江戸時代劇の大川 (隅田川)

大川に架かる橋隅田川に架かる橋 
浅草 / 吉原炎上吉原1吉原2元吉原吉原年表幡随院長兵衛花川戸助六新門辰五郎 
向島 / 剣客商売向島のお寺神社向島花街向島芸者論 
浅草御蔵前 / 頒暦所御用屋敷浅草御蔵丹下左膳腕におぼえあり新五捕物帳駒形どぜう 
本所 / 鬼平犯科帳旗本退屈男御家人斬九郎四十七人の刺客おれの足音堀部安兵衛仇討群像吉良上野介本所七不思議火付盗賊改方 
浜町神田日本橋北 / 半七捕物帳一心太助越後屋(三越)鼠小僧東日本橋人形町馬喰町・横山町堀留町浜町大伝馬町小網町蛎殻町室町・本町茅場町小舟町小伝馬町箱崎町兜町本石町日本橋丁久松町 
深川 / 深川と岡場所辰巳芸者芸者島次深川花街おさん茂兵衛深川七場所深川芸者勝民子の意地蔦吉深川七福神芭蕉庵 
築地八町堀日本橋南 / 必殺仕置人御宿かわせみ八丁堀の七人絵島生島事件町奉行伝馬町牢屋敷小塚原/鈴が森刑場人足寄場同心組屋敷 
芝愛宕下 / 増上寺1増上寺2増上寺3愛宕神社曲垣平九郎金刀比羅宮 
芝高輪 / 仕掛人藤枝梅安泉岳寺芝浜幕末太陽傳 
本郷湯島 / 銭形平次捕物控神田神社平将門振袖火事八百屋お七赤ひげ 
下谷(上野) / 寛永寺天海伝七捕物帳 
諸説 / 遠山の金さん大岡裁き眠狂四郎番町皿屋敷雲霧仁左衛門鞍馬天狗木枯らし紋次郎芸者の歴史深川澪通り木戸番小屋昭和初期 の花街花柳界用語・・・ 
雑話 / 湯島湯島天神湯島遊廓色街吉原遊郭売女魚河岸史遊郭の歴史社会学謡曲「隅田川」
 

雑学の世界・補考   

 
 
 
 
 八百屋お七/駒込吉祥寺 
 赤ひげ/小石川養生所 
 振袖火事/丸山町本妙寺
 
 
 
 
 
 
 神田神社 
 平将門 
 銭形平次/神田明神下
 
 
 
 
 
 
    寛永寺 
 
 
 
 
  伝七/黒門町
   
小塚原刑場/小塚原 
 
 
吉原炎上/吉原 
 
 
 
 
 
 
幡随院長兵衛 
/浅草花川戸
 
秋山小兵衛/鐘ヶ淵 
 
向島のお寺神社 
 
 
向島花街 (明治期)
   
      駒形どぜう 
   丹下左膳/駒形 
   新五/駒形 
 
青江又八郎/鳥越 
浅草御蔵 
頒暦所御用屋敷
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   早乙女主水之介/本所割下水 
   御家人斬九郎/本所割下水 
   本所七不思議 
 
   長谷川平蔵/本所入江町 
   吉良上野介/本所松坂町
   
 
 
 
 
 
 
 
 
半七/神田三河町  
   伝馬町牢屋敷/小伝馬町 
   鼠小僧/日本橋人形町 
 
 
越後屋/駿河町 
   一心太助/本小田原町
   
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   深川七福神 
 
 
 
   深川七場所 
 
   御家人斬九郎の辰巳芸者・蔦吉 
   勝海舟正妻の深川芸者・勝民子
 
 北町奉行所/呉服橋門内
 
   御宿かわせみ/大川端町 
   同心組屋敷/組屋敷 
 
 
 
   中村主水/八丁堀 
   八丁堀の七人/八丁堀 
   江島生島 (山村座) /木挽町 
               人足寄場/石川島 
 
 
 
 
 
 
 中町奉行所/鍛冶橋門内 
 
 
 
 
 南町奉行所/数寄屋橋
 
 
   
 
 
 金刀比羅宮 
 
 
 曲垣平九郎/愛宕神社 
 
 
 
 
       増上寺
   
 
 
 
 
 
               落語「芝浜」/沙濱 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
       泉岳寺 
 
 
 
 
 
   藤枝梅安/品川台町の雉子の宮 
   幕末太陽傳/品川宿
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鈴が森刑場 / 浜川町の南の一本松 
 
「江戸切絵図」より 嘉永2−文久2(1849-1862)刊行 
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[ 江戸切絵図・参考 > 御江戸大名小路絵図 ]  
 
 
江戸時代・大川(隅田川)に架かる橋

  
千住大橋 / 1594年架橋 
千住大橋以降の下流を隅田川とする。
  
両国橋 / 万治三年(1660)架橋 
両国橋の橋名は武蔵の国と下総(しもうさ)の国にまたがり、架けられた橋であることから名付けられた。なお、享保4年(1719)本所・深川は町奉行所の支配下となる。その他の本所・深川への行き来は「渡し船」を利用した。  
両国と両国橋  
両国という呼び名、勿論両国橋がかかってからの名称です。 徳川幕府は、幕府転覆をねらう武士達が川向うから立ち上る危険を警戒して、初期には千住大橋から下流の隅田川には橋をかけさせませんでした。  
それが明暦3年(1657)正月の大火に江戸中を焼きつくすほどの被害をうけて、浅草方面へ逃げようとした市民が浅草見附の門がとざされ、伝馬町の牢屋の囚人を救うため、一時にがしたのですが、それ等の囚人が浅草の方へ争って逃げたため米のうばわれることを恐れて、門をしめたといわれています。そのため、多くの市民が隅田川のふちまで逃げて来たのに、どうすることも出来ず、後から後からと逃げてくる人々に押されて、隅田川の中に押し出され、水死するもの数知れず、船さえ猛火で焼けてしまって、九万人もの死者を出したと云われています。  
そこで復興に当った松平信綱は、万一の災害に備えて、それ迄の方針を改め、橋を架けることにし、万治2年(1658)の暮に、今の中央区側から隅田川側に、はじめて千住大橋下流に橋がかかりました。  
千住大橋下流で一番大きな橋というので、大橋とよばれたのですが、誰というとなく、平安朝のころ在原の業平が東国に来て、「伊勢物語」の本を書いた時、武蔵の国と下総の国の間を流れる隅田川といったその言葉をとって、今は武蔵国でも、昔は武蔵と下総の間を隅田川が境に流れていた。だから両国の間を隅田川が流れていたことになる。  
「それなら両国を結ぶ橋だ」「両国橋だ」ということで、多くの人々が両国橋とよび、これが橋の名になったといわれています。  
中央区側の両国橋のすぐそばに、矢の倉とよぶ米蔵があったため、この辺は少しさびしい場所でしたが、明暦大火後、火除地となり、次第に両国橋近くが賑やかになっていくにつれ、矢の倉とを元禄11年移転してからの後の両国橋と、それ以前の両国橋とでは、両国橋のかけられていた位置に多少違うようです。  
明暦大火後、両国橋の西側、中央区側に防火対策として火除地が出来、広小路とよばれましたが、ただ広場にしておく、空地にしておくのはもったいないと何とか見せ物などに使いたいと願い出るものがあり、そこから小屋がけなら許可するということで、盛り場になっていきました。  
何しろこの両国広小路、随分いろいろな見せ物があって、ラクダや象まで見世物として出た位で、結構江戸の人々、鎖国だといわれた当時、オランダを通じて珍奇な動物が公開されていたのです。  
どこからどんな人が集まってくるのか、毎日大変な賑わいを呈したといっています。勤番の各藩の武士も居れば、商店の人や職人もあり、地方から出て来たお江戸見物に来た人々も、大勢ここへ集って来た娯楽場でした。
 
 
 
 
  
新大橋 / 元禄六年(1693)架橋  
最初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年12月7日(1694年1月4日)である、隅田川3番目の橋で、「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられた。江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために、架橋を将軍に勧めたと伝えられている。当時の橋は現在の位置よりもやや下流側であり、西岸の水戸藩御用邸の敷地と、東岸の幕府御用船の係留地をそれぞれ埋め立てて橋詰とした。橋が完成していく様子を、当時東岸の深川に芭蕉庵を構えていた松尾芭蕉が句に詠んでいる。 
    「初雪やかけかかりたる橋の上」  
    「ありがたやいただいて踏むはしの霜」  
新大橋は非常に何度も破損、流出、焼落が多く、その回数は20回を超えた。幕府財政が窮地に立った享保年間に幕府は橋の維持管理をあきらめ、廃橋を決めるが、町民衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に延享元年(1744年)には存続を許された。  
そのため、維持のために橋詰にて市場を開いたり、寄付などを集めるほかに、橋が傷まないように当時は橋のたもとに高札が掲げられ、「此橋の上においては昼夜に限らず往来の輩やすらうべからず、商人物もらひ等とどまり居るべからず、車の類一切引き渡るべからず(渡るものは休んだりせず渡れ、商人も物乞いもとどまるな、荷車は禁止)」とされた。  
その後、明治18年(1885年)に新しい西洋式の木橋として架け替えられ、明治45年(1912年)7月19日にはピントラス式の鉄橋として現在の位置に生まれ変わった。竣工後間もなく市電が開通し、アールヌーボー風の高欄に白い花崗岩の親柱など、特色あるデザインが見られた。そのため貴重な建築物として、現在愛知県犬山市の博物館明治村に中央区側にあたる全体の8分の1、約25mほどが部分的に移築されて保存されている。  
戦後、修理補強を行いながら使われていたものの、橋台の沈下が甚だしく、橋の晩年には大型車の通行が禁止され、4t以下の重量制限が設けられていた。昭和52年(1977年)に現在の橋に架け替えられた。
 
  
永代橋 / 元禄九年(1696)架橋 
将軍綱吉の50歳のお祝いに架けられた。当初は官製の橋であったが、老朽化した橋の架け替え費用がだせず廃橋にするのを市民の存続の申し立てで以後町がかりとなった。文化四年(1807)深川八幡の祭礼の混雑で落橋、死者千五百人を出す。
 
 
 
  
大川橋 (吾妻橋) / 安永三年(1774)架橋 
明治八年の架け替え時に吾妻橋が正式な橋名となる。
 
 
 
  
両国花火大会 
江戸は東京とかわっても、大変な人出で、江戸中の人が集ったとか、東京の人がわっと押し出すなどといつも話題になったものでした。  
両国の川開きは、はじめは1日ではなく、5月28日から8月28日まで継続して川開きが行われ、その間、時々花火がうちあげられたといいます。享保18年(1733)打ちあげ花火が行われるようになったとする説が強いようです。打ちあげ花火は、横山町の鍵屋弥兵衛の店と両国広小路の玉屋市郎兵衛が請負って次第に技術を競うようになり、玉屋は橋の上流を、鍵屋橋は橋の下流を受持って、「満都の人気を集め」ていたのですが、玉屋は天保14年(1843)4月、将軍家斉日光社参の前夜自火で焼失、江戸構に処せられ、後に断絶、ついに鍵屋のみになったのでした。  
しかし花火の人気は大変なもので、その費用も随分かかったといいますが、両国橋を中心とする船宿と料理茶屋がその費用を負担し、出金し、8割が船宿が支出するところときまっていたといいます。  
横山町の名物花火店として残った玉屋を中心に明治以降花火は東京市民の大好評を得て毎年柳橋の料亭と船宿と共に、ここに大衆をあつめて光の祭典を催したのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
両国「百本杭」  
七五調と言えば河竹黙阿弥と言われるほど、黙阿弥の書いたセリフは流れるような七五調が高く評価されています。その中で、最も有名なのが『三人吉三廓初買(さんにんきちさ くるわの はつがい)』の「大川端場庚申塚の場」でお嬢吉三が語る次の句です。  
 月も朧(おぼろ)に 白魚の  
 篝(かがり)も霞む 春の空  
 つめてえ風も ほろ酔いに  
 心持ちよく 浮か浮かと  
 浮かれ烏の ただ一羽  
 ねぐらへ帰(けえ)る 川端で  
 竿の雫(しずく)か 濡れ手で粟  
 思いがけなく 手に入る(いる)百両  
   御厄(おんやく)払いましょう、厄落とし  (舞台上手より呼び声)  
 ほんに今夜は 節分か  
 西の海より 川の中  
 落ちた夜鷹は 厄落とし  
 豆だくさんに 一文の  
 銭と違って 金包み  
 こいつぁ春から 縁起がいいわえ  
『三人吉三廓初買(さんにんきちさ くるわの はつがい)』は、和尚吉三(おしょうきちさ)」、お嬢吉三(おじょうきちさ)、お坊吉三(おぼうきちさ)の3人の吉三(きちさ)が主人公です。大川端で美しい女姿のお嬢吉三が、前述のごとく謳いあげたところに、お坊吉三が現れ争いになり、通りかかった和尚吉三が仲裁に入り、三人の吉三は義兄弟になります。これが「大川端庚申塚の場」です。この舞台となった場所が、両国近くの百本杭であったと言われています。  
百本杭は、隅田川の現在の両国駅側の岸が浸食されるのを防ぐために打ち込まれた多くの杭のことです。隅田川は水量が多く、湾曲部ではその勢いが増して川岸が浸食されました。両国橋付近はとりわけ湾曲がきつく流れが急であったため、上流からの流れが強く当たる両国橋北側には、数多くの杭が打たれました。水中に打ち込んだ杭の抵抗で流れを和らげ、川岸を保護するためです。夥しい数の杭はいつしか百本杭と呼ばれるようになりました。  
同じ黙阿弥の『花街模様薊色縫』(さともよう あざみの いろぬい)(通称『十六夜清心』)の「稲瀬川百本杭の場」でも、この百本杭が出てきます。 
 
 
  
 
  
江戸切絵図・本所と深川の境界 / 竪川  
両国橋の200m下流左岸より東へ墨田区・江東区を貫き旧中川まで通じる延長5.15km(墨田区内は2.68km)平均幅員36mの人工河川。この橋は全長にわたり川の上を高速道路(小松川線)に覆われてい る。輸送が舟から自動車に変ったということで、川の役目は終わり、区内は大横川と交わる所から横十間川までは川の水は無く、親水公園やスポーツ公園に変っている。  
明暦の大火の後、万治2年(1659)の本所開拓に伴い、本所築地奉行の徳山五兵衛、山崎四郎左衛門の指揮により造られた掘割である。最初は排水路だったが、次第に隅田川と中川を結ぶ物資の輸送路として活躍した。この川の両側にそって町屋が細長く造られた。材木置き場も多かったが、この川筋には石材商が多かったそう だ。本所は町屋の面積は少なく、ほとんどが武家屋敷だった。当初、橋は一之橋から五之橋までかけられたが、元禄八年に新辻橋が、明治12年に竪川橋が架けられ、また関東大震災のおり、橋が少なかったため人的被害が多かったということで昭和の始め新しい橋が加えられた。現在墨田区内 に12橋ある。ちなみに、二之橋は清澄通りに、三之橋は三ツ目通りに、四之橋は四ツ目通りに、五之橋は明治通りにそれぞれ架かっている。
 
 
現代・隅田川に架かる橋 ( 言問橋以南 )
 2012/12

言問橋 
 
吾妻橋 
 
駒形橋 
 
厩橋 
 
蔵前橋 
  
両国橋 
 
 
新大橋 
 
清洲橋 
 
隅田川大橋  
 
永代橋 
  
中央大橋 
   
佃大橋 
 
勝鬨橋  
 
 
レインボー 
 
 
 
 
浅草 界隈

 

 
                 小塚原刑場 / 小塚原 (上段中央) 
                 吉原炎上 / 吉原 (中段中央) 
                 幡随院長兵衛 / 浅草花川戸 (下段中央)

   
 
吉原炎上

  
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1987年公開の東映映画。監督は五社英雄。また、1998年には新橋演舞場にて、映画と同じく名取裕子の主演で舞台化もされている。そして、2007年には観月ありさ主演でテレビドラマ化された。吉原の5人の花魁の悲喜を描いている。テレビでも複数回放映され高視聴率を記録している。名取、かたせ、西川、藤ら今では考えられないような当時の有名女優の大胆なヌードシーン、特に名取と二宮のレズビアンシーンがあった事が大きな話題を呼んだ。  
主人公の久乃は明治の終わり、1908年に吉原の中梅楼に遊女として売られた。そこでは借金に縛られた女たちが六年の年季が明けるまで、春をひさいでいた。生まれては苦界、死しては投げ込み寺の世界を生き抜いた女郎と生き抜けなかった女郎の波乱万丈の世界を描いた作品である。
   
吉原遊廓  
江戸幕府によって公認された遊廓。始めは日本橋近く(現在の日本橋人形町)にあり、明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転し、前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ。元々は大御所・徳川家康の終焉の地、駿府(現在の静岡市葵区)城下にあった二丁町遊郭から一部が移されたのが始まり。  
元吉原  
徳川家康が天正18年8月1日(1590年8月30日)に江戸に入府し、その後、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開くと、江戸は俄かに活気付き、鎌倉以来の関東の武士の都となった。家康は東海地方から多数の家臣団を率いて江戸に入ったため、江戸の都市機能の整備は急ピッチで進められた。そのために関東一円から人足を集めたこと、また、戦乱の時代が終わって職にあぶれた浪人が仕事を求めて江戸に集まったことから、江戸の人口の男女比は圧倒的に男性が多かったと考えられる(江戸初期の記録は確かなものはないが、江戸中期において人口の3分の2が男性という記録がある)。そのような時代背景の中で、江戸市中に遊女屋が点在して営業を始めるようになった。  
江戸幕府は江戸城の大普請を進める一方で、武家屋敷の整備など周辺の都市機能を全国を支配する都市として高める必要があった。そのために、庶民は移転などを強制されることが多くあり、なかでも遊女屋などはたびたび移転を求められた。そのあまりの多さに困った遊女屋は、遊廓の設置を陳情し始めた。当初は幕府は相手にもしなかったが、数度の陳情の後、慶長17年(1612年)、元誓願寺前で遊女屋を営む庄司甚右衛門(元は駿府の娼家の主人)を代表として、陳情した際に、  
1.客を一晩のみ泊めて、連泊を許さない。  
2.偽られて売られてきた娘は、調査して親元に返す。  
3.犯罪者などは届け出る。  
という3つの条件で陳情した結果、受理された。受理されたものの、豊臣氏の処理に追われていた当時の幕府は遊廓どころではなく、陳情から5年後の元和3年(1617年)に、甚右衛門を惣名主として江戸初の遊郭、「葭原」の設置を許可した。その際、幕府は甚右衛門の陳情の際に申し出た条件に加え、江戸市中には一切遊女屋を置かないこと、また遊女の市中への派遣もしないこと、遊女屋の建物や遊女の着るものは華美でないものとすることを申し渡した。結局、遊廓を公許にすることでそこから冥加金(上納金)を受け取れ、市中の遊女屋をまとめて管理する治安上の利点、風紀の取り締まりなどを求める幕府と、市場の独占を求める一部の遊女屋の利害が一致した形で、吉原遊廓は始まった。ただし、その後の吉原遊廓の歴史は、江戸市中で幕府の許可なく営業する違法な遊女屋(それらが集まったところを岡場所と呼んだ)との競争を繰り返した歴史でもある。  
このとき幕府が甚右衛門らに提供した土地は、現在の日本橋人形町にあたる(当時の)海岸に近い、葦屋町とよばれる2丁(約220m)四方の区画で、葦の茂る、当時の江戸全体からすれば僻地であった。「吉原」の名はここから来ている。  
寛永17年(1640年)、幕府は遊郭に対して夜間の営業を禁止した。このことで市中に風呂屋者(湯女)が多く現れるようになり、その勢いは吉原内にも風呂屋が進出するほどだった。  
新吉原  
江戸市中は拡大しつづけ、大名の江戸屋敷も吉原に隣接するようになっていた。そのような中で、明暦2年(1656年)10月に幕府は吉原の移転を命じる。候補地は浅草寺裏の日本堤か、本所であった。吉原側はこのままの営業を嘆願したが聞き入れられず、結局、浅草寺裏の日本堤への移転に同意した。この際に北町奉行・石谷貞清は以下の便宜を図っている。  
1.吉原の営業できる土地を5割り増し(3丁四方)  
2.夜の営業を許可  
3.風呂屋者を抱える風呂屋(遊郭の競合)を200軒取り潰し  
4.周辺の火事・祭への対応を免除  
5.15,000両の賦与  
この内容から風呂屋の盛況も移転の理由だったことが窺える。幕府は同年9月に風呂屋者を置くことを禁止している(それ以前との記録もあり)。もっとも、周辺火事への対応免除は、逆に吉原で火事が発生した場合に周りから応援が得られず、吉原が全焼する場合が多かったという皮肉な結果をもたらした。折りしも翌明暦3年(1657年)正月には明暦の大火が起こり、江戸の都市構造は大きく変化する時期でもあった。大火のために移転は予定よりも少し遅れたが、同年6月には大火で焼け出されて仮小屋で営業していた遊女屋はすべて移転した。移転前の場所を元吉原、移転後の場所を新吉原と呼ぶ。新吉原には、京町1,2丁目、江戸町1,2丁目、仲之町、揚屋町、角町があった(京町以外は全てちょうと読む)。  
寛文8年(1668年)、江戸市中の私娼窟取り締まりにより娼家主51人、遊女512人が検挙されて新吉原に移された。これらの遊女に伏見の墨染遊郭や堺の乳守遊郭の出身が多かったため、移転先として郭内に新しく設けられた区画は「伏見町新道」「堺町新道」と呼ばれた。またこの時に入った遊女達の格を「散茶(さんちゃ)」「埋茶(うめちゃ、梅茶とも)」と定め、遊郭での格付けに大きな影響を与えた。  
 
吉原1

 
 
 

吉原は過去も現在も風俗の最先端を行く「通」な空間です。江戸時代から現代まで続く吉原をここでは徹底的に調査、解体していきます。(現在、「吉原」という地名は東京にはありません。ここで言う吉原とは、現在の東京都台東区千束一帯のことを指します。)  
江戸一通り  
吉原が最も栄えた江戸時代、江戸出身の業者が多かったことからその名がつけられたとされている。吉原大門から入ってすぐのエリアでもあり、当時は仲之町通り側に多くの手引き茶屋≠ニ呼ばれる、花魁のいる店に行く前の客を接待する店があった。花魁に会えるほど金銭的に余裕のない人は、この茶屋や料亭で芸者遊びに興じたらしい。また戦前は、江戸一通りの北東側にも遊郭が建ち並んでいた。当時の吉原公園は現在の吉原弁財天の周辺にあり、現在の吉原公園の場所は「大文字楼」という吉原一の大きさを誇った遊郭の跡地である。  
江戸二通り  
元吉原成立当時、駿河(現在の静岡県の東部)出身の遊女屋が集まってできたのが江戸二通りである。何故、駿河通りではないのか疑問が残るが、江戸時代に徳川家康のお膝元として栄えた駿河を第二の江戸として捉えたのかもしれない。この江戸二通りの南端、現在の花園通りの歩道部分には、大正時代まで「お歯黒溝」と呼ばれる川が流れていた。さらにさかのぼると、江戸時代には吉原の四方を囲む堀のようにこの溝が流れており、遊女の逃亡と犯罪者の出入りを防ぐための対策として、出入りは吉原大門からしかできなかったという。  
揚屋町通り  
元吉原遊郭の時代、太夫・格子と呼ばれる高級遊女と会うためには、直接遊女屋に向かうのではなく、揚屋という遊興の場に遊女を呼ぶ制度が主流だった。新吉原に移転する際、元吉原に18軒あったそれらの揚屋を一箇所に集めたのが揚屋町の起源である。遊女屋から呼ばれて揚屋に赴く太夫の様子こそ、有名な花魁道中である。しかし揚屋を通すような贅沢な遊びは時代と共に廃れ、太夫の数も減り、揚屋も絶えてしまった。後に揚屋町通りには、酒屋・銭湯・すし屋・郵便局など、日常生活に必要な店が並んだ。  
角町通り  
角町は元吉原では江戸町、京町に続いてできた最後の町で、1626年(寛永3年)に京橋角町にあった10数軒の遊女屋が移転して作られた町である。幕府が元吉原を定めてから9年目にしてやっと誕生した秘密は、各地の遊女屋に声をかけて幕府に遊郭設置の陳情を行っていた庄司甚右衛門に、当時の京橋角町の遊女屋を仕切っていた岡田九郎右衛門が最後まで反対をしたからだと言われている。吉原を鼻で笑っていた京橋角町だったが、その繁栄ぶりに慌て、許しをもらい移転を果たす。これにより吉原五町が完成した。  
京町通り  
京都出身の業者を集めて作られた京一通りと、それ以外の上方の業者が集まった京二通り。その二つを総じて京町通りと呼んでいる。遊郭初期の頃には、大名クラスの富裕層でなければ遊べない、大見世(おおみせ)と呼ばれる格式高い遊郭「三浦屋」があったことでも知られている。現在のアイドルなみに別格の存在だった高尾太夫は、その三浦屋の花魁だった。明治時代には京一通りと仲之町通りの角に「角海老楼」という、庶民は近づくことさえできない第一級の大楼が登場した。当時は珍しい洋風の建物で、大きな時計台がシンボルだった。
 
吉原2

 
 
 

江戸期の初頭の慶長の頃には遊女町はなかった。2、3軒分散して男を遊ばせる場所はいくつもあり、10軒以上となると麹町8丁目に14軒ほど、鎌倉河岸に17軒ほど、道三河岸近く(当時は「柳町」と称したという)に20軒ほどの遊里があっただけだった。慶長17年(1612)後北条家の浪人という庄司甚右衛門がこれら遊里を見て回り、京・大坂・駿府には公許の遊里町があるのに江戸が野放し状態では、人は放縦に陥り悪業の巣となるかもしれないから、遊女屋は一ヵ所にまとめ取締りの策を考えるべきと、三ヵ条の建言にして幕府へ提出する。要約すると以下になる。  
1、父兄や主人の眼を忍んで遊蕩する良家の子弟を取り締れる  
2、良家の子女が勾引(かどわか)されて娼妓に売られそうになった場合、それを防ぐことができる  
3、大坂方の残党が忍んでくることがあろうから、これを取り締れる  
甚右衛門の建言を幕府が取り上げるのは元和3年(1617)3月と遅かった。しかし、幕府は日本橋葺屋町(ふきやちょう)辺りの2町四方の土地を甚右衛門に与え遊里町とすることを許したのだった。その土地は葭(よし)や茅が繁る沼地だった。甚右衛門は土地を埋め立て町家の普請を急ぎ、翌元和4年11月に築造がなる。葭原の地を好字の吉原と名付け遊里町を開いた。  
遊里町を始めるにあたり幕府から甚右衛門に5ヵ条の申し渡しがあった。傾城とは遊女のこと。  
1、吉原傾城町の外にては一切傾城商売を許さず、傾城を囲外へ遣すことも相成らぬ  
2、傾城を買遊ぶ者は一日一夜に限ること  
3、傾城は総縫金銀の摺箔などの衣類を着用することを許さず  
4、傾城屋は家作を華美に致すべからず  
5、傾城町において武士、町人ともに出所不審の者が徘徊の際は住居を吟味し、なお不審の場合は直ちに奉行所へ訴え出るべし  
吉原町総名主に命じられた甚右衛門は、吉原を5ヵ町に分けた。江戸町1、2丁目、京町1、2丁目、角(すみ)町がそれで、江戸町1丁目に道三河岸の遊女屋を、同2丁目には鎌倉河岸の遊女屋を、京町1丁目には麹町の遊女屋を、同2丁目には新たに上方から下った遊女屋を、角町には京橋角町の遊女屋を配置した。  
狐が迷い込むような土地だったが江戸が賑わうにつれ茶屋が建ち、さらに近くで女歌舞伎や踊芝居が興行されると、※江戸市中の人気を集めるようになる。庄司甚右衛門はすでに亡くなり、開基から40年余りを経た明暦2年(1656)10月、風紀の乱れを恐れた幕府は、吉原を召し上げ代替地として本所か山谷のいずれかへ移転するよう命じてくる。この当時隅田川に橋は架かっておらず(千住大橋は文禄3年=1594に架かっているが江戸町中からは遠すぎた)、移転先は山谷となった。山谷=浅草寺裏の浅草田圃に5割増の3町四方と1万500両を与えられ、翌明暦3年2月中に引き払うことが決まった。ところが、正月に大火があり、吉原は全焼する。急ぎ山谷の造成普請を進める一方、今戸・山谷・新鳥越の百姓家を借りて仮宅(かりたく)営業を行う。同年8月新しい吉原が開かれることになる。これ以後、旧来の吉原を元吉原、移転後の吉原を新吉原と呼ぶようになる。また、移転地が江戸の北の端だったため北里と呼ばれたり、江戸市中から馬や舟で向かうことから、山谷通いとも呼ばれた。  
庄司甚右衛門の来歴  
正保元年(1644)に69歳で没している。主家の小田原北条氏が滅びた天正18年(1590)、甚右衛門は15歳。この時初めて江戸に流れ着き、縁のあった道三河岸、当時は柳町の遊女屋に居候したと伝わる。もう一説には、甚右衛門の叔父が東海道吉原宿駅で旅籠を経営していた。小田原城が落城した後、甚右衛門はこの叔父のところに身を寄せる。甚右衛門は叔父へ、これからは江戸が繁栄する、旅籠の飯盛女(当時は足洗女と称した)を連れて江戸へ移ることを進言。叔父は甚右衛門の進言を容れ、吉原宿駅の旅籠屋にも説き勧めた結果、25の旅籠屋が江戸へ移転することになる。かれらは直ちに江戸入りせず、品川大井村の近くの荏原郡荒井宿にて遊女屋稼業を始める。天正19年のことだという。叔父の一人娘を妻にした甚右衛門は、叔父の稼業を継ぎ、江戸にて一大遊郭を開こうとの野望を抱く。慶長5年(1600)、関ヶ原の役の折、家康が兵を率いて江戸を発する噂を耳にした甚右衛門は、大井村の海岸に扮装した遊女のいる茶店をいくつか設営し、自らは袴姿になり道端に正座して家康を待つ。当然、通りかかった家康は訝しんで近臣へ、あれは何者なりやと問う。待ってましたと甚右衛門、小民が安心して生業を営めるのは家康公の武徳が高いからであり、今回の戦も首尾よくいくでしよう。その首途を祝してお供の方々へ抱えの遊女から粗茶を捧げたいと念じ、ここでお待ち申していた。そう言上したのである。往路のみならず戦勝後の復路においても同様のことをした甚右衛門は、家康とその近臣たちに強く印象付けたに違いなく、江戸柳町に転居し一ヵ所に遊女屋をまとめる願いを提出、許可されるに至る。甚右衛門以前にも請願した者がいたが、これらは退けられていた。提出した三ヵ条の立案が巧かったこともある。三ヵ条の内、1と2は反対理由にもなり、真逆の発想といえる。  
甚右衛門の子孫は屋号を「西田屋」と称する遊女屋を経営し、名主を務めている。通称は甚右衛門、甚之丞、又左衛門などと異なり、代々甚右衛門を名乗ってはいない。総名主は初代の庄司甚右衛門、2代三浦屋四郎左衛門であったが、総名主を止め4人の名主を置くようになる。この名主は遊女屋の経営主が兼ねていたが、いつのころからか名主は専業となる。寛保年間(1741-1743)の名主に甚右衛門の子孫の名はないから専業名主にはならなかったようだ。  
なお、吉原の名主は将軍代替時の能狂言には招かれず、江戸市中には21番まで名主組合がある。が、吉原の名主は番外とされ他組との交流はなかった。  
元吉原の賑わいと新吉原移転  
元吉原は遊客ばかりでなく物見高い見物人も多くぶらつき、中之町の4間ほどの通りは雑踏が激しく、女子供は通りの向こう側へ行けなかったそうだ。  
寛永17年(1640)頃、武家や商人が夜遅くまで遊んで翌日の勤めに差し支えることが多くなり、吉原の営業は昼間だけと規定された。これを機会到来とみた湯屋などが、垢流し女と称しながら夜間に女郎同然の営業を行うに至り、元吉原は衰微する。なにしろこんな湯屋が200軒ほど出来たというから、吉原は迷惑し町奉行所へ訴え出たと思われる。天下御免の公娼街なのだから当然であったろう。  
湯屋の一件は幕府によって善処されるが、その前に「吉原の課役」を記しておこう。  
1、江戸城の煤払い、畳替え、火事の際には人夫を差し出すこと  
2、山王・神田の両大祭には傘鉾(山車の類)を出すこと、また愛宕の祭礼には禿(かむろ)の内で殊に美麗なる者を選び、美服を装わせて練り歩くこと  
3、老中、三奉行(寺社・勘定・町)が出座する評定所の式日(2日、11日、20日)には最上級の遊女(この当時は太夫)を給仕として差し出すこと  
3については寛永年間(1624-1643)に中止となった。家光の時代にあたり、春日局あたりが中止させたのかもしれない。これはわたしの憶測。それにしても元吉原時代の遊女は卑しい下賎なる者という見方よりも、平安時代の白拍子のような扱い方である。  
さて、湯屋の一件も含め、新吉原への移転にあたって幕府が出した条件を以下に列記する。明暦2年10月のものである。  
1、今までは2町四方の場所だが、新地は5割増しとする  
2、今までは昼間のみの営業だったが、今後は昼夜の商売を許す  
3、江戸町中に200軒余りの風呂屋を悉(ことごと)く潰した、これは風呂屋から隠し売女を差し出させたゆえである  
4、引越し料金として1万500両を下賜する  
3は恩着せがましいが、「公娼街吉原」は幕府の政策であり、今後湯屋同様の私娼の動きがあれば、いつでも幕府はそれらを潰すと約束しているように受け取れる。 
[葺屋町付近] 
元吉原 / 日本橋葺屋町付近

 
 
 

吉原は大きくは二つの時代に別れます。  
1.1617年に認可になり翌年から営業を開始した元吉原  
2.1657年に移転して営業を開始した新吉原  
で、これは場所自体が違っています。普通吉原というと新吉原をさす事が多いですし、現在の日本NO1のソープランド街「吉原」も、新吉原の延長に立地しています。  
元吉原は日本橋葺屋町付近の二町四方の場所を幕府が初代名主庄司甚右衛門らに下げ渡した事に始まります。伝承は色々あるのですが、、街中治安の維持と、風紀を正すという幕府側の意向と、街中にあると何かと隣近所との確執や遊女の管理面、そして地域毎の業者間の競争に掛る、無駄な費用をなくし、公許の遊郭というある意味「保証付きの遊び場」を仲間で独占しようって事でもあったりします。遊びに行くお客さんからすれば、「一応、御上が許してる処だから、無茶な事は無いだろうなぁ」っていう安心感がある訳で、みんなの利害が一致したってなもんですねぇ。  
許可された時についた条件は大きくは5つあります。簡単に意約してみると  
1.遊女屋さんは、遊郭の外で営業しちゃだめだよ。遊女を外に連れてっちゃだめだよ。  
2.遊郭内で、遊女と遊ぶお客さんは一昼夜より長くいちゃだめだよ。  
3.遊女に豪華な着物を着せちゃだめだよ。  
4.遊女屋さんの建物は、派手にしちゃだめだよ。  
5.怪しそうな人がきたら、お役所に教えなきゃだめだよ。  
って感じです。最初は夜間は営業出来ませんでした。  
ここまでご覧になって「ぴん」と立った方、じゃなくて、来た方は通ですよね。一見幕府側の一方的な条件みたいで、「そんなのでお客さん来るの?」って感じにも見えるのですが、実は利害が一致しているのです。  
「1」があるので、馴染みのお客さんが無理矢理遊女を連れ出す事が出来ません。逆に言えば、年期が残っている遊女に逃亡されたりする事も防げる訳です。  
「2」があるので、掛け倒れが防げました。基本的にその当時は支払いは現物引き換えなのですが、何回もくるお客さんに連続でいられると、悪気は無くてもお金が足らなくなったりします。この条件があるおかげで、基本的に一日ずつ決済出来るのと、住み着かれることが防げました。  
「3」はいわずもがなですね。  
「4」も同じですね。他に「公許」の場所はない、つまり近所にライバルはいない訳ですから、ある意味で必要ありません。でもこの条件があるおかげで、「貧乏臭い」とは思われなかったて事です。  
「5」自前の自衛組織を持つ事の根拠になったりしました。  
てな感じで、それから江戸末までの「遊郭」ってものの骨子は、これを元に出来上がって行く事になります。  
吉原の名前の由来は、この土地を下げ渡された時期には、人家もまばらな葭(よし)の生える湿地帯で、「葭原」という、町名のない寂しい場所であったと言われています。この名前を「吉」という同音の字に置き換えて、開業時に「吉原」とされたようです。(異説あり)周りに堀を巡らし東に大門を構え、中央に大路を構えて一つの独立した街を形成しました。これにはいくつか異説もあるのですが「”傾城”をもじって城構えとした」「京からの移住者も多く京城風とした」などとも言われていますが、江戸の中ではいずれにしても唯一の構造です。  
「京の島原遊郭を模した」との説もありますが、島原遊郭が幕末までの場所(朱雀の西新屋敷)に移るのは名の元になった島原の乱が終わった後の寛永17年(1640/36年・41年説アリ)で、元吉原は1617年なので先に成立しています。  
もちろんこれは、幕府からの条件を満たすための造作でもあり、町が管理し易い構造でもありました。  
開業から2年後の1620年頃までに、京都及び伏見から移転した遊女屋さんを加えて、ほぼ完成し江戸町1.2丁目、京町1.2丁目、角町の五町からなる「吉原五町」と呼ばれる、市井とは違う別天地が出現したのです。  
草創期の元吉原は資料が少ないのですが、一説には「揚屋と遊女屋」で約160軒、遊女は千人前後でもあったと言われています。  
元吉原初期の遊女は太夫、格子、端の三つの位に別れていました。「えっ?花魁はいないの?」って思われるかも知れませんが、文献に「花魁」呼称が現れるのはずっと先の天明年間(1780年代)で、元吉原成立から160年も後の事になります。  
太夫、格子の身だしなみとして踊楽、茶の湯が必須だったので、大名の茶会に指名されて点前を行った記録も散見されます。エッチは抜きで、お茶や踊りだけに郭を出る事は認められていました。  
「花魁」と言うと、現代の歌舞伎の役者さんや舞台俳優さんの様に、白粉(おしろい)を塗っている印象を御持ちかも知れませんが、吉原の遊女は基本的に化粧をしませんでした。これこそ「えっ?」って感じかも知れませんが、「化粧をせずに素顔をさらせる事」が、市井の女性とも、私娼の女性とも違う吉原の位取りの独自性でもあったのです。  
太夫、格子の遊び方としては、お客様は大門口から入ってまず揚屋へ揚り、遊女を呼んでそこで遊ぶシステムです。この道中が後には「花魁道中」と呼ばれる物になるのですが、特に太夫の姿を揚ったお客様以外が見ることが出来るのはこの時だけなので、デモンストレーションも兼ねて行列を組みました。  
この時に化粧をすると「むさい」として、時として人気を落とす事もあったようで、太夫は自分に磨きを掛ける事は怠れませんし、郭楼の主人達も、抱えている遊女の健康に気を遣い、あるいは大切にせざるを得ない背景になっていたりします。  
元吉原初期の端の位の遊女は、もう少しくだけていて、揚屋では無く遊女屋さんで遊べましたが、別にレベルが低いわけでは無くて、遊女になり立てで、踊りやお茶の素養が浅かったり、武家層以外の出身で、文字が拙かったりって言う、ある意味、ピチピチの若い新人さんが中心でした。つまり努力と実力で、格子、太夫へと位を昇っていくシステムでした。固定の地位じゃないんです。なので遊女屋さんの主たちも、遊女達を育てる事に非常に熱心でした。  
もっとも初代名主の庄司甚右衛門は小田原北条家(1590滅亡)の家臣出身と言われていて、その他にも楼主は武士出身者が多かった様です。それも商才があって、この遊郭創設に参加している訳なので「豪傑」というより、輜重関係や勘定、あるいは外交に秀でた武士出身という、ある意味で、江戸時代の武士の有様を先取りする集団でもありました。職掌柄、読み書き算盤帳簿は勿論、遊芸や芸術にも造詣が深い人物が多かった様で、遊女と楼主は、親子のようでもあり、師弟のようでもあり、同じ芸事を愛好する仲間の様な雰囲気さえ漂っていました。  
そこで別れる郭の位も、単に造作や場所だけではなくて、遊女を教育出来る環境と育つ待遇とを併せ持っていて初めて、得られる地位となっていました。  
お客様も地方の大名や重臣をはじめとする武士階級が多く、戦乱から安定に向かう時代の中、遊郭は文化の伝導所的な役割さへ果たしていました。これが世界でも他に類を見ない、格調と文化を創り出した源とも言えるものでこの時代に大きく花開き、そして時の流れに流されて変質してゆき、伝統だけが形骸化して残ったものも多かったりします。  
皆様ご存知の宮本武蔵様も、吉原で遊ばれた記録が残っていますが、島原の乱に出陣の際、雲井という馴染みの遊女の紅鹿の子の小袖の布を、陣羽織の裏に縫い付けて颯爽と出て行ったとの事です。その雲井の位は「端」(局)であったのですが、楼主は仲間にも声をかけて武蔵の送別会を開いたとの記録があり、楼主、遊女、客の三者の雰囲気を伝えるものとなっています。  
その後、少しづつ江戸は変わって行きます。参勤交代が制度化され、貨幣経済が発達してゆく中で町民階級が力を貯えつつ、江戸は爆発的な人口増加と街の拡大が進みます。  
寂しい葭(よし)の生える湿地であった元吉原は、いつしか市街地に飲み込まれてゆきます。  
充実期を迎えた元吉原は、時代の流れの中で本質を変えながら約40年間を過ごし、1656年に幕を閉じ新吉原へ移転します。  
ちょっとだけ硬いお話をこの項の最後に入れておくと、元吉原成立のお話は『異本洞房語園』(1720)の記述に負う事が多かったりします。私も書いている『日本橋葺屋町付近の二町四方の場所を幕府が初代名主庄司甚右衛門らに下げ渡した事に始まります。』という部分は、幕府の記録とは対になってはいるのですが、傍証がほとんどありません。  
と言っても、皆さんご存知の吉原と庄司甚右衛門さんが無関係だった訳ではなくて、『嬉遊笑覧』をはじめとする決して少なく無い書籍は、再興説を採っているのです。つまり、「元吉原」は一度歓楽街として成立していたのですが、何らかの理由(諸説あります)で一度取り潰され、庄司甚右衛門さんに委ねられて再度歓楽街として復活し、それが江戸時代を通しての遊廓の元になったという説です。  
今、仮説をここに書くことは可能ですが、もう少し自信をもってお話しできるようになってから、再度この項を見直してみたいと思っています。興味を持たれた方は、まずは、『近世風俗志』『異本洞房語園』『嬉遊笑覧』『慶長見聞集』を読み合わせてみてください。 
「日本橋人形町」より 
高砂町・新和泉町・難波町・住吉町の辺りは吉原遊郭の地で、明暦の大火後に浅草に遊廓が移転したので、謡曲にちなんで高砂町や住吉町と命名されたと伝えています。  
日本橋人形町3丁目は、旧人形町3丁目と芳町2丁目の地で昭和55年に成立しました。旧人形町3丁目は江戸時代以来の新和泉町の全域及び住吉町・堺町・芳町の各一部からなっていました。新和泉町は、もと吉原の西南隈に当る地で、吉原の移転後に開かれた町です。堺町に近いので、和泉国堺(大阪府)の国名をとって和泉町とつけたのであろうと想像されます。 町の北側が大門通りで、西側には金物商が軒を連ね、“鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春”の繁昌をうたわれた地でした。銅匠の銅屋寅次郎もここに住んでいました。  
芳町の一帯には1万坪に及ぶ広大な薩摩国鹿児島藩主島津家の藩邸がありました。  
堺町は、『東京府志科』によれば「慶長年中(1596〜1615)の開創なり、此辺等大坂の廻船入津せしに由て、大坂近傍の名勝住吉・堺などの名を用ふ」として、堺町となったと記しています。寛永年間(1624〜44)に中村座が開業してからは浄瑠璃・説経・操り人形など、様々な見世物小屋や茶屋が軒を並べ、一大歓楽街になりました。  
堺町に隣接する葺屋町は、東堀ッ川に面した沼沢地であったのを、慶長、元和年間(1600〜24)に埋立てて町場とした所といわれますが定かではありません。町名の由来は屋根葺職人が多くいたためと伝えています。 
 
吉原年表

 
 
 

天正18

1590

徳川家康関東入府

慶長 5

1600

関ヶ原の戦い 
鈴ヶ森で庄司甚右衛門(元吉原の開設許可を受けた人。柳町娼家の主人)が出陣する家康に揃いの衣装の美女を率いてお茶を接待()

慶長 8

1603

江戸に徳川幕府開府 
出雲の阿国京都で歌舞伎を開始 
お江戸日本橋完成

慶長 10

1605

煙草が庶民まで流行する 
江戸城増築の為、柳町が移転命令を受け庄司甚右衛門は同業者と公許遊郭を幕府に請願するも却下される

慶長 11

1606

江戸城増築完成

慶長 17

1612

銀座を江戸に移す(伏見・駿河より)

