へ仏教が正式に伝えられたのは欽明天皇13年(552年)とされるが、『元興寺縁起』などでは538年になっている。いずれにせよ、それ以前から民間に仏教信仰が伝えられていたことは間違いない。仏教を受け入れるかどうかをめぐって蘇我氏(崇仏派)と物部氏(排仏派)が争ったが、結局、物部氏が滅びて、崇仏派が勢力を伸ばした。その後、用明天皇の皇子だった聖徳太子は仏教興隆に力を入れ、「法華経」など三経を講義し、法隆寺、四天王寺などたくさんの寺院を建立した。
奈良時代には東大寺をはじめとして、各国に国分寺が建立され、南都六宗として知られる諸宗が勢力を誇った。南都六宗とは三論宗、法相宗、成実宗、倶舎宗、華厳宗、律宗である。
飛鳥時代から奈良時代までは「鎮護国家」を目的とした学問仏教の色が濃かったが、平安時代になると、最澄(さいちょう)や空海(くうかい)によって、唐から天台宗、真言宗が伝えられ、比叡山、高野山などが開かれた。
鎌倉時代になって仏教は一般民衆の信仰を集めるようになった。平安末期からの末法思想の流行は浄土思想を急速に普及させ、源信(げんしん)や法然(ほうねん)による「念仏」が武士、庶民に広く浸透した。鎌倉時代には親鸞(しんらん)、道元(どうげん)、栄西(えいさい・ようさい)、日蓮(にちれん)、一遍(いっぺん)など各宗の開祖が続々と登場し、新しい仏教が興起した。
室町時代になると仏教は確実に勢力を伸ばしたものの、鎌倉時代のような革新的な仏教は誕生しなかった。五山を中心とする禅僧独特の美術や文学が生まれた。戦国時代には比叡山、高野山、本願寺など大寺院で織田信長の徹底した迫害を受けたものも多かったが、江戸時代初期には各寺院とも復興した。
明治維新直後には復古思想による「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」などの危機を経て、仏教の革新も進み、戦後は多くの仏教系新興宗教を生んだ。 
奈良仏教
奈良時代に入ると、遣唐使によって唐から輸入された学問仏教が奈良の諸大寺院で学ばれた。これは一口に南部六宗といわてれおり、三輪・成実・倶舎・法相・華厳・律の6宗をいう。このうち法相宗とは、インドに由来する唯識教学を研究する学派で、今日、興福寺と薬師寺を二大本山とし、その伝統を伝えている。また、華厳宗は、東大寺を大本山とし、中国の賢首大師法蔵が華厳経に基づき大成した華厳教を研究する学派である。東大寺には、752年、華厳経の教主・毘盧遮那仏をかたどる大仏が建立され、この東大寺を総国分寺とする国分寺の組織も整備された。総じて、奈良仏教は、鎮護国家的性格を有していた。なお、754年、唐から鑑真(688〜763)が来朝し、授戒の制を確立した。鑑真の開創した寺院が唐招提寺で、今に律宗を伝えている。
聖徳太子と仏教
日本の仏教は、聖徳太子(574〜622)によってその基礎が据えられたとされる。太子は、非常に深く仏教思想を受容し、これを治世にも活かしたといわれている。太子はまた、法隆寺や四天王寺などを建立している。法隆寺はその後、長く法相宗の学問道場としての役割を果たしてきたが、今日では法相宗から独立し、聖徳宗を形成している。四天王寺は、戦前まで天台宗に属していたが、前後独立し、和宗を形成している。 
平安仏教
平安仏教を代表するものとしては天台宗と真言宗がある。
天台宗
天台宗の開祖は、伝教大師・最澄(767〜822)で3ある。最澄は入唐して隋の天台智○の大成した天台教学を究め、さらに密教と禅と律の伝授も受けて帰朝し、806年、円(天台教学)・密・禅・戒の四宗を総合する天台法華経を開創した。
天台教学は法華経に基づくものであり、あらゆる人々は仏となる因(仏性)を有しているという一乗思想のほか、三諦円融の教え、一念三千の教えなど非常に高遠な思想を有している。と同時に、心を統一しつつ自己と存在の実相を観察する“止観”を中心とした実践行も重視し、教観双修を標榜する。
天台宗には、峰々を毎日歩きまわる回峰行、長い年月山に篭もる篭山行など極めて厳しい行が伝わっており、今にこれを修する人が絶えない。
なお、最澄は戒に関して特に大乗の立場での戒を主唱し、日本仏教における戒観の基礎を築いたことも忘れることはできない。
このほか日本の天台宗はもとより密教を含んでいたが、その後真言宗の影響を受けたり、円仁(794〜864)、円珍(814〜891)が出て更に密教化し、真言宗の東密に対し台密と呼ばれる密教を栄えさせた。
天台宗の総本山は比叡山延暦寺である。天台宗からの分派としては、円珍門下の余慶が三井の園城寺に拠ったところから始まる天台寺門宗、戒称二門(大乗円頓戒と称名念仏を統合)の教学を唱えた慈摂大師真盛による天台真盛宗などがある。なお、戦前、四天王寺や鞍馬寺、浅草寺は天台宗に編入されていたが、戦後いずれも独立して一派を形成した。
真言宗
真言宗の開祖は弘法大師・空海(774〜835)である。空海は唐で恵果より真言密教を学び、ことごとく秘宝を伝授されて帰国し、真言宗を開いた。
823年には、嵯峨天皇から東寺を賜って皇城鎮護の道場とし、835年高野山で入定 (入寂)した。この間、布教活動とともに福祉的活動や橋をかけるなどの社会事業にも尽力した。
密教というのは、歴史上の釈尊が説いたとされる顕教に対するもので、法身仏(いわば絶対者)である大日如来が、直接説いた教えという。生きとし生けるものは、宇宙の根源的な生命である大日如来の顕現であり、我々も三密行の実践により即身成仏することができると説く。そのほか具体的な行に阿字観などがあり、また諸尊の加護を求めて加持祈祷がしばしば修される。
曼陀羅は密教の悟りの世界=宇宙の大生命を象徴的に図画でもっと示したものであり、かつ現実世界がそのまま理想世界なること示すものである。また、高野山は、弘法大師・空海の入定の地であり、大師の救いを信じて南無大師遍照金剛と唱える大師信仰の中心となった。
この高野山金剛峯寺を総本山とする高野山真言宗は真言宗団の中でも最大の宗団である。また、真言宗は皇室と縁が深く、大覚寺、仁和寺等の門跡寺院が多くあり、それぞれ一派を形成している。12世紀には、覚鑁(1095〜1143)が出て密教と高野山の復興につとめた。覚鑁は金剛峯寺と大伝法院の座主を兼任するなどしたが、金剛峯寺勢力と折り合わず、高野山を離れて根来(和歌山県) に本拠を置いた。
その後、頼瑜(1226〜1304)が出て大伝法院を根来に移し、新義真言宗として独立した。根来寺が豊臣秀吉に焼かれると、専誉と玄宥の二人の能化は、それぞれ大和長谷寺、京都智積院に移り、現在の真言宗豊山派と真言宗智山派の基を据えた。
修験道
平安末には日本古来の山岳信仰が仏教、道教、シャーマニズム、神道などと融合して、修験道という一つの宗教体系を作り上げた。
中世期、大峰山では吉野・熊野を拠点として修業か行われ、熊野側では聖護院を本山とする本山派が、吉野側では大和を中心に当山派が形成された。
江戸時代には両派が認められていたが、明治政府により、明治5年、修験道は一宗としては廃止され、本山派は天台宗に、当山派は真言宗に組み込まれるかたちとなった。
現在は独立して本山修験宗、真言宗醍醐派、金峰山修験本宗、修験道などとなっている。 
鎌倉仏教
鎌倉時代には多くの宗派が生まれている。当時は政治の実権が貴族から武士へと移る転換期であり、その一方、天災・飢饉・戦乱などによって民衆の苦悩は深まっていった。しかも仏教史観によれば、末法の時代でもあった。そうした中で貴族階級中心の平安仏教に代わり、民衆の救いへの願いに応える仏教が生まれたのであった。
禅宗
鎌倉時代に成立した禅宗に、臨済宗と曹洞宗がある。臨済宗は中国で成立した禅の一派で、禅匠臨済義玄の禅風を伝える宗派である。日本には栄西 (1141〜1215) が宋より伝えた。ただし、現在に伝わる臨済宗各派のほとんどは、鎌倉末期から室町期に活躍した大応国師(南浦紹明) 、大燈国師 (宗峰妙超) 、関山慧玄といういわゆる応燈関の流れである。さらに江戸時代には白隠 (1685〜1768) が出て、これを中興した。禅とは精神統一の状態を意味dhyana(jana)の音写・禅那の語に由来する。すなわち、座禅を組んで精神統一の状する態に入り、自己の本性を見徹し、悟りを開くことを目的としている。その悟りの境地は、言葉によって説明することはできず、師と弟子の間で心から心へと伝えられる (不立文字、教外別伝) 、という。また、古来、禅僧には、その悟りの立場から発する奇妙な言動が禅問答として遺されているが、それらは後に禅の学人にとって自らの修業を深めるよすがとして活かされるようになった。これを公案という。白隠禅は公案による禅修業を主体としている。臨済宗の中で最も大きな宗団は臨済宗妙心寺派である。妙心寺の開山は関山慧玄(1277〜1360) で、室町時代に雪江宗深によって全国的な広がりをもつ一派となった。その他大本山とその開山を挙げると、建仁寺は栄西、南禅寺は無関普門 (1212〜、主な1291) 天龍寺は夢窓疎石 (1275〜1351) 、大徳寺は宗峰妙超 (大燈国師) (1282〜1337) 、建長寺は蘭渓道隆 (宋1213〜1278) 、円覚寺は無学祖元 (宋1226〜1286) 、また、相国寺は夢窓疎石を開山春屋妙葩 (1311〜1388) を二世とし、各本山ごとに宗派を形成している。臨禅は武士階級に好まれ、また、絵画 (水墨画) 、演劇 (能) 、茶道等、中世の文化に非常に大きな影響を与えた。なお、江戸時代、明の禅僧・隠元隆〇 (1592〜1673) によって臨済禅が伝えられたが、現在、黄檗宗として伝えられている。京都宇治の黄檗山万福寺を本山としている。曹洞宗は、やはり中国の曹洞宗の禅を、道元 (1200〜1253) が入宋して伝えたものである。道元は初め、比叡山に上り修行し、その後、栄西にまみえて禅を修するようになった。さらに宋に渡って禅宋諸師に遍参し、ついに天童如浄の下に、「身心脱落、脱落身心」と大悟し、印可を受けた。帰朝したが、旧仏教の圧迫を受けたり、幕府にも受け入れられなかったりしたため、越前に移り、永平寺を開き、弟子の育成に尽力した。
曹洞禅は臨済禅と考え方がやや異なり、公案は用いず只管打坐、ただ座るということを重んじている。座禅は仏のはたらき、仏の活現に他ならないということで、これを「本証の妙修」という。また、曹洞宗では、「行持綿密」、「威儀即仏法」といって日常生活の微に入り細にわたって綿密な規定がなされている。道元の家風は、極めて厳格で、格調の高いものであり、一般に広まる性格のものではなかったが、その門下の第四祖、瑩山紹瑾(1268〜1325) が禅を大衆化し、現代の大教団の基礎を築いた。瑩山紹瑾はは、石川県の能登に総持寺を開創したが、これは明治に入って火事にあい、横浜の鶴見に移っている。現在、曹洞宗は福井の永平寺と鶴見の総持寺の二大本山制をとり、道元を高祖、瑩山を太祖として尊崇している。
浄土宗
浄土宗系の教団で宗祖とされている法然 (1133〜1212) は初め比叡山に上り、次に南都に遊学し、諸宗の奥義を極めたが満足できず、ついに中国の善導大師のされて、専修念仏を唱導する浄土宗を開創した。
『観経疏』の一文に触発なわち、この末法の時代には阿弥陀仏の御名を称えることによって極楽浄土にひきとっていただき、そこでやがて悟りを開く方がふさわしいと、専ら念仏の易行のみを修する立場を選択したのであった。この他力易行としての念仏は、愚人、悪人こそが救われる道として、当時の民衆に大きな影響を与え、法然のまわりには貴族から遊女らに至るまで集まったのであった。しかし、従来の諸宗は伝統的な仏教を否定するものとして反発し、朝廷に念仏停止の令を発するように働きかけた。結局、法然は、土佐( 実は讃岐) 流罪に処せられ、高弟らも、死罪や流罪に処せられた。現在の浄土宗は、法然の高弟のうち特に九州地方で活躍した弁長 (1162〜1238) の鎮西流を中心とする宗派である。第3祖の良忠 (1199〜1287) は主に関東を中心に伝道し、その門下からさらに全国に広まった。法然の高弟の一人証空 (1177-1247)の門流は現在、西山三派といわれている。
日蓮宗
日蓮宗は、日蓮 (1222〜1282) を宗祖とする。日蓮は初め、清澄山に登って仏教を学び、後、比叡山で天台教学を究めるなどし、故郷 (千葉) に帰り、建長5年 (1253) 、清澄寺で南無妙法蓮華経と高唱したのが開宗とされる。その後、鎌倉を中心に布教活動を展開し、幕府に対して法華経に帰依すべきことを訴えたが聞き入れられず、そのことにより数々の法難を受けた。佐渡に流されるが、やがて許されると身延山に入り、そこで専ら法華経の宣揚と道俗の訓育に当たった。7年間ほどして病いを得て身延山を下り、常陸に療養に向かう途中、立ち寄った池上にて示寂した。日蓮宗では、南無妙法蓮華経の題目(経の題目)を唱える、唱題ということを説くが、それは、法華経こそが釈尊の悟りのすべて、すなわち宇宙の実相を表わしており、しかも「妙法蓮華経」の題目は、単に名称ではなく、法華経の説く内容、つまり仏陀の証悟の世界そのものである、と日蓮が見出したからである。なお、日蓮は、南無妙法蓮華経を中心に、諸仏諸尊を回りに配した図によって末法の衆生を救済するという釈尊の本懐を顕わたしたが、その図顕の大曼陀羅も本尊として礼拝の対象としている。現在、日蓮系の教団には、身延山を祖山とし、池上本門寺に宗務院を置く日蓮宗を初め、顕本法華宗、法華宗 (本門流・陣門流・真門流) ・本門法華宗等々、種々の宗派がある。ここには、法華経に対する解釈の相違が介在している。なお、日蓮の寂後、身延の御廟は日蓮の定めた六老僧が管理したが、その中の一人、日興(1246〜1333) の流れを汲むのが日蓮正宗であり、富士の大石寺に拠っている。
浄土真宗
浄土真宗の宗祖は親鸞 (1173〜1262) である。親鸞は初め比叡山で修学に励んだが、29歳の時、京都六角堂に参籠したおり、聖徳太子の夢告を得て、法然の下に参じたといわれる。やがて法然の高弟の一人となり、法然が四国流罪とされたときには越後流罪に処せられた。
その後、関東で教えを弘め、晩年には京都に帰ったが、手紙 (消息) により関東の門弟を指導し続けた。親鸞は、法然の唱導した浄土門の念仏の教えこそ真実の教え (浄土真宗) であると考えていた。もっとも親鸞の立場はむしろ信心に徹底し、信が定まったときに必ず仏となる者の仲間 (正定聚という)に入る、すなわち、浄土往生以前にこの世で救いが成就する (現世正定聚) とされた。しかもその「信心」も「念仏の行」も如来より施与 (廻向) されたものとされ、絶対他力の教学を完成した。晩年には自然法爾と述べている。なお、親鸞は妻帯も仏道を妨げないことを唱え、非僧非俗と称し、出家教団とは異なる教団を形成した。現在、真宗教団で最も大きなものは、浄土真宗本願寺派 (西) 、真宗大谷派 (東) の東西本願寺教団である。
本願寺は元来親鸞の廟堂であり親鸞の子孫が管理した。三代覚如(1270〜1351) の時、本願寺となり、第8代の蓮如 (1415〜1499) は活発に布教活動を展開し、今日の大教団の基礎を築いた。おな、東本願寺は、徳川家康が当時現職を離れていた教如 (光寿) に施与したもので、それ以前からあった本願寺を西として、東西両本願寺が並び立つこととなった。そのほか浄土系の宗派の代表的なものとして融通念仏宗と時宗の二宗がある。
融通念仏宗・時宗
融通念仏宗は良忍 (1072〜1132) が開祖である。良忍ははじめ天台宗を修めたが、比叡山を下り、46歳のときに阿弥陀如来より「自他融通の念仏」を受け、融通念仏宗を開いたという。自他の念仏が相互に力を及ぼしあって浄土に往生すると説いている。良忍はまた、天台声明の中興の祖としてしも有名であり、大念佛寺を総本山としている。時宗の開祖は一遍 (1239〜1289) である。一遍は証空門下の聖達に学び、後に熊野本宮で神勅を得るなどして自らの教学を形成した。一遍は捨聖といわれ、遊行をこととし、彼の門弟も一遍に従って遊行した。
また念仏を称えた人には算という念仏の札を与えた (=賦算) 。その宗団は、初め、時衆と呼ばれ、室町時代にかけて大きく成長した。清浄光寺 (遊行寺) が総本山である。 
 
仏教史2 

 

1. 仏教伝来
日本に仏教が正式に伝えられたのは、6世紀の欽明(きんめい)天皇の時代です。6世紀というと、中国では南北朝に分かれ、朝鮮では高句麗・百済・新羅の三国に分かれていた時代です。 朝鮮では、すでに仏教は伝わっていました。そのうちの百済の聖明王(せいめいおう)から、仏像や経典が贈られました。
日本では、仏教伝来以前から古来の神々が信仰されていました。仏教が伝えられると、仏教を積極的に受け入れようとする側と受け入れに反対する側とに分かれます。 仏教を受け入れようとする側の代表は、中国・朝鮮から渡ってきた渡来人系の蘇我(そが)氏で、受け入れに反対する側の代表は、物部(もののべ)氏でした。 仏教の受容を巡る問題は、豪族間の権力争いと共に激化しますが、蘇我氏の勝利により一段落します。
崇仏派の蘇我氏が勝利したことで、仏教は急速に普及していきます。推古(すいこ)天皇は、「三宝興隆の詔」を発布し、聖徳太子は「十七条の憲法」を制定し、その中で仏教を儒教と並んで政治の基本精神に据えました。 また、豪族の間では、各自の寺院が建立されます。これらの寺院は、それぞれの氏族の祖先を祀る目的で建てられ、「氏寺(うじでら)」と呼ばれます。 このように従来の祖先崇拝の延長として仏教が信仰される一方で、中国や朝鮮の最新の仏教教学の影響も見られます。
聖徳太子は、『法華経』『勝鬘経(しょうまんぎょう)』『維摩経(ゆいまぎょう)』の註釈書を書いたとされています。 その中で、聖徳太子は中国の註釈書を踏まえながらも、独自の意見を出すなど、仏教に関する高い知識を示しています。 現在では本当に聖徳太子が書いたのか疑問が持たれており、朝鮮から渡来した僧侶の影響が指摘されていますが、当時の仏教学の水準の高さを示す重要な書物の一つです。 
2. 奈良時代
仏教伝来から聖徳太子の時代までは、朝廷が飛鳥(あすか)に置かれていましたので、飛鳥時代と呼ばれています。この時代は、いまだ蘇我氏などの豪族を中心とする仏教でした。 その後、大化の改新や壬申の乱を経て、天皇を中心とする律令制国家となります。奈良時代には、仏教もまた天皇を中心として国家政策の一環として進められていきました。いわゆる「国家仏教」の時代です。 この時代の仏教は、国家を鎮護する目的で国家を中心に寺院が建てられ、経典の写経と読誦が行われました。一方で、僧侶らも官僚の一部として管理され、その活動は制限されました。
聖武(しょうむ)天皇は、国の安寧と平和を願って、全国に国分寺を建立し、さらに東大寺に有名な大仏を建立しました。また、唐とも遣唐使を通じて交流があり、最新の仏教学が日本に入ってきました。 中国の諸宗派が伝来することにより、「南都六宗(なんとろくしゅう)」が成立します。南都六宗とは、三論(さんろん)宗・成実(じょうじつ)宗・法相(ほっそう)宗・倶舎(くしゃ)宗・律(りっ)宗・華厳(けごん)宗 の六つを指します。後世の宗派と違って、いずれも学問としての宗派であり、僧侶らは自由に行き来し、各宗派の学問を学んでいました。このうち、法相宗は興福寺が、華厳宗は東大寺が、 律宗は唐招提寺(とうしょうだいじ)が中心となって活動し、現在に至っています。律宗の唐招提寺は、鑑真(がんじん)が建立したことで知られています。 僧侶になるには、戒律を受けてそれを遵守しなければいけません。しかし、当時の日本には、正式な受戒の儀式が伝わっていませんでした。そのため、唐から授戒のできる人物を呼ぶことになります。 それが鑑真でした。鑑真は、日本の僧侶らの求めに応じて、三回挑戦して、四回目にようやく日本に来ることができました。 鑑真の来日により、日本でも受戒が可能となり、東大寺とその他の二カ所に戒壇(かいだん)が設置されます。
奈良時代では、僧侶は僧尼令(そうにりょう)によって管理され、出家するにも国の許可が必要でした。僧侶の活動は制限があり、一般の人々に自由に布教することは許されていませんでした。 それに対して、国の許可を受けずに私的に出家する「私度僧(しどそう)」と呼ばれる僧侶らが現れます。その代表的な人物が、行基(ぎょうき)です。行基は、人々のために仏教の教えを説き、 各地に橋を設けるなど布教と社会奉仕活動に従事しました。初めは行基の活動を禁止しようとしていた朝廷も、大仏の建立の際に、行基の助けを借りることになります。 行基は、日本で最初に「大僧正(だいそうじょう)」という一番高い僧侶の位についた人物になりました。中世には密教が中心となりますが、それをもたらした空海もまた最初は「私度僧」の一人でした。 
3. 平安時代
平安時代には、仏教は密教が中心となりました。密教はインドのヒンドゥー教の影響を強く受けて成立した仏教で、現実肯定を背景に、 今生きている段階で成仏できるという即身成仏(そくしんんじょうぶつ)の思想を大きく主張します。日本では、この現実肯定の思想は、一般の人にも仏となれる性質があるという仏性論と一緒になってさらに強調され、 院政期には、すでに衆生は仏であるという本覚思想(ほんがくしそう)へと発展します。
日本の密教は大きく分けて、天台宗系の台密(たいみつ)と真言宗系の東密(とうみつ)の2つに分かれます。天台宗と真言宗は、平安時代になって開かれたものです。
天台宗を開いたのは最澄(さいちょう)です。最澄は、天台を学ぶために唐に渡り、その地で天台の他に密教、禅、戒律を学びました。その後、日本に帰り比叡山(ひえいざん)に延暦寺(えんりゃくじ)を建て、天台宗を開きました。 最澄はまた、従来の厳しい制約の多い小乗戒に対して、より制約の少ない世俗向けの大乗戒を重視し、それを授ける戒壇を比叡山に設けるよう朝廷に働きかけました。 この大乗戒による戒壇の設立が認められたのは、最澄の死後まもなくのことです。
真言宗を開いた空海(くうかい)もまた、最澄と同じく唐に渡り密教を学び、戻ってきてから高野山に金剛峯寺(こんごうぶじ)を、京都に東寺(とうじ)を建てました。 空海の学んだ密教は、日本の仏教界に大きなインパクトを与え、貴族や僧侶らが密教を学びに来ます。先に天台宗を開いた最澄もまた、その中の一人でした。 こうして、空海の伝えた密教が、それ以後の平安時代の仏教の中心となっていきました。
天台宗では、最澄の後に円仁(えんにん)、円珍(えんちん)が唐に密教を学びに行きます。円仁はまた念仏も伝えました。 その他の思想を包括する天台の思想を受けて、比叡山では天台の他に、密教、浄土教、禅なども学べる総合大学として活躍します。 鎌倉時代に浄土宗や日蓮宗が誕生しますが、その開祖らも初めは比叡山で学び、後に独立した人たちです。
密教では加持祈祷(かじきとう)が行われます。その呪術的な力を利用して、現世利益を成就するのが祈祷ですが、貴族を中心に受け入れられました。 奈良時代の仏教が朝廷による鎮護国家と学問を中心とする仏教であったのに対し、平安時代の仏教は、現世利益を主とした貴族の仏教でした。その後、一般民衆を対象に救いを説く鎌倉仏教の時代へと移行します。
平安時代中頃から鎌倉時代初めにかけて、災害が多発しました。また、貴族社会から武家社会へと移行し度重なる戦乱も起きるようになり、社会不安が大きくなりました。 仏教には、お釈迦様の死後にどんどん仏教が廃れていく末法思想(まっぽうしそう)というものがあります。このような社会不安が高まるにつれて、即身成仏のような現世での成仏や救いを諦め、 来世に極楽に往生して成仏する浄土思想が普及していきました。 その代表的な人物に、『往生要集(おうじょうようしゅう)』を書いた源信(げんしん)がいます。 今の浄土宗や浄土真宗では、念仏は「南無阿弥陀仏」と唱えるものだけを指しますが、源信の時代には、阿弥陀仏を心に思い描く念仏も説かれます。 
4.鎌倉時代
鎌倉時代に入ると、中心が京都から鎌倉に移り、地方が発展していきます。また、武家階級が誕生し新しい勢力が交流しました。このような社会の変動に応じて、仏教界でも新しい動きが生じます。 そこには二つの方向性が見られます。一つは、原点に回帰し戒律の復興と禅の実践を求める方向です。二つは、旧来の仏教と袂を分かち新しい仏教を模索する方法です。 一つめの方向は、宋の影響を受け南都での戒律復興運動や臨済宗と曹洞宗の禅宗の興隆につながりました。二つめの方向は、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗や日蓮の日蓮宗の開宗へとつながりました。
浄土教については、最初に法然(ほうねん)が『選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)』を著し、万民の行える唱える念仏のみを主張し、京都で布教活動を行います。 その弟子の親鸞(しんらん)が法然の教えを受けて浄土真宗を起こし、『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を著しました。法然・親鸞の浄土宗は鎌倉幕府によって弾圧されましたが、信者の数は増え続けます。 また後になって一遍(いっぺん)が時宗(じしゅう)を開いて、踊りながら念仏を唱える「踊り念仏」を広めました。
禅宗については、栄西(えいさい)に先立って、能忍(のうにん)が達磨宗(だるましゅう)を開いて布教活動をしていました。 栄西は密教の影響を強く受けながらも宋に渡り臨済禅(りんざいぜん)を伝えます。当初は法然と同様に政府から弾圧を受けましたが、その後幕府に接近し、その加護を受けるようになります。 栄西の後に宋に渡り曹洞禅(そうとうぜん)を伝えたのが、道元(どうげん)です。彼は『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の著者として知られていますが、そこには道元の深い哲学的思想が表れています。 道元の曹洞宗が修行そのものを悟りと見なしひたすら坐禅する「只管打坐(しかんたざ)」を説くのに対し、栄西の臨済宗では公案(こうあん)という禅の問題集を用いた看話禅(かんなぜん)であるという特色があります。
日蓮宗は鎌倉新仏教の中では遅く鎌倉時代後期に成立しました。鎌倉時代後期には、飢饉や疫病の流行が相次いで起こるようになります。 また元寇(げんこう)といった対外的な危機も生じ、社会不安が再び高まりました。そのような時代背景を受けて、日蓮(にちれん)は末法の時代にふさわしい教えを『法華経』に求め、『法華経』の題目を唱えることを説きます。
従来の仏教側の活動としては、最初に貞慶(じょうけい)があげられます。貞慶は興福寺の僧侶で、法然の専修(せんじゅ)念仏を批判しながらも、禅や念仏の影響を受けて観心などの実践を説いて、南都の仏教に大きな影響を与えました。 また、天台では慈円(じえん)が比叡山の復興に尽力します。慈円は末法思想の観点から武家社会の興隆をまとめた歴史書『愚管抄(ぐかんしょう)』を書いたことで知られています。 その後、叡尊(えいそん)とその弟子の忍性(にんしょう)による戒律復興運動が起こりました。 叡尊は、受戒の儀式を伴わない自誓受戒(じせいじゅかい)をし、忍性と共に各地で戒律復興と社会奉仕活動に従事しました。 
5.室町時代
室町時代の仏教は、室町幕府が支配力を持っていた時期と、応仁の乱以後の戦国時代とに大きく分かれます。室町幕府が支配していた前期においては、社会も安定し各宗派共に勢力を伸ばしていきました。 この時代の中心となったのが、幕府と結びついていた臨済宗でした。
中国では、宋の後に南宋から元へと王朝が移りますが、禅宗もその間発展を続けていました。 日本でも栄西の後、円爾(えんに)、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)、無学祖元(むがくそげん)、一山一寧(いっさんいちねい)らによって続々と禅が伝えられました。 禅宗の興隆と共に禅寺が多く建立されると、中国の制度をまねて五山の制度が作られ体系化と整備が進められます。 その中で活躍したのが、夢窓疎石(むそうそせき)でした。夢窓疎石は室町幕府の創始者である足利尊氏の加護を得て勢力を振るいます。 また、明の新しい文化を積極的に取り入れ、庭園や書道、文学、水墨画など禅文化の興隆に大きく寄与しました。 その後、禅文化が盛んになるにつれて禅本来の心が形骸化していると五山禅に対し批判が起こり、一休宗純(いっきゅうそうじゅん)といった人物が現れました。
曹洞宗の方では、瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)が出て、加持祈祷や儀礼的要素を取り入れ大衆化を図りました。 彼の活躍により、それまでは小規模な勢力だった曹洞宗は地方に大きな勢力を持つようになります。
浄土系の宗派でもそれぞれ勢力を伸ばしていましたが、戦国時代に入る頃に浄土真宗に蓮如(れんにょ)が登場します。蓮如は廃れていた本願寺を再興し、 御文(おふみ)という仮名書きの法語を作成して全国の信者に配りました。蓮如の活動によって、北陸一帯に浄土真宗は広まり、後に一向一揆へと展開します。
日蓮宗では、日蓮の死後に弟子たちの間で分裂が生じ、それぞれの流派で布教活動を行いました。日像(にちぞう)は京都で布教し、新興の商工業者を中心とした町衆の信仰を獲得しました。 その他に、かつて日蓮が鎌倉幕府に自らの宗派を信じるように室町幕府に改宗を迫った者もいます。 日親(にっしん)は、時の将軍である足利義教に改宗を迫り、焼けた鉄鍋を頭にかぶせられるという拷問を受けました。
戦国時代は、一向一揆や法華一揆といった宗教を軸に支配者に対抗する動きが全国で起きました。 天下を目指す大名にとって、これらの宗派と信者の動きは大問題であり、融和と弾圧の政策が取られました。それは、後の徳川幕府による政策にも受け継がれていきます。 
5.江戸時代
現在では、仏教徒の家庭は大抵どこかの寺院と関係して、お葬式や法事は定まったお寺に頼みます。このような関係は、江戸時代に生まれました。
江戸時代の仏教は、徳川幕府の統制下に置かれ、幕府の民衆支配の一機構として機能することになります。 それが、本末制度(ほんまつせいど)と寺檀制度(じだんせいど)です。本末制度とは、各寺院を本寺と末寺という上下関係の中に組み込んで、本寺に人事権などの大きな権限を与えて、 末寺を支配させるという寺院の間の制度です。寺檀制度とは、民衆と寺院を結びつける制度で、寺院と檀家(だんか)を固定させ、キリシタンの禁制を徹底させるものでした。 後には宗旨人別帳(しゅうしにんべつちょう)の制度も作られ、戸籍の代わりとして利用されました。幕府は、宗教による精神面での民衆支配の助けを得るためにこれらの宗教政策を行いましたが、 一方で宗教側も世俗権力の保証が得られるため積極的にこれらの政策に荷担します。この幕府との密接な関係は、寺院の経済的安定を保証する一方で、 宗派間の論争や一宗派内での異説の禁止などその活動に大きな制約を加えられることになりました。しかし、そのような制約の中で、教学の振興と戒律の復興といった運動が起きます。
諸宗派内に檀林(だんりん)・学林などの僧侶育成機関が設けられ、そこで仏教全般の学問と宗学が学ばれました。現在の宗学は江戸時代の研究をもとに成立したものです。 戒律の復興については、真言宗では慈雲(じうん)が正法律(しょうぼうりつ)を唱え、天台宗では安楽律(あんらくりつ)論争が起きます。 安楽律論争とは、最澄以来の大乗戒に対し四分律(しぶんりつ)を学ぶことを主張し論争になった事件で、幕府の裁定で四分律を主張する安楽律派の正当性が認められました。
また、世俗の中で深い信仰に生きる人物も現れます。彼らは「妙好人(みょうこうにん)」と呼ばれる人々で、浄土真宗の信者でした。 香川県の床松(しょうま)や島根県の浅原才市(あさはらさいち)が有名ですが、彼らは船大工や履物屋をしながら、阿弥陀仏に日々感謝し、阿弥陀仏と一体となった境地を即興の詩歌で詠んで、 その気持ちを表現しました。
このように江戸時代の仏教は、自らの活動を内省し、世俗との新たな関係を模索してはいましたが、幕府との密接な関係のために、鎌倉時代にあったようなダイナミックな転換はできませんでした。 仏教に対する批判として、江戸時代初期の林羅山(はやしらざん)などの儒学者がいます。近世には近代化に伴う世俗倫理を重視する考えが生まれ、 また後に仏教内部でも戒律復興運動が起こるように僧侶の堕落も進んでいました。彼らは、こうした思想の変化と仏教界の現状に失望し、禅僧から儒教に転向した人々です。 また中期以降には、国学(こくがく)も起こり、本居宣長(もとおりのりなが)といった日本古来の思想を研究する学者が登場します。 彼らは、日本古来の思想を神道に求め、中世以降の神仏習合(しんぶつしゅうごう)によって一体化していた仏教を敵視し批判しました。 
6.明治時代以降
幕末の国学の発展を受け、神道が見直されるようになりました。さらに、欧米からの開国を求める対外的圧力もあって、尊皇攘夷(そんのうじょうい)の運動が起きます。 時代の潮流は、従来の幕府の封建的な支配でなく、天皇と神道を中心とする近代国家の成立に向かいます。明治維新により、それが実現すると神道が大きな影響力を持つようになりました。 それは、幕末から明治期にかけて天理教などの新興宗教が神道から生じたことからも分かります。
江戸時代までは、中世以来の神仏習合によって神社と寺院の境界は不明瞭でした。明治政府は、神仏分離令を出して神社と寺院を区別し、神道を国家の中心とする立場に置きました。 その影響から、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動が起こり、寺院は襲撃され仏教界は大きな打撃を蒙りました。その後、浄土真宗から仏教界内部で改革運動が起こります。 さらに明治10年頃から、浄土真宗西本願寺派の島地黙雷(しまじもくらい)によって信教自由論が唱えられ、仏教教団から離れた結社の活動や機関誌の発行といった啓蒙活動が始まりました。 在家の仏教者として、大内青巒(おおうちせいらん)や田中智学(たなかちがく)らがいます。その他に、浄土真宗の僧侶として精神主義を説いた清沢満之(きよさわまんし)や、 求道運動を起こした近角常観(ちかづみじょうかん)といった新しい信仰の動きも見られます。また、中国や朝鮮、アメリカなどの海外への伝道も積極的に行われました。
仏教学も大きく発展します。文明開化政策の浪に押されて、最新の欧米の仏教研究とその方法論を学ぶために、僧侶が留学しました。 ヨーロッパではインドの古典語であるサンスクリットやスリランカに残るパーリ語を学び、原典を直接読む研究が盛んでした。 この従来の漢訳仏典ではなくインドの原典を読む研究方法が海外留学者らの手によって日本にもたらされます。 また、インドの原典を逐語訳したチベットの文献も同じ理由で収集のために探検に行く者も現れました。 このように仏教の変遷過程を歴史的視点に立って見る研究が進むと、村上専精(むらかみせんしょう)や姉崎正治(あねさきまさはる)らによって大乗非仏説論が提唱されました。
大正時代には、デモクラシーの風潮から人間探求の一環として、親鸞などの高僧を扱う文学作品が数多く書かれました。 また、和辻哲郎(わつじてつろう)や西田幾多郎(にしだきたろう)といった仏教思想を背景に哲学的考察を行う思想家も現れました。日蓮主義者の中からは、国粋主義的な活動を行う人物もいました。 国柱会(こくちゅうかい)を設立した田中智学や、二.二六事件の思想的背景となった北一輝(きたいっき)などがいます。彼らの活動は、昭和の国家主義の先駆けとなりました。 その他の仏教教団も昭和に入り戦争色が強まると、国家主義に迎合しなければならなくなりました。 
 
仏教史3

 

