弘法大師 修行の旅 関連諸説

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雑学の世界・補考   

年中行事覚書 / 柳田国男

卯月八日
折口氏の髯籠ひげこの話の中に「卯月八日のてんとうばななども、釈尊誕生の法会ほうえとは交渉なく、日の物忌ものいみに天道を祀まつるものなるべく、千早ふる卯月八日は吉日よ、神さけ虫を成敗せいばいぞする、と申すまじない歌と相俟まって意味の深い行事である。ただし竿頭かんとうのさつきの花だけは花御堂はなみどうにあやかったものであって、元はやはり髯籠系統ひげこけいとうのものであったかと推察する。なお後の話の都合上この八日という日取りを御記憶ねがっておく」とある。我々は無論今もこの興味ある新説を記憶はしているが、折口氏はまだなかなかその続きを発表せられない。ただ催促するのも失礼と存じ、そちらの方の材料を少々提出しておく。
折口氏はいわゆる天道花の花と竿とを引離して、竿は日本の卯月八日の用に立て、花は天竺てんじくの仏誕会ぶったんえに返してやろうとせらるるらしいが、それは少々むつかしい。この日花を神に捧げる風習はいかにも広く行われているが、必ずしもことごとく竿の頭に付けて立てはせぬ。現に孝経楼漫筆こうきょうろうまんぴつに依れば「江戸四月八日に卯花うのはなを門戸に插はさむ云々」とある。少なくともその一部では竿を用いなかったのである。木曾の村々でも家の戸口に山躑躅やまつつじを打付けてあるのを自分は目撃した。伊那谷ではこれを後に苗代なわしろに立てるという。熱田神宮四月八日の花の頭とうは剪綵花つくりばなを飾ったらしく、張州府志など迄が、これを灌仏会かんぶつえの一種の式と断定しているが、それらしい証拠もないのみならず、諏訪大明神画詞えことばの中に詳つまびらかに見えている花会はなのえの式の如きも、七日八日の両日に分って右左の頭役とうやくこれを勤仕きんしし、社僧これに干与したにもかかわらず、正まさしく神事であったことが分る。すなわちまた竿なしの花を用いた古い一例である。
花の窟いわやの花祭はあまり物遠いとしても、日前国懸両宮往古年中行事ひのくまくにかかすりょうぐうおうこねんじゅうぎょうじにも「四月八日供躑躅つつじをそなう」という例はあるので、自分等はむしろ何故に釈迦誕生に花御堂はなみどうを作り始めたかを考えて見たい位である。塩尻四八には男山八幡、毎年六月の花の頭とうの式が、熱田四月八日の例とよく似ていることを述べ、後者は灌仏会かんぶつえにして、前者は夏中の供花きょうかに起ると説いているが、単に期日が四月八日であるために、この差別を認めたのならば誤りである。しかし社僧しゃそう等が名づけて供花といった風習とても、なお何れの点まで仏法の教えに基づいているかを考える必要がある。
後水尾院年中行事四月十六日の条に「きょうより黒戸くろどにて夏花げばなを摘ませらるる云々」とあって、伊勢と内侍所ないしどころへは三葉ようずつ、他の大社は二葉ようずつ、諸仏七葉、御先祖七葉などと記されているが、その花摘の行わるる日も同じ月の八日であった例が多い。日次ひなみ記事に依れば、東寺とうじなどで花摘といったのはこの日花御堂を結構して、小釈迦こしゃかの銅像を安置することで、この日また比叡山戒壇堂かいだんどうの仏生会ぶっしょうえに、女人等の常は登拝を許されざる者も参詣し、同じ序に東坂本栗坂ひがしさかもとくりさかの上なる花摘社はなつみのやしろに詣ずるとある。しかしその花摘社が仏誕生と関係があったことは未だ確かでなく、近江輿地志略おうみよちしりゃく二十二の如きはこの社の祭神を伝教大師の母なりと言い、この日は女子此処まで登り拝し、それより七月八日まで一夏の間花を摘み仏に供するのが例であるとのみ記している。なるほどこの日が女に取って最も名誉ある記念すべき日なる故に、この日を以て祀まつらるる結界けっかいの社に、花摘の名が起ったのだとも説明し得るか知らぬが、一たび他の地方の事例を比較して見ると、根原の必ずしもそう単純でなかったことが窺い知らるるのである。
越後出雲崎の旧事を収録しゅうろくした「出雲崎」という書に曰く、西越後の村々の婦女、毎年四月七日には精進潔斎し、八日は早天に晴れの衣を着て近き山々に行き、藤の花房ある手頃の一枝を採り還り家の仏壇に供う。米山の薬師へ捧ぐる意にて当日餅団子を作り、業を休むは古来の習なり。此風慶長頃特に盛んにしてあるいは奢侈しゃしの傾あり、支配掘家しはいほりけより四月八日山入厳禁の命あり、追々衰えたりしも、今も村田辺(三島郡島田村大字村田?)にこの遺風あり、名づけて藤の花立はなたてというと。
この話の中で注意すべきことは、第一には釈迦と言わずして薬師と言ったことである。月の八日は薬師の賽日さいにちには相違ないが、この類の薬師はかえって八日という所から祭り始めたのではないかと思わるる仔細がある。陸中水沢みずさわに近い化粧けわい坂の薬師が、昔人柱に立った京の小夜姫さよひめという女の護持仏と伝え、またこの日を以て祭られるなどはその著しい例である(郷土研究二巻六九一頁)。美作みまさか勝田郡豊国村大字上相かみあいの間山はしたやま薬師で、毎年この日痩御前やせごぜと称する像を人が裸になって背に負い、群衆手を叩いて「おかしやヤセゴゼ」と囃はやして大笑いに笑う中を、「おかしゅうも候わず」と言って些すこしも笑わずに、薬師堂を三周すれば福を授かると伝うる式があるなど(東作誌とうさくし)、細男せいのうと関係があるらしい古めかしい風習で、やがてまた薬師の信仰が後に起ったかを思わせる。
第二に注意すべきはこの日山に登るということである。卯月八日を山登りの日とする習慣は至って広く行われているらしいが、その外にも山に斎いつかかる有名な社にこの日を祭日とする例は多い。近くは武州秩父の三峰神社、上州横室よこむろの赤城神社、駿河の愛鷹あしたか明神、越中の立山たてやま権現、大和では纏向まきむくの穴師坐兵主あなしにますひょうず神社、東北では羽後飽海あくみ郡の国幣こくへい中社大物忌おおものいみ神社、同雄勝おがち郡大沢の荒羽波岐あらはばき神社、北秋田の七座ななくら神社森吉神社等、陸中石巻の白山はくさん神社、磐城いわき倉石山の水分みくまり神社、九州では薩摩串木野の冠岳かんむりだけ(西)神社など、何れも旧来卯月八日を以て祭日としているのである。
さらに第三の点は婦人が登るということであるが、これも仔細のあろうと思わるるは、
(イ)には、女神を祭る社の四月八日を祭日とすることである。例えば玉依姫たまよりひめを祭るという下総しもうさ香取郡の東ノ大神、草奈井比売くさないひめという諏訪の蓼宮社たでのみややしろ、倭迹々日百襲姫やまとととひももそひめを祀ると伝えた讃岐の一ノ宮田村神社、あるいは倭姫命やまとひめのみことを祭ったのが始めという江州ごうしゅう土山の田村神社などの類で、この外にも新暦に引直した社がなお多かりそうである。
(ロ)には神蛇体なりという言伝えの往々にして存することで、しばしば水の辺においてこの日の祭を行うことがこれと関連するらしい。伊勢鈴鹿郡の鶏足山は卯月八日の登山を以て聞えたる霊地である。寺では千手観音を本尊にしているが、而も山上に鏡カ池というがあって、傍かたわらに善女龍王ぜんにょりゅうおう雨壺の三祠さんしを斎いつき祈雨きうの神として仰がれていた(三国地志二十六)。浮島を以て知られている羽前大沼の浮島稲荷神社も古くから例祭は四月八日で、祭神宇迦之御魂さいしんうかのみたまというも元は宇賀神すなわち弁才天の信仰に始ったものらしい。
鍋の祭で評判の江州筑摩神社の如きも、社殿大湖に臨んで竹生島ちくぶじまに向い、今は主神を大御食津神おおみけつのかみとしているが、以前は市杵島姫命いちきしまひめのみことと伝えていた(木曽路名所図会)。祭は同じ四月の八日で八人の童女を玉串を以て定め一月の物忌ものいみさせて神事に仕えしめた。前に挙げた陸中化粧坂の薬師堂に美女を以て池の神の牲いけにえとした口碑を伝えるのも、その薬師の賽日さいにちという四月八日と関係あることは、同時に報告せられた武蔵井ノ頭の弁天の申し児なる長者の娘が、池に入って蛇体となったのも同じ日という話(郷土研究二巻六九二頁)と見合わせても推測し得られる。さらにまた野州葛生の峰渡権現ねわたりごんげんにおいても、昔蛇体となったという長者の妻の供養を、同じくこの日に行う例であったといい、四月六日を以て例祭とする近江伊香郡の大音おおおと神社にも、やはり弘法大師が池の主を済度さいどしたという、かのせせらぎ長者の妻つま虎御前とらごぜんの話(同上四巻三三九頁)と相似たる話を遺のこしている。
諸国に数多の跡を留めたトラという比丘尼びくには、立山および白山に伝えているトウロの姥うば、さては大和の金峰山で古く説く所のトラン尼と、起原は皆一つであろうという迄は前にすでに説いたが、自分は独り窃ひそかにこれを生島足島いくしまたるしまなどのタル、および大帯日子おおたらしひこ・大帯日女おおたらしひめなどのタラシとも同じ語で、社頭の霊泉をミタラシと呼ぶことも、これと関連しておりはせぬかと思っている。豊後国東の海上にある姫島にも大帯八幡おおたらしはちまんの社がある。以前はこれを大虎八幡おおとらはちまんと呼んでいた。祭の日は四月八日と七月七日とで、その七月七日も水の神に縁のある日である。
秋田市の古四王神社の付近には、もと船ガ沢という地に虎ノ井と称する清水があった。四月八日の祭の日に木馬を灌あらい奉るより外の用には用いざる水であったという(蕉雨雑筆)。祭の日に神輿みこしを霊泉の上に迎えまつる例についても、前にちょっと述べておいたが、いわゆる神輿洗いもしくは浜下りの例は、諸国にあまり多くあってこの序に列挙することもむつかしい。ただその中で自分の珍しいと思ったのは、大祭の日の神事とは独立してこの儀式のみを行うもの、言わば浜下りのための浜下りを行う地方のあることである。たしか仙台領にもこの例があったかと記憶するが、自分が高木誠一氏から聞いた所では、磐城いわき四倉浜にも村々から神輿を海岸へ舁かついで出る風があって、その日がやはり四月八日であった。
そこで立戻ってこの日を重要なりとするに至った理由を考えて見る。熱田の花の頭とうなどは、書物に由っては「花の堂」とも「花の橈とう」ともさまざまの字を当てているが、これを諏訪の花会はなえの古式に比べて見れば「花の頭とう」と書くことの正しいのが分る。頭とは頭人または頭屋の頭で、年番の司祭者を意味する。熱田にも郷頭人輔頭人ほとうにんの二人があって、毎年四月晦日を以て選定せられ、翌年の五月六日まで神務を執って次の頭人と交代した。その二人の頭人は四月晦日の夕方に鈴宮の海辺に出て解除(御祓おはらえ)をしたので、この式をば頭人浜下りと名づけていたそうである(張州府志五)。
それから推測を下すと、四月八日は五月田植の季節の祭のためにする斎忌ものいみの始めの日ではなかったかと思う。農民に取って最も大切なる米作安全の祈祷と予言とが、五月の上旬いわゆる端午の節供を期として行われたとすれば、四月の八日はほぼ散斎致斎さんさいちさいの日数に合うので、元は必ずしも八日ではなかったかも知れぬのは、上に列記した祭日の外に卯月上卯日うづきかみのうのひと定めた社もあるので察せられる。
婦女が田植の儀式に深い関係のあったことは、今も早少女さおとめの晴がましい支度に跡を留めている。その中の一人を選定してオナリといい、ヒルマモチと称し、特に神に仕えしめていたらしいことも俚謡集の多くの田歌たうたに由って察せらるる。彼等がその準備として通常の生活と別れる際に、山に入って花を摘み、海川に下って身を潔め、少女としては容易ならぬ気づかわしき謹慎を始める事は、花やかにして、同時に物哀れな光景であったことと思う。仏教の干渉かんしょう介助かいじょが始まってこの作法のやや弛ゆるんだ頃に、すなわちかの多くの水の神が妻を※(「不/見」、第3水準1-91-88)もとめる話は起ったのであろう。
出雲大社などではこの日魚膾うおなますを設けて醴酒あまざけの宴をする式があった(大社志)。河内の誉田こんだ八幡でこの日の若宮祭礼に造花を飾った壇輾だんじりを曳くのも、壱岐の住吉社でこの日軍越くさこえの神事と称し神馬を牽いて村々を巡るのも、他の諸社の祭典と共に、さらに重大にしてさらに静粛なる稼穡かしょくの祭の予備の儀式から発達したものではないかと思う。仮にこの推定の如しとするならば、八日の日に戸口に插さす季節の花を物忌の徴しるしと見るまでは異議がなく、折口君が天道花の天道という二字に重きをおかれた点だけは、いかなものかということに帰着するのである。 
サンバイ降しの日

 

田の神の祭場は以前は、苗代なわしろの真中であったのが、後々水口みなくちから田の畔くろの一部に移り、さらに家の中で臼うすを伏せ箕みをあおのけ、または床の間や神棚の上でも、祭をするようになったものと私は見ている。「村」という雑誌に書いた「苗忌竹なえいみたけの話」は、不十分ながらそれを説こうとしたものであった。島根広島二県の間に行われる大田植には、サゲと称する田人たびとの頭取とうどりが、高い杖を携えて出場する。サゲはおそらくその杖の名で、サの木だからサギといったものであろうが、現在はサンバイ降しの日になってからこれを田の中に立てるから、苗忌竹との関係が不明になった。
佐渡の二見などの三把苗植でも、楢ならの一枝をその三把の苗の真中に插さして、ここを植えるときに田の神節ぶしを歌い、またその楢の枝を田の神降臨の目標だといったそうだが、これまたすでに植田の中のことであって、苗代においてはその苗がいかに取扱われていたかを知ることが出来ない。ところが信州などのタナン棒、または田の神さまの腰掛ともとまり木ともいう楊やなぎの木は、もう苗代の代掻しろかきの日から立ててあって、固い家では三把の苗を、その田神棒たのかみぼうの根もとから採ることにしている。関東の苗尺なえじゃく、石城いわき地方の苗見竹、それより東北一帯にかけての家々の苗じるしは、何れも籾播もみまき以前から苗代の真中に立てられ、それを目当てに種を撒くために存在するものの如く言い伝えているが、しかもその苗じるしの根もとに近い苗が、特に大事な苗だと思っている人は、あるのかも知らぬが私はまだ聴きいていない。
何でもない逸話のように笑って語ることで、私ばかりが早くから気をつけていることは、大昔弘法大師が天竺てんじくから、稲の穂をそっと持ってござった時に、後々稲荷に祭ってやるからという約束をして、狐にその種子を芦原あしはらの中に隠かくさせた。その目じるしに立てられたのが苗じるしの起りだということである。この話はいろいろと形をかえて、今でも日本全国に分布しているのだが、これを苗じるしと稲荷とに結び付けたものは少ないらしく、しかもこの点がかなり有力な一つの暗示であった。
簡単な言葉では説き現わせないが、信越一帯の広い地域では、春播まく籾種もみだねに限ってこれをスジと呼んでいる。家に伝わる米の種にも系統があり、これを次の年の生産に引継ぐにも、収穫期以後の幾つかの儀式はあったようで、祭はすなわち田植の始め終りの、短い日数を以て完成することが出来ないものだった。その点が今や漸う忘れられようとしているのである。讃岐大川郡のたった一つの戦後の小見聞しょうけんぶんが、かくまで私を動かしたのには理由があった。
そこで改めて諸君に尋ねて見たいのは、故宇野博士のいわゆる稲米儀礼とうまいぎれいは、いかなる日取りを以て、香川県では行われているだろうかということである。私などの知っている限りでは、阿波の北部の村々では種下しの日、苗代の畦あぜの内側に樹きの枝を插し、焼米やきごめと雑魚ざことを供えてサンバイを祭った例があり、伊予大三島の北端の村には、正月二日に米一升を年神としがみに供えて、これをサンバイオロシという習わしもあったが、その他の広い地域は一般に、この神を降し申すのは初田植、すなわちこの辺でサイケまたはサイキ、他の土地ではサオリ・サビラキ・ワサウエともいう日に限っているかと思うがどうであろうか。果してこの想像の如しとすれば、そこにまた一つの不審が生まれて来る。すなわちそのサンバイ降しより以前、および田植終りのサンバイ上げより後に、田ではどういう神を祭ったか。それとサンバイ様との関係はどうなっているものと、今日は考えまたは解せられているかということである。 
臼うすの目切り

 

ミカワリ考の著者として、自分が今大いに知りたがっていることは、旧十一月二十三日夜の国巡くにめぐりに、大師だいしさんが石臼の目を切ってあるかれるという伝説が、現在どの範囲にまだ残り伝わっているかということである。何かの折に年寄りなどがふと言い出しはしないか。これからもどうか気をつけていてもらいたい。御承知の通り摺臼すりうすが一般農村に普及したのはそう古いことではない。石臼の目がつぶれると、目に見えて能率が低下するものだが、これには石屋の持つ特殊な道具が入用だから、手細工ではどうもならない。それをある一夜家人の知らぬ間に、そっと来て目を立てて使いやすくしておいて下さる方があるというのだから、小さいながらこれも信仰である。
然るに江戸などでは、正徳しょうとくの初め頃にこれがはやり、当時のいろいろの書に見えているのを、それから百年余り後に流行した、石塔磨きという墓地の不思議と一つにして、妖怪あつかいをした学者もあった(ききのまにまに、天保元年記事)。田舎いなかの方でもこの霜月大師講しもつきだいしこうの晩だけは、娘たちが内庭の石臼の側を、怖こわがって馳けて通ったという話を、たしか越後の人に聴いたように思う。古い言い伝えの受入れ方が、年と共に少しずつ変って行く例である。
民間伝承では、四巻の三号に、青森県の例が一つ出ている。東津軽の駒込村などでいうことは、弘法大師は十二年に一度ずつ丑うしの年に村を巡って擂鉢すりばちに目を打って行かれる。青いきれいな衣を着て知らぬ間に通ってあるくから、丑年は擂鉢をきたなくしてはおけないともいうそうである。擂鉢は石臼から考案せられたまた一つの文化であろうが、これは焼きものだから目を切るということは考えにくい。それでただ一の字や八の字を付けて行くといったり、または塗り膳の上に円い一銭銅貨ほどの跡をつけて行くともいったりするが、とにかく大師の立寄った家では身上しんしょうがよくなると言って、今でもひそかに心待ちにしている人もあるという。ただしその期日は二十三夜とは限らず、秋の末からとも、または春から秋へかけて、廻っておられるともいうそうである(以上)。
これは一ぺん本誌に出たことだが、大分持っている人が少なくなったからもう一度掲げておく。私の目的は石臼擂鉢の空想は新しいにちがいないが、それはどういう信仰状態の下に生まれ、どれだけの区域にまで流布するに至ったかが考えて見たいのである。なお付記したいことは、明和八年のお蔭参りの後に出た「抜参夢物語ぬけまいりゆめものがたり」という書にも、人家の石臼が知らぬ間に目を切りかえてあるのを、弘法大師の所行しょぎょうとする説があったと述べている。これはたしか上方の出版物であった。石臼の目立てを業としてあるく者は、信州北部その他に少しずつはあったようだが、それの全く巡って来ない村も多く、石が軟かくて早く目の潰つぶれた臼などは、まことに始末の悪いものだった。 
二十三夜塔 

 

跡隠しの雪
あるいはまたその貧しい家の婆が、足は擂木すりこぎのように指のない片輪であった。これではこの女の所業ということがすぐ露あらわれる故に、雪を降らせて足跡を隠して下されたのだという処も少なくない。ところが越後の魚沼地方などでは話がまた少しばかりちがっていて、この霜月二十三日の夜更に、村々を巡ってあるかれる大師という人の、足がデンボであったともチンバであったともいい、それで自らの足跡を人に見せぬように、雪を降らせたまうというように伝えている。
これはたしかに同じ話の二つに分れたものであるが、この方が古くからのものだろうと思うわけは、跡隠しの伝説の全くない土地にも、なお霜月三夜の大師さまは、跛者はしゃであったとも片足神かたあしがみだったともいう者が稀でないのである。人は大師と聴くとまず弘法大師のことと思い、それから弘法が破れ衣の旅僧の姿で、今でも全国をあるきまわっておられるように言う者があり、高野山の方でも御影堂みえいどうの大師のお姿が、毎年のお衣替ころもがえにはすっかり法衣の裾すそを切らせておられるなどという話も出来ているが、もしもこうしたさまざまの話を聴いたならば、この霜月三夜の旅の神だけは、弘法大師でないと言わずにはいられぬだろう。
東北地方も端々の方へ行くと、この大師は女性だという人さえある。デイシコは夫がなく、二十三人の子供があった。この日こしらえて上げる粥かゆや団子だんごの膳には、長い二本のちんば箸はしと、もう一本の杖つえというのと、必ず三本添えることになっているのだが、これもあんまり児の数が多いので、一々傍そばへ寄って食べさせることが出来ず、それでこのような長い箸が入用なのだという説明がついている。あるいはまた大師は子供が多いので家が貧しく、二十三日の粥に入れる塩しおがなく、それを買いに出て途中で吹雪に遭あって倒れた。そういう由来によって今でもこの日の粥だけは塩を入れないという者もある。
大師講の日には何処でも粥を煮て供え、それに塩を入れないことは事実であるが、他の土地ではまた貧家の女が、旅の弘法大師にこの粥をさし上げたときに、どうして塩を入れないのかとわけを問われて、塩も買えぬような貧乏なのですというと、それは困るだろうと杖のさきを以て地面を刺し、塩水の湧き出す泉を授けられた。その記念のために粥に塩を入れないのだと説明している者もあるのである。こんな珍しい幾つかの話が、そこにもここにもよく記憶せられているのを見れば、この十一月二十三日から二十四日にかけての一夜も、やはり人が睡ねむらずに睡気の醒さめるような話を、頻しきりにする晩であったことが想像せられ、いかにも田舎の冬の集りが、のんきなものだったことが考えられるのである。 
杖立清水つえたてしみず・大根川だいこんがわ
私たちがお大師水、または弘法水と名づける諸国の伝説には、明らかに十一月二十三日の出来事だったというものは幾つもないが、事柄は前に出した喜界島の二十三夜様とだいぶ似ている。そうしてその起りは、たしかにまた弘法大師の生まれた時よりも古いのである。日本全国には千以上、地方によっては村毎に、また泉毎にこの話があって、何処どこのもたいていは同じことであった。
昔一人の女が窓の下で機はたを織っていると、きたない破れ衣の乞食こじきみたような旅僧がやって来て、水を一杯もらいたいといった。昔の地機じばたは紐ひもでからだを機に結ゆわえたものだったが、心のやさしい女なのでその煩わずらわしさも厭いとわず、紐をほどき機から下りて、遠くへ水を汲みに行って来て飲ませた。どうしてこのようにひまがかかったのかときかれて、ここは水が悪く乏しく、町十町も行かぬとつめたい水がない。それを汲んで来たから遅くなりましたと答える。それは毎日骨折なことであろう。お前は心の善い女人だから、この門前に清水を一つ出してやろうと、杖で程よい処を刺すとたちまち美しい泉が湧わいた。それが今もある名水めいすいで、一名を杖立清水といっているというのも多い。
あるいはその近所に不親切な女があって、旅人が水を求めると、そこの洗濯盥せんたくだらいの水でも飲めといった。それでその家の井戸は今でもきたない泥水だというような、裏の話のついているのもある。四国の一部では、その旅僧が最明寺時頼さいみょうじときよりだったという話になっているが、女が茶碗の縁へりを少し打ち欠いて、ここは私が口をつけたところですから、他のところから飲んで下さいと言ったので、これもその謹しみ深い行いが大いに賞せられた。沖繩の島などは、最明寺も弘法大師もまわって行かぬ離れ島だが、やはりこれと全く同じ話があって、これは神様が姿をかえて、人の心を試みられたもののようにいっている。
わずか水を一杯というような小さなもてなしでも、志の深い者は神のお恵みを受けるという教訓であったろうと思うが、これと同じ話はまだいろいろある。たとえば女が川に出て大根を洗っている処へ、やはり見すぼらしい旅僧が来て大根を一本くれよという。この川には水がないのでまだ洗えませんとうそをつくと、そうかといって去ってしまったが、それから以来大根を洗う頃になれば、川にはきっと水がなくなるという大根川という流れが、九州などには十数ヵ処もある。
大根はちょうど霜月頃が収穫の盛りであり、また二十三夜様を祭れば大根がよく出来るという俗信が東京の近くにもある。甲子祭きのえねまつりの日に大黒さんが来て、大根を洗う女に一本くれよと所望なされた。これは主人の物ですから上げられませんが、ここだけは余分ですからさし上げましょうと、二股ふたまた大根の片方を取って上げた。それから甲子の日には二股の大根を供えて、大黒さんを祭るのだという話が東北にもあるから、この話などは多分霜月三夜の大師講と関係があり、従ってその晩の夜話にしていたものであったろう。 
弘法機こうぼうばた・宝手拭たからてぬぐい
この以外にも石芋いしいも脂桃やにもも不喰梨くわずなしの類、この梨は硬かたくてとても喰われませぬと欺あざむいたら、それから後は喰うことの出来ぬ梨になったというような話は、たいてい皆大師の逸話となって各地に分布しているが、誰でも知っているほど数が多いのだから、もう詳しくはここで述べない。次には弘法機ばたといって、これは少し大師の方が無理かと思う話がある。これもやはり女が二人、隣どうしで機を織っているところへ、例の旅僧が来てその布を何尺とか、ここから剪きってわしにくれと所望する。一方のかたましい女はもちろんこれをはねつけるが、その隣の女は僧を敬い、惜気おしげもなく鋏はさみを入れて渡すと、それが実際は人の心の試験だったので、すぐ及第して大きな御褒美ごほうびを頂戴する。それは何でも果てなしに続くという不思議の力であった。この女が布を機から卸おろして物差ものさしで測り出すと、何尺取ってもその跡がまだ残っている。それでたちまち大金持になってしまった。
悪い女はそれを見て羨ましくてたまらない。方々探しまわってその旅僧を見つけ無理にひっぱって来て、くれとも言わぬのに布を何尺か剪きって渡すと、御褒美はこれも同じ力であった。やれ嬉しや、まず水でも汲んでおいてから布をはかることにしようと、手桶を下げて井戸へ行き、水を持って帰る途中、すべって転んでその水がこぼれ、それがまた一旦始まったらいつ迄も続いて、しまいにはこの女の家屋敷が沼になった。その沼が何とか沼だそうなというような人を笑わせる話も、やはり同じ言い伝えを親にして生まれたものである。
それからもう一つ、これは今少し新しく出来たものらしいが、宝手拭たからてぬぐいという話がある。むかし心の美しい、顔容かおかたちの至って見にくい娘があって、長者ちょうじゃの家に奉公をしていた。主人の妻女の物吝ものおしみが強いので、自分は流しの余り物を食べ、我が食う分を残しておいて旅僧に施していた。ある日ふらりと来たのが弘法大師であることを知らず、そっと後を追いかけて用意の食物をさし上げると、お前は珍しい善人だからこれをやろうと、この方は向うから三尺ばかりの布をくださった。それを手拭にして顔を拭ふいていたら、二三日もたたぬうちに見ちがえるほど綺麗きれいな女になった。家の女房もびっくりして、どうしたどうしたとわけを尋ね、急いで自分も旅僧を見つけて来て、うんと御馳走をしたのでまた手拭を頂戴する。しかしそういう身勝手な施しなので、美しくなって行く筈もなく、毎日少しずつ顔が長くなって来て、しまいにはヒヒンと嘶いなないて飛び出したなどといって笑わせている。 
猿と染屋
この話の基になったかと思うのが、東北にも広く行われており、また一方の国の端、沖繩の島にもまだはっきりと記憶せられている。それは食物を僧に施したという代りに、不思議の旅人に一夜の宿を貸したということになって、やはり貧しい親切者と、強欲な金持との対照を示している。霜月二十三日の夜ではないが、普通は正月も近づいた年の暮にという話が多い。
見馴れぬ旅の人が来てどうか泊めてくれというのを、長者はすげなく断って追い出すように門をしめる。その隣の貧乏人は、おとめ申したいのは山々だが、何分さし上げるような食べ物がないのに困るというと、いやいや火の傍そばにさえ置いてくれるなら、飯はわしがこしらえるからと、大きな空鍋からなべを出させ。袋の中から耳掻みみかきに一ぱいほどの物を出して、水を入れて火の上にかけると、たちまちのうちに一鍋の真白な米の飯が出来た。それを主人夫婦にも食べさせて、お前たちは誠に立派な人だ。今に隣の長者一族が猿になって山に入ってしまうから、その跡に入って住むことにしてやろうと言った。その旅人は実は神様だったのである。
長者は神を粗末にした罰で、果たして猿になってその家にはいられなくなる。正直な貧乏人は代りにその屋敷を持つことになったが、沖繩の話ではその猿が恨み悲しんで、毎日山から来て門の石に腰かけて啼ないた。どうしたら好いでしょうかとまた神様に窺うかがうと、そんならその石を熱く焼いておいて見よとのことなのでそうすると、それを知らずに来て腰をおろし、尻しりを焼いて飛び上って逃げて行った。それから今でも猿の尻は赤く、猿の手は真黒に汚れているのだとも、またもとは染物業だったからともいっている。すなわちもう結果を子供が笑うように、童話とかいうものの形にしているのだが、もとは今一段と人が信じ得るような言い伝えであったことは、古い書物との比較によってわかって来るのである。
その古い話というものの一つは、広島県備後びんごの疫隅宮えすみのみやという神社の由来で、これは延長年間の風土記に出ていたというが、それが事実であっても弘法大師よりはずっと新しい。むかしこの土地に巨旦将来こたんしょうらい・蘇民将来そみんしょうらいという兄弟の者が住んでいた。巨旦は無慈悲で神を敬わず、蘇民は正しい善人であった。武塔天神ぶとうてんじんという北方の神様が、南海の美しい女神を娶めとろうとして、ここに一夜の宿をお求めなされたときに、前の話と同様に一方はこれを拒こばみ、他の一方は快くお迎え申して、栗の飯を進めたともいっている。
武塔天神は今の京都の八坂神社、俗に祇園ぎおんさんという疫病えきびょうの大神おおかみであったという。神が南の方から八人の御子を連れて帰りたまう日に、お憤りによって巨旦はたちまち打ち滅ぼされ、蘇民の末は永く神の御庇護ひごを受けたということになっていて、現に今でも国々の天王社てんのうしゃまたは祇園さんのお社から、授けられる疫病除よけの守り札には、蘇民将来子孫也そみんしょうらいのしそんなりという文字を、書いたものが多いのである。この人名などには不審な点もあるが、少なくとも遠い処からお出でになる尊い神様を、真心を以てお宿する人々が、子孫末永く保護せられるという言い伝えだけは日本のもので、それをこの物語も受け継いでいるのだと、いうことまではこれによって認め得られる。 
天つ神のお宿
そうして一方にはまた有名な、富士と筑波つくばという古い話もあるのである。これは奈良朝時代に出来た常陸ひたち風土記という本の中に出ているので、この事が文章になったのは、確かに弘法大師の生まれた時よりも前であって、これには微行びこうして来られた旅人は、御祖神みおやがみであったと明らかに書いてある。大昔その大神が、富士山のところへ来て一泊を求められたのに、今宵こよいは新嘗にいなめの晩だから、知らぬ人などは内に入れられないと厳しく断った。これに対して筑波の山の方は物わかりがよく、新嘗は慎しみの夜であるけれども、他ならぬ天つ神をお宿申さぬ法はないと、早速お迎え申して懇ねんごろにおもてなしをした。その行いによって筑波は小さい山だが、夏冬を通して草木が栄え、お参りに来る人の数が多く、富士はあの通り積雪が深くて、人の近づき寄る者の至って少ないのは、天つ神に敬を尽さなかったためだと説明せられている。
山が新嘗の祭を営むというのは珍しいが、それは少なくともこの二つの峰が西東に見える地方では、どこの家でも皆古来の作法通りに、この一夜の祭をせぬ者がなかったからそう思ったのであろう。そうしてこの話が幾分か筑波山の方をひいきしているのは、二つの山の間とはいっても、やや東の方へ偏した村里において、語り始めたものだったからであろうと、私は考えている。
新嘗は我国でことに大きな重い祭であった。詳しいことは私にも判わからぬけれども、稲の収穫がすっかり終って後に、家を清め身を清めてその穀物を調理し、夕御饌ゆうみけと朝御饌あさみけと、両度の御膳を神にさし上げる祭のように聴きいている。現在は太陽暦で十一月の二十三日にその祭を行うことに定められているが、以前はもっと遅く、冬もよっぽど寒くなってからの祭であって、多分は北半球では太陽が南の端まで下り、これから少しずつ北へ還って来るという、冬至の前後の事であったかと思う。
中国でも早くから冬至を大切な祭の日にしているが、西洋でも今クリスマスといっている日が、基督教キリストきょうよりももっと古いものだそうで、暦の数学がまだそう精確でなかった時代に、強いていろいろと理窟を付けて、これをキリストという神の子の生まれた日にしたという話である。花咲き鳥の鳴く春という嬉うれしい季節が、これから出発して帰って来るという時である故に、それを力強いまた恵み深い神の御子の、誕生の日のように想像したのは、子供らしい大昔の人としては自然なことであった。強いてある一人の賢い者が、教えて広めたと見る必要はないのである。
天つ神というだけでは、まだ我々にははっきりとせぬようであるが、日本でもこの若々しく伸びて行く春の陽気を、新たに誕生なされた御子神みこがみと、考えることが出来たのかも知れない。二十三人もある子の母が、吹雪の中に塩を買いに出て倒れたというのも、無論空想だが、基づくところはあったらしく、耳でダイシと聴いて弘法大師、または元三大師がんさんだいしや角大師つのだいしを想像していたのも、起りはやはり尊い神の御子ということであったかも知れない。そう思うわけは我国では、もとは長男長女をオオイコといい、漢字では常に大子と書いていたからである。 
新嘗の物忌
この新嘗の祭という口言葉は、もうそのままでは農民の中には残っていない。それでとくの昔に消えてしまったように、本で歴史を読む人は考えているのである。それが私たちの霜月三夜、ニジュウソ(二十三)といい太子講という日と、同じものだったら非常にうれしいのだが、確かな証拠はそうたやすく見つかりそうもない。ただ一つ二つ今でも比べて見ることの出来るのは、昔の新嘗でも宵よいから暁まで、人が集まって起きていたことと、男と女とが場処を異にして、この一夜の物忌を守ったらしいことである。これも東国に伝わっていた古い歌に、
誰そこの屋の戸おそふるにふなみにわがせをやりていはふこの戸を
というのがある。セというのは男たち、自分の夫や男兄弟のことであった。すなわち女は女どうし戸をしめて家に籠こもり、男はまたどこか一処に集まって、この晩の参籠さんろうをしていたので、それと同じ事を、今でも月々の二十三夜待にしている村々は少なくないのみか、さらにまた庚申待こうしんまちの晩にも、女を別にしておく風習が、まだ広く行われているのである。庚申の徹夜が次の朝、旭日の山を出るのを拝して、すがすがしい心持を以て終ったと同じく、二十三夜もまた夜明けの少し前に、山から出て来る月の光に正面して、これで祭はすんだと散り散りに別れて帰ることになっているが、これなどはマツという国語の意味が、知らぬ間に少しくすべって来たためで、農家ではもうそれから寝る人もなかったろうから、共に夜すがらの祭であったことに変りはない。
それから今一つは話の種が多く、また古いものが永く残って、しかもわずかずつ面白くおかしく補修せられていることも、この信仰の変遷と併行しているように思われる。最初はただ新嘗の夜の慎しみが厳重で、うっかり知らぬ人を入れて穢けがれを受けてはならぬという警戒であって、それでも稀々には神様が御自ら訪ねてござることがあるから気をつけねばならぬという話だったのが、後には人間の慈悲無慈悲、親切不親切をためして見るために、姿をかえ口実を作って、家々を訪問なされるというような話になって、もう必ずしも一定の日であることを要せず、常に私たちの心の持ち方を、教え戒める例に引き直されたのは、見方によっては社会道徳の進みということも出来る。
弘法大師が死後千年以上、始終諸国を破れ衣であるきまわり、人の心の裏までも見ておられるという話は、時々は乞食坊主こじきぼうずの便利にも供せられたか知らぬが、一方にはそれが私たちの身の行いを、知らず識しらずのうちにどの位、引き締めていたか知れぬのである。二十三夜の夜話ということが、近い頃まで村里に続いていなかったら、こんな話ももういい加減になくなったであろうが、実際にはなおこの二つのものの中間ともいうべき話、すなわち二十三夜や庚申講の仲間へ、見知らぬ他所の人を加えてやったことが、大きなしあわせになったという話なども残っているのである。 
 
弘法大師ゆかりの湯と秘説の湯 山梨周遊

 

1
山梨県の温泉は名のある所だと武田信玄、いわゆる「信玄のかくし湯」と呼ばれる所が殆どで、弘法大師ゆかりの温泉は殆ど聞かない。というより私は「ない」と思っていた。
西日本だけではなく甲信越及び東日本に於いても、前号での茨城をはじめ各県ごとに点在しているが、山梨の湯は信玄のイメージが強過ぎるせいか弘法大師の存在をまったく見出せなかった。(私の勉強不足に他ならないが…)
前回の山陰とは違い山梨は東京からも割りに近く、私の温泉行脚の中でもいわばホームグラウンドのようなエリアである。
実際にこの度の企画に於いても初入湯になるのは湯村温泉のみで、他の二つはお得意さんのごとく訪れている。ただ今回はあくまで弘法大師という視点が入るので、今まで気が付かず素通りしてしまっていた発見に出会える期待もあり、前回より芽生えた探求意欲を更に高めてくれる旅になりそうである。
山梨県は「山はあっても山なし(梨)県、海はなくとも貝(甲斐)の国」などと言われるほど四方を山に囲まれた文字通り山国である。一応中部地方に加えられているものの、一部は東京都と隣接しており都心部からも比較的アプローチし易い。
また近い割りに南アルプス、奥秩父山塊、八ヶ岳など二千〜三千m級の山々やその周辺には原始的な自然や文化、また湯治温泉が残っており、気軽に「脱都会」ができるとあって、東京からの日帰り観光旅行には最適な場所といえる。
私も都内中央線沿線に住んでいるということもあり、朝起きて晴天→気が付いたら車窓の山旅、なんてなこともしょっちゅうで、一時は高尾から甲斐大和くらいまでに点在する名も無い鉱泉を虱潰しに訪れたり、沿線付近を見下ろしている千m前後の山々にかたっぱしから登ったこともあった。今でも高尾発の甲府行き普通電車に乗ると「あ〜、また来ちゃった」と言うことになってしまう。
東京都心部を抜け八王子から先はいきなり山が迫ってくる。ある意味、東京駅を起点とすれば最短で『山岳』に到達できるラインといえるのではなかろうか。
この度は、かように比較的近場であるにもかかわらず、三泊四日という行程を得た。前回の強行軍とは大違い。信玄の隠し湯下部温泉の歴史に埋もれた弘法大師の秘説、弘法大師ゆかりの湯村温泉とその歴史と共に始まった厄除け地蔵尊祭り。特に下部に関しては一般的な弘法伝説とは一線を画し、まさに秘説の領域に踏み込む可能性もある。その意味で今回の旅は、行程を生かして自分にとっての“未知の山梨”を見る絶好の機会だと思う。
そして結果的にこの号ではその前編として、下部から湯村の厄除地蔵尊祭りの前日までを追うこととなってしまった。
本来ならばこの号でこの行程は完結するはずだったのだが、途中経過の中で予定外の行動を要するケースも出てしまったのだ。
それはこの駄文を粘り強く読んで頂いた方のみぞに知って頂けると思う。 
2
山梨編第2回は高尾駅から富士急線までです。弘法大師の秘説・伝説に迫る前に富士急線沿線の、ある一軒宿の温泉に寄り道いたします。
現在、中央線高尾駅七時五十分。冬で空気が澄んでいることもあり、ホーム上でも既に山の空気を感じる。何度来ても自分にとっては至福の時である。
広大な関東平野もここをもって終わりとし、代わって生まれたての小兵の山達は次第に西方に勢力を広げてゆく。そして上方下方の同じような谷口集落から発生した兄弟達と交わり絡み合いながらやがて奥秩父山塊という巨大な山群を形成するのだ。
谷口集落というのはこう言った山と平野の切れ目に位置する場所であり、大概は山産業(林業や農業の一部など)と近代産業の中継をなす“まち”となる。
同じ東京都では武蔵五日市や青梅がそうで、埼玉県だと飯能や小川町と言うことになる。ここ高尾ももちろんその一つで、たしかに改めてグルリと見渡せば、西側にはすぐに山、東側にはビルやベットタウンが広がっている。その意味ではまさに『脱都会』の出発点といったところだろう。
三泊四日の行程もあるので(ここで油断してはいけなかったのだが…)一泊目は弘法大師とは特に関わりの無いところに寄り道することにした。(編集長の顔が怖い)二泊目・三泊目のウォーミングアップとでも言って許してもらおう。
ただ今日行くところは個人的にちょっとこだわりのある温泉宿なのだ。城山温泉という一軒宿。
初めて訪れたのが三年前。もちろん(?)温泉ガイドブック等では殆ど採りあげられていない口コミのみで営業しているような宿で、私は紀行作家の野口冬人が自著の本で紹介しているのが目に留まり、興味を抱いたのが一番最初の発見である。それが初訪して以来すっかり気に入ってしまい今回で既に五回目を数えてしまった。今回は去年の十月以来の来訪となる。
実は今回のこの寄り道には連れがいる。私の友人の一人にM氏という男がいて、まあいわゆる旅仲間である。もうかれこれ十五年の付き合いになるが、ともに旅好き山好き温泉好きということもあり、以来様々な山やいで湯探訪の道連れとなった。
単独で自分の気に入った所を行き当たりばったりで旅するのが好きな男で、私もどちらかと言うと単独放浪が好きな方なので、双方の嗜好が一致した時に同行の友となるようだ。たしか一週間程前に彼と一杯ひっかけた時に今回の弘法倶楽部の企画の話が肴になってしまった。
城山も下部も一度彼と同行したことがあり、相当興味を示したようだったが、双方共さすがに全行程というわけにはいかず「城山は寄り道だから来てもイイぜ」ということになった次第。
甲府行き普通電車は八時十五分発。ウイークデイにもかかわらず、車内は沿線の冬枯れの山を目指すハイカーでいっぱい。
沿線は千m前後の低山が多いので、夏場よりむしろ空気の澄んだこの時期のほうがかえってシーズンといえる。晴れていれば、富士山はもちろん、遠く南アルプスまで望むことができる。逆に夏場はガスって展望はきかず、また藪コギや虫の襲撃と仲良くすることになる。まあそれもまたヨシだが…。
高尾から中継地の大月までは約三十分。高尾を出た普通電車はすぐに山間部に突入しトンネルの連続となる。しばらくして相模湖を過ぎると、中央線は緩やかな山肌を河に沿って走る。いつも見慣れた光景だがやはりイイもんだ。
M氏もこのところなかなか旅の機会に恵まれずいささか禁断症状気味だったようで一気の開放感を味わっている様子。八ヶ岳山麓の奥蓼科温泉郷、福島の湯岐、秋田の泥湯などかつて訪ねたいで湯の話で盛り上がる。なんだか一週間前の飲み屋での話しの繰り返しのようでもあるが、環境が変わるとまた楽し、である。
登山家の山村正光が『中央線各駅登山』というような本を著しているくらいだから、大月の手前の猿橋を過ぎた頃には、半分くらいのハイカー客は、各々の目的の山を目指して降りていった。大月着は八時四十五分。
大月駅はログハウス風の趣のある駅舎で山の中のターミナル駅の風格充分。駅の裏側には岩殿山がデンと鎮座している。岩殿山はかつて戦国武将小山田氏の居城であり要害の地として馳せ、今でもその遺構がかなり残っている。
標高は五百m程度の低山であるが、適度にスリリングな岩場があり展望もすばらしいので、富士百景にも選ばれハイカーにも人気がある。
私も登ったことはあるが、どちらかと言うと、こんもりした御椀を伏せたような山容がなにか町を見守っているようでもっぱら下から眺めるほうが好きだ。
ここからは富士急行に乗り換え都留市方面に向かう。本日の目的地、城山温泉は都留市駅の一つ先の谷村町駅が最寄だが、時間も早く散策するにはいい距離なのでとりあえず都留市駅で降りることにする。M氏曰く「都留に行きたいうどん屋がある」そうだ。B級グルメを自称する彼に期待し、結果こっぴどく裏切られたケースが過去幾度となくあったので、あくまでも冷静について行こうと思う。
大月駅を出た富士急行線普通電車は、富士山を目指してぐんぐん高度を上げていく。大月が標高三百五十八mに対して終点の河口湖は標高八百五十七m。
約二十六キロの間で五百mも登ることになり、かなりの勾配で、JR最高地点を走ることで知られる小海線にも勝るとも劣らない山岳鉄道といえる。車窓に目を移すと田んぼや畑は少しずつ段をつくり、道はわずかに右肩上がりになっているのが「登ってるんだぜ」と主張しているかのようだ。 
3
M氏の調べた都留市のうどん屋に突撃します。東京に住んでいる私はいわゆる「武蔵野うどん」が大好きなので、比較するのも楽しみです。
車窓の遥か先に雪化粧した富士山がチラチラ見えるようになってくると間もなく都留市駅に到着。所要時間十五分。都留市は四方を山に囲まれているものの、大学あり美術館あり寺社仏閣ありで結構文化都市の雰囲気がある。
富士急行沿線の中にあってはかなり街の規模は大きい方だろう。時計を見ると十時ちょっと過ぎ。まだ多少朝の空気が残っている。
しばらくぶらぶら歩いていると、突然M氏が「腹が減った」と訴え始めた。何!高尾駅のホームで駅そば喰ってまだ大して経ってないのに!?
通常会社勤めの彼は仕事日の昼食などはあまり食欲がなく、本人曰く「なにを喰ってもあまりうまくない」そうだが、一転旅に出ると異常に腹の減るのが早い。さらに聞くとどうやら転地効果の影響で、胃腸の調子の活性化を促し空腹感を早めるらしいのだ。
非常に分かり易い理屈だが、まったく根っからの旅好きだ。
自分の考えていた予定よりやや早いがまあいいか、私にも多少その気があるのは事実だ。
ということでさっそく例のうどん屋を探すことにする。M氏はあざとくインターネットかなにかで調べたらしい。手持ちの案内地図がえらくいい加減なもので、かなりうろうろする。街自体はいろいろじっくり散策したくなる感じだが、今はうどんへの欲求がすべてを陵駕している。
やがてやっと「あった、ありました!」省みると中心部からはやや離れた、郊外に位置していた。
『わかふじ』という屋号だが、のれんには『手打ちうどん』としか書かれていない。三階建てのビルの一階にあった。時間的にもまだ早いかなあ、とやや危惧するが『営業中』にホッとする。
のれんをくぐると、はたしてお客さんは一人もいない。まあ時間が時間だから当然か。ややシラけた表情のおばさん(おねえさん?)が一人でがんばっている。店内は田舎の食堂という感じ。
お互いに「まずはビールか」とばかりにメニューをみると、うどん以外にはつまみ類も幾つかあったが、煮たまごとか肉とか、要するにうどんの具が流用されているようだ。ただどれも異常に安い。さっそくおばさんにビールとつまみを三品ほど頼むと、笑顔で応じてくれた。実は明るい人柄なのかもしれない。
二人で気分よく飲んでいると、でっぷりした体格の男が入店してきた。あまり気にも留めずに飲んでいると、男が注文したうどんがきたのを見て驚いた。ちゃんぽん皿のごとく皿にうどんが高さ二十cmくらいも盛ってある。
更にすごかったのは、男はそれをものの五分足らずで全部喰ってしまったのだ。すぐ近くに座っていたということもあるが、非常に臨場感があり、二人で目を丸くしてしまった。言ってみればそれだけ「うまい」という憶測もできるので、否が応でも我々のうどんに対する期待は高まったようだ。
しばらくして、ぼちぼちお客さんが入ってきた。見た感じは、どう見ても近所の〇〇さん≠ニいった風情だ。どうやら地元の人たちの看板店的な感じ。
ビール・つまみが一通り落ち着いたので、満を持してうどんを注文する。私が東京の地元でよく食す「肉汁つけうどん」(いわゆる武蔵野うどんの代名詞)と同じメニューがあったので、それでいってみた。M氏も右へならえ。
うどんが運ばれてきたのは約三分後。飾り気のないざるにドバッと盛られている感じだが薄茶色のうどんが地粉によるものであることを物語る。早速一口食べた瞬間「をっ! うまいっ!」 すごいコシで、ムギュッと噛み締めると歯が押し返される感じ。なじみの深い武蔵野うどんに似ているがなお無骨でコシがつよい。つけ汁は濃厚ないりこの出汁に、先ほどつまみで頼んだもうに薄くスライスした豚肉が入っている。M氏共々替え玉を頼むまでさして時間はかからなかった。
武蔵野うどんもそうだが、うどんの文化が根付くところは必ずその土地や気候の条件(大概はマイナス的な)が共通している。一番大きな共通項は米作に適さないという点である。
例えば、その武蔵野うどんにしても、周辺の土地が関東ローム層であるため保水が悪く、水田には向かない地層だったために、アワ、ヒエ、小麦といった穀類の栽培に活路を見出したことから始まっている。都留うどんにしても同様で、穀物と共に歩んだ食文化が、この無骨なうどんとして今日に息づいているのだと言えるであろう。
しかし非常に安くて美味かった。これから城山温泉に行く時は、こことセットで考えようと思う。
自分が四国出身なので、こっちに出てくるまではいわゆる「さぬきうどん」しか知りませんでした。うどん文化も全国各地によって様々で、美味しかったと同時に大変勉強にもなりました。 
4
今回はこの日の宿泊地、一軒宿の城山温泉です。
実はずっと以前から「一度ここについて書きたいな」と密かに思っていたので、弘法倶楽部3号にこの文章を書いていた時は結構充実しておりました。
うどんで重くなったお腹を引きずり、再び都留市の中心部にもどる。都留市駅から城山温泉までの間は都内の私鉄沿線の駅間くらいしかない。
市街地を抜け、線路と平行して流れている小さな川に沿った道をふわふわした気分で歩く。路肩には掻き分けた雪が残っているが、空は冬晴れで幾分ぽかぽかしている。
川は道と住宅のあいだを流れており、大きな溝という感じだが、上の方からの雪解け水が多いのだろう、結構澄んできれいな流れだ。
冬の田舎町の空気にほのぼのしていると間もなく谷村町の駅前に着いた。都留市駅を一回り小さくしたような駅ロータリーがあり、周りは飲食店が三〜四軒と自転車屋が一軒。都留市の南のはずれの町という感じ。
ここから城山温泉までは徒歩約六分。実はこの六分の間で驚くほどロケーションが変わるのだ。駅の表側はロータリーから始まる町だが、裏側は桂川という渓流が流れており、それが深い谷を造っている。
温泉へはまず踏み切りで線路を跨ぎ、かなり急な下り坂を渓流に向かって下りて行く。あっという間に人家が途絶え、一歩一歩の度に周りの風景が変わっていくのが分かる。徐々に渓流の音が耳に大きくなってきた頃に城山温泉のえんじ色の屋根が見えてくる。
最初に訪れた時はこの変化に多少驚いたが、もう五回目ともなるとむしろ “変化を楽しむ”という感じだ。道は下り切った先が桂川に架かるつり橋となり、一軒宿「城山温泉」は橋の手前、桂川の畔にひっそりと建っている。
道を挟んで宿の反対側に小さな広場のような所があり、私は必ず宿に入る前にここで一服してしまう。なにより桂川に架かるこのつり橋がよい点景になっており、橋の上から眺める渓流も素晴らしい。広場の脇の斜面に踏み固められた小道を降りると、すぐ河原にたどり着ける。
冬の雪解け水の混じった水はかなり冷たいが、春から秋にかけての渓流解禁期間は、良型のヤマメやイワナ、ニジマスが狙えることで、多くの渓流マンで賑わう。
ただそういった時期になると、必ずこの渓流にもいたる所にゴミが投棄されているのが目に付くようになってしまう。一部の心得られない者の仕業と言ってしまえばそれまでだが、これは釣りに限らず山登り・秘湯めぐり・キャンプ等いろいろな分野で共通している。
何かがブームになり、それにより地域や分野が活性化するのは素晴らしいことだが、そうなると必ずと言ってよいほどヘンなヤカラがブームに乗じて混じってくる。一時期話題になってしまった登山ブームから発生したゴミ投棄問題や、尾瀬の水質汚染によるおばけ水芭蕉問題など、あまりいやな言い方はしたくはないが、やはり困ったものだ。
まあ様々な思いや憤りも交錯してしまうがきりがない。今の私は只々この美しい渓流が年間を通じてこの景観のままでいて欲しいと思うだけである。
野口冬人が城山温泉について書いた文章での冒頭はこうである。
「桂川に面した城山温泉は、小さいが庶民的で気の置けない「知る人ぞ知る」湯宿である。出張に利用する人、行楽帰りによる人、温泉だけを楽しみにくる人、釣果を誇って一浴して帰る人…さまざまな人がこの宿を訪れている。」
なかなか言い得て妙である。
創業が昭和三十五年。先代がボーリングして単純温泉、十五度の鉱泉を得たのを機会に開いた鉱泉宿で、建物は内装も含めて往時のまま。はっきり言ってかなり古びている。実際、一番最初訪れた時も正直「ここ大丈夫かなァ」と思ってしまったのを憶えている。ただ後で聞くと常連さんから、「昔のままでいて欲しい」という要望が多いことが分かってきた。そしていわずもがな、気が付いたら私もすっかりその一人になってしまっていたようなのである。
玄関に入り、客が釣った魚の魚拓などがかけられているフロントから、「ごめんくださーい」を一発。今日は一発でお馴染みの女将さんが出てきてくれた。「まあまあ、いらっしゃい!」M氏も一回訪れているので、ちゃんと覚えてくれている感じである。
宿はこの女将さん夫婦を含めた家族経営で、家族揃って世話好きで心温かい人物。特に女将さんは、自分の宿に対する考え方が謙虚でかつしっかりしていて、この女将さんを慕って常連さんになっている人も多いそうだ。
玄関を含む母屋が木造二階建てで、二階は宴会も出来る広間になっている。母屋を縦に走っている風情ある廊下を歩いていくと、母屋を出た後ろに、八畳間と六畳間の客室が十室。それが平屋と二階建ての建物、計七棟に分かれていて、石畳と屋根の付いた廊下で結ばれている。
それぞれの部屋に玄関がついているから、離れ形式といってもいいと言える。離れと言うとなんだかお偉方が泊まる高級宿のように聞こえるかもしれないが、自分としては(もちろんいい意味で!)昭和三十年代の長屋という風に見えてしまう。自分がよく泊まる宿の中でも、こんなカンジは他にはない。これらの要素一つ一つに自分は惹きつけられているのだろうと思う。
あやめ、ぼたん、もみじなどの名称がそれぞれの部屋に付けられていて、今回もお決まりの「ききょう」に通される。部屋がまた素晴らしい。当然非常に古いが、窓を開けると小さな庭を挟んで桂川の河原はすぐそこである。縁側から庭に出て、そこで即釣りもできそうだ。
ぼんやり外を眺め、なーんにもしない贅沢な時間を楽しむ。なんにもしてないようで、実はこんな時間に様々なイマジンが湧いてきたりするから不思議だ。脳みそがリラックスしているのが自分でもよく分かる。とにかく至福の時間であることは間違いない。
到着が割りに早かったこともあり、しばらくM氏共々部屋でなんにもせずのんびり過ごし、そろそろ風呂へ。浴室は一旦母屋へ戻り、廊下の途中にある。風呂は岩をふんだんに使ったひょうたん型の浴槽がある。冷泉を加熱しており、ひょうたんの半分は高温、もう半分は低温と二種類の温度に分かれている。大きくとった窓の外は桂川の流れ。なかなかの展望風呂だ。単純泉でゆっくり入っていると身体の芯まで温まる。湯治温泉としての評判もよく、リウマチス、神経痛、腰痛、胃腸病などに効果があるという。まあ今回の旅のプロローグの湯ということで、存分に堪能する。大満足の湯であった。 
5
城山温泉の夕食が意表をつく内容で、なんとも楽しい思い出となりました。
しかし、本当の意味でここほど「昭和」を感じる宿は他にはなかったと思います。
贅沢な時間はあっという間に過ぎ、夕食の時間。
この宿は家族経営でかつ部屋は離れにもかかわらず、すべて部屋食である。一旦外へ出て大変であろう。敬服する。
また、桂川でとれた新鮮な川魚が焼きたてで出るのだ。M氏ともども楽しみに待つ。彼は例によって昼間のうどんはすっかり消化してしまい、極限の空腹状態のようである。
やがて、宿の娘さんが夕食を運んできた。岩魚の塩焼き、山菜のてんぷらなど、すべて焼きたての揚げたてである。まずはビールで乾杯する。
片っ端から食べて片っ端から「うまい、うまい!」決して高級な料理ではないが、一品一品がすごく丁寧で心もこもっている。
しばらくして、娘さんは追加の品を持ってきた。でかい皿だ。それをみて驚いた!なんと巨大なずわいがにが、丸ごと一杯乗っかっているのだ。これにはM氏も目を丸くした。
しかしなぜ「山はあっても山梨県」の宿に“かに”が…?いやいや、今はそんなヤボなことは考えまい。素直によろこび堪能しよう!
しかしかに≠みるとM氏は大変だ。実はM氏は周りの人間から「かにの天敵」とか「かに喰いザル」とか言われるほどのかに好き≠ナある。彼は年に一回北海道に旅行しているが、「北海道のかにを全種食い尽くす」とか言っているくらいだ。私は多少気遣い、足三本くらいで我慢して彼に譲り気味となった。
彼は至福の表情でかに≠ニ対決している。よくみると彼の前歯はやや出っ歯であり、それがまた構造上、かにの身肉を効率よくそぎ落とすのに適しているのではないかとも思われる。
まもなく巨大なかに≠ヘ、すっかりカラだけの姿に変わっていた。後から女将さんから聞いたら「たまたま、横のつながりでいいのが入ったから出してみました。」ということであった。
翌日、空は引き続き快晴。窓の外の桂川が運んでくる心地よい冷気が目を覚まさせる。一応予報では今回の行程中は好天に恵まれる予定。普段のおこないが、そんなにヨイとも思わないが…、まあ悪くもないのだろうか。
寄り道はこれで一応終了。今日はM氏と別れて甲府経由で下部へ向かう。その前哨戦として充分英気を養ったつもりだ。
しかし改めて城山温泉は本当によい宿である。今回が五回目なのだが、近場ということもあり、また気が付いたら訪れていることだろう。
別れ際、女将さんとM氏共々昨晩のかに≠フ話題で盛り上がった後、今後も変わることなく頑張っていただくようお願いし、城山温泉を後にした。
今年の10月の終り頃、この記事を載せた「弘法倶楽部 第3号」をお渡しするため、女将さんに宿泊予約の電話をしたところ、ショッキングな返事か返ってきてしまいました。
「私共城山温泉は今年の10月いっぱいをもって廃業することになってしまいました…」
建物の老朽化に伴い、観光旅館としての安全性に問題が出てきてしまった。ただ責任上それをうやむやにして営業することはできない…。また、跡継ぎの問題等を考えても、総建て替えするのは不可能。
という覆しようのない理由だそうです。
先日10月29日「弘法倶楽部 第3号」をお渡しするために訪れたのが、最後の訪問になりました。
記事を読んだ女将さんにはたいへん感激していただいたのが、自分にとってもささやかな喜びとなっております。
今さら「残念だ」とか「なぜ?」とか言うつもりはありませんが、寂しさは隠しようがありません。
ただ、この場をかりまして言いたいと思います。
今まで、素晴らしいお湯と、至高の時間(とき)をありがとう! 
 

 

6
今回からの4回は「弘法倶楽部・4号」掲載予定でした「塩澤寺、厄除地蔵尊祭り」編となります。
今回と次回は祭りの前夜として、湯村温泉にズームします。
前号にて予定外の行動が発生した為に、メインであるはずの湯村温泉における厄除地蔵尊祭りが、本号にずれ込んでしまった。
まずはこのことについて深くお詫びを申し上げなくてはならない。ただ、前号発刊後、既に読者の方々より様々な感想、御意見、ご教示をいただき、程よい(?)プレッシャーを感じつつ筆を取っている次第である。
さて、やっと「本当の意味で湯村温泉に降り立った」わけだが、予定変更のアオリを受けて既に六時近くなり、夕暮れ時も既に終了という感じ。迫り来る寒さに身体が必死で反発している状況。
宿に入る時間もかなり遅れており、さっさと入ってしまいたいが、宿の場所を探すつもりが、そのまま温泉街をぶらぶらしてしまっている。
着いたらまず散策する、という習慣というか、自分が温泉行脚の中でつくってしまったヘンな性みたいなものには逆らえないようだ。
市街地の街道沿いにある、温泉入り口からしばらく歩いていると、街灯一つ一つにひらがなで『ゆむら』と書いてあるのが目に付き、温泉街の中心部に近づいて来ているのが分かる。
やがて温泉街を流れる小さな川のほとりに『歓迎、湯村温泉郷』と書かれた赤い石製の建て看板があり、この辺が中心街だと分かる。
その建て看板の横に川を跨ぐ小さな赤い橋が架かっており、その先には、ピンク色の古びた二階建て。スナックか何かであろう『赤い橋』という屋号が架かっている。
この時間でも真っ暗であり、営業中という感じではない。それ以外でも特に土産もの屋などもなく、地元の人しか入らないような飲み屋や食堂にぽつぽつ灯りが燈っている。
道がやや狭くなったその先に共同浴場『鷲の湯』があり、一階が浴場、二階は『湯村温泉芸能センター』になっている。二階のほうは現在機能しているかどうかは定かではないが、おそらく旅芸人一座の公演などをやっていた(いる)のではなかろうか?
この夜の温泉街の雰囲気の中で、私は、本誌二号で取り上げた山陰(兵庫県だが)の湯村温泉をふと思い出した。温泉名が同じで自分のなかでも何かと比較することが多かったのだが、あちらは夢千代日記ゆかりの温泉地として、夜は荒湯を中心に鮮やかにライトアップされるなど、観光温泉として非常に魅力的な整備がされていた。
ただその反面、夢千代日記の物語に描かれた温泉地のリアリズムに対するギャップを感じたのも事実である。
そして今こうして山梨の湯村温泉に佇んでいると、むしろ夢千代日記に描かれた温泉地のリアリズムと共通したものを、こちらの方に感じてしまっている。「山陰の湯村温泉も物語当時はこう言う感じだったんだろうな‥」、と。
『鷲の湯』から数十mくらいの一帯が一番の宿の密集地帯のようだ。そして宿の前や隙間の空き地など、道沿いの所々でテントを張り裸電球の下で地元の人達がせっせと何やら作業をしている。
にこやかにビール片手にという風情である。一瞬なにかな?と思うが、どうやら来るべき明日の祭りの出店の準備のようである。
そうだ、明日はこの一帯も十万人余りの人で埋め尽くされ、この寒さを圧倒する熱気が支配することになるのだ。ワクワク顔で準備に勤しむ地元の人達を眺めながらなんとなくその情景を想像してしまった。
しばらく歩いていくと、出店準備のテントも切れ、温泉街もかなり奥まってきたのだろう、徐々に道が細くなってくる。もう真っ暗で分からないが、湯村山という小さな山が温泉街の後ろに聳えており、道はその山の始まりに突き当たると同時に左に折れ曲がる。そしてしばらく行くと山肌を前衛するように塩澤寺の山門が現れた。
山門の周りは温泉街の中心から奥にはずれており、民家の灯がぽつぽつと言う感じ。既に底冷えし始めた夜の風景でひっそり静まり返っている。
ここで少し塩澤寺の歴史について触れてみようと思う。
大同三年(808)弘法大師空海上人が諸国を衆生救済の行脚をされたおり、この地にて厄除地蔵菩薩の霊験を感ぜられ、自らが、六寸あまりの坐像を彫刻され、その尊像を開眼されたのが、開創(福田山)とされる。以来当時の救いを求める老若男女の参拝の対象となった。
その後、天暦九年(955)空也上人(踊念仏の高僧)が、全国遊行の途中この地に感じ取った著しい霊験を元に六尺余りの厄除地蔵大菩薩像を彫刻安置し、それにより開基(福田山・塩澤寺)され、以降、蘭溪道隆により再興されるなど多少の変化を孕みつつも現在に至っている。
弘法大師の手による坐像は、完全な秘仏であり、公開することは出来ない。ただ、毎年二月十三日の午後十二時から十四日の午後十二時までの間だけ、空也上人による厄除地蔵菩薩像と弘法大師の坐像が一つとなり、その二日間(正味は一日間だが、実質二日間にわたることになる)に限り一般に公開される。
つまりこれが年に一度の厄除地蔵尊祭りなのだ。
厄除地蔵尊がこの日だけは耳を開き、善男善女の願いを聞き入れ、あらゆる厄難から解放してくださる。これが毎年十万人余の人々により埋め尽くされる力となるのだろう。
山門をくぐると、本堂までは山の斜面に従って割りと長い石段になっている。真っ暗で人気(ひとけ)のない石段を上がってみるが、なんせもう六時をまわっている。
宿に入る時間が気になり引き返そうとしたら、境内の掃除(おそらく)を終えた寺のお身内の方らしき人がいたので、ちょっと話を聞いてみたくなってしまった。もういい加減早く宿に入った方がいいと思っているのは当然だが、ただ明日になると今度は人でごった返してこう言うタイミングはなくなるのでは?とも思ったのだ。
やはりご住職のお身内の方で、立ち話状態で寒さが増してきているにも拘らずいろいろとお話いただいた。その中で特に面白かった話を一つ。
この塩澤寺には、ある意味本堂が二つあると言ってもいいのだそうだ。確かにかたちとしての本堂には空也上人による厄除地蔵大菩薩尊像がある。ただ一般には公開できずに秘仏として、住職しか知らない場所にしまい込まれている弘法大師による小さな坐像その物も、ある意味このお寺の本堂としての意味を持つ…。
住職のお身内の方はしみじみと語ってくれた。
この二つの神≠ェ年に一度だけ一つになるのだ。祭りの規模も、地元の人々の思い入れや熱気もうなずけるではないか…。ますます明日に対する期待が高まってきた次第である。
ちなみに、当日は空也上人による坐像の手のひらに弘法大師による秘物がのせられるそうだ。はたして肉眼で確認できるのだろうか?ついでにこれにも期待(?)しよう。
お身内の方にはお礼と同時に「明日もまた参ります」と言い残し、やっとのことで私の足は今宵の宿『ユムラ銀星』に向かい始めた。 
7
前回に引続き「弘法倶楽部・4号」掲載予定の「塩澤寺、厄除地蔵尊祭り」編の第2回です。
今回はユムラ銀星と湯村温泉の現状です。
再度中心街へ引返し、宿の案内版で場所を確認する。湯村に着いた時間が遅かったこともあるが、大急ぎでも、とにかく湯村全体を確認したかったので、正直宿の場所まで意識が及んでいなかったのである。
案内版を元に歩いていくと、どんどん温泉街入り口付近に戻っていき普通の街道≠ェ近づいてきた。そして最初に見た湯村温泉病院の向かいにユムラ銀星は建っていた。
なんだ、よく考えると自分は先程素通りしていたのだ。とりあえずホッと一息。
鉄筋三階建の小ぢんまりした外観。もう五mほど先はバス停のある街道が走っているということもあるが、いわゆる温泉旅館というより、街中のビジネス旅館という雰囲気。ウーン‥宿の選択を誤ってしまったか‥。その時の正直な気持ちだった。
到着が遅れてしまい恐縮する中、年配の仲居さん(?)に何事もなかったかのように二階の部屋に通された。部屋の窓から外を眺めると、道を挟んで正面に湯村温泉病院がデンと構えている。
「もう夕食の時間は過ぎてしまっておりますので、お風呂は出来るだけ早く入ってくださいね、三十分後くらいにお食事をお持ちします。」
仲居さんはお茶の用意をしながら優しげにそう言って部屋を出た。言われてみれば確かに、もう時計は七時をとっくにまわっている。なんだか仲居さんに眠っていた疲れを起こされたようで、いっきに身体が重くなってきた。
ザブンと入って飯としよう。あ、しかし湯村の湯はここが初入湯なのだ。やっぱりじっくり浸かりたい。
などと馬鹿思案しながら浴室へと向かう。
一応浴室は男女別にあるが、片方は機能していないようで、ひとつだけが使われている。(寂れた宿でよく見掛けるケースだが‥)三〜四人入れるくらいの小さめの浴室に無色透明のきれいな湯が注がれる。
下部の湯と似て、アルカリ性の柔らかい湯だ。ただ泉温は四十〜四十二度くらいで幾分熱く、下部のように、二槽に分けて入り分けるような習慣はないようだ。
ただそれ以外に下部と大きく違う点としては、まず湯量がある程度確保されていると言う点が挙げられる。湯村温泉全体で源泉は十二ヵ所あり、その湧出量は一分間に九六六リットルになる。まあ、岩手の須川温泉の六千リットルや、草津の三万六千リットル!ほどではないが、温泉地の規模と照らし合わせると、バブルな施設を造らずに誠実に源泉を配湯するとすれば十分な湯量であろう。
前号では触れなかったが、実は下部の湯量はこれらの場所に対して非常に少ない。私の常宿の大家は自家源泉なので問題はないが、源泉をきちんと使用している宿は実は限られている。
昨年騒ぎになった一連のまゆつば温泉騒動の中にも含まれてしまった宿が残念ながら幾つかあったのは事実である。
温泉地にとって湯量はその地の命に等しいし、それによってその地の実力や人気が左右されるのは、いさしかたのないことであろう。しかし私は決してそれによって自分のその地に対する評価や愛着が決まることはない。
むしろ湯量が少なくとも、湯量に合ったしかるべき施設で歴史を保っているところにより愛着を感じるし、またリピートしてしまう。
私は別に温泉評論家というわけではないので、偉そうなことは言えないが、逆に実際の湯量を無視して、湯量より客量≠優先した入浴施設を造ってしまうのが問題なのである。
そういった宿が今となって行過ぎた経営根性のツケを味わっている現状であることは以前にも書いた。
たしかに、一企業として「発展させる」「成長していく」という意味での経営意識は素晴しくかつ重要なことだが、根本たる、また自らに命に等しい湯そのものと、それとは別の問題とも思えるのである。
ユムラ銀星の湯は浴槽自体は小さいが素晴しい湯であった。これでどこもかしこもが、とんでもなく大規模な施設を造ったりしたらまた変わってしまうかもしれない。
ただ、温泉地を維持し、また発展させていくには、「せざるをえない」こともあり得るかもしれないであろう。そしてその辺の突っ込んだ話はこの後、この宿の女将さんからじっくり聞くことになる。
湯村の抱える問題とは
夕食後、部屋でそろそろ焼酎のお湯割りをちびちびやりながら、今日一日を振り返っていたりしている内にもう二三時をまわっていた。
下部温泉の元市長石部さんから得た弘法大師秘説から、今現在の湯村温泉まで、大師に関する秘説・伝説、二つの説を一日の時間の中で吸収した心地よい重さを感じている時間である。(いやいや、湯村はまだ明日が本番だが)
二三時半くらいになったが、やけに隣の部屋がうるさい。よく考えたら、当たり前な話し今日は祭りの前夜である。この日のために全国から様々な人達が訪れてくるのだ。今日あたりどの宿も夜はにぎやかなのであろう。
たださすがに、身体は疲れているが、頭はどうにもまだ冴えている状況である。明日の祭りを前にして盛り上がっているのはしごく当然で、ヒトとして心の中ででも責める気にはなれない。
そこで飲んでいた焼酎とつまみを持ってなんとなく部屋を出た。ロビーで飲んでやろうという寸法である。
玄関は既に灯りが消えており、帳場の前も寝静まった雰囲気。テレビとテーブル、ソファーのあるロビーだけに明かりが点いている。田舎の旅館に共通した夜のイメージである。当然誰もいない。
しばらく一人で飲んでいると、帳場の灯りが点いて年配の女性がきたので、思わず視線を向けてしまった。なんか一人客がこんなところで飲んでたりするとヘンに思われてしまう(?)と思ったからだ。軽く挨拶し、
「いや〜祭りの前夜で、お隣さんも盛り上がってるみたいで‥」
と、ここにいる言い訳じみたことを言うと、女性は苦笑い混じりで「すみませんね〜、どうぞごゆっくりやってくださいな」
私はこのやり取りで「この方は女将さんだな」と直感した。浅香光代女史に似たどこか貫禄というか、存在感を感じる人だ。話がいつの間にか弾んできてきて、やはりこの方が女将さんだと分かるにはあまり時間は掛からなかった。
最初女将さんの方は立ち話状態だったが、話が盛り上がってくるといつの間にかソファーに座っていた。私は今回の趣旨を話し、この温泉地にまつわる様々な話の聞ける絶好のチャンスと思い、弘法倶楽部の前号を渡そうと急いで部屋に戻った。
前号を女将さんにお渡すると、お返しとばかりに、湯村の歴史を綴った分厚い写真集を用意してくれていた。
そして気が付いたら女将さんもまた、湯呑み茶碗の焼酎お湯割りを手に取っていた。
湯村は歴史こそ古く、山梨県では数少ない弘法大師伝説に彩られた温泉地である。ただ、下部や増富のように風光明媚な自然景観があるわけではない。実際私もバス停に降り立った時、「ここが温泉?」(失礼!)と思ったほどだ。
しかも、(ここが大事なのだが)湯治場としての位置付けが非常に中途半端な状況であることは否めない。下部などは前号でも書いたとおりリピートの湯治客に支えられている要素が大きいのだ。
その辺のことを女将さんに聞くと、やはり湯村も以前は湯治温泉としての伝統がもっとしっかりしていたそうだ。たしかにお湯自体は湯量も豊富で、その効能も温泉病院があることに証明されるように非常に高いのは間違いない。
ただ、女将さんが半ば嘆くようにもらしたのは、ここ数十年のあいだの各旅館の跡継ぎに問題があったということである。はっきり言って「何も考えてない」のだそうだ。「それはうちを棚に上げているようにもなりますが‥」とやや自嘲ぎみに話してくれたもの事実だが‥。
この宿の向かい奥に『湯村ホテル』という大きな鉄筋の宿がある。そこの今のご主人は唯一非常に今後の湯村について意識的に取り組んでおり、いわば孤軍奮闘状態だいう。
一例を挙げると、市街地という立地を逆に生かしてビジネス利用のお客さんに同等の料金で温泉旅館の情緒やサービスを提供する。それにより今までにない新しい客層を開拓しているという事である。
なるほどビジネス利用ならリピート利用にも繋がり易い。出張にきた時など、普通のビジネスホテルのユニットバスに浴するではなく情緒ある天然温泉に浸れるのだ。自分だってそっちの方がイイな、と思ってしまう。
湯治文化云々とはちょっとかけ離れているが、素晴らしい目の付け所だといえるではないか。しばし感心してしまった。
湯村ホテルのご主人はその他様々な戦略を実践しているようだが、いかんせんあくまで孤軍奮闘であり、他の旅館の跡継ぎ達は、古い伝統に乗っかっているだけでなにも考えてないのが現状ということである。女将さんの話はまさに悲喜こもごもであった。
女将さんが持ってきてくれた写真集を見る。女将さんも多少ホロ酔い状態でいろいろ説明してくれる。
今温泉病院のある場所には、千人風呂という共同浴場があったこと。(病院の建物のてっぺんは六角形のデザインになっているが、それは千人風呂を偲んだものらしい)
ここユムラ銀星は以前は銀星館といい古い歴史があること。(改築時の写真が出ていた、昭和二十年代のものらしい)その他様々である。
写真をみるとこの宿を含めて改めてこの地の歴史の重さを感じる。また、その歴史を継承しながらも、今後の伝統づくりに真摯に取り組んでゆかねばならない。女将さんの話の端々には、その意識の強さゆえ、情念のようなものさえ垣間見えたような気がする。
ロビーの時計を見るともう一時四十分、さすがにお隣さんの前夜祭も終わっているだろう。女将さんに付き合ってもらったお礼を申しあげ、私も明日に向けてやっと就寝することにした。 
8
いよいよ厄除地蔵尊祭り当日の模様です。お祭りの模様を3回に別けてお送りします。
翌朝、一階の奥の食堂で朝食を頂いていると、ロビーや玄関の方から明るくも騒がしいやり取りが聞こえてくる。
この宿の前にも出店が構えられ、日中から夜にかけては、温泉宿から主役に近い立場を奪い取る(?)ようだ。むろん主役は塩澤寺である。
女将さんの話では、山梨県全域のみならず、真言宗関連のお寺関係者をはじめ全国から参拝者が訪れ、その数は十万人を越えるという。ロビーで一服していると玄関の外では慌しく地元の人達が右往左往している。
この厄除地蔵尊祭りは、観光ガイドなど、一般的には「国の重要文化財に指定されている地蔵堂に安置されている本尊の石造地蔵菩薩坐像が、この日一日だけ耳を開き善男善女の願いを聞き入れてくれる」とされているが、昨日の塩澤寺のお身内の方からの話などを基にした私の解釈としては、空也上人による厄除地蔵菩薩像と完全な秘仏である弘法大師の坐像が一つとなり、それにより善男善女の願いに対して耳を開いてくれる、と解釈している。
女将さんにも確認したところそれは間違いないらしい。ただ、祭りの盛り上がりとは裏腹にその辺の詳しい根拠に関しては、案外地元の人達もよく分かっていないケースが多いそうだ。この辺は前述した下部での事情にも通ずる部分であり、私も苦笑いするしかなかったが‥。
宿を出る。時に午前九時。女将さんからは、「どうせ夕方くらいまで湯村にいるんでしょ、一段落ついたらまた寄ってくださいな」と一言。私は自然に笑顔が出て、おそらくそうする旨を伝えた。そして足は再び温泉街中心部に向かい始めた。
昨日は暗くてよく分からなかったが、昨日通った道の両側には既に開店直前の出店がズラリと並んでいる。祭りが始まるのが十二時からで、その一時間前くらいから急激に人が増えてくるらしい。
さすがに今はまだ地元の人が準備中という時間帯である。たこ焼き屋、占い、りんご飴‥等、自分的には初詣の神社の参道の風景のようだ。ただ、どんどん歩いている内にそのスケールに驚く。
温泉街のメインストリートのみならず、脇道にいたるまで、凄い数の出店だ。おそらく百件以上あるだろう。まさに十万人を迎え入れる準備まもなく完了!≠ニ言う感じか?徐々に温泉地全体の来るべき熱気をひしひしと感じ始める。
女将さんからは「参拝者が増え始めてから境内に入ろうしたら≠ニんでもない≠アとになる」と言われたのを思い出し、早めに塩澤寺境内に入ることにした。山門の前に着くと、警察官だか警備員だか分からないが、ピーク時間を想定して警備の予行演習のようなことをやっている。かなり緊張した面持ちにみえる。
昨日来た時は真っ暗だったので改めて見ると、また違った顔を感じる。山門の両側の斜面に無数の石仏があり、そしてその石仏を従えるように斜面の中腹には、弘法大師像が佇んでいる。そして改めて感じた。やはり、ここが湯村の中心であり、また象徴なのだ。
山門をくぐり石段を上がる。境内はまだ、人はまばらで、関係者らしき人達だけのようだ。早く来て正解!
境内に入ると本堂の横に西堂と呼ばれるお堂があり、そこには弘法大師の坐像がある。ただ、そのお堂はここ(塩澤寺)ではいわゆる『大師堂』とは呼ばずあくまで『西堂』とよんでいるそうだ。そしてこの西堂は祭り中護摩札申込所になっている。改めて見ると、そこだけは申込希望者で結構人が集まっている。
早速私も行ってみた。正面には『祈祷護摩札申込所』とあり、受付のおじさんが四〜五人おり希望者を受け入れている。奥を見ると黄金色の弘法大師坐像がそのやり取りと見守るように鎮座している。
ここまで来たら私も‥、とばかりここは一つ申し込もうと言うことになった。受付のおじさんから話を聞きながら進めていく。
まず『御護摩札祈祷志納料』とあり、金額によっていくつかバリエーションがある。
〇交通安全祈祷守…………二千円以上
〇別護摩……………………二千円以上
〇大護摩……………………三千円以上
〇特別大護摩………………五千円以上
〇大護摩開運隆昌…………一萬円以上
〇特別大護摩開運隆昌……二萬円以上
となっており、それぞれ独自の意味が込められているようだ。私はとりあえず財布の中身と相談(寒い!)して『別護摩』を選択した。金二千円也。
すると今度は『厄除』から『必勝祈願』まで二十四通りのいわゆる願意を書いた紙を差し出された。「この中から任意に二つ選んでください」とのことである。
自分としては、近年体調を壊すことがよくあり、また弘法倶楽部の今後のこともあるので、『身体健全』と『心願成就』というのを選んだ。この時ばかりは、客観的な取材の気分とは切り離れた心境だったのは言うまでもない。 
9
厄除地蔵尊祭り当日の模様の第2回です。本堂を挟んだ熱気と喧騒、静寂をお送りいたします。
一通りの手続きを済ませた。後は祭り開始と共に実際に本堂の前で*除け≠してもらい、その後宮殿(接待所)にてお札そのものをいただけるとのことである。
そうこうしている内に時間は十時を回った。省みると自分の行動のタイミングがギリギリだったのか?後ろを振り向くと申込希望者がいつの間にか大きな列をつくっていた。地元関係者の人達の行動もいっそう慌しくなってきたようだ。
ただ本番(?)開始まではまだ二時間弱ある。やや手持ブタさというか、時間を持て余す感じになってきて、本堂のまわりをうろうろしている状況。本堂の後ろは湯村山の山頂につながる山道になっており、ちょっと足を延ばしてみることにした。
境内は丁度山門から始まる湯村山の斜面に展開しており、本堂の裏は段々畑のように墓地が広がっている。本堂より前部はかなり喧騒してきたが、裏に回ると嘘のようにひっそりしており、霊気とも冷気とも取れる雰囲気が漂っている。裏の静寂が表の喧騒を見守っているかのようだ。
墓地が切れて山頂への山道と合流するあたりに、風変わりなお地蔵さんがあった。自然石の上に地蔵の首だけ乗っかっており、その顔がなんとも言えず愛嬌がある。丁度、赤塚不二夫の漫画に出てくるキャラクターのよう(?)
後から聞いた話だと「たんきりまっちゃん」と呼ばれ愛嬌のある顔で、地元の住民にも親しまれているようだ。ただその愛嬌のある顔とは裏腹に由来は、昔痰や喉の痛みに苦しむ人が祈願して創ったとのことである。痛みから逃れたい一心をこのユーモア溢れる顔に託したとすると、なんだが逆に痛々しい印象もある。
このまま山道を登ってみたい気にもなったが、今日はここ二日間とはうって変わって曇天模様。頂上付近からの展望も望めそうもないし、第一これから祭り本番なのだ。時間的にもそろそろ引返すべきかと思い境内に戻ることにした。
午前十一時。あと一時間ほどになった。西堂前は申込希望者で長蛇の列となっており。本堂前は既に申込を終えた人と地元の関係者が入混じってごった返している。
本堂の表と裏はまさに熱気と冷気である。空を見上げるとヘリコプターが空中放送している。
「甲府市内のみなさん!本日と明日の二日間に渡る厄除地蔵尊祭りでは、道路及び交通機関等、大変混雑が予想されます!また行過ぎた行動はくれぐれも慎むようお願い致します!」
おそらく県警か何かのヘリであろう。なんだか阪神タイガース優勝時の道頓堀川のようで、改めて祭りの規模とその信仰心の発するパワーを再認識させられる。まだ始まっていないのに‥。
三十分前になり、そろそろ本堂前に行こうとして、ふと振り返ると「やはり!なるほど!」と思った。
本堂前からは湯村温泉街が見下ろせるが、とにかくメインストリートのみならず、小さい脇道までびっしりクロヤマの人、人、人、である。そしてその総てが真下の山門まで行列となっている。俯瞰すると四方に分かれた枝が山門前で太い一本の幹になって収束している、とでも言ったら当てはまるだろうか。山門前で一つになった行列はそのまま石段を上がり西堂の申込所まで続いている。
横にいた警備のおじさん曰く
「まあ、願い事は長く待てば、長く待つほどよろしく聞いてもらえるんやろーなー、なんせ十二時にならな耳が聞こえんのやから、聞こえんかったらなんぼ願うてもだめやしねー‥」
なるほど、長く待てば待つほどご利益は多し、とも言えるのかもしれない。
いよいよ本堂前にも人がなかり集まり始めた。私も乗り遅れないように本堂の前に行くことにする。早く申込みを済まして多少余裕をカマしていたが、もうそう言う状況ではなくなったようだ。
やがて、山門の横の宮殿の方から、七人くらいのいわゆる℃gいの人≠ェほら貝を吹きながら、参道脇の石段を上がって来た。
「ブゥオゥー〜ン」
一瞬、境内内外の喧騒が静寂にかわり、熱気が冷気にかわる。
いよいよ℃ィ≠開ける、その時が来たようだ。
ほら貝により始まった厄除地蔵尊祭り。護摩焚きが行われている本堂へ足を踏み入れ、「出会い」の時を迎えます。 
10
思わぬ長編になってしまった「山梨周遊編」も今回で最終回です。これからの自分のあり方の足がかりにもなりそうな有意義な時間でした。
使いの人が本堂の前を通るころには、ほら貝は静まっていた。静寂の中、一人一人静かに本堂に入っていく。この中の誰かがあるいは、お大師様の秘仏を携えているのか?それとも既に、地蔵菩薩坐像のもとにあるのか?それは現時点では分からない。
本堂前は私の前に既に十人ほどが待っており、本堂の中をじっと凝視している。私も邪魔にならない程度に少し身を乗り出し目を凝らして見てみた。
やはり!既に本堂内では、地蔵菩薩像を前に護摩焚きが行われていた。
薄暗い本堂の中で、静に湛える炎を前に地蔵菩薩坐像がゆらゆらと照らされているのがわかる。どっしりしてかつ穏やかな表情だ。そして、これが…
坐像の、丁度手の前あたりになる、補助台の上の小さな黒塗りの木箱。正面の扉は閉じられているが、これこそがお大師様の秘仏なのである。
感銘している内にいよいよ本堂前の一人一人に対して厄除けが始まった。十二時を回ったようだ。私はその直前に本堂の中への目が切れてしまい、後はひたすら順番を待つだけであった。 私の番になり、前の人に習って両手を握り絞めて拝む。もう本堂の中を見る余裕はない。ひたすら手を握り締めていた。
その時の自分の心の中はもう憶えていない。また、木箱の中に秘められ、厄除け開始と同時に扉を開かれたであろうお大師様の秘仏そのものも、自らの目で確認する余裕すらなかった。
ただ、空也上人により大衆に受け継がれた信仰は、開創者である空海弘法大師の秘仏を介し初めて結実するはずなのだし、また私を含めこれだけの人々が本能的に引き寄せられるだけの歴史があるのだ。
弘法倶楽部毎号にもよく「同行二人」にと言う言葉が出てくると思う。四国八十八ヶ所においても、普通お遍路さんは「お同行」とも呼ばれ、これは志を同じくして修行している人というほどの意味かと思われる。
しかし「同行二人」と言うときは、単に仲間の遍路というような関係ではない。言わずもがな、お大師様、弘法大師と二人連れという意味である。お遍路さんは皆一人一人が金剛杖を介し「同行二人」の旅をし、そして八十八回の出会いを実現するのだと思う。
塩澤寺の厄除地蔵尊祭りは、同行の「旅」ではない、「出会い」である。ただしそれはわずか一年に一度しか実現しないのだ。そしてその一度きりの「出会い」の中に「遍路」の旅にも勝るとも劣らない信仰が凝縮される。
そう考えると、お叱りを承知で解釈するならば「年に一度の同行二人」とも言えるのではなかろうか。
私は今回初めて初めてこの塩澤寺における厄除地蔵尊祭りを体験した。そして湯村温泉と絡み合った歴史の流れと伝統を見聞したうえでの体験であったが、自分自身のちっぽけな探究心とこのような実体験が融合するには、まだまだ幼すぎる経験でしかないかもしれない。
しかし「巡礼」、「遍路」、そして今回の厄除地蔵尊祭りに集う十万人を越える人々…。そしてその一人一人の意識や信仰心の様々が、私のような人間にも「ほんの少しだけ」垣間見れたような気もする。
その後、宮殿にて出来上がったお札をもらい、塩澤寺を後にする。祭りはこの後、明日の正午まで続くのだ。
私の体験は終了したが、「年に一度の同行二人」はまだまだ始まったばかりなのだろう。
私は出店と人ごみでごった返す温泉街を歩き、所々出店にたちどまりながら、今日の朝のお話通りユムラ銀星に立ち寄った。そして忙しい中、昼食におでんといなり寿司をご馳走になってしまった。お代は辞退される。ありがとう。女将さんには深くお礼申しあげる。
下部から湯村まで、昨日・今日と非常に濃密な時間な流れであった。まだまだ私なりの≠ェんばり≠ネどとは言えないかもしれないが、まだまだ、今後も更に様々なことを吸収していくだろうと思う。
以上で、弘法倶楽部の3号から4号にかけて掲載(4号は未遂)された「弘法大師ゆかりの湯と秘説の湯、城山・下部・湯村、山梨周遊」紀行は終了いたします。 
 
篠ヶ峰の鬼 / 兵庫県丹波市春日町

 

もうひとつ、伝説「篠ヶ峰の鬼――のんきな鬼のお手伝い――」では、多可のあまんじゃくとよく似たキャラクターの鬼を紹介した。この鬼もおっちょこちょいであるところはよく似ているが、最後には人々のためになることをして天に去っていく。鬼というよりは神に近い性格が感じられる。
話の内容は、牧山(まきやま)の里(丹波市山南町小畑付近)を流れる牧山川の水量が少ないことや、船城(ふなき)の里(丹波市春日町西部)にかつては湿田(しつでん=水はけの悪い田)が多かったこと、牧山周辺がかつては養蚕(ようさん)や栗の名産地であったことなど、地域の特徴を鬼の行いによって説明しようとするものである。
鬼は、古くからしばしば説話に登場するが、たとえば平安時代など古い段階の鬼は人を捕って食うきわめて恐ろしい存在であった。この伝説のように神に近く、しかも人間的なひょうきんさを兼ねそなえた性格の鬼は、かなり新しい時代に作られた印象を受ける。丹波市は多可町の東隣にあたるので、篠ヶ峰の鬼にも多可のあまんじゃくの性格が影響しているのかもしれない。
舞台となる篠ヶ峰は、播磨の多可郡と丹波の氷上郡の境界にそびえる山で、氷上郡内では最高峰である。この話を伝えていた牧山の里は篠ヶ峰南麓にあり、この鬼伝説とは別に弘法大師(こうぼうだいし)に関する伝説が二つ伝えられている。
一つは、篠ヶ峰山頂付近の岩が牛になって夜な夜な田畑を荒らし回って困っていたところ、弘法大師が法力(ほうりき)でこれを封じ込めたというものである。 もう一つは、弘法大師が村にやってきて1杯の水を求めたところ、村人が水をあげなかったために、それから牧山川の水量が少なくなったという伝説である。後者は、篠ヶ峰の鬼の話と共通し、地域の自然を説明する伝説となっている。
この篠ヶ峰も古来神仏のいる山であった。西麓に位置する多可町加美区丹治(たんじ)には、古く篠ヶ峰に丹治大明神が鎮座していたという伝説がある。しかし、あるとき大明神は北麓の丹波市氷上町三原(ひかみちょうみはら)へ飛んでいってしまい、西麓の丹治へは大明神とともにまつられていた文殊菩薩(もんじゅぼさつ)がやってきたという。篠ヶ峰山上に鎮座していたという丹治大明神と文殊菩薩とは、伝説上の高僧である法道仙人(ほうどうせんにん)が開いた寺院を指しているという。
また、大明神が飛んでいったとされる三原の内尾神社(うちおじんじゃ)にも、やはり祭神は丹治の大登ヶ峰(おおのぼりがみね)から移ってきたという伝説が残されている。この鬼には、篠ヶ峰を拠点に活動していた修験者(しゅげんじゃ)の姿が投影されているとも考えられている。篠ヶ峰の鬼の伝説も、多可のあまんじゃくと同様に、こうした山に対する信仰を背景としているようだ。 
 
弘法水めぐり紀行

 

和歌山線の弘法井戸
和歌山線名手駅から南へ歩くと紀ノ川が流れている。麻生津橋を渡ると高野山へと至る麻生津(おうづ)道(西国街道)の案内板があり、ポイントごと見ながら急坂を登っていく。その途中、「ハイタ地蔵」の左横に奥行5mほどの小さな横穴から水が湧出していた。
さらに登った那賀町赤沼田(あかんた)に「大師の井戸」がある。弘法大師が水を所望すると老婆が遠くまで汲みに行くのを同情して加持により湧出させた、との伝説が残っている。屈曲した杉の根元からわずかに水が湧出していた。小さな祠の上にはサザンカが咲いていた。その横には今風のコンクリートの丸い井筒があった。
山間の斜面にある集落は町の簡易水道の普及で水に困ることはなくなったものの、今も農業用水に利用されている井戸が多い。
粉河駅から歩いて約20分、R24沿いのバス停「高野辻」の脇道を北に少し入った道路沿いの窪地に「大師の水」(粉河町東野)がある。紀州の名水100選に指定されている。ステンレスの蓋がされた井戸の中を覗き込むと、セメント製の径1m足らずの井戸型で50cmほど下に澄んだ水を湛え、水底には丸石が敷かれていた。案内板によれば、その昔金気の強かった水を弘法大師が杖を突いて真水を湧出させて以来涸れることなく湧き出しているという。
打田駅から南へ歩くと県道に出る。そこを西へしばらく行くと、県道から少し下った坂道に「出水」と呼ばれる「弘法井戸」(打田町花野(けや))がある。お堂に小さな弘法大師像と木の蓋のされた井戸がある。粉河町の弘法井戸より少し小ぶりだが水は透き通っていた。ここにも大師が錫杖で突いて湧出させた、との伝説が残っている。
四国予讃線の弘法ゆかりの水
JR西条駅のホームに「水の都西條」の石碑と水場がある。西条市内には「うちぬき」といわれる自噴水がおよそ200か所ある。石鎚山(標高1982m)を水源とする加茂川の伏流水が浸透した地層にパイプを打ち込むと地圧で噴出する。市役所の近くにはその代表として環境庁名水百選に指定された「うちぬき」がある。口をつけるとまろやかな味だった。生ぬるく感じたのは冬季でも年中15℃前後の地下水であるためだ。
また旧西条藩陣屋の堀割に開削された本陣川河口で東予港の入り口に、西条市名水・名木50選に指定される弘法水がある。そこには弘法大師が杖の先で突くと清水が湧き出したとの伝説が残っている。口をつけてみると全く塩気がない。海底の地中から清水がそのまま湧き出していた。水だけでなく港や家屋も見守るように弘法大師像が鎮座している。
JR伊予三芳駅から西へ約15分歩いた楠(東予市)に「臼井大師堂」が道路沿いの窪地にある。小さなお堂の前に径50pほどの石製の丸い井戸枠に水が湧き出し、透き通った水底では小魚が泳いでいた。その様子からお堂の下が水路となっているようだ。流れ出す池は少し濁っているがコイが泳いでいた。弘法大師が杖を突き立てて念仏を唱えると水が湧出した、との伝説があり、臼の形の井戸枠から「臼井水」「臼池」と呼ばれて守られてきた。
伊予鉄道鷹の子駅から南へ約30分歩くと四十八番札所西林寺がある。その寺伝には弘法大師が干ばつに苦しむ村人のもてなしに感激して錫杖で突いて水を湧出させたとされ、その一つが南西に少し離れた所の「杖ノ淵」で奥の院となった。環境庁名水百選に指定され、杖ノ淵公園は児童公園などを併設した都市公園として市民の憩いの場になっている。
池は周囲100m足らず、水深1mほどの池底から重信川の伏流水が湧出する水はブルースカイ色で澄んでいる。その一角に弘法大師像が鎮座している。池から流れ出す小川はコイとマスが一緒に泳ぎ、天然記念物の「テイレギ(学名オオバタネツケバナという越年草)」が黒いシートで覆われて保護育成されている。公園の隣地には「全国名水百選」の水場があるが、個人所有で会員制となっている。水源の保全のためには仕方がないのかも知れない。
JR八十場駅から歩いて10分ほどのところに「八十蘇場の清水」がある。お堂の横にある水場は、谷水の流れる苔むした石の水路の流口の上に小さな地蔵が鎮座している。景行天皇の御代に88人の軍兵らが童子の捧げるこの水で蘇ったという伝説が残り、古来より薬水として尊ばれてきたそうだ。干ばつでも涸れることなく湧き出た清水のおかげで、水場の隣には創業200余年になるというトコロテン屋が店を構えている。3分ほど歩いた七十九番札所天皇寺には、弘法大師がこの泉を通った時に霊気を感じて刻んだといわれる本尊(十一面観世音菩薩)が安置されている。
氷上の独鈷の滝と神戸の弘法井戸
石生(いそう)駅からバスに乗り、香良口から約20分歩いた山麓に岩瀧寺や兵庫観光百選にも指定される「独鈷の滝」がある。その滝は落差約20mで、「弘法大師が大蛇を退治するために密教の法具である独鈷を滝壷に投げ入れた」という伝説が残っている。滝から階段を登ると浅山不動尊がある。洞窟に弘法大師が作ったといわれる不動明王像が祀られている。さらに五台山への登山道を少し登ったところに「不二の滝」がある。
周辺の山は中央分水界にあたり、この滝の水は加古川へと流れていく。
石生駅から約10分歩くと水分(みわか)れ公園がある。日本海と太平洋・瀬戸内海に分ける中央分水界は本州で延長約1800kmある。この公園は標高95mの日本一低い中央分水界で、その延長約1250mの最東端にある。一方は高谷川、柏原川、加古川を経て瀬戸内海へと注ぐ。もう一方は細路を集めて黒井川となり、竹田川、福知山市で由良川と合流し、京都府を流れ日本海へ注ぐ。高瀬舟が加古川や由良川を往来し、氷上地方はこの地理的条件を利用して瀬戸内と日本海を結ぶ中継地として栄えたという。
須磨区妙法寺地区を流れる妙法寺川沿いから少し山手に入った住宅街の一角に弘法の井戸がある。飲み水に困っている村に弘法大師が杖を突くと水が湧き出たという伝説が残っている。1×3mの長方形で浅い井戸で水の流れはない。3本の長い柄杓が備えられ、「水を飲れる方は沸かして飲んで下さい」との注意書きがある。周辺は山を削って宅地開発されたようで、土砂崩れ防止のコンクリートの絶壁がある。その影響で水脈が乏しくなったのかもしれない。
東寺の灌頂院と泉湧寺
毎月21日の「弘法の日」は、東寺は露店が並び参拝者で賑わう。境内にある「灌頂院」は4月21日のみ特別に公開され、法要が営まれる。その中に堂に守られた「閼伽井」がある。格子から中を覗くと暗くて石垣が見えるだけだ。北に3kmほど離れた神泉苑の池と通じている、という伝説が残る井戸だ。
東山にある泉湧寺は弘法大師が庵を結んだことに由来している。1218年に大伽藍を造営した際、寺の一角から清水が湧き出したことから「泉湧寺」と改めたという。その歴史ある水は立派な屋形に守られている。今も水が湧き出しているというが、この日は水の流れはなかった。屋形の補修工事をしているためだろうか。
泉湧寺に隣接した来迎院には弘法大師独鈷水がある。本堂脇に弘法大師像が鎮座した小さな祠がある。その祠下の観音扉を開けると、崖下から水が湧き出している。横井戸となっており、中は奥深くて薄暗い。備えられた長い柄杓で水を掬い取って味を見た。少し甘かった。「赤穂浪士の討ち入り」で有名な大石良雄がこの水を愛で含翠軒を建てたといわれており、14日の「浪士を偲ぶ茶会」でこの水を使うそうだ。
紀勢線の弘法井戸
三重県を走る紀勢線佐奈駅から北東に30分ほど歩いたところの、和歌山別街道沿いの街角(多気町仁田)に「二つ井戸」がある。そばには小さなお堂がある。案内板には「弘法大師がこの地へ立ち寄り水を所望されたとき、水の便が悪いと聞き、杖で地面をたたくと水が湧き出した。澄んだ水を飲用に、濁った水は洗いものに使うように言われた」とある。大小2つの井戸に流れ込む水は汚水も混じっているのだろう。水はドロンとしている。井戸には多くのコイが泳いでいる。水を浄化してくれているコイは、現代の「弘法大師」といえるかもしれない。
隣の駅の栃原駅から歩いた。度会(わたらい)町は伊勢茶の「わたらい茶」の産地で茶畑が広がっている。歩くこと1時間ぐらいで「弘法井戸」(度会町田口)があった。崖下にあるお堂の石垣の下から湧き出した水が2m×3m、1m×1.5mの井戸に注いでいる。この日は桜が咲き乱れ、花びらが水面に浮かんでいた。人の姿はなかったが、「冬場は暖かく夏は冷たく、現在も地域住民の洗い場に活用されている」ということだ。
 

 

加茂(京都府)の二つ井
大和路線(関西線)加茂駅から北へ歩いていく。木津川に架かる恭仁大橋を越えて右折し、和束川に架かる菜切橋の脇に「二つ井」(加茂町井平尾)がある。その昔、井戸を守る樫と柏の木があったところから「樫の井」と「柏の井」と呼ばれている。
道路下にある「樫の井」は崖下から湧き出した水が3槽に区切られた井戸に注いでいた。洗いものをしていた女性に聞くと「昔は飲めた。今は下水が混じっている」ということだ。頭上を頻繁に行き交う車を見れば、確かに水質は心配だ。
「樫の井」から少し奥に入ったところに「柏の井」がある。同じように崖下の石垣から湧き出し、「樫の井」より少し大ぶりで1×0.5m、2×0.5m、1×0.5mの三槽に区切られ、和束川に注いでいる。この先で木津川と合流している。そばには弘法大師が菜を切って洗ったという伝説の「弘法大師○○菜切石」と刻印された石碑がお堂の中に鎮座している。井戸の当番表を見ると、月二人で交代しながら地域住民が守っていることがわかる。
和歌山の弘法井戸と弘法湯
紀勢線湯浅駅から北に歩くこと約30分、みかん山に囲まれた一角に「弘法井戸」がある。弘法大師が杖で突くと湧き出したという伝承が残っている。熊野古道沿いにあり、かつては熊野詣での旅人がこの井戸でのどを潤したそうだ。しかし現在、水は枯れ果てお堂で守られた井戸が佇んでいるだけだ。残念なことに案内板も割れていた。
みかん山を少し下ったところに、逆川王子跡とされる逆川神社がある。藤原定家が「水が逆流しているので、この名がある」と日記に記しているように、海のある西へとは逆流しているところから「逆川」呼ばれたということだ。その川は工場の裏手にある幅1mほどの川だ。案内板には、「後年『吉川』」改められ、この地名にもなった」と記されていた。
国の名勝天然記念物に指定されている橋杭岩(串本町)の近くに「弘法湯」(古座町)がある。弘法大師堂の背後にはお堂より巨大な岩がそそりたっている。弘法湯はその脇下にある。水際から数mの崖上にあるためだろうか、泉質は塩分のない単純泉だ。窓から太平洋の海原を望むことができる小さな浴槽が2つあり順番に入る。この日もすでに待っている人がいた。姫地区の住民の健康増進を図るコミュニティー浴場として利用されている。(入浴料大人300円、利用日火・木・土・日)
病に苦しむ村人が夢の中で、雲水が杖で指した所から湧き出している湯は万病を癒やすとのお告げあった。目覚めると大岩の割れ目から湯が湧き出していたという。それを飲み、湯に入ると病が治ったことから、この大岩を「弘法岩」(クツヌギ岩)、温泉を「弘法湯」と呼ぶようになったと伝えられている。
橋杭岩はその大岩から連続して十数の巨岩が海岸線に並び立っている。地質学的には周囲の泥岩に対して固い火成岩でできた岩脈が浸食されず残ったものだが、この岩には弘法大師のおもしろい伝説が残っている。天の邪鬼(あまのじゃく)が熊野を訪れた弘法大師に一晩で大島まで橋を架ける競争を申し込んだところ、天の邪鬼が完成まじかに迫った大師の邪魔をしたため橋桁の大岩だけが残ったという。
俄山(にわかやま)弘法の水
広島県福山市市街地から北西に5q離れた津之郷町がある。その山間に俄山弘法の水がある。山陽自動車道福山SA近くの高速道に架かる弘法大橋を越えてしばらく歩くと、ひっそりと佇んだ寺がある。境内には紅梅が咲いていた。水は背後にそびえる高増山(399m)の山裾から湧き出している。「御霊水」と刻印された給水栓をあけて柄杓で飲んでみると、わずかに甘かった。
境内の近くを流れる谷川に立つ案内板には「山伏が人を斬った刀をこの谷川で洗ったことから、この水を飲むと腹痛をおこし人々が苦しむのをみた弘法大師が霊水を出して救ったという伝説があります」とあった。以来この水を「弘法の水」といわれ、胃の病気などの効くと利用されてきた。そして代々周辺の住民らで「遺徳会」を結成して今も守り続けている。その「保全費」として10リットルで100円を治めることになっている。
熊野(ゆや)の清水
外房線茂原駅から大多喜行きバスに乗って約30分、「市野々」バス停から徒歩5分ぐらいで熊野(ゆや)神社に着く。室町時代に鶴岡八幡宮の社領だった頃、神社直営の湯治場があり、湯谷(ゆや)と呼ばれたところから地名の由来になったということだ。
神社の崖下に環境庁の名水百選に指定されている熊野(ゆや)の清水がある。瀧の不動尊が祀られた小さなお堂下から懇々と水が湧き出し、丸太をくり貫いた2本の木樋で導水されている。直径3m、水深20cmほどの透き通った泉は川砂が敷かれて、コイが泳いでいる。
この水は弘法大師が訪れた際、水不足で苦労していた農民たちのために法力で湧出させたと伝えられる「弘法の霊水」で、以来日照りにも涸れることなく飲用水として恩恵を受けてきた。今は残念ながら、水道法による水質基準には適用しておらず、飲用するには煮沸が必要だ。清水の周辺はなだらかな丘陵地でゴルフ場が多い。その影響も心配される。
午前8時ごろに訪れた時には、近隣の住民がお堂の周りを掃除していた。長年、清水が守られてきたのもお大師信仰によるところが大きい。病気の治癒や受験祈願などに霊験があるとされ、参拝者も多い。
下鴨神社ひな流しと神泉苑
世界文化遺産に指定されている下鴨神社(賀茂御祖神社)の御手洗池で毎年3月3日に「ひな流し」が開催されている。御手洗池の前には十二単(ひとえ)衣の「おひな様」が並ぶ。「女ひな」の十二単は10枚で約15kgもあるそうだ。11時過ぎに始まった神事に続いて、「おひな様」がわら製の小さなお皿に乗ったおひな様が子供の成長を願いながら次々と玉石の敷きの水深20cmほどの御手洗池に流した。そのそばにある瀬織津姫を祀った摂社御手洗神社の下の井戸から水が湧き出している。この日は風向きで川の流れに逆らっていたが、この水は「糺(ただす)の森」の中に再生された御手洗川へと流れていく。ケヤキ、ムクノキなどの落葉樹が多いこの森は、鴨川と高野川の合流地に位置し、「只洲(ただす)」と称されたことがその由来とされる。
二条城の南側にある神泉苑は桓武天皇が平安京造営で大内裏の脇に設けた苑地である。ここには、天長元(824)年に干ばつで東寺の空海と西寺の守敏が雨乞いの祈祷比べをし、空海が雨と水の神である善女竜王(ぜんにょりゅうおう)をインドから招請して、雨を降らせたという伝説が残っている。この他にも小野小町が雨乞い祈願を詠うなど雨乞いの伝説が多く残っている。
願いを念じながら渡ると叶うという朱色の太鼓橋を渡ると、放生池(ほうじょうち)の真中に善女竜王が祀られたお堂がある。悪霊、疫病、厄を払い、清泉によって五穀豊穣、商売繁盛、子孫繁栄、恋愛成就があるそうだ。
かつては南北四町、東西二町(一町は約109m)の広大だった神泉苑も二条城の造営で縮小された。南に3kmほど離れた東寺で毎年正月に行われる「御修法」では、水を汲む「御水取り」が行われる。以前は神泉苑の善女竜王閼伽井の水を柄杓で七杯半汲んで、御香水としていたそうだ。今では東寺の「灌頂院閼伽井」の水を汲んでいる。その井と神泉苑の池が通じているそうだ。それも伝説に過ぎないのかだろうか。水の流入がないためかなり濁っている。
 

 

天王山から柳谷観音楊谷寺へ
山崎駅の北にそびえるのは、天正10(1582)年に羽柴秀吉と明智光秀軍の合戦で有名な天王山(270.4m)である。京都(山城)と大阪(摂津)の境界地として、古来から軍事と交通の要衝とされた。今でも淀川と挟む狭い平地に、阪急と在来線と新幹線がほぼ並行に走っている。山頂へのハイキングコース途中の展望台からは淀川が臨め、遠くには梅田の高層ビル群が見える。また重文の金剛力士像のある宝積寺、酒解(さかとけ)神社などが点在している。
柳谷観音楊谷寺(ようこくじ)は天王山山頂からさらに北に3.5km歩く。京都清水寺を開祖した延鎮が開祖とされる。境内には「独鈷水(おこうずい)」がある。ここで空海(弘法大師)が修行され、境内の岩穴から湧出した水を加持祈祷し眼病平癒の霊水とされてきた。毎月17日は縁日で参拝者が多いため、寺の人が汲み出してくれていた。平素は木の蓋をとって井戸から汲み出すが、汲んでも水面位は変わらないそうだ。
ほかにも境内には「名水」がある。しかし「神徳(みのりの)水」は流れていない。手ぬぐいに水を浸して顔をぬぐうといい「弁天井水」は水道栓をひねると竜の口から水が流れる仕組みとなっているが流れ出ない。
帰りは長岡天満宮に立ち寄った。ちらほらと梅が咲き始めていた。
富田林寺内町から石川、滝谷不動へ
近鉄富田林駅から東へ少し歩くと、戦国時代に興正寺別院を中心に作られた寺内町だ。その中で有名なのが詩人石上露子の生家で、国の重文に指定されている旧杉山家だ。格子窓の家屋が点在する町並みを歩いていると、道路面に「背割り水路跡」と記された碑がある。当時、家屋の裏を背向かいに排水路が流れていたそうだ。石組みの溝がその面影を残しているようだ。
寺内町の東には、岩湧山を源流とし南河内の水を集水している石川が流れている。川堤を歩いていると、サギやセキレイを見かけた。この日はたまたまだったのかカワセミも見かけた。高橋から東に行くと滝谷不動だ。毎月28日が縁日となっており、この日は初縁日で露店が軒を連ね、参拝者が多かった。
滝谷不動明王寺は弘仁12(821)年に弘法大師が開創したと伝えられている。境内には「御加持水」がある。この水は境内から東へ200m離れた「大師井」から汲み出されたものだ。小さな堂の「大師井」の脇からポンプアップされ、大量に汲みだす人が利用している。境内の案内板によれば、この水は眼病などの諸病の平癒に効能があるとして「おこうずい」として尊ばれてきた、という。
高さ3mほどの一筋の水が流れ落ちる滝がある。不動尊が鎮座し、「行場」の厳かさがある。滝から流れ出している小川に参拝者が筒からドジョウを流していた。これは「身代わりどじょう」といわれ、これで厄を流しているそうだ。
かつて滝谷不動は少し離れた嶽山(がくさん)にあった。現在そこには富田林簡易保険保養センターがあり、地下1200mを源泉とする天然温泉がある。ここの露天風呂から葛城、金剛山系の山並みが良く見える。この日の金剛山頂はうっすらと雪化粧していた。
伊勢志摩・弘法の井戸めぐり
近鉄電車とバスを利用して伊勢志摩地方に多く残る「弘法の井戸」をめぐった。
まずは鳥羽市にある中之郷駅から南へ10分ほど歩いた鳥羽4丁目にある「弘法井戸」を訪れた。それは道路面から約1.5m低い汚水が流れる排水路の一角にあった。「弘法井戸」と刻印された碑の横にある祠の中に石像が安置され、井戸があった。中を覗き込むと壁の隙間から水が流れ込んでいた。水は濁っていないのを見れば、汚水ではないようだ。しかしその水と排水が混じる排水路は暗渠化されていた。
弘法大師がこの場所に杖を突き刺して去ったあと清水が噴出するようになった、という伝説がある。旱天のときでも涸れることなく村人の用水となった。昭和30年ごろまで飲み水や生活用水にも使われていたそうだ。
海辺の浜島町は近鉄鵜方駅からバスで20分足らずだ。大矢の浜にある高さ3mの防潮堤の鉄扉の内側に「弘法の井戸」がある。碑も祠もなく弘法大師ゆかりの井戸とは全くわからない。1×2mほどの大きな井戸は開閉できるトタン屋根で覆われている。あげて中を覗き込むと、石垣の壁で底は玉石が敷かれていた。水は少し濁っているようだった。
この井戸に残る弘法大師伝説は、海辺に近くて真水の出る井戸が少なくて困っていた村人に、お坊さんが杖を突き刺して水の出る場所を教えたところ、掘ってみると水が懇々と湧き出した。そのお坊さんが弘法大師だった、といわれるようになったということだ。
近鉄豊津上野駅から西へ10分ほど歩いた河芸町上野に弘法井戸がある。民家が連なる旧道沿いの建物の中にあった。奥には弘法大師像が安置された堂がある。井戸は蓋がされており、蓋を上げて中を覗き込むと水は濁っていた。
井戸の由来が書かれた額には、立ち寄った弘法大師に差し上げるために清らかな水を遠くまで汲みに行った所、赤水しか出なかった井戸から清らかな水があふれ出るようになった、という。それ以後「弘法井戸」と称され、伊勢街道を歩く旅人ののどを潤したということだ。また1960年に町営の上水道がつくまでは生活用水として利用されていたが、今では全く利用されていないということだ。しかし木枠で井戸を守り、大師を祀るお堂には花が供えられているのを見ると、地域でしっかり守られていることがよくわかる。
寝屋川市内の弘法の井戸
寝屋川市内には4ヶ所の弘法の井戸がある。
東寝屋川駅から北へ歩いて5分ぐらいの打上地区に「打上の弘法井戸」がある。道路沿いに石像を安置した小さな祠の下にある。よく見ないと見逃されてしまうほどだ。今は水溜りのようだが、かつては日照りが続いても涸れることはなかったという。そして東高野街道の道端にあり、高野山詣でをする人らののどを潤したという。
国松地区には「国松の弘法井戸」がある。フェンスで囲まれた井戸にはかつての釣瓶の車輪が残っている。そばには小さな石像が祀られている。
そばを流れる打上川が合流する寝屋川の川堤から下ると「田井の弘法井戸」がある。縦2m90cm、横2mで市内にある弘法井戸では最大である。この井戸には典型的な弘法伝説が残っている。この地にやってきたお坊さんに水はないと断ったところ、そのお坊さんが杖をつきたてると水が涸れることなく湧き出し、そのお坊さんが弘法大師だったというものだ。
郡地区には「湯屋が谷弘法井戸」がある。そばには立派な大師像や大師堂がある。その昔、崖下から湧き出した水は村人の貴重な飲み水だった。現在は地域の代表者の組合が井戸の維持管理している。ポンプアップした地下水の利用は地区内の利用者に限定されてはいるものの、水が利用できるのはここだけだ。
300年前に付け替えられた大和川がこの付近で淀川に合流していた。淀川河川敷には、日本書紀に最初の堤と記される「茨田堤」の碑が残っている。もともとこの付近は低湿地で氾濫を繰り返していた。今でも寝屋川は天井河川である。急激な都市化で農地や山林、ため池が減少し、保水・治水能力が低下した。そのため普段は公園だが、大雨で氾濫すると水が溜まる仕組みとなっている遊水地が設けられている。それが「打上川治水緑地」だ。
秦野・弘法の清水と富士宮・浅間神社・湧玉池
小田急線秦野駅から歩いて5分ぐらいの住宅街の中に「弘法の清水」がある。懇々と湧出する水は冷たい。タオルで浸して、真夏の汗を拭うとヒンヤリとして気持ちがいい。訪れる人は見かけなかったが、きちんと整理された水場をみると、住民によって大切に守られていることがわかる。
丹沢に降った雨が水無川上流で地下に浸透して、秦野盆地地下に溜まった水が「弘法の清水」のほかに市内で自噴している。これらまとめて名水百選に指定されている。
富士山を御神体とする浅間神社には、国の特別天然記念物に指定されている湧玉池がある。
富士山の雪解け水が溶岩に浸透し、神立山の山裾から湧出した水が、御井神、鳴雷神を祀る水屋神社の横から導水され、小さな堂内を巡った水が池となっている。3.6kl/秒、水温13℃とされ、水はかなり透明度が高い。カモなどの水鳥がスイスイと流れと戯れている。古来から富士道者はこの清澄な池で清めてから富士山に向かったということだ。
この池の水は境内から出ると神田川(一級河川)として富士宮市内を流れる。川幅3mほどだが水の勢いがすごい。水屋神社から湧出している量とは比較にならない。ということは池底など湧玉池全体から湧出しているということだろう。富士山がもたらす水の豊かさを示しているようだ。
 

 

弘法の池と手取川
北陸鉄道鶴来駅からバスに乗り、釜清水のバス停で降りてすぐ、弘法の池がある。住宅から林に入る一角に、直径70cmほどの釜のような丸い穴から水が懇々と湧き出している。別名「釜清水」ともいわれる由縁だ。底は2m足らず、一日30トンほどの湧水があるそうだ。その底からポンプアップされ、蛇口から水が汲めるようになっている。近所の人が手軽においしい水を汲みだしていた。
「弘法大師が手取川の深い谷より水を運ぶ苦難を哀れみ、この甌穴の底を杖で突き湧水を促された」と案内板にある。大昔、この辺りは近くを流れる手取川の川床で、流下している岩石や礫で底が削られて、このような甌穴(ポットホール)が自然に形成された。しかし水が湧き出す仕組みは詳しくは解明されていない。全国至る所にこのような弘法大師にまつわる伝説が残っている中、ロマンがあっていい。傍らには弘法大師像があり、絶えず見守っているようだ。
ここから少し上流は手取川渓谷といわれ、垂直に切り立った断崖絶壁が連続している。その断崖から水が滴り落ちる滝がいくつもある。その中で最大なのが、落差32mの綿ヶ滝である。「綿を千切って放下されるさま」から名付けられたように、駿馬川から手取川の断崖を、水しぶきを上げながら落ちていく。川面は霧のようにかすんでいた。
霊峰2702mの白山を水源とするのは、福井県を流れる九頭竜川、富山県を流れる庄川、そして石川県を流れる手取川だ。手取川は加賀平野を潤すのと同時に、豊富な水と急流を利用して県下一の水力発電量を誇っている。
地下水が豊富な下流の美川町には、「すいはの水」といわれる名水がある。これは個人の観音信仰で造られたものだ。屋敷の玄関前には「奉納」と書かれた大きな幟が立ち、小さな祠がある。そして地下水を汲んで、竹筒から水がチョロチョロと絶えることなく流れ出している。「水は命なり、命は水なり」と看板があるように、その人の信仰の深さが伝わってくる。
黒部川扇状地湧水群
北アルプスを水源とする黒部川は、国土交通省所管の全国一級河川の水質調査では常にトップクラスの清流だ。そして、全長86kmの日本有数の急流河川で、洪水のたびに川筋が変化しながら下流に扇状地を形成してきた。江戸時代には「黒部四十八瀬」といわれるほどの暴れ川だった。その反面、中流部で地中にしみ込んだ伏流水は砂礫層でろ過され、下流の扇状地に豊かな水の恵みをもたらした。環境庁ではこの一帯を名水百選に認定している。その代表とされる「名水」をめぐった。
入善駅より日本海めがけて歩くこと40分、国の天然記念物にも指定されている「杉沢の沢スギ」に着いた。昭和44年には45haあったが、圃場整備で水田に変わって、残った2.7haが自然環境保全地域として、天然の沢スギが守られている。
最低限の整備と管理ということで、木道が設けられている。あたりは薄暗い。朽ちた木にはびっしりと苔むして、シダが繁茂している。その中に湧水が湧き出している。温度計で測ってみると、水温14℃、気温21℃で周辺よりかなり涼しい。「湿地や乾燥地には育ちにくく、肥沃な湿り気のある土地によく育つスギが、このような沢地に育つのは、常に水が流れており、その水によって酸素が供給されるからだと考えられている」とパンフレットにある。豊かな湧水がこの沢スギを育ててきたのだ。
生地町のめがけて歩いていく途中の県道沿いで、多くの自噴井を見かけた。入善町高瀬地区の自噴井は、地下36mから地表3mも自噴しているそうで、その水の豊かさがうかがえる。黒部川扇状地湧水公苑には古代ギリシャの神殿風のモニュメントがある。車で通ったついでに水の恵みを受けていく人も見かけた。
黒部川を越えてしばらくすると、「富山湾が一番美しく見える町」という生地町だ。その町内に民家の屋敷内にある非公開のも含めて、18ヶ所の清水がある。その多くはステンレス製の槽で整備され、地域住民が交代で清掃活動をして清水を守っている。槽にはスイカやペットボトルなどが冷やされていた。水を汲んでいく人も多い。軒もあって、子供たちの遊び場にもなっている。
「弘法の清水」と呼ばれるのが三ヶ所もあって、御大師様への信仰がうかがえる。パンフレットには「同じ伏流水なのに一ヶ所として同じ味がしません」とあったが、残念ながら、私にはわからなかった。まだまだ「名水めぐり」不足だろうか。でも水はさっぱりとしていた。
そして不思議なことに、清水は海岸と反対方向に流れている。湧水のきれいな水にしか棲まないトミヨがいる背戸川に流れ込んでいるのだ。かつてはその川底からも豊富な湧水があったそうだ。
黒部市にはこのような自噴泉が600もあるそうだ。その多くは地下30mほどの被圧水層の地下水、家庭の井戸はもう少し浅い自由水を水源にしているという。その井戸の水位が低下するという事態が起こった。1994年2月28日、黒部川上流の出し平ダムに溜まった土砂を試験的に流した結果、黒部川河口沿岸が黒いヘドロで埋まった。そして川底に溜まったヘドロは礫層を目詰まりさせて、伏流水が減ったためと考えられている。
日本一の黒部ダムをはじめとして、黒部川の急流を利用した電源開発のために次々とダムが造られた。その結果、海への土砂の供給が減り、海岸はどんどん浸食されているという。昭和55年、入善町吉原沖の水深20mから40mの海底で、世界最古となる一万年前の海底林(埋没林)が幅1kmにわたって発見された。土砂の供給が減って洗い流されて、古代の姿を現したのかもしれない。
山から供給されている土砂を人間の都合で止めたり流したりするたびに、自然は多大な影響を受け、人間の生活をも脅かしているのだ。 
 
堺線香

 

遣明貿易
一四〇〇年頃から中国・明との交易が始まります。最初は兵庫の津で行っていましたが、この港は応仁の乱で陸上と海上ともに封鎖されてしまいます。幕府はこの港を堺(現在の堺旧港)に移して再開しました。遣明貿易が再開されて幕府の代行をしたのが当時の堺の豪商たちでした。に代表される勇敢な商人たちが「明」をはじめ、万里の波濤をものともせず東南アジアとの交易に立ち向かっていきました。
この当時、堺港から船積みされた物には、火薬の元になる硫黄、刀剣、甲冑、美術品などがありました。そして、当時の国際通貨であった銀も生野銀山から運ばれて船積みされたらしいのです。黄金の国「ジパング」といわれますが、金ではなく銀を狙って諸外国は日本を目指していたのですね。
輸入品には、中国の絹、陶器、薬、などの中に香料(伽羅、丁子、桂皮、その他)も含まれていました。これらは重要な輸入品の一部でした。
天正年間(1430-1570)、この頃東南アジアに向かった堺の豪商たちは、直接東南アジアに出向いたのではなく、実は琉球(沖縄)を中継点として向かっていたようです。その頃、琉球から東南アジアに向けて出港した年次記録が残っています。
それによると、シャム(タイ)に向かったのは五八隻、バタニ(マレイ半島)に十隻、マラッカ二〇隻、スマトラ三隻、ジャバ六隻などその他計百四隻(年間)が琉球から東南アジアとの交易に向かっていました。これらが堺から琉球、琉球から東南アジアへと往復したということですから大変なことだったと思います。
一五五九年、琉球王朝から島津公に送られた進物品の中にシャムの沈香(真南蛮)五十斤も含まれていました。この頃から沈香が珍重されていたことが分かります。  
「堺の薫物・線香」沿革史
堺の薫物・線香はこのように古い伝統を誇っています。しかし、ご存知のように、堺は三度に及ぶ大火にさらされました。特に太平洋戦争により灰燼に帰したため、関連する資料がほとんど無くなってしまいました。ただ、明治三〇年五月、薫物線香組合(組合員四五軒)が協力していろいろな資料を持ち寄って発行した「堺の薫物・線香」沿革史が残っています。この沿革史は、当時私どもの四代目が組合長を務めていたので戦災以前に疎開して消失を免れ、現在も私のところにあります。私たちもこれを頼りに商売をしています。
この沿革史の「そもそも當組合の商品たる薫物の起源は往古、推古天皇三年四月、沈香淡路島に漂着したるを島人の取りて献ぜしが……」で始まる中に、「明應、文亀年間に至っては東山慈照院初めて香道の法則を立てられ、次いで逍遥公、又香道に堪能たり。是に次いでは、志野三郎右衛門尉宋玄、香を好み志野流といえる香道を起こして広く民間に伝えられし以来、弥栄に行われたり。これらの需要に対しては、我が堺市は往古より、安南、交趾、呂宋を初め外国の貿易船、當津に輻けんせるにより、伽羅、沈香及び香類、雑貨は唐物問屋に於いて…中略」とあります。
また、「享禄、天文の頃、茶香の風雅の隠士、市中に住みし中にも老人、殊に香を愛着し、相継で阪宗拾等などの名士数人出てより香の秘方を當時の商人に伝えられ、種々の香を製出せしめられたり」ともあります。この牡丹花肖拍という人は、豪商・が現在の三国ヶ丘に寄進したに逗留していた当代随一の連歌師です。文化人が商売人に香のことを教えていたのですね。
さらに、「之れ他、地方にあらざりしが故に當津の名産として海内に伝播するに至り、沈香屋と称し香類を専門に商う者相継いで起こる」と続きます。ここで「沈香屋」というものが出てきました。それ以前は唐物問屋で香類を扱っていたのですが、沈香をはじめとする香料・薫物を専門に商う商人が天正年間少し前から出てきます。これが「沈香屋」です。その後、香類は堺港から長崎に移っていくことになります。
それについては「糸割荷なるものにより貿易の商権は独り當市堺の商人にありしが故に依然として沈香、香類は沈香屋と称する商人長崎に馳せて悉く買取りに来たり。種々の香を製し、又は原品を全国に売り捌き居れり」とあるように、その後長崎に船が入るようになっても、香類は堺の沈香屋が独占していたことが分かります。
当時の様子が描かれた資料があります。最初は道ばたで量り売りをしていました。
【沈香屋「香談−東と西」より】
当時堺は納屋衆といわれる豪商による遣明貿易及び南蛮貿易で強大な経済力を持っていました。また千利休のわび茶を始め、京都からも三条西実隆を始め、有名文化人も多数逗留して絢爛豪華な文化の花が開きました。とかく文化というものは経済力がいるようですね。 茶の湯が日常的に行われ、香道の会も頻繁に行われていたことでしょう。その周辺を歩くとほのかな伽羅、沈香の香が漂い、沈香屋たちも足繁く屋敷に出入りして忙しく商いをし、各種薫物を製造する香があちこちに漂っていただろうと思います。「茶の湯」にしても「香道」にしてもこれらは客を迎えるための「おもてなしの心」であったと、堺市博物館元館長の先生はおっしゃっておられます。  
薫物線香店
堺線香については「天正年間、堺宿屋町大道薬種商、小西弥十郎如清という人、線香製造の法を伝習し来たり。堺にて製造をなしたるを我が国にて線香製造の初めとす」と、沿革史に記されています。この部分では堺が線香発祥の地ということになっていますが、証明が出来ているわけではありません。が、いずれにしても堺の線香は長い歴史を持ち、現在まで続いているのは間違いありません。
この流れをくむとされる屋号を持った「薫物線香店」が、戦前までは十二〜十三軒ありました。例えば、沈八(沈香屋八平衛)、沈和(沈香屋和三郎)、沈仁(沈香屋仁平)、沈九(沈香屋久次郎)、沈作(沈香屋作五郎)、などなどです。現在は残念ながら二軒になってしまいました。そのうちの一軒が、私どもが継ぐ「沈香屋久次郎」です。
当時の線香の作り方は、ツボの中に線香の練ったものを詰め、滑車の応用で木を締めていくと線香が押し出されてそうめん状に出てきます。これを板にとって長さを調節するというものでした。この製法は油圧式の機械になる明治の中頃まで行われていました。
【線香突き「和泉豪商名家図譜」(和泉文化研究会)より)】
私どものところで現在も使われている「調合帳」があります。これは、江戸末期から約四代にわたって書かれたものです。よく同業者の方に調合帳など簡単に見せてはいけないといわれますが、私は見ても分からないと思っています。調合帳には○や×などが並んでいますが、これは「」という記号です。昔の堺や大阪・道修町の薬屋がみんな使っていました。写真の左端に「ロアロア」と書かれていますが、これは数字を表しています。例えば、ある製薬会社では「アキナイヲガンバレヨ」が「アは一、キは二、ナは三……」という風になっているのです。私たちも独特の十段階を持っています。「ロアロア」も、数字を表していてその数字を足さなければ調合ができません。わからないでしょう? 古い調合帳はこのように記号になっていますから、どんなに見られても大丈夫なのです。
このように、現在の堺の線香は昔の流れをくんだ調合帳があり、その調合法を応用しているので当時の香りと近いものに仕上がっているものもあります。
沿革史の最後は「我が国に産する中にも最も佳品として賞揚せられ今尚、堺線香の称あるなり」で締めくくられています。後年「線香屋」が出来たようです。  
書物に残る香りの逸話
天正年間初め(一五八〇年頃)には既に「沈香屋」仲間があったようで、享保年間(一七二〇年頃)の組合調査では、「株組織は享保十五年、堺奉行水谷信濃守の時、沈香屋は薫物の取り扱いを専業とする者が十六名、線香屋二〇名をもって名別に組織して、株の鑑札を受けて毎年若干の賽加金を上納し、更に年頭には若干のお礼金を上納することが慣例になっていた」とあります。
お礼金というのは鑑札をとるための税金のような袖の下であろうと思います。こうして線香・伽羅が一般に浸透していきます。しかし、伽羅などは高価なものでまだまだ一般には憧れの的のようなものでした。
この頃(享保年間)の『昔昔物語』に「伽羅を焚かねば大身は申すに及ばず小身もなし」、また井原西鶴の『好色一代男』(元禄年間)には「伽羅も惜しまず焚き捨て、香炉が二つ両袖にとどめ、むろのやしまと書き付けたるより立ち上る烟をすそにつつみこめ」と書かれています。
正保(1644-47)頃の『鳥籠物語』に「これもめでたき御世故というに、じんの道とや申すべし、伽羅の道とやほめ申さん」と、「沈」を「仁」にかけて人倫の道を伽羅に例えたり、延宝六年(1678)には「国厚う 千代のつやあり 伽羅の春」(露言)と歌われたりしています。
「伽羅」に関連した表現もいろいろあります。
「伽羅看板、錦絵の男」というと、これは良い男のことをいいました。「伽羅看板、錦絵の女」、つまり良い女ということです。「伽羅の下駄」は上等の下駄。「伽羅橋」は素晴らしい橋。「伽羅多き人」は資産家。「伽羅を焼き尽くすは金銀を使い尽くすなり」は財産を使い果たすということです。
吉原あたりの花柳界では「男に金銀くれよとは、さすがにきたなく申しがたし」ということで「伽羅少しおくれ」という風に言いました。「粋な男ならば金銀を出し、これで伽羅を買え」と言ったということです。本当の伽羅を渡してしまうと「無粋な人」ということになってしまいます。
「伽羅の香りとこの君さまは幾度とめてもまだとめ飽かぬ」などという歌も小唄として残っています。
この頃は、伽羅、沈香等はかなり使用されていたようですが、かなり高価で誰でもそうたやすく焚くことはできませんでした。いわば高嶺の花であったことから、花柳界を中心として日常会話に出てきたり、関連する歌が流行したと考えられています。  
沈香屋・線香屋の業界組織
話を本筋に戻しますが、昔の営業人員(店舗数)を調査したものがあります。天正年間から延享年間までは不明ですが、寛政年間からは分かっています。これは沈香屋・線香屋合わせてですが、寛政から慶應までほぼ数字が変わりません。これは株組織としてきちんとしていたからです。明治三五年は、先ほどお話しした堺薫物線香組合の沿革史が発行された年です。
天正年間から慶應年間にかけて、商人たちは各々の業界組織(株仲間組織)に属しているので、素人が勝手に業界に入ることはできませんでした。業界の仲間数は何人、とほぼ決められていたようで、後継者がいないために廃業する場合のみ株が空くので、それを譲渡してもらうという場合だけ業界参入ができました。
業界に参入する時の逸話が残っています。組合年行事(組合長)とともに総年寄役所(総年寄とは堺市における当時の門閥家(財産家)で、明治時代の区長のようなもの)に出頭し、総年寄の印をもらって堺奉行所へ出頭して鑑札をもらいます。これには相当な金品が動いたようです。さらにその後、業界組合員に披露しなければならず、豪華な宴会を開いたようです。
線香・薫物の商品価格についての記録も残っています。
線香が束ねられていることから線香を表す単位には、「」が使われています。当時の価格は銀の価格でしたが、各時代の銀の価格を斤に換算して、明治三〇年代の円に換算して作っています。
寛政年間を見てみましょう。線香を五,九二八,〇〇〇把作って七九,〇二〇円、薫物は二三,五五〇斤で価格は一六四,八五〇円ということで、薫物が高価なものであったことが分かります。しかし、寛永から慶應に薫物が目立って減っています。これは、香道が衰退してきて香りに対する関心が非常に落ちていることを表しています。一方、線香は徐々に伸びてきています。
当時の金一両の相場も資料として残っています。銀換算で一両が五八匁でした。この相場はどんどん変わっていて慶應には銀一五〇匁でやっと金一両に換えられたのです。明治元年には銀を二二〇匁差し出さないと金一両が手に入らなかったのです。金の価値が上がっているのが分かる資料になっています。
その他、この組合が作成した調査書にはおもしろい項目が出ています。「銀行設立以前、資本を得るの方法」というもので、お金をどうやって借りるかという内容です。
銀行ができる前は「両替商」というものがあって、明治の銀行とそう大差はないと書かれています。すでに「手形」が流通していて、この書が書かれた明治の頃とは比較にならないほど、昔は商人間の信用は重かったということです。一時資金が入用な場合は取引のある両替商へ行くと、無担保で六ヶ月くらいは資金を出してくれました。この場合、手形の宛先を両替商にするとあります。紙一枚でお金を貸してくれたということです。
この頃の「暖簾分け」についての記述もあります。
丁稚は、十一才以上から十年の年期奉公としてその父兄と契約します。この場合、保証人が入って保証書を作ります。丁稚、手伝、番頭と順次位は上がり、十五才までは総髪です。十六才の春には前の生えぎわを剃り込み、半人前ということになります。十八才になると前髪を剃り落とします。これを「元服」といって、一人前になったことを表します。そして羽織着用が許されました。また、喫煙はどの商家でも禁止しています。期間が満了するとお礼奉公として一年〜二年は勤めることになります。
その後、日用品、器具を一通り新調し、一戸を構えさせ、資金を出して独立させます。これを「」といい、主家と同一の屋号を付けさせます。これが「暖簾分け」です。
永年勤め上げ、別家を持たせてもらうことは名誉なことであり、また主家においても別家をさせることは、栄誉なこととして喜んだとあります。明治の五、六年頃から、このような美風がなくなって寂しい限りである、と記されています。  
大正時代以降の業界と新たな香り文化への挑戦
やがて、大正、昭和に入り線香屋は六五軒に増え、堺線香の名声は全国に広まっていきます。
しかし、線香屋の大多数は堺市内の旧環濠内で営業していたため、太平洋戦争で戦災に遭い、すべてが灰燼に帰しました。再び立ち上がった同業者も激変する時代の波にのまれ、復興を断念した者も数多く、一軒また一軒とその火は消えていきました。現在ははなはだ残念ながら、営業しているのは十一社に激減してしまいました。
しかしながら、幾星霜、連綿と続いた線香の歴史を継承すべく、若い後継者達は立ち上がり、若い感性でこの「香」に挑戦する姿を見て誠に頼もしくもあり、嬉しく思っています。  
 
我が国と「香」の出会いと「沈香」について

 

我が国と「香」との出会いというのは、いつ頃のことでしょうか。残されている資料の中では「聖徳太子伝歴」(593-621)の中で、推古天皇三(五九五)年の部分に記述されています。そのまま原本を流用しますと、「土佐の国の南の海に大いなる光あり。また声あっての如し。三十日を経て夏四月淡路島の南の岸に着す。島人『沈水』を知らず、薪に交えてかまどに焼く。太子、使いを出してその木を献ぜしむ。大きさ一囲、長さ八尺なり。その香気薫ずる事はなはだし。太子見て大いに喜び、奏して言う。『これ沈水香となすものなり。又の名を梅檀香林という。』」とあります。さすが博学の聖徳太子ですね。
時の天皇は推古天皇で、このことは日本書紀にも「沈水淡路島に漂着、その大きさ一囲。島人、沈水を知らずして薪に交わしてかまどに焼く。そのり気遠く薫る。則ち異なりとして之を献ずる」と記されています。
その後、この香木は百済のに勅命して、高さ数尺の観音菩薩を刻んで吉野のに安置されました(「」)。その頃の大和平野は、大飢饉に襲われてとても深刻な状態だったようですが、香木を安置したところ七日七晩稲光が起き、雨がたくさん降ってきて大飢饉は救われたと伝えられています。 
「蘭奢待」について
沈香は、温度や湿度など微妙なバランスの上でしか生育しないといわれています。いろいろな木がありますが、沈香ができるような木はごく僅かしか存在せず、何百本に一本という確率でしか発見できません。東南アジアなどには、この発見が難しい沈香・伽羅を採取できる能力を持つ部族がいます。彼らは沈香のできている木を見つけると道具を使って樹皮を削り取って採取します。乱獲されてはいけないので当然のことといえますが、部族に伝わる沈香の採取方法は厳重に守られ、彼ら以外には分からないようになっています。また、沈香のある木が朽ちて土中に埋まって腐っても樹脂化した部分はそのまま残ります。その部分は冷たく、ヘビがとぐろを巻いて抱いているのでそれを目当てに採取するという方法が行われていたようです。
今、ラオス、ベトナム、インドネシア等で沈香を作り出す木の苗木を植林しています。広大な山に何十万本という木を育てています。十年くらい育てた木に小さな穴を開けてバクテリアを増殖させ、約二〇〜三〇年かけて生育させるのですがなかなかうまくいかないそうです。
私は昨年、ラオスのさる政府高官から、ベトナムとの国境に近いメコン川上流のある部族に紹介してもらい、奥地の密林の中に入りました。現地は高温多湿で三〇分もすると頭がクラクラして体力は著しく消耗します。ヒルがどこから潜入するのか足首から膝まで食らいついてきました。また、蚊に刺されるとデング熱になり、二回刺されると生命はなくなるらしいのです。当初ある程度の覚悟はしていましたが、そこは想像を絶するところでした。私もその時に十年ものの木を採取してやっとの思いでラオスから持ち帰りましたが、ぼろぼろの木で匂いもなにもしません。沈香とは全く違います。現在では沈香を国外へ出すことは厳しく規制されていますが、今回は特別な計らいによって持ち出すことができました。こうしたことから伽羅、沈香というものは高価なのが当たり前で、昔のように品質の良い沈香はほとんど手に入らなくなっているのが現状です。  
東大寺正倉院の宝物「」
我が国に現存する巨大な伽羅としては、正倉院にある「蘭奢待」があります。とても貴重なものですが、驚いたことに一部に切り取られた白い筋があります。これは、まず足利義政が賜り、次は織田信長、そして次に明治天皇が奈良行幸の折りに一部を削りとられたと「正倉院御物棚別目録」に記載されています。この「蘭奢待」は、一般には伽羅だといわれていますが本当のところはどうでしょうか。
「正倉院薬物」の報告書には「これらの沈香を確かめることは大変難しく、見ただけでは分からない。組織構造を調べて比較しなければならないが、今それらの的確な材料を得られないので正確な判定は下しにくい。ただ見たところでは樹脂の沈着状況が十分とは言えない。おそらくこれはかではないか?」と報告されています。黄熟香も桟香も沈香で素晴らしいものではあるが、いわゆる伽羅といわれているものとは違うのではないかということです。
中国、三国志時代の「南州異物史」(三世紀前半)に「沈香はベトナムに産する。香木を採取しようとする原住民は山中で香木となる木を切り倒して数年そのままにしておく。大部分は朽ちてしまうが、樹脂の部分は残っている。これを水中に入れると沈むから沈香といい、沈まない物を桟香という。」と記載されています。先ほどの「蘭奢待」は水に入れて沈めば沈香(伽羅)、水に浮けば桟香ということになります。ただ、国宝をそんなに簡単に水に入れるわけにはいきません。これはこぼれ話としてご参考までにお話ししました。 
 
天平の香り

 

天平時代の香
天平時代の沈香というものは、そのほとんどが仏教伝来の時の宗教儀式(焼香供養品)に必要な物として我が国に伝来しました。「日本書紀」の香料に関する記述で「天皇元年七月、蘇我大臣が手に香炉を取り、香を焚いて仏に礼拝をした」という記載があります。さらに「天智天皇一〇年、沈水香、、その他の財宝を法隆寺に献上した」等々とあり、宗教儀式に使用されたのは確かなようです。
天平時代(八世紀)頃になると、焼香供養の場でどのような種類の香料が使われていたかが明らかになってきます。
これは法隆寺の財産目録に記載されているものです。「両」というのはどんな単位かご存知でしょうか? 一両目というのは四匁(一匁=三.七五グラム)、つまり一五グラムくらいなので、両に一五グラムをかけてもらえば当時の量が分かります。 
お香の原料
当時入ってきた香料が資料に残っています。右下に「」というものがありますが、これは非常に珍重されている香料です。この乳香をめぐって、国同士で争奪戦が行われたほどです。私もどんなものだろうと仕事上匂ってみましたが、あまり良い匂いではありませんでした。その国々で香りの好みというのは違うようです。
ここで、珍しい動物性の香料が初めて出てきます。「麝香」がそうです。天然記念物になっている中国・雲南省の麝香鹿の生殖器です。いわゆる麝香鹿のオスのフェロモンで、メスを呼び寄せるためのもので約五〇キロ先まで届くといわれています。この麝香も私たちお香屋にとって欠かせないものですが、ワシントン条約で保護されていてなかなか手に入れることができません。
香料は、天平時代にはいろいろな仏教の宗教儀式で使われていました。万葉集に、「青によし 奈良の都は咲く花の 匂うが如く 今さかりなり」という歌があります。「匂うが如く」というので沈香の匂いだろうと思われるかもしれませんが、そうではありません。これは天平時代に大寺院の青や朱色、極彩色の塔や大伽藍、また唐の異国情緒あふれる音楽に耳を傾け、異文化を満喫していた様を表現したものです。この頃にはまだ香りは仏教のもので、自分自身のために楽しむという価値観は無かったと思われます。
それが次の時代、平安時代の初期になると、少し変わってきます。自分たちの香りとして調合された香りを楽しむようになっていきますが、それも唐風一色でまだ日本人としての香りではありませんでした。
唐から入ってきたものとして、(匂い袋)、えび香、、香炉、香球などがありました。 
唐から入ってきた香りを楽しむ品々
輸入された物の中に「香球」というものがあります。これは香炉の一種で、正倉院に「銀薫炉」というものがあります。ペルシャ風の透かし彫りがある、異国情緒をそそる宝物です。球形をしていて、どんなに転がしてもどんな角度になっても中の香炉は水平を保つようにできています。中で香炉を焚いてもお香がこぼれない仕組みになっているのです。
この香球は、晋の葛供という人の「西京雑記」に記されていて、発明したのは房風という人のようです。長安のという腕の立つ職人がの香炉を作っていました。
使い方については、唐の時代の詩の中に、「のとばりを下ろし、相愛の二人が結ばれると、侍女がそっと縫取りのしてある夜具を薫ずる」と書かれています。その甘美な匂いでうっとりした二人が愛を育むような香りだったそうですが、これが臥褥の香球というものです。
また、南宋の「老字庵記」に天子の親戚の人たちが宮廷に行く様子が出ています。婦女子が乗る牛車の牛の鞍や腰に大きな香球をつけて走らせたり、髪に付けた小さいカツラに香球を入れたりしました。牛車が走り去ると香の煙が雲のようにたなびいて素晴らしい香りがしたということです。また貴公子が乗馬を楽しむ時も、香球を鞍に付けて素晴らしい香りを漂わせたとあります。このように、球形の香炉は乗馬など腰に吊す物と、臥褥(閨房)で用いる物の二種類があったようです。
「えび香」は、大事な衣服や書物、経巻を保存する防虫目的で使いました。同時に、その香気を出すためにも使用されたと思われます。正倉院には九包みが現存しており、包みの下部には二(七六八)年四月二六日と記されています。小さな四角の絹の中に、沈香、白檀、丁子など、その他六種香料を調合したものが入っています。特に白檀と丁子は香気とともに防虫、防腐効果が強いので、その目的を果たしました。「えび香」は当初、唐から輸入されていたが、日本でも作るようになり、源氏物語()では、「忍びやかに えびの香 いとなつかしゅう香り出る」とあるように、当時の平安貴族の中では大流行していました。
貝の中に丸薬状のものが入っていますが、これが「煉香」です。中国では五世紀代に香料の配合を説明した「和香方」という香の専門書がありました。隋の時代には「雑香方」という専門書があったようで、その中にさまざまな香料を粉末にして蜜、あまづら(甘葛:甘味料のひとつ)を混ぜて丸薬状にして炭火で焚いたという記載があります。これが煉香薫物と言われる物です。の「黄物方」には「薫物は仏、菩提、聖衆の沈、檀に始まりて「唐国」より是をまなびうつせり」ということで、これも唐から製法を学んだようです。これは、沈香、白檀、丁子、薫陸、などをあまづら、または蜜で練り、丸薬状にしてカメに入れて約一ヶ月土中に埋めて作ります。そうすることでうまく匂いが混ざって良い感じにできあがります。作るには若干湿気が必要で乾燥していてはだめなのです。
この「煉香」は、私たちのところでも仕事の合間に作り方を教えています。自分たちの好きなエッセンスをいろいろ混ぜて作り、最後にツボに入れて保管します。前述のように乾燥させてはいけません。乾燥させると匂いが飛んでしまうので通常はロウで密封しています。先ほど出てきた「あまづら」は葛の一種でその汁を煮詰めたもので、とても粘着力があります。当時の我が国では代表的な糖分で、蜜の代わりにあまづらで代用していました。
蜜は非常に貴重で、鑑真がわざわざ日本への献上品の一部として船に積んだというほどのものでした。今ではどこにでもある蜜ですが、当時は蜜の産出法がまだ分からず、貴重なものだったということがわかります。
「香嚢」というのは「匂い袋」のことです。正倉院には恐らく世界最古といわれる香嚢が七つ現存しています。この香嚢も中国の唐から入ってきたもので、これについては有名な逸話が残っています。
唐の時の皇帝である玄宗皇帝は、楊貴妃に香嚢を贈りました。その後「安氏の乱」で楊貴妃は殺されて仮埋葬されます。玄宗皇帝は長安に新たに埋葬しましたが、その時変わり果てた楊貴妃の身体には与えた香嚢がそのまま残っていて、それを見た玄宗皇帝は終日涙を流したということです。
このお話にはこんな説もあります。絶世の美女楊貴妃は実は多汗症で沐浴すると水にまで匂いが移ったそうです。いわゆる、わきがですね。非常に匂いが強いので玄宗皇帝は匂い消しにこれを贈ったというのです。楊貴妃は、体臭の強い白系イラン(ペルシャ)系の混血だったのかもしれませんね。
 
筆の起源と歴史

 

筆の起源は、大変に古く四千五百余年前、今の中国に於いて既に用いられていたことが、種々の史実により考察されています。現在のような獣毛を用いて作った筆は、秦の時代、蒙恬将軍が発明したものと言われています。
日本に筆が伝来したのは、大和時代の初期で、中国文化との交流によって輸入されていたといわれています。その後嵯峨天皇の時代(八百十二年頃)に、僧空海(弘法大師)が唐に渡り筆の製法を習得され帰国し、これを民間に伝承したのが、我が国での筆造りの始まりと伝えられています。
奈良正倉院にある十八本の天平筆は紙巻き筆と称され、真書や小階字書の筆(写経用)で、その後平安時代、日本の仮名や調和体に適する独特の改良が加えられ、日本の製筆技術は進歩を遂げていった思われます。その時代の筆は、有芯筆、巻芯筆とも呼ばれ、紙で芯にする毛の根元を包み、上に別の毛を被せる製法で江戸時代末期まで珍重されました。
江戸時代末期より明治時代にかけて、中国より今の筆(水筆)の製法が伝えられ、広島の熊野を中心に急速に発展していきました。毛のまとまりと弾力を利点にとした巻筆から、墨含みよく、短期間で作れる水筆に変わっていったと思われます。今日、巻筆を作るのは当堂(攀桂堂)のみとなりその技術、その筆を次世代に伝えて行きたいと考えています。
筆の原料の種類と特徴
1.羊毛・・・中国産の山羊の毛です。羊毛は柔らかく、毛に粘りがあって墨含みが良いのが特徴。耐久性は抜群に良いです。
2.馬毛・・・胴毛、たてがみ、脚毛、尾など馬全身の毛が用いられ、部位により毛質が異なります。色も赤・白・黒と分かれます。弾力のある天尾は太筆に、胴毛は柔らかく粘りがあるので、筆の芯を巻く上毛に使われます。
3.鹿毛・・・毛質は大変弾力があり、主に筆の腰の部分に用いられます。また、毛の中が空洞になっており、大変墨含みが良いのが特徴。
4.狸毛・・・毛先が硬く、大変弾力に富む。先の効きが良いので、穂先に力をつけたい時に使われます。
5.猫毛・・・毛先に柔らかさと粘りがあり、仮名筆、面相筆に最適。
6.イタチ毛・・・毛全体に弾力があるため、大変重用されています。
他にも兎毛、山馬毛、リス毛などがあります。
毛の種類1 毛の種類2 毛の種類3
筆選びのポイント
筆の四徳と呼ばれる「尖」、「斉」、「円」、「健」の4つを見て選びます。 「尖」とは、穂先の部分がとがっていること。書いていて、まとまりがあるのが大切で、特に細筆はこれが決めて。 「斉」とは、穂先全体が整っていること。多くの原料が一本の筆となるためにバランスよく配偶されていること。 「円」とは、穂全体がきちっとした円錐形になっていること。墨を入れた時穂全体がふっくらして、不均等なふくらみやねじれが起きないこと。 「健」とは、穂先の腰の弾力がほどよく、筆運びがスムーズであること。 穂が糊で固められた筆から捌かれた筆までありますが、穂先から軸までよく御覧になって欠点のないものを選ぶのが大切です。 それ以外にも、筆の大小(太筆・中筆・細筆)、穂の長短(長峰・短峰)、穂の柔剛、用途による穂先の形、原料など種類が多く、その中からお客様の意にかなった筆をお選び下さい。  
 
「秋田六郡三十三観音巡礼記」

 

第十一番 平鹿郡大森村 竜淵山大慈寺
古書に今宿の観音堂とあり。正観音、大仏師定長の作。彼の所は剱ヶ鼻白象の嶺といふ、是より八沢木保呂羽山へ参詣すべし波宇志別神社、出羽九神の内吉野の奥院といふ。誕生の釈迦仏金峯山法音寺と號す。
歌に 後の世も現世の苦難劔の難經味を受けて今宿の里。
『古書に今宿の観音堂とあり。無寂禅師古院取立滝淵山大慈寺と號すとあり。右の古院、阿気の新在家今宿郷大谷地に卜部氏御堂建立。昔此所遠近の高山沢々流水落合て大川と成る、尤清き流れにして風景能き所也。于時人皇六十八代後一條院御宇寛仁四庚申年春三月大地震、大風山を飛し大雨土砂を流し、忽ち平地流をせき留め洪水海原の如く、大波山の如し。毒蛇毒を起し常に雲霧晴れずして、人民の煩多く田畑絶たり。是に依て広淵大崎に此の観音を安置す。其後水流を通し日月赫々として照り、また此水東へ流れ水色血の如くにして、毒蛇寸々に切れ流るる事良久しく、後に此所古谷地となる。観音の古跡也。
行基、慈覚の御作は劔ヶ崎に立玉ふ。後に卜部保昌坊此崎に移す。上溝の里観音、三洞に立、弘法大師の御作。元と日天子、月天子、七星の洞と云ふ、則弘法大師の御開基也。
此観音、中頃大森引附城内白象の峯劔ヶ鼻に四方面之御堂、城主建立す。兵戦の時滝淵山大慈寺に入る。是に依て此寺に札を納る也。白象峯は、人皇四十五代聖武天皇御宇天平二十戊子年、此山に普賢菩薩出現の地也。飛去り玉ふ跡に御劔残る、依て劔ヶ崎と號す。其後行基菩薩、弘法大師通行山道、吉野越といふ。八沢木保呂羽山は羽宇志別尊座、是吉野奥の院誕生の釈迦仏也。金峯山法音寺と號す。尊の御甲石、御鞍掛石、御劔沢(又御沢とも云ふ)、尊の御劔帷子と変すとあり。抑保呂羽山大権現は、紀の国牟婁郡保呂羽山の麓下居の里に現来し玉ふ。人皇四十六代孝謙天皇天平宝字元年丁酉年八月十五日、下居の里より保呂羽山の頂に移し奉り大権現と號す。教円阿闍梨巡礼の歌に 後の世も現世の苦なん劔のなん經味をうけて今宿の里。』
大慈寺2
長和2年(1013)に密教寺院として創建されました。元々は今宿にありましが、何度か場所が移り、江戸時代に入ると藩主である佐竹氏一門である佐竹東家の庇護の元、50石の寺領を受け、宝永元年(1704)に現在地に移り東家の香華所としました。東家は特に周辺の新田開発やそれに伴う水路や堰、ため池など事業に尽力を尽くし、19代目義寿はこの地で亡くなり境内には墓碑があります。大慈寺は町中心部から見ると川の対岸にあり、総門、山門、鐘楼門(茅葺の屋根は秋田県では少ない)と三つの門を通って本堂にたどり着きます。その為、かなり奥行きのある雰囲気があり、本堂は一段高い場所にあり敷地全体が立体的に構成されています。文政7年(1824)には菅江真澄が平鹿郡の調査の為大森町を訪れており、境内には大森町出身のアラビア太郎と呼ばれた山下太郎の位牌堂があります。
(横手市大森町) 
第十四番 仙北郡六郷村東光山本覚寺
本尊正観音、河内国藤井寺の観音を写す。中頃大檀那本堂伊勢守殿古院取立再興す。本堂殿城跡、藤森川に古院の跡あり。諏訪大明神の社あり、武蔵坊弁慶の古迹有り。春日野、鶯野とて広き野あり、此処に春日大明神の社有り。是より真旱嶽に参詣すべきなり。真旱山大権現、大同年中田村麻呂の御建立といふ。
御詠歌に 日出つるや光も深き藤の森大悲のちかひ本覺の寺。
『正観音、河内国藤井寺の観音を写奉り、大仏師定長作。古書に曰、出羽国山本郡真旱嶽の頂において、弘法大師七座の護摩を修し玉ふ。時に日天子七童子雲下に至り是を守護し玉ふ、山の名を真如十形山といふ。又慈覚大師伝来して宝山とも云ふ。弘法大師の開基也。田村将軍建立の霊地也。是真旱嶽也、大自在観音大権現と號す。人皇五十一代平城天皇御宇、大同三戊子年六月此御山に観音堂御建立也。観音鎮守春日大明神、多門天、本堂家の氏神なり。人皇七十三代堀川院の御宇長治二乙酉年六月、大和国奈良郡、山城国鞍馬山より勧請す。依て春日野、鶯野とて広き野あり。
私に曰、春日野は今若林野と云ふ、道より上の野也。鶯野とは道より下、土崎林野の辺なり。人皇百一代後花園院御宇康生二丙子年大地震、是に依て下山す。古跡は山の頂に在り、是則本覚寺札所の観音也。
私に曰、下山の時に元本堂村前山に観音有り、是より蛇森に遷すと見えたり。本覚寺古院又此麓に有りと見えたり。今は民家なり。然とも今に其所、座主林と云ふ。同所熊野権現の宮は武蔵坊弁慶の建立也。
私に曰、是亦元本堂村にあり、右観音堂続きの北の山也。
中頃、大旦那本堂伊勢守吉高公古院御取立再興す、即東光山本覚寺と號す。吉高公帰依の僧東光坊と云あり、西国に住居す。藤原氏なりといへり。或時吉高公夢中に、藤森川の辺に庵室ありて老僧一人まします。立寄みれは一身金色の光あり、御名をとへは東光坊と宣ふ。吉高公夢覚て風に起き、人を以て尋ね玉へは夢に違わす。則請して帰依し奉る。是に依て古院本覚寺を建立す。彼の名を表して東光山と號すとかや。人皇第百四代後土御門院御宇延徳二庚戌年十月、右観音蛇森に引取御堂建立し玉ふ、東向。夫より幕林観音とも云ふ。本堂出羽守殿蛇森院に住居す、依て此観音又蛇森へ移して御堂建立し給ふ。本覚寺は本堂村にあり、其後兵戦の時又寺に遷す。天文四乙未年領地増して本堂氏牌所とす。本覚寺の什物本堂大膳法名名覚心の直垂、鎧、兜、馬具、太刀四振り、長刀一振、鑓二筋あり。教円阿闍梨巡礼の歌に 日出るやひかりも深き藤の森大悲の誓ひ本覚の寺。遊行十九世の上人、春日の別当藤性房、同社家大次賀人見正御旅宿の時御詠歌。鶯の聲なかりせば雪消(ママ)(イ)(行暮)ぬ長閑にかすむ(ママ)(イ)(やとる)春日野に来て。』
(仙北郡美郷町六郷)  
第二十九番 山本郡荷上場村高岩山
本尊観音、大仏師定長作。弘法大師、慈覚大師伝来の霊地也。来迎石、回廊岩、籠目岩、籠山、地獄谷、浮上平。中頃平氏古跡取立、米白川の末小繁村川原、藤琴川の流の上に大伽藍を立て、坊中数多建立すといふ。
歌に 名のみきく高岩寺の明の鐘積む煩悩も消えて行くなり。
(能代市二ツ井町)  
第三十番 山本郡小繁村七倉山宝蔵観音
弘法大師、倉毎に観音の像を彫付給ふ、是七観音にて御座すとなり。副川の尊御建立の霊地なり。正観音大仏師定長の作也。
是より森吉山、又田代へも行くなり。慈覚大師観音の像を作て納給ふ。森吉山は薬師鎮座也。阿仁は大竃殿、金倉ヶ沢といふ。人皇四十三代元明天皇の御宇和銅年中に青銅を献上すとなん。
七倉や石碑の光ほからかに流るる音もみのりなるもの。
『宝蔵の正観音、大仏師定長作。弘法大師、倉毎に観音の像を彫付玉ふ、是七観音也。又石牌陀羅尼の観音とも云へり。副川の尊辛酉四月八日初て天神七尊を七峯に祭り奉る。麓には五大尊を祭る。人皇五十三代淳和天皇の御宇、天長二乙巳年弘法大師開基の霊地也。天神七代、地神五代を崇奉るといへり。川向には天満大自在天神を勧請す、依て七座の天神と號す。是より森吉山、又田代へも行也。森吉山は薬師仏鎮座の霊地也。阿仁は大竃殿、金蔵か沢と云ふ。人皇四十三代元明天皇の御宇、和銅六年癸丑青銅を献上す。田代か嶽は比内早口村の水上茶臼嶽、田代嶽、烏帽子嶽とて有り。田代嶽には慈覚大師観音の像を作りて納め玉ふ。ここに田代九十九枚有り、苗代水の池有り、又御手洗池有り。何れも山の上にあり。歌に 七倉や石牌の光りほからかになかれの音も御法なるもの。』
(圓通寺 / 鹿角市尾去沢) 
第三十二番 秋田郡比内の庄松峯山
人皇五十二代嵯峨天皇の御宇、弘仁八丁酉年弘法大師此山を開基し、金銅を以て大日如来、阿弥陀如来、大自在観音を作り、白銀を清め大円光の鏡を作り、天長地久四民安全を祈る所也。弘仁十三壬寅年左大臣誠公、森吉の仙家に至りて此山の御堂建立。
人皇五拾五代文徳天皇の御宇天安元丁丑三月三日、大地震にて御堂、仏、鏡、澤に埋む。又人皇五拾九代宇多天皇の御宇、寛平三庚亥年宇多天皇御勅歌、並に菅相丞勅命に依て月山大権現の額を書き、御勅歌に添へて出羽郡司良実子小野四品良房に勅命を下し給ふ。
いやましの光も時に埋るるあらはれ照せ松峯の月。干時寛平七乙卯年六月十五日御建立、奉行小野四品良房、是則宇多天皇の御勅願所。我頼む人まつ峯の観世音名と世と共に御手に洩れまじ。
『第三十二番 秋田郡比内松峯不動明王
不動明王秘仏也、弘法大師作。前立二童子、御堂東向なり。末社薬師堂、山の神、宇賀神の両社。具利伽羅不動滝あり。岩屋十一面観音、弘法大師の御作、本堂南向也。正観音、大仏師定長作。抑此御山は人皇五十二代嵯峨天皇の御宇、弘仁八丁酉年弘法大師御開基。金銅を以大日如来、阿弥陀如来、大自在観音を作りて、白銀を清め大円光の鏡を鋳て天長地久四民安全を祈る処也。奥の院大山頂に甲石有り。北の方に権現岩、胎内潜り岩、天神岩、岩の上に松の古木、小はせの木あり。大日岩、薬師岩、剣の峯、天狗の釣橋、大天狗岩、小天狗岩有り。仏法僧と唱ふる鳥有り、三光鳥も住めり。弘仁十三壬寅年左大臣満言公(一書誠公)、森吉の仙家に至りし時此堂を建立し玉ふと也。人皇五十五代文徳天皇の御宇、天安元丁丑年三月三日大地震にて、御堂、仏、鏡、共に澤に埋し也。人皇五十九代宇多天皇の御宇寛平三辛亥年、此山へ天皇より御製、並菅相丞へ勅命有て月山大権現の額を書しめ給ひ、御製の御歌を添へ玉ひて出羽ノ郡司良実公の嫡子、小野ノ四品良房公に宣下有り。
御製に 彌増の光りも時に埋るるあらはれてらせ松峯の月。
寛平七乙卯年六月十五日御堂建立、奉行小野ノ四品良房公也。則宇多天皇御勅願所也。此山の形は則山と云文字也。此山の後は大山也、世の人御月山といふ。月山大権現一座、松峯山鳥居東向、左右は並木の松、古木多し。宮の林は松、杉、雑木山也。大山の前流るる川は不動滝の流、拂川といふ。往古より当国の大守造営し玉ふ所也。人皇百一代後小松院御宇応永十二乙酉年以来、秋田郡比内庄司浅利家代々修覆すと云ふ。右本社の街道並木の杉、別当修験金蔵坊先祖より代々取立し也。人皇百十三代今上皇帝(霊元天皇)の御宇、寛文十二壬子年佐竹石見源義房公再興し鎮守とし玉ふ。時に別当職、真言宗松峯山千手院是を勤る也。御祭礼毎年四月八日、十八日、廿八日、九月九日、十九日、廿九日。縁起如斯。別当修験伝寿院。歌に われたのむ人を松峯観世音名と世と共に御手に洩れまし。』
(仁叟寺 / 鹿角市十和田) 
第三十三番 秋田郡比内の庄花岡村岩本山信正寺
本尊大悲観世音。古書に根の井と有り。中頃出羽庄司の末流川田治郎信正再興す、(イナシ)「依て信正寺と云ふ。」其後浅利左衛門尉定頼の菩提所也。宗祇、見斎諸国行脚の時此所にて宗祇岩本の御法の鐘の聲きけば(見斎)いかなるつみも(イ、よもや残らん)世に残るまし。と詠しけるとなり。三十三所札打納なり。念彼力に過去現在の罪消えて有りや無しやの根井の白瀧。
『宗祇法師諸国一見の時此所にてかくなん。岩本の御法の鐘の聲きけばいかなるつみも世に残るまし。
庭に檭の木あり、太サ九尋廻る古木也。花岡村根井の権現とて古き宮木、古木数多有り。此堂、昔田村将軍利仁通夜し玉ひ、滝の音聞き玉ひ願成就せしとて御詠歌思ひある心の内も瀧なれや落とは見えて音そ(イ)(の)きこゆる。
補陀落や三十字一文字二字添へて札打納む願ひ成就。歌に 念比力に過去現在の(イ)(も)罪消えて有りや無しやの根井の白瀧。』
『一六郡七高山、保呂羽山、御駒嶽、御嶽之頂、真早山、小鹿本山、高岡山、田代之頂比内の早口水上右七高山は弘法大師、慈覚大師女人禁制し給ふ山也。享保十七壬子南呂吉辰嘉藤氏政貞一慈覚大師ハ贈號也、僧名ハ円仁ト云フ。人皇五十四代仁明帝時代之僧也、小野小町同時也。承和五年戊午入唐、同十四年丁卯年帰朝也。然ルニ、五十六代清和帝貞観二年庚辰円仁奉勅命秋田郡男鹿山ニ下向祭赤神、造営既成就而同五年癸未帰京、同六年甲申正月十四日於叡山前唐院入滅スト、赤神権現之有縁起。以是考ルニ、秋田ニ四年逗留シ玉フ間ニ六郡回リ玉ヒ、仏造立シ玉フナルヘシ。貞観二年ヨリ寛保三癸亥迄八百八十四年也。
一弘法大師、僧名空海ト云ヘリ。羽州湯殿山迄ハ下向有ケレトモ、六郡ハ馬国ノ故赴ク間数トテ来リ不給ト云リ。爾レハ処々ニ御作仏有事不審。但、於郡造リ玉フヲ授リ得テ当国へ持参シタルヘシ。諸山開基ト云ル事猶不審。
一聖徳太子ハ人皇三十一代敏達天皇御子、同二年癸巳正月元日誕生、廿一歳ニテ成摂政三十四代推古天皇御代専ヲ勤玉フ。同二十九年二月五日薨ス、四十九歳。寛保三癸亥迄千百廿三年也。
一田村利仁将軍ハ人皇五十代桓武天皇之時之人也。生歳不知、空海、最澄(伝教大師也)円仁(慈覚大師也)之同時之人也。延暦二十年辛巳東夷征伐ニ当国迄下向、此時建立成ルヘシ。右辛巳ヨリ寛保三癸亥迄九百四十三年也。
一行基菩薩ハ人皇四十六代孝謙天皇勝宝二年庚寅入寂ス。寛保三癸亥迄九百九十四年也。
一最澄ハ伝教也、叡山中堂草創ハ五十代桓武帝延暦七年戊辰也。寛保三癸亥迄九百五十六年也。
一空海入唐同二十三年甲申五月也。最澄入唐同年七月也。翌年乙酉帰朝也。空海ハ夫ヨリ三年目大同元丙戌帰朝也。
一五十二代嵯峨天皇弘仁十三年六月最澄入寂ス。寛保三癸亥迄九百二十二年也。
一空海高野山草創ハ五十二代嵯峨天皇弘仁七年丙申ナリ。寛保三年癸亥迄九百二十八年也。
一同入定ハ、五十四代仁明天皇承和二年乙卯三月廿一日、寿六十二歳。寛保三癸亥迄九百九年也。
一円仁ハ慈覚大師也、五十四代仁明帝承和五年戊午入唐、同十四丁卯帰朝也。
一同入滅ハ、五十六代清和帝貞観六年甲申正月十四日、寿不知。享保三癸亥迄八百八十年也。
一貞観八年丙戌最澄ハ諡賜伝教大師、円仁ハ諡賜慈覚大師。
一六十代醍醐天皇延喜二十一年辛巳十月、空海ハ諡賜弘法大師。右伝教、慈覚ヨリ五十六年遅シ。
一七十三代堀川院寛治五年癸未、源義家公仙北金沢清原武衡、家衡ヲ誅ス。寛保三癸亥迄六百五十三年也。
一八十二代後鳥羽院文治元年乙巳三月廿四日、平家於海上滅亡、先帝御入水。寛保三癸亥迄五百五十九年也。
一八十四代順徳院建暦二年壬申正月廿五日、浄土宗黒谷法然上人入滅ス。寛保三癸亥迄五百三十二年也。
一九十代後宇多院建治元年乙亥、一遍法師時宗ヲ開基シ成遊行上人。寛保三癸亥迄四百六十九年也。
一同御宇弘安五年壬午十月十三日日蓮法師寂ス。寛保三癸亥迄四百六十二年也。
一百九代後水尾院元和元年乙卯五月七日大坂落城、秀頼公自害、寿二十三歳。将軍家康公七十四歳天下一統ス。寛保三癸亥迄百二十九年也。』
(信正寺 / 大館市花岡町)  
 
真済

 

(しんぜい、延暦19年-貞観2年(800-860)) 平安時代前期の真言宗の僧。父は巡察弾正紀御園。空海の十大弟子の一人で、真言宗で初めて僧官最高位の僧正に任ぜられた。詩文にも優れ、空海の詩文を集めた『性霊集』を編集している。また、長く神護寺に住し、その発展に尽力した。高雄僧正・紀僧正・柿本僧正とも称される。
生涯
幼少時は学問・文筆の道に励む。紀氏一門は奈良時代の紀清人、平安時代前期の紀長谷雄など著名な学者、文人を輩出している。
弘仁5年(814)、15歳のとき出家して空海の弟子となる。
天長元年(824)、25歳のとき両部大法を受け伝法阿闍梨となる。空海に才能を見込まれての、異例の若さでの受法、灌頂であり、当時の人々を驚かせたといわれる。
天長元年〜承和2年(835)、高雄山寺(神護寺)に篭り12ヶ年修行する。ただし、通説では承和3年からとされている。
天長3年(826)11月から翌年5月までと天長7年(830)11月〜9年(832)3月、一説に空海から種々の密教の奥義を伝授される。それを真済自ら記録したものが『高雄口訣』だといわれる。
天長9年11月、一説にこのとき空海から高雄山を託される。
承和2年ころ、嵯峨天皇(上皇)が12年篭山の苦行を評価して内供奉十禅師に抜擢する。ただし、通説では承和7年。
承和2年ころまでに『性霊集』を編纂する。序文によれば、自らが空海に侍して書き取るなどして集めた詩文に、空海が在唐中にやりとりしたものを加え、取捨選択して10巻にまとめた。
承和3年(836)、入唐請益僧として遣唐使船に乗り唐を目指す。同門で留学僧の真然も同船。ところが、嵐で船が難破し、筏に移り23日間漂流。30余人の同乗者はみな餓死して、真済と真然だけが奇跡的に生き残り、南海の島(具体的な場所は不明)民に救助された。帰朝後は神護寺の経営に尽力。このころ多宝塔建立、五大虚空蔵菩薩像造立を仁明天皇に表請し認められる。
承和4年(837)7月、嵯峨上皇の皇子、源鎮が出家して神護寺に入り真済の弟子となる(一説に白雲禅師と号す)。
承和7年(840)12月、実恵に代わり神護寺別当に任ぜられる。
承和10年(843)11月、権律師に任ぜられる。また、東寺二長者となる(二長者の初め)。
承和14年(847)4月、律師に任ぜられる。11月、実恵の後を継ぎ東寺一長者となる。
仁寿元年(851)7月、少僧都に任ぜられる。文徳天皇の厚い信任を受け急速に昇進。
仁寿3年(853)4月、真言宗年分度者を新たに3人加え6人とすることを認められる。増加分3人は神護寺で得度。
仁寿3年10月、権大僧都に任ぜられる。
斉衡3年(856)10月、僧正に任ぜられるも、師空海に僧正位を譲ることを上表して辞退。以後、三度にわたり任命と辞退を繰り返す。
天安元年(857)10月、文徳天皇、真済の師を思う心に感激し、空海に大僧正位を追贈し、真済を僧正とする。
天安2年(858)8月23日、文徳天皇が突然病に倒れる。真済の看病も空しく、27日、32歳で崩御。天皇の急死で世論の激しい批判を浴び隠居する。
貞観2年(860)2月25日、没。享年61。
弟子
元慶2年(878)11月11日の真雅言上状によれば、真済の付法弟子は一人もいない。真済の地位からすれば極めて不自然で、文徳天皇の急死に際し激しい批判を浴び隠居したこととの関連が疑われる。 なお、真済と師弟関係にあったことが史料に見える者が数名ある。
真然…『日本三代実録』貞観2年2月25日条の真済卒伝に「弟子真然」とある。5巻本『東寺長者補任』(続々群書類従2)に「真雅僧正灌頂、真済受法」とある。
白雲…『続日本後紀』承和4年7月22日条に神護寺に登り入道したことが見える源鎮は、『尊卑文脈』によれば白雲。
峯斅…5巻本『東寺長者補任』に「真紹僧都入室、真済僧正弟子、宗叡僧正灌頂資」とある。
恵運…『真言血脈』(続群書類従28下)では真済の付法弟子だが、信憑性に乏しい。
伝説
恵亮との験争い / 文徳天皇の第一皇子・惟喬親王と第四皇子・惟仁親王(後の清和天皇)の皇位継承争いにからんで、惟喬側の真済と惟仁側の天台宗恵亮が験力を競い、真済が敗れたため惟仁が皇太子となったというもの。『平家物語』巻八には相撲、『曽我物語』巻一には競馬で争う話が載っている。なお『江談抄』巻二は、同門の真雅が惟仁親王の護持僧で、真済と不仲だったと伝えており、こちらは信憑性がある。
情欲に惑い天狗・鬼と化す / 文徳天皇の女御で清和天皇の母である藤原明子(染殿后)に一目惚れした真済が、死後、紺青色をした鬼、あるいは天狗と化して彼女のもとに現れ悩ませる。そして比叡山無動寺の相応和尚に退治されるという話。延喜18年(918)〜23年の間に書かれたとされる『天台南山無動寺建立和尚伝』をはじめ、『拾遺往生伝』巻下の相応伝、『古事談』巻三、『宝物集』巻二などに載っている。なお、類似の説話に『今昔物語集』巻二十、第七話「染殿ノ后、為天宮嬈乱事」があるが、この話では紺青鬼(表題は「天宮=てんぐ」だが本文では鬼)と化すのは真済でなく大和葛木の金剛山の聖人で、相応和尚による退治もなく、后は衆人環視の中、鬼と情交に及ぶに至り、天皇もなすすべがなかったという絶望的結末となっている。この真済や相応和尚が登場しない形の説話の出典は、延喜17年〜18年ころ三善清行が書いた『善家秘記』(散逸)とされる。時期的に相応和尚の伝記成立とほぼ同じだが、おそらくは、『今昔』型の説話が先にあって、それを相応和尚の伝記に素材として取り込んだ際、天台宗対真言宗という構図が持ち込まれ、真済が紺青鬼・天狗にされたのであろう。
カササギ・小人の姿で現れる / 天台僧玄昭が宇多法皇の亭子院で修法を行っていたところ、真済の霊がカササギの姿で現れる。玄昭はカササギを護摩壇の火で焼くが、その後、真済の霊は小人の法師の姿で玄昭のもとに現れるようになり、玄昭を恐怖に陥れる。だが、玄昭の弟子浄蔵によって真済の霊は調伏される。『扶桑略記』巻二十三、延喜17年2月3日の項に玄昭在世中のこととして載っている。また、同じ話が『拾遺往生伝』巻中の浄蔵伝にもある。
東北巡錫、入定 / 文徳天皇の死後、真済は奥羽を巡錫、貞観元年、出羽国置賜郡小松の山麓に精舎を建て、松光山長岡寺大光院を開創。翌年、この地に入定したという。大光院には真済の墓があり、毎年2月25日に真済僧正忌法要が行われている。 
 
空海と景教

 

高野山に真言密教を創建した空海
803年、空海(弘法大師)は最澄と共に入唐し、景教を身につけ、潅頂(頭に潅ぐの意で、キリスト教の洗礼)を受け、「遍照金剛」という洗礼名を受けました。「あなたがたの光を人々の前で輝かせ」という、マタイ5:16の漢語聖書からとったものでした。
彼は帰国後、高野山に真言密教を創建します。空海は新約聖書を持ちかえり、最澄は旧約聖書を持ち帰ったということです。しかし、二人は喧嘩してしまいます。
最澄は天台宗を創建し、空海は真言宗を作るわけですが、彼の仏教は釈迦が説いた原始仏教とは似ても似つかぬ教えで、「景教と混合した仏教」でした。
空海と景教徒の景浄の出会い
長安で、彼は景教徒の景浄に会います。彼は「大秦景教流行中国碑」の碑文を書いた僧です。
彼は、61才死に就こうとするとき、「悲しんではいけない。わたしは・・・弥勒菩薩のそばに仕えるために入定(死ぬ)するが、 56億7000万年ののち、弥勒と共に再び地上に現われるであろう。」と言いました。
弥勒とは、へブル語のメシア、ギリシャ語のキリストであり、 原始仏教にはなかった「キリストが再臨するときに復活する」というキリスト教信仰、 景教の信仰と同じものです。
真言宗では、法要の最初に胸の前で十字を切るとか、 高野山奥の院御廟前の灯篭に十字架がついているとか、景教の影響がみられます。
日本の仏教のお寺にいる感じの景教の教会
ケン・ジョセフがアメリカの景教の教会を訪問したときの印象紀によると、日本の仏教のお寺にいる感じだったとのことです。牧師も会衆もみな祭壇の前を向いて礼拝し、牧師が「読経」のようなことを延々と行う、しかも独特の節まわしで読経と錯覚するほどだそうです。
香炉からは煙が立ち上がる景教の教会
また香炉からは煙が立ち上り、人々はその煙を自分の体にかけるようにするそうです。それが祝福をもたらすからです。また、信者は手に数珠(ロザリオ)を持っているそうです。
仏教の数珠の発案者は、唐の僧、道綽(どうしゃく)(562〜645)といわれてますが、この時期に初めて景教が入ったのですから、景教の風習であった数珠が、 仏教にもとりいれられたと思われるようです。
更に、景教では、ろうそくを立て、あかりをともします。祈りの初めや終わりには、ベルの音が鳴ります。なんとなく仏教に似ています。
空海が説いた仏は「大日如来」
空海が説いた仏は、「大日如来」でした。それを「法身仏」、さらに真理を具現化した「報身仏」、そして釈迦のような存在を「応身仏」と、 仏教では、異なった仏ではあるがすべて一体と考え、「一身即三身」「三身即一」と言います。
キリスト教での、父なる神、キリスト、イエスに似ています。「大日」はデウス、神の日本訳とフランシスコ・ザビエルはしたくらいです。
「いろは歌」が示す「咎なくて死す」
空海との関係で、興味深いのは、彼の作との俗説があり、一般には、作者不明とされている、「いろは歌」です。そこにも景教の影響がみられます。これは七言絶句に並べ、47文字の「かな」を並べ、しかも深い意味のある一つの歌にしているからです。
ここで、一番下の文字を続けて読むと「とがなくてしす」(歌の中で清音と濁音は一つになっている)となることがわかります。「咎なくて死す」と読めます。更に、左上、左下、右下の文字を続けて読むと、「イエス」と読めます。罪がなくて死んだ、の意味です。これらから、「罪なきイエスが十字架上の死を遂げた」という、
景教徒が持っていた信仰と関係があるのであろうといわれてきているのです。  
 
弘法大師と鉱山探査

 

修験者たちの一部は鉱山技師という説
山は豊かさ、再生のシンボルであり、天とのつながりから神的な領域とも解釈されるとともに、そこは神々からの賜り物である金、銀、鉄、銅、水銀など豊かな金属を埋蔵している場所でもありました。
この山で修行を行っていた山伏は、「山武士」との関係のある言葉ではないかと私はかねがね思っています。主の密命をおびた武士が身なりを修験者に変えて修行と称して山に入り、隠密裏に伏す、すなはち山伏となって、金銀をはじめ貴重な金属を探し求めて山を歩き回っていたのではないかと思います。
考えてみれば、ホラ貝は金属探査中の仲間同士の連絡に好都合です。笈(おい・修験者などが衣服や食器などをいれて背負う足のついた箱)には金属探査に必要なハンマーや、さまざまな掘削道具類を隠し持っていたのかもしれません。仏教でいう錫杖(しゃくじょう。長い鉄の細い杖で頭部に鉄の輪が付いている)もそうした探査道具の一環であったのかもしれません。
奥州藤原氏の金山開発や佐渡の金山などを見るまでもなく、全国各地に貴重な金属が眠っている可能性は認識されていたはずです。こうした鉱山を探索する活動が活発に行われているのは、むしろ当然といえるでしょう。
古来、仏教を国のイデオロギーの基礎としてきた日本では、仏像やさまざまな仏教法具に銅を多用し、また武器としての刀剣や甲冑、武具に良質な和鉄(わずく)を必要としました。こうした金属を産出する場所は権力者にとってきわめて重要な場所といえるのです。ですから鉱業部民(べみん)といわれる特殊専門集団がいて、彼らが鉱山開発や精錬技術を司ってきたと考えられます。
空海と鉱山の不思議な関係
山岳密教の修行をしていた若き日の弘法大師空海は、そうした鉱業部民たちと交流していた可能性は高く、彼は水銀を含めた鉱物資源が政治的、経済的にいかなる重要性を持っているかを十分理解していたのでしょう。
『真言密教と古代金属文化』(東方出版、共著)によると、高野山や四国遍路霊場の主要地域は、銅鉱山と水銀山のすぐ近くに存在し、また高野山金剛峯寺のすぐ下は金、銀、銅、水銀の宝庫であるということが確認されているということです。すなはち重要な天然資源の眠っている場所を聖なる場所として、そこに寺院を建立したとも考えられるのです。古来から山が聖なる場所であり、資源の宝庫と考えられてきたゆえんです。
大日如来の支配する宇宙と秩序ある自然の摂理、そしてその結果生まれた地球地質学とが経験的に結びつき、空海の鉱山への関心と政治的、経済的な効果への期待が高まったのではないかという、著者のひとり本城清一氏の指摘は、まさに慧眼です。これに加え、当時人々の現実的な苦しみを取り除く薬物としての水銀や丹の効果にも空海は着目していいたのでしょう。
真言密教本山である高野山の堂塔建設や京都の東寺(教王護国寺)の建立を実現した原動力は、空海の思想に共鳴した彼を取り巻く多くの弟子、信者などの情熱だったわけですが、その一方で嵯峨天皇の支援なくしては実現しませんでした。この支援を取り付けた背景に、鉱山という重要な地域を押さえることで得られる政治力や経済力があったとしたら、空海の歴史的位置づけには、もう一つの側面が加わることになるでしょう。
空海は、修行する中で専門知識を持った鉱業部民らに出会い、そうした集団との関係から貴重鉱物や水銀を手にしたと考えられます。
最澄と同じ遣唐使船に乗り、中国で恵果阿闍梨(けいかあじゃり・唐時代の真言僧で第7祖。阿闍梨は「師匠」を意味するサンスクリット語)から密教の法門を継ぐ8代目として伝灯大阿闍梨位を受け、多くの経巻や密教法具を授けられたといわれます。また別に多くの密教法具を求めて来たともともいわれます。その財力も鉱山探査によって得た金銭の賜物だったのかもしれません。
当時、水銀は青銅などの仏像に水銀アマルガム法を用いて、鍍金(メッキの技術)して、金銅仏を作るために必要な貴重なものでしたから、きわめて高価であったと考えられます。現実に中国で密教法具を購入するためにも、高額な金銭を必要としたでしょう。僧侶とはいえ空海にはそうした折りに金銭は現実問題としてなくてはならないものであったはずです。
空海は自然の流れの中で「一即一切、一切即一」(一つのものはすべてのもの、すべてのものはひとつのもの)を実践していったのではないかと思います。空海の偉大さを感じます。
鉱物資源と美術品、工芸品は切っても切れない関係にあります。古美術・骨董を学んでいくにあたって、いにしえの人々にとって鉱物資源はどのような存在であり、どのように手に入れていたかを考える視点は是非とも必要なものといえます。 
 
佐伯好朗博士と「日ユ同祖」論

 

京都太秦(うずまさ)の秦(はた)氏をキリスト教に結びつけて論じた最初の人物は、佐伯好郎 博士(1871−1965)だといわれている。佐伯氏は、広島県廿日市(はつかいち)の生まれで、東京専門学校(現在の早稲田大学)英語文学科を卒業後、1893年(明治26年)に渡米。1896年(明治29年)に帰国後、和仏法律学校(現在の法政大学)や東京専門学校の講師を勤め、1941年(昭和16年)に中国景教(キリスト教ネストリウス派)の研究で東京帝国大学より文学博士号を授与された人物である。東京文理化大学(現在の筑波大学)の学長に就任し、1947年(昭和22年)からの9年間は故郷である広島県廿日市市の市長も勤めた。
太秦にある木嶋坐天照御魂(コノシマニマスアマテルミタマ)神社(通称「蚕の社」)には、京都三鳥居の1つとされ、日本で唯一といわれていた「三柱鳥居」がある。秦氏の一族は、応神天皇の時代(4〜5世紀頃)に朝鮮半島より渡来してきた豪族だといわれている。その数、数千人とも、数万人ともいわれているが、彼らは、養蚕や絹織物、土木に関して高度な知識・技術を持っていたことが伝えられている。秦氏の本宗家は、大和ではなく山背=山城(やましろ)国の葛野(かどの)郡、紀伊郡を基盤としていたが、雄略天皇の時代(5世紀半ば)には京都の太秦に定住するようになったという。彼らは、その高度な治水技術を用いて、もともとは居住に適さない湿地帯であった京都を大規模に開発・整備し、794年(延暦13年)には平安遷都を実現させた。また、その技術を買われて、後に仁徳天皇陵のような巨大墳墓の構築に携わるようになる。秦氏は土豪であり、在地では隠然たる勢力を持っていたが、朝廷ではクラ(倉、蔵)を管理する下級役人であった。余談だが、今日、服部、畠山、田村、林、高橋、羽田などの姓を持つ人びとは、秦氏の末裔であるといわれている。
佐伯氏は、1908年(明治41年)に発表した論文「太秦を論ず」において太秦に残る地名や遺跡などを根拠として「秦氏=ユダヤ人景教徒」説を展開した。この学説は、一部の人びとから「日ユ同祖」論(日本人の先祖はユダヤ人であり、旧約聖書に登場する「失われた十支族」の末裔だなどとする説)を学術的に根拠づけるものとして大いに歓迎された。
ここで、日ユ同祖論について少しばかり検討しておこう。日ユ同祖論を最初に唱えたのは、明治初期に日本に住み、日本人の歴史や風俗、習慣などを観察したスコットランド人の貿易商N.マックレオド氏であり、1875年に刊行した『日本古代史の縮図』の中で「日本人のルーツは、北方ユーラシア系のアイヌ民族、南方系の小人族、ヘブライ民族(ユダヤ人)である」と主張した(同氏は、1878年には「韓民族はノアの三男ヤペテの子孫」とも主張している)。また、ユダヤ教のラビ(教師)であり、『ユダヤと日本 謎の古代史』(産能大学出版部、1975)や『聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史 失われた10部族の謎』(徳間書店、1999)の著者として知られるマーヴィン・トケイヤー氏(1936−)も、「秦氏=ユダヤ人景教徒」説を支持したが、彼の場合、秦氏を単にユダヤ人としたにとどまらず、モリヤ山でのアブラハムによるイサク奉献に酷似した祭(御頭祭:おんとうさい)が諏訪大社に古来伝わっていること、イスラエルの契約の箱と神輿(みこし)の類似性、イスラエルの祭司の服装と神社の神主の服装の類似性、神主のお祓いの仕草と古代イスラエルの風習との類似性、イスラエルの幕屋の構造と神社の構造の類似性、その他さまざまなイスラエルの風習と日本神道の風習とが類似している点を指摘して、日本人の先祖はシルクロードを経て渡来したイスラエルの「失われた十支族」の末裔だと論じている。
ヤコブ(後にイスラエルと改名)の12人の息子に起源を持つイスラエル12支族のうち、10支族からなるイスラエル王国は、アッシリア帝国によって前720年に滅ぼされた。このとき、アッシリアによって捕虜として連行された10支族のその後の消息は今日に至るまで不明である。 旧約聖書の中では、十支族は「創造主ヤーヴェに背いて偶像崇拝に陥ったイスラエルの民」であり、そのため彼らの国家は滅亡したとされている。なお、旧約聖書の 「エレミヤ書」や「エゼキエル書」には、「失われた十支族と二支族の合体」が預言されており、「失われた十支族が現れると終わりの日が近い」という終末預言とも関連づけられている。
ただ、仮に、秦氏が朝鮮半島経由で渡来したユダヤ人景教徒であったとしても、彼らを失われた十支族とするのは、無理があるだろう。キリスト教が生まれる700年以上も前に、ユダヤ教から離れて偶像崇拝を行う異教徒となり行方知れずになった十支族が、シルクロードのオアシス・ルートを経る間に、ネストリウス派のキリスト者(景教徒)になって日本に現れたという議論に説得力があるとは思えない。率直にいって、「日本人の先祖はイスラエルの失われた十支族」とする説は、麻原彰晃(本名「松本智津夫」)の空中浮遊写真を掲載してオウム神仙の会(後のオウム真理教)の信者獲得に大いに貢献した学研の月刊誌「ムー」辺りに載っているオカルト的人種論の一種であり、真面目な学問的検討に値するとはいい難い。UFO、ネッシー、雪男、心霊写真、ピラミッドパワー、超能力、星占い、タロット、ノストラダムスの大予言、惑星直列、富士山大爆発、ムー大陸などと同列なのである。
例えば、「カゴメ紋はダビデの星」だといわれることがある。だが、六芒星が「ダビデの星」と呼ばれてユダヤのシンボルとなったのは、17世紀のヨーロッパにおいてである。「へロデ王宮の遺跡には菊文様が刻まれており、これは<失われた十支族>が古代日本に渡来して在来人を征服したという皇室のルーツを表している」などといわれることもある。しかし、「菊の御紋」が皇室のシンボルになったのは鎌倉時代以降のことである。「日本人の先祖はイスラエルの失われた十支族」とする説は、こうした歴史的経緯をあえて無視して、見た目の類似性から相関関係を紡ぎ出した空想の産物である。
「失われたアーク(聖櫃)は伊勢神宮に保存されている」とか、「草薙剣(クサナギノツルギ)」および「八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)」とともに、宮中の賢所(かしこどころ)に奉安されている、三種の神器の1つである「八咫の鏡(ヤタノカガミ)」(本物は伊勢神宮の内宮に安置されており、宮中の賢所にあるのはその複製品)の裏面に、出エジプト記の中で創造主がモーセに答えて告げた自らの名である「我はありてあるものなり(Ehyeh Asher Ehyeh:エへィエ・アシェル・エヘィエ)」という言葉が古代ヘブライ文字で刻まれているといった噂も一部では信じられている。しかし、一体誰が伊勢神宮の奥にずかずかと入ってアークの存在を確認したのだろうか?古代ヘブライ語の分かる人間が「御船代」(ミフナシロ)を開け八咫の鏡を手にとって裏返して調べたことがあったのだろうか?(注)この手の噂は、UFOマニアがいう「NASAの極秘資料には、こんなことが書いてある」というのと変わらない。どうして、そんな極秘情報を一民間人に過ぎないUFOマニア氏が知っているのだろうか?一般人が容易にアクセスできるのであれば、それは極秘でも何でもない。まして、その情報が、UFOマニア氏のいうように米国の安全保障上死活的に重要だとすれば、UFOマニア氏がCIAに命を狙われることもなく平穏無事な日常生活を送っていられるのは、奇跡という他はない。
いずれにせよ、「神輿(みこし)」と「契約の箱」、「山伏が額につけている兜巾」と「古代ユダヤ人が身につけた、律法が書いてある羊皮紙を納めた聖句箱(ヒエクリティリー)」が似ているとしても、そこに「偶然の一致」以上の意味を見出そうとするのは、こじつけ以外の何物でもないだろう。 
日ユ同祖論は、国粋主義者の軍事的膨張主義を根拠づけることもある。日ユ同祖論の普及・浸透に大きな役割を果した1人は、酒井勝軍氏(1873−1940)である。彼は、山形県生まれで米国留学から帰国後、キリスト教の牧師となった。その後、陸軍情報部の嘱託としてシオニズム運動を調査するためパレスチナに派遣され、エジプトにもかなりの期間滞在した。帰国後、日本の超古代史の研究に没頭するようになり、1931年には自ら主宰する国教宣明団から『太古日本のピラミッド』を刊行して「日本こそピラミッド(比彌廣殿)発祥の地であり、エジプトのピラミッドも日本民族が建造した」という説を唱え、広島県庄原市木村山中の葦獄山が2万3000年前に造られたウガヤ王朝のピラミッドであると発表した。彼は「飛騨高山=高天原」説を唱えた他、「日本民族の先祖は、世界の根源的人種(原ユダヤ人)であり、超古代において日本は世界の中心であった」という独特の日ユ同祖論を主張したことで知られている。酒井氏は、昭和10年から16年まで月刊誌「神秘之日本」を刊行した他、全国で演説会を開いたり、レコードまで出した。酒井氏は、「ダビデ王の正統な子孫である日本の天皇こそが、来るべき救世主=キリストに他ならない。いわゆるキリストの千年王国とは、日本の天皇が世界を支配するという意味である。キリストの地上王国が実現されるためには、パレスチナの地にユダヤ国家が樹立されることが前提となっている。したがって、皇軍(旧日本軍)はパレスチナに進駐して、シオニストの独立闘争を軍事面から支援すべきである」といった主張を展開した。
また、中田重治氏(1870−1939)も日ユ同祖論の旗振り役として知られている。中田重治氏は、元は日本メソジスト教会の伝道者であったが、米国シカゴのD.ムーディー聖書学院在学中に聖潔(きよめ)の恵みを受け、米国から帰国後1905年に東洋宣教会(後に「東洋宣教会日本ホーリネス教会」と改称)を設立して、その初代監督に就任した人物である。中田氏の率いた東洋宣教会日本ホーリネス教会は、国粋主義的傾向を強める彼の指導を巡る路線対立から1936年に「日本聖教会」(現在の「日本ホーリネス教団」)と「きよめ教会」(現在の「基督兄弟団」)とに分裂し、中田氏は再臨信仰を強調する「きよめ教会」を主宰した。中田氏は「日本には、太古にユダヤ人が渡来し、彼らと原住民との混血によって今日の日本人が生まれた。キリスト統治の千年王国のひな型として日本は今日まで連綿と続いてきた。これは神の摂理である。したがって、日本人には、神の選民であるユダヤ人を支援し、ユダヤ人国家樹立を成し遂げるべき民族的使命が神から与えられている」と唱えた。今日でも、池袋キリスト教会の久保有政氏(レムナント出版代表、レムナント誌主筆、レムナント・ミニストリー代表 聖書と日本フォーラム常任講師、日本民族総福音化運動協議会理事)や手束正昭氏(日本基督教団高砂教会主任牧師、日本民族総福音化運動協議会副総裁・事務局長、日本基督教団聖霊刷新協議会世話人代表、日本リバイバル同盟評議員)などは、日ユ同祖論を展開し、「秦氏は景教徒であり、秦氏が創建した日本は仏教国ではなく、キリスト教国であった」といった主張を繰り返している。
このように、一部に熱狂的な支持者を持つ日ユ同祖論であるが、学界からは佐伯氏の「秦氏=ユダヤ人景教徒」説は時代考証に関して批判を受けた。「イエスにおいて神性と人性とは混同しておらず、共存しているのだ」と説き、その立場からマリアを「神の母」と呼ぶことに反対したネストリウス派に関しては、431年のエフェソス公会議で「異端」と断罪され、その後、東方に布教活動を移したことが知られている。ネストリウス派の中国伝道に関する一次資料としては、明朝末期の1623年(天啓三年)に西安で発見されたと伝えられる「大秦景教流行中国碑」(通称「景教碑」、現在は西安郊外の金勝寺にある)が知られているが、景教碑によれば、ネストリウス派は、635年(貞観9年)に入唐し、当時の皇帝であった太宗の厚遇を受け、翌636年に波斯寺(745年に大秦寺と改称)を建立したとされている。すなわち、中国にネストリウス派のキリスト教が伝来したのは7世紀のことである。ところが、それ以前にすでに秦氏は朝鮮半島に住んでおり、しかも4〜5世紀頃には日本へ渡来してきていたことが分かっている。もし、秦氏が景教徒に改宗したとすれば、それは日本に渡来した200〜300年以上後のこととなり、時期的に辻褄が合わない。
こうした矛盾点については、佐伯氏も認めている。しかし、「秦氏はネストリウス派のキリスト教徒であり、かつユダヤ人であった」という信念は終生変わらなかったと伝えられる。事実がどうであれ、佐伯氏にとっては「秦氏がネストリウス派のユダヤ人であった」という説は魂の真実だったのだろう。
なお、1948年(昭和24年)に、「民俗学研究」誌において「大和朝廷を樹立したのは、中国の東北地区(旧満州)の松花江や嫩江の辺りに住んでいた東北アジア系の騎馬民族(夫余族)である。彼らは、1世紀末ごろに北方大陸から南下して朝鮮半島に入り、そこで高句麗を建国し、さらに百済など半島南部の三韓(馬韓、辰韓、弁韓)を服属させて辰王国を建てた。その後、3世紀末頃には加羅(加耶)を本拠地として対馬、壱岐、筑紫へと上陸して九州を征服。そして、5世紀初頭(応神天皇の頃)、畿内の大阪平野に進出して大和の豪族を従え、大和朝廷を作った」とする「騎馬民族征服王朝」説を発表した東京大学の江上波夫博士は、佐伯氏の弟子に当たる。江上氏の「騎馬民族征服王朝」説については、一時大変なブームとなったが、1991年(平成3年)に刊行された佐原真氏の『騎馬民族は来なかった』(NHKブックス)その他をはじめ、古代日本史学や考古学などに関する日本の関係学会においては「考古学的・文献学的な裏付けが何もない」「過去の試行錯誤的仮説の一つ」として否定的である。 
(注)八咫の鏡について
八咫の鏡については、「見た人がいる」とか「私が見た」という話がある。有名なところでは、「初代文部大臣の森有礼は伊勢神宮で八咫の鏡を見た。そして、古代ヘブライ文字で<我はありてあるものなり>と書かれているという秘密を漏らしたために、彼は暗殺されたのだ」という噂話もある。この噂話の変種としては、「初代文部大臣の森有礼は、伊勢神宮に奉安されている八咫の鏡に古代ヘブライ文字で<我はありてあるものなり>と書かれていることを知り、八咫の鏡を公開しようとしたから暗殺されたのだ」というのもある。しかし、詳しく検討してみると、八咫の鏡にまつわるそれらの話はかなり怪しいといわざるを得ない。
森有礼が暗殺されたのは、彼が伊勢神宮に参拝した際に、靴のまま本殿に上がりこんだとか、ステッキで本殿の御帳(布覆い)をハネ上げて中を覗き見ようとしたという記事がイラスト入りで新聞(東京電報新聞[新聞「日本」の前身])に載ったからである。むろん、木場貞長氏(森有礼の秘書官をしていた人物で、伊勢神宮参拝に同行して一部始終を目撃していた)が『南国史叢』第四輯「森有礼先生を偲びて」に書いているところによれば、実際にはそのようなことはなく、森有礼はトラブルなく伊勢神宮の参拝を終えたのだが、彼の急進的な教育改革にかねてより反発していた守旧派はこの記事を鵜呑みにして「何たる不敬!」と激怒して暗殺に至ったというのが真相である。事実無根の先の不敬記事が掲載された背景には、内務省の所管であった暦の制定が、文部省の所管に移って、東京帝国大学でこれを作成することになったことが挙げられる。従来、暦は神社本庁で出版して全国に授与しており、その収入は神宮司庁配下の各神官たちの生計費の大部分に充当されていたので、神社側としては大問題だったわけである。既得権を奪われた神社側から改革派の急先鋒であった森有礼は相当に恨まれていたのだろう。森有礼が伊勢神宮絡みで1887(明治20)年の帝国憲法発布の日の朝に永田町の自宅玄関前で西野文太郎(内務省土木局に勤務する山口県士族)に出刃包丁(一説には匕首)で腹部を刺され、翌日の深夜に死亡したのは事実だが、西野の遺書(斬奸状)には、凶行に及んだ理由について「(伊勢)神宮は神聖尊厳の大廟である。二年前に森文部卿が神宮に参拝した折り、靴のまま神殿に上がり、ステツキで御簾(みす)をはね上げたることなど不敬の極み」云々とあった。つまり、森有礼が暗殺されたのは八咫の鏡とは無関係なのである。
また、中田重治氏が率いる「きよめ教会」で発行されていた機関誌「きよめの友」(1948年5月10日付)に、同教会の牧師である生田目俊造(いくため・しゅんぞう)氏の「神秘日本」と題する投稿が載り、その中で「青山学院の左近義弼博士が八咫の鏡に古代ヘブライ文字が書かれており、<我はありてあるものなり>と刻まれていたのを確認した」という話が紹介されている。少し長くなるが、引用してみたい。なお、文中に「恩師」とあるのは、既に故人であった中田重治氏のことを指している。 
恩師の命もあつたので恩師なきあと遺命を守つて今日までこれを秘して置いたが最早時代も変つた今日、公開してもよいと思う。否今こそ語るべき時であると信ずる。(中略)私はどうしても日本人の中には何か神秘的なものがあると感ぜられる。今より語らんとする事によつてわが民族がこの神の選民と驚くべき関係にある事を悟り、これよりして真の神を見出し信ずる者があるとすれば幸いである。(中略)その日の恩師夫人は常になく厳(おごそ)かに語り出ずるには『今より語る事は必ず口にも筆にも上すべからず』と先ず堅く断られて話し出された。その当時の情勢としてはこれは必然の事である。御話は斯うである。昨日A学院のS博士が突然わが聖書学院に来訪されて非常に厳かなる事を語られた。宮中のいとやんごとなき所に、古(いにしえ)より神体と仰がれ給う鏡があつた。その鏡の裏に現わされてあつたものがはじめは模様とのみ見られたがそれは模様にあらずして驚くべし、ヘブル語である事が明かになつた。さあ大変賢き所の鏡にヘブル語が刻まれてある。然(さ)れば日本においてヘブル語の権威者は誰かという事になつた。そこで選ばれたのがA学院のS博士である。早速御召出しに相成り厳秘の裡にその写しを示された。博士がこれを拝見するに、正にヘブル語にして、旧約聖書出埃及三章一四節「我は有て在る者なり」と刻まれてあつた。博士は厳かさにただ恐れ慄(おのの)いた。もとより写真に撮る事も写すことも、口外も許されぬ事なれど、我が恩師のかねてよりユダヤ人問題に関してその名高ければ早速来られて恩師にのみその厳かなる秘密を打ち開けられたものであつた。恩師また信仰の子供である我等に親しくこの秘密を明かされたのであつた。祖国日本民族覚醒の祈りの為に。ああ如何におごそかなる思いを以てこの奇しき伝を聞いたことであろう。ああこれ神秘なるかな奇なるかな。然ればとて吾人が今直ちに我が祖国の歴史をヘブルにさかのぼらんとするにはあらねども、わが日本が「ただの国にあらざる事」だけは信ぜられる。やがて神の国の来らん時一切は明かさるるであろう。不肖この神秘を知らされて以来信仰はまた大きく新たにされたものである。この朝の家拝は終始わが念頭を去らない。恩師の信じたものを堅く信じて来た。鏡に印刻された神の聖名「我は有て在る者なり」はまた吾が脳裏に深く刻まれたのであつた。(中略)(出埃及三章一節−十五節)鏡には即ちこの神の聖名が刻まれていたのであつた。(中略)ああ尊き神の聖名!! 『我は有て在る者なり』 日本に於て最も尊ばれたる所にて最も尊きものに最も尊き聖名が刻まれてあつたのである。この国に建国以来この神の聖名は秘められていたのであつたろうか。『汝われを知らずといえどわれ名をなんぢに賜いたり』(イザヤ書四十五章)とは如何にこの時に適切なる聖言であろう。『エホバは日なり盾なり』と三千年の昔わが日本とイスラエルを結び給いし奇しさに心がおどる。云々 
文中で「A学院のS博士」とあるのは、青山学院の左近義弼博士のことである。この投稿が掲載された時点では、左近氏は既に故人であり、本当にこのようなことがあったのかを本人に確認することは誰にもできなかった。
元海軍大佐の犬塚惟重(いぬづか・これしげ)氏を会長として1952年頃に結成された「日猶懇話会」(顧問には、佐伯好郎氏も名を連ねている)が、1953年1月25日に「在日ユダヤ民会」の幹部であったミハイル・コーガン氏の自宅で開いた例会には、ヘブライ語が堪能なことでも有名であった皇族の三笠宮殿下も臨席していた。ホーリネス教会の尾崎喬一牧師が「八咫鏡」に古代ヘブライ文字が刻まれているという話を紹介したしたところ、三笠宮殿下が「真相を調査してみよう」と語ったと、同席していた「東京イブニングニュース(Tokyo Evening News)」紙の支局長が翌日(1953年1月26日)付の同紙にスッパ抜いた。標題は、“Mikasa Will Check the Hebrew Words on the Holy Mirror!” (三笠宮が聖なる鏡にあるヘブライ文字を調査する!)というものだった。しかし、三笠宮殿下がその後調査の結果を発表したという話は聞かない。
『ユダヤと日本 謎の古代史』(産能大学出版部、1975)においてマーヴィン・トケイヤー氏は、この件に関して次のように述べている。 
初め私が三笠宮に会ったとき、伊勢の大神宮に保存されているという八咫鏡のうしろに、ヘブライ語の文字が書かれているといううわさは本当かどうかということを尋ねてみた。(中略)三笠宮がそのとき答えたのは、彼自身それを報道した新聞記事の内容をよく知っているということであった。しかし、伊勢の大神宮に現在保存されている三種の神器については、非常に厚い秘密の壁に取り囲まれており、非常に神聖なものであり、非常に神秘的なものであり、三笠宮自身その八咫鏡を見たことはないということであった。また、三笠宮が自分の目で八咫鏡を見ることも許されていないということであった。彼の兄である天皇陛下も、また八咫鏡を実際に見たことはないということであった。現在生きているだれもが、八咫鏡を見ることは不可能なのであるということであった。だから、現在生存している人間であれば、その鏡のうしろに三つのヘブライ語が書かれているということを確認できるはずはないということであった。 
さて、ここで日付に注目してほしい。「青山学院の左近義弼博士が八咫鏡に古代ヘブライ文字で神の名が刻まれていることを確認した」という説を紹介した生田目俊造氏の「神秘日本」という投稿が「きよめの友」誌に載ったのは、1948年のことだった。生田目氏は、その話を中田重治氏から聞かされたといっているのだから、左近義弼氏が八咫鏡を調べたのは中田氏が存命中のことでなければおかしい。中田氏は1939年には亡くなっている。したがって、調査が行われたのなら、その時期は1939年以前のはずだ。
ところが、「東京イブニングニュース」紙に、八咫鏡に刻まれているヘブライ文字を三笠宮殿下が調査すると報じられたのは、1953年のことである。時期が全く合わない。
しかも、マーヴィン・トケイヤー氏によれば、三笠宮殿下は「現在生きているだれもが、八咫鏡を見ることは不可能なのであ」り、「現在生存している人間であれば、その鏡のうしろに三つのヘブライ語が書かれているということを確認できるはずはない」と述べているのである。八咫鏡に古代ヘブライ文字が刻まれていると気がついて、青山学院の左近義弼氏を調査のため宮中の賢所に招いたのは一体誰だったというのだろうか?そもそも、一目見て「あっ、古代ヘブライ文字だ!」と分かる人間が日本に何人いるのだろう。
生田目俊造氏が中田重治氏から聞かされたのは、「日ユ同祖」論に心酔していた中田氏の妄想ではなかったのだろうか?そして、生田目氏によって広められた中田氏の妄想が「東京イブニングニュース」紙の記事やそれを元にした海外の報道などと交じり合って、「三笠宮殿下が、八咫鏡に刻まれている古代ヘブライ文字のことで青山学院の左近義弼博士を宮中の賢所に調査のために招き、<我はありてあるものなり>と書かれていることが確認された」という話ができあがったのではないだろうか? 
 