慶長19

1614

『慶長見聞集』刊

元和 1

1615

大阪夏の陣(豊臣家滅亡) 
武家諸法度・禁中並びに公家諸法度・諸宗本山法度制定 
徳川政権が確立。

元和 2

1616

徳川家康没

元和 3

1617

日本橋葺屋町の下二町四方を幕府は下げ渡し、江戸大門内に散在していた娼家は集まる事となる(公許遊郭の始まり)

元和 3

1618

秋頃に大門を構え、周りを堀で囲む工事が終了し「吉原」という名称が確定 庄司甚右衛門初代の名主となる

元和 6

1620

日本堤竣工

元和 8

1622

外様大名の妻子、江戸在住を幕府が命じる

元和 9

1623

徳川家光三代将軍となる

寛永 1

1624

中村勘三郎、江戸に猿若座を起す(若衆歌舞伎の起源)(翌年の異説)

寛永 6

1629

女歌舞伎、風紀を乱すとの理由で禁止

寛永 7

1630

八丁堀からの火災で吉原類焼

寛永 10

1633

人身売買、年期開け拘束禁止の高札が立てられる

寛永 11

1634

譜代大名の妻子、江戸在住を幕府が命じる

寛永 12

1635

武家諸法度を改訂。参勤交代が開始される

寛永 14

1637

風呂屋に置く湯女が一軒三名に制限される

寛永 15

1638

島原の乱終結。戦国時代の完全な終焉

寛永 16

1639

オランダ人の妻子を国外追放 
ポルトガル船の来日を禁止

寛永 17

1640

八丁堀からの火災で吉原類焼

正保2

1645

吉原全焼する

慶安 1

1648

吉原以外の遊女が禁止される 
奉行所への訴訟手続き制定される

慶安 4

1651

家光没。由井正雪事件。前年より「伊勢お陰参り」大流行

承応 1

1652

若衆歌舞伎が禁止される 風呂屋に置く湯女が禁止される

承応 3

1654

吉原大門類焼 吉原への類焼を防いだ吉原町人火消褒美を受ける

明歴 2

1656

吉原遊郭が召し上げとなり、日本堤に代替え地が決まる

明歴 3

1657

明歴の大火(振袖火事) 幡随院長兵衛殺害される 
元吉原全焼より新吉原への移転まで初の仮宅営業  
新吉原成立営業開始する

寛文 1

1661

江戸市中の茶店酉の刻以降の営業禁止

寛文 8

1668

風呂屋から茶屋へ転業していた業者約70人、遊女約500人程が吉原へ移住 吉原に堺町と伏見町成立

延宝 4

1676

新吉原最初の大火

延宝 6

1678

茶屋に置く給仕女が一軒三名に制限される

延宝 8

1680

徳川綱吉将軍就任(犬公方)

天和 2

1682

天和の大火(お七火事)

貞享 4

1687

生類憐れみの令発布 翌元禄元年、柳沢吉保側用人就任

元禄11

1698

内藤新宿が新設される

元禄11

1700

金・銀・銭の交換比率が法定となる。貨幣経済の確定

元禄15

1702

赤穂浪士、吉良上野介を討ち取る 
「奥の細道」刊行(松尾芭蕉164494)

宝永 4

1707

富士山大噴火 宝永山ができる 宝永の大地震

正徳 4

1714

墨田川の猪牙船が禁止される

享保 1

1716

徳川吉宗8代将軍となる 御庭番の創設 享保の改革開始

享保 2

1717

大岡越前守、町奉行()就任(元文1/1736まで)

享保 7

1722

好色本を始めとする出版禁止令が出される

享保 20

1735

大名・旗本が娼家や劇場に出入りする事が禁止される

寛保 1

1741

吉原で季節毎に桜や梅を植え替えて話題となる()

寛保 2

1742

品川宿の飯盛り女が吉原へ下げ渡される

延享 3

1743

隠娼婦全体の一斉取締まりの開始

宝暦 1

1751

吉原の「太夫」の位が消滅する() 市中に「芸者」が出始める。()

明和 1

1765

飯盛り女の規制で品川・板橋・千住の宿場町が衰退したため再度増員が許可される

明和 5

1768

吉原の大火で遊郭が全焼する

明和 8

1771

吉原五丁目火事で焼ける

安永 1

1772

田沼意次老中()となる

天明 1

1781

「花魁」という呼称が生まれる()

天明 2

1782

天明の大飢饉

天明 7

1787

吉原の大火で遊郭が再度全焼する 
松平定信老中となる 長谷川平蔵、火付け盗賊改加役

寛政 3

1791

風紀粛正・出版の規制強化 山東京伝手鎖50日の刑 
歌麿美人大首絵発表 風呂屋の混浴禁止令が出る

寛政 6

1794

吉原再度火災で遊郭の多くが焼ける 写楽の役者絵刊行開始

寛政 7

1795

好色浮世絵の一斉取締まり

享和 2

1802

十返舎一九「東海道中膝栗毛」(野次喜多道中)刊行

文化 12

1815

杉田玄白「蘭学事始」成立

文化 13

1816

吉原、大火で遊郭が再度全焼する

天保 6

1835

吉原、大火で遊郭が再度全焼する

天保 11

1840

遠山金四郎景元江戸町奉行()就任(天保14まで) 江戸町奉行()就任(弘化2/1845から嘉永5/1852まで)

天保 13

1842

吉原以外の売春全面禁止、吉原へ収容される

弘化 2

1845

吉原、大火で遊郭が再度全焼する

嘉永 6

1853

ペリー黒船で来航

安政 2

1855

安政の大地震

文久 2

1862

吉原、大火で遊郭が再度全焼する

元治 1

1864

吉原、大火で遊郭が再度全焼する

慶応 2

1866

吉原、大火で遊郭が再度全焼する

慶応 3

1867

江戸時代の終焉

 
 
 
 
 
 
 
 
 
幡随院長兵衛 / 浅草花川戸

 
 
 

 
 
 
 
 
 
(元和8年-明暦3年 1622-1657) 江戸時代の町人である。町奴の頭領で、日本の侠客の元祖とも言われる。『極付幡随長兵衛』など歌舞伎や講談の題材となった。本名は塚本伊太郎。妻は口入れ屋の娘・きん。元は唐津藩の武士・塚本伊織の子で、父親の死後、幡随院(京都の知恩院の末寺)の住職・向導を頼って江戸に来たとされる。長兵衛は滅亡した波多氏の旧家臣の子であるとする説や、向導の実弟、または幡随院の門守の子という説もある。浅草花川戸で口入れ屋を営んでいたが、町奴の頭領として男伊達を競って乱暴を働く旗本奴と対立し、明暦3年7月18日に旗本奴の頭領・水野十郎左衛門(水野成之)に湯殿で殺された。享年36。墓所は、東京都台東区東上野6丁目の源空寺にある。  
侠客誕生の時代背景  
長兵衛の生きた時代は、徳川幕府三代将軍徳川家光の頃にあたる。この時代、戦乱の世も落ち着きを取り戻し、家康が開いた江戸幕府の基礎がための時期でもあった。家光は慶長19年(1614)11歳で元服、元和9年(1623)20歳で征夷大将軍となり、家康・秀忠の遺志を継いで幕藩体制を基礎とする武家封建社会を安定させていった。後に徳川幕府260年間の基礎となる「参勤交代」や「鎖国」を実施したのも家光だ。こうして戦国時代から徳川幕府の安定期に入ると職を失った浪人たちがかなりの数現れ中にはいわゆる山賊・野武士となる者もあった。そして一方では戦乱の収束によりその役割を終えた旗本武士や、社会の安定化にともなう閉塞感にさいなまれた町民などから身分や社会制度への反発をつのらせるアウトロー的な存在も出現した。彼らは「傾き者」「奴」などと呼ばれ、派手な着物を身に着けるなどして当時としても異様ないでたちで江戸の町を徘徊した。またこのこの頃、先述の参勤交代の実施により宿場町や港では街道整備や資材運搬の労役が増加したが時として人足の数が足りないこともあり、もっぱら地元有力者が今で言う人材派遣業の役割を果たすようになり、農民でも商人でもない労役専門の人々との間で上下関係が形成され、後に「任侠」の概念に変化していったようだ。このように江戸時代の初期、労働力の需要と供給というシステムで繋がってはいるものの、それゆえ相反するふたつの勢力(後述する「旗本奴」と「町奴」)が生み出される条件が整った。  
 
花川戸助六

 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
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助六1 
江戸前期の侠客ともされるが、虚構上の人物。歌舞伎で有名な助六の実説については定説はない。上方に流行った万屋助六心中の一中節が、のちに江戸で流行し江戸の男達に脚色したというのが一般的である。江戸説では花川戸の侠客助六が吉原三浦屋の遊女揚巻となじんだが、揚巻の客田中三右衛門と仲ノ町で喧嘩をしたというものである。花川戸に助六という侠客がいたという記録がなく、大口屋治兵衛がモデルという説などがある。「助六所縁江戸桜」は歌舞伎十八番のひとつとなっている。  
助六2  
歌舞伎の演目の一つの通称。本外題は主役の助六を勤める役者によって変わる。江戸の古典歌舞伎を代表する演目のひとつ。「粋」を具現化した洗練された江戸文化の極致として後々まで日本文化に決定的な影響を与えた。歌舞伎宗家市川團十郎家のお家芸である歌舞伎十八番の一つで、その中でも特に上演回数が多く、また上演すれば必ず大入りになるという人気演目である。『助六』は歌舞伎の形式上「曾我もの」の演目。そのため侠客の助六が「実ハ曾我五郎」で、白酒売りは「実ハ五郎の兄 曾我十郎」という設定である。  
助六のモデルではないかと考えられている人物は三人いる。江戸浅草の米問屋あるいは魚問屋の大店に大捌助六(おおわけ すけろく)あるいは戸澤助六(とざわ すけろく)という若旦那がいたという説、京・大坂でその男気をもって名を馳せた助六という侠客だとする説、そして江戸・蔵前の札差で、粋で気前のいい文化人として知られた大口屋暁雨(おおぐちや ぎょうう)だとする説である。  
このうち、史家の多くは第一の助六を否定する。その理由の一つが「助六」という名。これは上方でならありそうな名だが、江戸の「粋」の感覚からはどうにも野暮な名なのだという。  
京坂の助六はというと、江戸の幡随院長兵衛と並び称されるほどの侠客だったという。これが総角(あげまき)という名の京・嶋原の傾城と果たせぬ恋仲になり、大坂の千日寺で心中したのが延宝年間のことであるという。ただし詳細は伝わらず、したがって異説も多く、助六は侠客ではなく大坂の大店・萬屋(よろずや)の若旦那だったとする説、総角は大坂・新町の太夫だったとする説、そして事件も心中などではなく喧嘩で殺された助六の仇を気丈な総角が討ったものだとする説など、さまざまである。  
大口屋暁雨は実在が確認できる人物で、寛延から宝暦年間に江戸の芝居町や吉原で豪遊して粋を競った18人の通人、いわゆる「十八大通」の一人に数えられている。「暁雨」は俳名で、実の名を治兵衛(じへえ)といった。俳諧や書画骨董に通じた文化人で、たいそう気前も良かった。特に二代目團十郎の贔屓筋だったことから、彼の勤める舞台ならどんなに客入りの悪い興行でも木戸札を買い上げてくれた。そうしたことから二人は親交を深めるようになり、江戸では次第に「團十郎の助六は大口屋を真似たもの」という噂が広まる。暁雨の方も助六そっくりの出で立ちで吉原に出入りし、「今様(いまよう)助六」などと呼ばれてご満悦だったという。どちらがどちらを先に真似たのかは不明だが、いずれにしてもこの頃から助六の鉢巻が大口屋の好んだ江戸紫に染め直されたという。大口屋暁雨は、明治になると彼自身が歌舞伎の題材にされている。福地桜痴作の『侠客春雨傘』がそれで、主人公は「元は札差の大口屋の若旦那で治兵衛といったが、今ではその名もとどろく侠客・暁雨」という設定。 
 
新門辰五郎

 
 

 
 
寛政12年-明治8年(1800?-1875) 江戸時代後期の町火消、鳶頭、香具師、侠客、浅草浅草寺門番である。父は飾職人・中村金八。町田仁右衛門の養子となる。娘の芳は江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の妾となる。「新門」は金龍山浅草寺僧坊伝法院新門の門番である事に由来する。  
武蔵国江戸下谷山崎町(現在の東京都台東区下谷)に生まれる。幼少の頃に実家の火事で父が焼死、或いは自宅から出火し近辺を類焼した責任を取り町火消になったと伝えられる。浅草十番組「を組」の頭である町田仁右衛門の元へ身を寄せ、火消や喧嘩の仲裁などで活躍する。仁右衛門の娘を貰い養子縁組し、文政7年(1824)に「を組」を継承する。侠客の元締め的存在で、弘化2年(1845)に他の組と乱闘になり死傷者が出た際には責を取って入牢している。  
幕府の高級官僚だった勝海舟とも交流があったと言われ、その著書『氷川清話』の中でも触れられている。その一方で、博徒・小金井小次郎を子分のように可愛がった。  
上野大慈院別当・覚王院義観の仲介で一橋慶喜(徳川慶喜)と知り合ったと伝えられ、娘の芳は慶喜の妾となっている。元治元年(1864)に禁裏御守衛総督に任じられた慶喜が京都へ上洛すると慶喜に呼ばれ、子分を率いて上洛して二条城の警備などを行う。慶応3年(1867)の大政奉還で江戸幕府が消滅し、鳥羽・伏見の戦いの後に慶喜が大坂から江戸へ逃れた際には、大坂城に残されたままになっていた家康以来の金扇の大馬印を取り戻し東海道を下って無事送り届け、慶喜の謹慎している上野寛永寺の寺の警護に当たっている。上野戦争での伽藍の防火、慶喜が水戸(茨城県)、静岡と移り謹慎するとそれぞれ警護を務めている。慶喜とともに静岡に住み駿河国清水の侠客である清水次郎長とも知縁であったと伝えられる。遠江国磐田郡での製塩事業にも協力した。明治になると東京(江戸)へ移る。明治8年(1875)に没、享年75。辞世の句は、「思ひおく まぐろの刺身 鰒汁(ふぐとしる) ふっくりぼぼに どぶろくの味」。  
 
 
 
 
 「真乳山山谷堀夜景」 
待乳山 / 今戸界隈
待乳山聖天(まっちやましょうでん)-東京都台東区に所在する聖天。関東三聖天の一つ。単に「待乳山」とも通称する。待乳山(東京都)-待乳山聖天の周囲を指す地名。台東区浅草七丁目付近にあたり、元来小高い丘を成していた。  
待乳山聖天1  
待乳山聖天(本龍院)は毘沙門天をお祀りしています。古い縁起によりますと、推古天皇3(595)年9月20日、突然この土地が小高く盛り上がり、そこへ金龍が舞い降りたと伝えられています。この不思議な降起は実は十一面観音菩薩の化身「大聖歓喜天」がご出現になるおめでたい先触れであったのです。それから6年後、天候不順に人々は悩まされていました。永い日照りが続き、人々を飢えと焦熱の地獄におとしいれました。そのとき大聖歓喜天がご出現になり、こうした人々を苦しみからお救いになられたそうです。それ以来、民衆からの篤い尊信が集まり、平安時代になると天安元(857)年、慈覚大師が東国巡拝のおり、当山にこもって21日の間浴油修行をなされて国家安泰、庶民の生活安定を祈願し、自ら十一面観世音菩薩像を彫って奉安されたと伝えられています。そして、ここに信仰の基礎が形成され、その後ますます民衆の尊信をあつめるに至りました。ことに江戸時代元禄華やかなりし頃には境内地、諸堂が整備されて今日の土台が完成されました。  
待乳山聖天2  
浅草寺のご本尊といえば観世音菩薩ですが、この菩薩様ご出現の前触れとして一夜にして隆起した霊山が誕生したのは595年のことでした。それが今注目を浴びている隠れたパワースポット「待乳山聖天」です。聖天さまというのは密教の神様です。「もともとは強欲でしたが、十一面観世音菩薩さまに願いを叶えてもらうことで煩悩から解き放たれ仏教に帰依することになった」とされています。そのため「欲望を抑えきれない衆生に対しても、まずはその欲望を叶えてくださることでわたちたちの心を清め救ってくださる」といわれています。この聖天さま、俗悪さや半端な帰依がお嫌いです。ぜひ心を引き締めてから参拝いたしましょう。また、大根は人間の深い迷いを表すといわれていますから、大根をお供えするのもよいでしょう。 
山谷堀 (さんやぼり)  
かつてあった東京の水路。正確な築年数は不明だが、江戸初期に荒川の氾濫を防ぐため、箕輪(三ノ輪)から大川(隅田川)への出入口である今戸まで造られた。現在は埋め立てられ、日本堤から隅田川入口までの約700mが台東区立の「山谷堀公園」として整備されている。  
江戸時代には、新吉原遊郭への水上路として、隅田川から遊郭入口の大門近くまで猪牙舟が遊客を乗せて行き来し、吉原通いを「山谷通い」とも言った。船での吉原行きは陸路よりも優雅で粋とされた。界隈には船宿や料理屋などが建ち並び、「堀」と言えば、山谷堀を指すくらいに有名な場所だったが、明治時代に遊興の場が吉原から新橋などの花街に移るにつれて次第に寂れ、昭和には肥料船の溜まり場と化し、永井荷風の記述によると、昭和初期にはすでに吉原は衰退しており、山谷堀も埋め立てが始まっていた。戦後の売春防止法による吉原閉鎖後、1975年までにすべて埋め立てられた。  
江戸の名所  
かつては「よろず吉原、山谷堀」と歌にも歌われ、江戸名所のひとつに挙げられる風情ある場所で、船の出入りが多くなる夏の夕方などは絵のように美しかったという。河口岸には有明楼などの料亭があり、芸者遊びなどもできた。江戸三座があった猿若町(現在の浅草6丁目辺り)に近いため、山谷堀芸妓(堀の芸者)は「櫓下」とも呼ばれた。  
水路と橋  
水源は石神井用水(音無川)である。水流は根岸から三ノ輪を通って、隅田川まで続いていた。埋め立てられる前の山谷堀には、今戸橋・聖天橋・吉野橋・正法寺橋・山谷堀橋・紙洗橋・地方新橋・地方橋・日本堤橋の九つの橋があった。  
紙洗橋付近には、浅草紙の生産所があり、原料である紙屑を紙舟に入れて山谷堀の流れにさらしておく2時間程度の間、職人たちは時間つぶしに吉原遊郭の軒先を見てまわった。見るだけで登楼しないことから、紙をさらしておく工程の「冷やかす」という言葉が、買う気のない客を表す言葉として使われるようになった。  
広重『名所江戸百景』の「真乳山山谷堀夜景」 / 画面奥から手前の隅田川に注ぎ込む水路が山谷堀。今戸橋(現・今戸橋交差点付近)の橋脚が見え、左右には当時の著名な船宿であった竹屋と有明楼の窓が灯っている。背後の森は待乳山聖天である。 
 
 
 
 
 
 
江戸三十三観音巡り 第1番札所 / 浅草寺
「江戸三十三観音」は享保20年に刊行された「江戸砂子拾遺」に記されていることから、元禄年間には設定されただろうといわれています。「東都歳時記」にも「江戸三十三所観音参」として記載されています。  
浅草寺の起源は、飛鳥時代の推古天皇36年(628)と言われています。  
この年の3月18日の朝、檜前(ひのくま)浜成・武成(はまなり・たけなり)兄弟が隅田川で漁をしていると、投げ網の中に小さな仏像がかかりました。  
「これは尊い物に違いない」と兄弟は漁をやめて、陸へ上がりました。その地点が、今の駒形で、現在、駒形堂が建立されています。  
ここで郷司(村長)の土師中知(はじのなかとも)と出会います。  
土師中知は、仏像を一見して聖観世音菩薩像であることを知り、直ちに岸辺に安置して拝みました。 その後、土師中知は自宅を寺に改造して、観音像をまつって礼拝供養の生涯を送ったそうです。  
この三人をお祀りしたのが三社様ともよばれる浅草神社です。  
浅草寺の堂塔伽藍を最初に整備したのは、平将門の従兄弟の平公雅で、平将門の「天慶の乱」が終息した2年後の天慶5年(942)ことです。それ以後、浅草寺は源頼朝など代々の治世者から篤い信仰を受けてました。  
そして、時代が下って、天正18年(1590)徳川家康が江戸に入府すると徳川家康は、浅草寺を徳川家の祈願所と定め寺領500石を与え厚く保護しました。  
家康死去の年の元和2年(1616)には持仏の聖観音像が浅草寺に寄進されています。  
浅草寺は、寛永8年(1631)、同19年(1642)に相次いで焼失しましたが、3代将軍徳川家光の援助により、慶安元年(1648)に五重塔、同2年(1649)に本堂が再建され、浅草神社も慶安2年に家光によって再建されました。慶安4年には仁王門も建立されました。  
江戸時代から明治・大正までの多くの火災や地震を逃れることのできた本堂、五重塔、仁王門も昭和20年3月の戦災で焼け落ちてしまいました。  
現在の本堂は昭和33年に、宝蔵門は昭和39年に、五重塔は昭和48年に再建されたものです。  
なお、浅草神社の現存する本殿、弊殿、拝殿は、家光が再建したもので、国の重要文化財に指定されています。  
雷門は浅草寺の総門になります。  
雷門とは通称で、正式には、左右に風神雷神を安置していることから、「風雷神門」と言います。  
このため、「門の名で見りゃ風神は居候」とか「風の神雷門に居候」という江戸時代の川柳が残されています。  
この雷門は、慶応元年(1865年)に火災で焼失した後、100年程、雷門がありませんでしたが、昭和35年に松下幸之助氏により再建されました。  
雷門の大提灯は、高さ3.9メートル、直径3.3メートル重さ700Kgもあります。三社祭の時と台風到来の時だけ提灯が畳まれるそうです。  
提灯の表側は「雷門」となっていますが、裏側は正式名称「風雷神門」と書かれています。  
また、風神の後ろ側に、平櫛田中氏作、木曽檜造りの天龍像、雷神の反対の後ろ側には菅原安男氏(東京芸術大学教授)作、同じく木曽檜作りの金龍像が安置されています。  
天龍、金龍はそれぞれ、水をつかさどる龍神さまだそうです。  
浅草寺での御朱印は、本堂の西側にある「影向堂(ようごうどう)」で、いただきます。観音さまの説法や活動に協力されている仏さまを「影向衆(ようごうしゅう)」と呼びます。影向堂は、これらの仏さまをおまつりするお堂です。内陣の須弥壇(しゅみだん)中央に聖観世音菩薩、その左右に干支ごとの守り本尊8躰の仏様が祀られています。また、堂内には浅草名所(などころ)七福神の内の大黒天もお祀されています。 
江戸三十三観音巡り 第2番札所 / 清水寺
このお寺の読みは「きよみずでら」でなく、「せいすいじ」と読みます。  
清水寺は近代的な建物となっています。平成9年にできた地上2階、地下1階の建物です。ご本尊は2階に安置されています。建物の手前右にある階段を登ると寺務所受付があります。そこで、巡礼の旨伝えると、左手の本堂を案内していただき、参拝・読経を許していただきました。  
清水寺の御由緒は、お寺の縁起では、次のように書かれています。  
「江北山宝聚院清水寺は、今を去る1170数年余り昔、淳和天皇の天長6年(829)、天下に疫病が大流行すると、わがことのように悲しまれた天皇は、天台宗の総本山比叡山延暦寺の座主であられた慈覚大師に疫病退散の祈願をご下命されました。慈覚大師は、京都東山の清水寺の観音さまにならって、みずから一刀三礼して千手観音一体を刻まれ、武蔵国江戸平河、今の千代田区平河の地に当寺を開いておまつりしたので、さしもの疫病の猛威もたちどころにおさまったといいます。 (中略)およそ380数年ばかり前の慶長年中、慶円法印が比叡山正覚院の探題豪感 僧正の協力を得て中興され、徳川家康の入府で江戸城の修築のため馬喰町に移り、さらに明暦3年(1657)の振袖火事の後、現在地に再興されたのでした」  
『江戸名所図会』にも清水寺観世音菩薩として次のように書かれています。  
「清水寺観世音菩薩 新堀端にあり。昔は浅草橋の内にありしが、明暦大火(1657)後いまの地にうつさる。寺を江北山(こうほくさん)清水寺(せいすいじ)と号す。天長年中(824)慈覚大師(円仁)ひとつの勝地を求め、天台法流の一院を建立ありて、みづから一刀三礼にして千手大悲の像を作り、本尊とす。(以下略)」  
ご本尊は、千手観世音菩薩で、本堂中央に鎮座されていました。 千手観音菩薩は、別名では、千手千眼観世音菩薩といいます。「千手千眼」の名は、千本の手のそれぞれの掌に一眼をもつとされることから来ています。この観音様は、千本の手と千の眼で、世のすべてを見透し、どのような衆生をも漏らさず救済しようとする観音様で、観世音菩薩の慈悲と力の広大さを表しているそうです。  
清水寺の目の前に、「かっぱ橋道具街」の数多くの河童でつくられたモニュメントがありました。   
「かっぱ橋道具街」は、今や調理器具や菓子器具を販売する街として、全国的に有名になっていますが、明治末期から大正初期に古道具を取り扱う店の集まりから発生したようです。そして、戦後に主に料理飲食店器具や菓子道具を販売する商店街へと発展しました。現在は、約 800メートルの長さにわたって約170店舗のお店があるそうです。  
「かっぱ橋道具街」の前の通りは、江戸時代は、新堀川という堀で、その堀にかかる橋が合羽橋でした。  
この合羽橋の名前の由来には2説あるそうです。  
その一つは、江戸時代の文化年間のころ、この一帯は、水はけの悪い土地でたびたび出水しました。そこで合羽川太郎(本名合羽屋喜八)は私財を投じて排水工事に着手しましたが、工事は難航しました。その時、昔、川太郎に助けられたことのある隅田川の河童たちは、これを見て川太郎に同情し工事を手伝ったので、新堀川が無事完成しました。これにちなんで合羽橋と名づけたという「河童」説です。  
もう一つは、現在の金竜小学校跡地辺りにあった伊予新谷藩の加藤家の下屋敷があり、そこに住む小身の侍や足軽が内職で作った雨合羽を、天気の良い日に近くの橋でズラリと並べて乾かしたので、合羽橋と呼ばれるようになったという「雨合羽」説です。  
清水寺のすぐ近くの「合羽橋」交差点脇に「かっぱ河太郎像」があります。この像は東京合羽橋商店街振興組合が、平成15年10月7日に建立したもので、高さ 1.5メートルあり、本体ブロンズで表面に金箔張りつけられています。制作者は西村 祐一、北村 真一のお二人だそうです。  
この新堀川沿いに、幕末の剣豪島田虎之助の道場があったといいます。島田虎之助は、幕末に剣聖と言われた直心影流男谷誠一郎の弟子で、幕末の三剣士の一人といわれました。男谷道場では、一年余で師範免許を受け、師範代を勤めました。その後、東北修行をした後、天保4年(1843)に新堀川端に道場を開きました。その島田虎之助の道場で、若かりし勝海舟が道場に住み込み剣術修行をしていました。島田虎之助は、現在、かっぱ橋道具街にある「合羽橋南」交差点を少し西に入った正定寺(台東区松が谷2−1−2)に眠っています。 
巨嶽山 曹源寺(河童寺) 1 / 台東区松が谷  
巨嶽山曹源寺は、天正一六年(1588)5月、用山元照大和尚によって、現在の和田倉門付近に開創されました。  
用山元照大和尚は、江戸三大学問どころの一つ、栴檀林と称し、漢学では随一に数えられる吉祥寺(文京区)の五世で、徳川家康が常に師として礼を欠かさなかったと伝えられる高層です。明暦三年(1657)一月本郷本妙寺より出火した振袖火事(明暦の大火)により、本尊、諸尊像は無事に搬出したものの、諸堂宇は灰燼と帰してしまいました。幕府より、新寺町(現、松が谷)に境内地一六五一坪を拝領して移転しました。天明六年(1786)七月、折からふりつづいた大雨によって下町一帯は洪水となり、湿地帯を造成した曹源寺付近は船で往来したほどでした。  
二間半ばかりの新堀川の水はけが悪く、町の人々は大雨毎に難渋しました。これを見かねた合羽商を営む合羽屋喜八(通称合羽屋川太郎)が私財を投じて水捌け工事を行い、遂にこれを完成しました。昼は人間が作業をし、夜は喜八の義挙に感動した多くの隅田川の河童がこの工事を手伝ったと言い伝えが残されています。文化十一年(1814)一月三十一日、合羽屋喜八が没し、菩提寺である曹源寺に葬られました。以来曹源寺は俗に「かっぱ寺」ともよばれ、人々の厚い信仰が寄せられました。  
現在、喜八の義挙に感銘した人達により、河童堂が建立され、地元の鎮守として崇められています。又河童堂の天井には著名な漫画家の河童の絵やお堂の中には河童の手のミイラが展示されています。合羽屋喜八の墓は波形の台石の上にあり上部は皿のような水鉢をいただき、正面には「てっぺんへ手向けの水や川太郎」の句が刻まれています。商売繁盛、火水難除等の霊験著しいといわれ、今も厚い信仰が寄せられています。庫裏の方に声をかければご祈祷はいつでも受けられます。毎年、八月二十三日には曹源寺住職による河童祭りが執り行われ、何方でも事前にお知らせいただければ参加できます。  
曹源寺2  
かっぱ寺のほんとうの名前は、曹源寺といいます。江戸時代の文化年間(1804〜17)にこの辺りに雨合羽商を営む通称合羽川太郎、本名合羽屋喜八という人が住んでいました。この付近は千束池跡で土地も低く水はけがとても悪く、雨が降るとたちまち出水し住民は苦労をしていました。そこで川太郎は資財を投じ排水のための掘割工事に取りかかったところ、かつて川太郎に命を助けられた河童が工事を手伝い完成させたのだそうです。この河童を見た人は勝運が開けたとされ、河童大明神として祭ったといいます。表面に「てっぺんに手向けの水や川太郎」の句を刻む墓碑は川太郎の墓とされています。  
合羽橋は現在の通称「合羽橋道具街」を流れていた新堀川にかけられていた橋の一つであり、雨合羽屋喜八の徳を偲んで名付けられたと考えられています。新堀川は昭和の初めころまでに暗渠となりました。  
 
向島 界隈

 

 
                           秋山小兵衛 / 鐘ヶ淵 (上段中央) 
                           向島のお寺神社 
                           向島花街 (明治期) / (中段中央)

   
 
剣客商売 / 鐘ヶ淵

 
 
 

 
 