中国に伝わった仏教
インドで成立した仏教は、時を経て中国に伝わったが、インドと中国とでは古来、言語や習俗・思想が大きく異なる。そのため、仏教も、次第に中国的 な特徴を獲得していった。また、こうした中国の仏教は、朝鮮半島、日本、ベトナムなどに伝播し、東アジア世界に中国仏教文化圏を形成した。
中国への仏教伝来の説話のなかで最も有名なのは、後漢(二五〜二二〇年)の明帝(在位五七〜七五年)の感夢求法説である。これは明帝が夢の中で金 色に輝く「金人」を見て西方に仏がいることを知り、大月氏国(アフガニスタン北部)に使者を派遣して『四十二章経』を写させ、さらに仏寺を建てたとするも のである。この仏寺は洛陽の白馬寺であると言い伝えられてきたが、現在では、この説は史実とはみられていない。
現在、史実と考えられているのは、後漢の明帝の異母兄であった楚王英(?〜七一年)の仏教信仰に関する記録である。そこでは楚王英が「黄老の微言 を誦し、浮屠の仁祀を尚ぶ」と記されている。黄老とは、黄帝(中国古代の伝説上の王)と老子のことで、不老長生を願う信仰であったと考えられる。次の浮屠 とはブッダの音写であり仏教のことである。これは現世利益を求める中国の伝統的な思想と外来の仏教とをともに信仰していたことを意味する。
また、中国の皇帝ではじめて仏教を信奉したのは後漢の桓帝(在位一四六〜一六七年)であるが、桓帝も楚王英と同様、仏陀と黄老とを合わせて祀り、不老長生の現世利益を願った。このように中国人は仏教を現世利益の神の一つとして受け取ったのである。
多くの訳経僧の活躍
後漢の時代には、西域を通じて経典を翻訳する僧侶(訳経僧)が渡来するようになった。最初の訳経者は安世高(二世紀)である。彼はイランを中心と した安息国(パルティア)の出身であり、一四八年頃、桓帝のときに洛陽に来て、『安般守意経』『阿毘曇五法経』など禅観(修行や実践の教え)と「小乗」仏 教の経典を訳した。安世高と同じ頃、支婁迦讖(二世紀)も洛陽に来ている。彼は大月氏国の出身であり『道行般若経』『般舟三昧経』などの大乗経典を訳し た。
後漢が滅んだ後、中国は分裂し、魏、西晋王朝と続く。王朝の変化にともない中心的な思想も、儒教から老荘思想へと移り変わった。また、魏の時代には西域との交通が盛んになり、訳経僧も数多く渡来した。
こうしたなか、朱士行(三世紀)は中国人として初めて西域に求法し『般若経』の原本を求めた。『般若経』の思想は、世俗から距離を置く老荘思想を 信奉する中国の知識人層に受け入れられ、とくに「空」の思想の解釈が追求された。これ以降、仏教は中国人のあいだで哲学的に研究されていくことになった。
続く西晋(二六五〜三一六年)時代の仏教界で最も活躍したのは大月氏出身の竺法護(二世紀後半頃)である。彼は『光讃般若経』『正法華経』をはじめ一五〇部を超える多くの経典を翻訳し、大乗仏教を中心として後代の中国仏教に大きな影響を与えた。 
中国仏教の広がり
四世紀から五世紀のはじめにかけて、北方に五つの異民族(五胡)が興亡し、その中で十六の国が興廃した時代、すなわち五胡十六国時代が展開し、南方には漢民族の王朝である東晋(三一七〜四二〇年)が展開した。
この時代、北方を代表する僧侶は仏図澄(二三二〜三四八年)である。彼は神通力と予言能力・教化力により多くの門徒を養成した。その弟子の道安(三一二〜三八五年)は、仏典に注釈を施し序文を書いたほか、最初の経典の目録を編纂するなど重要な役割を果たした。
一方、南方の東晋を代表する僧侶で、道安の弟子であった慧遠(三三四〜四一六年)は廬山にこもり、東晋仏教界の指導者となった。彼は北方で活躍していた鳩摩羅什と仏教教理に関する問答を行ったほか、浄土思想である念仏結社の白蓮社を創設した。また僧侶(沙門)は王者に敬礼する必要がないと説いた『沙門不敬王者論』を著した。東晋においても『涅槃経』や『華厳経』などの大乗経典の翻訳が行われた。総じてこの時代は、鳩摩羅什が翻訳した経典とあわせて、主要な経典の翻訳が行われた時代であり、これが次の時代に学派が興隆する基盤を形成した。
五世紀になると、北は北魏など五代の王朝が支配し、南は宋・斉・梁・陳の四つの王朝が統治する南北朝時代となる。北魏は廃仏もあったが、基本的に仏教を積極的に保護し、現在にも残る雲崗石窟、竜門石窟を開鑿した。また南においても仏教は保護された。特に梁の武帝(在位五〇二〜五四九年)は崇仏天子として有名であり、夥しい寺院建立などは国家財政を傾けたほどであった。
この時代には、南北ともに仏典の本格的な研究が行われ、『涅槃経』を研究する涅槃学派、同じく『成実論』の成実学派、『十地経論』の地論学派、『摂大乗論』の摂論学派などの諸学派が成立した。さらに、この時代には、『提謂波利経』『占察善悪業報経』など中国で撰述された経典が作られるようになった。これらはインド撰述の経典を正統とする立場から疑経(偽経)とよばれ区別された。疑経の制作目的は、仏教と中国人の土着思想(儒教など)とを結合させ、民衆の布教に役立たせようとするものであった。そのほか、この時代には仏教芸術も発達し、雲崗・竜門以外にも、敦煌石窟、麦積山石窟などの石窟寺院が開鑿された。
四世紀から六世紀にかけては、前代に引き続き仏典の翻訳を行いながらも、一方では様々な学派の形成に見られるように、中国人がインド仏教を消化し、自分たちのものにしはじめた時期といえる。そしてこれが土台となって次の隋唐代の仏教へと結実する。 
漢訳仏典を読む
漢訳仏典とは、インドや西域の言葉を漢字に翻訳した仏典のことである。中国人にとって、外来の宗教であった仏教が定着するためにまず必要な基礎作 業は翻訳であった。これは後漢代(一〜三世紀)から宋代(一〇〜一二世紀)までの約千年にわたって行われた大事業であった。数多くの翻訳僧の中で、特に秀 でた鳩摩羅什、真諦、玄奘、不空の四人を「四大訳家」と呼んでいる。
漢訳仏典は膨大であるため、ここでは大乗経典である『法華経』と『華厳経』とを紹介するに止める。そもそも大乗仏教は、思弁的となり大衆とは離れ た存在になった部派仏教を批判し、その教えを「小乗」と呼び、また声聞、縁覚と呼んだのであった。こうした声聞、縁覚に対して「菩薩」の優位を説いたのが 大乗仏教であったが、『法華経』ではそこから一歩進んで声聞、縁覚、菩薩の三者を総合する立場を打ち出すようになった。「唯だ一仏乗のみ有り。亦た二も無 く三も無し」(方便品)と説く『法華経』の一節は、三乗の上に一乗が存在することを高らかに説いた教えである。
大乗仏教では唯心思想も発達した。盧舎那仏の悟りの世界を説く『華厳経』では、「三界は虚妄にして但だ是れ一心の作なり」と説く。三界(仏教の中 でのすべての世界)は虚妄な存在であり、それは人の心が作り出すものであると説かれている。さらに「心、仏、衆生、是の三は無差別なり」と説き、仏と衆 生、そして心の本来的な一致を説く。
中国で流布した経典は、必ずしもインドの原典を翻訳したものだけではない。その中にはインドの原典からの翻訳を装っているが、実際には中国で成立 した経典と考えられるものが数多く存在する。それらは真経に対して偽経(疑経)と呼ばれるが、中国人が仏教に求めるものが反映されているという点で、宗教 的には大きな意味をもっている。
代表的なものに『父母恩重経』がある。これは中国固有の思想である儒教の倫理思想、とくに「孝」を盛り込んだ経典である。インドで誕生した仏教は 出家を前提としているが、中国では家を捨てることは不孝である。そのため仏教と孝とを結合させる必要に迫られ、父母の恩に応える方法として「能く父母の為 に福を作し経を造り、あるいは七月十五日を以て能く仏槃・盂蘭盆を造り、仏及び僧に献ぜば、果無量なるを得、能く父母の恩に報いん」と説く。
漢訳仏典は、中国をはじめとして朝鮮、日本など東アジア仏教世界に共通した聖典であった。 
隋・唐の仏教
六世紀末、隋王朝が中国を統一した。そして短命に終わった隋に次いで七〜一〇世紀に東アジア全体に勢力を拡大したのが唐王朝であった。この時代は様々な宗派が相次いで誕生し、それらの論争も華々しく繰り広げられ、中国仏教史の絶頂の時代であった。
詳しくみてみよう。北周の武帝の廃仏(五七四年)ののち、仏教を復興させたのは隋の文帝(在位五八一〜六〇四年)である。文帝は都の長安に大興善 寺を建て、全国に舎利塔を建立した。文帝を継いだ煬帝(在位六〇四〜六一八年)は慧日道場などの四道場を建立し、また天台宗の開祖、智(五三八〜五九七 年)を支持した。
隋代の宗派には三論宗、天台宗、三階教などがある。『中論』『十二門論』『百論』の三つの論に基づいて成立した三論宗は、吉蔵(五四九〜六二三 年)によって大成され、高句麗や日本に伝えられた。天台宗は慧文、慧思と相承し、智?が大成した宗派である。また、当時の末法思想の流行のもとに成立した のが信行(五四〇〜五九四年)を開祖とする三階教である。
隋を継いだ唐の仏教は、東アジア全域に伝播し、渤海・朝鮮・日本・ベトナムを包括する東アジア仏教圏を形成した。唐の則天武后から玄宗の時代にかけて、大雲寺・竜興寺・開元寺などの官寺が全国に建立されたが、この制度は日本に伝わり国分寺となった。
玄奘など訳経僧の活躍
唐代の訳経僧でもっとも有名なのが玄奘(六〇二〜六六四年)である。玄奘が翻訳した『成唯識論』によって成立したのが法相宗である。弟子の基(慈 恩大師、六三二〜六八二年)が開祖とされる。法相宗の教理の中で中国仏教全体に大きな影響を与えたのが五性各別説であった。これは人が悟れる能力に五つの 区別を設けるものであり、なかには悟れない者がいる、という主張であった。それまでの中国仏教では、すべての者が悟れることを疑わなかったが、当時の最先 端の学説に基づく五性各別説に反論するのは容易ではなかった。
この学説に対して反論した代表的な人物が、華厳宗を大成した法蔵(六四三〜七一二年)である。杜順、智儼につぐ三祖・法蔵が大成した華厳宗は、 『華厳経』に基づき南北朝時代の地論宗を受けて成立した宗派であった。法蔵は、法相宗の立場を自分の教学の中に取り込みつつ、それを超える原理を提示して 五性各別説を克服した。
その他、密教は、ともにインド出身の善無畏(六三七〜七三五年)が『大日経』を、金剛智(六七一〜七四一年)が『金剛頂経』を訳出し、さらにイン ド渡航も果たした不空三蔵(七〇五〜七七四年)により大成された。そして、不空に学んだ恵果(七四六〜八〇五年)の弟子、空海により密教が日本に伝えら れ、発展することになる。玄奘の訳経を助けた道宣(五九六〜六六七年)は四分律宗を成立させたほか『続高僧伝』を著した。道宣の系統を継ぐ鑑真は日本に律 宗を伝えた。
また達磨(五世紀後半〜六世紀前半)を開祖とする禅宗は六祖の慧能(六三八〜七一三年)によって独立し、その後、南宗・北宗などに分かれて、中国 仏教の主流となった。曇鸞(四七六?〜五四二?年)によって開かれた中国浄土教は道綽(五六二〜六四五年)、善導(六一三〜六八一年)によって宗派として 確立した。とくに、善導の浄土教は日本の浄土教、なかでも法然(浄土宗)に大きな影響を与えた。
総じて隋・唐代の仏教こそが中国仏教の完成形態であり、日本などの周辺地域の仏教に与えた影響も大きいものがあった。 
宋代から清代まで
隋唐代に次いで、中国の王朝は宋、元、明、清と交替する。中国仏教史の中で、この時代は隋唐代の隆盛には及ばないが、宗派などの思想的発展という面から見ると、大蔵経の刊行も進み、民衆の中に仏教が根づいていった時期である。
九〇七年に唐が滅んだ後、中国は五代十国という分裂の時代となった。この時期、仏教が栄えたのは中国南部の呉越地域であった。続いて、九六〇年に 開封(河南省)に都を置く北宋が成立すると仏教は保護されたが、この時期に重要なのは印刷による大蔵経が編纂されたことである。
のち北宋が女真族の金により圧迫され、宋王朝は一一二七年、南に遷都し南宋が始まる。この時期の仏教の特徴としては、禅宗の活動が活発になり、臨 済宗、曹洞宗が宗派としての形をとりはじめることと、唐代以来、下火となっていた天台宗や華厳宗が復活したことである。その際には唐末五代の戦乱で失われ た数多くの典籍が、朝鮮半島の高麗から届けられた。
続いてモンゴル族の元の時代になると、チベット仏教が信仰の中心となったが、他の宗教や宗派の存在も認める態度を取った。
再び漢民族の王朝に戻った明代になると、国家の統制により僧侶と民衆の間には距離が置かれるようになったが、一方では民衆は法要を通して仏教に接し、様々な仏教儀礼が行われた。
停滞からの復興の動き
満州族の王朝である清代の仏教政策は、基本的に明代のそれを継承し、僧侶と庶民との接触を禁止した。後代になると仏教教団を社会から隔離するよう になったため、清末には在家の信者である居士の仏教が盛んになった。その代表的人物が楊文会(一八三七〜一九一一年)である。彼は、アヘン戦争後の動乱の 時代に生き、中国仏教の復興を念願し、その中で金陵刻経処という印刷所をつくり仏典の刊行に尽力した。その際、日本の仏教学者・南條文雄(一八四九〜一九 二七年)と交流しながら、中国で失われた仏典を日本から入手し刊行することにより、中国仏教復興のきっかけを作った。
一九一一年、辛亥革命によって清朝が滅亡し中華民国が成立すると、天童寺の敬安(一八五一〜一九一二年)は「中華仏教協会」を設立し寺院の保護を 訴えた。敬安の死後、弟子である太虚(一八九〇〜一九四七年)は新時代の僧侶を養成するために武昌仏学院を設置したほか、「海潮音」という雑誌を刊行し、 仏教界に大きな影響を与えた。さらに、儒教を基盤とした哲学者であった熊十力(一八八五〜一九六八年)は、仏教の唯識の思想を基本とした社会改造を提唱し た。
総じて清末の仏教者の活動は、近代という時代の変革期に際して、停滞していた仏教を復活させ、それにより社会の改造を果たそうとした動きであったといえる。 
朝鮮半島への伝来
朝鮮半島に仏教が伝わったのは、半島が高句麗、百済、新羅の三国に分裂していた時代であった。最初に伝来したのは三七二年の高句麗であり、中国か ら伝わった。当時の中国は、異民族がかわるがわる中国北部を統治していた五胡十六国時代であった。この中の前秦王の苻堅(在位三五七〜三八五年)が僧侶の 順道と仏像などを高句麗に送ったのが半島への仏教伝来のはじめである。
苻堅は五胡十六国時代を代表するほど仏教に対する関心があった王であり、中国仏教史上、重要な人物である道安(三一二または三一四〜三八五年)を 自分のもとに迎えたほか、訳経僧として有名な鳩摩羅什(三五〇?〜四〇九?年)を獲得するため西域に兵を派遣していた。その苻堅から仏教を伝えられた高句 麗でも仏教が盛んになり、中国に数多くの留学僧を派遣したほか、聖徳太子の師となった慧慈(?〜六二三年)をはじめとして、多くの僧侶が日本に来て活躍し た。
「後発」新羅の仏教吸収
一方、百済には三八四年に仏教が伝来した。中国江南の東晋から摩羅難陀が来朝したことが契機であるという。摩羅難陀がどの国の僧侶であるかは明確 ではないが、百済の王が彼を宮中に迎えて礼敬したのが百済仏教のはじまりである。翌年には仏寺を創建し僧一〇人を得度させた。その後、六世紀半ばの聖明王 (在位五二三〜五五四年)は日本に仏教を伝えた。その後、日羅などが日本に来て活躍した。
仏教伝来が一番遅れたのが新羅であった。新羅への仏教伝来の年次は明確ではないが、公認されたのは六世紀になってからであり、他の二国に比べるとかなり遅い。
仏教公認をめぐっては異次頓の殉教という話が伝わっている。法興王(在位五一四〜五四〇年)の頃、群臣が奉仏に反対したなか、近臣の異次頓は、自 分の首を刎ねても仏教公認を行うように申し出た。ところが議論の結果、仏法の受け入れは実現せず、異次頓は処刑されることになった。異次頓の首が切られる と、溢れ出た血は白乳のように白く、しかもその首は飛んで金剛山頂に落ちた。こうして再び仏教に反対する者はいなくなったという。
仏教を公認した後、新羅は急速な勢いで仏教を吸収していった。新羅仏教のキーワードは護国仏教であった。新羅の都、慶州に皇龍寺が建てられ、その九層の塔には一層ごとに、日本など当時新羅にとって危険な国や地域の名前が付されていたという。
また新羅を代表する僧侶である円光(五三二〜六三〇年頃)は、戦争にあたっての心構えを問うた者に対して、世俗の五戒を説いた。世俗の五戒と は、「1君に事えるに忠をもってす。2親に事えるに孝をもってす。3友と交わるに信をもってす。4戦いに臨んで退くことなかれ。5殺生に択ぶあり」の五つ であり、後半の二つに現実を直視した円光の思想が現れている。
続いて慈蔵(五九〇頃〜六五八年)は入唐し五台山で仏舎利を得て、新羅にもたらすと同時に、戒律の中心となる戒壇を設けた人物として知られてい る。新羅の護国仏教を支えたのは弥勒信仰を持つ花郎という集団であった。花郎とは、貴族の師弟が集まって交わる、いわば社交クラブであるが、弥勒信仰によ り支えられた組織であった。花郎たちは弥勒の降臨を願う歌を歌ったという。
こうした新羅の仏教は、六六八年に半島を統一した後、教学の面でも東アジア世界の仏教に大きな影響を与えていくのであった。 
朝鮮仏教の展開
六七六年に朝鮮半島を統一した新羅は、仏教文化を花咲かせた。この時期を代表する者として次の僧侶が注目される。第一に、元暁(六一七〜六八六 年)は和諍という教えにより、すべての仏教の宗派を統一する原理を提示しようとした。彼の思想は、中国の華厳思想を大成した法蔵に大きな影響を与えた。
第二に、義湘(義相、六二五〜七〇二年)は、中国で華厳思想を学び、帰国して教えを広めた。その思想は中国や日本とも異なった独特のものであっ た。第三に円測(六一三〜六九六年)は、中国で唯識思想を学び、生涯を中国で終えた人物である。彼の思想は法相宗を開いた基(慈恩大師)にも匹敵するもの であった。このように、新羅の仏教教学のレベルは高く、中国仏教の発展に寄与したところも大きい。
新羅王朝も後半の九世紀になると、中国仏教の動向をうけて禅が盛んになりはじめる。中国に求法した禅僧たちは新羅に帰国すると、山を根拠地として教えを広めていった。それら九つの山で活動した禅の流れを「九山禅門」と総称する。
中国仏教の復活にも寄与
一〇世紀の高麗時代になると教学と禅が互いに発達した。華厳思想では均如(九二三〜九七三年)が出、義湘以来の華厳宗を大成した。さらに天台学で は、諦観(一〇世紀)が出た。彼は唐末五代の戦乱により中国で失われた天台典籍を中国にもたらし、宋代の天台宗が復活する基盤を提供した。
同様のことは約一〇〇年後の義天(一〇五五〜一一〇一年)にも見られる。義天は華厳宗の典籍をもたらし、宋代の華厳宗の復活に大きく寄与した。こ のほか義天の功績としては高麗大蔵経の続蔵経を編纂したことがあげられる。この時期、中国を中心として大蔵経が編纂されたが、高麗でも高麗大蔵経の編纂が 行われた。従来の大蔵経がインドで成立した経、律、論を中心としたものであったのに対して、義天は中国、朝鮮撰述の典籍を集成した大蔵経を編纂したのであ る。また、禅では一三世紀に知訥(一一五八〜一二一〇年)が出た。彼は中国の李通玄の華厳思想と大慧宗杲の禅思想(看話禅)を導入し、独特な理論を形成し た。
一三九二年に始まる(李氏)朝鮮時代は、それまでの仏教中心から儒教(朱子学)を中心とした国家体制に変化した。そのため仏教は排斥され、多くの 寺院が破壊されたほか宗派も統合され、最終的には禅宗と教宗の二つだけが残った。しかし、そうした中でも一六世紀末の豊臣秀吉の朝鮮侵略に対しては西山大 師休静(一五二〇〜一六〇四年)が僧兵を組織し、抵抗運動を行ったほか、仏教思想においても後代に影響を及ぼした。
一九一〇年、韓国併合により朝鮮半島は日本の植民地となり、細々と続いていた朝鮮仏教も日本の影響を蒙るようになった。日本の曹洞宗や臨済宗によ る朝鮮仏教の統合や編入が企画されたこともあったが失敗に終わった。しかし、朝鮮総督府により、朝鮮半島の寺院にも日本と同様の本寺末寺制が導入されるな ど、制度の面で大きな影響を受け、さらには日本仏教の影響で妻帯僧が出現し、戒律の伝統が失われた面もあった。 
戦後の東アジア仏教
第二次世界大戦終了後、中国大陸では共産党が国共対立に勝利し、一九四九年に社会主義を基盤とする中華人民共和国が誕生する一方、国民党は台湾に 逃れて政権を継続した。また朝鮮半島では日本の敗戦とともに独立を回復するかに見えたが、東西冷戦の中で南北に分裂し、南に大韓民国、北に朝鮮民主主義人 民共和国が成立した。ここではそれぞれの地域の仏教を概観する。
社会主義政権の中国大陸では、宗教は迷信であるとして仏教は弾圧され、僧侶は還俗させられ、寺院は破壊された。それが最も激しい形で行われたのが 文化大革命(一九六六〜七六年)である。しかし文革の後、このような破壊に対する批判が起こり、徐々に宗教を認める政策が進められた。しかし、現在でも まったく自由になったわけではなく、寺院以外での布教活動は認められず、仏教寺院は政府の指導下の中国仏教協会という組織により管理されている。他方、仏 教寺院の復興にともない僧侶が寺院に住む必要が生じてきたため、青年僧侶養成を目的として仏学院が各地の大寺院に設置され、僧侶の教育にあたっている。
このほか最近の動きとしては、経済力のある信者が仏教寺院に寄進を行ったり、仏教の書籍が多数出版されるなど、仏教が再び盛んになってきている。
一九四五年まで日本統治下にあった台湾には、日本から様々な宗派が入り、布教活動や福祉活動を行った。そうした中で、日本と同様に僧侶の肉食妻帯 が一般的になった。四九年、大陸に共産党政府が成立すると、宗教活動が自由にできる台湾に数多くの高僧が逃れてきた。そのため日本統治時代の肉食妻帯の風 はなくなり、現在では戒律の厳守が一般的になっている。現在の台湾で活発に活動を行っているのは、仏光山、中台禅寺、慈済功徳会、法鼓山などであり、これ らの教団は仏教の布教だけでなく、社会活動も積極的に展開している。
戦後の朝鮮半島の仏教は、日本の支配と影響を否定し、朝鮮仏教復興の基礎を築くところから始まった。一九四五年一〇月に全国僧侶大会が開かれ、日 本が制定した寺院統制規則である寺刹令などを全面的に廃止して、新しい朝鮮仏教の教憲を決議した。しかし五〇年に勃発した朝鮮戦争により、歴史的に有名な 多くの寺院が戦火で焼失し、南北の分裂が固定化し、韓国では日本仏教の残滓である妻帯僧の追放と寺院の生活を正す運動(浄化運動)が展開した。五四年、李 承晩大統領の「妻帯僧は寺刹より退去せよ」との談話を契機に、妻帯僧、非妻帯僧の間で争いが起こった。
現代では、非妻帯僧の宗派である曹渓宗が主流となり、そこから分裂した妻帯僧の側は太古宗という宗派をつくっている。その他、近年では観音信仰を中心とした天台宗、密教の宗派である真覚宗が勢力を伸ばしている。
なお、朝鮮民主主義人民共和国における仏教の現状についてはよくわかっていない。 
南伝仏教とは何か
インドで誕生した仏教は、時代を経てアジアの大部分の地に伝播していった。その中には、仏教が途絶えてしまい現在にまで伝わっていない地域もあ る。しかし、依然として多くの地域では、仏教の教え、それに伴う文化、社会活動が存続している。これら、各地に見られる仏教は、その地域ごとに大きく様相 が異なり、しばしば同一の宗教と見なすことが困難な場合もある。こうした現存仏教は、北伝仏教(北方仏教)と南伝仏教(南方仏教)の二つに大別して考える ことができる。
南伝仏教は、スリランカ、ミャンマー、タイ、カンボジア、ラオスなど南方の国々に現存している仏教の総称であり、これらの国々の仏教徒は、部派仏 教の一種、上座部の伝統教義に従い、修行を始めとする諸々の活動を行っている。これは中国、韓国、日本、モンゴル、チベット、ベトナムなど北方の国々の仏 教徒が、大乗の教義に従っているのとは対照的である。
この南伝・北伝という区別は、近代以降の様相に基づいてなされたものであり、必ずしも歴史的な事象をすべて反映している言葉ではない。事実、密教 を含めて、大乗仏教はかつて南方の地域にも伝わり、ある程度の勢力を保っていたのである。例えば、スリランカでも、大観音菩薩石像や、般若経の黄金製写本 などが発見されている。かつて、南方の地域に存在していた大乗仏教、あるいは諸部派の教えやヒンドゥー教などは次第に衰退し、排除され、現在見られるよう な上座部一色の様相になったのである。
在家信者と僧侶の関係
なお、大乗側が南伝仏教を「自利」のみの教えであると見なし「小乗」と呼ぶこともあるが、その批判は必ずしも妥当ではない。現在、東南アジア諸国 では多くの在家信者が仏教徒として暮らしているが、南伝仏教の教え、そして僧侶たちの活動が、在家信者に広く安寧をもたらしているのも事実である。また、 逆に、南伝仏教こそが釈尊の時代の仏教をそのまま伝えるものであるという見方も、必ずしも正確ではない。初期の仏教に存在したはずの比丘尼(女性の出家 者)教団が、長らく南方の国々で途絶えていたことも、また事実であるからである。
さて、上座部の教義を中心とする現在の南伝仏教はどのような様相を示しているのであろうか。
南伝仏教では、僧と在家信者が明確に区別されている。僧たちは厳しい戒律を守り、瞑想を行い、教理を学ぶ。このような修行生活を送りつつ、煩悩を 滅し、阿羅漢(聖者)になることを目指す。この点、仏陀になることを目指す北伝の大乗仏教とは異なる。彼ら南伝仏教の僧侶は、基本的に自らは生産活動を行 わず、在家信者たちによってその生活が支えられている。いっぽう、在家信者は、僧に食事を布施することや、寺院の修復を行うことなどが、功徳を積むことに なると捉え、それが良い現世生活や、より良い来世、あるいは来世以降における解脱につながると考えているのである。 
日本への仏教伝来
日本の仏教のはじまりを語る時に「公伝」という言葉が用いられる。この言葉には私的な伝来とは異なった、公の国家間の伝達を重視する意味があると思われる。「公伝」の記録のうち、『日本書紀』は五五二(欽明天皇十三)年に、百済の聖明王(聖王)が使いを遣わして仏像、経論、幡蓋を伝えたと記す。一方、『元興寺縁起』、『上宮聖徳法王帝説』は公伝の年次を五三八(宣化天皇三)年としている。現在のところ、『日本書紀』の仏教関連の記事には潤色が多く、史料的な価値は低いと考えられるため、五三八年説をとる見解が一般的である。ただ、この説も絶対というわけではなく、百済の記録を視野に入れて両説を再検討する見解も出されている。
さて日本に仏教を伝えたのは百済であり、その背後には当時の朝鮮半島の情勢があった。百済は六世紀に入り、新羅の任那侵略に対処するため、日本と連携してその援助を受ける必要に迫られていた。その中で、継体天皇の時には五経博士を日本に送り、六世紀初めには仏教を伝え、文化的なつながりを深めようとしたと考えられる。このように百済の仏教伝来は外交政策の一環として行われた。ちなみに百済に仏教が伝来したのは三八四年であり、日本よりも百数十年も早い仏教先進国であった。
どのように受け入れたのか
未知の外来文化を受容するときは、受容する側の既知の枠組みに従って行われる。日本が仏を受容するときの枠組みとしては日本古来の神があった。 『日本書紀』は、欽明天皇が仏像礼拝の可否について群臣に尋ねたとき、蘇我稲目は、西蕃の諸国がみな礼拝しているのに、わが国だけは背くわけにはいかないと答えた。これに対して物部尾輿と中臣鎌子はこれに反対し、わが国の天皇は天神地祇を祭拝してきたのに、それをやめて蕃神を拝めば、国神の怒りを招くであろうと述べたと伝える。このような日本古来の国神に対する外国の蕃神という発想が、仏教を捉える出発点であった。ちなみに中国の場合は黄帝や老子のイメージで仏を受容していた。
さらに五六二年、日本との交流が深かった任那が新羅により滅ぼされると、朝廷は百済との結びつきをますます密にし、百済から五七七(敏達天皇六)年には、経論若干巻のほかに、律師、禅師、比丘尼、呪禁師や造仏工・造寺工が献上された。そして五八四(同十三)年には司馬達等の娘(善信尼)がはじめて出家した。派遣された僧侶が男性僧侶ではなく女性(比丘尼)であること、日本最初の出家者も女性であることが注目される。つまり、この時点では、仏教の僧侶はシャーマニズムの巫女と同様に考えられていたと思われる。このほか信仰の態度は治病・長寿など現世利益中心であり、仏教の高度な理論を理解していたのではない。
仏教公伝から一五〇〇年あまりが過ぎたが、伝来当初は日本古来の神と同じレベルで捉えられた仏教に対する認識は、長い歴史の中で大きく変わったとも言えるであろうし、「神も仏も」と並び称されることを見ると、存外、現在でも根底では変わっていないのかもしれない。 
旅する僧侶たち
大航海時代以降、列強諸国は領土的野心などもあって、多くの探検家を生み出した。間宮林蔵らによる北方探検の歴史があった日本も、一九世紀以降、数多くの探検家を輩出した。その目的の多くは列強諸国と同様であったが、求法を目的とする僧侶も多く含まれていた。そして、彼らの行き先は、ほぼ中央アジアやチベットに限られていた。
このような現象の背後には、明治期の廃仏毀釈を経て、近代化を図りたいという仏教界の思いがあり、近代仏教学の成果がそれを後押しするという形をとった。サンスクリット語仏典の多くは失われてしまったが、中央アジア等では原典が見つかる可能性もあり、また、チベットには原典に忠実なチベット語訳仏典が残されていたのである。
中央アジア探検では、西本願寺第二二代門主大谷光瑞(一八七六〜一九四八年)の組織した大谷探検隊が有名である。探検は第一次〜第三次の三度にわたり膨大な数の物品を収集した。現在それらは分散しており、日本、韓国、中国の博物館などに収蔵されている。
チベット探検では、寺本婉雅(一八七二〜一九四〇年)、能海寛(一八六八〜一九〇一?年)、河口慧海(一八六六〜一九四五年)、青木文教(一八八六〜一九五六年)、多田等観(一八九〇〜一九六七年)らがいる。
当時のチベット入りは、清朝やイギリス・インド政庁の厳しい監視もあって困難を極めていた。それにもかかわらず、浄土真宗大谷派の僧侶であった寺本婉雅と能海寛は、中国の四川省からラサを目指し、一八九九年にダライ・ラマの直轄領であったパタン(現・中国四川省)にまで到達した。こうして二人は初めてチベットの地を踏んだ日本人となったが、寺本は危険を察知して一時帰国し、そのまま滞在した能海は雲南省からの手紙を最後に消息を絶った(寺本は、六年後にラサ入りを果たしている)。
ラサ入りした河口慧海
黄檗宗の僧侶であった河口慧海は、漢訳仏典内に見られる解釈の相違に悩み、原典、もしくはそれに忠実なチベット語訳仏典を求めて旅立ち、一九〇一年に世界中の探検家が果たせなかったラサ入りに成功した。その時の旅行記は“Three Years in Tibet”という英題でも出版され、世界中で高く評価された。また、彼は十数年後に二度目のチベット入りも果たしている。
青木文教、多田等観の二人は浄土真宗本願寺派の僧侶であり、彼らの行動は大谷光瑞の命令によるところが大きい。彼らのチベット滞在には、他の者たちと違ってダライ・ラマ十三世による正式な許可があった。青木は一九一三年から約三年間滞在して、俗学の分野を中心に学び、一方の多田は約一〇年間滞在して、最高学位「ゲシェー」を取得して帰国した。
チベットを探検したこれらの僧侶たちは、非常に多くの仏典や仏画などを請来し、玄奘三蔵の日本近代版とでも呼ぶことができる。彼らがもたらした貴重な請来品は、現在でも多くの大学や博物館で保管されている。
また僧侶以外で、軍事的任務その他によって中央アジアやチベットを探検した日本人も数多くいる。そして、探検には詳細な記録が付き物であり、彼らも多くの記録を残している。これらの記録は、僧侶とは異なった視点に基づいて書かれており、僧侶探検家たちの記録と併せて読んでみるのも面白い。 
南伝仏教との出会い
明治初期に神仏分離、廃仏毀釈の大激動を経験した日本の仏教者たちは、日本仏教再構築の手がかりを求めて世界各地へ赴いた。ある者はスリランカや東南アジア諸国で伝統的な南伝仏教の僧団と出会い、またある者はヨーロッパ各国で研究が進められていた南伝仏教のパーリ仏典と向かい合った。
前者の代表として釈興然(一八四九〜一九二四年)の名前を挙げなければならない。真言宗・三会寺で住職を務めていた興然にインド行きを勧めたのは、明治期の戒律復興運動の中心的人物、叔父の釈雲照であった。雲照は釈尊成道の地であるブッダガヤーが今でも保存されているということを聞きつけ、興然に高齢の自分の代わりにブッダガヤーに参詣するように依頼したのであった。
インド訪問に先んじて一八八六(明治十九)年にスリランカに到着した興然は、三年以上にわたりその地でパーリ語学習、仏道修行に励んだ。そのようななか、釈尊以来の伝統を掲げる南伝仏教に次第に惹かれていった興然は、ついには日本から保ってきた戒律を捨て、南伝上座部の戒律を受けなおし、南伝上座部の僧侶となったのである。
その後、インド・ブッダガヤーを訪れた興然は大いに感銘を受ける一方、その地がヒンドゥー教徒の所有地となっていたことに大きなショックを受けた。そこで、セイロン大菩提会の創始者・ダルマパーラ(一八六四〜一九三三年)と協力して聖地を仏教徒の手に取り戻そうとしたが、目的を果たすことができなかった。
さて、一八九三(明治二十六)年に日本に戻った興然は、南伝仏教の伝統を日本に移植・定着させようと考え、スリランカ風の黄色の袈裟をまとい、南伝上座部の戒律を守り続けた。また、日本でも南伝上座部の受戒を可能にするために、合計五人をスリランカに派遣し日本人比丘の育成を試みた。しかし、病に倒れる者や徴兵される者もあらわれるなど、思い描いていたようにいかず、南伝仏教日本移植の夢を果たすことなく釈興然は一九二四年に入寂した。
ヨーロッパからの吸収
一方、ヨーロッパに赴いた仏教者はヨーロッパで醸成された近代仏教学を通じて南伝仏教と向かい合った。彼らが出会ったもの、それはパーリ仏典であった。一九世紀にヨーロッパを訪れた南条文雄(一八四九〜一九二七年)、高楠順次郎(一八六六〜一九四五年)らは梵語(サンスクリット)仏典を学ぶ傍ら、パーリ仏典についても学んでいた。しかし、彼らは一方的に西洋から学問を吸収するだけではなく、西洋の研究者を唸らせる世界的な学問成果を次々と発表していったのである。当時の日本人研究者は漢訳文献に通じており、漢訳で伝わる北伝の経論とパーリ語で伝わる南伝の経論との比較研究は彼らの独壇場であった。
日本に戻った彼らは、パーリ仏典の内容を日本の思想界に紹介した。その代表例が、一九三〇年から三六年にかけて高楠順次郎らによってなされた、パーリ三蔵すべての日本語訳、『南伝大蔵経』の出版である。高楠らの努力は実を結び、その後も多くの翻訳書、研究書、概説書が出版され、南伝仏教僧団で伝授されてきた初期経典の思想内容は、現在でも広く日本社会の知るところとなっているのである。 
日本仏教のゆくえ
日本の仏教は、アジアの中でも随分と異色のところが多い。第一に、僧侶の肉食妻帯。厳格な地域では一般の信者でも精進料理しか食べないのに、 僧衣を着た坊さんが平気で肉を食べているのは、随分と異様に見えるようだ。第二に、葬式仏教。仏教寺院というとふつうには墓地があり、僧侶のいちばんの仕事は墓地の管理をして、 葬式や法要をすることだと思われている。これも他の仏教国には見られない。第三に、神仏習合。神社でもお寺でも同じように参詣して手を合わせる。 二つの宗教をかけ持ちしているようで、日本人はきわめていい加減だ、ということになる。このように、日本の仏教のあり方は外から見ると相当に奇妙で、しばしば顰蹙を買うことになる。
しかし、それではそのような日本の仏教はおかしいと、簡単に否定してしまっていいのかというと、それほど単純でもない。僧侶の肉食妻帯は確かに 他の仏教国ではあまり一般的ではない。しかし、明治以後の近代化の流れの中で、肉食妻帯することによって僧侶もふつうの人と同じような生活をし、 世俗社会の中に溶け込んで活力を得てきた。明治の頃には、積極的に僧侶の結婚を勧め、夫婦を単位とした新しい仏教を作るべきだという主張もなされた。 このような動向は中国や朝鮮の仏教にも影響を与えた。
葬式仏教も悪いとばかりはいえない。葬式や墓地は、人が死や死者と関係を持つきわめて得難い機会であり、場所である。人は死すべきものだということこそ、 仏教のもっとも根本の認識であり、出発点のはずである。ところが、近代化の中で、人はともすれば死の問題を遠ざけ、生を貪ることをよしとしてきた。
否定でも惰性でもなく
仏教がそのような近代的な人間観に疑問を突きつけることが可能とすれば、まず葬式や墓地の見直しから出発しなければならないのではないだろうか。
神仏習合にしても、日本に仏教が伝来して以来の長い経緯を持つもので、それが二つの別々の宗教に分けられたのは、明治の神仏分離によるきわめて人為的で無理な政策によるものであった。 日本のみならず、東アジアにおいては仏教は単独の宗教ではなく、儒教や道教などと交渉しながら発展してきている。 とりわけ日本の神仏習合は、神仏が緊密な構造を構成していて、近代に外から持ち込まれた宗教観で切り分けることはできない。
このように、日本の仏教のあり方はそれなりの必然性をもって展開してきているのであり、他の地域の仏教と違っているからといって、単純に否定的に見る必要はない。 しかしまた、過去の仏教の形態がそのまま惰性的に未来に続いていくというわけでもない。
日本の中だけでなく、世界の中で仏教への関心が高まりつつある現代に、伝統を生かしながらも、世界に目を向けた新たな仏教の構築が求められている。 それは、与えられた既存の制度を墨守することではなく、ひとりひとりの切実な願いから新たに作り直され、生み出されていくものでなければならないであろう。 
 