大師講・太子講

 

十二月二十二日ごろ(旧暦十一月二十三日ごろ)は、一年中でも昼が最も短い冬至で、旧暦二十三日から二十四日にかけては、さまざまな祭りが行われます。
その一つに、「二十三夜待ち」という月待ちの行事があります。二十三夜は新月から数えて二三日日、下弦の月といって左半分が輝いています。この日、人々は「二十三夜講」という集団を作り、飲んだり食べたりしながら月の出を待ちます。
この日は、「大師講」「太子講」と言って、近畿地方等では、弘法大師(真言宗を開いた僧、空海)、元三大師(平安時代中期の天台宗の僧、良源)、智者大師(天台宗を実質的に開いた中国の僧、智串)をまつると言い、また聖徳太子といった偉大な人物が村から村へと巡り歩いて、人々の暮らしを見守る日とされています。
関東や東北地方では、「お大師様」は一本足の神様だという地方が多いようです。
また、子どもを大勢連れた貧しい女の神様であって、大雪のこの日に亡くなったという地方もあります。
また、この日には、お大師様の足跡をかくすためにかならず雪が降ると言われ、それを「跡隠し雪」などと呼びます。
東北地方ではこのころ激しい吹雪になることがよくありますが、これを「大師講吹雪」と呼んでいます。
これをあと隠しの雪、でんぼ隠しの雪、等と呼びます。
お大師様は小豆粥が好物としていて、この日に訪れてくるお大師様に「大師粥」、「霜月粥」という小豆粥を作り、連れているたくさんの子どもたちに食べさせるために、長短の著を添えてもてなします。
大勢の子どもたちに食べさせるにはいちいち膳を用意することができないと言って、箸に団子を刺して供える風習が、東日本だけでなく広島県や島根県にも広がっています。
島根県大原郡では、二十一個の長い生団子を言い、翌朝小豆の味噌汁にして食べます。
広島県山県郡の太子講団子は小豆の味噌汁に団子を入れたものを言います。
同県高田町では、弘法大師が癩者の姿をして雪の夜に宿を求められ、自ら畑から大根とカブを盗んで来て汁にして食べたそうです。
お大師の足は指が無いため、その足跡を隠すために雪を降らせて立ち去ったと言い、二十三日の大師講には小豆に大根・カブを入れた団子汁を食べます。
しかし、この行事の大師や太子は歴史上に実在する人物だったのではありません。
もともとは、祖霊の一つ、「オオイゴ」と言われる来訪神(まれびと)が冬至のころ稲の収穫祭に村々を訪れ、翌年の豊作を約束すると信じられていました。
そして、仏教が盛んになったのち、オオイゴに大師や太子の字があてられ、そこから混乱が生まれたようです。
猟師、炭焼き、木こりなど山で働く人々は、「山の神」を「オオイゴ」と呼び、農村山村を問わず広く信仰されて来ました。
タイシ神とは、神の新たなる復活を意味して出現する神の子の事であろうと推測されています。
稲作を中心とする農村では、山の神は春に山から降りてきて田の神になり、秋の収穫のあとではまた山に帰る神ですが、山村の山の神は、ずっと山に住み、山や木を守っていると考えられていました。
そして、炭焼きの技術を教えたのは聖徳太子だったという言い伝えがあったことから、山の神、オオイゴの祭りが聖徳太子や弘法大師などの名のついた祭りに変化したようです。
さらに、関東より西の地方では、大工や左官、石屋、桶屋などの職人も、古くから聖徳太子を信仰し、太子講を組んで祭りを行っていました。
お九日等と同様、この月の三の日を大師の日として、三日を先の大師、十三日を中の大師、二十三日をしまいの大師等という例もあります。
中の大師は名だけで、行事らしいものは無いのが、普通でだそうです。 
 
宗教対立を避けるため、弘法大師は神仏の融和を試みた

 

阿波が舞台、史実だった天孫降臨神話
僧籍はないが、真言宗の寺を維持している松嶌氏は、「これから話すことは、非常識だと受け取られるが」と断りつつ、「古事記、日本書紀で語られる天孫(てんそん)降臨の神話は、これは歴史的事実だ。その舞台はすべて、徳島県内の阿波だった。邪馬台国論争も、ヤマタイコクと読むからわからない。ヤマドーンコクと発音し、大和の国の意味になる」と述べた。
また、大和王朝の祭祀を仕切っていた忌部(いんべ)族が、日本全国に農耕、機織りを伝えた。彼らは、日本文化の基礎となるライフスタイルを築いた一族で、その伝統は、今でも皇室で忠実に受け継がれている」と話す。
本題の弘法大師(空海)の話に移った。まず、空海を巡る謎について、「地方豪族の身分の空海が、遣唐使に選ばれること。唐での不可思議な行動と、20年帰ってはいけない留学僧の身分にもかかわらず、2年あまりで帰国したこと。帰国後は隠遁していたが、嵯峨天皇の時代になったとたん、姿を現して出世したこと」などを挙げ、「空海をバックアップする大きな勢力がいたのではないか」と推理した。
日本の神と仏の融和を試みた弘法大師
松嶌氏は、まず、高野山のふもとの天野盆地に建立された、丹生都比売(にゅうつひめ)神社と、高野山境内の、御社(みやしろ)神社に祀られている丹生明神に注目した、という。「高野山は女人禁制なので、丹生都比売尊を「丹生明神」と性別をぼかして祀っているのだ」。
「天野盆地一帯は、弘法大師を応援した一族の領地と思われ、丹とは、水銀の意味で、和歌山から徳島にかけて大きな鉱脈が流れている。水銀は、古代、腐敗をふせぐために辰朱(しんしゃ)として重宝された」と解説を挟みながら、「弘法大師は高野山で、密教、仏教の聖地の建立というよりは、日本の神と仏の融和を試みたのではないか」とテーマを展開していった。
弘法大師と天野盆地のつながり
(和歌山県紀の川市近くには)「鎌八幡宮という呪いをかなえる神社がある。大きなイチイの木にカマを打ち込み、カマが木に吸い込まれるとその願いはかない、かなわないカマは落ちると言い伝えのある恐ろしい神社だ」。
「徳島県石井町に、大国主命の息子の建御名方神(タケミナカタノカミ)を奉った諏訪大社本宮(長野県諏訪大社の本宮)がある。そこには、交差した藁のカマや、鎌八幡神社にもあった結界を示す緑泥片岩の板碑(いたひ)も見つかる」と、松嶌氏はアリバイ崩しのように、弘法大師と天野盆地の一族とのつながりをあぶりだしていった。
仏教ではなかった弘法大師の真言宗
さらに、「弘法大師が開祖した宗教は、仏教ではない。お釈迦さまは先祖崇拝は認めていない。インドに墓はない。輪廻転成だから、どこに生まれ変わるか、定かでないからだ。先祖崇拝は中国発祥。家系尊重の文化が仏教とミックスした」と話す。
「ゆえに、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ=神道と仏教を両立させる理論)は画期的な考え方で、インドでは、バラモン、ヒンドゥーの神々を、仏法を守るために仏教に組み込んだ(曼荼羅)。空海は、このシステムを持ち込んだ。天照大神は大日如来や十一面観音だ。阿弥陀様は八幡様。薬師如来は須佐乃袁尊(スサノオ)などになった。天皇は、神主のトップなので、仏教では困るのだ」。
では、なぜ、弘法大師は神仏の融和を試みようとしたのか。松嶌氏は「弘法大師は、宗教争いが念頭にあったのではないか」と解釈する。
嵯峨天皇と弘法大師
「弘法大師は、中国で宗教間の争いの無駄を知り、本地垂迹説を学んだのではないか。そして、嵯峨天皇に『国を納める方法は密教だ』と教えたのではないのか。嵯峨天皇は、死刑を初めて廃止した天皇でもある」。
このように述べて、松嶌氏は弘法大師の『即身成仏義』を解説した。『『六大無礙(むげ)にして常に瑜伽(ゆが)なり』は、宇宙を作っている6つの物質は、常に動き溶けあっているという意味だ」と話し、六大、四曼、三密の解釈を述べた。
さらに、「理屈や法や欲などで戦うのではなく、自分の中を確かめて、世の中のすべてものが、常に解けあって存在していることを知り、身(行動)、口(言葉)、意(思い)をもって実行していく。そこに、あらわれてくるものこそが、即身成仏そのものだ」と説いた。
密教はオールマイティ
松嶌氏は「日本人は雑種民族。アイヌと沖縄を別にすれば、DNA鑑定からは特定のルーツをたどれない。縄文、弥生、黄河、朝鮮、カスピ、北方、ポリネシアなど、すべての民族の血が混ざっている。なぜなら、過去、宗教戦争をしなかったからだ」とも述べ、密教の良さを次のように訴えた。
「密教とはオールマイティな宗教。いろんな民族の儀式を取り入れている。今、真言宗は信者が減っている。なぜなら、お経が長いからだ。迷信宗教であるともいう。しかし、日本のルーツがいろいろ取り込まれ、ノウハウが詰まっている宗教なのである」。最後に、弘法大師のご真言「南無大師遍照金剛」を唱えた。 
 
四国霊場と弘法大師

 

四国八十八ヶ所霊場 / 弘法大師
 4 黒巌山 大日寺  大日如来  弘法大師 東寺真言宗 徳島県板野町
 5 無尽山 地蔵寺  勝軍地蔵菩薩  弘法大師 真言宗御室派 徳島県板野町
 6 温泉山 安楽寺  薬師如来  弘法大師 高野山真言宗 徳島県上板町
 7 光明山 十楽寺  阿弥陀如来  弘法大師 高野山真言宗 徳島県阿波市
 8 普明山 熊谷寺  千手観世音菩薩  弘法大師 高野山真言宗 徳島県阿波市
 9 正覚山 法輪寺  涅槃釈迦如来  弘法大師 高野山真言宗 徳島県阿波市
10 得度山 切幡寺  千手観世音菩薩  弘法大師 高野山真言宗 徳島県阿波市
11 金剛山 藤井寺  薬師如来  弘法大師 臨済宗妙心寺派 徳島県吉野川市
13 大栗山 大日寺  十一面観世音菩薩  弘法大師 真言宗大覚寺派 徳島県徳島市
14 盛寿山 常楽寺  弥勒菩薩  弘法大師 高野山真言宗 徳島県徳島市
16 光耀山 観音寺  千手観世音菩薩  弘法大師 高野山真言宗 徳島県徳島市
20 霊鷲山 鶴林寺  地蔵菩薩  弘法大師 高野山真言宗 徳島県勝浦町
22 白水山 平等寺  薬師如来  弘法大師 高野山真言宗 徳島県阿南市
24 室戸山 最御崎寺(土佐東寺)  虚空蔵菩薩  弘法大師 真言宗豊山派 高知県室戸市
25 宝珠山 津照寺(津寺)  延命地蔵菩薩  弘法大師 真言宗豊山派 高知県室戸市
26 龍頭山 金剛頂寺(土佐西寺)  薬師如来  弘法大師 真言宗豊山派 高知県室戸市
30 百々山 善楽寺  阿弥陀如来  弘法大師 真言宗豊山派 高知県高知市
33 高福山 雪蹊寺  薬師如来  弘法大師 臨済宗妙心寺派 高知県高知市
34 本尾山 種間寺  薬師如来  弘法大師 真言宗豊山派 高知県春野町
36 独鈷山 青龍寺  波切不動明王  弘法大師 真言宗豊山派 高知県土佐市
38 蹉陀山 金剛福寺  三面千手観世音菩薩  弘法大師 真言宗豊山派 高知県土佐清水市
40 平城山 観自在寺  薬師如来  弘法大師 真言宗大覚寺派 愛媛県愛南町
41 稲荷山 龍光寺  十一面観世音菩薩  弘法大師 真言宗御室派 愛媛県宇和島市
42 一果山 仏木寺  大日如来  弘法大師 真言宗御室派 愛媛県宇和島市
45 海岸山 岩屋寺  不動明王  弘法大師 真言宗豊山派 愛媛県久万高原町
56 金輪山 泰山寺  地蔵菩薩  弘法大師 真言宗醍醐派 愛媛県今治市
57 府頭山 栄福寺  阿弥陀如来  弘法大師 高野山真言宗 愛媛県今治市
63 密教山 吉祥寺  毘沙門天  弘法大師 東寺真言宗 愛媛県西条市
66 巨鼇山 雲辺寺  千手観世音菩薩  弘法大師 真言宗御室派 徳島県三好市
67 小松尾山 大興寺  薬師如来  弘法大師 真言宗善通寺派 香川県三豊市
70 七宝山 本山寺  馬頭観世音菩薩  弘法大師 高野山真言宗 香川県三豊市
72 我拝師山 曼荼羅寺  大日如来  弘法大師 真言宗善通寺派 香川県善通寺市
73 我拝師山 出釈迦寺  釈迦如来  弘法大師 真言宗御室派 香川県善通寺市
74 医王山 甲山寺  薬師如来  弘法大師 真言宗善通寺派 香川県善通寺市
75 五岳山 善通寺  薬師如来  弘法大師 真言宗善通寺派 香川県善通寺市
81 綾松山 白峰寺  千手観世音菩薩  弘法大師 真言宗御室派 香川県坂出市
82 青峰山 根香寺  千手観世音菩薩  弘法大師 智証大師 天台宗 香川県高松市
85 五剣山 八栗寺  聖観世音菩薩  弘法大師 真言宗大覚寺派 香川県高松市
新四国八十八ヶ所曼荼羅霊場 / 弘法大師
人々が日々生きる世界は、肉体の健全と心の安定を求める為の修行の場とされています。そして、人は曼荼羅の力で、より完成された悟りに近づいた自分自身を発見する事が出来ます。曼荼羅霊場八十八ヶ寺は巡礼者と同じ立場で悩み、考え、語り合う事で、巡礼者が曼荼羅を体得できるようにと考え、平成元年に、古くから巡礼の聖地として知られてきた四国に所在する幾千年の歴史を誇る代表的古刹八十八ヶ寺が、神仏の力を結集し曼荼羅の世界を作り上げました。これが四国曼荼羅霊場なのです。
四国八十八ヶ所が、徳島県鳴門市を基点にして時計廻りで四国を一周するのに対し、曼荼羅霊場は、徳島県鳴門市から左廻りに四国を廻り、高知からは室戸岬を経由せず、阿波池田に入り吉野川を下って、徳島県の中央部の旧木沢村(現那賀町)が結願の地となっている。
 9 霊雲山 玉泉寺  日切地蔵菩薩  弘法大師 天台宗 香川県さぬき市
20 七宝山 延命院  釈迦如来  弘法大師 真言宗単立 香川県三豊市
28 豊岡山 三福寺  阿弥陀如来  弘法大師 高野山真言宗 愛媛県四国中央市
42 法仏山 遍照院  聖観世音菩薩 厄除弘法大師  弘法大師 真言宗豊山派 愛媛県今治市
46 瑠璃山 香積寺  薬師如来  弘法大師 高野山真言宗 愛媛県東温市
47 東向山 理正院  大日如来  弘坊大師 真言宗智山派 愛媛県砥部町
56 浄瑠璃山 石見寺  薬師如来  弘法大師 真言宗豊山派 高知県四万十市
57 無量山 観音寺  正観世音菩薩  弘法大師 真言宗智山派 高知県須崎市
67 萬念山 瀧寺  聖観世音菩薩  弘法大師 真言宗御室派 徳島県三好市
70 五剣山 東福寺  不動明王  弘法大師 真言宗御室派 徳島県つるぎ町
75 如意山 地蔵院  目惹地蔵菩薩  弘法大師 真言宗大覚寺派 徳島県徳島市
80 国伝山 地蔵寺  地蔵菩薩  弘法大師 真言宗大覚寺派 徳島県小松島市
87 向栄山 正光寺  地蔵菩薩  弘法大師 高野山真言宗 徳島県那賀町
88 龍王山 黒滝寺  十一面観世音菩薩  弘法大師 高野山真言宗 徳島県那賀町
 
弘法大師が伝えた炭やき技術

 

世界でも最高水準といわれる日本の木炭も、もともとは中国から伝わってきたものでした。これを日本に伝えた一人として考えられているのが、弘法大師(空海)です。31歳で遣唐使とともに唐に渡った弘法大師は、炭やきなどの仏典だけでなく実学的な技術として炭やきも移入したのです。以来、弘法大師が住み着いた場所には、いずれも古い炭やき窯の伝統が残っています。
弘法大師が2年間の唐生活のあと帰国し、落ち着いた場所である現在の福岡県太宰府市の一帯では、ふるい炭窯が現在も残っています。また、数年後に移譲した槇尾山(大阪府)近辺でも日本で最も古い木炭産地として有名です。そして弘法大師が開いた高野山周辺(和歌山県)にも、平安時代には炭の産地だった所がありました。備長炭は江戸時代の元禄年間この高野山周辺から生まれてきたものです。
弘法大師によって、技術輸入された木炭制作技術は、各地方の原木の特性や植生に合わせて改良され、炭窯も様々なタイプが生み出されていきました。現在の日本各地に残る木炭技術は、1500年近くの伝統と技によって裏打ちされているのです。 
 
丹生都比売伝承

 

紀元前八世紀、大陸は春秋時代を迎えた。江南には越と呉が建ち、相争う事幾たびにも及んだ。前五世紀、呉は越に追われた。呉の太伯の血を嗣いだ美しい姉妹がはるか倭国に渡来した。大日女姫と稚日女姫である。しなやかな海の文化をこの国に伝播させた。稲作、金属の使用を教え、国土開拓を導びいた。二人の姫の想いではやがて天照大神と丹生都姫神として語り継がれた。
太伯説話
神話と歴史をつなぐ夏王朝や実在が確かめられた殷王朝が周王朝に先行した。周の王子であった太伯は、聖人の資質を持つ末弟に王位を譲るべく自ら南方の地に去り、文身断髪して後継ぎの意志のないことを示した。 太伯は自ら勾呉と号し、呉の太伯と呼ばれた。なお倭は自らを呉の太伯の後裔と信じていた。
春秋時代(BC770〜BC402)
周の後に春秋時代と呼ばれる時代となった。江南には越と呉の強国が建ち、相争う事幾たびにも及んだ。呉は太伯、越は禹の苗裔で夏后帝少康の後裔と称した。ともに「夷」であるが「華」の後裔を称した。我が倭も「夷」である。見よ「華」の傲慢さ、華より夷だ。夷の持つ礼節と独自の文化を大切にしよう。
誕生から美少女へ
揚子江の南、西湖の景色で名高い杭州は絹や水銀を産する。稚日女は、江南の呉王国の妹王女 として生を受けた。姉王女は大日女と云う。この地は遙か東の倭国に至る 中央構造線 の西端に当たる。
臥薪嘗胆の故事 結局呉王夫差は越王勾踐に敗れる。
BC473年、呉は越に滅ぼされ、BC334年、越は楚に滅ぼされた。なお楚国は始皇帝の秦に滅ぼされる。 呉越の遺民は、揚子江以南の海岸沿いに国を構えた。この様な国の乱れの中で、金属採取に長けた越人を交えた一族部民は呉王女姉妹を奉戴し、まさに呉越同舟で船出をし、新天地の倭国へ向かった。呉越は往古より倭国とは交流があり、倭国には金や水銀の鉱脈が露出しており、また住民は穏やかな人々である事が知られていた。
九州上陸
南九州に上陸、姉の大日女姫はこの地に伴侶を得てとどまり、後に天照大神と呼ばれる女神の原型となった。狗奴国の狗は呉(gu)であるか。妹姫の稚日女姫はミズガネの女神と讃えられ、すなわち丹生都比売神の原型となった。 稚日女姫を奉戴した一族は熊本の八代や 佐賀 の嬉野で水銀鉱脈を見つけ採掘した。
天野大社(丹生都姫神社)の丹生良広氏の「丹生神社と丹生氏」によれば、丹生氏の第一歩は筑前の伊都の地とされている。 この地は邪馬台国の伊都国であるがここには水銀鉱床は出ていない。しかし紀の国の主な水銀産地は伊都郡内にあり、伊都国から人と共に地名が運ばれたとの想定である。 伊都国王の後裔が紀州丹生氏や怡土県主の五十ト手につながり、大分豊後丹生氏になっていったとの見解を開示されておられる。伊都国の氏神の高磯比神社の祭神を丹生都姫と見ておられる。誠に興味ある説である。伊都国の官は爾支(にき)と云い、これは丹砂に通じるか。
大分で大きい鉱脈見つかる
大分 で大きい鉱脈を発見、姫と氏族は移動した。このサイトでは中央構造線をメインルートと考え、丹生都姫一族の末裔は紀の国に落ち着いたものと見ている。
海を渡り四国へ行く、一部は広島に移動する
女神の後裔に新たに爾保都比売が現れた。広島 へ移動した部族は石見・出雲や播磨へと進出した。 日本海側に出た水銀師達は再び祖神丹生都比売を奉じて城崎 、丹後 と沿岸を北上して、 福井 へと鉱脈を求めて行った。
丹生都比売は中央構造線を進む
四国 の各地で鉱脈を発見・採掘を行いつつ移動した。四国は空海の生まれた土地でもあり、高野山真言宗が丹砂を狙ってか進出しており、二重構造になっているようだ。
淡路を経由し和歌山へ
淡路 から 紀ノ国 に上陸、更に紀ノ川上流を目指した。鉱脈の多い紀ノ川上流に拠点を設け、中紀、南紀、奈良県の 吉野・宇陀 方面に勢力を伸ばした。特に紀ノ川下流域には土地の祭祀を司る名草比売のもとに御子である 名草比古命 を婿養子に入れ、紀ノ川の守りを固めた。紀ノ川下流域を差配していた五十猛命の軍団も丹生都姫の集団を受け入れ、名草比売共々 見守 った。
神として高野に鎮座
幾星霜を重ね、丹生都姫と一族の後裔は、鉱脈が尽きつつある中で、耕地開拓にも従事し、 紀ノ川流域 だけではなく、 有田川 、日高川流域の採取と治水につとめた。このあたりでは、金属採取より国土開拓の神としての丹生都比売命を祀る神社が多い。鉱脈が尽き、一部は 播磨 に移動した。
水銀を求めて更に東へ
丹生都比売命を奉ずる人々は、 三重 、 岐阜 、 長野 、 静岡 、 千葉 、 群馬 へと鉱脈を求めて移動していった。
姫の後裔、神武東征で賊として誅される 丹敷戸畔、名草戸畔である
日下で長髄彦に破れた 神武軍 は 紀ノ川下流域 に到着した。ここで神武の兄の五瀬命が力つき、なくなり、 竈山 に葬られた。一方、神武軍はこの地を制圧すべく名草山を拠点としていた名草戸畔の軍を攻め、名草戸畔は神武軍の新しい製鉄技術の前に滅び去った。 名草戸畔の遺体は頭、胴、足とそれぞれ葬られ、祀られた。神武は紀氏をこの地の支配者として残し、神武軍は海岸沿いに南下し、 紀南の地 で同族とも知らず丹敷戸畔を誅したのである。丹生の威力のすざまじさは神武天皇の後継の第二代(綏靖天皇)に神渟中川耳の名に渟中(丹生)として現れ、かの天武天皇の天渟中原瀛真人と敏達天皇の渟中倉太珠敷にも登場する事で、その神威を示していると言えよう。
紀氏の地域融和策
丹生都比売命は「海」の文化圏の出自である。紀氏はその古墳からの馬冑の出土からも判るように「馬」の文化圏の氏族である。紀氏の祖は天道根命とされているが、大名草比古命をその四世の孫としている。この命は 日前宮 を今の社地に遷座し、 伊太祁曽神社 を山東に追いやったとされる。土地で圧倒的な信望を得ていた名草戸畔の後に支配者として座った紀氏は名草比売を祀るとともに、その祖神を同じくすると宣伝し、地域との融和を図ったのであろう。
丹生都比売命は記紀には出ていない神である
天照大神と丹生都比売命が姉妹である事は既に神武軍には忘れ去られており、その結果、丹生都比売一族を蹂躙してしまった。この事で、丹生都比売命を記紀に登場させる事は出来ず、わずかに丹敷戸畔として登場するのである。
丹生都比売命は下記の地域に祀られていない
南九州、福岡、山陰、愛媛、大阪、東日本の大半。天孫族の勢力、物部氏の勢力、出雲の勢力の大きい地域には別の金属採掘の一族がいたのであろう。
旧事本紀の名草比売命
物部(海部)氏との関係では、天香山命の五世の孫の建斗目命の妃として中名草姫の名が出ている。大己貴命の六世孫の豊御気主の命の妻として、紀国造智名曽の娘名草姫の名が出てくる。
風土記の中の丹生都比売命
<摂津国風土記> 神功皇后が筑紫国に行幸するとき、神崎の松原に神々を集めた。その神の中に美奴売の神がまじっていて、自分の住む山の杉を伐切り採って船を造れ、その船に乗っていくと幸いがある、との神託を下した。
<播磨国風土記> 神功皇后が新羅征伐に赴く時、集まった神々の中に爾保都比売命がおり、自分を良く祀ってくれるならば赤土を与えようと言った。その赤土を船体などに塗って新羅を攻略した。帰還後、神功皇后は爾保都比売命を紀伊国筒川の藤代の峯に鎮め奉った。杉で船を造る、船を赤土で守ると言う伝えは、木の神でありかつ御船前伊太神として、神功皇后が播磨に祀ったとされている五十猛命を想起せしめる。神功皇后と紀伊の国との関係からの説話なのか、丹生都比売命と五十猛命との関係を示す説話なのか、興味の多いところである。
播磨へ移動し合流
また、住吉神との関連も多いようである。筒香の地名、 伊達神社 と住吉大社との関連もある。*1
「住吉大社神代記」に紀伊国伊都郡 丹生川上天手力男・意気続々流・住吉大神とある。住吉大社神代記は平安前期以降の偽書とされているが、 その中の丹生川の川上には丹生都比売を鎮め祀った藤代の峯があるとされている。 富貴村筒香の地では「つつ」が住吉を連想させるが、赤土の地で水銀や褐鉄鉱が出ていたようである。この地で鉄を取っていた船木氏が播磨へ移る際、丹生都比売を奉ずる人々も播磨へ遷って爾比都比売を祀る人々と合流したとも思われる。
弘仁七年(816)空海は嵯峨天皇から高野山を賜った
高野山の地を空海が丹生都比売から譲り受ける説話は二種類ある。丹生明神の土地譲り 空海が霊地を求めて大和国宇智郡まで来たとき南山の犬飼なる大男にあった。大男の協力で大小二匹の黒犬が案内し、紀伊との境の川辺で一泊した。 そこに一人の山民が現れ空海を山へ導いた。山の王、丹生明神・天野宮の神であった。この宮の託宣により丹生明神は自分の神領を空海に献じた。
借用書の説話1 / 弘法大師は高野明神から十年間の期限付きで神領地を借り受けたが、その後密かに十の上に点を加えて千とした。高野明神が十年後返還を求めたが、千を盾に応じなかったと云う。
借用書の説話2 / 千年の借用書で借り受けたが、白ネズミが千の文字を食い破ったので、永久に借り受け、返還せずとも良くなった。 
その後の丹生都比売命を奉じる人々
新しい鍛冶技術の伝播、更に水銀鉱床の枯渇から、丹生神を奉ずる多くの人々は農民として民草の中に吸収されて行った。それでも後の世で水銀を扱う人々は丹生都比売命を祀り、鉱脈の尽きないことや中毒から身を守るべく祈ったのである。一方、丹生都比売命から罔象女神さらに雨師(おかみ)へと変遷して祀られる場合も多かった。高野山系真言宗の進出に当たって、丹生神社の鎮座地に狙いを付けて出ている場合がある。(播磨、土佐) また単に真言宗だけではなく丹生都比売信仰ともども進出している場合もあるようだ。(白石島)
呉太伯と姉妹 
周や呉の姓は「姫」氏である。呉の太伯はこの家の出であり姫氏と思われていた。 奈良時代の日本書紀の講義中の質問に、皇室の姓は「姫」氏であると講師が答えている 。*日本の古代1倭人の登場(角川書店)
丹生都比売神社 では天照大神と丹生都比売命は姉妹であるとの説明をしている。後世の付会かも知れないが、神功皇后が紀伊国筒川の藤代の峯に大神を鎮め奉ったが、この付近は東に大日川、西に丹生川が流れる。大日女、稚日女に因んで付けられた名前とすれば、あながち無視のできない言い伝えである。
大和を中心として、中央構造線の東に伊勢神宮、西に日前宮が鎮座しているが、日前宮の祭神の日前大神とは丹生都比売命かもしれない。さすれば、双子となる。日本書記によれば、。日前宮の御神体の鏡は伊勢神宮の鏡より先に出来たものである。昔は双子は先に生まれた方が妹とされた。日前宮の祭神を丹生都比売命とすれば、まさに紀ノ国の一宮にふさわしい。
宇陀や吉野の金属を採取したのは飛鳥檜隈に住む渡来系工人との見方があり、ヒノクマでつながる。
名草比売
田殿丹生神社の社伝には、丹生都比売命の御子の高野明神をまたの名を大名草比古命としている。和歌山には名草比古命と名草比売命を祀る神社がいくつか 現存する。水銀採掘業者は娘に養子を迎え家をつがし、息子は外に出すのが慣例であった。中毒から実子を守り、血の繋がりは娘に託した。*朱の伝説(邦光史郎)。 女系は「海」の文化である。日高郡龍神村の丹生神社の主神は丹生都比売神であり、配神として丹生都彦神が祀られている。
猛軍団 五十猛命と日本武尊
五十猛命を祀る伊太祁曽神社の奥宮は丹生神社であり、丹生都比売命と丹生都比古命に天照大神を配している。伊太祁曽の社地は、今の日前国懸神宮の地にあった。紀ノ川下流域の要所である。
五十猛命を祀る神社 と丹生神社とは佐賀、岐阜の飛騨、群馬、和歌山の紀ノ川・有田川に鎮座し、五十猛命が下流に位置している。これは産物の輸送、防衛の二面から妥当な配置と言える。
九州
佐賀県 藤津郡 嬉野町 丹生川(他に 平野 湯野田 下野)丹生神社(祭神 丹生都比売命)
佐賀県 藤津郡 塩田町 馬場下(他に大草)丹生神社(祭神 丹生都媛命)
これらは、丹生川、塩田川の上流に位置し、その下流に
佐賀県 杵島郡 有明町 辺田の稲佐神社(祭神 天神、五十猛命、大屋都比 売命)
佐賀県 杵島郡 白石町馬洗の妻山神社(祭神 抓津姫命、抓津彦命)
佐賀県 藤津郡 多良岳の多良嶽神社(祭神 瓊々杵命、五十猛命、大山祇命 )
などが鎮座しています。
関東
埼玉県 児玉郡 稲沢の稲聚神社(元丹生社)
埼玉県 児玉郡 神泉村 住居野の丹生大明神
群馬県 多野郡 万場町 3社(相原、黒田、塩沢)の丹生神社
群馬県 多野郡 鬼石町 2社(坂原、浄法寺字丹生)の丹生神社
群馬県 富岡市 下丹生 字六反田の丹生神社
神流川や鏑川の上流にあるのに対して、その下流に当たる
群馬県 多野郡 吉井町 神保の辛科神社(祭神速須佐之命、五十猛命)
藤岡市 上日野 字田本、字細ヶ井戸、字小柏の野之宮神社、字駒留の地守神社等が下流に位置しています。
近畿
奈良県 五條市 阪合の大屋比古神社(祭神 大屋彦命)
も丹生川が紀ノ川に合流する所にあります。
和歌山県の丹生神社と五十猛命を祀る神社もほぼ同様な位置関係に当たると言えるでしょう。五十猛命は佐賀で美しい娘を見初めているが、丹生都姫のとロマンスであれば楽しい話である。なお、日本武尊と丹生都比売命を祀る神社も比較的近くに鎮座している。
紀南のニシキ
三重県紀勢町錦や串本の二色など諸説がある。いずれにしろ、高野・吉野から熊野は丹生都比売の支配下にあり、そこで姫は戦ったのである。
神武と応神
東征の主人公を神武軍として語ったが、八幡神を奉じる応神軍であった可能性がある。紀氏の騎馬民族的の風習、紀ノ国に多い神功皇后、応神天皇の伝承と八幡神社の数がこれらを示しているものと思われる。  
 
竹内街道 / 香りを運んだ古道

 

住吉から飛鳥まで
お線香、お香といった香りの歴史を紐解いていくと、まずは日本書紀に描かれている一節が必ず登場します。
日本書紀巻第二十二、推古天皇の段に描かれているのは、
三年夏四月、沈水、漂著於淡路嶋。其大一囲。
推古天皇3年(595)に、淡路島に沈香の香木が漂着し、島人が知らずに薪と共に竈で炊いたら、良い香りを漂わせたので、不思議に思って献上した、という逸話です。この香木については、その後聖徳太子がこの香木から仏像を削り出して吉野に納め、後になって法隆寺に納められたという逸話が残されています。もっとも聖徳太子が作らせたとされる仏像が、夢殿に安置されているものか、あるいは別の仏像かは色々と諸説があるようです。
香りに関する歴史を紐解くと、まずは仏教との関わり−法隆寺と聖徳太子の話−から始まるようです。さて、淡路島からはるばる飛鳥の都まで沈香が運ばれますが、恐らくはその道のりと同じく日本で最初の官道といわれる竹内街道が整備されます。この竹内街道は、日本書紀によれば推古天皇21年(613)に整備されたとありますが、はじめて遣隋使が送られるのが日本書紀によれば607年、向こうの隋書では600年、恐らく遣隋使を派遣した後、返礼の隋の使節などを招くためにも整備したのでしょうか。
それ以前の時代から、現在の住吉大社のある場所が海の玄関とされていたようで、朝鮮半島からの使節などもこの難波の地から飛鳥の都へ向かったそうです。そして竹内街道が整備されてから、いよいよ遣隋使、遣唐使によって仏教の文化が都に運ばれることになりました。
今でこそ大阪湾も埋め立てられて、住吉大社から海を臨むのは難しいですが、かつては相当船の往来で賑わっていたんだろうと思います。そこから内陸に向かって、今の堺市の中心部あたりに開口神社があります。この開口神社は住吉の奥院ともいわれ、社伝によれば神功皇后が、この地に塩土老翁神を祀るべしとの勅願によって創建されたと伝えられています。恐らくは推古天皇の時代よりも以前から住吉大社と開口神社を結ぶ幹線道が作られていたことと思いますが、この開口神社が竹内街道の西側の起点だそうです。
香りを運んだ街道とは言っても、それは飛鳥時代の頃のことで、その後の奈良時代までは良いとして、平安時代以降はあまり縁が無くなってしまうのではないか、そんな風に考えていましたが、どうもそうでもないようです。
竹内街道は都が奈良や京都に移り、戦国時代の騒乱から江戸時代へと時代を経ながら、官道としての役割を終えて姿を変えていきました。しかしながら、このかつての街道に沿って様々な文化遺産が現在まで残されています。最近では、地域の歴史の見直しと共に、竹内街道も少しずつですが整備されています。色々な史跡や言われを辿っていくと、徐々にかつての竹内街道を通じて、時代の中でかたちを変えて行く香りの文化がこの街道を通じて様々な場所に運ばれていった様子がうかがえます。
鎌倉時代、それまでの平安時代には貴族の嗜みだった香りの文化が、武家の文化の中に少しずつ取り入れられ、室町時代に入ると貴族文化のリバイバル現象のような形で一斉に全国に拡散されていったそうです。そして、この時期、堺は活発な貿易都市として栄え、堺から全国に香木や薬草が届けられる中、大和川や竹内街道を通じて様々な場所に運ばれていきました。そして豊臣秀吉の時代から関が原を経て江戸時代に移ると、それまでの香りの文化が線香に姿を変えて、全国に広がるようになります。その時にも、堺と奈良を結ぶ竹内街道は重要な役割を担うことになります。
長い歴史の中で、様々に姿をかえて、少しずつ全国に、そして広く社会全体に拡がっていく香りの文化をこの街道を通じて眺めていきたいと思います。 
竹内街道の今昔
竹内街道は、堺市内の開口神社から仁徳御陵で有名な百舌鳥山古墳群を抜けて、藤井寺市にある誉田八幡宮のすぐ傍を通過して太子町に入ります。この太子町は古くから「近つ飛鳥」とも呼ばれていました。20年ほど前に近つ飛鳥博物館が開館して、この名称も少し全国的に知られるようになっているのではと思います。近つ飛鳥の由来は、古事記に記されてますが、難波の方から見て現在の奈良県の明日香を”遠つ飛鳥”、羽曳野市あたりを”近つ飛鳥”と名付けたそうです。
この太子町は、聖徳太子に由来する名前ですが、聖徳太子の墓所とされる叡福寺や、それ他にも推古天皇陵や遣隋使の小野妹子の古墳や墓が残される歴史遺産が残る町です。今では静かな農村ですが、竹内街道のかつての姿がよく残る歴史を感じさせます。
二上山を越えると奈良県に入りますが、二上山の麓には法隆寺と並ぶ古刹で知られる当麻寺があります。当麻の集落に中にある長尾神社が竹内街道の東側の終点になり、奈良盆地を東西に結ぶ横大路を進むと飛鳥へ、北上すると奈良市街に入ります。奈良盆地の南西に当麻の町があって、北にかつての奈良の都がありますが、その途中に法隆寺で有名な斑鳩があり、かつて聖徳太子が居を構えた宮があった場所です。
日本書紀によれば、竹内街道が整備されたとき、聖徳太子は推古天皇の摂政として活躍していた時期に当るので、ちょうど聖徳太子縁りの史跡が街道に沿って沢山残されています。大阪市内で聖徳太子に縁のある史跡といえば、四天王寺が有名ですが、奈良に比べれば大阪市や堺市内に縁のある史跡は少ないように感じます。
堺に近いところでは、住吉大社のすぐ近くに一運寺があります。かつては一帯が留学僧など多くの往来があった賑わいだ場所だったはずですが、そうしたかつての名残りが微かに感じられるところです。
この一運寺の縁起によれば、聖徳太子が夢を見て、42歳の時この地に自らの厄除けの意味も込めて七堂伽藍を建て転法輪寺と名付けたとされています。住吉にある由緒ある古刹という事で、航海の無事祈願を兼ねて歴代の高僧がこの寺院を訪れたそうです。東大寺の再建に奔走した重源や、法然上人も一時期滞在していたという謂れが残されています。
そして、この寺院にはもうひとつ広く知られているところでは、赤穂浪士の大石内蔵助良雄、その子の主悦良金、寺坂吉右衛門の三基の墓が祀られています。本来の赤穂浪士の墓は東京の泉岳寺にありますが、なぜ大阪の住吉にも祀られているかというと、相応の理由があるようです。
香りの物語からは少し離れてしましたが、大阪市内には思いがけない歴史遺産が重なり合うように街中に溶け込んでいます。開発が目覚しい天王寺から住吉大社、大和川を経て堺に進むと今では下町風情の残る住宅地になりますが、ゆっくりと散策していくと、まだまだ色々なものが見つかりそうです。 
天平時代、鑑真和尚が運んだ香り
東大寺の正倉院に伝わる蘭奢待という香木の名前を知っている人も少なくないと思います。正倉院に伝わっているという事で、聖武天皇の時代に日本に伝わったと言われていますが、実際には9世紀頃のものではないかと考えられています。時の権力者がこれを切り取り、特に足利義政、織田信長、明治天皇の三者については切り取った場所に付箋で名前が明記されて残されています。沈香の中でも最高級の伽羅であるとされています。
あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり 小野老(おののおゆ)
青丹よしの枕詞から始まるこの歌は、平城京に遷都して建築ラッシュで賑わっている都の様を遠く離れた大宰府で歌ったものとして良く知られているかと思います。華々しい奈良時代、仏教と共に様々な新しい文化が日本に届けられましたが、香りの文化もそうした時代に新たな転換期を迎えます。
鑑真和尚は、日本国内に仏教を広めるために、何度も挫折しながらも最終的に訪れることが出来たといった漠然と理解されているかと思います。聖徳太子の時代から百年ほど経った後のことになります。鑑真和尚は戒律の僧として当時の唐で隋一と称されるような高僧でしたが、時の皇帝の命に逆らいながらも、僧侶となるための受戒と、戒壇院の設立のために大変な苦労の末、来日することになりました。
役人の目を盗みながら5回も渡航に失敗し、6回目の遣唐使船の帰路に同乗して、ようやく日本に到着します。最初に鹿児島の坊津に上陸し、大宰府、四国を経て大阪の難波津に入港、大和川から淀川を上って京都に入ってから奈良に下って都入りしたと伝えられています。残念ながら大阪には鑑真和尚の足跡を残すものはありませんが、途中立ち寄ったとされる四国に屋島寺があります。その後、嵯峨天皇の勅願により弘法大師が伽藍を整備して現代に至っていると伝えられており、四国八十八箇所の84番目の霊場となっています。
また鑑真和尚は医薬の知識も豊富で、唐招提寺の庭に薬草園を作って栽培し、漢方の薬草や香料の調合などを日本に伝えたといわれています。現在のお香の中には沢山の漢方や薬草が調合されていますが、お香と薬は原料を辿れば同じ漢薬にあたります。また唐招提寺の薬草は現在でも大事に育てられ、日本に中国医学を正しくもたらした最初の人とされています。こうして鑑真和尚によって伝えられた様々な香が、後の平安時代に入って貴族のたしなみとなり、現在の香道に受け継がれていきました。 
 

 

橘のにほへる香かも
奈良で天平文化が華やかだった頃、中国から様々な文物と共に、沢山の香木も薬として珍重され、国内に持ち込まれました。東大寺の正倉院には、当時の華やかな様子が今に伝えられている事はよく知られているかと思います。
さて、時代は平安時代に移って、弘法大師が活躍した頃の話になります。弘法大師といえば、香りというより護摩を焚くイメージかも知れませんが、香りにまつわる話でいえば、滋賀の石山寺の国宝に指定されている「薫聖教(においのしょうぎょう)」というお経があります。
滋賀県にある石山寺中興の祖であり、朝廷・貴族の信仰を集めた三代座主淳祐(じゅんゆう 890−953)のエピソードです。921年、淳祐は、醍醐天皇の命により師の観賢僧正が、高野山の弘法大師廟へ参入する際に随伴することになりました。その時、入定した大師の膝に偶然触れた淳祐内供の手に、その芳香が移り、いつまでも消えることなく、その手で書写された聖教にもその香気が移ったと伝えられます。この淳祐筆の聖教が「薫聖教」と呼ばれ、石山寺でも座主以外は見ることが許されませんでした。
淳祐は、光源氏のモデルのひとりとされ、菅原道真の孫にあたります。
さて、奈良時代から平安時代にかけて、他にはどんな香りが親しまれていたか、万葉集の歌などから探してみたいと思います。
橘の にほへる香かも 霍公鳥 鳴く夜の雨に うつろひぬらむ 大伴家持
万葉集で人気の高い香りといえば、まずは橘の花の香りのように思います。5月に入ると、柑橘系の白い小さな花が緑の木々の中に咲き始めます。昔は夏みかんや柚子など庭先で見かけた事もありましたが、街中ではなかなか見る事が出来なくなってきたように思います。
この花の香りは、ネロリという名前の精油の香りでアロマテラピーなどで人気の香りのひとつです。万葉の時代から花も実も木の枝も好まれていたようで、この花橘はほととぎすと対になって登場することが多いようです。
五月待つ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする 藤原俊成
橘の花といえば、こちらの歌の方がより知られているかも知れません。 
梅と桜の物語
良い香りといえば、お香ばかりでなく花の香りも長く受け継がれ、大事に育まれてきた香りです。万葉集の時代には花橘の香り、天平時代には梅の花の香りなどが尊ばれてきました。梅の花は、その花ばかりでなく香りも愛でられたようです。奈良時代までは花といえば、梅の花を指し示していましたが、平安時代に入ると、次第に花は桜を指すようになります。桜の花は梅のように香り高いという訳にはいきませんが、大輪の山桜が満開に咲き誇る様は、確かに日本の花を象徴するように思います。
東風吹かば、匂いおこせよ、梅の花、主無しとて、春を忘るな
さて、梅の花を愛した歌人として、天満宮で知られる菅原道真公について少し見て行きたいと思います。道真公の住まいだった京都の北野天満宮や大宰府天満宮はよく知られていますが、更に大宰府に行く途中立ち寄ったとされる大阪市内の大阪天満宮を加えて三大天満宮と呼ばれています。実は道真公にとって大阪は非常に縁の深い土地であり、藤井寺市内にも道明寺天満宮があります。
近鉄線に「土師ノ里」という名前の駅があり、藤井寺市内の道明寺周辺は古代、古墳の造営などに従事していた豪族、土師氏の領地とされ、道真公はこの土師氏の末裔といわれています。道明寺天満宮は道真公の叔母の屋敷跡とされ、現在でも神宝として道真公の遺品が残されています。
土師氏は、聖徳太子との関係も深かったようで、竹内街道はちょうどこの土師氏の領地のすぐ近くを通っています。
梅に続いて、桜について見ていきたいと思います。梅の印象が強い道真公ですが、桜に関しても幾つか歌を残しています。
さくら花、ぬしを忘れぬ物ならば、ふきこむ風に、ことづてはせよ
大宰府から京都の梅を詠んだ有名な歌と並んで伝えられています。ところで、桜を詠んだ歌といえば、西行法師の方が馴染み深いかもしれません。
願わくは 花のもとにて 春死なむ その如月の望月の頃
西行法師が桜を詠んだ歌は230首あるとされますが、もっとも親しまれているのは上記の歌でしょうか。22歳の若さで出家の道を選んだ西行法師は、当初は京都の嵯峨や鞍馬山に庵を結びましたが、まもなく奈良の吉野山に移ります。平安末期の頃は既に桜の名所として吉野山は知られていたようで、西行も出家というよりは桜の名所に惹かれて吉野に移り住んだのでしょうか。
その後、諸国を放浪した後、高野山に入り、かなり高齢になってから東大寺再建の勧進を行うために奥州に向かいます。
晩年は、富田林市から少し離れたところにある弘川寺に庵居、この地で歌に詠んだ通り、桜の咲く頃に入寂しました。弘川寺は後の時代になっても西行法師を偲んで多くの文人や僧侶がこの地を訪ね、桜を大事に管理して、今でも大阪では有数の桜の名所に数えられています。 
香りの文化の十字路(前)
平安時代の中頃を過ぎると、宮廷文化が華やかになると共に、香りの文化も一層充実することになり、現在の香りの文化の原型が創られていきます。
宮廷文化の香りといえば、まずは源氏物語でしょうか。光源氏、薫、匂宮と登場人物を含めて香りの物語とも言えますが、香りが貴人の嗜みとして、また家伝の香りがステイタスとしてそれぞれ競い合っていた事が良く分かります。
少し時代は遡りますが、伊勢物語にも香りに纏わる物語が散りばめられています。源氏物語が香りの文化が最も華やかな頃とすれば、この少し前の頃からゆっくりと香りの文化が定着していった事がうかがえます。「五月まつ花橘」の段は藤原俊成の歌と共に、広く親しまれてきましたが、男女の恋やすれ違いの話は、時代が変っても関心の集まるテーマなのでしょうか。この少し悲しい結末の逸話に比べて、「筒井筒」の段はすれ違いから元通りに戻る話で、能の「井筒」や樋口一葉の「たけくらべ」など、後の時代に様々な影響を及ぼすことになりました。
ところで、この筒井筒の逸話は、奈良の市街あたりから、生駒山を越えて大阪の八尾市高安にまで何度も通ったとありますが、竹内街道から少し北に行ったところになります。飛鳥時代には官道としても栄えていた竹内街道も、大阪の難波から平城京に向かうと遠回りになり、その後は都が京都に移るに従って主要な陸路も北へと移動していくことになりました。
華やかな平安の宮廷文化は、少なからず大阪から京都へ物資が運ばれたと思いますが、既に竹内街道はその主要な陸路の役割から外れて、地方街道のひとつとなってしまいます。しかし、この伊勢物語からも分かるように、周辺地域は依然として活発な活動があった事は確かだろうと想像できます。
香りを身近なものとして、競い合ったり季節ごとに組合わせたりと、生活の中で楽しんだ宮廷文化の貴人の文化の様子がよく分かりますが、少しずつですが、庶民の中にも香りの文化が浸透したものと考えています。平安時代末期には末法思想と共に浄土信仰が広く浸透し始めますが、全国に建てられた寺院によって、庶民に広く香りが浸透していった事でしょう。 
 

 

香りの文化の十字路(後)
平安貴族による香りの文化や仏教を通じての香りの文化は、数百年という時間をかけてゆっくりと日本全国に浸透していきます。貴族の嗜みとして育まれてきた香りの文化は、政治の中心が武家に変った後、それが全国に広く拡散する大きな転機に差し掛かります。
京都の町を一変させた応仁の乱は、長く続く戦乱や混乱ばかりのように見られていますが、同時に貴族の文化を継承した文士を全国に拡散させる役割も果たしました。応仁の乱により疲弊した京都の都に代わって、有力商人を中心とした自由都市堺に多くの文士が避難し、更に都で育まれた優雅な文化を商人と共に全国に広めていくきっかけとなったようです。
千利休の師だった武野紹鴎が茶道を学んだとされる三条西実隆は、香道の始祖とされるほど、お香との関わりの深い文化人です。宮中のお香や、源氏物語の時代に平安貴族が競い合った香りの調合など、この頃に改めて研究され、今に伝わるお香や香道が生まれたとされています。
堺の香りの文化、江戸時代からの線香の歴史にも関わる重要な文人として、連歌師の牡丹花肖柏(ぼたんげしょうはく)の名前が挙げられます。牡丹花肖柏は、この三条西実隆に源氏物語などの古典を学び、香と花、酒を愛する放浪の連歌師でした。
肖柏は、戦乱を避けて堺に移り、現在の三国ヶ丘に庵を構えて、商人達に和歌や連歌を伝えました。当時、堺の有力商人は、教養の豊かな人材が多く、京の文化を携えた肖柏を中心に文化サロンが形成されて、後の利休などによる茶の湯の文化にも大きく影響を及ぼしました。
この肖柏の残した「三愛記」に、お香について書かれています。
「香」は、沈水をもととして、此のくに(国)にひさしく伝し蘭奢待、紅塵、中河などなだかきを賞し、「あはせたきもの」は、梅花、荷葉、新椛等をもてはやし、家々にいどみきたれる秘方(法)をも伝て、いささかのふかさ、あささをととのへ・・・。
応仁の乱の後には、こうした文人らにより平安貴族が育んできた文化が広く全国に拡散していきます。そうした文化の伝播が、後の戦国時代の茶の湯や線香へ受け継がれていったとされています。 
閑話休題 宇陀の又兵衛桜
今年の大河ドラマ「軍師官兵衛」は、戦国時代の武将である黒田官兵衛が主人公です。官兵衛が活躍する舞台は、主に兵庫県の姫路と北九州、話の展開によっては淡路島や四国も関わってくるかも知れませんが、西日本全域で大活躍するので、少なからず堺に纏わるエピソードも今後出てくるかも知れません。
さて、既に官兵衛の屋敷で息子の松寿丸と共に、幼少時代の後藤又兵衛が登場していますが、奈良県の大宇陀の町外れに、この又兵衛に因んだ桜の大木があります。
勇敢な黒田の家臣団の中でも大変良く知られ、当時から庶民にも人気が高かった様子ですが、息子の長政の代になってからは黒田家を離れて、大阪の役が始まると大阪城に入城して豊臣秀頼に付き従います。最終決戦の夏の陣では孤軍奮闘しますが、最後は伊達の鉄砲隊を相手に乱戦の中、討死したと伝えられています。
この勇猛な武将だった又兵衛には、その後も生き延びて九州に渡ったとする伝説や、宇陀で隠遁生活を送ったという伝説など、各地に様々な説話が残されています。この宇陀の又兵衛桜もその一つで、大阪城落城の後、大宇陀に生き延びて、その屋敷にあった桜が後の時代に又兵衛桜と呼ばれて親しまれてきたと言われています。大宇陀の集落から少し離れた田園地帯の中に、当時の面影を残す石垣と凛とした佇まいの桜の老木が見事で、最近は桜の開花と共に大勢の観光客が訪れるようになりました。
又兵衛に限らず、大阪周辺には関が原から大阪の役にかけての逸話が色々と残されています。例えば、堺の南宗寺には、徳川家康が大坂冬の陣で又兵衛の槍で落命したという逸話が残されいて、家康が眠ると伝えられてきた墓も現存していますが、何かと関西は豊臣贔屓な様です。 
堺と千利休(映画「利休にたずねよ」公開記念)
堺の裕福な商家に生まれ、茶の湯(草庵の茶)の完成者として、江戸時代から明治維新を経て、現代にも通じる茶道の代名詞である千利休。あえて詳しい説明の無用かと思います。信長から秀吉の時代にかけて、茶湯の天下三宗匠と称せられた今井宗久や津田宗及も、実は利休と共に活躍した堺衆です。
堺は、茶の湯の世界では大変縁がありますが、お茶の産地でもなく、茶道具の銘陶が創られた訳でもなく、今となっては偶々利休や宗久の生まれたのが堺だったとしか理解されていないかも知れません。
映画の元となった小説「利休にたずねよ」では、小説の舞台のほとんどは京都になりますが、最後の最後に堺を舞台にした物語が登場します。やはり利休や戦国武将達が活躍するシーンの大半は京都というイメージでしょうか。
しかし小説では、終盤のクライマックスで利休の師である武野紹鴎の元に若き利休が訪ねる場面があります。若い情熱的な利休とミステリアスな紹鴎との互いの美学を戦わせます。武野紹鴎も堺出身の豪商で、利休の師として侘び茶を伝えた先達です。
堺市内南部の住宅地の中に南宗寺がありますが、ここに利休とその子孫の供養塔と紹鴎の供養塔があります。丁度並んでいるので分かりやすいですが、実はこの古刹に一緒に参禅したと伝えられています。また信長や家康といった戦国大名もこの地を訪ねたとされています。他にも、2代将軍・秀忠と3代将軍・家光が2階から堺を眺めたと伝えられている坐雲亭や、再建された利休好みの茶室とされる実相庵など、いろいろと見どころのある風格の漂う寺院です。
このように現在の堺市内にも、利休を偲ぶ史跡が幾つか残されています。流石に京都のように当時の面影を伺うのは難しいところもありますが、こうした史跡を堺市内を散策しながら、利休が活躍した時代の様子を想像してみたいと思います。 
 

 

利休の足跡を尋ねて〜南宗寺〜
南宗寺は、近畿一円に大きな勢力を持つ戦国大名である三好長慶によって、京都の大徳寺の高僧だった大林宗套を招いて創建されました。大徳寺といえば、応仁の乱による焼失の後、あの一休禅師が住持に任じられ、再興した事はよく知られているかと思います。利休切腹の口実にされた楼門も、利休が大徳寺に寄贈してものであることは有名かと思います。
さて、一休禅師も少なからず堺に縁がありましたが、当時大徳寺は足利義政らが興した東山文化を継承した先端文化の発信地という側面もあったようです。侘び茶の開祖とされ、後に武野紹鴎に影響を与えた村田珠光も、一休禅師と親交があり禅の精神を学んだと伝えられています。
そうした都の先端文化を堺に招いた文化的拠点として南宗寺は大きな役割を果たす事になりました。
南宗寺は、三好氏の菩提寺として創建されましたが、茶人としてもよく知られた大林宗套の元に、堺衆がこぞって参禅し、そうした中から紹鴎や利休といった優れた茶人が育っていきました。こうして南宗寺は後の茶の湯の文化で重要な役割を果たていきましたが、他にも様々な京都の文化を堺の地にもたらしました。
連歌師として知られる牡丹花肖柏は、応仁の乱の戦禍を逃れて1518に堺に移住し、1527に亡くなるまでの間、堺の紅谷庵というところに住んでいました。肖柏は、宗祇に連歌を学び、三条西実隆らと交遊して源氏物語や伊勢物語を学んだ、花と香と酒を愛した放浪の歌人として知られ、堺衆に源氏物語の秘伝を伝えたとされています。
現在の堺線香も、そのルーツのひとつに肖柏が堺に伝えた香の秘伝が上げられています。また肖柏と交流のあった和学者の三条西実隆は、香道の流粗とされています。南宗寺では、禅宗と共に京都の最先端の学問や芸術がもたらされ、そこで茶の湯やお香が堺商人達の間で新たな文化として育まれることになりました。 
利休と香り
茶道でも香炉やお香は、おもてなしの大事な要素になっていますが、利休も相当に香りの造詣が深かったことと思います。
風炉の時炭は菜籠にかね火箸 ぬり香合に白檀をたけ
利休百首に納められた有名な歌ですが、利休の香りというと、まずは白檀が思い起こされます。一畳台目の小さな茶室の中で幽かに香る白檀の香りは、お茶の香りを邪魔せずに引き立たせる香りだったのだろうと思います。そして、茶室に生ける花はなるべく香りが少ないものでないと、お茶の香りも幽かな白檀の香りも脇に追いやられてしまうかも知れません。恐らく、利休はお茶の香りを邪魔しないように、慎重に白い侘助や山法師といった茶花を選んだように感じます。
香りといえば、利休と香炉に纏わる話も残されています。有名なところでは、「千鳥の香炉」があります。この利休の千鳥の香炉とは青磁の香炉で、脚より高台が高く三脚が宙に浮いて見えることから、この脚を鳥に見立てて「千鳥」という銘が付けられたと伝えられています。一説には、利休の奥さんの宗恩が、この香炉の脚の長さが高すぎるので短くするように利休に進言し、利休も同意してわざわざ脚を切ったと伝えられています。
さて、同じ青磁の香炉で「千鳥」という銘の香炉が、徳川美術館に収蔵されていますが、こちらは武野紹鴎から豊臣秀吉へ、そして徳川家康に伝えられた由緒ある香炉になります。この香炉は利休の「千鳥」ではないと思いますが、利休もこの紹鴎が所有していた香炉を当然知っていたと思います。
利休が茶席で大事に扱っていた香炉。南宗寺や紹鴎の茶室で、高価な香木を嗜んできた事も、茶の湯を豊かな文化として花開いた理由のひとつかも知れません。 
 
お茶とゆかりの歴史上人物

 

最澄(伝教大師)
最澄(伝教大師)は、805年、比叡山の現滋賀県大津市の日吉大社に唐(中国)より持ち帰ったお茶の種を植える。(『日吉社神道秘密記』)僧侶や貴族の間で薬用や儀式に用いられたが、一般には普及せず、遣唐使の廃止により、次第に衰退していく。
空海(弘法大師)
空海(弘法大師)は、806年、唐(中国)より茶の種、石臼を持ち帰り、比叡山に植える。(『弘法大師年譜』)僧侶や貴族の間で薬用や儀式に用いられたが、一般には普及せず、遣唐使の廃止により、次第に衰退していく。
栄西禅師(1141〜1215)
わが国の茶、中興の祖。臨済宗を宋(中国)から伝えた。抹茶系の製茶法、抹茶式のお茶のたて方を初めてわが国へもたらした。さらにわが国最初の茶専門書「喫茶養生記」を著す。中国の茶の諸文献「茶経」をもとに茶の薬効を仏教と関連づけながら栽培から製茶・貯蔵・飲用・効能に至るまで精力的に記述している。「喫茶養生記」では「茶は養生の仙薬なり 延命の妙術なり」と効用を力説。薬用としてお茶に甘葛を入れたり、生姜で辛味をつけていた。お茶を飲んでいると心臓や肝臓などの五臓によく、病気にもかからないと書き残している。
明恵上人(1173〜1232)
鎌倉時代の高僧、栄西禅師とともに茶業中興の祖といわれる。栄西禅師からゆずりうけた茶の実を栂尾(京都山城)に植え(『栂尾明恵上人伝』)、さらに宇治、伊勢、駿河の清見、川越等各地に広め今日の茶産業を形成した。また諸天加護、父母孝養、悪魔降伏、睡眠自除などの「茶の十徳」を述べた。
聖一国師(1202〜1280)
鎌倉時代の高僧で東福寺(京都)の開山。宋(中国)から帰朝のとき、茶の実と仏書千余巻を持ち帰った。茶の実は郷里に近い駿河足窪(現静岡市葵区足久保)の地に植えたと伝えられ静岡茶の祖といわれる。(『東福寺誌』)
大応国師(南浦紹明)(1235〜1308)
宋(中国)から帰朝の際、径山寺から茶台子(茶の湯で用いられる棚)以下の茶道具一式と茶に関する書物7部を持ち帰って中国の茶の方式を大徳寺(京都)に伝えた。(『本朝高僧伝』)また、茶宴や闘茶の習俗をも日本に持ち帰ったとされている。
千利休(1522〜1591)
茶道の大成者「千利休」により、抹茶を点てる茶道の基礎が作られる。「闘茶」飲み比べて、産地をあてる遊びが盛んに行われる。この頃から茶道は日本独特の精神文化として現代に深く息づく。
永谷宗七郎(宗円)
現京都府宇治田原町湯屋谷の蒸し製茶の創始者「永谷宗七郎(宗円)」は、てん茶が蒸し製であるのにヒントを得て、蒸して揉み乾かす精良の煎茶を創製する。湯蒸し茶であろう。それまでは中国の製法である、茶の芽を釜で炒って乾燥させる釜炒り製法でしたが、宗円は蒸気で蒸した葉をホイロの上で揉みながら乾燥させ、色・形・香りともに優れたお茶を作りました
山本嘉兵衛(徳翁)
京都宇治の茶師、山本嘉兵衛(徳翁)が玉露の製法を考案し、好評を博する。1835年(天保6)に山本山の六代目として山城国久世郡小倉村の木下吉左右衛門の家で、抹茶を作る過程で蒸された葉をかき回したところ、丸く団子になったところから「玉の露」と名付け、商品化しました。
お茶の昔ばなし
豊臣秀吉と石田三成の緑はお茶がきっかけ!
「武将感状記」という記録によると太閤秀吉がかつて長浜城主のとき、ある日鷹狩りをもよおし、終日山野をめぐり山寺で憩い、茶を求めました。やがて佐吉という眉目秀麗なる小坊主が大茶碗にたっぷりぬるい抹茶をたてて捧げました。秀吉は今一服と所望すると、次はやや熱くして半分の量を捧げました。秀吉はこころみに三度所望しました。すると最後は小茶碗にいとも少量を熱くして 恭しく進めました。秀吉はそれを飲み、小僧の才知に感じ入り和尚に乞うて連れ帰り、近侍としました。この小僧が後に天下に名をなした器量人、石田三成その人です。飲み手のことを考えて茶を入れる心、ぜひとも学びたいものです。 
 
高野山七弁天

 

高野山七弁天
高野山内には代表的な弁天社が七社あって、通称「七弁天」として信仰されています。ところが七弁天として信仰されはじめたのがいつ頃なのか、明確にはわかっていません。ただ今回、七弁天について調べていくうちに、山内の状況が一変した元禄5年(1692)頃から七弁天として確立していったのではないかと思うようになりました。
古来、七という数字は聖なる数字といった印象があり、七福神に代表されるように、七をつけることが多いことはよく知られているとおりです。しかし高野山の七弁天の場合、もとから七弁天として成立したのではなく、高野山にまつられていた代表的な七つの弁天社を取りあげて、後に七弁天と呼ばれるようになったものと考えられます。
高野山七弁天の名称
高野山において、七弁天という名称がいつ頃から使われ始めたのかを見てみますと、『紀伊続風土記』行人(総分)方巻十の丸山弁財天社の項に「当山七弁財天の其の一なり」とあります。つまり『紀伊続風土記』が成立した天保10年(1839)頃には、遅くとも七弁天として信仰されていたことがうかがえます。けれども、残る六弁天の名称をあげてはいませんので、現在伝えられている弁天社に相当するものかどうかなど明確ではありません。
さらに『紀伊続風土記』行人(総分)方巻十三、嶽弁財天社の項には、「傍に小祠七社あり 大師日域七弁財天を勧請し給うといふ」とあります。ここに記される日域(にちいき)という語を、日の照る地域、つまり天下や我が国といった意味に解釈すると、弘法大師が天下に名高い七弁天を弁天岳に勧請し、小祠七社をととのえたという意味になるかと思います。小祠七社というのがすべて弁天社であったと断定はできませんが、もしそうだとしますと、七弁天の内の六弁天は嶽弁財天社から山内各所へと移されたとみることもできます。
一方、同じ『紀伊続風土記』でも学侶方のそれには、「七弁天」との記述はなく、代わって嶽弁天社の傍らに金剛童子祠と荒神祠があったことが記されています。別項「絵図にみる七弁才天社」にも記しましたが、当初、嶽弁天社は学侶方が支配していたらしいのですが、江戸時代の後期頃になって行人方へと管理権が移り、その頃に金剛童子祠と荒神祠が維持されなくなった可能性があります。両祠が廃しされたのではなく移転された可能性もありますが、いずれにしてもそうなった理由は分かりません。七弁天の話が行人方の『紀伊続風土記』にのみ記載されているのと何らかの関係があるのかも知れません。
高野山七弁天の伝説
高野山の伝説では、弘法大師が高野山内の主要な谷々に水を司る弁才天を勧請(かんじょう)したのが始まりであるとされています。弘法大師は高野山の地形を表現するのに、東西に竜が伏せていると形容されました。このことから竜の頭部を嶽弁天とし、尻尾の先端部にあたる場所に尾先弁天がまつられているのだといわれています。さらに竜のお腹に相当する位置が、伽藍から金剛峯寺方面へと至る参道であるとし、そのため、蛇腹(じゃばら)道と呼ばれたとする説もあります。蛇神は竜と同じ意味をもつためです。
たしかに、竜の頭部と尻尾の先に嶽弁天と尾先弁天社がまつられているということでは納得できます。しかし、残りの五弁天社を竜の身体の部分に配当しようとすると、湯屋谷、綱引、首途の各弁天は竜のどの部位に相当するのか、さらに、丸山弁天の場合、尾先弁天よりも東方にありますので、竜の身体からは離れていることになります。以上のことから高野山七弁天に関しては、未だ不明な点や理解しづらい点が少なくないことがわかります。
絵図にみる七弁天社
高野山内の全体を描いた絵図は、江戸時代に集中して制作されています。その理由として、定期的に公儀(幕府)に提出する必要があったからで、制作に際しては、学侶方と行人方等がお互いに立ち会って、間違いがないか確認しながら行っていました。このとき複本も作られたようで、数本が金剛峯寺や山内寺院に伝わっており、近世における高野山内の寺院状況などを知る上でも貴重な資料ともなっています。
各年代の高野山絵図に描かれる弁天社を拾い出してみますと、下の表1のようになりました。嶽弁天、祓川弁天、湯屋谷弁天などが必ず描かれているのに対して、綱引、門出弁天に至っては描かれる場合が極端に少ないことがわかります。
御公儀に提出する絵図に社(やしろ)が描かれていないということは、主要な社とは認められていなかったことになり、さらに建物などの修理に関しても修理奉行の管轄外であったことになります。そこで弁才天が絵図に描かれなかった理由として、次の事柄が考えられます。
寺院固有の弁天社だった可能性。
寺院固有の鎮守としてまつられていた弁天社の場合、公的な絵図には描かれなかった可能性があります。ここで江戸期における寺院固有の鎮守社の状況を『紀伊続風土記』から拾い出してみますと、下の表2のようになりました。鎮守社をまつる割合については、聖方の寺院が多く、次いで行人方、学侶方となることが判明します。各寺院が固有の鎮守社として弁才天をまつる場合も少なくないことから、江戸期の高野山内には、相当数の弁天社が存在したことになります。
明治期になると山内の寺院は、廃仏毀釈による影響や経済的な理由、火災などによって寺院の統廃合が進みます。おそらく廃寺や合併された寺院固有の鎮守社など、維持することができなくなった場合も少なくないと思われます。その例が宝幢院谷阿弥陀堂や蓮花谷丈六堂にまつられていた弁天社であったようです。
そうした中、七弁天に配当されていた弁天社に限っては、寺院自体は廃絶したものの、弁天社のみが残ったと考えることができます。その経緯をたどった弁天社が、綱引弁天社であった可能性があります。
門出弁天に関しては、一度も絵図に登場しませんでした。門出弁天社は聖方である極楽堂の鎮守社としてまつられていましたので、学侶、行人の立会絵図である高野山絵図には、描かれなかったと考えるべきなのかも知れません。
嶽弁天社に関しては、弁天社の傍らに金剛童子祠と荒神祠があったことが『紀伊続風土記』学侶方に記されています。これに相当するのが、正保3年、承応2年、万治元年などの絵図に描かれる嶽弁天社両脇の祠だと思われるのですが、元禄6年以降の絵図になると、先の二祠が描かれなくなっていることがわかります。さらに承応2年絵図の嶽弁天社には、「修理行人方所持」とする後世による付箋がつけられていることからは、学侶方の支配から行人方へと管理権が移った可能性が考えられます。
最後に丸山弁天社です。詳しくは丸山弁天の頁に記しましたが、元禄6年(1963)の絵図になって「院中惣社 辨才天社明地」と明記されていることから、元禄6年頃が丸山弁天社のはじまりである可能性がありました。このことは、丸山弁天は「当山七弁財天の其の一なり」と『紀伊続風土記』にあることによって、高野山の七弁天信仰は丸山弁天社が勧請された元禄6年以降であったことをも意味するものとなります。 
弁才天について
弁才天は水に関係のある場所にまつられることが多いといわれています。弘法大師は高野山をひらくにあたって、水の確保を第一として、主要な谷に弁才天(七弁天)を勧請したとも伝えられ、高野山が水に恵まれているのは、こうした弁才天がまつられているからだともいわれています。
弁才天が日本の国において広く信仰されるようになったことは、各地における地名として弁天町、弁天通りなど「弁天」の名前が数多く付けられていることからもわかります。特に弁才天は弁財天として、財福神としての七福神に一つに組み入れられることによって、さらに信仰が広がりました。
本来、弁才天の起源は古代インドにまでさかのぼり、サラスヴァティーという川を神格化したのが弁才天であったといわれます。川はたくさんの恵みを私たちに与えてくれます。土地や田畑を潤す水の存在は、農耕には欠かすことができません。また川のせせらぎは妙なる音として音楽に通じることから、琵琶を持っている弁才天なと胎蔵界曼荼羅にみることもできます。こうしたことから弁才天は、水・音楽・財福といった人間に潤いをもたらす神としての役割のあることがわかります。
弁才天については、仏教における護国経の代表ともいえる『金光明経』の中の「大弁天神品」に、このお経を唱えたり広めたりする者は弁才天の智恵と弁才を授かることができ、財を求める者には多財が与えられることなどが説かれています。こうした智恵と財福の御利益がある弁才天は、日本においても早くから信仰され、東大寺法華堂には8世紀の造立になる弁才天立像が伝わっています。
弁才天の習合神、宇賀神(うがじん)
仏教の仏(本地)の活動を具体的に表すために、日本固有の神が衆生を救済するとする神仏習合思想は、個々の仏と神との関係を明確にしました。
弁才天の場合、特に宇賀神との習合(しゅうごう)が知られています。この宇賀神とは、日本固有の神である倉稲魂命(うがのみたまのみこと)や保食神(うけもちのかみ)の名前から、その音がウガヤににていることから、宇賀となったともいわれています。さらに倉稲魂命は稲荷神であるともいわれていますので、稲荷神と宇賀神は同体神であることになります。元々インドの神であった弁才天は、こうして宇賀弁才天と呼ばれるようになり、俗説では宇賀神は弁才天の夫であり、両者は夫婦神であるとも説かれるようになります。
宇賀弁才天は、『仏説即身貧転福徳円満宇賀神将菩薩白蛇示現三日成就経』や『最勝護国宇賀耶頓得如意宝珠陀羅尼経』などに代表される長い名前のお経(日本でつくられた偽経)に説かれています。これらのお経には、貧者に対する招福功徳などが大きく取り上げられていることが特徴といえ、その成立時期は、およそ鎌倉時代であるとされています。
さらに弁才天の習合神ということでは、水の神である市寸島比売命(いちきしまひめ)と習合しました。市寸島比売命の音は厳島(いつくしま)に通じることから、厳島神社には弁才天がまつられるようになったとされています。その他、弁才天は荼吉尼天と同一神として扱われたり、三十番神などとも習合しつつ、多種多様な展開をみせるのが特徴といえます。 
弁才天の本尊
高野山七弁天の各本尊を調べて見ますと、下の表のように宇賀弁財天が多いことがわかります。これらの本尊が、各弁天社の当初像であるかどうかは分かりませんが、現存している本尊を見る限り、江戸期をさかのぼる像は無いように思われます。
嶽弁天は弘法大師によって、天川弁天社より勧請されたものと伝えられています。このことは、天川弁天の本尊と嶽弁天の本尊とは同じ弁才天であることを意味しています。
現在の天川弁天社の本尊、弁才天像は、天正15年(1587)の銘がある八臂宇賀弁財天十五童子像だとされていますので、高野山七弁天の本尊に宇賀弁財天が多いのはこうした理由によるのかも知れません。
高野山七弁天の本尊(現在)
弁天社名   腕の数  本 尊
嶽弁天    −    宇賀神像とする(未確認)
祓川弁天   八臂   宇賀弁財天十五童子像
湯屋谷弁天  八臂   宇賀弁財天十五童子像
綱引弁天   −    宇賀神像(女神)
門出弁天   未調査  秘仏により未調査
尾先弁天   未調査  未調査
剣先弁天   二臂   弁財天像
丸山弁天   二臂   宇賀弁財天像
元禄4年(1961)の『青厳寺拾要集』には、社(やしろ)の寸法と本尊の寸法が一部ですが記録されていますので、参考に記載しておきたいと思います。
『青厳寺拾要集』元禄4年(1691)
弁天社名    敷地      社 / 本尊像高
祓川弁天社   −       表行五尺四寸・裡行四尺四寸 / 四寸三分
湯屋谷弁天社  表行一間半裡行二間 表行四尺二寸・裡行四尺六寸 / 五寸一分
門出弁天?五之室大師堂 −   一尺二寸四方・高四尺一寸 / −
丸山弁天    −       − / 本尊五寸七歩・十五童子三寸七分  
弁才天の種々相
弁才天の姿には、腕の数が八臂・六臂・二臂像などがあって、それぞれの手には各種の持物があります。八臂像は『金光明経最勝王経』というお経に、各々弓・箭・刀・斧・長杵・鉄輪・羂索などの武器を持つことが説かれていますので、武神としての性格も有していることがわかります。日本では、奈良時代から弁才天に対する信仰が盛んになりはじめます。
二臂像は、『大日経』などの密教経典に妙音天として説かれ、その姿は胎蔵界曼荼羅中に描かれる琵琶を弾く姿の像が代表となります。これはインドにおいて音楽や弁舌、学問の神として信仰されたことによるとされます。
鎌倉時代以降になると、八臂の弁才天が宇賀神と習合し、福徳を授ける神として、その信仰が広がりました。鎌倉時代後期に成立した『渓嵐拾葉集(けいらんしゅうようしゅう)』という書物の中に「辨財天法秘決」というものがあって、そこには、弁才天には妙音弁才と宇賀弁財との両尊があると記しています。妙音弁才天は智恵を主とし、宇賀弁財天は福徳を主をつかさどり、その姿は白蛇を体として頂上に老翁の形があると記しています。
また、宇賀弁財天には、十五(十六)童子が描かれたり配されたりしている場合があります。日本の国でつくられた偽経、『最勝護国宇賀耶頓得如意宝珠陀羅尼経』などに、十五童子は弁才天の手足となって働く役目があることが説かれるようになって、盛んに取り入れられるようになりました。
宇賀弁財天の像容は、『金光明経最勝王経』に説く八臂像を基本として、稲荷神の象徴的な持ち物である鍵と宝珠に替えるなどの変化をつけ、頭頂には、頭部が老人で蛇身の宇賀神を載せて財福神としていることが特徴といえます。十五童子は鍵、稲、蚕などの持ち物をもって配置されます。
現在の高野山七弁天の本尊は、中世以降の信仰から生まれた宇賀弁財天が基本となっています。こうした中、先ず注目されるのは、剣先弁天の本尊です。剣先弁天をまつる蓮花院には、「剣先弁財天」と記された本尊の姿を写した紙札があります。そこには二臂像で、右手に宝珠、左手に太鼓のようなものを持ち、肩からは忍者のように剣を担げている姿が描かれています。明らかに宇賀弁財天とは異なる姿であることがわかります。
また、同じ二臂像でも丸山弁天像は、手に剣、左手に宝珠を持ち、頭頂には鳥居と宇賀神をのせています。この姿は『渓嵐拾葉集』に記されている持ち物と同じであることがわかり、頭の鳥居は稲荷神、すなわち荼吉尼天との接点も有する弁財天像ということになります。
さらに嶽弁天、綱引弁天社のご神体は、頭部が女人で身体が蛇である宇賀神です(嶽弁天の場合は未確認)。偽経『仏説即身貧転福徳円満宇賀神将菩薩白蛇示現三日成就経』には、宇賀神をまつると貧者には福を与え、その宝は雨のように降り注ぎ、しかも僅か三日で福が得られて成就すると説かれています。同じ弁才天でも、特に宇賀神の御利益が取り上げられて、まつられていることがわかります。 
 
空海の詩文に読む「生命の秩序」

 

1 さとりと福祉
此の法は即ち仏(ぶつ)の心(しん)国の鎮(ちん)なり。氛(ふん)をはらい祉(さいわ)いを招くの摩尼(まに)凡(ぼん)を脱(まぬ)がれ聖に入るのキョ径(きょけい)なり。(性霊集 巻第五)
[現代語訳] わたくし空海が修得した仏法(密教)はブッダの教えの本質でありこの教えこそが国を鎮護する。また、あらゆる災いを取りはらい人びとの福祉を増進させ凡夫のさとりを可能にするものである。
空海がその生涯において創作した詩文をまとめたものが『遍照(へんじょう)発揮性霊(しょうりょう)集』である。遍照とは空海の灌頂(かんじょう)名であり、いのちのもつ無垢なる知の光りが世界を遍く照らすという梵語「ビルシャナ」の訳語。大日如来のことを指す。知の光りが発揮されたまことの心の詩文集という意味。
その性霊集の巻第五の「本国の使に与えて共に帰らんと請う啓」の一節である。
中国に渡った空海は、留学一年目の春に長安の醴泉寺(れいせんじ)にいたインド僧の般若三蔵(はんにゃさんぞう)と牟尼室利(むにしり)三蔵から、まず、外国語(日本にいたときに、中国語は会話・文章力ともすでに身に付け、梵語もその基本をマスターしていたから、ここではインド伝来の密教をくまなく理解、修得するための梵語、すなわちサンスクリット)の実践語学力とバラモン哲学を学び、その熟達度を通して、聡明さと本人のもつその稀有な宗教的器量が認められて、青龍寺の恵果(けいか:密教第七祖)和尚からは、初夏から初秋にかけて、『大日経』と『金剛頂経』双方の教えと儀軌(ぎき)のすべてを伝授されることになった。
こうして、短期間のうちに密教の正式な相承者になった空海は、秋には、未だ日本に伝えられていなかった多くの経典を寝食を忘れて読み、書写し、その意味を学び記し、また、世界の本質を示す、胎蔵と金剛界の大曼荼羅を描き、新仏法請来のための資料づくり作業に入ることになる。
だが、恵果和尚がその年の暮れに、「早く郷国に帰って、もって国家を奉り、天下に流布して蒼生(そうせい:民衆)の福(さいわい)を増せ」と空海に遺言して入滅してしまった。
恵果の死によってインド伝来の密教第八祖になった空海は、郷国に帰って、一刻も早く師匠の命(めい)を果たさなければならないという使命を担うことになったのだ。
そうした折に、たまたま新皇帝即位のお祝いにやって来た日本国の使節が長安に入った。そこで、空海は二十年の留学期間を短縮して二年で帰国できるように申請書をもって願い出る。(そうして、空海は首尾よく帰国する船に乗ることになるー)
その帰国申請書の文面に、授かった新仏法の意義を端的に綴った一節である。
さて、文面によると、空海の修得した最新の仏法(密教)では「人びとの福祉を増進させるということと、自己のもついのちの無垢なる知に目覚めることとは同じである」と説いているとある。
どのような理由でそうなるのか、そのことについての高木さんは、おおよそ次のような見解を述べられている。
「わたくしの心(主体知)、そうして衆生の心(客体知)、そうして絶対者である仏の心(すべてのいのちが生まれながらにしてもつ無垢なる知、すなわち絶対知)、この三つの心はですね、本質的、本来的に、絶対に平等であるという考え方です。人間も石も木も草も、つまり自然界全部を含めたあらゆる存在は、本来的には一体であり、すべては尊厳なるいのちのもつ無垢なる知を共にしているという考え方。この考え方が基本となって「即身成仏(そくしんじょうぶつ:この身を含め、生きとし生けるものと自然界は、そのままにしていのちが共通してもつ無垢なる知によって繋がっているとさとること)」が可能になるのです。そのような「即身成仏」の理念によって、仏の心を発揮するというのが仏法の本質ですから、社会的な関わりにおいて、すべてのものの福祉(さいわい)を増すという、そういうはたらきが必ず出てくる」と。
その福祉の精神にもとづく社会事業の具体的な例が、空海の行なった万濃池(まんのういけ)の修築であり、教育の機会均等を実現した「綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)」という私立の大学の創設であるとも。 
2 共に生きる知(五智)
弟子空海
性熏(しょうくん)我れを勧(すす)めて還源(げんげん)を思いとす。経路(けいろ)未だ知らず岐(ちまた)に臨(のぞ)んで幾たびか泣く。精誠感(せいせいかん)ありて此の秘門を得たり。文(ぶん)に臨(のぞ)んで心昏(しんくら)く赤県(せっけん)を尋(たず)ねんことを願う。(性霊集 巻第七)
[現代語訳] 弟子であるわたくし空海は自分に具(そな)わる仏性をはげましすべての知の根源に至る道を探してきた。しかし、その求める道が見い出せずに道にさ迷い、幾たび泣いたことか。するとわたくしのまことの心が通じて『大日経』の経典に出会った。しかし、その教えを学ぶには高度の梵語力と儀軌の修得が不可欠であったので
中国に留学することを決意した。
性霊集の巻第七の「四恩(しおん)の奉為(おんため)に二部の大曼荼羅を造る願文(がんもん)」の一節である。前章で空海の中国留学のことを述べたが、その留学を決意したいきさつを記したものである。
そのように苦労して日本に持ち帰った曼荼羅が描かれてから十八年を過ぎて、絹破れ、彩色落ち、諸尊図も擦れてきた。そこで多くの人びとの心を合わせて、修復することになった。
その完成時の願文である。
(因みに、この願文の後半に次のような一節がある。「身分高き者も、賎しき者も、僧も俗人も財を喜捨し、労力をささげるはたらきを為し、ある者は筆をとって描き、ある者は針をとって表装を手伝い、木を切り、水を汲み、食事の用意をし、味をととのえた者も、すべての人びとが心からよろこび、手を合わせ、祈る」と。ここに、無垢なる知によって仏法に仕える民衆のすがたがあるー)
修行の人
すべからく本源を了すべし。もし本源を了ぜんずば学法に益なし。いわゆる本源とは自性清浄の心なり。(一切経開題)
[現代語訳] 道を求め修行する人はかならず、知の根本を求めるべきである。もし、知の根本を求めなければいくら学問をやっても役に立たない。
その知の根本とは
すべてのいのちが生まれながらに具(そな)えもつ無垢なる知のことである。
一切経開題の「一切経」とは、初期仏教経典である阿含経をはじめ、後代の大乗経典、それに律蔵と論蔵という、膨大なテキストを集めた仏典の総称である。したがって、それらの仏典を集約して解説したものが当開題となるが、その中の一節である。
本源というのは、本来のありようのことであり、それを求めるのが道であり、その真実を求めないのであれば、いくら学問をやってもそれは益のないことだと説く。では、その本源の特質とは何なのか、それが自性清浄心(じしょうしょうじょうしん)であるという。
自性とは、因縁を越えてもとから具わっている本性のことであり、その本性はもともと清浄なるものなのであると。
それが無垢なる知なのである。
三昧(さんまい)の法仏(ほうぶつ)は本(もと)より我が心(しん)に具(ぐ)し
二諦(にたい)の真俗(しんぞく)は倶(とも)に是常住(これじょうじゅう)なり
禽獣(きんじゅう)卉木(きもく)は皆是れ法音(ほうおん)なり(性霊集 巻第三)
[現代語訳] すべてのいのちが生まれながらにしてもつ無垢なる知がわが心にも具(そな)わっているように真実の世界と現実の世界は一つになって常に存在している(そのことと同じように)鳥獣草木の自然の声はすべて、いのちのもつ無垢なる知の言葉である(その言葉がわが心の中にもある)
性霊集の巻第三の「中寿感興の詩」の序の一節である。中寿とは四十歳の節目を祝う当時の習わしであり、空海はその感想を次のような詩にして各方面に送っている。
黄葉索山野 黄葉山野に索(つ)くるも 
蒼蒼豈始終 蒼蒼(そうそう)豈(あに)始終あらんや
嗟余五八歳 嗟(ああ)余五八の歳 
長夜念圓融 長夜に円融を念(おも)う
浮雲何處出 浮雲何(いづ)れの処よりか出づ 
本是浄虚空 本(もと)是れ浄らかな虚空
欲談一心趣 一心の趣を談ぜんと欲すれば 
三曜朗天中 三曜天中に朗(あき)らかなり
[現代語訳]
黄に色づいた葉が山野に散り果てても
青い天空には始まりもなければ終わりもない
ああ、わたくしは四十の歳
秋の夜長に執着のない円満で融通無礙なる自然を想う
浮き雲はどこから現われたのか
本来は清らかな虚空なのに
今のわたくしの心境を語るとすれば
日と月と星がくっきりと輝く、澄み切った天空のようだ
以上のような詩の序文に綴られたのが、「鳥獣草木の自然の声」とその奥にある「いのちのもつ無垢なる知の言葉」を説く一節である。
ここに説かれたいのちのもつ無垢なる知が、密教の説く「五智(ごち)」であり、その五智そのものの象徴が大日如来となり、法身(ほっしん)仏となった。その法身の声、あるいは法身の言葉が法音である。
その言葉が、本来わが心にも具わっているし、鳥獣草木にも具わっているという。
では、「五智」とは何を指すのか、それを空海は以下のように分類して説く。その分類と今日の科学者の説く、生物学的な知の分類は限りなく近い。
一、法界体性智(ほっかいたいしょうち):いのちの存在そのものを司る「生命知」
二、大円鏡智(だいえんきょうち):生きる根幹となる呼吸・睡眠・情動を司る「生活知」
三、平等性智(びょうどうしょうち):衣食住の生産とそれらの相互扶助を司る「創造知」
四、妙観察智(みょうかんざっち):万象の観察・記憶・編集を司る「学習知」
五、成所作智(じょうそさち):姿勢・運動・作業・所作・遊びを司る「身体知」
以上の五つの知が、いのちが生まれながらに具えもつ無垢なる知なのであると。
これらの知をもつものが共に生きることによって、自然界が保たれている。 
3 共に生きるいのちのすがた(法身)
法身(ほっしん)何(いず)くにか在る遠からずして即ち身(しん)なり。智体(ちたい)何(いか)ん我が心にして甚(はなは)だ近し。(性霊集 巻第七)
[現代語訳] いのちのありのままのすがたを象徴するビルシャナ如来は何処におられるのかそれは遠き彼方ではなくわが身体の中におられる。その如来の示されるいのちの無垢なる知は、なんとわが心の中にありとても近い。
性霊集の巻第七の「平城の東大寺にして三宝(さんぽう)を供する願文」の初めの一節である。
「仏弟子の修行僧なる者、仏(いのちの無垢なる知のすがた)と法(いのちの無垢なる知)と僧(その無垢なる知にしたがって生きることを実践する共同体の人びと)の三宝に深く帰依します」の後につづくー
ここでいう法身とは東大寺のビルシャナ(梵語:光明遍照と訳す)如来を指す。
ビルシャナ如来とは大日如来のことであり、その詳名は、
「常住(じょうじゅう)三世(さんぜ)浄妙(じょうみょう)法身(ほっしん)法界体性智(ほっかいたいしょうち)大ビルシャナ自受用(じじゅゆう)仏」という。
すなわち、永久に過去・現在・未来にわたる存在であって、浄らかにして妙(たえ)なる法身、それはいのちそのものの存在を司る生命知であり、その知によってすべてのいのちのありのままのすがたが地上に顕われているが、その絶対的ないのちの象徴としての尊格がビルシャナである。
つまり、法身とは「すべてのいのちが共に生きるために、生まれながらに具えもつ無垢なる五つの知(五智)のはたらき」によって顕われる、いのちのすがたである。
このすがたを、空海は「五智」よりなる「四種法身(ししゅほっしん)」として説き、それは、今日の科学者の説く、生物の分類要素に似ている。
一、自性(じしょう)法身:あらゆるもののそれ自体の本性となる、無垢なる知を発揮するいのちの存在そのもの。(そのいのちが次のようなすがたを顕わしている)
二、受用(じゅゆう)法身:個体としてのすがた。
三、変化(へんげ)法身:遺伝の法則によって変化していく個体のすがた。
四、等流(とうる)法身:多様な種のすがた。
以上の四種によって、いのちはそれぞれのさまざまなすがたかたちを顕わし、共に生きている。そのありのままのいのちの存在が「法身」なのである。 
4 心と自然と言葉
乾坤(けんこん)は経籍(けいせき)の箱なり万象(ばんしょう)、一点に含む。(性霊集 巻第一)
[現代語訳] 世界はいのちのもつ無垢なる知が言葉となって綴る本箱万象といえども、一点の言葉「ア」から出て、また、そこに帰っていく。
性霊集の巻第一の「山に遊びて仙を慕う」の詩の一節である。
空海が遊仙詩に託して大道を説いたものであり、その序文において、仏道の世界を指し示すとともに、俗世間の煩わしさを悲しみ、自然界に無常の思いを託そうとしたとある。
その中で、自分は山に入って自然の声を聞く、その声とはいのちのもつ無垢なる知の言葉であり、その言葉によって世界が分別され、それらに名まえが付けられたから、世界が生まれた。
その言葉、もしくは文字のすべては、「ア」の一点に帰っていく。
つまり、言葉が先にあったのではなく、いのちのもつ無垢なる知が先にあって言葉が出てきたし、その言葉そのものは、自然の声のひびき「ア」の一点から始まったということを述べている。
夫(そ)れ境(きょう)は心(しん)に随(したが)って変ず。心垢(けが)れれば即ち境濁(にご)る。心は境を逐(お)って移る。境閑(しずか)なれば即ち心朗(ほが)らかなり。心境冥会(しんきょうみょうえ)して道徳玄(はるか)に存す。(性霊集 巻第二)
[現代語訳] 自然環境というものは心にしたがって変わるものなのだ。心が汚れていれば環境は濁るしその濁った環境に心は引きずられる。環境が閑(しずか)であれば心は朗らかになり、澄んでくる。(そのように)心と自然環境が奥深く結びついているからいのちのもつ無垢なる知と、そのはたらきである徳とが存在することになる。
性霊集の巻第二の「沙門勝道(しゃもんしょうどう)山水を歴(へ)て玄珠(げんしゅ)をみがくの碑」の序の一節である。
勝道上人の日光開山の登山記を知人から頼まれ、空海が執筆したものであるが、その出だしに上記のような明解な環境論を展開している。
このような思想は、山林修行者の心境からでしか生まれないものであり、空海自身が若き日に、山のやぶを家とし、瞑想を心として、山林に入り修行したということを述べているから、心と自然環境と関わりを空海は熟知していたのだ。
だから、本文において、日光山における勝道上人の行状をまるで見ていたかのように記述できた。そこには、上人と同じ澄んだ目と心をもって、美しい日光山に同行している空海がいたー 
5 生きる行為
閑林(かんりん)に独坐す草堂の暁(あかつき)三宝(さんぽう)の声一鳥(いっちょう)に聞く一鳥声あり人心(ひとこころ)あり声心雲水(せいしんうんすい)倶(とも)に了々(りょうりょう)(性霊集 巻第十)
[現代語訳] 閑(しずか)な山林の中の草堂に独(ひと)り坐っていると、明けがたのしじまを破ってぶっぽうそう(仏法僧*)と啼く、鳥の声が聞こえてきた このように、鳥ですら無垢なる知の声を発しているのだから人の心に無垢なる知が存在しないことがあるだろうか 鳥の声と、人の心と、美しい天地それらが一体化して、今、ここにある *仏と法と僧、これを三宝という。
性霊集の巻第十の「後夜(ごや)に仏法僧の鳥を聞く」詩。
明けがたに草堂で坐禅をしていると、ぶっぽうそうと啼く鳥の声(客体)を聞いた。その鳥の声に啓発されて、山中に居る自分の心(主体)に気づかされた。その瞬間、主体と客体は一体となり、そこに美しい自然(絶対空間)が広がった。そのような明瞭な心境を詠じたものである。
今日の脳科学によれば、左脳の言語野と対になる右脳部分は、行動する身体とその周囲の空間(環境)との位置関係を立体的に把握する機能を果たしているという。ということは、その右脳によって認識された場面がまず先にあって、そこで起きている出来事を分別・文脈化したものが、左脳の言語となったのだ。
その言語が発達し、知識による世界が構築されると、人間は手っ取り早く、その知識だけによって物事の判断をし、コミュニケーションを取るようになった。
そうなると、右脳による身体と空間からのもともとの場面体験は疎まれるようになり、左脳中心の偏重社会が進行することになる。
だから、人は時として、何か研ぎ澄まされた精神状態の場を得て、身体とその身体の置かれた空間にはっと目覚め、言語の原点に立ち帰らなければならない。
坐禅をしている身体と、明けがたの空間で啼く鳥の声と、その鳥の声(ひびき)が伝える仏法僧の意味とが、山林の中に、はっきりと存在していたと空海は綴っている。
そこにさとりの世界がある。 
あとがき
この論考のテキストは、NHK教育テレビの「こころの時代」で、平成八年に放映された「空海の声を聞く−弘法大師の詩文から−」という高木、元(しんげん)さんの講話による。
高木、元さんは高野山大学学長を昭和六十二年から六年間務め、その後も高野山での研究生活をつづけられていたが、平成二十三年に山を降り、島根の自坊に帰寺されたと聞く。空海の著述に詳しく、特に書簡の詳細な読解には定評がある。
その空海研究の第一人者が、空海自らが生存中にどのような言葉をもって、人びとに仏法を説いたかを語ったものである。
改めてその講話を聞いてみると、空海の詩文から的確に密教の教えを解説されており、それらの言葉は大変魅力的である。そこで、その詩文をテキストとして、わたくしも空海の声を聞いてみようと思った。
そうして、次のような理解を得た。
一、仏法はその本質において、「いのちのもつ無垢なる知」に目覚める教えであるから、その無垢なる知の特質の一つである自他の互助精神(慈悲)によって、必ず福祉というはたらきが出てくる。
二、人間を含め、あらゆる生きものには、共に生きるための「いのちのもつ無垢なる知」が生まれながらに具わっている。その知の根本「五智(ごち)」に目覚めることが道を求めることである。
三、「いのちのもつ無垢なる知」によって共に生きている、人間を含めたあらゆる生きもののありのままのすがたを「法身(ほっしん)」という。その法身によって、自然界が保たれている。
四、自然界の声は「いのちのもつ無垢なる知」の言葉であり、人間はその言葉を自然の声のひびき「ア」の一点から始めることによって言語化した。だから、言葉によって世界を理解している人間の心と自然環境とはもともと同じものである。
五、生きる行為の要素は三つである。個体としての身体行為(姿勢と動作と空間)と、その個体がコミュニケーションする手段として用いる発声(言語)行為と、その身体と言語の行為が共鳴することによって、その場に生起する精神行為(心と意味)である。
というようなことである。
これらは、あるがままに生きる「生命の秩序」の事柄であると思う。生命のもつこの真実の世界と現実の世界は、一つになって常に存在していると空海は教える。
貴重な学びの機会を師から与えていただいた。(尚、詩文の現代語訳は筆者による。) 
 
性霊集

 

(しょうりょうしゅう) 空海(弘法大師)の漢詩文集。10巻。編者は弟子真済。成立年不詳。
正しくは『遍照発揮性霊集』(へんじょうほっきしょうりょうしゅう)。空海の詩、碑銘、上表文、啓、願文などを弟子の真済(しんぜい)が集成したもので、10巻からなる。正確な成立年は不明だが、遅くとも空海が没した承和2年(835年)をさほど下らない時期までに成立したとみられ、日本人の個人文集としては最古。10巻のうち巻八〜巻十の3巻ははやくに散逸し、現『性霊集』の巻八〜巻十には、承暦3年(1079年)、仁和寺の済暹が空海の遺文を収集して編んだ『続遍照発揮性霊集補闕鈔』3巻が充てられている。なお、済暹の『補闕鈔』は、散逸した巻八〜巻十そのものの復元を図ったものではないし、後世の偽作と今日では判定されている作品もいくつか含んでいる。
編纂
『性霊集』の序文によれば、真済は、師空海が一切草稿を作らず、その場で書き写しておかなければ作品が失われてしまうため、空海作品を後世に伝えるべく、自ら傍らに侍して書き写し、紙数にして約500枚に及ぶ作品を収集した。そして、これに唐の人々が師とやりとりした作品から秀逸なものを選んで加え、『性霊集』10巻を編んだという。一般的には、『性霊集』の編纂過程は、この序文の内容に即して理解されている。
しかしながら、真済が15歳で出家し空海に弟子入りしたのは 弘仁5年(814年)なのに、入唐時などそれ以前の作品も『性霊集』に多数収録されている。序文には、真済が書写する以前の作品がどのように収集されたのか、説明されていない。
飯島太千雄は、空海が入唐時から、将来の文集編纂を企図して自らの作品の写しを取っていたほか、個々の作品に表題を付して10巻に編む最終的な編纂作業にも関与していたと推定している。巻五の収録作品と同じものが単体の巻子本として伝存する「越州節度使に請ふて内外の経書を求むる啓」「本国の使に与へて共に帰らんと請ふ啓」は、筆跡などから空海真跡の控文と判定でき、さらに余白に付された表題も空海真跡とみられ、最終的な編纂作業に空海が関与していたことが窺えるという。
空海は24歳のときに著した処女作『聾瞽指帰』の序文で、従来の中国と日本の文学を痛烈に批判し、文学における芸術性と真理の両立を理想として掲げている。そして、その文学改革の志は、『性霊集』巻一の冒頭「山に遊んで仙を慕ふ詩」の序でも表明されている。文学の改革者たらんとしていた空海が、自らの作品を後世に残そうとしなかったはずがないし、収録作品の選択や配列といった最終的な編纂作業に、空海が関与していた可 能性も十分考えられよう。
成立
『性霊集』の真済編纂分である巻一から巻七までのうち、年代の明らかな作品で最も新しいのは、天長5年(828年)2月27日の「伴按察平章事が陸府に赴くに贈る詩」(巻三)である。弘仁14年1月20日の日付をもつ「酒人内公主の為の遺言」(巻四)を、酒人内親王が没した天長6年8月のものとし、これを下限とする説もある。いずれにせよ、『性霊集』は年代順でなく作品の種類別に編集されているので、失われた巻八〜巻十により年代の新しいものがあった可能性は乏しく、天長5、6年が下限と見られる。それが想定できる成立年代の上限となる。
成立年代をめぐる主な説は以下のとおり。
天長7年11月〜9年3月の間
『性霊集』は真済と空海の共同編集であるとの見地から、高雄山で真済が空海から密教の奥義を授けられた(その記録が『高雄口訣』といわれる)と伝えられる期間に編纂されたとするもの。
天長9年から承和2年3月の間で空海在世中
序文に「西山禅念沙門真済撰」とあることから、真済が高雄山=西山に住した天長9年以降とし、「執事年深くして、未だその浅きを見ず」とあることから、現に真済が空海に師事していた間、すなわち空海存命中とするもの。
承和2年3月の空海入滅直後
序文に「謂ゆる第八の折負たる者は吾が師これなり」とあり、空海を密教の第八祖としていること、「大遍照金剛」と空海を尊称していることから、空海没後とするもの。 
 
行基 1

 

(ぎょうき/ぎょうぎ) 天智天皇7年-天平21年(668-749)
日本の奈良時代の高僧。677年4月に生まれたという説もある。僧侶を国家機関と朝廷が定め仏教の民衆への布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿内(近畿)を中心に民衆や豪族層など問わず広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。また、道場や寺院を多く建立しただけでなく、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所を、困窮者のための布施屋9ヶ所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。しかし、朝廷からは度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得てその力を結集して逆境を跳ね返した。その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺など)建立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。
出自
父高志才智、母蜂田古爾比売の長子として、河内国(後の和泉国)大鳥郡に生まれる。生家は後に行基によって家原寺に改められた場所で現在の大阪府堺市家原寺町にあった。
生涯
河内国大鳥郡(現在の大阪府堺市家原寺町)に生まれる。682年(天武天皇11年)に15歳で出家し、飛鳥寺(官大寺)で法相宗などの教学を学び、集団を形成して近畿地方を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活動した。704年(大宝4年)に生家を家原寺としてそこに居住した。その師とされる道昭は、入唐して玄奘の教えを受けたことで有名である。
民衆を煽動する人物であると朝廷から疑われたこと、また寺の外での活動が僧尼令に違反するとされたことから、養老元年4月23日詔をもって糾弾されて弾圧を受けた。だが、行基の指導により墾田開発や社会事業が進展したこと、豪族や民衆らを中心とした教団の拡大を抑えきれなかったこと、行基の活動を朝廷が恐れていた「反政府」的な意図を有したものではないと判断したことから、731年(天平3年)弾圧を緩め、翌年河内国の狭山池の築造に行基の技術力や農民動員の力量を利用した。736年(天平8年)に、インド出身の僧・菩提僊那がチャンパ王国出身の僧・仏哲、唐の僧・道璿とともに来日した。彼らは九州の大宰府に赴き、行基に迎えられて平城京に入京し大安寺に住し、時服を与えられている。738年(天平10年)に朝廷より「行基大徳」の諡号が授けられた。(日本で最初の律令法典「大宝律令」の注釈書などに記されている。)
民衆のために活躍した行基は740年(天平12年)から大仏建立に協力する。このため「行基転向論」(民衆のため活動した行基が朝廷側の僧侶になったとする説)があるが、一般的には権力側が行基の民衆に対する影響力を利用したのであり、行基が権力者の側についたのではないと考えられている。741年(天平13年)3月に聖武天皇が恭仁京郊外の泉橋院で行基と会見し、同15年東大寺の大仏造造営の勧進に起用されている。勧進の効果は大きく、745年(天平17年)に朝廷より仏教界における最高位である「大僧正」の位を日本で最初に贈られた。(続日本紀)
行基の活動と国家からの弾圧に関しては、奈良時代において具体的な僧尼令違反を理由に処分されたのは行基のみと言われている。そのため、それぞれに対して、同時代の中国で席捲していた三階教教団の活動と唐朝の弾圧との関連や影響関係が指摘されている。
三世一身法が施行されると灌漑事業などをはじめ、前述の東大寺大仏造立にも関わっている。大仏造営中の749年(天平21年)、喜光寺(菅原寺)で81歳で入滅し、生駒市の往生院で火葬後竹林寺に遺骨が奉納された。また、喜光寺(菅原寺)から往生院までの道則を行基の弟子が彼の輿をかついで運搬したことから、往生院周辺の墓地地帯は別名、輿山とも呼ばれている。また、朝廷より菩薩の諡号を授けられ「行基菩薩」と言われる。その時代から行基は「文殊菩薩の化身」とも言われている。なお、行基が迎えた菩提僊那は752年、聖武天皇(749年に退位し当時は、太上天皇)の命により、東大寺大仏開眼供養の導師を勤めた。
この他、行基は古式の日本地図である「行基図」を作成したとされ、日本全国を歩き回り、橋を作ったり用水路などの治水工事を行ったとされ、全国に行基が開基したとされる寺院なども多く存在する。
行基に縁の有る地
行基は畿内を中心とした各地で布教活動を行っていたことから、近畿地方を中心として各地に縁の地とされる土地が存在している。
生家跡は知恵の文殊菩薩を本尊とすることから合格祈願で有名な家原寺となっている。
大阪府高石市高師浜3丁目付近で生まれたと言う説もあり、「行基生誕の地」の石碑が建てられている。その石碑には、「行基に連なる大工集団が千歯扱きを考案した、その大工集団は徳川末期まで京都御所の御用大工となった、高度な大工技術を駆使して高石地区の住宅建設を請け負っていた」と刻まれている。なお、これらの功績により、この付近が「匠」と呼ばれており、行基生誕伝承のある地に建てられた自治会館が「匠会館(八区会館)」と呼ばれている。
近鉄奈良駅前には、1969年の同駅地下化の際に広場が作られ、赤膚焼の行基像が建立された。広場は「行基広場」と呼ばれ、奈良ではよく知られた待ち合わせ場所として定着している。この赤膚焼の行基像は後に心ない者の手によって破壊され、現在は1995年に製作されたブロンズの像が建っている。
大阪府岸和田市の八木だんじり祭では、久米田寺開山堂(行基堂)前に周辺地区のだんじりが集結する。これは、久米田寺の前に位置する久米田池を行基が掘削指導し、田畑の開墾や周辺住民の生活向上へ寄与し、その他の遺徳を顕彰する「行基参り」と呼ばれている。
兵庫県伊丹市の昆陽池公園の園内施設には行基の偉業や胸像が設置されている。昆陽池の南南東1キロほどの場所に行基の開基した昆陽寺がある。市内には行基町(ぎょうぎちょう)という地名がある。 
行基開基の寺院と比定地
大修恵院高蔵(大阪府堺市南区高倉台) / 枚方院(大阪府枚方市伊加賀) / 檜尾池院(大阪府堺市南区檜尾) / 大庭院(大阪府堺市南区大庭寺) / 家原寺(大阪府堺市西区家原寺町)

龍王寺(雪野寺)(滋賀県蒲生郡竜王町川守41) / 神鳳寺(大阪府堺市西区鳳北町) / 鶴田池院(大阪府堺市西区草部) / 大野寺、大野尼院(大阪府堺市中区土塔町) / 深井尼院香琳寺(大阪府堺市中区深井) / 清浄土院(大阪府堺市堺区湊、大阪府高石市) / 萩原寺(大阪府堺市東区日置荘原寺町、萩原神社の神宮寺としてかつて存在した) / 愛染院(大阪府堺市北区蔵前町1578) / 善言院川堀、善言尼院(大阪府大阪市西成区) / 難波度院、枚松院、作蓋部院(大阪府大阪市西成区) / 沙田院(大阪府大阪市住吉区) / 呉坂院(大阪府大阪市住吉区長狭町) / 高瀬橋院、高瀬橋尼院(大阪府大阪市東淀川区) / 大福院御津、大福尼院(大阪府大阪市中央区御津寺町)

久修園院(大阪府枚方市楠葉中之芝2丁目) / 薦田院(大阪府枚方市伊賀) / 報恩院(大阪府枚方市樟葉) / 狭山池院、狭山池尼院(大阪府大阪狭山市) / 極楽寺(大阪府泉大津市昭和町6番地付近) / 石凝院(大阪府東大阪市日下町) / 清浄土尼院(大阪府高石市) / 林昌寺(大阪府泉南市信達岡中395) / 山崎院(大阪府三島郡島本町) / 久米田寺 (大阪府岸和田市池尻町)

恩光寺(奈良県) / 生馬仙房(奈良県生駒市有里町) / 隆福院、隆福尼院(奈良県奈良市大和田町) / 菅原寺喜光寺(奈良県奈良市菅原町) / 頭陀院菩提、頭陀尼院(奈良県大和郡山市矢田町) / 長岡院(奈良県奈良市疋田町) / 法禅院檜尾(京都府京都市伏見区深草) / 河原院(京都府京都市) / 大井院(京都府京都市右京区) / 大雲寺(京都府京都市左京区岩倉) / 吉田院(京都府京都市左京区吉田神楽岡町) / 発菩提寺泉橋院(京都府相楽郡山城町上狛村) / 泉福院、布施院、布施尼院(京都府京都市伏見区) / 極楽寺(滋賀県彦根市極楽寺町) / 弥勒寺(愛知県東海市大田町) / 円通寺(愛知県大府市共和町) / 岩屋観音(愛知県豊橋市大岩町) / 東観音寺(愛知県豊橋市小松原町) / 普門寺(愛知県豊橋市雲谷(うのや)町) / 船息院船、船息尼院(兵庫県神戸市兵庫区) / 瑠璃寺(兵庫県佐用町) / 揚津院(兵庫県川辺郡猪名川町) / 昆陽施院 (兵庫県伊丹市寺本) / 大聖寺 (岡山県美作市大聖寺) / 仁比山地蔵院(佐賀県神埼市神埼町的1688) / 慈恩寺(山形県寒河江市)
※この他にも全国各地に寺伝や諸書に行基を開基(創建)とする寺院が数多くある。但しこれらの中には役行者や空海と同様に開基された伝承の寺院も複数含まれると推測される。 
行基が掘削指導した貯水池
昆陽池(昆陽池公園内)(兵庫県伊丹市) / 久米田池(大阪府岸和田市) - 久米田寺と隣接する。 / 狭山池(大阪狭山市) - 日本最古のダム式貯水池(溜池)を改修。
行基が架橋指揮した橋
泉橋(木津川) / 山崎橋(淀川) / 行ヶ橋(沖ノ端川)
摂播五泊
摂津から播磨にかけて、五つの港(摂播五泊)を整備したとされている。
河尻泊 - 尼崎市神崎町 / 大輪田泊 - 神戸市兵庫区(神戸港) / 魚住泊 - 明石市魚住町 / 韓泊 - 姫路市的形町 / 室生泊 - たつの市御津町室津
行基による開湯伝説がある温泉
日本全国には行基が発見したとされる温泉が数多くある。但し、これらの中には開湯伝説を作った際に名前を使用されただけの温泉もあるとされる。
作並温泉 / 東山温泉 / 芦ノ牧温泉 / 草津温泉 / 藪塚温泉 / 野沢温泉 / 渋温泉 / 湯田中温泉 / 山代温泉 / 山中温泉 / 吉奈温泉 / 谷津温泉 / 蓮台寺温泉 / 三谷温泉 / 木津温泉 / 関金温泉 / 塩江温泉 / 鹿教湯温泉
他にも仁西、豊臣秀吉らとともに「有馬の三恩人」と語り継がれている。又、有馬温泉や湯河原温泉などにも行基にまつわる伝承が残っている。
行基が拓いた滝
能勢の本瀧(本瀧寺内)(大阪府豊能郡能勢町野間中718) 
 
行基 2

 

鬼僧・行基の活躍
そこで聖武と鬼の真の関係を知るために、少し行基について考えてみたい。
行基は晩年、仏教界の最高位、大僧正にまでかけのぽるが、当初、朝廷は彼を徹底的に弾圧していた。
平城遷都から七年後の養老元年(七一七)四月、行基に対する最初の禁圧が加えられている。『続日本紀』は、
「官職を設け優秀な人材を登用するのは、愚民を教え導くためであり、法や制度を整備するのは、悪事を禁断するためだ」
としたうえで、僧尼を統制するための話を記録している。
「近頃、百姓たちは法律に反き、好き勝手に頭を丸め僧服を着ている。外見は僧侶に似ているが、心に盗人の気持ちをいだくから偽りを生むのであり、邪心が起こるのである。僧尼は本来、寺で静かに教えを受け道を伝えるものだ。乞食する者がいるならば正式な届け出をすませたうえで、午前中に托鉢して食物を乞え。食物以外は禁止する」
として、いよいよ行基を名指しで責めている。
「まさにいま、“小僧”行基と弟子どもは、巷に群れ集まり、みだりに因果応報、輪廻転生を説き、徒党を組んで、指に火をつけ臂(ひじ)の皮をはいで写経し、家を訪ねでたらめな説法をしては物を乞い、偽って聖道と称して百姓を惑わしている。この結果、僧も民衆も乱れ騒ぎ、人々は仕事をしようともしない。釈尊の教えに反き、一方で法を破っている」
というのである。
しかし、朝廷の脅迫に屈するような行基ではなかった。彼らは集団化し逆に朝廷を脅かす勢力へとのし上がっていったのである。
天平二年(七三〇)九月二十九日、朝廷はたまりかねて次のようにいう。
「平城京の東側の山に多くの人々を集めて妖言して人々を惑わす集団がある。多いときには一万人、少ないときでも数千人もいる。これは深く法に違反している。もしこれからも取り締まることなく逡巡していては害となるであろう。今後はそのようなことがないように」
多いときで一万人、少なくとも数千人が平城京を見下ろす高台で徒党を組むさまは異様な光景である。
“モノ”との共闘を選んだ聖武天皇
朝廷が行基の集団を弾圧したのは、たんに信徒の数がふくれ上がったという理由だけではない。行基らの集団が奈良王朝の根本・律令制度を否定するかのような行動をとっていたからであった。
律令が民衆の定住、農地を耕すことを前提につくられ、彼らを“良民”と称し、非定着民を良民の範躊からふるい落としたことはすでにふれたが、行基らの集団こそ、まさに律令の精神を裏切る人々なのであった。
重い税や労役にあえぎ、また苦しみながらも税を都に運ぶ人々のために、行基は各地に橋を架け布施屋とよばれる救護所をつくり、布教に努めたのであった。
当然、民衆の支持は高まり、ついには、行基の集団は、朝廷にとって無視できぬ存在となっていった。律令国家の貴重な“資源”である良民たちは、勝手に僧形(そうぎょう/優婆塞〈うばそく〉)となり、農地を捨て漂泊するようになっていったからである。
朝廷公認の正式な僧であれば、納税の義務は免除されるが、私度僧(しどそう)はそのかぎりではなく、彼らの僧形と漂泊は、朝廷に対する反抗とみなされていくことになる。つまり、彼らの運動が無限に広がれば、律令の根本どころか、国家自体が消滅しかねないほどの重大事だったのである。いねば、中世無縁の人々の発生はここに求められるかもしれない。
ところが、ある時点を転機に、朝廷の行基らに対する態度は、逆転してしまうのである。
『続日本紀』天平十三年(七四一)冬十月の条には、奈良の北方木津に橋を架けるのに、畿内と諸国の優婆塞たちを召集し使役したとあり、そこで、彼ら七百五人をすべて正式に僧として認めよう、という記述がある。
この記事が、天平十二年の広嗣の乱と聖武天皇の関東行幸の翌年であることは注目に値しよう。反藤原を表明し、実権を握った聖武政権が、それまで弾圧していた行基らの活動を、逆に利用しようとしたことは明らかである。
さらに天平十五年(七四三)十月には、
「皇帝紫香楽宮(しがらきのみや)に御(おは)しまして、盧舎那の仏像を造り奉らむが為に始めて寺の地を開きたまふ。是に行基法師、弟子等を率ゐて衆庶(もろもろ)を勧め誘(みちび)く」
とあって、聖武天皇は、大仏を建立するために紫香楽宮に土地を用意し、行基は弟子たちを率いて、人々にすすめ導いた、というのである。
藤原を捨て、鬼を選んだ聖武天皇。
五世紀、雄略天皇の登場にはじまった天皇家と“モノ”の一族の歴史は、七世紀に藤原氏の出現によって大きな曲がり角を迎えた。
一党独裁を目論む藤原氏に反発した天皇家は、ここにいたり“モノ”の一族との共闘を選んだことになる。
問題はこの転機が、“モノ”の一族や集団にも変化をもたらしていたことであった。
物部氏や蘇我氏といった“モノ”を代表する大豪族が衰弱し、野に下り潜伏していったことによって“モノ”の闘争は民衆を巻き込んで新たな運動がはじまったと考えられる。そして、この画期的な潮流をつくり出しだのが行基だったのである。
鬼の山・葛城と天皇家の対立
型武天皇と鬼どもがつくり出した新たな潮流。その真意を知るためのキーワードは、鬼の山・葛城である。
葛城と天皇家の歴史には一つの法則のようなものがあって、独裁指向や親百済政策、すなわち私見における二つの日本をつくっていた片割れの天皇家とはすこぶる仲が悪い、ということなのである。そして、このことが、行基と聖武の関係に大きなヒントを与えている。
そこで、この葛城と天皇家をめぐる法則の例をいくつかあげてみよう。
時代は五世紀にさかのぼる。独裁指向を目ざした雄略天皇は、多くの皇族を殺し皇位を簒奪するが、その過程で時の権力者・円大臣〈つぶらのおおおみ)を殺害していたことはすでにふれたところだ。円大臣は蘇我系葛城氏であり、名にあるとおり葛城に地盤をもった一族であった。
こののち、雄略天皇は葛城山とは深い因縁でつながってゆく。
葛城に狩猟に出かけた雄略は、天皇一行とまったくそっくりな隊列に出くわす。名を問えば、葛城山の神・一言主神(ひとことぬしのかみ)であるという。まるで天皇に対抗するかのような勢いに怒った雄略は、神を土佐の国に流竄(るざん)する。“葛城”受難のはじまりであった。
七世紀、蘇我氏は天皇家を蔑(ないがろし)ろにし、中国では皇帝にのみ許された“八佾舞(やつらのま)い”をして朝廷を刺激した。この八佾舞いの行なわれたのが、葛城山の高宮であったとされている。蘇我氏の地盤は飛鳥であったが、彼らは本貫が葛城であったと主張している。この直後、蘇我入鹿は天智や鎌足に殺される。入鹿の霊魂が葛城山から飛び立ったとされるのも、理由のないことではなかったらしい。
ちなみに、蘇我入鹿か滅亡に際し、最後まで蘇我を守るうとしたことで知られる東漢(やまとのあや)氏は、壬申の乱に際し天武の武力として活躍しているが、彼らは鬼の国伽耶の小国・安耶(安羅)出身と考えられる。彼らの本拠地もまた、飛鳥檜隈(ひのくま)から葛城にかけての地域であった。
さて、天武天皇は壬申の乱の直前、吉野に逃れるが、ここで天武を守った鬼が役小角とされている。この伝承が事実かどうか確かめるすべはないのだが、文武二年(六九八)に伊豆に流されてしまった役小角が、少なくとも天武天皇の時代には、朝廷から認められていたらしいことは、
「初め小角、葛木山(かつらぎのやま)に住みて、呪術を以て称(ほ)めらる」
と、『続日本紀』にあることで明らかであろう。役小角は持統の登場によって、危険視されていった可能性は高いのである。
役小角という修験道の祖が、いったい何者であったのかは定説となるものはない。しかし、葛城を根城に活躍していたこと、土着の賀茂氏と強い関係で結ばれていたことは確かであろう。この賀茂氏は、大物主神の末裔で、三輪氏と同族、物部氏の遠縁に当たっていることを忘れてはなるまい。
ところで、役小角は鬼神を自在に操った鬼の親分であったが、この葛城の修験道は、神道、道教、仏教などが渾然一体となって成立した宗教で、国家が管理していたわけでもなく、自然発生的に雑草のような力強さで長い間日本に多大な影響を及ぼしてゆくのである。それはまるで、藤原氏によって抹殺された真の神々の呪いのようで、あるいは藤原の築いた苛酷な律令制度に対する民衆の怨嗟の声が、そのまま神に乗り移ったかのようなおどろおどろしさを感じさせる宗教でもある。
行基が受戒したのは、この葛城の高宮寺で、道鏡もこの地で修行、禅行していたとされ、あるいは玄防もこの流れを汲むのかもしれない。ちなみに、葛城の“高宮”は蘇我氏が八佾舞いをし、祖廟をつくった場所で、いねば、高宮は葛城の鬼の故郷であり、この地で行基が修行し受戒した意味は大きい。
このような鬼の城で修行した彼らに共通するのは強力な呪験(じゅげん)力であり、この魔力を駆使し、行基は民衆を動かし、玄防、道鏡は権力に近づこうとした。藤原という権力が彼らを警戒したのは当然であったし、つまり、葛城でつながる彼らは、時に権力から弾圧され、権力と闘いつづけたという共通点かある。
鬼が権力者から天皇家を守った
こうして見てくれば、“葛城”が明確な意志をもって雄略的な天皇家と対立し、藤原氏と対峙したことが判明するのである。
そして、聖武が大抜擢した行基が、鬼の山・葛城で修行を積んだこと、また同じように、一度は権力の座から引きずり下ろされた物部の末裔・道鏡が葛城を経て復活したことに、深い意味が隠されていたのである。
民衆は行基の教えに従い、みずからも漂泊することで、藤原律令体制に反旗を翻したのであろう。彼らの活動は、やがて朝廷を震憾させるほどの力をもっていったのである。
一方、藤原政権に反発するもう一つの鬼・物部は、権力中枢にもぐり込むことで、野望を達成しようとした。彼らの呪験力は、やがて宮中で華開き、道鏡は称徳天皇の病気を治すことで信頼を得、権力の頂点にのぽりつめていったのであった。
聖武が、行基、玄防、吉備真備という鬼を選んで東大寺を建立し、娘の称徳が道鏡を引き立てたのは、鬼どものつくり上げた反藤原、反権力という大きな潮流を利用したいがためであっただろう。鬼を擁立しようとした宇佐八幡託宣事件の真相は、ほぽこの図式で解明できるはずである。
ただし、聖武や称徳の目論みや、玄防や道鏡といった物部の末裔の野望は、藤原の壁を乗り越えることなく、失敗し潰え去る。
しかし、権力と対峙し、身を守るすべを鬼に求めた聖武の発想や、葛城で芽生えた新たな鬼の潮流は、こののちの歴史に重大な影響を落としていったのではあるまいか。すなわち、永続する天皇家を、この鬼たちがつくったのではないか、という疑いである。
藤原は天皇家の外戚になることで権力を得だのだから、彼らに天皇位をねらう意志はなかったと一般には考えられている。しかし、藤原の子・聖武や称徳の暴走は、彼らに危機感をもたらしたはずである。仮に帝が藤原の子であっても、藤原氏の力が衰えれば、帝は他の勢力に利用されていくこと、天皇が意志をもったとき、藤原には手に負えなくなる場面もありうることを、身をもって思い知らされたからである。 
 
日本の伝説 / 柳田國男 

 

再び世に送る言葉
日本は伝説の驚くほど多い国であります。以前はそれをよく覚えていて、話して聴かせようとする人がどの土地にも、五人も十人も有りました。ただ近頃は他に色々の新に考えなければならぬことが始まって、よろこんで斯(こ)ういう話を聴く者が少なくなった為に、次第に思い出す折が無く、忘れたりまちがえたりして行くのであります。私はそれを惜むの余り、先ず読書のすきな若い人たちの為に、この本を書いて見ました。伝説は斯ういうもの、こんな風にして昔から、伝わって居たものということを、この本を読んで始めて知ったと、言って来てくれた人も幾人かあります。
日本に伝説の数が其(その)様に多いのなら、もっと後から後から別な話を、書いて行ったらどうかと勧めて下さる方もありますが、それが私には中々出来ないのです。同じような言い伝えを、ただ沢山に並べて見ただけでは、面白い読みものにはなりにくい上に、わけをきかれた場合にそれに答える用意が、私にはまだととのわぬからであります。一つの伝説が日本国中、そこにもここにも散らばって居て、皆自分のところでは本当にあった事のように思って居るというのは、全く不思議な又面白いことで、何か是(これ)には隠れた理由があるのですが、それが実はまだ明かになって居らぬのです。私と同様に何とかして之(これ)を知ろうとする人が、続いて何人も出て来て勉強しなければなりません。その学問上の好奇心を植えつける為には、よっぽどかわった珍らしい話題を、掲げて置く必要があるので、そういう話題がちょっと得にくいのであります。白米城(はくまいじょう)の話というのを、今私は整理しかかって居ります。十三塚の伝説も遠からずまとめて見たいと思って居ますが、斯ういうのが果して若い読者たちの、熱心な疑いを誘うことが出来るかどうか。とにかくにこの本の中に書いたような単純でしかも色彩の鮮かな話は、そう多くはないのであります。
最近に私は「伝説」という小さな本を又一つ書きました。これは主として理論の方面から、日本に伝説の栄え成長した路筋を考えて見ようとしたものですが、曽(かつ)て若い頃にこの「日本の伝説」を読んで、半分でも三分の一でも記憶して居て下さる人であったら、興味は恐らくやや深められたことと思います。それにつけてもこの第一の本が、今少しく平易に又力強く、事実を読む人の心に残して行くことの出来る文章だったらよかろうにと、考えずには居られません。それ故に今度は友人たちと相談をして、又よほど話し方を変えて見ました。日本の文章は、一般にやや耳馴れないむつかしい言葉を今までは使い過ぎたようであります。伝説などの如く久しい間、口の言葉でばかり伝わって居たものにはどうしても別の書き現わし方が入用かと思いますが、その用意もまだ私には欠けて居たのであります。新にこの本を見る諸君に、その点も合せて注意していただかなければなりません。   
昭和十五年十一月 
はしがき
伝説と昔話とはどう違うか。それに答えるならば、昔話は動物の如く、伝説は植物のようなものであります。昔話は方々を飛びあるくから、どこに行っても同じ姿を見かけることが出来ますが、伝説はある一つの土地に根を生やしていて、そうして常に成長して行くのであります。雀や頬白(ほおじろ)は皆同じ顔をしていますが、梅や椿は一本々々に枝振りが変っているので、見覚えがあります。可愛い昔話の小鳥は、多くは伝説の森、草叢(くさむら)の中で巣立ちますが、同時に香りの高いいろいろの伝説の種子や花粉を、遠くまで運んでいるのもかれ等であります。自然を愛する人たちは、常にこの二つの種類の昔の、配合と調和とを面白がりますが、学問はこれを二つに分けて、考えて見ようとするのが始めであります。
諸君の村の広場や学校の庭が、今は空地になって、なんの伝説の花も咲いていないということを、悲しむことは不必要であります。もとはそこにも、さまざまのいい伝えが、茂り栄えていたことがありました。そうして同じ日本の一つの島の中であるからには、形は少しずつ違っても、やっぱりこれと同じ種類の植物しか、生えていなかったこともたしかであります。私はその標本のただ二つ三つを、集めて来て諸君に見せるのであります。
植物にはそれを養うて大きく強くする力が、隠れてこの国の土と水と、日の光との中にあるのであります。歴史はちょうどこれを利用して、栽培する農業のようなものです。歴史の耕地が整頓して行けば、伝説の野山の狭くなるのも当り前であります。しかも日本の家の数は千五百万、家々の昔は三千年もあって、まだその片端のほんの少しだけが、歴史にひらかれているのであります。それ故に春は野に行き、藪(やぶ)にはいって、木の芽や草の花の名を問うような心持ちをもって、散らばっている伝説を比べて見るようにしなければなりません。
しかし、小さな人たちは、ただ面白いお話のところだけを読んでお置きになったらいいでしょう。これが伝説の一つの木の中で、ちょうど昔話の小鳥が来てとまる枝のようなものであります。私は地方の伝説をなるたけ有名にするために、詳しく土地の名を書いて置きました。そうして皆さんが後に今一度読んで見られるように、少しばかりの説明を加えて置きました。
昭和四年の春 
咳(せき)のおば様

 

昔は東京にも、たくさんの珍しい伝説がありました。その中で、皆さんに少しは関係のあるようなお話をしてみましょう。
本所(ほんじょ)の原庭町(はらにわまち)の証顕寺(しょうけんじ)という寺の横町には、二尺ばかりのお婆さんの石の像があって、小さな人たちが咳が出て困る時に、このお婆さんに頼むと直(じき)に治るといいました。大きな石の笠をかぶったまま、しゃがんで両方の手で顎(あご)をささえ、鬼見たようなこわい顔をしてにらんでいましたが、いつも桃色の胸当てをしていたのは、治ったお礼に人が進上したものと思われます。子供たちは、これを咳のおば様と呼んでおりました。
百年ほど前までは、江戸にはまだ方々に、この石のおば様があったそうであります。築地(つきじ)二丁目の稲葉対馬守(いなばつしまのかみ)という大名の中屋敷にも、有名な咳の婆さんがあって、百日咳などで難儀をする児童の親は、そっと門番に頼んで、この御屋敷の内へその石を拝みにはいりました。もとは老女の形によく似た二尺余りの天然の石だったともいいますが、いつの頃よりか、ちゃんと彫刻した石の像になって、しかも爺さんの像と二つ揃(そろ)っていました。婆さんの方は幾分か柔和で小さく、爺さんは大きくて恐ろしい顔をしていたそうですが、おかしいことには、両人は甚だ仲が悪く、一つ所に置くと、きっと爺さんの方が倒されていたといって、少し引き離して別々にしてありました。咳の願掛けに行く人は、必ず豆や霰餅(あられもち)の炒(い)り物を持参して、煎(せん)じ茶と共にこれを両方の石の像に供えました。そうして最もよくきく頼み方は、始めに婆様に咳を治して下さいと一通り頼んでおいて、次ぎに爺様のところへ行ってこういうのだそうです。おじいさん、今あちらで咳の病気のことを頼んで来ましたが、どうも婆どのの手際では覚束(おぼつか)ない。何分御前様にもよろしく願いますといって帰る。そうすると殊に早く全快するという評判でありました。(十方庵遊歴雑記五編)
この仲のよくない爺婆の石像は、明治時代になって、暫(しばら)くどこへ行ったか行く方不明になっていましたが、後に隅田(すみだ)川東の牛島(うしじま)の弘福寺(こうふくじ)へ引っ越していることが分りました。この寺は稲葉家の菩提所(ぼだいしょ)で、築地の屋敷がなくなったから、ここへ持って行ったのでしたが、もうその時には喧嘩(けんか)などはしないようになって二人仲よく並んでいました。そればかりでなく咳の婆様という名前も人が忘れてしまって、誰がいい出したものか、腰から下(しも)の病気を治してくれるといって、頼みに来る者が多くなっていました。そうしてお礼には履き物を持って来て上げるとよいということで、像の前にはいろいろの草履などが納めてあったそうです。(土俗談語)
食べ物を進上して口の病を治して貰った婆様に、後には足の病気を頼み、お礼に履き物を贈るようになったのは、ずいぶん面白い間違いだと思いますが、広島市の空鞘八幡(そらざやはちまん)というお社の脇にある道祖神(さえのかみ)のほこらには、子供の咳の病が治るように、願掛けに来る人が多く、そのお供え物は、いずれも馬の沓(くつ)であったそうです(碌々(ろくろく)雑話)。道祖神は道の神また旅行の神で、その上に非常に子供のすきな神様でありました。昔は村中の子供は、皆この神の氏子でありました。馬に乗って方々のお産のある家を訪ねて来て、生れた子の運勢をきめるのは、この神様だという昔話もありました。すなわち子供を可愛がる為に、馬の沓の入り用であった神なのであります。路を通る人が馬の沓や草鞋(わらじ)を上げて行く神はどこに行ってもありますが、今では名前がいろいろにかわり、また土地によって話も少しずつ違って居ます。咳のおば様なども、もしかするとこの道祖神の御親類ではないか。それをこれから皆さんと共に私は少し考えて見たいのであります。
咳のおば様の石は東京だけでなく、元は他の県にもそちこちにありました。例えば川越(かわごえ)の広済寺(こうさいじ)というお寺の中にも、しやぶぎばばの石塔があって、咳で難儀をするのでお参りに来る人がたくさんにあったそうですが、今ではその石がどれだか、もうわからなくなりました。しわぶきは古い言葉で、咳のことであります。(入間(いるま)郡誌。埼玉県川越市喜多町)
甲州|八田(はった)という村にあるしわぶき婆は、二貫目ばかりの三角な石で、これには炒り胡麻(ごま)とお茶とを供えて、小児が風をひいた時に祈りました。もとは行き倒れの旅の老女を埋めた墓印の石で、やたらに動かすと祟(たた)りがあるといっておそれておりました。(日本風俗志中巻。山梨県|中巨摩(なかこま)郡|百田(ひゃくた)村上八田組)
上総(かずさ)の俵田(たわらだ)という村の姥神(うばがみ)様は、近頃では子守神社といって小さなお宮になっていますが、ここでもある尊い御方の乳母が京都から来て、咳の病で亡くなったのを葬ったところといっております。それだから咳の病に願掛けをすれば治してくれるということで、土地の人は甘酒を持って来て供えました。そうして頼むと必ずよくなったという話であります。(上総国誌稿。千葉県君津郡|小櫃(こひつ)村俵田字姥神台)
姥神はまた子安(こやす)様ともいって、最初から子供のお好きな路傍の神様でありました。それがだんだんに変って来て、後には乳母を神に祀(まつ)ったものと思うようになり、自分が生きているうちに咳で苦しんだから、お察しがあって子供たちの百日咳も、頼むとすぐに救うてもらうことが出来るように、信ずる人が多くなったのであります。
下総(しもうさ)の臼井(うすい)の町でも、城趾(しろあと)から少し東南に離れた田の中に、おたつ様という石の小さなほこらがあって、そこには村の人たちが麦こがしとお茶とを上げて、咳の出る病を祈っておりました。臼井の町の伝説では、おたつ様は昔|臼井竹若丸(うすいたけわかまる)という幼い殿様の乳母でありました。志津胤氏(しづのたねうじ)という者が臼井の城を攻め落した時に、おたつはかいがいしく若君を助けて遁(のが)れさせ、自分はこのあたりの沼の蘆原(あしはら)の中に隠れていました。追手の軍勢が少しも知らずに、沼の側を通り過ぎようとしたのに、あいにく咳が出たので見つかって、乳母のおたつは殺されてしまいました。それが恨みの種であるゆえに、死んで後までも咳をする子供を見ると、治してやらずにはおられぬのであろうと、土地の人たちも考えていたようであります。麦こがしは炒(い)り麦をはたいて作った粉であって、皆さんも御承知のとおり、食べるとよく咳が出るものであります。それを食べて今一度、咳の出る苦しさを思い出して下さいというつもりであったと見えて、近頃では焼き蕃椒(とうがらし)を供える人さえあるという話でありました。それからお茶を添えるのは、こがしにむせた時に茶を飲むと、それで咳が鎮まるからであろうと思います。(利根川図誌等。千葉県|印旛(いんば)郡臼井町臼井)
しかし東京などの咳のおば様は、別にそういう来歴がなくても、やはり頼むと子供の百日咳を治してくれたといいますから、この伝説は後で出来たものかも知れません。築地の稲葉家の屋敷の咳の爺婆は、以前は小田原から箱根へ行く路の、風祭(かざまつり)というところの路傍にあったのを、江戸へ持って来たものだということであります。風外(ふうがい)という僧が、庵(いおり)を作ってそこに住み、後に出て行く時に残して置いたので、おおかた風外の父母の像であろうといいましたが(相中|襍志(ざっし))、親の像を残して去る者もないわけですから、やはりこれも道の神の二つ石であったろうかと思います。山の峠や橋の袂(たもと)、または風祭のように道路の両方から丘の迫ったところには、よく男女の石の神が祀ってありました。箱根から熱海(あたみ)の方へ越える日金(ひがね)の頂上などにも、おそろしい顔をした石の像が二つあって、その一つを閻魔(えんま)さま、その一つを三途河(そうずか)の婆様だといいました。路を行く人が銭を紙に包んで、わんと開いた口の中へ、入れて行く者もあるそうです。しかしそこではまだ咳の病を、祈るということは聞いていません。
浅草には今から四十年ほど前まで、姥(うば)が淵(ふち)という池が小さくなって残っていて、一つ家石の枕の物凄(ものすご)い昔話が、語り伝えられておりました。浅草の観音様が美しい少年に化けて、鬼婆の家に来て一夜の宿を借り、それを知らずに石の枕を石の槌(つち)で撃って、誤ってかわいい一人娘を殺してしまったので、悲しみのあまりに婆はこの池に身を投げて死んだ。姥が淵という名もそれから起ったなどといいましたが、この池でもやはり子供の咳の病を、祈ると必ず治ると信じていたそうであります。これは竹の筒に酒を入れて、岸の木の枝に掛けて供えると、まもなく全快したということですから、姥神も、もとはやはり子供をまもって下さる神であったのです。(江戸名所記)
何か必ずわけのあることと思いますが、姥神はたいてい水の畔(ほとり)に祀ってありました。それで臼井のおたつ様のように、水の中で死んだ女の霊が残っているというように、説明する話が多くなったのであります。静岡の市から少し東、東海道の松並木から四五十間北へはいったところにも、有名な一つの姥が池がありました。ここでは旅人が池の岸に来て「姥|甲斐(かい)ない」と大きな声で呼ぶと、忽(たちま)ち池の水が湧(わ)きあがるといっておりました。「甲斐ない」というのは、今日の言葉で、「だめだなあ」ということであります。それについていろいろの昔話が伝わっているようですが、やはりその中にも咳の病のことをいう者があります。駿国雑志(すんこくざっし)という書物に載せている話は、昔ある家の乳母が主人の子を抱いてこの池の傍(そば)に来た時に、その子供が咳をして大そう苦しがるので、水をくんで飲ませようと思って、下に置いてちょっと目を放すと、その間に子供は苦しみのあまり、転げて池に落ちて死んでしまった。乳母も親たちに申しわけがなくて、続いて身を投げて死んだ。それだから「姥甲斐ない」というとくやしがり、また願掛けをすると咳が治るのだというのであります。ところが、うばは金谷(かなや)長者という大家の乳人(めのと)で、若君の咳の病がなおるように、この家の傍の石の地蔵様に祈り、わが身を投げて主人の稚児の命に代った、それでその子の咳が治ったばかりか、後々いつまでもこの病にかかる者を、救うのであるといっているものもあります。伝説はもともとこういうふうに聴くたびに少しずつ話が変っているのが普通ですが、とにかくにこの池のそばには咳の姥神が祀ってあり、ある時代にはそれが石の地蔵様になっていたらしいのであります。そうして地蔵様も道の神で、また非常に子供のすきな御方でありました。(安倍郡誌。静岡県清水市入江町元追分)
姥神がもと子安様と同じ神で、常に子供の安全を守りたもう神であるならば、どうして後々は咳の病ばかりを、治して下さるということになったのであろうか、何かこれには思い違いがあったのではないかということを、考えて見ようとした人もありました。上総国の南の端に関という村があって、以前そこには高さ約五尺、周囲二十八尺ばかり、形は八角で上に穴のある石が二つありました。大昔この村に関所の門があって、これはその土台の石であるということで、土地の人は関のおば石と呼んでおりました。おば石は御場石と書くのがよいという者もありましたが、やはりほんとうは姥石であったようで、ちかごろ道普請のために二つある石の一方を取り除(の)けたところが、それから村内に悪いことばかりが続くので、また代りの石を見つけて南手の岡の上にすえて、これを姥神といって祀ることになりました。もとの地に残っている方の一つの石も、姥石だと思っている人が多いようであります。そうして他の地方にある神石と同様に、この百年ほどの間に重さが倍になったという説もありました。(上総町村誌。千葉県君津郡関村関)
咳のおば様は実は関の姥神であったのを、せきというところから人が咳の病ばかりに、祈るようになったのであろうという説を、行智法印(ぎょうちほういん)という江戸の学者が、もう百年余りも前に述べていますが(甲子夜話(かつしやわ)六十三)、この人は上総の関村に、おば石があることなどは知らなかったのであります。関の姥神はもちろん、上総と安房(あわ)との堺(さかい)ばかりにあったのではありません。一番有名なものは京都から近江(おうみ)へ越える逢阪(おうさか)の関に、百歳堂(ももとせどう)といってあったのも姥神らしいという話であります。後には関寺小町(せきでらこまち)といって、小野小町が年を取ってからここにいたという話があり、今の木像は短冊と筆とを手に持った老女の姿になっていますが、以前はこれももっとおそろしい顔をした石の像であり、その前はただの天然の石であったかも知れませぬ。せきはすなわち塞(せ)き留める意味で、道祖神のさえも同じことだ、と行智法印などはいっております。いかにも関東地方の道祖神には、石に男と女の像を彫刻したものが多く、姥石の方にも実は爺石と二つ並んだものが、もとはたくさんにあったのでありますが、人が婆様ばかりを大切にするようになって、二つの石はだんだん仲が悪くなりました。
これには閻魔さまの信仰が盛んになるにつれて、三途河の婆様の木像を方々のお寺に祭るようになったことが、一つの原因であったかも知れません。お寺ではこのこわい顔をした婆のことを、奪衣婆(だつえば)といっております。地獄の途中の三途河という川の岸に関をすえて、この世から行く悪い亡者(もうじゃ)の、衣類を剥(は)ぎ取るというので有名になっております。仏説地蔵菩薩発心因縁十王経(ぶっせつじぞうぼさつほっしんいんねんじゅうおうきょう)という日本でつくった御経に、この事が詳しく書いてありまして、それを見ると奪衣婆も決して後家ではないのです。懸衣翁(けんえおう)というのがその爺の方の名でありました。
「婆鬼は盗業を警(いまし)めて両手の指を折り、翁鬼は無義を悪(にく)んで頭足(ずそく)を一所に逼(せば)む」ともあって、両人は夫婦のように見えるのでありますが、木像は大抵婆の方ばかりを造ってありました。これにも深いわけがあるのですが、皆さんにはそんな話はつまらないでしょう。
とにかくにこの奪衣婆を拝むようになってから、姥神は多くは一人になり、またその顔が次第におそろしくなりました。江戸で関のおば様に豆炒りを上げるようになった頃から、市内の寺にも数十箇所の木像の婆様が出来、今でもまだそちこちで盆にはお詣(まい)りをする者があります。それからはやり病などの盛んな時に、こわい顔をした婆のはいって来るのを見たというような話が、だんだんに多くなったようであります。甘酒婆といって、甘酒はないかといいながらはいって来る婆が、疫病神だなどというひょうばんもよく行われました。可愛い子供をもつ親たちは、こういう場合には急いでどこかの婆神様にお詣りしました。関のおばさまが江戸でこのように評判になったのも、私はきっと質(たち)の悪い感冒の、はやった年などが始めであったろうと思っています。
それにしてもせきのおば様というような、古い名前が残っていながら、どうしてこんな石の婆の像のところへ、子供の病気を相談に行くのかは、もうわからなくなっていたようであります。三途河の婆様の三途河という言葉なども、やっぱり関ということでありました。三途河はにせものの十王経には葬頭河(そうずか)とも書いてありますが、そんな地名が仏教の方に前からあったわけでなく、そうずかは日本語でただ界(さかい)ということであったのを、後に誰かがこんなむつかしい字をあてはめたのであります。富士山その他の霊山の登り口または大きなお社に詣る路には、大抵はそういう場所があります。精進川(しょうじがわ)と書くのが最も普通で、実際そこには水の流れがあり、参詣(さんけい)の人はその水で身を潔(きよ)めたようですが、それが初めからの言葉の意味を、表したものであるかどうかはまだ確でありません。ただそこが神様の領分の堺(さかい)であるために、いよいよ厳重に身をつつしみ、また堺を守る神を拝んだようであります。昔の関の姥神は、おおかた連れ合の爺神と共に、ここで祀られた石の神であったろうと、私などは考えています。それを仏教の方に働いていた人たちが、持って行って地獄に行く路の、三瀬川(みつせがわ)の鬼婆にしたのであります。それだからこの世にある諸国のそうずかには、多くは奪衣婆の像を祀ってあるのであります。
日本本土で一番北の端にあるのは、奥州|外南部(そとなんぶ)の正津川(しょうづがわ)村の姥堂で、私も一度お参りをしたことがあります。東海道では尾張(おわり)の熱田(あつた)の町にある姥堂は、古くから有名なものでありました。これは熱田神宮の精進川に架けた御姥子(おんばこ)橋、一名さんだが橋の袂(たもと)にある御堂で、もとは一丈六尺の奪衣婆の木像が置いてあった為に、熱田神宮は御本地(ごほんじ)閻魔王宮だなどとおそれ多いことをいう者さえありましたが(紹巴(しょうは)富士見道記)、これは姥神のもとのお姿を、忘れてしまった人のいうことであります。十王経はうその御経でしたが、これに基づいて地獄の絵解きをする者が全国を旅行しており、それがまた婦人でありました為に、わずかな間に方々の御姥子様が、見るもおそろしい奪衣婆になってしまいました。以前はこれよりずっとやさしい顔であったことと思います。そうでなければわざわざ地獄からやって来て、活きた人間の子供のために、こんなに親切に心配をしてくれるはずはないからであります。
今でも三途河の婆様はこわい顔をしながら、子供たちの友人であります。盆の十六日には藪入りの少年が遊びに来ます。そればかりでなく、もっと小さな子供の為にも、頼まれると乳の心配をしたなどというのは、まったくの商売ちがいのように見えますが、それがかえって昔からの、姥神の役目であったのです。羽後(うご)の金沢の専光寺(せんこうじ)のばばさんは、寺では三途河の姥だといっていますが、乳の少い母親が願掛けをすると、必ずたくさんに出るようになるといいます。この像は昔専光寺の開山|蓮開上人(れんかいしょうにん)の夢に一人の女が現れて、われは小野寺の別当林の洞穴(ほらあな)の中に、自分の像と大日如来の像とを彫刻して置いた。早く持って来て祭るがよいと教えてくれた。さっそく行って見るとその通りの二つの像があったので、迎えて来たといい伝えています。雄勝(おかち)の小野寺は芍薬(しゃくやく)の名所で、小野小町を祀ったという寺がありますから、そこから迎えて来た木像ならば、たとえ小町ほどに美しくはなくても、まさか鬼見たようではなかったろうと思います。(秋田県案内。秋田県|仙北(せんぼく)郡金沢町荒町)
荘内(しょうない)大泉村の天王寺のしょうずかの姥も、乳不足の婦人が祈願すれば乳を増すといって、多くの信者がありました。これも至って古い作の木像だそうですから、後に名前だけが改まったものであろうと思います。(三郡雑記。山形県西田川郡大泉村下清水)
遠州|見付(みつけ)の大地蔵堂の内にある奪衣婆の像は、新しいものだろうと思いますが、ここでも子供の無事成長を祈る人が多く、そのお礼には子供の草履を上げました。新に願掛けをする者は、その草履一足を借りて行き、お礼参りの時にはそれを二足にして納めるので、いつも地蔵堂の中は、子供の草履で一杯であったといいます。(見付次第。静岡県|磐田(いわた)郡見付町)
それから上州の高崎市には、大師石という一つの霊石があって、その附近には弘法(こうぼう)大師の作と称する石像の婆様があり、これをしょうずかの婆石といっておりました。これには咳をわずらう人が祈願をして、しるしがあればやはり麦こがしを持って来て供えたということであります。(高崎志。群馬県高崎市赤坂町)
越後では長岡の長福寺という寺に、古い十王堂があって閻魔様を祀っていましたが、ここでは米の炒り粉を供えて咳の病を祈ると、立ちどころに全快するということで、咳の十王といえば誰知らぬ者もなかったそうです。閻魔に米のこがしを上げるのは珍しい話ですが、ことによるともとは見付の地蔵堂の草履のように、同居をしていたもとの姥様のおつきあいであったかも知れません。閻魔と地蔵とは同じ一つの神の、両面であるといった人もあります。もしそうだったら地蔵は子供の世話役ですから、わざわざこわい顔をした婆さんに頼む必要はないのですが、以前はこれがわれわれの子安神であった上に、いつも御堂の端の方に出ていて、参詣人の目につき易いところから、子供やその母親の願いごとは、やはりその婆様の取り次ぎを頼む方が、便利であったものと思われます。実際また人間の方でも、地蔵や閻魔の祭りに加わった者は、つい近い頃まで総て皆婦人でありました。それが子安姥神の三途河の婆になって後も、永くもてはやされていた一つの原因であろうと思います。 
驚き清水(しみず)

 

乳母が大切な主人の子を水の中に落して、自分も申しわけのために身を投じて死んだという話は、駿河(するが)の姥(うば)が池の他にもまだ方々にあります。これだけならばほんとうにあったことかと思われますが、なおその外にもこれによく似た不思議話があるので、それが伝説であることが知れるのであります。
越後の蓮華寺(れんげじ)村の姨(おば)が井という古井戸などもその一つで、そこでも人が井戸の傍(そば)に近よって、大きな声でおばと呼ぶと、忽(たちま)ち井戸の底からしきりに泡(あわ)が浮んで来て、ちょうどその声に答えるようであるといいました。或(あるい)はこれを疑う者が、かりにあにと呼び、またはいもうとと呼んで見ても、まるで知らぬ顔をしてすこしも泡が立たなかったということであります。(温故之栞(おんこのしおり)十四。新潟県三島郡大津村蓮華寺字仏[(ノ)]入)
すなわち死んでもう久しくなった後まで、姨の霊が水の中に留(とどま)っていると考えさせられた人が多かったのであります。同じ国の曽地(そじ)峠というところには、またおまんが井というのがありました。これも傍に立っておまんおまんと呼ぶと、きっと水の面に小波(さざなみ)が起ったといいます。おまんはこの近くに住んでいた某(なにがし)という武士(さむらい)の女房でありました。夫に憎まれて、殺されてこの井戸に投げ込まれたゆえに、いつまでもそのうらみが水の中に残っているのだということであります。(高木氏の日本伝説集。新潟県|刈羽(かりわ)郡|中通(なかどおり)村曽地)
これとよく似た伝説は、上州伊勢崎の近くの書上原(かきあげはら)というところにもありました。それは阿満(あま)が池という小さな池があって、その岸に立って人があまと呼ぶと、清水がすぐにその声に答えて下から湧(わ)き上り、「しばしば呼べばしばしば出づ」といっております。(伊勢崎風土記。群馬県|佐波(さわ)郡|殖蓮(うえはす)村上植木)
あまもおまんもまた姨が井のおばも、その声がまことに近いのは、何か理由があることかも知れません。駿河の姥が池でも人がうばと呼べば湧き上り、姥甲斐なしといえばいよいよ高く泡を吹いて、水を動かしたという話であります。清水の湧き出る池や井戸では、永くじっとみていると泡が上り、また周りの柔かい土を踏むと、水が動くこともあるかと思いますが、ただ大きな声で呼ぶと呼ばぬとで、湧いたり止ったりすることがあるというのは奇妙です。しかしこれも早くから評判になっていて、人が特別に注意するために、こういうことがわかったのかも知れません。
同じような不思議は実はまだ方々にありました。それを少しばかりお話して見ましょう。
摂津(せっつ)有馬(ありま)の温泉には、人が近くへ寄って大声で悪口をいうと、忽ち湧き上るという小さな湯口があって、これを後妻湯(うわなりのゆ)と呼んでおりました。うわなりという言葉は後妻のことですが、後に女の喧嘩(けんか)のことをいうようになってからは、別に悪口をする者はなくても、若い娘などが美しく化粧をして湯の傍に行くと、すぐに怒って湧き立つという評判になり、それを妬(ねた)みの湯という人もありました。これなどはよほど姥が池の話と似ております。(摂津名所図会。兵庫県有馬郡有馬町)
野州(やしゅう)の那須の温泉でも、もとは湯本から三町ばかり離れて、教伝(きょうでん)地獄というところがありました。人がそこへ行って、「教伝甲斐ない」と大きな声でどなると、たちまちぐらぐらと湯が湧いたといいます。昔教伝という男は山へ薪(たきぎ)を採りに行く時に、朝飯が遅くなって友だちが先に行くのに腹を立てて、母親を踏み倒して出かけたので、其(その)罰でその魂がいつまでも、こんなところにいるのだという話もありました。(因果物語。栃木県那須郡那須村湯本)
伊豆の熱海にはまた平左衛門湯(へいざえもんゆ)というのがあって、「平左衛門甲斐ない」とからかうと湯が湧くといい、旅の人がそれを面白がるので、村の子供たちが銭をもらって、呼ばって見せたということであります。それが多分今の間歇泉(かんけつせん)のことであろうと思いますが、前にはその東に清左衛門湯、一名|法斎湯(ほうさいゆ)というのもあって、そこでも大声に念仏を唱えて暫(しばら)く見ていると、高く湯が湧き上るといっておりました。法斎も人の名のように聞えますが、実は法斎念仏という踊りの念仏のことで、それだから法斎念仏川とも呼んでおりました。念仏でなくとも、高声に何か物をいえば湧くのだといった人もありますが、だまって見ていても自然に湧き上ったのかも知れません。(広益俗説弁遺篇其他。静岡県|田方(たがた)郡熱海町)
温泉ではなくとも、念仏を唱えると水がわくという池は方々にありました。京都の西の友岡村では、百姓太右衛門という人の屋敷の後に、いつもは水がなくて、岸に立って念仏を申すと、忽ち湧き出すという池があって、それで念仏池といっておりました。近頃はどうなったか、私はまだ行って見たことがありません。(緘石録。京都府|乙訓(おとくに)郡新神足村友岡)
美濃(みの)の谷汲(たにぐみ)の念仏池は、三十三所の観音の霊場である為に、はやくから有名でありました。池には小さな橋が架かっていて、これを念仏橋といい、橋の下には石塔が一つあり、橋からその石塔に向って念仏を唱えると、水面に珠の如く沸々と泡が立つ。しずかに唱えればしずかに立ち、責め念仏といって急いで唱えると、泡もこれに応じてたくさんに浮んだという話であります。(諸国里人談。岐阜県|揖斐(いび)郡谷汲村)
この県には今一つ、伊自良(いしら)の念仏池というのがありました。やはり同じ伝統があったのかと思います。少し甘味があるというくらい良い清水で、皮膚病の人などはこの水を汲んで塗ると、すぐに治るとまでいっておりました。(稿本美濃誌。岐阜県山県郡上伊自良村)
上総の八重原(やえはら)という村でも小学校の裏手に、念仏池というのが今でもあるそうです。これは泡ではなく池の畔(ほとり)に立って念仏を唱えて見ていると、水の底から忽ち清い砂を吹き出すというのは、やはり清水がわいているのであります。(伝説叢書上総の巻。千葉県君津郡八重原村)
これとちょうど正反対の例は、陸前の岩出山(いわでやま)の近く、うとう阪という阪の脇にありました。いつも湧き上って底から砂を吹いていますが、人がその側に近づいて南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)を唱えて手を打てば、暫くの間は湧き上ることが止(や)むというのです。そのくせ泉の名を驚きの清水と呼んでおりました。(撫子日記。宮城県|玉造(たまつくり)郡岩出山町)
驚きの清水というのは、普通の池や泉とちがって、人のような感覚をもった活きた水ということであったようです。豊後(ぶんご)風土記という千年あまりも前の書物にも、そんな話が書いてあります。たぶん今の別府(べっぷ)の温泉の近くでありましょうが、玖倍利(くべり)湯の井という温泉は、いつも黒い泥が一ぱいになって湯は流れないが、人がこっそりと湯口の傍に近より、ふいに大きな声を出して何かいうと、驚き鳴って二丈あまりも湧きあがるといっているのであります。それが後になると念仏の話ばかり多くなったのは、つまり念仏が非常にはやったからであると思います。この国でも田野の千町牟田(せんちょうむた)には、朝日長者の屋敷跡というところがあって、そこには念仏水という小さな池がありました。人がその岸に立って南無阿弥陀仏を唱えると、水もこれに応じて泡を立て、ぶつぶつといったという話が残っています。(豊薩(ほうさつ)軍記。大分県|玖珠(くす)郡飯田村田野)
それからこの県の東の沖にある姫島という島では、拍子水(ひょうしみず)と名づけて、手を叩けばその響きに応じて、迸(ほとばし)り流れるという泉があって、これを姫島の七不思議の一つに算(かぞ)えておりました。この島の神様|赤水(あかみず)明神は姫神でした。この水を掬(く)んで歯をお染めになろうとすると水の色が赤錆(あかさび)色であったので、また銕漿水(おはぐろみず)という名前もありました。お社はその泉の前の岩の上にあり、御神体は筆を手に持って、歯を染めようとする女の御姿(みすがた)でありました。不思議なことにはただ手拍子につれて水が湧くというばかりでなく、胃腸の悪い人はこの水を飲むと治り、また皮膚病にも塗れば治ったということは、美濃の伊自良の念仏池などと同じでありました。(日女島(ひめじま)考等。大分県東|国東(くにさき)郡姫島村)
支那にもこれとよく似た泉が方々にあったそうで、土地によっていろいろの名をつけております。あるところでは咄泉(とつせん)といっておりました。どなると湧き出す清水ということであります。あるところでは笑泉(しょうせん)。人が笑い声を出すと水が急に湧いたというので、すなわち驚きの清水も同じ意味であります。喜客泉は、人が来ると喜んでわく清水、撫掌泉(ぶしょうせん)といったのは、手を打つとその声に応じて流れるという意味でありました。日本でもぜひ念仏を唱えなければ、湧き出さぬというわけでもなかったのであります。実地に行って見ないと確なことは知れませんが、大抵は周囲の土が柔かで、足踏みの力が水に響いたのではないかと思います。常陸(ひたち)の青柳(あおやぎ)という村の近くには、泉の杜(もり)というお社があって、そこの清水も人馬の足音を聞けば、湧き返ること煮え湯のようであるといい、それで活き水と呼び、また出水川(いずみがわ)三日(みか)の原はここだともいう人がありました。(広益俗説弁遺篇。茨城県|那珂(なか)郡柳河村青柳)
甲州|佐久(さく)神社の七釜(ななかま)の御手洗(みたらし)という清水なども、人がその傍を通ると水がたちまち湧きあがり、細かな砂が浮き乱れて、珍しい見物であるという話であります。ただ近くに行っただけですぐに湧くくらいですから、南無阿弥陀仏といったり、姥甲斐ないとでもいおうものなら、もちろん盛んに湧き上ることと思いますが、ここでは誰もそんなことをして見ようとはしなかっただけであります。(明治神社誌料。山梨県|東八代(ひがしやつしろ)郡富士見村河内)
昔の人たちは飲み水を見つけることが、今よりもずっと下手でありました。井戸を掘って地面の底の水を汲み上げることは、永い間知らなかったのであります。それだからわざわざ川や池に出かけたり、または筧(かけひ)というものを架けて、遠くから水を引いて来たので、あまり離れたところには家を建てて住むことが出来ませんでした。たまに思いがけない土地に泉を見出すと、喜んでそこに神様を祀り。それからおいおいにその周囲に村を作り、また旅人もそこを通って行きました。水がないので一番困ったのは旅の人でありますが、その中には水を見つけることが普通の人よりも上手な者があって、土地の様子を見て地下に水のあることを察し、井戸を掘ることを教えたのも、彼等であったろうということであります。諸国の山や野を自由にあるいていた行脚(あんぎゃ)の僧、ことに空也上人(くうやしょうにん)という人などが、多くの村々に良い泉を見立てて残して行ったということで、永く住民に感謝せられております。空也はわが国に念仏の教えを弘(ひろ)めた元祖の上人でありました。後の世にその道を慕う人たちは、いつでも美しい清水を汲むたびに、必ずこの上人の名を想い出しました。阿弥陀の井という古い井戸が各地に多いのは、多分その水のほとりにおいて、しばしば念仏の行をしたためであろうと思います。空也派の念仏は多くの人が集って来て、踊り狂いつつ合唱する念仏でありました。念仏池の不思議が土地の人に注意せられるようになったのも、それにはそれだけの原因があったのであります。しかしそれだけの原因からでは、他のいろいろな驚き清水、おまんが井や阿満が池の伝説は出て来なかったろうと思います。念仏の僧たちが諸国を行脚してあるくよりもなお以前から、水の恵みを大切に感じて、そこに神様を祭ってそのお力を敬うていたことが、むしろ念仏の信仰を泉のへんに引きつけたのかも知れません。そうしてその神様が、後に姥神の名をもって知られた子安の神であったことは、まだこれからお話して見ようと思う多くの伝説によって、おいおいにわかって来るのであります。 
大師講の由来

 

伝説の上では、空也上人よりもなお弘く日本国中をあるき廻って、もっとたくさんの清い泉を、村々の住民のために見つけてやった御大師様という人がありました。大抵の土地ではその御大師様を、高野(こうや)の弘法大師のことだと思っていましたが、歴史の弘法大師は三十三の歳に、支那で仏法の修業をして帰って来てから、三十年の間に高野山を開き、むつかしい多くの書物を残し、また京都の人のために大切ないろいろの為事(しごと)をしていて、そう遠方まで旅行をすることの出来なかった人であります。こういうえらい方だから、亡くなったと見せてほんとうはいつまでも国々を巡って修業していられるのであろうと思っていた人も少くはなかったので、こんな伝説が弘く行われたのでもありましょう。高野の大師堂では、毎年四月二十一日の御衣(おころも)替えに、大師堂の御像の衣を替えて見ると、いつもその一年の間に衣の裾が切れ、泥に汚れていました。それが今でも人に知られずこっそりと、この大師がわれわれの村をあるいておられる証拠だなどという人もありました。
とにかくに伝説の弘法大師は、どんな田舎の村にでもよく出かけました。その記念として残っている不思議話は、どれもこれも皆似ていますが、中でも数の多いのは今まで水のなかった土地に、美しくまた豊なる清水を与えて行ったという話でありました。東日本の方は大抵は弘法井、または弘法池などといい、九州ではただ御大師様水と呼んでおります。もとは大師様とばかりいっていたのを、後に大師ならば弘法大師であろうと、思う者が多くなったのであります。あんまり同じような話がたくさんにあって、いくつも並べて見てもつまりませんから、私はただ飛び飛びに今知っている話だけを書いて置きます。皆さんも誰かに聞いて御覧なさい。きっと近くの村にこういういい伝えがあって、それにはいつでも女が出てきます。その女がほんとうは関の姥様(おばさま)であったのであります。
普通は飲み水の十分に得られないような土地に、こういう昔話が数多く伝わっています。人がいつまでも忘れられないよろこびの心を、起さずにはいられなかったからであろうと思います。石川県の能美(のみ)郡なども、村々に弘法清水があって、いずれも大師の来られなかった前の頃の、水の不自由を語っております。例えば粟津(あわづ)村|井(い)の口(くち)の弘法の池は、村の北の端にある共同井戸でありますが、昔ここにはまだ一つの泉もなかった頃に、ある老婆が米を洗う水を遠くから汲(く)んで来たところへ、ちょうど大師様が来合せて、喉(のど)が乾いたからその水を飲ませよといわれました。大切な水を惜しげもなくこころよくさし上げますと、そんなに水が不自由なら一つ井戸を授けようといって、旅の杖(つえ)を地面に突き立てると、忽(たちま)ちそこからいい水が流れ出して、この池になったといっております。鳥越(とりこし)村の釜清水(かましみず)という部落なども、釜池という清水が村の名になるほど、今では有名なものになっていますが、もとはやはり水がすくなくて、わざわざ手取(てとり)川まで汲みに行っておりました。土地の旧家の次郎左衛門という人の先祖の婆さまが、親切にその水を大師に進めたお礼に、家の前にこの池をこしらえて下されたのであります。それだから今でも池の岸には大師堂を建て、水の恩を感謝しているということであります。花阪(はなさか)という村にももとは良い水がなくて、ある家の老女が遠方から汲んで来たのを、大師様に飲ませました。そうするとまた杖をさして、ここを掘って見よといって行かれました。それが今日の花坂の弘法池であります。ところがその近くの打越(うちこし)という村では、今でも井戸がなくて毎日河へ水汲みに出かけます。これはまた昔その村の老婆が、大師様が水をほしいといわれた時に、腰巻を洗う水を勧めたその罰だと申します。湊(みなと)という村にも以前は二つまで弘法大師の清水があって、今ではその一つは手取川の堤の下になってしまいましたが、これも大師が杖のさきで、突き出した泉であるといっておりました。ところがその隣りの吉原という村には、そういう結構な井戸がないばかりでなく、今でも吉原の赤脛(あかすね)といって、村の人が股引(ももひき)をはくと病気になるといい伝えて、冬も赤い脚を出しているのは、やはりある姥が股引を洗濯していて、せっかく水を一ぱいくれといわれた弘法大師に、その洗い水を打ち掛けたからだといっております。良い姥、悪い姥の話は、まるで花咲爺、または舌切り雀などと同じようではありませんか。(以上みな能美郡誌)
それから能登(のと)の方では羽阪(はざか)という海岸の村では、昔弘法大師がこのへんを通って水を求められた時に、情なくも惜しんで上げなかったため、大師は腹を立てて一村の水をしまい込んでおしまいになったといって、今でもどこを掘って見ても水に銕気(かなけ)があって使うことが出来ず、仕方なしに食べ物には川の水を汲んで来るという話でありました。(能登国名跡志。石川県鹿島郡鳥尾村羽阪)
また羽咋(はくい)郡の末吉(すえよし)という村でも、水を惜しんで大師に与えなかったために、今に良い清水を得ることが出来ぬといっていますが、その近くの志加浦上野(しがうらうえの)という部落では親切にしたので、大師はそのお礼にそばの岩を指さすと、忽ちその岩の中から水が湧いたといっています。そして名産の志賀晒布(しがざらし)また能登縮(のとちぢみ)をこの水で晒(さら)して、いつまでもそのめぐみをうけているということであります。(郷土研究三編。石川県羽咋郡志加浦村上野)
若狭(わかさ)の関谷川原(せきやがわら)という所は、比治(ひじ)川の水筋がありながら、ふだんは水がなくして大雨の時にばかり、一ぱいになって渡ることの出来ない困った川でありました。これも昔この村の老女が一人、川に出て洗濯しているおりに、僧空海が行脚して来てのどがかわいたので、水でも貰いたいとこの老女にいわれたところが、この村には飲み水がありませんと、すげなく断りました。それを非常に立腹して唱えごとをしてから川の水をことごとく地の下を流れて行くことになって、村ではなんの役にも立たぬ川になってしまったのだそうです。(若狭郡県志。福井県|大飯(おおい)郡|青(あお)[(ノ)]郷(ごう)村関屋)
近江の湖水の北にある今市(いまいち)という村でも、村には共同の井戸が一つあるだけで、それがまたすぐれて良い水でありました。これも弘法大師が諸国を歩きまわって、ちょうどこの村に来て一人の若い娘に出逢い、水が飲みたいといわれました。すると親切に遠いところへ汲みにいって、久しい間大師を待たせましたので、大師がそのわけを聴いて気の毒に思い、持っていた杖でそこいらの岩の間を突かれると、すなわち清水が湧き出たのがこの井戸であるといいます。(郷土研究二編。滋賀県|伊香(いか)郡片岡村今市)
伊勢の仁田(にた)村では井戸世古(いどせこ)の二つ井といって、一つは濁って洗濯にしか使われず、その隣りの井戸はまことによい水でありました。やはり老いたる女が洗濯をしているところへ、弘法大師が来て水を求めた時に、その水は悪いからといって、わざわざたいへん遠いところまで行って汲んで来てくれましたので、大師がそれは困るだろうといって、杖を濁り井のすぐ脇の地面に※[「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている](さ)すと、そこからこのような清い泉が湧き出たというのであります。(伊勢名勝誌。三重県|多気(たき)郡|佐奈(さな)村仁田)
紀州は弘法大師の永くおられた国だけに、幾つかの名水が大抵はこの大師のお蔭ということになっています。日高(ひだか)郡ばかりでも弘法井は南部(みなべ)の東吉田(ひがしよしだ)、上南部の熊岡、東内原(ひがしうちはら)の原谷(はらたに)にもあり、西内原の池田の大師堂の近くにもありました。船津(ふなつ)の阪本の弘法井は、今でも路通る人が花を上げお賽銭(さいせん)を投げて行きます。高家(たかいえ)の水飲谷(みずのみだに)にあるのは、弘法大師が指先で穿(ほ)ったといって結構な水であります。南部の旧熊野街道の山路に、今一つある弘法井などは、親切な老婆が汲んで来た水が、千里の浜まで汲みにいったものだという話を聞いて、それはたいへんなことだといって、大師が錫杖(しゃくじょう)のさきで、穿って下さった井戸だといっております。(以上みな南紀土俗資料)
伊都(いと)郡の野村という所などは、弘法大師が杖で突いてから涌(わ)き出したと伝わって、幅五尺ほどの泉が二十五間もある岸の上から落ちて、広い区域の田地を潤しています。話は残っているかどうか知りませぬが、それを今でも姥滝というのであります。杖(つえ)が藪(やぶ)という村にも大師が杖で穿ったという加持水(かじすい)の井戸があって、その杖を投げて置かれたら、それが成長して藪になったといい、村の名までがそれから出ているのであります。(紀伊続風土記。和歌山県伊都郡高野村杖ヶ藪)
こんな話は幾らでもありますから、もういいかげんにして置きましょう。四国などは大師の八十八箇所もあるくらいですから、この突きさした杖に根が生えて、だんだん成長したのだという大木の数だけでも、数え切れないほどたくさんにあり、悪い婆さんと善い婆さんとが、たった一杯の水を惜しんだか与えたかによって、片方はいつまでも井戸の水が赤くて飲まれず、他の片方はこんな良い水を大師様に貰ったという伝説が、もう昔話のようになって多くの村の子供に語り伝えられております。
杖の清水の話の中でも、殊に有名なものは、阿波(あわ)では下分上山(しもぶんかみやま)の柳水(やなぎみず)、この村にはもとは水がなかったのを、大師がその杖で岩を突き、そこから清水が流れ出るようになりました。杖は柳の木で、永くその泉の傍に青々と茂っていたそうであります。(阿州奇事雑話。徳島県|名西(みょうざい)郡下分上山村)
伊予では高井(たかい)の西林寺(せいりんじ)の杖の淵(ふち)。この村にも昔は水がなかったのですが、大師が来て杖を地に立ててから、淵になるまでの立派な泉が涌き出したのだそうです。しかしその杖は今ではもうないので、竹であったか柳であったかわからなくなってしまいました。(伊予温故録。愛媛県温泉郡久米村高井)
どうして旅の僧が行く先々に、杖を立ててあるくのかということを、私はいろいろに考えて見ましたが、池や泉と関係のないことははぶいて置きます。九州の南の方では性空上人(しょうくうしょうにん)、越後の七不思議の話では親鸞(しんらん)上人、甲州の御嶽(みたけ)の社の近くには日蓮上人などが、竹の杖を立ててそれが成長したことになっていますが、水が湧き出した話には、どうも大師様が多いようであります。東京の附近では入間(いるま)郡の三つ井という所に、弘法大師が来られた時には、気立てのやさしい村の女が、機を織っていたそうであります。水がほしいといわれるので、機から下りて遠いところまで汲みに行きました。それは定めて不自由なことであろうと、さっそく杖をさして出るようにして下さったという清水が、今でも流れて土地の名前にまでなっております。(新篇|武蔵(むさし)風土記稿。埼玉県入間郡所沢町上新井字三つ井)
女が機を織っていたという話も、何か特別のわけがあって、昔から語っていたことのようであります。大師の井戸の一番北の方にあるのは、今わかっているものでは山形県の吉川という所で、ここまで伝説の弘法大師は行っておられるのであります。その昔大師が湯殿山(ゆどのさん)を開きに来られた時に、喉(のど)が乾いてこの村のある百姓の家にはいって、水を飲ませてくれと申されますと、女房がひどい女で、米の磨(と)ぎ汁を出しました。それを大師はだまって飲んで行かれたが、あとで女房の顔が馬になってしまった。それからまた二三町も過ぎたところのある家では女房は機を織っていました。ここでも水がほしいといわれますと、いやな顔もせずに機から下りて、遠いところまで汲みに行ってくれました。大師は喜んでこの村には良い水がないと見える。一つ掘ってやろうといって、例の杖をもって地面に穴をほりますと、こんこんとして清水が湧きました。それが今もある大師の井戸だというのであります。(郷土研究一編。山形県西村山郡川土居村吉川)
ここでまず最初に、われわれが考えて見なければならぬのは、それがほんとうに弘法大師の僧空海であったろうかということであります。広い日本国中をこの通りよく歩き廻り、どこでも同じような不思議を残して行くことは、とても人間わざでは出来ぬ話でありますが、それを神様だといわずに、なるべく誰か昔の偉い人のしたことのように、われわれは考えて見ようとしたのであります。それには弘法大師が最もその人だと、想像し易かっただけではないでしょうか。温泉の方にも杖で掘り出したという伝説が少しはあります。上州の奥にある川場(かわば)の温泉なども、昔弘法様が来てある民家に一泊したときに、足を洗う湯がないので困っていると、さっそく杖をその家の入り口にさして、出して下されたのがこの湯であるといい伝えております。それだからこの温泉は脚気(かっけ)によくきくのだと土地の人はいい、またその湯坪の片脇に、今でも石の小さな大師様の像を立てて、拝んでいるのだということであります。(郷土研究一編。群馬県|利根(とね)郡川場村川場湯原)
ところが摂津(せっつ)の有馬(ありま)の湯の山では、豊臣秀吉がやはり杖をもって温泉を出したという話になっております。太閤(たいこう)が有馬に遊びに来た時に、清涼院(せいりょういん)というお寺の門の前を通ってじょうだん半分に杖をもって地面の上を叩き、ここからも湯が湧けばよい。そうすれば来てはいるのにといいますと、たちまちその足もとから、温泉が出たといいます。それでその温泉の名を上の湯、一名願いの湯とも呼んでおりましたが、後にはその名ばかり残って、温泉は出なくなってしまいました。(摂陽郡談八)
太閤様は思うことがなんでも叶(かな)った人だから、そういうこともあったか知れぬと、考えた者はずいぶんありました。ぜひとも弘法大師でなくてはならぬというわけでもなかったのであります。尾張(おわり)の生路(いくじ)という村には、あるお寺の下に綺麗(きれい)な清水があって、これも大師の掘った井戸だと、土地の人たちはいっておりましたが、それが最初からのいい伝えでなかったことは明かになりました。四百年ばかり前に、ある学者がこの寺に頼まれて書いた文章には、大昔|日本武尊(やまとたけるのみこと)が、ここに来て狩りをなされ、渇きをお覚えなされたが水がないので、弓※[「弓+悄のつくり」](ゆはず)をもって岩をおさしになると清い泉が湧いた。それがこの井戸であると誌しております。近頃はもう水も出なくなりましたが、以前は村の者が非常に尊敬していた井戸で、穢(けが)れのあるものがもしこれを汲もうとすると、俄(にわか)に水の色が濁ってしまうとまで信じていたそうであります。(張州府志。愛知県知多郡東浦村生路)
これと同じような伝説は、他の地方に数多くありまして、ただ関係した人の名が違っているばかりであります。関東などで一番多くいうのは、八幡(はちまん)太郎|義家(よしいえ)であります。軍(いくさ)の半(なかば)に水が得られないので、神に念じ、弓をもって岩に突き、また矢を土の上にさすと、それから泉が流れて士卒ことごとく渇を癒(い)やした。よってこれを神水として感謝のため神の御社を建てて永く祀(まつ)ったといって、その神も多くは八幡様であります。小高い所から泉の湧く場合には、大抵は土が早く流れて岩が現れて来ますので、一そう普通の人間の力では、見出すことが出来なかったように想像する者が多くなったことなのかと思います。すなわちこの石清水(いわしみず)八幡の伝説なども、後になるほどだんだんに数が多くなったわけでありますが、それがお社も何もない里の中や道の傍、または人家の間に挾(はさ)まってしまうと、話はどうしても杖を持った行脚の旅僧という方へ、持って行かれやすかったようであります。
それからまた他のいろいろの天然の不思議を、あれもこれも同じ弘法大師の仕事のように、説明するふうが盛んになりました。その中でも最も人のよく知っている例に、石芋(いしいも)といって葉は全く里芋の如く、その根は硬くて食べることの出来ない植物、または食わず梨(なし)といって、味も何もない梨の実などであります。いずれもその昔一人の旅僧がそこを通って、一つくれぬかと所望したのを、物惜しみの主人が嘘をついて、これは硬くてだめですとか、または渋くて上げられませんとかいった。そうかといって旅僧は行ってしまったが、後で聞くとそれが大師様であった。その芋また梨はそれから以後硬くまた渋くなってしまって、食べることが出来なくなったなどというのであります。伝説の弘法大師は全体に少し怒り過ぎ、また喜び過ぎたようであります。そうして仏法の教化とは関係なく、いつもわれわれの常の生活について、善い事も悪い事も共に細かく世話を焼いています。杖立て清水をもって百姓の難儀を救うまではよいが、怒って井戸の水を赤錆(あかさび)にして行ったり、芋や果物を食べられぬようにしたというなどは、こういう人たちには似合わぬ仕業であります。ところが日本の古風な考え方では、人間の幸不幸は神様に対するわれわれの行いの、正しいか正しくないかによって定まるように思っていました。その考え方が、今でも新しい問題について、おりおりは現れて来るのであります。だから私などは、これを弘法大師の話にしたのは、何かの間違いではなかろうかと思うのであります。
そのことは今に皆さんが自分で考えて見るとして、もう少し珍しい伝説の例を挙げて置きましょう。石芋、食わず梨とちょうど反対の話に、煮栗焼き栗というのが方々の土地にあります。これも今では弘法大師の力で、一旦煮たり焼いたりした栗の実が、再び芽を吹いて木になったといって、盛んに実がなっているのであります。越後の上野原(うえのはら)などにある焼き栗は、親鸞上人の逸話になっていますが、やはりある信心の老女がさし上げた焼き栗を、試みに土に埋めて、もし私の教えが後の世で繁昌をするならば、この焼き栗も芽を出すであろうといって行かれた。そうすると果してその言葉の通り、それが成長して大きな栗林となり、しかも三度栗といって一年に三度ずつ、実を結ぶようになったというのであります。どうしてこのような話が出来たかというと、この一種の柴栗が他のものよりはずっと色が黒くて、火に焦げたように見えるからでありますが、京都の南の方のある在所では、やはり同じ話があって、これは天武天皇の御事蹟だというのであります。天武天皇が一時|芳野(よしの)の山にお入りになる時、この村でお休みなされると、煮た栗を献上したものがあった。もう一度帰って来るようであれば、この煮た栗も芽を吹くといって、お植えになった実が大木になって栄えたということで、その種が永く伝わっております。或(あるい)はまた春日(かすが)の明神が初めて大和にお移りになったときに、お付きの神主が煮栗の実を播(ま)いたともいう者もあります。こういうように話はぜひとも弘法大師でなければならぬというわけでもなかったのであります。
それからまた片身の魚、片目の鮒(ふな)などという話もあります。焼いて食べようとしているところへ大師がやって来て、それを私にくれといって、乞い受けて小池へ放した。それから以後その池にいる鮒は、一方だけ黒く焼け焦げたようになっている。または片目がない、もしくは片側がそいだように薄くなっているというのです。動物学の方から見て、そんな魚類があるものとも思われませんが、とにかくに片目の魚が住むという池は非常に多く、それがことごとく神の社、または古い御堂の傍にある池であります。池と大師とは、またこういう方面においても関係があるのであります。
或はまた衣掛(きぬか)け岩、羽衣(はごろも)の松という伝説もあります。これも水の辺(ほとり)で、珍しい形の岩や大木のある場合に、不思議な神の衣が掛かっていたことがあるというので、普通には気高い御姫様などの話になっているのですが、それがまたいつの間にか、弘法大師と入り代っているところもあるのです。備前の海岸の間口(まぐち)という湾の端には、船で通る人のよく知っている裳掛(もか)け岩という大岩があります。これなども飛鳥井姫(あすかいひめ)という美しい上※[「藹」の「言」に代えて「月」](じょうろう)の着物が、遠くから飛んで来て引っ掛かったといういい伝えもあるのですが、土地の人たちは、またこんな風にもいっている。昔大師が間口の部落へ来て、法衣を乾かしたいから物干しの竿(さお)を貸してくれぬかといわれた。竿はありませんと村の者がすげなく断ったので、大師もしかたなしにこの岩の上に、ぬれた衣を掛けてお干しなされたというのであります。おおかたこれも一人の不親切な女の、後で罰が当った話であったろうと思います。(邑久(おおく)郡誌。岡山県邑久郡裳掛村福谷)
安房(あわ)の青木という村には、弘法大師の芋井戸というのがあります。井戸の底に芋のような葉をした植物が、青々と茂っています。昔大師がこの村のある老婆の家に来て、芋をくれないかと所望したのを、老婆が物惜しみをしてこの芋は石芋ですと嘘をいった。そうすると忽ち家の芋が皆石のように堅くなり、食べることが出来ぬから戸の外に棄てると、そこから水が湧き出してこの井戸になったというのは、きっと二つの話の混合で、芋では罰を受けたが、井戸は土地一番の清水でありました。伝説はこういうふうに半分欠けたり、また継ぎ合せて一つになったりするものであります。(安房志。千葉県安房郡白浜村青木)
会津(あいづ)の大塩(おおしお)という村では山の中の泉を汲んで、近い頃まではそれを釜で煮て塩を製していました。こういう奥山に塩の井が出るというのは、土地の人たちにも不思議なことでした。それでやはり弘法大師がやって来て、貴い術をもって潮を呼んで下されたといっていますが、これにはまたどういう女があって関係したものか、今ではもう忘れてしまった者が多いようであります。(半日閑話。福島県|耶麻(やま)郡大塩村)
ところが安房の方では神余(かなまり)の畑中(はたなか)という部落に、川の流れから塩の井の湧くところがあって、今でもその由来を伝えています。その昔|金丸(かなまる)氏の家臣|杉浦吉之丞(すぎうらきちのじょう)の後家|美和女(みわじょ)、施しを好み心掛けのやさしい婦人でありました。大同三年の十一月二十四日に、一人の旅僧が来て食を求めたので、ちょうどこしらえてあった小豆粥(あずきがゆ)を与えると、その粥には塩気がないから、旅僧は不審に思いました。うちが貧乏で塩を買うことが出来ぬというのを聴いて、それはお気の毒だと川の岸に下りて、手に持つ錫杖を突きさして暫(しばら)く祈念し、やがてそれを抜くと、その穴から水が迸(ほとばし)って、女の顔のところまで飛び上りました。嘗(な)めて見るとそれが真塩(ましお)であり、その僧は弘法大師であったと、古い記録にも書いてあるそうです。(安房志。千葉県安房郡豊房村神余)
いくら記録には書いてあっても、これが歴史でないことは誰にでもわかります。弘法の旅行をしそうな大同三年頃には、まだ金丸家も杉浦氏もなかったのであります。それよりも皆さんにお話したいことは、十一月二十四日の前の晩は、今でも関東地方の村々でお大師講といって、小豆の粥を煮てお祭りをする日だということであります。天台宗のお寺などでは、この日がちょうど天台|智者(ちしゃ)大師の忌日に当るために、そのつもりで大師講を営んでいますが、他の多くの田舎では、これも弘法大師だと思っているのであります。智者大師はその名を智※[「凱のへん+頁」](ちぎ)といって、今から千三百四十年ほど前に亡くなった支那の高僧で、生きているうちには一度も日本へは来たことのなかった人であります。また弘法大師の方はこの十一月二十三日の晩と、少しも関係がなかった人でありますが、どこの村でもこの一夜に限って、大師様が必ず家から家を巡ってあるかれると信じて、このお祭りをしていたのであります。
旧暦では十一月末の頃は、もうかなり寒くなります。信州や越後ではそろそろ雪が降りますが、この二十三日の晩はたとえ少しでも必ず降るものだといって、それをでんぼ隠しの雪といいます。そうしてこれにもやはりお婆さんの話がついておりました。信州などの方言では、でんぼとは足の指なしのことであります。昔信心深くて貧乏な老女が、何かお大師様に差し上げたい一心から、人の畠にはいって芋や大根を盗んで来た。その婆さんがでんぼであって、足跡を残せば誰にでも見つかるので、あんまりかわいそうだといって、大師が雪を降らせて隠して下さった。その雪が今でも降るのだという者があります(南安曇(みなみあずみ)郡誌その他)。しかしこの話なども後になって、少しばかり間違ったのではないかと思う点があります。信州ではこの晩に食物を供えるお箸(はし)は、葦(あし)の茎をもって必ず一本は長く、一本は短く作ることになっています。これもでんぼ隠しの記念であって、その婆さんはでんぼで且(か)つ跛(ちんば)であったからという人もあるが、所によっては大師様自身が生れつき跛で、それでこの晩村々をまわってあるかれるのに、雪が降るとその足跡が隠れてちょうどよいと喜ばれるといい、「でえしでんぼの跡隠し」という諺(ことわざ)もあるそうです(小谷口碑集)。越後の方でも古くから大師講の小豆粥には、栗の枝でこしらえた長し短しのお箸をつけて供えました。耳の遠い者がその箸を耳の穴に当てると、よく聴えるなどともいいました。それからこの晩雪が降ると跡隠しの雪といって、大師が里から里へあるかれる御足の跡を、人に見せぬように隠すのだといい伝えておりました。(越後風俗問状答)
そうするとだんだんに大師が、弘法大師でも智者大師でもなかったことがわかって来ます。今でも山の神様は片足神であるように、思っていた人は日本には多いのであります。それで大きな草履を片方だけ造って、山の神様に上げる風習などもありました。冬のま中に山から里へ、おりおりは下りて来られることもあるといって、雪は却(かえ)ってその足跡を見せたものでありました。後に仏教がはいってからこれを信ずる者が少くなり、ただ子供たちのおそろしがる神になった末に、だんだんにおちぶれてお化けの中に算えられるようになりましたが、もとはギリシャやスカンジナビヤの、古い尊い神々も同じように、われわれの山の神も足一つで、また眼一つであったのであります。それとこれとは関係はないかも知れませんが、とにかく十一月二十三日の晩に国中の村々を巡り、小豆の粥をもって祭られていたのは、だだの人間の偉い人ではなかったのであります。それをわれわれの口の言葉で、ただだいし様と呼んでいたのを、文字を知る人たちが弘法大師かと思っただけであります。
だいしはもし漢字を宛てるならば、大子と書くのが正しいのであろうと思います。もとはおおごといって大きな子、すなわち長男という意味でありましたが、漢字の音で呼ぶようになってからは、だんだんに神と尊い方のお子様の他には使わぬことになり、それも後にはたいしといって、殆ど聖徳太子ばかりをさすようになってしまいました。そういう古い言葉がまだ田舎には残っていたために、いつとなく仏教の大師と紛れることになったのですが、もともと神様のお子ということですから、気をつけて見ると大師らしくない話ばかり多いのであります。信州でもずっと南の方の、竜丘(たつおか)村の琴が原というところには、浄元大姉(じょうげんだいし)といって足の悪い神様を祀っております。その御遺跡を花の御所、後醍醐(ごだいご)天皇の御妹であったなとどいう説さえありますが、これもまただいしと姥の神とを、拝んでいたのが始めのようであります。この大子も路で足を痛めて難儀をなされたので、永く土地の者の足の病を治してやろうと仰せられたといって、今でも信心にお詣(まい)りする人があり、そのお礼には草鞋(わらじ)を片足だけ納めることになっています。そうしてこの地方にも、「ちんば山の神の片足草鞋」という諺があるそうであります。(伝説の下伊那(しもいな)。長野県下伊那郡竜丘村)
高く尊い天つ神の御子を、王子権現といい若宮児宮(わかみやちごのみや)などといって、村々に祀っている例はたくさんあります。また大工とか木挽(こびき)とかいう山の木に関係のある職業の人が、今でも御太子様といって拝んでいるのも、仏法の方の人などは聖徳太子にきめてしまっておりますが、最初はやはりただ神様の御子であったのかも知れません。古い日本の大きなお社でも、こういう若々しくまた貴い神様を祀っているものが方々にありました。そうしていつでも御身内の婦人が、必ずそのお側(そば)に附いておられるのであります。それから考えて見ますと、十一月二十三日の晩のおだいし講の老女なども、後には貧乏な賤(いや)しい家の者のようにいい出しましたけれでも、以前にはこれも神の御母、または御叔母というような、とにかく普通の村の人よりは、ずっとそのだいしに親しみの深い方であったのではないかと思います。それぐらいな変化は伝説には珍しくないのみならず、多くのお社や堂には脇侍(わきじ)ともいって、姥の木像が置いてあり、また関の姥様の話にもあるように、児と姥との霊を一しょに、井の上、池の岸に祀っているという、伝説も少くないのであります。
私は児童の守り神として、姥の神を拝むようになった原因も、大子が実は児の神のことであったとすれば、それでよくわかると思っています。姥はもと神の御子を大切に育てた故に、人間の方からも深い信用を受けたのであろうと思います。それについてはまた二つ三つの少し新しい伝説もあります。紀州|岩出(いわで)の疱瘡(ほうそう)神社というのは、以前は大西という旧家の支配で、守り札などもそこから出しておりました。その大西家で板にした縁起には、こういう話が書いてありました。ある年十一月の二十三日の晩に、白髪(しらが)の婆さまが一人訪ねて来て、一夜の宿を借りたいといった。うちは貧乏で何も上げるものがないというと、食事には用がない。ただ泊めて下さればよいといって、夜どおし囲炉裏の火の側に坐っていた。夜の明け方に清水を汲んで貰って、それを湯に沸かして静かに飲み、そうして出て行こうとして大西家の主人に向い、私はこの家の先祖と縁のある者だ。今またこうして親切に、宿をしてもらったのはありがたいと思うから、そのお礼にはこれからいつまでも、大西の子孫と名乗る者は疱瘡が軽く、長命をするように守ってやろうといって帰った。その跡を見送ると、ちょうど今のお社のあるところまで来て、愛染明王(あいぜんみょうおう)の姿を現じて行方知れずになったといってあります。種痘ということの始まるまでは、疱瘡はまことに子供たちの大敵でありました。それだから殊に疱瘡神をおそれ敬うていたのでありますが、この老女は実はそれであったらしいのです。愛染明王はもとは愛欲の神であったそうですが、愛という名からわが国では、特に小児の無事息災を祈っていました。それ故にお姿も若々しく、決して婆さまなどに化けて来られる神ではなかったのです。それを一つにしてこの大西家の先祖の人は、まぼろしに見たのであります。前から姥の神の後には児の神のあることを、知っていた為であろうと思います。(紀伊続風土記。和歌山県那賀郡岩出町備前)
伊勢の丹生(にう)村は古くから鉛の産地ですが、そこには名の聞えた鉱泉が一つあります。近頃ではいろいろの病気の者が入浴に来るようになりましたが、昔はただこの地方の女たちが、お産の前後に来て垢離(こり)を取り生れ子の安全をお祈りするところであった為に泉の名を子安の井といい、やはり弘法大師の加持水だという伝説をもっていました。戦国時代にはこの土地が荒れてしまって、井戸も半分は埋もれ、そういういい伝えを忘れた人が多くなり、近所の百姓たちがその水を普通の飲料に使う者もありましたが、そういう家ではどうも病人が多く、中には死に絶えてしまった家さえあったので、驚いて御鬮(みくじ)を引いて明神様の神意を伺ったそうです。実際は水に鉛の気があって、それで飲む者を害したのかも知れませんが、昔の人はそうは思わなかったのであります。それで御鬮の表には、子安井は産前産後の女のために、子育てを助け守りたもうべき深い思(おぼ)し召しのある井戸だから、早く浚(さら)えて清くせよと出たので、それからはいよいよこれを日用のために汲む者が、祟(たた)りを受けるようになったということであります。(丹洞夜話。三重県多気郡丹生村)
子安の池というのは、また東京の近くにもあって、これにも杖立て清水とよく似た伝説をもっておりました。板橋の町の西北の、下新倉(しもにいくら)の妙典寺(みょうてんじ)という寺の脇にあったのがそれで、昔日蓮上人がこの地方を行脚していた頃、墨田五郎時光(すみだのごろうときみつ)という大名の奥方が、難産で非常に苦しんでいました。日蓮がその為に安産の祈りをして、一本の楊枝(ようじ)をもって加持をすると、忽ちここから優れたる清水が湧き出した。その水を掬(く)んで口そそぎ御符を戴かせたら、立派な男の児が生れたといって、その池の傍にある古木の柳の木は、日蓮上人の楊枝を地に※[「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている]したのが、芽を吹いて成長したものだとも語り伝えておりました。(新篇武蔵風土記稿。埼玉県|北足立(きたあだち)郡白子町下新倉)
伝説は子安の池の、岸の柳の如く成長しました。東京は四百年この方に漸(ようや)く出来た都会ですが、ここへも弘法大師がいつの間にかやって来ています。上野公園の後の谷中(やなか)清水町には、清水|稲荷(いなり)があってもとは有名な清水がその傍にあったのです。この清水がまだ出なかった前に、やはり一人の老母が頭に桶(おけ)を載せて、遠いところから水を運んでいたところへ、大師が来合せてその水を貰って飲みました。年を取ってから毎日こうして水を汲んで来るのは苦しいだろうといわれますと、そればかりではありません、私にはたった一人の子があって、永らく病気をしているので困りますと答えました。そうすると大師は暫く考えて、手に持つ独鈷(とっこ)というもので、こつこつと地面を掘り、忽ちそこからこの清水が湧くようになりました。味わいは甘露の如く、夏は冷かに冬は温かにして、いかなる炎天にも涸(か)るることなしという名水でありました。姥の子供の病気は何病でありましたか、この水で洗ったら早速に治りました。それから多くの人が貰いに来るようになって、万(よろず)の病は皆この水を汲んで洗えば必ずよくなるといいました。稲荷のお社も、この時に弘法大師が祀って置かれたということで、おいおいに繁昌して今のように町屋が立ち続いて来たのであります。(江戸名所記。東京市|下谷(したや)区清水町)
野州|足利(あしかが)在の養源寺(ようげんじ)の山の下の池などは、直径三尺ほどしかない小池ではありますが、これも弘法大師の加持水といい伝えて、信心深い人たちが汲んで行って飲むそうです。昔ある婦人が乳が足りなくて、赤ん坊を抱いて困り切っていたところへ、見馴れぬ旅僧が来てその話を聞き、しばらく祈念をしてから杖で地面を突きますと、そこから水が湧き出したのだそうです。これを自分で飲んでもよし、または乳のようにして小児に含ませても、必ず丈夫に育つであろうといって行きました。それが弘法大師であったということは、おおかた後に養源寺の人たちが、いい始めたことであろうと思います。(郷土研究二編。栃木県足利郡三和村板倉)
土地の古くからのいい伝えと、それを聴く人の考えとが食い違った時には、話はこういうふうにだんだんと面倒になります。だいしが世に名高い高僧のことだとなってしまうと、また一人別に姥の側へ、愛らしい若児を連れて来て置かねばならなかったのであります。あんまり気味の悪い話が多いから、詳しいことはいわぬつもりですが、日本でよくいう産女(うぶめ)の霊の話なども、もとはただ道の傍に祀った母と子の神でありました。姿が弱々しい赤んぼの様でも、神様の子であった故に不思議な力がありました。道を通る人に向って抱いてくれ抱いてくれと母親がいうので、暫く抱いているとだんだんに重くなる。その重いのをじっと我慢をしていた人は、必ず宝を貰い、または大力(だいりき)を授けられたのであります。それが後には、またある大師に行き逢うて、却ってその法力をもって救われたという話に変って来て、産女は普通の人の幽霊のごとくなってしまいました。しかし幽霊が子供づれで来るのもおかしいことですし、福を与えるというのも、ますます似合いません。これには何か他の理由があったのであります。土地によって、夜|啼(な)き松または夜啼き石などといって、真夜中に橋の袂(たもと)や阪の口で、赤子の啼く声がするという話もありますが、それをおそろしいことと考えずに、村にお産のある知らせだなどという土地もあります。或はまた一人の女があって、夜になると赤んぼが啼くのに困って、その松の木の下に行って立っていると、行脚の僧が通りかかって抱いてくれた。そうして松の小枝を火にともして、その光を子供に見せると啼き止(や)んだ。それから後この松の下に神を祀り、また夜啼きをする子の家では、その小枝を折って来て燈(ともし)の火にするという所もあります。九州の宇佐八幡(うさはちまん)の附近では、弘法大師といわずに、この僧を人聞菩薩(にんもんぼさつ)と呼んでおります。人聞菩薩は八幡大菩薩が仮にこの様な姿をして、村々をお歩きなされるのだという人もありましたが、こんな奇妙な僧の名もあるまいと思いますから、私などはそれを人の母、すなわち人母(にんぼ)という言葉が、この神の信仰について、古く行われていた名残であろうと思っています。子安という母と子との神は、今でも関東地方には方々に祀っています。気高い婦人が子を抱いた石の像であります。姥というのはただ女の人のことでありました。親の妹を叔母というのも、または後々叔母になるべき二番め以下の娘を、小娘のうちからおばと田舎でいっているのも、もとは一つの言葉でありました。それを老女のように考え出したために、しまいには三途河(そうずか)の婆様のような、おそろしい石の像になったのであります。仏教が日本にはいって来るより前から、子安の姥の神は清い泉のほとりに祀られていました。弘法大師が世を去ってから千年の後までも、なお新なる清水は常に発見せられ、いわゆる大師の井戸、御大師水の伝説は、すなわちこれに伴うて流れて行きます。生きて日本の田舎を今も巡っている者は、寧(むし)ろわれわれの御姥子(おんばこ)様でありました。それだからこの神を路の傍、峠の上や広い野はずれ、旅人の喜び汲む泉のほとりにまつり、また関の姥神という名も起ったので、熱田の境川(さかいがわ)のおんばこ堂なども、もとはこういう姥と子を祀っていたからの名であろうと思います。箱根の姥子も古い伝説は人が忘れていますが、きっとあの温泉の発見について、一つの物語があったのです。なお皆さんも気をつけて御覧なさい、古くからの日本の話には、まだまだ幾らでも美しいかしこい児童が、姥とつれ立って出て来るのであります。 
片目の魚(うお)

 

この次ぎには子供とは関係はありませんが、池の伝説の序(ついで)に片目の魚の話を少ししてみましょう。どうして魚類に一つしか眼のないのが出来たものか。まだ私たちにもほんとうのわけはよくわかりませんが、そういう魚のいるのは大抵はお寺の前の池、または神社の脇にある清水です。東京に一番近い所では上高井戸(かみたかいど)の医王寺(いおうじ)、ここの薬師様には眼の悪い人がよくお参りをしに来ますが、その折にはいつも一尾の川魚を持って来て、お堂の前にある小さな池に放すそうです。そうするといつの間にか、その魚は片目をなくしているといいます。夏の頃出水の際などに、池の下流の小さな川で、片目の魚をすくうことが折々ありますが、そんな時にはこれはお薬師様の魚だといって、必ず再びこの池に持って来て放したということです。(豊多摩(とよたま)郡誌。東京府豊多摩郡高井戸村上高井戸)
上州|曽木(そき)の高垣明神(たかがきみょうじん)では、社の左手に清い泉がありました。旱(ひでり)にも涸(か)れず、霖雨(ながあめ)にも濁らず、一町ばかり流れて大川に落ちますが、その間に住む鰻(うなぎ)だけは皆片目であった。それが川へはいると、また普通の眼二つになるといいましたが、それでもこの明神の氏子は、鰻だけは決して食べなかったそうです。(山吹日記。群馬県|北甘楽(きたかんら)郡富岡町曽木)
甲府の市の北にある武田家|城址(じょうし)の濠(ほり)の泥鰌(どじょう)は、山本勘助に似て皆片目であるといいました。泥鰌が片目であるばかりでなく、古府中(こふちゅう)の奥村という旧家は、その山本勘助の子孫である故に、代々片目であったという話もありましたが、実際はどうであったか知りません。(共古日録その他。山梨県西山梨郡相川村)
信州では戸隠雲上寺(とがくしうんじょうじ)の七不思議の一つに、泉水に住む魚類、ことごとく片目なりといっていました。また赤阪の滝明神の池の魚も、片目が小さいか、または潰(つぶ)れていました。神が祈願の人に霊験(れいげん)を示す為に、そうせられるのだといっております。(伝説|叢書(そうしょ)。長野県|小県(ちいさがた)郡殿城村)
越後にも同じ話が幾つもあります。長岡の神田町では人家の北裏手に、三盃池(さんばいいけ)という池がもとはあって、その水に住む魚鼈(ぎょべつ)は皆片目で、食べると毒があるといって捕る者がなかった。古志(こし)郡宮内の一王(いちおう)神社の東には、街道をへだてて田の中に十坪ほどの沼があり、そこの魚類も皆片目であったそうです。昔このお社の春秋の祭りに、魚のお供え物をしたお加持の池の跡だからといっておりました。四十年ほど前に田に開いてしまって、もうこの池も残っていません。それから北魚沼(きたうおぬま)郡の堀之内(ほりのうち)の町には、山の下に古奈和沢(こなわざわ)の池という大池があって、その水を引いて町中の用水にしていますが、この池の魚もことごとく片目であるといいました。捕えてこれを殺せば祟りがあり、家に持って来て器の内に置いても、その晩の内に池に帰ってしまうという話もありましたが、実際は殺生禁制(せっしょうきんせい)で、誰もそんなことを試みた者はなかったのであります。(温故之栞(おんこのしおり)。新潟県北魚沼郡堀之内町)
青森県では南津軽の猿賀(さるが)神社のお池などにも、今でも片目の魚がいるということで、「皆みんなめっこだあ」という盆踊りの歌さえあるそうです。私の知っているのでは、これが一番日本の北の端でありますが、もちろん捜せばそれより北にもたくさんにある筈であります。(民族。青森県|南津軽(みなみつがる)郡猿賀村)
それからこちらへ来ると話は多くなるばかりで、とても一つ一つ挙げていることは出来ませんから、私はただ魚が片目になった原因を、土地の人たちがなんといい伝えていたかということだけを、皆さんと一しょに考えて見ようと思います。その中で早くから知られていたのは、摂津の昆陽池(こやのいけ)の片目鮒(かためふな)で、これは行基菩薩(ぎょうきぼさつ)という奈良朝時代の名僧と関係があり、話は少しばかり弘法大師の杖立て清水に似ています。行基が行脚をしてこの池のほとりを通った時に死にかかっている汚い病人が路に寝ていて、魚を食べさせてくれといいました。かわいそうだと思って、長洲(ながす)の浜に出て魚を買い求め、僧ではあるが病人の為だから自分で料理をして勧めますと、先に食べて見せてくれというので、それを我慢をして少し食べて見せました。そうしているうちにその汚い乞食は薬師|如来(にょらい)の姿を現し、私は上人の行いを試して見る為に、仮に病人になってここに寝ていたのだといって、有馬の山の方へ、金色(こんじき)の光を放って飛び去ったということであります。行基はその不思議にびっくりして、残りの魚の肉を昆陽池に放して見ると、その一切れずつが皆生きかえって、今の片目の鮒になった。それで後にはこの池の魚を神に祀って、行波(ぎょうは)明神と名づけて拝んでいるというのでありました。あんまり事実らしくない話ではありますが、土地の人たちは永くこれを信じて、網を下さず、また釣り糸を垂れず、この魚を食べる者はわるい病になるといっておそれていたそうであります。(諸国里人談その他。兵庫県|川辺(かわべ)郡稲野村昆陽)
またある説では行基は三十七歳の年に、故郷の和泉国(いずみのくに)へ帰って来ますと、村の若い者は法師を試して見ようと思って、鮒のなますを作って置いて、むりにこれを行基にすすめた。行基はそれを食べてしまって、後に池の岸に行ってそれを吐き出すと、なますの肉は皆生きかえって水の上を泳ぎまわった。その魚が今でも住んでいる。家原寺(いばらじ)の放生池(ほうしょういけ)というのがその池で、それだから放生池の鮒は、皆片目だといいました。しかしなますになってから生きかえった魚ならば、それがどうして片目になるのかは、ほんとうはまだ誰にも説明することが出来ません。(和泉名所図会等。大阪府|泉北(せんぼく)郡八田荘村家原寺)
これと全く同じ話は、また播州(ばんしゅう)加古川(かこがわ)の教信寺の池にもありました。加古の教信という人は、信心深い念仏者でありましたが、やはりむりにすすめられたので、仕方なしに魚の肉を食べ、後で吐き出したのが生き返って、永くこの池の片目の魚になったといいました。寺ではその魚を上人魚(しょうにんうお)といったそうですが、それは精進魚(じょうじんうお)のあやまりかと思います。そうしてこの池を教信のほった池だという点は、行基の昆陽池の話よりも、いま一段とお大師水に近いのであります。(播磨鑑(はりまかがみ)。兵庫県加古郡加古川町)
しかし魚が片目になった理由には、まだこの他にも色々の話があります。
例えば下野(しもつけ)上三川(かみのかわ)の城趾(しろあと)の濠の魚は、一|尾(ぴき)残らず目が一つでありますが、これは慶長二年の五月にこの城が攻め落された時、城主|今泉但馬守(いまいずみたじまのかみ)の美しい姫が、懐剣で目を突いて外堀に身を投げて死んだ。その因縁によって今でもその水にいる魚が片目だというのであります。この「因縁」ということも、昔の人はよくいいましたけれども、どういうことを意味するのか、まだ確にはわれわれにわかりません。(郷土光華号。栃木県河内郡上三川町)
そこでなお多くの因縁の例を挙げて見ると、福島の市の近くの矢野目(やのめ)村の片目清水という池では、鎌倉権五郎|景政(かげまさ)が戦場で眼を傷つけ、この池に来て傷を洗った。その時血が流れて清水にまじったので、それで池に住む小魚はどれもこれも左の目が潰れている。片目清水の名はそれから出たといいます。(信達一統志。福島県|信夫(しのぶ)郡|余目(あまるめ)村南|矢野目(やのめ))
鎌倉権五郎は、八幡太郎義家の家来です。十六の年に奥州の軍(いくさ)に出て、敵の征矢(そや)に片方の眼を射られながら、それを抜かぬ前に答(とう)の箭(や)を射返して、その敵を討ち取ったという勇猛な武士でありましたが、その眼の傷を洗ったという池があまりに多く、その池の魚がどこでも片目だといっているだけは不思議です。その一つは羽後の金沢という町のある流れ、そこでは権五郎の魂が、死んで片目の魚になったというそうです。ここは昔の後三年(ごさんねん)の役(えき)の、金沢の柵(さく)のあった所だといいますから、ありそうなことだと思う人もあったか知れませんが、鎌倉権五郎景政は長生をした人で、決してここへ魂を残して行く筈はないのでありました。(黒甜瑣語。秋田県仙北郡金沢町)
次ぎに山形県では最上(もがみ)の山寺の麓(ふもと)に、一つの景政堂があってそこの鳥海(とりのうみ)の柵の趾(あと)だといいました。権五郎が眼の傷を洗った池というのがあって、同じく片目の魚が住んでいました。どうしてこのお堂が出来たのかは分りませんが、附近の村では田に虫がついた時に、この堂から鉦(かね)太鼓を鳴らして虫追いをすると、忽(たちま)ち害虫がいなくなるといっておりました。(行脚随筆。山形県東村山郡山寺村)
また荘内(しょうない)の平田の矢流川(やだれがわ)という部落には、古い八幡の社があって、その前の川でも権五郎が来て目を洗ったといっています。そうしてその川のかじかという魚は、これによって皆片目であるという伝説もありました。(荘内可成談等。山形県|飽海(あくみ)郡東平田村北沢)
こうして福島県の片目清水まで来る途中には、まだ方々に目を洗う川や池があったのですが、驚くべきことには権五郎景政は、遠く信州の南の方の村に来て、やはりその目を洗ったという話が、伝わっているのであります。信州|飯田(いいだ)から少しはなれた上郷(かみさと)村の雲彩寺(うんさいじ)の庭に、杉の大木の下から涌(わ)いている清水がそれで、その為にそこにいるいもりは左の眼が潰れているといいます。清水の名はうらみの池、どういううらみがあったかは分りませんが、権五郎は暫(しばら)くこの寺にいたことがあるというのであります。(伝説の下伊那。長野県下伊那郡上郷村)
何かこれには思い違いがあったことと思われますが、またこういう話もあります。作州|美野(みの)という村の白壁の池は、いかなる炎天にも乾(ひ)たことのない物凄(ものすご)い古池で、池には片目の鰻がいるといいました。昔一人の馬方が馬に茶臼(ちゃうす)を附けて、池の堤を通っていて水に落ちて死んだ。その馬方がすがめの男であった故に、それが鰻になって、また片目であるという話であります。今でも雨の降る日などに、じっと聴いていると、池の底で茶臼をひく音がするなどといいました。(東作誌。岡山県勝田郡吉野村美野)
越後には青柳(あおやぎ)村の青柳池といって、伝説の上では、かなり有名な池があります。この池の水の神は大蛇で、折り折り美しい女の姿に化けて、市へ買い物に出たり、町のお寺の説教を聴きに来たりするといったのは、おおかた街道のすぐ脇にこの池があった為に、そこを往来する遠くの人までが評判にしていたから、こういう話が出来たのであろうと思います。昔|安塚(やすづか)の城の殿様|杢太(もくた)という人が、市に遊びに出て、この美しい池の主を見染めました。そうして連れられてとうとう青柳の池にはいって、戻らなかったということで、この杢太殿が、また目一つであったところから、今にこの池の魚類は一方の目に、曇りがあるといい伝えております。(越後国|式内(しきない)神社案内。新潟県|中頸城(なかくびき)郡|櫛池(くしいけ)村青柳)
池の主の大蛇は、水の中にばかり住んでいて、へびともまるで違ったおそろしい生き物でありました。そういう物が実際にいたかどうか、今ではたしかなことはもうわからなくなってしまいました。絵などに描く人は、もちろん大蛇を見たことのない者ばかりで、仕方なしにこれを大きな蛇のように描くので、だんだんにそう思う人が多くなりましたが、この大蛇の方は水の底にいて、すべての魚類の主君の如く考えられておりました。片目の杢太殿が池の主に聟入(むこい)りをして、自分も大蛇になったといえば、魚類はその一門だからだんだんかぶれて、目が一つになろうとしているのだと、想像する人もあったわけであります。
静岡市の北の山間にある鯨の池の主は、長さ九尺の青竜であったといい、または片目の大きなまだら牛であったともいいますが、化けるのですからなんにでもなることが出来るわけです。昔|水見色(みずみいろ)村の杉橋(すぎばし)長者の一人娘が、高山の池の主にだまされて、水の底へ連れて行かれようとしたので、長者は大いに怒って、何百人の下男人夫を指図して、その池の中へあまたの焼け石を投げ込ませると、池の主は一眼を傷ついて、逃げて鯨の池にひき移ってしまいました。それから以後、この鯨の池の魚は、ことごとく片目になったというのは、とんだめいわくなおつき合いであります。(安倍(あべ)郡誌。静岡県安倍郡|賤機(しずはた)村)
又、池の主は領主の愛馬を引き込んだので、多くの鋳物師(いものし)をよんで来て、鉄をとかして池の中へ流したともいいますが、どちらにしてもそれがちょうど一方の眼を傷つけ、更に魚仲間一同の片目のもとになったというのは、珍しいと思います。ところがこういう話は、まだ他にも折り折りあります。同じ安倍郡の玉川村、長光寺という寺の前の池でも、池の主の大蛇が村の子供を取ったので、村民が怒って多くの石を投げ込むと、それが当って大蛇は片目を潰し、それからは池の魚も皆片目になっているといいました。
蛇が片目という伝説も、また方々に残っているようであります。例えば佐渡の金北山(きんぽくさん)の一つの谷では、昔順徳天皇がこの島にお出でになった頃、この山路で蛇を御覧なされて、こんな田舎でも蛇はやっぱり目が二つあるかと、独言に仰せられましたところが、そのお言葉に恐れ入って、以後この谷の蛇だけはことごとく片目になりました。それで今でも御蛇河内(おへびこうち)という地名になっているのだといいます。加賀の白山(はくさん)の麓の大杉谷の村でも、赤瀬という一部落だけは、小さな蛇までが皆片目であるといっています。岩屋の観音堂の前の川に、やすなが淵(ふち)という淵がもとはあって、その主は片目の大蛇であったからということであります。
昔赤瀬の村に住んでいたやす女(な)という者は、すがめのみにくい女であって男に見捨てられ、うらんでこの淵に身を投げて主になった。それが時折り川下の方へ降りて来ると、必ず天気が荒れ、大水が出るといって恐れました。やす女の家は、もと小松の町の、本蓮寺(ほんれんじ)という寺の門徒であったので、この寺の報恩講には今でも人に気付かれずに、やす女が参詣(さんけい)して聴聞(ちょうもん)のむれの中にまじっている。それだから冬の大雪の中でも、毎年この頃には水が出るのだといい、また雨風の強い日があると、今日は赤瀬のやすなが来そうな日だともいったそうであります。(三州奇談等。石川県|能美(のみ)郡大杉谷村赤瀬)
すがめに傍点]のみにくい女といい、夫に見捨てられたうらみということは、昔話がもとであろうと思います。同じ話は余りに多く、また方々の土地に伝わっているのであります。京都の近くでも宇治の村のある寺に芋を売りに来た男が門をはいろうとすると、片目の潰れて一筋の蛇が来て、真直になって方丈の方へ行くのを見ました、なんだかおそろしくなって、荷を捨てて近所の家に行って休んでいましたが、ちょうどその時に、しばらく病気で寝ていた寺の和尚(おしょう)が死んだといって来ました。この僧も前に片目の尼を見捨てて、そっとここに来て隠れていたのが、とうとう見つかって、その霊に取り殺されたのだといいました。(閑田耕筆)。或はまた身寄りも何もない老僧が死んでから、いつも一|疋(ぴき)の片目の蛇が、寺の後の松の木の下に来てわだかまっている。あまり不思議なので、その下を掘って見ると、たくさんの小判がかくして埋めてあった。それに思いがのこって蛇になって来ていたので、その老僧がやはり片目であったという類の話、こういうのは一つ話というもので、一つの話がもとはどこへでも通用しました。中にはわざわざ遠い所から、人が運んで来たものもありましたが、それがいかにもほんとうらしいと、後には伝説の中に加え、または今までの伝説と結び付けて、だんだんにわれわれの村の歴史を、賑(にぎや)かにしたのであります。人が死んでから蛇になった。または金沢の鎌倉権五郎のように、魂が魚になったということは信じられぬことですけれども、両方ともに左の眼がなかったというと、早それだけでも、もしやそうではないかと思う人が出来るのです。しかしそれならば別に眼と限ったことはない。またお社の前の池の鯉鮒鰻ばかりを片目だというわけはないのであります。何か最初から目の二つある者よりも、片方しかないものをおそろしく、また大切に思うわけがあったので、それで伝説の片目の魚、片目の蛇のいい伝えが始まり、それにいろいろの昔話が、後から来てくっついたものではないか。そういうことが、いま私たちの問題になっているのであります。
歴史の方でも伊達政宗(だてまさむね)のように、独眼竜といわれた偉人は少くありませんが、伝説では、ことに目一つの人が尊敬せられています。その中でも前にいった山本勘助などは、武田家一番の智者であったように伝えられていますが、これがすがめで、またちんばでありました。鎌倉権五郎景政の如きも、記録には若くて軍に出て眼を射られたというより他に、何事も残ってはいないのに、早くから鎌倉の御霊の社に祀られていました。九州ではまた方々の八幡のお社に、景政の霊が一しょにおまつりしてあるのです。
奥羽地方の多くの村の池で、権五郎が目の傷を洗ったという話があるのも、もとはやはり眼を射られたということを、尊敬していたためではないかと思います。そうすると片目の魚といって、他の普通の魚と差別していたのも、必ず何かそれと似たようなわけがあったので、女の一念だの、池の主のうらみだのというのは、ちょうど池の辺(ほとり)の子安神に、「姥母甲斐(うばかい)ない」の話を持って来たと同じことで、後に幾つもの昔話を繋(つな)ぎ合わせたものらしいのであります。
つまり以前のわれわれの神様は、目の一つある者がお好きであった。当り前に二つ目を持った者よりも、片目になった者の方が、一段と神に親しく、仕えることが出来たのではないかと思われます。片目の魚が神の魚であったというわけは、ごく簡単に想像して見ることが出来ます。神にお供え申す魚は、川や湖水から捕って来て、すぐに差し上げるのはおそれ多いから、当分の間、清い神社の池に放して置くとすると、これを普通のものと差別する為には、一方の眼を取って置くということが出来るからであります。実際近頃のお社の祭りに、そんな乱暴なことをしたかどうかは知りませんが、片目の魚を捕って食べぬこと、食べると悪いことがあるといったことは、そういう古い時からの習わしがあったからであろうと思われるのみならず、また話にはいろいろ残っております。例えば近江(おうみ)の湖水の南の磯崎明神では、毎年四月八日の祭りの前の日に、網を下して二尾の鮒を捕え、一つは神前に供え、他の一つは片面の鱗(うろこ)を取ってしまって、今一度湖に放してやると、翌年、四月七日に網にはいって来る二尾のうち、一つは必ずこの鮒であるといいました。そんなことが出来るかどうか疑わしいが、とにかくに目じるしをつけて一年放して置くという話だけはあったのです。
また天狗(てんぐ)様は魚の目が好きだという話もありました。遠州の海に近い平地部では、夏になると水田の上に、夜分多くの火が高く低く飛びまわるのを見ることがある。それを天狗の夜とぼしといって、山から天狗が泥鰌を捕りに来るのだといいました。そのことがあってからしばらくの間は、溝(みぞ)や小川の泥鰌に眼のないのが幾らもいたそうで、それは天狗様が眼の玉だけを抜いて行かれるのだといっていました。これと同じ話は沖縄の島にも、また奄美大島(あまみおおしま)の村にもありました。沖縄ではきじむんというのが山の神であるが、人間と友だちになって海に魚釣りに行くことを好む、きじむんと同行して釣りをすると、特に多く獲物があり、しかもかれはただ魚の眼だけを取って、他は持って行かぬから、大そうつごうがよいという話もありました。
また宮城県の漁師の話だというのは、金華山(きんかざん)の沖でとれる鰹魚(かつお)は、必ず左の眼が小さいか、潰れている。これは鰹魚が南の方から金華山のお社の燈明の火を見かけて泳いで来るからで、漁師たちはこれを鰹の金華山|詣(まい)りというそうであります。必ずといったところが、一々調べて見ることは出来るものではありません。人がそう思うようになった原因は、やはり神様は片目がお好きということを、知っていた者があった証拠だと思います。
それからまた、お社の祭りの日に、魚の目を突いて片目にしたという話も残っています。日向(ひゅうが)の都万(つま)神社のお池、花玉川(はなたまがわ)の流れには片目の鮒がいる。大昔、木花開耶姫(このはなさくやひめ)の神が、このお池の岸に遊んでおいでになった時、神様の玉の紐(ひも)が水に落ちて、池の鮒の目を貫き、それから以後片目の鮒がいるようになった。玉紐落と書いて、この社ではそれをふなと読み、鮒を神様の親類というようになったのは、そういう理由からであるといっております。(笠狭大略記。宮崎県|児湯(こゆ)郡下穂北村妻)
加賀の横山の賀茂(かも)神社に於(おい)ても、昔まだ以前の土地にこのお社があった時に、神様が鮒の姿になって御手洗(みたらし)の川で、面白く遊んでおいでになると、にわかに風が吹いて岸の桃の実が落ちて、その鮒の眼にあたった。それから不思議が起って夢のお告げがあり、社を今の所へ移して来ることになったといういい伝えがあります。神を鮒の姿というのは変な話ですが、お供え物の魚は後に神様のお体の一部になるのですから、上げない前から尊いものと、昔の人たちは考えていたのであります。それがまた片目の魚を、おそれて普通の食べ物にしなかったもとの理由であったろうと思います。(明治神社誌料。石川県|河北(かほく)郡高松村横山)
昔の言葉では、こうして久しい間、神に供えた魚などを活かして置くことを、いけにえといっておりました。神様がますますあわれみ深く、また魚味をお好みにならぬようになって、いつ迄(まで)も片目の魚がお社の池の中に、泳ぎ遊んでいることになったのでありますが、魚を片目にする儀式だけは、もっと後までも行われていたのではなかろうかと思います。俎岩(まないたいわ)などという名前の平石が、折り折りは神社に近い山川の岸に残っていて、そこでお供え物を調理したようにいっています。備後の魚が池という池では、水のほとりに大きな石が一つあって、それを魚が石と名づけてありました。この池の魚類にも片目のものがあるといい、村の人はひでりの年に、ここに来て雨乞いのお祭りをしたそうであります。(芸藩通志。広島県|世羅(せら)郡神田村蔵宗)
阿波では福村の谷の大池の中に、周囲九十尺、水上の高さ十尺ばかりの大岩があって、この池でも鯉鮒を始めとし、小さな雑魚(じゃこ)までが、残らず一眼であるといっています。その岩の名を今では蛇の枕と呼び、月輪兵部殿(つきのわひょうぶどの)という武士が、昔この岩の上に遊んでいた大蛇を射て、左の眼を射貫き、一家ことごとくたたりを享(う)けて死に絶えた。その大蛇のうらみが永く留(とど)まって、池の魚がいつ迄も片目になったのだといいますが、これもまた二つの話を結び合せたものだろうと思います。(郷土研究一編。徳島県|那賀(なが)郡富岡町福村)
大蛇といったのは、むろんこの池の主のことで、片目の鯉鮒は、その祭のためのいけにえでありました。それとある勇士が水の神と戦って、初めに勝ち、後に負けたという昔話と、混同して新しい伝説が出来たのかも知れません。しかしこういう池の主には限らず、神々にも眼の一箇しかない方があるということは、非常に古くからいい伝えていた物語であります。どうしてそんなことを考え出したかはわかりませんが、少くともそれがいけにえの眼を抜いて置いたということと、深い関係があることだけはたしかであります。それだから、また目の一方の小さい人、或(あるい)はすがめの人が、特別に神から愛せられるように思う者があったのであります。大蛇が眼をぬいて人に与えたという話は、弘(ひろ)く国々の昔話になって行われております。その中でも肥前の温泉嶽(うんぜんだけ)の附近にあるものは、ことに哀れでまた児童と関係がありますから、一つだけここに出して置きます。昔この山の麓のある村に、一人の狩人(かりゅうど)が住んでいましたが、その家へ若い美しい娘が嫁に来まして、それがほんとうは大蛇でありました。赤ん坊が生れる時に、のぞいてはいけないといったので、かえって不審に思ってのぞいて見ますと、おそろしい大蛇がとぐろを巻いて、生れ子を抱えていました。それがまた女になって出て来まして、姿を見られたからもう行かなければならなくなった。子供が泣く時にはこの玉を嘗(な)めさせてやって下さいといって、自分で右の眼を抜いて置いてお山の沼へ帰って行きました。それを宝物のように大切にしておりましたが、その評判が高くなって殿様に取り上げられてしまい、赤ん坊がお腹がすいて泣き立てても、なめさせてやることが出来ません。こまり切って親子の者が山へ登り、沼の岸に出て泣いていると、にわかに大浪がたって片目の大蛇が現れ、くわしい話を聴いて残った左の方の眼の玉を抜いてくれます。喜んでそれを貰って来て、子供を育てているうちに、その玉も殿様に取り上げられます。もう仕方がないから身を投げて死のうと思って、また同じ沼へやって来ますと、今度は盲の大蛇が出て来て、その話を聴いて非常に怒りました。そういうひどいことをするなら、しかえしをしなければならぬ。二人は早くにげて何々という所へおいでなさい。そこでは良い乳を貰うことが出来るからといって、親子の者をすぐに返しました。そうしてその後でおそろしい噴火があって、山が崩れ、田も海も埋まったのは、この盲の大蛇の仕返しであったというのです(筑紫野民譚(つくしのみんたん)集)。遠州の有玉(ありたま)郷では、天竜川の大蛇を母にして生れた子が、二つの玉を貰ってそれを持って出世をした話が、古くからあったようですが、眼を抜いたということは、そこではいわなかったと思います。(遠江国(とおとうみのくに)風土記伝)
何にもせよ、目が一つしかないということは、不思議なもの、またおそるべきもののしるしでありました。奥州の方では、一つまなぐ、東京では一つ目小僧などといって、顔の真中に眼の一つあるお化けを、想像するようになったのもそのためですが、最初日本では、片目の鮒のように、二つある目の片方が潰れたもの、ことにわざわざ二つの目を、一つ目にした力のもとを、おそれもし、また貴(とうと)みもしていたのであります。だから月輪兵部が、大蛇の眼を射貫いたという話なども、ことによると別に今一つ前の話があって、その後の勇士のしわざに、間違えてしまったのではないかと思います。
飛騨(ひだ)の萩原(はぎわら)の町の諏訪(すわ)神社では、又こういう伝説もあります。今から三百年余り以前に、金森(かなもり)家の家臣佐藤六左衛門という強い武士(さむらい)がやって来て、主人の命令だから是非この社のある所に城を築くといって、御神体を隣りの村へ遷(うつ)そうとした。そうすると、神輿(みこし)が重くなって少しも動かず、また一つの大きな青大将が、社の前にわだかまって、なんとしても退きません。六左衛門この体(てい)を見て大いにいきどおり、梅の折り枝を手に持って、蛇をうってその左の目を傷つけたら、蛇は隠れ去り、神輿は事故なく動いて、御遷宮をすませました。ところがその城の工事のまだ終らぬうちに、大阪に戦が起って、六左衛門は出て行って討ち死をしたので、村の人たちも喜んで城の工事を止め、再びお社をもとの土地へ迎えました。それから後は、折り折り社の附近で、片目の蛇を見るようになり、村民はこれを諏訪様のお使いといって尊敬したのみならず、今に至るまでこの社の境内に、梅の木は一本も育たぬと信じているそうであります。(益田(ました)郡誌。岐阜県益田郡萩原町)
この話なども佐藤六左衛門がやって来るまでは、蛇の目は二つで、梅の木は幾らでも成長していたのだということを、たしかめることは出来ないのであります。もっと前からこの通りであったのを忘れてしまって、この時から始まったように、考えたのかも知れません。わざわざ梅の枝など折って、しかもお使者の蛇の目だけを傷つけるということは、気の短い勇士の佐藤氏が、しそうなことでありません。そればかりでなく、神様が目を突いて、それからその植物を植えなくなったという伝説は、意外なほどたくさんあります。その五つ六つをここで挙げて見ますと、阿波の粟田(あわた)村の葛城(かつらぎ)大明神の社では、昔ある尊い御方が、この海岸に船がかりなされた折りに、社の池の鮒を釣りに、馬に乗っておでかけになったところが、お馬の脚が藤の蔓(つる)にからまって、馬がつまずいたので落馬なされ、男竹(おだけ)でお目を突いてお痛みははげしかった。それ故に今にこの社の神には眼の病を祈り、氏子の四つの部落では、池には鮒が住まず、藪(やぶ)には男竹が生えず、馬を置くと必ずたたりがあるといいました。(粟の落穂。徳島県板野郡|北灘(きたなだ)村粟田)
美濃の太田では、氏神の加茂県主(かもあがたぬし)神社の神様がお嫌いになるといって、五月の節句にも、もとは粽(ちまき)を作りませんでした。大昔、加茂様が馬に乗って、戦いに行かれた時に、馬から落ちて薄(すすき)の葉で眼をお突きなされた。それ故に氏子はその葉を忌んで、用いないのだといっておりました。(郷土研究四編。岐阜県加茂郡太田町)
信州には、ことにこの話が多く伝えられています。小県郡|当郷(とうごう)村の鎮守は、初めて京都からお入りの時に、胡瓜(きゅうり)の蔓に引っ掛ってころんで、胡麻(ごま)の茎で目をお突きなされたということで、全村今に胡麻を栽培しません。もしこの禁を犯す者があれば、必ず眼の病になるといっています。松本市の附近でも、宮淵の勢伊多賀(せいたが)神社の氏子は、屋敷に決して栗の木を植えず、植えてもしその木が栄えるようであったら、その家は反対に衰えて行く。それは氏神が昔この地にお降りの時、いがで目を突かれたからだというのです。また島立(しまだて)村の三の宮の氏子の中にも、神様が松の葉で目を突かれたからといって、正月に松を立てない家があります。橋場稲扱(はしばいなこき)あたりでも、正月は門松の代りに、柳の木を立てております。昔|清明(せいめい)様という偉い易者が稲扱に来ていて、門松で目を突いて大きに難儀をした。これからもし松を門に立てるようであったら、その家は火事にあうぞといったので、こうして柳を立てることにしたのだそうです。(南安曇郡誌。長野県南安曇郡安曇村)
小谷四箇荘(おたりしかそう)にも、胡麻を作らぬという部落は多い。氏神が目をお突きになったといい、または強いて栽培する者は眼を病んで、突いたように痛むともいいました。中土(なかつち)の奉納という村では長芋を作らず、またぐみの木を植えません。それは村の草分けの家の先祖が、芋の蔓につまずいて、ぐみで眼をさしたことがあるからだといっております。(小谷口碑集。長野県北安曇郡中土村)
東上総(ひがしかずさ)の小高(おだか)、東小高の両部落では、昔から決して大根を栽培せぬのみならず、たまたま路傍(みちばた)に自生するのを見付けても、驚いて御|祈祷(きとう)をするくらいでありました。他の村々でも、小高の苗字の家だけは、一様に大根を作らなかったということです。これも小高明神が大根にけつまずいて、転んで茶の木で目を突かれたせいだといいますが、それにしては茶の木の方を、なんともいわなかったのが妙であります。(南総之俚俗(なんそうのりぞく)。千葉県|夷隅(いすみ)郡千町村小高)
中国地方でも、伯耆(ほうき)の印賀(いんが)村などは、氏神様が竹で目を突いて、一眼をお潰しなされたからといって、今でも決して竹は植えません。竹の入り用があると山を越えて、出雲(いずも)の方から買って来るそうです。(郷土研究四編。鳥取県日野郡印賀村)
近江の笠縫(かさぬい)の天神様は、始めてこの村の麻畠(あさばたけ)の中へお降りなされた時、麻で目を突いてひどくお痛みなされた。それ故に行く末わが氏子たらん者は、忘れても麻は作るなというお誡(いまし)めで、今に一人としてこれにそむく者はないそうです。(北野誌。滋賀県|栗太(くりた)郡笠縫村川原)
また蒲生(がもう)郡の川合(かわい)という村では、昔この地の領主河井|右近太夫(うこんだゆう)という人が、伊勢の楠原(くすはら)という所で戦(いくさ)をして、麻畠の中で討たれたからという理由で、もとは村中で麻だけは作らなかったということです。(蒲生郡誌。滋賀県蒲生郡桜川村川合)
関東地方に来ると、下野(しもつけ)の小中(こなか)という村では、黍(きび)を栽培することをいましめておりますが、これも鎮守の人丸(ひとまる)大明神が、まだ人間であった時に、戦をして傷を負い、逃げて来てこの村の黍畠の中に隠れ、危難はのがれたが、黍のからで片目をつぶされた。それ故に神になって後も、この作物はお好みなされぬというのであります。(安蘇(あそ)史。栃木県安蘇郡旗川村小中)
この近くの村々には、戦に出て目を射られた勇士、その目の疵(きず)を洗った清水、それから山鳥の羽の箭(や)をきらう話などがことに多いのですが、あまり長くなるからもう止めて、この次ぎは村の住民が、神様のおつき合に片目になるという話を少しして見ます。福島県の土湯(つちゆ)は、吾妻山(あずまさん)の麓にあるよい温泉で、弘法大師が杖を立てそうな所ですが、村には太子堂があって、若き太子様の木像を祀っております。昔この村の狩人が、鹿を追い掛けて沢の奥にはいって行くと、ふいに草むらの間から、負って行け負って行けという声がしましたので、たずねて見るとこのお像でありました。驚いてさっそく背に負うて帰って来ようとして、途中でささげの蔓にからまって倒れ、自分は怪我をせずに、太子様の目を胡麻|稈(がら)で突いたということで、今見ても木像の片目から、血が流れたようなあとがあるそうです。そうしてこの村に生れた人は、誰でも少しばかり片目が細いという話がありましたが、この頃はどうなったか私はまだきいていません。(信達一統誌。福島県信夫郡土湯村)
眼の大きさが両方同じでない人は、思いの外多いものですが、大抵は誰もなんとも思っていないのです。村によっては昔鎮守さまが隣りの村と、石合戦をして目を怪我なされたからということを、子供ばかりが語り伝えている所もありますが、大抵はもう古い話を忘れています。それでも土湯のように、実際そういう御像が残っている場合だけは、間違いながらもまだ覚えていられたのであります。三河の横山という村では、産土神(うぶすながみ)の白鳥(しらとり)六社さまの御神体が片目でありました。それ故にこの村には、どうも片目の人が多いようだということであります。(三州横山話。愛知県|南設楽(みなみしだら)郡|長篠(ながしの)村横川)
石城(いわき)の大森という村では、庭渡(にわたり)神社の御本尊は、もとは地蔵様で、非常に美しい姿の地蔵様でしたが、どういうわけか片目が小さく造られてありました。それだから大森の人は誰でも片目が小さいと、村の中でもそういっているそうです。(民族一編。福島県石城郡大浦村大森)
それからまた村全体でなくとも、特別に関係のある、ある一家の者だけが、代々片目であったという話は方々にあって、前にいった甲州の山本勘助の家などはその一つであります。丹波の独鈷抛山(とっこなげやま)の観音さまは片目でありました。昔この山の頂上の観音岩の上で、観音が白い鳩の姿になって遊んでござるのを、麓の柿花(かきはな)村の岡村という家の先祖が、そうとは知らずに弓で射たところが、その箭がちょうど鳩の眼に中(あた)りました。血の滴りの跡をついて行くと、それがこの御堂の奥に来て、止まっていたので驚きました。それからこの家では子孫代々の者が眼を病み、たまたま兄が弓を射れば、必ず弟の眼に中るといって、永く弓矢のわざをやめていたそうであります。(口丹波口碑集。京都府南桑田郡|稗田野(ひえだの)村柿花)
羽後(うご)の男鹿(おが)半島では、北浦の山王(さんのう)様の神主竹内丹後の家に、先祖七代までの間、代々片目であったという伝説が残っています。この家の元祖竹内弥五郎は弓箭(ゆみや)の達人でありました。八郎潟の主八郎権現が、冬になると戸賀の一の目潟に来て住もうとするのを、一つ目潟の姫神に頼まれて、寒風山(かんぷうざん)の嶺(みね)に待ち伏せをして、射てその片眼を傷つけたということであります。そうすると八郎神は雲の中から、その箭を投げ返して弥五郎の眼にあたったともいい、またはその夜の夢に現れて、七代の間は眼を半分にすると告げたともいって、とにかくに弥五郎神主の子孫の家では、主人が必ずすがめであったそうです。(雄鹿名勝誌。秋田県南秋田郡北浦町)
この竹内神主の家には、神の眼を射たという箭の根を、宝物にして持ち伝えてありました。神に敵対をした罰として、片目を失ったということが間違いでなければ、こういう記念品を保存していたのが変であります。神が片目の魚をお喜びになったように、ほんとうは片目の神主が、お好きだったのではなかろうかと思われます。
野州(やしゅう)南高岡村の鹿島神社などでは、神主若田家の先祖が、池速別皇子(いけはやわけおうじ)という方であったといっております。この皇子は関東を御旅行の間に、病のために一方の目を損じて、それが為に都にお帰りになることが許されなかった。それでこの村に留まって、神主の家をおたてになったというのであります。(下野神社沿革誌。栃木県|芳賀(はが)郡山前村南高岡)
奥州の只野(ただの)村は、鎌倉権五郎景政が、後三年(ごさんねん)の役(えき)の手柄によって、拝領した領地であったといって、村の御霊(ごりょう)神社には景政を祀り、その子孫だと称する多田野家が、後々までも住んでおりましたが、ここでも権五郎の眼を射られた因縁をもって、村に生れた者は、いずれも一方の目が少しくすがめだといっていました。少しくすがめというのは、一方の目が小さいことです。昔平清盛の父の忠盛なども、「伊勢の平氏はすがめなり」といって、笑われたという話がありますが、勇士には片目のごく小さい人は幾らもありました。そうして時によってはそれを自慢にしていたらしいのであります。(相生集。福島県|安積(あさか)郡多田野村) 
機織り御前

