祟り・御霊

祟り祟り神憑依憑きもの筋御霊信仰御霊祟り と祟り神御霊信仰と御霊会御霊信仰の諸相崇道天皇呪われた平安京遷都悲劇の人物と怨霊平城天皇1御霊神社井上内親王長屋王藤原吉子平城天皇2菅原道真菅原道真雑話菅原道真の怨霊怨霊出雲大社都の怨霊飛騨の牛蒡種富岡八幡宮事件藁人形・ ・・
陰陽師陰陽道の幻想識神の正体陰陽師と神主安倍晴明(今昔物語)日本の暦陰陽道と狐葛の葉信太妻の話平将門と瀬織津比・・・
 

雑学の世界・補考   

祟り(たたり) 1

神仏や霊魂などの超自然的存在が人間に災いを与えること、また、その時に働く力そのものをいう。
類似の概念として呪(のろ)いがある。祟りは神仏・妖怪による懲罰など、災いの発生が何らかの形で予見できたか、あるいは発生後に「起こっても仕方がない」と考えうる場合にいう(「無理が祟って」などの表現もこの範疇である)。これに対し呪いは、何らかの主体による「呪う」行為によって成立するものであり、発生を予見できるとは限らない。何者かに「呪われ」た結果であり、かつそうなることが予見できたというケースはあり得るので、両概念の意味する範囲は一部重なるといえる。
日本の神は本来、祟るものであり、タタリの語は神の顕現を表す「立ち有り」が転訛したものといわれる。流行り病い、飢饉、天災、その他の災厄そのものが神の顕現であり、それを畏れ鎮めて封印し、祀り上げたものが神社祭祀の始まりとの説がある。
現在では一般的に、人間が神の意に反したとき、罪を犯したとき、祭祀を怠ったときなどに神の力が人に及ぶと考えられている。何か災厄が起きたときに、卜占や託宣などによってどの神がどのような理由で祟ったのかを占って初めて人々に認識され、罪を償いその神を祀ることで祟りが鎮められると考えられている。神仏習合の後は、本来は人を救済するものであるはずの仏も、神と同様に祟りをもたらすと考えられるようになった。これも、仏を祀ることで祟りが鎮められると考えられた。しかしこれはあくまでも俗信であり、仏教本来の考え方においては、祟りや仏罰を与えることはない。
怨霊による祟り
後に御霊信仰の成立により人の死霊や生霊も祟りを及ぼすとされるようになった。人の霊による祟りは、その人の恨みの感情によるもの、すなわち怨霊である。有名なものとしては非業の死を遂げた菅原道真(天神)の祟りがあり、清涼殿への落雷や醍醐帝の死去などが祟りによるものと強く信じられるに至った。時の公卿は恐懼して道真の神霊を北野天神として篤く祀り上げることで、祟り神を学問の守護神として昇華させた。このように、祟り神を祭祀によって守護神へと変質させるやり方は、恐らく仏教の伝来以降のものと考えられ、それ以前の最も原始的な日本人の宗教観は「触らぬ神に祟りなし」のことわざどおり、御室の深奥でひっそりと鎮座する神霊を、機嫌を損ねて廟域から出ないように、ただ畏れて封印するものだったのかもしれない。
一方、怨霊として道真と並んで有名な平将門の将門塚周辺では天変地異が頻繁に起こったといい、これは将門の祟りと恐れられた。時宗の遊行僧・真教によって神と祭られて、延慶2年(1309年)には神田明神に合祀されることとなった。また、東京都千代田区大手町にある将門の首塚は移転などの計画があると事故が起こるという話もある。
様々な祟り
全国各地に見られる「祟り地」の信仰も原始的な宗教観を映し出していると見ることが出来る。祟り地とは特定の山林や田畑が祟ると恐れられているもので、そこで木を伐ったり、所有したりすると家人に死者が出るという。東海では「癖地」「癖山」などといわれ、地方により「祟り地」「オトロシ所」「ばち山」「イラズ山」などの呼称がある。こういった場所には昔、処刑場があったとか縁起の悪い伝承が残っていることが多いが、このような土地は古えの聖域、祭祀場であり、本来、禁忌の対象となっていたものが信仰が忘れられて祟りの伝承だけが残ったという見解もある。
神木や霊木の祟りも全国によく見られる話である。日本では今でも古くからの巨木・老樹に対する信仰が残っているが、民間にも老樹にまつわる祟り伝承があり、信州には斧で切ると血を流したという一本松の伝説があり、各地に似たような話が伝わっている。
同様に「動物霊」も祟ると考えられており、特に猫の怨霊は恐れられ、「猫を殺すと七代祟る」といった俗信がある。
近年では民間宗教者や新宗教により「水子の祟り」、「先祖の祟り」なども盛んに喧伝されるようになってきている。前者は人工中絶の増加に目を付けたもの、後者は核家族化により先祖供養が粗略となった実情に着目し、除霊、鎮魂、供養を行えば不幸・障害が取り除かれると説くものである。
古来、祟るとされた動物
稲荷信仰において狐は神使とされ、三輪山信仰では蛇が神の仮の姿とされる。したがってこれらの動物を害した場合は報いを受けると信じられる。
それとは別に、九尾の狐や猫又・化け猫といった怪異譚から、狐や猫に人を祟る能力があるとする俗信も広く存在した。猫にまつわるジンクスは西洋にも存在する。
祟り 2  
神霊、死霊、精霊、動物霊などが一種の病原体として、人間や社会に危害を加え自然界に災禍をもたらすとする信仰現象のこと。しかし〈たたり〉はかつて折口信夫が説いたように、もともとは神が何らかの形でこの世に現れることを意味した。それがやがて、神霊や死霊の怒りの発現もしくはその制裁や処罰の発生として〈祟り〉が意識されるようになった。すなわち神の示現としての〈たたり〉から霊威による災禍もしくは危害をあらわす〈祟り〉へと変化したのである。
はじめの、神の示現としての〈たたり〉は、古く神霊が磐座(いわくら)や神籬(ひもろぎ)に降臨することであったが、同時に特定の人間に憑依(ひようい)して託宣や予言を下すことでもあった。たとえば神代紀の天鈿女(あめのうずめ)命、崇神紀の倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)命、仲哀紀の神功皇后などが突然神がかりして、狂躁乱舞したり神霊の意志を伝えたりしたのがそれである。こうして〈たたり〉が人間に現れる場合は憑霊状態を示し、いわゆるシャマニズムのさまざまな心的機制を生ぜしめることになるが、今日、下北半島のイタコや沖縄のユタなどに伝えられているホトケオロシやカミオロシなどの巫儀も、この〈たたり〉現象に属する。
次に、神霊や死霊の示現が災禍や危害をともなうとされる場合の〈祟り〉は、当の神や死者の怨みや怒り、そして浄められずに空中を浮遊する邪霊、鬼霊の働きなどによるものとされ、とりわけ平安時代になって御霊(ごりょう)や物の怪(もののけ)の現象としてひろく人々の間に浸透し、恐れられた。なかでも〈祟り〉の現象が社会的な規模で強く意識されたのは平安前期の御霊信仰においてである。御霊とは政治的に非業の死をとげた人々の怨霊をいい、それが疫病や地震・火災などをひきおこす原因とされたのである。このような御霊信仰の先例はすでに奈良時代にもみられ、僧玄隈(げんぼう)の死が反乱者である藤原広嗣の霊の祟りによるとされたが、平安時代に入ってからはとくに権力闘争に敗れた崇道(すどう)天皇(早良親王)、伊予親王、橘逸勢(たちばなのはやなり)などの怨霊が御霊として恐れられ、863年(貞観5)にはその怒りと怨みを鎮めるための御霊会(ごりようえ)が神泉苑で行われた。また承和年間(834‐848)以降は物の怪の現象が文献に頻出するようになるが、これはやがて《源氏物語》などのような文学作品、《栄華物語》のような史書のなかでも大きくとりあげられるようになった。その場合、物の怪も主として病気、難産、死、災異などの原因とされ、それを退散させ駆除するために僧による加持祈裳が行われた。そしてこれらのさまざまな祟り現象の頂点を示す事例が、菅原道真(すがわらのみちざね)の怨霊による怪異な事件であった。清涼殿への落雷から醍醐天皇の死にいたる一連の社会的・個人的な異変が、大宰府で憤死した道真の怨霊によるとされたのである。この平安朝を通じての最大の祟り霊は、やがて北野天神としてまつられ、学芸の神としての天神信仰が形成されることになった。最大の祟り霊が反転して強力な守護神に変じ、崇敬されるようになったのである。
以上からもわかるように、祟り霊はその規模のいかんを問わず祭祀や祈裳によって鎮められるとの観念が生みだされた。つまり祟りと鎮魂との相関が意識されることになったのであるが、それは全体として閉鎖的な社会・政治環境における精神病理的な現象であったと考えることができる。ところで、このような祟りと鎮魂のメカニズムは、道真の事例においてみられるように、それ以降の日本の政治史にもしばしば現れるようになった。とりわけ権力や政権の交替期には政治的に非業の死をとげる人間が大量に生みだされるため、その死霊や怨霊を鎮める儀礼がさまざまな文脈において行われた。たとえば現代の問題としていえば、戦争の犠牲者を靖国神社にまつり、その霊を鎮めることによって国家の政治的罪悪性を免罪し、祟りの発現を回避しようとする企てが支配層によって行われたのもその一例である。また今日の新宗教運動の多くが、現在の不幸や病気の原因を先祖の霊の祟りの作用であると説明し、その祟りの消除のため先祖供養を勧めているのも、古くからの祟り信仰に基礎をおいたものということができるであろう。
以上述べてきた祟り現象の諸相は、要するに特定の人間の執念や怨念が凝りかたまって呪詛霊となり、それに感染することによって異常現象が発生するというものであるが、これはある意味でニーチェのいう〈ルサンティマン(怨恨感情)〉の発現と類似している。かつてニーチェは、原始キリスト教の成立とフランス革命の発生の心理的動機を、社会の水平化現象をひきおこすルサンティマンによって説明しようとした。すなわち逆境にある者、虐げられた者の反抗の倫理、不自由な、持たざる弱者たちによる強者への復讐の感情がそれであるとしたのであるが、これは日本における祟りの発現が、つねに共同体内部における社会病理学的現象として意識されたことと好対照をなす視点であるといえよう。怨恨感情の解放が社会変革への導火線となったというのがニーチェの考えであるが、これに対して日本の伝統的な祟り信仰は、その病原体としての祟りを呪術・宗教的に鎮静させ、最終的にそれを除去することを目ざす点で社会変革のための心理的動機にはなりにくかったということに注目すべきであろう。
 
祟り神(たたりがみ)

 

荒御霊であり畏怖され忌避されるものであるが、手厚く祀りあげることで強力な守護神となると信仰される神々である。また、恩恵をうけるも災厄がふりかかるも信仰次第とされる。すなわち御霊信仰である。その性質から、総じて信仰は手厚く大きなものとなる傾向があり、創建された分社も数多い。
平安京、京の都で長くとりおこなわれている祇園御霊会は、祟り神を慰撫し鎮魂する祭りである。主祭神である「祇園神」「牛頭天王」はまさにこの意味での祟り神の代表格であり、疫病をもたらす厄神であると同時に、手厚く祀る者には守護神として働くとされ、全国各地に牛頭天王社が創建された。
素盞嗚尊によって退治された八岐大蛇などは代表的な祟り神である。八岐大蛇から現れ出た宝剣天叢雲剣は三種の神器として神剣として祀られる。
しかしながら、『日本書紀』には天武天皇が天叢雲剣の祟りが原因で崩御、『日本後紀』には桓武天皇が十握剣(八岐大蛇を征服した宝剣)の祟りが原因で崩御したとあり、神剣の祟りは相当なものと認識されていたようである。
前者は熱田神宮から盗まれ行方不明だった天叢雲剣が献上され宮中にとどめおいたところ、後者は石上神宮から平安京へ無理矢理移動させたため祟ったとある。結局、畏れをなされた神剣は元の場所に戻されることとなった。
御霊信仰
非業の死を遂げ畏れられたもの、たとえば菅原道真や崇徳院、平将門は祟り神に部類される神として祀られている。
八所御霊
崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原吉子、橘逸勢、文室宮田麻呂、菅原道真、吉備真備、井上皇后の御霊を総して八所御霊といい、各所で祟り神として祀られている。

憑依(ひょうい)

 

霊などが乗り移ること。憑(つ)くこと。憑霊、神降ろし・神懸り・神宿り・憑き物ともいう。とりつく霊の種類によっては、悪魔憑き、狐憑きなどと呼ぶ場合もある。
「憑依」という表現は、ドイツ語の Besessenheit や英語の (spirit) possession などの学術語を翻訳するために、昭和ごろから、特に第二次世界大戦後から用いられるようになった、と池上良正によって推定されている(#訳語の歴史を参照)。ファース(Firth, R)によれば、「(シャーマニズムにおける)憑依(憑霊)はトランスの一形態であり、通常ある人物に外在する霊がかれの行動を支配している証拠」と位置づけられる。脱魂(英: ecstassy もしくは soul loss)や憑依(英: possession)はトランス状態における接触・交通の型である。
宗教学では「つきもの」を「ある種の霊力が憑依して人間の精神状態や運命に劇的な影響を与えるという信念」とする。
訳語の歴史
人類学、宗教学、民俗学などの学術用語として用いられるようになった「憑依」あるいは「憑霊」という表現は、明らかにドイツ語の Besessenheit や英語の(spirit) possession などの翻訳語であり、欧米の学者らが使用する学術用語が日本の学界に輸入されたものである、と池上良正は指摘した。1941年(昭和25年)のある学術文献には「憑依」の語が登場した。一般化したのは第二次世界大戦後だろうと、池上良正は推定した。
「憑依」という学術用語が用いられるようになって後は、この用語に関して、様々な理論化や類型化が行われてきた。例えば、憑依という用語にとらわれすぎず、「つく」という言葉の幅広い含意も踏まえつつ憑霊現象をとらえなおした小松和彦の研究などがある。
「憑依」という用語と分類の恣意性
ただし、学術的な研究が進むにつれて、当初は明確な輪郭をもっているように思われた「憑依」という概念が、実は何が「憑依」で何が「憑依」でないか線引き自体が困難な問題であり、評価する側の価値判断や政治的判断が色濃く反映され、バイアスがかかってしまっている、やっかいな概念である、ということが次第に認識されるようになってきた。
というのは、大和言葉の「つく」という言葉ならば、「今日はツイている」のように幸運などの良い意味で用いることができる。ところが「憑依」は否定的な表現である。英語の be obsessed や be possessed などは否定的な表現であり、「憑依」も否定的に用いられてしまっているのである。現実に起きていることはほぼ類似の現象であっても、書き手の側の価値判断や政治的判断によってそれを呼ぶ表現が恣意的に選ばれてしまい、別の表現になってしまっているのであるといったことを池上などは指摘する。
例えば聖書には次のようなくだりがある。
イエスはバプテスマを受けると、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように自分の上に下ってくるのをご覧になった。また天から声があって言った。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である(マタイによる福音書、3.16)
祈りが終わると、彼らが集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。(使徒行伝 4.31)
このような箇所が翻訳される場合は肯定的に表現され、「憑依」を暗示するような訳語は使われず、このような箇所は「憑依」に分類されてこなかったのである。一方、同じく聖書には次のようなくだりがある。
イエスが向こう岸のガダラ人の地に着かれると、悪霊に取りつかれた者がふたり、墓場から出てきてイエスのところにやって来た。二人は非常に凶暴で(中略)、突然叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ時ではないのに、ここにきて、我々を苦しめるのか」。はるか離れたところで多くの豚の群れがえさをあさっていた。そこで悪霊たちはイエスに願って言った。「もし我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」。イエスが「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると豚の群れは崖から海へなだれこみ、水の中で死んだ。豚飼いたちは逃げ出し、町に行き、悪霊に取りつかれた者のことなど一切を知らせた。(マタイによる福音書8.28-33)
これなどは「取りつかれた」などの「憑依」を暗示する用語・訳語が選ばれ、そういう位置づけになっている。一方、沖縄のユタと呼ばれる人がカミダーリィの時期を回想した体験談に次のようなものがある。
そして神様に歩かされて、夜中の3時になるといつもウタキまで歩かされて、そうすると、天が開いたように光がさして、昔の(琉球王朝の)お役人のような立派な着物を着たおじいさんが降りて来られて「わたしの可愛いクァンマガ(子孫)」とお話をされる。
この体験談を聖書の引用と比較してみると、明らかにイエス自身の事跡を示したマタイ伝3.16以下のくだりと酷似している。まともに判断すれば、マタイ伝3.16のくだりと同じ位置づけで研究されてもようさそうなはずのものなのだが、ところが学術の世界では「ユタと言えばカミダーリィ(神がかり)。だからシャーマン。巫者。だから”憑依”される人物だ」といったような、冷静に検討すれば、あまり正しいとは言えない理屈で分類されるようなことが行われてきたのである。
キリスト教徒のなかには、「キリスト教徒以外の異教徒はすべてサタンによって欺かれている」などと言う人もおり、キリスト教の外にあるイタコやユタなどは”悪霊に憑かれた者”に分類し、それに対して、キリスト教の中にある聖霊に関しては「憑かれる」とは表現しない、と池上は指摘した。こうした表現や用語の選定段階には、聖書の編者たちやキリスト教徒たちの価値判断や解釈が埋め込まれてしまっているのである、と池上は述べた。学者らがこうしたキリスト教徒の「信仰」自体を批判する筋合いにはないが、問題なのは、こうしたキリスト教信仰による分類法が、「学術研究」とされてきたものの中にまでも実は深く入り込み、研究領域が恣意的に分けられてしまうようなことが行われてきたことにある、と池上良正は指摘した。つまり、「ついた」「神がかった」などという表現があると「憑依」や「シャーマニズム」に分類して、宗教人類学や宗教民俗学の守備範囲だとし研究されたのに、「(イエス・キリストが)天が開け神の御霊が鳩のように自分の上に下ってくるのをご覧になった」という記述や「高僧に仏の示現があった」「見仏の体験を得た」という記述は、別扱いになってしまい、キリスト教研究や仏教研究の領域で行われる、ということが平然と行われてきたしまったといった内容のことを池上は指摘した。
古代ギリシャ
プラトンはその著作『パイドロス』の中で「神に憑かれて得られる予言の力を用いて、まさに来ようとしている運命に備えるための、正しい道を教えた人たち」と、前4世紀当時のギリシャの憑依現象について紹介している。『ティマイオス』では、憑依された人が口にする予言や詩の内容を、客観的な視点から理性を用いて的確に判断し解釈する人が傍らに必要であることを述べている。
アブラハムの宗教
アブラハムの宗教であるユダヤ教もキリスト教もイスラム教にも、預言者が登場する。これは神が宿ったものともいえる。(預言、福音、啓示)
キリスト教 / 新約聖書の福音書で「つかれた」と訳される δαιμονίζομαι の語は、パウロ書簡にはでてこない。ルーダンの憑依事件(英語版)について、神学者のミッシェル・セルトーが、神学、精神分析学、社会学、文化人類学をクロスオーバーさせつつ分析している。カトリック教会の神学では、夢遊病的なもの(the somnambulic)の型のつきものに possession の名を与え、正気のもの(the lucid)の型のつきものに obsession の名を与えている。
神道・古神道
大相撲も、皇室に奉納される神事であり、横綱はそのときの「戦いの神」の宿る御霊代である。
祓い/ 昔の巫女は1週間程度水垢離をとりながら祈祷を行うことで、自分に憑いた霊を祓い浄める「サバキ」の行をおこなうこともあった。
日本語における憑依の別名 /
神宿り - 和御魂の状態の神霊が宿っている時に使われる。
神降ろし - 神を宿すための儀式をさす場合が多い。「神降ろしを行って神を宿した」などと使われる。降ろす神によって、夷下ろし、稲荷下ろしと称される。
神懸り - 主に「人」に対し、和御魂の状態の神霊が宿った時に使われる。
憑き物 - 人や動物や器物(道具)に、荒御魂の状態の神霊や、位の低い神である妖怪や九十九神や貧乏神や疫病神が宿った時や、悪霊といわれる怨霊や生霊がこれらのものに宿った時など、相対的に良くない状態の神霊の憑依をさす。
ヨリマシ -尸童と書かれる。祭礼に関する語で、稚児など神霊を降ろし託宣を垂れる資格のある少年少女がそう称された。尚柳田國男は『先祖の話』中で憑依に「ヨリマシ」のふりがなを当てている
民俗学における憑依観
民俗学者の小松和彦は、憑き物がファースの定義による「個人が忘我状態になる」を伴わないことや、社会学者I・M・ルイスの「憑依された者に意識がある場合もある」という指摘以外も含まれることから、憑依を、フェティシズムという観念からなる宗教や民間信仰において、マナによる物体への過剰な付着を指すとした。そのため、「ゲームの最中に回ってくる幸運を指すツキ」の範疇まで含まれると定義する。さらに、そのような観点から鑑みるに、日本のいわゆる憑きもの筋は「possession ではなく、過剰さを表す印である stigma」であるとする。また、谷川健一は、「狐憑き」が「スイカツラ」や「トウビョウ」など、蛇を連想させる植物でも言われることから、「蛇信仰の名残」とし、「狐が憑いた」という説明を「後に説明しなおされたもの」と解説している。
医学と憑依
医学においては森田正馬(森田療法で有名)は祈祷性精神病を研究した。医学領域では、憑依とされているものの一部は、精神疾患の一種と解釈したほうがよいと判断することがある。
ただし、沖縄では「ターリ」あるいは「フリ」「カカイ」などと呼ばれる憑依現象は、その一部が「聖なる狂気」として人々から神聖視された。そのおかげで憑依者は、治療される対象として病院に隔離・監禁すべきとする近代西洋的思考に絡め取られることは免れた、ともされる。
沖縄の本土復帰以降には、同地に精神病院が設立されたものの、同じころ(西洋的思考の)精神医学でも「カミダーリ」なども、人間の示す積極的な営為の一つであるというように肯定的な見方もなされるようになったおかげで、沖縄は憑依(の一部)を肯定する社会、として現在まで存続しているともされている。
超常現象研究からの所見
職業霊媒のように、人間が意図的に霊を乗り移らせる場合もある。だが、霊が一方的に人間に憑くものも多く、しかも本人がそれに気がつかない場合が多い。とりつく霊とされているのは、本人やその家族に恨みなどを持つ人の霊であったり、動物霊であったりする。何らかのメッセージを伝えるために憑くとされている場合もあり、あるいは本人の人格を抑えて霊の人格のほうが前面に出て別人になったり、動物霊が憑依した場合は行動や容貌がその動物に似てくる場合もある。こうした憑依霊が様々な害悪を起こすと考えられる場合は、それは霊障と呼ばれている。

ピクネットによる説明 / 超常現象専門の研究者であるピクネットは、種々の文献や、証言を調査して以下のように紹介している。
歴史 / 憑依は太古の昔から現代まで、また洋の東西を問わず見られる。すでに人類の歴史の初期段階から、トランス状態に入り、有意義な情報を得ることができるらしい人がわずかながらいることほ知られていた。部族社会が出現しはじめた頃、憑依状態になった人たちはいつもとは違う声で発語し、周囲の人々は霊が一時的に乗り移った気配を感じていたようである。初期文明では憑依は「神の介入」と見なされていたが、古代ギリシャのヒポクラテスは「憑依は、他の身体的疾患と同様、神の行為ではない」と異議を唱えている。西洋のキリスト教では、憑依に対する見解は時代とともに変化が見られ、聖霊がとりつくことが好意的に評価されたり、中世には魔法使いや異端と見なされ迫害されたり、近代でも悪魔祓いの対象とされたりした。現在でも憑依についての解釈は宗派によって、見解の相違が存在する。近年でも憑依の典型的な例は起きている。例えばイヴリン・ウォーは『ギルバート・ピンフォードの苦行』という本を書いたが、これは小説の形で提示されてはいるものの、ウォー自身は、これは自分に実際に起きたこと、とテレビで述べている。(ただしこの事例では、酒と治療薬の組み合わせが原因とも言われている)。最近では「良い憑依」というのを信じる人々もいる。肉体を備えていない霊が、肉体の「主人」の許可を得てウォークイン状態で入り込み、祝福のうちに主人にとってかわることもあり得る、と信じる人たちがいる。
古代イスラエル / ヘブライ語聖書(旧約聖書)にも憑依の記述は存在する。古代イスラエルでは、その状態は霊に乗っ取られた状態であり、乗っ取る霊は悪い霊のこともあり、サタンの代理として登場する記述がある。
キリスト教 / 初期のキリスト教徒は憑依を次のように好意的に見なしている。「聖パウロにおいて、病気の治癒、予言、その他の奇跡を約束して下さった聖霊が憑くような現象は、きわめて望ましい。」その一方で、憑依に関連する能力として「霊の見分け」(つまり悪霊を見破る能力)が認められていた。時代が下ると憑依を悪霊のしわざとする考え方が一般的になり、憑依状態の人が語る内容がキリスト教の正統教義に一致しない場合は目の敵にされ、そこまでいかない場合でも、憑依は悪魔祓いの対象とされている。憑依状態になる人が、魔法使い、あるいは異端者として迫害される事例が多くなっていった。ピクネットは、憑依の歴史的記録で、証拠文献が豊富な例として、1630年代のフランスのルーダンで起きた「尼僧集団憑依」事件をとりあげている。この事件では、尼僧たちの悪魔祓いを行うために修道士シュランが派遣されたのだが、そのシュラン自身も憑依されてしまった。尼僧ジャンヌも修道士シュランも、後に口を揃えてこう言った。「卑猥な言葉や神をあざける言葉を口にしながら、それを眺め耳を傾けているもうひとりの自分がいた。しかも口から出る言葉を止めることができない。奇怪な体験だった。A.K.エステルライヒが1921年の著書『憑依』で示した、憑依の中には、悪魔が発語するような語り口、性格が異なる悪霊が五つも六つも詰めかけているような様子、乗り移られるたびに別人になったかのように見えるものも含まれていた。カトリック教徒の中の実践的な人々の間では、「憑依は悪魔のしわざ」説は次第に説得力を失ったが、英国国教会は今でも悪魔祓いを専門とする牧師団は存在している。
医学分野 / 医学領域や心理学の領域で、憑依を二重人格あるいは多重人格の表れとみなす考え方は多い。「『自分』というのは単一ではない。複数の自分の寄せ集めで普段はそれが一致して動いている。あるいは、日々の管理を筆頭格のそれに委ねている。」 ただし、この説明の例では、霊媒行為について当てはまらない、霊媒行為の場合、「筆頭格」のそれは、明らかに何か異なる実在のように見えることが多く、また霊媒はトランス状態になると、その人が通常の状態ならば絶対に知っているはずのない情報を提供している。  
 
憑きもの筋

 

(つきものすじ) 民間信仰の一。日本のいくつかの農村では、憑きものは家系によって起こると信じられ、その家は憑きものを使役して、他人から財物を盗んでこさせるので、総じて富裕な家が多く、また、憑きものを他人に憑けたりすることもあると考えられ、忌み嫌われていることが多い。
実際に憑依する霊には狐のほかに、雲伯では「人狐(にんこ)」、濃尾・甲信・伊豆では「クダ」、北九州では「ヤコ(野狐)」、中国山間部では「ゲドウ(外道)」、四国一円・九州東南部では「犬神(狗神)」、関東では「オサキ」、東北では「イヅナ(飯綱)」などが良く知られている。これらは現地では、いずれも小型の鼬(いたち)のような姿形をしていると信じられ、目撃談も数多く(しかし実際には幻覚かイタチである)、江戸時代の紀行誌にもこれらの名前や、村人から聞いたとされる怪異譚が散見される。ほかに、四国から因伯作においては「トウビョウ」「スイカズラ」「ナガナワ」といったものが憑くと信じられており、こちらは蛇のような姿をしているという。またゴンボダネとよばれる憑きもの筋は、飛騨高山においては他の狐憑きと同様「七十五匹」とも言われるが、通常「牛蒡の種のように人に憑く、生霊」と説明される。鳥取県伯耆地方では人狐、トウビョウなどの憑いた家を「ソンツル」ともいう。
また、これらのものが「憑く」とされた家系から嫁を貰うと、「憑きもの」も一緒についてきて、嫁ぎ先に災いをもたらすともいわれる。これらの家系のものは民俗学上「憑きもの筋」と呼ばれ、主に江戸時代以降広まった考えと思われる。現在でも一部の地域ではこれらの信仰は残っているため、縁戚関係の忌避など、差別の対象とされている。これらの筋の家は、憑きもの筋の発生の源は「僻み」であるため、その多くが旧来の居住者ではなく、二次的な移住者で、富裕なものが多い。
小松和彦は「憑きもの筋同士は特に忌み嫌わない」「トランス状態を伴わない」「何かの印として認識される」ことから、憑依ではなくstigmaではないかとする
研究
人類学者・民俗学者の小松和彦は 日本の霊魂観がフェティシズムのそれであるという折口信夫の説を享け、 『憑霊信仰論』において、憑きもの信仰は、理解不能な事柄に対してのマナを使った説明体系であると論じた。我々は理解困難な事態に直面したとき、何とか合理的にその現象を理解しようと試みる。特に現代の我々にとって、科学や医学は理解困難な事柄を合理的に説明してくれる「説明体系」であるといえる。憑きもの信仰も同様で、現代の我々から見ておよそ合理的とはいえない説明であっても、「狐霊が障って病気を引き起こしている」という祈禱師の説明が、理解困難な事象を理解したいと欲する当時の庶民たちによって支持され、信じられたということである。
小松は、憑きもの信仰は以下の3つの事象の説明体系であるという。
1 病気、災禍に対する説明
2 共同体内部の富の偏りに対する説明
3 民間宗教者の神秘的な力に対する説明
病気、災禍に対する説明
現代社会でも「体の調子が悪くて医者に行ったが、どこも異常ないといわれた人が、医者を転々としていたが、最終的に民間宗教者に相談しにいく」というケースをよく耳にする。これは「体の不調の原因を突き止めたい」という願望が、最終的に超自然的な存在にその原因を求めるということであり、医学の未発達だった近世の農村社会では、そういった傾向は一層顕著であったと思われる。
文政2 (1819) 年、江戸の土田獻は『癲癇狂経験編』において、狐憑きは精神疾患であることを記し、また、水戸の本間救は『内科秘録』に「狐憑は狂癇の変証にしていはゆる卒狂これなり 決して狐狸人の身につくものにあらず」と書いている。しかし多くの精神病や神経性の疾病に対しては、その原因が全く分からないことが多く、治療法も見つからなかったため、患者は最終的には修験者や霊媒、祈禱師などの民間宗教者に頼らざるをえなかった。患者やその家族は「気の病」といったような説明では納得しないことが多く、彼らの納得しうる最良の説明が「他者の呪詛」「祖霊の怨念(タタリ)」そして「動物霊の憑依」であった。これは病気だけでなく、ある特定の家に災難が連続して起こった場合などにも使用された説明体系であった。
共同体内部の富の偏りに対する説明
「憑きもの筋」の信仰に関わる重要な要素として、村落共同体の中でも比較的富裕な家に多く見られる、豪農など旧来から村落に居住していた家ではなく、二次的に外部から移住してきた家が財を成した場合に、その家が「憑きもの筋」と見られることが多いことがわかっている。つまり、憑きもの筋の多くは「よそ者の成り上がり者」であり、これが憑きもの筋の信仰に深く関係していると推察できる。
出雲の人狐伝説には支配層と農民層の対立が関係していることが推測できる。松江藩は初代松平直政以来、稲荷神を藩の守護神として定めている。これをならった新興の豪農や豪商は村を搾取していた。一方農民達は山伏系の密教信仰を持っていた。元来山陰は交通の便が悪く、気質は保守的で他人がでしゃばることを好まない気風がある。そういうところによそものが入り込み、急速に富を蓄積していくことは、嫉妬や憎悪が屈折した形で人間関係に反映されてくる。こういった新興富裕層(稲荷神)と旧来からの農民(山伏系密教)の対立が、人狐伝説の源流にあると解釈できる。
小松和彦はここで、石塚尊俊のフィールドワークで得られた「貧乏な憑きもの筋」に注意を払いながら、アメリカの社会人類学者ジョージ・フォスターが自著『平和社会と限定された富のイメージ』で述べた、閉鎖的共同体における富の認識方法を援用して、憑きもの信仰の側面を解き明かそうと試みている。つまり、近世日本の農村社会のように生産性が低く、外部と社会的交流の限られた「閉鎖社会」においては、その共同体構成員の共同体内部に存在する富のイメージとして、「富、愛情、好運などは限られた量しかない」という認識方法が一般に存在していた。昔からの富豪はもともと裕福だったのだから、他の共同体構成員にとって何の関係もないが、二次的な移住者が短期間で富を蓄積すると、他の構成員にとって、「あの家は他人の富を横取りして豊かになった」「あの家が豊かになったということは別の誰かの家が貧しくなったということだ」という認識が生まれる。これが村人達の被害者意識を増長させ、「よそ者の富は不法な手段で手にいれたもの」という妄想から誹謗中傷を生じさせ、「憑きもの筋」が負のイメージでみられるようになったという。
江戸時代は士農工商の身分制度が確立し、階級間の流動性が殆どなくなって、それまで全国を流浪していた下級の聖、遊行僧、芸人たちが定住を強いられた時代でもあった。つまり村落共同体に二次的移住者が増加したわけである。そして、江戸時代は貨幣経済が全国的に普及した時代でもあり、閉鎖的な農村の住民においても、隣村や都市と交易をすることにより、商業的才覚や好機さえ摑めば、飛躍的に富を蓄積することが出来るようにもなった時代でもあった。しかし、農村の多くの住民にはこれらの経済システムが理解不能であり、自給自足の村落共同体で富を集中させるために、「よそ者」が憑きものを使役しているという「説明」を容易に受け入れることになったという。
多くの農村では、彼らが「憑きもの筋」となるに至った原因が伝承として語られており、四国のある農村には「犬を殺して呪いをかけた者の子孫」として「犬神筋」(「犬神統」ともいう)が存在している。また憑きもの筋とされる家系の者達も、その多くが村人に流布する悪評を裏付けるように、自らを「憑きもの筋」と認め、それらの動物霊を神として祀っていたところが多い。
以上のように「憑きもの筋」は「急速に富を集中した家」に対する嫉妬や羨望、そして「限定された富」という認識方法から導き出される怨恨などから生じた信仰としての側面をもつと考えられるが、これに類似した信仰として、東北地方にみられる「座敷童子」にも注意を払わなければならない。座敷童子は姿形が童子形として伝えられる妖怪で、家にいる間は富を集めることが出来るが、家から去ると、その家は急激に没落すると信じられている。その性質は「よそ者の成り上がり者」の家にいるとされることが多いなど、憑きものの一種と見て良いほど類似しているが、憑きものが他家から財物を盗んだり、非憑きもの筋の家の誰かに取り憑いて、災禍を引き起こしたりするのに比して、負のイメージで見られることはなく、むしろ福の神のように見られていることが多い。なぜ、憑きものと違って正のイメージで見られるのか、明確なことはわかっていないが、「憑きもの筋」の信仰のある農村は多くが閉鎖的であるのに対し、「座敷童子」の信仰のある農村は、比較的外部との交流が多く、「限定された富のイメージ」が希薄だったのではないかと推定することができる。
民間宗教者の神秘的な力に対する説明
「憑きもの筋」の信仰に関わる要素として、もう一つが「民間宗教者の神秘的な力に対する説明」ということである。 小松和彦は、柳田國男その他の憑きもの研究において、ザシキワラシが心得童子、如意童子と呼ばれる、僧侶の式神と性格、行動が似る点に注目し、民間の神秘的な印の説明に、仏教の護法童子が使われたのではないかとする。 「憑きもの」が起こった場合、「何が」「どうして」憑いているのかを判じるのは、最終的には民間宗教者たる山伏や祈禱師であり、村人は宗教者の指示に従って、御祓いなどを行ってもらうしか術がない。彼らは宗教者に全幅の信頼を置いており、山岳修行や肉体的特質などにより特異な能力を身につけていると信じている。 尚文政元年、鳥取藩日野に在住し、その名を近畿にまで知られた名医であった陶山簸南は、医者として多くの狐に憑かれたという人を診断した結果、狐は宗教者の捏造したものだと確信し、さらにその著『人狐辨惑談』(にんこべんわくだん)の中では、「かかる病人にむかひ、人狐の待遇をなし、詰問する人は、その人こそ実に狂人なり、笑ふべきことなり」と書いている。
憑きものの信仰は、「もの(マナ)が憑く」と説明をする民間の信仰を、意図的に汲み編み直した宗教者が、自身の神秘的能力を説明する「体系」でもあった。彼らの祈禱によって病が快癒したり、体から追い出された憑きものが依代(よりしろ)に乗り移ったりするのを間近に見て、宗教者の能力は可視的なものとして認識されていき、誰も疑うものがいなくなったと想像できる。おそらく「憑きもの筋」にされた家の者も、そして宗教者自身も「憑きもの」の存在や宗教者の神秘的能力の存在を確信していたであろう。その為、憑きものの伝承には、 「無知な者が空海の造った狼除けのお守りを不注意に開けた為、犬神が蔓延った」や、「伝教大師が帰朝の折り持ってきた」という、宗教者によって出たとするものが多く、また牛蒡種のように「護法実(ゴホウダネ)」と言う仏教の依りましをさす語を使った憑きものもある。
実例として隠岐島の観三坊主の例がある。
流人坊主で祈祷師の観三が、機嫌を損ねた新興の商人を「狐持ち」の家筋にしてしまった。他にも同時代に、疫病などが発生すると、島前地域では観三坊主と同様の手口で「狐持ち」の家筋が次々と発生させられたという伝承が残っている。
以上のように日本の憑きもの筋に関する信仰は根深く、現代でもこれらの信仰は各地に残っているのものの、都市集住が進む現代にあっては、これらの信仰の影は薄くなってきている。民俗学的研究の一層の進展が望まれている。 
 
御霊信仰

 

〈御霊〉は〈みたま〉で霊魂を畏敬した表現であるが、とくにそれが信仰の対象となったのは、個人や社会にたたり、災禍をもたらす死者(亡者)の霊魂(怨霊)の働きを鎮め慰めることによって、その威力をかりてたたり、災禍を避けようとしたのに発している。この信仰は、奈良時代の末から平安時代の初期にかけてひろまり、以後、さまざまな形をとりながら現代にいたるまで祖霊への信仰と並んで日本人の信仰体系の基本をなしてきた。
奈良時代の末から平安時代の初期にかけては、あいつぐ政変の中で非運にして生命を失う皇族・豪族が続出したが、人々は(天変地異)や疫病流行などをその怨霊によるものと考え、彼らを〈御霊神(ごりようじん)〉としてまつりだした。〈御霊会(ごりようえ)〉と呼ばれる神仏習合的な神事の発生である。御霊会の初見は清和天皇の時代、863年(貞観5)5月20日に平安京(京都)の神泉苑で執行されたもので、そのとき御霊神とされたのは崇道(すどう)天皇(早良(さわら)親王)、伊予親王(桓武天皇皇子)、藤原夫人(伊予親王母)、橘逸勢(たちばなのはやなり)、文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)らであったが、やがてこれに藤原広嗣が加えられるなどして〈六所御霊(ろくしよごりよう)〉と総称された。さらにのちには吉備大臣(吉備真備(きびのまきび))、火雷神(火雷天神)が加わって〈八所御霊〉となり、京都の上御霊・下御霊の両社に祭神としてまつられるにいたった。この両社は全国各地に散在する御霊神社の中でもとくに名高く、京都御所の産土神(うぶすながみ)として重要視された。京都の梢園祭(ぎおんまつり)もその本質はあくまでも御霊信仰にあり、本来の名称は〈梢園御霊会〉(略して梢園会)であって、八坂神社(梢園社)の社伝では869年(貞観11)に天下に悪疫が流行したので人々は祭神の牛頭天王(ごずてんのう)のたたりとみてこれを恐れ、同年6月7日、全国の国数に応じた66本の鉾を立てて神祭を修め、同月14日には神輿を神泉苑に入れて御霊会を営んだのが起りであるという。また、903年(延喜3)に九州の大宰府で死んだ菅原道真の怨霊(菅霊(かんれい))を鎮めまつる信仰も、御霊信仰や雷神信仰と結びつきながら天神信仰として独自の発達を遂げ、京都の北野社(北野天満宮)をはじめとする各地の天神社を生んだ。
鎌倉時代以降には、非運な最期を遂げた武将たちも御霊神の中に加わるようになって御霊信仰に新生面が出たが、その場合は御霊の音が似ているために〈五郎(ごろう)〉の名を冠した御霊神が多く、社名も〈五郎社〉で、鎌倉権五郎社(御霊神社)はその好例の一つである。また、御霊神の威力に対する畏怖と期待の念は時代をおって幅広いものとなり、疫神(えきじん)のみならず田の神や水の神の機能とも融合しあって農村社会に浸透し、田植えと密接な関連をもつ五月節供を御霊会、御霊の入りなどと呼ぶ地方もある。
御霊信仰の広まりと定着は、神事祭儀の場としての御霊社を中心としつつ各種の夏季の民俗行事や民俗芸能を生み、現代に伝えている。害虫駆除を祈念して、藁人形を仕立て、鉦(かね)・太鼓を打ち鳴らしながら畦(あぜ)を行列し、村境まで〈虫〉を送り出しに行く虫送り(虫追い)や雨乞いなどの呪術的行事とか、芸能性の濃い念仏踊や盆踊などとかは、その代表的なものといえる。 
 
「御霊」(ごりょう)

 

「御霊」とは
一般の辞書では、「御霊」はどう説明されているでしょうか。『広辞苑』において「御霊」とは、「霊魂の尊敬語。のちに、尋常でない、祟りをあらわす『みたま』について言った」と説明されています。「祟りをあらわす『みたま』」とは、災難や政治的陰謀等で怨恨を残したまま憤死した人物の霊のことを、ここでは指しているのでしょう。民俗学では、こういった怨恨を残して死んだ御霊の祟りを恐れて鎮め祀ったり、また、霊威にあやかるために祀ったりする信仰のことを、「御霊信仰」と言います。
ちなみに、靖国神社のご祭神は「みたま」と呼ばれ、これは「御霊」の訓読みかとも思うのですが、御霊を「みたま」と読む場合は、神霊や霊魂の尊称を意味する、ということも言われていますので、靖国神社の「みたま」は「先祖霊」という性格も強く持っていると考えられます。
基礎的性格
先行研究によりますと、御霊信仰が文献に初めて登場するのは、『日本三代実録』の貞観5年(863)5月20日の条であり、このとき京に疫病が蔓延しており、過去に冤罪を着せられたまま死んだ6人(祟道天皇(早良親王)・伊予親王・藤原夫人・観察史・橘逸勢・文室宮田麻呂。これらの人物の説明は、ここでは省略しますが、政治的に陥れられ失脚した人物ばかりです(観察史とは誰のことなのか、諸説ありますが))が「御霊」として慰撫される御霊会(ごりょうえ)が、朝廷によって神泉苑で行われたといいます。
ここで「御霊」は、疫病の原因である「疫神」として扱われています。つまり、この6人の祟りによって、疫病が蔓延し、死者が続出しているのだとされたのでした。この御霊会は、歌舞音曲や芸能によって、華やかに楽しく催され、また一般民衆もたくさん見物に来たといわれています。御霊会は、これら諸芸能によって御霊を慰撫し、京の外へ退去させることを目的として催されたと考えられています。御霊が京の外へ退去すること、すなわち、京の疫病が沈静化すること、です。(ただし逆に考えれば、人間が御霊を消し去ることを目的としているわけではなく、こらしめる目的でもない、ということが言えます)
この貞観5年の御霊会は、民俗学では「神泉苑の御霊会」とよく呼ばれます。これは、のちに催された京都八坂神社の「祇園御霊会」等と区別するためです。今に残る京都八坂神社の祇園祭は、そもそもの発端は、神泉苑の御霊会と同じように、疫病の原因が「牛頭天王(ごずてんのう)」であるとされ、それを祀ることで、疫病を防ぐ神に変わるようにと催されたものであったといわれています。この牛頭天王は八坂神社の祭神で、伝説上の存在であり、蘇民将来という人物にまつわる話も残り、また、「疫神信仰」で大きくとりあげねばならないものですので、ここでは一旦、説明は省いておきます。ただ、現代に残る華やかな祇園祭は、疫神であった牛頭天王(スサノオと同存在として扱われますが)を慰めるためのものであった、ということを、ここでご紹介しておきます。疫神信仰は、御霊信仰と密接に関係している信仰ですが、非常に込み入ってもいますので、また別にご紹介したいと思います。
話が前後しますが、神泉苑の御霊会のあと、紫野という場所で催された御霊会(紫野御霊会、といいます)では、御霊を招いて載せた神輿を難波の海へ流し送ったといわれています。これらのことから、御霊は、文献に登場してきているものを見る限りでは、当初、災厄をもたらす疫神として恐れられ、御霊会はそれらを慰撫した上で異郷へ流しやる儀式であったことがうかがえます。つまり当時の御霊は、後代、そして現代に残る神社の祭神のように、固有の社を持った神ではなかった、ということです。
しかしこののち、御霊は法会によって慰撫され流されるだけでなく、社の祭神として祀られるようになっていきます。
これについて柴田實という先生が、「御霊神は本来厄神として疫病の原因行疫神として畏怖されたものであるが、これを祭ることによってよく疫病をまぬがれることができるところから、後代にはむしろその守護神として崇敬されるようになったといわれる」(柴田實「御霊神」・『講座 日本の民俗宗教 3神観念と民俗』・弘文堂・1979年)と述べているように、はじめは退去させる、流しやる対象であったらしい御霊は、のちにムラや部落の社の祭神として祀られ、そうすると災厄や疫病を防いでくれる、というようなことが期待されたようです。こういった具合に、後代の御霊は、その祟りを恐れられると同時に、霊威をあがめられ祀られるという、いわゆる「厄神(疫神)」と「福神」ともいえる二面性を有していたと言われています。
また、このように怨恨を残して死んだ人物を神として祀ったもの、いわゆる「人神(ヒトガミ)」が誕生していきますが、最も有名であると思われる例が、天満宮の祭神である天神、菅原道真です。また、四国で発生・隆盛し、中国地方等にも伝播していった例は、愛媛・宇和島の和霊神社(祭神:山部清兵衛)であります。ただし、これら天神・和霊は、その過程及び名前からもわかるように、「祟り神」として祀られたというよりも、むしろ「和霊」(鎮められ、守護神化した霊です)化されたものが全国に勧請され、社の祭神となった、と厳密には言えるわけですので、その他の多くの御霊とは多少レベル(というか、民衆にとっての意識)が違うと考えるのが妥当かと思われます。
御霊信仰研究
ここで、従来の御霊信仰研究について、簡単に触れておきたいと思います。
御霊信仰自体、上で私が言及した限りでも、さまざまな信仰が絡み合っていることがおわかりいただけるかとも思いますが、そういった複雑な様相を呈している信仰であるせいか(あまりにも広範で結論づけがたく、日本の神観念のほとんどすべてに御霊信仰は関わっているのではないかと、私のような素人同然の者ですら考えてしまうほどです)、これまでの先行研究では、御霊信仰の概念規定は未だ明確化されていない状態であると言えます。はっきり言ってしまうと、どこからどこまでが「御霊信仰」なのか、未だに定義されていない、という状況です(ちなみに、定義づけないといけない、というわけではないと思いますし、言い換えれば、定義づけようと思っても定義づけが不可能な信仰である可能性が高い、ということなのかもしれません)。
また、上に述べました「御霊会」(文献に残っているもの)についての先行研究は見ることができるのですが、では、地方民衆における御霊信仰はどうであったかと考えたときに、参考にできる明確な研究には、私は未だ出会えていません。つまり、御霊信仰研究というと、従来のものは京都中心、文献中心の研究であると言っても過言ではない状況であるということです。「御霊会」そのものについてのみならば、それでも事が足りると言えなくもないとは思うのですが、しかしそれを「御霊信仰」の研究であると位置づけるには、かなりの欠落があるように思えてなりません。「御霊信仰」の一部分の研究である、と言うべきで、それ以外の時代、それ以外の地方の研究が存在し、それと相関性を持たせて初めて「御霊研究」がひととおり揃う(?)というふうに私は考えます。
この私の考え方は、小松和彦先生の『悪霊論』(青土社・1989年(現在では、ちくま学芸文庫にも入っているようです))で既に述べられていたことに最近気づきました(笑)。
歴史学では、御霊信仰を平安初期に成立した都市的信仰として理解してきた。たしかに、京都を中心とする史料を検討する限り、そういうことになるであろう。「御霊」およびその儀礼たる「御霊会」という言葉が初めて文献上に現れたのが、その時代の京都においてであったという点でそれは正しいといえるだろう。
しかしながら、私は民俗学的御霊概念に基づいて、京の御霊信仰を怨霊信仰のヴァリエーションとして、さらにいえばそれを一定の構造とメカニズムをもったものとしてとらえることによって、たとえ「御霊」という語が用いられなくとも、その構造とメカニズムがみられる信仰を“御霊信仰”として同定することにしたいと考えている。そうした分析を経ることにより、私たちは全国各地に“御霊信仰”を見出すことが可能となるにちがいない。
『悪霊論』で小松先生は上のように述べ、また、御霊信仰の本質は、鎮められ守護神となっていく過程よりも、その祟り神が「御霊」として祀られていった最初の過程であり、その過程を見ない限り、御霊信仰の理解はありえないと述べています。僭越ながら、私も同感です。こういった意識を念頭に置きながら、お恥ずかしくも、その方法論をまっとうできるほどの技量と知識が現段階の自分には乏しいため、非常に基本的なことから、先行研究の整理を行っている次第です。
また、これ以前にも、京都中心・文献中心の学界の姿勢を、既に大正年間に批判していた民俗学者がいます。民話を採集した『遠野物語』等でも有名な、柳田國男です。
柳田國男「人を神に祀る風習」
柳田の論考「人を神に祀る風習」(『定本 柳田國男集』第十巻・筑摩書房)は、「人神考」とも言われる論考ですが、タイトルどおり、実際に存在した人間を神として祀ったものを題材にとりあげた論考ですが、これは、柳田の考えを主張するための論考というよりも、むしろ、それまでの学者の研究姿勢批判、ひいては次代の研究者への方法論の提言のために書かれたもの、という性格が強い論考だと言えます。
柳田は、簡単に諸外国の民俗と比較し、わが国の民俗を結論づけてしまうような研究、また、文献を金科玉条とする研究、京都ばかりを軸に据えた研究を批判し、日本各地の小さな社、土地土地の伝承といった口碑も丁寧に見ていくという、民衆の生活レベルを無視しない研究方法を提示しています。
これらのことを述べるために、「人神」について述べ、「御霊」の性格を有していると考えられるものについても名前を挙げて具体的に触れており、また、「御霊」性があるとされる「若宮」と「八幡」の関係についても、「八幡は、若宮ら御霊を統括する役割を担わせるために全国に勧請されたのではないか(ここで私はかなり簡単に書いてしまっていますが)」というような説も述べています。この論考は、御霊を考えるために、最も基本的であり、かつ示唆に富んだものであると思う次第です。
「御霊」の性格があると思われるもの
柳田國男の論考「人を神に祀る風習」では、怨恨を残して死んだ人物を神として祀ったものだと考えられる名称が、具体的にまとめて挙げられています。以下のようなものです。こちらをご覧くださっている方のご近所に、次のような語を含んだ名称のお社、祠、またご祭神は存在しませんか? ご祭神の名前は、境内にある由緒書きの石碑や板で確認できます。
御霊 / これは、そのままですね(笑)。○○御霊神社、とか、ご祭神の名前が「○○御霊」であったりします。また、「○○御領」「○○御寮」であれば、ほぼ「御霊」であると見て構わないと思います。
和霊 / これの場合、愛媛・宇和島の「和霊神社」を勧請したものである場合が多いかと思います。
霊神 或いは 霊社 / ご祭神には「霊神」、社には「霊社」とつく場合が多いかと思われます。これについては、次ページ「明治初年の廃仏毀釈や改称について。」でも触れたいと思います。
今天神(いまてんじん) / 「天神」とついているので、菅原道真を祀っているのかというと、そうではないケースがあります。いやむしろ、そうではなかったのに、本来の祭神がわからなくなってしまい、後代になって「祭神は菅原道真である」とされたケースが多いのではないでしょうか。「天神」に「今」という冠をつけ、天神になぞらえて祀られたものであると思われます(新しい天神、の意か?)。社の名前としても「今天神社」といったようなものが存在しますが、祭神名として「今天神」とされるケースも、個人的に確認しています(由緒書きに、その今天神は誰なのか、ということが書かれてあり、道真ではないその土地の人物であると確認できるケースがあります)。
若宮 或いは 今宮 / いずれも、怨恨を残して死んだ人物を祀った社の称号であると、先行研究でもされています。新しい祟り神、という意味で「若」「今」というものがついているとも言われていますが、成立過程は未だ謎です。「若宮八幡」などといって、八幡宮と一緒にされている場合も多いですが、これについては機会があれば、別口でご紹介したいと思います。また、上で挙げた「霊社」とつながった名前の、「若宮霊社」という名前の社もあります。私が、自分が住んでいる県のデータを見た限りでは、現段階ではこの若宮(或いは今宮)とつくものは、最も社格の低い「無格社」が非常に多く、祭神が未詳であるケースが多いです。また、由緒書きを見ると、何故か土地の「開祖」(開墾者)とされる人物を祀った社が「若宮」とされているケースが複数あり、しかし「今宮」として祀られているケースは見られません(今後出会う可能性はあります)。「若宮」と「今宮」は、ほぼ同じ性格のものとして扱われることが多いように思うのですが、今後、このふたつの相違点を考察する必要性がありそうです。

ここに挙げたものは、あくまでも、怨恨を残して死んだ人間を神として祀ったと考えられるものでありまして、「御霊信仰」の範疇と思われるすべての神ではありません。また、「曽我物語」で有名な曽我兄弟を祀った曽我神社も全国に存在し、これも人神であると考えるべきですが、曽我神社は、地方に実在した人物を祀ったものと同レベルであると考えるよりも、むしろ天神(菅原道真)のようなレベルに近いと考える方が妥当であるかと思われます。つまり、一口に「人神」といいましても、その土地土地に実在した人物を祀ったものと、全国的な伝説上の人物を祀った社を勧請したものに大別できるということです。 
 
祟り・祟り神

 

祟りとは、何かしらの原因・因果により、霊的なエネルギーの恨みを買ってしまい、その結果として、不幸や災難・厄災などに遭遇させられることである。
祟る存在としては、アニミズムにおいては、自然界を守護する自然霊たちであり、神道においては、八百万の神々であった。
その後、平安時代以降は後述する「御霊信仰」により、死者の人魂・生霊(生きている人間の恨み)も祟ると信じられるようになった。
祟りは、因果を作った一個人にのみ降りかかることがほとんどであるが、その因果を作った家系、もしくは一族に未来永劫に渡り降りかかることもあるとされる。
また、特定の人間に対してではなく、大なり小なりのエリアや、特定の家屋や池などの場所・スポット等にも、祟りのエネルギーが滞留するとも言われている。
祟りによって被る現象としては、死に至るような病気・事故、あるいは精神的に廃人化してしまうような何かしらの体験、経済的に破滅させられるような事象、一家離散等の家庭の崩壊、その他に天変地異や疫病など社会的な不利益も祟りのひとつとすることもある。
御霊信仰と祟り
「死者の霊は祟る」という考え方は、平安時代の貴族たちによって本格的な信じられるようになった。
これを「御霊信仰」と呼ぶ。
ただしこの「御霊信仰」が想定する死者とは、主に当時の天皇継承者・皇族関係者・政治家、後の武家・武士などいわゆる権力者たちである。
市井の人々の死までを含むものではなかったのである。
ではなぜ「死者の霊は祟る」と考えるようになったのか。
その背景には、二つの大きな要因がある。
ひとつは、飛鳥朝廷以降に端を発した、権力を巡るさまざまな骨肉の争いだ。
現代社会では考えられないような、親族間での権力・利益を巡る不条理な殺し合いが、公然と行われてきた時代である。
多くの無念の死は当然ながら、「祟りをもって無念を果たす(=怨霊)」という強い動機になることを貴族たちは考えたのであろう。
一方でもうひとつの要因とは、さまざまな「疫病の蔓延」である。
医学がまだまだ進歩していなかった過去においては、「疫病の蔓延」こそ、祟りの証左となったのである。
そこで権力者たちの無念の死に際しては、鎮魂の儀式を行い、必要に応じて官位を贈るなどして、権力者の魂が怨霊化するのを防ごうとした。
これが「御霊信仰」である。
この「御霊信仰」によって、当時の貴族社会での需要が急上昇し、めきめきと頭角を現したのが、陰陽師、密教僧、修験道者、道教の道師など「霊力」、「呪術」、「祭祀」を司れる能力者たちであった。
代表的な御霊信仰の例
御霊信仰の代表的な例としては、京都の「上下御霊神社」に祀られる神々である。
これらはすべて元権力者たちの霊である。
「八所御霊」とされる上御霊神社の、崇道天皇(早良親王。光仁天皇の皇子)、井上皇后(井上内親王。光仁天皇の皇后) 、他戸親王(光仁天皇の皇子)、藤原大夫人(藤原吉子、伊予親王の母)、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文屋宮田麻呂) 、火雷神(菅原道真)、吉備大臣(吉備真備)。
他に伊予親王、観察使(藤原仲成もしくは藤原広嗣)、崇徳上皇・藤原頼長(宇治の悪左府)、安徳天皇、後鳥羽上皇・順徳上皇・土御門上皇などである。
中でも「崇徳上皇の祟り」が有名である。
1156年の「保元の乱」によって失脚した崇徳上皇は、讃岐の地に流されそこで生涯を終えた。
安元2年(1176年)に、建春門院・高松院・六条院・九条院が相次いで死去し後白河天皇に近い人々が相次いで死去したことで、崇徳天皇の怨霊が意識され始めた。
その怨念は皇族たちの間では、明治時代まで恐れられていた、とされている。
また怨念の祟りは、都(京都)に対して大火災や疫病をもたらせたとされる。
祟りスポット
心霊スポットが霊現象や怪現象の起こる場所であるのに対し、「祟りスポット」とは、その場所を訪れることで、何かしらの不幸や災難・厄災などに遭遇する可能性が高いとされる場所のことである。
ここではあえて具体例は挙げないが、インターネットではさまざまな「祟りスポット」の例と体験霊等が語られている。
さて、こうした祟りと多いに関係するのは、人間の「思い込みの力」である。
「御霊信仰」の背景にも、これは存在していたのである。
つまり「死に追いやって申し訳ない」という気持ちと、「罰を受けても仕方が無い」といった思い込みの力が、その後の体験を「怨霊のせい」にしてしまうというものである。
同様に、「この場所に行けば何かしらの祟りがある」という思い込みが、その後の偶然的な体験までも尾ひれを付けて、祟りにしてしまうのである。
もちろん、「本当の祟り」は世界中のシャーマンたちが指摘するように「存在する」のであろう。
そしてそれは多くの場合、人間が自分の利益のみを考えたエゴによって行動する際に発生する、と考えられている。
従って、興味本位で祟りスポットなどへ出向くことは控えるべきであろうし、何よりも、エゴをコントロールする精神力を養うべきなのである。
祟りと霊感商法
祟りは、霊感商法において最も頻繁に使われる「商売道具」であることも忘れてはいけないだろう。
じつは「御霊信仰」の背景にも、すでに霊感商法があったとも言われている。
祟りを口実に祈祷等を行えば、貴族から謝礼が出る。
これに味をしめた祈祷師たちが、ありもしない「怨霊」を多数捏造したのである。
怨霊信仰そのものはほぼ形骸化したが、現代においてもこの霊感商法だけは、しっかりと引き継がれているといわざるを得ない。
祟りを口実とした捏造の怨霊に対する祈祷料などで、高額請求をしてくるような商法とは絶対に付き合ってはいけないのである。
祟り神
「祟り神」とは、敵にすれば強力な祟りの力を発揮する恐ろしい存在だが、手厚く祀りあげることで、一転、強力な守護神となると信仰される神々のことである。
「祟り神」という信仰は、平安時代以降に盛んになった「御霊信仰」(ごりょうしんこう)から派生したものである。
「御霊信仰」とは、「怨霊」を祀りあげることでその荒御霊(あらみたま)を鎮め、守護等を祈願する対象である「御霊」に転じてもらおうと信仰するものである。
平安時代などにおいては、有力者の死や疫病や飢饉の蔓延、天災、火事等の原因を、政変や陰謀などによって非業の死を遂げた皇族や政治家、有力者等の無念の思いが霊力となって災いを起こす「怨霊のせいである」と考えたからである。
こうして「怨霊」から「御霊」へと転じたものがすなわち、「祟り神」なのである。
従って「祟り神」には、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)のような神話的な存在もいるが、「菅原道真⇒天満天神」のように、かつて人間だった人々の霊であることが多い。
有名な「祟り神」伝承
平将門(たいらのまさかど、生年不詳-940年) / 平安時代中期の豪族。晒し首にされたことで怨霊となったとされる。その後「神田明神」に祀られ、江戸時代には「神田明神」すなわち平将門は、江戸総鎮守、産土神(うぶすながみ:生まれた土地を守護する神)とされ重視された。
菅原道真(すがわらのみちざね 845年-903年) / 平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。政治的な闘争により太宰府に配流され、加えて長男高視を初め、子供4人も流刑に処された(昌泰の変)ことで不遇のうちに死んだ後、怨霊となったと伝承される。その後、「太宰府天満宮」に祀られ天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれている。
崇徳天皇(すとくてんのう、1119年-1164年) / 日本の第75代天皇(在位1123年 - 1142年)。弟である第77代後白河天皇を擁護する武将らとの権力闘争「保元の乱」に敗れた後、讃岐(香川県)へ配流され、軟禁生活を余儀なくされる。軟禁生活で仏教への信仰心が目覚めた崇徳天皇は、五部大乗経(法華経・華厳経・涅槃経・大集経・大品般若経)の写本作りに専念した。「戦死者の供養と反省の証」としてこれらの写本を朝廷に送り「京都の寺に収めて欲しい」と請願をする。しかし後白河天皇は「呪詛が仕掛けてある」と、これを拒否し、崇徳天皇は怒り心頭に達したとされる。そして舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と血で書き込んだとされている。こうして「怨霊」となった「崇徳天皇の祟り」は、皇族間においては、昭和天皇の代まで恐れられているのである。昭和天皇は1964年の東京オリンピック開催に際して、香川県坂出市の「崇徳天皇陵」に勅使を遣わし、崇徳天皇式年祭を執り行わせたとされている。 
 
御霊信仰と御霊会に関する一考察

 

1.はじめに 
「御霊信仰」とは、特定の個人の霊が個人または社会に祟り、災禍をもたらすという信仰で、奈良時代から平安初期に広まり、祖霊信仰と共に、現在に至るまで、日本人の信仰の基礎をなすものといわれている。政治的に抹殺され、非業の最後を遂げた人々の怨霊の復讐に、平安初期の朝廷の周辺の人々は、恐れおののいた。例え、怨霊の復讐が時の権力者の方に向けられていても、最終的には疫病、天災などをもたらし、民衆をも苦しめる。このような「御霊信仰」の成立には如何なる要因が必要であったのであろう。要因の第一に、人々が個別性の霊の存在を意識して初めて「御霊信仰」が成立すると考えられる。「個」の意識、人格観念の十分な発達しなければ、個人の怨霊の復讐などありえないからである。そしてこの時代にあって、「個」の意識は中国的文化を十分享受できる階級にのみ発達したはずである。唐の制度を模倣し、官僚が自分自身の努力で地位を確保できたからである。要因の第二に、それに対して、民衆の意識には疫病や災害が、共同体の「穢れ」などに起因するという祖霊神的発想があったと考えられる。従って、彼らが「御霊信仰」をどのように捉えていたのかが重要な鍵になる。
さて、高取正雄氏や岩城隆利氏は、地方豪族の信仰が京都に入り、このような「御霊信仰」が発展したと考えている(どちらも京大文学部読史会創立50年記念「国史論集」)。また疫病神がこの信仰の中心となっているのも特徴の一つであり、井上満郎氏は、御霊信仰は疫病神の信仰であり、都市神と捉えている1。もう一つの問題は、祖霊信仰と御霊信仰が全く別の信仰形態であるという提案である。先学の諸氏の多くは、この二つの信仰を別の信仰と考えている。しかし、堀一郎氏2や菊池京子氏3も著者と同様に疑問を投げかけている。
2000年に、名古屋大学大学院国際言語文化研究科に提出した修士論文「古代の呪術とその分析」では、中国文化の影響下にあり、陰陽道の強い示唆をうけた当時の朝廷と、その影響が僅かで古代からの習俗を維持していた民衆の文化的相違が「御霊信仰」を生んだことを、歴史的、政治的分析を踏まえ証明しようとした。その論では、「御霊信仰」は、疫病神への信仰、または祟りの神への信仰としての側面だけで捉えられるような信仰ではなく、社会階層の発想の相違によって生まれた都市神への信仰であり、御霊神が流行神であることを示した。
この小論では、宮廷陰陽師の天皇に対する権限が増加してきたことが「御霊信仰」を成立させる契機となったことに言及したい。律令制時代、占い、造暦、吉凶判断が主な仕事であった陰陽寮の役割が、平安期初期には、王墓に対する鎮謝、慰霊などや疫神祭なども取り仕切るようになる。その役割の変化が「祟り」の構図を顕著化したと考えるからである。彼らの祭祀は国家独占的なものであり、天皇は天上と対応した存在であるだけでなく国家そのものであった。従って政治的に抹殺された人々の怨憎の対象は天皇=国家であった。
そこで、このような「御霊信仰」を掘り下げるために、まず「御霊信仰」生んだと思われる「御霊会」を分析し、当時の朝廷と民衆の文化的相違をより明確にしようと思う。このテーマは8世紀から10世紀における「御霊信仰」の成立のみならず、後に朝廷の周辺の人々の中で強い影響を及ぼす「穢れ」の観念の成立にも関係している。「御霊会」は疫病神との関係が非常に深く、陰陽道の呪術には疫病、悪霊、凶を「穢れ」とし、祓う呪術が存在したからである。 
2.朝廷側の「御霊会」

 

「御霊会」とは、疫病を流行させ、災害を起こす怨霊を鎮めるための祭りで、『三代実録』貞観五年(863年)五月二十日の条の神泉苑4における「御霊会」が、朝廷で行われた初見の史料とされている。「於神泉苑修御靈會。勅遣左近衛中將從四位下藤原朝臣基經。右近衛權中將從四位下兼行内藏頭朝臣常行等。監會事。王公卿士赴集共觀。靈座六前設施几筵。盛陳花果。恭敬薫修延律師慧逹為講師。演説金光明經一部。般若心經六巻。命雅樂寮伶人作樂以帝近侍皃童及良家雅子爲舞人。大唐高麗更出而舞。雜伎散樂競盡其能。此日宣旨。開苑四門。聽都邑人出入縦觀。所謂御靈者。祟道天皇、伊豫親王、藤原夫人。及觀察使、橘逸勢、文室宮田麻呂等是也。並坐事被誅。冤魂属。近代以来。疫病繁發。死亡甚衆。天下以爲。此災。御靈所生也。始自京畿。爰及外国。夏天秋節。修御靈會。往々不斷。(後略)」。
御霊神として、京都の上御霊・下御霊5の両神社に祀られている人物は、早良親王、伊予親王、藤原吉子、橘逸勢、文室宮田麻呂、藤原広嗣6、他戸親王7、吉備真備8、菅原道真9、井上内親王10であり、『三代実録』には、これらの人物のうち5人が御霊と記されているのである。
早良親王は、延暦四年(785年)に、藤原種嗣が暗殺された事件に関わっていたとされ、乙訓寺に幽閉された(「式部卿藤原朝臣を殺し、朝廷を傾け奉り、早良王を君為さんと謀りけり。」『日本紀略』)。しかし、彼は罪を認めず、飲食を断ち、無実を主張、流罪地淡路国へ配される途中死亡、遺体は淡路で葬られた。その後、桓武天皇の夫人藤原旅子、母の高野新笠、皇后の藤原乙牟漏が相次いで死亡し、皇太子の安殿も病気に罹る。占いによって、延暦十一年(792年)六月十日、早良親王の祟りと出たため、親王への陳謝を行った。平安京への遷都の理由の一つが、この親王の祟りから逃れるためともされている。また延暦四年(785年)から延暦十年(791年)にかけて大風による水害、旱魃による飢饉、痘瘡などの疾病が大流行した。延暦七年(788年)には、大隅国の曾乃峯(霧島山)の噴火、延暦十九年(800年)には、富士山が噴火し、災禍が続いたため、同年早良親王に対し、崇道天皇と追称した。(このような追尊の例は他に存在しない。)
伊予親王は、桓武天皇と藤原吉子との間に生まれ、当時の天皇である平城天皇の異母弟である。大同二年(807年)十月二十七日、藤原雄友(吉子の兄)が、伊予親王に謀反の疑いがあると藤原内麿に報告し、天皇は、十一月二日に、母子共々、大和国川原寺に幽閉した。十一月十二日には、親子共々毒を飲んで自害した。歴史的には、皇位継承の絡んだ疑獄事件で、藤原氏諸流の権力争いであった。諸々の闘争が終結した弘仁元年(810年)権力を握った嵯峨天皇が、二人の霊や早良親王の霊を慰める法要を行っている。なお、大同元年から二年(806年〜807年)にかけては、悪疫の流行があり、大同三年(808年)には、京都内に放置されている死骸を埋葬、疫病沈静のため、諸大寺に大般若経を奉読させ、祈願している(『日本略記』)。
下級官吏であった橘逸勢は、承和九年(842年)七月十七日、承和の変(藤原良房が計画した政治的陰謀で、伴健岑等が謀反を企てたと逮捕され、計画に加わったとされた皇太子恒貞親王、藤原愛発等も追放された)に連座し、伊豆に流される途中の遠江国(『続日本後記』)で死去した。後に名誉回復し、仁寿三年(853年)には、従四位下に任命されている(『文徳実録』)。なお、承和五年(838年)十月十四日、京都西山の南から北にかけて長さ30丈、幅4丈余りの白い虹が出現、同月二十二日から二十六日にかけて東南の空に彗星が出現、陰陽師がどちらも凶非と判断し、これを橘逸勢の祟りとした(『続日本後記』)。
文室宮田麻呂は下級官吏で、謀反の疑いで承和十年(843年)に逮捕され、伊豆国に流された。その地で死亡したかどうかは、史料が残っていない。『続日本後記』によれば、彼は新羅人と交易を行っていた人物で、難波にも家があった。以上のように、時の朝廷に対し、どの人物も謀反を起こし、流罪になり、その地で死亡しているのが共通点である。またその謀反は、本人自身が企んではいないと思われていることも重要である。藤原広嗣、他戸親王、吉備真備、菅原道真、井上内親王らにもそれは共通している。従って、国家に対する大罪を犯したと見なされ、京都以外の地で死亡した人々で、その罪が冤罪であった人物が「御霊神」となったと思われる。また、これらの事件前後は、自然災害や疫病の被害が大きかったことも重要な要素である。
上述したような公の「御霊会」が行われる以前、正史には疫病の流行に対し、陰陽道的「疫神祭」を行っている記述が見える。「疫神祭」は、神祇祭祀では「道饗祭」といい、鬼魅が外から京都に進入するのを避けるために、京城の四隅の路上で饗応し、鬼魅を押し止めるのが目的である。この祭りは、普通、毎年六月と十二月に行われた。これと同じような目的の祭りには、「鎮花祭」があり、春の花が散る時、疫神が分散し、病気を流行させるため、それを鎮めるための神事を執り行う(崇神天皇11が大田田根子12に大物主神を祀らせたのが始まりとされる大神神社とその摂社である狭井神社の祭が有名。なお、京都の今宮神社の祭も「鎮花祭」で、「やすらい花」と呼ばれる。)。
しかし、「疫神祭」が始まったと思われる宝亀年間には違う時期にも行われている13。上述した他戸親王、井上内親王の事件から疾病などが起こったと朝廷では考えていたのだろうか、『続日本紀』宝亀二年(771年)三月五日の条、宝亀六年(775年)八月二十二日の条など、「疫神祭」が別の時期に行われた例である。なお、宝亀七年(776年)五月二十九日には、宮中で大祓の後に、大般若経読経も行っている。
卜部氏が古代から司っていた呪術的祭祀である「道饗祭」は、疫病の大流行と共に、陰陽寮を中心とした陰陽師が朝廷での権威を高めることによって、「疫神祭」として、名称が変化して来る。「疫神祭」は、陰陽道系の祭りとして「四角四界祭」とも呼ばれ、鬼神から御所の四隅を護る「四角祭」と都の四堺を護る「四界祭」に分別される。祭りに際して、陰陽師による占卜をおこない、天皇個人や御所内に漂う邪気、悪気、穢れた気が存在するか否かを調べる。存在を感じた場合、「撫物」などの依代を使用し、「撫物」にこれらの鬼気を依り付け、四界の境界の外に出てもらったのである。
『延喜式14』の「畿内堺十処疫神祭」では、「撫物」に人形(ひとがた)として、金銀人像が使用されている。『延喜式』では、金装横刀二口、金銀の人像2枚、烏装横刀六口が用意され、東西文部が祓刀を上り、祓詞を読むと記されている。呪言では最初に陰陽道の主な神15を述べ上げ、銀の人像、金刀を献じて、穢れを除き、長寿を祈願する。
ここで注目すべきことは、銀の人像は災禍を取り除く(『延喜式』の呪言では銀人を捧げ、災禍を除き、金刀を捧げ、帝祚を延ばすことを請うとなっている。)「撫物」であるなら、金の人像はどのような役割を担っているのかということである。陰陽道的な発想から考察すれば、金の人像は陽を表現し、銀の人像は陰であり、二つが一つとなって初めて、穢れを消し去り、福をもたらすと考えることもできよう。この場合、刀も二服あり、元来は、金および銀刀または烏刀と対であった可能性もあり、この「疫神祭」はまさしく、銷災致福の呪術としての機能を持った行事であったと思われるのである。
朝廷側の「御霊会」を考えるとき重要なのは、このような陰陽道の朝廷周辺の人々への影響力である。貴族政治の担い手達は、陰陽道的思考のもとで、この祟りを考えていた。触穢の意識や災異思想の中で御霊を考え、「個」や「社会」に祟るものとして恐れた。国家の最高権力者、最高の祭司者として天皇はその頂点におり、罪、穢れを総て引き受け、祓う役目があった。
その例として『三代実録』貞観五年(863年)の神泉苑における「御霊会」の史料が挙げられる。「天下以爲。此災。御靈所生也。始自京畿。爰及外国。」という表現は、御霊が成す災いは、京都から派生していると述べているのである。だからこそ『三代実録』の貞観七年(865年)六月十四日の条では、「(前略)禁京畿七道諸人寄事御霊会。私聚徒衆。走馬騎射小兒聚戯不在制限。(後略)」とし、民衆が「御霊会」を行うことを禁じたのである16。
実は、朝廷は「御霊会」だけを禁止しているのではない。『続日本紀』によれば、宝亀十一年(780年)十二月十四日の条に「(前略)此來無知百姓。搆合巫覡。妄崇淫祠。蒭狗之設。(中略)宜嚴禁断。如有違犯者。(後略)」として、淫祠を禁止し、集まる者に対して、罰則を設けてもいる。淫祠とは、度を過ぎて天に哀訴し、祝祷することを意味し(『字統』白川静平凡社)、過去には、天平二年(730年)九月二十七日の条にも「(前略)安藝周防國人等妄説禍福。多集人衆。妖祠死魂。有所祈。又近京左側山原。聚集多人妖言惑衆。多則萬人。少乃數千。如此徒深違憲法(後略)と見える。
天平勝寳四年(752年)八月十七日の条には、「捉京師巫覡十七人。配于伊豆。隱伎土佐等遠国。」となっている。これは、慶雲二年(705年)十二月十九日に定められた「令天下婦女自非神部齋宮々人及老嫗。皆髻髪。語在前紀至是重制也。」に則していると思われる。
このことは、巫覡達が髪を伸ばしていた事も考えられ、中世の境界に住む人々、例えば、髪を延ばしていたことで男女供大人になっても、八瀬の童子と言われた京都八瀬村の住人の役割を考察する上でも、非常に興味深い。また一方では、大宝元年(701年)に施行された僧尼令で、僧尼身分の異動と寺院以外での宗教活動の制限、官許を得ないで出家する私度僧を認めず、民衆教化の禁止など僧尼の民衆への接触を極端に畏れていること、陰陽道に詳しい僧侶達を還俗させ、官僚機構に組み込んでいることなど新進の大陸技術である陰陽道の民衆への浸透を恐れていることもよくわかる17。
もう一つ重要なことは、この「御霊会」が神泉苑で行われたことである。神泉苑は、延暦十九年(800年)七月に天皇の行幸があって以来、苑池での三月上巳の曲水の宴、相撲、重陽の祭りなどにも用いられた。空海が善如竜王を勧請、雨乞いの修法をしたという伝説もあり、神泉苑は請雨修法の道場とされている。「御霊会」が行われた場所と同じ場所で、様々な呪法が行われた形跡があり、神泉苑は、公的な呪術の場となっていた可
能性もあるのではないだろうか。
『日本略記』には、天長二年(825年)閏七月十九日の条で、「令宮中左右京五畿内七道諸國。講説仁王般若経。承前之例也。咒願文者。豫仰當時達文章者作。小僧都空海被配東宮講師。」とあり、天長四年(827年)五月二十一日の条では、「遣使畿内七道諸國走幣祈雨。一百僧於大極殿讀大般若経三个日。」及び、五月二十六日の条では、「命小僧都空海。請佛舎利内裏。禮拜灌浴。亥後天陰雨降。數剋而止。濕地三寸。是則舎利靈驗之所感應也。」となっている。
『高野大師御広伝』では、「炎旱のため神泉苑に請雨経法を修し、善如竜王を勧請し、雨があったため、小僧都に任命された。」となっているが、上述したような正史の資料には、この祈雨作法が神泉苑で行われたという記載はない。しかし、その後、正史では、貞観十七年(875年)、6月15日の真雅僧正以降、たびたび、真言宗の秘伝である祈雨作法が神泉苑で行われたことが記されている。
ここで問題は、このような祈雨が何故仏教的色彩に彩られているかということである。仏教伝来以来、朝廷は仏教を鎮護国家のための新しい技術と考えていたことを、既に拙論「古代の呪術とその分析」(修士論文、名古屋大学大学院国際言語文化研究科)で分析した。そして元来、『法華経』や『華厳経』にも攘災招福を祈る密教的な思想が存在し、7世紀頃『大日経』および『金剛頂経』などは、このような除災招福を祈る現世利益的な形で儀礼、呪法として集約され成立している。従って、日本における二大仏教である天台宗、真言宗もこのような現世利益を背負った形で存在していたのである。
具体的にこの問題を考察する場合、特に重要な人物は道鏡(宝亀四年、772年没)であろう。彼は、陰陽師を後々輩出する弓削一族の出身であり、北辰菩薩妙見呪、太白仙人呪などを含む『陀羅尼集経』や『大金色孔雀王呪経』などに詳しく、特に後者は祈雨止雨に効果があるとされていた。また『十一面観音呪経』も道鏡が写経させており、この経は障難抜除に優れているといわれている。
彼が宮廷で重要な地位にいた時代に、このような密教的影響が朝廷陰陽師達に伝わったと考えることも可能であろう。高山寺所蔵の『宿曜占文抄』では、彼が宿曜秘法を孝謙天皇に伝授し、病を回復させている。陰陽道と仏教がどのように結びつき、中世の思想を形成していったかを考察することは非常に重要であり、将来の研究課題としたい18。
さて、このような雨乞いでは水の神様として、龍が大きな役割を果たしており、龍は雷神でもあり、古代中国では龍は太鼓、舞楽、音楽をも創作したとも考えられている19。後の『太平記』十五巻や『お伽草子』の俵藤太の竜宮訪問でも鐘の宝物を貰った話になっており、その説話の中では、龍は大蛇になって勢多橋に横たわっていた。また神泉苑で行われた三月上巳の曲水の宴などは、唐代に中国でも行われていたが、元々は桃の咲く頃に水辺で行われた招魂続魄であり、豊饒を祈願する農事儀礼でもあった20。
この項では、宮廷で行われた「御霊会」に関して幾許かの分析を行った。次項では、民衆側の「御霊会」を考察し、相違点、類似点を分析することで、「御霊信仰」の成立の原点を掘り起こしてみたい。 
3.民衆側の「御霊会」及び朝廷側の「御霊会」との接点

 

朝廷で行われた「御霊会」と同じ名称で、民衆側が「御霊会」を開催していた資料もいくつかある。二つの「御霊会」は同じ趣旨で行われていたのだろうか。『祭神御事暦等取調書草案、祇園社本縁録』の貞観十一年(870年)には、「(前略)同十四日、率洛中男児及郊外百姓而送神輿干神苑以祭焉。是号祇園御霊会爾来、毎歳六月七日十四為恒例矣。」とある。この資料からは、多くの民衆が祇園社に集まり、御輿を担いで祭りを毎年行っていたことがわかる。それ以外にも上述した『三代実録』の貞観七年(865年)六月十四日の条には、「(前略)禁京畿七道諸人寄事御霊会。私聚徒衆。走馬騎射小兒聚戯不在制限。(後略)」とあり、よくある祭りの風景が描かれている。このことから、畿内の多くの郡や郷などで地域単位の「御霊会」が開かれていたことが推測される。
少し時代は下るが、『今昔物語』「巻二十八第七近江国矢馳郡司堂供養田楽話第七」では、以下のように田楽を行い、笛を吹いたり、拍子を叩いたり、ささらを鳴らしたりして「御霊会」のイメージとは大きくかけ離れたものが行われている。田楽を行うのは、五穀豊穣を祝うためである。「(前略)而ル間。此ノ田楽ノ奴原、或ハ馬ノ前ニ打立チ、或ハ馬ノ後ニ有リ、或ハ蕎平ニ打立チテ打行ク、然レバ供奉『今日ハ此ノ郷ノ御霊会ニヤ有ラン。』(後略)」。
ここで、豊饒儀礼の祭祀の特徴を箇条書きで記載すると以下のようになる。
一激しい音を出すこと(叫び、物を叩く)。
一神輿などを激しく揺り動かし、豊饒をもたらす神を呼ぶ。祭り後、神を送る。
一祭りの際の性的シンボル:アルコール、食物などの過度の採取、乱交、抑制の解放、男性性器、女性性器を思わせる物の存在。
一丸い物の存在:餅、団子、豆などまたそれらなどで作った食物。
一火、水、塩、泥など浄化作用を持つと考えられているものの存在。
一沈黙21:祭りの最中、互いに話すのは、タブーとされている祭が多い。また、「直会」時に、それまでの沈黙に反し、声を立て騒ぐ。
祇園祭り(天王祭)は、全国でも勇壮な祭りとして知られ、京都の八坂神社や愛知県の津島神社、兵庫県の廣峯神社、品川区の天王社などで激しい水掛けなども行われ、神輿が海に投げ込まれたりもする。これらの祭りは、旧暦で言えば、15日を中心として行われる水祭りであるが、氏神の前で茅の輪くぐりをするなど祖霊信仰と関係していると思われる。
『釈日本紀所載』の「備後国風土記逸文」では、須佐之男神は貧しい旅人を装い、家を訪ねる。豊かな巨旦将来は、一晩の宿を求めた身なりの貧しい旅人を、追い出したのに対し、その兄、蘇民将来は一夜の宿を貸し、決して粗末に扱わなかった。その後、疫病が広まった時、弟一族は全て死に絶えたが、兄一族は疫災を免れ、代々栄えたと言う。
「汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人は、免れなん。」須佐之男神は、疫病神、豊饒神、水神、農業神そして豊穣神と見なされ、『記紀神話』では、天照大神の弟として、天上では悪、罪、穢の象徴ではあるが、天上から追放され、降り立った出雲国では祖霊神とみなされている。
また『常陸風土記』の筑波郡の条に新嘗の夜、神祖が訪ねてきて、一夜の宿を求め、福慈の岳で拒まれ、筑波の岳でもてなされたとある。「是をもちて、福慈の岳は常に雪ふりて、登臨ることを得ず。其の筑波の岳は、往集ひて、歌ひ舞ひ飲み喫ふこと、今に至るまで絶えざるなり。」
従って、両者の「御霊会」の相違として注目されるのは、朝廷側の「御霊会」に神輿などに代表される依り代が見当たらないことである。これは、民衆側の「御霊会」が祖霊神を呼ぶ神祭りの儀式であったからではないだろうか。疫病が蔓延したとしても、神話に見られる祖霊神の来訪であり、そのための神輿であったことが想像される。また歌舞や飲酒また大声を立てる22など豊饒祭祀には欠かせないものもあったであろう。
しかし、朝廷側の「御霊会」がおこなわれた神泉苑で、祈雨を請う儀式が行われた事実は、現実に旱魃などで困っていただけでなく、津島神社などの激しい水掛けにも代表されるような水神=祖霊神を修法で呼ぼうとしたという可能性も考えられる。朝廷での「御霊会」開催日時と祈雨を請う儀式の日付が非常に似通っているからである。また上述した「御霊会」の初見の資料の中でも、散樂や舞い、音楽なども行われていることから神輿などに代表される依り代はなくとも、神を呼ぶ儀式であったとも想像できる。
さて、ここで古代日本文化のなかには、死んだものを祀る例は存在していないことに注目したい。日本の『律令』は、唐の『律令』を模倣し、『近江令』から始まり、『大宝律令』で法典として完成した。現存している『養老令』の注釈本、『令義解』のその第六編、「神祇令」の中に祠令がないと井上満郎氏は指摘している23。「神祇令」は、国家が、どのような神を祭るか定めたものだが、他は、全く中国のそれの模倣なのに、天神(天津神)、地祇(国津神)は存在しても、個人の魂を祭るための「令」、「祠令」が無視されている。従って、当時、廟を作る観念は発達していなかったと解釈できる。つまり7世紀後半には、魂の個別性に関する意識が存在しなかったことになる。
従って、朝廷の行う「御霊会」のなかに内包されている「御霊神」への信仰は、「個」の意識は存在し始めていたとしても、祖霊信仰と少なからず習合した信仰とも考えられる。そして、このような水神や豊饒に対する呪術の場が、「御霊会」が行われた場所と同じであることも何らかの繋がりがあるのではないだろうか。
この問題を解く鍵は、『記紀神話』の、祟神天皇の時代、疫病で人々が飢え、苦しみ、その原因がある神の「タタリ」であるとしてその名が挙げられている大物主神(意富美和之大神)であろう。この神は、三輪山伝説24によると、蛇体の神であり、岩窟に居住していた。崇神天皇が、大物主の子孫の大田田根子を探しだし、この神を祭らせたところ、疫病が治まり、天下が安定したという。この神は蛇体ということで、雨の神・雷神でもある。蛇は、水辺や湿地帯に生息し、水の神またはその使者と見なされ、雨乞いの対象となり、雷神とも見なされたのである。
長野県の諏訪神社などでも藁蛇を作り神社に飾るのは、祭神が蛇であったためと考えられる。吉野裕子氏によれば、諏訪神社で行われる「御室御占神事」では旧暦12月22日から翌3月寅日まで諏訪上社の前宮境内にある竪穴住居の中に藁製の大蛇が据えられ、この蛇の前で占により、氏子を決定するという25。また蛇はその頭部が男性性器に似ているところから男根自体を象徴し、豊穣をもたらすとも考えられている。従って、蛇が一族の祖であると言う伝承(九州・緒方一族、越後・五十嵐一族など)も多く、この三輪山伝説も『古事記』に神婚説話を残している(「神武段」勢夜陀多良、「崇神段」活玉依昆売)。
蛇信仰には、このような父系的要素以外に母系的要素も見受けられる。『今昔物語』の中にみうけられるように26蛇が女性を指す場合も多い。これは、蛇がとぐろを巻いた状態が女性性器を思わせるところから来ているという説も存在するが、脱皮することによって、新生を得ることと子供の出生を脱皮になぞらえた再生思想が古代に存在したという見方もある。
ところで『山城国逸文風土記』の賀茂社創設つまり山城国の祖霊神は水神・雷神である。「可茂というは、日向の曽の峯に天降りましし神、賀茂建角身命、神倭石余比古いの御前に立ちまして、大倭の葛城山の峯に宿りまし、そこより漸に遷りて、山代の国の岡田の賀茂に至りたまい、山代河の随に下りまして、葛野河と賀茂河との会う所にいたりまし、加茂川を見はるかして、言りたまいしく、『狭小くあれども、石川の清川なり。』とのりたまいき。よりて、名づけて、石川の瀬見の小川という。その川より上りまして、久我の国の北の山基に定まりましき。その時より、名づけて賀茂という。賀茂建角身命、丹波の国の神野の神伊可古夜日女にみあいて生みませるみ子、名を玉依日子といい、次を玉依比売という。玉依比売、石川の瀬見の小川に川遊びせし時、丹塗矢、川上より流れ下りき。乃ち取りて、床の辺に挿し置き、遂に孕みて男子を生みき。(中略)いわゆる丹塗矢は乙訓の郡の社に座せる火雷神なり。」
このように、朝廷側の「御霊会」においても水神、雷神と思われる京都の祖霊神が関係している可能性も十分あるのである。また、「御霊会」の目的が官民両方とも祖霊を祀るという同様の趣旨なら、「御霊会」が行われる時期も非常に重要だと思われる。朝廷側の「御霊会」は、文献上の初見の史料では、五月二十日に神泉苑で行われた。また民衆側の「御霊会」は、六月七日から十四日である。時期もほぼ同時期である。太陽太陰暦の暦では夏至の頃である。
さて、ここでは、その反対の冬至の儀式を考察することで、この問題を分析してみたい。宮中で、11月23日に執り行われる新嘗祭、元来は、「にいあえ」と思われ、新しく収穫された穀物を饗(あえ)、つまり神に供え、共食する祭りであり、民間では、石川県につたわる行事「アエノコト」などがその代表的な祭りである。『令儀解』にも上卯相嘗祭の規定が見える。その前日執り行われる魂振りの祭儀では、天皇、皇后の御魂を鎮め、活力を与え、御代長久を祈り、活力を与える。魂結び(霊魂が身体から遊離していくのを鎮め、とどめる呪術)、鎮魂(たましずめ:魂を落ち着かせ、鎮める呪術)があり、肉体から遊離とする魂や肉体から遊離した魂を肉体に落ち着かせる。
このような「タマ27」は魂および魄と記し、魂が陽に属する気であるのに対し、魄は、陰に属する気なのである。古代中国においては、魄は死者の霊魂を意味し、魂は陽の気であり精神を、魄は陰の気で肉体をそれぞれ司り、人間の死後、魂は、天に昇り、神となり、魄は、地に降り、鬼となる。しかしながら、この「魂・魄」のそれぞれは、神霊的な存在であり、生者に祖霊として禍福をもたらすものと考えられている。
従って、特に陰陽のバランスが崩れる季節のその変わり目(冬至、夏至、春分、秋分)にあるいろいろな祭儀も、元々は、この「魂・魄」を鎮めるため、祀るために必要だったと思われる。以上のことから、夏至に行われるこのような「御霊会」も、先祖霊の来訪儀礼や「魂・魄」の安定化を懇願する儀礼であったと推測するのである。
実際には、公的行事として、夏至を祀る儀礼はない。しかし、この前後に行われる祭りは、水神祭、夏越しの祭り、大祓など冬至の祭りと類似点も多く、水辺の儀礼、先祖儀礼、豊饒儀礼、病魔退散などと関係している。ここで、朝廷側の「御霊会」と民衆側の「御霊会」は同じ主旨であったのかと推定もできる28。
しかし、ここでは、敢えて、朝廷側の「御霊」を「ごりょう」と呼び、民衆側の「御霊」を「みたま」と呼ぶことにする。民衆側の「御霊会」は先祖霊を祀る祭りであると考えるからである。また、反対に朝廷側の「御霊」を「ごりょう」と記すのは、朝廷側は「個」としての怨霊の復讐を慰撫するのが本来の目的であったからである。
「御霊信仰」が成立するためには、祖霊信仰との習合が必要であったという条件からこの問題を分析するために、京都という都市の成り立ちから考えてみたい。都は平城京から長岡京へ延暦三年(784年)に遷都し、長岡京造営に功績があり、早良親王も事件に関わった藤原種嗣が暗殺されたため、延暦十三年(794年)には、平安京に都を移している。その急な造営のため、京都は大幅に人口が増えたと思われる。それは、百姓だけでなく、地方の豪族も多数移住していった。村山修一氏によると、延暦十五年(796年)から仁和三年(887年)の間に正式に京戸に貫付された地方豪族の数は、正史に現れただけで約443名に達すると述べている29。
それだけではなく、『類聚三代格』巻十九、寛平三年(891年)九月十一日の条によると、非合法的に京都に移り住み、賄賂を使って、住民になった者が多かったことが分かる。また当時の制度では、京都、畿内の百姓の負担が畿外より軽いため、京畿に流入する百姓の数も相当多かったと思われる。貴族達は、延暦十九年(800年)十一月二十六日に、京畿に流入した百姓を戸籍に貫付することを禁止したことからも想像できよう30。
こうした流入は、京都を急激に都市化した。しかし、流入した彼らは、それまで住んでいた祖霊神と土地が結びついた一つの社会から離れ、祖霊神の庇護もなかった。祖霊神とは、家族や血縁集団の守護神的属性をもつ先祖と見なされる霊魂である。勿論、このような守護神的属性をもつ先祖神は、同時に疫病神的性格も合わせ持つ。そこで、京都に流入した人々にとっては、疫病を接点として、疫病をもたらす神が祖霊的な性格を持つ神とみなすようになったとも考えられる。
異界で無残にも死んでいった人々の怨恨の「魄」は、祖霊神を持たない京都の新しい民衆にとって、疫病神として畏れながらも、新しい土地の神と考えたのではないだろうか。上・下御霊の両神社も京都御所の「産土神31」として重要視され、公的にも当時の朝廷に認知され、民衆にも親しまれているのもこのような思想の影響があると思われる。
ここに、二つの階層の接点が考えられる。「御霊信仰」が「個」の意識なしには、ありえない政治的な祟りという面だけでなく、疫病神的祖霊信仰に近い面も併せ持つ理由が想像されるのである。
2項で上述したように、古代中国文化のなかには、死んだ「個」の霊に対して廟を作り祀ることは在っても、「御霊神」のように死んで祟るものを祀る例は存在しておらず、朝廷の行う「御霊会」のなかに内包されている「御霊神」への信仰は、祖霊信仰と習合した信仰である。そして、それが、あくまでも、「個」の霊に対する恐れの信仰であったことが「御霊信仰」の重要な要素である。また、都の新しく移住して来た民衆にとっては「御霊神」も祖霊神と同じ性格を所持する存在と認識されていたはずである。
「御霊信仰」には、祖霊信仰と同じく両義的な性格が際だっている。神は、優しく豊饒を約束する存在でもあるが、同様に厄災をもたらす存在として、畏れられもする。従って、民衆にとって、御霊を慰撫する儀式は、疫病神、祖霊神を慰撫する古代からの祭儀に近かったのだろう。このような状況の中から「御霊信仰」が成立して来たのではないだろうか。
そこで、ここでは「御霊神」になるための条件と陰陽道との関係について考えてみたい。前項で指摘したように、彼らは全て、権力者達の生活・文化基盤の外、つまり異界の地で死んでいる。このような異界に関しては、既に拙論「境界神と飛礫の呪術」『言葉と文化第2号』名古屋大学・国際言語文化研究科・日本言語文化専攻(2001年)で詳細に分析した。境界神は、死と再生の儀礼の中心的な役目を持ち、此岸と彼岸、この世と他界を結ぶ役目を担っている。つまり生者の世界と死の世界の中間に位置し、この二つの異質な世界をつなぐ役目を果たしていると分析している。このような境界神は「道祖神」と習合し、また『記紀神話』のなかで天孫した神々の道案内をする猿田彦と同一視され、豊穣を約束する神なのである。
『本朝世紀』天慶元年(938年)九月の条に、京の街頭で、大路小路の巷に陰陽の性器を彫って色彩した男女の人形を対向して立て、弊束や香花を捧げるとある。この神は、疫病から村を護る役目をも担っている。「(前略)児童猥雑、礼拝慇懃、或棒弊帛、或伴香花、号曰岐神、又称御霊。未知何祥。時人奇之。」ここでは「岐神」つまり「道祖神」は、御霊とされてしまっている。
民間では、「道祖神」は悪霊だという習俗もあり、左義長の火祭りでは、火に投げ捨てられることもある。これも祖霊信仰の一側面であり、『今昔物語』「巻十三天王寺僧道公、誦法花救道祖語第三十四」の中では、行疫神の先導役も務めている。「(前略)曉ニ成ル程ニ、道祖返リ来タリヌト、聞ク程ニ、年老タル翁来レリ、誰人ト不知ズ。道公ニ向テ、拝シテ云ク、『(中略)此ノ多くクノ馬ニ乗レル人ハ行疫神ニ在マス。國ノ内ヲ巡ル時ニ、必ズ翁ヲ以テ前使トス。若シ、其レニ不共奉ネバ笞ヲ以テ罵ル。此ノ苦、實ニ難堪シ(後略)』。」
このように境界神は疫病神との関係も深く、豊穣との関連性もあるように、生きている人間世界と彼岸つまり死の世界の中間に存在し、この二つの異質な世界を繋ぐ役割を担っているのである。従って、陰陽道の呪術として、疫病、悪霊、凶を「穢れ」とし、それを祓う呪術が存在し、京都という天皇を中心とした日常の場所以外で、つまり境界の外で御霊となる人々が死んだからこそ、疫病を流行らせる祖霊神的怨霊「御霊神」として認識されたと思われる。 
4.結語

 