 
剣客商売(けんかくしょうばい)は、池波正太郎による時代小説。『鬼平犯科帳』や『仕掛人・藤枝梅安』と並ぶ池波正太郎の代表作。無外流の老剣客、秋山小兵衛(あきやまこへえ)を主人公とし、小兵衛と後添いのおはる、息子の大治郎、女剣客の佐々木三冬らが、江戸を舞台に様々な事件に遭遇し活躍する。  
秋山小兵衛  
無外流の達人である老剣客。初登場時は59歳。以降75歳までの姿が描かれる。老いても盛んで小粋な爺さん。原作では何度か小兵衛の死についても書かれているが90歳以上の長命を永らえた。無外流宗家・辻平右衛門に師事し、辻が大原の里に引きこもった後は独立して江戸に残り、四谷・仲町に修行の厳しさゆえ人数こそ少ないが知る人ぞ知る道場を構える。現在は道場を閉鎖し、鐘ヶ淵に隠居して気ままな生活を送っている。道場を構えていた頃にお貞と結婚し二人の間に大治郎が生まれるが、大治郎が7歳の頃にお貞は亡くなっている。鐘ヶ淵に隠居してから、息子より年下で40歳も歳の離れたおはると再婚した。辻平右衛門の門下であった頃は、弟弟子である嶋岡礼蔵と並んで同道場の双璧と呼ばれた。老いてもその実力は天下無双、素手で数人の浪人を瞬く間に倒してしまい、数人の剣士を一人で斬り倒すほどである。元々金には困らない境遇(小判を顎で使っていると評される)だが、後にとある金貸しより千五百両の大金を遺贈され、それを世のため人のために使う。また人脈もきわめて広く、身分を問わず多くの人に深く敬愛信頼されている。好奇心が強く人間そのものの達人であり、悪には容赦せず、弱く苦しむ者には助けを惜しまない。芸術・美食にも関心が強い。 
「剣客商売」1  
老剣客・秋山小兵衛が住む小さな世界はじつに魅力的で、第一話の「女武芸者」から私たちを引きこみ、つぎの「剣の誓約」に期待させ、第二話を読めば、第三話の「芸者変転」が読みたくなる。『剣客商売』の連載は「小説新潮」で昭和四十七年一月号からはじまった。そのときからの、私は愛読者である。そのころすでに、『鬼平犯科帳』が大好評だったし、この年には『剣客商売』より二月ほどおくれて、これまた評判の『仕掛人・藤枝梅安』の雑誌連載を先生ははじめられている。『剣客商売』はその第一回から「小説新潮」に昭和四十九年十二月号まで三年にわたり毎号掲載された。(昭和五十年以降は断続的に掲載されていて、『春の嵐』と『暗殺者』はともに長編である)これはもう素晴らしい筆力であるが、先生ご自身も秋山小兵衛や彼の若い妻のおはる、息子の大治郎、そして女武芸者の佐々木三冬(みふゆ)などを書くのを十分に楽しまれたのではないかと思われる。その楽しい感じが私のような読者にもそのまま伝わってくる。  
『剣客商売』は、安永六年の暮からは↓まっている。剣と人生の達人ともいうべき秋山小兵衛はときに五十九歳であるが、「女武芸者」の事件は年を越してしまうのだから、「この世の中の裏も表もわきまえつくした」小兵衛が六十歳になったときに、物語がはじまったといってもいい。このころ、小兵衛の息子で、道場をかまえても弟子が一人もいない、毎日、根深汁(ねぶかじる)ばかり食べている大治郎は二十五歳。  
大治郎は、父親とは対照的な剣客である。父・小兵衛は融通無擬(ゆうずうむげ)で、「汗の出し入れなど、わけもないこと」だし、孫のような若いおはるを得て、気楽な隠居暮しなのだが、息子から「父上も物好きな……」とひやかされると、「六十になったいま、若い女房にかしずかれて、のんびりと日を送る……じゃが、男というやつ、それだけでもすまぬものじゃ。退屈でなあ、女も……」という感慨を洩らすのである。  
大治郎はそういう父の小兵衛を尊敬し理解しながら、父の「風雅な」老後の生活にとまどっているところもある。  
普通の父親と息子の関係とは正反対なので、そこになんともいえない可笑(おか)しさが生れてくる。  
なにしろ、若いおはるは小兵衛より四十も年下のまだ二十歳だから、大治郎よりも若い。  
おはるは大治郎を「若先生と呼び、大治郎はおはるを「母上」と呼んでいる。  
四年間、遠国(おんごく)をまわって、剣の修行を積んできた息子.大治郎に小兵衛は告白する。  
「下女のおはる、な……。あれに手をつけてしまった。いわぬでもよいことだが、お前に内密(ないしょ)もいかぬ。ふくんでおいてくれ」  
「天狗」のような、そしておはるの父親、百姓の岩五郎が「あんな小(ち)っぼけな爺さんの剣術つかい」という秋山小兵衛が「おはるの揚(つ)きたての餅のような肌身を手ばなすつもり」がなくなったのは、これも大治郎に語ったことであるが、「このごろのおれは剣術より女のほうが好きに」なったからである。  
そして、「あるとき、離然(かつぜん)として女体(によたい)を好むようになって、な。お前が旅へ出たのち、四谷の道場をたたんで剣術をやめたことは、やはりよかった」と小兵衛に言われても、その「女体」に 二十五歳の今日まで一度も接したことがない大治郎には理解できることではなかった。  
そうではあるが、小兵衛は自分自身を厳しくみつめる老人でもある。『剣客商売』を読みすすめば、わかることであるが、この老剣客は彼自身をからかうような一言葉をしばしぱ口にしている。  
ほんとうに、食えない爺さんなのである。秋山小兵衛のような剣客が出現したのも、将軍徳川家治(いえはる)から深い寵愛(ちようあい)をうけている老中田沼意次(おきつぐ)の時代であったからだろうか。  
田沼意次の時代は、俗にいえば、金権政治である。しかし、『剣客商売』の作者は、田沼時代をかならずしもそうはみていない。  
『剣客商売』のなかでは凛々(りり)しいヒロインの佐々木三冬は田沼老中の妾腹(しようふく)の娘で、それ故に父親を敵視し、「父が、もっと別のお人でしたら」と小兵衛に打明けている。  
私事を申しあげて恐縮であるが、私は佐々木三冬の大ファンであります。  
彼女が主役をつとめる「その日の三冬」(『剣客商売勝負』所収)は『剣客商売』シリーズのなかでもベストの一編である。  
「三冬は、女武芸者である。髪は若衆髭(わかしゅわげ)にぬれぬれとゆいあげ、すらりと引きしまった肉体を薄むらさきの小袖と袴(はかま)につつみ、黒縮緬(くろちりめん)の羽織へ四ツ目結(ゆい)の紋をつけ、細身の大小を腰に横たえ、素足に絹緒(きぬお)の草履(ぞうり)といういでたちであった。さわやかな五体のうごきは、どう見ても男のものといってよいが、それでいて、『えもいわれぬ……』 優美さがにおいたつのは、やはり、三冬が十九の処女(おとめ)だからであろう。  
濃い眉をあげ、切長(きれなが)の眼をぴたりと正面に据え、蝦爽(さつそう)と歩む佐々木三冬を、道行く人びとは振り返って見ずにはいられない」  
三冬の姿が眼の前に浮んでくるではないか。この「男女のことについてはまったく少女のごとき三冬」がやがて大治郎の妻になるのである。そのころには、秋山小兵衛に諭(さと)されて、父田沼意次への理解を深めている。  
しかし、『剣客商売』のはじめでは、三冬は、父と政治を「汚ならしい」と思っている。そこで、小兵衛は言う。  
「政事(まつりごと)は、汚れの中に真実を見出すものさ」  
それでも、三冬にはわからない。剣術がまだ「三冬のいのちです」と言う美少女なのである。  
小兵衛と大治郎が対照的であるように、おはると三冬もまたそうである。対照の妙といってもいい。  
作者は登場人物をくっきりと描きわけているのだ。『剣客商売』を読んでいて、快さを感じるのは、一つには、そういうところにあるのだろう。  
「寝そべっている小兵衛のあたまをひざに乗せ、耳の垢(あか)をとってやっている若い女は、この近くの関屋(せきや)村の百姓・岩五郎の次女でおはるというのだが、別に大女でもない。だが、おはるのひざに寝そべっている小兵衛を見ると、まるで母親が子供をあやしているかのようであった。(中略)『若先生が、見えたよ』と、おはるは、まことにもってぞんざいな口調で、小兵衛へいいかける」  
もう、これだけで、小兵衛とおはるの関係がわかってくる。春風騎蕩(しゆんぶうたいとう)という感じがして、自然に笑いがこぼれてくる。『鬼平犯科帳』の長谷川平蔵は実在したが、秋山小兵衛は明らかにフィクションである。  
池波先生は「〔小兵衛〕とは、よくも名づけたものである」と「女武芸者」に書いておられるが、『剣客商売』の連載をはじめるとき、主人公である老剣客の名前のことで「頭を抱えてしまった」そうである。  
『日曜日の万年筆』(新潮文庫)の「名前について」というエッセーで、先生はこのことに触れられている。  
「小兵衛の性格については、いろいろなモデルがあるのだけれども、その風貌(ふうぼう)は 旧知の歌舞伎俳優・中村又五郎をモデルにした。すっきりとした顔だちと、小柄で細身の小気味がよい躰(からだ)をおもい出しているうち、ようやくに〔小兵衛〕という名がついた」  
のちに、その中村又五郎が帝国劇場の『剣客商売』で小兵衛を演じているが、池波先生にとっては、「このときほど作者がうれしかったことはない」  
小兵衛の「いろいろなモデル」の一人は、『日曜日の万年筆』に劣らず素敵なエッセー集『食卓の情景』(新潮文庫)に出ていた。「長唄と芋酒」という一編である。先生がまだ少年のころ、長唄の稽古をしてもらっていた師匠のもとへ、三井清という老人が出入りしていた。株屋の外交さんだという。三井老人は唄もうまいし、三味線も弾いたが、他人の前では決して唄わない。風采(ふうさい)はあがらないし、身なりは質素で、深川の清澄町(さよずみちよう)に住み、「まるで娘か孫のような若い細君と暮して」いた。  
「小さな家の中に猫が二匹。まるで役所の係長ほどの暮しぶりなのだが、金はうなるほどにあった。(中略)三井じいさんと若い細君の暮しぶりは、……〔剣客商売〕の主人公で老剣客の秋山小兵衛と若いおはるの生活に、知らず知らず浮出てしまったようである」  
秋山小兵衛、大治郎、おはる、佐々木三冬にしか触れていないが、『剣客商売』には、彼らをたすける江戸の市民たちが多数登場してくる。しかも、『剣客商売』の登場人物たちは一編一編において、季節や歳月を感じさせる。三冬は女らしくなり、小兵衛は老いてゆく。大治郎は父を見て、成長してゆく。  
いま、小兵衛は六十歳だが、九十歳まで生きるのである。  
若き日の秋山小兵衛については、上下二冊の『黒白(こくびやく)』で知ることができる。  
これは傑作である。けれども、『黒白』からは、おはるを「いまに強(きつ)くなろうよ。  
あのむすめ、おぼえが早くてなあ」と言う秋山小兵衛は想像できないだろう。ただ、「剣客というものは、好むと好まざるとにかかわらず、勝ち残り生き残るたびに、人のうらみを背負わねばならぬ」という小兵衛の覚悟は変っていない。  
はじめに、秋山小兵衛が住む小さな世界と私は紹介した。それは、作者が『剣客商売』で、小兵衛を中心に一つのコミュニティ(共同体)を創りだしているということである。  
小兵衛とその周囲の人たちを秋山一家と呼びたくなるような、まことにインチメート(水いらず)な世界である。 
「剣客商売」2 / 春の嵐  
『剣客商売」も十冊目でいよいよ長編が登場した。昭和四十七年(1972)にはじまったこのシリーズは「小 説新潮」に読切連載だったが、六年後の昭和五十三年、『春の嵐』が一年にわたって連載された。池波正太郎 五十五歳、秋山小兵衛六十三歳。『剣客商売』は小兵衛が安永六年(1777)、五十九歳のときにはじまる。女武芸者の佐々木三冬と知り合い、 彼女の危機を救ったところで、年が明けて安永七年、小兵衛は六十歳になった。このとき、作者は四十九歳だっ たから、作者と作中人物との年齢の差が、『春の嵐』までの六年のあいだに少しく縮まっている。『剣客商売』では作者が小説の主人公の年齢を追いかけることになった。そして、秋山小兵衛が六十七歳の とき、作者は同じ六十七歳で、惜しまれて世を去ったのである。秋山小兵衛の旺盛(おうせい)な食欲や、ちょっとした病気には作者の折々の体調が反映されているよう だ。作者の体力の衰えを小兵衛に見ることができる。しかし、『春の嵐』の老剣客は元気である。『春の嵐』は長編だから、仕掛けの謎も当然大きい。闇から闇へ葬(ほうむ)られてゆく大陰謀がこの長編 の背後にある。秋山大治郎と名乗る、頭巾をかぶった男による連続斬殺事件は天明元年(1781)の暮にはじまっ て、容易に解決を見ない。秋山ファミリーを総動員して、春にようやく小兵衛は犯人を討ちはたす。けれども、『春の嵐』はじつになごやかな「食卓の情景」からはじまっている。  
『剣客商売』の冒頭で、 私の最も好きなシーンの一つだ。  
時は天明元年暮の一夜。所は鐘ケ淵(かねがふち)の秋山小兵衛の隠宅。大治郎と三冬が遊びに来ている。  
小兵衛は鰻の辻売りをしている又六が母親の床ばらいのお祝いに届けてくれた鯛と軍鶏を馳走(ちそう) しようというのである。  
「先ず、鯛の刺身であったが、それも皮にさっと熱湯をかけ、ぶつぶつと乱切りにしたようなものだ」  
それで盃(さかずき)をあげ、一家団欒のうちに刺身を食べてしまうと、つぎは軍鶏。  
「これは、おはるが自慢の出汁(だしじる)を鍋に張り、ふつふつと煮えたぎったところへ、軍鶏と葱(ねぎ) を人れては食べ、食べては入れる」  
じつにうまそうだ。この鍋には醤油も味噌も使わないそうだが、三冬が「ああ…」と嘆声をあげるほどの味である。  
「すっかり食べ終えると、鍋に残った出汁を濾(こ)し、湯を加えてうすめたものを、細切りの大根を炊きこ んだ飯にかけまわして食べるのである」  
底冷えの強(きつ)い夜だったから、躰もあたたまるだろう。『春の嵐』のこのシーンを読んでいると、 食欲をそそられる。それは、読者が食べてみたくなるように、作者が書いているからだ。そして、作者は少年 のころからこの料理を冬の夜に食べてきたのにちがいない。  
池波正太郎氏は、躰でおぼえたことを書くという意味のことをあるエッセーに書かれていた。作者自身が 鯛の「皮にさっと熱湯をかけ、ぶつぶつと乱切りにした」ことがあっただろうし、鍋に張った出汁が「ふっふっ」 と煮えたぎるのをじっと見ていたこともあったにちがいない。  
「さっと」とか「ぶつぶつ」とか「ふつふつ」とかいう言葉がここではじつに効いている。すべて世は事もな い、和気謁々(わきあいあい)とした雰囲気が私にも伝わってくる。だが、「ちょうど、そのころ」と作者はあ ざやかに場面を転換させて、八百石の旗本が秋山大治郎と名乗った男に斬り殺される事件を読者に知らせる。こ うして秋山父子(おやこ)はいやおうなしに奇怪な事件に巻きこまれてゆく。弥七(やしち)や徳次郎ばかりで なく、又六や手裏剣の名手、杉原秀(すぎはらひで)、そして杉本又太郎や飯田粂太郎(いいだくめたろう)な ど、『剣客商売』におなじみの脇役たちがつぎつぎと登場してくる。出てこないのは牛堀九万之助(うしぼりく まのすけ)だけだろうか。  
『春の嵐」も私はなんどか読んでいる。だから、ストーリーは知っている。そうではあるが、一冊目の『剣 客商売』を手にとると、簡単に『春の嵐』まで読んでしまい、さらにすすんで『浮沈』まで行ってしまい、『黒 白』まで読まなければ気がすまなくなる。それで、また読んでるの、よく飽きないわねなどと家人に冷やかされてきた。  
たいていの小説は一回読めばそれで終りである。『剣客商売』も読むのは一回きりでいいはずだ。けれど も、『剣客商売』は、というより池波さんの小説は、なんどでも読ませる力を持っている。疲れたとき、何か辛 いことがあったとき、私はかならず池波さんを読んでいる。それは『鬼平犯科帳』であることもあれば、『仕掛 人・藤枝梅安』であることもあるし、『雲霧仁左衛門』であったりする。  
四十代のころからそうだった。私自身、秋山小兵衛の年齢になっても、それがつづいている。疲れたとき や辛いことがあったときでなくても、要するに暇ができると、池波正太郎を読んでいる。  
ストーリーがわかっているから、安心して読むのではないかと私に言う人がある。逃避ではないか、とも。な んと言われてもいいのであるが、池波さんを読みおわったあとで、再び仕事にもどることができる。おそらく、 池波さんの小説は私を慰め励ましてくれるのだと思う。秋山小兵衛の日常生活を通して、生きていることの歓び を教えられる。  
これは秋山小兵衛や藤枝梅安や長谷川平蔵になりかわった作者が私を慰め励ましてくれるのだ。おいしそ うな料理が出てくるシーンを読むだけでも、慰めになり励ましになる。  
『剣客商売全集』の「付録」には「〔剣客商売〕料理帖」という索引があるのだが、池波さんはあ行からわ 行までの食べものをすべて味わっている。だからこそ(池波さんなら「なればこそ」であるが)、食べものの シーンを読むと、食欲をそそられるのだ。  
しかし、『春の嵐』には、食べもののシーンは冒頭にしかない。そのほかにないということはないのだけ れど、又六の老母がこしらえたにぎり飯と竹製の水筒に入れた茶を小兵衛が、張り込みをつづける傘屋の徳次郎 に届ける程度である。その握り飯を頼張(ほおば)った傘徳が、思わず、「こいつは、うめえ」と舌鼓(したつ づみ)を鳴らすと、私もまた食べたくなってくる。  
「何のこともない握り飯なのだが、鰹節をていねいに削り、醤油にまぶしたものが入っている」  
この握り飯は読者から手の届くところにある。読者が自分でこしらえることのできるものだ。『剣客商売』 に出てくる食べものは読者がつくってつくれないことはないのだ。しかし、なんでもスーパーマーケットやコン ビニエンスストアのものですまそうという女の人たちにはできない相談である。  
彼女たちはおはるとちがう。おはるのような料理上手ではない。『剣客商売』を読めば読むほど、私はおはる が好きになってくる。これは私が年齢(とし)をとったからであろうか、それとも、妻がおはるのような女では ないからなのか。  
『剣客商売』は若い人が読んでも楽しいだろうが、老後の楽しみという一面もある。年齢をとってから読む べき小説なのだ。おはるを例にとれば、はじめて読んだときは、田舎娘としか思わなかったが、だんだんに彼女 の魅力がわかってきた。池波さんは読者にとって気の休まる女を描いてみたのにちがいない。おはるこそ『剣客 商売』のマドンナである。  
おはると対照的なのが三冬であって、池波さんはまったくちがう二つのタイプの女を描いた。そのほかに も『春の嵐』には「便牽牛(べんけんぎゅう)」と呼ばれるお松がいる。杉本又太郎はこのお松を見て、牛蒡 (ごぼう)のお松とはよくいったものだと思う。便牽牛とは牛蒡のことだ。  
「色、あくまで黒く、骨の浮いた細い躰の乳房のふくらみも貧弱をきわめてい、これを抱いたら、肉置(ししお) きも何もあったものではなく」  
作者はこのように書いている。又太郎は(まるで、骨を抱いているようなものだろう)と思うのだが、お松は かすれ声で言うのである。  
「お饅頭(まんじゅう)の餡(あん)の味は、食べてみなけりゃあ、わかりませんよ、旦那」  
池波さんの作品を私が読むのは、この作家がいろんなタイプの女を、まるでそこにいるかのように書いて いるからだろう。お松もその一人だ。こういう女を描くとき、作者はそれを楽しんでいるように思われる。  
しかし、本当はそうではないだろう。池波さんは『剣客商売』に骨身を削られたのだ。読者を楽しませよ うとして、一作一作に心血を注いだ。池波さんはたんに女を書きわけたのではない。人間の不思議を女を通し て書いたのだと思う。  
池波さんのノートにはつぎのようなことが書かれてあった。(「小説新潮」一九九二年五月号)  
「人問の心底のはかり知れなさ」  
これは『剣客商売』のテーマではないか。池波さんが人間の心の底のはかり知れなさをつねに書いていたから、 私も『剣客商売』を読むのである。『春の嵐』に仕掛けられた謎はたしかに大きい。それで小説はいっそうおも しろくなっている。だが、その背後には、秋山小兵衛にもわからない人間という謎がある。小兵衛はそのことを 知っている。  
『春の嵐』の結末はかならずしも明るくない。桜はすでに散ってしまって、新緑があざやかで、「老(おい) の鶯(うぐいす)」が鳴いているが、秋山小兵衛の心ははれない。これもまた作者の心境の反映だろうか。  
『剣客商売』には、小兵衛とおはるが住む鐘ケ淵の家に春の日がさしこみ、すると暗雲がたちこめてきて、 それがまもなく去って、再び明るい日ざしが隠宅にさしてくるといった印象があった。はじめはたしかにそう だったのであるが、作者が小兵衛の年齢に近づくにつれて、陰影に富んだ結末になってくる。それが私には痛々 しく感じられる。 
「剣客商売」3 / 秋山父子ゆかりの地  
鐘ヶ淵という名前は、いわゆる「沈鐘伝説」に依るもののようです。この沈鐘伝説というのは結構全国各地にあるもので、ここもそんな中の一つというところ。  
由来はいくつかあるようですが、まず一つは、この地を収めていた千葉氏が北条氏の軍門に下った際、北条方が戦利品として千葉氏ゆかりの瑞応寺の梵鐘を持ち帰ろうと舟に乗せたところ、どこからか女性のむせび泣くような音が響きはじめ同時に大川の波も高くなり風雨も強くなった。そこで北条方が恐れをなして梵鐘を川底に沈めて逃げ去った、というものです。これは瑞応寺のホームページ中「まんが足立の今昔」に出ています。  
東武鉄道のページでは鐘ヶ淵駅に関して「元和6年(1620)、橋場、石浜の地にあった寺院が亀戸村に移転しました。そのときに寺の鐘を船に乗せて隅田川を渡ろうとして誤って鐘を水中に落とし、引き上げる事ができなくなりました、以後、鐘の沈んだあたりを鐘ケ淵というようになったそうです。駅名の由来は地名から命名されました。」と書かれています。  
地図で見ますと大川はこの少し上流でぐぐっと向きを変えて南北の流れになって江戸湾に向かうわけです。先程行った「おはる実家付近」ですね。少し離れて荒川があり、その二つを綾瀬川が運河のように繋いでいるような格好になります。実際にこの地に立ってみると、正に独特の風景。  
秋山小兵衛の隠宅は、鐘ヶ淵中学校のあたりになりますでしょうか。手前の堤防沿いには今やブルーテント村が形成されちゃっております。隠宅の庭にはこの鐘ヶ淵から水を引き込んで、おはるの舟が舫ってあるわけですから、このブルーテント村から鐘ヶ淵中学校のあたりということになりましょう。  
鐘ヶ淵には今でも伊沢造船所と伊沢マリーナが残っていてこの川が水運の要衝であったことを物語っています。  
この綾瀬橋から鐘ヶ淵・大川下流方向を見ますと、手前に水神大橋が架かり、その先に大きなガスタンクが見えます。このあたりがおそらく秋山大治郎の道場があったあたりではないでしょうか、鐘ヶ淵からおはるの舟なら気軽に行ける距離ではあります。  
墨堤通りを進むとすぐに鐘ヶ淵中学校。向かい側には「鐘ヶ淵紡績」つまり「カネボウ」です。「カネボウ」のイメージに関しては、年代別に「毛糸」「化粧品」「お菓子」となるようでございます。  
中学校の裏手に廻ると川の堤防下まで来られるのですが、首都高速の高架線とい堤防が視界を遮って川を見ることが出来ません。中学校の先からは東白髭公園を歩きます。ここには白髭団地として大きな公団住宅のような建物が続きます。大きな壁といいますか何といいますか、上空から見ればこの界隈に歯でも生えているように見えるのではなかろうかと思います。本所のご隠居さんのお話では実際「地域の防火壁」としての役割が強かったそうで、よく見ると建物の間を鉄板が埋めていたり、所々に放水銃なんかも見られます。  
白髭公園を歩き、水神大橋を右手に見て暫くすると木母寺です。「小兵衛隠宅にもほど近い」はずの木母寺は現在ではこんな姿になってます。歴史のあるお寺ですので、境内には色んな碑が残っており、見所は少なくありません。ガラスに囲まれているのは梅若塚。境内の本堂の奥に妙なものを発見。何でしょう「弁天様」との説が聞こえましたが・・・しかしシュールな造形です。  
さて、その参道にぶつかると堤防を瀬にして隅田川神社があります。隅田川神社はもともと隅田川に面して鳥居が建っていたのだと聞き及びます。昔は「水神宮」とも呼ばれていて明治5年に今の名称になったそうです。本堂の裏手、川に向かって古い鳥居が残っています。これが川に面していた頃の名残なのでしょう、昔はこの鳥居のところまでが大川だったのですね。その後の護岸工事や高速道路の建設で今は隅田川神社という名前の由来さえ感じさせないような場所になってしまいました。境内には「水神宮」と書かれた碑も残っていました。  
ここから白髭橋まで更に団地内の緑地を歩き、白髭橋を通って大川を対岸に渡ります。しばし公園内を歩いてきたので急に車の喧噪が。あくまであたしの個人的好みなのではありますが、白髭橋は造形的にすごく好きなんですね。  
白髭橋から大川上流を見ますと、前方に水神大橋。その先が鐘ヶ淵です。  
白髭橋を渡ってすぐの道を右に入ってしばし。石浜神社が見えてきます。原作には大治郎道場がある場所として「真崎稲荷近くの木立に囲まれた道場」といった描かれ方をしています。この真崎稲荷は大正十五年に現在の石浜神社に併合されていますて、石浜神社本殿の脇に繋がるように真崎稲荷があります。現在も二月には稲荷神社祭が催されているとのこと。  
チョコエッグのようになっていて、パカッと開くと大治郎道場が入っている  
「掃除をする粂太郎フィギュア付き」でどうだ。  
大治郎の道場は大川の堤を歩き思川を渡った真崎稲荷近くということになります。「思川」というのは現在の明治通りと思われますので、その意味では石浜神社の西側、東京ガスのあるあたりではないかと思うのでございます。というわけで大治郎道場は、この神社左手にある「ガスタンク」に決定。  
ここから白髭橋に戻って今度は大川下流(浅草方面)を見てみましょう。右岸が橋場です。  
小兵衛御用達(?)の料亭「不二楼」があったあたり。不二楼には船着場もあったようですから、ざっとこのオレンジ色のマンションのあたりでしょうか。  
さて、今度は真崎稲荷を背にして、大川に並行した一方通行の道を浅草方面へ。ここから台東区。静かな住宅街になりますが、その一角にちょこっとした感じで「橋場不動」の入口が見えます。橋場不動は何故か「剣客商売」には出てきませんが「鬼平」には何度か登場。  
その橋場不動の道を挟んだ向かい側に、先程の「マンション・不二楼」がありました。小兵衛は不二楼から待乳山聖天さまや、浅草寺、駒形堂そばの元長なんかに行くときには、この道を歩いたのでございましょうか。今でも一本道で今戸橋の方に出られる道になっています。  
更に浅草方面に歩きます。一方通行の道路から少し中に入ったあたりに薬局一軒。  
このあたりが「剣客商売」では「浅茅が原」ということになりましょうか。「鬼熊酒屋」の熊五郎が病んだ姿を誰にも見せず、一人悶絶していたスポットでございます。  
ここを通りかかった小兵衛に見つかることになるのですが、その結果今では薬局になっているという(笑)そんなことはございませんが、しかし鬼熊酒屋といえば、現代の両国駅近くのハズ。結構距離ありますぜ。健康体ならともかく、病んだ体で何故ここまで歩いて来たのか・・・謎でございますね。  
さて、ここからもほど近くの本性寺は秋山小兵衛の妻が眠るという設定の秋山家菩提寺です。石柱に「秋山自雲」の名前が書かれていますが、秋山小兵衛の菩提寺にここを選んだのは、これを見たからなのでしょうか。あるいはここから「秋山」の名をとったのでしょうか。小兵衛の妻を若き日に慕っていた剣友・嶋岡礼蔵も後年「剣の誓約」事件にて、ここに眠ることになります。小兵衛は鐘ヶ淵からここまで墓参に来ては橋場の不二楼等で休んでいたのでしょう。その後初代隠宅が焼かれてから暫くは不二楼の離れに仮寓する時期がありますが、その間はこのあたりから大川を眺めることもしばしばだったのではなかろうかと思います。  
住宅地を進みます。先程の一方通行とは逆に北に向かう道路に沿って今戸神社があります。今戸神社は「剣客商売」にも「鬼平」にも登場しなかったと思いますが、ちょっと寄り道。なんでも「招き猫発祥の地」だそうで。きれいな本殿正面には見事な招き猫が二匹ほど。この今戸神社は「縁結び」の御利益もあるそうで、絵馬は「円」型。絵馬の内容は読むと怖くなるので、読まないように致しましょう。  
作品中時々出てくる今戸橋は現在はありません。山谷堀が埋め立てられてしまっていますので、古地図にある川を探しても見つかりませんが、公園といいますか、遊歩道のようになっていて、往時を偲べなくもないかな。  
かろうじて橋柱がぽつんと残り、昔ここに橋が架かっていたことを思い起こさせます。この山谷堀から舟で吉原の遊郭に遊びに行くなんて今は昔のお話。橋の大きさが残っている橋柱の通りとすれば、山谷堀の幅もこの公園の通り。ちょき舟がすれ違うに丁度くらいというところでしょうか。  
待乳山聖天様です。昨年の屋形船見廻りの時にも寄りましたが、こんもりとした山になっていて境内には至る所に大根と巾着の模様が見られますね。  
実際本殿を覗きますと大根がそのままの姿でお供えされています。待乳山聖天様HPよれば「大根は身体を丈夫にしていただき、良縁を成就し、夫婦仲良く末永く一家の和合を御加護頂ける功徳を表しています。巾着は財宝で商売繁盛を表し、聖天さまの信仰のご利益の大きいことを示されたものです。」なのだそうです。  
この「良縁を成就」という点で「御利益があった」との報告も受けておりますぞ。「出会い系神社」にあやかりまして、せっかくですので今回も大根をお供え。  
待乳山聖天様の浅草側、旧聖天町といえば、池波先生の生まれたところ。小兵衛は鐘ヶ淵の隠宅を「小雨坊」に焼かれた折に聖天町の棟梁に新居建設を依頼しますが、これは池波先生出身地ということで、何かヒントがあったのかも知れませんね。先生は小さい頃をこの界隈で自由闊達に遊んでらっしゃったのでしょうか。剣客商売でも何度となく舞台となる山谷界隈は先生にとっても庭のようなものだったのかもしれませんね。  
言問通りに出ますと浅草寺の裏手へ。実はちょっと前まで「江戸の時間制度」が掲示板にて話題になっていたのですが、その折に出てきた「時間を知らせる鐘」が、浅草寺にまだ残っているのでございます。せっかくですので見に行ってみましょう。浅草寺境内の東側にある弁天山(山って程でもありませんが)の上に昭和25年に再建された鐘突堂があります。中に吊されている時鐘は元禄5年改鋳だそうで、現在も毎朝午前6時に時を知らせているとのこと。このあたりを見廻った火盗改メも何度も聞いたであろう鐘が今でも残っているのでございますね。  
駒形橋に至る浅草通りと江戸通りをひっきりなしに行き交う車に紛れて、ひっそりと建っている感じです。馬頭観音が祀られているとのこと。このすぐ近くに不二楼の長次とおもとが始めた「元長」なる小料理屋があったわけですが「無理矢理決めちゃえ」シリーズ最後の一軒はココ、駒形堂裏手の「むぎとろ」さんを「元長」に決定。 
 
向島のお寺神社
( 青の点円・切絵の北から順に説明 )

 
 

木母寺  
山号を梅柳山といい、天台宗に属する墨東第一の名刹といえます。開山は忠円阿闍梨により平安中期の貞元元年(976)に開山された天台宗の名刹で、古くは梅若寺又は隅田院とも称されていました。明治維新の廃仏棄釈によって廃寺となり、梅若神社となっていましたが、明治21年(1888)、光円僧正の尽力により、仏寺として再興されました。謡曲、浄瑠璃、長唄などでうたわれた梅若伝説発祥の地で梅若丸を祀った梅若塚があり、4月15日には梅若忌が行われます。  
隅田川神社[水神社]  
「水神社」と呼ばれ、かっては樹木が繁茂し「水神の森」とも称され、また隅田川の増水にあっても沈むことがなく「浮島」の名もありました。昔から、河川交通の要衝であり、海運・運送業者の尊崇を集めていました。祭神は速秋津比古ほか三神を主神とし、また水の神様らしく境内には石亀や「船の錨」など、水や川、舟に関するものが祀ってあります。維新の時には社掌矢掛弓雄が大いに社運を盛り上げた模様で、彼の手になる歌碑、記念碑が多数残っています。また、墨田地域に残された伝統芸能「隅田囃子」の活動も、この神楽殿を中心に行われています。  
白鬚神社  
天暦5年に慈恵大師が白鬚大明神の御分霊をここに祀ったことを起源とします。祭神は猿田彦命で国土の神、道案内の守神、隅田川沿いの道祖神として信仰されてきました。かつては白鬚の森と呼ばれる緑の美しい場所で向島八景、隅田川二十四景のひとつに数えられていました。江戸の風流人、文化人の詩碑、墓碑などが数多く残されています。  
蓮花寺[寺島大師]  
寺島の地名のいわれともなった古刹。江戸時代には霊験あらたかな厄除け寺島大師として有名で、川崎大師、西新井大師総持寺とともに江戸三大師と言われていました。京都智積院末で真言宗に属し、本尊は空海寺自筆の弘法大師画像と伝えられています。この寺の開山については諸説がありますが、鎌倉幕府5代執権・北条時頼の甥にあたる頼助が諸国回遊の折に寺島に一寺を建立し、時頼が鎌倉に創建した蓮華寺を遷したものといわれます(現在は蓮花寺)。  
長命寺  
元和元年(1615)頃の創建と伝えられる寺は天台宗延暦寺末で、古くは宝寿山常泉寺と号していました。寛永年間(1624〜1644)に3代将軍家光がこの辺りに鷹狩りに来た時、急に腹痛をおこしましたが、住職が加持した庭の井の水で薬を服用したところ痛みが治まったので、長命寺の寺号を与えたといいます。今も長命水石文や復元された井戸を残しています。十返舎一九の狂歌碑、松尾芭蕉句碑、著名人の墓など多くの石碑が見られます。  
弘福寺  
黄檗宗(本山は教徒万福寺)の名刹。松雲作といわれる釈迦如来像を本尊とし、山門、本堂の屋根などに唐風の建築様式をみることができます。勝海舟も青年時代にこの寺で修行したと伝えられ、関東大震災まで森鴎外の墓もここにありました。鯉魚の大魚板、根付、咳や口中の病によくきく「咳の爺婆尊」などがよく知られ、咳止めの飴を買い求める参拝者が多くいます。  
牛嶋神社[牛御前]  
貞観年間(859〜879)頃、慈覚大師が一草庵で素盞之雄命の権現である老翁に会い、牛御前と呼ぶようになったと伝えられ、かつては隅田公園に北側にあったのが公園の工事のため昭和7年に現在の場所に移りました。本所の総鎮守として知られ、9月15日には例大祭が催されています。境内の「撫牛」は自分の悪い部分と牛の同じ部分を撫でると病が治るという信仰で、肉体だけでなく心も治るという心身回癒の祈願物として有名。他にも本殿前には全国的に珍しい三輪鳥居(三つ鳥居)と「狛牛」があります。  
三囲神社  
文和年間(1352〜1356)近江国三井寺の僧が巡礼中に当地で荒れた祠を見つけ、修復しようとしたところ、地中から壺に収められた白狐にまたがる神像を得ました。すると何処からともなく白狐が現れ、この神像の回りを三度回って消えたという故事に由来します。俳人宝井其角「雨乞いの句碑」は有名で、元禄6年(1693)の江戸のかんばつの際には、俳人宝井其角が句を詠み奉納すると翌日大雨が降り、人々を救ったと伝えられます。  
 
東京・向島にある「三囲(みめぐり)神社」は江戸時代、三井家の守護社として崇拝され、現在も三井家と三井グループ各社から信仰されている。三囲神社の草創は定かではないが、社伝によると弘法大師の勧請によるという。南北朝時代、荒れ果てた社殿の再建に着手した際、地中から神像が掘り出され、白狐がその神像を三度回って行ったことから、「みめぐり」と呼ばれるようになった。時代は流れ、元禄年間になると神社は江戸の大店・越後屋を営む三井家の守護社として信仰を集める。その理由は神社が日本橋から東北(鬼門)の方角に位置するため、「鬼門除けの神」として祀られたとされるが、三囲の「囲」の字は「井」を囲んでいることから、三井を守る意味で守護社とされたとも、俳人・其角(きかく)の雨乞いの霊験によるものとも伝えられている。以後、三井家が主となり神社を支援しており、神社には三井家が奉納した石碑や石像・木像も多い。社殿に近い白狐石像は台座に「向店」とあり、享和2年(1802)に越後屋が奉納したもの。恵比寿神・大国(大黒)神の二神が祀られている内社殿は三井家が文久3年(1863)に造成した。平成21年(2009)に閉店した三越池袋店のシンボル・ライオン像も佇んでいる。  
秋葉神社  
正応2年(1289)創建と伝えられ、後に静岡の秋葉権限を分祠して相殿としました。元禄15年(1702)別当を造営し、地域でも著名な神社となりました。江戸時代には鎮火の神として諸大名に崇敬され、特に大奥から厚く信仰されました。11月18日には鎮火祭が行われますが、紅葉の名所としても知られています。7基の石燈籠のうち、6基が区の登録文化財に指定されています。  
正福寺 (鐘ヶ淵・切絵になし)  
正福寺(しょうふくじ)は慶長七年(1602年)に開基されました。安政大地震(安政二年十一月)により壊滅しましたが、名主坂田三七郎の邸宅寄進により再建され、現在に至ります。都内最古の板碑があります。板碑は阿弥陀一尊を梵字で刻み、「宝治二年戌申三月三日」(1248年)の銘があるもので、江戸時代に付近の畑から発掘され、後に正福寺に移されたといわれています。また首から上の病に効験があると言われている「首塚地蔵」が有名です。天保四年(1833年)隅田川橋場附近の浚渫工事の際に、川床よりたくさんの頭骨が発掘されました。関係者は正福寺と共に、合葬し碑をたてて、「首塚」といったと伝えられています。  
多聞寺 (鐘ヶ淵・切絵になし)  
天徳年間には今の隅田川神社[水神社]付近にあって、大鏡山明王院隅田寺と称え、本尊は不動明王でした。狸(たぬき)にまつわる伝承もあることから、多聞寺を一名「たぬき寺」とも呼びました。多聞寺は区内の最北端にあり、関東大震災、戦災ともに遭わなかったので、昔日の面影を残す数少ない寺院となっています。寺前の道は古代から続く街道の名残です。特に山門は木造茅葺(かやぶき)切妻造四脚門の様式をとるもので、多聞寺に残る唯一の江戸期木造建築であり、区内最古の建造物と考えられます。享保3年(1718)に焼失し、現在のものはその後に再建されたものです。また、多聞寺は毘沙門天を祀ることから、文化年間(1804〜1818)に隅田川七福神のひとつに組み込まれました。以来、現在に至るまで正月は七福神巡りで賑わいます。他にも狸塚や映画人の碑があります。
 
向島花街

 
 
 

向島1  
東京都墨田区向島5丁目にある花街、花柳界の総称。  
向島は隅田川沿岸に位置し、江戸時代から風光明媚の地として栄えてきたが、明治期に料理屋が置かれそれが花街の起源となる。最盛期には待合、料理屋が100軒から200軒、芸妓は1000名以上あり各検番(芸妓、料理屋を管轄する機関)にそれぞれ在籍した。中でも洋装のダンス芸妓が人気を集めた。その近くには玉の井という私娼のいた銘酒店街(飲み屋を装って売春をする店が立ち並ぶ場所で、非公認の遊廓)が存在した。関東大震災、第二次世界大戦の危機を乗り越えてきたが昭和後期に入り料亭、芸妓数の減少が続き、2009年現在、料亭18軒、芸妓120名である。戦前には複数あった見番が「向嶋墨堤組合」に統合され、芸妓の技芸向上や後進の育成を図るほか、春の時期に桜茶屋を設け花見客を接待するなど、対外的にも積極的に取り組んでいる。
向島2  
根っからの江戸っ子は向島(むこうじま)と発音せず「もこうじま」と発音する。東京では深川と並ぶ隅田川左岸(川向こう)の料亭街だったが、深川が1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲で消滅したので、川向こう唯一の料亭街である。料亭が点在しているのは向島墨堤組合を中心とした向島2丁目、5丁目付近であるが、最近、料亭に上がる用事もなくなった。私は料亭街から外れた4丁目5-7の洋食屋「あきら」へしばしば通うので、時々料亭街を覗くが、寂れた。若い頃通いつめた馴染みの料亭は影も形も無い。田中角栄幹事長に招待された桜茶ヤこそ健在だが。  
ある向島通の話。盛夏の或る日、美家古さんを訪れた。数ある向島の料亭の中でも大正時代の面影を残しているのは、もうここぐらいだろう。白壁の門をくぐると打ち水された敷石、玄関わきの坪庭、渡り廊下、庭から聞こえる蝉しぐれ、お酌をするときの芸者さんの衣擦れの音、都会の喧騒から離れた日本の美がある。料理もいい。山海の珍味が織部焼きの皿にのり、江戸切子の鉢にはお造りがならぶ。一献二献と酒を傾ければ昭和40年代にタイムスリップし青春時代の血潮が身体をかけめぐる。ぜひ皆様方にもご清遊をお勧めしたい。時代の移り変わりとともに変わりゆく花街が多い中、我が町本所の伝統文化である向島の料亭と芸者衆が健在なのは頼もしい。向島は地場産業の旦那衆に支えられて繁栄してきた。今地場産業を取り巻く環境は厳しい。だからこそ我々は大いに働き向島で一年に数回清遊し、伝統文化の存続に協力いたしましょう。  
要するに元大蔵省の官僚どもが破目を外しすぎて世間の非難をあびた事をきっかけに寂れたらしい。何でも過ぎたるは及ばざるが如しだ。  
地名の由来として一説には、現在の都営白鬚東アパート付近に隅田川御殿という徳川将軍の休憩所があり、その北西にかつて隅田川に向かって流れていた内川(古隅田川)が隣接していたため、その対岸となる北西の島部を「将軍の向島」と呼んだことに由来するという説。これは現在の都立忍岡高等学校付近にあたる。  
しかし、隅田川東岸にある「牛島」「柳島」「寺島」などといった地が点在しており、これらは太古は海の中の島だったと考えられ、西岸地域に住む庶民がこれらを「川向こうの島」という意味で単に「向島」と総称したとも考えられる。江東区にある大島が「おおじま」と発音されるのも昔は島だったためということをあわせ考えると向島も島だったと言う説を採りたい。  
「向島」の名前が正式な行政地名としてつかわれるようになったのは1891年(明治24年)に向島小梅町、向島須崎町、向島中ノ郷町、向島請地町、向島押上町などといった地名の誕生からである。「向島」は東京都墨田区中西部にある地名。現在の住居表示では1丁目から5丁目まで存在する。人口は13,237人。北東は東向島に接しており、この地域の人口は21,878人(2005年10月1日現在)である。  
墨田区向島は、隅田川・北十間川・曳舟川通り・「鳩の街」通りに囲まれた地域である。東は曳舟川通りを介して押上と、北は鳩の街通りを介して東向島と接している。  
町の西端を墨堤通り(東京都道461号吾妻橋伊興町線の一部)、中央を国道6号、東端を曳舟川(ひきふねがわ)通りが南北に貫いている。最西端は隅田川に沿うかたちで首都高速道路6号向島線が通っており、一部は墨堤通りの上に架かっている。  
墨堤通りと国道6号の中間に見番通り(けんばんどおり)が同じく南北に通っている。料亭の検番通りは言問橋東交差点より北に伸びる700m程の道路であり、国道6号との分岐点近くに「牛島神社」がある。  
通りには南より「すみだ郷土文化資料館」「小梅小学校」「三囲神社」「向島墨堤組合 (見番所) 」「弘福寺」「長命寺」などが隣接していて、北端は墨堤通りと合流する。  
合流点近くには1本足打法のレリーフが掲げられている「墨田公園少年野球場」「言問団子」「長命寺桜もち」などがあり、隅田川岸に出ると約100m下流に「桜橋」がある。この桜橋周辺の河岸が現在でも「墨堤の桜」として親しまれている地域である。  
旧向島区は現在の京島、墨田、立花、堤通、東墨田、東向島、文花、八広の全部と押上の一部にほぼ相当する。 
 
向島芸者論

 
 
 

 
1 芸者  
芸者とは、お座敷を盛り上げる仕事のことです。お座敷にいらっしゃるオキャク様をいろいろともてなすのが、芸者としてのオシゴトです。  
芸者というと、すぐ、踊れるの? とか、三味線ひけるの? と聞かれますが、芸事はできなくてはいけないけれど、芸事だけできれば芸者が芸者としてやれるものではありません。芸者は、芸人ではありません。お座敷で、もしくはオキャク様に呼ばれたところで、いかにそのオキャクサマをもてなすか。それは、お酌をしたり、お皿をさげたりだのの気遣いや、お話を聞いたり、お話をしたり、することもきちんと含みます。もてなすことの一つとして、踊りや三味線や、そういう芸事があります。  
そして、オキャク様の多くは、オトコノヒトであり、芸者は女であり、お座敷はお酒をお召しになる場所であるので、本能があらわになったオトコノヒトたちを、ニクタイを提供しないでももてなす場所であります。  
なお、向島には大きく分けて3種類の芸者がいます。芸者、半玉、かもめ、です。  
芸者は、芸者。18歳から80歳くらいまで、芸事をし、日々その精進に励む者のことです。なお、半玉に対して、大人の芸者、一本、という呼び方もします。「見番」と呼ばれる、芸妓組合に看板料(営業をする権利)を払い、登録をしてはじめて、芸者となります。  
半玉とは、はんぎょく、とよみ、芸者の卵のことです。年齢的には、二十歳前後。昔は、処女でなきゃならない、云々がありましたが、今はそんなことはありません。京都でいうところの舞妓さんです。名前は玉代が半分ということから来ていますが、今はそういうことはなく、芸者も半玉もかもめも同じ玉代をいただいています。半玉はエリートです。官僚社会におけるキャリア組のようなもの。半玉は芸事ができなくてはいけません。そうして、試験を受けて、はじめて見番に半玉、として登録できます。  
そして、かもめ。これは、向島独自のシステムで名称です。アルバイトの和服コンパニオン、のようなものです。フロムAなどにすら、「お座敷係」として募集しています。見番に登録していない者が総じてそのように言われます。かもめ、と呼ばれる理由は、おそらくかもめ、は港につく、というのから来ているのではなかろうか、と思われます。かもめ、から入ってそのまま、向島に居着き、見番に登録し、芸事に励むようになる者もいます。 
 
2 半玉の作り方  
半玉とは、お座敷でお酌や芸事をする芸者さんのたまごです。京都でいうところの舞妓さんです。名前は玉代(注3ぎょくだい)が半分ということでうが、今はそういうことはありません。  
半玉は芸事ができなくてはいけません。芸事とは、とりあえず踊りと鳴りもの(おはやし)です。踊りはとりあえずは「やっこさん」というものを、鳴りものは太鼓のお座敷でやる月のものです。これができてはじめてちゃんと半玉として見番に登録ができます。  
半玉と一本(かもめもこちらにはいります)のはっきりとした違いは服装です。一本は特別な時以外は普通の訪問着程度の着物を着て、お太鼓に帯をしめます。夜会巻やそういうようなアップスタイルの髪型にします。つまり、普通の外出モードの着物の着方をします。ただ普通よりは、少し襟をぬきぎみにしたり、帯が下目に締めている人もいます。化粧も普通の着物メーク(少し濃いめということ)です。  
半玉は振り袖を着ます。肩上げがしてあり、まだ子供ということです。襟をうんとぬいてきます。帯は「千鳥」というコンパクトでかわいらしい帯結びにします。髪型は桃割れのかつら(かつらじゃないひともいます)です。半玉でも先輩格になると、格好が少し変わって髪型が結綿というのになり、かんざしが少しかわります。お化粧は、白塗りをします。背中や首にもぬります。めのふちを赤くぬったりします。  
京都では、口紅はうんぬん、のようなきまりがあるそうですが、半玉にはそういうきまりはありません。げたはぽっくりをはきます。半玉と一本の仕事上の違いは、半玉は雑用をします。お酒やビールをもってきたり、さげものをしたり、雑用をします。あまり色なお話はしません。お座敷をつける(踊りやお囃子をお座敷で見せる)ときには、その準備をします。  
何年かたつと、半玉は一本になります。半玉は処女でなきゃならない、というようなことはありませんし、い旦那がつかなきゃ一本になれないというようなことは皆無です。年齢的には18から23、4が限界ラインです。京都よりは少し年上です。そのぐらいの年令になり、芸者を続けるならば一本になります。 
 
3 半玉の作り方、格好編  
まず、お腰と肌襦袢をつけます。肌襦袢は赤い縁取りがしてあります。(これはプロということをあらわします)そして、長襦袢の下だけのをつけます。そして、たびをはきます。足袋はこはぜが5枚の日本舞踊用のです。  
そして化粧をします。化粧は油分を嫌うため、化粧水とかはつけません。もしつけるなら、あまり油分にないもの(肌水とか、そういうの)をつけます。三善(みよし、舞台化粧用の化粧品メーカー)のスティックファンデーション(肌色)をぬります。つぎに、はけで白粉(三善の水溶きのもの)をぬり、ぱふでよくのばします。このとき目のふちや、鼻のふちをこまかくていねいにぬります。唇や、まゆげもぬってしまいます。目のふちに赤いシャドウをチップでぬります。そのあと、アイラインやマスカラ等で普通アイメークをして、ふちに、赤いライニングカラー(三善の)を紅筆でちょっとつけます。(これがなかんかむずかしい)口紅をぬります。白粉の上から、ちよっと小さめにかきます。これは本当に真っ赤なもの、(やっぱり CANELがいいみたい)をぬります。そのうえに先ほどのライニングカラーをぬります。まゆげをくしでとかして白粉をはたき、かきたします。あまり濃くても、うすくてもよくないです。首や、背中にも白粉をぬります。背中は人にやってもらいます。冬は冷たくてひやっとします。首や背中はなにもつけずにそのままぬります。肌襦袢姿で、襟をがっとめくって、なかなかすごい姿です。  
お化粧が済んだら、かつらをかぶります。まず紫のネットをかぶります。髪はききちっとこのなかにおさめて、かつらのはちにあうように調節します。これが合わないとめちゃくちゃ頭がいたくなります。足らないときはかもじをいれます。(かつらは自分用につくるのでぴたっと合うようにできていますが)つぎに、かつらをかぶります。これは熟練した技術を要するため、なれないひとは人にかぶしてもらいます。つぎに、かんざしをつけます。桃割れの後ろのところと、わきと3つつけます。右側には、大きめのをつけます。まだはじめころは垂れたかんざしをつけます。これは、毎月変わります。(ちなみに京都のものがやっぱりいいみたいです)  
かつらをかぶったら、つぎにきものです。着物は着せてもらいます。毎月変わります。長襦袢の上半分を襟をぬいてきます。そこをだてじめでしめます。次に着物をきます。これもまた襟をぬいています。ひもを二本使います。(つまり普通の着物の着方)次は帯をしめます。されるがままにまわらされます。帯を帯締めでとめて(この帯締めがチャンピオンベルトのバックルのように派手)、帯揚げをします。帯揚げは、襟元にいれるように帯のうえで、うんとだしてします。(この着方はおこさんのです)  
襟元に名刺いれと扇子をいれて、かごをもって、ぽっくりをはきます。これで、できあがり。化粧の仕方はうちのやりかただったので、置屋さんいよって、ひとによって違います。めの周り全体が赤いひともいます。 
 
4 お仕事  
向島では、置屋さんに所属し、料亭にいきます。料亭に所属している芸者さんもいます。  
料亭はどこもたいてい6時から営業します。6時に料亭にはいって、開いているお座敷やお客さんが見えるお座敷で待っています。あらかじめ待っているときは、はじに並んで正座して、お客様がきたら「いらしゃいませ」と迎えます。後から入る場合は、ふすまを座ってあけて、正座をして「いらしゃいませ」と言います。このとき、先輩格の芸者さん(どんな年令であってもおねえさんとよぶ)がいたら、おねえさんを先にします。たとえ、年令やキャリアが上であっても、半玉は最後に入ります。座る席もおねえさんを上座のほうへ座らせて、自分は下手に座り、ただ開いていなければ、開いているところに座ります。おねえさんにこっちにきなさい、とよばれることもあります。  
はじめからスタートの時はまず、コップを上において、ビールを注ぎます。(とりあえず、ビールというやつですね)お料理がきたら、割り箸を割ってさしあげます。あとは、なくなったらお酌をし、ビールじゃないものをすすめたり、お話をしたりします。食べ終えたお皿はすぐに、さげます。コップ、御猪口がかわくことがないように、いつでもなみなみな状態にするようにお酌をします。  
あとは、おはなしをしたり、します。慣れないひとはいろいろ聞きたがりますが、よくわからないことたくさんあるし、んなこといいじゃん、とか思うようなことをきくひともいたりします。(EX、どうしてこんな(!)仕事やってるの?とか、半玉だと、処女なのか否かとか)  
カラオケをしたりするオキャクさまもいます。通信カラオケのところもありますが、生音もところも多いです。キーボードもしくは、ギターを弾くひとがきてそれに合わせて歌います。デュエットとかもしたりします。曲によっては、独自のあいのてがあるものもあります。  
そうして、これが芸者の主たると思われているお仕事、「お座敷をつける」です。これは、お囃子と踊りを見せることです。お囃子は月のものをひとつとさわぎというのを、太鼓、鼓、大かわ、笛、三味線というような編成でやります。あとは踊り、日本舞踊です。季節によって、季節にあった踊りを一本がします。これは、何人かがやるときもあります。最後に半玉がやっこさんという踊りをやります。これで、お座敷をつける、は終わりです。そのあいだ、お座敷をつけない芸者たちは、できるだけ動かないようにして、静かにしています。お座敷はそんなにしょっちゅうはつけません。ごくたまに。接待やめったに来ないお客さんが希望してつけます。  
あとおなじみさんのお客さんだと、肩もみをしたりもします。眠っていくひともいます。 とにかくお座敷でお客さんが楽しい思いをできるようにつくします。お座敷で、どう楽しむかは、オキャクサマ次第。それに合わせて、芸者衆もお座敷をつとめます。 
 
5 芸事  
芸事とは、お囃子や踊りや三味線のことです。見番でおけいこをします。お師匠さんがらっしゃっておけいこをしてくださいます。お囃子は梅屋流、踊りは西川、猿若流などです。あとは、三味線が長唄、清元、あと笛(望月流)などもあります。  
最初は見番に上がりますが、そのうちその道を極めようとすると、お師匠さんのお稽古場にいきます。それで、名取りやお免状をとるひともいます。見番で習う場合は、外で習うより少し安いです。主にお座敷でやるのをやります。だいたい、多くのひとは踊りから上がります。一般的には踊りと鳴りもの(お囃子)を習います。半玉ならそれは必須科目です。 
 
6 季節の行事  
お正月には芸者さんはいわゆる芸者な格好をします。つまり、曳き着というすそをひいた着物を着、帯結びもちがいます。高島田のカツラをかぶり、半玉のように白塗り化粧をします。料亭によってはお獅子をやります。  
二月には節分でお化けという仮装をします。一本のお姉さんたちは、披露する踊り(日本舞踊とは少しちがう新舞踊というようなもの)の格好をします。(EX、八百屋お七、お夏などの歌舞伎のもの)あとは、普段はしないような洋装(バニーとかウエディングドレスとか)やチャイナ服、チョゴリなどです。あと、半玉は組み踊りという組んで踊る踊り(新舞踊、振り付けは花柳)をします。  
4月には、お花見。7月には花火。花火のときに屋形船に乗るとめちゃくちゃ大変だそうです。 
 
7 舞妓と半玉の違い  
舞妓のほうが、年令的に少し下です。そもそも京都では、中学を卒業後くらいに、修行にでますが、半玉は18以上です。これには、大きな違いがあり、東京では、花柳界は、風俗営業となるのですが、京都では、府がかなり保護していて、風営法の取り締まりを受けないそうです。  
あと、舞妓は綺麗という感じですが、半玉はかわいい、というかおきゃんな感じです。それは、江戸のなごりのせいでしょうが。舞妓さんは、曳き着ですが、半玉は普通の振り袖ですし、帯も違います。あと、舞妓は絶対に髪を自分の髪で結いますが、半玉はおおくはかつらです。ただ、立場は一緒でどちらも芸者の卵です。 
 
8 芸者の経済  
芸者(半玉を含む)は基本的に時給制です。一時間を一本といいます。それはどんな芸者であれ、同じです。  
しかし、多くの芸者は置屋に所属し、料亭からの玉代は置屋にまず入ります。そこから、着物を借りている人は着物代やら、看板料(営業する権利のようなもの)やら、洗濯代、美容院代などをさしひかれます。これは、置屋によって多少のちがいがあります。すべてをさしいひいて時給制のところもありますし、もらった額からひくところもあります。  
仕事をすると伝票という紙をもらいます。出先(料亭名)と本数をかいてもらいます。月末に全て集計し、お金になります。現金払いのところもあります。  
芸者はちゃんと確定申告をして税金をおさめます。見番に税理士さんがきてくれます。着物代やお稽古代、美容院代、車代は経費で落ちます。  
芸者は料亭がお金のことをやるので、クラブのホステスのように、お客さんのお代をたてかえたりはしません。ノルマもありません。しかし、少しは営業もします。  
あと、踊りの会だとか、鳴りものの会にでればお金はかかります。お正月や節分の支度も自前です。(着物が自前のひと、半玉かもめは含まない)あとは、お師匠さんに御祝儀だとか、お年賀、お歳暮、御中元などもあります。だからでていくのもかなりあります。ごくごくたまに、御祝儀がもらえます。しかし、これは料亭でおかみさんが分け、配分するので、もらえるのはほんの少しです。いくつになってもお年玉がもらえるのはこのお仕事だけかもしれません。 
 
9 お座敷遊び  
お座敷で、カラオケとお話以外にもします。それは、昔ながらの遊びです。「おひらきさん」というのがります。これは、三味線の伴奏でじゃんけんをして、まけたら足を開いていき、たおれたら負けというものです。あとは、「金毘羅さん」こんぴらふねふね、おいけにはまってしゅらしゅしゅしゅ、、という歌にあわせて、お客さんと交互に、はかま(お銚子カバーのようなもの)の上に、手を開いておきます。たまに、はかまをつかまれたら、ぐー、にします。それを間違えたら、負け。ひょっとことおかめとてんぐのさかづきでおさけをのむのかもます。その3つがかいてあるさいころのようなものをふって、その出たのでお酒を飲みます。てんぐのは、鼻の部分があるので、そうとうにきついです。あと、二つのグループに別れて、まめをはしで、となりの器にうつす、というのをひとりずつやり、リレーのようにするのとか。浦島太郎の歌に合わせた、ちょっとイヤラシイゲームとかもします。  
まけると基本的に罰ゲームと証しておさけをのみます。いっきもあります。「街のあかりがとても綺麗な◯◯、◯◯(料亭の名前)、お酒はいっきでのみましょう。それ、いっき、いっきいき、、、おみごと、男だね、(もしくは女の子、女だね)ちゃちゃふーちゃちゃふー」というかけ声をかけます。(大学のコンパと同じですね)とにかく、飲むところでは相当に飲みますし、飲ませます。お料理のふたでのむこともあります。  
あと、みんなんで民謡(茶っ切り節とか)をうたったりもします。そのときは、三味線にあわせます。ノーエ節ののーだとかか、えー、を言わないバージョンの歌、とかそういうのもあります。民謡だの、そういう歌の歌集を大概料亭さんでオリジナルのをもっていて、それを見て、皆で謡います。  
たまに、本当に、むかし風な粋な人の席で、小唄だの、長唄だの、を歌うオキャクさまもいらっしゃいます。あと、即興で、都々逸だの、を作って歌うオキャクさまもいらっしゃったりします。  
よく、野球けんとかをいいますが、そんなものはやりません。 
 