 

越後の山奥の大木六(おおぎろく)という村には、村長で神主をしていた細矢(ほそや)という非常な旧家があって、その主人がまた代々すがめでありました。昔この家の先祖の弥右衛門という人が、ある夏の日に国境の山へ狩りに行って路を踏み迷い、今の巻機(まきはた)山に登ってしまいました。この山は樹木深く茂り薬草が多く、近い頃までも神の山といって、おそれて人のはいらぬ山でありましたが、弥右衛門はこの深山の中で、世にも美しいお姫様の機を巻いているのを見かけたのであります。驚いて立って見ると、向うから言葉をかけて、ここは人間が来れば帰ることの出来ぬ所であるが、その方は仕合せ者で、縁あってわが姿を見た。それでこれから里に下って、永く一村の鎮守として祀(まり)られようと思う。急いでわれを負うて山を降りて行け、そうして必ず後を見返ってはならぬといわれました。仰せの通りにして帰って来る途中、約束に背いて思わずただ一度だけ、首を右へ曲げて背中の神様を見ようとしますと、忽(たちま)ちすがめとなってしまって、それから以後この家へ生れる男子は、悉(ことごと)く一方の目が細いということでありました。今でもそういうことがあるかどうか、私は行って尋ねて見たいと思っています。(越後野志と温故之栞(おんこのしおり)。新潟県|南魚沼(みなみうおぬま)郡中之島村大木六)
大木六ではこの姫神を巻機権現ととなえて、今も引き続いて村の鎮守として祭っているのでありますが、土地によっては神を里中へお迎え申すことをせず、もとからの場所にこちらからお参りをして、拝んでいる村がいくらもあります。そうすると参拝する時と人とが分れ分れになって、もとからあった伝説もだんだんに変って来るのであります。それで山の神様が女であった。小さな子を連れた姥神(うばがみ)であったということなども、後には忘れてしまったところがずいぶんありますけれども、どうかすると話の大切な筋途(すじみち)から、いつまでもそれを覚えていなければならぬ場合もありました。例えば静かな谷川の淵(ふち)の中で、機を織る梭(ひ)の音をきくといい、または人が行くことも出来ぬような峰の岩に、布をほしたのが遠く見えるというなどはそれで、こういう為事(しごと)は男がしませんから、その為に山姥山姫のいい伝えはなお永く残るのであります。
殊に山姥は見たところは恐ろしいけれども、里の人には至って親切であって、山路に迷っていると送ってくれる。またおりおりは村に降りて来て、機織り苧績(おう)みを手伝ってくれるという話もありました。また仕合せの好い人は、山奥にはいって、山姥の苧つくねという物を拾うことがたまにある。その糸はいくら使っても尽きることがないともいいました。また山姥が子を育てるという話も、決して足柄山(あしがらやま)の金太郎ばかりではありません。
以前はどこの国の山にも山姥がいたらしいのですが、今はわずかしか話が残っておらぬのであります。そうしてその山姥ももとは水の底に機を織る神と一つであったことは、知っている者が殆どなくなりました。備後の岡三淵(おかみぶち)は、恐ろしい淵があるから出来た村の名で、おかみとは大蛇のことであります。村の山の下には高さ二丈余もある大岩が立っていて、その名を山姥の布晒(ぬのさら)し岩といい、時々この岩のてっぺんには、白いものが掛かってひらめいていることがあるといいました。(芸藩通志。広島県|双三(ふたみ)郡作木村岡三淵)
因幡国(いなばのくに)の山奥の村にも、非常に大袈裟(おおげさ)な山姥の話がありました。栗谷(くりたに)の布晒し岩から、それと並んだ麻尼(まに)の立て岩、箭渓(やだに)の動(ゆる)ぎ石の三つの大岩にかけて、昔は山姥が布を張って乾していたといいました。この間が二里ばかりもあります。また箭渓の村の西には、山姥の灰汁濾(あくこ)しと云う小さな谷があって、岩の間にはいつも灰汁の色をした水がたまっています。この水でその山姥が布を晒していたというのであります。(因幡志。鳥取県岩美郡元塩見村栗谷)
こういう話を子供までが、大笑いをしてきくようになりますと、だんだんと伝説がうそらしくなって来て、山の崩れたところを山姥が踏ん張った足跡だといったり、小便をしたあとだなどという話も出来て来ます。土佐の韮生(にろう)の山の中などでは、岩に自然の溝(みぞ)が出来ているのを、昔山姥が麦を作っていた畝(うね)の跡だといいました。(南路志。高知県|香美(かがみ)郡上韮生村|柳瀬(やないせ))
春になると子供が紙|鳶(こ)をあげるのに、「山の神さん風おくれ」というところもあれば、また「山んぼ風おくれ」といっている土地もあります。今では山姥は少年の知り人のように、呼びかけられているのであります。或る夕方などに山の方を向いて、大きな声で何かわめくと、直にあちらでも口まねをするのを、普通にはこだまといいますが、これは山姥がからかうのだと思っていた子供がありました。こだまというのも山の神のことですから、もとはそれを女だと想像していたのであります。
山姥は少し意地悪だ。いつも子供のいやがる様な、にくらしい口答えをよくするといって、あまんじゃくという言葉が、素直でない子のあだなのようになったのも、ほんとうはこの反響が始めなのであります。前に姥が池の話でいったように、あまんもおまんも姥神さまのことであります。東京のような山から遠い土地でも、昔は夕焼け小焼のことを「おまんが紅(べに)」といっておりました。天が半分ほども真赤になるのを、どこかで山の大女が、紅を溶かしているのだといってたわむれたのであります。
この山姥が機を織ったという話が、またいろいろの形に変って伝わっております。遠州の秋葉の山奥では、山姥が三人の子を生んで、その三人の子がそれぞれ大きな山の主になっているといい、その山姥がまた里近くへ来て、水のほとりで機を織っていたといいました。秋葉山のお社から少し後の方に、深い井戸があります。この山にはもと良い清水がなかったのを、千年余り前に神主が神に祈って、始めて授かった井戸だということで、この泉の名を機織の井というのは、その後奥山に山姥が久良支(くらき)山から出て来て、このかたわらに住んで神様の衣(きぬ)を織り、それを献納していったから、この名になったのだというそうです。そういういい伝えのある井戸は、まだこの近辺の村にも二つも三つもあります。(秋葉土産。静岡県|周智(しゅうち)郡犬居村|領家(りょうけ))
秋葉の山の神は俗に三尺坊さまと称(とな)えて、今でも火難を防ぐ神として拝んでいるのは、おおかたこの貴い泉を、支配する神であったからであろうと思います。山姥とこの三尺坊様とは、一通りならぬ深い関係があったので、そのお衣を山の姥が来て織ったというのも、それ相応な理由のあることでした。相州箱根の口の風祭(かざまつり)という村は、後に築地(つきじ)へ持って来た咳(せき)の姥の石像のあったところですが、その近くにも大登山秋葉寺(だいとうざんあきばじ)という寺があって、いつの頃からか三尺坊を迎えて祀っています。この寺にも一夜にわき出したという清水があり、水の底には二つの玉が納めてあるともいって、雨乞いの祭りをそこでしました。三百五十年ほど前に、ここへも一人の姥が来て布を織ったことがあるので、井戸の名を機織りの井と呼びました。その布に五百文の鏡を添えて寺におくり、姥はいずれへか行ってしまいました。その銭は永くこの寺の宝物となってのこり、布は和尚(おしょう)が死ぬときに着て行ったということであります。(相中|襍志(ざっし)。神奈川県|足柄下(あしがらしも)郡|大窪(おおくぼ)村風祭)
今でも姥神は常に機を織っておられるが、それを人間の目には普通は見ることが出来ぬのだというところがあります。信州の松本附近では、人が病気になって神降(かみおろ)しという者に考えてもらうと、水神のたたりだという場合が多いそうであります、水神様が水の上に五色の糸を綜(へ)て、機を織って遊んでいられるのを、知らずに飛び込んでその糸を切ったり汚したりすると、腹を立ててたたりなさるのだと、想像している人があったのであります。それが為に時々は小さな流れの岸などに、御幣(ごへい)を立て五色の糸を張って祭ってあるのを、見かけることがあったという話です。(郷土研究二編)
戸隠の山の麓(ふもと)の裾花(すそばな)川の岸には、機織り石という大きな岩があって、その脇には梭石(ひいし)、筬石(おさいし)、※[「縢」の「糸」に代えて「木」]石(ちぎりいし)などと、いろいろ機道具に似た形の石がありました。雨が降ろうとする前の頃は、この石のあたりでからからという音がするのを、神様が機をお織りになるといったそうで、この音がきこえるとどんな晴れた日も曇り、二三日のうちには必ず降り出すといったのは、恐らくもとここで雨乞いをしていたからでありましょう。(信濃奇勝録。長野県|上水内(かみみのち)郡|鬼無里(きなさ)村岩下)
木曽の野婦池(やぶのいけ)というのもひでりの年に、村の人が雨乞いに行く池でありました。この池では時おり山姥が水の上で、機を織っておるのを見た者があるといいました。この山姥はもと大原という村の百姓の女房であったのが、髪が逆立ち角が生えて、しまいに家を飛び出して山姥になったといいます。或(あるい)はまた突いていた柳の杖を池の岸にさして置いて、水の中へはいってしまったという話もあって、そのあたりに柳の木がたくさんに茂っているのを、山姥の杖が芽を出して大きくなったものだともいっていました。(木曽路名所図会。長野県|西筑摩(にしちくま)郡日義村宮殿)
水の底から機を織る音がきこえて来るという伝説なども、土地によって少しずつは話し方が変っていますが、探して見るとそちこちの大きな川や沼に、同じようないい伝えがあります。羽後(うご)の湯の台の白糸沢では、水の神様が常に機を織っておられるので、夜分周囲が静かになれば、いつでも梭の音がこの淵の方からきこえるといいました。(雪之飽田根。秋田県北秋田郡|阿仁合(あにあい)町)
飛騨(ひだ)の門和佐(かどわさ)川の竜宮が淵というところでは、昔は竜宮の乙姫の機織る音が、たびたび水の底からきこえていたものであった。それがある時一人のいたずら者があって、馬の鞦(しりがい)をこの淵へほうり込んで以来、ばったりその音をきくことが出来なくなったといいます。神代の天の岩屋戸の物語にも、似通うた所のある話であります。(益田(ました)郡誌。岐阜県益田郡上原村門和佐)
昔は村々のお祭りでも、毎年新たに神様の衣服を造ってお供え申していたようであります。その為には最も穢(けがれ)を忌んで、こういうやや人里を離れた清き泉のほとりに、機殿(はたどの)というものを建てて若い娘たちに、その大切な布を織らせていたかと思います。その風がだんだんにやんで、後には神のお附きの女神が、その役目をなさるように考えて来ました。そのわけももうわからなくなって、しまいには竜宮の乙姫様などということになりましたけれども、ここできこえる機の音は竜宮のものでなく、最初から土地の神様の御用でありました。ちょうど片目の魚が生(い)け牲(にえ)のうちからおそれ敬われたように、後々神の御身につく布である故に、その機の音のするところへは、ただの人の布を織る者は、はばかって近よらぬようにしていたのであります。旧五月一と月の間は、ただの女は機を織ってはならぬといういましめがあり、これを犯す者が厳しく罰せられる村は今でもあります。
安芸(あき)の厳島(いつくしま)などは、島の神が姫神であった為か、昔は島の内で機を立てることが常に禁じられてありました(棚守房顕手記)。また機道具をもってある池の側を通った女が、落ちて死んだという話が他の村々に多いのも、その為かと思います。
若狭の国吉山(くによしやま)の麓の機織り池なども、今はすっかり水田になってしまいましたが、前には水の中から機織る音がきこえるといいました。まだこの池が大池であった頃、一人の女が機の道具を持って、池の氷の上を渡ろうとしたところが、氷が割れて水にはいって死んだ。機織姫神社というのは、その女の霊を祀ったのだといっていますが、それは多分思い違いで、この姫神の社もある程の池だから、こんな恐ろしい話が出来たのであろうと思います。(若狭郡県志。福井県|三方(みかた)郡山東村阪尻)
それよりも更に物すごい話が、近江の比夜叉(ひやしゃ)の池にあります。もとはこの池には水が少くて、どうすればよいかと占いを立てて見ると、一人の女を生きながら池の底に埋めて、水の神に祀るならば、きっと水が持つということでありました。その時に領主の佐々木|秀茂(ひでもち)の乳母比夜叉御前が、自ら進んでこの人柱に立ち、持っていた機の道具とともに、水の下に埋められました。それからは果していつも水が池一杯あるので、今でも比夜叉女水神と称えて信仰せられています。そうして真夜中にこの池の脇を通る人は、いつも水の底から機を織る音をきいたということであります。(近江輿地志略(おうみよちしりゃく)。滋賀県阪田郡大原村池下)
乳母がわざわざ機道具を持って、池の底にはいって行ったという点は、今一つ前からの話の残りであろうと思います。比夜叉という池の名も、もとはおそろしい池の主がいた為らしいのですが、美濃(みの)の夜叉池の方でも、やはりそれを大蛇に嫁入りした長者の愛娘(まなむすめ)の名であったようにいっています。即ちこういう伝説は昔話になり易いのです。昔話の最も面白い部分を、持って来て結びつけられ易いのであります。
上総(かずさ)の雄蛇(おんじゃ)の池などでも、若い嫁が姑(しゅうとめ)ににくまれ、機の織り方が気に入らぬといっていじめられた。それで困ってこの池に身を投げたという話になっていますが、雨の降る日には水の底から、今でも梭の音がするという部分は伝説であります。もとはこの話は必ずもう少し池の雄蛇と関係が深かったのだろうと思います。(南総乃俚俗。千葉県|山武(さんぶ)郡大和村山口)
しかしその昔話の方でも、もし伝説というものがなかったら、こうは面白くは発展しなかったのであります。一つの例をいうと、土佐の地頭分(じとうぶん)川の下流、行川(なめかわ)という村には深い淵があって、その岸には一つの大岩がありました。昔ある人がこの岩の下にはいって見ると、淵の底に穴があってその奥の方で、美しい女が綾(あや)を織っているのを見たという伝説があります。(土佐州郡志。高知県土佐郡十六村行川)
この伝説は殊に弘く全国に行き渡ってありますが、大抵はこれに伴って気味の悪い、または愉快な話が語り伝えられているのであります。
羽後の小安(こやす)の不動滝(ふどうだき)の滝壺では、昔あるきこりが山刀をこの淵に落し、水にはいってこれをさがしまわっていると、忽ち明るい美しい里に出た。御殿があって、その中には綺麗(きれい)な女の人がいました。山刀はここにあるといってこの男に渡し、二度と再びこんなところへは来るな。あの鼾(いびき)の声をききなさい。あれは私の夫の竜神の寝息だ。私は仙台の殿様の娘だが、竜神に取られてもう逃げ出すことが出来ぬといったという話。これには女が機を織っていたという点が、早すでに落ちております。(趣味の伝説。秋田県雄勝郡小安)
ところが私のきいた陸中(りくちゅう)原台の淵の話では、長者の娘は水の底に一人で機を織っており、鉈(なた)はちゃんとその機の台木に、もたせ掛けてあったということで、そうしてうちの親たちに心配をするなという伝言をしたというのです。(遠野(とおの)物語。岩手県|下閉伊(しもへい)郡小国村)
更に岩代(いわしろ)二本松の町の近く塩沢村の機織御前の話などは、また少しばかり変っています。昔ある人が川の流れに出て鍬(くわ)を洗っていて、あやまってそれを水中に取り落した。水底にはいってさがしまわっているうちに、とうとう竜宮まで来てしまいました。竜宮では美しいお姫様がただ一人、機を織っていたといいます。久しく待っていたところへようこそおいでといって、大そうなおとり持ちでありましたが、家のことが気になるので、三日めに暇乞(いとまご)いをして、腰元に路まで送ってもらって、もとの村に帰って来ました。そうすると三日と思ったのがもう二十五年であった。それから記念の為に、この機織御前のお社を建てたという話であります。ただしそれにもまた別のいい伝えはあるので、私はそのことを次ぎにお話して、もうおしまいにします。(相生集。福島県|安達(あだち)郡塩沢村)
機織御前を織物業の元祖の神として、祀っている地方は多いのであります。その一つは能登の能登比※[「口+羊」](のとひめ)神社、この神様は始めて能登国に御兄の神と共にお下りなされ、神様の御衣服を作って後に、その機道具を海中にお投げになったのが、今は織具島(おりぐじま)という島になって、富木浦(とぎのうら)の沖にある。この地方の織物業者が、稗(ひえ)の粥(かゆ)を織糸にぬるのは、もと姫神様のお教えであったといって、今でも四月二十一日の祭礼に、稗粥を造ってお供えすることになっているそうです。(明治神社誌料。石川県|鹿島(かしま)郡能登部村)
野州の那須では那須絹の元祖として、綾織池のかたわらに綾織神社を祭っております。大昔、館野(だての)長者という人が娘の綾姫の為に、綾織大明神を迎えに来たというのが、今の歴史でありますが、その前には驚くような一つの奇談がありました。この池は今から二百五十年前の山崩れに埋まって、小さなものになってしまったが、もとは有名な大池であった。その頃に池の主が美しい女に化けて、都に上ってある人の妻となり、綾を織って追い追いに家富み、後には立派な長者になった。ある時この女房が昼寝をしているのを、夫が来て見ると大きなる蜘蛛(くも)であった。それを騒いだので一首の歌を残して、蜘蛛の女房は逃げて帰った。そうしてこんな歌を残して行ったというのであります。
恋しくばたづねて来(きた)れ下野(しもつけ)の那須のことやの綾織りのいけ
それで夫が、跡を追うて尋ねて来て、再びこの池のほとりで面会したという話もあります。歌はこの地方の臼(うす)ひき歌になって永く伝わっていたといいますから、これもまた那須地方の伝説であったのです。(下野風土記。栃木県那須郡黒羽町北滝字|御手谷(ごてや))
この歌が安倍晴明(あべのせいめい)の母だという葛(くず)の葉の狐の話と、同じものだということは誰にも分りますが、那須の方は子供のことをいっておりません。ところが、歌の文句にある那須のことやというのが、もしこのお社のある御手谷(ごてや)のことであるならば、福島地方の絹の神様、小手姫御前はもとは一つであろうと思いますが、こちらには親子の話があるのであります。小手姫様は今の飯阪の温泉の近く、大清水の村に祀ってあるのが最も有名で、土地では機織御前の宮といっております。いろいろのいい伝えがあって、少しも一致しませんが、今でもよく知られているのは、羽黒山の神様|蜂子(はちこ)の王子の御母君であって、王子のあとを慕ってこの国へお下りなされ、年七十になるまで各地をあるいて、蚕を養い絹を織ることを人民に教え、後に、この大清水の池に身を投げて死なれたというのであります。それはとにかくに、社の前には左右の小池があって水至って清く、今も村々の人は絹を織れば、その織り留めをこの御宮に献納するということであります。(信達二郡村誌。福島県|伊達(だて)郡飯阪町大清水)
この小手姫の小手という語には、何か婦人の技芸という意味が、あったのではないかと思いますが、今の小手川村の内には、また布川という部落もあって、小手姫がここの川原に出て、自ら織るところの布を晒したともいっています。すなわち布を織る姥の信仰の方が、却ってこの地方に絹織物の始まりよりは古かったようであります。そうすると小手姫を蜂子王子の御母といい始めた理由も、幾分か明かになります。すなわち王子の御衣服を調製する役として、早くから共々に祀っていたのが、後に絹工業が盛んになって、独立してその機織御前だけを、拝むようになったとも見えるのであります。前に申した二本松の機織御前なども、領主の畠山高国(はたけやまたかくに)という人が、この地に狩をした時、天から降った織姫に出あって、結婚して松若丸という子が生れた。その松若丸の七歳の時に、母の織姫は再び天に帰り、後にこの社を建てて、祀ることになったと、土地の人たちはいっていたそうで(相生集)、話はまた那須の綾織池の方とも、少しばかり近くなって来るのであります。こういう風に考えて来ると、機を織る姫神を清水のかたわらにおいて拝んだのも、もとは若い男神に、毎年新しい神衣を差し上げたい為であって、どこまで行っても御姥子様の信仰は、岸の柳のように一つの伝説の流れの筋を、われわれに示しているのであります。 
御箸(おはし)成長

 

御箸を地面にさして置いたら、だんだん大きくなって、大木になったという話が方々にあります。
東京では向島(むこうじま)の吾妻(あずま)神社の脇にある相生(あいおい)の楠もその一つで、根本から四尺ほどの所が二股(ふたまた)に分れていますが、始めは二本の木であったものと思われます。社のいい伝えでは、昔、日本武尊(やまとたけるのみこと)がここで弟橘姫(おとたちばなひめ)をお祭りになった時、お供え物についた楠のお箸を取って土の上に立て、末代天下泰平ならば、この箸二本とも茂り栄えよと仰せられました。そうすると果してその箸に根がついて、後にはこんな大きな木になったというのであります。この楠の枝を四角にけずったものを、今でも産をする人がいただいて行くそうです。それをお箸にして食事をしていれば、必ずお産が軽いと信じた人が多く、またこの木の葉を煎(せん)じて飲むと、疫病をのがれるともいっておりました。(江戸志以下。土俗談語等)
また浅草の観音堂の後にある大公孫樹(おおいちょう)は、源頼朝がさして行ったお箸から、芽を出して成長したものだといういい伝えもありました。(大日本老樹名木誌。東京市浅草公園)
頼朝のお箸の木は、これ以外にも、まだ関東地方には、そちこちに残っております。
武蔵(むさし)ではまた土呂(どろ)の神明様の社の脇の大杉が、源義経の御箸であったと申します。義経は蝦夷地(えぞち)へ渡って行く以前に、一度この村を通って、ここに来て休憩したことがあるのだそうです、そうして静かな見沼(みぬま)の風景を眺めながら昼の食事をしたというのであります。その時に箸を地にさして行ったのが、芽を生じて今の大杉になったといっております。(大日本老樹名木誌。埼玉県|北足立(きたあだち)郡|大砂土(おおさと)村)
武蔵の入間(いるま)郡には椿峯(つばきみね)という所が二箇所あります。その一つは、御国(みくに)の椿峯で、高さ四五尺の塚の上に、古い椿の木が二本あります。これは昔新田義貞が、この地に陣取って食事をした時に、お箸に使った椿の小枝をさして置いたのが、後にこの様に成育したといい伝えております。(入間郡誌。埼玉県入間郡山口村)
いま一つは山口の北隣りの北野という村の椿峯で、これは新田|義興(よしおき)が、椿の枝を箸にして、ここで食事をしたようにいっておりますが、ちょうど村境の山の中に、双方がごく近くにあるのですから、もとは一つの話を二つにわけていい伝えたものであります。(同書。同郡|小手指(こてさし)村北野)
それからいま一つ外秩父(そとちちぶ)の吾野(あがの)村、子(ね)の権現山(ごんげんやま)の登り口に、飯森杉という二本の老木があります。これは子の聖(ひじり)という有名な上人(しょうにん)が、初めてこの山に登った時に、ここで休んで、昼餉(ひるげ)に用いた杉箸を地にさして行ったと伝えております。こういうふうに人はいろいろに変っても、いつもお昼の食事をした場所ということになっているのは、何か理由のあることでなければなりません。(老樹名木誌。埼玉県秩父郡吾野村大字南)
甲州では、東山梨の小屋舗(こやしき)という村に、また一つ日本武尊の御箸杉という木がありました。それは松尾神社の境内で、熊野権現の祠(ほこら)の後にある大木でありました。日本武尊の御遺跡という所は、山梨県にはまだ方々にありますが、いずれも詳しいことは伝わっておりません。(甲斐(かい)国誌。山梨県東山梨郡松里村)
そこから余り遠くない等々力(とどろき)村の万福寺(まんぷくじ)という寺にも、親鸞(しんらん)上人の御箸杉という大木が二本あって、それ故に、また杉の御坊とも呼んでおりましたが、二百年以上も前の火事に、その一本は焼け、残りの一本も後に枯れてしまいました。昔、親鸞がこの寺に来て滞在しいよいよ帰ろうという日に、出立(でたち)の膳の箸を取って、御堂の庭にさしました。阿弥陀如来(あみだにょらい)の大慈大悲には、枯れた木も花が咲く。われわれ凡夫もそのお救いに洩れぬ証拠は、この通りといってさして行きましたが、果たせるかな、幾日もたたぬうちに、その箸次第に根をさし芽を吹いて、いつしか大木と茂り秀(ひい)でたというのであります。(和漢三才図会以下。東山梨郡等々力村)
関東では東上総(ひがしかずさ)の布施(ふせ)という村の道の傍にも、幾抱えもある老木の杉が二本あって、その地を二本杉と呼んでおりました。これはまた、昔源頼朝が、ここを通って安房(あわ)の方へ行こうとする際に、村の人たちが出て来て、将軍に昼の飯をすすめました。箸には杉の小枝を折って用いたのを、記念の為にその跡にさし、それが生えついて、この大木となったといって、そこも新田義貞の椿峯と同様に、小さい塚になっていたと申します。(房総志料。千葉県|夷隅(いすみ)郡布施村)
なおこれから四里ばかり西に当って、市原郡の平蔵(へいぞう)という村の二本杉にも、同じく頼朝公が御箸をさして行かれたという伝説が残っておりました。いつも頼朝であり、また箸であることは、よほど珍しい話といわねばなりません。(房総志料続編。千葉県市原郡|平三(へいぞう)村)
上総では、また頼朝公の御箸は、薄(すすき)の茎をもって作り、食事の後にそれをさして置いたらついたので、今でも六月二十七日の新箸(にいばし)という祭り日には、薄を折って箸にするといい伝えている村があります。(南総之俚俗。千葉県|長生(ちょうせい)郡高根本郷村宮成)
越後などでは、七月二十七日を青箸の日と名づけて、必ず青萱(あおかや)の穂先を箸に切って、その日の朝の食事をする村が多かったそうです。そのいわれは、昔川中島合戦の時に、上杉謙信が諏訪明神(すわみょうじん)に祈って、武運思いの通りであった故に、その後永く諏訪の大祭りの七月二十七日の朝だけは、神のお喜びなされる萱の穂を、箸に用いることにしたのだといっておるのであります。(温故之栞巻二十)
或(あるい)はまた頼朝は葭(よし)を折って、箸に用いたとも伝えております。上総の畳が池は、八段歩に近い大池でありますが、一本も葭というものが生えません。それは昔頼朝公が、この池の岸で昼の弁当を使い、葭を折って箸にしたところが、あやまって唇を傷つけました。それで腹を立てて葭の箸を池に投げ込んだので、今でもこの池には葭が育たぬのだといっております。(上総国誌稿。千葉県君津郡清川村)
下総(しもうさ)では、印旛(いんば)郡|新橋(にっぱし)の葦(あし)が作(さく)という所に、これは頼朝の御家人(ごけにん)であった千葉介常胤(ちばのすけつねたね)の箸が、成長したという葦原があります。やはりこの池を通行して昼の食事をするのに、葦を折って箸に使い、後でそれを地面にさして行くと、その箸に根を生じて、追々に茂ったといい、元が箸だから今でも必ず二本ずつ並んで生えるのだと伝えておりました。(印旛郡誌。千葉県印旛郡富里村新橋)
安房の洲崎(すのさき)の養老寺という寺の庭には、やはり頼朝公の昼飯の箸が成長したと称して、清水の傍に薄の株がありますが、これは前の話とは反対に、毎年ただ一本だけしか茎が立たぬので、一本薄の名をもって知られておりました。尾花は普通には何本も一しょに出ますから、何か特別の理由がなくてはならぬというふうに、考えられていたものと思われます。(安房志。千葉県安房郡西岬村)
葦と薄の箸の話は、もうこの他には聞いておりません。東北地方では、陸中横川目の笠松(かさまつ)があります。黒沢尻から横手に行く鉄道の近くで、汽車の中からよく見える松です。これは親鸞上人の御弟子の信秋(のぶあき)という人が、やはり甲州の万福寺の話と同じ様に、仏法のたっといことを土地の人たちに示すために、食事の箸に使った松の小枝を二本、地面にさして行ったのが大きくなったのだといわれております。(老樹名木誌。岩手県和賀郡横川目村)
それからまた、越後に来て、北蒲原(きたかんばら)郡|分田(ぶんた)村の都婆(つば)の松が、これまた親鸞上人の昼飯の箸でありました。この松は女の姿になって京都に行き、松女と名乗って本願寺の普請の手伝いをしたというので、非常に有名になっている松であります。(郷土研究一編。新潟県北蒲原郡分田村)
能登の上戸(うえど)の高照寺(こうしょうじ)という寺の前に、古くは能登の一本木ともいわれた大木の杉がありました。これは八百年も長命をしたという若狭の白比丘尼(しろびくに)の、昼餉の箸でありました。白比丘尼は、ある時眼の病にかかって、この寺の薬師|如来(にょらい)に、百日の間願かけをしました。そうして信心のしるしに、杉の箸を地に立てたともいっております。この尼は箸ばかりでなく、諸国をめぐって杖(つえ)や椿の小枝をさし、それが皆今は大木になっているのであります。(能登国名跡志以下。石川県|珠洲(すず)郡上戸村寺社)
加賀では白山(はくさん)の麓(ふもと)の大道谷(だいどうだに)の峠の頂上に、また二本杉と呼ばるる大木があって、これは有名なる泰澄(たいちょう)大師が、昼飯に用いた箸を地にさしたといっております。ここはちょうど越前と加賀との国境で、峠の向うは越前の北谷、この辺にも色々と泰澄大師の故跡があります。(能美(のみ)郡誌。石川県能美郡白峰村)
越前では丹生(にう)郡の越知山(おちさん)というのが、泰澄大師の開いた名山の一つであります。泰澄はこの山に住んで、食べ物のなくなった時に、箸を地上にさしたのが成長したといって、大きな檜(ひのき)が今でも二本あります。くわしい話はわかりませぬが、これも信心の力で、やがて食べ物が得られたというのであろうと思います。(郷土研究一編)
近江国では、聖徳太子が百済寺(くだらじ)をお建てなされた時に、この寺もし永代に繁昌すべくばこの箸成長して、春秋の彼岸に花咲けよと祝して、おさしなされたという供御(くご)の御箸が、木になって二本とも残っております。土地の名を南花沢、北花沢、その木を花の木といっております。楓(かえで)の一種ですが、花が美しく、また余りたくさんにはない木なので、この頃は非常に注意せられるようになりました。しかし美濃三河の山中などにも、たまに大木を見かけることがあって、大抵はあるとうとい旅人が、箸を立てたという伝説を伴うているそうであります。(近江国輿地誌略以下。滋賀県|愛知(えち)郡東押立村)
この地方では今一つ、更に驚くべき御箸の杉が、犬上(いぬがみ)郡の杉阪という所にあります。大昔|天照大神(あまてらすおおみかみ)が、多賀(たが)神社の地に御降りなされた時に、杉の箸をもって昼飯を召し上り、それをお棄てなされたのが栄えたと伝えて、境の山に大木になって今でもあります。(老樹名木誌。滋賀県犬上郡脇ヶ畑村杉)
聖徳太子の御箸の木は、大阪にももとは一本ありました。玉造(たまつくり)の稲荷(いなり)神社の地を栗岡(くりおか)山、または栗山といってのは、その伝説があった為で、ここでは栗の木をけずったお箸であったといっております。太子が物部守屋(もののべのもりや)とお戦いなされた時に、このいくさ勝利を得べきならば、この栗の木、今夜のうちに枝葉|出(い)ずべしといって、おさしなされたお食事の箸が、果して翌朝は茂った木になっていたと伝えられます。もちろん普通にはあり得ないことばかりですが、それだから太子の御勝利は、人間の力でなかったというふうに、以前の人は解釈していたのであります。(芦分船(あしわけぶね)。明治神社誌料)
美作(みまさか)大井荘の二つ柳の伝説などは、至って近い頃の出来事のように信じられておりました。ある時|出雲国(いずものくに)から一人の巡礼がやって来て、ここの観音堂に参詣をして、路のかたわらで食事をしました。この男は足を痛めていたので、これから先の永い旅行が無事に続けて行かれるかどうか、非常に心細く思いまして、箸に使った柳の小枝を地上にさして、道中安全を観音に祈りました。そうして旅をしているうちに、だんだんと足の病気もよくなり、諸所の巡拝を残る所もなくすませました。何年か後の春の暮れに、再びこの川のほとりを通って気をつけて見ると、以前さして置いた箸の小枝は、既に成長して青々たる二本の柳となっていました。そこで二つ柳という地名が始まったと伝えております。二百年前の大水にその柳は流れて、後に代りの木を植えついだというのが、それもまた大木になっていたということであります。(作陽誌。岡山県|久米(くめ)郡|大倭(やまと)村南方中)
四国で二つあるお箸杉の伝説だけは、もう今日では昼の食事ということをいっておりません。その一つは阿波の芝村の不動の神杉(かみすぎ)というもの、二本の大木が地面から二丈ほどの所で、三間四方もある大きな巌石を支えております。昔弘法大師が、この地を通って、大きな岩の落ちかかっているのを見て、これはあぶないといって、二本の杉箸を立てて去った。それが芽をふき成長して、大丈夫な大きな樹になったのだと伝えております。(徳島県老樹名木誌。徳島県|海部(かいふ)郡川西村芝)
伊予の飯岡村の王至森寺(おうじもりじ)にあるものに至っては、なん人(びと)の箸であったかということも不明になりましたが、それでも杉の木の名は真名橋杉、まなばしとは御箸のことであります。八十年余り前に、この木を伐(き)ってしまったところが、村に色々の悪いことが続きました。或は真名橋杉を伐ったためではなかろうかといって、新たに今ある木を植えて、古い名を相続させ、それを木の神として尊敬しております。(老樹名木誌。愛媛県|新居(にい)郡飯岡村)
九州には、またこんな昔話のような伝説が残っております。昔肥前の松浦領と伊万里(いまり)領と、領分境をきめようとした時に、松浦の波多三河守(はたみかわのかみ)は、伊万里|兵部大夫(ひょうぶだゆう)と約束して、双方から夜明けの鶏の声をきいて馬を乗り出し、途中行き逢うた所を領分の堺に立てようということになりました。ところがその夜、岸嶽(きしだけ)の鶏が宵鳴きをしたので、松浦の使者は早く出発し、隣りの領の白野(しらの)なた落(おち)という所に来て、始めて伊万里の使者に行き逢いました。これではあまりに片方へ寄り過ぎるというので、伊万里方から頼んで、十三塚という所まで引き下ってもらって、その野原で馬から下りて、酒盛り食事をしました。その時用いたのは栗の木の箸でしたが、それを記念のために、その場所に※[「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている](さ)して帰って来ますと、後に箸から芽を出して、そこに栗の木が茂りました。不思議なことには毎年花が咲くばかりで、実はならなかったといい伝えております。(松浦昔鑑)
これと同じ様な話は気をつけていると、まだいくらでも知っている人が出て来ます。以前はほんとうにそんなことがあったと思っていた者が多かったので、永い間皆が覚えていたのであります。里でも山の中でも村の境でも、神のお祭りをする大切な場所には、必ず何か変った木が伐り残してありました。それが近江の花の木の如く、種類の非常に珍しいものもあれば、また向島の相生の樟(くす)のように、枝振りや幹の形の目につくものもありましたが、最も普通には、同じ年齢の同じ木を二本だけ並べて残したのであります。そうして置けば、すぐに偶然のものでないことが後の人にもわかったのであります。
そうして一方にはお祭りの折りに限って、木の串(くし)または木の枝を土にさす習慣がありました。同時にまた新しい箸をけずって、祭りの食事を神と共にする習慣もありました。箸は決して成長して大木となることの出来るものではありませんが、大昔ならば、また神様の力ならば、そんなことがあっても不思議でないと思ったのです。それもただの人には、とうてい望まれぬことである故に、かつて最も優れた人の来た場合、もしくは非常の大事件に伴うて、そういう出来事があったように、想像する者が多くなりました。しかし実際はそれよりもなお以前から、やはりこれは大昔の話として、語り伝えていたものであったろうと思います。 
行逢阪(ゆきあいざか)

 

境は、最初神々が御定めになったように、考えていた人が多かったのであります。人はいつまでも境を争おうとしますが、神様には早く約束が出来ていて、そのしるしにはたいてい境の木、または大きな岩がありました。大和と伊勢の境にある高見山の周囲では、奈良の春日(かすが)様と伊勢の大神宮様とが、御相談の上で国境をおきめなされたといっております。春日様は余り大和の領分が狭いので、いま少し、いま少しとのぞまれて果てしがない。いっそのこと出逢い裁面(さいめん)として、境をつけ直そうということになりました。裁面はさいめ、すなわち堺のことで、双方から進んで来て、出おうた所を境にしようというわけであります。そこで春日の神様は鹿に乗ってお立ちになる。伊勢は必ず御神馬(ごしんめ)に乗って、かけて来られるに相違ないから、これはなんでもよほど早く出かけぬと負けるといって、夜の明けぬうちに出発なされました。そのために却って春日様の方が早く伊勢領にはいって、宮前(みやのまえ)村のめずらし峠の上で、伊勢の神様とお出あいになりました。おお春日はん珍しいと声をおかけになった故に、めずらし峠という名前が出来ました。ここを国境にしては余りに伊勢の分が狭くなるので、今度は大神宮様の方からお頼みがあり、笹舟を作って水に浮かべて、その舟のついた所を境にしようということになりました。
その頃はまだこの辺は一面の水で、その水が静かで、笹舟は少しも流れません。それで伊勢の神様は一つの石を取って、これは男石といって水の中に投げこまれますと、舟はただようて今の舟戸(ふなど)村にとまり、水は高見の嶺を過ぎて大和の方へ少し流れました。それを見て伊勢の大神が、舟は舟戸、水は過ぎたにと仰せられたので、伊勢の側には舟戸村があり、大和の方には杉谷の村があります。二村共に神様のお付けになった古い名だといっております。その男石は今もめずらし峠の山中にあって、新道を通っても遠くからよく見えます。村の家に子供の生れようとする者が、今でもこの石を目がけて小石を打ちつけて、生れる子が男か女かと占います。男が生れる時には、必ずその小石が男石に当るといっております。三十年ほど前までは、この男石の近くに、古い大きな榊(さかき)の木が、神に祀(まつ)られてありました。伊勢の神様が神馬に乗り、榊の枝を鞭(むち)にしておいでになったのを、ちょっと地に※[「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている](さ)して置かれたものが、そのまま成長して大木になった。それ故に枝はことごとく下の方を向いて伸びているといいました。この木をさかきというのも、逆木の意味で、ここが始まりであったと土地の人はいっております。(郷土研究二編。三重県|飯南(はんなん)郡宮前村)
大和と熊野との境においても、これと近い話が伝わっておるそうであります。春日様は、熊野の神様と約束をして、やはり肥前の松浦人と同じように、行き逢い裁面として領分境をきめようとせられました。熊野は烏に乗って一飛びに飛んで来られるから、おそくなっては負けると思って、まだ夜の明けぬうちに春日様は、鹿に乗って急いでおでかけになると、熊野の神様の方では油断をして、まだ家の内に休んでおられました。約束通りにすると、軒の下まで大和の領分にしなければならぬのですが、それでは困るので無理に春日様に頼んで、熊野の烏の一飛び分だけ、地面を返してお貰いになりました。それ故に、今でも奈良県は南の方へ広く、熊野は堺までがごく近いのだといいますのは、まるで兎と亀との昔話のようであります。
これとよく似たいい伝えが、また信州にもありました。信州では、諏訪大明神が国堺を御きめなされるために、安曇(あずみ)郡を通って越後の強清水(こわしみず)という所まで行かれますと、そこへ越後の弥彦(やひこ)権現がお出向きになって、ここまで信濃にはいられては、あまり越後が狭くなるから、いま少し上の方を堺にしようという御相談になり、白池(しらいけ)という所までもどって堺を立てられました。それから西へ廻って越中の立山(たてやま)権現、加賀の白山(はくさん)権現ともお出あいなされて、つごう三箇所の境がきまり、それから後は七年に一度ずつ、諏訪から内鎌(ないがま)というものが来て、堺目にしるしを立てたということであります。(信府統記)
同じ話を、また次のように話している人もあります。昔国境を定める時に、諏訪様は牛に乗り、越後様は馬に乗って、途中ゆきおうた所を境にしようというお約束がきまって、越後様は馬の足は早いから、あまり行き過ぎても失礼だと思って、夜が明けて後にゆっくりとお出かけになる。諏訪様の方では、牛は鈍いからと、夜中にたって大急ぎでやって来られたので、先に越後分の塞(さい)の神という所まで来て、そこでやっと越後様の馬と出あわれた。これは来過ぎたわいと、少し引き返して出直して行かれたという所を、諏訪の平というのだそうであります。(小谷口碑集。新潟県|西頸城(にしくびき)郡根知村)
昔はこういうふうに、国の境を遠くと近くと、二所にきめて置く習慣があったらしいのであります。そうすればなるほど喧嘩(けんか)をすることが、少くて済んだわけであります。豊後(ぶんご)と日向(ひゅうが)との境の山路などでも、嶺から少し下って、双方に大きなしるしの杉の木がありました。そうして豊後領に寄った方を日向の木、これと反対に日向の側にある方の杉を、豊後の木といっておりました。百年ほど前にその豊後の木が枯れたので、伐って見ますと、太い幹からたくさんの錆(さ)びた鏃(やじり)が出ました。これは矢立(やたて)の杉ともいって、以前はその下を通る人々が、その木に向って箭(や)を射こむことを、境の神を祭る作法としていたのであります。箱根の関山にも甲州の笹子(ささご)峠にも、もとは大きな矢立杉の木があったのです。信州の諏訪の内鎌というのも、その箭の代りに鉄の鎌を、神木の幹に打ちこんだものと思われます。近頃になっても、境に近い大木の幹から、珍しい形をした古鎌が折り折り出ました。そうしてそれと同じ鎌が、諏訪では今もお祭りに用いられるので、薙鎌(なぎがま)と書く方が正しいようであります。何にせよ諏訪の明神が、境をお定めになったという伝説は、鎌を打ちこむ神木があるために、出来たものに相違ありませぬが、その話の方はおいおいに変って行くのであります。例えば越後の神様は、諏訪の神の母君で、御子の様子が聞きたくて、越後からわざわざお出でになる路で、ちょうど国境の所で、諏訪の神様とお出あいなされ、諏訪様が鹿島(かしま)、香取(かとり)の神に降参なされたことをきいて、失望してここから別れて、越後へお帰りになったなどというのは、後に歴史の本を読んだ人の考えたことで、安房(あわ)や上総で、源頼朝の旅行のことを、附け加えたのと同じ様な想像であろうと思います。
飛騨(ひだ)の山奥の黍生谷(きびうだに)という村などは、昔川下の阿多野郷(あたのごう)との境が不明なので、争いがあって困っていた時に、双方の村の人が約束を立て、黍生谷では黍生殿、阿多野は大西殿という人を頼み、牛に乗って両方から歩み寄って、行き逢うた所を領分の境とすることにしました。尾瀬(おせ)が洞(ほら)の橋場で、その二つの牛がちょうど出あい、それ以後はこれを村堺に定めたといっております。その黍生殿も大西殿も、共に木曽から落ちて来た隠居の武士(さむらい)であったといいますが、話はまったく春日と熊野、もしくは諏訪と弥彦の、出逢い裁面の伝説と同じものであります。(飛騨国中案内。岐阜県|益田(ました)郡朝日村)
美濃の武儀(むぎ)郡の柿野(かきの)という村と、山県郡北山という村との境には、たにのしおという所があって、そこに柿野の氏神様と、北山の鎮守様とが、別れの盃(さかずき)をなされたといい伝えております。金の盃と黄金の鶏とを、その地へ埋めて行かれたので、今でも正月元日の朝は、その黄金の鶏が出て鳴くといっております。(稿本美濃志。岐阜県武儀郡|乾(いぬい)村)
二つの土地の神様を、同じ日に同じ場所で、お祭り申す例は方々にありました。そうすれば隣り同士仲が良く、境の争いは出来なくなるにきまっています。地図も記録もなかった昔の世の人たちは、こうしでだんだんにむりなことをせずに、よその人と交際することが出来るようになりました。だからどこの村でも伝説を大事にしていたので、もし伝説が消えたり変ったりすれば、お祭りのもとの意味がわからなくなってしまうのであります。
行き逢い祭りをするお社は、別になんという神様に限るということはなかったのであります。信州では雨宮(あめみや)の山王(さんのう)様と、屋代(やしろ)の山王様と同じ三月|申(さる)の日の申の刻に、村の境の橋の上に二つの神輿(みこし)が集って、共同の神事がありました。その橋の名を浜名の橋といっております。東京の近くでは、北と南の品川の天王様の神輿が、二つの宿の境に架けた橋の上で出あい、橋の両方の袂(たもと)のお旅所でお祭りをしました。そうしてその橋を行き逢いの橋というのであります。東京湾内の所々の海岸には、まだ幾つでもこれと同じお祭りがありますが、もとは境を定めるのが目的であったことを、もう忘れている人が多いようであります。そうして一方が姫神である場合などは、これを神様の御婚礼かと思う者が多くなったのであります。 
袂石(たもといし)

 

昔|備後(びんご)の下山守(しもやまもり)村に、太郎左衛門という信心深い百姓があって、毎年かかさず安芸(あき)の宮島さんへ参詣(さんけい)しておりました。ある年神前に拝みをいたして、私ももう年をとってしまいました。お参りもこれが終りでござりましょう、といって帰って来ますと、船の中で袂に小さな石が一つ、はいっているのに心付きました。誰か乗り合いの人がいたずらをしたものであろうと思って、その石を海へ捨てて寝てしまいました。翌朝目が覚めて見ると、同じ小石がまた袂の中にあります。あまり不思議に思って大切にして村へ持って帰り、近所の人にその話をしましたところが、それは必ず神様からたまわった石であろう。祀(まつ)らなければなるまいといって、小さなほこらを建ててその石を内に納め、厳島大明神(いつくしまだいみょうじん)と称(とな)えてあがめておりました。その石が後にだんだんと大きくなったということで、この話をした人の見た時には、高さが一尺八寸ばかり、周りが一尺二三寸程もあったと申します。それからどうしたかわかりませんが、もし今でもまだあるならば、またよほど大きくなっているわけであります。(芸藩志料。広島県|蘆品(あししな)郡|宜山(むべやま)村)
信州の小野川には、富士石という大きな岩があります。これは昔この村の農民が富士に登って、お山から拾って来た小石でありました。家の近くまで帰った時、袂の埃(ごみ)を払おうとして、それにまぎれてここへ落したのが、いつの間にかこのように成長したものだといっております。(伝説の下伊那(しもいな)。長野県下伊那郡智里村)
また同じ地方の今田の村に近い水神の社には、生き石という大きな岩があります。これは昔ある女が、天竜川の川原で美しい小石を見つけ、拾って袂に入れてここまで来るうちに、袂が重くなったので気がついて見ると、その小石がもう大きくなっていました。そうして自分が爪の先で突いた小さな疵(きず)が石と共に大きくなっているので、びっくりしてこの水神様の前へ投げ出しました。それが更に成長して、しまいにはこのような巌(いわお)となったのだといい伝えております。(伝説の下伊那。長野県下伊那郡竜江村)
熊野の大井谷という村でも、谷川の中流にある大きな円形の岩、高さ二間半に周りが七間もあって、上にはいろいろの木や草の茂っているのを、大井の袂石といってほこらを建てて祀っておりました。それをまた福島石ともいっていましたが、そのわけはもう伝わっておりません。(紀伊国絵風土記。三重県|南牟婁(みなみむろ)郡五郷村)
伊勢の山田の船江(ふなえ)町にも、白太夫(しらだゆう)の袂石という大石があります。高さは五尺ばかり、周りに垣をして大切にしてありますが、これは昔|菅公(かんこう)が筑紫(つくし)に流された時、度会春彦(わたらいのはるひこ)という人が送って行って、帰りに播州(ばんしゅう)の袖の浦という所で、拾って来たさざれ石でありました。それが年々大きくなって、終(つい)にこの通りの大石となったので、その傍に菅公の霊を祀ることになったといい伝えて、今でもそこには菅原社があります。(神都名勝誌。三重県宇治山田市船江町)
土佐の津大(つだい)村と伊予の目黒村との境の山に、おんじの袂石という高さ二間半、周り五間ほどの大きな石がありました。これは昔曽我の十郎五郎兄弟の母が、関東から落ちて来る時に、袂に入れて持って来たものといい伝えております。この地方の山の中の村には、曽我の五郎を祀るという社が方々にあり、またその家来の鬼王団三郎(おにおうだんさぶろう)の兄弟が住んでいたという故跡なども諸所にあります。曽我の母が落人(おちゅうど)になって来ていたということも、この辺ではよく聞く話なのであります。(大海集。高知県|幡多(はた)郡津大村)
肥後の滑石(なめいし)村には、滑石という青黒い色の岩が、もとは入り海の水の底に見えておりましたが、埋め立ての田が出来てから、わからなくなってしまいました。この石は神功(じんぐう)皇后が三韓征伐のお帰りに、袂に入れてお持ちになった小石が、大きくなったのだといっておりました。(肥後国志。熊本県玉名郡滑石村)
九州の海岸には神功皇后の御上陸なされたといい伝えた場所が、またこの他にもいくつとなくあります。そうして記念の袂石を大切にしていたところも、方々にあったのではないかと思います。一番古くから有名になっていたのは、筑前|深江(ふかえ)の子負原(こうのはら)というところにあった二つの皇子(みこ)産み石であります。これはお袖の中に※[「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている](はさ)んでお帰りになったという小石ですが、万葉集や風土記の出来た頃には、もう一尺以上の重い石になっておりました。卵の形をした美しい石であったそうです。後にはどこへ移したのか、知っている人もなくなりました。土地の八幡(はちまん)神社の御神体になっているといった人もあれば、海岸の岡の上に今でもあって、もう三尺余りになっているという人もありました。(太宰(だざい)管内志。福岡県糸島郡深江村)
大きくなった石というのは、大抵は遠くから人が運んで来た小石で、始めからそこいらのただの石とは違っておりました。下総の印旛(いんば)沼の近く、太田村の宮間某という人の家では、屋敷に石神様のほこらを建てて、五尺余りの珍しい形の石を祀っていました。むかしこの家の前の主人が、紀州熊野へ参詣の路で、草鞋(わらじ)の間に挾(はさ)まった小石を取って見ますと実に奇抜な恰好をしていました。あまり珍しいので燧袋(ひうちぶくろ)の中に入れて持って帰りますと、もう途中からそろそろ大きくなり始めたといっております。(奇談雑史。千葉県印旛郡根郷村)
また千葉郡|上飯山満(かみはざま)の林という家でも、この成長する石を氏神に祀っていました。これはずっと以前に主人が伊勢参りをして、それから大和をめぐって途中で手に入れた小石で、巾着(きんちゃく)に入れて来た故に、その名を巾着石と呼んでいました。(同書。同県千葉郡二宮村)
土佐の黒岩村のお石は有名なものでありました。神に祀って大石神、また宝御伊勢神と称(とな)えております。これもずっと昔ある人が、伊勢から巾着に入れて持って来てここに置いたのが、終にこの見上げるような大岩になったのだといっております。(南路志|其他(そのた)。高知県高岡郡黒岩村)
筑後にも大石村の大石神社といって、村の名になった程の神の石があります。昔大石越前守という人が、伊勢国からこの石を懐に入れて参りまして、これを伊勢大神宮と崇(あが)めたともいえば、或(あるい)は一人の老いたる尼が、小石を袂に入れてこの地まで持って来たのが、次第に大きくなったともいっております。今から三百年前に、もう九尺三方ほどになっておりました。そうして別に今一つ三尺ほどの石があって、村の人はそれをも伊勢御前と称えて、社をたてて納めておりました。その社殿を何度も造り替えたのは、だんだん大きくなって、はいらなくなって来たからだといっております。(校訂筑後志。福岡県|三瀦(みずま)郡|鳥飼(とりかい)村)
この大石村のお社には、安産の願掛けをする人が多かったそうです。石のように堅く丈夫な子供、おまけに知らぬ間に大きくなるという子供を、親としては望んでいたからでありましょう。熊野から来たという石の中には、ただ成長するだけでなく、親とよく似た子石を産んだという伝説もありました。例えば九州の南の種子島(たねがしま)の熊野浦、熊野権現の神石などもそれでありました。このお社は昔この島の主、種子島|左近将監(さこんのしょうげん)という人が熊野を信仰して、遠くかの地より小さな石を一つ、小箱に入れて迎えて来ましたところが、それが年々に大きくなって、後には高さ四尺七寸以上、周りは一丈三尺余、左右に子石を生じてその子石もまた少しずつ成長し、色も形も皆母石と同じであったと申します。(三国名勝図会。鹿児島県熊毛郡中種子村油久)
これとよく似た話がまた日本の北の田舎、羽前(うぜん)の中島村の熊野神社にもありました。今から四百年ほど前にこの村の人が、熊野へ七度詣りをした者が、記念の為に那智の浜から、小さな石を拾って帰りました。それが八十年ばかりの間にだんだんと大きくなって、後には一抱えに余るほどになりました。形が女に似ているので姥石(うばいし)という名をつけました。それが年々に二千余りの子孫を生んで、大小いずれも形は卵の如く、太郎石次郎石、孫石などと呼んでいたというのは、見ない者にはほんとうとも思われぬ程の話ですが、これをこの土地では今熊野といって、拝んでいたそうであります。(塩尻。山形県北村山郡宮沢村中島)
土佐では今一つ。香美(かがみ)郡|山北(やまきた)の社に祀る神石も、昔この村の人が京の吉田神社に参詣して、神楽岡(かぐらおか)の石を戴いて帰って来たのが、おいおいに成長したのだといっております。(土佐海続編。高知県香美郡山北村)
伊勢では花岡村の善覚寺(ぜんかくじ)という寺の、本堂の土台石が成長する石でした。これは隣りの庄という部落の人が、尾張|熱田(あつた)の社から持って来て置いたもので、その人はもと熱田の禰宜(ねぎ)であったのが、この部落の人と結婚したために、熱田にいられなくなってここへ来て住んだといって、そこには今でも越石(こしいし)だの熱田だのという苗字(みょうじ)の家があります。(竹葉氏報告。三重県|飯南(はんなん)郡|射和(いさわ)村)
肥後の島崎の石神社(いしがみやしろ)の石も、もとは宇佐八幡の神官|到津(いとうづ)氏が、そのお社の神前から持って来て祀ったので、それから年々太るようになったといっております。(肥後国志。熊本県|飽託(ほうたく)郡島崎村)
この通り、大きくなるのに驚いて人が拝むようになったというよりも、始めから尊い石として信心をしているうちに、だんだんと大きくなったという方が多いのであります。だからその石がどこから来たかということを、今少しお話しなければならぬのでありますが、安芸の中野という村では、高さの二丈もある田圃(たんぼ)の中の大きな岩を、出雲石(いずもいし)といっておりました。これもまだ小石であったうちに、人が出雲国から持って来て、ここに置いたのが大きくなったといっております。(芸藩通志。広島県豊田郡高阪村)
その出雲国では飯石(いいし)神社の後にある大きな石が、やはり昔から続いて大きくなっておりました。石の形が飯を盛った様だからともいえば、或は飯盒(はんごう)の中にはいったままで、天から降って来た石だからともいっております。(出雲国式社考以下。島根県飯石郡飯石村)
どうしてその石の大きくなったのがわかるかといいますと、その周りの荒垣を作りかえる度毎に、少しずつ以前の寸法を、延べなけらば納まらぬからといっております。豊前(ぶぜん)の元松(もとまつ)という村の丹波大明神なども、四度もお社を作り替えて、だんだんに神殿を大きくしなければならなかったといっておりました。昔丹波国から一人の尼が、小石を包んで持って来て、この村に来て亡くなりました。その小石が大きくなるのでこのほこらの中に祀り、丹波様と呼ぶようになったのだそうであります。(豊前志)
石見(いわみ)の吉賀(よしが)の注連川(しめがわ)という村では、その成長する大石を牛王石(ごおういし)といっております。これは昔四国を旅行した者が、ふところに入れて持って帰った石だと申しています。(吉賀記。島根県|鹿足(かのあし)郡朝倉村)
富士石という石がまた一つ、遠江(とおとうみ)の石神村にもありました。村の山の切り通しのところにあって、これも年々大きくなるので、石神大神として祀ってありました。多分富士山から持って来た小石であったと、土地の人たちは思っていたことでありましょう。(遠江国風土記伝。静岡県|磐田(いわた)郡上阿多古村)
関東地方では秩父(ちちぶ)の小鹿野(おがの)の宿に、信濃石という珍らしい形の石がありました。大きさは一丈四方ぐらい、まん中に一尺ほどの穴がありました。この穴に耳を当てていると、人の物をいう声が聴えるともいいました。これは昔この土地の馬方が信州に行った帰りに、馬の荷物の片一方が軽いので、それを平にするために、路で拾って挾んで来た小石が、こんな大きなものになったというのであります。(新編武蔵風土記稿。埼玉県秩父郡小鹿野町)
その信州の方にはまた鎌倉石というのがありました。佐久(さく)の安養寺(あんようじ)という寺の庭にあって、始めて鎌倉から持って来た時には、ほんの一握りの小石であったものが、だんだん成長して四尺ばかりにもなったので、庭の古井戸の蓋にして置きますと、それにもかまわずに、後には一丈以上の大岩になってしまいました。だからすき間からのぞいて見ると、岩の下に今でも井の形が少し見えるといいました。(信濃奇勝録。長野県|北佐久(きたさく)郡三井村)
こうしてわざわざ遠いところから、人が運んで来るほどの小石ならば、何かよくよくの因縁があり、また不思議の力があるものと、昔の人たちは考えていたらしいのでありますが、中にはまたもっと簡単な方法で、大きくなる石を得られるようにいっているところもあります。九州の阿蘇(あそ)地方などでは、どんな小石でも拾って帰って、縁の下かどこかに匿(かく)して置くと、きっと大きくなっているように信じていました。やたらに外から小石を持って来ることを嫌っている家は今でも方々にあります。川原から赤い石を持って来ると火にたたるといったり、白い筋のはいった小石を親しばり石といって、それを家に入れると親が病気になるなどといったのも、つまり子供などのそれを大切にすることも出来ない者が、祀ったり拝んだりする人の真似をすることを戒める為にそういったものかと思います。
だから人は滅多に石を家に持って来ようとしなかったのですが、何かわけがあって持って来るような石は、大抵は不思議が現れたといい伝えております。奥州|外南部(そとなんぶ)の松ヶ崎という海岸では、海鼠(なまこ)を取る網の中に、小石が一つはいっていたので、それを石神と名づけて祀って置くと、だんだんと大きくなったといって、見上げるような高い石神の岩が村の近くにありました。(真澄遊覧記。青森県下北郡脇野沢村|九艘泊(くそうとまり))
隠岐島(おきのしま)の東郷という村では、昔この浜の人が釣りをしていると、魚は釣れずに握り拳ほどの石を一つ釣り上げました。あまり不思議なので、小さな宮を造って納めて置きますと、だんだん成長して七八年の後には、左右の板を押し破りました。それで今度は社を大きく建て直すと、またいつの間にかそれを押し破ったといって、後にはよほど立派なお宮になっていたそうです。(隠州視聴合記。島根県|周吉(すき)郡東郷村)
阿波の伊島という島でも、網をひいていますと、鞠(まり)の形をした小石が網にはいって上りました。それを捨てるとまた翌日もはいります。そんなことが三日続いて、三日めは殊に大漁であったので、その石を蛭子(えびす)大明神として祀りました。それから一そう土地の漁業が栄え、小石もまたほこらの中で大きくなって、五六年のうちにはほこらが張りさけてしまうので、三度めにはよほど大きく建て直したそうです。(燈下録。徳島県那賀郡伊島)
こういう例はいつも海岸に多かったようであります。鹿児島湾の南の端、山川の港の近くでも、昔この辺の農夫がお祀りの日に潮水を汲(く)みに行きますと、その器の中に美しい小さな石がはいっておりました。三度も汲みかえましたが、三度とも同じ石がはいって来るので、不思議に感じて持って帰りましたところが、それが少しずつ大きくなりました。驚いてお宮を建てて祀ったといい伝えて、それを若宮八幡神社といっております。そうして御神体はもとはこの小石でありました。(薩隅日(さつぐうにち)地理|纂考(さんこう)。鹿児島県|揖宿(いぶすき)郡山川村成川)
沖縄県などで今も村々の旧家で大切にしている石は、多くは海から上った石であります。別にその形や色に変ったところがないのを見ますと、何かそれを拾い上げた時に、不思議なことがあったのであろうと思います。薩摩(さつま)には石神氏という士族の家が方々にありますが、いずれも山田という村の石神神社を、家の氏神として拝んでおりました。そのお社の御神体も、白い色をした大きな御影(みかげ)石の様な石でありました。昔先祖の石神重助という人が、始めてこの国へ来る時に道で拾ったともいえば、或は朝鮮征伐の時に道中で感得したともいい、これも下総の宮間氏の石の如く、草鞋の間に挾まって何度捨ててもまたはいっていたから、拾って来たという話がありました。しかし今日では運搬することも出来ない程の大石ですから、これもやはり永い間には成長したのであります。(三国名勝図会等。鹿児島県薩摩郡永利村山田)
石に神様のお力が現れると、昔の人は信じていたので、始めから石を神として祀ったのではないのですが、神の名を知ることが出来ぬときには、ただ石神様といって拝んでいたようであります。それだから土地によって、石のあるお社の名もいろいろになっております。備後(びんご)の塩原の石神社などは、村の人たちは猿田彦(さるたひこ)大神だと思っておりました。その石などもおいおいに成長するといって、後には縦横共に一丈以上にもなっていました。普通には石神は路のかたわらに多く、猿田彦もまた道路を守る神であった為に、自然にそう信ずるようになったのであります。(芸藩通志。広島県|比婆(ひば)郡|小奴可(おぬか)村塩原)
常陸(ひたち)の大和田村では、後には山の神として祀っておりました。これは地面の中から掘り出した石と伝えております。始めは袂の中に入れるほどの小石であったのが、少しずつ大きくなるので、清いところへ持って来て置くと、それがいよいよ成長しました。それで主石(ぬしいし)大明神と唱えていたといい伝えております。(新編常陸国志。茨城県鹿島郡|巴(ともえ)村大和田)
石には元来名前などはないのが普通ですが、こういうことからだんだんに名が出来るようになりました。伊勢石、熊野石が伊勢の神、熊野権現のお社にあるように、出雲石、吉田石、富士石、宇佐石なども、もともとそれぞれの神を祀る人たちが、大切にしていた石でありました。鎌倉石も多分鎌倉の八幡様の、お力で成長したものと考えていたのだろうと思います。しかしどうして来たかがよく分らぬ石には、人がまた巾着石とか袂石というような、簡単な名を附けて置いたのであります。
羽後の仙北(せんぼく)の旭の滝の不動堂には、年々大きくなるという五尺ほどの岩があって、それをおがり石と呼んでおりました。おがるというのはあの地方で、大きくなるという意味の方言であります。(月之出羽路。秋田県仙北郡大川西根村)
備後の山奥の田舎にはまた赤子石というのがありました。それは昔は三尺ばかりであったのが、後には成長して一丈四尺にもなっていたからで、そんなに大きくなってもなお赤子石といって、もとを忘れなかったのであります。(芸藩通志。広島県比婆郡比和村古頃)
飛騨の瀬戸村には、ばい岩という大岩がありました。海螺(ばい)という貝に形が似ているからとも申しましたが、地図には倍岩と書いてあります。これもおおかたもとあった大きさより倍にもなったというので、倍岩といい始めたものだろうと思います。(斐太後風土記。岐阜県益田郡中原村瀬戸)
播州には寸倍石という名を持った石が所々にあります。たとえば加古(かこ)郡の野口の投げ石なども、土地の人はまた寸倍石と申しました。ちょうど郷境の林の中にぽつんと一つあって、長さが四尺、横が三尺、鞠の様な形であったそうですから、前には小さかったのが少しずつ伸びて大きくなったと、いい伝えていたものと思われます。投げ石という名前は方々にありますが、どれもこれも大きな岩で、とても人間の力では投げられそうもないものばかりであります。(播磨鑑(はりまかがみ)。兵庫県加古郡野口村阪元)
大抵の袂石は、人が注意をし始めた頃には、もう余程大きくなっていたようであります。そうして土地で評判が高くなってから後は、ほんとうはあまり大きくはなりませんでした。前にお話をした下総の熊野石なども、熊野から拾って来た時は燧袋の中で、もう大きくなっていたというくらいでありましたが、後にはだんだんと成長が目に立たなくなりました。二十年前に比べると、一寸は大きくなったという人もあれば、毎年米一粒ずつは大きくなっているのだという人もありましたが、それはただそう思って見たというだけで、二度も石の寸法を測って見ようという者は、実際はなかったのであります。或は出雲の飯石神社の神石のように、もとはお社の中に祀ってあったといい、または筑後の大石神社の如く、以前のお宮は今のよりも、ずっと小さかったという話は方々にありますが、それは遠い昔のことであって、石の大きくなって行くところを、見ているということは誰にも出来ません。筍(たけのこ)のように早く成長するものでも、やはり人の知らぬうちに大きくなります。ましてや石は君が代の国歌にもある通り、さざれ石の巌(いわお)となる迄(まで)には、非常に永い年数のかかるものと考えられていたのであります。つまりは一つの土地に住む多くの人が、古くから共同して、石は成長するものだと思っていた為に、こういう話を聴いて信用した人が多かったというだけであります。 
山の背くらべ

 

石が出しぬけに大きくなろうとして、失敗したという話も残っております。例えば常陸(ひたち)の石那阪(いしなざか)の峠の石は、毎日々々伸びて天まで届こうとしていたのを、静(しず)の明神がお憎みになって、鉄の沓(くつ)をはいてお蹴(け)飛ばしなされた。そうすると石の頭が二つに砕け、一つは飛んで今の河原子(かわらご)の村に、一つは石神の村に落ちて、いずれもその土地ではほこらに祀(まつ)っていたという話があります。一説には、天の神様の御命令で、雷が来て蹴飛ばしたともいって、石那阪ではその残った石の根を、雷神石と呼んでおりました。高さは五丈ばかりしかありませんが、周りは山一杯に根を張って、なるほどもしこのままで成長したら、大変であったろうと思うような大岩でありました。(古謡集其他。茨城県|久慈(くじ)郡阪本村石名阪)
陸中|小山田(こやまだ)村のはたやという社の周囲にも、大きな石の柱の短く折れたようなものが、無数に転がっておりましたが、これも大昔の神代(かみよ)に石が成長して、一夜の中に天を突き抜こうとしていたのを、神様に蹴飛ばされて、このように小さく折れたのだといっておりました。(和賀稗貫二郡志。岩手県和賀郡小山田村)
南会津(みなみあいづ)の森戸村には、森戸の立岩という大きな岩山があります。昔この山が大きくなろうとしていた時に、やはりある神様が来て、その頭を蹴折られたといっております。そうしてそのかけらを持って来て、逆さに置いたのがこれだといって、隣りの岩下の部落には逆岩という高さ八丈、周り四十二丈ほどの大きな岩が今でもあります。(南会津郡案内誌。福島県南会津郡|館岩(たていわ)村森戸)
山を木などのように順々に大きくなったものと、思っていた人がもとはあったのかも知れません。富士山なども大昔|近江国(おうみのくに)から飛んで来たもので、その跡が琵琶(びわ)湖になったのだという話がありました。奥州の津軽では、岩木山のことを津軽富士といっております。昔この山が一夜のうちに大きくなろうとしている時に、ある家のお婆さんが夜中に外へ出てそれを見つけたので、もうそれっきり伸びることを止(や)めてしまった。誰も見ずにいたら、もっと高くなっている筈であったという話であります。磐城(いわき)の絹谷(きぬや)村の絹谷富士は、富士とはいっても二百メートルほどの山ですが、これもちょうど地から湧(わ)き出した時に、ある婦人がそれを見て、山が高くなると大きな声でいったので、高くなることを止めてしまいました。もし女がそんなことをいわなかったら、天にとどいたかも知れぬと、土地の人たちはいっております。(郷土研究一編。福島県|岩城(いわき)郡草野村絹谷)
駿河(するが)の足高山(あしたかやま)は、大昔|諸越(もろこし)という国から、富士と背くらべをしに渡って来た山だという話があります。東海道を汽車で通る時に、ちょうど富士山の前に見える山で、長く根を引いて中々大きな山ですが山の頭がありません。それは足柄(あしがら)山の明神が生意気な山だといって、足を挙げて蹴くずされたので、それで足高は低くなったのだといっております。その山のかけらが海の中に散らばっていたのを、だんだん寄せ集めて海岸に、小高い一筋の陸地をこしらえました。それが浮き島が原で、そこを今鉄道が通って居ますが、以前の道路は十里木(じゅうりぎ)という所を越えて、富士とこの足高山との間を通っておりました。そうして右と左に二つの山を見くらべて、昔の旅人はこんな話をしていたのであります。(日本鹿子。静岡県|駿東(すんとう)郡須山村)
伯耆(ほうき)の大山(だいせん)の後には韓山(からやま)という離れ山があります。これも大山と背くらべをするために、わざわざ韓(から)から渡って来た山だから、それで韓山というのだといい伝えております。それが少しばかり大山よりも高かったので、大山は腹を立てて、木履(ぼくり)をはいたままで韓山の頭を蹴飛ばしたといいます。だから今でもこの山の頭は欠けており、また大山よりは大分低いのだということであります。(郷土研究二編。鳥取県|西伯(さいはく)郡大山村)
九州では、阿蘇山の東南に、猫岳(ねこだけ)という珍しい形の山があります。この山もいつも阿蘇と丈競(たけくら)べをしようとしていました。阿蘇山が怒ってばさら竹の杖をもって、始終猫岳の頭を打っていたので、頭がこわれて凸凹(でこぼこ)になり、また今のように低くなったのだといいます。(筑紫野|民譚(みんたん)集其他。熊本県阿蘇郡|白水(はくすい)村)
山が背くらべをしたという伝説は、ずいぶん広く行われております。例えば台湾の奥地に住む人民の中でも、霧頭山(むとうざん)と大武山(だいぶさん)との兄弟の山が競争して、弟の大武山が兄の霧頭山をだまして一人でするすると大きくなったという話があります。それだから大武山は、兄よりも高いのだといっております。(生蕃(せいばん)伝説集。パイワン族マシクジ社)
それからまた古い時代にも、同じ伝説があったのであります。近江国では、浅井の岡が胆吹山(いぶきやま)と高さくらべをした時に、浅井の岡は胆吹山の姪(めい)でありましたが、一夜の中に伸びて、叔父さんに勝とうとしました。胆吹山の多々美彦(たたみひこ)は大いに怒って、剣を抜いて浅井姫の頸(くび)を切りますと、それが湖水の中へ飛んで行って島になった。今の竹生島(ちくぶじま)は、この時から出来たということを、もう千年も前の人がいい伝えておりました。(古風土記逸文考証。滋賀県東浅井郡竹生村)
大和では天香久山(あまのかぐやま)と耳成山(みみなしやま)とが、畝傍山(うねびやま)のために喧嘩(けんか)をした話が、古い奈良朝の頃の歌に残っております。それとよく似た伝説は、奥州の北上川の上流にもありまして、岩手山と早地峯山(はやちねさん)とは、今でも仲が好くないようにいっております。汽車で通って見ますと二つのお山の間に、姫神山という美しい孤山が見えます。争いはこの姫神山の取り合いであったともいえば、或はその反対に岩手山は姫神をにくんで、送り山という山にいいつけて、遠くへ送らせようとしたのに、送り山はその役目をはたさなかったので、怒って剣を抜いてその頸をきった。それが今でも岩手山の右の脇に載っている小山だともいいました。(高木氏の日本伝説集。岩手県岩手郡滝沢村)
日本人は永い年月の間に、だんだんと遠い国から移住して来た民族です。昔一度こういう話を聴いたことのある者の子や孫が、もう前のことは忘れかかった頃に、知らず識らず似たような想像をしたというだけで、わざとよその土地の伝説を真似ようとしたのではありますまいが、山が右左に高くそびえて、何か争いでもしているように思われる場合が、行く先々の村里の景色にはあるので、それをじっと眺めていて、幾度でもこんな昔話をし出したものと見えます。
青森の市の東にある東嶽(あずまだけ)なども、昔|八甲田山(はっこうださん)と喧嘩をして斬られて飛んだといって、胴ばかりのような山であります。その頸が遠く飛んで岩木山の上に落ち、岩木山の肩には瘤(こぶ)みたいな小山が一つついているのが、その東嶽の頸であったという人があります。津軽平野の土地が肥えているのは、その時の血がこぼれているからだともいいます。そうして岩木山と八甲田山とは、今でも仲が好くないという話もあります。(高木氏の日本伝説集。青森県東津軽郡東嶽村)
出羽の鳥海山(ちょうかいざん)は、もと日本で一番高い山だと思っていました。ところが人が来て、富士山の方がなお高いといったので、口惜(くや)しくて腹を立てて、いても立ってもいられず、頭だけ遠く海の向うへ飛んで行った。それが今日の飛島(とびしま)であるといいます。飛島は海岸から二十マイルも離れた海の中にある島ですが、今でも鳥海山と同じ神様を祀っております。これには必ず深いわけのあることと思いますけれども、こういう変った昔話より他には、もう昔のことは何一つも伝わっておりません。(郷土研究三編。山形県|飽海(あくみ)郡飛島村)
負けることの嫌いな者は、決して山ばかりではありませんでした。全体に日本では、軽々しく人の優劣を説くのは悪いこととしてありましたが、交通がだんだん開けて来ると、どうしてもそういう評判をしなければならぬ場合が多く、それをまた大へんに気にする古風な考えが、神にも人間にも少くなかったようであります。阿波の海部川(かいふがわ)の水源には、轟(とどろ)きの滝、一名を王余魚(かれい)の滝という大きな滝があって、山の中に王余魚明神という社がありました。この滝の近くに来て、紀州熊野の那智の滝の話をすることは禁物でありました。那智の滝とどちらが大きいだろうといったり、またはこの滝の高さを測って見ようとしたりすると、必ず神のたたりがあったというのは、多分この方が那智よりも少し小さかったためであろうと思います。(燈下録。徳島県海部郡川上村平井)
橋などは、殊に遠方の人が多く通行するので、毎度他の土地の橋の噂(うわさ)を聴くことがあったろうと思いますが、それを非常に嫌うという話が多いのであります。橋の神は、至ってねたみ深い女の神様であるといっておりました。
甲府の近くにある国玉(くにたま)の大橋などは、橋の長さが、もとは百八十間もあって、甲斐国(かいのくに)では、一番大きな、また古い橋でありましたが、この橋を渡る間に猿橋(さるはし)のうわさをすることと、野宮(ののみや)といううたいをうたうこととが禁物で、その戒めを破ると、必ずおそろしいことがあったといいました。今でも土地の人だけは、決してそういうことはせぬであろうと思います。猿橋は小さいけれども、日本にも珍しいという見事な橋でありますから、それと比べられることを、この大橋が好まなかったのであります。そうして野宮は、女のねたみを同情したうたいでありました。(山梨県町村誌。山梨県西山梨郡国里村国玉)
九州の南の端、薩摩の開聞岳(かいもんだけ)の麓(ふもと)には、池田という美しい火山湖があります。ほんの僅な陸地によって海と隔てられ、小高い所に立てば、海と湖水とを一度に眺めることも出来るくらいですが、大洋と比べられることを、池田の神は非常にきらいました。そうして湖水の近くに来て、海の話や、舟の話をする者があると、すぐに大風、高浪がたって、物すごい景色になったということであります。(三国名所図会。鹿児島県|揖宿(いぶすき)郡指宿村)
湖水や池沼の神は、多くは女性でありましたから、独(ひとり)隠れて世の中のねたみも知らずに、静かに年月を送ることも出来ました。山はこれとちがって、多くの人に常に遠くから見られていますために、どうしても争わなければならぬ場合が多かったようであります。
豊後の由布嶽(ゆふだけ)は、九州でも高い山の一つで、山の姿が雄々しく美しかった故に、土地では豊後富士ともいっております。昔|西行(さいぎょう)法師がやってきて、暫(しばら)く麓の天間(あまま)という村にいた頃に、この山を眺めて一首の歌を詠みました。
豊国(とよくに)の由布の高根は富士に似て雲もかすみもわかぬなりけり
そうするとたちまちこの山が鳴動して、盛んに噴火をし始めたので、これはいい方が悪かったと心づいて、
駿河なる富士の高根は由布に似て雲も霞(かすみ)もわかぬなりけり
と詠み直したところが、ほどなく山の焼けるのがしずまったという話であります。西行法師というのは間違いだろうと思いますが、とにかく古くからこういう話が伝わっておりました。(郷土研究一編。大分県|速見(はやみ)郡南端村天間)
もとはほんとうにあったことのように思っていた人もあったのかも知れません。そうでなくとも、よその山の高いという噂をするということは、なるたけひかえるようにしていたらしいのであります。多くの昔話はそれから生れ、また時としてそれをまじないに利用する者もありました。例えば昔|日向国(ひゅうがのくに)の人は、癰(よう)というできものの出来た時に、吐濃峯(とののみね)という山に向ってこういう言葉を唱えて拝んだそうであります。私は常にあなたを高いと思っていましたが、私のでき物が今ではななたよりも高くなりました。もしお腹が立つならば、早くこのできものを引っ込ませて下さいといって、毎朝一二度ずつ杵(きね)のさきをそのおできに当てると、三日めには必ず治るといっておりました。これも山の神が自分より高くなろうとする者をにくんで、急いでその杵をもってたたき伏せるように、こういう珍しい呪文(じゅもん)を唱えたものかと思います。(塵袋七。宮崎県|児湯(こゆ)郡都農村)
山が背くらべをしたという古い言い伝えなども、後には児童ばかりが笑ってきく昔話になってしまいました。そうしてだんだんに話が面白くなりました。肥後の飯田山(いいださん)は熊本の市から、東へ三四里ほども離れている山ですが、市の西に近い金峯山(きんぷざん)という山と、高さの自慢から喧嘩をしたといっております。いつまで争って見ても勝負がつかぬので、両方の山の頂上に樋(とい)をかけ渡して、水を流して見ようということになりました。そうすると水が飯田山の方へ流れて、この山の方が低いということが明かになりました。その時の水が溜(たま)ったのだといって、山の上には今でも一つの池があるそうです。これには閉口をして、もう今からそんなことは「いい出さん」といった故に、山の名をいいださんというようになったとも申します。(高木氏の日本伝説集。熊本県|上益城(かみましき)郡飯野村)
尾張小富士という山は、尾張国の北の境、入鹿(いるか)の池の近くにある小山ですが、山の姿が富士山とよく似ているので、土地の人たちに尊敬せられています。それがお隣りの本宮山(ほんぐうざん)という山と高さ比べをして、やはり樋を掛け水を通して見たという話が伝わっております。そうして見た結果が、小富士の方の負けになりました。毎年六月一日のお祭りの日に、麓の村の者が石をひいてこの山に登ることになったのは、少しでもお山の高くなることを、山の神様が喜ばれるからだという話であります。(日本風俗志。愛知県|丹羽(にわ)郡池野村)
これと同じような伝説は、また加賀の白山(はくさん)にもありました。白山は富士の山と高さ競べをして、勝負をつけるため樋を渡して水を通しますと、白山が少し低いので、水は加賀の方へ流れようとしました。それを見ていた白山方の人が、急いで自分の草鞋(わらじ)をぬいで、それを樋の端にあてがったところが、それでちょうど双方が平になった。それ故に今でも白山に登る者は必ず片方の草鞋を山の上に、ぬいで置いて帰らねばならぬのだそうです。(趣味の伝説。石川県能美郡白峰村)
樋を掛けたということはまだききませんが、越中の立山も白山と背競べをしたという話があります。ところが立山の方が、ちょうど草鞋の一足分だけ低かったので、非常にそれを残念がりました。それから後は、立山に参詣(さんけい)する人が、草鞋を持って登れば、特に大きな御利益(ごりやく)を授けることにしたといっております。(郷土研究一編。富山県|上新川(かみにいかわ)郡)
それから越前の飯降山(いぶりやま)、これは東隣の荒島山(あらしまやま)と背くらべをして、馬の沓(くつ)の半分だけ低いことがわかったそうであります。それ故にこの山でも、石を持って登る者には、一つだけは願いごとがかなうといって、毎年五月五日の山登りの日には、必ず石をもって行くことになっております。(同上。福井県大野郡大野町)。
三河の本宮山と、石巻山(いしまきやま)とは、豊川(とよかわ)の流れを隔てて西東に、今でも大昔以来の丈くらべを続けていますが、この二つの峯は、寸分も高さの差がないということであります。それで両方ともに石を手に持って登れば少しも草臥(くたぶ)れないが、これと反対に小石一つでも持って降ると、参詣はむだになり、神罰が必ずあるといいます。つまり低くなることを非常に嫌うのであります。(趣味の伝説。愛知県|八名(やな)郡石巻村)
有名な多くの山々では、みんなが背くらべのためではなかったかも知れませんが、非常に土や石を大切にして、それを持って行くことをいやがりました。山に草鞋を残して来る習慣は、今でもまだ方々に行われております。白山や立山にはあんな昔話がありますが、世間にはもっと真面目に、その理由を考えていた者も多かったのであります。例えば奥州|金華山(きんかざん)の権現は、山と土が草鞋について、島から外へ出ることを惜しまれるということで、参詣した者は、必ずそれをぬぎ捨ててから船に乗りました。(笈埃随筆。宮城県|牡鹿(おじか)郡鮎川村)
富士山のような大きな山でも、やはり山の土を遠くへ持って行かれぬように、麓に砂振いという所があって、以前は、必ずそこで古い草鞋をぬぎかえました。そうして登山者が、踏み降した須走口(すばしりぐち)の砂は、その夜のうちに再び山の上へ帰って行くともいいました。
伯耆の大山でも、山の下の砂が、日が暮れると峯に上り、朝はまた麓に下るといっております。山をうやまい、山の力を信じていた人たちには、それくらいのことは当り前であったかも知れませんが、それでも出来るだけ皆で注意をして、少しでも山を低くせぬように努めていたのであります。富士の行者(ぎょうじゃ)は山に登る時に特に歩みをつつしんで石などを踏み落さぬようにしていたそうですし、また近江国の土を持って来て、お山に納める者もあったそうであります。富士は皆様も御存じの通り、大昔近江の土が飛んで、一夜に出来た山だといい伝えていますので、それを今もとの国の土をもって、少し継ぎ足そうとしたのであります。 
神いくさ

 

日本一の富士の山でも、昔は方々に競争者がありました。人が自分々々の土地の山を、あまりに熱心に愛する為に、山も競争せずにはいられなかったのかと思われます。古いところでは、常陸の筑波山(つくばさん)が、低いけれども富士よりも好い山だといって、そのいわれを語り伝えておりました。大昔|御祖神(みおやがみ)が国々をお巡りなされて、日の暮れに富士に行って一夜の宿をお求めなされた時に、今日は新嘗(にいなめ)の祭りで家中が物忌みをしていますから、お宿は出来ませぬといって断りました。筑波の方ではそれと反対に、今夜は新嘗ですけれども構いません。さあさあお泊り下さいとたいそうな御馳走をしました。神様は非常に御喜びで、この山永く栄え人常に来(きた)り遊び、飲食歌舞絶ゆる時もないようにと、めでたい多くの祝い言を、歌に詠んで下されました。筑波が春も秋も青々と茂って、男女の楽しい山となったのはその為で、富士が雪ばかり多く、登る人も少く、いつも食物に不自由をするのは、新嘗の前の晩に大切なお客様を、帰してしまった罰だといっておりますが、これは疑いもなく筑波の山で、楽しく遊んでいた人ばかりが、語り伝えていた昔話なのであります。(常陸国風土記。茨城県筑波郡)
富士と浅間山が煙りくらべをしたという話も、ずいぶん古くからあった様ですが、それはもう残っておりません。不思議なことには富士の山で祀(まつ)る神を、以前から浅間大神と称(とな)えておりました。富士の競争者の筑波山の頂上にも、どういうわけでか浅間(せんげん)様が祀ってあります。それから伊豆半島の南の端、雲見(くもみ)の御嶽山(みたけやま)にも浅間の社というのがありまして、この山も富士と非常に仲が悪いという話でありました。いつの頃からいい始めたものか、富士山の神は木花開耶媛(このはなさくやひめ)、この山の神はその御姉の磐長媛(いわながひめ)で、姉神は姿が醜かった故に神様でもやはり御|嫉(ねた)みが深く、それでこの山に登って富士のうわさをすることが、出来なかったというのであります。(伊豆志其他。静岡県賀茂郡|岩科(いわしな)村雲見)
ところがこれから僅二里あまり離れて、下田(しもだ)の町の後には、下田富士という小山があって、それは駿河の富士の妹神だといっております。そうして姉様よりも更に美しかったので、顔を見合せるのが厭(いや)で、間に天城山(あまぎさん)を屏風(びょうぶ)のようにお立てになった。それだから奥伊豆はどこからも富士山が見えず、また美人が生れないと、土地の人はいうそうであります。おおかたもと一つの話が、後にこういう風に変って来たものだろうと思います。(郷土研究一編。同県同郡下田町)
越中|舟倉山(ふねのくらやま)の神は姉倉媛(あねくらひめ)といって、もと能登の石動山(せきどうさん)の伊須流伎彦(いするぎひこ)の奥方であったそうです。その伊須流伎彦が後に能登の杣木山(そまきやま)の神、能登媛を妻になされたので、二つの山の間に嫉妬(しっと)の争いがあったと申します。布倉山(ぬのくらやま)の布倉媛は姉倉媛に加勢し、甲山(かぶとやま)の加夫刀彦(かぶとひこ)は能登媛を援けて、大きな神戦(かみいくさ)となったのを、国中の神々が集って仲裁をなされたと伝えております。一説には毎年十月十二日の祭りの日には、舟倉と石動山と石合戦があり、舟倉の権現が礫(つぶて)を打ちたもう故に、この山の麓(ふもと)の野には小石がないのだともいっておりました。(肯構泉達録等。富山県上新川郡船崎村舟倉)
これと反対に、阿波の岩倉山は岩の多い山でありました。それは大昔この国の大滝山と、高越(こうつ)山との間に戦争があった時、双方から投げた石がここに落ちたからといっております。そうして今でもこの二つの山に石が少いのは、互にわが山の石を投げ尽したからだということであります。(美馬(みま)郡郷土誌。徳島県美馬郡岩倉村)
それよりも更に有名な一つの伝説は、野州(やしゅう)の日光山と上州の赤城山との神戦でありました。古い二荒(ふたら)神社の記録に、くわしくその合戦のあり様が書いてありますが、赤城山はむかでの形を現して雲に乗って攻めて来ると、日光の神は大蛇になって出でてたたかったということであります。そうして大蛇はむかでにはかなわぬので、日光の方が負けそうになっていた時に、猿丸太夫という弓の上手な青年があって、神に頼まれて加勢をして、しまいに赤城の神をおい退けた。その戦をした広野を戦場が原といい、血は流れて赤沼となったともいっております。誰が聞いても、ほんとうとは思われない話ですが、以前は日光の方ではこれを信じていたと見えて、後世になるまで、毎年正月の四日の日に、武射(ぶしゃ)祭りと称して神主が山に登り赤城山の方に向って矢を射放つ儀式がありました。その矢が赤城山に届いて明神の社の扉に立つと、氏子たちは矢抜きの餅というのを供えて、扉の矢を抜いてお祭りをするそうだなどといっておりましたが、果してそのようなことがあったものかどうか。赤城の方の話はまだわかりません。(二荒山神伝。日光山名跡志等)
しかし少くとも赤城山の周囲においても、この山が日光と仲が悪かったこと、それから大昔神戦があって、赤城山が負けて怪我をなされたことなどをいい伝えております。利根郡|老神(おいがみ)の温泉なども、今では老神という字を書いていますが、もとは赤城の神が合戦に負けて、逃げてここまで来られた故に、追神ということになったともいいました。(上野(こうずけ)志。群馬県利根郡東村老神)
それからまた赤城明神の氏子だけは、決して日光には詣(まい)らなかったそうであります。赤城の人が登って来ると必ず山が荒れると、日光ではいっておりました。東京でも牛込(うしごめ)はもと上州の人の開いた土地で、そこには赤城山の神を祀った古くからの赤城神社がありました。この牛込には徳川氏の武士が多くその近くに住んで、赤城様の氏子になっていましたが、この人たちは日光に詣ることが出来なかったそうであります。もし何か役目があって、ぜひ行かなければならぬ時には、その前に氏神に理由を告げて、その間だけは氏子を離れ、築土(つくど)の八幡だの市谷(いちがや)の八幡だのの、仮の氏子になってから出かけたということであります。(十方庵遊歴雑記)
奥州津軽の岩木山の神様は、丹後国の人が非常にお嫌いだということで、知らずに来た場合でも必ず災がありました。昔は海が荒れたり悪い陽気の続く時には、もしや丹後の者が入り込んではいないかと、宿屋や港の船を片端からしらべたそうであります。これはこの山の神がまだ人間の美しいお姫様であった頃に、丹後の由良(ゆら)という所でひどいめにあったことがあったから、そのお怒が深いのだといっておりました。(東遊雑記その他)
信州松本の深志(ふかし)の天神様の氏子たちは、島内村の人と縁組みをすることを避けました。それは天神は菅原道真(すがわらのみちざね)であり、島内村の氏神|武(たけ)の宮は、その競争者の藤原|時平(ときひら)を祀っているからだということで、嫁婿ばかりでなく、奉公に来た者でも、この村の者は永らくいることが出来なかったそうであります。(郷土研究二編。長野県|東筑摩(ひがしちくま)郡島内村)
時平を神に祀ったというお社は、また下野(しもつけ)の古江(ふるえ)村にもありました。これも隣りの黒袴(くろばかま)という村に、菅公(かんこう)を祀った鎮守の社があって、前からその村と仲が悪かったゆえに、こういう想像をしたのではないかと思います。この二つの村では、男女の縁を結ぶと、必ず末がよくないといっていたのみならず。古江の方では庭に梅の木を植えず、また襖(ふすま)屏風(びょうぶ)の絵に梅を描かせず、衣服の紋様にも染めなかったということであります。(安蘇(あそ)史。栃木県安蘇郡|犬伏(いぬぶし)町黒袴)
下総の酒々井(しすい)大和田というあたりでも、よほど広い区域にわたって、もとは一箇所も天満宮を祀っていませんでした。その理由は鎮守の社が藤原時平で、天神の敵であるからだといいましたが、どうして時平大臣を祀るようになったかは、まだ説明せられてはおりません。(津村氏|譚海(たんかい)。千葉県|印旛(いんば)郡酒々井町)
丹波の黒岡という村は、もと時平公の領分であって、そこには時平屋敷(しへいやしき)があり、その子孫の者が住んでいたことがあるといっていました。それはたしかな話でもなかったようですが、この村でも天神を祀ることが出来ず、たまたま画像(えぞう)をもって来る者があると、必ず旋風(つむじかぜ)が起ってその画像を空に巻き上げ、どこへか行ってしまうといい伝えておりました。(広益俗説弁遺篇。兵庫県|多紀(たき)郡城北村)
何か昔から、天神様を祀ることの出来ないわけがあって、それがもう不明になっているのであります。それだから村に社があれば藤原時平のように、生前菅原道真と仲が悪かった人の、社であるように想像したものかと思います。鳥取市の近くにも天神を祀らぬ村がありましたが、そこには一つの古塚があって、それを時平公の墓だといっておりました。こんな所に墓があるはずはないから、やはり後になって誰かが考え出したのであります。(遠碧軒記。鳥取県岩美郡)
しかし天神と仲が善くないといった社は他にもありました。例えば京都では伏見(ふしみ)の稲荷(いなり)は、北野の天神と仲が悪く、北野に参ったと同じ日に、稲荷の社に参詣してはならぬといっていたそうであります。その理由として説明せられていたのは、今聞くとおかしいような昔話でありました。昔は三十番神といって京の周囲の神々が、毎月日をきめて禁中の守護をしておられた。菅原道真の霊が雷(らい)になって、御所の近くに来てあばれた日は、ちょうど稲荷大明神が当番であって、雲に乗って現れてこれを防ぎ、十分にその威力を振わせなかった。それゆえに神に祀られて後まで、まだ北野の天神は稲荷社に対して、怒っていられるのだというのでありますが、これももちろん後の人がいい始めたことに相違ありません。(渓嵐拾葉集。載恩記等)
或(あるい)はまた天神様と御大師様とは、仲が悪いという話もありました。大師の縁日に雨が降れば、天神の祀りの日は天気がよい。二十一日がもし晴天ならば、二十五日は必ず雨天で、どちらかに勝ち負けがあるということを、京でも他の田舎でもよくいっております。東京では虎の門の金毘羅様(こんぴらさま)と、蠣殻町(かきがらちょう)の水天宮(すいてんぐう)様とが競争者で、一方の縁日がお天気なら他の一方は大抵雨が降るといいますが、たといそんなはずはなくても、なんだかそういう気がするのは、多分は隣り同士の二箇所の社が、互に相手にかまわずには、独(ひとり)で繁昌することが出来ぬように、考えられていた結果であろうと思います。
だから昔の人は氏神といって、殊に自分の土地の神様を大切にしておりました。人がだんだん遠く離れたところまで、お参りをするようになっても、信心をする神仏は土地によって定まり、どこへ行って拝んでもよいというわけには行かなかったようであります。同じ一つの神様であっても、一方では栄え他の一方では衰えることがあったのは、つまりは拝む人たちの競争であります。京都では鞍馬(くらま)の毘沙門様(びしゃもんさま)へ参る路に、今一つ野中村の毘沙門堂があって、もとはこれを福惜しみの毘沙門などといっておりました。せっかく鞍馬に詣って授かって来た福を、惜しんで奪い返されるといって、鞍馬参詣の人はこの堂を拝まぬのみか、わざと避けて東の方の脇路を通るようにしていたといいます。同じ福の神でも祀ってある場所がちがうと、もう両方へ詣ることは出来なかったのを見ると、仲の善くないのは神様ではなくて、やはり山と山との背競べのように、土地を愛する人たちの負け嫌いが元でありました。松尾のお社なども境内に熊野石があって、ここに熊野の神様がお降りなされたという話があり、以前はそのお祭りをしていたかと思うにも拘(かかわ)らず、ここの氏子は紀州の熊野へ参ってはならぬということになっていました。それから熊野の人もけっして松尾へは参って来なかったそうで、このいましめを破ると必ずたたりがありました。これなども多分双方の信仰が似ていたために、かえって二心を憎まれることになったものであろうと思います。(都名所図会拾遺。日次(ひなみ)記事)
どうして神様に仲が悪いというような話があり、お参りすればたたりを受けるという者が出来たのか。それがだんだんわからなくなって、人は歴史をもってその理由を説明しようとするようになりました。例えば横山という苗字の人は、常陸の金砂山(かなさやま)に登ることが出来ない。それは昔佐竹氏の先祖がこの山に籠城(ろうじょう)していた時に、武蔵の横山党の人たちが攻めて来て、城の主が没落することになったからだといっていますが、この時に鎌倉将軍の命をうけて、従軍した武士はたくさんありました。横山氏ばかりがいつまでもにくまれるわけはないから、これには何か他の原因があったのであります。(楓軒雑記。茨城県|久慈(くじ)郡金砂村)
東京では神田(かんだ)明神のお祭りに、佐野氏の者が出て来ると必ずわざわいがあったといいました。神田明神では平将門(たいらのまさかど)の霊を祀り、佐野はその将門を攻めほろぼした俵藤太秀郷(たわらとうたひでさと)の後裔(こうえい)だからというのであります。下総成田(しもうさなりた)の不動様は、秀郷の守り仏であったという話でありますが、東京の近くの柏木(かしわぎ)という村の者は、けっして成田には参詣しなかったそうであります。それは柏木の氏神|鎧(よろい)大明神が、やはり平将門の鎧を御神体としているといういい伝えがあったからであります。(共古日録。東京府|豊多摩(とよたま)郡淀橋町柏木)
信州では諏訪の附近に、守屋という苗字の家がたくさんにありますが、この家の者は善光寺にお詣りしてはいけないといっておりました。強いて参詣すると災難があるなどともいいました。それはこの家が物部守屋連(もののべのもりやのむらじ)の子孫であって、善光寺の御本尊を難波(なにわ)堀江に流し捨てさせた発頭人(ほっとうにん)だからというのでありますが、これも恐らくは後になって想像したことで、守屋氏はもと諏訪の明神に仕えていた家であるゆえに、他の神仏を信心しなかったまでであろうと思います。(松屋筆記五十。長野県長野市)
天神のお社と競争した隣りの村の氏神を、藤原時平を祀るといったのは妙な間違いですが、これとよく似た例はまた山々の背くらべの話にもありました。富士と仲の悪い伊豆の雲見の山の神を、磐長媛であろうという人があると、一方富士の方ではその御妹の、木花開耶媛を祀るということになりました。どちらが早くいい始めたかはわかりませんが、とにかくにこの二人の姫神は姉妹で、一方は美しく一方はみにくく、嫉みからお争いがあったように、古い歴史には書いてあるので、こういう想像が起ったのであります。伊勢と大和の国境の高見山という高い山は、吉野川の川下の方から見ると、多武峰(とうのみね)という山と背くらべをしているように見えますが、その多武峰には昔から、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)を祀っておりますゆえに、高見山の方には蘇我入鹿(そがのいるか)が祀ってあるというようになりました。入鹿をこのような山の中に、祀って置くはずはないのですが、この山に登る人たちは多武峰の話をすることが出来なかったばかりでなく、鎌足のことを思い出すからといって、鎌を持って登ることさえもいましめられておりました。そのいましめを破って鎌を持って行くと、必ず怪我をするといい、または山鳴りがするといっておりました。(即事考。奈良県吉野郡高見村)
この高見山の麓を通って、伊勢の方へ越えて行く峠路の脇に、二丈もあるかと思う大岩が一つありますが、土地の人の話では、昔この山が多武峰と喧嘩をして負けた時に、山の頭が飛んでここに落ちたのだといっております。そうして見ると蘇我入鹿を祀るよりも前から、もう山と山との争いはあったので、その争いに負けた方の山の頭が、飛んだという点も羽後(うご)の飛島(とびしま)、或は常陸の石那阪の山の岩などと、同様であったのであります。どうしてこんな伝説がそこにもここにもあるのか。そのわけはまだくわしく説明することが出来ませんが、ことによると負けるには負けたけれども、それは武蔵坊弁慶が牛若丸だけに降参したようなもので、負けた方も決して平凡な山ではなかったと、考えていた人が多かった為かも知れません。ともかくも山と山との背くらべは、いつでも至って際どい勝ち負けでありました。それだから人は二等になった山をも軽蔑(けいべつ)しなかったのであります。日向(ひゅうが)の飯野郷というところでは、高さ五|尋(ひろ)ほどの岩が野原の真中にあって、それを立石(たていし)権現と名づけて拝んでおりました。そこから遠くに見える狗留孫山(くるそざん)の絶頂に、卒都婆(そとば)石、観音石という二つの大岩が並んでいて、昔はその高さが二つ全く同じであったのが、後に観音石の頸が折れて、神力をもって飛んでこの野に来て立った。それ故に今では低くなりましたけれども、人はかえってこの観音石の頭を拝んでいるのであります。(三国名所図会。宮崎県西|諸県(もろかた)郡飯野村原田)
肥後の山鹿(やまが)では下宮の彦嶽(ひこだけ)権現の山と、蒲生(がもう)の不動岩とは兄弟であったといっております。権現は継子(ままこ)で母が大豆ばかり食べさせ、不動は実子だから小豆を食べさせていました。後にこの兄弟の山が綱を首に掛けて首引きをした時に、権現山は大豆を食べていたので力が強く、小豆で養われた不動岩は負けてしまって、首をひき切られて久原(くばら)という村にその首が落ちたといって、今でもそこには首岩という岩が立っています。揺(ゆる)ぎ嶽(だけ)という岩はそのまん中に立っていて、首ひきの綱に引っ掛かってゆるいだから揺嶽、山に二筋のくぼんだところがあって、そこだけ草木の生えないのを、綱ですられた痕(あと)だといい、小豆ばかり食べていたという不動の首岩の近くでは、今でもそのために土の色が赤いのだというそうであります。(肥後国志等。熊本県|鹿本(かもと)郡三玉村) 
伝説と児童

 

諸君の家のまわり、毎日あるいている道路のかたわらにも、もとはこれよりもっと面白い伝説が、いくらともなく残っていたのであります。学校に行く人たちがいそがしくなって、暫(しばら)くかまわずに置くうちに、もう覚えていて話してくれる人がいなくなりました。それから美しい沼が田になり、見事な大木が枯れて片付けられてしまうと、当分はそのうわさをすることがかえって多いけれども、後に生れた者には感じが薄いので、おいおいに忘れて行くようになるのであります。村などはこのために大分さびしくなりました。
伝説は、今までかなり久しい間、子供ばかりをきき手にして話されておりました。尤(もっと)も大人も脇にいてきいてはいるのですが、大抵はおさらいをするおりがないために、子供のように永く記憶して、ずっと後になってから、また他の人に話してやる程に、熱心にはならなかったのであります。子供のおさらいは、その木の下で遊び、またはみんなと連れだって、その岩の前や淵(ふち)の上、池の堤をただ通って行くことでありました。話は不得手だから誰もくわしくは話しませんが、その度毎に一同は前にきいたことを想い出して、暫くは同じような心持ちになって、互に眼を見合うのであります。人が年を取って話をすることが好きになり、また上手になって後に、昔のことだといってきかせる話は、大方は、こうした少年の頃に、覚えこんだ話だけでありました。だからどんな老人の教えてくれる伝説にも、必ずある時代の児童が関係しております。そうしてもし児童が関係をしなかったら、日本の伝説はもっと早くなくなるか、または面白くないものばかり多くなっていたに違いないのであります。
だから皆さんが若いうちに、きいて置く話が少くなり、またそれを覚えていることがだんだんにむつかしくなると、書物をその年寄りたちの代りに、頼むより外はないのであります。書物には大人にきかせるような話、大人が珍しがるような話が多いのでありますが、今ではこの中からでないと、昔の児童の心持ちを、知ることは出来ぬようになりました。国が全体にまだ年が若く、誰でも少年の如くいきいきとした感じをもって、天地万物を眺めていた時代が、かつて一度は諸君の間にばかり、続いていたこともありました。書物は廻り廻ってそれを今、再び諸君に語ろうとしているのであります。
もとは小さな人たちは絵入りの本を読むように、目にいろいろの物の姿を見ながら、古くからのいい伝えをきいたり思い出したりしていたのであります。垣根の木に来る多くの小鳥は、その啼(な)き声のいわれを説明せられている間、そこいらを飛びまわって話の興を添えました。路のほとりのさまざまの石仏なども、昔話を知っている子供等には、うなずくようにも又ほほえむようにも見えたのであります。其(その)中でも年をとってから後にその頃のことを考える者に、一番懐かしかったのは地蔵様でありました。大きさが大抵は十一二の子供くらいで、顔は仏さまというよりも、人間の誰かに似ているので見覚えがありました。そうしてまた多くの伝説の管理者だったのであります。
村毎に別の話、一つ一つの名前を持っていたのも、石地蔵に最も多かったようであります。こういう児童の永年の友だちが、いつの間にかいなくなりそうですから、ここには百年前の子供等に代って、書物に残っている三つ四つの話をしてみましょう。古くから有名であったのは、箭(や)負(お)い地蔵に身代り地蔵、信心をする者の身代りになって、後に見ると背中に敵の矢が立っていたなどという地蔵ですが、これはまだその人だけの不思議であります。土地に縁の深い地蔵様になると、特に頼まずとも村のために働いて下さるといって、むしろ意外な出来事があってから後に、拝みに来る者がかえって多くなるので、その中でも、ことに地蔵は、農業に対して同情が厚いということが、一同の感謝するところでありました。足洗わずの地蔵というのは、時々百姓の姿になって、いそがしい日に手伝いに来て下さる。水引き地蔵は田の水の足りない時に、そっと溝(みぞ)を切ってこちらの田だけに水を引き、そのために隣りの村からうらまれるようなこともありましたが、それが地蔵の仕業だとわかると、怒る者はなくなって、ただ感心するばかりでありました。
鼻取(はなとり)地蔵というのもまた農民の同情者で、東日本では多くの村に祀(まつ)っております。私の今いる家から一番近いのは、上作延(かみさくのべ)の延命寺(えんめいじ)の鼻取地蔵、荒れ馬をおとなしくさせるのが御誓願で、北は奥州南部の辺までも、音に聞えた地蔵でありました。昔この村の田植えの日に、名主の家の馬が荒れて困っていると、見馴れぬ小僧さんがただ一人来て、その口を取ってくれたらすぐに静かになった。次ぎの日、寺の和尚(おしょう)がお経を読もうとして行って見ると、御像の足に泥がついている。それで昨日の小僧が地蔵様であったことが知れて、大評判になったということです。(新編武蔵風土記稿。神奈川県|橘樹(たちばな)郡向丘村上作延)
ところがまた八王子の極楽寺(ごくらくじ)という寺でも、これは地蔵ではないが、本尊の阿弥陀様(あみださま)を、鼻取|如来(にょらい)と呼んでおりました。昔この近所にあった寺の田を、百姓がなまけて耕してくれぬので困っておると、これも小僧が現れて、馬の鼻をとって助けたといっております。どういうわけでかこの阿弥陀如来は、唇が開き歯が見えて、ちょっと珍しい顔の仏様であるので、一名を歯ふき仏とも称(とな)えたそうであります。(同上。東京府八王子市|子安(こやす))
駿河の宇都谷(うつのや)峠の下にある地蔵尊は、聖徳太子の御作だというのに、これも鼻取地蔵という異名がありました。かつて榛原(はいばら)郡の農家で牛の鼻とりをして手伝ってくれられたということで、願いごとのある者は、鎌を持って来て献納したというのは、農業がお好きだと思っていたからでありましょう。ある時はまた日光山のお寺の食責(じきぜ)めの式へ出かけて、盛んに索麪(そうめん)を食べたといって、索麪地蔵という名前も持っておられたそうです。(駿国(すんこく)雑志。静岡県|安倍(あべ)郡長田村宇都谷)
鼻取りというのは、六尺ばかりの棒であります。牛馬を使って田をうなう時に、この棒を口の所に結わえて引き廻るのです。今ではそれを用いる農家が、東北の方でも、だんだん少くなりましたが、田植えの前の非常に忙がしい時に、もとはこの鼻とりに別の人手がかかるので、仕方なしに多くは少年がその役に使われ、うまく出来ないのでよく叱られていました。地蔵が手伝いに来てわざわざそういう為事(しごと)をして下さるといったのは、まことに少年らしい夢であります。もとはこういうさすの棒もなしに、直接に牛や馬の鼻の綱をとりましたから、かれ等にはかなりつらい為事でありましたが、もともと牛馬を田に使うということが、東の方ではそう古くからではありません。だからこれなども新しく出来た伝説であります。石城(いわき)の長友(ながとも)の長隆寺(ちょうりゅうじ)の鼻取地蔵などは、ある農夫が代掻(しろか)きの時に、ひどく鼻とりの少年を叱っていると、どこからともなく別の子供がやって来て、その代りをしてくれて、それは農夫の気に入りました。後で礼をしようと思ってさがしてみたが見えない。寺の地蔵堂の床の板に、小さな泥足の跡がついております。さては地蔵が少年の叱られるのをかわいそうに思って、代って鼻とりをつとめて下さったのだと、後にわかってあり難がったという話であります。この地蔵は安阿弥(あんなみ)とかの名作で、今では国宝になっている大切なお像であります。(郷土研究一編。福島県石城郡大浦村長友)
また福島の町の近くで、腰浜(こしのはま)の天満宮の隣りにある地蔵にも同じ話があって、お堂の名を鼻取庵といっておりました。これも子供に化けて田の水を引き、馬の鼻をとって引き廻して手伝いました。昼飯の時に連れて来て御馳走をするつもりで、田からあがって方々を尋ねたが見えない。尋ねまわってお堂の中にはいって見ると、地蔵の足に田の泥がついていたというのであります。(信達一統志。福島県福島市腰[(ノ)]浜)
登米(とよま)の新井田(あらいだ)という部落では、昔隣りの郡から分家をして来た者が、七観音と地蔵とを内神として持って来て、屋敷に堂を建ててていねいに祀っておりました。村の人たちもお参りをして拝んでいましたが、農が忙しい頃には、時々見たことのない子供がやって来て、方々の家の鼻とりの加勢をしてくれることがあって、それがこの地蔵様だと皆思っていたそうで、代掻地蔵と称えて今でも拝んでいます。(登米郡史。宮城県登米郡宝江村新井田)
それから安積(あさか)郡の鍋山(なべやま)の地蔵様も、よく農業の手つだいをして下さるという話があって、わざわざこの村を開墾する際に、隣りの野田山から迎えて来たのだそうです。(相生集)
地蔵菩薩霊験記(じぞうぼさつれいげんき)という足利時代の書物にも、こういう話はいろいろと出ております。出雲の大社の農夫が信心していた地蔵様は、十七八の青年に化けて、その農夫が病気の時に、代りに出て来て、お社の田で働いたということです。あまりよく働くので奉行が感心して、食事の時に盃(さかずき)を一つやりました。喜んで酒を飲んで、その盃を頭の上にかぶり、後にどこへか帰って行きました。翌日になって、農夫がこのことをきき、もしやと思って厨子(ずし)の戸を開けて見ると、果して地蔵様が盃をかぶって、足は泥だらけになって立っておられたといいます。近江の西山村の佐吉という百姓は、病気で田の草もとることが出来ずにいると、日頃信心の木本(きのもと)の地蔵が、いつの間にか来て、すっかり草をとって下さった。朝のうち参詣(さんけい)の路で見た時には、あれほど生い茂ってどうしようかと思った田の草が、帰りに見るともう一つも残らずとってある。どうしたことかと思って近くにいた者に尋ねると、今のさき七十ばかりの老僧が、田の畔(くろ)を一まわりあるいていられるのを見た他には、誰も来た人はないというので、それでは地蔵の御方便で助けて下さったものであろうと、引き返してお堂へ行って見ると、そこらあたりが一面に泥足の跡で、それがお厨子の中までも続いていたと書いてあります。
或(あるい)はまた、田植えの頃に水喧嘩(みずげんか)があって、一人の農夫が怪我をして寝ていると、夜の間に小僧さんが来て、その男の田に水を入れている。それをにくむ者が後から箭(や)を射かけると、逃げてどこかへいってしまった。後にこの家の地蔵様を拝もうとして見ると、背中に箭が立って、田の泥が足についていた。こういう水引地蔵の話も古くからありました。また筑後国の田舎では、八講の米を作る田へ夜になると水を引く者がある。村の人が大勢出て見ると、若い法師が杖(つえ)をもって田の水口に立ち、溝(みぞ)の水をかきまわしているのが、月の光でよく見えました。杖を流れに入れて掻くようにすれば、細い溝川が波を打って、どうどうと上手へ流れ、水はことごとくその田にはいりました。これも箭を射られて後で見ると、地蔵の背中に立っていたといいますが、その箭が山鳥の羽をもってはいであったというのは、前に申した足利の片目清水と似ています。この不思議に恐れ入って、その田を寄進してお寺を建て、それを矢田寺(やだでら)と名づけたということであります。
こういう話は、地蔵様でなくても、或は上総(かずさ)の庁南(ちょうなん)の草取|仁王(におう)だの、駿河の無量寺(むりょうじ)の早乙女(さおとめ)の弥陀(みだ)だの、秩父の野上(のがみ)の泥足の弥陀だのというのが、そちこちの村にはあったのですが、その中でも一番に人間らしく、また子供らしいことをなされたのが地蔵でありました。仏教の方でも、地蔵尊は人を救うために、どこへも行き誰とでもお附き合いなさるといって、つまらぬ旅僧の姿で杖を持って、始終あるいていられるように考えていますが、日本の話はそれだけではないようであります。遠州の山の中のある村では、百姓が粟畑(あわばたけ)の夜番をするのに困って、もしこの畑の番をして、鹿猿に食わさぬようにして下されば、後に粟の餅をこしらえて上げましょうと、石地蔵に向っていいました。そうして置いてすっかり忘れていると、地蔵が大そう腹を立てて、その男は病気になりました。気がついて驚いて粟の餅を持って行ったら、すぐに全快したという話もあります。尾張の宮地太郎という武士(さむらい)が花見をしていると、山の地蔵様が山伏に化けて来てのぞきました。そうしてよび込まれて歌をよみ、烏帽子(えぼし)をかぶり鼓を打って、お獅子(しし)を舞ったという話もあります。
またある所では、信心深い老人があって、毎日夜明け前に門口に出て、地蔵様の村を廻ってあるかれるお姿を見ようとしていました。なん年かそうしているうちに、とうとう地蔵様を拝んだということであります。その様子がまるで人間と少しもちがわなかったといっております。地蔵の夜遊びということは、多くの村できく話でありました。例えば埼玉県の野島(のじま)の浄山寺(じょうざんじ)の片目地蔵などは、あまりよく出て行かれるので、住職が心配して、背中に釘(くぎ)を打って鎖でつないで置くと、たちまち罰が当って悪い病にかかって死んだといいます。それからは自由に夜遊びをさせていたところが、ある時茶畠にはいって茶の木で目を突いたといって、今でもその木像は片目であります。またその目の傷を門前の池の水で洗ったといって、今でもその池に住む魚は、悉(ことごと)く片目であるそうです。(十方庵遊歴雑記。埼玉県南埼玉郡萩島村野島)
東京でも下谷金杉(したやかなすぎ)の西念寺(さいねんじ)に、眼洗(めあらい)地蔵というのがありました。それから鼻欠(はなかけ)地蔵だの塩嘗(しおなめ)地蔵だのと、面白い名前が幾らもありました。夜更地蔵、踊地蔵、物いい地蔵などというのもありますが、伝説はもう多くは残っておりません。また時々は路傍の地蔵で、いたずらをして旅人を困らせたという話もあります。相州(そうしゅう)大磯には化け地蔵、一名|袈裟切(けさぎり)地蔵というのがもとはありました。伊豆の仁田(にった)の手無仏というのも石地蔵であって、毎晩鬼女に化けて通行の者をおどしているうちに、ある時強い若侍に出あって、手を斬られて林の中へ逃げ込みました。翌朝行って見ると、地蔵の手が田の畔に落ちていたというのもおかしな話であります。(伊豆志。静岡県|田方(たがた)郡|函南(かんなみ)村仁田)
しばられ地蔵というのにはいろいろあって、京都の壬生寺(みぶでら)の縄目地蔵などは、一つは身代り地蔵でありました。武蔵の住人|香匂新左衛門(かがわしんざえもん)、この寺にかくれて追手を受け、既に危いところを本尊の地蔵が代って下されて、しばって来てからよく見ると、地蔵尊であったというのは、そそっかしい話であります。そうかと思うと品川の願行寺(がんぎょうじ)のしばり地蔵などは、願いごとをする者が毎日来て、縄で上から上へとしばりました。それを一年に一度十夜の晩に、寺の住職がすっかりほどいて置くと、次ぎの日からまたしばり始めるのでありました。(願掛重宝記。東京府|荏原(えばら)郡品川町南品川宿)
もとはこれなどは縄を結んだので、しばったのではないようであります。今でも神木とかお堂の戸の金網とかに、紙切れや糸紐(いとひも)を結びつけることがよくあって、こうして人と神様との間に、連絡をつけようとしたらしいのであります。前に鼻取地蔵の話をした上作延の村などにも、しばり松、一名|聖松(ひじりまつ)という大木がもとはあって、願掛けをする人は縄を持って来て、この松をしばりました。そうして願いごとがかなうと、お礼に参ってその縄を解いたのであります。しばるというために、何か悪いことでもしたように考えて、いろいろの話が始まりました。亀井戸の天神の境内には、頓宮神(とんぐうじん)という小宮があって、その中には爺と婆との木像が置いてありました。その後には青赤二つ鬼が縄を持って立っています。頓宮神というのはこの爺様のことで、昔菅公が筑紫に流された時に、婆は親切であったが、爺の方はまことにつらく当りました。それで今でもお参りをする人は。わざわざ鬼の持っている縄で爺の体を巻き付けて天神に願掛けをする。そうして七日目にその縄を解くのだといっております。(願掛重宝記。東京府南|葛飾(かつしか)郡亀戸町)
雨乞いの祈祷(きとう)にも、よく石地蔵はしばられました。羽後の花館(はなだて)の滝宮明神は水の神で、御神体は昔は石の地蔵でありました。これを土地の人は雨地蔵、または雨恋地蔵とも称えて、旱(ひでり)の歳には長い綱をしばりつけて、石像を洪福寺淵(こうふくじぶち)に沈めて置くと、必ずそれが雨乞いになって雨が降るといいました。(月之出羽路。秋田県|仙北(せんぼく)郡花館村)
所によっては、ただ雨乞地蔵の開帳をしただけで、雨が降るものと信じていた村もありますが、なかなかそれだけでは降らぬので、おりおりはもっときついことをしたのであります。熊野の芳養村(はやむら)のどろ本の地蔵尊などは、御像を首の根まで川の水に浸して雨乞いをしました。(郷土研究一編。和歌山県|西牟婁(にしむろ)郡中芳養村)
播州(ばんしゅう)船阪山の水掛地蔵は、堂の脇にある古井の水を汲(く)んで、その中で地蔵を行水させ、後でその水を信心の人が飲みました。今では雨乞いとは関係がないようですが、この井戸もいかなるひでりでも涸(か)れることがないといっております。(赤穂(あこう)郡誌。兵庫県赤穂郡船阪村高山)
肥前の田平(たびら)村の釜が淵などでは、ひでりの時には土地の人が集って来て、一しょう懸命になって淵の水を汲み出します。深さが半分ばかりにも減ると、水の中に石の頭が見えて来るのを、地蔵菩薩の御首(みぐし)といっていまして、それまで替えほして来ると、たいてい雨が降ったということです。(甲子夜話(かつしやわ)。長崎県北松浦郡田平村)
こういう雨乞いのし方は、ずっと昔から日本にはあったので、地蔵はただ外国からはいって来て、後にその役目を引き継いだばかりではないかと思います。
筑後の山川村の滝の淵という所では、昔平家方のある一人の姫君が、入水(じゅすい)してこの淵の主となり、今でも住んでおられる。それは驚くような大鯰(おおなまず)だなどといっておりますが、岸には七霊社というほこらを建てて姫の木像が祀ってあります。ひでりの場合にはその像を取り出し、淵の水中に入れて置くのが、この土地の雨乞いの方法でありました。(耶馬台国(やまたいこく)探見記。福岡県|山門(やまと)郡山川村)
大和の丹生谷(にうだに)の大仁保(おおにほ)神社は、俗に御丹生さんといって水の神で、また姫神であります。ここでも雨乞いには御神体を水の中に沈めて、少し待っていると必ず雨が降るということでありました。(高市(たかいち)郡志料。奈良県高市郡舟倉村丹生谷)
武蔵の比企(ひき)の飯田(いいだ)の石船(いわぶね)権現というのは、以前は船の形をした一尺五寸ばかりの石が御神体でありました。社の前にある御手洗(みたらし)の池に、この石を浸して雨を祈れば、必ず験(しるし)があると信じていましたが、どうしたものか後には御幣ばかりになって、もうその石は見えなくなったといいます。(新編武蔵風土記稿。埼玉県比企郡大河村飯田)
それから石地蔵に、いろいろの物を塗りつけること、これも仏法が持って来た教えではなかったようであります。雨乞いのためにする例は、羽後の男鹿(おが)半島に一つあります。鳩崎(はとざき)の海岸に近く寝地蔵といっていたのは、ただ梵字(ぼんじ)を彫りつけた一つの石碑でありましたが、常には横にしてあって、雨乞いの時だけこれを立てて、石に田の泥を一面に塗ります。そうするときっと降るといっておりました。(真澄遊覧記。秋田県南秋田郡北浦町野村)
これは恐らく泥で汚すと、洗わなければならぬから雨が降るのだと、思っていたのでありましょうが、そうでなくても地蔵には泥を塗りました。大和の二階堂の泥掛地蔵などは毎月二十四日の御縁日に、今でも仏体に泥を掛けてお祭りをしています。(大和年中行事一覧。奈良県|山辺(やまべ)郡二階堂村)
油掛地蔵といって、参詣の人が油を掛けて拝む地蔵もありました。大阪の近くの野中の観音堂の脇には、墨掛地蔵という真黒な地蔵さんがありました。願いごとのかのうた人が、必ず墨汁を持って来て掛けたのだそうです。(浪華(なにわ)百事談)
羽前|狩川(かりかわ)の冷岩寺(れいがんじ)の前には、毛呂美(もろみ)地蔵というのもありました。以前普通の家でも酒を造ることが出来た頃に、この近所の者は、もろみといって酒になりかけの米の汁を、先ず一杯だけくんで来て、地蔵の頭から浴せる。それがだんだんと腐って路を通る者が鼻をつまむ程臭かったけれども、誰一人としてこれを洗い清める者がなかったそうです。昔ある農夫があまりきたない地蔵様だといって、それをすっかり洗って上げたところが、たちまち罰を被って一家内疫病にかかり、大きな難儀をしたという話もあり、おそれて手をつける者がなかったのであります。(郷土研究二編。山形県東田川郡狩川村)
それからまた、粉掛地蔵というのもたくさんあります。伊予の道後の温泉にあるものは、参詣の人が白粉(おしろい)を持って来てふりかけました。その名を粉附地蔵といい、ほんとうは子好き地蔵だろうという説もありましたが、たしかなことはどうせわかりません。(日本周遊奇談。愛媛県温泉郡道後湯之町)
駿河の鈴川の近くにも、小僧に化けたというので有名な石地蔵がありましたが、これもお祭りの時に白粉を塗って化粧をしました。(田子之古道。静岡県富士郡元吉原村)
相模(さがみ)の弘西寺(こうさいじ)村の化粧地蔵、これも願掛けをする人が白粉や、胡粉(ごふん)を地蔵のお顔に塗って拝みました。(新編相模風土記。神奈川県|足柄上(あしがらかみ)郡南足柄村弘西寺)
近江の湖水の北の大音(おおと)村の粉掛地蔵は、このへんの工場で糸とりをする娘たちが、手が荒れた時には、米か麦の粉を一つかみ持って来て、この地蔵に振り掛けると、さっそくよくなるといっております。(郷土研究四編。滋賀県|伊香(いか)郡伊香具村大音)
安芸(あき)の福成寺(ふくしょうじ)の虚空蔵(こくうぞう)の御像には、附近の農民が常に麦の粉や、米の粉を持って来て供えました。それはこの仏の御名を「粉喰うぞ」というのかと思って、それならば粉を上げたら喜ばれるだろうということになったとの話もありますが(碌々雑話)、これとてもはやくから粉を掛けていたために、一そうそんな説明が信じ易くなったのかも知れません。とにかくに虚空蔵は、地蔵に対する言葉で、もとは兄弟のような仲であったのですが、土に縁の深い地蔵尊だけが、特別に農村の人気を集めることになったので、それには諸君のごとき若い人たちが、いつでもひいきをしていたことが大いなる力でありました。
京都ではもう古い頃から、毎年七月の二十四日には六地蔵詣りといって、多くの人が近在の村を廻ってあるきました。村の方では休み所をつくってお茶を出し、子供は路の傍(はた)の石仏を一つ所に集めて来ました。そうしてその顔を白く塗ってすべてこれを地蔵と名づけ、花を立てて食べ物を供えて、町から来た人に拝ませました(山城(やましろ)四季物語)。私などの田舎でも、夏の夕方の地蔵祭りは、村の子の最も楽しい時で、三角に結んだ小豆飯の味は、年をとるまで誰でも皆よく覚えています。
土地によっては寒い冬のなかばに、地蔵の祭りをした所もあります。伯耆国(ほうきのくに)のある村では、それを大師講といって、十一月二十四日の夜の明けぬ前に、生の団子を持って路の辻に行き、それを六地蔵の石の像に塗りつけました。一番早く塗って来た者は、大きくなってから美しい嫁をもらい、好い男を婿に取るといっておりました。(霞(かすみ)村組合村是。鳥取県日野郡霞村)
大阪天王寺の地蔵祭りは、以前には旧の十一月の十六日でありました。この朝早く子供たちは、米の粉を持って来て地蔵のお顔に塗り、その夕方にはまた藁火(わらび)を焚(た)いて、真黒にいぶしました。そうして「明年の、明年の」とはやして、お別れの踊りを踊ったということであります。(浪華百事談)
人によっては、これを道碌神(どうろくじん)の祭りともいいました。道碌神は道祖神(さえのかみ)のことでありますが、これも少年と非常に仲の好い辻の神で、もとは地蔵と一つの神であったのですから、そういっても決して間違いではありません。道祖神はたいていの所では、正月十五日にそのお祭りをしました。木で作った場合にでも、やはり子供等は白いものを塗りました。東京から西に見える山の中の村などでは、この日のどんど焼きの火の中へ、石の道祖神を入れて黒くいぶしました。信州川中島の村々では、二月の八日がお祭りの日でありますが、この朝は餅を搗(つ)いて、これを藁製の馬に負わせ、道碌神の前までひいて行き、その餅を神様の石像に所嫌わず塗りつけるそうであります。
町の児童も近い頃まで、「影や道碌神」と唱えて、月の夜などには遊んでいました。東北の田舎では三十年ぐらい前まで、地蔵遊びという珍しい遊戯もありました。一人の子供に南天の木の枝を持たせ、親指を隠して手を握らせ。その子をとり巻いて他の多くの子供が、かあごめかあごめのようにぐるぐると廻って、「お乗りゃあれ地蔵様」と、なんべんも唱えていると、だんだんにその子が地蔵様になります。
  物教えにござったか地蔵さま
  遊びにござったか地蔵さま
といって、皆が面白く歌ったり踊ったりしましたが、もとは紛失物などのある時にも、この子供の地蔵のいうことをきこうとしました。またある村では、遊び地蔵といって、いつも地蔵さまの台石ばかりあって、地蔵はどこかへ出かけているという村もありました。そういうのは、若い衆が辻の広場へ持ち出して、力試しの力石にしているのです。嫁入り聟(むこ)入り祝言のある時にも、やはり石地蔵は若い衆にかつがれて、その家の門口へ遊びに来ました。地蔵講の地蔵には、廻り地蔵といって、次ぎから次ぎと仲間の家に、一月ずつ遊んで行くのもありました。
子供が亡くなると、悲しむ親たちは腹掛や頭巾、胸当などをこしらえて、辻の地蔵尊に上げました。それで地蔵もよく子供のような風をしています。そうして子供たちと遊ぶのが好きで、それを邪魔すると折り折り腹を立てました。縄で引っ張ったり、道の上に転がして馬乗りに乗っていたりするのを、そんなもったいないことをするなと叱って、きれいに洗ってもとの台座に戻して置くと、夢にその人のところへ来て、えらく地蔵が怒ったなどという話もあります。せっかく小さい者と面白く遊んでいたのに、なんでお前は知りもしないで、引き離して連れてもどったかと、散々に叱られたので、驚いてもとの通りに子供と遊ばせて置くという地蔵もありました。
なるほど親たちは何も知らなかったのですけれども、子供たちとても、またやはり知らないのであります。今頃新規にそんなことを始めたら、地蔵様は必ずまた腹を立てるでしょうが、いつの世からともなく代々の児童が、そうして共々に遊んでいるものには、何かそれだけの理由があったのであります。遠州|国安(くにやす)村の石地蔵などは、村の小さな子が小石を持って来て、叩いて穴を掘りくぼめて遊ぶので、なん度新しく造っても、じきにこわれてしまいました。それを惜しいと思って小言(こごと)をいったところが、その人は却(かえ)って地蔵のたたりを受けたということです。(横須賀郷里雑記。静岡県|小笠(おがさ)郡中浜村国安)
このようなつまらぬ小さな遊び方でさえも、なお地蔵さまの像よりはずっと前からあったのであります。昔というものの中には、かぞえ切れないほど多くの不思議がこもっています。それをくわしく知るためには、大きくなって学問をしなければなりませんが、とにかくに大人のもう忘れようとしていることを、子供はわけを知らぬために、却って覚えていた場合が多かったのであります。木曽の須原(すはら)には、射手(いで)の弥陀堂というのがありました。もとは春の彼岸のお中日に、この宿の男の子が集って来て、やさいこといって小弓をもって、阿弥陀の木像を射て、大笑いをして帰るのがお祭りであったそうです。(木曽古道記。長野県西筑摩郡大桑村須原)
仏像を射るということは、大へんなことですが、これにも神様が目をお突きになったという類の、古い伝説があったのかも知れません。越後の親不知(おやしらず)の海岸に近い青木阪の不動様は、越後信州東京の方の人は、不動様といって拝み、越中から西の人は、乳母様と称えて信心していました。お寺では今から四百年ほど前に、野宮権九郎という人が海から拾い上げた仏様だといいますが、土地の人は、もとからこの沖の小さな島に、子産み殿といって祀ってあった神様だと思っていまして、字を知らぬ人のいった方がどうも正しいようであります。というわけは、このお堂へは、母になって乳の足りない女の人が、多くお参りをして来たのでありました。そうしてお礼には小さなつぐらといって、赤ん坊を入れて置く藁製の桶(おけ)のような物を持って来て、堂の側(かたわら)の青木の枝にぶら下げますがその数はいつも何百とも知れぬほどあるといいます。この神様も地蔵と同じように、非常に子供がお好きであるということで、何かという時には、村々から多くの児童が集って来たということです。あんなこわい顔をした不動様でも、姥神(うばがみ)と一しょに住めばつぐらの子の保護者でありました。お盆になると少年が閻魔堂(えんまどう)に詣るのも、やはりあの変な婆さんがいるからでした。(頸城(くびき)三郡史料。新潟県西頸城郡名立町)
日本は昔から、児童が神に愛せられる国でありました。道祖も地蔵もこの国に渡って来てから、おいおいに少年の友となったのは、まったくわれわれの国風にかぶれたのであります。子安姫神の美しく貴いもとのお力がなかったら、代々の児童が快活に成長して、集ってこの国を大きくすることも出来なかった如く、児童が楽しんで多くの伝説を覚えていてくれなかったら、人と国土との因縁は、今よりも遙(はる)かに薄かったかも知れません。その大きな功労に比べるときは、私のこの一冊の本はまだあまりに小さい。今に出て来る日本の伝説集はもっと面白く、またいつまでも忘れることの出来ぬような、もっと立派な学問の書でなければなりません。 
伝説分布表

 

この本に出ている伝説の中で、町村の名の知れている分を、表にしてならべてみました。この以外の県郡町村でも、ただ私が知らなかったというだけで、むろん尋ねてみたら幾らでも、同じような伝説があることと思います。下の数字はページ数です。自分の村の話が出ていましたら、まずそこのところから読んで御覧なさい。
青森県
山の争い(東津軽郡東嶽村) / 片目の魚(南津軽郡猿賀村) / 石神岩(下北郡脇野沢村九艘泊)
岩手県
送り山(岩手郡滝沢村) / はたやの神石(和賀郡小山田村) / 笠松の由来(同横川目村) / 原台の淵(下閉伊郡小国村)
宮城県
驚きの清水(玉造郡岩出山町) / 代掻地蔵(登米郡宝江村新井田) / 金華山の土(牡鹿郡鮎川村)
秋田県
片目の神主(南秋田郡北浦町) / 寝地蔵(同同野村) / 不動滝の女(雄勝郡小安) / 水底の機(北秋田郡阿仁合町湯の台) / 片目の魚(仙北郡金沢町) / 三途河の姥(同同荒町) / 雨恋地蔵(同花館村) / おがり石(同大川西根村)
山形県
景政堂(東村山郡山寺村) / 大師の井戸(西村山郡川土居村吉川) / 熊野の姥石(北村山郡宮沢村中島) / 矢流川の魚(飽海郡東平田村北沢) / 鳥海山の首(同飛島村) / 毛呂美地蔵(東田川郡狩川村) / しょうずかの姥(西田川郡大泉村下清水)
福島県
鼻取庵(福島市腰(ノ)浜) / 片目清水(信夫郡余目村南矢野目) / 片目の太子(同土湯村) / 小手姫の社(伊達郡飯阪町大清水) / 機織御前(安達郡塩沢村) / 氏子の片目(安積郡多田野村) / 立岩(南会津郡館岩村森戸) / 大師の塩の井(耶麻郡大塩村) / 絹谷富士(石城郡草野村絹谷) / すがめ地蔵(同大浦村大森) / 鼻取地蔵(同同長友)
栃木県
片目の姫(河内郡上三川町) / 片目の皇子(芳賀郡山前村南高岡) / 綾織池(那須郡黒羽町北滝) / 教伝地獄(同那須村湯本) / 天神の敵(安蘇郡犬伏町黒袴) / 人丸大明神(同旗川村小中) / 大師の加持水(足利郡三和村板倉)
群馬県
婆石(高崎市赤坂町) / 片目の鰻(北甘楽郡富岡町曽木) / 神の戦(利根郡東村老神) / 大師の湯(同川場村川場湯原) / 阿満が池(佐波郡殖蓮村上植木)
茨城県
泉の杜(那珂郡柳河村青柳) / 雷神石(久慈郡阪本村石名阪) / 横山ぎらい(同金砂村) / 主石大明神(鹿島郡巴村大和田) / 筑波山の由来(筑波郡筑波町)
埼玉県
しやぶぎ婆石塔(川越市喜多町) / 子安池(北足立郡白子町下新倉) / 神明の大杉(同大砂土村土呂) / 三つ井(入間郡所沢町上新井) / 椿峯(同小手指村北野) / 椿峯(同山口村御国) / 石船権現(比企郡大河村飯田) / 信濃石(秩父郡小鹿野町) / 飯森杉(同吾野村大字南) / 片目地蔵(南埼玉郡萩島村野島)
千葉県
巾着石(千葉郡二宮村上飯山満) / 二本杉(市原郡平三村平蔵) / おたつ様の祠(印旛郡臼井町臼井) / 仲の悪い神様(同酒々井町) / 葦が作(同富里村新橋) / 石神様(同根郷村太田) / 新箸節供(長生郡高根本郷村宮成) / 雄蛇の池'山武郡大和村山口) / 畳が池(君津郡清川村) / 姥神様(同小櫃村俵田字姥神台) / 念仏池(君津郡八重原村) / 関のおば石(同関村大字関) / 大根栽えず(夷隅郡千町村小高) / 二本杉(同布施村) / 一本薄(安房郡西岬村洲崎) / 大師の塩井(同豊房村神余) / 芋井戸(同白浜村青木)
東京府
箸銀杏(東京市浅草区浅草公園) / 清水稲荷(同下谷区谷中清水町) / 縛り地蔵(荏原郡品川町南品川宿) / 鎧大明神(豊多摩郡淀橋町柏木) / 薬師の魚(同高井戸村上高井戸) / 頓宮神(南葛飾郡亀戸町) / 歯吹仏(八王子市子安)
神奈川県
鼻取地蔵(橘樹郡向丘村上作延) / 化粧地蔵(足柄上郡南足柄村弘西寺) / 機織の井(足柄下郡大窪村風祭)
山梨県
御箸杉(東山梨郡松里村小屋舗組) / 親鸞上人の箸(同等々力村) / 片目の泥鰌(西山梨郡相川村) / 国玉の大橋(同国里村国玉) / 七釜の御手洗(東八代郡富士見村河内組) / しわぶき婆の石(中巨摩郡百田村上八田組)
静岡県
姥甲斐ない(清水市入江町元追分) / 下田富士(賀茂郡下田町) / 富士の姉神(同岩科村雲見) / 平左衛門湯(田方郡熱海町) / 手無仏(同函南村仁田) / 山の背くらべ(駿東郡須山村) / 化け地蔵(富士郡元吉原村) / 鼻取地蔵(索麪地蔵)(安倍郡長田村宇都谷) / 鯨の池(同賤機村) / 子供と地蔵(小笠郡中浜村国安) / 機織の井(周智郡犬居村領家) / 姥と草履(磐田郡見付町) / 富士石(同上阿多古村石神)
長野県
善光寺と諏訪(長野市) / 鎌倉石(北佐久郡三井村) / 滝明神の魚(小県郡殿城村赤阪) / 恨みの池(下伊那郡上郷村) / 花の御所(同竜丘村) / 竜宮巌の活石(同竜江村今田) / 富士石(同智里村小野川) / 仲の悪い神様(東筑摩郡島内村) / 野婦の池(西筑摩郡日義村宮殿) / 矢さいこ行事(同大桑村須原) / 門松立てず(南安曇郡安曇村) / 芋作らず(北安曇郡中土村) / 梭石※[「縢」の「糸」に代えて「木」]石(上水内郡鬼無里村岩下)
新潟県
三盃池(長岡市神田町) / 都婆の松(北蒲原郡分田村分田) / 姨が井(三島郡大津村蓮華寺) / 古奈和沢池(北魚沼郡堀之内町堀之内) / 巻機権現(南魚沼郡中之島村大木六) / おまんが井(刈羽郡中通村曽地) / 片目の聟(中頸城郡櫛池村青柳) / 乳母神とつぐら(西頸城郡名立町青木阪) / 諏訪の薙鎌(同根知村)
愛知県
尾張小富士(丹羽郡池野村) / 弓の清水(知多郡東浦村生路) / 氏子片目(南設楽郡長篠村横川) / 山の背くらべ(八名郡石巻村)
岐阜県
念仏橋(揖斐郡谷汲村) / 念仏池(山県郡上伊自良村) / 黄金の鶏(武儀郡乾村柿野) / 目を突いた神(加茂郡太田町) / 蛇と梅の枝(益田郡萩原町) / 竜宮が淵(同上原村門和佐) / ばい岩(同中原村瀬戸) / 橋場の牛(同朝日村黍生谷)
石川県
白山と富士(能美郡白峰村) / 二本杉(同同村) / やす女が淵(同大杉谷村赤瀬) / 片目の魚(河北郡高松村横山) / 大師水(羽咋郡志加浦村上野) / 機織と稗の粥(鹿島郡能登部村) / 水無村の由来(同鳥尾村羽阪) / 能登の一本木(珠洲郡上戸村寺社)
富山県
立山と白山(上新川郡) / 山のいくさ(同船崎村舟倉)
福井県
山の背くらべ(大野郡大野町) / 機織池(三方郡山東村阪尻) / 水無川(大飯郡青(ノ)郷村関屋)
三重県
白太夫の袂石(宇治山田市船江町) / めずらし峠(飯南郡宮前村) / 成長する石(同射和村) / 二つ井(多気郡佐奈村仁田) / 子安の井(同丹生村) / 袂石(南牟婁郡五郷村大井谷)
奈良県
泥掛地蔵(山辺郡二階堂村) / 雨乞と地蔵(高市郡舟倉村丹生谷) / 入鹿を祀る山(吉野郡高見村杉谷)
和歌山県
疱瘡神社(那賀郡岩出町備前) / 杖の藪(伊都郡高野村杖ヶ藪) / 雨乞地蔵(西牟婁郡中芳養村)
滋賀県
麻蒔かず(蒲生郡桜川村川合) / 麻作らず(栗太郡笠縫村川原) / 花の木(愛知郡東押立村南花沢) / 御箸の杉(犬上郡脇ヶ畑村大字杉) / 比夜叉の池(阪田郡大原村池下) / 竹生島の由来(東浅井郡竹生村) / 粉掛地蔵(伊香郡伊香具村大音) / 大師水(同片岡村今市)
京都府
念仏池(乙訓郡新神足村友岡) / 片目観音(南桑田郡稗田野村柿花)
大阪府
放生池(泉北郡八田荘村家原寺)
兵庫県
行波明神(川辺郡稲野村昆陽) / うわなり湯(有馬郡有馬町) / 上人魚(加古郡加古川町) / 寸倍石(同野口村阪元) / 水掛地蔵(赤穂郡船阪村高山) / 時平屋敷(多紀郡城北村黒岡)
岡山県
裳掛岩(邑久郡裳掛村福谷) / 白壁の池(勝田郡吉野村美野) / 二つ柳(久米郡大倭村大字南方中)
広島県
出雲石(豊田郡高阪村中野) / 魚が池(世羅郡神田村蔵宗) / 厳島の袂石(蘆品郡宜山村下山守) / 布晒岩(双三郡作木村岡三淵) / 石神社(比婆郡小奴可村塩原) / 赤子石(同比和村古頃)
鳥取県
布晒岩(岩美郡元塩見村栗谷) / 時平公の墓(同郡) / 韓山の背くらべ(西伯郡大山村) / 竹栽えず(日野郡印賀村) / 大師講と地蔵(同霞村)
島根県
成長する石(飯石郡飯石村) / 牛王石(鹿足郡朝倉村注連川) / 釣上げた石(隠岐周吉郡東郷村)
愛媛県
粉附地蔵(温泉郡道後湯之町) / 杖の淵(同久米村高井) / 真名橋杉(新居郡飯岡村)
徳島県
蛇の枕(那賀郡富岡町福村) / 蛭子神の石(同伊島) / 不動の神杉(海部郡川西村芝) / 轟きの滝(同川上村平井) / 柳水(名西郡下分上山村) / 目を突く神(板野郡北灘村粟田) / 山の戦(美馬郡岩倉村岩倉山)
高知県
綾を織る姫(土佐郡十六村行川) / 吉田の神石(香美郡山北村) / 山姥の麦作り(同上韮生村柳瀬) / 宝御伊勢神(高岡郡黒岩村) / おんじの袂石(幡多郡津大村)
福岡県
鎮懐石(糸島郡深江村) / 大石神社(三潴郡鳥飼村大石) / 七霊社の姫神(山門郡山川村)
佐賀県
十三塚の栗林(西松浦郡大川村)
大分県
拍子水(東国東郡姫島村) / 由布嶽(速見郡南端村天間) / 念仏水(玖珠郡飯田村田野)
長崎県
釜が淵(北松浦郡田平村)
熊本県
石神の石(飽託郡島崎村) / 滑石の由来(玉名郡滑石村) / 山の首引(鹿本郡三玉村) / 猫岳(阿蘇郡白水村) / 飯田山(上益城郡飯野村)
宮崎県
観音石の頭(西諸県郡飯野村原田) / 都万の神池(児湯郡下穂北村妻) / 山と腫物(同都農村)
鹿児島県
若宮八幡の石(揖宿郡山川村成川) / 池田の火山湖(同指宿村) / 石神氏の神(薩摩郡永利村山田) / 熊野石(熊毛郡中種子村油久) 
 
空海の想い

 

平安京を支えた空海の働き
奈良時代も終焉を迎えようとしていた八世紀後半、桓武天皇が即位された直後、都は平城京から京都の長岡京へ遷都されました。南都仏教勢力の肥大化を嫌った桓武天皇は、敵対する勢力の不穏な動きを避けるため、中国の長安をモデルとした長岡京の造営を決意したのです。そして遷都することにより、天皇家の血統としては弱い立場にあった自らの境遇を強固なものにし、その上で平城京の地理的弱点を、新しい都の地にて克服しようとしました。ところが784年、都が長岡京へ遷都されてからというもの、国内は災難が続きました。思いもよらぬ飢饉の到来、河川の氾濫、疫病の流行だけでなく、桓武天皇の身内にも病が続いたのです。これらは不幸な運命を遂げた早良親王の祟りであると陰陽師が占うほど、事態は深刻でした。
長岡京が危機に直面し、桓武天皇への信任がゆらぎはじめたころ、時を同じく若年二十歳にして御蔵洞で悟りを開き、出家したのが空海です。梵語をはじめとするアジア各国の言葉と大陸文化に造詣が深く、博学な宗教家の多数輩出してきた阿刀氏の出自でもあり、西アジアの文化や日本とイスラエルとの関わりだけでなく、ヘブライ語についても深い知識を得ていたと考えられる空海は、その背景からして渡来系の人々とも多くの接点があったようです。そして伯父である阿刀大足を通じて朝廷、および天皇家との面識を持つこととなり、当時宮廷にて大きな影響力を持ち、ユダヤルーツの噂が絶えない秦氏とも交流を持ったことでしょう。こうして空海は、いつしか国政に深く関わっていくことになります。
長岡京を呪縛から解き放つ方法を祈り求めていたある日、空海は新しい都をイスラエルの首都エルサレムにならって造営する必要性に目覚め、地政学の天才、土木工事の達人であり、さまざまな苦難を乗り越えて最終的には天皇の側近となった和気清麻呂と想いを同じにすることになります。和気清麻呂は古代のさまざまな測量技術を駆使して、次の都が造営されるべき場所をピンポイントで見据えることができました。その聖地を桓武天皇に小高い山の上からご披露した背景には、清麻呂と秦氏らの密接なコラボレーションがあったと考えられます。そして余命を数える年頃であった清麻呂は、自らやり残したことの多くを若くして博学であった空海に託したのではないでしょうか。彼らの熱意と驚異的な洞察力に基づく先見の目を確信した桓武天皇は、秦氏に加えて和気清麻呂と空海という強い味方の後押しを受けて、再度、遷都を実行する決断をします。
その新しい都の名前は秦氏らの提言により、イスラエルの都がヘブライ語で「平安の都」を意味するエルサレムであることになぞらえ、「平安京」と天皇に提言されます。平安京の東側には、エルサレムと同じように大きな琵琶湖が存在しますが、豊かな水源を東方に伴うことが、新しい都が祝福されるための一大要素と考えられたのです。エルサレムの北東にはガリラヤ湖が存在し、ヘブライ語で()「ヤム・キネレット」 と呼ばれています。「キネレット」の語源は「琴」を意味する()「キノル」であるため、ガリラヤ湖は「琴の泉」の意となります。そして平安京の東側から北東にかけて広く横たわる竪琴(琵琶)の形をした日本最大の湖も、琵琶湖と呼ばれるようになりました。これは決して偶然ではなく、ガリラヤ湖に比定された湖だからこそ、平安京の東にある湖は琵琶湖と命名されたのです。 
四国剣山にも関連する平安京の位置づけ
それでは平安京の位置がどのようにして見極められたのか、その方法論について考察してみましょう。イスラエルの首都エルサレムは、海岸線から60q内陸の盆地にあります。平安京への遷都以前、それまで都が位置していた長岡京も同様に、大阪湾と日本海側の若狭湾、双方から60qほど内陸で、三方が山々に囲まれた盆地に位置していました。ところが長岡京は、本来あるべき都の地から微妙にずれているだけでなく、聖地に大切な東方の水源が欠けていたのです。まず基準となる中心線は、伊勢神宮を基点として奈良の石上神宮を結ぶ線であり、古代社会において重要度の極めて高い2つの神社の延長線上には、後に空海の大切な拠点となる神戸の再度山、および和気清麻呂が建立した大竜寺があります。その中心線の南側に、伊勢神宮から剣山へと線を引き、それと対称する線を中心線の逆側に、伊勢神宮から北西の方向に引くと、ちょうど今の平安神宮をとおります。その対称線上に都があることが、実は重要であったのですが、長岡京はその位置からずれた場所に造営されていたのです。
空海は、和気清麻呂と共に、四国の山奥にあったと考えられる古代ユダヤの集落や、イスラエルの秘宝が埋蔵されたのではないかという噂の絶えない剣山、そして神宝に関する記述が史書にも多く見られる伊勢神宮、および石上神宮の地理的な位置関係が、幾何学的要因をもって結ばれていることを理解していました。そのため、理想郷としての都の位置は、伊勢神宮と剣山を結ぶ線とは対称的な線上に位置し、しかも山々に囲まれた地であり、さらにエルサレムと同様に北東に湖が存在する場所であるべきことを求めたのです。和気清麻呂は長岡京から北東におよそ12q離れた場所に、これらの諸条件を満たす聖地を見出し、新しい都、「平安京」となるべく地として見定めました。そして空海もその諸条件を十分に理解していたからこそ、後にその伊勢神宮と剣山を結ぶ線を基準に、平安京とはちょうど対称となる線上で、しかも伊勢神宮から平安京までの距離と完璧なまでに一致した位置に、自らの人生を全うするための生涯の拠点である高野山を造りあげたのです。
こうして、長岡京を呪いから短期間で解放するための施策を心得ていた空海は、天皇のさらなる熱い信望を受けることとなり、側近として活躍することになります。そして和気清麻呂は平安京の造営に、空海は怨霊の呪縛からの解放と神宝の取り扱いについて専念し、其々が得意とする分野において国家と天皇家の安泰を心から願いつつ、全身全霊を尽くして桓武天皇にお仕えしたのです。 
若き日の空海の苦悩と信念
日本の歴史に残る偉大な企業家の一人に、三井物産を総合商社にまで育て上げた益田孝の名前が挙げられます。1848年、新潟県の佐渡に生まれ、幼いころより語学に卓越した才能を発揮した益田氏は、12歳にして当時東京の麻布善福寺にあったアメリカ公使館に勤務することになりました。14歳の時には遣欧使節団に加わる機会が与えられ、明治維新の直後、アメリカの大手商社に入社。そして益田孝の活躍ぶりは、いつしか井上馨の目に留まり、23歳にして大蔵省に官吏として入省したのです。その後、これらの功績が三井家に高く評価され、1876年、弱冠27歳で三井物産の社長に就任します。
今よりも昔の方が年齢にこだわることなく、本人の実力次第で立身出世できるチャンスに恵まれていたことでしょう。特に益田孝は、語学を特技とし諸外国の知識に長けていたため、その経験とスキルが明治政府にとって重宝されたのです。百年前でも年齢の壁を越えて政界、財界で活躍する機会が20歳そこそこの青年に与えられたのですから、さらに千年以上も昔となれば、出世の可能性は無限大だったのではないでしょうか。それ故、平安時代初期の天皇政治の下で、比類なき才能を持った空海が20歳を前に政府高官への道を歩み始めたことは、想像に難くありません。
大師和讃において「御歳七つのその時に衆生のために身を捨てて」と賞賛される空海は、15歳にして論語や孝経を習得、18歳の時には当時唯一の都の大学に入学して明経道を専攻し、儒学をマスターしました。そして空海の名声は親族である阿刀氏から法相宗の僧侶らを介して、桓武天皇にも知れ渡り、阿刀大足の働きを通じて皇室の側近としても活躍しはじめます。「弘法大師こそ、世界に誇り得る日本の英雄であり聖者である」と、湯川秀樹博士はおっしゃいましたが、まさにそのとおりです。
ところが都の現状を目の当たりにした空海は、その栄華と仏教徒の世俗的衰退を危惧し、19歳で大学を退学してしまいます。空海が執筆した「三教指帰」には、「朝市の栄華念々にこれを厭い、巌藪(がんそう)の煙霞、日夕にこれをねがう」と書かれており、空海がどれほど都の虚栄と宗教の荒廃に嫌気がさしていたかを察することができます。空海の目に焼きついた都の姿とは、貧困に悩む庶民と病人に溢れた苦悩の世界であり、それを思うたびに空海は学問の追及よりも、むしろ真の道を説いて人々の魂を救うことを願ったのです。そして追い打ちをかけるように都の危機が訪れ、空海が大学を去る時期を早める結果となりました。長岡京が早良親王の祟りをはじめ、地理的要素に絡むさまざまな天変地異による危機に陥った際、南都六宗の仏教勢力との接触を嫌っていた桓武天皇は、これらの問題を解決する糸口をつかむために、宗教アドバイザーを必要としていたのです。そこで召集されたのが、奈良で勉学に励み、当時、奈良仏教界においても一番勢力を持っていた法相宗の僧侶らと縁故関係を持っていた空海ではないかと推測します。しかも空海は大陸通であり、梵語や中国語などの外国語だけでなく、仏教思想や日本古来の宗教についても熟知していました。そして出身は讃岐、今日の香川県であり、そこは剣山のお膝元であるだけに、桓武天皇にとっては願ってもない人材だったのです。
天皇の悩みを知るやいなや、空海はその答えを祈り求めるために大学を去り、思いを馳せて奈良の寺院を訪ねて歩き回り、その後大峯山、高野山、伊予の石鎚山、阿波の大滝ヶ嶽などで修行を重ねます。空海自身このときの自らのありさまを、旧約聖書の預言者を髣髴させる「仮名乞児」と呼び、三教指帰には「荒縄を帯として、ぼろぼろの衣を纏った空海の顔はやつれ、長い脚が骨張って、池の畔の鷺の脚のようになった」と記載されています。これらの記述からも、空海が自らに課した過酷な苦行を垣間見ることができます。そして794年、空海は土佐の室戸岬、御厨人窟(みくろど)にて悟りを開きます。具体的には聖書にも類似したペンテコステの記載があるように、天上界から聖なる霊が空海に下り、その聖霊の力によって舌に火がついたように未知の国の言葉、すなわち異言を語ったのです。空海は修行の末、その聖霊を身に浴びて霊の世界に目覚め、後に遣唐使として長安に向かった際には景教を学び、聖書の言葉からその意味を知ることになります。
空海が修行の際に時を過ごした大峯山も、実は、高野山と同様に固有の山を指す名称ではなく、吉野山から熊野へ続く山岳地域を意味しています。丁度その中心に山上岳がそびえ立ち、頂上には修験道の根本道場となった“大峯山寺”があります。この大峯山も高野山と同様、四国剣山と伊勢神宮を結んだ一直線上に存在し、頂上からは、東に伊勢神宮、西には高野山を見渡すことができます。そしてこれらの聖地と高野山、石上神宮との地理的繋がりに着目した空海は、伊勢神宮と石上神宮を結ぶ線を中心に、剣山への線とは対称となる線上に平安の都に相応しい聖地があることに気が付いたのです。そして794年3月、天皇は遷都の地を和気清麻呂と共に巡覧され、その後、造営が急ピッチで進められることになります。早急に遷都が実現しなければならなかった背景には、怨霊の問題があり、当時の人々にとって、特に天皇家一族にとってそれはまさに、死活問題だったのです。 
 

 

平安初期を賑わす怨霊の大問題
短期間に二度にわたる遷都が繰り返された歴史の背景には、怨霊からの解放という問題が潜んでいました。せっかく平城京から長岡京に遷都したものの、直後から怨霊の噂が絶えず、悪夢や天変地異、身の回りのさまざまな不幸に桓武天皇は悩み、怯える日々を過ごしていました。そのため、再度、都の造営が目論まれ、遷都にふさわしい新天地を求めた結果、平安京の地が和気清麻呂により提言されたのです。つまり、平安京遷都の一大テーマは、怨霊と祟りからの解放だったのです。そして天皇の命により、あらゆる手段を用いて平安京を鎮護する術が尽くされました。
まず遷都の立地条件においては、中国古来の教えである「四神相応」に基づき、東西南北が四神によって守護され、形勝の地を成すものとしました。前述したとおり、四国剣山と伊勢神宮、さらに石上神宮を結ぶ線、そして高野山との地理的関連性も考慮され、お互いの距離関係も重視されました。その結果、特定された平安京の地は、鴨川の清流が「青龍」(せいりゅう)の象徴として東に存在し、都の邪気を逃す山陰道が「白虎」(びゃっこ)の象徴として西に、また南には川が注ぎ込む巨椋池の「朱雀」(すざく)、北には「玄武」(げんぶ)と呼ばれる亀と蛇を合体した守護神が守る船岡山の丘陵と、「四神相応」の理想的郷であったのです。
また、都を鎮護して怨霊の仕業である天変地異や不幸から身を守るためには、都の四方を寺社で守ることも重要でした。そこで桓武天皇は、都の東西南北に大将軍神社を建立し、神々の中でも強大な力が崇拝されてきたスサノオノミコトを祀ることによって厄払いをし、平安京を鎮護する礎としました。そして古代より崇拝されて来た磐倉の巨石も、都の東西では観勝寺と金蔵寺、南北では明王院不動寺と山住神社に祀ることにより、都全体を大将軍と岩の神によって二重に加護することを目論みました。さらに東西北三方を山に囲まれた平安京の南側を守る官設寺院として、796年には東寺が創建されたのです。この東寺こそ、823年に嵯峨天皇より空海に下賜され、五重塔が建立された、後の真言密教の根本道場です。
最後に特筆すべきは鬼門を守る延暦寺の存在です。遷都直前の788年、最澄が開いた一乗止観院を起源として創建された延暦寺は、陰陽道の鬼門にあたる都の東北部に位置します。鬼が出入りすると考えられた鬼門を恐れた桓武天皇は、数多くある寺社の中でも延暦寺を最重要視し、そこで頻繁に加持祈祷が執り行われました。奈良の南都仏教勢力を逃れて遷都を決断した桓武天皇だけに、神のご加護を求めるにしても、奈良仏教の要素を極力排除しようとしたことは想像するに難しくありません。しかし怨霊を封じるためには、磐倉と大将軍神社、および延暦寺の加持祈祷だけでは足りないと考えたのでしょうか、例外措置として守護神の象徴である毘沙門天を、都の北は鞍馬寺に、南は羅城門にも置きました。こうして、平安京は造営当初から多くの神々によって守護されるようになったのです。 
怨霊退治と神宝の処遇を任せられた空海
「怨霊からの解放」という天皇の切なる願いをもって、遷都を実現するためにマスターマインドとして背後で活躍したのが秦氏、和気清麻呂と空海です。秦氏は、経済的な支援を惜しまず提供し、遷都を短期間で実現するための原動力となりました。ユダヤにルーツを持つと言われる秦氏にとって、自らの影響力下である山背国葛野郡周辺に遷都を実現させることは長年の夢でもあり、とても重要でした。秦氏の役割が経済的支援とするならば、和気清麻呂には建築土木技術における活躍が求められました。日本の国土をくまなく歩き回りながら培われてきた和気清麻呂の地理勘と、多くの灌漑工事や神社仏閣の造営工事に携わりながら体得した土木建築技術の経験則において、当時彼の右に出るものは誰もいませんでした。それ故、和気清麻呂には平安京の造営が一手に任されたのです。そして桓武天皇が最も恐れた怨霊を取り除くための宗教アドバイザーとして、当時、宗教心と語学力、諸外国文化の知識において比類なき名声を得ていた空海が側近として召され、遷都地の聖別と神宝の処遇について任されたのです。こうして、秦氏、和気清麻呂、空海の三名によるコラボレーションにより、平安京の造営が急遽、実現する運びとなりました。
平安京の遷都が実現した直後、空海は正式に僧侶となることを願い、剃髪得度の式を受けるため一旦、奈良に戻り、当時の規定に従って国家試験を受けました。奈良仏教に失望し、大学を中退してまで修行を積み、悟りを開いた空海が、何故かしら再び奈良に戻ることになったのです。空海はその後2年間、奈良大安寺の住僧として、南都六宗の経典などの研究に徹しますが、その間、神宝の歴史とその所在について、さまざまな資料を研究したに違いありません。そして796年、22歳にして唐より来朝していた泰信和上より具足戒を授かりますが、庶民の救済を忘れて無益な宗教哲学や立身出世を目指すことに終始する南都六宗を空海は嫌い、「あらゆる僧尼は頭を剃って欲を剃らず」と、痛烈に批判し続けたのです。
ある日、祈り求めていた空海は御仏の啓示により、「久米に行くべし」との啓示を受けます。そのとおりに東塔を訪ねてみると、そこで思いもよらずインド密教をルーツに持つ「大日経」の経典七巻を発見します。その経典には、仏と我が一体となる即身成仏に至る悟りの教理が記されていました。大勢の庶民を救い導き、怨霊の祟りから天皇をはじめ多くの人々を解放することを天命とした空海にとって、まさに「生命の宗教」の基となるべき経典を手にしたのです。その直後797年、当時23歳の空海は、突如として世俗から消息を絶ちます。そして804年、遣唐使として中国に渡るまでの7年間、空海は歴史から姿を消すことになります。 
空海の知られざる七年間の意味
二十三歳にして大日経の経典を手にし、密教の奥義に触れた空海は、それから遣唐使として唐に旅立つまでの七年間、何をしていたのでしょうか。その空白の期間については空海の伝記にも一切記載が無いため、多くの大師伝でも知られざる七年間として省略されています。また、例え説明があったにしても、大日経の経典を入手した後、その習得のために山奥にこもったとか、もしくは日本国内を旅しながら、遣唐使として入唐する準備をするために学問や語学に専念していたとのではないかと推測されているにすぎません。その前提が空海の低い身分であり、唐に渡るための自己資金を蓄えるため、多くの苦労を重ねて各地を旅しながらお布施を募り、また、帰国した僧侶からも話を聞いて学んだであろうと考えられています。つまり一介の新米僧侶として、空海は入唐するための準備に励んでいたというのが定説ですが、果たしてそうでしょうか?
疑問点は、まず、貧しいと言われた空海が、実は多額の金銭を携えて入唐していることです。空海は、当初予定されていた二十年に渡る滞在期間に必要な資金を十分に携えていただけでなく、自らが欲する書籍は何でも手に入れることができたほど、ゆとりがあったようです。実際、空海は経典四百六十巻や両界曼荼羅だけでなく、数々の仏画まで買い求め、そのコレクションの質の高さが最澄の耳に入り、帰国後、最澄の申し入れに応じて「華厳経」などを貸し出しています。無論、恵果和尚からも多くの書籍や秘宝を譲り受け、留学が短期間に終了する目安が付いたことから余剰資金が生まれたという見方もできますが、いずれにしても貧しい留学生の行動とは思えません。
また、消息を絶つ直前の797年に空海があらわした「三教指帰」には、空海が大学を離れて山や難所で修行を積んだことが書かれています。そして20歳にして室戸岬で求聞持法を成就し、悟りを開いた後、山岳宗教の行者となって、平安京の行く末にも深い関心を抱いていたはずの空海だけに、平安京遷都に関わる怨霊問題が公然と流布される国家の一大事の時と知りながら、お布施集めのために国内を行脚するような自らの利得のための行動をとるとは考えられません。しかも空海ほどの人物ですから、国内を旅したならば、必ずその地域に何らかの軌跡が残されているはずです。しかし、7年間何ら空海に関する情報が存在しないということは、例え旅をしていたとしても、公にはできない理由があったからではないでしょうか。また、さらなる修行を長い年月をかけて積むとも考え辛く、大日経を学ぶにしても、空海の才能からして七年という期間は余りに長すぎます。
遣唐使として唐に向かった804年、空海は通訳者を必要としないほど、中国語を流暢に話せたことから、空海は渡来人とも積極的な係わりを入唐前から持っていたと推測され、その人脈は幅広いものであったに違いありません。察するに空海が遣唐使となった背景には、明らかに朝廷、および秦氏の介入と手厚い援助があっただけでなく、そこに至るまでの間、長年に渡り、空海は密かに天皇に仕えていたと考えられるのです。そして怨霊対策に貢献し、神宝の処遇についても責任もって対応できる実力者であったがゆえに、桓武天皇の篤い信任を受けることとなり、その後、朝廷の宗教行事に関する重大なプロジェクトの責任を任されるようになったのではないでしょうか。
794年に平安京遷都が実現しましたが、あらゆる怨霊対策がとられたにも関わらず、問題は解決することはなく依然として桓武天皇を悩ませ続けていました。そして既に悟りを開いていた空海は、遷都が実現した直後より、南都六宗の本拠地奈良で二年間、学びのときを持ちながら調査に時間を費やします。都の行く末についても深い関心を抱いていたであろうと考えられるだけに、朝廷の周辺に不幸と災難が連続して起きている矢先の797年、空海は何らかの重要な役目を朝廷から授かり、それから7年間、全身全霊をかけて取り組むことになったことから歴史から忽然と姿を消してしまったとは考えられないでしょうか。しかもそのプロジェクトは極秘であったため、公にすることができず、記録にも残らないほど密かに7年の時を過ごさなければならなかったのです。そして密教の経典を発見した797年より入唐するまでの七年間、空海は消息を絶ちます。
ちょうどその当時、怨霊対策で躍起になっていた朝廷において、誰も対処できずに放置されている難しい問題がありました。それが、怨霊対策の切り札とも言える「神宝の移設」です。天皇と都を守護し、国家の安泰を実現するために、新都に神宝を移設することが不可欠でしたが、当時、朝廷にはそれを実行できる者がいなかったのです。なぜなら、太古の時代から誰もが祟りを怖れるあまり、朝廷内でさえ神宝を触ることはおろか、探したり見ることさえも拒まれ、何処にどんな神宝が秘蔵されているのかさえも分からない状況にあったのではないでしょうか。
平安京の原型であると考えられるイスラエルのエルサレム神殿では、神殿が建築された直後に、王の命によって神殿に「主の契約の箱」と「神の聖なる祭具」が運びこまれました(歴代誌上22章)。同様に、平安京においても神宝の移設が強く望まれ、それが怨霊対策の中でも一番、大切なポイントだったのです。空海の消息が途絶えたのが平安京の遷都直後ということもあり、朝廷が怨霊対策に取り組んでいる真最中というタイミングから察しても、空白の7年間は神宝に関係している可能性が高いと考えるのが妥当です。阿刀氏の家系から輩出された有能な宗教家であっただけに、空海にとってイスラエルの神宝を探索することは決して人ごとではなかったはずです。ましてや、故郷の四国においては、剣山の周辺にイスラエルの集落が存在し、そこには神宝が秘蔵されているという言い伝えが古くから残されていただけに、空海も深い関心を持っていたに違いありません。
さらに空海の母方である阿刀氏のルーツを遡っていくと、単に秦氏らと共にイスラエルの起源で繋がっているだけでなく、阿刀氏と呼ばれる一族そのものが、神宝の取り扱いと深く関わりを待つという歴史が存在していたのです。それゆえ、空海が阿刀氏の家系に属する者として、神宝の取り扱いに興味を持っていただけでなく、実際に代々から伝承されてきた言い伝えも含めて、さまざまな知識を既に得ていた可能性が高いのです。こうして空海は、神宝問題を解決するための第一人者として、朝廷より召されたと考えられます。
これらの背景から、空海の知られざる7年間を解明するためには、単に空海の文献を検証するだけでなく、空海をとりまく政治と宗教の環境を見直しながら、文化交流の裏に潜む権力闘争や、怨霊対策に取り組む宗教家らの働き、また知識階級の人脈と相互関係などにも目を留め、それらがどのように空海の生涯に影響を与えたかを探る必要があります。そして平安初期の時代において、神宝を誰が、どのように管理するものであったか、ということをまず理解する必要があります。そして、当時の凄まじい権力闘争と怨霊問題を肌で受け止めた空海が自ら察した天命をどう捉え、どのように行動したであろうかと推測するのです。そして空海が消息を絶つ前と、その後、再度姿を現した時を比較し、それらの共通点から空海が歩んだと思われる軌跡を辿りながら、どこで何をしていたか、どういう人々と面識があったかということを見極めることが大事です。すると、そこには、空海と渡来人、特に阿刀氏との関わりや、怨霊からの解放、そして神宝の行方などのテーマが見え隠れすることがわかります。これらをひとつひとつ検証することにより、失われた七年間の真相が見えてきます。 
 

 

渡来人が大活躍する古代社会
3世紀以降、渡来人の流れが一変し、突如として大勢の民が朝鮮半島から海を渡り、シルクロードの最終地点となった日本に移住してきました。それまでも渡来人の流れは列島にむけて何百年も続いていましたが、その流れが一気に加速したのです。そして弥生時代後期から飛鳥、奈良時代にかけて、特に古代社会のメルティング・ポットとなった奈良盆地の周辺には多くの知識階級層の渡来人が居住するようになり、大陸文化の流入とともに栄えました。当時の古代社会において政治や宗教、文学、農業など、日本の社会全般に多大な影響を与え、日本文化の基礎を培う原動力となったのは、渡来人にほかなりません。
その後、渡来人は列島の文化に同化し、長い年月をかけて日本独自の文化を作り上げていくことに貢献しますが、しかしながら、有力者の出自のほとんどが大陸系であることに変わりなく、その民族性と特異性については、新天地である日本の地においても長年、温存され、その氏名は歴史に名を残すこととなります。例えば長岡京(現京都府)の周辺に居住していた秦氏、弥坂氏、鴨氏、出雲氏などの多くは、渡来系であることが知られています。これらの有力者の経済力と高い教養のレベルは渡来人ならではのものであり、その名前の多くがヘブライ語の意味を持っていることからしても、渡来系の中には単に中国や朝鮮半島との繋がりだけでなく、イスラエル系の民も複数存在していたと思われます。中でも山背国で実権を握り、平安京遷都の立役者として活躍した秦氏とイスラエルの関係についての噂は絶えません。秦氏はその財力と大陸文化に繋がる人脈故に、平安京遷都の際には所有する財産や不動産を献上し、桓武天皇の信任を得ながら朝廷にとって大きな経済的支えとなりました。また、それ以前、平城京から長岡京への遷都においても、それを指揮した藤原種継の母親も秦氏であり、一連の遷都の背景には当初から多くの秦氏の影響が強く加わっていたと考えられます。
秦氏のほかにも奈良時代後期から平安初期にかけて、注目すべき渡来系人が、多数浮かび上がってきます。まず桓武天皇の母親は、今生天皇の「ゆかり」発言にもあったように、高野新笠という百済の出であり、父方の和氏は武帝王由来の百済王族です。また、延暦寺を建立し、桓武天皇に仕えた最澄は、後漢の孝献帝の子孫を祖先とする三津首家(みつのおび)の家柄であり、中国系の渡来人の子孫です。そして空海も、母方の阿刀氏が帰化人です。そして空海の伯父にあたる阿刀大足(あとのおおたり)は、その優れた教養と知識が朝廷でも高く評価され、桓武天皇の皇子、伊予親王の侍講を勤めていたほどでした。その阿刀大足がおそらく中国で学んだと考えられる論語、孝経、史伝を中心とした多くの知識を、幼い空海に自ら授けたのです。こうして古代社会においては、至るところで渡来系の人物が朝廷に大きな影響力を与え、日本の文化の礎を作る大きな原動力となっていたのです。 
阿刀氏が優れた宗教家である理由
空海の母方にあたる阿刀氏の出自が渡来人であり、イスラエルの末裔である可能性が高い、ということを知ると驚かれる方も少なくないはずです。しかし古代社会において博学であること自体、渡来人との結びつきなくては説明することが難しいのです。空海は、母方が渡来人であるがゆえに、その伯父にあたる阿刀大足から少年時代に多くの教養を学ぶことができました。また、世界史上、ユダヤ人から偉大な人物が多数輩出されていることからしても、日本が誇る偉大な宗教指導者である空海が、その血統を継いでいるのであれば、むしろ誇りに思うべきでしょう。阿刀氏の家系は多数の優れた宗教家を輩出しており、法相宗が興隆できた理由もそこにあるようです。阿刀氏が活躍した時代を理解し、同じ一族である空海との接点を見出すことが、空海の生い立ちだけでなく、その志向性や全国行脚の動機、そして歴史の空白となっている空海の知られざる七年間を理解するための大切な鍵となります。
まず、空海の活躍と同時期、奈良時代後期から平安初期にかけて法相宗を隆盛に導いた法相六祖の僧侶の一人、大和国出身の善珠に注目です。八世紀の終わり、南都六宗では経典暗誦よりもその解釈を極めることが重要視され、その結果、経典の釈義に長けていた法相宗が他宗を圧倒するようになりました。当時、法相宗のリーダー格であった善珠は、朝廷とも深い関わりを持ち、皇太子安殿親王の厚い信頼を受けていただけでなく、殉死した早良親王とも交流がありました。また、秋篠寺を開基し、そこでは後世において法相宗と真言宗が兼学されることになります。
この善珠こそ、法相宗法脈の頂点に立った玄ムの愛弟子であり、しかも玄ムが護身を勤めた藤原宮子との間にできた子とも言われています。そして善珠の卒伝には「法師俗姓安都宿禰」、玄ムも「玄ム姓阿刀氏」と書いていることから、ともに阿刀氏の出であることが伺えます。さらに「東大寺要録」を参照すると、玄ムの師である義淵(ぎえん)も阿刀氏なのです。つまり義淵から玄ム、そして善珠と引き継がれてきた法相宗の法脈は、まぎれもなく阿刀氏によって継承され、奈良から平安時代初期にかけて、その宗教政治力は頂点を極めました。
平安初期、朝廷が悩まされた早良親王の怨霊問題についても法相宗は積極的に関わり、特に善珠は、早良親王の「怨霊」を語るだけでなく、霊力をもって鎮めることもできたため、天皇の厚い信任を得ました。南都六宗の影響下から逃れるために遷都に踏み切った経緯からして、これまで一見、対立関係にあったと思われていた朝廷と南都六宗との関係ですが、実際には朝廷と法相宗のリーダーは緊密な関係を保っていたのです。朝廷は怨霊を恐れるあまり、藁をも掴む思いで霊力を有する者であれば躊躇せず登用しており、最澄ら地元で活躍する宗教家だけでなく、奈良を拠点とする善珠らにも声が掛けられました。こうして多くの優れた宗教学者を輩出した法相宗は、霊力をもって朝廷に仕え、祭祀役割を担う人材にも恵まれていたのです。
その法相宗の流れをくむ学者の一人が、空海の母方の伯父である、阿刀大足です。彼は朝廷において桓武天皇の子である伊予親王の侍講を勤めただけでなく、空海にも教えていました。つまり伊予親王だけでなく、空海も阿刀大足を通じて法相宗の僧侶らと親交を深める機会があったと考えられます。それゆえ、空海は南都六宗のありかたを批判することはあっても、友好的な関係を保ち続け、後に高野山を開いた際も、穏やかに聖地を構えることができたのです。当時、宗教界においては圧倒的な勢力を誇る阿刀氏の出であり、天皇をはじめとする朝廷と、南都六宗で一番の勢力を持つ法相宗、双方の人脈に恵まれた空海は、国家の平和と皇室の大安を願いつつ、自ら立ち上がります。そして天皇の篤い信任を得て、それまで誰も手がけることができなかった難しいプロジェクトを朝廷より賜ることになります。
阿刀氏がいかにして、これほどまでの宗教政治力を持つに至ったのか、その背景を見極めるために、阿刀氏が渡来系と言われているゆえんについて検証してみました。阿刀氏は安斗氏とも書き、物部氏の系列の氏族です。平安遷都の際に、阿刀氏の祖神は河内国渋川群(今日の東大阪近辺)より遷座され、京都市右京区嵯峨野の阿刀神社に祀られました。明治3年に完成した神社覈録(かくろく)によると、その祖神とは阿刀宿禰祖神(あとのすくねおやがみ)であり、天照大神(アマテラスオオミカミ)から神宝を授かり、神武東征に先立って河内国に天下った饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の孫、味饒田命(アジニギタノミコト)の子孫にあたります。平安初期に編纂(へんさん)された新撰姓氏録にも阿刀宿禰は饒速日命の孫である味饒田命の後裔であるという記述があり、同時期に書かれた「先代旧事本紀」第10巻、「国造本紀」にも饒速日命の五世孫にあたる大阿斗足尼(おおあとのすくね、阿刀宿禰)が国造を賜ったと書かれています。古文書の解釈は不透明な部分も多く、「先代旧事本紀」などは、その序文の内容からして偽書とみなされることもありますが、物部氏の祖神である饒速日命に関する記述については信憑性が高いと考えられます。その結果、明治15年ごろ、京都府により編纂された神社明細帳には、阿刀宿禰祖味饒田命が阿刀神社の祭神であると記載されることになりました。阿刀氏の出自が、国生みに直接深くかかわった饒速日命の直系であることは、大変重要な意味を持ちます。
さらに「先代旧事本紀」には、饒速日命と神宝との関わりについても多くの記述が含まれていることに注目です。その内容を日本書紀、古事記と照らし合わせて読むことにより、饒速日命の役目がより明確になります。まず日本書記によると、天照大神から統治権の証として神宝を授かった饒速日尊は、弟の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が日向の高千穂峰に降臨する前に、船で河内国に天下り、その後、大和に移ったとされています。「先代旧事本紀」によると、この神宝は天神御祖(アマツカミミオヤ)から授けられた2種の鏡、1種の剣、4種の玉、そして3種の比礼であり、「瑞宝十種(ミズノタカラトクサ)」であると具体的に記されています。その後、神武天皇が即位する際、饒速日命は瑞宝十種を譲渡し、天皇の臣下として即位の儀式を執り行い、天皇家に関わる各種の定めを決めることに貢献しました。
また、古事記には神武天皇の東征に絡んだ饒速日命に関する記述があります。大和の国へ進出した饒速日命は、その地域を支配していた豪族の長髄彦(ナガスネヒコ)を一旦は服従させ、長髄彦の妹を妻にします。その後、瓊瓊杵尊の孫にあたる後の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)が東征して長髄彦を打ち破った際に、天皇が天照大神の子孫であることを知り、饒速日命は神武天皇に帰順し、それからは祭祀の役目を一筋に担うことになります。つまり、天照大神の孫である饒速日命は、天神御祖の勅令をもって神宝を管理し、祭祀の役目を担い、国治めを支えるために尽力した大祭司だったのです。同じ兄弟でも兄の饒速日命は宗教儀式を司る家系の流れをくむ一族となり、弟の瓊瓊杵尊は、皇室の原点となる神武天皇をはじめとする皇族を輩出する一族の流れとなり、それぞれが別系統の血筋を継いでいくことになります。
これら天孫降臨に関する古文書の記述は、前述したとおり、イスラエルの民が西アジアから日本に移住し、その新天地において遭遇した出来事を、史実に基づきながら神話化したものであると考えられます。それゆえ、これらの神話にはおよそすべて、そのモデルとなった人物が実在したのではないかと推察できます。中でも、祭司の役目を遣わされた民族は、聖書の慣行どおり、イスラエルのレビ人ではないかと考えられます。イスラエルから先行して日本に到来してきた部隊は、預言者イザヤとその妻、子供、および神宝の取り扱いを任されたレビ族のリーダーたちでした。イザヤ自身はユダ族に属するものですが、妻の中にはレビ族に属する女性が存在した可能性もあり、また、その子孫の中にはレビ族と婚姻関係を持つ者もあったことでしょう。また、西アジアから同行してきた旅人の中には、王系一族の子孫もいた可能性があります。いずれにしても、少人数で長旅をしながら、約束の島々に向かう最中、イザヤの心中には王系ユダ族の血統と、神宝を取り扱う祭司レビ族の血統は、ともに絶対に絶やしてはいけないという思いがあったのです。その結果、ユダ族であるイザヤの家系からは、王系ダビデの血統を継ぐ者だけでなく、レビ族の血統の流れをくむ子孫も生まれたと考えられます。そのレビ族の血統を継いだおおもととなる一人が饒速日命です。そして、その末裔として、阿刀氏が登場することになります。
前述のとおり、阿刀氏の祖神は饒速日命(にぎはやひのみこと)の裔である阿刀宿禰祖神(あとのすくねおやがみ)であり、「先代旧事本紀」にも、饒速日命と神宝との関わりについて詳細の記載があります。また「新撰姓氏録」によれば、饒速日命は高天原の出自であることが記されています。この高天原とは、イスラエルの民の祖先「アブラハム」の生まれ故郷であり、国家を失った後に大陸を横断する途中、イザヤ一行が滞在した場所とも考えられています。また、高天原とは日本列島と相対して、西アジアのタガーマ州ハラン、すなわち高天原に地続きの大陸の一部を指しているとも考えられます。その場合は、東アジアでも太平洋岸や朝鮮半島でも、高天原と呼ぶことができるでしょう。いずれにしても、一行の旅の途中にある高天原で出生したのが饒速日命です。大陸で生まれ、先に成長して青年となった饒速日命は、日本列島周辺に到来した後、弟の瓊瓊杵尊よりも先行して海を渡り、列島の陸地を目指して進みました。高天原の場所が明確ではないとしても、阿刀氏のルーツがこうして饒速日命から高天原までさかのぼることができるということ自体、阿刀氏は大陸系であり、しかもイスラエルと深く繋がっていた可能性が高いと言えます。 
旧約聖書が証する阿刀氏の出自
この阿刀氏と神宝を取り扱う祭司の働きとの繋がりについては、旧約聖書の記述からも見出すことができます。その背景にあるイスラエル12部族の歴史、特にレビ族とイスラエルの神宝との関わりと、ユダ族の役割に注目してみました。イスラエルという名前は、建国の父であるヤコブの別名であり、ヤコブには12人の子供がいました。一時の奴隷時代を経てエジプトを脱出し約束の地カナンに向かう途中、イスラエルの子供たちは神の命によって氏族ごとに戸籍登録が行われ、そこからイスラエル12部族が始まります。その後、約束の地において国家を樹立しますが、後日、統一イスラエル王国は分裂し、北王国イスラエルの10部族と南王国のユダ族とベニヤミン族の2部族に分かれてしまいます。また、ヨセフの代わりに彼の子供であるエフライムとマナセがヤコブの養子として北イスラエル10部族の内の2部族となりました。そのため、当初12人の中に含まれていたレビ族が除外されてしまったのです。何故でしょうか。
答えは聖書の「民数記」に明記されています。レビ族には、神から「幕屋とすべての祭具の運搬と管理をさせる」という特殊な任務が与えられたため、戸籍登録の対象外となり、イスラエルの部族として土地を所有することが許されなかったのです。ここで語られている幕屋とは、イスラエルの民が神の住まわれる聖なる場所として崇めた移動式テント型の神殿のことです。そしてレビ族は神殿の周囲に居住しながら、ひたすら神に仕える祭司となりました。それゆえ、エルサレムにイスラエル神殿が建築された後も、レビ族は神殿の周囲に居住し、ほかの部族のように土地を割り当てられることはなく、家畜の放牧地のみが与えられました。つまりレビ族は神に仕えた優秀な民でありながら、神宝を取り扱う聖職という立場に置かれたため資産を持てなかったのです。ここに阿刀氏の家系との共通点があるように思えてなりません。
さて、そのレビ族の家長であるレビには、ゲルション、ケハト、メラリの3人の子供がおり、それぞれに幕屋の勤めが告げられました(民数記3章)。中でもケハト氏の役目は「聖所を警護」し、「契約の箱、供え物の机、燭台、祭壇、それらに用いられる聖なる祭具、幕、およびそれらにかかわる仕事」に専念するという重要なものでした。その上、ケハト氏以外は、決してこれらの神宝に触ることができないという掟が定められ、神は「ケハトの諸氏族をレビ人の中から断やしてはならない」と告げました。よって、イスラエルの民の中で唯一、神宝を取り扱うことが許されているレビ族、中でもケハト氏は、イスラエルの国家に不可欠な存在となったのです。そのケハト氏の出自がモーセとアロンであり、レビから26代目のヨザダク(紀元前586年ごろ)までその家系が明確に聖書に記されています。
ところが、神殿と神宝の管理を任されたはずのレビ族のほとんどが歴史から姿を消してしまったのです。統一イスラエル国家が分裂した後、紀元前721年には北王国イスラエルが、そして紀元前586年には南王国ユダも滅亡しました。国家の崩壊後、北王国の10部族は離散して行方がわからなくなり、南王国のユダは、捕囚の民としてバビロンに連れていかれ、それからおよそ50年後の紀元前538年、ペルシャ王の命令によりユダの捕囚の民は祖国の地に帰還することになります。ところがエズラ書2章40節によると、帰還した南王国ユダの民の数は部族、氏ごとに数百人から数千人の規模であったのに対し、レビ族は74人、詠唱者は128人、そして門衛は139人しかいなかったのです。歴代誌上9章によると、詠唱者と門衛もレビ族であり、特に門衛は「神殿の祭司室と、宝物庫の責任」という重責を背負わされたため、神殿が建設された際には4,000人が任命されたとあります。
ところが捕囚後に帰還したレビ人の数は139人と思いのほか少なく、レビ族全体でも341人しかいませんでした。その理由について、一般的には祖国におけるレビ族の社会的待遇が良くなかったからと言われていますが、本当の理由は違います。言うまでもなく、レビ族の大半は国家が崩壊した際、契約の箱とともに、新天地を求めアジア大陸を横断する一行と東の島々を目指し旅に出たのです。神聖な祭具に触れることが許されたのはレビ族だけであったため、預言者イザヤの言葉を信じ大陸を横断した大勢の民と共に、契約の箱や神聖な祭具を運搬する役目を果たすために、多くのレビ族が同行したのです。
このレビ族の中に、ヘブライ語で()(アタ、Ater)と書くアテル氏がいました(エズラ2章42節)。アテル氏はバビロン捕囚後に祖国へ帰還する際、ネヘミヤらとともに主の契約に調印した神のかしらの1人ですが(ネヘ10:17)、実際に祖国の地に帰還したアテル氏は数十人にも満たなかったようです。つまり、それ以前に既に大陸を東へと旅立った人々の中に大勢のアテル氏が含まれていたと考えられます。ヘブライ語でアテル()の発音は、日本語の「アト」とも聞こえるため、阿刀氏のルーツがここに秘められている可能性があります。
これらの背景からしても、阿刀氏からは宗教学者が多く輩出され、博学であったにも関わらず、経済的にはさほど恵まれることがなかった理由が見えてきます。レビ族の出自であり、ケハト氏の裔である阿刀氏の祖先は、元来、土地や財産を所有することが許されておらず、神殿の近くに住まい、神殿と神宝を管理する役目を授かっていたのでしょう。そのため阿刀氏の先祖である饒速日命は、「先代旧事本紀」に記載されているとおり、アマテラスより10種の神宝、「瑞宝十種(みずのたからとくさ)」を授かり、神に仕えることを職務としてまっとうしたと考えられます。つまり饒速日命は、イスラエルのレビ族の出として、神殿の宝物庫を管理する責任を担い、その責務はイスラエルから遠く離れた日本の地においても阿刀氏に継承され、そして平安初期においては空海へと引き継がれていったと考えられます。そしていつしか空海の心の奥には、イスラエルの歴史に内在する神宝への強い崇敬の想いと憧れが沸き上がってきたのでしょう。平安京を救い、桓武天皇を助けるため、そして神からの祝福をすべての民が得ることができるように、阿刀氏である母親を持つ空海は、祭司の任務を与えられたレビ人の血統をくむ神の民、イスラエルの末裔として、大祭司の働きを成し遂げていくことになります。 
 
剣山と空海

 

剣山への空海の想い
「かごめかごめ」をヘブライ語で翻訳すると、その歌詞はイスラエルの神宝についての取り扱いと、その行方について言及していることがわかります。この歌詞の解明をきっかけとして、筆者は兵庫県の新神戸駅、北側にある再度山の存在を知ることとなり、空海が遣唐使として中国を訪ねた前後の2回に登ったその山が、何故、重要であったかという理由を考えさせられることになりました。再度山は地図上で、伊勢神宮と石上神宮という史書にも記されている名高い2つの神社を結ぶ直線の延長線上にあたることからしても、極めて重要な位置にあることがわかります。しかも、その再度山から今度は南西方向にある淡路島の伊弉諾神宮に向けて線を引くと、その延長線上に剣山の頂上が存在するのです。 伊弉諾神宮は、その境内に設置された大きな地図に描かれているとおり、前述した伊勢神宮と対馬の海神神社とまったく同じ緯度に建立されているだけでなく、そこから夏至、冬至を指す30度線を引くと、出雲大社、諏訪大社、熊野大社、そして九州の高千穂にあたり ます。伊弉諾神宮は諸々の著名な霊山や聖地、神社の中心的存在として古くから知られていただけでなく、実際に地理的にもそれら聖地の中心地となる場所に建立されていたのです。伊勢神宮と石上神宮、再度山と剣山が地理的に伊弉諾神宮を中心として結びついているだけでなく、高野山や平安京とも関係していることは、それらの位置を地図上で確認すれば一目瞭然です。こうして伊弉諾神宮が、確かに古代日本において神社の中心であり、その神宮がある淡路島こそ、史書が記すとおり国生みにおける最初の島であることがわかります。
さて、その剣山には昔からユダヤルーツの噂があり、大昔にイスラエルの「契約の箱」や神宝が剣山の山頂周辺に隠されたのではないかという話を聞くことがあります。全国各地で開催される日本の祭りの象徴でもある神輿は、その形態が酷似していることからしても、イスラエルの契約の箱をモデルとして神輿がデザインされた可能性があります。契約の箱が実際に日本に持ち込まれて、そのレプリカが全国各地で作られ、祭りの際に担がれるようになったと考えれば、そのルーツが理解できるだけなく、元祖となる契約の箱自体、今でも日本のどこかに秘蔵されている可能性が残されていることになります。しかしその場所を特定することは容易ではないようです。ところが、ヘブライルーツを持つと思われる「かごめかごめ」の意味を解き明かした結果、そこには日本文化に潜むユダヤルーツの痕跡が読み取ることができるだけでなく、剣山が何故、古代より神聖化されてきたのか、その重要性を理解する鍵が秘められていたのです。四国の霊山として名高い剣山は、西日本で石鎚山に次いで2番目の標高を誇る山であり、淡路島からも見ることのできる霊山ですが、空海自身ははたしてどれだけの想いを剣山に寄せていたのでしょうか。 
剣山を囲む四国八十八ヶ所の意味
四国を一周しながら空海が自らの足で歩き周り、訪ねた道のりをたどりながら88か所の寺院を回る1200qにも達する遍路は、「四国八十八ヶ所」と呼ばれ、あまりに有名です。その遍路の中心に聳え立つのが剣山ですが、遍路からはその頂上を見ることがほとんどできません。第一番の札所である霊山寺は四国の北東に位置する鳴門の近郊にあります。そこからおよそ平坦な道を第十番の切幡寺まで歩き続け、その高台にある奥の院まで階段を登りつめて、その高台からは遠く南方向に、剣山の頂上が山々のかなたにほんのわずか、突き出して見えるだけです。そして次の第十一番藤井寺から剣山の方角にある第十二番札所の焼山寺への山道は大変険しく、健脚をもっても丸1日かけてやっとたどり着けるかというほど、途中には急斜面が続きます。冬場なら一旦道に迷えば凍死も覚悟しなければならない険しい道だけに、遍路を歩く人が、いつ死んでもよいという心構えの表れとして白い衣を着るようになったその理由も、わかるような気がします。
ところがせっかく剣山の方向に長時間かけて遍路を歩んできても、いつしか険しい峡谷の壁に立ちふさがれて南下できなくなり、すぐそばにあるはずの剣山を見ることさえできなくなるのです。大自然の壁に阻まれ、人間の力では神の聖地にはたどり着くことはできないものか、と剣山への道を断念するところに佇むのが第十二番の焼山寺です。そしてこのお寺を最後に遍路の旅路は剣山を背にして東方向へと向かい、第十三番札所以降から四国の海岸線まで到達し、そこから島の周辺を一周して、最終的に88ヵ所の神社を回るのです。ここに空海の「神隠し」の想い、すなわち八十八という「八」が重なる数字が意味する「八重」、ヘブライ語では「ヤーウェーの神」にちなんだ言葉に、「隠す」を意味する「さくら」をまみえて「八重桜」という言葉を創作した想いを感じないではいられません。神が見えてくるようで見えず、たやすく歩み寄ることもできず、聖地とは人が近寄り難い不思議な場所であるがゆえ、遍路とはそれを象徴するかのごとく、聖地の周りをとことん歩き周り続けてもなかなか到達できないように仕組まれていたのではないでしょうか。そしてその聖地こそ、空海が愛してやまなかった剣山だったのです。 
秘宝が埋蔵された状況証拠
「終わりの日に、主の神殿の山は山々の頭として硬く立ち、どの峰よりも高くそびえる」という記述が旧約聖書のイザヤ書にあります。淡路島や四国切幡寺の高台より遠くに望める剣山はこの聖書の言葉にふさわしく、その頂上はほかの山々の峰より高く聳え立っています。古代日本にて、イザヤに導かれたイスラエルからの渡来者が日本を訪れたとするならば、イザヤ書の教えに従って標高の高い神の山を求め、そこを聖地としたに違いありません。先行して列島を訪れたイスラエルの民は、史書の記述をみると、列島の中心となる基点を淡路島と定め、そこを国生みの原点としたようです。そしてそこから周辺の島々をくまなく舟で巡り渡り、一連の「国生み」とよばれる島探しとその命名というタスクの中で、列島の島々を特定していくことになります。
その起点となる淡路島から目にすることができる一番高い山が、四国の剣山です。しかもその光景は、「主の神殿の山は山々の頭として硬く立ち」というイザヤ書に記載されているとおり、多くの山々の頂を遠くに眺める中で、剣山の頭がひとつ抜きんでているのです。古代イスラエルの渡来者の目には、この剣山が聖なる山として映ったに違いなく、島のおよそ中心に位置し、そこに到達するためには極めて困難な山道を通らなければならないことからしても、まさに聖なる神殿を築き上げるに最もふさわしい山であると考えたのではないでしょうか。
霊山として名高い剣山のある四国では、古来より剣山にまつわるさまざまな伝承が残されてきています。中でも剣山にはイスラエルの「契約の箱」と、それに纏わる神宝が埋められているのではないかという噂は根強く地元で語り継がれてきており、今日、役場で管理されている観光案内のパンフレットにも、それらの伝承についての記述が見られます。そこで、神宝の噂について、これまで囁かれてきた内容を簡単にまとめてみました。
まず、四国の祖谷周辺にある地元の地域では、昔から安徳天皇の剣が隠されているという言い伝えがあり、またソロモン王の秘宝が剣山に埋蔵されているという伝説にも注目です。火のない所に煙はたたずということからしても、何か、出所となる要因がありそうです。剣山は山岳信仰の霊場として名高いですが、つい昭和の初めまでは、女性が近づくことさえ許されない女人禁制の霊山だったのです。また、剣山周辺にはイスラエルの民が居住していたと考えられる根拠がいろいろ存在します。例えば剣山周辺に古くから伝承されてきた言葉の中には、ヘブライ語で理解できるものが含まれていることや、例年7月に行われる剣山祭りで、契約の箱に酷似している神輿をかつぎながら剣山頂上まで登る風習は、イスラエル文化の名残ではないかと考えられます。
また、四国の高地には貯水池と思われる水源が多数に存在し、剣山周辺も例外ではありません。山の頂上周辺から麓に至るまで、随所に水が湧き出ていることからしても、水源に恵まれていることは一目瞭然です。そして中には人工池も多く含まれていると考えられます。 これほどまでに十分な量の水源を確保していた理由は、古来、山々の上には大勢の人が居住するような集落があったからではないでしょうか。そして祭壇や神殿の周辺にはさまざまな清めの儀式を執り行うために十分な水を供給する必要があり、色々な工夫が施されて水源が要所に確保されたと考えられます。その結果、剣山周辺には水源が確保され、その結果、今日でも山の随所から常に水が流れ出ており、豊富な水量が貯蔵されていることが伺えます。
実際、四国や山陰、山陽地方などには高地性集落が広範囲に存在していたことが知られています。特に剣山の周辺では、西側には祖谷、奥祖谷から、その東北側は木屋平から焼山寺周辺の神山に至るまで広範囲に高地性集落が存在していたとみられます。それらの集落では高き所で祭壇をつくり、神を崇め奉るという風習が遠い昔からあったと推定されるだけに、近くに聳え立つ最高峰の標高を誇る剣山とも関わりがあったに違いありません。
また、剣山そばの奥祖谷周辺の山々には、明治時代まで大規模な牧場が山の高台に存在していました。その後、牧場を管理する若手の人々が都市部へ流出し、働き手が不足して経営が成り立たなくなったことから衰退を続け、最終的にはそれらの牧場の跡地に国の政策により、杉の植林が盛んに行われるようになったのです。そして瞬く間に、多くの古代集落や牧場の跡地に杉の木が育ちはじめ、いつしか牧場の姿は、跡形もなく消え去っていきました。これらの消滅した牧場の背景には、高地性集落が存在していたはずです。何故なら、高地性集落は遊牧民族の名残でもあり、元来、アジア大陸より訪れた渡来人によって構築されてきたと考えられるからです。これらのことから、四国では杉植林の場所を見極めることにより、牧場や高地性集落が存在していた可能性のある場所を知ることができます。そして杉植林は剣山を中心に、その西側は三好市から美馬郡、そして東側は焼山寺そばの神山から勝浦郡に及ぶまで広範囲に広がっていたのです。
また、剣山は人工の山であるという学説が存在することも注目に値します。昭和初期には、剣山の研究でも著名な四国剣山顕彰会の故高根正教氏により、剣山において発掘作業が行われました。高根氏の証言によると、当時、地下147メートルまで発掘作業を行い、そこから発掘された岩石の詳細を研究することにより、剣山の頂上は「徹頭徹尾、人工の確証であった」という結論が発表されています。また剣山の頂上は馬の背のような平らな草原となっており、その地形や頂上周辺に生えている植物の種類を見ても、標高1900メートルの山の頂上に自然に芽生えたものとは考えづらいのです。頂上に豊富な水源があることからしても、剣山の山頂は人口ではないかと推測は、検証の余地が残されています。
最後に決め手となるのが、剣山の秘密について言及したと考えられる「かごめかごめ」の歌詞です。古来より歌われてきた内容をその発音どおりにヘブライ語によって解釈すると、日本語ではおよそ不可解な歌詞さえも意味が明確になり、歌詞全体の主旨がわかります。「かごめかごめ」の歌詞は、「お守り」と呼ばれた神の秘宝について歌っていたのです。その宝物はいつしかすり替えられ、人気のない寂しい場所にて水が引かれ、その山に埋蔵されたことが伺えます。歌に登場する「鶴と亀」こそ、「鶴亀山(つるきさん)」とも表記される剣山の象徴である可能性もあり、実際、山の頂上近辺には、自然石で造られた鶴と亀のオブジェが置かれています。もし「かごめかごめ」が剣山に絡んで歌われているとするならば、神宝、もしくはそのレプリカともいえる偽物のどちらが剣山に埋蔵されているか、歌詞からははっきりとは理解することができません。しかし後述するように、渡来者の歴史と神宝に関する史書の記述や、歌の文脈を見る限り、おそらく真の神宝は剣山より取り出され、別の場所に隠蔽されることになったのではないかと解釈できます。
日本語とヘブライ語をブレンドして編み出された「かごめかごめ」の作者は、その内容と時代背景から察するに、空海の可能性が高いと考えられます。2つの言語を見事に絡めながら、誰の心にも残る日本の童謡として庶民に定着させ、しかもその内容はヘブライ語においてはイスラエルの神宝について語っている、というような神業的な作詞ができる能力を持つ人間は、空海以外には考えられないでしょう。また、空海の出身地は四国の讃岐であり、その故郷の地から剣山が見えたことからしても、剣山は空海の心に残る聖地であったに違いありません。しかも空海自身は潅漑事業の名人であり、山上にでさえも水を引くノウハウを持っていました。そしてその剣山に古くから神宝が隠されていたことを確認した空海は、剣山を囲むように行脚する遍路を定め、とおりすがりに礼拝所としての札所を選別し、その数を神隠しの象徴である数字の八十八としたのです。そしていつしか大勢の人々が仏の境地に少しでも近づこうと、剣山を中心とする遍路を空海の教えに従って巡り歩きながら、心を清められる想いに浸ったのです。はたして剣山に神宝が今でも埋蔵されているかは、今後、明らかにされることになるでしょう。 
剣山の水に潜む救いのメッセージ
剣山にまつわるヘブライルーツと空海との関連を探るため、剣山周辺の歴史的背景を調べ、特に地名や古くから言い伝えられている言葉に注目してみました。まず、剣山という言葉ですが、ヘブライ語の()(tsuru、ツル)は岩を意味し、()(ki、キ)は「壁」ですから、「ツルキ」は「壁の岩」の意となります。これは「天の岩戸」だけでなく、イスラエルのエルサレム宮殿の真下ににある「嘆きの壁」をも連想させる言葉ではないでしょうか。神宝が秘蔵される聖所の周辺は岩で囲まれることを常としていたことから、神宝に関わる重大な霊山となった剣山には、「壁の岩」という意味を持つ名称が与えられたのでしょう。
その剣山の麓には、日本三大秘境のひとつである祖谷山村(いややまそん)があります。この地名はおそらく当て字であり、そのルーツはイスラエルとヤーウェー神の頭文字をとったものか、もしくはイザヤの「ザ」がいつしか省略され、「イヤ」になったと考えられます。どちらにしても、この言葉の意味は「神の救い」となります。祖谷には緑の渓谷に架けられた「かずら橋」があります。平安時代末期、平家が祖谷まで落ち延び、そこから剣山へ向かう際に、追手が来たらいつでも切り落とせるようにしたのがこの「かずら橋」であると伝えられています。この「かずら」という言葉の語源は、一般的に、つる性植物の”シラクチカズラ“を編んで作られていることから、そう呼ばれていると考えられています。しかし、それだけでは「かずら」の語源を解明するには至りません。本来の意味は、「切る」、「切り取る」を意味するヘブライ語の()(gazrah、ガズラ)と思われます。つる性植物を編んで作った綱を用いて架けられた橋は、いつしか切られる定めとなっていたため、その植物自体をヘブライ語ルーツの「ガズラ」と呼ぶようになり、そのつるを編んででき上がった橋は「かずら橋」と呼ばれるようになったのでしょう。ここにもユダヤのルーツが秘められていることがわかります。
しかし、何故に平家は祖谷まで逃げてこなければならなかったのでしょうか? 平家物語によると、壇ノ浦の戦いで安徳天皇は三種の神器とともに入水したとされています。しかし、安徳天皇は密かに四国に落ち延び、そこで病に倒れる直前、平家の再興を祈願し、剣を山中に奉納したことから「剣山」と呼ばれるようになったとも語り継がれています。安徳天皇とユダヤの秘宝の関連性は定かではありませんが、いずれにしても、古来より剣らしき秘宝が剣山に隠されていた可能性を、平家物語にも関連して伺うことができます。
三種の神器に関わる剣に関しては、十種神宝の中の八握剣や草薙剣などが史書に記載されています。また、諏訪大社のようにその前宮本殿のご神体である裏山の守屋山に絡んで、神宝の剣を保管していたというような伝承が残されているような神社もあります。神宝の剣とは、神社の歴史において大変重要な存在であり、その所有だけでなく、最終的な保管場所が大切に考えられていたことがわかります。そしてその神宝の剣に関して、四国の剣山はその山の名称からもわかるとおり、何らかの形で関与していると考えられます。
その剣山から流れ出る水は祖谷川となり、四国山地を刻み、日本有数の大河である吉野川に注ぎ込まれています。吉野川は、ヘブライ語で「神の救いの川」の意味です。ヘブライ語で「神の救い」の「ヨシュア」(Yehoshua)の「ヨシュ」と、「川」を意味する()(nahar、ナハー)という言葉が合わさり「ヨシュナハー」となり、それが訛って「よしのがわ」と発音されるようになったと考えられます。そして天皇一行がその吉野川を渡る際に、橋の代わりに栗の木を架けて川を渡られたことから、その場所は、栗枝渡(クリシト)と呼ばれるようになったことでしょう。その剣山の麓、東祖谷村には鳥居のない栗枝渡(クリシト)神社があり、当神社の記録によると剣山を参拝する者は遠い昔から栗枝渡神社も参拝することになっていたと明記されています。栗枝渡神社の名前は「キリスト」の発音に酷似していることに注目です。
剣山から思いがけず古代日本のロマンが蘇ってきました。四国に聳そびえ立つ剣山のどこかに神宝が奉納されていたことがあり、そこから流れ出る恵みの水が「神の救い」を意味する祖谷川から吉野川へと注がれ、その「神の救いの川」を栗枝渡(クリシト)、すなわち「キリスト」とともに渡り、救いにあずかるという不変のメッセージがここに集約されていたのです。その恵みのメッセージは、さまざまな伝承の中に、見え隠れするヘブライ語のカーテン裏に隠されながら、後世に伝えられるべく、今日まで守られてきたのです。 
2つの吉野川の秘密とは
もう半世紀ほど前になるでしょうか、当時、中学受験の勉強をしていた筆者は日本地理の山や川などの地名を丸暗記していました。そしてある日、試験で川の名前を書き損じてしまいました。でも、なぜ間違ったのかわからず、不思議に思ったことを今でも覚えています。四国の川と記憶していた吉野川が、実は近畿地方にも存在することに気づかなかったのです。四国の吉野川は、剣山の麓を経て、紀伊水道に流れ出る四国三郎の異名を持つ雄大で美しい清流ですが、実は同名の川が、奈良県を横切るように高野山の北側を流れています。この川は、和歌山県側においては”紀ノ川“と呼ばれていますが、不思議なことに高野山を境目として、奈良県側の上流部分を”吉野川“と呼ぶのです。
この川の名前はヘブライ語で「神の救いの川」を意味するため、四国剣山の麓を流れる吉野川だけでなく、高野山沿いの川も空海によって命名されたと考えるのが妥当でしょう。四国の吉野川は空海の故郷、讃岐の南方を流れ、和歌山の吉野川は空海の総本山となる高野山の麓を流れています。このふたつの吉野川をヒントに、剣山と高野山の繋がりだけでなく、その背景に潜む壮大な空海のライフプロジェクトが浮かび上がってきます。
高野山は819年ごろ、空海が開いた「紀伊山地の霊場と参詣道」としてあまりに有名であり、世界遺産にも指定されています。ところが実際に高野山という山は存在しません。和歌山県の北東部に位置する高野山は、山の固有名称ではなく、標高900メートルを誇る八つの峰々に囲まれた一帯を指しているのです。空海が高野山を見つけて、そこに寺を建立したと思われがちですが、実際は、聖地とするべき山々を見出した空海が、その地域を高野山と名づけたにすぎないのです。
コウヤはヘブライ語で()(kolya、コーヤ)、もしくは()(koakhya、コッヤ)と書くことができます。前者は「イスラエルの声」を意味する()(コーイスラエル)の「声」を意味する「コー」という言葉に「ヤ」を加えて「コーヤ」、つまり「神の声」となります。後者の場合「いと高き力」「優勢」を意味する()(コッエルヨン)というヘブライ語に含まれる神の名、「エルヨン」を「ヤ」に置き替えて、「コッヤ」つまり「神の力」となります。エルヨンには「いと高き」という意味があることから、「高野」という漢字をあてたのかもしれません。神の声が響き渡る山、そして神の力を肌に感じずにはいられない壮大な大自然に囲まれた聖地が高野山なのです。空海の熱い思いが、その名前に込められています。
しかし、あれほど四国の剣山と吉野川を愛し、88箇所の巡礼所まで創設した空海が、なぜ自らの宗教哲学の集大成とも言える大本山を四国に造らず、紀伊の山々を選び、そこを新たなる信仰の聖地としたのでしょうか。その謎を解く鍵は、かごめかごめの歌のヘブライ語訳(【「かごめかごめ」の真相に迫る】の章参照)をガイドラインとして、2つの吉野川沿いに聳え立つ剣山と高野山、そして伊勢神宮と天皇が住まわれる京都御所の位置関係を理解することにあります。そして、空海が描いた高野山の地理的位置づけに注目することが不可欠です。
剣山と伊勢神宮を直線で結ぶと、その線上に高野山が存在しますが、驚くことに、伊勢神宮から京都御所と高野山までの距離を地図で測定すると、ともに108.5qとなり、完璧なまでに一致しているのです。これは偶然の一致ではなく、すべて計算ずくめで厳選された聖所の位置づけの結果と言えます。古代社会においては聖なる山と海岸沿いのランドマークを結びつけながら、それぞれのクロスポイントに聖地となるべき地を見出していったのです。空海はそのマスターマインドの一人でした。
四国の剣山と吉野川を愛するあまり、空海は自らが定めた高野山と呼ばれる聖地のそばを流れる川も、「神の救いの川」を意味する吉野川と命名しました。そして新しく遷都された平安京の恵みに力を添えるべく、石上神宮へのラインを中心線として平安京とは対称となる位置でしかも、伊勢神宮からは同距離であり、しかも伊勢神宮と剣山を結ぶ線上に高野山を位置づけたのです。こうして高野山は永遠のパワースポットとして、剣山と伊勢神宮に挟まれるだけでなく、平安京を見渡しながら石上神宮や再度山とも地理上のリンクを保ちながら、永久に神宝を見守り、国家の平安を祈るための聖地となるべく今日まで至っています。 
 
賽の河原

 

幼くして、親よりも早く亡くなった子どもが行き、いつ終わるともなく石を積み続けるという苦を受ける、三途の川の河原を“賽の河原”といいます。現世と来世の境界にあるとか、冥土の手前にあるといわれています。観念上の地獄の一つですが、これを現世に現出させた場所でもあります。平安時代の僧・空也による西院河原地蔵和讃の「一重組(積)んでは父のため、二重組(積)んでは母のため」という哀しい旋律が涙を誘い、ここは子どもの霊が浮遊する霊地というイメージがあります。
中世以降、多くの女性たちがこの場所で今は亡き子どもの冥福を祈り、罪悪感に責めさいなまれている自分を慰めてきました。
これから賽の河原の歴史や意味をご紹介してまいります。見慣れない言葉が多数出て来てわかりにくいかもしれませんが、最後までお付き合いください。
なお、私は専門家ではありません。理解不足や間違いも多々あるかと思います。どうかご容赦の上ご教授ください。

さて、これまでに発見されている古代から近世の史料には、賽の河原の成立過程を書いたものは発見されていません。しかし民俗学、歴史学等の研究によって多くのことがわかっています。たとえば、先の和讃は空也(くうや)の作ではないというのはもはや常識です。真鍋氏は元禄9(1696)年〜寛保2(1742)年に創作されたと主張し、森山氏は真鍋説よりもう少し古いと主張しておられます。空也は民間浄土教の祖とされ、生前から市聖(いちのひじり)、阿弥陀聖といわれて庶民に慕われた高僧です。このような人物の作とすることで、和讃の価値や効果を高めようとしたのだと言われています。
後述するように、賽の河原は日本生まれ民間に伝承された思想であるため漢字がありません。そこで西院河原、西の河原、佐比河原、塞河原など様々な字があてられ、それらしい言い伝えと共に伝わっています。