貴族達は中国文化の影響を受け、「個」の意識を認識し、やがて御霊が天災、疫病などで自分達に祟っていると意識し始めた。陰陽道の呪術には疫病、悪霊、凶を「穢れ」とし、祓う呪術が存在し陰陽師が御霊を祓うようになった。「穢れ」を祓うというのは、社会生活基盤の外、異界へ帰ってもらうということである。朝廷は「御霊会」を開催したが、民衆も既に「御霊会」と朝廷から呼ばれるものを行っていた。そして、この「御霊会」が一つの接点となり、「御霊神」と呼ばれる神が生まれた。「御霊信仰」とは、貴族側から見れば、個の「祟り」を鎮めるものであり、民衆側から見れば「御霊神=疫病神=祖霊神=産土神」である。
しかし、朝廷側には、2項で分析したように、民衆側の祖霊神=疫病神的発想は「個」の意識を除いては既に持っていた。そのような両方の接点から「御霊信仰」が成立したと考えられる。ここで、「御霊会」が行われたとされる公的資料に見られる日付にも注目したい。朝廷側の「御霊会」の日付は正しく夏至の頃である。一方民衆側の「御霊会」の日付は、現在のお盆、つまり祖霊が戻ってくるの日付と合致する。この興味深い事実は、将来の研究課題とし詳細に分析したい。
さて陰陽道は元来陰陽の均衡を追及する呪術であった。従って、京都の上御霊・下御霊の両神社に祀られる御霊神は、敵を倒し、その敵を祀ることでその土地の守護神とするようなヨーロッパ的な発想はないといっても間違いないであろう。「御霊神」の出発点は朝廷側にとっては、「個」の怨霊=陰であっても、陽との均衡が保てれば、やがて民衆側の京都という都市の祖霊神的没個性の中に埋没していってしまうであろう。
しかしながら、陰陽道には上述したように仏教の影響もあり、「個」の怨霊=陰は、魂の浄化を待つといった形で解決されていったのかも知れない。ここで例として、「追儺」を挙げる。「追儺」は悪鬼を払い、疫癘を除く新年を迎える儀式で大儺や儺とも言う。『和漢三才図絵』によれば、「秦中歳事記」の一巻に「歳除の日に儺する。鬼神の状をした二老人をつくり、儺翁、儺母という。」とあり、『周礼』では、「方相氏という呪師が熊の皮をかぶり、黄金の四つの目のある面をつけ、玄衣、朱裳を着け、戈を持ち、盾を掲げ、疫鬼を追い出した。」とある。また、『公事根源』に「大舎人寮が鬼面をかむり、陰陽寮が祭文を読み、上卿以下が鬼を追う。」とある。『延喜式』では、大舎人寮の舎人が鬼、大舎人長が方相氏となり、『周礼』の古制にならっている。
実際、民衆文化として残存している「追儺」の儀礼には、大鬼、小鬼または大儺、小儺の存在など陰陽の均衡が取れている例が多い。しかし、朝廷の「追儺式」では、やがて、元来「穢れ」を祓う役割を担った方相氏が鬼と見なされ、追い出されるなど『周礼』から変化し始める。この儀式では、方相氏が鬼面を付けて行うため、仏教的な鬼の観念から、鬼を嫌う方向へ儀式が変更されていった可能性もあるのである。
他の例として、「神祇令」の成立には、『大唐開元令』の影響があるが、日本側には中国側にない肉食禁止の規定がある。また『令集解』(九世紀後半成立)には、「穢悪」について、「(前略)或余悪謂佛法等並同者。(後略)」とある。しかし、『令義解』(九世紀前半成立)には、「謂。穢悪者。不汚之物。鬼神所悪也。」と記されているのみである。このように、中国古来の陰陽道的な祭祀の中に、陰陽寮が受けた仏教的影響度を詳細に掘り起こすことで、陰陽道の日本的変化を考察することを将来の研究課題としたい。このことは、「御霊神」に対する朝廷側の発想を再度考察、分析することにも結びついていると考えている。 

 

1 『御霊信仰』「御霊信仰の成立と展開」民衆宗教史叢書第5巻105〜106ページ雄山閣出版1984年
2 『我が国民間信仰史の研究(二)宗教史篇2』463ページ創元社1953年
3 『御霊信仰』「御霊信仰の成立と展開」民衆宗教史叢書第5巻38ページ雄山閣出版1984年
4 神泉苑は、大内裏の東南にある広大な圓池で、禁苑とされており、延暦十九年(800年)七月に天皇の行幸があって以来、苑池での三月上巳の曲水の宴、相撲、重陽の祭りなど様々なことに用いられた。
5 御霊を祀った神社である。上御霊神社には、早良親王、藤原吉子、橘逸勢、文室宮田麻呂、他戸親王、吉備真備、菅原道真、井上内親王、下御霊神社には、早良親王、伊予親王、藤原吉子、橘逸勢、文室宮田麻呂、藤原広嗣、吉備真備、菅原道真とそれぞれ8人ずつ祀られており、八所御霊と呼ぶ。創建は、平安初期である。
6 藤原家の権力拡大の邪魔になる吉備真備を除こうと太宰府で挙兵、肥前で斬殺(740年)。
7 他戸親王は、井上内親王の子供、宝亀二年(771年)皇太子になるが、光仁天皇の呪詛事件に絡んで大逆の罪により宝亀三年(772年)皇太子を廃され、翌年、大和国に幽閉、(775年)獄死。
8 吉備真備は、橘諸兄に重用されたが後に九州に左遷され宝亀六年(775年)死亡。
9 菅原道真は、宇田上皇の重用により出世。醍醐天皇の時、藤原時平に次ぐ地位を確保、醍醐天皇を廃そうとした罪により昌泰四年(901年)太宰府に左遷、延喜三年(903年)彼の地で死亡。
10 井上内親王は光仁天皇の妻で宝亀三年(772年)、光仁天皇の呪詛事件に絡んで皇后位を廃され、宝亀六年(775年)、息子(他戸親王)と同じ日に獄死。
11 第十代の天皇で、『記紀神話』によると、大物主神などを代表とする多くの国津神を祭り、また天照大神を伊勢神宮に祭るなどして伊勢神宮と斎宮制の確立など王権と宗教の分離を行ったと見なされている。
12 『記紀神話』の中で、三輪氏や賀茂氏の始祖とみなされ、玉依姫と蛇との間の子である。
13 「疫神祭」の初見は続日本紀の宝亀元年(770年)六月甲寅の条「祭疫神於京師四隅、畿内十堺。」である。この祭りの形式は、延喜式に詳細に定められている。(巻三、神祇三、臨時祭、宮城四隅疫神祭と畿内堺十処疫神祭)
14 10世紀初頭(延喜五年905年)の成立だが、平安初期の禁中における年中儀式や制度をまとめたもの。
15 皇天上帝、三極大君、日月星辰、八方諸神、司命司籍、東王父、西王母、五方五帝、四時四気。
16 『三代実録』貞観五年(863年)五月二十日の条では、「開苑四門。聽都邑人出入縦觀。」と述べ、神泉苑を民衆に開放し、行事を見物させている。一方では、民衆に「御霊会」を行うことを禁じながら、他方では、朝廷側の行事を見せる行為に呪術の独占を目指す政治的意図を感じさせる。
17 「穢れと結界に関する一考察」『名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科言語文化論集第24巻第1号』2002年参照のこと。
18 『続日本紀』の天平寶字二年(758年)八月十八日の条に「勅。大史奏云。案九宮經。來年己亥。當會三合。其經云。三合之歳。水旱疾疫之災。如聞。摩訶般若波羅密多者。是諸佛之母也。四句偈等受持讀誦。得福徳聚不可思量是以天子念。則兵革災害不入國裏。庶人念則疾疫癘鬼不入家中。(後略)」とあり、また宝亀五年(774年)にも同様の勅が出ている。このことからも、陰陽道と仏教の結びつきが見て取れる。
19 『神霊の音ずれ』59〜86ページ朱家駿思文閣出版2001年
20 「穢れと結界に関する一考察」『名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科言語文化論集第24巻第1号』(2002年)参照のこと。
21 氏神神を祀る祭りに特に多くみられる。また石川県能登に残る「アエノコト」の神事や愛知県国府宮の「裸祭り」、京都の相楽郡の小正月における「忌籠祭」(祭りの続く3日間は沈黙を保つ)など沈黙を強いる祭りは多い(名古屋外国語大学紀要第2号拙著「鬼の分析」参照)。
22 大声を立てる行為は中国古代の嘯との関係で将来の研究課題としたい。
23 『御霊信仰』「御霊信仰の成立と展開」民衆宗教史叢書第5巻104ページ雄山閣出版1984年
24 奈良県櫻井市北部にある標高467m の山。『記紀神話』には、多くの伝承が残されている。
25 『蛇』「ミシャグチ神とその祭祀」198ページ法政大学出版局1989年。
26 『今昔物語集』二十九巻第四十「此レヲ見ルニ、早ウ、我ガ吉ク寝入ニケル、マラノオコリタリケルヲ、蛇ノ見テ寄テ呑ケルガ、女ヲ嫁トハ思エケル也ケリ。然テ婬ヲ行ジツル時ニ、蛇ノ否不耐テ死ニケル也ケリト。」
27 魂魄を表す「モノ」、「タマ」、「レイ」の分化の過程は、「古代の呪術とその分析」修士論文名古屋大学大学院国際言語文化研究科(2000年)を参照のこと。
28 『令義解』(九世紀前半成立)では、「季夏月次祭謂。於神祇官祭。興祈年祭同。即如庶人宅神祭也。」となっているが、夏月次祭は、水神祭・名越の祭りを指しているのだろうか。今後の研究課題としたい。
29 『日本都市の生活の源流』29〜37ページ関書院1953年
30 『類従国集』「巻百五十九田地上班田」
31 産土神は、元来は、生まれた土地の神の意味であり、氏神的な意味は存在しなかった。しか、後世共通化する。 
 
御霊信仰の諸相

 

はじめに 
人が怨念を抱いて死ぬと、 その魂は怨霊と化し、災害や疫病を引き起こし祟ると恐れられていた。そしてそれらの怨霊を「御霊」―神や守護霊として祭り、 鎮めることで種々の厄災から逃れられるとも。これら一連の思想、 行為を「御霊信仰」という。怨霊となった者は、 何故そうならざるを得なかったのか、 この信仰は社会にどのように影響を与えたのかなど、 御霊信仰についていくらか調べたものをまとめて考えてみたい。 
T 御霊信仰

 

御霊とは
御霊信仰とは、 先に述べたように怨霊となった者の霊を畏怖し、 それを鎮めることで、 祟りを免れようとする信仰のことである。怨霊を広義で捉えると、 死んで間も無くの霊魂の全てが、 怨霊であるとされる。特に天災、 疫病を単独で齎す強力な怨霊は御霊として恐れられた。怨霊は大きく分けて三種類あるとされ、 まず新魂などと呼ばれる、死んで一年も経っていない鎮魂前の霊魂。これらは一周忌がすめば生まれ変わり怨霊ではなくなるのだが、 何らかの理由で子孫や縁者に祭ってもらえない霊魂は餓鬼と呼ばれ怨霊のままさまよう、これが第二の種類とされる。そして三つ目が非業の死を遂げた者の霊魂であり、 これを一般的に怨霊と呼び恐れられている。このあたりの分類などは五来重氏の論著(『現代人の宗教6 命と鎮魂』所収「怨霊と鎮魂」1986 御茶の水書房) が詳しい。

また、 別の区別の仕方として、
人間が神とされるゆえんのものは、 ただ人間であるだけのものではなくて、 その社会生活において、 特殊の存在である場合に限る。(中略) そういう霊魂の存在を強く信じており、 現実の生活だけでなくて、 神秘的な世界観を持っていたころのものにとっては、 死後の霊魂の働き、 ことにその災いを及ぼすような働きにまで偉大さを感じ、 それに恐れを抱いたのである。偉人の崇拝ということもそういう怨霊の崇拝とも結び付き、 むしろそうしたものでもあった。そこでこの怨霊はすべての死者にあるのではなく、 そのうちでも特別な死に方をしたもの、 またはその社会にも容れられなかったような人などの死霊である。(日本歴史新書『神社』所収「人間神と怨霊神」より1966 原田敏明著至文堂)
というものもある。

御霊信仰自体は対象とする怨霊・御霊を限定しているわけではないが、 主な対象となる御霊は非業の死を遂げた人物、 それも政府高官や皇太子などの政治的失脚者が中心となっている。そうなっている理由には、 その立場ゆえに非業の死を遂げたという話が広まりやすい、 皇位争いや政治闘争などにおいて陰惨な話に事欠かない、 偉人への崇拝と怨霊への崇拝は通じるものがあるから、 大々的な祭りを実行できるのは時の権力者達であり、彼らが恐れる怨霊は自分たちが陥れた政敵が主であるから、 などの理由であると考察できる。  
御霊会
怨霊を鎮める為の祭りを御霊会と呼ぶ。記録上初めて御霊会が行われたのは、 『三代実録』の貞観五年(863年) 五月二十日の条に記されてある、平安京の神泉苑で執行されたものがそうだとされている。

『三代実録』は、 さらに御霊会の起源に関しこのように説明している。「近代」以来疫病頻発し、 死亡者が甚だ多いので、 「天下」の人々はこの災厄は御霊のしわざであると考えた(この天下の人々というのは、 農民はもとより、 これをリードする民間僧侶などの下層知識階級、 冤罪を受けた者の一族縁者を指すと思われる)。そこで京畿を始め諸国に及び、「夏天秋節」に至るごとに御霊会を修し、 「往々にして断たず」(これは恒例行事化しつつある意味と思われる)。行事の内容は仏を礼し経を説き、 あるいは歌舞が行われ、 子供を化粧させ馬上射撃を競わせ、 あるいは腕力のある者を選んで相撲をさせ、 競馬を催し、 あるいは仮装して芸を演じ、 観衆は固唾を飲んで見物し、 これが時代の流行となった。(『天神御霊信仰』1996 村山修一著塙書房)

これは民間でなされていた祭りを中央政府が公認し、 勅命によって実施された最初の例である。この時御霊として祭られたのは、 崇道天皇(早良親王)、 伊予親王、 藤原夫人(藤原吉子)、 橘逸勢、文室宮田麻呂の五人である(観察使・藤原広嗣を含む場合も)。
このような御霊会、 鎮魂の祭りは飢饉や疫病の起こり易い(怨霊が暴れやすい) 春の終わり、 夏の終わり、 土用の間などに行われ多少時期ははずれたりしているものの今も行われているものもある。三月に行われる鎮花祭(やすらい祭)、 六月(今は七月) の祇園御霊会(祇園祭)、 八月(今は九月) の八幡宮の放生会、 九月(今は十二月) の春日若宮のおん祭など。霊魂を祭り、 芸能で鎮め、海や山や川へ流すというのが基本的な御霊会。京都の祇園祭では賀茂川へと流し大阪の天神祭では淀川へと流す。  
怨霊となった者達
鎮め、 流したくらいでは収まらないような強大な怨霊は神社に御霊神として祀ることになる。有名な怨霊としては先に挙げた神泉苑での御霊会で祭られた五人の御霊、 崇道天皇、 伊予親王、 藤原吉子、 橘逸勢、 文室宮田麻呂、 これに藤原広嗣を加えての「六所御霊」、 ここにさらに吉備真備、火雷天神(普通は藤原道真を指すが、 八所御霊として数える場合は他戸親王の方を数える) を加えて「八所御霊」と呼ぶ。これらの御霊は全て京都の上御霊神社と下御霊神社に祀られている。
崇道天皇(早良親王) は光仁天皇の皇子だったが、 延暦四年(785年) に藤原種嗣が暗殺された事件の首謀者だとされ、 乙訓寺に幽閉された。しかし、 彼は罪を認めず、 飲食を断ち、 無実を主張、流罪地淡路国へ配される途中死亡(毒殺されたとも)、 遺体は淡路で葬られた。その後、 桓武天皇の夫人藤原旅子、 母の高野新笠、 皇后の藤原乙牟漏が相次いで死亡し、 皇太子の安殿も病気に罹る。占いによって、 延暦十一年(792年) 六月十日、早良親王の祟りと出たため、 親王への陳謝を行った。平安京への遷都の理由の一つが、 この親王の祟りから逃れるためともされている。延暦四年(785年) から延暦十年(791年) にかけて大風による水害、 旱魃による飢饉、 痘瘡などの疾病が大流行し、 延暦七年(788年) には、 大隅国の曾乃峯(霧島山) の噴火、 延暦十九年(800年) には、富士山が噴火し、 災禍が続いたため、 同年早良親王に対し、 崇道天皇と追称した。
伊予親王は桓武天皇の皇子であり、 藤原吉子はその母であった。大同二年(807年) 十月二十七日、 藤原雄友(吉子の兄) が、 伊予親王に謀反の疑いがあると藤原内麿に報告し、 天皇は母子共々、大和国川原寺に幽閉した。そして食事も与えずに、母子共々服毒自殺に追いやった。この二人の御霊についてとくに噂されたりした様子はないのだが、そのことについては誣告者である、 式家藤原仲成、薬子が制裁を受け没落したことが関係していると思われる。
また、 直接伊予親王等とは関係ないのだが、 大同元年(806年)、 畿内を暴風雨が襲い、 山城国では大洪水が起こり、 霖雨が続き凶作となった。大同二年(807年) には京中に疫病が流行し、 大同三年(808年) には、 いよいよ猖獗を極め、 朝廷は使を遣わし京都内に放置されている死骸を埋葬、疫病沈静のため、 諸大寺に大般若経を奉読させ、祈願している。だが翌四年(809年) より天皇自身も病に臥せり、 ついには嵯峨天皇に譲位する運びとなった。
橘逸勢は下級官吏であり、 承和九年(842年)七月十七日、 承和の変(藤原良房が計画した政治的陰謀で、 伴健岑等が謀反を企てたと逮捕され、計画に加わったとされた皇太子恒貞親王、 藤原愛発等も追放された。恒貞親王廃太子事件ともいう)に連座し逮捕された。杖で打たれ続ける拷問を受けた後、 伊豆に流されることになったが、 途中の遠江国で死去し怨霊となった。後に名誉回復し、仁寿三年(853年) には、 従四位下に叙されている。なお、 承和五年(838年) 十月十四日、 京都西山の南から北にかけて長さ30丈、 幅4丈余りの白い虹が出現、 同月二十二日から二十六日にかけて東南の空に彗星が出現、 陰陽師がどちらも凶非と判断し、 これを橘逸勢の祟りとした。
文室宮田麻呂も下級官吏で、 謀反の疑いで承和十年(843年) に逮捕され、 伊豆国に流された、その地で死亡したかどうかは、 史料が残っていない。この事件は『三代実録』の記事以外に記録が残っておらず、 真相は全く謎に包まれている。承和の変にからませて、 失脚させることを企んだ陰謀であるとの説が有力で、 その説を補強するかのように、 後に御霊の一つに数えられるようになった。
藤原広嗣は藤原式家宇合の長男で、 五異七能ありと称せられるほど非凡な才をもっていたが、 言動に横柄さが目立ち、 それを疎まれて大宰府に左遷されてしまう。これは天皇の近くで祈祷その他に携わっている玄と吉備真備がよからぬことを吹き込んだためだと怒り、 天地の災厄の元凶であるのは、 反藤原勢力の要である吉備真備と僧の玄であるとの上奏文を朝廷に送るが、 聖武天皇はそれを受け入れず、 広嗣は天平十二年(740年)、弟の綱手とともに大宰府の手勢や隼人などを加えた一万余の兵を率いて反乱を起こした。結局広嗣は敗走し、 最後は肥前国松浦郡で捕らえられ、 同国唐津にて処刑された。この時期に疫病が非常に流行り、 これは広嗣の祟りであるとされた。なお玄は天平十八年(746年) に死去したのだが、その死に様は、 空に声がしてその身が突然消え、後日興福寺唐院に首が落ちてきたというものや、赤い衣を着た者が俄かに現れ玄を掴み取って空に昇り、 その身を砕き落としたなど、 尋常ではない話が流れ、 玄は広嗣の怨霊によって祟り殺されたのだと伝えられた。また、 吉備真備は天皇の命を受け広嗣の墓に慰撫に向かった所、 広嗣の怨霊に襲われたが、 得意の陰陽術で身を守り、 難を逃れたとされる。
吉備真備は奈良時代の学者であり政治家、 菅原道真と同じく学者から立身して大臣まで進んだという極めて優れた知識人。また陰陽師でもあるとされ、 陰陽術を用いて広嗣の霊を調伏したという。称徳天皇の崩御後、 文屋清三を天皇に擁立しようとするが失敗し、 その後清三の弟である文屋大市を立てようとするがまたしても失敗する。結局は白壁王(光仁天皇)が即位し、 失脚(自ら辞職という形でだが) することとなり775年に薨去した。こうしてみると、 比較的他の怨霊となった者達ほど悲劇的な最期ではなく、 また怨霊として齎した災厄といったものはほとんどない。御霊となった理由は生前の数多くの偉業、 伝説が影響していると思われる。
他戸親王は光仁天皇の皇子である。彼が廃された事件には母であり、 光仁天皇皇后である井上内親王が関わってくる。宝亀三年(772年)、 突如井上内親王が夫である天皇を呪ったという大逆容疑で皇后を廃されて、 五月二十七日にはこれに連座する形で他戸親王が皇太子を廃される。更に翌宝亀四年(773年) 十月十九日には井上内親王が難波内親王(光仁天皇の同母姉) を呪い殺したという容疑を受けて、 他戸親王は母とともに庶人とされて、 大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)没官の邸に幽閉され、 やがて宝亀六年(775年) 四月二十七日、 幽閉先で母とともに急死する(風聞では毒殺されたといわれている)。一連の事件は山部親王の立太子を支持していた藤原式家による他戸親王追い落としの陰謀であるとの見方が有力である。二人の死の翌年から天変地異が頻発し、 山部親王の擁立に加担した者達が次々と死に、 光仁天皇、 山部親王も病に罹り、 宝亀十年(779年) には周防国で親王の偽者が現れるなど二人の怨霊は大変な厄災を齎したとされた。桓武天皇は二人の怨霊、 特に龍と化したといわれる井上皇后の怨霊を非常に恐れ、 井上皇后に皇太后を追贈し、 神に祀り、 宇智郡一円を敷地にした。
崇徳院は八所御霊ではなく、 時代も多少離れているが、 強大な御霊の一人であるので、 これも紹介しておく。鳥羽天皇の第一皇子として生まれたものの父には疎んぜられた。保安四年(1123年)鳥羽天皇に譲位され、 五歳で皇位につくが、 永治元年(1141年) に鳥羽上皇の強要により近衛天皇に譲位する。崇徳は自身による院政を期待していたが、 鳥羽上皇の策略によって、 院政を行なうことはできなくなった。保元元年(1156年)、 崇徳は藤原頼長とともに白河殿に移り、 平忠正、 平家弘、 源為義ら武士を召集して、 生き残りを図るために武力で天皇方を倒そうと保元の乱を起こしたが、 敗北し讃岐へと流された。讃岐にて崇徳は、五部大乗経(法華経・華厳経・涅槃経・大集経・大品般若経) の写本作りに専念して、 戦死者の供養と反省の証にと、 完成した五つの写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出したが、 呪詛が込められているのではないかと疑ってこれを拒否し、写本を送り返してきた。崇徳は嘆き怒り、 自分の舌を噛み切って、 その血で五つの写本全てに「三悪道に抛籠、 其力を以、 日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、 民を皇となさん」(地獄・餓鬼・畜生の三悪道になげうち、 五部大乗経の功力を以って、 日本の大魔王となり、 天皇を貶め、民に天下を取らせよう) と記し、 海中深く沈めたという。そして長寛二年(1164年) に死去する。その死因は諸説あり、 三木近安によって暗殺されたとも噂される。崇徳院はその死後、 怨霊となって京に舞い戻り、 数多くの祟りをなしたという。崇徳天皇の死後すぐに武士である平氏が権力を振るうが、 その間に大火事が起こり、 末期には叛乱が相次ぎ、 更には養和の飢饉が起こる。そして平家の都落ち後の木曾義仲による暴虐と、 京には凶事が連続した。やがて源平争乱を経て鎌倉幕府が成立、 承久の乱で後鳥羽上皇を流刑に処するに至ると、 朝廷ではいよいよ崇徳の祟りが起こったと恐れたと言う。
こうして見ると、 時の朝廷に対し、 どの人物も謀反を起こし、 流罪になり、 その地で死亡しているのが共通点である。国家に対する大罪を犯したと見なされ、 京都以外の地で死亡した人々で、 その罪が冤罪であった人物が「御霊神」となったと思われる。「八所御霊」は特に政治的な要素の強い一部の御霊ではあるが、 強い怨みを持って死んだ霊魂ほど強い怨霊と化す、 生前・死後を問わず多くの崇拝、 信仰を集めた存在は強力な存在になる、 などの性質が見てとれる。そこで、 怨霊となった後に御霊神へ、 そこからさらに天神になり、 今なお数多くの信仰を集め続けている、 天神・菅原道真。他の御霊よりさらに一歩進んだ彼について少々考察してみたい。  
U 菅原道真

 

幼年期の道真
道真の曽祖父古人は、 もとは土師宿禰という名であった。奈良時代も末に近い天応元年(781年)六月二十五日、 同族の道長ら十五人とともに、 桓武天皇に願い出て、 氏の名を居地に因んで菅原と改めることを許された。これが後に一大勢力となる菅原氏の誕生である。古人は学問をもって氏族の再興を志しており、 菅原氏はその当初から学問の家としてあった。桓武新政にはじまる平安初期には旧来の氏族の体制は過去のものとなっており、大陸の文物をより多く吸収し、 学問を修めたものが体制内で優位に立つことができる。道真の祖父、清公や父の是善は共に優れた学者として大成し、文章博士を務めた。こうした父、 祖父を持って菅原家に生まれた道真の生涯歩む道は、 決まっていたといってもよいだろう。
道真は承和十二年(845年) 六月二十五日に是善の三男としてこの世に生を受ける。二人の兄は名も伝わらず、 どのような人物であったのかわからないが、 元慶五年(881年) の道真の詩に「我に父母なく、 兄弟なし」とあるため早くに死去したようである。道真の幼少期の逸話に、 十一歳のときに詩を詠んだというものがあり、 道真自身が編集した『菅家文草』の巻頭に「月夜に梅華を見る」という題で収録されており、 事実とみられる。なお全文は「月耀は晴雪の如く梅花は照星に似たりし憐れむべし金鏡転じ庭上玉房馨」となる。また、 五歳の時に梅の花を見て、 「うつくしや紅の色なる梅の花あこが顔にもつけたくぞある」と和歌をよみ、 大宰府に行く時、 自宅の紅梅殿で詠んだといわれる、 こちらの真偽は定かでない。清公以来の菅原氏の私塾は菅家廊下と呼ばれ、 その出身で文章生の試験に合格した者は百名近く、 世間ではこれを登竜門とも呼んだ。道真はこの菅家廊下の継嗣として、 初学の頃より重大な責任を負うこととなり、 そのこともまた人生において重要な因子となっている。  
官僚としての道真
道真は、 貞観四年(862年)、 十八歳の頃に文章生に補せられた。当時、 文章生二十人のうち学力優秀な者二名を選び、 文章特待生として最高の国家資格である策試を受ける候補者としたが、 道真は貞観九年(867年) 正月にその文章特待生となり、 翌月に正六位下下野権少掾となる。貞観十二年(870年)、 策試に合格し正六位上に叙せられる。
ここから道真は怒濤の如く出世していくことになる。翌年には玄蕃助、 さらに少内記に遷任。貞観十六年(874年) には従五位下となって兵部少輔に任じ、 まもなく民部少輔に転じた。元慶元年(877年) に式部少輔となり、 同年、 文章博士を兼任することとなった。元慶三年(879年)、 従五位上に叙せられる。元慶七年(883年) 加賀権守を兼任。仁和二年(886年)、 讃岐守に任じられ、式部少輔、 文章博士、 加賀権守の三官を辞めることとなった。これはかなり唐突な人事で、 その事情として、 学者間の対立抗争があったと推測される。寛平二年(890年)、 道真は讃岐守の任を終え讃岐国より帰京した。翌年の寛平三年(891年)、絶大な権力を誇っていた藤原基経が死去したことで、 藤原氏に有力者がいなくなり、 これに乗じ宇多天皇は藤原氏抑制策として道真の登用をはかった。道真は同年、 蔵人頭・式部少輔・左中弁を兼務し、 宇多天皇に近侍することとなった。寛平四年(892年) に従四位下に叙せられ、 左京大夫を兼任。さらに翌年には参議となり、 式部大輔・左大弁・勘解由長官・春宮亮を兼任。このとき宇多天皇は他の参議らとは相談せずに、 道真一人に諮って多くの政策を成した。寛平六年(894年)、 遣唐大使に任ぜられるが、 道真の建議により、 中国唐王朝の衰微がはっきりしてきたことと、 往復の危険とを勘案し、 遣唐使は停止された。この年の末に侍従を兼ね、 翌寛平七年(895年) には従三位権中納言に叙任、 春宮権大夫を兼任した。寛平八年(896年) に式部大輔を辞し、 民部卿を兼任した。同年、 宇多天皇は醍醐天皇に譲位したが、 道真を引き続き重用するよう強く醍醐天皇に求め、藤原時平と道真にのみ官奏執奏の特権を許した。
寛平九年(897年) 正三位権大納言に叙任し、 右近衛大将・中宮大夫を兼任する。昌泰元年(898年) に権大納言源光以下の納言が政務を放棄する事件が起きた。そして、 この頃から少しずつ道真の異例の栄進に対する反発が表面化するようになった。昌泰二年(899年)、 右大臣に昇進し右大将を兼任。翌年には道真に対し関白の詔が下ったが、
道真はこれを固辞したといわれる。このときが道真の絶頂期であった。昌泰三年(900年) 十月、文章博士三善清行は道真に書状を送り、 右大臣の辞任を勧告した。その大意を述べると、 「来年は辛酉に当り、 変革動乱の年であるから、 何事も慎重でなければならない。貴方は学者から出世して大臣の地位に上り、 その栄誉は吉備真備のほかに
並ぶ者はない。この辺りで止足の分を知り退隠し、後生を安穏と楽しまれるべきだ」などとなる。この書状については善意より道真を諭そうとしたという説や、 続いて天皇へと送った、 政変の警戒を促す書状と合わせて道真追放の為の算段であるという説などがあり、 一概にどちらとは言えない。  
道真の左遷事件
明くる昌泰四年(901年) 正月七日、 道真は時平と共に従二位に叙せられたが、 同月二十五日に突如として大宰権帥へと左遷される。そのときの宣命によると、 道真は寒門の(学者の家柄で身分の低い) 出身でありながら、 急に大臣へと取立てられ、 止足の分を知らず、 専権の心を持って宇多上皇を欺き、 廃立を行なって父子(宇多上皇と醍醐天皇) の慈を離間させ、 兄弟(醍醐天皇と斉世親王) の愛を破ろうとする、 これらは天下の知るところであるから、 大臣の位を止め大宰権帥へと左遷する、 とある。これは道真の娘が斉世親王の室であったことから、 道真が醍醐天皇の廃位を企み、 斉世親王の即位を謀ったとするものであった。道真左遷の報を聞いた宇多法皇は驚き、 ただちに内裏に赴いたが、 左右の諸陣が警固して通さない、法皇は草座を敷いて終日庭上で待ったが誰も門を開けず、 晩景になって法皇は本院に帰還された。法皇の参内を実力で阻止し、 天皇と法皇親子の対面を許さなかったのは、 対面されては都合が悪い、道真左遷の詔勅を追求されては困るからであろうし、 この左遷が明らかに道真の冤罪であり、 強引なクーデターであると物語っている。
道真は追放の宣命をうけ、 左衛門少尉善友・朝臣益友、 左右兵衛の兵各一人に追いたてられて大宰府に向かった。このとき、 幼い頃より親しんできた紅梅殿の梅に、 「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」と詠いかけた。道真を慕った梅は、 道真が大宰府に着くと、 一夜のうちに大宰府の道真の元へ飛んで来たといわれている(飛梅伝説)。道真は、 大宰府にいる間、得意とする詩文を以って自らを慰めた。それらの詩文は死の前に紀長谷雄に送られ、 『菅家後集』として遺された。優れた詩集であり、 それを通して大宰府での悲惨な生活ぶりも明らかになった。
延喜二年(902年) にもなると次第に復帰の望みも薄れ、 体調も崩し、 赴任して二年後の延喜三年(903年) 二月十五日に無念の思いを残しつつ亡くなった。遺体は当初、 筑前国三笠郡四堂の辺りに葬ろうとされたが、 途中牛車が急に動かなくなり、ここに埋めよとの意向と考え墓をつくった。後に安行の手で安楽寺が建立された。これが太宰府天満宮のはじまりとされている。  
怨霊となった道真
道真の死後まもなく、 道真の霊が比叡山の法性房尊意の元に現れ、 帝釈天の許しを得たので帝たちに復讐したい、 邪魔はされるなと語ったといわれる。そしてその言葉通りに、 道真の怨霊は猛威を振るうことになる。まず、 延喜八年(908年)道真配流の首謀者のひとりであり、 宇多法皇を内裏に入れなかった当時の建礼門の番人・蔵人頭の藤原菅根が雷に打たれ死去した。翌九年は春から疫病が蔓延し、 道真配流の張本人たる藤原時平も病に斃れた。このときに道真の怨霊が現れたという話があり、

白昼菅公の霊が浄蔵の左右の耳から青龍となって出現し、 清行に対し、 むかしあなたの諫めを用いず官界から身を引かなかったので左遷の憂き目をみた、 いま天帝の裁許をえて怨敵を懲らしめようとしているが、 浄蔵が加持してそれを邪魔している。宜しく加持を止めさせてほしいと。そこで、 浄蔵が父清行から誡められて加持を止め引下ると時平は死んでしまった。時平の家室は宇多法皇の妹であり、かつ浄蔵は法皇の弟子であったので加持中止を深く責められた。( 『天神御霊信仰』)

というもので、 もとは『扶桑略記』に記されていた。
延喜十三年(913年) には源光が死去。狩猟の最中に底無し沼に馬ごと突っ込み、 死体も見つからなかった。
延長元年(923年) 醍醐天皇の皇太子、 保明親王が二十一歳の若さで急逝。この頃から本格的に道真の怨霊の祟りとの噂が出始める。同年四月二十日に醍醐天皇は詔して道真の官を元の右大臣にもどし、 正二位を追贈し、 道真を左遷した昌泰四年(901年) 正月二十五日の詔を破棄した。
延長三年(925年) 六月七日、 天皇がマラリアに罹り、 十八日には保明親王の死後、 醍醐天皇の皇太子となった慶頼王が五歳で死亡。
延長六年、 七年(928〜929年) にはまた疫病がぶり返し、 死者が道に溢れる程だったという。治安も乱れ、 宮中に鬼が跳梁跋扈している様が目撃された。
延長八年(930年) 六月二十六日、 干天に対する会議を清涼殿にて行っていたところ、 にわかに雷鳴し、 清涼殿の西南の第一柱の上に落雷した。殿上の間に侍していた大納言藤原清貫は胸を焼かれて死亡し、 右中弁平希世の顔は焼けただれた。また紫宸殿にいた者のうち、 右兵衛佐美努忠包は髪が焼けて死亡、 紀陰連は腹部が焼けただれて悶乱、 安曇宗仁は膝を焼かれて倒れ伏すというありさまであった。この事件が追い討ちとなり、 醍醐天皇は病に倒れた。そして九月二十二日に寛明親王に譲位し、 二十九日に崩御された。
天慶五年(942年) 七月十二日、 京都・西京七条二坊の多治比文子という娘の所に道真から託宣があり、 「生前によく遊覧した、 北野の右近馬場に自分を祀れ」というものであった。しかし文子には右近馬場に祠を建てる財力や伝手などないので、 とりあえず自分の家の庭の片隅に祠を建てて菅原道真を祀った。その五年後、 近江国比良宮の禰宜の神良種の子供の太郎丸にも同様の託宣があり、 良種は右近馬場の朝日寺の最鎮に相談、 文子と寺主の満増らと協力して社を建てる。この話を知った当時の右大臣、 藤原師輔は天徳三年(959年) にその社を増築し、 これが現在の「北野天満宮」となった。そして、 ここから道真は天神として成長してゆくことになる。  
天神信仰
日本の農耕信仰では、 古くから北野の火雷天神のような、 天から降ってきた神を祀る天神社(古くから農耕民族にみられた天神信仰)が各地にあった。道真の御霊が火雷天神と合体、 同一視されることによって、 やがて各地の天神社の祭神も道真=天神様とされるようになった。
『道賢上人冥途記』の記述によると、 清涼殿の落雷をはじめとする雷の災害は第三の使者火雷天気毒王の仕業で、 その他諸々の天変地異や災害も、みな道真の眷属神であり、 随従神の起こすところとなっており、 道真は日本太政威徳天としてそれらの神々を統括する偉大なる神霊となっている。つまりはその怒りを鎮め、 加護を受けることで、逆にあらゆる厄災から守ってもらえるということになる。
鎌倉時代頃になると、 道真は時平の讒言にあい、生前冤罪に苦しんだことから、 そうした悪を止め、正義を守る神である、 という天神としての特色がでてきた。
道真から恐ろしい怨霊というイメージが薄れるにつれて、 生前の学識、 文才への敬慕が強まり、文道の神としての神徳が加わった。最初のうちは信仰の中心は貴族たちであったが、 江戸初期に寺子屋が隆盛し、 子供たちが机を並べる教室に、 必ず天神様の尊像が掲げられるようになってからは、一般大衆にもその信仰は広く浸透した。ちなみに、永延元年(986年)、 慶滋保胤が北野天満宮に捧げる祈願文の中で「天神を以て文道の祖、 詩境の主」と語り、 またその後の寛弘九年(1012年)、 当時の文章博士、 大江匡衡が同じく祈願文の中で「文章の大祖、 風月の本主」と言った事から、 この後、菅原道真は「雷神」ではなく「学問の神様」として祀られるようになり、 今日もなお絶大な信仰を集め続けている。 
おわりに

 

ここまで怨霊となった者たちをみてきたが、 私は非業の死を遂げた結果、 御霊に「なる」、 のではなく御霊に「した」というべきではないかと考える。この場合、 怨霊を生み出すのは政敵を非業の死へと追いやった政治家(天皇) であり、 その政争を見聞きした一般民衆である。冤罪を押し付け謀殺する。そのことに対する民衆からの非難や怒り、 権力者自身の後ろめたさなど、 様々な思い入れが故人を怨霊として復活させる。もとより日本人は悲劇的な最期あるいは不遇の死を迎えた英雄を好む性向があるとされている。基本的に御霊となりうる人は文人なので「英雄」というイメージは沸きづらいが、 無実の罪で追われた者が神となって復讐を果たすという話は、 御霊信仰の受け入れやすさに一役買っていると思われる。また御霊信仰を政治的に見た場合、 御霊を祀るという行為は権力者にとって、 民衆の怒りを逸らす、 自身の身を潔白とする、 罪を雪ぐなどの意味合いがあると見受けられる。
今日の科学が発達した現代では怨霊の存在は、ほぼありえないものとされている。けれども御霊信仰自体が無くなったわけではない。例えば事故現場には花を供えるし、 人が亡くなれば葬儀を行なう、 縁起の悪いことが起こればお祓いもする。つまり、 意味合いや形式が変わっても鎮魂の為の祭りは続いている。しかし、 この先強い恨みをもって非業の死を遂げた人物が出てきても、 その人物が御霊神となることはないだろう。その人物が御霊となって祟るという、 ある種の「幻想」はせいぜいその人物と直接関わりのある人達にしか抱けないからだ。あるいは一時的にならば多数の人々ともその「幻想」を共有できることもあるかもしれない。だが、 すぐに消え去ってしまうような信仰では祀り上げられるような御霊は誕生しえない。御霊信仰は今後、 消え去ってしまうことはないだろうが、 かつてほどに社会的、 政治的に重要な要素となることは二度とないであろうと私は結論づける。  
参考文献
『現代人の宗教6 命と鎮魂』1986 御茶の水書房
『神社』日本歴史新書1966 原田敏明著至文堂
『天神御霊信仰』1996 村山修一著塙書房
『天神信仰』民衆宗教史叢書第四巻1983 村山修一編雄山閣出版
『日本社会の史的構造古代・中世』1997 大山喬平教授退官記念会編思文閣出版
『近世文学と信仰』1981 訪春雄著毎日新聞社
『信仰』講座日本の民族7 1981 桜井徳太郎編有精堂出版
『穢と大祓』1992 山本幸司著平凡社
『菅原道真』日本を作った人々4 1978 高取正男著平凡社
『日本霊異記』1975 中田祝夫注小学館  
 
崇道天皇

 

『崇道天皇(すどうてんのう)=死後、天皇として祀(まつ)られ、怨霊と化した廃太子』とサブタイトルが付く天皇だ。
桓武天皇は、まことに呪われた帝であった。長岡京に都を移したのも、平安京に都を移したのも怨霊から逃れるためであった。
長岡京への遷都は井上内親王(いのえないしんのう)と他戸親王(おさべしんのう)の怨霊、平安京への遷都は早良皇太子(さわらこうたいし)の怨霊から逃れたいためであった。
延暦3年(784年)、桓武帝は長岡へ都を遷(うつ)した。ここで事件が起こった。藤原種継(たねつぐ)暗殺事件である。当時、長岡京造宮司であった種継(たねつぐ)は、早良親王(さわらしんのう)と敵対しており、親王が暗殺事件の首謀者とみなされたのだ。早良親王は、桓武帝の同母弟である。
乙訓寺(おとくにでら)に監禁され、淡路へ配流されることになった親王は無実である事を訴え、自ら食を断った。そして、10日余りが経ち、宮内卿・石川恒守(つねもり)らが淡路へ移送する途中、高瀬橋頭(たかせきょうとう)で絶命した。恒守は、そのまま早良親王の遺体を淡路へ運んで葬った。
異変が連続して起こったのは、それからである。
桓武帝の妻の藤原旅子が死に、ついで母の高野新笠(たかの にいがさ)、皇后・藤原乙牟漏(おとむろ)が次々と他界。
さらに皇太子・安殿(あて)の病気が長引いているのを占ったところ、皇位を廃された早良親王の祟りと出た。
朝廷はさっそく諸陵頭調使王(しょりょうのかみず しおう)らを淡路国へ遣わし、奉謝を行った。
連続する天変地異、天皇の周辺に連続して起こる近親者の死。“早良祟る”の思いは桓武帝をはじめ為政者(いせいしゃ)たちの共通の思いであった。
延暦19年(800年)7月、桓武帝はついに早良親王に『崇道天皇(すどうてんのう)』の尊号を贈った。
しかし、崇道天皇の霊は、その後も長く祟った。
早良親王の死から78年も経過した863年5月20日、京都の神泉苑(しんせんえん)で御霊会(ごりょうえ)を行い、早良たちを御霊として祀(まつ)ることになった。(日本紀略より)
“御霊”とは、不遇な死に方をした人の霊を神としたものである。
現在も、京都の上御霊神社・下御霊神社、奈良の秋篠寺近くの八所(はっしょ)御霊神社などに『崇道天皇』として、早良親王の霊が祀られている。
むろん、皇統譜上(こうとうふじょう)では、今も正規の天皇とは認められていない。  
 
呪われた平安京遷都

 

棄てられた天武の王統 
平安京遷都といえば、腐敗した奈良の仏教界から逃げ出し、交通の便の良い場所に移って新しい体制を築いた画期的な出来事と信じられている。桓武(かんむ)天皇も、遷都を敢行した名君として歴史に名を刻んだのである。
しかし、平安京遷都には秘密が隠されている。これまで軽視されてきた闇だ。
そこで、平安京遷都にいたる道のりを、ふり返ってみよう。
称徳(しょうとく)天皇が崩御されて、道鏡(どうきょう)は下野国(しもつけのくに)に追いやられた。これで平和が訪れたかと思いきや、大問題が持ち上がった。それは、称徳天皇が独身女帝だったことから、皇位継承問題が浮上したのである。
ここで、天武系を推す吉備真備(きびのまきび)と、天智系を推す藤原百川(ふじはらのももかわ)が、暗闘をくり広げる。
『日本書紀(にほんしょき)』に従えば、天智(てんじ)天皇と天武(てんむ)天皇は実の兄弟だから、天武の王家が途絶えて天智系の天皇が新たに立ったとしても、大きな問題はなかったと思われるかもしれない。しかし、この入れ替わりこそ、歴史の断層と言っても過言ではなかったのだ。
連載中述べてきたように、そもそも天智と天武は、仲の悪い兄弟だった。藤原氏が推す天智、藤原氏に疎まれた天武……。蘇我氏が推す天武、蘇我氏を倒した天智というように、両者は水と油なのだ。
壬申(じんしん)の乱(らん)(六七二)で大海人(おおあまの)皇子(みこ)(天武天皇)は甥の大友(おおともの)皇子(みこ)を殺して玉座を手に入れた。天智天皇の王統は、ここで途切れるが、天武天皇崩御ののち、皇后の野讃良(持統(じとう)天皇)が皇位を「簒奪(さんだつ)」し、混乱が生まれる。
持統天皇は天智天皇の娘で、表向き持統は、天武の末裔を即位させるための中継ぎとして即位したが、持統を支えた藤原(ふじわら)不比等(ふひと)は、密かに「持統天皇から始まる天智系の王家の創立」を目論んでいた。そして、この新たな王家は、藤原不比等の孫の首(おびとの)皇子(みこ)(聖武(しょうむ)天皇)が即位することによって、完成するはずであった。ところが聖武天皇は、「天武の子」であることに目覚め、藤原(ふじわら)仲麻呂(なかまろ)(恵美押勝(えみのおしかつ))と政争をくり広げてしまう。また、聖武の娘の称徳天皇は、恵美押勝を誅伐(ちゅうばつ)し、道鏡を皇位に就けようとした。これは、藤原氏にとって悪夢のような出来事だったのだ。
称徳天皇崩御ののち、藤原百川は、天智天皇の孫の白壁王(しらかべおう)を推した。すでに齢六十を超えていたが、危険を感じ、「酔いどれ」を装っていた人物だ。この人物こそ、桓武天皇の父・光仁(こうにん)天皇である。
結局、吉備真備は孤軍奮闘するも、藤原氏に囲まれ、政争に敗れ、「長生(ちょうせい)の弊(へい)、この恥(はじ)にあう」と述べ、朝堂から去っていった。こうして宝亀(ほうき)元年(七七〇)、光仁天皇は即位する。 
なぜ平城京も棄てられたのか

 

光仁天皇の正妃は、井上(いのうえ)内親王(ないしんのう)で、ふたりの間の子・他戸(おさべ)親王(しんのう)が、皇太子となった。井上内親王は天武系だから、バランスを考えた、ということになる。
ところが、宝亀三年(七七二)三月、井上内親王は、巫蠱(ふこ)(人を呪うこと)を行ったと言いがかりをつけられ、皇后位を剥奪される。その二ヶ月後、皇太子の他戸親王も、母とともに厭魅(えんみ)大逆(たいぎゃく)(妖術で君主を呪うこと)に荷担してきたと糾弾され、廃太子となってしまった。
事件は、まだ続く。宝亀四年(七七三)十月、光仁天皇は、突然井上内親王と他戸親王を責めた。姉が亡くなったのは、井上内親王の呪いに違いないというのだ。藤原百川の入れ知恵だろう。
こうして母子は大和国(やまとのくに)宇智郡(うちぐん) に幽閉されたのである。そして宝亀六年(七七五)四月二十七日、井上内親王と他戸親王は、幽閉先で同じ日に亡くなってしまった。殺されたのだろう。
『公卿(くぎょう)補任(ぶにん)』は、一連の事件を「藤原百川の策謀」だったと記録し、『本朝後胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)』は、井上内親王と他戸親王は「獄中」で亡くなったあと、龍になって祟ったと語り継ぐ。無視できないのは、『水鏡(みずかがみ) 』も、藤原百川が祟りに苦しめられたと記していることだ。
井上内親王と他戸親王は、のちに祟り神と恐れられ、丁重に祀られる。元興寺(がんごうじ)(奈良市)の近くの御霊(ごりょう)神社が、ふたりを祀る神社である。
ここで注意しなければならないのは、他戸親王を抹殺しなければ、桓武(かんむ)天皇(山部(やまべ)親王(しんのう))は即位できなかったという事実である。
「血の論理」で考えても、桓武天皇即位の可能性は低かった。なにしろ他戸親王の母・井上内親王は、聖武天皇の娘であり、かたや桓武天皇の母は、百済の武寧(ぶねい)王(おう)の末裔(まつえい)・高野(たかの)新笠(にいかさ)であった。普通これを「卑母(ひぼ)」と呼ぶ。だから、桓武天皇が皇位継承できたことは、奇跡的なことだった。
ちなみに、なぜ百済(くだら)王(おう)の末裔を母に持つ桓武が即位できたのかといえば、藤原氏が強力に押したからで、連載中述べたように、藤原氏の祖・中臣鎌足(なかとみのかまたり)が、百済王家から日本に人質として預けられていた豊璋(ほうしょう)だったと筆者はみる。
いずれにせよ、他戸親王に難癖をつけて抹殺できたからこそ、桓武天皇は即位できたのである。
つまり、桓武天皇は「祟られる対象」でもあったのだ。ここに、平安京遷都のひとつのヒントが隠されているように思えてならない。平城京は、藤原氏にとって、「政敵を葬り去った戦場」であった。それはとりもなおさず、「藤原氏を恨む人々の墓場」であり、藤原氏は祟り神と共に暮らしていたのだ。そして、藤原氏が井上内親王と他戸親王を抹殺することによって皇位が転がり込んできた桓武にしても、平城京は恐ろしい土地になっていったはずである。 
藤原氏に濡れ衣を着せられて、流罪になった早良親王(崇道天皇)

 

桓武天皇は天応(てんおう)元年(七八一)に平城京で即位したが、すぐに遷都を計画した。延暦(えんりゃく) 三年(七八四)六月には山城(やましろの)国(くに)乙訓郡(おとくにのこおり)に長岡京(京都府向日市、長岡京市、京都市にまたがる)の造営をはじめ、十一月、完成を待たずに遷都を済ましている。
ところが、ここで思わぬハプニングが起きている。翌年の四月、桓武天皇が長岡京を留守にした隙をついて、何者かが、造都の責任者・藤原種継を射殺してしまったのだ。
下手人はすぐに捕まった。『続日本(しょくにほんぎ)』によれば、中納言・大伴(おおともの)家持(やかもち)が大伴氏と佐伯氏を巻き込み、桓武天皇の実の弟で皇太子の早良(さわら)親王(しんのう)をそそのかし、藤原種継を殺したというのである。
早良親王はすぐに捕らえられ、廃太子(はいたいし)、淡路国に配流(はいる)がきまった。大伴家持は東北の地に赴任していたが、事件の直前に、すでに亡くなっていて、死後追罰を受けた。遺骸の埋葬を許されず、官籍からはずされた。息子も流罪となっている。
大伴家持と藤原種継は、同じ中納言で、良きライバルであった。ただし、藤原種継は桓武天皇の寵愛(ちょうあい)を受けていたという強みを持ち、家持を東北の地に左遷させるために暗躍したようだ。だから、大伴家持が藤原種継を恨んでいても、なんら不思議はない。
けれども、真犯人は別にいたように思えてならない。大伴家持、藤原種継の双方を同時に葬ってしまおうという、遠大な計画が、仕組まれていたのではあるまいか。
藤原種継の母は秦氏(はたし)で、山城国の土地に深く根ざした渡来系豪族だった。長岡京遷都を急いだ桓武天皇は、秦氏と太いパイプを持つ藤原種継を重用したのだろうし、こののち、秦氏の影響力が増していくことは、火を見るよりも明らかだった。他の藤原氏にすれば、面白い話ではない。
皇太子の早良親王が大伴氏とつながっていたことも、藤原氏にすれば、許されることではない。早良親王が即位すれば、藤原氏の地位が危うくなる。彼らの標的は、大伴家持ではなく、早良親王であろう。早良親王を抹殺するために、大伴家持が主犯格にでっちあげられたのだろう。 
早良親王の祟りの本当の恐ろしさ

 

藤原氏は藤原不比等の四人の子がそれぞれ、北家(ほっけ)、南家(なんけ)、式家(しきけ)、京家(きょうけ)に別れて、主導権争いを演じていた。藤原種継は式家で、おそらく、他の家の誰かが、仕掛けたのだろう。早良親王と藤原種継を抹殺して、大伴氏と秦氏の「思い上がり」を懲らしめる目的である。
また、桓武天皇にも、「事件を起こす動機」があったように思われる。弟の早良よりも、息子の安殿(あて)に、皇位を譲りたいという親心が芽生えた可能性がある。
ところが、事件は意外な方向に進む。早良親王は捕らえられ、廃太子となり、淡路(あわじの)国(くに)に配流となったが、抗議の断食をして亡くなってしまったのである。
後味の悪い結末となった。それどころか、ここから先、長岡京に戦慄が走る。早良親王の祟りが襲ったからだ。延暦七年(七八八)のことである。
桓武天皇の后(きさき)・旅子(たびこ)、早良親王の母・高野(たかの)皇太后(こうたいごう)、安殿や賀美能(かみの)親王(しんのう)の母で桓武天皇の皇后・乙(おと) 牟漏(むろ)がつぎつぎに亡くなっていった。たまらず桓武天皇は、早良親王の御陵のある淡路国府に命じ、御陵に塚守を置き、周辺での殺生を禁じた。
しかし、本当の早良親王の祟りの恐ろしさは、ここから始まった。延暦九年の秋から冬にかけて、天然痘が流行したのである。
安殿親王の体調が思わしくなかったので、占ってみると早良親王の祟りと分かった。あわてて安殿は伊勢神宮に参拝、桓武天皇は改めて早良親王を祀った。早良親王は崇道天皇と追号されたのである。 
呪われた長岡京から遷都した平安京も呪われた

 

こうして桓武天皇は、都・長岡京を棄て、平安京を造営するのである。
当初桓武天皇は、長岡京から「線香臭い仏寺」を排除しようと目論んでいた。それは、奈良時代末期の「怪僧たちの暗躍」に嫌気がさしていたからだろうし、彼らのいう「仏教の腐敗」とは、ようするに「反藤原」「親蘇我」「親天武系」をいっているのであって、藤原政権にとって、頭の痛い存在だった。
ところが、井上内親王母子と早良親王の祟りが、桓武天皇の意識を変えたようだ。祟りに怯えきった桓武天皇は、あらゆる手段を用いて、調伏しようと考えただろう。そしてもちろん、仏教も、その道具のひとつとなった。
平安時代を通じて、天智系の王家と藤原氏は、政敵を次々と謀略にはめ、抹殺していった。そして、多くの恨みを買っていったのである。
応天門(おうてんもん)の変(へん)(八六六)では大伴氏や紀氏が没落した。その後、菅原道真(すがわらのみちざね)は宇多(うだ)天皇に重用され台頭すると、藤原(ふじわら)時平(ときひら)が讒訴(ざんそ)し、大宰府(だざいふ)に左遷(させん) させられた。
菅原道真は、改革事業を押し進め、あともう一歩のところまで漕ぎつけていたが、そっくりそのまま、藤原時平に手柄を横取りされ、大宰府に幽閉されてしまった。一族も流され、菅原道真は恨み、死後祟って出たのだった。
早良親王の祟りは恐れられたが、菅原道真も強烈だった。道真追い落としにかかわった人たちに、狙い澄ましたかのように、ピンポイントで復讐が行なわれ、誰もが道真の祟りに震え上がったのである。
空海(くうかい)や安倍(あべの)晴明(せいめい)らが重用されたのは、このような祟り神を調伏(ちょうぶく)できる鬼のような人物たちだったからで、彼らの血脈をたどっていくと、藤原氏に敗れ去り、野に下り、山に籠もり、験力を手に入れた者どもに行き着く。
空海は佐伯氏と物部系の阿刀(あと)氏の血を引くが、佐伯氏は大伴氏や東北蝦夷(えぞ)と縁の深い枝族で、物部氏同様、藤原氏に恨みを抱き続けた人々だった。彼らは山に隠れ、鬼となり、験力を身に付けて現れ、「何でも調伏してみせましょう」と都の貴族たちに近づいていったのだった。
祟り神を追い返すことができるのは、山から現れた恐ろしい鬼であり、だからこそ権力者は、かつての仇敵の末裔を頼り、鬼どもは、社会を裏側から操る闇の力となって、日本社会を動かし続けたのである。
平安京遷都の裏側には、このような勝者と敗者のそれぞれの思惑が隠されていたのである。 
 
悲劇的な最期を遂げた人物の怨霊

 

伊予親王と藤原吉子
時に右大臣・内麻呂、大納言・雄友(かつとも)、中納言・乙叡(たかとし)が朝廷の上位を占めていた。 そんな中、雄友は北家の宗成が謀反を企てていると内麻呂に告げた。 宗成は伊予親王が首謀者であると自白する。  伊予親王とは807年に没っした桓武天皇の第三皇子であり、母は藤原吉子。 792年に加冠し、桓武天皇の信頼もあつかったが桓武天皇没後の807年10月に政治的陰謀事件にまきこまれて失脚し、奈良・明日香村にある川原寺に幽閉され、母と共に服毒自殺した。
はじめ反逆の首謀者とみなされた藤原宗成が尋問の過程で伊予親王こそ首謀者であると主張したため、平城天皇は左中将安倍兄雄らをして親王らを捕らえ、母子を大和国川原寺に幽閉した。 無実を主張する親王と母は飲食を断ち、親王の地位を廃された翌日、11月12日に自ら毒薬を飲んで命を断つという悲劇的な結末を遂げた。 先の安倍兄雄も伊予親王の無実を天皇に諫言したが受け入れられなかったという。 伊予親王事件の真の黒幕は式家の藤原仲成と言われている。 平城天皇を推す仲成が敵対者を排除して皇太弟の神野親王(後の嵯峨天皇)を抑えるのが目的であった。
伊予親王親子の他に、宗成や雄友も左遷され、乙叡も失脚して翌年なくなった。 そのため平城天皇は伊予親王らの怨霊に悩まされ、弟の嵯峨天皇に位を譲るまでに追い込まれた。 後に伊予親王の無実が明らかとなり、悲劇的な最期を遂げた人物の怨霊が民衆の心をとらえ始めたのは、ちょうど平安初期のことであった。 天変地異から有力者の死までが、そのたたりであると理解された。 伊予親王母子は怨霊の典型とされ、863年の御霊会でまつられることになった。
伊予親王親子の死により、藤原南家は衰退し、北家の葛野麻呂が中納言に上がってくる。 尚、後に南家からは巨勢麻呂系の元方・娘の祐姫が更衣として村上天皇に入内し、第一皇子の広平親王を産んだが、北家の右大臣。師輔の娘・安子が村上天皇の皇后となり第二皇子の憲平親王(後の冷泉天皇)を産んだため南家の望みは絶たれ、文章道に活路を見出すことになる。
伊予親王(いよしんのう)
(延暦2年? - 大同2年(783-807))平安時代初期の皇族。桓武天皇の第三皇子(異説あり)。官位は三品・中務卿、贈一品。大同元年(806年)中務卿兼大宰帥に任ぜられる。しかし、翌大同2年(807年)反逆の首謀者であるとして母・藤原吉子とともに川原寺(弘福寺)に幽閉され、絶食した後毒を飲んで自害した。異母兄平城天皇の側近であった藤原式家・藤原仲成に操られた藤原宗成に失脚させられたものとされる(伊予親王の変)。後に親王の無実が判明し、承和6年(839年)に一品が追贈された。
父/桓武天皇 母/藤原吉子(藤原是公の娘)
伊予親王の変
大同2年(807年)に起こった政変。藤原吉子・伊予親王母子が処罰され2人は自殺したが、後に無罪が認められた。
桓武天皇の第三皇子である伊予親王は父桓武の生前深い寵愛を受けていた一方、外伯父(母吉子の兄)の藤原雄友は大納言として右大臣・藤原内麻呂に次ぐ台閣の次席の位置にあり、政治的にも有力な地位にあった。実際に、平城朝においても、大同元年(806年)から中務卿兼大宰帥を務めて、皇族の重鎮となっていた。兄の平城天皇とも良好な関係を保っており、大同2年(807年)5月には、神泉苑に行幸した平城天皇に対して献物を行い、終日宴会にも参加している。
ところが、同年10月に藤原宗成が伊予親王に謀反を勧めているという情報を藤原雄友が察知し、これを右大臣・藤原内麻呂に報告する。一方、伊予親王も宗成に唆された経緯を平城天皇に報告する。そこで朝廷が宗成を尋問した所、宗成は伊予親王こそ謀反の首謀者だと自白した。この自白を聞いた平城天皇は激怒し、左近衛中将・安倍兄雄と左兵衛督・巨勢野足に命じて、藤原吉子・伊予親王母子を捕縛し川原寺に幽閉した。二人は身の潔白を主張したが聞き入れられず、11月12日にそろって毒を飲んで心中したという。後に二人の無罪が認められ、墓は山陵とされた。
この事件で宗成は流刑となり、伊予親王の外戚にあたる藤原雄友も連座して伊予国へ流罪に処された。また、この事件のあおりを受けて中納言・藤原乙叡が解任された。この事件により大官が2人も罰せられた藤原南家の勢力が大幅に後退した。
なお、宗成は藤原仲成・薬子兄妹に唆されたともいわれているが、詳細は不明。但し、この事件以降平城天皇と仲成・薬子との結びつきはさらに強固なものとなったらしく、尚侍であった薬子の昇進を考慮して、事件の直後に尚侍の官位相当が従五位から従三位に引き上げられた。 
藤原式家台頭と他部親王の廃太子
宇合の長男・広嗣は橘諸兄に対乱して失脚し、弟の良継は大伴家持らとともに仲麻呂殺害を企てて失敗したが、後に仲麻呂追討の功を挙げ、光仁擁立に尽力して内大臣に至った。 弟の百川は北家左大臣の永手と計って光仁(白壁王)擁立、道鏡追放を実現させた。 (永手の働きが大きく、百川は中心ではないという説もある) 皇太子には第四皇子の他部親王が、聖武天皇の血筋であるがゆえになった。 しかし1年後には身分の低い山部親王(後の桓武天皇)が皇太子になる。 他部親王が廃太子となったのは母・井上皇后が夫の光仁天皇を呪詛したため、他部親王にも及んだというが、これは百川の策略による可能性が高い。 こうして百川の活躍で式家は藤原氏をリードし、桓武天皇は後に百川の娘・旅子を妃とし淳和天皇を出している。 また、百川の子・緒嗣は重用され20代で参議となっている。 尚、「日本後紀」は嵯峨天皇の勅命により緒嗣らが編纂したものである。
氷上川継事件と早良親王の廃太子
川継は塩焼王と聖武天皇の皇女・不破内親王の子であるが、皇位を狙って謀反を起こし、母子で配流の憂き目にあう。 姉の井上内親王とともに悲劇の皇女である。 こうした事件の続発からか、桓武天皇は平城廃都を思い立ち、長岡京の造営の責任者に百川の甥・種継を抜擢したが、矢で射られ49歳で絶命した。 桓武天皇はすぐに、主犯格の大伴継人らを処罰すると、皇太子である実弟・早良親王まで飛び火し、廃太子となった親王は淡路島へ配流の途中、無実を主張しながら死んだのである。 大伴氏が早良親王の擁立を企てて起こした謀反となっているが、桓武天皇が皇子の安殿親王を皇太子にするために仕組んだ罠であるとも考えられる。  
桓武天皇に宿った怨霊
桓武天皇は種継事件を利用して思いを叶えたが、これにより身に降りかかる不吉な出来事を受けることになる。 寵姫・旅子が大伴親王を産んだばかりというのに30歳の若さで亡くなったのである。 旅子は百川の娘であるだけにここまで自分を持ち上げてくれた百川に申し訳がなかった。 翌年、蝦夷征伐を目指していた大部隊は大敗を喫した。 そして桓武天皇の実母で皇后夫人の高野新笠が病死し、宮廷では女官の死が相次いでいたのである。 命婦・藤原教貴、大原室子などである。 翌年、皇后・乙牟漏が31歳の若さで亡くなると、后の坂上全子もなくなった。  この頃から、桓武天皇は悪霊・怨霊に怯えるようになる。 井上皇后、他部親王、早良親王の・・・・。 そしていよいよ皇太子・安殿親王の体調も崩しはじめていた。 桓武天皇はやむなく、早良親王の怨霊鎮めを最初に行った。 しかしその配慮を無視するかのように伊勢神宮を焼いたのである。 桓武は皇太子・安殿に伊勢参宮を命じたが、安殿親王は桓武の処置に納得がいかずに、互いの溝に亀裂が入り始める。
このときに桓武は東宮・安殿を見限り、藤原南家の血筋をひく藤原吉子の皇子・伊予皇子を東宮に推しているという噂がたった。 怨霊の根源である式家の血統を排除しようと考えたものであろう。
 
平城天皇 1

 

平城天皇は桓武天皇の第一皇子。諱は安殿。皇后藤原乙牟漏(内大臣良継の娘)を母にして宝亀五年(774)に産まれました。この天皇いわゆる平安京の最初の天皇のはずであるのですが、なぜか奈良帝と呼ばれるようになりました。彼の苦悩と愛の人生を少し覗いてみたいと思います。
桓武天皇の皇太子には最初、桓武同母弟の早良親王が立てられましたが、延暦四年(785)、藤原種継暗殺事件に連座して廃され、安殿が皇太子に立てられました。
この暗殺事件、桓武天皇の寵臣であり長岡京造営を主導していた藤原種継が、大伴継人らによって射殺された事件なのですが、早良擁立を図る、大伴氏らの謀略だと言われています。その罪は既に亡くなっていた大伴家持にも及びました。
早良親王よりも安殿擁立をたくらむ桓武天皇の思惑もあり、無実を訴える早良親王を強引に淡路に流罪にしました。早良親王はあくまで無実を訴え流罪の途次、抗議の絶食死を遂げています。
この事件が平城天皇の苦悩の人生の始まりでした。
確かに帝にはなりたかった、でもそこまでしなくても私はよかった、父はそんな私を甘い!と、親の情けが解らぬのか!と、責め立てる。そんなに私が信用できませんか?
覇気に満ち溢れた父桓武天皇は、長岡京、平安京の造営や蝦夷征伐など次々にその覇気の赴くままに自分の政策を突き進めて行きます。結果的に国家財政は破綻を来してしまいました。
この国家事業と同時の桓武天皇の大事業?が早良親王の祟りの猛威!との戦いだったのです。もちろんそれは「罪悪感」が見せた亡霊でしたけれども。
事件から三年後まずは桓武の寵愛する藤原旅子(恩人藤原百川の娘で後の淳和天皇の母)が亡くなりました。まぁまだこの時には誰も早良親王の祟りだとは思わなかったかもしれません。そして、一年余り後、次ぎは母、高野新笠が亡くなってしまいます。この不幸までは桓武天皇も祟りなど思わなかったでしょう。
しかし、その三ヶ月後、安殿の母である皇后藤原乙牟漏が亡くなってしまいました。そして、妃の一人坂上又子が二ヶ月後に亡くなります。昔は長命な時代ではないですから、すわ祟りか?と揺るいだ気持ちを引き締めるだけの剛毅な桓武天皇は無事でした。
しかし、そうです!母、乙牟漏を失い失意の安殿にはそのような胆力は無く、とうとうその二ヶ月後発病してしまいました。
こうなると桓武天皇も焦り出します。いかん、安殿まで持っていかれては・・・早良よ!もう許してくれ!もう十分殺したではないか!そんな桓武天皇の願いもむなしく安殿は三年間も生死をさまよいます。
ただ、その後の彼の人生を考えると、祟りに恐れたのではなく、母、乙牟漏の死を受け入れるのに三年もかかってしまった、と言うことの様に思われます。
とにもかくにも、予定通りとは言え、どうしても早く長岡京を捨たい!平安京に移りたい!もう祟りは真っ平だ!早く、早く!人心(特に自分の気持ちでしょう)を一新せねば!というのが桓武天皇の気持ちだったんではないでしょうか?
しかし、平安京遷都をしても早良親王の祟りは納まる気配は無く、遷都から6年後の800年に早良親王は祟道天皇として、おくり名されます。
この時自分(桓武天皇)の即位に際して殺された井上内親王も皇后に復活されています。あの覇気に満ちた桓武天皇の落日を象徴する出来事と思われます。
そのころ安殿はどう思っていたでしょうか?ようやく母の死から復活しつつあった安殿親王。あれだけ強気だった父親は早良親王殺害を全身で後悔している。
だから言わんこっちゃない、父は何も解っていない、もう自分の時代なのだ、早く自分の時代にならないかなぁ、なぁ薬子よ!
妃とともにその介添えとしてやってきた藤原薬子が怪しく微笑みます。時は延暦十三年(794年)に藤原旅子(贈皇后)が亡くなった2年後ぐらいと思われます。
「母上!」安殿親王は薬子に幼くして死別した母の面影を見たのでしょうか?入内した藤原薬子の娘にも見向きもしません。
既に藤原縄主との間に5人の子供を得ていましたから、ありえない美貌だったからとか、彼女の方から近づいた、というよりも、おそらく安殿親王からたっての望みであったろうと考えられます。歴史考の藤原薬子を参考にしてやってください。
さらに桓武天皇と安殿皇太子には日本紀略にこのようなエピソードがあります。延暦二十四年(805)正月十四日の払暁のことでした。
「早良!許してくれ!・・・・」桓武天皇飛び起きる
「皇太子!起きてください帝がお呼びです!」
「何事だ薬子、今、寝たところではないか!」
「帝のお召しです。直ぐに、とのことです。」
「なんだ?こんな時間に行きたくないよ薬子」
「太子!」
「わ・わかったよ」
一方桓武天皇
「まだ安殿は来ぬのか!今一度使いの者を出すのじゃ!」
安殿到着・・・
「帝、何事ですか?」
「おぉ遅いではないか、ちと相談があってな、早良・・・いやいや祟道天皇の為に淡路に寺を建てようと思うのだが、それと天下の諸国に、それぞれの国内の寺々を修理するようにとの命を出したいのじゃがどうじゃ?」
「どうじゃ?と言われましても、どうなされたのですか?このような時間にまぁどうせ帝のことですから、そうなさると決めてあるのでしょう?いちいち呼びつけないで下さいませ」
「う・うむ、それはそうなのだが」
「では、失礼させていただきます(薬子起きて待ってるかなぁ)」
と、大略すればこのような事がありました。桓武天皇も夢にうなされ、焦って目が覚めて、急いで安殿を召したのでしょう。
「父も相当耄碌してきたな、いったい、なんだったんだ・・・そんなこと、明日の朝言えばいいことなのに」
朝方なのにも関わらず、二度も使者を遣わすところなんか、晩年は安殿皇太子以上に、祟りにおののいていた桓武帝の気持ちがわかるエピソードです。
そして、父、桓武天皇の死がやってきました。あれだけ反目していた父の死のはずなのに、一説には安殿皇太子は、父の亡骸を見て失神したとも言われています。
平城天皇即位後、伊予親王を幽閉殺害するという事件が起きます。恐らく、謀殺であったと考えられます。
結局自分も父と同じなのか・・・まてよ、すると俺にも祟道天皇の祟りが・・・!!
父、桓武天皇の反対も無くなった今、何憚ることなく、薬子を寵愛できる立場になった平城天皇ですが、伊予親王を謀反のかどで殺害してから自分に対する後悔と、祟りへの恐怖から「風病」(一種のノイローゼ?)にかかってしまいます。結局在位三年で皇太弟の賀美能(嵯峨天皇)に譲位し、幼少時代母親と過ごした奈良の都(平城京)に引っ込みます。
もし、本当に薬子に骨抜きにされていたら、悩むことも無くとうとうと生きていたであろう平城天皇、この辺に薬子と平城天皇の間を考える鍵が隠されているようにも感じます。
父親桓武天皇の政治に真っ向から立ち向かい、令制官司を大幅に整理したり、地方の民情視察の為に観察使を創設するなど、政治の刷新に努めた平城天皇の治世は、こうしてあっけなく終わりを遂げます。
しかし、一種のノイローゼであった平城天皇は、ゆえに(原因があるのがノイローゼらしい)譲位してからは、めきめきと健康を回復します。こうなると再び政務に口を出し無くなります。こうして「二所朝廷」と呼ばれる事態になりました。
当然こうなると嵯峨天皇も面白くなく、平城上皇が平城京への遷都を強行しようとしたことから(薬子の変)軍事衝突となり、薬子は毒で自害、平城上皇は即日落飾、空海から戒を受け、灌頂を授かりました。
平城上皇はその後も平安京に戻ることなく、平城京の片隅で余生を過ごしました。二人の妃が、上皇の寵を得られずに後宮から退下しているなど、晩年の平城上皇は女性には心を開くことがなかったといわれています。
しかし、上皇は、甘南備内親王だけは側に仕えさせていました。そう、甘南備内親王は薬子の姪ではありませんか!
若き日の母のそして良き理解者であった薬子の面影を彼女に見たのでしょう。弘仁八年二月廿一日、甘南備内親王は18歳で薨じます。平城上皇が51歳で崩じたのは、その七年後、天長元年七月七日のことでした。
ふるさとである平城京を詠んだ平城天皇の思いはいかほどだったでしょうか・・・。 
 
御霊神社

 

奈良町の中心に位置する御霊神社は、氏子地域七十余町、戸数五千余戸の氏子を持つ、県下でも最も氏子が多いと言われる神社である。それには次のような伝説がある。
御霊神社から北へ約三百メートル行った今御門町に道祖神のお社がある。昔、御霊神社の神様と、道祖神の神様が博打を打って道祖神が負け、その氏子の殆どを御霊神社にとられてしまった。だから、御霊神社は今でも沢山の氏子を持っており、道祖神のほうは、今御門、東寺林、西寺林だけで維持しておられるというのである。道祖神は今でも「博打の神様」と呼ばれて人々から親しまれている。
しかし御霊神社のご祭神は、道祖神を相手に博打を打たれたとは信じがたい、やんごとなき方々である。
先ずご本殿にお祀りされている井上皇后と他戸親王は、第四十九代光仁天皇の皇后と皇太子であった。しかも皇后は、聖武天皇の皇女で井上内親王と申し上げていたお方。従って、他戸親王はその孫に当たらせられる第一級の皇族である。
内親王は白壁王の妃となられ、白壁王が即位し光仁天皇となられると同時に、皇后の位につかれた。他戸親王は皇后のお子様なので、御年三十六才になられる、異母兄、山部親王(後の桓武天皇)がおられるにもかかわらず、御年十二才で皇太子となられた。
ところが、藤原百川を中心とする陰謀によって、天皇を呪詛したという冤罪をきせられ、宝亀三年(七七二)皇后・皇太子の位を廃して井上郷の籠居に幽閉されてしまった。天智天皇系の光仁―桓武の皇位継承を確立するため、天武天皇系の井上―他戸を廃そうという企てである。
翌七七三年、天皇のお姉さまの難波内親王が亡くなられたのは、廃后の厭魅(妖術で人をのろうこと)であるとして、大和国宇智郡須恵庄に移され、それから一年半後の七七五年四月二十七日、母子日を同じくして亡くなられた。お二人は生きながら龍になられたと伝えられ、百川は怨霊となった皇后に悩まされて三十八才で頓死したそうだ。さらに、宮中でもいろいろ怪しいことがおこり、風神雷神が荒れ狂って人々を悩ませた。これは、お二人の祟りであるとして、墓を改葬して山陵とし、皇后位を追復して、吉野皇太后と追称したり、諸国の国分寺で金剛般若経の読経をさせたりして、怨霊をなぐさめられた。けれども祟りはなかなかおさまらず、疫病がはやったり、天変地異が後をたたないので、非業に死んだ皇子達を神としてまつり、井上皇后には、御霊大明神の官位を奉ってお祀りすると、お怒りも和らいだのか、天下泰平と国土安隠を守る神様になられたという。
本殿東側社殿には、早良親王、藤原広嗣、藤原大夫人(藤原吉子、伊予親王のお母様)がお祀りされている。早良親王は、光仁天皇と中宮、高野新笠の間に生まれられた皇子で、桓武天皇の実の弟君にあたられる。早良親王は十一才の時に出家して、東大寺に住んでおられたが、景雲二年(七六八)大安寺東院に移り住まれた。七七○年、親王の号を奉られ、七八一年にお兄様の山部親王が即位されると同時に皇太子となられた。しかし、七八五年、中納言藤原種継射殺事件に連座したとして乙訓寺に幽閉され、皇太子を廃される。親王は、その後十数日間食を断ち、淡路島へ配流される途中で死亡されたが、そのご遺体は淡路島に送られて埋葬された。その後、皇太子の安殿親王が病に悩まされたり、疫病が流行して多くの人が死んだりするのは早良親王の祟りであるとして、墓を改めて山陵としたり、僧二人を淡路島に遣わして読経させ、親王の霊に鎮謝された。それから十年程の後、ご遺骨を大和の地に迎え、添上郡八島の陵に改葬し、早良親王に天皇位を追尊して、崇道天皇とした。奈良市だけでも、西紀寺町、出屋敷町、神殿町、北永井町と、崇道天皇社が四社もある。
本殿西側社殿には、伊予親王、橘逸勢、文屋宮田麿がお祀りされている。
伊予親王は、桓武天皇と、藤原大夫人の間に生まれた皇子である。政治的力量にも恵まれ、管弦も巧みで、桓武天皇の信頼も篤く、天皇は巡幸や狩猟の際、よくその山荘に立ち寄られ、歓楽を共にされたそうである。しかし、桓武天皇が八○六年に崩御された翌年十月、政治的陰謀事件がおこった。反逆の首謀者とみなされた藤原宗成が、捕えられて尋問されたとき、「伊予親王こそ真の首謀者である」と主張した為、平城天皇は親王母子を捕え、川原寺に幽閉された。無実を主張する親王と母は飲食を断ち、親王の地位を廃された翌日、十一月十二日に毒薬を飲んで自殺された。後に、無実であったことが明らかになり、人々はこの悲劇に心から同情すると同時に、その祟りに畏れおののいた。
橘逸勢は、平安時代の三筆の一人として、興福寺南円堂のご宝前の銅燈籠の名文を書かれたほどの能筆家であったが、承和の変に加担したという、あらぬ疑いをかけられて、拷問を受け、伊豆に流される途中で病死した。
藤原広嗣も文屋宮田麿も当時の複雑にからみあった政治葛藤に巻き込まれて非業の死を遂げた人達である。当時、怨みをもって死んだ人達の怨霊は、この世にたたりをなし、災をおこすと信じられていた。奈良時代の末頃から平安初期にかけて、こうした怨霊を慰め、鎮め奉ることによって、その威力を借りて災害を逃れ、守ってもらおうという御霊信仰が盛んになり、御霊会を営んで社会不安を一掃しようとする動きが活発になった。御霊神社はそのはしりをなす、桓武天皇勅願によって創立された格式のある神社である。
けれども、私達奈良町に住む氏子達は、ご祭神がそんな不幸な運命にもてあそばれた、高貴な方々であるということについての関心はうすく、子供の頃から、「ゴリョーさん、ゴリョーさん」といって親しみ、敬ってきた。十月十二日の宵宮には、道の両側に沢山の露店が出て、子供の好きなお面や綿菓子、みたらしなどが売られ、神社にお参りするのも人に押されながら歩くほど賑わった。十三日のお祭りには、お神輿の渡御に従って稚児や獅子、天狗等のお渡りが出る。長いたもとの晴着を着せてもらった子供達にとって、お祭りは一年中のハイライトであり、神社の境内は、常時安全な遊びの場であった。
千二百年もの間、丁重におまつりされ、人々から崇敬された御霊八所の大神様達は、怨恨を昇華させ尽くして、より高い神位と広大なご神徳を持たれたのであろう。今まで人間世界の日本というピラミッドの頂上近くにいて、天皇という頂点のみを見つめておられたのが、より高所から見ることによって、ピラミッド全体、底辺まであまねく照覧されて、我々庶民まで、あまねくご守護して下さる優しい神様になられたのであろう。ゴリョーさんを慕い、境内に集まる子供達を見ると、尚一更、その感を深くする次第である。 
 
井上(いがみ)内親王二聖女の死と祟り

 

井上(いがみ)内親王は、天皇を呪い殺そうとしたという罪を着せられて、皇后を廃されてしまいました。
しかし、井上内親王は皇后の立場にあり、しかも自らが産んだ他戸親王(おさべ・しんのう)は皇太子の地位にあったのです。
夫の光仁天皇(こうにん・てんのう)は既に六十四歳なので、当時の平均寿命を考慮しても、あと何十年も皇位にあるとは思えません。
あと少し待てば他戸親王が皇位に就くことは明確ですから、わざわざ井上内親王が夫を呪い殺す必要があるとは到底思えないのです。
では井上内親王が廃后とされることによって利益を得るのは誰だったのでしょう。
光仁天皇の第一子の山部親王(やまべ・しんのう)は、母の身分は高くありませんが、既に藤原南家の藤原吉子(よしこ)が嫁いでいて、二人の間には伊予親王(いよ・しんのう)が産まれていました。
藤原氏にとっては、他戸親王よりも山部親王が即位した方が、遥かに好都合だったでしょう。しかし、事実は謎に包まれたままです。
そして、二人が幽閉されてから二年後の宝亀6年(775)4月27日、二人は同じ日に亡くなりました。
同じ日に亡くなるということは尋常な死に方ではありません。他殺か自殺であると考える方が自然でしょう。
鎌倉時代初期に書かれた『水鏡(みずかがみ)』は、井上廃后は亡くなるとそのまま龍に成ったと記します。
また、その後について、宝亀7年(776)7月には二十日日間ほど毎夜、瓦・石・土鬼(つちくれ)が降るという怪奇現象があり、冬には宇治川の水が絶えようとするまで雨が降らなかったと記します。
そして、12月には光仁天皇と皇太子山部親王と藤原百川(ももかわ)が同時に、甲冑(かっちゅう)を着けた者百人ばかりが百川の命を取ろうとする不吉な夢を見、これを廃后と廃太子の霊と思った光仁天皇は、二人の鎮魂のために諸国の国分寺に命じてお経を読ませたと記します。
また正史『続日本記(しょくにほんぎ)』も、同年9月に毎夜瓦・石・土鬼が降ったことを記す他、5月には災変が度々起きるので邪気を祓(はら)う儀式をしたことや、翌年3月には、宮中でしきりに妖怪がでるので同じように邪気を祓い、その他にも地震・日照り・暴風雨・内裏(だいり)への落雷などを記し、さらに宝亀9年(778)に井上内親王の墳墓を改葬し、「御墓(みはか)」、つまり貴族の墓の待遇としたことを伝えています。
また他戸親王墓は山陵(みささぎ)と称し、天皇陵と同格とされました。
しかし、このような読経や改葬などによっても井上母子の怨霊は収まらなかったようです。
光仁天皇と皇太子山部親王の病気が続き、藤原蔵下麻呂(くらじまろ)・藤原良継(よしつぐ)・藤原百川らが相次いで命を落としました。
これらも井上母子の祟りであると恐れられたのです。
なかでも山部親王の病気は深刻で、重度の精神疾患に陥り、怨霊の勢いを抑えるためのあらゆる努力の甲斐もなく、一年もの間治る兆しが見えず、最後には皇太子自ら伊勢の神宮に行って病気の快復(かいふく)を祈願しました。
皇太子の参宮は神宮の歴史においてこれまで先例がありません。やはり皇太子が遠路遥々参宮した甲斐あってか、健康を取り戻すことがでました。
ところが、続けて光仁天皇の病気が悪化し、皇太子へ譲位して崩御(ほうぎょ)することになります。
皇太子山部親王が即位して桓武天皇(かんむ・てんのう)となり、その同母弟の早良(さわら)親王が皇太子となりました。兄を天皇に、弟を皇太子に据えたのは、父光仁天皇の考えでした。
桓武天皇即位直後には、廃后の御墓の近くに井上母子の菩提(ぼだい)を弔(とむら)う寺が建てられました。
でも井上母子の怨霊はその後も衰えることなく、遷都後の平安京でも暗躍し、怨霊として恐れられることになるのです。
そしてついに延暦19年(800)、井上廃后に皇后の追称(ついしょう)を贈り、御墓を山陵と称して、皇后の墓と同格として扱うことになりました。これによって、井上内親王は二十八年ぶりに名誉が回復されたのです。 その後も、天変地異などが生じると井上母子の祟りと考え、山陵を清掃し読経を行うといったような鎮魂が繰り返されました。
後に、京都には上御霊(かみごりょう)神社と下御霊(しもごりょう)神社が創建され、二人の御霊が祀られました。現在もこの二つの神社は実在しています。 
 
長屋王

 

濡れ衣を着せられ自害した皇族
日本の歴史には怨霊(おんりょう)になって生きる者を祟(たた)ったといわれる人はたくさんいます。そのなかで、人間が死後怨霊になったことが明確に伝わる最初の例が、奈良時代初期の皇族、長屋王(ながやおう)です。
長屋王は、天武天皇(てんむ・てんのう)皇子の高市皇子(たけちのみこ)と、天智天皇(てんじ・てんのう)皇女の御名部(みなべ)内親王(元明天皇の同母姉)との間に生まれました。血統としては天皇家の本筋に近い存在でした。
また長屋王は、草壁皇子(くさかべ・おうじ)と元明天皇の間に生まれた吉備(きび)内親王、そして権力者の藤原不比等(ふじわらの・ふひと))娘藤原長娥子(ふじわらの・ながこ)妻とし、多くの子供を儲けました。
長屋王は、右大臣藤原不比等に次ぐ地位にありましたが、養老(ようろう)4年(720)に不比等が没すると不比等の子である藤原四兄弟(武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ))がまだ若かったこともあり、皇族の長屋王が政治の主導権を握りました。
そして、さらに翌年には右大臣に昇進し、その地位は不動のものになりつつあったのです。
また、長屋王は元正天皇(げんしょう・てんのう)からの信任が厚かったといいます。長屋王妃の吉備内親王は元正天皇の妹であり、長屋王は元正天皇の義理の弟に当たりました。
そして神亀(じんき)元年(724)に聖武天皇が即位すると長屋王は左大臣に進みました。しかし、このような長屋王の出世は悲劇の物語の幕開けとなってしまいます。
藤原四兄弟が長屋王の出世を疎(うと)ましく思ったのは自然な流れでしょう。長屋王と藤原四兄弟は対立を深めることになってしまいます。
二人が決定的に対立したのは、藤原四兄弟が藤原不比等の娘である光明子(こうみょうし)を立后(りっこう)(皇后にたてること)させようとし、長屋王がこれに強く反対した一件でした。
天皇は通常複数の配偶者を持ちますが、その中でも皇后は天皇の代理となることができる特別な地位です。藤原四兄弟にとって、妹の光明子の立后が成功するかどうかは政治的に重要なことだったのです。
本来皇后になれるのは皇族として生まれた内親王か、もしくは天皇家から分かれた臣(おみ)姓以上の家の出身者に限られていました。
しかし、藤原氏は連(むらじ)姓の中臣氏(なかとみし)であり、皇后を出すことができない家格でした。
そして、これに強く反対していたのが皇族にして政権の中枢にいる長屋王だったのです。
ついに神亀6年(729)、長屋王に謀反(むほん)の疑いがかけられます。漆部造君足(ぬりべのみやつこ・きみたり)と中臣宮処連東人(なかとみの・みやこのむらじ・あずまひと)という名もない下級の官僚が、長屋王が密かに左道(さどう)(妖術)を学び国家を転覆しようとしていると密告したのです。
それを受けて藤原宇合ら率いる軍勢が長屋王の邸宅を包囲し、長屋王は弁明する余地も与えられぬまま一家もろとも自殺しました。
この事件は「長屋王の変(へん)」として日本史に刻まれることになります。事件後、藤原四兄弟は長屋王に替わって政治の実権を握り、光明子を連姓の出身者として初の皇后にさせました。
しかし、長屋王を自害に追い込んだ密告は全くのでっちあげだったことが、後になって分かります。
無実の罪を着せられて一家と共に自害した長屋王は、さぞ悔しい思いをしたことでしょう。長屋王が亡くなると、次々と異変が起き始め、人々は長屋王が怨霊となって祟りを起こしていると信じようになりました。
政敵を次々と殺した皇族の怨霊
前回は、長屋王(ながやおう)が無実の罪を着せられて、一家と共に自害したところまででした。今回は、その長屋王が恐ろしい怨霊になった、本当にあった物語です。
長屋王一家が自害すると、長屋王を悪者に仕立て上げた密告は、嘘だったことが明らかになります。
正史(せいし)である『続日本記(しょくにほんぎ)』は、天平(てんぴょう)10年(738)7月10日に、密告者である東人(あずまひと)が殺害されたことを伝えるに当たり、東人のことを「長屋王の事を誣告(ぶこく)せし人なり」と記しています。
「誣告」とは、他人を罪に陥(おとしい)れるために偽って訴えることです。
同書が編纂(へんさん)された平安時代初期、既に長屋王の無実が公然の事実とされていたことが分かります。
長屋王が自害すると、長屋王の祟りと思えるような異変がたくさん起きました。9世紀初頭に編纂された『日本霊異記(にほん・りょういき)』には、長屋王の遺骨を土佐国(とさのくに)に移して葬らせたところ、土佐国ではたくさんの百姓が死に「このままでは長屋王の悪霊によって、国中の百姓が死んでしまいます」という嘆願書が役所に出されたといいます。
ただし、『続日本紀』には、長屋王は生駒山(いこまやま)に葬られたと記されていますから、『日本霊異記』の記述は創作である可能性が高いといわれています。
ところが、長屋王の死から6年後の天平7年(735)から九州の太宰府(だざいふ)で疫病(えきびょう)が大流行し、天平9年(737)には都に達し、長屋王を抹殺した張本人である藤原四兄弟(ふじわらの・よんきょうだい)が次々と命を落としたことで、長屋王は怨霊として恐れられるようになりました。
聖武天皇(しょうむ・てんのう)は神社へ祈り、お寺ではお経を何度も読ませるなどしましたが聞き届けられず、長屋王の怨霊を少しでも鎮めようと、黄文王(きぶみおう)・円方女王(まどかたじょおう)など生き残った長屋王の子女たちの位を特別に上げるという措置が講じられました。
正史には明確に長屋王の怨霊について書かれた形跡はありませんが、この頃から、政治的に失脚して非業(ひごう)の死を遂げた者が怨霊となり祟(たた)りを引き起こすという考え方が民衆にも広がりました。
正史に怨霊の祟りが初めて記されるのは『続日本紀』の天平18年6月18日のところで、玄ム(げんぼう)という僧侶の死が、藤原広嗣(ふじわらの・ひろつぐ)の怨霊によるという噂が広まったと記しています。
また、天平宝字(てんぴょうほうじ)元年(757)に橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の乱が起きると、死罪となった者の怨霊の噂が民衆の間に広がったようで、祟りの噂を流す者も同罪とするとの勅(ちょく)が出されました。
このように、長屋王の怨霊を発端にし、8世紀には権力の中枢から追放され憤死(ふんし)した者が死後に怨霊となって祟りを引き起こすといった考え方が民衆の間に完全に成立したのです。
ところで、その後長屋王は歴史から長いこと姿を消していましたが、急に脚光を浴びるようになったのは、長屋王の変から千二百五十九年後の昭和63年(1988)8月末のことです。
その二年前から奈良市二条大路南に位置する「奈良そごうデパート」建設予定地で奈良文化財研究所による発掘調査が行われていましたが、土地の端で調査対象外とされた場所から、堀起こした土に木片が混じっているのを調査員が偶然に発見し、追加調査によってその周辺の土から三万五千点の木簡(もっかん)が発見されました。
そしてその木簡の調査から、約三万平メートルに及ぶ巨大な建設予定地が長屋王邸跡であったことが初めて明らかになりました。
この土地は長屋王の変が起き一族が惨殺された悲劇の舞台だったのです。
出土した木簡からは、長屋王が氷室を持ち、夏にも酒に氷を入れて飲んでいたことや、牛乳を煮詰めて作る「蘇(そ)」というチーズのような珍味を食べていたことなどが分かり、奈良時代の生活を知ることができる貴重な史料を得ました。
この建設予定地は史跡として保存すべきだという運動が起き、地元や研究者たちがデパートの建設に反対しましたが、建設は予定通り進められ奈良そごうが完成しました。
その後「そごう」が倒産すると、地元の人々は長屋王の怨霊によるものだと噂したといいます。現在は「イトーヨーカドー奈良店」として営業しています。 
都を震撼させた長屋王の怨霊  
続日本紀』の天平9年(737)10月20日の条に次のような記事がある。
「天皇、南苑に御して、従五位下安宿王に従四位下を、無位黄文王に従五位下を、従五位下円方女王、紀女王、忍海部女王に並びに従四位下を授く。」
この日聖武天皇は平城宮の南苑に出御して、安宿王以下五名の王族に位階を授けたのである。『続日本紀』は『日本書紀』に続く正史で、奈良時代を含みほぼ8世紀の100年間を記録した基本史料である。そこには、当時の官人の異動は、五位以上の王族・貴族に限られるが、漏れなく記されていると見て良い。したがって、官人の授位記事は頻繁に見えており、この記事も特別に注意をはらうべきものではなかった。ただし、対象となった五人のうち前半の三人が長屋王の子供であるという共通点があることを除けば。
ところが、1988年から翌年にかけて、平城京の一角で行われた発掘調査によって、少々事情が変わってきた。
発掘した場所が、奈良時代前半の宰相をつとめた長屋王の邸宅と判明し、その中から見つかった大量の木簡(長屋王家木簡という)によって、長屋王家の生活がありありと推測できるようになったのである。その詳細はここでは触れないが、長屋王家木簡から新たにわかったことの一つとして、長屋王の家族をかなり正確に復元できるようになった点がある。長屋王クラスの有名な王族となると、たとえば、その子供たちについては、これまでも何人かは知られていたが、それらを木簡で確認するとともに、従来系譜関係がわからなかった幾人かの王が長屋王の子と判定できたのである。
さきの記事でいえば、安宿王・黄文王・円方女王の三名はもとより、紀女王と忍海部女王の二人も同じく長屋王の子供だったことが判明した。つまり、この記事は、長屋王の子供のみを対象とした授位ということになる。そしておそらく、この五人が、この時点で成人に達していた長屋王の遺児の全てであろうと思う。
さて、この五人の位階の昇格を見てみると、黄文王は今回が初めての授位で、無位から従五位下となったが、他の四人は、従五位下から従四位下へと一挙に四階も昇進したことになる。さらに遡ると、忍海部女王はこの年の2月に、安宿王にいたっては20日ほど前に従五位下になったばかりであった。
したがって、天平9年10月の記事は、長屋王の子供に限って、破格の授位を行ったという事実を示しているのである。しかし、『続日本紀』の記事からこの前後の状況をみても、彼らが官人として特別な働きがあったとか、政治的な役割を期待されたといったことは、とうてい考えられない。つまり、この特別な授位は、長屋王の遺児だから、という理由以外はあり得ないのである。それは何故か。
話は8年前にさかのぼる。
神亀6年(729)2月10日、漆部君足と中臣宮処東人の二人が役所に訴え出た。「長屋王が、ひそかに左道を学び、国家を傾けようとしている」と。
「左道」とは、人を惑わす危険なまじないのこと、「国家を傾ける」とは、天皇の地位を奪うことであるから、長屋王が謀反を企てている、という意味である。
訴えのあったその日のうちに、藤原宇合らが兵を率いて長屋王宅を取り囲む、という迅速な対応がとられた。翌11日、舎人親王・新田部親王・多治比池守・藤原武智麻呂らが長屋王宅にゆき、尋問にあたったが、そこでの応答内容は伝わらない。12日、長屋王は、妃の吉備内親王と膳夫王以下の子供たちとともに自害をとげた。ーいわゆる長屋王の変である。
長屋王は天武天皇の子、高市皇子の長男で、妃の吉備内親王は同じく天武の子、草壁皇子と元明天皇の娘という血筋である。事件当時の長屋王は正二位、左大臣という政府の最高位にあった。つまり、長屋王の変は、有力皇族であり、かつ政府の首班であった者が、国家転覆をはかったとして失脚し自害する、という極めて衝撃的な出来事だったわけである。
しかし、長屋王自身にそうした意図があったとはとうてい思えず、事件の真相は、王の失脚をねらって仕組まれた冤罪であろう、という見方が広くおこなわれている。では、だれが仕組んだのかといえば、事件後に政府の実権を握った者を考えるのが最も分かりやすい。表1と表2に示したように、事件後ほどなくして首班の立場に立ったのは、藤原不比等の長男であった武智麻呂であり、そして彼を支えるように、三人の弟、房前・宇合・麻呂が参議に並び立つこととなった。
事件の半年後の8月には年号が「天平」と改まり、また、藤原四兄弟の妹である光明子が、聖武天皇の夫人から格上げされて皇后となり、新しい時代が始まった。
つまり、長屋王の変は藤原四兄弟による政権の成立、という結果をもたらしたのである。
「天平」という華やかなことばの響きとは逆に、天平初年は、天候が不順であったり、災害がしばしばおこっているのが目につく。天平3年に畿内地方の日照り、4年夏は全国的な日照りがあったかと思うと、秋には大風雨で各地に被害がおこり、5年はまた一転して日照りで、全国的に飢饉におちいる。さらに6年は大地震による山崩れで圧死者多数ーといったありさまで、まさに連年の被害続きであった。
そうした中で天下を揺るがした天然痘が蔓延しはじめる。天平7年、九州の大宰府から天然痘が発生した。ウィルスをもたらしたのは、その年に帰国した遣唐使だったらしい。数々の優れた文物とともに、病をも輸入してしまったのである。翌8年から9年にかけて、天然痘は平城京をはじめ全国にひろがり、多数の死者を出す。中でも当時の政界の中心人物たちの相次ぐ死は、歴史をかえる事件となったのである。
天平8年当時の政府内の序列は藤原武智麻呂、多治比県守、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂の順で、この後に鈴鹿王、橘諸兄、大伴道足と続く(表1を参照・省略)。翌9年になると、このうち多治比県守と藤原四兄弟が天然痘にたおれ、一転して皇族出身の橘諸兄を首班とする政権が発足するという劇的な展開をとげるのである。藤原氏は壊滅的な打撃を受け、再び権力を握るのは、20年後の仲麻呂の登場を待たなければならない。
時の聖武天皇は、もともと神経質なたちだったらしく、天平初年の天候不順について、自らの不徳によるのではないかと嘆き、詔勅を頻発していた。そこにこの事態である。光明皇后とともに自分を支えてくれていた藤原四兄弟の全てを一挙に失ってしまったのであり、その衝撃の大きさはどれほどであったろうか。
「このような異変が起こるのは、数年前に死に追い込んだ長屋王の祟りのせいだ」といった噂が都の一部でささやかれ始めたのではなかろうか。長屋王は実は無実であり、藤原氏が仕組んだ事件だったのではないか。不慮の死をとげた長屋王の霊が四兄弟の変死をもたらしたのである、と。
天平8年に光明皇后の発願で始められた一切経(五月一日経)の書写事業も、長屋王に対する罪滅ぼしといった意味合いが込められていた可能性が高い。なにしろ彼女は長屋王の変の後に、長屋王の旧宅に移り住んでいたのであるから、なおのこと王の祟りは切実だったのであろう。
長屋王の祟りを鎮めるためには、何をなすべきか。その対策の一つが、最初に掲げた長屋王の遺児に対する特別な授位だったと考えるのである。
そして、長屋王の変が冤罪であったことは、まもなく明らかとなる。
天平10年7月10日に、左兵庫少属の大伴子虫が、右兵庫頭の中臣宮処東人を刀で斬り殺すという事件が発生した。『続日本紀』はこの事件について次のようにいう。
初め子虫、長屋王につかえて頗る恩遇を蒙る。ここに至り、たまたま東人と比寮に任ぜらる。政事の隙にあい共に囲碁す。語、長屋王に及ぶとき、憤りを発して罵り、ついに剣をひいて、きり殺せり。東人は即ち長屋王の事を誣告せる人なり。
仕事の休憩時間に囲碁を打っていた中臣宮処東人が、気の緩みからか、相手がかつて長屋王に仕えていたことを知らずに、事件の真相を漏らしてしまったのである。『続日本紀』はこれ以上の詳しい記述を避けているが、正史はついに中臣宮処東人らの訴えが「誣告」(事実を曲げて訴えること)であったことを記録したのである。
以上の一連の動きをみると、長屋王のいわば名誉回復の時期が天平9年〜10年という時期に近接している点が注目される。これはちょうど天然痘の蔓延と、それによる藤原四兄弟の死とほぼ同時期なのであり、先に推定したように長屋王の祟りを鎮めるためのものと考えるとつじつまが合うのである。
一般に、怨霊思想というと、平安時代初めから大きな問題となってくるとされている。皇太子を廃された早良親王が、兄の桓武天皇を悩ませたことは有名であるし、そうした不遇の死をとげた者の冤魂を鎮めるために、平安宮の神泉苑で「御霊会」が始められたのは、貞観5年(863)5月のことである。この時に祀られた霊は、早良親王、伊予親王、藤原吉子、藤原広嗣、橘逸勢、文室宮田麻呂の六人であった。この中に長屋王の霊は含まれていないものの、前述来の推論からすれば、奈良時代の前半において、すでに「長屋王の怨霊」という考えが広まっていたという考えは、それほど荒唐無稽ではなかろう。 
 