鎌倉仏教と親鸞聖人の自覚

 

親鸞聖人や当時の日本の鎌倉時代の人々と同様に、私たちは目的を失った時代に生きています。仏教では、そのような時代を末法と呼びます。つまり、仏の教えが衰え、終末を迎える最後の時代を意味します。この場合、最早、以前に尊ばれた力強いシンボルが完全で意義があるものとして、多くの人の心を動かさなくなっています。このような時代では、人々の信念や決意をかき立て、全く心を動かすシンボルとか神話はあまりありません。鎌倉時代の仏教徒は、当時精神性に訪れた危機に瀕していろいろな解決策を模索していましたが、二十一世紀の今日、私たちは、当時の人たちが抱えていたと同じような問題に向かっています。
鎌倉仏教と親鸞聖人をよく理解するには、ここで一寸歴史について考えねばなりません。というは、歴史とそれが物語る人々の決意と誓約の例を通じて、現代の道を求める私たちは、自分たちの今後進むべき方向を決め、現代において決断する際の手引きを得るからです。親鸞聖人と同様に、私たちが住んでいる時代では、精神面を建て直し、現実の生活での意味と宗教面の遺産を解釈し直すことが必要です。
これを達成できる洞察を得ようとすれば、運動の起きた原点に戻り、当時の問題点を歴史と宗教の面から理解するしかありません。
日本の仏教で鎌倉時代は、独特な時代でした。この時代になって、以前仏教について認めた改革すべき重大な要素が、それぞれの性格と基盤を仏教の伝統に基づき、幅ひろく開花していきました。この時代とそれぞれの独自の人となりとの出会いで、各自が自分なりに自己を啓発し、仏教を、個性的に表しました。もっとも、これらは、最初余り広い範囲に影響を与えなかったのですが。
最近鎌倉仏教が、真に日本の仏教の改革であったかどうかという問題がかなり討論されていますが、ここではそういった論争に立ち入るわけにはいきません。しかし、これら宗祖たちの生涯および教えとそれらを代表すると主張する教団の発展との違いを考えると、それぞれ宗祖らの多様な考え方の中に、改革ないし更新の基盤がひそんでいました。
鎌倉時代に生まれた主な宗派の指導者は、法然、親鸞、および一遍(1239-1289)で、皆浄土教を代表していました。日蓮(1222-1282)は、法華経をたたえ、天台宗の教義を仏教の基盤としました。道元は、中国の曹洞禅を日本にもたらしました。当時のもう一人の高僧であった明恵(1173−1232)は、伝統的な教えに忠実に復帰しようと企てました。このような総ての努力の背景には、仏教の密教と顕教の組織がありました。これは、天台宗と真言宗の、当時の宗教界を支配していた寺院と荘園組織の念入りな行と華麗な儀式から成り立っていました。当時、宗祖・祖師であった人たちは、各々、改革者と見なされたか否かを問わず、独自の意義をもっていました。
鎌倉仏教の新しい宗派は長く続いた社会危機の時代に生まれました。この時代は、平安時代後期に始まり(おそらく十一世紀以降)、騒乱の波は首都の京都でも感じられ始めました。京都の北に聳える比叡山は平安時代の天台仏教の本山で中心地でした。西暦1052年は、日本仏教の歴史では、末法の始めと見なされるようになりました。この頃から首都京都の朝廷と多くの地方の豪族らと間のあつれきが激しくなりました。結局平家の一族が都の支配勢力となり、独裁政府を確立しました。平氏が自分たちの得た新しい勢力を当たり前と思い、驕りはじめると、源氏がやがて天下を取る兆しが出てきました。
源平合戦と言われた戦争は、壇ノ浦の悲しい合戦と幼い安徳天皇の入水による崩御で集結しました。この時点、1185年に鎌倉時代が始まったとされています。しかし、これで全て平穏になったわけではなく、朝廷は、勢力を取り戻そうと企み、これらの動きの結果、1221年に承久(じょうきゅう)の乱が起こりました。後に、十三世紀に至り、中国本土で得た勢力に乗じた蒙古の襲来が危ぶまれ、島国日本の混乱が高まりました。国内の政争と外敵(内憂外患)に加えて、疫病、飢饉、地震がしばしばあり、すべての人々がより悲惨になり、不安に陥れられました。主に上流階級で占められていた伝統宗教の教団も農民の労働に糧を仰いでいました。不安な状態のため、大衆は、その精神面での欲求を満たす新しい考えをもたらす、新らしい指導者が立ち上がることを望んでいました。
既成の宗教が社会の支配階級による圧政やごまかしから解放されると、今度は、希望を呼び起こし人間の精神を自由に解放するものです。元々あった普遍的な本性と真実の探求心が現れてくるものです。私たちは、このような社会あるいは個人的生活に争乱の起きる時代を、決して喜んだり、望んだりすることはないでしょうが、人の精神面には良いことがあります。その訳は、悲しみの生活と世間に明け暮れる私たちを支えてくれる真実を求めて、私たちが自分の生活自体を深く洞察するようになるからです。
鎌倉時代は、日本にそのような現状打開に拍車をかけました。前にも述べた通り、仏教は様々な新しい精神性の道へと開花していきました。同時に仏教は、今までは出来なかった様式で、もっと大衆の手にたやすく届くようになりました。それまでの仏教は、世間から閉ざされていた貴族の占有物で、主に豪族か朝廷のためであったのです。
このような観点から、鎌倉仏教は、生き生きとした発展を遂げ、おそらく仏教の歴史上、最も人を鼓舞し、意義があった一つの出来事と見ることができます。 鎌倉仏教では、人々が銘々自分たちが長年親しんできた古くからの教えの中に意味を見出そうとしていたことが分かります。新しい型の仏教は、かって仏教を六世紀に朝廷の宗教として受け入れた国からの何ら補助を受けないで始まりました。新しく出てきたものは、あくまでも精神性の自由な表現でした。今日振り返って見ると、親鸞聖人および同時代の人々が決定した事柄、自分たちの命をかけた信仰、並びに此れまでの比叡山での快適な生活と自己満足を捨て、大衆の中で苦労し、難儀をする生活に飛び込んで行くように働いた心の中の力を理解するのは困難です。
法然、親鸞、および日蓮は弾圧を受け、首都から島流しの刑を蒙りましたが、一方道元は、自己に実質上の罰を与えました。歴史に向かって、鎌倉仏教の祖師たちは各々、当時の状勢に自分なりに対応していました。各々が自己の心境と理想に基づいた教えを発展させました。祖師らは、夫々、当時の仏教に不満でしたので、仏陀と同様に、自分達の快適な生活を捨て新しい生き方を探し求めるという個人的にはつらい苦難の道をとりました。主な祖師らが比叡山で天台僧として修行したために、今日でも天台宗は、鎌倉仏教の母であると称しているのは、興味ある点です。僧としての修行の傍ら、天台宗の精神的影響を吸収し、それにより自分達の到達した決断を強固なものにしました。しかし、天台宗が当時の政治と社会の悪と密着し過ぎて、真の精神的な導きとならず、人間として満たされないので、祖師らは、全て、そのような天台宗を教団としては受け入れないと感じました。
初期において、天台宗の教えは、仏教のすべての宗派を壮大に折衷総合されたかたちでまとめていましたので、主な仏教の伝統事項は、全部、比叡山で学べました。禅宗、浄土宗、真言宗(密教)および天台宗がありました。仏陀が生きとし生けるものを解放するためにもたらした色々な手段の一つとして、全ての教えに立派な意義があったのです。しかし、鎌倉仏教の師等は、このような折衷された仏教を打ち壊し、各自がそれぞれ自身にとって重要な唯一の真の悟りと思われた部分を選びました。
法然上人は、念仏に重点を置き、親鸞聖人は、この傾向を継ぎ、それにご自身の信心についての見解を加えました。一遍上人は浄土教の師でしたが、国内を巡回し、出会った人々皆に念仏の教えを施しました。道元は禅を選び、一方、日蓮は、天台宗を純粋な形で、法華経に一心に帰依することで復活させると主張しました。奈良の明恵(みょうえ)上人は、戒律と出家教団を復活しようとする保守的な意図を代表しました。
宗教で何時も出会う問題は、たとえ普遍の真実であっても、真実を探求していくと、人々はばらばらに分裂しがちです。一方、より実践的な宗教は、一般にもっと相対的で、他の教義に寛容な態度を採ります。天台宗を出て新宗派を建てた、鎌倉仏教の宗祖は皆、重要な共通する特徴をいくつか持っています。新しい宗派は、すべて人々の自由意志に基づいており、当時の伝統的な共同・氏族本位の宗教とは違って、信者は自分から決めて新宗派に加わりました。この新しい数々の宗派では、人々が一人一人解放される形をとりました。その際、平安時代の朝廷の仏教と違って、新宗派では、政治指導者に頼んでその教えを受け入れ、布教するのを支援してもらうよう働きかけませんでした。しかも、仏の道に従うことを第一とし、単に社会あるいは政治的問題を扱うのではなく、精神性に専念し、基礎的な問題点として仏教の真実に傾倒したのです。この方針は、是までの仏教の主な勤めは、災難を回避したり、天恵を獲得したりすることで日本(実際には、天皇)を守るという、当時の伝統的な仏教宗派の考えとは、鋭く異なっていました。以前には、病気を治したり雨を降らせたりすることが、国と貴族が仏教を支援した重要なわけでした。 とは言っても伝統的な教団に止まった真摯な求道者と学者が多数居たことを忘れてはなりません。
新鎌倉仏教は、全く単純にした、わかり易い教えで大衆に接しましたが、決して安易なものではなく、かつての出家宗派が使った学者的な教えと仏教語を止め、仏教の中心をなす教えを判りやすくし、仏の教えを世間のあらゆる階級の人に伝えようとしました。仏の教えを単純化しただけでなく、お勤めも単純にしましました。これらの教えは大部分、大衆のための宗教であって、大衆は生活のため懸命に働かなければなりませんでした。農夫、猟師、漁師、商人にとっては、従来の出家制度での複雑で骨の折れる修行の時間などありませんでした。法然上人は、念仏を唱えるだけでよいと主張しましたが、その一方で日蓮は、それ自身十分な勤めとして法華経典の題目を唱えることを教えました。道元が座禅(座って瞑想)を唯一の理想であるとしたのに対して、親鸞聖人は法然に従って念仏を唱えることを唯一のお勤めとしました。これらの師と教えの訴える内容は、いつどこでも通用する普遍的なものでした。救われると言う望みからは、誰も除外されることはありませんでした。偉大な人間愛および人間の福祉に対する関心がこれらのすべての運動の背後にありました。たとえどんな階級でも、どんなに裕福、貧困であっても、どんなに無知でも、弱者であっても、皆すべての人に仏の慈悲が届きました。
最後に、恐らくマイナス要因と見なされるかもしれませんが、新しい運動は、夫々宗派別に分かれる傾向がありました。大乗仏教の概念が末法の概念と合さり、師はそれぞれ自分の教えこそが当時の仏教では唯一の教えであると唱えました。更に、他の形式の教えを尊重しても良いが、それらは真の悟りおよび最終的な救済に必要な保証をもたらすのに無効であると考えました。
法然上人は武士の出で、教えは、より率直でより決定的な特徴を反映していますが、大げさでもなく、また、好戦的でもありません。急成長する運動の責任者として、上人は、より威厳を保たれ、外向性で敬虔な行動をとられました。そして、慈悲心を持った人として登場しました。平安時代の仏教では、貴族階級が優遇されましたが、それと対照的に、上人の教えることは、特に、人々の道徳的・社会的地位にかかわらず、すべての人達を確実に救うことを目標としました。また、上人の人となりについて、伝統的に、情に訴える面が伝えられてきましたが、法然上人は、数世紀に亘ってこの情の面を伝えてきた伝承とは裏腹に、芯の強さがありました。この強さによって、上人は、比叡山当局が加えた迫害に耐えることができ、またその強さ故、最後に上人が島流しされる結果になりました。ほかの諸点の中で、この強さが、特に親鸞聖人のような弟子を上人に引きつけたのです。
法然上人の浄土教は一見歴史を否定するように見えます。即ち、念仏を唱える功徳で、人は、この苦に満ちた不浄の世界(穢土)とは別な浄土に生まれるのです。平家物語で強調する浄土教は、特に幼少な安徳天皇の死と海底の浄土へ入水する物語の中に、この傾向が例証されています。法然上人の教えは、私たちが現在苦しんでいる、ひどい現実の代わりに、別の世界のビジョンを与えてくれます。世俗的な生活の厳しさは、来世への「ウパーヤ(方便、巧みな教育手段)」によって和らげられるのです。方便は、背負っている負担が最も重く、この負担がどんなものか、たやすく表現しない人たちへの慈悲の贈り物です。
親鸞聖人がどのような社会・階級の出であるかというと、藤原氏の血統を引いた人で、聖人の教えの趣旨から貴族出身であることが判ります。聖人は、他の教えと戦ったり、ひどく非難したりしませんでした。もっと正確に言えば、ご自分の和讃と自己告白の中で示されたように、親鸞聖人は感情が豊かな熱血にあふれるお方でした。しかも、内省的で、もっと内向性でご自分の心の世界を突き止められました。
自身の態度と感情を深く内省し、聖人は、運命の問題にたいする手掛かりあるいは解決策を見出すように努力されました。後に示しますが、聖人は、自分が完全ではないと言う気持ちに何年も苛まれ、世の衰退を心の中でご自身のものとして受け止められたようです。聖人は、自身の心の来歴を見つめられ、その結果自分が不完全な人間であると感じた気持ちを、阿弥陀仏を信ずることで、ご自分の意識の中で納得されたのです。自身の心中を巡礼された挙げ句に、親鸞聖人は新しい出発点に立ち、不安および歴史の束縛から解放され、聖人は、この世で建設的な、また意味のある生き方をされることができました。
その後、35歳位から、政治上の流人として日本の辺地に行き、親鸞聖人は、20年間通常の世俗的な生活を送りました。結婚後、家族を養い、大衆に混じって念仏を教えられ、修行されました。老齢に達してから京都へ引退され、そこで引き続き、教え、書き、そして生活され、後の信者のために世に残す学問的遺産および書き物を作成しました。
法然の教えが、大衆の手の届くところまで救いをもたらそうとした点に特徴があるとすれば、親鸞聖人の教えは、その救いをもたらすことが心の中で現実にどう出るかに関心をもっています。法然上人が、救いの現実すべてが歴史を超越するとしたのに対して、実存主義の親鸞聖人は、自身の煩悩と我欲の葛藤の最中でさえ、阿弥陀仏の慈悲が確実に約束されていることを体験されたことで、救いを自己の生活の中に見出そうとされています。
道元(鎌倉時代の曹洞禅の宗祖)は、相当な学問および哲学的な造詣を持った藤原家の一人だったようです。早くから両親を失ったことで、道元は、命の短いこととはかなさをひどく痛感された方です。このはかなさの意識から道元の教えの主なテーマが生まれ、毎日が私たちの最後の日であるかのように私たちは、実行するべきであると主張して、精神修行を緊急に行う必要性を強調しました。しかし、道元は、教義を深く追求し、親鸞聖人が内省的であったのとは違った意味で、主観的であり、内なる心に向けられていました。道元は、亦非常に厳格な人で、宗教に厳格さを求めました。中途半端なやりかたに満足せず、信者は仏教に全身全霊を尽くすことを主張しました。道元が中国で禅師の如浄から学んだ、基本とする言葉は、「身心脱落、脱落身心」でした。
禅宗では、空あるいは人の本性を直接理解することで歴史を超越せんと試みます。末法の教義が歴史上の衰退を若干認めたとしても、禅は、人々には、瞑想と洞察を通じて人々が本来持つ仏性を悟りうる可能性があると基本的に楽観しています。歴史を超越することでその束縛から解放されてこそ、人々は混乱した世の中に落ち着いて生きられるのです。
日蓮は、鎌倉仏教の祖師等の中で最後に現れ、当時最も新しい人であったのですが、師は、しがない漁師出身でした。それで、下層階級出身であることを誇りにし、何とかして、上流階級出の仏教徒に対して自分を見せつける必要がありました。従って、日蓮は、他のどの師より批判的でより好戦的で、考え方は、客観的で、字義通りで、経文に基盤を置きました。指導者たらんと熱烈に望んだ人でしたので、世の中に平和をもたらすために、仏教と世の中を統一する根拠を求めました。更に、愛国者で、当時の他の仏教徒より一般的な社会情勢について良く知っていました。
日蓮は、日本への蒙古襲来の危機を感じ、此の危機によって、国民に警告し、真の仏教国に変えようという使命感に打たれました。日蓮は、歴史と対決した代表者です。彼は、悪を心中で認識せよと要求したり、直接に超越せよとは主張していません。むしろ、日蓮は、「歴史と向かい合って、自分の判断を主張し、かつ、災難を避けるために真実に忠実に従うように。」と要請しています。使命感の為に、日蓮の信者に歴史の真実を見極めよと言っています。創価学会のような日蓮に基づいた今日の現代教団は、日蓮の闘争性および政治的・社会使命に関する感覚を持ち続けています。
鎌倉仏教のこれらの様々な伝統は、各々、私たちの現代とその問題に精神的な考え方を与える源点として有用ですが、親鸞聖人の見地、即ち、ご自身の中で歴史とどう取り組まれたか、宗教的生活を深く個人的に自身でどう理解されたかという点に焦点を絞ると、私たちの時代に役立つ見方が出てきます。聖人が教義を解釈し直し、生活様式を変え始められたことをよく知れば、親鸞の教えの特色が、ますますはっきり判ってきます。自己の意識の中で、歴史と遭遇し、取り組むことで現実の認識につながります。これは、自己の歴史的真実を認め、受け入れることを意味しますが、同時に、それがあくまでも私たちの本性と運命そのものではないと理解しなければなりません。歴史そのものが私たちの宿命ではないのです。その歴史の中でまだ生きている間でも、歴史(自意識としての)の束縛から解放されて、私たちは目的と決意を持って生活できます(自己認識)。
私たちが仏陀の慈悲に抱かれていると親鸞聖人が確信された以上、現代において、私たち人間は、歴史を超越し、またそれを包むなにものかの表れであると知って、歴史の中で行動し参加してもよいことが判ります。そのように自分で明確に認識すれば、自分自身が完全でないことからくる絶望感、或いは世の中で持つ自分達の期待はずれ感から守ってくれます。守るだけでなく、そのような認識は私たちの一生を通じて生きていくときに頼る基点であり、その基点から、歴史上、文化上、および個人的な束縛があっても、私たちは、なお自由であるという逆説についてもっともっとはっきりした、深い見方が得られるのです。 
 
親鸞聖人と仏教精神 

 

親鸞聖人の教えは、時代と様式こそ釈尊とは違っていても、仏教の真の精神の復興と見なすことが出来ます。聖人が理解し解釈された仏教は、その早期の伝統とつながっています。この大切なつながりは、真実の探求に重点を置き、迷いを立ちきる知恵の剣と、仏教的生き方を起こさせ、救いが普遍的なことを明らかに示す、限りない慈悲の条理とから成っています。 
知恵の剣
親鸞聖人の宗教的信仰は、日本では、師の法然上人と中国浄土教の高僧、善導を通して釈尊に遡ります。聖人の弟子の唯円房が編さんした素晴らしい宗教古典である歎異抄の第二条に、この親鸞聖人の宗教的信仰上の系統が、詳細に引用されています。「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず」。(現代語訳、「もしも阿弥陀さまの衆生救済の願いが真実であるとすれば、そのことをあの『三部経』という経典で説いたお釈迦さまがまちがっているはずがありません。137頁梅原猛校注・現代語訳、歎異抄、講談社1972年4月15日、第一刷)。この一節は親鸞聖人の出発点を仏教の高僧毎に、筋道を立てて辿っており、そのとき聖人が言われたことは、「仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言しまふべからず。善導の御釈まことならば、法然のおほせそらごとならんや。法然のおほせまことならば、親鸞がまふすむね、またもてむなしかるべからずさふらうか。」。(現代語訳、もしも『三部経』におけるお釈迦さまの説法が間違っていなかったならば、それを正しく解釈した善導大師の注釈書が間違っているはずはありません。そして善導大師の注釈書が正しかったならば、その善導大師の注釈によって正しい念仏の教えを説かれた法然聖人の言葉が偽りであるということがありましょうか。もし法然聖人の教えが正しかったならば、私があなた方に申しました念仏往生の教えもどうして間違っていましょうか」。137頁梅原猛校注・現代語訳、歎異抄、講談社1972年4月15日、第一刷)。親鸞聖人は、ご自分が釈尊の教えの真髄とそれを成就することを代表していると信じておられました。
仏陀という呼び名は、「目覚めた人」を意味し、梵語のボーディ(菩提)からきていますが、仏教は、どの宗派でも、釈尊が求められた悟りの成果に達する道を教えると主張します。釈尊は、命と生の根本的な真実を発見すべく、努力して修行し、瞑想されました。インド北部の釈尊王国の王子として、釈尊は、世の中で得られる物質的恩恵をすべて所持されていましたが、真実を追求する困難な難問に立ち向かう道を選ばれ、折角相続した王子の身分を放棄されました。二九歳から、三五歳で悟りに到達するまで、六年の間、絶え間なく、修行に集中された釈尊は、精神性修行のお手本となられ、以後、仏教が普及した所ならどこでも、アジアの至る所でこのお手本が広まりました。
悟り或いは知恵とは、私たちが生活と生命について持っている妄想や欺瞞を見通す事を意味します。このことが、教えを改革し、聖像を破壊する(偶像破壊)特徴があるために、仏教が今、私達の末法時代に適切であるわけです。これらの特徴は、親鸞聖人が出家制度の伝統と決別する動機になりましたが、仏教のこれらの点はめったに学究的ないし一般の注目を浴びません。
仏教には、仏教の信心と行の目標である知恵の特性を表す多数のシンボルがあります。知恵を意味する梵語の「智慧」は(「プラジャナー、Prajna)は、時には、魔法の珠、つまり、泥だらけの水溜りを清澄にする魔法の宝石に例えられ、泥の中で成長しても清浄な花を咲かせる蓮の花に例えられます。それは、門、流れ、灯り、目、鏡、雲とも記されています。智慧は迷妄を切り捨てる剣です。
仏陀の教えと行が根本的に目指す目標は、永遠の命、快楽、および物の所有を追求する人々が抱く自己欺瞞を突き破り、世の中で私たちを攻撃的にさせる我欲と貪欲に対して、ありのままに打ちかって行くことでした。私たちは、周りから働きかける競争・相反する色々な外部の力に囲まれておりますが、それらに縛られている誤った自我意識に打ち勝つことが、仏陀の教えの目標です。したがって、じつに文字通り、仏教は、「意識を高める」教えとして登場したのです。教えによって、自己批判の根拠が得られ、そこで、煩悩に振り回されることから真に解放され、自由になれる道が生まれました。その教えによる聖像・因習の破壊は、大胆でしたが、いまだに其の通り大胆なことです。教条主義の足かせからは、これらの足かせもまた自己欺瞞であるという仏教の基礎的な見地を理解することで、常に解放されます。
大乗仏教の「空」の原理には、私たちの限られた心あるいは私たちの表面的な経験で完全に理解できる絶対原理は存在しません。この見方は、宗教と同様に世の中においても重要な意味を持っています。絶対原理があると仮定すると、更に自分がそれを具体的に表すとか、所有することができるというもうひとつの仮定につながり、同じ人間の上に立つ権威を得ることになります。
大乗仏教でいう空、「シャーニャータ(sunyata)」の原理は神のお告げや神権を信用したり支持したりしていません。しかし、この空の考えは、神々の力やそれと人間が得る達成感との間に関連が無いとはねつける根拠になります。仏教の改革あるいは偶像破壊が、現代、大切なのは、それが、自己を更新する原理であり、大切な宗教的信心を意味あるものとするからです。長い歴史で培われた頑固な心と自己満足から信心を解放する努力が続いますが、その中で、現存する宗教はすべて、信者を道案内する原理を持っていなければなりません。ポール・ティリヒ(Paul Tillich)は、神自身以外の絶対者を認めないイスラエルの予言者達に由来するプロテスタントの教義に注意を向けなさいと言いました。この原理が西洋のキリスト教の伝統を改革する基礎になりました。仏教では、自己を更新する原理は、空の教理であり、絶対的な存在ないし概念がないことを暗示します。絶対性があると、智慧が決まりきったもので、変えられないと決めてかかるので、智慧の進歩が妨げられることがあります。智慧は、ありのままでいるだけでいいです。未来は開かれています。
すべての概念が空、つまり、からであるので、それ自身の本性を持っているものは存在しません。従って、教団も宗教の伝統もみな空です。この見方は、宗教が教団的および形式的な面をもつのを排斥するわけではありませんが、これによって、コミュニティー(地域社会)は、なにを優先し強調するかをきちんときめることができ、また、自分のコミュニティーから自由に援助を受けて、人の精神性が育成します。事実、仏教は、偶像破壊の古代の形であって、固定した、永遠の我欲を表す偶像を打ち壊し、恐れおよび神々への依存を表す偶像を打ち壊しました。(ここで、仏陀は人と神を教える立場になったことに注意。)仏教は、魔術と迷信の偶像を打ち壊し、カーストと階級による差別(東南アジアで、仏教僧侶が社会主義に惹きつけられた尤もな理由の一つ)の偶像を打ち壊します。
初期の仏教の八正道は、知恵に向かって前進の第一歩を踏み出しました。それは、事物をありのままに見る、「正見」の原理です。この原理は、自己批判の原理を組み入れることで、人は、永遠性または虚無主義の異端的な見解にとらわれてはいけないと強調しました。したがって、自分自身の考えという偶像にすら私たちはすがってはいけないのです。!
初めは、知識と愛着心に対するこの自己批判は、直接得た体験および対象物の世界に集中して向けられました。私たちが生命の肉体的・社会的な面にたやすく愛着を持ち、あたかもそれらが永久に続き、私たちの価値の源であるかのように思うことを、初期の仏教が批判しました。苦しみは、仏教の言葉では、本質的に心理的な苦痛で、楽しさから別れ、不快なものと遭遇しなければならないこととして定義されています。私たちが生活していて、様々な肉体的・社会的な面で楽しく自分をごまかしていたことから決別し、不滅の生命と永遠への私たちの望みを捨てて、代わりに無常ではかない現実に向き合い、絶対的原理を受け付けないことなど、これらのことすべてが偶像破壊につながり、人々を解放しましたが、これは、現在でも続いています。
仏教の自己批判および偶像破壊の運動が何世紀にもわたって進化・展開するにつれて、その適用する範囲が広くなりました。大乗仏教が現れて、仏教による知識の批判は、思考課程そのものを問題にするようになり、更に、真の知恵に到達するつもりならば、私たちの概念および区別さえが空でからであって、廃棄しなければならないとしました。龍樹の弁証的な否定の仕方が仏教でのこの考えの発展を最も深く表わしています。龍樹は、すべての考えが本質的に自家矛盾しており、その結果論理的な言い方では、現実を表さないと唱えました。大乗仏教宗派では、それぞれ、龍樹の自己批判的見方を維持したかったので、これらの宗派がみな仏陀から龍樹までの系統をたどることは驚くことではありません。仏教は偶像破壊の教えですので、非二元論が単に二元論の反対と見なされるようになると、それさえも非難します。
大乗仏教は改革を宗とする伝統であり、仏陀の真の精神を様々な様式で再建しようと試みました。この傾向が特に法華経において著しく、このお経では、sravakas(声聞、弟子、古代の小乗の信者)およびpratyekabuddhas(縁覚、師の教えによらないで悟りを得た人)がもったいぶったり、うぬぼれているのに直面して、誰でも救われると宣言された仏陀の「第二転法輪」が記述されています。このような人たちは、仏教の真実をすべて会得したと自己満足していた当時の人々を代表していました。このような人たちは、他人を大事にする社会的な大乗とは対照的に、非常に個人的な立場で仏教に接していたことを表しています。
法華経の重要な観点の根拠を形成し、中国と日本で仏教の方向を定めた大原則が二つありますが、これらは、一乗の概念および誰でも救われるという教えでした。第一の原理である一乗は、仏教に様々な教えがあるように見えても、仏陀は、本質的には、究極の教えが一つであると、宣言されています。この原理は、火宅(燃えている家)から(逃げる気のない)自分の子どもたちを逃げ出させるように、「車が数台ありますよ。」と誘うことで救いだした、情け深い父親の話の中に生々しく描かれています。子供一人一人に好みの車を約束しましたが、外に出て来た時、父は、はじめに約束したものより性能の優れた、同一の車をそれぞれに与えました。一乗の原理は、仏教の真実であるというどんな主張でも吟味する優れたもので、仏教のより程度の低い教えすべてに取って代わります。
誰でも救われる、救済の普遍性の原理は、仏教の真実を主張する場合は、いつも、その試験台となる重要な原理でもありました。自分たちだけがそのような達成に必要な資格があったと確信していた人々とは逆に、唯一の真実は、生きとし生けるものがすべて仏性に到達するとするので、これと前記の原理とは相互に関連しています。しかし、仏教の宗派のなかには、邪悪で、下劣な人たちは、仏性の素質を持っていないと考えた宗派もありました。
法華経に示された批判と改革の精神によって、後に中国、韓国および日本で仏教が進展するよう促されました。中国では、ティエン-タイ(天台宗)は、厳密な意味では、改革が行われたようには見えませんが、仏教の教えを組織化し、その幾つかのテーマおよび原理を見出そうとする段階で、将来の進展の出発点を確立しました。
法華経とその精神は教の中心として最高の位置に置かれました。これは、最初智(538-597) (中国の天台宗祖師)によって始められ、最澄(767-822)により比叡山に導入の際、日本でさらに入念に仕上げられました。法然、親鸞、道元および日蓮のような鎌倉時代の主な仏教改革者たちが、最初は、天台で学び、その重大な原理を吸収したことは重要な点です。
中国の唐の時代に仏教が学術的、学問的、形式主義的に傾倒した時に、禅仏教が、改革勢力として出現しました。この間、偉大な中国の仏教宗派が設立され、多くの著名な僧が現われました。しかし、仏教の考え方が難解なため、一般大衆は困惑し、精神性が盛り上がることはありませんでした。著名な達磨大師が中国に来て、当時の粱の武帝と問答した時の物語から、禅宗が、宗教にたいする自己満足をどれだけ批判したかが判ります。武帝が大師に「朕は寺を建て、布施を施して仏教を支持したが、どれ程の功徳を受けるだろうか。」と尋ねた時、「無功徳」と答えて立ち去り、9年間、達磨大師は、壁に向かって黙想したのです。仏教の真実は計算づくや褒美の問題ではありません。この達磨大師の精神は継続し、臨済宗始祖である義玄禅師(867年滅)に至って、恐らく最も鋭い、次ぎのような宣言をされました。
道流、你、如法に見解せんと欲得すれば、但だ人惑を受くること莫れ。裏に向い、外に向って、逢著すれば便ち殺せ。仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得、物と拘わらず、透脱自在なり。  [諸君、まともな見地を得ようと思うならば、人に惑わされてはならぬ。内においても外においても、逢ったものは、すぐ殺せ。仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢ったら羅漢を殺し、父母に逢ったら父母を殺し、親類に逢ったら親類を殺し、そうして始めて解脱することができ、なにものにも束縛されず、自在に突き抜けた生き方ができるのだ。] 臨済録(示衆)96頁 入矢義高訳注 岩波文庫 1989年1月17日第一刷、岩波書店;祇だ是れ平等、著衣喫飯、無事にして時を過ごす。你、諸方より来たる者、皆な是れ有心のして、仏を求め法を求め、、、、、、痴人、你は、三界を出でていずれの処に去らんと要するや。仏祖は是れ賞繋底の名句なり。你、三界を識らんと欲するや。你が今の聴法底の心地を離れず。(同書)101頁 [わしの見地からすれば、なにもくだくだしいことはない。ただふだん通りに、着物を着たり飯を食ったり、のほほんと時を過ごすだけだ。君たち諸方からやって来る者は、みんな下心があって仏を求め法を求め、...愚か者よ、いったい三界を出てどこへ行こうというのか。仏とか祖師というのは、奉っておくだけの(?)名称だ。君たちは三界がどんな処かしりたいか。今説法を聴いている君たちの心を離れては存在しないのだ。]
このような禅仏教の傾向は道元を擁した日本の禅宗にもあり、道元は、政治勢力のある地域の近くに修行寺を建てることを嫌い、信者は、仏教を超越しなければならないと主張しました。すなわち、「いまをしふる功夫辨道(くふうべんどう)は、証上に万法をあらしめ、出路に一如を行ずるなり。」(現代語訳「ここに教える正身端座の法は、座禅の時すべてのものを悟りの上のものとし、日常の生活を真実と一体のものとする。」(正法眼蔵辨道話他」古典日本文学全集 14巻 西尾実 5頁 筑摩書房 昭和三七年八月二五日発行。)亦、
妙修を放下(ほうげ)すれば、本證手の中にみてり、本證を出身すれば妙修通身におこなはる。
(同上、現代語訳「妙修を投げ出すと、本証が手の中に満ちあふれ、本証から一歩出れば、妙修が体じゅうにおこなわれる。26頁」)
大乗仏教が促進したこの批判的な気質は、法然上人の選択(せんちゃく)の原理の中に表れています。上人は、その原理で、絶え間なく不断にすべての生きとし生けるものすべてが一様に悟りが得られるようにどこにでも働きかける、阿弥陀仏の本願の精神を標準として、当時行われていた宗教活動を各々試されました。法然上人は、人々の富、知性、あるいは精神性の程度に拘わらず、すべての人々に応用出来るという点で、念仏(南無阿弥陀仏– 阿弥陀仏の本願の力を認めたしるしに、名号を繰り返し唱える)だけで本願の意図を満たすと結論されました。
親鸞聖人は、六年間法然上人の弟子として修行された後も、この見解に従い、続いて後の著述の中で、仏の本願は、事実、全く分け隔てなく人々を抱擁して救うと主張されました。前に引用した、教行信証のなかの「大信海」という一節には、社会、宗教、道徳、あるいは知的な面で差別を設けていません。
法然上人と親鸞聖人の見解が急進的で聖像破壊をめざす意味は、歴史的な仏教の戒律と社会を背景にして評価しなければなりません。この両宗祖は、明白に通常の意識を表面から打破り、貴族階級の宗教・社会でのエリートの唯美および形式主義を捨て去っています。また、念仏という乗り物によることと、悟りに到達する仏教の多くの修行の効果を否定することで、条件をつけない慈悲およびすべての人を救うという言葉を伝えて、法然・親鸞の両師が大衆を抱かれました。
自己満足あるいは現状維持の宗教でなく、仏教は、じっとしてはおられない精神性に満ちた宗教になり、絶えず自ら、「深遠な境地に到達したか、最終の真実を解き明かしたか。」と問いかけます。自分がちょうど悟りに到着した思った時には、決して到達していないことを知らされる点、仏教は微妙な自覚の教えです。これは、親鸞聖人が非常に鋭く、明らかにされた微妙な、ありのままの自覚です。親鸞聖人は、真実と生命および人間の生きる意味を自身で探求された末、知恵の剣を振りかざして、決定的に仏教に新しい道を切り開かれました。 
慈悲の道理
親鸞聖人の教えの背景になったものを私たちが考慮する際の第二の点は、私が慈悲の道理と呼ぶものです。ここでは詳細に立ち入って述べることができませんが、私はこのことを検討するに当たり、すべての宗派の仏教徒が慈悲の深さを求め、慈悲が抱く範囲を絶えずひろげようと常に勤めた、その中で、親鸞聖人が明らかに努力されていたことを示したいと思います。各時代を通じて、感性が豊かで、明敏であり、勇気のある人々は、教えについて新しい角度と意味を考え、それによって精神性の世界を広げることが出来ました。
同様に、ご自身の宗教体験の結果、親鸞聖人は、仏教の伝統をさらに推し進めて、宗教生活を最も深く理解する糧にしました。従って、それまでの伝統とは若干異なる点がありますが、聖人は、その最も深遠な意図を発展させています。これは、私たちが浄土真宗を理解する上で最も重要です。しかし、この進化発展した内容を明確にするために、私たちは、インドおよび仏教の宗教的伝統の発展について広い目で見なければなりません。
およそ紀元前八-六世紀の間にかけて古代のインドで出現したウパニシャッド(ヒンドゥー教)の神秘主義を背景にして、仏教が起こりました。この古代の神秘主義は、貴族的で、いけにえと魔術に基づくベーダの宗教に対する宗教的な抗議でした。ベーダは富裕層におもね、すべての階級(カースト)の上位に立って貴族と僧侶の優位性を押しつける古代のいけにえの宗教でした。ウパニシャッドの神秘主義は、バラモン(全宇宙で重要性と権力の中心力である、絶対者の名称)との結合を達成する精神修行の末、最早いけにえ制度を重要視しないことで、このベーダによる社会組織を没落させました。このいけにえ制度の廃止は、結局非殺生(アヒンサー)主義の勃興となり、ジャイナ教と仏教、および後にヒンドゥー教の中心思想となりました。インドの神秘主義的な伝統は、様々な形式をとり、多数の教師が居りました。偉大な人生探求と試行の時代におられた、ゴータマ仏陀は、何人かの師の下で勉強され、結局、他の人たちと同じパターンで、自身も教師になられました。仏陀は、自身を新しい伝統を始めた祖師ではなく、単に悟りに達する路を授ける教師に過ぎないと見なされていました。しかし、仏陀のもたれた識見は、お生まれになった伝統的とは、根本的に違っていました。
ウパニシャッドの神秘主義は、精神的な目標を達成するにあたって、貴族階級のエリート主義に抗議しましたが、それ自体が精神的で知的に有能であるというエリート主義に陥りました。仏教も時代の経過につれて同じような考えに陥りました。ウパニシャッドの宗教に対する取り組み方は普遍的でしたが、それは能力の普遍性であり、時と場所については普遍的でもすべての階層の人々に普遍的ではないという、えり好みする普遍性でした。仏教にも同様なパターンの変化が起こり、ある宗派では、人を五つの階層に分け、そのうちのある種の人々は、仏になれないというような仕組みを教えました。初期の仏教のこのような貴族・エリート主義の傾向は、法句経(ダンマパダ)の次の語句の中に見ることができます:
自ら悪をなして自ら汚れ、自ら悪をなさなければ、自ら清いけがれと清浄とは、自らによる いかなる人も他人を清めることはできない (法句経 165)
鈴木博士は、釈尊が入滅される時、別れに際して弟子達に「自らを灯火とせよ、自らを帰依処とせよ」と言われた言葉について、こう記されています。
自力とは、「自らを灯火とせよ」を意味する、自己依存の精神であり、八正道(はっしょうどう)または六波羅密(ろっぱらみつ)を勤めて自己の救い、または、悟りを達成することを目標にします。これが一生の間で出来なければ、釈尊が何度も往生されて最高の悟りに達するよう修行されたと同様に、自力を奉ずる者は幾つもの生を通じてその努力を怠らず励みます。従って自力の宗派に参加する者は、強い意志と高い知能が必要です。知能がなければ、四聖諦(ししょうたい)の意味を完全に理解できないでしょうし、この真理を賢明に理解することが意思の力を持続するのに必要です。釈尊が説かれた色々な道義の項目を実践する上から不可欠です。
この貴族的な、エリート主義の伝統は現代までも一般仏教にそのまま残っています。しかし、最初から、その仏教の伝統で、中には、多くの大衆が古代宗教のそのような必要条件を満たす程の経済的、知的あるいは精神的、または道徳的な能力を持っていなかったとしたら、どんな希望がもてるだろうかと思案したに相違ない、慈悲の心を持った人々がいました。そのような慈悲の心は、ヒンドゥー教のバガバッド・ギーター(Bhagavad Gita)に最もはっきり表れ、後に特に、階級とカーストの差別が強まり、階級間の流動が事実上できなくなった当時のインドの社会で、長い社会変化の過程で発展してきた大乗仏教の経典に表れています。狩猟、屠殺、皮なめし業、戦士の役割のような従来の職業は、生物の命を奪うので、罪深いと見なされていました。
大乗仏教では、そのようながんじがらめの社会環境のなかで、悟りと解放が絶対的に普遍であるという傾向を反映する多くの特徴ある点が発展して来ました。大乗仏教の持つ、普遍的な仏性・偉大な菩薩、回向、方便(ウパーヤ、梵語)、および悪人および女性の救済の考えは、すべて最も下層で、最も無能な人々にさえ、救いと悟りを約束するものでした。法華経はこれらの教えを示す最も有名なお経です。
完全に、誰でも普遍的に救済するという傾向は、大経に出てくる法蔵菩薩の物語から、知ることが出来ます。菩薩が提示された願いは、生きとし生けるものすべてが共に悟りを達成することができなければ、自分だけでは受け取らないと誓約されました。救済の働きによる恩恵を分かち合う実際的な方法は、大乗仏教特有な教えである、回向でした。これについて、鈴木博士は次のように述べています:
回向という概念は、実に大乗仏教の著しい特徴のうちの一つであり、その発展によって、仏教哲学の歴史に新時代がやってきたことが判ります。それまでは、功徳、つまり、善行の積み重ねは、その個人自身だけのもので、良い行いも悪い行もそれをした人が責任を持ち、自分の働きに関する業(宿命)に満足している限り、喜びを感じたり、または災難で苦しんだりするのは、その個人の勝手で、それ以上それに関してやかく言ったり、したりするということはなかったのです。しかし、ここに事情が変わったのです。最早、私たちは、一人だけでいるわけではなく、各人が自分だけの為に生きているのではありません。皆がお互いに深く関連しているので、誰かがした事は、必ずなんらかの意味で他人に影響を与えています。個人的な小乗仏教は、今や、共同世界的な大乗仏教に転じたのです。この事は実に仏教思想の進化の上で、大きな転機でした。
親鸞聖人は、大乗教の慈悲の意味を更に一歩前進させ、この慈悲の概念を進めて、回向を阿弥陀仏のお働きだけに限定しました。
巧妙な、賢い手だて、あるいは慈悲のある手段と一般に呼ばれるウパーヤ(すなわち方便)の概念は、大乗仏教およびその教育の教義のもう一つの観念です。この教えの要点は、仏の教えは、聞き手の水準と能力に応じて変えて、人を悟りヘと導くことを目標とすることです。教育の概念として、これは、仏の教えをすべての人の手の届くところにもたらす事を切望した、大乗仏教徒たちの深い慈悲心を反映しています。普遍的な救済の原理が初期の大乗教の中にあったとはいえ、それは、後に「自力」と言われた、自己完成と自己修行の考えと一緒くたになっていました。これら自力の考えは、戒律、瞑想、写経、仏像建立、造塔、仏事法要を営むようなお勤めを含んでおり、すべて他人の恩恵になる功徳をめぐらすように計られていました。インドや中国の偉大な洞穴寺院は、古代の人々がこれらの努力にどの位尽力したか示しています。
中国では、浄土教の伝統は南北王朝および隋朝時代の曇鸞・道綽・善導のような祖師等によって大衆のための普遍的な救済をする主な代表者となりました。より哲学的な面では、普遍性の教えは、僧道生(434年没)が唱えました。道生は、大乗仏教の涅槃経典がすべての生きとし生けるもの、従来の仏教では仏になる素質を欠いた人々さえも、仏性を持つと教えている、と唱えました。大乗仏教の精神により深く一致しているので、道生の考えは、その後中国仏教の中心原理になりました。
しかしながら、大乗の普遍的な救済の教えおよび精神が、教義上でも社会的にも十分明らかにされたのは日本においてでした。この教えは、多くの流れを通って日本の社会に達しました。平安時代と鎌倉時代に、この教えがより盛んになりました。市聖(いちひじり)と呼ばれた空也(光勝)上人(972年没)は大衆の間に浄土教を広め、良忍は、「融通念仏」を教えました。この教えの面白いのは、悟りに到達するのに私たちがみんなが互いに依存すると説いた点です。この時代は、大乗仏教にとって創造期であり、盛んな時代でしたが、特に日本では、源信のような僧が念仏を唱えなさいと主張する「往生集」を著しました。
鎌倉時代の僧師はみな大衆に訴え、結局、皆が救われることになっていると力づけました。
日本の仏教におけるこの発達の特徴は、誰もこの救いから除外されることは、ありえないという教えでした。この精神性について、法然上人や親鸞聖人と同時代で、自身日蓮宗の宗祖である日蓮聖人が、法華経の中の提婆達多(ダイバタッタまたはデーヴァダッタ、Devadatta)と竜女の物語は、仏の限りない慈悲を表わすものとして強調している点が重要です。この経典によれば、提婆達多は(仏に対する陰謀のために極悪人のシンボルとされている)、最後に菩薩に成れるのです。竜女は、信心の力を物語っています。女性禁制の制限があったにもかかわらず、仏の教えを信じていた、彼女は即座に成仏したのです。古代の仏教では、女性は、何度も生まれ変わり男性として生まれ、修行に従わない限り、成仏することが許されていなかったのです。
ここで、法然上人については特に言及する必要があります。それは、既述の章で記しましたように、上人の有名な「一枚起請文」に、唯単純な信心こそ救いの基であると強調されているからです。
「お念仏の教えを信じる者たちは、たとえお釈迦さまが生涯をかけてお説きになったみ教えをしっかり学んだとしても、自分はその一節さえも知らない愚か者と自省し、出家とは名ばかりでただ髪を下ろしただけの人が、仏の教えを学んでいなくとも心の底からお念仏をとなえているように、決して智慧あるもののふりをせず、ただひたすらお念仏をとなえなさい。」第4章参照)
法然上人は、さらに最もはっきりと説得力をもって、救いは、社会的地位と何の関連がないことを理解された上、あらゆる形のエリート主義を最も痛烈に、徹底的に排斥する書を著しました。親鸞聖人は、師の法然上人が築かれた基礎の上に教えを打建てられました。流罪の間、日本の北部・東部地方での体験と後に仏教を教えた実績によって、親鸞聖人は、普遍的な慈悲の心により深い教義上の解釈を与えることが出来ました。
親鸞聖人の教えの最も重大な特徴のうちの一つは、阿弥陀仏が生きとし生けるものの為に功徳を回向する幅と深さについて再解釈された事、およびこの見解が宗教生活の本質に与えた意味です。阿弥陀仏の慈悲が無限の範囲と深さに及びますので、私たちが救われることは、信心すれば保証されており、私たちは、自分たちや他人が救われるための功徳を積む形ばかりの努力が適切か、十分かどうかなどについて心配する必要がないのです。このために、宗教のお勤めは、自己中心の利益および欲望を満たすことではなく謝意と献身の表現になります。宗教的信心は、ある目的を獲得する道具でなくなり、目的そのものになりました。この見方は、宗教面での努力に重大な意味を与え、この努力が生活からはなれた何かあるものとしてではなくて、日常の生活の意味および目標を定めるのに密着したものになります。
結論として、大乗仏教、特に浄土真宗は、現代の宗教的生活において不可欠な二つの傾向を具体的に表しています。知恵の剣を使って、私たちは、私たちが理解したり考えることに関して問い続けます。私たちは、現実にたいする考えを明らかにし、妄想を切りはなします。私たちは、問題がすべて解決済で、知恵を独り占めしていると決して満足していられないのです。この剣で、一度ではなく何度も、何度も、より深く、深く切り込み、この剣は、私たちが真に誰であり、何であるかを見極めるのに役立ちます。
この技術がめまぐるしく、普及、拡大し、人種、社会、経済・政治が二極化する世界では、慈悲の道理は、私たちが、社会の福祉上の決定をする助けになるよう、人間社会の状況をできるだけ広い慈悲の目で見られるかどうか、絶えず私たちを励ましてくれます。西洋社会における浄土真宗と仏教の未来は、すべての人を含み、差別しないという真実と慈悲に、私たちが現代生活においてどれだけ、有効に尽力できるかにかかっています。 
 