賽の河原の起源は、村境、峠、四つ辻などの“境界”に道祖神[塞(さえ)の神]を祀って柴を折ったり石を置いて(積んで)、流行り病など災いの侵入を塞(さえ)ぎろうとした道祖神信仰にあるといわれています。道祖神信仰は仏教が日本に伝来する以前から日本にあった民間信仰です。これに地蔵信仰、仏教が習合して完成しました。このように賽の河原の原型は古代からあったのですが、“さいのかわら”が初めて文字にあわられるのは室町時代の御伽(おとぎ)草子『富士の人穴草子』です。富士の人穴を探検して様々な地獄に出会った武将が、帰ってからこれを人に話したところ死んでしまうという話です。
また、絵画(地獄絵図)に描かれるのも室町時代が初出です。
冒頭の“幼くして”とは何歳くらいまでをいうのでしょう。上述の『富士の人穴草子』でも、筆で書き写した本(江戸初期)には7〜8歳とあり、版画刷りした本(江戸初期)では12〜13歳となっています。また、西院河原地蔵和讃には“十にも足らぬみどり子(嬰児)が”と表現されています。“十より下の”とされているものもあります。いずれにしても十歳であることにかわりありません。
室町時代の末期、駿河国(静岡)では15歳以上の者の処罰が規定されていました。その30年後の甲斐国(山梨)では、13歳以後の者が殺人を犯した場合は罪を免れないとされていたそうです。江戸時代に幕府は、10歳までを幼少として罪を問わないとしていました。こうした少年法の精神に基礎を置いて西院河原地蔵和讃は創作された、と真鍋氏は書いています。また、“みどり子”という言葉には、石を積み続けるような苦役を苦と思わないような幼さが表現されていると思います。
まったく関係ありませんが、心理学的に9歳は重要な意味をもっています。“9歳の壁”といいます。9〜12歳は具体的思考から抽象的思考に移行する時期です。“たとえ話”で物事を理解できるようになるわけです。また、9〜15歳の間に文化を獲得します。その国の人になるということです。9歳以上の年齢になると生意気な口を利くようになったり、イジメや自殺が起きたりします。また、海外への適応も幼い頃よりも困難になります。

法華経の方便品に次のようなことが書かれています。仏のために塔や像や廟などを建立した人は、もはや誰もが仏道を成就した(悟りを得た)ことになります。それが子どもであっても同じです。たとえば、子どもが石を砂を集めて仏塔を造ったなら、それが遊びであっても、もはやこの子は仏道を成就したことになります。この「乃至童子戯 聚沙為佛塔 如是諸人等 皆已成佛道」という一節が賽の河原の根拠だという説があります。法華経が賽の河原の成立と発展に与えた影響は重大ですが、江戸時代に出されたこの説は否定されています。法華経で石を積むのは生きている子どもであって、亡くなった子どもではありません。また、この一節は石を積むことの根拠にはなるかもしれないが、賽の河原が創造された根拠にはならないともいわれています。こうした批判も踏まえて、賽の河原は仏教経典に基づいた信仰ではなく(経典には書かれていない)、中世後期(室町時代)に日本で創造された地獄だとする説が定着しています。
“七歳までは神のうち”という言葉があります。この年齢までは人間よりも神に近い存在であって、死んでも生まれ変わるという思想です。ですから子どもが亡くなっても、その葬儀は大人よりも簡略に、しかも大人とは異なる場所に埋葬されました。それが室町時代になって葬送儀礼(葬儀、先祖供養)を介して仏教が庶民生活に浸透してくると、墓の形態が変化したり、子どもの位牌を作るようになるなどの変化がみられるようになります。また、子どもの肖像画が描かれたり、子どもへの刑罰が定められたりしました。子どもへの関心の高まりがみられるのです。こうしたことを背景にして、日本で初めて“子どもを対象にした”“子どもの堕(お)ちる”地獄として賽の河原が創造されたのです。
中世後期から近世にかけて、女性は血のケガレがあるので血の池地獄に堕ちる、という思想が各地にひろまります。出産時に死亡した女性もこの地獄に堕ちるとされました。これは仏教の女性差別思想が根本にあります。女性の血はケガレているという考え方は、古代の、少なくとも仏教伝来以前の日本人にはなかった観念のようです。
また、子どもを産めなかった/産まなかった女性は石女(うまずめ。不産女)地獄に堕ちます。そこで女性たちは、屈辱的で、しかも無意味で不可能な作業を永遠にさせられます。
人々(特に女性)は救われたい、成仏したい、タタリが怖いという心意から、護符(ごふ)を買って身につけたり、観音や地蔵に祈ったりしたのです。

中世後期に日本で誕生した地獄(賽の河原、血の池、石女など)は、実は、非常に現実的な理由から作為的に作られたものだったのかもしれません。血の池地獄がこの時代に普及した背景について、高達氏がおもしろいことを書いています。要旨を書きます。
中世後期、荘園経済が衰退して金持ちからお金を集めることが困難になってきた。そこで庶民からもお金を集めるため、庶民にもわかりやすい地獄を創り出し、絵画に描き、唱導によって広めていったことも想定される。唱導にしても、和讃にしても、「おとしめて、おとしめて、救う」ものだった。
血の池と賽の河原はセットで考えていくべき地獄ですから、血の池だけでなく賽の河原も、このような理由があって創造されたのかもしれません。
天下が統一されて戦乱が治まった江戸時代、幕府は封建体制の立て直しをはかるため士農工商の身分制度を導入します。子どもが家(家督、家業、家財、先祖供養等)を継ぐ仕組みも確立します。家を代々維持継承していくためには跡継ぎが重要です。よって、これまで以上に子どもは重くみられるようになり、女性は子ども(特に男の子)を産み育てることが必要にして十分な役割だとされます。幼いときには親に従い、嫁したら夫に従い、子を産み育て、老いたら子に従いなさいということです。こうして女性の心性、権利と地位は中世よりもさらに抑圧されたものになります。身分制度と男尊女卑をはじめ、疫病、貧困、時に訪れる飢餓といった苦しみを救ってくれるのがお地蔵様だ、と人々はみなしていました。
そんな庶民の味方であるお地蔵様を政治が利用します。江戸幕府は人心を掌握し、体制を維持していくために寺院に着目します。僧侶を通して、勤勉や(忠孝の)孝を守る(=親孝行)ことを庶民に徹底し、ひいては、謀反や異教信仰を阻止しました。幕府は檀家(だんか)という仕組みをつくって、寺院を通した間接的な民衆支配を行ったのです。
西院河原地蔵和讃が創作されたのは、こんな時代でした。室町時代の賽の河原(の絵画や物語)には鬼は必須ではありませんでしたが、西院河原地蔵和讃では必ず出てくる必須アイテムになります。和讃の描く世界が恐ろしければ恐ろしいほど、悲しければ悲しいほど、庶民はお地蔵様と寺院への信仰を篤くしました。ひいてはそれが国の体制の安定に寄与することになります。抽象的にいうと、賽の河原は舞台であり、西院河原地蔵和讃は舞台で演じられる演目であったと思うのです。
新潟県長岡市(旧・栃尾市)では一時途絶えていた河原での石積みが復活しています。このような行事は江戸時代に庶民の間にお盆(盂蘭盆会)が普及した結果、先祖を供養する目的で行われるようになったものです。「地蔵信仰と盂蘭盆に付随し、地蔵経から生まれた祖先供養の行事のひとつであった」(石田)ということです。

賽の河原にお地蔵様(地蔵菩薩)がいるのはなぜなのでしょう。
今でもお地蔵様は子どもの守り神だといわれます。また、道祖神も子どもを管轄(管理)する神だといわれていて、地蔵菩薩は道祖神を継承したとか、道祖神の“本地”であるといわれます。これは江戸時代に出てきた説です。一方、平安時代の十王信仰では地蔵は閻魔(えんま)と同体だとか、閻魔の“本地”であるといわれます。閻魔様は地獄の支配者です。手に持った鏡で、亡者が生前に行ったすべての所業を映して裁断をくだす神です。お地蔵様はこれら地獄に堕ちた亡者を救うばかりか、来世往生(成仏)と現世利益をもたらしてくれる仏だとみなされていました。
なお、現世利益とは病気退散と回復、無病息災などこの世での利益を望むことです。
観世音菩薩、弥勒菩薩など、菩薩にも何人かいますが、“菩薩”とは仏(如来)になろうと修行中の存在です。地蔵菩薩は仏となって来世(浄土)に常住せず、来世と現世を行ったり来たりしながら、地獄や人間界などあらゆる世界(六道)にいる人々の迷いや苦しみを救おうと誓いをたてます。来世と現世の境で苦を受けている子どもを救うには、ちょうどよいのかもしれません。外見は人に近い、修行僧の格好をしていて親しみやすい存在ですが、地蔵菩薩の功徳はほかの菩薩よりも優れているとされていました。
賽の河原に出てくる鬼は仏塔を壊すわけですが、それは子どもの仏道成就を邪魔することになります。いえ、それ以上に、法華経の精神を邪魔する「悪」だといえます。地蔵菩薩はそんな悪鬼ですら殺したり、打ちのめしたりしません。それだけ地蔵菩薩の“大きさ”が強調され、人々の信頼を集めたのでしょう。このようなことから地蔵菩薩は、賽の河原の救済者として最適な存在であったのです。
以上の地蔵菩薩の利益についての説明は、地蔵経典をはじめ縁起・説話などに書かれていることです。
地蔵信仰はインドで誕生し、中国を経由して、日本には奈良時代に地蔵経典が伝えられました。お地蔵様は伝来時から庶民の仏というわけではなく、はじめは僧へ、平安時代に貴族に信仰されました。その後に武士や庶民に伝わり、室町時代に入ると賽の河原が創造されるなどして庶民に定着します。近世の地蔵信仰は身代わり地蔵、子安地蔵などの信仰法に発展します。こうした石仏が盛んに建立され信仰されました。このように地蔵信仰の視点からみた賽の河原は、地蔵が民衆社会に定着し発展していく中での一過程である、と捉えられているようです。

残念ながら、私は、賽の河原の数を全国集計した文献を見たことがありません。本やネットで賽の河原を探したところ、北は国後島から南は九州まで100か所以上を見つけることができました。沖縄は不明です。私が見つけることができなかったり、撤去されていたり、地元の老人が知るのみでまったく語られていない場所などもあるでしょう。ですから昔はこの数倍はあったのではないでしょうか。
ではどんな場所にあるのでしょうか。具体的には山(信仰の山、火山、温泉湧出地)、水辺(海岸、岬、川岸、沼や湖の淵)、洞穴、墓地、寺院、神社のうち、ひとつ以上の要件に合致する場所にあるようです。
上に書いたように、賽の河原の起源は道祖神にあって、峠、四つ辻などに建てられたといいます。しかしネットや本に書かれた賽の河原を一覧にしてみると、峠や四つ辻とされる場所にはほとんどありません。消滅や移動を考慮に入れても、少なすぎるのではないかと思います。この点はもっとよく検討する必要があるのではないでしょうか。
賽の河原というと元箱根が有名です。ここ(現在地)に移転される前は精進池のほとりにあって、鎌倉時代に地蔵霊場とされた場所でした。「かつて箱根は地獄だった」といわれますが、噴煙、溶岩、熱湯といった風景を往時の人々は地獄とみたのです。実際に、箱根には大地獄(大涌谷)、小地獄(小涌谷)などといわれる場所がありました。
地獄を思わせるような場所、海岸沿いや山中で修験者は自然と一体になりながら修行し、悟りを得ようとしました。そして、修験者は各地で地蔵信仰をひろめつつ、人々を救済します。来世往生と現世利益の要求に応えていったわけです。室町後期から江戸初・中期にかけて、修験者たちは賽の河原を造営したり、または、名づけていきました。
このように、賽の河原の所在する場所には法則があります。何の脈絡もなくそこに存在しているわけではなく、周辺地域の信仰状況を反映しているということができます。近くに地獄絵図が伝えられていたり、地蔵や浄土といった名のついた山・川・地名があったり、修験(天台・真言)の寺院があったり、弘法大師や役小角(えんのおづぬ)の伝説が残っていたりします。(弘法大師空海は言宗の祖であり、役小角(または役行者)は修験道の祖とされています。)なお、周辺地域という場合、町内とか郡市町村といった範囲ではなく、もっと広い地域で理解したほうがよいようです。(北信州、下北、房総といった感じ)

近年、寺院境内に水子供養を目的とする賽の河原が造営されています。水子の考え方は中世にもあったようですが、これを供養しようとする考え方が出てきたのは近世(おそらく江戸初期)に入ってからです。しかも、本格的になったのは、昭和40年代以降のことです。
西院河原地蔵和讃では、追善供養を怠って親が嘆いてばかりいるから子どもは苦を受けるのだ、とうたわれます。また、賽の河原に現れたお地蔵様は、泣き叫ぶ子どもを衣で隠して守ってくれますが、鬼を追っ払ったりやっつけて、子どもが石を積みやすいようにはしてくれません。これについて盛永氏は、これこそが賽の河原のお地蔵様の慈悲なのだとして、次のような説明をしています。子どもにふりかかった苦難を親や大人が取り除いてやるのではなく、苦難に立ち向かえる勇気と忍耐力を持つ子どもに育て(教育し)なさい。自分にも子どもにも苦労をさせない(=鬼を追い払う)ようにする人が多いけれども、それが幸せではありませんよ。
現代社会には“極楽”はあっても“地獄”がありません。ないというよりも否定する社会といったらいいかもしれません。地獄とは恐れを知り、自らの限界に気づく場所だと私は思います。イケイケドンドンの世の中で、恐れや身のほどを知って退くことをしないので、脱落者が出たり、精神的な疾患を呈す人が出てくるのです。ですから、“地獄”が持つ意味は現代でも失われていないと思いますし、子育てにおいて賽の河原が担っている役割も失われてはいないと思います。

[追記] 新潟県と長野県の県境の山間に、平家の落人伝説が伝わる秋山郷という地域があります。そこでは“賽の河原”というコトバが一般名詞として使われています。大雨で斜面が崩れ荒れた場所を指して、「まるで賽の河原みたいになった」というそうです。役にたたない場所という意味です。いうまでもなく石を積んだり信仰の対象ではありません。高齢の人が使う言葉のようです。利用できる土地が限られていることから生まれた、言葉の使い方なのかもしれません。
奥尻島賽の河原 / 北海道奥尻郡奥尻町稲穂
海難犠牲者、幼少死亡者などの慰霊の地。
奥尻島賽の河原は奥尻島の北端、稲穂地区の荒涼とした海岸沿いにある。
この賽の河原は15世紀に霊場となり、明治20年8月には地蔵尊が祀られた。約6ヘクタールにおよぶ敷地に石積みが並び、海難水死者の家族や奥尻島出身者が帰島するとお参りに来たという。
この平和な慰霊の地は、1993年7月12日に発生した北海道南西沖地震によって壊滅的な被害を受けた。震度6の烈震に加え、標高4〜7mの稲穂地区に最大高さ9.1mの津波が押し寄せた。このため地区内すべての住宅・小学校は全半壊を含む何らかの被害を受け、死者・行方不明者は16名を数えた。
賽の河原もこの地震によってすべてが破壊された。石積みはもちろん、地蔵も流されてしまった。一部の地藏はその後に発見され、地蔵堂に安置された。その地蔵堂は半壊した。3軒の売店も使用不能になった。
この地震の後、この一帯は公園として整備され、地蔵堂も再建された。併せて、地震によって亡くなられた稲穂地区住民の慰霊碑が建立された。
地震後、賽の河原を訪れる人は減ってしまったという。それでも、参拝者によって積み上げた石の塔は、今日も海の安全と亡き幼な子の鎮魂のため、海を見ながらひっそりと立っている。
毎年6月22日、23日に盛大な例祭が営まれている。地元3集落が一年交代で準備運営している。地震以後には、海難犠牲者慰霊、水難溺死者慰霊、幼少死亡者慰霊のほかに北海道南西沖地震被害者慰霊という目的を追加して、地震後も毎年滞ることなく続いている。迎え火、送り火、読経や灯篭流しなどの宗教行事のほか、芸能発表やソフトボール大会などの娯楽行事も盛大に行われている。
最後に、『旅と伝説』に出ていたことをまとめておく。
奥尻島開発当初この周辺は難破船の残骸が累積しており、その中に地蔵堂があった。幕末の嘉永4(1851)年に初めて供養が行なわれた。その後、明治20(1887)年に大施餓鬼が行なわれたが、このさい亡霊がたくさん集まってきて、祭壇が弓なりに曲がった。この年以降、毎年のように供養をするようになった。
「賽の河原」/ 約六ヘクタールに及ぶ石積一帯が海難犠牲者、水難溺死者あるいは幼少死亡者慰霊の地となっている。この霊場は、約五〇〇年前、松前藩の始祖武田信広が一族を率いて渡道の途中海上風波に遭遇して本島に避難した折、偶然賽の河原の所在を知って懇ろに法要されたと云う。明治二十年八月、島人が堂宇を建立して地蔵尊像を祀って以来、例年六月二十二、二十三日に盛大な法要が営まれている。 
積丹半島西の河原 / 北海道古宇郡神恵内村珊内
積丹半島の西側、ジュウボウ岬の付け根にあたる位置に西の河原がある。神秘的なところといわれており、また、霊地とされているが、交通不便な地にあるため訪れる人は少ない。地元の人々によって信仰され、守られている。
また、ここは1952年に後志十景のひとつに指定されている。現在はそのような広報はされていないようだが、夕日が沈む景色はさぞや綺麗なことだろう。
西の河原トンネルと大天狗トンネルに挟まれた国道沿いに、トイレを有する駐車場がある。ここに車を置き、設置されている看板を見たあと、歩き始める。国道の下をくぐり、海沿いの山の斜面に切り開らかれた遊歩道を20〜25分進む。
平成8年10月まではここを訪れるには船しか方法がなかった。積丹半島を周回する国道が完成し、駐車場から西の河原まで続く遊歩道が整備されて、ようやく手軽に行くことができるようになった。とはいえ、藪の中の遊歩道なので、草刈が怠られるととても歩ける道ではない。私は途中から海岸に降りて、波しぶきのかかる岩を乗り越えながら進んだ。履きなれた運動靴を履き、熊よけの鈴を鳴らし、両手が使えるようにリュックを背負って行ったのが幸いだった。こういう場所は何が起こるかわからないので、万全の支度が必要だ。
積丹半島は船の難所であり、多くの人が遭難した。犠牲者の霊を慰めるために地蔵が祀られるようになり、地蔵堂の前には浜の石が積み重ねられている。近くには地獄穴、極楽穴、血の池と呼ばれるところもあり、悪いことをした人はその沖に落ちるといわれている。
以下、参考文献に記されていることを書いておく。
神恵内村にはすべての町内に地蔵が祀られている。西の河原の地蔵は木の根を人型に彫ったものだが、亡児の救済、海難者供養、家内安全、海上安全、大漁祈願など幅広く利益があるとされている。特に、海難犠牲者供養の色彩が強い。地蔵堂には石の地蔵も30体ほどある。
江戸時代末期、安政3(1856)年松浦武四郎の日誌に「和人西院川原という。舟を寄るに小石を積置けり。(中略)余は丙午[弘化三年]の年ここに一宿せし時、水夫の話とて、此石を昼崩して置時は、夜の間に前日の如く積あると語るに、余試し事あれども、人の信をさます事故記さず。」(一部現代語に修正。弘化三年は1846年))とあり、この時代にはこの場所で石積みが行われていたことがわかっている。
昭和30年代までは1月、6月の年2回月舟寺と西の河原を会場に地蔵講が行われていたという。その後は6月23〜24日のみ執り行われた。昭和61(1986)年〜平成10(1998)年まで6月に西の河原極楽まつりを同時開催していたが、13回目で終了している。(その後の地蔵講の開催状況はわからない。)
ここの地蔵の言い伝えには次のようなものがある。難船で妻子を亡くした男性が妻と子どもを木に彫って祀ったことに始まる。浜に漂着した流木をニシン粕(魚肥)を作るための薪にしたが燃えず、海に流しても浜に打ち上げられるので地蔵にした。
「霊場西の河原」/ 現在地から徒歩で約30分の位置にある。西の河原とは、アイヌ語でカムイミンタラといい「神の遊びし処」という意味で、沖を通る船主たちは北海道三大難所(茂津多岬、雄冬岬、神威岬)のひとつに数えられ、「地獄の賽の河原」と呼ばれていた。また、河原一帯に積み石が多く点在しており、さらには、近くに地獄洞、極楽洞、血の池などがある為に異様な雰囲気が感じられ、そう呼ばれて来たものでしょう。松浦武四郎が安政三年(1856年)に蝦夷地調査をまとめた「蝦夷日誌」の中にも、「西院の河原と和人が呼ぶ地有り」と記述されている。ここには、地蔵堂があり船で遭難した人々の霊を供養するための地蔵様が祭られている。昔から、その地蔵様や前浜にある積み石には様々な伝説があり、神秘さを増している。 
恵山賽の河原 / 北海道函館市柏野町
霊峰恵山は函館市(旧・恵山町)のシンボル。駐車場から賽の河原までは遊歩道がのびており、ところどころの地蔵を眺めながらそぞろ歩く。点在する地蔵には一つひとつ番号がふられている。そのほか、個人が寄進したと思われる名入りの観音様が建っている。
「海上安全の碑」/ 高田屋嘉兵衛はカラフトと幌内への航海の途中、恵山岬水無において避難難破し、後に函館に帰り文化6年(1809年)1月この地に碑を建立して海上の安全を祈願した。昭和11年(1936年)3月21日大暴風のために仏体が転倒して二つに折れてしまったので、仏体と基礎を修復した。 
恐山賽の河原 / 青森県むつ市田名部字宇曾利山
恐山(宇曾利山)は西暦862年に慈覚(じかく)大師円仁が開闢し、恐居山金剛念寺と称した。この頃は天台密教の寺であった。蛎崎(かきざき)の乱で寺は破壊(1457年)されて衰退したが、1530年に聚覚(じゅかく)によって再興された。曹洞宗に改宗され、釜臥山菩提寺と称して円通寺(むつ市)が別当をつとめた。なお、聚覚は円通寺の開山(開祖)である。
賽の河原がいつから在ったのかはわかっていない。次の2点の資料にその存在を確認できる。1点目は『恐山本坊円通寺誌』である。寛政5年(1793年)8月付けの覚に“西院ノ河原 石仏ノ地蔵尊”との記述がある。2点目は菅江真澄の日記である。寛政5年6月23日付けの文中に“さいの河原”との記述がある。菅江のほうが円通寺誌よりも数十日古い記述である。これら2点よりも古い記述は見つかっていない。
賽の河原の石造阿弥陀如来坐像の台座に、安政4年(1857)の日付とともに、出産時に死亡した女性(享年25)の供養のための血盆経が刻まれている。
恐山の広大な敷地には4つの温泉(かつては5ヵ所)、地蔵堂、イタコが口寄せを施行する建物などが点在している。敷地内は火山岩が山積みになっており、亜硫酸ガスがブクブク、ジュワーという音をたてながら湧出し臭気を放っている。このような場所は賭博地獄、血の池地獄などと名づけられ、108の地獄(かつては136地獄)とされた。そして宇曾利湖の湖畔に賽の河原がある。
恐山はもともと豊作・大漁、航行安全など現世利益を祈願する民間信仰の地であった。18世紀以降、仏教経典に基づく地蔵信仰が習合し、徐々に死者&先祖を供養する信仰が加わった。しかし江戸時代はまだ現世利益を祈願する地としての機能のほうが大きかった。(蝦夷地と交易する海商が恐山を信仰した。多くの寄進物が残されている。)死者の魂はお山に登るという山中他界観は江戸時代にもあった。夏の大祭では恐山に登拝し供養が行われた。このような観念は地域の女性たちによる“地蔵講”によって支えられてきた。
現在のようなイメージが固着するのは太平洋戦争後のことである。戦争で家族を亡くした人々が恐山登拝して死者を供養し、イタコの口寄せによって癒されたのである。その後テレビが普及して恐山とイタコの存在が映像によって知らされたことで参拝者が増加し、かのイメージが強固なものとなっていったのである。
恐山というとイタコの口寄せが有名だ。私が訪れたときにも、平日であったにもかかわらず、口寄せを行っている姿をみることができた。大祭の日にはさぞや賑うことだろう。とはいえ、大勢のイタコが集まるようになったのは戦後のことであり、戦前にはわずか2〜3名が施行するにすぎなかったのだという。
恐山には言い伝えが多い。特に人が亡くなる前後に恐山で姿を見かけたという話が多い。下北地方では人が亡くなると恐山に上っていくとか、恐山は死者の霊の集まるところといわれたことに由来している。
ほかに、大祭には地獄の釜が開くのでじいさん、ばあさん、子供の霊が賽の河原にやってきて遊ぶ。夜中にこの地を訪れると子供たちの泣き声や笑い声が聞こえるという言い伝えもある。
『地獄の責苦を代わりに受けて、生死に迷う人間を助け、清浄世界の天人を度す』/ この地蔵菩薩の請願がある限り、深山の硫黄が咽ぶ地獄谷も絶対安楽の大地であり、「地蔵と共におわす故に浄土なり」と、無言の説法が巡らされているのである。
今は亡き肉親の菩提をとむらうため 故人の霊としみじみと語り合いたいため 自分の信仰心をより一層深めたいため
一千年の永きに亘り、「人が死ねばお山(恐山)に行く」という素朴な庶民心情の下、さまざまな祈りの姿が繰り広げられているのである。 
今泉賽の河原 / 青森県北津軽郡中泊町今泉
シジミ貝で有名な十三湖を望む高台に、湖を望むように今泉賽の河原がある。本堂をはさんで、(屋外に)大きな地蔵が2体、小さな地蔵が33体並んでいる。すべての地蔵がかわいらしい帽子と服を着せてもらっている。
この賽の河原は、「日本最古のイタコ発祥地」「川倉賽の河原(川倉地蔵尊)発祥地」と言い伝えられている。
今泉賽の河原では、祖先供養と仏供養を目的とする例大祭が毎年6月23日に盛大に開催されている。イタコの口寄せ、歌謡ショーやカラオケ大会のほか、小学生による鼓笛隊の演奏などもあり多くの来場者で大変に賑わう。この日以外はお参りする人は少なく、ひっそりとしている。(近所の人の話)
この賽の河原は南北朝時代の大津波や室町時代の戦乱で亡くなった人を供養したのが始まりであり、明治初期に木造の地蔵尊が出土したことからこの地に復活したのだという。 
川倉賽の河原 / 青森県五所川原市金木町川倉七夕野
川倉賽の河原地蔵尊には、未婚の男女の霊が結婚適齢期に達すると神様が夫婦として結びつけてくれるという伝説がある。これを死霊結婚もしくは冥婚という。ここには大小約2000体の地蔵が祀られている。本堂事務所に売店があり、1万〜1万5000円程度の花嫁人形や夫婦人形が売られている。参拝者がそれを購入し、子どもの名前と配偶者の空想上の名前を記して人形堂にお供えするのだという。管理事務所の人は、「売れてますよ」と言っていた。津軽地方はもちろん阪神地方から訪れる人もあるという。
なお、松崎の調査と考察によれば、津軽地方から広がったこの習俗の歴史は1950年以前には遡れない、とのことである。
この地蔵尊の宗派は天台宗。東北総本山は平泉中尊寺。川倉の地蔵尊は津軽地方の地蔵信仰の中心といわれている。
2007年8月の例大祭に行ってきた。老若男女でたいそう賑わっていた。野外ステージでは民謡等の出し物が演じられ、境内には食べ物やおもちゃの店が出ていた。お堂内外の石地蔵には新しい服が着せられ、化粧直しされ綺麗な顔をしていた。売店で草履が売られていたので聞いてみると、死後百か日までは草履をお供えし、それ以降は普通の靴でよいとのこと。地蔵尊堂にはたくさんの草履が供えられていた。そのほか、参詣者は手ぬぐい、かざぐるま、菓子、衣類などを供える。地蔵尊堂の中にはお坊さんが数人いて、供養の受け付けをしている。地蔵尊堂裏手はイタコマチだ。テントの下に床板が張られ、4つに仕切られている。そこで4人の女性が女性たちの相談に応じている。女性たちのまわりには、それぞれ十人くらいの男女が座り、女性の話を聞いていた。
『東北民俗資料集』(1979)によれば、この賽の河原は文政年代(1818〜1830)から川倉賽川原講中が管理していた。戸主が講員となり世襲性で、行事の準備や運営を行った。6月の祭礼、春秋の彼岸にはイタコの口寄せ(ホトケおろし)が行われる。立川(1993)によれば、少なくとも鎌倉時代以前からイタコがこの場所で口寄せを行っていた。
1965年には60人のイタコが地蔵祭に集まった。その後イタコは減少し、1985年頃からは岩木山で修行したカミサマ(カミサン)が縁日に集まるようになった。イタコはホトケそのものに語らせる「口寄せ」を行うのに対し、カミサマは神霊を憑依させて託宣するという区別があるというが、縁日に集まるカミサマは口寄せ的なことをするのだという。
現在は境内から下る坂道を賽の河原としているが、以前は別の場所だった。坂道を下りきったところに藤枝溜池(芦野湖)がある。この池にかかる芦野大橋の下の川を賽の神川といい、この河原を賽の河原と言っていた。江戸時代以前この橋は金木村と川倉村の村境だった、と地元民から教えてもらった。
本に出ていた言い伝えを書いておく。
暗くなってから水辺を通ると闇の中で子どもの声が聞こえたり、雨上がりの朝に水際に小さな足跡がついていることもある。
亡くなった子供の着物等を地蔵堂に安置し、毎年着物を取り替える。身内で病気が出た時には、その着物を借りてきて病人に着せると早く治る。地蔵にお参りすると病気が治る。布で地蔵をなでて、その布で自分の悪いところをさすると病気が治る。病気が重いときは地蔵を家に連れて行き、地蔵と病人をかわるがわるなでて祈る。赤ちゃんが熱を出地蔵したら、地蔵を抱かせると熱が下がる。
この地方で人が亡くなると賽の河原に魂が行く。
(昔の言い伝え)賽の河原で積まれている石は亡くなった子供が積むが、例大祭の23日だけは鬼が出てこない。その日は子供だけでなくその親も一緒に石を積む。
賽の河原では亡くなった子供がたくさんさまよっていて、そこに穴を掘るとその中から子供たちの笑い声や泣き声が聞こえる。雨の日などには子供たちの声がガヤガヤと聞こえてくる。
昭和31年8月20日、泉谷惣太郎という人が仕事中にナタがそれて左ひざにあたった。ところが刃跡はあるが切れてはいない。それから地蔵尊にお参りにいったところ、地蔵の左ひざのところが切れていた。賽の河原身代わり延命地蔵尊に実際にあった話として伝わっている。
興味深い言い伝えを書いて終わりにしたい。
「また、以前は三年に一度は飢饉があり、その時に子どもを捨てた山、子捨て山が、賽川原となっている。賽川原には蟹がいるが、川倉では赤ン坊のことをカニといい、賽川原に行けばカニがいるということがいわれている」(『資料集』)
「賽の河原にはガニ(蛙)がいて、雨の降りそうな日の晩になると赤子の鳴き声がする」(『地蔵の世界』)
「川倉賽野川原地蔵尊」/ ここ川倉の賽野川原は慈覚大師の開創と伝えられる点は下北の恐山と同様であるが、天空からお燈明が降り、掘ると一体の地蔵尊が出土、これを安置したのがその始まりともいう。文化、安政の頃から参詣人が増えたということから、およそ170年も前から民間信仰のメッカとして支えられ、例大祭(旧暦の6月22日より24日まで)には多くの参拝者で賑わう。特に鎌倉時代以前からいたとされる巫女(イタコ)の口寄せ(霊媒)も行われる場所となっている。 
岩崎賽の河原 / 青森県西津軽郡深浦町森山
青森県深浦町(旧・岩崎村)の海岸に突き出た岬に賽の河原がある。数年前に某ドラマの撮影にも使われた。
賽の河原は、伝説が語り継がれている神秘の洞窟“ガンガラ穴”の上にあり、昔から霊地とされてきたところである。地元民によると、明治以前からこの地にあるのだという。
「賽の河原に積んだ石を投げると海が荒れる」「8月7日の夜は訪れてはいけない」という言い伝えがある。
毎年8月23、24の両日大祭が行われ、供養される。参拝者によって1年間に供えられた物を、この大祭で整理するのだという。確かに、お供え物を何年もそのままにしておくわけにもいかないので、大祭をきっかけに整理するというのは合理的なことだ。
お祭りということでイタコの口寄せ、出店、長寿万年粥のサービス、歌謡ショーなどが行われて賑わう。しかし、それ以外は訪れる人は少ないのだという。
文献に記載されている言い伝えを書いておく。
賽の河原は主に子供を亡くした母親が積む。子供だけでなく、花が咲かなかった人も亡くなったら賽の河原に行く。積まれた石が崩れても次の日には元通りになっている。母親が石を積み重ねているときに石を崩したり海に落としたりすると、海が荒れたり台風が来たりする。朝早くに行くと、小石に血がついているものがある。子供の手の皮がむけて血が出るためである。ガンガラ穴の天井から落ちる水は、賽の河原の子供たちが泣いている涙である。
「延命地蔵 賽の河原の由来」/ 今より千百年余りの昔の事このガンガラ穴には海賊が住み、民家の人たちは近寄る事ができませんでした。そこで下北の恐山や金木の川倉地蔵の地に錫杖をついた慈覚大師がこの森山賽の河原にも錫杖をつきました。神の教え、仏の教え又弘法大師様の教えにより、賽の河原の地として開く事になりました。延命地蔵とは鬼に責められ泣く子供達を袖の下に隠してくれる地蔵様です。子供を無くしている親にはとくに縁の深い仏様と言われております。 
浄土ヶ浜賽の河原 / 岩手県宮古市鍬ケ崎
岩手県宮古市の“浄土ヶ浜”は、天和年間(忠臣蔵の20年ほど前)、宮古常安寺七世霊鏡竜湖和尚が名づけたといわれる名勝であり、陸中海岸国立公園の中心である。
浄土ヶ浜には西から東に向って細い樹枝状の細長い半島がある。竜湖はこの小さな半島の外海を地獄、内湾を極楽に見立てたという。半島の突端を“血の池”と称し、内湾に少し入った海岸沿いの小さな浜を“賽の河原”と称している。ここから登ったところに、竜湖が安置したと伝えられる賽の河原子安地蔵が祀られている。
賽の河原と子安地蔵に歩いて行くことはできない。観光船も近づかない。貸しボートを借りて、自ら漕いでいくしかない。さすがの私もそこまでして現地に行かなかったので、石積みの有無等についての様子は不明である。
現地の人の説明では、(上述のように)海岸沿いの小さな浜を賽の河原と称しているという。一方、古い地図では半島の中央部が賽の河原とされており、そこに子安地蔵が祀られている。地獄と極楽(外湾と内湾)の境に位置しているということになるだろう。現在の場所を賽の河原と称するようになったのは、いったいいつ頃のことなのであろうか?
祀られている子安地蔵(坐像)は胸に子供を抱いており、目が大きい。また、兄弟地蔵が三体?あり、それぞれ別の寺院等に安置されている。これらはすべて竜湖の作と伝えられている。 
五葉山賽の河原 / 岩手県大船渡市日頃市町
五葉山(ごようざん。1341.3m)は岩手県の海沿い、釜石市、大船渡市、住田町にまたがる。動植物が豊富。鹿は集団生息の北限とされているほか、クマも住む。むかしは仙台藩に材木を供給する御用の山であった。良質なヒノキ皮は火縄銃の着火に用いられた。
また五葉山は、古来より信仰の山とされてきた。天台密教、熊野信仰など神仏混淆であり、山伏の修験道場であった。3市町には山をまつる神社が多い。明治初めまで五葉山は女人禁制であった。
標高712mの赤坂峠(大船渡市)に車を置き、登ること25分。3合目(930m)“賽の河原”に着く。これまでの植物がうそのように、ここだけが土と岩の世界である。南北90m、東西120mに及ぶというから、東京ドームより若干小さい程度の広さだ。この場所だけが植生がなく山肌がむき出しであることや、北西の偏西風の通り道であることなどから、あの世とこの世の境を連想し賽の河原と名づけられたのであろうか。にもかかわらず賽の河原には、地蔵はもちろん、ほかのどのような信仰の対象も祀られていない。 
金華山賽の河原 / 宮城県石巻市鮎川浜(金華山)
宮城県牡鹿半島(旧・牡鹿町)の沖1Kmに浮かぶ霊島金華山。現在の島には人よりも野生の鹿や猿が多く住んでいる。
西方ではなく東方に浄土をみていた古代の日本人は、金華山をまさに黄金のあふれる東方浄土とみなしていた。古代末期から中世にかけては、真言系修験者がこの島を黄金出土地と宣伝していたという。
島の東岸の断崖絶壁に賽の河原がある。
この賽の河原に行くには石巻市街から自動車で50分、定期船で25分、金華山山頂経由で徒歩2時間25分(帰りは3時間)を要する。休憩時間は含まない。基本的に島内は徒歩以外に交通手段はない。
黄金山神社社務所から水神社経由で山頂(海抜444.9m)までは一本道なので道に迷うことはない。一方、山頂から東側は道に迷いやすいという。帰ってこない登山客があると、夜、社務所職員が探しに出ることもあるとのこと。実際、2005年5月に私が訪れたとき、大函崎に至る最後の約1kmは道がほとんどない状態であった。行きは問題なかったが、帰りは道に迷ってしまった。これで精神的にかなり疲労した。甘く見ずに、事前準備を周到にしていく必要がある。なお案内図によると、ハイキングコースは大函崎で行き止まりである。小函崎&賽の河原には行ってはいけないことになっている。
大函崎から鹿の糞が敷きつめられた草地を下ると賽の河原がある。様々な大きさの花崗岩の塊が積み重なっている。長さは150m。鎮魂を目的として積み上げられたと思われるような“石積み”はない。
この場所に2体の仏体をみることができる。
1体は高さ350mmで東南方向を向いて立っている。その下に両親による鎮魂の文が埋め込まれている。もう1体の詳細は不明である。台座から折れており、地蔵菩薩を彫った石は海が見えるように北東向きに横に寝かせられていた。
文献に記されていることを書いておく。
嘉永年間、藤原広泰の『金華山紀行』に「大箱、小箱先を越えると賽の河原があり・・・」と記されている。藤原秀衡が島に48坊を建立し、すべてが天台系だといわれている。この島での修行の一環として賽の河原にも修験者がお参りにいく。明治初めまで、女性は神社の鳥居までしか行くことができない女人禁制の島であった。島に上陸する時と帰島する時に必ず草履を履き替える風習があった。
子供を亡くした親が行くと子供の声が聞こえ、親しい人を亡くした人が行くとその人の声が聞こえる。 
泉ヶ岳賽の河原 / 宮城県仙台市泉区
泉ヶ岳は船形火山群の最後に形成された錐状火山である。(なんのこっちゃ?)賽の河原はこの山のもっとも一般的な登山ルートの途中にあり、(おそらく)8〜9合目にあたる。山の西南斜面に位置しており、この場所から蔵王連峰等を望むことができる。
大駐車場に車を置き、泉ヶ岳少年自然の家(標高583m)を通って水神(825m)に向う。大岩(1000m)を過ぎると賽の河原である。私の足で駐車場から1時間35分であった。ここからさらに10分ほどで山頂(1172.1m)に至る。小学校1年生も元気一杯で登っていた。
賽の河原に到達すると、“賽の磧”の横看板あり。すぐ上に地蔵菩薩と思われる石仏あり。石仏の下部は枯れ草と石で覆われており、坐像なのか立像なのか確かめることができなかった。観察した限りでは坐像であろう。
地蔵は錫杖を持たず、両手は禅定印(座禅のときの手のかたち)をむすび、宝珠(丸い玉)を抱いている。大正三年八月廿六日の日付と発起人として(おそらく)総勢16名の名前が刻まれている。“おそらく”と書いたのは、枯れ草と石で文字が隠れて見えなかったためである。
この場所はテニスコート2面くらいの広さがある。裸地で、石がゴロゴロしている。その上に、さらに広い裸地が広がっている。“さいの河原”の横看板がある。裸地をすべてあわせると野球場の半分くらいの広さもあるのではないだろうか。
山頂には三吉大明神を祀る小さなお堂がある。文政年間(1818-1829)に奉納されたものだという。また、山頂の東斜面には薬師如来を祀る小さなお堂があるという。七北田川流域の人々が雨乞い、悪疫退散を祈願した。 
七ヶ宿賽の河原 / 宮城県刈田郡七ヶ宿町東谷地山
七ヶ宿町は福島県と山形県に接している。伊達政宗が米沢と福島を往復するためにこの地に道が開かれた。江戸時代には奥羽街道(羽州街道)として庄内や秋田などの大名の参勤交代や御城米の陸送に利用された。仙台とは山を隔てているため、伊達家の目の届きにくい街道だったのだ。宿場は大いに賑わったという。
一里ごとに七つの宿場があったことから七ヶ宿の名がついた。
この町を流れる横川と白石川の合流するあたりの河原を賽の河原といった。山伏山、傾城森(けいせいもり)という山伏が修行した山の麓だ。かつてこの場所は関村(宿場)の外れで、さびしいところだった。現代の町民もこの周辺は賽の河原だという認識はあるという。しかし、河原には賽の河原を思わせる何もない。ただ、関浄化センター(活水所)近くのT字路に三体の地蔵が安置されており、賽の河原の地蔵といわれている。道路の路面ではなく目線の高さの位置に置かれている。ここに階段はなく足場(斜面)は草で覆われていた。
この地蔵にも祭日があり、戦前には、祭日になると傾城森の山頂で飲み食いする習慣があった。現在、寺と住民による行事としての供養は行われていない。個人的に自宅で供養している人はいるかもしれないが、確認できていない。
現在祀られている地蔵のうち二体は高さ約50センチと小ぶりだ。山田音羽子(おとわこ)さんの絵日記(1845年)の挿絵に描かれた賽の河原の地蔵はこれより大きいように見える。また、江戸期には地蔵は一体のみだが、現在は三体だ。その経緯は不明である。
明和9(1772)年の封内風土記、安永年間(1772〜81年)の風土記御用書出にみられる記述は次のとおり。
横川と内川が合流するところを土地の人々は賽の河原と言っている。河原の処々に小石が重畳しており、石造の地蔵が東向きに一体立っている。お堂はない。地蔵の作者は不明だが、明和2(1765)年9月29日に関泉寺の和尚が再興した。別当は関泉寺。祭日は9月29日。
言い伝え。人が死ぬと横川の河原を通っていく。その足跡が残される。そのとき現世で悲しい思いをした者は泣き、幸せだった者は笑う。夜釣りに行ってその声(泣き声、笑い声)を聞くこともあった。
昔、秋田に子どもを次々と亡くした殿様がいた。家来が江戸に向う途中、3〜4人の子どもがこの河原を走って来て、武士の袂にすがりつき「道中無事に」と言った。後に、武士はこの河原に地蔵を建て、子どもたちを供養した。現在建っている板碑に地蔵の衣に子どもがすがった像が彫ってあるのはそのためだという。
賽の河原の民話もある。地蔵が団子を追って穴に落ちたところを鬼に捕まってしまう。翌朝、鬼がいなくなったところで、鬼が集めた宝物を地蔵が手に入れて、困っている人に配ってまわった。
宮城県百科事典の“賽の河原”の項に、「死者が通る道(七ヶ宿町関)」として写真が掲載されている。これは関の内川橋付近から撮影したものだという。
別件だが、書き足しておく。
私が七ヶ宿を訪れた2007年8月現在、湯原、峠田、横川等の集落では葬式行列が行われている。10年ほど前までは関でも行われていたが、国道の交通量が多く危険なので取りやめるように指導があって、その後は行われていない。葬式の際に女性だけで念仏を唱える習慣は今も続いている。子どもが亡くなった時の葬儀は簡略(自治会を通さない)にする習慣もある。 
飛島賽の河原 / 山形県酒田市飛島
山形県唯一の有人離島である飛島は周囲10.2km、面積2.32平方kmの小さな島である。山形でも北に位置しているが、対馬海流の流路にあるため年間気温12度と非常に温暖である。春・秋には渡り鳥の宝庫となり、また、暖地系、寒地系の植物が500種類近くある。2005年6月末現在、人口312人、147世帯。高齢化率は60%近い。
昔、飛島は沖乗り航路の中継地として機能していた。1672年に西廻り航路が開かれ酒田が米の集散地となってからは、酒田港の補助または避難港としても機能した。島内には国別に宿があったという。当時の飛島は自給自足の島であったが、こうした船のために島民は貴重な食料・水を分け与えた。
船が難破すると、春には南東の風にのって船荷、残骸、死体が海岸に打ち上げられた。中村の鴨の浜は死人原(しびとわら)といわれたし、勝浦の小松浜(海水浴場になっている)にも上がった。
余談だが、太平洋側は大洋に死体が流されてしまうと陸には上がらない。しかし、日本海側は潮の流れ、風向きから救助される可能性も高かったし、死体が海岸に打ち上げられる可能性も大きかった。太平洋側に比べて日本海の海岸沿いに賽の河原が多いのは、こうしたことも関係しているのではないだろうか。
島の西方沖の御積島(おしゃくじま)は島民にとって最大の信仰の地である。女人禁制の霊島とされてきた。岩山であり人は上陸できない。
この島には大きな洞窟がある。そこの壁面は黄色のうろこ状で、硫酸アンモニアの影響でピカピカと光っている。昔の人はこれを見て“海の神様だ”と信仰していた。この洞窟をもって遠賀美(おがみ)神社の本殿とされ、現在に至っている。
御積島の南に烏帽子(えぼし)群島がある。玄武岩でできた大小の島が点在している。ここは遠賀美神社の境内にたとえられた。
賽の河原は第2の信仰の地である。勝浦の海水浴場から遊歩道を歩いた海辺にある。成立時期は不明であるが、文化元年(1804)鶴岡の藩士による紀行文が残されている。
烏帽子群島から賽の河原周辺までは海台(海底の台地)をなしており、粉砕された玄武岩は潮の流れに乗って海台を転がり、角がとれて丸い小石となって浜に上がった。賽の河原にはこれが幾山にも団子積みされている。平成に入って賽の河原の沖合いに波消しブロック設置されたため、この潮の流れは寸断され、石が浜に流れて来ることができなくなった。さらに、浜にあったはずの石も潮に流されて海中に戻されてしまった。(実際、元は海岸にあったはずの多くの石が海中に沈んでいた。)このようなことから、昔は浜いっぱいにあった賽の河原の石積みは、今ではすっかり減ってしまったのだという。
この賽の河原には3体の石仏が御積島を背にして立っている。南南西向き。この石仏については『羽後飛島図誌』に詳しい。
賽の河原の北に明神社が御積島を向いて建っている。創建年代は不明。賽の河原の守り神様である。
明治以前、この神社は外浦観音、飛鳥大明神などと呼ばれ、遠賀美神(竜神)、小物忌神社(風神)を祀っていた。明治9年に遠賀美神社と改称し、勝浦の遠賀美神社(拝殿)の摂社と位置づけられ、大海津見命(海神)ほかを祀った。現在、遠賀美神社の摂社が正式な名称・地位であるが、俗に明神社とか明神の社と呼ばれている。遠賀美神社(拝殿)と御積島は大海津見命ほかを祀っているが、明神社は小物忌神社を祀っている。非常にわかりにくいが、長い歴史の中で翻弄されてきた神社なのだろう。
この賽の河原には書ききれないほど多くの伝説がある。
飛島の人だけでなく死んだ人は必ず賽の河原を訪れる。賽の河原は死んだ者がいくところで、有縁の者が詣るところではない。
村で死者あるときは、河原に向って歩く足音を聞くことができる。
この河原の石を持って定期船に乗ると船が故障する。これについて島在住の中年男性は言う。「信じるもなにも、言い伝えですからねぇ。島の人は皆そう考えています。」 
袈裟丸山賽の河原 / 群馬県みどり市
詩画家・星野富弘さんの美術館で有名な、みどり市(旧・東村)に袈裟丸山(けさまるやま)という山がある。
この山の頂は大きく2つあり、南北に二股となっている。北峰を後袈裟丸山(1908m)、南峰を前袈裟丸山(1787m)という。前袈裟丸山の南東の稜線、標高1550mほどのところに賽の河原がある。この地への最短ルートは国道122号線から林道を車ですすみ、折立登山口から登る弓の手コースである。約1時間で到着する。家族連れでも可能な道だが勾配が急で体がきつい。もうひとつのルートは塔ノ沢登山口から登り、寝釈迦(石造釈迦涅槃像)を経由して賽の河原に至る塔ノ沢ルートである。前袈裟丸山の山頂には賽の河原からさらに2時間以上の距離がある。
袈裟丸山は赤城、榛名などと同じ新生代第4紀の火山のひとつである。前袈裟丸山は山頂付近から噴出した火山岩(複輝石安山岩とカンラン岩)から成っており、山頂から半径2kmの範囲で拡がっている。
賽の河原の石積みもこの火山岩である。また、この地は裸地で木が生えていないが、周囲にはツツジが咲く。
赤城周辺には“死者の魂は赤城にのぼる”“旧4月8日に赤城山に登ると死者に会える”という言い伝えがあった。袈裟丸山にも“その年に子どもを亡くした人が賽の河原に行くと死者に会える”という言い伝えがあり、寝釈迦に参拝した後で賽の河原に登って石を積んだという。とくに旧暦4月8日は寝釈迦の祭日になっていることから、地元の僧が寝釈迦に行き祈祷を行った。(赤城山と同様に)この日に登ると死者に会えるということで、この日に登る人も多かった。戦前は村人や銅山関係者が詣でてにぎわったが、戦後はすたれていった。
寝釈迦、をはじめとして、山中には宗教的な地名や名称がいくつかみられる。地元の修験者が山で修行を行ったとも伝えられている。しかし現在は信仰の対象とはなっていない。
その昔、弘法大師がこの付近に来たとき、日が暮れて夜になった。子供たちの泣き声が聞こえるのでその方を見ると、鬼火が見え、大勢の子供が集まって石を積み重ねていると、鬼火が赤鬼青鬼となったので皆泣きわめいていた。そこで弘法大師は子供たちの責苦を救うため三夜看経(かんき)し済度(さいど)したといわれ、今でも子供の新仏を出した人がここで石を積むと子供に会えるといわれている。 
草津温泉西の河原 / 群馬県吾妻郡草津町大字草津
“草津よいとこ一度はおいで〜”と草津節に歌われる草津温泉は、有馬、下呂と並び日本三名湯のひとつに数えられている。開湯の伝説には日本武尊であるとか、奈良時代の僧・行基であるとか、源頼朝が狩りに来て家来が発見したとか諸説ある。白根山を信仰する修験者(山伏)が発見して広く紹介していったというのが史実だろう。すでに延徳3(1491)年の記録に草津、有馬、湯島温泉を日本の霊湯の最たるものと紹介している。
白根山は修験の山であり女人禁制の霊山であった。その麓に位置する草津は白根山修験の根拠地だ。草津に鎮座する白根神社は白根山を信仰の対象にしている。現在の本白根山(=古白根山)が信仰の対象だったが、後に草津白根山も加えられた。草津白根山は白根明神、本白根山は古白根明神を祀っている。
明治6年に現在地に移されるまでの白根神社は運動茶屋公園内の皇大神社の周辺にあった。この地点は温泉街から近く、江戸道と沢渡道の分岐点であり、街道の最も高い位置という重要な地点である。近くの祈祷壇からは信仰の山々(白根山、榛名山、浅間山)を遥拝することができるという。
現在賽の河原といえば西の河原公園のことであるが、昔は地蔵の湯にもあった。地蔵湯畑から流れ出た温泉が細く流れているところを賽の河原といった。ここには地蔵堂、不動堂、大日堂などがあった。文化文政の頃(19世紀初頭)ここは草津の盛り場といわれたように、時代が下るにつれて開発が進み、湯が流れ下ることはなくなり、ここが賽の河原であることは人々の記憶から消えていった。現在、源泉は共同浴場や近隣の宿泊施設に配湯されるとともに、足湯も出来て癒しの空間になっている。
地蔵の湯も地蔵堂も細野氏が所有していた。このお堂は常楽院といい、山号は草津山。細野氏は修験者で、草津を政治的に支配した湯本氏の系列だ。地蔵堂内には高さ25cmの地蔵が本尊として祀られているほか、細野氏の位牌等も並べられている。不勉強なので理由は不明だが、常楽院は文政12年(1829)に山号を光泉寺に譲っている。江戸時代に描かれた絵図をみると、光泉寺が大きく描かれ、一方、常楽院はまったく描かれていない。光泉寺の影響力の大きさ、人々の信仰の大きさをうかがい知ることができよう。
西の河原公園周辺はあたり一面の至るところから温泉が湧き出しており、草木は生えず、臭気が漂っている。さながら黄泉の国を思わせる景色から“鬼の泉水”といわれ、 訪れる人は稀であった。いつの頃か不明だが、この地には鬼の伝説が言い伝えられている。
さて、当地の「西の河原」の“西”は、“さい”ではなく“にし”と読むのが正しいと地元の人が教えてくれた。草津には大きくわけて3つの河原、すなわち仲の河原、西(にし)の河原、地藏の河原(東の河原)があり、このうち西と地藏が賽の河原だという。江戸時代の随筆や絵図で調べてみた。どれも“鬼の(が)泉水”“泉水”“さいの川原(河原)”となっている。“にしのかわら”と明確にわかるものは見つけられなかった。それでも古老は、“にしのかわら”が正しいと言う。
昭和30年草津白根山の湯釜から硫黄を採掘中に、地中から笹塔婆(柿経)が出土した。平安時代後期の大噴火直後(尾崎の説)もしくは15世紀前半(時枝の説)のものだ。笹塔婆には血盆経の経文らしい文字が記されている。修験者が白根山(火山)の鎮護と女人救済を目的に経文を書き、祈祷しながら湯釜に向けて投げ込んだ。しかしそれが湯釜に入らず、硫黄層の下で腐らずに残ったものだ。世界有数の酸度を誇る湯釜だけに、その中に投入されていれば溶けて発掘されることはなかっただろう。これら発掘された笹塔婆のうちの数枚は草津温泉資料館に展示され、「12世紀ころ奉納された」と解説文が添えられている。 
天面西院の河原 / 千葉県鴨川市天面
房総半島、鴨川市の中心部から国道128号線をしばらく下った天面(あまつら)集落のはずれに賽の河原がある。地元の人々は西院の河原と言っている。
2008年夏にここを訪れ、西徳寺の住職さんからいろいろと聞くことができた。
現在ここは房総半島唯一の賽の河原だ。数十年前までここに石仏は数十体があるだけだった。いわゆる水子ブームの影響があり、宗旨に関係なく石仏を置くことを許可してきたことも手伝って、石仏や写真などの奉納が増え続け、現在のような満杯状態となった。このため現在は石仏を新規に置くのを断っているという。
水子に限らず、ここには様々な年齢の人たちの供養のために石仏が奉納されている。毎月24日の縁日に限らず、地元民はもとより大阪、群馬、埼玉といった遠方からも家族、夫婦、または個人など様々な男女がお参りに訪れている。
幕末期、この地を治めていた岩槻藩(さいたま市岩槻区)の藩士が天面にやってきて砲台を検分した。藩士はその時の日記に、砲台の左方にサイノカワラの石積みがあると記している。
現在までに西院の河原は3回の移転を繰り返してきた。当初は太海小学校をはさんだ反対側にあった。それが現在地側に移転し、昭和の初め頃に現在地(旧道脇)に移設された。コンクリート造の建物を建てたのは今から20年ほど前のことで、山から土砂が落ちてきて危険なためだという。
国道128号線ができるまでは、旧道のむかいがわは海岸で石がゴロゴロしていた。この石をひろってきて西院の河原に積んでいた。しかし、この海岸に国道ができてからは石を拾ってくることができなくなり、石積みは途絶えた。
西院の河原の管理は当初天面集落で行っていたが管理しきれなくなり、講に委ねたがそこでも管理しきれなくなって、地元の西徳寺に移管された。現在、住職夫妻が毎日交代で西院の河原に詰めているという。私が訪れたときにも、ちょうど住職がやってきて、茶をふるまっていただいた。
民俗学では、房総半島は両墓制(埋め墓と詣り墓)で有名だ。天面ではオコツアゲ(お骨上げ)といわれる改葬習俗が特筆された。私が住職に西院の河原と両墓制との関係を尋ねたところ、「関係なし」と即答された。天面集落は3地区あり、西院の河原のある地区は他地区からは外れた位置にある。他地区に住んでいた人たちが、災害などために現在地に移転してきて出来た地区なのだという。この地区は、同じ天面集落でも文化的には異なっているとのことである。
住職によれば、賽の河原は全国に多くあるが「西院の河原」と書くところはほとんどなく、このような字をあてる賽の河原には“明るさがある”のだそうだ。この明るさとはどういったことなのか、私にはよくわからなかった。だが、偶然やって来た地元の老女と住職と私で話が弾み、大いに笑ってその場を後にすることができた。これも西院の河原の“明るさ”というものだろうか。
最後に言い伝えを書いておく。
結婚していない男女(子孫を残さずに死んだ男女)は何歳になっても西院の河原に行く。亡くなった子どもの霊は西院の河原に集まってくる。西院の河原の前を通りかかったら子どもが出てきて通さなかった。ここは(来世往生(←特に子ども)も現世利益も)何でも願いをかなえてくれる。 
鬼来迎 / 千葉県山武郡横芝光町虫生,広済寺
千葉県北東部、九十九里浜に面した町、横芝光町の虫生(むしょう)という小さな集落に広済寺という真言宗(かつては浄土宗)の寺がある。本尊は地蔵菩薩。この寺には(縁起によると)鎌倉時代から鬼来迎(きらいごう)もしくは鬼舞いといわれる宗教仮面劇が伝わっている。1976年に国の重要無形民俗文化財に指定されている。
毎年8月16日に本堂で行われる施餓鬼(せがき)供養の後、本堂脇の仮設舞台で虫生集落の人々によって演じられている。一度でも休むと里に悪い病が流行るという言い伝えがあり、戦時中も休むことなく演じられてきた。私が訪れた2008年は昼頃に猛烈な大雨が降ったけれども、上演時間が近づいたらお天道様があらわれて、多少の蒸し暑さの中で無事に上演された。虫生集落の人々が準備からすべて行っているというから、そのご苦労には本当に頭が下がる。
鬼来迎は地獄の様相を描いた地獄劇である。“大序”“賽の河原”“釜入れ”“死出の山”の四段にわけられて演じられる。赤鬼、黒鬼、鬼婆(奪衣婆)、亡者(大人、子ども)、閻魔、倶生神、菩薩(観音、地蔵)が総出演者だ。この劇は往時の人々にとって娯楽であると同時に、因果応報と菩薩への帰依を衆生にわかりやすく説く役割をもっている。
“賽の河原”の段の内容は次のとおり。
亡者(大人)に先導された数人の子どもの亡者(以下、「子ども」という。)たちが賽の河原にやってくる。子どもたちは「一つや二つ三つや四つ十より下の幼子が〜」とうたいながら石を積む。そこに赤鬼・黒鬼があらわれ、「汝ら父母は娑婆にあり。朝夕、ただ、むごいや可愛や愛しやと思うばっかりにて、追善供養の心はなし。皆、汝らの罪となる。我らを恨むことなかれ」と言いながら、逃げ惑う子どもたちを追いかける。そこに地蔵菩薩があらわれると、子どもたちはその背に隠れる。地蔵は鬼を追い払い、子どものひとりを抱き上げると、ほかの子どもたちを従えてゆっくりと退場する。その間、和讃が詠じられる。
鬼来迎は鎌倉初期を舞台にしてはいるが、その成立は室町前期である。この頃には賽の河原はまだ誕生していないというのが定説なので、鬼来迎の成立当初から“賽の河原“の段があったとは考えにくい。加えて、“賽の河原”の段だけに子どもが出てくるのはなぜか、この段が“大序”と“釜入れ”の段にさしはさまれて演じられているのはなぜかという疑問を持った。また、劇中で詠じられる地藏和讃の成立は江戸時代である。これらのことから“賽の河原”の段は鬼来迎の成立時からあったとは思えない。生方氏が書いているように、この段がまとまったのは江戸時代とみるのが正しいと思う。長い年月のうちに様々な工夫が追加されたり、はぶかれたりしながら現在の鬼来迎になったのだ。
上演の幕間に“虫封じ”が行われる。鬼婆(奪衣婆)に赤ちゃんを抱いてもらうと健康に育つという言い伝えがあることから、多数の赤ちゃんが親の願いの犠牲(?)になる。鬼婆が抱き大声をあげると、大泣きする子、平気な子、寝ている子など様々だ。そんな反応に会場から歓声があがる。我が子が健康で親孝行な子に育って欲しいと願いつつ鬼来迎/虫封じを見に来た往時の女性たちには、よい息抜きになっただろうし、さらに信仰を深めるきっかけにもなったことだろう。
賽の河原の信仰は実際の場所としての賽の河原だけでなく、劇狂言、伝承(昔話や伝説)、和讃、民謡、絵画と絵解きなど様々な手段を用いられて民衆に浸透した。 
元箱根賽の河原 / 神奈川県足柄下郡箱根町元箱根
芦ノ湖の湖畔、箱根神社の大鳥居の足元に賽の河原といわれる場所がある。残念ながらここは賽の河原とは名ばかり。石仏がきれいに並べてあるだけで、まったく雰囲気がない。
この賽の河原がいつ成立したのか不明であるが、1658年の『東海道名所記』に“芦ノ湖畔に賽の河原があり”と記されている。その後1841年の『新編相模国風土記稿』などによれば、芦ノ湖湖の水際に130あまりの石塔・石仏・銅仏が累々と並び、山側にはカヤ葺きの地蔵堂が5つ並んでいたという。明治維新の神仏分離令に伴って賽の河原は箱根神社の管轄から離れ、また、同令による廃仏毀釈運動の高まりに伴い石塔等の多くが売却等の憂き目にあった。その後2度の移転、整理、整備を繰り返し現在の姿となった。
石仏のうちの多くは“コの字”に並べられているが、西向きに立っているものはない。
江戸時代、箱根には芦ノ湖のほか、六道の辻(精進池付近)、姥子にも賽の河原があったという。
六道の辻を訪れてみたが、芦ノ湖よりもずっと雰囲気がある。ただし、“賽の河原”という特定の場所が現存しているわけではない。精進池の湖畔を石仏群を眺めながら散歩するとよい。
「賽の河原」/ この地は地蔵信仰の霊地として、江戸時代東海道を旅する人々の信仰を集めたところです。その規模は大きく、多数の石仏、石塔が湖畔に並んでいました。しかし、明治時代に入ると、仏教の排斥から多くの石仏が失われ、また芦ノ湖畔の観光開発の中でだんだんとその規模が縮小し現在のようになりました。現存する石仏、石塔の中にも鎌倉後期と推定される艘塔を始め貴重なものがあります。 
佐渡願の賽の河原 / 新潟県佐渡市願
佐渡カーフェリー発着場から車で1時間。外海府の北端に願集落がある(←民宿あるよ)。駐車場に車を置き、かつては生活道路だったという石畳の自然遊歩道を歩く。700〜800mほど進んだところに、行く先を遮るように大きな岩が横たわる。その先は見えない。この岩の中心がくり貫かれており、そこを通り抜けると突然に異空間がひろがる。賽の河原だ。この場所から二ツ亀が間近に見えるが、二ツ亀附近から賽の河原を見ることはできない。上からも左右からも死角になった場所に賽の河原はあるのだ。実に絶妙な場所だと感心する。
この場所は地積では鷲崎であるが、願の賽の河原とされている。古くから願集落の人々が管理してきた。
賽の河原は海食洞穴(入口高さ約5m)の中にある。ここに大小様々な地蔵立像が安置されている。洞穴内の(向って)左奥のくぼみは「血の池」と伝えられている。
いつの頃からここに賽の河原が存在するのだろう。1736〜1741年頃に書かれた佐渡巡村記に「村内に賽の河原というところあり」と記されていることだけは調べられた。それより昔のことは不明だ。
近代から現代の状況についていくらか記しておこう。
民俗学者柳田國男が佐渡を訪れた大正期には、ここに地蔵堂があった。宮本の著書には地蔵堂遠景の写真が掲載されている。真更川の村人は三崎遍路(上回り遍路とも。小木・赤泊方面)から帰ると海府遍路も回る習慣があり、その一泊目がこの地蔵堂であったという。賽の河原は寺院ではないため、佐渡に伝わる複数の遍路の正式な札所ではないが、ここも併せて巡拝されていた。なお現在、堂宇は存在しない。
賽の河原の前を通る遊歩道は、県道45号線が整備されるまで地元の生活道路であった。馬も通った。うん十年前の賽の河原は“うっそうとした場所で、子どもひとりでは怖くて通れなかった”と地元の女性は言う。
1996年8月にここを訪れたとき、高さ10cmほどの水子地藏があちらこちらに無数に置かれていた。2009年に再訪したらその数は激減していた。数年前に高波があって波にさらわれたので、できるだけ拾い集めたが激減したのだという。なお、この大量の水子地藏は、むかし、観音寺の住職が持ってきて岩に接着したものとのこと。
現在、住民の減少と高齢化で管理はままならないようだ。海岸漂着ゴミの清掃、日頃の掃除、賽銭泥棒対策など役割は多く重い。この集落にはほかにも神社や観音堂がある。近年はカンゾウの保護増殖にも力を入れている。やることがいっぱいだ。
ここの信者に和歌山の人がいて、希望者を募り、先達(せんだつ)になって年数回やって来ては清掃し、風車を交換していくという。こんな人がいないと維持が大変だ。旅行者はゴミを置いてこないよう気をつけたい。
毎年7月末に祭りが開かれる。2009年はあいにくの雨模様であった。それでも高齢者を中心に信者が集っていた。無数に並ぶ地蔵の中から自分の地蔵を見つけ出し(地蔵には番号が振られている)、菓子などを供えては手を合わせていた。所定の時間になると僧侶が読経するとともに、信者の住所と氏名を唱えて供養していた。その地名には島内だけでなく北海道や東京もあった。
なお、佐渡の観光パンフやガイドブックにこの祭りは掲載されていない。観光行事ではなく信者のための供養の場ということだ。
地元では寒念仏(2月)には必ずお参りするし、家族が亡くなると3年間は毎年お参りに行く。島内各地から子どもを亡くした親がお参りに来ることも多いという。
次に、ここに伝わる伝説を書く。
小児を亡くした者の船が賽の河原の沖合いを通過するときには、船の帆を下げる。
石積みをしている子供が誤って石を落としてしまっても、翌日には必ず元通りになっている。ここで石積みをするのは10歳以下の子供の霊であって、子供が亡くなるたびに石の数が増える。ここの地蔵を持ってくると、夜になると家の中が“がやがや”する。
この賽の河原にあるものは何ひとつ持ってきてはいけない、と地元の人は言う。昭和時代に“本当にあった話”を聞いたので最後に書いておく。
遠方に住む家族がここの賽の河原を旅行した。その後この家に災いが続いた。宗教者を呼んだところ、「賽の河原から何か持ってきていないか」と聞く。夫婦には身に覚えがない。子どもを問い詰めたところ、「あまりにかわいかったから、地藏をひとつポケットに入れて持ってきた」という。宗教者から「返してきなさい」とアドバイスを受け、家族はすぐに再訪して地藏を元に返した。すると災禍は止んだ。
松浦武四郎が幕末に佐渡を旅した記録の中に、大倉村に西院川原ありとの記述をみつけた。大倉は願から15〜16km南下した海岸沿いの地名だ。石積み、地蔵尊&小堂があるという。
賽の河原は現世と冥土との間にある三途の河の河原にあり、親に先立つ不幸な幼児たちが収容される今の養護施設であろうか。幼児の仕事は「一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため・・・」と不幸を詫びながら小石を積むので無数の小石の塔が出来る。しかし夕方になると地獄の鬼どもに踏みくだかれ、幼児達は救いを求めて泣き叫び逃げ回る。それを「冥土の父母はわれなるぞ」と現れて法衣に包むのは地蔵菩薩である。鬼どもの嵐が去ると幼児達は小石積みにはげみ翌朝までに立派な塔を積み終るという。幼くして世を去った子供達の冥福を願う御仏の霊場である。 
笹神賽の河原 / 新潟県阿賀野市勝屋(畑江)
新潟で賽の河原というと佐渡が有名だが、旧・笹神村の霊峰五頭山(ごずさん)の麓、出湯(でゆ)温泉近くにも賽の河原がある。
牛頭山は弘法大師空海が開いたと伝えられている。五つの頂があり、それぞれに石仏が祀られている。この山の麓に阿弥陀如来信仰の霊地といわれる華報寺(けほうじ)を極楽、賽の河原を地獄、そして大荒川の下流にある優婆尊(うばそん)を三途の川にみたてて信仰していた。華報寺を中心として周囲には蓮台野、経沢、血の池、地獄谷、塔婆塚山などの地名があったとされ、蓮台野や経沢から出土した中世期の阿弥陀如来などの石造物は県内最大級とのことである。また、華報寺の境内には、弘法大師ゆかりの温泉(漲泉窟)があり、共同浴場として安い料金で開放されている。
賽の河原のある場所は、むかし、大荒川の広い河原で、大小の石がゴロゴロしていた。松もうっそうとしていた。人通りがなく寂しい、あるいは怖い場所であった。加えて、度重なる大荒川の氾濫。昭和42年8月の羽越豪雨では、8月29日に360mの集中豪雨による大荒川の土石流&山津波があり、9月13日には「賽河原橋、越水」とも記されている。そしてその後の大荒川のコンクリート護岸工事。また昭和30年代の国道工事による賽の河原経塚の消滅。
賽の河原公園の住所は(市の公園条例では)「阿賀野市畑江471-1」とされている。一方、市の文化財指定リストでは「阿賀野市勝屋地区 賽ノ河原石造物群 平成9年10月22日」とある。市の職員に聞いたところ、戦後、勝屋と出湯を切り分けて畑江をつくったのであり、畑江でも勝屋でもどちらも正しいとのことであった。文献によれば、戦後、畑江には入植者の開拓部落ができたのだという。
なぜこのようなことを書いたかというと、戦後の開拓、災害、工事のために、賽の河原の風景は一変し、信仰の地という雰囲気からほど遠いものになってしまった、ということを理解していただきたいと思ったからである。
ここの賽の河原は、華報寺の開祖が造営したものだという。
五頭山と同様に華報寺も806年に弘法大師が開いたと伝えられている。言うまでもなく史実ではない。賽の河原と華報寺が関係していたらしいが、暦仁元年(1238年)の大火で出湯36坊が焼失しており、資料は残されていない。
国土地理院の地図で賽の河原は大荒川の上流になっているが、現在、賽の河原地蔵尊は下流の国道沿いに安置されている。そこは市の公園として整備されている。露天に数体の地蔵、板碑等がすべて西向きに並んでいる。この配置では、人は、牛頭山に向って祈ることになる。最大の地蔵は坐像で、高さ1m、横70cm。
すぐ横に大きな地蔵堂がある。板の間は4畳半はあるのではないか。その縁に小石がたくさん積まれている。地蔵堂の奥に2体の地蔵が鎮座している。どちらも西北西を向いている。大きいほうは台座を含めた高さ1m85cm、横幅80cmと大きい。この2体の地蔵と並んで、家庭から奉納された人形が並べられている。こういうところに置いてある西洋人形はなかなか迫力がある。(薄気味悪いという意味です。)
この公園の帰りがけ、200mほど離れた国道沿い(養鶏場前)に地蔵などが数体並んでいるのを見かけた。しかも隣に真新しい(平成15年6月落慶の)お堂が建っている。お堂に入ってびっくり。僧侶、地蔵、鬼、赤いよだれかけをした無数の子供たちの土人形が飾られている。
むかし、この場所も賽の河原であったかどうかは不明である。しかし少なくとも、ここが仏教の盛んな地域であったこと、各所に石仏が点在していたことをうかがい知るのに十分である。
柳田國男は、この賽の河原について次のようなことを書いている。
毎年4、5月は里人がたくさん集まってくる。お寺では水施餓鬼を行う。追善供養として寺では小塔婆を多く売り、信徒はこれを納めた。どういうわけで石を積むのか民衆も僧侶も知らないのだが、民間因習の強い力で毎年欠かさずに行われていた。
最後に、波多野ヨスミさん(笹神村)が語る昔話「賽の河原」の概要を紹介したい。
ダンナ様の家の男の子が亡くなりました。子どもを大切にするあまり、したい放題に育ててきたから神様がばちをあてたのだ、と村人はささやきます。母親は悲しんで胸をかきむしりたいほどでした。母親は和尚さんに相談に行きます。「親の積んだ石は鬼も崩さないという。おまえさんも賽の河原にいって石を積むといい。」母親は毎日賽の河原に行き石を積みました。その後、母親は女の子を産みます。この子にはあまりわがままをさせないで育てたので、いい子に育ちました。 
栃尾賽の河原石積み行事 / 新潟県長岡市, 旧・栃尾市
地獄の釜も休むという8月7日は「七日盆」といわれている。この日ばかりは子供たちの霊も石積みを休むという。この日の早朝、この世の人間が子供の霊に代わって石を積み、一日もはやく霊が極楽浄土に行くことができるように願って行われるお盆の行事である。
この日だけの行事であるので、恒久的に石積みが存在しているわけではない。早朝5時ころから三々五々に石積みが行われ、実質1時間程度で終了する。
この行事がいつ頃から行われていたかは不明であるが、江戸時代には行われていたという。栃尾では昭和30年代を最後に衰退したが、地元住民によってほそぼそと続けられてきた。平成4年に復活の動きがあり、平成15年からは観光行事として市が協力し、あわせて、市の仏教会も協力して刈谷田川橋の周辺で施餓鬼(せがき)供養が行われるに至る。
この行事は栃尾だけでなく見附、下田でもみられたというが、衰退している。
最後に、栃尾市史(1972〜1978年発行)に記されていることをまとめておこう。
この石積みは8月7日の早朝(朝食前or日の出前)に子供が近くの川に行き石積みを行う。(市史に昭和20年代後半〜30年代初頭に撮影されたと思われる写真が出ていたが、大人は数少なく、子供が思い思いに高く上手に積んでいた。)現在は刈谷田川が会場になっているが、衰退前は子供たちの地元の川で石を積むものだった。石の積み方は、自分の年の数だけ積めばよい、長く崩れないようにたくさん積んだほうがよい、3つ重ねれば積んだことになるなど、町内によっていろいろである。
また、川に薬が流れてくるので川で顔を洗うとよい、河原の水がきれいな時に髪を洗うとよい(まめになる)、川で洗い物をすると虫が食わないなどの言い伝えがある。この日に墓掃除をする町内もある。 
小菅山賽の河原 / 長野県飯山市大字瑞穂
飯山市の野沢温泉寄りに小菅山がある。白凰時代に役小角(役行者)が開山した修験の山だ。役小角は小菅権現(摩多羅神/馬頭観音。天台宗)を主神として、戸隠、熊野、金峰、白山、立山、山王、走湯の七神を勧請して祀った。だから小菅権現は八所権現と呼ばれた。しかしこれはあくまで伝説であり、現実には平安時代に開かれたようだ。
小管山の中腹に小菅庄といわれた集落がある。小菅神社の里社などがある。創建当初は学問僧が占めていたが、その後修験者(=僧兵)が数を増していった。平安末期には飯綱、戸隠、小菅は奥信濃三山とか北信濃三大霊場といわれた。小菅庄は中世期に隆盛を極め、多くの寺院が置かれ、僧侶などが300人以上もいたという。川中島合戦の影響で奥社を除いて山が焼失するという悲劇もあったが、江戸期に再建された。明治に入って神仏分離の影響を受けて、明治33年に小菅神社と改められた。
山麓の一の鳥居から仁王門そして奥社は一本の道で結ばれている。この道から妙高山を正面に、千曲川を眼下に望むことができる。小菅山は信仰世界を計画的に配置・形成した一大宗教地区だったのだ。
小菅集落から小菅神社奥社まで参道を登った。修験の道だ。長さ1500メートル所要1時間。参道のはじめは樹齢300年という180本の杉並木が600〜700mほど続いている。この間は余裕だ。しかし並木が切れたところから本格的に山を登る。そりゃもう、とんでもなくしんどかった。
賽の河原は奥社まで残り400メートル強の地点にある。奥社に向って、参道右側は崖になっており、石積みがある。参道左側は山で、道から数メートル高い地点に地蔵一体(高さ90cmの立造)が祀られている。体の半分は枯葉で埋もれていた。地蔵の目は、そこを通る人々をやさしく見守っているような感じであった。
奥社の裏に滝と池がある。この水が小菅のご神体だという。水分信仰という。
南北朝期の絵図に地獄谷と呼ばれる地名がある。現在、観音堂前に六地蔵が祀られ、地獄極楽絵図(江戸時代)が伝わり、鬼の伝説が言い伝えられている。参道の御座石と名づけられた巨石には、役小角/弘法大師が休息したという伝説がある。愛染岩には愛染明王が、不動岩には不動明王が祀られている。賽の河原については、“平たい石をここで積み上げると、いいことが・・・”とガイドマップに記されている。これについて調べてみたが、根拠(文献)を見つけることができなかった。
賽の河原というと地蔵和讃の悲しいイメージが一般的だが、小菅山の場合はそんな印象はまるでない。参道にいくつかある伝説的な石のひとつという位置づけしか感じられなかった。
妙高山にも伝わる柱松神事と同様の神事が小菅神社に伝わっている。柱松柴燈(柴灯)神事といって、7世紀から続いている。かつては修験者が行っていた。現在は3年に1回、集落の住民によって行われている祭りだ。奥社ではなく小菅集落内で開催されている。 
光前寺賽の河原 / 長野県駒ヶ根市赤穂29, 光前寺
南信州随一の祈願霊場として知られる宝積山光前寺。開基は860年。宗派は天台宗(経典は妙法蓮華経、総本山は比叡山延暦寺)。この古刹の一角に賽の河原がある。いつ出来たのか、誰が発願したのか不明である。
座高1.38mの親地蔵は江戸時代中期の石工:守屋貞治の作になると伝えられている。(光前寺には貞治の作となる石仏がこのほかにも数体ある。)この親地蔵の周囲に数十体の子地蔵や観音像が並んでいる。全部で60体ほどもあるだろうか。中には、建立者や童子・女の名を刻んだものもある。昭和、平成のものもある。
2歳児の名と水子(みずこ)が並んで刻まれた一体の地蔵があった。事故で亡くなったものであろうか?何とも言えない気持ちになり、しばらく動くことができなかった。
これらの地蔵などは、ほぼすべてがおよそ東の方角を向いて建っている。仏壇は西を背にして配置するのがよいとされているというが、ここ地蔵も同様の趣旨での配置されているのだろう。 
 
熊野三山と信仰

 

はじめに 
紀州熊野の熊野本宮、新宮、那智の熊野三山は古来より貴紳衆庶の信仰を集め、鎌倉期には寄進された荘園は関東、東海、伊勢、摂津、播磨、備前等、19ヶ国に31荘となり大いに隆盛した。しかし、室町後期から戦国時代にかけて各地の荘園は在地土豪の支配下に入り、経済的基盤が不安定なものになってしまう。戦乱と社会の混乱により、恒常的な財源と思われた寺社領荘園の経営が立ち行かなくなれば、堂舎の維持・修繕は困難なものとなる。そんな時、三山の周縁部に存在していた聖・山伏らが諸国をめぐり活発な勧進活動を行い、その手腕を衆徒(1)に認められて社殿堂塔の建立・再興・修繕を担うようになった。功を重ね組織化された彼らは、特に那智山では山内の本社近くに坊舎=本願寺院を構えるようになっていた。
このような熊野三山の本願組織の形成について、根井浄氏は「補陀落渡海史」で「その年代を決定するには、なお史料の蒐集と慎重な議論を積み重ねる必要がある」(2)とし、個人が単独で活動していたと推測される13世紀以降の史料を紹介されている。ここで、熊野勧進初期の史料を確認してみよう。  
「明月記」(3)
建仁元年(1201)10月15日条
熊野本宮の神域の入り口である、発心門王子社の比丘尼「南無房」
午時許著発心門宿尼南無房宅
「熊野詣日記」(4)
応永34年(1427)10月1日条 / 那智の比丘尼「橋勧進の尼」
此所に那智の御師の坊あり、これにていつも御もうけあり、入御の後やかて御たち、橋本にてはしめたる御方々、川氷めさる、ここに橋勧進の尼の心さし(志)ふかきあり、権現より夢の告とかやありて給たる阿弥陀の名号をもちたり、人信心をおこしておかみ(拝み)たてまつ(奉)れハ、名号の六字の中より、御舎利の涌いてましますよし、この年月申あへり、このたひ(度)これをおかみ(拝み)たてまつる(奉る)に、けにもあわつふ(泡粒)のこと(如)く、しろ(白)きものの、忽然としてあまた(数多)出現せり、いかさまにもふしき(不思議)の事、ありやうある物をや、夜に入て後、那智の御山に著まします、
「御湯殿上日記」(5)
文明14年(1482)4月17日条 / はるばる、とく大寺より、くまのの御ほうか(奉加)の事申さるる。御たち(太刀)そひていたさるる。
文明16年(1484)9月5日条 / くまののほんくう(本宮)の御ほうか(奉加)の事、かんろし(甘露寺)申されて、御たちいたさるる。
延徳3年(1491)6月9日条 / くまのの御ほうか(奉加)の事、十こくの申とて、なかはし(長橋)とり御申す。侍従大納言にかかせられて、御たちそひていたさるる。
天文元年(1532)8月10日条 / くまののなち(那智)のさうゑい(造営)なとしたる十こく、きやうとく(行徳)色々あるにつきて、上人かう(号)の事申よし。まてのこうち(万里小路)申さるる。
弘治4年(1558)1月23日条 / くわんしゆ(勧修)寺中納言より、くまののしつこく上人かうの事申、御心え候よし御返事あり。
「多聞院日記」(6)
天文11年(1542)3月5日条 / 熊野より智勢来り一日語り畢、喜悦喜悦
同年3月6日条 / 智勢罷帰畢、くまののこくや(熊野の穀屋)、堺南庄材木町
同年閏3月19日条 / 熊野十穀海尊来了
「言継卿記」(7)
丹波国聖道心上人礼に来、熊野牛玉二枚、同那智大黒像二、茶廿袋、樽代二十疋等持来、一戔勧了、又上人号之事望之由申、明日可来云々。 
比丘尼・南無房、橋勧進の尼、十こく、熊野の穀屋・智勢、熊野十穀・海尊、聖・道心上人等、これら単独の勧進が集まり組織化された時期について、根井浄氏は「彼らの組織としての存在は慶長年間(1596〜1615)ごろから史料上にみえはじめることになり、したがって熊野三山の本願組織が一括して整うのは16世紀末期から17世紀初頭であったと、一応の見通しをつけて・・・」(8)とされている。山本殖生氏は「熊野本願所は、こうした職務を専門的・広範囲に行うところの三山内の組織体として、15世紀中頃から、遊行・廻国の勧進らが組織化され、彼らの勧進・造営の実績と既得権を基盤に成立・発展したのであろう。」(9)とされている。
両氏の説を合わせ考えれば、熊野・那智の本願は13〜14世紀には個々の活動であったものが15世紀中頃にはその集まりが組織化され、16世紀末から17世紀はじめに熊野三山本願所として成立したといえるだろう。
三山各社の近傍に住し、諸国を歩き勧進を行った者達は「修験者」「山伏」「聖」「穀屋」「十穀」「比丘尼」「橋勧進」等と呼称されるが、そこからは、彼らの信仰形成過程で取り入れられたであろう、顕密の宗派色ともいうべきものが感じられない。一体、彼らは顕密のどの宗派と関係し、その影響を受けているのだろうか。また、本願よるはるか以前、熊野・那智の開創期にその信仰を形成する過程で顕密仏教がいかに関わったのか、熊野権現と山林・滝籠修行の聖地にどのような宗教者が集ったのか、というのも気になるところだ。
「熊野別当代々次第」等によれば、本宮・新宮・那智の三山を統括した熊野別当の活動が記録されているのは10世紀から14世紀にかけてだが、現在のところ、別当が常住した寺院の存在は不明で、天台・真言等の寺社勢力とつながる寺院もなかったようだ。(10)熊野別当が活動していた時代の熊野三山について、五来重氏は、「このような熊野別当と熊野大衆は熊野修験道教団を形成していたのであるが、ここに三山信仰の特異性があるといえる。すなわち三山信仰は神道でもなければ仏教でもない第三の宗教だったのである。しかも比叡山や高野山とはちがった教団組織をもち、妻帯世襲の半僧半俗の別当家にひきいられた山伏の黒衣武士団と、全国的な散在山伏の勧進組織から成っていたといえよう。すなわち別当は軍事的には武士団の棟梁であり、宗教的には熊野権現の名において山伏を統率する熊野修験道の管長であったわけである。しかも経済的には神領荘園を支配し、莫大な貴族の寄進施入物を収納するのであるから、ヨーロッパ中世の法王のように教権と俗権をあわせ持つ主権者であった。」(11)と解説されている。このような五来氏の指摘は、熊野権現を中心とした信仰形態と組織の独自性を踏まえてのものだろうが、現存文献を確認すると、その信仰の内実は、やはり、顕密仏教の教理を多分に摂り入れて成立したものではなかったろうか。
熊野・那智の信仰を語るのに欠かせない「修験道」について、和田萃氏は、「修験道とは、日本古来の山岳信仰に、仏教や道教的信仰が加わり、さらに後には陰陽道の影響をも受けて、10世紀後半から11世紀代に成立した宗教である。山林や山岳で修行することにより、神秘的で呪術的な能力を身につけるのが修験であり、それを達成した人が修験者である。中世以降に山伏の呼称が生まれるが、それ以前は験者とよばれた。〜中略〜10世紀後半から11世紀に修験道が成立する。しかしその当時の験者たちは山岳で修行し、験力を得た僧侶であったことに注目しておきたい。奈良時代には、山林で修行する優婆塞がいた。しかし平安中・後期の史料にみえるのはすべて僧である。」(12)と教示されている。
桜井徳太郎氏は、「原始的な山岳信仰を基盤に霊験を求める密教との習合において成立した修験道」(13)とされている。
宮家準氏は、「ところで我が国の古来の宗教では、山岳や海(海上の島)などの聖地を里から拝して、そこにいる神霊の加護を祈る形態がとられていた。このことは、こうした聖地を拝しうる場所に祭祀遺跡や古社などがあることからもあきらかである。そしてこの聖地の神を山麓の社に招いて祀ることに重点をおいた宗教を神道ととらえることができる。これに対して修験道は、積極的に聖地に入って修行し、そこの神霊の力を身につけて活動する宗教者を中心としている。換言すれば、我が国古来の聖地信仰のうち、山麓から聖地を拝するという形態に展開したのが神道で、積極的に聖地に入ってその神霊の力を獲得して、それをもとに活動するのが、密教の験者や修験者であるということができるのである」(14)、「一言でいえば修験道は近世末まで制度的には仏教になかば寄生する形で展開してきたと考えられるのである」(15)と教示されている。
各氏の教示を踏まえれば、日本古来の聖地信仰とその聖地に入り霊験を求める密教との習合により生まれた第三の宗教が、熊野のみならず各地の修験道であった。その形成と展開には顕密仏教が大きくかかわっている、ということになるだろうか。
ここで気になるのが、修験道形成の大きな部分を占めている「密教」の体現者、伝道者は誰だったのか。山岳で修行し、験力を得た顕密の僧侶とは誰だったのか。また、那智山に本願が成立するはるか以前の、平安時代の那智山に住し、熊野別当の統制とは一線を画しながら那智滝の修行を中心に独自色を保ち、自山の管理・運営にあたった衆徒の宗教はどのようなものだったのか、ということだ。本願についても、前に書いたように成立期の宗教はどうだったろうか。
ここまで筆者の意のおもむくままに書いてしまい、わかりづらい文章となってしまったので、改めて「知りたいこと」を整理しておこう。
・熊野・那智の開創期における顕密仏教の関わり。
・その時代、どのような宗教者が訪れ修行したのか。
・山岳で修行し験力を得た僧侶とは誰か。
・修験道の形成に少なからぬ役割をはたした密教の体現者、伝道者は誰か。
・那智山の衆徒の宗教はどのようなものか。
・本願組織の主体となる「修験者」「聖」「穀屋」「十穀」らの信仰形成をなした宗教。
修験道の成立はおおよそ10世紀後半から11世紀とされているが、次項からは少し幅を広げて、平安から鎌倉の二つの時代を背景とし、熊野・那智における宗教者と衆徒・本願の宗教を知る手がかりを求めて、各種文献にあたりながら歴史をさかのぼって概観してみよう。
1 「熊野権現御垂迹縁起」と「熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記」 

 

熊野の主神と三山の起源を知る文献として、平安時代の長寛年間(1163〜1164)に作成された「長寛勘文」の文中に引用される「熊野権現御垂迹縁起」がある。  
(1) 熊野権現御垂迹縁起
熊野権現御垂迹縁起云。
往昔甲寅年唐乃天台山乃王子信舊跡也(1)。日本国鎮西日子乃山峰雨降給。其躰八角奈留水精乃石。高佐三尺六寸奈留仁天。天下給布。次五ヶ年乎経天。戊午年伊予国乃石鎚乃峰仁渡給。次六年乎経弖。甲子年淡路国乃遊鶴羽乃峰仁渡給。次六箇年過。庚午年三月廿三日紀伊国無漏郡切部山乃西乃海乃北乃岸乃玉那木乃淵農上乃松木本渡給。次五十七年乎過。庚午年三月廿三日熊野新宮乃南農神蔵峰降給。次六十一年庚午年新宮乃東農阿須賀乃社乃北石淵乃谷仁勧語静奉津留。始結玉家津美御子登申。二宇社也。次十三年乎過弖。壬午年本宮大湯原一位木。三本乃末三枚。月形仁天天降給。八箇年於経。庚寅農年石多河乃南河内乃住人熊野部千与定土云犬飼。猪長一丈五尺奈留射。跡追尋弖石多河於上行。犬猪乃跡於聞弖行仁。大湯原行弖。件猪乃一位農木乃本仁死伏世和。宍於取弖食。件木下仁一宿於経弖。木農末月乎見付弖。問申具。何月虚空於離弖木乃末仁波御坐止申仁。月犬飼仁答仰云。我乎波熊野三所権現止所申。一社乎証誠大菩薩土申。今二枚月乎者両所権現土奈牟申仰給布云々。
(意訳)
はるか昔の甲寅の年、唐の天台山の地主神・王子信(晋)が飛来し、鎮西(九州)の日子乃山=彦山(英彦山・福岡県、大分県)に天降った。その体は八角形の水晶の石で、高さは三尺六寸である。
五年後の戊午の年、伊予国の石鎚山(愛媛県西条市、久万高原町)に移られた。六年が経った甲子の年には、淡路国の遊鶴羽(諭鶴羽山・兵庫県南あわじ市)の峰に渡られた。それから六年が過ぎた庚午の年に、紀伊国牟婁郡切部山の西の海の北の玉那木の淵の上の松木本へと渡られた。五十七年後、庚午の年の三月二十三日、熊野新宮の南にある神倉山に降られた。
さらに六十一年が経った庚午の年、新宮の東、阿須賀社の北にある石淵谷に勧請し奉り、名を結玉家津美御子と申され、二宇の社に祀られた。十三年が過ぎた壬午の年、熊野川上流・本宮の大斎原(おおゆのはら)の三本の櫟(いちい)の木の梢に、三つの月の姿をして天降った。それから八年後、庚寅の年、石多河の南河内の熊野部千与定という犬飼の猟師が一丈五尺の大猪を追って石多河を遡り、本宮のある大斎原に行き着いた。追い求めた猪は櫟の木の下で倒れており、既に死んでいた。猟師は猪を食べた後、そのまま大斎原の櫟の木の下で一夜を過ごしていた。その晩、木の梢に月がかかっているのが見えたので、「どうして月が空より離れて木の梢にいるのか」と猟師は問い尋ねた。月は「我は熊野三所権現であり、一社は証誠大菩薩という、二枚の月は両所権現である」と答えられたという。
久安年間(1145〜1151)、甲斐守・藤原顕時は熊野権現の霊験を授かったとして、朝廷の許可を得て熊野本宮に八代荘を寄進。時の熊野別当・湛快は、八代荘が熊野本宮の荘園であることを示す牓示(ぼうじ)を立てた。ところが、応保2年(1162)に甲斐守となった藤原忠重は、前代の取り決めを一方的に無視する行動に出る。忠重は目代の中原清弘を現地に派遣。甲斐の国の官人・三枝守政らと合流した清弘は、軍兵を率いて「荘園」に乗り込み牓示を撤去。強制的な年貢の取立て、「荘園」の人々や神人への暴行を重ねたという。
この事態に対し、本宮側は朝廷に訴え出る。長寛元年1163)、裁定を命じられた明法博士の中原業倫は、ことの経緯と「熊野権現御垂迹縁起」をもとに、伊勢の神体と同体である熊野権現を侵犯したことは罪になるとして、絞刑とするよう勘申(報告)した。この、伊勢と熊野が同体である、ということについては藤原範兼ら、有識者の意見申述が続けられ、結果、藤原忠重は伊予に配流、中原清弘は投獄されている。
この「紀伊熊野神社社領八代荘停廃事件」の過程で、裁定のために著された勘文を集成したのものが「長寛勘文」と呼ばれている。「熊野権現御垂迹縁起」は、いわば重要資料となるだろうか。 
(2) 紀伊国・熊野と豊前国・彦山
「熊野権現御垂迹縁起」では冒頭、天台山の王子信(晋)が飛来し鎮西の日子乃山(彦山)に天降ったとあるが、ここから、古来からの霊場である彦山(現在の英彦山)の縁起と熊野の縁起との関係が指摘されている。彦山は江戸時代には坊舎800に3000人の衆徒を擁し、「彦山三千八百坊」といわれたと伝えられる。
五来重氏は、「おそらく『長寛勘文』の『熊野権現御垂迹縁起』は彦山の縁起をもとにつくられたのかもしれない。この12世紀の伝承は熊野と彦山の同躰を説くよりは、彦山の方が熊野より古いことを主張したものにほかならない。しかもそれは彦山が熊野の傘下に入ってからのものであるから、これによって、熊野の支配からぬけ出そうとしたものとおもれる。」(2)とされ、宮家準氏も「彦山が熊野の天台修験の影響下にあったことが理解される。」(3)と指摘されている。
では、彦山はいつ、熊野の「傘下に入」り、「影響」を受けるようになったのだろうか。五来氏は「熊野山別当代々記」の7代別当・増慶(康保2年[965]別当を退隠したとされる)と彦山11世伝灯大先達・増慶(寛弘3年[1006]没)が時間的に接合することから同一人の可能性があるとして、熊野別当の増慶は彦山を熊野の支配下におくことを目的として彦山へ移ったと推測されている。だが、「熊野別当代々次第」(4)は後世に編纂されたもので、別当の起源を古く見せるための作為等が指摘されていて史料としての信用性に問題があり(5)、増慶が彦山に移住したとの説は、現段階では推論の域にとどまるのではないか。
彦山が熊野の傘下に入った時期について、歴史史料から裏付けられる説としては宮家氏が解説されるように(6)、後白河上皇(1127〜1192)が平清盛・重盛父子に命じて京都東山の法住寺殿に鎮守社を造営させ、永暦元年(1160)に熊野権現を勧請した新熊野社が創建されてからのことになるだろう。この時、彦山を含む諸国の荘園28ヶ所が新熊野社に寄進されている。この新熊野社の初代検校に任じられたのが4代熊野三山検校の覚讃だ。彼は仁平2年(1152)から治承4年(1180)まで三山検校の任についているが、検校の覚賛なら諸国の霊山の縁起を知る立場だ。故に五来氏の、「おそらく『長寛勘文』の『熊野権現御垂迹縁起』は彦山の縁起をもとにつくられたのかもしれない」との説は正鵠を得たものだと思う。
ただ、五来氏は「熊野権現御垂迹縁起」は、彦山が熊野の支配から抜け出るべく作成した、と推測しているようだ。これについては、応保2年(1162)に発生した甲斐国八代荘の事件を受け、新熊野社検校に任じられた覚賛が立場上知るところとなった彦山の縁起を取り入れて「熊野権現御垂迹縁起」をつくり、熊野別当・湛快を擁護したというものではないだろうか。
熊野と彦山の関わりについては、五来氏と同様、天川彩氏も指摘されていて、その考察は多くの「熊野学」入門者を啓発するものではないかと思う。(7)
天川氏の説を補強する意味で一点つけ加えれば、「彦山流記」の奥書には「建保元年(1213)癸酉七月八日」と記されていることから、同書は鎌倉時代の写本であることが理解され、関係の考察でも同様に紹介されている。(8)
鎌倉時代の区分としては寿永4年・元暦2年(1185)頃からとされることから、「平安末期の長寛元年(1163)頃、世に出た『熊野権現御垂迹縁起』の方が先であり覚賛の目に『彦山流記』が入ることはない。むしろ『彦山流記』の方が『熊野権現御垂迹縁起』を取り入れたのではないか」との疑問が呈されるかもしれない。
しかしながら、「後から公となった文書でもその頃に書かれたと推断することはできない」ということは容易に首肯できることであり、「熊野権現御垂迹縁起」と「彦山流記」はどちらが先で後かという問題は文書を並べただけでは「断定」できるものではなく、この場合、前後の諸状況を踏まえて推測すべきだと思う。もう一度、要点をまとめてみよう。
・久安年間(1145〜1151)、藤原顕時は朝廷の許可を得て熊野本宮に甲斐国の八代荘を寄進。
・熊野別当・湛快は八代荘に荘園であることを示す牓示を立てる。
・仁平2年(1152)、熊野三山・4代検校に覚賛が補任される。
・永暦元年(1160)に新熊野社が創建。
・彦山を含む荘園28ヶ所が新熊野社に寄進される。
・応保2年(1162)、紀伊熊野神社社領八代荘停廃事件が勃発。
・本宮側は朝廷に訴え出る。
・長寛元年(1163)、中原業倫は、ことの経緯と「熊野権現御垂迹縁起」をもとに勘申する。
・有識者の意見申述が続けられ、本宮側から訴えられた藤原忠重は伊予に配流、中原清弘も投獄される。
・治承4年(1180)、覚賛は熊野三山検校を退任
・鎌倉初期(1185年頃)、「彦山流記」が書写される。
「彦山流記」
夫権現、昔者抛月氏之中国、渡日域之辺裔給初、遥志東土利生、欲知垂迹和光之砌、自摩訶提国投遣五剣之後、甲寅歳震旦国天台山王子晋旧跡東漸、御意深凌西天之蒼波交東土之雲霞、其乗船舫親在豊前国田河郡有大津邑今号御舟是也。着岸之当初香春明神借宿、地主明神称狭少之由不奉借宿、爰権現発攀縁、勅一万十万金剛童子、彼香春嶽樹木令曳取、因茲枝條蔽莀磐石露形、即時権現攀登彦山之日、地主神北山三御前我住所権現奉譲之間、暫当山之中層推下居、終移許斐山終、金光七年丙申歳敏達天皇御宇也。
其垂迹之始、先八角水精石躰三尺六寸形、般若窟上雨降給所投遣之第一剣此窟上見付給時、四十九箇窟各御正躰分権現并守護天童奉安置之、即一万十万金剛童子是也。
爰三所権現者法躰俗躰女躰也、其垂迹三嶽居止給彼三嶺峰不可思議也。
〜以下、本文略〜
彦山流記大旨如此、委見縁記、為目安撰之云々
本云建保元年(一二一三)癸酉七月八日
当山之立始
教到元年辛亥智者大師御誕生藤原恒雄踏出者也
九州肥前国小城郡牛尾山神宮寺
法印権大僧都谷口坊慶舜 印(9)
ことの経緯を俯瞰すれば、本宮側の勝訴に「熊野権現御垂迹縁起」が少なからぬ役割を果たしているといえ、それ以前の文書類に「熊野権現御垂迹縁起」が引用されたり、熊野開創譚が喧伝されている形跡がないことから、「熊野権現御垂迹縁起」は八代荘停廃事件を受けて創作されたとの推測が成り立つと思う。
では、何をもとに作られたのかといえば、類似の文書としては、
「往昔甲寅年唐乃天台山乃王子信舊跡(熊野)」「甲寅歳震旦国天台山王子晋旧跡東漸(彦山)」
「日本国鎮西日子乃山峰雨降給(熊野)」「即時権現攀登彦山之日(彦山)」
「其躰八角奈留水精乃石。高佐三尺六寸奈留仁天(熊野)」「其垂迹之始、先八角水精石躰三尺六寸形(彦山)」
等、これら共通のキーワードを持つ「彦山流記」が挙げられ、同様のものは、ほかには見当たらない。故に「熊野権現御垂迹縁起」は、新熊野社の荘園として彦山が寄進され、その開創譚を知った熊野三山検校らが時あたかも、訴訟対策としも有効なことから導入し、熊野の開創譚として成立させた可能性が高い、といえるのではないだろうか。もちろん「熊野部千与定」に見られる猟師の話し等、在地に伝わる伝説も加味しながら作成したと思われる。そして、三山検校らが知るところとなった彦山の古くからの伝承は鎌倉初期に明文化された、と考えている。 
(3) 熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記
那智山の開創は「熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記」に、その伝承が記述されている。
「熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記」
孝昭天皇御宇、懿徳天皇太子。受禅三十四辛卯歳、治八十三年、御年百二十。大和国掖上池心宮御坐。此御時、新宮熊野、一丈熊三疋走。猟師是与欲射熊追、於西北山石上現三枚鏡。其之時、是与□(折か)捨弓箭。爰裸形聖人出来、三枚鏡上造覆家。孝昭天皇御時、戊午歳、那智滝顕現千手観音。九月九日、山上、裸形聖人奉祝十二所権現。
孝昭天皇辛卯歳(紀元前450)、熊野新宮に三匹の熊が現れ猟師の是与が追うと、西北の岩上で三つの鏡となった。そこにインドより渡来した裸形聖人が来て、是与と共に祠を作り、鏡を祀ったのが始まりだという。「日記」」には、続けてもう一つの話が載せられており、孝昭天皇戊午歳(紀元前423)、那智滝に千手観音が現れた。同じ年の9月9日、裸形聖人が山上で熊野十二所権現を奉祀、これが那智山の起源と伝えられている。
那智の如意輪堂、現在の青岸渡寺の創建についても、寺伝では裸形が登場する。裸形聖人が滝修行をしていたところ、滝壺より閻浮檀金長さ八寸の如意輪観音像を感得。裸形は観音像を草庵に安置して、朝夕の勤行を怠らなかった。裸形の示寂後、大和の生仏上人が一丈ほどの如意輪観音を刻み、胎内に裸形感得の金仏を入れ、堂宇を建てたという。 
2 「新抄格勅符抄」収載・大同元年の太政官牒と「延喜式神明帳」 

 

(1) 新抄格勅符抄
天平神護2年(766)、熊野牟須美神と速玉神(新宮)に各四戸の封戸が与えられたことが、「新抄格勅符抄」に収載された大同元年(806)の太政官牒に記録されていて、これが熊野の主神に関する最古の資料とされる。
熊野牟須美神  四戸紀伊  天平神護二年奉充
速玉神       四戸紀伊  神護二年九月廿四日奉充
速玉神は新宮だが、熊野牟須美神は本宮・那智のどちらを指すのかがはっきりしない。しかも、後に那智の主神は熊野牟須美神とされている。これについては、(3)で見る「延喜式神明帳」には那智がないことから、小山靖憲氏は大要、次のように指摘されている。「この時の『熊野牟須美神』は本宮の神の古名であり、それがいつしか忘れられて9世紀頃には『熊野坐神』と称し、平安後期に那智が注目されるに及んで、一旦は廃された『牟須美神』が那智の神格を表すものとして再利用されるにいたった。」(1)
一方、宮家準氏は「この二神は現在の新宮に比定され、熊野神邑(新宮市)に二社が一緒にまつられていたと推定される」(2)としている。
私としては、延長5年(927)の「延喜式神明帳」に熊野坐神社(本宮)、熊野早玉神社(新宮)の二社が記されているので、100年以上前の天平神護2年(766)の時点で本宮と新宮の原型となる二社が存在した、としてもよいのではないかと思う。大同元年太政官牒の熊野牟須美神は、本宮の神ではないかと推測している。 
(2) 熊野早玉神と熊野坐神の昇格
長寛勘文によると、天安3年(859、尚4月25日に貞観に改元)1月27日、熊野早玉神社と熊野坐神は従五位下から従五位上へ。5月26日、二社は従二位に進む。貞観5年(863)3月2日、熊野早玉神は正二位に。延喜7年(907)10月2日、熊野早玉神は従一位、熊野坐神は正二位となる。天慶3年(940)2月1日、熊野早玉神と熊野坐神は共に正一位に進んでいる。
長寛勘文
天安三年正月廿七日甲寅。紀伊国従五位下熊野早玉神社。熊野坐神。並従五位上。
貞観元年五月廿六日辛巳。従五位上熊野早玉神。熊野坐神。並従二位。
同五年三月二日甲子。従二位熊野早玉神授正二位。
延喜七年十月二日丙午。授正二位熊野早玉神従一位。又従二位熊野坐神授正二位。
天慶三年二月一日丁酉。諸神位記請印中。熊野速玉神。熊野坐神。並授正一位。 
(3) 延喜式神明帳
延喜5年(905)、醍醐天皇(885〜930)の命を受け藤原時平(871〜909)らにより編纂が始められた「延喜式」は延長5年(927)に完成。その内の巻九と十は「延喜式神明帳」と呼ばれるが、そこには平安時代中期の全国の主要な神社(式内社)2861社、鎮座する神3132座が記載されている。熊野にあっては、巻十の「紀伊の国卅一座 大十三坐 小十八坐」の「牟婁郡六座 大二座 小四座」に、本宮は「熊野坐神社」、新宮は「熊野早玉神社」として記載されており那智の名は見られない。 
3 「日本霊異記」 

 

奈良時代から平安初期にかけて、仏教僧が、その名を現在まで伝えられるほどの旺盛な活動を展開し、修行・伝道と共に諸国の霊場を開創している。
・飛鳥時代から奈良時代にかけて、大和の葛城山一帯で活動した呪術者で、平安期の山林修行・山岳信仰の隆盛により修験道の開祖に仮託された役小角(役行者・生没年不詳)。
・民衆教化と社会事業を展開し、東大寺大仏造営の勧進も成し遂げ、日本初の大僧正となった行基(668〜749)。
・白山を開山し、各地に仏教を伝播させた越前の泰澄(682〜767)。
・多度神宮寺を創建し、鹿島神宮寺の創建も伝えられ、箱根三所権現を感得したという満願(生没年不詳)。
・伝説の多い肥後八代郡の比丘尼・舎利菩薩(生没年不詳)。
・上野・下野・武蔵で民衆を教化した道忠(生没年不詳)と一門。
・山林修行を行い、日光山を開山した勝道(735〜817)。
・常陸から会津にかけて、その活動と寺院の開創が伝えられる徳一(?〜824)。
彼らと同時代を生き、在地で仏教運動を行った一人として永興(生没年不詳)の名が挙げらる。永興の俗姓は葦屋君の氏、また市往の氏ともいい、摂津国手嶋郡の百済系氏族の家に生まれ興福寺の僧となった。天平宝宇2年(758)、三綱首班の上座職となったが紀伊国牟婁郡熊野村に移住し、山岳修行を行った。法華経読誦を重ね、呪験を獲得した永興は熊野の海辺で病者を看病し、人々を教化した。土地の人々は永興の行いをほめたたえて永興菩薩、または熊野が平城京南部に位置することから南菩薩と呼び、称賛したという。(1)
宝亀元年(770)、永興は第4代の東大寺別当に補任され、宝亀3年(772)3月3日の詔により、天皇の身体を護持する十禅師の一人に選ばれている。(2)熊野における永興の活動については、「日本霊異記」に法華経の霊験譚として紹介されている。(3)
「法花経を憶持せし者の舌、曝りたる髑髏の中に著きて朽ちずありし縁 第一」
(意訳)
ある日、永興のところに一人の禅師が訪れた。持ち物は、法華経一部と白銅の水瓶一つ、縄床一足(縄を編み張った椅子)だけだった。禅師は永興のもとで法華経の読誦に専念し、一年あまり経つと「これより山に入ろうと思う。伊勢の国に向かいます」と言い、永興に敬礼し縄の椅子を残して出発した。永興はもち米の干飯をついて粉にしたもの二斗分を禅師に施し、途中までの案内として優婆塞二人をつけて同行させた。
一日歩いたところで、禅師は法華経とあわせて鉢、干飯の粉等を優婆塞に与えて帰らせた。自らは、ただ麻の縄二十尋と水瓶一つを手にしているだけだった。
それから二年ばかりたった時、熊野村の人が熊野川の上流の山に入り、木を伐って船を作っていた。何かが聞こえるので耳を澄ますと、それは法華経を誦する声であった。日月を重ねても、その声はやむことはない。村人は法華経読誦の声に発心し、声の主を尊ぶべく自分の食料を捧げようと探し求めたが、ついに見つけることはできなかった。山中の小屋に帰っても、経を読む声は聞こえ続けた。それから半年をへて、村人は船を引き出すために再び山に入った。この時も、誰もいない山中に法華経が聞こえ、不審に思った村人は永興に伝えた。
永興も山中に入ったところ、まことに法華経を読む声が聞こえる。方々をたずね見たところ、一体の死骸があった。死体は、麻の縄を二つの足につないで崖にかかっており、崖より身を投げて死んだようだ(筆者・捨身行か)。死体の傍には水瓶があり、それを見た永興は、ことの次第を知るところとなった。
崖より身を吊るしていた者は、数年前に別れた禅師であったのだ。永興は悲しみにむせび、泣きながら熊野の村に戻っていった。それから三年を経過したある時、木こりが永興のところに来て、「法華経を読む声は常のごとく、やむことがありません」と告げた。再び山に向かった永興が禅師の骨を取ろうとして髑髏を間近に見ると、三年も経っているのに禅師の舌は腐らず、生きている人のようなものであった。まことに知るべきである。これは法華経の不思議なる力であって、経を読み、功を積んだ験徳であるということを。
同じく「日本霊異記」の「如法に写し奉りし法華経の火に焼けざりし縁 第十」にも、法華経の霊験譚が記されている。紀伊国安諦郡荒田村(和歌山県有田郡有田川町)に住む私度僧・牟婁沙弥(俗姓・榎本氏)は、六ヵ月にわたり清浄の身で法華経の書写をなした。しかし、自宅が火事になり全てを焼失してしまう。ところが、経箱だけは焦げもせず焼け残っていて、中の経典も無事であった。これは、牟婁沙弥が深く信心の功徳を積み法華経を写したことによるもので、護法神の守りが火災に際して霊験を現わしたものなのである。不信者の心を改めるのに善き話であり、邪見の人の悪を止めるのにすぐれた師匠なのである、という。
4 高僧来訪譚 

 

(1) 空海、義真、円仁、良源
「熊野年代記」は、「淳和(天皇) 天長四(年) 丁未 二月、空海入熊野。」と天長4年(827)に空海(774〜835)が熊野を訪れたと伝えている。
「永享弐年(一四三〇)八月中旬」と奥書にあり、室町前記に書写された「熊野山略記」には、「瀧尻金剛童子 不空羂索 慈覚大師顕給」「切目金剛童子 義真和尚顕給 十一面観音」(1)と書かれている。熊野詣でが盛んになった12世紀から13世紀にかけ、参詣路であった紀伊路、中辺路には多数の王子社が建てられ九十九王子と呼ばれた。そのうちの一つ、熊野街道中辺路沿いにある滝尻王子の本地・不空羂索菩薩については、慈覚大師円仁(794〜864)が顕したものだという。また紀伊路の切目王子の本地・十一面観音は、初代天台座主の義真(781〜833)が顕したものとされていた。
同じく「熊野山略記」には、「慈惠大師毎年一夏九旬行法菴室 今小別所是也」(2)とあり、天台の慈恵大師良源(912〜985)は毎年夏、那智山の庵室に籠り行法をなした。那智滝の下、川向の小別所が由来の地であるとしている。ただし、「慈惠大師」は「慈覚大師」とあったものが誤写された可能性があるかもしれない。
これら名だたる高僧の熊野来訪については、例えば、伊豆国・走湯山に弘仁10年(819)、空海来山の伝えがあるのと同じく、諸国の霊場・聖地にはつきものの「高僧来訪譚」の一つではないだろうか。祖師と同時代の史料には見受けられない事績が、後世、祖師・聖人の伝記が書写される過程で書き加えられたり、その地を訪れた法系の聖らが言い伝えて、後世に伝承されたものは数知れずあると思う。
尚、「熊野山略記」は奥書の「永享弐年(1430)」を始まりとして、江戸前期まで那智の千日籠行者に伝えられたと推定されており(3)、筆者としては継承の過程で書き加えられることもあったと思う。 
(2) 円珍
「元亨釈書」巻三・円珍(814〜891)の項では、「珍詣紀州熊野、適風雨晦冥。迷失路、俄大鳥飛来為前導。已而至祠、衣上之蓑不遑解、便講法華、神排殿戸。自此熊山一乗八講、雖晴天置蓑講師座下、以為式。」と、円珍の熊野詣でと法華八講の由来を伝えている。
円珍は紀州熊野へ参詣に向かったが、途中、激しい風雨となり道に迷ってしまった。そんな時、どこからともなく大きなカラスが飛来し導かれるままに進むと、祠の前にと至った。これは「故あることか」と思った円珍は衣の上の濡れた蓑を解くこともなく、直ちに法華経を講じていた。すると、祠の戸を押し開いて神が現れた。円珍はいたく感激し、これより後、熊野山での法華八講の場では、晴天でも蓑を置いてそこに講師が座り、法会を営むことになったという。
「熊野山略記」にも「礼殿執金剛童子(雷電八大金剛童子) 本地弥勒菩薩 智証大師顕給」(4)とあり、熊野の神の一つである礼殿執金剛童子(雷電八大金剛童子)の本地・弥勒菩薩は円珍が顕したものと伝えられていた。
園城寺の寺伝でも、籠山が終わって間もなくの承和12年(845)、円珍は大峯・葛城・熊野三山を斗藪修行したと伝えている。
円珍の前に神が現れたのは聖人霊験譚の一つと読めるが、円珍が熊野に参詣した記述はどうだろう。はたして史実に基づくものなのだろうか。
平安中期の公卿・漢学者の三善清行(847〜919、後にみる浄蔵の父)は延喜2年(902)10月、同時代を生きた円珍の事績を著している。この原本は現存しないが、嘉承3年(1108)4月21日、南山城の小田原山寺と思われる所で、興福寺僧と推される願澄が「吉祥房本」を以て書写し、慧穏法師丸が校合したものが東大寺真言院の僧・覚澄の手に渡り、「天台宗延暦寺座主珍和尚伝」(内題)として滋賀県大津市の石山寺に伝来している。
(原表紙端裏外題) 智証大師伝 僧覚澄之本
(内題)  天台宗延暦寺座主珍和尚伝
(奥書)  嘉承三年四月廿一日於小田原以吉祥房本
        書写了  筆師願澄
        「一校了慧穏法師丸也」(5)
「天台宗延暦寺座主珍和尚伝」では、円珍の出自、延暦寺で菩薩大戒を受け12年の籠山を行ったこと、6年間の入唐求法の旅、経典将来と帰国後の活動、弟子への付法と入寂までを記述しているが、熊野・那智に関するものは見受けられない。また、佐伯有清氏が「天台宗延暦寺座主珍和尚伝」よりも「早く成立したものであるとみなすことも不可能ではない」(6)と内容を詳細に検討された、「日本高僧伝要文抄」所載の「智証大師伝」と「諸寺縁起集」付載の「円珍和尚伝」の二つの文書にも熊野関係の記事は見当たらない。
一方、東寺には外題に「円珍和尚伝 翰林学士善行撰」、尾題に「智証大師伝」と記した古写本が伝わり、そこでは本文の後に「已上五箇条不載広略二伝散在諸文仍書集処也」と記され、「広略二伝」に載せられず散在する諸文を書き集めた五箇条が収録されている。
その一つには「大師参詣熊野御社於三所権現御最前勤修、法華八講時三所権現不堪法味開最殿扉顕、貴人形整衣服感納切随喜頻曰厳此妙文奥、旨威光熾烈也利益未来悪世衆生任意自在者、然者有何希望乎大師答曰自仏果○外全、无現世大望但護持我仏法継慈尊下生時是、権現再三許詫閉扉忽不現耳云々。口伝云昔熊野御最殿小社无前拝殿仍件、八講大師参詣霖雨之日給乍着蓑笠令、勤修八講給故依此例至于今者於拝殿之、内雨降不降不云登高座乍着蓑笠勤脩、者也云々」(7)とあって、熊野における円珍の事跡を伝えるものとなっている。
この東寺本は、文治元年(1185)8月27日、普甲寺で園城寺の僧・最珍が「自宮御所賜常喜院御本」を書写したもので、それを建歴2年(1212)4月23日、沙門某が写し、今度は「賜随心院御本」となったものを延文2年(1357)4月18日、東寺西院僧坊で賢宝が書写している。
文治元年八月廿七日於普甲寺自宮御所賜常喜院御本書写了裏書并奥検文件院法印手書也云々 最珍記
法印者行乗也 中納言藤原朝臣経定息也、宮大僧正行ー付法也後白川院師也
建歴二年四月廿三日以中納言律師最珍之本
        書写了  沙門在判
延文二年丁酉四月十八日於東寺西院僧坊賜随心院御本写留了
東寺末学賢宝 生廿五
同廿五日交点了(8)
石山寺本は「嘉承三年(1108)四月二十一日」の願澄書写で、東寺本は「文治元年(1185)八月二十七日」の最珍書写をはじまりとし、これをそのまま信用すれば、二つの文書には77年ほどの隔たりしかないが、ここはやはり、東寺本の熊野訪問は「散在諸文仍書集処也」とされた「五箇条」の中で語られるものであることに注意すべきだと思う。
熊野・那智の名が都で知られている時期が確認される史料としては、永観2年(984)、源為憲(?〜1011)が作成した「三宝絵」があり、この時には既に「熊野八講会」が喧伝されていたことがうかがわれる。続いて寛治4年(1090)、白河上皇が初めて熊野に参詣し、その時、先達を務めた園城寺の増誉(1032〜1116)が熊野三山検校に補任されている。これはそれ以前に、天台、とくに寺門系の僧が熊野への往来を重ねていたことを意味するものだが、円珍入寂(寛平3年・891)100年近くから200年にかけて、天台寺門系と熊野の関係が深まったところから発生した「聖人・祖師伝説」の一つが、「円珍熊野来訪譚」ではないだろうか。
円珍の法系達が熊野往来・修行を重ねる中で祖師来訪譚が生まれ、散在していた諸文の一つに書かれていたものが「円珍和尚伝」編纂資料の一つとして収集され「五箇条の一つ」として書きとどめられ、文治元年(1185)に至って最珍により書写されたのではないかと思う。佐伯有清氏は五箇条を「伝説五ヶ条の記載」(9)とし、「円珍伝説を知るのに価値がある記載であるということができる。」(10)と、「伝説」との見解を示されている。佐伯氏が円珍の事跡の詳細を記述された「円珍」(11)でも、熊野に関しては触れられていない。 
(3) 聖宝
熊野と祖師伝説といえば、後に当山派(真言)の祖と崇められるようになった真言僧の聖宝(832〜909)も注目すべき人物だ。
「熊野年代記」によると、元慶5年(881)8月、聖宝は新宮の神倉山で修行。また、寛平5年(893)、熊野に参詣した時には、庵主行徳を伴い金峰山に赴いている。延喜2年(902)、聖宝は熊野の奥地に入り、蛇を斬り池を祀っている。また神倉山に籠山修行したという。
「熊野年代記」
陽成(天皇) 元慶五(年) 辛丑 八月、聖宝、神倉於熊岳窟峯一七日畫夜修法苦行。
宇多(天皇) 寛平五(年) 癸丑 聖宝、熊野参詣砌庵主行徳内伴赴金峰山、依勅宣云々。時庵主六十二歳。
醍醐(天皇) 延喜二(年) 壬戌 聖宝上人、熊野奥に入り、蛇を斬り池を祭る。上人為僧正。神倉に籠、三日夜。
「年代記」の記述のうち、「庵主行徳を伴い〜」は、そもそも熊野に本願所が作られるのは15世紀以降のことなので、この時代には庵主自体が存在しない。後世、社家と本願が対立するようになった時代、本願が古くから存在していたことを示し、かつ歴史上の聖人と関係があったことを強調したもので、社家に対する本願の立ち位置を優位なものにするための作為的な記述だと思う。聖宝が「蛇を斬」ったとの記述も、正中2年(1325)頃、栄海(1278〜1347)が撰述した「真言伝」中の「聖宝の伝」にある「又、大峯は役行者、霊地を行ひ顕し給し後、毒蛇多く其道をふさぎて参詣する人なし。然るを(聖宝)僧正、毒蛇を去(しりぞ)けて山門を開く。それより以来斗藪(とそう)の行者相続て絶る事無し」という大峯での大蛇、毒蛇退治の伝説等を参考にしたものではないか。
これら「伝説」は除くとしても、聖宝が熊野を訪れた、ということに関してはどうだろうか。本願寺院が道俗の尊敬を集める聖人とのつながりを強調し寺の由緒を創ろうとした、と結論付ける前に、史実の可能性を探ってみたいと思う。まずは、聖宝の事跡を確認してみよう。
・承和14年(847)、聖宝は空海の実弟・真雅(801〜879)に随い出家する。
仏教教理への探求心が旺盛で、元興寺の願暁(?〜874)と円宗から三論を学び、東大寺の平仁から法相、同じく東大寺の玄永から華厳、真蔵からは律を学んでいる。
・貞観13年(871)、真雅より無量寿法を受学。
・貞観16年(874)、笠取山(醍醐山)山頂に草庵を構える。
・貞観18年(876)、笠取山山頂に准胝堂を建て、如意輪観音と准胝観音を造立。醍醐寺の礎をつくる。
・元慶4年(880)、空海の弟子にして、真雅から胎蔵・金剛の灌頂を受けた真然(?〜891)より、胎蔵・金剛両界の大法を受ける。
・元慶5年(881)夏、真然のもとで修行。この時、空海から真雅、真然へと伝わった「胎蔵普礼五三次第」を授与されている。
・元慶8年(884)、翌年、東寺の二の長者となる源仁(818〜887)のもとで、伝法灌頂を受ける。
・寛平7年(895)、東寺の二の長者に補任される。
佐伯有清氏は「醍醐寺要書」に掲げる、延喜13年(913)10月25日付けの太政官符に引用される観賢(12)の奏状にある、「先師(聖宝のこと)、昔、飛錫(ひしゃく)を振って、遍く名山に遊び、翠嵐(すいらん)、衣を吹きて、何れの巌を踏まず、白雲、首を払(かす)めて、何れの岫(くき)を探らざるはなし。然らば則ち徒(ただ)、遁世、長往の跡を刪(さだ)めんとす」をもとに、聖宝が跋渉したのは吉野の山々であり、現光寺(比蘇山寺=現在の世尊寺)に入山したことは確実であるとし、その根拠を挙げられている。(13)
・聖宝は空海の実弟である真雅のもとで出家したことから、空海が持していた虚空蔵求聞持法の行法の流れの中にあった。
・聖宝の三論教学の師・願暁は勤操(754〜827)の門弟で、道慈(?〜744)以来の、虚空蔵求聞持法の伝わる環境下にいた。
・願暁は元興寺の三論教学だけではなく、法相宗唯識にも通じる学僧で、法相宗の学系には現光寺での山林修行の伝統があった。
・「醍醐根本僧正略伝」(14)は、聖宝が現光寺で丈六の弥勒菩薩像と一丈の地蔵菩薩像を造立したと伝えていることから、聖宝と現光寺に密接な関係があったと考えられる。
聖宝はまた、金峯山との関わりも多く伝えられているが、佐伯氏は信憑性があるのは「醍醐根本僧正略伝」の「金峯山に堂を建て、並びに居高六尺の金色如意輪観音、並びに彩色一丈の多門天王、金剛蔵王菩薩像を造る。・・・・金峯山の要路、吉野河の辺に船を設け、渡子(とし)、傜丁(ようてい)六人を申し置けり」であるとし、これ以外の諸書が伝えるのはすべて伝説であることを指摘。大隅和雄氏の著作「聖宝理源大師」を引用しながら、聖宝が金峯山に堂舎を建て、仏像を造り、金峯山への要路である吉野川の渡船の設置と船頭・人夫を配備したのは、若き日の南都修学時代ではなく、彼の宗教的活動がかなり熟していた時期のことである、とされている。(15)
佐伯氏の教示のうち、特に観賢が「先師は昔、錫杖を手にして、遍く高山を遊行し、緑の山の気が衣を動かし、いずれの大きな岩を踏まないことがなく、白い雲が頭をかすめて、いずれの山の洞窟を探らないことはなかった。こうしてただ、山林に隠栖し長逝する場所を定めようとした」と記述していることからすれば、聖宝が各地の山岳霊場を訪ね歩く中で、熊野を訪れたことも考えられるだろう。また、「日本霊異記」の永興が東大寺別当に補任され、十禅師の一人に選ばれる以前に、紀伊国熊野村で修行していることも、一つの「先例」にはなる。ただし、現時点では「可能性がある」という域なので、聖宝の熊野来山は参考とするにとどめるべきではないかと思う。
尚、聖宝の蛇退治伝説を伝える地が、吉野と熊野を結ぶ修験の道である「大峯奥駈道」に存在しており、五来重氏は山伏の興味深い話を紹介されている。
「ちょうどM(筆者がイニシャルに変更)大先達と一緒にあるいていたので、その由緒をきくことができたが、山伏伝承では理源大師(聖宝)の大峯奥駈中興は大蛇を退治して道を開いたということになっている。その大蛇を七段に切ってすてたのが七つ池だという」(16)
奥駈道には多くの修行場があり、その場は靡(なびき)と呼ばれるが、吉野側の大峯山寺から那智山、熊野本宮に至るまでには、七十五の靡があるという。そのうち、第五十九の七曜岳と第六十の稚児泊の中間にある、七つ池と呼ばれるところが、聖宝が蛇を退治したとされる伝承の地のようだ。
このような聖人、修験者が竜や大蛇を退治したとの伝説について、宮家準氏は次のように解説されている。
「山岳中の霊地にある奇岩・滝・泉などは、修験者が山中に入る以前から神霊が住するとして人々によって崇められていた。特にすぐれた霊地の神霊・山の神・水分神などはとりわけ大きな霊力を持つとされていた。蛇・狼・狐・熊などの動物がこうした神のあらわれとしておそれられてもいた。なかでも竜や蛇は各地の山岳で水分神の体現とされている。当山派修験の開祖に仮託された聖宝が大峰山で大蛇を退治したとの伝承に見られるように、山岳に入った修験者が竜を退治したとの伝説は、修験者が山岳の主ともいえる水分神を自己の統御下においたことを物語っているといえよう」(17) 
5 三宝絵詞にみえる熊野 

 

平安期の私撰歴史書「扶桑略記」では、延喜7年(907)10月、宇多上皇(867〜931)が熊野に参詣したと伝えている。
正暦3年(992)に花山法皇(968〜1008)が那智滝籠を行ったと伝わることについて、「熊野年代記」は、「一条(天皇) 正暦三壬辰 法皇熊野行幸那智山滝本本尊御寄進、本宮法華経一部納、新宮へ御狩衣束納、八月上に還御御飾を妙法山に納一寸八分の金仏を令納。」と、花山法皇は那智山滝本に本尊を寄進し、本宮へ法華経一部を納め、新宮には狩衣装束を奉納。8月上旬には都に戻り、法皇の令により妙法山に一寸八分の金仏を納めたとしている。
鎌倉時代の軍記物語「源平盛衰記」では、「花山法皇御参詣、滝本に三年千日の行を始め置かせ給へり。今の世まで六十人の山篭とて、都鄙の修行者集りて、難行苦行するとかや。」と、花山法皇は那智で千日の滝籠を行い、以来、60人の修行者が山籠し難行苦行したと記している。また、「竜神」が現れて「如意宝珠一顆水精の念珠一連、九穴の蚫貝一つを奉」った。法皇は「此供養をめされて、末代行者の為にとて、宝珠をば岩屋の中に納められ、念珠をば千手堂のへやに納め」て、「蚫をば一の滝壺に放ち置かれた」としている。
「熊野山略記」も同様に参籠時の霊験譚を記していて、「花山法皇御参籠時、三重瀧ニ本地千手如意輪馬頭ト顕御ス」(1)と、花山法皇の那智滝籠中に本地・千手観音、如意輪観音が現れ、「花山法皇正暦年中、恭凝三ヶ年之参籠、号移千日之涼煥、専連六十人之禅徒、号行冣上之秘法、所謂卜断穀絶煙之栖」(2)と、法皇の那智滝籠は千日の長きにわたり、以来、六十人の修行者が連なったとしている。
花山法皇の那智滝籠は、鎌倉期の知識層には広く知られていたようで、源頼朝(1147〜1199)が師と仰いだ伊豆の国走湯山の住侶・専光房良暹(りょうせん)が、熊谷直実の突然の出家を諌めた手紙にも引用されている。それは「吾妻鏡」建久3年(1192)12月11条に「花山法皇の鳳凰城を去り、熊野山に臨む。また、皇祖の菩提を救はん為に、那智の雲に三千日参籠せしむ。これ皆、智恩・報恩の理を表すの故か。」と記されていて、法皇の滝籠は、皇祖の菩提を弔うためのものであり、智恩・報恩の理を表すものであったという。これは同時に、鎌倉期に那智参籠をした行者達の心中に、通じるものがあったのではないかと思う。
「貴人修行譚」ともいうべきか、熊野・那智に様々な霊験譚を持つ花山法皇だが、その花山院が天皇に即位した永観2年(984)の冬、詞書を配した一つの絵巻が成立する。それは「三宝絵」と題され、平安中期の官人で文学者の源為憲(?〜1011)が、冷泉天皇(950〜1011)の第二皇女である尊子内親王(966〜985)のために作成したものだった。その後、絵は逸亡して詞書が残り、それが仏教説話集「三宝絵詞・三巻」として伝来している。
「三宝絵詞」には熊野の「法華八講」が記述され、当時の「熊野の神の世界」における「仏教の色彩」を伝える史料となっている。
「三宝絵詞・下巻」 十一月
熊野八講会
紀伊国牟婁郡に神います。熊野両所、証誠一所と名づけ奉れり。両所は母と娘と也。結早玉と申す。一所はそへる社也。此の山の本神と申す。新宮、本宮に皆八講を行う。紀伊国は南海のきは、熊野の郷は奥の郡の村也。山重なり、河多くして、行く道遥かなり。春ゆき秋来りて、至る人まれ也。山の麓におる者は、木の実を拾いて命を継ぐ。海のほとりに住む者は、魚すな取りて罪を結ぶ。もしこの社いませざりせば、八講をも行はざらまし。此の八講なからましかば、三宝をも知らざらまし。五十人までも語り伝へ難かるべき眇々(べうべう)たる所に、妙法を広め聞かしめ給へるは、菩薩の跡を垂れたると言ふべし。四日の檀越、執行は、ただ来たれる人の勧むるに従う。八座の講師、聴衆は、集まれる僧の務むるに任せたり。僧供は鉢碗をも設けず。木の甲に受け、帯袋に入る。講説は裳袈裟を調へず。鹿皮の衣を着、脛巾をしたり。貴賎のしなをも選ばず、老少をも定めず。
冒頭で「紀伊国牟婁郡に神います」とし、その熊野の神を尊子内親王に教示するのに「熊野八講会」を題材にしたということは、熊野における法華八講が京の貴族・知識層に広く知られ、関心を持たれていたことを意味するものだと思う。同じ下巻では、「山階寺(興福寺)涅槃会」「薬師寺最勝会」「高雄(神護寺)法花会」「法花寺(大和国の総国分尼寺)花厳会」「比叡坂本勧学会」「薬師寺万灯会」「比叡舎利会」「大安寺大般若会」「比叡受戒」「長谷菩薩戒」「東大寺千花会」「比叡不断念仏」「八幡放生会」「比叡灌頂」「山階寺(興福寺)維摩会」「比叡霜月会」等々、著名寺院の法会の由来、縁起、霊験譚と並んで、山河遥かな熊野の地における法華八講の態様が記されている。
そもそも「三宝絵」作成の発端が、若くして入道した尊子内親王の仏教理解にあったことからすれば、10世紀の貴族・知識層の仏教入門には大和・京の有名寺院の信仰と共に、熊野信仰の理解が必要とされていたことが読み取れるのではないかと思う。後に見る熊野の紀行文、「いほぬし」の作者である増基法師(生没年不詳)が熊野本宮に詣でたのも、法華八講に参列するためであったと思われ、文中に「霜月の御八講になりぬ。その有り様常ならずあわれに尊し」と記していることは、当時の文人・教養層が熊野に関心を持ち、心を寄せていたことを示すものだろう。
「三宝絵詞」に書かれた熊野の社殿、即ち源為憲の伝聞するところでは、熊野の祭殿の一社は「熊野両所」で、もう一社は「証誠一所」と名づけられていた。後文によると、熊野両所とは結(むすび)と早玉(はやたま)の両所であり、二神が一社に祀られていた。両所の結の神(熊野牟須美神)と早玉の神(速玉神)の二神は、母と娘の関係だという。「一所はそへる社也」とは、証誠一所と熊野両所(結・熊野牟須美神と早玉・速玉神)は互いに寄り添う神であるということ、それは三神一体を意味するものだろう。続いて、「此の山の本神と申す」と、証誠一所は熊野の山の本神であると位置付けられている。
「熊野両所」が「結(熊野牟須美神)早玉(速玉神)と申す」と記されているところから、「此の山の本神」である「証誠一所」は家都美御子神と理解できるが、ここに書かれた「証誠」とは何を意味するのだろうか。
これについて山田孝雄氏は「ここにいふは阿弥陀経に極楽の荘厳と阿弥陀仏の功徳とを説き、東、南、西、北、上、下、十方の諸仏が各長広舌を出して、その誠実言なることを証明せりといふことに基づきてその垂迹を証誠大菩薩といへるなり。」(3)と解説されている。
証誠自体は仏語で「その事の真実・誠であることを証明するとの意」だが、管見によれば、「三宝絵」が仕上がった永観2年(984)当時、後の「長秋記」(長承3年・1134)のように家都美御子神の本地を阿弥陀如来と明示した文献は見当たらない。だが、「三宝絵詞」に法華八講の模様が記されているように、当時の熊野には仏教僧(天台だろう)が法会を定着させていた。ということは「ものの見方・考え方」も移植して、「本地垂迹説」が導入されていたのではないか、という疑問が生じる。
「三宝絵」以外に目を転じると、応和2年(962)の奥書を持つ「大安寺塔中院建立縁起」では八幡神の本地を釈迦三尊とする考えが読み取れ、寛和元年(985)には源信(942〜1017)が「往生要集」を著し、同じ寛和年間(985〜987)頃に慶滋保胤(933〜1002)が「日本往生極楽記」を編纂していて、永承7年(1052)の末法入りが視野に入った京の貴族、知識人に天台浄土教が広まっている。また、既に熊野の信仰は在地に埋もれたものではなく、都の教養人には広く知られるところとなっていた。
これらを勘案すると、この時の「証誠」は「『此の山の本神』と利益についてその真実・誠を証明するもの」なのか、または「『阿弥陀如来』があらゆる衆生を救い極楽浄土へ往生させることを誠に証(あか)すもの」という意なのか、判断に迷うところだ。
さらに追い打ちをかけられるのが、後文にも、どのような菩薩として垂迹したのか記述されていないものの、「菩薩の跡を垂れたる」とあって垂迹の思想が読み取れることだ。「菩薩の跡を垂れたる」についても、二通りのことが考えられ、どちらを取るべきか判断に迷ってしまう。一つは、「三宝絵詞」の永観2年(984)には熊野に本地垂迹説が導入されていたことを示すものである、というもの。もう一つが、かの「勧学会」に参加した源為憲の学識の範疇のことで、彼の観念世界に抱かれていた垂迹思想を熊野に当てはめてかく表現したものであり、現地に導入されていたわけではない、というもので、はたして前者、後者のどちらにすべきなのだろうか。
参考に、諸国の神社への「本地垂迹説」導入の時期についてみると、9世紀の半ばから10世紀にかけて仏菩薩の仮の姿としての日本の神という観念が現れ、11世紀から12世紀にかけて各地の神に本地仏が設定されている。では、熊野は、となればその時期を知れる史料、かつ明確に書かれた文献は「長秋記」で、「三宝絵詞」から100年以上を経過した長承3年(1134)のことになる。
「証誠」の意味するところ、「三宝絵詞」成立時の永観2年(984)での熊野への本地垂迹説導入の有無、という二つの問いについては、現時点では、各二つの回答のどちらとも言えない。今は、「三宝絵詞」に本地仏としての阿弥陀如来が明示されているわけではないので、永観2年(984)に、本地垂迹説が熊野に取り入れられていた可能性がある。または、熊野三山の神々の本地仏が設定されるようになる萌芽がここに見られる、としておこう。
本文に目を戻すと、本宮と新宮では法華経八巻を朝夕で二座、四日間で八座を講説する「法華八講」が行われているとする。紀伊国の南海の端、更なる奥地の熊野は山に山が重なり、川も多く、道遥かなる地である。山麓の民は木の実を食し、海辺の民は魚を食べては罪をつくっているという。このような辺境の地では五十展転して語り伝えることは難しく、社殿で営まれる法華八講によって民は三宝を知ることができるのであり、妙法が広まり民の耳に届くのは菩薩が衆生を済度すべく熊野に垂迹されたからなのである、という。この箇所については神の威光というよりも、仏教の衆生済度そのものの信仰世界が記述されているのではないかと思う。
法華八講の四日間の施主(檀越)や諸事を行う役僧(執行)は、定めというものはなく集う道俗の勧めにしたがい任に当たる。八座の講師、聴衆も定めはなく、参集する僧の勤めるに任せるというもので、参加者から任意に講師、聴衆を選んでいたようだ。そして僧の食事では鉢や椀を用いず木の甲で受け、腰に着けた帯状の袋に入れたという。講説の僧は、僧職にある者が身につける袈裟等を着用して衣装を整えることをせず、鹿皮の衣に脚絆を着けていた。そこでは貴賎もなければ老少もなかったという。
この文と「いほぬし」の記述によれば、本宮・新宮の法華八講は、和やかで素朴な雰囲気でありながらも、敬虔の念深きものであったといえるのではないだろうか。 
6 熊野と大峯の斗藪 「法華験記」「諸山縁起」 

 

(1) 法華験記
平安時代中期の長久年間(1040〜1044)、比叡山・首楞厳院の鎮源(生没年不詳)が撰した「大日本国法華験記」(法華験記)には、法華経と熊野にまつわる霊験譚が多く記されている。(各項ともに意訳)
「巻上・第九 奈智山の応照法師」
熊野奈智山(那智山)の住僧・応照は、法華経読誦をその業としていた。応照は人間と交雑することなく山林樹下を住みかとし、仏道に精進、懈怠することがなかった。法華経を転誦する時、薬王品に至る度に骨髄に銘じ肝胆に徹して、喜見菩薩が身を焼き、肘を燃やしたことを恋慕随喜した。彼は遂に念願を発し、薬王菩薩の如く身を焼いて諸々の仏に供養しようと思い立った。応照は穀を断ち、塩を離れて甘味を食せず、松葉を膳とし風水を服し、内外の不浄を清めて焼身の方便とした。その時に臨んで新しい紙の法服を着し、手には香炉を執り、薪の上に結跏趺座して西方に向かい諸仏を勧請し発願して言った。
「我はこの身心をもって法華経に供養し、頂きをもって上方の諸仏を供養し、足をもって下方の世尊に奉献する。背は東方の薄伽梵(有徳・仏の通号)納受したまへ。前は西方の正遍知(仏の十号の一つ)哀愍したまへ。乃至胸をもって釈迦大師に供養し、左右の脇をもって多宝世尊に施し、咽喉をもって阿弥陀如来に奉上する。乃至五臓は五智如来(大日如来、阿閦如来、宝生如来、観自在王[阿弥陀]如来、不空成就如来)に供養し、六府をもって六道の衆生に施与する」
応照は定印を結び口に妙法を誦し、心に三宝を信じ火定した。身体は灰となっても法華経を誦する声は絶えず、体が散乱することもなかった。火が消えた後、余光が残り虚空に照曜して山谷は明朗であった。見たこともない奇妙な鳥が数百も集まり、鈴の声の如くに和鳴飛遊していた。これは日本国最初の焼身であり、見た人、伝え聞いた人は皆、随喜したという。
那智山の一角、妙法山の阿弥陀寺に応照法師の火定三昧跡がある。寺伝では、唐より渡来した僧・蓮寂がこの地で法華三昧を修して、山頂に法華経を埋経、釈迦如来を安置したのが始まりとされている。妙法山の坊舎は釈迦如来像を本尊としていたが、弘安3年(1280)に真言と念仏を兼修する臨済宗の僧・心地覚心(1207〜1298)により再興され(1)、阿弥陀如来を本尊とする浄土信仰の寺になったという。
以来、妙法山は納骨と、死者を供養する霊場としての観念が在地に定着した。山麓で人が亡くなると、枕飯が炊かれる間に亡者の霊魂が枕元の櫁を持ち妙法山に登り、阿弥陀寺の無間の鐘を打ち鳴らすとされ、これは「亡者の熊野参り」として伝承されている。妙法山への納骨、納髪と死者供養は今日まで続いており、「死後、肉体から離れた霊魂・荒魂は子孫・遺族が供養することによって清浄なものとなり、山の高みに登る。山中は清められた死者の霊魂が集まる世界(他界)になる」という「山中他界」(2)の観念による祖先崇拝、死者供養の習俗の霊場として、熊野の一面である「死者の国・熊野」を象徴する地となっている。
「巻上・第十一 吉野奥山の持経者某」
諸山を巡行し仏法を修行していた沙門・義睿は、熊野山より大峯を通り吉野の金峰山へと向かう。しかし深山幽谷で道に迷ってしまい、さまようこと十数日に及んだ。その間、本尊を祈念し三宝を頂礼して、ようやく平正という林に着く。
そこには新造の浄潔なる僧房があり、禅室では二十歳位の聖人が法華経を誦し、童子が給仕をしていた。義睿の問いに、「元は比叡山東塔の三昧座主(康保元年[964]に第17代天台座主となった喜慶)の弟子であったが、勘当されてしまい各地を流浪していた。老境に入ってからはこの地に居を定めて八十余年、法華経を読み、死を期している」と聖人はいう。更に童子が給仕をしていることは「安楽行品第十四」の「天諸童子 以為給使」のとおりであり、若年のごとくは「薬王菩薩本事品第二十三」の「得聞是経。病即消滅。不老不死」が妄語ではなく真実であるからだという。その晩、僧房に泊まった義睿は、異類衆形の鬼神・禽獣が数千集会し、聖人が法華経を読むところを目撃する。    
翌朝、「奇異希有の異類の千形はいずこより来たのか」とたずねる義睿に、聖人は「法師品第十」の「若人在空閑 我遣天龍王 夜叉鬼神等 為作聴法衆」はかくの如しである、と告げる。その後、義睿は水瓶の導きで山頂に至り、里に出ることができた。義睿は深山の持経者・聖人の作法徳行を伝え語り、聞く人は随喜して涙を流し多くの者が発心したという。
「巻上・第十三 紀伊国宍背山に法華経を誦する死骸」
長年にわたり法華経を受持してきた壱睿は、熊野へ向かう道中、宍背山(鹿ヶ背峠・和歌山県日高郡と有田郡の境)で一泊した。夜半、法華経読誦の声が聞えてきたが、自らも法華経を誦し三宝を礼拝、罪を懺悔した。
朝になり周囲を見ると死骸の骨があり、舌だけが赤く鮮やかであった。感悦した壱睿はその晩も法華経を誦し、明け方、骸骨と語り合う。死骸は比叡山東塔の住僧・円善で、六万部の法華転読を志したが半分ほどで死んでしまい、生前の立願を果たすためにこの地で法華経を唱え続けてきた。今、願いは既に満ち、残りの経は幾ほどのものでもない。今年はここに住し、その後は都率の内院に生まれ弥勒菩薩に値遇して引摂を蒙りたい、という。
聞き終わった壱睿は骸骨に礼拝し、熊野に参詣した。後年、骸骨をたずねたがどこにも見えず、壱睿は随喜の涙を流した。
「巻上・第十四 志摩国の岩洞に宿す雲浄法師」
雲浄は初発心の時より専ら法華経を持し、常に世の務めを厭い、静閑の所を求め修行する沙門だった。ある時、霊験所に巡礼することを思い立ち熊野へと向かった。志摩の国を過ぎ、人家がなくなり海岸に至ったところで、岩洞に泊まった。岩洞の上には樹木が生い茂り、崖は海に切れ落ち、狭隘にして幽窟ともいうべきところである。ましてや岩洞内には異様な生臭さが立ち込め、恐怖もあり、身も心も休まることがなかった。雲浄は一心に法華経を誦し、早く夜が明けないものかと待ち望んだ。
深夜、大変な風雨となり、温かく生臭いものが身に迫ってきた。気がつくと、大きな毒蛇が口を開き、今まさに雲浄を飲み込もうとしている。彼はここにおいて死を定め、いよいよの信心を発して法華経を読誦した。願わくは経の力によって命終決定し、浄土に往生して悪趣に堕ちないことを、と。それを聞いた大蛇は、口を閉じ毒を収めてたちまちにして慈悲の心を起こし、害を加えることなく去っていった。その時、暴雨となって雷が日の光のように輝き、山の水はあふれ岩石が流れるほどだった。久しくして雨はやんだ。そこに朝服の人が現れ、雲浄を敬いかがみこんで礼をして言った。
「私は岩洞の主です。暴悪の身を受けて衆生を害し、人々を喰らったこと数万となります。今、聖人の法華経を誦する声を聞き、悪業転滅して善心が眼前のものとなりました。今宵の大雨は実の雨ではありません。私の両眼より流れ出づる涙なのです。悪業を滅したが故に、発露の涙を流しました。今より以後は、悪心を生じさせることはありません。(後略)」と、言い終わった人は、いずこかへと去ってしまった。
雲浄法師は大蛇の害毒を免れて奇特の念を生じ、ますます道心を発して、念を法華経につなぎ、休息することなく修行に励んだという。毒蛇すら法華経を聞いて、善心を発起したのである。後の人が法華経で善心を起こさないということがあろうか。
「巻中・第六十 蓮長法師」
沙門蓮長は一心に妙法華経を誦し、懈怠なく精進を重ねる法師であった。帯を解くのは沐浴の時だけ。横になり枕を用いて睡眠をすることなく、ひとえに起きて坐するのみだった。読経の時は、心は勇猛にして怠る思いなく、常に妙法華経を誦したが、懈怠の心が生じた時は休息もした。それ以外は常に、経を読み続けたのである。
蓮長は金峰、熊野等の諸々の名山、志賀(志賀寺=崇福寺)、長谷等の霊験所に参詣。一々の霊験名山に住しては、千部の妙法経を読誦した。日本国中の一切の霊験所に巡礼して、千部の法華経を読誦したのである。
「巻下・第九十二 長円法師」
天台の山僧・長円は法華経を読誦、不動明王に奉仕し、修行徳を重ね験力は顕燃たるものがあった。ある時、長円は熊野山より大峯に入り金峰山へと向かうが、深山の道に迷い前後不明の状態となってしまった。一心に妙法を誦したところ、夢に一人の童子があらわれ「天諸童子 以為給使 勿得憂愁 示其正路」と告げられる。夢から覚めた長円は正しき道を得て、金峰山に詣でることができた。
「巻下・第一二八 紀伊国美奈倍郡の道祖神」
法華経読誦の修行僧・天王寺の道公は常に熊野に参詣し、安居を勤めていた。熊野からの帰り道、美奈倍の郷(和歌山県日高郡みなべ町)の海辺の大木のもとに泊まった。
夜半、馬に乗った人が二、三十騎ほど現れて、木の下に集まってきた。一人が「木の下の翁だろうか」と問うと、下方より「翁である」と答えがあった。「速やかに出てきて共をせよ」との呼びかけに、翁の声は「荷負い馬の足が折れ損じて乗ることができず、役に立たない。明日には治療するか、他の馬を調達するかして共に参ろう。私は老境となり足腰が衰えていて、とても歩いていくことはできない」という。それを聞いた乗馬の人々は分散していった。
明朝、夜中のできごとを怪しんだ道公が大木の下をめぐり見ると、道祖神の像がある。像は古く朽ちており、長年月を経ているようだ。男の形はあったが女の形はない。像の前には板の絵馬があったが前足が破損しており、それを見た道公は糸で綴り補いもとの所に置いた。彼はことの縁を知るために、その夜も大木の下に宿った。やはり夜半になると多くの馬が集まり、今度は翁は馬に乗り、いずこかへと出ていった。
明け方、翁が帰ってきて道公に向かって言う。
「数十の馬は行疫神で、私は道祖神です。国の内を巡る時は、必ず翁が先触の役を務めます。もし共奉しなければ笞で打ち攻められ、言葉で罵詈されます。上人が馬の足を治してくれたので、この公事を務めることができました。 
今、私は下劣なる神の形を捨てて、上品の功徳の身を得ようと思う。我が身に受ける苦しみは無量無辺であり、聖人の力によって成就していただきたい」
道公は「そのようなことは私の力の及ぶところではない」と答えたが、道祖神は「この木の下で三日三夜、法華経を読んでください。さすれば、経の威力によって我が身の苦を転じて、浄妙の身を受けることができるでしょう」と言った。
そこで道公は言われたとおりに三日三夜、一心に妙法華経を読誦した。四日目に道祖神が現れ、持経者を礼拝して言う。
「聖人の慈悲によって今、この卑賎受苦の身を免れ、勝妙清浄の功徳の身を得て、補陀落世界に往生し観音の眷族となって菩薩の位に昇ろう。これは妙法を聴聞した神力です。ことの虚実を知ろうと思うなら、草木の枝で柴の船を造り私の木像を乗せて海上に放ち、その作法を見てみなさい」
そこで道公は柴の船を造り、道祖神の像を乗せて海上に放ち浮かべた。その時は風もなく波もなかったのに、船は南方の世界を目指し早々に走り去っていった。また、美奈倍の郷の老人が夢をみた。大木の下の道祖神が金色の菩薩形となり、光を放ち照らし輝かし、音楽を奏で舞いながら南方の世界を目指し、はるかに飛び上っていった。
道公はこの話を信受し、天王寺に帰って語り伝えた。聞く者は随喜して、皆道心を発したという。
「法華験記」では他に、法華経持経者が熊野をはじめ各地の霊場で神告を受けた話として法隆寺に住した明蓮「巻中・第八十 七巻の持経者明蓮法師」、熊野に参詣した持経者が女人変じた毒蛇に襲われるも法華経の功徳により天に昇るという「巻下・第一二九 紀伊国郡牟婁郡の悪しき女」が紹介されている。
これら「法華験記」の「物語」からは、多くの法華持経者が熊野に向かっていたことが確認される。沙門・義睿と出会った比叡山三昧座主の弟子である若き聖人と、死骸となって法華経を読誦し続けた比叡山東塔の住僧・円善、天台の山僧・長円の話しからは、そこに天台僧がいたことがわかる。また、沙門・義睿、若き聖人、長円の話からは「法華験記」が著される平安中期の長久年間(1040〜1044)以前から、熊野と大峯を結ぶ山林斗藪が行われていたことが読み取れると思う。 
(2) 浄蔵
平安中期の公卿・三善清行の子である浄蔵(891〜964)も、熊野と大峯に縁ある天台僧の一人だ。
「大法師浄蔵伝」によると、浄蔵は12歳で熊野・金峰等の諸国の霊場で修行を積み、16歳で比叡山の玄照阿闍梨より金剛界・胎蔵界・蘇悉地の三部の大法を伝授され、18歳になると大慧法師に随って悉曇を学んだ。19の時には比叡山横川の苔洞に籠り、六道を輪廻する衆生の抜苦与楽のため毎日、法華経六部を読誦。閼伽水を供えて毎夜、六千反礼拝を行った。23歳、一人で大峯に入る。24歳の時、葛城山・金剛山で修行し、役行者ゆかりの窟で不動明王を感得。延喜15年(915)、25歳の時に那智山に入り、那智滝の草庵で日夜、法華経六部を誦し護法を使役・予兆する力を獲得したという。
「大法師浄蔵伝」については偉人伝的な話しや霊験譚が多く、その点についての受容には慎重にならざるをえないが、天台僧の浄蔵が熊野をはじめ諸国の霊場をめぐり修行していた、という事例としては引用できると思う。
(浄蔵の熊野・那智修行については、「14 聖地に向かう仏教者」の項でさらに検討する)
「大法師浄蔵伝」大峯・熊野関係分
・十二・・・・詣熊野金峰等諸霊地、精修苦節。
・満十六随玄照受両界三部之大法。
・十八歳随大慧大法師、五大院安然和尚入室之弟子也、習学悉曇。
・十九歳誓期三箇年、蟄居横川苔洞、為六趣群類抜苦与楽、毎日誦法花経六部、三時修行法、六時備閼伽、夜行六千反礼拝。
・廿三歳独入大峰、百日糧備三升。
・廿四歳正月廿八日入葛木山、以栗為其糧也。二月晦到金剛山大谷。・・・・三月十三日着于二上窟、此窟昔役行者之所住也。於此七日夜遂以不眠伏一心誦呪、見明王之影現。
・廿五歳隠居那智山、誓限三年、則瀧下結菴以果大願遂、則日読蓮経六部、六時修行法、又以縄曳瀧、毎宵立瀧口、満真言洛叉遍況、松葉為食、口無塩栖之味、蔦苔為衣、身無防風之計、如此苦行不可称計矣。第二年八月、本師律徳送書曰、魔風高扇心水不静、病痾屢侵餘喘不幾乎、爭遂会面蒙護持矣・・・・其後律師敢無悩気矣、瀧山三年訖已以出洛。 
(3) 諸山縁起
「法華験記」に見られる山林斗藪に関連する文献として、「諸山縁起」がある。同書によれば平安後期、熊野で修行して山林を斗藪、同じく山林修行の聖地・吉野の大峯山を目指す修行者がいたことがうかがわれる。今日の「大峯奥駆道」の開拓期といえるだろうか。尚、後の本山派(園城寺系聖護院)と当山派(醍醐寺三宝院)の時代になると、熊野本宮から吉野に向かうのを順峯、吉野から熊野本宮へは逆峯と呼ばれるようになり、順峯は本山派、逆峯は当山派が主導した。
「諸山縁起」
白鳳の年、禅洞始めて熊野権現の御宝前に参じて、行ふ事既に畢んぬ。大峯に入りて籠る。十二年の春、胎蔵界の後門を出でて、同十三年の庚寅の年に、同じく金剛界の初門に入る。諸尊の位即ち金剛薩埵の位、現じ顕はれ給ふ。仏菩薩その数御座(ましま)す。未来の行者のため所々に示し記す。仏菩薩の嶽の住所なり。仁宗知ること独りなり。弟子舎兄は知らず。尤も具に諸仏を供養し奉るべし、菩薩の位を持念すべし。嶺々の霊所、諸天大仙人の住む宿所、皆あり、と云々。
これが文章どおり、私年号の一つ白鳳時代で、7世紀のこととするには無理があるようだ。「熊野権現の御宝前」とあるが、権現と呼称されるのは、後にみる「熊野本宮別当三綱大衆等解」に「三所権現の護持」とある永保3年(1083)の頃なので、7世紀に権現と呼ぶことはまずはない。熊野権現に参詣した禅洞という人物について、「日本思想大系二十 諸山縁起」の「補注」では、「熊野別当初代とされるが、詳伝は不明」としている。後半に出てくる、「仁宗の伝記も明らかでない」とする。
吉野と熊野を結ぶ大峯奥駆道の、釈迦ヶ岳より北に孔雀岳へ向かう途中の岩場に「両部分け」と呼ばれるところがあり、吉野側を金剛界、熊野側を胎蔵界として密教の曼荼羅世界に見立てている。文中の「胎蔵界の後門を出でて」「金剛界の初門」というのがそれにあたるのだろう。以下、本文は「成身会大日如来 弥勒の宿る金峯の洞、四所あり。一所は才身なり。下るに二所あり。篠の中に一所あり」等、実際の山々を金剛・胎蔵両界の曼荼羅に当てはめて具体的に解説している。
「諸山縁起」の文末には、
「已上、本の如く写し了んぬ。慶政本なり。已上、行蓮公(源少納言真実の孫なり)を以てこれを書写せしめ了んぬ。但し文字の尤も不審なるは、すべからく他本を請ひてこれを交勘すべきのみ慶政本なり」とある。
桜井徳太郎氏は、「成立年次を確定するのはむつかしいけれども、巻末に慶政(九条良経の男、1189〜1268)の奥書があり、また本文中に建久3年(1192)の年次や、熊野別当湛快(承安4年[1174]寂)・湛増(寿永または文治の頃別当となる)の名がみえるので、もしも奥書のごとく慶政の所蔵であることが確かならば、鎌倉初期かそれ以前に編集されたとみてよい」(3)と成立年次を推定されている。たしかに、「熊野権現の御宝前」との本地垂迹説成立以降の表現と、吉野と熊野を結ぶ大峯奥駆の山々を金剛界・胎蔵界曼荼羅に当てはめていることからすれば、平安末から鎌倉初期の編纂ということになると思う。
先に見たように、熊野の永興禅師のもとで修行し、山中で捨身行をなした法華経持経者を描いた「日本霊異記」の成立の時、弘仁年間(810〜824)には、山林斗藪と過酷な修行が熊野と周辺の深山で行われていたことがうかがえる。次に見た「法華験記」からは、平安中期には熊野と大峯という二つの聖地を結ぶ山岳路が開かれ、法華経の持経者が往来していたことが確認される。そして「諸山縁起」により、平安末期には、その道程は詳細な宗教的意義付けがなされ、聖地往来自体が宗教的に聖なる修行と高められていたことが理解される。 
7 増基法師の紀行文「いほぬし・熊野紀行」 

 

増基法師は「世を逃れて、心のままにあらむ」と思い、「世の中に聞きと聞く所々、をかしき」をたずねて、また「尊き所どころ拝み奉り、わが身の罪をも滅ぼさむ」として、諸国の名所・旧跡をたずね歩いた。彼はある年の冬、一人の童子を伴って熊野に参詣し、その模様を歌集であり紀行文でもある「いほぬし」(庵主日記)の「熊野紀行」に記している。   
「いほぬし」(1)は11世紀中頃には成立していて、平安後期の熊野を知ることのできる史料の一つだ。それによると、本宮には庵室が200から300も作られ、止住する修行者は礼堂に出仕して例時作法の勤行を行い、額ずきながら陀羅尼を誦していた。霜月には天台の法華八講を行っていたという。
「いほぬし・熊野紀行」の熊野参詣分
それより三日という日、御山に着きぬ。ここかしこ巡りて見れば、庵室ども二、三百ばかりをのが、思い思いにしたる様もいとおかし。親しう知りたる人のもとに行きたれば、蓑を腰に衾(ふすま)のように引きかけて、榾杙(ほたくい・燃え残った木)というものを枕にして、まろねに寝(ごろ寝)たり。ややと言えば、驚きて、とく入り給えと言いて入れつ、おほんあるじせんとて、碁石筍(ごいしけ・碁石の入れもの)の大きさなる芋の頭を取り出して焼かす。これぞ芋の母と言えば、さは乳の甘さやあらんと言えば、人の子にこそ食わせめと言いて、けいめいすれば、さて鐘打てば御堂へ参りぬ。頭引き包みて、蓑うち着つつ、ここかしこに数知らず詣で集まりて、例時果ててまかり出るに、或は僧正の御前に止まるもあり。礼堂の中の柱のもとに、蓑うち着つつ忍びやかに顔引き入れつつあるもあり。額づき陀羅尼読むもあり。様々に聞きにくく、あらはにそと聞くもあり。かくてさぶらうほどに、霜月の御八講になりぬ。その有り様常ならずあわれに尊し。八講果てての明日に、ある人こう言いおこせたり。
おろかなる心の暗にまどいつつ 浮世にめくる我身つらしな
いほぬしもこの事を真心にたう心を仏のごとしと思う。
白妙の月また出て照らさなむ かさなる山の遠(おく)にいるとも
また年ごろ家に尽くせることを悔いて
玉の緒も結ぶ心のうらもなく 打とけてのみ過しけるかな
さてさぶらうほどに、霜月廿日のほどの明日まか出なんとて、音無河のつらに遊べば、人暫しさぶらい給えかし。神も許し聞え給わじなど言うほどに、頭白き鴉ありて、
山からすかしらも白く成にけり 我が帰るべき時や来ぬらん
さて人の室(むろ)に行きたれば、檜を人の焚くか、はしりはためくをとりて侍れば、室の主、この山は榾杙(ほたくい)験ありて、はたはたとぞ申すと言えば、焚き声ならんと言いて発ちぬ。
(意訳)
休息地で「万代の神という手向けの神にお供えをし、深く祈念したからには 願う事は悉く成就するであろう」と詠んでから三日後、熊野の本宮に着いた。あちらこちらと巡って見れば、庵室が二、三〇〇ばかり、思い思いに建てられている様は実に趣深いものがある。親しい知りあいのもとに行ってみると、蓑を腰に夜具(衾)のようにかけて、燃え残った木材(榾杙)を枕にして、ごろ寝をしている。挨拶すると驚き起きて、「どうぞお入りなさい」と言われ、中に招かれた。庵室の主はもてなそうと、碁石入れ(碁石筍)ほどの大きさの芋の頭を取り出して、弟子に焼かせてくれる。皆で芋を食べていると、知人が「これこそ芋の母ではないか」と言うので、私が「さては乳の甘さだろうか」と応じると、知人は「ならば子供にこそ食わせたいものだ」と返したりして、和やかに談笑していた。そのうちに鐘が打ち鳴らされたので、皆で御堂へと向かった。
御堂には、頭を袈裟などで引き包み蓑を着た道俗が、ここかしこにと数知れず集まっている。定刻の勤行(例時)が終わり退出となったが、ある者は僧正(熊野別当のことか)の御前にとどまり、ある者は証誠殿の礼堂の柱のもとで、蓑を着たまま忍びやかに顔を袈裟などに引き入れている。また額づいて陀羅尼を読んでいる者もいる。読経の声は様々であり聞きとれないほどの喧噪で、「声が大きすぎる」との荒い声も聞こえてくる。
御堂参りを重ねているうちに、十一月の法華八講の日となった。その有り様は常のものではなく、実にありがたく尊いものである。法華八講が終わった翌日、ある人がこう詠われた。
「愚かなる心の暗きに迷いながら 浮き世をめぐる我が身の辛きことよ」
いほぬし(増基法師)もこの歌に感動して、仏道に一途な真心こそ仏のごとしであると思う。
「白く妙なる月はまた昇り照らすであろう 重なる山の遠くへ入ろうとも」
また、年来、出家せずにいたことを悔いて
「玉の緒を結ぶように心を固めていたのに 俗世のことにどれだけの時を過ごしてしまったのだろう」
さて、そのような日々を過ごすうちに、十一月二十日頃には出発しようと思い、音無川の岸辺でのんびりしていると、ある人から「もう暫くいらっしゃい。今、出発なさるのは、熊野の神が許さないことでしょう」と言われたが、その時、頭の白い烏が飛んでいるのが見えた。
「山からすの頭も白くなったようだ 我が故郷へ帰るべき時も来たのであろう」
そうして、ある人の庵室へと行ってみたところ、檜(ひのき)を焚いているのであろう、火の粉がはぜるのを見ていると、庵室の主が「熊野の山では燃え残りの木材(榾杙)に験があり、『はたはた』というのだ」という。いほぬしは「薪が燃える声なのでしょう」と答え、熊野を発った。
以上、「いほぬし」の一部分だけの引用だが、当時の本宮の風景とともに増基法師の心中も描き出されたような味わい深い紀行文だと思う。尚、平安後期には本宮・新宮・那智の各山に常住する僧(大衆・衆徒)の中に三昧僧がいて、法華三昧に従事していたことが文献から確認される。
「本朝世紀」仁平3年(1153)3月5日条(2)
僧事 院御熊野詣賞
本宮
権大僧都有観 一切経供養御導師
法橋湛実 別当湛快譲
権律師行政 御先達
長増 同譲 楽器修理功
新宮
法橋範智 権別当行範譲
那智
法橋尊誉 三昧堂修造功
阿闍梨尊済 客僧
「台記」仁平三年(一一五三)七月十五日条(3)
・・・・熊野新無三昧堂領事・・・・
「後鳥羽院庁下文」建暦二年(一二一二)二月日(4)
・・・・新宮陸拾斛祢宜給、本宮弐拾斛三昧僧給、那智弐拾斛社壇承仕等給・・・・
熊野・那智の各山には、常住僧以外にも諸国を行脚する多くの客僧が寄寓していて、本宮と新宮では、社殿前の礼殿(長床)に出仕して法会を行っていたことから長床衆と呼ばれた。長床衆は諸国をまわり熊野権現の霊験を説き、多くの修験者を統轄していた。後に見る、鎌倉時代の一遍の熊野成道を描写した「一遍聖絵」には、「本宮証誠殿の御前にして、願意を祈請し、目を閉ぢて未だ微睡(まどろ)まざるに、御殿の御戸を押し開きて、白髪なる山臥の長頭巾掛けて出で給ふ。長床には、山臥三百人許り、首を地につけて礼敬し奉る。」と、長床衆が登場する。
以上これまで見てきた「日本霊異記」「三宝絵詞」「法華験記」「大法師浄蔵伝」「いほぬし」等からは、熊野の霊場を訪れる法華経の持経者は奈良時代からあり、それは平安期に入り活発化したこと。熊野・那智は、古より法華経信仰有縁の地となっていたこと。熊野・那智では、天台僧により教理面が移植されていたこと等が読み取れるのではないかと思う。
8 貴紳衆庶の参詣 

 

(1) 上皇・公家の参詣
熊野三山には白河上皇(1053〜1129)が9回、鳥羽上皇(1103〜1156)21回、崇徳上皇(1119〜1164)1回、後白河上皇(1127〜1192)34回、後鳥羽上皇(1180〜1239)28回、土御門上皇(1196〜1231)2回、後嵯峨上皇(1220〜1272)3回、亀山上皇(1249〜1305)が1回と、歴代上皇をはじめ貴族の参詣が続いた。善行を重ねるほどに熊野三所権現の功徳が増すという、「多数作善功徳信仰」が上皇らの熊野詣での回数に表れているようだ。特に熊野に34回参詣した、後白河上皇が撰した歌謡集「梁塵秘抄」(治承年間[1177〜1181]成立)では、熊野に関する歌が多数載せられている。
「巻二 四句神歌 神分」
神の家の小公達は、八幡の若宮、熊野の若王子子守御前
比叡には山王十禅師、賀茂には片岡貴船の大明神
熊野へ参るには、紀路と伊勢路の何れ近し、どれ遠し、
広大慈悲の道なれば、紀路も伊勢路も遠からず
熊野へ参るには、何か苦しき 修行者よ、
安松姫松五葉松、千里の浜
熊野へ参らむと思へども、徒歩より参れば道遠し、すぐれて山峻(きび)し。
馬にて参れば苦行ならず、空より参らむ 羽賜(はねた)べ若王子
熊野の権現は、名草の浜にこそ降り給へ、
和歌の浦にしましませば、年はゆけども若王子
花の都を振りすてて、くれくれ参るは朧(おぼろ)けか、
且つは権現御覧ぜよ、青蓮の眼を鮮かに
「巻二 四句神歌 僧歌」
聖の住所は何処どこぞ、箕面よ勝尾よ。播磨なる、書写の山、
出雲の。鰐淵や。日の御崎、南は。熊野の。那智とかや
聖の住所は何処どこぞ、大峰葛城石の槌、
箕面よ勝尾よ 播磨の書写の山、南は熊野の那智新宮
大峰通るには、仏法修行する僧ゐたり、唯一人、
若や子守は頭を撫で給ひ、八大童子は身を護る
「巻二 雑 八十六首」
勝れて速き物、鷂(はいたか)隼(はやぶさ)手なる鷹、
滝の水、山より落ち来る柴車、三所五所に申す言
熊野の権現は、名草の浜にぞ降り給ふ、
海人(あま)の小舟に乗り給ひ 慈悲の袖をぞ垂れ給ふ、
「巻二 四句神歌 神社歌 熊野二首」
紀の国や牟婁の郡に坐(おは)します
熊野両所は結ぶ速玉
熊野出でて切目の山の梛(なぎ)の葉は
万(よろず)の人の上被(うはぎ)なりけり
参詣者は潔斎の後、音無川を徒渉して中州にある本宮(1)へと向かう。これは、「熊野詣日記」に「これをぬれわら沓の入たうと申す」とあるように、「ぬれわらじの入堂」といわれた。証誠殿で家都美御子神を拝し、奉幣・経供養を行いある者は現世安穏、後生善処、ある者は極楽往生を願った。本宮の後は熊野川を船で下って新宮へ、続いて那智に参詣、三所の近傍に祀られた神々も巡拝した。
特に歴代上皇の参詣では、山内の僧侶を集めて経供養導師のもと経典を転読せしめて一切経、金泥大般若経、五部大乗経、金泥一切経等の供養が行われ、更に写経の奉納、千僧供養も行われていて、「いほぬし」の記事と合わせ見ると、その態様は仏教式であったといえると思う。 
(2) 本地仏の設定
平安中期の文人・儒学者である慶滋保胤(よししげのやすたね)は、寛和年間(985〜987)に「日本往生極楽記」を編纂。その冒頭には、次のようにある。
予(われ)少き日より弥陀仏を念じ、行年四十より以降(このかた)、その志いよいよ劇(いそがは)し。口に名号を唱へ、心に相好を観ぜり。行住坐臥暫くも忘れず、造次顚沛(さうしてんはい)必ずこれにおいてせり。それ堂舎塔廟に、弥陀の像あり、浄土の図あるをば、敬礼せざることなし。道俗男女の、極楽に志あり、往生を願ふことある者には、結縁せざることなし。経論疏記に、その功徳を説き、その因縁を述ぶるものをば、披閲せざることなし。
保胤の阿弥陀仏への厚い信仰が伝わってくる記述だが、これより20年程前の応和4年(964)、彼は大学寮紀伝道の学生、天台僧と共に、念仏結社ともいうべき「勧学会」を始めている。そこで行われたのは、保胤の記すところでは、「方今、一切衆生をして諸仏知見に入らしむるは、法華経より先なるはなし。故に心を起し合掌して、その句偈を講ず。無量の罪障を滅して極楽世界に生ずるは、弥陀仏に勝るものなし。故に口を開き声を揚げて、その名号を唱ふ」(2)というもので、天台浄土教の法華と念仏の併修信仰であった。
「法華経こそが一切衆生を諸仏知見に入らしめ、念仏により極楽世界に生ずる」との信仰は、「朝・題目、夕・念仏」という言葉に示されるように、当時の貴族、知識層に広まっていた。このような、法華経により現世の知恵を得、往生を期して阿弥陀信仰に励み極楽浄土への憧れを抱いた者が遠路・難路を越えて熊野に詣でれば、そこでは自らの信仰が投影されようし、また受け入れる側もその「願い」と「求め」に応えたものを用意することになる。
永観2年(984)冬に成立した「三宝絵詞」では、「此の山の本神」である家都美御子神は「証誠一所と名づけ」られ、熊野の神々に本地仏が設定される萌芽がみられた。
「扶桑略記」永保2年(1082)10月17日条には、「十七日甲子。熊野山犯来大衆三百余人。荷負新宮那智御躰御輿。来集粟田山。暫安御輿於其山口。大衆参入公門。訴尾張国館人殺大衆等之状也。」とあり、熊野大衆が新宮・那智の神輿を奉じて上洛したことが記されている。この記述は「那智」の史料上の初見とされ、強訴で神輿を動座した初例(3)ともされる。
熊野別当が神領の押領を訴えた永保3年(1083)9月4日の「熊野本宮別当三綱大衆等解」には「三所権現の護持」とあって、この頃には、三山が共通して権現を祭る「熊野三所権現」が成立していたと考えられる。また、「権現」とあることから、永保年間には熊野の地は神仏が習合し、本地垂迹説により神が語られていたことが推測される。
鳥羽上皇の熊野御幸が回を重ねる頃には熊野三山の神々の本地仏が定まり、「長秋記」長承3年(1134)2月1日条には、「熊野十二所権現」の本地が書き留められている。鳥羽上皇と待賢門院璋子(1101〜1145)の熊野参詣に同行した源師時(1077〜1136)は、熊野三所権現の本地仏を先達に問い、その答えとして「丞相(証誠殿・本宮)の和命家津王子」は「阿弥陀仏」、「中宮(新宮)の早玉明神」は「薬師如来」、「西宮(那智)の結宮」は「千手観音」と回答されている。
「長秋記」
今夜、以便宜奏請云、鳥羽御堂用木瓦如何、仰云、可然者、招先達、間護明本地、
丞相、 和命家津王子、 法形阿弥陀仏
両所、 西宮結宮、女形、 本地千手観音
中宮、 早玉明神、俗形、 本地薬師如来
已上三所
若宮、女形、 本地十一面
禅師宮、俗形、 本地地蔵菩薩
聖宮、法形、 本地龍樹菩薩
児宮、 本地如意輪観音
子守、 正観音
已上五所王子
一万普賢、十万文殊、勧請十五所、釈迦、飛行夜叉、不動尊、米持金剛童子、毗沙門天、礼殿守護金剛童子・・・也、
平安後期には、熊野の神々は本地仏が仮の姿をとり現れたもの、即ち本地垂迹説で語られるようになり、本宮は阿弥陀如来の西方浄土、新宮は薬師如来の東方瑠璃浄土、那智は観音菩薩の補陀落浄土とされ、熊野の地は「山中他界」であると同時に、仏・菩薩の浄土と観念されるようになっていた。この信仰は、時代を重ねるごとに強まり、室町期の「熊野山略記」(永享2年・1430)にも「証誠大菩薩家津美尊者、本地無量寿仏垂迹也」「西御前 結宮者、本地千手千眼観自在尊垂迹也」「中権現早玉の宮者、本地薬師如来垂迹也」(4)と記されている。
本地仏が定められたということは、社殿にその像が造立されたということでもある。和歌山県岩出市の真言宗豊山派・遍照寺には木造弘法大師坐像があり、国の重要文化財に指定されている。坐像の胎内背面から発見された墨書銘には「熊野三御山大仏師良円 永仁二年甲午十月三日 奉造進之而已」と書かれていて、永仁2年(1294)頃、熊野三山の仏像を造立していた仏師の存在が確認される。(5) 
(3) 熊野信仰の心
ここで、熊野に参詣した古の人々の心に思いをはせてみよう。
11世紀中頃には設立した「いほぬし」の著者・増基法師は、熊野へと向かうにいたった心境を歌人らしく記している。
「いつばかりのことにかありけむ。世を逃れて、心のままにあらむと思ひて、世の中に聞きと聞く所々、をかしきを尋ねて心をやり、かつは尊き所どころ拝み奉り、わが身の罪をも滅ぼさむとする人有りけり。いほぬしとぞいひける。」
俗世を離れ自らの心のままにあろうと思い、世の中に伝えられる名所、趣のある所をたずねて我が心を解き放ち慰め、また聖地・霊場をめぐり拝してわが身の罪障を滅却させよう、とした増基がたずねたのが熊野だった。ここに当時の人々が熊野へと向かった「思い」と「願い」の一端が表現されていると思われ、それは「心の解放・慰め」であり、「滅罪と生善」ではなかったろうか。
天仁2年(1109)10月26日、本宮・証誠殿に参拝した藤原宗忠(1162〜1241)は「今日、幸いにして参詣の大望を遂げ、証誠殿の御前に参る。落涙抑え難く、随喜感悦せり。かくの如き事、定めて宿縁有るか。三種の大願成就するを知る。」と日記に記している(中右記)。
建仁元年(1202)、藤原定家(1162〜1241)は後鳥羽上皇の熊野参詣に供奉し、その模様を日記(熊野道之間愚記)に記録している。10月16日、「山川千里を過ぎ、遂に宝前に奉拝。感涙禁じ難し」と感激の中で本宮・証誠殿に参拝。17日には、「祈るところはただ、生死を出離し、臨終の正念なり」と書いている。
(熊野道之間愚記[又は後鳥羽院熊野御幸記とも]は定家の日記「明月記」からの抜抄)
「平家物語」にある、平維盛(1158〜1184)が熊野の海で入水する前に三山を詣でた時の描写は、同書が成立した鎌倉期における「熊野信仰の心」を豊かに表したものではないかと思う。
「証誠殿の御まへについ居給ひつつ、しばらく法施参らせて、御山のやうををがみ給ふに、心も詞もおよばれず。大悲擁護の霞は熊野山にたなびき、霊験無双の神明は、音無河に跡をたる。一乗修行の岸には感応の月くまもなく、六根懺悔の庭には、妄想の露もむすばず。いづれもいづれもたのもしからずといふ事なし。」
「当山権現(本宮・証誠殿)は本地阿弥陀如来にてまします。摂取不捨の本願あやまたず、浄土へ引導き給へ」
「那知の御山に参り給ふ。三重に漲りおつる滝の水、数千丈までよぢのぼり、観音の霊像は岩の上にあらはれて、補陀落山共いっつべし。霞の底には法花読誦の声きこゆ、霊鷲山とも申しつべし」
承久の乱(承久3年・1221)の頃からは、北伊勢の藤原実重(生没年不詳)の「作善日記」に見られるように、地方武士に熊野信仰がひろまり多くが参詣した。永仁4年(1296)頃に成立した歌謡集、「宴曲抄」上の「熊野参詣」には、遠路遥々難路を越えて、ようやくの思いで本宮の地に詣でた人々の喜びが、感性豊かにつづられている。
「山下に上を望めば、樹木枝を連ね、松柏(まつかしわ)緑(みどり)陰(かげ)繁(しげ)く、道は盤(つづら)に折れ、巌(いわ)は巓(てん)に通じて逆上(さかのぼ)る。登り登りては暫く休み、石岩の辺(ほとり)行々(ゆきゆき)ては、なお又、幽々(ゆうゆう)たりとかや。此の雲に埋(うず)む峯なれば、げに高原(たかはら)の末遠み。凝(こ)り敷く岩根は大坂の、王子を過ぎて行く前(さき)も、はや近露にや成りぬらん。桧曽原(ひそはら)しげり木の下に、木は枯れ寒く雪散れば、花かと紛(まが)ふ継桜(つきさくら)。岩神・湯の河はるばると、御輿を越えて傍伝(そばづた)ひ、閑谷(かんこく)人、稀(まれ)なり。鳥の一声、汀(なぎさ)の氷、峯の雪、物ごとに寂しき色なれや。
嬉しきかなや仰ぎ見て、是(これ)ぞ発心の、門と聞けば、水よりいとど濁りなく。心の内の水のみぞ、げに澄まさりて底清く、あらゆる罪も祓う殿。御前の川は音無の、浪(なみ)静かなる流れなればかや。」
平安から鎌倉、南北朝、そして室町時代に至るまで、多くの貴紳衆庶が熊野・那智に参拝した時は、神を拝しながらも仏を念じる心が強かったのではないだろうか。室町時代の「熊野詣日記」(応永34年・1427)では、熊野本宮を以下のように描写している。
「御社の躰たらくをおか(拝)みたてまつ(奉)るに、いまさら心もこと(言)葉におよハす(及ばず)、この土ハこれ花蔵の世界なり、証誠大菩薩の御本にいた(至)りぬるは、すみやかに九品のうてな(台)にむ(生)まれたり、十万億土をほかに求へからす、十二所の御本地各々の誓願をおも(思)ふに、いつれもたのもしからすといふ事なし。」
熊野本宮の様は心も言葉もつくせぬもので、それは「花蔵の世界」即ち阿弥陀仏のまします蓮華蔵世界であり浄土そのものであった。本宮で証誠大菩薩を拝すればすみやかに往生し、九品の蓮の葉の台に生まれるのであり、十万億土を他所に求めてはいけない。熊野十二所権現の本地の誓願はいずれも頼もしいものである、としている。訪れる人にとって、都のかなたにある熊野本宮は、現世の極楽浄土であった。 
(4) 五十六億七千万年の未来
貴紳衆庶が身を粉にして詣でた熊野・那智はまた、埋経の聖地でもあった。「那智山瀧本金経門(きんけいもん)縁起」は「大治五年(1130)九月六日 沙門行誉」の奥書を持ち、それを書き写した写本が、那智山瀧本の役職持ちであった旧大蔵坊の家系に伝来している。写本には年紀として、「明暦弐年(1656) 丙申 雪月六日書写 那智山瀧本衆中」と記されている。
「那智山瀧本金経門縁起」は沙門・行誉が作成したもので、それによると、比叡山・飯室で出家した沙門・行誉は諸国を巡錫して修行を重ね、満30の年の大治2年(1127)、那智山に参籠。金泥大般若経・法華経・最勝王経・五種陀羅尼等を書写口誦し、後世に伝えることを誓願する。常修三昧行・常坐三昧行・三時懺法等を修し度々、霊夢を感じている。ある時、王冠をつけ一丈許の梅枝を持った神人を見てその加護を受けて滝上に真金を得たという。
永誉・念覚ら、同法知識の助成で熊野三所権現の御正体、金剛界三十七尊、八供養具等を鋳造。続けて6万9千人の結縁者を募り、法華経、金泥大般若経、最勝王経、五種陀羅尼、仁王経等八百数十巻を書写し、大治5年(1130)9月26日、那智瀧本の岩窟内に奉納したという。「縁起」に記された目録の名称・寸法と、経塚から出土した遺物のうち六寸大日如来、五寸四仏・四菩薩等が照合されている。
那智四十八滝と呼ばれ60余の滝がある那智山は、役小角が「第一の霊場と定め」千日行を遂げ、奈良時代より一部僧侶、優婆塞の山林修行、滝籠行の場であったと伝承されている。那智滝の麓、金経門と呼ばれる周辺では大正7年(1918)に3回、昭和5年(1930)に2回にわたって経塚遺物が多数発見され、その内容も仏像、鏡像、懸仏、立体曼荼羅壇の品、仏具、経筒、鏡、利器、合子、大壺、古銭、小塔等、多彩なもので、二百数十点に達している。仏像は観音像と目されるものが多く、平安後期の像が大半だが、飛鳥時代の光背残欠、白鳳時代の観音像、十一面観音像、弥勒菩薩像、奈良時代の聖観音像、薬師像、観音像、槌出仏、鋳出薬師像もある。このことから、先に見た「日本霊異記」の法華経の持経者が、熊野の地で山林修行、民衆教化、病者救済の活動を8世紀から行っていたことを踏まえて、那智滝では奈良時代から仏像等を埋納していた、との指摘がある。
だが、これについては寛弘4年(1007)、藤原道長(966〜1028)が吉野の金峯山に自らの紺紙金泥の経巻を経筒に納めて埋納したのが、平安後期における、諸国での経塚造営のはじまりとされており、那智経塚の飛鳥・白鳳・奈良時代の仏像も道長の時代以降、那智での埋経が盛んになる中で持ち込まれたものではないだろうか。とくに那智山は、観音菩薩のいます補陀落浄土と喧伝されたことから多くの道俗が那智滝本に観音菩薩を埋納し、当時の諸国での埋経者がそうであったように、釈迦滅後五十六億七千万年後の弥勒菩薩の出現まで伝えるべく、経典の埋納を行い、遠き未来に思いをはせたのだろう。
行誉に続き、保元元年(1156)には、僧・願西が信濃国、美濃国の信者に如法経八部を書写させて、那智山の滝本におさめている。 
(5) 大海のかなたへ
熊野・那智の地に仏像・経典を埋めながら未来へ託した一方、那智の浜では二度と戻らない大海への船出をする人がいた。補陀落渡海である。
「吾妻鏡」天福元年(1233)5月27日条には、同年3月7日、日夜法華経を読誦していた智定坊が、那智の浜より補陀落山に向けて渡海したことを載せている。
武州御所に参り給う。一封の状を帯し御前に披覧せらる。
申せしめ給いて曰く、去る三月七日、熊野那智浦より、補陀落山に渡る者有り。智定房と号す。これ下河辺六郎行秀法師なり。故右大将家下野の国那須野の御狩の時、大鹿一頭勢子の内に臥す。幕下殊なる射手を撰び、行秀を召出して射る可きの由仰せらる。仍って厳命に従ふと雖も、其の箭中(あた)らず、鹿勢子の外に走り出づ。小山四郎左衛門尉朝政射取り畢んぬ。仍って狩場に於いて出家を遂げて逐電し、行方を知らず。近年熊野山に在りて、日夜法華経を読誦するの由、伝へ聞くの処、結句此の企てに及ぶ。憐れむ可き事なりと云々。
而るに今、披覧せしめ給ふの状は、智定、同法に託して、武州に送り進ず可きの旨申し置く。紀伊の国糸我庄より之を執り進じて、今日到来す。在俗の時より出家遁世以後の事、悉く之を載す。周防前司親實之を読み申す。折節祇候の男女、之を聞きて感涙を降す。武州は昔弓馬の友たるの由、語り申さると云々。彼の乗船は、屋形に入るの後、外より釘を以て皆打ち付け、一扉も無く、日月の光を観るも能わず。只だ燈に憑(よ)る可し。三十箇日の程の食物並びに油等、僅かに用意すと云々。
(意訳)
天福元年5月、北条泰時(1183〜1242)のもとに紀伊国糸我荘より一通の書状が届き、泰時は将軍・藤原頼経(1218〜1256)の前で周防前司親実に読み上げさせた。
3月7日、熊野那智の浜より補陀落山に向け渡海した智定房は、もとは下河辺六郎行秀という御家人であった。かつて下野国・那須野で行われた狩りの際、源頼朝より、勢子に取り囲まれた一頭の大鹿を射とめるよう厳命された。しかし、行秀が放った矢は命中せず大鹿は勢子の外に走り出してしまい、代わって小山四郎左衛門尉朝政の矢で討ち取ることができた。頼朝の前で失態を演じた行秀はその場で出家し、逐電。以後、行方不明となった。近年、行秀は智定坊と名乗り、熊野山で日夜、法華経を読誦していることを聞いていたが、結局は補陀落山への渡海に及んだという。まことに憐れむべきことである。
この書状は渡海前の智定坊が泰時に送り届けるよう同法に託したもので、紀伊の国糸我庄より今日、届いたものである。そこには在俗の時より出家遁世以後のことが、事細かく記されていた。周防前司親実が読み上げると、周囲の人々は感涙し、泰時は昔、行秀とは弓馬の友であったと語り憐れんだという。
智定坊の乗船は屋形に入った後、外から釘を打ちつけられて一つの扉も無いものだった。そこには日月の光が入ることもなく、ただ、燈だけを頼りとした。三十日程の食料とわずかばかりの油を積んでいたという。
「熊野年代記」には、「清和(天皇) 貞観十(年) 戊子 十一月三日、慶龍上人補陀落に入」とあり、貞観10年(868)以降、那智の海岸から補陀落浄土を目指して海へ出る補陀落渡海が始まっているようだが、平安から鎌倉時代にかけての、熊野・那智における法華経信仰と実践はどのようなものだったのか。それに対して後世にまで大きなインパクトを与える一つの解答として、滅罪経典として尽きつめたところの究極の行為、捨身行へと向かわせるものであったということがいえるのではないだろうか。その実例が永興のもとを訪れた法華経読誦僧の捨身であり、那智山・応照の喜見菩薩のごとき火定と、観音菩薩の補陀落浄土を目指した智定坊らの渡海だと思う。 
(6) 三山の組織
白河上皇の熊野詣でにはじまる参詣者の増加に伴い、平安末期から鎌倉時代にかけて、熊野三山の運営に関する組織が整備されている。古文書より確認される役職名等を確認しておこう。
本宮
熊野御幸略記・熊野本宮別当三綱大衆等解  永保3年(1083)9月4日
通目代、都維那、寺主、在庁、惣目代、上座、検校、修理別当、別当、
熊野山政所下文  正治2年(1200)5月
三昧別当、権少別当、通目代、正権寺主、公文上座、修理正寺主房
新宮
中右記  天仁2年(1109)10月26日条
鳥居在庁
申状  正応3年(1290)7月
宮主
那智山
中右記  元永元年(1118)10月15日条
上臈〜明暹阿闍梨が務める
僧綱補任  天承元年(1131)
別当〜長範が補任されている
初例抄・那智山僧綱例  仁平3年(1153)2月16日条
一和尚〜那智山常住の一和尚阿闍梨静誉が法橋に叙される
初例抄  元久元年(1204)
那智山検校〜長厳のために設けられる
(12世紀後期より始まる那智山執行が、13世紀末から滝本執行と共に一山を統轄するようになる)
滝本執行長済譲状案  承久元年(1219)10月18日
滝本執行〜この日の「滝本執行長済譲状案」が滝本執行の初出
権少僧都道覚紛失状  永仁6年(1298)5月1日
この日の「権少僧都道覚紛失状」には執行法眼覚賢、滝本執行法印幸意、法眼四人、権少僧都一人、権律師四人、在庁法眼祐承、在庁権律師道誉が署名
「那智山滝本事」(永享2年[1430]の奥書)によれば、那智山は滝山参籠衆、陀羅尼衆、本山籠衆から成っており、滝山参籠衆の行法は裸形上人、役小角、伝教大師、弘法大師、智証大師、叡豪、範俊といった那智七先徳より伝えられたもの、とされていた。
鎌倉時代からは皇族・貴族以外にも各地の武士らの熊野三山参詣が増え、旅の案内や宿泊その他の世話を行う者を先達と呼ぶようになり、参詣者及び現地に行かず先達に供養を託す人は檀那と呼ばれた。一方、熊野の地で先達、檀那を迎え、祈祷・案内・宿泊の世話をする者は御師といった。御師と先達・檀那は師檀関係を結んだものとされたが、それは同時に御師の経済的基盤となることを意味し、鎌倉・室町期から戦国期にかけては先達単位、一族・一門単位、国・郡・村単位で譲渡、売買、担保の対象とされて御師間で取引されている。
旦那譲状
(端裏書)「大寂房譲状」
永譲渡處分事
証道房分
一、 三河国先達引檀那峯来寺別当丹波僧都并経有三位大僧都門弟引檀那等・野依一族等
一、 常陸国先達引檀那・同ミもりの助僧都門弟檀那等
一、 丹後国先達引檀那等
右於先達諸檀那等者、宗禅重代相伝處也、而証道房仁永所譲渡也、全不可有他人妨者也、仍為後日亀鏡譲状如件
観応貳辛卯年(1351)十二月十三日
阿闍梨祐宗 花押
執筆祐方 花押
権少僧都 宗禅 花押(6)
室町時代には、武士・庶民の参詣が「蟻の熊野詣で」と称されるほどに活発なものとなる一方、戦乱、飢饉、洪水、大地震の度に各山共に経営に窮することとなった。那智山では、多くの坊が疲弊し檀那を手放し、廊之坊・花蔵院・実報院の三院が多くの檀那を買い取り、中でも実報院が大きな勢力となっていった。
旦那売券
永うり渡申旦那之事
合代貳貫文者、
右件之御旦那事者、紀伊国田辺ミなとの九郎兵衛うり渡申處実也、何方よりいらん一言候ハバ、坂本之平六子孫みちやり可申候、仍為後日うりけん状如件
享徳三年(一四五四)八月十九日
うりぬし坂本平六 花押
かいぬし那智山実報院(7)  
9 本地垂迹説 

 

ここでは熊野三山から目を転じ、中世仏教を語るのにさけて通れない本地垂迹説の成り立ちについて、ひととおり概観しておこう。 
(1) 仏菩薩の仮の姿としての日本の神
逵日出典氏の教示(1)によると、本地垂迹説は一挙にまとまって現れたものではなく、先に垂迹思想が現れているという。
文献上の初見は、「日本三代実録」の貞観元年(859)八月二十八日辛亥条、「依十禅師伝灯大法師位恵亮表請。始置延暦寺年分度者二人。其一人為賀茂神。可試大安楽経。加試法華経金光明経。一人為春日神。可試維摩詰所説経。加試法華経金光明経。表曰。恵亮言。皇覚導物。且実且権。大士垂迹。或王或神。」になるようだ。
これは貞観元年8月28日、延暦寺の恵亮(812〜860)が賀茂神と春日神のために比叡山に年分度者二人を置くことを表請した文で、賀茂神分の一人は大安楽経を修し、加えて法華経、金光明経を修する。春日神分の一人は維摩経を修し、加えて法華経、金光明経を修することにしている。続いての「皇覚の物を導くは且つは実、且つは権。大士の迹を垂るるは、或は王、或は神」(皇覚=如来が教え導くのには実[の姿]もあれば権[仮の姿]もある、大士[菩薩]が仮の姿と現れるのには、あるいは王となり、あるいは神となる)が垂迹思想の嚆矢とされるところだ。
次に、承平7年(937)10月4日、大宰府から筥崎宮に出された文書に、「彼宮此宮雖其地異、権現菩薩垂迹猶同。」(彼宮[宇佐宮]・此宮[筥崎宮]その地異なりと雖も、権現菩薩垂迹猶同じ。石清水神社文書・二)とある。法華経を納める宝塔院が宇佐弥勒寺(大分県宇佐市・宇佐神宮の境内にあった神宮寺)に予定されていたのが、筥崎神宮寺(福岡県福岡市箱崎の筥崎宮にあった)に変更されたことについて、「宇佐の宮と筥崎の宮では土地は異なるが、権現菩薩(八幡大菩薩)が垂迹されることは同じである」としている。
続いては、「大安寺塔中院建立縁起」(応和二年・962)の奥書で、それによると、大安寺の僧・行教(生没年不詳)は入唐帰朝の際、豊前国の宇佐八幡宮に一夏九旬の間参籠する。参籠中、衣の袖上に釈迦三尊が顕現しており、これは八幡神の本地を釈迦三尊とする考えが成立していたことを意味するものとされる。
以上の恵亮表請文、石清水神社文書、大安寺塔中院建立縁起より、9世紀の半ばから10世紀にかけて、仏菩薩の仮の姿としての日本の神という観念が現れていることが読み取れる。11世紀から12世紀にかけては、古来からの各地の神に本地仏が設定され、本地垂迹説が結実する時代となる。 
(2) 各社の本地仏
1 厳島神社
長寛2年(1164)9月、平清盛(1118〜1181)は一門の繁栄を感謝し来世の妙果を願い、法華経三十巻・阿弥陀経一巻・般若心経一巻・願文一巻を厳島社に奉納(平家納経)。その願文には「相伝云、当社是観音菩薩之化現也。」とあり、観音菩薩の化現が厳島社の神・伊都岐島明神であるとされていた。
「源平盛衰記」巻第十三の「入道信厳島並垂迹事」では、厳島社の本地を記述している。
本地を申せば、大宮は是れ大日、弥陀、普賢、弥勒。中宮は十一面観音。客人宮は仏法護持多門天、眷属神等、釈迦、薬師、不動、地蔵也。惣八幡別宮とぞ申ける。
厳島社の本地譚を記した「厳島御本地」にも、以下のようにある。
抑々厳島大明神と申し奉るは。我が朝推古天皇の御時。たんしやう五年甲申(きのえさる)十二月十三日に。 日本秋津島山陽道安芸の国ささいの郡とかげ村に。衆生済度のために跡を垂れ玉ふ。かの大明神の御本地を委しくたづねたてまつるに。昔天竺に十六の大国あり。
(中略)
今是程の島をみず。いつくしき島と仰せあるによつて。厳島とはそれより申し始まりけり。御託宣により。まづかりどのをはじめとして。まづ大ごんせんと申すなり。あしびきのみやの御事也。御本地は胎蔵界の大日なり。またあとより善財王の御事は。 たづねさせ給ひていらせ給へば。客人に思召。まろうど(客人)の御前とは申すなり。御本地は毘沙門天にておはします。たき(滝)の御前は。からびくせんの御王子の御事なり。御本地は千手観音にておはします。ひじり(聖)の御前と申すは。かびら(迦毗羅)国の上人にておはします。本地は不動明王にておはします。あらえびすと申すは。島の御案内申したるひじり蔵本なり。
2 日吉大社
最澄以来の日本天台と日枝山(比叡山)の山岳信仰、神道が融合した山王神道でも山王権現(日吉権現または日吉山王権現とも)の本地を設定している。それによると、大宮・大比叡(西本宮)は釈迦如来、二宮・小比叡(東本宮)は薬師如来、摂社である聖真子(宇佐宮)は阿弥陀如来、八王子(牛尾神社)は千手観音、客人(白山姫神社)は十一面観音、十禅師(樹下神社)は地蔵菩薩、三宮(三宮神社)は普賢菩薩とされている。
「源平盛衰記」巻第四の「山王垂迹の事」には、比叡山・大乗院の慶命が山王の本地を釈尊と知り、感涙した模様が記されている。
凡そ山王権現と申すは、磯城島金刺宮即位元年、大和国城上郡大三輪神と天降り給ひしが、大津宮即位元年に、俗形老翁の體にて、大比叡大明神と顕れ給へり。大乗院の座主慶命、山王の本地を祈り申されけるに、御託宣に云はく、此にして無量歳仏果を期し、是にして無量歳群生を利すと仰せければ、座主、提婆品の我見釈迦如来、於無量劫、難行苦行、積功累徳、求菩薩道未曾止息、観三千大千世界、乃至無有如芥子許非、是菩薩捨身命処と云ふ文に思ひ合はせて、大宮権現は、はや、釈尊の示現なりけり。されば、我が滅度後、於末法中、現大明神、広度衆生とも仰せられ、汝勿啼泣、於閻浮提、或復還生現大明神とも慰め給ひけるは、日本叡岳の麓に、日吉の大明神と垂跡し給ふべき事を説き給ひけるにこそと、感涙をぞ流されける。
3 春日社
「春日社古記」の承安五年(1175)三月一日条では、一宮から四宮、更に若宮の祭神の本地について、以下のように記している。
一宮 祭神・武甕槌命=本地・不空羂索観音
(「春日社古社記」「春日社私記」は、「あるいは釈迦如来」と追記)
二宮 祭神・経津主命=本地・薬師如来
(「春日社古社記」は「あるいは弥勒菩薩」と追記)
三宮 祭神・天児屋根命=本地・地蔵菩薩
四宮 祭神・比売神=十一面観音
(「春日社古社記」は大日如来、「春日社私記」は救世観音を追記)
若宮 祭神・天押雲根命=文殊師利菩薩
(「春日社私記」は「あるいは十一面観音」と追記)
4 祇園三所権現
治承3年(1179)4月、沙門観海は祇園三所権現(京都・八坂神社)の金銅三尺の仏菩薩像三体造立と、三尺の円鏡三面作成を発願。施主を募り助成を呼びかけた勧進文が平安後期の漢文集である「卅五文集」に載せられている。それによると、祇園三所権現の本地は薬師如来、文殊師利菩薩、十一面観音としている。
5 古事談
源顕兼(1160〜1215)が、建暦2年(1212)から建保3年(1215)の間に編纂した説話集「古事談」でも、神の本地仏にまつわる話を紹介している。
藤原範兼(1107〜1165)は京都・賀茂社に参詣するたび、般若心経を書き奉納していた。ある日、「大明神の御本地は何にて御坐(おはしま)すやらむ」と祈請。その後、夢の中に女性が現れ、本地を問うと蓮華を持つ等身の正観音に変じ、身を焼いて代受苦の姿を示した。目が覚めた範兼は等身の正観音を造立し、東山堂に安置したという。(第五神社仏寺・十四)。
平清盛が高野山に大塔を建てるべく自らも材木を持ち作業していた時、香染の僧が現れ、「日本国の大日如来は、伊勢大神宮と安芸の厳島なり。大神宮はあまり幽玄なり。汝適(たまたま)国司と為る。早く厳島に奉仕すべし。」と告げられた。清盛が僧の名を問うと「奥院の阿闍梨となむ申す(空海を意味する)」と答え、消え失せたという(第五神社仏寺・三十三)。
6 諸神本懐集
本願寺3世・覚如(1271〜1351)の長子で、親鸞(1173〜1262)より5代目にあたる存覚(1290〜1373)は東大寺で出家受戒後、興福寺、延暦寺で学び、真宗の布教を活発に行った。元亨4年(1324)、存覚は了源(1295〜1336)の求めに応じ、「浄土真要鈔」「持名鈔」「諸神本懐集」の三書を著わし付与している。そのうち「諸神本懐集」は、鎌倉新仏教の神道論を代表するもの、と評価されている。
主眼とするところは、「諸神の本懐を明かして、仏法を行じ、念仏を修すべき思いを知らしめんと思う」(同書冒頭)、即ち諸国の各社に祀られる神の本意は、衆生をして念仏に帰入させることにあるというものだが、文中、鹿島、熊野、三島、箱根、白山、熱田等、主だった神社の本地仏が記述されていて、興味深い内容だ。特に熊野十二所権現に関しては、「殊に日本第一の霊社と崇められ給う」として開創譚を引用しての長文の解説となっており、当時、熊野信仰がいかに喧伝されていたかをうかがえる史料となっている。 《 本文内の( )は筆者が記す。また適宜改行した 》
欽明天皇の御時、仏法はじめて広まりしよりこのかた、神を敬うを以て、国の政(まつりごと)とし、仏に帰するを以て、世の営みとす。これによりて、国の感応も他国に優れ、朝の威勢も異朝に超えたり。これしかしながら、仏陀の擁護、また神明の威力なり。ここを以て、日本六十六箇国の間に、神社を崇むること、一万三千七百余社なり。延喜の神明帳に載するところ、三千一百三十二社なり。
そもそも日本我が朝は、天神七代、地神五代、人王百代なり。その内、天神の第七代をば、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)と申しき。伊弉諾の尊は男神なり。今の鹿島の大明神(鹿島神宮)なり。伊弉冉の尊は妃神なり。今の香取の大明神(香取神宮)なり。
(中略)
鹿島の大明神は、本地十一面観音なり。和光利物のかげ遍く、一天を照らし、利生済度の恵み、遠く四海に蒙らしめたり。この故に、頼みをかける人は、現当の悉地を成じ、心をいたす輩(ともがら)は、心中の所願を満つ。奥の御前(鹿島社の摂社の筆頭・奥宮)は、本地不空羂索なり。左右の八龍神(鹿島社の摂社)は、不動毘沙門なり。利生各々頼みあり。済度皆むなしからず。
この明神は、奈良の京にしては春日の大明神(春日大社)と現じ、難波の京にしては住吉の大明神(大阪市の住吉大社)と現れ、たいらの京にしては、或いは大原野の大明神(京都の大野原神社)と崇められ、或いは吉田の大明神(京都の吉田神社)と示し給う。処々に利益を垂れ、一々に霊験を施し給う。本社・末社・利生皆めでたく、洛中・洛外、済度ことに優れたまえり。
子守の御前(熊野の子守宮か)は、鹿島にては奥の御前と現れ、春日にては五所の宮(不明)と示し給う。天照大神は日天子、観音の垂迹、素戔嗚尊(すさのおのみこと)は月天子、勢至の垂迹なり。この二菩薩は、弥陀如来の悲智の二門なれば、この両社もはら弥陀如来の分身なり。この両社すでに然なり。以下の諸社、また弥陀の善巧方便に非ずということあるべからず。
熊野の権現というは、元は西天魔訶陀国の大王、慈悲大賢王なり。しかるに本国を恨み給うことありて、崇 神天皇即位元年秋八月に、遥かに西天より五つの釼を東に投げて、「我が有縁の地に止(とど)まるべし」と誓い給いしに、一つは紀伊の国牟婁の郡(熊野三山)に止まり、一つは下野の国日光山(男体山、二荒山神社)に止まり、一つは出羽の国石城の郡(出羽三山)に止まり、一つは淡路の国諭鶴羽の峰(淡路島の諭鶴羽山)に止まり、一つは豊後の国彦の山(九州の英彦山)に止まる。かの彦の山に天降り給いし時は、その形八角の水精なり。その丈(たけ)三尺六寸なり。霊験九州に遍く、万人歩みを運ばずということなし。
今正しく、熊野権現と現れ給うことは、紀伊の国岩田河の辺(ほとり)に、一人の猟師あり。その名を阿刀の千世(あとのちよ)という。山に入りて、狩りしけるに、一つの熊を射たりけり。血をたずね、跡を求めて行くほどに、一つの楠木のもとに至れり。その時、具したりける犬、梢(こずえ)を見上げて頻(しき)りに吠えければ、千世、木の上を見るに、かの木の枝に三つの月輪あり。千世、怪しみをなして、問うて言う様、「月、何の故にか、空を離れて梢にかかれるや。月、また何ぞ三つ有るや。天変か、光ものか、甚(はなは)だ覚束(おぼつか)なし」と言う。その時、権現託宣しての給いけるは、「我は天変に非ず。光ものに非ず。東土の衆生を救わんがために、西天仏生国より遥かにこの朝に来たれり。即ち、熊野三所権現と現れんと思う。汝速やかに社壇を造りて、我を崇むべし」と示し給いければ、千世たちまちに渇仰(かつごう)の思いをなし、ことに帰依の心をいたして、即ち仮殿を造りて、勧請し奉りけり。それよりこの方、高きも賤しきも、これを崇めざるはなく、現世のため後生のため、これに詣でざる人なし。
まず証誠殿(熊野本宮)は阿弥陀如来の垂迹なり。超世の悲願(阿弥陀如来の本願・四十八願)は五濁の衆生を救い、摂取の光明(阿弥陀如来の慈悲の光明)は専念の行者を照らす。
両所権現(新宮と那智)というは、西の御前(那智の第四殿に祀られた夫須美神を西宮ともいう)は千手観音なり。一心称名の風のそこには、生老病死の垢塵(くじん)をはらい、一時礼拝の月の前には、百千万億の願望を満つ。
中の御前(新宮は中宮、中御前ともいう)は薬師如来なり。十二无上の誓願(薬師如来が過去世に立てた十二の大願)を起して、流転の群萌(一切衆生)を助け、出離解脱の良薬を与えて、无明(むみょう)の重病を癒やす。
かくの如く、三尊光を並べ、契りを結びて跡を垂れ給う。化度の方便(衆生を導き救うこと)、豈(あに)おろそかなることあらんや。
次に五所の王子(熊野十二所権現の内の五神で、若宮[若一王子]、禅児宮、聖宮、児宮、子守宮を五所王子という)というは、若王子(若宮・若一王子)は十一面観音なり。普賢三昧の力を以て、六道の衆生を化し、弥陀の大悲を司(つかさど)りて、三有(三界)の衆類を救い給う。
禅師の宮(禅児宮)は地蔵菩薩なり。大慈大悲の利生ことに頼もしく、今世後世の引導も、とも尊し。聖の宮(聖宮)は龍樹菩薩なり。千部の論蔵を作りて、有无(うむ)の邪見(事物を有とみる、または無とみる考え。中道からすれば邪見となる)を破し、无上の大乗を宣べて、安楽の往生を勧め給えり。
児の宮(児宮)は如意輪観音、子守の宮(子守宮)は聖観音なり。その形、いささか異なれども、共に観音の一躰なり。その名しばらく変われども、並びに弥陀の分身なり。済度並びなく、利益もとも遍し。
次に一万の宮(四所明神の内の一万十万のこと。四所明神=熊野十二所権現の内の四神で、一万十万、米持金剛、飛行夜叉、勧請十五所をいう)は、大聖文殊師利菩薩なり。三世の諸仏の覚母釈尊九代の祖師なり。もとは金色世界(文殊菩薩の浄土)にましますと雖も、常に清涼山(中国の五台山の異称、文殊菩薩の示現の地)に住し、竹林の精舎(法照が建てた念仏道場の竹林寺)を辞して、この片州に顕現し給えり。   
十万の宮(一万十万)は普賢菩薩なり。十種の勝願を起しては、安養(極楽)の往生を勧め、懺悔の万法を教えては、滅罪の巨益を示す。勧請十五所は、一代教主釈迦如来なり。娑婆発遣の教主として、衆生を西方に送り、仏語名号の要法を阿難に付属して、凡夫の往生を教え給う。飛行夜叉は不動明王なり。知恵の利釼を振るいて、生死の魔軍を摧破す。米持金剛童子は毘沙門天王なり。金剛の甲冑を帯して、煩悩の怨敵を降伏す。
おおよそこの権現は、極位の如来、地上の菩薩なり。就中(なかんずく)に証誠殿は、直ちに弥陀の垂迹にてましますが故に、殊に日本第一の霊社と崇められ給う。娑婆界の利益、无量劫をおくり弛(たゆ)むことなく、我が朝の化縁、既に数千年に及びて、益々盛んなり。
二所三島の大明神(箱根、伊豆山、三島の各社)というは、大箱根(箱根神社)は三所権現なり。法躰は三世覚母の文殊師利、俗躰は当来(未来)道師の弥勒慈尊、女躰は施无畏者(安心と勇気を与える者・観世音菩薩の異称)観音薩埵なり。
三島の大明神(三島大社)は十二願王医王善逝(いおうぜんせい・薬師如来の異称)なり。
八幡三所(八幡宮の祭神・八幡大菩薩、大帯姫命、比売大神)は、なかは八幡大菩薩、阿弥陀如来、左はおおたらしひめ(大帯姫命)、本地観音なり。右はひめ大神(比売大神)、大勢至菩薩なり。若宮四所(八幡宮の摂社。若宮、若姫、宇礼、久礼)というは、本地十一面観音なり。若姫は勢至菩薩なり。宇礼は文殊、必礼は普賢なり。是れ皆、応神天皇の御子なり。次に竹氏の大臣(八幡宮の摂社・武内宿禰を祀る)は、本地阿弥陀如来、是れ同じき天皇の臣下なり。へついどの(八幡宮の摂社)は普賢菩薩、同じき天皇の姨母(いも)なり。
日吉(日吉大社)は三如来の垂迹、四菩薩の応作なり。いわゆる大宮は釈迦如来、地主権現は薬師如来、聖真子は阿弥陀如来、八王子は千手観音、客人は十一面観音、十禅師は地蔵菩薩、三の宮は普賢菩薩なり。
このほか、祇園(京都・八坂神社)は浄瑠璃世界薬師如来の垂迹、稲荷(京都・稲荷神社)は聖如意輪観音自在尊の応現なり。白山(石川県白山市の白山比甜しらやまひめ]神社)は妙理権現、是れ十一面観音の化現、熱田(名古屋市・熱田神宮)は八釼大菩薩、是れ不動明王の応迹なり。 
(3) 八幡神の本地の変遷
応和2年(962)の奥書を持つ「大安寺塔中院建立縁起」からは、八幡神の本地を釈迦三尊とする考えが、当時の宇佐地方では成立していたものと理解された。それから140年後、大江匡房(1041〜1111)が編纂した「続本朝往生伝十六・真縁上人伝」(2)では、生身の仏は八幡神であり、その本覚は「西方無量寿如来なり」(阿弥陀如来の別名が無量寿如来)とし、八幡神の本地は阿弥陀如来とする考えが定着してきたことを示している。
真縁上人は、愛宕護山の月輪寺に住せり。常に誓願を起てて曰く、法花経の文に常在霊鷲山、及余諸住所といふ。日本国はあに入らざる余の所ならむや。然らば面(まのあた)りに生身の仏を見奉らむといへり。この願を充さむがために、専らに法花経を誦せり。字ごとに礼拝を修すること参度。閼伽を供ふること一前なり。やや多年を歴て漸くに一部を尽せり。敢へて示すところなし。第八巻の内題に到りて、行業已に満てり。その夜の夢に曰く、石清水に参るべし、云々といふ。かの宮に毎朝に御殿の戸を開く者を宮主と謂ふ。忽ちに客僧の御帳の前にあるを見て、大きに驚きて追却せむとを欲す。この間に石清水別当使を遣して、宮主の僧に告げて曰く、神殿の中に定めて客僧あらむ。左右(とにかく)にすべからず。これ今夜の夢の中に霊託を蒙るが故なり、云々といへり。ここに知りぬ、生身の仏は、即ちこれ八幡大菩薩なることを。その本覚を謂はば、西方無量寿如来なり。真縁已に生身の仏を見奉れり。あに往生の人にあらずや。
寛和元年(985)、比叡山横川・恵心院の源信が「往生要集」を著し、念仏を唱える功徳、善業、その優れたる所以を説き、浄土往生への道程を示したのと時を同じくして、慶滋保胤が「日本往生極楽記」を編纂(985〜987)。天台浄土教の展開、極楽浄土への信仰と隆盛により、八幡神の本地は釈迦三尊から阿弥陀如来へと変化し、広くいきわたり定着していった。 
(4) 本地垂迹説成立の背景
平安期における本地垂迹説成立の背景には、様々な見解が呈されている。ここでは佐藤弘夫氏、山中講一郎氏、逵日出典氏の見解を取り上げ、その内容を確認してみたい。(引用は趣意)
佐藤弘夫氏は「神国日本」(3)で、「平安時代に本地垂迹説が説き出され、またたく間に列島を席巻することになった原因は何だったのだろうか。その背景には、10世紀ごろから急速に進展する彼岸表象の肥大化と浄土信仰の流行があった。」とし、他界浄土―此土の二重構造をもつ中世的な世界観の完成により阿弥陀仏のいる極楽浄土への往生願望、また観音菩薩の補陀落浄土、弥勒菩薩の兜率浄土、薬師仏の浄瑠璃世界、釈迦仏の霊山浄土等、多彩な浄土への憧れが増し、そこから末法辺土の救済主としての垂迹がクローズアップされるようになった。垂迹のいる霊地・霊場に足を運び帰依、結縁することが往生へのなによりの近道と考えられるようになった、とされている。
山中講一郎氏は「日蓮自伝考」(4)で、「この『本地垂迹説』は、元来は、古代の神祇信仰を仏教に導入する過程で、用いられたものであったが、中世になると元の意図を離れて、神道の側から積極的に利用されるようになった。」とする。そこには「経済的な背景が窺える」として、在地性の強い神社は、氏神氏子として特定地域の氏族とのみ結びついていたが、荘園経営で学んだ神官たちは、自らの社を外に向かって発展させるためには多くの信者が必要であり、在地性の制約を取り払うべきことに気付く。そこで仏教が取り入れられ、神社の理論化を推し進め中世神道が形成されていく、とされる。
逵日出典氏は「八幡神と神仏習合」(5)で、「本地仏の設定・本地仏の造像安置は、本地垂迹説を具体的に説明するものとして、この説が普及する上で効果的であった。特に本地仏が造像され安置されると、いま拝している神の本地の姿が形となって眼前に実見されるのであるから、信仰上の効果はきわめて高いといえよう。そればかりではない。本地垂迹説には単に習合の理論化という面だけでなく、別の面でも大きな意味があった。」とし、氏神的な地域性(地域的閉鎖性)をもつ神祇が本地仏を持つことで、それまでの地域という枠を超えた一般的なものとなり信仰が広まる。個々の神祇の利益が本地仏を持つことで新たな特徴が加わり、祈願・祈祷・加持等が盛大な習合的宗教儀礼を伴うことから、大衆の信仰を引きつけることになった。祭神の父神、母神、子神という家族的関係が、本地仏の設定により脇侍、眷属、護法神等の観念に置き換えられて、多数の合祀、配祀、摂社、末社の神々が作り出され、祭神の細分化、複数化により参詣者の多様な祈願内容に対応できるようになった。本地垂迹説は神祇側、仏教側双方に、多くの信仰を集める上できわめて有効な手段となりえた、とされている。
以上の各氏の教示を踏まえて、本地垂迹説成立の背景をまとめてみよう。
10世紀ごろから急速に進展する彼岸表象の肥大化と浄土信仰の流行を背景とし、神社側がそれまでの在地性という制約を取り払い、仏教を取り入れ神の本地仏を設定する。そこには仏教側からの働きかけ、諸国を行脚する顕密の伝道者・聖ら、特に台密・東密による教説の伝授がなされたのではないかと思う。桜井徳太郎氏は「この説(本地垂迹説)が理論的に構築されるにあたって力を注いだのは、天台・真言の両宗であって、山王一実神道(天台)および両部習合神道(真言)の成立が重要な背景をなしている。したがって垂迹縁起の多くは両系列の教説から生み出されている」(6)と指摘されている。
続いて、本地仏を造像、安置することによって貴紳衆庶の参詣を促し、神の本地の姿を眼前とした祈願者の信仰はより強固になり、それが喧伝されることで信仰は広まり参詣者の層も厚く固いものとなる。この過程で個々の神祇の利益が強調され、それぞれの求めに応じた祈願・祈祷・加持が行われ、並行して中世神道理論の形成、各社と信者の組織化が促されることになる。結果、大衆に、垂迹のいる霊地・霊場に足を運び帰依・結縁することにより救済され、往生も叶うとの考えが定着していった、ということになると思う。
ここで注意したいのが、仏教側、神道側による本地垂迹の設定、理論化だけではなく、仏教公伝以外に名もなき渡来人によって日本の土俗の中に伝えられた仏の教えをもとに慣習的、自然的な神仏習合が民衆の間に醸成されていたという観点だ。「アジア仏教史日本編U・平安仏教<貴族と仏教>」(7)では、「平安初期までの神宮寺が中央の官大社でなくいずれも地方の神社であることを考えると、地方民衆の無自覚的な神仏習合思潮が土台になっているのではないか」と指摘されている。 
(5) 本地垂迹説と一仏信仰の理論化
このような本地垂迹説の定着により仏と神は縦に結合。その仏教の仏・菩薩は法身仏へと溶融するのだから、各地の神は元をたどれば同根であり、皆同じで一仏に帰結する、ということになる。園城寺長吏の公顕(1110〜1193)が高野山の聖・善阿弥陀仏に神仏の関係について教示した話が、無住(1227〜1312)の著した説話集「沙石集」(8)に載せられている。(9)
其の故は、大聖の方便、国により、機に随ひて定れる準(のり)なし。「聖人は常の心なし。万人の心を以て心とす」と、いふが如く、法身は定れる身なし。万物の身を以て身とす。然れば、無相法身所具の十界、皆一知毘盧の全體なり。天台の心ならば、性具の三千十界の依正、皆法身所具の万徳なれば、性徳の十界を修徳にあらはして、普現色身の誓を以て、九界の迷情を度す。又密教の心ならば、四重曼茶羅は、法身所具の十界也。内証自性会の本質をうつして、外用大悲の利益を垂る。顕密の意によりてはかり知ぬ。法身より十界の身を現じて、衆生を利益す。妙體の上の妙用なれば、水を放れぬ波の如し。真如はなれたる縁起なし。然れば、西天上代の機には、仏菩薩の形を現じて、是れを度す。
我国は粟散辺地也。剛強の衆生因果を知らず。仏法を信ぜぬ類には、同體無縁の慈悲によりて、等流法身の応用を垂れ、悪鬼邪神の形を現じ、毒蛇猛獣の身を示し、暴悪の族を調伏して、仏道に入れ給ふ。されば他国有縁の身をのみ重して、本朝相応の形ちを軽しむべからず。我朝は神国として大権あとを垂れ給ふ。又、我等みな彼の孫裔也。気を同する因縁あさからず。此の外の本尊を尋ねば、還て感応へだたりぬべし。よりて機感相応の和光の方便を仰て、出離生死の要道を祈り申さんにはしかじ。
諸国の神々が縦に一仏に帰結するということは、垂迹の神を信仰することの理論を補強することになるが、一方では、その一仏を信仰すればあらゆる垂迹の神明を崇めるということにもなり、一仏信仰の理論化もなされることになる。先に見た「諸神本懐集」の冒頭と次の垂迹の神明解説の末尾、更に文末は、浄土教の信仰の根幹をなす阿弥陀一仏への帰依という点において、そのことを端的に言い表しているものではないだろうか。
「本懐集」の冒頭
それ仏陀は神明の本地、神明は仏陀の垂迹なり。本に非ざれば迹を垂るることなく、迹に非ざれば本を現すことなし。神明といい仏陀といい、表となり裏となりて、互いに利益を施し、垂迹といい本地といい、権となり実となりて、共に済度をいたす。ただし深く本地を崇めるものは、必ず垂迹に帰する理(ことわり)あり。本より垂るる迹なるが故なり。ひとえに垂迹を尊ぶものは、いまだ必ずしも本地に帰するいいなし。迹より本を垂れざるが故なり。この故に、垂迹の神明に帰せんと思わば、ただ本地の仏陀に帰すべきなり。
垂迹の神明解説の末尾
これ(鹿島、香取、熊野、二所三島、日吉、白山等の諸国の各社は)皆、その本地をたずぬれば、極果の如来、深位の大士なり。興隆仏法の本誓にもよおされ、利益衆生の悲願に住して、仮に神明の形を現じ給えり。寂光の秋の月、光を秋津島の波に宿し、報身の春の花、匂いを豊葦原の風に施す。内証は皆、自性の法身、本地は悉く報身の全躰なり。その本地、様々に異なれども、皆弥陀一仏の知恵に収まらずということなし。かるが故に、弥陀に帰し奉れば、諸々の仏菩薩に帰し奉る理(ことわり)あり。この理あるが故に、その垂迹たる神明には、別して仕えまつらねども、自ずから是に帰する道理あるなり。
文末
諸行をさしおきて念仏に帰するは、難行道を捨てて易行道に移るなり。末代相応の法なるによりて、決定往生の益を得べきが故なり。垂迹にとどまらずして、本地を仰ぐは、神明の本懐をたずね、権現の本意を信ずるなり。神明のまことの御心は、垂迹を崇められんとには非ず。衆生をして仏道に入れしめんと思し召すが故なり。本地の仏菩薩は、悉く弥陀一仏の智慧なれば、弥陀の名号を称するに、十方三世の諸仏おのずから念ぜられ給う。諸仏菩薩、念ぜらるるいわれあれば、その垂迹たる諸神みな、また信ぜらるること、その理必然なり。されば念仏の行者には、諸天・善神かげの如くに随いて、これを護り給う故に、一切の災障自然に消滅し、諸々の福祐求めざるに自ずから来たる。現世安穏にして、後生には必ず浄土に至り、長時永劫に无為の法楽を受く。究竟して、必ず菩提を得るなり。まことにこれ无明の鎖を切る利釼、煩悩の病を治する良薬なり。釈尊はこれがために言葉をはきて讃嘆し、諸仏はこの故に舌を並べて証誠(しょうじょう)し給えり。仏陀の擁護にあずかり、神明の御心に叶わんと思わんにも、ただ懇(ねんご)ろに後生菩提を願いて、一向に弥陀の名号を称すべきものなり。 
(6) 釈迦一仏へ 日蓮の場合
「諸神本懐集」では「本地の仏菩薩は、悉く弥陀一仏の智慧」として、阿弥陀如来への帰依を説いたが、その一仏を釈迦として、「一切世間の国々の主とある人何れか教主釈尊ならざる。天照太神・八幡大菩薩も其の本地は教主釈尊なり」と説示したのが法華経の行者・日蓮(1222〜1282)だった。
平安末から鎌倉期にかけ、八幡神の本地は阿弥陀如来として広く信仰された一方、和銅元年(708)建立とされる大隅八幡宮(鹿児島神社)では11世紀以降、八幡神を正八幡とし、本地は釈迦如来とたて、宇佐八幡宮とは本家争いをしていた。大隅の正八幡信奉は少数派ではあったろうが、日蓮は正八幡を用いて本地・釈迦を強調、自説として展開している。(10)
弘安2年(1279)2月2日「日眼女釈迦仏供養事」(真蹟曽存)
法華経の寿量品に云はく「或は己身を説き或は他身を説く」等云云。東方の善徳仏・中央の大日如来・十方の諸仏・過去の七仏・三世の諸仏、上行菩薩等、文殊師利・舎利弗等、大梵天王・第六天の魔王・釈提桓因王・日天・月天・明星天・北斗七星・二十八宿・五星・七星・八万四千の無量の諸星、阿修羅王・天神・地神・山神・海神・宅神・里神・一切世間の国々の主とある人何れか教主釈尊ならざる。天照太神・八幡大菩薩も其の本地は教主釈尊なり。
(「昭和定本 日蓮聖人遺文」以下、「定」と表記 p.1623)
弘安3年(1280)12月18日「智妙房御返事」(真蹟)
世間の人々は八幡大菩薩をば阿弥陀仏の化身と申すぞ。それも中古の人々の御言なればさもや。但し大隅の正八幡の石の銘には、一方には八幡と申す二字、一方には昔し霊鷲山に在て妙法華経を説て今正宮の中に在て大菩薩と示現す等云云。月氏にては釈尊と顕はれて法華経を説き給ひ、日本国にしては八幡大菩薩と示現して正直の二字を願に立て給ふ。教主釈尊は住劫第九の減、人寿百歳の時、四月八日甲寅の日中、天竺に生れ給ひ、八十年を経て、二月十五日壬申の日御入滅なり給ふ。八幡大菩薩は日本国第十六代応神天皇、四月八日甲寅の日生れさせ給ひて、御年八十の二月の十五日壬申に隠れさせ給ふ。釈迦仏の化身と申す事はたれの人かあらそいをなすべき。
しかるに今日本国の四十五億八万九千六百五十九人の一切衆生、善導・慧心・永観・法然等の大天魔にたぼらかされて、釈尊をなげすてて阿弥陀仏を本尊とす。あまりの物のくるわしさに、十五日を奪ひ取て阿弥陀仏の日となす。八日をまぎらかして薬師仏の日と云云。あまりに親をにくまんとて、八幡大菩薩をば阿弥陀仏の化身と云云。大菩薩をもてなすやうなれども、八幡の御かたきなり。知らずわさ(左)でもあるべきに、日蓮此二十八年が間、今此三界の文を引て此の迷ひをしめせば、信せずばさてこそ有るべきに、い(射)つ、き(切)つ、ころしつ、ながしつ、をう(逐)ゆへに、八幡大菩薩宅をやいてこそ天へはのぼり給ひぬらめ。日蓮がかんがへて候し立正安国論此なり。(定 p.1826)
弘安三年十二月「諌暁八幡抄」(真蹟)
大隅の正八幡宮の石の文に云く「昔霊鷲山に在て妙法華経を説き今正宮の中に在て大菩薩と示現す」等云云。法華経に云く「今此三界」等云云。又「常に霊鷲山に在り」等云云。遠くは三千大千世界の一切衆生は釈迦如来の子也。近くは日本国四十九億九万四千八百二十八人は八幡大菩薩の子也。今日本国の一切衆生は八幡をたのみ奉るやうにもてなし、釈迦仏をすて奉るは、影をうやまつて骵をあなづる。子に向て親をのる(罵)がごとし。本地は釈迦如来にして月氏国に出でては正直捨方便の法華経を説き給ひ、垂迹は日本国に生れては正直の頂にすみ給ふ。(定 p.1848)  
10 「平家物語」に見える熊野信仰 