10 花魁と芸者のちがい  
花魁と芸者は違います。花魁がいた当時も芸者はいました。芸者は、芸だけを売り物にしています。花魁は芸だけじゃなくて、女も売り物にします。吉原(公娼窟)がなくなった今はそういういわゆる花魁はいません。  
花魁の話すありんす言葉(時代劇である、〜でありんす、という話し方)はあれは、あの場所から出てもわかるように(つまり、足抜きできないように)憶えさせたのだそうです。廓言葉(くるわことば)といいます。  
ちなみに京都の舞妓、芸妓が話す京都弁も、ちょっと特殊なもので、一種の廓言葉だそうです。向島にはそういうのはありません。 
 
11 名前(芸名)  
芸者、半玉としてお座敷にでるには、名前があります。まず、かもめでもなんでもこれを決めます。本名のまんまのひともいます。たいていは、普通の名前です。あやのとか、のぞみ、桜子、舞子とかです。  
時々変わった名前もあります。きりんとかとまととかあんみつとです。あと、男名前もあります。五郎とか、旭とか。名前はおかみさんが決めます。前いたよかった妓の名前をつけることもありますし、画数できめることもあります。登録している人は同じ名前になることはありません。  
そのうちに、千社札という名刺代わりの名前のかいてある、シールをもちます。これは、自分でデザインします。  
ちなみに男名前は、昔のごまかし(むかし、働いている妓の名前を男にして、そういうことはやっていませんよというふりをする)のなごりです。格好いい名前とされています。今でも、奥さんの前でうっかり言っても平気だから、よい、という説もあります。  
 
浅草御蔵前 界隈

 

 
                           駒形どぜう (上段右) 
                           丹下左膳 / 浅草駒形 (上段右) 
                           駒形の新五 / 浅草駒形 (上段右) 
                           青江又八郎 / 鳥越・寿松院裏 (中段中央) 
                           頒暦所御用屋敷 (中段やや下中央) 
                           浅草御蔵 (中段やや下右) 

   
 
頒暦所御用屋敷

 
 
 

幕府の施設で、伊能忠敬も務めていた。暦を作る役所「天文方」の施設であり、正確な暦を作るために天体観測を行なう必要があり、その天文台である。北斎の版画「富嶽百景」にある「鳥越の不二」というものに描かれている(丸いものは、渾天儀(こんてんぎ)という当時の観測用の器機)。  
暦というものは、元々は、朝廷の陰陽寮というところで作られていた。例の安倍晴明もいたところである。暦を司るということは統治をすることであり、江戸期には、江戸幕府が自ら作成するようになった。現代に比べると、江戸期驚くほど人々は暦に支配されていた。これは何月何日には、何をする、何をしてはいけない、というような行事に関するものである。農耕に携わるお百姓はもちろん、江戸という都市に住む人々も寺社のお参りから、風呂に入ってよい日、いけない日まで、決まっていたのである。 
 
浅草御蔵 / 蔵前という地名

 
 
 

ここに、140年あまり前まで、幕府の米蔵、浅草御蔵があった、それが蔵前という地名の由来である。総面積99ha(36650坪)、北から一番掘から八番掘まで8本の入掘が並び、54棟270戸前(とまえ)もの蔵が建ち並んでいた。○○棟○○戸前が土蔵の数え方である。一棟に戸の数がいくつもあり、それが戸前である。  
江戸初期は各所に分散して米蔵はあったが、次第に集約され享保の頃、本所御蔵ができ、以後、浅草を主、本所を従として運用された。浅草御蔵には常時40〜50万石の米が保管され、これは幕府の旗本、御家人のうち、“蔵米取り”に与えられるためのものであった。  
旗本5,200名、御家人17,000名 / 俗に旗本八万騎というが、旗本の家来も入れれば、八万程度になったいう。  
地方取 / 領地を持った旗本。石高で表示される。旗本の44%は地方取。長谷川平蔵400石、東山金四郎500石、勝海舟(父、勝小吉41石)は、いずれも旗本で地方取であった。  
蔵米取 / 俸禄を米で支給される者、俵数で表示される。蔵米取・太田南畝(蜀山人)70俵5人扶持(=95俵)御家人御徒組。ちなみに、100石の地方取は100俵の蔵米取と同等の実収になる。また20人扶で100俵になる。この地方取の“石”表示と蔵米取の“俵”“扶持”の表記はわかりずらいが、こういう計算であった。  
上の例で、勝海舟の生家は旗本でありながら、俵数ではわずか41俵で、貧乏御家人の大田南畝先生よりもそうとうな低収入であったということがわかる。落語、芝居、時代劇で出てくるサンピンは、三ピンで、三両1人扶のこと。米ではなく現金で渡される者もおり、サンピンは、年に金三両と1人扶が支給された最下級の御家人であった。  
また、蔵の米は、同時に、幕府が江戸市中の米相場を調節しようとするときに放出された。蔵米取は米問屋に売却し、現金に換えた(ここから、札差が生まれている)。江戸期幕藩体制は武士が米を給料として支給される、米経済であった。江戸期を通して江戸幕府の家来である、旗本・御家人は身分の上下を問はず財政が苦しく、貧乏であった。日本史ではこの、幕藩体制の基本となる米経済が原因であったと説明される。  
世の安定とともに商品経済が発展し、江戸の町には高価な物があふれていく。江戸の町で暮らす旗本・御家人達はこうした商品を購入せねば生活はできない。従って金銭が必要である。旗本・御家人の収入は米の量で決まっており、米の価格が上がれば手にする金銭も増える。しかし、他の物価が上がれば米は相対的に安くなる方向に向かう。すると、実際に彼らの手にする金銭の価値は、減っていくことになる。このため、旗本・御家人は構造的に貧窮していく方向にあったのである。  
江戸の蔵前事情
蔵前とは、もちろん現・台東区蔵前。江戸期、元和六年(1620)に、幕府が隅田川の西岸を埋め立てて設けた「米倉浅草御蔵」が立ち並んでいました。当時の運輸のメインは船舶ですから、舟による荷揚げが容易になる様、左図のように舟入り掘りが櫛の歯の様に並んでいました。堀は全部で八つ、一番堀から八番堀までありました。江戸幕府の「米倉」は、江戸初期には、浅草蔵前の他、北の丸、代官町、大手外、和田蔵、谷蔵、雉子橋(きじばし)、鉄砲洲、竹橋、浜などにありましたが、享保十九年(1734)、八代将軍吉宗公の行政改革により、浅草御蔵(蔵前)と本所御蔵の二カ所にまとめられました。全国の幕府領から送られてくる年貢米は、隅田川添いの、この二つのお米蔵に搬入され、浅草御蔵には四〜五十万石、本所御蔵には十〜二十万石のお米が収蔵されて、旗本・御家人の給与(俸禄米と言うお米の現物支給)として支給されたのです。当然「蔵前」と言う地名は、幕府のお米「蔵」の「前」であるところからの命名になります。そして、四番堀と五番堀の間には、落語にも登場する「首尾の松」がありました。吉原帰りのお客が、舟に乗り、夕べの首尾を思い出すと言う場所にある松と言う事です。この首尾の松があった場所を、現代の地図と重ねてみますと、ちょうど現在、蔵前橋が架かっている辺りになります(上図・点線)。  
そして、この蔵前で活躍(暗躍?)したのが、落語にはあまり登場しませんが、時代劇でお馴染みの「札差し」と言う商人です。幕府から武家への給料米の支給日、蔵の前はものすごく混雑し、順番待ちに時間がかかります。そこで、武家に代わって蔵米の受け取りと、米問屋への売却を行う代行業者が現れます。代行業者は、代理人である証の蔵米支給手形と言う札を、蔵役所の前に設置されたわらに差し、順番待ちをしたところから、「札差し」と呼ばれるようになり、札差しに代行を以来した武家は「札旦那」と呼ばれるようにます。札差しの手数料は、米百俵あたり金三分(現代価格約十二万円弱)で、ほとんど運送代にしかならない安さでした。  
しかし、札差しはやがて、旗本・御家人たちを相手に、蔵米を担保として高利貸を始めます。貸し金の利子は年利18%で、当時の質屋などより利率は低かったのですが、蔵米が担保なので、確実に回収できるうえ、米相場を操って、蔵米の転売差益を得られるため、利益は大きいものでした。享保九年(1724)に、百九人の札差しが、株仲間を高覧され、蔵米の受け取り、転売、そして、旗本・御家人への金融を公に認められます。札差しの多くは、浅草蔵前付近に店舗を構え、しだいに莫大な富を蓄えるようになります。  
裕福な札差し達は、豪勢な生活を送り、歌舞伎の「助六」のスタイルで町を歩き、「粋」「男伊達」ともてはやされました。江戸での大金持ちで粋な通人の通称で「十八大通(じゅうはちだいつう)」と呼ばれる方達がおりました(厳密に十八人と言う訳ではありません)が、その多くは札差しでした。札差しに来年どころか、再来年再々来年の米まで差し押さえられ、困窮する武家が多発したため、幕府は寛政元年(1789)、札差しが武家に貸している借金をすべて棒引きにすると言う「棄捐令(きえんれい)」を出しますが、この時棒引きにされた借金は、江戸幕府の年間支出に匹敵する百十八万七千両に達しました。  
武家の困窮を余所に、繁栄した札差し「十八大通」たちは、江戸の町を闊歩し、さまざまな面白い逸話を残します。 
 
丹下左膳 / 浅草駒形

 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
『丹下左膳』(たんげさぜん)は、1965年10月6日から1966年3月30日までTBS系列にて毎週水曜21時からの30分枠で放送された中村竹弥主演の連続テレビ時代劇。全26回。丹波哲郎版(1958-1959年)、辰巳柳太郎版(1960年)、大村崑版(1963-1964年)に続く『丹下左膳』4度目のテレビドラマ化。『半七捕物帳』(1956年)、『右門捕物帖』(1957年)、『旗本退屈男』(1959年)、『新撰組始末記』(1961-1962年)など、テレビ草創期からTBSの人気テレビ時代劇に次々と主演してきた中村竹弥が丹下左膳を演じた。  
 
相馬・中村藩の丹下左馬介は、家老の命で藩に潜入していた公儀隠密を斬ることになる。だが、不意をつかれた彼は右腕を斬り落とされたばかりか、目にも傷を負い命からがら川の中へと落ちていった。それから三年、左馬介は丹下左膳と名前を変え、江戸で暮らしていた。そして、ひょんなことから百万両の宝を秘めた"こけ猿の壷"をめぐって繰り広げられる公儀と柳生藩の争奪戦に巻き込まれていく…。  
 
「姓は丹下、名は左膳」の名ゼリフで一世を風靡した伝説の時代劇ヒーロー・丹下左膳。右目には大きな刀傷、おまけに右腕がない隻眼隻腕。ドクロの紋を染め抜いた黒襟白地の着物、下には女物の派手な長襦袢―――この容貌怪異な銀幕の怪剣士がいよいよ登場だ。今回は、百万両ともいわれる隠し金の在りかが書かれた『こけ猿の壺』を巡る争い。左膳を含め、善悪入り乱れての激しい壺の争奪戦が繰り広げられる。左膳の愛刀“濡れ燕”が宙を舞えば、今宵も江戸の町に血の雨が降る!  
徳川八代将軍、吉宗の世。江戸は浅草駒形にある小唄師匠・お藤の家に、鼓芸人で舎弟の与吉が伊賀藩二万三千石の次男坊・柳生源三郎からかすめ盗った桐箱入りの壺を持ち込んでいた。この壺は、源三郎が本郷・司馬道場の主・司馬十方斎の娘・萩乃との婚礼の引き出物として国元から運んできたもの。与吉は、婚礼を阻止したい十方斎の後妻・お蓮とその密通相手の師範代・峰丹波に頼まれ、壺を源三郎の荷の中から盗み出したのだ。  
まもなく、その壺を峰の元に届けようとした与吉が柳生家の家臣・安積玄心斎らに見つかった。慌てた与吉は、壺を汁粉屋の小僧・チョビ安に預ける。そして、チョビ安の手を経て壺が渡った先は、お藤の家で居候をしている素浪人・丹下左膳の元であった。何としても壺を峰に渡して礼金が欲しい与吉は、左膳と道場の様子を見にきた源三郎との対決を画策。しかし、互角で始まったこの果し合いは、同心や岡っ引によって水を差されてしまった。  
その頃、伊賀藩の国元では、早駕籠で届いた江戸からの急報に衝撃が走っていた。幕府は、百万石の大藩でも困窮を余儀なくされる日光東照宮の改築を伊賀藩に命じたのだ。源三郎の兄で藩主の柳生対馬守は、この命令が藩の取り潰しだと考え、腹を切る覚悟を固める。そんな対馬守に、柳生家の生き字引といわれる一風宗匠は、思いもよらぬ話を明かした。一風は、柳生家に伝わる『こけ猿の壺』に初代藩主が百万両ともいわれる隠し金の在りかを記した、というのだ。  
壺が江戸に運ばれたと知った対馬守は、直ちに品川宿に逗留する源三郎に隠し金の話を伝える。だが、この秘密に気付いたのは源三郎だけではなかった。柳生家の屋根裏に潜んでいた公儀隠密・十蔵が、この話を将軍・徳川吉宗をも動かすお庭番の総帥・愚楽と大岡越前に伝えていたのだ。  
一方、司馬道場では、十方斎が死亡したことで、萩乃と源三郎との婚礼が急がれていた。晴れてお蓮と夫婦になって道場を乗っ取りたい峰は、与吉に金を渡して源三郎の抹殺を指示。与吉は、再び左膳と源三郎の対決を画策し、左膳に接近した。だが、左膳が愛刀“濡れ燕”を抜いた相手は源三郎ではなく、『こけ猿の壺』を狙う公儀隠密の一団。この様子を見ていた大岡越前に壺の秘密を明かされた左膳は、お家のことを考えて動かざるを得ない源三郎の胸の内をおもんばかった。  
やがて、左膳と源三郎の二度目の対決の中、『こけ猿の壺』の秘密を知った与吉は、壺を持ち逃げ。さらに峰やお蓮らも壺の秘密を知ってしまい――。果たして、百万両の『こけ猿の壺』は誰の手に渡るのか?!そして、百万両の秘密は解明されるのか――。 
 
大河内伝次郎と丹下左膳
 
 
丹下左膳の誕生  
大河内伝次郎と言えば、丹下左膳を欠かすことは出来ないであろう。大河内は30歳の時に「新版大岡政談」(1928年日活)で初めて左膳を演じて以来、56歳となる「丹下左膳/こけ猿の壷」(1954年大映)まで26年に渡って16本の映画で左膳を演じ続け、名実共に彼の代表作となった。  
丹下左膳と言えば、右目・右手の無い隻眼隻腕の虚無的なヒーロー。大河内以外にも阪東妻三郎や、大友柳太朗(1912〜85)らによって演じられ、時代劇ではお馴染みの人物である。もっとも、さかんに映画・TV化されていたのは1970年代までで、近年はあまり映像に登場することがなく、若い人たちにとってはそれほど馴染みのある人物ではないのかもしれない。実際僕自身も、丹下左膳を幼い頃に見た記憶があまり無い。丹下左膳という人物を知ったのは学研の「学習」あるいは「科学」だったかに載っていた、こんな漫画がきっかけだった…。  
雪が積ったある日、子どもたちは雪だるまを作り、目玉の所に2個のリンゴを置いておいた。ところが、しばらくして来てみると、片方のリンゴが無くなっており、子どもたちは「あれ、丹下左膳になってるよ」と驚く。それからまたしばらくして、残りのリンゴも無くなっており「今度は、座頭市になってる」。  
今だったら、差別的だというクレームがつきそうな内容だが、ともかく僕はこの時丹下左膳と座頭市という2人の時代劇のヒーローの名前を覚えたのである。そうそう、「目が三つに手が1本、足が6本。な〜んだ?」というなぞなぞがあるそうだ。答えは「馬に乗った丹下左膳」というものなのだが、かなり有名らしい。劇作家の別役実(1937〜)には「馬に乗った丹下左膳」という題名のエッセイ集があるし、よゐこ・有野晋也(1972〜)のブログにも「超難関なぞなぞ」として紹介されていた。  
 
そもそも、丹下左膳は、林不忘(本名・長谷川海太郎/1900〜35)によって生み出された時代小説シリーズである。最初の作品が「新版大岡政談/鈴川源十郎の巻」(1927〜28年、後に「丹下左膳/乾雲坤竜の巻」と改題)であることからもわかるように、もともとは名奉行・大岡越前守忠相を主人公とした「大岡政談」ものの一つであった。他のシリーズ作品としてはやはり映画化された「魔像篇」などがある。したがって、丹下左膳も当初は主役ではなかった。しかしながら、左目・左手という異様な姿ながらめっぽう強く、その上世を拗ねたニヒリスト(虚無主義者)というキャラクターが強く印象付けられ、以後丹下左膳を主人公として「丹下左膳/こけ猿の巻」「丹下左膳・日光の巻」といったシリーズが生み出されていった。  
最初の「鈴川源十郎の巻」が発表されるやいなや、すぐさま映画化の動きとなった。それも東亜キネマ、日活、マキノの3社による競作であった。それだけ原作小説の評判が高かったのだろう。当時、原作者の林不忘は中央公論社の特派員としてヨーロッパ滞在中で、現地から原稿を送っていたが、「新版大岡政談」の評判により、帰国後熱烈な歓迎を受けたという。  
一番最初に発表されたのが東亜。広瀬五郎の監督、団徳麿(1900〜87)の丹下左膳である。次いでマキノが、二川文太郎(1899〜1966)監督、嵐長三郎(後の嵐寛寿郎)の丹下左膳。そして最後が日活で、伊藤大輔監督、大河内伝次郎主演であった。このうち、マキノ版は、嵐長三郎の退社によって未完に終わっている。大井広介(1912〜76)によると、「有力なマキノが途中で棄権、日活はラスト・スパート目覚ましく、東亜を遥かに引き離してゴール・イン、という形になった」そうである。実際、日活版はキネマ旬報ベストテンで第3位に入賞している。  
ところで、この「新版大岡政談」は資料によっては4社競作となっている。帝国キネマによる「大岡政談/鈴川源十郎の巻」(1928年)が3社に先だって公開されているのである。これは、林不忘の原作にはよらず4代目・邑井貞吉(1879〜1965)の講談を元にしたものなので、正確には競作に入らない。林不忘の映画化の際の原作料は、当時としては吉川英治と並んで抜群に高かったというが、小規模で財政的にも苦しかった帝国キネマとしては、原作料を惜しみ、便乗商法に乗せたのである。したがって、丹下左膳は登場しないが、それに準ずる人物として、日置民五郎が登場し、松井田三郎が演じている。タイトルにもある鈴川源十郎(東良之助)や諏訪栄三郎などの人物が「新版大岡政談」と共通し、櫛巻きお藤ならぬ掻巻きお藤、水茶屋の娘お艶ならぬお花などの人物が登場する。日置民五郎は左膳同様に片目片腕の無頼者だが、お花に右目を斬られ、栄三郎に右手を斬られるなど、とても剣豪とは思えない。この日置民五郎こそが丹下左膳の原型で、林不忘が名前を変えて取り入れたのだとも言われており、タイトルに「新版」とつくのはそのためだという。  
 
この項は大河内伝次郎についてのページなので、あくまで日活版「新版大岡政談」についてみていきたい。ところが、この日活版、フィルムは現存していない。それは東亜版、マキノ版についても同様である。  
そこで、原作小説および梶田章(1921〜)の記憶によって再現された文章(「講座日本映画2/無声映画の完成」所収)を元にその梗概を追っていくことにする。なお、原作と映画では細部において違いがあるが、原則として映画のストーリーを紹介することにしたい。ちなみに、2008年10月、伊藤大輔と大河内伝次郎の生誕110周年を記念して、残された断片映像と写真に、伴奏と澤登翠の活弁を加えた再現イベントが国立近代美術館フィルムセンターにて開催された。あいにく僕はネパールで生活していた(参照)頃なので、残念ながらこの歴史的イベントに参加することはできなかった。僕はどうも大河内伝次郎作品とは縁が薄いようなのである。  
それはそうと、「新版大岡政談」の粗筋は…。のちに「丹下左膳/乾雲坤竜の巻」と改題されているように、ここでは乾雲と坤竜という二振りの刀をめぐる争奪戦が描かれている。  
題名からもわかる通り、主役は一応、大岡越前のほうであり、大河内伝次郎は丹下左膳との二役で演じている。映画製作側も主役はあくまで大岡越前のほうと考えていたようで、当初のポスターも越前のみで左膳の姿は描かれていない。しかし、原作を読む限りでは、鮮烈な印象を残すのは左膳のほうである。それは後に左膳を主人公としてシリーズ化されたことからも明らかだ。  
 
江戸にある小野塚鉄斎(尾上卯多五郎)の道場では、剣術の試合が行われている。優勝者には、乾雲・坤竜の2つの名刀の佩刀と、道場主の娘・弥生(伊藤みはる)が与えられることになっている。弥生は一の高弟・諏訪栄三郎(賀川清)に思いを寄せているが、諏訪はわざと森徹馬(実川延七)に破れてしまう。そこに現れた、道場破りの丹下左膳(大河内伝次郎)は、鉄斎を殺すと、乾雲を奪い逃走する。  
今回、原作小説を読んで意外だったことには、左膳が奥州中村藩主・相馬大膳亮の密命を受けて、刀を奪うために暗躍しているということだった。左膳と言えば、一匹狼の浪人者というイメージが強かったからである。  
 
乾雲を手に入れた左膳は、無頼旗本・鈴川源十郎(金子鉄郎)の屋敷に潜み、坤竜をも手に入れようと画策する。一方の栄三郎も、坤竜を佩刀し、乾雲の行方を追っている。その栄三郎に味方するのが、一升徳利を抱えた乞食坊主・蒲生泰軒(高木永二)。薄汚いこの男、実は南町奉行・大岡越前(大河内伝次郎2役)と懇意であった。彼らの他にも、両刀を追う謎の5人組がいた。  
栄三郎には茶屋の娘・お艶(梅村蓉子)という恋人がいたが、鉄斎の娘・弥生は彼のことが忘れられない。道場で弥生を見染めた左膳もまた、弥生に惹かれているが、彼のかねてからの恋人・櫛巻きのお藤(伏見直江)はそんな弥生に嫉妬する。争奪戦と同時に複雑に絡み合った恋のさや当てが展開する。  
 
ラストのクライマックスの剣戟シーンが現存していて、ビデオ「大河内伝次郎乱闘名場面集」に納められている。乾竜が手から手に空中に放り出されるあり様は、まるでラグビーを思わせる。  
「名場面集」に納められたもう一つの場面では、左手に刀を持った左膳がそのまま前のめりになって倒れる。当然、左膳役の大河内の右手は着物の中に隠されているわけで、下手すると顔を打ってしまう。それだけ、大河内の演技は真に迫っている。こうした断片を見るだけでも、「新版大岡政談」がいかに迫力のある映画だったかが推して知られる。伊藤大輔の監督作品は近年「忠次旅日記」以外にも「斬人斬馬剣」(1929年松竹/約20分)、「長恨」(1926年日活/約10分)が再発見されていることもあるので、どこかに眠っている「新版大岡政談」が発見されるようなことはないだろうか。 
 
 
 
「シェイは丹下、名はシャゼン」  
「新版大岡政談」によって高まった丹下左膳の人気により、丹下左膳が主役となってシリーズ化された。  
小説版「乾雲坤竜の巻」のラストでは、船の上での二刀の争奪戦に敗れた左膳は筏の上に倒れたまま「生けるとも死んでともなく、遠く遠く漂い去りつつあった」とあり、生死不明である。ところが、映画版「新版大岡政談」のラストでは、左膳はお藤を斬り、ついに乾雲・坤竜の両刀を手に入れる。だが、彼が思いをかける弥生も死に、捕り手に囲まれ最後を悟ると、「先立ちゆきし我等が同志よ。左膳もこれよりまいりますぞ。乾坤両刀を携えて、花嫁御寮の手を引いて―」と叫び乾雲に自身の血を吸わせる。つまり、映画の丹下左膳は壮絶な死を遂げているのである。  
にも関わらず、続編では何の臆面もなく丹下左膳は復活するのである。  
 
丹下左膳を主人公とした最初の作品は伊藤大輔監督、大河内主演による「丹下左膳」(1933年日活)。この作品は伊藤大輔にとっても、大河内伝次郎にとっても最初のトーキー(発声映画)にあたる。  
この作品はトーキーということで、大河内伝次郎のセリフ回しが話題になった。有名な「姓は丹下、名は左膳」というもの。当時、さかんに物まねのネタにされ、現在でも時代劇通の落語家・林家木久蔵(現・林家木久扇/1937〜)がテレビ番組「笑点」で物まねをすることがある。これは、大河内が故郷である福岡の豊前方言によって訛って聞こえることからきている。つまり「シェイは丹下、名はシャジェン」となるのである。他にも「おフジ(藤)」という名前が「オウジ」となる。  
1920年代後半から、トーキーが導入されると共に、セリフに難のある俳優たちは苦労を強いられた。例えば、阪東妻三郎は甲高い声だったために苦労している(「美しき反逆者」参照)。大河内の場合も、急に発音は直らないということで、伊藤大輔はそのまま大河内の豊前訛を認めたそうである。もちろん、大河内は舞台で主役を演じているのだし、伊藤大輔も新人だった彼の起用を映画会社の幹部に納得させるために、撮影第1日目にわざとセリフのあるシーンを演じさせたこともあるほどなのだから、セリフ回しにはもともと定評があった。だいぶ後の作品になるが、黒澤明(1910〜98)監督の「虎の尾を踏む男達」(1945年東宝)で武蔵坊弁慶を演じているのを見ても、その迫力は伝わってくる。訛のあるしゃべり方はむしろ、彼の個性と魅力になっているように感じる。  
 
この「丹下左膳」もこれまでフィルムが失われたとされていたが、後に第1篇の約45分がイギリスで発見された。先日、そのフィルムを観る機会があった。  
冒頭は、夜の宿場町の通りを見下ろしながら進むカメラが進む移動撮影。伊藤大輔は移動撮影好きで、「イトウダイスケ」ならぬ「イドウダイスキ」と称されたそうであるが、なるほどそのことが良くわかるシーンである。  
何しろ45分の断片である。オリジナルは10巻と資料にあるから、残存部分は半分以下であろう。伊賀柳生家に伝わるこけ猿の壺をめぐる物語で、柳生源三郎(沢村国太郎)の婚礼と、道場を乗っ取ろうとする陰謀がそれに絡む。いったいどうなるのかと楽しみも膨らむ。  
こけ猿の壺を盗んだ少年・ちょび安(中村英雄)が鼓の与吉(山本礼三郎)に追われて丹下左膳(大河内伝次郎)の住む橋の下の小屋へ逃げてくる。ここで仲裁を買ってでた左膳だったが…。後半は欠落が多く、左膳がほとんど脇役にすぎなくなっている。町が火事となり、少女が父を探して出ていき歌うシーンで唐突に終わる。  
有名な「姓は丹下、名は左膳」というセリフを心待ちにして見ていたのだが、その部分は結局現存していないようだ。原作小説「こけ猿の巻」を読むと、件の台詞は、後半になって、左膳が源三郎の婚約者・萩乃(山田五十鈴)の前に初めて姿を現す場面で登場しているから、まったく残存しない第2部「剣戟篇」(1934年日活)のほうに出てきたのかもしれない。  
剣戟シーンもすべてカットされており、左膳と源三郎が刀を合わせたままにらみ合うだけで終わっている。幸いなことに、剣戟シーンの一部は無声だが現存しており、「大河内傳次郎乱闘名場面集」に納められている。  
 
伊藤=大河内の「丹下左膳」は、そもそも三部作として企画されたが、1934年「丹下左膳/剣戟篇」が発表された後に、伊藤が日活を退社してしまう。残された企画は山中貞雄へ引き継がれ、「丹下左膳/尺取横町の巻」として製作されることとなった。  
山中はもともと、「武士道とか武士の世界にコンプレックスを抱いていた伊藤に対して、庶民世界を時代劇に導入し展開してきた」立場にあり、いわゆる「反伊藤大輔」であった。そこで、第3部を製作するに当たっても、これまでの伊藤大輔の「丹下左膳」とは違う、独自の「丹下左膳」を生み出そうと考え、原作を徹底的に改変した。世を拗ねたニヒリストであったはずの左膳は、子ども好きの好人物。それも、櫛巻きお藤(喜代三)のヒモ暮らしで、彼女にはめっぽう弱いという設定になっている。さらに、柳生源三郎に第1・2篇と同じ沢村国太郎(1905〜74)が扮しているのだが、彼もまた養子で女房に頭があがらない上に、剣の腕前もどうも怪しい。その上、櫛巻きお藤に扮した元芸者の歌手・喜代三(新橋喜代三/1903〜63)が自慢の喉を披露すれば、屑屋役の高勢実乗(1897〜1947)と鳥羽陽之介(1905〜58)の“極楽コンビ”が珍妙な掛け合いを見せるなど、明らかなコメディ・タッチで、もはや「丹下左膳」のパロディとしか思えない。  
試写を見た日活相談役の横田永之助(1872〜1943)は激怒。「即刻山中をクビにせい」と息巻いたという。同じく原作者の林不忘からも、これは丹下左膳ではないとのクレームがついたため、タイトルを「丹下左膳余話/百万両の壺」と改め、公開時には「完結篇は改めて作る」との断りを入れたそうである。また、脚色・三村伸太郎(1897〜1970)の名前は削られ、クレジットには「構成山中貞雄」とだけ入れられた。一説には、「潤色三神三太郎」というクレジットを加え、原作とかけ離れていることを示したという話もある。この“三神三太郎”というのは三村の変名とのこと。実際のところはどちらだったのだろうか。現存のフィルムでは肝心なクレジットタイトルが欠けている。タイトルバックで東海林太郎(1898〜1972)が歌う「丹下左膳の歌」が流れていたため、再公開の際に版権を理由に削除されてしまったそうだ。なお、DVD版につけられたクレジットでは「構成・監督山中貞雄」となっている。  
しかしながら、公開の結果映画は大ヒットとなった。批評的にも好評だったことから、横田の機嫌は直り、山中の首はつながった。一方の原作者のほうだが、林不忘は1935年6月29日に35歳という若さで急死している。死因は心臓麻痺。彼が死んだ当時、連載中の作品は9本もあり、過労が原因だったという。「丹下左膳余話/百万両の壺」の公開はちょうど死の2週間前の1935年6月15日だったから、映画の大ヒットが彼の耳に届いたであろうことが、せめてもの救いである。  
 
今日、「丹下左膳余話/百万両の壺」は、高い評価を得ている。例えば、1995年に選出された「日本映画オールタイムベストテン」(キネマ旬報社)では、この作品は9位で、14位の「忠次旅日記」よりもむしろ高い評価である。これはもちろん、現在ほぼ完全なものを観ることができる作品かどうかということも関係しているのではあろうが。  
大河内伝次郎はこの作品によって、シリアスな演技ばかりではなく、喜劇的演技においてもセンスを発揮することがよくわかる。  
もっとも、この作品も現在観ることができる版には欠落があり、丹下左膳がならず者たちと立ち廻りを見せるチャンバラシーンが欠けている。どうやら戦後にGHQの検閲によって削除されたらしい。その後、そのシーンの一部の無声フィルム17秒分が発見され、ビデオ・DVDにつけ加えられた。  
 
「丹下左膳余話/百万両の壺」の公開にあたって、「完結篇は改めて作る」というのが条件だったが、実際には完結篇どころか、戦後になるまで大河内伝次郎は丹下左膳を演じ続けることとなる。  
その改めて作られることとなった完結篇とは、「丹下左膳/日光の巻」(1936年日活)。監督は渡辺邦男(1899〜1981)。渡辺邦男は、早撮りで知られているが、この「日光の巻」は撮影日数16日と、当時としては早撮りの新記録であったそうだ。翌年には「丹下左膳/愛憎魔犬篇」「完結咆哮篇」も作られたが、3本とも僕は観ていない。評価のほうは「伊藤監督と山中監督をミックスしたものを狙ったようだが、中途半端の作品となった」そうである。この作品を最後に大河内は日活を退社、東宝に移籍することとなる。  
東宝でも大河内は丹下左膳を演じ続ける。林不忘亡き後、川口松太郎(1899〜1985)が和子未亡人の許可を得て、1938年から「新編丹下左膳」を執筆していた。その「新編丹下左膳」が、東宝で「妖刀の巻」(1938年)、「隻手の巻」、「隻眼の巻」(共に1939年)、「恋車の巻」(1940年)の4部作として映画化されている。物語は、丹下左衛門夫妻の息子として生まれた丹下左市が、隻眼隻腕となりながらも、両親の仇を追い求めるという、これまでの「丹下左膳」の物語の以前を描いたものであった。しかしなぜか、幕末の人物である千葉周作(1793〜1856)が登場し、左市はその弟子ということになっている。確か、林不忘の作品では、左膳は大岡越前守忠相(1677〜1752)と同時代の人物ではなかったか。時代背景がめちゃくちゃになってしまっている。  
この4部作のうちでは、中川信夫(1905〜84)が監督した「第三篇隻眼の巻」のみフィルムが現存し、僕も観る機会があった。丹下左膳の前身・丹下左市(大河内伝次郎)は、登場した時にすでにもう右手が無い。どうやら前作で斬られてしまったようなのだが、映画の中でその説明は無い。右目のほうは、この時はまだ残っているが、すぐに仇役の稲葉一徹(進藤英太郎)によって斬られてしまう。この作品の左膳は強いどころか、むしろ弱い。その弱い男が、やがて剣豪になっていくまでの過程が丹念に描かれているという点が、この作品の魅力である。  
また、左膳を助けた商家の娘・お春を演じる当時15歳の高峰秀子(1924〜2010)が何とも言えず愛らしく、作品に彩りを添えている。  
ラストは、両親の仇の一味を相手にしての左膳の立ち回り。しかしながら、仇を討ち果たす前に、唐突にストーリーが終わる。「第四篇恋車の巻」に引き継がれているのだが、その続編をもはや永遠に観ることができない我々にとっては何とももどかしい。もっとも、第四篇を観ることができたとしても、消化不良のままであるようだ。中途半端なまま終わって、続編(第五篇)はついに作られなかったらしい。  
 
戦後になっても大河内は丹下左膳を演じている。マキノ雅弘(1908〜93)監督が「新版大岡政談」(1928年日活)のリメイクに挑んだ「丹下左膳」「続丹下左膳」(共に1953年大映)で、大河内は丹下左膳の他に、大岡越前を2役で演じている。  
大河内はこの時55歳。もはや全盛期の冴えは無かった。監督のマキノによると、大河内は「とても二十代でやった丹下左膳を演じようとしても身体がついていかなった」らしい。さらに、「私にしてみれば、サイレント時代に撮られた『丹下左膳』を、伊藤先輩が大河内傳次郎のために撮ってやれないわけがよくわかった」「伊藤大輔先輩に見捨てられた大河内傳次郎」とまで述べているから手厳しい。  
この前年に、阪東妻三郎が「丹下左膳」(1952年松竹)に主演した際には、「丹下左膳は自分の作品だから、やめてほしい」とまで抗議した大河内であったが、前編に出演して自身の限界を悟ったようである。「第一に脚本(柳川真一)が悪い、第二に昔のように自分が動けない、立ち回りができない、走れない」ということで、続編への出演を一度は断っている。  
結局、マキノが脚本を手直すことで、大河内は「続丹下左膳」にも出演することとなった。こうしたいきさつからか、完成した作品は原作をかなりかけ離れたストーリーになっている。  
「丹下左膳」と「続丹下左膳」は共にビデオ・DVDになっているので僕自身も観ることができた。問題の大河内だが、この頃の彼は以前に比べてだいぶ太って貫禄がついている。以前のような素早い動きが出来なくなっているように感じるのも確かである。しかしながら、彼の殺陣には重厚さが加わっていて、まだまだ見ごたえがある。とても55歳という年齢は感じさせない。  
ちなみに「丹下左膳」の最初のほう、小野塚道場に登場する場面で「姓は丹下、名は左膳」のセリフが登場している。さすがに、最初のトーキー作品から30年も経っているからか、彼のセリフは改善されており、はっきり「セイ…サゼン」と聞き取れる。むしろ冒頭のシーンで左膳の主君である饗庭主水正(市川小太夫)のほうがはっきりと「シャゼン」と喋っているぐらいである。  
なお、大河内は翌年にその続編である三隅研次(1921〜75)監督「丹下左膳/こけ猿の壺」(1954年大映)で丹下左膳を演じたが、こちらのほうは僕は観ていない。これが大河内にとって最後の左膳となった。  
 
先にも少しふれたように、大河内以外では、阪東妻三郎が「丹下左膳」(1952年松竹)において丹下左膳を演じている。こちらの作品での丹下左膳のキャラクターは、「丹下左膳余話/百万両の壺」(1935年日活)と同様に明朗なキャラクターとなっている。もちろん、それはそれで魅力的。翌年の「丹下左膳」(1953年大映)での大河内伝次郎の丹下左膳と比べても阪妻はスマートで精悍、丹下左膳のイメージにもあっている。もっとも、阪妻はこの当時体調を崩していたらしく、彼らしい剣戟がほとんど見られないのが残念なところ。阪妻は翌年1953年に脳膜出血によってわずか51歳で急死している。この時もはや阪妻の体はぼろぼろだったのかもしれない。  
大河内の「丹下左膳」「続丹下左膳」(1953年大映)を監督したマキノ雅弘は、彼以外にも、月形龍之介(1902〜70)が左膳を演じた「丹下左膳二部作」(1936年マキノトーキー)と、水谷道太郎(1912〜99)が左膳を演じた「丹下左膳三部作」(1956年日活)も手がけているが、残念ながら僕は観ていない。  
そんな中で、戦後の丹下左膳の決定版を挙げるとすれば、大友柳太朗の名を欠かすわけにはいくまい。「丹下左膳」(1958年東映)を皮切りに、計5作品で左膳を演じている。しかも、蒲生泰軒に大河内伝次郎、大岡越前に月形龍之介という歴代左膳役者を脇に従えるという豪華さ。さらに第1作の「丹下左膳」には一風和尚役で初代左膳役者の団徳麿までが出演している。大友の丹下左膳は、阪妻の系統を引く明朗で豪快なキャラクターだったが、これがかなりの人気を博し、シリーズ化された。  
一方、ニヒルな左膳を演じたのは、「丹下左膳/飛燕居合い斬り」(1966年東映)の中村錦之助(後の萬屋錦之介/1932〜97)。これは「こけ猿の巻」を原作としているが、冒頭で左膳が右手右目を失う原因が描かれている点で興味深い。豪快な剣戟も魅力たっぷりである。大友柳太朗が大岡越前役で姿を見せているのも見どころ。  
その他、「丹下左膳」(1963年松竹)で左膳を演じた丹波哲郎(1922〜2006)の場合は驚くことに右手で演じていたそうである。まさしく「丹下右膳」!と、思ったら実際に「丹下右膳」(1930年東亜キネマ)という作品も存在していたらしい。また、喜劇「てなもんや東海道」(1966年東宝/宝塚映画/渡辺プロ)には、両手のある丹下完膳(田中春男)なるキャラクターが登場しているそうだ。  
ともかく、このようにして時代劇のヒーローとして丹下左膳は親しまれていく。しかしながら、中村錦之助の「丹下左膳/飛燕居合い斬り」(1966年東映)を最後に左膳映画は永らく製作されることなく、近年はすっかり忘れられた存在であった。  
それが、2004年になってテレビと映画で「丹下左膳」が相次いで製作されたのである。テレビ映画「丹下左膳」(2004年日本テレビ)では、左膳に扮したのは中村錦之助の甥にあたる中村獅童(1972〜)。叔父を思わせるニヒリストぶりを見せる。その左膳の剣戟は、とにかく激しく、見ごたえがある。  
一方の、豊川悦司(1962〜)が左膳に扮した映画「丹下左膳/百万両の壺」(2004年エデン)は、「丹下左膳余話/百万両の壺」(1935年日活)のリメイクである。いくつかのシーンが追加されているが、ほぼ忠実にオリジナルをなぞっている。トヨエツの左膳は、ニヒルさの中にユーモアを織り交ぜており、まさしく大河内左膳の血を受け継いでいる。また、オリジナルではカットされているラスト近くの剣戟も再現されている点が興味深い。  
こうした作品によって、若い世代にも丹下左膳が再び知られるようになりつつあるのではないだろうか。 
 
 
 
チャンバラ映画と時代劇はどう違う 
正確な定義があるわけではないのですが、チャンバラは時代劇の下位区分というふうに考えてよいでしょう。歴史劇というと、なんらかの歴史的事実に基づいて作られた劇と考えられるのに対して、時代劇という言葉を使う場合、物語の設定に特定の時代(主に室町の末から江戸時代ですが)を借りている架空の物語です。  
これから再び3Dで上映される『スター・ウォーズ』シリーズの主人公たちの称号「ジェダイ」は、時代劇好きのジョージ・ルーカス監督が「時代」という日本語から命名したものといわれます。  
その挿話で分かるように、日本の時代劇は欧米の映画人に強い影響を与えました。映画の歴史を考えれば、欧米のアクション映画の基本構造を借りて、侍や渡世人が活躍する映画が日本で作られたので、西部劇と時代劇が似ているのは当然なのですが...。  
時代劇の中で、特にチャンバラと称されるものは、剣戟(けんげき)のアクションが物語の中心になっているものです。残念ながら、チャンバラの語源について正確なことは分かっていませんが、刀が打ち合わせられる金属音や、人の動き、そして、そのバックで流れる音楽の畳み込むリズムみたいなものと関係していそうですね。『スター・ウォーズ』でのオビ・ワンとダース・モールの剣戟とバックの音楽は大いにチャンバラ的な気がします。  
そして、チャンバラには、リアリズムによる暴力的な殺陣というより、体操や軽快な舞踊を見るような「立ち回り」という語感があります。  
典型的なチャンバラはサイレント(無声映画)時代に登場し、数々のスターを輩出。1950年代の後半に総天然色での黄金期を迎えますが、60年代のリアリズム時代劇の登場で、スクリーンからテレビに活路を見いだすことになります。  
典型的なチャンバラ映画を一本紹介するとなると大いに悩むことになりますが、『丹下左膳決定版』なんていうのはどうでしょう。戦前、丹下左膳といえば大河内傳次郎でしたが、その大御所が脇役に回り、左膳に大友柳太朗、その好敵手にして友である剣客に大川橋蔵、その恋女房に美空ひばり。大岡越前に月形龍之介。将軍吉宗に東千代之介。悪役の定番、山形勲も登場します。ちょび安役には松島トモ子。58年、松田定次監督による、ひたすら明るい希望の時代の気分を反映した大画面、総天然色、東映の健全娯楽チャンバラ時代劇の典型です。懐かしい方も、初めてという方もどうぞ。 
 
腕におぼえあり / 鳥越・寿松院裏

 
 
 

 
1992年にNHで放送された藤沢周平原作の時代劇。元禄13年の暮れ、東北のある小藩に仕える武士の青江又八郎は藩主毒殺の陰謀に巻き込まれ、それに関係していた許嫁の父親を斬ってしまう。藩を抜け出し江戸へ出てきた青江は裏長屋に住み、藩から放たれた刺客と対決しながら、口入れ屋の相模屋から割のいい仕事である用心棒を引き受け日々を暮らしている。用心棒稼業の仲間である細谷源太夫は腕は立つが子沢山で、これも近くの長屋で貧しい生活を送っている。用心棒の仕事でいろいろな事件に巻き込まれていくうちに、赤穂の浪人たちと知り合い、討ち入りが近いことを感じ取っていく。また、許嫁の由亀が敵討ちのため弟と一緒に江戸にやってくるが、青江は何とかして真実を打ち明けたいと悩む。  
青江又八郎(村上弘明) 元東北の小藩の馬廻り組百石取り。26歳。城下の渕上道場で師範代を勤めた剣の腕前を持つ。藩主毒殺の陰謀を漏れ聞くことによって許嫁の父親に命を狙われ、止む無く斬り殺してしまう。その為に脱藩し、江戸へ出るが藩からの刺客に命を狙われている。 江戸鳥越の寿松院裏の嘉右衛門店の長屋住まい。用心棒稼業、人足仕事で暮らしをつないでいる。 後に許嫁である由亀を妻に迎え、第2作で藩の密命による脱藩で妻と暫しの別れの後、嫡子を設けるも、第3作で妻・由亀を嗅足組の急襲で喪い、松三郎を残して江戸へ脱藩し、最後の戦いに赴く事になる。 
 
新五捕物帳 / 浅草駒形

  
 

 
 
 
 