『近世の地方寺院と庶民信仰』 論評

 


「房総地方にあって、寺院と庶民信仰にかかわる歴史研究が思いのほか進んでいない」という研究状況、郷土の寺院仏教史に関する講義や講演における参考文献の必要性、本書はこれらに対する著者の課題意識に基づき刊行された。著者長谷川匡俊氏は、浄土宗を中心に近世仏教の信仰・教化史を研究してきた論者で、近年は仏教と社会福祉の関係に注目している。
地方寺院と地域民衆の信仰の関係は、仏教史のみならず日本近世における宗教、思想を考える上で重要な課題である。また、現在千葉県は関東地方で最も寺院数が多く、真言宗・日蓮宗の圧倒的な優勢に対し、浄土系教団が少ないという特徴的な仏教の展開をみせている。本書の主題は、房総の地域特性を捉える際にも等閑視することができないのである。 

本書の構成は以下の通りである。なお、行論の便宜上、各論考に番号を付した。
T 寺院と檀越
1中世寺院と千葉氏 / 2佐原観音寺と伊能氏
U 房総地方の寺院分布と浄土宗教団
3近世後期 房総寺院の分布と本末組織 / 4房総における浄土宗教団の展開と庶民信仰
V 開帳と庶民信仰
5坂東二十七番札所 飯沼観音の開帳と庶民信仰 / 6関東三弁天 布施弁天の開帳と庶民信仰 / 7上総千田称念寺「歯吹如来」の開帳とその顛末
W 巡礼・遊行と庶民信仰
8房総の札所巡礼今昔 / 9遊行上人の房総巡行 / I遊行上人の四国巡行
V 地方の宗教事情と念仏信仰
J近世中期 東北地方の宗教事情と念仏聖の宗教活動 / K近世天台律宗の復興者 法道の行動と思想
「T 寺院と檀越」は、寺院と在地有力者の関係を取り上げる。
1では中世下総国における仏教各派の展開を、守護千葉氏一族および支流との関係に焦点を当てて概観し、在地領主の外護と密接に関わった諸宗の展開、近世における地域分布の原型となる地域的本末圏の形成を指摘する。
2では近世における佐原観福寺(真言宗)と檀頭伊能氏の関係に注目し、祈祷寺院・檀那寺・本寺・談林(学問所)・庶民信仰の寺という観福寺の機能、伊能氏一族への厚遇を指摘し、伊能景利にみる檀頭としてのつとめ、信仰の有り様を明らかにする。
「U 房総地方の寺院分布と浄土宗教団」は、寺院の分布と本末関係から、房総地方の特徴を抽出する。
3では明治期の統計と比較し、近世後期の千葉県域には約五千の寺院が存在し、真言宗(四四・六%)・日蓮宗(二三・三%)の多さが他地域と比した特徴であること、本末関係において田舎本寺をピラミッドの頂点とする真言宗・天台宗、末寺を持たない寺が多い浄土宗といった差異があることを指摘する。
4では浄土宗教団について寺院分布・本末圏の形成過程などを検討し、房総地方の諸寺院における庶民信仰の様子を紹介する。
「V 開帳と庶民信仰」は、諸神の開帳に関する論考を収録する。
5では飯沼山円福寺(真言宗)の本尊十一面観音の開帳が近世中期以降に興行的性格を帯びる点を、庶民的基盤に立った寺院経営への転換・銚子地域における商業の発達・庶民信仰との関連から論じる。
6では関東三弁天の一つ布施弁天が、布施村の後藤家・江戸の古家家という世話役の奉仕のもとで宝永〜享保期に最盛期を迎えること、下総・武蔵・常陸に渡る信仰圏の形成が、利根川流域という布施村の立地および民衆の宗教的基盤に起因することを指摘する。
7では上総国埴生郡千田村称念寺(浄土宗)の本尊「歯吹如来」を取り上げ、天保六(一八三五)年の大坂出開帳失敗で生じた負債によって、幕末の称念寺が経営危機に陥ることを指摘する。
「W 巡礼・遊行と庶民信仰」は、房総地方における隆盛が指摘され、著者が開帳と並んで注目してきた巡礼を取り上げる。
8では房総における巡礼霊場の一覧を掲げ、下総を中心とした弘法大師霊場の多さと真言宗寺院の分布との対応関係を指摘し、ともに佐原に所在する観福寺「郡巡礼」、法界寺「阿弥陀講」の概要を紹介する。
また、研究蓄積の少ない時宗の遊行上人について、9では房総巡行を取り上げ、時宗の教線を反映して巡行路が下総北部を主としていることや、民衆の現世・来世の要求に対応した布教活動の展開を、10では四国巡行を取り上げ、民衆教化の様相および諸藩の対応にみられる差異を検討し、遊行上人にとって領主たちとの交渉が、廻国の成否に繋がっていたことを指摘する。
「V 地方の宗教事情と念仏信仰」には、房総以外の地方を対象とした論考を収める。
11では曹洞禅地域である東北地方を取り上げ、民衆の念仏受容の背景として、曹洞宗寺院が、能力や性質に応じた教化姿勢である応機説の立場から念仏を勧めていたことを指摘し、念仏聖待定(貞享二〈一六八五〉〜享保一六〈一七三一〉)の忍行念仏が民衆に受容され、没後も待定信仰が流布していった様子を示す。
12では天台律宗教学の大成者である伊勢国木造引接寺法道(天明七〈一七八七〉〜天保一〇〈一八三九〉)を取り上げ、彼の教学が近世浄土宗の念仏信仰との交渉を通して確立したことを指摘し、化他性を特色とする戒律観、本願の信と相関する施行の実践に注目する。
Xに収録された両論文の初出は、Jが二〇〇五年、Kが一九九一年と比較的新しく、近著『日本仏教福祉思想史』(共著、法蔵館、二〇〇一年)、『近世の念仏聖無能と民衆』(吉川弘文館、二〇〇三年)の内容とも密接に関わる。房総以外の地域を扱っている点からも、TからWとは趣が異なるものといえるだろう。
以上が本書の概要である。著者が明らかにした近世房総における仏教の展開、庶民信仰の様相は、現在でも研究の前提となるものである。次に節を転じて、本書の成果と課題に言及する。 

本書の成果として特筆されるのが、房総全域に渡る寺院分布と本末組織の把握である。著者は一九八八年に発表された3「近世後期 房総寺院の分布と本末組織」で、「房総寺院史研究にとって、欠かすことのできない基礎的かつ基本的な課題」にも関わらず着手されてこなかった、この作業に取り組んだ。評者が注目するのは以下の点である。まず、近世後期の様相が明治期における複数年度の寺院統計と比較されている点である。著者は、先行研究が依拠していた明治十三年の寺院統計に史料批判を加え、より正確な明治期の分布を導き出した。そして、江戸後期から明治初期の約百年間における一五〇〇もの寺院の減少と、その内訳を示したのである。また、宗派の別に加え郡単位での分析を行い、諸地域の特徴を指摘した。房総三国のうち唯一、日蓮宗が真言宗の寺院数を上回る上総国を例にとると、日蓮宗・天台宗寺院の多い山武郡・夷隅郡・長生郡、真言宗の展開する君津郡・市原郡という差異がある。ここから、千葉県における日蓮宗の隆盛を、単に日蓮の生地という理由でなく、戦国期の東上総地方を中心とした、池上本門寺による真言宗の折伏による結果と捉えることができる(『千葉県の歴史 別編 民俗1 総論』千葉県、一九九九年)。
幕末から明治初年にかけた寺院数の減少について、著者は宗派別では真言宗寺院の減少、地域別では下総東部の激減と安房の安定性に注目している。そして、檀家層の窮迫という社会経済史的問題、幕末維新期における廃仏毀釈の風潮といった政治史・思想史的問題との関係を示唆する。本書の成果は、こうした諸分野の研究や近世・近代移行期研究に対しても、重要な素材を提供している。
次に、房総地方における様々な庶民信仰が紹介されている点に注目したい。民衆の仏教受容を、慣習的で民間の習俗や固有信仰と深く関わるものと捉える著者の視角(『近世念仏者集団の行動と思想』評論社、一九八〇年)に基づき、本書では宗派の枠に留まらない民衆と仏教との多様な関係が描かれる。4では浄土宗寺院が道場という本来の使命に加え、実際は「地域の民衆の生産活動や生活と宗教的ニーズに深くかかわっていたと指摘し、阿弥陀信仰・観音信仰・地蔵信仰といった庶民信仰を列挙する。また、Vでは開帳、Wでは巡礼を取り上げ、それらの背景に現世・来世のしあわせを願う民衆の信仰心を窺おうとする。そして、寺院分布を踏まえた上で、庶民信仰にみる房総諸地域の特徴が指摘される。例えば、弘法大師霊場が関東地方のうち千葉県に最も多く、下総と比べて上総に少ない点を、真言宗・日蓮宗の展開と関連づけて論じている。
房総における地方寺院を扱った近年の研究は、本書における本末関係の把握という成果を発展させ、寺院組織や僧侶集団などの実態を明らかにしている(朴澤直秀『幕府権力と寺檀制度』吉川弘文館、二〇〇四年)。他方、庶民信仰に関して『千葉県の歴史 別編 民俗1 総論』では、大師堂や祖師堂の分布が真言宗・日蓮宗の展開と関連づけて検討されている。しかし、著者が「寺院と庶民信仰にかかわる歴史研究」の停滞を指摘するように、近世史の側から房総における庶民信仰を、社会状況や人々の意識との関わりで問う作業はなされていない。本書の成果が、発展・継承されているとは言い難い。 

以上、本書の特長を述べてきた。著者が期待するように、房総寺院仏教史の基本文献として読者が本書から得るものは多い。ただし、一九七○年代から八〇年代に発表された論考が過半を占める本書からは、房総寺院仏教史・著者自身の研究双方の深化も踏まえると、若干の疑問点・論点が浮かび上がる。
まず、房総の寺院分布に関して言及する。この作業が着手されなかった理由の一つが、近世のある時点での寺院を網羅した史料が現存しないという、史料的制約である。著者は天明〜寛政期の寺院本末帳を軸に、元禄・享保年中の『浄土宗寺院由緒書』、延享年中の本末帳(曹洞宗)、明治十三年の『千葉県統計表』(真宗・黄檗宗)から補い、近世後期の分布を導き出した。しかし、史料の性格・成立時期が異なるため次のような問題が生じる。例えば、寺院の移転や統廃合、転宗・転派に伴って同一の寺院を重複して計上する可能性、あるいは庵・堂・坊の位置づけなど、寺院として計上する基準が各史料で異なる可能性が指摘できよう。これらの要因によって本書の結論が揺らぐとは考えにくいが、寺院分布の精度を高める余地は残されている。
また、本末関係の把握を主眼とする寺院本末帳からは、個々の寺院の実像が窺えない。等しく一か寺として計上された寺院は由緒・規模・檀家数などの差異を有しており、なかには無住・廃寺同然の寺院も存在したはずである。寺院数を教線の伸長と直結させるのではなく、当時の実態を勘案する必要があるだろう。
二つ目の論点としては、庶民信仰の問題を考えたい。先述したように、著者は民衆の仏教受容について、宗義の理解に基づく純一な信仰というより現世利益や葬祭仏事を主流としたものと捉えている。この見解と関連して、近世社会における民俗信仰・民俗行事に注目した論者が安丸良夫氏である。氏は、当時の社会の基底に廻国修験を受け入れるような習俗があったことを指摘し、様々な宗教活動・宗教行事を取り上げた(「『近代化』の思想と民俗」『日本民俗文化大系一』小学館、一九八六年)。近年、主に近世後期から幕末にかけての時期を対象として、呪術的要素も含む宗教者の活動や、救済を求める人々の要求を取り上げた研究が蓄積されている。本書においても、この時期の画期性に関する言及が散見されるが何れも変化の指摘に留まっており、変化を生んだ背景の検討は不十分である。庶民信仰についても、思想史的観点による検討の必要を指摘してはいるが、人々の日常的な宗教意識には踏み込んでいない。
ところで、本書では明治初年における匝瑳・海上・香取三郡の寺院数激減について、平田国学の拠点という地域性との関連が示唆されている。この点に関して、平田篤胤『出定笑語附録』には、香取郡松沢村の名主で篤胤門人であった宮負定賢が、文政初年頃の同村について語った言葉が記されている。曰く、松沢村は「古クハ仏信心ト見エテ、寺ガ五ケ寺有」たが、「段々潰レテ、今ハ二ケ寺ニ成テ、又ソノ一ケ寺モ、アルカ無キカニ成タ」。他方の一か寺も「和尚タビタビ替リテ、一年ト居付ズ、アマリニ世話ガヤケ」ている。そして、「大抵ドコノオ寺モ、近年ハ大黒トカ、弁天トカ云モノガ有テ、内々ハ子持モ多クアルト云」と結ぶのである。また、定賢の長子で同じく篤胤門人である宮負定雄は、『民家要術』(天保四〈一八三三〉)に「釈教」という項目を立てている。そこでは、寛政八(一七九六)年の江戸における浄土宗の不律僧処罰を事例に、当代における僧侶のあり方が批判される。この不律僧処罰には、先に掲げた『出定笑語附録』のなかで篤胤も言及しており、定雄が篤胤の論から影響を受けたことが想定される。ただし、定雄は篤胤の祖述に留まらず、あるべき僧侶の実例として香取村新福寺の僧東伝に言及する。定雄は東伝による施行などを挙げ、「東伝法師が如く真心に徳行を磨く時は、必しも神となる事疑ひな」いと述べる。
ここで問題視されている近世後期における僧侶の堕落について、著者は既に浄土宗を事例に指摘している(前掲『近世念仏者集団の行動と思想』)。宮負父子の仏教観は、文化的交流(平田篤胤)や、地域での見聞(香取郡城の事例)に基づき形成された、当該期の社会状況の産物なのである。平田篤胤門人である彼らは、地域において国学受容層以外の人々とも接点を持っており、その仏教観が、特定の学問を受容しない層にも伝えられたと考えられる。本書では、仏教諸宗派の関係は問われているが、儒学・国学、あるいは修験道・陰陽道などとの関係は言及されていない。地域における様々な思想潮流の展開を踏まえ、仏教の位置づけを図る必要を指摘したい。また、江戸における不律僧処罰への言及は、房総地域を対象とする場合にも、他地域における同時期の状況を加味する必要を示唆している。とりわけ、江戸との近接性には留意すべきだろう。
本書の課題として指摘した、近世における実態面を描く一つの方法として、平田篤胤・宮負定雄という国学者の著述を取り上げた。これらの史料によって初めて、松沢村の寺院や東伝の具体像を描くことが可能となる。本書の成果を発展・継承させるためには、記録類などの様々な史料を渉猟する必要がある。
以上、浅学の身を省みず本書に関する私見を述べた。評者の理解不足による誤読・誤解も多々あると思うが、著者および読者のご寛恕を乞う次第である。近世房総における地方寺院、庶民信仰の実態に迫る方法は確立されている訳ではない。しかし、このことは新たな房総の地域像が描かれる可能性を示唆している。多くの読者が本書を手にし、房総の寺院・庶民信仰に関する議論が活発化することを願い、結びとしたい。 
 
真言僧 儀海

 

鎌倉末期から南北期初期を求法に生きた僧
はじめに
日野市高幡不動尊金剛寺の中興開山権少僧都儀海は鎌倉期の弘安二年(一二七九)から文和三年(一三五四)までの生涯の大半を、新義真言宗教学の研鑽に情熱を捧げた僧である。この間の様々な人々との出会いや出来事を通じてこの時代を理解したい。儀海の足跡は奥州小手保の甘露寺、下野小山の金剛福寺、常陸亀隅の成福寺、武州横河の慈根寺、同じく北河口の長楽寺、相模鎌倉の大仏谷や佐々目、山城醍醐の三宝院、紀州高野山金剛峯寺、同じく蓮花谷の誓願院、紀州根来の大谷院、同じく豊福寺中性院など各地の談義所を繰り返し訪れている。その地を辿ることによって、従来等閑視されてきた儀海の研究を深めていきたい。

各地における儀海の足跡図(現存しない寺を含む)
1 陸奥川俣甘露寺 福島県伊達郡川俣町(不明) 2 下野金剛福福寺 栃木県小山市(不明) 3 常陸亀熊成福寺 茨城県桜川市真壁町亀熊(不明) 4 武蔵慈根寺 東京都八王子市元八王子町(廃寺) 長楽寺 東京都八王子市川口町(現存) 高幡不動 東京都日野市高幡(現存) 5 鎌倉大仏谷・佐々目 神奈川県鎌倉市(地名有) 6 醍醐三宝院 京都府伏見区醍醐(現存) 7 高野山金剛峯寺・誓願院 和歌山県伊都郡高野山(誓願院は不明) 8 紀州根来大谷院・豊福寺中性院 和歌山県岩出市(根来寺の前身)