 

鎌倉時代に成立したとされる「平家物語」には、熊野信仰全盛期の様が見てとれるような描写が多くある。長文となってしまうが、「平家物語」の熊野関係の記述を見てみよう。《適宜改行した》
「巻第一・鱸(すずき)」
平家かやうに繁昌せられけるも、熊野権現の御利生とぞきこえし。其の故は、古(いにしへ)、清盛公、いまだ安芸守たりし時、伊勢の海より船にて熊野へ参られけるに、大きなる鱸の船に入りたりけるを、先達申しけるは、「是は(熊野)権現の御利生なり。いそぎ参るべし」と申しければ、清盛宣(のたま)ひけるは、「昔、周の武王の船にこそ、白魚は踊り入りたりけるなれ。是、吉事なり」とて、さばかり十戒をたもち、精進潔斎の道なれども、調味して、家子侍共に食はせられけり。其の故にや、吉事のみうちつづいて、太政大臣まできはめ給へり。子孫の官途(くわんど)も、竜の雲に昇るよりは、猶すみやかにり。九代の先蹤(せんじょう)をこえ給ふこそ目出たけれ。
(意訳)
平家がかように繁昌したのも熊野権現の御利益である、と諸方に聞こえている。その故は、平清盛(1118〜1181)がまだ安芸守であった頃、伊勢の海より船で熊野へ参詣したが、突然、大きな鱸が船に躍り込んできた。それを見た先達は「これは熊野権現の御利益です。急いで食べましょう」と言い、清盛は「その昔、周の武王の船に白魚が躍り込んだというが、これも同じ吉事である」として、固く十戒をたもって精進潔斎をしてきた道中ではあったが、鱸を調理して家の子、侍達に食べさせたのである。その故であろうか、清盛には吉事のみが続いて、太政大臣まで昇りつめている。清盛の子孫の官位も、竜が雲に昇るよりも、なお速いものであった。先祖・九代の先例を越えられたのはめでたいことである。
「巻第二 大納言流罪」
安元3年(1177)6月、後白河院を擁する近臣が平家打倒を企てたとされる「鹿ケ谷(ししがだに)事件」では、密告によりことが事前に露見。首謀者とされた大納言・藤原成親(1138〜1177)は流罪となる。かつて後白河院の熊野参詣に随った成親が、兵に囲まれて船に乗り込む光景を描いた文章は、この時代における熊野詣での模様が窺われるものとなっている。それによると、「熊野や天王寺に参詣する時は、二つ瓦、三棟の立派な御座船に乗り、続く供船は二、三十艘ほど漕ぎ連ねていた」という盛大なものだった。
熊野詣、天王寺詣なんどには、二つがはらの三棟につくったる舟に乗り、次の舟二三十艘漕ぎつづけてこそありしに、今はけしかるかきすゑ屋形舟に大幕ひかせ、見もなれぬ兵共にぐせられて、今日をかぎりに都を出でて、浪路はるかにおもむかれけん心のうち、おしはかられて哀れなり。
「巻第二 康頼祝言」
「鹿ケ谷事件」の首謀者とされる藤原成親は備前国へ流罪。西光(?〜1177)は斬首、成親の子・成経(1156〜1202)も備中国へ流され、後に平康頼(生没年不詳)、真言僧の俊寛(1143〜1179)と共に薩摩国鬼界ケ島へ配流される。藤原成経、平康頼の二人は鬼界ケ島の各所を熊野三山に見立て、流罪赦免を祈願している。
さる程に、鬼界が島の流人共、露の命草葉のすゑにかかって、惜しむべきとにはあらねども、丹波少将のしうと、平宰相の領、肥前国鹿瀬庄より、衣食を常に送られければ、それにてぞ、俊寛僧都も康頼も、命をいきて過しける。
康頼はながされける時、周防の室積にて、出家してんげれば、法名は性照とこそついたりけれ。出家はもとよりの望なりければ、
つひにかくそむきはてける世間を、とく捨てざりしことぞくやしき
丹波少将、康頼入道は、もとより熊野信じの人々なれば、「いかにもして、此島のうちに、熊野の三所権現を勧請し奉って、帰洛の事を祈り申さばや」と云ふに、俊寛僧都は、天性不信第一の人にて、是を用いず。二人は同じ心に、もし熊野に似たる所やあると、島のうちを尋ねまはるに、或は林塘の妙なるあり、紅錦繍の粧しなじなに、或は雲嶺のあやしきあり、碧羅綾の色一つにあらず。山のけしき、木のこだちに至るまで、外よりもなほ勝れたり。南を望めば、海漫々として、雲の波煙の浪ふかく、北をかへり見れば、又山岳の峨々たるより、百尺の滝水漲り落ちたり。滝の音ことにすさまじく、松風神さびたる住ひ、飛滝権現のおはします、那智のお山にさ似たりけり。
さてこそやがてそこをば、那智のお山とは名づけけれ。此峰は本宮、かれは新宮、是はそんぢやう其王子、彼王子なんど、王子王子の名を申して、康頼入道先達にて、丹波少将相ぐしつつ、日ごとに熊野まうでのまねをして、帰洛の事をぞ祈ける。「南無権現金剛童子、ねがはくは憐をたれさせおはしまして、古郷へかへし入れさせ給ひて、妻子をも今一度みせ給へ」とぞ祈りける。
日数つもりてたちかふべき浄衣もなければ、麻の衣を身にまとひ、沢辺の水をこりにかいては、岩田河のきよき流とおもひやり、高き所にのぼっては、発心門とぞ観じける。参るたびごとには、康頼入道祝言を申すに、御幣紙もなければ、花を手折りてささげつつ、維あたれる歳次、治承元年丁酉、月のならび十月二月、日の数三百五十余ケ日、吉日良辰を択んで、かけまくも忝く、日本第一大領験、熊野三所権現、飛滝大薩埵の教令、宇豆の広前にして、信心の大施主、羽林藤原成経、并に沙弥性照、一心清浄の誠を致し、三業相応の志を抽でて、謹でもって敬白。
夫証誠大菩薩は、済度苦海の教主、三身円満の覚王也。或は東方浄瑠璃医王の主、衆病悉除の如来也。或は南方補陀落能化の主、入重玄門の大士。若王子は娑婆世界の本主、施無畏者の大士、頂上の仏面を現じて、衆生の所願をみて給へり。是によって、かみ一人より、しも万民に至るまで、或は現世安穏のため、或は後生善処のために、朝には浄水を結んで、煩悩の垢をすすぎ、夕には深山に向って、宝号を唱ふるに、感応おこたる事なし。峨々たる嶺のたかきをば、神徳のたかきに喩へ、嶮々たる谷のふかきをば、弘誓のふかきに准へて、雲を分きてのぼり、露をしのいで下る。爰に利益の地をたのまずむば、いかんが歩を嶮難の路にはこばん。権現の徳をあふがずんば、何ぞ必ずしも幽遠の境にましまさむ。仍って証誠大権現、飛滝大薩埵、青蓮慈悲の眸を相ならべ、さをしか(小牡鹿)の御耳をふりたてて、我等が無二の丹誠を知見して、一々の懇志を納受し給へ。然れば則ち、結早玉の両所権現、おのおの機に随って、有縁の衆生をみちびき、無縁の群類をすくはんがために、七宝荘厳のすみかをすてて、八万四千の光を和げ、六道三有の塵に同じ給へり。故に定業亦能転、求長寿得長寿の礼拝、袖をつらね、幣帛礼奠を捧ぐる事ひまなし。忍辱の衣を重ね、覚道の花を捧げて、神殿の床を動かし、信心の水をすまして、利生の池を湛へたり。神明納受し給はば、所願なんぞ成就せざらん。仰ぎ願はくは、十二所権現、利生の翅を並べて、遥かに苦海の空にかけり、左遷の愁をやすめて、帰洛の本懐をとげしめ給へ。再拝。とぞ、康頼祝言をば申しける。
(意訳)
さて、鬼界が島の流人達は、露が草の葉の末にかかっているように、惜しんでいるというわけではないが、丹波少将(藤原成経)の舅・門脇宰相(平教盛)の領地・肥前国鹿瀬庄から、衣食を常に送られたので、それで俊寛僧都も平康頼も命をつなぎ過ごしていた。平康頼は流された時、周防の室積で出家して、法名は性照としていた。出家はもとよりの望みだったので、ついにはかく捨ててしまった世の中を、早くに捨てなかったのは悔しいことであると自らの心情を吐露された。
丹波少将成経と康頼入道は元々、熊野信仰の人なので、「なんとかして、この島の内に熊野三所権現を勧請し奉って、帰京の事を祈り申したいものだ」と言ったが、俊寛僧都は天性の不信第一の人であり、成経と康頼のいうことを用いない。二人は同心して、もしや熊野に似た所があるかもしれないと、島の中を尋ねまわると、あるいは林の堤があり、紅や錦の刺繍のように美しき所がある。あるいは、雲のかかった山々があり、青空も一色ではなく変化している。山の景色や木立ちの様までが他の所よりも美しく、実に妙なる景勝の地である。南を望めば海は広がり、波は雲や煙のように見え、北へ振り返ると山々の険しいところより、百尺の滝の水が轟き落ちている。滝の音はことに凄まじく、松風が吹き神々しく古びたところは、飛滝権現のまします那智のお山によく似ている。そこで、その地を那智のお山と名付けた。
この峰は本宮、かの地は新宮、これは何々王子、かの王子、この王子と、王子の名を言いながら康頼入道を先達として、丹波少将成経が共をして、日毎に熊野詣での真似をして帰京の事を祈っていた。
「南無権現、金剛童子、願わくは憐れみを垂れ、故郷へ帰し京へ入れさせ給え。妻子にも、今一度、会わせ給え」と二人は祈った。
日が経ち、着替えるべき浄衣もないので、麻の衣を身にまとって、沢辺の水を身の垢を落とすために汲んでは、岩田河の清き流れと思い、高き所に登っては、そこを発心門としていた。参詣の度毎に康頼入道が祝詞(のりと)を申したが、御幣の紙も無いので、花を手折りしては捧げていった。
年はこれ治承元年(1177)丁酉(ひのととり)、月のならびは十二か月、日の数は三百五十余日となる。吉日、良き日を選んで、申し上げるも忝いが、日本第一の大霊験、熊野三所権現、千手観音の垂迹で忿怒身である飛滝大菩薩の教えに浴す御前において、信心の大施主、右近衛少将・藤原成経、並びに沙弥・性照(康頼入道)、一心清浄の誠を捧げて、身口意の三業が相応した志をもって、謹んで敬って申します。
それ証誠大菩薩(本宮)は、衆生を苦海から救い彼岸へ渡す教主であり、法報応の三身が円満された仏であります。
あるいは早玉宮(新宮)の本地・薬師如来は東方浄瑠璃世界の主であり、衆生を病より救われる如来であります。
あるいは結宮(那智)の本地・千手観音菩薩は南方補陀落を遊行能化の主であり、等覚の菩薩であります。
若王子は娑婆世界の本主で、観世音菩薩(施無畏者)であり、頭上の仏面を現じて衆生の所願を叶えてくださいました。
これによって、上一人より、下万民に至るまで、あるいは現世安穏のため、あるいは後生善処のために、朝には浄水を汲んで煩悩の垢をすすぎ、夕べには深山に向って仏の名を唱えると、感応怠る事はありません。
峨々たる峰の高きを神徳のたかきに譬え、険しき谷が深いのを衆生済度の誓い深きになぞらえて、雲を分けては登り、露をしのいでは下っています。ここに衆生済度の仏菩薩の利益を頼みとしなければ、いかにして険難の路を歩むことができるでしょうか。権現の徳を仰がなければ、どうしてこのような幽遠の境におわしますことがあるでしょうか。ゆえに証誠大権現、飛滝大菩薩よ、青蓮慈悲の眼を並べ、小牡鹿(さおしか)のような御耳をふりたてて、我等が無二の真心を知見され、一つ一つの懇ろなる志を納受され給え。
然ればすなわち、結・早玉の両所権現は、各々の機に随って、有縁の衆生を導き、縁無き衆生を救わんがために、七宝荘厳のすみかを捨てて、八万四千の光を和げ下界へとおりられ、六道三界の煩悩の塵に同じられております。故に定業亦能転(法華文句記)、求長寿得長寿(薬師本願功徳経)を願い礼拝する者が袖を連ね、幣帛(神に捧げる物)、礼奠(神仏に供える供物)を捧げることは途切れることがありません。忍辱の衣を着て、仏への花を捧げて、神殿の床を動かすほど祈願し、信心の水を澄まして、利生利益の池は満ちています。神様が納受してくださるならば、願いがどうして成就しないということがあるでしょうか。仰ぎ願わくば十二所権現よ、利生の翼を並べて遥かに我らのこの苦しみの海、空に飛んできて、左遷の悲しみをなくし帰京の本懐を遂げさせ給え。再拝。
と康頼入道は祝詞を読み上げた。
(翌治承2年[1178]、平清盛の次女・徳子[1155〜1213]の安産祈願の大赦が出され、藤原成経と平康頼は赦されて帰京。俊寛は島で亡くなった)
「巻第三 飈(つじかぜ)」
同五月十二日午剋(うまのこく)ばかり、京中には辻風おびたたしう吹いて、人屋おほく顚倒す。風は中御門京極よりおこって、未申(ひつじさる)の方へ吹いて行くに、棟門平門を吹きぬいて、四五町十町吹きもてゆき、けた、なげし、柱なんどは、虚空に散在す。檜皮、ふき板のたぐひ、冬の木葉の風に乱るるが如し。おびたたしうなりどよむ音、彼地獄の業風なりとも、これには過ぎじとぞみえし。ただ舎屋の破損するのみならず、命を失ふ人も多し。牛馬のたぐひ、数を尽くして打ちころさる。是ただ事にあらず、御占あるべしとて、神祇官にして御占あり。
「今百日のうちに、禄をおもんずる大臣の慎、別しては天下の大事、並びに、仏法王法共に傾いて、兵革相続すべし」とぞ、神祇官陰陽寮、共にうらなひ申しける。
(意訳)
同年(治承3年・1179)5月12日の正午頃、京中に辻風が吹き荒れ、多くの人家が倒壊した。風は中御門大路と京極大路の交差するあたりから起こり、南西の方へ吹いていき、棟(むね)のある門、平門(ひらかど)を吹き飛ばして、四、五町、十町ももっていき、桁、長押(なげし)、柱等は空に舞いあがってしまった。屋根の檜皮(ひわだ)、葺板(ふきいた)の類は、冬の木の葉が風に乱れるようなものだ。風の音はおびただしく鳴りどよめいて、彼の地獄の業風でも、これほどではあるまいと思われる。ただ、家屋が破壊されるだけではなく、多くの人が命を失った。牛馬の類いは、数限りなく打ち殺されている。このような惨事はただ事ではない。御占(みうら)を行うべきだとして、神祇官で御占が行われた。
そこでは「今より百日の内に、高禄の大臣が謹慎することとなり、とくに天下の大事が起き、同時に仏法・王法共に衰えて戦乱がうち続く事態となるでしょう」と、神祇官・陰陽寮共に占い申された。
「巻第三 医師問答」
小松のおとどか様の事共を聞き給ひて、よろづ心ぼそうや思はれけん、其比熊野参詣の事ありけり。本宮証誠殿の御前にて、夜もすがら敬白せられけるは、「親父入道相国の体をみるに、悪逆無道にして、ややもすれば君をなやまし奉る。重盛長子として、頻りに諫をいたすといへども、身不肖の間、かれもって服膺せず。そのふるまひをみるに、一期の栄花猶あやふし。枝葉連続して、親を顕し、名を揚げん事かたし。此時に当って、重盛いやしうも思へり。なまじひに列して、世に浮沈せん事、敢へて良臣孝子の法にあらず。しかじ、名を逃れ身を退いて、今生の名望を抛て、来世の菩提を求めんには。但し凡夫薄地、是非にまどへるが故に、猶心ざしを恣(ほしいまま)にせず。南無権現金剛童子、願はくは子孫繁栄たえずして、仕へて朝廷にまじはるべくは、入道の悪心を和げて、天下の安全を得しめ給へ。栄耀又一期をかぎって、後混(こうこん)恥に及ぶべくは、重盛が運命をつづめて、来世の苦輪を助け給へ。両ケの求願、ひとへに冥助を仰ぐ」と、肝胆を摧いて祈念せられけるに、灯籠の火のやうなる物の、おとどの御身より出でて、ぱっと消ゆるがごとくして失せにけり。人あまた見奉りけれども、恐れて是を申さず。
又下向の時、岩田川を渡られけるに、嫡子(ちゃくし)権亮(ごんのすけ)少将維盛(これもり)以下の公達(きんだち)、浄衣のしたに薄色のきぬを着て、夏の事なれば、なにとなう河の水に戯(たわむ)れ給ふ程に、浄衣のぬれてきぬにうつったるが、偏に色のごとくに見えければ、筑後守貞能(さだよし)、これを見とがめて、「何と候やらん、あの御浄衣の、よにいまはしきやうに見えさせおはしまし候。召しかへらるべうや候らん」と申しければ、おとど、「わが所願既に成就しにけり。其浄衣敢へてあらたむべからず」とて、別して岩田川より熊野へ、悦(よろこび)の奉幣(ほうへい)をぞ立てられける。人あやしと思ひけれども、其心をえず。しかるに此公達、程なくまことの色を着給ひけるこそふしぎなれ。下向の後、いくばくの日数を経ずして、病付き給ふ。権現すでに御納受あるにこそとて、療治もし給はず、祈祷をもいたされず。
(意訳)
内大臣・重盛(小松の大臣・平重盛、1138〜1179)は、5月12日に強風が吹き荒れ、甚大な被害をもたらしたことを聞かれて、何事につけ心細く思われたのであろう。その頃、熊野に参詣されたことがあった。本宮・証誠殿の御前にて、夜通し願われたことは、
「父・入道相国(平清盛)の振る舞いを見ますと、悪逆無道にして、ややもすれば君(後白河法皇)を悩まし奉っています。重盛は長男として頻りに諫めておりますが、不肖の身でもある故、父は聞き入れてくれません。今のままでは、一代の栄華でさえも危ういものがあります。この先、子孫が繁栄して、親の名を高めることは難しいことでしょう。このような時にあたり、重盛は不相応ながらも思います。なまじ重臣に列して、世の浮き沈みに身を任せることは、とても良臣孝子の行いとはいえません。名を捨て身を退いて、今生の名声をなげうって来世の菩提を求めるにこしたことはありません。しかし、煩悩にまみれた凡夫で是非に迷うが故に、なお、出家の志を遂げられずにいます。南無権現金剛童子、願わくば、子孫の繁栄が絶えず、朝廷に仕えて人々に交われるならば、入道の悪心を和らげて、天下の安全を得させ給え。それとも栄華が一代限りで、子孫にまで恥が及ぶのならば、重盛の運命はこれまでとし、来世まで繰り返される苦しみより助け給え。この二つの願いをもって、神の助けを仰ぐものです」
と、心を尽くして深く祈念したところ、灯籠の火のようなものが重盛の身より出て、ぱっと消えるようにしてなくなった。多くの人がこの不思議な様を見ていたが、皆、恐れて口にする人はいなかった。
また、帰りに岩田川を渡っていたところ、重盛の長男・維盛(1158〜1184)以下の公達が、浄衣の下に薄柴色の衣を着て、夏のことであり、なんとはなしに川の水で戯れたのだが、浄衣が濡れて下の衣が透けたのが、あたかも薄墨色の喪服に見えたので、筑後守貞能がこれを見とがめて、「何ということでしょう。あの御浄衣は忌まわしいものに見えます。召し替えたほうがよろしいでしょう」と申し上げたところ、重盛は「私が願うところは既に成就したのだ。その浄衣はあえて着替えるべきではない」と言い、特別に岩田川より熊野へ、御礼の奉幣使を遣わされた。
周囲の人は重盛の心が分からず、おかしなことだと思った。しかるに、この公達が、程なくしてまことの喪服を着るようなことになったのは実に不思議なことである。熊野より帰られた後、何日もたたないうちに病気になってしまった。重盛は「熊野権現が既に我が願いを御納受されたのだ」として治療もされず、祈祷をすることもなかった。
(治承3年[1179]閏7月29日、平重盛は病没した)
「巻第四 源氏揃」
治承4年(1180)4月、以仁王(1151〜1180)が平氏追討の令旨を全国の源氏と寺社に向けて発し、源行家(新宮十郎 ?〜1186)が諸国に向かう。翌5月、この動きを知った熊野別当家の湛増(1130〜1198)は平家方に与し、本宮と田辺の勢力を率いて源氏方の新宮勢、那智勢と戦うも敗北する。しかし、源頼朝の挙兵後は熊野三山の融和に動き、寿永3年(1184)に21代熊野別当に補任されてからは源氏方に加勢。寿永4年(1185)3月、熊野水軍を率いた湛増は源氏軍と共に平家相手に戦い、「壇の浦の戦い」の勝利に貢献した。
尚、五来重氏の教示によると(1)、湛増は高野山往生院谷に三間四方の住房を持っており、承安5年(1175)5月、仏種房心覚(1117〜?)に譲り渡している。心覚の移住によって住房は遍照光院となった。南都東大寺系の念仏を高野山に導入したのが心覚であったという。
其比一院第二の皇子、以仁の王と申ししは、御母加賀大納言季成卿の御娘なり。三条高倉にましましければ、高倉の宮とぞ申ける。去んじ永万元年十二月十六日、御年十五にて、忍びつつ近衛河原の大宮の御所にて、御元服ありけり。御手跡うつくしうあそばし、御才学すぐれてましましければ、位にもつかせ給ふべきに、故建春門院の御そねみにて、おしこめられさせ給ひつつ、花のもとの春の遊には、紫毫をふるって手づから御作を書き、月の前の秋の宴には、玉笛をふいて身づから雅音をあやつり給ふ。かくしてあかしくらし給ふほどに、治承四年には、御年卅にぞならせましましける。其比近衛河原に候ひける源三位入道頼政、或夜ひそかに此宮の御所に参って申しけることこそおそろしけれ。
「君は天照大神四十八世の御末、神武天皇より七十八代にあたらせ給ふ。太子にもたち、位にもつかせ給ふべきに、卅まで宮にてわたらせ給ふ御事をば、心うしとはおぼしめさずや。当世のていをみ候に、うへにはしたがひたる様なれども、内々は平家をそねまぬ者や候。御謀反おこさせ給ひて、平家をほろぼし、法皇のいつとなく鳥羽殿におしこめられてわたらせ給ふ御心をも、やすめ参らせ、君も位につかせ給ふべし。これ御孝行のいたりにてこそ候はんずれ。もしおぼしめしたたせ給ひて、令旨を下させ給ふ物ならば、悦をなして参らむずる源氏どもこそおほう候へ」とて申しつづく。
「まづ京都には、出羽前司光信が子共、伊賀守光基、出羽判官光長、出羽蔵人光重、出羽冠者光能、熊野には、故六条判官為義が末子、十郎義盛とてかくれて候。摂津国には多田蔵人行綱こそ候へども、新大納言成親卿の謀反の時、同心しながらかへり忠したる不当人で候へば、申すに及ばず。
さりながら其弟、多田二郎朝実、手島の冠者高頼、太田太郎頼基、河内国には、武蔵権守入道義基、子息石河判官代義兼、大和国には、宇野七郎親治が子共、太郎有治、二郎清治、三郎成治、四郎義治、近江国には、山本、柏木、錦古里、美濃、尾張には、山田次郎重広、河辺太郎重直、泉太郎重光、浦野四郎重遠、安食次郎重頼、其子太郎重資、木太三郎重長、開田判官代重国、矢島先生重高、其子太郎重行、甲斐国には、逸見冠者義清、其子太郎清光、武田太郎信義、加賀見二郎遠光、同小次郎長清、一条次郎忠頼、板垣三郎兼信、逸見兵衛有義、武田五郎信光、安田三郎義定、信濃国には、大内太郎維義、岡田冠者親義、平賀冠者盛義、其子四郎義信、故帯刀先生義賢が次男、木曾冠者義仲、伊豆国には、流人前右兵衛佐頼朝、常陸国には、信太三郎先生義憲、佐竹冠者正義、其子太郎忠義、同三郎義宗、四郎高義、五郎義季、陸奥国には、故左馬頭義朝が末子、九郎冠者義経、これみな六孫王の苗裔、多田新発満仲が後胤なり。
朝敵をもたひらげ、宿望をとげし事は、源平いづれ勝劣なかりしかども、今は雲泥まじはりをへだてて、主従の礼にもなほおとれり。国には国司にしたがひ、庄には預所につかはれ、公事雑事にかりたてられて、やすい思ひも候はず。いかばかり心うく候らん。君もしおぼしめしたたせ給ひて、令旨をたうづるものならば、夜を日についで馳せのぼり、平家をほろぼさん事、時日をめぐらすべからず。入道も年こそよって候とも、子共ひき具して参り候べし」とぞ申したる。
宮は此事いかがあるべからんとて、しばしは御承引もなかりけるが、阿古丸大納言宗通卿の孫、備後前司季通が子、少納言伊長と申し候、勝れたる相人なりければ、時の人相少納言とぞ申しける。其人が此宮を見参らせて、「位に即かせ給ふべき相まします。天下の事思食しはなたせ給ふべからず」と申しけるうへ、源三位入道も、かやうに申されければ、「さてはしかるべし、天照大神の御告やらん」とて、ひしひしとおぼしめしたたせ給ひけり。熊野に候十郎義盛を召して、蔵人になさる。行家と改名して、令旨の御使に東国へぞ下りける。
同四月廿八日、都をたって近江国よりはじめて、美濃、尾張の源氏共に次第にふれてゆくほどに、五月十日、伊豆の北条にくだりつき、流人前兵衛佐殿に令旨奉り、信太三郎先生義憲は、兄なればとらせんとて、常陸国信太浮島へくだる。木曾冠者義仲は、甥なればたばんとて、東山道へぞおもむきける。
其比の熊野別当湛増は、平家に心ざしふかかりけるが、何としてかもれきいたりけん、「新宮十郎義盛こそ高倉宮の令旨給はって、美濃、尾張の源氏ども、ふれもよほし、既に謀反をおこすなれ。那智新宮の者共は、さだめて源氏の方人をぞせんずらん。湛増は、平家の御恩を天山とかうむったれば、いかでか背き奉るべき。那智新宮の者共に、矢一つ射かけて、平家へ子細を申さん」とて、ひた甲一千人、新宮の湊へ発向す。
新宮には、鳥井の法眼、高坊の法眼、侍には、宇井、鈴木、水屋、亀甲、那知には、執行法眼以下、都合其勢二千余人なり。時つくり矢合して、源氏の方にはとこそ射れ、平家の方にはかうこそ射れとて、矢さけびの声の退転もなく、鏑なりやむひまもなく、三日がほどこそたたかうたれ。熊野別当湛増、家子郎等おほくうたせ、我身手おひ、からき命をいきつつ、本宮へこそにげのぼりけれ。
(意訳)
その頃、後白河院の第二王子・以仁王と申す方は、御母が加賀大納言季成卿の御娘である。三条高倉に住まわれたので、高倉の宮と申された。
去る永万元年(1165)12月16日、御年15にして、人目を忍ぶように近衛河原の大宮の御所にて、御元服された。達筆で書を美しく認め、学問にも優れていて、位にもおつきになるべきであったが、故建春門院の妬みのために押し込められ過ごされていた。花のもとの春の遊びには筆をふるわれて自作の詞歌を書き、月の前の秋の宴では自ら玉笛を吹かれて雅な音を奏でられる。このように明かし暮らしているうちに、月日は過ぎ、治承4年(1180)には御年30になられていた。
その頃、近衛河原に住んでいた源三位入道頼政(1104頃〜1180)が、ある夜、秘かに高倉宮の御所に参り申されたことは、大変に重大なことであった。
「君(高倉宮)は天照大神以来48世の御末であられ、神武天皇より78代にあたられております。太子ともなり、皇位にもつかれるべきが、30まで宮のままで過ごされたことは残念なことではありませんか。今の世の有り様を見ますと、うわべでは平家に従っているようでいて、内心では平家を憎まない者がいるでしょうか。御謀反を起こされて、平家を滅ぼし、法皇が何時までと先も見えずに、鳥羽殿に押し込められている御心を安めまいらせて、君(高倉宮)も皇位につかれるべきです。これ、御孝行のいたりというものでありましょう。もし、私の申し上げたことがお心にかない立ち上がられ、令旨をお下しいただければ、喜び馳せ参ずる源氏は多くいるでありましょう」といい、話し続けた。
「まず京都には、出羽前司光信の子・伊賀守光基、出羽判官光長、出羽蔵人光重、出羽冠者光能がいます。熊野には、故六条判官為義の末の子が、十郎義盛といって隠れ暮らしています。摂津国には、多田蔵人行綱がいますが、新大納言成親卿の謀反の時、一旦は同心しながら返り忠して平家に密告、裏切った人物ですから、申すまでのことはありません。ですが、その弟、多田二郎朝実、手島の冠者高頼、太田太郎頼基がいます。
河内国には、武蔵権守入道義基、子息石河判官代義兼、大和国には、宇野七郎親治の子・太郎有治、二郎清治、三郎成治、四郎義治、近江国には、山本、柏木、錦古里、美濃・尾張には、山田次郎重広、河辺太郎重直、泉太郎重光、浦野四郎重遠、安食次郎重頼、その子の太郎重資、木太三郎重長、開田判官代重国、矢島先生重高、その子の太郎重行、甲斐国には、逸見冠者義清、その子の太郎清光、武田太郎信義、加賀見二郎遠光、同じく小次郎長清、一条次郎忠頼、板垣三郎兼信、逸見兵衛有義、武田五郎信光、安田三郎義定、信濃国には、大内太郎維義、岡田冠者親義、平賀冠者盛義、その子の四郎義信、故帯刀先生義賢の次男、木曾冠者義仲、伊豆国には、流人の前右兵衛佐頼朝、常陸国には、信太三郎先生義憲、佐竹冠者正義、その子の太郎忠義、同じく三郎義宗、四郎高義、五郎義季、陸奥国には、故左馬頭義朝の末の子・九郎冠者義経がいます。
これらは皆、六孫王経基の子孫、多田新発満仲の子孫です。朝敵を平らげ、宿望を遂げたことは源平いずれとも勝劣はなかったのですが、今は雲泥の差となり交わることがありません。主従の関係よりも差が開いているほどです。国では国司に従い、荘園にあっては預り所に使われて公事雑事に駆り立てられ、心安らぐ時がありません。各地の源氏の無念さは、いかばかりでありましょう。君がもし、立たれて令旨を下されるならば、源氏の軍勢は夜を日についで京へと馳せのぼり、平家を滅ぼすのに日数は要しません。入道(源頼政)も年をとってはいますが、我が子共々、馳せ参じましょう」と申した。高倉宮は、この事はどうしたものだろうかと、しばし、承知されることはなかった。
そんな時、阿古丸大納言宗通卿の孫で、備後前司季通の子、少納言伊長と申す者がいた。彼は勝れた人相見で、当時の人々は相少納言と呼ぶほどであった。その人が高倉宮を見て、「皇位につかれるべき人相であられます。天下の事への思いを手放されるべきではありません」と申した上、源三位入道も同じことを申したので、「さては、然るべきことなのであろう。これは天照大神の御告であろうか」と思い、打倒平家を決断した。高倉宮は、感づかれないように、水面下で計画を練られたのである。
まず、熊野に隠れていた十郎義盛を呼び寄せて、八条院の蔵人に補任された。義盛は行家と改名し、令旨の御使として東国へと下っていった。
同年(治承4年・1180)4月28日、行家は都を発って近江国より始め、美濃、尾張の源氏共に次第に触れていくうちに、5月10日、伊豆の北条に下り着き、流人として暮らしていた前兵衛佐殿(源頼朝)に令旨をさしあげた。  
それから、信太三郎先生義憲(?〜1184)は兄であるからということで、常陸国信太浮島へと下った。続いて、木曾冠者義仲(1154〜1184)は甥なので令旨を与えようと、東山道へと赴いた。
その頃、熊野別当家の湛増は平家に心を深く寄せていたのだが、どのようにして聞き及んだものだろうか。
「新宮十郎義盛(行家)は高倉宮の令旨を賜って、美濃、尾張の源氏共に触れ回し、既に謀反を起こしたようだ。那智・新宮の大衆は、必ずや源氏の味方をすることだろう。湛増は平家の御恩をこうむること、天高く、山ほどであり、どうして背くことができるだろうか。那智・新宮の者共に矢の一つでも射かけて、謀反の詳細を平家へお伝えしよう」といって、鎧を身にまとった一千人が新宮の湊へ向け出陣した。
新宮には鳥井の法眼、高坊の法眼、侍では、宇井、鈴木、水屋、亀甲。那知には執行法眼以下の大衆で、軍勢は合わせて二千余人となる。鬨をつくり、矢合わせをして、源氏の方ではこう射れ、平家の方ではこう射れといって、矢叫びの声が衰えることもなく、鏑矢が鳴り止む暇もなく、3日程も戦ったのである。結果、熊野別当湛増側は家子・郎等が多く討たれ、湛増も傷を負い、なんとか命拾いをして本宮へと逃げ帰った。
「巻第十 熊野参詣」
寿永3年(1184)2月、一ノ谷の戦い前後に逃亡した平維盛(たいらのこれもり・平清盛の嫡孫、平重盛の嫡男)は高野山で出家した後、熊野三山に参詣。その模様を、「平家物語」は次のように描写している。
やうやうさし給ふ程に、日数ふれば岩田河にもかかり給ひけり。「此河の流れを一度もわたる者は、悪業煩悩、無始の罪障消ゆなる物を」と、たのもしうぞおぼしける。本宮に参りつき、証誠殿の御まへについ居給ひつつ、しばらく法施参らせて、御山のやうををがみ給ふに、心も詞もおよばれず。大悲擁護の霞は熊野山にたなびき、霊験無双の神明は、音無河に跡をたる。一乗修行の岸には感応の月くまもなく、六根懺悔の庭には、妄想の露もむすばず。いづれもいづれもたのもしからずといふ事なし。
夜更け人しづまって、啓白し給ふに、父のおとどの此御前にて、「命を召して後世をたすけ給へ」と申されける事までも、思食し出でて哀れなり。「当山権現は本地阿弥陀如来にてまします。摂取不捨の本願あやまたず、浄土へ引導き給へ」と申されける中にも「ふる郷にとどめおきし妻子安穏に」といのられけるこそかなしけれ。うき世を厭ひ、まことの道に入り給へども、妄執はなほつきずと覚えて、哀れなりし事共なり。
明けぬれば、本宮より船に乗り、新宮へぞ参られける。神蔵ををがみ給ふに、巌松たかくそびえて、嵐妄想の夢を破り、流水きよくながれて、浪塵埃の垢をすすぐらむとも覚えたり。
明日社ふしをがみ、佐野の松原さし過ぎて、那知の御山に参り給ふ。三重に漲りおつる滝の水、数千丈までよぢのぼり、観音の霊像は岩の上にあらはれて、補陀落山共いっつべし。霞の底には法花読誦の声きこゆ、霊鷲山とも申しつべし。抑権現当山に跡を垂れさせましましてより以来、我朝の貴賎上下歩をはこび、かうべをかたむけ、掌をあはせて、利生にあづからずといふ事なし。僧侶されば甍をならべ、道俗袖をつらねたり。寛和の夏の比、花山の法皇十善の帝位をのがれさせ給ひて、九品の浄刹をおこなはせ給ひけん、御庵室の旧跡には、昔をしのぶとおぼしくて、老木の桜ぞ咲きにける。
那智籠の僧共の中に、此三位中将をよくよく見知り奉ったるとおぼしくて、同行にかたりけるは、
「ここなる修行者をいかなる人やらむと思ひたれば、小松の大臣殿の御嫡子、三位中将殿にておはしけるぞや。あの殿の未だ四位少将と聞え給ひし安元の春の比、法住寺殿にて五十の御賀のありしに、父小松殿は内大臣の左大将にてまします。伯父宗盛卿は大納言の右大将にて、階下に着座せられたり。其外三位中将知盛、頭中将重衡以下一門の人々、今日を晴とときめき給ひて、垣代に立ち給ひし中より、此三位中将、桜の花をかざして青海波を舞うて出でられたりしかば、露に媚びたる花の御姿、風に翻る舞の袖、地をてらし天もかかやくばかりなり。女院より関白殿を御使にて御衣をかけられしかば、父の大臣座を立ち、是を給はって右の肩にかけ、院を拝し奉り給ふ。面目たぐひすくなうぞ見えし。かたへの殿上人、いかばかりうらやましう思はれけむ。内裏の女房達の中には、『深山木のなかの桜梅とこそおぼゆれ』なんどいはれ給ひし人ぞかし。唯今大臣の大将待ちかけ給へる人とこそ見奉りしに、今日はかくやつれはて給へる御有様、かねては思ひもよらざっしをや。うつればかはる世のならひとはいひながら、哀れなる御事哉」
とて、袖をかほにおしあてて、さめざめと泣きければ、いくらもなみゐたりける那知籠の僧共も、みな打衣の袖をぞぬらしける。
(意訳)
維盛一行は歩みを進めるうちに日数も重なり、岩田河へとさしかかった。
川の流れを見ていると、「この川の流れを一度でも渡る者は、悪業・煩悩、無始以来の罪障が消えるのであろう」と、頼もしく思われる。
一行は本宮に参詣し、証誠殿の御前で端座して長い読経を捧げ、お山の様を眺めていると、心にも言葉にも尽くせぬ有りがたいものに感じられた。神仏の衆生擁護の大慈悲は霞のように熊野山にたなびき、並ぶことなき霊験あらたかな神明は音無河の宮に垂迹されている。法華経を修行するこの地では神仏の感応は月の輝きのように遍く、六根より起こる罪を懺悔するこの庭では妄想が露ほども生じない。証誠殿で祈念をするうちに浄土への往生は確かなものとなり、どうして頼もしくないということがあろうか。
夜が更けて人も寝静まる中、維盛は一人神仏に申し上げているうちに、父の重盛がこの御前にて、「命を召して後世をお助けください」と申されたことを思い出して感無量であった。「熊野本宮の権現は、本地・阿弥陀如来でいらっしゃる。衆生の願いを聞き入れて、浄土へお導きくださるという本願は誤つことはない。どうか我を浄土へと導きください」と申される中でも、「故郷に残してきた妻子が安穏でありますように」と祈ったのは悲しいことである。浮世を厭い仏の道に入っても、妻子を思う執着は尽きないようで、哀れなことであった。
夜が明けて、本宮から船に乗り新宮に参詣した。神蔵を参拝すると、岩の上に根を張った松が高くそびえており、吹く風は、はかない夢を持ち去り、流水は清く、波立つ流れは娑婆の塵、ほこりの垢をすすいでいるようだ。
維盛らは明日社(飛鳥神社)を伏し拝み、佐野の松原を通って那知のお山に参詣された。三重に漲り落ちる滝の水は数千丈の高さまでよじ登っているよう、観音の霊像は山の岩の上に現れ、補陀落山ともいうところ。霞がたなびく底よりは法華経読誦の声が聞こえ、那智山は釈迦如来のおられる霊鷲山ともいうべきである。
そもそも権現が那智山に跡を垂れ鎮座されてより、我が朝の貴賎上下は足を運び、礼拝・合掌して、利益にあずからない人はいなかった。故に僧侶は多くの坊舎を建て、出家も在家も袖を連ねるように参詣した。
寛和2年(986)の夏の頃、花山法皇は天子の位を譲られて出家。那智に来られて、九品の浄土への往生を願われ修行されている。法皇の御庵室の旧跡には、昔を偲ぶように老木の桜が咲いている。
那智に参籠する僧の中には、三位中将(平維盛)をよく見知っている者がいるようで、同行者に語るには、
「ここにいらっしゃる修行者はどのようなお方だろうかと思えば、小松の大臣殿(平重盛)の御嫡子、三位中将殿でありませんか。あの殿が、まだ四位少将だった安元2年(1176)の春の頃、法住寺殿で後白河院の五十の御賀が行われた時、父の小松殿は内大臣兼左大将であられた。叔父の宗盛卿は大納言兼右大将で、階下に着座されていた。そのほかに、三位中将知盛、頭中将重衡以下、平家一門の人々は今が盛りと晴れやかで、垣代に立っておられた。
その中より、この三位中将が、桜の花を頭にかざして青海波を舞いながら出てこられ、露に媚びた花のような御姿といい、舞うごとに袖が風に翻る様といい、その姿は地を照らし天も輝くばかりであった。
女院より、関白殿を御使にして御衣を賜ったので、父の大臣が座を立ち、衣を頂戴して右の肩にかけ、後白河院を拝し奉る。周囲の者は、この上もない面目であろうと見ていて、傍らにいた殿上人はいかばかり羨ましく思ったことだろうか。
内裏の女房達の中には、『あの舞いの美しさは、深山木の中の桜梅をみるようです』とまで言われた人だ。今すぐにでも、大臣兼左大将の位につかれる人だと拝見奉っていたのに、今日のやつれ疲れはてたお姿、昔を知る人には思いもよらない。移れば変わる世の習いとはいいながら、哀れなことではないか」と言い、袖を顔に押しあてて、さめざめと泣いたので、周囲の多くの那知参籠僧達も、皆、衣の袖を涙で濡らしていた。
以上、平家物語全体からすればごく一部の引用だが、それでも長いものとなってしまった。
本宮の岩田河は「一度でも渡る者は悪業・煩悩、無始以来の罪障が消える」と信じられ、本宮・証誠殿には阿弥陀如来が垂迹し、そこで祈念する者は神仏の衆生擁護の大慈悲に包まれる。法華経を修行する本宮では、神仏の感応は月光遍しの如く、六根懺悔により妄想は消滅する。参詣する人には、証誠殿は極楽浄土への入り口であった。
新宮は薬師如来の瑠璃光浄土で、近くの神蔵に吹く風は妄想の夢を吹き消し、水の流れに娑婆の塵、ほこりの垢はすすがれる。
熊野牟須美神(本地・千手観音)を主神とし如意輪観音を祀る那智山は、観音菩薩の補陀落浄土であり法華経読誦の声が聞こえ、さながら霊鷲山のよう。そこには貴紳衆庶、僧俗、身分を問わずに多くの参詣者があり、山には僧坊が連なっている。このような平家物語の記述は、平安後期の熊野三山の宗教的位置付けと、それがいかに喧伝されていたかを端的に示すものではないだろうか。 
11 聖地の仏教者 

 

法華経の霊経譚に満ちた熊野・那智の地だが、もちろん、法華一経の修行者だけということはなく、臨済宗法燈派は熊野三山周辺に布教展開し、真言、念仏の行者もこの地で修練し神仏の啓示を受けている。 
(1) 臨済宗法燈派の那智社・奥の院(滝見寺)
那智山の社家の菩提寺であった滝見寺については、根井浄氏の「補陀落渡海史」(1)で詳説されている。根井氏の教示によると、神域内の滝見寺は那智社の奥の院で、本地観音道場とも呼ばれていた。紀伊国・由良荘にある興国寺の開山にして、臨済宗法燈派の祖・心地覚心(1207〜1298)が滝見寺の開基と伝えられる。「新宮本願庵主梅本家文書」に宝暦2年(1752)の由良興国寺の書上げが載せられており、そこには「那智山之僧俗共奥之院を菩提所に致、往古より滅罪執行来申候、奥之院建立は弘安三庚辰、今宝暦二年に至て四百七拾三年に而御座候」とあって、奥の院(滝見寺)は弘安3年(1280)に創建されたという。滝見寺には法燈国師(心地覚心)の像が伝わったが、天正9年(1581)の兵火で焼失し、慶長10年(1605)、京都七条仏師・康厳により新像が作られている。
真言僧・願性が由良荘の西方寺(後の臨済宗法燈派本山・興国寺)に心地覚心を迎え、開山としたのが正嘉2年(1258)だから、那智・奥の院の創建が実際に弘安3年であったかどうかはともかく、その後の法燈派の布教展開により、那智社の神域内に奥の院を建てることはあったと思う。滝見寺(奥の院)の法燈国師像の伝来が、法燈派による創建を物語るものだろう。
そこには開創以来、臨済宗法燈派の僧が住していたのではないか。根井浄氏が引用(2)した、享保12年(1727)「本願出入證跡文写別帳写」の弐に収録された「切支丹御改帳」に「由良興国寺末寺 奥院 祖仏」とあるのが傍証になるだろう。
尚、興国寺に伝来する「紀州由良鷲峰開山法燈円明国師之縁起」の覚心七十四歳条に、「那智濱宮補陀落行處記」という文書が引用され、そこに心地覚心の那智での修行と奥の院を建てたことが伝えられている。心地覚心は承元元年(1207)に生まれ、永仁6年(1298)に没している。彼の74歳というと弘安期(1278〜1288)になっているから、奥の院創建の時とされる弘安3年(1280)とは符合している。時系列を合わせた聖人修行譚ともいえるし、故なきことではないとも思われ、今は「奥の院(滝見寺)の創建が心地覚心存命中にまで遡れる可能性がある」ということ、また「13世紀には心地覚心の一門が熊野一円に布教し、那智には坊舎を建てるまでに展開した」との理解に留めておきたいと思う。 
(2) 新猿楽記の真言師・次郎
平安中期の学者・藤原明衡(?〜1066)の「新猿楽記」には、一生不犯を貫いた大験者・真言師である次郎が修行した地として、「大峰、葛木、熊野、金峰、越中立山、伊豆走湯根本中堂、伯耆大山、富士御山、越前白山、高野、粉河、箕尾、葛川等」を挙げている。
次郎は、一生不犯の大験者、三業相応の真言師なり。久修練行年深く、持戒精進日積れり。両界鏡を懸け、別尊玉を琢く。五部の真言雲晴れて、三密の観行月煽(ほがらか)なり。梵語悉曇舌和(やわらか)にして、立印加持指嫋(たお)やかなり。唱礼・九方便滞りなく、修法に芥子焼くに験あり。護摩・天供には阿闍梨たり。許可灌頂には弟子たり。凡そ真言の道底を究め、苦行の功傍に抜けたり。十安居を遂げ、一落叉を満つること度々なり。大峰・葛木を通り、辺道を踏むこと年々なり。熊野・金峰・越中の立山・伊豆の走湯・根本中道・伯耆の大山・富士の御山・越前の白山・高野・粉河・箕尾・葛川等の間に、行を競ひ験を挑まざることなし。山臥修行者は、昔の役行者・浄蔵貴所といへども、ただ一陀羅尼の験者なり。今の右衛門尉の次郎君に於いては、すでに智行具足の生仏なり。 
(3) 真言僧・範俊
承保元年(1074)10月、真言(東密)僧・範俊(1038〜1112)は那智で滝籠りを始めた。愛染法を修し、壇上に如意宝珠を出現させたという。嘉承元年(1106)、範俊は東寺長者に補任されている。尚、範俊は永保2年(1082)に請雨経法を修して霊験を現したものの、義範(1023〜1088)の妨げにより面目を失い那智に籠ったという説があるが、「禁祕抄考註下巻」で否定されている。
「熊野山略記」
範俊僧正七百三日、被修不断愛染法之時、不断香三寸火舎同壇上出現之、如意宝珠在之、(3)
「禁祕抄考註下巻」(4)
(範俊は)那智山に参籠し、千日の行を始め、愛染王の法を行ず・・・・
同記裏書に云、堅済私に云、範俊那智山に籠る事は承保元年(1074)十月十五日なり、帰洛は同三年(1076)十二月上旬也。請雨経の法を修する事は永保二年(1082)七月十六日也。承保三年自り永保二年に至て七ヶ年を隔てて後、修法勤仕すれば請雨経の法に依て面目を失うに那智山に籠ると云事僻事也。(5)
「真言伝巻第六」禅遍(1184〜1255)著
権僧正範俊ハ、成尊僧都ノ付法。小野法流ノ正嫡也。後三條 延久三年(1071)七月十四日、曼荼羅寺ニシテ灌頂ヲ受。承保元年(1074)十月ヨリ、那智山ニ参籠ス。(6) 
(4) 林懐と仲算大徳
13世紀に成立したとされる説話集「撰集抄」(7)の巻六、第三「林懐僧都発心之事」には、世の無常を感じて出家し、のちに山階寺(興福寺の旧称)の貫首となった唐院の僧都・林懐(951〜1025)の若き日の那智滝での修行体験が載せられている。それによると、林懐は仲算大徳とともに那智滝で修行。仲算が般若心経を誦したところ、滝が逆流し滝の上に生身の千手観音が現れたという。
さても、此人(林懐のこと)若くましましけるとき、仲算大徳にともなひて、熊野へ参り給ひけるに、那智の瀧にて、仲算大徳「心経」を貴くよみ給ひければ、瀧さかさまに流れて、瀧の上に生身の千手観音の現れいまそかりけるを、まのあたり拝み給ひけるとなん。仲算の徳行はさる事にて、をがみ給へる琳懐ありがたき事になん、そのころ申侍りけるとぞ。 
(5) 真言僧・文覚の修行
「平家物語」には、平安末の真言僧・文覚(1139〜1203)が那智滝で不動明王の慈救呪(じくじゅ)を唱え、滝行をし、命が尽きたところを不動明王の眷族である矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制吒迦童子(せいたかどうじ)に助けられた話を載せていて、この模様は「那智参詣曼荼羅」にも描かれている。文覚は籠山行千日を成し遂げたという。
「平家物語・巻第五 文覚荒行」
抑かの頼朝と申すは、去る平治元年十二月、ちち左馬頭義朝が謀反によって、年十四歳と申しし永暦元年三月廿日、伊豆国蛭島へながされて、廿余年の春秋をおくりむかふ。年ごろもあればこそありけめ、今年いかなる心にて謀反をばおこされけるぞといふに、高雄の文覚上人の申しすすめられたりけるとかや。
彼文覚と申すは、もとは渡辺の遠藤佐近将監茂遠が子、遠藤武者盛遠とて、上西門院の衆也。十九の歳、道心おこし出家して、修行にいでんとしけるが、「修行といふはいかほどの大事やらん、ためいて見ん」とて、六月の日の草もゆるがずてったるに、片山のやぶのなかにはいり、あふのけにふし、虻ぞ蚊ぞ蜂蟻なんどいふ毒虫どもが身にひしととりついて、さしくひなんどしけれども、ちっとも身をもはたらかさず、七日まではおきあがらず、八日といふにおきあがって、「修行といふはこれ程の大事か」と人に問へば、「それ程ならんには、いかでか命もいくべき」といふあひだ、「さてはあんべいごさんなれ」とて、修行にぞいでにける。
熊野へ参り那智ごもりせんとしける行の心みに、きこゆる滝にしばらくうたれてみんとて、滝もとへぞ参りける。比は十二月十日あまりの事なれば、雪ふりつもりつららゐて、谷の小河も音もせず。嶺の嵐ふきこほり滝の白糸垂氷となり、みな白妙におしなべて、四方の梢も見えわかず。しかるに文覚、滝つぼにおりひたり、頸きはつかって慈救の呪をみてけるが、二三日こそありけれ、四五日にもなりければ、こらへずして、文覚うきあがりにけり。数千丈みなぎりおつる滝なれば、なじかはたまるべき。ざっとおしおとされて、かたなの刃のごとくに、さしもきびしき岩かどのなかを、うきぬしづみぬ、五六町こそながれたれ。時にうつくしげなる童子一人来って、文覚が左右の手をとってひきあげ給ふ。人、奇特の思をなし、火をたきあぶりなんどしければ、定業ならぬ命ではあり、ほどなくいきいでにけり。
文覚すこし人心地いできて、大のまなこを見いからかし、「われ此滝に三七日うたれて、慈救の三洛叉をみてうど思ふ大願あり。今日はわづかに五日になる。七日だにも過ぎざるに、なに者がここへはとってきたるぞ」といひければ、見る人身の毛よだってものいはず。又滝つぼにかへりたってうたれけり。
第二日といふに、八人の童子来って、ひきあげんとし給へども、さんざんにつかみあうてあがらず。三日といふに、文覚つひにはかなくなりにけり。滝つぼをけがさじとや、みづら結うたる天童二人、滝のうへよりおりくだり、文覚が頂上より、手足のつまさき、たなうらにいたるまで、よにあたたかにかうばしき御手をもって、なでくだし給ふとおぼえければ、夢の心地していきいでぬ。
「抑いかなる人にてましませば、かうはあはれみ給ふらん」と問ひ奉る。「われはこれ大聖不動明王の御使に、こんがら(矜羯羅)・せいたか(制吒迦)といふ二童子なり。『文覚無上の願をおこして、勇猛の行をくはたつ。ゆいて力をあはすべし』と明王の勅によって来れるなり」とこたへ給ふ。文覚声をいからかして、「さて、明王はいづくにましますぞ」。「都率天に」とこたへて、雲井はるかにあがり給ひぬ。たなごころをあはせてこれを拝し奉る。
さればわが行をば、大聖不動明王までも、しろしめされたるにこそとたのもしうおぼえて、猶滝つぼにかへりたってうたれけり。まことにめでたき瑞相どもありければ、吹きくる風も身にしまず、落ちくる水も湯のごとし。かくて三七日の大願つひにとげにければ、那智に千日こもり、大峰三度、葛城二度、高野、粉河、金峰山、白山、立山、富士の嵩、伊豆、箱根、信濃戸隠、出羽羽黒、すべて日本国のこる所なく、おこなひまはって、さすが尚ふる里や恋しかりけん、都へのぼりたりければ、凡そとぶ鳥も祈りおとす程のやいばの験者とぞきこえし。
(意訳)
そもそも、かの頼朝と申すのは、去る平治元年(1159)12月、父の左馬頭義朝(1123〜1160)の謀反によって、年は14歳と申した永暦元年(1160)3月20日、伊豆国の蛭島へ流されて、20余年の春秋を送り迎えていた。長年、流人としておとなしくしていたからこそ、無事に過ごせたものだろう。それが、今年になって、どのような心境の変化で謀反を起こされたのかというと、高雄の文覚上人の申し進めだということだ。
かの文覚という人は、元は渡辺党の遠藤佐近将監茂遠の子、遠藤武者盛遠といって、上西門院に仕える衆であった。19の年に道心を起こして出家、修行に出ようとしたが、「修行というのはいかほどの大事であろうか、まずは試してみよう」として、6月の太陽が照りつけ無風で草も揺るがないような日に、辺境の山の、藪の中に入り、仰向けに寝転がった。虻、蚊、蜂、蟻という毒虫等が身にすき間もなくとりついて、刺したり、噛んだりしたのだが、少しも身動きすることはなかった。文覚は7日までは起き上がらず、8日目に起き上がって「修行というのは、これ程の大事か」と人に問うたところ、「それ程では、どうして命がもつことがあろうか」と言われたので、「それでは、たやすいことだな」といって、修行に出かけたのであった。
熊野へ参り那智籠りをしようとしたが、まずは試しにと、名高い那智の滝に暫く打たれてみよう、と滝のもとへと参った。真冬の12月10日のことだから、雪が降り積もって氷柱となり、谷の小川の音も聞こえない。峰々をわたる風は吹けども凍り、滝の白糸も垂れ氷となっている。全てが白く妙なる世界、四方の梢も見分けられないほどだ。
そんな中、文覚は滝壺へと降り下って体をひたし、首まで水に浸かって慈救の呪(不動明王の陀羅尼)を唱えていた。2、3日は持ちこたえたものの、4、5日も経過したら堪え切れず、文覚は浮き上がってしまった。数千丈も漲り落ちる滝だから、一ヶ所にとどまっていられるわけがない。あっという間に押し落とされて、刀の刃のごとく、険しい岩角の間を浮き沈みしながら、五、六町も流されてしまった。その時、美顔の童子が一人来たって、文覚の左右の手を取り引き上げられた。それを見ていた人々は不思議な思いとなり、火を焚き温めたりしてくれたので、まだ寿命の時ではないこともあり、程なくして息を吹き返した。
文覚は、少しして落ち着いた様子となったが、大きな眼を見開いて「我はこの滝に三七日(21日)打たれて、慈救の三洛叉(三十万遍の慈救呪)を満たそうという大願を立てている。今日はわずか5日目にすぎない。7日を過ぎてもいないのに、何者がここへ連れてきたのだ」と言ったので、童子が助けた様子を見て知っている人々は身の毛がよだち、ものが言えなくなってしまった。
文覚は再び滝壺へと戻り、水に打たれ続けた。それから2日目という日に、八人の童子が来たって引き上げようとされたのだが、掴みあいとなった挙句、文覚は上がらなかった。3日目、文覚は、はかなく息が絶えてしまった。滝壺を汚すまいとしたのか、角髪(みずら)を結いた天の童子が二人、滝の上より降り下ってきた。死者となった文覚の頭上より、手足のつま先、掌の裏にいたるまで、よにも温かき香ばしい御手をもって撫で下されていたと思ったら、夢の心地がして再び生き返った。
「こうも私を憐れんで下さるあなた様は、どのような人であられるのでしょうか」と文覚が問い奉ると、「我は大聖不動明王の御使にして、矜羯羅(こんがら)・制吒迦(せいたか)という二童子です。『文覚は無上の願いを起こし、勇猛の行を企てている。直ちに行き力を合せなさい』との不動明王の勅により、この地に来たのです」と答えられた。文覚は力ある声で、「さて、不動明王はいずこにおられるのか」とたずね、二童子は「都率天にいらっしゃいます」と答えて、空高く雲の上へと上がっていかれた。
文覚は掌を合せて、この光景を拝し奉っていた。「ということは、我が行を大聖不動明王までもが御存知なのだ」と頼もしく思えてきて、猶も滝壺へと戻り水に打たれ続けた。まことにめでたき瑞相があったので、吹きくる寒風も身に凍みることなく、落ちてくる冷水も湯のごとしであった。かくして、21日間滝に打たれて慈救の三洛叉を満たすという大願が遂げられたので、文覚は那智に千日参籠し、吉野の大峰には三度、葛城山に二度、他に高野、粉河、金峰山、白山、立山、富士山、伊豆、箱根、信濃国の戸隠、出羽国の羽黒山と、日本国の霊場を残すことなく修行してまわった。その後、さすがに故郷が恋しくなったのだろうか、都へ上って来た時には、およそ飛ぶ鳥を祈り落とす程の、刃のごとき験者であると、その名は轟いたのである。
「熊野年代記」も長寛元年(1163)、文覚が熊野で絶食の荒行を行ったことを記している。
二条(天皇) 長寛元年 癸未 文覚熊野に入り、三山に七日宛絶食。
まことに勇ましく荒々しい限りの文覚の修行だが、滝修行の霊験譚などは「平家物語」によってつくられたものとしても、実際のところはどうだろう。彼は熊野を訪れていたのだろうか。
壮年期に神護寺の再興を成し遂げ、東寺を復興した文覚の庇護者は後白河法皇で、その法皇は34回もの熊野詣でを行っている。熊野本宮には「庵室ども二、三百ばかり」(いほぬし)と多くの修行者が集い200以上の庵室が作られ、熊野三所権現の神威も「日本第一大領験」(平家物語)というものだ。そこで修行に打ち込む青年文覚の姿を想像しても、あながち間違いではないと思う。
文覚の熊野修行については、山田昭全氏が「文覚」(8)に詳しくまとめられているので、以下、要点を列挙したい。
上西門院衆=門院警護の武士であった遠藤武者盛遠は、平治元年(1159)年から長寛元年(1163)年頃までには出家し、文覚と号している。
文覚の後年の活躍ぶりからすれば、真言僧であったといえる。ただし、真言の血脈系譜には文覚の名が見当たらない。わずかに「伝燈廣録後巻」第二「勧修寺慈尊院二世学講興然伝」に、興然の付法四人に行慈、高弁、栄然、文覚があり、ここに文覚の名が見えるだけである。「伝燈廣録後巻」が、興然付法を四人とした根拠は不明。文覚が興然の付法を受けたのは、50歳の頃と推測される。
文覚には文覚以外の呼び名はなく、法号らしきものを持たず、血脈系譜に載らず、弟子に授戒もしていないことから、正規の戒牒を持たない私度僧であったと推測される。文覚は自称と思われる。
「愚管抄」巻六には、「文覚は行はあれど学はなき上人なり」とあり、彼の周辺からは学問らしきものは見えてこない。
文覚が熊野で荒行をしたであろうことは状況証拠から推測できる。
・文覚が後白河院に提出した「文覚四十五箇条起請文」(僧文覚起請文)に彼の略歴が書き込まれており、それによると、伊豆配流の時、30日間の断食をしている。
寿永元年(1182)4月5日、源頼朝の戦勝を祈願して、江ノ島で大弁才天法を修し、21日間の断食をしている。ここでの断食は修験者の行法だったとみられる。
・「熊野年代記」の史料価値は「僧文覚起請文」や「吾妻鏡」よりは低いものの、長寛元年(1163)、熊野での文覚の断食を伝える前後の、後白河院の熊野御幸の記録はほぼ史実と合っており、文覚に関する記述は無視できない。
・西行と文覚は交流を持っていて、西行の「山家集」に熊野と題する歌がある。
あらたなる熊野まうでのしるしをば氷の垢離に得べきなりけり
この歌からも、冬季、熊野で水垢離をとる荒行が行われていたことがうかがわれる。
・このようなことから、出家した文覚が目指したのは修験の行人の道だったと考えられる。 
(6) 一遍の熊野成道
諸国を遊行して念仏札を賦算(配る)、踊り念仏も取り入れて庶民大衆に念仏を勧めた時宗の開祖・一遍(諱・智真 1239〜1289)は、文永11年(1274)夏、熊野に参詣し熊野権現より神勅を受けた。その模様は一遍の十年忌にあたる正安元年(1299)、弟子の聖戒らにより作成された「一遍聖絵」(一遍上人絵伝)に詳しい。
智真は文永8年(1271)、32歳の時に二度目の出家をし、諸国をめぐり文永11年(1274)夏、高野山を経由して熊野本宮に詣でる。道行く人に念仏札を配りながら歩く智真は、熊野の山中で老僧と出会う。念仏札を勧められた老僧は、一念の信無きことを理由に受け取りを拒否。それでも智真は老僧に対し、仏教を信ずる心の有無、不受の理由を問い、老僧は信心の起こらないことはいかんともし難い旨を返答。そんな問答をしているところに、道行く人々が集まりだし、智真は老僧が念仏札を受け取らなければ皆も受けないと考え、本意ではないものの老僧に札を渡し、それを見た人々も札を受け取った。ところが、当の老僧は姿が見えなくなってしまった。
念仏札の賦算を勧めることにつき、思い悩んだ智真が熊野本宮・証誠殿で祈念していると、白髪の山伏姿の化身が現れた。「御房の勧めにより一切衆生が往生するのではなく、阿弥陀仏の十劫正覚により一切衆生の往生は必定なのである。信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、その札を配るべし」と告げられる。また、12、3歳の童子が100人ほど集まり、手を捧げて念仏札を受け取り、念仏を唱えながら何処ともなく去ってしまう。
この熊野権現の啓示の後、彼は一遍と称し、これまでの南無阿弥陀仏の念仏札に「決定往生六十万人」と書き加えるようになり、諸国をくまなく遊行している。熊野権現の神勅については、江戸時代に編纂された「一遍上人語録」では「我法門は熊野権現夢想の口伝也」とし、時宗では「熊野成道」とされている。
「一遍聖絵」(一遍上人絵伝)の詞書釈文・熊野成道の部分
巻第三 第九段
文永十一年の夏、高野山を過ぎて熊野へ参詣し給ふ。山海千重の雲路を凌ぎて、岩田河の流れに衣の袖を濯ぎ、王子数所の礼拝を致して、発心門の水際に、心の鎖(とざ)しを開き給ふ。藤代岩代の叢祠には、垂迹の露、玉を磨き、本宮新宮の社壇には、和光の月鏡を掛けたり。古栢老松の影湛へたる殷水の波声を譲り、錦徽玉皇の飾りを添へたる坐山の雲、色を移す。就中、発遺の釈迦は、降魔の明王と共に東に出で、来迎の弥陀は引接の薩埵を伴ひて、西に現はれ給へり。
ここに一人の僧あり、聖勧めての給はく、「一念の信を起こして南無阿弥陀仏と唱へて、この札を受け給ふべし」と、僧云く、「今一念の信心起こり侍らず、受けば妄語なるべし」とて受けず。聖の給はく、「仏教を信ずる心御坐(おわし)まさずや、などか受け給はざるべき」僧云く、「経教を疑はずと雖も、信心の起こらざる事は、力及ばざる事なり」と。時に若干(そこばく)の道者集まれり。此の僧もし受けずば、皆受くまじきにて侍りければ、本意に非ずながら、「信心起こらずとも受け給へ」とて、僧に札を渡し給ひけり。これを見て道者皆悉く受け侍りぬ。僧は行く方を知らず。
この事思惟するに、故無きに非ず、勧進の趣冥慮を仰ぐべしと思ひ給ひて、本宮証誠殿の御前にして、願意を祈請し、目を閉ぢて未だ微睡(まどろ)まざるに、御殿の御戸を押し開きて、白髪なる山臥の長頭巾掛けて出で給ふ。長床には、山臥三百人許り、首を地につけて礼敬し奉る。この時、権現にて御坐しましけるよと思ひ給ひて、信仰し入りて御坐しけるに、彼の山臥聖の前に歩み寄り給ひての給はく、
「融通念仏勧むる聖、いかに念仏をば悪しく勧めらるるぞ。御房の勧めによりて、一切衆生初めて往生すべきに非ず。阿弥陀仏の十劫正覚に、一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と決定する所也。信不信を選ばず、浄不浄を嫌はず、その札を配るべし」
と示し給ふ。後に目を開きて見給ひければ、十二、三許(ばか)りなる童子、百人許り来りて、手を捧げて、「その念仏受けむ」と云ひて、札を取りて「南無阿弥陀仏」と申して、何処とも無く去りにけり。
凡そ融通念仏は、大原の良忍上人、夢定の中に阿弥陀仏の教勅を受け給ひて、天治元年(1124)甲辰(きのえたつ)六月九日初め行ひ給ふ時に、鞍馬寺毘沙門天王を初め奉りて、梵天帝釈等名帳に名を現はして入り給ひけり。
この童子も王子達の受け給ひけるにや、と思ひ合はせらるる方も侍るべし。大権現の神託を授かりし後、「いよいよ他力本願の深意を領解せり」と語り給ひき。 
12 熊野三山検校の活動と本山派・当山派の成立 

 

(1) 聖護院・道興
衆徒(社家)や本願の宗教を考えるのに、見逃せないのが白河上皇の熊野参詣以来、熊野三山に置かれた検校職と在地との関わりだろう。
寛治4年(1090)、熊野に参詣した白河上皇が先達を務めた増誉(1032〜1116)(1)を熊野三山検校に補任して以来、三山検校には6代・覚実まで天台寺門系の僧が補任されている。その後、後鳥羽上皇の信任を得た仁和寺出身の長厳(1152〜1228)が真言僧としては初めて、7代の熊野三山検校となり、建保7年・承久元年(1219)から承久3年(1221)まで在職している。8代検校には東寺出身で鶴岡八幡宮寺別当の定豪(1152〜1238)が補任され、承久3年(1221)から嘉禎4年・暦仁元年(1238)まで務めている。9代の良尊からは再び天台寺門系となり、21代の満意の頃には天台寺門系・聖護院門跡の重代職となっている。
ここで注目したいのが、22代検校となった道興(1430〜1527)の事跡だ。道興は永享2年(1430)、左大臣・近衛房嗣(1402〜1488)の二男として生まれ、幼少時に出家し、台密教学を学んでいる。父・房嗣は文安2年(1445)関白となり、寛正2年(1461)太政大臣に任じられている。長じてからの道興は聖護院門跡の第24世になり、園城寺長吏、熊野三山検校、新熊野社検校を務めている。
道興の三山検校は寛正6年(1465)から明応10年・文亀元年(1501)の長きにわたるが、彼は検校となった翌年の文正元年(1466)7月22日、畿内から美濃、尾張、伊勢、紀伊、更に若狭、丹後、備前、備中、備後、安芸へと至る廻国巡礼を行い、9月21日に帰京。翌10月には丹波・播磨に巡礼し、続いて11月8日には那智へ向かい参籠修行をはじめている。応仁元年(1467)5月、京都での戦が本格化(応仁の乱)するも参籠を続け、応仁2年(1468)7月に3年間の参籠を終えて帰京。8月6日には聖護院が兵火により焼け、道興は伊勢に向かう。宇治の三室戸寺に滞在した後、洛北の岩倉に移された聖護院に住している。
道興は室町幕府第8代将軍・足利義政(1436〜1490)の護持僧で、風雅の交わりがあり、義政・義尚(1465〜1489)父子に歌を贈られながら、文明18年(1486)6月16日、東国巡礼に旅立った。この時に詠んだ和歌・漢詩・俳諧歌と紀行文が「廻国雑記」として伝わっている。
それにより旅の行程を見ると、山城、近江、若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、上野、武蔵、下総、上総、安房、相模、下野、常陸を三ヶ月で廻り、秋には再び下総、武蔵、相模をめぐり伊豆、駿河へと足をのばし、相模から武蔵に至り河越(川越)・大塚の十玉坊で越年。翌文明19年(1487)2月には甲斐に向かい、同月に武蔵に戻り、3月上旬に上野、下野から北上して下旬には陸奥の宮城野、松島、塩釜の浦へと至っている。帰路の名取川で歌を詠んだところで「廻国雑記」の記述は終わり、5月19日に帰洛している。彼が廻国巡礼を終えて都に戻ったのは、同年4月の聖護院焼失という事態を受けてのことと思われるが、もしそのようなことがなければ、白山・立山・日光中禅寺・筑波山・鎌倉の社寺・相模の大山寺・安房の清澄寺等、霊場社寺の巡拝を重ねた歩みからして、平泉の浄土を目指していたものだろうか。明応2年(1493)8月13日、今度は西国を巡礼行脚し、備前児島から讃岐に入り越年。翌明応3年(1494)6月に帰洛している。
このような道興の諸国巡礼は、大峯、葛城、熊野三山に連なる修験者が、聖護院を中心とする本山派として形成されていく過程での掌握作業であり、組織化であったといえるのではないかと思う。
応仁元年(1467)10月下旬、那智参籠中の道興は、春秋二季に入山する修行者を風雨から守るため、那智滝の絶頂に一宇を建てる。堂舎は滝頭龕(ろうとうがん)と号された。道興は手ずから不動明王の尊像を棟札に写して、滝頭龕の壇上に安置。数日間にわたり肝胆を摧き、思いを凝らして懇ろに開眼供養を行った。そこには那智山の瀧本執行・法印珍海が連なり、道堪が那智山執行の時のことだった。応仁2年(1468)4月には、道興は法華経・般若心経・阿弥陀経・廻向経等を那智滝七ヵ所の秘水で書写し(細字法華経)、応永33年(1426)に那智の社殿より妙法山へ上がったところに建てられていた「那智山如宝堂=如法堂」の本尊として奉納。有縁・無縁の衆生が妙経の功力により、共に菩提に至るのであるとしている(和歌山県海南市・長保寺蔵)。
これら道興の活動は、「熊野別当」の名称が歴史の表舞台から消えて100年を経過してからのことであり(2)、熊野三山検校が上代の形式的な立場から直接、那智等の在地に関わるようになったことを示す一例といえるものだろう。
山上不動堂棟札本尊
山上不動堂棟札本尊銘書之写如左
于時、上執行法印道堪
二季山入之時、常客陵風雨、竟日佇立、不堪
思之。仍設一宇方室、号曰瀧頭合龕。是則依
立像不動明王      御瀧絶頂也。然予手自摸不動明王尊像、安
以此板当棟札      置彼室於壇上。数日摧肝贍、凝懇念、奉開
眼供養。同瀧本執行法印珍海、相共逐供養儀
則畢。冀大聖威怒王摧破魔界而、此所長
久、令垂擁護給矣。        先達度 光明房重海
同仙瀧房有儀
于時応仁元稔十月下旬、飛瀧千日行人、聖護院准三宮道興御判(同行弁為、宣献)
命瀧本庵主心海老和尚、成草創之功畢。(3)
現在、棟札の存在は確認されていないが、文化4年(1807)、時の熊野三山検校・二品法親王が滝頭龕を修理し、その際に不動尊像を彫刻して安置。この像は青岸渡寺に伝来していることが、「和歌山県の文化財」第三巻(4)で紹介されている。同書には棟札の文もあり、そこでは文末の「命瀧本庵主心海老和尚成草創之功畢」はなく、これについて太田直之氏は「これも本願側の偽作と判断できよう」と指摘されている。(5)
大河内智幸氏は、道興の実弟・近衛政家(1444〜1505)の日記「後法興院記」を引用し、道興が那智で参籠したことを示されている。(6)
ここで、大河内氏が紹介された「後法興院記」を確認してみよう。
文正元年(1466)11月2日、政家邸へ聖護院(道興)、実相院、実池院らがおとずれ懇談。そこでは、道興は7日より那智へ参籠するため3年間は会えないこと。また実池院は6日より加行を始めることが告げられた。その後、奥御所も加わり深夜まで飲食している。3日朝、道興と実相院が帰宅し、昼過ぎに実池院が帰り、奥御所と政家は一緒に蹴鞠をしたようで、夕方に奥御所が帰宅している。8日、雪交じりの雨の中、道興は那智に向け旅立ち、政家は3年の別れを惜しんでいる。
文正元年十一月二日
庚午 晴陰不定、時々小雨麗、聖護院、実相院、実池院等令来給、聖門自来七日那智参籠也、三ヶ年之間不可有交会間、各被参会處也、実池院亦自来六日被始加行云々、今夜各御逗留、終夜有大飲、奥御所令来給、
三日
辛未 晴、聖護院、実相院今朝令帰給、実池院未刻許令帰給、有蹴鞠興、及黄昏奥御所被帰、
八日
丙子 雨雪交降、実相院令来給、文紀西堂来、三體講尺也、先読左伝、詠作各到来、定来十六日之題、観河原御禊、文欣
種光朝臣来、返進鹵簿圖并御禊頓宮指圖等、聖門今朝那智進発云々、三年之間骨肉南北之隔戀慕尤深者乎、
応仁2年(1468)7月4日、那智参籠を終えた道興は京都に戻り政家をたずね、大願を果たしたことを喜びあっている。帰京時の道興の姿は「山科家礼記」応仁二年七月六日条に「昨日聖護院御参、峰入御体也、御髪、ヲイ(笈)、トキン(頭巾)、スズカケ(篠懸)、キ(黄)ナルヒタタレ(直垂)、大口、カイノ結組也」とあるように、山林を斗藪する山伏姿であった。
応仁二年七月四日
壬戌 晴、午刻許聖護院被参殿御方、今日自南都上洛云々、余歓楽以外之間不参也、未刻許聖門令来此所給、太刀折紙等給余、大願一事無違乱被遂其節之間、一身大慶不可過之、三年光景奉期今日了、
応仁2年閏10月7日、道興が那智参籠3年の間に書写した細字大般若経を見た政家は、言語道断、奇妙の至りと驚き、一行に字数が百五十余の小さな文字では、老眼には見えず黒蟻がつらなるようで、凡慮の及ばないところである、と記している。
応仁二年閏十月七日
癸亥 晴、参平等院御影御前、
聖護院三ヶ年之間於那智手自被書写大般若、今日被見之、言語道断奇妙之至也、例式料紙一行字数百五十余字也、老眼不可見之、字如黒蟻、凡慮尤難及、一部未終云々、
以上、「後法興院記」の記述により、那智滝の山上不動堂棟札に記された「応仁元稔(1467)10月下旬」、道興は那智に参籠中であったことが確認される。棟札文末の「命瀧本庵主心海老和尚、成草創之功畢」については、後世の、本願の瀧本庵主が起源を遡らせてその存在を示すために後から書き加えたもの、との理解でいいのではないかと思う。 
(2) 本山派と当山派
道興の生涯を通しての活発な巡礼と修行をその一環とし、歴代の熊野三山検校らの働きにより形成されたのが天台系の修験道・本山派だ。後に真言系・当山方(派)との相論を起こすことになるが、両派の形成と展開を、関口真規子氏の「修験道教団成立史」での教示をもとに概観してみよう。(7)
本山派形成の淵源としては、白河上皇の時をはじめとして、歴代上皇の熊野先達を天台寺門派の高僧が担ってきたことが挙げられる。14世紀後半から15世紀にかけて、聖護院門跡・熊野三山検校は各地の熊野先達・山伏らを包含し、熊野・大峯で修行する天台系修験者の統制を図っている。そして文明18年(1486)、道興は廻国巡礼を行って熊野先達の掌握と修験者の組織化に努め、聖護院門跡を継いだ道増(1508〜1571)は安堵・禁制を多く発し、それは「修験道教団」ともいうべき本山派の形成へとつながっていった。
鎌倉後期から南北朝時代にかけ、興福寺をはじめとする南都諸大寺堂衆は、戒律復興と修験道の修行のために山林斗藪を行ったが、その活動は大和国周辺寺院に止住する真言系修験者を結集するようになり、彼らが当山方の前身となった。真言系修験者集団は聖宝を斗藪の第一人者・根本として流祖と仰ぎ、室町期の作と推測される「大峯当山本寺興福寺東金堂先達記録」では、聖宝の大蛇降伏の剣と峯中の秘事を相承する興福寺東金堂が聖宝嫡流であるとしている。
南北朝時代末、南都諸大寺堂衆が修験者集団の指導的立場から退転する。権門寺院の統率を失った彼らは先達衆を中枢とする自治組織となり、「当山先達衆中」「諸先達」「当山諸先達中」と自称した先達衆は、配下の修験者を率いて活動した(先達衆は後に「三十六正大先達」と呼ばれるようになる)。
聖宝信仰という独自性を持つ当山方と、天台系修験者を核とする本山派は確執を深め、権威の後ろ盾のない当山方は安土桃山時代以降、聖宝の創建した醍醐寺・三宝院門跡と関わりを持ち、慶長年間になると醍醐寺座主・三宝院門跡の義演(1558〜1626)を当山方の棟梁と仰ぐようになる。
慶長7年(1602)6月、三宝院門跡が当山方山伏の佐渡国大行院と智足院に金襴地結袈裟の着用を許可すると、翌慶長8年(1603)7月、反発した本山派の山伏・多聞坊らによる大行院打ち入り事件が発生。以降、本・当の相論が続き、同年10月8日、徳川家康により「当山・本山各別」の裁許が下される。だが、本・当の対立はおさまらず、慶長14年(1609)に修験道・愛宕山修験者に対する法度が発せられた後、聖護院門跡は武蔵国の諸寺院に年行事職の補任・安堵を下し、関東真言宗と当山派に役銭を賦課している。
慶長16年(1611)、淡路国で本山派の大善院が当山派のナカ坊を打果し、同国の修験者を本山派に編入させてしまう。同年8月には、当山派が本山派の入峯妨害を企て、喧嘩沙汰となる。11月、当山派諸先達は駿府に下向し、言上書を提出。書面では自らを「日本之真言宗は、勿論当山之門流」と位置付け当山派の由緒を記し、当山派と関東真言宗に対する本山派の非分を訴えている。翌慶長17年(1612)4月、当山派の主張が入れられた裁定が下される。
慶長18年(1613)には幕府より修験道法度が発せられ、修験道は当山派と本山派の二つとなり、諸国の修験者はどちらかに属することとされた。背景としては、慶長末年から元和年間に幕府の寺院統制が強化されたこと、本山派の聖護院門跡が後北条氏、豊臣氏ら旧勢力との関係が深かったこと、本山派に当山派を競合させることにより互いを牽制させようとしたこと等が指摘される。三宝院門跡は義演の次の覚定、その後継の高賢の代から修験道法度を拠り所とし、先達の袈裟筋に連なる修験者の、直接支配を始めるようになっていく。
13 熊野三山本願所 

 

冒頭に記したように、15世紀末以降、熊野山伏・熊野比丘尼らは諸国をめぐり熊野三山(熊野本宮、熊野新宮[速玉]、熊野那智)の社殿・堂塔・山内施設の建立、再興、修造のための勧進活動を行った。勧進比丘尼によって絵解きをされ、多くの庶民を熊野三山の信仰へと誘った「熊野観心十界曼荼羅」が各地に伝わり50数本が現存しているのも、往年の活動ぶりを物語るものだろう。(1)
熊野山伏・比丘尼を送り出したのが熊野三山本願所で、その規模は大きく、本宮・新宮・那智の各山ごとに本願所があり、特に那智山は七つの本願寺院から構成され七本願、七ツ穀屋と呼ばれた。(2)本願寺院には、寺付きの山伏・比丘尼が居住し、諸国を勧進行脚した山伏・比丘尼は願職と呼ばれ、組織化されていた。
那智山の本願寺院の宗旨を知る資料は江戸時代のもの、元禄16(1703)年と享保12年(1727)に作成された「切支丹御改帳」(3)となるが、天台と真言で構成されている。
興味をひかれるのが五つの坊舎の配置で、「那智山古絵図」(4)によれば御前庵主(天台)、瀧庵主(真言)、那智阿弥(真言)、春禅坊(天台)、理性院(真言)は那智本社拝殿の近くに建てられている。本願寺院の他の二つ、阿弥陀寺(真言)は那智山に隣接する妙法山内に、補陀洛山寺(天台)は那智の海岸近くに位置している。 
(1) 那智山・七つの本願寺院
これより根井浄氏の「補陀落渡海史」と、太田直之氏の「中世の社寺と信仰 勧進と勧進聖の時代」の教示に導かれながら、主に「熊野那智大社文書」(5)と「熊野本願所史料」(6)をめくり、熊野三山本願の成立と展開を概観してみよう。
(両氏の著作の該当頁については以下、「根井氏」「太田氏」と表記)
1 御前庵主・天台 
本社拝殿近く、春禅坊(大禅院)左手に近接していた。現在は斎館が建つ。山内の証誠殿、滝宮等の主要社殿、二ノ瀬橋、振ヶ瀬橋、清明橋等、二十ヶ所を管轄していた。御前庵主が確認される古い文書は、永享11年(1439)3月晦日付の「借銭状」とされる。
申請りせにの事
合拾貫文者、
右件の御用途ハ依有かり申候処実正也、但、此の御用途ハ、月別ニ百文ニ五文宛の利分相そへ候て、来十ヶ月中ニさた申候へく候、御しちにハ仁王堂のせきせんの入おき申候処実也、もしやくそくの月おすき候ハヽ、此関せんのめしとられ申候ハんする時ニ、一言の子細申すましく候、仍為後日証文之状如件、
永享拾一年三月晦日 菴主継全 花押
定什 花押
両在庁 寛海 花押
        盛算 花押(7)
永享11年(1439)3月末日、菴主継全と定什は十貫文を借り受け、那智山の仁王堂の関銭を質とした。一方、「本願出入証跡文写別帳写・弐」に収載する「本願中年中行事之次第」には、御前庵主が「仁王門」を管轄していたことが記されており、仁王堂の関銭を質にできる「借銭状」の「菴主」とは、御前庵主であると推定される。同年の9月28日にも、菴主継全と定什は十貫文を借り受けている。
申うくるりせにの事
合拾貫文者、
右件料足ハ、月別ニ百文ニ五文宛之理分おそゑ候て、十ヶ月の内ニ沙汰可申候、但、御賛(質)ニハ仁王堂之卅二文之関銭お入置申候、もし無沙汰候ハ、おさゑ取られ申へく候、此料足ハ新宮と有馬与弓矢之時、兵糧之ためニ取申候、仍為後日状如件、
永享十一年九月廿八日  両在庁 聞善坊隆儀 花押
        寛宝房賢珎 花押
        御代官定什 花押
菴主継全 花押(8)
次にその活動のうかがえるのが、「熊野那智山本願中出入証跡記録」(9)の「本願中出入証跡之写別帳・壱」にある勧進帳の序文となる。
十二所宮殿再興勧進状
勧進沙門 敬白
請特諗貴親聊賤分六十万數札 依緇素助成再興十二所宮殿状
〜文章略〜
弘治三年極月吉日
熊野那智山十二所権現御造営勧進帳
本願御前庵主坊 良源 花押
弟子大蔵坊 源祐 花押(10)
弘治三年(一五五七)十二月、御前庵主の良源と弟子の源祐は、六十万枚の札を賦分して那智山十二社権現の再興勧進を行っていた。これは一遍が熊野権現の啓示を受けた後、「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」の札を賦算して諸国を遊行したことを彷彿とさせるもので、一遍の熊野成道と宗教的実践が没後三〇〇年近くに行われた勧進活動のよりどころとなっていたことがうかがえる。
元禄十六年(一七〇三)の「切支丹御改帳」では、御前庵主に男女七人が住するも、住職は「無住」となっている。享保十二年(一七二七)には住職がいて、男女六人が住している。
2 瀧庵主・真言
御前庵主の南、寂光橋の東に位置していた。慶長年間(1596〜1615)には、成就院と呼ばれ、屋内に十穀座敷があった。那智滝・山上不動堂の応仁元年(1467)の「山上不動堂棟札」には、「瀧本庵主心海老和尚」(山上不動堂棟札本尊)とあるが、前に見たように後に書き加えたものと推定される。
瀧庵主の住持として、慶長年間に広く活動した比丘尼・妙音は隠居し、後住に頼賢を指名した。頼賢はもと仙瀧院の滝行者で34年間の滝本修行をおこない、護摩堂と山上堂を建立。法華経一部読誦の、法華経の持経者でもあった。
瀧御造営覚書帳
当寺一代住持権大僧都法印頼賢大和尚
堯秀頼意ノ師也
生縁薩州小牧山
瀧本山籠卅四年并瀧本護摩堂・同山上堂・瀧庵主寺建立ノ仁也
毎月法華壱都(部)読誦 七拾七才ニテ化 仙瀧院中興、
寛永三(1626)丙寅ノ二月十四日(11)
元禄16(1703)年の「切支丹御改帳」では、住職は「堯珎」で男女22人が住している。享保12年(1727)には男女25人が住するも、住職は「無住」となっている。
3 那智阿弥・真言
那智大社・如意輪堂(現在の青岸渡寺)前より下った左側。瀧庵主の北に位置。中世には奥之坊と呼ばれる。
京都・相国寺の瑞渓周鳳(1392〜1473)の日記、「臥雲日件録」の享徳元年(1452)七月二十六日条にある「如意庵主」が那智阿弥僧と推測されるも、その本願としての活動は明らかではないようだ。
文亀3年(1503)2月吉日の「永代売渡申候屋敷之事」には、尊勝院所有の屋敷を如意輪堂の本願が「旦過之屋敷ニ仕候えとて所望」し、これを「三貫文」で「買主正竹」に売り渡すことが記されていて、如意輪堂の本願である正竹が那智阿弥と推測される。尚、旦過とは修行僧・参詣者を接待し、彼らが宿泊する施設の呼称で、各地の霊場への参詣路沿いに設けられた。
屋敷売券
永代売渡申候屋敷之事
合三貫文
右件之屋敷者、在所ハ下之院禅長房屋地にて候を、依有用要、尊勝院に買徳仕候を、如意輪堂本願旦過之屋敷ニ仕候えとて所望候間、過分地ニて候へ共、善事ニて候間、永代売渡申候、只しさいめハ東ハかきの木中石蔵をかきり、西ハ勝覚院ね石をかきり、此者大道をかきり、刀寅ハ御幸道をかきり、若、彼屋敷何方より違乱出来候者、売主として道遣可申候、仍為後日売券之状如件、
文亀三年 ミつのとの井 貳月吉日
尊勝院 売主重済 花押
買主主竹(12)
永正12年(1515)、重尊の「田地売券」の宛所には「如意坊那智阿弥」とある。
田地売券
永代売渡申地之事
合五百文者、
右件地者、大光坊より宝如房相伝にて候へ共、依有用要、那智阿弥に永代売渡申處実也、若、何方より違乱出来候者、宝如坊として道遣可申候、仍為後日状如件、
永正十二年閏二月廿八日
重尊 花押
如意坊那智阿弥(13)
大永2年(1522)、奥之坊が那智山如意輪堂供養の槌始めの儀を行っている。
那智阿弥には花山法皇に由来する「西国三十三所尊像」一幅、「廻国御縁起」一箱、「巡礼縁起」一箱、「花山法皇西国三拾三所御順幸以来御血脈過去帳」一冊が伝来していたといい、元禄年間(1688〜1704)には如意輪堂の鍵を預かり管理を行っていて、西国三十三所観音巡礼を管轄する本願寺院としての機能を有していた。
花山院御遺物
西国三十三所尊像     壱幅
廻国御縁起          壱箱
右之御本尊佛眼上人御筆、一番より三十三番之御書
付者花山院御宸筆之由、右之御本尊行者供養之御本尊也、
尤行者仲間一臈之内江預り申候・・・・
一 順礼縁起  壱箱  内有目録・・・・
一 花山法皇西国三拾三所御順幸以来御血脈過去帳(14)
那智で滝籠りを行ったという、花山法皇が始めたと伝承されるのが西国三十三所霊場の巡礼で、その一つに那智の如意輪堂が組み込まれていた。南北朝時代頃に伊勢神宮への参詣が盛んになると、如意輪堂が西国三十三所の一番霊場、札所とされた。これにより、那智山への巡礼者が増加したことが那智七本願の組織化を促し、勧進事業の活発化へとつながっていく。
元禄16(1703)年の「切支丹御改帳」では住職は「長賢」、男女20人が住する。享保12年(1727)は男女13人が住している。
4 春禅坊・天台
御前庵主の北東に位置。17世紀中頃よりは、大禅院と呼ばれるようになる。
「熊野年代記」
万治二(1659)己亥 那智山春善坊へ御室の宮より大禅院と可称令旨、二月廿二日出、乗清之代也、是より大禅院と云。
慶長4年(1599)、「田楽再興日記」には那智田楽再興の装束・道具を寄進した、「御前庵主、那智阿ミ、瀧庵主、補陀落寺清原、春禅 瀧庵主内」が記載される。
田楽再興日記写
那智山田楽廊坊一乱ヨリ廿年たいてん仕候ヲ、廊屋陰居致走正躰付、上之梅松丸・同五郎平丸・清水瀬兵衛・清水新助・上職事少丸・答志九右衛門・清水作内進テ仕、慶長四年より田楽おとり申候、いせう寄進之事、
五人前分 実報院
一人前分 御前庵主
一人前分 那智阿ミ
一人前分 瀧庵主
一人前分 春禅 瀧庵主内
壹人前分 宋心
諸道具れう事うつし
補陀洛寺清原
太このわ寄進衆
一ツ分 濱宮庄屋神三郎
一ツ分 くしの川庄や与三郎
一ツ分 天満かし与左衛門
一ツ分 同かし喜助
右寄進也、
大コノ輪ニ、
当山執行 実報院道助
時之衆徒衆ノ事 新蔵房
尼清義 覚善房
十如房 門善房
宝春房 善□房
□樹房 宝如房
春光房 常楽房
大納言 清畠坊
瀧本衆
圓蔵房 金瀧房
仙瀧房
其時細工人数
川堰 湯之助
□(三輪)崎 菖蒲之助
西 四九助
時之原 勝達房
□(紙道具カ)川関廊
陰居者ニて此も出来申候、
慶長四己亥年六月吉日
清義 印
元禄16年(1703)の「切支丹御改帳」では、住職は「浄意」で男女20人が住している。享保12年(1727)には男女18人が住する。
5 理性院・真言
古くは行屋坊と号した(寛永10年・1633、社堂立方指図)。春禅坊の南、寂光橋の西側に位置。
寛永十癸酉三月廿三日社堂立方指図 一巻
右奥〆名前如左之
實方院 道俊
朱ニて 瀧寿院事  廊之坊 重傳
     同断 一山惣名 惣社人中
那智阿弥 長圓
御前庵主 快圓
瀧庵主   堯秀
朱ニて 大禅院事  春禅坊   乗福
朱ニて 理性院事  行屋坊   祐正
妙法山  阿弥陀寺 海圓
濱之宮  補陀落寺 清雲
各無印(15)
慶長18年(1613)、社僧・廊之坊宛ての「那智山役僧中上申書」の署名に、「行屋(印)」とある。
元禄16(1703)年の「切支丹御改帳」では、住職は「慶意」で男女7人が住する。享保12年(1727)には住職は「無住」となり、男女7人が住している。
6 補陀洛山寺・天台
那智の海岸近くに位置。観音菩薩のいる浄土たる補陀洛を目指し、小船にのり大海に身をあずける捨身行が補陀洛渡海と呼ばれ、平安時代から江戸時代にかけて行われた。補陀洛山寺は補陀洛渡海へ向かう僧らの拠点となった。京都・青蓮院の12世紀から15世紀にかけての記録を集大成した「門葉記」には、妙香院荘園目録(応和元年[961]6月5日付け)が載せられていて、そこに「補陀落寺領」とあるのが初見とされる。
元禄16(1703)年の「切支丹御改帳」では、住職は「順應」で男女4人が住する。享保12年(1727)には住職は「無住」となり、男女は同じく4人が住している。
7 妙法山阿弥陀寺・真言
那智山より南西に連なる法山の中腹にある。寺伝については、「法華験記」の「巻上・第九 奈智山の応照法師」の項でみたとおりだ。尚、「紀伊続風土記」(寛文三年記)では「弘法大師空海の開創」とし、納骨、卒塔婆供養、石塔建立の「諸仏救世之道場」とされ、女人高野と呼ばれたという。これらは中世、高野聖が廻国行脚して大師信仰をひろめ、高野山への納骨参詣を勧めたことと軌を一にしているように思われ、空海開創伝承とあわせ真言の伝道者による活動を物語るものではないかと思う。
元禄16(1703)年の「切支丹御改帳」では、住職は「覚了」で男女14人が住する。享保12年(1727)には男女4人が住している。 
(2) 那智山の社家 山伏、比丘尼らが各地で勧進奉加を募り、那智山の社殿・堂塔を建立、修造した那智七本願の成立は15世紀末頃からとされるが、古くから那智山を掌握・運営してきたのは在地領主層を出自とする衆徒らで、彼らは本願が成立するに及んで自ら社家と称するようになった。那智山の居住人員の大半以上を占め、山内の仏事、神事を取り仕切っていた社家の寺院(16)についても、「切支丹御改帳」によれば奥之院の臨済宗以外は天台と真言で構成されている。
元禄16(1703)年 「切支丹御改帳」(本願寺院も含む)
実方院・天台 東執行天台宗組頭
上之坊・天台
宝春坊・真言
理性院・真言
玄性院・天台
龍壽院・天台 西執行天台宗組頭
宝如坊・天台
中之坊・真言
宝寿坊・天台
尊勝院・天台 天台組頭
橋爪坊・天台
瀧庵主・真言
妙法山(阿弥陀寺)・真言
仙龍院・真言 真言組頭
大蔵坊・天台
宝泉坊・天台
寶圓坊・天台
明楽坊・天台 天台組頭
那智阿弥・真言
道場・天台
大禅院・天台
御前庵主・天台
神光坊・天台 天台組頭
補陀落寺・天台
浄厳坊・天台
春光坊・天台
眞覚坊・天台
享保12年(1727) 「切支丹御改帳」(本願寺院も含む)
実方院・天台 東執行天台宗組頭
宝順坊・天台
上之坊・真言(前は天台だった)
宝春坊・真言
理性院・真言
龍壽院・天台 西執行天台宗組頭
宝如坊・天台
覚寿坊・真言
大蔵坊・天台
真覚坊・天台
明楽坊・天台 天台組頭
那智阿弥・真言
如法道場・天台
大禅院・天台
御前庵主・天台
尊勝院・天台 天台組頭
橋爪坊・天台
瀧庵主・真言
妙法山(阿弥陀寺)・真言
仙龍院・真言 真言組頭
宝寿坊・天台
円海院・天台
宝泉坊・天台
実蔵坊・天台
宝光坊・天台
神光坊・天台 天台組頭
補陀落寺・天台
浄厳坊・天台
光明坊・?
春光坊・天台
奥之院・臨済
古来より熊野三山を運営してきた在地の有力者について、宮地直一氏は論考「熊野神社と熊野山」(17)にて、次のように解説されている。
「又かく全山が別当家の統帥の下に僧侶の勢力圏に帰入せしよりは、かの宇井・鈴木氏の如き古来の名族も、大勢のまにまに社僧に混じて命脈を繋ぐの外なかりしならん。三山の中かかる古代の姓氏の比較的よく保存せられしは、実に新宮にして、此処に限り禰宜・宮主等の神職の残れるは、一に彼等の為めにせられしものなるべし。(続風土記八十三)されど本宮にありては、殆ど往古の社職を一掃し尽してその跡を留めず、近代に至り神官として奉仕せしは、多く大和の奥なる玉置山(本宮奥院と称す)より移りしものなりという。(続風土記八十六)次に那智は僧侶の手に創められしを以て、最初より神職を置かず、又遂に之を設くるに至らざりき。」
同じく在地の有力者につき、五来重氏は次のように解説される。
「熊野別当の成立はどうもはっきりしないのであるが、熊野三山の司祭神職が熊野修験道の成立とともに山伏化したものであろう。とくに新宮には宇井、鈴木、榎本の神職家があり、那智では米良、潮崎の神職家があったが、いずれも宇井円隆坊、鈴木大乗坊、榎本大円坊、米良実報院、潮崎尊勝院などの名で修験化している。」(18)
「新宮は本宮、那智とちがって神官だけで修験がなかったといわれる。しかしすくなくとも神倉聖は修験であった。新宮大社の方にも衆徒と社僧があったのは、やはり修験であって、衆徒の一臈を総検校といい、社僧の一臈を一和尚といったのはこれをあらわしている。しかしかれらは榎本、宇井、鈴木などの姓をもっていたので、のちに武士化するのである。」(19)
くだって戦国時代の那智山を見ると、山内は東座と西座から成り立っていた。東座は潮崎尊勝院以下天台宗の六家からなり滝本執行を出し、西座は西仙瀧院以下真言宗の六家で那智山執行を出していた。この頃は那智山執行と滝本執行の両名が那智山を統轄している。
社僧については、宿老10人、講誦12人、衆徒75人、滝衆66人、役人12人、行人85人、穀屋7人がいた。執行職経験者が宿老となり、衆徒は山内の祭礼・法会を行い、穀屋は堂宇の修理、献灯を担い、滝衆・行人は滝本執行の配下にあった。他に本願と清掃を行う小法師原(地下人)がいた。 
(3) 新宮の本願所・新宮庵主
熊野新宮の本願所である新宮庵主の起源は従来、弘安8年(1285)5月に「神祇長上従二位」が新宮神会の日時を、「別当代本願所并衆徒寺中」に伝えた文書「神祇長神会定日撰書」であるとされてきた。
神祇長神会定日撰書写
(端裏書)
「写し」
撰申 熊野新宮神会定日事
九月十五日同十六日 時申
右壬午年任寄文神会定日撰
之状如件
弘安八乙酉五月日
神祇長上従二位
別当代本願所并衆徒寺中
在庁官人并神官祢宣
勅 驚堅等中(20)
「神祇長神会定日撰書」については、太田直之氏により「神祇長上」とは吉田神道の吉田兼俱(1435〜1511)が神祇界の長たるべく自称し、以降、吉田家当主が名乗のったもので、13世紀には存在しない呼称であることが指摘されている(21)。尚、吉田兼俱は神道長上と名乗り、次に神祇管領長上幷南座勾当と称している。
15世紀中頃、細川勝元は上杉憲忠と推される人物に手紙を送り、「熊野新宮造営勧進の為、十石(穀)僧覚賢が下向」することと助成を依頼しており、この頃には新宮造営の勧進のため、諸国に向かう勧進聖の存在したことが確認される。
応安7年(1374)の「堀内安房守氏善書状」にみえる、「霊光庵曇哲上人御房」の霊光庵は新宮本願の古い坊名とされ、慶長八年(1603)霜月二十八日付けの「道者寄進礼状」にも「新宮一代庵主霊光院行春」とある。
「熊野年代記」には「熊野本願九ヵ寺の内本願所者、新宮庵主、三山の法頭也」とあり、新宮庵主は熊野三山本願所を統轄する「法頭」として各種の免許権、得分を有していた。慶長年間(1596〜1615)に鮮明化した修験道・当山派(真言・醍醐寺三宝院)と本山派(天台・聖護院)の対立は新宮庵主にも及んでいる。
元和8年(1622)3月、新宮庵主・住持の行尊は天台山門の天海より、延暦寺院号職として「金剛院」を補任される。
比叡山延暦寺院号職金剛院補任状
(包紙ウハ書、折封)
「補任  金剛院」
(端裏貼紙)
「は部」
補任
比叡山延暦寺院号職事
熊野山神宮菴主
宣任金剛院
右以 勅宣之旨、所令
補、宣承知者也
元和八年三月如意珠曰
山門探題大僧正天海印(22)
寛永18年(1637)、飯道寺梅本院の行筭が新宮庵主に入寺、兼帯する。近江国甲賀にある飯道寺の梅本院と岩本院は当山三十六正大先達衆を構成しており、諸国の修験道・当山派山伏を掌握、多大な勢力を擁していた。以降、新宮庵主は梅本庵主とも呼ばれるようになる。
慶安4年(1651)、飯道寺の行家が新宮庵主の法灯を継承。
寛文6年(1666)、行家は醍醐寺三宝院の命により、役行者と理源大師聖宝の御供料徴収のため諸国を巡行する。これについては、三宝院による修験道・当山派支配の一環としてみることができる。
熊野年代記
去五年乙巳極月六日、三宝院殿ヨリ御依頼、(役)行者並聖宝尊師御供料諸国山伏一人前一ヶ所宛為出之、当山方大先達飯道寺梅本院行家法印諸国回国
元禄15年(1702)、梅本院と兼帯した新宮庵主の住持は行家より行盛、周純と続いていたが、この年、周純の後住弟子の行弁が不如法(詳細は不明)により勘当され、以降、梅本院との兼帯は途絶え、天台僧に替わられることになる。
享保10年(1725)、新宮庵主・住持の良純は比叡山西塔執行探題から僧綱職に補任される。以降、新宮庵主は比叡山延暦寺末となる。
新宮の西南にある神倉山は、熊野の神が降臨したとされる霊山だ。中世、神倉山のゴトビキ岩を神体とする神倉社にも、妙心寺を本願頭として華厳院、宝積院、三学院という本願寺院があった。妙心寺は「中の地蔵本願」、華厳院は「道の本願」、宝積院は「橋の本願」、三学院は「曼荼羅堂の本願」として、神倉聖は参詣者から橋銭、通行税等を徴収。それを基に堂宇の整備、参道、橋の維持管理を担った。
「熊野年代記」によると、大永年中(1521〜1528)より享禄4年(1531)にかけての約10年間、神倉本願の妙順尼と弟子・祐珍尼が堂舎再興のための勧進・奉加を行い、元文元(1532)に妙心寺を建て、それにより本願号を免許されている。
熊野年代記
享禄四 辛卯 大永年中より今年至八月神倉勧進奉加再興。神倉本願妙順尼代、弟子祐珍尼
元文元 壬辰 去年妙心寺へ勧進建依之免許本願号 
(4) 本宮の本願
戦国期と推測される「蠣崎蔵人利広書状」(年次不明、卯月十八日付け)に「本宮庵主坊」とある(熊野本願所史料)。慶長8年(1603)の「熊野那智山御遷宮之帳」には「本宮庵主」とある。「熊野年代記」承応3年(1654)条に「六月経所上棟、庵主護摩堂繕、本宮庵主行純代」とあり、本宮の庵主・行純の名がみえる。
寛文8年(1668)、醍醐寺三宝院の役人・飯田備後と超昇寺が寺社奉行に提出した「口上之覚」に、「本宮之庵主、当山方所持致、本宮之社役相勤申候事」(大和松尾寺文書)と記され、本宮の本願は当山派(醍醐寺三宝院)が掌握していたことが確認される。それから19年後、貞享4年(1687)4月の「熊野三山本願所九ヶ寺社役行事之覚・本宮庵主社役」には、「本宮庵主天台宗清僧、唯今者無住」(23)とある。わずか19年の間に本宮庵主は当山(真言)から天台(本山)へと変わり、しかも衰退して無住となっている。
これら文書は、古来からの聖地である熊野の地が、本・当両派の勢力拡大の主舞台となっていたことを示す史料といえるだろう。本宮庵主は17世紀中頃には退転していたが、傘下にあったと推測される近傍の西光寺では熊野比丘尼らが年籠りし、年始になると牛玉宝印を刷り、諸国へ勧進に出かけていたという。 
(5) 本願の衰退
熊野三山の隆盛に多大なる貢献をした本願は定着化し、それまで衆徒・社家が担ってきた諸行事に関わり、祈祷を行うようになった。貞享4年(1687)4月、熊野三山九ヶ寺惣代の那智阿弥、大禅院と新宮庵主代・一音房が紀州藩奉行所(寺社奉行)に提出した「熊野三山本願所九ヶ寺社役行事之覚」には以下のように記されている。
「新宮庵主社役」
正月元旦より七日之内、御本地供護摩、大般若経転読、牛玉加持致修法、天下泰平・国土安穏之御祈願、暮於御神前、香花・灯明、大乗妙典読誦仕、奉備御法味勤行無懈怠、正五九月之勤同断、其外 御国太主、御城主・諸壇那御祈祷相勤、九月十五日六日御神事祭礼、神馬・神輿・舎人・警固人足以下出し、御神馬常々扶持仕、神輿修覆錺以下等繕仕候・・・・
「那智山七箇寺社役行事」
那智山御前庵主・瀧庵主・妙法山・補陀落寺・那智阿弥・大禅院・理性院、右之七ヶ寺者、大乗妙典致読誦、十二所権現之奉備御法味、於御神前朝暮天下泰平・国地安穏御祈仕勤行無懈怠、其外、御国太主御守護・諸檀那御祈祷相勤申候、
御神前廻并如意輪堂、其外諸社諸堂不残修理、灯明・香花、御遷宮等相勤申候、雑用賄仕候、瀧本社堂不残修理灯明・・・・(24)
本宮庵主については前に見たように「天台宗清僧、唯今者無住」となっていて、貞享4年(1687)の時点では本願としての機能は失っていた。
新宮や那智のように神事、祭礼、祈祷等の本願の職務が増してその存在が大きなものとなれば、衆徒・社家の職務と重複し、やがて両者には軋轢が生まれるようになる。延宝3年(1675)2月、本願寺院は幕府の寺社奉行所から本願職と修験職の兼帯を禁止されてしまい、修験を廃し本願職に専念することを定められてしまう。
寺社奉行本願所住職定書
   覚
一 熊野三山本願所住職之輩、如前々偏可勤願職、不可兼修験道事
一 止修験道、勤願職面々於令入峯者、以初之袈裟筋可執行之、本山・当山不可混乱事
一 本願所後住之儀者、願所九ヶ寺以相談可相定事
右条々堅相守り之、不可違失者也
延宝三年乙卯二月九日
本  長門印
戸  伊賀印
小  山城印
熊野本願所
九ヶ寺(25)
また「那智山和談証文写」によれば、延宝5年(1677)、那智七本願は社家の古法に承服している。本願勢力は衰退の一途をたどり、元禄15年(1702)と16年(1703)、御前庵主は無住となり、一時的に退転している。続いて正徳3年(1713)に理性院が無住に。享保11年(1726)に瀧庵主、16年(1731)に補陀落山寺が無住となっている。
享保6年(1721)、社家より修復の会合に入れないとされた本願は幕府寺社奉行に訴え、幕府は本願を会合に入れるよう裁定している。
紀州家申渡状写
享保六丑之年社家穀屋和談之節、諸事社家ニ随ひ候様ニ紀州御役所より穀屋江被仰渡候御書付写し
熊野本願共
当四月、一臈共
公儀寺社奉行衆松平対馬守殿より被召呼候節、対馬守殿江補陀洛寺願書出シ候趣、不届之由ニ而社家社僧修復会合江本願共入レ不申候付、右会合ニ入候様ニ仕度旨再往申出候、於江戸表対馬守殿江唯今迄諸事如両輪之務来候由願出候段、不調法之儀候、其上右願差出シ候節、役所江も不相達、直済仕候段旁不届ニ候、乍然九十年来御修復願ニ者、社家社僧共と代々江戸表江茂相詰候事ニ候得者、御修復願主之内ニ者入罷有候儀□此段彼是及出入候而ハ御修復巡行等之障りニ茂可成事ニ候条、本願共之儀も会合江入、諸事相談可仕候、存念之趣も有之候ハハ、修復相済候已後相達可申候、其節御吟味可有之旨、□□社□社僧共江於江戸申聞候處、委細被仰聞候儀ニ候、□此度之義ハ和談之上会合ニ入可致相談候、諸事両輪之様ニ相心得不申、諸事社家共へ相随□相談仕□□ニ致心旨申候間、本願共之□通、相加り候而会合相談可仕候、若存念□有之候ハ、修復相済候上、□達可申候、□味ニ而可有□(26)
元文元年(1736)、幕府より熊野三山へ寄付があり、これをもとに藩と社家が貸付金を運用し修理、造営を賄うことになる。
本宮竹坊大蔵書状
  覚
拙者儀、当春江戸表へ罷越、自分御年礼相勤可罷帰之処、御側衆大嶋近江守殿より公義御暇過候共暫逗留可仕旨、後御城より御手紙参り候、近江守殿より修理料御相談ニ及申候、仍之御金御寄附ニ罷成申候、
一従 公義、熊野三山為御修理料金貳千両御寄附被為遊候旨、当辰ノ三月廿六日、別紙御書付之通松平紀伊守様被仰渡、右御金請取候、手形ニ公儀御役人様方之御裏書を以、同四月十九日ニ御金請取、則紀州様御屋敷へ相納申候、右御寄附ニ付、那智社中之御礼ハ尊勝院、新宮ハ永田大膳江戸御礼被相勤候、本宮ハ先達而大蔵勤候故惣代不下候、右従公儀出候御書付写壹通進之候、御本紙ハ本宮ニ預り納置可申、左様ニ得御心可被成候、
元文元年辰ノ六月        本宮 竹坊大蔵 印
      那智山社中御惣代 尊勝院主
〜以下略〜 (27)
延享元年(1744)4月、「寺社奉行衆社法申渡状」が出されて本願勢は敗訴する(延享の裁許) 。そこでは、本願は社家より下位とされ、社中とは社家であり、本願は社家の支配を受ける。更に享保21年・元文元年(1736)に幕府より下賜された寄付金を運用して造営にあたり、それは社家の役目であるとされた。社役、社法、造営から外された本願は、その存在基盤を失うことになってしまった。
寺社奉行衆社法申渡状
紀州那智山社家・本願、就社務及争論、吟味之上双方江申渡條々
一 社家・本願両輪のことく社役相務之旨本願訴候事
社家者世々之 綸旨・御教書執伝、於一山社職之重事勿論に有之、本願者濫觴社役共ニ軽、同格之非社職条、向後両輪同様ニ不可相心得候、
一 本願も社中に篭之旨訴候事
一山住居之輩をすへて社中と申儀ハ諸社一同之事候、雖然古来より三之山におゐてハ、社家をさして社中と称し来候、付而ハ其わかれ紛しく及争論といへとも、元来本願ハ起立并社職茂別段にて、既に本願と号する別名有之、延宝三年奉行所より之掟書ニも、修験道を止、偏に願職を可務之旨有之、社家とハ別段之儀候間、自今弥以願職一偏を相務、社家江不可相紛候、
一 社家一臈之支配を不請之旨本願訴候事
社家之内より一臈にすすむものハ、一山を令支配、山内上下随其指揮事顕証無疑、自今本願茂一臈之請支配、萬端可随指揮勿論、社役混雑有之間鋪候、
一 本願色衣之事
前格無之ニ付、今度九ヶ寺之本願色衣令停止之条、其旨を相心得不可致着用候、
但、御前庵主色衣致着用候儀、緃背古法といふとも、東叡山并国主江も不相達、社家共指押候段失礼之至候、自今山内之法たりとも、卒○之働有之間鋪候、
〜中略〜
一 宮社修理之儀者本願之主役たるによつて、破損有之節は本願より願出度之旨訴候事
享保二十一辰年従
公儀御寄附金有之社家江被 仰渡、当時紀伊殿役人預之、破損之節者社家より相達、被加修補之上者、社家も放て不相拘候、本願者猶以不可差綺儀候、依之願之趣不及沙汰候、
〜中略〜
一 今度社家共差出候那智山依躰定書并社法格式書令点検之上、各加奥印相渡之条、山中永此旨を可相守候、
〜後略〜 (28)
同年には、御前庵主を惣代として瀧庵主、大禅院、理性院、阿弥陀寺が無住であったことが確認される(御前庵主詫状)。補陀落山寺も御前庵主の兼帯となり、延享の裁許以降、那智七本願は御前庵主・補陀落山寺だけが命脈を保つ状態となってしまった。
御前庵主詫状
〜本文略〜
延享元甲子年八月 本願中惣代 御前庵主 印
御執行代
香全院主
右本願之内、那智阿弥者在江戸、五ヶ寺ハ無住、補陀洛寺へ拙僧兼帯故致一判申候、以上、
御前庵主(29) 
14 聖地を創る仏教者  〜宗派を越えた熊野信仰〜 

 

先に見た「三宝絵詞」「いほぬし」から推測すると、平安中期に熊野・那智の「信仰の教理面」をつくったのは天台僧ではないかと思われる。
11世紀中頃までに成立した「いほぬし」からは、平安後期の熊野本宮には2、300の庵室が建ち並び、礼堂では僧正のもと例時作法の勤行が行われ、大衆が祈りを捧げる様は喧騒に包まれたもの、霜月には天台の法華八講が行われていたことが確認された。同じく熊野について、その態様を詳述している「三宝絵詞」は永観2年(984)に成立している。
両書が成った10世紀から11世紀にかけては、天台聖が諸国をめぐり在地の社堂を再興しては聖人伝説をつくり、由緒あるものにすることが活発化していた時代だ。(1)「慈覚大師円仁による創建・再興」を伝える寺院は数百にのぼることから天台聖の活動は広範囲なものであったと思われ、例えば東北の恐山、平泉・中尊寺、山寺・立石寺、松島・瑞巌寺、東京の瀧泉寺、浅草寺等が円仁により開山・再興されたと伝えられる。また安房国には平安後期の薬師如来像が多く、千葉県で見ると県内全如来像のうち薬師如来像の占める割合は33.3%であることから(2)、天台聖の活発な伝道が推測され、日蓮が学んだ清澄寺の不思議法師開創・円仁再興との所伝も天台聖の活動を伝えるものだろう。
そして熊野にも多くの天台聖がおとずれていた。彼らが熊野に向かったことが確認される史料としては、長久年間(1040〜1044)に成立した「法華験記」が挙げられる。
・熊野より金峯山に向け、山中を斗藪していた沙門・義睿が山中で出会った、20歳位の聖人(第17代天台座主・喜慶の弟子)。
・法華経の持経者・壱睿が宍背山で出会った、法華経を読誦し続ける比叡山東塔の住僧・円善の死骸。
・熊野から大峯の山中で、夢の中に現れた童子の導きにより、遭難を免れた天台の山僧・長円。
法華経信仰を鼓吹するための脚色・霊験譚は差し引くとしても、このような話は「法華験記」成立以前からの、天台僧の山中斗藪、熊野との往来があってはじめて生まれるものではないだろうか。
ほかには平安中期の公卿・三善清行の子で、比叡山で出家した浄蔵(891〜964)がおり、「大法師浄蔵伝」によれば25歳の時に那智滝の草庵で日夜、法華経六部を誦して験力を獲得したという。浄蔵の験力云々はともかく、彼が熊野・那智で修行したことが史実であるか否かについては、伝記中に二度にわたりその地名が出ていることに注目すべきだと思う。自らの験力の裏付けとしての霊場修行譚であるならば、「新猿楽記」の次郎が修行した地として「大峰、葛木、熊野、金峰、越中立山、伊豆走湯根本中堂、伯耆大山、富士御山、越前白山、高野、粉河、箕尾、葛川」の名を挙げる如く、一度その地名を記せば事足りるのであり、一度目の12歳で熊野修行は考えられないにしても、浄蔵25歳の青年期ならば十分あり得る話ではないだろうか。
また、天平神護2年(766)、熊野牟須美神と速玉神に各四戸の封戸が与えられ、天安3年(859)以降、数回かけて熊野早玉神と熊野坐神が昇格し、延長5年(927)に成立した「延喜式」の「神明帳」に「熊野坐神社」と「熊野早玉神社」が載せられていることから、10世紀初頭には熊野信仰は都で広く知られるものとなっていたことが窺われ、後にその験力が伝えられるほどの人物であれば、意欲旺盛な青年浄蔵が霊験あらたかなる聖地へ修行に赴く姿を想像しても、間違いではないと思う。
続いて12世紀の天台僧、行誉の那智山籠と現地での仏像等の鋳造、経典書写と奉納は、前代からの天台僧による熊野往来、参籠、修行の中に位置付けてよいものだろう。
このような天台聖熊野来訪の背景としては、熊野・那智は古代より山中他界の祖先崇拝、死者供養の習俗を伝え、黄泉の国・常世国に連なる地、神霊の籠る霊場としての観念があり、天台聖・修行者らが霊験・宗教的体験を求め、また自らが抱く仏教思想を浸透させるのに恰好の地としたことがあるのではないだろうか。彼らの活動により導入されたのが、「三宝絵詞」「いほぬし」に描写された天台・密教の法会、作法ではないか。寛治4年(1090)の、白河上皇熊野御幸の先達を努めたのが園城寺の増誉であることも、それ以前に天台、なかんずく寺門系の僧が熊野への往来を重ねていたことを物語っており、その時代も「三宝絵詞」「いほぬし」の成立期と重なっている。
「元亨釈書」にある円珍の熊野詣での所伝と、礼殿執金剛童子(雷電八大金剛童子)の本地・弥勒菩薩を円珍が顕したというのは、その系譜に連なる天台僧(寺門系)の活動によるものだろうし、瀧尻王子社の本地・不空羂索菩薩を円仁が顕し、切目王子社の本地・十一面観音を義真が顕したとの所伝も、法系の天台僧(山門系)によりつくられたものだろう。一方、良源が毎年、那智で一夏九旬行法をなしたとの「熊野山略記」の記述については、康保3年(966)に天台座主に就任する以前の、40代の頃までなら有り得る話だが、、確実な史料の見当たらない現段階では、その可能性がある、という範疇に留めておくべきだと思う。
古くより神祇への信仰を集めていた各地の霊場では、平安後期には本地垂迹説により神の本地としての仏・菩薩が語られるようになり、神仏習合思想が一段と浸潤していくのだが、それは神の仏教理論による位置付けと信仰の展開となり参詣者は増加し、寺社の興隆をもたらし、在地の思いと合致するものでもあった。本地仏を創り、本地垂迹説を伝播した立役者が天台・真言の僧であり、「聖人信仰」はもとより「本地垂迹」説流布の一翼を担った天台僧であれば、当時、貴族から庶民・大衆にまで広まっていた浄土教と密教の加持・祈祷、更に本地仏の概念を熊野の地に移植し、創作することは容易に考えられることだろう。彼らにより、「本宮・証誠殿の神の本地は阿弥陀如来でありその地は西方浄土。新宮の神は薬師如来であり東方瑠璃浄土。那智の神は千手観音が本地であり那智山は如意輪観音を祀る観音菩薩の補陀落浄土」とされ、喧伝されるようになったのではないだろうか。社会の各層とつながりを持ち諸国を往来する聖であれば、霊場の名と法験、その利益を伝え浸透させるのに時間を要するものではなかったろう。
事実上の開創期と言うべきか、それとも再興期というべきか、いずれにしても「世に名が知られるようになった時」の熊野三山の信仰は法華経との縁、深きであったといえると思う。
また、後に東寺長者となる範俊が承保元年(1074)より3年間、那智で修行を行ったこと。神護寺の中興の祖とされる文覚(1139〜1203)の滝修行からは、この二人だけではなく、少なからぬ真言僧が熊野・那智を訪れていたと読み取れるのではないだろうか。
文覚が興然より付法されたのは50歳の頃だが、彼は保延5年(1139)に生まれ、熊野で修行したのが長寛元年(1163)で20代半ばだ。それから5年後の仁安3年(1168)秋の頃、はじめて神護寺に参詣し、その荒廃を嘆いて復興の大願をおこし(僧文覚起請文)、草庵を構えている。彼の信仰姿勢は「熱烈な大師信仰に由来する真摯な真言の行人」(3)というもので、出家後の信仰がどこにあったか、それは修験の行人の道であり真言だったといえるだろう。
平安末期、大験者・真言師である次郎が熊野で修行したとされる「新猿楽記」の記述も、次郎当人の熊野修行が史実かどうかはともかく、世に名が聞こえる大験者・真言師の修行の地として、熊野が挙げられていることに注目したい。「大峰、葛木、熊野、金峰、越中立山、伊豆走湯根本中堂、伯耆大山、富士御山、越前白山、高野、粉河、箕尾、葛川」等での修行こそが(実際にはすべての地に向かうのは無理としても)、真言師が大験者となり、「智行具足の生仏」と称される前提だった、といえるのではないだろうか。
更に、鎌倉末期から南北朝期の成立と推定される「源平盛衰記」の花山法皇の那智滝籠りを伝える巻三の「(後白河)法皇熊野山那智山御参詣事」には、「今の世まで六十人の山篭とて、都鄙(とひ)の修行者集りて、難行苦行するとかや」とあり、「今の世まで」即ち「源平盛衰記」が書かれる時代まで、「都鄙の修行者」都とその周辺の修行者の多くが那智に集まり、滝籠りをしたということは、そこに天台・真言の行者が集ったと読解してもよいのではないか。「熊野山略記」にも「花山法皇正暦年中、恭凝三ヶ年之参籠、号移千日之涼煥、専連六十人之禅徒」と、六十人の禅徒=僧が連なったとある。
範俊と文覚の事例、そして大験者・真言師の修行の地として熊野・那智が挙げられていることから、10世紀には多くの天台僧が訪れ修行し、創り上げた(としてもよいだろう)熊野・那智山に、11〜12世紀には真言僧も入っていたのであり、平安末期には天台・真言の僧が熊野・那智山で共に住した、ということになる。
白河上皇の参詣により熊野信仰が盛んになる以前の、平安前期に遡るが、「天台と真言が共に在る」ということについて、当時は両者の垣根は低かったことが確認できる史料がある。佐伯有清氏の「聖宝」では次の事例を紹介されている。(4)
・「醍醐雑事記」巻第一に、「貞観十八年、上醍醐の諸堂の供養の導師は、遍照僧正なり」と記されている。貞観18年(876)、真言僧・聖宝が如意輪観音と准胝観音を造立し、笠取山山頂に安置の堂を建てた際、落成供養の導師は天台の遍昭(816〜890)が務めたとされる。遍昭は円仁、円珍に学び伝法阿闍梨位を授けられ、貞観10年(868)に笠取山から約6キロのところに花山寺を建て住している。
・貞観16年(874)11月と元慶6年(882)10月の二回、貞観寺(かつて京都にあった真言寺院)の上座僧・延祚(えんそ・生没年不詳)は、円珍から大法を授かり金剛界の灌頂を受けていて、当時、真言宗と天台宗の僧侶のあいだにわだかまりのない交流があった、とされる。
佐伯氏は「円珍」(5)でも、真言僧の宗叡(809〜884)が円珍より両部の大法を受けたことを紹介されている。禅林寺僧正・宗叡は実に多彩な顔ぶれから教授されているようだ。比叡山で出家して修学した後、興福寺で法相教学を、高野山の開創に尽力した実恵からは真言密教を学び、空海の弟子・真紹が開基した禅林寺で真紹より灌頂を受けている。貞観4年(862)1月頃には、園城寺で円珍より胎蔵蘇悉地の大法を授法されている。貞観4年7月、真如親王らと共に入唐し、帰国後は東大寺別当、東寺長者をつとめた。
鎌倉時代にも、窪田哲正氏が論考「安房清澄山求聞持法行者の系譜 ― 清澄寺宗旨再考 ―」(6)で紹介されたように、台密・東密両系の法脈に連なった亮守(?〜一説1358)のような人物がいる。亮守は東寺の真言を三流相伝し、台密の蓮華院流、穴太流、三昧流を相伝している。清澄寺では、求聞持法を三度修し(華頂要略・真言血脈相承次第)、1330〜1340年代の間に、同寺において灌頂を授けている。
時、場所、人物同士の関係性により、天台・真言の垣根は低かったものか。このような事例はほかにもあることだろう。
鎌倉時代後期に、那智に奥の院(滝見寺)という由良・興国寺の末寺となる相応の坊舎を構えたであろう臨済宗法燈派の僧は別として、平安から鎌倉期、この地を訪れた天台・真言の聖・行者達の、居住実態はどのようなものだったろうか。熊野・那智を訪れる聖・修行者は伝道と山林斗藪、滝籠、そして熊野三所権現参詣が主目的だったろうから、彼らは一定期間の居住に耐え得る簡易な庵室を結ぶ程度で、本格的な坊舎を造ることはなかったと思う。
増基法師の「いほぬし」では、本宮には庵室が200〜300あったことを記しているが、そこでは行者達は蓑をかけ、木材を枕にごろ寝して、芋を食しており、彼らの生活ぶりからすれば寺院建築ではなく簡素な造りと理解できるもので、熊野・那智に滞在した聖・修行者の居住の態様を知るのに参考になると思う。
時代を下らせて「熊野山略記」(7)を見ると、「彼那智山者、三百余房皆清浄、而無男女共住之義、本・新両山者、共菴室外在男女共居之坊舎故也」(8)とあって、本宮と新宮の坊舎は男女が共住していたのに対して、那智山は男女が共住することなく300余の坊舎が皆清浄だったとしている。それにしても、室町時代の那智山の坊舎の数が平安期の本宮の2、300を超え、300余もあったというのには驚かされる。もちろん、実数であるかどうかはともかく、いかに多くの修行者が観音菩薩の浄土、滝籠の聖地をたずねていたかを物語る数字なのだろうし、狭い山間の地である故、その坊舎というものも、簡素な庵室程度のものだったと思う。そして遥々、熊野本宮に参詣した増基法師が「親しう知りたる人のもとに行」ったように、目的地に着いた修行者達は法系、法友のいる草庵へと向かったのだろう。
ここまで熊野・那智における天台と真言に的を絞ってみてきたが、正確には、那智に奥の院(滝見寺)が創建され臨済宗法燈派の僧が住している可能性が高いので、同院が建てられた13〜14世紀には、一山内に天台・真言・禅の三者が共住したということになる。さらに文永11年(1274)夏の一遍の熊野成道に倣い、熊野・那智で参籠する念仏僧もいただろうから、その場合、天台・真言・禅・念仏の四者となる。もっとも、源師時が長承3年(1134)2月1日に「丞相(証誠殿・本宮)の和命家津王子」の本地は「阿弥陀仏」と書いた(長秋記)頃からは、諸方にその名が伝わったと考えられ、一遍以前に熊野に参籠した念仏僧が既にいて、その系譜に一遍が連なった可能性もあると思う。
根井浄氏と原田正俊氏の教示では、禅律僧尼の熊野参詣も活発で、心地覚心の弟子・賢心(和歌山・歓喜寺長老)が諸国を行脚する仏教者、熊野参詣往来者の接待所を設け、元徳2年(1330)に接待所料田を寄進している(9)。このような参詣の禅僧、律僧が三山で山籠したのも十分考えられるところで、14世紀には、熊野・那智に天台・真言・禅・律・念仏という、当時の主要宗派が共に住したということになるだろう。
これまでみてきた経緯をまとめてみよう。
熊野・那智における在地の衆徒(社家)の宗教は、平安期に天台聖らにより「教理」が持ち込まれ、同時に神仏のいる世界へ分け入る山林跋渉と斗藪の「行」も伝えられ、在地勢力はそれを摂取した。それが古来よりの、山岳などの自然を崇拝して神霊の加護を祈る信仰と結びつき、在地色の濃い熊野・那智修験教団というべきものとなった。室町期に至り、道興をはじめとする熊野三山検校の直接支配が及ぶようになると天台寺門の影響力が増し、熊野・那智はそれを吸収しながらも、寺門側も多分に摂取するものがあった、いわば都と在地で相互に影響しあうことにより熊野信仰の隆盛期を迎えたのではないか。次に本山派(天台・聖護院)と当山派(真言・醍醐寺三宝院)の勢力拡大により、衆徒(社家)と後に台頭してきた本願勢は本・当のどちらかに連なるものとなった。両派の活動は旺盛なもので、一つの寺院が短い年月のうちに天台、真言を移り変わることもあった、という理解になるだろうか。
いずれにしても、熊野新宮の新宮庵主、那智山の社家・本願寺院に見られるように、元禄16年(1703)と享保12年(1727)の「切支丹御改帳」に宗派が書き入れられるまでは、幾多の変遷を経たのではないかと思う。
以上、大変に長い文章となってしまったが、平安から鎌倉、そして江戸時代にかけて、熊野・那智の地には主だった宗派が揃っており、熊野三所権現の神威と阿弥陀如来の西方浄土、薬師如来の東方瑠璃浄土、観音菩薩の補陀落浄土という「熊野信仰」は、各宗・各派を包含する懐の深いものであり、異なる宗教者を向かわせる力に満ちたものだったといえるだろう。もちろん、「熊野の神威」「熊野信仰の裾野の広さ」といっても人間が創り出したものであり、その創られた、目に見えない神仏への信仰がまた新たなる人物と宗教者、そして価値を生み出し、それが衆生の心田を耕すことになるのだから、ここに「宗教の妙味」ともいうべきものがあるように思う。このような観点から、筆者は「宗教とは終わることのない人間精神の創造活動=永遠の創造ではないか」と理解している。 
主要参考文献  本文《注》表記以外 

 

「熊野三山信仰事典」 加藤隆久氏・編 1998年 戎光祥出版
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「日本思想大系 七 往生伝 法華験記」 井上光貞氏、大曾根章介氏・校注 1974年 岩波書店
「日本思想大系十五 鎌倉旧仏教」 鎌田茂雄氏、田中久夫氏・校注 1971年 岩波書店
「日本思想大系 十九 中世神道論」 大隅和雄氏・校注 1977年 岩波書店
「新編 日本古典文学全集十 日本霊異記」 中田祝夫氏 校注・訳 1995年 小学館
「新編 日本古典文学全集四十五・四十六 平家物語」 市古貞次氏 校注・訳 1994年 小学館
「宇佐宮」 中野幡能氏 1985年 吉川弘文館
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「増補 史料大成(台記)」第二十四巻 増補「史料大成」刊行会・編 1974年 臨川書店
「増補 史料大成(長秋記)」第十七巻 増補「史料大成」刊行会・編 1965年 臨川書店
「神道大系 文学編五 参詣記(熊野詣日記)」 神道大系編纂会・編 新城常三氏・校注 1984年 神道大系編纂会
「新 日本古典文学大系 二十七 本朝文粋」 大曾根章介氏、金原理氏、後藤昭雄氏・校注 1992年 岩波書店
「新 日本古典文学大系 三十一 三宝絵 注好選」 馬淵和夫氏、小泉弘氏、今野遠氏・校注 1997年 岩波書店
「新 日本古典文学大系 四十一 古事談 続古事談」 川端善明氏、荒木浩氏・校注 2005年 岩波書店
「新 日本古典文学大系 五十六 梁塵秘抄 閑吟集 狂言歌謡」 小林芳規氏、武石彰夫氏、土井洋一氏、真鍋昌弘氏、橋本朝生氏・校注 1993年 岩波書店
「日本古典文学大系 八十五 沙石集」 渡邊綱也氏・校注 1966年 岩波書店
「国史大系 第九巻 本朝世紀」 黒板勝美氏・編輯 2007年 吉川弘文館
「国史大系 第十二巻 扶桑略記 帝王編年記」 黒板勝美氏・編輯 1999年 吉川弘文館
「国史大系 第二十七巻 新抄格勅符抄 法曹類林 類聚符宣抄 続左丞抄 別聚符宣抄」 黒板勝美氏・編輯 1999年 吉川弘文館
「国史大系 第三十一巻 日本高僧伝要文抄 元亨釈書」 K板勝美氏・編輯 2000年 吉川弘文館
「群書類従・第十八輯 日記部 紀行部(いほぬし)(廻国雑記)」 塙保己一氏・編纂 1977年 続群書類従完成会
「続群書類従・第十二輯上 文筆部(卅五文集)」 塙保己一氏・編纂、補・太田藤四郎氏 1971年 続群書類従完成会
「続群書類従・第三輯下 神祇部(厳島御本地、熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記、熊野本宮別当三綱大衆等解)」 塙保己一氏・編纂、補・太田藤四郎氏 1976年 続群書類従完成会
「続群書類従・第十九輯下 遊戯部・飲食部(宴曲抄)」 塙保己一氏・編纂、補・太田藤四郎氏 1974年 続群書類従完成会
「続々群書類従・第三 史伝部(大法師浄蔵伝)」 国書刊行会・編纂 1978年 続群書類従完成会
「続群書類従・補遺三 お湯殿の上の日記(一)(二)(四)(六)」 塙保己一氏・編纂、補・太田藤四郎氏 1975年 続群書類従完成会
「撰集抄」 西尾光一氏・校注 1970年 岩波書店
「日本絵巻大成 別巻 一遍上人絵伝」 小松茂美氏・編 小松茂美氏、村重寧氏、古谷稔氏・執筆 1979年 中央公論社
「一遍聖絵」 大橋俊雄氏・校注 2000年 岩波書店
「智証大師円珍」 小林隆彰氏 1990年 東方出版
「諸國叢書 第二十二・二十三合併輯(熊野年代記)」 2008年 成城大学民俗学研究所
「修験と念仏」 上田さち子氏 2005年 平凡社
「僧兵=祈りと暴力の力」 衣川仁氏 2010年 講談社
「熊野修験の森 大峯山脈奥駈け記」 宇江敏勝氏 1999年 岩波書店
「中世仏教の原形と展開」菊地大樹氏 2007年 吉川弘文館
「初期密教 思想・信仰・文化」 高橋尚夫氏、木村秀明氏、野口圭也氏、大塚伸夫氏・編 2013年 春秋社
「昭和定本 日蓮聖人遺文」 立正大学日蓮教学研究所・編 1959年 身延山久遠寺
「修験道歴史民俗論集1 修験教団の形成と展開」 鈴木昭英氏 2003年 法蔵館
「熊野 神と仏」 植島啓司氏、九鬼家隆氏、田中利典氏 2009年 原書房
「続史料大成(後法興院記)」第五巻 竹内理三氏・編 1994年 臨川書店
「廻国雑記の研究」 高橋良雄氏 1987年 武蔵野書院
「熊野信仰の世界 ―その歴史と文化―」 豊島修氏 2013年 慶友社 
 
座間の歴史

 

座間の歴史 
古代の座間
「続日本紀」に、「夷参」という郷名が出ています。今まで武蔵国の国府に行くには東山道の上野国を通って行っていたが不便なので、東海道にあらため、夷参からの道にしたらどうかという奏上があり、許可されたというものです。
この夷参はのち「和名抄」に出てくる「伊参」であろうとされ、上野国に同名の地があり、イサマと訓があるので、相模国の夷参もイサマと読み、イサマの「イ」が脱落して「ザマ」になったというのです。
座間の語源については別にふれますが、座間は湧水が多く、縄文時代の遺跡の多いところです。しかし、弥生時代についてはほとんど何も遺跡らしいものがなく、当時は米作には向かなかった地であったからかも知れません。 
古墳時代に至って、丘の中腹に横穴古墳がたくさん見られるようになり、現在判明しただけでも30基があります。もともと水の多かった土地ですから、開拓によって田園が広がってきたのでしょう。
隣村が国府や国分寺の所在地だった海老名で、海老名には班田収受時代の名残りをとどめる田んぼが広がっていますから、座間も影響を受けなかったはずはありません。 
夷参駅 
「夷参」は「いさま」と読むというのがおおかたの考えですが、正確にはどう読んだのかわかりません。郷名としてこの名が出てくるのは『続日本紀』という史書の宝亀二年(七七一)で、武蔵国府(現府中市)は東山道に属しているが東海道の夷参からの道をとり、東海道に組み入れたほうが便利であるとあるところです。
<太政官奏すらく、「武蔵国は山道に属せりといへども、兼ねて海道をうけ、公使繁多にして、q供堪へがたし、其の東山の駅路は、上野国新田駅より、下野国足利駅に達す、この便道たるや、上野国邑楽郡よりまげて五ヶ駅を経て武蔵国に到り、事おわって去る日、又同じ道を取りて下野国に向かう、今東海道は、相模国夷参(いさま)駅より下総国に達す。其間四駅にして往還便近し。しかるにこれを去り彼に就くこと損害極めて多し。臣ら商量するに、東山道を改めて東海道に属せば公私所を得て、人馬息すること有らむ」と。奏可す。> (『綾瀬市史1』資料編・綾瀬市)
この夷参は約90年のちに著された『和名抄』の「伊参」(高座郡)であろうということになり、それなら同書の上野国の伊参に「いさま」とルビがあるので、これも「いさま」と読み、つれて「夷参」も「いさま」と読むとされています。多少異論もあるところですが、今はその説にしたがっておきます。この伊参から「い」が脱落して「さま」、「ざま」となったとし、夷参・伊参は座間の故地とされているので、いまは「いさま」と名付けた銘酒まで発売されています。
夷参駅の「駅」は「うまや」と読むことになっています。古代の街道ではところどころに駅をおき、馬や人夫を備えて、旅人の求めに応じて駅から駅へ継ぎ立てをしていたそうです。
建物を駅家(うまやと読む)、駅館(うまやたち)といい、人馬を備えるほか、旅館を兼ね、管理者として駅長(うまやのおさ)がいてことに当たっていたといいます。そしてこれは律令制に決められた制度でした。
当時、異郷に旅をするということはたいへんなことで、旅籠とか商店などはありませんから旅人は食糧も物資も携行しなければならず、野宿や山野での煮炊きもふつうだったでしょう。
携行するといっても、銭などの普及もなかった時代(のち政府は銭を袋に入れて携行せよというフレをだしていますが)ですから、一切物物交換しかありません。そういう時代に旅をしなければならない庶民がそういたわけではないでしょうが、庶民にとってどうしても逃れることのできない旅がありました。東国でいえば租税として徴収される物資を京まで運ばねばならなかったこと、命じられた労働にしたがうために、やはり京まで出向かねばならなかったこと、防人(さきもり・兵士)として召集に応じて行かねばならなかったことなどです。
<大君の命かしこみ 妻別れ 悲しくはあれど 丈夫の 情振りおこし とり装ひ 門出をすれば たらちねの 母かきなで 若草の 妻取り付き むせびつつ 言語すれば 群鳥の出で立ちかてに滞り 顧みしつつ いや遠に 国を来離れ いや高に 山を越え過ぎ 葦が散る 難波に来ゐて(略)> (『万葉集』佐々木信綱編・岩波文庫)
これは東国から応召し、難波(大阪)から船に乗って九州の防人となった兵士の情を歌ったものです。
相模峯の小峯見そくし忘れ来る妹が名呼びて吾をねし泣くな
おそらく相模の若者の多くも愛妻と別れて足柄山を越えて行ったでしょう。
家ろには葦火焚けども住み好けを筑紫に到りて恋しけもはも
これは橘樹郡(川崎市)に住んだ妻の歌といいます。
『続日本紀』の霊亀二年(七一六)の天皇の詔に、
<調(税としての麻布など)を運ぶ人夫が京にはいった衣服はつかれ破れて顔色は青菜のようなものが多い、にも拘らず公の帳簿にはうそ偽りを書き良いように見せかけて、それに対する評定を得ようとしている。国司、郡司がこのようであれば朕は何を委ねることができようか> (『続日本紀』宇治谷孟・講談社・以下同じ)
とあります。当時の事情をしめすものでしょう。
ところで、律令制下の駅制は、諸道三十里ごとに一駅を置き、駅馬を備えさせたといい、相模国の駅は西から坂本、小総、箕輪、夷参と続き、宝亀二年(七七一)の太政官符以降夷参駅から武蔵国の四駅(店屋・小高・大井・豊島)を経て下総国に至ることとなったということです。
初期の東海道は相模国三浦半島から現東京湾の走水の海を上総国へ渡るルートをとっていたそうですが、大規模河川の通過が次第に可能になってきて、危険な海路を避け、東海道が陸路になったらしいのです。坂本、小総、箕輪などの駅名は相模では北部の山裾にあたり、天然災害の少ない道だったでしょう。 駅を選定するにあたっては、大宝二年(七〇二)、初めて紀伊国賀陀(加太)の駅を設けたことが記録されていますが、ここが淡路に渡る港であったからということでした。夷参の場合は相模川を渡る要路であったことが考えられます。
鈴が音の早馬駅家のつつみ井の水をたまへな妹が直手よ
駅には旅人のために水場があり、馬には鈴がつけられていたようです。その管理料にあてるため駅田というものがあって、そこの収穫稲を駅起稲といい、その貸付料で経営したようです。 座間のNTT局の地から発掘された遺跡(田中遺跡という)はおよそこの時代の住居跡といわれ、須恵器・土師器・灰釉陶器・墨書土器などが出土しましたが、出土品のなかに土錘があったことも注目されます。そのころ、このあたりに近く漁労のできる川があったのです。あるいは田中遺跡の地は駅田であったかも知れず、近くの「輿巻」という地名の「巻」は馬籠(馬込)を示す「牧」であったかも知れません。おそらくこのあたりが川渡りに好条件であって、湧水にも恵まれ、交通の要地でもあったと考えられます。
東の、梨の木坂あたりに横穴墓がたくさんありますが、時代としてはおよそ同じころのもので、駅長(えきおさ)や伝駅戸(うまやべ・駅家維持のため仕える戸)の墓所だったのではないかと思います。
駅家では単に宿舎としての機能だけではなく、天平二年(七三〇)夏太宰大監大伴百代が病んだとき天皇は使いを発して見舞ったそうで、幸い病癒えて使いが帰京するとき、百代たちがこれを見送って、
<共に夷守の駅家に到り、聊か飲みて別を悲しみ…>
とあるようにいっぱいやることもできたらしいのです。この席には百代の子家持も同席していました。(『万葉集』同前) しかし、駅家は公用のものでしたから、一般庶民が気軽に利用はできなかったようで、また、おおやけの使者や公用で利用を許された人の場合、ほかの道を通っては飲食宿舎の提供はないので、決められた道と駅をたどるほかはなかったと思われます。そういうことで、武蔵国府への道が効率の悪い状況になったままだったのでしょう。
座間の古い字名には篭馬(かごま・ろうば)といった馬にまつわるものがあります。飛鳥・藤原・奈良といった古代には、今では考え及ばない意識で中央からみられていたでしょう。
夷参が下総への街道の宿駅であり、かつ府中を通して東山道へも通じることを思い、当時の国内事情を考えますと、否応なく視点は東北経営の要衝ということに辿り着きます。相模守だった道嶋宿禰嶋足、大伴宿禰家持は相次いで上総守や下総守を兼ね、のち、陸奥国へ遠征しています。きっと夷参つまり座間に集合した諸軍を引率して、にぎにぎしくみちのくへ出発したに違いありません。
このように考えてくると、「夷参」という文字もなんだか意味深に見えませんか。夷参の「夷」は「えびす」とも読み、中央から遠く離れて「まつろわぬ民」のことで、すなわち、陸奥(みちのく)を意味します。「参」は「まいる」ですが参会などは「あつまる」ということです。参上には「行く、至る」の意味があります。
宝亀二年(七七一)、武蔵国府が東海道に属すことになって以降、東北経営がにわかに騒がしくなったことは歴史の示すところで、宝亀五年(七七四)には大伴駿河麻呂が討伐に向かい、宝亀八年には陸奥・出羽の軍が蝦夷軍に敗れ、宝亀十一年には反乱で紀広純が死にました。天応元年(七八一)藤原小黒麻呂が蝦夷を征討、翌年(延暦元年)には大伴家持が陸奥鎮守府将軍となって征討に赴き、同七年には東海・東山道ほか関東諸国から歩騎5万余人を動員して多賀城を守らせています。同十三年には大伴弟麻呂の討伐があり、それでも成功しなかったのか、同二十年には坂上田村麻呂が征討に赴き、翌年、やっと蝦夷の首長アテルイを降伏させています。陸奥出羽征討の記事の終束は弘仁二年(八一一)の征夷将軍文室綿麻呂の戦勝報告があって以後のことになります。
この間、夷参は征討軍の基地として多くの兵馬の野営があったことでしょう。籠馬(かごま・ろうば)はその名残りかもしれません。 
佐々木一族 

 

座間郷と佐々木氏
座間に過ぎたもの、と言えば叱られるだろうが嘉禄三年の星谷寺の梵鐘がある。佐々木信綱が寄進したものという国指定の重要文化財である。座間市の文化財で国の重要文化財に指定されているものはこれだけだから、もっと関心が払われてよいと思うのだが、何でそんな梵鐘がここにあるのかについて真剣な追及がなされたことをあまり聞かない。
鐘の銘文は陽鋳で次のごとくなっている。
   相州 星谷寺
   奉鋳 鐘一口
   嘉禄三年丁亥歳次正月廿一日
   大勧進金剛佛子 秀毫
   大檀越沙弥 西願
   大檀那 源朝臣 信綱
       大工源吉国
       勧進金剛弟子
          秀範
大檀那の源朝臣信綱については、同じ名の田代冠者信綱という人物がいて、平家討伐の義経に従って軍功をたてているが、時代が合わないことと源朝臣の称が近江源氏嫡流にふさわしいことなどから、佐々木信綱として誤りないものとされている。
佐々木氏は宇多源氏を称し、近江の佐々木荘を伝領して秀義に至った。秀義十三歳の時源為義の猶子となり、後、義朝に従って平氏と戦った(平治の乱)。戦いに敗れた秀義は領地を失い、子息らを率いて藤原秀衡(秀義姨母夫也と『吾妻鏡』は記す)をたのみ奥州に赴こうとしたが、相模国に至って渋谷重国が秀義の勇敢さに惚れこんで自領に留め置いたと『吾妻鏡』にはある。
渋谷氏は桓武平氏で相模国渋谷庄より起り渋谷氏を称したという。初め渋谷重国は頼朝の誘いに従わなかったが、佐々木秀義とその子息たち(定綱・経高・盛綱・高綱・義清の五兄弟、うち五郎義清は重国の娘と秀義との間に生まれた)は頼朝の挙兵に応じて山木兼隆館襲撃の最前に馳せ参じた。この時秀義は七十三歳、敵方はこの老将一騎を取り籠め、秀義は老屈のため壮烈な戦死をとげたという。「関東より第一勲功に定められ御感の余り没後の賞に預かる」と『姓氏家系大辞典』(太田亮)にはある。
やがて渋谷重国も頼朝の軍に加わり、「世に覇府の元老と為す」(『地理志料』)ごとくなったが、佐々木兄弟が平家討伐に華々しい活躍をしたことは周知の通りであり、その功績において渋谷氏を超えるものがあったようだ。
これまで佐々木一族は渋谷の所領の一部を預かり、その経営を助けていたようだが、その地が何処であったかについては確証がない。渋谷氏は同じ横山党の一族として和田合戦では和田氏に加担して敗北、その所領を失うこととなった。後年(宝治二年<一二四八>という)渋谷氏が薩摩に移されるに至った一族には早川次郎実重、吉岡三郎重保、大谷四郎重茂、曹司五郎定心、落合六郎重貞とあり、早川、吉岡ほかの地が渋谷氏の本貫であったと思える。これらの地を除いての渋谷庄、すなわち座間郷の地が佐々木所管とされたのではないか。座間郷はこのようにもと渋谷氏から経営を委託されていたもので、和田合戦後正式に佐々木の所領となったものと想像されるのである。
和田合戦(建暦三年<一二一三>五月二日・三日)では和田義盛に加勢した武士の殆どが横山党を中心とした相模・武蔵の大、小名、御家人で、渋谷重国の長子高重(『吾妻鏡』には次郎高重、横山権守重時聟とある)がその中に見える。一方佐々木では北条側について大倉で奮戦した佐々木義清の名がある。
戦後直ちに次のような文書が北条義時・大江広元の連署で出されている。
和田左衛門尉義盛、土屋大学助義清、横山右馬允時兼。すへて相模の者とも、謀反をおこすといへとも、義盛殞命畢。御所方別の御事なし、志れとも、親類多きうへ、戦場よりもちりちりに成よしきこしめす。海より西海へも落行候ぬらん。有範。広綱おのおのそなたさまの御家人等に。この御ふみの案をめくらして。あまねくあひふれて。用意をいたして。うちとりてまいらすへき也。
    五月三日 酉刻    大膳大夫
    佐々木左衛門尉殿
日付は戦乱が未だ完全に収束されたと思えぬ日の夕刻のものである。これは「京都へ遣わした」(『吾妻鏡』)とあるので、佐々木総領の広綱は当時近江にあって戦闘には参加しなかったもようだが、座間郷はその一門、あるいは弟の四郎信綱に任せていたかもしれない。ここは横山党の退路を約す地を占めていたので、家人に命じて残党の逃亡を阻止せよと命じたわけであろう。
こうして庇を貸して母屋を失った渋谷氏から見れば苦々しい佐々木で、昔の縁で泰綱(信綱三男)が渋谷氏を大名であると言ったのに対し、渋谷武重(高重の子か)はこれを侮辱と取って口論となったことが『吾妻鏡』にある。
座間郷における佐々木氏の居館はおそらく現在星谷寺の所在する高台であったと思え、台地に沿った谷戸を近江谷戸といい、近江久保ともいったという伝承がある。この地が武色の濃い土地であることは『相州星谷寺嘉禄年紀梵鐘に関する参考資料』(座間市文化財保護委員会編)にも述べられているところである。星谷寺に信綱寄進の梵鐘があることは座間郷が佐々木の所領であって、その居館はこれに近い地であったことを証明すると思う。 所領の一部を寺に寄進し、居館が近くに所在した例は川崎市の砂子の宗三寺にもある。この寺はもと勝福寺といい、付近は佐々木高綱の所領であったという。高綱は木曽義仲討伐の宇治川先陣で名を成した武将で信綱の叔父にあたる。信綱が平家打倒で義経に従って京へ攻めのぼり、叔父にならって宇治川の先陣を努めたことは更に有名である。高綱は所領のうち砂子一箇村を寄付して勝福寺を自らの菩提寺としたという。この寺には信綱の子泰綱寄進になる梵鐘もあった。
『新編相模風土記稿』や『皇国地誌残稿』によると、座間の地はむかし「渋谷庄座間郷座間村」というようにいわれていたが、「渋谷庄座間郷」は現在の座間市から北方相模原の新戸・磯部・田名・当麻・溝・相原・矢部などまでの広い範囲となっている。生産性は低いが広大な地を渋谷氏、その領を引き継いだ佐々木氏は占めていたわけである。
所領に在地の代官を置いて裁量させたことは、高綱が橘樹郡鳥山村の領地を「十余町四方の館をかまへ、四面へ掘をめぐらして要害とし、一族、六角太郎、鳥山左衛門を両目代とし、猿川庄司を舎人としてここにとどめをき、其の身は鎌倉にありて勤仕せり」(『姓氏家系大辞典』)が参考になろう。 
承久の変と佐々木一族
『姓氏家系大辞典』には、「秀義の功により、又その子五人、何れも鎌倉府創業に功ありしにより、秀義長子定綱は近江、長門、石見、隠岐四ヶ国の守護、次男経高は淡路、阿波、土佐等の守護、四郎高綱は備前、安芸、周防、因幡、伯耆、日向、出雲等の守護、三郎盛綱は上野、讃岐、伊予、五郎義清は隠岐、伯耆、出雲等の守護を兼ね、一族十数国に亘り殊に近江以西、中国、四国に栄えたり」とある。このように威勢並みでなかった佐々木氏は承久の乱(承久三年・一二二一)に至ってその功業の大部分を失う羽目になった。総領広綱をはじめ子の惟綱、為綱、広綱の叔父経高と子の高重など一族の多くが院方に参加して敗死したのである。
これより先、建久二年には定綱・広綱親子が薩摩・隠岐に流される事件があり(後赦免)、正治二年(一二〇〇)には経高が阿波・淡路・土佐の守護職を奪われるという事件があった。彼らには存念があり、時既に鎌倉に源氏なく、平氏の北条に恩義は感じず、後鳥羽上皇の誘いに乗って官軍となったものと思われる。
一人信綱は相模にあって、泰時に従って鎌倉方に参加した(北陸軍に佐々木信実[盛綱の子]の名が見えるが勇戦の記録がない)。かくして宇治川では一族敵味方となって戦うことになった。『承久軍物語』(『群書類従』合戦部一)には、
<うじばしへはささきの中納言ありまさ卿、かひのさいしやう中将のりしげ(範義)、うゑもんのすけともと(広綱)、しそく太郎ざゑもん>
などとあり、信綱は息子の重綱とともに先陣を切って兄や甥の官軍を破ったのである。
信綱には鎌倉の御家人であったことのほかに、その室が泰時の娘であったという事情もあったろう。子の泰綱の母が泰時の娘と『姓氏家系大辞典』にあるからである。 戦後の戦犯追及は厳しかった。信綱の叔父佐々木次郎経高は負傷して鷲尾の寺院にいたところ、泰時は「経高どのはこのたび勅命によって京方に属されたが、治承四年の山木合戦以来の鎌倉の功臣なれば自殺させてはならぬ」と申された。これには信綱はじめ渋谷三郎、小沢入道、佐々木又太郎、大貫平三たちから自分の功にかえての助命嘆願がなされていた。経高はこれを恥じて切腹して果てたという(『新釈吾妻鏡』小沢彰)。嘆願者が座間に近い人々であることが注目される。信綱は命によって兄の山城守広綱を斬る。さらに哀れであったのは広綱の子勢多伽丸で、泰時は「広綱の科は重く普通なら助けおくことは出来ないが、今はみな仏の門弟として久しいし、また十歳の孤児のことだから悪いことはすまい」と母の願いもあり、助命のつもりで身柄を信綱に預けた。ところが信綱は、兄広綱の長子惟綱、次子為綱が次々捕らえられて斬られたので、勢多伽丸も助からぬ命と思い、人の手にかかるよりはと因果を含めて自らの手で首をはねたのである(『新釈吾妻鏡』同)。
星谷寺の梵鐘の嘉禄三年(一二二七)はこの数年後にあたる。戦後の事態収拾、嘉禄元年の大江広元・政子の死去、嘉禄二年の使節としての上京を考えると、これら公務の多忙の中に、着々と梵鐘の鋳造、寺の復興を準備していたことになり、武門の宿命とはいいながら、不運に散り、自らも手を下した近親者の菩提を弔い、成仏を願った心境は理解出来る気がする。後、遁世出家して虚仮阿と称し、仁治三年(一二四二)、六十二歳で卒した(法名経佛)。 
沙弥西願と依知
信綱の命を受けて、梵鐘の鋳造や星谷寺の造営を進めたのは西願であって、手足となって動いたのが勧進金剛弟子秀範であったろうと銘文から読み取れる。
西願については前記『相州星谷寺嘉禄年紀梵鐘に関する参考資料』でも、『座間むかしむかし第一集』の「星谷寺雑記」(飯島忠雄)でも『吾妻鏡』に二度見られるほかは不明としている。西願の名から郷土史家飯島忠雄氏が「佐々木に関係のある人物」と推測したのはさすがである。
同一人物という確証はないが、西願という法名を持つ人物はその一族にいる。佐々木系の平井氏で、『姓氏家系大辞典』には佐々木系図の愛智四郎太夫家行の子家次(平井権守、従五位下、法名迎西)に二人の子があり、次男康家は平井七郎、法名西願とある。
ところで、ここで注目されるのは、平井氏がもとは愛智氏であったことで、これは近江国愛智郡平井邑から起こるという。愛智はエチと読み、愛知とも、依知、依智、衣知とも書く。依知、依智は座間には向こう岸にあたる地名である。佐々木は同族の愛智(依知)氏をして対岸の地を管掌させたのではあるまいか。その後この一帯は海老名氏系の本間氏の所領となったが、依知から出て越智を名乗る族がある。近くの三田に清源院という寺があって、ここはもと越智弾正忠の居館で、天正年間越智出雲守寄進の薬師が本尊となっている。この越智氏は「相模愛甲郡依智より起り、依智を越智と訛りしならん」と『姓氏家系大辞典』にあるから、佐々木源氏の一族であるかも知れない。清源院については座間の竜源院がその末寺となっていることも興味をひく(双方に源の字があるのは偶然か)。
ついでだが、依知(関口)に平井家という旧家があり、やはりもとは佐々木氏だったという伝承がある。家紋も四つ目結いである。依知で平井ならそのまま近江の愛智郡平井村だが、この家の先祖は摂津多田荘、平井荘を領した族で、天正年間八王子からこの地に移り住んだという(『神奈川県姓氏家系大辞典』角川版)。近江の平井氏が転出して各地に平井の名を広めたことは、同じ近江の高島郡にも愛智郡平井村の族が開いた平井があることからも知れる。それにしても依知の地を選んで開拓を行ったとは、偶然にしては出来過ぎていはしまいか。先祖が愛智の平井であることが記憶されていて、あるいは同じ小田原北条の家臣として越智氏と面識があり、越智氏がこの地に誘ったものか。
西願が鎌倉で寛喜二年(一三三〇)巌殿観音堂の「居礎引地」の勧進を勤めたことは『吾妻鏡』にあるが、私にはこの人物がいわゆる「観音霊場坂東三十三札所」の成立にかなりの関与をしたように思える。というのは、一番札所の杉本寺に続いてこの巌殿観音堂(岩殿寺)が二番となっている。杉本寺と巌殿観音堂に頼朝が参詣したこともあるので、坂東三十三札所巡りが鎌倉府から出たものであることは明らかであろう。三番の安養院は田代寺ともいい、あの田代信綱が安置した千手観音をまつるという。星谷寺の信綱と矛盾するようだが、田代寺の巡礼歌は「枯木にも花咲くちかひ田代寺 世をのぶ綱の跡ぞ久しき」で、信綱の世を慕う意となっている。田代を借りて一族の総領に思いをはせた、と言えなくもないのである。星谷寺梵鐘を鋳たという飯山には七番の札所長谷寺(飯山観音)があり、次いで自らの名を刻した梵鐘のある星谷寺を八番札所とした。遠からぬ地(海老名市国分)に国指定文化財という格調高い千手観音を納めた清水寺(龍峰寺)があり、頼朝が開基と伝えるこの寺をおいてなぜ座間の星谷寺なのであろう、と思うと西願の名が浮かんでくるのである。星谷寺の再建に、一番札所杉本寺と同じく火災時の本尊の杉の木への避難伝説もある。ここまでくると星谷寺の再建は佐々木氏だったのではないかとさえ思えるがどうだろう。 
大工源吉国と佐々木
この鐘があまり出来の良くないものであることは、郷土史研究家飯島忠雄氏の指摘もあり、『つづれ草』20号ち」)。富山氏は鋳物の専門家で、星谷寺梵鐘について次のように述べられている。
<源吉国が源姓の一族と共に飯山の地では始めての梵鐘の製造を行ったものと思われる。創業の苦労は大変なものであったと想像出来る。従って星谷寺の梵鐘もきわめて奇古の手法になるもので、その鐘身は口径に対して著しく高く、その指数は一四七・七となっている。一般の鐘では一三五位の数値を示している。それに鐘身の外曲線はきわめてゆるく、ほとんど直線に近く鐸に近い外観を呈している。撞座は通常前後にあるが、この鐘には一方にしかない。鋳造の出来ばえとしても且つて飯島先生も言われていた様に良い出来ばえではない。鐘の中央部分に円周に沿って大きな疵が入っているが、私はこれは「湯境」と見ている。湯境とは鋳物のなかに酸化膜が出来て一体の鋳物となっていないことを言う。思うに熔解能力がこの鐘一個分の容量がなくて、一基の炉を二度続けて熔解作業をして、鐘の鋳込も二度に分けて行ったものではなからうか、比較的に熔解温度の低い銅合金であるので少し固りかけた湯の上に新しい温度の高い湯をそそげばその熱で境が熔けて一体となることは考えられるが、その一部がうまく熔着しなかった疵と想像している。一般常識から言えば明かに不合格品であるが、七六〇年前に初めての作品と思うとよくやったと思う。>
私は、このように初歩的ではあるが、関東では最初と思える鐘の鋳造を行わせた信綱は、鋳物師吉国らを近江から呼び寄せたと推測する。実際に鋳造した場所が飯山であったかどうかは不明だが、愛甲の飯山から荻野にかけてであろうし、佐々木の手の者であったであろうことは、前記川崎の宗三寺(勝福寺)の梵鐘がやはり源姓の大工有貞で寄進者は信綱の三男泰綱であるからである。 また、出来栄えはともかく、関東で最初といってもいい梵鐘を掲げるについては、それだけの規模の寺であらねばならぬはずで、星谷寺はこの頃再建ないし移築されたことが私には考えられたのである。
佐々木氏の本貫の地近江は鋳物の得意な場所であったらしく、『地名の研究』で柳田国男は「近江になぜか鋳物師に縁深く、栗太郡にも愛知郡にも多くの故跡がある」と述べている。私は最近四ッ谷佐藤家の故地、岐阜県の関市を調べたが(関市は例の関の孫六を初めとした全国有数の刀剣の町であった)、同市鋳物師尾の天徳寺は六角管領佐々木氏頼の寄進になる寺とあって驚いた。座間の佐々木も郷土近江から鍛冶師を呼んだらしく、長宿の一帯には鍛冶屋村があった。円教寺には佐々木掛けと称する鐙があり、市指定の重要文化財となっている。『座間市重要文化財案内』(市文化財保護委員会編術)の解説によると、
<鐙は、世界的にみて、古今を通じ、吊り環形であるが、日本では、古墳時代末から独自の発達をはじめ、平安時代末には足うら全体を掛けるものとなった。特に、本品のように佐々木掛けと称せられるものは、最も大形に発達したものであるが、近江国(滋賀県)では佐々木領内で作られ、日野掛けとも呼ばれる>
とある。寺伝では日蓮上人が竜の口から依知の本間邸へ護送されるとき乗っていた馬の鐙というが、製作年代はもっと下がって室町後期と見られている。寺伝は日蓮がこの寺に休息したという伝承に合わせたものだろうが、寺の開基は鈴木という鍛冶であったから、このような鐙がここで製作されていたことを証明するのかも知れない。長宿から近江久保にかけて鋳物師が居住したことは鈴鹿(『座間むかしむかし』第二集)こともあって想像出来る。武家に鍛冶は欠くことの出来ないものであるし、この辺りの段丘下は各所に鍛冶に必要な湧水が今も湧き、座間市の誇りとなっているのである。 
鎌倉古道と日蓮道
八里橋なし九里の道
座間ではこう言われる古道があって、星谷寺脇を通って藤沢・鎌倉に通じ鎌倉古道の名がある。相模川左岸段丘の上を細い道が今も面影をとどめているのであるが、信綱や広綱が鎌倉に馳せるにはこの道しかなく、事実上佐々木道と呼んで良いのではないかと思う。渋谷氏のいた長後、早川にも通じ、『源平盛衰記』にいう「故左馬頭の猶子に、近江国の住人佐々木源三秀義が子供、平治の乱の後は此こ彼しこにかがまり居たり、太郎定綱は下野宇都宮にあり、次郎経高は相模の波多野にあり、三郎盛綱は同国渋野にあり、四郎高綱は都にあり、五郎義清は大場が三郎の妹聟にて相模にあり云々」の盛綱や義清の館も途中にあったことであろう。
この道は前記日蓮が本間氏の館に送られた道でもあって、海老名境の寿閑寺への曲がり角に石の道標があり、
   右 座間休息山
   上依知星下道
と彫られている。
寿閑寺は日蓮宗だが、中興開基は佐々木高綱の裔を引く乃木寿閑である。彼は先祖の故地を懐かしみ来たってその名と優雅な梵鐘(延宝三年<一六七五>銘)を残している。休息山は円教寺の山号で、日蓮がこの地にあった鍛冶屋敷鈴木宅で休息したという古事にちなんでの山号である。座間付近の伝承では、休息した日蓮の一行は四ッ谷先の外記河原から依知へ渡ったというが、それでは行程が不自然である。「上依知星下道」の星下は日蓮が法楽したら星が落下したという寺(妙伝寺)の伝承による名だが、上依知へは当麻(又は田名)の渡しが好便のはず、おそらく鍛冶屋敷まで来て当麻渡しが使えない(出水で舟が失われたか)情報を得たのであろう。やむなく道を戻るように辿って外記の渡しに出たものと思う。もと渡しの船頭をしていたという岩崎家にはボロボロだったが日蓮の書いた文書があったそうだ。 
その後の相模と佐々木
信綱は梵鐘の紀年と同年に近江国の地頭、続いて検非違使に補され、寛喜三年(一二三一)には近江守となっている。この頃佐々木総領を継ぎ近江に赴いたと思えるので、座間郷からはいくばくもなく去ったことになる。これが座間郷に佐々木の名を多くとどめぬ原因になったのであろう。
『座間古説』に「元暦元年(一一八四)鎌倉御代之時、上ハ屋敷といふに長宿と言町屋出来」とあるが、時期的にこれは佐々木関与の町屋と思える。ここから出たという現在の長宿付近に四つ目結いを家紋としている家が二、三ある。旧長宿が指令によって作られた町屋であったことは、「正慶二年鎌倉ほろぶ、長宿の者鎮守之北清水通り江引」と『座間古説』にある通り、鎌倉府の滅亡と同時に町屋が解散していることからも知れる。
信綱以後も座間郷が佐々木所領であったことは、座間郷長松寺(相模原市新戸)にあてた佐々木高秀の文書によってわかる。この文書は「座間」と書かれた現存最古の文書と言われ、文和三年(一三五四)頃のものと推定されている。高秀は北朝の臣で、南朝と戦って明徳二年(一三九一)に戦死した京極高秀に比定され、このとき六十四歳であった。京極家は信綱の裔である。
この長松寺に近く、近江屋通りとか近江屋橋の名が残るのは興味のあるところで、近江屋通りを行けば相模川に出て、対岸は依知である。依知は背に鳶尾山(二三五m)を負っているが、「トビオ」の「オ」は「ホ(火)」で、鳶尾は「飛び火」、すなわち「のろし台」であったことが考えられる。対して星谷寺が東に負う三峰山(八九m)も座間では最も高く、鳶尾山との位置からいっても「のろし台」に格好で、今も火伏せの神を祭っている。考えてみると、梵鐘というのも戦時には伝達の手段でもあった。
日蓮を本間屋敷に護衛した本間重連の弟直重は『厚木市史史料集2』(星梅山星降院妙伝寺)によると、
<文永八年九月十三日、重連の弟三郎左衛門直重宗祖日蓮を竜の口より当所に伴ひ来り重連が邸中観音堂に居しむ、此事注画賛にも見ゆ、但直重を重連の郎等越智氏と記せり>
とあり、直重は佐々木一族の依知(越智)氏であった可能性がある。依知には座本家の例のように四つ目結い紋を伝える旧家がある。
また、源姓の鋳物師が居住し、星谷寺梵鐘を鋳たという飯山村にも、天文三年(一五三四)没の佐々木下野が同村七軒百姓の一家として名をとどめている。荻野の里には源氏橋とか源氏河原とか源氏ゆかりの名が残るが、これも佐々木源氏であった可能性を捨てきれないのである。 
<注>
*1 座間郷を佐々木氏の所管とする考えは多く、例えば厚木の歴史家北村精一氏も『県央雑史抄』で、「座間には佐々木信綱が星谷寺へ献納した釣鐘がある。その当時秀義の孫の信綱に座間郷を分与していたのである」と述べている。
*2 武州河崎荘内勝福寺鐘銘に「大檀那禅定比丘十阿併従五位上行壱岐守源朝臣泰綱 大勧進僧頼俊 弘長三年癸二月八日 当寺院主僧 隆祖 鋳物師 源有貞」とあったという。(『新編武蔵国風土記稿』)
*3 清源院はもと天台宗であったので本尊薬師となっている。嘉吉三年(一四四三)に曹洞宗に改宗したと寺伝にある。清源院の八世格雲守存が座間竜源院の開山となった。この僧は他にも数寺の開山となっている。
*4 依知と座間の姻戚関係は多く、この平井氏と縁のある家が座間に少なくない。新田宿諏訪明神社の新田家には平井家からきた妻女「新田安可美満誉大刀自」の墓がある。大正九年没、九十二歳と長寿であったこの人の娘さんが河原宿の鈴木英夫先生のお母さんらしい。また中河原の『つづれ草』会員、澤田美恵子さんのお母さんも平井家の出だそうである。
*5 星谷寺はもと北方四五町の字本堂にあって、いつの頃か火災に遭ったが、本尊は自ら難を避けて一本杉にとどまったという。ために、杉の木に近い現在地に再建されたと伝える。
*6 定綱・広綱は当時の幕府の意向にしたがって比叡を討った。ところが幕府の方針変更で逆に流罪となり、後許されて所領を回復した。間もなく叡山大暴動、再び討伐の命が下った。この作戦で経高に従った高綱の長子重綱が戦死している。
*7 『尊卑分脈』では河崎為重の娘とある。
*8 この日風雨強く荒波のために舟は今にも河中に転覆しそうになったことが伝承にある。日蓮の法楽によって事なきを得たという。
*9 正慶二年(一三三三)の正慶は北朝の年号で、高秀の行動と符合する。また、この紀年銘の板碑が本堂山の加藤秋男家の墓地にあり、当時座間が北朝の管轄であったことがわかる。 
小机郷と座間郷 

 

小机郷鳥山
武相に残る佐々木一族の所領に小机領がある。『吾妻鏡』延応元年(一二三九)二月十四日の条に、
<武蔵国小机郷鳥山等荒野可開発水田之由。被仰大夫尉泰綱。> とある。武蔵国小机郷鳥山は今の横浜市港北区鳥山町付近をいう。当時執権北条泰時で、この地の水田開発を大夫尉泰綱(佐々木泰綱)に命じたというものである。この地は源頼朝が佐々木高綱(木曽義仲追討の宇治川先陣で名高い)に馬飼料として賜ったもの(『武蔵風土記稿』)で、『姓氏家系大辞典』(太田亮)には次のように書かれている。
<〜又橘樹郡鳥山村に佐々木高綱の館跡あり。「八幡宮の西なり、今は陸田となる。観音縁起によるに「高綱当所及び近隣を領せし頃、この地へ十余町四方の館をかまへ四面に堀をめぐらして要害とし、一族六角太郎、鳥山左衛門を両目代とし、猿川庄司を舎人として爰にとどめき、其の身は鎌倉にありて勤仕せり」>
鳥山には承安年中(一一七一〜七四)、頼朝の本願により高綱の奉行で建立されたという三会寺がある。横浜線小机駅から1キロ足らずの場所だが、現在地は当初の箇所から移されたようで、等海という僧が「延文元年(一三五六)現在地に移して中興」と口伝にある。元は字馬場といわれた場所で、元屋敷と呼ぶ所も近くにあったという。高野山真言宗で、後年高綱が高野山に遁世したことと符合する。
八幡宮も現存するので捜して歩いたが、道をあやまった偶然で駒形明神という祠に出逢った。案内板に「高綱の馬「生づき」を葬ったとある。高綱が宇治川先陣のとき騎乗していた名馬である。頼朝には「生づき」「磨墨」という2頭の名馬があった。中でも「生づき」は抜群だったらしい。初め梶原景季が出陣にあたりこれを所望したが、頼朝は、これは自分の乗馬だからと代えて「磨墨」を与えた。そのあと高綱も所望に来て、
<鎌倉殿、いかが思し召されけん、「所望の者は幾らもありけれども、その旨存知せよ」とて、生食(生づ(『平家物語』)
と、結局高綱がせしめてしまった。これで高綱は景季と先陣を争い、一番乗りを果たしたのである。
八幡宮は丘の中腹にあって、その西では丘の上に出てしまい、この切り立った場所に館は構えられまいと思えた。駒形明神は丘の南斜面下に当たるが、付近は開けて平らである。駒形明神があるからには馬場はこのあたりではあるまいか。砂田川が流れていて、四面に堀をめぐらすことも可能である。
「一族六角太郎、鳥山左衛門を両目代とし、猿川庄司を舎人とし(泰綱四男の輔綱が鳥山氏を称している)・猿川(猿山の誤記らしい)のいずれも地名として付近に残されている。
『姓氏家系大辞典』も時代を疑っている。高綱は泰綱の父信綱の叔父(泰綱には大叔父に当たる)である。泰綱以後の名の六角ではおかしいというわけだ。が、六角橋の杉山神社縁起によると、この地で休憩された日本武尊が六角の箸(後に橋とした)を賜ったことからといい、かなり古いころからの呼び名とも考えられる。
小机郷には館のあった鳥山のみならず、小机・本郷・鴨居・白山(もと猿山の一部)に加え、対岸の川向・折本・大熊(佐々木の庶(横浜市都築区―湘南の茅ヶ崎ではない)が含まれる。 
三つの鐘
更に六角橋町を南下すれば洲崎明神社のある青木町に至る。この明神社には星谷寺の梵鐘と同じ飯山の源姓の鋳造になる梵鐘があった。『武蔵風土記稿』には、「小机領神奈川宿宮ノ町」とあり、銘は、
<大施主 沙弥□修  同願 禅尼浮□  同願 沙門永顕  同願 孝男伴氏貞俊  冶匠 相州飯山 源光弘>
ここで神奈川宿が「小机領」であることが注目される。小机領とは佐々木領ということなのである。
川崎の宗三寺(もと勝福寺)の梵鐘には、
<大檀那禅定比丘十阿 併従五位上行壱岐守源朝臣泰綱 大勧進僧頼俊 弘長三年癸二月八日 当寺院主僧隆祖 鋳物師 源有貞> とあったという。星谷観音の梵鐘の、
<…大檀那 源朝臣 信綱  大工 源吉国>
と照合して三つの鐘がみな佐々木の息のかかった飯山の源姓の鋳物師によっていることが注目され、
1 小机領
2 佐々木の息のかかった飯山の源姓の鋳物師
は相互に佐々木所領であることを補完するものであり、これはまた座間郷が佐々木所領であったことを証明する有力な物証でもある。 川崎といい小机といい、いずれも高綱の後に泰綱の名が見えるが、高綱は何故か甥たちのうちで四男の信綱(泰綱の父)に肩入れしているようだ。高綱が宇治川で先陣のとき、長兄定綱から与えられた家伝来の「面影」という名刀で川の中に張りめぐらせた縄を切った。承久の乱では、高綱はその名刀を信綱に与え、今度は信綱が同じように宇治川の先陣を果たした。高綱は兄経高や総領家の甥広綱(信綱の長兄)を敵に、鎌倉方(信綱方)の行動をとっているのである。総領家が京都で滅亡して信綱が総領家を嗣ぐことになったが、泰綱は執権泰時の外孫でもあり、当時西国に所領を得た高綱の後を泰綱につがせたと考えられる。 
小机郷の座間氏
『吾妻鏡』には「小机郷鳥山等荒野」とあり、開拓は鳥山だけではなく、鶴見川対岸を含めた佐々木所領(小机郷)の荒野だったのであろう。
ところで座間市民の一人としては、この小机郷の一部に古くから座間姓の住民が多いことに目がいく。
永禄二年(一五五九)北条氏康が作らせた『小田原衆所領役帳』にはK座間「五拾貫弐百文、小机茅ヶ崎」L、K座間新左衛門「拾貫文、小机折本」Lとみえ、池辺村では永禄四年(一五六一)、座間弥三郎に宛てた宮川左近書状(武州古文書)に「我等知行池辺之内」なる部分があるといい、またこの頃の古文書に座間豊後守・座間弥三郎の名があるという。「茅ヶ崎」「折本」「池辺」のあたりの領主が座間氏であったらしいのである。
座間姓が座間市になく、相模原市や横浜市池辺町、または遠く信州や美濃に見られることについては既に鈴木芳夫氏が述べられている(『座間むかしむかし』第三集)。その中で氏は、特に折本の領主座間新左衛門に注目されている。新田宿に折本という姓が存在するので、これは新左衛門が座間出身者であることを証明するものではないか、というのである。座間姓の者が座間出身であることには『姓氏家系大辞典』でも述べられているところであり、私も同じ考えをとる。が、座間郷が佐々木氏の相模における最初の領分であったことを考えれば、泰綱が鳥山等の開拓に取り掛かるとき、座間の所領から支援の人材・労力を派遣したと考えてよいのではないか。 私は座間氏というのは佐々木一族だったのではないかとさえ考えている。佐々木主流は独立姓が強く、多くが出自の地名を名乗っている。佐々木と称するものにはむしろ末流が多いのである。
小机郷のうち、現在座間姓が最も多いのは池辺町(横浜市都築区)で、電話帳で見ると横浜市内に座間姓一〇二、うち都築区三一、その殆どが池辺町である(ほか綱島町一四、小机は一)。町には星谷と呼ばれる字名もある。
池辺町は鶴見川を挟んで小机の対岸にあたり、今はNECなどの工業団地となっているが、もとは広大な水田地帯だったようだ。鶴見川が緩やかに湾曲し、水鳥の群れが白く輝いていた。橋の下を見下ろすと、水には大きな鯉が泳いでいたが、情けないことに鯉は汚水の埃にまみれていた。遥かに見える丘まで歩くと正面に観音寺がある。小机三十三観音十八番札所、高野山真言宗で、創建年代は不明だが鳥山の三会寺の末寺であった。池辺が小机領であることを示すものであろう。寺は寂れてトタン屋根の、一見民家のようである。墓地には座間姓のものはなく、島村・吉田・角田・三留などがある。島村氏は座間にもあるがここの家紋は根笹。その養子に抱月がいたことがわかった。近くに長王寺という寺もあり、高野山真言宗で、これももと三会寺末であったという。ここに座間姓の墓1基あり、家紋は丸に鷹の羽、我が家と同じである。1キロばかり歩き以津院という小さな寺に至る。ここにはかなり旧家と思える座間姓墓地に、貞享四年の阿弥陀如来の石塔などがあった。これも鷹の羽紋(付近には何故か鷹の羽紋が多い。茅ヶ崎城主だったという多田行綱も鷹の羽紋だったようだ)。以津院は曹洞宗で、もと小机の雲松院末という。 
後北条氏と小机領
雲松院を建立したのは小田原北条の家臣笠原信為で、小机城代であった。鈴木芳夫氏が「信州松本市の座間氏が武田の家臣だったというのは、北条氏秀が武田の人質になったことがあるのでそれに付き添って行った座間の武将であったか」と推理されている(現在松本市には二十軒ばかりの座間家がある)。氏秀が小机の城主であったことを考えると、恐らくは小机領からの座間氏なのであろう。もっとも、氏秀が人質になったのは三、四歳のころというから、当時すでに小机の城主であったとは考えにくいという事情もある。が、氏秀の岳父に当たる幻庵も幼少のころに所領を得ているので、名目は城主だったのかも知れない。後年破約となって帰国(永禄十年=一五六七)し、改めて城主として入城しているが、それ以前に作られた『小田原衆所領役帳』(永禄二年)には、小机周辺の本郷村・鴨居村・猿山村などが三郎殿(氏秀)の所領として記載されている。人質で不在なのに、である。この三郎殿は気の毒な人で、元亀元年(一五七〇)に今度は上杉謙信のもとに人質にやられた。謙信は彼を可愛がって跡取りにしようとしていた(自分の幼名「景虎」を与えた)。ところが謙信の急死で上杉系累の景勝との争いになり、三郎殿は二十七、八歳で自刃して果てた。美男で大酒飲みであったということである。
このように武家としての座間姓は小机周辺に強く反映されている。 
座間郷の佐々木氏
座間郷を得た当初の佐々木は定綱であろう。父(秀義)にしたがって渋谷に来た当時、おそらく少年だった嫡男の彼が成人して、渋谷重国は一門から嫁を持たせたと思う。熟年で四人も子のある秀義にさえ娘をあてがっているのである。名門の嫡男を放っておくはずはない。一門の婿であれば所領の隅(座間郷はそのような位置)を任せてよかったのだ。和田義盛の反乱後の恩賞に佐々木と座間郷の名が見えないのは、すでに座間郷が実質的には佐々木であったことを示すと思う。渋谷庄座間郷と呼ぶのはその間の事情を示すものであろう。
座間という視点をわれわれはとかく座間市内におくが、座間の名の起こりは大阪の座摩神社がそうであるように「いがしり=井の後=湧水の末」で、鈴鹿神社社地を示し、鈴鹿明神社も本来は座間明神社と呼ばれてよいものであったと思う(「鈴鹿」は「鈴川」か。清い流れを意味し、この名の川は伊勢原や平塚などに例がある)。佐々木が「いがしり=座間」に館を置いて座間郷を差配したので、座間郷の二十七か村の鎮守が鈴鹿明神になったのである(「座間」という名は村よりむしろ郷の名であったと思われる)。
元禄三年の鈴鹿明神の梵鐘に刻された村名には座間郷二十七か村の名が全てある。
   座間入谷村  座間宿村  新田宿村
   四ッ谷村   新戸村    磯部村
   下九沢村   上九沢村  相原村
   橋本村    小山村    清兵衛新田村
   矢部村    淵ノ辺村   下溝村
   上溝村    当麻村    田名村
   大島村    上鶴間村   下鶴間村
   柏ヶ谷村   栗原村    上今泉村
   下今泉村   矢部新田村 鵜ノ森村
座間は所領地(座間郷)の名で、住民たちには馴染みのないものであったか、古くは村として使用された形跡がない。近世前期の遺物には座間郷座間入谷村とか座間宿村とあって座間村はないのである(後期に至って座間宿村に代わって座間村といわれるようになったが)。
佐々木氏の性格をみると、馬と鍛冶、加えて神社がある。佐々木は本来神官の出であるらしく(佐々木=佐々貴は御陵の意で、御陵を守る世職という)、神社に佐々木氏の名が見られることが少なくない。今はどうなったか、近くは大山雨降神社の神主も佐々木氏であった。
館の近くに馬場と寺と神社を設ける。また鋳物師を呼ぶ。これが彼らのやりかたである。座間でも入谷を中心にこれらが全て存在する(馬場については前号記事の川駒坂が馬場坂ともいわれていたということで知られる)。
ここで、鐘に記された村名に今泉が含まれていることに合点のいくことがある。国分境に日月明神社という小さな社があるが、この社の古い棟札に、「正治元年(一一九九)志主広綱……」とあったという(『新編相模風土記稿』)。時代からいって広綱は佐々木広綱であろう。ところが付近の家の表札を見ると町名はみな国分(海老名市)になっている。当然海老名氏所領のはず? と疑ったのである。あとで地図をよく見ると、現在、国道二四六号線が分断しているが、この楔形のわずかな一角だけが下今泉なのである。下今泉が座間郷なら佐々木広綱でいいのだ。 
室町時代の座間郷
足利時代(室町時代)「ばさら」の佐々木道誉が京極家に現れて威勢をふるったが、子の高秀、孫の高詮に至ってやや勢いを失った。そうして間もなく応仁の大乱が始まる。佐々木主流は京極、六角が東西に分かれて争い、ますます勢力を失うことになった。
座間郷の初見佐々木高秀の文書(文和三年=一三五四頃といわれる)が、新戸の長松寺に残り、座間姓が下溝に多いというのは水田開拓で支配の中心が北へ移ったのであろう。当時の今の座間低地は水田開発の可能な状態ではなかったらしい。
応永三年(一三九六)に足利氏満(関東管領)が長松寺に与えた安堵状は座間郷が氏満の掌中に入ったことを示すもので、このころ佐々木は座間郷を失ったのだろう。
長尾景春が主家の両上杉氏に謀反して戦ったとき、その根城となったのが小机城であった。このとき景春方は磯部(相模原市)に城を築いたが太田道灌の攻撃に遭って落城したと伝えられている。磯部は下溝に至近で、下溝と小机の両座間氏が呼応して戦ったのだろうか。磯部城跡について『新編相模風土記稿』には次のようにある。 <今其地を詳にせず(村の西南の方に掘之内、二重掘等の小名あり、これ城跡の遺名なるべしと云り)文明中山内上杉氏の老臣長尾景春謀叛を起し、上杉氏と予盾に及し時当城に軍勢を籠置、武相の所々にて合戦に及び文明十年(一四七八)三月景春打負けて当城遂に落去に及びしなり>
この文明のころ(一四六九〜八六)の座間郷の地頭職白井織部是房の館が心岩寺の地にあった。これも郷の統治の中心が現在入谷の鈴鹿・星の谷にあったことを示すものだが、この白井氏については今一つ詳らかでない。下溝から田名にかけても旧家があるが、佐々木では重綱(信綱の長男)の後裔に白井氏の名がある(替え紋に五七桐を使う。心岩寺の寺紋は五三桐)。当麻あたりの土豪白井、関山氏は一遍と同じで伊予の河野氏の出という。伊予の守護が佐々木盛綱であったことは偶然であろうか。 
盛綱の党
綱島の長福寺へ行ったのは、住職が佐々木姓で檀家の総代に座間姓が二人も見られた(『全国寺院総覧』)からである。行ってみると門前を東横線が走っていて、寺へは跨線橋を渡らねばならない。寺伝によると、この住職の祖先は綱島十八騎の一人、児島賀典といって、のち佐々木に改姓し、出家して寺の開山となったという。天正年間(一五七三〜九一)の創建だそうだ。児島で思い出すのは備前の児島で、これは平家追討の戦いで佐々木盛綱(高綱の兄)が馬で海を渡って大功をたて、頼朝から「昔より、馬にて河を渡す兵多しといへども馬にて海を渡す事、天竺震旦は知らず、我が朝には希代の例なり」と盛綱に賜った土地であり(『平家物語』)、児島氏は佐々木支流として四つ目紋を用いている。綱島の児島氏は天正のころ、備前から佐々木の故地を頼って来た一族であろうか。
墓石に見る「座間氏」は、貞享ころからのもので、墓地内の一角を占めていて有力者であったことがわかる。丸に剣三つ柏紋である。座間でなく狭間・佐間と刻むものがあり、住吉屋・中村屋と屋号のあるものもある。名のある商家だったのであろう。しかし座間郷に結びつけられるものはない。
ここで美濃の座間氏に触れておきたい。
美濃(岐阜県)の座間氏は川辺町に多い(二十数軒)。町役場の町史編さん室に問い合わせたところ、
1 座間は「ざま」でなく「ざんま」と呼ぶ。
2 由来はよくわからないが、祖先は西(岡山県?)のあたりから近江を経て移住したらしい。
3 家紋は丸に橘。
ということであった。
1 については鈴木芳夫氏も『座間むかしむかし』第三集に書かれている通りである。別に座馬と書く姓もある。地名や地名にもとづく姓の漢字表記は、音通といって音に従って字を換えて表記される「座間」が「いがすり」の表記だからである。座間を「ざんま」と読み、あるいは「くらま」(横浜に一例がある)と読むとしても、もとは座間=「ざま」と思う。
2 については興味のあるところで、佐々木氏には近江守とともに備中守を称する者が多い。また備前には前記児島氏の児島がある。(佐々木)氏がそうであったように、佐々木に従って児島にあった座間氏が佐々木に従って近江に帰り、やがて美濃に住み着いたのではあるまいか。美濃も佐々木の色の濃い土地なのである。
3 家紋には手掛かりは認められない。ということは、座間郷を外に出た座間姓で家紋を異にする族は、それぞれかなり古い時代に分かれたものかと思わせる。  
下溝の座間氏
下溝には清水寺(曹洞宗)があって多くの座間姓の墓石がある。郷土史家の座間美都治氏の墓もここにあり、境内には氏が達筆で書いた石碑もある。座間姓の墓の家紋はいずれも丸に木瓜である。根府川石の石塔に、
<静閑の郷谷戸に眠る祖先の永遠の加護を祈念し此の碑に刻み菩提供養となす>
とあり、厚木市寺町の座間某の名があるので、厚木市の座間氏は下溝からの移住と知れる。寺伝によると当寺は慶長元年(一五九六)に天応院八世住職天山存雲の創建になるという。付近に八幡宮と、そのそばに不動尊がある。不動尊は相模原市の重要文化財で、八幡宮の別当大光院の本尊であったが、これには座間村の大坊と新田村の寿命院(諏訪明神社の別当)の紹介で鎌倉の後藤左近が享保九年に製作したことが胎内に書かれているという。座間入谷村と新田宿村が外(下溝)からは座間村・新田村と呼ばれていたことがわかる。 天応院は原当麻駅下車だが下溝になる。『全国寺院名鑑』によると明応三年(一四九四)、佐野城主泰綱の城代山中大炊輔が開基したという。佐野氏は藤原秀郷系というが、宇都宮氏とともに歴史に隠された部分があるらしい(下野を定綱が所領としたことがある)。山中もありふれた名に見えるが『姓氏家系大辞典』には定綱八男頼定は山中氏祖とある。この寺は北条氏照の娘貞心がここに再興したものといい、貞心の墓も墓地にある。寺は寺中心に考えるから「貞心が寺の五世大陰に帰依して再興した」と伝えている(『全国寺院名鑑』)が、氏照の娘なら母は大石定久の娘であろう。先年座間市の歴史愛好のサークル「歴史散歩の会」で八王子市を訪ねたとき、大石氏の館跡だったという永林寺に立ち寄った。定久の墓で巴紋を確認したが、忠臣蔵の大石と同じである。巴紋の大石はやはり秀郷系というので佐野氏とのつながりがあるのだろうか(近江にも栗太郡大石に負う佐々木庶流の大石があり、定紋は桔梗、替え紋に四つ目を使う)。
ここにも十基以上の座間氏の墓があり、家紋は丸に木瓜である。周辺にも座間の表札が目につくが総じていえば武家的なものは感じられなかった。
座間と座間市民
鈴鹿明神社の弘治二年(一五五六)の再建棟札には相州田倉郡渋谷庄座間郷と書かれている。田倉郡は高座郡で、渋谷庄は渋谷氏の勢力圏だったことを示すものであろう。座間郷はこの中での佐々木所領であったが、渋谷庄は相模川左岸だけではなく、津久井までの右岸も渋谷庄であった。和田の乱後の渋谷氏がこれだけの範囲を保てるはずはなく、佐々木の勢力が右岸にも及んだと考えるのが自然である。したがっての依知(愛智=近江)であり、飯山の源氏鋳物師であろう。
昭和二十三年、住民の猛運動によって座間は相模原町から独立したが、こうして歴史をたどってみるとみみっちいことではなかったかと思う。もう少し歴史を理解する者がいたら、むしろ相模原を含めて「座間町」に改称する運動を起こした方が筋であった。この範囲は座間郷であり、郷社は鈴鹿に存在するのである。今は、鈴鹿の地が座間の名の起こりであったことも忘れられ、心岩寺が「座間山」とあることにさえ、何でこんな所(入谷もしくは鈴鹿)にあるのに座間なのかと不思議がる者が多いのが不思議である。 
座間郷太平記  

 

宝治元年(一二四七)六月五日、執権北条時頼は三浦泰村・光村とその一族を滅ぼした。このとき大江広元の三男で、愛甲郡毛利庄(厚木市)を領していた季光は、妻の実家が三浦氏であった事情から、広元以来良好な関係にあった北条氏の誘いを振り切って三浦方に加わった。
広元の次男時広は頼朝の奥州征伐に従って功あり、羽前国長井郷を賜って長井左衛門といい、子孫は長井氏を称して代々関東評定衆の重職にあった。この宝治合戦のころは子の泰秀・泰重の時代で、彼等は当然北条側について参陣した。
長井泰重が手勢を連れて屋敷を出て御所へ向かった途中、叔父毛利入道(季光)の軍と出くわした。しかし、毛利は三浦の陣へ馳せ加わる様子を見て、泰重は言葉をかけるのを止めて御所へ向かったという(『新編相模風土記稿』鎌倉攬勝考)。
三浦は敗れ、季光とその子三人は自害して果て、厚木の毛利は絶えた。このとき、越後の佐橋荘にいた末子の経光によって辛うじて毛利の名は残り、これから安芸の毛利氏が分れて、今NHK大河ドラマになって放映中の元就に至るのである。
毛利氏が有名になって、大江広元の系統はこちらに注目が偏ったが、広元の後を継いで要職にあったのはむしろ長井氏の方であった。時広を初め、泰秀・時秀・宗秀と代々が関東評定衆であったし、前出の泰重(泰秀の弟)も六波羅評定衆を務めている。
冒頭から長井を引き合いに出したのには理由があって、座間郷の名の初出といわれる、新戸の長松寺にあてた文書の高秀に「長井」と後代の追記があることによる。また、これには「元徳三年」(一三三〇)という追記もある(『座間むかしむかし』第三集では根拠不明としている)。
文書は次の通りである。
   座間郷内長松寺事 向後所奉申付也 被興行□□
   且被致天下安全之誠勤 □可訪父祖尊霊之菩提給候
                     恐々謹言
     「元徳二」          「長井」
     六月九日          高秀(花押)
   建長寺安首座禅師
座間市で書かれた文書、たとえば「相州星谷寺嘉禄年紀梵鐘に関する参考資料」(座間市保護委員会・S41)では高秀を佐々木氏としているが、『神奈川県史』(通史編1)によると座間郷の所領安堵を長井高秀としている。県史では追記の方をそのままに採用したらしく、年号も元徴二年(この年号はない。おそらく追記の元徳を誤記したか)としている。
高秀は佐々木氏であるのか長井氏であるのか? 
追記の年代は信頼できるのだろうか?
「元徳二」の根拠は?
この文書の年代はいつころに比定すべきか?(『座間むかしむかし』第三集では一三五四年頃と推定する)。
年代の手掛かりには建長寺の「安首座禅師」であろう。前記「相州星谷寺嘉禄年紀梵鐘に関する参考資料」では、
<建長寺安首座禅師(35世住職素安)との関連において延文五年(十月廿日素安逝一三六〇)を溯ることはほぼ確実>
とある。ところが『鎌倉市史』(社寺編)には建長寺の歴代僧は二十三代までしか記載がなかった。半ばあきらめて、そこに載せられていた塔頭に、もしや禅居庵がありはしないかめくってみた。禅居庵は寺の前方の丘にあって、井泉水が住居としていた塔頭である(今も遺族の方が住んでいられる)。記載があって、これは二十二世清拙正澄の塔所とあった。
そこで気付いたのは、長松寺に現存する氏満の古文書である。たしか建長寺なんとか庵の末寺というようなことが書かれていたと思う。幸い持参したノートに写しがあったので、直ぐ確かめることができた。
       寄進拾石
   建長寺宝珠庵末寺長松寺
   相模国座間郷内田畠□□
     注文
     有別条   事
   右為当寺領如元可被致沙汰之状
   如件
     応永三年十二月十七日
          左兵衛督源朝臣 (花押)
この文書は相模原市に現存する最古の文書として市の重要文化財に指定されているものである。この「宝珠庵」とはどういう庵なのか。たどってみると次のようであった。
<了堂素安の塔所。素安は貞和元年(一三四五)に示寂しているが、……>
ここに素安の名が現れて、建長寺宝珠庵と長松寺の関係が分った。が、座間市の資料とは没年が違っている。これでいくと『座間むかしむかし』第三集の高秀文書の時代推定は誤りということになる。また、高秀文書が素安の死の二、三年前としてみると、嘉暦二年(一三二七)に生まれたという佐々木高秀は十五歳くらいになる。もっとも追記にあるように元徳二、三年では三、四歳で、あのような花押は無理だろうから追記の年代では別人というしかない。なお、素安の没年から元徳二、三年へさかのぼると十四、五年となり、ここまでさかのぼって素安が首座にいたとは考え難い。建長三年から約九十年に三十五代である。平均すると、一代三年に満たない首座職がこの年数では異常に長くはないだろうか。しかもこの間、鎌倉は幕府の滅亡や中先代の乱という激動のさなかにあったのである。
次に、長井高秀という人物の実在を探ってみる。『姓氏家系大辞典』にも『尊卑分脈』にも長井姓に高秀の名は見られない。『太平記』にも長井を名乗る人物はたびたび出てくるが、長井高秀とされる人物の登場はなかった。ところが、本文でなくて脚注の方でそれが見つかった。本文は巻十三で、中先代北条時行の乱で苦戦している足利直義を助けるため、勅許を待たず尊氏が東国へ下って相模川で時行軍と対峙する場面である。
<時節秋の急雨一通りして、河水岸を侵しければ、源氏(尊氏軍)よも渡しは懸らじと、平家(北条軍)少し油断して、手負いを助け馬を休めて、敗軍の士を集めんとしける処に、夜に入りて高越後守(高師泰)二千余騎にて上の瀬を渡し、赤松筑後守貞範は中の瀬を渡し、佐々木佐渡入道道誉と、長井治部少輔は、下の瀬を渡して、平家の人の後へ回り、東西に分かれて、同時に時をどっと作る>
佐々木佐渡入道道誉(高氏)は例のばさら大名で、佐々木高秀の父である。長井治部少輔について脚注では、
<永井治部少輔高秀か。「治部少輔高秀京着之後、何様事等候哉」云々(貞顕書状、元徳元、十一、廿一)>
とある。後にも長井治部少輔、永井治部少輔が出てくるが、本文では高秀とはなく、貞顕書状だけが永井治部少輔高秀と名前まで書いている。書状の年代からいって、高秀文書の追記はこの高秀を指したものとしてよかろう。
佐々木高秀については、『姓氏家系大辞典』の京極流略譜に、 <十代高秀、高氏三男、京極五郎、佐衛門尉、治部少輔、能登守、引付頭人、侍所別当、評定奉行、大膳大夫、従五位下、法名道高又作導。明徳二年(一三九一)七月十一日堅田戦死、六十歳、仙林寺>
や、や! この高秀も治部少輔であったか。六十四歳説もあるがここでは六十歳としている。これでいって素安の死を貞和元年とすれば高秀は十四歳くらいになってしまう。やはり高秀を佐々木とするには、素安の没年を(「相州星谷寺嘉禄年紀梵鐘に関する参考資料」のように)延文五年(一三六〇)当時にもっていかないと無理のようで、これなら高秀は三十歳くらいになる。この延文五年はどんな資料によったのであろうか。
ところで、県立谷戸山公園山頂の案内板に、「このころ座間郷と書かれる(足利氏満・氏鋼の子孫高秀の文書)」とあるのを見た。だいたい室町時代の中ほどあたりである。氏満の子孫に氏鋼も高秀も『姓氏家系大辞典』『尊卑分脈』に見ることができなかったが、「座間郷と書かれる」ということが座間郷の初見ということなら、前記長松寺の氏満書状にすでに「相模国座間郷」と書かれているのだから、氏満の子孫では問題にならない。
中先代の乱というのは、正慶二年(一三三三)五月、新田義貞軍に攻撃されて高時以下の北条一門が東慶寺で自殺したとき、ひそかに信濃に逃れていた高時の次男時行が、建武二年(一三三五)七月、諏訪頼重らに擁されて武蔵に攻め入り、足利直義軍を敗って鎌倉に入った戦いをいう。このとき、直義はみずから出陣、座間郷の一帯は戦火にまみれた。直義は町田市の菅原神社の地で時行軍と戦って敗戦、鎌倉に退いて逃れるとき、直義配下にあった淵野辺義博は、直義の命で護良親王を刺殺した。時行は二十五日鎌倉に入り、「関東の侍並びに在国の輩はみな時行にしたがい、天下はふたたびくつがえったかのようであった」という。在京の尊氏は直義を助けて時行を討つため征夷大将軍総追捕使に任命されることを望んだが許されず。尊氏は勅許をまたず京都を出発、建武政権に失望していた武士たちがこれに従い、大軍となった尊氏軍は三河の矢矧で直義軍と合流、数度の戦いで時行を破り、八月十九日、鎌倉へ攻め入った。時行の鎌倉制覇はわずか二十日あまりで終わった。淵野辺義博は三河の戦いで直義の身代わりとなって討死にしたという。
氏満は初代関東管領基氏の子で、基氏が亡くなってまだ金王丸といっていた氏満を管領職につかせるため、貞治六年(一三六七)五月、佐々木高氏(道誉)が使者として鎌倉に下った。それより前、文和三年(一三五四)には、佐々木高氏は相模上総下総近江等の所領安堵を受けているので、佐々木氏がまだ相模に所領を保持していたことがわかる。氏満は血気の男で、その一生は戦乱に明け暮れた一生だった。次第に自信をつけた氏満は、京都を軽視するようになり、康暦二年(一三八〇)には関東の軍をもって京都を討つと言い出す始末で、執事上杉憲春がこれを諫めて自殺するといったようなことがあった。
『神奈川県史蹟名勝天然記念物調査報告書』第七輯によると、「康暦元年(一三七九)十二月二十七日、氏満神奈川、品川諸津出入船の帆別銭ヲ鎌倉佛日庵造営料トス」「永徳二年(一三八二)七月六日、氏満祈祷料トシテ橘郡小机保ノ闕地ヲ鶴岡八幡宮に寄ス」「応永三年(一三九六)十二月十七日、氏満相模長松寺ヲシテ同寺領同国座間郷の地ヲ安堵セシム」などが見られる。これらはいずれも佐々木所領または所収としての関連の考えられる地で、氏満の前に佐々木所領はみな失われたものと思われる。氏満は応永五年(一三九八)十一月四日、年四十二歳で没した。 
 
日光開山・沙門勝道の人物像

 

一 はじめに 
勝道は、奈良末・平安初期に下野国補陀洛山(現・栃木県日光男体山。日光山と略す)を開いたとして名高い僧侶である。同国芳賀郡に生まれた勝道は、日光山への登頂を試み、三度目にしてようやく成功、さらに山麓の南湖(現・中禅寺湖)の畔に神宮寺を建てて修行したとされる。その後、上野国の講師に任命されるとともに、下野国都賀郡には精舎を建立して利他弘道し、また旱魃に際しては日光山に登って祈雨したことなどが伝えられている。
勝道に関する史料は少ない。自身の著作は現存せず、また何らかの著作をなしたとの伝えもない。同時代の史料としては、『遍照発揮性霊集』に収録の「沙門勝道山水を歴て玄珠を瑩く碑并びに序」(以下、『勝道碑文』と略す)がある。これは弘仁五年(814)、弘法大師空海(774-835)の作で、日光山の勝境と勝道の事績を誌した碑文および序である。また後世の史料としては、藤原敦光(1062-1144)の『中禅寺私記』、勝道の弟子とされる仁朝・道珍・教旻・道欽の『補陀洛山建立修行日記』(『修行日記』と略す)、道珍の『日光山滝尾建立草創日記』(『草創日記』と略す)等があり、僧伝としては虎関師錬(1278-1346)の『元亨釈書』、高泉性潡(1633-1695)の『東国高僧伝』、卍元師蛮(1626- 1710 )の『本朝高僧伝』にそれぞれ略伝が記されている。
勝道に関する先行研究は、すでに蓄積がある。それらに依ると、勝道の人物像は、およそ次の三つの観点より説明されている。一つには、星野理一郎氏や福井康順氏に代表されるように、日光開山者としての勝道に対する慶讃・信仰を前面に出した視点である。『勝道碑文』に加え、中世の成立とされる『修行日記』『草創日記』を基本とし、さらには各地に残る勝道伝承や日光修験の言説などをも取り込み、そのほとんどを史実として、勝道の生涯を描いている。およそ千二百年にわたる日光山と勝道に関する信仰の集大成という意味では、実に素晴らしい成果と言えよう。ただし、史実と後世の脚色との判別は全くなされてはおらず、これらをそのまま勝道の実像と見ることはできない。
二つには、先とは全く逆の視点で、疑わしきは、すべて採用しないというものである。下出積與氏などは12、『修行日記』『草創日記』は言うに及ばず、『勝道碑文』でさえ、全く信ずるに足らないとする。結局のところ勝道については、「民間の仏教的宗教者、いわば私度僧的なもの」ということ以外は何も言い得ず、「日光山は勝道によって初めて開かれたと、東国ではすでに平安初期から信じられていた」ということのみ信じて良いとされる。確かに『勝道碑文』は空海の作であり、日光山と勝道を慶讃する意図があった筈であるから、厳密に言えば、すでに当初より脚色があったことは確かであろう。ただし、当時の仏教者の動向からして、勝道を単純に私度僧と見て良いのだろうか。時代状況との整合性を確かめながら、『勝道碑文』に記される勝道像や諸問題を問うことは、当時の宗教・仏教のあり方を考察する足がかりともなるであろう。
三つには、勝道による日光山開山を、当時の東国の時代的・地理的背景と結びつける視点である。つまり大和久震平氏や橋本澄朗氏は、勝道の日光山開山を、蝦夷問題の終結という国家的使命を背負った公人としての事業と位置づけている。しかし、勝道や日光山と、蝦夷問題を結びつける直接的な史料は示されてはおらず、結論を急いている感が否めない。果たして勝道の日光山開山は、特に蝦夷問題と結びつけて理解すべきものであろうか。その生涯・目的意識の全体を踏まえつつ、登頂の意義を考える必要もあるだろう。
以上のように勝道は、論者の視点によって、偉大な日光修験の祖師とも、無名の民間宗教者とも、蝦夷問題の終結を祈る官僧とも述べられており、その見解に大きな差がある。そして、そのいずれもが、再考の余地を残したものであると思う。
勝道には、その生涯を記した同時代の史料が伝えられ、またそれを裏付ける山頂遺跡が発掘されている。当時の山林修行者の中で、文献と物証の両面から、その動向を考察できる事例は極めてまれであり、その意味でも勝道は十分に検討すべき人物である。筆者は本論攷において、考古学の成果も参照しつつ、最も基本とすべき『勝道碑文』を再度検討し、関連する諸問題について若干の考察を加えながら、勝道の人物像を改めて考えてみたい。 
二 その生涯 

 

まずは、『勝道碑文』に記される勝道の生涯を概説したい。その際、より詳しい事績等は、〈括弧〉として『修行日記』の記述を参考として付記する。
勝道は、〈天平七年(735)〉、下野国芳賀郡に生まれ、俗姓は若田氏とされる。若くして非凡さを現した勝道は、生業を煩って仏道を志し、集落の喧騒を厭い林泉の静寂を仰いだという。〈家を出た勝道は、伊豆留や大剣峰にて修行し、設置されたばかりの下野薬師寺戒壇にて沙弥戒・具足戒を受けたとされる。〉
神護景雲元年(767)四月上旬、同州の日光山へ最初の登頂を試みるも失敗し、中腹に還って三七日間住して帰った。
〈その後、四本龍寺(現・日光山輪王寺)を拠点に、弊衣粗食にて坐禅読経に精進し、〉十四年後の天応元年(781)四月上旬に再び登るも失敗、翌年天応二年(782)三月、三度目の試みにしてようやくその頂に到ったという。この三度目の登頂に際しては、まず山麓において一七日間、読経礼仏し、「我が図写する所の経及び像等、当に山頂に至りて、神の為に供養し、以て神威を崇め、群生の福を饒にすべし」との誓願を発てて登頂を決行し、三日間かけて遂にその頂に達した。頂上の西南の隅に庵を結び、三七日間住して礼懺し、故居に帰ったとされる。
二年後の延暦三年(784)三月下旬に再び登り、五日間を要して南湖の辺に到るという。二、三人の弟子と共に南湖・西湖・北湖を遊覧し、南湖の勝地に伽藍を建てて神宮寺と名付けた。ここに数年間止住し修行したとされる。
その後、延暦年中(782-805)には、上野国講師に任ぜられ、また都賀郡城山には華厳精舎を建立して、諸処にて利他・弘道したという。大同二年(807)の旱魃に際しては、国司の要請により日光山に登り祈祷し、効験があったとされる。勝道は晩年、日光山の勝景が記されていないことを歎き、下野国に下向していた伊博士を通じて、空海にその文章を依頼した。これを受けて空海は弘仁五年(814)に『勝道碑文』を作成している。この時すでに勝道は七十歳に至り、体調を崩して能事を終えたとされる。〈あるいは弘仁八年(817)、四本龍寺北の岩窟にて入滅、行年八十三歳であったという。〉
その生涯を性格の違いから分類するならば、T日光山登頂を試みるまでの青少年期、U日光山山頂をめざした登頂期、V南湖畔に神宮寺を建てて住した修行期、Wその後の利他弘道期、の四つに分けられよう。以下、この四つの時期に従って、いくつかの問題点を考察しながら、勝道の事跡・人物像を詳しく見ていきたい。  
三 勝道の人物像と諸問題 

 