藤原吉子

 

(ふじわら の よしこ、生年不詳 - 大同2年11月12日(807年12月18日))は、奈良時代後期から平安時代初期にかけての桓武天皇の夫人。父は藤原南家藤原是公(これきみ)。伊予親王の母。783年(延暦2年)に伊予親王を生む。807年(大同2年)藤原北家の出身である藤原宗成によって謀反の嫌疑がかけられ、伊予親王とともに川原寺(弘福寺)に幽閉されて飲食を絶たれた(伊予親王の変を参照)。母子は自害したが、その後、祟りを怖れた朝廷によって復位・贈位がなされた(819年に復位、839年に贈従二位)。
ふじわらのよしこ(ふじわらのきつし) (?〜807) 奈良〜平安時代。桓武天皇夫人。従三位(追贈従二位)。「朝臣」姓。藤原是公の娘。伊予親王生母。藤原氏(藤原南家)。藤原吉子の誕生年は不明。
時期は未詳であるが、桓武天皇の後宮に入り、延暦2(783)年、従三位となり、「夫人」の地位に登る。
桓武天皇との間に伊予親王をもうける。
大同元(806)年、桓武天皇が崩御すると、安殿皇太子が即位(平城天皇)する。
大同2(807)年10月、藤原宗成が伊予親王に政変を勧めたことが発覚。
所謂『伊予親王の変』の勃発である。
やがて、伊予親王自身が政変計画の首謀者であるとされる。
吉子は、伊予親王と共に捕縛され、長岡古京内の川原寺へ移送の上、幽閉される。
伊予親王が親王号を剥奪された翌日の11月12日、吉子は、伊予親王と一緒に服毒自殺を遂げる。
嵯峨天皇の御代になると、怨霊として畏れられるようになり、続く淳和天皇は、吉子と伊予親王の本位号を復し、吉子には従二位を追贈するに至った。

藤原吉子は、藤原南家の藤原是公の娘として生まれる。
吉子の父の是公は、藤原式家の藤原良継、藤原百川の亡き後、光仁天皇、桓武天皇の朝廷において中枢にあった人物である。
このこともあり、延暦2年2月、良継の娘の藤原乙牟漏が正三位に叙された際、吉子は従三位に叙され、さらには、乙牟漏と吉子は共に「夫人」となっている。
桓武天皇の即位に尽力した良継の娘の乙牟漏は、間もなく立后するが、吉子は、桓武天皇の後宮では、桓武天皇の妻として乙牟漏に次ぐ地位にあった。
乙牟漏が立后した同じ日、藤原式家の藤原種継が従三位に進み、また、百川の子の藤原緒嗣も桓武天皇から個人的に目を掛けられていた。
一方で、是公も、この年、右大臣に昇り、太政官の頂点に立つ等、藤原南家と藤原式家の間の争いも顕著化しつつあった。
さらに、藤原南家では、藤原継縄と、その妻の百済王明信が、桓武天皇から絶大な信任を得る。
明信は、尚侍として、桓武天皇の後宮を支える立場になるが、言い換えれば、継縄を裏方から支える立場でもあった。
まさに、藤原南家内部でも宗家争いが激烈化するのである。
このような状況下、吉子は、桓武天皇との間に皇子を出産。
この皇子が、伊予親王である。
延暦3(784)年、平城京は棄てられ、山背国の長岡京へと遷都する。

遷都の翌年延暦4(785)年に勃発した『藤原種継暗殺事件』で、早良皇太弟は廃され、桓武天皇と乙牟漏皇后との間の皇子である安殿親王が立太子する。
また、後宮でも動きが活発で、是公の妻で、吉子には義母となる橘真都賀が、従三位に進み後宮の女官として高い地位に昇る、その直後、藤原式家の藤原旅子が「夫人」として後宮に入る。
また、明信も、従三位に進むのである。
真都賀が高位に就いて以降、凶事が頻発するようになる。
まず、旅子が、突然、薨去する。
続いて、桓武天皇生母の高野新笠皇太后、さらに、乙牟漏皇后までもが相次ぎ崩御してしまうのである。
真都賀の夫の是公も延暦8(789)年に死去するが、翌延暦9(790)年には、真都賀と是公の間の子の藤原雄友が参議となる。
そして、延暦13(794)年、百川の娘で安殿皇太子の妃であった藤原帯子が薨去。
真都賀が尚蔵となって後宮の実権を掌握後、僅か数年ほどで、天皇家から藤原式家の主要な女性が消える事態となる。
単なる偶然であろうか。
長岡京時代は、早良親王の悲劇にばかり目が奪われがちであるが、後宮でも凄まじい出来事が起こっていたのである。
その渦中にあった吉子の心境を伝える資料は何ひとつ残されてはいない。
同年、長岡京は棄都され、新たなる都の平安京へと遷都する。
後宮から藤原式家の有力な女性がいなくなった頃から、桓武天皇は、伊予親王への偏愛ぶりを見せるようになる。
延暦11(792)年には、伊予親王の元服が執り行なわれているが、これは、内外に対して、伊予親王が、安殿皇太子に次ぐナンバー2であることを宣言したに等しい。
延暦12(793)年に、桓武天皇が、伊予親王の別荘に行幸した際には、伊予親王と雄友が奉献し、桓武天皇から雄友の兄弟に対して衣が下賜される等、藤原南家是公流との蜜月ぶりも際立った。
延暦15(796)年には、伊予親王に帯剣が勅許される。
伊予親王に対する桓武天皇の期待の大きさが窺えるようで、皇子たちの中では、安殿皇太子に次ぐ存在だったと思われる。
そして、とりわけ最晩年においては、伊予親王の邸宅や別荘への行幸が目立った。
因みに、伊予親王の異母弟で、藤原式家の血を引く、神野親王と大伴親王は、共に、延暦5(786)年の生まれであって、この頃は、まだ幼少であった。
ところが、安殿皇太子側近として、藤原仲成と藤原薬子が侍るようになり、延暦24(805)年には、緒嗣が参議となっていることが確認される等、藤原式家に復活の兆しも見え出していた。
こうなると、安殿皇太子の母の乙牟漏の藤原式家と比べて、吉子の藤原南家も家格としては負けてはいない上に、朝堂では藤原南家が優位であったために、「兄弟相続」が有り得た当時の皇位継承において、様々な思惑が、吉子と伊予親王の周囲に渦巻くこととなる。
そして、大同元(806)年、桓武天皇が崩御すると事態は一気に動き出す。
安殿皇太子は、雄友と共に、藤原北家の藤原内麻呂を同時に大納言へ進めるのである。
さらに、伊予親王を中務卿兼大宰帥に任じた上で、安殿皇太子は、桓武天皇の正統な後継者として即位する(平城天皇)。
そして、皇太子には、同母弟の神野親王を立てた。
さらに、衝撃的なのは、平城天皇即位直後に、内麻呂を右大臣に就けたことである。
ここにおいて、雄友は、藤原氏内部の主導権争いにおいて、完全に敗北を喫したのである。
翌大同2(807)年、藤原宗成が伊予親王に政変を勧めたことが発覚。
宗成を捕えて詰問したところ、政変計画は、伊予親王主導で推進されていたことが判明。
朝廷は、10月30日、衛兵を派遣し、伊予親王邸を包囲の上、母の吉子共々捕縛。
11月2日には、長岡古京内の川原寺へ移送し監禁する。
同月11日、伊予親王の親王号を剥奪。
その翌日の12日、吉子は伊予親王と共に毒を仰ぎ自殺して果てる。
この『伊予親王の変』では、吉子の兄の雄友が連座させられ、官位官職を全て剥奪された上で流罪に処された。
雄友の生母で、後宮を思うままに支配して来た真都賀の名も、後宮には見えなくなる。
また、継縄と明信の子である藤原乙叡も連座させられ失脚した。
こうして『伊予親王の変』の結果、藤原南家の勢力は、一瞬にしてガタ落ちとなった。
大同4(809)年、平城天皇は譲位し、神野皇太弟が即位する(嵯峨天皇)。
嵯峨天皇は、弘仁元(810)年7月、早良親王の供養のために100人、そして、同じく伊予親王の供養のために10人が出家得度させたが、同時に、吉子の供養のためにも20人を得度させた。
間もなく、『薬子の変』が起こり、雄友が復位する。
弘仁10(819)年には、吉子の本位号が回復され、弘仁14(823)年、嵯峨天皇が譲位し、大伴皇太弟が即位(淳和天皇)すると、淳和天皇から、吉子に対して帳内と資人が回復される。
承和6(839)年9月には、伊予親王に一品が追贈されたのと同時に、吉子に従三位が追贈され、翌月には、さらに、吉子には従二位が追贈された。
この奇異にも見えるさらなる追贈は、吉子の御霊による祟りがあったためと言う。
吉子は、時期は未詳ながら、山城国葛野郡大岡郷に築かれた大岡墓に埋葬された。
この地は、同国乙訓郡のすぐ傍であって、近くには、大枝の高野新笠陵、藤原旅子陵、少し離れた長岡丘陵に藤原乙牟漏陵が存在しているが、元から、この地に埋葬されたのか、それとも後になって改葬されたものかは定かでは無い。
現在では、大岡陵の正確な位置は不明となっているが、平安時代初期の御陵や御墓には、既存の古墳を再利用しているものがあることから、大岡郷にある天皇の杜古墳を大岡墓とする説もある。
天皇の杜古墳は、葛野郡内に現存する最大級の前方後円墳であり、この天皇の杜古墳が吉子の御陵であったとしたならば、吉子の御霊が眠る奥津城に相応しいものである。
藤原吉子は、『伊予親王の変』に巻き込まれ、愛する我が子の伊予親王と共に死を選び、自ら命を絶った。
『伊予親王の変』に関しては、この政変未遂事件の背後には黒幕がいるとされ、様々な説が出されているが、真相は日本史の中に封印されたままである。
桓武天皇の妻となった吉子の置かれた立場は、その吉子自身が望むと望まないとに関わらず、あまりにも権力の中枢に近過ぎたのである。
それは、妻として愛され、子を産み、子の幸せを祈る吉子にとって、自分ではどうすることも出来ない現実であった。
吉子の死から半世紀ほど経った貞観5(863)年、非業の死を遂げた人々の御霊を鎮める御霊会が神泉苑で初めて行なわれた。その御霊の中には、吉子の御霊も含まれていた。
御霊会は、やがて祇園会へと姿を変え、祇園祭として今日に伝わる。
現在、吉子の御霊は、「藤原大夫人」の名で、上御霊社、下御霊社に祀られ、多くの人々から畏敬の念をもって崇められている。 
 
平城天皇 2

 

1.人麿は平城の帝に身を合わせ 
人麿は平城の帝に身を合わせ、和歌を文化の華とはなせり
人麿「吾妹子のぬくたれ髪を猿沢の池の玉藻とみるぞかなしき」
平城天皇「猿沢の池もつらしな吾妹子が玉藻かづかば水も干なまし」
この歌は『大和物語』に出てきます。平城(なら)の帝つまり平城天皇の御幸(みゆき)が途絶えてしまったのを悲観して、猿沢の池に身を投げた采女(うねめ)を悲しんで一緒に詠んでいるのです。人麿の歌は「私のいとしい人の寝乱れた髪を猿沢の池の玉藻のようだと見てしまうのはなんとかなしいことだろう」と平城天皇の気持になって詠んでいます。平城天皇は「猿沢の池もつらいだろう、私のいとしい人が玉藻となって沈んでいるのだから、水も涸れてほしいものだ」と嘆いています。
帝にとってはこの采女が愛らしくて、慈しんだ気持に不純なものはなかったでしょう。でもそれは束の間の真実にすぎません。帝は謀略と愛憎の渦巻く朝廷での生活に戻れば、ひととき愛した女性のことなど忘れてしまうのです。でも采女にとったら、そのひとときの幸せこそが自分の生きる意味であり、人生の唯一の輝きだったのです。帝の御幸に預かれないのなら、池の玉藻となった方がいいということですね。愛を裏切られた采女は怨霊となっ て帝を悩ませるのです。
柿本人麿が亡くなったのは、諸説あるようですが、梅原猛は708年説をとっています。 ところがこの人麿が平城天皇と歌について語らっているのです。平城天皇といえば、平安京に遷都した桓武天皇の皇子で、在位は806年からの三年間でした。ですからこの語らいは有り得ないことのように思われます。このことは紀貫之の『古今和歌集』の「仮名序」に記されています。905年4月18日に書かれたようですから、平城天皇即位から約百年後ですね。百年たったら人麿の生きていた時代が分からなくなったのでしょうか。「仮名序」から引用してみましょう。
いにしへよりかく伝はるうちにも奈良の御時よりぞ広まりにける
かの御代や歌の心を知ろしめしたりけむ
かの御時に 正三位柿本人麿なむ歌の聖なりける
これは君も人も身をあはせたりといふなるべし
秋の夕べ龍田川に流るるもみぢをば 帝の御目に錦と見たまひ
春のあした吉野の山のさくらは人麿が
心には雲かとのみなむおぼえける
現代語訳をしてみましょう。「いにしえからこのように伝わる中でも、平城天皇の時代から歌が広まりました。その時代には帝も歌の心をごぞんじだったのでしょう。この時代に、正三位柿本人麿という人が歌の聖でありました。これは君主も臣下も身をあわせたということでしょう。秋の夕には龍田川に流れる紅葉が帝の目に錦と見え、春の朝には吉野の山の桜が人麿の心に雲かと思われたのです。」
「奈良の御時」とは奈良時代の意味ではないかという誤解が起こりそうですが、「御時」や「御世」という場合は特定の天皇を指しています。それに「龍田川に流るるもみぢをば 帝の御目に錦と見たまひ」となっていますので、この帝は「龍田川もみぢみだれて流るめりわたらば錦なかやたえなむ」(古今和歌集)と詠んだ平城天皇のことと特定されます。実際奈良の帝という呼び方もされていますから。
この歌については『大和物語』で人麿と平城天皇との掛け合いで出てきます。人麿が「立田川紅葉ばながる神なびのみむろの山にしぐれふるらし」と詠みますと、帝が「立田川もみぢみだれて流るめりわたらば錦なかやたえなむ」と詠んだという話です。つまり平城天皇は『万葉集』の世界にのめりこみ、人麿と共に歌を詠んでいる気持になっていたということでしょう。
この平城天皇の歌は龍田川の紅葉を錦に例えたところが見事な美意識ですが、この歌が感銘を呼ぶのは、自然は自然のままだから美しいので、その美を我がものにしようと人為的に分け入って介入しようとすると、錦は壊れてしまうという認識ですね。人為を退けた老荘思想の影響があるのです。同じテーマで平城天皇はこうも詠っています。
「萩の露玉にぬかむととればけぬよし見む人は枝ながら見よ」(古今和歌集)
「萩の葉に露が陽光に宝玉のごとくきらめくので、それを真珠の珠のように紐を通して首飾りにしようとすれば消えてしまいます。よく見て楽しもうと思っているのなら、枝についた葉のままで観賞しなさい」という意味です。こうした感性は自然を人間の勝手な欲望で支配しようとすれば、自然は破壊されてしまって、元々手に入れたかった自然の美しさもなくなってしまうということですから、環境問題にも大いに通じる現代的意義の高い歌です。
「我が宿の、尾花が上の、白露を、消たずて玉に、貫くものにもが」これは家持の歌ですが、平城天皇の「萩の露」の歌と共通していますね。というより、深読みすれば、家持の場合は、露を消さないで玉に抜けたらいいのにと思っているのに対して、そういう自分勝手な思いをたしなめているのが、平城天皇の歌だといえます。 この家持の歌から天皇権力を我がものにして天下を動かそうとする気持ちを嗅ぎ取って、それを「萩の露」の歌でたしなめているとも解釈できますね。
ところで吉野の山の桜を雲と見た人麿の歌は何でしょう。それは古田武彦によりますと次の歌ではないかということです。
「み吉野の御船の山に立つ雲の常にあらむとわが思はなくに」(万葉集巻三244番)
これは雲が桜の比喩だとは書いていませんが、吉野だから桜の比喩で雲と表現したのだろうという解釈なのです。残念ながら人麿の時代には吉野の桜は雲とみまがうようなものではなかったようです。でも他にそれに当たる歌はないのですから、やはりこの歌でしょう。ということはこの平城天皇と柿本人麿の対話の人麿は、作者紀貫之の妄想ではないとしたら、あくまでも平城天皇にとっての人麿であって、実体として人麿の霊があって、それが呼び出されたわけではないということになります。もし人麿の本物の霊だったら、吉野の桜を雲に比喩することはできなかった筈ですから。
それではどうして平城天皇は人麿の霊と語らうことができたのでしょう。柿本人麿といえば「万葉集」の代表的歌人ですね。歌聖と呼ばれているのはこの人だけです。その「万葉集」の成立と平城天皇は深いつながりがあるのです。『万葉集』の編者は大伴家持ですが、まだ完成していなかったようです。それに家持は、延暦四(785)年9月の藤原種継暗殺事件の黒幕として死後流刑にされています。それで彼の編纂した『万葉集』は世に流布していなかったのです。 晩年家持は自分が心血をそそいで編纂してきた『万葉集』を早良皇太弟が即位される時に奉呈したいと考えていたのですが、それができなかったのが心残りだったのではないかと思われます。 
2.桓武帝への怨みを背負って安殿皇子は

 

安殿皇子、父への怨みを身に受けて、闇を恐れて安寝しかねつ
種継事件の黒幕とされた早良親王が、無実を主張して、淡路に流刑される途中で憤死しました。 その後、桓武天皇の身辺に不幸が相次ぎまして、占ってもらったら、早良親王の怨霊のせいだというのです。
具体的にあげていきましょう。延暦5年(786)には、桓武天皇の妻旅子(たびこ)の母が亡くなりました。延暦7年5月には旅子も亡くなります、29歳でした。さらに、延暦8年には天皇の母高野新笠(たかのにいがき)が病死、延暦9年には皇后乙牟漏(おとむろ)も突然死しました、まだ30歳の若さでした。彼女が安殿(あて)親王の生母です。
安殿皇太子(のちの平城天皇)も 延暦9(790)年9月(満でいえば16歳)に病気が回復しないので長岡京の九つの寺で誦経(ずきょう)してもらっています。この年は夏は旱の害、秋冬には天然痘の流行が京・畿内に起こり、 また飢饉に苦しむ民衆が多かったようです。
皇太子がこの時何の病気だったのかは『続日本紀』には記載されていません。もし天然痘だったら腺病質だったのでもたなかったでしょう。翌年10月にやっと病気が治ったので伊勢神宮に、報告に皇太子自ら参詣しています。しかし延暦11(792)年6月に「皇太子久病。卜之、崇道天皇為祟」と『日本紀略』にあります。病が続くので占ったら早良親王の祟りだったということです。 
それで桓武天皇は早良皇子にわびまして、魂鎮めを行っています。そしてとうとう怨霊から逃れるために延暦12(793)年に遷都を決意して、延暦13(794)年に完成間近の長岡京を放棄して平安京へと遷都したわけです。
怨霊というのはむしろ祟られる側の意識としてリアリティがあるわけですね。実体として祟る側が恨みのあまり異界へ行けないで、この世で恨みをはらし続けるというのは、恐らく迷信でしょう。祟られる側が、祟る側の気持ちになって考えれば、まだまだ怨みが晴らされていないと思っている以上、いつまででも祟られます。ですから平安京に遷都したところで、根本的な解決にはならないわけです。
案の定、延暦16(797)年5月、平安京でも怪異があり、早良親王の魂鎮めが行われました。つまり何か不思議なことがあったと報告されると、それは早良親王の祟りだと思われてしまうのです。延暦19(800)年7月、桓武天皇は、怨霊鎮魂のために、早良親王を崇道天皇、井上内親王(光仁天皇を呪詛した嫌疑で廃皇后になり、他戸廃太子とともに幽閉されて毒殺されたらしい のです。藤原百川ら式家の策謀らしいのですが、山部皇子は自分が祟られると考えていました。こちらの方が古い怨霊)を皇后として完全に名誉回復したのです。 つまりとうとう死者に崇道天皇という天皇位まで追贈しているのです。
早良親王が種継暗殺事件に絡んでいたかどうか真相は分かりません。当時は桓武天皇や藤原種継ら遷都強硬派と早良親王や大伴家持らの遷都反対派が厳しく対立していました。そして長岡京を桓武天皇が留守をしている間に主要な建物を竣工してしまおうと、種継の指示で突貫工事が続いていたということです。この工事を阻止しないととんでもないことになると遷都反対派は考えていたようです。それで種継を殺してもということですね。
道鏡を天皇にしようとした孝謙上皇の企みを和気清麻呂らの努力でなんとか食い止めたのですが、都の中に巨大寺院がありますと、それが政治勢力にならないとも限りません。寺院勢力を退けるために、平城京からの遷都を図った わけです。
奈良時代の仏教は鎮護国家の仏教と言いますが、政教一致的な傾向が強かったわけですね。聖武天皇は、聖徳太子の理想は仏教が支配する仏国土の建設だというように解釈していたようです。それで国毎に国分寺・国分尼寺を建設し、山の上に 聖都紫香楽宮を建設し、大仏殿を築いて、そこから統治するか、それができなければ、その近くの平地恭仁京に政治的都を造って、天子は時々聖都で修行するというような、仏教のユートピアを描いていました。それでは財政的にももたないうえ、官僚的な国家機構が麻痺してしまうので、貴族官僚が猛反対して挫折したわけです。
父の志を継ごうとした孝謙上皇は、天皇の位を血統ではなく、最も徳の高い仏教の僧に継がせることによって仏国土を実現しようとしたわけです。これは天皇自ら天皇制の自己否定を孕んだものでした。これらの危ない天皇たちを経験したことによって、政教分離を藤原百川らの貴族官僚が担ぎ出した桓武天皇は目指そうとしたわけです。
遷都反対派は早良皇子に期待をかけていました。彼は元々寺に預けられていましたので、僧になろうと考えていたのですが、父が光仁天皇になったので、還俗し、兄の桓武天皇が即位してからは皇太弟になっていました。仏教勢力とはつながりが深かったのです。 父光仁天皇の遺志を尊重して早良皇太弟を認めたものの、桓武天皇の戦略的な国家構想からいけば、早良皇太弟をいずれは廃太子しようと機会を窺っていたのです。ですから種継暗殺事件を利用して、早良皇子の関与を断定して、排除してしまうというのは、全く当然の帰結だったのです。
もちろん山部皇子(桓武天皇)にとっては早良皇子は同じ母高野新笠から生まれた弟ですから、決して殺す気はなかったですし、淡路に流して廃太子すれば目的は達したわけです。それが絶食による憤死は、想定外でした。それでもはじめは、帝に嫌疑を抱かせるようなことをする方が悪いのに、絶食で抵抗して憤死するなんて、了見ちがいもはなはだしいと思っていたでしょうね。 それが怨霊の祟りと思われても仕方がない、天変地異、むごたらしい天然痘の猛威、近親の相次ぐ若死になどで、さすがの桓武天皇も怨霊の祟りを痛感せざるを得なかったということです。
もっともハンガーストライキによる憤死は眉唾だという解釈もあります。七日七夜水分を与えないで衰弱死させたという西本昌弘「早良親王薨去の周辺」という研究もあるようです。 帝は早良を殺す気は全くなかっても、帝の近臣は、早良を消したいと思っていて、断食させたこともあり得ますね。
おそらく安殿皇太子の病というのはノイローゼ(神経症)でしょう。皇族の相次ぐ死、特に生母の死が引き金になって怨霊への恐怖心が募っていたからだと思われます。 
3.大伴氏は桓武帝の挑発に乗ったのか

 

大伴は何故に種継射殺すや鎧の紐も結ばぬうちに
種継暗殺事件では、実行犯とされたのは大伴氏の一族でした。大伴氏はどうして遷都に反対していたのでしょう。 大伴氏は藤原氏に対抗しようとすれば、貴族勢力だけでは無理で、寺院勢力とも連携しようと考えていたのかもしれません。それには平城京から離れるのは得策ではありません。それに造都や蝦夷征伐などに出費が嵩みますと、国家の衰退を招きます。それを覚悟で立派な平城京を捨てるメリットがあるようには思えなかったのでしょう。
遷都については聖武天皇の時にも、平城京を捨てて、恭仁京、紫香楽宮、難波宮などへ遷都しようとされたので、山火事まで起こして抵抗した結果、平城京に戻ったという経緯があります。この時に大伴家持は二十歳代前半の青年でしたが、強引な遷都が国家財政の乱費を招き、国力を衰退させ、蝦夷や熊襲の離反、国内の騒乱や飢饉を招くことを危惧しただろうと思われます。それに聖武天皇の場合は、新都は辺鄙なところを選び小さな規模を考えていたようですが、桓武天皇の構想は大きな平城京なみの都造りを考えていたのです。
桓武天皇にすれば新都を平城京なみの都にすることで国家の隆盛を図ろうということでしょうが、すでに口分田は重税に苦しんで、衰退しつつあり、逃散などが起こっていたのです。造都や蝦夷征伐などが続けば国家財政の破綻は明らかだったわけです。国の衰退を防ぐためには、身命を賭してでも反対しようと考えていたことは十分考えられます。それで長岡京の造都使藤原種継を殺して、工事を中断させようとした可能性は大いにありますね。
ただ種継暗殺の下手人が大伴継人と竹良とされ、彼らの自白から大伴家持の生前の指令に基づくだとか、黒幕は早良皇子だという自白がありますが、これは拷問の結果ですから、もちろん信用できません。彼らの逮捕も対立関係からの憶測に基づくものでしょうから、大伴継人と竹良が本当に主犯であった のかは分かりません。と言いますのは、桓武天皇は早良皇子だけではなく、大伴家持や継人、竹良まで元の位に復させ、名誉回復を図っています。 ということは、桓武天皇の側にも継人、竹良の自白は拷問によるものなので、ひょっとして冤罪もありうると考えていた可能性も否定しきれません。
研究者の間では、種継暗殺が大伴氏によるものということには、異論がないようですが、本当に継人と竹良が犯人だと分かっているのなら、それを怨霊を恐れるあまり名誉回復してしまうのは、あまりに原則がなさすぎますね。
桓武は『続日本紀』から種継事件を抹消してしまっています。これはおかしいと平城天皇は記述を復活させたそうです。というのは平城天皇の腹心である藤原仲成と薬子は種継の遺児だったので、彼らの強い要請もあったでしょうから。それを嵯峨天皇はまた抹消します。それは何故か?810年の「薬子の変」があったので、その首謀者である仲成と薬子の父のことだからかもしれません。
怨霊が恐ろしいのは、祟られる側に落ち度があるからでしょう。もし種継暗殺が大伴氏によるものなら、大伴氏に対する断固たる措置は当然であり、これを取り消せば法的正義に反します。いかに早良皇子の怨霊が恐ろしくとも、それは早良皇子が冤罪であったからの筈ですね。それに便乗して、種継暗殺の罪をチャラにすることなどできる筈はありません。
松本清張は、種継暗殺の時期に桓武天皇が長岡京を留守にしたのは、藤原種継側と大伴一族との緊張が高まっていたので、自分が留守にすれば、何か騒動が起きて、それをきっかけに反対派を一掃できることをねらっていたのではないかと推理しているようです。何かそういう桓武天皇の側に良心の呵責や、罪の意識がなければ、実行犯まで元の位に復させて名誉回復するのは筋が通りません。
それにしても 大伴家持と言えば「海ゆかば」で知られる特別に天皇への忠誠心の強い人物だと思われていますね。
「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじ」
それなのに桓武天皇に対しては謀反を企んでいたというのは解せない人もいるかもしれません。大伴氏は古来から大王直属の伴造としての誇りが強い氏です。「海ゆかば」は、聖武天皇への忠誠を説いたもので749年に平城京に戻ってからのことでして、当時聖武天皇は遷都の失敗で、政治への関わりに意欲を喪失しており、藤原仲麻呂が紫微中台の長官となり、実権を握りつつあるころです。大伴氏としては仲麻呂独裁になることを警戒して、天皇への忠誠を強調して、牽制しようとしたのでしょう。
聖武天皇は東大寺大仏造立にのみ専念しようと、この年に帝位を娘の孝謙天皇に譲るわけですが、陸奥で金がでたということでそれを寿ぐともに、あらためて大伴、佐伯氏に忠誠を求める詔の中に「海ゆかば」の伝承の言葉を入れたのです。それを大伴家持が感激して、織り込んだ長歌を作っただけで、「海ゆかば」の部分は家持のオリジナルではありません。
それに大伴家持は早良皇太弟の春宮侍従だったこともあり、直接には早良皇子に臣従していたわけです。その関係もあり、桓武天皇の腹心になった藤原種継との対抗上からも、長岡京遷都反対派の急先鋒にならざるをえなかったのでしょう。
しかし本当に家持の生前の指令で事を起こしたのなら、もっと綿密な計画の下に内乱に発展していたはずですね。簡単に犯人が捕まえられ、自白して家持や早良親王のことまで告げ口するのはどうも信用できません。 三木一郎作『薬子繚乱』(新風舎2007年)という歴史小説では、大伴氏の手下に種継を弓矢で射殺すように命じられた狙撃犯土麻呂(はにまろ)が証拠を消すために殺されかかって、知らずに逃げ込んだのが種継の妻真従(まより)の家で、そこから露見したという設定になっています。
種継は当時かなり朝廷内で実権を持っていたようですから、種継を殺せば、ただちに犯人は緊張関係にあった大伴氏だと決め付けられ、一網打尽にされることぐらいは大伴氏も分かっていたはずですから、十分内乱の準備をしないで挑発行動にでたのは、あまりに不自然ですね。 まあ家持が任地でなくなって、求心力が欠けていたので、統率が緩んだために起こった暴走だったかもしれませんね。 
4.大同元年の『万葉集』

 

家持がいにしえびとの言霊を万集めし永久に伝へや
『万葉集』は全二十巻のうち第十七巻以降は大伴家持の歌日記になっており、天平宝字三(759)の正月元旦の家持の歌で閉じられています。ですから大伴家持を編者とみて間違いないわけですが、『古今和歌集』の延喜五(905)年紀淑望が書いた「真名序」や、紀貫之が書いた「仮名序」によりますと平城天皇の時代に編集されたことになっています。
「昔平城天子詔侍臣。令撰萬葉集。自爾来。時十代。数過百年」(真名序)
「これよりさきの歌を集めてなむ 万葉集と名づけられたりける
ここにいにしへのことをも歌の心をもしれる人わづかに一人二人なりき
しかあれど これかれ得たるところ得ぬところたがひになむある
かの御時よりこの方 年は百年あまり 世は十継になむなりにける」(仮名序)
905年ですから大同元(806)年にほぼ一致しますね。平城天皇在位の三年間に編纂されたとしたら、ほぼ記述通りと言えるでしょう。十代というのも平城天皇でぴったりです。梅原猛は平城天皇の時代に編纂されたという立場です。
大森亮尚著『日本の怨霊』(平凡社2007年)では、平城天皇よりも桓武天皇が注目されています。それは『万葉集』を出す目的が大伴家持の鎮魂にあるとすれば、平城天皇の即位に間に合わせようとしたのではないかという理由からです。種継暗殺事件で連座して二十年近く伊予国に流罪になっていた早良親王の甥五百枝王(いおえのおう)が延暦二十四(805)年に許されて入京し、怨霊鎮魂を桓武天皇に直々に頼まれたというのです。それは3月15日ですから、桓武天皇崩御の二日前です。そしてまず翌日五百枝王が復位し、桓武天皇の遺言で大伴家持を含む継人、竹良も帝の死の当日に復位しています。
主犯格まで罪をなかったことにするということは、本来あり得ないことですが、桓武天皇にすれば、自分は祟りで死んでいくのは仕方がないけれど、このままだと安殿皇太子も殺されてしまうということで、復位に踏み切ったのでしょう。年齢的には69歳でしたから当時としては長生きの方でしたが、怨霊に寿命を縮められたと本人は思っているわけです。それだけ夢でも魘され、幽霊なんかも見たかもしれませんね。つまりそれだけ祟られて当然と思われることをしたという罪の意識があったわけです。そこは良心的でしたね。
大森は桓武天皇が五百枝王に、特に家持が早良親王の即位に際して奉呈しようとしていた歌集を完成させて、それを安殿の即位に奉呈することで慰霊をするようにと頼んだと推理しています。早良の身代わりに安殿をあてるということですね。でも相手が安殿ならそれこそ当てが外れたことになるのではないでしょうか。だって安殿を皇太子にするために早良を罪に落としたという図式でしょう。それで怨んでいるわけですから。
平城天皇の即位は5月⒙日ですから、『万葉集』の編纂はこの日には間に合っていないと思います。家持の慰霊のためというのなら、桓武天皇の頼みで五百枝王が二月で仕上げたとするよりも、平城天皇自身も深く関わった形で、編纂作業が進んだと考えるのが自然ですね。それで『古今和歌集』「仮名序」や『大和物語』に、柿本人麿と平城天皇が身を合わせて対話する場面が伝承されたわけです。 
5.親子の断絶

 

怨霊の祟りを呼びし遷都策平城京とて花は咲きしを
安殿皇子は父桓武天皇に対してかなり反発があったようです。即位後大胆な緊縮財政を実行して、令制官司を大幅に整理しました。そして地方の民情視察の為に観察使を創設するなど政治の刷新に努めたのです。でも仕事をなくした役人たちに大反発を買っています。『薬子繚乱』では、辞めさせた役人たちを慰労するのに伊予親王が自宅を提供したのですが、その際に部下がいずれ皇位継承のときがくれば、この恩顧に報いるためにはせ参じるように檄を飛ばしたという設定になっています。
伊予親王が神野親王が皇太弟になったことに反発する動きがあったのか、謀反の嫌疑がかけられ、母藤原吉子と共に毒殺されてしまいます。あるいは毒を飲んで抗議の自殺だったとも言われています。この母子の怨霊に安殿親王は相当悩まされて、三年で皇位を投げ出すことになるわけです。
早良皇子の怨霊にもずっと悩まされ続けた上に、伊予親王母子の怨霊ですからたまりませんよね。元はといえば父桓武天皇の遷都と蝦夷征伐という、巨大な出費と軋轢を伴う律令国家建て直し策に起因しているわけです。それで皇族までもが分裂した結果が、種継暗殺事件になり、早良皇子を憤死させ、怨霊にしたわけです。
もし父が自分の戦略の正当性を確信し、怨霊となって祟る方がけしからんと断固たる態度をとっていれば、たとえ祟られて殺されることになっても、正義を貫いて死ぬのですから、言い訳は立ちます。ところが桓武帝はひたすら早良皇子の怨霊を恐れ、詫びて、崇道天皇と天皇位まで授けます。しかも死の直前には種継暗殺の主犯まで位を回復するわけです。そうなれば、かえって種継暗殺は桓武天皇の謀略がらみではなかったという疑問を呼びますね。
実際、種継の娘薬子と不純な関係をいぶかった桓武天皇は薬子を春宮坊から追い出しました。延暦十三(794年)に薬子の娘珠子(『薬子繚乱』での名前、他の資料では名前がない)が春宮に参内したので、それに付き添い人として来ていたわけです。春宮宣旨といって春宮の女官の身分です。大変英邁で美人でもあったので、皇太子は娘珠子より、薬子に気があったらしいのです。
でも『薬子繚乱』の作者三木一郎はこの段階での不倫は単なるゴシップとしています。一応皇太子は珠子と配偶関係にあったのですから、その母と肉体関係を持つことは母子相姦の一種として、大変あさましい犯罪に当たります。たとえゴシップでも薬子を退けたのは当然だったかもしれません。ただ薬子は種継暗殺事件に関して、帝の謀略を疑っていたのではないかと三木一郎は考えています。薬子とあまりに親密になると、安殿親王は自分が怨霊に祟られるのは父親の謀略のせいだと父を恨んだかもしれませんね。
平城天皇の改革は、父桓武帝の新都建設と蝦夷征伐という積極財政から緊縮財政への転換です。これは考え方の転換というより、国力が衰えて、やむを得ず選択せざるを得なかったものかもしれません。実際桓武帝も延暦24(805)年7月12月、藤原緒継の建都中止と蝦夷征伐の中止の提言を呑まざるをなかったのです。
平城天皇は「龍田川」と「萩の露」の歌で、人為を否定し、無為自然の立場を強調していますから、桓武天皇の律令体制の建て直し政策を人為として批判していたのかもしれません。無理に遷都しようとしたり、武力で蝦夷を討とうとする姿勢が権力闘争や皇位継承をめぐる暗闘を生み、怨霊を生み出したという批判ですね。
平城天皇即位直後の伊予親王の謀反の動きに対する処断で、母子の怨霊を生み出した張本人だと言われていますが、三木は幽閉したのは殺すためではなかったと解釈しています。「日本紀略」によりますと、
「親王ならびに母夫人藤原吉子を川原寺に従(うつ)し、之の一室に幽し、飲食を通せず。」(紀略)
とありますので、薬子が食料や水分を断ったという解釈の人もいますが、これは取り調べの役人が罪を認めないために、拷問を加えているわけです。この措置を薬子が命じたというのは憶測ですね。
伊予親王は9日後、解任され親王号を廃されて、その翌日母子共に毒を仰いで死んでいます。三木は鳥兜による毒殺で、その毒は征夷大将軍の坂上田村麻呂が陸奥で手に入れたもので、藤原北家の策謀とみているのです。でも怨霊は平城天皇に祟るわけですね。
もっとも怨霊に祟られるのは罪の意識の表れですから、何らかの後ろめたいところがあるわけです。伊予親王に対する帝の怒りは相当なものであったらしく、親王廃位について、帝の剣幕を見て誰も諫言できなかったのが、安倍兄雄だけは言葉を尽くして諫言したと『日本後紀』に記されています。この帝の態度が食料や水を断つという拷問を誘引したとも考えられます。
とはいえ、安殿皇子は桓武帝崩御に際して「皇太子哀号、擗踊、迷而不起」と表現されています。森田悌の現代語訳では「皇太子は悲しみ泣き叫び、手足をかきむしり、臥し転び、立つことができなかった」と表現しています。「擗踊」というのは舞いとは違って飛びながら踊ることで、ようするにかなしみのあまりじっと立ってられなくて、飛び跳ねて踊っているようだったということですね。儒教では父の死に対しては「哀を致す」ことが求められていますから、それが礼儀ともいえます。ただそれだけではなく、怨霊の祟りが父の死で自分に集中するようになるのではと不安があって余計に哀しみが極まったのでしょう。 
6.平城還都

 

青丹よし奈良の都にかえらばや心ゆかしき万葉の故 地
平城天皇は即位後、『万葉集』の世界にのめりこんで行きます。つまり和歌の世界を通して、飛鳥や平城京への郷愁を懐くことになるのです。元々早良親王怨霊が原因とおもわれるノイローゼで苦しんでいたわけですが、即位後は伊予親王の怨霊にも悩まされてきました。ついに大同4年には帝位を皇太弟神野親王に譲りました。嵯峨天皇の誕生でした。
「朕は体が弱く、天皇としての事業に耐えられないといつも思ってきた。それだけではなく風病に苦しめられ身体が安泰でなく、日月を重ねて、天皇としての政務を怠るようになってしまった。 」
とその理由を明かしています。風病というのは、神経系の病気や中風・リューマチス系疾患・感冒性疾患などです。
天皇には最終決定権があるだけに、処分に納得していない者たちの怨霊たちはどうしても帝に復讐しようとします。平城天皇のような元々病弱な人にはとても撥ね返せないわけです。それでいわば無理やりに涙を流して固辞している神野皇子に天皇位を押し付けたのです。
神野皇子は何度も断りますが、平城上皇はしまいに皇居を出て行く形で譲位してしまったのです。日本の天皇制の場合、譲位の後で、天皇権限を全面的に引き継げるのではないのです。譲位した天皇は太上天皇と呼ばれ、天皇とは別に詔勅を出せるのです。ですから平城上皇の病状が収まってきますと、二所朝廷といわれるような二重権力が出現してしまいます。
平城上皇は、怨霊のターゲットになりやすい天皇を辞めたかっただけで、権力には執着心が強かったのです。孝謙上皇が淳仁天皇に道鏡との関係に干渉されて、頭に来て、淳仁天皇から実権を奪い取ってしまいました。これに対して、当時独裁者だったはずの藤原仲麻呂は反乱を起こそうとしますが、失敗してしまいます。その例があるので、譲位後も平城上皇は権力を振るおうとしたのです。
桓武天皇から春宮坊から追い出された薬子は、平城天皇が即位されてから尚侍(ないしのかみ)として招聘されます。帝の意向を伺ってそれを伝える重要な役職です。帝はすべて薬子と話し合った上で事を決していたのです。それだけ、薬子は状況判断がテキパキと、筋を通してできたのでしょうね。帝の信頼は絶大でした。
その時には『薬子繚乱』では、長女の珠子は平城天皇の女子を出産し、産後に体調を崩して亡くなっていました。夫縄主(ただぬし)は随分前から大原野の薬子のところへ通わないようになっていました。その意味では誰憚ることもなくなったので、帝との肉体関係を深めていたという解釈になっています。それは藤原氏にとっては困りますね。自分たちが出している娘が相手にされないわけですから、藤原薬子、兄仲成以外は、権力主体から外されていかざるを得なくなりますから。
平城の故地に平城上皇は引っ越します。そこに上皇のための宮を建てようとします。これでは「二所朝廷」ということになるので、嵯峨天皇としては上皇側の妨害で、太政官から布令が出せなくなることを警戒して、蔵人所を設置してその頭に藤原北家の冬嗣を任命します。つまり法令などの重要書類を管理して、天皇直属の機関から通達を出せるようにしたわけです。
この嵯峨天皇の動きに対して、平城上皇は平城京への遷都や蔵人所の解散、冬嗣の左遷などを要求したと思われます。ただし冬嗣自身が撰者である『日本後紀』では、平城京への遷都は薬子の図ったことだが、平城上皇の本心ではなかったとしています。
平城京の故地に上皇の宮を建てようとしたことは事実ですから、これは上皇自身が、天皇と一緒にいてはぶつかるので、距離を置こうとしたことでもあると思われます。しかし距離を置けば余計に関係はこじれるわけですね。
上皇の気持には『万葉集』の世界が平城京や大和にはあるわけですから、その世界に浸りたいという気持もあったのでしょう。それに平城京に行けばどうしてこんな素晴らしい地を捨ててわざわさ平安京などに都を作らなければならないのか、つくづく実感したのでしょう。その気持を薬子に手紙で託し て、嵯峨天皇に伝えたら、それを平城京遷都の命令と曲解して、逆手にとって遷都にみせかけ、平城京に押しかけて、潰してしまおうという動きにでたのではないかと、三木一郎は推測しています。
ともかく嵯峨天皇側が臨戦態勢に出て、薬子の解任に踏み切ったので、平城上皇は東海に抜けて態勢を整えようとして進軍しますが、既に各道の関は塞がれており、途中で兵士が次々脱落したのでやむを得ず戻り落髪して僧になったということです。
薬子は兄仲成が殺されたことを知って、潔く自害したということです。これを「薬子の変」と呼んでいましたが、やはり乱の主体は平城上皇だろうということで、最近の教科書では「平城上皇の変」と呼ぶようになっています。
ところで薬子が平城京への遷都にこだわったのは、たんなる平城天皇の返り咲きを狙っていたからだけではありません。長岡京を捨てて平安京に遷ったことは、父 種継への裏切りと捉えていたのでしょう。長岡京が無理なら元に戻せということです。平城上皇の場合は、万葉の世界への憧れと共に、平城京に戻さない限り、怨霊の祟りから逃れることはできないのではないかという思いがあったのではないでしょうか。
嵯峨天皇は空海の真言密教の力で怨霊を封じようとします。かくして政教分離は奈良のに南都六宗からの分離は果たすものの、比叡山延暦寺の天台宗や高野山金剛峰寺や東寺の真言宗などの力を借りたのです。ですから天台宗も法華経だけではダメで、密教を取り入れたわけですね。呪いで怨霊を封じないといけないので。
もちろん呪いぐらいで怨霊は封じられません。だって王朝のすさまじい権力争いには謀略による多くの犠牲者を生み、激しい怨みを生み出すわけで、それが民衆の反権力志向と結びついて怨霊信仰が広範な民衆の支持を得るからです。それに祟られる権力者自身の中にある良心の疼きが、自ら怨霊信仰を生み出してしまうわけですね。
怨霊を生み出しているのは権力者自身であり、自分で自分の首を絞めているのですが、その権力構造で生きる限り、一生呪われる苦しみからは抜けられないわけです。 
 
菅原道真

 

奈良時代末から平安時代にかけて無念のうちに非業の死を遂げた皇族、貴族は数多くいたが、延暦19年(800)に、死後祟りの形で顕現した井上内親王(光仁天皇の皇后)、他戸親王の怨霊を鎮めるために桓武天皇の勅命で創祀された奈良市薬師堂町の御霊神社以来、わが国の御霊思想は一大ブームとなり貞観5年(863)の御霊会(ごりょうえ)では祟道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原吉子、橘逸勢、文屋宮田麻呂、観察使(藤原仲成?)の六所、さらにそののち吉備真備と菅原道真が加わり、全国的にも疫病の流行や天変地異のたびに御霊社が創建されていった。その中でも菅原道真の怨霊は異常ともいえるほどのロング・ランで彼の死後90年間も続き、豊饒の実りの雨をもたらすとともに、不義を弾劾する雷神への信仰は道真個人を離れて一人歩きしながら天満神社、御霊神社の形で定着していった。このブームの担い手に聖とよばれた修験の人達の活躍があったらしいことは以前兵庫県三田市の天満神社の説明のところで述べたとおりである。このロング・ランの背景には強大な権力と富を占有し、「この世をばわが世とぞ思う」に到った藤原氏に対する民衆の憤懣と呪詛があったことは言うまでもない。
菅原道真の略伝
承和12年(845)6月25日生まれ。菅原是善の第3子。祖父は遣唐判官として渡唐、弘仁9年(818)に儀式・衣服を唐風に改めることを提案した菅原清公(きよとも)である。元は土師姓で、曽祖父の古人から大和の居住地にちなみ菅原姓に改め、代々儒者を輩出した。道真も幼少より学問にいそしみ、貞観4年(862)に文章生(もんじょうしょう)、元慶元年(877)に式部少輔(しきぶすないのすけ)・文章博士になる。同4年に父が没すると、学界の一大勢力であった菅家の私塾を背負うことになるが、その隆盛を喜ばない学者たちの嫌がらせにより讃岐守として赴任。そこで地方の民衆の生活に触れた道真は、4年後に都に帰ると、宇多天皇に重用されて順調に官位を昇った。寛平6年(894)に遣唐使に任ぜられるも、当時の唐は凋弊し、その派遣が奈良時代のような意義を失っていること、渡航費用の財政負担などから廃止となった。同9年に権大納言兼右大将に昇進、権門の藤原時平も同時に大納言兼左大将になる。同年醍醐天皇が即位。昌泰2年(899)に道真が右大臣・右大将、時平が左大臣、左大将にまた同時昇進した。藤原氏は他氏の地位の上昇をこころよく思わず、道真が天皇の廃位をひそかに企てていると讒言(ざんげん)し、延喜元年(901)に大宰権帥(だざいのごんのそつ)に左遷することに成功、道真の4人の男子も官途を失った。太宰府での生活は苦しく病魔に冒され、同3年2月25日に59歳で没した。同5年に安楽寺境内の埋葬地に大宰府天満宮(福岡県筑紫郡)の造営がはじまる。
1世紀におよぶ祟りのはじまり
道真の復讐劇は太平記に伝わる死の年の晩夏の逸話に基づく謡曲『雷電』に詳しい。この逸話が伏線となり年を経ずして京を襲った豪雨や落雷の被害が重なったことから、時平や時平とともに道真左遷の謀議にかかわったひとたちも徐々にその風評に呪縛されはじめ次々と死を迎えることになる。都に異変がおこったのは道真の死後5年後の延喜8年(908)のことで道真追い落としの首謀者のひとりである藤原菅根が没し、各地を旱魃が襲った。そしてその翌年からは疫病が流行り、時平がまず延喜9年に悩死、今度は各地で洪水の被害が出て、京に隕石が降るという事態まで起こった。また延喜10年に入ると旱魃と台風のダブルパンチで道真の祟りにちがいないと大騒ぎになった。ついで延喜23年(923)、右大弁公忠が病気でもないのに急死し、三日後に蘇生して語ったところによると「醍醐天皇は時平の言を用いて罪なき臣を流罪にした誤りは重大であるゆえ、冥府の札に記して阿鼻地獄へ連行されるべき」と奏上する衣冠正しき者がおり、冥官らが「もし、年号を改めて過(とが)を謝するという道があれば、これはどうか」と合議しているところで目が覚めよみがえったのだといったものだから、これを聞いた天皇は驚き、ただちに年号を延長と改元し、道真の流罪の宣旨を焼却して復官させ正ニ位を追贈した。しかしこの年、時平の女仁喜子の婿で皇太子の保明親王が早世し、前後して時平の女で宇多天皇の女御であった褒子も急逝した。さらに保明親王のあとに立太子した三歳の慶頼王も、3年後の延長3年(925)6月に亡くなった。道真の死後20年を経ておこったこの事件は道真の怨みと憤りの実在を人々に確信させるに足るものだった。その5年後の延長8年(930)清涼殿に落雷があり、大納言清貫、右近衛の舎人忠包(ただかね)が焼死、右大弁希世(まれよ)は雷にうたれ、紀蔭連(かげつら)も煙にまかれて死に、さらに6年後の承平6年(936)に時平二男、八条大将保忠が急死、天慶6年(943)時平三男、敦忠も早世と延々と祟りは続く。
道真は出雲国造家の遠い親族である土師氏の出で、出雲神は雷や水神の蛇とかかわりが深いことから、恐怖心をよけいにあおられたのかもしれない。
そうした下地が充分に出来あがった天暦9年(955)、大内裏の北野に一夜に千本の松が生え、道真を斎(いわ)えとの託宣があり、ここに社を建て「天満大自在天」と尊称したが、ここからは天満宮のマスメディア戦略と化して大小さまざまな異変もすべて道真に結びつけられていく。その後もしばしば内裏は火災に見舞われて、円融院の時にいささかできすぎの感がしないでもないが内裏(だいり)天井の裏板に虫食いのあとが和歌となって「つくるともまたもやけなむすがはらやむねのいたまのあはぬかぎりは」と(『大鏡』)顕われるにいたって、ついに正暦4年(993)一条天皇によって太政大臣正一位が贈られ、道真の曾孫幹正が勅使に立てられ筑紫安楽寺に下向して詔書が読み上げられた。そのとき、はるか天空に七言絶句の漢詩を朗読する声が聞こえたと言う。ここまでくるともうやりすぎと言いたくなるが、つぶさに観察してみるとこの90年におよぶ怨念劇の持続には天変地異に乗じて、実に見事で執拗なマスメディア操作がありそれが権門藤原家に対する民衆のせめてもの抵抗であったかのようでもある。
天神社のカリスマとしての菅原道真
全国・2万社におよぶ天満神社は菅原道真という人物神を祭る神社である。
怨霊から出発した道真は神霊へと変化し、平安期の人物としては空海とならび実に多くの伝説に彩どられている。遣唐使を廃止した張本人にして唐土を踏まなかったにもかかわらず渡唐天神の伝説まであり、『天神縁起』によれば観音信仰とむすびつき観音菩薩の化身とされ、道真は父母のいないみなし子としてこの世に現れる。そして大宰府の天拝山で道真が無実の罪を祭文にして七日七夜「天道」に訴えるとその祭文が伸びにのびて帝釈天や梵天のもとにまで届き、生きながらにして天満大自在天となったと伝えられる。大自在天(マハ−シュヴァラ)とはヒンズー教の主宰神のひとりであるシヴァ神が仏教化したもので残虐と癒しの両面を持ち、それゆえ唯一最高の創造神であるとされた。
道真は生前わが国の学問どころの最高権威にまでのぼり、讃岐守時代には民衆と交わり、親しみを以ってうけとめられてきたし、大宰府の道行きには道真寄港の伝承が天満社創建となって数多く伝えられている。それは朝廷から忘れられた瀬戸内海沿岸の水軍の末裔たる海民たちの無念の思いに重なるし、道真の死後は荒ぶる神として雷神の姿を借りて都人を恐怖のどん底へおとしいれたのみならず、修行中に脱魂して冥界遍歴をした日蔵上人を六道輪廻の世界に導いたともされる。
こうした道真の多面的な人格が、わが国の初期王権のシンボルである蛇や龍とそのエッセンスともいうべき雷電という多分に海洋民的なトーテムをいただく人々の崇敬をあつめ自然の猛威そのものの天神の多様な展開を統合しうる人格として形象化されたと私はうけとめている。
三田市の天満社
わたしの仮寓する兵庫県三田市には神社本庁に包括される神社が54社あり、そのうちの12社が天満神社である。これらの神社のすべてを数回に亘り調査したが、天満社とスサノオ神を祭る神社が氏子である婦人会などの共同作業によりもっとも手入れが行きとどいているのが印象的だつた。いずれも農耕神としての性格が強く道真の影は比較的薄いが、平安末から鎌倉室町時代にかけて自然の猛威を鎮める社として崇敬された。室町時代にいたって三田藩主、赤松村秀により三田天満神社が創建されてより荒木、山崎、有馬、松平から九鬼に至る代々の藩主の祈願所となり、ひいては除災与福の神として民衆からも親しまれ天神社は産土神として奉斎されたようである。
土師氏のこと
もと連を姓とし、天武13年(684)宿禰の姓を賜る。日本書紀では神代上の天穂日命を祖とする。日本書紀の垂仁天皇32年7月条(垂仁朝の史実は現在では疑わしいとされる)に、日葉酢媛葬儀に際し、野見宿禰が殉死を廃し、そのかわりに埴輪をつくり陵墓を樹てることを進言して容れられ、この功績により土部(はじべ)の職に任ぜられたのが土部の連が天皇の喪葬をつかさどるもととなったといわれ、野見宿禰を土部連の始祖とする。延暦9年(790)12月朝臣を賜るがこれは桓武天皇の外祖母が土師氏の出であったことによるところが大きいとされている。
土師氏の勢力範囲は和泉の百舌鳥(堺市)、河内の古市丹比地方(同藤井寺羽曳野市)、大和の秋篠・菅原地方(奈良市)に多く、いずれも5世紀頃より大古墳が築かれた地域である。おそらく土師氏は5世紀頃より天皇や豪族のために古墳を築き、埴輪をつくり喪葬に奉仕することを職業として朝廷に仕えていたのであろう。
しかし、7世紀後半以降、古墳の造営が衰え律令時代に入ると土師氏も旧来の喪葬関係の官人から一般の律令官人への転進を図り、外交をはじめ各種の分野で活動をはじめる。天応元年(781)に土師古人らが請願してその本貫地にちなみ菅原の氏を得たのもそのためで延暦元年(782)に秋篠、延暦9年に大江への改氏が認められた。
現代の土師さん
中世に入ると古代の土師器にかわって土器(かわらけ)が日用雑器として普及するにつれ土器師が出現、鎌倉時代の荘園・公領では土器給、土器免などの給免田が土器師に支給され、京都の深草には早くから朝廷をはじめ京都の諸階層に土器を供給する土器師が現われた。室町時代になると大和に赤土器座・白土器座などの商業的な土器師の組織が成立し、生産と販売を兼ねる商工未分離の経営を行なっていたと推定されているので、現在土師姓を名乗っている人たちはこの土器づくりを職業としていた人たちの末裔ではないかと想像される。
付記:藤井寺市道明寺1丁目の道明寺は旧名土師寺で、土師氏の氏寺として創建。道明寺天満宮もかって土師神社と呼ばれていたのを昭和27年(1952)に改称。祭神として天穂日命、菅原道真、覚寿尼をまつっている。  
 
菅原道真・雑話

 

こち吹かば想いおこせよ梅の花 主なしとて春なわすれそ  
当HP内の「菅原道真」関連情報をまとめたものです
利休最後の手紙  
天正19年1月(1591)利休を庇護した豊臣秀長が死亡した。秀吉に寵愛された利休が失脚した理由はここにある。数年前から秀吉政権は、正室ねねと秀次らの派と、側室淀殿と石田三成・前田玄意らの二派に分かれて暗闘が続いていた。秀長死亡し淀殿・三成派は、利休をはじめ秀長の息のかかった勢力を追い落とそうと策謀。これに町人出身で虎の威を借り名門貴族や大名・武士たちを見下し増長していた利休らに、不満の公家・武家体制が同調した。
わずか一カ月後の閏1月21日、一年数カ月前に利休が大徳寺に寄進した二層山門「金毛閣」の上に置いた利休の木像が不謹慎といいがかりをつけた(頭巾をかぶり杖を突きぞうりをはいた立像だが、山門をくぐる天皇、摂関、太閤殿下までぞうりで踏みつけている)。
利休は親しい大名の細川忠興や利休七哲のひとり芝山監物らに頼み必死に弁明に努めるが、監物がもっとも頼みとした蒲生氏郷にまで「一笑一笑(もうむだだ)」と断られた。堺の会合衆仲間住吉屋宗無や万代屋宗安も利休の手紙につめたく顔をそむけ。
2月14日秀吉は利休を堺に追放。このとき愛娘のお亀にあてた和歌が「利休めはとかく果報ものぞかし菅丞相になると思へば」(菅丞相は無実の罪で左遷された菅原道真のこと)である。利休の周りに蟻のように群がった人影はなく、淀の渡しに見送りにきたのは、細川忠興と古田織部の二人だけだった。
2月16日利休は芝山監物に次の返事を出した。利休の最後の手紙。
御詠(監物の手紙にそえてあった彼の歌)に又一入(ひとしお)涙斗(ばかり)に候 返し おもひやれみやこをいでて今夜しも淀のわたりの月の舟路を 返々(かえすがえす)御詠ながめ 返ししかね候まま 御使を待せ申候 いつもと申候ながら今夜又 宮古(都)の名残旁々(かたがた)に候 宮古出ての淀の川舟とよみ候を 思ひいだすにも涙に候 やがてやがて待申候待申候
ことさらに天気も能成(よくなり)候 かなしく候かなしく候 かしく
死の少し前、利休は長老前田利家の助命申し出を謝絶している。利家は正室北政所ねねを通じてわびを入れれば、殿下は許されようと知恵をつけた。利休は男が御婦人方に延命を頼んだとあっては無念だ、処刑されたほうがいいと断った。
今井宗久とともに織田信長に仕えていたころ、利休は14歳年下の秀吉を「藤吉郎」と呼びすてにし、秀吉は「宗易公」と敬っている。山崎合戦以後は「筑州(筑前守の略)」にかわり、やがて「上様」「関白様」となるのだが、心の奥底のどこかに「この成り上がりの猿め」という意識があったのかもしれない。秀吉のほうも独裁的権力に酔いしれた今、かつての利休の横柄な面影が浮かぶと、卑屈だった過去の自分がいまいましく、茶坊主のくせにと憎しみがつのったと思われる。
2月25日秀吉は金毛閣の利休木像をひきおろし、戻橋にさらして磔にした。知らせを受けた利休は静かに辞世を詠んだ。
「提(ひっさぐ)る我が得具足の一太刀(ひとつたち)今此時ぞ天に抛(なげうつ)」
2月26日京の聚楽屋敷に移された利休は、茶室不審庵で自作の茶杓を使って朝の茶の湯を催したのち腹を切った。介錯は門下の蒔田淡路守である。享年69。
当日は大雨に雹が降り雷鳴とどろく春の嵐が吹き荒れていた。屋敷の周りは大名上杉景勝の指揮する軍勢三千が弓、槍、鉄砲を装備して、厳重にとり囲んでいた。利休の門下の大名たちが、利休救出のため武力行使に出るおそれがあるとの情報があったからだ。
利休の首は検使の安威摂津守・尼子三郎左衛門によって秀吉に届けられたが、秀吉は見向きもせず、戻橋にさらせと命じた。利休の首を金毛閣の利休木像で踏みつけさせるという、むごたらしいものだった。連座して大徳寺の古溪はじめ三長老も処刑されるところを、北政所ねねと大政所のとりなしで救われている。  
苅萱の関3 苅萱(かるかや)の関跡

 

太宰府市坂本の関屋は、昔その辺りにあったといわれる「苅萱の関」に由来するといわれており、現在は関屋の旧日田街道沿いに苅萱の関跡の碑が建っています。
苅萱の関は、菅原道真の次の和歌により有名ですが、実際には、中世の関所の跡と考えられています。
かるかやの関守にのみ見えつるは 人も許さぬ道辺なりけり(『新古今和歌集』)
このように、悲しい説話の残る「苅萱の関」ですが、実際のところ、この地に関所が置かれたのは、中世の頃であったようです。
文明12年(1480年)、筑紫を訪れた連歌師宗祇は、『筑紫道記』に、「かるかやの関にかかる程に関守立ち出でて我が行くすえをあやしげに見るもおかし」と記しています。当時、北部九州を支配していました大内氏が関所を築いていたことがわかります。
また、古代には苅萱の関の場所から西へ約1キロの場所の水城の東門には、水城の関が置かれており、もし苅萱の関があったとすれば、非常に近接した場所に2つもの関所があり、非常に不自然です。
では、菅原道真がよんだ「かるかやの関守・・」の歌はどのように解釈すればよいのでしょうか。最近の研究では、「かるかやの」の「の」を所有格の「の」と解釈するのではなく、主格の「が」と読み替えて、「苅萱(植物の萱)が関守にだけ見えるのは・・・」と解釈すべきではないかという説も出されており、実際、戦国時代に大内氏によって置かれた関所が、道真の和歌と混同された結果、想像上の苅萱の関が作り出されたとも考えられています。  
滝宮の念仏踊  

 

滝宮の念仏踊 1
(たきみやのねんぶつおどり) 香川県綾川町の11地区に伝わる「雨乞い踊り」であり、その起源は、菅原道真が886-889年の4年間、讃岐国司を勤めた時に大旱魃に見舞われ、道真公が身命を捧げて雨乞い祈願を行ったところ大雨が降り、農民が滝宮神社の前で道真公に感謝し喜んで躍ったのが今に残る。「念仏踊り」となったのは、1207年に浄土宗開祖・法然上人が宗教上の争いから讃岐に流された際、この踊りを見て「念仏」を唱えるように教え、現在の振り付けになり、千年以上も住民に守り継がれている。毎年8月25日に、滝宮神社と近接の滝宮八幡宮で奉納されており、大団扇を持った下知が飛び跳ね舞うもので、全国に残る念仏踊りの源流として有名である。国の重要無形民俗文化財に指定されている。
滝宮の念仏踊 2
香川県綾歌郡綾川町(旧・綾南町)滝宮に伝わる雨乞いの踊り。菅原道真が讃岐の国司であった仁和4年(888)に大旱魃があり、これを憂いた道真が身を清め7日7晩祈願したところ雨に恵まれ、喜んだ農民たちが滝宮神社(当時は牛頭天王社)の前で道真に感謝し踊り狂ったのが起源とされている。現在でも8月25日に滝宮神社と滝宮天満宮で行なわれ、全国に残る「念仏踊り」のルーツとされている。鉦と太鼓の鳴り響く中、陣羽織に羽織袴の踊り手が念仏を唱えながら大うちわを振って飛び跳ねるように舞う。昭和52年(1977)に重要無形民俗文化財に指定された。  
念仏踊り
踊り手と歌い手が分かれているもので、自ら念仏を唱えながらおどる踊念仏とは区別される。 起源としては、菅原道真が886年から889年の4年間、讃岐の国司を勤めた時に行った「雨乞いの踊り」とされ、翌年から村人達が感謝の意味で踊ったのが今に残る。 「念仏踊り」となったのは1207年に法然上人が宗教上の争いから讃岐に流され、この踊りを見てセリフとして「念仏」を唱えるようにさせた事による。現在でも香川県綾歌郡綾川町滝宮では8月25日に「滝宮の念仏踊」が行なわれ、全国に残る「念仏踊り」のルーツとして国の重要無形民俗文化財に指定されている。  
国風文化のおこり  

 

894年、菅原道真の意見によって遣唐使が停止された。唐は8世紀ごろからすでに衰退がはじまっており、航海にともなう大きな危険をおかしてまで、交渉を続ける必要はないと考えられたからだ。
907年、東アジア文化の中心であった唐がついに滅び、「五代十国(ごだいじゅっこく)」とよばれる混乱の時代をへて、960年に宋が中国を統一した。
しかし日本は、新しくおこった宋と正式な国交を開かなかった。正式な国交はなかったが、宋の商船は、博多などに貿易のためしきりにやってきた。
中国の東北部では、奈良時代以来日本と親交のあった渤海(ぼっかい)が、926年に遼(りょう)に滅ぼされ、朝鮮半島では918年におこった高麗が、935年に新羅を滅ぼして半島を統一した。
日本はこれらの国々とも正式な国交を開こうとしなかったが、朝廷の許可を得て中国へ留学する僧があったり、宋から書籍や工芸品・薬品などが輸入されたりと、大陸との交渉は行われていた。以上のような国際情勢の変化の中で、10世紀以後の日本の文化にも大きな変化が現れた。
その変化とは文化の国風化、つまり日本化である。この時代に栄えた文化を国風文化とよんでいる。7世紀以来続いた遣唐使によって吸収した大陸文化を土台として、それをより日本の風土に合うように洗練されていったものが、国風文化である。この時代に国文学や芸術が新しい姿をとって出現し、平安時代以後も長く伝えられていくことになった。
この国風文化の伝統が形づくられていった時期は、藤原氏の摂関政治が確立した時期と重なり、それは同時に藤原氏が栄えた時期でもあり、国風文化のことを藤原文化とよぶこともある。  
菅原道真の怨霊  

 

雷神となり祟る
菅原道真は無実の罪によって大宰府に左遷され、その地で没した。延長8年(930)6月26日、「俄に雷声大いに鳴り、清涼殿坤の第一柱に霹靂神火あり、殿上に侍る者、大納言正三位兼行民部卿藤原朝臣清貫の衣焼き胸裂け夭亡す(年64)。又、従四位下右中弁兼内蔵頭平朝臣希世顔焼けて臥す」(「日本紀略」同日条、原漢文)
とある。醍醐天皇はそれ以後病気となり、9月29日、崩御された。
「九条殿遺誡」には「尋常仏法を尊ばず、此の両人已に其の妖に当る」と書き残したが、「体源抄」には、それを認める一方で、「貞信公(忠平)は、時平の御弟にておはしけれども、このかみに同意し給はず、ことに天神(道真)の御ことを嘆き給ひけり。其の故に当座におはしけれども、いささかのわづらひなし」というように、一般には、道真の怨霊のしわざとして恐れられた。
醍醐天皇の生前五つの罪
醍醐天皇は死後、地獄へ堕ちたという伝承がある。「北野縁起」中に、
「我(醍醐)は父法皇(宇多)の御心に違へ、無実によりて菅丞相(道真)を流し侍りし。かの罪によりて此の苦を受く。汝(日蔵)、娑婆世界に帰りて、我が皇子に此の苦を助け給へと申すべし、とぞ仰せられける。我、生前に五つの罪あり。皆是れ大政威徳天の御事より出でたり。
一には、父法皇を嶮路に歩ませ奉りて、心神困苦せしめ申したりし事。
二には、我高殿に安座して法皇を地に据ゑ奉りし事。
三には、賢臣を罪なきに罪を与へし事。
四には、久しく国位を貪りてあまたの仏法を滅ぼしし事。
五には、我が身の怨敵の故に他の衆生を損害せし事。
是等の罪によりて先苦を受くる事かくの如し」
とある。また「およそ国土の災変は、みな天神(菅原道真)の御眷属の御しわざ也とぞ、蔵王は仰せられける」ともある。  
陰陽師  

 

(おんみょうじ、おんようじ) 古代日本の律令制下に於いて中務省の陰陽寮に属した官職の1つで、陰陽五行の思想に基づいた陰陽道によって占筮(せんぜい)及び地相などを行う方技(技官)として配置され、後には本来の律令規定を超えて占術・呪術・祭祀をつかさどるようになった職掌。中世以降は、主に各地において民間で個人的に占術・呪術・祭祀を行う非官人の者を指すようになり、現代においては民間で私的祈祷や占術を行う神職の一種として定義付けられている。連声化せずに「おんようじ」と発音されることもある。声聞師ともいわれた。
陰陽五行思想の伝来と陰陽寮
全ての事象が陰陽と木・火・土・金・水の五要素の組み合わせによって成り立っているとする、中国古代の夏、殷(商)王朝時代にはじまり周王朝時代にほぼ完成した陰陽五行思想、ないしこれと密接な関連を持つ天文学、暦学、易学、時計などは、5世紀から6世紀にかけて飛鳥時代、遅くとも百済から五経博士が来日した512年(継体天皇7年)ないし易博士が来日した554年(欽明天皇15年)の時点までに、中国大陸(後漢(東漢)・隋)から直接、ないし朝鮮半島西域(高句麗・百済)経由で伝来した。
当初はこれら諸学の政治・文化に対する影響は僅少であったものの、602年(推古天皇10年)に日本における陰陽道のパイオニアとも言うべき存在となった觀勒(観勒 かんろく)が百済から来日し、聖徳太子をはじめとして選ばれた34名の官僚に諸学を講じると我国の国政に大きな影響を与えるようになり、初めて日本において暦(元嘉暦)が官暦として採用され、仏法や陰陽五行思想・暦法などを吸収するために607年(推古天皇15年)には隋に向けて遣隋使の派遣が始められたほか、聖徳太子の十七条憲法や冠位十二階の制定においても陰陽五行思想の影響が色濃く現れることとなった。その後も、朝廷は遣隋使(後には遣唐使)に留学生を随行させたり、中国本土ないし寄港地の朝鮮半島西岸から多数の僧侶ないし学者を招聘して、さらなる知識吸収につとめた。諸学の導入が進むと、日本においては『日月星辰の運行・位置を考え相生相克の理による吉凶禍福を判じて未来を占い、人事百般の指針を得る』ことが重要であると考えられるようになり、吉凶を判断し行動規範を得るための方策として陰陽五行思想が重視されることとなった。
7世紀には、壬申の乱の際に自ら栻(ちょく)を取って占うほど天文遁甲の達人で陰陽五行思想に造詣の深かった天武天皇が、676年(天武天皇4年)に「陰陽寮」や日本初の占星台を設け、685年(天武天皇13年)には「陰陽師」という用語が使い始められるなど、陰陽五行思想はさらに盛んとなり、718年(養老2年)の養老律令において、中務省の内局である小寮としての陰陽寮の設置が明文化され、これに方技(技官)として天文博士・陰陽博士・陰陽師・暦博士・漏刻博士が常任されることが規定されると、神祇官の龜卜(きぼく、亀甲占い)と並んで公的に式占を司ることとなった。
大陸伝来の技術を担当する方技だけに、各博士や陰陽師には、諸学に通じ漢文の読解に長けた渡来人、おしなべて中国本土の前漢・後漢(東漢)・代わって大陸覇権を握った隋、朝鮮半島西岸に勢力を有した高句麗(コグリョ、こうくり)・百済(ペクチェ、くだら)、まれに当初朝鮮半島東岸勢力であった新羅(シルラ、しらぎ)から帰来した学僧が任命されている。特に、後の663年(天智2年)に日本が親密国であった百済に援軍を出した白村江の戦の敗戦により新羅が朝鮮半島を統一して百済王朝が滅亡した際の前後には、百済から大量の有識者が亡命者として渡来し、その中から多くの者が任官している。
陰陽寮成立当初の方技は、純粋に占筮(せんぜい)、地相(現在で言う「風水」的なもの)、天体観測、占星、暦の作成、吉日凶日の判断、漏刻(水時計による時刻の管理)のみを職掌としていたため、もっぱら天文観測・暦時の管理・事の吉凶を陰陽五行に基づく理論的な分析によって予言するだけであって、神祇官や僧侶のような宗教的な儀礼や呪術は全く行わなかったが、宮中において営繕を行う際の吉日選定や、土地・方角などの吉凶を占うことで遷都の際などに重要な役割を果たした。れている。連声化せずに「おんようじ」と発音されることもある。声聞師ともいわれた。
平安時代
9世紀平安時代に入ると、藤原種継暗殺事件以降に身辺の被災や弔事が頻発したために悪霊におびえ続けた桓武天皇による長岡京から平安京への遷都に端を発して、にわかに朝廷を中心に怨霊である御霊信仰が広まり、悪霊退散のために呪術によるより強力な恩恵を求める風潮が強くなり、これを背景に、古神道に加え、有神論的な星辰信仰や霊符呪術のような道教色の強い呪術が注目されていった。讖緯思想・道教・仏教特に密教的な要素を併せ持った呪禁道を管掌し医術としての祈祷などを行う機関として設けられていた典薬寮の呪禁博士や呪禁師らが、陰陽家であった中臣(藤原)鎌足の代に廃止され陰陽寮に機構統合されるなどして、陰陽道は道教ないし仏教(特に8世紀末に伝わった密教の呪法や、これにともなって伝来した宿曜道とよばれる占星術)から古神道に至るまで、さまざまな色彩をも併せもつ性格を見せ始める要素を持っていたが、御霊信仰の時勢を迎えるにあたって更なる多様性を帯びることとなった。例えば、9世紀後半以降に陰陽道の施術において多く見られるようになった方違え・物忌などの呪術や泰山府君祭などの祭祀は道教に由来するものであり、散米・祝詞・禹歩(反閇)などは古神道に由来するものである。さらに、北家藤原氏が朝廷における権力を拡大・確立してゆく過程では、公家らによる政争が相当に激化し、相手勢力への失脚を狙った讒言や誹謗中傷に陰陽道が利用される機会も散見されるようになった。
仁明天皇・文徳天皇の時代(833年‐858年間)に藤原良房が台頭するとこの傾向は著しくなり、宇多天皇は自ら易学(周易)に精通していたほか、藤原師輔も自ら「九条殿遺誡」や「九条年中行事」を著して多くの陰陽思想にもとづく禁忌・作法を組み入れた手引書を示したほどであった。この環境により、滋岳川人(しげおかのかわひと)、弓削是雄(ゆげのこれお)らのカリスマ的な陰陽師を輩出したほか、漢文学者三善清行の唱える「讖緯説(しんいせつ)」(周期的予言説)による災異改元が取り入れられて901年(延喜元年)以降恒例化するなど、宮廷陰陽道化がさらに進んだ。あわせて、公卿の藤原師輔や漢文学者の三善清行など、陰陽寮の外にある人物が天文・陰陽・易学・暦学を習得していたということ自体、律令に定めた陰陽諸道の陰陽寮門外不出の国家機密政策はこの頃にはすでに実質的に破綻していたことを示している。
やがて平安時代中期以降に、摂関政治や荘園制が蔓延して律令体制がさらに緩むと、堂々と律令の禁を破って、正式な陰陽寮所属の官人ではない「ヤミ陰陽師」が私的に貴族らと結びつき、彼らの吉凶を占ったり災害を祓うための祭祓を密かに執り行い、場合によっては敵対者の呪殺まで請け負うような風習が横行すると、陰陽寮の「正式な陰陽師」においてもこの風潮に流される者が続出し、そのふるまいは本来律令の定める職掌からはるかにかけ離れ、方位や星巡りの吉凶を恣意的に吹き込むことによって天皇・皇族や、公卿・公家諸家の私生活における行動管理にまで入り込み、朝廷中核の精神世界を支配し始めて、次第に官制に基づく正規業務を越えて政権の闇で暗躍するようになっていった。
10世紀に入ると、天文道・陰陽道・暦道すべてに精通した陰陽師である賀茂忠行(かものただゆき)・賀茂保憲(かものやすのり)親子ならびにその弟子である安倍晴明(あべのせいめい)が輩出し、従来は一般的に出世が従五位下止まりであった陰陽師方技出身者の例を破って従四位下にまで昇進するほど朝廷中枢の信頼を得た。そして賀茂保憲が、その嫡子の賀茂光栄(かものみつよし)に暦道を、弟子の安倍晴明に天文道をあまなく伝授禅譲して、それぞれがこれを家内で世襲秘伝秘術化したため、安倍家の天文道は極めて独特の災異瑞祥を説く性格を帯び、賀茂家の暦道は純粋な暦道というよりはむしろ宿曜道(すくようどう)的色彩の強いものに独特の変化をとげていった。このため、賀茂氏・安倍氏からのみ陰陽師が輩出されることとなり、安倍晴明の孫安倍章親が陰陽頭に就任すると、賀茂家出身者に暦博士を、安倍家出身者に天文博士を常時任命する方針を表し、その後は賀茂氏と安倍氏が、本来世襲される性格ではない陰陽寮の各職位を両家の世襲でほぼ独占し、さらにはその実態を陰陽師としながらも陰陽寮職掌を越えて他のさらに上位の官職に付くようになるに至って、官制としての陰陽寮は完全に形骸化し、陰陽師は朝廷内においてもっぱら宗教的な呪術・祭祀の色合いが濃いカリスマ的な精神的支配者となり、その威勢を振るうようになっていった。特に、10世紀から11世紀における朝廷中枢の為政者に対しては、左大臣藤原時平が菅原道真を大臣職から太宰権帥に左遷した際(昌泰の変)に深く関与したことをはじめとして、政治運営や人事決定から天皇の譲位に至るまで多大な影響を及ぼした。
また、本来律令で禁止されているはずの陰陽寮以外での陰陽師活動を行う者が都以外の地方にも多く見られるようになったのもこの頃であり、地方では蘆屋道満(あしやどうまん)などをはじめとするカリスマ民間陰陽師が多数輩出した。
11世紀-12世紀を通じて、陰陽諸道のうちで最も難解であるとされていた天文道を得意とする安倍家からは達人が多数輩出され、陰陽頭は常に安倍氏が世襲し、陰陽助を賀茂氏が世襲するという形態が定着した。平安末期の源平の戦いのころには安倍晴明の子安倍吉平の玄孫にあたる安倍泰親が正四位上、その子の安倍季弘が正四位下にまで昇階していたが、その後の鎌倉幕府への政権移行にともなう政治的勢力失墜や、南北朝時代の混乱や両統に呼応した家内騒動によって、その勢力は一時衰退した。  
将門伝説  

 

平将門の乱の歴史性
「更級日記」にのみ登場した武芝伝説は、武蔵武芝が生きた同時代の平将門伝説という大きな物語のひとつでもある。大きな物語の中の小さな物語である。もし、菅原孝標女がたけしば寺跡で小さな物語を聞いたのなら、平将門の乱の記憶と共に、それは足立郡のなかに伝承されたものであっただろう。平将門の乱についてはたくさんの先行研究や歴史小説が描かれている。大きな物語にはたくさんの人々が注目する。ここでは武蔵武芝との関連の中で、平将門について論を組み立てた。そのひとつは水の道との関連である。
将門の支配した下総国豊田郡・猿島郡一体は鬼怒川(もともとは毛の川であったろう。下野国、つまり毛の国から流れてきた川)や渡良瀬川に挟まれた低湿地であり、開発の遅れた地域であった。飯沼、菅生沼、鵠戸沼などたくさんの湖沼が乱流地帯であることを物語っている。広大であっても、そこは生産力の弱い地域であったろう。ここが父良持、あるいは母方から受け継いだ領地であった。「将門の所領は藤原氏に寄進されていたと見なすことが出来る。つまり豊田郡、猿島郡に開いた私営田を摂関家に寄進して,国衙支配から逃れようとしたのである。」(「将門記」1965年展望大岡昇平)ここから藤原忠平との関係が生まれていたと思われる。「将門記」では私の君と藤原忠平を呼んでいる。開発の遅れた地域であったからこそ、舎宅を営み、私営田の開発に意欲的であったろう。
父良持は鎮守府将軍であり、桓武平氏という軍事貴族の一員であった。良持は将門を初め子どもたちに将のつく名前をつけている。これは自分が将軍であったことによる、という見解もある。この良持は、関東北部にたくさんの同族を持っている。国香、良兼、良正、良文などが土着して勢力を競っていた。この兄弟の父・高望王が889年寛平1頃に上総介となって下向したことから桓武平氏の歴史が始まる。父の死後、都から帰った平将門はこの血族間の争いに明け暮れることとなった。一族間の争いから隣国武蔵国内の争いに介入した武蔵武芝の事件は、将門が次の段階に入ったことを示す。この動きは新たな東国独立王国の自立への道につながっていた。このようなストーリーで平将門の乱の説明が始まるのは一般的である。
なぜ、武蔵国への介入を平将門が行ったのか。突然の行動とも思われるが、ここは水運、陸運の要地であり、関東全体を抑えるには必須の地域であった。そして、平将門が支配する猿島郡・豊田郡に隣接したのが武蔵国足立郡である。東国独立王国をこの時点では、意図していたのではないとおもわれるが、それでも新たな布石を打つつもりはあったであろう。新たな布石は、当たり過ぎた。東国支配の要に立ち入ってしまったというだけではなく、源経基という人間の飛躍を用意してしまった。この点はまた後述するとして、坂東を一括で見る広域行政の要であることを強調したい。すでに、東海道への武蔵国編入について次のような目的を持って行われたという見解が出されている。この物資等の補給をもって平将門の父・良持も鎮守府将軍として水沢の地に赴いたのであった。佐々木虔一はいう。「『坂東諸国』を一つの広域行政区として再編制するために、注目されたのが武蔵国である。武蔵国は『坂東諸国』のほぼ中央に位置し、この地域の交通上の要地に当たること、また、国内を南北に多摩川・入間川(荒川)・利根川などの大河川が流れ、海に注ぐなど、水上・海上交通の便もよいことなどがその特色である。武蔵国のこの特色を生かして、『坂東諸国』を一つの広域行政区に編成するために行った措置が、771年の武蔵国の東山道から東海道への編入だったのである。」
将門の支配地が、生産力の弱い地帯であると先に述べたが、富を生むのは農業生産だけではない。乱流による地形形成は自然堤防や舌状地を作る。ここは馬を飼うのに適した地形である。兵部省の官牧「大結馬牧」が置かれていた。馬の生産は強大な軍事力を形成する。また、この地形は一方からの風の通りを作り、製鉄に必要な炉の風送りを可能にする。小規模の製鉄炉が東国各地に広がる。将門の支配地入沼排水路に沿った尾崎で製鉄遺跡が発見されている。このような視点はつぎつぎに出されてきている。
ここで新たな視点として紹介したいのは水運との関係である。承平・天慶の乱と西の藤原純友の乱と一括されるため、水軍(海賊)を基盤とする藤原純友と対比されて騎馬軍団が注目されてきた。だが、官道を押さえるのみならず、水の道を押さえることも重要なことである。大規模なもの、重いものは水運が必須である。米の運送も水運を主としたものと考える。「寛平6年(894)7月16日の太政官符では、上総・越後等の国解によると、『調物の進上は、駄を以って本となす、官米の運漕は、船を以って宗となす』とあり、上総国からも、官米の輸送が船を利用して行われていた可能性が窺えるのである。」(「古代東国社会と交通」)水運の使えるところは「船を以って宗となす」は合理的である。
注目する論文を鈴木哲雄が発表している。
葛飾区郷土と天文の博物館が開催している「地域史研究講座」シリーズの講座報告である。行われたのは1995年平成7年1月29日。その中で、鈴木哲雄の発表した特論「古代葛飾郡と荘園の形成」がすばらしい。関東には内海が二つあったのだという。ひとつは利根川=内海(古東京湾)、もうひとつは鬼怒川=内海(香取海)である。以下はその抜粋である。
「古代から中世にかけての関東には、二つの内海がありました。ひとつは先にお話しした利根川=内海(古東京湾)地域の内海です。もう一つが千葉県の北部から茨城県にかけてかつて広がっていた内海です。現在は千葉県側に印旛沼や手賀沼が、茨城県側に霞ヶ浦や北浦がありますが、これらの湖は連なって大きな内海を構成していたと推定されています。私は後者の内海世界を鬼怒川=内海(香取海)地域と呼んでいます。平将門の乱はこの内海(香取海)世界で展開されました。」「しかし『将門記』には、舟も出てきますし、川の支配や渡しなどをめぐる争いもでてきます。将門の乱は、坂東の海のひとつである内海(香取海)世界で行ったのですから、鬼怒川などの河川や内海における船、水上交通、そういったものをめぐる戦いであったと見ることもできるのです。将門は内海(香取海)を征服したのち、下野国(栃木県)の国府(国の役所)を占拠します。下野国府の西の方は太日川(オオイガワ、フトイガワ)が流れていました。太日川は、現在の渡良瀬川から江戸川にかけてを流路とした河川で、その西側を利根川が流れています。下野国府の位置は、ちょうど鬼怒川=内海(香取海)と利根川=内海(古東京湾)地域との接点にあたるわけです。将門は、鬼怒川=内海(香取海)地域を征服したあと、東山道に属する下野・上野両国を占拠し、そして新皇(新天皇)を名乗りました。さらに利根川=内海(古東京湾)地域に軍隊を進め、武蔵国府から相模国府までをいっきに征服し、関東全域の支配圏を確保します。」
この鬼怒川=内海(香取海)のひとつの拠点として霞ヶ浦の奥に常陸国府があった。現在の石岡市である。939天慶2年、11月21日、常陸国府の軍勢を破り、将門は常陸国府を焼き払った。これにより、国賊となった将門は関東八カ国の支配を目論んで各国府を落としていく。こうして12月19日には上野国府において「新皇」に即位する。
「将門が内海世界の一番奥まった場所に都=王城を設置したことは確かだと思います。将門の都は内海に面した都であり京都と対比されています。」
「『将門記』では、鬼怒川や小貝川の渡しである子飼の渡し、堀越の渡しなどがでてきまして、これらの渡しは、将門の乱での重要な戦場となっています。将門の乱の前半は、こうした鬼怒川=内海(香取海)地域の交通支配をめぐって戦乱がおこなわれたとみることもできるのです。地域の交通を支配する者が、地域自体を支配します。」
「このとき将門は、関東を東西に結ぶ東山道、東海道などの陸の官道と、利根川・太日川・鬼怒川・那珂川などの関東を南北に結ぶ水の道と、そして東西南北の水陸交通を地域的に一本化させえる二つの内海(古東京湾・香取海)の交通を掌握したと考えられるのです。」(「古代末期の葛飾郡」熊野正也編1997年5月崙書房)
新しい将門の世界が、新しい視点での東国の地図が、ここにはある。二つの海から平将門の乱をアプローチしたことによって、水と陸とを同じ視点で見ることができるようになった。関東を一つに押えるための新たな発想である。古代人から見た地域の再発見により、交易・軍事を考える場合の多様な発想が可能となった。私営田、そして荘園化という重要な要素とともに、物流が大きな富を生み出し、文化を広げる。古代の2つの海を制して、東国独立国家の樹立に走った平将門を捉えることができる。
将門と道真
平将門は上野国府を手中に収めた。都に最も近い国府である。ここで東国独立国家の樹立が宣言された。そのきっかけまことに不思議な事柄に触発されている。「将門記」にはこのような記述がある。「時ニ昌伎アリ、云ヘラク、八幡大菩薩ノ使ヒゾトクチバシル、『朕ガ位ヲ蔭子平将門ニ授ケ奉ル。其ノ位記ハ左大臣二位菅原朝臣ノ霊魂表スラク、右八幡大菩薩八萬ノ軍ヲ起シ朕ガ位ヲ授ケ奉ラム。今須ラク卅ニ相ノ音楽ヲ持テ早ク之ヲ迎ヘ奉ズルベシ』ト」神がかりした昌伎を介して、将門を新皇とせよとのお告げが八幡大菩薩によって告げられたのである。八幡神は豊後宇佐にある宇佐八幡である。お告げをする神として有名である。道鏡と和気清麻呂の話は知られている通りである。位記を書くのは都に降りた怨霊の菅原道真である。位記とは叙位の文書である。だが、位を授けるのは天皇なので、天皇の位には叙位はない。「爰ニ将門ハ項ヲ捧ゲテ再拝ス。」と続けて記されている。この後には興世王などへの除目がおこなわれ、新皇による東国政権が樹立された。
菅原道真が流配地大宰府で亡くなった903年延喜3に平将門が生まれたという説がある。この説を昌伎が知っていたかは分からないが、「将門記」の作者は知っていたのであろう。
大岡昇平は「菅原道真が流謫地大宰府で死んだのは延喜3年、その年将門が生まれたという説があることは前に書いた。その年は全国的に旱魃あり、疫病が流行した。7年、政敵藤原時平が急死し、8年、清涼殿に落雷あり、藤原菅根が雷死した。これらはすべて道真の怨霊の仕業と信ぜられた。宇佐八幡は和気清麿が受けた神託以来、皇室の信仰厚く、男山に勧請されている。道真が雷神として全国に流行するに及び、宇佐八幡の神人達がその霊験を全国に説いて廻った。この神託は興世王や藤原玄明の演出の疑いは十分にあるが、地方の巫女が巷説や俗信に基づいて霊感を口走ったとしてもおかしくない。」(「将門記」)と状況を読んでいる。興世王など都に育った受領階層が持ち込んだことも考えられる。それより早く民衆の中で伝播していくものであろう。都ばかりでなく、「宇佐八幡の神人たち」によって東国にも菅原道真の怨霊騒ぎが持ち込まれたとの確証はない。伝えられていった可能性はある。
幸田露伴も「平将門」で「道真公が此処へ陪賓として引張り出されたのも面白い。公の貶謫と死とは余ほど当時の人心に響を与へてゐたに疑無い。現に栄えてゐる藤原氏の反対側の公の亡霊の威を籍りたなどは一寸をかしい。たゞ将門が菅公薨去の年に生れたといふ因縁で、持出したのでもあるまい。本来託宜といふことは僧道巫覡の徒の常套で、有り難過ぎて勿体無いことであるが、迷信流行の当時には託宣は笑ふ可きことでは無かつたのである。現に将門を滅ぼす祈祷をした叡山の明達阿闇梨の如きも、松尾明神の託宣に、明達は阿倍仲丸の生れがはりであるとあつたといふことが扶桑略記に見えてゐるが、これなぞは随分変挺な御託宣だ。宇佐八幡の御託宣は名高いが、あれは別として、一体神がゝり御託宣の事は日本に古伝のあることであつて、当時の人は多く信じてゐたのである。此の八幡託宣は一場の喜劇の如くで、其の脚色者も想像すれば想像されることではあるが、或は又別に作者があつたのでは無く、偶然に起つたことかも知れない。古より東国には未だ曾て無い大動揺が火の如くに起つて、瞬く間に無位無官の相馬小次郎が下総常陸上野下野を席捲したのだから、感じ易い人の心が激動して、発狂状態になり、斯様なことを口走つたかとも思はれる。然らば、一時賞賜を得ようとして、斯様なことを妄言するに至つたのかも知れない。」
この見解は通常の範囲である。だが、「道真公が此処へ陪賓として引張り出されたのも面白い。」という独特の言い方がいい。菅原氏は東国にあって人的にも身近な存在ではなかったか。怨霊の家系・菅原氏の一族も道真の左遷に伴って地方へ追いやられ、後に許されて都に戻るという出来事が起っている。道真の子の大学頭高視(土佐介)、式部大丞景行(駿河権介)、右衛門尉景茂(飛騨権掾)、文章得業生淳茂(播磨)も都から遠ざけられていた(「政治要略」)。が、906年延喜6には許されるところとなって都に戻る。大学頭高視(土佐介)につながるのが嫡流、孝標である。この中で、菅原景行はいち早く東国に向った。菅原氏の所領が東国にあったからだともいわれている。
「将門は、幼少より、坂東太郎利根川や小貝川、鬼怒川付近の山野を駆け巡り心身を鍛え、常盤真壁郡羽鳥に住した菅原道真の子・景行に師事して学問を修め、文武両道に優れていた事が認められ,宮中近衛府の北面衛士として勤務する事12年、承平元(931年)、母より将弘が病死し領内周辺が伯父達の非違道に依って脅かされる事を知り」(「宍塚の自然と歴史の会20015斗蒔便り2001・12より抜粋」佐野邦一翁古老が語る宍塚の歴史<41>)と伝承では菅原景行が平将門の幼年時代に学問の師匠をしていたことになっている。別の伝承では将門の弟将平の師となっているようである。この菅原景行は909年延喜9に下総守となったとも記されている(7.11見紀略/1137)。また、929延長7には菅原道真三男景行(常陸介54歳)が大生郷天満宮(茨城県水海道市大生郷町)を祀ったといわれている。この年は平将門が京より戻る前年に当たる。海音寺潮五郎の「将門記」にも菅原景行は登場している。このような伝承がある程度史実に基づいているならば、道真の怨霊が、やがて将門の怨霊へと受け継がれていった東国での根は深い、と思われる。怨霊に仮託した人々の願いがそこに見られる。
首を都に晒された将門は宙を飛んで東国へと戻ってきた。怨霊となった将門は、道真のように摂関政治の思惑の中で御霊に祭り上げられることもなく、怨霊のままに東国の守護神と化した。  
怨霊思想の真相

 