   
1977年(昭和52年)から1982年(昭和57年)まで日本テレビ系列にて毎週火曜日放映されたテレビ時代劇。全196話。  
天保年間を舞台に、主人公の岡引・駒形の新五が様々な難事件を解決していくハードボイルド時代劇。  
他の多くの時代劇と同様の勧善懲悪物ながらも、庶民の悲哀を前面に打ち出した話が多く、ハッピーエンドの話が少ないことが特色。本作では善良な庶民が悪辣な連中の手にかかって情け容赦なく無惨な死を迎えたり、逆に善良な庶民がやむにやまれぬ事情で罪を犯してしまうエピソードが多く、その非業の死を見届けた新五が逆上してその仇を討つというのが基本フォーマットである。さらに新五の立ち回りも大抵の場合悪人を「引っ捕らえる」というより「ぶちのめして半殺しにする」と見える壮絶なものであり、帯刀の敵が十人がかりで襲ってきてもときには十手さえ使わず素手で全員を半殺しにしていた。  
目の前の小さな光明すらも奪い取られてしまうか弱き庶民の儚さと、それを貪る悪辣な者共。つまり「正直者が馬鹿を見る」といった現代に通じる風潮に対し、それを完膚無きまでに叩きのめして終わる(=視聴者の溜飲を下げる)といった一連のカタルシスが本作の特徴であり、また魅力でもあった。 
 
駒形どぜう

 

「駒形どぜう」の創業は1801年。徳川11代将軍、家斉公の時代である。初代越後屋助七は武蔵国(現埼玉県北葛飾郡)の出身で、18歳の時に江戸に出て奉公した後、浅草駒形にめし屋を開いた。当時から駒形は浅草寺にお参りする参詣ルートのメインストリートであり、また翌年の3月18日から浅草寺のご開帳が行われたこともあって、店は大勢のお客様で繁盛したと言う。  
初代が始めたどぜう鍋・どぜう汁に加え、二代目助七がくじら鍋を売り出すなど、商売はその後も順調に続いた。嘉永元年(1848年)に出された当時のグルメガイド『江戸名物酒飯手引草』には店名が記されている。  
やがて時代は明治・大正・昭和と移り変わり、関東大震災、第二次世界大戦では店の全焼という被害を受けた。しかし多くのお客様のご支援と先代の努力もあって、江戸の味と建物は現在の六代目へと引き継がれている。  
仮名遣いでは「どじょう」。もともとは「どぢやう」もしくは「どじやう」と書くのが正しい表記である。それを「どぜう」としたのは初代越後屋助七の発案である。文化3年(1806年)の江戸の大火によって店が類焼した際に、「どぢやう」の四文字では縁起が悪いと当時の有名な看板書き「撞木屋仙吉」に頼み込み、奇数文字の「どぜう」と書いてもらった。これが評判を呼んで店は繁盛。江戸末期には他の店も真似て、看板を「どぜう」に書き換えたという。   
 
本所 界隈

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
              本所七不思議 (中段より下段・青の7点円) 
              早乙女主水之介(旗本退屈男) / 本所割下水 (下段より中央) 
              御家人斬九郎 / 本所割下水 (下段より中央) 
              長谷川平蔵 「入江町の銕」時代 / 本所入江町 (下段右) 
              吉良上野介 / 本所松坂町 (下段左) 

   
 
鬼平犯科帳 / 本所入江町 (「入江町の銕」時代)

 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
池波正太郎の時代小説。略称は鬼平。火付盗賊改方長官・長谷川平蔵を主人公とする捕物帳で、同じ作者の『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』とならび人気を保っている。長谷川平蔵が火付盗賊改方長官であったのは1787年(天明7年)から1795年(寛政7年)まで。1783年(天明3年)の浅間山大噴火や折からの大飢饉による農作物の不作により、インフレが起こる。各地で打ち壊しが頻発し、世情は酷く不穏であった。田沼意次の失脚(1786年(天明6年))を受けて1787年(天明7年)に松平定信が老中に就任。寛政の改革が始まったが、このような経済不安から犯罪も増加し、凶悪化していった。長谷川平蔵が火付盗賊改の長官となったのは同年10月である。  
長谷川平蔵宣以(のぶため)  
元京都西町奉行・長谷川宣雄の息子。火付盗賊改方長官。石高400石の旗本で火付盗賊改方のお役料40人扶持を別途支給されている。愛刀は「粟田口国綱」「井上真改」。脇差に「備前兼光」。無頼時代は家督相続以前に名乗っていた銕三郎(てつさぶろう)に由来する「本所の銕」の名で通っていた。目白台に私邸があるが、普段は清水門外の役宅に住んでいる。実母であるお園は巣鴨村の大百姓である三沢仙右衛門の娘。父である宣雄は長谷川家の断絶を回避する為、断腸の思いで銕三郎とお園を置いて実の姪である波津と再婚する。落胆した母は翌年に病で死去してしまうが、父が近親婚で子を為す事を忌避した事により波津との間に跡取が生まれなかった為、17歳の時に長谷川家に呼び戻される。しかし義母の波津は平蔵を当初から「妾腹の子」と手酷く蔑み、その反発から後に家を飛び出す。本所・深川界隈の無頼漢の頭となり、放蕩三昧の日々。「本所の鬼」「入江町の銕(てつ)さん」などと恐れられるようになるが、その間も剣術の鍛錬は怠らず続け、一刀流を高杉銀平に学び、腕を磨き後に目録を授かる。また小野田治平より不伝流居合術を学び習得している。父が亡くなると、家督を継ぎ、後に堀帯力の後任として火付盗賊改方の長官に就任。幕閣からは特に若年寄京極高久の後援を受ける。放蕩無頼の経験から鋭い推理力と観察眼を持ち、峻厳なる取り締まりに悪党からは「鬼の平蔵」と恐れられるようになる。一方で犯罪者であっても義侠心に厚い者に対しては、寛容で情け深い配慮を見せる一面もある。犯罪者の更生施設である石川島の人足寄場を老中松平定信に言上して敷設させ、一時寄場奉行も兼任する。妻は旗本の大橋与惣兵衛親英の娘である久栄。子供は久栄との間に2男2女(後に養女お順を迎える)。また、後に腹違いの妹である生母と同名の「お園」の存在が明らかになり、「お園」と結婚した部下の同心、小柳安五郎は義弟にあたることになった(原作では2人はこのことを知らない)。昼夜を問わず続く火付盗賊改の激務のせいか、体調を崩して臥せっていることも多い。酒と煙草を嗜むが、なにより美食家であり旨いものには目がなく、料理について熱く語ったり江戸の名物を食べ歩いたりしている。 
 
旗本退屈男 / 本所割下水

 
 
 

 
 
 
小説家・佐々木味津三原作の時代小説および同作品に登場する主人公・早乙女主水之介(さおとめもんどのすけ)の異名。直参旗本・早乙女主水之介を主人公とする痛快時代小説。1929年4月の「文芸倶楽部」に初登場し、以後11作が発表された。またサイレント時代から昭和中期まで30本映画化され、テレビドラマとしても何度もリメイクされている。  
姓は早乙女、名乗りは主水之介で、人呼んで旗本退屈男。数え33歳。元禄時代に活躍した徳川将軍家の直参旗本で、無役ながら1200石の大身。本所割下水の屋敷に住む。独身で家族は妹の菊路。他に使用人が7名同居。身長五尺六寸(約170cm)というから当時としては容貌魁偉な大男だった。剣術の達人で「諸羽流正眼崩し」(もろはりゅう せいがん くずし)という無敵の技を習得している。その他にも武芸十八般に通じ、軍学にも明るい。しかし太平の元禄の世にあっては腕を振るう機会に恵まれず、口癖のように「退屈で仕方ない」と公言している。  
外出時は黒羽二重の着流し、蝋色鞘の平安城相模守を落差し、素足に雪駄履き、深編笠がお馴染みの出で立ち。  
清廉潔白な性格で、権力の腐敗を憎み、相手が将軍でも直言を厭わない。一方で下々には慈悲深く、庶民とも気さくに交わるため、江戸っ子からは「退屈の殿様」と呼ばれ親しまれている。  
トレードマークは額に受けた三日月型の「天下御免の向こう傷」。これは長州藩の悪侍7人組と斬り合った時に受けた刀傷。小説では胆力と剣技、そして額の傷を「天下御免」としているが、映画では徳川将軍より天下御免の御墨付きを受けたという設定。またテレビドラマ版(北大路欣也主演)では、先代の将軍が次代を決めるにあたって真剣での勝負を催し、綱吉の代理人として立ち会った際に相手の代理人の片腕と引き替えに受けた傷ということになっている。  
本所割下水(ほんじょうわりげすい)  
割下水は、道路の真ん中を掘り割った(溝よりも大きい)下水路。湿地帯を築地して造成された本所は、水はけが悪いので掘られた排水路。両国橋(仮橋)が架かった翌年の万治3(1660)年に完成。(両国橋は1659年に仮橋、1660年命名、本橋は1661年3月竣工)  
下水路ではあるが、余り汚くはなく (生活用水を無闇に流さず米の砥ぎ汁も拭き掃除に用いたり草花に与えた)、主に雨水排水路で川魚・沢蟹・蛙など沢山の生物が棲んでいた。  
井出よりも蛙の多い割下水 (江戸時代の川柳、京都・井出の玉川より蛙が多いと)  
本所には、北割下水(現在の春日通り)と南割下水とがあったが、単に割下水と云う場合は南割下水を指す。亦、その一帯の地名でもあり、最近(北斎通りと云い出す前)まで割下水で通用した。  
御竹蔵の東から横川までの長さ約1Km、水幅約9尺(約1.6m)。(横川から東は錦糸町の語源である錦糸堀)  
割下水の傍には近藤弥之助のほか小吉ゆかりの天野左京や山口鉄五郎、岡野孫一郎、青木甚平も住んでいたし、葛飾北斎(生誕地は不詳)や山岡鉄舟もこの近辺で生れたとされ 明治初期には三遊亭円朝や河竹黙阿弥も居住した。 
 
御家人斬九郎 / 本所割下水

 
 
 

 
 
 
 
   
 
 
 
柴田錬三郎による時代小説。1976年(昭和51年)に講談社から単行本が刊行され、翌年2篇の読み切りが「オール讀物」で発表された。晩年の柴田が最も力を入れた連作である。フジテレビでドラマ化されている。  
江戸時代の末期を舞台に、大給松平家に名を連ねる名門の家柄ながら無役・三十俵三人扶持の最下級の御家人である松平残九郎家正(通称、斬九郎)が、かたてわざと称する武士の副業によって活躍する物語。残九郎の許婚(いいなずけ)の松平須美、幼馴染で北町奉行与力の西尾伝三郎、馴染みの辰巳芸者のおつた、など多彩なキャラクターが登場する。  
松平残九郎  
九人兄弟姉妹の末子の余計者として生まれ、「残九郎」と名付けられたが、兄達は若死したり養子に行ったりし、姉達は結婚したり大奥に上がったりしていて、結局残九郎が家督を継がされる。残九郎は剣の達人だが、遊び人かつ大酒飲みでいつも褌が丸見え。家禄だけでは到底生活が成り立たず、罪を犯した者を幕府に内密に首を討つ仕事を請け負う“かたてわざ”で、鼓の名手で美食家でプライドの高い母を養わなければならない。  
松平麻佐女  
残九郎の母親で、79歳になるが、気丈で口達者。残九郎がこの世で唯一頭が上がらない存在で「くそババア」。残九郎がかたてわざで得た報酬のほとんどを召し上げ、高級料亭の食事に費やす食通で、人並みはずれた大食家である。鼓となぎなたの腕は一流であり、鼓に関しては御台所の御前演奏を行ったほどの腕前で世に広く知られている。  
蔦吉  
深川育ちの辰巳芸者で江戸っ子気質。武家の生まれだが、両親とは死別して植木職人、辰五郎の養女となる。芸者として多くの座敷に出入りしている事情通で、たびたび残九郎に有益な情報をもたらす。残九郎とは相思相愛だが、粋な性格が邪魔して素直に甘えることができず、顔を合わせれば痴話げんかになる。なお原作では“おつた”といい、残九郎の情婦というテレビ版とはまるっきり別設定となっている。本名は大沼妙子  
 
御家人 / 一般に、御家人は知行が1万石未満の徳川将軍家の直参家臣団(直臣)のうち、特に御目見得以下(将軍に直接謁見できない)の家格に位置付けられた者を指し、御家人に対して、御目見得以上の家格の直参を旗本といった。近世の御家人の多くは、戦場においては徒士の武士、平時においては与力・同心として下級官吏としての職務や警備を務めた人々である。御家人は、原則として、乗り物や、馬に乗ることは許されず、家に玄関を設けることができなかった。ここでいう乗り物には、扉のない篭は含まれない。例外として、奉行所の与力となると、馬上が許されることがあった。御家人の家格は譜代(ふだい)、二半場(にはんば)、抱席(かかえせき)の3つにわかれる。譜代は江戸幕府草創の初代家康から四代家綱の時代に将軍家に与力・同心として仕えた経験のある者の子孫、抱席(抱入(かかえいれ)とも)はそれ以降に新たに御家人身分に登用された者を指し、二半場はその中間の家格である。御家人は大都市の江戸に定住していたために常に都市の物価高に悩まされた。窮乏した御家人たちは、内職を公然と行って家計を支えることが一般的であった。  
30俵3人扶持とは? / 下級武士の賃金は、禄米と扶持米で支払われた。禄米は、何俵(1俵=4斗)と言う単位で支払われ、斬九郎の30俵であれば、12石となる。斬九郎は、最下級の武士だったので、扶持米(1 日米5合で計算された)と言う形式で支払われた。これは、1年を360日で計算して、1人扶持を1石8斗としたもので、3人扶持は、5石4斗になる。この扶持米を、米手形で支給され、札差のところで、実際食べる米と残りを換金してもらったそうである。  
 
四十七人の刺客 / 本所松坂町

 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
いわゆる忠義の士を描いた忠臣蔵をベースにしたものではない。だから、忠義の士という描かれ方というわけではない。これは、権力者によって不当に仕掛けられた戦争である。真相を闇から闇へ葬り去ることで、事態の収束を狙ったものが仕掛けたものである。これには世間体を取り繕えないような勝ち方をしなければならない。敵は吉良家の背後にいる上杉十五万石と柳沢吉保。そして、縁類の御三家、島津家、将軍綱吉。それに、この戦争は、経済戦争であり、心理戦であり、情報戦であるという。こうした着眼点で忠臣蔵をみるということに、思わず唸ってしまう。ネタは出尽くしたと思われる忠臣蔵も、見方によって、こういう風にして蘇る。そもそも、浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだ真相は何なのか、誰も知るはずがない。だが、吉良は賄賂をむさぼり、浅野は清廉潔白という図式が出来上がっている。これが情報操作によるものであれば、頷ける。大石内蔵助が京にいるときに、わずかの期間で途方もない金額を使い果たしたという逸話があるが、これは幹部達を引き連れての目くらましとすれば、分からないでもない。相手を騙す情報戦であり、心理戦でもある。この情報操作にも、そして京での遊蕩にも多額の金がつぎ込まれている。その金はどこから来るのか。これも、本書では説得力のある説明がされている。経済戦争でもあることが分かる。上杉十五万石は藩成立時から台所事情が苦しい貧乏藩だ。三十万石、ひいては百二十万石あった当時からの家臣団が十五万石に押し込められているのだ。苦しくないはずがない。恐らく赤穂藩の方がはるかに豊かであったにちがいない。経済戦争という点では、最初から上杉家は負けていたのかもしれない。さて、本書の最後の方に討入りの場面があるが、これは秀逸である。単なるチャンバラものになりがちな場面だが、この討入りの場面で、数名の略歴などが紹介されている。討ち入る面子の過去にを紹介することで、ひと味違った出来栄えとなっている。最後に、討入りを果たした後、四十六名は四藩に預けられ、その後切腹している。預けられたのは、肥後熊本五十四万石細川家、伊予松山十五万石松平家、長門府中五万石毛利家、三州岡崎五万石水野家。一般的には、この四藩では、厚遇を受けたように描かれている。中には召し抱えなども考えていた藩もあるような書かれ方をされることもある。だが、実情はひどかったようだ。これは、それぞれの藩に預けられていた浪人達の切腹があまりにも短時間で行われていることからも伺える。武士の切腹をさせてもらえなかったようだ。いわば単なる罪人として扱ったためであるのだから、そうなったのだろう。ひどいのはこれだけではない。各藩ではこうした扱いをしたことがバレ、後世まで残ることを嫌い、事実の改変を行ったようだ。これは各藩だけでなく、公儀も史料史書の改変を行っていたそうだ。  
 
元禄十五年(一七〇二)十月二十二日。大石内蔵助を含む一行が藤沢近郊で集まっていた。内蔵助はいう。はかりにはかった計略を戦に持ち込むのは年内が限度だ。一行は吉良上野介の新しい屋敷図面を見て唸っていた。これは武家屋敷ではない、合戦用の城砦だ...。屋敷には数々の仕掛けがあるようだ。中には抜け穴とおぼしきものもある。  
上杉家江戸家老の色部又四郎安長は、大石内蔵助を見失ったとの知らせを受けた。大石が打つ手は一手一手が恐ろしく辛辣だった。そして、確実に吉良を追いつめにかかっている。色部も天下を動かす柳沢吉保と組んで相手を封じ込めにかかったが、今は上杉十五万石が六十あまりの素浪人徒党にいいように弄ばれている...。  
――元禄十四年(一七〇一)三月十四日。城中で高家吉良が赤穂藩主浅野内匠頭に斬られるという事件が起きた。報告を受けた柳沢吉保は厄介なことが起きたと苦り切っていた。上杉家江戸家老の色部がやってきており、柳沢吉保は色部に処理方法はいかにと難問を投げかけた。双方とも希代の知恵者である。  
現在、綱吉の後継を巡る争いが起きていた。候補は二人、綱吉の兄の子綱豊と、紀州綱教である。綱教のほうが優勢であり、己の権勢を長く保ちたい柳沢吉保は綱教の実姉の舅に当たる吉良上野介の身に、罪咎が及ぶのは避けたかった。だが、天下の定法「喧嘩両成敗」は無視できない。まさに、難問だった。  
色部は浅野内匠頭に即日の切腹をと述べた。当事者が激しており、事情の詳しく知れない今の内に口をふさぐ。日が改まれば冷静になり、事件のあらましが表に出てしまう。死人に口なしだ。  
――赤穂の大石内蔵助のもとに第一報が届いた。その直後に、不破数右衛門を大坂に派遣してある処理を頼んだ。内蔵助は筆頭国家老の家柄にありながら、勘定方、浜取締、金銀算用を受け持っていた。  
その後続々入る報告に内蔵助は不審なものを感じ取っていた。その中で、藩政の後始末に着手し始めた。  
何者かが異変の裏で動いている。真相を闇から闇へ葬り去り、赤穂藩を無下に消滅させ、事態の収拾を図ろうとしている。  
その敵が知れた。出羽米沢十五万石、上杉家の江戸家老、色部又四郎安長だ。後ろには上杉家がいる。そして、縁類として御三家や薩摩島津家、将軍綱吉がいた。あまりにも巨大な敵だった。  
――不破数右衛門が大坂から戻ってきて、残高が二万三千両となったことを告げた。赤穂藩の金蔵にあるものとは別の裏金である。  
内蔵助は敵を知ることで、籠城抗戦は論外であることを悟っていた。これは不当に仕掛けられた戦だ。問題はその敵に勝てるか。敵は一旦は勝った。だが、我々を根絶やしには出来ぬ。相手が世間体をとりつくろえないよう、堂々と屋敷に討入り、合戦して首を取り、天下にその事を知らしめる。上杉の武名を地に落とし、柳沢吉保の面目を叩きつぶすことで、報復ははじめてなる。  
内蔵助は早速、参謀相談役を定めた。惣参謀は吉田忠左衛門、次席は小野寺十内、参謀は不破数右衛門、国許の束ねは間喜兵衛、江戸の束ねは堀部弥兵衛...。  
――刃傷の真因が分からないということは、どのようにでも作り出せるということでもあった。賄賂...。そうだ、吉良は賄賂をむさぼった。これを俗世間で噂を広める。そのために金は惜しむな。内蔵助は不急の時のための裏金を惜しみなくつぎ込むことにしていた。  
吉良は強欲非道、浅野は清廉潔白、純真一途。こうした図式が定説となって流布されていた。その噂が色部の耳にも届いた。なぜだ。今回の刃傷事件は箝口令を敷いており、色部自身も真相を知らない。どこからこのような噂が...。  
――柳沢吉保から呼び出された色部は暗澹たる思いだった。なぜ吉良の処遇がこうも急変したのか。例の噂か...。  
何か策がないか。その苦慮は国許の家老、千坂兵部の書状で解けた。吉良上野介の隠居および藩主綱憲の次男を吉良の嗣子とする。上杉と吉良は一心同体ということを示す。  
――大石内蔵助が頼みとするのは三十三名の戦闘要員と、数名の参謀だ。だが、数が足りない。せめて五十名は欲しい。人の歩む道はそれぞれだ。それをとやかく言うつもりはない。そうした行く末の安泰を願う者達は奥野将監や進藤源四郎らに処遇を任せていた。  
内蔵助は次の策に出ることにした。今の吉良の屋敷には討ち入ることが不可能だ。そこで、何としてでも今の場所から屋敷を移動させる。  
やがて、堀部安兵衛や奥田孫太夫が通っていた堀内源左衛門道場から吉良邸へ赤穂浪人が討ち入るとの噂が流れ、吉良周辺の屋敷は極度の緊張を強いられた。金もかかった。だが、いつともしれぬ討入りに厳しい警戒をし続けるのは不可能だ。音を上げた者達が、自分たちが屋敷を移ると言い始めた。だが、その数があまりにも多く、結局は吉良邸を移すことで決着をみることになった。内蔵助の策が当たった。  
一方、防具の準備にも怠りがなかった。討ち入るもの皆に万端の用意をさせるつもりの内蔵助だ。鎖帷子もそうだ。この鎖帷子は暑い。それを考えると、討入りは冬でなければならない。  
――年が明け、元禄十五年。本所に移された吉良邸。一旦屋敷が造られたものの、すぐに更地になり、上杉の国許から大工などを呼び造成を始めていた。だが、江戸の金を落とさないというので市中の評判は悪かった。  
その評判を逆手に取り、内蔵助は堂々と普請をのぞき込むことにした。市中の人間も惜しげもなく協力をしてくれた。それだけ、この普請の評判は悪いのだ。そして、新しい吉良邸の図面が手に入った...。
吉良家屋敷替え  
元禄14年8月19日(1701年9月21日)、幕府は吉良義央に対して、呉服橋内から本所の松平信望の上げ屋敷へ屋敷替の命を受けた。受け取りの証を9月3日に提出した。松平信望は本所を立ち退いて下谷の町野重幸の上ゲ屋敷に移り、そこに吉良が入った(現東京都墨田区両国3丁目 / 本所一ツ目、回向院裏、旧松平登之助信望邸へ屋敷替え。敷地面積2557坪、建坪合計1234坪と伝えらる。)。さらにその直後の8月21日(8月23日)には、庄田安利(浅野を庭先で切腹させた大目付)、大友義孝(吉良と親しくしていた高家仲間)、東条冬重(吉良義央の実弟)の3名を同時に呼び出して「勤めがよくない」などと咎めて役職を取り上げた。吉良義央は元禄15年12月12日(1702年1月9日)に家督を外孫で養子の吉良義周に譲り、隠居した。奥方の富子(梅嶺院)は屋敷替えになった際に上杉家の実家に帰っていた。富子が新しい屋敷に同道せず上杉家へ戻った理由は創作・諸説あり定かではない。離婚説、「浅野が腹を切ったのだから貴方も切ったらどうです」と発言したせいで不仲になった説、討ち入りを案じて吉良が帰した説、新しい屋敷がせまくて女中を連れていけなかった説などがある。  
討ち入り  
元禄15年12月14日(1703年1月30日)午後、同士は両国橋西の米沢町にあった堀部金丸の借宅に集まり、その後3か所の集合場所に分かれた。吉田兼亮らは集合場所の本所林町5丁目にある堀部武庸の借宅に行く途中、竪川の河岸地にある「亀田屋」という茶屋でそば切など食べながら時をすごした。それぞれの集合場所から本所吉良屋敷裏門近くの前原宗房の借店を経て、表門隊と裏門隊の二手に別れて吉良邸に討ち入った。実際に襲撃したのは現在の時刻で元禄15年15日(31日)に入っての未明午前4時頃であった。江戸時代の慣習では夜明けの明六つと日暮れの暮六つ(1月30日では午前6時8分頃と午後5時39分)を境とし1日の始点を暁九つとした。この時に雪が降っていたというのは『仮名手本忠臣蔵』での脚色であり、実際は冷え込みが厳しかったが月齢13.6。空は晴れていた。 
 
おれの足音・大石内蔵助
 
 
 
 
 
池波正太郎 赤穂浪士、赤穂義士、四十七士、忠臣蔵などで有名な大石内蔵助を描いた作品。吉良上野介邸への討入りを描いているのではない。描いているのはあくまでも大石内蔵助である。だから、討入りに関する記述は淡泊である。主要な人物を除いて、四十七士も全ての名は出てこない。ちなみに、最後の三分の一強が討入りについてである。物語は、家康が征夷大将軍となってまだ七十年ほど、四代家綱の時代から始まる。大石内蔵助良雄と名乗る前の竹太郎時代から描かれている。竹太郎は「おっとりしている」といえば、聞こえはいいが、紙一重のところで、「愚鈍」のレッテルを貼られかねない青年だ。そのくせ、読書も習字もやる。剣術の稽古は最も熱心なのだ。だが、遅々としたもので、進歩がない。のちに「昼行燈」と呼ばれる大石内蔵助の池波正太郎氏なりの若き日の像だ。祖父の目から見ると、竹太郎の素質は凡庸というよりは、変人とか奇人じみて映る。幼年の頃から言動が鈍重で、子供らしい遊びにふけることなく、昼寝をむさぼっている。そうかと思っていると、普段の行動などからは想像もつかないほど決断と実行が早いことがある。池波正太郎氏の他の作品でも多く言及していることだが、人には二面がある。陰と陽のようなものであり、互いに矛盾しているようでありながら、同居している。悪人といわれる人でも、その中には善なる部分があり、逆に善人といわれる人でも、中には悪なる部分がある。それが人というものであり、ごく自然なことであり、不思議なことなどない。大石内蔵助の、ときとして普段の様子からはうかがい知れないほどの早い決断や実行は、そうしたものなのだ。大石内蔵助を描くのだから、周辺の登場人物が「赤穂浪士を描いた作品」などと大きく異なる。最初から最後まで重要な人物に服部小平次(のちに名を鍔屋家伴と名乗る)がいる。そして、妻のりくが大きくクローズアップされる。服部小平次に関しては他にも短編を使って登場させているので、あわせて読まれると面白いと思う。さて、徳川綱吉については、どうやら池波正太郎氏は嫌いなようで、ばっさりと斬り捨てている。柳沢吉保も同類のようだ。浅野内匠頭長矩が吉良上野介に斬りつけた理由は分からない。様々な憶測があり、真実は闇の中だ。それでも、切りつけたものも、切りつけられたものも、不届きものとなるので、喧嘩両成敗が定法である。この喧嘩両成敗は軍事組織内での騒乱を鎮めるために、騒ぎを起こした双方を処罰することによって、綱紀を粛正する意味合いがあるようだ。平時においては物騒きわまりない定法なのだ。だが、平時とはいえ幕府はその機構自体が軍事組織である。あらゆる部署は陣中の役どころをそのまま維持しているのだ。また、徳川綱吉の治世は、戦の絶えた世になっているとはいえ、若干戦国の気風が残っていたようで、若干殺伐としていたようでもある。そうした中、浅野内匠頭長矩を即刻切腹、一方で吉良上野介にはお咎めなしは、世の中にも、さらには大名家、旗本などにも「片手落ち」と映っても仕方がないことである。実際、幕府はシマッタと思ったようで、吉良上野介の屋敷を呉服橋御門内から川向こうの本所・松坂町へ追いやっている。呉服橋門内は、江戸城の曲輪内である。世論はいつ、赤穂浪士が討入りするかで盛り上がっている。もし、吉良上野介邸を曲輪内に置いたままにすれば、赤穂浪士が襲撃して時に、幕府も手を出さねばならない。手を出したら出したで、非難を浴びる。また手こずったら手こずったで非難を浴びる。こうなっては、吉良上野介は赤穂浪士に綺麗さっぱり討たれてもらうしかない。権力者は自分の失敗を認めない。いつの時代でも同じことが繰り返される。  
印象的なのが、大石内蔵助良雄と水間治部左衛門の別れのシーンだ。  
『晩秋の、晴れわたった朝空であった。しきりに、鵙が鳴いている。内蔵助一行の姿が見えなくなったのちも、水間治部左衛門は、門の外にたちつくしたまま身じろぎもせぬ。めっきりと白髪のふえた治部左衛門の双眸が、うつろに見ひらかれていた。柿の木も、櫨の木も、櫟の木も紅葉して、森閑としずまり返った隠宅の門前に、水間治部左衛門が男泣きに泣きくずれたのは、それから、しばらくのちのことであった。』  
君子の交わりは水の如しというが、二人の関係はそうしたものとして描かれ、その別れもそのように描かれている。しみじみとしたシーンである。  
 
延宝四年(一六七六)。大石竹太郎は十八になっていた。祖父の命により、蔵の中にある書物の虫干しをしていた。手伝うのは女中のお幸だ。  
竹太郎の父・良昭は三年前に三十四歳で亡くなった。それ以来、祖父の良欽のもとに暮らしている。いずれは祖父の後を継ぎ、播州赤穂五万三千石浅野家の家老になる身だ。  
この日、竹太郎はお幸に手を付けてしまった。お幸の方が竹太郎を好いていたらしく、お幸は騒がなかった。これ以後二人は忍ぶように蔵で逢瀬を重ねた。あやしいと最初に感じたのは祖母の於千だった。  
於千はお幸に暇を取らせた。そのすぐ後、お幸と中野七蔵の父娘は赤穂城下から姿を消した。  
お幸には許婚がいた。奥村道場で竹太郎と同門の佐々木源八だ。そんなことは竹太郎は知らなかった。知っていたなら、あのような真似はしなかった。それに、竹太郎は佐々木源八に好意を抱いていた。  
佐々木源八が赤穂城下を脱走し、翌朝になると今度は竹太郎が城下から消えた...。  
――京都藩邸勤務の士で服部宇内の次男・小平次が町で大石竹太郎の姿を見かけた。小平次は十二歳の少年であるが、しきりに町家の子たちと交わり、言葉使いも武士の子とは思えぬ。小平次は竹太郎を説き伏せ、赤穂に返そうと考えた。  
十二歳ながら小平次はその手先の器用さを生かして、内職をして幾ばくかの金を得る少年であった。小平次は竹太郎のことが好きである。だから、竹太郎の世話をすることに決めた。  
ある日、小平次は竹太郎を連れて扇屋の恵比寿屋市兵衛を訪ねた。市兵衛は竹太郎を福山という水茶屋に案内した。  
京に上ってみたものの、竹太郎はお幸親子にも会えず、佐々木源八にも会えないでいた。正直暇をもてあましていたところ、思いもかけず恵比寿屋市兵衛に誘われたのだ。  
竹太郎が京で遊び暮らす日が突然終わった。祖父の良欽が急病で倒れたという。慌てて赤穂へ戻ることになった。  
年が明け、十九歳となった竹太郎。祖父の良欽が亡くなり、竹太郎が大石内蔵助良雄となって後を継ぐことになった。  
――七年後。内蔵助二十五歳。服部小平次は十九歳になっていた。小平次は次男であり、家は兄の平太夫が次ぐのが決まっていたから気楽である。いっそのこと家を出て町人にでもなろうかと考える。小平次が目指しているのは、本阿弥光悦のような刀剣や古美術の鑑定まで行う工芸家になることだ。  
その小平次の前に久しぶりに内蔵助が現われた。これから江戸に行くのだという。藩主・浅野内匠頭長矩の御婚礼および、初入部のことで、大叔父で江戸家老の大石頼母良重が出てこぬかと誘ったのだ。長矩の妻は親類の浅野長治の娘・阿久利姫だ。  
この年、赤穂藩は殿様の結婚以外にも、幕府から命ぜられた重要な役目を果たしていた。江戸へ下る勅使の御馳走役を無難にこなしたのだ。浅野家ではめでたいことが続くことになる。  
内蔵助は久しぶりの京であった。小平次に頼んで水茶屋の福山に遊びに出かけた。翌朝、内蔵助は江戸へ出発した。  
――内蔵助は江戸で初めて藩主・浅野内匠頭長矩と対面した。対照的な二人であった。内蔵助は国家老として、こまかいことには口を挟まぬようにして、人に任せている。内蔵助はそうした人々の人柄を見ていればいいのだ。人柄が正しければ、役目も正しくつとめているに決まっている。対して、内匠頭は実にこまかい。微に入り細をうがって質問をする。この内匠頭には、内蔵助はたよりない国家老としてうつったようだ。  
内蔵助は江戸屋敷に勤める服部小平次の兄・平太夫を見て自分の予感が的中したのを感じた。平太夫は病をおして奉公に励んでいる。死病に取り憑かれている。労咳だ。平太夫の身に何かあれば、小平次が服部の家を継がねばならない。小平次の夢は消え去る可能性があった。  
江戸での御用も済み、藩主・内匠頭長矩とともに赤穂へ戻ることになった。江戸留守居役の堀部弥兵衛金丸らも見送りに来た。その矢先、江戸家老で大叔父の大石頼母良重が倒れて亡くなった。  
――江戸で服部平太夫が急死した。小平次が服部家の家督を継ぐことになった。  
この頃、内蔵助が妻を迎えることになった。但馬豊岡三万五千石京極家の家老・石束源五兵衛毎公のむすめ理玖(りく)である。やがて、りくは身ごもった。  
久しぶりに京に上がって、内蔵助は越後・新発田の浪人、中山安兵衛応庸と縁が出来た。そのまま、内蔵助は江戸へと向かった。そして江戸に着いたものの、小平次が現われない。着いたことは知っているはずだ。そう思っていると、小平次が自慢の鑑定眼をいかして内職をしたのが藩邸で噂になっている。内蔵助は小平次を呼び出し、きつくしかった。内蔵助の言いように逆上した小平次は退身すると叫んでしまう。  
赤穂に戻ると、祖母の於千がいよいよいけなくなった。祖母が亡くなったその日、りくが男の子を産んだ。後の主税だ。そして、母・熊子は余生を過ごすために京へ出立した。  
服部小平次は江戸で鍔屋家伴と名を変え、骨董屋の主人となっていた。  
――浅野内匠頭は火消しに熱心であった。それは赤穂に戻ってからもそうで、事ある毎に火消しの訓練をした。  
元禄六年。いよいよ将軍綱吉の生類あわれみの令はひどいものになっていた。年も押し詰まった日、江戸から水間治部左衛門という浪人が大石家を訊ねてきた。母・熊子に京にいた時分世話になり、その熊子の死を知ってやってきたのだ。内蔵助はこの治部左衛門の人柄を好ましく思った。  
同年、幕府から備中・松山の城を収めるように命が下った。水谷家の御家取り潰しにともなうものである。  
――江戸から並々ならぬ噂が届いた。内蔵助がかつて京で出会った中山安兵衛応庸が義理の叔父・菅野六郎左衛門の果たし合いの助太刀をつとめ、敵四人を討ったという。後の世に言う高田の馬場の決闘である。  
この噂の後、江戸留守居役の堀部弥兵衛から、是非とも中山安兵衛応庸を婿にしたいという手紙が内蔵助に届いた。内心無理だと思っているが、なにせ堀部弥兵衛の思いが尋常ではない。やがてその情熱にほだされ、中山安兵衛応庸は堀部家へ入った。  
この頃、水谷家に教訓を得て、子のない内匠頭長矩は弟の浅野大学を養子にした。  
だが、思いもよらぬことが翌年待っていた...。浅野内匠頭長矩が城中で高家・吉良上野介へ斬りつけたというのだ。 
大石内蔵助の歌  
大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか)は、播磨国(兵庫県)赤穂藩五万石の筆頭家老。元禄赤穂事件(一七〇一年)で主君の仇を討った忠臣として名を上げ、これを題材とした人形浄瑠璃や歌舞伎の『忠臣蔵』で有名になった。  
「里げしき」  
ふけて郭(くるわ)の よそほい見れば 宵の灯火うちそむき寝の  
夢の花さへ散らす嵐のさそひ来て 閨(ねや)をつれだすつれ人男  
余所(よそ)のさらばも尚(な)ほ哀れにて 裏も中戸をあくる東雲(しののめ)  
送る姿のひとへ帯 とけてほどけて寝乱れ髪の   
黄揚(つげ)の小櫛もさすが 涙のはらはら袖に  
こぼれて袖に 露のよすがの うきつとめ   
こぼれて袖に つらきよすがの うきつとめ  
内蔵助自作の唄。当時評判となり「うきつとめ」に因んで「うき様」「浮き大尽」と呼ばれた。映画や芝居で内蔵が目隠しをして芸者を追い回している際、「うきさま、こちら、手のなる方へ」と囃されているのを見た人もいるとおもう。この唄からは無骨な武士ではなく、粋な遊び人の風情がうかがえる。敵の目を欺くために遊んだのではなく、本来遊び好きな粋人だったのであろう。この唄以外に「狐火」と題する唄があると聞き、探したがみつけられなかった。  
「四条の橋」  
四条の橋から灯が一つ見ゆる 灯が一つ見ゆる  
あれは二軒茶屋の灯か、丸山の灯か  
ウーイそうぢゃえ、ええそうぢゃいな  
「四条の橋」は内蔵助が討ち入りのために江戸に赴く前に、これで見納めと作ったものと聞いている。  
吉良上野介殿の弁護をしておきたい。三河の吉良町では九十間の堤を築くなど善政を施いた名君であった。宗匠頭巾をかぶり赤毛の駄馬にまたがって領内を巡回し、農家の庭先で茶を馳走になり農民と語りあっていた。そのため「赤馬の殿様」と慕われていた。  
一方の浅野内匠頭といえば、母方の叔父、鳥羽城主内藤飛騨守忠勝は芝増上寺における四代将軍家綱の法要の席で宮津城主永井信濃守尚長を刺殺し翌日切腹、内藤家はお取潰しとなっている。一六八〇年、内匠頭は十四歳であった。  
内匠頭は九歳にして浅野家の当主となっているから刃傷のもたらす結末は十分に承知していた筈である。にも拘らず三十五歳の短命に終わったのは浅野家に流れる「短気の血」の成せるわざであったろう。  
旗本伊勢貞丈が書いた『四十六士論評』(弟の浅野長広から聞き取ったとされている)でも「内匠頭は性格が甚だ急な人であり、吉良に賄賂を贈るべしと家臣にすすめられたときには、内匠頭は『武士たる者、追従をもって賄賂を贈り、人の陰を持って公用を勤めることはできない』と述べたという」とその剛直さを記している。しかし真相は歴史の闇の中に消えてしまった。   事件の発生当初、世間はケチな内匠頭が吉良殿に賄賂を贈らなかったことが原因だろうと落首にもしていた。それが約五十年後、歌舞伎で「仮名手本忠臣蔵」が大当たりをとると、架空の筋書きが真実の物語と思われてしまった。  
「内匠頭が善人で吉良上野介が悪人」とすることが日本人の常識となってしまった今、全くの作り話だといっても信じる者は居ない。言えば、変人もしくは戦時中同様に非国民扱いされかねない。おそろしい話だ。 
 
堀部安兵衛
 
 
 
 
 
 
 
 
池波正太郎 高田馬場の決闘、吉良邸討入りで有名な堀部安兵衛を主人公とした小説。前半生はよく分かっていないようなのだが、そこは小説家の想像力で描ききっている。いわゆる「忠臣蔵」を書くためのものではないので、吉良邸討入りに関する部分は全体の四分の一にとどまっている。圧倒的に長いのは、高田馬場の決闘までである。父が亡くなって、浪人となった安兵衛は、様々な人々の世話になりながら、徐々に一人前の剣客へと成長を遂げていく。その成長の過程にあわせるようにいつも登場するのが、中津川祐見という剣客、お秀という女、鳥羽又十郎という盗賊の三人である。この三人は安兵衛の心の成長にあわせるかのように、登場するたびにその心情に変化が見えている。特に安兵衛と対比的なのが中津川祐見である。この中津川祐見はもうひとりの安兵衛といってもいいのかもしれない。この高田馬場の決闘が終わった後、安兵衛が顔に出来た傷をなおす場面がある。チャンバラものではあまり見られない記述だが、本来、真剣を交えると、刀の欠片が顔の至る所に突き刺さったり、めり込んだりするものらしい。その欠片をほじくり出すというのも闘いが終わった後の一つの作業となるようだ。さて、物語の多くは高田馬場の決闘までの安兵衛の足取りをたどる小説だが、最後にいわゆる「忠臣蔵」を持ってきている。池波正太郎氏は、「浅野びいきでも吉良びいきでもない」といっている。たしかに、ひいきはしていないかもしれないが、吉良嫌いではあるようだ。嫌いではないのかもしれないが、堀部安兵衛や大石内蔵助、浅野内匠頭は好きなのは様々な作品を書いていることからもわかるし、本書などでも感じることが出来る。結果として、相対的に吉良嫌いに見える。具体的な例も挙げ、吉良上野介の傲慢無礼な振る舞いを手厳しく書いている。吉良上野介については、その領地では評判が良かったらしいのだが、それすらも、『傲慢無礼な政治家などが我が家へ帰ると、良き夫、良き父親に変ずることは現代にも存在するのである。』と、容赦ない。よほどに嫌いなのではないかと思えてしまう。一方で、吉良びいきに対する牽制として、昔からいわれている大石内蔵助と浅野内匠頭長矩との確執や、内匠頭の短気、癇癪などは、その文献が見あたらないとはねのけている。池波先生。これで、「浅野びいきでも吉良びいきでもない」というのは、ちょいと...(苦笑)。  
前半の高田馬場の決闘までが長かった理由は、次の部分で明らかになると思う。  
『安兵衛には、少年のころから遭遇したいくつかの事件によって、(これだ)という生き方が直感的につかめている。亡父・弥次右衛門切腹事件のときに自分がとった無謀にも思われる出奔も、...(中略)...大いに新発田藩の反省をうながした結果になっている。さらに、菅野六郎左衛門が、死をかけて下劣な村上兄弟の挑戦をうけて立ったことも、松平家の政道に良き結果をもたらした...(中略)...浅野内匠頭の刃傷事件をさばいた幕府という巨大な政権へ、小大名の家来たちが反省を求める手段といえば、「吉良上野介を討つ」ことが、もっともよいのだ。』  
つまり、堀部安兵衛を通じて、権力者への痛烈な批判をしているのだ。  
最後に、安兵衛と義理の叔父甥の関係を結んだ菅野六郎左衛門について。その六郎左衛門が安兵衛にあてた遺書は短いが、万感の思いが込められている。この短い文章を読んで、それまで読んだ本書の様々な場面が思い出された。  
『さて、何と書きおこうか...。ながながの厚誼を、ありがたく、うれしゅう思い存ずる。末長う、こころたのしき酒をのみ候え。』  
 