T日光山登頂を試みるまでの青少年期 
(1)勝道の出自
勝道の出自について、『勝道碑文』は、有沙門勝道者、下野芳賀人也。俗姓若田氏。と伝える。「下野芳賀」は現在の栃木県南東部の芳賀地方にあたる。また「若田氏」について、『修行日記』は、垂仁天皇の第九皇子で、東国に赴き下毛野国室の八島に止住した巻向尊の子孫とし、『日光市史』は、上野国片岡郡若田郷から出て、のち東へ移った一族とする。なお『修行日記』に依れば、父は下野介の若田高藤、母は吉田氏の女で、二人は子宝に恵まれずにいたが、伊豆留(現・栃木市出流町)の千手観音に祈ったところ懐妊し、天平七年(735)乙亥四月廿一日に勝道(童名・藤糸)を授かったとされる。また、今に伝わる伝承では、父の家は若田氏本貫の下野国都賀郡城山にあったが、母方の実家である芳賀郡にて出生したという。諸説あるものの、現時点で勝道の出自の実際を詮索することは難しい。
幼少期の勝道について、『勝道碑文』は何も語らないが、『修行日記』は具体的なエピソードを伝える。一つは石塔や砂堂を造って神仏を拝んだこと、一つは仏菩薩明王らと出会い、三帰依や四弘誓願を授かったことである。こうした部分は、高僧の伝にありがちな後世の付会としてほとんど注目されないが、例えば同時代の仏教説話集『日本霊異記』には、秦里(現・和歌山県海南市下津町小畑)の子供たちが戯れて、木を刻んで仏像とし、石を積んで仏塔とし、供養のまねごとをして遊ぶ場面が記されている。これと同様に、勝道も仏教的な習俗の土壌に育った可能性はあるだろう。 
(2)沙弥・比丘としての勝道
勝道の青年期については、『勝道碑文』に、神邈救蟻之齡、意清惜囊之齒。桎枷四民之生事、調飢三諦之滅業。厭聚落之轟轟、仰林泉之皓然。とある。修辞に満ちてはいるが、大意としては、若くして非凡・清浄であり、世俗を厭い仏道を志したということである。すなわち、「救蟻の齢」つまり沙弥(通常、七歳から二十歳まで)であった時から、すでに非凡な精神を現し、「惜嚢の歯」つまり比丘(通常、二十歳以上)となった後には、清浄なる心意に達したという。また「四民の生事」つまり士農工商という世俗の生業を煩わしい足枷と感じて、「三諦の滅業」つまり空仮中の三諦による仏道修行を志し、集落の喧騒を厭い、山水や林泉を仰いだことが知られる。
なお、「救蟻」と「惜嚢」について、従来の研究では、これを単なる年齢の比喩と見て、「(沙弥となる)十五、六歳の頃」「(比丘となる)二十歳の頃」とするが、智積院第七世運敞(1614- 1693)の『性霊集便蒙』は、端的に「沙弥であった時」「比丘となった後」と解している。近年の研究が、これを単に年齢の比喩と見て、実際に勝道が出家得度して沙弥となり、具足戒を受けて比丘(僧侶・沙門)となったと読まないのは、勝道は地方民間の宗教者・私度僧であったという暗黙の前提に依るからである。例えば下出積與氏は、「(勝道は)中央に繋がりのある官僧界に属したことのない民間の仏教的宗教者、〈中略〉後代になるにしたがって官僧社会の密教僧的な行者像として、より濃厚に修飾されていったものと思う。つまり、こうした部分の勝道像は、後世の作為として良いということである」として、勝道が青年期に沙弥・比丘となっていたことはもとより、それ以降の事績のほとんどを認めない。ただ、その論拠は何ら示されてはおらず、無条件にそう結論づけられているにすぎない。
この時期の勝道について、『修行日記』は次のように伝える。勝道は天平勝宝六年(754)、二十歳にして住所を離れ、伊豆留や大剣峰などの山々に入り、千手観音を億念して三帰四弘を誦したという。さらに天平宝字五年(761)には、下野薬師寺に戒壇が設けられたとの知らせを受け、勝道はこれを悦んで薬師寺に赴き、鑑真の弟子の如意や恵雲に随い、二十七歳にして沙弥戒を、翌六年(762)には具足戒を受け、五年間止住して求聞持法を修し、『華厳経』『法華経』『金光明最勝王経』『成唯識論』など数部の経論を読誦したとされる。
こうした伝承は、まさに下出氏が後世の作為とするところで、全くの修飾であるとして採用されない。しかし例えば、得度を求める優婆塞・優婆夷(在家仏教者)を政府に進める時の文書、いわゆる『優婆塞貢進解』に依れば、『修行日記』の記載は必ずしも不合理とは言えない。つまり『優婆塞貢進解』には、優婆塞・優婆夷の俗名、読誦できる経呪、浄行年数、師主僧名などが記載されているが、記録の残る天平四年(732)から十七年(745)までの四十三人に関すれば、その読経経典としては勅によって規定されていた『法華経』『金光明最勝王経』が主であり、誦経経典として『観音経』と共に『薬師経』『理趣経』が多い。そして誦呪陀羅尼としては「千手陀羅尼」が最も多く、「仏頂陀羅尼」「十一面陀羅尼」「不空羂索陀羅尼」と続き、約四分の三の優婆塞が二、三種の陀羅尼を呪していることが知られる。また『日本霊異記』には、神護景雲三年(769)以前に、京の小野朝臣庭麿なる者が優婆塞となり、千手観音の呪を誦持して加賀郡の山を展転して修行したとの説話がある。こうした状況を踏まえれば、勝道が集落の喧騒を避け、まずは優婆塞となって山林に入り、千手観音呪を億念して諸山を転々とした可能性は十分にあり得るだろう。
また天平宝字二年(758)に朝廷は、諸国の山林に隠れて十年以上の清行を積んだ逸士(優婆塞)に、得度を認めている。さらに時代は下るが、承和十五年(848 )には、持経や持呪に優れた者の試験をしたところ、笈を背負い錫を杖するもの数百人が方々より集まり、うち七十人あまりに官度が認められた。こうした諸国の優婆塞と同様に、伊豆留などの山林で修行していた勝道が、下野薬師寺の戒壇設置を悦んで馳せ参じ、得度・受戒が許された可能性も考えられる。
さらに先行研究にて示されるように、奈良期の仏教は山林修行と密接に関わっていた。出家を志す優婆塞はもちろんのこと、得度・受戒後の沙弥や比丘であっても、積極的に山林に踏み入り、修行を積んだ事例が指摘されている。また諸国の国分寺や有力な私寺では、近接する山地に山寺が営まれる場合があり、僧侶たちの修行の場となっていたとされる。
これら当時の状況と照らし合わせれば、伊豆留での山林修行、下野薬師寺での受戒・修行など、『修行日記』が伝える勝道の青年期の事績は、大筋としてこれを認めても良いのではなかろうか。後述するように、日光山山頂からは奈良から平安初期とされる鏡鑑や法具が多数出土しているが、これは勝道が無名の民間宗教者というより、有力な支援者を得た仏教者であったことを示唆している。また空海は『勝道碑文』にて、勝道を「沙門」と称しているが、「沙門」とは当時の日本において、比丘・僧侶と同じ意味で使われている。さらに勝道が晩年に「講師」に任命され、「法師位」にあって国司の要請により雨を祈っていることから、勝道が公的に認められた僧侶であったことは疑いえない。ではいったい何時、勝道は受戒したかと言えば、空海が青年期の勝道について、「救蟻」「惜嚢」という沙弥・比丘を指し示す語を使用している以上、日光山登頂以前には得度・受戒して、すでに沙弥・比丘となっていたと考えた方が妥当であろう。 
(3)勝道の宗風:天台と華厳の可能性
なお、伝承の通りに勝道が下野薬師寺にて受戒し、同寺に止住した僧侶であったとすれば、その宗風を如何に考えることができるだろうか。それは先の『勝道碑文』に言う「三諦の滅業」が参考となろう。従来の研究では特に注目されないが、これが空仮中の三諦を説く隋の智者大師智(538-597)の門流、すなわち「天台」の比喩であることは想像に難くない。すでに田村晃祐氏が指摘しているように、東国の仏教、特に下野・上野両国の仏教は、天台との関わりが深いという。つまり伝教大師最澄(767-822)の一切経写経や東国巡化といった活動に積極的に援助をし、また東国より多くの者が最澄に弟子入りして、円澄(771-836)、円仁(794- 864)、安慧(795-868)が天台座主に昇るなど、初期の日本天台宗の発展に、東国仏教は重要な役割を果たしたとされる。田村氏は、その母体として「東国天台教団=道忠教団」の存在を推測している。つまり日本に律を伝えた鑑真大和上(688- 763)は、律とともに天台に精通していたが、天平宝字五年(761)に下野薬師寺の戒壇が設置された当時、持戒第一と称賛された弟子の道忠(生没年未詳)が派遣され、東国に鑑真の門流が広まったとしている。
このように下野薬師寺を拠点に鑑真の門流が隆盛していたとするならば、「三諦の滅業に調飢たり」とは、まさに「天台」の教えを志求したと解釈できるのではなかろうか。後世になって、日光山にて天台宗が盛んとなる遠因は、すでに勝道にあった可能性もある。なお『修行日記』にて勝道の師とされる「如意」「恵雲」とは、鑑真門下の渡来僧・如宝(?-815)と慧雲(?-810)のことと思われる。両者はともに鑑真に隨順して来日し、律の宣揚に励み、晩年は僧綱にも任ぜられた人物である。少なくとも後世には、勝道が如宝や慧雲を通じて、鑑真の門流に連なっていたとの伝承があったことは確かである。
もっとも『勝道碑文』には、勝道が晩年に「華厳精舎を都賀郡城山に建立し」たとする。また『修行日記』も、勝道が読誦した経典として、優婆塞が度牒を得る条件として課せられていた『法華経』『金光明最勝王経』に加え、『華厳経』を読誦したと伝えている。勝道は「華厳」にも通じていたか、あるいは善財童子の補陀洛山遊行を説く『華厳経』に信仰を寄せていたのかもしれない。当時の東国における華厳の弘通状況については、すでに朝鮮半島からの帰化人が多く東国に移り住んでいることから、朝鮮半島にて盛んであった華厳が、帰化人を通じて東国に将されたとの見解もある。
いずれにせよ、勝道の宗風を推測するならば、「天台」「華厳」などの一仏乗が、ひとつの可能性として指摘し得るだろう。また、勝道が示寂した後ではあるが、弘仁八年(817)に最澄が東国を訪れて以降、常陸・陸奥を拠点とした法相の徳一(750頃-840頃)と、上野・下野を拠点とした道忠教団さらには叡山の最澄との間で、いわゆる「三一権実論争」が展開された。あくまで推測の域は出ないが、朝鮮半島からの帰化人、あるいは鑑真の弟子の道忠を通じて、東国、特に下野・上野には、教義の上で南都の仏教とは一線を画す一仏乗の宗風が根付いていたのであろう。
『勝道碑文』に記された僅かな痕跡は、勝道にもその傾向があったことを示唆するものである。 
U日光山山頂をめざした登頂期 

 

(1)葱嶺に譬えられた日光山
勝道が始めて日光山への登頂を試みたのは、神護景雲元年(767)、およそ二十から三十代の頃であった。栃木県の北西に位置する日光男体山は、標高二四八六メートル、関東地方屈指の名山である。成層火山による円錐形の山容が美しい。この山について『勝道碑文』は次のように記す。粤有同州補陀洛山。賺 嶺挿銀漢、白峯衝碧落。磤雷腹而鼉吼、翔鳳足而羊角。魑魅罕通、人蹊也絶。借問振古、未有攀躋者。
従来の研究と同様に、運敞の『性霊集便蒙』に従えば、この箇所は日光山の「高さ」を比喩的に述べていると解釈できる。つまり、その高く聳える山容は、夏には青い嶺が天の川を突き刺す程、冬には白い峯が青空に突き当たる程であり、さらには雷鳴であっても山腹で轟く程、鳳凰でさえ山麓で飛翔する程である。それ故、魑魅も通ることはまれで、まして人間では以前に登った者など誰もいないとする。
ただ、そうした解釈に加えて、別の暗喩を読み取ることができよう。まず「葱嶺」とは、具体的な山名としては、現在の中国新疆の西南部に位置するパミール山地を意味する。『漢書』「西域伝」に「西は則ち限るに葱嶺を以てす」とあるように、当時の地理認識からすれば、「葱嶺」とは西域の最西端を意味していた。その認識は後世の日本にも伝承され、『平家物語』にも「天竺、震旦の境に、流沙、葱嶺といふ嶮難あり。渡り難くして越え難き道なり」と記される程である。
また「葱嶺」は、遠境の山であると同時に、天竺へと通ずる求法の山でもあった。例えば、陸路にて西域を進み天竺へと入った劉宋の黄龍国沙門曇無竭(-420頃-)の僧伝に、「葱嶺を登りて雪山を度る」と記されるように、かつて多くの求法者たちは、「葱嶺」を越えて入竺を試みている。そして東晋の平陽沙門法顕(337頃-422 頃)の伝に「葱嶺に至る。嶺、冬夏に積雪し、悪龍有りて毒風を吐き、沙礫を雨ふらす」とあるように、その山路はまさに命懸けの困難なものであった。事実、求法者の多くが、ここで命を落としたとされる。おそらく「葱嶺」とは、仏教者にとって特別な感慨を抱かせる山名であったのではなかろうか。空海は、日光山を「葱嶺」に譬えることで、日光山が大和から遠く離れた山であり、かつ踏み入ることが困難な山であるとの認識を暗に表していると考えられる。
それは「鼉吼」と「羊角」の比喩からも読み取れる。これらは「雷鳴」と「旋つむじかぜ風」を意味しており、従来のように山の高さを表すと解釈するには疑問がある。むしろこの山の自然状況の厳しさ、さらには踏み入ることの危険さを表現しているのであろう。大きな雷が起こり、山腹では鼉が吼える如く時折り雷鳴が響いている。鳳凰が飛翔することで、山麓では強い旋風が羊の角の如くに渦巻いている。勝道が第一回目の登頂に失敗した理由も、深雪、岩壁、雲霧、雷鳴など、自然的な障難であった。それらはあたかも近寄る者を威嚇するかのように立ちはだかる。おそらく空海は、日光山に攀じ登った勝道を、西域の険しい山々を越えた求法僧に重ね合わせているのではなかろうか。 
(2)日光山山頂遺跡の解釈
なお、ここで問題とすべきは、日光山の山頂遺跡のことである。この遺跡は山頂部の巨岩を中心に営まれ、古墳期から江戸期にかけての遺物、約六千点が出土している。時代ごとに遺物の変遷はあるが、大きな転機は平安末・鎌倉初期であり、この時期を境に前半の主要な遺物であった鏡鑑類が姿を消し、埋経品・武具・馬具・修験道関係品が出土するようになるという。質・量ともに、これほどの遺物が山頂から出土するのは全国的に見てもまれで、類例としては奈良県山上ヶ岳、福岡県宝満山があるのみとされる。
古墳期の遺物としては、勾玉・切子玉・手捏土器・二神二獣鏡があり、奈良期かそれ以前とされる遺物に鉄製錫杖頭、奈良期とされる遺物に波文帯鳥獣鏡、海獣蒲萄鏡、花枝飛鳥鏡、素文角入方鏡、蔓草鳳馬鏡などの唐鏡、唐式鏡・忿怒型三鈷杵・土器・鉄製馬形品などがある。平安前期の遺物としては、奈良期を引き継ぎつつ、密教法具・古印・塔形合子などが見られるという。
このうち特に纏まった遺跡が構成されるのは、奈良期から平安初期にかけてであり、山頂の西側の断崖に接する付近、現在の太郎山神社祠殿の西側にある露岩に挟まれた凹地から、鏡鑑・錫杖頭・法具などが出土している。これにより、考古学的な視点からも、この時期の仏教者による登頂は否定する余地がないという。
なお、この遺構の場所が「山頂の西側の岩の窪地」であったことは、特に注目すべきである。後述するように『華厳経』は、観音菩薩の住処を補陀洛山山上の「西阿」「西面巌谷」とする。また『勝道碑文』は、勝道が登頂して三七日の礼懺を修したのは、山頂の「坤角(南西の角)」であったとする。経典の記述と、修行者の動向、そして遺構の場所がおよそ合致している。日光山山頂遺跡の一つの解釈として、勝道はこの場所を観音菩薩がおわす「西の岩の窪地」と見なし、そこで三七日の礼懺を行ったと考えることもできるだろう。もしそれが正しいとすれば、この山頂遺跡は、勝道の実在性、『勝道碑文』の正確性を裏付ける物証と見ることもできよう。
もう一点、問題となるのは、勝道以前と目される遺物が、僅かながらも出土していることである。これは先に挙げた「魑魅、通ふこと罕にして、人蹊、絶えたり。振古を借問するに、未だ攀ぢ躋る者あらず」という空海の認識と異なる事実である。大方の見解では、古墳期の遺物は製作年代より後に、偶然の発見品や伝世品が仏教者により山頂へ納められたとし、また奈良期かそれ以前とされる仏具に関しては、すでに勝道以前に仏教者が登頂したためとされている。
これに対して大和久氏は、近年全国各地の山頂からも、古墳期とされる遺物が発見されていることから、すでに古墳期には登頂が行われていたとする。また、鏡を祭祀の具に用いるのは、我が国の中に自生した祭りの方法であるとし、その習俗に従って古墳期に山頂でも祭祀が行われ、後に仏教者がこれを引き継いだとの見解を示している。もっとも、鏡は道教でも重視され、道士が入山する際は、悪鬼や魑魅を除ける意味で、鏡を携帯することを常としていた。多数の鏡鑑の出土も、道教的信仰の影響を視野に入れる必要があるだろう。鏡の報賽を日本に自生した信仰とすることには疑問があるとしても、例えば道教など何らかの信仰を持った者が、仏教者以前に登頂した可能性は考慮しておく必要があるだろう。
ただし、勝道は日光山への登頂を二度失敗し、足かけ十五年かけて三度目の試行によって遂に成功している。おそらく登山道などは未だ確立しておらず、極めて困難な状況であったと思われる。また、日光山山頂遺跡の最初の形成期が奈良期から平安初期であることを考慮すれば、それ以前から頻繁に登頂がなされていたとは考えにくい。若干の先駆者がいた可能性はあるが、本格的な開山は、奈良期の仏教者に依るものとして良いだろう。また、その中心人物を挙げるとすれば、やはり勝道と見るのが妥当であろう。 
(3)蝦夷問題をめぐって
ところで、日光山山頂遺跡の遺物が、量・質ともに優れていることから、大和久氏などは、国家レベルでの支援を想定している。さらにその背景として、蝦夷の反乱による国家的危機を挙げ、勝道の日光山登頂が、単なる宗教的情熱による行為ではなく、鎮護国家的・国境祭祀的な性格を多分に帯びたものとしている。つまり宝亀五年(774)の桃生城侵入から、同十一年(780)の多賀城陥落までの、いわゆる蝦夷の反乱期に呼応して、勝道は国家的使命を背負って登頂を試みたという。
確かにこの時期から、延暦二十年(801)征夷大将軍坂上田村麻呂(758- 811)の征討により大勢が決し、陸奥出羽按察使征夷将軍文室綿麻呂(765-823)の鎮圧によって組織的な征伐が停止される弘仁二年(811)までは、いわゆる三十八年戦争と呼ばれ、蝦夷問題は国家にとって大きな課題であった。また大和久氏が指摘するように、下野国は筑紫国と相似して、国境という位置づけがなされていたと言えるだろう。両国における戒壇院の設置、最澄による六所宝塔の造立、男体山と宝満山の山頂遺跡などは、その推測を裏付ける。ただし、それらをもって、勝道あるいは日光山と、蝦夷問題を安易に結びつけるのは、結論を急いている感がある。確たる根拠は何も提示されてはいない。そもそも勝道が初めて登頂を試みたのは神護景雲元年(767)、蝦夷の反乱以前のことである。大和久氏はこれについて、第一回目は山林仏徒としての個人的な修行、二回目以降は鎮護国家の使命を負った公人としての行動と、全く峻別しているが、結論ありきの考察ではなかろうか。
勝道の二回目以降の登頂試行は、まさに桓武期にあたるが、桓武天皇が支援した山寺として、大和の子嶋山寺と近江の梵釈寺が知られる。前者は延暦四年(785)に山林修行僧・報恩( 718頃-795)が桓武天皇の御病平癒を祈った功績によるもの、後者は国家の安寧を願い山林修行の道場として同五年(786)以降に造営されたものである。もし日光山への登頂・山寺の造営が、蝦夷問題と関連した国家的事業であればなおさら、日光山の寺社に関する創建や経営、あるいは山上での修法等について、同時代の史料に僅かな痕跡でも残されて良さそうであるが、それは今のところ全く見あたらない。
また、日光山に関係するであろう「二荒山神社」は、下野国の式内社としては唯一の名神大社であるが、その所在地は『延喜式』に「河内郡」(現・宇都宮市)とあり、地理的に合致せず不明な点も多い。「二荒山神社」の所在が日光山上か、あるいは河内郡か定かではないが、いずれにせよ、その初出は『続日本後紀』「承和三年(836)十二月丁巳条」の「下野国従五位下勲四等二荒神に正五位下を授け奉る」との記事である。少なくともこの時には、「従五位下勲四等」に叙されているとはいえ、蝦夷問題が一応の終結を見た弘仁二年(811)からは大分隔たりがある。なお同時期に東国では、下総国香取郡の従三位伊波比主命が正二位に、常陸国鹿島郡の従二位勳一等建御賀豆智命が正二位に昇進しており、国家的には「二荒神」の地位は香取・鹿島の両神に比べると、必ずしも高くはない。
そもそも日本古代において、戦勝を神仏に祈願する例はそう多く見受けられない。天皇の不豫や天候の不順に際して、あれほど頻繁に神事・仏事が執行されたことに比べて対照的と言える。蝦夷問題に関連したところでは、宝亀十一年(780)に陸奥鎮守副将軍百済王俊哲(?-795)より「蝦夷軍に包囲されたが、(陸奥国)桃生・白河両郡の神十一社に祈ったところ囲いを破った。この十一社を幣社に列することを請う」との奏上があり、これを許したとの記録と、延暦元年(782)に陸奥国より「(陸奥国所在の)鹿島神に蝦夷討伐を祈ったところ、神験があった。位封を賽せんことを」との奏上があり、勲五等と封二戸を奉授したとの記録が見える。これにより、蝦夷討伐の前線にあった将軍や国司が、在地の神に戦勝を祈願した例については、僅かに知ることができる。ただ、果たして国家主導にて「二荒神」への祈願が行われたであろうか。上記の様々な状況を踏まえると、勝道の日光山登頂の背景として、蝦夷問題による国家の支援を想定するには根拠に乏しく、その可能性を積極的に論ずるには難があるだろう。
ただし、日光山山頂から優品が出土していることからして、勝道らの日光山開山を支持した有力者があったことは想定し得る。勝道が初めて日光山山頂に到ったのが天応二年(782)、翌々年の延暦三年(784)には湖畔に神宮寺を建てて修行している。当時の山寺に関する政策を見ると、翌年延暦四年(785)には、僧・尼・優婆塞・優婆夷が勅語に依らずして、山林寺院にて陀羅尼を読み、壇法を行ずることが禁ぜられている。また延暦十八年(799)には、本寺を去って山林に隠住し、人の嘱託を受けて邪法を行う沙門が往々にしてあるため、山林の精舎とそこに住む僧・尼・優婆塞・優婆夷を報告せよとの勅語が出されている。これらが共通して禁じているのは、修行者が私的な檀越を得て山寺に住み、檀越に有利な(国家に不利な)修法を行うことであった。奈良期を通じて、長屋王の変(729)、恵美押勝の乱(764)、藤原種継射殺事件(785)などの陰謀事件の直後には、山林寺院での活動を制限する勅語が出されていることからして、勢力争いに関わる不穏な動きを取り締まる意味もあって、山林における無許可の活動が禁ぜられていたと考えられる。朝廷は、山林修行者の験力を常に意識しており、それを外護するのは基本的には天皇であるとの見解を有していた。ただ、そうした朝廷の思惑とは裏腹に、人々は私的に山林修行者を支援し、修行者はその依頼に応じて種々なる儀礼を行っていた。度重なる山林修法の禁制がそれを裏付けている。
もっとも、勝道の場合、そうした支援者がいったい誰で、そこにどのような意図があったかのかを断定することは難しい。唯一、『勝道碑文』に挙げられるのは、大同二年(807)の旱魃に際して、国司の要請により、雨を祈ったという事例だけである。あるいは明記されなくとも、蝦夷討伐の使命を帯びて下向した将軍や国司、出兵した在地の豪族などの依頼により、勝道が蝦夷問題の終結を祈ったことがあったかもしれない。ただし、その可能性を積極的に支持する根拠は乏しい。
また、たとえ勝道が蝦夷問題の終結を祈ったとしても、それは後述するような、自利利他円満をめざした勝道の生涯・目的意識からすると、その一部、つまり利他行の一環と理解すべき行為であり、必ずしもそれが全てという訳ではない。勝道の日光山登頂の理由として、蝦夷問題のみを強調するのは、適当ではないと思われる。 
(4)補陀落山と二荒山
そもそも勝道が登頂を試みた日光山は、『勝道碑文』では「補陀洛山」と呼ばれていた。「補陀落」とは、梵語Potalaka の音写で、観音菩薩が住むとされる山のことである。東晋の天竺三蔵仏駄跋陀羅(359-429)の旧訳『華厳経』「入法界品」では、「光明山」と漢訳され、善財童子が遊行して山上に到り、西阿にて観世音菩薩に見まみえたと伝える。その情景は「処処に皆な流泉浴池有り。林木欝茂し、地草柔軟なり」と描写される。また唐の于闐国三蔵実叉難陀(652- 710)の新訳
『華厳経』では、同じ場面で「補怛洛迦」と音写され、善財童子はその山の西面の巌谷の中で、観自在菩薩に見まみえたとする。その情景を「泉流縈映し、樹林蓊欝し、香草柔軟なり」とするのも同様である。
観音菩薩は山上の西の巌谷に坐し、その情景としては、泉・樹・草を特徴としている。
さらに唐の三蔵法師玄奘(602-664)の『大唐西域記』では、南インド達羅毘荼国の南、秣刺耶山(マラヤ山)の東に位置するとされ、「布呾洛迦山」と音写される。山径は危険で、巌谷は傾き、山頂に池が有る。その水は鏡のように澄み、大河を流出するという。観自在菩薩に見まみえることを願う者は、身命を顧みず、水を渡り山を登るも、ここに到達できる者は極めて少ないと伝える。
観音信仰の隆盛とともに、補陀落は観音の浄土として、インド以外でも見られるようになる。中国浙江省の普陀山、あるいはチベットのポタラ宮などは有名である。日本でも、熊野那智山や下野日光山が補陀落と見なされてきた。
さて問題は、なぜ日光山が観音浄土・補陀落と見なされ、そう呼称されるようになったのかである。諸説あるが、およそ次の二説に集約できる。一つは日光山の山容が補陀落のイメージに合致していたから、というものである。つまり勝道などの仏教者が初めてこの山に登り、山水相映する勝景を目の当たりにして、まさしく補陀落であると感得したからという理由である。そしてこの山の呼称も、補陀落(フダラク)から二荒(フタラまたはフタアラ)、そして二荒(ニコウ)、さらに日光(ニッコウ)へと変化したと言われている。
一方の説では、もともとこの山は二荒(フタラまたはフタアラ)と呼ばれる古来からの信仰の山であり、呼称が通ずることから、仏教者によって後に補陀落とも呼ばれるようになったとする。この場合、本来の山名とされる「二荒」の解釈も、男体・女峰の二つの荒山、あるいは男体・女峰の二神が現れるという説など様々であるが、いずれにせよ、仏教信仰以前からの呼称に由来するとの説である。
いったい日光山は、奈良期の仏教者によって「補陀洛山」と呼ばれるようになったのか、あるいはそれ以前から「二荒山」と呼ばれる信仰の山であったのだろうか。文献上で言えば、「補陀洛山」の初見は弘仁五年(814)、空海の『勝道碑文』であり、「二荒」の初見は先に挙げた『続日本後紀』「承和三年(836)十二月丁巳条」である。ただその「二荒神」とは、『延喜式』に記載の河内郡(現・宇都宮市)二荒山神社のこととも考えられ、地理的に合致せず不明な点も多い。また、例えば同じく東国の霊山である常陸国の筑波山が、『万葉集』『風土記』『続日本紀』などに頻繁に登場するのと比べると、「二荒山」については全く記載がなく、承和三年(836)以降、「二荒神」に位階が授けられたとする記事が国史に見られるのみである。このように文献的な視点からすれば、奈良期以前の二荒山信仰について、積極的に論ずることは慎重にならざるを得ない。
ただし、山頂の遺跡から、古墳期のものとされる遺物が僅かに出土していることをどう見るか。これも論者によって解釈に差があり、古墳期からの信仰の山であったことの証拠と見るか、あるいは仏教者の開山以降に奉納された賽品の一部と見るか、見解は様々である。いずれにせよ、この山の古来の名称や信仰のあり方については、どれも決定的な根拠は乏しく、端的に言えば、論者の重視する観点によって結論が異なる感がある。ここでは、どちらも可能性があるとの認識に留めておきたい。それよりも重要なことは、奈良期になって仏教者がこの山に入り、これを「補陀落」と見なしたという事実である。 
(5)山神への畏怖と入山の作法
さて、『勝道碑文』に依れば、勝道が始めて登頂を試みたのは、神護景雲元年(767)四月上旬、そして二度目が 天応元年(781)四月上旬であった。第一回目には深雪と岩壁、雲霧と雷鳴により途中で引き返し、中腹に三七日(二十一日)間住して帰ったという。第二回目も同様に登頂できなかったとされる。そして翌天応二年(782)、三度目の試みで初めて登頂に成功したと伝える。その時の様子を詳しく見てみよう。
二年三月中、奉爲諸神祇、寫經圖佛、裂裳裹足、弃命殉道。繦負經像、至于山麓。讀經礼佛、一七日夜。「三月」の中旬、まずは諸々の「神祇」のために、経典を書写し、仏像を図画した上で、それらを背負って山麓に到り、「七日」の間、読経・礼仏したという。
登頂以前のこうした作法から連想されるのは、道教の入山方法である。多少長くなるが、東晋の道家・葛洪(284- 363)の著とされる『抱朴子』内篇一七「登渉」を引用したい。「山、大小と無く、皆、神霊有り。山、大なれば、則ち神も大、山、小なれば、即ち神も小なり。山に入りて術無くんば、必ず患害あり。〈中略〉軽じて山に入るべからず。当に三月・九月を以てすべし。此は山開の月なり。また当に其の月の中、吉日・佳時を択ぶべし。もし事久しうして、徐徐に此の月を待つこと得ざれば、ただ日時のみ選ぶべし。凡そ人、山に入るには、皆、当に先ず齋潔すること七日にして、汚穢を経して、昇山符を帯びて門を出で、周身三五法を作すべし」とある。山は大小に関わらず、神霊が存する。入山の方法に則さなければ、その怒りに触れて患害を蒙るとし、最も基本的な方法として、三月・九月の択日、七日間の潔斎、そして護符と修法が紹介されている。
勝道が登頂に失敗した一回目、二回目は四月であり、成功した三回目は三月のことであった。また一・二回目は入峰にあたっての作法は何も記されていないが、三回目は入峰する前に七日間読経礼仏し、さらには後に述べるように神明に対して堅く誓願を立てている。これらは単なる偶然であろうか。あるいは何かしらの入峰の作法に則したものであったか。あるいは空海の脚色であろうか。いずれも可能性としてはあるだろう。ただ、おそらく古くは道教に見られるような「山の神霊に対する畏怖」と「入峰にあたっての作法」という要件は、いつしか入峰修行を志す中国の仏教徒にも取り入れられ、その意識と方法は、日本の山林修行者にも受け継がれていったのではなかろうか。山林に踏み入って修行する者にとって、その山におわす神霊の存在は、無視できなかった筈である。現在においても、仏教者や修験者による入峰修行の前には、身を浄めることを常としている。まして当時の日光山は、魑魅さえ憚るとされる危険な深山と見なされ、実際に勝道は幾度も登頂に失敗していた。その前途に立ちはだかる深雪や雷鳴などの障難を、勝道が日光山の神霊の仕業と考えたとしてもおかしくはない。
三度目の試行で、勝道は山麓にて一七日間の読経礼仏ののち、次のように誓願を立てるが、そこには日光山の神霊に対する切なる想いを読み取ることができる。堅發誓曰、若使神明有知、願察我心。我所圖寫經及像等、當至山頂爲神供養、以崇神威、饒群生福。仰願善神加威、毒龍巻霧、山魅前導、助果我願。我若不到山頂、亦不至菩提。
勝道は、この入峰が決して無意味なものではなく、まずは神祇のための行為であることを強調する。勝道が書写した経典、図画した仏像、そして勝道自身、言うなれば仏法僧の三宝を山頂に捧げることで、神祇を供養したいというのである。つまり、三宝の功徳によって、神祇の威力を一層高め、ひいては人々への幸福を将して欲しいとの願いであった。それが成就するためにも、善神・毒龍・山魅など、日光山の諸々の神霊の加護が必要であり、その登頂が成功しなければ、自身の菩提もあり得ないとの決意を表明しているのだ。これにより、勝道の日光山入峰にとって、神祇への供養は欠かすことのできない要件であったことが知られる。それは同時に、衆生の幸福を願うものであり、かつ勝道自身の菩提にとっても不可欠な宗教的行為であったと見るべきだろう。 
(6)山頂における三七日の礼懺
さて、その誓願の甲斐あってか、言わば勝道は神祇の加護を得て、遂に登頂に成功する。『勝道碑文』はその状況を次のように記す。
如是發願訖、跨白雪之皚皚、攀緑葉之璀璨。脚踏一半、身疲力竭。憩息信宿、終見其頂。怳惚怳惚、似夢似寤。不因乘査、忽入雲漢、不甞妙藥、得見神窟。一喜一悲、心魂難持。山之爲状也。東西龍卧、弥望無極、南北虎踞、棲息有興。指妙高以爲儔、引輪是而作帯。笑衡岱猶卑、哂崐香之又劣。日出先明、月来晩入。不假天眼、萬里目前。何更乗鵠、白雲足下。千般錦花、無機常織。百種霊物、誰人陶冶。北望則有湖。約計一百頃。東西狹、南北長。西顧亦有一小湖。合有二十餘頃。眄坤更有一大湖。羃計一千餘町。東西不闊、南北長遠。四面高岑、倒影水中。百種異荘、木石自有。銀雪敷地、金花發枝。池鏡無私、万色誰逃。山水相映、乍看絶腸。瞻佇未飽、風雪趂人。我結蝸菴于其坤角、住之礼懺勤經三七日。已遂斯願、便歸故居。
白雪が積もり、樹木が茂る急峻を攀じ登り、「信宿」つまり二泊の行程にて、遂にその頂に到達した。まさに「怳惚として」「心魂持ち難く」、あたかも天にも昇ったような、あるいは仙境に入ったような心境であったという。
また山頂から見る日光山の情景は、「妙高」(須弥山)が高く聳え立ち、外縁に「輪鉄」(鉄囲山)が連なるが如きの、素晴らしい興趣であり、唐の名山である「衡岱」(南岳衡山・東岳泰山)や西域の「崑香」(崑崙山・香酔山)ですら、到底及ばないと賞賛されている。そして山頂の北・西・西南側には、大小の湖があり、鏡の如く湖面には四方の高峰の影が映り、さらに湖面に反射した日光に照らされて山の雪や枝が一層輝きを増している。勝道は、山と湖が織りなす「山水相映」の情景に、「山径危険にして、巌谷敧傾す。山頂に池有りて、その水の澄めること鏡の如し」とされる「補陀落」を想起したのではなかろうか。
勝道は暫くはその絶景に佇んでいたが、直ぐさま山頂の南西の隅に草庵を結び、本来の願を遂げてから下山することとなる。その願とはつまり神祇供養のことであり、それは三七日(二十一日)の礼懺に依るものであった。
以下、この「三七日の礼懺」の内容について推測してみたい。そもそも礼懺とは、三宝を礼拝し、所造の罪を懺悔することである。それに呪術的な意味も加わり、特に中国の南北朝後期以降、隋唐宋代に亘って、種々の利益を願う儀礼としての懺法・悔過法が作製された。それらは日本へも伝えられ、奈良期には吉祥悔過・薬師悔過・十一面悔過・千手悔過・阿弥陀悔過などが盛んに行われ、また平安期以後は法華三昧を中心に様々な懺法が行われるようになったとされる。
日本の古代において、悔過会は大寺院のみでなく、山林でも行われていた。天平十七年(745)には聖武天皇の不豫に際し、京師畿内の諸寺及び諸名山の浄処にて薬師悔過が行われた。また天平宝字八年(764)には、反逆の徒が山林寺院に僧を集めて読経・悔過することが禁じられ、さらに延暦四年(785)には、桓武天皇と皇后の寄進により、大和高市郡の子嶋山寺に仏殿が建立され十一面悔過が行われている。おそらく勝道の頃には、国家の主導、あるいは私的な企てにより、種々の利益を願って山林にて様々な悔過会が修されていたと考えられる。山林における呪術や修行というと、密教的要素を連想しがちであるが、悔過会・懺法についても考慮する必要があるだろう。
勝道が日光山山頂にて行った礼懺として、まず可能性が高いのは、当時頻繁に行われていた悔過会である。日光山が観音浄土・補陀落と見なされたことからすれば、十一面悔過・千手悔過など、変化観音系統の悔過会が挙げられる。佐藤道子氏に依れば、悔過法要はその本尊に関わらず、基本構成は唐の西崇福寺沙門智昇(-730-)撰『集諸経礼懺儀』を範とし、導入部の供養文等、展開部の呪願、主部の称名悔過・諸願、後置部の大懺悔・発願等、そして終結部の行道・廻向等からなるという。本尊の相違は、本尊を讃嘆しながら礼拝行によって罪障懺悔の心意を表す「称名悔過」に見られ、十一面悔過は唐の三蔵法師玄奘(602-664)訳『十一面神呪心経』、千手悔過は唐の西天竺沙門伽梵達摩(生没年未詳)訳『千手千眼観自在菩薩広大円満無碍大悲心陀羅尼呪経』に依るとされる。
また日光山山頂遺跡からは、奈良末から平安前期の作製とされる鉄製三鈷鐃一口、銅製三鈷鐃五口が出土している。「鐃」は奈良期の法会に使用したとされる楽器である。平安期以降、密教では通常「鈴」を用いる。「鈴」は鈴身が開いて内に舌が下がるのに対し、「鐃」は鈴身が閉じられ内に丸が入っている。東大寺二月堂の修二会(お水取り・十一面悔過)では、現在でも三鈷鐃が使用されていることから、奈良期の悔過会でも三鈷鐃が使用されていた可能性は高い。日光山山頂遺跡出土の三鈷鐃は、勝道が山頂にて修した三七日の礼懺が、悔過会であったことを示唆する。
ただ悔過会は、通常「一七日」を期限として修される場合が多い。もっとも現在の東大寺修二会(十一面悔過)は「二七日」であるから、勝道が山頂にて「三七日」の間、悔過会を修したとしても不合理ではない。しかし日数が「三七日」と明示され、さらに第一回目の登頂失敗の際も、中腹にて「三七日」住して帰ったとされることから、「三七日」という日数には、何か意味がありそうである。
この日数に着目して、懺悔の法を考えてみると、隋の智者大師智(538-597)による「法華三昧懺儀」や「請観世音懺法」などが想起される。まず「法華三昧懺儀」は『法華経』と『観普賢経』に基づく懺法で、『摩訶止観』に説く四種三昧のうち、第三の半行半坐三昧に配当される。最澄はこの行法を天台学生の止観業の科目に加え、さらに円仁が弘めたことで、以後天台宗にて盛行し、現在でも最も一般的な常用法儀とされる。この懺法は「三七日」を期限として、仏像の周囲を歩く行道と坐禅とを兼ねて修し、その間に礼仏・懺悔・誦経などを行ずる。また前方便として、初行者が正修に先だって行うべき一七日の行法も説かれている。先に見たように、勝道が入峰の前に、山麓にて一七日の読経・礼仏を行い、誓願を発したのは、山頂での礼懺の前方便との位置づけであろうか。ただ、「法華三昧懺儀」は本尊を普賢菩薩としており、補陀洛山の観音菩薩とは一致していない。
とすれば、同じく智による「請観世音懺法」が妥当であろうか。これは東晋の天竺居士竺難提(419-?)訳『請観世音菩薩消伏毒害陀羅尼呪経』に基づき、智が作製したもので、智の弟子の潅頂(561-632)が編纂した『国清百録』に収録される。『摩訶止観』に説く四種三昧では、第四の非行非坐三昧に相当する。この懺法は、観音菩薩を本尊とし、行者十人にて、礼仏・坐禅・誦呪・懺悔・行道・読経などを行い、「三七日」あるいは「七七日」を期限として修される。その次第を略述すれば、まず道場を荘厳し、仏像を南向き、観音像を東向きに置く。行者は西に向かって坐し、五体投地し、釈迦仏・無量寿仏はじめ仏菩薩等を頂礼、焼香・散花して諸尊を供養する。さらに坐禅・念仏した後、釈迦仏を奉請し、楊枝・浄水にて供養する。そして三宝及び観音の名を称し、『請観音経』に説かれる消伏毒害呪・破悪業障陀羅尼呪・六字章句呪を誦す。悉く悪業を懺悔した後に行道し、一人が高座に登って『請観音経』を読誦するのである。『勝道碑文』の銘文にも、勝道は「観音に帰依し釈迦を礼拝す」とあるから、勝道が山頂にて修行した「三七日の礼懺」を想定するとすれば、もう一つの可能性として「請観世音懺法」が挙げられる。
しかし、「請観世音懺法」は最澄の請来目録『台州録』に「請観音三昧行法一巻、入止観并天台国清百録部」とあるのを初見とし、それ以前に修されたとの記録は見られない。ただ「法華三昧懺儀」については、『唐大和上東征伝』に鑑真の将来として「行法華懺法一巻」が挙げられ、さらに弟子の渡来僧法進(709- 778)はこれを書写している。とすれば、すでに鑑真門下にて「法華三昧懺儀」が修されていたとしても不合理ではない。先にも確認したように、勝道は下野薬師寺の僧であったと考えられ、また『修行日記』にて勝道の師匠とされる慧雲は、法進の弟子であった。勝道が東国に弘まった鑑真の門流、つまり「天台」に触れていた可能性を考慮すれば、山頂での礼懺が、天台にて修される何かしらの懺法に依っていた可能性もあるのではなかろうか。最澄以前の東国における天台の弘通状況という視点にとっても、興味深い問題である。
一方、『修行日記』が伝えるには、天平勝宝六年(754)二十歳の勝道は、家を出て「千手観音を億念す」という。当時の優婆塞や僧が陀羅尼を持誦していたことは明らかで、特に「千手陀羅尼」は広く流布していた。さらにその典拠である唐の西天竺沙門伽梵達摩(生没年未詳)訳『千手千眼観世音菩薩広大円満無碍大悲心陀羅尼経』は、奈良期に最も写経された雑密経典とされる。特に天平七年(735)に帰朝した玄ム(?-746)は、天平十七年(745)の盂蘭盆会の日に、天武天皇・元正太上天皇・光明皇后の聖寿無窮、三悪道に堕ちた衆生の救済を祈り、本経一千巻の写経を発願している。伝承通り、勝道が千手観音を億念したとすれば、山頂での礼懺についても、千手観音系の雑密経典に説かれる儀礼を詮索する必要があるだろう。
まず『千手千眼観世音菩薩広大円満無碍大悲心陀羅尼経』は、釈迦牟尼仏が「補陀落伽山」の観世音の道場にいた時、観世音菩薩が仏の許しを得て、「広大円満無礙大悲心陀羅尼(千手陀羅尼)」を説くとの内容である。その功徳として、病気や悪業重罪の滅除など様々な利益が説かれ、さらにそのための作法・壇法が示されている。その一節に、「若し諸の衆生、現世に願を求めん者は、三七日に於て浄く斎戒を持ちて、この陀羅尼を誦すれば、必ず所願を果たさん。生死の際より生死の際に至るまでの一切の悪業、並びに皆な滅尽せん」とあるのが注目される。三七日間の斎戒と、陀羅尼の誦呪により、一切の悪業が滅せられ、諸願が果たされるという。これは陀羅尼による滅罪であり、広い意味で懺悔の法に含まれるものだろう。
また、別系統の千手観音経として、唐の総持寺沙門智通(-653-)訳『千眼千臂観世音菩薩陀羅尼神呪経』 、及びその異訳である唐の天竺三蔵菩提流志(572-727)訳『千手千眼観世音菩薩姥陀羅尼身経』に触れたい。本経もすでに奈良期には書写されており、初写年代が確認できるところでは、智通訳が天平九年(737)、菩提流志訳は天平七年(735)である。本経は、観世音菩薩が仏に姥陀羅尼を説くことを許され、陀羅尼とその功徳が明かされる。さらに二十五種の印呪とその功徳が説かれ、加えて第十二印の後には「曼拏羅壇法(智通訳)」「画壇法(菩提流志訳)」が説かれる。ここでは、千手千眼観音を本尊とする曼拏羅の画壇作法が示され、「当に日別三時に像の前に罪過を懺悔して三七日夜を満ずべし。その千手千眼の像の上に乃し大光明を放つ。〈中略〉その呪法の師と画匠の人等と及び諸の衆生、この光に遇う者は、極大なる重罪にても一時に消滅して咸く清浄なることを得ん(菩提流志訳)」とする。曼拏羅を画き、種々の供物を捧げて千手観音を供養し、三七日の間、懺悔することで、修行者・画師・衆生、すべての罪業が消滅するという。またこれを修す場所も、「第一は山の閑静の処に居す。山の頂上に在りて、形勢ある処(智通訳)」「寺内、或いは山間に向い、或いは湫泉、林辺(菩提流志訳)」とされる。勝道も日光山登頂の直前に仏像を画いているが、あるいはこの壇法に基づくものであろうか。もっとも、この壇法は二十五印との関わりが乏しく、唐突に説かれることから、後代の挿入と見られている。ただし、これは菩提流志訳・智通訳ともに収録され、内容・表現共に若干の相違が見られることから、挿入としても日本伝来以前と考えられ、すでに奈良期の仏教者がこの壇法を知り得た可能性は十分にある。
先にも挙げたが、延暦四年(785)には、僧・尼・優婆塞・優婆夷が勅語に依らずして、山林寺院にて陀羅尼を読み、壇法を行ずることが禁じられている。ここに「陀羅尼」「壇法」とあることに注目すれば、勝道の三七日の礼懺として、先に挙げた千手観音陀羅尼の誦呪、あるいは千手観音画壇法など、千手観音系統の雑密経典に説かれる儀礼であった可能性も、あながち否定できない。
以上、勝道が山頂にて修した三七日の礼懺を想定してみた。もっとも、仏教の儀礼に「礼仏」「懺悔」の要素が入ることはむしろ当然であり、また儀礼の期限も経軌の記載と、その実修の場面では、一致しない場合もあるだろう。従って「三七日の礼懺」を特定することは困難ではあるが、当時の仏教の弘通状況・勝道の事績・山頂遺跡の遺物等より、敢えて推測すれば、奈良期に頻繁に行われていた「十一面悔過」「千手悔過」等の悔過会、天台にて修される「法華三昧懺儀」「請観音懺法」などの懺法、そして千手観音系統の雑密経典に基づく陀羅尼法や壇法などが候補として挙げられる。これらを視野に、当時の他の山林修行者の事例も考慮し、詳細については今後の課題としたい。 
(7)礼懺による神祇供養
勝道は神祇を供養するために、経像を背負って山頂へ登った。そして山頂にて、三七日の間、何かしらの礼懺を行じた訳である。とすれば、その礼仏・懺悔の儀礼とは、まさに神祇のために修されたとも言えるだろう。ここで想起されるのが、奈良期に各地に建立された神宮寺の問題、特には「神身離脱の神」のことである。
かつて辻善之助氏は、奈良前期より、神祇は仏法を悦び擁護し、また仏法により苦悩を脱すという思想の現れとして、神宮寺建立・神前読経・為神得度などが行われ、平安後期の延喜年間(901- 923)前後に本地垂迹説が芽生え、鎌倉期に到りその教理的組織が大成されたとした。辻氏は必ずしも、「仏法を悦ぶ神祇」から「仏法により苦悩を脱せんとする神祇」へという神格の展開を主張したのではないが、のちに田村圓澄氏はこの両者を系列・性格を異にする別々の神格と捉えた。前者にあたる中央の神は、古代国家と密接な関係にあり、必ずしも神であることの苦悩を表明せず、仏法を悦び守護する神であるのに対し、後者にあたる地方の神は、苦悩する衆生のひとつと見なされ、当時の農村に頻発した疫病や災異を免れるため、神身を離脱して三宝に帰依し霊力の回復を願う神であったとした。いわゆる「護法善神」と「神身離脱の神」を分け、国家と地方の違いとして理解したのであった。
さらに「神身離脱の神」の背景について先行研究を纏めると、@苦悩する地方社会(苦悩する神祇)を仏教的呪術により救済しようとする仏教者と富豪層の意図、A旧来の神祇信仰を新来の仏教に取り込もうとする仏教者の意図という二点に要約できる。総じて地方の神仏習合に関わった仏教者は、苦悩する社会(神祇)を救う利他行者として、もしくは仏教を広める布教者として捉えられ、その利他的な意図が神宮寺出現の原動力とされている。
ただ、『勝道碑文』に記される勝道の事例からすると、その神祇観は上記の解釈には收まらない感がある。先にも挙げたように、勝道は入峰に際して、堅發誓曰、若使神明有知、願察我心。我所圖寫經及像等、當至山頂爲神供養、以崇神威、饒群生福。仰願善神加威、毒龍巻霧、山魅前導、助果我願。我若不到山頂、亦不至菩提。との誓願を立てた。その要点は、@三宝を山頂に捧げ、神祇を供養し、神威を高め、衆生の幸福を願う、A善神・毒龍・山魅に、登頂する勝道の援助を願う、B勝道自身の菩提を願う、との三点に纏められるだろう。
このうち@について、日光山の神祇は直接的には「神身離脱」を表明してはいないものの、三宝によって供養されることで、神威が高まり、衆生への幸福が期待されている。田村氏の分類からすれば、「農村に頻発した疫病や災異を免れるため、神身を離脱して三宝に帰依し霊力の回復を願う神」と構造的には一致している。山頂での三七日の礼懺には、衆生としての日光山の神祇の罪を懺悔するという意味合いもあったものと推測される。ここに、苦悩する地方社会(苦悩する神祇)を仏教的呪術により救済しようとする仏教者と富豪層の意図を想定することも不可能ではない。ただ、Aの修行者を援助する善神・毒龍・山魅といった概念、あるいはBの修行者の菩提・自利行といった要点は、いままで初期の神仏習合を論ずる際、見過ごされてきた感がある。
まずAでは、善神は威力を増して修行者を加護し、毒龍は霧を払い、山魅は先導して、勝道の登頂が果たされるよう援助を願っている。ここで善神に加えて、毒龍や山魅に対しても、修行者の支援を願っていることに注目すべきである。これら必ずしも善神ではない存在について、如何に理解したら良いだろうか。これには『勝道碑文』の冒頭の比喩が参考となろう。蘇巓鷲嶽、異人所都。達水龍坎、霊物斯在。所以異人卜宅、所以霊物化産。豈徒然乎。請試論之。
「蘇巓」(須弥山)や「鷲嶽」(霊鷲山)には、「異人」が都し、「達水」(阿那婆達多池)や「龍坎」(文龍池)には、「霊物」が在る。ここではインドの霊山や霊水を挙げて、そこに「異人」が住み、「霊物」が宿っていることを示している。通常、仏教的な解釈であれば、「異人」とは仏菩薩を、「霊物」とは護法の龍王などを指す。ただ、この一文は山水相映する勝地である日光山を比喩的に説明していると考えられ、通常の意味に加えて、「異人」とは日光山の神明を、「霊物」とは毒龍や山魅など日光山に住む怪物や精霊を暗喩しているのではなかろうか。日光山には、山の神明や諸々の霊物が住んでいる。勝道は登頂に際し、それらが危害を加えることなく、逆に護り導いて欲しいと願っているのだろう。
毒龍や山魅が、なぜ修行者を支援し得るかと言えば、おそらく誓願の@に挙げた、神祇供養と関わりがあるだろう。勝道は、仏法による神祇の供養を表明しているが、その神祇には、日光山の神明はもとより、毒龍や山魅などの霊物も含まれるのではないだろうか。つまり神霊は苦悩する衆生のひとつと見なされ、修行者が懺悔の法によってその罪を滅し、神道からの出離と神威の増長を願うことで、神霊はこれを悦び、修行者を加護する存在となり得ると考えられたのだろう。勝道が供養する神と、勝道を護り導く神とは、同じの神を言うのであって、神は修行者の供養を受けるともに、修行者を加護するものと理解される。
そうであれば、田村氏のように「護法善神」と「神身離脱の神」を相容れない神格とする見解には疑問が生ずる。これらは必ずしも国家と地方という視点で二分される神格ではなく、神の両側面と考えた方が妥当ではないだろうか。神(毒龍や山魅も含まれるだろう)は神道(六道のうちの天道)に陥った衆生であるから、これを仏法によって救うという考え方と、たとえ神道にあったとしても、人道よりは勝れた威力を有しているから、仏法によってその威力を増して加護を願うという考え方は、両立し得る神観念であろう。現在でも、例えば真言密教の修法のうち、神祇に法味を分与する「神分」などでは、神祇の「離業得道」と「威光倍増」を祈ることを要点としており、この二面の神観念は、現在まで継承されているものと言えよう。
またBでは、「我れ若し山頂に到らずば、亦た菩提には至るまじ」として、登頂は勝道の菩提にとって、必要不可欠な修行であったことが知られる。この一文により、勝道の登頂は、究極的には自身の菩提をめざした行為であったと理解できる。少なくとも、空海は勝道の日光山登頂をそう理解していた。空海は『勝道碑文』の碑文にて、勝道の日光山入峰を評して、殉道斗藪、直入嵯峨。龍跳絶巘、鳳舉經過。神明威護、歴覧山河。と述べている。「斗薮して直ちに嵯峨に入る」とは、日光山に踏み入って、その山頂に到ることを言う。空海は同じく『性霊集』所収の「山に入る興」にて、「斗薮して早く法身の里に入れ」と諭しており、山林に踏み入ることは、菩提に通ずるものと考えていたようだ。しかもその入峰は、「神明の威護」によるとの認識である。
奈良期の神宮寺出現の原動力として、仏教者の利他的な意図のみが指摘されているが、そこには当然、山林に踏み入った修行者の自利的な意図も看過すべきではないだろう。修行者が山林に踏み入った大きな理由の一つは、仏道修行のためであった。例えば智の『天台小止観』に、禅定を修すのに適する場所として「一には深山にして、人を絶するの処なり」とあるように、深山は「閑居浄処」の第一とされ、仏教者は修行の場所を深山に求めた。あるいは勝道の場合、『華厳経』「入法界品」に説かれる善財童子の遊行遍歴に模し、補陀落山上の観音菩薩に見まみえんとの念願もあったのかもしれない。ではなぜ敢えて危険を冒してまで、深山で修行したり、山上の菩薩へ謁見しようとするのかと言えば、究極的には仏道修行のめざすところ、すなわち菩提を求めていたからであろう。
菩提を求めて山に踏み入る修行者は、古くは道教にも見られるように、山の神霊に対する畏怖の念を抱いていた筈である。山の神霊が修行者に危害を加えることなく、逆に支援する存在となるためにも、神祇供養は不可欠であった。勝道は日光山登頂に際し、まずは山麓にて一七日の読経礼仏を行い、山頂に到って三七日の礼懺を修し、日光山の神祇を供養している。その意図は、神道に陥っている神の罪を懺悔し、神道からの出離と、神威の増長を願い、広くは衆生の幸福を、特には山林に踏み入る修行者への加護を期待していたものと考えられる。 
V南湖畔に神宮寺を建て住した修行期 

 

(1)修行の勝地としての山中浄土
勝道は、初の登頂から二年後の延暦三年(784)、再び日光山へと登った。前回は、山頂にて三七日間のみ礼懺してすぐに下山したのに対し、四度目の入峰は長期に及んでいる。『勝道碑文』には、去延暦三年三月下旬、更上經五箇日、至彼南湖邊。四月上旬造得一小船。長二丈廣三尺。即与二三子、棹湖遊覧。遍眺四壁、神麗夥多。東看西看、汎濫自逸。日暮興餘、強託南洲。其洲則去陸三十丈餘、方圓三十丈餘。諸洲之中、美花富焉。復更游西湖。去東湖十五許里。又覧北湖去南湖三十許里。並雖盡美、揔不如南。〈中略〉託此勝地、聊建伽藍、名曰神宮寺。住此修道、荏苒四祀。とある。勝道は三月下旬に入峰し、五日間かけて南湖の畔に到った。四月上旬には一艘の小船を造り、二・三人の弟子と共に湖上を遊覧している。さらに西湖、東湖、北湖を見て回った後、最も勝れた南湖(現・中禅寺湖)畔の勝地に神宮寺を建立し、ここに四年間止住して修行したという。
前回の登頂が、まずは入峰を願って山の神祇を供養するとともに、山の情景や状況を概観するのが主たる目的と見られるのに対し、今回の登頂は、より本格的に修行するのに適切な場所を調査して選定し、長期にわたり修行することを目的としていたと言えよう。
ここでまず問題としたいのは、修行するのに適切な勝地の条件である。その情景について『勝道碑文』は、其南湖則碧水澄鏡、深不可測。千年松栢、臨水而傾緑蓋。百圍檜杉、竦巖而搆紺樓。五彩之花、一株而雑色。六時之鳥、同響而異觜。白鶴舞汀、紺鳬戯水、振翼如鈴、吐音玉響。松風懸琴、坻浪調鼓、五音争奏天韻、八徳澹澹自貯。霧帳雲幕、時時難陀之羃歴。星燈電炬、數數普香之把束。見池中圓月、知普賢之鏡智。仰空裏慧日、覺遍智之在我。託此勝地、聊建伽藍、名曰神宮寺。住此修道、荏苒四祀。と伝える。この箇所は四六駢儷体による修辞や対句が多い。これらは、南湖畔の勝景を強調するための技巧であるとの解釈が一般的である。確かに誇張された表現は多いであろうが、単に「自然の風光明媚さ」を強調しているだけではなさそうである。
つまり、ある自然物に〈何か〉を観じていくような、あるいは自然物から〈何か〉が立ち現れてくるような、そうした表現がなされている。例えば、「千年の松柏」→「緑蓋」、「百囲の檜杉」→「紺楼」、「白鶴・紺鳬」→「鈴の音・玉の響」、「松風・砥浪」→「琴・鼓」→「五音・八徳」などは、自然物を介して、そこに「浄土の諸相」を表しているものと考えられる。例えば姚秦の亀茲三蔵鳩摩羅什(350-409頃)訳『阿弥陀経』に説く浄土の諸相を要約すると次の如くである。「七宝から成る行樹や羅網がめぐり、八功徳水をたたえた宝池が広がる。そこには七宝に荘厳された楼閣が建ち、昼夜の六時に曼陀羅華が降りそそぐ。そして種々の奇しい鳥が雅な声でさえずり、行樹や羅網の七宝の玉は風に揺れて妙なる音を奏でる。」勝道は、南湖畔に「浄土」を観じていたのではあるまいか。おそらく空海はそのように理解した筈である。
特に日光山は、入峰するのに極めて困難で、山と湖が織りなす情景に勝れた「山水相映」の地であった。勝道など日光山に登った仏教者は、その状況をつぶさに観察し、まさにこの山が「山径危険にして、巌谷敧傾す。山頂に池有りて、その水の澄めること鏡の如し」「華果樹林、皆な遍満し、泉流池沼、悉く具足せり」などとされる「観音浄土・補陀落」そのものと感得したのであろう。
また「霧・雲」→「張・幕」→「難陀」(難陀龍王)、「星・電」→「灯・炬」→「普香」(虚空蔵菩薩の応化・明星天子)などは、自然物を介して人知を越えた「諸尊」が立ち現れるかの如くである。なお「難陀龍王」は室生山などに見られる龍穴信仰を、また「明星天子」は空海も修した虚空蔵菩薩求聞持法を想起させる。あるいは勝道にも、こうした南都の山林修行者と同様、「龍穴」や「求聞持法」の信仰があったのかもしれない。また後世の『修行日記』や『草創日記』になると、それぞれ「龍穴・四本龍寺・深沙大王」「求聞持法・明星天子」など、「水」と「星」をめぐる具体的な物語へと展開し、勝道は弟子たちに「汝等、最もこの両神(深沙大王・明星天子)に帰依すべし」とさえ言わしめている。その萌芽はすでに、空海の『勝道碑文』に示され、あるいは勝道までさかのぼる可能性さえあり、中世における開山伝承や人格神の顕現説話を、後世の荒唐無稽な付会とだけ解する訳にはいかないのである。
さらに「池中の円月」→「普賢の鏡智」、「空裏の慧日」→「遍智の在我」などは、自然物の中に「仏道の教説」を表しているようである。先に挙げた『阿弥陀経』では、浄土の鳥はその雅な鳴き声によって、五根・五力・七菩提分・八聖道分などの法を演暢し、七宝は風に揺れて、その妙なる音を聞く者は自然に念仏・念法・念僧の心を生ずるとされる。それと同様の構図をここに見ることができよう。
もっとも、最後の教説などは、普賢菩薩の浄菩提心や大日如来の一切智智といった空海が主張する密教教理に引き寄せており、そのまま勝道の心象とすることは難しいだろう。ただ、これらの表現は、勝道が勝地とした南湖の畔が、単に風光明媚な景境であるというだけではなく、そうした情景から宗教的な観念を想起させるに相応しい場所、言うなれば「山中の浄土」であったことを強調しているものと思われる。
さらに付け加えるならば、その勝地は単に仏教的な表現のみによって記述されているのではない。例えば、「妙薬を甞めずして神窟を見ることを得たり」「霊仙知らず何にか去る。神人髣髴として存するが如し」などは、山頂や勝地の様子を、道教でいう神仙境に見立ているし、あるいは、「仁は山に依り、智は水に託く」「菜を喫い水を喫って楽しみ中に存り」などは、『論語』に説く聖人のあり方を引用して説明している。これらは中国に由来する「神仙思想」や「山水思想」からの影響を多分に受けたものであろう。当時の仏教者は、積極的に山中に修行の場を求めていったが、それに適する場所とは、単に風光明媚な景境というだけでなく、仏教的な浄土を想起させる場所、さらには中国思想に説かれる理想郷をも含んだ、広い意味での勝地であったと見るべきだろう。 
(2)神宮寺の機能
さて、勝道はこうした勝地に伽藍を建てて修行に励んだ。前回は短期間の登頂であったのに対し、二年後の今回の入峰は長期間に及んだ。山容を調査し、勝地に伽藍を建立し、数年間そこに止住して修行している。おそらくは支援者を得て、道俗を含めた人員、あるいは資財等、それなりの準備をした上での事業であったのだろう。その伽藍が「神宮寺」と名付けられたことは、奈良期に多く建立された各地の神宮寺との関連で、興味深い問題である。
「神宮寺」というと、神祇(地方社会)の苦悩を仏法によって救うための寺院、神祇に仕えるための寺院など、言わば利他的な意味合いで理解される場合が多い。ただ勝道の場合、それ加えて、深山の勝地にて修行するための寺院という自利的な意味合いも顕著である。先述したように、勝道は日光山に登頂し、仏法によって山の神祇を供養することで、神道に陥った神の罪を懺悔し、神道からの出離と、神威の増長を願っていた。それにより、衆生の幸福と入峰する修行者への加護を期待していたのである。こうした勝道の誓願から見ても、勝道は山中に「神宮寺」を建て、山の神祇を供養しつつ、神祇の加護のもとに修行に励んだと考えられるのではなかろうか。
これを踏まえると、勝道が建てた「神宮寺」には、少なくとも二面の機能が想定される。一つには神祇を供養し、神祇の得道と衆生の幸福を祈願するという利他的な側面、一つには神祇の加護のもと、自身の菩提を求めて修行するという自利的な側面である。大乗仏教にあっては、自利利他円満を旨としており、神宮寺の機能として、両側面はどちらも不可欠であり、互いに結びついているだろう。そこで行われた修行の内容については、具体的には未詳であるが、『勝道碑文』に「蘊羅・蔭葉」にて寒暑を避け、「菜・水」を食し、「花蔵・実相」を観念するとあることから、おそらくは草堂・弊衣・粗食にて、修禅・修学に励んだものと思われる。その意図は、神祇の得道のため、衆生の幸福のため、ひいては自身の菩提のための、自利利他円満をめざす仏道修行であったと言えるだろう。 
右記の推測は、ひとり勝道だけでなく、同時代の各地の神祇供養の事例にも当てはまるだろう。ここでは、伊勢大神のために大般若経の書写を行った沙弥道行(生没年未詳)と、『日本霊異記』に登場する大安寺沙門恵勝(生没年未詳)の事例を挙げたい。まず沙弥道行は、天平勝宝九年(757)、仏教に帰依して世俗を捨て、山岳に入って閑居していたところ雷電に打たれる。これを天罰と見て、神のために大般若経を写すことを誓うと、雷電が静まり正気を取り戻したという。知識を勧誘して書写された大般若経の奥書には、「仰ぎ願わくは、神社安隠、雷電無駭、朝廷無事、人民寧定の為に、敬って大般若経六百巻を写し奉らんと欲す。〈中略〉伏して願わくは、諸大神社、波若の威光を被り、早く大聖の品に登らん」とある。
また沙門恵勝は、宝亀年中(770-780)、近江国野州郡の御上嶽の神社(現・滋賀県野洲市三上山)の側の堂にて修行していた時、罪業によって猿の身を受けて御上神社の神となった陀我神より、「この身を脱れんが為に、この堂に居住して我が為に法華経を読め」との神託を得る。その言葉を山階寺の檀越・満預大法師に告げたが、猿の言葉として信受しなかった。すると満預大法師の知識が六巻抄を読む斎設に猿が現れ、大堂や仏像・僧坊がことごとく破壊された。満預と恵勝は神託を信じ、陀我神のために堂を造って六巻抄を読むと、神願は成就され、障難は無くなったという。
彼らはいずれも、神域にて修行をしていた際、雷や猿の障難に遇う。これを神の怒りと受けとめ、写経・造堂・読経など仏法による神祇への供養を行っているのだ。その意図は、「神身を脱れ」「大聖の品(仏位)に登る」こと、すなわち神祇の離業得道にあり、ひいては「朝廷無事」「人民寧定」など、朝廷や衆生の幸福が期されていた。これにより、神の怒りは鎮まり、神域での修行が引き続き可能となっている。言うなれば、神域での仏道修行に神の承認を得た訳である。右記の二例は、写経・造堂・読経であって、神宮寺の建立と言う訳ではないが、仏法による神祇への供養により、神祇の得道・衆生の幸福が期され、ひいては仏教者の修行が保障されており、構図としては共通したものであろう。
他にも当時は各地にて、神宮寺建立・神前読経・為神得度など、様々な方法で、仏法による神祇への供養が行われていた。その一々の検討は他日を期したいが、勝道の建てた神宮寺に見られる機能は、その際に少なからず示唆を与えるものと思われる。 
Wその後の利他弘道期 

 

(1)仏教の指導者・布教者・験者としての勝道
勝道は、日光山南湖畔の神宮寺にて、少なくとも四年以上(あるいは十一年以上)修行した後、山を降りて利他弘道に励んだとされる。『勝道碑文』には、九皐鶴聲、易達于天。去延暦年中、柏原皇帝聞之、便任上野國講師。利他有時、虚心逐物。又建立花嚴精舎、於都賀郡城山。就此往彼、利物弘道。去大同二年、國有陽九。州司令法師祈雨、師則上補陀洛山祈禱。應時甘雨霶霈、百穀豊登。所有佛業、不能縷説。とあり、上野国講師に任命されたこと、都賀郡城山に精舎を建立して利他・弘道したこと、旱魃に際して国司の要請により日光山にて雨を祈ったことが伝えられている。
「講師」とは、はじめは国師と呼ばれ、経論の講説、寺内の庶務、諸寺の監督などにあたった僧である 。文武期(697-707)以降、国毎に国師が置かれたが、延暦二年(783)には定員が改正され、大・上国は大国師一人と小国師一人、中・小国は国師一人となり、同三年(784)には年限を六年と定めた。さらに同十四年(795)には呼称を講師と改め、講説の才ある者を起用し、毎国一人の終身の任となった。同十六年(797)には講師が寺内の庶務も兼ね、同二十年(804)には、「智行称す可く、人の師為るに堪えたる者」が選ばれ、修行者への教導がより重視された。さらに同二十四年(805)には再び任期を六年とし、四十五歳以上の「心行已に定まった」者を補して、部内の諸寺も国司と共に検校することとなった。光仁期以降、特に桓武期には、仏法や僧尼の呪術性への期待と畏怖を背景として、僧尼の才徳を高めつつ、寺家の勢力を押さえる施策がとられた。この時期に年分度者や講師の制度が試行錯誤して整えられてゆくのも、その一環である。山林修行に励んだ勝道の名声は朝廷まで達し、上野国講師に補命されたという。それが正しいとすれば、勝道は山林修行のみならず、経論の講説にも勝れた「智行」合一の僧であったことが推測される。そしてその任命の時期は、延暦十四年(795)以降、止住したのは上野国分寺ということになる。なお、上野国分寺の北東に聳える赤城山は、勝道が開山したとの伝承が残る。赤城山は上野国の象徴とも言うべき山で、この山麓を中心に政治や文化が展開し、巨大な古墳や官衙、寺院が造立された。山麓周辺には勝道ゆかりの寺院等も点在しており、勝道には上野国との関係もあった可能性を示唆している。
また、都賀郡城山に華厳精舎を建立し、これを拠点に利他・弘道に務めたとされる。その具体的な活動は定かではないが、かつて都賀郡であった栃木県西部足尾山地の東麓には、勝道開基とされる寺院が点在している。中でも都賀郡都賀町木の町史跡「華厳寺」は、『勝道碑文』の伝える「華厳精舎」に比定される。確証は得られないが、勝道は日光山での修行を終えたのち、足尾山地東麓の鹿沼市、西方町、都賀町など、旧都賀郡を中心に、檀越の支援を得て諸処にて活動したものと予測される。さらに、大同二年(807)には下野国に旱魃があり、勝道は国司の要請によって日光山にて祈祷し、効験があったとされる。これにより、勝道も何らかの方法で雨を祈ったことが推測される。『勝道碑文』には「霧の帳、雲の幕、時時難陀が羃歴するなり」という一節があるが 、難陀とは水神である難陀龍王を意味する。同時代に南都僧は大和国の室生山中にて、雨を祈っており、東国にあった勝道もまた同様に、日光山にて雨を祈った可能性は十分にある。また日光山の山頂遺跡からは、白銅製忿怒型三鈷杵など奈良期の密教法具と見られる仏具が出土しており、何かしらの密教系の修法が行われたことも推測されうる。なお、ここで勝道は「法師」と表現されていることから、遅くともこの時までには「法師位」に昇っていたと考えられる。
さて、これら日光山を下った後の、仏教の指導者、布教者、そして験者としての諸活動について、下出氏などは「官僧社会の密教僧的な行者像として、より濃厚に修飾されて描かれている」として、全く取り扱おうとしない。ただしそれは、当時の仏教について、中央・律令・官僧・大寺院・学問というあり方と、地方・反律令・私度僧・山林寺院・呪術というあり方が、二項対立的な流れとして交わることなく、並行して展開していたという既成概念を前提とするからである。勝道は無条件に後者と見なされ、前者に関わる事績は後世の付会と理解されたのである。
しかし、当時の仏教については、実際には先の二項対立的な見方で把握できない事例も多く、すでに疑問視されて久しい。僧侶の山林修行に関すれば、興福寺賢m(705-793)や修円(771-835)らによる室生山寺建立と修行や修法、元興寺護命(750-834)や大安寺勤操(754-827)による比蘇山での求聞持法修法などは良く知られる。あるいは宝亀三年(772)の十禅師設置、桓武天皇による報恩(718頃-795)への援助、嵯峨天皇による玄賓(738頃-818 )や聴福(生没年未詳)への殊遇などは、山林修行者の名声が朝廷に達し、賞賛・支援を得た例である。
このように、当時の僧侶には、積極的に山林に踏み入り、道場を建てて修行や修法を行う者もいた。特に持戒堅固にして勝れた山林修行者には、その自利的な「出世間性」と利他的な「呪術性」に敬意と期待が寄せられ、為政者から殊遇を蒙り、人々より「菩薩」と称されたのである。
勝道の場合も、そもそも下野薬師寺にて受戒した僧であった可能性は高く、さらなる修行の場を日光山に求めて、神宮寺を建てたと考えられる。「九皐の鶴声、天に達し易し」とあるように、その徳行が認められて、朝廷より講師に任命され、あるいは檀越を得て寺院を建立し、さらには要請を受けて祈祷を行ったとしても、何ら不合理なところはない。長年にわたる山林修行が実を結び、朝廷や有力者による一層の賞賛・支援を背景として、講師・寺院建立・布教・修法といった利他の活動が展開された可能性は十分に考えられる。勝道を単純に反律令的な私度僧と見なすことは妥当ではないだろう。日光山山頂遺跡より出土した遺物は、勝道が有力な支持者を得た仏教者であったことを示唆している。
また延暦十一年(792)、伝灯大法師位施暁(?-804)が朝廷に山林修行者への支援を願い出た奏上には、山林修行とは単なる自利行ではなく、護国利人という利他行を見据えたものであるとの見解が示されていた。空海の「斗薮して道に殉い、兀然として独座せば、水菜能く命を支え、薜蘿これ吾が衣なり。修するところの功徳、以て国徳に酬う」との認識も同様である。勝道自身の心象は定かではないにしても、「利他に時有り」とされるように、日光山での修行は、結果として利他行に通ずるものであった。世俗を厭い山林に踏み入った勝道は、長年の山林修行の功徳を得て、再び世俗へと立ち返ったと解釈することもできよう。 
(2)勝道の示寂
なお最晩年の勝道について、『勝道碑文』は、咨、日車難駐、人間易變。從心忽至、四蛇虚羸。攝誘是務、能事畢矣。前下野伊博士公、與法師善。秩滿入京。于時法師、歎勝境之無記、要属文於余筆。伊公与余故、固辞不免。課虚抽毫。と伝える。ここに勝道の交友関係の一端が見受けられる。つまり前の下野国の博士であった伊公との交流である。宝亀十年(779)の改定により、諸国の博士は、基本的に国毎に一人置かれ、任期は六年とされた。伊博士については未詳であるが、博士として下野国に下向していた時、勝道との親しい交流があったことが知られる。勝道は日光山の勝景を記した文章が無いことを歎いていた。伊博士を通じ、空海が詩文に勝れていることを知ったのであろうか。任期満了して帰京する伊博士を介して、空海にその執筆を依頼している。伊博士と空海も、旧知の間柄であったという。空海はそれを固辞するも免れず、『勝道碑文』を作製した。地方の僧侶、諸国に赴任する官人、そして中央の僧侶との、人的交流の一端を垣間見ることができる。
月日は巡り、勝道も遂に「従心」つまり七十歳に至り、「四蛇」つまり四大からなる身体も虚しく衰えた。衆生を摂取誘引する私利行を務め、なすべき事はすべて果たし終わったとされる。空海がこれを記したのは「弘仁之敦祥之歳」、つまり弘仁五年(814)であった。「能事畢んぬ」とあるから、おそらくこれより少し前に、勝道はその生涯を閉じたものと思われる。仮に示寂を弘仁五年(814)七十歳とすれば、その生年は遅くとも天平十七年(745)となり、示寂がそれより早く、七十歳を越えていたとすれば、生年は十年ほどさかのぼることもありうる。なお『修行日記』は、勝道の示寂を弘仁八年(817)八十三歳と伝え、これに従えば生年は天平七年(735 )となる。
勝道の生没年を断定することはできないまでも、およそ天平七(735)から十七年(745)の生れで、弘仁五年(814)頃に、七・八十歳の長寿を全うしたと見て良いだろう。これより逆算すると、初めて日光山への登頂を試みたのが二・三十代の頃、登頂に成功したのが三十代後半から四十代後半、山林修行の機が熟して講師に任命されたのが五・六十歳の頃、日光山で雨を祈ったのは六・七十歳の頃となる。 
四 おわりに 

 

下野国芳賀郡に生まれた勝道は、若くして世俗を厭離し仏道を志求した。おそらくは同国出流山などの山林に身を寄せ、優婆塞として修行に励んだものと推察される。やがて新設された下野薬師寺の戒壇にて受戒し、沙弥・比丘となった可能性は高い。当時の東国には鑑真の門流である道忠の天台教団があり、さらには朝鮮半島からの帰化人を通じて華厳が将されたとの見解もあり、勝道が「天台」「華厳」などの一仏乗に触れていた可能性も考えられる。
下野国に聳える日光山の山頂からは、大量の遺物が出土している。特に奈良から平安初期には「山頂の西側の岩の窪地」に纏まった遺構が形成される。これは『華厳経』に説く観音菩薩の住処、『勝道碑文』に記す勝道の修行地と合致する場所であり、勝道の実在性、『勝道碑文』の正確性を裏付ける物証と見ることもできる。また古墳期に比定される遺物も僅かに出土しており、勝道以前に若干の先駆者がいた可能性も考えられる。ただし勝道の登頂は困難を極めることから、本格的な開山は奈良期以降の勝道を中心とした仏教者に依るものと見て良いだろう。また山頂遺跡が量質ともに勝れていることから、勝道の日光山登頂の背景として、蝦夷問題による国家の支援を想定する見解もある。ただし根拠に乏しく、その可能性のみを強調するのは、適当ではないと思われる。
ところで、日光山の呼称について、奈良期の仏教者によって初めて「補陀洛山」と称されたとする説と、古来より「二荒山」と呼ばれる信仰の山であったとする説がある。これも両説とも決定的な根拠は乏しく、どちらも可能性があるとの認識に留めておきたい。いずれにせよ、日光山が「補陀洛」と称されたことは意義深い。「補陀落」とは、梵語Potalaka の音写で、観音菩薩が住むとされる山である。『大唐西域記』には、観自在菩薩に見まみえることを願う者は、身命を顧みず踏み入るも、ここに到達できる者は極めて少ないと伝える。勝道の日光山登頂の意図として、深山での修行に加え、山上の観音菩薩への謁見との念願があったのかもしれない。
しかしその登頂は、困難を極めた。空海は、危険を冒して日光山に攀じ登った勝道を、西域の険しい山々を越えた求法僧に重ね合わせている。勝道の前途には、深雪や岩壁、雲霧や雷鳴といった自然的障難が立ちはだかった。おそらく勝道はそれらを、日光山の神祇の仕業と見たのではあるまいか。それは古くは道教にも見られる、山の神霊に対する畏怖の念に依るものと思われる。菩提を求めて山に踏み入る修行者は、その山に住み宿る神霊のことを気に掛けていた筈である。
そのことは、勝道が三度目の試行に際し、日光山の諸々の神祇に向けて発した誓願にも窺える。それは日光山への入峰が、決して無意味な行為ではなく、神祇を供養するためのものであるとの表明であった。つまり三宝の功徳によって、神道に陥っている神の罪を懺悔し、神道からの出離と、神威の増長を願い、広くは衆生の幸福を、特には山林修行者への加護を期待したものであった。
言うなれば神祇の加護を得て、勝道は遂に山頂に到る。山と湖の織りなす絶景にしばし心を奪われるも、山頂にて「三七日の礼懺」のみを行じて故居に帰った。その礼懺を敢えて推測するならば、奈良期に行われていた悔過会、天台にて修される懺法、雑密経典に説かれる陀羅尼法・壇法などが、候補として挙げられるだろう。
その二年後、勝道は再び日光山へと登った。前回は短期間の登頂であったが、今回の入峰では、山容の調査、伽藍の建立がなされ、山居しての修行は、少なくとも四年、あるいは十一年以上という長期間に及んだ。おそらくは支援者を得て、道俗を含めた人員、あるいは資財等、それなりの準備をした上での事業であったのだろう。勝道が修行のために選んだ勝地とは、単に風光明媚な景境というだけでなく、仏教的な浄土を想起させる場所、さらには中国思想に説かれる理想郷をも含んだ、広い意味での勝地であったと見るべきだろう。「山水相映」するその勝地を、勝道はまさに観音浄土・補陀落と感得したのではなかろうか。
勝道は、言わば山中浄土に伽藍を建て、これを「神宮寺」と名付けた。その機能として考えられるのは、一つには神祇を供養し、神祇の得道と衆生の幸福を祈願するという利他的な側面、一つには神祇の加護のもとに、自身の菩提を求めて修行するという自利的な側面である。そこで行われた修行の内容は未詳であるが、意図としては、神祇の得道のため、衆生の幸福のため、ひいては自身の菩提のための、自利利他円満をめざす仏道修行であったものと推測される。
山林修行の機が熟し、勝道は山を下りた。朝廷や有力者による賞賛・支援を背景として、下野・上野国にて、講師・寺院建立・布教・修法といった利他の活動が展開された可能性は高い。特に講師に任命されていることから、勝道は山林修行のみならず、経論の講説にも勝れた智行合一の僧であったことが推測される。仏教の指導者、布教者、そして験者としての活動は、言うなれば山林修行の功徳を得ての利他行であったと解釈できるだろう。

以上、『勝道碑文』をもとに、当時の時代状況と照らし合わせながら、勝道の生涯を概観してきた。その要点は、次の四点に纏めることができよう。
@世間(俗事)を厭離して、山林(仏道)を志求する。【出世間】
A山林に入るにあたり、山林の神祇を供養する。【神祇供養】
  →神祇の離業得道・威光倍増、衆生の幸福、修行者への加護を願う。
B山林の神祇の加護を得て、勝地に神宮寺を建てて修行に励む。【神宮寺・山林修行】
C修行の功徳を得て、再び世俗に立ち返り、利他行に励む。【利他行】
これを端的に言えば、世俗を離れて山林へ、そして山林より再び世俗へという生涯である。日光山山頂をめざした前半生は、主に自利的な修行の時期であり、機が熟して下山し仏教の指導者・布教者・験者として活躍した後半生は、主に利他行の時期であった。日光山への入峰修行は、まさにその生涯の転機に位置づけられている。
またその山林修行にも、自利利他の意味合いが込められていた。それは世俗から離れて山中の浄土に到り、自身の菩提を求めるという自利の側面と、山林の神祇を供養して衆生の幸福を願い、再び世俗に立ち返るという利他の側面である。勝道の山林修行は、自利利他円満をめざした宗教的行為であったと理解されうる。その人物像は、まさに「上求菩提」「下化衆生」を実践した求道者・菩薩僧と呼ぶに相応しいものと言えよう。

ところで、右記のような勝道の生涯・山林修行の目的意識・人物像は、文字通り劇的である。そもそも空海の『勝道碑文』は、伊博士の伝聞により、日光山と勝道を慶讃する意図で記されたものであった。本論攷にて確認したように、その内容は当時の時代状況からして、大筋として承認できるとしても、『勝道碑文』に描写された勝道と、その実像とには、ある程度の較差があるものと思われる。つまり厳密に言えば、私たちが知り得る勝道とは、空海を通しての勝道でしかあり得ない。
しかし逆に、空海がイメージした〈沙門勝道〉という人物像は、明確にあるとも言えよう。その事績・人物像は「所有の仏業」「精素の雅致」と称賛されるばかりか、空海と「志を同じくして」「意が通じ」、あたかも旧友の如く親しみを込めて「傾蓋の遇なり」とさえ言われている。つまり、先に挙げた劇的な〈沙門勝道〉の生涯・目的意識・人物像は、まさに〈沙門空海〉の抱いた理想的な沙門(出家者・僧侶)のあり方と、軌を一にすると言えるのではなかろうか。それは当時の沙門たちの時代意識、あるいは古代社会における仏教の意味を考察する際、一つの示唆を与えるものであろう。
なお本論攷では、勝道の事績を通じて、いくつかの問題点を考察した。特に、沙弥・比丘としての勝道、勝道の宗風、山頂での三七日の礼懺、修行の勝地としての山中浄土、神宮寺の機能などは、当時の仏教者による山林修行・神祇信仰に関わる重要な問題であった。勝道以外の事例と合わせて、いずれ改めて考察してみたい。 
 
二荒山

 

二荒山神社の祭神は現在、大己貴命・田心姫・味耜高彦根となっている。これは、平安末期からも鎌倉初期に成立したであろうと云われる「下野国二荒山鉢石星宮御鎮座伝記」によるものらしい。しかしそれは「補陀洛山修行日記」に登場している神らしき存在を筋の通った神に置き換えただけのようである。
「補陀洛山修行日記」に登場する神のその一つは「其姿如夜叉、著青黒衣、左手接腰右手捲二龍蛇」という青黒い衣を来た蛇神のようであった。また別に、白蛇が登場し、そして「一人天女、其姿花麗、其齢三十余」と「一人束帯把笏整衣冠、威儀儼密、其歳五十有余、黒白半髪也」が登場している。それは実際四柱の神でもあるのだが、そのうち白蛇は「立神祠祭白蛇之神、是号中禅寺」と、単に中禅寺に祀ったとされる。つまり最初に登場した蛇体の神が味耜高彦根となって、天女らしきが田心姫、威厳のある神が大己貴命とされたのだろう。
「日光山滝尾建立草創日記」は、鎌倉時代に成立した国指定の重要文化財であるが、それに記されている内容に注目したい。「滝尾籠衆山伏自別所盗出之、出羽国竜赤寺下着及三十余年」途中は略したがつまり、この写本は滝尾別所に伝来したが盗難に遭い、出羽国竜赤寺に持ち去られたが、再び滝尾社に返還されたという内容だ。竜赤寺とは、現在の山形県の立石寺となる。この立石寺は慈覚大師円仁が開祖となっているが、何故に当初は竜赤寺(りうしゃくじ)と号したのかわかっていない。ただ、赤い竜で想起されるのは、「補陀洛山修行日記」の当初に登場した蛇神である。記されている「左手接腰右手捲二龍蛇」という姿を読んで思い出すのが青面金剛である。青面金剛の姿は「日本石仏辞典」によれば「腰に二大赤蛇を纏う。両脚腕上に亦大赤蛇を纏い」とあり、まさに「補陀洛山修行日記」に登場した蛇神に近似している。二荒山に登場した蛇神の姿を学者は一笑に付すが、青面金剛として考えるならば筋が通るのだと思う。当然、山形県の立石寺の当初の竜赤寺とは、青面金剛を意味して号された寺名ではなかろうか。
「青面金剛」は、中世に確立されたようだ。古代においての青は黒と同じであったが、この中世の頃には「青」というものは「水」を意味する色として認識された為、恐らく「青面金剛」の「青面」は水を意味するのだろう。「金剛」は、北斗七星を意味する事から、水と北斗七星を結びつける存在が、この「青面金剛」の本来の意味だろうと考えるのだ。そして当然、それは水神でもある妙見信仰に繋がる。
また、やはり二荒山に伝わる「草創日記」に二荒山を指して「此嶽有女体霊神」とある事と、先の「「補陀洛山修行日記」」においても「我は妙見尊星、大師の請いにより現れた。この峰は女体の神の居られる所だから、その神をお祀り申せ。我の棲家は中禅寺である。」事からも、二荒山の神とは女神であり、妙見神である事がわかる。恐らく「下野国二荒山鉢石星宮御鎮座伝記」では、日光連山の男体山と女峰山を分けて髪を分祀したのも、熊野修験の修法を二荒山に取り入れ日光修験を成立させた辨覺の時代に起因するものと思われる。熊野の三所権現を三光と結び付け、それを日光連山に重ねたものであろう。よって、大己貴命・田心姫・味耜高彦根は後世の祭神であり、本来祀っていた神とは鉄の蛇であるアラハバキ神に他ならないだろう。
二荒山である現在の男体山に祀られる神とは、滝尾神社の神であるのがわかった。その滝尾神社の参道には、無数の男根を象った物が祀られていたという。こういう生殖に関する信仰を持つ神とは山神であり、その男根を象ったモノ、別にコンセイサマ信仰と呼ばれるものは縄文時代まで続くものである。
二荒山の前山とされたいる太平山の三光信仰では、太平山大権現(星)・熊野大権現(日)・日光大権現(月)となっているが、香香背男をも祀る太平山が星なのは理解できる。また、八咫烏の熊野もまた太陽であるのも理解できる。ところが日光大権現が何故月なのかは説明できない。陰陽五行での陰とは女であり月であり、水を意味するからだ。古代の祭祀の基本は、彦神と姫神という陰陽の和合で成り立っている。だが、各風土記における山において、彦神と姫神が水争いで袂を分けているのは、そのまま七夕信仰に結び付けられ、天の川が彦神と姫神を分け隔てたとする古代中国からの伝承がすんなり受け入れられたとも、そういう日本の伝承を考慮に入れたものと思われる。
上つ毛野 安蘇のま麻むら かき抱き 寝れど飽かぬを あどか我がせむ
上記は「万葉集3404」の歌であるが、安蘇は栃木県の安蘇郡をいうのだが、古代では現在の群馬県を含む地であったようだ。その安蘇郡は、麻の名産地で養蚕が盛んであったらしい。養蚕は現在でも群馬県に盛んだが、有名なのは桐生市だ。桐生市には有名な白滝姫の伝説がある。古代においても関東一円に養蚕文化は、かなりの広がりを見せた。その中に倭文氏の進出があったのだろう。それ故に、静神社や大甕倭文神社も、その倭文氏の影響がある。
その倭文神社だが、遠野にも倭文神社があり、祭神は画像の通り、天照大神と下照姫に瀬織津比唐ニなっている。恐らくこれは三光信仰を意味する祭神であり、太陽は天照大神であり、下照姫は「シナテル」と「シタテル」が同義であり「シナテル」は月が仄かに光る意となるので月。そして恐らく瀬織津比唐ヘ、大甕倭文神社や静神社を見ても香香背男そのものが星神であり、それは蛇神である事から、星神としての瀬織津比唐ニいう事だろう。つまり、香香背男=瀬織津比唐ナある事を意味しての祭神であると思われる。
瀬織津比唐ヘ、土渕の琴畑に白滝と呼ばれる滝があり、そこに祀られた神が瀬織津比唐ナあった。それが明治時代となり、土淵五日市の倭文神社に合祀されたのだが、白滝姫と倭文神の関係を考えてみたい。倭文氏は初めて日本に七夕に関する伝承を組み入れた氏族であり、それが以前に紹介した夷振歌に繋がるのだと思えるからだ。 
 
日光修験と偽書の成立

 

観光地として内外に知られる日光は、古代からの信仰の山である男体山の山岳信仰を基盤に発展してきたもので、長い信仰の歴史をもち、一山は盛衰を重ねて今日に至った。男体山は仏教渡来以前から信仰の山であり、奈良時代には補陀洛観音浄土に擬せられて補陀洛山と呼ばれていた。「延喜式」「神祇十・神名下」には二荒山、「廻国雑記」には黒髪山とある。標高2、484.4雨の成層火山で、日光山地の主峰である。古代には下野一国を表象する山であり、この山を神体山として記るこ荒山神社は下野国唯一の式内大社として幾たびの進階叙勲を受けた。男体山は東国有数の霊山として厚く信仰され、関東鎮護の山として鎌倉幕府・江戸幕府から尊崇を受けた。日光の地に徳川家康の霊廟である東照宮が造営されたのも、死後なお東辺を守ろうとした家康の遺言によるものとされる。日光の歴史は男体山に始るといっても決して過言ではない。
日光山の縁起については後世に作られた「日光山並当社縁起」があるが、これは各山各社の縁起文と同じくこのままでは歴史の史料にならない物語りで、別途の研究が必要である。これとは別に多くは縁起と題されていないが、縁起文とみなしてよい幾つかの胃醍がある。大部分が平安時代前期の年記をもち、撰述者の名も明らかである。列挙すると「遍照発揮性霊集」の「沙門勝道歴山水筆玄しゆ珠碑」、「補陀洛山建立修行日記」、「日光Ill慧亀建立草創日記」、「円仁和尚入当山記」、「二荒山千部会縁起」、「満願寺三月会日記」、「中禅寺私記」、「三月会縁起」の8編である。以上のうち「中禅寺私記」は平安時代後期の作、「三月会縁起」は年記がない。8編のなかで真撰は「沙門勝道歴山水筆玄珠碑」と「中禅寺私記」の2編のみで、他の6編は偽撰とされ、偽書の成立は鎌倉時代以後と考えられている。
古代からの山岳信仰の霊山には奈良時代の山林仏徒の系統を引く修行者が住し、彼らはのちに修験道に組織された。修験道は我が国古来の山岳信仰と仏教・道教その他大陸渡来の信仰や思想とが習合した山岳宗教であって、仏教に依拠した形態を備えに日本独自の宗教とされている。各地には霊山が多く、これらは地方修験として次第に組織されてゆく。日光の場合も例外でなく、日光修験は男体山信仰を基盤にして鎌倉時代に教団の組織が完成したものである。
修験は山中修行によって体得された験により民衆を救済する現世利益に本旨があり、教団が成立してからは、山中の修行は集団で実施される1ようになった。これ猟懲.篠洋態Xりなどといい、地方によって異なるが原則的には春夏秋冬の四季の入峰があった。過酷な峰中修行を体得したものでなければ修験者の資格はあたえられず、この為にも、また対外的にも修行の由来を説く必要があった。後世の作であるが「衆鎧識「雛茜秘密伝」「修験秘記略解」耀存著永記」等々修験道の教義書・史伝書には、祖とされる役小角の事蹟が誇張修飾して書かれている。日光修験もまた峰行の祖を男体山開山の勝道に擬し、既述の縁起文のうち「補陀洛山建立修行日記」に依拠して入峰の大法が作られた。
先述の通りこの日記は勝道の同時代史料ではなく、鎌倉時代に書かれた偽書であり、古代史の史料としては価値がない。偽撰であることの論証については先学の業績があり、改めて触れる必要はない。偽書は偽書として、本稿では日光一山で偽撰がなぜ必要であったのか、日記偽撰の時期はおおよそいつごろか、またこれから派生する四季の峰行の成立順序はどうなるか、といった偽書の成立にかかわるいくつかの問題を、真撰の史料との比較と山岳信仰に関係する遺跡・遺物の検討を通じて考察してみようと思う。 
男体山の古代にかかわる文献
観音浄土の聖地と考えられ補陀洛山とよばれた男体山は、垂迩思想によって山神である二荒山神の本地が十一面観音、垂迩は大巳貴命とされた。神社は名神祭に列する大社で「日本三代実録」貞観11年(869)2月28日の条に、正二位勲四等の神階が記されている。勲位は下野国の民の蝦夷征討における苦闘・勲功に対して、一国の神として叙勲されたものと考えられている。男体山開山の沙門勝道が開基したと伝える寺は名称が変転し、時代によって本坊の移動をみたが、日光山輪王寺として今日まで法灯を伝えている。勝道は華厳宗の僧という見解があるが、正確なことは分らない。
南都六宗のいずれかに属していたものであろうが、彼の死後そう間をおかず天台宗に変り、今日まで天台宗の寺院であり続けてきた。
こうした一山の歴史は、下野国芳賀郡の人沙門勝道の男体山開山によって幕が開かれる。真撰偽撰の問題は措いて、まず前記した8編の内容をごくかい摘んで紹介しておきたい。
1.「沙門勝道歴山水筆玄珠碑井序」(以下「二荒山碑」・「山碑」と略す)
山林修行者であった勝道が苦闘の末、天応2年(782)に男体山の登頂に成功し、中腹にある中禅寺湖のほとりに神宮寺を建立して山中の道場とした。功により彼は上野国講師に補任され、弘仁5年(814)頃没した。生前下野国学の師伊博士を通じて空海に開山の碑文の撰文を依頼しており、空海がこれを受諾して碑文を撰述した。四六餅個体のすこぶる難解な詩文で、修辞が多いため未消化のまま後世に誤用された個所がかなりある。弘仁5年8月30日空海撰。
2「補陀洛山建立修行日記」(以下「補陀洛山日記」・「日記」と略す)
勝道の弟子という仁朝ら4人が、師の伝記をまとめたという形のもので、勝道の一周忌の弘仁9年(818)に完成させたと奥書にある。鎌倉時代に下る偽撰で、仁朝以下4名の弟子の名は「二荒山碑」になく、勝道の没年も違っている。本稿に取り上げるのはこの書で、「二荒山碑」と対比を行う。弘仁9年2月仁朝・道珍・教受・道欽撰。
3.「日光山滝尾建立草創日記」(以下「滝尾日記」と略す)
勝道から碑文撰述の依頼を受けた空海が、弘仁11年(820)に日光へ来山して勝道の事蹟を訪ね、諸方に社殿・堂を建立する話しで、滝尾では妙見の顕現にあい、妙見を記る。「補陀洛山日記」の続編で空海下向の史料とされるが、鎌倉時代以後の偽撰である。天長2年(825)4月3日道珍撰。
4.「二荒山千部会縁起」(以下「千部会縁起」と略す)
日光山の千部会が勝道の弟子昌禅・尊鎮・尊蓮・仁朝らによって始められたことを述べるが、昌禅などの座主言下が不明で、偽撰とされている。時代は後世に下る。天長5年(828)4月。
5.「円仁和尚入当山記」(以下「円仁入山記」と略す)
のちに比叡山の第3代座主となった円仁が日光へ来山して、山内や中禅寺湖畔に仏堂を建立し、諸仏を記ったとする記録である。この書の重点はここにあるのではなく、円仁が勝道・空海の門流を集めて天台の門流に帰せしめたという部分にある。勝道とその弟子達は南都の法流に属していたものと思われるが、平安時代後期には確実に天台宗となっている。勝道は旧派仏教の人、「二荒山碑」撰文の空海は真言宗の開祖であるため、天台宗への帰属を紫説する必要から、下野国出身の円仁に仮託したものと思われる。話しの順序からは「千部会縁起」に後行するが、鎌倉時代以後の偽撰とされている。斉衡2年(855)正月尊鎮撰。
6.「満願寺三月会日記」(以下「三月会日記」と略す)
勝道が建立したと「補陀洛山日記」にある四本竜寺で執行される三月会法会の縁起を述べたもので、文中に「薬子の変」の覆滅祈願に卓効のあった日光権現が正一位勲一等の極位に叙されたこと、日光の勝景を小野箪が撰述したことなど、架空の事蹟が述べてある。後世の偽撰である。天安元年(857)閏6月尊蓮撰。
7.「中禅寺私記」(以下「私記」と略す)
式部大輔藤原敦光の撰文になる日光山の縁起文で、一山の依頼により撰述したものと考えられている。敦光には加賀国白山の衆徒が依頼した開山泰澄の伝「白山上人縁起」があり、両縁起とも両山から送られた資料によって撰丸された。原資料による粉飾はまぬかれがたく、文中には事実と考えられないふしもあるが、この縁起文は「二荒山碑」とともに日光の古代を知る根本史料である。保延7年(1141)7月3日藤原敦光撰。
8.「三月会縁起」
この縁起文は勝道が男体山の初登頂を試みて失敗した神護景雲元年(767)を起点とし、369年余のあと撰文したことになっている。即ち平安時代末の成立ということになるが、確証はない。後世の作品であるかもしれない。勝道の登頂を三月会の淵源とするのであろうが、「三月会日記」では法会の起点を弘仁12年(821)としており、食い違いをみせている。年記・撰者なし。
本稿が取り上げる偽撰の「補陀洛山日記」は、同じく偽撰の「滝尾日記」・「円仁入山記」の2編に継続し関連してゆく縁起文で、ひとつのセットとみればよいであろう。偽撰三部作とよべるかもしれない。「補陀洛山日記」には事実とはとうてい考えられない滑稽な記事が多く、明白な誤りがあって、無学な者の悪筆という酷評もあるが、こうしたことは後世の縁起文に見られる通有の事柄で、それ自体はさまで気にすることではない。
一般に偽書・偽文書というとそれだけで史料価値は無く、歴史の叙述から除外すべき性質のものとされる。しかし考えようによっては、偽書・偽文書を必要とする世界がそこにあり、真撰でないにもかかわらず長い生命を持ち続けていることもまた看過できない。偽撰であろうと無かろうと、これはひとつの歴史事実であり、歴史研究の対象に違いない。 
日光山地の地形
修験は山中修行が根本であり、山中修行を欠く修験はありえない。日光修験が道場とした日光山地はどのような地形であり、山地のどの部分で修行が行われたか、まず山地の様子を大観しておきたい。
日光山地の地形を述べるには種々の仕方があるが、本稿のように山岳信仰史を主眼とする場合には、地誌に従うよりも山地の中心にある中禅寺湖をまん中にして山列の配置を述べるのが適当であり、理解しやすいと思う。
図は中禅寺湖を中心とした山列を示している。日光山地ど総称する山々で、中央にある中禅寺湖は面積が11.49平方鋸、湖面の標高は約1、200だいやがわ向、洪積世末の男体山噴火で大谷川が堰止められて生れた堰止め湖である。東西に細長い不整形で、東岸を除く3方は山が湖岸にせまり、砂浜の部分も狭隙で開発は進んでいない。中宮同・中禅寺が造立され、諸堂が集中したのは湖の東部で、「中禅寺私記」にみる盛況は中宮地域のかっての繁栄を物語っている。
湖の北側に男体山を中心にして東西に並ぶ弧状の山列がある。これが表尾根と通称される日光火山群で、洪積世に噴出し、男体山と赤薙・女峰山が成層火山、他の山々は火口が不明の溶岩円頂丘である。山列の東端は標高2、010.3海の赤薙山、西端は2、577.6海の白根山で、白根山が火山群中の最高峰となっている。山体が最も大きく、火山らしい整美な姿をみせるのが標高2、484.4海の男体山で、山列から南へ突出し、平野部から偉容を望見することができる。同一火山体の赤薙山と女峰山は別として、その他の山々は独立した孤峰の感が強く、2、000鰯を越える難峰が揃っている。中禅寺湖南岸に並ぶ山列は山体の形成が北側の山よりも古く、2、000海を越える山は錫ケ岳だけで、東に向って標高が次第に下る。山列の東端は鳴虫山、西端は白根山の南々西に位置する錫ケ岳で、列の東半分一茶の木平から鳴虫山の間は、日光山地より古い時代に形成された足尾山地の山々である。孤峰とよべるのは錫ケ岳と隣りの宿堂坊山ぐらいで、その他は突出した山でなく尾根通りの高まりに過ぎない。古社の二荒山神社が神体山として記る山は男体山のほか、赤薙山・女峰山。
小真名子山・大真名子山・太郎山・金精山・前白根山・白根山の8峰で、これはみな北側の山列に属し、南側の山列には神体山がない。また三山信仰によって紀られた山は男体山・太郎山・女峰山の3山で、これも北側の山列の山である。
日光山地の主峰は男体山である。山体の規模が他山を圧して大きく、表尾根の前面に位置して低い足尾山地を前山にするため、平野からの眺望に恵まれている。平野の方向からみる山形は、古来からの信仰の山に多い神奈備型を呈し、低い山ではあるが同形の筑波山とともに、関東平野の東西に位置する霊山として、古代から民衆の信仰を集めていた。
 
円仁と下野国の仏教事情

 

「慈覚大師円仁」開基と伝わる寺院が多い東北地方に生まれた私としては、仏教について考えるとき、どうしてもこの偉人を意識せざるを得ません。円仁は、あきらかに最澄や空海よりも身近に感じる高僧で、それが蝦夷の国にとって有り難い存在であったか否かはわかりませんが、少なくとも地元において「円仁さん」と呼ばれ続けていることは間違いありません。
円仁が「下野国――現:栃木県――」に生まれたのは、平安遷都の年、すなわち延暦十三(794)年のことでした。彼は、九歳にして「道忠教団」と呼ばれる教団の僧「広智」の下で仏法を学んでおります。
この「道忠教団」のリーダー「道忠」は、あの「鑑真」の高弟です。鑑真についてはあらためて言うまでもないかもしれませんが、念のため触れておきますと、日本人に戒律を再認識させるために命をかけて来日した唐の学僧です。「東大寺」に日本初の戒壇を設けたのも、戒律道場としての「唐招提寺」を建立したのもこの僧です。
道忠はその偉大な鑑真の弟子の中でも「持戒第一弟子也」――『叡山大師伝』――と謳われたほどの高弟であったようです。
辺境に生まれた円仁がそれほどの僧の身近に存在し得たのは、彼の故郷下野国に「東大寺」「筑紫観世音寺」と並ぶ「三戒壇」のひとつ「下野薬師寺」が存在していたからでしょう。この寺は七世紀半ばに地方豪族の下毛野氏によって創建されたのですが、その後、何故か国家経営の官寺として整備されたのです。やはり、「下毛野氏」の祖たる東国屈指の古代氏族「毛野氏」の威光にその理由を求めておくべきなのでしょうか・・・。
下野薬師寺の存在は、天台宗を筆頭に東国に多くの高僧を輩出しました。
現在、世界遺産である徳川家康の霊廟「東照宮」の色合いが強い日光、その日光を開山したという「勝道上人」も、天平宝字五(761)年、下野薬師寺にて受戒得度しております。今ひとつ謎に包まれた勝道上人ではありますが、「ニ荒山碑(ふたらさんぴ)」によって少なくとも空海との間になんらかの交流があったことは確実で、またその謎めいた碑において空海は彼の事績を讃えております。もちろん空海の賛辞にはおよそ華美な装飾が多いのが特徴でもあるので、全てを本質として捉えることは危険ですが、ある意味で剛腕嵯峨帝をも籠絡していた空海にそれだけのことを書かせたというその一事だけでも相当な人物であったことを窺い知れるというものでしょう。
また、下野薬師寺と言えば、前に触れたとおり、宝亀元(770)年、「宇佐八幡神託事件」を経て「称徳女帝」が崩御した後、庇護者を失った「弓削道鏡」が別当として配流された寺でもあります。
このように下野国における仏教エピソードが日本史級の人物を巻き込むほどのものであることは注目すべきと考えております。
それはともかく、道忠はおそらく、戒律を授ける人員として下野薬師寺に派遣され、そのまま下野国の「大慈寺」、上野国――現:群馬県――の「縁野寺――浄土院――」、「武蔵国――現:埼玉県――の慈光寺」を開基し、大規模な教団を組織したようです。
上野国縁野寺には、この道忠の弟子で後の天台ニ代座主の「円澄」がおりましたが、幼い円仁はその円澄の兄弟弟子でもある下野国大慈寺の広智に学んでいたのです。
彼らと最澄との縁は、延暦十七(798)年、道忠が既に菩薩戒を与えていた円澄に比叡山を登山させたことに始まりました。
大同三(808)年、あるいは一説に大同五(810)年には、道忠の後継者となっていた広智が円仁を伴って比叡山に登り、これ以降、円仁は最澄の弟子となります。
それにしても道忠教団は何故比叡山に有能な人材を送り、最澄に接近したのでしょうか。野暮に想像するならば、単に桓武政権におもねったことも考えられます。
しかしその想像は、延暦年間の円澄の叡山登山の時期であればこそ成り立つものです。既に桓武帝が崩御し、次代の平城帝の世である大同三年ないし五年となると、最澄の立場が必ずしも確固たるものには思えません。
それでも、道忠の師である鑑真その人が、そもそも天台宗の四祖とされていたこと、及び、日本に天台経典を請来した人物である以上、当時日本の天台宗を背負っている最澄と密にしておくことは、必然であり、責務でもあったことでしょう。
なにしろ、この時期に何が起っていたのかを考えると、勝手な想像ながら、水面下で虎視眈々と復権を狙う旧勢力、すなわち南都六宗の影が見え隠れするのです。
ふと、時期的・地理的に、ある人物が頭に浮かんできます。
会津の怪僧「徳一」です。
彼は、常陸の筑波山や会津の磐梯山といった辺境にありながら、南都六宗の法相宗の僧として本場奈良の誰よりも論を極めていた人物でした。
高橋富雄さんは次のように語っております。
引用 『徳一と最澄 もうひとつの正統仏教』
大同初年ごろ、東国に下ったはずの徳一は、いったいまずどこに下り、本拠をどこに定めたのであろうか。東国における徳一の拠点は二つあって、その一は常陸筑波山、そのニが奥州会津恵日寺であることは、いうまでもない。
〜中略〜
しかしこの問題はそれほど自明ではない。中世の徳一伝にも、筑波から会津へではなしに、会津から筑波への徳一を語っているものもあるからである。われわれはそれらも批判的に史料化しながら、徳一行年六十二歳、卒年承和九年(八四二)、生年天応元年(七八一)という徳一年代記を推定復元した。もしこの考えかたに立つなら、弘仁六、七年(八一五、六)年ごろにはすでに会津の学僧として広く世に知られている徳一が、それ以前、常陸で長期にわたる教化の仕事を終えてここ会津に移り住んでいるものとは、とうてい考えられないのである。
まず会津へ。然るのち会津から筑波へ。東国徳一伝は、そういう順序になる。
ひとまず会津が先か筑波が先かはどうでもいいのですが、注目すべきはこの時期の徳一がさかんに勢力を拡大していたということです。地図上で考えると、この勢力図はあきらかに下野国を包囲しつつあります。
つまり、おそらく道忠教団は、徳一の脅威から身を守るために最澄に近づいたのでしょう。なにしろ徳一は、南都六宗の僧網が総がかりでも叶わなかった最澄とたった一人で対等に渡りあえる怪物なのです。
そのような事情が渦巻く中、円仁は比叡山に登り、最澄の弟子になったのでした。
怨霊を恐れる桓武天皇から、平安京の鬼門を守護すべく「伝教大師最澄」に委ねられた「比叡山延暦寺」は、その“伝教大師”の名が示すとおり、後に多くの優れた高僧を世に輩出する一大アカデミーの様相を呈していきます。もちろんそれは元々最澄の志向していたものでありますが、特に最澄が死の前日に言い残した言葉によって確固たるものになったのではないかと私は考えております。
最澄は、天台法華宗に割り当てられた「年分度者」の二人について、十二年間比叡山から出ることを許さないという厳しい修行を義務付けることを宣言しました。
「年分度者――年分得度者――」とは、得度僧の定員のことです。持統天皇十(698)年から始まったとされる年分度者の制度は、国家として毎年一定数の僧を「得度」させるというものでした。
「得度」とは、「出家」のことと捉えておいて差し支えないと思います。
それにしても、本来出家とは俗世の一切から離れることであり、国が出家させるというのはどうにも違和感があります。しかし、古代における日本の仏法とはそういうものであったようです。原則として個人の出家は禁じられておりました。もちろん信仰心というものは、その個人にとって国家という枠組みよりも上位にあり、そうそう抑制できるものではありません。やはりどうしても国家と無関係に仏法に帰依する者もおりました。そういった人物は「私度僧」と呼ばれ、“犯罪者”にあたりますが、仏法の本来的な意味からすれば本末転倒と言うべきでしょう。
話を戻します。
持統天皇時代来の年分度者は、奈良時代を通じて“定員十名”と定められておりました。当然ながらその十名は南都六宗の人材から各々「華厳」「律」「三論」「成実」「法相」「俱舎」を専攻する定員が選ばれます。
桓武の信頼と期待を一身に受けていた最澄は、そこに天台宗を割り込ませました。時の人最澄は、そこに天台宗のニ名を加えた総勢十二名の枠を提案し、それを僧網に認めさせたのです。天台宗が担う専攻科目は「遮那業」と「止観業」の枠でした。「遮那業」とは、「大日経」、すなわち“密教”です。
以前、東北歴史博物館の企画展で拝見した最澄自筆の『天台法華宗年分度学生名帳』――延暦寺所蔵――には、「僧圓修〜遮那経業」とあり、それに続けて「僧圓仁〜止観業」とありました。そこには朱書きで「己二人弘仁五年分得度者」と校訂が加えられてありました。
つまり、弘仁五(814)年分得度者となった円仁は、選りすぐりの年分度者の一人ではあったものの、実は、この時点で「密教――遮那業――」を専攻していたのは円仁ではなく、同期の「円修」であったのです。後に密教を会得して天台宗を救う円仁の専攻は、この時点では密教ではなかったのです。
この頃、最澄の天台宗は大きな悩みを抱えておりました。
最澄がせっかく確保した年分度者の枠でありましたが、肝心の得度者の流出が激しかったのです。特に遮那業の学生においてそれは顕著でした。円仁の同期で遮那業を担った円修もその例に漏れませんでした。ここには明確な理由があります。入京した空海の影響です。 
 
勝道上人「日光登山記」と空海

 

自然と人間のこころの関わりについて空海は「そもそも、環境はこころにしたがって変わるものである。こころが汚れていれば環境は濁るし、その環境によってまた、こころも移り行くことになる。静かな環境に入り、そこに身を置けばこころも清らかである。そして、こころと環境が合致し、互いが無心にひびき合うことができれば、万物の根源となる"自然の道理"とそのはたらきである"知"が自ずと発揮される。そこに悟りがある」と説く。
空海に先んじて、その静かな環境、奥深い山に分け入り、そこで修行することによって悟りを得た行者が、勝道上人(しょうどうしょうにん)である。下野国芳賀(しもつけのくに、はが:今の栃木県真岡市)の人であった。
上人は少年の頃から蟻のいのちですら殺生しなかった。青年になってからも善悪の戒律を守り、こころは清らかであった。世間の生き方にこだわらず、仏教の空(くう)の教えを学び、街の喧噪を嫌い、自然の清らかさを慕って、山林での修行にひたすら励んだ。
その青年が48歳になって、日光山(男体山)登頂に成功し、開山の祖となった。
上人は、817年に83歳で亡くなられるが、その3年前に、人を介して、名勝の地、日光の記述を空海に依頼した。仲介者と空海は昔からの知り合いだったので、これを引き受けることになる。空海、41歳のときである。
以下は、その空海執筆による「沙門勝道、山水を歴(へ)て玄珠を瑩(みが)く(道を極める)の碑」からの、我が国最初の「登山記」と日光山での上人の悟りの場面を口語訳したものである。
七六七年四月上旬
(上人、)日光男体山の登頂を試みる。しかし、雪は深く、崖はけわしく、行く手を雲と霧に閉ざされ、雷にあい、断念する。中腹まで引き返し、そこに二十一日間滞在したのち、下山する。
七八一年四月上旬
再度、登頂を試みるが失敗する。
七八二年三月中旬
今回は、登頂するまでは絶対にあきらめないとの覚悟を決め、周到に準備をし、山麓に着いた。そこに一週間滞在し、日夜の登頂祈願を行なった。
「わたくしが登頂をめざすのは、すべての生き物の幸せを願うためです。その証として、わたくしが不浄のこころの持ち主でないことを示す経文と仏の絵姿図を自らしたためました。これを、山頂に辿り着くことができれば神々に捧げます。どうか、善き神々よ、そのちからを示し、災いとなる霧を巻き収めさせたまえ、山の精霊たちよ、わたくしを先導するためにその手をお貸しください。この願い、もし聞き入れなければもう二度と登頂を試みません。そして、もはや悟りを得ることはないでしょう」。
このように願いをたておわると、雪の白く続くところを越え、緑のハエマツのきらめく崖をよじ登った。崖の上から頂上までは残り半分の距離であったが、からだは疲れ果て、体力を消耗してしまったので、その場に二泊して、体力を回復し、そして、とうとう頂上に立った。
(今、この場にいることは)夢のようであり、でも現実であることを実感しながらうっとりしていると、天空を飛ぶ筏(いかだ)に乗らなくても、たちまちのうちに銀河の流れに浮かんでいるようだし、妙薬(幻覚剤)を舐めていないのに、自然の神の住むという岩屋を訪れている気がする。ただただ、喜びに涙し、こころは平静ではいられなかった。
この山のかたちは、東西は龍がうつぶせに寝た背骨のようであり、その眺望は限りなく、南北は虎がうずくまったようであり、まるで、巨大な虎が棲息しているようである。
この山は、世界を創る神の住む山、須弥山(しゅみせん)の仲間のようであり、周囲の山々も須弥山を浮かべる外海を取り巻いているという鉄囲山(てつちせん)のようである。
中国五岳に数えられる衡山(こうざん)・泰山(たいざん)もここよりも低く、諸国の伝説の山、仙人の住むという崑崙山(こんろんざん)や、よい香りのただようというインドの香酔山(こうすいざん)にも勝っていると、この山は笑っているようだ。
この頂きは、日が昇るとまっ先に明るくなり、月が昇るともっとも遅く沈む。ここからだと神通力をもつ目がなくても、万里の彼方までが目のまえにあり、一挙に千里を飛ぶという神話の鳥さえいらない。白い雲海はわたくしの足の下にあるのだ。
広がる色とりどりの景色は、機(はた)もないのに美しい錦を織りなし、いろんな高山植物は一体、誰が作ったのだろう。
北方を眺めると湖(今の川俣湖の方向にあたる)があり、その広さはざっと計算すれば一百頃(けい:中国地積の単位。一頃は百畝)。東西は狭く、南北は長い。
西方をふり返ると、やはり一つの湖(湯の湖)があり、二十余頃の広さはありそうだ。
西南方に目を向けると、さらに大きな湖(中禅寺湖)があり、広さは千余町(一町も百畝)もありそうだ。南北は広くないが、東西は長く伸びている。湖面にはまわりをとりまく山々の高い峰がその影を逆さに落とし、その山肌にはいろんな変わった草木や岩が自ら織りなす、奥深い色合いがあり、白銀の残雪のあるところからは早春の花が咲き、金色に輝いている。それらのすべての色が余すところなく鏡のような水面に映し出されている。
山と水は互いにひびき輝き、その絶景がわたしを感涙させる。四方を眺め、たたずみ、見飽きることがない。しかし、突然の雪まじりの風がそれらの景色を打ち消してしまうー
わたくし勝道は小さな庵を西南(中禅寺湖側)の隅に結び、登頂祈願の約束を神々に果たすため、そこに二十一日間滞在し、勤めを行ない、そののち、下山した。
七八四年三月下旬
改めて(今度は中禅寺湖とその周辺を探索するために)日光山に入った。五日間をかけて湖のほとりに着いたときには四月になっていた。
ほとりで一艘の小舟を造り上げた。長さは二丈(一丈は十尺)、巾は三尺(一尺は約三十センチ)。さっそく、わたくしと二、三人が乗り、湖に棹をさし、遊覧した。
湖上より周囲の絶壁を見回すと、神秘的で美しい景色が広がっている。東を眺め、西を眺め、舟の上下の揺れにあわせて気持ちもはずむー
まだまだあちらこちらを遊覧したかったが、日暮れには南の中洲に舟を着けた。その中洲は陸から三百丈足らず離れていて、広さはタテヨコ三十丈余りあり、多くの中洲のうちでも勝れて美しい景観をもっていた。
次の日からは湖の西岸に上がり、西湖(西の湖)に出かける。中禅寺湖からは十五里(平安時代、一里は約五百メートル)ばかり離れたところにある。また、北湖(湯の湖)も見に行った。そこは中禅寺湖から三十里ばかり離れたところにある。いずれも美しい湖であるが、中禅寺湖の美しさにはとうてい及ばない。
その中禅寺湖はみどり色の水が鏡のように澄みわたり、水深は測り知れない。
樹齢千年の松や柏の常緑の枝が水面に垂れ、岩の上には紺色の楼閣のような巨大な檜や杉が突っ立っている。
あじさいの五色の花は同じ幹に混じりあって咲き、朝・昼・夕・晩・深夜・明け方にそれぞれに鳴く鳥は、同じさえずりに聞こえても、それぞれに種類のちがう鳥なのだ。
白い鶴は羽をひろげてなぎさに舞い、青い水鳥は湖面に戯れている。それらの鳥の羽ばたきは風に揺れる鈴のよう。その鳴き声は磨かれた玉の響きのよう。
松風は琴となって音色を奏で、岸に寄せる波は鼓となって調べを打つ。
それらの自然の発する響きが合わさって天の調べとなり、湖水は甘く・冷たく・軟らかく・軽く・清く・臭いなく・のどごしよく・何一つ悪いものを含まず、たおやかにゆったりと貯えられている。
(湧きだす)霧や雲は、水の神があたりをおおうしわざであり、星のまたたきと稲光は、天空の神、明星がしばしばその手を虚空に入れ、それらをつかもうとするからである。
今、"湖水に映る満月を見ては、あるがままに無心に生きるということを知り、空中に輝く日輪を見ては、すべてのいのちが陽光の恵みによって共に生かされていて、その自然のもたらす英知とわたくし勝道が一体のものである"と悟る。
―そののち、この悟りの地にささやかなお堂を建て、神宮寺と名づけた。ここに住んで自然の道理とそのはたらきに身を託し、そのまま四年の歳月が過ぎた。
七八八年四月
さらに北の端に住まいを移す。この地の四方の眺望は限りなく、砂浜は好ましい。さまざまな色の花はその名も分からない不思議なものばかりであり、どこからともなく漂う、嗅いだことのない芳純な香りがわたくしの気持ちを和ましてくれる。
ここに住んでいたにちがいない仙人はどこに去ったのか分からないが、自然の神々が確かにここにはいる。
この美しい地を、中国の文人、東方朔はその著『海内十洲記』の名勝の地の一つとして、どうして記さなかったのだろう。山水を愛でる貴族たちはどうしてここに集い、舟を浮かべて遊ばないのだろう。
(ブッダは苦行の時代、飢えた虎に身を供養し、その餌食となったとの話があるが)その虎に出遭うこともなく、(不老不死の仙人)子喬もすでに立ち去ったあと。そのような聖なる地の澄みきった広い湖水からは鏡のようなこころを学び、日光山からは自然界を創りだしている無垢なる仕組みを知る。
冬は茂るツタに寒さをさえぎり
夏はおおう葉陰に暑さを避ける。
菜食をし、水を飲むだけでの生活でもこころは楽しく
あるときは出かけ、あるときは止まり
俗界を離れて、ひたすら修行しているわたくし勝道がここにいる。
八一四年八月三十日空海記す。

勝道上人が日光男体山に初登頂(782年)したとき、空海は真魚(まお)と呼ばれる、まだ8歳の少年であった。その少年が若くしてあらゆる学問に通じながらも、20歳過ぎには都の大学を去り、山のやぶを家とし、瞑想をこころとして、山林に入り修行した。
その頃のことを、空海は一編の詩に綴っている。
―前文略―
谷川の水一杯で、朝はいのちをつなぎ
山霞を吸い込み、夕には英気を養う。
(山の住まいは)たれさがったツル草と細長い草の葉で充分
イバラの葉や杉の皮が敷いた上が、わたくしの寝床。
(晴れた日は)青空が恵みの天幕となって広がり
(雨の日は)水の精が白いとばりをつらねて自然をやさしくおおう。
(わたくしの住まいには)山鳥が時おりやって来て、歌をさえずり
山猿は(目の前で)軽やかにはねて、その見事な芸を披露する。
(季節が来れば)春の花や秋の菊が微笑みかけ
明け方の月や、朝の風は、わたくしのこころを清々しくさせる。
(この山中で)自分に具わる、からだと言葉と思考のすべてのはたらきが
清らかな"自然の道理"と一体になって存在していると知る。
今、香を焚き、ひとすじのけむりを見つめ
経(真理の言葉)を一口つぶやくと
わたくしのこころは、それだけのことで充たされる。
そこに無垢なる生き方の悟りがある。
―後文略― 空海文集「山中に何の楽(たのしみ)か有る」より
そう、空海もまた、自然と人間のこころの関わりをよく理解し、そこから、悟りを得る修行をしていた。だから、日光山における勝道上人の行状をまるで見ていたかのように記述できたのだ。その記述に目を通し、上人は満足したことと思う。そこには、上人と同じ澄んだ目とこころをもつ、空海という人がいた。 
 
万巻上人

 

概要 / (まんがん) 奈良時代の僧とされる。万巻上人、萬巻上人、満願などとも呼ばれる。修験道にも精通し、箱根山で箱根三所権現を感得した。
筥根山縁起によれば、養老年間に京都の沙弥智仁に生まれた男子であり、20歳で受具剃髪(出家)し、一万巻にも及ぶ経典を呼んだので万巻(萬巻)と称され、日本全国の霊場を巡行した。
天平宝字元年(757年)朝廷の命を受けて、箱根山の山岳信仰を束ねる目的で箱根山に入山し、相模国大早河上湖池水辺で難行苦行の功で三所権現(法躰・俗躰・女躰)を感得した。これが箱根三所権現の由来である。また、芦ノ湖に住む9つの頭を持つ毒龍(九頭龍)が荒れ狂って村民を苦しめていたのを法力で調伏した。調伏された九頭龍は懺悔して宝珠・錫杖・水瓶を持って万巻上人に帰依したので、湖の主・水神(九頭龍権現)として祀った。
天平勝宝元年(749年)鹿島郡大領中臣連千徳、元宮司中臣鹿島連大宗とともに鹿島神宮寺の建立をした。また、天平宝字7年(763年)多度権現の神託で多度神宮寺を建立した。
鹿島から箱根に向かう途中、海に炎が上がり魚が死んで漁民が苦悩しているのを目撃したので読経をすると、薬師如来が顕われて法力で温泉を海から山に移すように教導したので、37日間の断食祈祷で実現した。これが熱海温泉の由来とも伝承されている。 

私は、中国で仏教を学び帰朝し、その後の仏教世界観を塗り替えてしまった最澄・空海以前の平安時代以前の仏教と山岳宗教に惹かれる者である。なぜなら縄文時代の太古より何万年も日本人が育まれた宗教観・世界観が如何なるものだったか、その糸口が見つかるような期待があるからである。その意味で、神仏混淆の集大成者・万巻上人の残影を追うことの本意をご高察いただきたい。
さて、万巻上人の学んだ仏教は、南都六宗とされる。「南都六宗」とは、奈良時代の六つの宗派、三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・律宗・華厳宗をいう。つまり、仏教界を一変、密教色へと変質させてしまった天台宗・真言宗の産声は後世のこととなる。
日本にはじめて仏教が伝来したのは六世紀の欽明天皇の時代であるが、聖徳太子の時代に至って本格的に招来された。(非公式な意見として朝鮮半島や中国大陸からの断片的私的交流の渡来僧により六世紀以前から仏教伝来説もあるが、ここでは割愛する)
聖徳太子は、仏教思想をもととした国家社会の構築を目指し、推古15年(607)、最初の遣隋使として小野妹子を派遣したのをはじめとし、その後も、多くの留学生や留学僧を隋に派遣して、積極的に大陸文化の摂取に努めた。さらに太子自らも四天王寺を建立し、敬田・悲田・施薬・療院の四院を設置して貧民救済事業を興し、飛鳥寺・中宮寺・法隆寺等を建立して仏教思想にもとづく政治を行い、飛鳥時代の繁栄を築いた。 

聖徳太子没後、まもなく三論宗が伝わり、次いで法相宗が伝わった。この両宗に付随して成実宗・倶舎宗が伝えられたが、二宗は三論・法相の両教学を学ぶための補助的な学問宗派にすぎなかった。奈良時代になって華厳宗と律宗が伝えられた。
これら南都六宗は独自に宗派を形成したものではなく、寺院も原則的には官立であり、国家の庇護のもと、鎮護国家の祈願所としての役割を担うと同時に、仏教教理を研究する場所でもあった。万巻上人の本名は「満願」、生まれは京都、父は修行僧であり幼少より仏教に耳目を接し成長した。『筥根山縁起』によれば、二十歳になり、受具剃髪したとあるが、都の国分寺に正式に僧となった歳を伝えられたものとされ、それ以前から修行僧である父の背中を見て育ち仏門徒の素養は十二分できていた。
当時とすれば最先端の仏教文化を学ぶ国分寺(今で言う国立大学)に入門した満願は水を得た魚の如く学問に没頭し、生来の知識欲により経典・庫裡蔵書等を貪るように読み続け、やがて万巻と称せられるようになるなど全国の国分寺の僧達を凌駕する教学を身に付けている。その後、都の高僧に面綬を授かるとともに、更に仏法の奥義を究めようと、修行僧となって諸国遍歴の旅に出る。
愛知県豊川市篠田町田尻に万巻寺を建て住職となっている。己の私寺を設けられるのは当時として極僅かな高僧、しかも自分の名前を使った寺を設けることは異例中の異例であり、如何に万巻上人に対する世間評価の高さが偲ばれる事例である。残念ながら同寺は野武士の放火により全焼し残されていないが、地元の人々により『まがんじ』とか、近くの橋は『まがんじ橋』と呼ばれ記憶されている。
聖武天皇は、国家の安康と五穀豊穣を祈るため全国に国分寺(金光明四天王護国之寺)・国分尼寺(法華滅罪之寺)を建立し、さらにこれらを統括する総国分寺として東大寺を建立した。また、全国的に律令体制が確立されるに伴い僧尼令等が布かれ、仏教も国の統治機構の中に組み入れられていった。
三島に伊豆国分寺、国分尼寺が建立されたのも八世紀当時であった。つまり万巻上人が箱根に来た当時には既に三島に国家的大寺院が存在していたことになる。万巻上人が通読した経典は南都六宗:三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・律宗・華厳宗の経典に絞られる。加えて、奈良の都の高僧に学び比叡山の山奥での荒行に打ち込み心胆を磨くとともに原初的修験道先達との接触を重ねて行き、修験道にも精通する。
天平勝宝元年(749年)仏事をもって神に奉仕する鹿島神宮寺を創建し大般若経600巻の写経をし,仏像を描いている。話は飛ぶが、この常陸の鹿島神宮に勤める物忌(ものいみ)、斎女(いつきめ)が存在した。 この巫女たちは、伊勢神宮の斎王(いつきのみこ)のように終生結婚せずに過ごした巫女も存在していることを頭の隅に置いていてもらいたい。
さて、仏教・修験道に精通する万巻上人は天平宝字元年(757年)朝廷の命を受けて、箱根山の山岳信仰を束ねる目的で箱根山に入山するが、もともと箱根山を根本道場とする修験道先達のプライドと仏教への侮り感も手伝って若い新参者(官僧)への強力な反発抵抗があったに違いない。仮に修験道が禁止されたり仏道を強要されるようになったらこれまで築いて来た生活の糧と土台を無くす恐れもあるからだ。
これが、相模国大早河上湖池水辺で難行苦行の功で三所権現(法躰・俗躰・女躰)を感得した経緯でなかったかと思う。相模国大早河上湖池が現在の地図にしてどの辺りを指すのか説明のある資料に接しられないが、万巻上人は函根山への登り口付近の相模国(神奈川県小田原市早川)に弟子達その他従者達とともに仮宿を構え、万巻上人は湖面に向かって難行苦行の末、山伏達を調伏し得る三所権現を感得した。
ただ、三所権現は万巻上人が想起者でないことに注意を要する。万巻上人が誕生する2年前の717年に越の大徳・神融禅師、泰澄(越前国麻生津生まれ)36歳は白山(標高2702m)を直弟子2人とともに開く。白山には、三神がいて、三所権現と呼ばれる。白山妙理権現・大行事権現・大汝権現の三神が伝えられている。古来より修験道のメッカと称される白山信仰の開祖・泰澄という大先達が三所権現と本地垂迹を唱えているからである。泰澄と万巻上人との接点は時代の波に呑み込まれて分らなくなっているものの、三神・三所権現と称すところが共通するところから万巻上人は三所権現を熟知修得していたと見るのが自然である。
一方、九頭竜を感得したのも修験道大先達者・泰澄なのである。泰澄は、養老元年(717)、36歳の時に白山(御前峰)へ登り、白山の山頂にある緑碧池(翠ヶ池)で白山妙理権現を感得したという。白山妙理権現は、九頭竜権現という九つの頭を持つ龍神の姿で出現した。 だが、泰澄は、その姿に満足せず、さらに祈念すると、やがて真の姿である十一面観音に変身したという。実に万巻上人は泰澄大師の教えを愛弟子の如く忠実に推進し集大成しているのである。万巻が誕生した年、修行僧の父が25歳と推定、泰澄は38歳である。この三名がどう繋がっていたかは五里霧中ではあるが、万巻上人の残影を追うにつれ、奇しくも万巻上人と泰澄大師とが瓜二つに酷似している事実が分って来る。敢えて違いを申せば、泰澄大師が観音信仰を主軸にしたのに対し、万巻上人は薬師信仰を主軸に置かれていたくらいである。
箱根山と白山権現との因縁は奈良時代に遡る。白山神社は江戸時代までは白山権現と呼ばれていた。天平年間(729-748年)に関東に塙瘡(ほうそう)が大流行した時代に、加賀白山霊場の開祖泰澄から派遣された弟子・浄定(きよさだ)行者が、天平10年(738年)箱根に白山権現社を建て、十一面観音【天平8年(736年)、入唐帰朝の玄ムより特に十一面経を授受されたばかり】を祀ったところ山から霊泉が湧き出し、病を治したという伝承が残されている。これが箱根湯本温泉の起こりとされている。つまり万巻上人が箱根に入山する19年前に湯本の温泉(江戸時代中後期まで宿泊施設無く湯場(ゆば)と呼ばれていた)と白山権現社は存在していたことになる。ただ現在の温泉街とは違って寒村の中の権現社であった筈であるが、それだけに同社が登山道入り口の道標になっていたことは間違い無いことと思われる。 

泰澄の主張は、九頭竜の本地は十一面観音とされる。芦ノ湖に九頭竜神社が祀られる十九年前に箱根湯本に十一面観音が祀られていたのである。まさに泰澄の祈念は適中し、箱根湯本の本地は箱根山頂の芦ノ湖に万巻上人により遷祀され、九頭竜神社として祀られ、今もなお人々の信仰を集めている。
とりわけ、泰澄大師にとって万巻上人のやることなすことは絶賛の域にあったことは間違いあるまい。
757年当時、万巻上人と白山権現の修験者との接触の有無は証拠が残されていないものの、私は函南桑原の新光寺跡の北西部に白山神社が祀られ同寺跡の南西部に熊野神社が祀られていることに着目した。
三所権現・本地垂迹・箱根・白山神社・熊野神社など何かと共通項があり、万巻上人の箱根三所権現と白山三所権現と熊野三所権現との浅からぬ因縁が垣間見られてくる。
更に深読みするならば、万巻上人が相模国大早河上湖池水辺で難行苦行の功で三所権現を感得する以前に、既に仏教と修験者との融合に成功している白山権現の泰澄・高弟達と熊野権現の修験道先達者との周到なるお膳立てが事前になされていた可能性も考えられる。これは万巻上人側のみの要求だったとも思われない。白山権現並びに熊野権現側としても、朝廷の勅令として万巻上人が箱根山に向かうとすれば由々しき事態として高弟を箱根山に向かわせたことも考えられるからだ。
なぜならば、白山にせよ熊野にせよ、天下の険と称せらる箱根は地獄の霊場とされ重要な位置付けされた修験道にとって重要な場所、その場所へ朝廷勅令として万巻上人が入山すると聞きつければほっとして置かれない。きっと全国の修験道の先達達が集合したに違いない。この間、箱根の神々を取り入れ三所権現を創出することを万巻上人に託されるとともに暗に修験道権化の九頭竜神の供養を強く委託された。 
泰澄大師
(たいちょうだいし・691−767) 泰澄大師は飛鳥時代(7世紀末)、691年、越前国麻生津(現 福井市三十八社町 泰澄寺)に生まれた。
神童といわれた大師は11才の時、夢のお告げで越知山大谷寺に登り、苦行難行の後、ついに仏の教えを悟ったと伝えられる。
泰澄大師の名声は都まで届き、21歳の時、朝廷は鎮護国家法師に任じた。
その後、36才の時、2人の弟子・臥(ふせり)行者と浄定(きよさだ)行者と共に717年に霊峰白山を開いたとされている。
養老7年(722年)、元正天皇のご病気を祈祷によって平癒したことにより、神融禅師の号を賜わる。
神亀2年(724年)、行基が白山を訪ね本地垂迹の由来を問うたことより神仏習合説の祖と呼ばれている。
天平2年(730年)、一切経を写経し法隆寺に納めた。これは、宮内庁図書寮に現存している。
天平8年(736年)、入唐帰朝の玄ムより特に十一面経を授受される。
天平9年(737年)、全国に疱瘡が流行し、勅名により祈願を行い疫病を終息させたと伝えられる。
このとき、天皇から大和尚位を授けられ、「泰澄」の尊称を賜わる。
泰澄大師の名声は、都のみならず全国的に不動のものとなり、現世利益の願いを叶える祈祷力が貴族庶民層の羨望の的になり、白山信仰は白山修験者集団により全国的に広がって行った。
万巻上人が箱根に入った10年後、神護景雲元年(767年)、越知山大谷寺に戻った泰澄大師は、釈迦堂の仙窟に座禅を組まれたまま86歳で遷化している。
境内に祠つられる国指定文化財の九重の石塔は泰澄大師のお墓と伝えられている。 

泰澄大師が平安末期に 開いた平泉寺は神仏一体の寺院だった。 中世最盛期には 48の社と 36の堂 6000坊院(修行僧や修験者の住居)があったと伝えられている。
三つの鳥居の手前の拝殿の幅は三十三間あったものとされ、中世にあっては、他の追随を許さぬ宗教的勢力が窺える。
なお、左右に並ぶ小さな建物は6000坊と称される修行僧の住居であり、全国より泰澄大師の教えを授かろうとした修行僧が多数存在したことを雄弁に物語っている。
徐々に古絵図を参考に発掘調査がされているようだが、現在の所、古絵図に合致する位置から宗教都市を裏付けされるような遺構が出土しているようであり、全容が解明されることが期待されている。
万巻上人や万巻上人の父親が白山平泉寺に足を運んだか否か、教導を受けたか受けなかったかは歴史の闇に消えて分らないものの、現在鋭意追調中である。
発掘調査などによって、15〜16世紀頃の平泉寺境内の様子がわかりはじめている。
かつての境内は東西約1.2q、南北1qの範囲に広がり、境内の北側と東側には、三頭山からのびる尾根が横たわり、南側には女神川沿いに崖が続いている。
境内の中心部分は、東西方向の細長い尾根上にあって、社殿や堂塔が建ち並んでいた。これを挟んだ南北両側の谷(南谷と北谷)には多数の坊院が集中していた。当時の平泉寺は、まさに中世の「宗教都市」とよべる性格を備えていたことが判明しつつある。
坊院群の中を走る道路は石敷きで側溝を持ち、坊院敷地の出入口も等間隔に配置されるなど、かなり計画的な整備がなされていた。
坊院跡からみつかった遺物の多くは生活用品であり、坊院は宗教的な施設であると同時に、僧侶の日常的な生活空間であったことをよく物語っています。
食器類には、瀬戸・美濃焼をしのいで多くの中国製陶磁器が用いられていたようだ。
また、文房具や茶道具、生花具などもたくさん出土しており、これらを通して僧侶たちの生活や文化の様相をうかがえる。 

万巻上人の唱える三所権現とは泰澄大師の唱える三所権現の応用とされ法躰(僧)・俗躰(在家)・女躰(巫女)の三体の神(権現)を祀ることであり、箱根三所権現は男女差や僧俗差を超越し、仏教と修験道とが習合し得る三体の神を等しく祀るという万巻上人のメッセージであった。修験者側からすると朝廷が全国に国分寺や国分尼寺を建て、本気で日本国に仏教を広めつつあることは察知しており、修験道の行く末が仏教という大津波に飲み込まれてしまうのではないかという大きな不安があった筈で、朝廷から遣わされた高僧との面会を、万が一の場合差し違えの覚悟で待ち構えていたに違いない。
修験者達は万巻上人の箱根山ふもとでの動静を遠くから見守り観察した。都育ちのやわなインテリ僧ではなく、自分達と同じように大自然に向かって難行苦行を積み祈祷も行う大上人であることを察知するようになり、殺気が先立つ心境から一度は話し合いをするのも良いかも知れないと、会う前の心境が変わったかも知れない。万巻一行が一気呵成に箱根山頂に向かったならば問答無用と命を落としていた可能性もあった。
芦ノ湖に住む9つの頭を持つ毒龍(九頭龍)が荒れ狂って村民を苦しめていたのを法力で調伏した。調伏された九頭龍は懺悔して宝珠・錫杖・水瓶を持って万巻上人に帰依したので、湖の主・水神(九頭龍権現)として祀ったとの伝承は巷に流されている。恐らく、万巻上人没後100年200年後に万巻上人の偉大な祈祷力を後世に伝えようとする巷の語り草が今日に及んだものと思われる。
九頭龍が宝珠・錫杖・水瓶を持って帰依したとある。宝珠・錫杖・水瓶は修験者の道具を指す。九つの頭とは箱根山を霊場と位置付ける全国の修験者諸派の9人の頭(かしら)を示唆し、九頭竜神社の創設は万巻上人と修験者集団との和睦を暗示している。九頭龍調伏とデフォルメされた伝承がされているが、現実的には失敗の許されない新しい宗教と古い宗教との命懸けの交渉であり、それこそ生死を分ける和睦だったに違いない。
何故に絶対降伏すべきでない仏教派の主張に対し、修験者達が抗し得なかったかである。それは、万巻上人の提示した俗躰の承認が大きい。在家出家が大半を占める修験者にとって具体的に朝廷側の認めた上人の俗躰承認の具体案に対し、これ以上の朝廷側への反逆は不益になると判断し、修験道に精通し神仏習合を唱える万巻上人の三所権現の表明に対し、修験者達は本気で味方しようとの腹を決めた。その水面下での協力者は白山修験者達だった気配が箱根山周辺に漂っているのだ。白山三所権現は箱根三所権現の先輩格であり、泰澄大師が修験者を束ねる本地垂迹の理に適っているからである。
もう一つ重要なのは女躰の存在である。万巻上人は大和の国は太古より女性が神=巫であり、神事と祭りは女性が本来担って来た史実を知っていた。修験道も胎内潜りとして生まれ変わりの行を重要視している。修験道に仏教色が濃くなって行く時代になって行くにつれ女人禁制とする山が多かった中、万巻上人は当初より諸々の禁制を提示しておらず、その後になっても女人禁制をとっていない。当時は、人間が死ぬと男女の区別なく、死者の霊魂が箱根山に吸い寄せられると信じられていたこともある。『新編相模国風土記稿』の元箱根の荒湯駒形権現の項には「往古箱根の地、箱根派修験比丘尼等、凡そ六百軒余住居せし頃、彼輩遙拝の為、地主駒形権現を勧請せしと伝ふ」とあり、箱根には「箱根派修験比丘尼」といわれる女性宗教者が多くいたことが伝えられいる。彼女たちは死霊が集まる箱根で死者の霊を口寄せし、慰める霊能者であったと考えらている。箱根派修験比丘尼のその後の全国への広がりを記録する文献は極めて乏しい。
万巻上人は、「仏教」対「修験道」という真っ向勝負を柔軟に避けている。論理や知識による論戦も避けている。古からの地元自然神と仏との本地垂迹へと論点をワープさせている。「箱根山の神である」と自ら名乗る三体の神々を上人が感得して、法躰・俗躰・女躰の三所権現を前面に押し出し、修験者達の山岳宗教の神と同根の神仏を平等に祀ることを大前提に置くメッセージに何ら反撃の余地は無かった。
俗躰・女躰のお墨付きが、今後の修験者や巫女の生活基盤を保証し得るものと理解された。これに加えて法躰は三世覚母の文殊菩薩の垂迹、俗躰は当来導師の弥勒菩薩の垂迹、女躰は施無畏者の観世音菩薩の垂迹とされる超一流の万巻上人の唱える本地垂迹の理念まで教導され、仏教と修験道が集合されて行く箱根修験道の端緒となった。万巻上人と修験者代表との話し合いは一本筋の通ったもので強く共鳴しあったのである。国分寺の阿闍梨よりも山岳修行を積む修行僧が尊ばれる時代が確かにあったのである。
血を一滴も流すことが無く、修験者達の崇拝する霊山に宿す神々を蔑むことも無く、神仏習合・本地垂迹の理に裏打ちされた箱根三所権現が修験者達に自然に無理なく受け入れられ、しかも朝廷から派遣された高僧の擁護下に置かれる心強さを修験者達に与えていた可能性は高い。芦ノ湖湖畔に金剛王院東福寺が建立されたばかりではない。その湖畔には九頭竜神社・弁財天も祀られ毎年祭りも履行されている。これら神社は神仏分離令に抵触しなかったことが幸いし、昔ながらの祭典が連綿と執り行われている。
明治6年、明治天皇の巡行に際し、小地獄は小涌谷に大地獄は大涌谷と名称が変更されたが、賽の河原などの地獄に関係する名称が今でも箱根山に多く残されている。全国の修験者諸派は箱根山=地獄と位置付けされ、地獄の霊場とされ全国の修験者諸派の共有霊場となっていた。当時最も情報収集力・宣伝力を有していたのは修験者集団とされ、したがって箱根を押さえるということは現代で言えば地方新聞社・ローカル放送局を手中にしたことになり、当時の朝廷の真の狙いは情報の全国ネットワークの構築にあったと思われる。
源頼朝の二所詣でと鎌倉への西からの防御壁。徳川家康の箱根山脈を江戸の重要の防御壁としたことに通ずる箱根山の地理的・軍事的条件が江戸時代まで重視されて来た。奈良時代にあっては東大寺が全国の国分寺の中心に置かれ僧達を統率した。私見ではあるが、朝廷の仏教の取り込みとの対立軸にあった山岳宗教とりわけ全国の修験者達の寄り集まる箱根に万巻上人を入山させ金剛王院東福寺を創建させ、全国庶民からの情報収集と情報提供の重要基地とし、一方で死後の世界で仏法の果たす役割を世に示す。仏教による国家安康を願う朝廷の重要な政治的アプローチが「万巻函根入り」の背景にあったものと思われる。
元箱根石仏・石塔群にうかがえるように、中世の箱根は死者の霊魂が集まる地蔵信仰の聖地だった。また、箱根には「箱根派修験比丘尼」といわれる女性宗教者が多くいたことが伝えられている。彼女たちは死霊が集まる箱根で死者の霊を口寄せし、遺族・悩める庶民を慰める霊能者であったと考えられている。三島市の阿闍梨小路に残される市子石も、この時代背景の流れを汲むものか関係無いものか問題が残されている。
先に述べた常陸の鹿島神宮の巫女のように箱根の修験比丘尼も同様に何故か万巻上人の歩かれた後には巫女(みこ)が付いて回り、性差別が激しかった当時、男女差を問題視しない万巻上人は後世における巫女の実質的な生みの親だと思わざるを得ない。弁財天が祀られていることも看過してはならない。
箱根神社は何を差し置いても九頭竜神社の祭典は第一に守り継続して来た。万巻上人が死力を尽くして達観した三所権現の三体の神と九頭竜と弁財天などは皆平等であることが根本原理である。万巻上人以降は祭りの主催者である箱根権現は九頭竜神社と弁財天の祭りは第一義の欠かせぬ行事なのである。
さて、万巻上人は徹底した神仏習合論者である。この思想は明治の神仏分離令が下されるまで全国の神社仏閣において連綿と続いている。本地垂迹として神と仏を融合させ祀っている。さて、万巻上人の残影を追うと同上人が第一に信奉していた仏は薬師如来だったことが読み取れる。万巻上人の弟子達も、薬師のことは周知しており、平安中期(11世紀半ば)ごろ新光寺の本尊として薬師如来座像が祀られている。
ここまで読まれた人ならば、箱根神社と箱根権現の二層構造が理解される筈である。箱根神社は明治元年の神仏分離令の直撃を受けた新たな神社であり、御祭神は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)、彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)、 木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)、となっており天皇系の神々が祀られている。 

国家神道の名の下に神仏習合の神々は表面上抹殺され天皇の命により創建された金剛王院東福寺の仏閣は取り壊され、別当や僧達は明治の世を生き継ぐ新たな神社神官の選択を余儀なくされている。悲しい歴史の中にあって苦渋の選択を余儀なくされた人々は、それでも往古の伝統を守り続け1200年続けられて来た万巻上人の精神を深く理解し、今も祭りや行事は堅持されており芦ノ湖畔の神々は大切に祀られている。
奈良時代の天皇の命により創建された寺院の仏閣や仏像が壊された。明治に入り歴史に無知蒙昧な戦争屋により扇動された民衆により全国で多数の貴重な歴史文化遺産が破棄されている。
謂わば古の天皇に対する謀反行為であると断言できる。
私が箱根神社に詣でる機会があるならば、まず真っ先に拝みたいのは箱根山を北限とされる姫沙羅(ヒメシャラ)の純林である。他所のものより幹が赤いのが特長であり幹が滑らかで美しい。この姫沙羅は、 箱根外輪山の一角「鞍掛山」南西斜面の標高600m〜800mの、江戸時代から禁伐林として保護されてきたアカガシ、ブナ、ヒメシャラなどの林に広がる。万巻上人の菩提寺・新光寺のある小筥根桑原の方向に自生している。奇しくも静岡県田方郡函南町の町木に指定されている。私は金剛王院東福寺の開祖である万巻上人の墓(奥津城)の近くにある姫沙羅の純林が気になってしょうがない。万巻上人と姫沙羅の関係が気になるのだ。金剛王院東福寺跡の礎石もある近くの姫沙羅の純林が往古を偲ぶ唯一残された姿と思えるのである。 
姫沙羅
ヒメシャラ(イギリスでは、森の女王と呼ばれている) 箱根を代表する樹木の一つで、太平洋側の山地では箱根が北限にあたる。箱根神社周辺にはヒメシャラの純林があり、その数は百本以上という。和名「姫沙羅」のシャラは、インド産の沙羅双樹(サラソウジュ)のことで、昔の人がナツツバキのことをそう呼んだのだという。
万巻上人が金剛王院東福寺を創建した時、既に人工の建造物は儚く姿を消すが仏法の源の沙羅双樹の純林は永劫に仏法の痕跡を残すに違いないと、朝廷からの勅令(仏法による山岳宗教界の統率)を順守する気を込めて同寺周辺に姫沙羅の仏教色の濃い姫沙羅林を造園した可能性は高い。
なぜに姫沙羅が箱根山が北限なのか?、諸説あるようだが私は万巻上人の神通力とここでは答えておくが天城連山に続く万三郎岳への山道に繁茂する姫沙羅をはじめとする巨木群は伊豆半島の真の宝と思われる。
ちなみにヒメシャラとナツツバキの花はよく似ていて、2cmほどの白い花をつける。この木は、樹皮に特徴があり、色は淡赤褐色、触れるとヒヤリと冷たく、他の木の肌と比較するときに良い教材になる。冷たいのは、樹皮のすぐ内側を、水を吸い上げる導管が通っているからという。木肌が美しいので、家屋の床柱として珍重されている。樹皮が剥がれ落ちたあとには、灰白色の斑紋ができる。
花期は6月〜8月だが、高木なので花は遙か上、近くで見るチャンスは少ない。
9月頃、果実が熟す。果実は1.5cmほどの卵形、白い毛が密生し木質で堅い。
この数年間、湖尻から大涌谷に至る自然探勝路のヒメシャラが、枝にこぶ様のふくらみを持っている。虫こぶとは明らかに違う。病気だろうか。
ヒメシャラと似ているヒコサンヒメシャラは、木肌に輪のような筋があること、枝ぶりが荒いこと、などで区別する。種子はヒメシャラより大きい。箱根に多く自生している。
「沙羅双樹(さらそうじゅ)」と呼ばれることもあるが、お釈迦(しゃか)様が亡くなったときに 近くに生えていたことで有名な「沙羅双樹」は、 全く別の熱帯樹のこと。 「沙羅双樹」は日本の風土では育たない。
では、なぜ夏椿がこの「沙羅双樹」に 間違われたか・・・。
昔、ある僧侶が、仏教にゆかりのある沙羅双樹の樹は日本にもきっとあるはず、と山に入っていろいろ 探したところ、夏椿の木を見て 「これが沙羅双樹だ♪」と思い込み、それを広めたため、との説がある。 

天平宝字7(763)年に,伊勢国(三重県)桑名郡の多度神社近くの道場に住み,丈六の阿弥陀仏の像を造立したところ,忽然と人が現れて,「重い罪業を行ってきたため,報いとして神の地位(神の身となって)を受けている,永久に神の身を離れるために,仏法に帰依したい」と多度神の託宣を告げた。満願は山を切り開いて,小堂を建て,また多度神の神像を造り,多度神に菩薩号を贈り,多度大菩薩と名づけて,この多度神宮寺に安置した。これが文書に現れた最初の神像制作である。
太子山上宮院 正法寺(しょうぼうじ)は、愛知県豊川市赤坂町にある真宗大谷派の寺院である。山号は太子山。院号は上宮院。本尊は阿弥陀如来。
聖徳太子が三河地域を訪れた際、赤坂上宮という所に太子を祀る堂宇(太子堂)を建てたことが創立の切っ掛けであるとされる。嵯峨天皇の時代(809年 - 823年)に、万巻上人が箱根神社再建の勅許を得るため上京したが、その帰途に病を得て太子堂にて療養し、弘仁7年(816年)10月2日に死去した。上人の弟子らは、太子堂を改築して上人を開基とした。
古伝承の一つに嵯峨天皇が万巻上人の霊廟を創るようにと勅命が下されたものと伝えられているが、これが太子堂なのか小筥根山新光寺だったのか具体的霊廟の場所と建物名などが銘記された古文書に接することが出来ない。新光寺は七堂伽藍の大きな寺院であったようで当時の箱根権現は万巻上人が嵯峨天皇に箱根権現社の再興再建を上奏している経緯もあり箱根権現社に七堂伽藍を創建する財政的余力は無かったと見られ、また弟子達も太子堂を造ったばかりで資金的余裕は無かったと推察される。
だとするならば、他界後の翌年に造られた新光寺の七堂伽藍は嵯峨天皇の勅令により万巻上人の霊廟として造られた可能性が高い事になるが、嵯峨天皇と新光寺の因果関係の確証を得るに至っていない。
確証は得られていないものの、社伝によれば第五十二代嵯峨天皇は弘仁八年(817)勅により駿豆相(実質的には小田原藩領とその周辺)の三州を寄進したと伝えられ万巻上人が他界した翌年817年小筥根山・新光寺が建立された年と奇しくも符合しており、確信は無いものの三州寄進と新光寺建立との因果関係が読めそうな気がして来た。
後年とはなるが第六十五代花山天皇の時には、皇子豊覚王が第十五代座主職に着任、天皇の皇子を賄う上でそれ相応の経済的基盤が無ければあり得ぬことと思われ箱根権現は底支え出来る経済基盤を有していたと見られる。また鳥羽上皇は箱根権現を崇敬し、酒匂郷四十八町を寄進しており、箱根権現は創建時より万巻上人草創の権現社と東福寺とが一体を成しており、仏教色が強かったため式外社とされていたが、朝廷の信仰篤く、関東鎮護の別格大社として崇められていた。
話は飛ぶが万巻上人が生前中の箱根山の火山は大きな噴火は無く小康状態を保っていた。富士火山の延暦噴火(800〜802年)は,日本後紀の「灰が雨のように降り,山や川は紅に染まった」「砕石が道を塞いだため,足柄路を廃して箱根路を開いた」等の記述内容から,青木ヶ原溶岩流を流した貞観噴火(864年)や宝永噴火(1707年)とならぶ富士火山の歴史時代の3大噴火とみなされてきた。
ところが最近の調べから足柄路を埋めつくしたはずの噴火堆積物は極めて薄いことが判明し、実質的に富士吉田東部地区が溶岩により埋め尽くされ富士山北斜面を通っていた一番古い東海道が長期不通となり、1年後には早くも開通したというのは沼津の根方街道に繋がる富士山南側ルートの旧東海道の切り換えだけのことだった。ただ、短期間とは言え、箱根峠を越える東海道の造成は喫緊の課題とされ、この地を統治する箱根権現への朝廷からの勅令があったものと推察され、万巻上人の弟子達が修験者や地元農民などの協力を取り纏め小田原と三島を繋ぐ新たな東海道を造ったものと思われる。
明治元年神仏分離令によって箱根権現が権現号を廃止し、箱根神社と改称した際に、金剛王院東福寺は廃寺となり、堂塔伽藍は打ち壊されたが、金剛王院の本尊阿弥陀如来と親鸞聖人筆と伝えられる十字名号とともに、親鸞聖人像は箱根の萬福寺に移され難を逃れている。明治になる前は箱根三所権現(箱根大権現)と称され万巻上人が建てた金剛王院東福寺が中枢をになっていたが、三所権現・九頭竜神社・弁財天が箱根大権現の最も大切な柱であったことを忘れてはならない。 

最後になるが、注目すべき二体の神像が箱根神社の倉の奥から見つかったことである。奈良時代の神の像など全国的に前代未聞のことではあるが、俗躰・女躰と見られるユニークな像が確認されたのである。残された僧躰は万巻上人座像であり計三体となり言い伝えと符合する。万巻上人座像は万巻上人を描写した人物像では無く僧躰のご神体と理解した方が三所権化の由緒から自然である。製作年代は万巻上人が生きていた時代より、ずっと後の事と鑑定されたが、製作されたのは平安後期でも鎌倉時代に入ってからでも構わない。要は、万巻上人が山上の神々をモチーフに新たな神々を作り上げ、万巻上人の唱えた二体の神像と己の像を後世の弟子が木造彫りし彩色し、現在の平成の時代へ三体残した創造的で自由闊達な原初の社風が、今もなお芦ノ湖畔に吹き渡っているように感じた。
既に国重要文化財に指定されている「木像萬巻上人座像」に加え、この二躰の神像が国重要文化財に2012年4月21日指定されたことを「あしがら新聞」が報じている。 
万巻上人
719年〜816年。本名は万願。箱根権現を事実上興した上人。
万巻の名の由来は経巻一万巻を読破したことによる。常陸の鹿島に神宮寺を建てた後、箱根に来て東福寺を再興し、これが箱根権現を事実上興したことになる。芦ノ湖中に住み、付近の住民を恐れさせていた毒竜を祈願により鎮め、九頭龍神として改心させたのも万巻上人の功績と言われる。97才の長寿を全うするまで仏教の普及に尽くした名僧で、その遺影は箱根神社の宝物殿に祀られている。
現在の函南町桑原を含む北東部一円は小筥根と呼ばれ、平安時代に筥根権現(箱根、函根)の神領となり、天平宝字元年(757)に筥根権現を開いた萬巻上人の菩提寺・小筥根山新光寺(廃寺)があった。上人が死去した後に、弟子たちが上人の愛した桑原の地(小筥根)に七堂伽藍の大寺を建てたものである。
駒ケ岳山頂の元宮から万巻上人が芦ノ湖湖畔に現在の箱根神社の場所に箱根三所権現と金剛王院東福寺を創建したとは言え、標高が高く芦ノ湖から吹きすさぶ寒気も厳しく、冬場では氷点下となり厳しい修行環境だったに違いない。万巻上人は山岳宗教を信奉する修験者団体の取りまとめ役として朝廷から箱根山へ派遣され、自らも厳しい神仏混淆の荒修行を重ねていたものの、歳を重ねるごとに弟子たちの勧めもあり、厳寒の箱根山芦ノ湖畔に比し、箱根の南の低地に位置する小筥根(函南桑原)は数段暖かい(年間平均気温16℃内外)、箱根権現の神領であった同里山へ足を運ぶことが多くなったと思われる。
緑濃い里山に囲まれ、来光川の流れ下る谷間に茅葺の農家が散在し、村々の老若男女とも顔馴染みとなった万巻上人は次第に閑静な当地へ通うことが多くなって行き、時には赤子を背負う母子の姿を観じて、上人が青年期に離別した母親を思慕したかも知れない。荒ぶる山岳修行の末の開眼、山岳霊峰には不可能な田畑を耕し、土に足が付いた暮らしの奥深さ、万巻上人が最後に見つめた小筥根の里山の平和な姿だったかも知れない。
弟子たちも上人が小筥根を深く愛されていることを熟知しており、当時としては驚異的年齢の97才で大往生した上人の心情をおもんばかり、桑原の地に七堂伽藍の大寺を建立し、その後都の一流仏師に仏像を作らせ万巻上人の弟子たちにより永く供養が続けられた。数多くの修験者達の参拝もうでも当然あった筈だ。
廃寺となった理由や時期は明らかでは無いが、仏像の状態が比較的良好であることから、火災や地震による本堂大倒壊では無く、老朽化や政治的変遷等により廃寺を余儀なくされたと思われる。長源寺裏手にある薬師堂(桑原地区の住民が維持管理して来た)の入口から来光川沿いに北西300mほど離れた水田の中に礎石が残されている。いずれにせよ、万巻上人が生前小筥根を愛したように地元住人も上人への尊崇と崇愛の念が強く、新光寺の廃寺後、誰とも無しに無為自然に仏像の安置維持管理と奉仕に努めて来たのである。
南東約300mにある長源寺裏手に位置する桑原薬師堂の中に仏像を安置し、戦火など万難を乗り越え仏像群(全24体)を無事に守り抜いて来た桑原地区の住人の強い信仰心に敬意を抱かざるを得ない。
そのおかげで戦後には仏像は県重要文化財などの遺産登録がなされ、2012年4月には「かんなみ仏の里美術館」が落成、万巻上人没後、実に約1200年ならんとする前に新光寺の仏像は国宝として国民の委託に応えるべく保存に相応しい安置場所へお戻りになったのである。これまでの桑原の先人達の御苦労に頭を下げたい。
おそらく今後新しく創設された「かんなみ仏の里美術館」に人々の注目の的が集まると予測されるが、私は全く違った切り口により、更に函南桑原の歴史を追及したいと考えている。 
万巻上人
万巻上人が生きた奈良時代は、仏教文化が「咲く花の、におうがごとき」奈良の都であったが、地方に起こった新宗教-神仏習合が逆にその都(中央)に持ち込まれた。
そしてその神仏習合の魁となったのが万巻上人であり、神宮寺の建立や権現信仰(思想)の確立に主役を果たされたのである。まさに当代の宗教的天才と謳われた真言宗の空海や、天台宗の最澄と並び稱せられる程の偉大な宗教家であったことが窺える。
万巻上人は京都の生まれで、父は智仁といい、「沙弥」と呼ばれる修行僧であった。
上人は、子供の頃から利発で物覚えがよく書もよくする勤勉家であった。しかも生臭いものを食べず華奢を嫌い、争いを好まぬ清僧のような地味な人柄だった。父の智仁は、子供にしては珍しく賢いので、誠に「奇なり」として仏門に入れることにした。
『筥根山縁起』によると元正天皇養老年中、洛邑に沙弥智仁あり。其氏を知らず。一男子を生ず。襁褓葡匐の際、口に葷腥を嫌い、膚に錦繍を辞す。父母大に之を奇とする。季歳をわきまえて釈門に入り、二十歳になり、受具剃髪して、日課、方広経を看閲すること一万巻。故に萬巻と称す。諸州の霊峰を巡歴した。
仏門に入ってからは、日課として仏典を読誦し、遂に万巻の経を読破したので人読んで「萬巻」と称するようになった。そして更に仏教の奥義を究めようと、修行僧となって諸国遍歴の旅に出るのであるが、奈良の都に出て高僧碩学に学び、比叡山に登ったのもこの頃のことであった。この頃の比叡山は専らこうした修行僧の修練の霊場であったのだが、空海や最澄が入峰修練したのは、それからまだずっと後年のことだった。
天平勝宝元年(749年)鹿島郡大領中臣連千徳、元宮司中臣鹿島連大宗とともに鹿島神宮寺の建立をした。
天平宝字元年(757年)朝廷の命を受けて、箱根山の山岳信仰を束ねる目的で箱根山に入山し、相模国大早河上湖池水辺で難行苦行の功で三所権現(法躰・俗躰・女躰)を感得した。これが箱根三所権現の由来である。また、芦ノ湖に住む9つの頭を持つ毒龍(九頭龍)が荒れ狂って村民を苦しめていたのを法力で調伏した。調伏された九頭龍は懺悔して宝珠・錫杖・水瓶を持って万巻上人に帰依したので、湖の主・水神(九頭龍権現)として祀った。
また、天平宝字7年(763年)多度権現の神託で多度神宮寺を建立した。
鹿島から箱根に向かう途中、海に炎が上がり魚が死んで漁民が苦悩しているのを目撃したので読経をすると、薬師如来が顕われて法力で温泉を海から山に移すように教導したので、37日間の断食祈祷で実現した。これが熱海温泉の由来とも伝承されている。 
残された仏像全てから新光寺の歴史を読み解く
万巻上人が亡くなられた翌年・弘仁八年(817年)に上人の菩提寺として小筥根山・新光寺(七堂伽藍)が創建された。建築様式は、奈良時代の後期に奈良の都において建設された七堂伽藍の様式に倣ったものと推察される。たぶん、奈良の都から腕の立つ大工棟梁以下職人が呼ばれたに違いない。
創建当初には仏像は安置されていない。当時は全国的に仏像等の偶像崇拝は必ずしも浸透しておらず、神仏混淆の山岳宗教にあっては、偶像崇拝よりは山・湖・木・岩そのものに神霊が宿るとの自然崇拝の念が強く、神仏混淆思想の大先達・万巻上人の直属の弟子達にとって仏像安置の必然性は頭の隅にも無かったと思われる。つまり、薬師如来座像が安置されるまでの長い期間仏像は新光寺に無かったことになる。
さて、新光寺の本尊とされる薬師如来坐像(静岡県指定有形文化財)の製作年代は専門家の推測するところでは、平安時代中期(11世紀半ば)頃とされ、一木彫りの仏像が全国的に広まる時代に入って仏像崇拝を尊しとし、仏教の寺に仏像を安置するのは当たり前とする平安期の住職が手配したものと推察される。
次に十二神将立像の製作年代は、平安時代3体・鎌倉時代・南北朝時代末〜室町時代初期・江戸時代に分かれ作られている。本尊の薬師如来を守る十二神将は十二体揃ってこその名称であるからにして平安時代造られた十二神将立像が残されていることから、平安時代既に十二体全てが揃っていた筈である。 
しかし、歳月を重ねる中にあって何らかの災禍にあって損壊する神将像が現れ、鎌倉時代より平安時代の神将を忠実に模した神将像が造られ、南北朝・室町時代も同様な作り直しがなされ、江戸時代に至るまで歴代の住職の計らいで十二体の神将像が全てが維持されて来たことを物語っている。
江戸時代の何時頃まで新光寺が存続したかは、一番新しい仏像の製作年代が特定される必要がある。
加えて、桑原薬師堂の着工時期の特定も必要だろう。新光寺の廃寺時期と桑原薬師堂の創建時期が重なるとは限らないが、新光寺に関する資料が見つからない限り、残された仏像群や建造物等を読み解くしか方途が無いのが現状である。礎石の遺跡発掘も必要となるかも知れない。
いずれにせよ、残された24体の仏像が新光寺に安置されていたものということを前提に置くならば、新光寺は817年に創建され、爾来、平安、鎌倉、南北朝、室町、江戸時代まで存続していたことが仏像から読み取れる訳であり、新光寺は長期間に亘り函南桑原(小筥根)に存続していたことになる。
また、新光寺の建設仕様に関しては、新光寺が創建された817年以前に作られた七堂伽藍形式の寺院様式をたたき台として新光寺跡の地勢や来光川との位置関係を精査の上、コンピュータ上で三次元モデルを作成することから始めるのも新光寺概要の現実経済的な模索方法と思われる。 
 
甲斐国湖水伝説の成立について

 

はじめに
「古来甲斐国は湖であったが、南に連なる山々を切り開いて湖の水を富士川に流した結果、肥沃な耕地が生み出された。」これは、甲斐国の成立を物語る国生み伝説として伝承されてきた甲斐国湖水伝説(以下「湖水伝説」という)の、一般に知られたあらすじである。険阻な山岳地域から盆地や谷筋に流れ込む幾筋もの急流の河川により、水害を受けやすい山梨の地形的特徴が、湖水伝説の背景になったと理解されている。
このような山梨県域を対象とした治水・利水史研究では、中世から近世にかけて実施された堤防工事とそれに対応した地域社会の動向、また旧河川流路の復元や治水・利水技術の変遷などに関する研究が、これまで積極的に行われてきた。
この一方、水に関わる信仰や伝承が、地域社会の中でどのように形成・継承されてきたのかを課題とした研究は、これまで一部の祭礼を除きほとんど行われておらず、治水・利水の展開や河川の流路変遷などにともなう地域社会の再編成が、信仰や伝承といった人々の水に対する心象表現にどのような影響を及ぼしたのかは、十分に明らかにされていない。
そこで本稿では、冒頭で紹介した湖水伝説を事例に、この伝説がどのようにして形成・継承されてきたのかを考察する。
湖水伝説は複数の内容が伝えられているが、このうち国母稲積地蔵による開削を伝える湖水伝説をめぐっては、既に高達奈緒美氏が国母稲積地蔵の縁起である「国母地蔵由来記」および「上条地蔵大菩薩略縁起」を史料紹介し、その記述内容の分析を行っている。
この一方、苗敷山(韮崎市)を舞台として伝承されてきたもう一つの湖水伝説については、韮崎市教育委員会により総合学術調査報告書が刊行されており、考古・文献・美術・建築・民俗という学際的な分野から苗敷山の信仰と遺跡・遺物が総合的に研究されている。中でも、山本義孝氏は、神仏が習合した苗敷山の信仰を「宮寺」様式として位置付けるとともに、鳳凰三山の山岳信仰と連携したものと指摘し、また湖水伝説について、大地に恵みをもたらす国土の母神信仰を基盤にして、甲府盆地の開発において最大の難敵であった御勅使川と釜無川の水を鎮める信仰と、苗敷山を含んだ鳳凰三山周辺の山岳信仰の中で醸成された山の地蔵菩薩の信仰が重なり合い形成されたことを論じている。
本稿では、苗敷山と国母稲積地蔵にそれぞれ関係する、二つの湖水伝説をとりあげ、これらの関係性について考える。 
一 苗敷山の仏像と湖水伝説
本章では、苗敷山に関係する湖水伝説について考察する。苗敷山は甲府盆地の西部、御勅使川扇状地の扇頂部北側にそびえる標高約一〇〇〇メートル程の山地であり、赤石山脈(南アルプス)に属する鳳凰三山(観音岳・薬師岳・地蔵岳)から辻山・千頭星山・甘利山へと続く尾根筋の先端に位置する。
苗敷山の山頂付近は、穂見神社奥宮の境内となっており、明治時代初頭までは真言宗寺院の宝生寺が穂見神社の別当を務め、現在の奥宮本殿は虚空蔵堂と呼ばれていた。また、山頂付近からは古代の竪穴建物跡が出土しているほか、奥宮南側には応安二年(一三六九)銘の年記がある石造物が確認されており、古代・中世から苗敷山の信仰が受け継がれてきたことがうかがわれる。
現在の奥宮は、本殿・幣殿・拝殿が接続して一体となった建物となっており、元文元年(一七三六)建立の社殿を基本とし、明治三十六年(一九〇三)および昭和二十八年(一九五三)に大修復を施したと考えられている。このうち本殿の身舎は、桁行三間で中央と左右の三つの間に分かれているが、右の間には、近年に至るまで木造明王形立像が祀られていた(巻頭図版1)。この像高は一二五・二センチメートルあり、調査の結果、鎌倉時代(十三世紀)の制作と考えられている。
『甲斐国寺記』に収録されている「宝生寺由緒書」には、穂見神社の本殿以下の社殿および虚空蔵菩薩像・明星天子像・不動明王像をはじめとする仏像が書き上げられているが、このうち本像は、由緒書に見える木造の不動明王像に該当すると判断されており、また、頭部が三つに腕が六本ある三面六臂の姿をしていることから、本像が竈の神、山神として祀られた三宝荒神を表していると考えられている。
一方、『甲斐国志』の「苗敷山宝生寺」項には、「虚空蔵堂・同拝殿 三間・六間、三扉中ハ本地虚空蔵、右ハ国建大明神、左ハ山代王子権現」と記されており、同寺の虚空蔵堂には三つの扉があり、虚空蔵菩薩が中の扉、国建大明神が右の扉、山代王子権現が左の扉に祀られていたと伝わっている。
先述したように、本像は奥宮本殿の右の間に祀られていたことから、『甲斐国志』の記述にしたがうと、本像は右の扉に祀られた国建大明神の像に該当すると考えられる。
国建大明神について、『甲斐国志』の「苗敷山宝生寺」項には次のように記されている。
【史料1】
昔シ洪水ノ時、鳳凰山ノ南下ニ仙窟アリ、神在丘ト云フ、六度仙人ト云フ者住メリ、蹴裂明神ト力ヲ戮セ南山ヲ鑿リ洪水ヲ漏シ播殖ノ地ヲ開キ悪竜毒鱗ヲ駆リテ五穀ノ種ヲ施セリ、故ニ山ヲ苗敷ト号ス、(省略)六度仙人ハ山代ノ里ニ住シ山代王子ノ女国玉姫ヲ娶リテ三男一女ヲ生ム、長ヲ風祭王子ト云ヒ、次ハ風間王子・雨宮王子・藤巻姫ナリ、地ヲ割キテ四郡トナシ、風祭ヲ巨麻ニ封ジ、風間ヲ山梨ニ封ジ、雨宮ヲ八代ニ封ジ、藤巻ヲ都留ニ封ジテ遂ニ此ニ退キテ神トナル、国建明神以後四子亦各々神トナル、刀八毘沙門・山梨明神・八代権現・諏方明神、是レナリト云ヘリ、
史料1によると、国建大明神は、蹴裂明神とともに甲府盆地南部の山を切り開き、水を流して肥沃な土地に変え、甲斐国四郡を創設したという六度仙人が神となった存在とされている。すなわち、国建大明神(六度仙人)であると考えられる本像は、湖水伝説の主役に該当する仏像であると位置付けられる。
この一方、『甲斐国志』の「苗敷山宝生寺」項において、「本地虚空蔵」「国建大明神」とともに虚空蔵堂に祀られ、同所の左の扉に配置されていた「山代王子権現」の消息はどのようになっているのか。
『甲斐国寺記』の「宝生寺由緒書」には、穂見神社に祀られた仏像のうち中核をなす像として、「虚空蔵菩薩 木像」「不動明王 木像」とともに、「明星天子 金仏」が記載されているが、このうち明星天子像が宝生寺の本寺であった法善寺(南アルプス市)に伝来する銅造の虚空蔵菩薩坐像(巻頭図版2)に該当すると考えられている。
本像は、像高一六・〇センチメートルあり、鎌倉時代(十三世紀)の制作と考えられ、本来は鏡板が付いた御正体の本尊であった。明治時代初頭の神仏分離政策により宝生寺が廃寺となった際、本像は本地仏であった虚空蔵菩薩像とともに同寺の本寺である法善寺に移されたが、明治四年(一八七一)五月三日の法善寺宝蔵の火災により、本地仏の虚空蔵菩薩像が焼失し、本像のみが現存するに至ったと考えられている。
先述したように、虚空蔵堂(奥宮本殿)の右の扉に祀られた国建大明神が明王形立像に該当することから判断すると、本像は、左の扉に祀られた山代王子権現に該当すると考えられる。山代王子は国建大明神(六度仙人)の妻となった国玉姫の父であり、『甲斐国志』の「苗敷山権現」項には「上古国建ノ神南山ヲ決鑿シテ湖水
ヲ乾シ中郡平地トナリシ時山代王子稲苗ヲ敷キ施シテ民ニ稼穡ノ道ヲ教ユ」と記されていることから、山代王子権現は、治水の神である国建大明神とともに農耕神として崇拝されたことがわかる。
それでは、苗敷山に伝わった湖水伝説は、いつ頃から確認されるのであろうか。宝生寺に関わる近世前期を遡る由緒書や文書類が存在していないため、苗敷山に関係する湖水伝説の発祥時期は定かではないが、享保十七年(一七三二)に成立した『甲州噺』には、「巨摩郡甘利の西の方に苗敷山と云有、此山上に立せ玉ふ虚空蔵菩薩は、其節國中の水干瀉へ稲の苗を與へ給ふとて、一國の百姓毎年八月十三日に其年の新米をちいさき俵に拵へ持参致すよし、古来よりの語り傳御座候由申之」とあり、十八世紀前半段階において、既に古来よりの口伝として継承されていたことがわかる。 
二 国母稲積地蔵と湖水伝説
前章では、苗敷山に関係する湖水伝説について考察したが、湖水伝説にはもう一つ別のストーリーが存在する。それは、甲府五山に列する臨済宗の古刹東光寺(甲府市)の塔頭であった法城寺に祀られていた「国母稲積地蔵」と呼ばれる地蔵菩薩像(巻頭図版3)に関する伝説である。
国母稲積地蔵に関する最古の文献として注目されるのは、十一世紀に成立し、十五世紀以降に書写、追記された『地蔵菩薩霊験記』に掲載されている次のような伝承である。
【史料2】
蒲無河ト云大河東西ニ流タリ。彼河ノ南ニ、四方一百余町バカリノ曠玄一条ナル白砂ノ河原アリ。水ニ漂波ニセカレテ砂高ク見ケレハ、人、高砂河原ト名付ケル。彼ノ中央ニ、流レ御堂ト号シテ、歳霜久キ古寺一宇アリ。本尊ハ地蔵菩薩、六尺三寸ノ立像、木躯ノ彩色ニテマシマス。修理モ及十余年トゾ見シ。(省略)淳和天皇ノ御宇ニ、霖雨頻ニシテ、洪水山ヲ崩シ岡ヲ破ケレバ、彼ノ寺ハ、往古西山白根岳ノ麓ニ、頂沢川ノ旁ニ安通院ト号シテ、其山ニ深ク立玉フ。行基菩薩ノ御建立、済度甚深ノ道場タリ。本尊ハ地蔵ニテ在ス。山深人居モ遠シテ、結縁ノ便モ乏クヤ思召ケン、彼ノ流レ洪水ノ為ニ推流レテ、遥ニ彼ノ河原ニ移テ立玉ヘバ、世人是ヲ流御堂ト白スナリ。
史料2には、三河国大浜(愛知県碧南市)に住み地蔵菩薩を崇拝した法師が、信濃国(長野県)の善光寺を参詣する旅中、駿河国(静岡県)の富士山麓で「甲州一条ノ高砂河原ニ立玉フ地蔵堂」の存在を知り、往復の途中で立ち寄った際の見聞が記されている。
すなわち、「蒲無河」(釜無川)が東西に流れる「甲州一条ノ高砂河原」に「流レ御堂」と呼ばれる地蔵堂があり、六尺三寸(約一八九センチメートル)の彩色された木造の地蔵菩薩像が安置されていたが、この堂は本来、「頂沢川」(須沢川、南アルプス市)の河畔にあった行基建立と伝わる安通院の本堂であり、平安時代の淳和天皇の時代(在位期間 弘仁十四年[八二三]〜天長十年[八三三])に洪水に遭って流されたという。
また、十五世紀以降に書写され、『地蔵菩薩霊験記』と一括されて近世に流布した『地蔵菩薩三国霊験記』には、行基が甲斐国の「篠原山」(甲斐市)という高さ五十余丈、東西七里、南北十里の山を霊場とし、その地で地蔵菩薩の化身と出会ったが、当時は、篠原山の北方に大河が東西に流れ、その川下は西南に向かっていたことが記載されている。
そして、行基は、地蔵菩薩の姿を二寸二分の仏像に刻み、養老二年(七一八)三月二十四日に一間四方の草堂を建立し、仏像を本尊として祀った。それ以来、「湖水黄岡ヲ耕、彼ノ寺領ト名ケ、ソレヨリ民豊ニシテ、春ハカマドヲニギハイ、秋ハイネヲツミケレバ、人呼『稲積』トハ申シケル」とあるように、この仏像が「稲積地蔵」と呼ばれ豊作をもたらす仏として崇拝されたことが記されている。
なお、本書によると、行基は草堂の名称を日輪堂と名付けたが、その後の経緯について次のように記されている。
【史料3】
其後、淳和天皇ノ御宇ニ、彼ノ国洪水氾濫シテ、寺既ニ崩トス。故ニ、可治之由ヲ奏聞ス。依テ、天長十年二月十八日、弘法大師ニ勅シテ、『日輪法成之寺』ト額ヲナシ、水神ヲ祭ケレバ、水四谷ニ流レ、波瀾モ斯ニシヅマリケリ。サレバ法成寺トハ、其ノ心、水ヲ去土ト成ト云フコヽロナリ。其後、清和天皇ノ御宇ニ、国母染殿ノ后ノ御領ナレバ、御葬台法金剛院ノ末寺ニテアルベキ由ヲ宣下アリ。則、勅額ヲ下給ハル。
史料3によると、淳和天皇の時代に洪水があり草堂が荒廃したため、天長十年(八三三)二月十八日、「日輪法成之寺」と草堂の寺号を定めて水神を祀ったところ、洪水が鎮まった。さらに、清和天皇の時代(在位期間 天安二年[八五八]〜貞観十八年[八七六])、「法成寺」が、天皇の母である「国母染殿ノ后」(藤原明子)の所領内にあったため、后ゆかりの法金剛院(京都市右京区)の末寺となったという。
中でも、国母稲積地蔵が祀られていた「法成寺」に水神を合わせて祀ったところ、洪水が鎮まったとの記述から、十五世紀段階で国母稲積地蔵と水神への信仰が一体化して継承されたことが判明し注目される。
なお、史料2の『地蔵菩薩霊験記』では「甲州一条ノ高砂河原」にあった「流レ御堂」、また史料3の『地蔵菩薩三国霊験記』では「篠原山」の「日輪堂」と、両者の説話の内容には差異が確認されるが、東西に流れる大河(「蒲無河」)の畔に地蔵像を祀った堂舎が存在する点や、淳和天皇の時代に洪水の被害を受けたことが伝わっている点から、両者は共通の伝承から発生した説話であると判断される。
そして、これらの説話の内容を背景としつつ、国母稲積地蔵と湖水伝説との関係が具体的に記されているのが、十六世紀後半の戦国時代に成立した『甲陽軍鑑』に見える次の記述である。
【史料4】
ほうじようじハ、甲斐国、とつとむかしハ水うミなり、ときく。かミでう地蔵ぼさつの御ちかひにて、南の山をきりて、一国の水、ことぐくふぢ川へおつるにより、甲州国中平地となりて、今かくのごとくなり。さるによりて、かミでう地蔵堂とハ申せども、寺号をバ、「法城寺」と申。この文字は、「水去て土と成」と云ことハり也。ほうじやうじやぶれバ、甲州ハすいびなり。末代迄も甲州持将ハ、此寺かミでう法城寺を建立あるべし。
史料4によると、甲斐国がかつて湖であった時代に、法城寺の上条地蔵菩薩(国母稲積地蔵)の誓いによって甲斐国の南方の山地を切り開き、一国の水を悉く富士川に流したために、国中が平地になったという。
このような国母稲積地蔵に関係する湖水伝説について、今日伝承されている内容に類似する原型が伝わるのは『甲陽軍鑑』を初見としており、同書が執筆された十六世紀段階に遡ることがうかがわれる。
また史料4からは、甲斐国の統治者たちが国母稲積地蔵を祀る法城寺を保護しなければ同国が衰微すると、十六世紀の甲斐国に生きた人々の間で認識されていたことがわかる。
その後、近世に入り、湖水伝説について詳細を記した史料として『甲斐国志』の記述が注目される。
【史料5】
稲積国母地蔵ノ縁記ニ云フ、養老中行基菩薩本州ニ来タリ南山ヲ擘キ洪水ヲ治メシ時、地蔵大士ノ像ヲ刻シデ篠原ノ岡ニ祭リ法城寺ト号ス、治暦中斯羅三郎此ノ地ヘ移シ永禄中信玄古府ヘ移シ、後又板垣ノ郷東光寺ニ移シテ今ニ現在セリ、(省略)甲州記追加ニ行基菩薩杖頭ニ地蔵大士ノ像ヲ刻ミ篠原ノ岡ニ安置セシガ洪水ニ漂ヒ西郡上高砂ノ域ニ止マリシヲ、村人取リアゲテ之浮御堂ト号ス、後ニ弘法大師一尺余ノ像ニ模作シ杖頭ノ旧像ヲバ頭ノ内ニ収メ中郡古上条ニ遷シ置キ日輪法城寺ト勅額ヲ申シ下シ嵯峨ノ法金剛院ノ末寺トナス、淳和帝天長十年ノ事也トアリ、
史料5によると、法城寺は、養老年間(七一七〜七二四)に行基が国母稲積地蔵像を造立して「篠原岡」に祀ったことが始まりであり、治暦年間(一〇六五〜一〇六九)には源義光(新羅三郎)が「国母郷」に、また永禄年間(一五五八〜一五七〇)には武田信玄が「古府」(甲府)に同像を移し、さらに、東光寺に移転して現在(『甲斐国志』が編纂された十九世紀初頭)に至ったという。
また、行基が造立した仏像は、洪水によって「篠原岡」から上高砂(南アルプス市)周辺に流れつき、地元の住民が「浮御堂」に祀ったが、弘法大師(空海)が、天長十年(八三三)にこの像を模して一尺余(約三〇センチメートル)の仏像を造り、本来の像をその頭部に納め「中郡古上条」(甲府市)に移したという伝承が伝わっている。
史料5を史料2、3、4の記述と比較すると、『甲斐国志』の国母稲積地蔵に関する記述は、『地蔵菩薩霊験記』『地蔵菩薩三国霊験記』『甲陽軍鑑』の内容を融合させ、またそれぞれの記述内容の整合性がとれるように調整して成立していることがわかる。
この一方、国母稲積地蔵像は、『地蔵菩薩霊験記』『地蔵菩薩三国霊験記』に見える行基・空海といった高僧に加えて、源義光・武田信玄といった甲斐源氏の一族ゆかりの仏像として、移転を繰り返しながら受け伝えられてきたことや、行基が山を切り開いたことなど、これまでの伝承が変容して受け伝えられたことを確認できる。
なお、『甲陽日記』大永七年(一五二七)条には、「正月廿五辛亥、上条ノ地蔵堂可取立トテ、南宮ノ西ノ地形平普請初」とあり、「上条ノ地蔵堂」(法城寺)の甲府移転の状況が記されている。これは、先述した史料4に記されているように、甲斐国の統治者は法城寺を保護しなければ、同国が衰微すると認識されていたことを背景として、当時甲斐国を統治していた武田信虎が、甲斐国の国主として法城寺の保護を実行したことを表している。
このように、国母稲積地蔵に関する湖水伝説は、地蔵信仰と甲斐国の水害に関する伝承が十五世紀までに複数成立していた中で、十六世紀に湖水伝説としてその原型が成立し、さらに近世をとおしてこれらの伝承が融合・変容しつつ、十九世紀初頭までには今日伝承されている内容に確定したと考えられる。 
三 結びつく二つの湖水伝説
以上、苗敷山と国母稲積地蔵にそれぞれ関係する湖水伝説について考察した。本章では、二つの湖水伝説は相互に独自に発祥したものなのか、それとも共通の原型を有する伝説なのかを検討する。
第二章で考察したように、『地蔵菩薩霊験記』によると、「蒲無河」(釜無川)が東西に流れる「甲州一条ノ高砂河原」にあった地蔵菩薩像を祀る「流レ御堂」は、本来、「頂沢川」(須沢川)の河畔にあった安通院の本堂であったという。また『地蔵菩薩三国霊験記』によると、国母稲積地蔵像を祀った「法成寺」(日輪堂)は、「篠原山」に所在したという。そして、『甲陽軍鑑』では、国母稲積地蔵像を「かミでう地蔵ぼさつ」と呼称しているように、本像は古上条に祀られていたことを示唆している。
   図1 甲斐国湖水伝説関係地図
これらの史料に記載された甲府移転以前における国母稲積地蔵像の所在地をまとめると、1須沢川、2高砂、3篠原、4古上条、5一条というようになる。この1から5までの地域は、図1のとおり、いずれも御勅使川および同川と合流する釜無川の旧東流路沿いに展開していることがわかる。実際に『地蔵菩薩霊験記』には、「甲州一条ノ高砂河原」の所在地を「蒲無河」(釜無川)が東西に流れる場所と記している。また、『地蔵菩薩三国霊験記』には、「篠原山」の北方に大河が東西に流れ、その川下は西南に向かっていたことが記載されている。
釜無川東流路は、竜王(甲斐市)から東の方角に向い、荒川と合流した後、南西の方角に流れを変えて落合(甲府市)付近で笛吹川と合流しており、永禄三年(一五六〇)以前に竜王信玄堤が築造されて流路が閉め切られるまで存続していたと考えられている。『地蔵菩薩霊験記』『地蔵菩薩三国霊験記』に見える河川の説明は、まさしく釜無川東流路を表現していると考えて間違いないだろう。
そして、1は苗敷山の南西山麓を流れ御勅使川と合流していることから、国母稲積地蔵の信仰は、苗敷山麓の須沢川から御勅使川を経て釜無川に至る釜無川水系流域に展開しており、苗敷山の信仰との接点が確認される。
史料上においても、苗敷山と国母稲積地蔵にそれぞれ関係する湖水伝説には接点がうかがわれる。すなわち、享保十七年(一七三二)頃に成立した『甲州噺』巻之上には、国母稲積地蔵に関する湖水伝説と併記して、苗敷山に関する湖水伝説が記載されている。また、嘉永四年(一八五一)に編纂された『甲斐叢記』には、図2のような苗敷山と御勅使川が一体として描かれた挿図とともに、次のように記されている。
【史料6】
苗敷山 上條南割村 頂に社あり。國母地蔵 又虚空蔵とも云は訛れるなり と國建神とを配祀る宝生寺といへる寺ありて、摂祀れり。寺領七石余あり。古き傳に國建神、行基菩薩と力を戮て南山を决鑿ち、湖水を涸して國を闢き、稲苗を殖始し故に此山を苗敷と号とぞ。
史料6によると、苗敷山の山頂の社に「国母地蔵」と「国建神」が祀られており、「国建神」は行基とともに南方の山地を切り開いて湖水を流し、甲斐の国土を開いたという。ここでは苗敷山の伝説の中に国母稲積地蔵が登場し、苗敷山の本地仏である虚空蔵菩薩と一体のものとして伝承されてきたことがわかる。また、挿図(図2)からも、苗敷山と国母稲積地蔵ゆかりの御勅使川を一体の地域とする認識が存在していたことがうかがわれる。
一方、宝永二年(一七〇五)に書写されたと伝わる「国母地蔵由来記」には「当国開闢之神国建大明神ト奉白シモ、本地ヲ白セハ地蔵菩薩ニテマシマス」と記されているほか、十八世紀後半に記されたと考えられている「上条地蔵大菩薩略縁起」にも「駒ヶ嶽に苗敷仙人といへる翁ありて、ながく大士の仏餉となさんと始て地に五穀の種子を播し玉ふ、苗敷山に安座し玉ふ虚空蔵菩薩是也、今国中の人作りの神とあがむ」とあり、国母稲積地蔵の縁起中にも、苗敷山ゆかりの神仏が登場する。
   図2『 甲斐叢記』前輯四「苗敷山」項 挿図(山梨県立博物館蔵)
ところで、虚空蔵菩薩は天を統べる神として地蔵菩薩と一対となって信仰されてきたことや、虚空蔵菩薩を金剛界大日、地蔵菩薩を胎蔵界大日として同体とする説が存在すること、また鎌倉期以降、浄土思想の中で虚空蔵菩薩=天=極楽への導者、地蔵菩薩=地=地獄からの救済者という観念が広まったことが指摘されている。
この指摘をふまえると、国母稲積地蔵と苗敷山の本地仏虚空蔵菩薩は、本来一対・一体のものとして信仰されており、それが水源である苗敷山上とその山麓、さらに釜無川水系流域にわたって、水神信仰と交わりつつ、湖水伝説として継承されてきたと考えられる。
なお、国母稲積地蔵を祀った寺院が「法城寺」である一方、苗敷山の別当寺院は「宝生寺」である。この寺号の読みは類似しており、両寺は国母稲積地蔵および本地仏虚空蔵菩薩を祀る本来同一の寺院であった可能性がある。
このように、苗敷山と国母稲積地蔵にそれぞれ関係する湖水伝説は、本来苗敷山からその山麓を流れる須沢川・御勅使川・釜無川流域にかけて伝承されていた共通の甲斐国の国生み伝説を起源としたと考えられる。それが、旧釜無川東流路の消滅に代表されるような河川の流路変遷にともなう地域社会の再編成によって、川上の苗敷山周辺と川下の釜無川水系流域にそれぞれ分化して口伝されてきたのが、今日に伝えられる二つの湖水伝説となったのではないだろうか。 
おわりに
以上、本稿では、苗敷山に祀られた仏像について考察し、苗敷山の信仰および湖水伝説との関係について論じた。また、国母稲積地蔵に関する湖水伝説の内容を整理するとともに、苗敷山の信仰や伝承との関係について考察した。
この結果、苗敷山と国母稲積地蔵にそれぞれ関係する湖水伝説は、本来、苗敷山の本地仏である虚空蔵菩薩と国母稲積地蔵を合わせて信仰の対象とし、苗敷山からその山麓を流れる須沢川・御勅使川・釜無川流域にかけて広まった共通の国生み伝説を起源として誕生したと考えられることを明らかにした。
それが、『地蔵菩薩霊験記』『地蔵菩薩三国霊験記』が成立した十五世紀以降、虚空蔵菩薩を祀る川上の苗敷山周辺と国母稲積地蔵を信仰する川下の釜無川水系流域に徐々に分化して、二つの湖水伝説として体系化し継承されたのではないだろうか。
ところで、高達氏は、苗敷山と国母稲積地蔵にそれぞれ関係する湖水伝説について、本来は別系の治水伝説であった国建明神の伝承が、国母稲積地蔵の縁起に取り込まれ、それによって苗敷仙人伝承と稲積地名伝説が結合したことを指摘してい。また、山本氏は、大地に恵みをもたらす国土の母神信仰を基盤にして、甲府盆地の開発における最大の難敵であった御勅使川と釜無川の水を鎮める信仰と、苗敷山を含んだ鳳凰三山周辺の山岳信仰の中で醸成された山の地蔵菩薩信仰が重なり合い、「流レ御堂」や国母稲積地蔵像への信仰が形成されたことを指摘している。
このように、高達・山本両氏ともに、二つの湖水伝説は、本来別系統であった信仰が相互に統合・影響しあったものとして位置付けているが、本稿で考察したように、湖水伝説は、川上の苗敷山周辺と川下の釜無川水系流域という一体性を持った地域において成立した同一の伝承を起源としつつ、十五世紀以降、両者がそれぞれ独立した伝説として継承されてきたと考えられる。
本稿の研究結果については、苗敷山および国母稲積地蔵の信仰圏の変遷や、関係地域内に伝わる由緒・縁起との比較など課題が残されている。今後は、これらの課題を治水・利水史研究と絡めながら考察していく必要があろう。
 
空海と密教布教

 

空海 求道入唐
中国密教を学ぶために空海は延暦23年(804)8月に入唐してのち、長安の青龍寺恵果和尚に師事した。延暦24年5月(805)のことであった。中国密教第七代祖の恵果和尚は空海の非凡な才能を認めて、密教を日本に普及する役割を空海に託することにして、空海に中国密教のすべてを与えた。空海はよくこれに応えて、短期間の勉学で、大悲胎蔵の学法灌頂と金剛界の灌頂とで、大日如来との結縁を得た。さらに、阿闍梨位の灌頂を受けて、「遍照金剛」の灌頂名を授かった。「この世の一切を遍く照らす最上の者」の意味だそうである。
恵果和尚が入寂したので、空海は全弟子を代表して法要を済ませ碑文を捧げた。延暦25年(806)3月、長安を後にして越州へ。4か月滞在して土木技術・薬学の多分野を勉強、遣唐使判官高階達成の帰国船に便乗、同年8月、明州を出発して帰国の途へ。途中暴風雨に遭い、五島列島福江島玉浦(たまのうら)大宝に寄港。そして、真言密教の経典・密教法具を携えて大宰府に大同元年(806)10月到着。ここに入京許可が下りるまで長期間滞在した。20年留学予定の官費留学僧が早々と帰国したことに、学業放棄の疑いがかけられたので、入京の許しはなかなか下りなかった。このとき桓武天皇は崩御していた。
少し時代を遡り光仁天皇の時の話をする。光仁天皇の後継者になることを目論んで、山部親王(桓武天皇)は藤原氏南家の後ろ盾が無くなった従兄弟他戸(おさべ)親王とその母井上内親王とを巧妙に謀殺した。聖武天皇の孫他戸親王は天皇の有力候補者である。謀略は宝亀3年(772)のことだった。競合する天皇候補者を消した山部親王は翌宝亀4年に皇太子になり、天応元年(781)に希望のとおり天皇となった。父光仁天皇は同時に同母弟早良親王を南都東大寺から還俗させて皇太子とした。
桓武天皇は藤原百川・藤原良継(式家)と組んで、大伴一族を圧迫して、皇族としての地位を築きあげていった。天皇になってから、大和朝廷の武威を振い、東征を進めて、朝廷の支配地を増やしていった。南都での祀りごとの掣肘をきらって、専制君主を続ける天皇は奈良の北方山城への遷都を強引に計画した。いわゆる長岡京遷都である。
遷都は延暦3年(784)強引におこなわれた。翌年、長岡京使臣藤原種継が造営指揮を執る中で襲われ殺されたので、怒った桓武天皇は遷都反対派大伴一族ら多くを殺戮、無実を訴える弟早良(さわら)皇太子を冤罪で殺した。早良皇太子を乙訓寺に閉じ込めて、絶食で抗議する皇太子を一度も調べることもせずに、淡路に流すと偽って、道中河内で強殺してしまった。南都の東大寺から還俗までさせた弟を殺す桓武天皇の残虐行為はどう釈明しても、罪は免れないものであった。新しい皇太子は桓武天皇の第一皇子安殿(あて)親王になった。後の平城(へいぜい)天皇である。
それから天皇と皇太子の周りで起こる災害とピンポイント的な肉親突然死の連続に桓武天皇はおびえきって暮らしていた。延暦25年(806)平安京で専制王桓武天皇は死去。 
平城天皇狂う
桓武天皇の嫡男平城(へいぜい)皇子は天皇に即位、そして弟嵯峨皇子は皇太子に。この平城天皇も父桓武天皇を真似て、即位の翌年に異母弟伊予親王を殺していた。平城天皇も、錯乱が続いて、即位から3年で退位せざるを得なかった。藤原氏式家の天皇撹乱もあって性格的に脆弱な天皇は精神病を病んで、自ら退位したのである。平城天皇は異母弟伊予親王の祟りを恐れていたといわれる。
大同4年(809)4月、平城天皇は発病で退位し上皇になった。同時に嵯峨天皇即位。新しく平城上皇の三男高岳(たかおか)親王が皇太子になった。このあたりまでは政権の移動は順調に推移したかにみえた。
だが、健康を回復した平城上皇は大同4年12月、突然平城京に移動して、翌年9月に詔を発し、「都を平城京に戻す」と宣言した。嵯峨天皇はこれに一旦は従ったふうを装い、坂上田村麻呂、藤原冬嗣、紀田上を平城宮造宮使として、奈良におくりこむ。嵯峨天皇は征夷大将軍坂上田村麻呂、文室綿麻呂ら近衛府武人を掌握していたので、上皇の宣言で動揺した貴族、役人を抑えることができた。大同5年10月、嵯峨天皇は左大臣藤原仲成(武家、薬子の兄)を捉えて降格、平城上皇の内侍藤原薬子(くすこ)、実は上皇の愛人が尚侍として再び権勢をふるっていたので、嵯峨天皇は薬子を平安京に追放とした。
けれども、騒動はこれで収まらなかった。平城上皇は藤原薬子を同伴、奈良を脱出して、東国で兵を挙げる行動に出た。嵯峨天皇は迅速に動き、上皇の脱出を封鎖したので、上皇はやむなく引き返し、出家隠棲することにした。愛人薬子は薬物を飲んで自殺した。捉えられた藤原仲成は射殺された。これで、天朝は少しばかり静謐になった。そもそも藤原薬子の素性はなにか。藤原種継の女(むすめ)、中納言藤原縄主夫人として三男二女を産んでいる。長女を安殿親王の宮女として東宮に差し出してから、安殿(あて)皇太子とよい仲になっていた。藤原葛麻呂と通じてもいたので、あまりの醜態に、桓武天皇から東宮を追放されていた横着な女である。安殿(あて)皇太子が天皇になった時、ふたたび宮廷に戻り、夫藤原縄主を九州大宰府大弐として、京都から遠ざけるという醜行をしている。
親政宜しからぬ桓武天皇の不人気ぶりはひどいもので、死後葬る桓武陵が天皇の意思通りとならず、世情不安が一段と高まっていた。大騒動の末に葬られた京都伏見の御陵は秀吉の伏見築城で壊されて、現在に至るまで場所が特定できていない。暴虐的天皇の末路は哀れである。困り果てた明治政府は平安遷都千年を記念して建立した平安神宮に天皇を祀った。平安神宮に桓武天皇がいますと認める人は少ない。
飛鳥王朝で暴力的朝廷革命を演じた天智天皇の末裔たちは総じて性格がよろしくなかった。天智天皇のご落胤藤原不比等の一族も権勢をおごり、天皇家の継承に混乱をもたらしていた。ところが、平城上皇の弟嵯峨天皇は天智天皇系の人物であり、果敢なところもあるが、父と兄とを反面教師として、敗者を鞭打つことはしなかった。皇族の統制は次第に行き届いたものになっていた。祭政にほころびを見せないところが、嵯峨天皇の力量であった。 
嵯峨天皇と空海
嵯峨天皇が政治に奔走している時、空海は和泉国岸和田町槙尾山の「施福寺」に滞在していた。山の中のこの寺は若い空海が平安京の大学を退校し山岳修行に入った修験場であった。空海は明教道を専攻していたが道教の勉強にあきたらずに、この山寺で剃髪して仏教界を求道していた。官僚や学者になることを辞めて、仏教の世界に入ろうと空海は若者らしく私度僧として修行に入っていた。延暦12年(793)、20歳の空海が勤操(ごんぞう)を導師として剃髪した御堂が現存している。
中国留学を終えて、帰国した空海は大宰府にしばらく滞留、そして大同4年(809)に和泉国槙尾山「施福寺」の勤操のもとに身を寄せていた。若い空海は同寺に滞在している間も、密教普及活動に余念がなかった。
槙尾山から歩道で15キロほど北東に河内長野市と三日月町がある。三日月町からさらに東へ直線で10キロほどのところに葛城山(553b)がある。その山麓に千早赤坂村があった。葛城山の南には峰伝いに金剛山(1125b)が聳えている。生駒山脈でもっとも険しい山をイメージしてもらってもいい。千早赤坂村に至るには、三日月町から東へ5キロほど歩くのであろうか。そこに檜尾山(ひのきおさん)観心寺がある。観心寺は古くは「雲心寺」とよばれ、8世紀の初めごろ、山岳修験道の祖「役小角」(えんのおづぬ)が金剛山を中心に周囲の山に修験道場を開いていた。雲心寺もそのひとつとされている。雲心寺は南面に神ヶ丘(山元)と呼ばれる高い尾根があり、観心寺は修験場にふさわしい渓谷のなかにある。金堂は国宝に指定されている。
大同4年(809)、空海はこの雲心寺に入り、密教の秘事星供(ほしく)を行った。星供とは北斗七星を祭る行事である。儀式では、7本の幟を立て、その前に棗(なつめ)と茶を供え、願うひとつの息災、利益、延命を祈る儀式である。人間は誕生の瞬間に、本命星と北斗七星(妙見)が決められ、その二つの星が生涯の運命を左右するといわれた。空海は境内に7つの星塚を定め、座禅を組んだ。今、御影堂が残っている。観心寺の開祖は、空海の弟子道興大師実恵(じつえ)となっている。この寺院は空海から託されたお寺なのである。
空海は大同4年(809)7月に太政官符を待って入京、和気氏の私寺京都高雄山寺(後の神護寺)に入った。入京については、後から帰国した最澄の尽力と支援があった。空海には支援者嵯峨天皇がいた。桓武天皇の第二皇子嵯峨天皇が兄平城上皇を「薬子(くすこ)の変」で追放して、天皇の地位を磐石なものにしていた。カリスマ性ある嵯峨天皇の強い指導力と政治力で、皇族の整備が行われていた。平城上皇の出家と上皇の子高岳(たかおか)皇太子の廃嫡、異母弟大伴皇子(後の淳和天皇)を皇太子に立てて、中央政権の安定が進められていた。弘仁9年(818)の弘仁格の発表で、朝廷の死刑制度廃止が決められた。嵯峨天皇の英断であった。
こうして、新しい真言密教を普及させようと、嵯峨天皇は空海と相携えて祭政の共同事業を工夫していた。嵯峨天皇はまず、空海を乙訓(おとくに)寺の別当に任じた。弘仁2年(811)のことである。乙訓寺は聖徳太子が建立した西岡で最も古い寺であるが、これを真言密教寺院とすることになったのである。嵯峨天皇は乙訓寺に行幸して空海と言葉を交わしている。二人はお互いに認め合う能書家であった。最澄もこの寺を訪ねて密教について宗論をたたかわせていた。空海は弘仁3年(812)11月には、この乙訓寺から高雄山寺に戻っている。空海は高雄山寺を真言密教寺院、灌頂道場とした。最澄はここで灌頂を授かっている。
また、「薬子の変」(809)の後、奈良の東大寺など南都寺院との関係修復や平城京や飛鳥朝古寺院の梃入れ手入れが課題となっていた。嵯峨天皇は東大寺に「真言寺」を建立し、空海を寺住にして、出家していた元平城上皇に灌頂を施して身分を安定させていた。さらに高岳親王を空海の弟子とさせ、甥親王の生きる道を求めさせていた。
嵯峨天皇にはなかなか親王が誕生しなかった。夫人橘嘉智子(たちばなのかちこ)が世子誕生を願って、大同4年(809)、山城国相楽郡(さがらのこおり)の鳴川傍の善根寺に「報恩院」を建立。帰国して入京したばかりの空海に同寺を託す。空海は法華経曼荼羅にある普賢菩薩を本尊とすることにして、姉の子智泉(ちせん)とともに像造に取り掛かる。仏師は椿井(つばい)双法眼。智泉も手伝いしていたところ、讃岐にいた智泉の母が突然現れて、仏像つくりを手伝った。その手だれに仏師が驚いたという。玉眼は智泉が入れた。智泉の呪願の甲斐あって、翌弘仁元年(810)に皇子が誕生した。この皇子は後の仁明(にんみょう)天皇である。空海に対する嵯峨天皇の信頼が増し、智泉の評価が高まったといわれる。なお、報恩寺は後年、近くの「岩船寺」と併せられたので、院号がそちらに残っている。 
暴虐な桓武天皇
少しばかり遠回りになるが、嵯峨天皇の父桓武天皇の親政について触れておいたほうが都の政治情勢を理解するのに便利だと思うので、とりあえず、桓武天皇の業績と足跡を追ってみることにする。
平城京から長岡京へ、さらに長岡京から平安京へ遷都したのは桓武天皇だ。10年しか経っていない長岡京を置いて平安京へ遷都するという専制政治を押し通した暴虐的天皇。父は光仁天皇(天智天皇孫皇子)、母は高野新笠(たかののにいかさ)。生母は帰化百済人である。秦氏を名乗る一族で、百済国王族の系列といわれる。秦氏は山城国高野や西岡など桂川以西の稲作適地を所有し、農業の開発を進めていた。伏見の稲荷神社には秦氏の私氏神が祀られている。稲成りの神様である。桓武天皇が桂川以西の地を新都として選んだのは、ごく自然なことであった。
平城京は大川から遠くて、水運ばかりか、水不足で悩んだ都市であった。人口十万人ほどが生活する街が飲料水に困り、生活水や排泄水の捨て場に困った非衛生的な状態であった。街全体が非衛生的な環境が80年も続いたら、たいていの住民は街を逃げ出したいと思うのは当然のことである。
地方豪族と組んで何かと問題を起こす藤原京・平城京の天武天皇系の皇族。皇籍に入り込んだ藤原氏ら貴族たちは朝廷官僚と組んで、律令制度の整備のうちに私領化・特権化を進めた。寺院も国家安寧を願う朝廷と結んで官寺をいくつも創立、聖武天皇がさらに国分寺と国分尼寺を建立して地方領民の負担を重いものにしていた。
ようやく、聖武天皇系の権力の影が薄れたので、藤原氏式家(しきけ)の授けで天智天皇系の光仁天皇が出現していた。光仁天皇は身の安全を考え、酒浸りの生活を送る凡庸な皇族を演じていた長老的存在。貧乏なくせに、豪族や貴族の娘を幾人も受け入れる女にだらしのない男光仁天皇。
聖武天皇は伊勢神宮の斎宮姫を務めていき遅れた媛井上(いのえ)内親王をこの光仁親王に押し付けていた。井上内親王は酒人内親王と他戸(おさべ)皇子を産んだ。光仁酒飲み親王の娘(内親王)につけられた名前は皮肉に聞こえる。そして、天武天皇系母をもつ他戸親王は有力な王位継承資格ある皇子であった。藤原氏南家の後ろ盾があるうちは、他戸皇子は嘱望された皇子であった。宝亀2年(771)1月、他戸(おさべ)皇子は皇太子になった。
聖武天皇の娘井上内親王については数多くの伝承があるらしい。夫光仁天皇との不仲説、高齢出産の疑問がある内親王と皇子の誕生、妹不破内親王の夫氷上塩焼王(天武天皇皇孫)の「藤原仲麻呂の乱」連座、弟安積親王の怪死、光仁天皇呪詛の誣告、天皇姉難波内親王呪詛の誣告、天皇の生母の死去の時、呪術をかけていた噂を流された。斎宮姫だった聖武天皇王女対する恐れと嫉みが、井上内親王の身辺に渦巻いていた。
井上内親王は宝亀3年(772)、光仁天皇を呪った大逆容疑で皇后を廃された。同年5月、他戸皇子は皇太子の地位を外された。そして宝亀4年(773)11月、井上内親王が、光仁天皇姉難波内親王を呪い殺したとして、他戸親王とともに庶人とされ、大和国宇賀郡(五条市)に幽閉された。五条は紀ノ川上流、九度山よりもさらに東行した辺鄙なところである。罪人として、吉野に送り込まれたかたちである。皇子名が「他戸」とは不思議な名と私は考えたのだが、これで納得がいった。悪意のある当て字である。「おさべ」の字は別な文字が充てられていたはずである。宝亀6年4月、親王は幽閉先で母とともに急死する。藤原式家から謀殺の手が回ったものとみられる。天武天皇系の皇族はこうして、次々と消されていった。
桓武天が即位した頃は国家の財政危機が表面化していた。つまり、四十五代聖武(しょうむ)天皇が国家事業の中心に仏教を据えて、祭政一致理想を目指した政治姿勢の影が大きく桓武天皇の政治をゆがめていた。たとえば、40年に及ぶ奈良東大寺の大仏鋳造と大仏殿の建立の中で、次第に寺院の巨大化がすすみ、寺領と荘園の増大とが、律令制度の崩壊につながりかねない危機的な状況をもたらしていた。領民の負担が大きくなり、貴族と寺院が富を得る国となっていた。桓武天皇は華厳宗を初めとする南都六宗の寺院を抑圧する方針を執った。造東大寺司の組織も廃した。
ところで、藤原氏式家の媛を夫人とした山部(やまべ)皇子は秦氏を母に持つ百済人らしく大躯であった。性質は猛々しく戦闘的であった。念願かなって天皇に推挙されて桓武天皇となってからは、山城国坂上村の帰化人田村麻呂を重用した。大和朝廷の武威を誇り、東北地方の東夷征伐に田村麻呂を幾度も派遣して、東夷を成功させていた。坂上田村麻呂に降伏し、平城京に連れてこられたアイヌの指導者アテルイとモイを無益にも殺してしまう仁愛のない天皇であった。
桓武は秦氏が開発していた山城国長岡に目をつけ、専制的政治を行うために、遷都を考えたらしい。延暦4年(785)、長岡京遷都に尽力していた藤原種継が長岡京の開発中に矢を射かけられ殺された。このとき、桓武は同母弟早良親皇に嫌疑をかけ、淡路へ流配中に暗殺された。これが桓武天皇に一生付きまとう汚点となった。 
平安京「東寺」
桓武天皇は平安京遷都にあたって、平安宮、朝廷八部省、神泉苑、羅城門、諸寺社など多くの施設を造営した。そのひとつ、つまり、「東寺」は桓武天皇が建立した寺だ。平安遷都の翌々年延暦15年(796)、藤原伊勢人が造営した。京都羅城門の東側に建てられたので、九条通り「東寺」と呼ばれた。
当初は東寺・西寺二つの鎮国寺が造営されて、東国と西国の鎮護を司る官寺であった。朝廷と貴族に人気があった東寺が大事にされて、「西寺」は次第にさびれて廃されてしまったという。そのきっかけは、ほんの些細なことであった。天長元年(824)のこと、雨乞いの祈祷が勅命で竜神が住むという「神泉苑」で行われた。当時の空海と西寺の守敏が祈雨の法を競った。空海の祈祷が天に届き、三日三晩の大雨が降った。天朝の信頼を得た空海は天長元年、苑内に聖観音を本尊とする真言寺院の建立に携わった。当然、朝廷における東寺の勢いが増した。
人気を東寺に奪われた西寺は、空海を待ち伏せ、矢を射かけて、側の黒衣の層に傷を負わせたという。雨乞いの競い合いに敗れた守敏(しゅび)が羅生門のところで襲ったとされるが、仏僧が弓矢を持って空海を襲ったとも思えず、西寺の寺人の仕業であったろう。羅生門の前のバス停に「矢取り地蔵」がある。
「東寺」で最も古い建立は南大門の北側正面「金堂」である。延暦15年に創建された。薬師三尊像が本尊として祀られている。文明18年(1486)土一揆で惜しくも消失したが、慶長8年(1603)豊臣秀頼の寄進で再建された。須弥壇の薬師如来本尊は安土桃山時代の仏師康生(こうしょう)の作品といわれる。
空海が最も力を入れて作ったのが「講堂」で、堂内21体のうち、15体は創建当時のものといわれる。いずれも一本木造り、貞観彫刻の傑作。堂内に立体曼荼羅を構成。大日如来を中心に五智如来、入り口に五菩薩、出口に五明王、同四隅に大日如来たちを守る四天王。四天王のリーダーとして、帝釈天(梵天)が白象に乗り、右手に独鉆を持った凛々しい姿が目につく。延徳3年(1491)に再建、慶長3年(1598)地震で大破したので、ふたたび修復され、密教寺院の奥ゆかしさが現在まで演出されている。
「五重塔」は薬師如来を本尊とされるが、像は本堂内になく、塔の芯柱を薬師如来像とみたてて、他の仏像を各階に配置してある。また、壁画が堂内壁面に描かれ、狭い堂内が胎蔵を思わせる佛界の雰囲気を醸し出している。早くから建立に取り掛かったにもかかわらず、高い棟は難工事であったため、空海生存中に落成を見ることができなかった。また、五重塔は落雷による火災炎上を幾度も重ね、現在の塔は徳川家光の寄進で完成したものである。塔の維持管理を考えて、今日では参詣者への公開は特定の期間に限られている。東寺の高い塔は昔から都人の誇りとするものであった。
ところで、空海が東寺を預かったのは弘仁14年(823)、嵯峨天皇が「東寺を長く空海に給預する」とした時からである。空海は50歳だった。嵯峨天皇は空海と最澄との宗論対立が激しくなったので、最澄の天台宗の確立を認め、空海には真言宗の根本道場を造営する官寺を与えることにしたのである。
大師はすでに高野山に密教修道場を造営中であったが、官営「東寺」を預かることになり喜んだといわれる。現在の東寺は宗教法人「教王護国寺」と称している。寺院の綱領として「朝廷を教導し国を守る寺院とする」ということである。嵯峨天皇はその考えに賛意を示したということであろう。天皇は空海に、さらに密教の教導に勤しむように求めた。空海は東寺境内に講堂と五重塔の建造に取り掛かった。「講堂」は立体曼荼羅の世界を造り、世人を喜ばせた。 
高野山修禅道場の開発
次に触れるように遍照金剛大師は高野山道場の建設にあたり、まず、和歌山伊都郡九度山に「慈尊院」を建立した。寺院は「紀ノ川」上流の粉河をさらに遡り、「かつらぎまち」を過ぎ、「高野口町」の船着場で船を降りて、直線的に門前町を登ったところにある。陸路では、河内長野市から南行15`、国道371号で橋本市橋を通り、すぐ紀ノ川に沿って下り、門前町に辿り着く。
橋本市をそのまま通り抜けて371号を南に走ると高野山に至る。登山の道は慈尊院から九度山を数時間かけて登り、ようやく高野山大門のところに辿り着く。高野山は仏僧の修行場にふさわしい高山である。千b超える台場は深山らしく越冬のときは修行僧に厳しいところである。
諸国から運んできた石を紀ノ川から高野山に運び上げる。「石の道」というのがある。石などの船荷は高野口の船着場で降ろされた。たとえば、高野山霊場の奥の院の「結城秀康」の緑の墓石ははるばる越前から船で運ばれ、石の道を通りおさめられた。
慈尊院は現在、世界資産の指定を受けているが、その認定の根拠を理解しておかなければならない。
金剛大師は弘仁7年(816)に朝廷から許可された高野山真言宗修禅道場の開発に取り掛かっていた。大師は修行道場を造営するについて、まず、高野口町の雨曳山の山麓に参詣者の宿所、全山の政所(社務所)として、慈尊院をこしらえた。開基は実恵(じつえい)となっている。本尊は弥勒菩薩。寺の伝承によれば、建立は弘仁7年とされている。高野山道場として、最初の道場だが、厳冬時の避寒道場の役目を果たしていた。ここが高野山参詣の登り口につながっている。昔のこと、女性は女人禁制の高野山に入山できなかったので、この寺院にとどまって参詣した。だから、ここは「女人高野」と呼ばれている。
大師は弘仁8年からの高野山開発は弟子康範・実恵に委ねていた。同9年に高野山に登り、翌年まで滞在していた。七里四方に結界を結び、伽藍建立を弘仁10年(819)に取り掛かった。高齢になった大師の母阿刃氏(玉衣)は高野山に身を寄せたが、ここ慈尊院に住まいを置いた。
大師は高野山道場から数時間かけて、母に会いに通った。月に九度も山に通ったというので雨曳山は「九度山」と呼ばれるようになった。構内に「御影堂」がある。
阿刀氏は承和2年(835)2月に慈尊院で亡くなった。墓地は弥勒菩薩の横にある。大師生母は女人高野山信徒の象徴的存在となり、慈尊院は次第に聖地のようになった。たくさんの女性信者が参詣に来ている。
「慈尊院」の木造弥勒菩薩は国宝となっている。寛平4年(892)制作の平安朝の木造彫刻は秘仏として明治時代になるまで長い間公開されてこなかった。現在は21年ごとの開扉とされている。こんどの御開帳は何年後だろうか。 
密教の普及に向けて
遍照金剛大師の密教布教は休みなく続けられた。
奈良東大寺に太政官符による灌頂道場「真言院」を建立(弘仁13年)、そして、大師は東大寺十三代別当となった。華厳宗総本山として、南部仏教の中心的存在だった大仏と大講堂を持つ東大寺寺院は新しく中国密教真言宗を入れる歴史的転換期を迎えた。東大寺はその後、南都六宗に真言宗と天台宗を加えた八宗兼学道場を持つ巨大な国家寺院となった。東大寺真言院建立の太政官符を出したのは左大臣藤原冬継だが、嵯峨天皇の勅によるものであった。嵯峨天皇の朝廷静謐の願いを受けて、この東大寺真言院で空海別当が僧籍となった元平城上皇の灌頂を授けたことは先に述べた。
高野山開発に手を染めた後、空海は勅命に従って、難工事に直面していた香川国琴平の満濃池の大改修を指揮(弘仁12年)、堤を完成させて水利に悩む香川の人たちを救った。土木技術の中国での勉強が役に立った。金剛大師の宗教界における指導者としての評価はいよいよ高まり、弘仁14年(823)太政官符により「東寺」を下賜された。空海の真言密教普及の努力とその成果が認められたのだった。
「東寺」を預けられた空海は東寺のとどまり、中国密教の普及と教導に心を砕いた。東寺西院の「御影堂」が空海の住いだ。現在、大師の念持仏不動明王と大師の坐像が御影堂に置かれている。惜しいことに、北朝年号康暦元年(1379)12月に御影堂焼失、翌年11月に再建された。この時期北朝天皇は後円融、将軍は足利義満であった。東寺の密教は「東蜜」とよばれた。
大師の密教布教活動は続いた。たとえば、天長5年(828)に、一般庶民のための学校「綜藝種智院」を東寺の近くに建立。学問・学業を勧めることにした。そして「綜藝種智院式并序」を残した。また、天長7年(830)淳和天皇の勅に応えて「秘密曼荼羅十住心論」十巻を著して、密教の宗論を公にした。さらにこれを要約「秘蔵宝論」三巻として御門に献上している。
一方、高野山の開発には膨大な資金と労力を注ぎ込まれたが、天長9年(832)、ようやく高野山壇上伽藍の「金堂」が完成。同年(832)8月、万灯会(まんとうえ)の落成式を行うことができた。大師はこの年の秋から高野山に居を構え、全国の真言寺院僧侶の修道の指導に入った。
空海は御礼の意味を込めて、朝廷へ承和元年(834)に「宮中真言院、正月御修法」申し出の奏状を提出、翌年承和2年に「御七日御修法」を行うことができた。さらに、承和2年(835)2月、東大寺真言院で、「法華経」「般若心経秘鍵」を講じた。
嵯峨天皇と空海との間には堅い信頼関係が続いていた。空海の病気理由の隠棲願いは嵯峨天皇の慰留で聞き入れられなかった。だが、大師は入寂の準備に入り、多くの人の至福と国家の安寧を願う姿を弟子たちに見せていた。承和2年(835)3月15日、大師は高野山の弟子に遺言、3月21日に入寂した。享年は満60歳だった。母阿刀氏の後を追うような形となった。
21日が大師遍照金剛の月命日である。現在でも東寺では毎月、大師様ご縁日の供養(御影供)がおこなわれ、境内で弘法市(骨董市)が開かれる。その日は大勢の信者が集まる。 
空海の若いころの足跡
多くの仏徒に慕われた大師について少しばかり述べる。
空海の幼名は「佐伯真魚」(さえきのまうお)。宝亀5年(774)、香川国多度郡(たどのこおり)屏風浦に生まれる。中国密教の大成者不空三蔵の入滅の日に生まれたと解説する人がいる。父は佐伯直田公(さえきのあたい たきみ)善道。「郡司」という地方官である。郡政所(まんどころ)構内に善通寺ができたかたちであろうか。佐伯氏について調べてみた。
佐伯氏について、言い伝えがある。
佐伯氏は古代から続く豪族である。天皇家が熊野から大和に侵入したときに降った大伴氏の末裔である。大連大伴室屋から後を継いだ神部氏族。佐伯部を率い、朝廷の武人として天皇に仕えた。そして宮廷門の警固を永く仰せつかった一族。警備する宮中西門は「佐伯門」とよばれていた。平安朝の唐風化に従って、音声が同じ、「藻壁門」に替えられたという。
佐伯氏の衛士には東北から連れてこられた東夷が組み入れられていた。空海が幼少の頃、参議にまで昇進した佐伯今毛人(いまえみし)は初め甲賀宮司、次に造東大寺次官、右衛士督、造東大寺長官、造西大寺長官、太宰の大弐、造長岡京使を経て、民部卿にまで栄達した人だが、東夷の衛士旗頭らしい名前だと思う。
地方の佐伯氏は1、播磨・讃岐にいた景行天皇系と伝えられる佐伯氏。本姓は直(あたい)。2、河内・阿波・安芸・越中・丹波に散らばっていた佐伯氏。1、2は各地の佐伯部を統率する地方的伴造(とものみやつこ)とさらに中央の上級伴造佐伯氏に従属していた。空海は讃岐多度の佐伯直田公義道の子息。幼い時から素晴らしい頭脳の持ち主で、意志の強い子であったらしい。
空海の母は「阿刀玉依」。阿刀大足(あとのおおたり)の妹である。阿刀大足は法相宗の流れをくむ学者で、桓武天皇の皇子伊予親王の侍講を務めていた。阿刀氏は渡来人の子孫。一族には学者、僧侶が輩出している。河内国渋川郡跡部に本拠地を持っていた。いまの八尾・東大阪あたりになる。物部氏の系列である。祖神・饒田命(うましにぎたのみこと)を祀る氏神社を平安遷都のときに、京都右京区嵯峨広沢南野町に遷座させている。
延暦8年(789)、15歳の若い空海は平城京か長岡京に大足を訪ね、論語や儒学、孝経を教わった。延暦11年(792)18歳のとき大学寮に入れてもらった。儒学を研究する明経(みんぎょう)科を選考する学徒となったが、仏教山岳修行に入るために延暦12年(793)に退学した。
これに憤慨した父に向けてか、母方の伯父阿刀大足に対してか、空海は道教・儒教・仏教の比較を論じて、なぜ自分が仏教に身を投じたかを「聾瞽指帰」(ろうごしいき)を書いて弁明している。
空海は修験場の和泉国槇尾山「施福寺」で剃髪、単身で山林修業に入った。導師は勤操(ごんぞう)、空海の生涯の師にあたる人である。勤操は後に奈良「大安寺」を預かることになる。空海の姉の子智泉(ちせん)を空海は大安寺の勤操に預けている。若いころから、随分と剛穀な人であった。私度僧は和泉国の山岳や吉野の峰々を登り、吉野金峰山(きんぶせん)などに分け入った。さらに四国中を歴訪、讃岐白槌山などで厳しい修行を続けた。
若い僧は山岳修行を続けるとともに、奈良の大安寺(南大寺)と東大寺、飛鳥の久米寺などの諸寺を訪れ、「大日経」をはじめ密教諸経典を学ぶ。その時、経典を勉強するために訪問した大安寺で、沙弥「戒明」に「虚空蔵求門持法」を授かった。次いで、経典の研究に詳しい南都法相宗の指導者「善珠」を興福寺に訪ねて、教えを乞うている。
善珠は「法師俗姓安都宿称」といわれていた。法相宗の頂点「玄ム」は善珠の父である。だから、「玄ム」「善珠」とともに阿刀氏である。善珠の母は藤原宮子。これはとんでもないことである。藤原宮子は文武天皇の夫人。首(おびと)皇子を産んでから、長い間、精神的不安から、皇后の役割を果たせずに、興福寺の僧侶玄ムの世話になっていたからである。首(おびと)皇子は後の聖武天皇である。成人した天皇は38年振りにか、偶然に母宮子に会った。宮子に「皇后」の名誉な称号を贈った。聖武天皇は穏やかな性格の人であったようだ。 
文武天皇と藤原京、元明天皇の平城京遷都
四十二代文武(もんむ)天皇は、天智(てんじ)天皇の姫阿閉(あべ)皇女を母とする系統に恵まれた問題ない生まれである。珂瑠(軽)皇子とも呼ばれた。父は草壁皇子である。母阿閉皇女の異母姉「持統天皇」は草壁皇子を産んでいるので、軽皇子からすれば、持統天皇は祖母にあたる。軽皇子は697年8月に祖母から譲位を受けた。15歳であった。若過ぎる天皇の政治を補佐するため、持統は太政官政治を取り仕切った。この時、藤原不比等が、律令制度の整備を行った。農民は黄色の衣服、農奴・奴婢は黒衣を着ることなどが定められた。税の義務が細かく整備された。皮肉なことに文武天皇冶政の後半5年は律令制度の整備にも関わらず、天災、干ばつ、飢饉それに疫病が続き、不安な世情であったといわれる。
文武天皇の即位のとき、藤原不比等の養女宮子が入内する。軽皇子が紀州御坊の九海士村から連れてきた村長の娘である。髪が長くてきれいな娘であったという。文武天皇は体が弱く、10年の治政で終わってしまった。不幸な夫人宮子は皇子首(おびと)を産んでから、飛鳥朝廷を離れている。
宮子のもう一人の子法相宗の指導者「善珠」は朝廷と宗教界に繋がりを持っていた。善珠は皇太子安殿(後の平城天皇)の信頼厚く、桓武天皇の弟早良親王とも親交があった。
空海が若いころ眺めた平城京は寺院の美麗なたたずまいと、国際色蓋かに外国人たちが行きかっていて、長安の都を思わせるものであった。空海は平城京で中国密教を学びながら、唐に渡り仏教をさらに極めたいと考えたであろう。ここで、往時の平城京の巨大寺院の風景を想像することにしたい。
まず、藤原京から平城京へ遷都するときの経緯を追ってみる。
慶雲4年(707)元明天皇の即位の年である。文武が若死にしたので、母阿閉(あべ)皇女が皇位を急遽継承した。この年に遷都の審議が始まった。遷都の詔は和銅元年(708)、遷都が始まったのは和銅3年(710)であった。遷都を積極的に進め、政治の中心となったのは右大臣藤原不比等であった。藤原京には左大臣石上麻呂が残り、旧京を管理していたが、和銅4年(711)に火災が発生、遷都の勢いがさらに増したものと思われる。
新都の範囲は、現在の奈良市と大和郡山付近。街区の形成は朱雀通りを中央に左右に街を二分。北に向かって西側が右京区、東側が左京区、そして左京区から東側に伸びた外京(がいきょう)がある。建設はまず、内裏と大極殿、それに右京(西の京)の貴人たちと高級官僚とが住む官舎が建てられた。左京には官僚と庶民が住む街ができた。その後、藤原京時代の寺院が続々と移築された。平城京の人口は約10万人、官僚は約1万人、僧職を持つ者の総数は官僚の数と同じく律令で定められていた。
藤原京から平城京に移築された寺院は左京に真言大安寺(舒明天皇建立百済大寺・高市大寺・大官大寺)、律宗元興寺(曽我氏氏寺、法興寺・飛鳥寺)、右京の法相宗薬師寺(天武天皇発願・持統天皇建立、藤原京本薬師寺)であった。それに、山科から移した法相宗興福寺(山科厩坂寺、藤原氏氏寺)の4つが官寺である。いずれも官寺らしく巨大で華麗な白鳳・天平の寺院らしい華麗荘厳な伽藍であった。
大安寺は奈良の「南大寺」とも言われた大寺であった。聖徳太子の発願、舒明天皇の創立となった百済大寺(くだらおおてら)と高市大寺(たけちのおおでら)が前身の寺であった。高市大寺は父舒明天皇三十三回忌、母斉明十三回忌に当たるとして天武天皇が、天武2年に造営していた。高市大寺は後に大官大寺(だいかんだいじ)と改名されている。
平城京の大安寺は東西に2基の七重塔を持つ大伽藍が「道慈律師」によって創設されている。道慈は大宝2年(702)に入唐、長安の西明寺に16年間学んだ学僧であった。その西明寺を模した荘厳な伽藍が大安寺であった。空海は「大安寺は是興室の構え、祇園精舎の業なり」と述べている。残念ながら、寛仁元年(1017)火災で伽藍を焼失、八世紀制作の木彫刻も9体が残るだけになり、寺院は往年の荘厳さを取り戻すことはできなかった。
猿沢の池の南に南北に長い境内を持っていたのが、「元興寺」(がんこうじ)である。飛鳥の法興寺(飛鳥寺)を移設したもの。曽我氏の氏寺であったが、平城遷都を機に官寺となった。飛鳥時代の法興寺は大安寺に対抗する三論宗の学問所であり、興福寺に対抗する法相宗の飛鳥流の学僧の集まりであった。平安中期ごろに宗勢の衰えをみせて、わずかに真言宗の僧を輩出するようになった。
真言律宗元興寺の伽藍は次第に荒廃分離し官寺の役目を失っていった。伽藍とはなれた僧坊が禅寺として檀家を持ち、私寺として宗教活動をしていた。その僧坊の一つが「極楽寺」として智光法師が説く「智光曼荼羅」を見せて信徒を集めた。そして当時の寺院としては初めて、境内に墓所を持つ寺院となった。元興寺伽藍は律集宗道場として生き、いきながらえて西大寺末寺となり、「観音堂」は東大寺末寺になった。有名な五重塔は江戸時代に消失したままである。飛鳥に残された「飛鳥寺」は明日香村に現存している。
ところで、猿沢の池から北を遠望する「興福寺」の五重塔は好い眺望である。この寺は藤原氏の氏寺。藤原鎌足が夫人鏡大王の病気平癒を願って京都山科の私邸に建立した「山階寺」が前身である。後に「厩坂寺」が建立されたのを藤原不比等が移動させた。
藤原京の「本(もと)薬師寺」から奈良西の京に移されたのが「薬師寺」である。近鉄橿原線「西の京駅」から徒歩5分。東塔・西塔・金堂が遠くから見える大伽藍である。天武天皇が病気の皇后鵜野讃良(うののきらら)の平癒を願って、天武9年(681)に像造を発願して、像を納める寺院を藤原京(橿原市城殿の町)に建てた。竣工を待たず天武天皇は朱鳥元年(686)に没したので、鵜野讃良皇后(持統天皇)の手で薬師寺は完成した。本尊薬師如来は三尊だが、いずれも銅製で、天武天皇が百済・高句麗系渡来人の技術者を抱える一族であることを示している。平城京への移転完了は、養老2年(718)であった。藤原京の「本薬師寺」は十世紀頃まで存続していたようである。
平城京を語る時、「東大寺」と「唐招提寺」に触れないわけにはいかぬ。聖武天皇は各地方の治政に国分寺・国分尼寺(金光明寺・法華時)を置くことにして、天平13年(741)に詔を出していた。平城京に建てた聖武天皇の皇子基親王の追修の寺「金鐘山寺」(737建立)が国分寺として、盧舎那仏を本尊とする大仏寺になったのが「東大寺」である。鑑真和上を唐から招き、東大寺における僧の得度儀式「具足戒」を授ける導師として、また華厳宗教義を講義する師として仏教界に尽くしてもらった。鑑真和上の引退後の「唐招提寺」は戒壇院として、西の京「薬師寺」の北側1キロのところに。静かな境内をつくっていた。
奈良朝75年のなかで、華厳宗「東大寺」、律宗「西大寺」、戒壇院「唐招提寺」など大寺が創立された。このあと、空海は奈良朝後期の爛熟した時代にこれらの寺院で教学を学んだ。
空海が南都六宗の指導者たちと幅広い交流を持つことができたのは、母の実家の一族との友好的関係があったからである。これこそが空海が宗教界と朝廷に受け入れられる下地となっていた。
桓武天皇が南都六宗の政治力を嫌って、平城京を捨てたにも関わらず、どうしても仏教界にすがることが続いていた。平安朝の桓武は20年ぶりに派遣を決めた遣唐使団に僧侶を含めることにした。平城京南都六宗派の影がぬぐいきれなかった。
延暦22年、第16次遣唐使船が出国に失敗したので、翌23年の新しい派遣団が選考されるようになった。空海はこの機会を逃さなかった。
空海のような私度僧が唐に留学するには、父佐伯一族、母阿刀一族の支援がなければ実現できなかった。私度僧の身分では遣唐使船に乗ることはできない。官寺の僧侶になる必要があった。延暦23年(804)、東大寺戒壇院で、得度受戒して、僧籍を得た空海は、阿刀大足や山の民、農民たちからの資金提供を得て、遣唐使船に乗ることができた。空海は31歳になっていた。ここで、空海の姉の子、菅原氏智泉が、従者として遣唐使船に乗り込んでいたことを記しておく。 
むなしく入り充ちて帰る
第16次遣唐使船に運よく乗り込めた空海は、延暦23年(804)春、難波を出て、唐津、五島を経由して、同年8月、予定地を外れて、福州長湲県赤岸鎮に漂着した。語学の天才空海は、海賊と疑われた一行を代表して、外交使節であることを証明する大活躍をしたという。最澄が乗船した船は別の海岸に漂着している。
空海一行は延暦23年12月、長安に入ることが出来た。空海は長安醴泉寺でインド僧般若三蔵に梵語を習った。そこで梵語の教本と新釈経典を与えられた。翌24年(805)5月、中国密教第七祖、青龍寺の恵果和尚を訪ね、師事することができた。恵果和尚は空海の非凡なる才能と学識、経典の習熟に理解を示し、中国密教の日本での普及を空海に託することを決めたといわれる。
空海は6月に大悲胎蔵の学法と灌頂、7月に金剛界の灌頂を受けた。空海は二つの灌頂で、大日如来と結縁したとされる。8月には伝法阿闍梨位の灌頂を受けた。「この世の一切を遍く照らす最上のもの大日如来」を意味する。「遍照金剛」の灌頂名を授かった。すぐさま、空海は青龍寺と不空三蔵ゆかりの大興善寺の500人ほどを招待、阿闍梨位を得たことを披露した。それから大勢の人が曼荼羅と密教法具の制作、経典の書写に関わり、恵果和尚から託物を与えられた。12月恵果和尚は入寂された。
空海は延暦25年(806)3月に長安を出発、4月福州へ、四か月の滞在。ここで、土木技術、薬学の多分野を勉強。遣唐使判官高階達成の帰国船に便乗、8月明州を出発帰国の途に就いた。海上で暴風雨に遭い、五島福江島玉之浦大宝港にたどりついた。大宝寺に本尊虚空菩薩があると知った空海は参籠、満願の朝に明星の瑞光を観る。修行してきた中国密教が日本の鎮護に効果をもたらすと信じた空海は寺を「明星院」と名付けた。それから、大宝寺は西の高野山といわれるようになった。
空海は大同元年(806)10月、大宰府戒壇院に滞在、朝廷に「請来目録」を提出した。桓武天皇は既に崩御、平城天皇が即位していた。20年の留学予定を2年で帰国したのは「闕期(けつご)の罪」にあたるとして、入京は許されなかった。あまりにも早く終わった修学を朝廷は認めなかった。南都仏教界の僧侶たちも空海の功績を信じることができなかったらしい。ようやく嵯峨天皇が空海の偉業を評価して、大同4年に太政官符が出された。空海の京都への入京は紆余曲折があった。
帰国後の軌跡については、「空海求道入道」「嵯峨天皇と空海」の項目を参考にしていただきたい。 
高野山宿坊「大圓院」と理源大師聖宝
お礼参り一行は高野山の宿坊「大圓院」に一泊した。このお寺さんの開基は聖宝(しょうぼう)理源大師である。真言宗小野流の祖。天智天皇の六世孫で、俗名「恒藤王」。父は「葛声王(かどなおう)」。空海の実弟「真雅」が東大寺別当の時、16歳で入室弟子に。源仁(真雅の弟子)付法弟子であった。出家してから長い間、三論宗を中心にして南都諸宗を学ぶ。後年、本格的に受法、真言密教の正嫡となった。
五十九代宇多天皇の帰依が厚く、東寺長者僧正などの重職に。貴顕社会との交流を重視した師真雅に比べて、清廉潔白、豪胆な人柄で、「真雅」在世中は真言宗で傍流的存在であった。しかし、宗論に偏することなく、吉野の金峰山での山岳修業を務め上げて、修行道の整備、仏像の像立に奉仕を惜しまなかった。だから、「当山派修験道」の祖といわれる。寛平2年(890)、「貞観寺」の座主に。師真雅が852年に創立した寺である。そして、延喜5年(905)、佐伯氏の氏人から東大寺東南院を預けられ院主に。三論教学の拠点となった。
聖法は醍醐山の修験場を開いた。貞観16年(874)伏見山科小野庄をやや離れた笠取山付近で地主横尾明神とあい、上醍醐の山上に霊雲と霊泉(清滝)があることを示される。聖宝はそこに、准胝観音像と如意輪観音像を入れる「准胝堂」を貞観18年(876)に完成させた。これが後の「上醍醐寺」となった。広大な域内は修験場として、僧侶の修行に使われた。
延喜2年(902)のこと、聖宝に両観音化身・清滝権現を名乗る神女が降臨、「元の名は青龍。唐青龍寺に住んでいたが、密教を学んだ空海に乞うて三昧耶戒をうけて、津妃命の名をもらい、日本に帰国する大師を守り渡日。笠取山東方の高峰を居所としている。水にちなんで名を清滝と改めた」といった。聖宝は清滝宮の拝殿をしつらえた。そのほか薬師堂(本尊薬師如来)、五大堂(国家鎮護の寺)、開山堂(講堂、のち豊臣秀頼が下醍醐に再建)、清滝井戸を順次開創していった。聖宝はここを隠棲の場所とした。
少し書き加えておく。修験場(笠取山)から下ること小一時間、下醍醐に延喜7年(907)、醍醐天皇の勅願寺「醍醐寺」が建立された。こちらの方が小野庄に近い。朱雀天皇、村上天皇の帰依も厚かったので、大伽藍ができた。ここに女人堂、弁天堂、清滝宮本殿が建てられたので、貴人、女人の参詣者が増えていった。中世には応仁の乱や火災で、ほとんどの御堂が失われて、現在国宝となっている五重塔を残すだけに荒廃した。秀吉が慶長3年〜5年、紀州湯浅の満願寺から移築した「金堂」が有名であった。それに醍醐の桜で有名な「三宝院」があった。大圓院の開基聖宝(しょうぼう)の偉大さを紹介したかったので、少し筆がすべった。
ところで、大圓院の八世住職滝口入道は平安時代、平重盛の配下、滝口武士で斉藤時頼といった。「平家物語」で賢礼門院の雑仕女横笛との恋物語に取り上げられた人である。恋情を断ち切って出家修行をかさねた滝口入道は高野聖となり大圓院の座主となった。
宿坊の玄関近くに井戸がある。恋に絶望した横笛は堰に身を投げて鶯に化身した。鶯は大圓院の井戸の傍の梅木に留まり、滝口入道の目の前で井戸に飛び込んだ。と、高山樗牛は小説に書いている。井戸の横に小さな石塔がある。
時代は下がり文禄元年(1592)のこと。秀吉に領国拝受に大阪に上京した立花宗茂が、高野山に岳父立花道雪、厳父高橋紹運の石碑を納めに大圓院に現れた。立花道雪は豊後の戸次(へつぎ)庄にあるときから、守護大名大友家の一族として、多聞院(大圓院前身)と師壇の契りを結んでいたからである。宗茂はこの折に、大圓院の宣雄阿闍梨と師壇の契りを結んだ。大圓院の祭壇にいまも大圓院殿松陰宗茂大居士の位牌がある。私にとって奇遇であった。 
 