昭和47年10月、当時京都大学教授であった梅原猛氏が、「隠された十字架」を発表した。この中で、氏は、法隆寺の資材帳、勧進帳なだから、藤原氏と法隆寺の関係を明確にし、法隆寺は聖徳太子の怨霊封じの寺とした。藤原氏によって聖徳太子の怨霊に対する鎮魂の寺が、建設されたと考えた。
当時、この意見に対する学界や法隆寺側からの反論があった。学界は、怨霊思想は、平安時代から起きたことであり、奈良時代には、怨霊思想はなかった。したがって、藤原氏が、怨霊封じのために法隆寺を建設することはありえないというのである。また、法隆寺側の反応は、全く理屈にならないものであった。
しかし、これ以降、怨霊思想に対する関心が、各方面から起こり、映画や小説の題材としてもたびたびとりあげられるようになった。特に、一般的に怨霊思想が、知られたのは映画「八つ墓村」(原作:横溝正史)で、戦国時代の犠牲者の怨霊が蘇り、さまざまな事件を引き起こすという筋書きである。
歴史的に見て誰もが認める怨霊としては、崇徳上皇、菅原道真、平将門、佐倉惣五郎、西郷隆盛などがある。また、最近では、これに加えて、一部の歴史家、小説家が検証した怨霊としては、蘇我入鹿、聖徳太子、長屋王、藤原三代などがある。
これら、怨霊となった人々の共通点は、いずれも不慮の死を遂げていることである。しかも、これらの人々は、理想を掲げて活動していたが、政敵により殺害された人達である。そして、崇徳上皇、菅原道真のように政敵に対して深い恨みを抱き、後世に災いを引き起こしたと見られている。
こうして見ると、誰もが怨霊になる訳ではない。怨霊になる人は、一定の前提がある。第一に、生前、目的を達しなかった人であること、第二に、恨みを残すような死に方であること、第三に、殺した人が権勢を誇っていることである。
したがって、怨霊は、誰に祟るかが明確である。崇徳上皇の怨霊は天皇家に祟り、菅原道真は藤原氏に祟り、平将門は朝廷に祟り、佐倉惣五郎は江戸幕府に祟り、西郷隆盛は明治政府に祟るのである。
また、一部の指摘ではあるが、蘇我入鹿、聖徳太子、長屋王は藤原氏に祟り、藤原三代は源頼朝に祟り、後醍醐天皇は足利尊氏に祟っている。これらの中でも、怨霊が全国的に知られた人は、崇徳上皇、菅原道真、平将門の3人である。
この三人は、それぞれ、今では神として奉られているが、崇徳上皇は四国に、平将門は東京の神田明神に(大手町に首塚がある)菅原道真は全国の天神様に祭られている。
菅原道真は、藤原氏以外から出た国際派の政治家である。菅原道真は、仁和寺を作った宇多天皇(上皇)の強力な支持で、右大臣まで昇った人である。宇多天皇(上皇)が、第一線から退いてから、藤原氏の菅原道真排斥運動は露骨になり、ついには、大宰府に流された。
菅原道真の業績は、当時、唐の属国であった日本を、独立国にまで、引き上げたことにある。もっとも、独立国になったからといって、当時は、内外とも何一つ変わるものではなかった。変わったことと言えば、当時、遣唐使は、実質的には、藤原氏が政敵の子弟を、唐に追い払う道具として使っていたので、これができなくなったくらいである。
菅原道真自身、藤原氏の陰謀により、遣唐使長官にされたほどである、本来ならば、菅原道真は、これにより、遣唐使として唐に行かなければならなかったが、宇多天皇の支援もあり、遣唐使の廃止運動に走った。
当時、遣唐使を廃止することは、唐に弓を引くことであり、普通ならば、即刻、唐から使者が来て、打ち首になるところであるが、この頃には唐にはその力がなく、日本政府としても正式に遣唐使の廃止を取り決めたのであった。
この方法で、菅原道真を追い払うことができなかった藤原氏は、宇多天皇を上皇にしてから、菅原道真の追い落としを計った。つまり、次の天皇のときに、菅原道真の大宰府左遷を電撃的に決めたのである。
一般的には、道真は罪人として大宰府に行ったと思われているが、そうでなく、大宰府の下級役人として、任地に赴いたのである。大宰府では、雨漏りのするみすぼらしい家が与えられ、実質的に軟禁状態であった。そして、2年後に、死ぬことになる。
これは、藤原氏の陰謀であった。当時から、藤原氏に対する非難は強かったのである。そうこうしている内、京都に落雷が起こり、御所が焼け、死者が出る始末にであった。
世情は、これを道真の「祟り」と噂したのである。おそらく、噂の出所は、宇多上皇あたりである。それ以降、日本全国に、飢饉、地震、天災が相次ぎ、道真は、「祟り神」として恐れられると同時に、雷神、風神の代名詞である「天神様」と呼ばれるようになった。
また、道真は、生前、学問を好み、知識豊富があったので、学問の神様として、敬まわれるようになったのである。道真にまつわる伝承がいまに残っている。雷が鳴ると、お年よりは、「くわばら、くわばら」といって、逃げるように、拝んだりする。
これは、道真の所有地であった京都近郊の「桑原」には、雷が落ちないという言い伝えによるものである。すなわち、雷がなったとき、「ここは、あなた様の領地の桑原ですから、落ちないで下さい。」といっているのである。この話は、雷神、風神となった道真も民衆には、悪さをしないということである。
菅原道真を神にしたのは、宇多上皇であり、藤原氏に反感を抱いていた一般民衆であった。これが、外国であったならば、権力者(藤原氏)の力で、徹底的に道真の遺品や親族を排斥するであろうが、日本では、そのようなことはしない。人知を超えた怨霊に対して、権力者(藤原氏)は、自身の後ろめたさから、民衆と一緒に道真を「天神様」として祀りあげるのである。
これにより、権力者自身、道真と民衆から、許しを請うているのである。そうすることで、怨霊も民衆もそれ以上は、権力者を憎むことはなかった。
これこそが、日本の「怨霊思想」である。一見、非科学的な、祟りの話であるが、その中身は、政治、人事に対する民衆の怒り、それに対する、権力者の贖罪、そして、新たな平和の到来、といった政治問題の解決の手段なのである。  
菅原道真の中国認識  

 

延暦の遣唐使の後、承和の遣唐使が派遣される。この遣唐使が事実上、最後の遣唐使となった。平安時代に入ると、遣唐使の派遣間隔が、25年から30年とひらくようになる。承和の遣唐使の後、60年たってから、寛平6年(894)遣唐使派遣が計画されたが、遣唐大使菅原道真の奏上によって、遣唐使は廃止されたというのが通説であった。
しかし、近年、道真の奏上は遣唐使廃止を願ったものではなく、結果的に遣唐使停止という状態になったのだという説が出され、支持を集めている。そこで、その根拠となった史料に基づいて検討しながら、菅原道真の中国認識について考えてみたい。その史料とは、菅原道真自身が書いた「奉勅為太政官報在唐僧中瓘牒」「請令諸公卿議定遣唐使進止状」(『菅家文草』巻10・9所収)である。
寛平6年7月22日の「奉勅為太政官報在唐僧中瓘牒」によると、在唐中の僧中瓘から上表文と脳源茶が天皇に献上されてきた。中瓘から太政官宛の状には、温州刺史朱褒が使いを日本に派遣したことが受け入れられるだろうかとしながらも、疑うには及ばないとしている。朱褒からの申し入れは、日本から朝貢使を派遣してほしいということだった。それに対して、太政官は、「唐商人の情報からも、朱褒は黄巣の乱以降、十有余年、支配を全うして、皇帝もその忠勤を愛しているということであるので、天皇としても、その申し入れに耳を傾けざるを得ない。しかし、儀礼には定めもあり、期待どおりにはいかないことを使者に伝え、近年災害が多いので準備が難しく、朝議が定まったとは言え、朝貢使派遣に時間がかかるかもしれないことを伝えてほしい」という旨を、中瓘に申し入れた。
遣唐使派遣の決定に基づき、寛平6年8月21日に参議左大弁菅原道真が遣唐大使、左少弁紀長谷雄が副使に任命された。
ところが、寛平6年9月14日、遣唐大使菅原道真は「請令諸公卿議定遣唐使進止状」という、遣唐使派遣について公卿等の再考を請う状を提出した。それによると、中瓘の録記には、唐の凋弊について具に記されており、中瓘は、朱褒からの日本から朝貢がないことについての質問は伝達するが、日本からの入唐については反対の意見であったらしい。
さらに、「記録を検討すると、代々の遣唐使は、渡海で命を落とす者があったり、賊に逢って身を亡ぼす者もいたが、唐に至ってから、難阻飢寒の悲しみがあったことはなかった。
しかし、中瓘の報ずるところによれば、そのような未然のことが起こるのは推して知るべしである。よって、公卿・博士に下して、遣唐使の可否について定めさせてほしい。これは国の大事であり、自分ひとりに係わることではない」と願い出ている。
通説では、この結果、寛平6年9月30日の『日本紀略』に「其日、停遣唐使」とあり、遣唐使が廃止されたとされてきたが、この日付には疑問があり、この後も道真らが遣唐使を称していることなどから、遣唐使のことはなし崩し的に停止に至ったと、石井正敏氏が指摘され、現在は石井説に同調する研究者が多い。
さて、以上における道真の中国認識については、どのように考えることができるだろうか。温州刺史朱褒については、『新唐書』劉漢宏伝・『呉越備史』巻1などに史料がみえ、黄巣の乱以降、江南で力をもった浙東観察使劉漢宏とのちに呉越をたてる銭鏐との争いにおいて、温州を基盤に劉漢宏について助けたが、その後後梁の太祖となる朱全忠と結び、唐皇帝より温州刺史を授けられ、静海軍使に充てられたことがわかる。温州刺史となっていたのは、中和3年から天復2年に没するまでと考えられる。浙西では、運河と塩業務機関との連繋によって商業が盛んで、それらを媒介に杭州八都、十三都と呼ばれる都市間の武装勢力の結合がみられたが、浙東では個別分散的な山間立塞が一般的であるなか、朱褒が温州城を治めたのは稀な例と考えられている。このように、浙東においては朱褒の勢力は抜きん出たものであった。また、朱褒が船による戦いを行っていること、浙東地域には海上交易の痕跡があることなどから、日本に朝貢を求めることになったと考えられる。日本からの朝貢使を自らの政権の基盤強化に利用しようとしたのであろう。
道真の2通の文書は、1通目では唐皇帝から温州刺史を授けられた朱褒の力を認めながらも、2通目では黄巣の乱以降の唐帝国全体の衰微と、そのため唐に到着してからの難阻飢寒の恐れ、その結果都長安にたどり着くことの困難さを理解している点で、当時の中国、江南の状況を正しく理解していると言えよう。よって、道真の遣唐使派遣再考要請は妥当なものであったと考えられる。
朱褒からの朝貢使要請と唐の事情を知らせてきた僧中瓘とは、どのような存在であったのだろうか。僧中瓘は、既に元慶5年(881)10月13日には、高丘親王の薨去について唐から知らせてきており、この後にも延喜9年2月17日に朝廷と連絡があり、沙金が送られている。承和の遣唐使までは、遣唐使が「唐消息」をもたらし、それによって唐の情勢が朝廷に伝えられていた。しかし、遣唐使の派遣が間遠になっていた道真の時代には、中瓘のような在唐僧や頻繁に日本を訪れる唐商人によって、唐に関する情報が伝達されるようになっていた。
このような情報のあり方の変化の背景には、当時の国際関係の変化がある。安史の乱以降、唐は節度使の勢力伸張や異民族の圧迫などから国力が衰微し、唐を中心とした国際関係の秩序も乱れてくる。その間隙をついて、新羅商人や唐商人の活躍が目立ってくるようになり、日本にも来朝するようになる。中瓘のような僧も彼ら商人の手によって入唐していたのである。
こうして遣唐使が派遣されなくとも、唐の情報や文物が入手できる状況になってきていたことから、道真による遣唐使派遣再考要請がなくとも遣唐使は自然に消滅していくことになったと考えられるのである。
遣唐使が停止されることになった外的要因については以上のように考えられるのであるが、この他に内的要因もあったと考えられる。唐の求心力の低下によって、周辺諸国においては、独自の文化が開花するようになっていく。日本においては、前述したように、平安初期に唐風文化が花開いたが、そこにおいて作られた漢詩は中国と同じ詩題であり、日本の風景を中国の風景に見立てて詠んだもので、中国に対する憧憬にあふれたものであった。その後、日本の漢詩文は大きな転換期を迎える。承和年間の『白氏文集』の受容である。白居易の漢詩文の平易さが日本でも受け入れやすかったということもあり、『白氏文集』の受容を通じて、日本人は中国の事物ではなく、自らの周囲にある事物や生活における感情を詠むことができるようになったのである。日本独自の漢詩文の誕生と言えるだろう。その代表的な漢詩文作者が菅原道真である。
日本が中国に求めるものも変化した。前述したが、延暦の遣唐使から文章生出身者がみえてくるのだが、寛平の遣唐使にいたっては大使の菅原道真も副使の紀長谷雄も文章生出身であったことは象徴的である。国家の支配理念である儒教から文章へと、中国に対して求めるものは変化した。そして日本独自の漢詩文の成立により、平安初期のような、できるだけ中国のものにちかづけようとする単純な中国への憧憬は消滅したのではないだろうか。一方で唐商人らの活躍によって、日本にいても中国の文物を入手できる環境が出来上がりつつあった。こうして、どうしても中国に行かなければならない、遣唐使を派遣しなければならないということはなくなったのである。  
天満宮と八幡宮    

 

天満宮と八幡宮の違いは、祀っている人物の違である。天満宮は、菅原道真を祀った神社であり、八幡神を祀る神社が八幡宮なのである。
菅原道真は平安時代の学者である。宇多天皇に重用され、家格以上に出世した。ところが、これを嫌った藤原家の陰謀で九州大宰府へ左遷され、その地で没したのだ。
菅原道真の死後、平安京では災害・疫病が続いた。殿舎が落雷にあい、藤原家の有力者が死亡した。人々はこの一連の災難を菅原道真のたたりだと解釈した。そこで、たたりを鎮めるために、北野天満宮を建立してした。また、大宰府にも大宰府天満宮が建立された。
天満宮は災害封じの意味が強かったが、菅原道真が学問に優れていたことから、天満宮は「学問の神様」「受験の神様」となった。
一方の八幡宮は、稲荷神社に次いで日本で2番目に多い神社である。八幡神は第15代天皇の応神天皇である。鎌倉幕府になると、源頼朝が八幡神を鶴岡八幡宮へ迎えた。ここから八幡神を武神とする信仰も生まれた。
宇佐八幡宮・石清水八幡宮・鶴岡八幡宮を「三大八幡」という。日本に2万社程度ある八幡宮の中のビッグ3でもある。鶴岡八幡宮ではなく、筥崎八幡宮を入れて「三大八幡」とする考えもあるようだ。  
時平と道真  

 

藤原基経死後、宇多天皇は親政を開始し、藤原時平の他、藤原保則や菅原道真を登用して北家・時平の対抗とした。保則・道真とも受領階級層ではあるが、実務に長ける保則に対し、保則の後に重用された道真は漢学に長けた吏僚であった。宇多天皇は行政粛正を行っているが、これは守旧的なものに終始した。これは下級官人達の要求によるものであり、それを基経や保則、道真が組み上げることで実現化した。この寛平の治の底にあったのは、「階級の分離への対策」「有力農民・郡司への接近と王臣家の牽制」「官制簡素化」が挙げられる。また対外策も変更が加えられた。長くなされなかった唐への遣使が企図されたのである。これは、新羅の牽制や文化移入、密教の要請によるものと考えられる。新羅寇の増加から、北九州の軍備増強も行われる。また宇多天皇は道真や時平に命じて歴史編纂も行わせた。これが「日本三代実録」である。これとは別に、道長に命じて「類聚国史」も編纂させている。だが藤原時平が執政となると、宇多天皇は息子・醍醐天皇へと譲位する。上皇となった宇多天皇は、まもなく出家して法皇となった。これによって道真は後ろ盾を失い、時平派より失脚させられることとなった。これで藤原時平は権力を確立し、朝廷を牛耳ることとなる。執政として力を得ると、時平は延喜と改元したうえで大きな改革に取りかかった。これは寛平の治をさらに推し進めた形といえた。地方で広がる荘園に対して掣肘を加え、律令国家の体制を維持しようとはかったのである。しかし、これも時平が若くして死ぬことで、挫折することとなった。  
神話・伝説の中の相撲  

 

有名なところとしては、「国譲り」の問題を力比べで解決した話がある。
皇祖天照大神が、葦原中津国を皇孫邇邇芸命に支配させんとし、そこを領有して支配していた大国主命を帰服せしめようとするが、大国主命は肯わず、天照大神は建御雷神を派遣して説得させる。大国主命は帰順の意嚮を示し、息子の言代主神もこれを勧めた。ところが建御名方神は納得しない、そればかりか建御雷神に力比べを挑み、先に手を取らせろと言い放った。こうして互いに手を取り合ったが、建御名方神は手もなく(「若葦を取るが如」(古事記))捻られ投げ捨てられてしまったのである。建御名方神は逃亡するが、建御雷神はこれを追い、「科野国須羽」、つまり信濃国諏訪で遂に建御名方神は降る。建御名方神は諏訪社に祀られ、葦原中津国は邇邇芸命のものとなった。
「国譲り」が「相撲」によって解決された、と看做されることが多いが、現今の相撲とは懸け離れている。武力による争いを、手を取り合うという表現で譬えたものと見られ、旧勢力(大国主命)が新勢力(「皇孫」邇邇芸命)に征圧される、つまり、天皇支配の形成経過を説話として記したものと考えられている。より有名と思われる、野見宿禰と當麻蹶速の力比べの話も見てみる。
大和国當麻村に蹶速という「勇み悍き士」(日本書紀)がいて、人々に「四方に求めむに、豈我が力に比ぶ者有らむや。何して強力者に遇して、死生を期はずして、頓に争力せむ」(日本書紀)、つまり、周りには俺と同等の力を持つものなどいまい、どうかして骨のある奴に出会って、力を比べたいものだと公言して憚らなかった。垂仁天皇7年(300)7月7日、噂が天皇の耳に達し、天皇が「當麻蹶速は無双の力士(優れた力を持った人)だと聞いた。これに太刀打ちできる者はおらぬか」と下問する。或臣が、「出雲の国に勇士がおります。野見宿禰と申します。試しに召し出して當麻蹶速と対戦させましょうか」と応える。その日に野見宿禰を召し、當麻蹶速と戦わせた。向かい合い、互いに足を上げて蹴り合った。そのうちに、野見宿禰が當麻蹶速の肋骨を折り、挙句には腰まで踏み挫き、殺したのであった。天皇は當麻蹶速の所領をすべて野見宿禰に与えた。その地は「腰折田」の名で呼ばれるようになった。野見宿禰は、そのまま天皇に仕えた。
これも現在見られる相撲で決着したようにはとても見えない。「今日のキックボクシングとプロレスまがい」(「大相撲名力士100選」和歌森太郎監修・小島貞二著)という風情である。しかし、野見宿禰の子孫という菅原道真が、自著「類聚国史」の相撲条において、この説話を第一に掲げている。しかも、日本書紀における表記(手へんに角+力)は、通常「すまひとらしむ」と訓読されている。遅くとも平安期にはこの説話が相撲の起源として意識されていたということを示している。だが、ちょっと読めば明らかなように、これらの記紀説話からは、現在見られる相撲に至る道程を読み取ることはできそうにない。寧ろ、先にいた民族の最強者が、後に遠方からやってきた民族の強者(異能者・折口信夫のいうマレビト)すなわち(記紀撰進当時の支配者である)天皇の勢力に駆逐され、その征服と支配を正当化するという意図が前面に押し出されている。もう一つ目立つのは、宿禰と蹶速の説話に見える「垂仁天皇7年7月7日」といういかにも作為的な年月日であるが、この点は次項に譲る。  
 
菅原道真の怨霊

 

菅原道真が太宰府に配流(はいる)されて不遇のうちに死んだことはよく知られている。天満宮は受験生に大変人気の神社であり、そこでは、菅原道真は学問の神様になっているのだが、天満宮ができるまでは、道真の怨霊が凄かったらしい。その怨霊を鎮めるために北野天神社ができるのだが、そこまで知っている人は比較的少ないかも知れない。以下、菅原道真の怨霊について少しお話ししたい。
「北の天神縁起」などによると、菅原道真が死んで幾月も経たないある夏の夜、道真の霊魂が比叡山の僧坊に現れて、尊意(そんい。道真が仏教を学んだ師)にこれから都に出没し、怨みを復讐ではらす決意を述べ、邪魔をしないようお願いをしたのだそうだ。・・・・その後、道真の怨霊は暴れまくることになる。
その後数年経った908年10月7日、道真配流の首謀者のひとり藤原菅根(すがね)が54才でなくなったが、都では道真の怨霊の祟りだという噂が流れたが、翌年、道真の怨霊はいよいよ核心に迫っていく。
道真配流の張本人・藤原時平は、すでにこのとき病床にあったが、天竺渡来の妙薬も効き目がなく、また陰陽師(おんみょうし)の祈祷の効き目もなかったので、文章(もんじょう)博士・三善清行(きよゆき)は、自分の長男であり当時都でもっとも有名であったかの浄蔵(じょうぞう)に加持祈祷をさせることになった。
ところが、4月4日のこと、清行が時平のところに見舞いに来ると、道真の霊は、時平の左右の耳から二匹の青竜となって現れ、次のように語りかけた。
「無実の罪で配流となり、太宰府で死んだ私は、今や天帝(梵天ぼんてん・帝釈たいしゃく)の許可を得たので、怨敵に復讐を加えようと決断をした。なのにおまえの息子浄蔵は頻繁に時平を加持祈祷している。どうせ無駄なことだから、やめさせよ。」
鬼神を操って冥界のことにも明るい清行は、即座に理解し、浄蔵に時平邸からの退出を命じ、自分みずからも退出したのだが、まもなく時平の命は絶えたという。
時平の命を奪った道真の霊は、その後ますます激しさを加え、時平の子孫たちを次々と死に追いやり、遂に923年、醍醐天皇の皇太子の命まで奪うに至る。
そして930年6月26日には、清涼殿(せいりょうでん)に落雷が起こった。これが凄かったようだ。昼すぎの頃、愛宕山の上より起こった黒雲はたちまち雨を降らせ、にわかに雷鳴を轟かして清涼殿の上に雷を落とし、神火を放った。
この結果、殿上の間に侍していた大納言藤原清貫は胸を焼かれて死亡し、右中弁平希世(まれよ)の顔は焼けただれた。また紫宸殿(ししんでん)にいた者のうち、右兵衛佐美努忠包(みぬのただかね)は髪が焼けて死亡、紀陰連(きのかげつら)は腹部が焼けただれて悶乱、安曇宗仁(あずみむねひと)膝を焼かれて倒れ伏すというありさまであった。
そして、この落雷で、天皇も病に伏し起きれなくなったしまった。
おそろしや!おそろしや!
理不尽な処置で人を死に追いやれば、その怨霊はその罪を犯した人すべてに報復を加え、ついには最高責任者たる天皇をも殺しかねないのだという認識が当時の人々の間にすっかり定着してしまった。
939年12月、かの平将門は新皇即位の儀式をするが、そのときにも道真の怨霊が出てきて平将門をけしかける。このように道真の怨霊は実に執念深いのだが、人々の意識の変化とともに次第に怨霊の怨みもやわらいでいく。
浄蔵の弟・道賢は、わずか12才であったけれど、父清行の命で、・・・・吉野は・・・「役の行者」ゆかりの金峰山(きんぷせん)に篭もり、父の死にも帰京せず26年間の修験道に励む。道真の怨霊を鎮めるためだ。
オンボダロシャニソワカ
オンバサラダドバン
オンアビラウーンクハン
オンアメリタティー
ゼイカラウーンノウマクサマンダボダナン
26年後やっと修験の効なって、・・・「冥界めぐり」に成功、・・・・・道賢は、道真の怨霊の怨みを聞いてやる。神通力のある修験者に聞いて貰えれば道真の怨みもさすがにやわらぐというものだ。
遂に、その後942年になって、道真の霊は多治比のあやこという女性にご託宣を下し、道真の霊を祭らせる。天神の誕生であり、北野天神社の創建へと繋がっていく。今の位置に北野天神社が創建されたのは946年である。  
 
怨霊

 

(おんりょう) 自分が受けた仕打ちに恨みを持ち、たたりをしたりする、死霊または生霊のことである。悪霊に分類される。
生きている人に災いを与えるとして恐れられた。
憎しみや怨みをもった人の生霊や、非業の死を遂げた人の霊。これが生きている人に災いを与えるとして恐れられている。
霊魂信仰の考え方では、霊魂が肉体の中に安定しているときその人は生きていられる、と考える。怨みや憎しみなどの感情があまりに激しいと、霊魂が肉体から遊離して生霊となり災いを与える、と考える。
戦死、事故死、自殺などの非業の死をとげた人の場合は、霊肉がともにそろった状態から、突然、肉体だけが滅びた状態になる、とされる。したがって、その人の霊魂は行き所を失い、空中をさまよっていると考えた。これらの霊が浮遊霊である。平安時代の書物にさかんに現れる物の怪(もののけ)、中世の怨霊や御霊、近世の無縁仏や幽霊などは、いずれもこうした浮遊霊の一種とみることができる。
怨霊を主題とした講談や物語などがあり、こういったフィクションなどでは様々な設定で描写されることもある。
怨念
神霊においての怨念(おんねん)とは、祟りなどを及ぼすとされる「思念」を指す。
著名な伝承 / 日本においては、古くは平安時代の菅原道真や平将門、崇徳上皇などの歴史上の政争や争乱にまつわる祟りの伝承、時代が下った近世では江戸時代に「田宮家で実際に起こったとされる妻のお岩にまつわる一連の事件」としてまとめられた『四谷雑談集』を鶴屋南北(四世)が怪談として脚色した「東海道四谷怪談」などが挙げられる。また、近代に入っても、明治時代から第二次世界大戦終戦直後に東京で起きたとされる、大蔵省庁舎内およびその跡地における『首塚』移転などにまつわる数々の祟り」など、伝承されてきた怨霊に関する風聞が膾炙している。
民俗学的背景 / 「江戸時代に至ってもなお、庶民は一般的に怨霊に対する畏怖感、恐怖感を抱いていた」という民俗学上の分析もある。上に挙げた死者の霊は両義的側面を持っていることが分かるが、怨霊と反対に祝い祀られているのが祖霊である。また民俗学と全く関係ないわけでもないが哲学者の梅原猛は日本史を怨霊鎮めの観点から捉えた「怨霊史観」で著名である。インドの仏教では人は7日に1度ずつ7回の転生の機会があり、例外なく49日以内に全員が転生すると考えられているために霊魂と言う特定の概念がちがうが、日本では神仏習合のため、日本の仏教では霊を認める宗派もある。
怨霊信仰 / 怨霊の神格化をいい、平安時代以前の怨霊とみられるものとしては、大和政権が征服を進める際に敵方の霊を弔ったという隼人塚がある。いくつかの神社などにおいて、実在した歴史上の人物が、神として祀られている。日本三大怨霊とされる、
 菅原道真 / 太宰府天満宮(福岡県太宰府市)や北野天満宮(京都市上京区)
 平将門 / 築土神社(東京都千代田区)や神田明神(東京都千代田区)
 崇徳天皇 / 白峰宮(香川県坂出市)や白峯神宮(京都市上京区)
にそれぞれ祀られている。  
 
出雲大社は怨霊の神社?

 

はじめに
出雲大社は怨霊を鎮める神社である、という説が出回っています。以前からある話ですが、一般に大きく広まったのは井沢元彦氏の「逆説の日本史」によるものだと思われます。しかし、本当にそうなのか、その主張を詳しく見ていきます。なお、筆者は井沢元彦氏のファンでもあり、ファンであるが故の指摘と思って頂ければ幸いです。
「出雲大社は大怨霊オオクニヌシを封じ込めた神殿である」(逆説の日本史1古代黎明編、小学館)というのが井沢氏の結論ですが、その論拠としてあげられているのは
 ・出雲大社の本殿が日本で一番大きな建物であった
 ・神座が横を向いている
 ・五人の客神はヤマト系の神で、オオクニヌシを監視している
 ・しめ縄が普通の神社と反対の張り方をしている
 ・四拍手である
 ・出雲の「雲」は死の象徴である
 ・亡ぼしたオオクニヌシを丁重に祀らなければならなかった。三輪山がその例である  
出雲大社の本殿が日本で一番大きな建物であった
平安時代の口遊(くちずさみ)という本に、雲太、和二、京三という言葉があります。これは日本で最も高い建物の順番であり、一位が出雲大社、二位が奈良の東大寺大仏殿、三位が京都の平安京大極殿ということです。本当に出雲大社が一番高かったのか諸説ありますが、その当時はそう信じられていた、という井沢氏の話には納得できるものがあります。そして、出雲大社が一番高いのは「わ」の精神を表すものだから、という推論もかなり独自な視点で面白いと思います。
ですが、なぜか井沢氏は神話のような平和な国譲りが行われたのではなく、「オオクニヌシは戦って敗け自殺したか、あるいは処刑されたのではないか」(逆説の日本史1)ということにこだわられているようです。ですが、私は平和に譲ったから「わ」の精神を表すものとして出雲大社が格別に大きなものに作られたのだと考えています。
出雲大社の本殿というのは、神社の本殿の中で異例なもので、皇祖神天照大御神をお祀りする神宮(伊勢神宮)や藤原氏の氏神春日大社の本殿などと比べてかなり大きなものです。これについて国学院大学の椙山林継教授は「古代出雲大社の祭儀と神殿」(学生社)で述べられていることをまとめますと、「他の神社、例えば藤原氏などは春日大社の本殿をとびきり大きなものに造る力があった。でも作らなかった。それは自分たちの神社の本殿は別に小さいもので構わない、という認識があったのだろう。出雲大社については、国を譲られ、その地の本殿は高い建物だったのを見た大和政権が、国家の祀りとして立てるのだから、威信をかけて、他ではまねのできないようなとびきり大きなものを建てようとしたのではないか」という話をされています。出雲国では出雲大社と同じ造りの大社造で、比較的大型の本殿を持つ神社が多く、推論としては非常にうなずける話です。  
神座が横を向いている
出雲大社の「神座が横を向いている」ということについて考えましょう。出雲大社の本殿内は逆”コ”の字のようになっていて、大国主神の神座は正面から見ると横向き(左向き)になっています。これを井沢氏は参拝者に拝ませたくないからだ、と主張され、「こんな形で神を祀っているのは、世界広しといえどもおそらく出雲大社だけではないか。」(逆説の日本史1)と書かれています。出雲には同じような大社造りの神社が多数あるという話はされていますが、実は出雲以外にも神座が横向きの神社があるのです。
それはなんと「鹿島神宮」です。
鹿島神宮と言えば、国譲りで天孫の使いとして剣の上に座って、大国主神に国を譲るよう交渉したあの勇猛な神、建御雷神(タケミカヅチ)が祀られている神社です。その鹿島神宮は本殿が北向きに造られて、神座が横を向いています。
井沢氏の主張は「大国主神を拝ませないために神座が横向きだ」ということですが、とすると天孫側からすると大功臣である建御雷神も拝ませたくない、ということにならないでしょうか。
では、なぜ出雲大社の神座は横を向いているのか、ということですが、はっきりこうである、という理由はもちろん伝わっておりませんので、あくまでの推論になり、諸説ありますが、一番有力な説は、出雲大社の本殿は古代の住居を現したもので、正方形の部屋に仕切りを設けてコの字方にし、入口より一番奥の部屋を上座としたから、というものです。それだけではどうして左向きなのか、等までは説明できませんので、井沢氏も引用している本「出雲大社」(第八十二代出雲国造、出雲大社宮司千家尊統著、学生社)では、西の方を見ているのは海、また北九州との関係があるのではないか、と指摘されています。なお、鹿島神宮の建御雷神の神座も東向き、つまり鹿島灘の方に向いています。何か関係があるのかもしれません。  
五人の客神はヤマト系の神で、オオクニヌシを監視している
次は出雲大社の本殿内で祀られている「五人の客神はヤマト系の神で、監視させている」という主張です。これは前項の話とリンクしていて、大国主神の神座を拝ませないように横向きにして、横の部屋に正面向きに五人の客神を置いて、そちらを拝ませる、またこれらの神は「五人の客神は保安官であり、看守でもある」(逆説の日本史1)というのが井沢氏の主張です。井沢氏は「天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神。この三柱は『古事記』の冒頭に出てくる。つまり大和朝廷の神なのだ。他の二人もそうだ。」(逆説の日本史1)と明快に書かれています。では、その客座の五神とは
 天之御中主神 (アメノミナカヌシの神)
 高御産巣日神 (タカミムスヒの神)
 神産巣日神  (カミムスヒの神)
 宇麻志阿斯詞備比古遅神 (ウマシアシカビヒコヂの神)
 天之常立神  (アメノトコタチの神)
の五柱の神で、井沢氏が書かれたように古事記の最初に出てくる神です。天地開闢の時に、まず最初に成られたのが天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神で、その後に宇麻志阿斯詞備比古遅神、天之常立神が成られ、この五柱の神は別天つ神(ことあまつかみ)と称される、というお話です。一般的に天津神と国津神を分け、国譲り神話では天孫側が天津神、大国主神側が国津神と区分する人が多いようですが、古事記を見ればわかるのは、別天つ神五神は世の中の最初の神ですから、天津神国津神分離以前の神、双方の祖先ということになります。よって、五柱の神を天津神、天孫側、あるいはヤマト系と限定するのはおかしな話です。
次に五柱の神を詳しく見ていきますと、まず最初の天之御中主神は、この最初に登場するだけで、これ以降古事記にもその他の神話にも事跡がありません。最後の二柱の神、宇麻志阿斯詞備比古遅神と天之常立神も同様にその後は登場しません。高御産巣日神は天孫降臨の際に天照大御神と共に神々を招集したり、使い神を指名したりしたり、天孫側と関係が深く、この神は井沢氏の言う「ヤマト系」の神にふさわしいかもしれません。問題は神産巣日神です。
神産巣日神は古事記でその後出てくるのが「大国主神が兄弟達に殺された時に生き返らすのを助けた」「大国主神と共に国造りした少名毘古那神の父神だった」の二つで、また他に登場するのは出雲国風土記においてです。私はあえて「出雲系」と断定はしませんが、出雲と関係が深い神であったのは、間違いないところです。
そこで、整理してあえてどちら側かと分けてみると、
天之御中主神        = 中立
高御産巣日神        = 天孫側と関係深い
神産巣日神          = 出雲側と関係深い
宇麻志阿斯詞備比古遅神 = 中立
天之常立神          = 中立
ということになります。基本的に五柱の神とも祖先ですから、監視役というにはふさわしくない神です。もし、客神が建御雷神など天孫降臨時に遣わされた神であれば、監視役説がかなり説得力を持つと思いますが、これら五柱の神の立場、事跡を詳しく見ていくと、すべてヤマト系の神とは言えず、また、監視役というのには立派すぎる神であることがわかります。  
しめ縄が普通の神社と反対の張り方をしている
一般的に神社は社殿向かって右が上位なので、しめ縄も向かって右から始めて、向かって左を終わりにする、というのが普通ですが、出雲大社はこれが反対で、向かって左は始めになっています。このことについて前述「出雲大社」において、千家尊統宮司は摂社の造り、本殿内の位置などを見ると、どうも出雲大社は向かって左を上位としているようだと記述しています。井沢氏はそれに対して、他の神社と反対である理由の説明になっていない、とし、その理由として、大国主命に死んだと気づかせるためで、「大社は「死の宮殿」であるからこそ、注連縄は「この世の神社と正反対」なのである。」(逆説の日本史1)という推論を立てておられます。
ですが、実はしめ縄が反対の神社は出雲大社の他にも結構あるのです。例えば大山祇神社(愛媛県)や津島神社(愛知県)などです。
しめ縄のみに限らず、神社での独自のしきたりや慣習について聞いてみると、
「どうして、そうやっているのでしょう?」
「わかりません、昔からそうやってたみたいです。」
という話がよくあります。最初は理由があったのかもしれませんが、長い歴史の中でわからなくなってしまったりするんですね。よってこの手の慣習の理由を後世の人間が無理矢理これだ、と断言するのはあまりよろしくないでしょう。もし、本当に出雲大社「だけ」反対ならば、井沢説もわからなくもないですが、他に同様な神社もあるわけですから、少し無理があるようです。  
四拍手である
有名な話ですが、一般の神社の参拝作法は二拝二拍手一拝なのに、出雲大社では二拝四拍手一拝となっています。これについては「どうして「四柏手」なのか。「四」は「シ」であり「死」に通じる、縁起の悪いことこのうえもない。」(逆説の日本史1)と記され、これも大国主命に死を自覚してもらうためにわざと縁起の悪い四拍手にしている、というのが井沢氏の推論です。
ですが、これも無理があり、出雲大社だけが四拍手ではありません。他には宇佐神宮(大分県)や弥彦神社(新潟県)でも四拍手ですし、神宮(伊勢神宮)でも参拝者はしませんが、八開手という作法があります。
実は二拍手になったのは明治時代に神社が国家管理に入ってから後、作法を統一していったためにそうなっただけで、それ以前は各神社がばらばらな作法をしていたようです。出雲大社の四拍手の理由もよくわかりません。出雲大社を説明するバスガイドさんは「幸せの「し」だから四拍手です」と言ってますが、もちろん、それも正しいかどうかはわかりません。  
出雲の「雲」は死の象徴である
千家尊統宮司の「出雲大社」では、イズモという言葉について考察し、出雲の「雲」は霊魂や神を表す時に使った言葉ではないか、と言われたのに対して、井沢氏はもっと踏み込んで「雲」イコール「死」の表現である、との主張されています。
平成二十年の出雲大社ご遷宮での御本殿特別公開で見られた方も多いとは思いますが、御本殿の天井には「八雲の図」が鮮やかな色で描かれています。七つしかないのになぜ八雲なのか、などと色々と謎を呼ぶものでした。なぜ雲が描かれているのかもわかりませんが、千家尊統宮司は「神がいます所は雲の上、あるいは雲の中、あるいは雲の下でも、人里はるかに隔てた雲居の辺だ、と信じられていたことを示すものだろう」と書かれています。井沢氏はどうしても出雲を「死」と結びつけられたいようですが、私は素直に霊魂や神の現れと受け取る方が自然ではないかと思います。  
滅ぼしたオオクニヌシを丁重に祀らなければならなかった。三輪山がその例である
その丁重に祀る例として、大和三輪山の話を挙げられています。滅ぼしたから丁重に祀るために、大和に大物主(大国主神とほぼ同神、と私も思いますが諸説はあります)を祀ったのだ。中国に似たような例がある、とされています。
ここで注目すべきなのは「出雲国造神賀詞」(いずものくにのみやつこかむよごと)の記述です。「出雲国造神賀詞」は出雲国造が新しく就任した際に、はるばる京都の朝廷に参り奏聞する祝いの詞で、史書では奈良時代中期から平安時代前期まで行われたという記述があります。この中で、大穴持命(大国主神)は皇孫の守護神として祀られている、という話が出てきます。
「そこで大穴持命の申し上げられますには、この大倭の国こそ、皇孫命のお鎮まり遊ばさるべき国であると申されて、ご自分の和魂を八咫鏡に倚り憑かせて、これを御霊代として、倭の大物主なる櫛ミカ玉命と御名を唱えて、大御和の社に鎮め坐ざせ、御自分の御子なる阿遅須伎高孫根命の御魂を、葛木の鴨の社に鎮座せしめ、事代主命の御魂を宇奈提に坐させ、賀夜奈流美命の御魂を、飛鳥の社に鎮座せしめて、これらを皇孫命の御身近の守護神として貢りおいて、御身自らは遠い守護神として、八百丹杵築宮に鎮座あらせられました。」(口語訳は延喜式祝詞教本、御巫清勇による)
つまり、大国主神は自分の分身と子供の神たちを都の近くに皇孫の守護神として祀り、自分は出雲大社に鎮座した、という内容です。いや、この頃には怨霊を鎮める神から守護神へ変化してたのだ、という推理もなくはないですが、それにしても、滅ぼした王だけではなく、その子供を都の周りに祀らせるでしょうか。これは大和朝廷も本当に守護神としてみていた、ということでしょう。
なお、井沢氏も取り上げられた周王朝の話ですが、殷を滅ぼした後に、祭祀が途絶えると祟るので、殷の王族にその祭祀が途絶えないよう続けさせた、ということであり、周王朝の守護神として祀ったわけではありません。  
滅ぼされたのに祀られなかった神
さて、ここまで見てきましたが、改めて井沢氏の主張を確認しましょう。
「いずれにせよ、大和朝廷はオオクニヌシを恐れた。なぜ恐れたかといえば、滅ぼしたからである。それは決して「国譲り」などという「和の精神」によるキレイ事ではなく、もっとドロドロした殺戮だったに違いない。
だからこそ、大和朝廷はオオクニヌシを丁重に祀らなければならなかった。」(逆説の日本史1)
しかし、この説の最大の問題は、同じように大和朝廷から滅ぼされたのにも関わらず、丁重どころかまったく祀られていない人物がいることです。
その人物とは「長髄彦(ながすねひこ)」です。
長髄彦は大和の国を支配していましたが、神武天皇との戦いに敗れ、結局は殺されてしまいます。実はこの長髄彦を祀っているという神社を聞いたことがありません。小さいところであるのかもしれませんが、大きなものはありませんし、神武天皇以後の神話、史書等で長髄彦の祀りをしている、という記述も一切ありません。
神話では悪者になっていますが、長髄彦の立場からすると自分が治めていた国に神武天皇が侵攻してきて滅ぼされたわけで、井沢氏の言うオオクニヌシとほぼ同等の立場であり、怨霊理論の対象になってしかるべきでしょう。しかし、一方は守護神としてまで祀られ、一方は何も祭祀されず、うち捨てられたまま、という事実を見ると、大国主神が丁重に祀られているのはその怨霊を鎮めるため、とは思えなくなってきます。  
終わりに
ここまで見てきますと井沢氏の「オオクニヌシ=滅ぼされた=出雲大社は怨霊の神社」説はかなり苦しい推論であることがおわかり頂けたと思います。私は出雲大社と大国主神の異常とも言える厚遇は、やはり平和裏に国譲りがされたことが理由であり、「大国主神=平和に国譲り=出雲大社は国家守護の神社」であるとと考えています。  
 
都の怨霊

 

呪いとたたり  
桓武天皇が奈良の都を捨て、淀川の上流にある長岡の地に都を建設しようとして工事中、突然中止になってさらに上流の京都盆地に新しい都を造ったのは794年のことですが、これには複雑な人間関係が原因しています。もともと桓武天皇は奈良仏教の勢力に悩まされ、もう少し自分らしい政治形態を作りたいという願望があったようですが、長岡に理想の実現を期待しました。ここは瀬戸内海と淀川を通じて船でつながり、また聖徳太子以来大和朝廷の最大の支援者であった秦氏が支配する京都盆地の南に接して、いざという時武力、経済力が頼れる安全な場所でした。天皇の信頼の厚かった藤原種継が建設大臣となり工事は進められましたが、一夜何者かによって殺害されました。犯人探しが始まりましたが、良く分からない時点で天皇の弟であり、かつ皇太子でもあった早良親王(さわらしんのう)に暗殺首謀者の疑いがかかりました。当時は天皇の位を兄弟で順に継ぐのが多かったので早良親王は次期天皇の予定でしたが、桓武天皇には三人の皇子があり、どうもこちらに早く位を譲りたいと思っているのではないかと言う憶測が流れました。こうなるとミステリー小説の筋書きになりますが、天皇派と親王派のグループに分かれお互い相手に都合の悪い噂を流すことになります。結局早良親王側が種継の暗殺によって工事を妨害し、その上桓武天皇を亡き者にして早く自分が天皇の位に就こうと呪いにかけているなどの罪を着せられ、突然捕らえられて長岡の乙訓寺(おとくにでら)に幽閉されました。親王は身に覚えがないので十日ほど食を断って無実を訴えましたが許されず、淡路島に流されました。途中山崎のあたりで体が衰弱し亡くなりましたが、それでも亡がらは淡路島の配所に送られ埋葬されました。
犯人はその後大伴氏の一派らしいと分かりましたが、どうも新都建設で急に勢力を伸ばしてきた藤原氏との派閥争いであったようで、関係のない早良親王はさぞ無念であったと思います。この怨念がたたりとなったか桓武天皇の妃の旅子(たびこ)と天皇の母高野新笠(たかののにいがさ)が相次いで亡くなり、さらに后の乙牟漏(おとむろ)も間もなく病死しました。また長岡一帯に疫病が流行り大勢の死者が出るところへ、川の氾濫で人家が流されるなど散々な目にあいました。悪いことばかり起こる長岡京から一日も早く脱出して平安の日を迎えたいという気持ちで、京都盆地に造った新しい都を「平安京」と名づけましたが、さて平安京に来ても天皇には早良親王の怨霊(おんりょう)が取りついて夢にうなされる始末、おまけに長子の安殿親王(あてしんのう)が今日でいうノイローゼにかかり、とても平安どころか前途暗澹たる出発になりました。しかし桓武天皇はここで人心を纏めるため積極策をとり、蝦夷征伐の軍を起こします。坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は今の仙台から盛岡まで軍を進め、それまで何度も失敗していた軍旅を一気に挽回し、首領アテルイを捕らえ遂に騒乱を鎮圧して凱旋しました。これで都に重く淀んでいた陰湿な空気は大分明るくなりました。
新しい都はたたりが来ないようにしっかりガードを固めました。北東は鬼門と言われ災いがやって来る方角なので比叡山に延暦寺を建て、さらに北の守りは鞍馬寺、裏鬼門と言われる南東には東寺と西寺を建て、まだ足りないと思われたか、坂上田村麻呂の没後「将軍塚」を祇園社の裏山の頂上に造り、街を見下ろしながら侵略者に対する守りを固めました。将軍塚は天下に異変が迫ったとき地響きを発して知らせると言われていますが、本当に活動したという記録はありません。現在は見晴らしのよい展望台があり、京都盆地から淀川一帯がパノラマ風景で楽しめ、春には桜の名所として大勢の人が訪れます。一方比叡山は鬼門の方角ですから元々は鬼が住んでいたそうですが、延暦寺の大伽藍ができたので居づらくなり、西にある丹波の大江山に移ったと言われます。酒呑童子(しゅてんどうじ)を頭にした山賊になって、ときどき都を荒らしに来たと言いますが、比叡山を追われた報復だと尤もらしい説明をする人があります。
新しい都が出来ても中々「平安」にはならず、都の人達は絶えず疑心暗鬼やもののけ(物の化、物の怪)に悩まされました。現代人のように醒めた受け取り方をしなかった当時は超常現象も多く信じられ、化け物や地獄、極楽、夢枕など豊富な世界の知識や体験がありました。案外退屈しない日常があったような気がします。神道や仏教では困ったときに助けてくれる神や仏があるのですが、なかなか姿を現してくれないので、つい中継ぎをする神官や僧侶に問題解決を頼むことになります。吉凶や農作の判断を頼んで当たることもありますから、こういう人々が地域の精神的指導者になったことも多かったようです。占いなどは中国で紀元前から行われ、亀の甲や牛の骨を焼いて割れ目で運勢を判断していましたから、似たようなやり方が相当古くからわが国にも伝わって、卑弥呼などは神の使いとして吉凶判断や予言をしていたようです。風水や星占いなど体系化されたものがわが国にも輸入され、不安の多い時代には精神安定に大いに役立ちました。陰陽道(おんみょうどう)などもっともらしい哲学も生まれ、安部晴明(あべのせいめい)などその道の大家が現れて平安時代の貴族社会にもてはやされましたが、近年は紙一重でもののけと一緒にされ、最近漫画やテレビ映画で大ヒットしました。ハイテクの進んだ現代社会ですが、心のなかではもののけも結構住み分けが出来る場所があるようです。  
崇道神社

 

比叡山の麓の大原、八瀬を通って京都市内に流れ込む高野川に沿ってこの神社がありますが、祭神は上に述べた早良親王です。桓武天皇は無実の弟を死に追いやったことがよほど気になったらしく、平安京を建設後間もなく崇道天皇の贈り名をして霊をこの神社に祀りました。この天皇は皇統の系図には載っていないので、いわば番外の天皇ですが、皇族ですから神社は結構立派に造られています。川沿いのバス通りからすぐ登り道が始まり、鬱蒼とした木が左右から光をさえぎって暗い登りの奥に本殿が建っています。昼でも人の気配が殆どないので、もののけでも後ろをつけていないか気になる雰囲気ですが、この地は桓武天皇と早良親王の母であった高野新笠の故郷です。このあたりを今も高野といいますが、帰化人の豪族が住んでいたらしく、そこで生まれた母の懐で和解しようと思ったのでしょう。毎年5月5日に崇道神社の祭礼があり、村人の行列が付近を練り歩きますが、幡の代わりに白いかたびらを竿に吊るし、四辻に来ると行列が急に暴れだし、そこから何処へ行くのか道筋が決まっていないと言います。白いかたびらは多分早良親王の亡霊をかたどったものと思われますが、現在も続いているのは村人の同情がそれだけ深かった証拠です。
崇道神社は少々陰気なところですが、折角訪ねた方は気分転換のためすぐ西隣にある蓮華寺にお参りください。天台宗の寺で元々は今の京都駅近くにあったそうですが、応仁の乱で荒廃し、江戸初期に現在地に移ってきました。大きな寺ではありませんが、詩仙堂を造り隠棲した文人石川丈山の作と伝えられる池泉回遊式の名園があります。本堂の座敷の真ん中に座ると池全体が開け放した障子の間に額縁の絵のように見え、見事な構成です。四季それぞれに美しさがありますが、特に秋の紅葉時には目を奪うばかりの光彩が広がります。観光宣伝をしない寺ですが、その分訪問者も少なく心静かな時間が過ごせます。  
御霊神社

 

天皇に格上げされて母の古里、高野の地に祀られた早良親王ですが、桓武天皇の皇太子安殿親王のノイローゼは一向に良くならず、陰陽師の見立てではやはり早良親王のたたりであろうとのこと、そこで天皇は御所のすぐ北の加茂川沿いに御霊神社を建て、早良親王をはじめとして天皇を恨んでいるのではないかと思われる人々を合祀しました。桓武天皇の父光仁天皇の后は聖武天皇の娘井上(いのえ)内親王でしたが、複雑な政治抗争の結果后の地位を奪われ、代わりに高野新笠が妃に立てられました。こうなると皇位が高野新笠の子に移ることになりますので、后を廃された井上内親王が光仁天皇を呪いで亡き者にし、自分の子の他戸親王(おさべのみこ)を天皇の位に就けようとしているという噂が立ちました。誰か仕掛け人があって井上内親王には全く身に覚えのない冤罪でしたが、天皇に対する謀反を企んだ大罪人ということで母子とも処刑されました。桓武天皇にしては義理の母の身近に起こった生生しい事件で、これも怨念が残っているに違いないと鎮魂の気持ちから合祀が行われました。面白いことにはこういった謝罪を兼ねた鎮魂の祀りは重ねた方がさらに効果があると考えたのでしょう、同じような神社を御所の東南にも造りました。先に作った方を上御霊神社、後の方を下御霊神社と区別していますが内容は同じです。上御霊神社は後に応仁の乱の最初の戦場となったところです。山名の西陣と細川の東陣が対峙しましたが、西陣のあたりはその後織物業が発展し、西陣織りの名で今も残っています。
桓武天皇の没後病弱の安殿親王が皇位を受け継ぎ、平城(へいぜい)天皇となりますが、災難はまだ終わりにならず。薬子(くすこ)の乱という厄介な事件が起こります。火種は長岡京を建設途中突然暗殺された藤原種継の娘薬子にありました。薬子は藤原氏の一族に嫁ぎ、三男二女をもうけましたが、種継の暗殺以来家運が傾き、兄の藤原仲成と家運挽回をはかりました。薬子は自分の娘を安殿親王の妃として入内させましたが、自分も娘の世話役として参内しました。これが間違いのもとで、薬子は絶世の美女であったため、安殿親王は娘より母の方に心が傾いてしまいました。この噂が桓武天皇の耳に入ると烈火の如く怒り、薬子を御殿から追い出してしまいます。しかし桓武天皇は間もなく70歳で崩御(807年)、安殿親王が天皇となると薬子は再び呼び出されて尚待(しょうしのかみ)という官職に就き、従三位の位を与えられて堂々と天皇の傍らに奉仕するようになります。現在ならば皇室スキャンダルで週刊誌やテレビの絶好の標的になるところですが、権力を手にした薬子は兄の仲成と手を組んで種継家(藤原四家のうち「式家」)の再興を図ろうとします。ところが神経過敏で気まぐれであった平城天皇は面倒な政治がいやになり、僅か3年ほどで譲位し、上皇となって奈良の旧都へ移ってしまいます。
弟が皇位を受け継ぎ嵯峨天皇となりましたが、平城上皇に従って奈良へ移った薬子らはよほど悔しかったと見え、新天皇についてありとあらゆる讒言を上皇の耳にいれ、とうとう京都と奈良で深刻な対立を引き起こします。嵯峨天皇のほうが行動力があったと見え、仲成はすばやく捕らえられて処刑され、薬子は官位を剥奪されてしまいます。これに平城上皇は怒って兵をあげましたが、時すでに遅く、奈良は嵯峨天皇の兵に囲まれ、上皇は出家させられてしまいました。薬子は失望の末、毒を仰いで命を絶ったといわれます。この話は薬子の乱として独立して片付けられていますが、もとはと言えば藤原種継の暗殺や早良親王の冤罪の延長線上にある事件として運命的なもののような気がします。
薬子の乱は一応終結しましたが、平城上皇の第一皇子阿保(あぼ)親王は皇統から外れてしまいました。しかしその第五子は有名な歌人在原業平(ありはらのなりひら)です。伊勢物語の作者でもありますが、紫式部の源氏物語はあちこちで伊勢物語を参考にして書いているということです。業平はまさに平安文学の開祖といってよいでしょう。また業平の妻は紀氏の娘ですが、嵯峨天皇の孫の文徳天皇の妃が同じ紀氏の娘であったことからその第一皇子惟喬(これたか)親王と親しかったといいます。文徳天皇は惟喬親王の優れた資質を愛し、皇太子に望みましたが、藤原氏の娘が第二皇子を産み、その力を背景に皇太子擁立が二派に分かれました。両派それぞれで佛僧に頼み加持祈祷を盛大に行い、相手を調伏しようとしましたが決着せず、結局惟喬親王が藤原氏に遠慮して皇太子を辞退しました。紀氏と藤原氏とでは力関係で無理と考えたのでしょう。第二皇子が皇太子に立てられ、のち清和天皇となりましたが、下野した惟喬親王は九州の大宰府、常陸守、上野守などを転々とし、屈折した人生の末28才で出家、京都北山を分け入った雲が畑で隠棲し、54才で亡くなりました。面白いことに隠棲の期間じっとしていたわけではないようで、淀川の中流の山崎に庵を作って住み、在原業平と何回か閑話を楽しんだり、琵琶湖の東では新型の轆轤(ろくろ)を開発し、木地師に教えたという話が伝わっています。轆轤は今でいう旋盤で、お椀やこけしなど同心円の木製品を作るのに必要な道具ですが、意外な所で木地師の祖として神様扱いされています。  
晴明神社

 

文字通り安倍晴明を祀る社ですが、昔京都の中央を南に流れていた堀川のほとりにあります。堀川は河川工事によって今は水が流れていませんが、いろいろな歴史に登場する名前なので埋め立てず保存がされています。ポンプで水を循環させて観光資源にしようという案も出されています。祭神の安倍晴明は延暦21年(921年)に生まれ、元右大臣家の末裔と言われていますが、学問があるところから貴族であったことは間違いないでしょう。藤原種継の式家が薬子の乱で没落し、代わって藤原冬嗣の北家(ほっけ)が全盛を迎えた時代に生きています。源氏物語や枕の草紙に当時の少々退廃しかけた宮廷生活が描かれていますが、やたらに面倒な日常の手続きがあって、何をするにも障りがないか占ってみないと前に進めないようになりました。左大臣藤原道長の日程表では月の内6日か7日は物忌みとかで一歩も屋敷から出ず、欠勤しています。北にゆけば近いのに、その日は方角が悪いとか言って、わざわざ東へ行って回り道をして目的地にたどり着くなどは毎度のことで、こういった厄除けの指導に陰陽師は大活躍しました。
晴明の出生は謎に包まれていますが、心霊現象をよく理解したので超能力者のように言われています。しかし若いときから天文道、暦道、陰陽道を学び、明快な予言や占いを行ったので平安貴族の中で信頼を集めました。晴明の理論は中国の陰陽五行説に発していて、火、水、木、金、土の五要素にそれぞれ陰と陽の相があるとしています。これを星形の頂点に置いた五芒星(ごぼうせい)は晴明神社のシンボルマークで、晴明桔梗と呼んでいます。わが国の一週間はこれに日と月を加えたものです。五芒星の動きから天体の運行や暦、吉凶判断が出来たと言いますから説得力のある予言ができたのでしょう。
当時は病気の原因が厄病神に取り付かれたからだと考えたものですから、これに対抗できる霊力を持った陰陽師に追い払ってもらうことが必要でした。晴明は式神(しきがみ)という手先を持っていて、これを自由に操ったと言いますが、式神の力を使って厄病神を追い払ったようです。晴明のような陰陽師は当時大勢いて、小野篁(おののたかむら)もその例ですが(京の地名、5。六波羅を参照)、中には頼まれて特定の人物を呪詛することもあったようです。嫉妬など陰湿な人間関係の清算にはしばしば使われました。こんな方法で実際相手を殺すことは出来ませんが、当時は出来ると信じられたため、呪詛を行ったというだけで殺人罪に問われました。
晴明神社はもとあまり目立たない小さな社でしたが、連続テレビ映画「陰陽師」が人気を呼んで以来大勢の参拝人が来るようになり、陰陽師グッズもよく売れて、財政も潤ったか社殿も改築され、特に若い女性の姿が見られます。奉納の絵馬を見ると殆どが災難除けと縁結びのお願いで、合格祈願もありますが、千年前の安倍晴明の霊力もまだ期待されているようです。  
一条戻り橋  

 

晴明神社の境内に石作りの橋が置いてあり、説明によると神社のすぐ南にあった堀川の古い橋をこちらへ移転したということです。新しい橋は自動車が通れる広いもので何の変哲もありませんが、境内の古い橋はいわれのあるものです。もともと一条通りが堀川に来て架かった橋ですが、なぜ戻り橋なのかというと、平安初期の貴族三善清行(みよしきよつら)の子、浄蔵が出家して紀州熊野で修行に励んでいたところ、父の危篤が告げられました。直ちに京へ急ぎましたが、もう少しのところで父は亡くなりました。堀川一条のこの橋で父の葬列に出会い、浄蔵は嘆き悲しみながらもう一度父に会いたいと神仏に祈ったところ、突然棺が開いて父が姿を現したといいます。二人は最後の別れをし、ねんごろに葬儀をしたそうです。死人が生きて戻ったと言うのでこの橋を一条戻り橋というようになりました。
第二次世界戦争では京都からも大勢の若者が戦地に赴きましたが、死人も生き戻るという縁起をかついでこの橋を渡りました。何名か町内で召集令状を受けると、一箇所に集まり壮行会をしたあと、万歳の声に送られて伏見の連隊に入営しました。伏見は京都の南の方角ですが、出発すると何故か北の方角に行進し、おかしいなと思っているうちに一条戻り橋に到着し、ここで一斉に歩調を揃えて渡り、くるりと南に向きを変えて伏見連隊に向かったそうです。引率者も生死の分からぬ出征兵士とその家族の心情を汲んだものだと思います。
晴明神社のところで述べましたが、晴明が式神を連れて占いや厄払いをしていた所、あまりにも式神が醜悪な面相をしていたので依頼者が嫌がるようになりました。そこで晴明は式神を石の箱に入れ、一条戻り橋の下に置きました。必要なときだけ呼び出して使ったそうですが、近年橋を架け替えることになって橋の下を掘ったところ石棺が出てきたといいます。中を開けて調査することになったのですが、誰も恐ろしくて手を出さないので結局元のまま埋め込んだそうです。もし昔の話しが本当であったら随分年取った式神がまだ石棺の中に居るはずです。  
北野天満宮  

 

九州大宰府の天満宮と京都北野の天満宮は全国に数多い天満宮の元締めですが、祭神の菅原道真ははじめ怨霊になってすさまじい報復をしたと信じられました。醍醐天皇の時代、右大臣となった道真ですが、政敵の左大臣藤原時平との抗争で突然太宰権師(だざいのごんのそち)に左遷され、失意の内に2年後59才で亡くなりました。歴史書によると道真は宇多上皇をバックに文人サロンを宮廷に作ろうとしたのに対し、時平は醍醐天皇と共に法制や荘園改革など実務に意欲を燃やしたので、道真グループを暫く遠ざけようとしたと言われます。左遷の理由に道真派が醍醐天皇を廃し、道真の女婿で皇弟の斎世(ときよ)親王を次ぎの天皇に立てようとしているなどの噂があったとしていますが、実は時平派の藤原菅根(すがね)が仕組んだ作り話でした。時平としては改革が進めば、間もなく道真を都に呼び戻しても良いと考えていたようですが、それまでに道真が断腸の思いで亡くなってしまったので、一方的にひどい仕打ちだとされてしまいました。
時平は一旦抗争に勝ちましたが、弟の忠平とは互いに反目し、忠平は間もなく道真は冤罪で、きっと報復があると過大な宣伝をしたものですから、その後悪いことが起こると皆時平のせいで、道真の怨霊が京の都に取りついたと思うようになりました。実際道真を陥れた藤原菅根は間もなく病死し、続いてライバルの時平も39才の若さで急死しました。京の町には疫病が何年も流行り、農家には凶作が続きました。おまけに皇太子保明(やすあき)親王も21才で亡くなり、「すべては道真の怨霊のなせる業なり」と当時の記録書「日本紀略」にも書いています。災いはまだ収まらず、清涼殿に激しい落雷があり、大納言藤原清貫が即死、右中弁平希世(まれよ)が大やけどを負いました。雷鳴は道真の怒号であると言われるようになり、「くわばら、くわばら」と手を合わせる習慣ができました。「くわばら」は道真の邸のあった地名で、今も桑原町の名が残っていますが、島津製作所三条工場の敷地になっています。手を合わせるのは「桑原の道真様、お静まり下さい」の祈りです。醍醐天皇も度重なる災厄に大ショックを受け、病気となって間もなく亡くなりました。
道真の怨霊を鎮めるため大急ぎで神として祀ることになりました。正一位、太政大臣の位を追贈し、御所の北にあった天の神の社に道真を合祀し、北野天満宮天神としました。天神と天満宮は現在一緒にされていますが、本来は別のものでした。怨霊思想は民衆の間に深く浸透し、天満宮にお参りして災難逃れを祈る風習が全国に広がりました。稲荷神社、八幡神社とともに天満宮の数は多いと言われます。道真が学問に優れ、また能筆家でもあったので、現在は受験合格の祈願が断然多いのですが、毎年正月には書初め大会があり、境内一杯に力作が公開されます。  
京の葬送  

 

都が出来て大勢の市民の生活があれば、当然死者の葬り場が必要になります。貴族であれば街中でも墓地を設け、石塔を立てるなど出来ますが、庶民には無理な話で、目立たない郊外に死体を埋めるか焼くかで、せいぜい卒塔婆を立てるのが関の山でした。身寄りのない人や行き倒れの人などは死体を野原に放置しましたが、どこでも良いというわけにも行かず、大雑把に三箇所が葬り場になりました。化野(あだしの)、蓮台寺野、鳥辺野(とりべの)が知られていますが、それらしい雰囲気が一番残っているのは嵯峨野の化野です。
嵐山の遊歩道を北に歩くと最後に竹薮に迫られた化野念仏寺があります。ここが昔野ざらしの死体が一杯転がっていた不気味な場所です。空海がここに来て骨を集めて埋め、如来寺という小堂を建てて供養したといいますが、その後法然が念仏道場を造り、名も念仏寺としました。明治の中ごろ地区の整備が始まり、付近に散在していた石塔、石仏8000基ほどを集め、本堂を中心に密集して並べました。無縁佛ばかりですが、それぞれには死者の魂が残っているはずで、思わず合掌してしまいます。毎年8月23日と24日に千灯供養があり、夜空にろうそくを一基づつ灯して供養しますが、バスツアーも組まれ遠方からも大勢人々がお参りに訪れます。普段は全く淋しい墓地ですが、この日ばかりは死者の霊も久しぶりに賑やかな人声を聞いて昔を思い出すことになるでしょう。
蓮台寺野は吉川英治の「宮本武蔵」で吉岡清十郎と果し合いをやったところですが、かなりフィクションがあり、吉岡憲法を祖とする剣術道場があったことは分かっていますが、その子孫の誰と試合をしたのかはっきりしません。いずれにせよ蓮台寺野は市街の北にあった原野で、比較的近いところから葬送の場として適当であったと思われます。蓮台寺という寺が現存していますから、多分このあたりでしょう。今はすっかり市街化が進み、交通の激しいところになっています。偶然でしょうがここに仏教大学の大きなキャンパスがあって、ここに葬られた死者の霊が残っていたら一息つけるのではないかと思います。蓮台寺から南に千本通りという広い道路が走っていますが、昔蓮台寺野で葬られた死者の卒塔婆が数え切れないほどあったことから由来した名前です。
鳥辺野は鴨川の東、清水寺の南一帯に広がる東山の山裾ですが、鴨川を三途の川に見立てて死者を冥界に送る場所になりました。ここには六道珍皇寺(ろくどうちんこうじ)という寺があり、鴨川を渡って珍皇寺で回向を受け、鳥辺野で埋葬しました。死体の捨て場にもなっていたようですが、現在は西本願寺の広大な墓所になっています。珍皇寺は陰陽師小野篁が創建した寺で、安倍晴明とともに平安期の霊界の指導者でした。  
血天井 

 

不気味な名前ですが、本当に血の痕が残っている天井が見られる寺が何ヶ所かあります。元々は伏見城にあった廊下の板敷ですが、鳥居元忠以下380名の武士達が石田三成軍に攻められて最後に自刃した流血の模様です。徳川家康が上杉討伐のため会津へ向かった隙に三成が兵を挙げ、伏見城を急襲して緒戦の勝利を挙げましたが、もともと三成に謀反を起こさせて徳川方に戦の口実を作ろうと策したもので、伏見城はその生贄にされてしまいました。鳥居元忠もその覚悟をしていたようで、家康に自分を捨石にするよう別れの言葉を残しています。家康が宇都宮の手前、小山(おやま)まで来たときこの知らせが届き、有名な小山評定で全軍を西に向け、関が原で決着をつけました。
一方伏見城は自刃した亡がらを片付けずに放置してあったそうですが、死体の形が廊下の板に染み付きました。徳川秀忠の妻崇源院は淀君の妹ですが、姉の淀君が生前父浅井長政の菩提を弔うため三十三間堂のそばに建立した養源院が火事で焼失したとき、伏見城の遺構を貰い受けました。血の付いた廊下の板は自刃した武士たちを弔う意味で天井板にはめ込み、血天井として現在に残されました。おそらく同じ時期に血染めの板は養源院だけでなく、あちこちの寺に分けられたらしく、洛北大原の宝泉院、鷹が峰の源光庵、上賀茂の正伝寺にも血天井として大切に保存されています。どれも年数が経っていますから形がぼやけていますが、宝泉院のものは比較的分かり易いと思います。
宝泉院は三千院正門の前を北に通り抜けて突き当たりの勝林院の左隣にあります。目立たないので訪れずに帰る人も多いのですが、時間さえあれば是非お参りください。入山料600円ですが抹茶とお菓子の接待がついています。南と西が開け放たれ、樹齢400年といわれる見事な五葉の松と枯れ山水の小園、後には青々した竹薮が見られます。血天井は二方の廊下の上にありますが、タイミングがよければ寺の説明者が棒を持って詳しく解説してくれます。目、顔、被り物、手形、引っかき痕など生生しい形が浮き上がって、自刃した人のうめきや苦しみが伝わってくるようです。寺の説明はたびたびやってはいませんが、観光タクシーの運転手が次々とお客を連れて来ますので、この説明を傍聴するのがよいでしょう。  
あとがき 

 

千年も都があったところですから、最初は試行錯誤でいろいろ間違や気の毒な事件もあったと思います。陰陽道など中国から伝わった哲学は、われわれがニュートン力学や量子化学を信じているのと同じ程度に真理であったと思われます。陰陽師の一言で政治や運命が変わることは当たり前で、それだけに貴族社会で重く用いられました。最近は政治家も決断した後で結果をいろいろ批判されて、野党からやるべきでなかったなど追求されますが、陰陽師のような人が居てその方針は吉だと言ってもらえば大分気が軽くなるでしょう。一寸先は闇という不安の多い時代に占いが盛んであったのは、それなりに不安を消化するうまい知恵であったような気がします。
怨霊などはあるはずがないと思っている現代人ですが、悪事をしても警察に捕まらなければ平気でいる人も多い世の中です。人をひどい目にあわせると怨霊となってたたりが来ると信じるほうが、自己規制が利いて凶悪犯罪なども減るのではないかと思います。  
 
憑き物系統に関する民族的研究 / 飛騨の牛蒡種(ごんぼだね)

 

一 序論 / 術道の世襲と憑き物系統
ここに憑き物系統とは、俗に狐持・犬神筋などと言われる所謂「物持筋」の事である。これがもし昔時の或る術を修得した暦博士や陰陽師の徒の、任意に識神(しきじん)を使役すると信ぜられたものの様に、その個人限りが有する一種の不可思議力であったならば、そこに系統も糸瓜(へちま)もあったものではない。この場合もしその術を何人にも伝える事なくして、その人が死んでしまった時には、その術はその人の死とともに永く世に失われてしまって、よしや血を分けた子孫がそこに幾らも存在していても、全くその術からは無関係な、ただの人間になってしまうのである。算木(さんぎ)一つの置き方で人を笑い死ぬまで笑わせたり、お座敷の真ん中に洪水を起して、畳の上で人を溺らせたりした様な恐ろしい奇術者も、僅かに今昔物語や吾妻鏡にその霊妙なる放れ業の記事を止めているのみで、後世その伝説が全く失われてしまったのはこれが為である。しかしこの様な技能を有する術者でも、やはり子は可愛い、孫はいとしい。ことにこれが為に社会から畏敬せられ、生活の安泰を保障される様なことであってみれば、どこまでもこれを子孫に相続させたくなる。ここにおいてか一子相伝とかいう様なことが始まり、はてはただ一子のみならず、一切の子孫がすべてこれを相伝することにもなる。かくてもとは師資相承であった筈の術道も、いつしか血脈相承となる。すべてのものが家柄によって保持せられることとなるのである。またこれを子孫の側から云ってみれば、父祖の有した或る霊妙なる不可思議力を継承するとして世間から認められる必要もあったので、なるべくそう見られる様にと努力したに相違ない。かくて彼らはその秘法の外間に漏れることを恐れて、なるべく俗人等との間に平凡な交際を避け、猥(みだ)りに結婚を通ずる様なこともなく、遂にはここに立派な「筋」が成立するのである。かの陰陽筋(おんみょうすじ)・神子筋(みこすじ)・禰宜筋(ねぎすじ)などと云われて、時としては世間から婚を通ずるを憚(はばか)られる様な家筋のものの中には、当初はこの類けだし少からぬことであったと察せられる。
かく云えばとて、しからば後世所謂「物持筋」の人々は、もとみなこれら術道家の子孫であったか、と、そう手軽に早合点して貰ってはならぬ。そこにはまた別に古来或る民族的差別観を以て、世間から見られた或る部族の存在を考えねばならぬ。そしてその根原が一般に忘れられた後になっても、或る地方或る部族に限っては、何らかの事情からその差別観が比較的後の世までも頑強に保持せられ、その理由は何人も知らないながらも、ただ何となく一所になりにくいという系統の、今なお各地に存在することを考えてみねばならぬ。その最も適切なる一例として、同じ憑き物系統と言われる中にも、多少他とは様子の違ったところのある飛騨の牛蒡種(ごんぼだね)を捉え来って、これが民族的研究を施してみたいと思う。  
二 飛騨の牛蒡種に関する俗説 / 牛蒡種と天狗伝説
国そのものが山間にあるところの飛騨において、しかもさらにその山間の或る一地方には、牛蒡種(ごんぼだね)と呼ばるる一種の系統が今も認められているという。
由来狐憑・狸憑・犬神憑等、憑き物に関する迷信は広く各地に存して、その憑くものの種類は種々に違っていても、とにかく或る人間に使役せられた或る霊物が、他の人間に憑いて災いを為すという信仰においては、殆ど同一であるが中に、ひとりこの飛騨の牛蒡種のみは、これらとはやや様子が違って、直ちに人間が人間に憑くと信ぜられているのである。この牛蒡種の人に恨まれると、その恨まれた人はたちまち病気になる。のみならず、その霊妙な力はよく非情の上にも働いて、もし牛蒡種の人が他の農作物の出来の善いのを羨ましく思うと、それがだんだん萎縮して、遂には枯れてしまうのだと言われている。これについては郷土研究(一ノ三・二八)に柳田君(川村杳樹)の説がある。なお同誌には野崎寿君(四ノ四・九四)や、住広造君(四ノ六・六九)の報告も出ている。自分が飛騨出身の押上中将から直接伺ったところもほぼ同様であるが、住君がその本場と言われる吉城(よしき)郡上宝(かみたから)村を数回旅行せられて、永い間注意せられたにもかかわらず、まだ牛蒡種に憑かれたという者を見られた事もなく、単に漠然世間話にのみそんな事を言い触らすのを耳にせられたに過ぎなかったといえば、文明開化の今日では、もはや評判程にはないものとなってしまっているものと思われる。
牛蒡種の起原は一つだと伝えられているらしい。住君の報告によると、吉城郡上宝村を本場として、国府村や袖川村にも多少はあるが、それは上宝村から移住したり、伝播したりしたものらしいとある。また野崎君の報告によると、大野・吉城の二郡から、益田郡及び美濃の恵那郡の一部にまで散在し、信州の西部にも少しはあるという。これは犬神筋や狐持と同じで、結婚によって他に伝播するものらしい。また、牛蒡種のものが世に恥じてこれを免れんが為には、金につけてこれを道路に捨てるので、その代りそれを拾った慾張りは、たちまち牛蒡種になるのだとも住君の報告に見えている。
さてその牛蒡種の本場だと云わるる上宝村は、さすがに山間の飛騨だけあって、面積は非常に広く、東西約九里二十町、南北七里十町にも及び、他の国の普通の一郡よりもまだ大きい程である。されば人民住居の村落は、やっと高原川及びその支流の双六(すごろく)川・蔵柱川に沿うて、散在しているに過ぎないという有様で、そこには天狗住居の伝説も存し、昔の人の目から見れば、全く物凄い魔界の山村なのであったのである。したがってそこにはすこぶる古い風習も少からず遺っていたと見えて、斐太後風土記によると、新甞(にいなめ)とも云うべき早稲食饗(わさけのふるまい)や、茅輪潜(ちのわくぐり)と云って、氏子一同氏神の社に詣で、藁で作った輪を潜って、後をも見ずして走って帰るという奇態な神事もあったという。また氏神には白山社が甚だ多い。これはひとり上宝村のみに限った訳ではなく、飛騨一体にその信仰は盛んならしいが、特に野崎君の報告に、全部落ことごとくこの家筋だと噂されるという双六谷には、部落内の七社の氏神がことごとく白山社である趣きに後風土記には見えている。加賀の白山は言うまでもなく天狗の本場である。したがってこの事実は、この地の天狗伝説と相啓発して、所謂牛蒡種の性質を考える上において、最も注意すべき材料だと思う。  
三 牛蒡種の名義 / 牛蒡種と護法神
これについてはまず考えてみたいのは、所謂牛蒡種という名称である。その由来については、牛蒡の種に小さい棘(とげ)があって、よく物にひっつく様に、この人々は容易に他人にひっ憑くから、それでこの名を得たのだと言われている。これも一と通り聞こえた説明ではあるが、自分は別に本来それが「護法胤(ごほうだね)」ではなかろうかと考えているのである。
護法とは仏法の方の術語で、護法善神・護法天童・護法童子などの護法である。本来は仏法を守護するもので、所謂梵天・帝釈・四大天王・十二神将・二十八部衆などいう類みな護法善神である。その護法善神に使役せられて、仏法護持に努める童形の神を、護法天童とも護法童子ともいう。不動明王の左右に侍する可愛らしい矜迦羅(こんがら)・制※(咤−宀)迦(せいたか)の二童子、その他八大童子の類、すなわち所謂護法童子である。これらの童子はあんな可愛らしい姿貌(すがたかたち)をしていても、時には随分思い切った神通力を振り舞わすと信ぜられたもので、今昔物語十に、漢土の或る修行者が宮迦羅(くから)すなわち矜迦羅(こんがら)童子を念じて、毎晩宮中から三千の宮女中の最美人を、山奥なる自己の庵室に盗んで来て貰ったという話もある。そしてその宮迦羅を、同書には明らかに「護法」と云っているのである。
我が国では、仏教家が地主神を多く護法神として仰いでいる。修験道の元祖たる役行者が、葛城山で鬼神を使役したというのも、やはり一種の地主神を護法に使ったのであった。今も大峯山中には、一寸前編に云った様に、この時行者に使役せられた鬼の子孫だと称するものが住んでいる。
地主神とは多くの寺に附き物で、ことに山間のそれに多い。比叡山の地主神大山咋神(おおやまくいのかみ)は、最澄によって山王権現として祭られている。高野山の地主神丹生津姫神(にゅうつひめのかみ)は、空海によって高野明神として祀られている。これらはつまりその寺の護法神なのである。これを人事から解すれば、畢竟前からその地に土着していた先住の民族を従えて、或いはこれと妥協して、自分の寺の保護者としたという事なのである。役行者についで修験道で名高い泰澄に関係しても、また護法神の話が多い。続古事談四巌間寺の事の条に、
此の寺の護法は熊野の権現、金峯山蔵王(きんぶせんざわう)、白山の権現、長谷寺の龍蔵権現なり。龍蔵は大徳(泰澄)彼の寺に詣でゝ帰りけるに、随逐し給ひければ、斎(いは)ひ奉るとぞ。清瀧権現は地主にておはするなり。三井寺の叡効律師といふ人、此の寺に二三年行ひて、無言にて法華経を六千部読み講じき。夜毎に三千反(べん)拝しけり。さて堂の坤(ひつじさる)の桂木にのぼりて、我不愛身命但惜無上道と誦して、谷へ身を投げければ、護法袖を広げて受取りて、露塵異かりけりと、此事一定を知らず。
とある。この文でよく我が古代における護法の思想が解せられよう。中にも加賀の白山は泰澄によって開かれたといわれる山で、その白山権現が現にまた一つの護法として、泰澄の巌間寺を守る護法達の中の一員であると信ぜられていた事と、飛騨でもことに牛蒡種の多いと言われる上宝村双六谷の地方に、この白山祠の特に多い事との間には、或る何らかの関係が見出されえぬであろうか。
護法の事はいろいろの場合に現われている。しばしば験者の手先になって、悪魔を追い払うことなどをもつとめている。宇治拾遺物語一、宇治殿倒れさせ給いて、実相房僧正験者にめさるる事の条に、
是も今は昔、高陽院造らるゝ間、宇治殿御騎馬にて渡らせ給ふ間、倒れさせ給ひて、心地違(たが)はせ給ふ。心誉僧正に祈られんとて召しに遣はす程に、未だ参らざるさきに、女房の局なる女に物憑きて申して曰く、別の事にはあらず、屹(き)と目見入れ奉るによりて、斯くおはしますなり。僧正参られざるさきに、護法先だちて参りて、追ひ払ひ候へば、遁げ終りぬとこそ申しけれ。則ちよくならせ給ひにけり。
とある。これは心誉僧正についている護法が、僧正の為に先んじて、憑き物を追っ払ったというのである。この外にも護法の事は古い物語や小説などに、送迎に遑ない位にも多く出ている。そしてその護法はこれを使役している人の為に、しばしば第三者の身に取り憑くもので、護法に憑かれた場合には、その人は甚だしく身振いするものだと信ぜられていたらしい。今昔物語十九に、左大臣藤原師尹の侍童が、大臣秘蔵の硯を破って恐れ慄く状を記して、「護法のつきたる者の様に、振ひて目も暮れ心も騒ぎて」、また同じ巻に越前守孝忠の侍の戦慄の状を記して、「早朝に此の侍の男浄めすとて、護法のつきたる者の様に振ひけるを、守見て、汝和歌読め」など見えている。この不可思議なる動作は、今も稲荷下げや験者など言わるるものが、現に行っているところで、彼らが幣帛を持ってガタガタと振るい出し、先達や信者の問に応じて、雑多の事を口走るのがすなわちこれである。この意味において狐や犬神もまた一種の護法であるが、これらの護法はみな人間以上の能力ある霊物として信ぜられたもので、諸山諸寺の護法なる地主神が、前からその地を領していた先住民族の代表者であってみれば、いずれその子孫がそこらに遺っておってもしかるべき道理である。現に役行者に使役せられたという護法の鬼の子孫が、今も大峯山中に前鬼の村人として存在しているというではないか。さればこれを人事について言ってみれば、自山を擁護して破邪折伏の任務に当る祇園の犬神人(つるめそ)の如きは、身分は低いがやはり一種の護法と云ってしかるべきものである。そして彼らは現にそれを使役する山門の衆徒の指揮の下に、しばしば反対者に打撃を与えるべく活躍したものであった、護法の子孫がなお祇園の犬神人のそれの如く、一種普通民と違った筋のものとして、世間から認められるということはありそうなことである。この意味において自分は、問題の牛蒡種は護法胤(ごほうたね)ではあるまいかと思うのである。  
四 護法祈と護法実 / 護法系統と憑き物系統
土俗の学に堪能なる柳田國男君はかつて郷土研究(二の六、四一頁)に護法童子の事を論じて、作陽志から美作の修験道の寺なる本山寺の、護法祈の事を引いておかれた。
護法社。本殿の後に在り、毎年七月七日護法の祈を行ふ。其法は性素樸なる者を択び、斎戒潔浄せしむ。俗に之を護法実(ごほうざね)と謂ふ。七日に至り東堂の庭に居らしめ、満山の衆徒盤環呪持すれば、此の人忽ち狂躍を示し、或は咆吼忿嗔して状獣属の如く、力大磐を扛(あ)ぐ。若し触濁の人あれば、則ち捕へて数十歩の外に※[抛の九に代えて尤]擲するなり。呪既に終れば、則ち護法水四桶を供へ、桶毎に水一斗五升を盛る。其人蓋く飲み終って、後俄然と地に仆れ、即ち本に復して敢て労困するなし。又自ら之を知らざるのみ。之を護法を墜すと謂ふ。
これは所謂護法実(ごほうざね)に護法が憑いた現象を示したものである。この外にも美作には、護法祈をする寺の少からぬことを柳田君は引いておかれたが、美作と飛騨と、同じく川上の山国である点において、形勢の一致しているのにも注意が惹かれる。ことにその護法祈があるという久米郡吉岡村大字定宗、龍川村大字下二箇、大垪和(おおはか)村大字大垪和東の如きは、極めて山間の地で、あたかも飛騨で上宝村を連想せしめる様な場所であるのみならず、そんな山間でない津山町の近所にさえ、高野・中山など、久しく神社に人身御供を奉る習慣があったと今昔物語に伝えられている程の美作に、それがあるのが面白い。
しかし護法祈は美作の山間ばかりではない。京都に遠からぬ鞍馬にも、今にそれが伝えられているのである。もっとも鞍馬は京都に近い所だとは云え、やはり極めての山間で、その東南一里半ばかりの土地には、かつて自ら鬼の子孫だと称した八瀬童子の後裔が、今も現に住んでいる程であるから、鞍馬の護法たる地主神が威霊をもっぱらにして、護法祈が行われるには極めて適当しているところである。
鞍馬の護法祈は毎年六月二十日の夜に行われたとある。すなわち所謂竹切の会式(えしき)で、まず十六日に護法善神社に参拝し、水場注連縄張の事、加持作法の事を行い、十八日に竹釣の行事がある。東が近江方、西が丹波方で、竹の数が各四本の設備をする。二十日の暁に至って大松明(おおたいまつ)の事、引続き竹ならし切の事、鳴鐘。午刻出仕して蓮華会を修する。すなわち竹伐修行の事で、法会、列讃、行道賛。伽陀畢って相図指揮の事、法師竹切勝負の事、竹頂戴の事という風に、いろいろの行事が数えられている。
かくて後に例の護法実を置いて、一種の恐ろしい修法をする行事が今も行われているのである。都名所図会に、「扨又夜に入って、里の俗を一人本堂の中に座せしめ、院衆法力を以て祈り殺し、又祈り活かす事あり。彼の俗人には予て毘沙門天此の事を告げ給へり。役を止むべき時にも告げ給ふ。奇妙不思議の事多かりき。秘して語らず」とある。秘密にしておいて詳しく語らねば、諸書の記事いずれもこの以上の事には及んでいないが、郷土趣味六号に佐々木嘯虎君の「鞍馬の竹切法会」というのがあって、それにはやや委しく見えている。
六月二十日夜戌の刻堂内の明を消して、生贄にする僧(貞云、名所図絵に俗とあるは古い式で、後には僧を以て之に代へたものか)を座せしめ、衆僧も暗中に居て、代る/\陀羅尼や神呪を大声に唱へて、彼の僧を一時祈り殺す。こゝに至つて護法神は人味を受納せられたといふので、これで、法式が終る。その死んで居る僧を板に載せて、堂の後に舁(かつ)いで行つて、大桶七つ半の水を注ぎ流して、身にかけてやるとやがて蘇生する。そこで裸体のまゝ護法宮に参詣する。之を護法附の行といふのであります。今日では此僧を祈殺し祈活かすといふ様な、法力実験の事は致しませぬ。
とある。美作の護法実が水を飲んで正気に戻るのとよく似た行法で、狐憑きや犬神憑きの患者や、稲荷下げなどの挙動と甚だよく似ているのである。
この鞍馬の護法善神社は、本堂の後右の閼迦井(あかい)の辺にあるので、地主神たる大蛇を祭ったのだとある。昔峰延上人この山で修法の時、後山から雌雄の大蛇が出現したが、上人の法力で雄の方がずたずたに切れた。所謂竹切の会式は、その大蛇の切れた形を取って修するのだという。上人その雌に向って、我れこの山にて秘法を修するに、閼迦(あか)の水を求めんとす、汝この山を守護すべしと云ったところが、たちまち清泉湧き出でた。これ今の閼迦井である。すなわちその大蛇を祭って、今も閼迦井護法堂とて小さい堂があるのだというのである。(俗説には峰延上人を鑑真だと云っているが、古くその説はない。)
本号所載宮武省三君の憑物雑話の中に、南洋にも全くこれと同じ様な行事のあることが見えているが、かくの如きことは古今東西を通じた心理状態の一種の発露で、それが護法の所為であるならば、所謂憑き物はやはり護法の所為というべく、憑き物系統はすなわち護法系統であらねばならぬ。所謂護法に関する思想は、かく種々の形になってあらわれてはいるが、結局はそれが地主すなわちその地の先住民と妥協して、これを護法に使役するというのであってみれば、ここに自ずからその子孫なる、護法系統の存在が認められる訳である。すなわち「護法胤」なるものが存在する所以である。  
五 護法と天狗 / 天狗は一種の魔神
鞍馬では右の護法堂の大蛇以外、別に天狗という名高い護法のあることを忘れてはならぬ。所謂魔王大僧正を始めとして、霊山坊・帝金坊・多聞坊・日輪坊・月輪坊・天実坊・静弁坊・道恵坊・蓮知坊・行珍坊以下、名もない木の葉天狗・烏天狗の末に至るまで、御眷属の護法が甚だ多いので、一とたび足を鞍馬の境内に入れたものは、何人もたちまち天狗気分の濃厚なるを感ぜぬものはなかろう。寺伝によると所謂魔王大僧正は、当寺の本尊毘沙門天の化現だともある。しかし天狗はひとり毘沙門天を祭った鞍馬のみのことでなく、他の名山霊嶽にも、同類の護法の信仰は甚だ多い。そしてこれらはやはりその地の地主神すなわち先住民の現れと見るべきものであろうと解せられる。
加賀の白山の天狗は鞍馬寺所伝天狗神名記によるに、白峰坊大僧正というとある。そしてその下には正法坊という眷属天狗の名も見えているが、無論その外にも配下の天狗達は甚だ多いに相違ない。何しろ日本の天狗界には、部類眷属族合して十一万三千三百余というのであるから、後世にその名は伝えられずとも、有象無象の天狗達の各地に多かったことは言うまでもない。
護法としての天狗達は、その所属の社寺を護り、またしばしば牛若丸に剣法を授けた鞍馬の僧正坊の様に、真面目な事もやってはみるが、もし一朝その怒りにでも遇おうものならば、たちまち八つ裂きに引き裂かれて樹の股にかけられたり、或いは恐ろしい罰に苦しめられたりするものだとして怖れられていた。ことに鎌倉時代の思想では、その恐ろしい方面のみが頻りに宣伝せられて、鞍馬の天狗の大将が魔王大僧正と呼ばれている様に、本来護法であるべき筈のものが、いつしか仏法の妨げをしたり、或いは人間に憑いて世の中を乱す魔神として見做されていたのである。源九郎義経が後白河法皇に逼(せま)って、兄頼朝討伐の院宣を強請したについて、法皇やむをえずこれをお許しになったところが、頼朝の憤慨甚だしいのに恐れをなし給い、これを慰諭し給うべく、義経のこのたびの事は、全く天狗の所為だと仰せ出された。これに対して頼朝は、日本第一の大天狗は他にあらざるものかと言って、法皇がその世を乱す天狗の大将であるとの意を述べた事が吾妻鏡に見えている。
天狗はかく恐るべきものとして信ぜられたから、人間はなるべくこれに親しまず、これを畏怖敬遠するの途を取る。飛騨の上宝村において、白山を祭った氏神の社に詣でた氏子一同の人々が、毎年茅輪を潜って後をも見ずに遁げて帰るというの行事は、言うまでもなくこの恐ろしい護法の天狗に捕えられるのを免れんとの作法であろう。しかもその氏子達は、さらに他からはこの恐ろしい護法の眷属くらいに見なされて、なるべくその護法胤には触らないようにと敬遠せられるに至ったのではあるまいか。  
六 牛蒡種は護法胤 / 鬼の子孫と鬼筋、鬼と天狗
大分護法の研究に脱線したが、いよいよこれから問題は飛騨の牛蒡種に戻る。
所謂牛蒡種の本場なる上宝村双六谷が、もともと護法なる天狗の棲処(すみか)であったということは、果していかなる意味であろうか。山城北部の八瀬の村人は、かつては自分で鬼の子孫であることを認めておったもので、それは村人自身の記した八瀬記にそう書いてあるのだから間違いない。そしてその子孫を今に八瀬童子と呼んでいるのは、先祖の鬼を護法童子と見做しての名称であるに相違ない。かの酒呑童子や茨木童子の「童子」という名前も、やはり鬼を護法童子と見てからの称呼であるのだ。しからば八瀬人また一つの「護法胤」と見てよいのであろう。しかし鬼の子孫というものはひとりこの八瀬童子のみには限らぬ。大和宇智郡の鬼筋の事は本誌二巻三号(四〇頁)に、田村吉永君が報告しておかれた。それによると、五条附近の安生寺垣内(あんじょうじかいと)に十四五軒、表野・丹原・池芝などにも一二軒宛あるという。これらは三月五日の節句の行事などにも、普通の家筋のものとは幾らか違った作法があるそうな。安生寺縁起によると、同寺の国生明神は地主神で、これが為に役行者(えんのぎょうじゃ)が鬼面を作って国生の祭を始めたとあって、ここの所謂鬼筋はその地主神の子孫であるらしい。また今西伊之君の談によると、同国字陀郡[「同国字陀郡」はママ]の篠楽(ささがく)や足立(あだち)、また磯城郡の白河(しらが)などにも、同じく鬼筋というのがあるという。この鬼筋の事については、かつて本誌二巻六号(一七頁以下)「祭礼の行列に出る鬼」という文中に説いておいた事があり、また五巻二号(一四頁以下)にもいささか論及しておいたから、今くどくどしくそれを繰り返しは致さぬが、つまりは里から遠く離れて住んだ地主たる先住民の或るものが、里の文化の進歩や生活の向上に伴わなかった結果として、だんだん生活風俗等について里人との間に著しい差別を生じたので、ついには彼らは人間以外の非類である、或る特別の霊能を有する鬼類であると信ぜられる様になり、地主側の方でもまた時にはそれをよい事にして、所謂鬼を標榜して民衆の畏敬を受け、渡世のたずきとなしていたものもあったが為に、ついに全く筋の違うものと見做されるに至ったのであろうと言うのである。現にかの八瀬童子の如きは、本来筋の違う山人の子孫であるという事を以て、御所に薪炭を供給し、駕輿丁にも採用されたので、後の世までも一種変った伝説と風俗とを保持し、御所と特別の関係を有していたのであった。そしてそれが霊的の或る能力を有するものとして認識された場合に、或いは護法筋ともなり、その他陰陽筋・神子筋・禰宜筋などと言われて、卜筮祈祷者等の徒ともなるのである。異民族がある霊的の能力を有すると信ぜられた事は、南北朝の頃にまでかのアイヌなる蝦夷の族が、霧を起し風を起すの術を有すると信ぜられたが如きものであって、その例は他の民族にも甚だ多いのである。そしてそれは多く先住民の系統に属するもので、神武天皇御東征の時に、大和の土人に猪祝(いのはふり)・居勢祝(こせのはふり)などという土蜘蛛がいたとあるのもこれである。これけだし祝部(はふりべ)すなわち神と人との間に立って、霊界との交通を掌(つかさど)る能力あるものが、土人すなわち地主側のものの後裔に多く存する事を示したものと解せられる。
我が神代の古伝説によっても、天津神系統の天孫民族は現界(うつしよ)を掌り、国津神系統の先住民族は、幽界(かくりよ)の事を掌ると信ぜられていた。大国主神が国土を天孫に譲り奉ったというのは、実は現界の統治権のみであって、神事幽事はやはり保留しておられたのであった。この神が医薬禁厭の元祖として伝えられているのもこれである。そして大国主神は、一に大地主神とも言われて、実に我が国の地主神の代表者とますのである。そしてこの神が親(みず)から神事幽事を掌り給い、ことにその魂を大和の大三輪の神奈備(かんなび)に鎮め、その御子神達をもそれぞれに大和各所の神奈備に鎮めて、皇孫尊(すめみまのみこと)の近き護りとなり給うたということは、その一族挙げて我が皇室の為に、護法神の地位に立たれたという意味に解せられるもので、以て所謂地主側の先住民と、「おおみたから」として天孫民族の仲間となったものとの関係が察せられよう。
勿論地主側のものがすべて山人となったものではない。またその山人のすべてが後世鬼と言われたものではない。中には疾(はや)くに足を洗うて里人に同化し、所謂オオミタカラになってしまっているものが多数にあるには相違ない。それと同時に山人ばかりでなく、海岸島嶼に離れて住んだ海人(あま)の徒が、またしばしば鬼と呼ばれていた事は、かの鬼が島の童話や、能登の鬼の寝屋の話や、今も出雲の北海岸の漁民を俗に夜叉と呼んでいることからでも察せられ、今も僻地の住民の中には、一村こぞって他と縁組せぬという村落が所々にあることによっても推測せられるのである。そしてこれら山人や海人の中の或る少数の者が、何らかの都合で後世までも幽界に出入りするの能力あるものと認められているのであるが、今はその問題の錯雑に流れるのを避けて、しばらく主として山人の側のみについて説をなしているのである。
鬼の伝説が各地に多く遺っているのと同じ様に、天狗の伝説もまた各地に多い。鬼が嶽・鬼が城などの地名が各地に多いとともに、天狗嶽・天狗城などの地名もまた各地に多い。つまりは鬼も天狗も、もとは同じく山人の或るものについて呼んだもので、祭礼の行列に出る鬼の代りに、天狗の面を被ったものの出る場合の多いのも、猿田彦神の嚮導という解釈以外に、やはり山人参列の名残りを止めたものと解したい。
鬼が護法である様に、天狗もまた護法なのだ。そして飛騨の牛蒡種が、天狗の棲処なる双六谷にその本場を有しているということは、この意味からして了解されるものではあるまいか。天狗は一つの護法であると同時に、また鬼と同じく或る霊能を有して、人間に取り憑いて災いをなす事があると信ぜられているものである。この思想は今昔物語を始めとして、中古の物語にはうるさい程見えているのである。そしてこの双六谷の牛蒡種と呼ばれる人々が、やはり他からは人に憑くものと認められているのであってみれば、それが護法胤すなわち護法たる双六谷の天狗の子孫として、他から認識された結果であると解して、名実ともに相叶うものではあるまいか。
元来飛騨は山奥の国であって、なお大和吉野の山中に国栖人(くすびと)と呼ばれた異俗が後までも遺っていた様に、また播磨風土記に同国神崎郡の山中には、奈良朝初めの現実になお異俗が住んでいたとある様に、ここでは中古の頃までも、未だ里人に同化しない民衆が住んでいたのであった。弘仁元年の太政官符にも、「飛騨の民は言語容貌既に他国に異なり」とある。彼らは所謂飛騨の工(たくみ)で、農業の代りに木材の扱いに慣れていたが為に、その慣れた木工の業を以て賦役に当て、調庸の代りに工(たくみ)として京都へ番上したのであった。しかるにその飛騨の山国へもだんだんと里人が入り込んで、土地を開墾し、先住民もまたこれに同化して、次第に農民に変って来たが中に、特に山間に僻在して同化の機を捕えそこなった或るものが、比較的後までも異俗として原始的の生活を継続し、自然に筋の違ったものだとして里人から差別的の目を以て見られ、はては山人である、天狗であるとして、恐れられるに至ったのはけだし自然の趨勢であらねばならぬ。かくてそれがついに天狗の子孫とも呼ばれ、護法の胤であるともして認められるに至ったに無理はない。また彼らも時としては、自己生存の便宜上から、世間のその迷信を利用することも或いはなかったとは言われない。かの英邁なる白河法皇を閉口せしめ奉った叡山の山法師は、何人も抵抗し難い呪詛という武器を持っておったのであった。それが為に彼らはかなり無理な希望をでも、しいて押し通すことが出来たのである。所謂護法胤の人々が、これを有力なる武器として社会の圧迫に抵抗し、山間に安全なる幽棲地を保有しえたことはこれを想像するに難くないのである。
かくの如きはひとり飛騨にのみ認められるのではない。各地に同様の経過をとったものが、けだし少からなんだに相違ない。しかるに彼此(ひし)の人口漸く増加して、これまでまるで別世界の変った人類であるかの如く考えられていたものも、だんだん境を接して住まねばならぬ事となる。狩猟や木の実の採集のみで生きていた従来の山人も、それでは食物不足とあって農耕の法を輸入する。次第に里近くまで出て来る様になる。里人もだんだん狭隘を感じて、次第に山人の範囲に割り込んで来る。はては同じ一と村の中に双方雑居することともなる。所謂地主筋のものも、客筋のものも、同一の場所で同一の生活をすることとなるのである。かくて今まで風俗や生活の上に著しい差違があって、全く変ったものの様に思いつ思われつしていたものも、いつしか同じ風俗となり、同じ生活を営むこととなってみれば、鬼の子孫も、天狗の子孫も、普通の人間と何ら違ったところはない。ただ違うところは「筋」を異にするというのみで、所謂鬼筋や護法胤はかくの如くにして、他の点ではすべて融和した同一人民の間にあっても、永くその「筋」の区別を保存するの傾向を免れ難いものなのである。そしてその中でも特に祖先の有した不可思議力が伝統的に信ぜられたところに、所謂「物持筋」すなわち憑き物系統が認められるのである。
中について飛騨の牛蒡種は、名そのものが既に護法胤であることを表わしている様に、実に双六谷の如き魔界に住んだ護法天狗の後裔として、子孫の末々に至っても或る特別の能力を有するものと誤解せられ、今に至ってはなお筋の違った者として、頑強に他から区別さるるに至ったのであろう。
しかし護法胤という名称もひとり飛騨ばかりの特有ではなかったらしい。他の地方において同じ経過をとったものは、多くはそれぞれに異った名を以て呼ばれているが故に、世人からは全くこれらと別物の如くに考えられてはいるが、それらの中には同じ護法の名を以て呼ばれたものも、昔はけだし少くなかったのである。安永年間の安芸国佐伯郡観音寺村林小六所蔵文書弾右衛門支配下の四十八座(「公道」雑誌所載、大江天也師の「旧賤民の由来」所引)というものの中に、陰陽師や神子(みこ)などと並べて「山牛蒡」というのがある。広文庫所収穢多巻物の中には、それを「山野御房」とあって、これは大宝元年綸旨によって許されたとある。これらの文書が附会もとより取るに足らぬものである事は明らかであるが、ともかく陰陽師や神子などの徒とともに、かつて「山牛蒡」もしくは「山野御房」と呼ばれた一種の人民が、所々に存在していたことは疑いを容れない。自分がはじめ広文庫所引の「山野御房」を見た時には、これ或いは山住の御坊(おんぼう)、すなわち俗に所謂隠亡(おんぼう)の徒ではなかろうかとも考えてみたのであったが、一方にそれを明らかに「山牛蒡」と書いてあってみれば、疑いもなくこれは山の護法で、飛騨の牛蒡種と同一名称のものであることを信ぜざるをえなくなった。そしてそれは飛騨の牛蒡種という様な、或る局限的の固有名詞ではなくして、陰陽師や神子と同じく普通名詞であるところに、その普遍的の名称であった事が知られるので、所謂護法筋と認められたものが、所々に存在した事の証拠たるべきものと信ずるのである。勿論護法筋のものが必ずしもことごとく憑き物系統として、いつまでも区別せられたと言うのではない。それは大和の鬼筋や山城の八瀬童子について、何らその様な信仰のないと同様である。しかし八瀬人が八瀬童子と呼ばれるその名の根原が、果して護法童子の意味であるならば、彼らもかつては或る霊能を信ぜられたのであったであろうが、それは後世忘れられて、その名称のみが残っているのかもしれぬ。ただその中にたまたま飛騨の牛蒡種のみが、何らかの関係から強くこの誤解を受けたのであろう。それはこの人達にとってまことに迷惑千万なことと同情に堪えないのであるが、或いはこの人達の先祖が里人の圧迫に対して、自ら護法の胤(たね)であることを標榜して、自衛の道を講じたことが子孫に累をなしたのであったかもしれぬ。  
七 霊物を使役する憑き物系統 / 自分で憑く物と人に使われて憑く物
牛蒡種の外に狐持・外道持・犬神筋等、各地その名称を異にし、また幾分その憑依の現象をも異にするものの甚だ多いことは既に述べた。しかし実際上これら各種の憑き物の間にそう著しい区別のないことは、本号に紹介した各地の報告に見ても極めて明白な事実である。ただ飛騨の牛蒡種のみは、人そのものが直接に来て他人に憑依すると信ぜられ、他の憑き物系統のものは、その系統の人の使役する或る霊物が来て、他人に憑依するという点において相違があるのみである。すなわち飛騨の牛蒡種は人そのものが直ちに護法であり、普通の物持筋は、その有する護法が他に憑くという点において相違あるのみである。
およそ物が人に憑くというには、或る霊能を為すものが直接に出て働くか、或いは他の人に使役せられた霊物が来て働くか、この二つの場合以外にはないのである。かの鬼神・生霊を始めとして、狐・狸・貉、猫・蛇などの動物の類が来て憑くというのは、この第一の場合である。犬神使い、外法(げほう)使(つか)い・狐持、外道持(げどうもち)などいわれるものは、この第二の場合である。古い物語や口碑に存するところでは、昔は別に他の紹介を要することなくして、霊物そのものがただちに来て人間に憑くと信ぜられたのが多かった様である。しかしながら、鬼神にしろ、生霊にしろ、また狐・狸・貉・猫・蛇の類にしろ、そう訳もなく人に取憑いて悪戯をする道理もない。したがって人間の方で前以て用心してその怒りに触れず、その恨みを買う様な事を仕出かしさえせねば、これらの憑き物に対してはまず以て無難であると謂わねばならぬ筈である。ことに世の中が開けて、狐狸妖怪の棲処が人間近くに少くなり、またこれらのものがそう無暗に人間を誑(ば)かすという様な思想が減じて来ては、物の怪(け)の災いは多くは噂ばかりであって、実際にはそうたびたびあるものではなくなって来る。そしてそれよりも恐ろしいのは、かえって同じ仲間の人間だとなって来るのである。ことに所謂「筋」を異にして、平素あまり接触の機会もなく、何となく心を置かれる様な人間が最も怖い。ことにそれが或る霊物を使役すると信ぜられたものである以上、自分には意識せずとも、いつどこでどんな恨みを買って、その霊物を追いかけられるかもしれないのである。かくて全く偶発の疾病災禍の場合にでも、しばしば原因をここに求める。その結果としてその伝統が暗示を得た精神病的被害者は、ここにとんでもない挙動を現わしたり、思いもよらぬことを口走ったりするものであるから、これを見た単純な頭の人々は、わけもなくただちにそれに極(き)めてしまうのである。かくてその人が仮に「物持」であると認められた以上、その系統のものに対しては皆一様に警戒せねばならぬ事となる。ここにおいてか物持筋すなわち憑き物系統を恐るるの観念は、遂に世人の頭に染みついて容易に除去し難いこととなるのである。
人に使役せられる霊物にも、生あるものとないものとの区別がある。昔は多くは或る呪詛を施した動物の頭蓋骨や、時としては所謂外法頭(げほうあたま)の人の頭蓋骨を秘蔵して、それに祈って第三者に災いを与えるという思想の方が多かったものの様である。或いは一種の護符の類、その他守護神として肌身離さず所有する木偶・土偶の類に祈って、所謂禁厭咒詛の法によって、第三者に禍いを与えうるものだと信ぜられた場合が多かったのである。しかしそれはその霊物とその禁厭咒詛の術を伝えられたもののみに、その効能が継承されるのであって、その伝えを失った場合には、その憑き物は通例消滅してしまうべき筈である。したがってこれらは必ずしも子々孫々にわたって、所謂筋をなすものではない。しかるにその霊物がもし生あるものである場合には、当人の子孫が繁衍するとともにその霊物も子孫を殖やして行く。所謂七十五疋の眷属などと言われるものが、人間の目にこそ見えね、その血筋の人の数だけは、常に増殖してついて廻っているものだと信ぜられるのである。したがってここには立派に物持筋が成り立つ。山人や海人など、地主側の同化の機に後(おく)れていた人々と里人との間に、接触が多くなればなる程この問題は頻繁に起って来る。勿論これらの接触の場合において、その地主側のものが常に物持筋となるには限らぬ。現に阿波の広筋・狭筋の様に、ただ「筋」が違うというだけで、通婚の場合にのみ問題が起るに止まる程度の場合もあり、全くその区別が忘れられて、全然同化融合してしまった場合も最も多いのであるが、それが何かの都合で霊能あるものとして憚られた場合において、所謂物持筋は立派に成立するのである。この以外祈祷卜筮等を渡世とする浮浪性の陰陽筋・神子筋・禰宜筋などのものが、足だまりを得て土着した場合において、そのある者がしばしばその仲間として他から見られる結果、いつしか物持筋になる場合の少からぬことは言うまでもない。  
八 結論 / 憑き物系統と民族問題
自分の物持筋すなわち憑き物系統の起原に関する解釈は右の通りで、大抵は里人たるオオミタカラが先住民に対して有する偏見に起因するものだと信ずるのである。かく言えばとて彼らがあえて里人とその民族を異にするという訳ではない。自分の考察するところによれば、所謂オオミタカラなる里人といえども、その大部分はやはり国津神を祖神と仰ぐべき先住民の子孫である。ただ彼らは早く農民となって国家の籍帳に登録せられ、つとに公民権を獲得したが為に自らその系統に誇って、同じ仲間の非公民を疎外するに至ったに外ならんのである。一方公民権獲得の機を逸して、比較的後の世までも帳外浮浪の民として遺ったものでも、いつしか里人の文化を享得して一定の住所を有し、所謂「新に戸に編せられ」て農民となったものは、大抵は全く区別のないものになってしまっているのである。また最後まで取り残されたものでも、そのすべてが他から異なった筋のものだと認められると限った訳ではなく、おそらくその多数はもとの素性を忘れられて、全く同一のものとなってしまっているのである。ただその中において何らかの事情から貧乏鬮(くじ)を引き当てた、最も不運のもののみが、或いは鬼筋だの、護法胤だのと呼ばれて、他から差別的の目で見られる事になるのであるが、それでもなおそのすべてが物持筋として憚られる訳ではない。ただ「筋」が違っているということの為に他から通婚を忌まれ、或いは他からこれを忌まれる前にまず自ら他と婚するを拒む様なものも少くない。ことにそれは山間海岸の僻陬村落に往々見受けられるのである。或いは自らこれを拒む意志はなくとも、他からあまり近づいて来ずして、自然に姻戚的交渉を開かない部族も各地に少くない。しかしそれが為に今日そう彼此(ひし)の間の社会的地位に差別があるでもなければ、恐ろしいものとして憚られているもののみでもない。かの飛騨の牛蒡種の如く、一村民ことごとく憑き物系統だと見られているが如きはよくよくの場合である。もっとも雪窓夜話にも、中国の或る村々は一村ことごとく犬神持だとある様に、他にもそんな例がまんざらない訳ではあるまいが、大抵は「筋」を異にしながら同じ村内に雑居して、他からアレだと指斥される場合が多いのである。そしてその中の最も不運なものが、物持筋として疎外せられているのである。しかもその物持筋だとして疎外せられるもの、必ずしも皆同一系統という訳でもない。中には急に資産が殖えたが為に、他から疑われて誰言うとなくその筋にされてしまうのもあれば、人に恨みを買って中傷された結果、ついにその仲間にされるのもあり、ことにたちの良くない祈祷者などの口から、或いはその祈祷者の暗示をうけた精神病者の口から、本人が一向思いもよらぬ間にその仲間にされているのも甚だ少くないのである。またその物持筋は結婚によって他に伝播すると信じられたが故に、従来全くのシロであったものまでも、その筋のものと結婚したが為に遂に仲間にされたというものが甚だ多く、なお阿波の広筋・狭筋の関係において、広筋のものが次第に殖えて行くと同じ様に、物持筋も次第に殖えて行くのである。現に出雲においても、村中の住民の過半が狐持であって、所謂白米のものは比較的少数だというのが少くないのである、さればこれを民族的に論ずれば、本来彼此の間に何ら区別のないものであって、したがってこれを疎外すべき理由は毛頭存在しないものである。しかも今においてなおこれを区別するということは、まことにたわいもない事の様ではあるが、しかもこの僻見が容易に除去されずして、特に出雲地方の如く頑強にこの僻見を保持している所のあるのは、大正時代の恨事であり、またその地方民の恥辱であると謂わねばならぬ。既にも言った如くもし結婚の際などに警戒すべき「筋」がありとしたならば、それは憑くと言われる所謂「物持筋」の側ではなくて、自ら憑かれたと信じてとんでもないことを口走る様な、神経中枢のどこかに幾らか欠陥のある患者筋の側になければならぬ次第である。  
 