儀海についての研究は櫛田良洪著『真言密教成立過程の研究』正(昭和三十九年)・続(昭和五十年)、細谷勘助氏「儀海の布教活動と中世多摩地方」(『八王子市郷土資料館紀要第一号』)、高幡不動尊金剛寺貫主川澄祐勝氏「儀海上人と高幡不動尊金剛寺」(『多摩のあゆみ』一〇四号平成十三年)などがある。それらの著述の基となるのは昭和十年に著された黒板勝美編『真福寺善本目録』正・続二冊(昭和十年)である。現在は智山伝法院編『大須観音真福寺文庫撮影目録上・下巻』(平成九年三月三十一日発行)がこれを補っている。
名古屋市大須の真福寺開山である能信は、その伝に「赴東部、謁高幡不動儀海和上、探中性一流之源底、今吾寺称武蔵方是也」とあり、儀海を師主として、新義教学の布教につとめた。師主儀海は事教二相の達人で、法脈を「虚空蔵院儀海方」と称し、それは能信に附法され「武蔵方」といわれる。儀海が諸地域で書写した密教経典は、能信をはじめとする弟子たちによって書写され、この写本を通して、また各地方に転写されていったので、教学は関東のみならず、広く広範囲に伝わることとなった。また、能信は真福寺を開くにあたり、自ら書写したものを含め、多くの経典を名古屋へ移したが、それらはまとまった形で今日に伝えられている。それゆえ私たちはこの経典に奥書を通して、儀海の行動を知ることができるのである(『細谷勘助』)。 
一 密教(容易に知りえない秘密の教えの意味)
現在、チベット周辺と日本だけに残る仏教の一つの宗派である。密教は唐の開元初年,インドの善無畏と金剛智が『大日教』(胎蔵界)系統と『金剛頂経』(金剛界)系統の密教を伝え,唐の一行・不空・恵果らがこれを継承発展させた。この隆盛期に,空海・最澄・円仁・円珍らが入唐して日本にこれを伝え,真言密教(東密)と天台密教(台密)をおこした。これ以前の密教である雑密と区別して,純密と称される。すでに奈良時代には密教経典とその修法も伝えられていたが,その体系化は空海以降のことである。金胎両部ないし胎金蘇(蘇悉地)三部にもとつき身口意三密加持による即身成仏を説き,潅頂・修法・曼荼羅の作成が行われた。特に荘厳な儀法全体に意味があり,それは秘密に口伝されたが,道教・陰陽道・神祇思想や作法と混合するところも少なくない。
次に専門的語彙について若干の解説に触れておきたい。
胎蔵界 金剛界に対する密教の両部(両界)の一つ。正しくは胎蔵(法)という。胎蔵とは,母体で胎児を保護養育することにたとえて万法をふくみおさめること。これを図像化したものが,胎蔵(界)曼荼羅。
【金剛界】密教の両部(両界)の一つで,胎蔵界に対するもの。金剛とは堅固な宝石のことで大日如来の堅固な知恵にたとえられ,その悟りの境地を金剛界という。この境地に至る道程を図案化したのが金剛界曼荼羅。
曼荼羅(曼陀羅)梵語の音訳。インドでは祭典用の土壇を築いて諸仏を配置したものをいい,中国・日本では密教の修法のため多くの尊像を一定の方法にもとついて整然と描いた図像をいう。費用減形式から区別すると,諸尊の形相を彩画した大曼荼羅(原図曼荼羅),諸尊の持物で仏体を表した三味耶曼荼羅,諸尊を表す梵字(種子)の記号だけで表した種子曼荼羅(法曼荼羅),諸尊の形像または持物を立体的に鋳造・彫刻した羯磨曼荼羅に分けられる。また内容によって区別すると,大日如来を中心に各部の諸尊を配置した都部曼荼羅と,大日の別身である阿閦・阿弥陀・観音などの特定尊を本尊とした別尊曼荼羅とに分けられ,前者の代表は金剛界と胎蔵界の両界曼荼羅であり,後者は仏頂・経法・菩薩・天部の各曼荼羅がふくまれる。なお垂迹画や変相図などを曼荼羅とよぶこともある。
即身成仏 現世でこの身のまま悟りを開き仏となること。特に真言密教では根本教義とし,法界中で平等な仏と衆生は心・口・意による観想・真言・印の作法により一体化し,衆生は成仏すると説く。
潅頂 如来の五智を象徴する水を仏弟子の頭頂に注ぎ,仏の位の継承を示す密教の儀式。阿闍梨位を得るための伝法潅頂,多くの人々に仏縁を結ばせるための結縁潅頂など,種類は多い。
東密 真言宗に伝わる密教。天台宗の台密に対する呼称。東寺を根本道場とする。唐より帰国した空海は,密教のみが真実の教えであるとして,東寺を中心に弘布した。のち広沢・小野二流に分かれ,さらに多数の流派に分かれた。台密の胎蔵界・金剛界・蘇悉地の三大法に対して金剛胎蔵両界説を説く。
台密 比叡山延暦寺を総本山とする天台宗に伝わる密教。真言宗の東密にたいする呼称。山門派と寺門派の二派がある。東密の金剛胎蔵両界説に対し,胎蔵界・金剛界・蘇悉地の三大法を説く。
道教 中国で二世紀頃始まった,多様な民間信仰と神仙思想・養生思想・儒教・仏教などが習合した信仰。神仙となることや不老長生をもとめる。日本では特に陰陽道や修験道に影響を与え,庚申信仰にはその色彩が顕著である。
陰陽道 古代中国の陰陽五行思想にもとづき,災異や人間界の吉凶を説明し易占などを行うことを主要な要素とし,これに祓や祭祀もふくめ日本において体系化された技術。十世紀ころ陰陽道という名称が一般化し,天文・暦などをふくむ学問体系として発展した。日本へは六世紀ころ百済から伝来し,天武朝に国家による組織化が進み,大宝令で陰陽道の担い手となる陰陽寮が中務省の被官としておかれた。とくに平安時代には貴族社会を中心に発展し,新たな禁忌や様々な陰陽道祭祀がうまれた。十一世紀後半以降,安部・賀茂両氏によって陰陽道は家業化された。中世になると,武家,有力寺社,民間へと広がり,他の思想・信仰・芸能などと習合して様々な展開をみせ,近世に至って幕府の宗教統制の一環として土御門家によって組織化され,朝廷や幕府の礼儀などにも取り入れられた。明治維新後,陰陽寮・太陰暦の廃止により,公的な場で陰陽道は用いられなくなったが,一部の禁忌等はその後も民衆生活に影響を与えた。
神祇思想神 にかかわる観念や信仰の総称。狭義には令制の「天神地祇」に関する思想であるが,広く土着の神観念をもふくむ複合的で,また歴史的に形成された緩やかな概念として用いられている。もともと日本では,天地の神や,人格的な祖先とその系譜神を祭る慣行がなく,しかも教説もなくて,各種の自然形象を共同体や生業の神として祭った。その後,仏教の受容や道教の部分的な接触とも関係して,神を偶像として命名することや,ケガレ(穢)と祓を重視すること,『古事記』『日本書紀』にみられる神話(日本神話)の創作などが進んだ。そして,天皇の祭祀権のもとで二義的な「天神地祇」が編みだされた。この二重構造のもとで,奈良後半期からさらに氏神祭祀が派生し,平安時代からは広く民衆をとりこむ形で怨霊信仰が生まれた。やがて密教・陰陽道・中国思想などもふくみこんで,天地生成を説く中世神道が誕生したが,なお『日本書紀』にある神観念が強く影響した。ここには教説の成熟もみられないが,禁忌・清浄に関する考え方などは一貫している。 
二 偉大なる日本密教の祖師たち
インドで七世紀以降密教が成立すると、最澄や空海が入唐しその教えを我国につたえた。
古代末から中世は仏教の時代であるといえるが、その中でも密教は中心的存在である。空海の真言宗に遅れをとつていた天台宗の教義も限りなく真言宗に近づき、追い越してゆくそれを可能にしたのが、円仁と円珍である。やがて、南都諸寺も次第に真言化してゆくことになる。儀海は空海の法脈を伝えた真言僧である。祖師、空海に対する憧憬の念は真福寺文庫の聖教類の奥書に窺うことができる。次に空海・最澄・円仁・円珍について略歴を記しておきたい。
空海 宝亀五年(七七四)〜承和二年(八三五)平安初期の僧。真言宗の開祖。諡号弘法大師。讃岐の人。父は佐伯氏,母は阿刀氏。幼名真魚。延暦七年(七八八)伯父阿刀大足トともに入京,七九一年大学に入るが退学して仏道を志し,四国の難所で苦行を重ねた。七九七年京にもどり『三教指帰』を著わした。八〇四年唐にわたり,長安で清竜寺の恵果に師事して密教を学び,胎蔵・金剛両部さらに伝法阿闍梨の潅頂をうけた。大同元年(八〇六)密教の図像や経論などを携えて帰国し,その目録を朝廷に献上。筑前観世音寺・和泉槙尾山寺を経て八〇九年京に入り高雄山寺に入住。以後最澄と交際し,また詩文などの素養により嵯峨天皇に寵遇された。弘仁二年(八一一)乙訓寺の別当となり,翌年高雄山寺で最澄とその門弟に両部潅頂を授けたが,このご最澄との間に確執が生じた。八一六年嵯峨天皇より高野山の地を賜って金剛峯寺の建設に着手した。八二二年東大寺内に潅頂道場(真言院)を創建し,八二三年東寺を賜って真言宗の根本道場とし,教王護国寺と名づけた。天長元年(八二四)少僧都,八二七年大僧都。八二八年庶民教育のために綜芸種智院を建立。承和元年(八三四)宮中に真言院をもうけ後七日御修法を創始し,翌年高野山で死去した。詩論書『文鏡秘府論』,宗論書『弁顕密二教論』『秘密曼荼羅十住心論』。その漢詩は弟子真済編『性霊集』に,筆跡は『風信怗』にうかがえる。
最澄 神護景雲元年(七六七)〜弘仁十三年(八二二)平安初期の僧。天台宗の開祖。幼名広野。諡号伝教大師。叡山大師とも。近江の人。父は三津首百枝。行表の弟子となり,十五歳の時,国分寺僧として得度。延暦四年(七八五)東大寺で受戒したが比叡山に入り,山中に草庵を結んで修業の生活を送った。七九七年十禅師に任ぜられ,翌年比叡山で法華十講を始終,八〇二年和気氏の催す高雄山寺での天台会の講師をつとめた。八〇四年遣唐使に伴い入党して天台山に参じ,台州で天台の教義・戒律・禅を学び,また越州で順暁から密教の潅頂を受け,翌年多くの仏典を携えて帰国した。最澄を援助した桓武天皇は高雄山寺に潅頂道場を設立。天皇看病の功により大同元年(八〇六)止観業と遮那業の天台宗年分度者二人が許可され,日本天台宗が開かれた。遅れて帰国した空海と親交を結んで密教を学び,高雄山寺で空海から潅頂をうけたが、のちその仲は険悪となった。弘仁五年(八一四)九州,八一七年関東へと赴き,天台教学の布教につとめたが,特に会津の法相宗僧徳一との三一権実論争は有名。八一八年〜八一九年,三度にわたって朝廷に『山家学生式』と総称される天台僧養成の規定を奉り,大乗戒壇の設立を懇請したが,南都の僧綱の反対により許可されなかった。『顕戒論』はその際に南都の僧綱が提出した奏状に反論したもの。八二二年最澄死去の直後,弟子光定の尽力や藤原冬嗣らの援助で大乗戒壇設立は嵯峨天皇により勅許された。
円仁 延暦十三年(七九四)〜貞観六年(八六四)平安前期の天台宗の僧。山門派の祖。諡号慈覚大師。俗姓壬生氏。比叡山に上がり最澄に師事。伝法潅頂をうける。承和五年(八三八)入唐。五台山参拝ののち長安に入る。武宗による廃仏が始まり,還俗姿で帰途につく。八四七年帰国し比叡山にもどる。斉衛元年(八五四)三世天台座主となり,天台宗密教化に貢献した。文徳・清和両天皇や藤原良房らの帰依をうけた。主著『入唐求法巡礼行記』『顕揚大戒論』。
円珍 弘仁五年(八一四)〜寛平三年(八九一)平安前期の天台宗の僧。寺門派の祖。諡号智証大師。俗姓因支氏,のち和気氏と改姓。讃岐の人。十五歳で比叡山に上がり,座主義真に師事。嘉祥三年(八五〇)内供奉十禅師となり,仁寿三年(八五三)入唐。天台山・長安などで修業し,天安二年(八五八)帰国。入唐の記録『行歴録』がある。翌年三井寺(園城寺)を修造し将来した経典をおさめる。貞観十年(八六八)延暦寺座主。寛平二年(八九〇)少僧都となり,翌年没した。 
三 鎌倉新仏教の開祖たち
筆者が高校生の時代であった、昭和四十年代の社会史の教科書では鎌倉仏教の成立について、堕落した平安仏教に代わって登場した仏教であるというのが定義で、当時の主流であると教えられた。開祖達は易行を主張し、人々もそれに同調して鎌倉仏教を信仰していたとされていた。しかし、現在の定義では鎌倉新仏教は異端であり、当時の主流は南都北嶺の顕密勢力であったとされている(黒田俊男の顕密体制論)。密教でも易行化が進められて、真言宗に阿弥陀信仰が取り入れられた新しい流れが、覚鑁を祖とする近世の新義真言宗である。儀海はその流れの中にいた。儀海が生まれた、弘安二年(一二七四)には異端と弾圧された鎌倉新仏教の開祖たちの多くが没していた。開祖たちは仏法を人々に伝え広めるための苦難を乗り越えて生涯を送ったのである。現在の私たちの日常生活に接している仏教は鎌倉新仏教である。しかし、その多くが葬式仏教になってしまっていることに祖師たちはどのように思っているであろうか。
鎌倉仏教 日本の仏教史のなかで鎌倉時代の仏教を特別視するのは近代以降のことである。特に、禅や浄土系の諸宗、日蓮宗など、この時代に端を発する諸宗や、その祖師の活動を〈鎌倉新仏教〉と呼んで、日本の仏教史の中でも特別優れたものとして評価することは、戦前から戦後にかけて長い間常識視されてきた。その特徴として、民衆中心であること、実践方法の単純化、宗教哲学的な深化、政治権力に対して宗教の自立性を主張したことなどが挙げられた。それに対して、南都北嶺の仏教や真言密教などは旧仏教とされ、新仏教の活動を阻害したり敵対したりする勢力と見なされた。このような見方は、一九七〇年代に黒田俊雄によって顕密体制論が提示されて大きく変わることになった。黒田は、当時の仏教界の主流はあくまで従来旧仏教といわれてきたものであり、これを顕密仏教と呼び、それにたいして、いわゆる新仏教は当時極めて勢力の小さな異端派に過ぎなかったと主張した。黒田以後、いわゆる旧仏教に関する研究が急速に進められるようになり、従来新仏教の特徴とさてきた民衆中心の教化や実践方法の単純化は旧仏教にも見られることが明らかにされ、新仏教と旧仏教という二分化が疑問視されるようになってきた。新仏教という用語を用いる場合でも、永尊の律宗教団を含むなど、新たな見直しが提案されている。さらに言えば、鎌倉時代の仏教を特別視することにも必然性はなく、鎌倉仏教も他の時代の仏教の中で相対化して理解されなければならなくなってきている。
法然 長承二年(一一三三)〜建暦二年(一二一二)浄土宗の開祖。名は源空。法然は号。父は漆間時国。美作稲岡荘に生まれる。永冶元年(一一四一)荘園支配をめぐる内紛で討たれた父の遺言により九歳で僧となることを決意,十五歳で比叡山延暦寺に入寺,受戒する。十八歳で遁世して西塔黒谷に住み,天台の円頓戒を相承したが,『往生要集』を読んで以降しだいに浄土教に傾斜し,安元元年(一一七五)四十三歳で専修念仏へ転入した。以後,比叡山を下りて東山大谷など京都の所々に住み,武士・庶民だけでなく九条兼実など貴族の帰依をうけた。建久九年(一一九八)専修念仏を顕密仏教と別立することの意義を説いた『選択本願念仏集』を著した。法然の専修念仏は,念仏は阿弥陀が選択した唯一の往生行であるので,念仏以外では往生できないとして所業往生を否定し,念仏以外の造像起塔などの雑修雑信仰の宗教的価値を剥奪して,此岸におけるすべての人間の宗教的平等を説いた点に意義がある。このため延暦寺や興福寺など顕密寺院は法然の専修念仏を偏執として弾圧を要求,建永二年(一二〇七)二月,後鳥羽院は専修念仏禁止を発令,法然の弟子,安楽・遵西が死罪に,法然は同年中には赦免されて摂津国勝尾寺に住し,さらに建暦元年(一二一一)京都への帰還が許されたが,翌年八十歳で死去した。
明庵栄西 永冶元年(一一四一)〜建保三年(一二一五)鎌倉前期の僧。日本臨済宗の開祖。栄西は「ようさい」とも読み,千光法師・葉上房とも称す。備中の人。平治元年(一一五九)比叡山の天台教学を学ぶ。仁安三年(一一六八)入宋。重源に会い,ともに天台山万年寺に登り,帰国。文治三年(一一八七)再度入宋。インド行きを試みるがはたさず,帰国の船に乗ったが,温州瑞安県に漂着。天台山万年寺の虚庵懐敞に臨済禅を学び,伽藍の補修にも尽力。虚庵の法をついで建久二年(一一九一)帰国し,翌年宋の天童山に「千仏閣」の修造用材を送る。建久五年(一一九五)京都で布教するが,比叡山州都の妨害にあう。翌年博多に聖福寺を建立。九条兼実之ために『興禅護国論』を著す。正冶元年(一一九九)鎌倉にて北条政子の帰依をうけ,翌年正月,源頼朝の一周忌仏事をつとめ,寿福寺を開山。建仁二年(一二〇二)京都に台(天台)・密(真言)・禅三宗兼学の建仁寺を建立。この間『日本仏教中興願文』を著し,戒律の厳守を主張。建永元年(一二〇六)重源のあとの東大寺大勧進職となり,建保元年(一二一三)権僧正となった。著書に『出家大綱』『喫茶養生記』など,墨跡に福岡市誓願寺蔵『盂蘭盆縁起』(国宝)がある。
親鸞 承安三年(一一七三)〜弘長二年(一二六二)鎌倉時代の僧。浄土真宗の開祖。父は日野有範。九歳のとき慈円のもとで出家し,範宴と号したという。比叡山で堂衆として修業した後,夢告により建仁元年(一二〇一)法然の門に入り専修念仏に帰依,綽空と号す。承元元年(一二〇七)比叡山や興福寺の衆徒の念仏禁止要求をうけた朝廷の念仏弾圧により,藤井善信の俗名をあたえられて越後国国府に流罪となる。配流後,愚禿と称す。建暦元年(一二一一)赦免されたが同国にとどまり,健保二年(一二一四)妻恵心尼らを伴い関東への布教に旅立つ。以後,二〇年間にわたる布教に専念。この間,下野高田の真仏・顕智,下総横曽根の性真,同国蕗北の善信,常陸鹿島の順真,同国河和田の唯円,奥州大網の如信などを中心とする初期真宗教団が関東各地で成立した。この東国在住中に浄土真宗の根本教義を説く『教行信証』を著し,帰京後たびたび手を加えて完成をみた。帰京の年や恵心尼の関東同伴については諸説あり,定かではない。京都では『三怗和讃』『愚禿鈔』などの著述により門弟の教化につとめた。一二六二年十一月二十八日三条富小路善法坊で没し大谷に納骨される。のち東国門徒によって墓所が改修され,大谷本廟が営まれ,のち本願寺となる。弟子唯円が著した『歎異鈔』が,悪人正機説や他力本願など,親鸞の信仰やことばを伝えている。
道元 正冶二年(一二〇〇)〜建長五年(一二五三)鎌倉前期の禅僧。日本曹洞宗の開祖。号は希玄。父は源通親(一説に通具)母は藤原基房の娘。建暦二年(一二一二)出家して比叡山横川の首楞厳院の般若谷千光坊にとどまり,健保元年(一二一三)天台座主公円について得度,仏法道元と名のった。一二一八年建仁寺に赴き,明庵栄西門下の仏樹坊明全に禅を学んだ。貞応二年(一二二三)名全らと入宋。天童山の長翁如淨の法をついで,安貞元年(一二二七)帰国。しばらく建仁寺に身を寄せたが,人々に坐禅を強固に勧めたため,比叡山の衆徒に追われ建仁寺を出て,寛喜元年(一二二九)京都深草の安養院に住した。ついで天福元年(一二三三)藤原教家・正覚尼らの勧めで山城に7興聖寺を開き,只管打坐(ただひたすら打ち座る)・修証一如(修行と悟りはひ等しい)の禅をとなえた。寛元元年(一二四三)波多野義重の招きで越前志比荘に移り,宝治元年(一二四七)大仏寺を永平寺と改める。この時からい一段ときびしい修行に励み,当初となえた在家成仏や女人成仏よりも,出家至上主義に傾いていく。同年北条時頼の招きにより鎌倉に赴くが,翌年永平寺に帰り,やがて永平寺を孤雲壊奘に譲り,京都で死去した。でしはほかに詮慧・僧海・寂光などがいる。孝明天皇から仏性伝東国師,明治天皇から承陽大師の称号を贈られた。著書は『正法眼蔵』『普勧坐禅儀』『永平清規』(『典座教訓』をおさめる)『学童用心集』『宝慶記など。
日蓮 貞応元年(一二二二)〜弘安五年(一二八二)鎌倉時代の僧。日蓮宗の開祖。号は蓮長。安房の人。父母は荘官層といわれる。十二歳にして近郊の天台寺院清澄寺に入る。のち鎌倉・京畿への留学を経て法華至上主義を確信。建長五年(一二五三)同寺にて立宗を宣言。以後鎌倉を中心に法華信仰を宣楊するとともに,文応元年(一二六〇)幕府に『立正安国論』を提出し,安国実現のために
念仏禁止をもとめた。しかし,そのはげしい他宗批判は既成教団の反発を招き,幕府からも危険視されて一二六一年伊豆流罪,一二七一年佐渡流罪など,様々な法難をよびおこした。日蓮はそれらの受難の体験を『法華経』普及のエネルギーに転化させた。佐渡で著した『開目鈔』と『観心本尊抄』は,その新たな信仰世界の確立を示すものであった。文永一一年(一二七四)佐渡流罪赦免後,鎌倉で平頼綱と会見。蒙古襲来を防ぐための密教祈祷の停止を求めるが,いれられず,甲斐身延に入山。その後山中にとどまり,『撰時抄』『報恩抄』などの重要著作の執筆,弟子の育成,手紙を通じての信徒の激励などに専念した。一二八二年療養のため常陸の温泉に向かったが,健康悪化のため武蔵の池上宗仲宅で目的を断念。日昭ら六人を本弟子(六老師)に指定して死去した。墓所は遺言により身延に設けられ,当初で本弟子が輪番で守った。大正一一年(一九九二)立正大師号を贈られる。
一遍 延応元年(一二三九)〜正応二年(一二八九)鎌倉中期の僧。時宗の開祖。幼名松寿丸,法名髄縁・智真。諡号円照大師・証誠大師。父は河野通広。十歳で出家して浄土宗西山派の聖達や華台に学び,信濃善光寺参籠や伊予窪寺での修業を経て,「十一不二頌」に代表される独自の宗教的悟りに達し,みずから一遍と称した。これ以降「南無阿弥陀仏,決定往生六十万人」という名号札を配り(賦算),全国各地に念仏を勧進した(遊行)ので遊行上人とよばれた。踊念仏による布教で教線は拡大し,賦算は二百五十万人,門弟は約千人に及んだという。兵庫県真光寺に廟所がある。体系的な著作はないが『一遍聖絵』や『一遍上人伝絵』が教化のようすを伝え,門弟の聞き書きを収録した『播州法語集』『一遍上人語録』などからその思想がうかがえる。
叡尊 建仁元年(一二〇一)〜正応三年(一二九〇)鎌倉中期の西大寺流律宗の僧。号は思円。大和の人。はじめ醍醐寺などで真言宗を学んだが,真言の行者が戒律をおろそかにしていることに疑問を感じ,嘉禎二年(一二三六)覚盛・円晴・有厳とともに東大寺法華堂で自誓受戒をした。以後,戒律と真言密教の共存が西大寺流の特徴となる。奈良西大寺を拠点として戒律復興運動や畿内の古代寺院の復興などの勧進活動に奔走する一方,奈良坂・清水坂などで文殊信仰にもとつく非人・癩者救済を実践した。叡尊の非人救済の中心となったのは,食物,乞食の道具類を非人に施すことと,斎戒を授けることによる非人の生活統制である。また奈良法華寺などの尼寺を再興し,正式の受戒の作法にもとずく尼を誕生させた。弘長二年(一二六二)北条時頼の招きで一時鎌倉へも赴いた。また蒙古襲来に際しては,宇治川の殺生禁断を条件に異国調伏の祈祷を行った。著書に『感身学正記』などがある。
忍性 健保五年(一二一七)〜嘉元元年(一三〇三)鎌倉中期の西大寺流律宗の僧。号は良観。大和の人。延応元年(一二三九)叡尊と出会って受戒し弟子となる。以後,戒律の復興に努める一方,文殊信仰にもとつく非人・癩者救済運動に奔走。建長四年(一二五二)関東に赴き,常陸三村寺に住んだ。弘長二年(一二六二)以降北条氏の信頼を得て鎌倉に進出,極楽寺を拠点として非人救済・作道・殺生禁断などの慈善事業に努めた。 
四 東国における仏教史の推移
東国における仏教の推移を考える時、常陸国・下野国・上野国における古代から中世にかけての仏教の歴史について知ることが重要であるように思える。
常陸国は京からみても特別な位置にあった。東海道の果ての地であり、武神として鹿島社が祭られ、王城鎮護の神とされていた。田積四万町は陸奥国につぐ大国であり、親王任国とされたことにも明らかなように、常陸の受領となることを中・下貴族はひとしくのぞんだ。また遠流の国として、不遇な貴族が流され、都の文化をもたらした所でもある。鎌倉時代の常陸は特別な国であったと思われる。奈良西大寺にあった律宗の忍性が下って根拠地としたのがここの三村寺である。父の墳墓のある陸奥に旅した一遍が鎌倉に入る前に布教を試みたのも常陸である。その他にも日蓮宗・禅宗も入ってきて、常陸は鎌倉と並んで新仏教のすてがそろって盛んな布教をおこなった土地である(五味文彦)。『沙石集』の著者、無住も三村寺に住んだことがある。  
下野国もまた特別な国であった。下毛野朝臣古麻呂は下毛野国造の一族で、大宝元年(七〇一)に制定された大宝律令の編者のひとりである。地方豪族の出身でありながら、藤原不比等の信任篤く、正四位下にのぼり、兵部卿、式部卿を歴任した。下野薬師寺の創建は天智天皇九年(六七〇)とも、大宝三年(七〇三)とも伝えられている。東大寺、観世音寺と並ぶ三戒檀のひとつが下野薬師寺に設置されたのも、古麻呂の中央政界における政治力の影響であるという。藤原氏(中臣氏)は元々鹿島神宮の祭祀者の家系であったという説がある(鹿島神宮には国譲りで活躍したタケミカヅチが祭られている)。また群馬県吉井町にある、多胡碑の碑文に「…中略…右大臣正二位藤原尊」とあり、碑文中に和銅四年(七一一)三月九日甲寅とあることをみても藤原氏との深い繋がりをうかがえるとおもわれる。
下野薬師寺は前法王太政大臣禅師道鏡が、位階をことごとく剥奪され、この寺の別当として左遷されてきた。宝亀元年(七七〇)八月のことであった。一介の修行僧から位人臣を極め、天皇位まで狙った怪僧道鏡も、二年後の宝亀三年(七七二)四月失意のうちに、その波乱の生涯をこの地で閉じた。
最澄の初期天台教団を支えた僧に道忠がいる。受戒制度を整えるために度重なる遭難を乗り越えて来日し東大寺戒壇院などを設置した戒律の師、鑑真〈唐・嗣聖五年(六八八)〜日本・天平宝字七年(七六三)〉の高弟、「持戒第一の弟子」と称され、『元亨釈書』などに鑑真の弟子と記された日本人は道忠ただ一人であった。天平宝字五年(七六一)下野薬師寺に戒壇を設立するに際した派遣され、東国に定着したのではないかという推測されている。道忠の東国移住は、師寂して後の鑑真思想具現のための帰国ではなかろうか(『熊倉浩靖』)。
最澄と東国の重要な関わりは、延暦一六年(七九七)比叡山上に一切経を備えようとしたおりの道忠の助写である。この一切経書写には大安寺僧聞寂なども協力したが、『開元釈経録』によれば一〇七六部五〇四八巻に及ぶ一切経の四割、二千余巻は道忠による助写だった。最澄は法相宗の徳一との間に五年間に及ぶ「三一権実論争」を展開した。中国唐代の『法宝』と『慧沼』との間に交わされた論争を、日本に引きついだもので、天台宗・華厳宗の立場は〈三乗方便一乗真実〉、法相宗の立場は〈三乗真実一乗方便〉である。それは東国における徳一の布教と道忠の門弟達による布教活動による軋轢となって、最澄の東国巡錫の一因ともなった。
徳一 生没年不詳 平安時代前期、陸奥国会津在住の法相宗の僧生没年に諸説あるが、天平宝字四年(七六〇)ごろ〜承和七年(八四〇)ごろの人とおもわれる。のち、恵美押勝の子とされた。若年の際、奈良(おそらく東大寺)で学び、二十歳ごろ東国へ移った。師は修円と伝えられるが疑問がある。弘仁六年(八一五)、空海は弟子康守を東国の諸方面へ遺わし、徳一にも香をそえて書簡をおくり、新しい真言の書籍を写し、広めることを依頼した。徳一は空海に対し、真言教学の十一疑問をあげた『真言宗未決文』を著した。同八年ごろから最澄との間に激烈な論争を行い、天台教学・一乗思想を批判し、法相教学・三乗思想の真実性を主張し、『仏性抄』一巻、『中辺義鏡』三巻、『慧日羽足』三巻、『遮異見章』三巻、『中辺義鏡残』二十巻その他を著した。三一権実諍論とよばれる。著書は、『止観論』を含めて十七種の名が伝えられるが、『真言未決文』『止観論』以外は散佚した。
古代の上野国・下野国は多くの僧が仏教の布教活動に専念できる豊かな地域であったのである。道忠の門下では上野国浄土院(緑野寺)系の円澄・教興・道応・真静、下野国大慈寺(小野寺)系の広智・基徳・鸞鏡・徳念がいる。その中では円澄(第二代天台座主)と円仁(第三代天台座主)はともに天台座主となっている。最澄の死後天台教団の責任者(初代天台座主)となったのも相模国の出身の義真であった。最澄入唐の際に通訳として同行し、最澄と共に天台および密教を直接唐の師について学び、具足戒および菩薩戒を受けて帰国した。円仁は、著名な『入唐求法巡礼行記』と題する記録を遺している。そして、天長六,七年ごろ(八二九―八三〇)に東北地方を巡錫したことがあった。『三千院本伝』、『通行本伝』がともに伝えているところである。しかし、この伝えを歴史的事実とはみなさない説もある。
下野国薬師寺は平安時代に入り、国家仏教の衰退とともに、天台宗など新興宗派が興り、比叡山などに戒壇を置きそれぞれが独自に戒をさずけるようになった。それに伴い、戒壇院もその役目が失われ、九世紀中ごろ、大火に見舞われ、伽藍の中心が焼失した。十一世紀には荒廃し鎌倉中期に再興の動きがあったが長続きはしなかった。下野薬師寺の再興に努めたのが慈猛である。
慈猛 じみょう 建暦元年二月(一二一一)〜健治三年(一二七七)。鎌倉時代の僧。字は良賢。密厳上人・薬師寺長老・留興上人とも称される。はじめ比叡山に登り出家して入仏房空阿と称し、隆澄に、恵心流を学び、顕豪に旦那流をまなんだが、のち唐招提寺良遍に律を学び下野薬師寺に下ったという。一方、寛元二年(一二四四)高野山金剛三昧院で上人潅頂を受け密教を学び、慈猛と改め、さらに願行上人憲静とともに意教上人頼賢から東密三宝院流を、また浄月上人から同流を受けた。後世その流れを慈猛流・慈猛意教流などと称する。慈猛は薬師寺を中心に活動し、関東で彼から律・密教を学ぶ僧が多く、特に下野小俣鶏足寺学頭頼尊は久しく就学し、文永五年(一二六八)伝法潅頂を受け慈猛意教流を相承した。以後鶏足寺は同流の本寺となり、同流は下野・上野・武蔵を中心に広く関東に伝わり、同地における真言宗の展開に大きな役割を果たした。後宇多天皇より留興長老の号を賜わった。健治三年(一二七七)四月二十一日没。六十七歳。なお、これまで慈猛と密巖上人を別人とする書が多いが、無住は直接慈猛に会った話を『雑談集』四に載せて、「下野ノ薬師寺ノ長老密厳故上人」と記している。よって同人とすべきであろう。
法然門下の親鸞は越後に流された後、罪をとかれても京には戻らず、笠間稲田に庵を結び、東国での布教に専念した。親鸞四十五歳、健保五年(一二一七)〜嘉禎元年(一二三五)の約二十年間の長い年月であった。又、『教行信証』の草稿はこの庵で完成させたという。それを支えたのは鎌倉御家人笠間時朝とその一族であったと思われる。
次に年代順に東国に影響を与えた事柄を略記する。

健保五年 (一二一七) 親鸞、越後より関東に来る?
貞応元年 (一二二二) 日蓮、生る。
元仁元年 (一二二四) 親鸞『教行信証』を著す。
一、「善人なをもちて往生をとぐ、いうはんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいはく、「悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや」と。この条、一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆへは、自力作善の人は、ひとえに他力をたのむこゝろかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこゝろをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるゝことあるべからざるを哀たまいて、願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり、よりて善人だにこそ往生すれ、まして悪人は」と仰さふらひき。〔歎異抄〕
嘉禄二年 (一二二六) 頼瑜、生る。一二月二八日 無住、生る。
安貞元年 (一二二七) 道元帰朝し、曹洞宗を伝う。
貞永元年 (一二三二) 明恵(高弁)没する。
文暦元年 (一二三四) 幕府、専修念仏を禁ずる。
嘉禎元年 (一二三五) 親鸞、関東より帰洛か?
延応元年 (一二三九) 一遍、生る。
建長二年 (一二五〇) このころ、道元『正法眼蔵』を著する。
又、或人スヽミテ云、「仏法興隆ノ為、関東ニ下向スベシ。」答云、不然。若仏法ニ志アラバ、山川江海ヲ渡テモ来テ可学。其志ナカラン人ニ、往向テスヽムトモ、聞入シコト不定也。只我ガ資縁ノ為、人ヲ抂惑セン、財宝ヲ貪ラン為カ。其レハ身ノ苦シケレバ、イカデモアリナント覚ル也。一日弉問云、叢林ノ勤学ノ行履ト云ハ如何。示云、只管打坐也。或ハ楼下ニシテ、常坐ヲイトナム。人ニ交リ物語ヲセズ、聾者ノ如ク瘂者ノ如クニシテ、常ニ独坐ヲ好ム也。〔『正法眼蔵随聞記』〕
建長四年 (一二五二) 忍性、関東に下る。十二月四日、常陸三村寺に入る。
建長五年 (一二五三) 四月、日蓮、鎌倉に移り法華経を唱う。道元、没する。
文応元年 (一二六〇) 日蓮、『立正安国論』を著し、時頼に進上する。剣阿、生る。
若し先ず国土を安んじて、現当を祈らんと欲せば、速やかに情慮を廻らし、悤いで対冶を加えよ。所以は何ん。薬師経の七難の内、五難忽ちに起り二難猶残せり。所以「他国侵逼の難、自界叛逆の難」なり。大集経の三災の内、二災早く顕われ一災未だ起こらず。所以「兵革の災」なり。金光明経の内、種種の災過一一起ると雖も、「他方の怨賊国内を侵掠する」、此の災未だ露われず、此の難未だ来らず。仁王経の七難の内、六難今盛にして一難未だ現ぜず。所以「四方の賊来って国を侵すの難」なり。加之、「国土乱れん時は先ず鬼神乱る。鬼神乱るるが故に万民乱る」。今此の文に就て、具に事の情を案ずるに、百鬼早く乱れ、万民多く亡ぶ。先難是れ明かなり、後災何ぞ疑わん。(中略)汝、早く信仰の寸心を改めて、速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば即ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰えんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微なく土に破壊なくんば、身は是れ安全にして、心は是れ禅定ならん。此の詞此の言信ずべく崇むべし」。〔『立正安国論』〕
弘長元年 (一二六一) 忍性、鎌倉に入り、極楽寺に招請さる。
弘長二年 (一二六二) 二月、西大寺叡尊、鎌倉に入る。十一月親鸞、没する。
五月一日、諸人の所望により、今日よりまた古述を講ぜらる。また、食を儲け、両処の悲田に行き向い、食を与う。ならびに十善戒を授く。〈忍性、浜悲田に向う。頼玄、大仏悲田に向かう。〉〔関東往還記〕(頼玄は三村寺長老)
文永四年 (一二六七) 八月、審海〔寛喜元年(一二二九)〜嘉元二年(一三〇四)〕下野薬師寺より、称名寺に入寺する。
文永十年 (一二七三) 意教上人、鎌倉にて没する。八十歳。
文永十一年(一二七四) 日蓮、久遠寺を創建する。十月、文永の役。
蒙古人対馬・壱伎に来襲し、既に合戦を致すの由、覚恵注申するところなり。早く来二十日以前、安芸に下向し、彼の凶徒寄せ来らば、国中の地頭御家人ならびに本所領家一円地の住人等を相催し、禦戦せしむべし。更に緩怠あるべからざるの状、仰せによって執達くだんの如し。文永十一年十一月一日   武蔵守 在判(北条長時)   相模守 在判(北条時宗)〔東寺百合文書〕ョ函 文永十一年(一二七四)十一月一日関東御教書
健治三年 (一二七七) 慈猛(密厳上人)没する。
弘安二年 (一二七九) 無住、『沙石集』執筆開始、四十六歳。儀海生る。
弘安四年 (一二八一) 閏七月、弘安の役。
七年、(中略)方慶と忻都・茶丘・朴球・金周鼎等発し、日本世界村大明浦に至る。通事金貯をしてこれに激論せしむ。周鼎先ず倭と鋒を交え、諸軍皆下りて与に戦い、郎将康彦・康師子等これに死す。六月。方慶・周鼎・球・朴之亮・荊万戸等、日本兵と合戦し、三百余級を斬る。日本兵突進し、官軍潰え、茶兵馬を棄てて走ぐ。王万戸復たこれを横撃し、五十余級を斬る。日本兵すなわち退き、茶丘僅かに免る。翌日また戦いて敗績す。軍中また大いに疫し、死者凡そ三千余人。忻都・茶丘等、累戦利あらず、且つ范文虎の期を過ぎていたらざるをもって、回軍を議して曰く、「聖旨、江南軍と東路軍をして、必ずこの月望に及びて一岐島に会せしむ。今南軍至らず、我軍先に到りて数戦す。船腐り糧尽く。それ将に奈何せんとす」と。方慶黙然たり。旬余また議すること初の如し。方慶曰く、「聖旨を奉じて三月の糧を齎らす。今一月の糧尚在り。南軍の来るを俟ち、合に攻めて必ず之を滅ぼすべし」と。諸将敢えてまた言わず。八月。大風に値い、蛮軍皆溺死す。屍は潮汐に随いて浦に入り、浦これがために塞がり、践みて行くべし。遂に軍を還す。〔高麗史〕巻一百四 金方慶伝
弘安五年 (一二八二) 十月、日蓮、没する。
弘安六年 (一二八三) 無住の『沙石集』成る。この頃、吉田兼好生る。
【一円】嘉禄二年(一二二六)〜正和元年(一三一二)臨済宗の僧。沙石集の著者。鎌倉の人。俗性は梶原氏。無住と号し、大円国師と諡された。弘長二年(一二六二)尾張の長母寺に来住。叡尊が関東下向の時出迎える。
弘安七年 (一二八四) 北条時宗、没する。二月審海、称名寺条々規式を定める。
弘安八年 (一二八五) 十一月、霜月騒動、安達泰盛、五十五歳、一族滅ぶ。
正応二年 (一二八九) 八月、一遍(智真)没する。
三月下旬『とはずがたり』作者、後深草院二条(中世で最も知的で魅力的な悪女)鎌倉に入る。七月まで病臥。八月、新八幡放生会を見る。将軍惟康親王の廃されて上京するのをみる。十月、久明親王着任の準備指導のため、管領平入道頼綱邸及び将軍御所に赴く。飯沼新左衛門邸の連歌に招かれる。十二月、川越入道の後室に誘われ武蔵国川口ヘ下る。越年。
正応三年 (一二九〇) 二月十余日、善光寺へ出立。高岡の石見入道仏阿の邸に滞在。八月十五日、浅草観音に詣でる。武蔵野の歌枕を訪れる。九月十余日、飯沼判官と別れの歌を贈答、帰途熱田に寄る。
正応三年 (一二九〇) 八月、叡尊、没する。九十歳。能信、生る。 
五 御内人と平頼綱
平頼綱は、鎌倉時代後期の十四世紀後半の永仁元年(一二九三)に幕府内で強大な実権を握った。その立場は、執権を継承する北条氏の本家である得宗家の被官にすぎなかった。いわゆる御内人であり、その筆頭であった。北条泰時〔寿永二年(一一八三)〜仁冶三年(一二四二)六十歳〕のころからしだいに実力をつけた御内人は、経時〔元仁元年(一二二四)〜寛元四年(一二四六)二十三歳〕・時頼〔安貞元年(一二二七)〜弘長三年(一二六三)三十七歳〕を経て時宗〔建長三年(一二五一)〜弘安七年(一二八四)三十四歳〕の代になると、御家人に対抗し得る勢力となった。御家人は将軍の直接の家来であり、北条氏を除けば、そのころは安達泰盛が代表格であった。この時代の内管領が平頼綱である。弘安七年(一二八四)に時宗が亡くなった後、執権は子の貞時〔文永八年(一二七一)〜応長元年(一三一一)四十一歳〕が継いだ。安達泰盛は平頼綱との争いに敗れて滅び去った。ここで平頼綱が少年の貞時を擁して独裁的な権力を振るう。しかし九年後の正応六年(一二九三)、貞時のために滅ぼされた。頼綱はあまりに独裁的に政治を左右したため、当時の貴族の日記に「一向執政し、諸人恐懼のほか他事なく候」(『実躬卿記』)とあるように諸人に恐れられたという。その結果、現代でも、頼綱の政治は恐怖政治であったとされるがどうであろうか。一方、平頼綱は日蓮との交渉が多くしられている。鎌倉で『法華教』の教えを説く日蓮を逮捕し、佐渡国に流した直接の責任者が頼綱である。三年後に許されて鎌倉に帰った日蓮に、蒙古襲来の時期の予測を、幕府の公的な代表者としてたずねたのも頼綱であった。頼綱は侍所の所司という職にあり、政治的な問題として日蓮を扱ったのであるが、信仰の問題が色濃くかかわっているのは明らかである。さらに頼綱は、横曽根門徒に経済的援助をして、親鸞の主著である『教行信証(顕浄土真実教行証文類)』を出版させている。横曽根は下総国言飯沼地方にあり、頼綱に直接結びついていた。兄宗綱をしのいで権力を振るった頼綱の次男助宗〔文永四年(一二六七)〜永仁元年(一二九三)二十七歳〕は飯沼を称し、飯沼地方の領主であったと考えられるからである(今野雅晴「平頼綱と『教行信証』の出版」)。頼綱は嫡子宗綱よりも、この助宗に目をかけていた。気ままに育った助宗は百姓たちには幼いころから残酷であり、人をはばからぬ専横・驕慢なところはあったが、京の女性にはやさしく、和歌もよく解したのである。
北条時宗のあとの得宗北条貞時の成人にともない、平頼綱は貞時権力の強化にとっては障害となった。頼綱の嫡男宗綱は「頼綱が次男の飯沼助宗を将軍に立てようとしている」と密告し、正応六年(一二九三)四月二十二日、北条貞時は平頼綱・助宗父子を誅殺した。
いわゆる平禅門の乱である。頼綱の助宗偏愛に端を発していようが、得宗北条貞時の側にもそれを利用して平頼綱をおさえようとした面もあったろう。平宗綱は佐渡に流され、赦免されて内管領になったようであるが、のちまた罪ありとして、上総に配流されている。こうして得宗被官として権勢を振るった平氏の頼綱系にかわって光綱系の長崎氏が得宗被官の代表者となる。鎌倉末期の御内政治の主導権を握ったのは、光綱の子高綱(入道円喜)である。(『川添昭二』)
正応六年(一二九三)八月五日、朝廷は永仁と改元した。改元の理由は、四月十三日の「関東大地震」に加えて、この年の六月〜八月の大旱魃と前年二月十一日の「木星が軒轅女主〈けんえんじょしゅ〉星(しし座のα星)を犯す」(『伏見院御記』)という天変であつた。(『続史愚抄』『一大要記』)。この関東大地震は、治承元年(一一七七)に畿内を襲った大地震(東大寺の鐘と大仏の螺髪〈らほつ〉の落下)以来のものといわれ、鎌倉の堂舎や人宅がことごとく転倒し、幾千人もの死者が出て、建長寺が倒壊炎上した。由比ケ浜の鳥居付近では、一四〇人もの死体が転がっていたと、当時鎌倉に在住していた京都醍醐寺の僧親玄僧正〔建長元年(一二四九)〜応長元年(一三一一)四十一歳〕が書き遺している(『親玄僧正日記』)。また、大地震と山崩れで人家が倒壊し、関東全域で二万三〇三四人の死者が出て、大慈寺は倒壊し、建長寺は炎上したとされている(『武家年代記裏書』)。さらに、その後二十一日まで、強弱折り交ぜての揺り返し(余震)が続き(その後、断続的になる)、人々の不安が高まり、寺社では愛染王護摩や大北斗法の読経などが行われた。(『親玄僧正日記』)。この地震は、推定マグニチュード七・九の極浅発(直下型)地震とかんがえられ、震源地は相模の陸地(丹沢付近か)と推定され、相模西北部を震源としマグニチュード七・九の大正十二年(一九二三)の関東大地震に匹敵する大地震と推定される。ところが、この大地震直後の二十二日に、幕府内の大事件が発生する。平禅門(平頼綱)の乱である。貞時は謀反を理由に武蔵七郎(北条一門か)を討手にさしむけ、経師ヶ谷・葛西ヶ谷などの平頼綱とその子飯沼助宗の屋敷を次々に襲撃させ、頼綱・助宗をはじめとして九三人を殺害した。この中には、頼綱邸で乳母に預けられていたと考えられる貞時の娘もいた。この事件は内管領平頼綱より執権の北条貞時が実権を奪取し、得宗専制を確立する契機となったものとして評価されているが、前記の地震災害と密接に関連した政治事件として興味深いものがある。当時、この乱は、大地震と並んで衝撃的に受け止められ、頼綱の専横と驕りが、滅亡を招いたと評されている。貞時は、母〔覚山尼、建長四年(一二五二)〜嘉元三年(一三〇五)五十五歳〕も妻も安達氏の出身で、頼綱に滅ぼされた安達氏に同情を抱きつつ成人し、頼綱の専横を憎み奪権の機会をうかがっていたことは想像に難くないが、事件の発端は大地震の世情不安の中で偶発的に発生したものと考えられる。大地震の発生と同時に、権勢者平頼綱は身の危険を感じて屋敷内の防備を固め、それが執権北条貞時の目に謀反準備と映じ、世情不安のなかで飛び交う情報がこれを増幅した。一種の集団ヒステリー状況のなかの極度の疑心暗鬼が、貞時をした頼綱誅殺の先制的軍事発動に走らせたと考えられる(峰岸純夫「永仁元年関東大地震と平禅門の乱」『中世 災害・戦乱の社会史』)。 
六 中世と阿弥陀信仰
中世は仏教の時代である。阿弥陀への信仰は飛鳥時代からみられるが、平安時代後期以後、特に浄土教が興盛し、鎌倉時代に浄土宗・浄土真宗(または真宗)・融通念仏宗・時宗などの諸宗派が成立し、浄土教は日本仏教の一大系統を形成するにいたった。『往生要集』の源信、阿弥陀聖・市聖と呼ばれた空也がその先駆けである。聖の多くは単独であるが、集団で居住する場所を〈別所〉と呼び、大原や高野山が著名で、中世には高野聖や遊行聖などが活躍した。
末法 仏教における時代観ともいうべき〈正法〉〈像法〉〈末法〉の三時思想の第三時。教えだけが残り、人がいかに修業して悟りを得ようとしてもうてい不可能な時代をいう。〈末代〉とも呼ばれる。仏法が衰退するこの末法の時代は、吉蔵の『法華玄論』10。正像義などによれば一万年とされ、その後、教えも完全に滅びる〈法滅〉をむかえるとされる。日本ではすでに奈良時代に現れ、しだいに末法意識が高まっていった。奈良時代には慧思の『立誓願文』に基づく正法五〇〇年、像法一〇〇〇年説も行われたが、平安時代以降は吉蔵の『法華玄記』などに基づく正法一〇〇〇年、像法一〇〇〇年説が一般化し、唐の法琳(五七二〜六四〇)『破邪論』上に引く『周書異記』の釈迦の入滅を「周の穆王の五十二年、壬申の歳」(紀元前九四九)とするのに従って、永承七年(一〇五二)より末法の時代に入ったとされ、『扶桑略記』永承七年一月二十六日にも「今年始めて末法に入る」と見える。それを裏づけるように、そのころから災害や戦乱などが続発したため、末法意識が特に強まり、この末法の世を救う教えとして浄土教が急速にひろまることとなった。
永観 えいかん 長元六年(一〇三三)〜天永二年(一一一一)〈ようかん〉とも読む。院政期浄土教の代表的な人物。父は文章博士源国経。十一歳のとき禅林寺の深観に師事。翌年東大寺で具足戒を受け、有慶・顕真に三論を学び諸宗を兼修する。早くより念仏の行をはじめ、三十代で東大寺の別所である山城国相楽郡の光明寺に隠棲して念仏を専らにする。延久四年(一〇七二)、四十歳で禅林寺に帰住。康和二年(一一〇〇)より三年間東大寺別当を勤めたほかは、称名念仏と衆生教化・福祉活動を通じて浄土教の流布に努め、法然のも大きな影響を与えている。主著に『往生拾因』があり、その主張を実践化した往生講の作法として『往生講式』を製作している。なお、禅林寺は彼の名をとり〈永観堂〉と通称される。
永観堂禅林寺には有名な「見返り阿弥陀如来像」がある。この寺の本尊である。阿弥陀仏が自分の左肩越しに後ろを振り返っておられる珍しいポーズの造像である。臨終の際に阿弥陀が来迎して極楽浄土にいざなう時に、間違いなく後をついてこられるか振り返るという慈愛に満ちた姿をさし示すともいわれている。一方、禅林寺の阿弥陀仏像には次のような伝説がある。
ある夜、永観は、須弥檀の周りを念仏行道していた。ふと気がつくと、自分を先導する影がある。それは、まぎれもなくご本尊の阿弥陀仏である。永観は驚いて立ちすくむ。すると阿弥陀仏が後ろをふりむいて、「永観おそし」と言われた。寺伝によれば永保二年(一〇八二)二月十五日のことであるという。その瞬間の阿弥陀仏の姿を刻んだのがこの「見返り阿弥陀如来像」とある。しかし、永観が東大寺を去る時に、如来堂の阿弥陀仏が永観の夢枕に立たれて、「そなたが禅林寺に帰るなら、わたしもついて行く」と告げられ、永観が禅林寺に背負い帰る時に、東大寺の僧達がこの阿弥陀如来像を奪い帰さんとしたが、どうしても永観の背を離れなかった。東大寺の僧達もあきらめたという。この阿弥陀仏はよほど永観が好きであったのであろう。一説によると、永観は毎日一万遍、後には六万遍の念仏を唱えたという。その結果、晩年には舌も乾き喉も涸れて声が出なくなった。それで仕方なく、最後には観想念仏に変えたという。東大寺の阿弥陀如来像が「見返り阿弥陀如来像」であったとはおもわれない。
阿弥陀仏と永観とは深い縁でむすばれていた。阿弥陀仏と永観とが「一心同体」になっていたのである。親子のつながりにも似た深い愛情の絆、これが浄土門の仏教が形成される過程には必要であつた。私事であるが、母方のこともあり曹洞宗に宗旨替えしたが、父方は富山の門徒である。父の兄が「南無阿弥陀仏」と唱える声が「なんまいだ」と私にはきこえた。永観と阿弥陀仏の話については、本稿作成以前に深く感動し永観について資料を集めていたが、覚鑁が永観に影響を受けているということまでは知らずにいた。ちなみに真言宗の古義と新義を分ける分岐点にいたのが覚鑁である。何かの縁であろうか、私にとって弥陀は近しく感じるのである。
覚鑁 嘉保二年(一〇九五)〜康冶二年(一一四三)真義真言宗開祖。号を正覚房、諡号興教大師、また鑁上人・密厳尊者とも呼ばれる。肥前国(佐賀県)の出身。伊佐氏。十三歳で仁和寺寛助の室に投じ、寛助・定覚より密教を学ぶ。翌年、南都興福寺で慧暁より倶舎・唯識を、東大寺覚樹院で華厳、同寺東南院で三論を学んだ。十六歳で得度し、十八契印・両部大法・護摩秘軌などを精勤した。二十歳、東大寺戒壇院で具足戒を受け、その年、高野山に登り、阿波上人青蓮に迎えられ、ついで最禅院明寂に師事して虚空蔵求聞持法を合計九回修法。その間、仁和寺成就院道場で寛助から両部潅頂を受け、また醍醐理性坊賢覚(一〇八〇〜一一五六)から五部潅頂を受けた。これら潅頂や求聞持法の結願には奇瑞が現れ悉地を得たという。鳥羽上皇(一一〇三〜一一五六)の帰依を得て、〈大伝法院〉を建立し、密教教義の教育研鑽の儀式である伝法会を復興した。東密・台密の事相を総合して伝法院流を開いた。また平安末期の浄土思想を密教的に裏づけた密巖浄土思想や真言念仏、一密成仏思想を表明。四十歳の時、金剛峯寺(高野山)座主となったが、翌年、座主職をめぐる争いを厭うて密厳院に籠り、千日無言行を修した。荘園をめぐる金剛峯寺方との争いを避けて四十六歳の時、高野山から根来寺に移り、四十九歳、根来寺で入寂。著書に『五輪九字明秘釈』があり、詳伝に『伝法院本願覚鑁上人縁起』がある。
頼瑜 らいゆ 嘉禄二年(一二二六)〜嘉元二年(一三〇四)真言宗の僧。字は俊音、初名豪信、俗姓土生川氏。紀伊(和歌山県)那賀郡の豪族の出身。初め城南の玄心に得度受戒。奈良で顕教を学んだ後高野山・仁和寺・醍醐寺などで真言の事相・教相の二相を修学。弘安三年(一二八〇)中性院流を開く。金剛峯寺(高野山)の徒と対立し、大伝法院と密厳院を根来に移し、新義真言宗を別立。古義の宥快(一三四五〜一四一六)、杲宝(一三〇六〜一三六二)などに比される大学匠。主著作に『大疎指心鈔』『真俗雑記問答』『秘鈔問答』『薄草子口決』など。
頼瑜は覚鑁の根来の流れを継承し、発展させた中心人物である。鎌倉仏教の各祖師の中に伍し、日蓮宗の開祖である日蓮とほぼ同じ時代を共有した。この時代には、フビライ汗の率いるモンゴル軍が二度にわたって来襲した。文永の役と弘安の役である。頼瑜の厖大な著述の中で、人間頼瑜とその周辺を知るには『真俗雑記問答鈔』が重要である。「真言宗全書」本には克明な索引が附されており、頼瑜自身の和歌や、浄土・禅宗に対する批判なども開陳されている。大伝法院(根来寺)教学の基礎確立のために情熱を注いだことは、激動の鎌倉時代を反映したとも受け止めることができよう。宗祖弘法大師への思慕と、その教学の展開及び子弟教育は覚鑁の使命であったが、頼瑜も同じ請願のもとに活躍した(『福田亮成』)。
儀海に関する記述は、永仁三年(一二九三)に紀州根来大谷院で『十住心論愚草』の草本を以て書写したことが、史料上の初見となっている。
元徳二年(一三三〇)霜月廿日夜於紀州根来豊福寺中性院書畢 権律師儀海 
儀海の出自については明らかではないが、名古屋大須真福寺所蔵の経典の奥書によれば弘安二年(一二七一)の生まれと推定され、この時十六歳位であったと思われる。頼瑜の最晩年には根来寺で師事した事と思われるが、その期間については定かではない。頼瑜の法弟である鎌倉大仏谷の頼縁には教えを受け、それは『潅頂秘訣』奥書に、「元徳元年(一三二九)十二月三日、於武州多西郡高幡不動堂弊坊書写畢、右秘訣者先師最後対面之時、奉伝授之畢、誠是衣数年之懇切令感得之畢、」とあるので、この時までは子弟の関係が続いていたと思われる。
頼縁についは、三宝院伝法血脈に「第廿八代祖頼縁法印徳行幷附法弟子 頼縁法印鎌倉佐々目谷居住也。自弘安二年至永仁三年於根来寺中性院随頼瑜法印傳事相之源極。習教相之淵底之人也。」とある。頼縁の史料はあまり他に無い、真福寺文庫撮影目録上・下巻にある奥書から年表として作成した。これより推定すると、頼縁は建長五年(一二五三)の生まれであろう。儀海とは二十七歳も離れており親子ほどの差がある。
頼縁に関する真福寺文庫撮影目録に見られる史料を次に挙げておく。