江戸時代の湯殿山信仰における一世行人の活動

 

ダブル例外 清僧と修験者の間
江戸時代(1600-1868)初期に湯殿山は、羽黒山・月山と共に出羽三山に含まれ、それと同時に特殊な宗教的アイデンティティを発展させた山である。この湯殿山は、中世にも出羽三山と深い関係をもち、庄内平野の霊山の「共同奥の院」であった。1 湯殿山の最も聖なる場所は「御宝前」である。御宝前とは巨大な岩であり、温泉の湯がこの神秘的な石の表面を覆っている。この御宝前は胎蔵界大日如来の法身を現し、湯殿権現の変身として拝められる。また御宝前は垂迹神である湯殿権現と、本地仏である胎蔵界大日如来の自然的媒介物である。これにより湯殿信仰は、「山岳信仰」というより「巨岩信仰」であると考えられる。
湯殿山麓には四つの山岳宗教集落がある。注連掛村と大網村は湯殿山の表口にあり、本道寺と岩根沢は裏口に位置している。この四つの山岳宗教集落にはそれぞれ別当寺があり、それらは表口に注連寺と大日坊、裏口に本道寺と大日寺が存在していた。これらの別当寺は、湯殿の「四ケ寺」として知られていた。四ケ寺の宗派については、慶長(1596-1615)の終わりまでは明らかではないが、寛永(1624-1644)中期には真言宗の影響が優位になる。またこの四ケ寺の本寺末関係については、裏口の本道寺と大日寺は、中世末期まで寒河江にある慈恩寺を本山とする末寺であったが、江戸初期にはその関係は薄らいだ。表口の注連寺と大日坊は元禄(1688-1704)まで無本寺であり、その後、注連寺は醍醐寺の末寺となり、大日坊は長谷寺の末寺になった。裏口の本道寺と大日寺は朱印を持ち、寺領の年間収入がそれぞれ六石五斗、四石五斗だった。
湯殿山で宗教的活動をした集団は三種類に分けられる。それらは、正式な僧侶(清僧)と、修験者、一世行人で、彼らは共同で湯殿山の聖なる地域を管理した。2 庄内では、修験者と一世行人は「修験の衆徒」や「山内衆」と呼ばれた修行専門の集団であった。一世行人の名前の意味は、“一生をかけて、修行のみを行う人間”を指している。特に湯殿山の一世行人は「苦行」(Skt. dhuta、斗藪)を行い、「千日行」や、「三千日行」、「五千日行」のような儀礼をし、御宝前の近くにあった行場に隠遁した。山の中で行われる一世行人の別行は「山籠」と呼ばれた。一世行人の苦行には、木食行と毎日の水垢離が含まれていた。湯殿山ではこのような苦行を、一世行人しか行っていなかったので、この行者たちは清僧や修験者とは、全く違う習慣や儀礼を実践した修行集団だった。
一世行人になるためには、「海号」の儀礼が必要だった。この儀礼の際に、新しく行者になる者は、一世行人に御宝前の前に連れられ、そこで「海」の字が含まれる正式な名前をもらった。例えば、本明海や真如海、全海のような名前は、一世行人を指していた。湯殿山の一世行人の場合には、この海の字は弘法大師空海(774-839)の最後の字から由来した。羽黒山の一世行人も海号の儀礼を行ったが、彼らの場合には、羽黒山を開山した能除太子の別名である弘海から由来した字だった。湯殿山の一世行人にとって、空海は自分の「戒師」だったので、海号の儀礼の時に、新行者は仏教のモラルを守る事を誓い、「戒」(Skt. śīla)を受けた。3 正式な僧侶の場合には、受戒の儀礼はキャリアの単なる出発点であり、見習い期間の最後に行われる灌頂儀礼で正式な僧侶になることができた。しかし、一世行人の場合には、灌頂を受けること出来なかったので、仏教の階級制度の受戒のレベルまでしか登れなかった。つまり、一世行人は「下僧」や「堂衆」に近い存在だった。
本道寺の僧侶は、一世行人の事を「髪切無知無階」と描写し、寺のヒエラルキーからは排除された行人集団とした。本道寺と大日寺の別当は全て僧侶であり、このグループの傘下に修験者と一世行人が居た。裏口の別当寺に所属した一世行人は、寺の管理をする権利を持っていなかった。これとは違い、表口の別当寺だった注連寺と大日坊の一世行人は、別当として自分の寺を指揮した。注連寺と大日坊は、普通の寺ではなく「行人寺」だったので、一世行人は全ての大切な役割を担った。例えば、有名な一世行人の真如海は(没1783)大日坊の別当になり、鐵門海も(没1829)注連寺の別当になった。行人寺の一世行人は加持祈祷を行ったが、葬式を行う事が出来なかった。そこは普通の寺とは違い、行人寺に住んでいた僧侶は居らず、正式に所属した「旦那」もいなかった。
湯殿山の一世行人は二種類に分ける事が出来る。湯殿山の別当寺に居住した一世行人と、出羽国の庄内から遠く離れた地域や東北地方、関東地方に居住した一世行人である。この後者のグループの一世行人は、湯殿山で見習いの時期を終えた後、自分の故郷や別の地域に移動し、湯殿山信仰を広めた。例えば、陸奥国や越後国では、湯殿山の一世行人の活動は極めて優勢だった。この庄内非居住の一世行人は、行人寺を建て、宗教の実践をし、場合によっては元からあった寺に所属し、その寺の信者のために儀礼などを行った。湯殿山の四ケ寺は、遠く離れた地域の一世行人の活動を監督するために「行人触頭」という担当者を任命した。例えば、江戸のエリアの場合には、本道寺の行人触頭が田所口町の宝乗院に居住し、4 大日寺の行人触頭は八丁堀の福本院、注連寺の行人触頭は日本橋青物町の蓮珠院、また大日坊の行人触頭は金杉の福性院にそれぞれ居住した。5
一世行人と修験者は、両方とも修行をしながら験力を得たが、それぞれ異なった慣習と実践を行った。湯殿山の修験者は全て「在方修験者」だった。一世行人と違い、集落に家を持ち、百姓として自分の土地や寺領で働いていた。一世行人は禁欲を守ったが、湯殿山の修験者は妻帯修験者だった。夏期には、修験者は道者のために案内先達となり、宿坊の管理もしていた。修験者は新年の最初の三ヶ月間に、自分の旦那のために珍重された「牛王宝印」を配った。このような活動は、公式には一世行人に禁止されていたが、特別に注連寺と大日坊の一世行人は、行人寺に泊まった道者のために案内先達の活動をしていた。注連寺と本道寺、大日寺の修験者は葉山の近くにある慈恩寺で入峰儀礼を行った。大日坊の修験者は、鶴岡の近くにある金峰山の青瀧寺で入峰した。これに対し、一世行人は修行儀礼を全て湯殿山で行った。注連寺と大日坊の一世行人は「仙人沢」で山籠し、本道寺と大日寺の一世行人は「玄海」で山籠をした。この二つの行場で別行をする時に、一世行人は「行屋」という特別な山小屋に住んでいた。これらのことから、湯殿山は一世行人の苦行の山であり、修験道の山ではなかった。
湯殿山の一世行人は、修験者の入峰儀礼に参加を許されなかった。これは単なる公式的な除外ではなく、一世行人が修験道のヒエラルキーに入る事が出来ないことを意味している。修験道の昇進階梯は入峰を行った回数に基づいており、それによって修験者は先達や大先達のランクに昇進する事が出来る。入峰に参加していなかった一世行人は修験者に成ることができなかった。昇進階梯の視点から見ると、一世行人は正式な僧侶と修験者のどちらからも例外的存在で、“ダブル例外”と言えよう。  
オンデマンドの行者
一世行人の儀礼の中で、「別火」は極めて大事な要素だった。この清めた火は「上火」と呼ばれ、日常に使われた「平火」とは異なり、儀礼のための火だった。一世行人は肉食をせず、普通の台所の火の上で焼いた食べ物を食べることができなかった。従って、別火は穢れてない食事を作るための火でもあり、護摩のような儀礼を行うための聖なる火でもあった。これを上火と言った。鐵門海の伝授を書き留めた、鶴岡の下級侍だった富樫久定によると、一世行人の上火は胎蔵界大日如来の法身の「智火」を表している。湯殿権現の変身である八大金剛童子は、弘法大師に上火の儀礼を伝え、開山の時に大師は湯殿山の一世行人に口伝した。6
山籠の時に一世行人は上火を使い、定期的に木食行も行った。一世行人にとって木食行は単なる穀類の食べ物を除け、木の葉や皮、根を食べるだけではなく、自身の験力を増やすための行でもあった。言い換えれば、木食行は一世行人の超自然的な力を示す修行だった。例えば、湯殿山供養の板碑には、一世行人の名前は「千日行木食行者○○」のようなスタイルで石に彫られていた。これは、千日行と木食行が一世行人の特有な修行であることから、この行者のランクを示し、敬称やタイトルとしての役割も果たした。一世行人の活動の中で、湯殿山供養塔や板碑の流布は極めて大切であった。また、一世行人は牛王宝印を売る事が出来なかったが、自分の作った札を売っていた。例えば、鶴岡の行人寺である南岳寺では、鐵龍海のお姿を描いていた札が大人気だった。これは、鐵龍海が一世行人の正式な衣装を着て、頭上に大日如来と同じような冠をかぶり、右手に独鈷を握り、左手で数珠を持つお姿であった。札の上部には、呪文のような神歌が書かれてあった『我名ある鐵の門戸のうちに家に姿入りてはならの疫の悪神』。7
一世行人の活動と関係のある一番古い史料として、慶長8年(1603)と慶長9年(1604)に書かれた四つの目安がある。目安は最初に、武蔵国の幸手市の不動院から、同国の光明院と江戸の寺社奉行に送られた。その後次の目安が、光明院から本道寺、大日寺、大日坊へ送られ、各寺の間に討論が巻き起こった。
最初の目安は、幸手の不動院の僧侶が光明院の僧侶に宛て、光明院に属していた一世行人について尋ねたものであった。不動院は普通の寺ではなく、相模国の小田原市の玉瀧坊と共に、関東地方の本山派修験道の司令部であった。不動院の僧侶の疑念は、光明院に属している湯殿山の一世行人が、先達としての活動と、「しめのきりはき」の儀礼を行うための祭祀権を持っていたかどうかという点を問うものだった。これに対し湯殿の3つの寺からの返事は、湯殿山の別当は、一世行人が道者のための案内先達の活動と、「しめのきりはき」という儀礼を行う事を禁止しており、両方の活動は湯殿山の修験者に限定される、というものだった。
「しめのきりはき」がどのような儀礼だったか詳細は不明であるが、貞享2年(1685)に書かれた、湯殿山への巡礼についての道中記に「注連祓」という儀礼の描写が載っている。ここでは、北陸地方の大沼村から出発する道者が、一世行人に注連祓の儀礼を頼んだと書かれている。8 従って、「しめのきりはき」は巡礼の初めに行われ、道者を清め、守るための儀礼だったと考えられる。もし、「しめのきりはき」と「注連祓」が同じような儀礼ならば、目安の中で、不動院の本山派修験者はこの種類の儀礼を自分の独占権として捉え、正式な修験者ではなかった一世行人はこの儀礼を行う権利がないと強調したかったのだと考えられる。仮に、一世行人が真言宗修験集団として「しめのきりはき」を行っていたとしたら、不動院の本山派修験者に注連祓役銭を払わざるを得なかったであろう。慶長18年(1613)に徳川家康(1542-1616)は『修験道法度』を公布し、本山派修験道の独占権を取り消した。それと同時に、家康は当山派修験道の形成を承認し、注連祓と入峰の儀礼に関わる規制を解いた。しかし『修験道法度』に書かれた当山派修験者の定義に合わなかった一世行人のようなアウトサイダーの行者は「しめのきりはき」を行う事が出来なかった。
慶長9年に書かれた目安に、一世行人の定義が載っている。このテキストには、一世行人は「世をのがれ」「道心」に専念する行人衆だったとされ、その上、「代官」であったので、自分の修行によって集まった「功徳」を第三者へ「廻向」する行者であったと記されている。9 言い換えると、一世行人は「代官行者」として、千日行や湯殿山への巡礼修行を金銭的支援者のために行い、功徳を廻向し、このパトロンの「願」を叶えるために苦行を行ったのである。安土桃山時代(1573-1600)から江戸時代にかけて、出羽の武家は、湯殿山の一世行人の熱心なサポーターになり、自分の家の「武運長久」や「領内円満」のために一世行人の苦行を支援した。例えば、文禄2年(1593)に直江兼続 (1559-1620)は、自分の願を叶えるために、湯殿山の「御代参」三百人へ、七石四斗一升を払った。10この金額に三貫文を足し、僧侶への施物も後援した。この史料には、湯殿山で行われた巡礼修行の期間についての記述はないが、十七世紀の他の史料によると、湯殿山の代参は「一七日」と「二夜三日」があり、このことから、直江兼続が払った金額を考えると、恐らく彼が後援した代参は、「一七日」と推察され、極めて多くの代参者の中に一世行人だけではなく、湯殿山講の「上り下り行人」や直江家の下級の侍をも含んでいたと考えられる。同じ史料によると、文禄2年に、直江兼続は「千日代参行」を行う一世行人の一人を後援するために、一年間で三十石を払った。つまり、一人の高名な一世行人の千日行が終わるまで、兼続は合計九十石を支払った。この金額の価値を理解するための比較として、一年間の本道寺の寺領の収入が六石五斗、大日寺は四石五斗だったことを考えると、千日行を行う高名な一世行人は、一人でおびただしい布施の量を集めるカリスマ性を持っていたことが分かる。他の例をあげると、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの前に、庄内の戦国大名であった最上義光(1546-1614)は、自分と徳川家康の戦勝に関わる願を立て、寒河江の行人寺であった月山寺の一世行人に自分の願を託し、湯殿山へ「四十八日山籠」をしに行かせた。11  
双務契約と即身仏の形成
ミイラ化された一世行人の死体は「即身仏」や「ミイラ」と呼ばれ、人々はそれを「肉身像」として崇めた。乾燥した一世行人の死体である即身仏は、高名な行者の「全身舎利」と同じく、熱心な信仰の中心である聖なるモノである。即身仏という概念は修験道にあり、元は空海の『即身成仏議』(天長1年、824)の異本に基づいて作られた思想である。言い換えれば、修験道の即身仏思想は真言密教の即身成仏思想の変換である。江戸時代の修験者は、山で修行を行う行者の身体の本性を説くために即身仏の概念を使用した。行者の「肉身」や「生身」は、本質的に「仏身」と変わらない存在であるので、即身仏になる事ができると考えられた。例えば、「凡身即仏身」の概念は即身仏の概念から生まれ、凡夫である行者の身体は、仏身と「不二」を現す。湯殿山の一世行人達は、この修験道の思想を具現化するために、高名な一世行人の死体を操作することによって、即身仏を形成した。つまり、一世行人の即身仏は思想の世界から身体性を取り込んだの世界へと動きだす。
湯殿山系の即身仏は全て一世行人だった。現在も残っている庄内出身の高名な一世行人の即身仏は、本明海(没1683)、忠海(没1755)、真如海(没1783)、円明海(没1822)、鐵門海(没1829)、光明海(没1854)、明海(没1863)、鐵龍海(没1881)である。東岩本の本明寺の別当だった本明海と、大日坊の別当だった真如海以外の他の一世行人は、皆注連寺で大切な役割を担っていた行者だった。湯殿山系の即身仏は東北地方と中部地方にも存在している。この場合、湯殿山に居住していない一世行人の死体はその地域にあった行人寺でミイラ化されていた。例をあげると、越後国の菱潟にある観音寺の全海(没1687)や、同国の村上にある観音寺の仏海(没1903)の即身仏などである。
死後に即身仏にされた一世行人は極めて少なかった。死んだ一世行人の大部分は即身仏にされず、菩提寺で僧侶が標準的な葬式を行った。例えば、酒田にある海向寺の一世行人の「菩提院」は同市の竜厳寺であり、行者の墓と位牌をこの寺に安置した。死体を即身仏に形成するためには、コストがかかる上に、手間がかかる過程を有するので、生前周囲におびただしい数の信者を集める事が出来た一流の一世行人しかしてもらえなかった葬儀だった。つまり、即身仏は自然的な現象ではなく、人工的な現象である。
一世行人の死体を具体的に即身仏にした人は、一世行人の弟子と湯殿山講の触頭のような役割をしていた「世話人」という講員だったと考えられる。つまり、生きている間に、高名な一世行人は、様々なパトロンから経済的な後援を受け、千日行のような長くて費用のかかる修行を行う事が出来た。この金銭的な支援の代わりに、一般的な信者や講員、武士たちは一世行人に自分の願が叶うよう依頼した。生涯を通じてサポートした一世行人が死んだ時に、この後援者たちは自分のお金と信仰を投資した行者の死体そのものを、聖なるモノとして、捨てずに即身仏を作った。言い換えれば、高名な一世行人の身体は行者自身の財産ではなく、後援者の財産であると考えられる。一世行人の死後に、この持ちつ持たれつの関係が明らかになり、即身仏は現れる。
一世行人と世話人の間にある双務契約を示すものとして、仙人沢に現存する千日行が終わった日に作られた板碑があげられる。この板碑には、千日行の始まった日が記されている。この日は、一世行人の「発願」で、これから始まる苦行の力で信者の願を全て成就する事を誓う日である。同じ板碑には、千日行が終わった日も記され、これは「満願の日」と呼ばれる。三年に渡り、経済的支援を受け修行をした一世行人が、その対価として支援者に願の成就をもたらした日となる。板碑に記された、発願と満願の日の間には一世行人の名前があり、そのすぐ下には、千日行を後援した世話人の名前と湯殿山講の村名が記されている。12 このことは、一世行人と支援者との双務契約の関係を顕著に示しているといえよう。この双務関係は一世行人の死後も、信者と弟子によって一世行人の死体を聖なる肉身像にし、即身仏を作る事によって継続するのである。  
千日行の見立としての土中入定
一世行人の死体は、特別な墓の中に安置され、その状態を「土中入定」していると言い、普通の死の分類とは異なるものである。「入定」(Skt. samādhi-praviṣṭa)とは「入禅定」の略であり、瞑想者は「禅」(Skt. dhyāna)を始めてから「定」の最も深い種類である「三昧」(Skt. samādhi)に入るまでを意味している。この定の7つの段階の最後のステージは「現法楽住」と呼ばれ、瞑想者の身心は静止と静寂を永遠に保つ事が出来るとされる。これは、瞑想者がまだ生きている時に、この現法楽住を得た身体が完全に動かない状態になるので、死体の特性である死後強直を想起させることと重なる。例えば、ジョナサン・ペリー氏によると、インドで「入定」という言葉は遺体の埋葬を指すと同時に、墓の中にある遺体の生存状態も現す。13 僧侶や一世行人のような行者は、死ぬ時に「入定に入る」と言われている。言い換えれば、仏教のプロフェッショナルはいつも死なない。彼らの死亡を示すために、「死」という言葉の代わりに、生と死の曖昧な境界を定義する「入定」と言う言葉を使用する。
一世行人の土中入定は三年と三ヶ月続いた。この後墓を開き、世話人と弟子は埋葬された遺体のミイラ化状態を調べた。土中入定の期間は千日行の長さと同じなので、墓に置かれていた一世行人の死体は、死んでいたのではなく、最後の千日行をしていたと考えられた。言い換えれば、高名な一世行人の葬儀であった土中入定は、行者が生きている時に行ったの千日行の「見立」だった。死後に行われた千日行は、最高の修行だったと考えられる。なぜならこの時に、生の限界を越えた一世行人は、初めて飲まず、食べず、寝ずに修行三昧に入る事が出来たからである。土中入定の結果である即身仏は、信者と行者の「結縁」を作るための肉身像になった。例えば、『即仏忠海上人略縁起』によると、宝暦5(1755)に忠海は、千日行が終わった時に自然死し埋葬され、その後墓を開いた時に、忠海の死体は胎蔵界大日如来の光線に囲まれ、「即身即仏と成らせたまふ」と記されている。後に、忠海の即身仏は信者たちとの「結縁」や行者の「徳行」を知らせるために海向寺に安置された。14
高名な一世行人の遺体を埋葬した特別な構造を持った墓は、「石の匱」と呼ばれ、地中に埋まった状態の石作りの直方体ある。例えば、仏海の石の匱は観音寺の裏庭に現存し、その構造は底面に広く大きな平たい石が置かれ、側面は四方が二十八個の川の石からなり、上面は三つの平らな「蓋石」で閉じられている。石で作られた直方体の中に、密閉された空間ができることになる。また底から五十センチのところには、鉄で組まれた格子があり、その上に仏海の死体が入った、二重の棺が置かれていた。この工夫により、下から染みる水や湿度は棺を直接浸透せず、ミイラ化の過程の一世行人の死体は空気に囲まれていた。また棺は極めて厚い木製で出来ており、この事もミイラ作りの重要な要素である。例えば、海向寺の清海(1795-1872)が書いた史料によると、千日行を終えた鐵門海は海向寺に戻り、ある夜突然「病症」し、亡くなった。弟子たちは鐵門海の死体を「二重棺」に入れ、注連寺の新山権現堂の裏に埋葬した、とされる。15 世話人はこのような複雑な手間のかかる葬儀のための出費を全て担い、一世行人の死体を形成し肉身の本尊を作った。
一世行人の死と関係がある口頭伝説は、「土中入定」だけではなく、「捨身行」の面も語っている。従って、口頭伝説に登場する一世行人は、死ぬ前に自発的に「石の匱」に入り、入定をしながら「金剛身」を得るとされる。この口頭伝説に於いては、弘法大師の土中入定説話や、弥勒信仰の影響が極めて強いと考えられる。例えば、ジョン・ジョルゲンセン氏は聖人伝の構造を分析し、「作られた聖人」と「客観的な聖人」の二つに分ける事が出来ると述べている。16作られた聖人はフィクション化された聖人であり、客観的な聖人は歴史の舞台に登場する人間である。一世行人の場合にもこの両面がある。つまり、「作られた一世行人」は歴史的なレベルを超え、行者のカリスマ性を伝え、「客観的な一世行人」は歴史の範囲の中で行者のパワーを表す。歴史と伝説は繋がっていると同時に、自立もしているので、「歴史に基づいている一世行人」と、「口頭伝説に基づいている一世行人」は矛盾している様にも見えるが、同じ「言説」の異なるレベルを示している。17 この点についてミシェル・ド・セルトー氏は歴史の要素で聖人伝を判断するのは間違いであり、また聖人伝の要素で歴史を解釈するのも誤りに導くと述べている。18 このことから、この発表で分析した歴史的解釈の一世行人は、口頭伝説の一世行人と延長線上にあると捉え、互いに否定するものではないと考える。  

1. 出羽三山は山形県に位置している。
2. 「湯殿山由来並別当四[ケ寺]」(文化1年、1804)。『朝日村誌(一)』渡辺留治編集(鶴岡、富士印刷株式会社、1964)108−113頁。
3. 「再返答之条々覚事」(寛文6年、1666)。『朝日村誌(一)』渡辺留治編集、21頁。
4. 田所口町は現在の日本橋に当たる。
5. 現在の金杉は千葉県の船橋市に含まれている。江戸時代にこの町に湯殿山講の数は極めて多かった。
6. 「亀鏡志」 (文化 9年、 1812)。『朝日村誌(一)』渡辺留治編集、3頁。
7. 戸川安章『出羽三山のミイラ仏』(東京、中央書院、1974)141-142頁。
8. 久保康顕「参詣の注連祓―山伏の活動の解明」、『近世修験道の諸相』時枝務、久保康顕、吉谷裕哉、佐藤喜久一郎編集 (東京、岩田書院、2013)、38頁。
9. 「御目安之事」(慶長9年、1604)。『朝日村誌(一)』渡辺留治編集、105頁。
10. 「湯殿去年立願之分」(文禄3年、1594)。『神道大系神社編―出羽三山』第32集、戸川安章編集(東京、精興社、1982)425-426頁。
11. 「下美作書状」(慶長5、1600)。『山形県史―古代中世史料』第2集、山形県史編さん会議員(山形、高橋書店、1979)215頁。
12. 仙人沢行者板碑について『朝日村誌(一)』渡辺留治編集、143-144頁。
13. Jonathan Parry, “Sacrificial death and the necrophagous ascetic,” in Death & the Regeneration of Life ed. Maurice Bloch and Jonathan Parry (Cambridge: Cambridge University Press, 1982), 96.
14. 「即仏忠海上人略縁起」(江戸後期)。『酒田市史−史料編』第7集、本間祐介編集(鶴岡、鶴岡印刷株式会社、1977)701頁。
15. 「記録帳」(文政12、1829)。内藤正敏『日本のミイラ信仰』(東京、法蔵館、1999)168-169頁。
16. John Jorgensen, Inventing Hui-neng, the Sixth Patriarch: Hagiography and Biography in Early Ch’an (Leiden-Boston: Brill, 2005), 23.
17. 「言説」という用語はミシェル・フーコー氏の“discourse”の概念を訳したものである。
18. Michele de Certeau, The Writing of History (New York: Columbia University Press, 1988), 270.  
 
丹後國伽佐郡「凡海郷」

 

凡海郷(おゝしあまのさと)とは
凡海郷とは、かつて丹後國伽佐郡(現在の京都府舞鶴市及び加佐郡大江町あたり)にあったとされる郷名です。大浦半島に隣接する大きな島であったようです。
消えた凡海郷
伝説によると、大宝元年(西暦701)三月、凡海郷は三日三晩続いた地震により郷内の峯ふたつを残して海没してしまいます。そのふたつの峯こそ、日本海に浮かぶ絶海の孤島・冠島(かんむりじま・別名雄島)と沓島(くつじま・別名雌島)だといわれています。
信仰の島
冠島は一般に『おしまさん』と呼ばれ、地元の漁師さん達の篤い信仰の対象となっています。遭難した漁師さんが冠島に漂着して命が助かったという逸話がたくさんあるからです。漁師さん達は島への貢ぎ物を欠かしません。
海人族伝説
丹後の國にはかつて、のちに海人族と呼ばれる一族が住んでいました。彼らは航海術に秀でており、凡海郷にもたくさんの海人族が住んでいたものと思われます。凡海郷海没後、彼らは最も近かった大浦半島か、仲間がたくさんいる丹後半島へ移住を余儀なくされました。
天火明神と日子郎女神
古来より冠島には天火明(あまのほあかり)神が、沓島には日子郎女(ひこいらつめ)神がお祀りされています。古代の丹後に於いて、この二神を祖神と仰いでいる集団がありました。それが海部直(あまべのあたい)と凡海連(おおしあまのむらじ)と呼ばれた人達です。彼らは丹後を支配する技術者集団でした。
海部直と凡海連
天火明神と日子郎女神(亦名・市寸島比売神)を祖神と仰ぐ海部氏は、丹後風土記編纂時には直の 姓(かばね)を朝廷から賜っていた様ですが、元来は丹後を支配していた古代豪族でした。宮津市にある籠神社(このじんじゃ)は、代々海部氏が宮司を務めている神社ですが、かつては日本三景の一つである天橋立でさえ、籠神社の参道にすぎなかったといいますから、その勢力がどれほど凄まじかったかを伺えます。一方の凡海連は、壬申の乱にて大海人皇子の味方に付き、天武天皇即位に尽力しています。 
凡海郷異聞  
『丹後風土記残缺』の記事
『丹後風土記残缺』とは、八世紀に国の命令で丹後国が提出した地誌書とも言うべき「丹後風土記」の一部であり、京都北白川家に伝わっていたものを、十五世紀末に丹後国一之宮籠神社の社僧・智海が筆写したものとされています。その中に、凡海郷に関する記事があります。
凡海郷者。[凡海郷は]
往昔。去此田造郷万代浜四拾三里。去□□三拾五里二歩。[田造郷の万代浜から四十三里 □□から三十五里二歩に位置する]
四方皆属海壱之大島也。[四面皆海に囲まれた一つの大島であった]
所以其称凡海者。故老伝日。往昔。[凡海と称する所以は 故老の伝て曰く 昔]
治天下当大穴持命与少彦名命到坐于比地之時。[ 天下を治めるに当り大穴持命と少彦名命がこの地に到った時に]
引集海中所在之小島之時。潮凡枯以成壱嶋。[海中の小島を引き集めた時 潮が凡て枯れて一つの嶋となった]
故云凡海矣。[故に凡海と云う]
于時。大宝元年三月己亥。地震三日不已。此郷一夜為蒼海。[大宝元年三月己亥 地震が三日続き この郷は一夜にして蒼海となった]
漸纔郷中之高山二峯与立神岩出海上。[漸く郷中の高山二峯と立神岩が海上に出ているのみである]
今号云常世嶋。亦俗男嶋女嶋。[今では常世嶋 亦は男嶋女嶋と呼ばれている]
毎嶋在神祠。所祭者。天火明神与日子郎女神也。[嶋毎に祠が在り 天火明神と日子郎女神が祭られている]
是海部直並凡海連等所以斎祖神也。[これは海部直並びに凡海連等らが斎祭る祖神である]
凡海郷は幻か?
「凡海郷伝説は後世の作り話である。」
これがつい最近までのアカデミズムの認識でした。凡海郷が海没する原因となった大宝元年(西暦701)三月の大地震は、『丹後風土記残缺』や『続日本記』に記録が残っていますが、地質学的にはその様な天変地異が起こったとは考えにくい事に加え、『丹後風土記残缺』には根強い偽書説があったからです。
雄島(おしま)にある老人嶋(おいとしま)神社は、天火明命をお祀りする丹後屈指の古社で、かつては遠く因幡や出雲の漁師さんも参拝に訪れる程厚く信仰されていました。
おしま(Oshima)=おいとしま(Oitoshima)=おおしあま(Ohshiama)
「凡海郷伝説は老人嶋神社の権威付けの為の創作である。」
これがアカデミズムの常識でした。
覆った「常識」
昭和30年代後半になって、かつて陸の孤島と呼ばれていた舞鶴市の大浦半島にもようやくインフラ整備の目が向けられ始めました。
その課程で、『有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)』と呼ばれる石器時代の矢じりが発見されました。これは今から約1万年前の石器で、その頃から大浦半島に人が住んでいたことを物語っています。つづいて昭和51年、大浦半島の三浜(みはま)地区で古代の製塩土器が発見されました。後の調査によって三浜の製塩遺構はかなり大規模なものであり、製塩土器が現在の海岸線と殆ど変わらない位置から発見される事から、少なくとも奈良時代には現在とほぼ同じ海岸線が成立していた事がうかがわれました。従って、大宝年間に島が海没するほどの天変地異があったとは考えにくく(大津波によって海岸線に変化が見られるはず)、凡海郷の存在はやはりおとぎ話だと思われていました。
ところが、大浦半島の他の地区で次々に古代製塩の遺跡が発見されるに至り、凡海郷はにわかに脚光を浴びることになります。海の民と製塩はつよく結びついていることが全国の古代研究の成果からわかってきており、海の民との関わりを伝説に於いて色濃く残している凡海郷が実在していた可能性が出てきたからです。
『加佐郡誌』の記録
大正4年に刊行された『加佐郡誌』の古地図によると、凡海郷は大浦半島と対岸の由良川下流域からなる郷として描かれています。これは奇しくも最近の発掘調査から導き出された仮説に合致するもの(大浦半島と由良川下流域は、共に多数の製塩遺構が発見されている)であり、現在ではこれが通説となっています。
凡海郷と志楽郷
しかしその仮説は最初から矛盾を抱えていました。『丹後風土記残缺』によれば、大浦半島の成生、二石崎(瀬崎)の地名が志楽(しらく)郷の地名として紹介されているからです。
志楽郷は凡海郷と並んで海部との結びつきが強い地域でした。郷内には霊峰青葉山が在り、山頂には笠津彦(うけつひこ)神と笠津姫(うけつひめ)神をお祀りした祠が現在も存在しますが、この二神は海部の祖神だと言われています。その他かつての志楽郷である東舞鶴地区には、倉梯山の天蔵神社、祖母谷山口神社、朝来の御田口神社、小倉の布留神社など、海部ゆかりの神を祀った神社が数多くあります。海部との結びつきがもっとも強い大浦半島を志楽郷とするのか凡海郷とするのかですが、これは大変難しい問題です。 もしも本当に神代の昔、冠島あたりに郷を名乗れるほどの大きな島があり、地震によって水没してしまったならば、生き残った住民は凡海郷から最も近い志楽郷の沿岸部に流入した 可能性があります。もしもそうならば、本来志楽郷の一部が凡海郷と混同されても何ら不思議はないと思うのですが・・・・・・
浦入遺跡は何を語る?
浦入(うらにゅう)遺跡は、関西電力(株)の舞鶴火力発電所の建設に先立って発掘された遺跡で、縄文時代〜平安時代までに至る複合遺跡です。この遺跡の5300年前の地層から、平成10年に丸木舟が発見されました。幅約0.8メートル、推定長8〜10メートルの 大きさは、縄文時代前期のものとしては最大・最古級の巨大な丸木舟で、外洋航行も十分可能であ ったであろうと言われています。
注目すべきは発掘されたときの状況であり、一段高く造られた石垣の上に、舟首を南に向けて砂に埋まっていた事です。
この丸木舟は、使われなくなった後は信仰の対象となっていたのではないでしょうか?
日本書紀には、塩土翁(しおつちのおきな)から東に好い国があると聞いた神武天皇が東征を思い立つくだりが出てきます。 その中で塩土翁は、『その東の国に頑丈な丸木舟に乗っていったものがある』と話し、それを聞いた神武天皇は、『それは饒速日命(にぎはやひのみこと)であろう』と語ったとされています。
この饒速日命が、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこほあかりくしたまにぎはやひのみこと)であるならば、それは海部の祖神である彦火明命の亦名です。
浦入遺跡から出土した丸木舟が、『頑丈な丸木舟』だった可能性はないでしょうか?
浦入地区は、かつては大丹生村の小字であり、裏丹生と記しましたが、中世以後は波佐久美村(のちに千歳村と改名)の小字となりました。
日本書紀は、天武天皇の即位の際に用意された主基(大嘗会の儀の際、朝に食べる食事)の供納地は、丹波国訶佐郡(伽佐郡の誤りと思われる)としており、江戸時代の書物である田辺府志は、これは千歳村の事であるとしています。しかしながら千歳村は本来耕地の乏しい漁村であり、千歳の耕地と言えば一般には浦入(裏丹生)の事を指します。
主基の供納地は裏丹生だった可能性はないでしょうか?
天武天皇は即位前には大海人皇子(おゝしあまのみこ)を名乗っていました。この名は養育係であった凡海連(おゝしあまのむらじ)に由来するものとされています。凡海連は海部の一派であり、天武天皇即位の大功労者です。
主基の供納地に丹波国伽佐郡が選ばれたのは、海部ゆかりの地だったからではないでしょうか? ニギハヤヒ、海部、丹生、天武帝・・・・・・ありとあらゆる可能性が、浦入遺跡で重なり合おうとしています。 
丹後の寺社伝承 
乙女神社の伝承
比沼麻奈爲神社のある京都府京丹後市峰山町(旧中郡峰山町)といえば、丹後風土記に記載された日本最古の羽衣伝説が有名ですが、地元峰山町には丹後風土記とは少し違った羽衣伝説が残っている様です。
乙女神社の天女伝説
むかしむかし比治(ひじ)の山の頂き近くに大きな美しい池があり、その池に八人の天女が舞い降りて水浴びをしていました。
それを見ていた三右衛門(さんねも)という里の狩人が、 一枚の羽衣を隠してしまいまったために、天女のひとりは天に帰れなくなっ てしまいました。天女は三右衛門と一緒に暮らすことになり、三人の美しい女児をもうけました。
天女は農業、養蚕、機織り、酒造りが上手で、三右衛門の家はもとより比治の里はすっかり豊かになりましたが、天恋しさに耐えかねた天女は三右衛門の留守中に、「お父様は毎朝何処を拝んで出かけていくの?」と娘達に尋ねました。娘達は家の大黒柱を指さしました。大黒柱の穴に隠してあった羽衣を見つけた天女は、羽衣を身に着けると、駆け戻った三右衛門に「七日七日に会いましょう」と云い残して天に帰っていきました。
しかしその様子を伺っていた天の邪鬼(あまのじゃく)が「『七月七日に会いましょう』と言っていた」と三右衛門に伝えました。一年に一度しか会えないと思いこんだ三右衛門は、天女が残していった夕顔(ゆうごう)の種を庭に蒔いて、天女が天に帰ったことを嘆き悲しんでいました。
するとどうでしょう。夕顔は天に向かってぐんぐん伸び始めました。この蔓を登っていけば天に行けるかも知れないと思った三右衛門は、夕顔の蔓を懸命に登っていき、ついに天上に辿り着きました。天上で三右衛門は天女に会うことができました。
天上で天女と暮らしたい三右衛門は、天帝に天上界で暮らしたいと願い出ました。天帝は天の川への架橋を条件に出し、無事橋が架けられたら一緒に天上界で暮らすことを認めるとしました。
仕事を請け負った際に天帝と、橋が完成するまでは天女を思い出さないと約束していた三右衛門でしたが、天女恋しさのあまりついついその約束を破ってしまいます。約束を破った途端天の川は大洪水になってしまい、三右衛門は下界へ流されてしまいました。
天上で一緒に暮らす事が叶わなかった三右衛門と天女ですが、毎年七月七日の夜には天女がきらめく星となって、三右衛門と三人の娘に会いにやってくるそうです。
現在、京丹後市峰山町の磯砂(いさなご)山の麓には、天女の娘を祀ったとされる乙女神社があります。こちらの神社にお参りすると、美しい女の子が授かるそうです。
宇良神社と龍宮伝説
浦島太郎の物語は日本各地に伝承が残っているそうですが、京都府与謝郡伊根町に伝わる伝承は日本最古のもので、丹後風土記のみならず日本書紀や万葉集にも記載されているそうです。 
浦嶋子の伝説
時は人皇二十一代雄略天皇の御代二十二年七月七日、当地の漁師浦嶋子(うらのしまこ)は沖に出て釣りをしていましたが、不思議なことに三日三晩一匹の魚も釣れませんでした。諦めて帰ろうと竿を上げるとそこに五色の大きな亀が現れました。
亀を眺めるうちに眠りについてしまった浦嶋子が目覚めると、亀は美しい乙姫の姿に変わっていました。二人は常世の国(龍宮城)へ赴き楽しい日々を過ごしましたが、里心のついた浦嶋子は三十三代淳和天皇の御代になって故郷に還って来ました。
常世の国へ赴いてから三百四十七年が経過していました。
宇良神社(浦嶋神社)は、浦嶋子の奇譚を知った淳和天皇が小野 篁(おののむらまさ・・・・ここでこのお方に出逢うとは思わなかった(汗))を当地に派遣し、浦嶋子を筒川大明神として祭祀するために宮殿を造営させた事が始まりとされています。
宇良神社の由緒書には、浦嶋子は日下部氏の祖先に当たり、開化天皇の後裔であり、太祖は月読命の子孫で当地の領主であると記されています。まさに驚くべき伝承ですが、異聞には更に驚くべき伝承があります。
常世の国とは冠島(凡海郷)の事であるというのです。冠島と沓島の名前は『冠と沓を残して常世に至る』に由来するのであり、付近の海域は龍宮海とも呼ばれています。
伝説を総て肯定するならば、浦嶋子が乙姫と常世に旅立ったのは西暦478年、凡海郷が海没したのが西暦701年、常世から伊根の地に還ってきたのが西暦825年ですから、浦嶋子は凡海郷が壊滅する様を見ていたことになるのです。
大丹生神社は何故山王宮になったのか
京都府舞鶴市字大丹生(おおにゅう)にある大丹生神社は、その美しさは大浦半島一と賞される神社です。近隣の村の神社が軒並み八幡神や天神を勧請しているのに対して、大丹生神社のみは日吉大神を勧請しています。それには深い訳があるのです。
荒ぶる神の伝説
舞鶴湾の入江の東側に位置する大丹生村には、『宮さん』と呼ばれる大丹生神社ともうひとつ、『奥の宮さん』と呼ばれる鎮守社があります。
熊野神社です。
霊験あらたかなる熊野神社は現在でこそ市道の脇に鎮座していますが、元来は山の頂に鎮座していたのだそうです。熊野神社の神様は大変に気位が高く、民の不敬を決して許しませんでした。往来する船からも山の頂にある熊野神社はよく見えたそうですが、船乗りが不敬をはたらく(洋上から山に向かって小便をする等)と、たちどころに船を沈めてしまったりしたそうです。困ったことにこの山は航海上の目印になる山で、大浦半島に近づけば最初に見える山でした。これではうっかり用をたす訳にもいきません。
村の衆は熊野神社を山から降ろして、海が見えないところに改めて社を造ろうとしました。しかし霊験あらたかにして気位の高い熊野神社の神様のこと、ひとつ間違えば村が滅んでしまうかも知れません。そこで村人は一計を案じました。近江の国から日吉大神を勧請して、熊野神社の神に遷宮を聞き入れて貰ったのです。
熊野神社の神は素戔嗚尊(すさのをのみこと)であり、近江の国から勧請された日吉大神は大山咋神(おおやまくいのかみ)、つまり熊野神社の神様の孫神さまです。孫の頼みを無下にできないのは民も神も同じだったと言うことです。
さて、現在日吉大神の分霊は、大丹生神社の主祭神として祀られていますが、名称は日吉神社若しくは山王宮とはなっておらず(鳥居の額には山王宮と刻まれているが・・・・)大丹生神社のままです。おそらくは日吉大神を勧請した際に、大丹生神社の主座を退いた神が居たからだと思われます。その神は現在でも大丹生神社本殿向かって右側の祠に祀られています。
現在ではもう名前さえも解らなくなった祠の主は・・・・
神域の気配が女性的である事から、丹生都比売命(にうつひめのみこと)、若しくは罔象女命(みずはめのみこと)だったのではないかと思います。
大川神社の祭神
京都府舞鶴市の由良川沿岸部に、「大川神社」という名の神社が鎮座しています。
旧伽佐郡(現在の京都府舞鶴市及び加佐郡大江町)では唯一延喜式名神大社の格付けがなされており、丹後國内では籠神社に次ぐ伝統と格式を備えた神社(他に丹後で同格の神社は丹後二ノ宮の大宮賣神社・大虫神社・小虫神社)です。そのため舞鶴市内に現存する神社は、ほぼ例外なく大川神社を摂社としてお祀りしています。 
大川神社の主祭神は保食神であり、傍らに五元神(句句廼馳神・軻遇突智神・埴山姫神・金山彦神・罔象水神)を合祀しているとされていますが、明治政府が編集した「特選神名牒」には、祭神欄が空白になっています。つまり、本当の祭神はよく分からないのです。
冠島から来た神の伝説
社伝によれば、顕宗天皇の元年三月に、由良川域の漁師野々四郎が漁を営んでいたところに、『金色の鮭に乗り、右手に五穀の種、左手に蚕を携えた神』が川下から現れて、野々四郎に「当地に鎮座したいので社殿を造営せよ」と託宣したのが大川神社の起こりだそうです。
『金色の鮭に乗り、右手に五穀の種、左手に蚕を携えた神』 は保食神を連想させますが、丹後の地に於いて『五穀と桑蚕の種を持つ神』とは本来、豊受大神を指します。大川神社の主祭神はさしずめ「豊受稲荷大明神」といったところでしょうか?
なお、この『金色の鮭に乗り、右手に五穀の種、左手に蚕を携えた神』 は、日本海に浮かぶ冠島より海を渡り、川を上ってやってきたそうです。冠島から金色の鮭に乗ってやってきた神の伝承は大川神社を筆頭に丹波・丹後の由良川流域に多く、未だに鮭を捕ったり食べたりすることを戒めている集落もあるようです。
冠島は海没した凡海郷の残骸とされており、籠神社主祭神の彦火明命(亦名 天火明命 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命)が降臨した地とされています。大川神社の伝承を総て受け入れるのならば、豊受大神=彦火明命の図式も成り立つ様にも思えますが・・・・・・
何にせよ古来から冠島は篤い信仰の対象であった事だけは確かな様です。
松尾寺(まつのをでら)
青葉山は、一つの山の東西に二つの峯がある。それぞれに名神が在り、青葉の神と名付けている。その東に祭る神は若狭彦神・若狭姫神の二座。その西に祭る神は笠津彦(うけつひこ)神・笠津姫(うけつひめ)神の二座である。これが若狭国と丹後国の境であり、笠津彦神・笠津姫神は丹波国造である海部直たちの祖先である。二峯とも松柏が多く、秋になっても色が変わらない。  〜丹後風土記残缺・志楽郷より〜
京都府と福井県の二府県に跨ってそびえる青葉山(標高699m)は、古来より聖なる山として崇められてきました。この山は福井県高浜町から眺めれば、ふたつの峯が重なって秀麗な三角錐に見えます(別名・若狭冨士)が、京都府舞鶴市から眺めたならば、火山であった太古の姿そのままにふたつの峯を見る事が出来ます。
古代より神々が鎮座し、修験場としても名を馳せたこの山の中腹に、西国第二十九番霊場・松尾寺(まつのをでら)は在ります。松尾寺は馬頭観世音菩薩を本尊とする全国でも大変珍しいお寺で、元明天皇勅願寺の格式を誇ります。
御由緒
時に慶雲年中、唐の僧、威光上人が当山の二つの峰を望んで、中国に山容の似た馬耳山という霊験のある山があったことを想起された。登山したところ、果せるかな松の大樹の下に馬頭観音を感得し、草庵を結ばれたのが、和同元年(七〇八年)と伝えられる。養老年間には、加賀国白山から泰澄大師が来山し、妙理大権現を山頂に祀った。これが、現在の奥の院である。
元永二年(一一一九年)には、鳥羽天皇、美福門院の行幸啓があり、寺領四千石を給い、寺坊は六十五を数えて繁栄した。当地方唯一の国宝の仏画も、美福門院の念持仏であったといわれる。その後織田氏の兵火によって一山ことごとく灰燼に帰したが、天正九年(一五八一年)細川幽斉の手によって復興をみ、京極家の修築等を経て、享保十五年(一七三〇年)牧野英成によって、漸く今日の姿を整えるに至った。当寺は、西国第二十九番札所で、本尊馬頭観世音は、三十二霊場中唯一の観音像であり、農耕の守り仏として、或いは牛馬畜産、車馬交通、更には競馬に因む信仰を広く集めている。
馬頭観音の伝説
一条天皇の御代、若狭国神野浦(現在の福井県大飯郡高浜町)の漁師に春日宗太夫なる者がいました。出漁中に嵐に遭遇して海に投げ出された宗太夫は、流木に掴まって何とか神野浦の海岸に戻る事ができました。するとどうでしょう。流木は馬に姿を変えて走り去って行きました。
不思議に思った宗太夫が村人と共に馬蹄のあとを辿ったところ、青葉山の松尾寺にまで続いており、境内で宗太夫が掴まっていた流木が見つかりました。自分が松尾寺の本尊である馬頭観世音菩薩に助けられた事を悟った宗太夫は仏門に入り、流木に馬頭観世音を彫って感謝の祈りを続けたそうです。
この奇譚は時の朝廷にまで聞こえ、松尾寺中興の礎となったと伝えられています。
海人の痕跡
青葉山の西側の峯に祀られている笠津彦神・笠津姫神の二神が海部氏ゆかりの神である事は前述したとおりですが、東側の峯に祀られている若狭彦神・若狭姫神の二神についてはそれぞれ彦火火出見尊・豊玉姫になぞらえる説もあります。この事実は、青葉山が古代の海上交通にとって、大変重要な役割を果たしていた事を物語ります。
平安末期の三井寺(滋賀県大津市)の僧、行尊・覚忠の巡礼記録には、松尾寺の願主について『海人二人』と記されているそうです。この記録は、青葉山と海人との関係を如実に物語るエピソードではないでしょうか?
西国第二十九番青葉山松尾寺御詠歌
そのかみは いくよへぬかん たよりをば ちとせもここに まつのをのてら
多禰寺(たねじ)
京都府舞鶴市の大浦半島には、屋根とも呼ぶべき山がふたつあります。ひとつは東大浦にある空山(標高550m)で、もうひとつは西大浦にある多禰山(標高556m)です。西国薬師第三十番札所である多禰寺(たねじ)は、多禰山の中腹に位置します。舞鶴市内最古の寺で、御開基は聖徳太子の異母弟・麻呂子(まろこ)親王、用明天皇勅願所の格調高いお寺です。
麻呂子親王の七薬師伝説
用明天皇の御代、丹後國河守荘三上ヶ嶽(現在の大江山)に、英胡(えいこ)・軽足(かるあし)、土熊(つちぐま)の三鬼を首領とする多くの鬼が棲み、丹後はまるで魔國のようになっていました。
朝廷は鬼を討伐すべく、知勇兼備の麻呂子親王を大将軍とする官軍を遣わす事に決し、勅を奉じた麻呂子親王は一万綺からなる大軍を率いて三上ヶ嶽へ攻め入りましたが、鬼の妖術には全く歯が立たず、苦戦を強いられました。
仏の御加護を以て鬼を討ち果たそうと考えた親王は、自ら七体の薬師如来像を彫り、「もしも鬼を討ち果たせたならば、この薬師如来像を祀って丹後に七寺を開きます」と祈誓されました。するとどうでしょう。額に鏡を付けた白い犬が現れました。この白い犬を先頭に三上ヶ嶽へ攻め入ったところ、鏡の光で鬼は妖力を失い、官軍は無事鬼を討ち果たす事が出来ました。
感謝の意を込めて、約束通り親王は、丹後に薬師如来像をご本尊とする七つの寺をお開きになりました。
今日、丹後には七十ヶ所以上に麻呂子親王にまつわる伝説が残っており、七薬師の寺を主張する寺院も七ヶ所以上ありますが、多禰寺縁起によると以下の通りです。
一、加悦荘・施薬寺(与謝野町)
二、河守荘・清園寺(福知山市大江町)
三、竹野郡・元興寺(京丹後市丹後町)
四、竹野郡・神宮寺(京丹後市丹後町)
五、溝谷荘・等楽寺(京丹後市弥栄町)
六、宿野荘・成願寺(宮津市)
七、白久荘・多禰寺(舞鶴市)
多禰寺と麻呂子親王を結びつけるものとしてもうひとつ、『はぎのはしら』があります。これは多禰寺の創建時に、麻呂子親王が麓の平村から運ばせたとの謂われがある、萩の大木で造られた柱で、文政七年(一八二四)に本堂が再建されたときも、大切に残され現在に至ります。
文化財の宝庫
多禰寺の仁王門で睨みをきかせていた金剛力士像は高さ三・五メートルを超える日本屈指の巨大なもので、鎌倉中期の慶派の仏師によるものと見られます。力士像は、昭和五十八年(一九八三)より修理と博物館での展示のために、永らく当寺を離れていましたが、平成五年(一九九三)にようやく里帰りが叶いました。しかしながら国の重要文化財に指定されているために仁王門に戻る事は出来ず、現在は多禰寺の宝物殿に安置されています。
過去と現在
古地図によると、かつて多禰寺には多重塔や勅使門があり、参道は麓の平村から延々と続いていた事がわかります。多禰寺をはじめ七つの薬師寺が所蔵している薬師如来像は総て平安仏であり、親王の時代である飛鳥・白鳳時代にまで遡る作品ではないとの事ですが、多禰寺は、伝説に彩られるに足るだけの隆盛を極めた寺院だったのです。
西国薬師第三十番醫王山多禰寺御詠歌
さきのよに まきつるたねの おいいでて のりのはなさく はるぞうれしき 
丹後元伊勢伝説 
彷徨い続けた天照大神
時は崇神天皇の御代、日本国中に疫病が大流行し、国民の半数が死亡するほどの猛威を振るいました。事態を憂いだ天皇は、朝夕に天神地祇に祈りを捧げ られにもかかわらず、その勢いは一向に止まりませんでした。
この国難を、宮中で祭祀している天照大神(アマテラスオゝミカミ)と倭大國魂神(ヤマトオゝクニタマノカミ)の不仲によるものと 思慮された天皇は、天照大神を皇女豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)に託して祀らせ、倭大國魂神を市磯長尾市宿禰(イチシノナガオチノスクネ)に託して祀らせ、占いの結果祟りをなしている事が判明した大物主神(オゝモノヌシノカミ)を太田田根子 命(オゝタタネコノミコト)に託して祀らせたところ、ようやく疫病は収まりました。
この一件以来、倭大國魂神は倭国(ヤマトノクニ)の大和(オゝヤマト)神社に、大物主神は倭国の大神(オゝミワ)神社にて祭祀されることになるのですが、倭国の笠縫邑(カサヌイムラ)に祀られた天照大神は、それ以後約六十年の歳月を要して二十五回も遷宮を繰り返し 、最終的に伊勢国の五十鈴川のほとりに鎮座することになります。
天照大神が神宮(伊勢神宮を正しく呼称する場合、「伊勢」は付けない)の内宮に鎮座する以前に立ち寄った先を、元伊勢と呼びます。
皇女・豊鍬入姫命と倭姫命
天照大神の巡幸先は下記の通りです。
天照大神巡幸地一覧(倭姫命世紀による)
一、倭 国 笠縫邑
二、但波乃 吉佐宮
三、倭 国 伊豆加志本宮
四、木乃国 奈久佐濱宮
五、吉備国 名方濱宮
六、倭 国 彌和乃御室嶺上官
七、大和国 字多秋志野宮
八、大和国 佐々波多宮
九、伊賀国 隠市守宮
十、伊賀国 穴穂宮
十一、伊賀国 敢都美恵宮
十二、淡海国 甲可日雲宮
十三、淡海国 坂田宮
十四、美濃国 伊久良河宮
十五、尾張国 中嶋宮
十六、伊勢国 桑名野代宮
十七、伊勢国 奈具波志忍山宮
十八、伊勢国 阿佐加藤方片樋宮
十九、伊勢国 飯野高宮
二十、伊勢国 佐々牟江宮
二一、伊勢国 伊蘇宮
二二、伊勢国 大河之瀧原宮
二三、伊勢国 矢田宮
二四、伊勢国 家田田上宮
二五、伊勢国 五十鈴宮(現今の大神宮)
天照大神は当初皇女豊鍬入姫命を御杖代(ミツエシロ)として各地を巡幸していましたが、豊鍬入姫命が老年になるに及んで御杖代を皇女倭姫命(ヤマトヒメノミコト)に交代しました。倭国、彌和乃御室嶺上宮(現・三輪山山頂か?)までは豊鍬入姫命が、以後は倭姫命が天照大神の御杖代となって諸国を巡幸しました。
但波乃吉佐宮
天照大神の遷宮伝説を、大和朝廷の地方吸収劇が伝説化したのではないか?とする研究者もいます。なるほど但波・紀州・吉備・伊賀・近江・尾張・伊勢は本来海人族の勢力下であり、支配基盤を固める上で目の上の瘤だったことでしょう。
倭国の笠縫邑を出発した天照大神が最初に向かったのが但波乃吉佐宮でした。
但波とは、丹波の事です。
丹波国は、西暦七一三年に国の中心であった北五郡(熊野、竹野、丹波、与謝、伽佐)が分離され、新たに丹後 国となりました。これは筑紫が筑前・筑後、吉備が備前・備中・備後と分国されたのとは形が違い、丹波をそのまま残した上で丹波の中心部を丹後(タニハノミチノシリ)としたのですから、為政者に何らかの考えがあったのでしょう。
また、倭を出発した天照大神が最初に但波へ向かったことにも注目しなければなりません。近隣の諸国を差し置いても、真っ先に向かわなければならない理由が存在したと思われるからです。
但波乃吉佐宮は、丹後地方に在ったはずです。しかし、吉佐宮が一体何処だったのかが未だにはっきりしません。有力な比定地が複数存在するからです。
伝説の吉佐宮に比定される神社は、以下の三ヶ所です。
籠神社
神代の昔と言われる遠い上代から、今の奥宮の地真名井原に匏宮(ヨサノミヤ)とし申して豊受大神が御鎮座になっていましたが、その御由緒故に崇神天皇の御代に天照大神が大和國笠縫邑から御遷座になり、以後四年間御鎮座になりました。籠神社(コノジンジャ)の名称は、神代に彦火明命が籠船に乗って龍宮に行かれた故事に因む名称であり、「籠」を上古において「コ」と発音した事から「コノジンジャ」と称します。籠神社の社格は、奈良朝以後は丹後國一之宮に列せられ、延喜式内名神大社にして山陰道八ヶ国中唯一の官幣大社であり、神階は最終的に正一位にまでなりました。明治の制においては国幣中社に列せられましたが、官幣大社昇格運動の末、昭和20年3月25日、時の帝国議会は満場一致で昇格を可決した秘史があります。
( 伝説と異聞 / 「籠明神祝部海部直等之氏系図(通称・海部氏系図)」は、海部氏の始祖彦火明命から平安初期に至るまでの当主名と在位年月を書き記したものですが、これは現存する日本最古の系図であり、系図としては唯一国宝に指定されています。「海部氏伝世鏡、息津鏡・邊津鏡」は、海部氏が二千余年に渉って無二の神宝として伝世してきた銅鏡で、息津鏡は後漢時代、邊津鏡に至っては前漢時代のものであり、伝世鏡(古墳などから掘り起こした鏡でない)であるとの学術的鑑定を受けています。境内参道に鎮座する狛犬は鎌倉時代の作といわれており、国の重要文化財に指定されています。この狛犬は、あまりの出来の良さ故に魂を宿し、夜な夜な籠神社を抜け出しては天橋立を徘徊し、人々を驚かしていたのだそうです。伝説の豪傑・岩見重太郎に退治されて以来神格を宿し、神社守護の任に精を出しているとの事です。)
皇大神社
伝承によれば、第十代崇神天皇三十九年(西暦紀元前五十九年)に、「別に大宮地を求め鎮め祀れ」との皇大神の御教えに従い、永久にお祀りする聖地を求め、それまで奉斎されていた倭の笠縫邑(現奈良県桜井市)を出御されたのが、いまを去る二千数十年前の遥かな昔であった。そして、まず但波(丹波)へ御遷幸、その御由緒により当社が創建されたと伝えられている。皇大神は、四年ののち、御神蹟をおとどめなされて再び倭へおかえりになり、諸所を経て、崇神天皇二十六年(西暦紀元前四年)に、伊勢の五十鈴川上の聖地(いまの伊勢の神宮)に常永遠にお鎮まりになった。しかし、天照皇大神の御神得を仰ぎ慕う遠近の崇敬者は、引き続いて当社を内宮の元の宮として「元伊勢内宮」あるいは「元伊勢皇大神宮」「大神宮さん」などと呼び親しみ、今に至るも庶民の篤い信仰が続いている。
( 伝承と異聞 / 皇大神社の社殿向かって左側に、「龍灯の杉」と呼ばれる一本の杉の巨木があります。樹齢二千年に近いと推定されるこの巨杉に、毎年節分の夜の丑三つ時、龍神が梢に明かりをともしにやってくるとの伝説からこの名があります。残念ながら龍灯の杉は、一九六一年に信者の灯明の火から火災に見舞われ無惨な姿になってしまいましたが、それでも枯れることなく現在に至っています。龍神伝説と海人族との関連は有識者が常に指摘するところであり、境内末社には三女神社(宗像三女神を祀る)が古より鎮座している事からも、近年古代史関係者の注目を集めています。一の鳥居を潜ってすぐに異種異様な姿の巨木が目に付きますが、これは「癌封じの樹」と呼ばれている樹です。人間の病気を吸い取ってくれる霊験あらたかな樹なのだそうです。参道にそびえる三本の杉(現存するのは一本のみ)は「麻呂子親王お手植えの杉」と呼ばれています。土蜘蛛退治に丹後へ派遣された麻呂子親王が自ら植えた杉だとされています。)
竹野神社
社伝によれば、垂仁天皇に仕えた丹波の大県主由碁理の娘・竹野媛が、晩年竹野に戻り天照皇大神を祀ったのが竹野神社の始まりだと云います。竹野神社は丹後一の古社を自負しており、丹後の元伊勢伝説は竹野神社があったが故にのちに創作されたものだとしています。しかしながら通常元伊勢の名を冠する事はなく、地元の人達から「齊(いつき)さん」と呼び親しまれています。
( 伝承その他 / 竹野神社は京都府竹野郡丹後町に位置し、周囲1キロメートル四方に及ぶ屏風岩である立岩、丹後地方最大の古墳である神明山古墳(全長190メートル)、役小角が開いたとされる丹後半島最北の独立峰である依遅ヶ尾山(いちがおやま 標高540メートル)、間人皇后伝説を今に伝える間人(たいざ)等に囲まれる形で鎮座しています。)  
日子坐王伝説 
土蜘蛛というのは穴居民だとか、先住民であるとか言われていますが、大和国家の側が征服した人々を異族視してつけた賎称です。丹波(後に分国されて丹後となる)は古代より土蜘蛛の巣窟とされ、度々討伐軍が派遣された地域でした。土蜘蛛と討伐軍が激しく争ったとする伝説は、在地勢力対大和国家の対立の構図を浮かび上がらせます。古代の丹後地方は大陸の文化を受け入れ、独自のすぐれた文化をもっていました。丹後における土蜘蛛退治の伝承で最も古いものが、「丹後風土記残缺」に記された陸耳御笠と日子坐王の伝説です。
陸耳御笠と匹女
第十代崇神天皇の御代、陸耳御笠(クガミミノミカサ)と匹女(ヒキメ)を首領とする土蜘蛛が丹後国の青葉山中に棲みつき、人々を苦しめていました。朝廷は土蜘蛛を討伐すべく日子坐王(ヒコイマスノキミ)率いる官軍を派遣しました。土蜘蛛が棲んでいたとされる青葉山は、古代より丹後屈指の霊峰であり、この山に祖神を祀っていたのが海人族でした。
甲岩と鳴生
勅を奉じた日子坐王率いる官軍は、青葉山から陸耳御笠らを追い落とすことに成功し、引き続き土蜘蛛の追撃を開始しました。丹後国と若狭国の境に到った時、忽然と光り輝き鳴動する巌石がありました。形が金甲に似ている事から、日子坐王はこれを将軍の甲岩と名付け、以後甲岩のある地域は鳴生(ナリウ)と呼ばれるようになりました。鳴生は現在の成生です。土蜘蛛たちは海に向かって敗走したことになります。
匹女死す
敗走を続ける陸耳御笠ら土蜘蛛と日子坐王率いる官軍は、由良川水域で再び激突しました。この戦闘で匹女が討ち取られ、その血は辺り一面を赤く染めた事から当地は血原と呼ばれるようになりました。一度は降伏を考えた陸耳御笠でしたが、退路を断つべく川下から日本得魂命(加佐郡一帯の領主)の軍勢が攻めてきた為、一か八かの勝負に出ます。すなはち、河を越えて対岸の日子坐王の本陣を強行突破すべく総攻撃を開始しました。血原は現在の千原です。
激闘の末に・・・
不意を突かれた官軍でしたが、河原に楯をズラリと並べて防備を固めると、蝗(いなご)が飛ぶ如く矢を射掛けました。この戦闘で土蜘蛛の党はほぼ壊滅しましたが、首領である陸耳御笠は行方知れずとなりました。本陣跡には今でも河守(コウモリ)、楯原の地名が残っています。
駆逐すれども討ち取れず
日子坐王は由良の港で礫を拾い、陸耳御笠の行方を占ったところ、与謝の大山に登った事が解りました。丹後風土記残缺の記録は、ここで終わっています。すなはち日子坐王は、青葉山から土蜘蛛を追い払ったものの、首領である陸耳御笠を討ち取る事には失敗している様です。与謝の大山とは現・大江山連邦と思われます。
土蜘蛛の最期
日子坐王と陸耳御笠の戦闘の模様は、以後「但馬世継記」に受け継がれます。但馬世継記によると、陸耳御笠は海岸伝いに丹後から但馬に敗走し、最期但馬海岸の鎧浦にて日子坐王に討ち取られたとの記録が残っているそうです。
付記1・日子坐王
日子坐王は、記紀系譜によると開化天皇の子で崇神天皇の弟とされる皇族で、四道将軍「丹波道主命」の父にして古代十九氏族の祖とされていますが、実在を疑問視する声も多い謎の人物です。日子坐王は、近江を中心に東は甲斐、西は吉備までの広い範囲に伝承が残っています。なお、日子坐王は本来和邇氏の司祭する日神であり、古事記作成に関与した和邇氏によって和邇氏の祖神としての地位を与えられたのではないか?とする説もあるようです。
付記2・陸耳御笠
丹後風土記残缺では、「笠郡」と記して「ウケノコオリ」と読ませている部位がある事から、陸耳御笠は正しくは「クガミミノミウケ」なのかも知れません。谷川健一氏は著書『神と青銅の間』の中で、「ミとかミミは先住の南方系の人々につけられた名であり、華中から華南にいた海人族で、大きな耳輪をつける風習を持ち、日本に農耕文化や金属器を伝えた南方系の渡来人ではないか」とされています。 
麻呂子親王伝説 
日子坐王の土蜘蛛討伐から約六五〇年後、丹後國に再び官軍が派遣されるに至りました。日子坐王に討伐された陸耳御笠(クガミミノミカサ)と匹女(ヒキメ)を首領とする土蜘蛛は丹後國中の青葉山に棲んでいましたが、今回麻呂子親王(マロコシンノウ)を大将軍とする官軍が討伐の対象とした『鬼』たちは、陸耳御笠が逃げ込んだとされる三上ヶ嶽(現在の大江山)に棲んでいました。
妖術を使う三鬼
第三十一代用明天皇の御代、丹後國河守荘三上ヶ嶽(現在の大江山)に、英胡(エイコ)・軽足(カルアシ)、土熊(ツチグマ)の三鬼を首領とする多くの鬼が棲み、丹後はまるで魔國のようになっていました。朝廷は鬼を討伐すべく、知勇兼備の麻呂子親王を大将軍とする官軍を遣わす事に決し、勅を奉じた麻呂子親王は、岩田・河田・久手・公庄の四勇士をはじめ一万綺からなる大軍を率いて三上ヶ嶽へ攻め入りましたが、鬼は妖術自在(空を翔び、海を渡り岩をくぐり、雲をおこし雨を降らせ、身を隠したり顕れたり)で斬りつける事も矢で射る事もできませんでした。
神仏の御加護と白い犬
鬼の妖力の前に人智は全く歯が立たない事を悟った親王は、神仏の御加護を以て鬼を討ち果たそうとお考えになりました。一旦兵を引かせた親王は、自ら七体の薬師如来像をお彫りになり、「もしも鬼を討ち果たせたならば、この薬師如来像を祀って丹後に七寺を開きます」と祈誓され、併せて天照皇大神と天神地祗に祈願されました。するとどうでしょう。親王の元へどこからともなく額に鏡を付けた白い犬が現れました。この犬が神仏の御遣いであることを察した親王は、白い犬を先頭に三上ヶ嶽へ攻め入ったところ、鏡の光が次々と隠れていた鬼の姿を照らし出し、鬼の妖力をことごとく封じてしまいました。鏡の聖なる力によって身動きが取れなくなった鬼達は最早官軍の敵ではなく、麻呂子親王は無事勅命を果たす事ができました。
三鬼の末路
三鬼のうち、英胡と軽足は官軍に討ち取られましたが、土熊のみは生け捕られました。土熊は生き残った鬼達共々助命を願い出たため、親王は「七体の薬師如来像を安置する七つの寺の土地を一夜のうちに開くならば、命だけは助けよう」と申されました。鬼達は喜び勇んで七寺の土地を開墾したのち、丹後半島の先端にある立岩に封じられました。
七薬師伝説
麻呂子親王御開基の七薬師寺を主張する寺院は、現在七ヶ所以上ありますが、「多禰寺縁起」によると以下の通りです。
一、施薬寺(与謝野町)・・・・・桓武天皇勅願所、旧根本寺
二、清園寺(福知山市大江町)・・略縁起と縁起絵は府の指定文化財
三、元興寺(京丹後市丹後町)
四、神宮寺(京丹後市丹後町)・・麻呂子親王のものと伝わる墓がある
五、等楽寺(京丹後市弥栄町)
六、成願寺(宮津市)
七、多禰寺(舞鶴市)・・・・・・用明天皇勅願所、西国薬師第三十番霊場
また、大江町の如来院(古くは仏性寺と呼んだと思われる。日本の鬼の交流博物館のすぐ近く)も麻呂子親王御開基と伝えられる古刹であり、本尊の薬師如来像の胎内仏は親王の護身仏と伝えられています。 更に、仏性寺の山号を鎌鞭山と云いますが、これは親王が鬼達を討ち取った後に武具である鎌と鞭を納めた事に由来すると言われています。その他七薬師寺伝説の寺としては、円頓寺(京丹後市久美浜町)・月光寺(廃寺、京丹後市大宮町)などがあります。
親王の足跡
今日、丹波・丹後には七十ヶ所以上に麻呂子親王にまつわる伝説が残っています。その一部を列挙すると
・京都府福知山市雲原に「仏谷」という地名があり、麻呂子親王はここで七体の薬師如来像を彫ったとの伝説がある。
・大江町の元伊勢皇大神社には、「麻呂子親王お手植えの杉」と呼ばれる杉の巨木が現存する。また、皇大神社には麻呂子親王勧請説がある。
・与謝野町の大虫神社(延喜式内社)には、戦勝祈願のために親王自らが彫った神像が納められていた。また、白い犬の鏡も合祀されていた。(いずれも火災で焼失)
・与謝野町に、「二つ岩」と呼ばれる巨石がある。これは大江山から親王めがけて鬼が投げつけた巨石で、親王はこの岩を刀で受け止めて真っ二つに切り裂いたものであるとの伝説がある。
・京丹後市丹後町の竹野神社は、麻呂子親王を合祀していると伝える。近くには土熊を封じたとされる「立岩」があり、「鬼神塚」も現存している。
・大江町に美多良志(ミタラシ)荒神という小祠があり、親王の大願成就と同時に死んでしまった白い犬を祀っているという。
膨大な麻呂子親王伝説は、後年の源頼光による鬼退治の物語『酒呑童子伝説』へと昇華していきました。
付記1・麻呂子親王
麻呂子親王は、用明天皇第三皇子にして聖徳太子の異母弟です。親王の鬼退治伝説に薬師信仰が深く関わっているのは、丹後における仏教の浸透時期を考えるとき、大変に興味深いものがあります。また薬師如来は、海上交通の安全に御利益があるとされていることから、海人族の影が見え隠れします。
付記2・英胡、軽足、土熊
清園寺略縁起(京都府指定文化財)には奠胡(テンコ)、迦楼夜叉(カルヤシャ)、槌熊(ツチグマ)の名で登場します。研究者は、こちらの呼称の方が古く、本来はこの呼び方ではなかったかとしています。
付記3・鉱物資源を巡る争い
数年前、私が福知山市大江町にある「日本の鬼の交流博物館」を訪れたとき、運良くあるお方にお話を聞く事ができました。
あるお方曰く、
陸耳御笠が棲んでいた青葉山も、三鬼が棲んでいた大江山も、古くから海洋交通の目印であり、修験の山であり、鉱物資源の豊富な山として知られてきました。この山を支配してきたのは海人族であり、製鉄民でありました。鬼とは製鉄民族の事なのです。大江山を始めとして、丹後には沢山のタタラ場がありました。鉱物資源と優れた技術を押さえる事は、古代に於いても現代に於いても、戦略上極めて重要な事です。丹後の鬼と官軍との戦いは、丹後の地方勢力と大和朝廷の、鉱物資源争奪戦だったのです。聖徳太子は秦河勝を使って次々に地方豪族を滅ぼしていきましたが、丹後の攻略も聖徳太子の意志であったのではないでしょうか?最も、聖徳太子も母親が海人系の間人皇后ですから、海人族の血を引いているのですが・・・・・ 
丹後七姫伝説 
乙姫(おとひめ)
時は雄略天皇の御代(五世紀頃)、丹後の漁師浦嶋子は沖に出て釣りをしていましたが、三日三晩一匹の魚も釣れませんでした。諦めて竿を上げるとそこに五色の大きな亀が現れました。亀を眺めるうちに眠りについてしまった浦嶋子が目覚めると、亀は美しい乙姫の姿に変わっていました。二人は常世の国(竜宮城)へ赴き、楽しい日々を過ごしましたが、里心のついた浦嶋子は故郷に還り、決して開けてはならないと言って渡された玉手箱を開けると・・・・日本最古の浦嶋伝説が伊根町の宇良神社に伝わっています。
羽衣天女(はごろもてんにょ)
昔、磯砂山の山麓で八人の美しい天女が水浴びをしていました。その様子をそばで見ていた老夫婦が一人の天女の羽衣を隠してしまったため、その天女は天に還ることができなくなってしまい、やむなく老夫婦の養女として暮らすことになりました。天女は稲作・養蚕・酒造の技術を伝え、老夫婦はすっかり裕福になりましたが、ある日老夫婦は「汝は我が児に非ず」として天女を追い出してしまいました。悲しみに暮れた天女(豊宇気比売)は、奈具の村に行き着き・・・・・・京丹後市峰山町に伝わる羽衣伝説は、丹後風土記にも登場する日本最古のもので、奈具神社には豊宇気比売がお祀りされています。
穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)
穴穂部間人皇女は、欽明天皇の息女で用明天皇の后、厩戸皇子(聖徳太子)の生母です。六世紀末、中央で蘇我氏と物部氏の権力闘争が激化した折、戦火を避けるために一時日本海沿岸部に避難していたのだと云います。何年か後、政情が落ち着き都へ帰る折、世話になった里人達へ感謝の意を込めて、皇女は自分の名前を里に与えましたが、里人達は「畏れ多いこと」として苦慮した結果、間人の字を皇女の御退座にちなんでたいざと読み替えてこの地の地名にしたそうです。※ 現地では単に間人皇后と呼ばれていますが、間人の名を持ち、尚かつ天皇の后となった皇女は二名在り、学術上他方は間人皇女(孝徳天皇后)と呼ばれている事から、当webでは混乱を避けるため、穴穂部間人皇女としました。
細川ガラシヤ(ほそかわがらしや)
細川ガラシヤは、戦国武将明智光秀の娘で、本名を玉と云います。織田信長の勧めで細川藤孝の嫡男忠興の元へ嫁ぎ、幸せな日々を過ごしていましたが、実父明智光秀が主君織田信長を討った(本能寺の変)事で事態は一変、玉は幽閉されてしまいます。幽閉先の京丹後市弥栄町味方野で彼女はキリスト教に触れ、後に信仰に救いを求めてガラシヤの洗礼名を授かります。関ヶ原合戦前夜、東軍に荷担する武将の正室を人質に取ろうとした西軍の軍勢が大坂の細川屋敷を急襲した折、人質となることを恐れたガラシヤは屋敷に火を放ち、キリスト教の教えで自刃できないことから家老に胸を突かせて絶命しました。享年三十八歳の若さでした。散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ (辞世の句)
小野小町(おののこまち)
平安時代の六歌仙の一人として百人一首にその名を残し、絶世の美女として知られる小野小町には、ある伝説がが伝わっています。京丹後市大宮町に伝わる伝説は、年老いた小町が旅の途中でこの地に立ち寄り、旅の疲れから絶命したというものです。大宮町には、小町辞世の句が伝わっています。九重の花の都に住はせで はかなや我は 三重にかくるる 
安寿姫(あんじゅひめ)
安寿と厨子王の父は、元来奥州のとある国の領主でしたが、平将門の乱に荷担した嫌疑をかけられ筑紫の国に追放されてしまいました。父を慕って筑紫へ向かった姉弟は、旅の途中で人買いに騙され、丹後の山椒大夫に売り飛ばされてしまいました。姉弟に待っていたのは昼夜を問わずの苦役でした。「何とか厨子王だけでも・・・・」そう考えた安寿は、山椒大夫の目を盗んで厨子王を逃がすことに成功しますが・・・・怒り狂った山椒大夫に責め続けられた安寿は、立派に成人した厨子王が助けに来る前に池に身を投げたと伝わっています。
静御前(しずかごぜん)
源義経の寵愛を一身に受けた美しい白拍子の静御前は、京丹後市網野町に生まれたとの説があります。源頼朝よって義経と引き離され、宿していた義経の子も生後直ぐに殺されてしまった傷心の静は、生まれ故郷の網野へ戻り、この地で20余歳の短い生涯を終えたのだと云います。静の死を悼んだ村人達は、静神社を建立し、彼女の御霊を慰めることにしたとの事です。 
 
諏訪の神さま

 

大むかし、国を治めていた天照大御神は、出雲だけが、まだ自分に従っていないことを不満に思っていたそうな。そこで大御神は、出雲を治めている大国主神に何度も使いを出して、出雲をゆずるように言ったのだが、なかなかゆずろうとはしなかった。
最後に使者になったのは建御雷(たけみかづち)神であった。
出雲の伊耶佐(いざさ)の浜辺で剣を抜き、逆さまに突き立て、その切っ先にあぐらを組んで「出雲をゆずれ」と談判する建御雷神の勢いに恐れをなした大国主神は「大御神の言うとおりにしましょう」とあっさり言ったけれど、「私はいいのですが、ふたりの息子たちがなんと言いますか」。
そこで建御雷神はつりに行っている八重事代主(やえことしろぬし)神を迎えに行き父神の前で尋ねると、「父上がそうおっしゃるならば、この出雲は御子に差し上げましょう」と言った。
大国主神は「あと、建御名方神がいますので、お尋ねください」と申したそうな。そう言っている間に建御名方(たけみなかた)神が大岩を手先で差し上げながらやって来て「だれだ。我国に来てひそひそとものを言っているのは。私が相手をしようぞ」と建御雷神の手をつかんだとたん「ちっちっちっちっ」と言いながらはじけるように飛びのいた。
なんと建御雷神の手は氷になっていたのだ。今度は別の手につかみかかると、剣の刃に変わっているではないか。
今度は建御雷神が攻めてきた。
建御名方(たけみなかた)神がひるんだすきに、建御雷(たけみかづち)神は手を伸ばし引き寄せようとしたところ、建御名方神の手は、若い葦を折るようにやすやすと曲がってしまった。
千人かかって持ち上げるような大岩を差し上げる力持ちの建御名方神だが、「これは勝てん」と思ったのか、さっさと逃げ出した。が、それでも建御雷神はしつこく追って来て、とうとう信濃国の諏訪湖のほとりに追いつめた。
身動きの出来なくなった建御名方神は、「どうか助けてください。私はこの場所から出ません。他には行きません。また、我父、大国主神の命には背きません。八重事代主(やえことしろぬし)神の言葉に背きません。天照大御神さまの仰せのとおり出雲をおゆずりいたしましょう」と言った。
「よぅし」と言って建御雷神は信濃を去った。
北に穂高岳、東に八ヶ岳、西に駒ヶ岳という高い山に囲まれていれば、あばれん坊の建御名方神も、ちょっくら出て来ることは出来ないだろうと考えたのだろう。
諏訪湖のほとりで気を休めようとしていたら、そこに昔からいる地神の洩矢(もりや)神が、鉄輪を見せびらかして攻めてきた。あわてた建御名方神は生えていた藤づるを縄にして果敢に戦い、とうとう建御名方神が勝った。が建御名方神は心が優しかったのかしらん。
負けた洩矢神と仕事を分けあいながら仲良く暮し諏訪を盛り上げていったそうな。 
解説
建御名方(たけみなかた)の入信の路は、糸魚川から姫川を上り、長野から小県を通り諏訪に入ったと考える研究者が多い。それはなぜかというと、その道筋に諏訪神社が多いからだそうである。
小谷村には「大宮」の冠を持つ立派な諏訪神社がある。その内の一つ、中土の大宮諏訪神社の例大祭には、為政者をやゆするいわば「悪口祭(京都の八坂神社にもある)」的な「奴踊(やっこおどり)」がある。奴は円陣を組み「ヨーイトマカサーノヨイ」と声を掛け、やゆ歌をうたう。
「狂拍子(くるんびょうし)」では、男児2人が棒を使って踊る。「奴」であるとか意味不明の掛け声には、日本に早くから渡来した人々の足跡を感じる。
長野市に来て、善光寺7社の内4社が建御名方を祭る。そして、更に上田市塩田平の下之郷には宮中でも祭る、生島神・足島神がおわす。
大昔、この地を通って建御名方が諏訪に入られる時、両柱の神さまに敬意を表し、「お粥」を捧げて行かれたそうな。「お粥」で直ぐに思い当たったことがある。
建御名方神は「力くらべ」をして負けはしたが「武神」であるとか「軍神」であるとかの印象が強いが、本来は製鉄神である。
で、「お粥」であるが、6年ほど前に「粥」のことをたたら用語の中で学んだ。
「銑(ずく・銑鉄)」のことを古代韓国語で「ジュグ」というそうだ。銑鉄は粥状に流れ出るものだからという。
赤目(あこめ)という赤鉄鉱分の多い砂鉄で銑(ずく)を作る「銑押出し法」では、4日4晩もかかるそうである。
方言で、「ズクがある・ズクがない」は、この銑作りに根を引く言葉だと考えている。なにしろ4日4晩も眠らずに、こまめに動き、気を配らないと銑は出来ないからである。
建御名方(たけみなかた)は生島神・足島神に玉鋼のような上等な鉄を捧げたのではないかと推測してみる。
また神社の御神体は、「土」であるそうな。本郷の諏訪神社(泥宮)との関係もあると学んでいることから、「泥」のことを「泥(に)」ともいい、実は粘土のことである。粘土質の土は鉄分を含み、米もうまい。泥宮からは原初の稲作と共に沼沢の鉄を利用した鉄器作りが想像されてならない。
山名の「安曽岡山」の安曽(古くは安宗とも)の「アソ」は九州の阿蘇に由来するといわれている。群馬県の富岡市にも阿蘇岡山があり、利根郡昭和村にも阿曽がある。
「記紀 万葉の解読通信47号」で李寧熙先生は「刃物(ア)作り(ジュ)」の「アジュ」を漢字に当て表記したものが「阿曽」だと説明している。
古代から文化度の高い地、 塩田平には佐加神社があるが、元は白鬚神社といった。古代韓国語のお蔭で理由が判明したと、上田女子短期大学の故塩入秀敏先生から丁寧なお手紙を頂いたことがある。
平成11年9月のことである。先生の早過ぎた死は、言語学の分野でも大きな大きな損失である。
諏訪大社の縁起書に『諏訪大明神絵詞(えことば)』という絵巻があり、その詞書(ことばがき)に「洩矢(もりや)の悪賊神居をさまたげんとせし時、洩矢は鉄輪を持してあらそひ、明神は藤の枝を取りて是を伏し給ふ」とある。
洩矢とは神長守矢氏の祖神、洩矢神のことで、明神とは建御名方(たけみなかた)神のことである。洩矢神は敗れたが建御名方神は勝ち、その後裔と称する神(じん)氏が諏訪社最高の神主大祝(おおほうり)を継ぎ、守矢氏は大祝に仕える五官の筆頭神長を継承した。
建御名方神は諏訪に逃げて来たのではなく、「諏訪」が「鉄の場」であること。また、古くからの製鉄を行っている洩矢神がいることも知っていて、やって来たのであろう。「諏訪」は建御名方神が来る前から「諏訪」だったのである。
李寧熙先生は「諏訪」は「鉄の場」を表す言葉だといっている。そのうち「鉄の場」だと証明されてくるのである。
さあ、洩矢神は鉄輪を持ってあらそったとあるが「鉄輪」とはなんだろうか。『古代の鉄と神々』の著者、真弓常忠さんは「鉄輪」は「鉄鐸(さなき)」であろうことは容易に察せられる、といっている。
鉄鐸は神長守矢氏固有の祭具で、守矢氏を中心とする湛(たたえ)神事に用いる。
鉄鐸は薄い鉄板をラッパ状に巻く形状である。
その鉄鐸を振り鳴らし鉄材(褐鉄鉱)の生成を湿原や傾斜地で祈り請うた、と推測されている。塩尻市の信濃二の宮の小野神社で12ヶの鉄鐸を拝したことがあった。
洩矢(もりや)神が求めていた鉄材は褐鉄鉱である。褐鉄鉱のFe(鉄)の品質は花崗岩やかんらん岩に比べれば劣るが、諏訪社に伝わる鉄鐸は6世紀代にもなお行われていたというのである。
建御名方(たけみなかた)神は「藤の枝」をもって鉄輪を伏せしめたというのだが「藤の枝」とは何を意味するのだろうか。
『信濃の鉄』の著者、今井泰男先生は筆者の師である。先生のいうには「左巻きの藤蔓は褐鉄鉱よりも強い(丈夫)」という。
富士見町の井戸尻考古館の樋口さんも、すぐさま「その通りです」と目を輝かせて、尚も続けた。
強くて丈夫なので、昔は諏訪の御柱を引くのに藤蔓を供出したそうである。『古代の鉄と神々』では「藤の枝」とは「鉄穴(かんな)流し」による砂鉄採取の技術を象徴しているという。
つまり、土砂を急流に入れて洗い底っこに溜った鉄砂をザルで採る。そのザルが藤蔓で編んだものを良とするそうである。
望月の鹿曲川で、藤蔓で編んだザルで実験した。藤蔓では荒すぎる。砂鉄など引っかかってもこない。では、竹のザルは堅きに過ぎるというが、竹のザルでは少々の砂鉄が採れた。
古代の人々は忍耐強く少々の鉄を集め採ったのであろうか。実験してるうち、ため息が出た。そのうちあきてしまいザルを放り投げた。
その話を樋口さんにしたら、クスッと笑って、「うちの息子は桶で採った」というではないか。
桶で砂鉄を漉す話は後に詳しくしよう。実はとっておきの話なのである。
ザルでの砂鉄漉しの実験はうまく行かなかったが建御名方神は土着(先着)の古い製鉄法を持つ洩矢神より新しい砂鉄採取や製鉄技術を持ってやってきた神なのであろう。
古い文化が駆逐されずに残存して来た裏には、どんな事柄があったのかを考えてみたい。
どう考えてみても、洩矢神と建御名方神の出自が近い神同士ではないだろうか。
洩矢神は「矢」の字が付く、「弥」「八」「夜」「谷」「野」「耶」等の漢字で書き表された日本語は「ええ」または「ええ人」を表すと学んでいる。「ええ」は紀元前八世紀以前から、朝鮮半島北端の豆満江岸茂山の砂鉄が豊富に集まる所に製鉄国を築き、後代、今の韓国江原道一帯の鉄産地に南下、「東ええ」「ええ国」「鉄国」等の名で製鉄を続ける一方、早くから日本列島に進出、勢力を広げたと学んでいる。
信濃二の宮の小野神社に、長い矛に鉄鐸や麻幣が取り付けてあった。
『三国志』の東夷伝に「ええ人は3丈(約10m)ほどもある長い矛をよく作り、何人かで一緒に持ち歩くとあるそうであるが、なんと、御立産神事の御杖に似ていることか。
驚いた。神事は古い事をよく残す、という言葉を思い出した。
次は、建御名方神であるが、「建」「高」の付く名は高句麗系と見做されると学んでいる。母神は高志沼河姫(こしぬなかわひめ)である。
諏訪下社の妃神は八坂刀売(やさかとめ)神である「八坂」とは「ええ混じる」とも「ええの鉄処」とも読めるので、さてはこの妃神は 系の鉄処のお姫さまであったのか。と考えれば、建御名方神が洩矢神を完全に駆逐しなかった理由がここにありそうである。
厳冬期、諏訪湖の湖面に氷が張り亀裂状に氷が隆起する御神渡りは、上社の男神が下社の妃神の元に通う道筋だと伝えられてはいるが、一説には竜神信仰の面影をとどめた大蛇(うわばみ)の形であるともいわれている。
大蛇ならば、甲賀三郎の化身ではないか。
佐久には「甲賀三郎伝説」がある。
兄達の陰謀により蓼科山の穴に落ち暗闇の世界を彷った後、明るい場所に出たら三郎の体は大蛇と化していた。やがて蓼科山を下り三郎は諏訪明神になった。
これが甲賀三郎譚の粗筋である。
実は三郎は「鉄」をさがしに地下をさ迷っていたのである。伝承の中で「穴」が「鉄穴」を暗示している。「鉄穴」とは深い穴を指しているのではなく鉄鉱石が地面に露出している所をいう。三郎がさがし、見つけた(とは伝承にはないが)鉄鉱床は蓼科山山麓の茅野市にある、褐鉄鉱床の「諏訪鉄山」であろう。
寒い頃、長尾根鉱区を地元の篠原治郎さん(79歳)に案内して頂いた。褐鉄鉱床は二階建の家の高さほどの場所もあった。鉱石を掘る為に除かれた土は、山と同化していた。
「蛇」は韓国式の音読みで「サ」となる。鉄も「サ」の概念がここに生れると学んでいる。蛇は湿地を好む。その湿地から初発期の稲作が始まり、弥生時代の鉄材の褐鉄鉱の生成も始まる。古代の人々はそうした事がわかっていたのであろう。
大蛇に化身した三郎は「製鉄・鍛冶集団のお頭」だったのではないか。
諏訪明神が大蛇となって下社に行くと妃神は「尾はどこじゃ」と尋ね、明神は「尾は高木の尾掛松」と答えたそうな。
下諏訪町「大和」の尾掛松に行ってみると、枝は切られ、白肌の枯樹がにょっきりと立っていた。槙柏だそうで、枝の切り口からいい香りがしたと教えてくれたのは枝を切った知人である。
この木の生きている姿を見た人は誰もいない。
日本の正史といわれる『六国史』に推古天皇5年8月に「竜田風神・信濃須波・水内神を祀らしむ」とある。「竜田風神が須波に水内神を祀った」と読めばいいのだろうか。そうすると、竜田風神と水内神は同神なのかさっぱりわからないので県神社庁で調べてもらったが、「水内」と名の付く神社の祭神はほとんど、建御名方神であった。
竜田風神といえば、志那都比古神(しなつひこ・級長津彦)・志那都比売神(しなつひめ・級長津媛)であるが、諏訪地方には前出の神を祭った神社は検索されない。が、長野市風間の式内社風間神社には前出の神が祭られている。諏訪明神は、志那都比古神とはいわないが風の神であるそうな。
この稿を書きながら、神々は時代と共に名前を替え変身するのかもしれないと思うと、考察する楽しさが倍増して来る。
さぁ、もう1つ諏訪明神の分身かと考えられる「神」のことを記してみよう。
『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』に「南宮の本山は信濃国とぞ承る さぞ申す 美濃国には中の宮 伊賀国には稚(おさな)き児の宮」とある。
「中の宮」は岐阜県垂井町の南宮大社のことで、金山彦命を祭り、宝物には刀剣類が多く、通称「鞴祭(ふいごまつり)」と呼ばれる金山祭がある。神社近くの地名も鉄に関わりある地名がいっぱいで、宇都宮精秀(きよひで)宮司さんは「南宮のもうひとつのルーツ」として参拝のしおりに特別寄稿している。注目すべきは、現在の韓国で「南宮」と名乗る人達が大勢いて、南宮氏は製鉄に関係あるともいわれている、とある。
「稚き児の宮」は三重県伊賀市、伊賀一の宮の敢国(あえくに)神社のことである。祭神は大彦命、児を表すのは手の俣から漏れ落ちた少彦名(すくなひこな)神のことをいい、それは鉄砂(砂鉄)を表しているそうであるが、驚くことに、相殿に諏訪神社があり、甲賀三郎をお祭りしている。その前の池を地元の研究家は諏訪湖だという。いずれにしてもこの地は、地名の語源から推測しても、鉄処である事は間違いない。近くには渡来の「鉄の貴人」と読める「荒木須智神社(白髭神社)」があり、製鉄に関わりある葛原(固め原)姓にまたびっくりした記憶がある。
他の南宮2社が製鉄と関わりあるし、フイゴの風かと思われる風の神も諏訪明神の分身かと考えられるので、南宮の本山とは諏訪大社であろう。『古代の鉄と神々』では諏訪大社が製鉄の神であり、「南宮」の呼称が、製鉄のたたら炉の高殿を支える4本柱のうち、南方の柱を元山柱と称してもっとも神聖視し、ここに金屋子(金山)神を祭ることに由来し、「御柱」の意味もここに求めることができる、とある。
御柱の起源や意義については諸説あるが、筆者は「高殿の4本の押立柱」説に得心がいったのである。
「御柱」とはご存じの通り、7年ごとの寅年と申年に行われる御柱(みはしら)祭のことで、勇壮かつ雄大で、
郷土をあげての熱気と興奮の渦に驚くばかりである。他人の阻そうも祭時は良として許す精神は諏訪人気質の一端である。
なぜ御柱は寅年と申年なのか、考察してみた。
寅は、なわばりを常にめぐるという性質を持つし、 人は寅をトーテム(氏族の神聖視される動植物。日本人の持つ家紋と同じであろう)にしている。これは洩矢神の出自を表している気がしてならない。
次は申年だが、「申」の解字を見れば「両方の手で引っぱって真っ直ぐに伸す形をいうそうである「伸す」といえば、熱く熱した鉄も伸(の)さなければ製品にはならない。
こうした事柄からも「申」は鍛冶に関係する言葉であろう。寅年と申年の意は誰も追究していない。
今まで諏訪明神の真の姿を求めて来たが、ここで諏訪明神をまとめておきたい。
諏訪明神とは、鉄鐸を作る技術を持った古くからの洩矢神であり、次に砂鉄からの製鉄技術を持ってやって来た建御名方神でもあり、大蛇(鉄の場のお頭)と化した甲賀三郎であり、風の神の志那都比古(級長津彦)神であり、さらに、信濃国の南宮の本山(金山神)の5つの分身の総称が諏訪明神なのであろう。「明神」とは製鉄神であると過去に学んでいる。前出の神々はすべて製鉄に関わる神なのである。
上社に近いフネ古墳では鉄処に多いとされる、割竹形木棺墓に鉄王が持つかと思われる蛇行剣や素環刀太刀の他直刀、ノミ、カンナ、鉾、鎌等の鉄器が多量に副葬されていた。下諏訪町にも岡谷市、茅野市にも著名な古墳は多くある。出土鉄器の成分分析が出来ていないので、前出の鉄器は渡来の製品か国内、地場の物かは不明だがすごい鉄器の量である。
諏訪明神のお膝元であるのにもかかわらず、岡谷市小坂の小坂神社では下照姫(したでるひめ)を祭る。事代主命の妹に当るので建御名方神のきょうだいであるが、木曽の水無(すいむ)神社にまつられる高照姫はその別名である。「下照姫」=「鉄の地、取り付ける(世話する)姫」と学んでいる。鉄の出る地を探し当てる役割の女性なのである。
小坂神社は湖を見おろす高台にある。下照姫は建御名方神を支えているのだ。
鉄処を守る神がおわす諏訪地方(富士見町を除く)では、平安時代の住居跡から鍛冶の痕跡は見つかるが製鉄炉の出土は確認されていない。
神社の神事にある蛙狩(かわずがり)は毎年元日の朝に、上社の御手洗川の氷の下から赤蛙を採るが、なぜ蛙なのかの追求はないと思う。「かは(わ)ず(づ)」の語源の一つを拾うと「製鉄場(鍛冶場)の貴人」の意もあると学んでいる。語源がすっかり忘れられ、形が変形して神事として残った例であろうか。
前宮の4月の酉の日祭に沢山の鹿が狩猟され供えられたそうな。その中に一頭、耳の裂けた鹿がいるそうで、鹿と諏訪明神の古来からの関係を説いたもの、と諏訪七不思議にある。「鹿」の語源を知ってさえいれば直ぐわかる。李先生によれば「鹿」で表記された「シガ」は「鉄磨ぎ」を表し、かつ、 系の製鉄王を表すという。
蛙も鹿も生贄される運命にあるが、すでに政権を失った王を象徴しているように思える。
王としての座を譲ったにしても技術は残している。鳥とも蛇ともデフォルメされた薙鎌(なぎがま)も古代韓国語に代入すれば、「(鉄)の開祖の磨ぎ間」とも、「開祖の鎌」とも読め、諏訪明神は「鎌は我々の象徴だ」「諏訪は鉄処さ」と物で語るのが薙鎌であろうと推測する。
さぁ、神代に遡って、神の血を引く社家の中に中世末に滅亡した金刺氏がいるので、金刺氏の語源を探ってみた。
金刺氏もまた、「鉄の城」という意味の韓国語の吏読(りとう)表記となることを知った。
諏訪はやはり、鉄まみれの「鉄の場」であることを姓名からも実感する。
さらに御神紋や家紋の「梶」について話を進めてみよう。
諏訪上社を始めとして関連ある社は御神紋に「梶」を掲げる(葉の数であるとか、根の有無はここでは問題にしない)。
長野市の善光寺や湯福神社でも「梶」である。
本田善光さんの出自、本田姓に関わる紋であろう。本田姓を始めとして「梶」紋を用いる氏族は半田、諏訪、誉田、生島(鬼梶)、茅野、金子、本多(この調べは充分でない)等であるが、諏訪の金子氏は諏訪社と深い繋がりがあり遠慮もあってか「梶」は使っていない。
遠方では、長崎県雲仙の小浜温泉の本多湯大夫家(温泉の元締)が「梶」である。
植物のカジは「穀」とも書くそうだが、本稿は慣用の「梶」とする。
筆者が梶を初めて見たのは、上社や茅野市の守屋神長さんのミシャグジ総本社の裏である。クワ科の植物だそうで葉の形は山桑に似ているし、切り口から乳も出るが、切り口の中は空洞であった。実は一見プラタナスの実に似て丸いボンボンに毛が生えている感じであった。原産は南方で、諏訪で自生はしないそうである。どうりで野山を走り回った子どもの頃でも、お目にかかったことがないはずだ。
「梶」は幣の繊維として使ったともいわれている。クワ科であるといえば納得がいく。
昨年の5月初め、『まなほ』が届いた。そこには筆者の疑問に答える語源の解が載っていた。
それまで「梶」の音から「梶」=「鍛冶」かと短絡な推測をしていたが、「梶木」を「栲(たく)」といって楮(こうぞ)の古名だと知った。
「たく」は「(非常に)熱する」の意であるという。なんと、製鉄炉のたたら(ダル・ダラ)の語源「非常に熱する(こと)」にそっくりではないか、さすが「鉄の場」の諏訪だからこその合致であろう。
諏訪地方に行けば、誰でも、明神さまの伝承の1つや2つ語れる。
多くの語りの中で茅野市上原の葛井神社の池の魚は片目だそうな。片目の魚はいなかったけれど、製鉄のたたら炉のホト穴より熔鉄の状態を視つめ隻眼となった鍛冶職を象徴した話であろう。
また、年中の最後に一年中使った幣を送る神事がある。葛井の池に幣を入れると、翌朝遠州のさなぎの池に浮ぶという。
特定は出来ないが、その池らしきを見つけた。
静岡県御前崎市佐倉の池宮神社の桜ヶ池で、あちらには葛井の池とぴったり合う伝承はないが、9月23日の秋分の日に、赤飯をおひつに入れ池に沈める「おひつ納め」があり、その赤飯は翌日、なんと、諏訪湖に浮ぶという伝承と行事がある。
主祭神は「鉄泉の姫神」で、相殿には建御名方がちゃんとおわす。
富士見町も諏訪郡であるし、井戸尻考古館に隣接する歴史民俗資料館に県下一の鉄に関する資料の展示があるのを知っていたので行ってみた。
資料は噂に疑いのないものであったが、紙巾の都合で割愛したい。
富士見町は東北日本と西南日本を2分する大きな裂け目「フォッサマグナ」の中にある。このような地域ではさまざまな鉱物の産出があるが、製鉄に関わる鉱物では触媒に使う石灰岩、マンガン、風化作用で砂鉄を生む、かんらん岩や磁鉄鉱等である。木炭になる木山も豊かな好条件で、平安時代から中世までの操業とされる金谷製鉄遺跡があり、江戸時代中期頃のことか「昔、穴の尾で鉄を吹いた」との伝承のある穴の尾製鉄遺跡がある。
「池の跡砂鉄採取遺跡」もある。この池は選鉄に使ったばかりでなく、保存も兼ねていたのではないだろうか。考古館の樋口誠司さんによれば、両手を捧げた手巾の砂から片手ほども砂鉄が採れたというから、驚く量である。
金谷製鉄遺跡の操業年代を探るための製鉄実験も行われている。
また、御所島には伏屋長者屋敷跡があり、長者は渡来系の人で牧と鉱山開発に関わっていたとの考証もある。
「伏屋」の「フセ」は「鉄の火=鉄焼き」「御所」は「鉄漉し」と読める。
赤石山脈中の入笠山(にゅうがさやま)、程久保山(ほどくぼやま)山麓では、上古の昔から鉄山師(やまし)が入り製鉄が行われて来たとの推測が成る。それに乙事(おっこと)には立派な諏訪神社もある。
富士見町の製鉄に関わりある跡をかけ足で見たが、じっくりと考証する価値のある地域である。
さて、建御名方は「藤の枝」をもって洩矢神に勝ったというが「藤の枝」とは何なのか。
『古代の鉄と神々』の著者は「藤の枝」とは、鉄穴流しによる砂鉄採取の技術を象徴し、水底の砂鉄はザルで採り、ザルに筵(むしろ)を用いた。筵は藤蔓で編んだものを良とするとあるが、藤蔓を編み筵らしき物を作り、望月の鹿曲川や千曲川で、伝承学的実験で砂鉄の選鉱をした。前出の筵では砂鉄は引っかかってもこないので、最後は砂鉄量の多い岩手県東山町にある猊美渓(げいびけい)を流れる、その名も砂鉄川で試みた。
かつて、この川の砂鉄を用い名刀が造られた歴史もある。川砂は、花崗岩が風化した真砂(まさ)と呼ばれる上等鉄で、その中には「金」かと見間違えるほどの雲母もある。
実験結果、推測通り、多く採れたのは桶で、それは美しい黒光の砂鉄が底っこに残った。目の詰んでいる竹ザルならまだしも、藤蔓を用いる器はだめである。
つくづく思うに「藤の枝」とは「柵(しがらみ)」に「藤の枝」を用いたことをいうのではないだろうか。川に柵用として藤の枝を放り込めばそこに砂が造作もなく集まる。それを、桶で選鉱する、と結論づけたい。 
 
越前雑話

 

興道寺廃寺 / 美浜町
7世紀後半から10世紀初め頃まで美浜町の耳川(みみがわ)流域に、壮麗(そうれい)な伽藍(がらん)をもつ古代寺院が存在しました。その場所が興道寺(こうどうじ)地区にあることから、「興道寺廃寺(はいじ)」と呼ばれています。
現在は畑になっている寺院跡から、これまでの発掘調査で、金堂(こんどう)(本尊を安置する仏堂)や塔、講堂(修行道場)、中門、南門の基壇(きだん)(建物の基礎部分)が確認されています。金堂と塔は、8世紀後半以後に、ほぼ同じ場所で建て替えられていることも判明しました。寺の範囲は、南北約120mほどあったとみられています。
遺物も多数出土しています。創建期(そうこんき)の建物の軒先に使われた瓦は7世紀後半の白鳳(はくほう)期のもの。それは、仏教によって国の安寧(あんねい)を図る中央政府が、各地の有力豪族に寺院建立を奨励し、各地で造営が進められた時期で、「国分寺建立(こんりゅう)の詔(みことのり)」(741)よりも半世紀ほど前にあたります。
県内の遺跡では初めて、土造りの仏像の螺髪(らほつ)(毛髪部分)が14点出土しました。大きさと形の異なる2種類があることから、寺院には、少なくとも2体の仏像が安置されていたようです。大きいほうの螺髪から推定される仏像の高さは、坐(ざ)像であれば2.4m、立像なら4.8mにもなります。
和同開珎(わどうかいちん)、万年通宝(まんねんつうほう)など8世紀の銅製銭貨(せんか)も14点出土。県内では一つの遺跡から発掘調査によって最も多くの古代銭貨が発見された事例だそうです。
美浜町教育委員会は、昨年3月、これまでの調査結果をもとに、興道寺廃寺の伽藍配置と周辺景観を描いたイラスト(8世紀後半頃を想定)を作成しました。境内に隣接して鍛冶(かじ)工房(寺院の建築・修繕に必要な鉄製品を鋳造(ちゅうぞう))、周辺には集落や古墳群があります。
耳川流域には、5世紀の終わり頃から豪族が現れ、集落を築いて、須恵器(すえき)(素焼きの土器)製造や海岸での製塩などの生産を支配していきました。6世紀に入ると、豪族は古墳(土盛りをした墓)を造り始め、その一つに獅子塚(ししづか)古墳(美浜町郷市(ごいち))があります。
この全長32.5mの前方後円墳は、壕(ほり)を周囲に巡らし、墳丘(ふんきゅう)に円筒埴輪(えんとうはにわ)を並べています。内部の石室からは、大陸に起源をもつ角杯形(かくはいがた)の須恵器、メノウや水晶の勾玉(まがたま)(装身具)、鉄製の馬具などが発見されました。被葬者は耳別氏(みみのわけし)ゆかりの人物とみられています。
若狭の耳別氏は、古事記の中で、開化(かいか)天皇の孫に当たる室毘古王(むろびこのみこ)の末裔(まつえい)とされています。若狭国三方郡から送られ、奈良の藤原京跡や平城京跡で出土した木簡(もっかん)にも、耳別の名が記されています。平安時代の延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)に記載され、耳川流域に広く氏子をもつ弥美(みみ)神社(美浜町宮代(みやしろ))の祭神は室毘古王であり、耳別氏が、この地を開拓した祖先を祭った社(やしろ)とされています。
耳川流域は、大和(やまと)から来住した王族の子孫が、他の氏族とも関わりながら約400年にわたって治めた地域であったと考えられます。興道寺廃寺は、その繁栄を祈願する氏寺(うじでら)として建立され、権勢を誇示するために、伽藍が段階的に整えられていったようです。
紫式部 / 越前市
今からおよそ1千年前、『源氏物語』の作者紫式部(むらさきしきぶ)は、結婚前の1年余りを越前の国府(こくふ)があった武生(たけふ)(現越前市)で過ごしました。父、藤原為時(ふじわらのためとき)が長徳(ちょうとく)2年(996)、越前の国司(こくし)に任じられ、20代の紫式部は、生涯でただ一度、父とともに都(みやこ)を離れて暮らしたのです。
紫式部は、幼いころに母を亡くし、その後は父親に育てられたようです。父の為時は学者であり、漢詩人としても優れた人物でした。紫式部が子どものころ、弟が父から漢籍の講義を受けているのを横で聞いていて、弟より先に覚えたので、この利発な娘が「男だったら…」と父が嘆いたという逸話も。
越前に来る前年、中国(当時は宋の時代)から70人余りが若狭に漂着、敦賀の松原客館(きゃくかん)(外交施設)に移されており、"外交問題"の処理に迫られていました。為時は、宋人と漢詩を交わして意思疎通を図ったといいます。
そうした父の薫陶(くんとう)を受けて育った紫式部について、作家の瀬戸内寂聴(じゃくちょう)さんは、「自分を美女とは思っていなかったらしい。しかし魅力的な女、それも、知性や教養で培った精神的魅力のある女と自認していたのではないだろうか」「そんな彼女は二十歳すぎまで未婚で、すっかり文学少女になって漢籍や仏典を片っぱしから読みあさったらしい」と著書の中で書いています。今と違って当時は、女性の結婚年齢も10代前半から20歳と早かったようです。
自ら編集した歌集『紫式部集』から武生で詠んだ歌をみると−「ここにかく日野の杉むら埋(うず)む雪小塩(おしお)の松に今日やまがへる」、目の前の日野山(ひのさん)に降り積もる雪を見て、都の小塩山にも今日は雪が散り乱れているのだろうかと思い、国司の館(やかた)の人々が庭に雪山をつくり、紫式部を誘っても、「ふるさとに帰る山路のそれならば心やゆくとゆきも見てまし」と、心が晴れず、恋しい都に帰りたいという思いが募ったようです。というのも、またいとこで、父親と同年配の藤原宣孝(のぶたか)から、紫式部は求婚をされており、決心がつかないまま、揺れる気持ちを抱いて越前に来ていたのです。
平安貴族の寝殿造(しんでんづくり)庭園を再現した「紫式部公園」(越前市東千福町(ひがしせんぷくちょう))には、日野山に向かって立つ紫式部像(圓鍔勝三(えんつばかつぞう)作)や釣殿(つりどの)、泉水(せんすい)などが設けられています。雪の日に訪れると、紫式部の歌の情景が目に浮かんできます。
結婚を決意した紫式部は、父の任期明けを待たず1年余りで帰京。宣孝と結ばれて、娘が誕生しますが、ほどなく夫は病没。わずか数年の結婚生活でした。その後、一条天皇の中宮彰子(ちゅうぐうしょうし)(藤原道長(みちなが)の娘)のもとで"教育係"などを務め、後世に残る大恋愛長編小説『源氏物語』を書き上げました。
昭和63年から現在まで越前市で毎年開催されている「源氏物語アカデミー」の監修に携わった国文学者の故清水好子(しみずよしこ)さんは、「武生の国府の暮らしの中で決断された彼女の結婚−世間の普通の娘とは違った、そして短い結婚生活が、創作活動に及ぼした影響は計りしれない」と述べています。越前武生は、偉大な作家紫式部が、悩み多い若き日を過ごした思い出の地なのです。
松木庄左衛門 / 若狭町
松木庄左衛門(まつのきしょうざえもん)(法名・長操(ちょうそう))は、江戸時代の初めころの人。「苛酷(かこく)な年貢(ねんぐ)によって疲弊(ひへい)した若狭の農民を救うため、命をかけて軽減を訴え、若くして処刑された義民(ぎみん)」として語り伝えられてきました。かつて若狭の農村では、秋に大豆がとれると一番に神棚に供えて、松木さんのご恩に感謝する習わしでした。今も生誕の地若狭町では、その遺徳を伝えようと、豚汁に大豆を加えたものを「長操鍋」と名付けて、イベントなどで振る舞っています。
松木庄左衛門は、若狭街道の熊川宿(くまがわじゅく)に近い新道(しんどう)村の庄屋で、庄左衛門を「農民の神様」として祀(まつ)る熊川の松木(まつのき)神社(昭和8年創建)境内には、次のような由緒書(ゆいしょがき)が掲示されています。
「関ヶ原の戦のあと、若狭の領主となった京極高次(きょうごくたかつぐ)は、小浜湾に臨む雲浜(うんぴん)の地に壮大な城を築いた。そのため領内の百姓には年貢の増徴とか労役の提供など多くの負担がかけられたが、特にそれまで1俵4斗であった大豆年貢が4斗5升(または5斗)入りに増額された。そして、この制度は領主が酒井忠勝(ただかつ)になり、天守閣も造られて新しい小浜城が完成しても改められなかった。
苦しみにあえぐ百姓たちは、年貢引き下げの嘆願(たんがん)運動を十数年にわたって繰り返したが、小浜藩では全くこれを聞き入れなかった。捕縛投獄(ほばくとうごく)の抑圧にも屈せず、あくまで年貢軽減を訴え続けた新道村庄屋 松木庄左衛門は、慶安(けいあん)5年(1652)5月16日、ついに日笠(ひかさ)川原で磔(はりつけ)の刑に処せられた。
しかし、忠勝により悲願は聞き届けられ、大豆年貢の引き下げは実現した。時に庄左衛門は28歳の若さであった」
文献史料としては、酒井家の家臣嶺尾(みねお)信之が享保(きょうほう)5年(1720)に歴代小浜藩主の言行をまとめた書物『玉露叢(ぎょくろそう)』に、若狭の庄屋が共同して大豆年貢の軽減を願い出たことで、忠勝君(ぎみ)が非常に立腹され、頭(かしら)である新道の庄屋を今後の押さえのために処刑すると同時に、その願いの筋も道理にかなっているとして、年貢軽減を許されたことが記されています。
処刑の後、庄左衛門が葬られた日笠の正明寺(しょうみょうじ)には、寛延(かんえん)2年(1749)に日笠村の人々によって建てられた五輪塔(ごりんとう)があり、現存する最古の墓とされています。このほか井ノ口の常源寺(じょうげんじ)に菩提碑(ぼだいひ)(1761年建立)、処刑後も廃絶にはならず、庄左衛門の実弟が継いだ新道の生家・松木家に墓(1774 年建立)、三宅(みやけ)の久永寺(きゅうえいじ)に菩提碑(1862年建立)があります。小浜藩の怒りに触れることを恐れたためか、いずれも処刑からかなり後になって供養(くよう)が行われており、「松木長操」の法名も小さく刻まれています。
松木神社総代の宮本重光さんは、「地元、熊川小学校の児童が、年2回、境内(けいだい)の草むしりをしてくれます。松木さんは、若狭全域の農民のために立ち上がり、長く牢獄(ろうごく)に入れられ、他の庄屋が次々と願いを取り下げ釈放されていっても、最期(さいご)まで信念を曲げなかった人。その誇り高い生き方を末永く伝えていきたい」と話されています。
高浜と平城京 / 高浜町
和銅3年(710)に奈良の平城京(へいじょうきょう)へ都(みやこ)が移されてから、今年で1300年を迎え、「平城遷都(せんと)1300年祭」が奈良市の平城宮跡(きゅうせき)をメイン会場(11月7日まで)に開催されています。
平城宮・平城京跡からは、これまでに大量の木簡(もっかん)(文字が書かれた主に短冊(たんざく)形の木片)が出土。その中には、当時、地方から都に運ばれた物品に付けられていた"荷札(にふだ)"が多数あります。
奈良文化財研究所の「木簡データベース」で検索すると、若狭国(わかさのくに)から平城宮・京へ送られた「荷札木簡」109点をリストアップすることができます。そのうち約半数は、成年男子に課せられた物納の税である「調(ちょう)」が占めています。若狭の場合は、浦々で海水から作られた塩で「調」を納めました。
また、税として天皇家などへ貢進(こうしん)したごちそうを意味する「贄(にえ)」と記された木簡が19点確認されています。若狭からは鯛(たい)や貽貝(いがい)、鰒(あわび)のすし、干物(ひもの)、海藻など、海産物が運ばれました。
「調」も「贄」も、地方の民(たみ)が都へ運ぶ義務を課せられ、若狭からは奈良まで片道3〜4日かけて歩きました。
贄木簡19点の出発地をみると、青郷(あおのごう)(高浜の青葉(あおば)山周辺一帯)からが圧倒的に多くて13点、同じく高浜の車持(くらもち)郷から3点、木津(きづ)郷(現在の高浜町子生(こび)川流域)から1点、そして三方郡からの2点です。宮中へ魚介類などを貢進した御食国(みけつくに)若狭の中でも、高浜、とりわけ青郷が都との特別なつながりを持っていたことがわかります。
1例を挙げると、昭和35年に平城宮跡から出土した贄木簡に、「若狭國遠敷郡青里御贄多比鮓(おにゅうぐんあおのさとみにえたいずし)…」と記されたものがあります。遠敷郡とあるのは、奈良時代の若狭国が、三方と遠敷の2郡だけだったため。青里(現在の高浜町青(あお)のあたり)から鯛のすし(なれずし〈発酵食品〉のようなものか)が贄として運ばれたことを示し、「すし」の存在を記した最古の現物史料とされています。
こうした歴史を踏まえて、高浜町では昨年、町民主体の実行委員会を設け、「御贄献上行列」を企画。研究者を招いて時代考証(こうしょう)を行い、木簡に記された鯛のすしや海水からの塩作りを、想定される古代の製法で再現しました。
今年4月20〜23日には、町民有志6人がそれらを背負って、高浜から歴史の道「西の鯖街道」(周山(しゅうざん)街道)を通り、京都経由で平城宮跡まで約130kmを歩きました。途中、激しい雨や寒い日もあり、体調を崩す人も。古代若狭人の苦びと労を痛感した旅でした。そして4月24日、「平城遷都1300年祭」平城宮跡会場オープニングの日に「御贄献上式」を挙行。参加者に鯛のなれずしを振る舞い、木簡に記された高浜の歴史と海の幸(さち)の豊かさをアピールしました。
高浜町では今、"すし発祥(はっしょう)の地"として「若狭たかはま鮨(すし)」のブランド化を進めています。さらに、「西の鯖街道」沿線市町の団体・個人で「西の鯖街道協議会」を組織。特産品を持ち寄って京都の錦市場(にしきいちば)にアンテナショップを出したり、名物メニューとして「鯖そば」を売り出すなど、連携して地域振興に取り組んでいます。  
 
鬼人 役行者小角

 

修験道や神仙道の開祖とされる役行者にまつわる伝説をまとめたものである。志村氏の奇伝好きが嵩じてか、そのスーパーマンぶり(鬼人!)がトコトン描かれている。そして、役行者は何者であり、どのように生きたのか、未だ霞がかってはいるが、我々に見えるようにしてくれた。周辺の強烈な人たちの奇伝も面白い。
母は、大和葛城山一帯の豪族である高加茂氏の事葛城君の一人娘、白専女(しらたらめ)である。養父は、出雲の加茂氏出身の大角であり、そこは雅楽と兵士の家系であった。大角は早くに亡くなっている。実父は諸説ある。大角、舒明天皇の落胤、「独鈷杵」が口から入る夢を見て懐妊したとの神話、その他である。小角とは幼名であり、成人後の名が伝わらなかったので、そのまま使われた。舒明6年(634)、生まれたときに角があったという。3歳で梵字を書き、7歳で慈救の呪を十万遍誦した。10歳頃に仏教の勉強をはじめ、17歳で出家し、19歳で大峯(山上ヶ岳山系)での修行に入った。
大峯では木食(もくじき)して神仙道(修験)の修行を行い、仙人になって種々の神通力を得、空も飛べるようになったと書かれている。その山には大峯権現神社を建てた。役行者は後に吉野金峯へ移っている。その土地神である山神金精大明神を拝んでいると、地蔵菩薩や弥勒菩薩が出てきたがそれを捨て、最後に金剛蔵王権現が現れ、これに帰依した。山上ヶ岳を西に下った天川では修行中に弁才天が現れている。そこに天河弁財天社が建ち、後に箕面へ勧請された。このように中世の神仏習合の素材となる活躍があった。
役行者は、九州から東北までの各地の山岳信仰に関わりを持ち、修験道の開祖とされている。むしろ「登山家」というべきだろうが実に多くの高山に登ったと書かれている。彦山、富士山、秩父今宮神社、出羽三山…。飛んできては山の修験の開祖となっている。また、彼は僧姿ではなく、俗形で各地を歩いたようである。俗にありながら五戒を守る者を「優婆塞(うばそく)」という。役優婆塞とも呼ばれた。
役行者は前鬼・後鬼を従えていた。神仙道の神通力を持っていたからだとされるが、志村氏は、おそらく古代の大峯山中に住んでいた異形の者たちであったろう−と言う。これを、密教系の修験者が使役する「護法童子」のイメージと混同したのだと。また、葛城山の地神であった一言主神も配下として使った。元は葛城地方の豪族であったが雄略天皇に敗れて忘れ去られた勢力であり、後の葛城山の山人(山伏)を指しているとする説が紹介してある。
修験道の開祖と同時に鉱山との関係もありそうである。鉱山の神様は「金山彦」であった。壬申の乱で大海皇子は大友皇子に追われ、吉野から山城、志摩を経て美濃へ落のびる。この美濃で加担したのが、不破明神(金山彦)であった。金山彦とは鉱業をバックとした新羅系の軍団である。役行者も大海皇子との政治的なつながりを持つ。大海皇子が吉野山に身を寄せたのも、葛城山の豪族でもある役行者を頼ってのことである。後に天武天皇となって室生寺や当麻寺の建設でも役行者と関係した。逆に考えると、役行者とは、金山彦と似た鉱業関係の新羅系豪族であったかも知れない。更に、役小角の神通力は百済の高名な僧より強いとする話もある。仏教拡大に抵抗する勢力のようでもあった。
文武天皇のとき、韓国連広足(従五下位典薬頭)の讒言にあって役行者は伊豆大島へ流刑になった。更に、島へ役人を派遣して斬ろうとすると「富士明神」が出て刀をボロボロにしていまった−とする話ができている。その間に韓国連広足は頓死してしまう。天皇の夢に「北斗七星」が現れて、役行者の刑は解かれた。参内を求めらるが固辞し、唐に渡ったか熊野で入定したとされている。後に光格天皇より「神変菩薩」の贈り名があった。 
 
古記録からみた大山信仰の諸相

 

「大山寺縁起絵巻」『大山不動霊験記』を中心にして
はじめに
相模平野の中央にそびえ立つ大山(標高1252メートル)は、神仏の宿る霊山として、古くから貴賤上下の厚い信仰を集めてきた。特に江戸時代中期(宝暦・明和年間、18世紀後半)以降には、大山御師(註1)(明治時代以降は先導師という)の活動による大山講の組織化が進展し、相模・武蔵国内はもとより、駿遠豆・甲信越・房総方面の庶民は鉄造の不動明王に五穀豊穣・雨乞い・家内安全・商売繁盛などの現世利益を求めて、盛んに「大山参り」(「大山詣で」)を行った。このため、各所に大山に通じる大山道や大山道標が開かれ、山麓一帯には講中を迎えるために御師が経営する宿坊や土産物店が軒を連ね、門前町(註2)(伊勢原市側6町・秦野市側1町)の様相を呈するに至った。大山参詣をすませた庶民のなかには、南に進路をとって裸弁才天で有名な江の島に脚をのばし、家内安全・商売繁盛・病気平癒などを祈る者も多く、大山と江の島は当時の江戸をはじめとする関東庶民の物見遊山の二大拠点でもあった。
小稿の考察では、大山信仰の形成を知る上で不可欠の史料と考えられる「大山寺縁起絵巻」・『大山不動霊験記』という二大記録を中心にして、その基盤がどのように形成されてきたかを検討することにしたいと思う。本論に入る前に、以下、少しく大山(大山寺・大山阿夫利神社)の歴史について紹介しておこう。
1 大山略史
丹沢表尾根の東端に位置する大山の山名は、山頂に大山祇神を祀るところに由来するといわれている。古くは「石尊大権現」と呼ばれて、山頂には巨大な自然石(磐座=神が宿る岩)をご神体として祀った阿夫利神社(上社)がある。大山信仰がいつ頃形成されたかは特定できないが、過去に行われた山頂周辺の発掘調査(註3)では、縄文時代後期中葉の加曽利B式土器片や古墳時代の土師器片・須恵器片のほか、平安時代の経塚壺・経筒などが発見されたことから、かなり古い時代から大山に分け入る人々が存在し、そのような人々の間で大山の山岳信仰が徐々に形成されていったと考えられる。とくに縄文時代の土器片の遺物については、その当時の人々の信仰の遺物であるとする説と後世の修験者が持ち込んだものであるという説とに見解が分かれ、未だに決着をみていない。
古文献上では、8世紀中頃に成立した『万葉集』の東歌に「相模峰の雄峰見過ぐし忘れ来る妹が名呼びて吾を哭し泣くな」と謳われていることから、相模峰の雄峰として、その山容を誇っていたことがうかがわれる。また10世紀前期に作成された『延喜式』神名帳(註4)には、相模国十三座の一つとして大住郡の項に「阿夫利神社」が名を列ねており、神名帳の原本である神祇官の台帳はすでに天平年間(724〜748年)にはできていたとされるので、阿夫利神社の草創は8世紀前半にさかのぼることができる。ちょうどこの頃から、日本固有の神道信仰と異国からもたらされた仏教信仰が融合調和した神仏習合がはじまり、さらにその後、山岳信仰をもととした修験道が盛んになると、山の中腹に不動明王像を本尊とする大山寺が建立されて阿夫利神社を管理する別当寺となって、「石尊大権現」と一体化した大山信仰が形成されるようになったと考えられる。
大山寺の開創の由来は、『續群書類從』第27輯下釋家部に収められている『大山寺縁起』(真名本)に次のように記されている。天平勝宝7年(755年)、東大寺初代別当の良弁僧正(相模国出身、一説に近江国出身)が大山寺を開創し、聖武天皇は当寺を国家安穏を祈願する勅願寺とし、相模・安房・上総三国の租税の一部を充てて寺院経営を行わせた。その後、天平宝字5年(762年)には行基の遺命により、弟子光増が不動明王像を彫刻して本堂に安置したと記されている。その後の大山寺は元慶2年(878年)の大地震とそれにともなう大火により倒壊・焼失したが、元慶8年(884年)に安然(最澄の同族で円仁の弟子)によって再興され、天台宗系の僧侶たちの山林修行の場として命脈を保ったようである。
平安後末期には、大山は高部屋神社の地域(丸山城)を本拠地とする在地武士糟屋氏が支配する糟屋荘内に組み込まれ、その糟屋荘は久寿元年(1154年)12月に安楽寿院(京都市伏見区竹田内畑町)に寄進(註5)され、ついで鳥羽法皇の皇后美福門院得子、さらにその子八条院しょう子へと伝領(八条院領約220か所)されていった。
鎌倉時代に入ると、糟屋氏が幕府を開いた源頼朝の御家人になったのにともない、大山寺は幕府の庇護のもとで一山を経営することになった。幕府の記録である『吾妻鏡』によると、元暦元年(1184年)に頼朝は高部屋郷の水田5町歩・畠8町歩(註6)を、建保2年(1214年)に三代将軍 実朝は丸島郷(現 平塚市)5町2段(註7)を大山寺領として寄進して、天下泰平・武運長久などを祈願している。その後、大山寺は一時荒廃するが、文永の頃(1264〜1275年)に鎌倉に下向した真言宗の学僧である願行房憲静(註8)(のちに泉涌寺6世・東寺大勧進職)によって復興する。願行は異国(蒙古)降伏の秘法を修する目的で大山に登り、百日間の難行苦行に入る。師である意教房頼賢から与えられた一体の鉄造不動明王を前に一心不乱に祈ると、目の前に憤怒の形相をしたおどろおどろしい不動明王が姿を現し、なおも祈りをつづけると、鉄造不動明王はぱっと目を見開いたという。これに感涙した願行は、この時の不動明王の姿そのままに二体の鉄造の不動明王像を鋳造した。その一体が鎌倉二階堂にあった大楽寺(廃寺)の不動明王像(「試みの不動」と呼ばれ、現在は覚園寺蔵・県重要文化財)で、もう一体は大山寺の不動明王像(国重要文化財)である。
幕府と大山寺との関係は足利将軍家・足利関東公方家や上杉関東管領家にも継承され、大山寺領として丸島郷・高森郷、武蔵国小山田保内山崎郷今井村(現 東京都町田市)などや諸堂の造営費の寄進(註9)が行われるなどして一山の経営は維持された。しかし、室町時代後末期には、これまでのような保護は期待できなくなった上、外部からの侵入や寺内の修験勢力の伸張にともない、学僧による一山の経営は困難な状況になった。文明18年(1486年)の冬に奥州巡錫の途中、大山に登山し止宿した道興准后(関白 近衛房嗣の子で、天台宗本山派の中枢にある熊野三山検校・聖護院門跡)は、その紀行歌文集である『廻国雑記』(註10)の中で、その夜の大山は寒くて眠れなかったと書き記している。このことからも一山が衰微している様子がうかがわれる。戦国時代に入ると、大山は修験者を戦略的に利用しようとした小田原北条氏の支配を受けることになり、大山修験勢力は天台宗・本山派玉瀧坊(現 小田原市松原神社付近)の配下に組み込まれた。永禄2年(1559年)頃に作成された『小田原衆所領役帳』(註11)によると、寺領として中郡高森郷178貫467文が大山寺に宛てがわれている。
徳川家康が天下を制すると、天正18年(1590年)の小田原征討に際して、大山修験勢力が北条方に与して激しく徳川方に敵対した(註12)こともあり、慶長10年(1605年)、家康は大山の大粛清に着手した(註13)。その結果、大山山中からは修験勢力を一掃して山内居住は清僧(学僧)25口に限定するとともに、宗旨を天台宗から古義真言宗へ転宗させ、相模国八幡村(現 平塚市)の成事智院住持、法印実雄(小田原中村原出身、二宮等覚院開山)を大山寺初代学頭に任命して八大坊(十二坊の筆頭)に常住させることなどを命じた。さらに幕府は、慶長13年(1608年)には硯学領として実雄に小蓑毛郷(現 秦野市)57石余(註14)を、翌々年には寺領として坂本畠屋敷72石余と子安村の一部27石余、併せて100石を御朱印地として寄進し、経済的な保護を与えた(註15)。特に「寛永の大修理」の際には、三代将軍 徳川家光は造営費1万両を下付するとともに、春日局を大山寺落成祝賀式も含めて代参として二度も参詣(註16)させている。一方、下山を命じられた修験者たちは抵抗の姿勢を示しつつも蓑毛と大山の麓に居を構え、以後御師として、新たに宿坊・土産物屋経営や祈祷・檀家廻りなどの教宣活動を行うことによって、生活の支えを得ることになった。その結果、大山門前町(秦野市側に蓑毛町、伊勢原市側に坂本・稲荷・開山・福永・別所・新町の6町)の形成と大山講の信仰圏の拡大が達成されることになった。明治初期にまとめられた『開導記』(註17)によると、大山講は相模・武蔵国を中心に房総・甲信越・駿遠豆に同心円的に拡大し、総講数1万5700、総檀家数約70万軒にも達している。
しかし、明治元年(1868年)3月に明治新政府によって神仏分離令が発令され、全国的に廃仏毀釈運動の嵐が吹き荒れる中で、大山寺はその煽りを受けて取り壊された。その旧跡には新たに阿夫利神社下社が建立されたため、大山寺は女坂の途中の現在地(旧来迎院地)に、明治18年(1885年)に明王院として再建され、大正4年(1915年)に観音寺と合併してようやく雨降山大山寺の旧称に復した。
2 「大山寺縁起絵巻」の世界
(1) 「大山寺縁起絵巻」の諸本について
大山信仰が隆盛化した背景には、「大山寺縁起」の民間への流布が介在したと思われる。同縁起には真名本と仮名本の二系統が存在する。小島瓔禮氏・佐伯英里子氏・鈴木良明氏の論考(註18)に依拠して資料の現存状況を示すと、前者は寛永14年(1637年)の年記をもつ大日本仏教全書を初めとする11点、後者は享禄5年(1532)の年記をもつ平塚市博物館本を初めとする13点、合計24点が確認(註19)されている。前・後者ともそれぞれの内容表記に若干の差異はあるものの、大概において内容構成そのものには大きな異同は認められない。本稿で採り上げる「大山寺縁起絵巻」の平塚市博物館本(註20)は、上巻(詞書・絵画各11)・下巻(詞書13・絵画12)2巻から成り、その制作年代は奥書に、「亨禄(享禄)五壬辰年菊月(9月)十三日」とある。また詞書は祐賢坊乗真(伊勢原市教育委員会本では斎藤一器子外1名、藤沢市教育委員会本・大山寺本では橘盛林、内閣文庫本では当山〈大山〉寺務賢隆、町田市勝楽寺本では平岡伊織頼経)が書き記し、乗真はこの絵巻物を修験者と思われる大源坊(不明)・東学院(東学坊か)(伊勢原市教育委員会本では宝蔵坊〈大山脇坊24坊の一つ、吉川領太夫か〉玄浄代、藤沢市教育委員会本では大山寺繁盛坊〈本山・天台修験〉一代、町田市勝楽寺本では法眼祐泉坊〈大山寺候人・承仕〉)に奉納・施入した(註21)ことが判明する。さらに絵筆者については、伊勢原市教育委員会本に清水七之烝・清水七右衛門が掲載されるのみで、他の諸本においては全く不明である。
既述の如く本縁起は仮名本縁起絵巻13点の中で最も古く、各縁起絵巻の内容構成にほとんど異同が認められないことから、後世の江戸時代以降の縁起絵巻(貞享元年〈1684年〉制作の伊勢原市教育委員会本、元禄12年〈1697年〉制作の藤沢市教育委員会本など)の基準となったと考えられる。以下、本縁起絵巻上・下2巻を読み解きながら、大山寺開創に関わる霊験譚の概略を紹介することにしよう。
(2) 「大山寺縁起絵巻」の内容について
上巻
昔、相模国(『七大寺巡礼私記』(註22)では近江国粟津、虎関師錬『元亨釈書』(註23)では近江国志賀、一説に相模国)の国司に大郎大夫時忠(真名本・『東大寺要録』(註24)では漆屋太郎大夫時忠)という信仰心がとても厚い人物がいた。40歳になっても彼には子供がなかったため、如意輪観音像を造立(真名本には記述なし)して、妻とともにこの尊像に子供が授かるように一心不乱に祈念した〔第1段〕。ある夜のこと、時忠夫妻の夢の中に80歳ほどの老僧(霊山の釈迦)が現れ、弥勒菩薩の化身という法華経一巻を授けて、かき消すように姿を消した〔第2段〕。その後間もなく時忠夫妻には仏・菩薩の化身かと思われるほどの男子が誕生し、国中の人々からも大変な祝福を受けて大切に養育した〔第3段〕。ところが生誕から50日(伊勢原市教育委員会本・藤沢市教育委員会本などでは70日、真名本では50日)後、乳母が野原に出て赤子を湯浴みをしている隙に、飛来して来た金色の鷲にさらわれた。夫妻は悲嘆に暮れつつも四方八方に手を尽くして必死に赤子を尋ね求めたが、その行方は杳として知れなかった〔第4段〕。
その頃、奈良の都に顕密の硯学で知られる一人の学僧がおり、その名を覚明(真名本では学明、『元亨釈書』・『東大寺要録』では義淵)上人といった。彼はある時、当来導師弥勒菩薩が来臨して仏法を弘めて大伽藍を建立する夢を見た。夢から覚めて深山に分け入り大きな楠木(伊勢原市教育委員会本では杉木、真名本では櫟樹)を見上げると、その枝の隙間に赤子の泣き声を聞いた。立ち寄って見ると、金色の鷲が巣の中に赤子を懐いていた。赤子を奪い取ろうとしたが、鷲が抵抗したため手に入れることはできなかった〔第5段〕。そこで覚明上人は念持仏の不動明王に「自分が夢で見たことが真実であるならば、この子を五体満足にして取り戻し賜え」と7日間祈念したところ、翌朝に1疋の猿(平塚市博物館本のみ)が現れ、上人にその子を手渡した。受け取って見ると、その子は錦の産衣を纏い、その裏には誕生の年月が記してあることから父母がいる事を知り、いろいろと尋ねてみたが捜し出すことはできなかった。その間、覚明上人はこの子を父母のように大切に養育し、その因縁により「金鷲童子(『宝物集』(註25)・「東大寺大仏縁起」(註26)では金鷲仙人、『東大寺要録』では金鷲菩薩)」と呼んだ〔6段〕。
やがて「金鷲童子」が19歳に達した時、師匠の覚明上人は臨終を迎えることになった。童子は金皷を鳴らし、阿弥陀三尊が上人を来迎する最期の光景を見届け送った〔第7段〕。その後童子は、上人のために執金剛神像を造立し、これを本尊として「聖朝安穏、天下泰平、興隆仏法、利益衆生」をひたすら祈念した。するとその信力が通じたか、本尊の脚に掛けていた五色の糸が天皇(聖武天皇)の王宮を照らした。不思議に思った天皇は、勅使を派遣してその光源を探索させたところ、その光が執金剛神像の元から発していることを知った。そこで勅使が童子にその理由を問いただすと、童子は「自分には興隆仏法の気持ちはあるものの自力ではどうしても適いがたい。天皇の威光を頼りにして大伽藍を建立したい」との趣旨を伝えた〔第8段〕。勅使が童子の意志を天皇に伝えると、天皇は大変喜び、大急ぎで童子を召し上げ、「今まで自分も大願はあるものの、適切な仏教の師匠に恵まれなかった。今後はお前を師匠とし、その仏弟子となる」と告げた。これを受けて童子は出家して良弁と改名した。そうしているうちに、良弁は時の権威といい、仏道修行といい、何れも世に秀でていたので、東大寺(前身は金鐘寺)を建立し、その別当となった。華厳宗の確立はこの時点から始まる〔第9段〕。
一方、長い間愛し子を探し求めていた時忠夫妻は、住み慣れた家や財宝を捨て、郎従とも別れて諸国遍歴の旅に出た。必死で艱難辛苦に耐えながらわが子に会えないことを嘆いいていた〔第10段〕。先ずは東国に心の赴くままに旅を続け、陸奥国と坂東との境の阿武隈川に至り、そこで旅人から我が子の情報を得るための手立てとして川の渡守をした。ここで多くの年月を費やしたが、何の成果を得られぬまま、渡守は止めることにした〔第11段〕。
下巻
その後、時忠夫妻は東山道を経由して信濃国に出て、一旦相模国由井の里に帰還した。昔住み慣れた場所は見る影もなく荒廃し、ただ涙に咽ぶばかりであった。この地に止まることも致し方なく、西海道(九州)を目指して行くこととした《第1段》。西海道を目指して脚に任せて進むうちに、淀の渡しに到着した。そこで便船を待って船に乗ったところ、その渡守から「何か物を探しているのか」と質問された。時忠は「私どもは相模国の住人であるが、生後70日(50日の誤り)にして我が子を鷲に攫われ、その子供の行方を探し求めて、生きている間に是非とも会いたくて諸国を遍歴しているのだ」と語った。すると、渡守は「今現在、奈良の都に聖武天皇の仏教の師匠として、東大寺の別当良弁僧正という方がいらっしゃる。その方は鷲の巣から取り出した人と聞いている。若しかしたら、この方こそ正にお前さんのお子さんではないのか。尋ねてみなさい」と話してくれた。これを聞くや否や、時忠夫妻は心騒ぎ胸も押し潰されるような思いで、急ぎ奈良の都へと向かった《第2段》
都に着いた時忠夫妻は早速東大寺の別当坊や稚児法師などに事の次第を話してはみるものの、至極冷淡な仕打ちを受けて門外に追い出される《第3段》。夫妻が大仏殿の南大門の傍らに粗末な小屋掛けをして臥していると、良弁がたまたま内裏への加持祈祷から帰還してきた。良弁は老人(時忠)の方から差し込む光に気が付いてその理由を尋ねた。そこで時忠は事の子細を懇切丁寧に説明したところ、左の脇の下にある三つの黒子や産衣に記された誕生の年月などから、正しく探し求めていた我が子であると断定でき、ただひたすら涙涙の対面となった《第4段》。良弁親子の対面の風聞を耳にした聖武天皇は、直ちに昇殿して叡覧する許可を与えた。天皇は時忠に再び相模国の国司に就くことを命じるとともに、良弁に両親とともに相模国への一時帰国を認めたが、高僧としての誉れが高いため相模国での仏法弘通と衆生利益を果たしたならばすぐに上洛することを命じた《第5段》。程なくして相模国鎌倉の由井郷に帰還した時忠は旧跡の地に屋形を造営し、在地を招いて盛大な宴を催した《第6段》。ある時、良弁は庶人の協力を得て相模国内で仏法弘通・衆生利益のために相応しい場所を探し求めたところ、大きな山で山頂から光を発する山を発見するに至った。ここでは放光山伝説が記述されているが、これは古来山岳修験系の縁起によく採用される手法でもある《第7段》。良弁が先導して山頂に登り、発光する山頂を広さ約3丈(9メートル)・深さ約2丈(6メートル)ほど掘ると、その中から不動明王の石像が出現した。人々は、この不動明王の姿を見て目が眩み卒倒するが、良弁の加持祈祷によって元のように蘇った。その際、不動明王はこの山は弥勒菩薩の浄土(兜率天浄土)であると語った《第8段》。そこで、良弁が不動明王の姿態を石像から他の物に移し変えて末代の衆生利益を図ろうとしたところ、山の南方にあった槻の大樹の枝が、人が切り倒すが如く樹の根元へ落ちたかと思いきや、直ちに空に舞い上がって現在の金堂の前に落下した。良弁はこの木こそ正に不動明王を移し変える木として模刻を始めたが、その相好(姿・顔かたち)が完成しないうちに不動明王の胸の辺りから乳(他の大山寺縁起絵巻諸本では血)が出て来たので、制作の手を休めた。この場面には本尊を霊木で模刻するという霊木信仰がうかがわれる《第9段》。その尊像の前で良弁が21日間にわたる祈願・祈誓を行ったところ、忽然と四十九院(弥勒経に出てくる兜率天浄土という理想郷のことで、ここでは弥勒菩薩の化身をさす)も出現し、不動明王は「当来導師慈氏尊 法花樂生名良弁 我山建立作仏事 末法衆生施安楽 此地清浄為結世 迷多衆生不来住 東南西限十八町 我形像作為本尊 是山五仏表形像 五大明王当守護 一度参詣得寿福 家内安穏無諸病」という12句の偈を説いた《第10段》。さらに良弁が金堂の乾(西北の方向)の谷にある岩窟の下の池の端で、7日間祈りを捧げたところ、池の中から大蛇が出現し、「自分は大山を守護する震蛇大王(真名本では深砂振邪大王)である。長い間荒神となって五濁(見・命・煩悩・衆生・劫濁の悪世)に染まり、仏教の真理を弁えなかったが故にこのような蛇身を受けることになってしまった。今現在、良弁上人の法施に預かることによって兜率天の内院に生まれ変わることができた。これ以降は大山に垂迹して大山寺を守護し、衆生を利益したい」と宣誓し、「四十九院当現前 即是都率為内院 一切天人皆影向 権実二類成守護 瀧水早下顕智水 衆生煩悩洗重穢 一切諸魔皆退散 今世後世得自在」という8句の偈を説いた。ここには本地としての仏・菩薩が世の衆生を救済するために権に大蛇(真名本では龍神、護法善神)に姿を変えて垂迹したという、本地垂迹説に基づく典型的な神仏習合の形跡を読み取ることができる《第11段》。大蛇は大山に信仰心を寄せる人々に利益をもたらし、臨終の際には彼らを浄土に引導し、名利を追求して怠慢心を抱く者には罰を与えると約束したので、良弁は大蛇に参詣者の便宜を図って一筋の流水を下してくれるように懇願したところ、岩窟の頂きから滝水を落とした。この滝水とは、真名本では「龍神は二重の滝の主人」と記載されていることから、「二重の滝」と見なして誤りないであろう。この段で注目すべき点としては、詞書には一切記載されていない役行者(修験道の祖、役小角)が絵画の中に二鬼神とともに登場することから本縁起絵巻における修験道の影響が垣間見られること、絵画に龍王(大蛇)の出現と水垢離を取っている修行者の姿が描かれ、大山信仰の根幹の一つである、大山寺と水に関係した因縁が生き生きと描写されていることが挙げられる《第12段》。
かくして、大山には次々と不思議な奇特の瑞相や生身の仏・菩薩が眼前に現出して、衆生を利益することは昔から今現在に至るまで明証することができる。また大山は日本第一山で、東・西・南・北の眺望に恵まれた景勝地であり、神仏の宿る神聖な山というに相応しい。金堂・鐘楼・経蔵・三重の塔・不動明王の社壇を初めとして諸仏が造立され、また弥勒菩薩に関係した兜率天浄土を象徴する四十九院の坊舎が甍を並べ、軒を重ね、所々で坐禅入定・学問修行の勤行は絶えることはなく、出離解脱の霊地といった感がある。こうしているうちに、良弁の大山での滞留は3か年にも及んだ。聖武天皇との約束期限も迫り、大山衆徒は評議を開き、良弁なき後の大山寺の繁栄と興隆仏法を維持・堅持することを懇願して公家(藤沢市教育委員会本・大山寺本は公家・武家、真名本は公家・天皇)へ奏請することで衆議一決した。そしてさらに大山の様相や一々の奇特を天皇に奏上したところ、天皇も大変喜んで安房・上総・相模国の所領の一部を寺領とする旨の命令を下した。この措置が講じられることによって、大山寺はますます繁盛し、仏法・王法ともに隆盛して天下泰平、国土安穏が達成された。ある時、不動明王は良弁に託宣して、「日本国の大天魔は全て自分の支配下に収めた。天下が乱れ、国土が不穏となり、風・雨・水・火の災難が起こった時には、大山に参詣して加持祈祷をすれば、災難は速やかに減少し、国土安穏になるであろう」と語った《第13段》。
以上が「大山寺縁起絵巻」の概略であるが、次にこの中に登場する相模国の国司、大郎大夫時忠、その子良弁と大山との関係について、若干考察を加えてみることにしよう。
(3) 大郎大夫時忠と良弁の出自をめぐって
「大山寺縁起絵巻」に登場する大郎大夫時忠及びその子とされる良弁の出自については、既に指摘しておいたように、相模国説、近江国説、折衷説(相模国誕生・近江国移住)があり、またその俗姓についても、漆部氏説・百済氏説、百済系渡来人説と相分かれる(註27)ところである。
『大山縁起』(真名本)には、「良弁者相模国鎌倉郡由伊(井)郷人也、俗姓漆部氏、当国良将漆屋太郎大夫時忠子也」と記載されている。また、建武4年(1337年)の奥書をもつ「東大寺縁起絵巻」には、「良弁僧正者相模国大隅(住)郡漆窪云所ノ漆部ノ氏人也」とあり、さらに『東大寺要録』にも「僧正者相模国人漆部氏也」とあることから、良弁父子が相模国漆部氏と密接な関係を有する人物であるとともに、その存立基盤が相模国鎌倉郡由井郷か大住郡漆窪の何れかに存在したと思われる。この両者を比較した時、良弁と大山との関係、俗姓と地形・地名、大山との至近距離にある立地条件、有力古墳の分布状況等々を勘案すると、鎌倉郡由井郷よりも大住郡漆窪(現 秦野市北矢名付近には、漆窪・大夫久保の字名が存在する)がにわかに注目されてくる。
ところで、良弁の父親とされる漆屋(一説に染屋・染谷)太郎大夫時忠とは一体如何なる人物であろうか。この人物に比定される人物として、この当時に実在した漆部直伊波を挙げることができる。相模国の豪族である伊波と中央政府との関係を示す初見史料としては、『続日本紀』天平20年(748年)2月壬戌条(註28)が挙げられる。これによると、「知識物ヲ進ムル人等(中略)従七位上染(漆)部伊波並外従五位下ヲ授ク」とある。『東大寺要録』の記録から推考するに、この時の昇叙は東大寺の盧舎那仏(大仏)造立に際して、10名の大量商布献上者の一人として、伊波自身が2万端もの商布を東大寺に寄進した行為の功績が公的に認められたものであったことが判明する。この事実から、伊波が相模国において相当な経済力を保有するとともに、中央との密接な関係を保有する人物であったと推考して誤りないと思う。
また、『東大寺文書』によると、伊波は天平宝字5年(761年)に東大寺から摂津国西成郡美努郷の堀江川添(難波津の交通の要衝)を買得しており、伊波の広範な交易活動と東大寺との密接な結び付きを指摘することができる。さらに、『続日本紀』神護景雲2年(768年)2月戊寅条には、恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱(764年)の鎮圧の功労者の一人として伊波が挙げられ、朝廷から外従五位下から従五位下勲六等が賜与され、「大夫」と称されるに相応しい位階が備わったほか、「染(漆)部伊波ニ相模ノ宿禰ヲ賜ヒ、相模国ノ国造ト為ス」とある。ここに見られる国造は大化前代のそれとは異なり、いわゆる「律令国造」或いは「令制国造」と呼称されるもので、この職掌には本国及びその出身者が一国一名任命され、その多くは神祇祭祀に従事した、との先学の指摘(註29)もあり、伊波の宗教祭祀の執行も看過できないところである。
以上の考察から、「大山寺縁起絵巻」・「大山縁起」(真名本)などに登場し、良弁の父親とされる相模国の国司、漆屋太郎大夫時忠とは漆部直伊波その人であり、彼は直という大和政権下の姓をもつことから、旧相武国造の系譜を引く地方豪族で、相模国大住郡の大山周辺(現 秦野市北矢名付近)に本貫地を有しながら勢力を伸張させ、やがて東大寺の盧舎那仏造立への寄進行為などを契機に、中央への進出を試み、政治的・経済的・宗教祭祀的地位を確立していったものと考えられる 。
3 『大山不動霊験記』の世界
ここに採り上げた『大山不動霊験記』(註30)(大山寺本、全15巻・15冊)は、大山寺塔頭養智院(12坊の一つ)前住職 心蔵(註31)が自らの見聞や御師等からの聞き取りをもとにしてまとめたものである。寛政4年(1792年)に、「書肆 御書房 出雲寺和泉 西村源六」(註32)板木を元として出版され、全体で131話から構成されている(【資料1】参照)。出版の目的は、本書の奥付によると、「此書印刻入銀施主一部之料金三百疋宛、為家門繁栄・息災延命・壽福延長・現當二世諸願成就也」とあることから、大山に信仰心をもつ篤志家がそれぞれ思い思いの様々な祈願を込めて、このような出版事業に参加したことが窺い知られる。
出版するに当たって、僧・俗併せて34名の賛同・出資者があり、その内訳は前者では大山寺関係者が寂信(出版当該時の大山八大坊別当・第13代)外18名、板戸村宝珠院(現 伊勢原市・古義真言宗)・石田村圓光院(同)・江戸王子(現 東京都北区)宥鑁、後者では江戸町人が永富町(現 東京都千代田区)西村大和外8名、相模国住人が足柄下郡小田原(現 小田原市)佐五兵衛外3名である。なお、発行部数は大山寺関係者(うち3名は大山御師)が19名で24部、古義真言宗関係者が3名で3部、俗人では江戸町人が9名で11部、相模国住人が3名で8部、合計34名で46部を数える。出版費用は、既述の奥付に施主一部三百疋宛を受益者負担とするとしていることから、当時の江戸の相場では百疋が約4万円と算定されるので、一部三百疋の場合には約4万円×3=約12万円となる。さらにこれに全体部数の46部を乗ずると、総合計金額は約552万円に上る。当時の印刷・出版事情や米価の変動などを考慮に入れると、上記のような単純計算では済まされない部分があるとしても、とにかく相当の集金力が必要とされたことは想像に難くない。
『大山不動霊験記』に掲載された話(但し、第1巻・第1話〜同第6話は大山寺そのものの記事で構成されているので対象外として、第2巻・第7話〜第15巻・第131話までの125話を考察の対象とする)は、どのような手立てを講ずれば大山不動明王の霊験を招き寄せ、出版目的に掲げているような項目を達成することができるのかを、生き生きと告知することによって、大山信仰を一層拡大・深化するのに一定の役割を果たしたと考えられる。
(1) 地域分布の分析
『大山不動霊験記』に掲載された神奈川県内関係の霊験譚は66話に及び、全体の50%強を占めている。中でもとりわけ、大住郡(現 伊勢原・平塚・秦野市域)のそれは32話(県内の48%)にも達し、圧倒的に他地域と比較して群を抜いていることが注目される。ついで、足柄下郡(10話)・高座郡(8話)・愛甲郡(6話)・足柄上郡(4話)となっており、県内の武蔵国(現 横浜市・川崎市域)は極少である。これは作者 心蔵の居住・行動範囲といった制約と、大山の占める位置に起因しているものと考えてよいであろう。
一方、県外地域の記事に目を転じてみると、59話のうち江戸市中(21話)・武蔵国(11話、但し、江戸市中及び現神奈川県域を除く)にほぼ集中しており、あと目立つ所では下野国(現栃木県、11話)が挙げられる程度で、常陸国(現 茨城県、3話)、駿河国(現 静岡県、2話)、甲斐国(現 山梨県、2話)、上野県(現 群馬県、2話)、陸奥国(現 東北地方、2話)等々、極少となっている。このような結果は、大山の信仰圏の分布を知る上で貴重な素材を提供しているものと考えられる。因に、この中で大山の信仰圏とは大幅に外れる出雲国の女の話が出てくるが、これは夫が江戸の松平某の屋敷に奉公に来て急に出奔し、その後出家して光圓と名乗り、大山寺の本堂にある不動明王の燈明役として仕えていることも知らずに、夫を捜し求めて出雲国から娘とともに江戸に出て来た母子が、大山への信心によって夫に巡り会え、親子三人で無事に出雲国に帰還したという特異な例である。
(2) 年代分布の分析
次に記載された年代に注目してみた場合、どのようなことがいえるであろうか。江戸前代の話題はたったの3件で、それは曽我兄弟が不動明王に願書を捧げて親の敵討ちを果たした事(第10巻・第81話)、相模国善波太郎が石尊の霊応によって八幡宮として崇められた事(第8巻・第75話)、甲州の教雄阿闍梨が武田信玄の息女の狂心を加持祈祷によって平癒させた事(第4巻・第32話)である。それ以外はすべて江戸時代の寛永年間(1624〜1644)から『大山不動霊験記』が出版された寛政4年(1792年)までの話題である。中でもとりわけ、明和・安永年間(1764〜1781年)、つまり18世紀後半に集中しており、全体の約58%に達する勢いを示している。特に安永年間(44話、全体の約34%)がそのピークであったことが判明する。従来、大山信仰の最盛期は宝暦年間(1751〜1764年)以降といわれ、その参詣者数は80万人〜100万人ともいわれてきたが、この『大山不動霊験記』の数値からも肯首できるであろう。
(3) 登場人物の分析
『大山不動霊験記』に垣間見られる登場人物では、何と言っても百姓が圧倒的多数(57人、約47.5%)を占め、ついで町人(20人、16%)、商人(6人、5%)、職人(6人、5%)といった都市生活民(合計32人、26%)が現れ、以下僧侶(15人、12%)、漁民(8人、6.4%)、武士(6人、5%)の順になっている。このことは、大山信仰が百姓階層を中心とした正真正銘の庶民信仰に支えられていた証左ともいえよう。
(4) 現世利益の内容分析
では庶民は一体全体、どのようなことを大山(大山寺・大山阿夫利神社)に希求・祈念したのであろうか。その内容は大別して二つ存在したと思われる。その第一は、病気平癒(45話、36%)、中でもとりわけ、疫病・眼病・腫物・狂心・憑き物・中風・癩病(註33)などからの快癒が具体例として挙げられている。もう一つは災難除け(34話、27%)で、火難・盗難・水難・虫害等からの回避が具体例として指摘されている。その他としては、盗品の戻り、智恵獲得、大漁、樹木生長、嗣子誕生等々、実に庶民の種々雑多な願いが次々と奔出している。しかし、大山古川柳に散見されるような借金逃れの霊験譚は皆無である(註34)。
現世利益はただ手を拱いて見ていても成就するものではない。実践行動が伴って初めて、満願に達するものであるということも『大山不動霊験記』は各所で語って止まない。そこで、庶民はどのような実践行動を取って現世利益を獲得したのか、『大山不動霊験記』の霊験譚の中から一例(第4巻・第28話)をここに紹介することにしよう。
相模国大住郡富岡村(現伊勢原市)に新右衛門という貧しい百姓がいた。彼は両親・妻子を養育するために隣村に奉公に出たが、後に家に帰り農耕に従事するかたわら、日々大山不動尊を信仰した。彼には二人の男子と三人の女子がいたが、一人の女子は前世の因縁からか、吃りで物が満足に言えなかった。そこで夫婦は慨嘆し、大山不動尊へ祈願を込め、明和2年(1765年)から安永3年(1774年)にかけて、年毎に百日ずつ3万回の垢離(神仏に願を掛けて心身を清めるために冷水を被る行為)を取り、それ以外の時には一心不乱に大山不動尊に祈念したところ、安永3年から次第に娘の弁舌は爽やかになり、両親の歓喜はこの上もなかった。また、3万回の垢離を取り始めた日から突如として、屋敷の傍らの岩間から清水が湧きだし、垢離のみならず用水にも利用できるようになった。その結果、貧しい生活も次第に安楽となり、苦悩もなくなった。さらに彼は真実無偽の人であるので、他人が瘧病(熱病の一つ)を患っていると、先程の清水で千垢離を取り、大山石尊の木太刀を病人に高く掲げさせ、たちどころに病気を治癒したことが度々あったが、彼らから一銭の施しも受け取らなかったので、人々から尊敬されたという。
常日頃の大山への尊崇の念を持続することは勿論のこと、この例に見られるような水垢離のほか、参詣・断食・護摩供・懴悔・参籠・加持祈祷・密呪・正直・納め太刀等といった実践行為が相俟って相乗的に作用して初めて、現世利益が達成・成就されることを『大山不動霊験記』は各話で説き明かしている。
結びにかえて
小稿は、「大山寺縁起絵巻」・『大山不動霊験記』等の古記録類に依拠して、古代から近世の大山信仰の形成から発展の歩みを考察したものであるが、今後は大山道の路傍に建立された大山道標(註35)や、大山信仰に関連した文学(古川柳・俳諧・滑稽本・道中日記等)・民俗芸能・絵画資料(浮世絵・双六)等の検討にまで視野を拡大し、大山信仰を総合的に把握する試行をしていきたいと考える。大方のご批判・ご叱正をいただければ幸甚である。

1.江戸後期の御師の数に関しては、秋里籬嶋『東海道名所圖會』(寛政9年〈1797年〉刊)には、「雨降山大山寺・・・・・・当八大院、其外坊舎十八院、御師百五十余宇、又蓑毛村に十五宇、みな修験なり、・・・・・・」と記されている。また、昌平坂学問所地誌調所の間宮士信等編『新編相模國風土記稿』(天保12年〈1841〉完成)巻51 村里部大住郡巻10。以下、『風土記稿』51−大住10と表記する)には、「師職百六十六軒、多く坂本村に住す、蓑毛村にも居住せり、皆山中に住せし、修験なりしが、慶長10年(1605)、命に依て下山し、師職となれり、」とも記されている。これらの記述から、江戸後期には御師は166軒程が存在したと考えられる。
2.有賀密夫『大山門前町の地理的研究』(私家版、1989年)、浅香幸雄「大山登山集落形成の基盤」(東京教育大学地理学報告、1967年)。
3.赤星直忠『神奈川県大山山頂調査概報』(1960年)、同「大山の話」『かながわ文化財73』(神奈川県文化財協会、1977年)。
4.『延喜式』九「神祇」には、相模国には阿夫利神社の外に前鳥神社(現 平塚市四之宮)、高部屋神社(現伊勢原市下粕屋)、比比多神社(同三之宮)の社名が挙げられている(『伊勢原市史』資料編 古代・中世437。以下、『市史』資 古代・中世437と表記する)。
5.「安楽寿院領諸荘所済注文」(『神奈川県史』資料編1 古代・中世(1)798、『市史』資 古代・中世21)。
6.『吾妻鏡』巻3 元暦元年9月17日条(『市史』資 古代・中世357)。
7.『同』巻22 建保2年12月1日条(『市史』資 古代・中世419)。
8.『大山不動霊験記』第1巻・第2話「中興開山願行上人略傳」(【資料1】参照)。
9.「足利尊氏寺領寄進状」(『市史』資 古代・中世190)、「関東管領(上杉朝宗)施行状写」(同194)、「関東公方(足利持氏)寄進状写」(同196)等。『市史』では武蔵国小山田保山崎郷内今井村を現 神奈川県横浜市保土ケ谷区と比定しているが、現 東京都町田市の誤りである(『角川地名大辞典13 東京都』、178頁参照)。
10.『群書類從』第18輯(『市史』資 古代・中世442)。天台宗聖護院道興は文明18年(1486)6月から翌年5月にかけて北陸・関東・奥州を廻国した際、大山寺や日向薬師に留錫した。
11.杉山博校訂『日本史料選書2 小田原衆所領役帳』「社領」(近藤出版社、1969年刊)。
12.『風土記稿』51−大住10には、「當山の修験學善坊(山伏薩摩と号す)、北條氏直に從ひ、軍陣に在て大貝を吹し事所見あり、……」とある。
13.林述斎等『徳川実紀』慶長10年(1605)1月11日条、『風土記稿』51−大住10。
14.「慶長13年(1608年)10月 大山寺実雄宛徳川家康黒印状写」(『市史』資 続大山7、『改訂新編相州古文書』第1巻)。
15.「慶長15年(1610年)7月 大山寺別当八第坊宛徳川家康黒印状写」(『市史』資 古代・中世8)。
16.『風土記稿』51−大住10。
17.『相模大山街道』(大山阿夫利神社編、1987年)に全資料が掲載されている。
18.小島瓔禮『神奈川県語り物資料−相模大山縁起−(上)(下)』(神奈川県教育委員会、1970・1971)、佐伯英里子「大山寺縁起絵巻小考」(『平塚市文化財調査報告書』第31集、平塚市教育委員会、1995年)、鈴木良明「県立金沢文庫所蔵の大山寺関係資料について」(『再発見大山道調査報告書』、伊勢原市教育委員会、2008年)。これらの論考は、小稿を作成するにあたって裨益するところ大であった。
19.仮名本には平塚市博物館本・伊勢原市教育委員会本・藤沢市教育委員会本・町田市勝楽寺本・大山寺本・内海家本(2冊−絵巻・詞書のみ)・阿夫利神社本・手中本・内閣文庫本・東大史料編纂所本・金沢文庫本・個人本(奈良氏)の13本が、真名本には大日本仏教全書本・平塚市博物館本・内海家本・續群書類從本(第27輯下)・阿夫利神社本・大山寺本・町田市勝楽寺本・静嘉堂本・宮内庁書陵部本・東大史料編纂所本・新編相模國風土記稿本の11本がある。
20.『大山の信仰と歴史』(平塚市博物館、1987年)と佐伯氏前掲論文に、全体の写真版と釈文が掲載されているが、前者にはやや誤読が見受けられるのが残念である。
21.東学坊・宝蔵坊・繁盛坊・祐泉坊はそれぞれ、「天明六年(1786年)大山社稷丸裸」(『市史』資 古代・中世20)に登場する。候人・承仕は別当八大坊の山上・山下の寺務奉仕者のこと。
22.大江親通著、保延6年(1140年)成立。七大寺の巡礼見聞録。『校刊美術史料』所収。
23.『新訂増補 国史大系 第31巻 元亨釋書』巻第2 彗解1(『市史』資 古代・中世447)。
24.『續々群書類從』宗教部、『大日本仏教全書』、筒井英俊校訂『東大寺要録』第1章本願章に掲載されている良弁僧正伝所収。
25.平康頼著、成立年未詳。『續群書類從』雑部、『大日本仏教全書』所収。
26.天文5年(1536年)制作で上・下2巻、作者不詳。
27.松本信道「漆部直伊波と染屋時忠―良弁伝研究の一助として―」(『秦野市史研究』第2号、秦野市史編さん委員会編、1982年)は、両者の関連史料を介して丁寧に検証している。
28.『大日本古文書 東大寺文書』之三、天平宝字5年(761)正月28日付588号文書。
29.岡田精司「律令的祭祀形態の成立」(『古代王権の祭祀と神話』に所収)。
30.圭室文雄「『大山不動霊験記』に見る大山信仰」(『郷土神奈川』18号、神奈川文化資料館、1986年。後に同編『大山信仰』に所収〈民衆宗教史叢書22、雄山閣、1992年〉、同「伊勢原市域における大山信仰―『大山不動霊験記』を中心に―(『伊勢原の歴史』第2号、伊勢原市史編集委員会編、1987年)。小稿作成にあたり、大いに示唆を受けた。記して、謝意を表したい。
31.心蔵は実在の人物で、海老名市上郷の大山講中所蔵の銅製不動明王坐像銘に「寛政八年(1796)丙辰六月吉日大山寺養智院隠居心蔵開眼口」とある。厚木市飯山金剛寺大師堂の寛政年間建立の地蔵尊5体の内の3体にも「建立者養智院隠居心蔵」とある。
32.出雲寺は、同じ上方出身で江戸に進出した須原屋茂兵衛と並ぶ老舗書物問屋で、元禄11年(1698)に幕府の御用達町人(書物師、現 東京都新宿区左内町に居住)となり、幕府の書物方に属して、紅葉山文庫の運営に当たるほどに躍進した。和泉(文五郎元孝ともいう)の代以前から『武鑑』等の板元を巡って競合し、最終的には須原屋に板権を譲った。西村源六は江戸馬喰町2丁目(現 東京都中央区日本橋馬喰町)に居住し、元祖は西村屋傳兵衛(与八)を名乗った。藤實久美子『江戸の武家名鑑―武鑑と出版競争―』(吉川弘文館、歴史文化ライブラリー257、2008年)。
33.癩病は症状が進むと、神経系統が侵され、毛細血管に血液がじゅうぶんにいきわたらなくなり、皮膚に結節・斑点などができ、顔や手足などの目立つところが変形したり不自由になったりすることがあった。長い間、有効な治療薬がなく、不治の病気と考えられていた。しかし、明治6年(1873)、ノルウェーの医師アルマウエル・ハンセンによって癩菌が発見され、今日では「ハンセン病」と呼ばれるようになった。その後、この病気は伝染性が微弱なこと、遺伝性のないことが明らかにされ、さらに昭和22年(1947)にアメリカで特効薬プロミンが開発され、他の薬の併用によって完治するようになり、インド・インドネシア・中国等一部を除いては、完全に世界から撲滅されつつある。
34.「借金は盆に戻らぬと山へ逃げ」とか、「借金が微塵積もって山へ逃げ」等。根本行道『相模大山と古川柳』(東峰書房、1969年)。
35.現在、伊勢原市教育委員会文化財課は、「再発見大山道事業」と銘打って、市内の歴史解説アドバイザーの方々のご協力を仰ぎ、大山道標の悉皆調査を実施中である。 
 

 

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日本の古道

 

国分寺  
天平13年(741)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれる。
正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」。なお、壱岐や対馬には「島分寺(とうぶんじ)」が建てられた。  
『続日本紀』『類聚三代格』によれば、天平13年(741)2月14日(日付は『類聚三代格』による)、聖武天皇から「国分寺建立の詔」が出された。その内容は、各国に七重塔を建て、金光明最勝王経(金光明経)と妙法蓮華経(法華経)を写経すること、自らも金字の金光明最勝王経を写し、塔ごとに納めること、国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置し、僧寺の名は金光明四天王護国之寺、尼寺の名は法華滅罪之寺とすることなどである。寺の財源として、僧寺には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施すこと、僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められた 。
国分寺の多くは国府区域内か周辺に置かれ、国庁とともにその国の最大の建築物であった。また、大和国の東大寺・法華寺は総国分寺・総国分尼寺とされ、全国の国分寺・国分尼寺の総本山と位置づけられた。
なお聖武天皇は、この詔の以前から、天平9年(737)には国ごとに釈迦仏像1躯と挟侍菩薩像2躯の造像と大般若経を写すこと、天平12年(740)には法華経10部を写し七重塔を建てるようにとの詔を出している。
律令体制が弛緩して官による財政支持がなくなると、国分寺・国分尼寺の多くは廃れた。ただし、中世以後も相当数の国分寺が、当初の国分寺とは異なる宗派あるいは性格を持った寺院として存置し続けたことが明らかになっており、国分尼寺の多くは復興されなかったが、後世に法華宗などに再興されるなどして現在まで維持している寺院もある。なおかつての国分寺跡地近くの寺や公共施設(発掘調査など)で、国分寺の遺品を保存している所がある。  
 

 

 
国分僧寺  創建所在地  国分尼寺  創建所在地 
出羽国分寺 (推)山形県酒田市城輪 出羽国分尼寺 (未詳) 
陸奥国分寺 宮城県仙台市若林区木ノ下 陸奥国分尼寺 宮城県仙台市若林区白萩町 
下野国分寺 栃木県下野市国分寺 下野国分尼寺 栃木県下野市国分寺 
上野国分寺 群馬県高崎市東国分 上野国分尼寺 群馬県高崎市東国分 
常陸国分寺 茨城県石岡市府中 常陸国分尼寺 茨城県石岡市若松 
安房国分寺 千葉県館山市国分 安房国分尼寺 (未詳) 
上総国分寺 千葉県市原市惣社 上総国分尼寺 千葉県市原市国分寺台中央 
下総国分寺 千葉県市川市国分 下総国分尼寺 千葉県市川市国分 
武蔵国分寺 東京都国分寺市西元町 武蔵国分尼寺 東京都国分寺市西元町 
相模国分寺 神奈川県海老名市国分南 相模国分尼寺 神奈川県海老名市国分北 
甲斐国分寺 山梨県笛吹市一宮町国分 甲斐国分尼寺 山梨県笛吹市一宮町東原 
遠江国分寺 静岡県磐田市見付 遠江国分尼寺 (未詳) 
駿河国分寺 (推)静岡県静岡市駿河区大谷 駿河国分尼寺 (未詳) 
伊豆国分寺 静岡県三島市泉町 伊豆国分尼寺 静岡県三島市南町 
信濃国分寺 長野県上田市国分 信濃国分尼寺 長野県上田市国分 
越後国分寺 (推)新潟県上越市五智・国府 越後国分尼寺 (未詳) 
佐渡国分寺 新潟県佐渡市国分寺 佐渡国分尼寺 (未詳) 
尾張国分寺  愛知県稲沢市矢合町  尾張国分尼寺  (推)愛知県稲沢市法花寺町 
三河国分寺  愛知県豊川市八幡町  三河国分尼寺  愛知県豊川市八幡町 
美濃国分寺 岐阜県大垣市青野町 美濃国分尼寺 (推)岐阜県不破郡垂井町平尾 
飛騨国分寺 岐阜県高山市総和町 飛騨国分尼寺 岐阜県高山市岡本町 
加賀国分寺 (推)石川県小松市古府町 加賀国分尼寺 (未詳) 
能登国分寺 石川県七尾市国分町 能登国分尼寺 (未詳) 
越中国分寺 富山県高岡市伏木一宮 越中国分尼寺 (未詳) 
若狭国分寺 福井県小浜市国分 若狭国分尼寺 (未詳) 
越前国分寺 (未詳) 越前国分尼寺 (未詳) 
伊賀国分寺  三重県伊賀市西明寺  伊賀国分尼寺  三重県伊賀市西明寺 
伊勢国分寺  三重県鈴鹿市国分町  伊勢国分尼寺  (推)三重県鈴鹿市国分町 
志摩国分寺  三重県志摩市阿児町国府  志摩国分尼寺  (未詳) 
東大寺 奈良県奈良市雑司町  法華寺  奈良県奈良市法華寺町 
大和国分寺  奈良県奈良市雑司町  大和国分尼寺  奈良県奈良市法華寺町 
紀伊国分寺 和歌山県紀の川市東国分 紀伊国分尼寺 (推)和歌山県岩出市西国分 
近江国分寺 (推)滋賀県甲賀市信楽町黄瀬 近江国分尼寺 (未詳) 
丹波国分寺 京都府亀岡市千歳町国分 丹波国分尼寺 京都府亀岡市河原林町河原尻 
丹後国分寺 京都府宮津市国分 丹後国分尼寺 (未詳) 
山城国分寺  京都府木津川市加茂町例幣  山城国分尼寺  (推)京都府木津川市加茂町 
河内国分寺  大阪府柏原市国分東条町  河内国分尼寺  (推)大阪府柏原市国分東条町 
和泉国分寺  大阪府和泉市国分町  和泉国分尼寺  (未詳) 
摂津国分寺  大阪府大阪市天王寺区国分町  摂津国分尼寺  (推)大阪府大阪市東淀川区柴島 
但馬国分寺 兵庫県豊岡市日高町国分寺 但馬国分尼寺 兵庫県豊岡市日高町水上 
播磨国分寺 兵庫県姫路市御国野町国分寺 播磨国分尼寺 兵庫県姫路市御国野町国分寺 
淡路国分寺 兵庫県南あわじ市八木国分 淡路国分尼寺 (推)兵庫県南あわじ市八木 
美作国分寺 岡山県津山市国分寺 美作国分尼寺 岡山県津山市国分寺 
備前国分寺 岡山県赤磐市馬屋 備前国分尼寺 (推)岡山県赤磐市馬屋 
備中国分寺 岡山県総社市上林 備中国分尼寺 岡山県総社市上林 
備後国分寺 広島県福山市神辺町下御領 備後国分尼寺 (推)広島県福山市神辺町 
安芸国分寺 広島県東広島市西条町吉行 安芸国分尼寺 (推)広島県東広島市西条町吉行 
因幡国分寺 鳥取県鳥取市国府町国分寺 因幡国分尼寺 (推)鳥取県鳥取市国府町法花寺 
伯耆国分寺 鳥取県倉吉市国分寺 伯耆国分尼寺 (推)鳥取県倉吉市国分寺 
出雲国分寺 島根県松江市竹矢町 出雲国分尼寺 島根県松江市竹矢町 
石見国分寺 島根県浜田市国分町 石見国分尼寺 島根県浜田市国分町 
隠岐国分寺 島根県隠岐郡隠岐の島町池田 隠岐国分尼寺 島根県隠岐郡隠岐の島町有木 
周防国分寺 山口県防府市国分寺町 周防国分尼寺 山口県防府市国分寺町 
長門国分寺 山口県下関市長府宮の内町 長門国分尼寺 (推)山口県下関市長府安養寺 
伊予国分寺 愛媛県今治市国分町 伊予国分尼寺 (推)愛媛県今治市桜井 
阿波国分寺 徳島県徳島市国府町矢野 阿波国分尼寺 徳島県名西郡石井町石井 
讃岐国分寺 香川県高松市国分寺町国分 讃岐国分尼寺 香川県高松市国分寺町新居 
土佐国分寺 高知県南国市国分 土佐国分尼寺 (未詳) 
筑前国分寺 福岡県太宰府市国分 筑前国分尼寺 福岡県太宰府市国分 
筑後国分寺 福岡県久留米市国分町 筑後国分尼寺 (推)福岡県久留米市国分町 
豊前国分寺 福岡県京都郡みやこ町国分 豊前国分尼寺 (推)福岡県京都郡みやこ町徳政 
肥前国分寺 佐賀県佐賀市大和町尼寺 肥前国分尼寺 佐賀県佐賀市大和町尼寺 
豊後国分寺 大分県大分市国分 豊後国分尼寺 (推)大分県大分市国分 
壱岐島分寺 長崎県壱岐市芦辺町国分本村触 壱岐島分尼寺 (未詳) 
対馬島分寺 (推)長崎県対馬市厳原町今屋敷 対馬島分尼寺 (未詳) 
肥後国分寺 熊本県熊本市出水 肥後国分尼寺 熊本県熊本市出水 
日向国分寺 宮崎県西都市三宅 日向国分尼寺 宮崎県西都市右松 
大隅国分寺 鹿児島県霧島市国分向花 大隅国分尼寺 (未詳) 
薩摩国分寺 鹿児島県薩摩川内市国分寺町 薩摩国分尼寺 (推)鹿児島県薩摩川内市天辰町 




 
日本の古代道路

 

古代日本の中央政府が飛鳥時代から平安時代前期にかけて計画的に整備・建設した道路または道路網を指す。地方では 6 - 12 m 、都の周囲では 24 - 42 m に及ぶ広い幅員を持ち、また、路線形状が直線的である(時に直線が 30km 以上)という特徴を持つ。当時の中国(隋・唐)における道路制度の強い影響が想定されている。直線道路は、まず7世紀初頭の奈良盆地で建設されはじめ、7世紀中期ごろに全国的な整備が進んでいった。そして、8世紀末 - 9世紀初頭(平安時代初頭)の行政改革により次第に衰退し始め、10世紀末 - 11世紀初頭に廃絶した。 
概要
日本における道路建設が始まったのは、5世紀だとする記録(日本書紀)もあるが、詳しくは分かっておらず、疑問視する意見が多い。記紀に見られる四道将軍の記述は行政範囲を指すものであり確実な道路自体を指すものではない。確実なのは、6世紀の奈良盆地においてであろうと考えられている(筋違道など)。ただ、この頃に建設された道路は、広い幅員、直線的な形状といった特徴はまだ備えていなかった。
直線的な道路が計画的に整備されたのは、7世紀からだとされている。奈良盆地では、7世紀初頭に以前の宮都が置かれた盆地中央部(現在の桜井市、橿原市など)から当時の宮都が置かれていた飛鳥へ向かう山田道などの道路が建設され、その後ほどなくして、飛鳥から奈良盆地を北上する直線道路が、平行して3本(上ツ道、中ツ道、下ツ道)作られるとともに、それに直交する直線道路が河内方面へ向かって作られた(横大路)。また、河内平野では京からの直線道路が難波に通じており(難波大道)、これら2つの大路を結ぶのが日本最古の官道、竹内街道である。これらの道路は、36 - 42 m という非常に広い幅員を持っていた。こうした直線道路の出現の背景には、7世紀初頭に派遣された遣隋使により、隋の広大な直線道路に関する情報がもたらされた影響があるのだろうと考えられている。
大化の改新により646年正月に出された改新の詔では、駅伝制を布く旨の記述があり、これを契機として計画的な直線道路網が全国的に整備され始めたのではないかとする説がある。改新の詔については、その信憑性を巡って根強い論争が続いているが、発掘調査などによれば、少なくとも大化の改新直後には畿内及び山陽道で直線的な駅路や駅家(うまや)の整備が行われ、680年頃までには九州(西海道)北部から関東地方(東海道)に至るまでの広範囲にわたって整備が進んだようである。
日本の駅伝制は、前述したとおり、(真偽に関する議論はあるが)大化の改新の詔において初めて定められ、8世紀に制定・施行された律令において詳細な規定がおかれた。律令の駅伝制は、駅路と伝路から構成されていた。ただし史料には「駅路」の用例は見られるものの「駅道」「大道」「達道」などとも記載され、また「伝路」の用語は見当たらない。このことから、制度として明確に道が定められていたことも、また名称もあったわけではないと思われる。 
駅路
駅路は、中央と地方との情報連絡を目的とした路線で、各地方拠点を最短経路で直線的に結んでおり、約16kmごとに駅家が置かれていた。律令の地方制度は五畿七道といい、中央である五畿と地方である七道から成っていたが、七道のそれぞれに駅路が引かれた。駅路はその重要度から、大路・中路・小路に区分され、当時、国内最重要路線だった中央と大宰府を結ぶ山陽道と西海道の一部が大路、中央と東国を結ぶ東海道・東山道が中路、それ以外が小路とされていた。駅家に置く馬(駅馬という)は、大路で20疋、中路で10疋、小路で5疋と定められており、使者が駅馬を利用するには、駅鈴が交付されている必要があった。 
伝路
伝路は、中央から地方への使者を送迎することを目的としており、郡ごとに伝馬が5疋置かれる規定となっていた。伝路は各地域の拠点である郡家(ぐうけ/郡衙ともいう)を結んでいたため、地方間の情報伝達も担っていたと考えられている。
このように、駅路と伝路は別々に整備されていたが、路線が重複する区間では、駅路が伝路を兼ねることもあったようである。駅路は、重要な情報をいち早く中央−地方の間で伝達することを主目的としていたため、路線は直線的な形状を示し、旧来の集落・拠点とは無関係に路線が通り、道路幅も 9 - 12 m(場所によっては 20 m)と広く、地域間を結ぶハイウェイとしての性格を色濃く持っていた。対して、伝路は旧来の地域拠点である郡家間を結ぶ地域道路としての性格が強い。伝路は以前からの自然発生的なルートなどが改良されて、整備されたと見られており、道路幅が 6 m 前後であることが多い。両者の関係は、現代日本における高速道路と在来道路との関係に類似しているとの指摘もある。実際に、古代駅路と高速道路の設定ルートや、駅家とインターチェンジの設定位置が、ほぼ同一となっている事例も多く見られる。
奈良時代最末期から平安時代初期にかけて、行政改革が精力的に行われたが、駅伝制においても駅家(うまや)や駅馬(えきば/はゆま)、伝馬の削減などが実施され、伝路は次第に駅路へ統合されていくこととなった。ただし、地域の実情と無関係に設置された駅路は次第に利用されることが少なくなり、従来の伝路を駅路として取り扱うことが多くなった。これに伴い、従来の駅路は廃絶していき、存続したとしても 6m 幅に狭められることが多かった(広い幅員の道路を維持管理することには大きな負担が伴うからである)。
10世紀前期に編纂された延喜式には、駅路(七道)ごとに各駅名が記載されており、これを元に当時の駅路を大まかに復元することができる。しかし、駅伝制は急速に衰退していき、10世紀後期または11世紀初頭には、名実共に駅伝制も駅路も廃絶した。 
民衆交通
律令国家の支配下に置かれた民衆は戸籍・計帳・五保・関などのシステムによって本貫地に縛り付けられる一方、庸調の運脚、官物の京進、防人・衛士・仕丁などとしての徴用などによって強制的に都鄙間の往来を命じられるなど、国家に移動を統制されていた(生業や宗教活動など私的な交通が完全に否定されていた訳ではなかったが)。特に庸調は陸路かつ人力での中央への輸送が強制されていた。これは、車・舟などを持てるのは有力な地方豪族に限定されるために車舟による輸送を認めると納税に豪族の介入の余地を生むこと、更に民衆に都を一種の舞台装置として見せることで民衆に国家的な共同幻想を抱かせる演出を図ったとする見方がある。その一方で、官人は郡家や駅家での宿泊は認められていたものの、民衆は沿道の民家や小規模な寺院・道場を借りて宿泊したり、野宿をしたりしていたと考えられている。国家にとって庸調が無事に都に届くか否かは重要な問題であったと考えられているが、具体的な政策については不明なことが多い。大化の改新直後に、旅人など外部の人々を穢れであるとして祓除を強要する行為を禁じる命令が出されたり(『日本書紀』大化2年3月甲申条)、平安時代前期に国家が布施屋を建設したり(『類聚三代格』所収:承和2年6月29日付太政官符「応造浮橋布施屋并置中渡船事」)などの措置が知られているが、多くは沿線の豪族や寺院、地元住民の力によるところが大きかった。
もっとも、陸路かつ人力での中央への輸送の強制は、本州以外の地域(西海道・南海道)では実施が困難であり、8世紀後半から海上輸送が本格的に導入されるようになると、他の地域でもこの原則が崩れ始めた。やがて、租庸調制度そのものの衰退もあり、租税や官物は地方官が責任を負って都に運ぶようになる。このため、民衆が強制的に都鄙間の交通を強制させられることはなくなり、また戸籍制度の衰退で本貫地に縛りつけられることもなくなったものの、民衆の都鄙間交通は大幅に減少したために、布施屋や小規模寺院・道場なども荒廃し、律令国家期とは別の意味で民衆の移動は困難になっていった。 
形状
広い幅員と長大な直線形状を示す古代道路は、特に飛鳥時代〜奈良時代に建設された駅路に多く、これを前期駅路という。前期駅路は、多くの場合 9-12m 、畿内に近い地域では 20m の道路幅をもち、平野部においては直線形状が 30km 以上に及ぶこともあった。丘陵地帯においても、斜面を切削し、谷間を埋め立て、直線形状を保つよう設計されていた。また、駅路の両側には 2-4m の側溝が設けられた。側溝は駅路とその周囲を区分するとともに、路面上の排水などの役割があったと考えられている。
伝路は、旧来からの交通路が改良されることが多かったが、場所によっては駅路と同様に直線形状を示すこともあった。道路幅は、発掘調査によれば 6m であるケースが多いが、必ずしも規格が設定されていた訳ではなさそうである。また、平安時代に入ると駅路の道路幅が伝路と同じく 6m に狭められ、これを後期駅路という。後期駅路では、前期駅路の路線が踏襲されるのが一般的だったが、異なる路線が設定されたり伝路を駅路とする例もあった。
発掘された駅路は、中央部がわずかに窪んでいることが多い。これは、往来する人馬に踏み固められたものと見られる。窪んでいることにより、おそらく道路中央には水たまりができて、往来に支障を来すだけでなく、道路の維持管理にも多大な労力を要していたと考えられる。また、路面には轍と思われる跡も見つかっている。以前は、古代日本で車が用いられることはあまり想定されていなかったが、発掘結果からは、かなり頻繁に車が使用されていた可能性を指摘する意見もある。
道路の建設に関することは、ほとんど分かっていない。建設には非常に膨大な労働力を必要としたはずであるが、労働力をどのように調達したのか、労働力を賄う費用は誰が負担したのか、などは史料がほとんどないこともあって判明していない。また、一定の幅員で長大な直線形状を持つ道路を造る技術についても分かっていない。おそらく、中国の測量技術・土木技術がもたらされたと考えられるが、詳細は不明である。中国から技術者が帰化したのか、日本人が中国の技術を学んだのかも分からない。どのような工法により、道路が建設されたかも明らかとなっていない。 
性格
駅路は、中央と地方間の情報伝達のためのハイウェイとして位置づけられていたが、その目的だけとしては、幅員が広すぎるという問題がある。広い幅員で直線的な道路には、いくつかの性格が与えられていたと見られている。
一つは、外国の賓客に見せるためのデモンストレーションだったとする見方である。外国からの使者が特に往来する山陽道は大路とされ、他の駅路より広い道路幅を持つとともに、多くの駅馬と瓦葺きの駅家を備えていた。このように国威を外国に示すための役割も負っていたのではないかと考えられている。
しかし、全ての駅路を外国使節が通過したわけではない。そこで地域の豪族・住民らへのデモンストレーションだったとする見方もある。地域の経済力・技術力では建設し得ない規模の道路の存在が、中央政府の強大な権威を誇示する役割を担っていたとしている。
また、軍用道路としての性格を唱える見方もある。世界各地の古代道路を見ると、軍事的な性格を持つものが多く、日本の古代道路もその例外ではないとする。また、律令において、駅伝制は兵部省の所管となっており、飛鳥時代から奈良時代にかけて行われた軍事活動のために駅路などが整備された可能性もある。
古代道路は、地域計画の基準線となることもあった。各平野部での条里が駅路を基準に設定されていたり、駅路が国境となる例もあった(摂津・河内・和泉国境、又は筑前・筑後国境)。国府や国分寺などの位置関係が駅路を基準として決定されたと思われる事例も多くあった。 
 
五畿七道

 

古代日本の律令制における、広域地方行政区画である。畿内七道(きないしちどう)とも呼ばれた。1869年(明治2年)、北海道 (令制) が新設されてからは五畿八道と呼ばれる。1871年(明治4年)の廃藩置県以降も、五畿八道は廃止されておらず、令制国も併用されていたが、1885年(明治18年)以降はすたれ、現在は、五畿八道としての地方区分はあまり用いられなくなっている。
しかし、現在の日本各地の地方名の多く(北陸、山陽、山陰、北海道など)は、五畿八道に由来している。また、東海道新幹線や山陽新幹線、北陸自動車道などの交通網や、今後想定される東海地震や南海地震、また地震発生帯の南海トラフなどの名称にもその名残が見られる。
元々は、中国で用いられていた行政区分「道」に倣った物である。日本における「道」の成立については大化改新以前より存在したとする見方もあるが、五畿七道の原型は天武天皇の時代に成立したと言われている。当初は全国を、都(平城京・平安京)周辺を畿内五国、それ以外の地域をそれぞれ七道に区分した。
律令時代からの七道
律令時代からの七道は、概ね地形的要件に基づいて区分されているが、西海道以外では道単位での行政機関は常置されなかった。西海道は大陸との外交・防衛上の重要性から大宰府が置かれて諸国を管轄した。七道の中でも最も重視されたのが山陽道であり、唯一の大路である。七道の各国の国府は、それぞれ同じ名の幹線官道(駅路)で結ばれていた。七道は大路、中路、小路に分けられ、駅路には原則として30里(約16キロ)ごとに駅(駅家)を置き、駅ごとに駅馬が常備された。備える馬の数が異なっていた。駅周辺(必ずしも周辺とは限らなかった)に駅長や駅子を出す駅戸を置き、駅馬の育養にあたらせた。駅家には往来する人馬の休息・宿泊施設を置き、駅鈴を持っている官人や公文書を伝達する駅使が到着すると乗り継ぎの駅馬や案内の駅子を提供した。
これら七道には、江戸時代の五街道などと重複する呼称がある。時代や成り立ちが異なるものの、ほぼ同じ道筋にはなっている。
その後、細部の境界の移動を除き長らく変更はなかったが、後に、和人地および蝦夷地に新たに北海道が置かれた。以後、五畿八道と呼ぶ。なお、北海道の記録は古く斉明天皇の時代阿倍比羅夫の遠征まで遡り、鎌倉時代には和人が住み道南十二館の時代を経、江戸時代には松前藩領や天領となっていた地域に最後に置かれた。
   東海道 中路、駅家ごとに10疋
   東山道 中路、駅家ごとに10疋
   北陸道 小路、駅家ごとに5疋
   山陰道 小路、駅家ごとに5疋
   山陽道 大路、駅家ごとに20疋
   南海道 小路、駅家ごとに5疋
   西海道 小路、駅家ごとに5疋 
 
東山道1

 

(とうさんどう) 五畿七道の一つ。本州内陸部を近江国から陸奥国に貫く行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から中世)を指す。往時の読み方については、「とうさんどう」の他にも「とうせんどう」「ひがしやまみち」「ひがしのやまみち」「ひがしやまのみち」「ひがしのやまのみち」そして「やまのみち」など諸説ある。以下の諸国が含まれる。
近江国(現在の滋賀県)
美濃国(現在の岐阜県南部)
飛騨国(現在の岐阜県北部)
信濃国(現在の長野県)
 諏方国 - 721年に信濃国より分立。731年に再統合。現在の長野県中部・南部に相当。
上野国(現在の群馬県)
下野国(現在の栃木県)
武蔵国(現在の埼玉県、島嶼を除いた東京都のうち隅田川より西の地域、および神奈川県北東部) - 771年に東海道に所属変更。
陸奥国(現在の福島県、宮城県、青森県、岩手県、秋田県北東部) - 陸奥国は7世紀に常陸国より分立。
 石背国 - 718年に陸奥国より分立。数年後に再編入。
 岩代国 - 1869年に陸奥国より分立。現在の福島県中通り・会津に相当。
 石城国 - 718年に陸奥国より分立。数年後に再編入。現在の福島県浜通りに相当。
 磐城国 - 1869年に陸奥国より分立。現在の福島県浜通りに相当。
 陸前国 - 1869年に陸奥国より分立。現在の宮城県に相当。
 陸中国 - 1869年に陸奥国より分立。現在の岩手県に相当。
 陸奥国 (1869-) - 陸前・陸中を分離後の部分。現在の青森県と岩手県二戸郡。
出羽国(現在の山形県、秋田県の一部) - 712年に越後国出羽郡を割いて出羽国を建てる。同年10月陸奥の国の最上・置賜両郡を出羽国に編入。1869年、羽前国と羽後国に分割され消滅。
 羽前国 - 現在の山形県に相当。
 羽後国 - 現在の秋田県に相当。 
道としての東山道
律令時代の東山道は、畿内と東山道諸国の国府を結ぶ幹線道路であり、律令時代に設けられた七道の中で中路とされた。ただし中路とされたのは近江・美濃・信濃・上野・下野・陸奥の各国国府を通る道である。陸奥国府・多賀城より北は小路であり、北上盆地内にあった鎮守府まで続いていた。東山道には、30里(約16km)ごとに駅馬(はゆま)10匹を備えた駅家(うまや)が置かれていた。
飛騨・出羽は行政区画で東山道に区分されていたが、国府には幹線道路としての東山道は通っていなかった。飛騨へは美濃国府を過ぎた現在の岐阜市辺りから支路が分岐していた。また出羽国へは、小路とされた北陸道を日本海沿岸に沿って延ばし、出羽国府を経て秋田城まで続いていたと見られている。そのほか、多賀城に至る手前の東山道から分岐して出羽国府に至る支路もあったと見られている。
奈良時代当初は、東山道の枝道として東山道武蔵路が設けられ、上野国新田より曲がって武蔵国府(現・府中市)に至り、戻って下野国足利へ進むコース(またはこの逆)が東山道の旅程であった。すなわち武蔵国は、東京湾岸の令制国の中で唯一、東山道に属した。他の東京湾岸の令制国は東海道に属したが、元々の東海道は、相模国から海路で上総国・安房国渡り、そこから北上して下総国方面に向かう経路が取られていた。その後、海路に代わり相模国から武蔵国を経由して下総国に抜ける陸路が開かれたため、宝亀2年10月27日(771年12月7日)に武蔵国は東海道に入れ替わった。なお、甲斐国(現 山梨県)は駿河国、伊豆国とともに東海道に属しており、旅程も東海道に組み込まれていた。
だが、当時は大河川に橋を架ける技術は発達しておらず、利根川(当時)・多摩川・富士川・安倍川・大井川・木曽川・長良川・揖斐川と渡河困難な大河が続く東海道よりも東山道の山道の方がむしろ安全と考えられていた。このため、東海道の渡河方法が整備される10世紀頃までは東山道は活発に機能していた。
平安時代には、平安京(京都)との間の運脚(運搬人夫)の日数(延喜式による)は以下の通り。括弧内は陸路の行程日数で、前者が上り(平安京方面)で後者が下り。上りは調と庸とともに旅費にあたるものも携行したため、下りの約2倍の日数を要したとされる。
東山道:近江国府(1日/0.5日)、美濃国府(4日/2日)、信濃国府(21日/10日)、上野国府(29日/14日)、下野国府(34日/17日)、陸奥国府(50日/25日)
支路:飛騨国府(14日/7日)
北陸道:出羽国府(47日/24日)
江戸時代になると、江戸を中心とする五街道が整備され、幹線道路としての東山道は、中山道・日光例幣使街道・奥州街道などに再編された。
東山道ルートでの、京都〜多賀城の概算距離(810km)
京都 -(22km)- 草津 (滋賀県) -(57km)- 長浜 -(12km)- 不破関 -(36km)- 岐阜 -(26km)- 美濃加茂 -(56km)- 中津川 -(100km)- 塩尻 -(55km)- 上田 -(20km)- 小諸 -(22km)- 碓氷峠 -(41km)- 高崎 -(112km)- 宇都宮 -(75km)- 白河関 -(152km)- 岩沼 -(25km)- 多賀城 
不破関(ふわのせき)
古代東山道の関所である。東海道の鈴鹿関、北陸道の愛発関とともに、畿内を防御するために特に重視され、これを三関という。三関から東は東国または関東と呼ばれた。
草津
長浜
岐阜
美濃加茂
中津川
塩尻
信州には海がないため塩を生産することができず、かつては日本海から塩売りがやってきていた。各地を回って売り歩いていると、ちょうどこの近辺で品切れになるため、塩尻という名前がついたと言われている。また、日本海側と太平洋側からそれぞれ塩が運ばれてくると、この辺りで両者が合流することから塩の道の終点=塩尻という説もある。この説に沿う地名として小県郡塩尻村(現、上田市)がある。なお、塩尻市の見解は、定説はないとしつつも上杉氏が武田氏に塩を送った義塩伝説、食塩を由来とする説、地質・地形からなる説の三つを挙げている。
上田
奈良時代 / すでに別所温泉が開湯されていたという。8世紀に信濃国の国分寺、国分尼寺が建立された。最初の国府もこの近くに置かれたとする説もある。奈良末期から平安時代初頭にかけての時期に、国府が松本に移る。
平安時代 / 承平8年(938年)、平将門に追われて東山道を京にむけて関東を脱出しようとした平貞盛が、2月29日に追撃してきた将門の軍勢100騎と信濃国分寺付近で戦った記録が残されている。このとき貞盛は、信濃国海野古城を拠点とする信濃御牧の牧監(管理者)滋野氏の下に立ち寄っている。旧知の間柄であったとも伝わるが、正確な関係は不明である。滋野氏のみならず、他田真樹ら信濃国衙の関係者達も貞盛に加勢したが将門軍に破れたとされる。この戦闘によって国分寺は焼かれたものと考えられている。
上田2
東山道については、その概要を前に記しておいたが、上田・小県地方には、浦野駅・曰理駅という二つの駅があった。浦野駅には馬が15匹常備されていた。普通の駅は10匹常備であるが、この浦野駅の常備数がとくに多いのは、もちろん保福寺峠という険路をひかえていたためである。(そういえば、保福寺峠の向う側にあった錦織駅も15匹の常備を命ぜられていた。)
その浦野駅は、大法寺の南方の平坦地にあったと推定されている。ここに「本宿」(元宿か)という小字名が残っており、何よりも東山道の開通した大宝年間に創立されたという古刹大法寺(昔は大宝寺と書いた)があることが、その想定の根源となっている。駅には駅寺があるのが通例で、大法寺(大宝寺)は浦野駅の駅寺と考えられる寺である。
小諸
碓氷峠(うすいとうげ)
群馬県安中市松井田町と長野県北佐久郡軽井沢町との境にある日本の峠である。標高は約 960 m。信濃川水系と利根川水系とを分ける中央分水嶺である。峠の長野県側に降った雨は日本海へ、群馬県側に降った雨は太平洋へ流れる。古代には碓氷坂(うすひのさか)、宇須比坂、碓日坂などといい、中世には臼井峠、臼居峠とも表記された。
古来より坂東と信濃国をつなぐ道として使われてきたが、難所としても有名であった。この碓氷坂および駿河・相模国境の足柄坂より東の地域を坂東と呼んだ。『日本書紀』景行紀には、日本武尊(ヤマトタケル)が坂東平定から帰還する際に碓氷坂(碓日坂)にて、安房沖で入水した妻の弟橘媛をしのんで「吾妻(あづま)はや」とうたったとある。なお『古事記』ではこれが足柄坂だったとされ、どちらが正しいかという論争が存在する。現在でも碓氷峠を境にして、東側が関東文化圏・関東方言に、西側が信越文化圏・信越方言に分かれている。
碓氷峠の範囲は南北に広いが、その南端に当たる入山峠からは古墳時代の祭祀遺跡が発見されており(入山遺跡)、古墳時代当時の古東山道は入山峠を通ったと推定されている。7世紀後葉から8世紀前葉(飛鳥時代後期 - 奈良時代初期)にかけて、全国的な幹線道路(駅路)が整備されると、碓氷坂にも東山道駅路が建設された。入山遺跡はこの時期までに廃絶しており、碓氷坂における東山道駅路は近世の中仙道にほぼ近いルートだったとする説が有力視されている。なお、万葉集にみえるように防人たちにとっては故郷との別離の場となっていた。
平安時代前期から中期頃の坂東では、武装した富豪百姓層が国家支配に抵抗し、国家への進納物を横領したり略奪する動きが活発化した。これら富豪百姓層を「群盗」と見なした国家は、その取締りのため昌泰2年(899年)に碓氷坂と足柄坂へ関所を設置した。これが碓氷関の初見である。碓氷関は天慶3年(940年)に廃止され、中世に何度か復活した。
古代駅路は全国的に11世紀初頭頃までに廃絶しており、碓氷坂における東山道駅路も同時期に荒廃したとされている。その後、碓氷峠における主要交通路は、旧碓氷峠ルートのほか、入山峠ルート・鰐坂峠ルートなどを通過したと考えられているが、どのルートが主たるものであったかは確定に至っていない。
高崎
当初、高崎の地は「和田」と呼ばれていた。「高崎」という都市名の由来については、以下の伝承がある。
高崎城が和田城の跡に完成した際に、城主である井伊直政は、当地を「松ヶ崎」という名前に改めようと思った。そこで、その件を常日頃から信頼を寄せている箕輪の龍門寺の住職である白庵に話した。白庵は「もっともなことではありますが、諸木には栄枯あり、物には盛衰があるのは珍しいことではありません。殿様が、家康様の命を受けて和田の地に城を築いたのは権力の頂点に立った大名に出世されたからであります。そうであれば『成功高大』の意味を採って『高崎』と名付けた方がよいのではないでしょうか?」と言った。白庵の含蓄ある言葉を聞いて喜んだ直政は、直ちに「和田」を「高崎」と改めた。そして白庵が箕輪から転住した龍広寺の山号に、「高崎」の2字を与え感謝の意を表した。
前橋
古くは厩橋と書いた。中世の読み方は「まやばし」。初めは「うまやばし」だと推定される。江戸時代に前橋に改められた。
宇都宮
当地は古代毛野国、令制国時代には下野国に属し、市域姿川流域には縄文時代の大集落跡である根古谷台遺跡があるなど、紀元前より人の生活の場であったことが知られている。また宇都宮市中心市街地は平安時代の下野国河内郡池辺郷で、その東端を流れる田川沿岸には旧古多橋駅が、また市東部郊外を流れる鬼怒川の沿岸には旧衣川駅があったと推定されており、さらに市域平野部には紀元4-7世紀に建造されたと推定される古代古墳や住居跡が多数存在し、戸祭山麓には下野薬師寺や河内郡衙で使用された屋根瓦を焼いた窯跡もあるなど、東山道沿道にあり地域人口の一集積地であったと考えられている。
上代には池辺郷の鏡ヶ池畔には地の神を祀る社が建てられ、平安時代後期にはこれを『宇豆宮』『宇都宮明神』として祭祀し、鎌倉時代から戦国時代にかけてはこの神領を預かった神職家で北面武士でもあった一族が宇都宮氏を名乗り鎌倉御家人として宇都宮城に居し、城下に多数の仏教寺院を建立して宇都宮は東国の都であったと比喩されることもあった。この宇都宮社は、中央政権が関東・奥州を掌握するために東国に派遣した諸武門の奉幣を受け、藤原秀郷の平将門の乱、源頼義の奥州十二年合戦、源頼朝の奥州征伐、徳川家康の征夷大将軍就任など、その機会は日本史上の節目に前後して行われた。
宇都宮城下は鎌倉街道中道(奥大道)や日光古道などが通る交通の要衝で、沿道は富で潤いその痕跡は日光古道沿線の西根や門前などに今も見られる。しかし世界情勢の不安定化に伴う鎌倉府の弱体化と後北条氏の台頭に拠って宇都宮氏も勢力を弱め、近接勢力の那須氏や日光山僧兵の侵略を受けて宇都宮は一時灰燼化する。宇都宮氏は拠点を大谷の多気山に移し、程なく豊臣秀吉の小田原征伐に続く宇都宮仕置よって宇都宮に復帰するが、秀吉の死に前後して改易となった。その後宇都宮城主となった浅野長政や蒲生秀行は城下に紺屋町、日野町といった商人街を作り、また征夷大将軍となった徳川家康は宇都宮社に寄進してこれを復興するとともに、宇都宮を古道奥州道・日光道の宿駅に命じ、宇都宮城主奥平家昌や本多正純が宿場機能を併せ持つ近世宇都宮城下町を整備し、宇都宮宿は五街道のうち日光街道・奥州街道の二道の追分となり、街道一の繁盛地として大いに賑わった。
白河の関(しらかわのせき)
鼠ヶ関(ねずがせき)・勿来関(なこそのせき)とともに、奥州三関の一つに数えられる関所である。都から陸奥国に通じる東山道の要衝に設けられた関門として史上名高い。福島県白河市旗宿がその遺構として認定されている。国の史跡に指定されている。
その設置の年代は不明である。六国史における白河の初出は718年(養老2年)5月2日 (旧暦)に陸奥国から「白河」など5郡を分割して石背国を設置するという記事で、その後728年(神亀5年)4月11日 (旧暦)には白河軍団の新設を許可、そして769年(神護景雲3年)3月13日 (旧暦)には陸奥国大国造道嶋宿祢嶋足の申請によって何らかの功績を果たしたらしい者への賜姓付与が行われ、白河郡では丈部某と大伴部某がそれぞれ阿部陸奥臣および阿部会津臣を授かっている。また780年(宝亀11年)12月22日 (旧暦)には陸奥鎮守府副将軍の百済王俊哲が賊に囲まれ危機に瀕したが「白河」の神など11神に祈ったところこれを突破できたとして弊社に加えることを許可している。こうしたことから、ヤマトの軍事的要衝としての白河関の機能は平安中期には解消したものと考えられている。源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼす奥州合戦の際に、頼朝が白河に達した時に、梶原景季に歌を詠むよう命じると、「秋風に草木の露をば払わせて、君が越ゆれば関守も無し」と詠んだ。 関の廃止の後、その遺構は長く失われて、その具体的な位置も分からなくなっていた。1800年(寛政12年)、白河藩主松平定信は文献による考証を行い、その結果、白河神社の建つ場所をもって、白河の関跡であると論じた。
岩沼
阿武隈川の河口に位置する岩沼は、かつては「武隈(たけくま)」と呼ばれていた。この地はのちに奥州街道と陸前浜街道の分岐点の宿場として栄えたことからも分かるように交通の要衝であり、多賀城へ下向する官人のための旅館(武隈館)が置かれ、承和9年(842年)には竹駒神社が勧請されるなど、古くから重要な宿駅であった。
延文6年(1361年)までには泉田氏が岩沼城に入り、ここを拠点とする。泉田氏は、はじめ留守氏、のちに伊達氏の家臣となって同地を支配した。岩沼の呼称は、この城の前面に広がる沼から採られたものと伝えられている。
多賀城
多賀城市は、宮城県のほぼ中央に位置する都市である。旧宮城郡。市の名称は陸奥国府「多賀城」に因む。
旧石器時代から弥生時代まで
市内に点々とする丘陵に立地する柏木遺跡と志引遺跡から旧石器時代の石器が見つかっている。縄文時代前期には金堀貝塚があり、晩期には松島湾に近い橋本囲貝塚などで盛んに製塩土器を使った塩作りが行なわれた。後の多賀城市域に限らず、松島湾沿岸は貝塚と製塩土器・遺構が集中して分布する地域であった。弥生時代には、市内の五万崎地区から石包丁が出土している。枡型囲貝塚で見つかった籾の痕跡を残した土器は、山内清男の論文「石器時代にも稲あり」を生み、考古学史上著名である。市内の低地で水田稲作が営まれたと考えられるが、住居は見つかっていない。
古墳時代
古墳時代から竪穴住居の集落が確認できる。山王遺跡と隣接する新田遺跡は一続きの大きな集落で、他に高崎遺跡があり、後に多賀城廃寺が造られる場所にも小さな集落があった。付近には水田跡も見つかっている。海岸の大代地区には漁業に従事する人々が暮らしていたようである。古墳時代の前期には、五万崎地区に方形周溝墓が営まれた。古墳としては小型の円墳である稲荷殿古墳や丸山囲古墳が築かれたが、前者は7世紀後半、後者は年代不明である。稲荷殿古墳が作られた時期には、崖に大代横穴墓群、橋本囲横穴墓群、田屋場横穴墓群といった横穴墓が盛んに作られた。
古代の陸奥国府
8世紀に市域北西部の丘陵に多賀城が築かれた。多賀城創建時、陸奥国は一時的に石背国・石城国・陸奥国に三分されていた。分割された陸奥国は今の宮城県よりやや狭い範囲で、多賀城はそのほぼ中央にある。それまで郡山遺跡にあった陸奥国府は、神亀元年(724年)に造営なった多賀城に移ったと推定されている。分割は数年後に改められ、ふたたび今の福島県から宮城県に及ぶ広い陸奥国に戻ったが、多賀城はその広い陸奥国の国府であり続けた。多賀城には9世紀初めまで鎮守府も置かれ、出羽国まで含めた東北地方の政治・軍事の中心都市であった。日本全体の中でも、西の大宰府に対応する東の政治都市として重要な位置にあった。城郭の南には町が広がり、当時七北田川が合流して流量が多かった砂押川に橋がかけられ、舟による運送があった。奈良時代から平安時代はじめまで断続的に続いた蝦夷との戦いの中で、宝亀11年(780年)には伊治呰麻呂の反乱で攻め寄せてきた軍勢により略奪放火されたが、すぐに再建された。 
 