天和三年。中山安兵衛はまだ前髪のとれていない少年だった。  
父・弥次右衛門は新発田五万石溝口信濃守の家来で二百石の禄高をはんでいる。ある夜、父が突然帰邸してきた。  
そして、父は腹を切った。  
弥次右衛門は、受け持ちの辰巳櫓において火を出し、あやうく櫓を焼失させるところだったのを咎められ、謹慎を申しつけられていた。だが、安兵衛はこれを聞き納得がいかなかった。弥次右衛門は無骨者の業年寄だが、奉公に遺憾のあるはずがない。  
安兵衛は祖父で元家老の溝口四郎兵衛盛政のところに厄介になることになった。祖父は安兵衛に長船清光の脇差しをくれた。生涯の伴侶となるものである。その後しばらくして祖父が亡くなった。  
安兵衛は差し支えがあるということで、祖父の葬儀には参列できなかった。その無聊を慰めてくれたのが溝口家の侍女お秀だった。二人は深い仲となる。  
このお秀が父の組下にいた福田源八を知っているかと訊ねてきた。失火の原因となったときにいた者で、どうやら源八が犯人のようだった。それが何の咎めもないばかりか、城下からいなくなり、江戸に向かっているという。  
安兵衛はとるものもとらず福田源八を追うことにした。その源八を途中で見つけ、安兵衛は斬ってしまう。これで亡き父の汚名をそそぐための証人を失うことになる。  
途方に暮れている時に出会ったのが、中津川祐見だった。  
――安兵衛と中津川祐見が別れて、四年が経った。義兄・町田新五左衛門の奔走もあり、安兵衛は旗本・徳山五兵衛重俊への奉公が決まった。  
この頃、中津川祐見は心貫流を教えている窪田甚五郎の道場に暮らしていた。安兵衛は徳山五兵衛重俊の息子・右近に付き従って窪田道場に出入りすることになった。が、ここで中津川祐見の悪評を聞いて驚く。かつて、安兵衛を助けてくれた優れた人物からは考えられなかった。  
その祐見が安兵衛を酒の席に誘った。だが、安兵衛は門限までに戻ることが出来ず、また安兵衛は言い訳をいさぎよしとせず、徳山家を無断で致仕することになった。  
そのまま江戸をたち、小田原へ向かった。父の親友・浦上勘太夫を訪ねようと考えたのだ。この途中でかつて溝口家にいたお秀と出会う。どうやらお秀は溝口家をやめた後よからぬ世界に引きずり込まれていたようだ。  
お秀は鳥羽又十郎という盗賊の頭の女として生きていたようだが、嫌になり逃げだそうとしたところを安兵衛と偶然再会したのだ。  
――安兵衛は京にいた。鳥羽又十郎に斬られようとしていたところを中津川祐見に助けられ、祐見の言葉に甘え、お秀と一緒に京に上ったのだ。だが、しばらくすると、お秀と祐見が通じ合っていることが分かった。暗い決意の中、安兵衛は二人を斬ると決めた。  
二人が江戸に向かって立ったと思われる。路銀がないので、祖父の形見の脇差しを売ろうと考えた時、それを押さえ、金を貸してくれた人物がいた。赤穂藩の国家老・大石内蔵助だ。  
借りた金で早速お秀と祐見を追い始めた安兵衛。途中で追いついたものの、返り討ちにあいそうになる。それを助けてくれたのが、松平左京太夫家臣の菅野六郎左衛門だ。  
菅野は安兵衛の世話をしようという。六郎左衛門は安兵衛を林光寺の道山和尚に預けた。驚いたことに菅野六郎左衛門は浦上勘太夫と知己であった。そして二人して安兵衛を世に出そうと画策してくれた。  
こうした中、安兵衛は菅野六郎左衛門と義理の叔父甥の関係を結んだ。  
――安兵衛が鳥羽又十郎に襲われているのを助けたのは北島雪山という老武士だ。北島雪山は側用人・柳沢吉保から扶持をもらって江戸に暮らしている。  
雪山と知己を得、雪山のところに邪魔をしている時に、辻斬りを斬ったという少年がやってきた。どうやら雪山の馴染みらしい。この少年と見たのは女剣士だった。名を伊佐子という。  
また、雪山を介して細井広沢という柳沢吉保の家臣とも知り合う。学者として柳沢家の禄をはみながら、剣術の腕も相当なもので、堀内源左衛門道場の四天王なのだそうだ。  
――細井広沢のさそいで、安兵衛は堀内源左衛門道場に入門した。そして、樋口十郎兵衛の元で馬庭念流を学んでいた安兵衛は、失意のどんぞこに落とされる。四天王どころか、半数の門人には勝てない。そんなある日、堀内源左衛門は安兵衛を呼んで変わった稽古を付けた。  
安兵衛に再びの武家奉公の話があがった。旗本稲生七郎右衛門だ。  
――義理の叔父・菅野六郎左衛門が仕える松平右京太夫家ではお家騒動になりそうな気配だった。正夫人の産んだ子が嫡子となっていたが、その上の庶子を継がせようと画策する家臣がいるのだ。  
この頃、中津川祐見はこの松平右京太夫の家臣で村上庄左衛門の妹と婚約が整っていた。祐見にしてみれば、己の過去を安兵衛を通じて知っている菅野六郎左衛門が目障りとなる。  
そんな中、村上庄左衛門の弟・村上三郎右衛門が菅野六郎左衛門の下女が足蹴にされる事件が起きる。  
これが発端となり、村上三郎右衛門は菅野六郎左衛門に果たし状を突きつける。場所は高田の馬場。  
――高田の馬場の決闘は世に広く知られることになった。安兵衛を召し抱えたいと申し出る家も多かった。その一つに、新発田五万石溝口家もあった。だが、安兵衛は断った。  
すこしほとぼりが冷めた頃、安兵衛は赤穂藩の留守居役・堀部弥兵衛金丸とあった。どうやらこの弥兵衛老人は安兵衛を婿に望んでいるらしい。だが、安兵衛は中山の家名を復興させる望みがあった。  
堀部老人はあきらめなかった。そして、ついに安兵衛は根負けして、堀部家へ婿入りする。  
――元禄十四年三月十四日。主君・浅野内匠頭長矩が江戸城中にて吉良上野介義央と刃傷におよんだ事件が起きた。 
 
仇討群像
 
 
 
 
 
 
池波正太郎 「群像」の名の付く三部作の一作。「深川猿子橋」の最後のセリフ。「...強いものは、弱いものを馬鹿にしちゃアいけないのだ。偉そうな奴は、弱そうな奴を見くびっちゃアいけないのだよなあ。...」人の恨みを買うということは、つまりはこういうところから来るのではないだろうか。人を馬鹿にし、侮り、軽んじる。または、人をいびり、イジメる。こうしたところから人の恨みを買い、果ては殺されることになる。案外、昔も今も変わらないところかも知れない。肝に銘じておきたいセリフである。また、痴情のもつれというのも、古今東西人殺しの要因となるようである。男と女の間に横たわる情炎というものは、恐ろしいものになるのは永遠に変わることがないのかも知れない。  
 
よろいびつ / 細井家にその事件が起きたのは享保十一年の春だった。細井家にある鎧櫃には春画や春本がしまい込まれていた。それを新参の池尻小文吾が熱心に見ていた。と鎧櫃には金百両もしまい込まれていた。池尻小文吾はこれを持て逃亡した。期を一にして用人・西村太兵衛の妻お秀も失踪した。しめし合わせてのことと思い、主人の細井新三郎は用人・西村太兵衛に見つけたら斬るように言いつける。だが、真相は...  
興奮 / 北条造酒之助と川野九十郎は主の小姓をつとめているが、川野九十郎は主の寵愛を受けていることを鼻にかけ傲慢である。この傲慢から悪戯心を起こした川野九十郎の所行に怒った北条造酒之助は川野九十郎を切捨ててしまう。北条造酒之助は逃げ、近藤宇右衛門をたより、近藤一学と名を変えた。一方、川野九十郎に対する同情の声は薄かったものの、主は討ち手を差し向ける。この討ち手が近藤宇右衛門を殺してしまう。近藤宇右衛門は知名人との交際が広かった。弟の近藤源太兵衛が中心となり、仇討に出かける。もちろん、北条造酒之助も一緒である。しかし、なかなか仇討が果たせない。折しも世間では色々な仇討が成功し賞賛されていた。  
坊主雨 / 入江長八郎の実兄・金子栄之助が同僚に斬り殺された。斬ったのは坂田彦蔵だった。入江長八郎は仇討にでるがなかなか坂田彦蔵が見つからない。そんな中、思いがけない女に出会った。八年ほど前、超八郎の家に住んでいたおつなである。おつなと久しぶりにあったことで話をしていると、どうも甥が坂田彦蔵のようである。そして、おつなの話では兄が主の妻女と姦通していたらしい...  
波紋 / 三宅権十郎光少は衆道好みがために、主家を追われてしまう。その追われるときに人を殺してしまい、追われる身となる。だが、三宅権十郎は討ち手を返り討ちにする。すると、主家はさ\x82\x89に討ち手を送るが、これも返り討ちにしてしまう。  
敵 / 山崎十次郎が伊勢の国・津の城下を出奔してから足かけ三年になる。人を殺してしまったのである。その息子の中尾伝四郎と中尾平馬の二人が探し回っているに違いなかった。  
情炎 / 内山文五郎は、嘘をつき伊東政七を外に出し、その間に妻・ぬいを犯した。すぐに帰ってきた政七は様子が変なのに気がついたが、そう思っている矢先に内山文五郎に刺され、殺されてしまう。ぬいは生きながらえたが、じきに死んでしまう。そして、内山文五郎は城下から逃走した。残された二人の娘・おたかはおじの与惣に実の娘として育てられ成長した。大人になったおたかは母のぬいの面影を引継いだ美しい女になっていた。  
大石内蔵助 / 吉良上野介邸への討ち入り前の大石内蔵助を描く。  
逆転 / 内田十蔵とたかが肌身を抱合うのは半月振りのことであった。この二人と中根才次郎を含めた三人は仇討の旅をしている。才次郎の兄の仇討であり、たかはその殺された政之助の妻であり、内田十蔵は奉公人である。奉公人と主筋の妻がとんでもない関係となってしまったのだ。その現場を中根才次郎が押さえてしまった。狼狽した十蔵は気がつくと才次郎を殺してしまったことに気がついた。  
深川猿子橋 / 陰陽師・平井仙竜がおはると夫婦になるときに、もしかしたら一生を添い遂げることが出来ないかもしれないといわれた。どういうことかと思っていると、おはるは殺された父の仇討を考えているようなのである。 
 
吉良上野介
 
 
総体[そうたい]貴様の様な、内にばかり居る者を、井戸の鮒[ふな]じやといふ譬[たとえ]が有る。聞いておかしやれ。彼[かの]鮒めが僅[わずか]三尺か四尺の井の内を、天にも地にもないように思ふて。普段外を見る事がない。所に彼井戸がへに釣瓶[つるべ]に付いて上ります。それを川へ放[はな]しやると、何が内にばかり居る奴しやによつて、悦[よろこ]んで途[ど]を失ひ、橋杭[はしぐい]で鼻を打て即座にぴりぴりぴりぴりと死ます。貴様も丁度[ちょうど]鮒と同し事ハゝゝゝ。 (『仮名手本忠臣蔵』三段目「鎌倉御所の段」より)  
 
吉良上野介義央[きら-こうずけのすけ-よしなか(または“よしひさ”) 1641-1702]。高家筆頭四千二百石。万石未満の旗本ながらも、官位は従四位上(浅野内匠頭は従五位下)。『忠臣蔵』のおかげで「日本一悪いヤツ」にされてしまった人。  
絵は、向かって左:松之廊下で浅野内匠頭長矩[あさの-たくみのかみ-ながのり 1667-1701]に斬りつけられる上野介。右:吉良邸内の炭小屋(正しくは台所内の物置部屋だという説もある)で発見され、間十次郎に一番槍をつけられ武林唯七の大太刀を浴びて息絶えた上野介。中央:進物をもらって「しめしめ」な上野介(笑)。台詞を付けるなら、「さすが伊達殿(伊予国吉田藩主の伊達左京亮村豊[だて-さきょうのすけ-むらとよ]。浅野内匠頭の同僚)は行き届いておられる。それにひきかえ、あの浅野めは…」という感じ。ま、あくまでステロタイプ的なイメージということで。  
補足:画面右上にチラッと見える四十七士の揃いの羽織の袖は、白と黒のいわゆる入山模様(または雁木模様)。ただし、この模様は後に芝居のために作られたモノで、実際の衣装は黒の小袖に白い布を合い印として付けていた。入山模様は加賀藩の火消しの装束に用いられていたという。背景向かって左の松之廊下の吉良上野介は浅野内匠頭同様、大紋を身にまとい袴は長袴である。しかし、従四位上の吉良は狩衣で袴は足首までのもので、それゆえ浅野の凶刃から危うく逃れられたのだという説がある。  
以上二つの装束は事実とは異なるかもしれないが、この絵では一般的なイメージに従った。  
刃傷松之廊下  
時は元禄十四ねーん!三月十四日、勅使接待役を務めていた播州赤穂藩五万石の藩主浅野内匠頭、江戸城内松之廊下で指導役の吉良上野介に刃傷、即日切腹――。  
そのとき浅野内匠頭を抱きとめた梶川与惣兵衛頼照[かじかわ-よそべえ-よりてる](旗本。江戸城留守居役)の記録によると、事件の日、所用で大廊下を通りかけた梶川は、茶坊主に吉良上野介を呼びに行かせたが彼は老中と用談中だったため、その場にいた浅野内匠頭と立ち話で用件を伝えた。その後しばらくして上野介が白書院から出てくるのが見えたので茶坊主に呼びに行かせて自分も歩いていき、打ち合わせをしていると、何者かわからぬが「この間の遺恨、覚えたるか!」と叫んで上野介の背後から斬りつけてきた。驚いてその者を見ると、なんと浅野内匠頭。「これは」と吉良が振り向いたところにもう一太刀(眉間に)。上野介がうつぶせに倒れたところに、内匠頭がさらに斬りかかったので、梶川与惣兵衛は浅野内匠頭に飛びついて押さえつけた……。  
梶川は55歳と当時としては初老の域に入っていたが、武芸に通じた大力の士であり、35歳の浅野を力まかせにねじ伏せてしまった。与惣兵衛は内匠頭の小サ刀(脇差)を鍔[つば]ごと押さえつけ、坊主の関久和がその手から刀をもぎ取った。  
目付らによって別室へ連れて行かれた浅野内匠頭は、「お上に対してはいささかの恨みごともないが、私の(私的な)遺恨があったので、前後を忘れて刃傷におよんでしまった」と供述した。  
一方、吉良上野介は、傷は浅かったものの、年齢(61歳)と御典医が止血できなかったこともあって軽いショック症状を起こしていた。しかし、急遽呼び出された外科医の栗崎道有がまず気付け薬を飲ませてから止血・傷口の縫合を施し、さらに軽い湯漬けの食事をとらせると正気を取り戻した。上野介は事情聴取に対し、「意趣を含まれる覚えはない。おおかた浅野は乱心したのであろう」と答えた。  
柳沢吉保を通して報告を受けた将軍綱吉は激怒。即刻、内匠頭は田村右京大夫にお預けののち切腹、手向かいしなかった上野介にはお咎め無し、と決定された。目付の多門伝八郎重共[おかど-でんはちろう-しげとも]ら、即刻切腹の沙汰は軽率すぎると異議を申し立てたが、柳沢が再び将軍に取り次ぐことは無かった。  
結局、内匠頭はその日のうちに田村邸の庭先で切腹して果てた。  
何が彼をそうさせたか  
浅野内匠頭がなぜ刃傷に及んだか、の理由は実のところよくわかっていない。詳しい供述書があるというが、それが伝わっていないからである(意図的に隠された可能性高し)。↑上にあるように「井の中の鮒、鮒侍」と罵られたからというのは、もちろん『仮名手本忠臣蔵』の創作。吉良が梶川に「田舎者(=浅野)にものを尋ねてもわかりませんよ」と聞こえよがしに言ったから…というのは、『梶川筆記』に載せられていないので、また疑わしい。増上寺の畳替えやら長裃と大紋の話なども、ほとんどが作り話。知られているように、内匠頭はその十八年前にも勅使接待役を務めているのだから、儀礼の大筋を知らぬはずがない。  
最近の研究では事件の一刻(2時間)ほど前に、吉良が表玄関で浅野を面罵したという説がある。ただし、たとえ事実だったとしても、それは直接の引き金になったに過ぎず、「この間の遺恨」の中身は明らかにならない。それゆえ、これも古来より衆説おびただしい。  
まず最も一般的なのが賄賂説で、相役(院使接待役)の伊達左京亮が吉良に厚く賄[まいない]を贈ったのに対し、浅野内匠頭はそれを潔しとしなかったのでいぢめられて…というもの。これは早くから諸書に見え、“正史”の『徳川実記』もこれを載せている。  
上野介が内匠頭の奥方に言い寄ってふられたという横恋慕説(『仮名手本忠臣蔵』が元ネタ)や寵童説(浅野の男色相手である児小姓の一人の美少年を吉良が譲ってくれと言ったが、断られた)、書画や茶器に関する確執などという、いかにも小説的な説もあるが、戦後、三河吉良庄出身の尾崎士郎は、吉良家の領地である三河でも塩を作っていたが、上質の塩を産することで有名だった赤穂には及ばなかったので、浅野内匠頭に塩の製法を教えてくれと頼み断られたので…という塩田説を唱えた。しかし、赤穂塩と吉良の饗庭塩では最初から質量共に勝負にならない、という説が有力である。  
その他、傲慢な吉良と短気で人に屈することのできない浅野がぶつかったという性格説、内匠頭は痞[つかえ]の病(神経症的な気の病)というのを持病としていて事件当日の天候不順と前日からの疲れで感情を爆発させたという病気説などがある。  
江戸学の大家の三田村鳶魚[みたむら-えんぎょ]が支持し、最近の諸書で穏当なものとされているのが、浅野内匠頭が勅使接待の費用を節約しすぎて指導役である高家の吉良上野介と行き違いを生じたという予算説である。  
浅野内匠頭長矩は良く言えば節倹、悪く言えば吝嗇[りんしょく]であったという。当時、勅使接待の前後に大判一枚(またはそれに相当する小判十両)を指導役の高家(吉良上野介)に贈ることになっていた。この贈り物はその時代常識となっていた進物、付け届けの類であって、賄賂の範疇に入るものではなかった。しかし内匠頭はこれを終わってからだけで良いと言った。  
そして、老中から勅使饗応があまり華美にならぬようとの指導があったのを受け、元禄十年に伊藤出雲守が勅使接待を務めた際の予算1200両と十八年前に自ら務めた時の400両を参考として、予算を700両と決めてしまった。これは、貨幣改鋳によるインフレーションで十八年前とは貨幣価値が異なるのを考慮していない上に前年と比べてもダウンしている。  
これでは公家や朝廷と幕府との間を取り持つ高家の吉良上野介が承知するわけはなく、様々な行き違いを生じ、倨傲な吉良と短気な浅野という二人の性格的な問題も加わって、そして…というわけである。  
しかし、本を数冊読んだだけでも十指に余る説が紹介されていて、まさに「藪の中」を覗く思いがする。  
哀しき名君  
日本で『忠臣蔵』がウケないのは、三河吉良庄(現在の愛知県幡州郡吉良町)と米沢(上野介の長男が養子として入った上杉家のお膝元)だけだという。吉良町では当時から現在に至るまで吉良上野介義央は名君として慕われており、『忠臣蔵』に対して疑問が提出された戦後には、さらに再評価された。  
いわく、洪水に苦しむ領民たちのために一夜で「黄金堤」を築いた…、妻の富子の眼病回復祈願として「富好新田」を拓いた…、吉良庄に立ち寄ると赤毛の馬にまたがって領内を巡視し人々と親しげに語り合った…などである。吉良町には「赤馬」という郷土玩具があり、華蔵寺の墓の横の立て札には「義冬公 子 哀しき名君 高家 吉良上野介義央公」の文字が記されている。  
これに対して、吉良上野介に対する世間の評判は非常に厳しい。浅野内匠頭に対する直接の嫌がらせのエピソード以外でも、上野介から指導を受けたことのある大名が刃傷事件前の内匠頭に「吉良は傲慢だから辛抱するように」と忠告したという話がいくつかあるし(内匠頭自身が以前指導を受けたのだから吉良の性格は知っていた思うが…)、三年前にやはり勅使饗応役を務めた津和野藩主の亀井茲親[かめい-これちか]が怒って上野介を斬ろうと謀ったが家老が吉良に賄賂を贈って穏便に済ませたという話、そして吉良が親戚の津軽公の家で御馳走された際に「おかずは良いが、飯がまずい」と放言したという話…。  
どれも嘘臭いが、こんな話が作られるくらい、江戸城内の大名旗本連中にきらわれていた、少なくとも好かれてはいなかったことは確かではないだろうか。吉良家は足利家の庶流で、室町時代には「公方[くぼう]絶ゆれば吉良継ぐ、吉良絶ゆたれば今川継ぐ」と謳われたほどの名家であり、徳川家との縁も深い(系図を徳川家に貸したという話もある)。  
自然、今は小身の旗本なれども多くの大名よりも家柄は良い…との思いから頭も高くなるだろう。領内の温厚な顔とは対照的に、他の武士に対しては傲慢不遜の念を抱かせたことは想像に難くない。少なくとも謙譲の人というイメージは与えなかっただろう。  
また、池波正太郎は「自分の国は誰だってかわいがる。いまの政治家や実業家でも、悪いことをさんざんしている奴が、家に帰るといいパパであり夫である。自分の領地は可愛がらねば、自分の収入がなくなっちゃうんですから、当然のことです」と言う。「黄金堤」も吉良庄に都合の良いように作ったので、隣国に迷惑をかけたという話もある。どうやら、内にやさしく外に厳しいという人だったと言えるかもしれない。  
浅野側の赤穂では赤穂浅野家が断絶になったとき領民が餅をついて祝ったという話が伝えられていたり、現在でも大石内蔵助は神格化されているのに対して浅野内匠頭はほとんど忘れられているという事実、そして上野介の手当をした栗崎道有が傷の完治後にも往診を続け、赤穂浪士に斬られた上野介の首と胴体を縫い合わせ、さらには上野介と同じ寺に葬られたという事実を考え合わせると、さらに含蓄があるだろう。  
討ち入り、そして…  
刃傷事件から一年九ヶ月後の元禄十五年十二月十四日深夜、大石内蔵助以下47人の赤穂浪士が江戸松坂町の吉良邸に乱入。戦闘の末、吉良上野介義央の首級を挙げ、泉岳寺の浅野内匠頭長矩の墓前に供えた。  
公儀(幕府)や吉良家・上杉家が討ち入りを予期していたかどうかは諸説分かれるが、たとえ予期していたとしても、上野介の胸中に浮かんだのは「まさか本当に来るとは…」という思いだったろう。  
実孫(上野介の長男である上杉綱憲の次男)であり養子として家督を継いでいた吉良左兵衛義周[きら-さひょうえ-よしちか(または“よしまさ”) 1686-1706]の運命は、さらに悲惨を極める。彼は討ち入りの際、自ら薙刀[なぎなた]をとって武林唯七らに立ち向かい、負傷して気絶するまで戦った。しかし、元禄十六年(1703)二月、赤穂浪士切腹の沙汰と同時に「当夜の振る舞いよろしからず(つまり父を守れず討ち死にもしなかったので!)」として領地没収の上、信州高島城の諏訪安芸守のもとにお預け、すなわち流罪となった。刃傷事件に対する公儀の片落ち裁定への世間の批判と赤穂義士賛美の声におもねったとしか思えない処分だった。  
配所ではカミソリを使うことを許されず、着替えも洗濯も当初は許可されず、火鉢こたつの類もない…という状況の中、実父上杉綱憲と養母(実の祖母)富子が相次いで没するという悲報が届き、元来病弱だった左兵衛義周は宝永三年(1706)年一月二十日、21歳で没した。  
かくして、足利以来の名門吉良の嫡流は絶えた。  
吉良の運命  
赤穂四十七士の忠義が三世紀にわたって称揚されている一方で、吉良の名は黒い影に覆われてきた。日差しが強ければ強いほど影は濃くなるように、これは運命だろうか。(ちなみに、どちらかと言うと私も赤穂義士支持派。参考として明記)  
日本人の仰ぐ空に、これからも大石内蔵助を中心とした四十七星の星座が輝き続ける以上、吉良の魂は天に昇ることも許されないだろう。哀しいことである。  
 
本所七不思議 ( 青の7点円 )

 
 
 

 
 
  
置行堀(おいてけぼり、おいてきぼり) / 錦糸堀 
本所を舞台とした奇談の一つで、全エピソードの中でも落語などに多用されて有名になった。置き去りを意味する「置いてけぼり」の語源とされる。江戸時代の頃の本所付近は水路が多く、魚がよく釣れた。ある日仲の良い町人たちが錦糸町あたりの堀で釣り糸を垂れたところ、非常によく釣れた。夕暮れになり気を良くして帰ろうとすると、堀の中から「置いていけ」という恐ろしい声がしたので、恐怖に駆られて逃げ帰った。家に着いて恐る恐る魚籠を覗くと、あれほど釣れた魚が一匹も入っていなかった。  
この噺には他にも「現場に魚籠を捨てて逃げ帰り、暫くして仲間と一緒に現場に戻ったら魚籠の中は空だった」「自分はすぐに魚籠を堀に投げて逃げたが、友人は魚籠を持ったまま逃げようとしたところ、水の中から手が伸びてきて友人を堀に引きずり込んで殺してしまった」「釣り人以外にも、魚を持って堀を通りかかった人が魚を奪われた」「声を無視していると金縛りに遭った」などの派生した物語が存在する。  
東京の堀切駅近くの地にもかつて置いてけ堀と呼ばれる池があり、ここで魚を釣った際には3匹逃がすと無事に帰ることができるが、魚を逃がさないと道に迷って帰れなくなったり、釣った魚をすべて取り返されたりするといい、千住七不思議の一つとされた。また埼玉県の川越地方にも「置いてけ堀」という場所があり、やはり魚が多く釣れるにもかかわらず、帰ろうとすると「置いてけ、置いてけ」との声が魚を返すまで続いたという。
 
  
送り提灯 / 石原割下水  
提灯を持たずに夜道を歩く者の前に、提灯のように揺れる明かりが、あたかも人を送って行くように現れ、あの明かりを目当てに行けば夜道も迷わないと思って近づくと、不意に明かりが消え、やがて明かりがつくので近づくとまた消え、これの繰り返しでいつまで経っても追いつけない。  
石原割下水では「提灯小僧」といって、夜道を歩いている者のそばに小田原提灯が現れ、振り返ると後ろに回りこみ、追いかけると姿を消すといった具合に前後左右に自在に動き回るという伝承があり、本項と同一の怪異と見られている。  
同じく本所七不思議のひとつ「送り拍子木」は、提灯が拍子木になったのみで、本項と同様の怪異である。また、江戸時代には向島(現・東京都墨田区向島)で「送り提灯火(おくりちょうちんび)」と呼ばれる、送り提灯と似た怪異の伝承もあった。ある者が提灯も持たずに夜道を歩いていると、提灯のような灯火が足元を照らしてくれる。誰の灯火かと思って周りを見ても、人影はなく、ただ灯火だけがある。男は牛島明神(現・墨田区)の加護と思い、提灯を奉納したという。もしも提灯を奉納しないと、この提灯火に会うことはないといわれた。
  
送り拍子木 / 割下水  
江戸時代の割下水付近を、「火の用心」と唱えながら拍子木を打って夜回りすると、打ち終えたはずの拍子木の音が同じような調子で繰り返して聞こえ、あたかも自分を送っているようだが、背後を振り向いても誰もいないという話である。実際には、静まり返った町中に拍子木の音が反響したに過ぎないとの指摘もあるが、雨の日、拍子木を打っていないのに拍子木の音が聞こえたという話もある。
 
 
  
燈無蕎麦 / 南割下水  
幽霊屋敷の屋台版のような怪異。江戸時代、本所南割下水付近には夜になると二八蕎麦の屋台が出たが、そのうちの1軒はいつ行っても店の主人がおらず、夜明けまで待っても遂に現れず、その間、店先に出している行灯の火が常に消えているというもの。この行灯にうかつに火をつけると、家へ帰ってから必ず不幸が起るという。やがて、この店に立ち寄っただけでも不幸に見舞われてしまうという噂すら立つようになった。  
逆に「消えずの行灯(きえずのあんどん)」といって、誰も給油していないのに行灯の油が一向に尽きず、一晩たっても燃え続けているという伝承もあり、この店に立ち寄ると不幸に見舞われてしまうともいわれた。  
正体はタヌキの仕業ともいわれており、歌川国輝による浮世絵『本所七不思議之内 無灯蕎麦』にはこの説に基づき、燈無蕎麦の店先にタヌキが描かれている。
 
 
  
足洗邸 / 本所三笠町  
江戸時代の本所三笠町(現・墨田区亀沢)に所在した味野岌之助という旗本の上屋敷でのこと。屋敷では毎晩、天井裏からもの凄い音がした挙げ句、「足を洗え」という声が響き、同時に天井をバリバリと突き破って剛毛に覆われた巨大な足が降りてくる。家人が言われたとおりに洗ってやると天井裏に消えていくが、それは毎晩繰り返され、洗わないでいると足の主は怒って家中の天井を踏み抜いて暴れる。あまりの怪奇現象にたまりかねた味野が同僚の旗本にことを話すと、同僚は大変興味を持ち、上意の許を得て上屋敷を交換した。ところが同僚が移り住んだところ、足は二度と現れなかったという。  
なお怪談中にある大足の怪物の台詞が「あらえ」、怪談の名称が「あらい」であるのは、江戸言葉特有の「え」「い」の混同によるものと指摘されている。
 
 
  
片葉の葦(かたはのあし) / 駒止橋  
江戸時代の頃、本所にお駒という美しい娘が住んでいたが、近所に住む留蔵という男が恋心を抱き幾度も迫ったものの、お駒は一向になびかず、遂に爆発した留蔵は、所要で外出したお駒を追った。そして隅田川からの入り堀にかかる駒止橋付近(現在の蔵前橋付近の脇堀にかかっていた橋)でお駒を襲い、片手片足を切り落とし殺した挙げ句に堀に投げ込んでしまった。それ以降、駒止橋付近の堀の周囲に生い茂る葦は、何故か片方だけの葉しか付けなくなったという。
  
狸囃子(たぬきばやし) / 割下水  
日本全国に伝わる音の怪異。深夜になるとどこからともなく、笛や太鼓などの囃子の音が聞こえてくるというもの。江戸時代の本所(東京都墨田区)では馬鹿囃子(ばかばやし)とも言い、本所を舞台とした本所七不思議と呼ばれる奇談・怪談の一つに数えられている。囃子の音がどこから聞こえてくるのかと思って音の方向へ散策に出ても、音は逃げるように遠ざかっていき、音の主は絶対に分からない。音を追っているうちに夜が明けると、見たこともない場所にいることに気付くという。平戸藩主・松浦清もこの怪異に遭い、人に命じて音の所在を捜させたが、割下水付近で音は消え、所在を捜すことはできなかったという。その名の通りタヌキの仕業ともいわれ、音の聞こえたあたりでタヌキの捜索が行われたこともあったが、タヌキのいた形跡は発見できなかったという。  
千葉県木更津市の證誠寺にも狸囃子の伝説があり、『分福茶釜』『八百八狸物語』と並んで「日本三大狸伝説」の一つに数えられ、童謡としても知られる。詳細は證誠寺 (木更津市)の狸伝説を参照。  
東京都墨田区の小梅や寺島付近は、当時は農村地帯であったことから、実際には収穫祝いの秋祭りの囃子の稽古の音が風に乗り、いくつも重複して奇妙なリズムや音色になったもの、または柳橋付近の三味線や太鼓の音が風の加減で遠くまで聞こえたものなどと考えられている。
 
落葉なき椎(おちばなきしい) / 新田藩松浦家の上屋敷  
江戸時代の本所に所在した新田藩松浦家の上屋敷には見事な椎の銘木があったが、なぜかこの木は一枚も葉を落としたことがない。松浦家も次第に気味が悪くなり、屋敷を使わなくなってしまった。
 
津軽の太鼓 / 津軽越中守屋敷  
江戸時代の頃の本所に所在した津軽越中守の屋敷には火の見櫓があった。しかし通常火の見櫓で火災を知らせるときは板木を鳴らすのだが、なぜかこの屋敷の櫓には板木の代わりに太鼓がぶら下がっており、火事の際には太鼓を鳴らした。なぜこの屋敷の櫓だけが太鼓だったのかは誰も知らない。  
他には越中守屋敷の火の見櫓の板木を鳴らすと太鼓の音がするという物語も存在する。全エピソードの中でも最も怪異な起伏が少なく、七不思議から省かれることもある。 
 
火付盗賊改方

 
 
 

火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)は、江戸時代に主に重罪である火付け(放火)、盗賊(押し込み強盗団)、賭博を取り締まった役職。本来、臨時の役職で幕府常備軍である御先手組頭、持組頭などから選ばれた。時代劇などでは、「火盗改」(かとうあらため)、或いは「火盗」(かとう)と略して呼ばれることがある。  
設置の経緯  
明暦の大火以後、放火犯に加えて盗賊が江戸に多く現れたため、幕府はそれら凶悪犯を取り締まる専任の役所を設けることにし、「盗賊改」を1665年(寛文5年)に設置。その後「火付改」を1683年(天和3年)に設けた。一方の治安機関たる町奉行が役方(文官)であるのに対し、火付盗賊改方は番方(武官)である。この理由として、殊に江戸前期における盗賊が武装盗賊団であることが多く、それらが抵抗を行った場合に非武装の町奉行では手に負えなかった。また捜査撹乱を狙って犯行後に家屋に火を放ち逃走する手口も横行したことから、これらを武力制圧することの出来る、現代でいう警察軍として設置されたものである。  
組織  
初代火付盗賊改方頭(長官)として「鬼勘解由」と恐れられた中山勘解由が知られるが、当時は火付改と盗賊改は統合されておらず、初代火付改の中山直房のこととも同日に盗賊改(初代ではない)に任じられた父の中山直守とも言われる。  
決められた役所は無く、先手組頭などの役宅を臨時の役所として利用した。任命された先手組の組織(与力(5-10騎)、同心(30-50人))がそのまま使われるが、取り締まりに熟練した者が、火付盗賊改方頭が代わってもそのまま同職に残ることもあった。町奉行所と同じように目明しも使った。1787年(天明7年)から1795年(寛政7年)まで長官を務め、活躍が時代小説「鬼平犯科帳」となった長谷川宣以が有名である。  
火付盗賊改方は窃盗・強盗・放火などにおける捜査権こそ持つものの裁判権はほとんど認められておらず、敲き(たたき)刑以上の刑罰に問うべき容疑者の裁定に際しては老中の裁可を仰ぐ必要があった。  
なお、火付盗賊改方長官は矯正授産施設である人足寄場も所管したが、初代の人足寄場管理者である長谷川宣以以外は、火付盗賊改方とは別組織の長である寄場奉行として、町奉行の管轄下に置かれた。  
廃止と再設置  
火付盗賊改方は番方であるが故に取り締まりは乱暴になる傾向があり、町人に限らず、武士、僧侶であっても疑わしい者を容赦無く検挙することが認められていたことから、苛烈な取り締まりによる誤認逮捕等の冤罪も多かった。市井の人々は町奉行を「檜舞台」と呼んだのに対し、火付盗賊改方を「乞食芝居」と呼び、一方の捜査機関たる町奉行所役人からも嫌われていた記録が見られる。このためか、時代劇において悪役として扱われることも少なくない。  
これらの弊害により、1699年(元禄12年)、盗賊改と火付改は廃止され、三奉行(寺社奉行、勘定奉行、町奉行)の管轄になるが、元禄赤穂事件があった1702年(元禄15年)に盗賊改が復活し、博打改が加わる。翌年、火付改が復活した。1718年(享保3年)には、盗賊改と火付改は、「火付盗賊改」に一本化されて先手頭の加役となり、1862年(文久2年)には先手頭兼任から独立、加役から専任制になった。博打改は火付盗賊改ができた年に、町奉行の下に移管されている。  
本役加役(任期1年)2名、当分加役(任期半年)2名が通例であったという。当分加役は火災の多い秋冬(9月〜3月)に任命されていた。この他、江戸市中で打ちこわしが多発した際など、騒然とした状況下において増役として同役が増員された例がある。 
江戸三十三観音巡り 第4番札所 / 回向院
回向院は、今からおよそ350年前の明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院です。回向院について書く場合には、江戸最大の大火と言われる「明暦の大火」について語る必要があります。  
明暦の大火  
明暦の大火は、明暦3年(1657年)、江戸幕府が開かれてから54年たった年に起きた江戸最大の大火です。本郷丸山本妙寺の振袖の供養から火事が起きたという説があり、別名「振袖火事」とも呼ばれます。この大火による被害は甚大で、大名屋敷160、旗本屋敷約810が燃え、江戸城も西の丸以外が燃え、天守も燃えてしまいました。町は800余町、神社仏閣300余、橋60余が焼失し、江戸市中の6割が焼失しました。この明暦の大火による死者は10万人をこえたと言われています。  
回向院の由来  
明暦の大火により亡くなった人々の多くは、身元のわからない人や身寄りのない人々でした。当時の4代将軍家綱は、このような無縁の人々を手厚く葬るようにと当時牛島新田といわれた現在回向院がある地に土地を与え、「万人塚」というお墓を設けました。なお、将軍家綱を補佐していた保科正之が指示したと書いてある本もあります。そして、無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要が行なわれました。このとき、念仏をあげるため御堂が建てられました。これが回向院の始まりです。  
こうした経緯から、宗旨に限らず無縁仏の供養を行う寺として、正式名は「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられました。また、開創の由来から、回向院では、安政の大地震や関東大震災の被害者も埋葬されています。  
馬頭観音堂  
こちらに江戸三十三観音の一つの馬頭観音が祀られています。回向院が開かれて間もない頃、4代将軍家綱の愛馬が死亡し、その骸を回向院に葬ることになりました。その供養のため、回向院二世信誉貞存上人が馬頭堂を建てて、自らが彫った馬頭観世音菩薩像を安置しました。その観音像が江戸時代から「江戸三十三観音」の一つに数えられていました。当時の観音像は焼失してしまったそうですが、現在も「江戸三十三観音」の4番札所とされています。  
馬頭観音菩薩  
観音様は、いろいろなお姿に変身します。その変身した観音様は変化(へんげ)観音と呼ばれます。千手観音、十一面観音などがそうです。馬頭観音は、頭上に馬頭を戴いて表わされることから馬頭観音と呼ばれます。馬頭観音は、ハヤグリーヴァと呼ばれます。ハヤグリーヴァとは文字通り「馬の頭を持つもの」という意味です。馬頭観音像は、不動明王のように憤怒の姿で現されることが多いのですが、回向院では、優しいお顔をしています。馬頭観音は、民間信仰では、馬の守り神様として信仰されることもあります。この回向院は、馬頭観音があるためでしょうか。人の埋葬のほか、動物の埋葬も行っているようです。  
鼠(ねずみ)小僧次郎吉のお墓  
回向院には、鼠小僧次郎吉のお墓があります。時代劇で義賊として活躍する鼠小僧は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗み、町人の長屋に小判をそっと置いて立ち去ったといわれます。しかし現実の鼠小僧の記録を見るとこのような事実はどこにも記されておらず、現在の研究家の間では「盗んだ金のほとんどは博打と女と飲酒に浪費した」という説が定着しています。ただし、彼が大名屋敷を狙ったことは事実で、鼠小僧が盗んだ金は3000両と言われます。江戸時代、犯罪者は、お墓を建てることはできませんでした。明治以降に、鼠小僧を取上げた歌舞伎や狂言の成功により、供養のためのお墓が必要となったようです。このお墓は、歌舞伎役者の市川団升という人が、興業があたったお礼にたてたものだという説があります。長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が昔から盛んで、いまも墓石を削ってお守りにする人が大勢います。「するりと入れる」という縁起を担いで、特に合格祈願に来る受験生があとをたたないそうです。  
鼠小僧が、大名屋敷を専門に狙った理由については敷地面積が非常に広く一旦屋敷の中に入れば警備が手薄であったことや体面を守るために被害を公にしにくいという事情もあったようです。鼠小僧は天保3年(1832年)に捕まり、に市中引き回しの上での獄門に処されました。鼠小僧のお墓は、両国の回向院のほか南千住にある小塚原回向院にもあります。 
 
浜町・神田・日本橋北 界隈

 

 
                   半七 / 神田三河町 (中段左端) 
                   伝馬町牢屋敷 / 小伝馬町 (中段中央) 
                   鼠小僧 / 日本橋人形町 (中段中央右下) 
                   越後屋 / 駿河町 (下段より中央左) 
                   一心太助 / 本小田原町 (下段より中央・青点円)

   
 
半七捕物帳 / 神田三河町

 
 
 

 
 
 
 
 
   
 
 
 
   
岡本綺堂による時代小説で、捕物帳連作の嚆矢とされる。かつて江戸の岡っ引として、化政期から幕末期に数々の難事件・珍事件にかかわった半七老人を、明治時代に新聞記者の「わたし」が訪問し、茶飲み話のうちに手柄話や失敗談を聞きだすという構成で、旧幕時代の風俗を回顧しながら探偵小説としての謎解きのおもしろさを追求する趣向の小説である。作中で「捕物帳」とは町奉行所の御用部屋にある当座帳のようなもので、同心や与力の報告を書役が筆記した捜査記録をさしている。近代日本における時代小説・探偵小説草創期の傑作である。1917年(大正6年)博文館の雑誌「文芸倶楽部」で連載が始まり、大正年間は同誌を中心に、中断を経て1934年(昭和9年)から1937年(昭和12年)までは講談社の雑誌「講談倶楽部」を中心に、短編68作が発表された。なお登場人物が関連する外伝的な長編1作を含め計69作とみなす場合もある。  
厳密な時代考証や綺堂自身の伝聞・記憶などから、江戸期の江戸八百八町を小説の上にみごとに再現した情趣あふれる作品。時代小説としてのみならず風俗考証の資料としても高い価値を持ち、明治期の「現代人」を媒介に、江戸時代を描写する遠近法的手法が使われている。  
本格推理、怪談風味、サスペンスなど物語の展開も多様である。何よりも古さを微塵も感じさせない引き締まった文章がすばらしく、解説者都筑道夫は「まるで今年書かれた小説のようだ」と評した。また出来不出来がほとんど見られず、解説者北村薫は「全部をお読みくださいと言うほかない」と述べた。  
綺堂は「シャーロック・ホームズ」を初めとする西洋の探偵小説についての造詣も深かったが、半七捕物帳は探偵小説としては推理を偶然に頼りすぎたり、事件そのものが誤解によるものだったりして、謎解きしての面白さは左程でなないと言われる。しかし何作かは本格性の高い作品である。国産推理小説がほとんど存在しなかった時期に先駆的役割をつとめたことは確かである。  
半七  
文政6年(1823年)生れ。父親は日本橋の木綿問屋の通い番頭半兵衛。母はお民。13歳のとき(1835年)に父親が亡くなったために一家は頼りを失う。半七は奉公に出るが道楽の味を覚え、放蕩三昧の時期がしばらくつづいた後、18歳(1840年)で神田三河町の御用聞き吉五郎の手下となる。翌天保12年(1841年)12月、19歳で「石灯籠」事件の初手柄をあげて以来、その機転のきいた推理と行動力で吉五郎一家で頭角をあらわし、3、4年後(1844年または1845年)に吉五郎が病死した後は、遺言により一人娘のお仙と結ばれ、御用聞きの跡目を相続する。「三河町の半七」が通称である。以後、名探偵として同心や同僚の目明しから多大な信頼を寄せられ、各種の難事件、珍事件に携った。4歳違いの妹であるお粂は常盤津の女師匠・常盤津文字房であり、明神下で母親と女所帯を構えている。半七の家とも往来がある。  
維新後に廃業。その前後に養子を取って唐物屋を開かせ、「わたし」との交際が生れた日清戦争後(1894年(明治27年)以降)の時期には場末の赤坂に隠居している。この時点でお仙はすでに没し、養子は40歳。孫が二人いるらしい。  
赤坂では老婢と二人ぐらし。猫を飼っている。江戸時代以来の季節ごとの行事やしきたりを律儀に重んじて暮らす昔かたぎな老人であるが、反面新しもの好きでもあり、新時代にも悪い印象は決して持っていない。いち早く電燈や鉄道を利用していることが作中示されている。また比較的まめに物詣や遊山に外出し、なかなか健脚である。話好きで、「前置きが長い」と自分で断りながらも、若い「わたし」に昔話をするのをたいへんに好んでいる。交際が広く、綺堂の別の作品「三浦老人昔話」の主人公である三浦老人をはじめとして、昔の事件でかかわった人々とも、明治以降も付合いをつづけている。読書は歴史小説が好み。酒はたしなむ程度で、下戸である。1904年(明治37年)没。享年81。 
 
一心太助 / 本小田原町

 
 

 
  
  
 
 
 
 
一心太助は、小説・戯曲・講談などに登場する架空の人物とされている人物。初出は「大久保武蔵鐙」とされる。職業は魚屋。義理人情に厚く、江戸っ子の典型として描かれることが多い。三代将軍徳川家光の時代に、大久保彦左衛門のもとで活躍したとされる。  
名の由来は、腕に「一心如鏡、一心白道」(いっしんにょきょう、いっしんびゃくどう)の入れ墨があったことから。一心如鏡は読み下せば「一心鏡の如し」、白道は二河白道(にがびゃくどう、極楽浄土へ続くとされる道)を指す。  
架空の人物というのが定説であり、神奈川県小田原の老舗魚問屋 鮑屋 の主人がそのモデルだとされている。一方、松前屋五郎兵衛建立の「一心太助石塔」と書かれた太助の墓が、港区白金立行寺の大久保家墓所の傍、それも彦左衛門の一番近くに立っており、太助は実在の人物で、若いころ大久保彦左衛門の草履取りだったとも言う。  
大久保彦左衛門は小田原藩主大久保忠世の弟であり、現在でも魚市場で有名な東京の築地は、当時小田原町と呼ばれたほど小田原から移動してきた人が多く住んでいたが、物語の原型はそこで成立したようである。  
数多くのドラマ、演劇などに登場し、ドラマ中、彼のトレードマークの一つ「一の魚」は魚運搬専用のトラックなどに多く採用されている。  
伝説  
一心太助は百姓であったが、あるとき領主の大久保彦左衛門に意見したのが気に入られ、大久保家で奉公することとなる。大久保彦左衛門の皿を誤って1枚割ってしまった腰元お仲が手討ちで殺されそうになるのを、一心太助が知る。一心太助は彦左衛門の前で残りの皿7枚を割り、彦左衛門がお仲および一心太助を許す。一心太助は、お仲と結婚し、武家奉公をやめてお仲の実家の魚屋で働くこととなる。その後も、彦左衛門に意見し協力することとなる。 
 
呉服店「越後屋」(三越) / 駿河町

 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「現銀掛け値なし」/ これは三越が1683年に掲げたスローガンです。現在では当たり前になっている正札販売を世界で初めて実現し、当時富裕層だけのものだった呉服を、ひろく一般市民のものにしました。創業以来、いつの時代も三越は商品・サービスなどすべての面で「革新」を繰り返しながら、人々が豊かな生活を送るためのお手伝いをしてきました。21世紀を迎え、これからも三越はチャレンジを続けていきます。  
歴史 / 1673 ・江戸本町1丁目(現日本銀行所在地辺り)に呉服店「越後屋」が開店した。間口9尺(2.7m)の小さな借り店舗から、三越330年の歴史は始まる。1673 ・三井高利が江戸本町一丁目に呉服店「越後屋」を開業。1681 ・このころ店章をに定める。1683 ・本町から駿河町に移転し、両替店(現在の三井住友銀行)を併置。 
 