 
富岡八幡宮事件
 2017/12/7

 

■富岡八幡宮 富岡茂永容疑者が犯行前に送った手紙
7日夜、東京都江東区の富岡八幡宮周辺で、宮司の富岡長子さんと運転手の男性が弟の茂永容疑者とその妻に刃物で襲われ、神社関係者男女4人が死傷した事件。これまでの捜査で、茂永容疑者の姉・長子さんへの恐ろしいまでの憎しみが次々と明らかになる中、一際注目されているのが、茂永容疑者が事件直前に富岡八幡宮の氏子宛てに投函したとみられる長大な手紙だ。すでに各報道機関により一部公開されているが、この度、トカナでは便箋8枚、述べ1万文字以上にわたる手紙全文を独自に入手、無料で全公開することにした。茂永容疑者の抱えていた闇をしかとご覧頂きたい。
言葉の過激さとは裏腹に落ち着いた筆致で、延々と姉・長子さんを含めた家族への恨みが綴られている一方、自身については、数々の嫌がらせや誹謗・中傷に負けずに如何に富岡八幡宮の復興に尽くしてきたかを伝えるヒロイックな叙述に終始している印象が強い。冒頭で「富岡家の内紛について、その真相を此処にお伝えさせて頂きます」と述べてはいるが、ここに書かれていることが100%真実だと受け止めることは到底できないだろう。たとえ、茂永容疑者の言葉が真実であるとしても、実の姉、そして妻の命を奪う理由にはならないことは言うまでもない。(以下手紙本文)
ご関係の皆様
富岡八播宮 元宮司 富岡茂永
富岡八幡宮及び富岡家の内紛、お家騒動、歴代宮司(宮司代務者)の数々の不祥事につきましては、氏子崇敬者を始め、神社界の皆様、ご関係各位に、長期に亘り多大なるご迷惑と、ご心配をお掛け致しました事、衷心よりお詫び申し上げます。
さて、先ずは約30年に亘り続きました、富岡家の内紛について、その真相を比処にお伝えさせて頂きます。私の姉で現在の宮司(宮司代務者)である富岡長子は、中学生のときから、シンナーや覚せい剤、男遊びなどに溺れ、高校にも行かず、錦糸町の喫茶店等で、ウエイトレスのアルバイトをしながら、家出同然の生活をしておりましたが、20歳の時に喫茶店の客として来ていた国鉄勤務の男性と結婚し、一児をもうけました。しかしその異常なまでに激しく、乱暴な性格から、子供を捨て出戻って来る事になりましたが、中学しか出ていない姉を雇ってくれる会社もなく、当時宮司であった父の興永が神社の経理をさせる事にしたのです。当時の私は、大学を卒業後、皇學館大學の専攻科を修め、富岡八幡宮の権禰宜でした。(私と姉は1学年違いです)姉は名目上神社の事務員でしたが、仕事は殆ど他の事務員に任せ、大検の学校やその後、大学夜間部に通っておりました。身内と言う事で、父も上司である私も黙認しておりました。その頃には、父親の躁うつ病が悪化し、殆ど父が仕事を出来なかった事もあり、私は禰宜から権宮司へと昇進し、実質上、神社の運営を任されていました。そんな中でも、殆ど勤務実態のない姉に肩書を付けてあげたり、給料を他の職員水準より高く出したりと、随分と面倒を見てやりました。【実際は姉の立場と、経理の立場上知り得た私の弱み(交際費)等を悪用し、大声で怒鳴る等の強要・脅迫・恐喝の数々でした。】
私が神職になりたての頃、父は神社界で非常に評判が悪く、大事なお祭りをさぼったり、1年に2〜3日しか神社に出社しなかったり、神社界の活動にも殆ど顔を出すこともなく、興永の代理で私が神社界の会合に出席した時や、事ある度に、他の神社の宮司から、父の嫌みや苦情を言われていました。私の祖父富岡盛彦は神社本庁の総長まで務めた人間でしたので、いつも祖父と父を比較され、「お前のオヤジは・・・。」と言われ、それは悔しい思いをさせられました。私は、いつか神社庁の庁長になって、富岡八幡宮と富岡家の栄光を取り戻そうと、死に物狂いでした。神道青年会の活動や関係諸団体のあらゆる活動に、出来る限り参加し、神道青年全国協議会の理事や東京都神道青年会の会長を務めるようにもなり、日本一の黄金神興を造り盛大な納受式を執り行う等、徐々に富岡家の力が回復してきました。元々神主が嫌いで、仕方なく務めていた父は、平成6年夏頃より持病の躁鬱病が悪化し、薬と飲酒の影響もあり幻覚・幻聴に悩まされ、「宇宙人が来た」等と意味不明な事を言うようになり、次第にエスカレートし、ついには、他人の部屋に押し入り、寝ていた赤の他人に小便を掛ける。暴れる等の犯罪行為に及ぶようになり、富岡八幡宮の職員(現在の鹿島神宮の天海禰宜・熱海の来宮神社の雨宮君等)とともに父興永を取り押さえ、精神病院へ入院させたのでした。病院では檻の中に隔離収監され、精神分裂症との診断でした。この事は外部に一切極秘とし、暫く家族で見舞いを続けていましたが、医師より改善の見込みがない事を告げられ、富岡家存亡の危機でもあり、仕方なく家族会議の結果、父は高血圧で宮司の重責に堪えられないと、総代や氏子、神社界等に発表し、引退させる事になり、急遽私が宮司に就任する事となったのですが、この頃から私の元へ、脅迫文が送られて来るようになり、また神社庁等にも私を誹謗中傷する怪文書が出回るようになったのです。脅迫文の内容は、「父親を精神病院に閉じ込め、神社の乗っ取りを企み・・・」と、家族と、ごく一部の職員しか知らない内容でしたので、私は姉の仕業と思い、姉に脅迫状を見せ、今度また脅迫状が届いたら、警察に届ける事を告げると、脅迫状は届かなくなりました。
私は3ケ月間の宮司代務者を経て、平成7年3月に33歳で正式な宮司となりましたが、66歳の若さで、ただの隠居では父が可哀そうだったので、私の正式な官司の辞令に合わせて、父興永の名誉宮司の称号を申請しておいたので、私の宮司と父の名誉宮司の就任式を同時に行う事が出来ました。医師より改善の見込みがないと言われていた興永でしたが、精神病院に収監されている間、強制的に禁酒させられ、抗うつ剤の投与等が功を奏し、また宮司の重責から解き放たれた解放感も手伝い、日常生活に支障のない程度まで回復していたので、家で通常の生活が出来るようになったのですが、宮司であった頃には、神社の財産で数億円の株の売買を繰り返し、何億もの損失を出し、また総額十億円を超える骨董を購入していた父にとって、自由に神社の財産を使えなくなった事は非常に不満のようでした。(将来的に、本殿や社務所の建て替え、結婚式場の建て替え等に莫大な費用が掛かるのに、何ら必要のない株や骨董に巨費を投じるなど、正気の沙汰ではないので、私が株や骨董の購入を禁止したのです。)また、母親(神社職員)もそれまでは、私的な買い物も経理の長子に命じて神社の経費として処理していたものが、いちいち私に許可を受けて、経費で落として良いものなのか、私的に支払うべきかのお伺いをたてなければならなくなり、非常に不満そうでした。
そうしたことから、次第に父も母も宮司である私に内緒で、勝手に長子に領収書を渡し、長子がそれを私に無断で、神社の経費として処理するようになったのです。私は何となく気づいていたのですが、ロータリークラブ始め、外部の多くの役職を兼ねていて、殆ど留守をする事が多く、多忙を極めていた事もあり、また親兄弟のことでもあり、黙認しておりました。
姉の大学卒業が近くなると、突然青山学院大学の杉浦勢之教授と結婚するから、豪邸(社宅)を建てて欲しいと言われ、大変困惑しましたが、姉が幸せになってくれるなら、と考えた部分もあり、また実際には相当強引に要求され1・2階が独身寮で3.4階が姉夫婦の専用スペースで、3・4階だけ専用エレベーターの付いた相当に賛沢な社宅を建ててやりましたが、結局姉がそのヒモ男と人籍する事は無く、私も家族も職員も騙されたのでした。姉と杉浦とか云うヒモ男専用スペースが150平米に駐車場もあり、建物だけでも1億2千万円でした。
土地代を含めれば2億5千万円にもなる豪邸です。これはれっきとした詐欺罪です。私が辞任後にその杉浦とか言う教授とは破綻し、姉長子はその後暫くの間、新宿のホストクラブに通い豪遊していたそうです。姉は、私の少年時代の暴行容疑(実際には無罪です)で逮捕された事件(家庭裁判所の審判で無罪になっています)をネタに、暗に私を脅迫し、無理難題を強要し・恐喝を続けたと言うのが真実です。
私の最大の失敗は、父の興永を信用して責任役員にした事でした。まさか長年父を補佐し、お家の危機を救った私を騙し、クーデターを画策するなど夢にも思っていなかったからです。長子は夜間大学在学中に教員免許を取得し、卒業後は教職に就くと言っていましたが、それも嘘で、卒業すると、国学院の夜学に神職の資格を取りに通い始めました。そして長子の卒業が近くなると、長子が卒業と同時に禰宜(大幹部)にしろと言い始めたのです。実習生・出仕・典仕・権禰宜・禰宜・権宮司と境内掃除から着実に一歩一歩昇格してきた私には到底受け入れられない要求でした。しかも、私には「実習生からやれ、5年したら権禰宜にしてやる」と言っていた興永までが、長子が明階(神職資格)を取ったら、禰宜にしてやれと言い出し、不穏な空気を感じずにはいられませんでした。そしてその私の嫌な予感は的中したのです。私が36歳の時です、当時全国最年少で2級上(紋の入った紫の袴の着用が許される身分)の辞令を受けた翌日に、青年会幹部の神社等に私を排誇中傷する怪文書が出回ったのです。私は知り合いの警視に相談し、警視庁捜査2課長を紹介してもらい、相談に行きました。そして、その怪文書や脅迫状を見せ経緯を話すと、2課長は、直ぐに、これは明らかに長子の仕業ですが、ご両親も必ず1枚噛んでいる事を覚悟してください。と言われました。被害届を出すのなら、直ぐに受理して対処しますが、長子の他に両親も名誉棄損・脅迫等で逮捕になりますが、それでも構わないと言うのであれば、動きますが、どうされますか?と決断を迫られました。姉と両親が逮捕されれば、神社の名前にも傷がつくし、家族が崩壊してしまうと考えた私は、被害届を出すのを諦め、2課長からの口頭での注意に留めたのですが、これが逆効果でした。そして、その日から富岡家の全面戦争が始まったのです。姉と妹と両親は、身内を警察に売ろうとした恩知らず、と私を罵り、神社界や氏子達に私を謙誇中傷する怪文書が大量に出回り始め、それと並行して、長子が中心となり、私を辞めさせるためのクーデターが画策され、富岡長子・富岡千歳(小林千歳)・富岡興永・富岡聰子・丸山禰宜(現在は権宮司)等、私が辞めれば得をする人間対、私と再婚したての妻真里子との戦いと言う構図でしたが、無実とは言え、少年時代の逮捕歴や、長年に亘る長子の盗聴や盗撮、素行調査等々と、経理伝票の全てを握られ、怪文書の配布や噂話の流布等を実行し、こちらの弱みを握っている、欲に目のくらんだ卑劣な人間達対、家族を信用して、任せていた私とでは、所詮勝負にならないのは明らかでした。中でも許せないのは、神社界に大量にばらまかれた怪文書の件です。普通なら匿名の訓誘中傷文書など、相手にしないのが、社会の常ですが、何と私の両親と長子は、わざわざ東京都神社庁まで出向き、宮西庁長に対し、茂永の怪文書の件で、神社界をお騒がせして申し訳御座いません。あそこに書かれていることは、事実ばかりなのです。と、デタラメが書かれた怪文書を神社界に事実であると、流布した事です。そして、茂永の犯罪が明るみに出てしまった以上、宮司を続けさせる訳にはいかないので、健康を取り戻した、興永を宮司に戻したいともちかけ、その言葉を真に受けた、宮西氏は、興永らの画策に引っ掛かり、私を神社界から追放する手伝いまでしたのです。
長子や聰子らが、私と妻を辞めさせて追い出したかった理由がもう一つあります。それは、私の妻真里子の車いすに乗った障害者の兄の問題です。私が真里子の事を姉や母に話すと、姉や母は、密かに、真里子の身辺調査をした挙句、障害者の兄を見てきて、「あんなバケモノのような兄弟がいる家の娘を貰える訳がないでしよう!死んでも親戚になんかならないから、諦めて、それに、あそこの家は部落民なのよ!」と、部落民でもない妻の実家を部落民扱いし、余りにも酷い差別用語を並べ立てたのです。私の母聰子の兄は精神異常者で、男系男子81代続いた海部家も、聴子の兄が精神異常者だったため、現在は聴子の妹の婿養子が82代を継いでいますが、聰子の家族は、精神異常の長男を生涯精神病院に閉じ込め、社会に極秘にしたのです。そして興永も実際には富岡家の次男で、長男の國臣氏は精神異常で、富岡八幡宮の境内にある家で、ガス自殺をしています。そのような家系の両親が、障害者に対する悍ましいまでの偏見を持っていた事に大変驚きました。長子は最近始めたブログで、障害者のための境内のバリアフリーについて、書いていますが、ブログの9割は嘘と偽善で、読んでいて、吐き気がします。富岡長子の本当の姿は、週刊実話の記事やインターネットで、富岡長子と検索すればわかります。「2ちゃんねるブックマーク」には、実名の富岡長子の他に、深川ちょんご・ちょうこ・ブタ子・ブタ等の名前で書き込みされていますが、9割は事実です。また、バーニング川端氏の書き込みもすべて事実です。
一部の週刊誌や報道では、私が辞めさせられたと書かれていますが、真っ赤な嘘です。私は辞めさせられたのでもなく、辞任したのでもありません。長子と、当時崇敬会議長をしていた亀山工務店の亀山会長の罠にはめられ、辞表を書かされたのです。責任役員を巻き込んでの騒動に発展したお家騒動は、長子を親分とする興永・聰子・千歳等と私との間で、収束がつかないまま、3ケ月近く経過したある日、私が信用していた亀山の罠で一気に形勢が変わりました。亀山が私の家に訪ねて来ると、「宮司さん、このままでは、何時までたっても収束しないので、ここは私に任せて頂けないでしようか?必ず上手く収める事をお約束いたします。それについては、申し訳御座いませんが、宮司さんが責任役員宛てに、一旦ダミーの辞表を書いて頂けないでしようか。その辞表を持って、私が各責任役員を説得し、興永を除いた責任役員会の総意で、宮司さんの辞表を不受理にし、円満解決に持ち込みます。これは、興永以外の責任役員も皆さんが承知をしているので、ご安心ください。」との事でした。ところが、この話は全て亀山と長子が作った罠で、私の知らないところで、私のダミーの辞表が責任役員等に受理され、その日のうちに、私が宮司を辞めたとの噂が、深川を駆け巡り、神社界を駆け巡り、ダミーだった筈の辞表がいつの間にか本物にされてしまい、私の辞表に関する責任役員会が開催されることになったのです。その時、私は非常に迷いました。私が書いた辞表は、あくまでも責任役員会宛てのもので、神社本庁宛てのものではありません。しかも騙されて書かされた物です。最終的には神社本庁宛ての私の辞表が無ければ法的な効力が無い事を理由に裁判で争えば、勝てる筈だと。しかし、私はまだ良いが、隣に住んでいながら、毎日、舅・始・小站に虐められる妻の事を考え、また、これ以上神社界や責任役員にも迷惑を掛けられないとの思いで、一定の条件での円満退職に応じたのでした。
ところが、この一定の条件も、円満退職も全て嘘で、私が辞任すると、次々に富岡八幡宮や親族らに裁判に訴えられ、私達は、その後数年に亘り、裁判漬けにされ、無駄な裁判費用・弁護士費用を負担させられた上、その対応のため、就職や起業も出来ないようにされ、更に長子らは自分たちの卑劣極まりないクーデターを隠すため、直木賞作家の山本一力を使い、ありもしない私の醜聞を週刊新潮にまで書かせ、私が2度と富岡八幡宮に復帰出来ないように、そして、社会で生きて行けないように、画策したのです。
しかし、世間や一般の氏子や神社界の人間は簡単に騙せても、裁判官は、長子クラスの策士には顕されません。裁判の殆どは、私達が勝利し、要求されていた金銭を支払ったりする事もありませんでしたが、大きく傷つけられた私の名誉は回復される事もなく、長子らの執拗な嫌がらせが続き、堪忍袋の緒が切れてしまった私は、2006年1月に年賀状の代わりに、「今年中に決着をつける、覚悟しておけ。積年の恨み、地獄へ送る。」等と書いたハガキを長子に送り付けたのです。そして、脅迫容疑で逮捕されたのです。私を逮捕した深川警察署のミイダと云う刑事課長は、「普通なら、こんな兄弟喧嘩の延長のようなハガキ1枚で逮捕等あり得ないのだけど、長子さんに上等の酒をご馳走になってしまったので、悪く思わないでくれ。どうせ20日したら、罰金で出られるから。」と言われたのです。そして、担当の検事(副検事)からも、「このようなケースでの逮捕は異例だ。弁護士さんに貴方の名前で、長子さんに謝罪文を書いてもらいなさい。何とか私が不起訴にしてあげるから。」と、言ってくれたので、そのようにしたのですが、謝罪文を受け取った長子が、何が何でも、茂永に前科をつけろ!絶対に告訴は取り下げない。と、検事さんにも、わめき散らしたそうです。私は22日間の勾留のあと略式命令で10万円の罰金を支払い、釈放されました。
長子が私を逮捕させた事により、私の逮捕劇は、大々的に報道される結果となり、富岡八幡宮の名前は大きく傷つき、私も社会から抹殺され、インターネットで私の名前を検索すると、今でもこの時の逮捕記事が出てきます。こんな事になるなら、私の怪文書の件で警視庁捜査2課に相談に行ったときに、長子も両親も逮捕させておけば良かったと、後悔しきりです。私は、私を罠にはめた卑劣な奴らを絶対に許しません。死んでもこの世に残り、怒霊となり、私を罠にはめた奴らと、当時の責任役員とその子孫に崇り続けます。
インターネットで富岡長子を検索し、富岡八幡宮宮司代務者富岡長子様は偉大疑感の記事を読んで頂けば、興永と長子による神社の土地を控取した事実が書かれていますが、この件で大迷惑を被った、本人の私が改めて真相を比処に記します。
【江東区富岡八幡宮富岡興永前宮司は自分が勤務していた、宗教法人富岡八幡宮の借地権(土地の一部)120坪を富岡八幡宮より控取し、長女で現在の宮司代務者富岡長子とその妹の小林千歳(旧姓富岡)に相続させていた事が、私の妻真里子の告発により発覚し、神社本庁及び神社界で大きな問題となっている。富岡興永前宮司は、虚偽の歴史や、所有している不動産等が全く無い(これも虚偽)等と記した合意文書なるものを、当時の丸山禰宜(現在は権宮司)にねつ造させ、富岡家は非常に貧しいような、印象を与えるその合意文書を丸山顧宜に持たせ、4人の責任役員宅を訪問させ、事情を良く知らない責任役員等から署名擦印を集めさせたのだ。そして、この借地権120坪(合意文書では100坪となっていたのに、不思議な事に、いつのまにか120坪の契約にかわっている)の相続税に疑問を抱き、調査に乗り出したのが、国税庁である。富岡長子と妹の千歳は、相続した借地権であるとして、相続税の申告をしたのだが、借地権は控取されたもので、富岡家のものになっていない。として、その部分に対しての相続税は払えない。と、差し押さえ覚悟で、特別国税調査官2名を相手に、徹底抗戦したのが私自身なのです。この私の主張に対し、国税当局が2016年1月13日に私の自宅に来訪してより、半年の年月を掛けて、綿密な調査の上、2016年6月3日に導き出した結果が、合意文書の記載内容に虚偽記載が多く、また、この件についての正式な責任役員会も開催されていない。そして正式な責任役員会の議事録もない事実が確認され、富岡興永氏の不正行為と認定し、私の主張を全面的に受け入れ、私からの追徴課税を断念したのである。なお、特別国税調査官2名の試算によると、借地権の当時(興永死亡時)の時価相場は8000万円との事。オリンピックの決まった今なら軽く1億円超えであろう。このような事が許されるのなら、全国の神社仏閣は、次々に強欲神主や僧侶に私物化され、やがて消えゆく運命となろう・・・・。ちなみに不正に富岡興永前宮司が取得した借地権は、未だに長女で富岡八幡宮宮司代務者の富岡長子とその妹の小林千歳が、権利を主張しているとの事である。】
尚、この件に関しては、合意文書の写しを始め、関係する全ての証拠書類、担当した特別国税調査官2名(京橋税務署所属)の名刺のコピー等を告発書と併せて、私の妻富岡真里子が2017年3月に神社本庁及び神社庁に提出しているので、お調べ頂ければ、捧取の全容がわかります。そして、この件が引き金となり、富岡長子が再度神社本庁から取り調べを受ける事となったのです、富岡長子が率いる富岡八幡宮と神社本庁が大きく対立する事となり、ついには富岡八幡宮が神社本庁を離脱するに至ったのですが、実際には富岡長子の度重なる不祥事によって、神社本庁から富岡八幡宮が追放されたようです。
富岡長子の不祥事は、多くの皆さんがご存知のように、天皇陸下行幸啓の碑に宮司代務者の分際で、宮司と嘘の職名を掘り込み、更には超豪華な500平米もある自分1人用の社宅(時価4億円)を建て、神社界や週刊誌からのバッシングを受け、この際には東京都神社庁の松山庁長(当時)が調査に来ていますが、社宅の内部を見せるように言われた長子は、ガンとして、内部を見せなかったため、神社庁も長子への不信感を更に強めたそうです。私は権宮司から宮司になるまでの間3ヶ月だけ、宮司代務者の期間がありましたが、これは神社本庁の規定にある研修が終わっていなかったため、研修の一部だけ受ければ良いとの事で、直ぐに、宮司に就任出来ました。一般的にも神社本庁傘下の神社では宮司代務者は研修歴が足りない等の理由でも1〜3年が常識で、5年間宮司代務者の者は、生涯宮司にはなれないとも言われています。社家に生まれ、研修も全て終了しているのに、6年以上も宮司になれなかったのは、富岡長子だけでしよう。しかも4回も責任役員会が具申書(推薦書)を提出したとの事。前代未聞の恥さらしです。神社庁も神社本庁も、富岡長子が如何に薄汚く、あくどい事を繰り返してきたのか、お見通しだったから、最後まで宮司にしなかったと云う事でしよう。神社界では非常に嫌われています。富岡家の、そして富岡八幡宮の末代までの恥さらし、富岡長子を富岡八幡宮から永久追放しましよう。
富岡家には、富岡秀之と言う立派な、そして正当な跡継ぎがおります。秀之は私の辞職時、まだ高校生でしたが、高校を卒業すると、国学院大学の神道科2部に進学し、まだ神職の資格がなかったため、昼間は富岡八幡宮でアルバイトとして働き、夜は大学に通う生活を続け、私の辞任後、宮司に復帰した祖父の興永と聴子が可愛がっておりましたが、秀之の存在は長子にとっては、脅威以外の何物でもありませんでした。宮司の座を狙って、興永を賛きつけ、私を騙して辞めさせ、興永を復帰させた長子の狙いは唯一つ、興永の後の宮司の座だったからです。やがて秀之と宮司の座を争う事になる事を承知していた長子は、事ある度に、両親を脅し、自分を後継者にするように、公正証書にまで書かせ、更に大学を卒業し、明階と云う官司になれる資格を取得した後も、興永官司の意思も無視して、秀之を神職にもしないで、アルバイトとして冷遇し続けたのです。当時からいる富岡八幡宮の神職なら誰もが知っていますが、私の辞任後に宮司に復帰した興永は、すべて長子の意思で動かされ、興永はすでにお飾り状態だったのです。興永や聡子は娘の長子に「クソじじい死ね」とか「うるさいクソババア!黙れ!」等と怒鳴られる始末で、クーデターの大将だった長子の天下となったのです。興永も聴子も長子の策略に参画し、背迫・名誉棄損等の共犯となってしまっていたのですから、そして興永は宮司に復帰させてもらい、聡子も宮司夫人に復帰させてもらったのですから、最早、長子には逆らえない立場となってしまったのです。ですから、秀之の人事に関しても、長子の強固な反対の前に、興永は、なすすべが無かったのです。
また、私の長女の富岡千草も、長子に叩き出され、新宿や上野のキャバクラでホステスをしていましたが、ヤクザとの交流が判明したので、私も勘当しました。
平成22年12月には、再び興永が体調を崩し、長子が宮司代務者に就任したのですが、長子が宮司代務者になって、最初の仕事は、秀之の永久追放でした。長子は、富岡家に出戻って来たときは、経理の事務員でしたが、殆ど出社もせず大検の学校に通っていましたし、その後もまともに神社や神社の事務所で働いた事はありません。現在も週に2〜3日しか出社していませんし、宮司が執り行うべき祭祀も3割程度しか出ていません。そのくせ宮司代
務者となった長子は、早速秀之の勤務状況を、つぶさに記録させ、勤務状況が悪い等の難癖をつけ、自分の秘書のように公私にわたり、自由に使ってきた秀之を懲戒解雇にしたのです。そしてそれは裁判へと発展し、長子は神社の経費で弁護士を何人も雇い、秀之は興永の資金援助と助言で争いましたが、ついに敗訴し、懲戒解雇が確定してしまったのです。そして長子によって期限を切られ、野良猫のように、神社の社宅からも追い出されたのです。
私富岡八幡宮元宮司富岡茂永は、富岡八幡宮の責任役員・総代・氏子の皆さんに、以下の事を断固として要求致します。
1、極悪非道極まりない富岡長子を永久に富岡八幡宮から追放する事
2、即刻富岡秀之を富岡八幡宮の宮司に迎える事(現在は馬橋稲荷神社権禰宜)責任役員会に於いて、富岡八幡宮の宮司は富岡家の人間と決められている
3、丸山聡一は本来権宮司になれる立場にはなく、長子のクーデターに参画し、大恩ある私を裏切り、更に興永・長子等の神社(宗教法人)からの借地権捧取の共犯(実行犯)でもある事。秀之を裁判にかけ被告にし、金銭を巻き上げたこと。また長子の職名詐称等にも協力し、不正の数々に加担した上に、富岡八幡宮の乗っ取りを企んでいる疑いが非常に濃厚である事。以前、若い男子神職に性的行為を行うなど、神職として、あるいは上司として、あるまじき振る舞いがあった事などを勘案すると、辞めてもらいたいが、今後全身全霊で秀之の補佐をすると云う前提で、今後も権宮司職の続投を認める。秀之がその働きを評価するのであれば、65歳の定年を70歳まで引き上げる事も可とする。
4、その他の事は、すべて富岡秀之・富岡聡子・馬橋稲荷本橋禰宜と相談の上で決める事
富岡八幡宮が神社本庁を離説し、単立となった現在に於いては、神社本庁や東京都神社庁の介入は一切許されないので、富岡秀之・富岡聡子並びに本橋禰宜(馬橋稲荷神社)と相談の上、責任役員会に於いて、以上の事を早急に決議し、必ず実行して下さい。
★もし、私の要求が実行されなかった時は、私は死後に於いてもこの世(富岡八幡宮)に残り、怒霊となり、私の要求に異議を唱えた責任役員とその子孫を永遠に崇り続けます。
★万一、富岡秀之が宮司になれなかった場合は、私が作らせた一の宮と二の宮神興を出す事を今後一切禁止します。もし私の禁に背いて、富岡秀之以外の宮司のもとで、宮神興を出した場合、私は死後に於いてもこの世(富岡八幡宮)に残り、怨霊となり、神興総代会の幹事総代とその子孫達を永遠に崇り続けます。  
 
■雑話

 

昔の雑話
富岡八幡宮 宮司代務者 富岡長子様は偉大疑惑 2017/5/30
江東区富岡八幡宮・富岡興永前宮司は自分が勤務していた、宗教法人富岡八幡宮の借地権(土地の一部)120坪を富岡八幡宮より搾取し、長女で現在の宮司代務者富岡長子氏とその妹に相続させていた事が、内部告発により発覚し、神社本庁及び神社界で大きな問題となっている。

富岡興永前宮司は、虚偽の歴史や、所有している不動産等が全く無い(これも虚偽)等と記した合意文書なるものを、当時のM禰宜にねつ造させ、富岡家は非常に貧しいような、印象を与えるその合意文書をM禰宜に持たせ、4人の責任役員宅を訪問させ、事情を良く知らない責任役員等から署名捺印を集めさせたのだ。
そして、この借地権120坪(合意文書では100坪となっていたのに、不思議な事に、いつのまにか120坪の契約にかわっている)の相続税に疑問を抱き、調査に乗り出したのが、国税庁である。
富岡長子氏と妹は、相続した借地権であるとして、相続税の申告をしたのだが、借地権は搾取されたもので、富岡家のものになっていない。として、その部分に対しての相続税は払えない。と、差し押さえ覚悟で、特別国税調査官2名を相手に、徹底抗戦したのが長男S氏である。
このS氏の主張に対し、国税当局が半年の年月を掛けて、綿密な調査の上、導き出した結果が、合意文書の記載内容に虚偽記載が多く、また、この件についての正式な責任役員会も開催されていない。
そして正式な責任役員会の議事録もない事実が確認され、富岡興永氏の不正行為と認定し、S氏の主張を全面的に受け入れ、S氏からの追徴課税を断念したのである。
なお、特別国税調査官2名の試算によると、借地権の当時の時価相場は8,000万円との事。オリンピックの決まった今なら軽く1億円超えであろう。このような事が許されるのなら、全国の神社仏閣は、次々に強欲神主や僧侶に私物化され、やがて消えゆく運命となろう・・・・。
ちなみに不正に富岡興永前宮司が取得した120坪の借地権は、未だに娘二人が権利を主張しているらしい。 
富岡長子の父親・富岡興永の不正行為とフライデーの内容
富岡長子さんと弟の富岡茂永との骨肉の争いは、両者ともに命を落とすという最悪な事件が起きた。
この骨肉の争いを起こした当事者たちの父親は長年、富岡八幡宮の宮司としてトップにいた富岡興永、その人である。
父親が富岡八幡宮を自分のものとするために不正行為が行われていたことを示すある事実が報じられていたのだった。
そして、富岡長子さんもかつてフライデーされていたというが果たして・・・。
富岡長子の父親の不正行為とは?
富岡長子の父親の名前は富岡興永といい、昭和から平成6年にかけて、富岡八幡宮の宮司に就いていた。
宮司とは事実上、神社のトップであり神職や巫女、氏子をまとめる神社の主である。
神社の主であったとしても、由緒ある富岡八幡宮は神道の象徴の一つといえる【八百万の神】を祭った社である為に、それは個人で独占できるものではない。
しかし、富岡長子の父親は長年、宮司として働いていた富岡八幡宮を富岡家のものとする為に、宗教法人富岡八幡宮の借地権120坪を手にする為に、捏造行為を行ったという。
本来、神社などは神社本庁が管理しているものであり、様式美に沿った形で伝統にのっとり品格が備わった人間に継がれていく。
富岡興永は自身の富岡家の家柄などの歴史を偽り、所有している不動産なども隠して、当時、禰宜をしていたM氏という人間に神社本庁の責任役員に見せる合意文書の捏造を図ったという。
富岡長子の父親・富岡興永の顔写真画像
清貧が何よりも美しいと言われる日本の伝統において、それを教え広める神社の宮司が資産家であってはならないということであろう。
禰宜をしていたM氏は富岡興永の命を受けて、捏造した合意文書を当時、責任役員となっている4名の自宅を訪問し、署名と捺印を集めさせたというのだ。
その後に富岡興永は自身の宮司の職と搾取した富岡八幡宮の借地権を富岡長子と妹に相続させて、自らは表から退いている。
そして、富岡長子のブログから判断すると、父親の富岡興永は2014年頃に他界していると思われる。
これらの不正行為は後に富岡八幡宮の関係者が週刊誌にリークして発覚。
更には宮司代理として父親の後を継いだ富岡長子の凄まじい金満ぶりが報道されたのだった。
富岡長子のフライデーの内容とは?
富岡長子は父親との不正行為を暴かれたあとも、何とフライデーされているのだ。
神社本庁から正式な宮司として認められない状態であり、宮司不在という異例の状態であった富岡八幡宮。
しかし、富岡八幡宮は代理宮司として富岡長子が事実上のトップとして君臨していた。
2012年8月に天皇皇后両陛下が富岡八幡宮を来訪した際、記念石碑を建造。
そこには本来、正式な宮司ではないにも関わらずに富岡長子の名前が宮司として書かれたが、これが職名を偽ってるとして批判を浴びた。
そして、その後に石碑を確認すると、宮司の文字は消されていたという。
実はこの裏では全国の神社にこの石碑のことを綴った怪文書が流れていたという。
富岡長子と弟のトラブルもフライデーに既に・・・
当時のフライデーが報じた内容によると、既に犯人として名前が挙がり、供に死亡した富岡茂永とのトラブルも報じていた。
かつて富岡長子の父親である前述した富岡興永は、息子の富岡茂永に宮司を託して引退している。
しかし、富岡茂永が離婚したりなどの女性関係についての怪文書がまかれて、2001年に宮司の座から身を退いた。
富岡長子の父親が再度、宮司に就き、その後は富岡長子を代理宮司としたわけだが、その際に富岡八幡宮で神職についていた富岡茂永の息子を解雇したのだ。
これを不当解雇として息子は裁判を起こすも、結果的に敗訴したというのだ。
おわりに
富岡八幡宮で起きた事件は、女宮司・富岡長子の家族内で起きた内ゲバが招いた最悪の結末を迎えた。
既にこの世にはいない父親の富岡興永は、自身が長年、守り続けてきた富岡家と富岡八幡宮がこうなるとは全く予想してはいなかったろう。
こうした日本の伝統に沿った美しい世界であると思われる神社界のような中であっても、権力と金が絡めばおぞましい惨状を呈するということなのだろうか?
欲にまみれた人間たちが神職につくというのも、何とも滑稽な話ではあるのだが・・・。  
12/7 雑話 事件発生

 

女性宮司ら3人死亡 弟、襲撃後自殺か 
7日午後8時半ごろ、東京都江東区富岡の富岡八幡宮の境内周辺で、通行人から「女が刀を持って暴れている」などと110番通報があった。警視庁によると、男女4人が救急搬送され、宮司の富岡長子さん(58)と弟で元宮司の茂永容疑者(56)、茂永容疑者の知人とみられる30代の女の死亡が確認された。富岡さんの運転手の男性(33)も襲われたが、命に別条はない。
警視庁によると、周辺の防犯カメラには、茂永容疑者が富岡さんの首や胸を日本刀で刺し、女が短い刃物で運転手の男性に切りつける様子が写っていた。犯行後、茂永容疑者が女の胸や腹を日本刀で刺し、その後、自分の心臓付近を複数回刺して自殺を図ったとみられる。
警視庁は、富岡さんと茂永容疑者の間に何らかのトラブルがあり、殺傷事件に発展した可能性があるとみて、茂永容疑者らを被疑者死亡のまま殺人容疑などで書類送検する方針。
富岡八幡宮は江戸時代初期に創建され、毎年8月の「深川八幡祭り」は、赤坂の日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭とともに「江戸三大祭り」の一つに数えられ、大勢の見物客が水を浴びせる「水掛け祭り」として親しまれている。今年には宮司就任をめぐるトラブルで神社本庁から離脱したことでも話題となった。
現場は東京メトロ東西線の門前仲町駅から東に約400メートルで、マンションや飲食店が立ち並ぶ一角。  
富岡八幡宮殺傷、地元住民に衝撃 「人通りは多いのになぜ事件が…恐ろしい」
東京都江東区の富岡八幡宮の敷地周辺で7日夜、何者かに襲われた宮司とみられる女性が死亡した。他にも3人が負傷しており、うち2人は心肺停止との情報もある。現場には凶器とみられる複数の刃物が残されていたという。江戸三大祭りの一つ「深川八幡祭り」で知られる有名神社で何があったのか。現場周辺は騒然とした雰囲気に包まれた。
現場は、富岡八幡宮の境内から少し脇に入った住宅街で、周辺には低層のマンションやアパートが建ち並んでいる。
近くに住む無職の女性(78)は「消防車やパトカーの音がすごくて外に出てきた」。周辺は夜間もペットの散歩をする人やウオーキングをする人が多く、防犯カメラも設置されているという。「人通りは多いのになぜ事件が、という気持ち。恐ろしい」と話した。
近くで10年以上飲食店を経営する女性(48)は「この辺りは健全で穏やかな住宅街。何の騒ぎかと思うくらいパトカーが来た」と驚きの表情を見せた。
富岡八幡宮のホームページなどによると、寛永4(1627)年に創建。境内には歴代横綱のしこ名が彫られている横綱力士碑があり、新横綱誕生時には相撲協会立会いのもと、刻名式が行われ新横綱の土俵入りが奉納されることでも知られている。
「深川の八幡さま」と親しまれ、8月に行われる「深川八幡祭り」は赤坂・日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭と並ぶ「江戸三大祭り」の一つとされている。  
12/8 雑話

 

待ち伏せ1時間…計画的犯行か 降車直後に襲撃 
東京都江東区の富岡八幡宮付近で、宮司の富岡長子(ながこ)さん(58)と男性運転手(33)が襲われ、富岡さんが刺殺された事件で、2人を襲撃した富岡さんの弟で元宮司の茂永(しげなが)容疑者(56)と妻の真里子容疑者(49)が富岡さんの自宅付近で1時間ほど身を隠し、待ち伏せしていたとみられることが8日、捜査関係者への取材で分かった。警視庁は2人が富岡さんの帰宅時間帯を狙い、強い殺意に基づいて計画的犯行に及んだとみている。
また、富岡さんが倒れていた現場付近に、凶器とみられる日本刀(刃渡り約80センチ)が真ん中から折れた状態で見つかっていたことも判明。ほかにも現場からは血の付いたサバイバルナイフ2本と短刀1本が見つかった。富岡さんは首や胸を深く刺されており、警視庁は茂永容疑者らが強い殺意を抱き、複数の刃物を準備していたとみている。
捜査関係者によると、周辺の防犯カメラ映像などから、茂永容疑者らは神社敷地内の富岡さんの自宅付近で、1時間ほど建物の陰に隠れて富岡さんの帰りを待っていたとみられる。富岡さんが車から降りた直後に日本刀などで襲撃。男性運転手は逃げようとしたが、真里子容疑者が100mほど離れた店舗前まで追跡し、持っていた短刀で切りつけたという。
茂永容疑者は犯行後、真里子容疑者の胸などを刃物で刺して殺害。その直後に自分の胸を刺して自殺を図ったとみられている。警視庁は容疑者死亡のまま2人を殺人容疑などで書類送検する方針。  
富岡長子さんブログで神主のセクハラ言及していた
7日午後8時半ごろ、東京都江東区にある富岡八幡宮の敷地内で、神社関係者の男女3人が切りつけられるなどし、女性宮司の富岡長子さん(58)と別の女性、切り付けたとみられる富岡さんの弟(56)の3人の死亡が確認された。弟は自殺したとみられる。
死亡した富岡さんは、この日午後2時45分、「世の中間違ってやしませんか?」との思わせぶりなタイトルで、公式ブログを更新していた。
ブログは「私はここ数日、機嫌が良くありません」と書き出しで始まり、一部神社の神主のセクハラやパワハラに言及。また月の写真と、「ムーンがお仕置きするのも時間の問題ですね」ともつづり、「次回同じことがあったら、実名公表します」と締めくくられていた。
別の日のブログには、理由は明かしていないが、近所の警察署を訪れたことも証していた。
富岡八幡宮事件 「地獄へ送る」 宮司の人事めぐり肉親同士で骨肉の争い
「深川の八幡さま」として信仰を集める東京の富岡八幡宮で12月8日、宮司ら神社関係者の男女4人が死傷した。NHKニュースが警視庁の情報として報じたところによると、死亡したのは宮司の富岡長子さん(58)と弟の富岡茂永(しげなが)容疑者(56)、知人の女。長子さんの運転手の男性(33)が重傷。
現場には、サバイバルナイフや日本刀などが複数落ちていた。茂永容疑者が女と長子さんや運転手を襲った後、さらに女を殺害して自殺したと見られる。殺人の疑いで詳しい経緯を調べるとともに、家族間のトラブルがあったと見て捜査している。
「地獄へ送る」と姉に脅迫状を送って逮捕
長子さんと茂永容疑者は10年以上に渡ってトラブルを抱えていた。弟の茂永容疑者は、90年代には父親の跡を継いで富岡八幡宮の宮司を務めていたが、2001年に宮司を解任された。
NHKニュースは、茂永容疑者の幼なじみの男性の発言を紹介。「子どものころから活発でやんちゃな人で、父親から宮司を引き継いだが、さまざまなトラブルがあって宮司を解任されたと聞いた。最近はどこに住んでいるかもわからなかった」と話していたという。時事ドットコムによると2006年1月、当時宮司に次ぐ神職の禰宜(ねぎ)だった長子さんに「必ず今年中に決着をつけてやる。覚悟しておけ」「積年の恨み。地獄へ送る」などと記したはがきを送付したとして逮捕された。
長子さんらには他にも、数通の脅迫文が送り付けられていたという。 
宮司の人事をめぐって神社本庁を離脱
宮司の人事をめぐって、富岡八幡宮は神社本庁を離脱したばかりだった。朝日新聞デジタルなどによると、茂永容疑者の解任後は父親が宮司に復帰していたが、高齢のため2010年に退任。これを受けて、長子さんを宮司にするよう、八幡宮は全国の神社を統括する神社本庁に具申した。ところが、神社本庁から回答がなく、数年にわたり宮司が任命されない状態が続いていた。
2017年に入って任命しない理由を照会する文書を神社本庁に送ったが、返事がなかったため、神社本庁を9月28日に離脱。その後、長子さんが宮司になったという。
富岡八幡宮とは? 徳川将軍家の保護、相撲発祥の地
江東区観光協会によると、創建は江戸時代初期の1627年。当時は永代島と呼ばれた海に囲まれた小島に創建された。その後、周辺を埋め立て、社地と氏子の居住地とした。これが、現在の門前仲町に発展した。徳川将軍家の保護を受け「深川の八幡様」として親しまれたという。
富岡八幡宮は相撲の発祥の地でもある。江戸時代、相撲は規制されていたが、1684年、富岡八幡宮の境内で江戸勧進相撲を行うことを寺社奉行が許可した。そのため、新しい横綱が誕生すると、富岡八幡宮の境内で土俵入りが奉納される。境内の横綱力士碑には歴代横綱の名が刻まれている。
例祭は「深川八幡祭り」ともいわれ、江戸三大祭りの一つに数えられる伝統行事だ。お神輿の練り歩きは1643年に始まり、8月15日を中心に実施。三年に一度の本祭の年には、50基以上の町神輿が約8キロの行程を練り歩くという。 
宮司職をめぐり弟と確執 「生き地獄に落ちた人達」 
江戸最大の八幡さまで、何があったのか──。東京都江東区の富岡八幡宮の敷地内で男女4人が死傷した事件から一夜明けた8日朝、事件現場の近くに住む住民たちには「まさかこんなことが起きるとは」と驚きが広がっていた。
事件が起きたのは7日午後8時過ぎ。「刀を持って暴れている」との通報があった。現場付近では4人の男女が頭や腹から血を流して倒れており、3人の死亡が確認された。
殺害されたのは、富岡八幡宮の宮司である富岡長子さん(58)。現場近くで、富岡さんの弟の茂永容疑者(56)と、交際相手の女性が血を流して倒れており、2人とも搬送先の病院で死亡した。警視庁は茂永容疑者が姉の長子さんを刃物で襲った後、交際相手と無理心中を図ったとみて殺人容疑で捜査している。
警視庁などによると、茂永容疑者と交際相手の女性は、現場近くに隠れて待ち伏せ。車から降りた長子さんを茂永容疑者が襲撃。女性の方が日本刀を持って長子さんの男性運転手に襲いかかったという。
長子さんは2010年ごろ、父親の退任に伴い、宮司職に就いたが、かつて同神社で宮司をしていた茂永容疑者と姉弟間で確執があったという。富岡茂永容疑者は06年頃、長子さんに「積年の恨み。地獄へ送る」などと書かれた文書を送り、脅迫した疑いで逮捕された過去もあった。
富岡家を知る近所の知人がこういう。
「長子さんを殺害した茂永さんは素行が悪くて、離婚を何度もしている。女遊びもひどくて、金も賭け事などで湯水のように使って、宮司をかつて解任された。最近はどこに住んでいるのかもわからなかった。8月ごろに茂永さんから電話があって、長子さんが『外で遊び歩いている』とかデタラメを言ってたけど、地元の人は誰も信じなかった。それでも長子さんは『ごめんなさい』と言って謝ってましたよ。長子さんは氏子のために一生懸命仕事をしてたから、つらいです。今回の事件は宮司職についての逆恨みと妬みが原因だと思う」
また、先代である長子さんの両親についての怪文書がばらまかれたこともあったという。
長子さんは今年8月2日からブログを開設していて、一日も休まず毎日更新していた。そこには、身辺トラブルを思わせる記述もあった。
先月28日には深川警察署に行ったことを報告。「何で行ったのかは内緒です」としながらも、「私達にとって、警察は正義です。正義でなくてはならないですよね」と書かれている。
10月8日には社用車にドライブレコーダーを設置したことを報告していた。「車庫に勝手に出入りしたり、私の父親の骨董品を数十点盗みだし、骨董屋さんに売りさばいていた泥棒がいた」からだという。
8月26日に「お金で買えないもの」と題した記事では、こんなことも書かれている。
「自分の両親や妻子を捨て、質の悪い人間に騙され欲望のままに暮らし、質の悪い人間と共に生(き)地獄に落ちた人達は、疑心暗鬼等の鬼の世界に支配され、自分達の不幸を全て他人のせいにして、自分達の行いと向き合おうとせず、抜け出せない生(き)地獄のループに陥る」(カッコ内は補注)
現時点でこれらの内容が今回の事件とどんなつながりがあるかは不明だ。ただ、長子さんの周囲には危険な兆候があったことはたしかなようだ。
そのほかにも、宮司職という男性優先社会のなかで女性差別に悩む気持ちもつづられていた。
事件発生の約6時間前に投稿された最後の記事のタイトルは「世の中間違ってやいませんか?」だった。そこでは、長子さんが受けたセクハラについて、こう書かれていた。
「先般もある神社の神主が、私を呼び捨てにして、体を触り、手まで握り、腰に手を当てたので、私はハッキリ拒絶して、『いい加減にして下さい。』と言った」
これだけではない。ある披露宴に出かけた後、長子さんが所属する「ある団体」(注:ブログでの記述名)の役員に呼び出され、着用していたワンピースに問題があると指摘され、長子さんの人事に影響したと注意されたと書かれている。
富岡八幡宮は、今年に入って神社本庁から離脱している。その理由は、先代宮司の父親が10年に退任した後、同八幡宮の責任委員会が長子さんを宮司にするよう神社本庁に具申したが、7年にわたって任命されないままだったという。任命しない理由も不明なため、神社本庁から離脱することを決めた。
過去にも神社本庁は、大分県宇佐市の宇佐神宮の責任委員会が世襲家の末裔の女性を同神宮の宮司にするよう具申したが、神社本庁は「経験不足」を理由に任命を拒否、14年5月に女性を同神宮から解雇した。
家族のトラブルや女性差別など、世の中の不条理と格闘していた長子さんは、ブログではこんなことも書いていた。
「修業をするためにこの一族に生まれ、何度も死にたいと思う苦しみを乗り越えて、ここを修業の場だと思う事で、人生が舞台に見えて来たのです。今現在の私の人生は幸せでも不幸でもありません。自分の為に生きなくなると、幸せや不幸はあまり感じなくなりますし、価値を感じなくなります。他の人が幸せそうに笑ってくれたり、喜んでくれる事が、自分の幸せになるのです」 
富岡長子(富岡八幡宮の女性宮司)の弟や妹も神社に
富岡八幡宮とは、東京都江東区富岡にある八幡神社で、通称を「深川八幡宮」とも呼ばれています。
なんでも江戸勧進相撲発祥の神社だそうで、境内には「横綱力士碑」など大相撲ゆかりの石碑が多数建立されているとか。
1627年、菅原道真公の末裔により創祀(そうし)されたのが始まりと言われ、1945年の東京大空襲では全焼するも1956年には社殿が造営されたという歴史深い神社です。
なにもわたくしは歴史好きというわけではございませんが、最近はまっているマンガがこざいまして!
「応天の門」という素晴らしき歴史漫画、菅原道真公が主人公なんです。
史実によれば、菅原道真公は文武両道に優れ多くの人に慕われていました。神童と呼ばれたものの当時の学問では解明できない理論の数々(地震の原理など)を世に送り出し、没後には「学問の神様」と崇められ天満宮に祀られる存在となります。
菅原道真公ラブの気の向くまま、ネットオーシャンをさまよっていたら、何やら気になる末裔がおられました。
ということで今回は、菅原道真公の末裔が建立したといわれる富岡八幡宮の現在について迫ってみたいと思います!
富岡八幡宮は菅原道真公の末裔が建立した?
とても美しい神社ですね、整備の行き届き様から、今も人が多く集まる場所であることがうかがい知れます。
富岡八幡宮のWebサイトには以下のように掲載されています。
「富岡八幡宮は寛永4年(1627年)、当時永代島と呼ばれていた現在地に御神託により創建されました。周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と氏子の居住地を開き、総じて六万五百八坪の社有地を得たのです。世に「深川の八幡様」と親しまれ、今も昔も変わらぬ信仰を集める「江戸最大の八幡様」です。」
残念なことに、「菅原道真公の末裔」については記述がございません。wikiには掲載されているんですが、真実だとしたらなぜ記載しないのか、謎です…。
年号はあっているので、菅原道真公の末裔が建立したというのはあながち嘘ではないと思うのですが…。
神社たるもの神を祀る場所ということで、建立者については盛大に名をひけらかさないのが通常なのかもしれませんね。
富岡八幡宮の女性宮司は富岡長子氏!
富岡八幡宮の現在の宮司は、先代宮司の富岡興永氏から引き継いだ長女 富岡長子氏ということですが、実はこの方、週刊誌を騒がせた過去をお持ちです。
2015年1月発売の「週刊実話」では、スキャンダラスな見出しが躍っております。
「天皇陛下を冒とくした富岡八幡宮の女宮司」
なんでしょうか、このタイトル…。
残念ながら記事詳細は不明ですが、おおまかな内容は「先代が神社本庁に宮司任命を出すも長年許可が下りない状況にも関わらず、勝手に境内に建立した石碑に自信の名前で『宮司』と書き込んだ」というもの。
いわゆる「経歴詐称」をどうどうとやってのけて、週刊誌にすっぱ抜かれたってことでしょうか?
真偽のほどは定かではございませんが、週刊誌の記事になっているくらいなので、完全に嘘ではないのかもしれないですね。
富岡長子氏の弟妹とは?
2015年の週刊実話が掲載した記事によると弟(富岡茂永氏)一家とのトラブルもあったようです。
やはり神社という一般家庭とはかけ離れた家庭では、兄弟姉妹が全員とも神社に身をささげるんでしょうか?
そういえば最近では狩野英孝さんが実家の神社の神主になったとかなんとか報道されていましたが、やっぱり血縁で引き継いでいくものなのかしらね?
富岡八幡宮の宮司一家も例外ではなかったようで、どうやら弟妹も神社にかかわっていたようです。
「弟が怪文書の出所が長子氏であると疑い。恨みを連ねたハガキを送付。これが脅迫にあたるとして警察に逮捕された。また2011年には富岡八幡宮に務めていた甥(弟の息子)を長子氏が解雇したとして不当解雇裁判が起きている。」
2015年時点の記事の一部ですが、2017年現在もいがみ合いが続いているんでしょうか?
ちなみに妹さんについては、情報が見当たりませんでしたが、先代の富岡興永氏は長女である長子氏と妹さんに富岡八幡宮の土地の一部を(私的に)相続させたとして、神社本庁で問題となったとか。
うむむ、本来は「富岡」ではなく、現在の通称である「深川八幡宮」が正式名だったかもしれないですね。
神社に宮司の名前を付けてしまって、神社を私物化してしまったがために、お金をめぐるトラブルが発生してしまったように感じます。
富岡長子氏のブログは?
境内の美しい銀杏の紅葉や、月夜を写した画像とともに、富岡長子氏の徒然なるままの文章が掲載されています。
まとめ
• 富岡八幡宮は菅原道真公の末裔が建立したと言われている
• 深川八幡宮の宮司は先代富岡興永氏以降、不在のままである
• 富岡八幡宮の宮司として石碑に名を刻んだ富岡長子氏の行為は詐称だと言われている
• 富岡八幡宮の先代の長女富岡長子氏には弟と妹がいる
• 富岡八幡宮の先代の長女富岡長子氏と弟の間にはトラブルがあった
ということでまとめさせていただきました!
神社という神に近い場所から生まれた、あまりにも俗世っぽい金銭絡みのスキャンダル…。 
12/9 雑話

 

富岡八幡宮殺傷 第一通報者が聞いていた「異様すぎる言葉」
東京都江東区の富岡八幡宮で、宮司の富岡長子さんが殺害され、運転手も刺されて重傷を負った事件。富岡さんの弟の富岡茂永容疑者との間にあった宮司の地位をめぐるトラブルにばかり注目が集まっているが、事件現場では、“もう一人の女”の異様さが際立っていたという。
第一通報者のリポート
イベントの運営を手がけるAさん(41、自営業)は、12月7日の午後8時過ぎ、富岡八幡宮からほど近い自宅に帰ろうとしていた。地下鉄・門前仲町駅から大通りを歩いていると、一本の道を挟んだ富岡八幡宮の方向から人が争う声が聞こえてきた。最初は、カップルか夫婦の痴話喧嘩かな、と思った。しかし、叫ぶような声も耳に入ってきて、複数人による言い争いのようにも聞こえた。
その声色が尋常ではない。気になって富岡八幡宮の方向に歩いて行くと、境内脇の通りをスーツ姿の男性が歩いて行くのが見えた。さらにもうひとり、ニット帽を被り、黒い服を着た人物がゆっくりとした歩調で前方の男性を追いかけていく。
しばらく様子をうかがっていると、近所のコンビニエンスストアの方向から怒声が聞こえてきた。今度ははっきり、言葉を認識できた。
「お前だけは許してやる!」
その言葉の異様さにこれは大事(おおごと)だと、Aさんもコンビニに向かう。その時、先ほどの黒い服を着た人物とすれ違った。身長160センチほどで、中肉中背。性別は判然としなかった。その人物は、小さな赤い橋を渡って、富岡八幡宮方向に入っていく。Aさんはその状況をこう振り返る。
「単なるケンカにしては、声の感じが普通じゃなかったんです。怖かったんですけど、『お前だけは』という言葉がどうしても引っかかって。それで恐る恐る、コンビニに向かって歩いていたら、途中にある家の住人が棒を持って家の前に出て来ていて、『今、歩いて行った女の人は、日本刀を持っていましたよ』って。その道って、地元の人が積極的には利用しない道で、暗い場所だったから、日本刀に僕は気付かず、黒い服を着ていたのが女性だということもその時に分かったんです」
どこからか、「110番!」の声が聞こえ、Aさんはすぐに通報した。携帯電話の履歴にある通報時刻は午後8時26分。Aさんは第一通報者となった。
「首元に折れた日本刀が刺さっていました」
「日本刀を持った女が、富岡八幡宮方面に向かって橋を渡っていきました。ニット帽を被っていて、黒い洋服で……」
110番で出た警視庁の係員に状況を説明していると、コンビニ方向から若いカップルが走って来た。男性の方が、通報中のAさんに告げた。
「コンビニの前で、人が刺されています!」
Aさんは、その言葉をそのまま係員に伝え、カップルとコンビニに向かう。すると最初に遭遇したスーツ姿の男性が、多量の血を流してコンビニの外に倒れていた。
「おそらく日本刀で斬りつけられ、右腕で防御しようとしたんだと思います。右腕から右肩にかけてパックリ斬られていて、胸にも大きな刀傷がありました」
事件が起きた当初は、周辺は静けさに包まれていた。しかし、すぐ騒ぎになって、多くの野次馬が赤い橋の方に向かおうとしていた。彼らは、犯行に及んだと思しき女が、日本刀を持っているなんて知る由もない。若者はAさんの制止を振り切り、「心配だから、見てきます」と言って、赤い橋の方向に走ってゆく。
その間、警視庁への電話はつながったままだった。しばらくして救急車、そして制服を着た警官がさすまたを手にして到着し、Aさんは電話を切る。通話時間は7分だった。わずか7分間の出来事だったことが、Aさんにはとても信じられなかったという。
すると警察官とすれ違うようにさっきの若者が戻ってきて、その無事を確認したAさんは胸を撫で下ろした。そして、ふたりはこんな会話を交わしたという。
若者:「あっちで人が死んでいました……」
Aさん:「エッ、人が死んでいたんですか!? 何色の服を着ていましたか?」
若者:「白です」
Aさん:「さっきの日本刀を持った女は黒い服を着ていた。犯人は、複数いるのかもしれないですね……」
若者:「(コンビニに倒れている)男性は僕が止血しました。たぶん、助かります。でも、白い服を着た女性は、首元に折れた日本刀が刺さっていました。既に血が出きっていたので、即死だと思われます……」
その時、Aさんは初めて、若者の両手が血まみれだったことに気付く。コンビニで買い物をしていて事件に遭遇した若者の迅速な処置が、スーツ姿の男性の命を救った。
まもなくパトカーが到着し、すぐに規制線が貼られた。目撃者が集められ、事情聴取が始まった。目撃者の間では当初、通り魔の疑いが持たれていた。
「通り魔で犯人がつかまっていないなら、さらなる犯行を繰り返すかもしれない。僕には同居している彼女がいるんですけど、仕事中の彼女に連絡を入れて、今日はタクシーで帰ってくるか、会社に泊まるかした方がいいと伝えました」
そう語るAさんは、一方で、現場で目撃した状況から怨恨が理由の殺人事件ではないかと推察していた。
「赤い橋からコンビニまで血痕が残っていたので、僕が目撃した時には、スーツの男性は既に深手を負っていたかもしれない。だから、男性を追っていた女も、ゆっくり、余裕を持って追いかけられたのではないでしょうか。それに、コンビニから赤い橋の方向へ戻って行く姿が、どこか風を切るような、達成感があるような歩き方に見えたんです。もちろん、これは事件の全容がある程度、見えてきた今だから思うことかもしれませんが。それに複数人による犯行だというのは分かっていました。男女で凶行に及ぶ通り魔なんていないじゃないですか」
現場が騒然とする中で、いち早く通報したAさんや、機転を利かせた対処で被害男性の命を救った若者には、亡くなっていた女性やスーツ姿の男性、そして黒い服の女がどういった関係にあるのか、もちろん、分かってはいなかった。
その後、約2時間半にわたって続いた事情聴取や、報道で明らかになったのは、白い服の被害女性が富岡八幡宮の富岡長子宮司で、スーツ姿の被害男性がその運転手。そして黒い服の女が、加害者である男女のうちのひとりであることだ。
だが、Aさんの証言には、決定的に欠けている重要人物がいる。事件を首謀したとされる富岡長子宮司の弟、富岡茂永容疑者だ。茂永容疑者は、妻でAさんらが目撃した黒い服の女と共に凶行に及んだあと、その妻を殺害し、自らも心臓を三度突き刺し、自死を選んだとされる。
つまり、ふたりの加害者が心中をはかったのは、Aさんが黒い服の女を目撃し、通報したあと、警察官が到着するまでの7〜8分の出来事なのだ。
「夜10時過ぎに自宅に戻って、ニュースを見て、びっくりしました。こんな結末なのか、と。被疑者が死んでいた現場から数十メートルも離れていない場所に自分もいたのに、犯行の時刻、物音1つしなかったんです。それに、女を殺害するまで、男がいったい、どこで何をしていたのか……」
Aさんに話を聞いたのは、事件から約22時間後だったが、もっとも耳に残っているのは、あの「お前だけは許してやる」という声だと話す。
「とにかく強烈な声で、その声を聞いて家から飛び出てきた人もいたぐらいです。あの黒い女の、何か“やりきった”感を醸し出していた後ろ姿が、忘れられません」
運転手の救助にあたった若者は、止血している最中に運転手からこんな言葉を聞いていたという。
「開けた瞬間に男と女ひとりずつにやられた」
富岡長子宮司を乗せた車が自宅前に到着し、運転手が車のドアを開けた瞬間、宮司と運転手は襲われた。現時点の報道では、宮司の弟の積年の怨恨に注目が集まっているが、現場に居合わせた目撃者には、日本刀を手にして異様なテンションで運転手を追い続けた女の姿ばかりが脳裏に焼き付いている。 
12/10 雑話

 

富岡八幡宮殺人事件
積年の恨み
東京都江東区の富岡八幡宮の宮司で、殺害された富岡長子さん(58)に対し、弟で元宮司の茂永容疑者(56)は激しい憎悪の言葉をぶつけるなど、2人は10年以上にわたってトラブルを抱えていたとみられる。江戸時代からの伝統を誇る神社の宮司の地位をめぐり、親族間の骨肉の争いの最中に起きた惨劇。神社関係者からは空席となった宮司の後継や、今後の祭事などへの影響を心配する声も上がっている。
神社関係者によると、茂永容疑者は30代のころ、父親(故人)の後を継いで一度は宮司となったが、女性問題などをめぐる怪文書が出回るなどした影響で、平成13年に解任された。その後は父親が宮司に復帰していたが、このころから宮司の地位をめぐる対立が激化したとみられる。
捜査関係者によると、富岡さんは14年1月、警視庁深川署に「宮司の地位をめぐり、親族間でトラブルになっている」と相談。また、茂永容疑者は18年1月、富岡さんに「積年の恨み。地獄へ送る」「必ず今年中に決着をつけてやる」などと記したはがきを送ったとして、同署に脅迫容疑で逮捕されていた。
神社の内情に詳しい近所の男性(61)は最近の茂永容疑者の様子について、「後継宮司に推していた(茂永容疑者の)息子が4、5年前に一方的に神社を解雇され、宮司である姉への恨みを今まで以上に募らせていたようだ」と打ち明ける。茂永容疑者と妻の真里子容疑者(49)は神社敷地内の住居を離れ、最近は福岡県内で暮らしていたとの情報もあるという。
深川八幡祭りで知られる東京・江東区の富岡八幡宮で7日夜(2017年12月)、女性宮司と運転手が宮司の弟と妻に日本刀で切り付けられ、3人が死亡、1人がケガをする凄惨な事件がった。
警視庁の調べによると、午後8時半ごろ、宮司の富岡長子さん(58)が帰宅して車から降りようとしたところ、弟の富岡茂永容疑者(56)と茂永の妻に日本刀で切り付けられ、殺害された。運転手の男性も切られけがを負った。そのあと、茂永は妻を刺殺し、自分も胸を刺して自殺した。
八幡様の眼前で惨劇
いったい姉弟の間で何があったのか。近所の人の話では、宮司の跡継ぎを巡る争いが10年以上も前から続いていたという。茂永は大学の神学科を出て、父親の跡を継いでいったんは宮司についたが、不祥事を起こしたため長子さんに代わった。茂永は宮司に戻りたいと主張し、トラブルが絶えなかったという。
若貴ブームに便乗、才覚は出る杭として打たれた
同神社は江戸勧進相撲の発祥地として有名で、横綱の名前が刻まれた「横綱力士碑」があるが、同級生は「以前は何のイベントもなく、力士も来なかった」。その新横綱刻名式を再興したのが、宮司時代の茂永容疑者だった。「茂永くんが流れをつくった。横綱を呼び、取材も来るようになった」と振り返った。
「派手なことが好きだった。富岡八幡宮をふんだんにアピールしていた。先代の宮司に比べたら収入は劇的に増えたと思う」。茂永容疑者が宮司になり3年後の98年、若乃花が横綱昇進時に刻名式を復活させ、同時に土俵入りを披露する「刻名奉告祭」を行うようになり、参拝客は大いに増えた。しかし、氏子には派手なことを嫌う者もいた。10年ほど前には近所に怪文書が出回った。茂永容疑者と富岡さんに向けられたもので、金もうけ主義に対する批判だった。
ホスト通いの姉とベガス豪遊の弟
姉はチョーコの名前でホストクラブに通いつめ、一晩100万を使い、枕三昧。
弟は高級車を複数乗り回し福岡宗像で仮隠居を行いながら復讐への恨みを積もらせていったのです。
もうこの時点で宗教者として完全失格なのではないでしょうか。お互い様です。
しかし弟の姉に対する、「おまえは人のこと言える立場なのかよ」という心境はわかるような気もしないではないです。
弟の遺書には富岡八幡宮を末代まで祟るとの書き添がとのことですが。この神社は恨みを成就させる神社としてこの先盛況することが期待されます。 
【富岡八幡宮殺人】神社の闇…カネと後継者争いは「ヤクザの世界」 12/10
「東京・江東区内で男女4人が次々に刃物で切られ3人が心肺停止」
7日夜、ニュースの第一報で「また通り魔事件か」と思った人も多かったに違いない。しかし、その後の続報で事件のとんでもない概要が次第に明らかになってきた。
事件現場は江東区内の「深川の八幡様」として知られる富岡八幡宮周辺。殺害されたのは富岡八幡宮の宮司・富岡長子さん(58)。犯人は宮司の実弟である富岡茂永容疑者(56)と女で、茂永容疑者は女を刺し殺したあと自殺した。長子さんの運転手の男性(33)も女に右腕を切られて重症を負ったが命に別状はないという。凶器は刃渡り80cmと同45cmの日本刀とサバイバルナイフ2本で、計画的な犯行とみられる。
警視庁の調べによると、茂永容疑者は1990年代から父親の後を継いで宮司を務めていたが、毎晩銀座で飲み歩いたり、ラスベガスのカジノで豪遊するなど金遣いが荒く、女性関係の噂も絶えなかったという。神社本庁に納める“上納金”を使い込んでいたことも明らかになり、01年に宮司を解任された。その後は父親が再び宮司となり、長子さんが宮司に次ぐ禰宜(ねぎ)を務めていた。
近所の人の話では「子どもの頃から姉と弟は仲が良くなかった」という。茂永容疑者は宮司を解任されたことを根に持ち、06年、長子さん宛てに「必ず今年中に決着をつけてやる。覚悟しておけ」「積年の恨み。地獄へ送る」などと書いたはがきを送りつけ、脅迫容疑で逮捕、起訴され、罰金刑を受けている。
その後、10年に父親が退任すると、氏子たちで構成される責任役員会が、長子さんを宮司にするよう全国の神社を統括する神社本庁に具申したが、任命されないまま7年が経過した。その間、長子さんが代理宮司を務めていたが、神社本庁からさまざまな嫌がらせを受けていたと、長子さんはブログに綴っている。
長子さんは今年に入って任命しない理由を照会する文書を神社本庁に送ったが、未回答のまま文書が送り返されてきたことから、5月の責任役員会で神社本庁からの離脱を決議、長子さんが正式な宮司となった。なぜ、神社本庁は長子さんを宮司に任命しなかったのか。寺院関係者に話を聞いた。
カネと跡継ぎ問題
「仏教では寺の跡継ぎは世襲ではなく、弟子が住職を継ぐことになっています。しかし、天皇家と関係の深い神社の場合、後継者は代々世襲で決められてきました。実子がいなければ親戚筋から養子を迎えることもあります。神社本庁がなぜ任命しなかったのか。それは女性の宮司を認めたくないからでしょう。女性が天皇になることが認められていないのと同じで、女性が宮司になるのは問題だとみなして、神社本庁は7年間も認めなかったのです。弟の評判が悪かったのも原因でしょう。
富岡八幡宮は9月、正式に神社本庁から離脱したわけですが、離脱して困るのはむしろ神社本庁のほうです。神社はお正月にお札を販売しますが、その売上の半分を神社本庁に納めることになっているからです。神社は全国に8万社もあるので、莫大なお金が神社本庁に集まる。富岡八幡宮のような歴史のある大きな神社なら、売上も潤沢なので離脱しても困らない。むしろ、これまで納めていた上納金が不要になるわけです。殺人事件こそありませんでしたが、神社もお寺もお金が絡むので、後継者争いは珍しくありません。仏教では女性の住職も誕生しています。ちなみに、現在の神社本庁の名誉総裁は天皇陛下のお姉さまです」
神社の後継者争いの例は多い。全国の八幡神社を束ねる大分県の宇佐神宮でも、宮司の女性後継者をめぐり争いが起きている。先代の宮司が亡くなり、唯一の後継者である女性が神職の資格を取り宮司となることになったが、神社本庁が「経験不足」を理由にこれを認めず、大分県神社庁長を宮司代行に指名。この宮司代行が死亡したため、再び女性を宮司にするよう具申したが、またも県神社庁長が派遣された。今度は神社側が代行宮司の「能力不足」を理由に解任嘆願書を提出し、宮司が退任を申し出た。しかし、神社本庁が本庁職員を代行宮司に派遣したことから、宇佐神宮は神社本庁に“絶縁状”を叩きつけた。こうしてみると、神聖なはずの神社の世界はまるでヤクザのようにもみえるが、前出と別の寺院関係者はこう解説する。
「もともとヤクザの組織は寺の組織をまねたもの。お寺も末寺から総本山まで寺銭を上納する仕組みで、その仕組みはヤクザも同じ。ヤクザも下から上へ上納金を納め、跡目を決めるときには本部の承認が必要ですから、何も変りませんよ」
使われた凶器の意味
さらに同関係者は、今回の事件で使われた凶器にも注目する。
「凶器が日本刀というのが重要です。刀は神社の三種の神器のひとつだからです。ご神体の刀を凶器にしたのかどうかは不明ですが、あえて日本刀を使ったということは、正義は我にありと示したかったのでしょう」
元横綱・日馬富士による暴行事件で今、大相撲が揺れているが、江戸勧進相撲(現在の大相撲)発祥の地である富岡八幡宮も殺人事件で大揺れ。境内には「横綱力士碑」など大相撲にまつわる数々の石碑が建つ富岡八幡宮。相撲の神様の祟りではあるまいが、新しい宮司には果たして誰が就任するのだろうか。 
12/11 雑話

 

車から引きずり出し執拗に切りつけか 腕や指切断 
東京都江東区の富岡八幡宮付近で、宮司の富岡長子さん(58)が刺殺された事件で、弟で元宮司の茂永容疑者(56)=犯行後に死亡=が襲撃の際、危険を感じて車内に身を隠した富岡さんを車から引きずり出し、日本刀で執拗に切りつけたとみられることが11日、捜査関係者への取材で分かった。警視庁捜査1課は茂永容疑者が富岡さんに対し、強い殺意を持っていたとみて詳しい状況を調べている。
警視庁は犯行時間前後の防犯カメラの画像を解析。捜査関係者によると、自宅近くの路上で富岡さんが車から降りようとしたところ、建物の陰に隠れていた茂永容疑者と妻の真里子容疑者(49)=同=が襲いかかった。富岡さんはいったん車内に戻り、ドアを閉めたが、茂永容疑者がドアを開けて富岡さんを引きずり出し、路上に倒れたところを日本刀で切りつけたとみられる。
富岡さんの遺体には、首の後ろと右胸に深い傷があったほか、腕や指が切断されていた。
また、茂永容疑者が事件直前、神社関係者に宛てて投函したとみられる手紙が深川署にも届いていたことが判明。手紙は富岡さんを中傷し、宮司から追放することなどを求める内容で、同課は事件との関連を調べている。  
富岡八幡宮4人死傷 容疑者の“遺言”とメッタ刺しの動機 
12月7日、東京都江東区の富岡八幡宮の宮司、富岡長子さん(58)ら4人が死傷した事件は、弟で元宮司の茂永容疑者(56)の怨恨による犯行との見方が強まっている。日刊ゲンダイは茂永容疑者が犯行直前に神社関係者宛てに投函した“遺書”同然の手紙を入手した。
〈ご関係者の皆様〉と題された手紙はA4サイズで8枚。茂永容疑者のものとみられる署名と“血判”のようなものが押印されていた。手紙には長子さんへの恨み言が書き連ねられており、長子さんの富岡八幡宮からの追放や茂永容疑者の息子を宮司にすることを要求。「実行されなかった時は、死後においても怨霊となり、祟り続ける」などと記されている。
茂永容疑者が宮司の座を追われたのは16年前だが、富岡家の“お家騒動”は30年にも及ぶらしい。手紙には〈父を補佐し、お家の危機を救った私を騙し、クーデターを画策するなど夢にも思わなかった〉とつづられている。凄まじいのが長子さんに対する誹謗中傷だ。
どこまで本当なのか、〈姉は中学生の時からシンナーや覚せい剤、男遊びなどに溺れ、高校にも行かず、家出同然の生活をしていた〉〈20歳の時に喫茶店の客としてきていた国鉄勤務の男性と結婚し、一児をもうけたが、その乱暴な性格から、子供を捨て出戻って来る事になった〉などと書かれている。長子さんに頼まれ、2億5000万円の社宅も建てたとし、金銭トラブルが根本にあったこともにおわせた。
ある氏子が言う。
「富岡家でどんな内紛があったかは知りませんが、茂永氏の凶行は許されるものではないし、怪文書みたいな一方的な主張をバラまくのは卑劣だと思います。ただ、あの姉弟の不仲をここらで知らない人はいなかった。茂永氏が今回の犯行に及んだのもお金が絡んでいるといわれています。茂永氏は01年、女癖の悪さなどを理由に勘当同然で神社を追われました。その際に1億円以上の“退職金”と毎月数十万円の“年金”を受け取る約束を神社側と交わしたといいます。ところが、今年に入って茂永氏が長子さんを中傷する電話を神社にかけてくるようになったため、長子氏が経済的支援を打ち切ることを決めた直後の凶行だったようです」
気になるのは富岡八幡宮の今後だ。一般的に神社の宮司は世襲制ではないが、富岡八幡宮の宮司は富岡家の人間しかなれないと決められているという。権宮司が宮司代務者となることで、正月の初詣や例祭などの神事に当面は影響がないというが、茂永容疑者が望んだ「息子の宮司就任」はかなうのか――。凄惨な事件だけに、世間の注目が集まりそうだ。  
「怨霊となり、祟り続ける…」
 富岡八幡宮、容疑者の手紙は警察署長にまで届いていた
東京都江東区の富岡八幡宮の宮司、富岡長子(ながこ)さん(58)が弟で元宮司の富岡茂永(しげなが)容疑者(56)=死亡=に殺害されたとされる事件で、富岡さんの宮司退任を求める茂永容疑者名の手紙が、地元の深川警察署長宛てにも届いていたことが警視庁への取材でわかった。届いたのは事件後の9日。同庁は、内容が詳細なことなどから、茂永容疑者が事件直前に郵送したものとみて、鑑定を進める。
捜査1課によると、これまでの捜査で、手紙は深川署長や総代の自宅など23カ所に郵送されていたことが確認された。いずれもA4で8枚だったという。
手紙には富岡さんと茂永容疑者との長年のトラブルが記されていた。富岡さんを八幡宮から追放することを要求し「実行されなかった時は、死後においても怨霊となり、祟(たた)り続ける」などとしていた。手紙の最後には、茂永容疑者の自筆とみられるサインと指印があった。
事件は7日午後8時25分ごろ発生。防犯カメラ映像には、約1時間前の午後7時半ごろから現場付近で日本刀を持って待機する茂永容疑者と妻の真里子容疑者(49)=死亡=の姿のほか、富岡さんが車で帰宅し助手席から降りたところを2人が襲ったり、車内に逃げ込んだ富岡さんを車から引きずり出して日本刀で切りつけたりする茂永容疑者の姿が映っていたという。  
死んでも怨霊となって祟る「富岡八幡宮」弟と姉の確執16年
江戸三大祭りのひとつ「深川八幡祭り」がおこなわれ、“横綱の聖地”として知られる名社・富岡八幡宮で、12月7日夜に驚きの殺傷事件が起こった。宮司の富岡長子さん(58)と専属運転手の男性が、長子さんの弟・富岡茂永容疑者(56)とその妻・真里子容疑者(49)に襲われたのだ。
犯行後、茂永容疑者は神社敷地内の長子さん宅玄関前で真里子容疑者を殺害、さらに自身の左胸を刺して自殺。犯行から自殺まで、わずか5分だった。
茂永容疑者を凶行に駆り立てたものはなにか。取材の結果、16年間に及ぶ姉弟間の確執が浮かび上がってきた。
1995年、宮司に就任した茂永容疑者だったが、女性関係など素行面の悪さを伝える怪文書が出回ったことをきっかけに、2001年5月に職を追われる。
「宮司になってからは毎晩のように銀座などのクラブに入り浸り、1カ月で200万円以上使っていた。それも、神社の運営費。計数千万円も使い込んでいることが明らかになって辞めさせられた。女性関係も派手で、ホステスの1人を愛人にし、2番めの奥さんをあっさり捨てて、3番めの奥さんにしてしまいました」(氏子の1人)
この氏子によると、手切れ金1億2000万円と月々30万円の生活費を支払う条件でようやく話がつき、茂永容疑者に代わって前の宮司であった父・興永さん(故人)が復職した。
2006年には、茂永容疑者が「積年の恨み。地獄へ送る」などと書いたハガキ2枚を姉の長子さんに送りつけて脅迫た疑いで、逮捕される。
「このころ怪文書が関係者宅にばらまかれました。『興永は巫女に手を出し、長子は賽銭をネコババしている』といった内容だった。証拠はないが、茂永の仕業だと噂していました。逮捕されて、やっぱりな、と。長子も弟の宮司時代の醜聞を積極的にマスコミに流して追い落としを図ったと言われていました」(別の近隣住民)
茂永容疑者と入れ替わりに、長子さんが跡継ぎになったのは2010年のこと。
しかし、全国の大多数の神社を統括する宗教法人・神社本庁は申請を受けても長子さんを宮司と認めなかった。茂永容疑者の息子が富岡八幡宮の職員を解雇されたことをめぐり裁判が係争中であること、長子さんが必要な研修を受けていないことが理由で、長子さんは「宮司代務者」と表記された。
境内には天皇皇后両陛下の訪問を記念して2014年に建てられた記念碑がある。当初は「宮司富岡長子」と刻銘していたが、全国の神社に「長子は宮司代務者なのに職名詐称している」という文書がまかれ「宮司」の部分を埋めた。
殺された長子さんの姿勢に疑問を感じる関係者もいたようだ。
「神社の会合に派手なドレスで出席。やんわり『和装のほうがよいのでは』とアドバイスすると、セクハラだ!と激昂した」(富岡八幡宮の賛助団体の幹部)
2017年6月、宮司への任命を認めない神社本庁を離脱した長子さんは、正式な宮司に就任。茂永容疑者の “復職計画” 実現は絶望的になった。
12月9日、富岡八幡宮の関係者のもとに、自殺した茂永容疑者からの8枚にも及ぶ手紙が届いた。内容は、長子さん、興永さん、親族関係者への誹謗中傷と、息子を富岡八幡宮に宮司として復職させろという要求だった。
<もし、私の要求が実行されなかった時は、私は死後に於いてもこの世(富岡八幡宮)に残り、怨霊となり、私の要求に異議を唱えた責任役員とその子孫を永久に祟り続けます>
姉弟の対立は解決することなく、最悪の結果を迎えた。  
12/12 雑話

 

「怨霊となり永遠に祟る」 富岡八幡宮事件、弟は“呪いの遺書”投函も 
 心理学者がみる家族間トラブルの難しさ
7日、富岡八幡宮の宮司・富岡長子さんがかつて宮司を務めた弟・茂永容疑者に殺害された事件で、姉を殺した後に自殺した茂永容疑者からは神社の関係者に手紙が送られていた。手紙の差出人は「富岡茂永」名義で、郵便印の日付は8日。事件の直前に投函されたものとみられ、手紙には「さて、先ずは約30年に亘り続きました、富岡家の内紛について、その真相を此処にお伝えさせて頂きます」と自身の主張や長子さんらへの誹謗中傷がA4用紙8枚にわたって綴られている。
手紙によると「私が辞めれば特をする人間対、私と再婚したての妻真里子との戦い」と宮司を追われた時の様子や、「長子らが、私と妻を辞めさせて追い出したかった理由がもう1つあります」と長子さんと真里子容疑者の間にもトラブルがあったことが書かれている。茂永・真里子容疑者夫婦は2度の離婚と3度の結婚をしているが、最初に結婚した2000年ごろに真里子容疑者が長子さんから誹謗中傷を受け、その時、真里子容疑者は強いショックを受けていたという。当時、茂永容疑者は宮司で、夫婦そろって富岡八幡宮の敷地内で暮らしていた。
茂永容疑者が宮司の職を追われた後、東京を離れた2人は今年7月まで福岡県宗像市に住んでいた。今年3月には、真里子容疑者の名前で長子さんを誹謗中傷する告発文書が、当時富岡八幡宮の宮司の任命権を持っていた神社本庁に送られている。一方の茂永容疑者は、関係者に「宮司に返り咲きたいからお願いします」と漏らしていたというが、今年9月、長子さんが正式に宮司に就任したことで宮司に返り咲くことはなくなった。そんななか、手紙の中で強く要求していたのは「自分の息子を宮司にすること」。茂永容疑者の主張によると、息子は富岡八幡宮で働いていたものの長子さんに辞めさせられたという。息子が宮司になる道も断たれたが、それでも手紙では息子を宮司にすることを強く要求し、最後には「もし、私の要求が実行されなかった時は、私は死後に於いてもこの世に残り、怨霊となり、私の要求に意義を唱えた責任役員とその子孫を永遠に祟り続けます」と綴られている。
30年続く内紛が殺害に及んだ今回の事件。臨床心理士で明星大学准教授の藤井靖氏は家族間トラブルの難しさを次のように語る。「家族間トラブルは解決が本当に難しい。家族同士は遠慮もないし、家族だからある意味逃げられない。特に、継ぐ・継がないという話は人生に大きく関わってくる。今回は姉弟トラブルでもあるが、結婚するとそれぞれに配偶者ができて登場人物がより多くなってくる。人間関係もさらに複雑になる。そうなると事態の解決はさらに難しくなる」。
人柄をよく知っている家族にも関わらず、なぜ仲がこじれてしまうのか。関係がうまくいく・いかない点について「差は紙一重だと思う。人が近づけば近づくほど色々なトラブルが起きやすく、家族間の口論や言い争いは家族だからこそ堂々巡りになりやすい。特に"兄弟間"ともなるとより解決は難しく、相手をよく知っているために『あの人はこういう人だ』と固定観念で接することにつながる。自分の中で相手像を作って接するのは問題の解決に繋がらないことが多い」と"家族だからこそ"の要因をあげた。
トラブルの解決には「境界線を引いて適切な距離を保つこと」が必要だというが、藤井氏は「ここまで拗れてしまうとなかなか解決の方法は難しい。拗れた状態でそこまで対処するのは難しい」とし、兄弟間トラブルの予防的な観点として2点を指摘する。
「過去の事例を聞くと、実は子どもの頃から(トラブルが)始まっていることがある。表面的には仲が良くて争いが顕在化していなくても、親が兄弟を比較して育てることがあるとそれが1つの火種になりうる。ありがちなことだとは思うが、親と子が1対1で絶対的な評価で向き合うこと、比較して育てないことが大事。
もう1つは大人になってからの話。どうしても兄弟は子どもの時の関係性やイメージで接してしまう。大人になって人格的に成長し、社会的な地位について色んな意味で自身をつける中で、姉が高圧的に接したりすると弟はプライドが傷つけられる部分があるかもしれない。大人同士の付き合いができることが予防策になる。」  
富岡八幡事件 “加害者”と“被害者”の息子が後継候補の因縁 
弟夫婦が姉を斬殺した富岡八幡宮事件で注目されているのが同神宮の莫大な資産だ。
富岡八幡は周辺に多数の不動産物件を所有し、借地権代やビルの契約料、テナント料などの年間収入は数十億円といわれる。これにさい銭や寄付などを加えると総額がいくらになるか見当もつかない。この巨額の資産を手にするとみられているのが富岡茂永容疑者(56)に殺害された長子さん(58)の長男だ。
地元関係者が言う。
「長子さんは20歳そこそこで結婚し、その後離婚。バツイチですが、30代後半のひとり息子がいるのです。息子さんは神職に就いていないものの、いずれは資格を取って長子さんの後継者になるかもしれない。それ以前に長子さんの唯一の法定相続人です。長子さんの個人資産は現金だけでも10億円といわれています。長子さんが亡くなった今、この長男が巨額の資産を引き継ぐことになりそうです」
ただし、大金が絡む話のため、今後ひと波乱起きる心配もなくはない。
「長子さんの個人資産は長男が相続するでしょう。問題は、神社が持つそれ以外の資産や権利の行方です。長男が宮司になったとき、現在の執行部、つまり長年いる神職の人たちが『今さら乗り込まれるのは困る』と拒絶するかもしれない。そうなると富岡八幡は長子さんの長男を支持するグループと、拒絶するグループに分裂するかもしれません」(前出の地元関係者)
実際、こんな驚きの人事プランが浮上している。実は事件の2日後の9日、富岡八幡の神職や氏子ら役員による緊急会合が開かれた。長子さんと茂永容疑者の下には50代の妹がいる。この人を担ぎ出すというのだ。妹は富岡の運営にはタッチしていない。
「会合で役員たちから、妹さんを説得して長子さんの後継としてワンポイントリリーフにしようという意見が出たのです。さらにビックリなのが妹さんが退いたあと、茂永容疑者の30代の息子を神職に迎える案まで出たこと。この息子は神職の資格があり、真面目な性格。地元での評判も良好なだけに実現する可能性があります」
要するに、被害者の息子と、加害者の息子が、後継候補に立っているわけだ。悲惨な殺人事件が奇妙な対立を生み出そうとしている。  
12/13 雑話

 