健治三年(一二七七)六月比為伝法院御社堅義記之了 堅者縁成幡房公 改名頼縁法印
判得略云 抑堅者昔在二明宗聚蛍雖年舊今入之密室積雪猶日浅然今聞决両條之疑問鴻写之仲天見遣五重之難勢似麒麟之駑鞭猶加重難定尤所滞歟付仲所答申者自証離言之秋月照権現垂跡之闇所問起者八識発心之春華開学侶讃仰之徳風両條共得分離分明申矣 一交畢
建冶三年(一二七七)十二月廿一日醍醐寺中性院書写了 求法沙門頼縁 交合了
永仁二年(一二九四)甲午臘月廿九日巳時書写畢於根来寺依播磨阿闍梨御房誂首尾九ヵ日之間三巻抄所馳筆也同三年正月四日交点畢 金剛資頼縁
永仁二年(一二九二)甲午臘月二十九日巳時書写畢於紀州根来寺依播磨阿闍梨御房吾
首尾九ケ日之間三巻抄所馳筆也 仁恵 同三年正月四日交點畢 金剛資頼縁
永仁二年(一二九四)甲午十二月二十三日於紀州根来寺書写畢金剛資頼縁
永仁三年(一二九五)正月十三日於根来寺中性院書写畢金剛仏子頼縁
永仁三年(一二九五)正月二十一日於根来寺中性院書写了 金剛資頼縁
永仁三年(一二九五)正月廿五日於根来寺中性院書写畢 金剛仏子頼縁
永仁三年(一二九五)二月五日於根来寺中性院書写了 金剛仏子頼縁
永仁三年(一二九五)季春六日紀州山崎庄池尻里於教廻時書写畢 金剛資頼縁
永仁三年(一二九五)乙未二月六日於根来寺中性院書写畢頼縁
永仁三年(一二九五)乙未閏二月六日於根来寺中性院書写畢 頼縁
永仁三年(一二九五)乙未二月九日於根来寺中性院書写畢 金剛仏子頼縁
永仁三年(一二九五)乙未二月二十日於根来寺中性院拭老眼所書写之 金剛資頼縁
永仁三年(一二九五)乙未二月廿五日於根来寺中性院書写畢 金剛資頼縁 
永仁三年(一二九五)乙未二月二十五日於根来寺中性院書写畢 金剛仏子頼縁
永仁三年(一二九五)後二月廿六日於根来寺中性院書写畢 金剛資頼縁
永仁三年(一二九五)乙未二月卅日於根来寺中性院書写畢 金剛資頼縁
弘安元年(一二七八)九月十七日於深雨中加点畢 金剛仏子頼瑜(中略) 金剛資頼縁
弘安六年(一二八三)七月十五日於高野山聖無院書写畢 金剛資頼縁卅
弘安六年(一二八三)九月九日於高野山中性院書写畢 金剛仏子頼縁三十
弘安六年(一二八三)九月九日於高野山中性院書写畢 金剛仏子頼縁
弘安六年(一二八三)十一月十四日於高野山聖無動院書写畢 金剛仏子頼縁三十
弘安六年(一二八三)十二月廿七日於高野山聖無堂院書写畢 金剛仏子頼縁卅
弘安七年(一二八四)四月廿八日於金峯山書写畢 金剛仏子頼縁生年卅二
弘安九年(一二八六)五月七日於高野山実相院書之畢 金剛仏子頼縁
弘安九年(一二八六)五月廿九日於高野山大伝法院之内中性院書写畢 頼縁
弘安九年(一二八六)六月十三日於高野山大伝法院中性院書写畢 執筆頼縁卅才
弘安九年(一二八六)六月十四日於高野山大伝法院内中性院書写畢 金剛仏子頼縁

儀海は頼縁を先師と記しており、鑁海については師主と記している。鑁海は慈猛の法弟で審海とは兄弟弟子である。審海は下野薬師寺より忍性に懇願されて、称名寺に入寺した経緯がある。文永四年(一二六七)八月のことである。忍性の高弟とされているのは忍性が小田氏の所領筑波郡三村郷の三村山極楽寺に滞在した、建長四年(一二五二)から弘長元年(一二六一)の間に子弟の関係になったのであろう。忍性は北郡小幡(八郷町)の宝薗寺をはじめ、北条氏所領の片穂荘の東城寺や信太荘宍塚(土浦市)の般若寺にもその影響をおよぼした。三村寺に建長五年九月十一日の日付をもち「三村山不殺生界」と刻された結界石を残したのをはじめ、般若寺、東城寺などにも同様の結界石を立てている。
馬淵和雄氏は『鎌倉大仏の中世史』で河内鋳物師や石工の集団を関東に連れてきたのは忍性であろうとされている。鋳物師は鎌倉大仏の鋳造や梵鐘の製作にあたり、大和の大蔵派石工集団は結界石や五輪塔の製作ばかりでなく、全国各地の板碑の爆発的な発生にも関与していたとおもわれる。
鑁海についての真福寺文庫撮影目録上・下巻による史料は次のようである。

弘安五年(一二八二)三月廿四日於下□薬寺客殿北面寮書写了 乗海 同六年八月十二日於常州真壁光明寺写之畢 鑁海
干時弘安七年(一二八四)三月十五日感得之納箱底不可令披露之旨可任本記者也 小比丘鑁海 同卯月廿二日午尅写之畢即時一交了
正安四年(一三〇二)正月廿八日写之了 年歳五十満拭老眼写之単為令法久後見感之耳 鑁海
正安四年(一三〇二)孟春二十三日己時於常州真壁成福寺書写畢為令法久任拭老眼写之乞後見感之多年歳 (梵字二字)(鑁海ヵ)
文保三年(一三一九)五月十日於[下]野国小山金剛福寺賜師主鑁―御本書写畢 権律師儀海
文保三年(一三一九)四月十一日於下野国小山金剛福寺賜師主鑁―御本書写了権律儀海
文保三年(一三一九)四月十一日於下野国小山金剛福寺賜主鑁海ノ御本書写畢 儀海
文保三年(一三十九)四月十二日於下野国小山金剛福寺賜師主鑁―御本書写畢 権律師儀海
(梵字四字)貫玉鈔 下州小山金剛福寺鑁海作(奥書)
瑜祇経法 下州薬師寺慈猛上人草本(梵字五字)一怗(奥書)
奥題名下ニ(梵字)師草本也者下野国金剛福寺開山鑁海之先師同国薬師寺長老慈猛上人之作也 干時観応三年(一三五二)五月二十一日於高幡不動堂以鑁海資儀海之本書写了 金剛仏子宥恵
(梵字六字)五大虚空蔵念誦次第(梵字)一怗(奥書)
弘安五年(一二八二)三月廿四日於下州薬寺客殿北面寮書写了 乗海 同六年八月十二日於常州真壁光明寺写之畢 鑁海
延慶三年(一三一〇)七月十五日於武州由井横河郷慈根寺書写了 儀海
瑜祇経眼目鈔 一怗(奥書)
嘉元二年(一三〇四)六月十九日書写畢 鑁海
延慶三年(一三一〇)七月十五日書写畢 儀海
延文六年(一三六一)三月七日於武州多西郡河口宿坊書写畢了 執筆良慶
顕密問答鈔下 一冊(奥書)
弘安五年(一二八二)三月二十四日於下州薬師寺客殿北面寮書写畢 乗海 同六年八月二日於常州真壁光明
写之畢 鑁海
延慶三年(一三一〇)七月十五日於武州由井横河郷慈根寺 儀海
文和三年(一三五四)甲午五月二十八日於同州高幡不動堂書写了 宥恵
名月抄 一巻(奥書)
文保三年(一三一九)四月十二日於下州小山金剛福寺賜御自筆本書写了金剛資儀海四十
応三年(一三五二)黄金十八日於武州高幡不動堂虚空蔵院書写了 金剛仏子宥恵四十一
相承次第 一冊(奥書)
相承次第 大師 真雅 源仁 聖宝 延敒 壱定 法蔵 仁賀 真興 第三重可伝授
之付法只一人也 久安二年(一一四六)八月十三日記之 沙門源運
正和四年(一三一五)乙卯十月晦日於下州足利小俣鶏足寺奉授干鑁海上人畢 頼尊
文保三年(一三一九)己未正月十四日於常州真壁成福寺奉授権律師儀海畢 鑁海
観応三年(一三五三)壬辰三月二十九日於武州高幡不動堂虚空蔵院奉授権律師宥恵畢
儀海法印
延文三年(一三五八)戊戌十月廿四日於尾州長岡真福寺奉授権律師宥円畢
儀海 方虚空蔵院儀海の相伝にして伝授せる法流に名づく。随って虚空蔵院儀海法印方・虚空蔵院方・武蔵方等とも名づく。これに二流あり。
(一)報恩院流(三宝院流末流)の異相承にして、虚空蔵院儀海を祖とする。諸流秘蔵鈔に挙げる印信は四通にして、第一通伝法印信(二印二明初金後胎)、第二通伝法潅頂相承(紹文不等葉)、第三通伝法潅頂血脈、第四通第二重(一印二明)なり。憲深・實深・頼瑜・頼縁・儀海・能信・信瑜・任瑜・政祝と相伝せり。→報恩院流
(二)慈猛意教流(三宝院流の末流)の異相承にして、虚空蔵院儀海を祖とする。この法流は慈猛房良賢の付法鑁海に就きて相伝せる法流なり。諸流秘蔵鈔には三通の印信を挙げる。第一通伝法汀秘印(紹文にして不等葉)。第二通伝法汀秘印(両部二印二明初金後胎)。第三通伝法汀血脈にして、成賢・頼賢・慈猛・鑁海・儀海・宥恵・信瑜・任瑜・政祝と相伝せり。→慈猛方。 
七 金沢顕時と称名寺
金沢顕時 鎌倉時代の武将。宝治二年(一二四八)〜正安三年(一三〇一)初名時方、越後四郎・越後入道と称し、赤橋殿と呼ばれた。法名恵日。実時の嗣子、母は北条政村の女。正嘉元年(一二五七)十一月二十三日元服。文永二年(一二六五)の初め左近大夫将監となり、同七年には引付衆に列している。弘安元年(一二七八)二月評定衆に列し、同三年十一月には越後守となり、同四年十月には引付頭に任ぜられて政治の枢機に参じた。しかるに同八年十一月、霜月騒動のとき安達泰盛の婿であった関係から所領であった下総国埴生荘に流謫された。下向に際して、父実時から与えられていた武蔵国金沢の称名寺内外の地を称名寺に寄進した。この寄進状は今に存し、顕時自筆と認められている。また同時に称名寺長老審海の書状を寄せ、右の寄進の趣旨を述べ、身辺の事情や心境に及んでいる。ただし、書状が弘安八年十二月二十一日付けであるのに対し、寄進状が十六年前の文永六年十一月三日付である点が一つの問題とされている。埴生荘において出家したが、永仁元年(一二九三)ないし同四年以前に召しかえされたと考えられる。その後は所帯を子貞顕に譲って隠退したかと思われる。正安三年(一三〇一)二月九日、かつて父実時が父母の菩提のために称名寺に寄進した梵鐘の破損を修治し、入宋僧円種をして新たに銘文を撰せしめて再鋳の上、再びこれを寄進した。同年三月二十八日、五十四歳で没した。称名寺境内に五輪塔の墓が現存する。顕時は学問・信仰への関心が深く、その書写・伝習した漢籍が金沢文庫その他に伝存しており、弘安元年音博士清原俊隆から伝習した『春秋経伝集解』はその代表例である。
称名寺 神奈川県横浜市金沢区金沢町にある真言律宗の寺院。山号は金沢山。もとは極楽寺末寺。北条実時が母の菩提を弔うため文応元年(一二六〇)ごろ六浦庄内に建てた念仏の寺を、文永四年(一二六七)に妙性房審海を開山に迎えて律宗に改めた。二代釼阿、三代湛睿は優れた学僧として知られる。六浦は朝比奈切通しを通じて鎌倉と繫がり、和賀江津とならぶ鎌倉の外港であった。称名寺は、六浦津を管理し、関銭を徴収していたようで、和賀江津に関して極楽寺が同じ立場にぁった事を考えれば、忍性を中心とする律僧は北条氏と結んで鎌倉の海上ルート(貿易)を押さえていたと考えられる。境内には、北条実時以来の典籍類を集めた金沢文庫があり、大蔵経など仏教関係典籍、紙背文書を中心とする〈金沢文庫古文書〉などの文化財が豊富にある。
正応四年(一二九一)九月称名寺三重塔が建立された。その落慶供養式衆に「…観教房 石河…」の記載がある(櫛田良洪『真言密教成立過程の研究』)櫛田氏によればこの「…石河…」は武蔵南多摩郡石河であろうとされている。石河は現八王子市石川町であろう。真福寺文庫撮影目録に次のような記述がある。
花厳論議蔵第二 三巻内 良信房 一怗(奥書)
本云寛正三年(一四六二)壬午九月二〇日於南都上房書之可□之也 本云干時寛正七
年丙戌二月十二日書畢於武州石川談所室生寺長円院厳之房高野山之居住之時於幸良写絡云々敷宥境智御房 本云干時長享三年(一四八九)十月二日后半於上州多比良光明寺境切房御本申請写之畢 惣伝房 本云干時延徳二年(一四九〇)正月十八日於新田庄別所円福寺談所此論議奥行之時節写申覚祐其後淳智房御本ニテ明応三年(一四九四)七月八日書畢 上州新田庄別所談所円福寺居住時極楽房ニテ写了 良心
正応六年(一二九三)には北条顕時の右筆であろうとおもわれる「教道」なる人物が武州船木田庄由井郷(東京都八王子市弐分方・西寺方地域)を訪れている。金沢文庫古文書第10「華厳五経章上巻指事奥書」に次のようにある。
華厳五教上巻指事
(末尾)
正應六年三月五日、於武州船木田庄内由井
□内郷御堂書写了、       右筆教道
金沢(北条)顕時・貞顕親子は特に経典の書写、収集に熱心であった。正応年間の顕時についての記録はない。それは、霜月騒動による混乱によるものと思われるが、この書写を命じているのが顕時とおもわれることからすでに下総国埴生庄より帰っている可能性がある。『華厳五教章指事記』は唐の賢首大法蔵の『華厳五教章』を文章について注釈したもの。東大寺寿霊の著作。三巻(上・中・下)。現在金沢文庫には上巻本末・下巻本が存在する。八王子市元八王子町の通称城山(八王子城)の地には「華厳菩薩」の伝説がある。『華厳菩薩記』の筆者は文怡悦山という黄檗宗の禅僧で、康暦元年(一三七五)三月十五日に書いたものである(宗関寺文書)。しかし、この伝説については従来から疑問視されていたが、この地域での教道の書写と『華厳菩薩記』の書かれた年代を考えると興味深いものがある。
『徒然草』の作者、吉田兼好(卜部兼好が正しい、兼好法師)は弘安六年(一二八三)〜観応元年(一三五〇)四月八日(?)の人であるらしい。林瑞栄によれば、兼好は金沢貞顕に仕えた倉栖兼雄(文保二年没す)という人物の「連枝」(兄弟)であり、兼雄の母「尼随了」が兼好の母で、兼好の父は倉栖某である。兼好は関東武家社会の出身者であったのではないかとした。従来は『卜部氏系図』によって兼好の父は兼顕で、兼顕には慈遍・兼雄・兼好という三人の子があったとされていた。この説によれば、兼好は武蔵国金沢で生まれ、八歳の時に京に迎えられたとすることもできる。また、兼好は二度鎌倉にきて金沢に居住したようである(徳治元年〜延慶元年か?)。永井晋氏は人物叢書『金沢貞顕』(吉川弘文館)で新しい説を展開している。
儀海は弘安二年(一二七二)の生まれで、日野市の高幡不動(高幡金剛寺)所蔵法統譜によれば、観応二年二月二十四日の示寂とされる。兼好と儀海は共に同じ時代を生き抜いた。兼好は隠者として生き、儀海は求法沙門として生きた。
金沢文庫には義海の書状がのこされている。「儀海」とはなっていないので本稿の儀海であるかについては疑問であるが参考までに挙げておく。
愚身も此四五日違例、風氣と學候、兩三日之際ニ不取直候ハゝ、講問事大難義□不定存候、尚々只今芳問、返々殊悦候也、御音信先承悦候、抑自去月之始病床之處、結句此間以外打臥候間、是如仰旁令計會候、如此之式候之間、破立事も干今不申入候、雖然途賜之條、恐悦候、御違例事驚存候、熟柿之熟子にて候へとも、返々無勿躰候、以御暇申承候ハゝ、自他可
散欝念候、恐々謹言、十一月六日   義海
侍者御中 
御報 「(切封墨引) 義海状」
弘長二年(一二六二)は謎の多い年である。『吾妻鏡』はこの年について、欠巻あるいは、故意に記載しなかったと思われるのである。石井進氏は次のように述べている。
北条長時の死の前々年、弘長二年(一二六二)、まさに『吾妻鏡』の欠落しているこの年にもまた相当の政治的陰謀事件が欠けてはいなかっただろうか。「かまくらにひそめく事あてめさるゝあいた、いのちそんめいしかたきによりて」という理由で出発前に嫡子弥二郎季高に肥前国朽井村地頭職田畠山野等を譲った同年九月廿九日付の同国国分寺地頭藤原忠俊・母堂松浦鬼丸藤原二子連署譲状(多久文書)によって、それは明らかである。では「ひそめくこと」とはいつたいなにであったのか。肥前国の地頭御家人までが召集令をうけているとこるからすれば事態は相当深刻であり、陰謀はかなり危険なものであったに違いないが、他の関係史料は口を閉じてなに一つ語ってはくれず、これまでの研究者も誰一人この事件に注目してないので詳細はこれ以上不明というほかはない 。
弘長二年(一二六二)、鎌倉の前浜に三枚の板碑がたった。浜の西端に一枚、東端に二枚。鎌倉でそれ以前の板碑といえば、正嘉元年(一二五七)銘の折れたのが扇ガ谷の民家に一枚残っているだけだ。五年の空白の後、三枚が造立されたことになる。いくらか唐突の気味もあるこの事実は、なにを意味しているのか(馬淵和雄『鎌倉大仏の中世史』)。
鎌倉大仏は当初、木で造られていた。それがこの年鋳造されて完成したのである。
鎌倉大仏は、天台宗など旧仏教勢力と一体になった京都の公家政権による強固な国土支配を、東国の武家政権が新興の宗教勢力とともに奪取しようとした、その象徴だった、と私は考える。(『馬淵和雄』)
この年、西大寺叡尊は関東に下向する。北条時頼の再三の懇願によるものであった。時頼との会談の内容は謎である。そして、これを機に真言律宗西大寺の勢力は全国に拡大していった。北条執権体制は北条泰時の定めた御成敗式目にみられるようにその政権を維持していたのは法である。この時代訴訟のすべてはこの法によって解決されていた。北条氏はその執権の正統性を主張する為には公平な裁判による政治力しかなかったといえる。西大寺永尊は律によりる仏教の改革をめざしていた。めざすところは同じであった。しかし、法は時代の流れに適応できなくなり、やがて鎌倉幕府は崩壊へとむかってゆくのである。 
八 儀海の布教活動と「由井郷」「慈根寺」
蒙古の襲来による文永・弘安の役は、幕府政治の面では得宗専制を加速させ、西国の荘園・国衙領の住人の動員によって幕府権力の西国への浸透をもたらした。また御家人は恩賞不足に対し不満を持ち、合戦後も続いた異国警固番役の負担に苦しんだ。一方、暴風を神威の現れとみる日本神国観を定着させた。全国各地の寺社では異敵調伏の祈祷が行われた。叡尊も弘安四年(一二八一)閏七月一日同法三百余人をひきいて、石清水八幡宮に参り、南北二京の僧五百六十余人とともに宝前に勤行し、さらに説戒の上、八幡大菩薩に国難を訴え、「東風を以て兵船を本国に吹き送り、来人をそこなはずして乗るところの船をば焼き失はせたまへ」と祈願した。この月八日ようやく浄住寺にひきあげた叡尊はその翌日、異国の兵船がさる一日の大風のためみな破損したとの吉報に接したのである。『西大寺光明真言縁起』には陀羅尼結願のとき、永尊所持の愛染明王像の鏑矢が八幡宮の玉殿から西を指して飛行し、異賊をほろぼしたと伝える。その場にいた人々は皆これを見ていたという。文永・弘安の国難は、永尊が宮廷に接近し、西大寺流が朝家に重きをなすために確かに無二の機会であった。極楽寺の忍性も同様であったに違いない。寺社勢力は武家から旧領を回復していった。儀海の布教活動もこの流れの一観であるとおもわれる。船木田庄由井郷を儀海が訪れたその背景に触れておきたい。
金沢氏(顕時・貞顕)天野氏(景茂・景広)由井氏(由比尼・由比尼是勝)永井氏(宗秀)・梶原性全などは称名寺を中心に文化活動をおこなっていた。金沢氏と天野氏は姻戚関係にある(由比尼)。永井氏の永井文庫は金沢市の金沢文庫との間に書籍の貸し借りを行っていた。また無住は梶原氏の出身であり、梶原性全と同族である。性全は長井掃部頭に仕えたこともある鎌倉時代の有名な僧医で、無住はもともと病弱であったが、長命であったのは性全の処方した丸薬によるという。かれらは、今で言う「サークル」を形成していた。
劔阿の称名寺での実力と長老への就任および湛睿・実真の動向も関係していたと思われる。金沢文庫所蔵の経典類は、金沢氏や称名寺の所領などこれらと関係の深いところで書写されたものが多いようであるが、由井郷は金沢氏と姻戚関係にある天野氏や由井氏の所領であることから、ここで新義教学の布教が熱心になされたとしても決して不自然はではなかろう(『細谷勘資』)。
儀海の動向は永仁三年(一二九五)から嘉元三年(一三〇五)までの間については不明であるが、鑁海のもとで古義教学の研鑽に励んでいたと思われる。櫛田良洪氏は、頼縁が新義教学を慈根寺(八王子市元八王子町)で講義すると聞き訪れたとされている。儀海は川俣甘露寺(福島県川俣町)にも頼縁の事跡を訪ねている。儀海やその弟子たちは多くの聖教類を書写しているが、和紙は、当時高価なうえに貴重品であつたからそれを入手するのには経済的な裏づけがなくてはならない。儀海や弟子の書写活動の地域にはそれを支える豊かさがあったと思われる。儀海が慈根寺から長楽寺(八王子市川口町)に通った八王子市西寺方町に紙谷の地名がある。当時、この地は和紙の生産地であった。また、船木田庄は豊かな荘園であったと思われ。九条家領文書や東福寺文書によれば、摂関家の船木田荘の歴史は古記録に「清慎公(藤原実頼)家文書順孫実資(小野宮流)伝之」と記されている。実頼は藤原忠平の長男で、父忠平は太政大臣の時に東国を揺るがした「天慶の乱」がおきている。平将門の反乱である。将門は忠平の家人となり滝の武士となっている。武蔵の武士らも忠平と主従に近い関係を持つことにより、自らの開発した土地を守ることに必死であったと思われる。忠平は荘園整理令等も行っている。船木田庄が摂関家の荘園となったのは実頼以後と考えたい。慈根寺はこの荘園内に藤原実頼かその養子の実資によって船木田庄の寺として創建されたと思われる。その維持などの費用はこの荘園で賄われたのであろう。慈根寺はかなりの大寺で、この寺の開山は藤原氏京家の出身の元杲(九一四〜九九五)である。父は雅楽助藤原晨省。元杲は空海の法流を継ぐ淳祐(八九〇〜九五三、菅原道真の孫)の弟子で、天台宗の元三大師良源も同時に学び親交があった。淳祐と元杲はともに祈雨に法験があった僧でもある。また、淳祐は観賢に従って高野山に登り、弘法大師の膝にふれた手の妙香が生涯消えなかったという伝えは広く知られる。
弘法大師の命日の法会である御影供は、大師没後、潅頂院の弘法大師像の壁画を本尊としておこなわれていた。これが毎年三月二十一日の潅頂院影供である。これに対して中世の御影堂御影供の成立について記したのが、『東寺百合文書』の「延応二年(一二四〇)教王護国寺西院御影供始行次第」である。弘法大師像は天福元年(一二三三)長者新厳の時に作られた。高野山でも弘法大師にたいする信仰がある。儀海も大師に対し「…願以書写生々世々値遇大師聴聞密教」(『瑜祇経拾古鈔』奥書)「…為興隆仏法書写畢、願以書写之功為書写之功生々世々大師値遇之縁而已」(『大日径義釋演密抄』奥書)とたびたび記している。
儀海の由比郷での真福寺文庫撮影目録上・下巻の奥書は次のようである。