 [人形町付近] 
鼠小僧 / 日本橋人形町


 
 

(寛政9年-天保3年 1797-1832) 江戸時代後期(化政期)に大名屋敷を専門に荒らした窃盗犯。本名は次郎吉(じろきち)。鼠小僧次郎吉として知られる。本業は鳶職であったといわれ、義賊の伝承で知られる。  
 
歌舞伎小屋・中村座の便利屋稼業を勤める貞次郎(定吉・定七とも)の息子として元吉原(現在の日本橋人形町)に生まれる。10歳前後で木具職人の家へ奉公に上がり、16歳で親元へ帰った。その後は鳶人足となったが不行跡のため父親から25歳の時に勘当される。その後は賭博で身を持ち崩し、その資金稼ぎのために盗人稼業に手を染めるようになる。文政6年(1823年)以降、武家屋敷の奥向に忍び込むこと28箇所32回に及び文政8年(1825年)に土浦藩藩主である土屋相模守彦直の屋敷に忍び込んだ所を捕縛され南町奉行所の尋問を受けるが、初めて盗みに入ったと嘘をついて切り抜け入墨を入れられ中追放の刑を受ける。  
一時は上方へ姿を消し、江戸に密かに舞い戻ってからは父親の住んでいる長屋に身を寄せる。しかし、賭博の資金欲しさにまたもや盗人稼業に舞い戻る。その後7年にもわたって武家屋敷71箇所、90回にわたって忍び込みついに天保3年5月5日(1832年6月3日)(日付については8日(6日)などの諸説あり)、日本橋浜町にある小幡藩主・松平宮内少輔忠恵の屋敷で捕縛される。北町奉行・榊原忠之の尋問に対し盗んだ金銭の総額については3000両以上と鼠小僧は供述したが本人が記憶していない部分もあり、諸書によっても違うので正確な金額は未だに不明である。3ヵ月後の8月19日(9月13日)に市中引き回しの上での獄門の判決が下される。この刑は本来なら凶悪犯(放火や殺人)に適用される刑であり、この判決は面子を潰された武家の恨みの産物という見方もできる。なお、引き回しの際には牢屋敷のある伝馬町から日本橋、京橋のあたりまで有名人の鼠小僧を一目見ようと野次馬が大挙して押し寄せた。市中引き回しは当時一種の見世物となっており、みずぼらしい外見だと見物人の反感を買いかねなかった為、特に有名な罪人であった鼠小僧には美しい着物を身に付けさせ、薄化粧をして口紅まで注していたという。  
処刑は小塚原刑場にて行われた。享年36。  
当時の重罪には連座制が適用されていたが、鼠小僧は勘当されているために肉親とは縁が切れており、数人いたという妻や妾にも捕縛直前に離縁状(離婚証明)を渡していたため、天涯孤独の身として刑を受けた。この自らの行いに対しあらゆる人間を巻き込まずに済ませたという点も、鼠小僧が義賊扱いされる要因のひとつとなっている。墓は、両国の回向院にある。また南千住の小塚原回向院、愛媛県松山市、岐阜県各務原市等にも義賊に恩義を受けた人々が建てた等と伝えられる墓がある。「鼠小僧の墓石を持っていると博打で勝てる」という俗信から、現在墓石はすっかり砕かれてしまっている。  
鼠小僧の義賊伝説  
鼠小僧について「金に困った貧しい者に、汚職大名や悪徳商家から盗んだ金銭を分け与える」と伝説がある。実はこの噂は彼が捕縛される9年も前から流れていた。事実、彼が捕縛された後、役人による家宅捜索が行われたが盗まれた金銭はほとんど発見されなかった。傍目から見ると彼の生活が分をわきまえた慎ましやかなものであることから盗んだ金の行方について噂になり、このような伝説が生まれたものと考えられる。  
しかし現実の鼠小僧の記録を見るとこのような事実はどこにも記されておらず、現在の研究家の間では「盗んだ金のほとんどは博打と女と飲酒に浪費した」という説が定着している。  
鼠小僧は武士階級が絶対であった江戸時代に於いて大名屋敷を専門に徒党を組むことなく一人で盗みに入ったことから江戸時代における反権力の具現者のように扱われたり、そういったものの題材して使われることが多い。  
これについて資料が残されていない中で鼠小僧自身にその様な意図が無かったという推測があり、彼が大名屋敷を専門に狙った理由については敷地面積が非常に広く一旦中に入れば警備が手薄であったことや男性が住んでいる表と女性が住んでいる奥がはっきりと区別されており、金がある奥で発見されても女性ばかりで逃亡しやすいという盗みに入りやすかったという理由が挙げられている。また町人長屋に大金は無く、商家は逆に金にあかせて警備を厳重にしていた。大名屋敷は参勤交代等に代表される江戸幕府の経済的な締め付けや謀反の疑いを幕府に抱かせるおそれがあるという理由で警備を厳重に出来なかったものと考えられ、また面子と体面を守るために被害が発覚しても公にしにくいという事情もあった。 
東日本橋

 

今、東日本橋とよばれているのは両国橋一帯と神田川ぞいの柳橋などの一帯で、今は高層ビル街でもあり、一部に会社、商店のある町といってよいでしょう。戦災によって手ひどく打撃をうけ、すっかり街の姿が変わりました。昭和46年4月の住居表示実施により、いろいろな町名を統一して、東日本橋1丁目から3丁目に分けたもので、古い町名が7つもなくなっているのです。東日本橋とよばれている地域、昔は一口に両国とよばれた地域です。  
両国橋がかかってから、両国という地名ができていったといえます。  
両国界隈  
今の東日本橋とよばれている町、両国一帯の地域は昭和46年4月の住居表示実施によって、米沢町3丁目、若松町、薬研堀町、矢之倉町、村松町を合わせて、東日本橋1丁目とし、両国を東日本橋2丁目、橘町の大部分(一部が久松町として残りました。)を東日本橋3丁目とし、江戸時代から親しまれて来た古い町名が東日本橋に統一され、両国とよぶことも町名としてはなくなったのです。その上昭和47年7月、船橋と東京駅を結ぶ国電が開通して東日本橋駅が出来たため東日本橋の地名が定着していきました。  
東日本橋1丁目  
村松町・矢ノ倉町・薬研堀町などが知られた町で、村松町は西本願寺の末寺が築地へ移った後、名主村松源六が開いた町といわれ、明暦大火後のことで、次第に賑やかになったのは元禄になったからとおい話です。なまくら刀を売る店がずらりと並んで、町人用の外装だけ立派な刀を売るので有名になり、「出来合いのたましい村松町で売り」などと川柳でもひやかされる商店の多い町でした。  
矢ノ倉町は元禄11年(1698)まであった米蔵が移転、そのあと武家の邸宅となり大名屋敷がありましたが、明治になって薬研堀町に近い方は賑やかな商店街になっていきました。薬研堀町は米蔵への入堀でVの字形に堀が出来ていたので、薬研に似た形として名がついたといいます。明和8年(1771)堀の一部が埋立てられ町地となり、あとは殆ど武家地で医者が圧倒的に多く、医者町などとよばれました。ここは金比羅神社があり、不動尊が祀られ武家の信者が多かったので有名でした。天保の改革で一時本所に移り維新後再度旧地に戻ったという話で、毎月28日の縁日は賑やかですが、特に暮の27・28・29日の賑いは大変なものです。今もなお続いて賑わっています。  
面白いことに薬研堀町が江戸時代医者町とよばれていたのに、後には七色とうがらしの店が有名で、明治以降大正へかけて、矢の倉に開院する医者が多く、むしろ矢の倉町の方が医者町とよぶにふさわしい町になったようです。  
東日本橋2丁目  
旧来の両国とよんだ町です。元柳町、新柳町、吉川町、米沢町、1、2、3丁目、薬研堀町、若松町など、全部または一部が含まれます。両国と両国橋の西側の町を一般的によんで、明暦大火後万治2年(1659)に橋がかかり、交通上繁華な地になりましたが、火事の多い江戸のこと、明暦大火で多くの死者を出したことに鑑みて二度と災害の悲劇をくりかえさぬ様にと各所に火除地を設けたのですが、両国にも中央区側に広小路が出来て、防火や避難に役立つ広場が設けられました。いつの間にかこの空地を利用して小屋がけで軽業や見世物小屋が並び、水茶屋、喰べ物見世、揚弓場などで江戸一番の賑やかな場所になっていきました。もっとも将軍舟遊の乗船場がすぐ近くにあるため、将軍お成りの日には全部取り払われ、将軍が帰還後は再び興業が許されるといった具合でしたが、その賑やかなこと、混雑ぶりは大変なもので、いろいろな本に出ているほどでした。河岸を新柳河岸とよび、明治の末頃には寄席の新柳亭があって評判だったといいます。  
維新後は全く商店の並ぶ繁華な市街に変わって、面目一新した賑やかな商店街になっていったのです。  
また米沢町は3町に分れ、多くは船宿の中心地で、両国の川開きや花火と共に忘れることの出来ぬ町で、船宿はいずれも二階があり、家人は階下に住み、客がくると2階に通して接待したといいます。  
米沢町から元柳町にかけて船宿と共に有名な柳橋花街で、これが両国の景況を明治になって支えていたといえます。  
米沢町で一言すべきは堀部安兵衛のことで、矢の蔵の米蔵が元禄11年(1698)築地に移ったあとが武家地や町地となり、米沢町の町名も出来たのですが、ここに堀部弥兵衛が娘の養子となった安兵衛と一緒に住んでいたことは「赤穂義人纂書」にのっています。よくわかりませんが、安兵衛が弥兵衛と一緒に米沢町に居住していたことを信ずる人は多くは次の文書によるようです。  
   堀部弥兵衛金丸親類書  
   妻、御当地米沢町に罷在候。  
   1、世伜 養子当24才 堀部安兵衛  
   1、娘 江戸米沢町に罷在候 右安兵衛妻  
これが、どこまで信用出来るものかどうか、私にはよくわかりません。  
なお、柳橋花街の発展は天保改革で門前仲町の芸者達が弾圧を逃れて、こちら側に次第に移る者があり、明治になって一層賑やかな花街に発展したといわれています。両国の花火と柳橋の料亭については、いろいろのエピソードが残されていますが、防潮堤などのため、ここで花火が見られないのは残念です。(中央区は戦後新しく晴海で花火を打ちあげる大会を催して居ります。)  
東日本橋3丁目  
古くは橘町とよばれた地域で、昭和46年4月の住居表示実施で現町名になったところです。江戸の初期には西本願寺の別院やその末寺があったところでした。この西本願寺別院は元和7年(1621)3月准如上人が創建したもので、江戸海岸御坊、更には浜町御坊とよばれたといいます。明暦の大火で堂宇は灰燼に帰し、築地に移転復興したのです。  
その跡地は松平越前守の邸地となり、天和3年(1683)に邸地移転に伴って、町地になりました。西本願寺のあった頃、門前に立花を売る店が多かったので、町の名を橘町とつけたのだそうです。  
よくわかりませんが、元禄のころの話では、商店ばかりでなく、住宅地もあって静かな町だったようで、菱川師宜が住んでいたとか、俳人松尾芭蕉もこの町に住んでいたなどという話もあります。  
橘町といえば踊り子の町として有名でした。踊り子といえば、歌舞音曲で客をもてなし、寄合茶屋や船遊山の席へ出るもののことですが、橘町などの踊り子は、その容姿を売り物に売色を専門にする若い娘達で、随分風紀をみだしたといわれています。「裃の膝に踊り子腰をかけ」といった川柳が、その実態を示しています。  
元禄もすぎ、享保ごろからは色々な店が出来て賑やかになっていったようです、橘町3丁目の大坂屋平六の店は、薬屋としては江戸中に知られた店だったようで、中でもズボウトウというせきやたんの薬は特に有名で、「平六がとこ、ずぼうとう能く売れる」などと川柳でも評判しています。 
日本橋人形町 

 

日本橋人形町1〜3丁目は、中央区の北側、日本橋の東にあたり、日本橋堀留町1・2丁目の南に隣接して位置しています。江戸時代の当町一帯は、北部が町人の住む町、南部の蛎殻町一帯は大名屋敷の並ぶ武家地でした。人形町の名は江戸時代の里俗地名で、大伝馬町2丁目と通旅籠町の間を南北に横切る通りに、古くからこの名称がありました。元禄江戸図には「さかい町」と和泉町の間の通りに「人形町」と見えています。むかし、堺町、葺屋町に結城座、薩摩座などの人形芝居があったころ、長谷川町の辺りに人形を造る家が多く、あるいは、手遊物・錦絵などを商う店が多く、賑わった所でした。  
正月には手鞠羽子板、3月には雛人形、5月には菖蒲人形の市がたちました。人形町の名はこうしたところから生まれたものと思われます。昭和8年に正式町名の「人形町」が成立しました。  
もとの人形町1・2・3丁目は昭和8年2月、新和泉町、住吉町、堺町の東半、芳町の東一部、蛎殻町2丁目の東一部、元大坂町の東一部、松島町の西大部を合せて成立しました。それを1・2・3丁目に分けたのです。1丁目は当町最南端に当り、松島町西大部と旧蛎殻町2丁目の地にあたります。  
さらに人形町は昭和51年1月の新住居表示によって旧人形町1丁目は日本橋人形町1・2丁目に分かれました。日本橋人形町は旧蛎殻町1・2丁目と日本橋小網町の一部、芳町1丁目全域を合せて成立しました。日本橋人形町2丁目は旧人形町1・2丁目の一部、日本橋浪花町の大部分、蛎殻町1・4丁目の各一部を合せて成立しました。日本橋人形町3丁目は昭和55年1月、新住居表示により、旧人形町3丁目と芳町2丁目を合せて成立しています。  
日本橋人形町の江戸時代の様相  
旧人形町1丁目は、それ以前の蛎殻町2丁目及び松島町の西大部の地でした。蛎殻町の地域は、江戸時代初期は、隅田川河口近くの西岸の埋立地で、稲荷堀より以東の里俗地名でした。寛政12年(1800)に新両替町から幕府の貨幣鋳造役所である銀座が移転してきて、幕末まで銀貨や銅銭の鋳造を行った「蛎殻銀座]のあった所です。その他の地はほとんどが大名・旗本屋敷の武家地で、幕末には上総国請西藩水野家、陸奥国磐城平藩安藤家、播磨国姫路藩酒井家の藩邸がありました。明治初年には民間地として払い下げられ、次第に町場となったのです。  
松島町は武家地に囲まれた町人の住む町で、江戸中期には町奉行の組屋敷が一時置かれた所です。松島神社があったので、町名になったといわれています。  
日本橋人形町2丁目は、1丁目の北側にあたり、昭和8年2月、元大坂町の東一部、蛎殻町2丁目の一部、住吉町の南大部分を合せて成立しました。町の東側には、かつて久松橋の傍から入った入堀があり、この掘に面した所を住吉町裏河岸といいました。ここには、江戸時代、かまどを作って売る者が多かったので、「へっつい河岸」と呼ばれていました。  
高砂町・新和泉町・難波町・住吉町の辺りは吉原遊郭の地で、明暦の大火後に浅草に遊廓が移転したので、謡曲にちなんで高砂町や住吉町と命名されたと伝えています。  
大坂町は東堀留川の東側に沿った町で、天正年間(1573〜1592)の頃に、大坂の廻船がこの辺りまで入津して、大坂町となってと伝えています(『東京府志科』)。また、大坂の人が開いたためともいわれています。その後、新大坂町が成立したので、当地は元大坂町と改称したとされています。明治初年まで当地に沿って蛎殻町に入る土井堀がありました。なお、人形町2丁目の一部の地には、幕末頃に美濃国加納藩永井家の藩邸があり、一部が武家地であったことがわかります。  
日本橋人形町3丁目は、旧人形町3丁目と芳町2丁目の地で昭和55年に成立しました。旧人形町3丁目は江戸時代以来の新和泉町の全域及び住吉町・堺町・芳町の各一部からなっていました。  
新和泉町は、もと吉原の西南隈に当る地で、吉原の移転後に開かれた町です。堺町に近いので、和泉国堺(大阪府)の国名をとって和泉町とつけたのであろうと想像されます。  
町の北側が大門通りで、西側には金物商が軒を連ね、“鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春”の繁昌をうたわれた地でした。銅匠の銅屋寅次郎もここに住んでいました。地内1番地には、江戸時代初期の元和年間(1615〜24)に幕府の奥医師岡本玄冶が、1,500坪に及ぶ広大な拝領屋敷をもらって住んでいました。人々は玄冶店と呼び、歌舞伎の世界で知られています。  
芳町の一帯には1万坪に及ぶ広大な薩摩国鹿児島藩主島津家の藩邸がありました。  
堺町は、『東京府志科』によれば「慶長年中(1596〜1615)の開創なり、此辺等大坂の廻船入津せしに由て、大坂近傍の名勝住吉・堺などの名を用ふ」として、堺町となったと記しています。寛永年間(1624〜44)に中村座が開業してからは浄瑠璃・説経・操り人形など、様々な見世物小屋や茶屋が軒を並べ、一大歓楽街になりました。  
堺町に隣接する葺屋町は、東堀ッ川に面した沼沢地であったのを、慶長、元和年間(1600〜24)に埋立てて町場とした所といわれますが定かではありません。町名の由来は屋根葺職人が多くいたためと伝えています。 
日本橋馬喰町・日本橋横山町 

馬喰町  
馬喰町はいう迄もなく旅籠屋がずらりと並んでいた、いわば旅宿街でした。古くは馬喰たちが出入りする宿場町的様相があったといいますが、やがて郡代屋敷がおかれて、江戸と地方の商店などと公事訴訟事件などが起ると、次第にその地方から出てくる人のために宿屋が増加し、ずらりと並ぶ旅宿街だったといいます。古く家康入国ごろは、初音の馬場とよばれる馬場があり、馬の勢揃いなども行なわれ、この馬喰町のほかは、馬の売買が禁じられていたといいます。大阪との戦いが終ると平和が訪れ、馬喰などとは関係がなくても、奥州街道から江戸にくる人々のため、次第に通行人も多く、馬喰町辺の旅屋へ泊る人々が多くなっていったといいます。  
江戸が発展するにしたがって、江戸へくる人々が増加し、一層旅館がそうした人々を収容するため旅籠屋が増加し、訴訟に出て来た人ばかりでなく、附近に問屋街が集中するようになると、馬喰町の宿屋へ泊って、品物を宿屋へ持参させ、じっくり品物を選ぶといった傾向になり、問屋と宿屋がうまく地方の人々を此処に引きつけてきたのだそうです。  
明治になって新しい宿屋が別な処へ出来ていって江戸時代とは少し違っていきましたが、それでも日露戦争ごろは活況を呈して、かなりの数の宿屋があったといわれています。  
明治の40年代でも、1丁目に刈豆屋、相模屋、伏見屋、下総屋、京屋、大松屋、上州屋、2丁目には藤森館、山城屋、桝屋、羽前屋、亀屋があり、3丁目には福井屋、大阪屋、福島屋、美濃屋、合津屋、河内屋、松崎屋、梅治、三鷹屋などが、まだ残って営業していたといいます(中央区史による)。まだまだ、隣りの横山町に小間物など仕入れにくる商店の人々の宿泊する旅宿の街であったことはたしかです。  
横山町  
横山町は、そうした関西方面の商品を売りさばく問屋といった店々が、馬喰町の宿屋に泊って、いろいろと品物を選び、買い入れる、いわば泊って品物を仕入れる人々が、続々とこの町に入りこんでくると、その人達の買う品物などをみて、それらの品物を客の要求に応じて売る問屋が、馬喰町とほとんど一つのような隣りの横山町にどんどん増加して、一つの問屋街となっていったともいえます。  
江戸時代、投宿する客のニーズに答えて開店した横山町には小間物問屋、紙屋、煙草入問屋、地本双紙問屋などが目立つ存在だったといわれています。幕末の「諸問屋名前帳」に出ている横山町の店々は次の通りで、「中央区30年史」によると  
呉服問屋、塗物問屋、紙問屋、瀬戸物問屋、丸合組小間物問屋、通町組小間物問屋、地本双紙問屋、紙煙草入問屋、荒物問屋苫問屋、地廻り米穀問屋、下り雪踏問屋、地漉紙仲問、板木屋  
馬喰町の宿屋街とタイアップした問屋街がもうすっかりこの横山町に定着して紙とか小問物雑貨を主とした問屋街をつくりあげていったのです。 
日本橋堀留町 

堀留町は中央区の北側、日本橋の北東に位置し、江戸時代以来、大商店や、問屋が集住する町として発展してきました。町名の由来は、東堀留川が旧1丁目の南で止まっていたので「ほりどめ」といわれたと伝えています。堀留町の名称は江戸時代にすでにありましたが、現在よりはかなり狭い町で、今の日本橋堀留町1丁目のあたりになります。  
昭和7年9月に、旧堀留町1丁目が本町2丁目内となり、12月、堀留町2・3丁目、新材木町・新乗物町・長五郎屋敷および、葺屋町の北一部・岩代町の町々を合せて、堀留町1丁目、および同町2丁目の一部となり、昭和55年に新住居表示が実施されて、日本橋堀留町1丁目となりました。日本橋堀留町2丁目の地は、長谷川町・田所町・通旅籠町の南一部の地にあたります。昭和7年に両町が合されて堀留町2丁目の内となり、昭和55年に新住居表示が実施されて、日本橋堀留町2丁目となりました。  
江戸時代の町々の様相  
江戸時代の旧堀留町2丁目は、「下舟横町」と呼ばれていましたが、享保5年(1720)に堀留町2丁目と改称しました。また、旧堀留町3丁目の地は荘助という人が開いたので「荘助屋敷」と呼ばれていたといわれています。  
新材木町は、その昔、「芝原宿」と呼ばれた村落だったと伝えられています。椙森神社は、平安時代の末に平将門が信仰したと伝える古社で、のちには江戸城主の太田道灌の厚い信仰もうけたといわれています。江戸時代には江戸三森の一つとして繁栄し、境内で社殿修造のために、「富くじ」を行った神社として有名です。  
新材木町の町名は、元和年間(1615〜24)の頃から材木をあつかう商人が多く住んでいたので、その町名が生まれたといわれています。新材木町の河岸を別に「お万河岸」と呼んでいました。徳川家康の愛妾お万の方(蔭山氏の娘)の化粧科所があった所との説もあります。(『江戸名所志』他)  
新乗物町は、慶長年間(1596〜1615)頃の起立といい『総鹿子』に「のり物や多し」とあり、『寛永江戸図』に早くも「のり物丁」と見えます。神田(千代田区)の南乗物町にたいして、新乗物町と名付けられたと伝えています。明治以前、この町の一部には長五郎屋敷という町場がありました。岩代町は新乗物町の南続きの町で、一番地しかない小さな町でした。起立年月や町名の由来などは不明ですが、延宝年間(1673〜81)以前の江戸図に見え、古い町であったことがわかります。堺町の裏になっているので、町前の通りを楽屋新道といいました。  
葺屋町は東堀留川に面した町で、屋根葺職人が多かったので、町名になったといわれています。大部分が人形町に入ります。  
旧堀留町2丁目はのちの旧堀留町1丁目の東にあり、昭和7年12月に通旅籠町の南一部、田所町・長谷川町を合せて起立しました。  
長谷川町は古くは禰宜町といい、椙森神社の禰宜(宮司)が住んでいたためと伝えられています。また、明暦の大火後に市街地となり、長谷川久兵衛という人が開いたので、長谷川町という町名になったと伝えられています。『江戸砂子』には、「此所に芝居しばらくあり」と記しています。  
また、新和泉町との境いを三光稲荷があったことから三光新道と呼び、田所町と弥生町との間から、神田方面に通じる道を「大門通り」と呼んでいました。もと吉原の大門があったためにそのように呼ばれたといわれています。今もなお、通り名として使われています。田所町は、この地の名主の田所平蔵が開いた所と伝えています。  
旧堀留町3丁目は、旧2丁目と同じく、昭和7年12月、元浜町の南大部分、高砂町・弥生町・新大坂町を合せて起立しました。  
元浜町の地は、その昔、東京湾の入江に沿った砂地で、ここを開いて浜町ができました。その後、浜町堀を開さくすると、代地を霊岸島に与えられて町人の大部分が移転していきました。あとに残ったわずかな町場を元浜町と名づけたと伝えられています。かつては町の東に浜町川があって、そこには汐見橋や千鳥橋などの開発初期の浜辺にちなむ名前の橋が架っていました。  
高砂町の附近一帯も、家康の江戸開府直後、しばらくは芦や茅の繁る沼沢地でした。それを慶長年間(1596〜1615)の頃に町場の造成をして遊郭を造りました。吉原の地名も葭原に由来するといわれています。  
吉原遊郭は、明暦の大火ののち、浅草(台東区)に移転しました。その跡地の町なのでめでたい謡曲にちなんで高砂町と命名されたとされています。  
新大坂町も慶長年間頃の起立と伝え(『東京府志料』)、大坂(大阪府)の人が来て開発したため、その名が起こったと伝えられています。当町の北は通油町、東は元浜町、西を大門通りに面していました。俗に人々はここを花町といっていました。江戸初期に、横山町に本願寺(後の本願寺別院)があった頃、香火(線香)を売る家が多かったためといわれています。  
元浜町の西に隣接する弥兵衛町は、江戸初期に、この辺がまだ耕地であった、弥兵衛という人の特地であったことに由来するといわれています。『新編江戸志』には、この町も新大坂町と同じく花町と唱えていたと記されており、明治2年に弥生町と改称しました。 
日本橋浜町 

浜町という町を一口にいえば、武家地と町地のあった町といった、入り交りの町で、江戸時代は、この辺は久松町は元和3年(1617)ごろ、武家地の一部が町地になったといわれています。かなり後までも武家地として残っていた所があり、町地では刀脇差を売る店が多かったといいます。久松町の町裏には山伏の井戸があって有名で、歯痛にきくというので、人々の信仰が厚く、大正のころまで、常に井戸に蓋をして、上のに塩と楊枝が載せてあったという話です。後この辺文人医者の住居する者が多くなったといいます。  
浜町1丁目という町は、大名の蔵屋敷で占められた部分が多く、正徳になって間部下総守屋敷となった一帯、大川端元柳橋から南数町の間の河岸を間部河岸と呼んだといいます。浜町2丁目は大体武家屋敷といってよく、2丁目・3丁目の境から大川に新大橋が架かっていたので知られていました。浜町3丁目も武家地で、菖蒲河岸があった町です。  
中州町は旧三叉中州で有名な歓楽地でしたが、後撤去されてしまったのを、明治19年再び埋め立てて町としたもので、昔ほどの盛大さは到底ありませんでした。  
こうした過程で明治に移ったのです。明治以降、次第に一部はいきな町になっていった所もありました。大体隅田川よりは花柳界的色彩のある街で、明治時代には一部にはお屋敷町的な姿もまだ残っていた街といえます。  
山伏の井戸  
山伏の井戸は、浜町2丁目と久松町の間の路地にあったという話です。家康入国後、紀州根来の山伏百人にこの一帯を与え居宅を許したといわれ、根来同心と称したといいます。山伏の飲用に使用した井戸があり「山伏の井戸」とよばれていたといいます。江戸抄子に「山伏の井、はま町。堀淡路守殿うしろに有、此井名水なりしが、中ごろ水あしく成しに、山伏祈り直しける。」とあります。  
浜町の事件「明治一代女」  
「明治一代女」で有名な花井お梅の峯吉殺しが明治の大きな事件でした。明治20年6月9日夜九時すぎ、浜町2丁目の細川邸近くの横町といわれている場所で、酔月楼の女将花井お梅が雇用人八杉峯三郎を刺殺するという事件がおきました。これが当時新聞紙上大騒ぎになった「花井お梅の峯吉殺し」といわれた事件でした。お梅が美人だった事もあって、裁判の時などは傍聴人の行列が出来るほどだったといいます。しかし殺した場所は当時の新聞をみても浜町2丁目13の酔月楼から車夫に依頼して自分の店で雇用していた峯吉を呼び出し、浜町2丁目細川邸のわきで刺し殺したというのですが、どうも明確ではありません。一般には峯吉にいいよられて殺したという説が多いのですが、裁判所の判決によると、実父との間がうまく行かず、峯吉(八杉峯三郎)が自分と父の仲をさいていると思い込み、峯吉を殺したというのが本当のようです。浜町という町を知らない人々も浜町というと花井お梅(芝居では仮名屋小梅)というほど明治大正の人々には知られていたのです。  
浜町と人物  
浜町というと、様々な人物が出てくるのですが、何といっても、都指定の旧蹟、賀茂真淵の県居の跡が有名ですが、何も残っていないのは残念です。真淵は元文3年(1738)江戸に下り、はじめ小舟町の村田春道の家におり、まもなく与力加藤枝直や千蔭の家の近くに移り、更に浜町に移ったのは明和元年(1764)ともいわれています。本矢の倉の山伏井戸と呼ばれた場所で、旗本の細田主水の土地を百坪ばかり借りて建てたのが門弟300人といわれた有名な県居といわれています。  
その他、佐藤一斉も浜町の藩邸で生まれたといわれています。  
明治座  
浜町といえば何といっても明治座を語らねばならないでしょう。市川左団次が、歌舞伎座を離れて独立した劇場をここに経営し、ここを根拠地にして活躍しようとしたのです。  
明治座の出来る前に、久松町河岸に喜昇座という劇場が明治六年四月からありそれが久松座となった明治12年のこと、一時は随分人気があったのが、経営困難で廃座を止むなくされ、16年1月で幕をとじました。16年2月になって久松座のあとに千歳座が劇場を建てることになりました。18年新しい経営者により2月8日初日で大当りとなり、以後種々の出入りをくりかえし、市民に圧倒的人気を博したのですが、23年5月焼失、永久に姿を消すことになりました。しかしその後左団次が新しい劇場を建てるよう努力、26年11月華々しく開業、左団次に団十郎を加えて「遠山桜天保日記」などを上演して大評判でしたが、歌舞伎座と拮抗する勢の時代は僅かで、37年8月左団次の没後、莚升が左団次をつぎ、新らしい芝居が続々と上演され、明治末の東京劇壇に華やかな光を彩ったのでした。  
こうして、浜町は明治座があるため、多くの人に親しまれ、「歌舞伎座と市村座とを折衷したような洋風の構造で、ねずみ色の外がまえ」といった建物が、大いに市民の人気をよんだのでした。 
日本橋浜町2 
「日本橋浜町」一帯では、江戸開幕当初からすでに一部の土地は武家地として整備されていたが、本格的な発展は江戸時代中期以降。そのころより埋め立て工事が開始されるようになり、その開拓によって幕府に仕える大勢の武家たちが生活の拠点にするようになっていった。特に、現在の「日本橋浜町一丁目」周辺には、敷地面積が数千坪を超える大名屋敷などが建ち並んでいたという。いわばこの土地は、江戸の高級住宅地として発展を遂げていったのだ。そのため、江戸後期には、歌舞伎や小説、時代劇などにも登場する有名な盗人「鼠小僧次郎吉」の活動拠点でもあったという。  
江戸の情勢が安定していくにつれ、町人たちも移り住むようになり、刀屋や問屋、両替店など武士御用達の店もたつようになった。『国意考』などを著わした江戸を代表する国学者・賀茂真淵もこの地に住居を構えている。  
明治時代に入ると、政財界で活躍する要人たちも足繁く通う華やかな花柳の町として発展。特にこの周辺には、客と芸妓の密会場所に利用された待合茶屋が密集していた。大正初期には、200軒を超える茶屋が存在していたと伝える史料も残っている。なかでも有名なのが、かつて人気芸妓として名をはせた花井お梅が女将の「酔月楼」。お梅は阿部定や高橋お伝と並び当時の世間を大きく騒がせた女性であり、そんな彼女の波瀾万丈の人生は、河竹黙阿弥作による『月梅薫朧夜』など、多くの作品の題材にもなった。 
日本橋大伝馬町 

中央区の北西部にあたり、日本橋の北西約600メートルに位置しています。北から西に細長い町で、中央を南北に人形町通りが貫通し、営団地下鉄日比谷線の小伝馬町駅の南側の一帯にあります。  
大伝馬町という町名の成立は古く、江戸開府のころには、現在の千代田区にある皇居の呉服橋の辺りにありました、伝馬とは馬の背に荷物を積んで、宿から宿に送る制度をいいます。その役所が江戸城の呉服橋門内にあったために町名となったのです。  
慶長11年(1606)に隅田川河口の浜町一帯の海兵の埋立てが完了した後に、現在地に大伝馬町は移転しました。当時は西から東へ大伝馬町1〜2丁目があり次いで通旅籠町、さらに通油町が続いていました。伝馬役を務める馬込勘解由も旧大伝馬町2丁目の北側に屋敷地を拝領し、伝馬役と町名主を世襲で務めました。  
木綿問屋の発祥  
馬込氏は三河(愛知県)の出身で、その配下の町民が三河木綿の売買に、町内で木綿問屋を開店し、これが後に、大伝馬町の木綿店と呼ばれる木綿問屋街を形成し、近年まで繁栄する基を築いたと伝えています。馬込邸内に宝田稲荷があり、現在も神社として残っています。とくに旧大伝馬町1丁目にあった木綿問屋小津清左衛門は大店として有名でした。旧大伝馬町2丁目にあった俚俗地名の肴店は、昔、毎年正月10日に魚市が開催された場所といわれています。  
通旅籠町と日光例幣使  
現在は当町域に入っている通旅籠町は、江戸初期からあり、当時の『寛永江戸図』には「大伝馬3丁目」と記されています。いつ通旅籠町として独立したのかはわかりませんが、奥州街道に沿った町場で、旅籠が並んでいたために、起こった町名です。町内の南新道に面して池洲稲荷神社があり、日光(栃木県)の東照宮の祭礼に、朝廷から例弊使としてつかわされる勅使の宿泊所になった当町の警護用の武具を収蔵する土蔵が境内に設けられていました。大伝馬町の南側の裏通りを「大丸新道」と呼び、江戸時代には下村正右衛門の経営する木綿問屋の大丸の店が、その繁栄を天下に誇っていました。また、北側の表通りを菊新道と呼んでいました。  
通油町の様相  
旧大伝馬町3丁目の地は、江戸時代には通油町といわれた町でした。大伝馬町・旅籠町・馬喰町に囲まれた町で、明治初年の編集になる『東京府志料』の記事に『本町書上』を引用して、当町は、江戸初期の慶長年間(1596〜1615)の起立になり、元和年間(1615〜24)に牛込某という人が油店を開いたことから、町名となったと記しています。江戸中期の元禄年間(1688〜1704)には、浄瑠璃本を扱う本屋の鱗形屋が有名で、天明年間(1781〜89)でも油町は紅絵で名を馳せていました。  
大伝馬町の繁栄  
町の東には堀割の浜町川が流れ、江戸湾(東京湾)からの船による物資搬入の便が良く、大伝馬町1〜2丁目一帯には、問屋や大店が軒を並べ、宝永2年(1705)には問屋だけで55店も集中していました。木綿や布地を手広く扱い、木綿店と呼ばれて町は繁栄し、その賑わいは『江戸名所図会』にも活き活きと描かれています。  
扱う商品は、綿花・木綿地・太物類、それの加工品等でしたが、のちに反物・呉服地、特に和服の裏地が主流になりました。  
幕末のころには毎年1月と10月の恵比寿講の日には宝田神社(日本橋本町)から大伝馬町1丁目に至る通りで漬物「べったら市」が開催され、現在は10月19日・20日の縁日に行われて賑わっています。  
問屋の繁栄の基となった掘割である浜町川は、江戸初期の寛永年間(1624〜44)に開削されていましたが、元禄4年(1691)に拡張して延長され、西緑河岸という河岸場があり、千鳥橋や問屋橋が架橋されていました。  
江戸末期の産業  
南新道には、日用雑貨を扱う十組問屋加盟の土蔵造りの大店が軒を並べ、書籍・刷物・版木物・鼈甲・化粧料・茶・竹細工・文具・灯火用具・釘鉄銅物などあらゆる生活洋品の製造卸を行っていました。江戸暦や千代絵を売った仙鶴堂鶴屋喜右衛門や、群玉堂松本善兵衛、松茂堂浜松屋幸助など刷物屋が有名でした。通旅籠町には文具・紙類・傘・小間物類の問屋が集中しています。  
しかし、当時の問屋街でも、一大特色は前にも述べましたが、大伝馬町1・2丁目の木綿問屋街で、江戸後期の『江戸買物独案内』では、木綿問屋だけで22店と見えています。  
大伝馬町2丁目は薬種のほか、文具・煙草・煙管などを扱う問屋も目立っており3丁目には宝飾品や鼈甲、象牙細工などの問屋がありました。2丁目と3丁目の境に大門通りが通り、金物を扱う問屋が多く、現在に至っています。 
 
日本橋小網町



小網町というと、「昔は」という話がすぐ出るほど、終戦後の市街の改造にあって四分五裂して、昔の面影を語ることが出来ないほどの変りようを見せています。小網町は昭和51年住居表示実施により、旧来の小網町1・2・3町を合せて日本橋小網町となった町です。  
江戸時代、ごく初期の頃は「番匠町」といったといいますが、小網町となったのはいつ頃かはよく判りません。小網稲荷というのがあって、それをとって小網町としたという説もありますが、よくわかりません。しかし名の通り、河岸とか入江とかいった場所が多かったことはたしかです。蛎殻町もこれと関係があるようです。  
小網町の漁師たちが、家康入国後葛西方面へ出かけた時網をひいて見せ、肴御用を命ぜられ、白魚献上の特権を得、外濠内での夜猟のあと明け方引きあげてくると、小網町1丁目の町角に網を一張干しておくのが慣例だったといいます。  
享保になって白魚屋敷を拝領したのも、ここの漁師達の子孫で、佃島の人達とは別な特典をもっていたといわれています。(「管園心おぼえ」より)  
行徳河岸など  
1丁目の河岸を末広河岸、東堀留川の河岸を西方河岸、2丁目思案橋の側を貝杓子店といったり、日本橋川に沿った河岸を鎧河岸といったりして、全く川や入江と関連をもっていた町であったことがわかります。明治のはじめまでは、鎧橋のところに橋がなく、鎧の渡しと呼んでいたといいます。ここには古くから伝説が残っていて、源義家が下總国へ渡ろうとしたら俄かに暴風のため風がくつがえる程になった。義家はそこで鎧を水中に投じて水神の怒りをしずめ、渡ることが出来た。そのため、その跡を鎧が渕というという伝説です。  
これでわかるように水上交通が発達し、小網町3丁目行徳河岸から行徳行の船が出ていました。寛永9年(1632)頃からあったという行徳船は江戸と下總を結ぶ大きな役割を果していたのです。蒸汽船の発達で行徳船が廃止されたのは明治12年のことですが、小網町がどんなに物資を揚げるのに適した日本橋有数の河岸であったかがわかりましょう。また、ここは物資を出し入れする外、人々の交通が盛んで、行徳と江戸とを結ぶ重要交通機関だったのです。同じく小網町1丁目の信太河岸は伊勢町掘の東岸をいいましたが、上總の信太との交通があり、結構乗客があったという話です。江戸湾を横切って行徳や信太へ渡る交通が開けていた事、小網町の江戸に於ける重要な場所であったことがわかります。  
奥州船積問屋と鍋釜問屋  
小網町は場所がら下總などから来る商人はいう迄もなく、大阪から下ってくる商人達も小網町へ来る人々が随分あったのです。そのため、旅人宿もかなり知られた店があったようで、小伝馬町組旅人宿に属した店として  
小網町1丁目 上總屋  
 同  2丁目 相模屋 上總屋 都賀屋  
 同  3丁目 大塚屋 伊勢屋 平野屋  
があり、天保改革までは、町奉行所近くに火災があった際は、消化にかけつけることになっていたという話です。商業地としての小網町の姿の一端がわかります。  
奥州船積問屋などは全部36軒が中央区にあり、そのうちでも、小網町1丁目に伊藤屋藤七、2丁目には加賀屋六助、伊勢屋藤兵衛、西村屋嘉兵衛、利根川屋幸助、堺屋清次郎、万屋作兵衛、つ太や宇八、小室屋定次郎、山口屋清六、津久井屋理右衛門、乙女屋三次郎、市川屋庄左衛門、結川屋茂兵衛、土浦屋太兵衛、野田屋卯兵衛、加田屋長右衛門、金子屋紋兵衛、宮屋善兵衛と何と二十軒が小網町にあったのです。ことに2丁目に19軒あったことなど、どんなに堀や川というものと商品輸送とが関連して発展できたかわかりましょう。  
また、鍋釜問屋が集り、文化文政以降2丁目に釜屋六右衛門、3丁目に釜屋八兵衛、浅右衛門、治左衛門の店があり、10組便覧にものっています。中でも釜屋治左衛門は近江出身で、卿里の伊吹山産のもぐさから切艾をつくりもぐさ屋専門店になり、大釜を看板にかかげて有名でした。  
小網町の商店  
なお、小網町という町、現在では明治・大正・昭和という時代に新しく発展した、日清製粉とかヒゲタ醤油、或は小網商店とか大きな会社もあり、また証券会社の多い町としても知られてはいますが、それとは別に江戸の古い時代からの商店で今なお続いている店があるという点で、日本橋でも、まだかなり特色をもっている町といえます。  
もぐさで有名な釜屋商店、万治2年(1659)をはじめとして、  
妻揚子の卸小売のさるや 宝永元年(1704)  
食料品雑貨の大茂商店 文政元年(1818)  
荒物雑貨の駒木商店 天保元年(1830)  
荒物雑貨の阿波屋森友商店 安政元年(1854)  
ロープ・漁網の金久保商店 文久元年(1861)  
など、100年以上、いや200年以上も続いている商店があります。(中央区100年経営商店)  
小網町という町、今は随分小区域の町ですが、小網神社を中心に、さすがは日本橋でも昔からの商人の街という感じがします。明治35年「新撰東京名所図会」には、かなりの運送会社の名が出ていて、明治以降も回漕会社がなお小網町にあり、小網町の町としての姿もこうした業者が活躍していた町だったといえます。小網町という町、川があり河岸が発展して海や川から荷を運んでくるには全く好都合の場所であったことは否定できません。  
思案橋、永代橋  
そのため、橋というものも大きな役割をになっていました。  
小網町1丁目と2丁目を結ぶ思案橋、長さ9間2尺の橋ですが、何しろ初期にあいては近くに遊廓もあり劇場もある地域をひかえての橋です。橋の途中で、どちらへ行くかを思案したため、橋名がついたといわれています。  
このあたりから隅田川向うへ渡る橋は永代橋でした。元禄に架せられて以来どんなに便利で重要な橋になったことか。  
この思案橋は小網町の発展を支える大きな役割を果していたのですが、神田方面から深川方面へ行く重要な通路で、人通りも多く、永代寺の富士講や、富岡八幡の祭礼にはぞろぞろ人が通って賑やかだったといいます。それが、明治27年永代橋のかけかえの時、位置の移動があって北新堀町から深川にかかっていたのが新川から佐賀町にかかるようになり、北新堀町から思案橋(後小網橋となる)へくる通りはバッタリさびれてしまったといいます。こうした橋や通りの変化で、随分盛衰があったようです。 
日本橋蛎殻町 