富岡八幡宮の宮司 富岡長子事件
東京・江東区にある富岡八幡宮の宮司・富岡長子が襲われた事件で、襲った宮司の弟・茂永容疑者について徐々に真相が明らかとなってきた。
事件前から富岡長子と弟の茂永容疑者は、過去に宮司の職を巡ってトラブルがあったとみられていて、様々なメディアが事件につながる情報を取材している。
この富岡八幡宮を巡っては、いろいろな問題があったのは事実で、「1人の人間を馬鹿にして、徹底的に追い込むとどうなるか」という実例なようなもの。それぞれが富岡八幡宮の財や権威等を利用してきた結果であり、いろんな問題を引き起こし、勝ち方にも道理があり、その挙げ句の自業自得的な事件という印象しかない。
どこまで事実なのかはあてにはならないが、週刊文春が富岡茂永の遺書と嫁について報じられているので、現時点までの事件についてまとめてみた。
富岡八幡宮の事件概要
富岡八幡宮の敷地内の女性宮司・富岡長子さん宅で、長子さんの腹違いの弟である富岡茂永と愛人女性が富岡長子さんを襲撃。富岡長子さんを襲撃後、富岡茂永と愛人女性は自らもその日本刀で命をたち、神社らしからぬ前代未聞の事件となった。
しかし、富岡八幡宮は、神社本庁から離脱するなど女性宮司・富岡長子さんにはキナ臭い噂があり、2015年には週刊現代がトラブルを報道。事件を予告していたと話題になっている。
富岡長子さんの父、富岡興永前宮司は自分が勤務していた、富岡八幡宮の借地権(土地の一部)120坪を富岡八幡宮より搾取。長女の富岡長子さんとその妹に相続させていた事が神社本庁及び神社界で問題とされていた。
富岡長子さんが女性宮司になる際、神社本庁と揉めてその後、神社本庁より離脱。女性宮司の誕生となり、弟は退職金で1億2000万貰ったようだが、様々な不満があったようだ。
富岡八幡宮の跡目争いの果てか。
神に仕える人間といえど、神社を運営するのはしょせん人間、利権問題は根深いようである。
週刊文春が報じた富岡茂永の遺書
12月7日、東京都江東区の富岡八幡宮で宮司の富岡長子の弟で、元宮司の富岡茂永容疑者(56)が犯行直前に書いた“遺書”を「週刊文春」取材班が入手した。
〈ご関係の皆様〉と題された“遺書”はA4で計8枚。事件後、富岡八幡宮の責任役員や総代の元に郵便で届いているという。〈ご関係の皆様〉と題された“遺書”はA4で計8枚。事件後、富岡八幡宮の責任役員や総代の元に郵便で届いているという。
事件の動機は、宮司継承をめぐるお家騒動にあると見られているが、この“遺書”はお家騒動に対するお詫びから始まり、姉の長子さんなどとの30年におよぶ確執の詳細が綴られている。
〈父を補佐し、お家の危機を救った私を騙し、クーデターを画策するなど夢にも思っていなかった〉
また茂永容疑者は、〈正当な跡継ぎ〉と主張する自身の長男について、〈長子は(略)勤務状況が悪い等の難癖をつけ、自分の秘書のように公私に渡り、自由に使ってきた(茂永氏の長男、本文実名)を懲戒解雇にしたのです〉と書いている。
そして〈1極悪極まりない富岡長子を永久に富岡八幡宮から追放すること 2即刻富岡(茂永氏の長男、本文実名)を富岡八幡宮の宮司に迎える事〉などの4項目を、富岡八幡宮の責任役員・総代などに要求している。終盤には、今回の事件を連想させる文言が並ぶ。
〈もし、私の要求が実行されなかった時は、私は死後に於いてもこの世(富岡八幡宮)に残り、怨霊となり、私の要求に意義を唱えた責任役員とその子孫を永遠に祟り続けます〉
庶民の信仰を食い物にしての贅沢三昧、見かねた父親に勘当されて神主の座を追われた富岡茂永。
そんな愚か者が言い遺したからと言って、怯え恐れる愚かな人は当然いない。世間の注目を集めようとしただけの「曳かれ者の小唄」に怯えるのはおり得ないので、この手紙を本気にとってはいなかったのだろう。
週刊誌での報道では、富岡八幡宮での宮司なら、年収は約3億円。
富岡茂永は、離婚歴2度2回 、1男1女での子供が居る等での報道されている。
銀座&六本木、新宿歌舞伎町等での夜の繁華街の高級クラブで異性関係も派手。宮司としては、有るまじき行為を繰り返し、辞任勧告をされて、事実上免職。その宮司代理として姉で長女の富岡長子を宮司にしたのも理解できる。
富岡茂永の富岡八幡宮の宮司・富岡長子への恨み
被害妄想狂の弟は「自分はハメられた」と思い込んで創作の物語を怪文書としてばら撒き、怨念を膨らませて事件を実行した。このように富岡八幡宮事件の富岡茂永容疑者の行動は、宮司という立場を追いやられてしまった長年の恨みがあることは間違いないが、問題は共犯者である自分の嫁まで、なぜその手にかけたのか?が疑問に残る。
姉・富岡長子のブログを読むと極めて常識的で、怪文書にある様な浪費はしていないと推認できる。
弟の富岡茂永は、55歳にもなって怨霊とか恨みとか祟るだの厨二ぶいた言葉を使用し、あまりにも「幼稚」。宮司は高貴な職業の筈なのに、短絡的かつ身勝手な犯行、女遊び酒癖も酷くオマケに周囲の目を気にせず、嫁を巻き込み、怒号に駆られ、姉や無関係なタクシーの運転手を巻き込み事件を起こすなど身勝手な行動。
もう少し賢い弟だったら、他に味方に付けて投票戦に持ち込むなどほかに解決策が浮かんだかもしれないが、富岡茂永には知恵が無さすぎだった。共犯の嫁も普通、「証拠隠滅」という理由などで、その手にかけるのも常識的にあり得ない。
まさしく富岡茂永の行動は、理解不能。
女で身を滅ぼされてしまった典型的な堕落のパターン。共犯とされた嫁に唆されて実行したとネットでは噂も囁かれているが、その嫁もこの世にいないので確かめることが出来ない。
これから文春あたりが、追跡取材を行うと思われるが、結果的には茂永家は今後、富岡八幡宮と断絶という事になるだろう。もともと親に勘当された身。静かに暮らしていたら良かったのに、宮司に返り咲きたいなんて考えた事は間違いだった。
所詮、宮司の器では無かった。
また、それ以前に人として問題ありで、親の躾けも悪かったという事。一番迷惑だったのは富岡八幡宮の氏子の皆様方といえる。
富岡八幡宮の今後
被害者の女性宮司・富岡長子が就任したのは2017年になってから。
加害者側の富岡茂永が16~7年前までは宮司をしていたが、散財や女関係が派手でクビ。その間は被害者女性の富岡長子が「宮司代行」という形で運営してた。
神社を総括する神社本庁が「富岡長子が宮司になることを認めなかった」ので、「離脱して宮司になった」と報じられてる。
この部分は、今回の事件でも最大の謎として残る。
大きな神社には、大勢の氏子(その地域の住人)がいるので、組織だった活動もしてる。この兄弟の親戚筋から跡取りを連れてくれば存続は可能だし、神社本庁から派遣されてくる可能性もあると考える。上記に記したように「富岡八幡宮は現在、神社本庁に属していない」ので、この事件以降、復帰となるとこの事件が「胡散臭く」感じることになってくる。
例えば、第三者が入れ知恵により富岡茂永をけしかけたなど。
富岡長子は被害者であり、事件の大きさからあまり報道されていないが、この富岡長子も離婚暦があって、弟と同じ金銭感覚はルーズ。神社境内に西洋式の立派な住居を建設している。天皇行幸碑への勝手な自名彫りなど、完全に「神社の私物化」を行っていたので、何かと問題が多い。
父親も何回も離婚と再婚を繰り返している家系の血だった様だが、こんな人が神官で良かったのか?疑問に思う声も氏子の間では広がっていたようだ。かなり性格の悪い自己中で金遣いも荒い女性だったことは間違いなく、「宮司になれない」からと協会から脱退して神社を私物化。勝手に宮司を名乗り、宮司の身でありながら毎週ホストクラブで100万以上を遣ってた。(弟は一応正式な手続きで宮司になっている)
要は、勝ち方にも限度があり、情も必要ということ。
ことわざであるように「窮鼠猫を噛む」あまり追い詰めすぎると理解不能な行動に出てしまうので、犯人だけの問題ではないのは間違いないだろう。  
12/14 雑話

 

富岡八幡宮事件に見る、組織に「怨念」を抱く者の恐ろしさ 
神道的に見れば大きな意味を持つ遺言書の中身
年の瀬の日本に激震が走った富岡八幡宮の殺人事件。姉を弟夫婦が待ち伏せして日本刀でメッタ斬りにするという凄まじい手口もさることながら、衝撃的だったのは、犯人である富岡茂永氏が関係者やマスコミに宛てた「遺書」の内容だろう。
既にネットで公開されているのでご覧になった方も多いと思うが、「約30年に亘り続きました、富岡家の内紛」なるものを赤裸々にぶちまけるとともに、姉を「永久追放」して、自身の息子(最初の妻との子ども)を宮司に迎えることを要求し、最後に★印とともに、以下のような脅しともとれる「宣言」を行ったのだ。
「もし、私の要求が実行されなかった時は、私は死後に於いてもこの世(富岡八幡宮)に残り、怨霊となり、私の要求に異議を唱えた責任役員とその子孫を永遠に祟り続けます」
ああ、もうこの人は完全に頭のネジがぶっとんじゃっているんだな。そんな風に感じる方も多いかもしれないが、実は神道的に見ると、茂永容疑者のロジックはそれほどおかしくはない。むしろ、神職を追われた者が仕掛ける「復讐」のシナリオとしては、驚くほどよくできている。
この国では古代から権力争いに敗れ、憤怒の念を抱きながら死を遂げた者が「怨霊」となり、権力者のみならず、国全体に疫病や自然災害などの「祟り」をなしてきたという伝説がたくさんある。崇徳天皇、早良親王、長屋王、伊予親王、藤原夫人、観察使橘逸勢、文室宮田麻呂など例をあげればきりがない。
いやいや、そういう「御霊信仰」みたいな話ではなく、今回のは完全におかしな人の逆恨みじゃないか、という意見もあろうが、「怨霊」というものには、そのような恨みを抱くのも仕方ないというような情状酌量の余地だとか、主張の正当性なんて要素はまったく必要ではない。
大事なのは「祟りかも」という恐怖であって、それがあれば、「怨霊」なのだ。
茂永氏は祭りを人質に取って息子を宮司にするよう迫った
わかりやすいのが、全国の八幡宮の総本社である宇佐神宮(大分県)の「放生会」という神事だ。昨年亡くなった著名な古代史家である上田正昭・京都大学名誉教授は、この神事を研究して、その目的が古代の鹿児島・宮崎地域で暮らしていた民族「隼人」が大和朝廷に対して反乱を起こして征討されたことへの鎮魂だと「AERA」(1994年5月30日)の記事で主張した。
大和朝廷からすれば、隼人は辺境から反乱を企てる「悪」以外の何物でもないので、当初は鎮魂など行わなかった。が、なぜそれが行われるようになったのかというと「祟り」のせいだ。
伝承では隼人に対して、1400人という夥しい数の大量虐殺が行われた数年後、宇佐神宮一帯で、蜷貝(にながい)が異常発生し、征討軍に関わった宇佐神宮の神官らが隼人の祟りでは、と恐れはじめたという。その後、海に蜷貝を放ち、殺生をたしなめる「放生会」が始まったという。
そのような「怨霊」というものの基本的性格を踏まえると、茂永氏の「怨霊宣言」というものが、富岡八幡宮や「(殺された姉の)長子派」の方たちにとって、行くも地獄、引くも地獄という非常に巧妙な「トラップ」となっている。
実は、この「遺書」の中で茂永氏は、息子が宮司になれなかった場合は「私が作らせた一の宮と二の宮神輿を出す事を今後一切禁止します」とも述べ、これが破られたら、神輿総代会の幹事総代やその子孫にまで「永遠に祟り続けます」と言っている。
一の宮神輿は1991年に佐川急便の故・佐川清会長が奉納したもの。ダイヤモンドやルビーがちりばめられ「日本最大の金ピカ神輿」として話題になったものだが、重すぎて担がれる機会もないので、このまま出せなくても特に問題はない。が、問題は97年に奉納された二の宮神輿の方である。こちらは毎年行われる「深川八幡祭り」で使われているものだからだ。
つまり、茂永氏は、江戸三大祭りの1つとして30万人もの人出があるとされ、地域活性化にも貢献する祭りを、いわば「人質」にとって、息子を宮司にするよう迫っているのだ。
茂永氏の遺言を富永八幡宮が無視できない理由
祭りはみんなものなんだから、そんなバカな要求はシカトすりゃいいんだよ、という言葉があちこちから聞こえてきそうだが、それは天にツバするような行為である。
祭りとは、ただ神輿を担いで「粋だね」「いなせだね」と参加者が自己満足にひたる地域交流イベントではなく、宮司が執り行う、れっきとした「神事」である。その「神事」を取り仕切る者が、以前その神職についていた者から殺されたうえに、容疑者は自ら命を絶って「怨霊になる」と宣言しているのだ。
この神職者間のトラブルを、「家族内トラブル」で片付けるというのは、「深川八幡祭り」の宗教的意味も否定することにつながってしまう。もし富岡家が「怨霊なんて非科学的なものはないから安心してください」と二の宮神輿を引っ張り出すことがあれば、それは宗教家としての「死」を意味することと同じであり、「富岡八幡宮」という宗教施設の意義を自ら否定する行為なのだ。
伝えられている確執が事実なら、富岡家が茂永氏の息子を宮司にするという選択肢は難しそうだ。かといって、富岡八幡宮に潤沢な「カネ」を呼び込むための一大イベントである「深川八幡祭り」を中止にするなんてことは、できるわけがない。
そうなると、祭りが行われる来年の夏までに新たな神輿をつくるしかないわけだが、それは世の中に対して、「富岡八幡宮は茂永氏を怨霊として恐れている」と公言しているに等しい。先ほどの「隼人」のケースを思い出してほしいが、「怨霊」というのは、非業の死を遂げた者が正しいとか間違っているとかは関係なく、「祟りかも」という恐怖心がつくるものだ。
つまり、新たな神輿をつくるという選択は、富岡八幡宮がオフィシャルに茂永氏を「怨霊」と認定したことになってしまうのである。こうなると今後、富岡八幡宮や祭りで、何か不吉な出来事が起こるたびに「祟り」と結びつけられる。
茂永氏の遺書は企業の怪文書に似ている
もしそのようなことが続くようならば、富岡八幡宮の境内に茂永氏の怒りを鎮めるような碑、あるいは社も設けられるかもしれない。
それは裏を返せば、茂永氏が、菅原道真公や全国の御霊神社のように、「神」になるということである。富岡家や長子氏についている方からすれば、まさに「悪夢」と呼ぶにふさわしい展開だろう。
先ほど、行くも地獄、引くも地獄という非常に巧妙な「トラップ」だと評した理由がお分かりいただけただろうか。
この極めて完成度の高い「復讐シナリオ」が織り込められた「遺書」を見ているうちに、企業内でバラまかれる「怪文書」とよく似ていることに気づいた。仕事柄、いろいろな怪文書を目にするのだが、「敵」に向けられる激しい誹謗中傷、そして自分の主張こそが正しく、これが通らなければ死んでも死にきれないという強い思いは、茂永氏の筆致とそれほど変わらない。
確かに、内部告発などをして企業に「災い」をなす人の多くは、社内の権力闘争に敗れるなど、何かしらの恨みを抱いている人が圧倒的に多い。みなさんも、そのような「復讐劇」をよく耳にすることだろう。
たとえば、インサイダーによる調査報道に定評のある会員制情報誌「FACTA」が、日産の検査不正問題は、社内の品質保証関連部署の人員などが「西川降ろし」を画策してリークを行ったと報じている。
無論、日産側はリークを否定しているが、話としては妙な説得力がある。
同関連部署は、カルロス・ゴーン前社長が2000年頃に「血の流れる改革」を行った際、もっとも人員を減らされたということで、不満の声が多く上がっていたという。そのような部署の一部の人が「怨霊」となって、数十年前から現場で続いていた「社内ルール」を「不正」として発掘し、ゴーン前会長の懐刀である西川社長に「祟り」をなす、というのは極めて日本的な復讐劇で、いかにも「ありそう」である。
権力闘争の激しい企業には「プチ茂永氏」が大勢いる
では、このような権力闘争の「敗者」が「怨霊」にならないためにはどうすればいいか。哲学者の梅原猛氏は、敗者を排除するのではなく、「何らかの意味で鎮魂し、それによってかつての敗者の部下であった人たちが安んじて新しい権力に仕える道を用意すること」(日本経済新聞1991年8月31日)と述べている。
これはまったく同感だ。よく企業から「どういうわけかメディアに、うちの社長の悪い話ばかりが出る。しかも、メディアが知らないような内部事情ばかりだ」と相談を受けるが、たいがいその社長にかつて冷遇されたとか、政敵だったとかいうグループがリーク元であることが多い。
つまり、このグループは組織内でしっかりと「鎮魂」をされていないので、新しい権力に災いをなす「怨霊」となってしまうのだ。
マスコミ業界にいると、社内の権力争いが激しい大企業に勤めている方から、内部事情を話したいとの申し出がよく来る。実際に会って話を聞いてみると、「あいつだけは許せねえ」「会社を辞めることになってもいい。刺し違えてでも、あいつは引きずり下ろす」などと、「政敵」への怒りをぶちまける方も多い。
レベルは違えど、「プチ茂永氏」のような方は、世の中に山ほどいるのだ。
みなさんがいま働いている会社の同僚の中にも、「怨霊」になりかけている人がいるかもしれない。  
自殺の富岡八幡元宮司が遺言 「怨霊」はどうしたらなれる 
「死後も怨霊となり、永遠に祟り続ける」――姉の富岡長子さん(58)を惨殺した後、自殺した富岡八幡宮の元宮司・富岡茂永容疑者(56)が、事件直前にA4判8枚につづった“遺書”の最後には、そんなことが書かれていた。
長子さんを永久に追放し、自分の長男を宮司にすることなどを氏子らに求め、要求が実行されなかったら怨霊となって、「異議を唱えた責任役員とその子孫を永遠に祟り続けます」というのだから、何ともオドロオドロシイ。“別世界”の発言としか思えないが、氏子らにとってはゾッとする事態だろう。
そもそも怨霊とはどうしたらなれるのか?
「怨霊(御霊)とは、うらみを残して死んでいった人が、死後に災厄をもたらすもの。日本では古くは祟り神とも呼ばれ、信仰の対象となる神様なのです。代表例としては菅原道真、平将門、崇徳天皇がいて、あくまで怨霊とは“高位の者”がなるものとされるのが一般的です」(歴史作家の加来耕三氏)
つまり、社会的ステータスのあった偉い人が権力闘争などで命を落とし、死後に同情されて怨霊=神として畏れ祭られるというもの。一般の人ではなかなかなれるものではないらしい。実際、道真は北野天満宮や大宰府天満宮、将門は神田明神などに神廟があるし、京都のギ園祭などもさまざまな怨霊を鎮めるための祭りとされる。
茂永も世の中に深いうらみを持って死んでいったのは事実だが、それは逆恨みと言っていい。もしなれるとしても怨霊ではなく、小説や映画の題材になった「リング」の貞子や「呪怨」の伽椰子といった亡霊や物の怪の類いだ。一部の新興宗教が恐怖をあおって除霊などの名目で高額なお金をせしめたりするのに使う。
死者を冒涜するつもりはないが、由緒ある神社である富岡八幡宮に自己の勝手で怨霊となって残り、子々孫々まで祟るというのは身勝手にもほどがあるだろう。
「歴史上、自ら進んで怨霊になった人は少ないでしょう。西洋のカトリック教会にもエクソシスト(悪魔払い)という儀式はありますが、死んだ側の都合で復讐する者は悪霊であり、一方、怨霊とは生きている者がある種の後ろめたさから故人の冥福を祈るために生まれたものです」(加来耕三氏)
富岡八幡宮の氏子たちは寝覚めは悪いだろうが、それほど心配する必要はなさそうだ。  
富岡八幡宮斬殺 弟の積年の恨みと凶行へのスイッチ
約400年の歴史をもち、江戸三大祭りの1つに数えられる「深川八幡祭り」の舞台・富岡八幡宮(東京都江東区)が鮮血に染まったのは、12月7日の夜8時半頃だった。帰宅した宮司の富岡長子さん(享年58)に、弟で元宮司の富岡茂永容疑者(享年56)と、妻の真里子容疑者(享年49)が襲いかかった。
「茂永容疑者は車に逃げ込もうとした長子さんを引きずり出し、刃渡り約80cmの日本刀で後頭部や胸などを切りつけて殺害。その場から逃げた運転手も、100mほど離れた場所で真里子容疑者に切りつけられました。運転手の右腕は、切断に近い状態だそうです。その後、茂永容疑者は長子さんの自宅前に戻ってきた真里子容疑者の胸や腹を刺して殺し、続いて自らの心臓をサバイバルナイフで串刺しにして自殺しました。その間、わずか5分の凶行でした」(全国紙社会部記者)
9日、茂永容疑者が姉への恨みを綴った手紙が関係先20か所以上に届いた。
《さて、先ずは約30年に亘り続きました、富岡家の内紛について、その真相を此処にお伝えさせて頂きます》
そんな文言で始まるA4用紙8枚に及ぶ手紙の中で茂永容疑者は、かつて宮司を務めた父・興永さんや長子さんの悪行を告発。長子さんを追放して、茂永容疑者と1人目の妻との間に生まれた息子・A氏を宮司に迎えることを求め、最後にこう結んだ。
《もし、私の要求が実行されなかった時は、私は死後に於いてもこの世(富岡八幡宮)に残り、怨霊となり、私の要求に異議を唱えた責任役員とその子孫を永遠に祟り続けます》
興永さんの跡を継ぎ、茂永容疑者が神社の代表者にあたる「宮司」に就任したのは1995年のことだった。
「元来派手好きで、神輿を名物にして祭りを盛り上げたり、新横綱の刻銘式を復活させて土俵入りを行ったりとかなりのやり手。ただ、遊び人で、神社の金で銀座のクラブで豪遊三昧。一晩で数百万円使ったこともあったそうです。
女性関係も派手で、真里子さんと結婚する前に2回結婚歴があって、他にフィリピンパブなんかで働く外国人の愛人も複数いました。お金や女性関係を暴く怪文書がばらまかれ、2001年に宮司を退任。この件について茂永は、“長子がおれを陥れるために画策した”と、憤りを募らせていました」(茂永容疑者の知人)
宮司には興永さんが復職。茂永容疑者は1億2000万円の退職金に加え、毎月30万円が渡されることになった。しかし、それでも宮司職にいるときと比べれば使えるお金は雲泥の差だった。
《今年中に決着をつける、覚悟しておけ。積年の恨み、地獄へ送る》
2006年、茂永容疑者がそう綴ったはがきを長子さんに送り、脅迫罪で逮捕された。2010年、父が病気を理由に再び宮司の立場を離れ、その席についたのが長子さんだった。
「全国の神社を取り仕切る『神社本庁』から承認されなかったため、長子さんは宮司代務者という扱いでしたが、実質的なトップに立ちました。すると翌年、長子さんは神社に勤めていた、茂永さんの長男A氏に突然、解雇通告。姉弟間だけじゃなくて、長子さんとA氏の間にも軋轢があったんです。以前、境内にある建物でボヤ騒ぎがあった時、長子さんがA氏に“お前が火をつけたんだろう”と犯人扱いして罵声を浴びせたこともありました。“粛清”だったんでしょうが、不当解雇を理由に裁判沙汰にまで発展しました」(神社関係者)
姉弟の確執がピークに達したのは2017年の夏だった。長子さんが茂永容疑者への毎月の金銭支援を打ち切ると通告。さらに9月、いつまで経っても宮司と認めないことにしびれを切らして神社本庁から離脱し、宮司に就任した。これが凶行のスイッチだった。  
12/15 雑話

 

泥沼化する富岡八幡宮事件 
「最初は通り魔が出た、という話でしたが。まさかこんなにドロついた話だったなんて……」
大手紙社会部記者にもこう言わせしめた、東京・富岡八幡宮で起きた女性宮司殺人事件。被害者の実弟である前宮司とその妻が、日本刀で女性宮司と男性禰宜(ねぎ)を襲撃。女性宮司は死亡し、禰宜も片腕の大部分を切り落とされるなど重症を負った。
容疑者は事件の共犯者である自分の妻も殺害し、のちに日本刀で胸を突き自殺した。また、地域の氏子など神社関係者に対して被害者を神社から追放することなどを求める手紙が送付されていたことが判明。その数は約2800通。要求が通らなければ「死後においてもこの世に残り、怨霊となり、たたり続ける」という文言も見られるなど、まさに「平成の八つ墓村」。テレビや新聞の報道も「富岡八幡宮のお家騒動」一色となり世間が騒ぐなか、その喧騒を冷ややかな目で見ていたのは、富岡八幡宮の総代経験者であるX氏だ。
「総代、氏子、みんな何かトラブルが起きることを予想していました。お家騒動の究極の形ですね。前宮司がここを追われて以降、被害者である現宮司も好き放題やっていた印象です。神社本庁が『経験不足や女性だということで宮司として認めなかった』などと一部では報道されていますが、彼女にはその資質がなかった。それだけでは?」(X氏)
被害者である女性宮司への同情意見も少なくないが、地元の氏子、総代などの関係者に言わせれば、容疑者とその妻だけでなく、被害者宮司にも様々な「落ち度」があったのかもしれない。とはいえ、被害者宮司のブログには、神職の飲み会におけるセクハラやパワハラ、ネグレクト、嫌がらせなどが横行しているなどの内情が暴露されており、様々な確執があったことが伺える。
一方で、容疑者にも「歴史深い名社の宮司」たる資質があったかといえば、首をかしげる関係者も多いという。銀座や錦糸町のクラブで豪快に飲み歩いている姿も目撃されていたという。
「前宮司もとにかく遊ぶこと、派手なことが好きだった。ただ、深川のためにということで横綱を招いたり、氏子や我々とはうまく協力できていた。しかし、とにかく自分の思った通りにやりすぎる部分もある。前妻と別れて、今回の新しい妻を連れてきたときは、相当なすったもんだがあったようだ」(X氏)
共犯者とされる妻は、前宮司の後妻として嫁いできたが、前宮司とは結婚後に離婚し、さらに再婚して離婚、事件当時は三度目の婚姻状態にあった。大変不思議な関係性に思えるが、富岡八幡宮の内情を知る関係者は、前宮司とその妻の関係性について、次のように証言する。
「前宮司が通っていた店で働いていたのが奥様でした。奥様の出自をめぐり、前宮司の母、そして被害者である姉と相当もめたんです。そういったこともあり、今回奥様が犯行に加わったということを聞いて、相当に(被害者を)恨んでいたのだろうと思いました」(神社関係者)
一部報道によれば、前宮司の妻は、被害者の禰宜の男性に対し「お前だけは許してやる」と吐き捨て、命を奪うことまではしなかったという。前宮司の妻の恨みは、自身を否定し続けてきた旦那の姉だけに向けられていた可能性が高い。
一方、なぜこのタイミングで、容疑者は爆発してしまったのか。前出のX氏が続ける。
「前宮司は、富岡八幡宮を追い出される際に1億円に近い退職金と、その他資産を持たされた。タワーマンションに住んでいたが、姉を脅迫して逮捕されると、ついこの間までは福岡に住んでいた。神職らしいことはあまりしておらず、釣りばかりやっていたらしい。原因はやはり前宮司の息子の存在だろうと思ってます。全てをリセットすれば、富岡八幡宮の運営だけでなく、神社が持つ不動産などで得られる莫大なカネも自分の息子に受け継がれる、そう考えたのではないでしょうか?」(X氏)
とはいえ、富岡八幡宮の宮司には、長年勤め上げた「富岡家」の血筋ではない別の関係者が就任するのではないかとも噂されている。極めてローカルな世界で起きた事件だけに、その全容が明らかになる日など、永遠にこないのかもしれない。  
富岡八幡宮斬殺 賽銭泥棒、ホスト、不敬事件…放蕩の裏側 
東京都江東区の富岡八幡宮で惨劇が起きたのが、12月7日の夜8時半頃だった。帰宅した宮司の富岡長子さん(享年58)に、弟で元宮司の富岡茂永容疑者(享年56)と、妻の真里子容疑者(享年49)が日本刀で襲いかかった。茂永容疑者は長子さんを殺害、運転手も真里子容疑者に斬りつけられた。そして、茂永容疑者は真里子容疑者を殺し、自らも自殺。その後、9日に茂永容疑者が長子さんへの恨みを綴った手紙が関係先に届いた。
父である興永さんの後を継いで茂永容疑者は1995年に神社の代表者にあたる「宮司」に就任した。しかし、金遣いや女性関係が派手だったこともあってか、怪文書をばらまかれ2001年に退任した。そして、茂永容疑者の後任となった長子さんへ《今年中に決着をつける、覚悟しておけ。積年の恨み、地獄へ送る》とのはがきを送り、2006年には脅迫罪で逮捕されている。
激しい憎悪で結ばれた一族は数奇な運命を歩んできた。そもそも、長子さんと茂永容疑者の祖父・盛彦氏は、宮司を務めながら神社本庁の事務総長となり、戦後の神社界の発展に貢献した大物だった。
「その息子が興永さん。でも、実は興永さんは次男で、将来を嘱望された優秀なお兄さんがいたんです。ただ、比較的若い頃に境内で自殺してしまった。そうして、宮司のイスが興永さんに回ってきたんです」(神社関係者)
興永さんと京都の神社の令嬢の間に生まれたのが、長子さんと茂永容疑者だった。
「興永さんは宮司の仕事にはあまり熱心ではなくて、むしろ神社のお金を骨董品の収集なんかに充てていたといいます。本来なら許されることではありませんが、代々続く名家に生まれたことがそうさせてしまったのかもしれません」(前出・神社関係者)
茂永容疑者の「女癖」も、同じ境遇から生まれたものだったのだろう。
「茂永は典型的なボンボンで、よく地元の不良グループとつるんでいました。金を巻き上げられたりもしてて、賽銭泥棒や、興永さんの骨とう品を勝手に売っ払ってました」(茂永容疑者の知人)
長子さんもまた、「金の呪縛」にとりつかれていた。
「中学を卒業してから家出同然。19才の時に国鉄勤務の男性と結婚し子供をもうけましたが、すぐに離婚して出戻ってからは、神社の経理の仕事を融通してもらっていました。夜間の大学に通って神職を学び、ゴタゴタの末、実質的な宮司に収まりましたが、こちらも弟に負けず金遣いは荒かった。新宿のホストクラブに入り浸って、今夏の祭りには、場違いなホスト風情の男が十何人と来てました。常に200万円を現金で持ち歩いていて、高級な食事をごちそうするのは当たり前、帰りのタクシー代まで渡していました」(神社関係者)
地元商店の関係者は、長子さんの一面をこう明かす。
「好きな飲み物は高級シャンパンのドンペリ。毎年初夏に、地域の警察関係者との懇親会が屋形船を借り切って行われ、長子さんは必ずドンペリ10本を差し入れするんです。どちらかというと、自分が飲みたいがためなんでしょうけど」
派手な生活を支えたのは、莫大な資金力だった。
「土地の切り売りや運用で、長子さん個人の預金は10億円以上あると噂されていました。1人で住んでいた洋館風の自宅は4億円は下らないともいわれ、地元では“賽銭御殿”と囁かれていたくらいです。犬を10匹以上飼っていて、専属の世話係もいました」(前出・地元商店の関係者)
そんな生活を続けていたからなのか、理解しがたい行動も散見されていた。
「白く塗られたお化粧の下の素顔を誰も見たことがないんです。この10月、神社関係者で熱海の温泉に慰安旅行に行ったんですが、宴会の時にはみんなひとっ風呂浴びて浴衣姿なのに、長子さんだけは化粧バッチリ、花柄のワンピース。少し浮いたところは確かにありました。天皇皇后両陛下への不敬事件の時も異様でした。
2012年8月の深川八幡祭りで両陛下の案内役を務めたときに、冠や袍をまとう正装を施さなかったばかりか、両陛下の隣に並び立って町神輿を見物し、“不敬だ!”というクレームや抗議が相次ぎました。しかもその後、両陛下の訪問を記した祈念碑に『宮司』として自分の名前を刻んだんです。“神社本庁が認めた正式な宮司でないのに、肩書詐称ではないか”という騒動にも発展しました」(前出・神社関係者)
恨の一族の血脈が、日本中を震撼させる事件として表出した。  
自殺の元宮司、全国の神社関係者に手紙約2800通送付 
 「怨霊となり、たたり続ける」 
東京都江東区の富岡八幡宮で宮司の富岡長子(ながこ)さん(58)が刺殺された事件で、富岡さんを襲撃した弟で元宮司の茂永(しげなが)容疑者(56)=犯行後に死亡=が事件直前、富岡さんを中傷する手紙を全国の神社関係者らに計約2800通送っていたことが15日、捜査関係者への取材で分かった。警視庁捜査1課が事件との関連を調べている。
また、茂永容疑者が犯行に使ったとみられる日本刀など刃物3本を、9月に台東区内で購入していたことも判明。同課が詳しい鑑定を進めている。
捜査関係者によると、手紙は茂永容疑者が代行業者を通じて投函(とうかん)したとみられ、事件のあった7日に茂永容疑者から電話で「8日の朝、江東区以外のポストから投函してほしい」などと依頼があったという。送付先は全国の神社関係者が約1千通、氏子の関係先の飲食店や学校が約1800通。手紙の最後に押されていた指印を鑑定したところ、茂永容疑者の親指の指紋と一致した。
手紙はA4用紙8枚で、富岡さんを中傷し、神社から追放することなどを求める内容だった。要求が実現しなければ「死後においてもこの世に残り、怨霊となり、たたり続ける」などと記されていた。
事件は7日夜に発生。富岡さんの自宅近くで待ち伏せしていた茂永容疑者と妻の真里子容疑者(49)=死亡=が、帰宅した富岡さんと男性運転手を襲撃、日本刀などで切りつけた。茂永容疑者は犯行後、真里子容疑者の胸を刺し、その後自殺を図ったとみられる。  
「死後も怨霊となり祟る」手紙の投函を依頼
 富岡八幡宮事件前、容疑者は2800通を便利屋に預けていた
東京都江東区の富岡八幡宮の宮司、富岡長子(ながこ)さん(58)が弟の富岡茂永(しげなが)容疑者(56)=死亡=に殺害されたとされる事件で、茂永容疑者が富岡さんの宮司退任を求める手紙を事前に2800通用意していたことが、警視庁への取材でわかった。手紙には茂永容疑者の署名と指印があり、親指の指紋と一致したという。
捜査1課によると、手紙は、富岡さんの八幡宮からの追放や自分の息子を宮司にすることなどを要求し「実行されなかった時は、死後においても怨霊となり、祟(たた)り続ける」などとする内容。2800通を便利屋に預け、事件当日の7日、「8日朝に江東区以外のポストから投函(とうかん)してくれ」と依頼していたという。手紙は9日以降、全国の神社に1千通、氏子が通う学校や飲食店などに1800通郵送されていたのを同課が確認したという。
また、現場に残されていた凶器とみられる日本刀2本は、9月に台東区の刀剣販売店でそれぞれ約53万円と約33万円で茂永容疑者が購入していたという。

東京都江東区の富岡八幡宮付近で、宮司の富岡長子さん(58)が刺殺された事件で、富岡さんを襲撃した弟で元宮司の茂永容疑者(56)=犯行後に死亡=が犯行直前に投函(とうかん)したとみられる手紙が、全国の複数の神社に届いていたことが9日、神社関係者への取材で分かった。手紙には富岡さんへの恨み言が書き連ねられており、「死んでもこの世に残り、たたり続ける」などと死を覚悟したような記述もあった。
手紙は、A4の紙にパソコンなどで書いたとみられる文章8枚。手紙の最後には茂永容疑者の自筆とみられる署名があり、血判のようなものが押印されていた。消印は今月で、関東や関西を含む複数の神社に9日、郵送で届いたという。
茂永容疑者は手紙で「約30年にわたる富岡家の内紛について、真相をお伝えします」などとして、神社の運営や相続をめぐる親族間のトラブルを告白。自らが宮司の座を追われたことについて「クーデターが画策された」などとし、関係者に対して富岡さんを神社から追放し、自分の息子を宮司に迎えることなどを要求。「実行されなかったときは、死後においてもこの世に残り、たたり続ける」などと記していた。
茂永容疑者は7日夜、妻の真里子容疑者(49)=死亡=とともに富岡さんの自宅近くで待ち伏せし、富岡さんと男性運転手を襲撃。犯行後、真里子容疑者を刺し、自らの胸も複数回刺して自殺を図ったとみられている。  
12/16 雑話

 

富岡八幡宮司刺殺
 「たたり続ける」元宮司が「自害」前に書いたドロドロ過ぎる手紙 
東京都江東区の富岡八幡宮で、宮司の富岡長子(ながこ)さん(58)と運転手の男性(33)が、長子さんの弟で元宮司の茂永(しげなが)容疑者(56)と妻の真里子容疑者(49)=ともに犯行後に死亡=に襲われ、長子さんが刺殺された事件。「死後もたたり続ける」−。茂永容疑者が事件直前に関係者に宛てて投函(とうかん)した手紙には、約30年にわたる親族間の骨肉の争いの詳細と、恨み言がびっしりと書き記されていた。地域の繁栄と平和を象徴するはずの神社でなぜ、凄惨(せいさん)な事件は起きたのか。
車の中から引きずり出し…3分間の凶行
「刃物を持った女が暴れている」
7日夜。110番通報した通行人の男性(41)は、日本刀を手に、運転手の男性を追いかける真里子容疑者の姿を目撃した。「走るような感じではなく、堂々と歩いてきた。その後、『お前だけは許してやる』という女性の声が聞こえ、ただ事ではないと思った」
この直前、茂永容疑者とともに神社近くの物陰に潜んでいた真里子容疑者は、車で帰宅した長子さんと運転手を襲撃。防犯カメラの画像などから、茂永容疑者は、一度は車の中に身を隠した長子さんを引きずり出し、刃渡り約80センチの日本刀で執拗(しつよう)に切りつけたとみられている。真里子容疑者は車から逃げ出した運転手を100メートルほど追いかけ、別の日本刀で腕などに切りつけた。
その後、2人は長子さんの自宅玄関近くまで移動。茂永容疑者が真里子容疑者と自分の胸を刺すなどして、「自害」を図ったとみられる。
長子さんが車を降りてからここまで、わずか約3分間の出来事だった。
2800通の手紙…現場近くには“アジト”
現役の宮司が元宮司に殺害されるという前代未聞の事態。動揺する神社関係者をさらに震え上がらせたのは、事件から2日後の9日朝、茂永容疑者から届いた手紙だった。
「約30年にわたる富岡家の内紛について、真相をお伝えします」という書き出しで始まる手紙には、神社の運営や相続をめぐる親族間のトラブルの詳細がつづられていた。消印は8日で、犯行直前に代行業者に依頼して投函したとみられている。送付先は全国の神社関係者が約1千通、氏子の関係先の飲食店や学校が約1800通に及んだ。
茂永容疑者は平成6年ごろ、体調の優れない父親に代わって宮司代行となり、翌7年に正式に宮司に就任。ところが、浪費癖や女性問題などにより、13年に退任を迫られた。再び宮司となった父親は長子さんを後継に指名し、22年12月、長子さんが宮司代行に就任。神社本庁は長子さんの宮司任命を「不適当」としていたが、八幡宮は今年9月、神社本庁から離脱し、長子さんが正式に宮司に就任した。
茂永容疑者は手紙で、宮司の座を追われたことについて、「クーデターが画策された」などと説明。18年1月、長子さんに「地獄へ送る」などと書いたはがきを送り、脅迫容疑で逮捕されたことについても、「罠(わな)にはめられた」と主張し、関係者に対して長子さんを神社から追放し、自分の息子を新たな宮司に迎えることなどを要求。「実行されなかったときは、死後においてもこの世に残り、怨霊となり、たたり続ける」などと関係者を呪うような言葉も残されていた。
さらに、現場近くのマンションの一室から、真里子容疑者が警察や報道関係者に宛てて事件前に書いたとみられる手紙も見つかった。「積年の恨みから(長子さんを)殺害することにいたしました」「殺害後はその責任をとり、自害する」「1人で自害できない場合には、夫にその幇助(ほうじょ)を依頼している」というもの。部屋からは、襲撃現場付近を見渡すことができたほか、複数の刃物や双眼鏡も見つかり、警視庁はこの部屋が襲撃計画の“アジト”だったとみている。
後立たない親族間争い…「相手との関わり見直しを」
年末年始の重要時期を控え、神社関係者は空席となった宮司のポストへの対応にも頭を悩ませている。
富岡八幡宮は9日、顧問弁護士を通じて、丸山聡一権宮司が宮司代務者として当面、神社を取り仕切ることを明らかにした。だが、内情に詳しい神社関係者によると、あくまで今回の人事は“暫定措置”に過ぎないとの見方もあるという。後継宮司をめぐっては、茂永容疑者の息子や、退職した元権宮司を推す声もあるといい、一筋縄ではいかない様相だ。
事件にまでは至らなくても、富と権力をめぐる対立は、時代や場所を問わず、これまでも繰り返されてきた。最近では、日本舞踊の最大流派「花柳(はなやぎ)流」で、花柳貴彦氏(42)と四世家元だった花柳寛氏(86)が家元の地位をめぐって対立し、法廷闘争に発展=最高裁で貴彦氏側勝訴=した事例や、「大塚家具」の大塚勝久氏(74)と長女の久美子氏(49)の経営権争いも話題となった。
東大で専攻した心理学を実務に応用している米川耕一弁護士(66)は「家柄や遺産額にかかわらず、金銭や地位が絡む相続では、仲の良かった兄弟や姉妹が突然、険悪になることは珍しくない」と指摘する。
今回のように、相続問題を背景に、親族同士の殺人事件として発展したケースも少なくない。近年では26年11月、福井県敦賀市で、母親(84)と姉(56)を息子(53)が殺害したほか、28年4月、東京都葛飾区で、寝たきりの兄(61)の自宅に弟(58)が火を付け殺害した事件なども起きている。
米川弁護士は「こうした被害を避けるには、警察の介入や法的措置を取るだけでは不十分だ。相手との関わり方などを見直し、相手の心理をコントロールして、トラブルを未然に防ぐアプローチが有効な場合が多い」と話している。

富岡八幡宮 / 江戸時代の寛永4(1627)年に創建された東京都江東区の神社。創建時から徳川将軍家の保護を受けて発展し、毎年8月の深川八幡祭りは見物客が水を浴びせる「水掛け祭り」として知られる。江戸三大祭りの一つで、24年8月には天皇・皇后両陛下も見学された。江戸勧進相撲の発祥の地としても有名で、境内には歴代横綱のしこ名が刻まれた「横綱力士碑」がある。  
12/17 以降の雑話

 

「初詣客、3割減覚悟」商店主ら悲鳴−惨事の影響深刻・富岡八幡宮 12/17
東京都江東区の富岡八幡宮で宮司の富岡長子さん(58)らが殺傷された事件は17日で発生から10日がたった。正月には例年約20万人の初詣客が訪れるが、事件の影響で来年は大幅な減少が予想される。予定された会食や結婚式のキャンセルも出始めている。「売り上げが3割は減るだろう」。地元商店街の店主らは書き入れ時を前にした惨事に、悲鳴を上げている。
富岡八幡宮は1627(寛永4)年創建。緑豊かな広い境内で、「深川の八幡様」と近隣住民から親しまれている。初詣は都内有数の人出を誇り、8月には江戸三大祭りに数えられる「深川八幡祭り」がある。結婚式の会場や七五三の参拝先としても人気だ。
地元商店街の70代の男性店主によると、大みそかの夜は地下鉄の駅出口から参道まで、数百メートルにわたり参拝客の列が続き、年明けと同時に一斉に進み出す。隣接する深川不動堂と共に参拝する人が多く、正月は最も忙しい時期という。
しかし、事件後に開かれた商店街の会合では、出席者から来年の正月は3割以上売り上げが減るとの見通しが示された。男性は「こんな事件があれば誰も来ないよ。殺人現場にお参りなんかしたくないでしょ」と投げやりに話した。一方で「八幡様と不動様のおかげで商売ができているから…」と複雑な心境ものぞかせた。
近くの店で働く60代女性は「もう嫌だという人もいれば、神様と事件は関係がないと考える人もいる。どれくらい来るか見当もつかない」と不安そうに語った。
元日昼の団体客の予約がキャンセルになった飲食店もある。男性店主は「験を担ぎ、縁起の悪い神社には行きたくなかったんだろう」と推し量る。地元名物「深川めし」を提供する飲食店の男性従業員も「年明けの予約が入る時期なのに、例年より少ない気がする」とこぼした。
富岡八幡宮の結婚式でヘアセットや着付けを手掛ける美容室によると、事件3日後に予定通り挙式したカップルがいる一方、2月に予定していた式はキャンセルとなった。都内の結婚式場運営会社が仲介した式は事件翌日に予定されていたが、直前で中止になった。事件後は別の神社を紹介しているという。  
まるで八つ墓村…21世紀とは思えない富岡八幡宮殺傷事件 12/18
「まるで横溝正史の『八つ墓村』ですよ。怨霊とかたたりとか、とても21世紀とは思えない」
現場取材に投入された週刊誌記者は、東京都江東区の富岡八幡宮で起きた弟夫婦による宮司の姉殺しに言及する。
地元在住のウェブ記者は「横綱力士碑があるので相撲との関係が報道されていますが、芸能人との関係も深い。毎年節分祭にはみのもんたやテリー伊藤らが来ますし、俳優の安岡力也は生前、本祭りの神輿を担いでいました」と指摘。
「事件後すぐに総代会議が開かれました。今後も粛々と行事はこなすことで合意し、来年2月の節分祭も予定通り。ただ祝いごとは自粛となり、総代関係のパーティーに出演予定だった落語家の仕事がキャンセルになるなど影響は出ています」
相撲界がもめるさなかに、横綱力士碑のある神社での悲劇。何やら因縁めいている。
「蛇足ですが先週、佐川急便の親会社が東証一部に上場されましたが、かつて東京佐川急便事件のころ、佐川から富岡八幡宮に時価10億円相当の神輿が献上されました。佐川急便からの寄付、と当初は記されていましたが、今はその記載もないままガラス張りの奉納庫にあります。不都合な過去を封印しつつ、神社はあり続ける。終わることはないのです」と前出・ウェブ媒体記者。  
まさに平成の八つ墓村…富岡八幡宮惨殺 12/19
東京都江東区の富岡八幡宮で宮司の富岡長子さん(58)が殺害された事件で、弟の元宮司、茂永容疑者(56)と妻の真里子容疑者(49)の計画的な犯行の様子が分かってきた。神社から約30メートルの場所に借りたマンションで長子さんを監視し、真里子容疑者は「殺害予告」を残していた。一方、茂永容疑者が犯行直前に関係者らに郵送した手紙について、専門家は昭和初期の「津山三十人殺しを思い起こさせる」と指摘する。(夕刊フジ)
マンションの部屋は、長子さんが宮司になることを認めない神社本庁からの離脱を決めた5月29日から約3週間後の6月20日に契約。室内には日本刀やマグロ解体用の包丁、サバイバルナイフのほか、双眼鏡も残されており、長子さんの自宅への車の出入りなどを監視していたとみられる。
真里子容疑者の名前で警察と報道関係者に宛てた12月1日付の封書もあり、「積年の恨みから殺害することにした」「自害するつもりだが、1人でできない場合は夫にそのほう助を依頼している」と書かれていた。
茂永容疑者は7日夜、自宅に戻ってきた長子さんを襲撃、日本刀で切りつけた。遺体には首の後ろと右胸に深い傷があったほか、腕や指が切断されるなど、恨みの深さがうかがえる。
茂永容疑者が犯行直前、神社関係者や夕刊フジなど報道機関に送った手紙は、長子さんの追放など4項目を要求、《実行されなかった時は、私は死後に於いてもこの世(富岡八幡宮)に残り、怨霊となり、私の要求に異議を唱えた責任役員とその子孫を永遠に祟り続けます》としていた。
犯罪心理に詳しい新潟青陵大学大学院の碓井真史教授(社会心理学)は「びっしりと文字が並んでいるが、他人に読んでもらいたいのなら、見出しをつけるなり工夫をするだろう。何か自らの思いが強すぎて空回りしているような印象を受ける。ただ、文章自体は非常に理路整然としており知的能力は高いと感じる」と分析する。
一方でこうも指摘する。「『妄想性障害』といって、知性は失われず日常生活も問題なく過ごせている人が、常識ではありえない行動を取ることがある。文章からは強烈な被害者意識を感じるが、容疑者は自分が絶対的な正義であり、犠牲者に『鉄槌(てっつい)を下す』と考えていたのだろう。ある意味、津山事件に似ていると思う」
津山事件とは1938年5月、現在の岡山県津山市で、当時21歳の男が猟銃や日本刀などを手に住民30人を殺害し、自殺した事件を指す。横溝正史の小説で、映画化もされた『八つ墓村』のモデルとされる。
碓井氏は「津山事件でも犯人は自分が正しいと信じていた。犯行前に書いた遺書がみつかっているが、こちらも非常にきれいな文章がつづられていた」と話す。
特徴的なのは真里子容疑者も死を覚悟したうえで、犯行に加わっていた点だ。長子さんと運転手(33)を襲った後、茂永容疑者に殺害された真里子容疑者の心境を碓井氏はこうみる。
「通常であれば妻は犯行を止める立場のはずだが、夫のことを全て信じ切っていたのだろう。米国では過去には友人と2人で銃乱射事件を引き起こした犯人がいたが、感覚的にはそれに近い状態だったのかもしれない」  
事件でどうなる?富岡八幡宮の初詣事情 12/21
「週刊新潮」にも届けられた遺書には、〈私は死後に於いてもこの世(富岡八幡宮)に残り、怨霊となり、(中略)永遠に祟り続けます〉と綴られている。果たして予告通り犯人は神社の敷地で自害したのである。その「怨念」がこもる場所に、初詣に行く人はいるのだろうか。

「事件があってから八幡様の参拝客は3分の1に減ってしまいました。この調子だと初詣の参拝客も同じように減るんじゃないか。だって縁起が悪いじゃないですか。敷地で3人の遺体が転がって血も流れている。しかも、それが宮司と元宮司にその女房っていうんだから、参拝なんてあり得ない話でしょう」
参道で土産物店を開く店主も嘆くように、富岡八幡宮の周辺は今も重苦しい空気に包まれている。元宮司の富岡茂永容疑者(56)が、妻・真里子容疑者(49)とともに姉の富岡長子さん(58)=宮司=らを襲った事件は、地元に凄まじい衝撃を与えたのだ。
心配なのは参拝客の減少だけではない。富岡八幡宮では、氏子も参加する大きなイベントが目白押しである。
「年が明けて1月7日には、江戸町火消による刺叉(さすまた)乗りがあります。よくテレビで神社の梯子乗りが紹介されますが、富岡八幡宮は刺叉が有名なのです。しかし、当日は喪も明けていない。これで、目出度い儀式ができるのでしょうか」(江戸町火消・千組の関係者)
もちろん、8月には江戸三大祭りとして知られる「深川八幡祭り」も控えている。
「この辺では、お祭りのたびに氏子さんが寄付をするのですが、少なくても50万円、多い人だと200万円出す人もいる。しかし、事件が起きてしまっては、“富岡八幡の氏子です”って言うだけで恥ずかしい。寄付も減るって話だよ」(前出の土産物店の店主)
かように門前町まで巻き込んでしまった女性宮司殺害事件。境内は血に染まったが、それでもなお「事件と八幡様は関係ない。これまで通り拝ませてもらいます」という声も上がる。
スキャンダラスな殺人事件に巻き込まれた富岡八幡宮には、これから何が待ち構えているのだろうか。神社は、穢(けが)れを持ち込んではならない場所、今後を心配する声が上がるのも不思議ではない。
ところが、地元の住民に聞いてみると、それでも参拝に行くという人も少なくない。たとえば地元の飲食店関係者がむしろさっぱりした様子で言う。
「この辺りは築地の魚河岸で働いている人が住んでいたり、芸者衆もいる。そんな、昔から住んでいる人たちは信心が厚いから、これで八幡様には行かないということにはならんでしょう。これまでは、宮司一家のことがネットで中傷されたり、トラブルを心配する人もいましたが、これからはそれもなくなるでしょう。もちろん、私も初詣には行きますよ」
亡くなった長子さんに代わって宮司代務者になった権宮司は、初詣や神事はそのまま予定通り行うとしている。
富岡八幡宮の神輿総代連合会前会長の高橋富雄氏もこう言うのだ。
「今回の事件はあくまで富岡家の問題であって富岡八幡宮の神様とは何の関係もないのです。事件が報じられたことで参拝を避けるようなことがないように、よく理解して頂きたい。ですから、年末年始の行事はすべて予定通り行われるはずです」
宮司はあくまで神に仕えるしもべ。衆生のトラブルは関係ないと言いたいようだが、そんなに都合よく理解されるものだろうか。
もっとも神社の世界を見渡すと、菅原道真の怒りを鎮める太宰府天満宮もあれば、平将門の怨霊封じに建てられた社もある。元宮司の祟りを封じると思えば、初詣も怖くないということなのか。  
刃傷事件の富岡八幡宮、初詣の収入はどうなるか 12/22
縁結びを願い艶やかな振袖姿で訪れる若い女性たち、合格祈願のため絵馬に志望校を書く学生、家内安全を願う家族連れ…。例年、全国各地でのべ9000万人を超える参拝客で賑わう初詣は、日本ならではの風物詩。神社やお寺にとっては大事な“かきいれ時”でもある。
「大勢の参拝客が訪れる大きな神社やお寺は“売り上げ”が多い。初詣客数全国一で、正月三が日だけで320万人ほどが訪れる東京の明治神宮なら、お賽銭が1人100円としても3億2000万円。他にお札やお守りの売り上げもある。神社によっては正月だけで年間の半分を稼ぐところもあります」(神社関係者)
平成30年度の税制改正で年収850万円を超すサラリーマンは増税されるが、寺社などの宗教法人の税金は格安。「うらやましい」という声が上がるのも当然だが、それゆえお金がうなっている“金満神社”ではトラブルが絶えないのも事実。富岡八幡宮の刃傷事件もしかり。
「富岡八幡宮の収入はお正月だけで約2億円といわれます。不動産の賃料収入などを合わせれば、最低でも年間5億円は下らない。その金を握る宮司の地位をめぐり姉弟が文字通り血で血を洗う争いをしてしまいました」(地元関係者)
富岡茂永容疑者が、姉で宮司の富岡長子さんを日本刀で殺害した理由の1つに「跡継ぎ問題」もあったという。
「長子さんの運転手は現場から100mも走って逃げましたが、追ってきた茂永容疑者の妻の真里子容疑者に切りつけられました。右腕は切断に近い状態だそうです。運転手は30代前半で、九州の某神社の子息。長子さんに大学の学費も援助してもらい、息子同然にかわいがられ、養子にしようという話もあったそうです。彼が養子に入れば、自分の息子が跡目を継げなくなると焦った茂永容疑者が凶行に及んだともいわれています」(社会部記者)
例年、富岡八幡宮は30万人もの初詣客で賑わうが、2018年はどうなるのだろうか。雑誌『宗教問題』編集長の小川寛大さんが言う。
「ナンバー2の権宮司が、長子さんの代行となって例年通り行うようです。しかし、縁起を気にする人はいるので、初詣客はかなり減るでしょう。収入も半分ほどになるのではないでしょうか」
全国に約4万社ある「八幡宮」の総本宮、大分県にある宇佐神宮でも後継者争いが起きている。
「宮司は代々世襲されていたので、2008年に先代の宮司が亡くなった時は、神社の有力な氏子で構成される役員会が世襲社家である到津(いとうづ)家の長女を後任の宮司に推薦しました。長女は急遽、修行をして神主の資格をとりました」(前出・小川さん)
しかし、神社本庁は「経験不足」を理由に別の宮司を派遣した。
「到津家の長女は神社本庁を訴えましたが、敗訴。本庁側は長女を解雇しました。しばらくは落ちついていましたが、2016年2月に別の宮司が就任すると、世襲を支持する氏子たちは再び反発を強めました」(地元関係者)
その後の2016年5月、氏子や地元の他の神社は話し合って、「今後、宇佐神宮には一切何も協力しない」と決めた。
「全国的に有名な神社とはいえ、地域の支えがあってこそ、大きな行事やお祭りが行えるものです。地元からソッポを向かれては、寄付金も集まらないでしょうし、お祭りの運営も大変でしょうね」(前出・神社関係者)  
富岡八幡宮、2018年の初詣は通常通り 12/22
2017年12月7日に富岡八幡宮(東京都江東区)で発生した女性宮司ら3人の殺傷事件。
世間に大きな衝撃を与えたこの事件だが、年末に近づくにつれ注目され始めたのが、富岡八幡宮での初詣。ネット上では事件の影響を鑑み、「初もうでに行きたいとは思わない」と否定的な意見が目立つが、一方で「祓ってやればいい」という声もあり、見方は分かれる。当の富岡八幡宮はどういった対応を行うのだろうか。J-CASTニュースは神社に話を聞いた。
「少なくとも家内安全は望めないよね・・・」
富岡八幡宮は、江戸時代初期の1627年に創建され、応神天皇のほか8柱が祀られている。「深川の八幡様」「江戸最大の八幡様」と呼ばれ、親しまれてきた。江戸勧進相撲発祥の地であるため相撲とのゆかりが深く、必勝祈願、合格祈願などにご利益があるとされている。
上述の殺傷事件では、宮司を務めていた富岡長子さん(58)と運転手の男性が、長子さんの弟で元宮司の富岡茂永容疑者(56)と茂永容疑者の妻・真里子容疑者(49)に、日本刀などで襲撃された。運転手は命に別状はなかったものの、茂永容疑者は長子さんと真里子容疑者を殺害したのち、自らも命を絶った。
12月14日発売の週刊文春(12月21日号・文藝春秋)は、茂永容疑者が段ボール14箱にもなる2300通の手紙を11月に準備していたことを報じており、その中には、
「私は死後においてもこの世に残り、怨霊となり、私の要求に異議を唱えた責任役員とその子孫を永遠に祟り続けます」
といった、怨念に満ちた内容のものがあったとしている。
この事件に対して、ネット上の反応は総じて「少なくとも家内安全は望めないよね・・・」などと、抵抗感をにじませる人も少なくない。
さらに、2017年も終わりに近づくなかで富岡八幡宮での初詣にも焦点が当たり、「ニュース見ないから富岡八幡宮の事件初めて知った 初詣どこにしようか・・・」「祟り神がいる祟り神社に初詣する勇気ある人間は頭がおかしい」「殺人現場の神社にあえて初もうでに行きたいとは思わないのが人情というもの」と、初詣には縁起が悪いとする向きが多い。
日々の神事の中で、「祟り」などといったものも抑えていける
ただ一方で、お祓いをすればよい、とする声もある。タレントの江原啓之さんが12月13日放送の「5時に夢中!」(TOKYO MX系)で、
「こういった祟り続けるとか、そんな奴は祓ってやりゃいいんですよ。ただね、そういう思いを持っているからさまよい続けるでしょうけどね」
と述べている。ネット上でも、「空いてていいかもしれん。初詣はここにしよう。神社で祟れるのは神様だけだろう。人の霊ごときに何ができるものか」といった声も見られる。
実際に、富岡八幡宮の初詣はどうなるのだろうか。J-CASTニュースは19日に、富岡八幡宮に取材を試みたところ、「今年も初詣は例年通りおこないます」と、富岡八幡宮の広報担当者は述べた。
「祟り続けます」とした茂永容疑者の言葉についてどう対応を図るのかについては、事故現場も含め、14日にお祓いの儀式をすでに行ったとしたうえで、「神社としては日々神事を行っていきますし、そういった取り組みの中で『祟り』などといったものも抑えこんでいけるものと考えております」と語った。  
 
■富岡八幡宮  

 

江戸時代劇の大川 / 深川界隈
東京都江東区富岡にある八幡神社。通称を「深川八幡宮」ともいう。江戸最大の八幡宮で、八月に行われる祭礼「深川八幡祭り」は江戸三大祭りの一つ。また江戸勧進相撲発祥の神社で、境内には「横綱力士碑」をはじめ大相撲ゆかりの石碑が多数建立されている。
祭神
主祭神 応神天皇(八幡神)
相殿神 神功皇后 / 仁徳天皇 / 天照皇大神 / 常磐社神 / 武内宿祢命 / 日本武尊 / 天児屋根命 / 竈大神
歴史
創建
1627年(寛永4年)、菅原道真公の末裔といわれる長盛法印が神託により、当時永代島にと呼ばれた小島に創祀したのが始まりとされる。当時は「永代嶋八幡宮」と呼ばれ、砂州の埋め立てにより60,508坪の社有地があった。
また八幡大神を尊崇した徳川将軍家の保護を受け、庶民にも「深川の八幡様」として親しまれた。広く美麗な庭園は人気の名所であったという。
なお、長盛法師は同じ地に別当寺院として永代寺も建立している。
当社の周囲には門前町(現在の門前仲町)が形成され、干拓地が沖合いに延びるにつれ商業地としても重要視された。
明治・大正
明治維新後の社格は、准勅祭社とされ、同制度の廃止後は記載がない府社とされたが、皇室の尊崇を受け続けた。
永代寺については、神仏分離令によって廃寺。現在の永代寺は、1896年(明治29年)に旧永代寺の塔頭・吉祥院が名前を引き継いだものである。
昭和以降
1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲により焼失。その再建に努めたのが第18代宮司の富岡盛彦で、1956年(昭和31年)、現在の社殿が造営される。盛彦は後に神社本庁の事務総長(現在の総長)にもなり、神道の復興に努めた。
1994年(平成6年)に盛彦の息子である第19代宮司が体調を崩して引退し、その長男が1995年(平成7年)に第20代宮司となったが、金遣いの荒さや女癖の悪さなどを理由に2001年(平成13年)に解任され、先代の第19代宮司が宮司として復帰する。第20代宮司は勘当状態となった後、新たに後継者とされた姉や父たちを恨んで脅迫を行ったり怪文書を撒いたりするなどしており、2006年(平成18年)に脅迫罪で逮捕されている。
2010年(平成22年)に第19代宮司が引退したため、富岡八幡宮はその長女を宮司として任命するよう神社本庁に具申していたが、正式な宮司への就任具申が3度にわたり認められなかったため、長女が「宮司代務者」となる宮司空席状態が7年ほど続いていた。そのため、富岡八幡宮は2017年(平成29年)9月に神社本庁からの離脱を決定し、単立神社となり、長女が第21代宮司に就任。別表神社としては、2010年(平成22年)の気多大社、2013年(平成25年)の梨木神社に続く本庁離脱となり、神社本庁のトップまで務めた有力神社の離脱として話題となった。
2017年(平成29年)12月7日、当時の宮司とその運転手が、宮司の弟で第20代宮司だった男とその妻に日本刀で襲われ宮司は死亡、運転手は重傷、容疑者の男は共犯者の妻を殺害した後に自殺した。姉が正式に宮司となったことで、弟である元宮司が自暴自棄になったとみられている。富岡八幡宮は9日、緊急の責任役員会議を開催、宮司の補佐や代理を務める丸山聡一・権宮司を、宮司代務者にすることに決めた。
相撲とのかかわり
富岡八幡宮は1684年(貞享元年)に初めて寺社奉行の許しを得て勧進相撲が行われた、江戸勧進相撲(現在の大相撲の前身)発祥の神社として知られ、現在でも新横綱誕生の折には境内で奉納土俵入りなどの式典が執り行われるほか、相撲にまつわる数々の石碑が建つ。  
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
藁人形

 

藁人形
藁を束ねたり、編んだりして人間の形を模した人形である。古代中国では芻霊、ないし芻人と呼んだ。
死者の埋葬の際に副葬品として用いられる他、丑の刻参りにおいて用いられる呪いの道具の一種としても知られる。それに関連して、怪奇映画などでは恐怖を象徴する小道具として用いられることもある。日本では平安時代、疫病が横行した際病魔を駆逐する為に藁人形が道端に立てられることもあった他、田畑を食い荒らす害虫を駆逐する為に藁人形を掲げて田畑を歩き、その後川に流すという習俗もあった。合戦などでは、敵を攪乱(かくらん)する為に藁人形に鎧を着せて人間の武者に見立てることもあったと軍記物語などで言及されている。
丑の刻参りにおいては、作法として、五寸釘を使い、丑三つ時に相手と同調関係を得ているもの(髪の毛など)を埋め込み、藁人形に釘を打ち込む。
なお、寸=3.03cmであることから五寸=15.15cmとなる。このような巨大な釘はホームセンターや金物屋には通常は置いていないことが多く、入手は困難である。
なお、「五寸釘」には大五寸(2寸2分)、並五寸(1寸8分)、中五寸(1寸5分)がある。
また厄除けの道具として用いられることもあり、例えば岩手県和賀郡の旧湯田町(現西和賀町)白木野地域では、藁人形に集落の厄を背負わせ地域の外に送り出して無病息災を祈る風習が残っており、この白木野人形送りを題材にして同地域の国道107号線沿いに日本一の大きさを誇る藁人形(背丈5m、幅4.3m)が置かれている。
藁人形は人型のみならず、馬など獣を模したものも作られる。有名なものとして新潟県新発田市における新発田の藁馬、岡山県の有漢のコトコト馬、福岡県の芦屋の八朔藁馬などがある。  
藁人形での呪い方 1
草木も眠る丑三つ時…神社の御神木から「カーン…カーン」と不気味な音がする…。そ〜っと草木をかき分け歩いていくとそこには……!白装束をまとった鬼のような顔をした女が!!
「み〜た〜なぁ…」
「ギャーーッ」
そうです、これこそ日本の伝統、ザ・呪い「丑の刻参り」です。
怪談話ではよく出てくるシチュエーションですが、実際どうやったらいいのかわからないですよね?今回は、そんなあなたのために、正しい「丑の刻参り」をご紹介します。くれぐれも真似をしないようにお願い致します。(穏やかにいきましょう。)
いつから人は丑の刻参りを初めたの?
人形(ひとがた)と呼ばれる、木製の人の形をしたものが、奈良時代(1300年前)の平城京の古井戸から発見されています。その人形の両目と心臓には、1cm程の木釘が刺さっていたそうです。人柱的な意味合いが強い儀式に使われたとか。
正しい呪い方
では、おまちかね、藁人形を使った正しい人の呪い方をご紹介します。「呪い」は意外に効きます。それゆえ、法律で禁止している国もあるほどですのでご注意を。
用意するもの
1.藁人形(呪う相手の髪の毛を埋め込む)
2.相手の写真
3.白装束
4.五寸釘
5.金槌
6.首から下げる鏡
7.一本歯の下駄
8.頭に付けるろうそく
以上…。
手順
1.道具を用意したら念入りに体を洗い清め、邪念を払う
2.午前1時〜3時、いわゆる丑三つ時に近くの神社へGO!
3.御神木の北東(鬼門)に藁人形をセット
4.藁人形の胸に相手の写真を貼り付け、呪う標的を思い浮かべつつ気持ちを込めて打ち付けよ
これを7日間つづけると相手は呪われる、と言われています。しかもこの作業は決して誰にも見つかってはいけません。もし誰かに見られてしまったら、1日目からやり直さなければならないとか。おっと、いい忘れてしまうところでした。帰り道は決して後ろを振り返らないでくださいね。もし振り返ってしまったら、呪い返しされますよ。
とてもめんどくさい
そうです。呪いの藁人形も楽ではありません。この作業を人に見つからずに7日間も続けるのは大変です。  
藁人形での呪い方 2
あなたには呪いたいほどの人はいますか?
その人のことを考えるとどうしようもないマイナスな気持ちでいっぱいになってしまう、この世からいなくなって欲しい、不幸になって欲しいと心の底から感じる人はいるでしょうか。
私たちが住むこの世界には刑事法がありますのであなたが直接相手の命をなくしてしまったり、病気になるように仕向けると逮捕されあなたに 報復が待ってことも考えられますよね。
しかしこれからご紹介する藁人形と五寸釘を使った相手を呪う方法を活用すれば、不思議な力を利用して相手に不幸を与えることができるのです。
それには呪いの人形、藁人形の作り方も知っておかなければなりませんね。
強力な効果を相手に与えたいならば、中途半端な知識ではなく相手を呪い殺せるほどの本当の知識を取り入れ、実行に移しましょう。
藁人形の作り方と、藁人形と五寸釘を使った相手を呪う方法を詳しくお伝えします。
とてつもなく強力な効果ですので、試す時には悪用厳禁・自己責任で宜しくお願いします。
正しい藁人形の作り方
相手を呪う時に使用する藁人形は、基本的には人の形をしていれば大丈夫です。
漢字の「一」と「人」の字を合わせた形であることを覚えておきましょう。
まず藁を手に入れることが現代では難しいことですね。
藁人形はネット販売をしているという噂もありますが、呪いを本物にする為には自分で藁を編んで作り上げることをおすすめしますよ。
好きな人のセーターを編みながら気持ちを込めると気持ちが伝わる、という話と同じです。
藁は農家や納豆屋さんなどに声をかけると分けてもらえます。
両腕の作り方
まず藁人形の両腕になる部分の作り方です。
藁を30本程度束ね、好みの長さでカットし、両端を藁や麻紐などで結びましょう。
はみ出た藁などを綺麗にカットしたら両腕の出来上がりです。
頭から両足の作り方
両腕で作った藁の長さの8倍ほどの長さの藁を30本程度束ねます。
頭になる部分でまず結びます。
そして足は藁を二つに分けて、端を結び、両腕と同じように綺麗にカットします。
仕上げ
出来上がった二つの藁を繋げます。
バツになるように麻紐などで結んで繋げてください。

作り始めから仕上げに掛けて、相手を呪う気持ちを高めていき、呪いたい思いを込めて藁人形を仕上げてくださいね。
丑の刻まいりの仕方
藁人形と五寸釘を使った呪う方法のことを「丑の刻まいり」と言います。
丑の刻とは、昔の時間の数え方で午前1時から3時頃を指します。
この時間に藁人形と五寸釘を使った呪う方法を行うことで、相手を死に追いやったり、重い病気にさせるといった呪いの効果を与えることができるのです。
この丑の刻まいりの正しいやり方もお伝えしておきましょう。
丑の刻まいりに必要なものは、藁人形と五寸釘以外に、白装束(なければ白い服)、準備できるならば一本足の下駄、呪いたい相手の写真または髪の毛(髪の毛の方が効果的、かなづち、くし、鏡です。
必要なものを見るだけでも物々しいですね。
少しでも丑の刻まいりを知っている人はろうそくはいらないの?と思うかもしれませんが、昔は街灯もなく漆黒の闇でしたので足元を照らす為のろうそくを頭に3本程つけていました。
ろうが垂れて危険ですので、しなくても構いません。
それでも暗くて大変だという方は懐中電灯でも問題ありませんよ。
必要なものを持ち、鏡は胸に下げ、くしを噛みながら向かうのは神社のご神木もしくは鳥居です。
絶対に誰にも見られないように最初から最後まで注意をしなければなりません。
もしも誰かに見られたら、危険な人がいると通報され、しかも呪い返しが起こりあなたに不幸が訪れてしまいます。
もし見つかったら昔の人はその人を亡き者にしていたそうですが、現代ではそういうわけにはいきませんので、周囲に気を配って丑の刻まいりを完了させましょう。
目的地に無事着いたら、北東向きに藁人形をご神木や鳥居に押し当てて五寸釘を藁人形に打ちつけます。
恨みを込めて五寸釘を打ち付けるごとに呪いをかけていきます。

五寸釘を打ち付けた場所に呪いが出ると言われていますので、どのような呪いが起こって欲しいのかによって打ち付ける場所を考えてくださいね。
これを7日連続で行うと丑の刻まいりは完了です。
注意点
丑の刻まいりをする際の注意点がいくつかあります。
まず、今は一般の神社では丑の刻まいりはできません。
夜中に自由に出入りできる神社がほとんどなく、不法侵入やご神木や鳥居を傷付けたということで器物損害の罪で逮捕されてしまいます。
もしも丑の刻まいりをすると決めたならば、中途半端な気持ちで行なってはいけませんよ。
強力な効果だからこそ、失敗した時や強い気持ちが揺らいだ時には全てあなたに呪いが返ってきてしまいます。
日本中を探せば今でも丑の刻まいりをしている人を目撃するという神社があります。

あまりおすすめしませんが、どうしてもという方はあなたの身を守る為にもそのような場所で実行をしてくださいね。
呪いの最終形
呪いの人形の作り方と藁人形と五寸釘を使い効果的に呪う方法についてご紹介しました。
呪いは呪いの人形である藁人形に作り方から始まっています。
大きな恨みで作っていきましょう。
その藁人形と五寸釘を使い効果的に呪う方法は昔から言い伝えられている「丑の刻まいり」です。
実際に多くの人が行なってきた呪う方法、今でもきちんとやり方を間違わなければ効果は抜群で、あなたを悩ます全ての事柄がなくなっていきます。
しかし、大きな覚悟と気持ちが必要です。
丑の刻まいりはとてつもないパワーを感じる方法ですので、あなたの意識もしっかり向かう先を考えながら実行していきましょう。 
藁人形
小学校のころよくわからないものが突然インフルエンザの様にはやり出したものだ。
不幸の手紙とか口裂け女とかトイレの花子さんとか、、、いわゆる後年「都市伝説」と呼ばれることになるものであろうか。当時自分がもっとも真に受けて震えあがったものに「かしまれいこ」というのがある。このはなしを聞いたらかならずその日の夜に「かしまれいこ」が家に現れ襲ってくるというもので、それを封じるには、枕の下にハサミを隠し、「かは火事の火、しは死ぬの死、まは魔女の魔、れいは幽霊の霊、こは事故の故」と唱えるしかないとされた。急にその恐ろしいはなしが学校で蔓延し、暗い気持ちで帰宅した自分は、大きな裁ちばさみを用意し、家中のカギを締め、弟を言い含めて二人寝の体制をとった。そうしてまんじりともできない夜を過ごしていくうちに、そういえば「かしまれいこ・火死魔霊故」は同じ夜に一度に十数件の家(その日の学校でこの話を聞いた人間は少なくともそれくらいいたので)にどうやって現れ得るのだろうかと思うに至り、その疑いが希望に変わっていくうちにいつの間にか朝になっていた。
いったいこの「かしまれいこ」というのは何なのだろう?未だにわからない。特に「れいこ」はわかるとして、なんで「かしま」なのだろうか?いまだに「かしま」という響きは、自分にとって不吉な響きを発し続けている。
ところで、秋田から岩手、青森にかけて大きな藁人形を村境に作り置く風習がある。とくに秋田地方ではそれを「カシマサマ」と呼ぶらしい。このカシマは「鹿島」のことであり、常陸の国に起源する鹿島神宮・鹿島神に由来すると言われている。鹿島神社は東国最古の神社であり、戦いと雷の神であるタケミカズチノオオカミを祭っている。大和朝廷の東征に関係が深く、当時の蝦夷との最前線地域に配されている。また中臣−藤原家の守護神として奈良の春日大社のルーツともなる。鹿島神社は東北にも多く、自分の住む宮城県には大変多い。だが宮城県には「カシマ様」とよばれるこのような大きな藁人形の風習は現在ない。なぜ秋田(あるいは青森の一部)地方にだけそれがあり、「カシマ様」と呼ばれるのかまだはっきりしていないようだ。一説には江戸期に秋田へ移転して入ってきた常陸の佐竹家の影響だというものもあるが、それ以前にさかのぼる風習ではないかと推測されている。いずれにせよ関東武士団に攻め込まれ侵略されてきた東北地方にとって、関東の神である鹿島神は恐ろしいもののしるしとして刻印され今日に至っているのではないかという。あるいは関東からの入植者がつれてきた神とも言え、その様な場合入植者を守る神として猛々しい威を外に張っているのではないだろうか(「秋田城」は古代以来蝦夷との軍事境界線に位置している)。今日では「かしま」は鹿島アントラーズ等のカシマとしてなじみがあるが、東北にとっては、律令制―仏教、源氏―八幡神社、日本武尊―白鳥神社と同様にアンビバレントな存在なのだろう。特にこの「カシマ様」は他の征服者の神にくらべると、異形の泥臭い野趣に富んでいるのはなぜだろう。
自分が感じるに、おそらく冒頭の「かしまれいこ」の「かしま」もこの「カシマ様」に通じており、「鹿島神」に発しているに違いない。東北にとっての「鹿島」は、「かは火事の火、しは死ぬの死、まは魔女の魔」として不吉で戦慄をともなう存在なのであり、そうした遠い祖先の記憶が自分の細胞に刻まれ伝えられてきているのかもしれないと思うとちょっと面白い(事実この「かしまれいこ」伝説は記録によれば北海道、東北、北陸を中心として分布している)。
さて前置きがながくなったが、昨年夏、思い立って秋田方面へこの「鹿島様」を見に行くことにした。インターネットで調べるとやはりその道のマニアがいて、精細に鹿島様についての情報を提供している。現在でも村々に数多くの「鹿島様」が存在しており、それぞれ大きさや形態、趣が異なっており大変興味深い。これらの形態がどのような系統分布になっているのか?どのような影響関係にあるものなのか?縄文時代の土偶の様式分布の差異を観る様で、さらに興味は尽きない。
今回ははじめての訪問ということで、とりあえず国道近辺の大きくて有名なものを中心に目星をつけて出発した。なにしろ暑くて、細い田舎道に分け入るので、相当手間取り、同行させられている家族の不評もプレッシャーに予定の半分ほどしか確認できなかった。特に最近の市町村合併のため、従来の地名が消えていたり、もとからの村境の境界が境界じゃなくなっていたりで、余計手間取ることになった。それにしてもやっと探し当て、突如起立する大きな藁人形の風景は、なんとも現代離れしており魅惑的なものだった。まるで江戸期の菅原真澄ののこした秋田の風俗画を彷彿とさせ、タイムスリップしたような感覚におそわれる。
秋田にくるのははじめてで、今まであまり良い印象はなかった。秋田の印象としては、カマクラ、小野小町、小京都と呼ばれる角館、、、、どれもこれも京都の雅を田舎くさく模倣したイメージがあり、一方「なまはげ」等ではその劣化がはげしく観光化されているというもの(50年以上前に既に岡本太郎がほぼ同様の印象を記している)。
しかし、国道から脇道に入り、かつての村境に配置されているはずの「鹿島様」を探しながら、部落内奥深潜入しうろうろしてみるとずいぶん様子が異なってくる。
自分の目の前を、汚いリヤカーを引く百姓がのろのろ通り過ぎた刹那、周囲の景ががらりと変わった様に思えたから不思議である。暑い昼の日差し、深い黒々とした青空、濃厚な緑と土のむせかえる匂い。蝉の鳴き声以外何も聞こえない。なんとも泥臭い原始的な趣。山形とも岩手とも違った、「あぎた」という空気が立ち込め「ハッ」となる。にせものの京風の雅の装いや観光目当ての資本主義的体裁を外れた瞬間に突如垣間見える深層風景。そもそも「あぎた・あきた」とは東北ゆかりの由緒ある名前である。ある意味で佐竹や芦名などの文化と融合することなく、深層では分裂したまま、その原始性を今日に脈々と伝えていると推測したとしてもあながち過ちではあるまい。
この「鹿島様」は、一年ごと決まった時期につくられ儀式的に焼かれたり捨てられたりし、再び新しくつくりなおされるものらしい。いわゆる「虫送り」の行事などで災いを乗り移らせて河や村境に捨てたりするものと同類ということになろう。ただとにかくこの「鹿島様」は大きなもので、量感も相当あり、独特な進化を遂げているといえる。基本的には全て藁でつくられており(顔のみ木製というタイプも多い)、パーツパーツで編み込み方が異なり、網目のうねるリズムも見ものである。造形的にみてもすぐれており、ヴァリエーションも豊富で(というか一つとして同じものは無い)、藁細工ならでわの固有な形状を生み出している。最初の方の写真のものは特に評判が高く捨てずに特別に残されているもので、ようやく造形文化遺産としての認識が芽生えつつある。仏像や仏教からもたらされた神像の類いとは異なり、失われた仏教以前のイメージ・畏怖すべき「神」に対するイメージが垣間見える様で大変貴重だと思われる。
魔よけとして、村境等に配置されるわけだが、考えてみれば通常「境の神」は石でできたものが多く、また2対ワンセットのものが多いので、道祖神、境の神のような系譜とは異なっている。むしろ毎年結界として張り替えられる「注連縄」や儀式的につくり焼かれる虫送りの山車、ヒトガタにルーツがあるだろう。この「鹿島様」・藁人形―依りしろ人形(ヒトガタ)の雄大さは、隣県の青森で盛んな「ねぶた」のスケールと双璧をなしている。両者の原点は、ひとつに「虫送り」的な土着の風習にあり、それぞれの地域での異なる発展の結果、片方は日本有数の祭りとしてますます興隆し、片方は人目につかない村の片隅でひっそりとその命脈を保っているのはとても対照的で感慨深い。
ところで今回「鹿島様」を見に回る過程で、あわよくばなにかそういうものにちなんだ藁人形ないし藁細工が欲しいと思っていた。
藁細工はこれまでもいろいろと収集してきていた。丸森の役場やさいり屋敷で正月飾りや宝船、岩手で馬、山形で鶴亀の飾り、、、中でも気に入っているのは岩手盛岡で購入した藁人形(イラスト参照)。顔が紙に描いてあり、それが藁人形に張られている。まるで縄文の「仮面の土偶」の様ではないか!描かれた顔の背後に何かもう一ついいしれない何ものかがいるようなそんな気にさせてくれる。
「鹿島様」にちなんだ藁細工は、当然のことながら見つかるはずもなく、もちろん未だ名物品として土産物の様にそれにちなんだものが販売されているわけではない(そこがまた良いのだが)。
秋田方面の「鹿島様」を物色したのち、岩手側に抜ける。途中にもいろいろと藁人形があり、特に湯田には日本最大の藁人形が国道沿いに立っているというので寄ってみた。たしかに大きな藁人形が立っているが、秋田の鹿島様とはやや趣を変え、ドライブインの看板のようでやや間抜けている。そこにある店に入ると沢山の小型化した藁人形がぶら下がっているのを目にする。なんのことはない、むかし自分が盛岡で購入した藁人形そのものであった。自分が気に入っていた藁人形の親玉はこの湯田にあった事に今更ながら気がつくことになる。この地でレアな「土産物」としてつくられ盛岡の工芸店に置かれていたのであろう。これはこれで良いのだが、これまで見てきた秋田の鹿島様とやはり異なっていて、人形としてのまとまり感が強い。今後秋田のそれぞれの市町村が、それぞれ固有のスタイルを持った鹿島様藁人形を売り出してくれればいいのだが。我が国の、あるいは東北の人形造形言語を飛躍的に豊かにしてくれるに違いない。まあそういう気配すらないところが良いわけなのだけれども。
ところで湯田と言えば大好きな「丑蔵こけし」。以前からどういうところか見ておきたかった。宮城県遠刈田出身の佐藤丑蔵が湯田時代に手がけてこけしは、際立って異彩を放ち「フランケンシュタイン」とも呼ばれてきた(数本のみ現存する)。この異形進化は、湯田の独特な風俗、例えばこの地で数多くつくられてきた山神などの神像の造形と関連しているのではないかとも言われてきた。ある種特異な地域といえるかもしれない。この地も今では西和賀町となっており、湯田という地名は消えかかっている。まったくのところ市町村合併ていうのは考えもんだ。それに加えて最近の景気対策で休日を土日に連続させる政策もいかがなものか。聖なる特別な日を経済的理由でづらしてしまうなんて、、(国会議員やメディアがほとんど反対しないとは人心の荒廃極まれりである)。今日の時空間は目先の実利で大きく狂わされてしまっている。境界のしきりを守護する鹿島様はさぞかし怒っているだろう。  
落語「藁人形」 1
(あらすじ)  托鉢して小金を貯め込んでいる西念。日光道中千住、コツの女郎屋若松の前で女郎のおくまに呼び止められる。父親の命日なので供養の経をあげてくれという。
西念は供養のあと精進落しの酒、料理を振舞われる。おくまは、こんな商売からは足を洗って早く堅気になり絵草紙屋でもやって、父親そっくりの西念を引取って面倒をみたいなどと、しみじみと話す。
数日後、西念が若松屋の前へ通るとおくまが用事があると言って、西念を引き入れる。おくまは、絵草紙屋の掘り出し物が見つかったので、五十両貸してくれる所を探しているという。おくまのおいしい話に乗って、西念は貯め込んだ三十両を渡してしまう。
雨が続き、西念は外へ托鉢に出られず、一文も無くなってしまう。どうしょうもなく、おくまの所へ二分ほど返してもらいに行くが、おくまは金など借りた覚えはないと言い、西念が詰め寄ると朋輩と賭けをしたのだという。小金を貯めている西念から金を巻き上げることができるかどうかという賭けだ。西念は怒っておくまの胸ぐらをつかむが、店の若い者に引きずり出され表へ放り出される。
それっきり西念は長屋に閉じこもったきりで出てこない。七日後に喧嘩で伝馬町の牢に入っていた甥の甚吉が訪ねてくる。
西念は小用に立つ時に、「そこにかかっている鍋の中を絶対に見るな」と言って外へ出る。見るなと言われれば見たくなるのが人情、甚吉は鍋の蓋を開けると。油の煮え立つ中に藁人形だ。
帰ってきた西念にいきさつを聞いて、
甚吉 「伯父さん、この甚吉が聞いたからにゃ、この仕返し、一刻も経たねえうちに取ってやるから待っていろ。だが、昔から藁人形にゃあ五寸釘、なんだっておくまの胸へぶち込まねえんだ」
西念 「釘じゃきかねえ。奴はたしか、ぬか屋の娘だ」
落語「藁人形」 2
神田のぬか問屋「遠州屋」の美人で一人娘お熊は今は身を持ち崩して、千住の若松で板頭を張っている。毎日、表を通る千住河原町(志ん生は、千住のいろは長屋への九番)に住む西念と言う乞食坊主を父親の命日だから供養してくれと呼び込み、部屋に上げ親切にしてあげる。父親に生き写しだから、父親代わりに親孝行をしたいとの話。「出物の家があるのだが、西念さんと一緒に住みたいので、内金を打ちたいが、旦那が旅に出ていて当座の金がない。手頃な家なのだが、このままでは次の買い手が付いてしまう。何とかしたいが私も持ち合わせがないので諦めてくれ」、との話。西念は「私が何とかしますから」と言う事で、隠し貯めた全財産30両をお熊に渡してしまう。
西念は身体をこわし外に出られなくて小銭が無くなった。お熊の所に行って1分(1/4両)を無心したが断られた。「30両はもらった金なので、西念には何もしてあげられないし、あれは西念の持ち金を取り上げられるかどうか、仲間と掛けして私が勝ったのさ」とうそぶくお熊であった。
西念は初めて語り取られた事に気が付いた。むしゃぶりつくが若い衆が駆けつけて、七十の歳を越えた身体に怪我までさせて、追い返してしまう、お熊であった。
絶望して長屋に帰った西念は外にも出ずに過ごすのを長屋の住民も心配していると、甥の甚吉が訪ねて来た。「誰だ」、「豊島町の甚吉だ」。中に入ると西念が一人憑かれたようにいた。「これからは俺が面倒見てやるからな」。話の途中で小用に立つ西念が「鍋の中だけは見るな」と言付けた。見るなと言われれば見たいのが人情、鍋の中は藁人形を油で煮ていた。そこに戻った西念が蓋が曲がっているから見ただろうと、問い詰め「そうか。俺はクヤシイ。これで呪いが効かなくなった」と肩を落として、甚吉に一部始終語った。甚吉は呪いをかけるなら5寸釘に藁人形だろうと言うと、
「釘じゃーきかねーんだ。あいつはぬか屋の娘だ」。