東山道2

 

1.東山道とは
古代日本の中央政府は飛鳥時代から平安時代の前期にかけて、計画的に道路を整備した。地方では6メートルから12メートルの幅があり、京の都周辺では24メートルから42メートルの幅員を持った直線道路であった。東山道は、奈良時代に中央と地方を結ぶために、政治的に造られた国道であった。古代の五畿七道の一つでいわゆる官道の名称であった。
畿とは、首都の意味であり、京都周辺を「畿内」。その周辺五ヵ国を「五畿」とし、畿内周辺国を「近畿」と呼んでいた。
七道とは
・近畿の北側・東日本の太平洋側を「東海道」
・日本海側を「北陸道」「山陰道」
・中央山間部から東北を「東山道」
・畿内から南西を「山陽道」
・四国を「南海道」
・九州を「西海道」
※これに「北海道」を入れて、八道とも言う。
東山道の「道内」を走る街道
・本街道を「中山道」「日光街道」
・脇街道を「西近江街道」「伊那街道」「野麦街道(善光寺道)」「七里半越え」「白川街道」「飛騨街道」「上保街道」「郡上街道」「美濃街道」「北国街道」「北国西街道」 
2.東山道の呼び方
東山道= とうさんどう・とうせんどう。あずまのやまのみち。略して「やまのみち」
東街道= あずまかいどう
※山道を呉音で「せんどう」、漢音で「さんどう」と呼んだ地名が今でも残っているが、研究者の用語では「とうさんどう」が通用している。
※「奥羽観蹟聞老志」「封内風土記」「下伊那史4巻」など藩政時代の文献には様々な文字があてられている。しかし、東山道が文献に初見されるのは、彦狭嶋王を東山道の十五国の都督に拝したという「日本書紀(景行天皇55年2月壬辰条)」であるという。十五国というのは「美濃より以東」と記されている。 
3.東山道はいつごろできたのか
大化の改新(大化元年645)により「駅馬・伝馬」制度が出来ましたが、実際に整備がされたのは大宝元年(702)の大宝令が制定されたころと言われています。「続日本紀」の大宝2年(703)の記録に「初めて美濃国の岐蘇山道を開く」とあり、この「岐蘇」とは木曽谷を通る新しい道を開いたという通説と、神坂峠を越えるコースが整備されて「駅」の整備も整ったという説の二つがあります。その後、木曽路を通った記録はなく、神坂峠越えは大変だったという記録が多いことから後者が有力となっている。 
4.東山道はどこまでの道か
東山道の起点は、琵琶湖の南端、近江国(滋賀県)の瀬多(瀬田)。終点は宮城県の多賀城まででしたが、のちにY字状に分かれて、一方は陸奥国(岩手県)の胆沢を経て志波城まで。もう一方は出羽国(山形・秋田)の秋田城までとなっていますが、秋田での道は幻の道と言われております。距離にして千キロに達しています。
近江の瀬多(滋賀県)から始まり→美濃・飛騨(岐阜県)→信濃(長野県)→上野(群馬県)→下野(栃木県)→陸奥(福島県以北)→出羽(山形・秋田)の諸国ですが、道ばかりではなく、国々の地域をまとめて「東山道」ともいいました。 

国府・近江国(滋賀県)→美濃国(岐阜県南部)→飛騨国(岐阜県北部)→信濃国(長野県)・信濃国府→上野(群馬県)→下野国(栃木県)→岩代国(福島県内陸)→磐城国(福島県沿岸)→陸前国(宮城県)・多賀城国府→出羽国(山形県・秋田県)・睦奥国(岩手県) 
5.東山道に駅と駅馬の数はどれほどあったか
「延喜式川こは、支線も含めて令部で86駅あったと記されています。信濃国だけで15駅、駅馬数は165匹。駅には10匹ほどの馬がおり、馬一頭に5人から6人の駅子がいたと言われています。駅と駅の間の距離は通常30里(16キロ)とされていました。駅に付属した駅田の広さは3町歩(3ヘクタール)と推定されています。 
6.だれの指図で運営されていたのか
駅には駅長がいました。駅長は朝廷や国司から派遣された役人ではなく、その土地の有力者や土豪が任命されていました。駅長の仕事は、国の役人や駅使の送迎などのほか、駅子や駅馬の配置や馬の仕度、駅家・駅田の管理などでした。終身的に任命され、任務は重く、租税や労役はそのかわり免除されていました。 
7.駅子たちはどんな仕事をしていたか
詳しい記録はないようですが、当番制のようになっていて駅舎に勤務していたと言われている。駅子は土地の農民で、駅馬を出す必要があるときはいつでも応じられるようになっており、駅使や公用の役人などを出迎え、荷物を背負い、駅馬と供に次の駅まで行き、交代して自分の所属駅に戻っていた。
また、通常は馬の世話や公用使のための休息、食事、宿泊などの仕事をし、当番でない駅子は駅田の耕作や道路の整備をしていました。 
8.駅馬を利用したのはどんな人たちか
駅馬を利用したのは、国の役人や国の役目で通った人、駅使(公用の荷物などを次の駅まで送り届ける駅子)などで、ほかの人は歩いて通りました。駅馬を利用した人の中にも普通の速さで通行した人と、至急の報告や命令を持って通る「飛駅使」がおり、飛駅使は一日に10駅を走り抜けるように規定されていたと言われますが、10駅は160キロにもなり、無理だったと思われます。駅馬を利用する人は駅鈴を鳴らして通行しました。また、駅まで行けずに途中で日が暮れてしまった時は、大木や岩の陰などで野宿をしました。 
9.庶民はどうして通ったか
一般の庶民は駅馬を使うことはできませんでしたので、公用の通行を妨げないように通行しました。駅路の周辺には果樹(梅、桃、梨、胡桃など)が植えられ、水がない所には井戸などが掘られていました。道路幅も6メートルから12メートルと広く、両側には側溝を持つ、現代の道路にも劣らない構造でした。 
10.駅制はいつまで続いたか
東山道の駅制がなくなった時期の記録はないそうですが、10世紀後半のころには地方制度が乱れ、財政の窮乏などにより駅子の逃走なども絶えず、駅戸は離散したという。盗賊が出没し、都へ送る荷物を奪い取り、旅人を脅かし、旅行日の吉凶などによる交通障害なども手伝い、承平・天慶(931〜946)のころには駅家の維持が困難になったと言われる。しかし、駅制による駅馬の 往来がなくなっても東山道が利用されなくなったわけではなかった。その後も休息の場であり宿泊の場所として姿を変えて利用されていった。 
11.駅路と伝路
駅伝制は駅路と伝路から構成されていた。 駅路は、中央と地方との情報連絡を目的とし、最短の直線で結ばれており、30里(約16キロ)ごとに駅家が置かれていた。駅路は重要度から大路・中路・小路に区分されており、中央と東国を結ぶ東山道は中路に位置していた。駅家に置く馬を駅馬と呼び、大路で20匹、中路で10匹、小路で5匹と定められていた。駅路は重要な情報を中央へ伝達する目的上、路線は直線的であり、集落とは無関係に結ぱれ、道路幅も広く、地域間を結ぶハイウェイ的な道であった。
伝路は、中央から地方への使者を送迎することを目的とし、郡ごとに伝馬が5匹置かれる規定があった。伝路は郡家を結んでいたために、地方間の情報伝達も担っていた。自然発生的なルートが改良、整備されたものが多く道幅も6メートル前後が多いとされている。
駅路と伝路は別々に整備されたが、路線が重複する区問では駅路が伝路を兼ねていた。また、次第に伝路は駅路に統合されて行った。そのため利用されることが少なくなり、今度は実用的な伝路を駅路とするなどの変遷を伴うが、10世紀から11世紀初頭には駅伝制も駅路も廃絶した。 
12.東山道のルートを知る
古代道路である東山道のルートを知る基礎知識として「延喜式」が上げられる。延喜式には駅路ごとの各駅名が載っているため、駅家の所在を推定することが出来るからである。駅家と駅家を結ぶルートから大まかな駅路が推定出来るわけである。また地名は古代道路に由来する可能性があるのである。地名では「大道(だいどう)」「横大路」「車路(くるまじ)」「作道(つくりみち)」「立 石」「仙道・山道」「縄手(なわて)」などである。駅家に由来する地名は「馬屋・馬込・間米」などがルートを知る重要な手がかりと言える。ほかにも字界や地割、条里余剰帯(みちしろ)など様々な手がかりがある。
※奈良時代は「峠」は「坂」と呼ばれていた。主要ルートを「オオサカ」「ミサカ」などと呼び「ミサカ」は神を祀る所を示す呼称でもあった。峠に坂が使われている場所は古い地名かも知れない。坂はある地方から別の地方への境であり、特別な場所でもあった。 
文献
1 「延喜式」諸国駅伝馬条  平安時代の延喜年間(901〜919)に編纂されたもの。式とは律令格式の式であり、行政法の施行細則のこと。諸国駅伝馬条は、兵部省関係の規定の一つであり、駅家・駅路関係の史料とされる。
2 「和名類聚抄」 「和名抄」とも呼ばれ「延喜式」と同時期に編さんされた辞典。「国郡部」「郡郷部」という全国の国・郡・郷の一覧が収録されている。
3 六国史 六国史とは「日本書紀」「続日本紀」「日本後紀」「続日本後紀」「日本三大実録」「文徳天皇実録」のこと。この六国史や「類聚三大格」という追加法令集の中に、駅家の新設・廃止・再配置や、駅路路線の付け替え、駅馬数の変更などが登録されているという。
4 風土記(古代) 現在残っているものは、常陸、出雲、播磨、豊後、肥前だけである。しかし、風土記の駅家・道路関係の記載と延喜式を比較することによって変化がわかる。
5 木簡や土器など 木簡や土器には駅家名が記されていることもある。
 
東山道3 ・ しなのみち

 

東山道(あずまやまみち)は、古代の律令のよる官道の一つで、。延喜式に依れば近江国勢多駅を起点とし、美濃国・信濃国・上野国・下野国を経て陸奥国に通じていた。信濃国における経路は、美濃国坂本駅から信濃坂(神坂峠)を越え阿智駅に下り、伊那郡を下る天竜川沿いを遡上し、育良・賢錐・宮田・深沢の各駅を経て善知鳥峠を越えて筑摩郡に入り、覚志駅を経て、錦織駅で本道は東に方向を転じ、保福寺峠を越えて小県郷浦野駅に出て、亘理駅で千曲川を渡り、佐久郡清水駅・長倉駅を経て、碓氷坂を過ぎ、上野国坂本駅へ至る路であった。なお筑摩郡錦織駅から分かれて北へ向かい、更級郡麻績駅を経て犀川を亘理駅で渡り、多古・沼辺駅を経て越後国に至る支路があった。この支路については信濃坂が難路であったので、和銅六年(713)、駅路でない直路の吉蘇路(きそじ)を通ぜしめて覚志駅で伊那から遡上してきた道と結んでいる。
この駅路東山道の原初の道は、大和国から伊勢・尾張・美濃の各国を経て信濃坂を越え、天竜川沿いに北上し、宮田駅を過ぎてから北東へ向かい、杖突峠を越えて諏訪郡へ出、更に東北進して雨境峠を越えて佐久郡に下り、佐久平を北東に進んで碓氷坂に至ったと推定されている。筑摩郡を経由する道は大宝二年(702)に開通。東山道の最大の難所は、南の信濃坂峠。北の碓氷坂及びその中間にある現保福寺峠であったが、東海道には幾つかの大河が存在していることもあって、大和朝廷における陸奥・出羽の開発に当たって次第に重要路線となり、奈良時代の中頃までその主要道路とされていた。
ちはやふる神の御坂に幣まつり斎(いほ)ふ命は父母のため
                     信濃坂にて 万葉集巻二○防人の歌
信濃路は今の墾道刈株(はりみちかりばね)に足踏ましむな履(くつ)はけ我が夫(せ)
                     保福寺峠で 万葉集巻一四東歌  
ひなぐもり碓氷の坂を越えしだに妹が恋しく忘らえぬかも
                     碓氷峠にて 万葉集巻一四東歌
▲信濃坂
しなのさか / 濃信国境神坂峠 / かつて東山道最大の難所として知られ、頂上には古代祭祀遺跡、近くには箒木の伝説の残る園原がある。美濃国坂本駅から越えて信濃路へ。
阿智・伊那郡
あち / 下伊那郡阿智村駒場。
育良・伊那郡
いから / 飯田市殿岡?
賢錐・伊那郡
かたぎり / 上伊那郡中川村中村。旧片桐村:片桐郷七ヶ村の中心。
宮田・伊那郡
みやだ / 上伊那郡宮田村。古東山道は、杖突峠を越えて諏訪へ。
深沢・伊那郡
ふかさわ / 上伊那郡箕輪町下古田?
▲善知鳥峠
うとうとうげ / 松本平と伊那谷の境界をなす峠。表日本と裏日本の分水嶺をなす峠の一つ。標高889m。江戸時代中馬の道三州街道はこの峠を越えて中山道と合流した。
覚志・筑摩郡
かがし / 松本市芳川村井町。平安時代から信濃国府が置かれた。
錦織・筑摩郡
にしごり / 上水内郡四賀村(旧保福寺村)錦部:保福寺峠越えの重要な駅。江戸時代保福寺街道保福寺宿。地名は宿の東端にある保福寺に由来する。松本藩の番所保福寺番所が置かれた。越後国へ通ずる東山道支道分岐点(次の駅は麻績)。
▲保福寺峠
ほふくじとうげ / 筑摩郡と小県郡を繋ぐ重要な峠。保福寺山の北の尾根にあり標高1345m・東山道の難所の一つで険しい道であった。明治になってイギリスの登山家ウエストンが、この峠で北アルプス連峰を望み、その荘厳さに感動し「日本アルプス」と命名した場所。
浦野・小県郡
うらの / 今の小県郡青木村 / 隣接する上田市に浦野の地名が残る。駅の場所は特定されていないが、この辺り。東山道の難所保福寺峠越えの重要な駅。国宝大法寺三重塔がある。古くから開けた沓掛温泉・田沢温泉がある。
亘理・小県郡
わたり / 上田市西部諏訪辺集落の近く(対岸は中之条)。千曲川を渡る重要な駅。
清水・佐久郡
しみず / 小諸市西部。
長倉・佐久郡
ながくら / 北佐久郡軽井沢町・御代田町あたり。
▲碓氷坂
うすいさか / 標高958m / 上信国境。東麓の坂本駅との標高差458mの交通の難所。日本書紀に、日本武尊が東国から信濃に入る時〈碓日坂(うすひのさか)〉にいたり、〈碓日嶺〉に登って弟橘媛をしのび、〈吾嬬(あづま)はや〉といったとある。上野国横川(松井田町)へ。 
錦織 [分岐]
麻績・更級郡
おみ / 上水内郡麻績村 / 錦織駅から分岐して越後に至る支路の駅。当時の道筋は、立峠の西の古峠を越え本城村の地籍へ出、坂北村を経て麻績駅に至り、坂井村の冠着トンネルの上の古峠(964m)を越えて更級郡更級村の弥勒(現御麓)に下っていて、今でも古い道筋を残している。麻績駅の跡は、麻績神明宮西の耕地。麻績は江戸時代北国西街道の宿場。
亘理・水内郡
わたり / 犀川を渡る重要な駅。丹波島・戸部・塩崎など諸説あり。
多古・水内郡
たこ / 長野市三才から田子周辺。
沼辺・水内郡
ぬのへ / 上水内郡信濃町野尻または古間。越後国へ。 
宮田 [分岐]
▲杖突峠
つえつきとうげ / 諏訪郡と伊那郡の境をなす峠。標高1247m。諏訪からは急坂。諏訪谷を見下ろす展望は抜群。
山浦・諏訪郡
現茅野市。
▲雨境峠
あまざかいとうげ / 蓼科山西北麓、白樺高原にある。諏訪山浦地方(現茅野市)と佐久川西地方(現望月町・浅科村・立科町・北御牧村)を結ぶ重要な峠。戦国時代諏訪から佐久へ入るのにも使われた峠。
春日・佐久郡
かすが / 現北佐久郡望月町春日。
下県・佐久郡
しもがた / 現佐久市大字下県(旧下県村)。千曲川を渡り長倉へ。 
 
東山道4  
東山道「古代の道」を読む。
取り上げる古代の道とは、律令国家によって7世紀後半から8世紀にかけて建設され、10世紀ころまで機能した古代官道ー7道駅路ーのことである。都から本州と四国・九州の66国2島すべてに達し、その道幅は奈良時代には12メートル、平安時代には6メートルを基本として壮大なネツトワークであった。その長さはおよそ6300キロ、約16キロごとに駅家(うまや)を置き、全国におよそ400の駅家にはそれぞれ20疋から5疋の駅馬が置かれた。
この道のことが文献上で明らかになる最初は、大化2年(646)の改新の詔勅にある。東山道は東海道と並んで中路である。大路は山陽道ただ一つ、その他の道は小路である。『延喜式』当時の東山道に属する国は、近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽の8ヵ国である。東山道の起点は、近江の国(滋賀県)瀬多(瀬田)で、終点は宮城県の多賀城まででしたが、のちにY字状に分  かれます。―つは陸奥の国(岩手県)の胆沢から志波。もう一つは出羽の国(山形・秋田)の秋田城まで(推定)。距離にして1000キロメートルを越えます。
下野国の東山道
万葉集にも名を残す下野国南部の東山道  
上野国から下野国の最初の足利駅に次いで三鴨駅(岩舟町新里)は、三鴨の地名によって、早くから三毳山の周辺とされてきた。三毳山(標高109メートル)はこのあたりを象徴する山で、万葉集に次の歌がある。
下野の三毳の山の小楢のす ま妙(ぐわ)し児ろは 誰が笥(け)かもたむ(巻14、3424)
最初に三鴨駅を三毳山付近に比定したのは、『駅路通』の大槻如電で、下津原村(現岩舟町下津原)とした。地峡の東南に当たり、如電は三毳の丘の北にあたるとする。円仁(慈覚大師)の父が三鴨駅の駅長を務めたとの話もあり、その円仁の生地とされるのが、この岩舟町下津原である。円仁の生地について、岩舟町か壬生町かのいずれかと確認されていない。
発掘でルートが明らかな下野国中部・北部の東山道  
平成9年(1972)に国道新4号バイパスと北関東自動車道の交点である宇都宮上三川IC周辺の杉村遺跡で、大規模な東山道遺構が発見され、平成12年(2000)にまた、杉村遺跡とその南西方向約3キロの上神主・茂原遺跡でも同様な東山道遺構が見つかった。駅の位置で疑問もあった次駅の田部駅(上三川町上神主)も、上神主遺跡付近にあった可能性が強くなった。下野国府から田部駅までは15.6キロで、公式に名が残っている三鴨・田部両駅間のまさに中間点に下野国府があり、かつ両側の駅との間隔もほぼ30里に等しい。田部駅から杉村遺跡を経て約6キロにわたり北東方向にまっすぐ進む。次の衣川駅(河内町下岡本)は平出交差点から約2キロ進んだ地点で、JR東北本線岡本駅に近い。田部駅から17.3キロである。 
駅路研究の原点のひとつ、将軍道
衣川駅を通るこの直線は、さらに鬼怒川を越えて10数キロ続くことになる。鬼怒川から8キロほどで関東平野は終わり、東山道は那須の丘陵地に入る。ここに直線状の切り通し道があり、地元では古くから「将軍道」と呼ばれていた。源義家の奥州征伐にちなんでいる。この切り通し部は南那須町と氏家町および喜連川町との町境界線上で3キロほど続く。この町境界線上の道路を金坂清則は東山道と断定し、この線上の厩久保を、水利に恵まれた地形や前後駅との距離関係から新田駅(南那須町とりへん鴻野山字厩久保)に比定した。
平成13年(20001)の長者ヶ平遺跡の発掘で、大型のコの字型立柱建物跡が検出され、駅家か郡家ではないかとされている。また炭化米が出土し、義家伝説を裏付けた。
国道293号沿いに小川町に出て、ここで真北に変針して、今度は、国道294号線のルートを次駅の磐上駅(湯津上村湯津上)まで北上する。
国道294にほぼ直線ルートで黒羽町寒井に至り、ここで那珂川を渡り、以後はおおむねまた国道294号のルートで北上して、黒川駅(那須町伊王野)に達すると見たい。ちようどその対岸の国道294号に沿って道の駅「東山道伊王野」があり、古代路にちなむ命名をしている。
黒川駅からは三蔵川に沿い、現在は主要地方道76号坂本白河線となっているルートを進み、栃木・福島県境を越えて、いよいよ陸奥国へ入ってゆく。ここまでの下野国の7駅の駅馬数はいずれも標準どおり10疋である。  
 
中山道  
徳川家康が、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、まず手をつけたのは、街道の整備でした。江戸から京都に至る東海道五十三次を定め、次いで慶長七年(1602)中山道六十三次、引き続き奥州道中、甲州道中、日光道中の五街道を幕府の直轄地とし、宿駅や道程を成立させた。いずれも日本橋がその起点である。
中山道は江戸日本橋から京都三条大橋まで結ぶ約百三十五里二町(約534q)の街道です。図は、六十九宿の宿場を印したものです。草津では東海道で合流するので六十七宿とするものもあります。東海道が温暖な太平洋岸を通る海の道に対し、中山道は険しい碓氷峠や木曽路を通る山道でした。そこで東海道の五十三次、百二十六里余りに対し、中山道は距離も長く宿場の数も多かった。しかし大井川・天竜川・冨士川などの川留めや、宮−桑名間のような海の船旅もないので、女性に人気のある女街道でした。九代将軍徳川家重、十代家治の御台所(正室)を京都から迎えた時、また幕末に皇女和宮様が十四代家茂に降嫁する東下りの時、いずれも中山道を選んでいます。
日本橋を発って中山道の最初の宿場が板橋宿です。江戸の四宿のひとつで、品川宿、内藤新宿、千住宿とともに、多数の食売女(飯盛女)もいて、送り迎えの人々共々賑わったといわれてます。また、昔の旅は命がけ、ここで”水さかずき”をくみかわして別れを惜しんだ人もいたようです。
下諏訪は、中山道と甲州街道、鎌倉街道が交わる交通の要所です。今でも、”江戸から五十五里”の一里塚の碑が残っているとのこと。また、諏訪大社の門前町としても栄えた宿場町で宿も整っていたそうです。江戸も末頃になると、庶民も旅に出られるようになりました。それまでは、参勤交代の大名行列や宮家の降嫁の行列、公用旅行者が主だったわけです。一生一度のお伊勢参りは有名だが、中山道沿いにも、上野国の妙義山や榛名山への参詣、諏訪大社や善光寺参りなどがある。京へ上がるにも、道中に景勝地や名所旧跡が多いので中山道を利用する人々も増えたといいます。
「木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。……」
藤村の「夜明け前」の冒頭の一節ですが、中山道六十九宿のうち十一宿が集まる木曽路は、険しい山道が続く難所である。図「中山道六十九宿」によれば、贄川、奈良井、荻原、宮ノ越、福島、上松、須原、野尻、三留野、妻籠、馬籠の十一宿。広重・英泉の浮世絵では、中山道を木曽街道と言っています。木曽谷を中心とする山路であることを強調したものでしょう。木曽福島は幕府がおいた天下四大関所のひとつで、江戸を守る重要な拠点でした。関所では通行手形がないと通れず、特に「入り鉄砲に出女」を警戒しました。
中山道設立以前の道 / 江戸幕府によって五街道のひとつとして造成された中山道ですが、それ以前にも道はありました。「東山道」と呼ばれ、古代から中世にかけて東と西を結ぶ重要な道でした。大化の改新により駅制などが整備され始め、道も出来てきたという記録があります。中世になると、鎌倉に武家政権が誕生、御家人たちが「いざ鎌倉」と駆けつける道が必要となりました。各地にあった道が結ばれ、鎌倉へ至る道、鎌倉往環(鎌倉街道)がそれです。さらに戦国の群雄割拠に時代には、例えば武田氏が木曽路の伝馬の継立を行うなど街道や宿駅を設けていました。このように中山道が、東山道を基に、一部では鎌倉街道や戦国時代に設けられた道を改修し造成されたのです。
さて、中山道は、別に中仙道とも書いていましたが、江戸幕府は正徳六年(1716)、公式に中山道と記すことを命じている。その触書には「五畿七道之中に東山道、山陰道、山陽道いづれも山の道をセンとよみ申候。東山道の内の中筋の道に候故に、古来より中山道と申事に候」と説明しています。地名に詳しい新井白石の意向による、とも。さらに前述のように、木曽路を通ることから、木曽街道、岐蘇路、岐祖路とも言われ、東海道に対し、単に「山道」とも呼んでいたとのこです。東と西を結ぶ街道は人の交通ばかりでなく、米や物資の輸送、商品荷物の運搬に利用され、次第に宿駅の施設も整備されました。 
 
東海道1

 

(とうかいどう、うみつみち) 五畿七道の一つ。本州太平洋側の中部の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から近世)を指す。
行政区分の東海道は、畿内から東に伸びる、本州太平洋側の中部を指した。これは、現在の三重県から茨城県に至る太平洋沿岸の地方に相当する。
伊賀国(現在の三重県の西部)
伊勢国(現在の三重県の西部と南部及び志摩半島部を除く全域)
志摩国(現在の三重県の志摩半島部と愛知県の渥美半島の間にある一部の島々)
尾張国(現在の愛知県の西部)
三河国(現在の愛知県の中部と東部)
遠江国(現在の静岡県の西部)
駿河国(現在の静岡県の中部及び東部)
伊豆国(現在の伊豆半島及び伊豆諸島)
甲斐国(現在の山梨県)
相模国(現在の神奈川県の中部・西部)
武蔵国(現在の東京都と埼玉県、神奈川県東部の一部。初めは東山道)
安房国(現在の千葉県の南部)
上総国(現在の千葉県の中部)
下総国(現在の東京都の隅田川東岸、千葉県の北部、埼玉県の中川東岸、茨城県の南西部)
常陸国(現在の茨城県) 
道としての東海道
律令時代の東海道は、東海道の諸国の国府を駅路で結ぶもので、各道に派遣された官人が諸国を巡察する為に整備された路を指す。律令時代に設けられた七道の一つで、中路である。律令時代の東海道の道幅は、中世や江戸時代の道より広く、より直線的に建設された。
その一方で、当時は大河川に橋を架ける技術は発達しておらず、揖斐川・長良川・木曽川・大井川・安倍川・富士川・多摩川・利根川(当時)といった渡河が困難な大河の下流域を通過するため、むしろ東山道の山道の方が安全と考えられていた時期もあり、東海道が活発になるのは、渡河の仕組が整備された10世紀以降のことと考えられている。
中世に大半が改廃されたため、当時の正確な道筋については議論されているが、おおむね以下のような経路を通っていた考えられている。 
畿内から近国まで
首都が飛鳥に置かれた時期には、大和国の宇陀が、東海道方面への入口だったと考えられているが、その後、平城京に遷都されると、平城京から平城山を北上し、木津から木津川の谷間を東へ入って伊賀国に入り、鈴鹿山脈と布引山地の鞍部を加太越えで越えて伊勢国へ、木曽三川を下流域で渡って尾張国津島へ、名古屋市を通り、三河国と続いていったと考えられている。およそ、現在の国道163号線、国道25号線、国道1号線に沿ったルートであった。
ただし、木曽三川の下流部は古来より水害が激しく、実際には船による移動が頼っていたと考えられ、あるいは飛鳥や平城京から鈴鹿峠を経由してそのまま伊勢国の港から伊勢湾を横断する海路が用いられる事も多かったとみられている。だが、その一方でこうした船には馬を同伴させることが出来ず、東国から馬に乗ってきた旅行者は三河国か尾張国で馬を他者に預けて伊勢国に向かう船に乗る必要が生じたが、帰途時に馬の返還を巡るトラブルなどもあった(『日本書紀』大化2年3月甲申条)。このため、徒歩や馬で旅を続けようとする人の中には、本来は認められていなかった尾張国府から北上して美濃国にある東山道の不破関に出る経路も用いられていた。伊勢湾を横断する海路と東山道に出る脇道の存在は、江戸時代の七里の渡しや美濃路の原型として考えることもできる。
平安京に遷都されると、起点が平安京に移ったため、伊賀国から、近江国を通るルートに変更されることになる。平安時代初期には現在の杣街道から伊賀国に入る経路がとられたが、886年(仁和2年)に鈴鹿峠を通る経路に変更され、ほぼ現在の国道1号線のルートに準ずるようになった。
中国・遠国
現在の浜松市付近から静岡市付近に至る経路については、江戸時代の旧東海道よりも、やや海岸寄りのルートを通っていたとみられている。焼津市と静岡市の境は難所であり、日本坂と呼ばれ、日本武尊の東征伝説や万葉集の歌にも詠まれている。同地は、平安時代には、やや内陸寄りの宇津ノ谷峠が、蔦の細道として文献に現れるようになる。 駿河国と相模国の国境については、沼津から御殿場を経由して足柄峠を越え、関本に至る足柄路が取られていた。しかし、平安時代初期の富士山の噴火によって通行不能となったため、三島から、箱根カルデラを縦貫する箱根路が開かれることになった。
相模国では、相模湾沿いに東へ進み、鎌倉から三浦半島へ入り、走水から浦賀水道を渡って房総半島に入り、そこから北上して、安房国、上総国、下総国を経て、常陸国へ至るルートが、奈良時代初期のルートであった。このルートから外れる武蔵国は、碓氷峠回りの東山道に属していた。しかし、これでは武蔵国への交通が不便であり、東山道に関する公務の上で非合理であるとして、771年に、武蔵国は、東海道に鞍替えされることとなった。その際、関東平野南部の東海道も大きく付け替えられ、相模国中部を北上し、そのまま武蔵国に入って、現在の東京都心部を通り、その東側に広がる、隅田川をはじめとする、古い利根川・渡良瀬川の低湿なデルタ地帯を通過して、現在の千葉県市川市の下総国府に至り、更に常陸国へと向かうルートになった。 常陸国の先、勿来関の北側の、現在の福島県浜通り地方南部は、所属がやや流動的であり、当初は、常陸国まで太平洋沿岸に伸びてきた東海道の延長として扱われることもあったが、その後、現在の宮城県に置かれた陸奥国府の管轄下に置かれることとなり、東山道に属することとなった。東海道の延長は、常陸国北部で内陸に入り、棚倉構造線沿いの構造谷を北上して、東山道に合流する連絡路で接続された。
平安中後期
平安時代中期を過ぎると、律令制の弛緩に伴い、国家の公的な交通に代わり、より現実的な必要に伴う交通が行われるようになったと考えられている。更級日記には、1020年秋に、著者菅原孝標女の父の上総国への赴任が終わり、東海道を通って京都に帰る道程が記されているが、そこには、濃尾平野北西部の墨俣と、東山道の要衝のはずの不破関を通過したと記されており、当時の事実上の交通状況が窺える。
脇街道
東海道には、軍事的・地理的理由から、顕著なボトルネックとなるポイントや、地理的迂回路となるポイントが残されており、このような交通上脆弱・不便な部分には、これを回避するための脇街道が置かれた。脇街道には相模国の内陸部を通って直線的に結ぶ中原街道、見附宿より浜名湖の今切の渡しと新居関所を迂回し、気賀関所を通り、本坂峠を越し、吉田宿ないし御油宿へ抜ける道である姫街道、宮から桑名迄の七里の渡しを避けて、濃尾平野内部を陸路で結ぶ佐屋街道があった。特に、姫街道に関しては、宝永地震とそれに伴う大津波で、今切の渡しが破壊されて交通途絶してしまったことから、18世紀初頭には、東海道本道の交通をまるごと引き受ける場面もあった。 
 
東海道2 / 東関紀行

 

齢は百とせの半に近づきて、鬢の霜やうやくに冷しといへども、なす事なくして徒に明し暮すのみにあらず、さしていづこに住はつべしとも思ひ定めぬ有様なれば、かの白楽天の「身は浮雲に似たり、首は霜に似たり」と書給へる、あはれに思ひ合せらる。もとより金張七葉のさかへを好まず、たゞ陶潜五柳の栖を望む。しかはあれども、太山の奥の柴の庵までも、しば/\思ひやすらふほどなれば、なまじゐに都のほとりに住ゐつゝ、人なみ/\に世にふる道になんつらなれり。是即身は朝市に有て心は隠遁にある謂あり。
かゝる程に、思はぬ外に、仁治三とせの秋八月十日余りの比、都を出て東へをもむく事有。まだ知ぬ道の空、山重り江重りて、はる/\遠き旅なれば、雲を凌ぎ霧を分つゝ、しば/\前途のきはまりなきにすゝむ。つゐに十余日数をへて、鎌倉に下り付し間、或は山館野亭の夜の泊、或は海辺水流の数かさなるみぎりいたるごとに、目に立所々、心とまるふし/\″を書置て、忘れず忍ぶ人もあらば、をのづから後の形見にもなれとて也。

東山のほとりなる栖を出、相坂の関うち過るほどに、駒ひきわたす望月の比も漸近き空なれば、秋霧立渡りて、ふかき夜の月影ほのかなり。夕つけ鳥幽にをとづれて、遊子猶残月に行きけん函谷の有様思合せらる。むかし蝉丸といひける世捨人、此関のほとりに藁屋の床をむすびて、つねに琵琶を引て心をすまし、和歌を詠じて思を述けり。嵐の風はげしきをしゐつゝぞすぐしける。有人のいはく、蝉丸は延喜第四の宮にておはしましけるゆへに、この関のあたりを四の宮河原と名付たりといへり。
いにしへのわらやの床のあたりまで心をとむる逢坂の関

東三条院、石山にまうでて還御有けるに、関の清水を過させたまふとてよませたまひける御歌に、「あまた度ゆきあふ坂の関水にけふをかぎりのかげぞ悲しき」と聞ゆるこそ、いかなりける御心の物にかと、あはれに心ぼそけれ。

関山越え過むれば、打出の浜、粟津の原なんど聞けれども、いまだ夜のうちなれば、さだかにも見わかれず。昔天智天皇の御代、大和国飛鳥の岡本の宮より、近江の志賀の郡にうつりありて、大津の宮をつくられけりと聞にも、此程はふるき皇居の跡ぞかしとおぼえて、哀也。
さゞなみや大津の宮のあれしより名のみ残れる志賀の故郷

明ぼのの空になりて、瀬田の長崎打渡るほどに、湖はるかにあらはれて、彼満誓沙弥が比叡山にてこの海をのぞみつゝよめりけん歌思ひ出られて、漕行舟のあとの白波、まことにはかなくて心ぼそし。
世の中を漕行舟によそへつゝながめしあとを又ぞながむる
このほどをも行すぎて、野路といふ所にいたりぬ。草の原露しげくして、旅衣いつしか袖のしづくと心ぼそし。
東路の野路の朝霧けふやさはたもとにかゝるはじめ成らむ

篠原といふ所を見れば、東へはるかに長き堤あり。北には里人栖をしめ、南には池のおもて遠く見えわたる。むかへのみぎり、みどりふかき松のむらだち、波の色もひとつなり。南山のかげをひたさねば、青くして滉瀁たり。洲崎所/\に入違て、芦がつみなど生渡れる中に、鴛鴨の打むれて飛ちがふさま、足手をかけるやうなり。都を立旅人、此宿にこそ泊りけるが、今は打過るたぐひおほくて、家居もまばらに成行など聞こそ、かはりゆく世の習、飛鳥の川の淵瀬にはかぎらざりけめとおぼゆ。
ゆく人のとまらぬ里と成しよりあれのみまさる野路の篠原

鏡の宿に至りぬれば、昔七の翁の寄合つゝ、老をいとひて読ける歌の中に、「鏡山いざたちよりて見てゆかむ年へぬる身は老やしぬると」といへるは、此事にやとおぼえて、宿もからまほしけれども、猶おくざまにとふべき所ありて、うちすぐぬ。
たちよらでけふは過なん鏡山しらぬおきなのかげは見ずとも
行暮ぬれば、武佐寺といふ山寺のあたりに泊ぬ。まばらなる床のあたり、秋風夜更るまゝに身にしみて、彼遺愛寺の辺の草の寝覚も、かくや有けむと哀なるうちにも、行末遠き旅の空思ひつゞけられて、いといたう物がなし。
旅出て幾日もあらぬ今宵だに片舖わびぬ床の秋かぜ

この宿を出て、笠原の野原打通る程に、老蘇の森といふ杉村あり。下草深き朝霧の、霜にかはらむ行末も、はかなくうつる月日なれば、とをからずおぼゆ。
かはらじな我もとゆひにをく霜も名にし老蘇の杜の下くさ

音に聞し醒ケ井を見れば、蔭暗き木の下岩ねより流れ出る清水、あまり涼しきまですみわたりて、誠に身にしむばかりなり。余熱いまだつきざる程なれば、往来の旅人おほく立寄てすゞみあへり。斑捷予(どちらも女扁)が団雪の扇、岸風に代へてしばらく忘れぬれば、末遠き道なれども、立さらむ事は物うくて、さらにいそがれず。西行が、「道の辺の清水ながるゝ柳陰しばしとてこそ立とまりつれ」とよめるも、かやうの所にや。
道のべの木かげの清水むすぶとてしばしすゞまぬ旅人ぞなき
柏原と云所を立て、美濃国関山にもかかりぬ。谷川霧のそこにをとづれ、山風松の声に時雨わたりて、日影も見えぬ木の下道、哀に心ぼそく、越果ぬれば不破の関屋なり。板庇年へにけりと見ゆるにも、後京極摂政殿の、「荒にし後はたゞ秋の風」とよませ給へる歌、思出られて、この上は風情もまはりがたければ、いやしき言の葉を残さんも中/\覚て、爰をばむなしく打過ぬ。
株瀬川といふ所に泊りて、夜更る程に川ばたに立出てみれば、秋の最中の晴の空、清き川瀬にうつろひて、照月なみも数見ゆ計すみわたり、二千里の外の古人の心思ひやられて、旅の思ひいとゞをさへがたくおぼゆれば、月のかげに筆を染つゝ、「華洛を出て三日、株川に宿して一宵、しば/\幽吟を中秋三五夜の月にいたましめ、かつ/\″遠情を前途一千里の雲にをくる」など、ある家の障子に書つくる次面に、
知らざりき秋の半の今宵しもかゝる旅寝の月を見むとは

萱津の東宿の前を過れば、そこらの人あつまりて、里もひゞく計にのゝしりあへり、今日は市の日になんあたりたるぞといふなる。往来のたぐひ、手毎にむなしくからぬ家づとも、彼「見てのみや人にかたらん」とよめる、華の形見にはやうかはりておぼゆ。
花ならぬ色香も知らぬ市人のいたづらならでかへる家づと

尾張国熱田の宮に至りぬ。神垣のあたり近ければ、やがてまいりて拝み奉るに、木立年ふりたる杜の木の間より、夕日影たえ/\″さし入いぇ、あけの玉垣色をそへたるに、しめゆふに彼ゆふしで風にみだれたることがら、ものにふれて神さびたる中にも、ねぐらあらそふ鷺むらの数もしらず梢にきゐるさま、雪のつもれるやうに見えて、遠く白き物から、暮行まゝにしづまりゆく声も心すごく聞ゆ。有人のいはく、此宮は素盞鳴尊也。はじめ出雲国に宮作り有けり。「八雲立」といへる大和言の葉も、是よりぞはじまれる。其後景行天皇の御代に、この砌に跡をたれ給へりといへり。又いはく、この宮の本体は、草薙と号し奉る神剣也。景行の御子、日本武尊と申、夷をたいらげて帰り給ふ時、尊は白鳥と成て去給ふ。剣は熱田にとまり給ふといへり。
一条院の御時、大江匡衡と云博士有けり。長保の末にあたりて、当国の守にて下りたりけるに、大般若を書てこの宮にて供養をとげたりける願文に、「わが願すでに満ちぬ。任限又満ちたり。ふるさとへ帰らんとする期、いまだいくばくならず」と書たるこそ、あはれに心ぼそくきこゆれ。
思出もなくてや人の帰らまし法の形見を手向をかずは

此宮を立て浜路にをもむくほど、有明の月影更て、友なし千鳥時/\″をとづれわたり、旅の空のうれへ心に催して、哀方/\″ふかし。
ふるさとは日をへて遠くなるみ潟いそぐ塩干の道ぞすくなき

やがて夜の内に二村山にかゝりて、山中などを過るほどに、東やう/\しらみて、海の面はるかに顕れ渡れり。波も空も一にて、山路につゞきたるやうに見ゆ。
玉匣二村山のほの/\と明行すゑは波路なりけり

ゆき/\て三河国八橋のわたりを見れば、在原の業平が杜若の歌よみたりけるに、みな人かれいゐの上に涙おとしける所よと思出られて、そのあたりを見れども、かの草とおぼしき物はなくて、稲のみぞ多く見ゆる。
華故におちし涙のかたみとや稲葉の露を残しをくらむ

源の嘉種がこの国の守にて下ける時、とまりける女のもとにつかはしける歌に、「もろともにゆかぬ三河の八橋を恋しとのみや思ひわたらむ」と読りけるこそ、思ひ出られて哀なれ。
矢矧といふ所を立て、宮路山越え過るほどに、赤坂と云宿有。爰に有ける女ゆへに、大江定基が家を出けるもあはれ也。人の発心する道、其縁一にあらねども、あかぬ別れをおしみし迷ひの心をしもしるべにて、まことの道にをもむきけん、有難くおぼゆ。
別れ路に茂りも果で葛の葉のいかでかあらぬかたにかへりし

本野川原に打出たれば、よもの望みもかすかにして、山なく岡なし。秦甸の一千余里を見渡したらん心地して、草土ともに蒼茫たり。月の夜の望いかならんと床しくおぼゆ。茂れる笹原の中に、あまたふみ分たる道ありて、行末もまよひぬべきに、故武蔵の司、道のたよりの輩におほせて植へをかれたる柳も、いまだ陰とたのむまではなけれども、かつ/\″まづ道のしるべとなれるも哀也。もろこしの召公セキ(ショウコウセキ)は周の武王の弟也、成王の三公として、燕と云国をつかさどりき。晋の西の方を治めし時、ひとつの甘棠のもとをしめて政おこなふ時、つかさ人より始てもろ/\の民に至るまで、そのもとをうしなはず、あまねく又人のうれへをことはり、おもき罪をもなだめけり。国の民こぞりて其徳政を忍ぶ故に、召公去りにし跡までも、彼木をうやまひてあへて伐らず、歌をなんつくりけり。後三条天皇東宮にておはしけるに、学士実政任国にをもむく時、「州の民はたとひ甘棠の詠をなすとも、忘るゝ事なかれ。おほくの年の風月のあそび」といふ御製を給はせたりけるも、此心にやありけん、いみじくかたじけなし。彼前の司も、此召公の跡を追ひて人をはぐゝみ物を憐れむあまり、道のほとりの行末のかげまでも、思よりて植へをかれたる柳なれば、是を見ん輩、みなかの召公を忍びけん国の民のごとくにおしみめでて、行末の蔭とたのまん事、その本意は定てたがはじとこそおぼゆれ。
植へ置きし主なきあとの柳原なをその蔭をひとやたのまむ

豊川といふ宿の前を打過るに、あるもののいふを聞ば、この道は昔よりよくる方なかりしほどに、近き比より俄に渡ふ津の今道といふかたに旅人おほくかゝるあひだ、今はその宿は人の家居をさへほかにのみうつすなどぞいふなる。古きを捨て新敷につくならひ、定れる事といひながら、いかなるゆへならんとおぼつかなし。昔より住つきたる里人の、今さらゐうかれんこそ、かの伏見の里ならねども、荒れまくおしくおぼゆれ。
おぼつかないさ豊川のかはる瀬をいか成人のわたりそめけむ

参川、遠江のさかひに、高師山と聞ゆるあり。山中に越えかゝるほど、谷川の流れ落ちて、岩瀬の波こと/\しく聞ゆ、境川とぞいふなる。
岩つたひ駒うちわたす谷川の音もたかしの山に来にけり

橋本といふ所に行つきぬれば、聞渡りしかひ有て、景気いと心すごし。南には海潮あり、漁舟波にうかぶ。北には湖水あり、人家岸につらなれり。其間に洲崎遠く指出て、松きびしく生ひつゞき、嵐しきりにむせぶ。松のひゞき、波の音、いづれも聞きわきがたし。行人心をいたましめ、とまるたぐひ、夢を覚さずといふ事なし。湖に渡せる橋を浜名となづく。古き名所也。朝たつ雲の名残、いづくよりも心ぼそし。
行とまる旅寝はいつもかはらねどわきて浜名の橋ぞ過ぎうき

扨も此宿に一夜泊りたりしやどあり。軒古たる萱屋の所/\まばらなる隙より、月の影曇りなく指入たる折しも、君どもあまた見えし中に、すこしをとなびたるけはひにて、「夜もすがら床の下に晴天を見る」と、忍びやかに打詠たりしこそ、心にくくおぼえしか。
言の葉の深き情は軒端もる月のかつらの色に見えにき

なごりおほくおぼえながら、この宿をも打出て行過るほどに、舞沢の原といふ所に来きけり。北南は眇々と遥かにして、西は海の渚近し。錦華繍草のたぐひはいとも見えず、白きいさごのみありて雪の積るに似たり。其間に松たえ/\″生わたりて、汐風梢に音づるゝ。又あやしの草の庵の所/\に見ゆる、漁人釣客などの栖にや有らむ、末とをき野原なれば、つく/\″と詠行ほどに、打つれたる旅人のかたるをきけば、いつの比よりとは知らず、此原に木像の観音おはします。御堂など朽ち荒れにけるにや。かりそめなる草の庵のうちに雨露たまらず、年月を送るほどに、一とせ望む事ありて、鎌倉へ下る筑紫人ありけり。此観音の前に参りたりけるが、もし本意をとげて故郷へむかはば、御堂をつくるべきよし、心の中に申置たりけり。鎌倉にて望むことかなひけるによりて、御堂を作りけるより、人おほく参るなんとぞいふなる。聞あへずその御堂へ参りたれば、不断香のにほひ、風にさそはれてうちかほり、閼伽の花も露あざやか也。願書とおぼしきもの、斗帳の紐に結びつけたれば、「弘誓のふかき事海のごとし」といへるもたのもしくおぼえて、
たのもしな入江にたつるみをつくし深き験のあると聞にも

天流と名付たる渡りあり。川深く流れけはしきと見ゆる、秋の水みなぎり来りて、舟の去る事すみやかなれば、往来の旅人たやすくむかへの岸に着難し。この川増れる時は、舟などもをのづからくつ帰て、底のみくづとなるたぐひ多かりと聞くこそ、彼巫峡の水の流れ思ひよせられて、いと危うき心ちすれ。しかあれども、人の心にくらぶれば、しづかなる流ぞかしと思ふにも、たとふべきかたなきは、世にふるみちのけはしき習ひなり。
この川のはやき流れも世の中の人の心のたぐひとは見ず
遠江の国府今の浦に着ぬ。爰に宿かりて一日二日泊りたるほどに、蜒の小舟棹さして浦のありさま見めぐれば、塩海水うみの間より、洲崎とをく隔りて、南には極浦の波袖をうるほし、北には長松の風心をいたましむ。名残おほかりし橋本の宿にぞ似たる。昨日の目うつりなからずは、是も心とまらずしもはあらざらましなどおぼえて、
浪の音も松のあらしもいま浦にきのふの里の名残をぞ聞く
ことのまゝと聞ゆる社おはします。その御前を過ぐとて、いさゝか思ひつゞけられし。
ゆふだすきかけてぞたのむ今思ふことのまゝなる神のしるしを

小夜の中山は、古今集の歌に、「よこをりふせる」とよまれたれば、名高き名所とは聞置くたれども、見るにいよ/\心ぼそし。北は太山にて松杉嵐はげしく、南は野山にて秋の華露しげく、谷より峰にうつる白雲に分入心地して、鹿の音涙を催し、虫のうらみ哀ふかし。
ふみまよふ嶺のかけはしとだえして雲にあととふ小夜の中山

この山をも越えつゝ猶過行ほどに、菊川といふ所あり。去にし承久三年の秋の比、中御門中納言宗行と聞えし人、罪有て東へ下されけるに、此宿に泊りたりけるが、「昔は南陽県の菊水、下流を汲みて齢を延ぶ、今は東海道の菊川、西岸に宿して命を失ふ」と、ある家の障子に書かれたりけると聞置たれば、哀にて其家を尋ぬるに、火のために焼けて、彼言の葉も残らぬよし申ものあり。今は限りとて残し置きけむ形見さへ、あとなく成にけるこそ、はかなき世のならひ、いとゞあはれに悲しけれ。
書きつくるかたみも今はなかりけり跡は千年とたれかいひけむ

菊川を渡りて、いくほどなく一村の里あり。こまばとぞいふなる。この里の東のはてに、すこし打登るやうなる奥より大井川を見渡したれば、はる/\″と広き河原の中に、一筋ならず流れ分れたる川瀬ども、とかく入違ひたるやうにて、すながしといふ物をしたるに似たり。中/\渡りて見むよりも、よそめ面白おぼゆれば、彼紅葉みだれて流れけん竜田川ならねども、しばしやすらはる。
日数ふる旅のあはれは大井川わたらぬ水もふかき色かな

前嶋の宿を立て、岡辺の今宿うち過るほどに、片山の松の陰に立寄て、かれいゐなど取出たるに、嵐冷じく梢にひゞきわたりて、夏のまゝなる旅衣、うすき袂もさむくおぼゆ。
是ぞこのたのむ木のもと岡べなる松のあらしよ心して吹け

宇津の山を越ゆれば、蔦かづらはしげりて、昔の跡たえず。業平が修行者にことづてしけん程、いづくなるらむと見行く程に、道のほとりに札を立てたるを見れば、無縁の世捨人あるよしを書けり。道より近きあたりなれば、少たち入て見るに、わづかなる草の庵のうちに独の僧有。画像の阿弥陀仏をかけたてまつりて、浄土の法門などをかけり。その外に見ゆる物なし。発心のはじめ尋ねければ、「我身堪たるかたなければ、理を観ずるに心くらく、仏を念ずる性ものうし。難行易行の二道ともかけたりといへども、山中に眠れるは、里にありて勤めたるにまされるよし、ある人のをしへにつきて、この山に庵りをむすびつゝ、あまたの年月を送る」よしを答ふ。むかし叔斉が首陽の雲に入し、猶三春の蕨を採る、許由が潁水の月にすみし、をのずから一瓢の器ものをかけたりといへり。此庵のあたりには、ことさら煙立てたるよすがも見えず、柴折くぶるなぐさめまでも思ひたえたるさま也。身を孤山の嵐の底にやどし、心を浄域の雲の外にすませる、いはねどしるく見えて、中/\哀に心ぼそし。
世をいとふ心のおくやにごらましかゝる山辺の住居ならでは

この庵のあたり幾程遠からず、峠といふ所に至りて、大なる卒塔婆の年経にけると見ゆるに、歌どもあまた書付たる中に、「東路はこゝをせにせん宇津の山哀もふかし蔦の細道」とよめる、心とまりておぼゆれば、其かたはらに書付く。
われは又これをせにせん宇津の山わきて色有つたのした露

猶うち過るほどに、ある木陰に石を高くつみあげて、目に立さまなる塚あり。人に尋ぬれば、梶原が墓となむこたふ。道のかたはらの土と成けるとみゆるにも、顕基中納言のくちづけ給へりけん、年/\″に春の草にお生たりといへる詩、思ひ出られて、是亦古き塚となりなば、名だにもよも残らじとあはれ也。羊太傅が跡にはあらねども、心ある旅人は、爰にも涙をやをとすらん。かの梶原は、将軍二代の恩にほこり、武勇三略の名を得たり、かたはらに人なくぞ見えける。いかなる事か有けん、かたへの憤りふかくして、忽に身を亡すべきに成にければ、ひとまども延びんとや思けん、都の方へはせのぼりける程に、駿河国き川といふ所にてうたれにけりと聞しが、さは爰にて有けりと哀に思ひ合せらる。讃岐の法皇配所へ趣かせ給ひて後、志度といふ所にてかくれさせおはしましにける跡を、西行修行のつゐでに見まいらせて、「よしや君昔の玉の床にてもかゝらむ後は何にかはせん」と読りけるなど承るに、ましてしもざまのものの事は申に及ばねども、さしあたりて見るに、いとあはれにおぼゆ。
哀にも空にうかれし玉ぼこの道のべにしも名をとゞめける

清見が関も過うくてしばし休らへば、沖の石、むら/\塩干に顕て波にむせぶ。礒の塩屋、所/\に風にさそはれて煙なびきにけり。東路の思出とも成ぬべき渡り也。昔朱雀天皇の御時、将門といふ者、東にて謀反をこしける。是をたいらげんために、宇治民部卿忠文をつかはしける、此関に至りてとゞまりけるが、清原滋藤ともなひて、軍監といふ司にて行けるが、「漁舟の火の影は寒くして波を焼く、駅路の鈴の声はよる山を過ぐ」といふ唐の歌をながめければ、涙を民部卿流しけりと聞にもあはれなり。
清見潟関とはしらで行く人も心ばかりはとゞめをくらむ
此関遠からぬほどに、興津といふ浦有。海に向ひたる家にやどりて泊りたれば、礒辺によする波の音も、身の上にかゝるやうにおぼえて、夜もすがらいねられず。
清見潟礒べに近き旅枕かけぬ波にも袖はぬれけり
今宵は更にまどろむ間だになかりつる草の枕のまろぶしなれば、寝覚もなき暁の空に出ぬ。袖(くき:正しくは山扁)が崎といふなる荒礒の、岩のはざまを行過るほどに、沖津風はげしきに、うちよする波も隙なければ、急ぐ塩干の伝ひ道、かひなき心地して、干すまもなき袖の雫までは、かけても思はざりし旅の空ぞかしなど打詠られつゝ、いと心ぼそし。
沖津風けさあら礒の岩づたひ波わけごろもぬれ/\ぞ行

蒲原といふ宿の前を通るほどに、をくれたるもの待つけんとて、ある家にたち入たる、障子に物を書たるを見れば、「旅衣すそ野の庵のさむしろに積るもしるき富士の白雪」といふ歌也。心ありける旅人のしわざにや有らむ。昔香炉峰の麓に庵しむる陰士あり、冬の朝簾をあげて峰の雪を望みけり。いまは富士の山のあたりに宿かる行客あり。さゆる夜衣を片敷て山の雪を思へる、彼是もともに心すみておぼゆ。
さゆる夜はたれ爰にしも臥わびて高根の雪を思ひやりけむ

田籠の浦に打出て、富士の高嶺を見れば、時分ぬ雪なれども、なべていまだ白妙にはあらず、青くして天によれる姿、絵の山よりもこよなふ見ゆる。貞観十七年の冬の比、白衣の美女有て、二人山のいたゞきにならび舞と、都良香が富士の山記に書たる、いかなる故かとおぼつかなし。
富士のねの風にたゞよふ白雲を天津乙女の袖かとぞ見る

浮嶋が原はいづくよりもすぐれて見ゆ。北は富士の麓にて、西東へはる/\″とながき沼有。布を引けるがごとし。山のみどり影をひたして、空も水もひとつ也。芦刈小舟所/\に棹さして、むれたる鳥はおほく去来る。南は海のおもて遠く見わたされて、雲の波煙のなみいと深きながめ也。すべて孤嶋の眼に遮なし。はつかに遠帆の空につらなれるを望む。こなたかなたの眺望、いづれもとり/\″に心ぼそし。原には塩屋の煙たえ/\″立渡りて、浦風松の梢にむせぶ。此原昔は海の上にうかびて、蓬莱の三の嶋のごとくにありけるによりて、浮嶋が原となん名付たりと聞にも、をのづから神仙の栖にもやあるらむ、いとゞおくゆかしく見ゆ。
影ひたす沼の入江に富士のねのけぶりも雲も浮嶋が原

やがて此原につゞきて千本の松原といふあり。海のなぎさ遠からず、松はるかに生わたりて、緑の陰きはもなし。沖には舟ども行違ひて、木の葉の浮けるやうに見ゆ。彼「千株の松のもとの双峰寺、一葉の舟の万里身」と作れるにも、彼も是もはづれず、眺望いづくにもすぐれたり。
見渡せば千本の松の末とをみみどりにつゞく波の上かな

車返しと云里あり。ある家に宿かりたれば、網釣などいとなむ礒ものの栖にや、夜のやどり香ことにして、床のさむしろもかけるばかり也。彼縛戎人の夜半の旅寝も、かくやとおぼゆ。
是ぞこの釣する蜒の苫びさしいとふありがや袖にのこらむ

伊豆の国府に至りぬれば、三嶋の社のみしめうちおがみ奉るに、松の嵐木ぐらくをとづれて、庭のけしきも神さびわたり、此社は伊予の国三嶋大明神をうつし奉ると聞にも、能因入道、伊予守実綱が命によりて歌読て奉りてけるに、炎旱の天より雨にわかに降て、枯れたる稲葉もたちまちに緑にかへりけるあら人神の御名残なれば、ゆうだすきかけまくもかしこくおぼゆ。
せきかけし苗代水のながれ来て又あまくだる神ぞこの神 

かぎり有道なれば、此みぎりをも立出、猶行過るほどに、箱根山にも着きにけり。岩がね高く重て、駒もなづむばかり也。山の中に至りて、湖広くたゝへり。箱根の水海と名付、又芦の海といふもあり。権現垂迹のもといけだかくたふとし。朱楼紫殿の雲に重れる粧、唐家の驪山宮かとおどろかれ、巌室石龕の波に望めるかげ、銭塘の水心寺ともいひつべし。嬉しきたよりなれば、うき身の行衛しるべせさせ給へなど祈りて、法施たてまつるつゐでに、
今よりは思ひ乱れじ芦の海のふかきめぐみを神にまかせて

此山をも越え下りて、湯本といふ所にとまりたれば、太山颪はげしくうち時雨て、谷川みなぎりまさる。岩瀬の波高くむせび、暢臥房の夜の聞にも過たり。かの源氏の物語の歌に、「涙もよほす滝の音かな」といへる、思ひよせられてあはれなり。
それならぬ馮みはなきを故郷の夢路ゆるさぬ滝のをとかな

この宿をもたちて鎌倉に着く日の夕つかた、雨俄に降り、みのかさも取あへぬほどなり。急ぐ心にのみさそはれて、大礒、絵嶋、もろこしが原など、聞ゆる所/\を、見とゞむるひまもなくて打過ぬるこそ、心ならずおぼゆれ。暮かゝるほどに下り着きぬれば、なにがしのいりとかやいふ所に、あやしの賤が庵を借りてとゞまりぬ。前は道にむかひて門なし。行人征馬簾のもとに行違、後は山近くして窓に望む。鹿の音虫の声、垣のうへにいそがはし。旅店の都にことなる、やうかはりて心すごし。
かくしつゝ明し暮すほどに、つれ/\″も慰やとて、和賀江の築島、三浦のみさきなどいふ浦/\を行て見れば、海上の眺望哀を催して、来し方に名高く面白き所/\にもをとらずおぼゆる也。
さびしさは過こしかたの浦々もひとつながめの沖のつり舟
玉よする三浦がさきの波まより出たる月の影のさやけさ

抑鎌倉の初を申せば、故右大将家と聞えたまふは、水尾のみかどの九の世の末をたけき人にうけたり。去にし治承の末にあたりて、義兵を挙げて朝敵をなびかすより、恩賞しきりにくはゝりて、将軍のめしをえたり。営館をこの所に占め、仏神をその砌にあがめたてまつるよりこのかた、いま繁昌の地となれり。中にも鶴が岡の若宮は、松柏みどりいよ/\しげく、頻繁のそなへかくる事なし。陪従を定て四季の御神楽をこたらず、職掌に仰て八月の放生会ををこなはる。崇神のいつくしみ、本社にかはらずと聞ゆ。二階堂は殊にすぐれたる寺也。鳳の甍日にかゝやき、鴨の鐘霜にひゞき、楼台の荘厳よりはじめて、林池の麓に至るまで、ことに心とまりて見ゆ。大御堂と聞ゆるは、石巌のきびしきをきりて、道場のあらたなるを開しより、禅僧庵をならぶ、月をのづから祇宗の観をとぶらひ、行法坐を重ね、風とこしなへに金磬のひゞきをさそふ。しかのみならず、代ゝの将軍以下、作り添られたる松の社葎の寺、まち/\に是おほし。其中にも由井の浦といふ所に、阿弥陀仏の大仏をつくり奉るよしかたる人あり。やがていざなひてまいりたれば、たうとく有難し。事のをこり尋ぬるに、もとは遠江国の人、定光上人といふものあり。過にし延応の比より、関東の高き卑しきを勧めて、仏像をつくり堂舎をたてたり。その功すでに三が二にをよぶ。烏瑟高く顕れて半天の雲に入り、白毫あらたにみがきて満月の光をかゝやかす。仏は則両三年の功すみやかになり、堂は又十二楼のかまへたちまちに高し。彼東大寺の本尊は、聖武天皇の製作、金銅十丈余の盧舎那仏也。天竺震旦にもたぐひなき仏像とこそ聞ゆれ。此阿弥陀仏は八丈のたけなれば、彼大仏のなかばよりすゝめり。金銅木像のかはりめこそあれども、末代にとりては、是も不思議といひつべし。仏法東漸の砌にあたりて、権現力をくはふふるかと有難くおぼゆ。

かやうの事どもを見聞にも、心とまらずしもはなけれども、文にもくらく武にもかけて、つゐに住はつべきよすがもなき数ならぬ身なれば、日をふるまゝにたゞ都のみぞ恋しき。帰るべきほどと思ひしもむなしく過行て、秋より冬にも成ぬ。蘇武が漢を別し十九年の旅のうれへ、李陵が胡に入し三千里の道の思ひ、身に知らるゝ心地す。聞なれし虫の音も漸よはり果て、松吹峰の嵐のみぞいとゞはげしくなりまされる。懐土の心に催されて、つく/\″と都の方をながめやる折しも、一行の雁がね雲にきえ行も哀也。
帰るべき春をたのむの雁がねも啼てや旅の空に出でにし

かゝる程に、神無月の廿日余りの比、はからざるにとみの事有て、都へ帰べきに成ぬ。その心のうち水茎の跡もかき流しがたし。錦を着るさかへは、もとより望む所にあらねども、故郷に帰るよろこびは、朱買臣にあひ似たる心地す。
故郷へかへる山路の木がらしは思はぬ外のにしきをや着む

十月廿三日のあかつき、すでに鎌倉を立て都へをもむく。宿の障子に書つく。
なれぬれど都をいそぐ朝なればさすが名残のおしきやどかな 
 
北陸道

 

(ほくりくどう、ほくろくどう、くぬがのみち) 五畿七道の一つ。本州日本海側の中部の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から近世)を指す。
旧国名で言うところの、若狭、越前、加賀、能登、越中および越後を指す。「北陸道」の古訓は「クヌカノミチ」で「陸の道」の意である(『延喜民部式』)が、あくまで畿内から見たイメージに過ぎない。同じ日本海側の「山陰道」と地域間交流をしており、遺跡や遺物にその痕跡が残っている。
畿内から北に伸びて、本州日本海側の北東部を総めた行政区画であった。
若狭国(中国・近国、現在の福井県南部) = 遠敷郡(小丹生) > 大飯郡 > 三方郡
越前国(大国・中国、現在の福井県北部) = 敦賀郡(角鹿) > 丹生郡 > 今立郡 > 足羽郡 > 大野郡 > 坂井郡
加賀国(上国・中国、現在の石川県南部) = 江沼郡(四沼) > 能美郡 > 石川郡 > 加賀郡(香々、賀加)
能登国(中国・中国、現在の石川県北部) = 羽咋郡 > 能登郡 > 鳳至郡 > 珠洲郡
越中国(上国・中国、現在の富山県) = 砺波郡(利浪、利波) > 射水郡 > 婦負郡 > 新川郡(新河)
越後国(上国・遠国、現在の新潟県本州部分) = 頸城郡(久疋) > 三島郡 > 魚沼郡 > 古志郡 > 蒲原郡 > 磐舩郡(石船、磐船) > 沼垂郡 > 出羽郡(和銅5年(712年)出羽国昇格・東山道移遷)
佐渡国(中国・遠国、現在の新潟県佐渡市) = 羽茂郡 > 雑太郡(雑多) > 賀茂郡(賀母) 
道としての北陸道
古代の北陸地方が「越国」という地方王国を形成した歴史や、畿内から北に伸びる路線である事から、「越路」「北国街道」「北国路」「北陸街道」とも呼ばれた。
律令時代
律令時代の道路としての北陸道は、畿内と日本海側中部を結ぶ路線であった。令制国の国府を結ぶ官道であり、小路とされた。奈良・京都から琵琶湖西岸を通り越前へと抜けるルート(西近江路参照)であった。7世紀半ばに、新潟市街地の一角である沼垂の辺りに渟足柵が築かれると、渟足柵が北陸道の北限となった。後に延伸されて、鼠ヶ関が北限となった。  
古代北陸道
山城国 (1駅) = 宇治郡山科駅 廃止 <804年>
近江国 (4駅) = 志賀郡穴太駅 5疋 > 志賀郡和邇駅 7疋 > 高島郡三尾駅 7疋 <若狭・越前方面に分岐> > 高島郡鞆結駅 9疋 
若狭国(2駅) = 遠敷郡濃飯駅 5疋 > 三方郡弥美駅 5疋
越前国(8駅) = 敦賀郡松原駅 8疋 <若狭路と合流> > 敦賀郡鹿蒜駅 5疋 > 今立郡淑羅駅 5疋 > 丹生郡丹生駅 5疋 > 今立郡阿味駅 5疋 > 丹生郡朝津駅 5疋 > 足羽郡足羽駅 5疋 > 坂井郡三尾駅 5疋
加賀国(7駅) = 江沼郡朝倉駅 5疋 > 江沼郡潮津駅 5疋 > 能美郡安宅駅 5疋 > 能美郡比楽駅 5疋 > 加賀郡田上駅 5疋 > 加賀郡深見駅 5疋 <能登・越中方面に分岐> > 加賀郡横山駅 5疋 <能登路>
能登国(2駅、廃駅5駅) = 羽咋郡撰才駅 5疋 > 能登郡越蘇駅 5疋 > 能登郡穴水駅 廃止 <808年> > 鳳至郡三井駅 廃止 <808年> > 鳳至郡大市駅 廃止 <808年> > 鳳至郡待野駅 廃止 <808年> > 鳳至郡珠洲駅 廃止 <808年>
越中国(8駅) = 礪波郡坂本駅 5疋 > 礪波郡川合駅 5疋 > 射水郡曰理駅 5疋 > 射水郡白城駅 5疋 > 新川郡磐瀬駅 5疋 > 新川郡水橋駅 5疋 > 新川郡布勢駅 5疋 > 新川郡佐味駅 8疋 >
越後国(9駅) = 頸城郡滄海駅 8疋 > 頸城郡鶉石駅 5疋 > 頸城郡名立駅 5疋 > 頸城郡水門駅 5疋 > 頸城郡佐味駅 5疋 > 三嶋郡三島駅 5疋 > 三嶋郡多太駅 5疋 > 古志郡大家駅 5疋 > 蒲原郡伊神駅 2疋 > 蒲原郡渡戸駅 2艘 <佐渡路>
佐渡国(3駅) = 羽茂郡松崎駅 5疋 > 羽茂郡三川駅 5疋 > 雑太郡雑太駅 5疋
10世紀初頭になると、造船、操船技術が発達を見たことから、物資運搬の難所となる山岳区間を避け、琵琶湖や敦賀から日本海沿岸に向けた航路も併用されるようになった。
 
古代東山道と神坂

 

1.東山道とは
東山道 東山道は古代の五畿七道の一つであり、その範囲に敷設された官道の名称でもある。
「東山道」は、彦狭嶋王を東山道の十五国の都督に拝したという『日本書紀』の記事(景行天皇55年2月壬辰条)が史料上の初見である。大場磐雄氏はこの十五国について「東方諸国を示す語として用いられたもので、古道そのものを意味してはいない」と述べている。実際に、現在でも個別の国名を当てはめるのは難しい(注1)。『日本書紀』天武天皇14年7月辛未条の詔は「東山道は美濃より以東」と記載されている。令制施行と同時期に範囲が確定したとされ(注2)、『延喜式』民部省式上巻では近江、美濃、飛騨、信濃、上野、下野、陸奥、出羽の八国を東山道としている(図1)。蝦夷征伐の為に軍士の簡閲や戎具の検校が行われ(延暦5(786)年8月甲子条)、東国支配の中心地域であった。
神坂峠は信濃国伊那郡(現在の長野県下伊那郡阿智村。岐阜県中津川市と境を接す)にあり、東山道に属する。しかしながら、吉蘇路の開通を記した『続日本紀』和銅7年7月戊辰条には「美濃信濃二国之堺、径道険隘、往還艱難」とあり、神坂峠越えが容易ではなかったことが記録されている。『延喜式』兵部省式駅伝条によると信濃国阿知の駅馬は30疋であり、三関である伊勢国鈴鹿の駅馬は20疋である。また『延喜式』民部省式免除徭役条では美濃国の坂本・土岐・大井駅と、信濃国の阿知(写本によっては「阿智」)の駅子の課役が免じられている。坂の傾斜が急な為に、関並に駅馬を配置し、課役を免じて駅の仕事の従事に専念させていた。 
2.古代交通に関する研究と発掘調査の意義
古代の交通については文献史学、歴史地理学、考古学から研究されている。文献史学では坂本太郎氏以降、駅伝制の解明が中心とされてきた。六国史は地域内での生活についてはほとんど記述されない。ゆえに『日本霊異記』の地域間交通を扱った説話と出土文字資料(木簡、漆紙文書)の研究成果、さらに遺跡・遺物の分析結果を合わせる形で「民間交通」の実態が明らかにされている。また歴史地理学では諸地域の道路遺構から景観復元を行い、古代駅路は計画的に敷設された為に直線であった事を実証し続けている。ゆえに文献史学や歴史地理学による古代交通研究は考古学の調査成果に依存するしかないというのが現状である。
例えば、記紀で「科野坂」あるいは「信濃坂」と書かれているのが神坂峠であることを明らかにしたのは大場磐雄氏である。大場氏は推定古道地域を調査し、そのデータを総合的に考える事で古道を確証していった。神坂峠は大場氏を中心として昭和26(1951)年に調査された。その際に祭祀遺物が出土した事により奈良時代に「径道険隘、往還艱難」とされた美濃・信濃国境の位置が確定した。さらに信濃坂の状況が明らかになった事で、古代東山道の具体的な研究が可能となったのである。 
3.文献史学から推定される「神坂」と神坂峠の祭祀遺跡
「神坂峠」と現在は呼んでいるが、「峠」の語は奈良時代まで使用されておらず、「坂」が使われていた。これは用語上の問題に過ぎず、奈良時代以前−令制施行以前−にも自然地形を利用した峠は使われている。例えば、現在の神坂峠に比定されている信濃坂は日本武尊が東方征討の際に越えたと記紀に記載されている。
峠や国郡の境界等には神が鎮座するという信仰があったことは『万葉集』所収の歌や、境界部にあたる地域から祭祀遺物が出土している点からも明らかである。大場氏は4世紀の後半にはそのような風習があった事を神坂峠の調査から指摘した。
また、鈴木景二氏は文献史料を基とし、郡域を越えた民間レベルの交通を指摘している。すなわち、旧国郡域を越えていく峠のうち、主要ルートは「オオサカ」「ミサカ」の地名を冠していたこと。そのうち「ミサカ」は神が鎮座する、神を祀るところを示す呼称として使われていたこと。信濃国境で「ミサカ」を冠する峠は4つあるが、そのうち東山道ルート上の峠は2つで、近江国との比較から−近江国は主要ルートの中でも特に重要な地の呼称である「オオサカ」と共に「ミサカ」が官道上にある−信濃国の「ミサカ」は律令制を主体とした呼称ではなく、地域を主体とした呼称であることを述べている(注3)。
大場磐雄氏と椙山林継氏が中心となって昭和43(1968)年および44(1969)年に行なった神坂峠・入山峠の発掘調査の成果(注4)を再検討し、峠の祭祀について平成14(2002)年9月に講演の中で椙山氏が指摘した事例は、
(1) 物から神坂峠・入山峠で祭祀が行われているのは明らか。
(2) で行われている祭祀は他に類例が無いこと。
(3) 濃国の人達によって祭祀が行われていたこと。
の以上3点であった(注5)。
鈴木氏は歴史地理学の成果を日本古代史研究に用いることで、神が鎮座し、神を祀る「神の坂」−「ミサカ」−が地域を主体としたものであるとしたが、それより約30年前に大場氏らの調査はこの仮説について示唆している。
境界領域の祭祀については武蔵国府跡の西北の隅の祭祀遺構が発見される等、文献上に記されない日本古代の信仰のかたちが近年を明らかになっている。
従来、峠への信仰は『万葉集』や六国史等の文献を中心に論じられることが多かった。神坂・入山峠出土の祭祀遺物は祭祀を生活の一部としていた実態を示しており、他に類例がみられないことから、東国の入口である信濃国に特有の境界祭祀であると考えられる。総合的な古代交通の研究を進めていく上で神坂・入山峠遺跡の意義は大きく、今後再評価が求められるであろう。 

1) 場磐雄 1969 「古東山道の考古学的考察」『國學院大學大学院紀要』第1輯。以下、大場氏の論は本書による。
2) 蔵国が宝亀2(771)年10月己卯に東山道から東海道に移管される(『続日本紀』)等の変更はある。その変遷については木本雅康 1996 「東山道−山坂を越えて−」木下良編『古代を考える 古代道路』吉川弘文館を参照のこと。
3) 木景二 1998 「古代交通の諸相」『古代交通研究』8、八木書店
4) 関根信夫 2001 「椙山林継氏写真資料−神坂峠・入山峠について−」『平成13年度 國學院大學学術フロンティア構想「劣化画像の再生活用と資料化に関する基礎的研究」事業報告』國學院大學学術フロンティア事業実行委員会、参照。
5) 本報告書所収 椙山林継氏講演「峠の祭祀 −神坂−」。(1)・(2)は調査当時から提示されており、(3)は講演時に椙山氏が指摘している。 
 
東山道武蔵路1

 

古代の地理的行政区分として、畿内五国に、東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の五畿七道がありました。また七道は地域呼称であると同時に、都から地方にのびる道路の名称でもあったのです。このような行政区は天武朝(672〜686)頃に成立したと考えられているようで、当時の都は飛鳥浄御原宮です。それに先だった斉明朝から天智朝にかけて伝馬制や駅制が始まっていて、天智朝には「国」の設定や庚午年籍(初めての全国的な戸籍)の作成など国家としての支配体制が整いつつありました。
東山道は都から東の山間部の行政区とその官道をいいます。平安時代の『延喜式』によると、東山道に属する国は、近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽の八カ国ですが、それ以前には幾多の変遷があったと思われています。
武蔵国は『延喜式』では東海道に属していますが、奈良時代の宝亀2年(771)に東山道から東海道に所属替えされたことが、『続日本紀』の記事で確認させています。武蔵国が奈良時代の末期以前には東山道に属していたことから、武蔵国は東山道経由で都と繋がれていたわけなのです。その時代の官道(駅路)が東山道の本路からどのような経路で武蔵国府へ繋いでいたかが、これまで論議されてきました。この東山道時代の武蔵国の駅路を当時はどのように呼ばれていたかはわかりませんが、現在では「東山道武蔵路」と一般的に呼ばれています。
では、その東山道武蔵路が武蔵国のどこをどのように通っていたのか、これまでの研究等でわかっている道筋を資料を基に簡単にまとめてみましょう。(東山道武蔵路のルートはこれまで多くの諸説があり、どの説が確実であるというのは現在の時点では決定づけることはできません。しかし近年の考古学資料から徐々にその道筋が明らかになりはじめています。) 
 
               宝亀2年(771)以前の東国の駅路 (地図1) 
『続日本紀』宝亀2年(771)10月已卯(27日)条
「太政官奏すらく、武蔵国は山道に属すと雖も兼ねて海道を承け、公使繁多にして祗共堪へ難し。其の東山の駅路は上野国新田駅より下野国足利駅に達せり。此れ便道なり。而るに枉げて上野国邑楽郡より五ヶ駅を経て武蔵国に到り、事畢りて去る日、また同道を取りて下野国に向ふ。いま東海道は相模国夷参駅より下総国に達せり。其の間四駅にして往還便近し。而るに此を去り彼に就くことを損害極めて多し。臣ら商量するに、東山道を改めて東海道に属せば、公私ところを得て、人馬息ふこと在らん、と。奏可す。」
以上は宝亀2年に武蔵国が東山道から東海道に所属替えされれる理由を記事した文で、内容を簡単に記せば、武蔵国は東山道に属しているが、同時に東海道の交通も受け持っていて、使者の往来も多い。東海道は、相模国夷参駅から四駅で下総国に達していて近く便利であり、武蔵国を東山道から東海道に所属を替えれば、公私共々、人も馬も負担が軽減される。というものです。
また上記に先立った次のような記事があります。
『続日本紀』神護景雲2年(768)3月乙巳朔条
「また、下総国井上・浮島・河曲の三駅、武蔵国乗潴・豊島の二駅は、山海両路を承けて、使命繁多なり。乞う、中路に准じて、馬十疋を置かんと。勅を奉るに、奏に依れ。」
下総国の井上・浮島・河曲の3駅と武蔵国乗潴・豊島の2駅は、東山道と東海道の連絡路で使者の通行も多い。支路として駅馬5匹を置いているが、中路なみに10匹の駅馬を配備したい、という申し出です。
上記の二つの『続日本紀』の記事から東山道武蔵路の経路について、今までいろいろな論争がなされてきたようです。中でも次の二つの問題が論争の焦点となっていたようです。
まず一つは、宝亀2年の記事の「上野国邑楽郡より五ヶ駅を経て武蔵国に到り」で、そこでいう「五ヶ駅」を固有の駅名と考えるか、或いは駅数と解釈するかという問題でした。実際に邑楽郡には「五箇」という地名が幾つか存在し、その土地に五ヶ駅があったとする説があります。
しかし、「五箇」の地名は同地方に多い空閑地をいう「ごかん」にちなむものという解釈があり、また、五ヶ駅が邑楽郡にあったとすれば、「邑楽郡五ヶ駅より」となり、「邑楽郡より」とすれば邑楽郡家よりという意味になり、よって邑楽郡には固有の五ヶ駅はなかったとする考え方です。これらのことから、五ヶ駅は駅名ではなく駅数という見方が定着しつつあるようです。 
 
               『延喜式』による東国の駅路 (地図2) 
二つ目の問題として宝亀2年の五ヶ駅が駅数だとすれば、その五駅が神護景雲2年の記事の五駅(下総国井上・浮島・河曲・武蔵国乗潴・豊島)と同じものを指すかどうかということでした。
下総国井上・浮島・河曲駅は『延喜式』にも存在し、井上駅では駅馬を10匹、浮島・河曲駅は5匹ずつ置いているので、同一路線上で駅馬数が違うのは不自然で、『延喜式』当時の浮島・河曲駅は下総国府付近で東海道本道から分かれて上総国府へ向かう東海道の支道であったとする考があります。そのことから下総国の井上・浮島・河曲駅は上の地図の位置にあったと見られ、東山道本道から武蔵国府へのルートとしては大きく離れてしまい下総国経由の東山道武蔵路のルートの可能性は低いものと今では考えられているようです。よって、宝亀2年の駅数と見る五ヶ駅は、神護景雲2年の記事の五駅とは異なるものと考えられるようになってきています。
様々な東山道武蔵路の想定ルートが考えられていた以前に対して、現在では考古学による所沢市の東の上遺跡や国分寺市の古代道の遺構が発見され、上の地図のような古代道のルートが現在では定着しつつあるようです。
東山道武蔵路については上野国の新田駅付近から本道と分かれて邑楽郡を通り武蔵国に入ります。そして五つの駅家を経て武蔵国府に到り、再び同ルートを北上して下野国足利駅で東山道の本道に合流したものと考えられるようになってきています。上野国新田駅より武蔵国府中までこの間の距離約80キロメートルで、武蔵国府の付近に一駅を置いて駅間距離(約16キロメートル)で4駅を配置してみると(地図1)のようになります。
 
東山道武蔵路2  
(とうさんどうむさしみち) 古代に造られた官道の一つ。当初東山道の本道の一部として開通し、のちに支路となった道であり、上野国・下野国から武蔵国を南北方向に通って武蔵国の国府に至る幅12m程の直線道路であった。途中に駅が5つあったと考えられているが、その名称・位置については不明である。
設置
7世紀に律令制が確立されるとそれに伴って行政区画の整備も行われ、いわゆる「五畿七道」が設置された。この制度により畿内以外の国々はそれぞれ所定の「道」に属し、同時にそれらの国の国府を結ぶ同名の官道が建設されることになった。
この際、武蔵国は相模国に東接する海沿いの国ではあったが、近江国を起点に美濃国、飛騨国、信濃国、上野国、下野国、陸奥国(当時はまだ出羽国はなかった)と本州の内陸国が属する東山道に属することになった。このため、道としての東山道にもこれらの国々から大きく外れたところにある武蔵国の国府を結ぶ必要が生じた。
普通官道は地理的制約から特定の国の国府を通れない場合、支道を出して対処するのが定石であり(例:東海道の甲斐国・山陽道の美作国)、武蔵国の場合も上野国府と下野国府との間で本道を曲げて、上野国邑楽郡から5駅を経て武蔵国府に至るルートが設置された。
その結果、上野国府〜新田駅(上野国)〜武蔵国府〜足利駅(下野国)〜下野国府というルートが採用されることになり、新田駅〜足利駅間は直進ではなく南北にわたってY字形に突き出る格好となった。この突き出した部分が東山道武蔵路である。
支道化と間道への降格
当時は東山道の一部として管理されていた武蔵路ではあったが、一方で朝廷の官吏使節(東山道使)は上野国邑楽郡から5駅を経て武蔵国府(東京都府中市)へ至り公務を終えて下野国に移動する際は再び来た道を引き返して下野国府(栃木県栃木市)へ向かうという非効率な旅程を組むこととなり、人馬の安息のためにも、元来の東山道の経路であった新田駅と足利駅とを直接結ぶ道を東山道官道とし、武蔵国を元来の東海道に戻す太政官奏上がなされ、光仁天皇がこれを許可したことにより、武蔵国は東山道から東海道に転属することとなった。この旨は、『続日本紀』宝亀2年10月27日(771年12月7日)条で以下のように記録されている。
太政官奏。武藏國雖属山道。兼承海道。公使繁多。祗供難堪。其東山驛路。從上野國新田驛。達下野國足利驛。此便道也。而枉從上野國邑樂郡。經五ケ驛。到武藏國。事畢去日。又取同道。向下野國。今東海道者。從相模國夷參驛。達下総國。其間四驛。往還便近。而去此就彼損害極多。臣等商量。改東山道。属東海道。公私得所。人馬有息。奏可。
つまり、「太政官は以下のように奏上した。武蔵国は今は東山道に属するが東海道も兼ねるため公使がたくさん行き交い、供応が非常に難しい状況にあります。東山駅路は上野国新田駅(群馬県太田市)から下野国足利駅(栃木県足利市)に達しており、この道は非常に便利です。しかしながら、公使はこの便利な道を使えず、上野国邑楽郡から5駅を経て武蔵国に至り、退去する際には同じ道を戻って下野国に向かうという旅程を取っています。一方、今の東海道は相模国夷参駅(神奈川県座間市)から4駅を経て下総国へ至っており、この道はたいへん便利なものです。にもかかわらず、此の便利な道を捨てて彼の不便な道を取るのは損害が極めて多くなります。私どもで量った結果、東山道を改めて東海道に属させれば、公私得する所となり、人馬も安息できます。(光仁天皇は)奏上を許可した」となっている。
これによって武蔵国は東山道から東海道へ移管となり、東海道も相模国から海路で上総国に向かうルートから武蔵国の沿岸を通るルートに変更されて国府への支道もつくことになった。同時に東山道武蔵路は官道から外れ、間道に降格されることになったのであった。
降格以後
武蔵路は降格以後も朝廷の管理を外れただけでそのまま維持され、武蔵国から東山道への間道として旅行者に利用された。天長10年(833年)には、武蔵路の通過する途中の多摩郡と入間郡の間に国府によって旅行者の救護施設・悲田処が開設されており、交通が衰えていなかったことを物語っている。
一方、新編武蔵風土記稿の榛沢郡の記述によると、東山道に属した頃の武蔵国榛沢郡は官道にあり街道が通っていたため繁栄したが、(宝亀2年(771年)に)武蔵国が東海道に移るとともに人が減り僻遠の地となった、とある。
按上古當國東山道ニ屬セシ頃ハ、官道ニテ、當郡モソノ街道ニカヽレバ、繁榮セシ地ナルベケレド、是ハ尤古代ノ事ナリ、東海道當國ニ移リテ後ハ、人跡モスクナク、次第ニ僻遠ノ地トナレリ
また、律令制の衰えとともに道路の整備も行き届かなくなり、次第に道としての機能を果たさなくなった。最終的な廃道の時期は不明であるが、発掘調査によると11世紀頃までは道として使用されていたことが分かっているため、平安時代末期には完全に廃道となったとみられている。
なお中世には、かつての東山道武蔵路と並行するような形で鎌倉街道上道が主要な道路として利用されたが、多くは近世以降に廃道になった。
遺構の確認地
現在、武蔵路として確実な遺構は南部を中心に集中的に見つかっている。北部ではあまり遺構が見つかっておらず、周辺遺跡を参考にルートを推定するに留まっている。
東京都
武蔵国分寺跡付近(国分寺市)旧国鉄中央鉄道学園跡地遺構(国分寺市泉町2丁目) / 官道遺構が大規模に発見された全国でも稀な遺跡で、東京都指定史跡。一部分、保存措置が取られている。
上水本町遺構(小平市上水本町)
原島農園遺構(小平市小川2丁目)
小川団地遺構(小平市小川東町2丁目)
野口橋遺構(東村山市本町1丁目)
土方医院遺構(東村山市本町2丁目)
八国山遺構(東村山市諏訪町2丁目)
以上6ヶ所は旧国鉄中央鉄道学園跡地遺構と東の上遺跡を結んだ線上を調査して得た遺構。
埼玉県
東の上遺跡(所沢市久米) / 武蔵路の遺跡としては最初に見つかったもの。国府から北に直線に上がったところにあたるため、発掘当時から武蔵路の跡と目されていた。その後の更なる発掘調査の結果、周囲に多数の建物の跡や各地の土器、馬具等も出土している為、駅跡の可能性も注目されている。
柳野遺跡(所沢市下富) / 上記の東の上遺跡の延長上から推定して発掘調査した結果、平成24年3月に同じ構造の遺構が見つかっている。
八幡前・若宮遺跡(川越市的場) / 「驛長」の墨書土器が出土し、こちらも駅跡の可能性が高いとして注目されている。
女堀遺跡(川越市的場) / 現在確実に武蔵路の遺構として考えられている最北の遺跡。
西吉見条里遺跡(比企郡吉見町南吉見) / 2001年(平成13年)度の発掘で官道級の幅員を持つ古代道路跡が発見され、その後も道路跡の延長上の遺跡で同様の発見があった。武蔵路の遺構との推測がなされているが、向きが北東に傾いているため、郡衙同士の連絡道、または常陸国へ通じる間道という説もあって確定していない。 
 
東山道武蔵路3  
埼玉県北部と群馬県のルート
東山道武蔵路のルートとして、東京都府中市から埼玉県川越市までは発掘調査や「古代交通研究会」の多角的な調査により、ほぼその推定ルートが固まりつつあるようです。しかし、川越市以北から利根川を渡るまでの間は推定ルートの調査はあまり進んでいないもようです。中でも坂戸市から熊谷市までのルートは、専門の研究者の方々にも国道407号線と並行するようなルートとしか想定されていないようです。
かっては東山道武蔵路のルートは研究者によって様々に考えられていたようです。下総国を廻っていた説や、古利根川沿いを通る説や、大宮に駅家が想定され大宮を通った説などがあったようです。また『続日本紀』の宝亀2年の五ヶ駅を群馬県邑楽郡千代田町の地名の五箇駅として解釈しそこを通ったとする説などもありました。
現在では古代駅路は幅12メートル前後の直線道路という特徴がわかってきています。そして木下良氏を中心として「古代交通研究会」の調査結果が一般的に知られています。東山道武蔵路については木本雅康氏の研究による想定ルートが注目されていて、その想定ルートは「東京都内のルート」と「埼玉県南部のルート」として私も参考にさせてもらっていました。そして埼玉県北部と群馬県のルートもほぼ木本雅康氏の想定ルートを参考に説明させて頂きます。
吉見町で発掘された古代道
そんな最中(2002年2月20日)で朝日新聞の西埼玉版覧に「古代の官道と橋脚跡 吉見で出土 多彩な土木技術」という見出しが載っているのを見ました。そして24日に遺跡の現地説明会が行われ見学して参りました。その遺跡の発見された位置は以外にも木本氏の想定ルートよりも東寄りで、更に方向性も北北東を目指しているようです。その方向を延長すると熊谷へは出ず行田へ向かうようです。
吉見町で発見された古代官道と思われる遺跡は以外にも低湿地帯を通っています。古代官道の遺跡としても低湿地帯は類例が少なく。研究者の間でも注目されているようです。ただ、従来想定されていた所沢市から坂戸市までのルートがほぼ直線でトレースできるの対して、今回発見された吉見町の遺跡にそれを繋げるとなるとどこかで方位の変更が必要になりそうです。
坂戸市から熊谷市までの東山道武蔵路のルートは、国道407号線に並行するように通っていたと考えられています。しかし、その詳細はわかっていません。上の地図は作者が資料を基におおまかに描いたものです。点線であることは実際のルートではなく、このようなルートが考えられるという程度のものです。作者の素人的想像で描いたもので、古代の史跡を繋いでみたり、中世の鎌倉街道を参考にしたものです。
それに対して細かい点線は研究者が実際に指摘しているルートですが実証できるまでには至っていないようです。下の群馬県側の地図で実線で描いているところは発掘調査などで道路遺構が検出され、ほぼ推定ラインとして考えることができる東山道の本路ルートです。
東松山市周辺の古代史跡
東山道武蔵路の所沢市から川越市の想定ラインを北へ延ばすと国道407号線沿いを東松山市、大里村、熊谷市、妻沼町そして利根川を渡り群馬県太田市へと向かうことになりそうです。
そのライン上の古代の史跡としては、東松山市下野本にある将軍塚古墳があり、全長115メートル及ぶ県内有数の大きさを誇る前方後円墳です。そして、その北には有名な吉見百穴があり、更に北に向かうと七世後半頃のものと思われる大谷瓦窯跡や大里村の6世紀後半の築造と考えられている前方後円墳のとうかん山古墳などが見られます。
このように国道407号線沿いには古墳時代から奈良時代の史跡が見られ、この付近の比企丘陵は古代から人々の交流が多かったところと考えられそうです。
熊谷市の直線道
木本雅康氏によると熊谷市街以北に直線的な現在道が存在し、そのライン上に群馬県歴史の道調査で指摘されている「植木」の小字名が存在していて、更に「御霊の渡し」と呼ばれる旧荒川の渡河点なども見られ、この直線道が東山道武蔵路を踏襲した道ではないかと想定されています。
奈良神社
奈良神社は幡羅郡の式内社で、名前から奈良の都との何らかの関係があると思われています。奈良神社の神威として次のような云われがあります。
「奥州で蝦夷の反乱があったので、これを征討するために奈良神社の神霊を奉じて出兵し、転戦しつつ進んだが、向かうところ敵なしの状態で年老いた者や体の弱い者も同行したがご祭神のおかげで、全員無事であった」
奈良神社が想定東山道に近接することは注目されると木本氏はいい、東山・東海道の連絡路としての機能をもった武蔵路は、蝦夷征討と密接な係わりがあるものとしています。
横塚山古墳
奈良神社近くの国道407号線(妻沼バイパス)の道路端に横塚山古墳という前方後円墳があります。五世紀末頃に造られたと考えられていて、周構内から埴輪が出土しているそうです。この古墳の周辺は水田になっていて他の古墳は見られませんが、付近からは埴輪片や土器片が採集されていて、かっては古墳群があったと考えられています。この古墳と奈良神社は何か関連したものがあるのかも知れません。
利根川の渡河点
東山道武蔵路は利根川をどの辺りで渡河していたのか、現在では妻沼町の刀水橋付近を想定していいる説が有力視されています。この橋の付近は近世には「古戸の渡し」と呼ばれれる渡し場があったといいます。古戸は「古渡」で近世には既に古い渡しであったことを意味するそうです。また、源義家が奥州征討のさいに、この付近を渡河したという伝承があり、『源平盛衰記』に出てくる「長井の渡」もこの付近に考えられているようです。上野の新田駅から古戸を渡って武蔵国府に向かった駅使は再び古戸を渡りその後足利へ向かうことになるのです。
刀水橋の南の妻沼町には、かって妻沼と男沼という二つの沼があったそうです。その間には「台」と称する微高地が伸びていて、台の集落付近が武蔵国府から数えて五番目の駅家があったと想定されているようです。
妻沼町の字境の道
妻沼町の台と妻沼の大字境に直線的な現在道が存在しています。この道を南に延ばせば奈良神社近くを通り熊谷市街へと向い、北は利根川の自然堤防沿いに源頼朝が那須に巡行するさいに祀ったと伝える八幡神社があります。木本氏はこの大字境の道が東山道武蔵路を踏襲した道と考えられていて、この道沿いに白山神社(両方の御旅所)があり南面していて、更にその神社から東の妻沼に白髪神社(女体社)があり西面していています。その反対の西の男沼に神明神社(男体社)が南面してありますが、この神社は以前は東面していたといいます。この三つの神社の配置から大字境の道は重要な意味を持っていたものと木本氏は説明しています。
利根川に架かる刀水橋の群馬県側は西に石田川が北西から流れ込み、東には小河川が北東から流れ込んでいて、ちょうど逆三角形のように張り出した台地になっています。この台地の先端が群馬県側の渡河点と考えられています。その逆三角に突き出た台地の中央を北に延びる道が存在します。その道は太田市と大泉町の境になっていて、この道が東山道武蔵路ではないかと考えられているようです。
足利への道
太田市と大泉町の境の道はその先で北東方向に向きを変えます。この北東方向の道が東山道の足利駅へと向かう道と見られているようです。この道は途中に大泉町古氷を通過しますが、大泉町古氷は邑楽郡家があったところと想定されていて土師器片や須恵器片が濃密に分布しているそうです。また古氷には長良神社があり『上野国神明帳』邑楽郡の正一位長良神社に比定されています。
この道は大泉町古氷までしか現在していませんが、この道の延長ライン上に近接して太田市竜舞の賀茂神社が存在し、この神社は『上野国神明帳』山田郡の従三位加茂明神に比定されています。
そしてこの道の延長ラインは足利市の国府野遺跡に達しています。国府野遺跡は足利郡家の可能性が高いと考えられている遺跡です。また遺跡の付近には東山道足利駅があったことも想定されているようです。
古戸から新田への道
一方利根川を渡河した後に新田駅方面に向かう東山道武蔵路は以前から群馬県教育委員会の歴史の道調査で確認されている明瞭な道路痕跡があります。その道路痕跡は太田市と大泉町の境の道が北東方向に折れる付近に接続していたものと考えられています。
太田市の下浜田町には古戸から新田駅方面に向かう斜めの現在道が存在しています。この下浜田の微高地の斜方位道沿いに伊佐須美神社があります。伊佐須美神社は朝廷の古代陸奥経営に係わり深い神社で陸奥国から勧請の伝承があるそうです。上野と陸奥との係わりは東山道を介することを意味付けられます。
この斜方位の現在道の延長ラインは太田市脇屋から新田町小金井へと達していて、松尾神社付近で東山道の本路に合流することになるのです。
東山道、牛堀・矢ノ原ルート
新田町小金井から村田にかけての新田掘用水は、近年発掘調査が活発に行われた東山道の牛掘・矢ノ原ルートの東延長上に存在し、この間の新田掘用水は東山道の北側側溝を後に転用したことが判明しています。東山道の牛堀・矢ノ原ルートは伊勢崎市から新田町まで12キロほどが直線道であることが知られていて、武蔵路との分岐点以東も道が続いていることが調査されています。
入谷遺跡
新田町村田と小金井の新田掘用水の北側にある入谷遺跡が調査されていて、基壇を持つ総柱建物跡が2棟と、その建物を囲む約180メートル四方の溝などが確認されています。建物跡は瓦葺きで瓦や出土した土器の年代から、この遺跡が7世紀後半から8世紀後半まで存続したことが推定され、新田駅に関連した遺跡ではないかと考えられています。
下原宿遺跡
新田町村田の新田掘用水の南への屈曲点から新田掘用水と同じ方位で西に伸びる現在道が存在します。この道はやがて市野井でT字路となり終わっていますが、そのT字路の西の空き地が下原宿遺跡の発掘現場で、南北側溝間の心々距離13.3〜13.7メートルの遺構が確認されています。側溝の北側がT字路から東に延びる道と一致し、更に新田掘用水と続いていたことがわかります。
武蔵国は『続日本紀』の中で宝亀2年に東山道から東海道に所属替えされていることは何度も語ってきました。宝亀2年以後は東山道は武蔵国府へ向かう必要がなくなったわけです。そのことは上野国新田駅から下野国足利駅へ直接向かうようになったのです。
ここで上野国の東山道本路と推定される、牛堀・矢ノ原ルート以外の道路遺構を上げて置きます。新田町市で調査された下新田遺跡は牛堀・矢ノ原ルートの北500メートル付近に並走する道路遺構が検出されています。両側溝間の心々距離12メートルで硬化面も確認されています。この道路遺構の時期についてはハッキリしていないようですが、天仁元年(1108)の浅間噴火以前の遺構であることはわかっているようです。
この下新田遺跡のルートの東延長上に新田郡家に推定される天良七堂遺跡があり、その付近には新田郡寺と推定される寺井廃寺も存在します。この500メートル北の道路遺構と牛堀・矢ノ原ルートの関係はわかっていないようです。何故そんなに離れていない付近に幅12メートル前後の道が二つも存在したのでしょうか。今後の研究でその謎が解明されるのを待つのみです。
おわりに
ようやく東山道武蔵路の旅も終わることになりました。思えば東京都国分寺市の保存された東山道武蔵路を見てから鎌倉街道とは違う古代の道に興味を持ち、番外編としての東山道武蔵路を作成するまで新しい発見が幾つもありました。最後に群馬県の新田町にやって来て一つ驚いたことがあります。東山道の側溝跡と考えられている新田掘用水はその東で生品神社の境内を流れていたのでした。生品神社は新田義貞が討幕のときに旗揚げを行ったところです。鎌倉街道を旅する者として何時かは尋ねる予定でしたが、以外にも東山道武蔵路という古代の道の旅で、生品神社に辿り付いてしまいました。
鎌倉街道のホームページを作成している人間が、古代官道の旅を追いかけていたら、鎌倉街道に係わり深い生品神社に辿り付いたことは、何か因縁めいたものを感じないわけでもありません。私は生品神社の大きな鳥居の前で新田義貞が活躍した時代には東山道武蔵路は断片的にも存在していたのだろうかと、ふとそんなことを考えているのでした。
新田義貞は1333年にここから鎌倉を目指して旅立ったのです。何故か私には稲村ヶ崎の光景が頭の中に浮かんで来るのです。キラキラ輝いた波が瞼の奥に写るのでした。
 
鎌倉街道上道

 

鎌倉街道上道の歴史的時代の流れを見てみましょう。
鎌倉街道は鎌倉幕府成立から戦国時代の終わりまでの約400年間が街道として盛んであったわけであります。 一口に400年間と言ってもけっこう長いものです。 街道沿いに多くある史跡は歴史的に見ていつ頃のどんな史跡なのかは、 ある程度の知識がないと訪ねて見ても興味が沸かなかったり感動することも少ないのではないかと思われます。そこで大ざっぱに簡単ではありますが 鎌倉街道沿いの史跡の視点ということで、鎌倉時代以前の古代から戦国時代の終わりまでの歴史を振り返ってみましょう。
先土器時代に於いて関東・中部地方の遺跡は内陸に集中しているようです。信州和田峠の黒曜石が群馬・埼玉県の山麓から出土していて、このような遠い昔に交易の道が存在していたようであります。埼玉県では大昔に於いて秩父地方の山間部で生活をしていた人々がいたようです。太古の時代に於いては狩猟が生活の基本であったことから考えて、動物達を 追いかけるには平地よりも 山地の方が都合がよかったのでしょう。縄文時代になると人々は集落を形成し、集落と集落を結ぶ道が造られて行きます。縄文時代の前期は気候が温暖で東京湾は埼玉県の中部辺りまで海岸線が入り込み、その頃の海岸線(県内では主に南部)付近には数多く貝塚が確認されています。やがて弥生時代になると農耕が本格的に行われるようになり、人々は山地から低地に移り、集落の造営も発達し、交易も盛んに行われたことでしょう。
そして国造り頃より古代にかけて現在の埼玉県(武蔵の国)は東山道という地理的区分に属し、西国からの 関東の表玄関は碓氷峠あたりであったと考えられています。 確かに古代国家成立当時の遺跡や古墳群は南関東よりも 北関東の群馬県(上野国)あたりの方が圧倒的に多いようです。埼玉県も西の新しい文化などは東海道からではなく 北の方から南へと広まっていったのではないでしょうか。有名な金錯銘鉄剣が出土した稲荷山古墳がある「さきたま古墳郡」をはじめ、県内の主立った古墳群は県の北部に集中しています。 律令国家成立にともない武蔵国の国府(今でいう県庁)が 東京都の府中あたりに築かれました。上野国の国府は現在の前橋市元総社町付近であったようです。 そしてこの二つの国の国府を最短距離で結ぶとみごと鎌倉街道上道と ほぼ一致するのです。このことから国府を結ぶ道が上道の前身であったことが伺われます。
鎌倉街道上道沿いには とにかく古墳が多くあります。その中には明らかに古代のものと思われるものがあります。 特に鎌倉街道上道沿いでは美里町の 広木付近に古墳群が多く確認されていて、 又この付近には古代の寺院跡や『万葉集』関連の史跡である「曝井の遺跡」や 「大伴部真足女」の遺跡などがあります。鎌倉街道上道沿いには又、 古代の窯跡が多く確認されたいます。 その代表的なものが鳩山町の赤沼瓦窯跡群でこの窯跡で 武蔵国分寺の瓦が確認されているほか、埼玉県下最古級の 現在の坂戸市にあった白鳳寺院である勝呂廃寺の瓦を 焼いたことが判明されています。 鳩山町から笛吹峠を越え 嵐山町の将軍沢に至る付近は窯跡が多く残在しています。
和銅元年(708)に武蔵国の秩父郡より銅が都に献上され年号が和銅となり和同開珎が鋳造されます。中央の大和では和銅3年(710)に藤原京から平城京に遷都されています。その後天平13年(741)に聖武天皇により国分寺造営の詔が出されていて、鎌倉街道上道沿いにあった武藏国に造営された国分寺はその遺構の規模から大和の総国分寺に継ぐ規模であったことが確認されています。
奈良時代の埼玉県は西武の山麓に当時の史跡などが多く残されています。秩父・奥武蔵の山麓には「山の辺の道」と呼ばれる重要な道が上野国へ結んでいたと考えられています。この道は鎌倉街道上道の西側を上道とほぼ並行するように通り、日高市の高麗郡は霊亀2年(716)に高句麗より渡来人を移住させて設けられたと伝えられています。この道の沿線には都幾川村に奈良時代初めの創建と伝える慈光寺や児玉郡神川町の延喜式内社金鑚神社があり、又群馬県内には多胡碑をはじめとした上野三碑などがあり、これらはこの地方の古代研究には欠かせません。
最近東京都のJR中央線西国分寺駅南東側の元国鉄の研修所後地の開発工事にともない先だって遺跡の発掘調査が行われ、 340メートルにも及ぶ古代の 東山道・武蔵路の遺構が発見されたそうです。 この道路跡は府中市の旧甲州街道から国分寺市の 東恋ヶ窪辺りまでの4.2キロメートルあまりが確認されているそうです。この間ほぼ直線で 道幅約12メートルで道の両側に 側溝か確認されているそうです。これは鎌倉街道の道幅と推定されている物よりも 2倍はあるもので鎌倉時代より更に古い 500年前にこれだけの道路が 造られていたということは驚きであります。 この道路遺構はここ以外には所沢市の鎌倉街道上道沿いの 長久寺の西に南陵中学と所沢高校の付近で古代の遺跡が発見されていて ここにも12メートル幅の 側溝付きの道路遺構が確認されていて、 この遺構は先の国分寺市の遺構と繋がる可能性が十分あるのではないかと考えられているそうです。
平安時代の初めに坂上田村麻呂が征夷大将軍に任ぜられ蝦夷平定のため関東の武蔵国を通り蝦夷に赴きます。 鎌倉街道上道には田村麻呂に関係した 伝説が所々に伝えられています。 こんなに古い時代の人の伝説があるということは この街道自体がかなり昔から存在したことが伺えます。田村麻呂は奥州に向かうのですが上州、 信濃方面に向かう上道を通ったのでしょうか。
平安時代中頃になると関東の地では武士団が興隆してきて源氏や平氏以外にも武蔵七党などの武士団も登場してきます。 そんな中初めに平将門の乱、続いて平忠常の乱等がおこります。 これらは都の中央集権政治に 不満を持つ関東武士の反乱でしたが じきに鎮圧されてしまいます。続いて奥州で前九年、後三年の役がありこの時源頼義、義家親子の活躍で源氏は関東武士団の棟梁と 仰がれるようになります。
平安末期、保元の乱の少し前に帯刀先生源義賢が鎌倉街道上道中の大蔵(嵐山町)に館を構えます。しかし源氏の嫡流争いで 甥の悪源太義平に急襲されて殺されてしまいます。 この事件は鎌倉街道上道に伝わる もっとも古い記事ですがこの頃にはこの道は街道として かなり形をととのえていたのではないでしょうか。
この後頼朝が鎌倉幕府を開くまでの間は平治の乱により源氏の壊滅状態、平清盛太政大臣、安徳天皇即位、以仁王の挙兵、 治承・寿永の乱と続きます。以仁王の挙兵によって 最初に都に入ったのは源義仲でした。 義仲は帯刀先生源義賢を父とし、義賢が殺された時に 信濃の国の木曽へ逃れていたのでした。義仲は平家一門を都から追い出したのですが、 義仲の兵が都内で強盗を働いり、後白河上皇を 幽閉したりで評判が悪かったので頼朝の命で源範頼、義経らによって近江で討たれてしまいます。頼朝は挙兵後、石橋山の戦いで大庭景親に 破れ房州へ逃れるのですが軍勢を立て直して鎌倉に入り冨士川の戦いで平維盛軍を破り敗走させます。義仲を討った後頼朝は人質として 頼朝の娘の大姫の婿であった義高も殺そうとしますが、計画が大姫に漏れ義高は鎌倉街道上道を北へ逃走して行きますが、やがて入間川で 追っ手に捕まり殺されてしまいます。その後頼朝は追討のターゲットを後白河法皇により判官に任ぜられた義経に向けるのです。 結局義経も奥州で討たれてしまい、 義経をかくまった藤原秀衡と泰衡が背後の敵となり 1189年に奥州征伐で奥州藤原氏を滅ぼしています。 頼朝は上京して後白河上皇に右近衛大将に任ぜられますが彼は辞退しています。 彼が望んでいたものは征夷大将軍だったのです。 そして1192年に後白河法皇が死去した後に源頼朝は征夷大将軍に任命されここに鎌倉幕府が 成立したのです。そして鎌倉街道上道は頼朝が 鎌倉に入り東国支配確立のころにはほぼ街道として整備され体制が整えられていたと思われています。 
 
陸奥国について

 

大化以前の福島県は常陸国の一部
645年の大化の改新で日本には新しい国家が生まれました。この国家は律令という法に基づく中央集権国家でした。
この律令制では全国を大きく五畿七道に分け、それをさらに国・郡・郷・里・戸に分けて中央政府が直接統治しました。この仕組みで、古代の福島県は東山道の陸奥国ということになりました。
陸奥国がいつ建国されたかはわかりません。そして、建国時の陸奥国の領域もはっきりしません。陸奥の国府(国司のいるところ)は宮城県の多賀城でした。この多賀城が政府の記録に始めて出てくるのは724年です。しかし、その前の養老年間(717〜723年)に陸奥国を岩城国と岩代国に分割したという記録があります。このことを考えると、多賀城が陸奥の国府になる前にすでに陸奥国が建国されていた可能性があります。
「常陸国風土記」(713年)には、福島県の浜通りは元は常陸国の一部だったとあります。たぶん福島県の白河からいわきにいたる県南地域も常陸国の一部でした。というより、大化以前の常陸国には北の国境はなかったようです。常陸国は、南は下総国(千葉県北部)、西は下野国(栃木県)というように境界はありましたが、北の国境はとくに定めず、常陸から北はすべて常陸国というふうになっていたのだと思います。ですから福島県域の人々も自分たちは常陸国の一部という意識だったと思います。 
最初の陸奥国は福島県のこと
その後、大和朝廷は常陸国の北に陸奥国を建国することになり、そこではじめて常陸の北に国境をもうけることになりました。国境はたぶん阿武隈山地の南端の八溝山でした。この時陸奥建国の核になったのは福島県の県南と浜通りでした。ここは当時、福島県域では最大の人口稠密地帯でした。この県南と浜通りを核に、会津地方と県中と県北、それから宮城県の阿武隈川から南の地域を合わせてできたのが最初の陸奥国でした。たぶん7世紀末でした。
この最初の陸奥国が福島県域と阿武隈川以南の宮城県域だったと考える根拠は、「先代旧事本紀」と「和名類聚集」という史書からの推測です。
「先代旧事本紀」の国造本紀には、大化の改新以前に、全国の地方を支配していた豪族の名が網羅されています。この豪族のことを国造といいます。
そこで、この書物の東北地方を見ると11の国造がいて、その中に「思国造」と「伊久国造」、それから「白河国造」と「石城国造」の4国造がいたのがわかります。
「思」は宮城県の亘理郡、「伊久」は宮城県伊具郡のことです。「白河」と「石城」はいうまでもなく県南の白河岩城のことです。 
そして残り7のうち6国造はすべてこの間の領域に含まれています。そこで、白河と岩城から宮城県南部までが大化以前の大和朝廷の勢力範囲で、この領域を陸奥国にしたのだろうと推測できます。つまり、陸奥国の領域は阿武隈川南岸の亘理伊具と白河岩城の間に挟まれた領域で、それはほぼ福島県のことだということになります。
もちろん、宮城県の北部にも豪族たちはいました。それは大和朝廷の支配であることを示す前方後円墳の分布をみればわかります。東北地方最大の前方後円墳は宮城県の名取市にあります。ですから、宮城県の北方にも高度な文明を持つ人々がいました。しかし、彼らは大和朝廷と疎遠であったか、大和朝廷に反発してその勢力下に入りませんでした。そこで、最初の陸奥国は福島県域と宮城県南部を領域として成立したのです。
古代の東北地方にあった10国造は陸奥国の領域になりました。残る「出羽国造」は、山形県の一部で後に出羽国建国の核になりました。このように大和朝廷はすでに支配下にある地域を核に新しい国を作って全国支配を拡大強化する戦略をとっていました。 
福島県域の12郡
大和朝廷は「先代旧事本紀」に出てくる陸奥国の10の国造が支配するクニをそのまま郡にしました。
この10のクニがそのまま郡になったということは、「和名類聚抄」という書物からわかります。この書物は平安時代中期に、源順という貴族が書いた一種の百科事典です。この本には全国の郡と郷が書かれていて、古代の地方史研究では最重要の史料になっています。「和名抄類聚抄」では長いので、ふつうは「和名抄」と略します。ここでも「和名抄」とよぶことにします。
「和名抄」によると、平安時代中期には福島県には次の12郡がありました。
宇多(うた)    相馬市地方 
行方(なめかた) 原町市地方
標葉(しめは)   双葉地方
磐城(いわき)   いわき市
菊田(きくた)   いわき市南部
信夫(しのぶ)   福島市地方
安達(あだち)   二本松市地方
安積(あさか)   郡山市地方
岩瀬(いわせ)  須賀川市地方
白河(しらかわ)  白河市地方
会津(あいづ)   会津若松市地方
耶麻(やま)    喜多方市地方
これを先の「先代旧事本紀」と照合すると、次のようになります。
浮田国造→宇多郡
染羽国造→標葉郡
石城国造→磐城郡 
道奥菊多国造→菊田郡
信夫国造→信夫郡
阿尺国造→安積郡
石背国造→岩瀬郡
白河国造→白河郡
安達郡
行方(なめかた)郡
会津郡
耶麻郡   
この表から、新設の陸奥国は県域の8国造と宮城南部の2国造のクニをそのまま郡にし、これに会津郡を加えたのが最初の陸奥国だったということがわかります。
このうち国造と対応しない安達・行方・会津・耶麻の4郡については、次のような事情がありました。
平安時代の中期に政府が「延喜式」という行政の施行細則集を編纂しましたが、この「延喜式」に、906年に安積郡を分割して安達郡をつくったとあります。ですから、安達郡は元は安積郡の一部だったことがわかります。同じように、耶麻郡は会津郡から、行方郡は宇多郡から分離してできた後発の郡でした。
会津郡に国造がいなかった理由はわかりません。ただ会津は陸奥国の中では毛色のちがう郡のようです。
「日本書紀」には崇神天皇が四道将軍を全国に派遣し、その時、北陸から阿賀野川を東に進んだ将軍と東海道の北から東に進んだ将軍が出会ったのが会津で、これが会津の語源だということが記載されています。津というのは船着場のことです。ですから会津は二人の将軍が出会った船着場というわけです。史実の真偽はともかく、このことから会津は大和朝廷の時代からほかの県域のクニとはちがう地域だと考えられていたのがわかります。
会津には大塚山古墳という県内最大の古墳があります。この古墳は3世紀の築造で副葬品などから大和朝廷とのつながりが深いことが推測できます。そういうことを考えると、会津は豪族が支配する土地ではなくて、大和朝廷の直轄地である屯倉(みやけ)で、そのために国造がいなかったのではないかという気がします。 
境界について
古代の国や郡の境界は山でした。それは生活圏のちがいで境界ができるからです。川は、川の向こう岸の人もこちら岸の人も同じ生活圏ですから境界にはなりません。川が境界になるのは領地争いが激しくなる平安時代以降です。川ははっきり目に見えますから境界には便利でした。
そこで日本では古い境界と新しい境界が混在しているのがふつうです。例えば安積郡の阿武隈川東岸は田村郡ですが、この二つの郡境は川ですから、これはずっと後でできた境界であるのがわかります。それに対して、郡山市と須賀川市の境界は笹原川でもなければ滑川でもありません。境界はこの二つの川の間にある低い山々の分水嶺です。ですから、この境界は古代の安積郡と岩瀬郡の境界であったのがわかります。こうした例は全国にあります。 
岩城岩代
なお、政府の記録には、奈良時代初期の養老年間(717〜723年)に陸奥国を岩城国と岩代国に分割したことが書いてあります。しかし、この分割は無理があったようです。10年も経たないで元の陸奥国にもどしてしまいました。この岩城・岩代2分割は明治になってまた施行しましたが、この時もやはりすぐに廃止となり、今の福島県になりました。
福島県の分割は難しいところがあります。東北地方ではふつう奥羽山地を境界にします。そのため北部は、奥羽山地の西側が秋田県山形県になり、東側が岩手県宮城県になります。ところがこの規則を県域に適用すると、会津が単独で一つの県を作ることになってしまいますが、これでは県として小さすぎます。
奥羽山地で分けるのが無理なら、次に考えられるのは阿武隈山地を境界にすることです。しかし、奈良時代も明治初期もこの阿武隈山地が県域ではもっとも人口が多いところでした。しかも阿武隈山地は阿武隈高原ともいうように、低い山並みがどこまでも続いていて、切れ目なく人が住んでいます。ですから、ここを境界にすると人々の生活圏を分断することになってしまいます。そうするとやはり福島県は福島県で一つのまとまりにするしかないようです。 
東山道
律令制では地方の国には国府を置き、国府と奈良の都を結ぶ官道を作りました。陸奥国の国府は宮城県の多賀城でした。ですから東北地方南部には多賀城と奈良の都を結ぶ官道がありました。これが東山道です。そこで、この東山道について見ておくことにします。
昔は自動車がありませんし、日本ではどういうわけか馬車も発達しませんでした。ですから、荷物は人が担ぐか、馬の背に載せて運ぶしかなく、そのための人足と馬が必要でした。そこで、江戸時代の五街道もそうですが、政府は道の所々に公用の荷物を運ぶための施設を作りました。これが駅です。そして、この駅のある道が官道になります。奈良時代には、この官道で荷物を運ぶのは駅のある郷の人々でした。これを駅郷(うまやごう)といいます。
都のある奈良から東日本に行くには、太平洋岸の東海道と日本海岸の北陸道のほか、内陸の道がありました。この内陸の道が東山道です。
東山道は、内陸の道ですからどこにでもよさそうですが、急峻な山岳地形の日本列島では、そのルートは一つに決まってしまいます。それは愛知県から中部山岳地に入り天竜川の川岸に沿う道です。天竜川は長野県の諏訪湖から流れていますから、そのまま諏訪湖のある所まで行けます。
(古代の東山道、江戸時代の中山道、現代の中央高速道と、中部山岳地帯には、この天竜川岸の道しかなく、たぶん縄文時代以来このルートが東西を結ぶ道でした。)
そして、諏訪湖からさらに東に進むと碓氷峠に出ます。昔はこの碓氷峠が関東への玄関口でした。碓氷峠を下ると関東平野になり、群馬県の前橋に出ます。この前橋が上野国の国府でした。
前橋には利根川が流れています。この利根川の南岸は江戸時代には中山道になりますが、東山道は多賀城への道でしたから北岸の道になります。そこでこの道を東に進むと、栃木県の今の下野市に出ます。この下野市が下野国の国府でした。
たぶん最初の東山道はこの下野市が終点でした。ところが陸奥国が建国され、東山道はさらに北に伸びました。
その場合もルートは決まってしまいます。それは鬼怒川に沿って北上し、途中から那珂川沿いに北上する道です。この那珂川は那須から流れる川です。そこで那須のどこかははっきりしませんが、ともかくこのあたりの山を越えると阿武隈川に出ます。そこで、この阿武隈川の川岸をどんどん北上すれば多賀城に行きます。これが奈良時代の東山道でした。つまり、東山道というのは
天竜川→(碓氷峠)→利根川→鬼怒川・那珂川→阿武隈川
という大きな川に沿った川岸の道でした。
しかし、たぶん建国間もない頃の陸奥国は東山道ではなく東海道に属していたと思います。それは福島県が常陸国の一部だったからです。そして陸奥のことを「みちのく」といいますが、その場合の道とは東海道のことで、この東海道の奥地ということで「みちのく」という呼び方になったのでした。 
東海道
ここでは福島県の歴史とは直接関係ありませんが、東海道についても説明しておきます。東海道は太平洋に沿う道です。この道では奈良から三重県に入り、静岡県の海岸線を通って神奈川県の足柄峠に出ます。奈良時代には、この足柄峠が東海道の関東の入り口でした。平安時代になると富士山が噴火し、峠道は今の箱根に変わりますが、それまでは足柄峠でした。
奈良時代の東海道ではこの足柄峠から神奈川県の鎌倉に行きます。そして鎌倉からさらに三浦半島の先端に出て、ここから船で東京湾を横断します。すると千葉県に出ます。ここが上総国です。
そして東京湾の内房に沿って北上し千葉県の今の市川市に行きます。ここが下総国の国府でした。市川からさらに北上すると茨城県の今の石岡市に着きます。ここが常陸国の国府で東海道の終点でした。これが奈良時代の東海道です。
ですから奈良時代の東海道では東京は通りませんでした。東京を通らなかったのは、昔は、東京都心部は利根川の河口域になり、ここは広漠とした湿地帯で交通の行き来が難しかったからです。
一般的に昔は海岸沿いの道より山間部の道の方が便利でした。それは川があるからです。川は上流では川幅も狭く歩いて簡単に渡れますが、海につながる河口域になると川幅が広くなり、簡単には渡れなくなります。ですから、大井川や天竜川のある東海道は川を渡るのが大変で、奈良時代から室町時代までは東海道より東山道(中仙道)の方が多く使われていました。 
東山道の県域の駅
話をもどして福島県域の官道ですが、たぶん最初は東海道の延長沿いに浜通りの道でした。ところがまもなく東山道に変えたようです。それは東北地方の東山道は戦争の道だったからです。
当時、大和朝廷は東北地方の北部で蝦夷と戦争をしていました。そこで、戦地に兵士や武器食料を送り続ける必要がありました。
兵士は当初は福島県のほか、常陸と下総・上総から徴兵した兵士でした。この3国は人口も多かく対蝦夷戦争の主力でした。たぶん彼らは茨城県の海沿いの道から菊田の関(勿来の席)を通って、今の国道6号線のルートで、標葉→行方→宇多で多賀城に行っていました。このルートは阿武隈川沿いの道より平坦で距離も短いですから、この道を使うのは自然でした。
ところがそのうち戦争が激しくなり、常総の兵だけでは間に合わなくなりました。そこで、上野下野武蔵の兵も動員することになりました。
そうすると浜通りの道より、阿武隈川沿いの東山道の方が便利になりました。というのも東山道を使えば上野下野武蔵の兵はそのまま多賀城に送ることができますし、常陸下総上総の兵士も、常陸方面から八溝山を越えるか、久慈川沿いに北上すればて県域の今の棚倉町に出て、そこから西北に進めば東山道で合流できるからです。
この二つの道が合流するのが白河郡でした。そこで、この白河に多賀城に兵士と物資を補給するための集積地を作ったようです。これが白河の関でした。つまり白河の関というのは、蝦夷の侵入を防ぐ砦ではなく、蝦夷を攻略するための兵站基地でした。
この東山道の機能が整備されると、駅の機能も整備されていきます。平安中期の法令集「延喜式」によると県域の駅は次の通りでした。
雄野(白河)−松田(白河)−岩瀬(岩瀬)−葦屋(安積)―安達(安達)−日野(安達)―岑越(信夫)―伊達(信夫)
このうち松田駅は棚倉方面からの道との合流地になっていました。松田駅は今の中島村にありました。そして、当時の白河郡の郡役所(これを郡衙 ( ぐんが )といいます)はその北の今の泉崎村にありました。ですから今の泉崎村・中島村のあたりが奈良時代から平安時代初期にかけては県域でもっとも賑わっていた所でした。 
白河の関
白河の関は、白河市西方の旗宿にある史跡の所がその跡ということになっています。白河藩主の松平定信がさまざまな考証をして関跡と決めました。現在は国の史跡になっています。とはいえ定信より100年前の松尾芭蕉もここが関跡だと思って立ち寄っていますから、早くから旗宿=白河の関跡説はあったようです。
ここは棚倉町に通じる道の途中にあります。ですから、このあたりに白河の関があったと考えるのは自然です。しかし、今の関跡はちがいます。関跡には空堀や土塁があり、これは完全に室町時代の山城の跡です。城郭専門家の間では、白河関跡=室町時代の城跡というのは常識になっています。
白河の関は、奈良時代のうちに早くも軍事的役割を失ったようです。しかし、平安時代になると、京都の貴族たちは関という名称からさまざまに空想し、ちょうどシルクロードの陽関や敦煌のような所にちがいないと考えて要塞のイメージができあがり、それが現在も受け継がれているようです。とはいえ 県北ならともかく、県の南端の白河に蝦夷の侵入を防ぐ要塞があったというのは、どう考えてもつじつまがあいません。ですから白河の関は元々は兵站基地だったと思います。
それと昔から白河はみちのくの入り口として有名ですが、そのイメージは白河は荒涼とした東北の自然の中にあるというようなものだと思います。しかし、これも完全な誤解です。
このことは常識で考えてもわかります。当時の那須はまったくの過疎地でした。ですから、白河も過疎地だとすると、旅人は過疎地から過疎地に来るだけですから別にどうとも感じません。そうではなく、旅人が無人の那須野を心細い気持ちで歩いていくと、山の向こうに突然人家がたくさんある村里が出現する。それで旅人に強烈な印象を与えたのが白河でした。 
注記
陸奥国
(むつのくに) かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。当初は「道奥」(みちのおく)と呼ばれ、平安時代まで「陸奥」(みちのく)とも呼ばれた。その後は「陸奥」(むつ)と呼ばれた。畿内から見て山道(のちの東山道)と海道(のちの東海道)の奥に位置し、中央政権に新規に服従した地域を同国に含めていったため、時期によって範囲は変遷する。明治元年12月7日(西暦1869年1月19日)に5国に分割され、その1つとして、青森県と岩手県二戸郡にかけての地域に新たに「陸奥国」(りくおうのくに・むつのくに)が置かれた。
「陸奥」の名称と由来
『古事記』には「道奥」とあり、『日本書紀』は「陸奥」が多いが古い時代に「道奥」もみられ、ともに「道奥」を「みちのおく」と訓じる。『和名抄』は「陸奥」を「みちのおく」とする。「道」は古い時代には「国」と同義に使われており、「道奥」の語源は「都からみて遠い奥」にある国の意である。「道」を「陸」にかえた積極的理由はわからないが、常陸国の場合と同じく、「陸道」の意であてたものであろう。平安時代の和歌で「陸奥」は「みちのく」として詠まれていた。「みちのく」は「みちのおく」が訛って縮まったものである。
「みちのく」が「むつ」に変わった事情には、江戸時代から二説ある。一つは陸が六の大字として用いられることをふまえて、陸を六と書き、それに訓読みをあてて「むつ」にしたというもので、本居宣長が『古事記伝』で唱えた。陸州は古代・中世によく使われた略し方で、「六奥国」「六奥守」「六国」という書き方も平安時代にはあった。もう一つは「みちのく」が「みちのくに」になり、「むつのくに」に転訛したという説で、保田光則『新撰陸奥風土記』にある。「みちのくに」は『伊勢物語』などに見える。 
 
相模国古道と大和

 

はじめに
郷土大和は、東の境川と西の引地川流域にはさまれた南北にのびる狭隘(きょうあい)の地形で、変化の極めて少ない台地であるが、かって上古の時代、まだ相模川がその流域、依知の近くまで入海であった当時は、境川沿岸やその支流ならびに、引地川流域の低地も相模湾が湾入する入江で、一面水辺の沼沢地帯であり、特に遠く水源を津久井の竜居山から発する境川は、この地(後世の深見村付近)が最も水が深かったと伝えられ、深水・深海の称から深見と名付けられたといわれている。
その後、土地の隆起等の変化によって、様相も変り、相模原台地の南部の一隅にその地を占めることとなった。
郷土大和に、先住民族が棲息するようになったのはいつの時代からかは詳かでないが、次第に集団生活が営まれ、程よい川の規模と両川流域の低湿平野と、台地の生活用水の至便さと相まって、郷土の文化はつくられ、今日の姿となったのである。
一 東国への道
さて、我が国で古墳が発生したのは、三世紀後半から四世妃の初めごろといわれているが、この墓制は、初め大和朝廷を形成した畿内の豪族の間に行なわれたものであったが、朝廷の勢力の発展に伴って漸次各地方の豪族の間にも広がっていったと考えられ、また、大陸との交渉が盛んとなる五世紀以後は、古墳そのものも非常に雄大かつ豪華なものに発達していったようである。
このような古墳文化の広がりは、大和朝廷の統一事業の進展をあとづけるものとして、注目にあたいするところで、このような時代中央と地方との交流に、必要かくべからざるものとして、重大性を帯びて現われてくるものに、「道」というものがある。そして、西国の近畿地方を中心とした大和朝廷が、地方との交流皇化を計り、中央行政を確固たるものとするために、勢い西から、この東国へと、次第に交通路は発達してくるのである。
二 記紀の道
(一) 四道将軍の派遣
さて、この「道」なるものが文献に見えるようになったのは、八代孝元天皇の五七年一一月とされ、東海道が始めて開けたといわれている。
次いで、一〇代崇神天皇のとき、わが国は始めて、四道将軍なるものを四道に遣わされて、万民皇化の統治に当たらしめたといわれている。すなわち、北陸・東海・西道(山陽)・丹波(山陰)の四道であって、『日本書紀』によれば、大彦命(おおひこのみことと)を北陸に、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)を東海に、吉備津彦命(きびつひこのみこと)を西道に、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)を山陰にそれぞれ遣わされたと記されている。
後になって、ここに遣わされた四人の将軍をさして四道将軍といっているわけであるが、この記録が、あるいは、伝承の域を出ないものであったにせよ、この時代、大和朝廷確立期の事件として、当然このようなことはあったであろうと推察もできるのである。
(二) 日本式尊の東征路
更に、一二代景行天皇のときになると、日本武尊によって、東征が行われた。おそらく、わが関東地方、特にわが相模国へは、このとき初めて尊が足をふみ入れられた、いわば、郷土の歴史の除幕とも考えられるもので、したがってそれを契機として、わが相模地方には、これに関連する伝説が生まれてくるのである。
古代の英雄の事蹟を単なる一人物のものとして描くことは、伝承文学の常であるが、それがかりに誰であったにせよ、この東征路は古代における交通路を示すものとして、歴史的に深い意義を持つものと考えられるのである。
そこで、東征の事蹟の中心的人物が誰であったかの詮索はさておき、記紀にいう日本武尊の東征路について、これから述べてみたいと思うのである。
当時、青年の皇子と妃の弟橘姫は、大和軍団数百名といわれる兵を引きつれての旅であった。この時代は、もちろん、今のような道路は全くなく無知の地に入った軍団は、山また山の尾根をつたわり、奥深い草原を踏み分け、川の出水や湖沼をさけ、道をきり開いての出軍であって、当時の大和朝廷の行政がどこまで浸透し、威光がどの程度まで普及していたかは詳かではないが、途中謀反をおこす豪族もあった事など考え合わせれば、この挙兵はまことに一大困難事であったといえよう。
『新編相模国風土記稿』によれば、「古を考るに当国と武蔵と境せる地、太古は山野にて、通路なかりしを、後漸に境界開け、往来の通ずるに至りしこと、〔景行記〕倭建命、東征の条を見て知るべし」とある。
このころ、相模国の古道がどのように通っていたかについては、『古事記』および『日本書紀』の東征の記事のなかにある程度記されているが、しかし、その道程については記紀に若干の相違があり、異論を生ずるところである。ただ、日本武尊が駿河国から相模国に入ったときに、足柄峠を越えて来たことだけはたしかなようである。
1 『古事記』の道
『古事記』では、伊勢・尾張を経て東に進み、そして相模の国へ入ったときに、その国造がいつわって尊を誘い出し、野火の難に合わせたこととなっており、それから三浦半島に出て、走水から上総国に舟で渡る途上、弟橘姫の貞烈な入水の故事を記し、やがて東国でその目的を果たした尊は、帰途を常陸にとり、ふたたび相模国へ入り、足柄の坂を上り、ここで「吾妻はや」の嘆きをのこし、そこから甲斐・信濃を経て尾張に帰られた。となっている。
2 『日本書紀』の道
一方、『日本書紀』のほうでは、尊は伊勢より駿河に来て、ここでまず、野火の難に遭ったとし、焼津の地名説話を記している。その後、相模国から陸奥に入って蝦夷を平げるまでの行程については、古事記とほぼ同じであるが、帰路については、古事記と大分違っており、尊は常陸・甲斐・武蔵・上野・信濃を経て帰られたとされ、弟橘姫を偲んでの嘆きの地も、上野と信濃の境の碓日峠(碓氷)においてなされた、とされている。
3 尊と相武国の古道
では、相模国へ入って来られた尊の軍団はどのような道を進まれたのであろうか。まことに、異説のあるところであるが、いま、菱沼勇先生の説により、当時の古道をたどってみることとする。
足柄峠を越えた尊は、東にそびえている矢倉岳の下を通って北上され、山北の付近で酒匂川を渡られた。一説には、後の関本に下って、松田の方に進まれたのではないかとの話もあるが、当時は、千津島・上島・金井島・牛島などと島のついた地名が示すごとく、この辺一帯は入海であったと推定されるので、廻り道も余儀ないことであったと思われる。
矢倉岳のふもとから山北方面に抜けるこの道は、いわゆる矢倉沢古道といわれるきわめて古い道路で、沿道の旧平山村には、洒水の滝があり、かっての傑僧、文覚上人が百日の行を修めたところといわれている。
さて、山北からの東行は、酒匂川の北側に沿って、松田庶子を通り、式内の寒田神社のある松田惣傾に出られたものと思われる。これから東の古道は川音川の四十八瀬の渓谷に沿って北上し、東に折れ、秦野から善波峠を越え、後に『延喜式』で駅(うまや)となっている箕輪を通り、比比多神社のある三ノ宮を過ぎ、大山のふもとから下糟屋に出、そこを北上して小野で玉川を渡り、さらに北上して奈良時代に観音堂を設けられたと伝えられる飯山を通り、ここで小鮎川を渡られた。
それより道は東北に進んで、中津のあたりで中津川を越し、猿ヶ島の地点で、相模国第一といわれる相模川を渡られた。対岸は、旧磯部村で、この地勝坂には式内の有鹿神社の祭られた旧蹟があり、歴史的にも極めて古い土地である。
『新編相模国風土記稿』によれば、「矢倉沢道の係る所なり。対岸猿ヶ島にて進退す。甲陽軍鑑によれば、永禄十二年、武田信玄小田原を攻めるにあたり、勝坂に陣取り、ここから相模川を渡り、という記録あり。後世までもこのところが、相模川の波渉に便なりしことを知る。」とある。
磯部からの噂の道程は、この相模川の左岸の洪積台地の上を真直ぐに南下し、寒川まで行き、小出川を少しさかのぼって、打戻の南を通って現在の用田街道に出、大庭を経て、藤沢・鎌倉・逗子・葉山・三浦へと進まれ、走水に着かれたものと思われる。
以上は、先生のいわれる日本武専の進路を中心にした古道であるが、この古道は当時(古墳時代初期)、西国から通じた、相武国の主要幹線道路ともいうべきものであったと推定される。
したがって、それ以外にも、例えば、松田から余綾丘陵の西裾に沿って千代に出、相模湾に通ずるような、いわゆる支道が、当時から各地にあって、地方的な役割を果たしていたであろうことも、当然考えられるところであり、尊も又、必要に応じて、それらの道にも足を踏み入れられたものと思われる。
(三) 日本武尊の説話
1 『日本書紀』と『古事記』
ところで、噂の野火遭難の説話についてであるが、『日本書紀』によれば、「是の歳、日本武尊、初めて駿河国に至りたまう。其の処の賊いつわり従い、欺きて日く、是の野に麋鹿(おおしか)多し、気朝霧の如く、足茂林の如し、臨まして狩りしたまえ。日本武尊其の言を信じ、野中に入りて狩りしたまう。賊王を殺さん情ありて、其の野を放火(ひつけ)焼く。王欺かれぬるを知ろしめして、則ち燧を以って火を出し、向(むかい)焼て免るることを得たり。」と記されている。
この、『日本書紀』による、駿河国における日本武尊の野火遭難の故地として、土地の古老たちは、それぞれ三か所をあげ、いずれもそれにちなむ神社をあげている。すなわち、焼津神社・草薙神社・庵原神社の三社であって、どの社も延喜式内の神社で古社であることには疑いのないところであるが、駿河国益頭郡にある、焼津神社付近が、往古の地形からいって野火遭難の旧蹟ではなかろうか、というのが、今日有力な説のようである。
一方、『古事記』では、野火遭難の地を相模国として記している。
それによれば、「故爾に相武に到りませる時、其の国造詐りて日く、此の野の中に大沼あり、此の中に住める神は甚く道速振神なりと、是に其の神を看行ししに其の野に入り座しつれば、爾ち其の国造、其の野に火を著けたりける。」とあり、また『古語拾遺』にも、「倭建命東征の年、相模に至り、野火の難に遇ふ。」と。では、この『古事記』や『古語拾遺』にいう相模の地とは何れの地なのであろうか。
2 野火遭難の地
原茂清先生の『大和市史年表稿』によると景行天皇四〇〜四三(西暦一一〇〜一一三)「日本武尊が薙原、草柳のあたりで火難にあわれたと伝えられる。弟橘姫が、さねさしの歌をつくられた。」とある。 もしそうだとするとどうなのか。極めて興味ある問題であると思うので、ここに私見を述べ、大方のご批正が得られればと考えるのである。
さて、旧磯部村にわたった尊は、相模川の左岸、洪積台地の道を真直ぐ南下され、今の海老名市大谷方面に向かわれた。
この地方には、「朝日さし、夕日輝くその山に、黄金千杯、朱千杯」という俚諺があるように、国造累代のそれと認められる各種の古墳が散在している。また、地勢的には、かつて太古のころ、相模横山九里の土手といわれている南北に連なる丘陵地帯であって、この地ほど大きい入江状態の谷をなしているのは、他にないというところから、そのまま、大谷と呼ばれるようになったといわれているところである。
また、後世の大宝令による東海道が、足柄山を越えて相模国へ通じたその第一歩の交通路となった、浜田の宿もこの辺にあったといわれ、そのため、相模国府庁もこの道路の要衝の地である中央部の国分の地におかれ、さらに、この国府庁の設置が後年国分寺の建立される誘因となり、東海道を主道として、飛躍発展をみた。実に歴史の必然性を物語る故地でもある。
さらに、隣町の綾瀬町早川はこのすぐ東で、そこには現在、五社神社がまつられている。神社の境内には、尊の腰掛石といわれる古びた石が今なお大切に保管されている。
村岡先生の、『日本地理資料』にしたがえば、「早川村に、五社明神あり、祠頭に石あり、経二丈許り、伝えて云う、日本武尊憩う所なり。」と。
さて、大谷に着かれた尊はしばらく軍を、この付近に休めさせられたと思われるが、この時、この辺に居住する相武の国造は、いつわり、尊を迎えて申すには、「この原野に大沼があって、ここに大変乱暴な神がいるので、これを平げてほしい」と尊を誘い出した。
尊は、いつわりのことばとも知らず、単身、この原野に奥深く進入したところ、突然原野の風上より火をつけられ、危機にひんした。尊はおばの倭比売からおくられた剣をもって草を薙ぎ、風の変るのを待って、袋より火打用具を取り出し、外側の草むらに火をつけ、無事を得られたという。
以上が、尊の遺蹟伝説の大要であり、近在の古老たちの間にも信じられ、いい伝えられているところであるが、伝説はどこまでも伝説であって、そのまま信じるわけにはいかないが、なにか尊の東征を物語るものとして、また、郷土にかかわる身近な問題として、私は、歴史的に大きな意義があるのではないかと考えざるを得ないのである。
思うに、おそらく国造のいう原野とは、この地より東の、旧深見村まで広がる野中をさしたのではなかろうか。また、大沼とは、その地を流れる目久尻川・蓼川・引地川・境川に生じた沼地をいったのではなかろうか。
日本武尊のこの時代は、古墳時代の初期と思われるので、酒匂川の流域の大部分が入海であった当時であるし、相模川についてもその流域は依知の辺まで古相模湾につづく入海であったといわれる頃で、目久尻川・蓼川・引地川・境川流域も当時は、湖沼や沢地の点綴(てんてい)する、荒野であったと推定することも可能ではなかろうか。
とくに、草柳を中心とするこのあたりは、現在よりはるかに豊富な水源をもっていたであろうと思われる引地川があり、その湖沼には、一面丈なす葦などが繁茂し、それより東にのびる境川までの台地と、川の西に広がる草柳・蓼川の広漠たる台地には、湿地帯につづく、これまた、一面の草原であったことが想像される。
このことからいえば、さきの相武における尊の遭難は、この地をもって故地としても、条件は整うものと考えられるが如何であろうか。
3 文化の曙光
さて、そこで尊がこの相模地方に足を踏み入れられたそのころは、我が郷土周辺の住民はどうであったろうか。
現在の大和から西の海老名へつづく一帯は一面の草原であったであろうことは、先に述べたところであるが、この平野には既に先住民が棲息していて、大きい地方の酋長が統治していたかも知れない。そのため、都より皇化を及ぼすため軍団を進められた尊に対して、火を放って、これを拒んだことも想像され、尊の遭難もこれによるものであろう。
そして彼らは、尊の統征を機会に、以後大きな変化が起ったものと考えられるのである。すなわち、尊の一撃にあった彼らは勢力を失い、遠く東北の地を求めて退転した者もいたろうし、また、夷族の長などは帰順して、地方治安に協力するようになり、後には、そのまま地方の役人になり、やがて国郡制が施かれると、その組織の中に入り込んでいき、中央から任命された政府高官との間に、機微な関係をもつようになったとも考えられよう。
なお文献には、弘仁九年(八一八)七月、相模・武蔵以下関東諸国に大震災があった際に下された勅語に、「民夷を論せず正税を以って賑恤せよ」とあるし、また、『延喜式』に彼等土着の生活を扶助するための料稲として、「相模国俘因料二万八千六百束」と載せてあるのを見ても、当時から比較的多数の夷族が住居していたことは事実と思われる。
このことについて、中山毎吉先生は、アイヌ族を主張されておられるが、それがかりに、そうと断定できないにしても、当時の住民が、始めて尊によって文化の曙光を浴び、その後、星霜を経るにしたがって次第に融合して、やがては全く大和民族に化了していったものと思われる。
4 郷土の人びと
歴史というものは、断片的・突如的なものでは決してない。いつも一連のつながりをもって変遷しつつ新しい時代へと発展していくものである。
わが郷土大和に、先住民族が棲息するようになったのはいつの時代なのか、詳らかでないことは前にも述べたところであるが、日本武尊に関連をもつこの当時には、既にある程度の集落は形成されていたのではないかと考えられる。そして、その一つのまとまりとして、推測できる範囲に、深見・鶴間・草柳・福田・蓼川・深谷・寺尾・小園の諸村、すなわち、東は境川を限り、西は目久尻川を境となし、北は下鶴間から上草柳、南は福田の地域まで、東西約六キロメートル、南北約七キロメートルというかなり広範な地域をあげることができよう。そしてその集落の中心は郷土大和の旧深見村あたりではなかったかと思われる。
なぜなら、この地方は、後の『和名抄』でいう深見郷の範囲であって、はじめ、山麓の台地から低湿地帯を求めて移住してきた彼らにとって、定着の地としては、まことに恰好の地と考えられるからである。
大きな河川を利用して、灌漑をほどこす方法も知らなかった当時、彼等にとっては、湧水の豊富な、しかも、土地が比較的平坦な、この地を利用して、案外、多数の人たちが集団的に住みつき、その湧水を飲料水に用いるかたわら、そこの土地にその水を誘導して、稲作を行なうようになったと考えられる。
特に境川の西側は、日当たりもよく、生活用水も得やすいので、早くからここに住みつくことになり、時代の推移と共に、前面の低湿平野に水田を開き、背後の台地に畑を開いて農牧を営んだものと思われる。
しかし、この境川流域は、反面、地形上旱水害の苦労も並大抵のものではなかったものと考えられる。そこで彼等は、その生命や、生活の源であるところの、霊泉をあがめ尊び、また、旱水害の難に遇わないためにも、これを神として祭るという風習が自然に生じたことも推測されるのである。そして、それが今日でいう深見郷社の延喜式深見神社(相模の古社の中でも、この深見神社は、その鎮座地社地≠ェ動いておらず、また、論社でもないといわれている。)の起りではないかと思うのである。
5 深見神社のおこり
関東地方の式内社が、その起源は、大部分が、古墳時代にさかのぼることができるといわれているが、ここで、私は、郷土の深見神社について、少し触れておこうと思う。
二一代雄略天皇二二年三月に創祭されたと伝えられる延喜式の深見神社は、フカミという古い地名と共にすでに、古くから現在の深見部落にあって、前に述べた深見郷の範囲に及ぶ総社のような形で、存在していたのではなかろうか。
この深見神社の祭神は、もとは、クラオカミといわれ、竜神で、古来祈雨止雨≠フ神として信仰された祭神であったと伝えられ水に関係の深い神であった。当市史編さん委員の山崎忠義先生の語られるところによれば、大むかし、この土地に「たじの翁」という者がいて、はじめて深見神社を祭った。そのたじの翁は死後、当社の北の地に埋葬されたという伝説がのこっている。先年、当社の北側から甕棺(かめかん)が出土したことがあり、その中に灰らしき物が残っていたというのである。
三 東海道の成立
(一) 起源とその目的
さて、大和朝廷における東国の重要性は、崇神天皇の四道将軍派遣以来、いよいよ強まったが、日本武尊の東征という一大事業により、西国からこの相模地方にようやく一条の大道が開かれたのである。
その後、二七代安閑天皇の武蔵国の平定、崇峻天皇の東海道巡察等もあって東国に至る「海の道」東海道はさらに前進した。
そして、国造の任命、あるいは屯倉等の設置によって具体化され、当然の如く要人の往来、道路の整備なども行なわれた。『崇峻記』によれば、この頃は近畿以東の地は、東海道・北陸道・東山道の三道に分割され、「海の道」としての東海道は他の二道にさきがけて太平洋沿岸の諸国に通じていた。そして、これらの官道は大和朝廷の東国支配の要であったのである。いうなれば、巡察使の派遣、国造の任命と地方行政や民情の報告、あるいは、貢物・武器・軍馬等の上納、都城建設のための諸役の参加、救恤品の輸送等、いずれも大和朝廷が東国経営の目的をもって利用された。
(二) 五畿七道と大・中・小路
また、古代のわが国は畿内五か国と地方の諸国七道に分割されていた。五畿とは大和・山城・河内・和泉・摂津の五か国をいい、七道とは東海・東山・北陸・山陽・山陰・南海・西海の七道をいった。
のちに、これらの七道を結ぶ交通路は、その重要度によって、大路・中路・小路に分けた。大路は軍事的要衝の地と定め、山陽道とそれにつづく太宰府までの路であり、中路は東海・東山の二道で、これは蝦夷に接した地であり、また奥州開拓の拠点であったとも考えられる。それで他の支道は小路と定めた。
(三) 駅馬・伝馬の制と国郡制
つづいて、大化二年(六四六)には、国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬等の制が行われ、三〇里毎に駅を置き、往来の中継所とし、大路・中路・小路によって定められた数の駅馬が置かれた。また、これとは別に郡毎には伝馬の用意もなされた。このような駅馬・伝馬は中央と地方、地方相互間、あるいは地方とその下部における公用の連絡など、馬はこの時代における唯一の交通機関として用いられていた。この頃、わが相模国にも、国・郡が布(し)かれ、これまでは、相模川を境として、東を相武国、西を師長国、三浦地方を鎌倉別として三つに分かれていたのが、一つにまとめられて相模国となり、そこに郡が置かれた。高倉郡としての後の高座郡は、このときに生まれたのである。従って国は郡を統轄し、郡は里(郷)を治め、里は村を統べるという仕組みが生まれた。
なお、ここで触れておきたいことは、当時の相模国府庁のことであるが、その所在地については種々の説があって一定しないが、それ以前から既に一大勢力の中心地であり、丘上に古墳を残す旧高座郡海老名村国分あたりが最初の地ではないかと考えられ、それが後年の、天平から平安初期の間に大住郡に移り、再転して余綾郡に移ったものと思われる。
(四) 武蔵国の東海道編入
奈良朝末期の四九代光仁天皇宝亀二年の条に、「武蔵国は山道に属すと雖も、兼ねて海道を承く。公使繁多、祗供堪へ難し。其の東山道の駅路は、上野国新田駅より下野国足利駅に達す。此れ便道なり。而して上野国邑楽郡より抂げて五箇駅を経て武蔵国に至り、事畢りて去るの日、又同じ道を取り下野国に向う。今東海道は、相模国夷参駅より下総国に達す。其の間四駅、往還便近なり。而るに此を去り彼に就く、損害極めて多し。臣等商量するに東山道を改めて東海道に属せしめれば、公私所を得て、人馬息ふことあらん。」とある。
これによれば相模国は、もともと東海道に属し、その官道は伊豆の国府を経て、相模国府にいたり、下総国府に通じていたのであるが、武蔵国は東山道に属していたので新たに東海道に属させることに改めたのである。それは、東山道は官使の往来がはげしかった上に、武蔵国府に出るには上野国府から長い道を南に下らなければならず、さらに下野国府に達するには、同じ道を引き返さなければならないという不便さがあった。ところが東海道の方は、相模国の夷参駅から下総国へは、その間武蔵国内の四駅を経由するだけですぐ達せられる便があったからである。
そこで『続日本紀』が記す相模夷参より下総に至るその間の「武蔵四駅」であるが、『延喜式』諸国駅伝馬によると、武蔵国の駅は、店屋・小高(川崎市の西北部)・大井・豊島となっている。この四駅は武蔵国の東海道編入以前とあまり変っていないといわれているが、これらの四駅は後の鎌倉街道の道筋となったところで、郷土につながる道として、極めて重要な意義をもつ官道である。
(五) 夷参駅と浜田駅
さて、その夷参駅はどこにあったのであろうか。この夷参駅は、『和名抄』の相模国高座郡に記載されている伊参郷と同所であろうということは通説となっているが、この伊参郷は今のどこの地であるのか、異説の生ずるところであるが、大島正徳先生の説によれば「この伊参郷は今の有馬村(今日の海老名市有馬)の内本郷・中河内・上河内・杉久保等古来恩馬郷と総称された地域で、夷参駅は勿論この郷内にあったと信ぜられる。蓋し恩馬とは駅家の遺名に外ならぬからである。『新編相模国風土記稿』に、「口碑に伝ふ、此の地に伊勢外官騎馬の姿にて現じ給ふ。依りて御馬の唱へ起れり。其後今の文字に改む云々。」とあり、又一説には、寒川明神の御廐が置かれた処からオンマヤ郷の名は起ったとも伝えている。何れにもせよ駅家伝説であることに疑いはない、云々と説かれ、また、菱沼勇先生は、「現在の座間町(現在の座間市)がその遺称であると思われるから、夷参駅の位置は、座間市のなかの古い部落の座間入谷のあたりであろう。当時の相模国府は、高座郡の国分付近にあったから夷参駅はその北方一キロほどのところにあり、いわば、国府の関門にあたっていたわけである。云々」と説かれている。
また、更に浜田駅についても同様で、『延喜式』の兵部式に記載された相模国高座郡の浜田駅がどこであったかについては、いまだ定説がなく、座間付近とする説、海老名の字浜田の地をそれとする説、また、駅名に浜≠フ字がついているところから藤沢付近ではないかとする説もある。
四 寧楽の道
ではつぎに、奈良時代における東海道としての相模国内の道筋について述べてみたいと思う。
その前に、周知の通り奈良時代は、七代七〇余年というきわめて歴史的には短い期間であったが、物心両面から国力が充実した時代であった。都には東大寺がその偉容を誇り、諸国には国分寺・国分尼寺が建ちならび、また、文学の面では『古事記』・『日本書紀』についで『万葉集』が選述された。
しかし、それだけに裏側では、人々は国家的な事業に労役されて、肉体的にも精神的にも苦しんだ時代であったともいえよう。
そうした時代の背景の中で、相模国における国分寺の建立は、東海道を主道として、近郷近在はもちろん、遠く四方より物資が運ばれ、官使は往来し、また、老若男女を問わず、労役に馳せ参ずる人々で賑わい、寧楽の道は「国分寺の道」として栄え、従来の東海道は更に発展したものと思われる。
また、一方では周知のように、この時代は関東諸国においては、庶民が防人として、任地に赴いた時代でもあった。
草枕旅の丸寝(まるね)の 紐絶えば
吾(あ)が手と付ける これの針持(はるも)し
この歌は当時、この地相模国から防人として任地に就いたものの妻がよんだものといわれ、万葉集にのせられている歌であるが、わが郷土あたりからも、この防人に選ばれた者もあったといわれている。寧楽の道はまた、旅先きで紐が切れたら、この針で縫いたまえと、やさしい愛のきずなで送り出した「万葉の道」であったともいえよう。
(一) 相模国内の道筋
さて、足柄峠を越えると、日本武尊のころは、前にも述べたように、酒匂川の上流の山北付近で渡河し、矢倉沢古道を廻って松田惣領に達したものと思われたが、この時代にはすでに、酒匂川の氾濫原の陸地化が進んでいたと思われるので、矢倉沢から、川にそって関本(『延喜式』の坂本)に出、そこから東北の寒田神社のある松田惣領に出たものと考えられる。松田惣領から先の東への道筋は、箕輪・三ノ宮・下糟屋・小野・飯山など、日本武尊の時代の古道とほぼ同じであったと思われるが、飯山からは、東征の道と分かれ、ほぼ真東に進み、中依知のあたりで相模川を渡り、座間の入谷に入り、南下して、国府に達し、早川・寺尾・蓼川を過ぎて、旧草柳並木(この松並木は、戦時中厚木航空隊設置のため、当時伐採されて今はない)のすぐ北を通り、引地川の水源地を抜け、古老の伝える「あとみ坂」付近を上り、郷土深見神社の北の杜(もり)に通じたものと思われる。そこを過ぎ、境川を渡ると向かいはすぐ瀬谷で、そこから武蔵国へと達していたと考えられる。
なお、この「あとみ坂」について、古老の伝えるところによれば、当時、この辺一帯は鬱蒼(うっそう)たる樹木におおわれ昼なお暗く、その上せまく切り通された急な坂道であったために旅人等は淋しさのあまり、「あとを見るな、あとを見ないで急いでこの坂を通り抜けよ。」と語りつがれた難所の地であったという。
1 店屋駅の位置
ところが、ここで問題となるのは、店屋駅の所在であろう。中山毎吉先生の言によれば、「瀬谷は弘安五年九月十七日、日蓮上人が平塚を立ちて池上に至るの途次一宿せし所で、又、元弘の役に、石川義光が陸奥より来りて新田義貞の陣に馳参じた所である。更に天正年中には駅次の設けさえあったと云へば、古来この地が東西交通の要路に当って居たことに疑はない。『新編相模国風土記稿』所載の伝馬朱印状を以て信をとるべきである。云ふ、従瀬谷至干小田原伝馬壹疋無異儀可出之者也。御肴被遣御用。戊寅正月右宿中。(北条氏印)」と説かれている。
このことから考えれば多少駅間距離に問題があるにせよ、店屋駅が当時、瀬谷にあったという説も成り立つのではなかろうか。また、店屋の起りについても、これは、ミセヤと読み、上瀬谷・中瀬谷・下瀬谷を総じた、三瀬谷の意であるとの説もある。いずれにしても、深見から瀬谷に通じたこの道は、当時からすでに重要な一つの路線であったことは異論のないところといえよう。
一方、菱沼勇先生は、この店屋について「奈良時代においても、おそらく武蔵国の店屋であって、店屋は、マチヤとよみ、『延喜式』における武蔵国四駅の一であるが、現在東京都町田市のうち、鶴間の北の部落に町谷があるのがその遺称で、そこから、町田本郷・国師・小野路を経て、関戸付近で多摩川を渡り、小野の里に入って武蔵国府に通じたのであろう。」と説かれている。
もし、そうだとすると、浜田駅から東への道も、おのずと、前に述べた道とは異なり、途中の、蓼川・引地川の水源地あたりの北から分かれて、旧市役所の北を通り、下鶴間の宿部落を抜け、公所から町谷に通じていた古道(後の大山街道)も当時から利用されていたとも思われる。
そこで、考えられることは、わが郷土を通るこの二つの道は、おそらく、当時すでに複線的に発達し、旅行者の所用の目的によってそれぞれ利用されていたのではないかと思われるが、しかし、深見村には、「相模の古社」といわれる深見神社があり、これをおいて論ずることは、当を得ないものと思う。
2 深見神社と古道
相模の神社と交通路について考えてみると、式内社のほとんどが、古代の交通路に面していたことがわかる。このことは、当時から敬神の念にあつかった旅行者は、その旅行の途上で、神社に出会えばかならず参拝して、旅の危険や不安を除き、前途の安全を祈ったものと思われる。
また国司がその管轄下の国内を巡視するときも、中央の官使が地方に下向した時も、きっとそうであったと考えられる。
それらを考え合わせると、国府に近い郷土の深見神社は、後年『延喜式』の十三座に加えられるほどの格式ある碑社であってみれば一般・官使を問わず相当な参拝者があったものと推察され、国府から深見神社に通じたこの古道は当時、主要な官道であったと思われる。
幸い、ここに本年一月「御由緒」として深見神社の境内に建てられた一文があるので紹介しておきたいと思う。
御由緒
御祭神 武甕槌神
建御名方神
例 祭 九月十五日
当神社の創始は古く総国風土記によれば今より約千五百年前雄畧天皇二十二年三月創祭とあり朝廷より奉幣の事が記されてある。当時朝野遠近の崇敬篤く著名の社であった事が知られる。
其の後桓武天皇の五月を始め歴代国司より奉幣の事があり更に醍醐天皇の御代に制定された延喜式神社明帳に相模国十三座の社と定められ官社として扱われ国幣を奉られた。
毎年二月の御年祭には神祗官の奉幣が奉られこの地方土民信仰の中心をなしていた。
後世源頼朝・小田原北条・武田信玄を始め渋谷庄司重国・太田道灌等の信仰も特に篤く徳川時代に至っては旗本坂本小左衛門重安・寺社奉行坂本内記重治はしばしば参詣し社殿造営のこと亦社領寄進等古来武門武将の崇敬は鄭重をきわめるものがあった。
明治六年十二月太政官布告により郷社に列せられたるも同九年隣地仏導寺の火災に類焼し荘巌なる社殿工作物等悉く焼失した。
明治四十二年村内諏訪社を合祀し諏訪社の祭神は当社の相殿となった。
昭和十六年十一月当社殿が再建されたるも昭和二十年十二月神道指令により神社の国家管理が廃止され現在は神社本庁に属しこの地方遠近の崇敬者より御神徳を敬仰されている。
起草 富沢美晴
昭和五十二年一月
なお『相模国分寺志』によれば、瀬谷に至る記事として次のように書かれている。
「駅路は大住郡箕輪駅より愛甲郡愛甲の辺を経、鮎河即ち相模川を渡りて浜田駅に入り、国府に達し、更に出でて深見・瀬谷を過ぎ都筑郡に通じたのである。其古道は浜田より、打越・四十坂・国役奴と続いて今尚形迹(けいせき)を存している。」
更に付記として、「四十坂は今樵径となって僅に形迹を止むるに過ぎぬが、正保改訂図に歴然と画かれてあるを見れば、其頃は尚主要の道路をなしていたと知られるのである。更に古老の伝ふる所によれば、往昔はここに関門の設があって、銭四十文を徴し人馬の通過を許したといふ。古来の交通が忍ばれるのである。又国役橋は文字通り、国役を課して其工事を修めた遺名であるといふ、また由来を語るものの様に考えられる。次に『古風土記残本深見村の条』に、土産として鮒・鰻等を載せ、鱗類は官使の往反を待ちて其饗に充つと記してあるも、亦交通史料の欠を補ふに足らうと思はれる。」
このことからすれば、郷土深見村は、前に述べたように、幹線道路として重要な役わりを果たしていたばかりでなく、この地に産する魚類は、官使に差出す接待用の産物として、極めて重要な役目を果たしていたことも特記しておかなければならない。
3 その他の古道
以上は、当時の相模国の主要幹線道路、すなわち、東海道の主道について種々述べてきたのであるが、それ以外にも複線的、あるいは地方的な支道が各地にあったものと思われる。
中でも、比較的重要な支道として、松田惣領から南下し、千代に至り、小総駅経由で海岸を通り、余綾から箕輪駅へと抜ける道路がすでに利用されていたようである。また、これとは別に、海老名市の『郷土の史料』には、「当時は大住郡の箕輪駅より寒川の渡津を波って高座郡本郷の夷参駅を経て前記大谷浜田駅に至り、ここより瀬谷の店屋駅に出て、高津在の小高駅を経て多摩川を渡って武蔵より下総に達したのである。」と記るされている。
これによれば、相模川の渡河地点は、さきの中依知の地点よりはるかに南下しているし、また、古老の話によれば、「中新田には岡田街道といわれる旧道があって、直接に厚木の南端岡田から鮎川を渡って浜田駅に達していた」ともいう。
このように街道は、河川にゆきわたる場所では、どうしても軌跡が複雑となってしまう。それは、河川が時代により、時期により、天災により淵瀬をたえず変えてしまうからである。しかし、街道はその迅速性から考えればより直線的であることが望ましいのは当然のことであって、このことからすれば、当時すでに、箕輪駅から別に夷参駅・浜田駅へと向かう主要の街道が通じていたということも考えられないことはないが、ただ、沖積層地帯の奥深く入っていた入海が、この頃、どの程度まで減退し、それがまた、どの程度渡河に便を与えてくれたかが問題となろう。
安易な判断はできぬと思うが、おそらく、平安中期以後のことではなかろうか。なお、もう一つ重要な古道として、記しておかなければならないものに、上草柳から藤沢に至る、言わば、郷土を南北に縦断する支道が、古くからあったと思われる。この道は後の滝山街道と称する道筋と一部一致すると考えられ、上草柳から引地川の東沿いに渋谷・六会を経て藤沢に達するもので、それからは大体、東征の道順をたどって観音崎に出たものと思われる。
この道はまた、鎌倉時代に入り、もう一つの道、境川の西沿いに旧部落を走る鎌倉道と並んで、八王子−鎌倉間、あるいは小野路の府中−鎌倉間を結ぶ街道として、後世まで親しまれた道であったようである。
五 平安の道
平安の世は、五〇代桓武天皇が都を京都に遷してから、建久三年、源頼朝が鎌倉に幕府を開くまでの三九〇年間である。この時代の国内体制の大きな変化としては、律令体制がくずれ、貴族専制の政治が生まれ、公田制に代って、強大な庄園の発生をみたことである。
その結果、土地は皇族・貴族・寺社を中心に集中したが、やがて、その実際上の管理者である地方豪族を中心にして、武士階級が生まれ、これらの武士は逐次中央の支配者をおびやかしていった時代である。
さて、こうした時代の流れは、わが相模国にも大きな変化をもたらしたことは当然である。次に、その主なものについて考察してみよう。
前にも述べたように、奈良時代の繁栄は、実に仏教を中心とした国家興隆そのものであったが、この時代になると、相模国分寺を始め、その他の寺院等も、朝廷の手からはなれて、実権は武門の掌中に収められ、それに加えて、続く当時の天変地異と、戦乱によって相模国分寺を始め、各寺院は、いちじるしく混乱し、衰退した。
また、この時代になると、かっての大化の改新の制度は全く夢と化し、荘園の発達につれ、これを背景として、地方村落に成長してきた豪族、すなわち在家の領主層は、それらの村落を含む荘園の所有者である貴族層に、対立できるまでの実力を養い、その結果として、この中から後に武士の頭領が現われてくるようになってきた。
わが相模国では、糟谷・秦野・中村・曽我・渋谷・豊田・毛利・大江氏等は、武人から出て武士の頭領になって荘園を支配するようになった者達である。
中でも、渋谷氏はもと平氏の出身といわれ、郷土の旧深見地方を領有した武人である。天慶の乱で、平将門を討って功績のあった平良文の三代日の孫の基家は、いまの川崎市に任し、渋谷庄の庄司として実権を振ったといわれている。その子の重家は、父のあとをついだが、その子の重国が、渋谷庄に住んで在名をとなえ、渋谷重国と名のった。
その後、その子孫は渋谷庄の各地に分任し、綾瀬の早川・吉岡、海老名の大谷等、その地名をそれぞれ名のって、旧高座郡一帯をその配下におさめたということである。
つぎに、国府庁についてであるが、この時代の最終の地は前にも述べた通り、国府本郷であり、当時、南部海辺寄りに移行しつつあった東海道と共に惜寂の感をもつのである。
また、当時の神社仏閣の関係について述べると、古来仏教とは別に、日本人には敬神崇祖の念は極めて深く、民族制度と共に発達し「氏の神」を中心として、これを祭る氏族が団結した。また、それとは別に五穀豊穣を祈念するための「産土神」を祀ることも強かった。このため、この二つのものが、神社形態となって祭られた。ここで「相模古社」といわれる式内社について『延喜式』の神名帳に載せられてあるものをあげると、神社は大小合せて十三社が記録されている。
相模国十三座 大一座 小十二座
足柄郡一座 小 寒田稗社
余綾郡一座 小 川勾神社
大住郡四座 小 前鳥神社
小 高部屋神社
小 比比多神社
小 阿夫利神社
愛甲郡一座 小 小野神社
高座郡六座 大 寒川神社
小 大庭神社
小 深見神社
小 字都母知神社
小 有鹿神社
小 石楯尾禅社
これをみると、いずれも、当時の国府に近く、また、分布状態からすれば、一は大山山塊の麓であり、他の一つは相模川の東側の台地にまとまっていることがわかる。一方、寺院としては、大山寺・宝城坊(日向薬師)等があり、他の寺院(神武寺・玉禅寺・平間寺・影向寺等)と考え合わせると、当時既に、寺院は平地から山岳地に建立の傾向があったものと思われる。
なおこの時代の相模の道筋に設けられた関についてであるが、周知の通り、奥州の役出陣の際、源義光が豊原時秋に笙の秘曲を伝えた地として有名な、足柄関(醍醐天皇、昌泰二年九月一九日、太政官符)がある。
(一) 箱根路と二つの交通路
さて、足柄峠の道であるが、平安に入って間もない、延暦二一年(八〇二)に、富士の大爆発があり、従来の峠道はその砂礫によって、一時ふさがれてしまった。そのため、始めて箱根路が生まれ、ここに、乙女峠から仙石原を経て坂本駅に通じる道が開かれた。
しかし、従来の足柄峠の道も、間もなく復旧され、官道としての使用は廃止されても、そのまま、相模国と伊豆国とを結ぶ交通路として、一般の旅行者は、これを利用していた。
また、この頃になると、東海道としての相模古道は、入海の減退や国府の移動等もあって、南路がいちじるしく発達し、『延喜式』の時代には、相模国内の幹道は、その目的によって、北路と南路の二つの道がそれぞれ利用された。
1 北の交通路
まず、北路について述べると、箱根路を越えると、坂本駅である。
この坂本駅は、今の南足柄市関本の近辺であるといわれ、平安中期の駅伝制について、『延喜式』には次のように記載されている。
相模国
駅馬
板本 二十二疋。
小総・箕輪・浜田 各十二疋。
伝馬
足上・余綾・高座 各五疋。
これをみると、坂本は駅馬の数が二二疋となっており、他の三駅はいずれも一二疋で、その数は坂本が著しく多くなっている。これは、当時、難所といわれた足柄峠に対する配慮からなされた当然の処置と考えられるが、また、北の箕輪から来る者、南の小総駅から来る者、この二者が合流する地点であったため、馬の数も補強する必要があったものと考えられる。
坂本駅から箕輪駅への道筋は、前に述べた奈良古道とほぼ同じで、坂本駅から東北に酒匂川を渡って松田惣領に行き、四十八瀬の川にそって北東に進み、そこから東に、秦野・善波峠を経て箕輪駅に達したものと思われる。箕輪駅から東への道は、三ノ宮の国府に出て下糟屋を通り、高部屋神社のすぐ南を過ぎ、そこからは、以前の小野・飯山・中依知に通ずる古道は通らず(この時代になると、通路は大分直線的となる)成瀬・石田・愛甲を経て厚木に入り、ここで相模川を渡り、対岸の河原口に出たものと思われる。この相模川の渡河地点は、前に『郷土の史料』で述べた地点よりは少し北に位すると思われるが、この頃になると、相模川の流域の大部分が陸地化され、渡河することも比較的容易になってきたものと考えられる。
したがって、相模川沿岸には必要に応じた道路に随(したが)って、随処に渡河の場が開かれたものと推察できる。それだけにまた、この時代になると、幹線と支道との関係も複雑化され諸論の湧くところとなったのであろう。
ではつぎに、この頃から既に設けられていたといわれる相模川の渡河地点について述べてみたいと思う。
○当麻の地点 上依知・・・当麻
武州八王子地方から大山阿夫利神社に参詣に来る大山道で、当麻宿と上依知にかかるもの。当時から重要な交通路であったと思われる。
○猿ケ島の地点 猿ケ島・・・磯部
日本武尊の東征路となっているところで、後に大山脇往還として利用された。
○中依知の地点 中依知・・・座間新田
この地点は奈良古道の幹線道路として利用されたものと思われる。なお、新田という地名が示すように、後に農耕が開かれると村民の農道としても利用された。
○下依知の地点 下依知・・・座間四谷
古くから、下依知より金田の渡しにて反田に通じ飯山観音へ向かう道である。後に坂東観音霊場を廻る巡礼道の一つとなっている。
○厚木の地点 厚木・・・河原口
平安北路をささえる地点で、東海道の幹線として、また、矢倉沢道に通ずる重要な役割を果たしたところと思われる。『新編相模国風土記稿』には船五内馬船一を置くとあり後世までその重要さを物語っている。また、街道は宿内を南に向かい大住郡岡田村と酒井村の堺より西に向かっている。
○岡田の地点 岡田・・・社家
この地点は、次の戸田の地点と共に『郷土の史料』でいう、東海道の幹道と考えられるところであるが、西に向かって船子に出て長谷へ向う、大山街道脇往還の一つとして、後世まで利用されていたようである。
○戸田の地点 戸田・・・門沢橋
門沢橋と戸田にかかる大山街道の要路で、後に、戸田の柏尾よりこの道に入る地点となった場所で、広重の「戸田の渡」で有名である。
以上が大体当時の相模川渡河地点とその後の利用の模様である。
ここで私は再度、これに関連する当時の相模川の渡津について、先人の言を借り、その考察の手がかりにしたいと思うのである。
『相模国分寺志』によれば、「当時鮎河の渡津は、本村(海老名村)中新田と、対岸相川村岡田との間にあったと今尚伝へて居る。中新田には現に岡田街道と称する旧道の名残を止め、浜田の方向に向ひて通じて居る。愛甲は鮎河の義であるといひ、其の部内に船子の地名を存するなども亦渡津との関係が偲ばれるのである。昔は三浦介時明の子次郎時継が今の相川村に任して鮎河氏を称し、今又村名を相川と称するのも決して偶然ではない。
承和二年六月二十六日官符を下して、此の渡津に浮橋を架けられた。其の官符の畧に日ふ
一浮機二処。
駿河国富士河
相模国鮎河
右二河、流水甚速、渡船多レ難、往還人馬損没不レ少、仍造二件橋一。如聞、件等河、東海道之要路也。或渡船少数、或橋梁不備。因レ茲貢調澹夫等集二河辺一、累日経旬不レ得二渡達一。彼此相争、当事二闘乱一。身命被レ害、官物流失。宣下下二知諸国一預二大安僧傳燈住位 僧忠一一依レ件令中修造上講読師、国司相共検校、浮橋料以二急救稲一充レ之、一作之後、講読師以二同色稲一相続修理、不レ得レ令二損失一。
附記。大日本地名辞書には、この浮橋が当麻の渡口にあったと説いてあるが、それは往年ここに浮島と名づくる小島があった処から付会した説に過ぎないのである。」とある。
これによれば、当時東海道の要路として相模川に浮橋が架けられたこと、また、それに関連する事柄等についてはわかるものの、その渡津の地点となるとなお問題はあるように考えられる。
さて、話を前の交通路にもどすと、私は一応その渡河地点を河原口とし、そこを主要幹線道路と考えたのであるが、確証が得られたわけではなく、ただ、元慶の頃には既に国府も他に遷されていたと考えられるし、『延喜式』にも夷参駅のことはないので、波河の条件さえ整えば、街道の迅速性からいって、よ直線的となるので、この辺りではないかと考えるのである。
河原口から従来の古道を東に進めば、郷土の深見神社に出るが、それから先の小高への道は奈良時代とほぼ同じであったと思われる。
ただ、ここで記しておきたいと思うのは、時代の遷り変りと共に武蔵国府への道は、この深見経由の道を通らず、次第に下鶴間経由の街道が利用されるようになったと推測されることである。
2 南路の交通路
では、次に南路について述べてみたいと思う。そこで、まず、坂本駅から小総駅へと通じる道であるが、この時代の道筋については前期と後期に分かれ、二つの道筋が考えられると思われる。すなわち、奈良朝の末期から平安前期にかけては、おそらく、今の関本から松田惣領まで、ななめに東北に進み、酒匂川を渡り、余綾丘陵の西裾を南下して、かって師長国の国造所在の地といわれる千代を通り、小駅に達したものと思われる。
ところが、平安朝も後期になると、北の松田を経由するという迂廻の道を通らず、その頃すでに陸地化しつつあった、酒匂川下流地域を利用し、坂本から直接東南に向けて通行し、飯泉の対岸あたりで酒匂川を渡り、飯泉を抜け、小総駅に達したものと思われる。
千代には、四八代称徳天皇の頃建てられたといわれる、弓削寺の観音堂があったが、平安時代になって、この飯泉に移転したものといわれている。これは、千代が主要の交通路でなくなり、さびれつつあったために、新たに開かれた飯泉に移したものと思われ、当時の交通路の変遷を物語るものといえよう。
さて、この小総駅から東への道は、だいたい海岸にそって進み、押切川を渡り、六所神社のある余綾国府に達し、大磯からはやや北東の方向に道をとり、花水川を渡って、平塚の前鳥神社に出、大庭を経て、藤沢に達したものと考えられる。菱沼先生は、この頃の「浜田の駅」は、前にも述べたように、浜の字がついているので、この藤沢の海岸に近いところにあったのではないかと説かれている。
ところで、藤沢から東への官道であるが、一方は境川にそって店屋駅に出、従来の武蔵国への道を通ったことも考えられるが、『延喜式』のころになると、多摩川の矢口の渡船設備やそれに伴う道路の整備も行われるようになって、道は直接東京湾沿岸地帯を通り、いわゆる東山・東海両道の連絡として、相模と下野、または常陸と奥州方面を結ぶ路として発達したように思う。また、この経路は、防人たちによって、かなり古くから利用されていたともいわれている。
3 南路の発達
以上、この時代の南北二つの道について述べてきたが、これらの道は、それぞれ所用の目的によって利用され、相模国府、または、武蔵国府に関係のある官使は北路を通り、また相模・武蔵の国府には用がなく、下総・上総・常陸などの国府に行く者、更にまた、これらの国から直接上京する者は南路を利用したものと思われる。
ただ、平安も中期以後になると駅馬の制も廃れたし、旅をするものは、村々の寺社や豪族を頼って便宜を得なければならない時代へと転換しつつあったので、今ままでのように、一定した道というものはくずれ、道順は大きく変化したものと推察されるのである。
このことは、治安元年、菅原孝標の女の記した、『更級日記』にも現れ、変遷した東海道がよく叙景されている。また、この日記には、一向、駅家のことが書かれていないことも、時代の趨勢(すうせい)を物語るものといえよう。
このようにして、かっての相模国東海道は、往年のおもかげは消え、道は次第に南部地区に移り、やがて、鎌倉時代に及ぶと、鎌倉を中心として西への交通路が開かれ、いままで古代東海道の官道として栄えた郷土大和にもそれに変って、いく筋かの鎌倉街道が開かれることとなるのである。
おわりに
大山街道 とぶ鳥は 三の木 さくら
羽根が一六 日が一つ 五葉松 やなぎ
一の木 二の木 ・・・ ・・・
相模野に生まれ、相模野に育った私は、子供の頃、真赤に夕焼した街道で、陽が阿夫利の山に落ちるまで歌いつづけたわらべ歌≠ヘ今も忘れない。
また、そのころ、祖父や祖母から聞かされた古い街道の名やそれにまつわる昔話も、いくつか覚えている。それは、川あり、谷あり、雑木あり、並木ありの、落葉を敷きつめたような細い径や、深く切り通された淋しい坂道で・・・。子供心にも、私たちの遠い祖先の人々が、いかに久しい間この道を歩きつづけてきたのであろうか、そして、その土地との因縁の深さを思うにつけ、郷土に対する大きな愛着を感じていたのであった。
それがわずか三〇〜四〇年の間に、郷土は著しく変貌してしまった。歴史というものは、いつも一脈のつながりをもって変転していくものと聞かされているが、これほど、急激なテンポで変動を極めた時代は過去にあったであろうか。
ここに、私はこの小文を起稿するに当たり、耳なれた街道のある村里を歩いたのであるが、求めようとする樵径はとだえ、私に教えてくれたものは、文化的産物によって生み出された、時代の流れの大きい変化のみで、人馬の通過を許した古来の交通路は偲ぶ由もなかった。
当然、古代ともなれば、たとえ五〇年・一〇〇年以前であったとしても、当時の街道がそのままの姿でもろうはずはないのだが、そこから生まれ、幾度かの時代の変遷を経て、身近なものとして親しまれた、子供のころの古道がせめて、そのままの姿であったならと願い、一方ではまた、遠い古代からの文化的遺産の上に造成された現在の交通路の至便さを、いま更のように驚悦した心の矛盾を禁じ得ないのであった。
幸い、先人の業績や、近郷の方の郷土的文献も多く参考にさせていただき、また、古老や先輩知人の方々のご協力を少なからずいただくことができ、浅学な私にとっては、この上ないよろこびであって、ここに、心から感謝申し上げる次第である。
石野瑛先生は、「郷土の観念は、三つの場合から観念づけられる。その一つは、人は祖先の地にて、その人も生まれているので当然その地は郷土である。第二は人は祖先の地で生まれたものの、その地を出て現在の地にて生活している人で、彼はいわば二つの郷土を所有しているという。第三は祖先の地では生まれず現在の地にて生業をしている人で彼も又二つの郷土をもっているのだ」と述べられている。
私たちの住む郷土は、こうした人々によってはぐくまれてきたし、今後もまたそうであらねばならない。とすると、私たちの研究する郷土の歴史も、いたずらに過去のものに幻惑されることなく、「故きを温(たず)ねて、新しきを知る」という飛躍発展への糧として汲取っていかなければならないものであろう。
どうか、今後とも、郷土の方々のご叱声やご意見をお聴かせいただき、ご教導賜わらんことを・・・。  
 
関東の河川史

 



鬼怒川
利根川東遷事業の一環として、鬼怒川は小貝川と分離され、守谷市大木地先で利根川に合流するように河道が開削されました。
鬼怒川は、栃木県と群馬県との堺の鬼怒沼を水源とし、本川流路延長177kmを経て茨城県守谷市において利根川に合流する一大支川です。その流域は栃木・茨城両県にまたがり、全流域面積は1,761km2に及びます。  今から約1000年前の鬼怒川は、日光の山奥から流れ出て、茨城県下妻市から谷和原村の間で二手に分かれ、一方は東に向いて今の糸繰川を通じて小貝川に合流し、もう一方は現在の鬼怒川河道を南下した後、谷和原村細代から東流して杉下で小貝川と合流し東南に流れ、龍ヶ崎を経て常陸川(今の利根川)に合流していました。始めに鬼怒川と小貝川の分離工事に着手したのは、伊奈忠次です。忠次は、徳川家康に登用された幕府代官頭、後の関東郡代であり、この分離工事は、利根川東遷事業の一環として行われました。忠次が下妻市の南に堤防を築いたことにより、鬼怒川と小貝川の間を流れていた豊田川、大川(おぼがわ)の水位が下がって、周辺に広がっていた沼地は次第に少なくなりました。忠次の息子の忠政や忠治の時代になって、谷和原村寺畑から大山・板戸井の間の台地を切り開いて、延長約8kmの新しい河道を作り、鬼怒川を守谷市で常陸川(今の利根川)に合流させる工事が行われ、鬼怒川と小貝川は完全に分離されました。これにより、合流部下流に広大な一大沼沢地を形成していた谷原領、大生領一帯の新田開発が可能となったのです。さらに、鬼怒川筋では奥州会津地方などからの物資運搬路としての舟運が発達しました。
那珂川
自然河川の形態が長く続き、洪水が起きてもその被害を逃れるため人々は川の近くの高台に住んでいたが、近年の都市化により、川近くの低地にも住むようになり、洪水被害を受けるようになった。
那珂川は自然豊かで表情豊かな河川です。那珂川の氾濫した洪水は周辺の土地を浸水させ大きな被害をもたらしましたが、一方で洪水の去った後には洪水の残していった土砂の堆積等により、豊富な農作物が収穫でき農業が発展してきました。そのため、人々は洪水の被害から逃れるため周辺の高台に住み、難を逃れて生活して来ましたが、水戸市・ひたちなか市では開発が進むなかで、川の近くの低地にも生活の場が広がるようになり、近年の出水では大きな浸水被害を受けることになりました。
1昭和61年 浸水区域面積4,117ha 浸水被害戸数3,580戸
2平成10年 浸水区域面積1,726ha 浸水被害戸数1,011戸
3平成14年 浸水区域面積 411ha 浸水被害戸数 18戸 *内水による。
現在では、昭和61年洪水を機に築堤事業、掘削事業等の整備が進められ、浸水範囲は年々減少してきています。
久慈川
水戸藩の穀倉地帯として開けた久慈川沿岸では、度重なる洪水の被害から逃れるため、文久2年(1862)に竹林による水害防備林の整備が始められ、現在でも多数の地区で残存しています。また、その他にも霞堤・水屋などの洪水との戦いの歴史が残されています。
水戸藩(徳川光圀:水戸の黄門様で有名)の穀倉地帯として開けてきた久慈川沿岸では、江戸の昔から度重なる洪水被害を受け、木村弥次衛門という人が、「竹の根が洪水にも流されず、強いのに気づき堤防に竹を植えた」のが久慈川での水害防備林の始まりと言われています。竹林は、当時水戸藩によって「御立山」(おたてやま)として保護されてきたと記録されています。現在でも、久慈川流域には河口から上流域までの間で、12ヶ所の水害防備林が残っています。現在、この水害防備林はほとんどが民有地となっています。それらは、各地域の組合組織で管理されていましたが、中には管理の手が行き届かない箇所も見受けられ、堤防の整備が進められてきた現在では、「低水護岸の保護・堤防への水当たりの減勢(水の勢いを弱める)・洪水流とともに氾濫源へ流れ入る土砂の抑制」と言った当初の目的以外に、洪水流の流れを阻害している等の好ましくない要素を持つようになってしまった箇所もあります。それらは、今後の河川整備を進めていく中で、一般の方々の意見も参考にしながら、歴史的な治水資料として保存して行かなければならない地区・安全に洪水を流下させるために伐採整理して行く地区、に分けて管理していくことが必要と思われます。また、久慈川本川の大宮町富岡橋付近や支川の里川には、「霞堤」と呼ばれる堤防が連続していない箇所があります。これは、洪水流を逆流させて水の勢いを弱めたり、上流部で堤防を超えた氾濫水を川にスムーズに戻したりと言った目的で造られました。このように、昔からの工法が現在でも流域の安全を守るため活かされています。
渡良瀬川
1 江戸時代から陸上交通網が整備されるまで物資輸送の動脈として栄えた渡良瀬川。
2 織物の町(桐生・足利)を支える渡良瀬川の水。
3 麺の町(佐野・館林・太田・桐生・足利)を支える渡良瀬川の水。
1 渡良瀬川における舟運
近代になって陸上交通網が整備されるまで、渡良瀬川は、大切な物資の輸送手段でした。江戸時代においては、年貢米の輸送などを目的として河川改修工事と合わせて舟運網の整備が進められ、江戸時代中期には、整備された河岸は、16箇所にのぼり流域各地から、米や薪炭・木材、葛生方面から石炭、桐生・足利の織物などを江戸方面へ運搬していました。明治に入ると、佐野越名河岸と両国との間に蒸気船「通運丸」(全長約63m、幅約12.6m、約65人収容)が就航し、旅客輸送が本格化し、鉄道が整備されるまでの間、両毛地区(桐生・足利・佐野・栃木)から東京へ向かう客の足となり活躍しました。また、足尾鉱毒の被害を訴えた田中正造も東京に向かうのに利用したという話も残っています。
2 織物の町 桐生・足利 を支えた渡良瀬川の水
桐生は、江戸時代「西の西陣」・「東の桐生」と並び称される織物の町として有名なところです。また、足利の織物は、鎌倉時代にかかれた随筆「徒然草」にも出てくるほどの古くからある地場産業となっています。織物は、渡良瀬川の豊富な水を用い染めた糸や布を洗い、織物を仕上げるというのが大きな特徴であり、渡良瀬川は、近年まで地域の基幹産業を支えてきました。なお、近年では、化学染料の発達及び機械化により、観光用としての『友禅流し』を残すのみとなりました。
3 麺の町と共に歩む渡良瀬川
渡良瀬川の流域には、佐野ラーメンをはじめとして、館林・桐生のうどんなど麺づくりがさかんなところです。湿度の低い冬と内陸型の蒸し暑い夏が、良質な原材料である小麦の生産に適すると共に、日本名水百選にも数えられる「出流原弁天池」のわき水始め、渡良瀬川流域の良好な水環境によることが考えられます。
烏川
江戸時代、倉賀野河岸は、中山道の宿場町であるとともに、利根川最上流の河岸として繁栄しました。烏川の舟運は、江戸からの物資の輸送だけでなく、江戸文化も西上州や信州、そして越後へと伝える役目を果たしていました。
利根川に通じる烏川の舟運は、江戸からの物資を内陸部に運ぶだけでなく、江戸文化をも西上州や信州、そして越後へと伝える役目を果たしていました。時を重ねるごとに、信越方面の諸大名に献上する廻米や物資を積み出す河岸として次第に成長していきました。上野国内に開設された約40ヵ所の河岸の中で、代表的なのが倉賀野河岸です。ここは中山道の宿場町であるとともに、利根川最上流の河岸でもあることから、江戸を往復する荷船で、終日活気にあふれていました。舟運により各地に産物が江戸へ、江戸からの日常品が地方へと流れるようになり、その最盛期には、米300俵積みの大船を含めて、150艘余りの船を数えたと言われています。その取り扱い荷物は、主に上りが塩・茶・小間物・ぬか・干鰯・綿・太物類で約2万2千駄。下り荷には、米・大豆・麻・紙・たばこ・板貫類等、約3万駄にも及ぶ船荷が、たくさんの人足とともに往来していきました。恵まれた地理条件や組合組織による商いの独占などによって繁栄した倉賀野河岸も、時代の流れと自然現象には、抗することができず次第に衰えていきました。まず第一に1783(天明3)年浅間山の砂降りで、川は浅くなり、安全な運行をはかるための船道をつくるには、あまりにも膨大な費用を要しました。第二に、享保年間ごろから、領主米の払い下げが盛んに行われるようになり、各地で米の市場が発達し、河岸への出荷数が次第に減少していきました。そして第三に、高崎線の開通によって衰退の一途をたどっていきました。
小貝川
小貝川には、中下流部に関東の三大堰として有名な福岡堰、岡堰、豊田堰があり、約1万haの農地をうるおしています。
小貝川は、栃木県那須郡南那須町大赤根の山地に源を発し、南下して五行川および大谷川を合わせ、茨城県水海道地先で流向を南東に変えて、茨城県北相馬郡利根町押付新田地先で利根川に合流する利根川の主要支川で、その本川流路延長は112km、全流域面積は1,043km2です。江戸幕府の利根川東遷事業の一環として行われた鬼怒川と小貝川の完全分離と新河道掘削によって鬼怒・小貝両川の氾濫源であった谷原領、大生領一帯の新田開発が可能となりました。小貝川では、伊奈氏によって、福岡堰、岡堰、豊田堰が設けられ、「谷原領三万石」「相馬領二万石」などと呼ばれる新田地が誕生しました。これら三堰は、その規模とこの時代を代表する溜井方式の堰として関東有数のものです。また、伊奈氏の治水・利水工法は関東流とも呼ばれ、江戸時代を代表する土木技術です。小貝川は、流域の86%が平野であり、河川の勾配が緩いため、洪水の継続時間が長く、氾濫時の出水が引きにくい、利根川本川からの逆流の影響を広く受けてしまうという特徴を有しています。利根川本川の影響を受けた最たるものが昭和56年の洪水であり、小貝川単独での出水は小さかったものの、利根川本川からの逆流により龍ヶ崎市高須地先において堤防が破堤し、浸水面積3,396ha、浸水家屋5,847戸の甚大な被害を受けました。また、河川勾配の緩いことが最も影響したのが、昭和61年8月洪水です。台風10号による集中豪雨で24時間雨量300mmという記録的な集中豪雨に見舞われた小貝川が破堤に至ったのは、台風一過で快晴という天気の下でした。雨が上がった安堵感につかっている人々の目の前で、小貝川の水位は留まる気配を見せずに上昇し、ついには明野町赤浜地先で溢水し、氾濫水が流域を襲いました。無堤地区からも濁流が流れ込み、下館市の約1/4が浸水しました。さらに下流の石下町において漏水から堤防が決壊するに至り、被害は4,300ha、浸水家屋4,500戸に及びました。この災害を契機に、被害の大きかった母子島(はこじま)地区を遊水地に造成するとともに、その地区内に点在していた5集落を集団移転させ、遊水地内に新しい町をつくるという全国でも例のない改修事業を行いました。
霞ヶ浦
霞ヶ浦周辺地域は利根川の東遷によって、洪水の増加や湖水の淡水化などの大きな影響を受けました。また、水運や漁業についても霞ヶ浦独自の発展をしました。
湖名の由来
霞ヶ浦は8世紀半ばに書かれた「常陸国風土記」には流海、また「万葉集」には浪逆の海という名で出ています。流海は高浜の海、佐賀の海、信太の海、浪逆の海、香取の海、榎浦、安是の湖の総称でした。平安時代は鹿島灘の外の海に対して、内の海とよばれていました。これらの名が示すように海であり、その入江となっていました。鎌倉時代は 内の海のうち高浜の海、佐賀の海、信太の海、行方の海を合わせて「霞の浦」ともよんでいました。これが霞ヶ浦の名の起こりです。
歴史的治水事業(利根川の東遷から居切堀の完成へ)
江戸時代の初め東京湾に注いでいた利根川を現在の銚子を河口とする川筋に瀬替えしました。これが俗に言う利根川の東遷です。これにより利根川の下流から霞ヶ浦一帯は洪水の常襲地域となりました。特に天明3年の浅間山大噴火による土砂の流入によって利根川の河床が上昇してからは少しの出水で水害を受けるようになりました。これに対処するために北浦から鹿島灘への放水路が計画され、明治の初めに居切堀として竣工しました。今はその一部が鹿島港に姿を変えています。
水運(江戸時代〜現在)
霞ヶ浦・北浦一帯は古来より水上交通が盛んでしたが、江戸の発展と共に東北地方からの物資輸送が盛んになり、その舟運ルートとして利用されるようになりました。明治になると蒸気船が就航し、水上交通はますます盛んになっていきました。ところが、明治29年の常磐線の開通を封切りに鉄道の整備が進み、またその後バスやトラックなどの陸上交通も登場し、水上交通は幹線輸送の手段としては鉄道・自動車に主役を譲りました。しかし、ローカルな交通手段としては、水泳客や観光客の輸送手段として昭和40年代まで舟運が利用されました。今でも、潮来のアヤメ祭りの季節等にはサッパ舟が行き交う等、観光客を楽しませています。
漁業の変遷(霞ヶ浦の風物詩〜帆引き船〜)
霞ヶ浦が入り海であったころは黒鯛、スズキ、蛤といった海産の魚種が多かったことが「常陸国風土記」に記されています。しかし、江戸時代以降は利根川東遷により霞ヶ浦が淡水化してきたため、コイ・フナ・ワカサギ・シラウオなどの種類にかわってきました。この豊富な水産資源を管理するため江戸時代の霞ヶ浦・北浦では、霞ヶ浦四十八津、北浦四十四津と呼ばれる自治組織が霞ヶ浦を入会管理(共同管理)していました。これらの結束を強化するために従来の漁業の慣習を明文化した「霞ヶ浦四拾八津議掟書」は入会で漁をするときの漁具、漁法、漁期の制限について規定し、これにより漁業資源の保護が図られ、湖の秩序が維持されました。明治に入ってから地元の漁師によって大徳網漁や帆引き漁という霞ヶ浦独特の漁法が考案されました。特に帆引き漁は少人数での操業で大量の漁獲が得られたためワカサギ・シラウオ漁に用いられて広く普及し、帆引き船が浮かぶ独特の景観は霞ヶ浦を代表する風物詩ともなっていましたが、現在は観光用に運行するのみとなっています。
神流川
神流川は、三国山にその水源を発しています。かつてこの地域では、木材の供給が盛んであり、戦前から戦後にかけて多量の木材を都市圏に供給していました。また、烏川と神流川の合流点は、滝川軍と北条軍の戦い「神流川合戦」が行われたり、「神流川の渡し場」が開設される等、歴史上重要な地点となっています。
神流川の源は、群馬、埼玉、長野の県境が接する三国山にその水源を発しています。かつてこの地域では、木材の供給が盛んで、神流川本谷と呼ばれる流域にまで、森林軌道が敷かれ、戦前から戦後にかけて多量の木材を都市圏に供給していました。その当時は、本谷の最奥の地に上野村分校が開かれ、現地で集材に関する人々や児童でにぎわったこともありました。烏川と神流川の合流点は、歴史上昔から現在に至るまで、重要箇所となっています。戦国の時代、この地は、織田信長の家臣であった滝川一益と小田原北条氏との総勢7万の大軍による壮絶な戦い「神流川合戦」の戦場となりました。天正10年(1582)、織田信長が本能寺の変にたおれた直後、関東管領として北関東を制圧していた廐橋城(いまの前橋)城主滝川一益は、上州軍を率いて京都に上ろうとしました。これに対して小田原の北条氏直、武州鉢形城主北条氏邦の連合軍が阻止しようとし、滝川軍16,000と北条軍50,000が激突しました。戦場は現在の神流川付近が中心となったので、この戦いを「神流川合戦」と呼んでいます。戦争は北条方の勝利におわり、滝川軍は斬首約3,760余級(豆相記)と伝えられています。「氏直、検視し此の地に埋蔵す、よって首塚の名あり(口碑)」岡之郷にはその胴塚があり、首実見したこの地を実見塚(字名)といいます。現在でも、新町ふるさと祭りにおいて、この勇壮な歴史絵巻が再現されています。江戸の当時、上里町には上州と武蔵の国を分ける、神流川の渡し場が開設されていました。川には橋を架けない政策があったため、川の向こう岸に行くことは困難でありました。英泉の浮世絵からも、半分橋が架かっていて、残りの半分を渡し船で渡っていた様子がうかがえます。
中川・綾瀬川
利根川の東遷事業により洪水の危険が軽減された後の中川・綾瀬川流域の低地帯は地形を生かした灌漑排水網が整備され新田開発が行われました。中川沿いの集落の多くは、中川沿いに集中しており、自然堤防を利用することで少しでも洪水の危険性から逃れつつ、舟運を利用し、集落を形成していました。この地域は河川との深い関わりの中で人々の暮らしが営まれてきたことから、現在も「水」や「川」に因む地名が多く見られます。
中川
中川は、埼玉県羽生市を上流とし、大落古利根川、元荒川、大場川などの多くの支川を集めて南下し、東京都葛飾区の蛇行区間をへて、綾瀬川と合流、上平井で荒川と平行して流れ、江戸川区で東京湾に注ぐ、流路延長84km、流域面積約1,00km2の一級河川です。中川の支川が、古利根川、元荒川というところからもわかるように、中川は、江戸時代初期まで利根川や荒川の本流でした。その後、江戸時代初期に行われた、利根川の東遷などの事業によって本流は移動、流量が減った旧流路はおもに用・排水路として使われるようになりました。特に支川の大落古利根川は、葛西用水の一部です。葛西用水は、現在の埼玉県羽生市本川俣から利根川の水を取水し、途中古利根川、逆川をへて、末端は東京都足立区までつづく全長約40km(主流路長)の用排水路です。1600年初頭、利根川東遷以降主に関東代官伊那氏一族によって開かれたと伝えられ、現在でもなお中川左岸一帯を灌漑しています。この葛西用水および1700年代中期に開かれた見沼代用水等の用排水水路の開発によって、新田の開発が可能となり、流域は河川が蛇行を繰り返す低湿地から、「江戸の米倉」に変化し、100万人都市・江戸の生活を支えました。中川流域は標高10m以下の低い地域が占める割合が多く、古来から多くの洪水に悩まされてきた地域でした。利水と洪水防御を両立させるため、人々は生活の知恵を絞っていました。
この模型は、現在の東京都葛飾区東水元一帯に位置していた上小合村の集落を、古地図を元に復元したものです。この図から、流域の人々の暮らしがしのばれます。まず、人々は中川の旧河道を締め切り小合溜井(ため池)とし、農業用水(上下之割用水)の水源としていました。次に堤防を築き、洪水の被害をうけやすい溜井側には畑を、安全な堤防の内側には田んぼと住居を築き、暮らしていました。また、小合村周辺をはじめとした中川中流域には、水塚と呼ばれる水防建築も残っています。水塚とは、水防のために高く土盛りし、その上の建物をたてた水防建築で、洪水時に逃げるための舟まで軒先につるしてありました。このように、中川流域の人々は繰り返す洪水に対応しながら生活を営んできました。
綾瀬川
綾瀬川は、埼玉県桶川市を上流端とする一級河川で、草加市で古綾瀬川を、東京都と埼玉県の県境で伝右川、毛長川を合わせ、葛飾区で中川と合流しています。綾瀬川は江戸時代以前には、荒川の派川であり、大河であったと考えられています。しかし、1600年代初頭に伊奈備前守忠次により、荒川分流口に堤(備前堤)が築かれ、荒川と分離され、以降農業の用・排水路としての役割を担うことになります。綾瀬川の一帯は、中川と同じく標高10m以下の地域が大半をしめます。現在の草加市一帯も、かつては一帯が低湿地で、人々は綾瀬川や中川が運んだ土砂が堆積してつくられた、自然堤防の上を行き来するしかなく、江戸時代初期は、おもな交通路はありませんでした。江戸時代初期の1630年頃、草加は日光街道の宿駅となり、本陣、脇本陣を持つ宿場となりました。この街道と宿場の発展とあわせ、大雨ごとの洪水被害をなくすことと、農業用水の確保や舟運に使うために、綾瀬川や伝右川などの整備も行われたともいわれています。現在、草加市内には草加松原と呼ばれる1.5kmほどの旧街道と綾瀬川が平行して流れる区間があります。ここは、江戸時代の整備後松が植えられたといわれ、今も樹齢200年程度と言われる松並木は残り、綾瀬川の代表的な風景として、人々に親しまれています。


利根川
江戸時代以前の利根川は、現在の東京湾に注いでいましたが、たび重なる洪水から江戸を守るため、徳川家康によって流れを東に替え大平洋に注ぐようにする大治水工事を行いました。これを「利根川の東遷」と言います。
古来、利根川は大平洋ではなく、現在の東京湾に注いでいました。現在のような流れになったのは、数次に渡る瀬替えの結果で、近世初頭から行われた河川改修工事は「利根川東遷事業」と呼ばれ、徳川家康によって東京湾から銚子へと流れを替える工事が行われました。東遷事業の目的は、江戸を利根川の水害から守り、新田開発を推進すること、舟運を開いて東北との経済交流を図ることに加えて、伊達政宗に対する防備の意味もあったと言われています。工事は徳川家康が伊奈備前守忠次に命令し、1594年会の川締切を皮切りに、60年の歳月をかけて、1654年に完了しました。
川名のルーツ / 「トネ」の語源についてはいくつかの説があります。
1 アイヌ語で、巨大な谷を意味する「トンナイ」に由来する。
2 同じアイヌ語で沼や湖のように広くて大きい川を意味する。
3 水源地の辺りには、尖った峰、すなわち利き峰が多く、それが略されたものである。
4 等禰直(トネノアタイ)あるいは、椎根津彦(シイネ(=トネ)ツヒコ)という人名に由来する。
5 水源の大水上山の別称、刀嶺岳、刀根岳、大刀嶺岳に由来する。
などですが、定説はありません。なお、利根川の名称が出てくる最初の文献『万葉集』には、「刀禰(トネ)」と記されています。また、利根川は坂東太郎とも呼ばれ、これは坂東(関東)で最も大きい川であり、日本の川の長男、つまり日本の川の代表であることを意味しています。
荒川
利根川の東遷、荒川の西遷 / 江戸時代の寛永六年(1629)に、洪水防御、新田開発、舟運開発等を目的に、荒川から利根川を分離する付け替え工事が行われました。後世「利根川の東遷、荒川の西遷」と呼ばれる河川改修です。
荒川放水路物語 / 明治43年の大洪水を契機に、東京の下町を水害から守る抜本対策として、延長22km、幅500mの「荒川放水路」の開削を行いました。
横堤の建設 / 明治40年並びに43年の大洪水を契機に、洪水時の治水効果を高める目的として、通常の堤防に対し直角方向に築かれた「横堤」と呼ばれる堤防が26本建設されました。
現在の荒川の流路は、江戸時代初期に行われた土木事業によってその原型が形づくられました。江戸時代以前の荒川は、元荒川筋を流れ、越谷付近で当時の利根川(古利根川)に合流していました。荒川はその名のとおり「荒ぶる川」であり、扇状地末端の熊谷付近より下流で、しばしば流路を変えていました。関東平野の開発は、氾濫・乱流を繰り返す川を治め、いかに川の水を利用するかにかかっていました。江戸時代の寛永六年(1629)に、伊奈備前守忠治(いなびぜんのかみただはる)が荒川を利根川から分離する付け替え工事を始めました。久下村地先(熊谷市)において元荒川の河道を締め切り、堤防を築くとともに新川を開削し、荒川の本流を当時入間川の支川であった和田吉野川の流路と合わせ、隅田川を経て東京湾に注ぐ流路に変えたのです。以来、荒川の河道は現在のものとほぼ同様の形となりました。後世「久下の開削」とも「利根川の東遷(とうせん)、荒川の西遷(せいせん)」と呼ばれるこの河川改修事業は、埼玉平野の東部を洪水から守り新田開発を促進すること、熊谷・行田などの古い水田地帯を守ること、木材を運ぶ舟運の開発、中山道の交通確保、さらに江戸の洪水の防御などを目的にしていたと言われています。これにより埼玉東部低湿地は穀倉地帯に生まれ変わり、また、舟運による物資の大量輸送は大都市・江戸の繁栄を支え、江戸の発展は後背地の村々の暮らしを向上させていきました。
江戸川
江戸川流域は、17世紀の江戸幕府に始まる400年間の治水事業の積み重ねにより、かつての湿原地帯から、東京の東部としての高度な土地利用を見る現在の姿に変貌しました。江戸時代、江戸川沿いには河岸湊が発展し、川と道との接点にある宿場(松戸宿など)が独自の文化をもつ都市として発達しました。
江戸川は茨城県五霞町・千葉県野田市地先で利根川から分派し、茨城県、千葉県、埼玉県、および東京都の境を南に流れて、東京湾に注ぐ流域面積200km2、流路延長60km(江戸川河川事務所資料)の一級河川です。この江戸川は、江戸時代、人工的に造られた河川です。現在は千葉県銚子に注いでいる利根川は、江戸時代以前は埼玉平野をいく筋にもながれて、東京湾に注いでいました。当時、江戸川下流はその支川の一つで、太日川とよばれていました。徳川家康が命じたといわれている、江戸時代初期に行われた利根川の東遷事業(東京湾にそそいでいた利根川を現在の銚子方面へ切りかえ)の一環として1600年代初頭、現在の千葉県関宿から金杉(埼玉県松伏町)までの18kmが開削され、江戸川は誕生しました。江戸川をはじめとする利根川水系の整備によって、舟運路が整備され、江戸川は大都市江戸へ各地からの年貢米など物質を運ぶ輸送経路として繁栄しました。河川沿いには、河岸とよばれる港が整備され、大きな河岸は野田や松戸など、現在も流域発展の拠点となる独自の文化をもつ都市として発達しました。舟運は鉄道が発達する大正まで、江戸川の持つ最も大きな役割の一つでした。
多摩川
多摩川では大規模な改修工事が行われる以前から様々な治水工事が試みられてきました。江戸時代に幕府の治水事業に携わった田中丘隅(きゅうぐ)は瀬替え(蛇行部のショートカット)や下流部における連続堤の築造などを行い、全国の河川土木技術に大きな影響を与えました。
多摩川は首都圏を流れる一級河川のなかでは比較的勾配が急な河川であり、昔から「あばれ川」として知られています。江戸時代「川除御普請御用」として幕府の治水事業に携わり、あばれ多摩川の治水事業に努めた田中丘隅(きゅうぐ、1662〜1729)は下流部における瀬替え(蛇行部のショートカット)や連続堤の築造等を行い、後に「丘隅をして、多摩川流という河川土木技術を起こした」と言われるほど全国の河川土木技術に影響を与えました。多摩川で最初の本格的かつ大規模な改修工事のきっかけとなったのはアミガサ事件と呼ばれる出来事でした。度重なる水害に苦しんでいた住民達が大正3年9月16日未明に多摩川の築堤を訴えて、神奈川県庁に押し寄せました。この時彼らがアミガサをかぶっていたことから、この事件をアミガサ事件と呼んでいます。この事件は当時の有吉神奈川県知事による築堤や各所での多摩川改修請願運動に飛び火して、多摩川改修工事へと実を結ぶことになりました。あばれ多摩川のもっとも生々しい記憶は昭和49年の狛江水害です。人家が多摩川に飲み込まれていく映像は衝撃的であり、多摩川のあばれっぷり、水害の恐ろしさを見せつけました。平成13年に策定された「多摩川水系河川整備」においても、この狛江水害は「戦後最大規模の洪水」として位置づけられています。
鶴見川
昔から大雨のたびに洪水・氾濫をもたらしてきた鶴見川は、川の規模が小さく水害を受けやすい地形的な条件もあって、ごく最近まで貴重な緑の空間を数多く残していました。しかし、昭和40年頃からの急速な都市化によって、現在では、鶴見川は国内でも有数の典型的な都市河川となっています。
丘陵地と台地の間を蛇行しながら緩やかな勾配で流れる鶴見川は、河床が浅く、川沿いは低くて平らな沖積地が連なっている地形的な特徴により、昔から大雨のたびに洪水・氾濫をもたらしてきました。戦国時代の末期から江戸時代にかけて、日本の各地で有力大名による大規模な治水事業が実施され、広大な新田開発が盛んに行われましたが、鶴見川流域では、水害を受けやすい土地条件などが災いして、江戸時代に入っても開発の規模は小さいものでした。また、江戸時代に鶴見川は舟運にもかなり利用されるようになり、年貢米をはじめとする物資の輸送が盛んとなりました。しかし、利根川などとは異なり、鶴見川は川の規模が小さいことから、往来できる舟の大きさも限られていました。こうした地形的な事情もあって、鶴見川流域は、江戸に近接しているという地理的条件に恵まれながらも、社会経済的に発展してきた地域とは言えず、東京と横浜という大都市に挟まれた地域でありながら、ごく最近まで貴重な緑の空間を数多く残すことができたのではないでしょうか。明治時代に入ると、日本で最初の鉄道が鶴見川を横断して新橋−横浜間に開通し、横浜の生麦地区などでは海面の埋め立てが行われるようになり、鶴見川河口部では京浜工業地帯の礎が築かれていきました。その後、大正12年の関東大震災や第二次世界大戦により、横浜市一帯も大きな被害を受けましたが、復興とともに沿岸部の埋め立てや道路網の整備など、工業化が更に進められていきました。戦後、昭和30年頃の鶴見川流域は、自然豊かな環境も数多く残されていましたが、昭和40年頃からこの鶴見川流域も著しい市街化が進みました。国際都市横浜に位置し、首都東京にも近いという地理的条件により、下流域では京浜工業地帯が発達し、昭和39年には東海道新幹線が開通し、新横浜駅も開業しました。その後も第三京浜や田園都市線、東名高速の開通など、主要交通機関の発達に伴って中流域を中心に急速な都市化が進みました。その結果、現在では鶴見川は国内でも有数の典型的な都市河川となっています。
相模川
相模川は正式名称を「相模川(桂川を含む)」とされており、山梨県内では現在でも「桂川」という呼称がとられています。相模川は現在、神奈川県の中央部を貫くように流下し相模湾に注いでいますが、かつては相模原台地をさらに東に向かって流れ、多摩川に合流していたと考えられています。
相模川は一般に呼び習わされているこの名称のほかに「桂川」という名称を持っています。この2つの名称は「相模川(桂川を含む)」として、昭和44年に一級河川に指定された時に正式名称として登録されました。これは、相模川が山梨県内の区間においては桂川と呼ばれ、この名称が古くから親しまれており、この名を残したいという希望が強くあったためです。現在でも相模川の山梨県内の区間は「桂川」という呼称がとられています。山中湖を発した水は、途中天然記念物として有名な忍野八海の水をあわせ山梨県・神奈川県内を流下しますが、かつて相模川は相模原台地の北西端において南に進路を変えず、さらに東に向かって流れて、現在の多摩市や稲城市を横切るように流れ多摩川に合流していたと考えられています。その後数十万年を経て、相模川は現在のような流路となるのですが、相模川の流路の変遷を物語る「旧相模川橋脚」が現在の相模川からおよそ1.2km離れた茅ヶ崎市にあります。この橋脚は鎌倉時代の武将源頼朝の家臣、稲毛重成が亡き妻の供養のために1198年に架けたものだとされています。ちなみに相模川の河口付近は「馬入川」とも呼ばれていますが、この名称の由来はこの橋の供養に訪れた頼朝の馬が突然相模川に暴れ入り、頼朝が落馬したという伝説から名付けられたともいわれています。