嘉元四年(一三〇六)正月廿五日於武蔵国由井横河慈根寺書写畢 金資儀海廿七
嘉元四年(一三〇六)二月廿八日於武蔵国由井横河慈根寺談議所 金剛資(梵字二字)(儀海ヵ)廿七
嘉元四年(一三〇四)四月十九日於武蔵国由井横河慈根寺草庵写畢 金剛資即円二十七
嘉元四年(一三〇四)四月廿九日於武蔵国由井横河慈根寺草庵書写畢 金剛仏子(梵字二字)二十七(儀海ヵ)
嘉元四年(一三〇六)五月十九日於武蔵国由井横河慈根寺受御口决少々記之了 三宝院末資(梵字二字)(儀海ヵ)廿七才也 已上第一巻廿三日伝授了
嘉元四年(一三〇六)十月十二日於武蔵国由井横河慈根寺草庵見聞畢金剛資即円廿七即時伝授畢 
嘉元四年(一三〇六)十月十五日於武蔵国由井横河慈根寺受御口决共々記了 金剛仏子即円廿七
嘉元四年(一三〇六)十月二十二日於武蔵国由井横河菴室亥時書写畢 同月廿三日夜子時一交畢 金剛仏子海廿七才
嘉元四年(一三〇六)霜月二日於武蔵国由井横河慈根寺草庵書写畢 金剛資即円
嘉元四年(一三〇六)極月五日記了 金剛資即円廿七
嘉元四年(一三〇六)極月七日於武蔵国由井横河慈根寺草菴書写畢 金剛仏子即円二十七
嘉元四年(一三〇六)霜月十一日於武蔵由井横河慈根寺草庵書写畢 金剛資即円二十七
嘉元四年(一三〇六)拾月弐拾二日於武蔵国由井横河庵主亥時書写之畢 金剛仏子儀海廿七才 同月廿五日夜子時一交畢
嘉元四年(一三〇六)霜月廿二日於武蔵国由井横河慈根寺草庵子時書写畢 金剛資儀海
嘉元四年(一三〇六)極月廿四日於武蔵国由井横河慈根寺草庵書写畢 金剛仏子即円
嘉元四年(一三〇六)霜月廿六日記了 金剛資即円廿七
徳治二年(一三二八)二月三日於武蔵国由井横河郷慈根寺御房留守之時夜半許書写畢 金剛資即円廿八 同月六日夜寅時驚睡眠日令一交畢 
徳治二年(一三〇七)二月三日於武蔵国由井横河慈根寺御房留守之尅夜半許書写之 金剛資即円廿八同月六日夜寅時驚□眠令一交畢
徳治二年(一三〇七)二月五日武蔵国由井横河慈根寺草庵 金剛資儀海二十八
徳治二年(一三二八)二月廿五日於武蔵国由井横河慈根寺草庵依可然善縁此抄物令歳得處也偏右無上菩提染筆處也辰時書写了 金剛仏子儀海
徳治二年(一三〇七)二月廿七日於武蔵国由井横河慈根寺之草庵酉時令染筆畢 金剛資儀海 
徳治二年(一三〇七)二月廿九日於武州由井横河慈根寺書写畢 金剛仏子即円
徳治二年(一三〇七)三月二日於武州由井横河慈根寺草菴巳時令染筆畢 金剛資 即円廿八
徳治二年(一三〇七)四月廿二日於武蔵国由井横河慈根寺草庵書写畢 金剛仏子即円
徳治二年(一三〇七)五月一日於武蔵国由井横河慈根寺草庵受御口决九牛一毛記之畢 金剛仏子即円廿八
徳治二年(一三〇七)五月廿日於武蔵国由井横河慈根寺以御口决九牛一毛記此畢 東寺末葉即円廿八
徳治二年(一三〇七)五月廿二日於武州由井横河慈根寺草庵承御口决九牛一毛令抄書之了 [金剛仏子即円]廿八
徳治二年(一三〇七)六月六日於武蔵国由井横河慈根寺草菴酉尅令染筆畢 願以書写生々世々値遇大師聴聞密教 三宝院末寺金剛資儀海廿八
徳治二年(一三〇七)六月廿五日於武州由井横河慈根寺草庵書写畢 金剛資儀海廿八
徳治二年(一三〇七)六月二十七日於武州由井横河慈根寺草菴午尅書写畢 三宝院末資即円二十八
徳治二年(一三〇七)七月七日於武州由井横河慈根寺草菴申尅書写畢 願以書写生々世々値遇大師 敬聞密教 金剛資儀海
徳治二年(一三〇七)九月二十五日日於武州由井横河慈根寺草菴書写畢 金剛資儀海二十八 同年八月一日於相州鎌倉大仏谷亥尅一交畢
徳治二年(一三〇七)拾月七日於武州由井横河慈根寺巳尅染筆畢 願以書写生々値遇大師密教聴聞 金剛佛子即圓二十八才
已上三ヶ日伝授畢 徳治二年十一月十九日於武蔵国由井横河慈根寺草庵御口决小記畢秘抄談義承事偏宿習深厚由也願当□大師御共弥勒会上列開金剛宝蔵施□金剛仏子即円廿八 已上四日伝授畢 
徳治二年十一月十三日於慈根寺承口决抄記了 金剛仏子即円廿八
徳治二年(一三〇七)十一月十三日於慈根寺承少々口决抄記了 金剛仏子即円廿八
徳治二年(一三〇七)十一月十九日於武蔵国由井横河慈根寺草庵承口决小記畢 秘抄談義承事偏宿習深厚由也願当□大師御供弥勒会上列開金剛宝蔵施□□□ 金剛仏子即円廿八
徳治二年(一三〇七)霜月五日於武蔵国由井横河慈根寺草庵受御口决粗記了抄記志偏為無上菩提也 金剛仏子即円廿八
徳治二年(一三〇七)霜月十四日於武州由井横河慈根寺草庵令染筆畢 金剛資即円廿八
徳治三年(一三〇八)正月九日於武州由井横河郷巳尅許令染筆畢 金剛資儀海二十九
徳治三年(一三〇八)四月十二日於武蔵国由井横河郷薬坊書写畢 筆師儀海廿九
徳治三年(一三〇八)八月廿五日於武州由井横河郷弊坊巳尅書写畢 金剛仏子儀海生年二十九
延慶元年(一三〇八)極月廿日於武州由井横河慈根寺巳尅許書写了 金剛仏子儀海廿九
延慶元年(一三〇八)極月廿日於武州由井横河慈根寺巳尅許書写了 金剛仏子儀海廿九已上五日畢 本云嘉元四年(一三〇六)五月十九日於武蔵国由井横河慈根寺受御口决少々記之了 三宝院未資(梵字)廿七才也 已上第一巻廿三日伝授了 
延慶元年(一三〇八)極月廿六日於由井横河慈根寺巳尅令書写畢 金剛仏子儀海生年二十九
延慶二年(一三〇九)戌申二月廿日於武州由井横河慈根寺書写畢 金剛資儀海
延慶二年(一三〇九)八月二十八日於武州由井横河慈根寺蔽房書写畢 金剛資儀海三十
延慶二年(一三〇九)八月晦於武州由井横河慈根寺令染筆畢 金剛資(梵字二字)(儀海ヵ)卅
延慶三年(一三一〇)七月十五日於武州由井横河郷慈根寺書写了 儀海
延慶四年(一三一一)正月七日於武州由井横河慈根寺弊坊書写畢 金剛仏子儀海三十二
応長元年(一三一一)十月二十四日於武州由井横河慈根寺蔽坊閣万事令書写畢 三宝院末資 儀海三十二才
応長元年(一三一一)十月廿九日於武州由井大幡永徳寺如法経修申出写畢 金剛佛子儀海三十二
応長元年(一三一一)十月廿九日於武州大幡永徳寺如法修中書写畢 金剛仏子儀海三十二
正和元年(一三一二)六月十九日於武州由井南河口長楽寺西谷草菴談義之間走筆畢 権律師儀海卅二 唯識論一云然諸我執略有二種一者倶生二者分別□倶生我執細故難断後修道中数々修習生定観方能除滅分別我執簾故易断初見道特方聢除蔵之
正和三年(一三一四》九月十六日於武州北河口書写畢 金剛資儀海卅五
正和四年(一三一五)正月二日於延福寺書写了 権律師儀海三十六
正和四年(一三一五)正月五日於延福寺書写畢 権律師儀海卅六 延慶三年(一三一〇)七月二十九日於武州由井横河慈根寺幣房午尅師主以御自筆御本書写畢 (梵字)卅一
正和四年(一三一五)正月十九日於延福寺書写了金剛資(梵字儀海)
正和五年(一三一六)正月十四日於武州北河口延福寺書写了 三宝院末資(梵字二字)(儀海)三十七
元亨元年(一三二一)十月三日於武州由井河村房書写畢 権律師儀海四十二才元亨元年(一三二一)九月廿七日於武州由井慈根寺権律師儀海四十二
元亨元年(一三二一)十月三日於武州由井阿村弊房書写畢 権律師儀海四十二才
正慶二年(一三三三)正月七日於武州多西郡由井横河慈根寺坊午尅染筆畢 金剛仏子儀海三十
正慶三年(一三三四)七月廿三日於武州由井横河慈根寺幣坊賜師主御自筆本未尅書写了 儀海
頼縁・儀海・即円・能信は嘉元四年(一三〇六)に横河・高幡不動を訪れている。これは偶然ではなく、鎌倉より共に来たのではないだろうかと思える。即円は東寺末葉とある僧で、徳治二年(一三〇七)までは行動を共にしていたと思われる。儀海とは同年代である。
西明寺 慈根山と号す。八幡宮別当。新義真言、大幡宝生寺末なり。御朱印社領十石。境内二町余。本尊阿弥陀如来 木立像、作不知。客殿。庫裡。開山権大僧都元杲 正暦三壬辰年(九九二)二月寂。寿八十二歳。されば、至って古き寺なれども、往古何宗なるか、八幡宮棟札によりて考うれば修験にてもあるにや。正暦(九九〇〜九九五)の頃よりありし寺にて、その頃には慈根寺といいしならん。それゆえ寺名に古く慈根寺の称えありし。建久二年八幡宮を梶原が勧進の砌に別当所に補せしが、その後また廃せしを西明寺再営のとき山号に慈根山を称して、その由来わずかに存することといえり。薬師如来 一軀、厨子入、木立像、七寸五分、安弥陀作。この尊像は北条氏直より寄附し給う所なり。自鳴の鰐口 径七寸五分。この鰐口を往古盗み取る者ありしに、自然と音を出しければ、盗み去ることを得ざりしゆえ社中へ置きしなり。夫より自鳴の鰐口と云う。
武яス西郡由井領横川八幡宮鰐口也 下野日光山鹿沼窂人
天正十六年戌子五月廿八日 敬白 横手右近正娘祈念奉寄進者也 (『武蔵名勝図会』)。
この寺は明治の廃仏毀釈で廃寺となった。八幡神社宮司梶原正統氏宅のある一帯で、本堂跡は中央高速道の下になってしまった。道路ができる以前は古池や古井戸もあった。梶原氏宅には西明寺の過去帳一冊が所蔵されていたが、戦災で焼失してしまった。
通称「峯山」と呼ばれていた丘の谷に(現在城山小学校がある)小さな滝があった。村人は「ドウドウメッキ」とよんでいた。「メッキ」とは「滅氣」のことであろう。「ドウドウ」は滝の落ちる音であろうか。滝行が行われていたと思われる。この近くを大正時代の地図には太夫坂を越え慈根寺に入り峯山より川村をへて宝生寺の横を通り川口の長楽寺に至る鎌倉古道があった。道沿いには常盤正司氏宅出土の板碑や、山王台の板碑、西光院の板碑などが点在している。
八幡宮 元八王子村鎮守。御朱印社領十石。別当寺西明寺なり。社地より北の方、社領の内に寺あり。神体甲冑馬上の木像。例祭八月十五日。社地は村の中央なり。大門路一町程、入口に木の鳥居あり。高さ一丈二尺許。本社六尺四方、南向。弊殿二間三間。拝殿二間五間。本地仏阿弥陀堂二間四面。本社の傍にあり。本地阿弥陀仏免除地三石。末社四社。合殿小祠。釣鐘堂九尺四方、本社の前にあり。鐘銘文なし。本社の両破風幷に屋根の金物皆、梶原の定紋二本矢羽根、渡金にて附けたり。土俗梶原八幡宮とも云う。梶原平三景時の勧進せしゆえなり。その謂われは次に出す。又云梶原杉と号する大杉二株あり。1株は本社の脇にあり。1株は大門路の内にあり。周径二丈二尺程。これは梶原が勧進せしときよりの社木なり。その余は枯れて、いま並木のみなり。中古以来の列樹なり。
勧進の最初を考うるに、鶴ヶ岡八幡宮の神体を梶原がこの地へ移し奉れり。康平六年(一〇三六)八月源義朝朝臣始めて造立の地は由比ヶ浜にて、鶴ヶ岡といいし地名なれば鶴ヶ岡八幡宮と称し奉る。いまの地は小林松ヶ岡という地名なれども、古名をとりて今に鶴ヶ岡と称す。左大将家新建の宮殿は建久二年(一一九一)四月造畢。正遷座のとき古き神体を梶原景時に賜いければ、この地は景時が所領の地ゆえ、鶴ヶ岡に似たるところを撰びて鎮座なし奉る。当社も往古は鶴ヶ岡と称し、建久二年六月この地に遷座あり。その時の棟礼歴然として当社に存せり。それより梶原八幡宮とも称したり。宝物 弘法大師墨蹟一軸「八幡宮」と書きたる堅物なり。之は甲斐律師という者奉納するものなり(甲斐律師は頼瑜のこと)(『武蔵名勝図会』)。
古棟礼 三枚
奉勧請相鶴岡 當社別当覺正
奉勧請八幡宮  大旦那梶原平三景時
建久二辛亥歳六月十五日 大工左衛門五郎
當社別當東光坊聖宗  五度造営之
奉造營八幡宮大旦那梶原修理亮入道賢孝
同子息…
助左…
文明十七年乙巳十月十六日 大工左衛門五郎…
裏ニ筆者民部卿永海書畢
當社別當因幡律師宗濟 大工左衛門五郎
奉造營八幡宮大旦那梶原修理亮家景
旹寛正竜集 癸未十月廿又二日
裏ニ勧進沙門東福権僧都聖範 寫
慈根寺を支えた人々の中に鎌倉御家人梶原氏がいる。梶原氏はこの地と関係が深く梶原景時の母は横山庄の別当横山孝兼の娘である。この孝兼は和田合戦で滅んだ横山時兼の曽祖父にあたる。慈根寺の所領は横山孝兼の娘の持参であった。梶原景時は正冶二年(一二〇〇)十月、新将軍源頼家に結城朝光を、異心を抱く者として讒言したことから、三浦・和田その他、重臣の憤りを招き、景時ら一族は鎌倉を追放された。景時は源氏の一族、武田有義を将軍に擁立を計り上洛を企てたが、駿河国狐崎で在地の御家人の為に殺され一族は滅んだ。景時の長男、景季もこのとき父と運命を共にした。景時の次子、平次景高の子景継は三代実朝嗣職の後、再び召されて鎌倉幕府に仕えた。後の時代に室町幕府の鎌倉府に仕えた武州南一揆の梶原美作守・但馬守の兄弟や梶原能登守がいる。梶原美作守は船木田庄由井郷横河村(八王子市元八王子町)に舘跡があった。
三日 癸卯 小雨灑ぐ。義盛粮道を絶たれ、乗馬疲らすのところ、寅の尅、横山馬允時兼、波多野三郎(時兼が婿)横山五郎(時兼が甥)以下數十人の親昵従類等を引率し、腰越の浦に馳せ来るのところ、すでに合戦の最中なり(時兼と義盛と叛逆の事を謀り合わすの時、今日をもって箭合せの期と定む。よって今來る)。よってその黨類皆蓑笠をかの所に弃つ。積みて山を成すと云々。しかる後、義盛が陣に加わる。義盛、時兼が合力を得て、新覊の馬に當る。彼是の軍兵三千騎、なほ御家人等を追奔す(『吾妻鏡第廿一』建暦三年五月)。
和田合戦で横山一族の主な人々は討死にする。その中に「…ちみう(ちこんしィ)次郎・同太郎・同次郎・五郎…」の記述がある。「ちこんしィ」は慈根寺であろう。
戦国末期の新陰流上泉伊勢守信綱の高弟に神後伊豆がいる。名を宗冶といい武蔵八王子の出身で、永禄六年以降師伊勢守に従って諸国を武者修行し、将軍足利義輝・関白豊臣秀次の前で数々の武芸を演じ賞賛の辞を賜わった。この神後伊豆も慈根寺氏の末裔である。
「お父さんどうしてぼくのところは二分方などというへんな地名なの」「……」父無言であるわからない(八王子市二分方町の父と子の会話)。大正十三年の国土地理院の五万分の一の地図には弐分方・上壱分・下壱分方とある。この地名のいわれは鎌倉時代に全国各地で起きた土地の相続や境界をめぐる相論によるものである。由井本郷では正和二年(一三一三)五月二日と文保元年(一三一七)六月七日に幕府が裁定している。最初は儀海が在郷していた時である。どのような思いで儀海は見つめていたのであろうか。
由比本郷は中世の船木田庄内の郷村で、由比は由井・油井とも記される。「延喜式」に武蔵国の四牧の一つとしてみえる由井牧の故地で、八王子市西寺方町・上壱分方町・二分方町・大楽寺町・四谷町・諏訪町の一帯と推定される。建長八年(一二五六)七月三日の将軍家政所下文(尊経閣文庫所蔵『武家手鏡』)によれば、天野景経に「船木田新庄由井郷内横河郷」などの所領を安堵している。この所領は永仁二年(一二九四)景経の子頼政に譲られた。やがて、その子孫の顕茂・景広兄弟の間に、由井本郷をめぐる相論が惹起し、正和二年(一三一三)五月二日幕府は両者の和与を承認した。それによれば由井本郷のうち三分の一が弟景広に譲られ、三分の二が顕茂の所領となった。また文保元年(一三一七)六月七日の顕茂・景広兄弟とその姉妹尼是勝との和与を承認した。関東下知状(天野文書)によれば、本来この由井郷は武蔵七党の一つ西党に属した由比氏の所領であったが、彼らの母由比尼是心が天野氏に嫁したことから天野氏に伝領されるようになった。鎌倉時代の女性はこの相論から知れるように所領を相続する権利を持っていた。お袋様という言葉はこの頃、母親が領地の証文を袋に入れ持っていたことにからによるという。
天野肥後三郎左衛門尉顕茂と同次郎左衛門尉景広と相論す、亡父新左衛門入道観景の遺領武蔵国由比本郷、遠江国奥山の郷避前村、美濃国柿の御薗等の事、右の訴陳状につきてその沙汰あらんと欲するの処、去月廿八日両方和与畢んぬ、顕茂の状の如くんば、右の所々は、亡父観景の手より去る正応二年三月卅日顕茂譲得の処、景広は徳治三年六月十七日の譲状を帯すと号し、押領せしむるの間、訴え申すにつきて、訴訟つがえ、相互に子細を申さずといえども所詮和与の儀を以て、顕茂所得の内の由比本郷参分の壱(ただし屋敷・堀ノ内等は参分の二の内につく)美濃国柿の御薗半分を景広に避渡し畢んぬ。次に正応の譲状に載する所の景広の遠江大結、福沢幷長門国岡枝郷等(中略)景広分たるべし云々者、早くかの状をまもり、向後相互に違乱なく領知すべきの状、鎌倉殿の仰せによって、下知件の如し。  
正和二年五月二日 相模守 平朝臣(北条凞時)(花押)
天野肥後左衛門尉顕茂法師(法名観景、今ハ死去)女子尼是勝(本名尊勝)の代泰知と兄次郎左衛門尉景広の代盛道、同じく弟三郎左衛門尉顕茂の代朝親等相論す、由比尼是心(観景姑)の遺領遠江国大結福沢両郷、避前村、武蔵国由比郷内田畠在家(源三郎作)の事
右訴陳状につきて、その沙汰あらんと欲するの処、各々和平し畢んぬ。朝親の去月廿五日の状の如くんば、由比尼是心の遺領武蔵国由比本郷内源三郎屋敷(顕茂知行分)、遠江国避前村等中分の事、右是心の養女の尼是勝訴訟につきて、訴陳をつがえ、問答といえども、和与の儀を以て、源三郎屋敷(打越の地を除く定)炭の釜一口のうち三分の一幷避前村等半分(巨細は目六に載せ畢んぬ)尼是勝にさけ与うる者なり。ただし避前村の代官屋敷は顕茂分たるべく、同村内中辺名の代官屋敷は、是勝分たるべし、若しかの屋敷、避前屋敷の処に交量すれば、不知分に於いては顕茂の分を以て入立つべし。又諏訪社(大宮と号す)毘沙門堂は、顕茂の分たるべし。八幡(西宮と号す)十二所権現は是勝分たるべし。次に源三郎屋敷内の社一所(二十四宮と号す)は顕茂たるべし。御堂壱所(是心の墓所)は、是勝分たるべし。然れば即ち顕茂文の注文と云い是勝の注文と云い、後証のため両方に加判せしむる所なり。自以後は彼の状に任せ、相互に違乱なく領知すべし云々。泰知同状の如くんば、子細同前と云々。盛道同じく廿七日の状の如くんば、由比の尼是心の遺領武蔵国由比本郷のうち源三郎屋敷、田畠、在家幷びに炭釜(景広知行分)遠江国大結、福沢両村等中分の事、右是心養女尼是勝訴訟につき、訴陳をつがえ、問答を遂ぐといえども、和与の儀を以て源三郎屋敷内田畠在家景広知行分幷びまた大結、福沢半分を是勝にさり渡す所なり。但し今は坪付以下委細の目六なきの間、地下の注文を召し上げ、後の煩いなきのよう、来月中に是勝方に書き渡すべし。次に是心跡の炭釜一口のうち六分の壱は是勝分たるべしと云々。泰知同状の如くんば、子細同前此の上は異儀に及ばず、早く彼の状に任せて沙汰致すべきの状、鎌倉殿の仰せによって、下知件の如し
文保元季六月七日 (北条高時) 相模守平朝臣(花押) (金沢貞顕) 武蔵守平朝臣(花押)
この相論の史料を読むと炭釜の所有権が和与の対象となっている。この炭釜が刀剣等の製作に関わっていたのではないかと従来いわれていた説もあるが、東国、多摩川の上流では炭焼きが盛んにおこなわれていたようである。日常的なものであった。時代は下るが永禄年中、栗原彦兵衛が北条氏照の奉行より炭焼を命ぜられた文書がある。
同村内中辺名の代官屋敷とは現在の下恩方町字辺名の地であろう。諏方(大宮と号す)毘沙門堂の地は諏訪神社ではないであろうか。
源順が承平年間に撰進した『和名類聚抄』によれば、多摩郡は十郷より成り立ちその中に川口郷がある。この地は八王子市川口町・上川町の地で、宮田遺跡より出土の「子供を抱く母子像」の土器は考古学史に残るものである。川口川・谷地川・湯殿駕川の流域は水利に恵まれ稲作には適した地であり、早くから開発が進んだ所である。これらの川の上流の谷戸には「谷戸田」があり、小規模な水田が作られていた。
我が国は「瑞穂の国」と古くから呼ばれ、稲作中心で自給自足の生活であったと言われていたが、そのようではなく中世では交易も盛んになり、足りない物資を求めて商業活動をする「百姓」もいたのである。百姓‖農民の図式ではなく、手工業・商業活動に携わっていた。中世初期の荘園では稲作以外に焼畑・畠作・漆・桑・柿・栗・苧等を作り、布・絹・錦等を織り商業活動等を営んでいる。いつの時代も織物は女性の仕事であった。船木田庄内でも各種の産物が作られ、それはら都に送られ、それらを運送する専門の人々もいたであろう。「武蔵多西郡船木田庄について」の研究ノート(杉山博)に文和三年(一三五四)閏十月廿一日船木田年貢代付物送文に、絹・小袖等の代価が記されている。
本稿の題名「儀海みち」は儀海が慈根寺から、宝生寺のある大幡へと歩み、幡峯を越えて川口長楽寺にゆく姿と、新義真言教学に励む求法儀海の人生の過程をイメージしてつけたものである。幡峯から南に望むと由井の深沢山(八王子城のあった山)は円錐形の先端を少し切ったような山容である。この地に住む人々は早い時代からこの山に対する信仰があったと思われる。儀海も幡峯の麓にあった大幡観音堂に身を休め、その縁で宝生寺の開山となったのではないかと思われる。
永仁二年(一二九二)九月二十九日鎌倉幕府は、藤原景経が子息顕政に譲与した船木田新庄由比内横河郷等の領有を保証する。(『日野市史史料集古代中世編』)
〔尊経閣文庫所蔵文書〕一関東下知状
早く左衛門尉藤原(天野)顕政をして領知せしむべき武蔵国舟木田新庄由比内横河村・安芸国志方庄西村・美濃国下有智御厨寺地・橘村ならびに弥四郎兵衛尉遠江国西□山内佐久・八重山・小松崎地頭職 寺地・橘・佐久・八重山・小松崎、後家一期の後、知行すべきの由、譲状に載す、事
右親父安芸前司(天野)景経法師法名心空の去ぬる八月廿日の譲状に任せ、領掌せしむべきの状、仰せによって下知件のごとし。
永仁二年(一二九二)九月廿九日 陸奥守平朝臣(北条宣時)(花押) 相模守平朝臣(北条貞時)(花押) 
九 亀熊成福寺と儀海
茨城県桜川市真壁町亀熊の地は真壁氏が平安時代末期から戦国時代末期まで約四百年間、常陸国真壁郡内に拠点を置き、中央武家権力の推移と並列して郡内の所領経営を保持し続けた所でもある。真壁氏は桓武平氏の一流である。真壁六郎長幹がその祖である。長幹は鎌倉幕府成立後に幕府御家人として『吾妻鏡』にその名がみえる。儀海がこの地を訪れたその理由については不明であるが、儀海の師、鑁海に関係深い寺でもある。『真壁町史料中世編T』に「沙弥淨敬 真壁盛時譲状」と「関東下知状」がある。この地でも儀海のいた時に相論が起きているのが知れる。そして、即円も嘉元二年から三年には亀隅成福寺にいた。
沙祢淨敬 真壁盛時譲状
譲り渡す、常陸国真壁郡内庄家公領の地頭職の事
一 庄内の郷々 大曽祢郷、伊々田郷、南小幡郷、竹来郷
一 公領の郷々 山宇郷、田村郷、亀隅郷、窪郷
右、當郷は、沙祢淨敬の相傳の私領也、仍ち孫子彦次郎平幹重を嫡子として譲り与うる所也、向後、更に他の妨有るべからずの状件の如し
正安元年(一二九九)己亥十一月廿三日
沙祢淨敬(花押)
関東下知状
平氏幷びに妹同氏字は祢々六郎定幹、真壁彦次郎幹重と祖父淨敬遺領を相論する事
右、訴陳状の擬に就いて其沙汰有るの處、氏女等の今年正月□□□□連署状の如くんば、訴陳を番え、和与の儀を以って、永く訴訟を止め畢ぬ□□□□□□□此上は異議に及ばず、彼の遺領においては、淨敬の
正安元年十一月廿三日の譲状に任せて、幹重の知行相違有るべからずの状、鎌倉殿の仰せに依って、下知件の如し   乾元二年(一三〇三)二月五日 
相模守平朝臣(北条師時)(花押) 武蔵守平朝臣(北条時村)(花押)

正安四年(一三〇二)孟春廿三日巳尅於常州真壁成福寺書写畢 為令法住拭老眼写元乞[ ](鑁海ヵ)
正安四年(一三〇二)六月十五日於常陸国真壁郡亀隈郷成福寺講堂西庫書写畢 (梵字二字)(儀海ヵ)二十三
嘉元二年(一三〇四)極月廿一日於常陸国真壁郡亀隈成福寺方丈書写畢 筆師金剛仏子即円廿五
嘉元二年(一三〇四)極月二十七日於常陸国成福寺方丈書了 金剛仏子儀海廿五
嘉元三年(一三〇五)三月十日於常陸国真壁郡亀隅成福寺方丈雖書写之或文字堕落或前後錯乱之間重書写畢 元亨四年(一三二四)八月九日於武州西郡恒常郷高幡不動堂御蔽坊書写畢 権律師儀海四十五歳
嘉元三年(一三〇五)三月十日於常陸国真壁郡亀隅成福寺方丈雖書写之或文字堕落或前後錯乱之間重書写畢
嘉元三年(一三〇五)三月二十一日於常州真壁郡亀隅成福寺方丈書写畢 二十六(儀海ヵ)
干時嘉元三年(一三〇五)五月廿六日於常陸国真壁郡亀隅成福寺方丈書写了十七自年運懇干誠志干今不息間此書感得畢不可令披露之旨可任本記者也 金剛仏子即円廿六
延慶三年(一三一〇)六月五日於常州真壁郡山宇以方丈御本重交合畢 元亨三年(一三二三)四月十日同侶本文交合畢儀海
嘉元三年(一三〇五)六月十一日於常陸国真壁郡亀隈成福寺書写畢 即円廿六
嘉元三年(一三〇五)七月二十日於常陸国真壁郡亀隅成福寺方丈書写畢 金剛仏子 儀海
嘉元三年(一三〇五)七月廿日於常陸国真壁郡亀隈成福寺方丈書写畢 金剛仏子儀海
和三年(一三一四)三月廿二日於常陸国真壁山宇成福寺以御筆本書写之畢 金剛資儀海 
十 川俣甘露寺と儀海
福島県川俣町は川俣盆地を中心に絹織物の町として発展してきた町である。町の歴史は縄文時代の遺跡が多く残されていることから、原始時代の一万年も前にさかのぼれる。古代末から中世にかけて小手保といわれた川俣町は、奈良興福寺の荘園として繁栄した。甘露寺には紀州(和歌山県)根来寺の高僧が住み、川股城跡のふもとからは大量の常滑焼きが見つかっている。川俣町の地名のおこりには二つの説がある。一つはむかし、川俣町・飯野町・月舘町などを含めた地域は「小手郷」と呼ばれていた。これは、養蚕・機織りの祖「小手子姫」の名前に由来するもので、川俣の地名も小手子姫の郷里、大和国(奈良県)高市郡川俣の里にちなんで名付けられたという説、もう一つは、町を流れる広瀬川(小手川)と富田村より流れる五十沢川が合流する地域(川股)の形状から、以来これを川股と称えたという説である。今から一四〇〇年の昔、崇俊天皇の妃、小手姫は政争によって蘇我馬子に連れ去られたわが子を探して川俣にたどりつき、養蚕に適していたこの地で、養蚕と糸紡ぎ、機械の技術を人々に教えたと伝えられている。
信夫郡は、郡そのままが信夫庄という荘園と化し、平泉藤原氏と同族の佐藤氏が福島市飯坂大鳥城に居舘した。これを信夫大庄司といったが、大庄司というのは郡司が荘官を兼ねる場合の称えとされる。
興福寺荘園小手保庄は興福寺門跡である大乗院の荘園台帳『三箇院家抄』に、「小手保庄 陸奥国 五十日談義 関東右大将寄進」とある。興福寺僧が春日社頭で執行する五十日談義に奉仕する出勤料として、源頼朝から安堵されたことを示す史料である。保は多くに場合、国衙の管理下の在地有力者が中心となって開発された土地のことで、その開発者が保司となる。その土地は国衙領内であるが、私領的性格の濃い土地であったので、寄進契約などにより荘園化される例が多かった。小手保もこの場合のように、平泉藤原氏の寄進によって成立したのではなかろうかと想定される。『小手風土記』は「春日神社に、藤原秀衡奉納の太刀、佐藤庄司基冶の寄附之書があり、鶴沢鍛冶内に佐藤堂があって、基冶の持仏が安置され、本尊の後に大法坊円意とある」と記している。大法坊円位は、佐藤氏の同族西行法師の別名であるが真偽のほどはわからない。
小手保が興福寺の荘園になると、神宮寺を建立し、寺の御法神そして荘園鎮守として春日社が勧請されたのであろう。神宮寺について明治初期に渡辺弥七の描いた図によると、その境内は現川俣小学校の西半分を占め、中央に本堂、西に護摩堂、東に庫裡の三棟が何面して一線に並び、大黒天碑・元三大師堂・山王権現堂・地蔵堂があつた。『小手風土記』には、大日堂・薬師堂・十王堂と釈迦堂があつたが今はなしと記し、『神宮寺年中古事覚日記』(大円寺蔵)に五重塔があって本地五仏(釈迦・薬師・地蔵・観音・文殊)を安置してあったが兵火に焼け落ち、近世になって草塔一宇が盛土の上に建ってあったとしている。さらに、『信達二郡村誌』にも、明治初年まで五重塔の基壇礎石があり、廃瓦が山積してあったと記している。神宮寺は荘園領主興福寺が法相宗大本山であったから、当初は法相宗であったが興福寺が真言密教化すると、神宮寺も真言宗となったであろう(『川俣町史中世』)。
興福寺の密教化は西大寺叡尊の戒律復興と共に、法相宗の解脱上人貞慶(一一五五〜一二一三)によってなお進められた。貞慶は「興福寺奏状」も起草している。興福寺と西大寺は本末の関係にある。文永・弘安の役後、寺社は朝廷・幕府の保護によりその勢力を増した。異敵の調伏に功があったという理由である。西大寺叡尊の弟子忍性も得宗北条氏と強い関係を築き全土に影響力を及ぼした。川俣の神宮寺も寺勢を増したであろう。頼瑜もこの地を訪れている可能性がある。儀海は頼縁がこの地にいて布教に努めたことにより川俣を訪れたのである。儀海は文保二年三月から元亨三年八月まで、甘露寺に留まっているようである。その書写の聖教類は膨大な量である。この寺の経済的背景が豊かでなくては成り立たないと思われる。甘露寺は次の真福寺文庫撮影目録の文書によれば神宮寺が該当するのではないだろうか。

文保二年(一三一八)三月廿日奥州陸国小手保河俣宿坊以先師法印頼―御本書写畢 三宝院末資儀海
文保二年(一三一八)三月廿九日於奥州陸国小手保河俣宿坊以先師法印御本書写了 三宝院末資儀海
文保二年(一三一八)四月四日於奥州陸国小手保河俣宿坊以先師法印御本書写畢 権律師儀海三十九
文保二年(一三一八)四月九日於奥州小手保河俣宿坊書写畢 金剛資儀海
文保弐年(一三一八)四月十六日於奥州陸国河俣宿坊書写畢 金剛資儀海卅九
文保二年(一三一八)四月廿三日奥州小手保河俣書写畢 金剛仏子儀海卅九
文保二年(一三一八)四月廿八日於奥州陸国小手保河俣宿坊書写畢 金剛仏子儀海卅九
文保三年(一三一九)四月廿五日於奥州陸国小手保書写了是偏為高祖御遺命御手印縁起三巻修学稽古之隙閣他事令染筆畢 三宝院末資律師儀海満四0
文保二年(一三一八)五月五日於奥州陸国小手保河俣書写畢 金剛資□□(儀海)
文保二年(一三一八)五月十三日於奥州河俣書写畢 金剛資□□(儀海)卅九
文保二年(一三一八)五月十六日於奥州小手保河俣令染筆畢 権律師儀海卅九
文保二年(一三一八)季五月廿日於奥州小手保河俣書写畢 三宝院末資儀海
文保二年(一三一八)五月廿一日於奥州河俣書写畢 求菩提沙門儀海
文保二年(一三一八)季五月廿二日於奥州小手保河俣酉尅令染筆畢 金剛資儀海
文保二年(一三一八)五月二十四日於奥州河俣書写畢 儀海三十九
文保二年(一三一八)五月廿五日於奥州小手保河俣令染筆畢 金剛資儀海三十九才
文保二年(一三一八)五月廿八日於奥州小手保河俣先師法印頼―遺跡以御本書写畢 権律師儀海卅九才 已上十八巻以御自筆本書写畢 儀海
文保二年(一三一八)十月四日於奥州小手河[  ] 儀海
文保三年(一三一九)七月十四日於奥州陸国小手保河俣先師法印以御本書写畢 三宝院末資儀海四十
文保三年(一三一九)閏七月五日於奥州河俣先師頼―法印以御本書写
文保三年(一三一九)閏七月七日於奥州陸国小手保河俣先師頼瑜法印以御本書写畢 金剛資儀海
元応元年(一三一九)閏七月六日於奥州小手保河俣以御本写畢 義(儀)海
元応元年(一三一九)閏七月九日於奥州小手保河俣先師法印頼瑜以御本書写了 金剛資儀海四十
元応元年(一三一九)閏七月十四日於奥州小手保河俣先師法印頼瑜御自筆御本書写畢 金剛資儀海四十
元応元年(一三一九)閏七月十七日於奥州陸国小手保河俣先師法印頼瑜以御本書写畢 金剛資儀海四十
元応元年(一三一九)閏七月廿八日於奥州小手保河俣先師法印頼瑜御本書写畢 三宝院末資権律師儀海四十
元応元年(一三一九)八月四日時正第二於奥州陸国小手保河俣先師法印頼瑜以御本書写畢 金剛資儀海四十
元応元年(一三一九)八月五日時正第三於奥州小手保河俣先師法印頼瑜以御本已上十五巻書写功畢 金剛資儀海生年四十
元享二年(一三二一)四月十二日於奥州小手保河俣甘露寺先師法印以御本書写畢 金剛資儀海四十三
元享二年(一三一九)卯月十二日於奥州六陸国小手保河俣甘呂寺先師法印以御本書写畢 金剛資儀海四十三
元享二年(一三二一)五月一日於奥州小手保河俣坊以先師法印頼―御本書写畢 権律師儀海四十三
元亨二年(一三二一)五月八日於奥州小手保河俣甘露寺護摩堂書写畢 金剛資儀海
元亨二年(一三二一)閏五月十五日於奥州小手保河俣甘露寺護摩堂書写畢 金剛資儀海四十三
元享二年(一三二一)五月二十三日於奥州陸国小手保河俣甘呂寺先師法印頼瑜以御本書写畢権律師儀海四十三
元享二年(一三二一)六月十九日於奥州小手保河俣甘露寺護摩堂書写畢此抄物正和二年(一三一三)五月十三日於高野山金剛峯寺雖書写之失本之間重後書写之偏戸是為無上菩提興隆仏子也 権律師儀海四十三
元享二年(一三二一)八月七日於奥州小平保河俣書写畢 同十八令交合畢 金剛資儀海四十三
元亨三年(一三二二)八月十八日於奥州小手保河俣宿坊以先師法印頼瑜御本書写畢 権律師儀海四十四 
十一 鎌倉大仏と儀海
徳治二年三月二日、関東に大地震(一代要記)。徳治三年七月九日の子刻(午前零時)真夜中であるにもかかわらず、将軍久明親王は佐介ヶ谷より出御して上洛。将軍の地位から降ろされた。このとき三十四歳。その子守邦親王が、わずか七歳で将軍識についた。この頃、北条貞時も祖父時頼以来の廻国使という密偵を諸国に派遣していたことが、『北条九代記』の異本に記されている。同年八月、平政連、北条貞時に諌書を進める。その内容は箇条書きで、㈠政術を興行せらるべき事、㈡早く連日の酒宴を相止め暇景の歓遊を催さるべき事、㈢禅呂の屈請を省略せらるべき事、㈣固く過差を止めらるべき事、㈤勝長寿院を造営せらるべき事の五ヶ条を得宗北条貞時に献言する目的であった。徳治三年は十一月に延慶と改元する。延慶元年十一月、兼好法師、称名寺長老の書状をもって帰洛(金沢貞顕書状に「兼好帰洛之時同十二日禅礼」とあり)金沢貞顕に呈す。同月釼阿、称名寺長老に就任。最近の研究では兼好の鎌倉滞在については疑問視されているが、従来の説によれば兼好は金沢の地にいたことになる。この時期、儀海と即円は共に慈根寺より鎌倉大仏谷の佐々目僧正と呼ばれた頼縁のもとに往き来している。兼好と儀海、即円は鎌倉の何処かで出会い、大仏をどのような思いで眺めていただろうと想像すると楽しい。