藁人形は志ん生や彦六(正蔵)もやっていたが、五代目古今亭今輔の噺「藁人形」は凄みと内容の深さに、震えるほどの迫力があった。おばあちゃんものの今輔からは考えられない。
1.千住宿
品川、板橋、内藤新宿とここが江戸四宿のひとつで、人口からすると一番大きかった。日光街道・奥州街道の江戸から最初の宿場。
日光街道 / 江戸時代の五街道の一つ。江戸日本橋を起点として、千住から宇都宮までの17宿は奥州街道と同じ道を通り、宇都宮から分かれて徳次郎・大沢・今市・鉢石を経由して日光に至る。
奥州街道 / 江戸時代の五街道の一つ。江戸千住から陸奥国(青森県)三厩(みうまや)に至る街道。厳密には江戸から宇都宮までの日光道中および白河から三厩までの仙台・松前道を除く、下野国白沢から白河に至る10宿の道中をいう。奥州道中。
日本橋から2里8町(8.7km)、家数2370、旅籠55、約1万人の人が住んでいた。千住宿は小塚原(荒川区南千住)の千住南組、千住大橋から千住まで(足立区千住橋戸町、千住河原町、千住仲町)を千住中組、足立区千住1−5丁目が千住北組として構成されていた。實永2年(1625)千住1−5丁目の千住北組が千住宿として指定され、本陣もここに有ったが、後に万治元年(1658)〜寛文元年(1661)に小塚原など5町が加わった。
嘉永2年(1849)の文書では、一般の客を泊める平(ひら)旅籠屋と飯盛り女の居た食売(めしもり)旅籠屋の別があったようで、平旅籠屋は千住1丁目に多く、食売旅籠屋は2,3丁目に集中しており、その軒数は1丁目4軒、2丁目14軒、3丁目12軒、4丁目1軒、それと小塚原町と中村町で15軒で、合計46軒有ったという。時代が下がると、店数は増えた。吉原に対して、四宿のこういう場所等を「岡場所」と言った。
文禄3年(1594)隅田川に初めて千住大橋が架けられ、奥州街道の利用度を大いに増した。また家康を祭る日光東照宮が完成した後は、日光街道の重要度も増し、最初の宿場としての千住は道筋も長く、大いに栄えた。しかし、江戸四宿はどこも江戸から近すぎて、旅の宿泊者は少なく、岡場所として栄えた。
「藁人形」の舞台は南組、”コツ”の南千住です。コツは刑場の有った小塚原(こづかっぱら)からとも、掘ると骨が出るので(志ん生)、骨=コツとか、いろいろ言われているが、この地の別称。この街道をコツ通りとも言う。
豊島町(としまちょう。千代田区神田豊島町=現・東神田の西側半分)甥の甚吉が住まっていた所。JR浅草橋と秋葉原の中程で、靖国通り東神田交差点とその北に流れる神田川に架かる美倉橋にかけての一帯です。その東側に浅草見附がありました。154話「業平文治」で亥太郎という左官屋が住んでいた。
2.板頭
その店(貸座敷=郭)でナンバーワンを張っていた遊女(志ん生)。吉原では「御職(おしょく)」といい、岡場所ではこう呼ばれた。武道などの道場では板に書いた名札を上位者から順番に張り出し、序列を付けた。それと同じように、女郎の名札を壁に掛けて序列を付けた。その最上位者。
3.西念
元、「か組の纏(まとい)持ちで嘉吉」という鳶であったが、些細なことから出入りで人を殺めてしまう。それを期に、頭を丸めて坊主になるが、江戸中の火消しが功績のあった彼のために「花会(はながい)」を開いてくれて、その収益金から30両を贈られ、大事に壺に入れて、床下に隠して置いた。
お金の出どこのもう一説は、文字通り10年のあいだ、食うものも食わずに貯めた金であった。演者によって40両(志ん生)だったり20両(彦六)だったりする。100軒回って1軒位しかお布施の貰えない(志ん生)、この仕事では10年で40両は、稼ぎすぎ?で、貯めすぎであった。 
花会については落語「三軒長屋」の中にも出てくるもので、その噺では、鳶の頭が引っ越し費用の捻出の為め、それを開こうとする。義援のため仲間内を集めておこなう、盛大な博打の会をいう。広辞苑にも出ていない(笑)。今で言うチャリティーコンサートやチャリティー○○○の様なものであった。
4.ぬか屋
ぬかは当時飼料、漬け物、肥料、石鹸の代用、駄菓子等の原材料になった。用途がかなり有ったので、問屋まであった。今の東京にも2軒ほどのぬか屋が有ります。
5.原話
ある夜、白装束にて黒髪を乱し、鉄輪(かなわ)に蝋燭を立ててかぶり、丑三つの頃、神木へ灸をすえる。所の百姓、これを見て、「これこれ、女中。こなさんは丑の刻参りじゃないか」、「あい、左様でござんす」、「そんなら、灸より、釘の方が効きそうなものだ」、「さればでござんす。先が、糠屋(ぬかや)でござんす」。
丑三つ参りは、誰かに見られたら願が成就し無いという。その為昼間では目が多すぎるので、人気の無い午前2時頃に絵のような格好で願を掛けるという。この女性は油で煮るのでは無く、神木に灸をすえた。  
道ばたの「わら人形」
山口県は下関市、豊北町の道の駅「北浦街道豊北」がブログにアップしていた画像に、目が釘付けになった。ボロボロのわらの束。白目をむいたような武者の顔――。こ、怖い。怖すぎる。まるで呪いのわら人形のようだ。ところが、実はこの人形、山口県の無形民俗文化財にも指定されている伝統行事「サバー送り」なのだという。不気味ながらも気になって仕方がない、「サバー送り」って、いったい何?
道ばたにゴロリ まるで不法投棄
記者の基本は、まず現場。9月7日、わら人形があると思われる、豊北町へ車を走らせた。下関市中心部から北へ、日本海沿いの国道191号を走ること1時間あまり。同じ下関なのに、ずいぶん遠い。
豊北町は2005年、豊浦町などほかの3町とともに下関市と合併した。関門海峡がある交通の要衝・旧下関市とのつながりもあるが、山口県内でも豊北町や豊浦町を含む日本海沿岸は「北浦地方」と呼ばれ、独自の文化圏を形成しているのだという。
道の駅のブログの写真を手がかりに、豊北町二見地区にある旧小学校前へ。緩いカーブを曲がると、JR山陰線脇の道ばたに何かがあった。「サバー送り」のわら人形だ。
2体あり、長さ2メートル弱の竹と、高さ1メートルほどのわらの束で馬の形になっている。背には、白い紙で作った甲冑と墨で描かれた顔。風雨にさらされてボロボロだ。一つはゴロリとひっくり返っていて、「サバー送り」を知らなければ、失礼ながら、不法投棄にしか見えない。
まがまがしい雰囲気を漂わせる人形を、おっかなビックリ撮影した。
江戸時代から続く農耕儀礼 わら人形を50キロリレー
その足で、山口県下関市立豊北歴史民俗資料館を訪ねた。民俗学が専門の吉留徹館長は、豊北町で「サバー送り」の追跡調査を重ねてきた人だ。
吉留さん、「サバー送り」って何ですか?
「『サバー』とは、イネを荒らす害虫、ウンカのことです。いわゆる虫追い、虫送りの農耕儀礼で、少なくとも江戸時代末期から続いています」
虫送りなら、聞いたことがある。鉦(かね)や太鼓をたたいたり、たいまつを持ったりして、村を練り歩く行事だったような。映画「八日目の蟬(セミ)」にも、そんな場面があったはず。
「北浦地方のサバー送りの特徴は、その村で完結するのではなく、集落ごとに人形を順送りするんです」
え? 順送り? リレーするってことですか?
「スタートは同じ北浦地方にある山口県長門市の飯山八幡宮です。順送りのルートは、飯山八幡宮〜旧日置町〜旧油谷町(いずれも現長門市)〜旧豊北町〜旧豊浦町(いずれも現下関市)の宇賀地区までです」
リレールートの距離を測ってみた。およそ50キロもある。いまでこそ2市をまたぐ行事だが、合併前であれば、1市4町が関わったことになる。さらに江戸時代ともなれば、いったいどれほどの村々をつなぐ行事だったことだろう。
リレーを通じて集落同士の結びつきが育まれ、万が一災害などに見舞われた折には、広域的な連携をはかることもできたに違いない。文化庁伝統文化課によると、これほど広範囲にわたる虫送り行事は、全国的にも珍しいという。
わら人形についても吉留さんに尋ねた。
「わら馬に乗った武者人形は、地区の人たちが作ります。顔を描くのは宮司さん。田植え後の7月初めごろ、虫祈禱(きとう)の神事をして、長門市と旧日置町の境まで運びます。わら人形は自分たちの集落の虫や災いをよそに持って行ってくれるもので、豊作を願う行事。稲刈りが始まる前までに、豊浦町で人形を海に送ったら完結です」
「サバー送り」で使うわら人形は、神さまの「サバーサマ」と、お供の「サネモリサマ」を表している。
「サネモリサマ」は、平家の武将・斎藤別当実盛が、イネの切り株につまずいて討ち死にしたため、その怨念が田を荒らす害虫となる――という、西日本の伝承に基づく。イネが不作になることは、農民にとって死活問題だった時代。実盛を慰め、ウンカの被害を避けたいという切実な願いが、こうした農耕儀礼を生んだとみられる。
長門市内では、子どもたちが集落の境などに運んでリレーしてゆく。
「目で見る下関・豊浦の100年」(郷土出版社)には、昭和54(1979)年に撮影された旧日置町の写真が載っている。浴衣姿の子どもたちが、楽しそうにわら人形を担いでいる。
吉留さんによると、置き場所もルートも毎年ほぼ同じ。現在は子ども会や自治会の行事として取り組む地域が多いそうだ。
途中から禁断ルール続々 「まるで不幸の手紙」
ところが、人形が下関市内に入ったとたん、運ぶルートは海側と山側の二つに分かれ、いずれを通るのかあいまいになる。しかも、吉留さんの聞き取り調査では、次のようなルールに一変するのだ。
一、ウンカを連れてくるので、見つけたら、夜、人知れず動かすこと。
一、災いをなすものだから、すぐに動かさないといけない。一方で、虫を付けるものだから、1〜2日は置いておかないといけない。
一、自分の嫌いな人の家の前に置いてくること。長く置いておくと、その家には不幸ごとが起きる。しかし、早く動かせば、その家に幸福が訪れる――。
これは怖い。朝起きて、自分の家の前にわら人形が置かれていたら、きっと、かなり、激しく落ち込む。
吉留さんと同じく、下関市豊浦町での「サバー送り」を調査してきた、同市烏山(からすやま)民俗資料館の河田聡館長は言う。
「自分たちの村さえ良ければそれでいい、という日本人の気持ちの表れでしょうか。現代で言えば、不幸の手紙みたいなものですね」
10人に手紙を出さないと不幸になるという、あれですか……。
本当にあった? 「サバーサマ」のタタリの話
7月にスタートして、下関市内に入る頃には、風雨にさらされ、ボロボロになっている。そのビジュアルと、恐ろしい伝承とが、妙に呼応し合っている。自分が運んだことなどを人にしゃべればたたりがあると言われ、口外しない人も多いという。
人形を置いたままにしたり、公にしたりしたら、本当に不幸なことが起きるのか。
吉留さんは10年ほど前の「サバー送り」を振り返る。弥生時代の埋葬跡が出土した国史跡・土井ケ浜遺跡(豊北町)の人類学ミュージアムそばに人形が置かれた。誰も運ばず、そのまま朽ちてしまった。「この年、ミュージアムが栽培していた古代米の田が、虫にやられて白くなってしまった」
別の年、豊浦町で海に人形を送る場面の写真が雑誌に掲載された。「翌年、その儀式に立ち会った関係者がヘビにかまれるなどの災難に見舞われ、呪いだという話になった」と河田さんは話す。
そのため、住民が、人形を海に流す場面を撮ろうとしていたテレビクルーを巻いた年もあったとか。
消えつつある自然への畏怖の念 行事も存続の危機
それにしてもなぜ、突然、途中からルールが変わるのか。吉留さんも河田さんも「分からない」と口をそろえる。
下関市の豊北町〜豊浦町では、闇に隠れて個人個人が行うので、毎年、ルートも置く場所も変わる。実は、無形民俗文化財に登録されている「サバー送り」は、長門市内のみ。個人プレーになってしまう下関市内は、対象外なのだ。
個人プレーに頼る上、口外しない禁忌もあるので、世代交代で「サバー送り」を知らない人が増えてきているという。そのため、ゴールの宇賀地区までたどり着かず、朽ちたことがあるほか、「不法投棄だ」という苦情が出て清掃組合が引き取りに来たという話もあるそうだ。
ゴール地点の集落にある宇賀八幡宮の西島史孝宮司は、人形を海に流す際、立ち会って神事を行ってきた。ところが「最後に神事をしたのは、11年前」と寂しそうに話す。追跡調査を重ねてきた吉留さんによると、神事をせずに個人が海に送った年もあるというが、「ここ10年間で半分ほどしか海に送れていないと思う」と話す。
現代は、農薬の開発で、「サバー送り」をせずとも病害虫からイネを守ることができる。そもそも、農業自体が担い手不足になってしまっている。西島宮司は言う。「虫送り、という言葉からも分かるように、先人たちは余計な殺生をせず、豊作を願ってきた。人間の力が及ばないものへの畏怖の念と、自然との共存の表れが、『サバー送り』なのですが……こうした伝承は、絶えてしまうんでしょうね」
今年の「サバー送り」の結末は・・・
この夏、「サバーサマ」と「サネモリサマ」は、豊北町の道ばたにお盆前から1カ月以上も置かれたままの状態が続いた。ゴール地点・豊浦町で農作業をしていた男性(67)は、2度ほど人形を運んだことがある。
「伝統行事として、海まで送ってあげたい。でも、豊北町の人がこっちまで運んでくれないと、ねえ」とため息をついた。
男性によると、今年は好天に恵まれて例年より10日ほど早い8月下旬から稲刈りが始まった。豊作でもあるという。
本州の端っこで、ほそぼそと受け継がれてきた「サバー送り」。この伝統行事が、収量や害虫被害と切り離されてしまった現代において、今年はこのまま朽ちてしまうのか――。
そんな矢先、台風18号が日本列島を襲った。通過後の9月21日、人形が置かれていた場所を訪れると、あとかたもなく失せていた。
嵐にさらされて、ゴミとして処分されてしまったのかもしれない。でも、異形の人形に込められた先人たちの真摯な願いを、今年もきっと誰かがつないで、海へ送ってくれたのだと信じたい。そう思って顔を上げると、夕暮れの空にうろこ雲が浮かんでいた。あたりは虫の音が響き、涼しい風が秋の訪れを告げていた。  
わら人形で呪って逮捕、デジタル社会の現代になぜ? 2017/2/4
先月二五日、女性の名前を朱文字で書いた“わら人形”を放置したかどで、群馬県藤岡市在住の五一歳男性が逮捕された。
容疑者が用意した“わら人形”は頭部と胴、両手足がついた“大の字”形のもので、大きさは、頭から足先までが約二〇センチ、両手を広げさせた長さは約十一センチほどになるとのことだ。わら人形は、針金に麻紐を巻き付けて作られていた。
女性を呪うつもりだったのか、わら人形には長さ六・五センチの“二寸釘”が背中まで貫通するかたちで打たれていたという。
赤い塗料が使われていた点はどのメディアも同じだが、産経新聞や日刊スポーツでは朱文字で“女性の名前”が書かれていたとあり、ニュース速報Japanによると朱文字で書かれていたのは“女性の顔”とある。
アラフィフ以上の年代には懐かしい高橋留美子さん原作の『めぞん一刻』には、夫に先立たれた未亡人は、墓石に彫られた亡夫の名の横に朱文字で自分の名前(戒名)を彫った――、という場面が出てくるが、地方の慣習では朱文字で書かれた文章・文言は“永別”を意味する等々の言い伝えもあったりと、朱文字はあまりいい意味で使われていないようだ。だからわら人形にも朱文字を用いるのかもしれない。
容疑者に朱文字で名前(顔)を書かれたのはゲームセンターの経営者で、容疑者はそのゲームセンターの常連客だったという。通い詰めているうちにその女性に好意を抱くようになったのか、思いを寄せたから足繁く通うようになったのかは定かではないが、昨秋、容疑者は女性にプレゼントを贈っている。
日刊スポーツによると、女性は“容疑者からプレゼントをもらったが「お返ししたら、様子がおかしくなった」と警察に話している”という。昨年末には女性が乗る車のタイヤがパンクするなどの嫌がらせ行為も起きていて、女性は警察に相談していた。
そして、年が明けてのわら人形騒動である。
ゲームセンター駐車場の、女性が車を停める駐車スペースに放置されたわら人形を発見したのは店員だが、警察が防犯カメラの映像を分析したところ、容疑者が浮かび上がり今回の逮捕へとつながった。
贈り物をしたら返されて、その意趣返しに呪いをかけるというのは何とも歪んだ愛情表現のようにも映るが、昨年五月、東京都小金井市のライブハウス前でシンガーソングライターの冨田真由さんがストーカー男に襲われ、胸や首など全身二十カ所以上を刺された事件も、ファンを名乗るストーカー男からプレゼントされた時計と本を冨田さんが送り返したのが発端だった。
犯人はツイッターで何度も冨田さんに話しかけていた。
〈腕時計をプレゼントする意味を知っていますか?〉
〈愛情なんていとも簡単に憎悪に変わっちゃうけど、僕は普通にトミーさん(冨田さんの愛称)のこと好きですよ〉
〈郵便局から荷物が届きました。差出人不明。腕時計と本三冊が入ってました。わざわざ送ってくれなくても取りに行きましたよ?ほんと、嫌な女〉
幸いにも冨田さんは一命を取り留めたが入院期間は四カ月にも及び、退院した現在もなお後遺症を抱えているという。
冨田さんを襲った犯人はプレゼントを送り返され、冨田さんを襲うためにわざわざ京都から上京して犯行に及んだ。冨田さんを慕っていた思いは、殺意に変容したのである。
わら人形に二寸釘を打ち込んだ容疑者も、プレゼントを返されての愚行だった。
愛情なんていとも簡単に憎悪に変わっちゃうけど――、歪んだ愛情の持ち主は、愛だと信じ込んでいた一途な思いを、いとも簡単に殺意や呪いに変えてしまう。知られたところでは、ギフトという言葉には“贈り物”の他に“才能”の意味もあるが、語源とするゲルマン語では、“毒”という意味でギフトという言葉を使うこともあるそうだ。
〈世界のどこでも贈り物には人の心をしばる魔力があるのだろう〉
もう十年も前の「余録」(毎日新聞)にあった一文だが、被害にあった冨田さんやわら人形を置かれた女性は、愛情を殺意や呪いに変えた容疑者らから、文字どおり贈り物という名の毒を贈られたことになる。
しかし、このデジタルの時代に“わら人形”を使って呪いをかけようとするあたり、容疑者の時代錯誤な感性を疑ってしまうが、同じく先月、名古屋でもわら人形を使った嫌がらせで逮捕者が出ていた。犯人は、私立高校の非常勤講師・三七歳である。
この容疑者が使ったわら人形は長さ約七センチと小振りで、釘ではなく針を胸に刺していたというが、人形の頭部に女性の顔写真を貼っていたそうだ。それを、女性宅の敷地内に置いた。
容疑者は昨年夏からこの二一歳女性にメールを執拗に送り続け、警察署から警告を受けていたが、交際を断られた腹いせにわら人形を使ったとされる(容疑者は容疑を一部否認)。
二年前にも島根県松江市でわら人形騒動があり、市内の緑地公園内の木にわら人形を打ちつけた五〇代男性が警察から注意を受けている。こちらは縦の長さ三〇センチ、横は約二〇センチとかなり大きめのわら人形が使われた。
「問題は人形の顔の部分に切り取られた成人女性の顔写真が貼られ、顔や胸に複数の釘が刺さっていたことです。男性と面識がある女性で、彼のほうが一方的に感情を抱いていたとみられている。女性は県外に住んでいるので人形を目撃した可能性は低い。男性は“三月ごろ、自分の気持ちを静めるためにやった”と話しているそうです」(日刊ゲンダイDIGITAL)
この男性は“注意”のみで済んだが、遡ること十年、二〇〇七年には岡山県で同僚の女性にわら人形を送りつけ、罰金刑を受けた女性もいる。
落合洋司弁護士によると、わら人形そのもので罪に問うとしたら“名誉毀損罪”と“侮辱罪”だろうと言うが、被害者本人にわら人形を見せた場合――、今回、ゲームセンターの駐車場にわら人形を放置した容疑者や女性宅の敷地内にわら人形を置いた私立高校の非常勤講師、そして同僚女性にわら人形を送りつけた女性たちには“脅迫罪”が適用されるという。
呪いをかけたことが問題になるのではなく、相手に“お前もこのわら人形と同じような目に遭わせるぞ”と見せつける行為が脅迫罪に該当するとのことだ。つまり、わら人形が相手の目にとまったり発見された場合にのみ、脅迫罪は成立するのである。
日本の古い伝承に従えば、呪いは“わら人形”と“丑の刻参り”のセットで行なわれるべきものだ。丑の刻参りは『鉄輪(かなわ)』という能の謡曲(能の詞章=脚本)が発祥と言われている。舞台は京都の貴船神社。物語はというと、略奪愛で夫を奪われた女が嫉妬に駆られ、貴船神社を訪れて夫に呪いをかけたいと願う。そのとき、貴船神社の社人はこう応えた。
「神託に寄れば、鉄輪に火をともして頭に頂き、顔に丹(に)を塗り、赤い着物を着て怒る心を持てば願いが叶う」
その出で立ちは映画『八つ墓村』の冒頭で“祟りじゃあ”と叫ぶ老婆を思い起こさせるが、嫉妬に狂う女性は神話の時代の“橋姫”がモデルとも伝わっている。
貴船神社は、もともとは丑の年の、丑の月の、丑の日の、丑の刻に貴船明神が降臨したため、その時刻に参拝すると心願成就する御利益のある社だったのだが、橋姫伝承や能などの演目と結びついて“呪いの儀式”になったと言われている(能の『鉄輪』は形代(身代わりの人形)を使って呪いを跳ね返すが、嫉妬に狂う女は「時期を待つ」と言い残して去るという顛末を迎える)。
ネット上にはわら人形セットを販売するサイトも散見され、価格も数百円から数千円とさまざまだ。ということはわら人形を買い入れる人がそれなりにいるということなのだろうが、果たしてそんなものに効果はあるのだろうか――?
驚いたことに、中には“呪術代行業”のようなサービスまである。
そうまでして、人は誰かを恨み、呪い、虐げたいと願うものらしい。呪術の力を借りて憎む相手に厄災をもたらしたとしても気が晴れることなどなく、私は惨めなだけだと思うのだが。
ともあれ、呪いの儀式は丑三つ時に行なわれ、その姿は決して誰にも見られてはならないと言われている。わら人形に釘を打ち込む異様な姿を見られたら、呪いは“倍返し”で返ってくるらしい。人を呪わば穴二つ、である。
「丑時まいりは、胸に一つの鏡をかくし、頭に三つの燭を点じ、丑みつの比神社にまうでゝ杉の梢に釘うつとかや。はかなき女の嫉妬より起こりて、人を失ひ身をうしなふ。人を呪詛ば穴二つほれとは、よき近き譬ならん」(鳥山石燕『画図百鬼夜行』丑時参[うしのときまいり]より)
わら人形を使い、それが呪った相手の目に触れれば脅迫罪が適用されることはあるが、呪った相手が不慮の死を遂げても殺人罪に問われることはない。刑法上は“不能犯”と言うが、呪いと殺人の因果関係を科学的に立証できないからだ。
だから、呪いが原因で誰か死んだときは、上田次郎教授と天才美人マジシャンの山田奈緒子さんに頼むしかないのだ。
安易に人を呪うことなかれ。
島根で警察が口頭注意…呪いの「わら人形」逮捕の境界線は? 2015/7/10
わら人形を木に打ちつけた男性が、警察から注意を受けて話題になっている。
島根県松江市で起きた騒ぎで、4月16日に市内の緑地公園の木にわら人形が2体刺さっているのを小学生が発見。人形は縦約30センチ、横約20センチで地面から1.5メートルのところにあった。警察の捜査によって市内の50代男性が打ちつけたことが判明した。
「問題は人形の顔の部分に切り取られた成人女性の顔写真が貼られ、顔や胸に複数の釘が刺さっていたことです。男性と面識がある女性で、彼のほうが一方的に感情を抱いていたとみられている。女性は県外に住んでいるので人形を目撃した可能性は低い。男性は“3月ごろ、自分の気持ちを静めるためにやった”と話しているそうです」
男性は逮捕されたわけではないが、2007年には岡山で同僚女性にわら人形を送りつけた女が罰金刑を受けている。また、「丑の刻参り」のわら人形セットは十数年前からネット通販などで売られている。誰もが人形を買って呪いをかけることができるわけだが、気になるのは犯罪性だ。元東京地検検事で弁護士の落合洋司氏が言う。
「罪に問われるとしたら、まず考えられるのが刑法の名誉毀損と侮辱罪です。人形を目にした第三者が女性のことを“こんな仕打ちを受けるほどヒドい人なんだ”と感じる可能性があるからです。タレントの顔とヌードを合体させる“アイコラ”で名誉毀損が適用された事件にも似ています。このほか脅迫罪の適用も考えられます」
どこまでやったら逮捕されるのか。
「女性がよく通る道に人形を置いて見せつけたり、女性と共通の知人の前で釘を刺し、その行為が女性の耳に入ることを認識している場合、脅迫で捕まる可能性が出てきます。銃弾や殺された人の写真を送りつけ、“次はおまえだ”と暗示するのと同じ行為とみなされるはずです。ただ、女性が話を聞き、体調を崩して寝込んでも、脅迫以外の罪に問われることはないと思われます」(落合洋司氏)
どんなつらい別れを味わっても、わら人形だけは買わないように。  
丑の刻参り 1
丑の刻(午前1時から午前3時ごろ)に神社の御神木に憎い相手に見立てた藁人形を釘で打ち込むという、日本に古来伝わる呪術の一種。典型では、嫉妬心にさいなむ女性が、白衣に扮し、灯したロウソクを突き立てた鉄輪を頭にかぶった姿でおこなうものである。連夜この詣でをおこない、七日目で満願となって呪う相手が死ぬが、行為を他人に見られると効力が失せると信じられた。ゆかりの場所としては京都市の貴船神社が有名。ただ、貴船神社は24時間開門していないため実際には着手不可能である。丑時詣(うしのときもうで)、丑参り(うしまいり)、丑三参り(うしみつまいり)とも。
丑の刻参りの基本的な方法は、江戸時代に完成している。
一般的な描写としては、白装束を身にまとい、髪を振り乱し、顔に白粉を塗り、頭に五徳(鉄輪)をかぶってそこに三本のロウソクを立て、あるいは一本歯の下駄(あるいは高下駄)を履き、胸には鏡をつるし、神社の御神木に憎い相手に見立てた藁人形を毎夜、五寸釘で打ち込むというものが用いられる。五徳は三脚になっているので、これを逆さにかぶり、三本のロウソクを立てるのである。
呪われた相手は、藁人形に釘を打ちつけた部分から発病するとも解説される。ただし藁人形など人形〔ひとかた〕の使用は江戸期までに必ずしも確立しておらず、例えば鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』(1779年、右上図参照)の添え書きにも言及されていないし、画にも見えない。
小道具については解説によって小差があり、釘は五寸釘であるとか、口に櫛を咥える、腰には護り刀などがある。参詣の刻限も、厳密には「丑のみつどき」(午前2:00~2:30)であるとされる。
石燕や北斎の版画を見ても、呪術する女性のかたわらに黒牛が描かれるが、七日目の参詣が終わると、黒牛が寝そべっているのに遭遇するはずなのでそれをまたぐと呪いが成就するという説明がある。この黒牛に恐れをなしたりすると、呪詛の効力が失われるとされる。
現代では、細かい部分で少し変化している。藁人形に呪いたい相手の体の一部(毛髪、血、皮膚など)や写真、名前を書いた紙を入れる必要があったり、丑の刻参りを行う期間に差があったり、打ち付けた藁人形を抜かれてはいけないと地方・伝わり方で違いがあり、呪うために自身が鬼になるのではなく、五寸釘を打った藁人形の部位に呪いをかけることができるという噂が広く知られる。また、丑の刻参りを他人に見られると、参っていた人物に呪いが跳ね返って来ると言われ、目撃者も殺してしまわないとならないと伝えられる。
丑の刻
「丑の刻」も、昼とは同じ場所でありながら「草木も眠る」と形容されるように、その様相の違いから常世へ繋がる時刻と考えられ、平安時代には呪術としての「丑の刻参り」が行われる時間でもあった。また「うしとら」の方角は鬼門をさすが、時刻でいえば「うしとら」は「丑の刻」に該当する。
歴史
「うしのときまいり」という言葉の方が古い。古くは祈願成就のため、丑の刻に神仏に参拝することを言った。後に呪詛する行為に転ずる。
京都市の貴船神社には、貴船明神が降臨した「丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻」に参詣すると、心願成就するという伝承があったので、そこから呪詛場に転じたのだろうと考察される。
また、今日に伝わる丑の刻参りの原型のひとつが「宇治の橋姫」伝説であるが、ここでも貴船神社がまつわる。橋姫は、妬む相手を取殺すため鬼神となるを貴船神社に願い、その達成の方法として「21日(三七日、さんしちにち)の間、宇治川に漬かれ」との神託を受けた。それを記した文献は、鎌倉時代後期に書かれ、裏平家物語として知られる屋代本『平家物語』「剣之巻」であるが、これによれば、橋姫はもとは嵯峨天皇の御世の人だったが、鬼となり、妬む相手の縁者を男女とわず殺してえんえんと生き続け、後世の渡辺綱に一条戻橋ところ、名刀髭切で返り討ちに二の腕を切り落とされ、その腕は安倍晴明に封印されたことになっている。その彼女が宇治川に漬かって行った鬼がわりの儀式は次のようなものである:
「長なる髪をば五つに分け、五つの角にぞ造りける。顔には朱を指し、身には丹を塗り、鉄輪を戴きて、三の足には松を燃し、続松(原文ノママ)を拵へて、両方に火をつけて、口にくはへつつ、夜更け人定まりて後、大和大路へ走り出て……」宇治の橋姫
この「剣の巻」異本ですでに橋姫には「鉄輪(かなわ)」(五徳に同じ)を逆さにかぶり、その三つの足に松明をともすという要素があるが、顔や体を赤色に塗りたくるのであり白装束ではない。室町時代にこれを翻案化した能楽の謡曲「鉄輪」においても、橋姫は赤い衣をつけ、顔に丹を塗るなど赤基調が踏襲され、白装束や藁人形、金槌も用いていはいないが、ただし祓う役目の陰陽師晴明の方は、「茅の人形を人尺に作り、夫婦の名字を内に籠め、(後略)」祈祷をおこなうのである。よって現在の形で丑の刻参りが行われるようになったのは、この陰陽道の人形祈祷と丑の刻参りが結びついたためという見解がある。
源流
人形を用いた呪詛自体はかなり古くから行われており、『日本書紀』用明天皇2年(587年)4月条に、「中臣勝海連(なかとみのかつみのむらじ)が家(おのがいえ)に衆(いくさ)を集えて、大連をいたすく。ついに太子彦人皇子の像を作りて、まじなう」と記され、古墳時代から人形を媒体とした呪いがあった。ただし、この時点では、まだ像を刺す行為は確認できない。
考古学資料の遺物として、奈良国立文化財研究所所蔵の8世紀の木製人形代(もくせい ひとがたしろ)があり、胸に鉄釘が打ちこまれた状態の物も出土している。木簡を人形に切り取り、墨で顔が描かれている。丑の刻参りと共通する呪殺を目的とした形代だったと考えられている。この遺物からも、人形に釘を打ち込み、人を呪うと言った呪術体系自体は古代(奈良時代)からあった事が分かる。研究者によっては、鉄釘自体が渡来文化であり、こうした呪術体系自体が大陸渡来のものではないかとしている。この他にも類例として、島根県松江市タテチョウ遺跡から出土した木札には、女性が描かれており、服装から貴人女性と見られるが、3本の木釘が打ちこまれていた。その位置は、両乳房と心臓に当たり、明らかに呪殺目的であった事が分かる。
式神・妖怪
陰陽師が使役する式神というものがあるが、式神は荒ぶる神としての妖怪としても描かれ、人の善悪を監視する役目を持っていたとされ、様々な不思議な力を発揮したと言われる。丑の刻参りも、たびたび妖怪を伴って描かれ、神木に釘を打って結界を破り、常夜(夜だけの神の国)から、禍をもたらす邪神(魔や妖怪)を呼び出し、神懸りまたは使役し、恨む相手を祟ると考えられていた。  
「丑の刻参り」 2
今なお残る、日本伝統の呪術「丑の刻参り」
人を自由に操ったり、殺したりする呪術は世界中に存在している。日本でも様々な呪術があるが、原型は平安時代に生まれたといわれる。その中でも、江戸時代にその手法が確立されたとされる"丑の刻参り"は、最も有名で今でも行う者が後を絶たない。
丑の刻参りのお作法 〜どんな姿で行うのか?〜
丑の刻参りとは、藁人形に恨みの念を込める呪法である。まずは藁人形を作らなければならないが、材料に藁を使う以外、特別な取り決めはないようだ。
藁を束ねて人の形に見えるように糸で括っていくのだが、簡単な方法を紹介しよう。
・藁人形の作り方
まず糸で両端を括った、長さ20〜30cmほどの藁束をふたつ用意。その藁束を十字架型に交差させ、接触部を糸で縛って固定する。その十字架になった藁束の一番長い一端を、半分に割れば「足」が出来る。これで藁人形の完成だ。
藁人形には、呪いたい相手の髪の毛や爪を入れるという作法もある。だが、相手の名前や写真を張るだけでよいという説もあり、どちらが正統であるかはハッキリしない。確実性を高めたいのであれば、両方用意した上で藁人形を作った方がいいだろう。
・衣装
そして丑の刻参りに出かけるときの衣装は、白装束を纏うことになっている。白い衣装であればなんでもいい、というわけではなく、神社の神主や昔の修験者が着用していた白い単衣の正式な白装束が必要だ。
・小道具
さらに小道具として、五徳(ごとく)と呼ばれる昔の調理器具を逆さにして頭に被る。五徳には三本の足がついているため、その先にろうそくを差し、火を灯すのである。
・顔、メイク
髪の毛は乱れ髪の蓬髪でなければならないとされている。また顔にも化粧を施すとされるが、真っ白な白粉を顔中に塗る説と、真っ赤な紅を顔や身体に塗る説があり、どちらが正統なのかは不明だ。その他の小道具として、口に櫛や両端に火をつけた細い松明を咥えなければならないという説もある。
・最後に釘の用意
また最後に忘れていけないのは、作った藁人形を打ち付ける五寸釘と金槌だ。五寸釘というのはセンチに直すと15.15センチもある釘だ。現在では余程大きなホームセンターでなければ、扱っていない可能性がある。金槌に関しては特に指定はないため、釘さえ打てれば、木槌だろうが、プラスチックハンマーだろうがかまわないようだ。ただ、雰囲気を出したいのであれば、木槌がオススメである。
ひと通りの準備を終えると、一本歯の下駄か高下駄を履き、丑の刻参りに出かけるのだ。
丑の刻参りのお作法 〜いつ、どうやって行うのか?〜
丑の刻参り...と言われるため、もちろん相手を呪う儀式は、「丑の刻」に行う。丑の刻というのは現代の時間に直すと午前1時から3時ごろが当てはまる。真夜中に神社の御神木を白装束で訪れ、そこに藁人形をあてがい、憎い相手へ恨みの念を送りながら、五寸釘を打ち込んでいくのである。
この儀式を7日間続けると、悲願は成就されるという。だがその反面、丑の刻参りをしている姿を人に見られたら効果がなくなるとされている。しかも近年では、効果が無くなるどころか、呪いの念が自分自身に返ってきてしまうという物騒な説も唱えられており、人を呪わば穴二つの事態になることもあるという。
丑の刻参りの刑法学 〜呪いで人を殺すと捕まらない?〜
恐ろしい呪術である丑の刻参りは、今現在も実行している人がおり、神社や寺の裏林の木に時折、五寸釘で藁人形が発見されるという。
呪術によって人を殺そうとする行為が止まない大きな理由は、"呪術で人を殺しても殺人罪に問われない" ためだろう。
日本をはじめ、多くの先進国の現代刑法は、オカルト現象を否定している。科学的かつ合理的な方法でなければ、いくら殺意があっても相手を殺した証明ができない。そのため、呪いで人を殺しても殺人罪では捕まらないのだ。
司法の世界ではこれを"不能犯"と呼び、科学的に不可能だとされる方法で相手を殺したと言い張る者がいた場合も「それは恨んでいた相手が、たまたま死んだだけ」という解釈をされるのである。
丑の刻参りの刑法学 〜殺人罪で捕まらなくても、他の罪には抵触する〜
では、丑の刻参りを行い、刑法的に全然問題ないかといえば、そうではない。実は他の法律にはしっかり引っ掛かり、悪質だと判断されれば、逮捕の可能性も出てくる。上記のお作法通りに丑の刻参りを行った場合に抵触する法律は、
・不法侵入罪
・器物破損罪
・脅迫罪
の3つだ。
不法侵入というのは、私有地内に勝手に侵入する行為。神社や寺は一応、誰でも入れるオープンな場所ではあるが、多くの神社や寺は私有地だ。そのため、裏林の木や御神木などを目指し、夜中に侵入する際に発見された場合、管理者が警察へ通報すれば、不法侵入罪が成立してしまう。丑の刻参りを人に見られると、帰ってくる災厄はこのこと......、ではないだろうが、夜中にお寺などをウロついていると、違法行為として咎められるのは当然だ。
次に器物破損罪である。丑の刻参りは、他人の所有物である樹木に、断りもなく釘を打ち込むため、立派な破壊行為に当たる。器物破損罪は親告罪なので、被害者が警察に告訴しない限り、事件化することはないが、7日間も連続して木に釘を打ち込んでいれば、不法侵入罪と同じく通報されてしまう可能性が高い。
最後に脅迫罪だ。この刑罰が丑の刻参りに適用されるのは、ひとつ条件が必要なる。それは、"自分が丑の刻参りをして、呪っていることを相手に告げる"場合に限られる。
丑の刻参りをしているという不気味な行為が、相手に恐怖感を与えるからこそ成立する。従って、丑の刻参りを行っていることが相手にバレなければ、この罪も適用されないのだ。
丑の刻参りはホントに効くのか? 〜実録!丑の刻参り脅迫事件〜
さて、そんな丑の刻参りは昔から行われているが、実際の効果はあったとも、ただの迷信だとも言われている。ところが、昭和29年に丑の刻参りによって、ホントに体調を崩した男性がおり、呪いをかけた女性が脅迫罪で逮捕されるという事件が起こっている。
被害者は当時、秋田市に住んでいた男性。女性関係のもつれから恨みを買ってしまい、女性が丑の刻参りを始めた頃から、胸の痛みに襲われ、倒れてしまったという。医師に診断を受けるも原因は不明で、恐怖のあまり男性が警察に相談したため発覚したそうだ。
これはオカルト事件に一切関知しない現代警察が、超常現象の捜査をした数少ない事例だ。捜査の結果、丑の刻参りをしていた女性を脅迫罪で逮捕している。
この判例が元になって、今でも呪っている相手に、「お前を呪っているぞ」と告げると、脅迫罪が適用されるようになった。また言葉で告げるだけでなく、藁人形などの呪いのグッズを送りつけても適用される。
呪っていた女性が逮捕された直後から、男性の胸の痛みはなくなり、無事社会復帰できたというが、彼の不調の原因がホントに呪いの力であったかは、今となってはわからない。
ちなみに、もし呪われたらどう対処すればよいか? 解呪法をネットで検索し、シロウト考えで夜な夜な試してみるよりも、警察に通報して脅迫罪でしょっぴいていただくのが一番無難な解決法だと思われる。  
人身御供
人間を神への生贄とすること。人身供犠(じんしんくぎ/じんしんきょうぎ)とも。転じて比喩的表現として、権力者など強者に対して通常の方法ではやってもらえないようなことを依頼するため、もしくは何らかの大きな見返りを得るために、理不尽にもかかわらずその犠牲になることに対しても使われている。
人身御供の行為は、特にアニミズム文化を持つ地域の歴史に広く見られる。人間にとって、最も重要と考えられる人身を供物として捧げる事は、神などへの最上級の奉仕だという考え方からである。
今日でこそ人権等の考え方から個人が尊重されているが、古代社会では人命は災害や飢饉によって簡単に失われる物だった。このため、気紛れな自然に対する畏怖のため、人身を捧げる風習が発生したと考えられる。特に災害においては、自然が飢えて生贄を求め猛威を振るっているとして、大規模な災害が起こる前に、適当な人身御供を捧げる事で、災害の発生防止を祈願した。
特に日本では、河川が度々洪水を起こしたが、これは河川のありようを司る水神が生贄を求めるのだと考えられた。今日に伝わるヤマタノオロチ等の龍神伝承では、直接的に龍に人身を差し出したと伝えられるが、実際には洪水などの自然災害で死亡する、またはそれを防止するために河川に投げ込まれる、人柱として川の傍に埋められる等したのが伝承の過程で変化して描写されたと考えられている。
これらは後に人身を殺害して捧げる行為が忌避されるにつれ、人の首(切り落とされた頭)に見立てて作られた饅頭や、粘土で作った焼き物(埴輪・兵馬俑)等の代用品が使用されたり、または生涯を神に捧げる奉仕活動を行うという方向に改められるなどして、社会の近代化とともに終息していった。
その一方で、近代から現代に掛けても悪魔崇拝や集団自殺等により、人身を捧げる儀式も発生し、社会問題化する事がある。前者の悪魔崇拝では、中世ヨーロッパの魔女狩りで流布されたサバトの描写中で、赤ん坊を悪魔に捧げたとする伝承(これは「反キリスト教的な行為」と考えられている・後述参照)が、「悪魔を崇拝するのに必要な儀式」として解釈されたのだと考えられ、例えばウェスト・メンフィス3の事件はこのような事例の一つと考えられている。後者の宗教に絡んだ集団自殺行為では、供物として神に捧げられるというよりも、死ぬ事で理想化された死後世界に到達する(人民寺院の集団自殺事例など)という事例が見られる。

日本では、犠牲となった人間を人柱とも言い、転じて同様の行為を行うこともそう呼ばれる。「白羽の矢が立つ」とは、元々このことをいった。白羽の矢はいわゆる匿名による指名行為であった訳だが、これらは霊的な存在が目印として矢を送ったのだとされ、この矢が家屋に刺さった家では、所定の年齢にある家族を人身御供に差し出さなければならないとされた。
事例をみると、中国の歴史書『三国志』の魏志倭人伝に、「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人」邪馬台国の卑弥呼が死去し塚を築いた際に100余人の奴婢が殉葬されたとあり、『日本書紀』垂仁紀には、野見宿禰が日葉酢媛命の陵墓へ殉死者を埋める代わりに土で作った人馬を立てることを提案したという(埴輪の起源説話であるが考古学的には否定されている)記載が残っている。 他にも、儺追祭(なおいまつり)の起源にまつわる話や、『日本書紀』に登場する茨田堤(大阪府)の人柱に関する記載、諏訪大社(長野県)の御柱にまつわる伝説、倭文神社(奈良県)の大蛇伝説など、人身御供にまつわる話は数多く残されている。
近江国伊香郡には、水神に対して美しい娘の生贄を奉ったが、当地では生贄となる娘が片目であったとされる。柳田國男の『一つ目小僧その他』において、人身御供と隻眼の関係が説かれている。
柳田國男の「日本の伝説」では、神が二つ目を持った者より一つ目を好み、一つ目の方が神と一段親しくなれると書いている。これと、神の贄となる魚を通常の魚と区別するために片目にすることが紹介されている。
静岡には、人身御供や人柱の伝説が多い。例として、富士吉原市の三股淵(みつまたふち)あるいは三俣淵(と表記される)、浮島沼の人身御供や磐田市の見附天神の人身御供がある。これらの生贄伝説は非常に有名で、民俗学者の中山太郎や神話学者の高木敏雄といった著名な学者らの著書でよく紹介されている。 ただし、本の中で語られる伝説はところどころ異なっている。 1967年5月15日に発行された「広報ふじ 010号」3頁では、三股淵の人身御供について触れている。三股淵の付近では毎年6月28日に祭りを行うが、人身御供を伴う祭りは12年毎に行う。これは大蛇の怒りを鎮め大難を防ぐために行うと書かれている。なお、人身御供となる者の条件、人身御供の儀式について、その詳細は書かれていないが、「東海道の伝説」関西通信社1964年、「史話と伝説」松尾書店1958年、「伝説富士物語」木内印刷合資会社1952年には、その詳細が書かれている。まず生贄となる者の条件は、15〜16の少女で処女、「東海道の伝説」にのみ美女という条件が付加されている。また人身御供の儀式は、生贄に選ばれた少女が、生きたまま淵に投げ込まれるか、生贄自らの入水(じゅすい)の形を取ると書かれている。なお、中山太郎の日本巫女史大岡山書店1930年においても吉原の人身御供について語られている。内容は既述の三冊に書かれている内容とほぼ同じである。 また、相違点については、広報ふじ「ふじ 010号」3頁では人身御供を伴う祭が12年毎行われていると書かれているが、他の四誌については人身御供を伴う祭が年毎(毎年)行われていると書かれている点、「伝説富士物語」以外の四誌は、巫女が人身御供になるという点、人身御供を捧げる相手の名前が単なる大蛇ではなく、竜神である点、などである。 「東海道の伝説」においては竜神という名称以外に、生贄を捧げる相手が神であると明記されている 。
中山太郎の「日本巫女史」大岡山書店1930年3月20日発行247頁―250頁の「第二節 人身御供となった巫女」では巫女が人身御供となったと考えられる事例をあげている。中村太郎は、巫女が人身御供になる理由として、250頁「而して斯く巫女が人身御供となったのは、それが神を和める聖職に居った為であることは言うまでもない」と述べている。なお、同書250頁では「旅人を人身御供とした神事は、尾張國府宮の直會祭を始めとして、各地に夥しきまでに存していた。此の理由は祭日に人身御供となることを土地の者が知るようになり、これを免かれんがために、外出せぬようになったので、かく旅人を捕へることになったのであるが、それを國府宮の如く有名になると、同じく旅人が相警めて通行せぬようになるので、尾張藩では藩命を以てこれを制止したことさえある。旅行者も最初の者か第三番目の者か、女子か男子か、その神社のしきたりで、種々なるものが存していた」と記している。神に近い存在であるから巫女を生贄にする点と旅人を生贄とする点は甚だ近い。なぜなら折口信夫の論じた「まれびと信仰」では、外界から来た客人を神もしくは神の使者として扱うからである。
磐田市の裸祭りは台風大雨洪水となっても決行される。これは人身御供の儀式が決まった日時に遅延なく行わなければならなかった名残である、と「遠江の伝説」に書かれている。なお、人身御供の風習を止めた勲功をたてた犬の悉平太郎は、多くの場合「早太郎」と呼ばれ、これは悉平太郎の故郷である駒ヶ根市も同様である。
人身御供は、神が人を食うために行われるとも考えられているが、神隠しと神が人を食う事との関連を柳田國男は自身の著書「山の人生」にて書いている。柳田國男によれば、日本では狼は山神として考えられており、インドでは狼が小児を食うという実例が毎年あり、日本には狼が子供を取ったという話が多く伝わっているという。これが山にて小児が失踪する神隠しの一つの所以であるとも考えられる。
青木純二の「アイヌの伝説」では、神話学者高木敏雄が早太郎童話論考にて分類した人身御供伝説の形式以外に特異な展開を見せる伝説が書かれている。即ち33頁―36頁「娘を奪う山の神」、52頁―56頁「火の神の使い」、80頁―81頁「雪の中に咲く百合の花」、82頁―84頁「白神岬の祟」などである。これがその他凡百の人身御供伝説と異なるのは、勇者や僧侶が人身御供となる犠牲人を助ける展開がなく、人身御供の儀式が決行され、しかもその後に後味の悪い結末が用意されている点である。例えば、「火の神の使い」では神の怒りを鎮めるための人身御供が行われたにも関わらず、神の怒りが鎮まらず、村人が全員死んでしまう。それに反して「娘を奪う山の神」は、人身御供の儀式が行われ一応成功に終わるものの、人身御供となった女性の恋人が自殺する。「白神岬の祟」は、ある権力者が恩恵を得たいがために人身御供の儀式を行い、呪いの起因をつくることになる。
松村武雄は「日本神話の研究」の126頁にて、穀物の豊かな収穫を確保するための呪術として犠牲人を殺す民俗が行われていたと書いている。なお、同頁にて中島悦次の「穀物神と祭祀と風習」を紹介し、その中で柳田國男の「郷土誌論」を参考にした「オナリ女が田植えの日に死んだというのは、オナリ女の死ぬことが儀式の完成のために必要であったことを意味する」との文章を引用している。また、197頁にて人身御供伝説の分類を行っている。そこでは、八岐大蛇退治神話における奇稲田姫を含めた八人の犠牲者は、司霊者―巫女であったと述べている。その他の人身御供伝説については、毎年一人という条件があるだけで、生贄となる者の合計などは定まっていないと記している。また、207頁にて、水の神、田の神に実際に女性を生贄としてささげた習俗があると記している。松村武雄は、人身御供伝説の分析について「日本神話の実相」においても記述している。
ちなみ、高木敏雄の「日本神話伝説の研究」には、487頁―531頁に「人身御供論」、532頁―538頁に「早太郎童話論考」が書かれており、「早太郎童話論考」では人身御供伝説の形式と分類を明らかにしている。高木敏雄自身は、日本国内で多くの人身御供伝説があると認識した上で国内での人身御供の存在そのものには懐疑的であるが、490頁にあるように「人身御供そのものが過去の事実として信ぜられている。すべての民間伝説はその伝承地の民間においては、必ず事実として信ぜられるものであるから」と、磐田市の見付天神の人身御供を例にとって述べている。また、493頁にて天野信景の塩尻の一部を訳し、次のように記述している。「…和州長谷修正の終に鬼を追う事あり頃年我熱田の神宮寺にても正月此事をはじめ侍る是は路人を執促するに非ず夫路行の旅人を捉え侍るは湖南九江の淫祠に似たり追儺は人を以て神を祭るにあらざれども世俗人は人を牲(ニエ)とする様にかたる…」。これにより、当時の俗世間の人々が追儺に人身御供を用いていたと勘違いしていたことがうかがえる。
何故人身御供が起こったのか、その謎について、高木敏雄は「日本神話伝説の研究」501頁―502頁にて、考えを述べている。「凡ての水界と空中界と、まだ人類の勢力範囲に成っていない陸界の一部分とは、神の領分である。人類社會(會=会)の發(發=発)展はこの神の領分の縮小壓(壓=圧)迫である。領分の縮小圧迫は神に対する侵害である。この侵害に對(対)して、神は相當(当)の防禦(禦=御)手段を取ることもあれば、相當(當=当)の犠牲を人類から得て満足することもある。この場合に人の生命又は身体が犠牲にされると、其處(處=処)に人身供犠という現象が生ずるのである。併しこの如きは、人類史上現象として餘(余)りに一般的で」
そして、早太郎童話論考で扱っている邪神や夜叉に女子や男子の生贄を與(与)える神話と異なる人身御供の話を同書502頁より述べている。「此種の犠牲は、人類社会と利害を異にする、あるいは反対にする、廣(広)い意味でいえば、人類社会の外にある邪神に対する犠牲であって、内にある神、即ちある種族または部落の守護神、小にしては所謂鎮守の社に鎮りまし鎮りまして、その部落と親密なる親子主従のような関係を持っている神に対する犠牲とは全然その性質が異なっている。後者の祭祀は、年々定まった季節又は月日に行なわれる。慣例により神聖となった、厳重な、時として面倒臭い儀式の下に行なわれる祭祀である。この祭祀の一個の必須条件として人身供犠が行なわれるが、最も狭い意味においての人身御供で、人類の宗教史上の現象として甚だ重要なるものの一つである」 この形式で行われた恐れのある祭祀が、坂戸明神の人身御供の儀式であると同書(高木敏雄「日本神話伝説の研究」岡書院1925年5月20日発行525頁―527頁)の中で高木敏雄は述べている。
「坂戸明神の話に移る。久しい間の伝承で神聖にされた、馬鹿にできぬ儀式がある。祭祀の儀式としての人身御供の存在説を主張する者の提供した、或は寧ろ提供し得る證據物件の中で最も有力なるものである。 爼(マナイタ)と庖丁(ホウチョウ)、それから生きた實(実)物の人間、考えたばかりでも身の毛が立つ。爼と庖丁とが、果たして人間を神に供えた風習の痕跡だとしたらどうだ。犠牲を享ける神は、鎮守の社に祀られる神である。捧げるものは氏子の部落である。捧げられる犠牲は、氏子の仲間から取らなければならぬ。人身御供という風習の言葉の中には、久しい間の慣例と云うことの意味が含まれているではないか。鎮守の社の祭祀は、年毎に行われる儀式である。人身御供と云うことが此祭祀の恒例となっている以上は、春秋二度とまで行かずとも毎年一度か少なくとも二三年に一度位は行わなければなるまい。凡ての伝説は、毎年のこととしているではないか」
※「広報ふじ1967 ふるさとのでんせつ」1967年5月15日発行3頁で語られる「生贄の淵」の人身御供を伴う祭りは12年毎に行われると書かれており、諏訪神社で行われていたとされる人身御供の儀式は3年毎であったと考えられているため、人身御供を伴う祭りが、必ずしも毎年あったとされているわけではない。
528頁では、人身御供伝説が史実とした場合の問題点をあげている。 528頁「普通の場合に神前へ供える物は、生贄でも果穀でも調理したものでもすべて、再び神前から下げられて、信者の口に入るとか、河へ流されるとか火に焼かれるとかする。若し肉体を具えぬ神の祭壇に人を供えるとしたら、この人を殺す役目に当たる者のことも考えねばならぬ。殺す儀式のことも考えて見ねばならぬ、殺した後の死骸の始末は、更に重要な問題として考えても貰わねばならぬ」 また、530頁では人々が人身御供と人柱を混同していたことが述べられている。ただし、高木敏雄の行った人身御供と人柱の定義が通説であるかは不明である。高木敏雄によれば、人柱は神に捧げるものではないため、神に捧げるという意味で差し出される生贄は、人身御供ということになる。530頁「時々人柱として河の神に人身御供に捧げられる」
なお、南方熊楠の「南方閑話」 では神に捧げられる生贄が人柱として紹介されている。
「日本伝説の研究」では、自然現象の脅威に対する人々の崇拝の念と想像により、猛獣が人を捕ることを「神が人身御供を要求するもの」と考えられた、と書かれている。
ちなみに、多くの人身御供伝説では、生贄の対象が女性である場合が目立つ。しかし、中山太郎の「日本巫女史」251頁、高木敏雄の「日本神話伝説の研究」533頁―534頁によれば、生贄に男子の場合があることがわかる。  
憑依(ひょうい)
霊などが乗り移ること。憑(つ)くこと。憑霊、神降ろし、神懸り、神宿り、憑き物ともいう。とりつく霊の種類によっては、悪魔憑き、狐憑きなどと呼ぶ場合もある。
「憑依」という表現は、ドイツ語の Besessenheit や英語の (spirit) possession などの学術語を翻訳するために、昭和ごろ、特に第二次世界大戦後から用いられるようになったと推定されている(下記「訳語の歴史」を参照)。ファース(Firth, R)によれば、「(シャーマニズムにおける)憑依(憑霊)はトランスの一形態であり、通常ある人物に外在する霊がかれの行動を支配している証拠」と位置づけられる。脱魂(英: ecstassy もしくは soul loss)や憑依(英: possession)はトランス状態における接触・交通の型である。
宗教学では「つきもの」を「ある種の霊力が憑依して人間の精神状態や運命に劇的な影響を与えるという信念」とする。
人類学、宗教学、民俗学などの学術用語として用いられるようになった「憑依」あるいは「憑霊」という表現は、明らかにドイツ語の Besessenheit や英語の(spirit) possession などの翻訳語であり、欧米の学者らが使用する学術用語が日本の学界に輸入されたものである、と池上良正は指摘した。1941年(昭和25年)のある学術文献には「憑依」の語が登場した。一般化したのは第二次世界大戦後だろうと推定される。
「憑依」という学術用語が用いられるようになって後は、この用語に関して、様々な理論化や類型化が行われてきた。例えば、憑依という用語にとらわれすぎず、「つく」という言葉の幅広い含意も踏まえつつ憑霊現象をとらえなおした小松和彦の研究などがある。
「憑依」という用語と分類の恣意性
ただし、学術的な研究が進むにつれて、当初は明確な輪郭をもっているように思われた「憑依」という概念が、実は何が「憑依」で何が「憑依」でないか線引き自体が困難な問題であり、評価する側の価値判断や政治的判断が色濃く反映され、バイアスがかかってしまっている、やっかいな概念である、ということが次第に認識されるようになってきた。
というのは、大和言葉の「つく」という言葉ならば、「今日はツイている」のように幸運などの良い意味で用いることができる。ところが「憑依」は否定的な表現である。英語の be obsessed や be possessed などは否定的な表現であり、「憑依」も否定的に用いられてしまっているのである。現実に起きていることはほぼ類似の現象であっても、書き手の側の価値判断や政治的判断によってそれを呼ぶ表現が恣意的に選ばれてしまい、別の表現になってしまっているのであると指摘する研究者もいる。
例えば聖書には次のようなくだりがある。
「イエスはバプテスマを受けると、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように自分の上に下ってくるのをご覧になった。また天から声があって言った。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である(マタイによる福音書 3.16)」
「祈りが終わると、彼らが集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。(使徒行伝 4.31)」
このような箇所が翻訳される場合は肯定的に表現され、「憑依」を暗示するような訳語は使われず、このような箇所は「憑依」に分類されてこなかったのである。一方、同じく聖書には次のようなくだりがある。
「イエスが向こう岸のガダラ人の地に着かれると、悪霊に取りつかれた者がふたり、墓場から出てきてイエスのところにやって来た。二人は非常に凶暴で(中略)、突然叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ時ではないのに、ここにきて、我々を苦しめるのか」。はるか離れたところで多くの豚の群れがえさをあさっていた。そこで悪霊たちはイエスに願って言った。「もし我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」。イエスが「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると豚の群れは崖から海へなだれこみ、水の中で死んだ。豚飼いたちは逃げ出し、町に行き、悪霊に取りつかれた者のことなど一切を知らせた。(マタイによる福音書 8.28-33)」
これなどは「取りつかれた」などの「憑依」を暗示する用語・訳語が選ばれ、そういう位置づけになっている。
一方、沖縄のユタと呼ばれる人がカミダーリィの時期を回想した体験談に次のようなものがある。
「そして神様に歩かされて、夜中の3時になるといつもウタキまで歩かされて、そうすると、天が開いたように光がさして、昔の(琉球王朝の)お役人のような立派な着物を着たおじいさんが降りて来られて「わたしの可愛いクァンマガ(子孫)」とお話をされる。」
この体験談を聖書の引用と比較してみると、明らかにイエス自身の事跡を示したマタイによる福音書3.16以下のくだりと酷似している。まともに判断すれば、マタイによる福音書3.16のくだりと同じ位置づけで研究されてもようさそうなはずのものなのだが、ところが学術の世界では「ユタと言えばカミダーリィ(神がかり)。だからシャーマン。巫者。だから“憑依”される人物だ」といったような、冷静に検討すれば、あまり正しいとは言えない理屈で分類されるようなことが行われてきたのである。
キリスト教徒のなかには、「キリスト教徒以外の異教徒はすべてサタンによって欺かれている」などと言う人もおり、キリスト教の外にあるイタコやユタなどは“悪霊に憑かれた者”に分類し、それに対して、キリスト教の中にある聖霊に関しては「憑かれる」とは表現しないという指摘もある。すなわち、こうした表現や用語の選定段階には、聖書の編者たちやキリスト教徒たちの価値判断や解釈が埋め込まれてしまっているのである。学者らがこうしたキリスト教徒の「信仰」自体を批判する筋合いにはないが、問題なのは、こうしたキリスト教信仰による分類法が、「学術研究」とされてきたものの中にまでも実は深く入り込み、研究領域が恣意的に分けられてしまうようなことが行われてきたことにある。つまり、「ついた」「神がかった」などという表現があると「憑依」や「シャーマニズム」に分類して、宗教人類学や宗教民俗学の守備範囲だとし研究されたのに、「(イエス・キリストは)天が開け神の御霊が鳩のように自分の上に下ってくるのをご覧になった」という記述や「高僧に仏の示現があった」「見仏の体験を得た」という記述は、別扱いになってしまい、キリスト教研究や仏教研究の領域で行われる、ということが平然と行われてきてしまったのである。
古代ギリシャ/哲学
プラトンはその著作『パイドロス』の中で「神に憑かれて得られる予言の力を用いて、まさに来ようとしている運命に備えるための、正しい道を教えた人たち」と、前4世紀当時のギリシャの憑依現象について紹介している。『ティマイオス』では、憑依された人が口にする予言や詩の内容を、客観的な視点から理性を用いて的確に判断し解釈する人が傍らに必要であることを述べている。
アブラハムの宗教
アブラハムの宗教であるユダヤ教もキリスト教もイスラム教にも、預言者が登場する。これは神が宿ったものともいえる(預言、福音、啓示)。
キリスト教 / 新約聖書の福音書で「つかれた」と訳されるδαιμονίζομαιという語は、パウロ書簡にはでてこない。ルーダンの憑依事件(英語版)について、神学者のミッシェル・セルトーが、神学、精神分析学、社会学、文化人類学をクロスオーバーさせつつ分析している。カトリック教会の神学では、夢遊病的なもの(the somnambulic)の型のつきものに possession の名を与え、正気のもの(the lucid)の型のつきものに obsession の名を与えている。
神道・古神道
祓い
昔の巫女は1週間程度水垢離をとりながら祈祷を行うことで、自分に憑いた霊を祓い浄める「サバキ」の行をおこなうこともあった。
日本語における憑依の別名
○神宿り - 和御魂の状態の神霊が宿っている時に使われる。
○神降ろし - 神を宿すための儀式をさす場合が多い。「神降ろしを行って神を宿した」などと使われる。降ろす神によって、夷下ろし、稲荷下ろしと称される。能管のヒシギと呼ばれる甲高い音は「神降ろしの音」と呼ばれ、神道の儀式で神降ろしに使われた岩笛から発達したさとれる。新潟県の葛塚まつりでは、笛は神降ろしの笛と言われて演奏者は尊重され、吹き手以外笛に触れない
○神懸り - 主に「人」に対し、和御魂の状態の神霊が宿った時に使われる。
○憑き物 - 人や動物や器物(道具)に、荒御魂の状態の神霊や、位の低い神である妖怪や九十九神や貧乏神や疫病神が宿った時や、悪霊といわれる怨霊や生霊がこれらのものに宿った時など、相対的に良くない状態の神霊の憑依をさす。
○ヨリマシ -尸童と書かれる。祭礼に関する語で、稚児など神霊を降ろし託宣を垂れる資格のある少年少女がそう称された。尚柳田國男は『先祖の話』中で憑依に「ヨリマシ」のふりがなを当てている。
民俗学における憑依観
民俗学者の小松和彦は、憑き物がファースの定義による「個人が忘我状態になる」状態を伴わないことや、社会学者I・M・ルイスの「憑依された者に意識がある場合もある」という指摘以外も含まれることから、憑依を、フェティシズムという観念からなる宗教や民間信仰において、マナによる物体への過剰な付着を指すとした。そのため、「ゲームの最中に回ってくる幸運を指すツキ」の範疇まで含まれると定義する。さらに、そのような観点から鑑みるに、日本のいわゆる憑きもの筋は「possession ではなく、過剰さを表す印である stigma」であるとする。また、谷川健一は、「狐憑き」が「スイカツラ」や「トウビョウ」など、蛇を連想させる植物でも言われることから、「蛇信仰の名残」とし、「狐が憑いた」という説明を「後に説明しなおされたもの」と解説している。
医学と憑依
医学においては森田正馬(森田療法で有名)は祈祷性精神病を研究した。医学領域では、憑依とされているものの一部は、精神疾患の一種と解釈したほうがよいと判断することがある。
ただし、沖縄では「ターリ」あるいは「フリ」「カカイ」などと呼ばれる憑依現象は、その一部が「聖なる狂気」として人々から神聖視された。そのおかげで憑依者は、治療される対象として病院に隔離・監禁すべきとする近代西洋的思考に絡め取られることは免れた、ともされる。
沖縄の本土復帰以降には、同地に精神病院が設立されたものの、同じころ(西洋的思考の)精神医学でも「カミダーリ」なども、人間の示す積極的な営為の一つであるというように肯定的な見方もなされるようになったおかげで、沖縄は憑依(の一部)を肯定する社会、として現在まで存続しているともされている。
超常現象研究からの所見
職業霊媒のように、人間が意図的に霊を乗り移らせる場合もある。だが、霊が一方的に人間に憑くものも多く、しかも本人がそれに気がつかない場合が多い。とりつくのは、本人やその家族に恨みなどを持つ人の霊や、動物霊などとされる。
何らかのメッセージを伝えるために憑くとされている場合もあり、あるいは本人の人格を抑えて霊の人格のほうが前面に出て別人になったり、動物霊が憑依した場合は行動や容貌がその動物に似てくる場合もある。
こうした憑依霊が様々な害悪を起こすと考えられる場合は、それは霊障と呼ばれている。
ピクネットによる説明
超常現象専門の研究者であるピクネットは、種々の文献や、証言を調査して以下のように紹介している。
歴史 / 憑依は太古の昔から現代まで、また洋の東西を問わず見られる。すでに人類の歴史の初期段階から、トランス状態に入り、有意義な情報を得ることができるらしい人がわずかながらいることほ知られていた。部族社会が出現しはじめた頃、憑依状態になった人たちはいつもとは違う声で発語し、周囲の人々は霊が一時的に乗り移った気配を感じていたようである。初期文明では憑依は「神の介入」と見なされていたが、古代ギリシャのヒポクラテスは「憑依は、他の身体的疾患と同様、神の行為ではない」と異議を唱えている。西洋のキリスト教では、憑依に対する見解は時代とともに変化が見られ、聖霊がとりつくことが好意的に評価されたり、中世には魔法使いや異端と見なされ迫害されたり、近代でも悪魔祓いの対象とされたりした。現在でも憑依についての解釈は宗派によって、見解の相違が存在する。近年でも憑依の典型的な例は起きている。例えばイヴリン・ウォーは『ギルバート・ピンフォードの苦行』という本を書いたが、これは小説の形で提示されてはいるものの、ウォー自身は、これは自分に実際に起きたこと、とテレビで述べている(ただしこの事例では、酒と治療薬の組み合わせが原因とも言われている)。最近では「良い憑依」というのを信じる人々もいる。肉体を備えていない霊が、肉体の「主人」の許可を得てウォークイン状態で入り込み、祝福のうちに主人にとってかわることもあり得る、と信じる人たちがいる。
古代イスラエル / ヘブライ語聖書(旧約聖書)にも憑依の記述は存在する。古代イスラエルでは、その状態は霊に乗っ取られた状態であり、乗っ取る霊は悪い霊のこともあり、サタンの代理として登場する記述がある。
キリスト教 / 初期のキリスト教徒は憑依を次のように好意的に見なしている。「聖パウロにおいて、病気の治癒、予言、その他の奇跡を約束して下さった聖霊が憑くような現象は、きわめて望ましい。」その一方で、憑依に関連する能力として「霊の見分け」(つまり悪霊を見破る能力)が認められていた。時代が下ると憑依を悪霊のしわざとする考え方が一般的になり、憑依状態の人が語る内容がキリスト教の正統教義に一致しない場合は目の敵にされ、そこまでいかない場合でも、憑依は悪魔祓いの対象とされている。憑依状態になる人が、魔法使い、あるいは異端者として迫害される事例が多くなっていった。ピクネットは、憑依の歴史的記録で、証拠文献が豊富な例として、1630年代のフランスのルーダンで起きた「尼僧集団憑依」事件をとりあげている。この事件では、尼僧たちの悪魔祓いを行うために修道士シュランが派遣されたのだが、そのシュラン自身も憑依されてしまった。尼僧ジャンヌも修道士シュランも、後に口を揃えてこう言った。
「卑猥な言葉や神をあざける言葉を口にしながら、それを眺め耳を傾けているもうひとりの自分がいた。しかも口から出る言葉を止めることができない。奇怪な体験だった。」
A.K.エステルライヒが1921年の著書『憑依』で示した、憑依の中には、悪魔が発語するような語り口、性格が異なる悪霊が五つも六つも詰めかけているような様子、乗り移られるたびに別人になったかのように見えるものも含まれていた。カトリック教徒の中の実践的な人々の間では、「憑依は悪魔のしわざ」説は次第に説得力を失ったが、英国国教会は今でも悪魔祓いを専門とする牧師団は存在している。
医学分野 / 医学領域や心理学の領域で、憑依を二重人格あるいは多重人格の表れとみなす考え方は多い。
「『自分』というのは単一ではない。複数の自分の寄せ集めで普段はそれが一致して動いている。あるいは、日々の管理を筆頭格のそれに委ねている。」
ただし、この説明の例では、霊媒行為について当てはまらない、霊媒行為の場合、「筆頭格」のそれは、明らかに何か異なる実在のように見えることが多く、また霊媒はトランス状態になると、その人が通常の状態ならば絶対に知っているはずのない情報を提供している。  
秋田人形道祖神 〜鹿島様〜
1 鹿島様
人形道祖神で最も有名なのが、この鹿島様タイプです。よくテレビや博物館でも取り上げられ人形道祖神と言えば鹿島様と思っている人も多いと思います。このタイプの特徴はなんと言っても巨大だと言う事です。3〜4mの高さを持ち全身藁で作られ、秋田県の中でも中央、南部山間地域に集中しています。配置としては集落境に男神、女神どちらか1体だけ鎮座していることがほとんどです。道祖神や道切りなどはその意味合いから集落の全ての入り口(通常は2箇所)に置かれるとは思うのですが、1体しか鎮座していません。当然、製作には手間がかかる為、一方向だけになったとも考られるのですが、主道と間道との間に差異をつけたり、親村方向や宗教上繋がりのある村の境には置かないなどの理由が考えられます。又、鹿島様タイプにはさらに2つのタイプが存在して顔が藁で作られる鹿島様タイプAと木面の鹿島様タイプBに分けられます。
1−鹿島様タイプA −顔が藁で作られている −南部山間地域で多い
2−鹿島様タイプB −顔が木面で作られている −中央、南部山間地域で多い
人形道祖神は伝承や当時のスケッチなどを見ても顔は藁で作られている事が多く、藁や墨で目鼻を付けると最後は滑落するなど破損することが多く、徐々に木面に変わっていたと考えられます。その為、鹿島様タイプAは南部山間に限られ、中でも旧大森町や旧大雄村、旧三内村、旧雄勝町で見られます。鹿島様タイプBは湯沢市の岩崎がその代表であると同時に最南端で、ここより中央山間地域に広く分布しています。
2−1 鹿島様と鹿島祭り(鹿島流し、鹿島送り)
よく鹿島様と鹿島祭りと同義に使うことがありますが、現在ははっきりと分かっていないようです。鹿島様は明らかに鹿島信仰を拠り所にして武甕槌神や鹿島大明神が集落境で悪霊や疫病などを防ぐいった民俗信仰の形式なのに対し、鹿島祭りは地域によって「鹿島流し」や「鹿島送り」など呼び方は変わりますが「虫送り」の一種で、村内部に侵入した、悪霊や疫病、害虫などを村の外に追い出すといった相反する形式を取っています。祭りの内容は一般的に各家々から藁で出来た鹿島人形と称される小さな人形を鹿島舟に乗せ、町内を引き回しお祓いをして川(海)に流す(時代から燃やす地域もある)という祭りですが、なぜ「虫送り」に鹿島人形が乗るのかは なかなか難しい問題で、秋田県内でも道祖神と「虫送り」が混合している地域もあるので無視出来ない存在と言えそうです。
2−2 秋田県内の主な鹿島祭り(鹿島流し、鹿島送り)
場所 / 名称 / 期間 / 備考
男鹿市北浦 / 鹿島祭り / 7月14日 / 海上安全、大漁祈願
秋田市新屋 / 鹿島祭り / 6月第2日曜日 / 無病息災、日吉神社の神事
大仙市大曲 / 鹿島流し / 6月第4日曜日 / 餅や十文銭を背負わせる
大仙市花館 / 鹿島流し / 6月第4日曜日 / 餅や十文銭を背負わせる
大仙市内小友 / 鹿島流し / 6月第4日曜日 / 餅や十文銭を背負わせる
大仙市藤木 / 鹿島流し / 7月第1日曜日 / 歴代高橋家が鹿嶋人形を作成
大仙市角間川 / 鹿島流し / 6月第4日曜日  
横手市大雄阿気 / 鹿島送り / 7月第3日曜日  
横手市大雄田根森 / 鹿島送り / 8月第3日曜日  
横手市雄物川町深井 / 鹿島送り / 7月第2日曜日 / 大型の鹿嶋人形作成
横手市雄物川町沼館 / 鹿島送り / 7月第2日曜日  
横手市雄物川町薄井 / 鹿島送り / 7月第2日曜日  
羽後町高尾田 / 鹿島流し / 9月第2日曜日 / 竜神を川に流す
由利本荘市東由利町館合 / 鹿島送り / 8月第2日曜日 / 五穀豊穣を祈願
3−1 何故鹿島様なのか?
これも以外とよくある問題で、一般的には秋田藩主である佐竹氏が元々常陸(鹿島神社の元宮がある)を所領していたことが理由ではないかと言われています。ただし、佐竹氏は氏神である八幡神社を崇敬していたし、江戸時代に定められた領内12社の中には鹿島神社は選ばれていません。又、鹿島神社自体も県内では少数派と言っていもよいほど数は少ないと言えます。発生起源についても江戸時代の紀行家 菅江真澄がスケッチ等で記録を残しているのでそれ以前(一般的には最初は小型であったものがどんどん大型化する傾向があります。菅江真澄が描いたスケッチでは既に大きな藁人形が描かれています。)からの民俗信仰とは思いますが、江戸時代以前からだと佐竹氏が常陸から持ち込んだ説に説得力が失います。
3−2 武甕槌神、古四王神社考
秋田市寺内にある古四王神社は秋田、山形、新潟に広がる古四王信仰の本社とされ、その主祭神が武甕槌神と大彦命とされています。武甕槌神は鹿島神社の主祭神と同様な為、古四王信仰が鹿島様の誕生に何らかな影響があったという説もあります。寺内にある古四王神社の創建は出羽の柵や秋田城などと同時代とされ、歴代秋田城介に庇護され、江戸時代には領内12社に数えら、明治時代に入っても唯一国幣社になっています。確かに秋田県では馴染み深い神社の1つで歴史性や県内の広がりも申し分ない神社に思います。しかし、詳しくは調べていませんが、下の表に見られるように主祭神が大彦命の方が多く本当に関係があったのかは疑問が残ります。
場所 / 名称 / 主祭神 / 備考
能代市檜山 / 檜山神社 / 大彦命(越王) / 旧越王神社
秋田市寺内 / 古四王神社 / 大比古命(越王)・武甕槌神 / 國幣小社
大仙市大曲 / 古四王神社 / 大彦命(越王) / 本殿:国重要文化財
横手市植田 / 古四王神社 / 大彦命(越王)・小彦名命 / 本尊:多聞天立像
にかほ市象潟 / 古四王神社 / 甕速日神・武甕槌神 / 寺内の古四王堂を勧請
鹿角市八幡平 / 古四王神社 / 大毘古命(越王)
大仙市中里 / 古四王神社 / 小彦名命
由利本荘市中館 / 古四王神社 / 大彦命(越王)  
 
 
 
 
以下は当HP内の「陰陽師」関連情報をまとめたものです

 

陰陽師  
(おんみょうじ、おんようじ) 古代日本の律令制下に於いて中務省の陰陽寮に属した官職の1つで、陰陽五行の思想に基づいた陰陽道によって占筮(せんぜい)及び地相などを行う方技(技官)として配置され、後には本来の律令規定を超えて占術・呪術・祭祀をつかさどるようになった職掌。中世以降は、主に各地において民間で個人的に占術・呪術・祭祀を行う非官人の者を指すようになり、現代においては民間で私的祈祷や占術を行う神職の一種として定義付けられている。連声化せずに「おんようじ」と発音されることもある。声聞師ともいわれた。
陰陽五行思想の伝来と陰陽寮
全ての事象が陰陽と木・火・土・金・水の五要素の組み合わせによって成り立っているとする、中国古代の夏、殷(商)王朝時代にはじまり周王朝時代にほぼ完成した陰陽五行思想、ないしこれと密接な関連を持つ天文学、暦学、易学、時計などは、5世紀から6世紀にかけて飛鳥時代、遅くとも百済から五経博士が来日した512年(継体天皇7年)ないし易博士が来日した554年(欽明天皇15年)の時点までに、中国大陸(後漢(東漢)・隋)から直接、ないし朝鮮半島西域(高句麗・百済)経由で伝来した。
当初はこれら諸学の政治・文化に対する影響は僅少であったものの、602年(推古天皇10年)に日本における陰陽道のパイオニアとも言うべき存在となった觀勒(観勒 かんろく)が百済から来日し、聖徳太子をはじめとして選ばれた34名の官僚に諸学を講じると我国の国政に大きな影響を与えるようになり、初めて日本において暦(元嘉暦)が官暦として採用され、仏法や陰陽五行思想・暦法などを吸収するために607年(推古天皇15年)には隋に向けて遣隋使の派遣が始められたほか、聖徳太子の十七条憲法や冠位十二階の制定においても陰陽五行思想の影響が色濃く現れることとなった。その後も、朝廷は遣隋使(後には遣唐使)に留学生を随行させたり、中国本土ないし寄港地の朝鮮半島西岸から多数の僧侶ないし学者を招聘して、さらなる知識吸収につとめた。諸学の導入が進むと、日本においては『日月星辰の運行・位置を考え相生相克の理による吉凶禍福を判じて未来を占い、人事百般の指針を得る』ことが重要であると考えられるようになり、吉凶を判断し行動規範を得るための方策として陰陽五行思想が重視されることとなった。
7世紀には、壬申の乱の際に自ら栻(ちょく)を取って占うほど天文遁甲の達人で陰陽五行思想に造詣の深かった天武天皇が、676年(天武天皇4年)に「陰陽寮」や日本初の占星台を設け、685年(天武天皇13年)には「陰陽師」という用語が使い始められるなど、陰陽五行思想はさらに盛んとなり、718年(養老2年)の養老律令において、中務省の内局である小寮としての陰陽寮の設置が明文化され、これに方技(技官)として天文博士・陰陽博士・陰陽師・暦博士・漏刻博士が常任されることが規定されると、神祇官の龜卜(きぼく、亀甲占い)と並んで公的に式占を司ることとなった。
大陸伝来の技術を担当する方技だけに、各博士や陰陽師には、諸学に通じ漢文の読解に長けた渡来人、おしなべて中国本土の前漢・後漢(東漢)・代わって大陸覇権を握った隋、朝鮮半島西岸に勢力を有した高句麗(コグリョ、こうくり)・百済(ペクチェ、くだら)、まれに当初朝鮮半島東岸勢力であった新羅(シルラ、しらぎ)から帰来した学僧が任命されている。特に、後の663年(天智2年)に日本が親密国であった百済に援軍を出した白村江の戦の敗戦により新羅が朝鮮半島を統一して百済王朝が滅亡した際の前後には、百済から大量の有識者が亡命者として渡来し、その中から多くの者が任官している。
陰陽寮成立当初の方技は、純粋に占筮(せんぜい)、地相(現在で言う「風水」的なもの)、天体観測、占星、暦の作成、吉日凶日の判断、漏刻(水時計による時刻の管理)のみを職掌としていたため、もっぱら天文観測・暦時の管理・事の吉凶を陰陽五行に基づく理論的な分析によって予言するだけであって、神祇官や僧侶のような宗教的な儀礼や呪術は全く行わなかったが、宮中において営繕を行う際の吉日選定や、土地・方角などの吉凶を占うことで遷都の際などに重要な役割を果たした。れている。連声化せずに「おんようじ」と発音されることもある。声聞師ともいわれた。
平安時代
9世紀平安時代に入ると、藤原種継暗殺事件以降に身辺の被災や弔事が頻発したために悪霊におびえ続けた桓武天皇による長岡京から平安京への遷都に端を発して、にわかに朝廷を中心に怨霊である御霊信仰が広まり、悪霊退散のために呪術によるより強力な恩恵を求める風潮が強くなり、これを背景に、古神道に加え、有神論的な星辰信仰や霊符呪術のような道教色の強い呪術が注目されていった。讖緯思想・道教・仏教特に密教的な要素を併せ持った呪禁道を管掌し医術としての祈祷などを行う機関として設けられていた典薬寮の呪禁博士や呪禁師らが、陰陽家であった中臣(藤原)鎌足の代に廃止され陰陽寮に機構統合されるなどして、陰陽道は道教ないし仏教(特に8世紀末に伝わった密教の呪法や、これにともなって伝来した宿曜道とよばれる占星術)から古神道に至るまで、さまざまな色彩をも併せもつ性格を見せ始める要素を持っていたが、御霊信仰の時勢を迎えるにあたって更なる多様性を帯びることとなった。例えば、9世紀後半以降に陰陽道の施術において多く見られるようになった方違え・物忌などの呪術や泰山府君祭などの祭祀は道教に由来するものであり、散米・祝詞・禹歩(反閇)などは古神道に由来するものである。さらに、北家藤原氏が朝廷における権力を拡大・確立してゆく過程では、公家らによる政争が相当に激化し、相手勢力への失脚を狙った讒言や誹謗中傷に陰陽道が利用される機会も散見されるようになった。
仁明天皇・文徳天皇の時代(833年‐858年間)に藤原良房が台頭するとこの傾向は著しくなり、宇多天皇は自ら易学(周易)に精通していたほか、藤原師輔も自ら「九条殿遺誡」や「九条年中行事」を著して多くの陰陽思想にもとづく禁忌・作法を組み入れた手引書を示したほどであった。この環境により、滋岳川人(しげおかのかわひと)、弓削是雄(ゆげのこれお)らのカリスマ的な陰陽師を輩出したほか、漢文学者三善清行の唱える「讖緯説(しんいせつ)」(周期的予言説)による災異改元が取り入れられて901年(延喜元年)以降恒例化するなど、宮廷陰陽道化がさらに進んだ。あわせて、公卿の藤原師輔や漢文学者の三善清行など、陰陽寮の外にある人物が天文・陰陽・易学・暦学を習得していたということ自体、律令に定めた陰陽諸道の陰陽寮門外不出の国家機密政策はこの頃にはすでに実質的に破綻していたことを示している。
やがて平安時代中期以降に、摂関政治や荘園制が蔓延して律令体制がさらに緩むと、堂々と律令の禁を破って、正式な陰陽寮所属の官人ではない「ヤミ陰陽師」が私的に貴族らと結びつき、彼らの吉凶を占ったり災害を祓うための祭祓を密かに執り行い、場合によっては敵対者の呪殺まで請け負うような風習が横行すると、陰陽寮の「正式な陰陽師」においてもこの風潮に流される者が続出し、そのふるまいは本来律令の定める職掌からはるかにかけ離れ、方位や星巡りの吉凶を恣意的に吹き込むことによって天皇・皇族や、公卿・公家諸家の私生活における行動管理にまで入り込み、朝廷中核の精神世界を支配し始めて、次第に官制に基づく正規業務を越えて政権の闇で暗躍するようになっていった。
10世紀に入ると、天文道・陰陽道・暦道すべてに精通した陰陽師である賀茂忠行(かものただゆき)・賀茂保憲(かものやすのり)親子ならびにその弟子である安倍晴明(あべのせいめい)が輩出し、従来は一般的に出世が従五位下止まりであった陰陽師方技出身者の例を破って従四位下にまで昇進するほど朝廷中枢の信頼を得た。そして賀茂保憲が、その嫡子の賀茂光栄(かものみつよし)に暦道を、弟子の安倍晴明に天文道をあまなく伝授禅譲して、それぞれがこれを家内で世襲秘伝秘術化したため、安倍家の天文道は極めて独特の災異瑞祥を説く性格を帯び、賀茂家の暦道は純粋な暦道というよりはむしろ宿曜道(すくようどう)的色彩の強いものに独特の変化をとげていった。このため、賀茂氏・安倍氏からのみ陰陽師が輩出されることとなり、安倍晴明の孫安倍章親が陰陽頭に就任すると、賀茂家出身者に暦博士を、安倍家出身者に天文博士を常時任命する方針を表し、その後は賀茂氏と安倍氏が、本来世襲される性格ではない陰陽寮の各職位を両家の世襲でほぼ独占し、さらにはその実態を陰陽師としながらも陰陽寮職掌を越えて他のさらに上位の官職に付くようになるに至って、官制としての陰陽寮は完全に形骸化し、陰陽師は朝廷内においてもっぱら宗教的な呪術・祭祀の色合いが濃いカリスマ的な精神的支配者となり、その威勢を振るうようになっていった。特に、10世紀から11世紀における朝廷中枢の為政者に対しては、左大臣藤原時平が菅原道真を大臣職から太宰権帥に左遷した際(昌泰の変)に深く関与したことをはじめとして、政治運営や人事決定から天皇の譲位に至るまで多大な影響を及ぼした。
また、本来律令で禁止されているはずの陰陽寮以外での陰陽師活動を行う者が都以外の地方にも多く見られるようになったのもこの頃であり、地方では蘆屋道満(あしやどうまん)などをはじめとするカリスマ民間陰陽師が多数輩出した。
11世紀-12世紀を通じて、陰陽諸道のうちで最も難解であるとされていた天文道を得意とする安倍家からは達人が多数輩出され、陰陽頭は常に安倍氏が世襲し、陰陽助を賀茂氏が世襲するという形態が定着した。平安末期の源平の戦いのころには安倍晴明の子安倍吉平の玄孫にあたる安倍泰親が正四位上、その子の安倍季弘が正四位下にまで昇階していたが、その後の鎌倉幕府への政権移行にともなう政治的勢力失墜や、南北朝時代の混乱や両統に呼応した家内騒動によって、その勢力は一時衰退した。
武家社会の台頭と官人陰陽師の凋落
12世紀後半の平安時代末期には、院政に際して重用された北面の武士に由来する平家の興隆や、それを倒した源氏などによる武家社会が台頭し、1192年に武家政権である鎌倉幕府が正式に成立した。源平の戦いの頃から、源平両氏とも行動規範を定めるにおいて陰陽師の存在は欠かせないものであったことから、新幕府においても陰陽道は重用される傾向にあった。幕府開祖である源頼朝が、政権奪取への転戦の過程から幕府開設初期の諸施策における行動にあたって陰陽師の占じた吉日を用い、2代将軍源頼家もこの例にならい京から陰陽師を招くなどしたが、私生活まで影響されるようなことはなく、公的行事の形式補完的な目的に限って陰陽師を活用した。
3代将軍源実朝暗殺後は、北条氏による執権政治が展開されるようになり、鎌倉将軍は執権北条氏の傀儡将軍として代々摂関家や皇族から招かれるようになり、招かれた将軍たちは出自柄当然ながら陰陽師を重用した。4代将軍源(藤原)頼経は、武蔵国(現在の東京都および埼玉県)の湿地開発が一段落したのを受けて、公共事業として多摩川水系から灌漑用水を引き飲料水確保や水田開発に利用しようとする政所の方針を上申された際、その開発対象地域が府都鎌倉の真北に位置するために、陰陽師によって大犯土(だいぼんど、おおつち)(大凶の方位)であると判じられたため、将軍の居宅をわざわざ存府の鎌倉から吉方であるとされた現在の横浜市鶴見区所在の秋田城介義景の別屋敷にまで移転(陰陽道で言う方違え)してから工事の開始を命じたほか、その後代々、いちいち京から陰陽師を招聘することなく、身辺に「権門陰陽道」と称されるようになった陰陽師集団を確保するようになり、後の承久の乱の際には朝廷は陰陽寮の陰陽師たちに、将軍は権門陰陽師たちにそれぞれ祈祷を行わせるなど、特に中後期鎌倉将軍にとって陰陽師は欠かせない存在であった。
ただ、皇族・公家出身の将軍近辺のみ陰陽道に熱心なのであって、実権を持っていた執権の北条一族は必ずしも陰陽道にこだわりを持っておらず、配下のいわゆる東国武士から全国の地域地盤に由来する後に「国人」と呼ばれるようになった武士層に至るまで、朝廷代々の格式を意識したり陰陽師に行動規範を諮る習慣はなかったため、総じて陰陽師は武家社会全般を蹂躙するような精神的影響力を持つことはなく、もっぱら傀儡である皇族・公家出身将軍と、実権を失った朝廷や公卿・公家世界においてのみ、その存在感を示すにとどまった。鎌倉時代初期においては、国衙領や荘園に守護人奉行(のちの守護)や地頭の影響力はそれほど及んでいなかったが、鎌倉中期以降、国衙領・荘園の税収入効率ないし領地そのものがこれらに急激に侵食されはじめると、陰陽師の保護基盤である朝廷・公家勢力は経済的にも苦境を迎えるようになっていった。
後醍醐天皇の勅令によって鎌倉幕府が倒され、足利尊氏が後醍醐天皇から離反して室町幕府を開き南北朝時代が到来すると、京に幕府を持ち北朝を支持する足利将軍家は次第に公家風の志向をもつようになり、3代将軍足利義満のころからは陰陽師が再び重用されるようになった(義満は、天皇家の権威を私せんと画策しており、彼の陰陽師重用は宮廷における祭祀権を奪取するためのものでもあったとする説もある[1]。)。
陰陽道世襲2家のうち、南北朝期に賀茂氏が通名とするようになった勘解由小路(かでのこうじ)家(居宅が勘解由小路にあったことから室町時代に賀茂氏が名乗るようになったもので、藤原北家日野流や斯波流の勘解由小路家とは異なる)を名乗った賀茂氏の勢力は徐々に凋落し、賀茂(勘解由小路)在方が「暦林問答集」を著すなど活躍したものの、室町時代中期には勘解由小路得宗家の後継者が殺害されて家系断絶に至った。しかし安倍氏だけは上手く立ち回り、安倍有世(安倍晴明から14代の子孫)は、将軍足利義満の庇護を足がかりに、ついに公卿である従二位にまで達し、当時の宮中では職掌柄恐れ忌み嫌われる立場にあった陰陽師が公卿になったことが画期的な事件として話題を呼んだ。その後も、安倍有世の子安倍有盛から安倍有季・安倍有宣と代々公卿に昇進し、本来は中級貴族であった安倍氏を堂上家(半家)の家格にまで躍進させ、16世紀の安倍有宣の代には勘解由小路家(賀茂氏)の断絶の機会を捉えてその後5代にわたって天文・暦の両道にかかわる職掌を独占し、安倍有世以来代々の当主の屋敷が土御門にあったことから土御門家(あくまで地名から取ったもので、村上源氏の流れをくむ源通親系土御門家とは異なる)を通名とするようになり、朝廷・将軍からの支持を一手に集め、ここまではその陰陽諸道上の勢力を万全なものとしたかのように見えた。
しかし、足利将軍職の政治的実権は長くは続かず、室町時代中盤以降となると、三管四職も細川氏を除いてはおしなべて衰退して、幕府統制と言うよりも有力守護らによる連合政権的な色彩を強めて派閥闘争を生み、応仁の乱などの戦乱が頻発するようになった。さらに守護大名の戦国大名への移行や守護代・国人などによる下克上の風潮が広まると、武家たちは生き残りに必死で、形式補完的に用いていた陰陽道などはことさら重視せず、相次ぐ戦乱や戦国大名らの専横によって陰陽師の庇護者である朝廷のある京も荒れ果て、将軍も逃避することがしばしば見られるようになった。16世紀前半の天文期には、安倍(土御門)有宣は平時には決して訪れることのなかった所領の若狭国名田荘(なたのしょう)納田終(のたおい)に疎開して、その子土御門有春・孫土御門有脩(ありなが)の3代にわたり陰陽頭に任命されながらも京にほとんど出仕することもなく若狭にとどまって泰山府祭などの諸祭祀を行ったため、困惑した朝廷はやむなく賀茂氏傍流の勘解由小路在富を召しだして諸々の勘申を行わせるなど、陰陽寮の運用は極めて不自然なものとなっていった。その後、織田氏を経て豊臣家が勢力を確立するなか、太閤豊臣秀吉が養子の関白豊臣秀次を排斥・切腹させた際、土御門久脩が豊臣秀次の祈祷を請け負ったかどで連座させられて尾張国に流されることとなり、さらに秀吉の陰陽師大量弾圧を見るに至って陰陽寮は陰陽頭以下が実質的に欠職となり陰陽師も政権中央において不稼動状態となると、平安朝以来の宮廷陰陽道はいったん完全にその実態を失うこととなった。
律令制の完全崩壊と豊臣秀吉の弾圧にともない、陰陽寮ないし官人としての陰陽師はその存在感を喪失したものの、逆にそれまで建前上国家機密とされていた陰陽道は一気に広く民間に流出し、全国で数多くの民間陰陽師が活躍した。このため、中世・近世においては陰陽師という呼称は、もはや陰陽寮の官僚ではなく、もっぱら民間で私的依頼を受けて加持祈祷や占断などを行う非官人の民間陰陽師を指すようになり、各地の民衆信仰や民俗儀礼と融合してそれぞれ独自の変遷を遂げた。また、この頃にかけて、南北朝期に安倍晴明に仮託して著された「刃辛内伝(ほきないでん)」が、牛頭天王(ごずてんのう)信仰と結びついた民間陰陽書として広く知られるようになった。
また、陰陽師を自称して霊媒や口寄せの施術を口実に各地を行脚し高額な祈祷料や占断料を請求するエセ神官・僧侶や穢多・非人集団も見られるようになって「陰陽師」という言葉に対して極めてオカルティックでうさんくさいイメージが広く定着することとなった。
このころ以降、一部の定まった住居を持たず漂泊する民間陰陽師は、他の漂泊民と同じく賤視の対象となっていった。彼らは時に「ハカセ」と呼ばれた。  
 
陰陽道の幻想

 

多くの人を惹きつけてやまない陰陽道ですが、その姿は大きく誤解されています。酔生夢死でも何度か触れましたが、ここで、まとめておきたいと思います。
まず最初に、陰陽師は、払魔師つまりエクソシストではありません。呪術師でもありません。その実体は、ただの占星術師でしかありません。現在では、夢枕莫のイメージからか、呪術、魔法のスペシャリストと言うイメージが与えられている陰陽道ですが、全くの間違いと言えましょう。
陰陽道の本筋は、暦法と占星術にあります。もちろん、術法が存在しないわけではありません。本来、密教とは、各宗教の秘術、秘技の事を指すのであり、キリスト教の密教はエクソシストが、仏教の密教は、真言が、道教には呪禁があります。古い書物などでは、陰陽道は日本独自。としているものもありますが、明らかに、道教とその呪術である呪禁をベースに組み立てられています。
非道い言い方をすれば、陰陽道の呪術は、借り物ばかりです。式神の使役は、巫げき、呪禁(ナタクが有名)、密教(護法童子)など、霊的存在を使役するのは、陰陽道よりも優れたものが沢山あります。符術は言うまでもありませんね。道教がその先達です。ただし、神社やお寺でいただけるお守りの類は、実は陰陽道の符から始まっています。
陰陽道の呪術を分類するなら、マテリアルマジック、つまり術具を使用した魔術に分類されます。符や丹といった、道教、中国魔術ですね。しかし、その呪術も、迷信と恐怖心を利用した原始魔術の域を出ておらず、体系化されていった、密教や神道にかき消されていきます。
安倍晴明の事例を見ても、怨霊や霊的存在と直接対峙することはまずありません。彼のする事は、呪詛返しであり、託宣であり、相手のかけた呪いの儀式、もしくは呪術の焦点具(呪いの元になるもの)を見つけだすことです。しかし、これらの能力も晴明自身の能力に依存しており、陰陽道の呪術とは、ほぼ無縁と言っても良いほどです。
また、陰陽道には、祟りをやり過ごしたり、怨霊などを寄せ付けないようにする為の、いわば予防接種的呪術しか存在しません。風邪を引かないように、するための方法は存在していても、ひいてしまったら医者に行け。と言う、家庭の医学の様なものです。医者、つまり、密教や神道に、ですね。
そもそも、陰陽師の仕事は、大きくは、儀式に最適な日程を、天体の運行から算出します。小さくは、その日の縁起の良い方向、悪い方を取り決めます。方違えと言われる参内方式ですね。もっとも、大きな仕事は、暦の作成です。この事からも、分かるように、陰陽道とは日本における占星術師であり、呪い師なのです。
しかしながら、暦を読む。と言うことは、古代では世界を読む。と言うことに等しく、それはまた、世界の法則、自然の理を解明するという事なのです。陰陽五行説は、アジアで生まれた共通の自然法則基礎理論であり、呪術を使用する必要はなかったはずなのです。
日本オカルティズムの源流である陰陽道は、陰陽五行説をもって、他の宗派に多大な影響を与え、またその理論を応用した、技術/産物である呪術を逆輸入し、自らを変革していったのです。冥府や死後の世界を持たない陰陽道は、仏教の冥界観に間借りし、仏教や神道は、その論理体系を吸収していきます。宿曜(仏教系占星術)や亀卜(神祇官の占い)などにも、陰陽五行の思想が流入しています。
オカルティズム、すなわち神秘学は、安っぽいおまじないの事ではありません。実は、世界の理を探り、精神世界の法則を見つけだそうとする学問であり、神秘学に身を置くものは、精神世界の数学者でなければなりません。学問的であったが為に、民衆の支持を得られず、武家社会になると、陰陽道は、朝廷というパトロンを失った学者のごとく、消えていきました。陰陽道は、宗教ではありません。陰陽道にあるのは、世界の法則を読むと言う、学術的な探求でしかありません。
最後にもう一度繰り返します。陰陽師はエクソシストではありません。魔法使いですらありません。そもそも、陰陽道は、宗教ではありません。陰陽道には、死後観も、冥府観もありません。厳密には、泰山府君(密教では閻魔天)が現世と来世を支配し、生命の長短を支配しているわけで、死後観や冥府観が存在しないわけではありません。
神道や道教、エジプトの古代宗教のごとく、現世と幽世の区別が無く、死者の住む世界として存在していたのかも知れません。一条戻り橋の逸話や、泣き不動の逸話を考えれば、納得は出来ます。しかし、安倍晴明が、天皇の原因不明の頭痛が、前世に起因している。と託宣を告げ、見事平癒したと言う逸話もあり、矛盾します。
現世と幽世の差が明確でない死後観の世界では、輪廻は否定されます。現世と幽世の差が稀薄であるからこそ、死後の国でも、生前の姿で生活していると信じられたわけです。住む世界を幽界、冥界に移しただけと言うわけです。そのため、死後も個人であり続けると考えられており、それ故に、キリスト教では輪廻思想を否定しているわけです。
ただ、平安期の優れた験力をもつ者たちの逸話は、全て安倍晴明と言う虚像に集束されていた(もしくは、陰陽寮の人間が意図的に集束させていた)ので、各宗派の寄せ集めになっている感じも受けますので、ドコまで信用して良いのかは、各人の判断次第でしょう。
泣き不動の逸話として進化した、安部晴明が行った泰山府君への祭祀がありますが、重病にかかった高僧の平癒を、弟子たちが晴明に依頼したが「病は重く、自分の命と高僧の命を交換しても良いと言う人間がいれば改めて祈祷してみよう」と言い、師から見放されていた最下僧が、志願。師も回復し、最下僧は死を待ったが、その兆候なく、晴明は泰山府君の計らいで一命は取り留めたと告げた。と言うもの。
コレは、言ってなんですが、吉本新喜劇のネタのごとく『適切な後継者を選ぶために、晴明と高僧が一芝居うった』としか、私には解釈できません。高僧と謳われているからには、死への恐怖などあるわけもなく、命乞いとも言える延命を望むような人物が高僧と呼ばれるでしょうか。入滅に際し、泣き叫び、恐れおののくのでは、僧侶とは言えません。
また、泣き不動の逸話では「汝が師に変わるというなら、我は汝に変わって冥府へ行こう」と不動明王が泰山府君の前に行き、不動明王と気がついた泰山府君が、その無礼を詫び、師と弟子は無事に生き延びる。と言う話になります。
コレはコレで、不動明王の方が上位に設定されており、陰陽道の失権を如実に現していると言えます。
ともあれ、私を含めた殆どの日本人が想像する来世観や、死後観と言ったモノは、浄土系仏教の手によるもので、もともと、どの宗教も死後観は、それほど重視していなかったのかも知れません。
しかし、呪いによって人を殺したり、泰山府君への祭祀で延命を施したりする割には、魂を冥府へ送り届けたり、彷徨っている御霊を鎮めたりと言う記述は、確認できませんでした。あくまで防御措置であり、結界というバリアを張るに過ぎないのです。橋姫の逸話も、正体は見破りますが、結局神社を建てて祀ることで解決します。
御霊を鎮められない。と言うことは、葬送儀礼を持たないと言うことであり、それはつまり、魂の安息を認めない。と言うことです。陰陽道には、怨霊を解脱/退去させるべき世界を持っていません。異世界からの力を現世で具現化する方法は知っていても、魂の安息地は持っていないのです。現世利益を追求する呪い集団と言えましょう。
あれほど、陰陽道に傾注し、陰陽師によって権勢を得た藤原道長さえ、晩年の死の床で願ったのは、極楽往生でした。陰陽道の泰山府君のもとではなく、仏教の浄土へ行くことに頼り、阿弥陀如来像と自分の手を糸で結んでまで極楽往生を願ったのです。それを考えると、やはり呪力を買って重用していたのではなく、その情報収集能力や間諜としての能力を買っていたのかも知れません。
現代でも占い師には、悩みや相談を平気でうち明けるものです。そうした政敵の情報を道長に還元していたのかも知れません。暗殺者と言うより、現代で言うCIAや諜報部局だったのかも知れませんね。
ともあれ、エクソシストや払魔師では無い。と言う証拠事例の一つとして、平安京の遷都を上げましょう。平安京の前。長岡京は造営途中で放棄されました。それは、造営の責任者藤原種継の暗殺を発端とした一連の事件にあります。暗殺の黒幕に仕立て上げられた早良親王が、延暦四年に抗議の断食にて絶命。その後、桓武天皇の近親者に不幸が続発します。
このことを陰陽寮の陰陽師たちは、早良親王の祟りであると進言し、自らが良縁であると算定した平安京への遷都を促すのです。本当に払魔師や悪魔払い師ならば、早良親王の御霊を鎮めるはずではないでしょうか?。吉凶のみを占い、平安への遷都を促した陰陽師たちは、中世ヨーロッパの宮廷に巣くった、無責任な占いで貴族達から金を巻き上げた魔術師達と変わりません。
そして、陰陽寮の役人、つまり陰陽師たちは、長岡京を廃棄し、平安京へ移り、早良親王に崇道天皇を追号させました。こののち、平安京を安泰させることで、自分たちへの権勢は確保され、また、陰陽師が政治へ介入して行くことになるのです。この時代の政治家達は、多かれ少なかれ、政敵を謀殺した事があり、恨まれているはずですから。
平安京が安泰をもたらし、政治が安定することで、陰陽道への迷信、噂は真実となり、原始呪術のごとく伝説が一人歩きを始めていくのです。つまり、貴族、平民を問わず、怨霊の祟りに対する恐怖心をあおり、それを防ぐことが出来るのは陰陽道であると言う迷信を植え付けることに成功したわけです。怨霊とは、すなわち生き残った(加害)側の恐れがあって初めて成立する存在です。陰陽師たちは自分たちで、怨霊を作り出し、払う。安定した仕事の供給元を得たわけです。
逆説的な事を言えば、利休の一言が、ただの湯飲み茶碗を名器にしてしまうように、安倍晴明の一言であらゆるものが呪いの焦点具になったと言えます。安倍晴明は伝説が一人歩きをはじめてしまい、元の姿が無くなっていると言えるでしょう。名も無き術者の伝聞が、安倍晴明と言う実像に吸収、と言うよりは陰陽師たちの巧みな宣伝によって、かすめ取られていったと言えるでしょう。
その証拠に、死が当たり前になってしまった武家社会では、陰陽道は活躍できませんでした。斬り殺すことが商売の武士達は、いちいち殺した相手のことを気にしていられなかったのでしょう。首級(相手の首)を床の間に並べて、武勲の誇りとしていたぐらいですから。
権力者と結び、地相を見たりしていましたが、平安時代のような権勢は得られず、本来の暦法、天文に納まっていました。権力者を操るのではなく、権力者に良いように利用されるようになっていったのです。突き詰めるならば、陰陽道の占星術は、仏教や神道に吸収されており、独自性を保てなかったと言えます。
結局、戦乱の世では、救いの手である本質的な宗教、仏教や、神道が尊ばれたのです。斬られて死んだらどこへ行くのか。斬り合いを常とする武士はそう考えたのかも知れませんし、平民達も飢饉や戦乱で荒れた現世に利益を求める気にはなれなかったのでしょう。平安貴族達も、死を感じ始めると、陰陽寮から仏教へ乗り換えていったようですが。老い先が見えた者には、占いでは救えないようです。
最後に、最近、テレビに出てくる陰陽師は、皆、偽物と言って良いでしょう。一応の正統は天社土御門神道に継承され、あとは民間呪術へ埋没していきました。私はいざなぎ流は修験に属すると思いますので。ですから、現状での陰陽師は新興宗教と同じく自称でしかありません。土御門の系譜なら、神職ですのでね。ほとんどの陰陽師は、修験(と言うか雑密)の技を使います。修験者と言うよりは、陰陽師の方が世間受けが良いからでしょう。テレビ局の作為というのも感じられます。「最強陰陽師」と言うタイトルなのに、明らかに真言密教系の尼僧が主役だったり、していますから。
特に、狩衣を着て現れる人は詐欺師と言えますね。「お前は何物ぞ」って霊に怒鳴ってましたな。こうした恫喝によって、相手に自白させる手法は、修験で良く行われる方法です。また、文語を使う必然性は、まったくありません。陰陽師ならば、ビシッと相手の正体を占いや、なんかで暴露して欲しいですね。
まぁ、被験者に信用して貰うための第一歩なんでしょうけどね。民間術者は、昔から心理カウンセラーでしたから。心霊現象、特に憑依に関するものは、多重人格の発露です。心理学用語で言う、シャドウが発現した状態といえます。その民族、宗教、文化に依存した形で発現するのは、患者の意識と知識によるものです。西洋では悪魔が多く、日本で怨霊や、キツネなどになります。
まぁ、信頼関係さえ、成立できれば、ただの飲料水でも癌は治るのですから(いわゆるプラシーボ効果)、多重人格の発露も治るでしょう。各種流派のある心理療法も、同じ症状なのにある人は快癒したのに、もう一人はダメ。と言うことはざらにあり、つまるところ無条件で、無意識層まで信頼しているかどうかによるところが多いようです。イワシの頭も信心から。よく言ったものです。
ま、逆に日本の心理療法師とか、精神分析医たちには、憑き物落としの技法でも見て勉強して欲しいです。説得や、説法をすることで、その人格を認め、整合していくわけですから。りっぱな心理カウンセラーと言えましょう(笑)。初見の医者を信頼するよりも、同門の聖職者を信用する方が、壁は低いでしょうしね。
ただし、注意していただきたいのは、ここで述べたモノは、狭義の意味での陰陽道に関してです。広義で捕らえるとなると、その思想や技術は、各宗教、呪術に深く影響を相互に与え合っているため、捕らえることが出来なくなります。故に、理としてでなく、技術として、術を使うモノは、全て修験と呼んで良い。私は、そう考えます。
なお、天社神道は、その名の通り神道ですので別物と、考えております。陰陽道そのものを見る。と言う観点ですので。 
暗殺者としての陰陽師
一つの仮説として、お読みいただけると大変助かります。
日本版道教とも言える、陰陽道ですが、日本で流布している間なのか、意図的なのかは分かりませんが、道教の根幹とも言える神仙思想、それに伴う不老不死の探求と言ったモノがそぎ落とされています。なかでも、西洋で言う錬金術にあたる、仙丹についてまったく切り離されているのは、不思議でしかたありません。
密教僧空海が入山、開山した山々のほとんどから水銀が取れることは有名です。密教の本流を中国から、日本へ移した空海ですから、密教においても丹の製造は、重要だったといえます。陰陽道は、鉱脈を密教に押さえられたため、仙丹作りから手を引いたのでしょうか?。日本へ私渡してきた道士の目的は、蓬莱山の探索にあったと思われます。そんな道士が、仙丹作りを知らないわけがありません。
秘中の秘として、隠蔽されたか、本来の仙丹とは別の使用がされたのではないか。水銀を服用するコトは、人を死に至らしめることが出来る。そちらに目を付けたのではないか。と言うことです。マテリアルマジックである道教を色濃く継いだ陰陽道が、丹だけ使用しないのは不自然です。
日本において、修験道と陰陽道とは不可分です。道教における修行法、つまり神通力や超常能力の修得法に特化したのが、修験道であり(そもそも、修験道とは、験を修する。つまり、験力、超能力を手に入れる為の手段です)、道教の呪いや占星術をそのまま引き継いだのが、陰陽道といえましょう。つまり、伝播の初期段階に、山岳に入り、修行を続けた道士と、街に入り占いで生計を立て始めたか、その違いだとも言えます。まぁ、山岳には、雑密を初め、他宗教の修行者達もいて、ごちゃ混ぜになっていくのですが。
つまり、山岳修行を禁止していた密教に較べ(寺を出て、山にはいることは、出世コースから外れることを意味する)、陰陽道の方が、山人たちと密接なつながりがあったといえます。
また、修験者と忍者は同根であると言う説もあります。険しい山道を常とする彼らは、里人からすれば、驚異的な身体能力を持っていたとしても不思議ではありません。山には危険も多く、獣をはじめ、野盗や追い剥ぎなども居たでしょうから、護身の為に体術なども身につけていたでしょう。薬草類にも詳しかったはずです。つまり、薬となる草も、毒となる草も知っていたはずです。
式神とは、これら体術系の山人であったのではないかと言うことです。独特の山中他界観を持つ日本人にとって、自分の住む場所から一山越えた先は、異世界、つまり魑魅魍魎が跋扈する魔界だったのです。そのため、見慣れぬ風体をしていれば、それだけで、異界の住人扱いをされていたとしても、不思議ではありません。
現に、上代吉野川上流にすんでいた穴居の土着民を国栖(くず)と呼んでいたり、土蜘蛛と呼ばれた妖怪も、実は穴居にすむ土着民(山岳民族)では無かったという説が浸透し始めています。
晴明が使役した十二神将の式神を、晴明の妻が怖がるので橋の下に住まわせた。と言う裏付けにならないでしょうか。また、絵画に記された式神は、なぜか大陸様式の衣装を着ていることが多い。と言うのも理由になりましょう。
陰陽道の呪術が、厄よけや結界張りがメインで、晴明にしても、呪詛返しや、呪詛を逸らすことしかしていないコトは「陰陽道の幻想」で述べました。そして呪術のほとんどは、相手方の無知や、恐怖心を利用した暗示であるコトも述べました。
しかし、暗示にかけるためには、相手が無条件で信用する実例や伝説が必要となります。日本で唯一の天文機関であった陰陽道にしてみれば、月食、日食を言い当てるのはたやすく、その始まりと、終焉を預言して行くだけでも、多大な効果を持ったでしょう。そして、それを築き上げるのに、一役買ったのが、仙丹では無いか。と言うことです。
藤原道長が、愛犬に救われた話も、出てきたのは二つの土器を合わせたもの。中に揮発性の毒が入ってたトラップだったのでは無いでしょうか。犬はその嗅覚で、危険を察知したのではないでしょうか。仙丹は、主に水銀を原料に作られます。水銀は猛毒です。それらの鉱物系の毒の知識に加え、草木系の毒の知識もあったでしょう。それを組み合わせれば、多少の誤差は生じても、納得できる範囲で、相手の死を予見できたのではないでしょうか。
つまり、加持祈祷は、迷信、暗示を増長するためのパフォーマンスにすぎず、その実、暗殺実働部隊である式神、ひいては山人、つまり忍者によって毒を盛られていたのでは無いでしょうか。別に天井裏に潜み、直接毒を盛る必要はありません。忍びの草のごとく、下働きを抱き込んだり、色仕掛けでいくらでも、服用させられたはずです。
水銀の服毒による症状は、水俣病患者と同じです。幽鬼のごとくやせ衰えて行く様は、悪霊に取り憑かれ、生気を失っていると思われても無理無いでしょう。
陰陽道には、危険だからかも知れませんが、呪いに関して、具体的な術のかけ方は知られていません。片鱗すら覗かせません。むろん、修験や、民間呪術に埋没してしまったから。と言うこともあるでしょう。しかし、元来陰陽道の呪文や儀式はいい加減なものであり、暗殺部隊の実働によって支えられていた。と言う理由にならないでしょうか?。伝えようにも、伝えることが出来なかったのかも知れません。
陰陽師自らが呪殺、暗殺を一つの売りにしていたのか、天変地異を予見し、吉凶を占い、世界の理を探求する陰陽道ならば、生殺与奪は得意に違いない。と思いこんだ貴族達の依頼を断りきれなかったからかは、不明です。ですが、売りの一つにするならば、マニュアルとも言える書の一つも出来ているはずでしょうから、苦し紛れに始めた。とする方が有力ではないでしょうか。  
 