徳治二年(一三〇七)四月廿六日於鎌倉大仏谷書写畢 金剛仏子儀海
徳治二年(一三〇七)七月十七日於相州鎌倉大仏谷申尅書写畢 金剛資即円廿八
徳治二年(一三〇七)七月廿四日於相州鎌倉大仏谷午尅令染筆畢 金剛資儀海
徳治二年(一三〇七)七月二十四日於相州鎌倉大仏谷午尅令染筆畢 金剛資儀海
徳治二年(一三〇七)七月卅日於鎌倉大仏谷巳尅許書写畢 願以書写生々世々値遇大師密教聴聞 金剛仏子儀海
徳治二年(一三〇七)八月十二日於相州鎌倉大仏谷入戌尅令交合畢
徳治二年(一三〇七)於相州鎌倉大仏谷申尅書写畢 金剛資即円廿八
徳治二年(一三〇七)八月十二日於相州鎌倉大仏入戌尅令交合畢
徳治三年(一三〇八)四月廿六日於鎌倉大仏谷書写畢 金剛仏子儀海
徳治三年(一三〇八)四月二十九日於鎌倉大仏谷令染筆畢 義海
干時徳治三年(一三〇八)五月六日於相州鎌倉大仏谷辰尅令染筆畢 金剛資義海
干時徳治三年(一三〇八)五月六日於相州鎌倉大仏谷辰尅令染筆畢 願以書写生々世々値遇大師聴聞密教 金剛資義(儀)海
徳治三年(一三〇八)五月十七日於相州鎌倉大仏谷辰 令染筆了金剛資儀海二十九 
十二 高野山と儀海
高野山は弘法大師空海が修禅の道場として一院を建立したのにはじまる。そして空海の入滅の地である。真言宗の聖地で、現在世界遺産に指定されている。中世の高野山を支えたのは高野聖達である。儀海が高野山を訪れたのは根来寺に来寺していた時であろう。
蓮華谷誓願院については荒五郎発心譚がある。これは『高野山通念集』が『蓮華谷誓願院縁起』の荒五郎発心譚としてのせるものであるが、『沙石集』巻九が「悪縁に値うて発心する事」にとりあげているから、その発生は鎌倉中期以前までさかのぼることができよう。しかし『通念集』では、この発心した高野聖由阿弥陀仏の名を荒五郎とし、かれの住房誓願院の本尊を京都三条京極の誓願寺からむかえるなど、誓願寺系時宗聖の手がはいっているようである。この物語の荒筋は、京都三条の荒五郎なるものが、貧乏のために妻にそそのかされて、ある夕暮れに、下女をつれた美しい若妻を刺し殺して、血染めの小袖をはぎとる。これを持って家に帰り妻にあたえると、つまはその美人のながい髪の毛も、なぜ切り取ってこなかったかと責めた。これを聞いて荒五郎は、女の貪欲と残忍に無常を感じて高野にのぼり、蓮華谷の誓願院にはいって、由阿弥陀仏と名のった。ちょうどそのころ、この寺に勒阿弥陀仏という道心者がおっていつしか仲良くなったが、ある夜ふけに、ふとお互いの発心の動機を話し合うことになった。由阿弥陀仏がさきに殺人の罪の懺悔話をすると、勒阿弥陀仏は被害者の着衣や日時から、わが妻であったことを知り、その奇縁におどろく。かれも最愛のつまを人手にかけられて世の無常を知り、出家して高野に登っておったのである。しかしいまは仏道にはいって恩讐をこえた身であるので、これを機にいよいよ道心堅固にして女の後世をとむらった。ところがこの誓願院はたいそう衰微していたから、由阿弥陀仏は京の三条殿に勧化してこれを中興するについて、三条京極の誓願寺の本尊と同木の阿弥陀如来像をむかえたというのである。(五来重著『高野聖』)
南谷には成就院が今現存する。儀海は高野山金剛峯寺南谷宿坊での聖教類を書写した奥書に「報恩院末資権律師儀海」と記している。報恩院は醍醐寺の寺院である。醍醐寺は京都市伏見区醍醐にある真言宗醍醐派総本山で、寺伝では貞観十八年(八七六)に理源大師聖宝が開山とある。醍醐寺は院政期になると、源氏系貴紳が相次いで入山し、特に事相の面で業績を残し東密事相小野流(野沢二流)の中心の地位を得るにいたった。報恩院は成賢(一一六二〜一二三一)によって建立され、報恩院は醍醐寺の門跡を輪番で勤めた三宝院・理性院・金剛院・無量寿院と共に醍醐の五門跡の一つと言われている。

正和二年(一三一三)五月十七日夜戌尅於高野山蓮華谷誓願院書写了 求法沙門(梵字二字)(儀海ヵ)
正和二年(一三一三)七月九日於高野山金剛峯寺蓮華谷誓願院書写畢 此書聞名字年久雖然未得之今幸感得之至宿願処以如是云々 権律師義海卅四
元応元年(一三一九)七月五日於高野山金剛峯寺南谷宿坊賜師主御自筆御本書写畢 以書写功為生々世々大師値遇之縁成聴聞密蔵之因耳 報恩院末資権律師儀海四十一才
元応二年(一三二〇)五月廿六日於高野山金剛峯寺釈迦文院書写畢 金剛資儀海四十一
元応二年(一三二〇)六月三日於高野山金剛峯寺釈迦文院書写畢 儀海
元応二年(一三二〇)七月二日於高野山金剛峯寺南谷宿坊書写畢 権律師儀海
元応二年(一三二〇)七月五日於高野山金剛峯寺南谷宿坊賜師主御自筆御本書写畢 願以書写功為当来大師値遇之縁成聴聞密蔵之因耳 報恩院末資権律師儀海四十一才
元応二年(一三二〇)七月六日於高野山金剛峯寺南谷宿坊書写了 願以書写功為当来大
師値遇縁而已 金剛資儀海四十一
干時元応弐年(一三二〇)七月八日於高野山金剛峯寺書写畢 金剛仏子儀海 
十三 根来寺と儀海
根来寺 和歌山県那賀郡岩出町にある新義真言宗の総本山。一乗山大伝法院と号す。初め豊福寺と称したが、保延六年(一一四〇)覚鑁が高野山から退き、一乗山円明寺を建立して鳥羽上皇(一一〇三〜一一五六)の勅願寺とした。正応元年(一二八八)頼瑜は覚鑁が高野山上に建立した〈大伝法院〉と〈密厳院〉を移し、ここで新義真言の教学を大成した。戦国時代には堂塔伽藍二七〇〇余、寺領七十二万石となり、強力な根来僧兵を置いた。
真言密教の中興の祖・覚鑁は、空海の師であった恵果阿闍梨の生まれかわりといわれている。その根拠は、覚鑁に帰依した鳥羽上皇の夢にちなむものである。鳥羽上皇はある日、夢に恵果和尚を見た。他日、覚鑁の相貌をまじかに見たところ、恵果和尚とまったくちがうところがないことに気がつき、深く帰依することになったという。このような夢は作り事と言われ、今は即座に否定されてしまうが、中世の夢はそれが現実とつながっていた。人々は夢を日記に書きとめ信じ行動していたのである。興福寺大乗院の尋尊も夢をさかんに書きとめている。有名な話であるが、後醍醐天皇が楠正成に出会うきっかけとなったのも夢であった。酒井紀美著『夢から探る中世』はその夢と現実についてよく書かれている。
儀海は永仁三年(一二九五)十六歳の時に最初に訪れ、この時は頼瑜と頼縁に出会っていると思われる。元応元年(一三一九)から同二年霜月廿日までに実に多くの聖教類を書写している。

永仁三年(一二九五)正月十五日於根来寺大谷院之草庵以草案本書写之畢 金剛資儀海
永仁三年(一二九五)閏二月十四日根来寺中性院書写畢 頼縁 儀海
元応元年(一三一九)十一月廿三日於紀州根来寺中性院以御自筆御本書写畢 権律師儀海
元応元年(一三一九)十一月廿五日於紀州根来寺中性院以御自筆御本書写了畢 金剛資儀海四十 一交了
元応元年(一三一九)十一月廿六日於紀州根来寺中性院以御自筆本書写畢 金剛資儀海
元応元年(一三一九)十二月二日於紀州根来中性院以自筆御本書写畢金剛資儀海
元応元年(一三一九)十二月七日於紀州根来寺以中性院御本書写畢 金剛資儀海
元応元年(一三一九)十二月八日於紀州根来寺以中性院御自筆御本書写畢 三宝院末資権律師儀海四十
元応元年(一三一九)霜月九日於紀州根来豊福寺中性院書写了 求法沙門儀海
元応元年(一三一九)十二月十二日於紀州根来中性院々々々之御自筆之以御本書写畢願以書写之功為世々大師値遇之縁而已 権律師資儀海四十一
元応元年(一三一九)十二月十二日於紀州根来豊福寺中性院書写畢 金剛資儀海
元応元年(一三一九)十二月十二日於紀州根来中性院以御自筆頼瑜本書写畢 金剛資儀海四十一
元応元年(一三一九)十二月十二日於紀州根来寺中性院以御本頼―書写畢 願以一部四巻書写劫開自他共恵解為当来得脱因矣 権律師金剛資儀海四十
元応元年(一三一九)十二月十六日於紀州根来寺中性院以御自筆頼瑜御本書写畢右一部八巻以書写開自他恵開兼為当来得脱之縁矣南無大師偏照金剛 金剛資儀海四十 
元応元年(一三一九)十二月十七日於紀州根来寺中性院以御自筆本書写畢 三宝院末資権律師儀海四十一
元応元年(一三一九)十二月廿日於紀州根来寺中性院以御自筆頼瑜本書写畢 金剛資
元応元年(一三一九)十二月二十七日於紀伊国根来寺中性院以御本書写了 権律師儀海四十
元応元年(一三一九)十二月卅日於紀伊国根来寺中性院以御本―書写畢願以一部四巻書写功開自他共恵解為当来得脱因矣 権律師金剛資儀海四十
元応二年(一三二〇)正月三日於紀伊国根来寺中性院以御自筆頼瑜書写畢 金剛仏資儀海四十一
元応二年(一三二〇)正月五日於紀伊国根来寺中性院以御自筆頼瑜本書写畢 後中性院房主頼淳御―云此書唯一人五房之主良殿兄也許之未許余人云々 三宝院末資儀海四十一
元応二年(一三二〇)正月八日於紀伊国根来寺中性院以御本頼―書写畢 醍醐寺三宝院末資儀海四十一 一交了
元応二年(一三二〇)正月十一日於紀州根来寺中性院以御本頼―書写畢 金剛資儀海四十一 
元応二年(一三二〇)正月十二日於紀州根来寺中性院以御本頼―書写畢 金剛資儀海四十一
元応二年(一三二〇)正月十四日夜子尅於紀州根来寺中性院以御本頼瑜書写了以此書写功為当来得脱縁矣 金剛資儀海卌一
元応二年(一三二〇)正月十八日於紀州根来寺以中性院之御自筆御本書写畢 金剛資儀海
元応二年(一三二〇)正月十八日於紀伊国根来寺中性院以御本頼瑜書写畢願以書写功当来大師値遇縁宜自他開恵殊矣 三宝院末資儀海四十一
元応二年(一三二〇)正月廿二日於紀州根来中性院以御自覚(筆)頼―本書写畢 金剛資儀海四十一
元応二年(一三二〇)正月廿五日夜子尅於紀州根来中性院以御自筆頼瑜本書写畢 願以書写功為生々大師値遇之縁兼祖師中性院并先師法印奉廻向御菩提惣開自他恵解共大覚位矣南無大師遍照金剛 権律師儀海四十一
元応二年(一三二〇)正月廿八日於紀州根来中性院書写畢
元応二年(一三二〇)正月晦日於紀州根来寺以中性院之御自筆之御本書写了金剛資儀海
元応二年(一三二〇)正月晦日夜子尅於紀州根来寺中性院書写了 権律師儀海卅一
元応二年(一三二〇)二月四日於紀州根来中性院以御自筆頼瑜御本書写畢
元応二年(一三二〇)二月四日於紀伊国根来寺中性院以御自筆頼瑜御本書写畢 三宝院末資権律師儀海四十一
元応二年(一三一九)二月四日於紀伊国根来寺中性院以御自筆頼瑜御本書写畢 三宝院末資権律師儀海四十一
元応二年(一三二〇)二月八日於紀州根来中性院以御自筆頼瑜御本書写畢金剛資儀海四十一
元応二年(一三二〇)二月十二日於紀州根来寺中性院以御自筆頼瑜御本書写畢 金剛資儀海四十一
元応二年(一三二〇)二月十六日於紀州根来寺以中性院之御自筆本書写畢 金剛仏子儀海
元応二年(一三二〇)二月廿五日於紀州根来中性院以御自筆頼瑜御本書写畢 願以書写功必為当来大師値遇之縁而已 権律師儀海四十一
元応二年(一三二〇)八月廿四日於紀伊州根来中性院以御自筆頼瑜御本書写畢願以書写功徳為当来大師値遇之縁重為祖師御菩提廻向畢 金剛資儀海
元応二年(一三二〇)八月廿四日於紀伊州根来寺中性院以御自筆頼瑜御本書写畢願以書写功徳為当来大師値遇之縁重為祖師御菩提廻向畢 金剛資儀海
元応二年(一三二〇)九月七日於紀州根来寺中性院以御自筆頼瑜御本為仏法興行令書写畢 権律師儀海生年四十一
元応二年(一三二〇)九月十二日於根来中性院以御自筆頼瑜御本子尅令染筆畢為是偏無上菩提興隆仏法也 願以書写生々値遇大師密教聴聞三宝院末資権律師儀海四十一
元応二年(一三二〇)九月十六日於紀州根来寺中性院書写畢 権律師儀海四十一 御自筆以御本重交合畢
元応二季九月十六日於紀州根来寺中性院以御自筆頼―御本書写畢 願以一部三巻書写功為当来大師値遇之縁兼開自他恵解畢 権律師儀海四十一
元元応二年(一三二〇)季九月十六日於紀州根来寺中性院以御自筆頼―御本書写畢 願以一部三巻書写交為当来大師値遇之縁兼開自他恵解畢 権律師儀海四十一
元応二年(一三二〇)十月十七日於夜丑時紀州根来豊福寺中性院書写畢 願以書写功為当来大師値遇之縁而已 金剛資儀海卌一
元応二年(一三二〇)十月二十七日於紀州根来豊福寺中性院書写畢 金剛資儀海
元応二年(一三二〇)十一月廿三日於紀州根来中性院以御自筆畢 権律師儀海
元応二年(一三二〇)霜月五日夜於紀州豊福寺中性院丑尅除睡眠為仏法興隆書写畢 権律師儀海四十一才
元応二年(一三二〇)霜月九日於紀州根来豊福寺中性院書写畢 求法沙門儀海
元応二年(一三二〇)霜月十五日於紀州豊福寺中性院丑時尅書写畢 権律師儀海四十一
元応二年(一三二〇)霜月廿日於紀州根来寺豊福寺中性院書写畢 権律師儀海 
十四 儀海と高幡不動尊
正式名高幡山明王院金剛寺、別称高幡不動。金剛寺は東京都日野市高幡にある真言宗智山派別各本山の寺院、高幡不動の通称でしられる。本尊は不動明王。古来関東三不動の一つにあげられ高幡不動尊として親しまれている。その草創は古文書によれば、大宝年間(七〇一)以前とも或いは奈良時代行基菩薩の開基とも伝えられるが、今を去る一一〇〇年前、平安時代初期に慈覚大師円仁が清和天皇の削がん勅願によって当地を関東鎮護の霊場と定め、山中に不動堂を建立し、不動明王を御安置したのに始まる。のち建武二年(一三三五)八月四日夜の台風によってやんちゅうの堂宇が倒壊したので、時の住僧儀海上人が康永元年(一三四二)麓に移し建てたのが現在の不動堂で関東稀に見る古文化財である。続いて建てられた仁王門ともども重要文化財に指定されている。足利時代の高幡不動尊は「汗かき不動」と呼ばれて鎌倉公方を始めとする戦国武将の尊崇をあつめた、江戸時代には関東十一檀林に数えられ、火防の不動尊として広く庶民の信仰をあつめた。
〔銅造鰐口刻銘〕
(第一面)
敬白 奉懸
右、尋當寺者慈覚大師建立 清和天皇御願所 第二建立平円陽成天皇
彼時頼義朝臣 自於登山 奉崇八幡 第三建立永意得秘密両檀
大旦那美作助貞幷記氏一宮田人鍋師源恒有
文永十年癸酉五月二十日   銀念西守氏 鋳清連
(第二面)
武州高幡常住金剛寺虚空蔵院別当法印
等海   願主乗海
文安二年乙丑二月二日
〔高幡不動尊火焔背銘〕
武州多西郡徳常郷内十院不動堂修複事 右此堂者、建立不知何代、檀那又不知何人只星霜相継、貴賤崇敬也、然建武二年乙亥八月四日夜、大風俄起、大木抜根柢、仍当寺忽顛倒、本尊諸尊皆以令破損、然間暦応二年己夘檀那平助綱地頭幷大中臣氏女、各専合力励大功、仍重奉修造本造一宇幷二童子尊躰、是只非興隆佛法供願、為檀那安穏・四海泰平・六趣衆生平等利済也、仍所演旨趣如件
康永元年壬午六月廿八日修複功畢
別当権少僧都儀海
本尊修複小比丘朗意
大檀那平助綱 大工橘広忠
大中臣氏女  假冶橘行近
儀海は嘉元四年(一三〇六)二十八歳の時、由井横河慈根寺で「秘鍵草」「秘蔵開蔵鈔本」「大日経疏指心抄第一」等頼瑜の本を写して以来、現八王子西部の永徳寺・虚空蔵院・長楽寺・延福寺で開かれた頼縁の講筵に参加し、聖教の書写を精力的に行っている。従って儀海は二十代後半の比較的早い頃から多摩地方に縁を持っていた僧であるが、この事は細谷勘資氏が一九八九刊の『八王子の歴史と文化』第一号で指摘している通り、大仏谷を本拠とした師の頼縁が由井氏と特別なつながりをもっていた事によるものであろう。儀海が高幡不動堂を本拠としていつから止住し、いつまで活躍したかその年月は明らかではないが、元亨四年(一三二四)四十五歳の折、高幡不動堂弊坊で「理趣釈口決鈔第七」を書写しており、その後正中二年(一三二五)に同じく高幡不動堂弊坊で「阿字観秘釈巻上・下」を書写し、さらに元徳元年(一三二九)には師の鑁海を高幡不動堂に迎えて最後の伝授を受けているので、この頃には常住の状態になっていたと考えても間違いないと思われ、それ以後文和三年(一三五四)に弟子宥恵に各種印信をさずけているので、凡そ三十年と見るのが妥当なところであろう。この三十年間は儀海教学の仕上期間であり、その盛名を慕って各地から新義の学僧が数多く儀海の膝下に馳せ参じて勉学に励んでいる。殊に大須真福寺関係の学僧は開山の能信をはじめ実快・能秀・良賢・良慶など数多くの僧が高幡不動堂で学んでおり、また儀海が格別な思いを抱いていたと思われる弟子の宥恵も儀海から伝授された印信を大須真福寺第二世信瑜に伝えているので、本来は大須真福寺と関係あった僧であろう。尚大須関係の僧達は儀海没後と思われる延文年間以降も宥舜・宗恵・良慶・祐信・頼済等の僧が高幡不動堂をはじめ長楽寺・大塚宿坊・由木宿坊・河口別院など儀海ゆかりの寺々を訪ねて聖教の書写に励んでいる(川澄祐勝氏「儀海上人と高幡不動尊金剛寺」『多摩のあゆみ』第一〇四号)。
「大塚宿坊」は大塚の清鏡寺の前身あるいは同所にある観音堂、「由木宿坊」は別所の蓮生寺であろうか。清鏡寺は、文禄元年(一五九二)長銀が再興開山したものであるが、ここには鎌倉時代の作とされる十一面観音立像がある。また蓮生寺については、『吾妻鏡』寿永元年四月二十日条に僧円淨房が平治の乱の後、武蔵国に来て蓮生寺を建立したという記事があって、両者は同じ寺と考えられている(『細谷勘資』)。
元弘三年(一三三三)五月八日、新田義貞は上野国新田郡生品神社で鎌倉幕府打倒の旗揚げをした。そして、足利方と協力し上野・越後・武蔵の兵を糾合して武蔵小手指ヶ原の合戦に臨み、つづいて久米川・分倍河原・関戸と北条方を撃破し鎌倉を落とし北条氏を滅ぼした。元弘の戦いである。武蔵国は北条氏の重要な地盤であった。この地の武士たちもどちらかの陣営に馳せ参じて戦ったと思われる。この時、横山氏直系子孫の横山重真は新田勢に加わり鎌倉で討死した。儀海はこの翌年に由井横河慈根寺にいた奥書があるので、この合戦の時には高幡不動尊におり戦いの帰趨を見守っていたと思われる。敗戦ともなれば寺に逃れ自害となることは享徳の乱(一四五四)の際に上杉憲顕がこの寺で自害していることから、このように大規模な分倍河原の戦いでは、その勝敗が重要であったと思われる。
楠正成の出自については、さまざまな説が出され、商業活動に従事した隊商集団の頭目という側面が強調されている。一方、楠という名字の地が摂津・河内・和泉一帯にないことから、土着の勢力という通念に疑問が出され始めている。『吾妻鏡』には、楠氏が玉井、忍、岡部、滝瀬ら武蔵猪俣党の武士団と並んで将軍随兵となっており、もとは利根川流域に基盤をもつ武蔵の党的武士だった可能性が高い。武蔵の党的武士は、早くから北条得宗家(本家)の被官となって、播磨や摂河泉など北条氏の守護国に移住していた。河内の勧心寺や天河など正成の活動拠点は、いずれも得宗領だった所であり、正成は本来得宗被官として河内に移住してきたものと思われる(海津一朗著『楠木正成と悪党』)。
新人物往来社刊『全譯吾妻鏡』二、建久元年十一月七日条、次の随兵四十二番、に楠四郎とある。海津一朗氏の説を地域的に考えれば新田氏と楠氏の接点はかなり近いと言えないだろうか。越後の新田氏の一族が義貞の旗揚げの日に間に合うのには当時の交通事情からすると、事前に義貞が楠正成と綿密に連絡をとりあっていなければと思われる。千早城攻めから義貞が撤退した時点では、すでに幕府に反旗を翻す計画が正成との間で決まっていたと思われる。
高幡不動尊の不動明王坐像の胎内から発見された胎内文書は、暦応二年(一三三九)に山内経之が高師冬の陣に加わり、北畠親房と常陸駒城での合戦場から家族宛に送られた書状である。その内容は残された家族を心配する深い愛情に溢れている。そして、寺(高幡不動尊)に対して戦費の借用などを頼みこむものである。
○ 月日不明(暦応二年)、経之書状、僧の御方・六郎宛
下河辺庄の向いに着きました。下向しない人は所領を没収されると言われています。その他訴訟をする人などは本領までもとられるとのことです。笠幡の北方の「しほえ殿跡」も………いかにしても銭二、三貫文ほしいのです。大進房に仰せて銭五貫文を借りて下さい。
○ 十月八日(暦応二年)、経之書状、又けさ宛か
寺に申して苦くないお茶をもらって下さい。干柿やかち栗も送って下さい
○ 月日不明山内経之書状の「僧の御方」はその丁寧な言い回しから儀海宛であろうと思われる
元亨四年(一三二四)八月九日於武州西郡恒常郷高幡不動堂御坊書畢 権律師儀海四十五歳
正中二年(一三二五)七月三日於武州高幡不動堂蔽坊書写畢 為偏是旡上菩提更無二心而已 権律師儀海四十六
嘉暦二年(一三二七)十月七日於武州多西郡高幡不動同虚空蔵院弊坊書写了 願以一部十巻書写之功生之世之為大師値遇縁而已 権律師儀海
嘉暦二年(一三二七)九月廿日為興隆仏法書写畢 願以書写功為生之世之大師値遇之縁而已 金剛資(梵字二字)(儀海ヵ)
元徳元年(一三二九)十二月三日於武州多西郡高幡不動堂蔽坊書写畢 右此秘決者先師(梵字二字)(鑁海)上人最後対面之時奉伝授了 誠是依数年之懇功令盛況之権律師儀海 私云酉酉正教与欠受之 私云此抄作者主決之極位加持門之有作伏間根来寺方聖教仁毛哉有之明師ニ可問之可稔云云 右此書者越前金津惣持寺院家不出雖為一代信州諏訪大坊日増法印似初仕数年之懇切テ雖稔書写畢 越中全山台金寺之住呂融儀不思議之感況之可稔云々
元徳元年(一三二九)十二月三日武州多西郡高幡不動堂蔽坊書写畢右此秘决者先師最後対面之尅奉伝授之畢或是依数年之懇切令感徳之畢 権律師儀海
元徳二年(一三三〇)正月四日於高幡不動堂弊坊書写了 金剛資儀海五十一才
空無相理釼印之事 一巻
右於武州虚空蔵院道場授両部潅頂畢 観応三年(一三五二)歳次壬辰三月二十八日胃宿日曜 伝授阿闍梨法印大和尚位儀海
伝法潅頂阿闍梨位事(三宝院憲深方幸心流印信)
観応三年(一三五二)三月二十八日胃宿日曜 伝授阿闍梨法印大和尚位儀海
授大法師宥恵(三宝院憲深方幸心流印信)
文和二年(一三五三)三月二十一日 伝授阿闍梨法印大和尚位儀海
二所皇大神宮麗気秘密潅頂印信 一紙(奥書)
文和二年(一三五三)癸巳五月二十一日 伝授阿闍梨法印大和尚位儀海
端裏「麗気 宥恵」
文和二年(一三五三)十月十六日能信示之傳受阿闍梨法印大和尚位儀海
文和三年(一三五四)四月十九日信慶示之傳受阿闍梨和上大和尚位能信
文和三年(一三五四)七月二十一日於武州高幡不動堂此口决相承了 金剛資宥恵伝授阿闍梨法印大和尚位儀
阿闍梨位宥恵 授印可(三宝院憲深方幸心流印信)
賢密堕情論談鈔 二冊(奥書)
干時文和二年(一三五三)癸巳四月晦日書写畢 武州定光寺談所府中南町上下□同寺令写畢 但書写之趣必好承意目残為稽古同旨雖毛間不顧其令書写畢 同□□毛如法如法々々々々々々々々 頼舜 美濃国方郡福光郷真福寺□門為仏法求学分武蔵国府中安栄寺所学之干数外同此両局難□無中局[   ]
延文六年(一三六一)二月七日於武州多西郡大塚宿坊書写畢 執筆良慶 一交畢
延文六年(一三六一)二月十日於武州多西郡大塚宿坊書写畢 執筆良慶 一交畢
延文六年(一三六一)二月十三日於武州多西郡大塚宿坊書写畢 執筆良慶
延文六年(一三一八)二月十七日於武州多西郡大塚宿坊書写畢 執筆良慶 一交畢
延文六年(一三一八)二月廿日於武州多西郡由木宿坊書写畢 執筆金剛資良慶 一交畢
延文六年(一三六一)三月十八日於武州多西郡横山書写畢 執筆三位 同三月廿日於同州同郡河口長楽寺別当坊交合畢良慶 
十五 立川流と儀海の立場
〔謎めいた邪教のルーツ〕
「近ごろ、世間には、『女犯は真言一宗の肝心、即身成仏の至極なり。もし女犯をへだつる念をなさば、成仏、道遠かるべし、肉食は諸仏の内証、利生方便の玄底なり。もし肉食をきらう心あらば、生死を出る門にまようべし。されば淨不淨を嫌うべからず。女犯肉食をもえらぶべからず』と説く経文が広がっている」。真言宗の僧侶で、越前国豊原寺の誓願房心定が、『受法用心集』のなかでこう嘆いたのは十三世紀のことである。この時代、即身成仏の奥義は男女の性交と肉食にあると説く真言立川流は、僧俗を問わず、広く中世人の魂を魅了していた。その発生をたどると、京都醍醐寺に住して東院阿闍梨ともよばれ、将来、同寺の座主につくことは間違いないと目されていた高僧、仁寛阿闍梨に行きつく。
すでに三十年の長きにわたって左大臣職にある源俊房を父に、東寺の一の長者で三宝院権僧正の勝覚を兄にもち、そのほかの兄弟もすべて高位高官という恵まれた境遇にあった仁寛は、ふとしたきっかけから天皇の継承問題にまつわる内紛に巻き込まれ、永久元年(一一一三)十一月、鳥羽天皇殺害を謀ったとの嫌疑で伊豆大仁の地に流された。そして、それからわずか五ヶ月後の翌三月二十三日、配流先の大仁の岩場から身を投げて果てるのだが、その間に、後に立川邪教と呼ばれるようになった教義を新弟子の陰陽師に伝授したとされる。「武蔵国の陰陽師が仁寛に真言を習い、それを陰陽道に引き入れた。そして、邪正混乱・内外混乱の一派を立てて立川流と称え、真言密教の一流派を構えた。これが邪法の濫觴(始まり)である」(『宝鏡鈔』)仁寛から三世紀はど後の高野山の宥快は、こう記している。
この弟子を、武蔵国立川(東京都立川市)出身の陰陽師・見蓮とする説や、仁寛自害後、高野山に上がって潅頂を受け、同地で寂した定明房覚印が見蓮で、以後立川流がひそかに高野山などの真言僧に浸透していったとの説もあるが確証はない。ともあれ立川流は、この仁寛に由来する理論によって芽吹き(仁寛に法を伝えたのは兄の勝覚との説もある)弟子の陰陽師たちがそこに種々の陰陽道説や邪見を加え、一部僧侶らも加担して儀軌・経典類を備えて次第に完成していったというのが定説である。やがて、十四世紀にいたると、その教えは本拠地である関東・北陸から中部を経て、近畿一円、さらには四国を除く西国にまで広まっていた。その宣伝に最も力があったのが武蔵国立川を拠点とする陰陽師だったため、世間ではその信者を指して「あれは立川だ」と呼称し、ために立川流という名称が定着したのであろうと、真言宗大僧正の守山聖真は名著『立川邪教とその社会的背景の研究』で述べている。
立川流は単なる異端邪教ではなかった。先に見てきたように、教相と事相を備え、膨大な経典類をかんびしていた。その中心経典は「三経一論」と呼ばれる。三経とは三つの経典がセットで三種、つごう九種の経典からなる。誓願房心定が書写したリストには唐の一行訳とされる『五蔵皇帝経』『妙阿字経』『真如実相経』の一セット。不空三蔵訳の『七甜滴変化自在陀羅尼経』『有相無相究竟自在陀羅尼経』『薬法式術経』一セット。善無畏三蔵訳の『如意宝珠経』『遍化経』『無相実相経』一セットの三経と『一心内成就論』が挙げられるが、いずれも立川流行者・僧侶による偽経である。
大胆に性を肯定し、呪法による現世利益と即身成仏をといた立川流は、実に広範な信者を獲得し、他宗にも強い影響を及ぼした。たとえば日蓮が弟子の四条金吾に宛てた書簡には、「男女交合のとき、南無妙法蓮華経ととなうるところを、悩即菩提、生死即涅槃というなり」という一節がみられる。また、浄土真宗では、高田専修寺の真慧(十五世紀)がこんなことを書いている。「息の出入りに阿弥陀仏あれば、口中は阿弥陀の道場なり。かくのごとく領解するを往生というなり。……(南無阿弥陀仏は)一切衆生の父母なり。父母とは、阿とは母、吽は父なり。……この息、口を開けば阿と出入りす。出息は阿と出、入息は吽と入る。これ息位成仏のいわれなり」(『十箇の秘事』/速水侑『呪術宗教の世界』より引用)ここでは、男女の性的交わりによって即身成仏にいたるという立川流の思想が、「南無阿弥陀仏」を唱える阿吽の呼吸に置き換えられている。阿吽の意義づけは、先の立川流の理論のところで説明した。立川流の性的シンボリズムがいかに当時の人々の心を深く魅了したかが、この文意からも伝わってくる。浄土宗にも同じような異端があつた。その流派に属するものは、念仏の「念」の字を「人二人ノ心」と分解した。そして、往生にいたる念仏とは、念の字に秘められているように、男女二人が交わって恍惚境に入り、心がひとつになった刹那に発する「南無阿弥陀仏」の一念だと主張したのである。
けれども、既成仏教の根底を揺るがし、社会秩序の紊乱にも直結しかねない立川流は、いつまでも放置されることはなかった。立川流撲滅に立ち上がった僧侶のよる弾劾、立川流経典・著作の焚書などが行われ、立川流という「邪教」「悪見」に染まると、仏教を守護する諸天の罰をこうむり、事故死や変死、物狂い、疫病死、自殺、夭折など、りくな死に方はせず、死後も無間地獄に落ちて永遠の業苦のなかに沈まなければならないという宣伝が、広く行われた。こうした惜敗撲滅運動が功を奏し、立川流の熱病のごとき流行も、戦国時代にいたるころにはようやく下火になった。(『真言密教の本』学研刊より引用)
立川流 醍醐三宝院勝覚(一〇五九〜一一二九)の俗弟仁寛が始祖とされる。仁寛は御三条天皇の第三皇子である輔仁親王の護持僧であったが、謀反の企てに座して永久元年(一一一三)伊豆に配流され、名を蓮念と改めた。仁寛は在俗の人々に真言密教を授けていたが、武蔵国立川の陰陽師がそれを習うとともに、陰陽道を密教に混入して広めた。後世これを〈立川流〉と称するようになった。この間の経緯は詳細ではないが、その法流の兼蓮・覚印・覚明やその弟子系統の道範や明澄などを通じて高野山・泉州・丹後に伝播し、勧修寺流良弘の付弟真慶による太古流もその一派と見られ、さらに多くの門流の人々によって諸国に流布され、浄土宗や浄土真宗にも影響している。なお南北朝期に弘真(文観)が出て大成したと伝える。
その教義は、大仏頂首楞厳経第九に「男女二根は即ち是菩提涅槃の真処」とあり、『理趣教』巻下に「二根交会して五塵の大仏事を成ず」ということに基づき、陰陽男女の道を即身成仏の秘術とするなど、性の大胆な肯定が見られ、しばしば邪教として排撃され、たとえば宥快の『宝鏡鈔』などには、その系譜・教理・典籍などを示し、批判をしている。このため、残存する典籍が少なく、実態は不明のところが多い。しかし神道への影響も見られ、中世において無視できない思想潮流である。天台宗の玄旨帰命壇と対比される。
立川流についての研究書は多いが、守山聖真・櫛田良洪・笠間良彦・真鍋俊照の各氏が出版されている。櫛田良洪氏の説よれば、称名寺に伝わった意教流は立川流で、その法脈は、蓮念・見蓮・覚印・覚秀・淨月・空阿・慈猛・審海となっている。儀海も、慈猛・鑁海・儀海とその法脈を伝授している。しかし、櫛田良洪氏によれば、これらの立川流には邪見の入り込む余地はないと指摘されている。そして、称名寺の別の立川流である女仏については明らかに邪流であるとされている。
「…一つだけ未解決の大問題がある。それは平安末から鎌倉前期にかけて流行し、教義と実践の両面で無視できない影響を与えた密教の一形態である。具体的にいえば、真言系の立川流と天台系の玄旨帰命壇である」(立川武蔵・頼富本宏編『日本密教』)。
多摩川をはさんで武蔵国立川(東京都立川市)と高幡不動尊(東京都日野市)は位置する。距離にすると約四キロメートル程であろう。立川流発祥の地は、現在東京都立川市にある諏訪神社辺と思われる。
晩年の儀海は高幡不動尊に常住していた。寺の記録によれば観応二年(一三五三)二月二十四日の示寂とされるが、謎の部分もある。応永二十二年(一四一五)二月、沙門乗海が金剛寺不動堂を旧地に移築することを発願し、勧進帳を作る。この勧進帳には儀海について次のように記されている「……しかるに去る建武二年(一三三五)のころ、一人の沙門あり。精舎の風損顛沛を嘆きて、奔営修興造りおわんぬ。すでになりて行方知らず退失す。ひとえに冥慮と謂いつべし。……」。勧進状は発願者乗海が、当時の名文家・神代寺長弁和尚にその案文を依頼したもので、その草案は長弁の文集「私案抄」にも載っているが、当時きっての名文家長弁の文学的表現によるものであり修飾されているようであるが、文和三年(一三五四)までは生存が確認できる。儀海の生年は弘安二年(一二七九)と推定させるので文和三年には七十六歳となり、当時としては相当な長寿であった。金剛寺文書には室町後期に法流相承の失敗があった旨の記述があり、これが儀海の最晩年について謎となる原因であると思われる。 
あとがき
筆者は終戦の年、父母は母方の縁を頼って南多摩郡元八王子村に疎開して、村の慈根寺跡(後に知った)で生まれた。母の叔母の一人は福島県川俣町(川俣甘露寺跡)に縁づき、一人は岡山県新見市に嫁いで、真壁姓となった。この地の真壁氏は茨城県桜川市真壁町亀熊(亀熊成福寺のあった所)の真壁氏の庶流が新見庄に移住したものである。私が『儀海みち』を書こうと思い始めて十五年程となるが、不思議な縁である。いまでは筆者の郷土史研究の大きなテーマともなっている。
真福寺文書の奥書に儀海は求法沙門と記しているが、未熟な筆では仏法についてまで追求して書けなかった。尚一層の努力が必要であろう。
日本が末法に入ったのは永承七年(一〇五二)と考えられている。その年より考えると二〇〇八年の今日は滅法の時代であろう。仏教は次第に衰退してゆくという歴史観をもつているが、仏法を求める人々の声は、昨今の事件・事故・経済情勢よりすれば多くなるであろう。神仏を信じるか否かは我々に課せられた最後の問いでもある。否と答えて、生涯を神仏について考える事なく、人々が平凡に暮らせる日が来ることを願うものである。
   平成二十年十二月吉日