複雑せる識神の正体 (「日本巫女史」抜粋)

 

識神(式神とも書く)に就いては、私の学問では余りに荷が勝ち過ぎているので、一知半解のことを言うよりは、寧ろこれに触れぬようにするのが聡明なことかも知れぬが、従来、此の問題に関しては、深く論じた学者のあることを耳にせぬので、茲に管見を記し、以て叱正を仰ぐとする。
「大鏡」を読むと、花山帝が脱屐の折に、陰陽道の泰斗安倍晴明が、識神によって、此の事を予知したと載せてある。而して此の識神なるものは、平安朝の文献以外には、余り記録にも現われぬので、従って代々の学者の注意も惹かず、全く閑却されている始末なのである。併しながら、安倍晴明が好んで使役したとあるからは、此の神が私の謂う道教から出ていることだけは知られるのであるが、さて其の正体はというと誠に捕捉することが困難なのである。山岡浚明翁は「類聚名物考」において、
式神、これは人の魂魄を術を以て使ふ事なり、陰陽家に伝へし術なり、中古の物に多く見えたり。西土の書にも此の術あり。髑髏神と云ふも是なり。俗に外法とも云へり。「清少納言記」しきの神もおのづから、いとかしこしとて云々。「後漢書六術長房伝」翁曰、幾得道云々。又為作一符曰、以此主地上鬼神云々。鞭笞百鬼、及駆使社公、今案に識神或は式神と書く借字なり、知識は人の情心のとどまる所なり、その魂神を駆使するを識神と云ふなり。「輟耕録」巻十三中書鬼案の条に、人の魂魄神を使ふるを云う所に、我亦会遣使鬼魂、我有収下的生魂売与儞云々とあり。鬼魂は即ち是れ識神の事なり。
と記し、識神は髑髏神、又は外法と同じもので、陰陽家に伝えられたものだと考証している。而して是れだけ見ると、識神は道教にのみ属するもののように思われるが、更にこれを仏教方面から見ると、益々その正体が紛らしくなって来るのである。
往年、柳田国男先生の質問に対して、南方熊楠氏が解答された往復文書を浄書して「南方来書」と題し、今に柳田先生が秘蔵されているが、それを私が拝借して抜書したところによると、南方氏は識神に就いて、左の如く考えられている。
東晋三蔵法師仏陀跋陀羅訳、摩訶僧紙律三十一巻に、憍陳如比丘(釈迦の父の家来の子にて、釈迦の後を逐て出家せし五比丘の一也)歿して、四魔天来、欲観其識神不見、已変白鳥而去。文簡にして十分に分らぬが、四人の魔天来り、識神を見んとせしとき、已に白鳥に化して去ったあと故に見えなんだと云うこと(人の魂神鳥に化する信仰、印度外にもあり、日本武尊の御事なども似たり)と存候。只今ここに引ける所の識神は、人の魂と云うことと存候。晴明等の識神は其前後の支那の道家が、此仏家の識神より変じて、作り出せるものながら、死霊を使うと云うようなことで、余り仏家のここに云える所と変らぬことと存候。
識神の字、空華集(大日本仏教全書本)にもあり、タマシヒと振仮名せり(以上。明治四十五年四月十二日の条)。
識神と云う字、仏教で最も古く正しき出所は、増一阿含所会経と思う(黄蘖板一切経第八十六巻)芹奈三蔵曇摩難提訳十二巻三宝品第二十一にあり云々。此文は父母交会及び父母別居の状態、種々なるにより、子たるべき者の霊が来りて、或は胎に入り、或は胎に入り得ぬことを述べたるなり。識、外識、識神、神識と四様に訳しあれど、皆一と見ゆ。英語の Soul (タマシイ)と云うほどの事なり。故に無論晴明などの使いしと云うものと全く一致せず、タマシイを使うと云う意味から、陰陽家にも用い出せしことと覚ゆ云々(以上。明治四十五年五月廿三日の条)。
南方氏によれば、識神は仏説に出たものを、支那の道家が作り変えて我国に伝えたものであるという結論になり、且つ髑髏神とは少しく相違しているように考えられるのである。元々、私の学力では奈何ともすることの出来ぬ難問ゆえ、今は識神に関して先覚中にかかる考証があると云うことだけをお取次して置くより外に致し方がないが、その何れにしても、魂魄を神として、——即ち死霊を駆使したとある点が一致しているのであるから、晴明が使ったという識神も、此の意味に解し大過なきものと思う。而して此の識神が巫女に伝えられてから、口寄せと称する呪術が、一段の発展を来たしたのである。猶おそれに就いては後に述べたいと思うている。   
 
陰陽師(おんみょうじ)と神主

 

陰陽師と神主とは基本的に別のもの。古代の律令制下において、陰陽師とは陰陽寮におかれた官職で、中国伝来の陰陽五行説に基づく特殊な占法(陰陽道)により国家や個人の禍福吉凶を占い、それに対処する方術を施す祈祷者のことを言った。「令義解(りょうのぎげ)」に、陰陽寮の職員として陰陽頭(おんみょうのかみ)・同助(すけ)以下の事務官の他に、学生(がくしょう)に陰陽・暦術・天文等を教授する陰陽・暦・漏刻(ろうこく)の各博士、また技術者としての陰陽師6人がおかれたとある。この役所の目的は、天体や天候の異常を報告すること、暦を作ること、漏刻(水時計)により時刻を知らせること、亀甲や筮竹(ぜいちく)等により占いを行うことで、中でも陰陽師が卜筮と相地(地相に現れた吉凶を見ること)を掌るとある。これに対して、神祇祭祀を掌るのは専ら神祇官(神主)であり各地の神社(官社)の祭祀を総轄していた。このように陰陽寮と神祇官は別の官職で、宮中の年中行事の中でも、大晦日の同日に陰陽寮が大儺(たいな・後世の節分行事)という疫鬼を払う行事を行う一方で、神祇官では百官の罪穢を祓う大祓式(おおはらい)が行われた。時代とともに神道と陰陽道の行事・内容に習合が見られ、中世には陰陽道があたかも神道の一流派として考えられるようになった。その後、平安中期の陰陽道の大家である安倍晴明(あべのせいめい)を祖とする土御門家(つちみかどけ)が、江戸時代に各派の神道説を取り入れて、土御門神道として一派をなし、各地の陰陽師を支配した。明治時代、同3年に出された太政官布告により土御門神道が禁止されると陰陽道は衰退したが、行事・内容の一部が神道の中に残され、現在に至っている。恵方や鬼門祓いなど陰陽道的な内容を神道の祈祷の中に見ることができるのは、こうした理由によるものである。    
 
安倍晴明、忠行に随ひて道を習ふ語 (今昔物語集巻二四第十六)

 

今は昔、天文博士安倍晴明と云ふ陰陽師有りけり。古にも恥ぢず、やんごと無かりける者なり。幼の時、賀茂忠行と云ひける陰陽師に随ひて、晝夜に此の道を習ひけるに、聊かも心もと無き事無かりける。
而るに、晴明若かりける時、師の忠行が下渡りに夜歩きに行きける共に、歩にして車の後に行きける。忠行、車の内にして吉く寢入りにけるに、晴明見けるに、えもいはず怖しき鬼共、車の前に向ひて來たりけり。晴明此れを見て、驚きて車の後に走り寄りて、忠行を起して告げければ、其の時にぞ忠行驚きて覺めて、鬼の來たるを見て、術法を以て忽ちに我が身をも恐れ無く、共の者共をも隠し、平かに過ぎにける。其の後、忠行、晴明を去り難く思ひて、此の道を教ふる事、瓶の水を写すが如し。然れば終に晴明、此の道に付きて公私に仕はれて、糸やんごと無かりけり。
而る間、忠行失せて後、此の晴明が家は、土御門よりは北、西洞院よりは東なり、其の家に晴明が居たりける時、老いたる僧來たりぬ。共に十餘歳計なる童二人を具したり。晴明此れを見て、「何ぞの僧の何こより來たれるぞ」と問へば、僧、「己れは播磨の國の人に侍り。其れに、陰陽の方をなむ習はむ志侍る。而るに、只今此の道に取りてやんごと無くおはす由を承はりて、小々の事習ひ奉らむと思ひ給へて參り候ひつるなり」と云へば、晴明が思はく、「此の法師は、此の道に賢き奴にこそ有りぬれ。其れが我れを試みむと來たるなり。此の奴に悪く試みられては口惜しかりなむかし。試みに此の法師少し引き陵ぜむ」と思ひて、「此の法師の共なる二人の童は、識神の仕へて來たるなり。若し識神ならば、忽ちに召し隠せ」と心の内に念じて、袖の内に二つの手を引き入れて印を結び、蜜かに咒を讀む。其の後、晴明、法師に答へて云はく、「然か承はりぬ。但し、今日は自ら暇無き事有り。速かに返り給ひて、後に吉日を以ておはせ。習むと有らむ事共は、教へ奉らむ」と。法師、「あなかしこ」と云ひて、手を押し摺りて額に宛て、立ち走りていぬ。
今は一二町は行きぬらむと思ふ程に、此の法師亦來たり。晴明見れば、然るべき所に車宿などをこそ覗き歩くめれ。覗き歩きて後に、前に寄り來て云はく、「此の共に侍りつる童部、二人乍ら忽ちに失せて候ふ。其れ給はり候はむ」と。晴明が云はく、「御房は希有の事云ふ者かな。晴明は何の故にか、人の御共ならむ童部をば取らむずるぞ」と。法師の云はく、「我が君、大きなる理に候ふ。尚免し給はらむ」と侘びければ、其の時に晴明が云はく、「吉し吉し、御房の、人試みむとて識神を仕ひて來たるが、安からず思ひつるなり。然樣には、異人をこそ試みめ、晴明をば此く爲でこそ有らめ」と云ひて、袖に手を引き入れて、物を讀む樣にして暫く有りければ、外の方より此の童部二人乍ら走り入りて、法師の前に出で來たりけり。其の時に法師の云はく、「誠にやんごと無くおはす由を承はりて、試み奉らむと思ひ給へて、參り候ひつるなり。其れに識神は、古より、仕ふ事は安く候ふなり、人の仕ひたるを隠す事は更に有るべくも候はず。あなかしこ、今より偏へに御弟子にて候はむ」と云ひて、忽ちに名符を書きてなむ取らせたりける。
亦、此の晴明、廣澤の寛朝僧正と申しける人の御房に參りて、物申し承はりける間、若き君達・僧共有りて、晴明に物語などして云はく、「其この識神を仕ひ給ふなるは、忽ちに人をば殺し給ふらむや」と。晴明、「道の大事を此く現はにも問ひ給ふかな」と云ひて、「安くはえ殺さじ、少し力だに入れて候へば、必ず殺してむ。蟲などをば、塵ばかりの事せむに必ず殺しつべきに、生く樣を知らねば罪を得ぬべければ、由無きなり」など云ふ程に、庭より蝦蟆の、五つ六つばかり、踊りつつ池の邊樣に行きけるを、君達、「さは、彼れ一つ殺し給へ。試みむ」と云ひければ、晴明、「罪造り給ふ君かな。然るにても、試み給はむと有れば」とて、草の葉を摘み切りて、物を讀む樣にして、蝦蟆の方へ投げ遣りたりければ、其の草の葉、蝦蟆の上に懸かると見ける程に、蝦蟆は眞平に□て死にたりける。僧共此れを見て、色を失ひてなむ恐ぢ怖れける。
此の晴明は、家の内に人無き時は識神を仕ひけるにや有りけむ、人も無きに蔀上げ下す事なむ有りける。亦、門も、差す人も無かりけるに、差されなんどなむ有りける。此く樣に希有の事共多かりとなむ、語り傳ふる。
其の孫、今に公私に仕へてやんごと無くて有り。其の土御門の家も、傳はりの所にて有り。其の孫、近く成るまで識神の声などは聞えけり。然れば晴明、尚只者には非ざりけりとなむ、語り傳へたるとや。  
現代語 1
今は昔、天文博士安倍晴明という陰陽師があった。古の人にも恥じず、立派な人であった。若い頃、賀茂忠行という陰陽師のもとで修行し、昼夜をわかたず努力したので、なんでも出来ないことはなかった。
その晴明が若かった頃のこと、師の忠行が夜間下渡りに行ったお供に、車の後について歩いていった。忠行は車の中で寝入ってしまい、晴明が見張りをしていると、恐ろしげな鬼どもが前方からこっちへ向かってくるのが見えた。晴明は驚いて、忠行を起こしてその旨を知らせると、忠行は直ちに術法を以てその場をしのいだのだった。これ以降忠行は、晴明を頼もしく思い、この道のことを詳しく教えたので、瓶の水を移すように、すっかり吸収したのであった。
忠行が死んだ後、晴明は一人立ちをした。家は土御門よりは北、西洞院よりは東にあった。そこに、あるとき、老いた僧が、十餘歳ばかりの童を二人伴なって、訪ねてきた。
「どこからいらしたお坊さんですか」と晴明が訪ねると、僧は次のように言った。
「拙僧は播磨の國のものですが、日頃陰陽の法を覚えたく思っていたところ、あなたさまのお噂を耳にして、是非教えていただきたいと思い、参上した次第です。」
「この法師は、実際にはこの道に詳しいのであろう、ただこの俺を試そうと思ってやってきたのだろう、こんな奴に試されるのは癪に障る、逆にこちらから試してやろう」晴明はこう思いながら、「この童どもは、識神が使えているものに違いない、もしそうなら、呪文で姿を隠してやろう」と心のうちに念じて、袖のうちに両手を突っ込んで印を結び、密かに呪文を唱えた。
そうしたうえで、「お話の趣旨はわかりました、ただ今日は忙しくて時間が取れませんので、後日改めて来て下さい。その折に、教えるべきほどのことは、お教えしましょう」といった。法師は「ありがたいことです」といいおいて、その場は立ち去ったのだった。
もう行ってしまったと思っていると、この法師が戻ってきた。その姿を遠目に見ると、あちこちを覗き込んで、何かを探している様子である。そして晴明の前まで来ると、「供の童が二人ともいなくなってしまいました、どうか返していただきたい」というのだった。
「御房はおかしなことをおっしゃる、何でこのわたしがあなたのお供を隠さねばならんのですか」こう晴明がいうと、「たしかにそうではありますが、是非返していただきたい」と法師は重ねて詫言を言う。そこで晴明は、
「よしよし、あなたが識神など連れてきたので、腹がたったまでのことです、だがこのような技は他のものには通じても、この晴明には通じませんぞ」といいながら、袖に手を入れて、なにか呪文を唱えると、あの童たちが現れて、法師の前に出てきたのだった。
「眞にたいした方だとお伺いして、試してみるつもりで参上したのです。識神は昔から使いやすいものですが、その識神を隠すなどという芸当は、思いもよりませんでした。素晴らしいことです、これよりは是非弟子として、教えていただきたい」法師がこういうと、清明は早速名符を書いて取らせてやったのだった。
この清明が廣澤の寛朝僧正という人の下に参上したとき、傍らにいた君達・僧共が、「識神を自由にお使いになるのだったら、人を殺すことも簡単に出来るでしょうね」といった。清明は「大変なことを簡単にいうものですね」といいながら、「簡単に出来ることではありませんが、力を込めて行えば、必ず殺せます。だが虫を殺すように人を殺すことは、とんでもないことです」と答えた。
そのとき庭にガマカエルが五六匹、踊りながら池辺を歩いているのが見えた。それを「さあさあ、一匹殺してみてください」と、君達がせがむので、清明は「罪作りな方ですね、でもひとつやってみましょう」といいながら、草の葉をむしって、それに呪文をかけ、カエルに投げつけると、カエルは死んでしまった。僧共はそれを見て、色を失って怖じ恐れたのだった。
この清明は、家の中に誰もいないときなどには、識神をよく使ったということだ。人の姿が見えないのに、蔀戸が下ろされたり、門が自然と開け閉めされたという不思議な話が、語り伝えられたことから、そのことがわかる。
清明の子孫も、公私にわたって評判が高かった。その土御門の家も今に伝わっている。また孫の周辺では、最近まで識神の声が聞こえたということだ。こんなところからも、晴明のただならぬ様子がよくわかる。
陰陽道は平安時代にさかえた総合学芸ともいうべきもので、宇宙の万物を陰陽二道の組み合わせで説明する。
七世紀に中国から伝わり、平安時代には、人々の考え方や生活様式に多大な影響を与えた。今日でも、暦の運行や占いなどに取り入れられている。
陰陽道は、世界の動きを説明する原理として、科学的な性格も持っているが、同時に不可思議な力を持つともされた。この物語に出てくるまじないの威力やら、識神を使うということなどは、そうした側面を物語っている。
安倍晴明は平安時代の陰陽師であるが、日本の陰陽道の歴史の中でも最大のスターである。スターとして当然さまざまな逸話に彩られているが、この物語などは、晴明の不思議な能力を示す逸話として、広く信じられていたに違いない。  
現代語 2
今は昔、天文博士の安倍晴明(あべのせいめい,921-1005)という陰陽師がいた。昔の英傑・俊才にも恥じることがない、優れた人物である。幼少期から賀茂忠行(かものただゆき)という陰陽師の大家に従って、昼も夜もなく陰陽道を学び続け、その実力には何の不安や問題も無かった。
さて、この晴明がまだ若かった時期に、師匠・忠行が下京の辺りに夜間に外出すると聞いて、そのお供をしていた。晴明は徒歩で師が乗る牛車の後ろに従っていたが、忠行は牛車の中で熟睡していた。
晴明が牛車の前方に視線を向けると、何とも恐ろしい様子の鬼たちが、こちらに向かってやってくる。驚いた晴明はすぐに牛車に走り寄って、忠行を起こして鬼が迫る事態を報告した。
目を覚ました忠行は、鬼のやって来るのを見ると、隠形(おんぎょう)の術を用いて、すぐに我が身も従者の姿も、鬼たちの目から隠してしまった。そのお陰で、無事にその現場をやり過ごすことができたのである。
その後、忠行は晴明の側を離れがたいと思うようになり、まるで瓶(かめ)の中の水を別の容器に移し替えるかのように、陰陽道の奥義をすべて伝授した。その教育・指導によって、晴明は、陰陽道の分野で、公私にわたって重用されるようになったのである。
そして、忠行が亡くなった後のことである。晴明の家は土御門大路からは北、西の洞院大路からは東にあったが、ある日、一人の年老いた僧の装束をした陰陽師が訪ねてきた。お供に、十歳ほどの子どもを二人連れている。晴明が「御坊はどちらさまですか?どちらからやって来ましたか?」と問うと、老僧は「私は播磨の国(現在の兵庫県)の者です。私は陰陽道は志していますが、晴明先生がこの道で特に優れた能力を持っていると聞いて、少々ご指導をして頂きたいと思って参りました」と答えた。
その時、晴明は内心で「この法師は陰陽道でかなりの実力を持っているようだ。きっと私の力を試してみようと思ってやって来たのに違いない。ここで試されて失敗してしまったら恥をかいてしまう。その前にこっちからこの老僧の実力を試してやるか」とつぶやいた。
そこで、「この法師のお供をしている二人の子どもの正体は識神(陰陽師が操作可能な人間ではない霊的存在・紙型などに命を吹き込んで識神にしたりもする)だろう。もし識神ならすぐに隠してしまえ」と念じて、袖の中に両手を入れ、指を組み合わせて法印を結び、ひそかに呪文を唱えた。
そのまま何も知らない風を装って、晴明は法師に「私に教えを受けたいという御用は承知しました。ただ今日は用事があって時間が無いので、このままお引き取り願います。後日、改めて日を選んでここに来てください。習いたいことがあれば、全部教えて差し上げます」と答えた。法師は「おぉ、ありがたいことだ、ありがたいことだ」と手をすり合わせて額に当てて拝んだ。感謝した様子で、立ち上がって走り去っていった。
もう100〜200メートルほど行ったと思われる頃に、この法師がもう一度戻ってきた。晴明が見ていると、人の隠れていそうな所、車庫なんかを覗き込みながら、晴明のいる場所まで戻ってきて言った。「私の供をしていた子どもが、二人とも急に姿を消してしまいました。二人を返して貰えませんか?」と。
「不思議なことをいう御坊ですね。この晴明がどうしてお供の子どもを取り上げなければならないのだ?」と、知らないふりをした。法師が「先生、おっしゃることはごもっともです。どうか許してください」と謝った。すると、晴明は「よしよし分かった。御坊がこの私を試そうとして、識神(しきがみ)を連れてきたのが気に入らなかっただけだ。他の者には通用するかもしれないが、この晴明には通じない」とたしなめて、袖の中に手を入れて何か呪文を唱えるようにしていたが、暫くすると、外から子どもが二人走ってきて、法師の前に立っていた。
それを見た法師は、「実は、先生が非常に優れた陰陽師の権威だとお伺いして、一つ試してみようと思っていたのですが、私の負けですね。しかし、識神を使うのは昔から簡単なことですが、人の使っている識神を隠すことはできません。識神を簡単に隠せるとはやはり素晴らしい。ただ今から、先生の弟子にして頂きたい」とお願いした。すると、法師はその場で弟子が師に贈る名符(みょうぶ)を書いて、晴明に差し出したのである。
ある時、晴明が広沢の寛朝僧正の住居にお邪魔して、いろいろな相談をしていると、側にいた若い貴族や僧侶が晴明に話しかけてきた。「あなたは識神をお使いになるそうですが、その術で即座に人を殺すことができますか?」と質問した。晴明は、「陰陽道の奥義をずいぶんとあけっぴろげに聞くもんですね」と言って、「そう簡単に人は殺せませんが、少し念力を用いれば、必ず殺すことはできるでしょう。虫などであれば、ほんの一瞬の念力によって殺せますが、生き返らせる術は知らないため、殺生の罪を犯すことになります。念力での殺生は無益なことですよ」と答えた。
その時、庭先に5、6匹のカエルがいて、池のほうへと飛び跳ねていった。それを見た貴族の若者が、「では、カエルを一匹殺してみてください。あなたの力を試してみたい」と頼んだ。晴明は、「罪を犯したがる貴族さまですね。どうしても、お試しになりたいのであれば」と言って、草の葉を摘み取り、呪文を唱えてカエルのほうへと投げ遣った。すると、投げた草の葉がカエルの上に乗って、カエルはぺちゃんこに潰れて死んでしまった。これを見た僧侶たちは、顔色を真っ青にして怖がった。
晴明は、家人・従者がいない時には、識神を使用人として使ったのだろうか。人の気配もないのに、雨戸の開閉が勝手(自動的)に行われていた。また、門を閉める人もいないのに、ひとりでに閉まっていることがあった。晴明の周囲では、このような不思議な現象がいろいろと起こったと伝えられている。
晴明の子孫は今も朝廷に仕えて高位高官として重用されている。土御門の屋敷も代々受け継がれて伝えられている。子孫にも、つい最近まで識神を使う晴明の声が聞こえていたという。
そのため、安倍晴明はやはりただものではないと、語り伝えられているのだ。  
 
日本の暦

 

暦は中国から朝鮮半島を通じて日本に伝わった。大和朝廷は百済から暦を作成する暦法や天文地理を学ぶため僧を招き、飛鳥時代の推古12年(604)に日本最初の暦が作られたと伝えられる。暦は朝廷が制定し、大化の改新(645)で定められた律令制では、中務省(なかつかさしょう)に属する陰陽寮(おんみょうりょう)がその任務にあたった。陰陽寮は暦の作成、天文、占いなどをつかさどる役所で、暦と占いは分かちがたい関係にあった。
平安時代、暦は賀茂氏が、天文は陰陽師として名高い安倍清明(あべのせいめい/921-1005)を祖先とする安倍氏が専門家として受け継いでいくことになった。
日本書紀に、欽明天皇14年(553)百済から専門の学者とともに暦書を輸入したと記述される。持統天皇4年(690)国家としての暦法を定めたとある。以来、中国の暦が順次用いられ、清和天皇の貞観4年(862)唐の宣明(せんみょう)暦が採用され、その後、中国との国交が途絶えても823年間にわたって使われた。これは太陰太陽暦で、太陽暦の1年を二十四節気に分けたり、干支、五行、二十八宿などの星占いや迷信も同時に移入された。
当時の暦は「太陰太陽暦」または「太陰暦」「陰暦」と呼ばれる暦だった。1ヶ月を天体の月(太陰)が満ち欠けする周期に合わせる。天体の月が地球をまわる周期は約29.5日なので、30日と29日の長さの月を作って調節し、30日の月を「大の月」、29日の月を「小の月」と呼んでいた。一方で、地球が太陽のまわりをまわる周期は約365.25日で、季節はそれによって移り変わる。大小の月の繰り返しでは、しだいに暦と季節が合わなくなる。そのため、2〜3年に1度は閏月を設け13ヶ月ある年を作り、季節と暦を調節した。大小の月の並び方も毎年替わった。暦の制定は、月の配列が変わることのない現在の太陽暦(たいようれき)とは違って非常に重要な意味をもち、朝廷やのちの江戸時代には幕府が監督した。太陰太陽暦は、明治時代に太陽暦に改められるまで続いた。  
 
陰陽道と狐

 

狐と陰陽五行の関係を見たので、次に「信太妻(しのだのつま)」説話を素材似して、陰陽道の周辺で狐が憑依(ひょうい)するものとなって行く過程を考察する。
〈安倍保名に危難をすくわれた信太の森の白狐は、保名の恋人葛(くず)の葉に化けて負傷した保名を介抱し、妻となって一子童子丸をもうける。6年後、葛の葉姫とその父の来訪に、これまでと正体を現わした狐は、「恋しくばたづねきてみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」の一首を残して姿を消した。童子丸は成長して、安倍晴明という高名な陰陽師になった。〉
「狐の直」説話と同工異曲のこの物語は、中世には説教節、近世には義太夫節などで語り継がれた。享保9年(1724)10月に竹田出雲が人形浄瑠璃「蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)」に脚色、翌年2月には歌舞伎として上演された。狐葛の葉が、母を慕ってまとわりつく幼子を抱きながら、保名に残す歌を、右手の筆を時に左手(鏡文字になる)、時に口にくわえて(下から上へ筆を走らす)、障子に書きつけるという見せ場があり、今日の上演でも客をわかせる。
安倍晴明(921-1005)は、古代の名族安倍氏の流れをくむが、その家系は陰陽道に関係があったわけではない。身分もさほど高くはない家柄であった。村山修一氏の「日本陰陽道史総説」によれば、晴明はむしろ陰陽道を学ぶことによって立身出世をしようと考えた。天武朝に陰陽寮が設置され、「大宝律令」で、陰陽師は中務省の被官となった。安倍晴明は、みずからの才学で従四位下まで進んだのであった。
晴明の出生がなぜ狐と結びつけられたか、それについては次のことが考えられる。
一つは、「狐の直」説話で見たように、狐女房・立身致富型の文化意識は、おそらく10世紀までに民衆に定着していたということ。晴明が母なし子であったかどうかは分らないが、家柄のない晴明が得た権勢、そしてその恐るべき能力に対する民衆の喝采と羨望、またある種の畏怖感を狐に託したのである。
二つは、晴明の陰陽道は、式神(識神)を使役して「呪い調伏」や「呪詛返し」を行なう、神秘的な性格の強いものであった。陰陽道が中国から伝来した当初は、天体観測から得た法則性を人間の営為に重ねるという、いわば科学的性格をもっていた。呪術的側面が強調されるようになったのは、日本に定着してからである。
呪術・巫術のなかには、狐を人に憑(つ)けたり落したりする術があったと思われる。「大宝名例律裏書」に「蠱毒事(こどくじ)」として、〈賊盗律註釈によると、蠱には多種あり、つぶさに知り得ないが、諸蠱を集めて一つの器の内に置き、とも食いさせて諸蠱悉く尽きて、もし蛇があれば、それが蛇蠱である。畜とは、いわば猫鬼の類を伝えやしなうことである。(以下略)〉とある。蠱(こ)というのは、人を惑わす呪いのこと、あるいは悪気のことである。人間に憑く強い霊力をもった動物がいて、その蠱毒を使うこと(巫蠱)は大罪であると定めている。中国では犬蠱、蛇蠱、陰蠱(ひきがえる、がま)、猫蠱、そのほか多種あり、狐蠱も挙げられている。
安倍晴明が人を呪殺するときに使役した「式神」が、狐蠱であると断定はできないが、「宇治拾遺物語」巻二の晴明が蔵人の少将に糞をしかけた鳥を「式神」と見破る話は、当時の陰陽道のなかに巫蠱が入っていたことを裏づけるものである。
「今昔物語」等に収められている話であるが、三井寺の僧智興が死病に陥り、末弟子の証空が身代りとなって命を捨てる覚悟をし、安倍晴明が病引き移しの祈祷をした。京都・清浄華院に伝わる「泣不動縁起」絵巻に、この場面が描かれている。中央に祭文を誦む晴明。祭壇の後ろに妖怪めく厄病神がいる。晴明の左方に証空が坐す。これを憑坐という。晴明の右後方に、幣(ぬさ)を腰に差した二人の式神がひかえている。
小松和彦氏は、この二人の式神は、これから厄病神を智興の肉体から駆りたて、証空に憑かせるために働くのだろうと推測している。
安倍晴明と同時代人、藤原実資の「小右記」には、藤原道長が怨霊に苦悩し、邪気憑、山王憑などさまざまの病に罹ったことが記録されている。そして平癒のための対策として、参詣や読経はもちろん、修法、加持、陰陽師祈祷、厭術、呪詛、解縛文と、これまたさまざまなことが行なわれた。同書には、京洛の巫覡(ふげき)が狐を祭っているという記事もある。
悪霊や病を憑ける人と、それを落す人が同じであるということが、きわめて長い間、日本の医療現場のみならず政治のなかに実体化していたのだった。
応永27年(1420)、4代将軍足利義持に狐が憑いた。医師高天(たかま;高間)と陰陽助定棟朝臣ならびに権太夫俊経朝臣が、狐使いの主謀者として捕えられた。三人は讃岐に流され、高天は途中で斬首された(「看聞御記」他)。
この事件は、桑田忠親・島田成矩両氏によると、当時の医療情況に鑑みて悪逆無道とばかり断ずることはできないと言う。高天はまともな医療の効果があがらなかったので、義持に狐憑きを信じさせ、修法料を取った上で、狐を放って逃した。そして憑いていた狐が落ちたと宣言した。義持の心理的効果を狙ったのである、と。
狐憑きの現象とは、おおむねこのようなものである。後に江戸時代になると、いまならさしずめ精神分裂病(統合失調症)と診断される症状を呈する者を、狐憑きと認知することによって、村落共同体の枠組に押え込むという事態が見られるようになる。「寛容な差別」とでも言えばよいだろうか。彼等の周囲に狐落しとしての巫術師が徘徊するとはいえ、実体は巫蠱からは遠いというべきであろう。それはむしろ精神病理史と医療社会制度史の問題になってこよう。
ともあれ狐憑きの現象から現代の私たちが学ぶことは、臆説や陰謀が渦巻き、人心が不安と恐怖と憎悪で惑乱し、社会全体がヒステリー状態におちいると、それを利用する者たちが必ず出現するということである。「憑霊・憑依」は制度として機能しはじめる。知性は無化され、社会全体がいわば催眠状態になる。重大なことは、そのような社会に生きる人々は、みずからの社会の有様をカタストロフィを迎えるまで認識できないことである。  
 
葛の葉(くずのは)

 

伝説上のキツネの名前。葛の葉狐(くずのはぎつね)、信太妻、信田妻(しのだづま)とも。また、葛の葉を主人公とする人形浄瑠璃「蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)」、および翻案による同題の歌舞伎も通称「葛の葉」と呼ばれる。
村上天皇の時代、河内国のひと石川悪右衛門は妻の病気をなおすため、兄の蘆屋道満の占いによって、和泉国和泉郡の信太の森(現在の大阪府和泉市)に行き、野狐の生き肝を得ようとする。摂津国東生郡の安倍野(現在の大阪府大阪市阿倍野区)に住んでいた安倍保名(伝説上の人物)が信太の森を訪れた際、狩人に追われていた白狐を助けてやるが、その際にけがをしてしまう。そこに葛の葉という女性がやってきて、保名を介抱して家まで送りとどける。葛の葉が保名を見舞っているうち、いつしか二人は恋仲となり、結婚して童子丸という子供をもうける(保名の父郡司は悪右衛門と争って討たれたが、保名は悪右衛門を討った)。童子丸が5歳のとき、葛の葉の正体が保名に助けられた白狐であることが知れてしまう。次の一首を残して、葛の葉は信太の森へと帰ってゆく。
「恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」
この童子丸が、陰陽師として知られるのちの安倍晴明である。
保名は書き置きから、恩返しのために葛の葉が人間世界に来たことを知り、童子丸とともに信田の森に行き、姿をあらわした葛の葉から水晶の玉と黄金の箱を受け取り、別れる。数年後、童子丸は晴明と改名し、天文道を修め、母親の遺宝の力で天皇の病気を治し、陰陽頭に任ぜられる。しかし、蘆屋道満に讒奏され、占いの力くらべをすることになり、結局これを負かして、道満に殺された父の保名を生き返らせ、朝廷に訴えたので、道満は首をはねられ、晴明は天文博士となった。  
 
信太妻の話

 

(中略)
同じやうな考へ方の、今一例をあげると、名高い物臭(モノクサ)太郎なども、江戸時代の信州に伝つて居た形は、極めてありふれたものになつて居る。「中昔の事なるに」と室町時代の「物臭太郎の双紙」に見えた主人公は、伝説では江戸時代の人になつて居る。物臭太郎は、日本あるぷす登山鉄道と言ふ方が適当な、信濃鉄道の穂高駅の近所に在る、穂高の社の本地物なのである。だから、此方の話も、松本市から北西の地方で、根を卸したものと見てよからうと考へる。つまり物臭太郎出世譚の平凡化したものだ。物臭太郎と言ふ人、或時自分の田を作つて居ると、見知らぬ女が手伝ひに来た。こんな働き者なら、女房にしたらよからうと言ふ考へで、家に入れた。非常によく稼いでくれる。子が産れて後、添乳してまどろむ中、尻尾を出して居た。其をよそから戻つた物臭太郎--今は亭主--が見つけた。此は、とんでもない処を見た。併し知らぬ風をしてやらうと、まう一返表へ出て、今度は、ばたばた足音を立てゝ戻つて、何喰はぬ顔で居た。処があけの日になると、子供が騒ぎ出した。母親が姿を隠したのである。いぢらしいから乳離れまで居てやつてくれと言つたが、とうとう戻らなかつた。其代りには、其家が段々富み栄えて、長者になつたと言ふのである。なぜ此人を物臭太郎と言うたのか判然しない辺から見ても、頗古い話の「ある人」にあり合せの、其地方の立身一番の人の名をくつゝけたゞけで、つまりは田舎人のさうした点に対するものぐさから出たものであらう。此は「炭焼き」や「芋掘り」の山人の出世を助ける高貴の姫の話が、狐腹の家の物語に入り込んだものと見てよさゝうである。松本平(ダヒラ)辺は、玄蕃(ゲンバ)ノ允(ジヨウ)の様な長命の狐の居た処とて、如何様狐の話が多い。保福寺峠の麓、小県郡の阪井は、浦野氏の根拠地であつた。浦野弾正尚宗の女は、小笠原家に嫁いで、長時を生んだ(又、正忠の女、長時の妻とも)。此奥方の生みの母も狐であつた。浦野家では、それ以来皆、乳首が四つある事になつた、と言うて居た。小笠原の奥方並びに、其腹の子たちには、そんな評判は立たなかつたが、其でも狐だけは、小笠原家につき纏うて居る。小笠原家が、豊前小倉に国替への後、突如として狐が姿を現した。貸本屋本から芝居へ移つて、今尚時々見聞きする、小笠原隼人を中心とした小笠原騒動の一件は、由来が遠い処にあるのである。長時は、小笠原家には大切な人である。蒲生氏郷も、狐の子だと言ふ伝へがある。偽書と称せられて居る「江源武鑑」と言ふのにある話で、尠くとも「江源武鑑」の出来た時に、さうした伝説が、何かの書物か、民間の伝へにあつた事だけは信ぜられる。江州日野の蒲生氏定の奥方が、急に逃げ出して了うた。実は、三年前にほんとうの奥方をば喰ひ殺した狐が、後釜に据り込んで居て、忠三郎(氏郷の通称)を産んだのであつたと言ふ。さすれば、氏郷は狐の子であるから、秀いでた処があるのだ、と見た人々の心持がわかる。蒲生家については、別に狐腹なる為の身体上の特徴は言ひ伝へて居ない様だ。こゝまで来れば、安倍晴明(アベノハレアキラ)の作つたと言ふ偽書--併し江戸の初めには、既にあつた--「(ほき)内伝抄」によつて、葛の葉の話が、ちよつと目鼻がつき相に見える。早急を尊ぶ態度の、おもしろくない事を証明する為に、仮りに結論を作つて見よう。此は名高い話で、葛の葉の話の唯一の種の様に言うて来てゐるのであるが、此話は、江戸以前尠くとも室町の頃には、既に纏つて居たものと見られる。晴明の母御は、人間ではなかつた。狐の変化であつたのが、遊女になつて諸国を流浪して居る中、猫島に行つて、ある人に留められて、其処に三年住んだ。其間に子が出来たので、例の歌を残して去つて了うた。子は成人して陰陽師となつた。都に呼びよせられた時、母の恋しさに、和泉国信太ノ杜(モリ)へ尋ねて行つて拝んで居ると、年経る狐が姿を顕した。其が、晴明の母の正体だつたといふのである。合理的な議論を立てれば、人まじはりの出来ぬ漂浪民(ウカレビト)の女だから、畜生と見て狐になつて去つたといふのであらう。殊に信太ノ杜の近くには、世間から隔離せられて居た村が今もあるから、其処から来た女だらうと言ふ様なことも言はれよう。こんなあぢきない知識も、後世には其部落の伝説となるかも知れない。此記載が角太夫ぶしの正本を生み、竹本座の正本にまで発達したのだとして、此でまづ、一通りの説明はつく様だが、此だけで説き尽されたものと考へられては、甚残念である。  
(中略)

 

安名と葛の葉の住んで、童子を育てたと言ふ安倍野の村は、昔からの熊野海道で、天王寺と住吉との間にあつて、天王寺の方へよつた村である。其開発の年代は知れない。謡曲「松虫」に「草茫々たる安倍野の塚に」とあるが、さうした原中にも、熊野王子の社があつて熊野の遥拝処になつて居た事は、平安朝末までは溯られる様である。此社から、更に幾つかの王子を過ぎて、信太に行くと、こゝにも篠田王子の社があつた。宴曲の「熊野参詣」と言ふ道行きぶりに、道順が手にとる様に出てゐる。安倍野と信太との交渉は此位しか知れないのだから、今の処は必然の関係が見出されさうもない。童子丸とか、安倍ノ童子など言ふ名は、特殊な感じを含んで居る。作者の投げやりにつけたものと思へるかも知れないが、さうではない。類例のある名なのである。平安朝の中頃からは、ちよくちよく見えて、頼光に讐をしかけた鬼童丸、西宮記には、秦ノ犬童子と言ふ強盗の名がある。其同類に、藤原ノ童子丸と言ふのも見える事は、南方翁が指摘せられた。だが、角太夫の信太妻以来、歌舞妓唄にも謡はれた葛の葉道行きの文句には、「安倍の童子が母上は」とある。此辺の詞は、説経節伝来のものだらうと感じられるものである。「安倍ノ童子」と言ふ名は、古くから耳に熟して来た為に、固有名詞らしい感じの薄い語ながら、ある落ちついた味はあつたものであらう。必、久しい間くり返されたもの、と思はれる親しさがある。たゞ、安倍氏の子ども、安倍氏(晴明)になる所の子ども、と言ふだけの事ではあるまい。私は、此安倍野の原中に、村を構へた寺奴の一群れがあつて、近処の大寺に属して居たものでないかと見当をつけて居る。其寺は、大方四天王寺であらうが、ひよつとすれば、住吉の神宮寺かも知れない。何にしても、其村人を「安倍野童子」と言ひ馴れて、当時の人の耳に親しいものであつたところから、「信太妻」の第一作と思はれる語り物を語り出した人の口に乗つて、出て来た名ではなからうか。単に其ばかりでなく、ほかの神人・童子村にもある動物祖先の伝説が、此村にもあつて、村人を狐の子孫として居たのではあるまいか。仮りに話の辻褄をあはせてみると「安倍野童子」たちに伝へがあつて、自分たちの村からは、陰陽博士の安倍晴明が出てゐる。晴明の母は信太から来た狐の化生であつた。だから我々は狐の子孫になる。世間で「安倍野童子」と自分らを呼ぶのは、晴明の童名からとつたものだ、と言ふ風に信ぜられてゐた。まづかう考へて見ると、ある点までは纏りがつく。が、事実はそんなに、整頓せられたものではあるまい。説経節は元来「讃仏乗」の理想から、天竺・震旦・日本の伝説に、方便の脚色を加へて、経典の衍義を試みたところから出たものであらうが、仏教声楽で練り上げた節まはしで、聴問の衆の心を惹く方に傾いて行つて、段々、布教の方便を離れて、生活の方便に移り、更に芸術化に向うたものと思はれる。「三宝絵詞」や「今昔物語」は或は其種本ではあるまいかとも考へられ、王朝末には、説経師の為事が、稍効果を表して来たのではなからうか。さうして、段々身につまされる様なものにかはつて来て、来世安楽を願はせる為に、現世の苦悩を嘗め尽した人の物語を主とする事になつて、「本地物」が生れて来たのではあるまいか。此芽生えは、既に武家の始めにあつたらしい。が、社寺の保護の下に、大した革命の行はれることなく、長日月を経るを例とした我が国の芸術の一つとして、やはり保守一点ばりでとほして来たものと思はれる。其が、三味線の舶来以後、俄かに歩を早めて進んだ。そして、説経太夫が座を持つて、小屋の中で語る様になるまでには、傘の柄を扇拍子で叩いた門端芸人としての、長い歴史があつたであらう。説経には、新古二様の台本があつたらう、と言ふ事は前に言うた。新しい台本の出来たのは、それが正本として刊行せられた時から、さのみ久しい前ではなからう。新しい台本の出来る前に、古い台本を使うた時期が、かなり長かつたのであらう。簡単な古い説経に、潤色を施して出した新しい正本では、古くから世間に耳馴れた古説経持ち越しの知識は、其儘にして居た事と思はれる。だから、今ある説経の中には、聴衆の知識を予期してゐる所から出た省略やら、最初の作物なら書き落すはずのない失念などが、散らばつて見える。角太夫の「信太妻」にさへ、そんな処がある。「信太妻」は、どの社寺の由来・本地・霊験を語るのか明らかでない。強ひて言へば、信太ノ森の聖(ヒジリ)神社か、その末社らしい葛の葉社の由来から生れて、狐が畜生を解脱して、神に転生する事を説いた本地物だつたのではなからうか。此を節づけて語りはじめたのは、誰であらう。「安倍野童子」村に就ての想像が、幸い外れて居なかつたら、此村の童子であつて、漂泊布教して歩いた者の口に生れた語り物が、説経に採り入れられて、「安倍野童子」の物語として伝誦され、遂には主要人物の名となつて了ふ様になつたものと、考へる事が出来る。前に言うた高野の「萱堂(カヤダウ)の聖(ヒジリ)」が語り出したと想像せられる石童丸の語り物が、説経にとり入れられる様になつた。而も石童の父を苅萱と言ふのは、謡曲で見ると「苅萱の聖」とある。さすれば、萱堂の聖の物語が、いつか苅萱の聖の物語と称へられる様になり、作中の人物の名ともなつたのであらう。此も五説経の一つである「しんとく丸(又、俊徳丸)」は、伝来の古いものと思はれる。謡曲には、弱法師(ヨロボフシ)と言ふ表題になつてゐる。盲目(マウモク)の乞食になつた俊徳丸が、よろよろとして居るところから、人が渾名をつけたといふことになつてゐる。併し故吉田東伍博士は、弱法師(ヨロボフシ)と言ふ語と、太平記の高時の田楽の条に見えた「天王寺の妖霊星を見ずや」と言ふ唄の妖霊星とは、関係があらうと言はれた事がある。其考へをひろげると、霊はらうとも発音する字だから、えうれいぼしでなく、えう(ヨウ)らうぼしである。当時の人が、凶兆らしく感じた為に、不思議な字面を択んだものと見える。唄の意は「今日天王寺に行はれるよろばうしの舞を見ようぢやないか」「天王寺の名高いよろばうしの舞を見た事がないのか。話せない」など、言ふ事であらう。「ぼし」は疑ひなく拍子(バウシ)である。白拍子の、拍子と一つである。舞を伴ふ謡ひ物の名であつたに違ひない。此も亦白拍子に伝統のあつた天王寺に「よろ拍子」の一曲として伝つた一つの語り物で、天王寺の霊験譚であつたのが、いつの程にか、主人公の名となり、而もよろよろとして弱げに見える法師と言ふ風にも、直観せられる様になつたのである。柳田先生は、おなじ五説経の「山椒太夫(サンセウダイフ)」を算所(サンシヨ)と言ふ特殊部落の芸人の語り出したもの、としてゐられる。かう言ふ事の行はれるのは、書き物の台本によらず、口の上に久しく謡ひ伝へられて来た事を示してゐるのである。はじめて語り出し、其を謡ふ事を常習としてゐた人々の仲間の名称は、其語り物の仮りの表題から更に、作中に入りこんで人物の名となり易いのである。「帰らうやれ、元の古巣へ」と言ふのは、葛の葉物には、つき物の小唄の文句である。こんなところにも「妣が国」の俤は残つて居た。信太妻と言ふ表題も、実は、いつからはじまつたものとも知れぬ。本文には見えぬ語なのである。此にも由来はありさうである。其上、此名が、異族の村から来た妻、と言ふ意を含んで居る様なのもおもしろいと思ふ。  
 
平将門と瀬織津比

 

瀬織津姫 (せおりつひめ)
神道の大祓詞に登場する神である。瀬織津比刀E瀬織津比売・瀬織津媛とも表記される。古事記・日本書紀には記されていない神名である。
祓戸四神の一柱で災厄抜除の女神である。神名の名義は、人のけがをれ川の早でを清めるとある。祓神や水神として知られるが、瀧の神・河の神でもある。その証として、瀬織津姫を祭る神社は川や滝の近くにあることが多い。九州以南では海の神ともされる。これは、治水神としての特性であり、日本神話や外来神に登場する多くの水神の特徴にも一致する。日本神話では龗神や闇罔象神等が、外来神では吉祥天・辯才天がこの特徴を持ち合わせている。『倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』『中臣祓訓解』においては、伊勢神宮内宮別宮荒祭宮の祭神の別名が瀬織津姫であると記述される。『ホツマツタエ』(学者により「偽書」とされている)では日本書紀神功皇后の段に登場する撞賢木厳之御魂天疎向津媛命と同名の向津姫を瀬織津姫と同一神とし、天照大神の皇后とし、ある時は天照大神の名代として活躍されたことが記されている。
関連する神
初代天皇とも言われる饒速日命(にぎはやひのみこと)との関連もあると言われる。また、瀬織津姫は天照大神と浅からぬ別名の一つに入るが、関係がある。天照大神の荒御魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ))とされることもある。兵庫県西宮市、西宮の地名由来の大社であ、る廣田神社は天照大神荒御魂を主祭神としているが、戦前の由緒書きには、瀬織津姫を主祭神とすることが明確に記されていた。その他では宇治の橋姫神社では橋姫と習合(同一視)されている。祇園祭鈴鹿山の御神体は鈴鹿権現として、能面をつけ、金の烏帽子をかぶり長刀と中啓を持つ瀬織津姫を祀る。伊勢の鈴鹿山で人々を苦しめる悪鬼を退治した鈴鹿権現の説話に基づく。 

1992年「九条殿記」なる古文書が発見された。九条流の祖となった藤原師輔の日記の中に下記のような事が記されていた。
「天慶三年二月廿六日、陸奥国言上飛駅秦状伝、平将門率一万三千人兵欲襲撃陸奥出羽両国云々…。」
つまり陸奥国司などは平将門が攻めてくると思い、戦々恐々としていたようである。何故なら、平将門の父は陸奥国司でもあり、将門の弟は陸奥国に婿として入っており、将門自身も陸奥国で過ごしていたようだ。つまり、蝦夷は平将門を歓迎し、その蝦夷を統治していた連中は怯えていた。
実は天慶二年四月十七日(939年5月8日)に俘囚が反乱したのとどうも平将門の乱は連動していたようだ。そこには平将門と蝦夷を結び付ける一つの信仰の力が働いていたようだ…。
ところで、蝦夷の国の妙見信仰は、桓武天皇から始まるものと考えている。桓武天皇自体が熱心に妙見を信仰しており、その血筋に当然入ってくるのが平将門でもある。まあ他にも大勢桓武天皇の血筋は多いのだけれど、ここでは特に平将門にスポットを当てて書き記していきたい。
「北辰妙見菩薩呪」に「賢き人の能き臣と宣らしめ…。」とあるが、これは歴代天皇の指針になったという。桓武天皇の即位時に「天下治賜君者賢人能臣得…。」とあるのは、桓武天皇が妙見信仰に影響されているものとされているが、それ以前(数代前まで)の歴代天皇の宣言にも似たような事が書き記されている事から、妙見信仰はその頃の天皇達に影響を与えていたようだ。
ところで桓武天皇といえば、蝦夷征伐を執拗にした人物でもあった。”まつろわぬ者”である蝦夷と蝦夷の地を平定する為に、とにかく力を注いだ。その桓武天皇に登用された坂上田村麻呂の功績により蝦夷の地に、いくつもの薬師信仰を伝える薬師寺と共に、陸奥には北斗七星の形になるよう神社が配置された。とにかく、坂上田村麻呂の蝦夷平定の成功から、一気に蝦夷の地に、妙見信仰が入り込んで来た。
坂上田村麻呂の蝦夷平定である東北遠征は、桓武天皇の鬼門封じでもあったと云われる。坂上田村麻呂は、岩手の平泉近くにある達谷窟に毘沙門堂を築き、水沢の地に黒石寺(昔は薬師寺)を建立し、東和町には熊野神社と毘沙門天の像を置いた。この毘沙門天像は、猿ヶ石川上流である、現在の遠野にいた蝦夷の豪族を睨む為に建立したのだと云う。毘沙門天もまた妙見に関わるのだが、これは後に説明する事とする。そして坂上田村麻呂が陸奥で行った鬼門封じとは、先に記したように、北斗七星の形に配列して建立されたのだという。
   1. 乳井神社
   2. 鹿島神社
   3. 岩木山神社
   4. 熊野奥照神社
   5. 猿賀神社
   6. 浪岡八幡宮
   7. 大星神社
これら上記の神社の配列が「新撰陸奥国誌」によれば、北斗七星の形になるように配列されていると記されている。また坂上田村麻呂は、蝦夷征伐の遠征に先立ち、鞍馬寺において毘沙門天に祈願し、蝦夷征伐の凱旋後には、やはり鞍馬寺に「七社図」と呼ばれる北斗七星型に七つの神社を描いた絵図を奉納したという。ただし、それを戦時中に焼失したという事だ。そしてこれらの神社は、岩木山にこそ発動するようになっているのだと…。
陸奥での岩木山と妙見の関わりを少し書いたが、瀬織津比唐フ鎮座する早池峰山もまた薬師が祀られている事から、妙見信仰が根付いているのがわかる。この早池峰山と神社もまた、桓武天皇による蝦夷平定の後に建立された神社であるからだ。そして陸奥の岩木山と、早池峰山とは奇妙な対応を示す。古代には狼煙によって、岩木山と早池峰山を結び付け連絡のやり取りをしていたというのも、祭神が同じであったからだとも云われている。

妙見信仰は、中国の北方の満州やモンゴルの遊牧民が不動の目印の星だとし、北極星を崇めたのが発祥とされる。それがやがて、中国で都の四方を守る聖獣のうち、北方を守る玄武の背中に乗って妙見神が顕れると考えられた。亀に乗った女神像が妙見神社に伝わるのは、これからとなる。
妙見神は元来女神であり、北方守護神とされ、剣を持っている姿で表されている。その本地仏は、薬師如来以前は十一面観音とされていた。早池峰神社に祀られている観音様は、十一面観音である。白鳳時代から密教の流入は、従来の観音信仰を大きく変えた。そこに現れた変化観音は、不可思議な神威霊力を振るう最強の仏神として、国家鎮護の法要に欠かせない存在となっていった。
「東大寺のお水取り」で執り行われる法要「十一面悔過法要」というのがある。悔過とは生きる上で過去に犯してきた様々な過ちを、本尊とする観音の前で懺悔するという事だが、要は天下国家の罪と穢れを滅ぼし浄化する観音が十一面観音とされた。ところがいつしか、観音の女性化が嫌われ「七星七仏薬師」信仰が流行し、七星七番目の薬師とみなされた星が「破軍星」の化身と見られるようになり、武士に信仰されるようになった。妙見神もまた、本来は女神であったのが威力に欠けるとされ、男神化したようだ。
妙見神が、玄武に乗ってきたという伝説の断片は、そのまま遠野にも残り、早池峰妙泉寺に伝わるもの…例えば、仁王像や石灯籠などが、遠野で一番古いとされる、河童淵で有名な常堅寺に残っている。写真の九曜紋・亀の彫り物・亀甲の石も全て、早池峰妙泉寺から伝わったものである。つまり本来は、北方守護の意味合いから伝わった妙見信仰が根付き、それに従来からの聖なる水の信仰が組み合わさっての、早池峰妙泉寺となったようだ。そう今も昔も、早池峰に鎮座していて普遍なものは、瀬織津比唐ニなる。
補足として…常堅寺は檀那が同じとされ、明治時代の廃仏毀釈において、早池峰妙泉寺が早池峰神社となる為に、同じ系列の常堅寺に寺としての名残を移転したものである。その為以前は、早池峰の山門には仁王像が鎮座していたが、現在では神像に置き換えられた。早池峰妙泉寺は本来天台宗であったのだが、常堅寺は曹洞宗となっている。これは江戸時代になり密教系が廃れ、その密教寺院が挙って曹洞宗に改宗した名残でもあった。

ところで福島県の相馬の伝承には、平将門が白馬に乗った女神の姿を見たとある、というものが伝わっている。妙見様は、玄武に乗って…と先に記したが、東北全般に広がる妙見信仰の中に、妙見様は白馬に乗るという伝承もある。つまり平将門が見たと云う、この白馬に乗った女神が、妙見の女神とも云えるのだろう。
中国の伝説には、星が下がって竜の胎内に宿り、馬になったというものがある。東京都の大田区の妙見堂に伝わるのは、昔、平将門が一夜、客星落ちて竜馬となると夢に見て妙見菩薩を祀ったという伝説もある為、中国の伝説が日本にも伝わっていたのだろうと思う。つまり、星と竜と、そして葦毛馬(白馬)は妙見信仰の中で全て繋がるものと考える。
ところで雑談となるが、平将門を調べていて面白い事がわかった。東国の武士達は、やはり反朝廷の意思を持っていて、朝廷側や時の権力者である藤原氏などが恐れた怨霊である菅原道真を祀る天満宮、もしくは菅原神社を多く建立し祀ったとの事だ。雷神であり、学問の神様とも崇められる菅原道真であるが、建立当時の意識の根底には、反朝廷の意思が働いたというのも理解出来る。何故なら虐げられた者達が集まったのが東国や蝦夷の地であったからだ。
つまりだ、こういう朝廷の意志や権力がなかなか及ばない地域には、反朝廷という意志が働き、朝廷側が忌み嫌う神を祀る傾向にあったとも考えられる。それを思えば、何故に岩手県に瀬織津比唐ェ多く祀られているかというものに結び付くものでは無いだろうか?今後は、この辺も調べてみようと思う。
またも余談になるが、防府天満宮発行の書「高杉晋作の天神信仰」によれば、高杉晋作もまた菅原道真を敬慕していた…というよりも、自らを菅原道真に重ね合わせていた節がある。これは先に記した、反朝廷の意思と同じで、反体制の意思を表すものであったようだ。
異端・異分子・虐げられし者の根底には、古い歴史を紐解き、自らの立場と思想に重なる神を祀るという流れがあったのだと感じる。高杉晋作の活躍した幕末は、菅原道真の時代よりも、遥か未来である。しかし、為政者には見えない神の信仰というのが、語り継がれてきたのだろう。現代の学問としての古代史の大抵は、王権祭祀から紐解いている場合が多いのだが、それとは違う庶民であり、百姓であり、虐げられた者達からの信仰の流れをもっと調べる必要性を感じる。
平将門が信じた妙見とは大抵の場合、星の信仰と認識されている。また妙見そのものは道教思想が強いものだ。薬師寺慎一著「楯筑遺跡と卑弥呼の鬼道」では、ここから発掘される亀石は、水神の依代であったろうと書き記している。
陰陽五行によれば、北は玄武であり、色は黒を示し、そして水を現す。つまり亀=水という図式だ。また「道教と日本思想」によれば「魏志倭人伝」において卑弥呼の”鬼道”とは、当時の中国は仏教思想が中心であった為、原初的な道教思想を用いる卑弥呼を「鬼道」と非難したのだろうという事である。
その道教は日本の神道と結び付き、天照の祭祀にも大きく関わっていのだと。福永光司著「道教思想史研究」によれば、道教の経典である「南華真経」では「至人の心を用うるは鏡の若し。」とあり、これは聖人や至人の心を写すのが鏡であるという意。また「聖人の心は天地の鏡なり。万物の鏡なり。」とあり、この思想に夢中になった卑弥呼は「魏志倭人伝」において、魏の皇帝から100枚の鏡を贈られた時「鏡が好きである。」との記述があるのは、道教思想の崇拝者であったろうという事だ。その卑弥呼からの思想が続き、天照大神の御神体が鏡となったのは、その延長上となる。
ところで水神との結び付きを指摘される亀石だが、別に龍神石とも呼ばれるのは、玄武の本来の姿が蛇と亀の結び付いた姿からである。蛇は竜でもあるから、竜神石=亀石=水神を現す。
実は、遠野の東禅寺という臨済宗の寺があったとされていて、そこには瀬織津比唐フ伝承も結び付いていたのだが、平成の世になって某学者から指摘され、実はその寺とは「東禅寺」でもなく、ましてや「臨済宗」でも無かった事がわかった。実は、早池峰妙泉寺の里寺であり、妙見信仰の影響が強かった事が発覚した。そこには竜神石も用いられ、水神である瀬織津比唐ニ結び付くのは当選の結果であったわけだ。九州地域の妙見信仰の大抵は水神と結び付いていて、やはり瀬織津比唐ェ鎮座している場合が多いようだ。
また妙見神とは女神であり、亀に乗って渡って来たという伝説がある。日本最古の妙見社は熊本県の八代妙見社で、玄武を表す蛇亀を使ったお祭りが有名でもある。実は、亀に乗って来た女神は蛇であったようだ。乗って来た亀には蛇は記されておらず、女神そのものが蛇(竜)であったようだ。またどちらにしろ、蛇も亀も水神に結び付く。つまり水神としての瀬織津比唐ニ妙見とは切っても切れない間と言う事がわかった。

上の画像は妙見神であるが、妙見神の伝承では亀に乗ってやって来た女神であるという事だ。
ところで家紋や神紋には「竜紋」があるが、牝竜の場合は「雨竜紋」になっているのに注意したい。同じ竜でも牝竜は雨乞いに関係する竜であるからだ。牝竜はミヅチであり「水霊(ミヅチ)」とも書き表す。そのミヅチを表す雨竜紋の図形は、竜宮の亀の変形を表した図形であるという。
妙見神を日本で最初に祀ったのは、熊本県の八代妙見宮である。そのお祭りには、上記の絵の様に「亀竜」が登場する。四神に玄武がいるが、その玄武の本当の姿は亀と竜が合体した姿で表される。熊本県八代の風俗に妙見神は亀を眷属としている為に、食べたり粗末に扱う事を禁ずというものがある。その風俗はまるで「浦島太郎」ではないか。子供達に虐められていた亀を助けた浦島太郎は、亀に乗って竜宮城へ行き、乙姫と出逢う。その竜宮だが、その場所は海の彼方、もしくは海の底とも云われるが、日本国内においては山中にも竜宮は存在する。いや正確には竜宮に通じる穴や水場などが山中にあるなどという伝承が日本全国に伝わっている。
熊本県の八代もだか、秦氏が南九州に逃げて居ついたという歴史がある。それとは別に、遠野の琴畑のマヨヒガ伝承も逃げ延びた秦氏が住み着いてマヨヒガの伝承を伝えたとも云われる。秦氏は畑仕事の合間に琴を奏でた事から琴畑という地名が付いたも云われている。妙見の伝承は亀に乗って来た女神だが、マヨヒガの伝承は川から朱塗りの椀が流れてくる話となっているが、大まかに言えば「漂着伝承」とも云えるのだ。神的なものが水を伝って流れ着いて来るのは、女神が朱塗りの椀かの違いでしかない。亀と言えば、秦氏が祀る松尾大社の眷属もまた亀である。しかしその亀とは竜を内包している。遠野の新町に神明社が移転された後に、松尾神社が建立されたのは意味があると考えるが、これは後に書き表す事としよう。
ところで東北などに逃げ延びた秦氏は桓武天皇時代であると云われるのは、新羅仏教を伝える秦氏であったが、桓武天皇の時代には任那仏教に変わった為、用無しとなった秦氏は桓武天皇から追われたとも云われる。しかしそれとは別に、桓武天皇時代に、妙見信仰は皇族のものである為、民衆が妙見を信仰してはいけないという禁令が発布されたのもあったのかもしれない。しかし奇しくも桓武天皇の末裔である平将門が新皇と名乗り朝廷に対して謀反を起こしたのは、あまりにも皮肉ではないか。その平将門は、妙見菩薩(妙見神)を厚く信仰していたのだ。

ところで平将門が信仰した妙見だが、遠野には妙見という石碑は横田城跡にしかない。妙見信仰の名残としては、常堅寺裏の河童淵傍の祠内部にある伊勢から伝わった紅白の乳神くらいか。しかし妙見はなかなか無いものの、遠野中に庚申塔の石碑は、かなりある。庚申は庚申講の名残だと伝わるものの、正確に遠野で庚申講を過ごしたという記録は無い。いや無いといえば語弊があるが、恐らく妙見信仰の代わりに庚申信仰が広まったものと考える。
庚申の日は、人間の頭と腹と足には三尸の虫がいて、いつもその人の悪事を監視しているのが庚申の夜に、その人物なりが寝ている間に天に昇り、天帝に対して、その人物の日頃の行いを報告し、罪状によっては寿命が縮められたり、その人の死後に地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕とされる。そこで、三尸の虫が天に昇らないようにする為、庚申の夜は村中の人達が集まって夜を過ごしたという。
ところが妙見にも似た様な話がある。人間の体内には小神が住み着き、本命の日に北斗に対して、その人物なりの善悪の行為を告げるとされている。北斗は北斗七星であり、一切の人民の生死禍福を司る神とされている。したがって、北斗に祈れば、百邪を除き、災厄を免れて服が来る。もしくは、長生きできると云われるが、逆に悪行があれば魔王に魂を抑えさせ、地獄に堕とすとも伝えられる。つまり、この内容から庚申も妙見も同じものである事が理解できる。また庚申待で唱える「オンコーシンレイ、コーシンレイ、マイタリ、マイタリ、ソワカ」の呪文は北斗の総呪である為、恐らく妙見と庚申は、いつしか習合したのであろう。
源実朝や北条政子は妙見を信仰し、鶴岡八幡宮の傍らに北斗堂を建立させるなど、武士の間にも妙見信仰が広がっていた。北辰信仰は元々北極星の信仰であったが、後に北斗七星も含まれてから、北斗七星は北方守護神である妙見の剱と見做され、その七番目の星が剣の切っ先とされ、敵を破る「破軍星」と云われ、これが武士の間に広まった要因であったろう。その北斗七星の剣は破邪の意味をも有し、穢祓としても尊重された。
「衣川伝説」によれば、安倍貞任と戦った源頼家・義家の親子は雨でどうしようもない時に、今の奥州市にある妙見神を祀る日高神社に祈願したところ、巳の刻に雨が上がり空が晴れ、戦に勝つ事が出来た事から「巳の妙見」と云われる様になったが、本来は水神であろうと云われる。不思議な事に、衣川にある三峯神社もまた、源義家が祈願して安倍貞任から勝利を得たと言うが、安倍貞任の信仰を顧みた場合、本来は逆転しているのでは無いかと思うのだが、もしかして勝者の都合により、話が変換されたのかもしれない。
ところで安倍貞任だが「華園山縁起」に「安倍貞任、宗任は星ノ御門ノ子孫ナリ…。」とある。御門は神と解釈され、また別に安倍貞任が"魁偉"と称された事から北斗七星と繋がる神、つまり妙見神と繋がっていた。遠野の東の和山で貞任の末裔が星宮神社を守ってきた事からも、やはり星の信仰をしていたのだろう。その星を信仰している安倍貞任が、突発的に妙見神に祈願した源義家に敗れるというのは、勝者の歴史的作為を感じるのだ。

秦氏の話を若干したのだが、秦氏が逃げ延び居ついたという琴畑部落とマヨヒガの伝承のある琴畑渓流と白望山がある。琴畑渓流の滝には、早池峰の神である瀬織津比唐ェ祀られているが、白望山はどうであろう?山頂にある石碑は「見真大師」であり、親鸞の事を言う。庚申講と同じように、地域の人々の絆を意図して始められた二十三夜講が行われ、沿岸域の人々がこの白望山に昇って月星を拝んでいたようだ。高橋忍南「二篆管窺」には「今の世に庚申塔と称する石碑夥多し。其庚申は即北斗七星尊を祀る也。廿三夜塔も亦同じ。」と書き記されている。要は、妙見も庚申も二十三夜も星祭という事だろう。妙見信仰の神紋に九曜紋が使われるのも、七つの星に太陽と月を加えたのが九曜である事から、全て天体の星であるという考えからだろう。
ところで白見山の山名だが「白」を「見る」とある。「遠野物語」には「白望山」と記されてはいるが、「見る」も「望む」も、意味的には同じだろう。あくまで「シロミ」という音を意識してみたい。では、その白とは何であろうか?例えば太陽も白で表す。三重県鳥羽市神島の八代神社で行われる「ゲーター祭」は白い輪っかに長い竹を刺す。それは太陽の死を意味し、復活を期待しての祭りであるという。他に、もう一つ白を意味する星がある。それは太白であり、太白は金星を示す星となる。そして少し違うのだが、宮崎県にある銀鏡神社にも興味がいく。
銀鏡神社の祭神は、磐長姫。磐長姫は醜いとされ、天孫ニニギは姉妹であった美しい木花咲耶姫を妻と選び、醜い磐長姫を避けてしまった。自らの境遇を嘆いた石長姫が、自分の醜い姿を映す鏡を遠くへ放り投げたところ、これが西都市銀鏡付近の大木の枝にかかり陽光、月光を浴びて白く輝いていたという。それから、この地は白見(しろみ)と呼ばれ、後に現在の銀鏡(しろみ)という地名になったという。実はこの銀鏡の地には、秦氏と共に菊池氏も多く住み付いた地でもある。白見山の麓の琴畑に秦氏が関係するなら、白見山そのものにも秦氏が関係しているのかもしれない。人は、未開の地に移住した場合、故郷を懐かしがって同じ地名を付けるものだという。邪馬台国東遷説も、そこからきている。九州と近畿に、似た様な地名が重複する為だ。当然、秦氏が遠野の地に逃げ延びて未開の地を開発したとしたら、その周辺には故郷を懐かしんで、同じ地名を付けた可能性は否定できないだろう。
「遠野物語33」に白望山が深夜に薄明るくなることがあると記されている。「聞き書き遠野物語」などの著者内藤正敏氏は、遠野側から見た場合、白望山の背後にある金糞平というタタラの地で起きた火によるものでは無いかと推察している。だが、マヨヒガのように秦氏が持ち込んだ伝承である可能性もあるのかもしれない。その伝承とは先程の銀鏡神社の月光を受けて白く輝いた鏡の伝承だ。奇しくも白見山の頂では、月を待つ二十三夜待ちをしていたという。何故、白見山の頂で二十三夜待ちが行われたのかは、未だ定かでは無い。いずれにせよ、白見山には謎が多い。ただ言えるのは、白見山の峰続きに新山という地があり、早池峯を望むには絶好の場所がある。その更に遠野よりの山は貞任山と言い、貞任山の裏側にあたる和山の地には貞任の末裔が住み付き、星宮神社を守ってきた。また貞任山の北東にある山を五郎作山といい、貞任の家来の名を取ったものだとも云われ、古文書によれば貞任はアラハバキ神社を祀っていたと記されている。つまり、貞任山から新山、そして白見山に渡って安倍一族の勢力範囲内であったのだと考える。
舘跡を調べた先人の、菊池春雄氏と荻野馨氏の調査によれば、安倍館の殆どから、早池峯が遠望できるといい、種山の安倍館の屹立した岩の間からは、丁度早池峯が入る様になっている事から、安倍一族は早池峰信仰を深く信じていたであろうという事だ。つまり白望山の頂からの二十三夜待ちとは月の出を待つと共に、一つの星祭であり、それは北に鎮座する北辰としての早池峯を拝む事でもあったのかもしれない。何故なら、明るい月が天空に昇れば、早池峯はその姿を現わすからだ。

早池峯神社の御神体は、早池峯そのものでもあり、または麓の又一の滝でもあるという。それは御祭神が滝神でもある為だが、御神体が二つと言うのもピンとはこない。まあ、山そのものに滝が含まれるわけであるから、まとめて御神体と考えてもいいのだろう。ただ、ここでは妙見神としての早池峯の神の姿と、滝神(水神)としての早池峯の神の違いがあるのか考えてみたい。
神社の場合、里宮とか奥宮などと分散して神を祀る場合がある。早池峯の場合の奥宮は山頂になる為、簡単に奥宮参詣は出来ない事から、麓の里宮での参詣となる。この様に神社参詣方法は分離されているのだが、実は妙見もまた分離されている。
妙見という北辰信仰が輸入された古代中国の「天官書」には、こう記されている。
「中宮天極星、其一明者太一常居也。旁三星三公。或曰子属。後句四星末大星正妃。余三星後宮之属也。環之匡衛十二星藩臣。皆曰紫宮。」
つまり、天の中枢部に当る中宮の、そのまた中心が紫宮であり、そこに太一がいる。紫宮とは、例えば聖徳太子が紫の衣服を着た事からわかる様に、一番位の高い色である。中心部であり位の高い位置を紫色で示し、紫宮としている。古代中国において、天の中心とされ太一が居るところは紫宮とされる。中心という事は水の波紋のように、全ての不動の中心にいるという事だ。つまり、これを早池峯に当て嵌めた場合、その中心は恐らく又一の滝であろう。
以前にも書いたのだが、又一の滝の謂れが「一番の滝は熊野の那智の滝である。又、それに匹敵するのがこの滝である。」という適当な由緒のネーミングになっているのは、いかにも胡散臭い。恐らく"天の中心"である「太一の滝」を意味して付けられ、後に「又一の滝」となったものだと考える。何故かといえば、これは何度も書くが、大迫の早池峯神社は早池峯に向けて建てられておらず、遠野の早池峯神社に向けられて建てられている。その意味はつまり、方違いの呪法であって、あくまで早池峯が北に鎮座する存在であり、大迫の早池峯神社が遠野の早池峯神社に向けて建てられているのは、大迫からの祈りが遠野の早池峯神社を経由して、北に鎮座する早池峯に向けられるからであろう。
岩手県で瀬織津比唐祀る神社は上の図であり、この他に載っていない神社や遥拝所がいくつもある。早池峯より北には、早池峯を祀る神社の数は少ない。しかし、例えば早池峯の北西に位置する玉山村の多岐神社などは早池峯ではなく、早池峯と同じ瀬織津比唐祀る姫神山に向けて建てられている事から、早池峰信仰圏というわけではなく、姫神信仰圏といって良いだろう。それ以外の神社は、あくまで北に鎮座する早池峯を意識しているような気がする。
姫神信仰圏とは書いたが、例えば秋田県の太平山は以前、姫神嶽と呼ばれ、早池峯と同じ瀬織津比唐ェ祀られていた。いや、今でも祀られている。後に太平山となったのは、恐らく常陸国から移転してきた佐竹氏によるものだろう。常陸国にも太平山があり、太平山神社は存在する。その太平山神社はそれ以前、三光神社と呼ばれ、やはり星を祀っていた。その太平山神社の末社は、上・中・下と合わせて63社あり、その中の下21社は何故か「往古ヨり神秘トシテ社号神明ヲイハス…。」とあり、謎のままである。常陸の国に居た佐竹氏は、奥州藤原氏とも繋がりを持っていた事を考え合わせても、信仰面でも繋がっていたようである。何より常陸国には、安倍貞任の伝承もある事から、蝦夷国の入り口の常陸国は、かなり古くから繋がっているのだろう。その常陸国には有名な星神である香香背男がいて、星に関する神社の数は全国一を誇るだろう。恐らく、古代の早池峯と常陸国は妙見を中心として関連があったのではなかろうか…。

画像の絵は北斗曼陀羅。正確には「終南山曼陀羅」と呼ばれるものだ。そこには十二宮、二十八宿、北極紫微大帝の坐す妙見殿の天官、更に三尸、三魂、七魂、五臓、等々が描かれている。その中に注目したいのは、滝があり女神が佇み、そこに民が願いをしている姿がある。
早池峯などの高山は、昔は修験者が登る程度で、民は恐れ多くて登る事は無かった。遠野では、人は死ぬと、その魂は滝で清められ早池峯に登って行くとされた。これは早池峯だけでなく、地域の高山全てにそういう信仰が伝わっていた。魂は天へと昇って行くもの。つまり、高山の頂は天に通じるか、天そのものと考えられていた。その早池峯の麓に、又一の滝がある。又一の瀧は、早池峯神社から更に奥へと進むのだが、又一の滝は旗屋の鵺などの話も伝わる事から、古くから又一の滝への道は開けていたのだろう。つまり、早池峯に登らずとも、直接早池峯の御神体に向かって祈願する事は容易であった筈だ。早池峰から繋がる天に対しての願いの入り口が、麓の滝である又一の滝であった可能性はあるだろう。
「衣川伝説」においても、妙見は恐らく水神であろうという事だ。星の神といえば、建葉槌命に倒された香香背男が有名だが、日本海の沖に浮かぶ星神島において雨乞いの神として、何故か香香背男が祀られている。星の神と水神との結び付きは、未だに理解できない面があるが、安田宗生「熊本の妙見信仰」を読むと、熊本の妙見神の殆どは水神であるという。安田氏曰く、恐らく水神に後から妙見神が習合したのであろうという事だ。考えてみると、妙見神は亀に乗って海を渡って来た女神であり、それは竜宮思想にも結びつく。熊本県神社庁の妙見神の見解は「熊本神社庁誌」によれば「神仏混合の熟した平安末期から鎌倉初期にかけて広まった。」としている。
ところで熊本県の妙見神の中で気になる神社がある。白川吉見神社は水神を祀る草部吉見神社から分霊された神社だが、その白川吉見神社では、社殿の前の水源を妙見としている。まあ湧水や水源を妙見としている神社は多いのだが、白川吉見神社の祭神は國龍神。つまり阿蘇の龍神である健磐龍命に嫁いだ草部吉見神社の水神である阿蘇津比唐フ事を言う。以前、阿蘇津姫は瀬織津比唐ナあると述べたが、この白川吉見神社ではその龍神である、阿蘇津比=瀬織津比唐ェ妙見神と結び付いている。
つまりだ、何故に水神である竜神と妙見神が結びついたのかは、やはり亀に乗って来た女神がそのまま伝えているのだろう。亀に乗っているのは龍神である女神であり、つまり亀は船の代わりであり、女神を運搬しているのだ。植野加代子「秦氏と妙見信仰」によれば、妙見という地名と秦氏が結びつく事に着目し調べると、秦氏の扱う織物であり鉱物であり酒などを輸送する場合に船を使用していた。つまり、水上交通である。その水上交通を抑えていたのは秦氏であった。例えば淀川も秦氏の勢力範囲内であるが、琵琶湖から流れる宇治川水系の淀川に祀られる與止日女は瀬織津比唐ニ習合し、宇治川の橋姫も瀬織津比唐ニ並び祀られる。水上交通に秦氏が関わり、秦氏と瀬織津比唐ェ強く結びつくのを感じる。例えば、「遠野物語拾遺119(神業)」においては、遠野の琴畑渓流の社に祀られていたのは瀬織津比唐ナあり、そこでは木流しという、やはり樹木と言う物資を川を利用して流す事が行われていた。前にも述べたように、琴畑には秦氏の影が見え隠れしている。
もう一つ、妙見と水神の結び付きを示しそうな話がある。平田篤胤「古史伝」では「必ずここは大虚の上方、謂ゆる北極の上空、紫微垣の内を云なるべし。此紫微宮の辺はも、高処の極にて天の真区たる処なれば、此ぞ高天原と云べき処なればなり。」と、高天原を称して述べているのは、高天原が本来、北辰崇拝に基づくものと考えたからである。そして妙見では、五と三の数字を重んじる。北極五星は天上の最も尊貴な星とされるのだが、その中でも三星は特に尊い星とされている。その三と五の組み合わせに関する神話が「古事記」に登場する。それは天照大神と素戔嗚尊による誓約の場面だ。そこで三女神と五男神が生れるのだが、その後の扱いを見ても、三女神の扱いを重視しているのは、三女神と三星が結び付くからと考える。その三女神は宗像三女神で、水神である。その宗像三女神の中でも多岐都比売命を祀る中津宮である大島には星の宮があるのを知った。またその大島には星の信仰をしたであろう安倍一族の安倍宗任の墓も存在する。以前、多岐都比売命は瀬織津比唐ナは無いかと書いたが、星を通してここでも繋がる。とにかく「古事記」に於いても、水神と星神の結び付きが成されていたのである。

「吾妻鏡」に登場した九本足の奇妙な馬だが源頼朝は「房星の精なり。これを愛するに足らず。今これを千里に却けらる。」として陸奥に放たれたという。房星は房宿で二十八宿の占を調べればこう書いている。
「生れながらにして人を制し、また人に好かれ、頭が切れる。民衆の心を掴み人の上に立つ存在」
「吾妻鏡」に突然出てくる奇妙な一節だが、恐らく二十八宿に照らし合わせ源義経を見立てたものであったろうと考える。また九男であった義経の九も、これ以上ない最高の意味を表し、そういう意味合いからも源頼朝は源義経を傍に置きたくない存在であったのだろう。深読みすれば、九という数字は妙見の九曜と重なるからではなかったろうか。源頼朝の時代には、星を信仰し朝廷に背いた安倍貞任や、妙見神を深く信仰し、やはり朝廷に背いた平将門の話が、まだ生々しく生きていた筈だ。その源義経と見立てられた九本足の馬を陸奥国へ放したという。これもまた意味深な話であるが、源義経の存在を星に見立てて恐れた源頼朝と捉える事も出来る。
古代の星に関するものでやはり有名なのは悪神と呼ばれた香香背男で、別名「天津甕星」とも云う。その香香背男の伝承で有名な大甕神社の縁起に「倭文神大甕山にて悪神香香背男の変じたる大石を蹴倒しけるに、石四方に裂けて飛び散れり。その一は海中に入り、残りの石のとどまりし所、石神、石塚、石井と称ふ。」この香香背男が石になったものが大甕神社にて宿魂石として祀られているが別に「魔王石」とも呼ばれている。
江戸時代になり、水戸黄門としても有名な徳川光圀が、この魔王石に着目している。寺社奉行に宛てた書簡に「魔王石へ久慈、鎮守為引申候」とある。魔王という言葉の意味は仏道修行や善事の妨げをする悪鬼の頭であり、西洋で言えば魔王ルシファーみたいな存在である。
この魔王石がある地は、天台宗の山岳寺院であり、明治時代の神仏分離によって花園神社となった辺りである。そこへ行く為には必ず石名坂を通らねばならない為、石名坂がどうも入峰にあたっての入り口であったようだ。その石名坂こそ、香香背男が陣をはったところであった。そしてその石名坂の村に羽黒明神が祀られていたのは、羽黒修験との関わりが深かった為であったようだ。つまり常陸国に広がる修験の全体が羽黒修験の管理下であったよう。
先に紹介した、宿魂石のある大甕神社…正式には大甕倭文神社の祠官の所有する文書によれば「天正十二年春初メテ石名坂村歯黒明神ヲ勧請シ祠官トナル」とある。天正十二年(1584)であるから、信長が本能寺で死に、秀吉が関白となる前の年となる。しかし「元禄二年春羽黒明神ヲ御取潰シ」とあり、何故か徳川光圀の意向により、元禄二年(1689)に羽黒明神が取り潰されてしまった。
この羽黒明神が勧請された天正十二年(1584年)から取り潰された元禄二年(1689年)の間にどういう事件があったのか調べて見た。着目したいのは、石川五右衛門が文禄3年8月24日(1594年)に捕えられ、京都三条河原で一子と共に煎り殺されたという事件だ。この石川五右衛門には、星に関する伝説が伴う。石川五右衛門は、庚申の日に生まれたというものだ。それから、庚申の日に生まれた子供は大泥棒になるという噂が広まり、それを避ける為に金の文字を名前に入れれば良いとされた。つまり、お金が無かった為にお金を奪う大泥棒であった石川五右衛門であるから、初めから「お金」を持っていれば良いという意味合いであったのだろう。その俗信はかなり長い間続き、有名どころでは夏目漱石(本名 金之助)もやはり庚申の日生まれで、親が金の字を名前に付けたという。
江戸時代の俗信に、星の輝く夜というのは太陽も月も出ていない真っ暗な夜を意味していた。つまり、その夜に蠢くモノは悪鬼であり魑魅魍魎であり、大泥棒などの、お天道様の下で動けない、悪いモノというレッテルが貼られていた。その俗信の発端になったのは当然、石川五右衛門も登場するだろうが、遡れば朝廷に逆らい妙見を信仰した平将門がいて、香香背男がいる。
妙見信仰は明治時代になって正式に邪教として扱われたのだが、既に江戸時代には邪教とされていたようだ。徳川光圀が何故に羽黒明神を元禄二年に取り潰したのかは恐らく、その発端が石川五右衛門の存在では無かったろうか。強固な幕府体制を敷く為にも、そういう反逆分祠や反逆的な信仰を断つ必要性を感じたのかもしれない。そして何故に羽黒明神を取り潰したのかは、羽黒修験そのものが北を重視、もしくは神聖視した信仰、つまり妙見信仰であり、それに関わった天台宗そのものが星の宗教と呼ばれる存在であったからだろう…。

「地神第二子白山瀬織津置倉宮ハ東馬場ノ麓宮ニ坐ス。東夷異国征伐ヲ為神宮ヲ東麓卜ス。託宣記曰、慶雲二年我大将軍為兇賊陣ヲ誅シ平グル。天慶年中官軍鎮飽一乗之法味勢力我勝。」   【白山大鏡】
「白山大鏡」の文中に登場する瀬織津比唐ヘ、白山神の霊験のイメーシとは裏腹に、戦にね加担する霊威を示している。これは、養老年中に熊野神として室根山に蝦夷を平らげる為に連れて来られた瀬織津比唐フ姿と同じである。気になるのは、瀬織津比唐ェ「地神第二子白山瀬織津」と認識されている事である。例えば、別山の小白山別山大行事が、実は元々白山剣ヶ峰の西に本宮があった地神であったのを、後に白山妙理大菩薩に譲りったと伝えられる。これは泰澄による白山権現に対する信仰が成立する以前、本来の神が祀られていたという伝承がある。その白山の地神とは、農業用水の水源を司る水源神であり、それは水神であり龍神と伝えられる。その神とは現在、白山信仰に神名を見出せぬ神、それが瀬織津比唐ナはなかったか。
「白山由来記」には「凡そ白山絶頂ハ高天原凡天宮、千倉天神、置倉地神ノ雪嶺也。」とある。先に紹介した文には、瀬織津比唐ェ置倉に坐しているのがわかる。その白山絶頂(禅定)には緑碧池がある。「泰澄伝記」によれば、泰澄は白山天嶺の禅定に登り、緑碧池の畔で一心不乱に礼念加持し、三密の印観を凝らし、五相の観に入って身心を調え、呪遍を口に満たし、その念力は骨をも徹した。その祈念が通じ、ついに池の中から九頭竜王が形を現した泰澄がこの九頭竜王に対し、これは方便の示現である。本地の身ではないと責め立てると、ついに十一面観音の玉体が出現したという。つまり、九頭竜と十一面観音とは、本地垂迹の関係でもあると言って良いだろう。それは十一面観音を本地とする、水神であり龍神こそが、白山の地神であると。
そして「白山大鏡」で一番注目すべきは「天慶年中官軍鎮飽一乗之法味勢力我勝。」のくだりである。天慶年中の戦に何があったかといえば、天慶二年(939年)秋田城下で俘囚の反乱が起き、そして平将門の乱と藤原純友の乱が起きている。朝廷では「純友、将門が謀を合せ心を通わせ、此の事を行うに似たり。」と驚きを隠せない言葉を吐いている。この天慶年中の戦乱に、白山神でもある瀬織津比唐ェ関係している。しかし、平将門が信仰した神は妙見神であり、それに白山神が、どう関わっているのか。
九頭竜といえば、現在福井県に流れる九頭竜川がある。この九頭竜川の呼称は明治時代になっての事で、それ以前には、いくつもの呼び名がある中に「黒竜川」という呼称に注目したい。この九頭竜川の流れる福井県の八重巻東町に、寛平元年(889年)に勧請された白山神社がある。その由来には、寛平元年に平泉寺の衆徒に白山神が示現し、その尊像を川に浮べると、九頭竜が出現し、黒竜明神の向かいに留まった事から黒竜川と呼ぶようになったそうだ。これはつまり、黒竜と九頭竜は同体であるという意味になる。そして付け加えれば、文中に登場する平泉寺とは、平泉寺白山神社であり、奥州藤原氏の平泉の命名には、この平泉寺白山神社来ているという。天文六年( 1537)成立の「霊応山平泉寺大縁起」に、「秀衡は、寿永二年( 1183) に白山へ銅像2 体を奉納し、平泉寺へは釣鐘を寄進した。そして、自分の住む城郭を平泉館と改めた。」とある。現在も平泉の地に白山神社が鎮座している事を見ても、白山神社と奥州藤原氏の関係が深いである事を示しているだろう。
ところで九頭竜は九つの頭を持つ恐ろしい竜との認識があるが、それ以外にも九つの頭であるから八俣の蛇、つまりヤマタノオロチではないかなどとの説がある。しかし本来は、国津竜の転訛から来ているという説が有力の様だ。だがここで黒竜と重なる事を考えれば、九頭竜とは妙見の九曜と関係があるのではなかろうか。何故なら既に、黒竜そのものが妙見神であるからだ。「遠野物語拾遺46」では、黒蛇大明神が早池峯の神と結び付けられている。この黒蛇大明神は、黒竜でもあった。それでは黒竜とはどういう意味かと言えば、陰陽五行の北に位置する色が黒であり、その北に鎮座する竜を黒竜で表し、それは妙見神でもあった。
早池峯の山中周辺に表記される名称は、白山のそれとほぼ同じであるのは、白山神と早池峯神が結び付けられたからだ。実は、上の画像を見て分かる様に、白山神と熊野神と早池峯神が奥ノ院に祀られ同体とされている。つまり北に鎮座する早池峯の瀬織津比唐ニは、熊野神であり白山神でもあった。
十一
天慶年中に、平将門が建立したと云われる五重塔が、羽黒山にある。ただ平将門は天慶二年に蜂起し、天慶四年に敗れているので、実際に五重塔の大旦那だとしても天慶年中にこの五重塔を見る事は無かっただろう。この五重塔が何故に平将門と結び付けられたのかは、やはり妙見信仰に関係するからだろう。内藤正敏「羽黒山・開山伝承の宇宙観」では、その五重塔内部に羽黒三所権現が本尊として祀られているを紹介している。中尊を羽黒山本地仏の聖観音、その脇士に軍茶利明王と妙見菩薩が置かれているのだと。羽黒修験の口伝によれば、聖観音は太陽で、妙見菩薩は北極星、軍茶利明王は南斗六星であると云う。そして、その五重塔の正面に立つと、その向きは東を向いており、そこには羽黒山山頂と安久谷がある。この羽黒山本社に立つと、北に向って拝む事になるという。それはつまり、方違えの呪法であろうから羽黒もまた、北を重視した信仰であるのがわかる。
しかし、この羽黒山三所権現が、各々太陽・北極星・南斗六星という事には疑問が残る。まず、日本では北斗七星ばかりが有名で、南斗六星は馴染の無い星になっている。この北斗と南斗を配する構造だが例えば、古代中国の都に長安があり、そこに斗城と呼ばれる城があった。正確には長安城の事を言うのだが、その斗城とは北斗と南斗の図が描かれた城であり、その城を中心に考えられ、長安そのものが斗の都であった。
「北斗は死を司り、南斗は生を司る」という伝説があるが、長安城の北斗と南斗の図は、あくまで長安城の中心に天極としての北極星があってのものとしての、北斗と南斗であった。そして、それと同じ構造が、伊勢神宮にも配されていた。上記の図は吉野裕子「大嘗祭 天皇即位式の構造」から拝借したものだが、北極星を中心に配された北斗と南斗と同じように、伊勢神宮では正殿、そして荒祭宮を北の中心として、西宝殿と東宝殿がそれぞれ北斗し南斗を表しているという。つまり、北斗と南斗は、北極星を中心とする構造が一般的である筈だ。それ故に羽黒三所権現の中心を太陽とするのには、疑問である。恐らく、 能除太子が八咫烏に導かれたという伝承による影響が大きいのだろう。
熊野で云われる神武天皇を導いた八咫烏は太陽の象徴であり、その熊野修験が羽黒山へ行き、羽黒修験の元となった。その為、本来は熊野大神が羽黒神として祀られたのだったが、羽黒側が熊野修験を排除し、独自の由緒を作り上げたらしい。しかし、その熊野の影響である八咫烏は消える事無く、今でも羽黒に伝わっている。羽黒の意味も、八咫烏の黒羽に関係していると云われる。その為に、太陽信仰も残ったままなのだろう。だがそれは、由緒の迷走から来たものだろう。羽黒修験の基本は天台宗から始まる星の宗教であった筈だ。そこには北を重視する北辰の信仰がある為、羽黒三所権現の中心に来る聖観音は、北極星を意味する筈だ。だからこそ、妙見の北斗と軍茶理の南斗が意味を成してくる。
早池峯から発生した水が流れ、滾り落ちる又一の滝の本来の名は、天の中心の"太一の滝"であったろう。その滝を御神体とする早池峯の女神である瀬織津比唐ヘ、伊勢神宮の荒祭宮に祀られる。その荒祭宮は、伊勢神宮の北の中心となる太一であった。瀬織津比唐ニは、白山神であり、熊野神であり、伊勢神宮に到っては、アラハバキと結び付く妙見神でもあった。蝦夷国における瀬織津比唐フ中心は早池峯であり、妙見・伊勢・熊野・白山と、まさに宇宙の中心の神が早池峯に鎮座したようでもある。平将門の乱が蝦夷と連動したのでは無いかと思えるのは、最初に紹介した書簡。
「天慶三年二月廿六日、陸奥国言上飛駅秦状伝、平将門率一万三千人兵欲襲撃陸奥出羽両国云々…。」
陸奥国司などが、平将門が攻めて来ると怯えたのは、平将門と蝦夷の民の信仰が同一であり、その蝦夷の神でもある瀬織津比唐中心に、反朝廷の意識が高まり連動すると判断されたからであろう。星の信仰は、朝廷に対する反逆の信仰でもある。それは、古代の悪星神"香香背男"から始まっていた。その香香背男の「カカセ」とは「穢祓」を意味し「ヲ」は接尾語である。西国では水神と伝えられる香香背男は、つまり瀬織津比唐フ変化でもあったのだ。
桓武天皇の無数にいる落とし子の一人である平将門が、皇位に就くとは有り得ない話。唯一それを成し遂げるには、自らの血を錦として謳い朝廷を倒さなければならなかった。しかし、平将門を守護していた筈の妙見神は、平将門の心変わりを感じ、平将門から離れたと云う。その平将門を倒したのは、藤原 秀郷である俵藤太であった。その俵藤太は、瀬田の唐橋において、桜谷に鎮座する瀬織津比唐ノ見込まれ、百足退治をした人物であり、その褒美から竜宮に招待されたという伝説を持つ人物だ。瀬織津比唐フ加護が平将門から俵藤太移ったのは、偶然ではあるまい。そして、その俵藤太の末裔が遠野を支配したのも偶然では無い筈だ。
源頼朝が奥州征伐の後、軍功として阿曽沼氏に、早池峯に護られる遠野を与えた。歴史上はあくまでも軍功としてである。しかし、阿曽沼氏に脈々と流れる俵藤太の血を、頼朝が欲したからではなかったか。
蝦夷と連動したであろう平将門の乱の中心にいたのは、妙見神であった。その妙見神と同じ神を信仰する安倍一族と、源義家は敵対した。そして、その安倍一族の信仰を受け継いだ奥州藤原氏を滅ぼしたのは、源頼朝であった。その源頼朝の心配は、次なる反乱であったろう。古代の蝦夷の蜂起が、庚申の年に起きたという事実に対し、そこに発生したのは為政者としての不安であったろう。日本の歴史上、常に為政者に対して反乱してきたのは星の信仰を持つ者達であったからだ。だからこそ、平将門を倒した俵藤太の末裔である阿曽沼氏を、妙見神でもある早池峯の麓に置いたのではなかろうか。
然らば則ち石の星たるは何ぞや。曰く、春秋に曰く、星隕ちて石と為ると「史記(天官書)」に曰く、星は金の散気なり、その本を人と曰うと、孟康曰く、星は石なりと。金石相生ず。人と星と相応ず、春秋説題辞に曰く、星の言たる精なり。陽の栄えなり。陽を日と為す。日分かれて星となる。   「日本書紀纂疏」
星が堕ちて石となり、その石は金の散気であると信じられていた時代、その金を自在に操る蝦夷の民が居た。未だに蝦夷の民が鍛えた蕨手刀の鍛練法と、その原料である鉄の出所は謎のままである。その蝦夷の信仰する星神は、山に鎮座する山神でもあった。その山を中心とする信仰と文化と技術に、幼少時に陸奥国に住んでいたと云う平将門は影響されたのだろう。しかし、その信仰と文化と技術を土台として、自らが頂点となるよう新皇と名乗った事により、その神が離れてしまったのだろう。平将門の信仰した瀬織津比唐ニいう神は、神名こそ歴史の表には出ないものの、常に時代の動乱の中に生き続けていたようである。
 

 

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