江戸城下東部の武家屋敷地  
蛎殻町は中央区の北東部にあたり、日本橋から東約800メートルに位置します江戸開府のころは江戸湾(東京湾)に面した隅田川河口の右岸の海浜の地で、その後の埋立で陸地化し、浜町とよばれた地域でした。蛎穀町の地名は、江戸初期の『寛永江戸図』に、現在の中央区日本橋小網町2丁目の辺りに「かきがら」とあり、はじめは砂浜に面した俚俗地名であったと思われます。  
江戸初期のころには後の蛎穀町1丁目の地は大名の伊東右京や酒井雅楽頭の蔵屋敷があり、大名の国許から船で、江戸に入る物品を収納する蔵屋敷地でした。同じくのちの蛎穀町2丁目の地も、青山大蔵や酒井讃岐守の蔵屋敷が広大な土地を占めていました。  
その後、江戸中期にかけて浜辺の埋立が進み、箱崎川や浜町川の掘割の開削が進むと、のちの浜町3丁目・4丁目の地の区割りが行われ、大名屋敷として区割りされていきました。諸藩の中屋敷や下屋敷に下賜され、その間には大身の旗本の屋敷地としても下賜されました。江戸城下東部の武家屋敷地が形成されていったのです。  
建ち並ぶ大名屋敷と旗本屋敷  
この地の屋敷地は江戸中期に造成が完了し、広大な大名・旗本屋敷地に変貌しました。現在の蛎穀町1〜4丁目の地域の大名屋敷の様子を見ておきましょう。幕末ごろの屋敷地として、土井堀と稲荷堀に囲まれた地に、播磨国(兵庫県)姫路藩15万石・酒井雅楽頭の中屋敷。稲荷堀を挟んで、現在の日本橋小網町の地に陸奥磐城(福島県)平藩5万石・安藤長門守中屋敷、土井堀を挟んで銀座が所在し、それの北東に隣接して上総国(千葉県)鶴牧藩1万5千石・水野壱岐守下屋敷、播磨国山崎藩1万石・本多肥後守上屋敷、上野国(群馬県)伊勢崎藩1万石・酒井下野守下屋敷(永久橋際)。のちの蛎穀町2丁目の地に美濃国(岐阜県)加納藩3万2千石・永井肥前守中屋敷、越後国(新潟県)村上藩5万石・内藤紀伊守中屋敷、のちに遠江国(静岡県)浜松藩6万石・井上河内守上屋敷などの大名屋敷が並んでいたのです。  
東端の箱崎川に沿って紀伊国(和歌山県)和歌山藩主徳川家の蔵屋敷、上総国貝淵藩1万石・林播磨守上屋敷、その隣りに将軍家一門の清水殿の下屋敷が連なっていました。  
のちの水天宮の地は大身の旗本の戸田十三郎の屋敷、のちの蛎穀銀座の地に隣接して7千石の大身旗本安藤捨之丞などの旗本拝領屋敷も混在しています。  
浜町川の対岸にも上野国館林藩秋元家中屋敷や、磐城平藩安藤家上屋敷などがあり、付近一帯は大名屋敷特有の練塀の続く、樹木鬱蒼とした閑静な地域でした。  
明治四年の町場起立と蛎穀銀座  
広大な武家屋敷地であった当地域は、明治4年(1871)の廃藩置県で大名・旗本屋敷地が政府に収公されたので、空地になったのです。遠江国浜松藩井上正直、播磨国姫路藩酒井忠邦邸跡地、その他を合併して蛎殻町1丁目が成立して、町場化していきました。  
蛎殻町2丁目も武家地であったところを明治4年に起立した町です。当町域北部と元大坂町の地域には、江戸後期から明治2年(1869)の間、江戸幕府の銀貨鋳造所が設置されていました。銀座役所と呼ばれ、元々は京橋(現中央区銀座2丁目)に設置されていましたが、享和元年(1801)に当地に移転し、蛎殻銀座と呼ばれました。当役所では、明治2年の明治新政府による新円切り替えにより、大阪市の造幣局に貨幣製造業務が移転するまで、1・2分銀や1・2朱銀、丁銀や豆板銀の他、寛永通宝の四文銭を鋳造していました。明治2年に役所を撤去した際、その敷地の床土に銀が多量に包有されていたため、銀座の役人が床土を掘り採って、運び去ったと記憶されています。  
鎧橋の完成  
当時は町域の南北に人形町通りが通り、稲荷堀に沿って土井小路が通っていました。明治5年(1872)に箱崎川にあった渡船「鎧の渡し」を廃止して、豪商三井氏らが私費を投じて木の鎧橋を架橋しました。そのために日本橋方面からの交通が至便となり、人形町通りに商店が増え、栄えていったのです。  
鎧橋は明治21年(1888)に総工費3,700万円をかけて鉄橋に改架され、東京の新名所になり人気を博しました。鎧橋は大正4年(1915)に拡幅されて市電が通行し、新大橋と八丁掘を結ぶ主要道となりました。さらに梅堀を埋め立てて道路が広がり、そこに仲買店が集まって繁華な大通りになっていきました。  
米穀商品取引所の開設  
さらに日本橋近くの金融の中心地兜町と直結したため、金融業はもとより、株取引き、商品先物取引の中心地となり、町はますます活況を呈していったのです。  
明治7年(1874)に中外商行会社(のちの蛎殻町米商工会所)、明治26年からは東京米穀商品取引所となりました。ほかにも東京商品取引所や東京油問屋市場等も開設されています。  
現在の蛎殻町1丁目食糧会館ビルは、昭和3年(1928)に完成した東京米穀商品取引所の建物です。このように蛎殻町一帯は商品先物取引の盛んな活気ある町として発展してきました。  
明治7年に1丁目に有馬小学校が開校し、昭和8年に現在地に移転しました。1丁目の東華小学校は明治34年に開校しています。又、神田岩本町(千代田区)にあった日本橋区役所が明治12年に2丁目に移転し、同25年に現在の日本橋出張所の地に再移転してきました。  
水天宮の移転  
蛎殻町2丁目西北角にある水天宮は、九州の筑後国(福岡県)の久留米藩主有馬邸の守護神として祀られていました。文政元年(1818)に江戸城下の赤羽根(港区)の久留米藩邸に移され、明治5年(1872)に現在の蛎殻町2丁目の、もと旗本戸田十三郎の屋敷地に再移転してきました。安産の神様として広く庶民の信仰をあつめ、大正初年に人形町通りを市電が開通すると、近郊からの参詣客でますます賑わい、毎月1日・5日・15日には縁日のため多くの出店が並び、夜店も出て大変な賑わいでした。  
国の旗日には、水天宮前の市電停留所の前に電飾で美しく飾った花電車が並び、これも東京の一風物詩となったのです。 また、明治13年(1880)に当地に移転してきた観音堂の縁日も大変な賑わいをみせ、水天宮前から神田方面に向かう市電通りは夜遅くまで人々の往来で賑わっていました。  
戦後は営団地下鉄半蔵門線の開通で再び賑わいを取り戻し、参詣の人々は毎月5日の縁日を楽しんでいます。 
日本橋室町・日本橋本町 

「今は昔」の言葉通り、江戸時代、江戸城への出入口として常盤橋が重要な位置を占めていた時代は、奥州街道筋の本通りはここから始まるとして、本町1丁目・2丁目・3丁目という町が、浅草橋へ向かって延びていました。しかし、関東大震災の復興後、昭和7年の区画整理による町名改正で、江戸時代の町名があっても、それは場所的に全然違った場所に町名が移ってしまったといってよいほどの大変化でした。その最たるものが今の本町1丁目・2丁目・3丁目などで、南北に並ぶ通りの町であるため、昔の東西という通りは場所も大きく変わりました。室町の方も本町ほどの変化とは違うにしても、江戸以来明治・大正にかけて、多くの代表的商店がどんどん町名が変ってしまったため、戸惑う人々も多かったのは事実です。  
日本橋魚河岸  
さて、日本橋といえば「1日に3千両のおちどころ」の川柳の通り、朝は魚河岸、昼は芝居町、夜は吉原と、千両ずつおちるといわれた、その朝千両の魚河岸があります。どんなに江戸の景況を左右するほどの繁昌の場所だったことでしょうか。江戸市民のビタミンAの供給の第一の場所、河岸には魚をあげる納屋が建ち並んでいますが、魚市場はずっと延びて拡がって、今の三越の前を入って昭和通りの近くまでの広い場所に魚市場がありました。勿論後から市場に加わったため、新肴場だの新場と呼ばれる場所までを含めて、日本橋の魚市場というものは随分広かったのです。  
日本橋と花柳界  
大通りには日本橋が架せられて以来の江戸・東京を代表する商家が並び、橋の北東には魚河岸の市場があり、橋南の通り町筋の繁昌と共に、活況を呈していたことはいうまでもありません。こうしたところには、勢い旦那衆たちの社交場、或いは商談の場、寄り合いなどの宴席に連なる女性達が必要だったので、日本橋芸者とよばれる女性がいる花柳界が育っていったのです。それは、1カ所にまとまってはなく、日本橋の南北の町の裏通りに点在した形で発展しました。今の通り2丁目・3丁目、江戸橋2丁目・3丁目あたりまでを含んだ場所だったようで、一石橋のあたりから上槙町の方まであって、盛大だったといいます。このあたりを舞台にした泉鏡花の『日本橋』が有名です。  
よくわかりませんが、寛政の松平定信の時代、各藩留守居役たちの会合や魚河岸の人々の会合にも好都合という所から願い出て、やがて公許された花街だといわれ、文化文政から天保にかけて、大いに繁栄しました。維新後は一時おとろえたといいますが、明治18年の『東京流行細見記』には、新橋、柳橋、芳町につぎ東京で第4位の89人という芸妓数を示しています。  
今は立派なお堂の中におさまっている西河岸地蔵は、こうした女性達のお百度を踏む姿が評判で、今でもお百度石が残っています。  
西河岸一帯はこのお地蔵さんの縁日の4の日には毎月露店が出て大変な賑いだったという話ですが、大正の大震災でかなり変ってしまったようです。  
田山花袋は『大東京繁昌記』の「日本橋附近」で「その時分では銀座は新式のいわゆる煉瓦町であったが、京橋から日本橋、眼鏡橋(万世橋)にかけては、ほとんど洋館という洋館はなかった」と在りし日の日本橋の大通りについてのべています。明治時代の日本橋の大通りの商店が意外に陰気な店だったとのべているのは、明治と現在を比べてみて、どんなに明るい町になり、夜の光りのあふれる町に変ったかがわかりましょう。  
室町1丁目・2丁目  
室町1丁目と2丁目は一つにして、いろいろの昔の姿を見た方がよろしいようです。  
室町1丁目は、昭和7年9月の区画整理の上、町名改正があり、旧室町1丁目・2丁目、品川町、同裏河岸、長浜町、安針町西一部、本船町西一部、駿河町南一部を合併して、室町1丁目と改めました。  
2丁目は昭和7年9月、本町2丁目の南半、2丁目・3丁目の南の一部、室町3丁目、駿河町の北大部、本革屋町東大部、瀬戸物町の北一部、伊勢町の一部を合併して出来た町です。昔と比べて実にややこしい分け方で町が出来たのですが西側では三井越後屋が構えた町といった感じがします。  
延宝元年(1673)初代三井高利が本町2丁目に店を出し、天和3年(1683)店を駿河町に移して、「現銀掛値なし」の新商法によって今日の大をなすまで、室町と三井家とは、呉服屋、両替店の経営から、明治以後の室町一帯は三井系列の会社で占められているといってよいほどです。旧室町2丁目と3丁目の間、「駿河町より瀬戸物町へ通ずる道は、江戸第一の金銀通貨の往来する道路なり」といって三谷とか中井とか、三井、竹原など、著名な富商の名をあげています。また、定飛問屋の存在についても、「此等の営業日に日々金銀の出入りするには、此横町を通らざるものなし、千両箱を車に積み或は棒に担ひ、手代附添で運搬す。其頃毎日10万両程は往来せり。今は10万円は風呂敷に包み持運べるが、十10万両の金量は容易ならず。中等の人は千両の金も並べて見る事さえ難き世の中、斯の如き通貨の頻繁に往来するは、江戸広しとも雖も、他の町にあらざる所なり」と風俗画報の397号に天保老人文の舎という人が「見聞記憶の侭」と題して述べています。日本橋室町という一帯、商業金融界にとっていかに大きな地位を占めていたかが、うかがえます。  
もちろん商業地として目ぬきの所です。金融業ばかりでなく、室町2丁目西側には瀬戸物町にあった「にんべん」などは伊勢商人を代表する鰹節問屋であり、日本橋川沿いには魚問屋も並んでいたので、この左右両町の地価は江戸で最も高い所といわれていたといいます。この辺り瀬戸物町とよばれた町は、江戸時代文字通り瀬戸物商の店が非常に多かったようです。旧本町1丁目は本石町に変り、旧本町2丁目が、室町2・3丁目に変りましたが。本町2丁目には江戸総町を支配する樽藤左衛門の屋敷があり、それだけでも、重きをなした町でした。  
室町3丁目  
室町3丁目も昭和7年9月の改正で、本町2丁目の北半と3丁目の西一部、十軒店町、金吹町の東半、本石町2丁目の南半、同3丁目の西一部を合併して出来た町で、室町2丁目と同様、三井系列の大会社の建物が占めているような町といってよいほどです。旧本石町2丁目には幕府菓子の御用達金沢丹後の店があって有名でした。江戸の菓子舗として大久保主水と並び称せられた店でした。  
次に十軒店ですが、古くから、ここには雛人形を売る店があり、3月の雛の節句と5月の端午の節句の2回、2月下旬から3月3日まで、4月下旬から5月5日まで人形の市が立ち、大群集の雑踏で大いに賑わったことで有名です。  
室町4丁目  
室町4丁目といえば、昭和7年9月の大改正で、本銀町2丁目、3丁目の西一部本石町2丁目の北半、3丁目の西一部を合併して出来た町です。今は埋立てられてしまいましたが龍閑川に接した北部からこちらは、いずれも有数の商店街でした。中でも本石町2丁目にあった近江屋五郎兵衛は、土地を各地に16ヶ所も持ち、大地主として知られ、呉服問屋としては店員などを31人も置く大店として有名でした。  
昔の本石町3丁目の角には有名なオランダ宿「長崎屋」があって、海外文化を江戸市民にもたらす唯一の窓の役割を果たす所として知られ、長崎から和蘭の商館長一行が江戸参府をする際の宿泊所でした。  
この室町4丁目は、問屋街として知られた町ですが、蝋燭の著名な問屋がいくつかあったほか、神田今川橋よりは瀬戸物問屋がまとまってあるなど、いろいろな問屋の町でもあったようです。  
本町1丁目  
昭和7年9月、伊勢町の一部、瀬戸物町の東一部、東小田原町の東半、安針町東大部、本船町の東大部、それに長浜町の通路を合併して出来た町です。安針町などは家康入国前からあった江戸のみさきに当るなどの説もあり、ウイリアム・アダムスが拝領した土地として知られています。勿論後には魚市場になりました。江戸が賑やかになってからは、鳥問屋が多くあったといわれています。本小田原町は本町1丁目と室町1丁目にまたがった町になりましたが、初期の建設時代には石置場だったので本小田原町の名がついたといいます。勿論魚市場内でした。本船町も同様、両町に別れ、魚河岸の魚問屋で賑わった所でした。昔は堀留町の一部もここにあり、堀留川が流れていて、伊勢町も一部をなし、物資、特に乾物穀類がここに荷揚げされたなどの話もあり、江戸商業の中心をなしていたことはいうまでもないようです。  
本町2丁目  
昭和7年9月、伊勢町の北の大部と瀬戸物町の一部、大伝馬町1丁目の南一部堀留町1丁目、本町4丁目の南半、本町3丁目の南一部を合わせて出来た町ですので、まず大体は本町1丁目と似た江戸商業の中心地でした。今でも、山之内製薬、三共ヨード、大日本製薬、田辺製薬など、ビルの林立した町ですが、江戸以来の薬品問屋の町で、薬の仕入にはここに来なくてはならなかったほどの町でした。関東大震災までは各店々の金看板のずらりと軒なみ続いた姿は、日本橋の一名物といわれました。  
本町3丁目  
昭和7年9月、本町3丁目の東一部と、4丁目の北半、大伝馬町1丁目の北大部、鉄砲町の南一部、本石町3丁目の南一部、同4丁目の南半、岩附町を合併して出来た町で、随分変化のあった町です。旧本町3丁目には江戸町方を総支配する町年寄の一人、喜多村の宅がありました。大伝馬町は朱印伝馬を勤める町として、何かにつけ江戸の町の筆頭として名主馬込勘解由と共に重要な地位を占めていました。この大伝馬町、1・2丁目とも木綿問屋が多く、南北両側とも、同業者のみで、木綿店とよばれ、伊勢商人の中心で、ただ一軒だけ伊勢屋源七という砂糖店があったのみという話です。  
この辺は宝田えびす神社の恵比須講に、べったら市がたち、路上で浅漬の大根を売る年中行事が、今もなお続いています。  
宝田恵比須神社は「商売繁昌、開運の神」として信仰が厚く、本尊は運慶作などともいわれ、家康が寄進したなどとの伝説もあり、古くからの神社として、大伝馬町の発展と共に厚く商家の人々に信仰されて来た話もあります。毎年江戸の商家では10月20日に「恵比須講」といって、恵比須神を大黒と共に祀り、鯛などを供えて祀る風習があり、それ等の供物を売る市が立ったといいます。  
本町4丁目  
3丁目の北の町で、昭和7年9月、本銀町3丁目東大部分と鉄砲町北半を合併して出来た町で、町北は龍閑川の河岸地であったが、今は埋めたてられてありません。昔は大伝馬町に属した地で、行徳から来る塩をこの河岸の入堀で陸あげして馬に積んだので岡附塩町などとよばれた時もあったといいます。鉄砲町は3丁目・4丁目に編入されてなくなりましたが、幕府の鉄砲師胝宗八郎の受領地として知られていました。旧本石町3丁目は、石町とよばれ、鐘撞新道にあった石町の鐘は時の鐘の第1号として有名で、辻源七が管理していました。今は十思公園内に保存されています。 
日本橋茅場町 

茅場町1〜3丁目  
中央区のほぼ中央部に位置し、南北に北から1〜3丁目と連なっています。日本橋の南東600メートルに当たり、1丁目と2丁目の間を営団地下鉄東西線が東西に横断し、1、2丁目間に茅場町があります。東側を新大橋通りが南北に貫通、並行して営団地下鉄日比谷線が通り、ここにも2丁目東側に茅場町駅がありま。町の西側には、南北に平成通り(旧都電通り)が南北に貫通しています。  
茅場町の成立  
江戸時代以前の当町域は海中で、天正年間(1573〜92)末に海浜部を埋立て成立した所です。江戸時代初期には葦や茅の生い茂る沼沢地でした。慶長年間(1596〜1615)の徳川家康の江戸城築城の際、神田橋門(千代田区)外にいた茅商人を当地に移住させ、市街地としたので、茅場町の町名が起ったともいわれています。町の北を日本橋川、東を亀島川が流れ、川沿いに江戸湾(東京湾)から船で江戸に入る下り酒の問屋の蔵が多く、白壁が河岸沿いに並んでました。また、町の西には寺地があったのですが、明暦3年(1657)の大火によって、その多くは下谷(台東区)や浅草方面に移転し、その跡地も町場に編入されました。  
江戸時代の町々  
当町域の江戸時代に町々の様相は、町名として茅場町・岡崎町・亀島町・竹島町、南茅場町のほか、日枝社山王御旅所の門前町がありました。岡崎町は、幕末に北島1〜3丁目のうちに合併され、昭和8年茅場町2、3丁目のうちとなりました。亀島町も北島町と合併し、昭和8年に茅場町2、3丁目のうちとなりました。また、竹島町も北島1丁目のうちとなっています。日枝社山王御旅所門前は南茅場町のうちとなり、大正8年に茅場町2丁目のうちとなりました。  
茅場町の賑わい  
江戸時代の茅場町は、商人の町として賑わっていました。酒問屋をはじめ材木屋や傘屋が多く、瀬戸物屋もありました。有名店では饅頭屋の塩瀬山城守が知られており、船問屋の利倉屋三郎兵衛が大店として繁昌していました。  
元文2年(1737)の『酒問屋人別書』に見える酒問屋として紙屋八左衛門、小西利右衛門など8名が当町で営業しており、運河沿いに店をかまえて諸国から運ばれてくる酒を蔵に陸揚げしていました。  
日枝社山王御旅所  
日枝社山王御旅所は、赤坂山王(港区)の日枝大社の御旅所を江戸初期の寛永年間(1624〜44』)に当地に造営したもので、永田馬場山王御旅所と呼ばれました。薬師堂をはじめとして、閻魔堂や地蔵堂が境内に並んでおり、毎月8日、12日の薬師様の縁日や勧進相撲が行なわれる日には人々で大変賑わっていました。  
山王御旅所の門前はのちに、町奉行支配下の与力・同心の組屋敷地となり明治5年(1872)には、北島町の北部を合併しています。表門前にあった伊勢太は、諸問屋の寄合茶店として有名でした。また、そば屋の雪窓庵やおこしの大沢屋も有名でした。御旅所の境内に隣接した地には、元禄年間(1688〜1704)に俳人の榎本其角が住んでおり、作品を生んでいた所です。  
また、近くの植木店には、学者の荻生徂来も住んでいたとされますが確証はありません。  
なお、御旅所の境内には、富士信仰の富士浅間社があり、江戸庶民の富士信仰の盛んであった様子をしのばせています。  
千川屋敷  
茅場町1丁目のうちに、俚俗地名として裏茅場町があり、当地には千川屋敷がありました。元禄12年(1699)に江戸城下の上水である玉川上水樋のうち、四谷から江戸城西の丸下通りまでの通水樋桝の大普請工事を行った時、工事請負の人達が、江戸幕府に請願して、山王御旅所の北側にあった亀島川の入堀を埋め立て、町場として屋敷地を拝領しました。その地を、玉川上水の別名である千川の名を採って、千川屋敷と称したのです。現在、練馬区石神井台にある千川家文書にその由来が見えています。  
与力・同心の組屋敷地  
岡崎町は1〜2丁目からなっていました。当地は、江戸初期には寺院の集中する寺町でしたが、後に武家地となり、享保6年(1721)には町奉行支配の与力・同心の組屋敷地となりました。岡崎町の町名は、町名主であった岡崎十左衛門の名前に由来します。商人の町で、のちのちまで町名主は岡崎十左衛門、大店としては、板材木問屋の万屋与七が知られています。嘉永7年(1854)の『両替地名録』には両替商として伊勢屋太郎兵衛や八木屋喜太郎の名が見えています。  
岡崎町も、幕末に亀島町1丁目のうちとなり、2丁目に八丁堀亀島町が編入されました。明治11年(1878)の町域の広さは、岡崎町1丁目が5,987(東京地所明細)同2丁目は3,869坪』(同前)で、かなりの広さをもつ町であったことがわかります。1丁目の寺子屋・宝龍堂では、田辺其治が塾長で、幕末には生徒数58人を数えました。  
隣接する北島町も1、2丁目がありました。同地も、岡崎町と同じく、寛永年間(1624〜44)では、すべて寺院町で法泉寺・願成寺・長応寺などの境内地でした。後にこれらの寺地は町場に編入されて、町奉行支配の与力・同心の組屋敷となっています。  
丸橋忠弥の捕物で有名な与力の原兵右衛門の屋敷は特に広大で地方領地の収役を支配しており、「代官屋敷」と呼ばれ、蔵が5つも並んで人々の目を引いたといわれています。  
北島町には俚俗地名が多く、神保小路・輪宝小路・提灯掛横町・七軒町・鍛冶町などがありました。明治11年(1878)の町域の広さは1丁目が4,509坪、2丁目は3,869坪(東京地所明細)でした。  
竹島町と亀島町  
竹島町の地は古くは武家地で、岡部新六郎の拝領屋敷地であったのを、元禄15年(1702)に幕府に収公されて町場となり、竹島町と命名されました。  
安永4年(1775)の江戸切絵図では「百間長屋」と記されており、多くの町民が居住していました。幕末には亀島町2丁目のうちに編入されています。  
亀島町1、2丁目の地は、江戸初期には川が流れており、それを埋め立てて武家地になりました。享保年間(1716〜36)に武家地から、町奉行支配の与力・同心の組屋敷地となりました。1丁目と2丁目の間に絵師の狩野祐清が居住していました。亀島1丁目と2丁目の道路、2丁目と北島町との間の道路には、その昔には亀島川の入堀が入っており、堀の鍵の手に屈折すつ所には、地蔵橋(古くは仁蔵橋)が架かっていました。この近くの借屋に宿を借りていた伊能忠敬が弟子たちと「大日本余地全図」を製作し、忠敬の没後に完成して幕府に献上された所です。当町の大店としては、荒物問屋の日野屋万平がおりました。  
明治11年(1878)の町域は1丁目が6,468坪、2丁目は2,981坪(東京地所明細)であり、かなり広い町であったことがわかります。  
米問屋と株屋の多い町  
明治に入ると、当町域は、旧大名屋敷や与力・同心の拝領地であったことから三井や三菱の大企業が土地の多くを所有し、1丁目は大店が多かったのですが、2、3丁目は長屋の多い庶民の町として借地や借家が大部分を占めていました。  
日本経済の中心であった兜町に近いため、株屋が多く、大変な賑わいでした。もとの亀島町の河岸場には米問屋が多く、第二次世界大戦の頃までその状況が続いたのです。  
また、旧大名屋敷の屋敷神である稲荷神社が、昭和時代までも多く残っており金商神社や純子稲荷は、現在でも地元の人々の信仰を集めています。 
日本橋小舟町 

小舟町は北から南へかけて三か町に分かれていたのを昭和7年9月、その東の堀江町1・2・3丁目を合併して南から北へ1・2丁目の2か町とし、小舟町1丁目は当時の小舟町2丁目の南半に、小舟町3丁目、堀江町3丁目と堀江町2丁目の南半を合わせて一町とし、小舟町2丁目は、当時の小舟町2丁目の北半に、小舟町1丁目、堀江町1丁目と堀江町2丁目の北半を合わせて一町としました。そして、後に1丁目と2丁目が合わさって現在に至っています。  
江戸の初期からの町で、『東京府志科』によると「慶長8年町割ノ時ハ下舟町ト唱ヘシヲ、享保5年今ノ町名トス。蓋シ古図ニ今ノ本船町ヲ大船町ト稱セシニ対シタル名ナルベシ」とありますから、江戸湊の一端の荷揚場的役割を果していた町と言えましょう。  
また、『寛永江戸図』には、もとの西堀留川の西側に「こふな町、同2丁目」とあり東側に「あえものかし」と記しています。西掘留川は慶長の埋立工事の時造られたと伝えられ、江戸の湊口への物資輸送に大いに利用されたため、小舟町西の河岸を小舟河岸とか鰹河岸と呼び、かなり重要な役割を果していたようです。  
家康入国後、この地を漁夫の堀江六郎に与え、魚類を納めることを命じたことから堀江町の町名がついたと言われます。  
神田明神御旅所  
神田明神社内の天王三の宮とは深く関わりがあったようで、その祭礼には小伝馬町などと共に神輿を回す慣習があり、随分賑やかで、「小舟町の往還には模造の山門を作って提燈をかけ、夜毎に灯がともされ、夜中の賑い筆舌に尽しがたい」ものがあったと言われています。この御旅所は古くは小伝馬町に設けられたものでしたが、正徳年中、疫癘を祓うため小舟町に遷し、それが引き続き慣例になったと言われてます。  
照降町  
ここで一言つけ加えねばならないのは照降町のことです。堀江町3丁目と4丁目の間の僅か2丁たらずの境界の通りに、江戸時代、下駄と傘、雪駄を売る店が並び賑わったので、照る日に使うものと雨の日に使うものを売る所から照降町と呼ばれたとか言われてます。古くから営業していた宮田傘物店の引札に、「寛永3年に開店し、紅葉傘と千利久の用いた庭下駄、めせき笠を売り弘めた所、殊の外繁昌し軒並みに同業者が店を並べ、せった・傘・下駄るいの商売多く、世上に異名を照降町と呼ばれるようになった」とあります。井原西鶴も、『日本永代蔵四』に、「降照町は下駄、雪駄の細工人」と書き、2代目団十郎の書いた『老のたのしみ』の中にも、俳人其角が嵐雪と共に、「てれふれ町足駄屋の裏」にわび住いをしていた記事があります。降れば足駄や傘が売れ、晴れた日には雪駄が売れるので、通る人が挨拶に困り、照れ、降れと願望をこめて呼んだと言う話もあり、てれ降れ町とも言ったのかも知れません。実際には照降町と呼ぶのが本当のようです。しかし江戸市民の町の呼び方、なかなかすばらしいと思います。  
小舟町と商店  
こうした元禄以前からあった小舟町一帯にはいろいろ商店にも有名店があり、照降町には伊勢屋大掾の娘で俳人として有名な秋色女があり、町角にあった翁屋は「翁煎餅」として江戸市中に知られた店であり、『江戸名物詩』にも載るほどでした。また今も楊枝店として知られるさるやは、猿を看板に出して、江戸に聞こえた楊枝の店でした。  
小舟町にいた富豪たち  
こうして古くから、いろいろ続いて来た町でしたが、さすがは日本橋の商店街、明治以降に富豪が多く住む場所で、『日本橋ニ之部町会史』にも、明治の初めから、この町を地盤に発展した金融界や実業界の大物と言われる人々が多いこととし、その一つに財閥、安田善次郎氏が創始した安田銀行発祥の地(現富士銀行小舟町支店)があること。また小倉石油の小倉常吉氏の本拠(現小倉ビル)があることそのほかに砂糖問屋の巨商百足屋(小林弥太郎氏)や、鰹節問屋の三半(籾山半三郎氏)、綿糸業界ではトップ・クラスを占めていた斉藤弁之助、岩田友衛門(大阪の岩惣の一族、現岩友倉庫)、柿沼谷蔵、田村政治郎などがあり、明治から大正、昭和初期にかけては富商が多かった。  
と述べ、安田善次郎氏が両替屋から安田銀行を創設するに至る話や、小倉常吉氏が大伝馬町1丁目の小倉油店の店員から独立して小舟町1丁目1番地に店を出し、河岸に出入りする船に油を供給する油行商を始め、やがては石油鉱区の開発にのり出し、大正14年小倉石油(株)を設立した話、奥さんを店の帳場に座らせて評判になり「小倉の店」といえば有名だった話など小舟町の店々が発展して大企業となる姿を述べています。小舟町の富豪達、並々ならぬ努力によって財をなしていった姿の一片がうかがえましょう。  
団扇問屋  
堀江町といえば、多くの団扇問屋の集まっていた所で、夏を代表した団扇が、江戸市中へここから運び出されていったのです。江戸歌舞伎の錦絵が団扇になったのはいつ頃からかは明らかではありませんが、どうも『江戸団扇絵商沿革調』に「正徳宝暦間墨刷なり」とあるのが正しいようで、色刷りの歌舞伎絵になったのは天明・寛政以降というのが定説のようです。江戸団扇はあづま団扇とも呼ばれ、文文政から天保にかけて実におびただしい程の歌舞伎の錦絵団扇が売り出され江戸の女性達が争ってこれを求めた事がいろいろの本に出ています。  
また、狂歌師とか戯作者達が団扇絵に賛を入れたりするのが流行し、更に幕末には広重や北斎などまでが、いろいろ描いた団扇絵が残されて、好事家の所蔵に帰している話もあります。  
何しろ「堀江町春狂言を夏見せる」と川柳にもある通り、どんなに錦絵の団扇が好評だったかわかりましょう。安政3年の『府内輸入貨物内申』によると、団扇について、  
1、1ヶ年凡地張団扇大小合凡192万5千本是は堀江町団扇問屋より御武家方輕藩中衆え注文致、内職張立候。同下り団扇大小合凡140箇此本数14万本。是は、京都伏見団扇屋共より堀江町団扇問屋両組小間物問屋、同丸合組え引請売捌候。  
とありますから、堀江町の団扇問屋が軽輩の武士達に内職として団扇張りをさせていたことがわかり、面白いと思います。しかし、この団扇張りの内職が年間192万5千本もあったという事、当時の武家の軽い身分の人達が殆ど全員総出でかからなければならないほどの本数です。幕末安政という時代、生活の面で、どんなに下級の武士達が困窮していたことか。そうした武家の生活の裏面がうかがえましょう。  
堀留川の埋立て  
小舟町という町、ひっくるめていえば、堀や川がずっと通っていて、物資を運ぶ舟の運行にも便利で、その地の利が、江戸有数の問屋になっていった所と言えます。  
西堀留川は震災後の区画整理で昭和3年3月埋立てられ、この辺の街の姿もかなり変りました。江戸橋交差点の昭和通りから芳町通りに道路上に荒布橋があったことなど忘れずにありたいものです。  
また、昭和の戦争というきびしい時代から新しい復興という時代を迎えても、大きく変りました。何よりも東堀留川が埋立てられた事です。東堀留川には思案橋、親父橋、万橋が架かっていて、江戸以来いろいろの話題を提供してきた橋なのですそれが、昭和24年8月末の埋立てによって全部撤去されたのです。小舟町のいろいろな歴史の名残りの橋が消え去ったと言えましょう。 
日本橋小伝馬町 

小伝馬町は、中央区の最北端やや西側に位置し、北は千代田区境で、千代田区岩本町1丁目に接しています。日本橋の北方1キロメートルに当たります。当町のほぼ中央を南北に人形町通りが貫通し、並行して営団地下鉄日比谷線が走り、小伝馬町駅があります。また、南には江戸通りを境にJR総武線が東西に走っています。  
旧奥州街道の六本木宿  
江戸時代の当町域は、神田堀(神田八丁堀)に面した町人町で、小伝馬町1〜3丁目・小伝馬上町・亀井町・元岩井町埋立地・柳原岩井町上納地の全域及び通旅籠町・大伝馬町2丁目の各一部から成りたっていました。  
この地は徳川家康が江戸に入部する以前は、千代田村といわれ、奥州街道が通っていました。六本木という宿駅があったといいます。  
はじめ小伝馬町は大伝馬町と共に伝馬町といわれ、慶長11年(1606)に江戸城内にあった伝馬役を務める人々がいた町であったのを当地に移転した町でし。旧小伝馬町は1〜3丁目に分かれ、小伝馬町1丁目の北半分は、小伝馬町の牢獄の地域になっていました。1〜3丁目の町名主は宮辺又四郎が代々世襲して勤めました。  
寺院があり、東光寺と地蔵院は明暦3年(1657)の大火の時、浅草(台東区)へ移転しています。京橋の金六町と同じく障子などの建具職人と長持つくりの職人等の多い町でした。商売としては、布地や家具や塗物を商う商人が多く、畳屋・附木屋・指物師がおり、職人の町としても賑わっていました。1丁目には大仏師の元慶がおり、幕末には質屋1軒と資料に見えています。  
小伝馬町の牢獄  
小伝馬町の牢獄は、小伝馬町1丁目の地にあり、徳川氏の江戸入部直後には、江戸城内の常盤橋にありましたが、慶長年間(1596〜1615)に城内から当地に移されました。周囲を濠で囲み、広さは2,677坪余りもある広大な敷地でした。南に正門があり、その西に牢役人の石出帯刀の役宅がありました。幕末に吉田松陰が投獄されたことで有名です。牢獄は明治8年(1875)に他に移転しました。  
小伝馬町3丁目の北に隣接する小伝馬上町と小伝馬町2丁目の間の道を諏訪新道と呼び、小伝馬上町南西端に諏訪明神と千代田稲荷の2社が鎮座していました。  
小伝馬町上町の町域は明治11年(1878)では2,736坪(東京地所明細)で、江戸時代以来の十組問屋に属した釘鉄銅物問屋が多く商いをしていました。  
小伝馬町3丁目の賑わい  
小伝馬町2丁目の東に隣接する3丁目の地は、旅人宿の多い賑わった町でした運河に架かる鞍掛橋を渡ると馬喰町に続いており、宿駅に近いことから、当町域も旅人や馬喰などの往来が多く、旅人宿が集中していたのです。宿屋としては、佐渡屋、越後屋など8軒があり、小伝馬町・馬喰町旅人宿組に属して営業していました。嘉永7年(1854)の『両替地名録』によれば、両替商として徳力屋佐兵衛、鉄屋市郎兵衛が営業しており、幕末には質屋が4軒あったといいます。その頃、当町のうまい蒲焼屋として大和屋清三郎が有名でした。  
町駕籠で有名な亀井町  
小伝馬町3丁目の北、小伝馬上町に東隣する亀井町は江戸中期の天和年間(1681〜84)までは寺地でした。町名の由来は亀井某が開いた所によると伝えられています。当町には職人が集住し、特に町駕籠を製造する職人が多く、江戸市中でも「亀井町のかご」は有名で、江戸名物にあげられているほどです。ほかに味噌漉や笊の職人も多く生業に従事していました。この他、嘉永7年(1854)の『両替地名録』には両替商として池田屋小兵衛がおり、幕末には質屋が1軒ありました。  
寺子屋の隆盛  
当地域には、江戸後期には多く寺子屋が出来て、町人の子弟に教育をほどこす努力をしています。小伝馬上町の好学堂は、神官の千代田信安が塾長になって活躍し、明治2年(1869)には生徒数は男子68人、女子62人を数えました。亀井町の慶雲堂では、黒川リヤウが塾長となって、明治初年には男女生徒45人を数えていました。元岩井町埋立地と柳原岩井町上納地は、亀井町の北に隣接する神田堀に沿った東西に細長い町でしたが、明治2年(1869)に亀井町に合併され、神田堀以北の地は、昭和6年(1931)4月に旧神田区(現、千代田区)に編入されました。  
明治時代以降の状況  
当町域の江戸時代の町のうち、昭和7年(1932)12月に小伝馬町2丁目に小伝馬上町の東半分を合併し、通旅籠町の一部を編入しました。小伝馬町1丁目には大伝馬町2丁目の北一部、小伝馬上町の西半分を合併しました。小伝馬町3丁目は、亀井町全域と西緑河岸の一部を合併しました。また、昭和6年4月には、小伝馬町3丁目のうち、神田堀以北の地が旧神田区(現、千代田区)に分離編入されています。  
繁栄を続ける繊維問屋  
当町域は、明治に入っても江戸時代以来の伝統を継いで衣類や繊維問屋が多く、活気のあふれる商業地帯でした。2丁目や3丁目には竹屋や銅壺屋が多く、小伝馬町から馬喰町の中間になる鞍掛橋の龍閑川の運河には、繊維問屋や金物問屋の蔵が並び、運河から舟に積んだ物品を荷揚げする河岸場は、大いに賑わいを見せていたのです。  
また、江戸通り(のちの都電通り)には、これも江戸時代末の伝統工芸である箪笥職人が多く生業についていました。3丁目には、町駕籠職人の技術を継いだ籠職人が多く有名でした。 
日本橋箱崎町 

箱崎町は北新堀町と共に一つの島のような形で中洲と霊岸島に挟まれた土地で、天正の江戸埋立の大工事の際、まず南部が埋めたてられたといわれています。江戸図として版行された地図で最も古い「寛永江戸図」には、すでに北新堀にあたる部分は町屋になっていて、北側に向井将監下屋敷、蔵ありと記し、また駿河大納言の蔵屋敷があった事を示しています。種々変化はありましたが、戦後、昭和51年1月の町名地番の改正、住居表示実施により、箱崎町1・2・3・4丁目と北新堀町を合して箱崎町となったのが、現在の姿です。江戸時代には、北新堀、永代橋西広小路、箱崎町1・2丁目のみの町地に分かれていました。  
明治5年の大改正で、武家地にはじめて築地1・2・3・4丁目までの町名がつ、そうした点で箱崎町の方も、前橋古賀藩邸が箱崎3丁目になり、山内家邸が箱崎4丁目になったという形で箱崎町がまとめられました。  
箱崎町の町名の由来は明らかでなく、筑紫箱崎の名をとったとか、箱池とか箱崎池とよぶ池の名にちなんで呼んだとも云われています。  
江戸時代の大部分は武家地で、日本橋川下の新堀に添った北新堀町と、崩橋(後の箱崎橋)橋際に出来た箱崎町1丁目・2丁目があるにすぎず、維新後になって武家地が公収されて、箱崎町3丁目と4丁目が出来たといいます。こうした経過をたどって明治維新後次第に武家地から市街地、商工業地化が進んでいったのです。  
新永代町  
新永代町は、永代橋架橋の際、橋添地の御船手屋敷の一部をさいて火除地とし、永代橋広小路とよばれましたが。明治維新の変化で、明治元年市街地となり町名がつき新永代町となった所です。  
北新堀町  
北新堀町は、新堀川北岸に出来た、寛永図にものっている古い町です。しかし、大商店は案外少なく、幕末嘉永の「諸問屋名前帳」によってみても、下り塩仲買の加田屋彦兵衛、徳島屋市郎兵衛、岡本屋又次郎の3店、新堀組荒物問屋の吉野屋伊兵衛などが眼につく程度です。(中央区30年史による)  
町として主たる建物は永代橋詰の船見番所と御船蔵で、御船蔵は北新堀から箱崎3丁目にかけて設けられていて、明暦3年(1657)のことといいます。船見番所は北新堀川南端新堀河岸に明暦大火後の寛文5年(1665)に新設され、隅田川と新堀川を往来する船の見張所として大きな役割を果していたといいます。船見番所を通る際は、船の乗客は冠り物をとり、音曲などを止め、会釈をしながら通過するのが慣例になっていたという話です。  
この北新堀町の南端には早くから深川へ渡る渡船があり、「深川の大渡し」と呼ばれて、人々に親しまれていたのですが、元禄11年(1698)永代橋が新に架橋されると、北新堀町の河岸通りは、急速に発展して賑やかになってきました。この新しい永代橋は赤穂浪士達が渡って、中央区の明石町にあった、かつての浅野家の邸の前を通って金杉から泉岳寺へと行ったことで有名です。  
永代橋は、深川永代寺の富士講や富岡八幡宮の祭礼には、神輿や山車の渡御などで大変な賑わいを呈したのでしたが、明治になって明治27年市区改正の公布で、橋の位置を変じることになり、明治30年11月鉄橋になって出現すると、北新堀の河岸通りは全く淋しくなり、火の消えたようになってしまったと今も語り伝えられています。橋が2百米下流の方に移っただけで、街の賑わいが全く変ってしまったなど恐ろしい変化というべきでしょう。  
この町に関して特記すべきは、明治初年の開拓使物産売捌所のことです。この建物はジョサイア・コンドル設計で、明治13年6月竣工、2階建煉瓦造りのベネチアン・ゴシック風とよばれた洒落た建物でしたが、開拓使がこの建物竣工後間もなく、15年2月には廃止されてしまった為、新しく日本金融機関の総元締として設立された日本銀行が使用することになり、16年4月26日開業式が行なわれ、今の場所に日本銀行が移転する明治29年4月まで、ここに日本銀行のあった事は是非知っておいていただきたい事です。  
その後この建物は日本銀行の集会所として使用され、後には倉庫といった形で使用されたりしましたが、大正の大震災で廃虚となってしまったといいます。現在「日本銀行発祥の地」という記念碑が建っています。  
北新堀という町、こうして日本橋経済の中枢的位置を占めていたのですが、日本銀行の移転と共に次第に官的色彩はなくなっていき、商工業の店の並ぶ町で、倉庫の多い町へと変っていったのです。  
箱崎町1丁目  
箱崎川沿いに古くからあった町で、町の区域はごく狭く、1番・2番とあっただけの町だったのですが、江戸時代、元禄から享保といった時代、紀文、紀伊国屋文左衛門と並び称された奈良茂:奈良屋茂左衛門の実弟、奈良屋安左衛門の蔵屋敷があり、元文5年(1740)に三井家が、この蔵屋敷を1万2千両で購入したといわれています。敷地内には18棟の河岸蔵と、い・ろ・は10棟、32戸前の倉庫が建ち並んでいたそうで、倉庫としては広大なもので、町方としては巨大な倉庫群だったということで、箱崎町一帯を一般に倉庫の町というのも、こうした巨大な倉庫群があったためともいわれています。  
箱崎町2丁目  
享保18年(1733)3月、永久橋と箱崎町1丁目間の入堀を埋立てできた町で、天明5年(1785)にはこの新地裏の河岸付地が埋立てられ、永久河岸と呼ばれた所で、明治5年隣接した久世大和守の低地、御船手組屋敷などを併合して、町の区域が拡がったといいます。  
箱崎町3丁目  
延宝頃から享保にかけて朽木伊与守と松平伊豆守の低地だったが、宝永元年(1704)正月、朽木邸前から浜町へ渡る永久橋が架かり、邸地は宝暦10年以後、戸田采女正、土井大炊頭、松平伊与守の邸地となり、戸田の邸は後に田安家邸内に囲いこまれ、他の二邸は維新後開拓使用地となりました。明治5年の改正で箱崎町3丁目となったのですが、1番地があっただけで、坪数8千85坪あったといいます。後に農商務省の用地となり、年月はよくわかりませんが、東神倉庫の所有となり、大正3年(1914)9月三井倉庫箱崎支店の鉄筋コンクリート2階建倉庫が建設され、東京を代表する倉庫として大評判で、関東大震災まで、箱崎倉庫群の王者として君臨する建物だったという話です。  
箱崎町4丁目  
3丁目と共に武家地の公収で町地となった所で、延宝頃には堀田対馬守、阿部美作守の邸地でした。元禄以後は阿部豊後守の一手屋敷となり、延享3年(1764)には田安家の拝領屋敷となり、天保14年には隣地の戸田采女正の上げ屋敷を併合して1万7千坪余の大邸地となりました。庭園には田安家が箱崎八景とよぶ程のすばらしいものだったそうです。維新後ここを土佐の山内容堂が入、明治38年、土州橋を自費で架け、明治42年東京府に寄贈したのですが、この橋のため随分便利になったと評判でした。やがて名園もつぶされ、住宅や工場が建ち河岸にそった処に日本郵船の倉庫が建ち、全く町地として倉庫地帯と大きく変化をとげたのでした。  
戦後の箱崎町  
箱崎町の大きな変化は、昭和40年ごろから始まったといえます。首都高速道路六号線の建設に伴って箱崎川と浜町川が埋立てられた事です。橋が名物のように架せられていたこの地区、2つの川の上にあった橋が埋立てで全部なくなってしまったことは、住んでいた人達の生活に大きな変化を与えました。河川が平面道路に改造され、昭和47年7月1日には「高速道路の下に巨大なタ−ミナルバス発着場、駐車場などを持つ、超近代的な地下1階地上3階建ての、東京シティ・エアーターミナルが出現した。」(中央区30年史、上巻)のです。これにつれて、その後引続いて起工された箱崎インターチェンジと江東方面を結ぶ首都高速9号線の建設も着々と進行し、54年10月13日に開橋式が行なわれ、隅田川大橋と命名されました。橋は上下二層という珍しいもので、上が高速道路、下は一般的な橋という形で評判でした。  
その後の東京シティ・エアーターミナルは成田空港の拡張と共に急速に海外旅行の中心のようになっていき、「箱崎」の名も東京どころか、全国に大いに知れ渡って、盛況を呈したのですが、その後各地から成田空港への航路が次第に開設されるようになって成田への玄関という役割も揺らいでいるというのが現況といえましょう。 
日本橋箱崎町2 
「日本橋箱崎町」の町名の由来は、かつてこの地に「箱池(箱崎池)」と呼ばれる大きな池があったからとする説や、福岡県にある「箱崎宮」とのかかわりなど、諸説さまざま。江戸時代には、「箱崎町」「北新堀町」という大きく2つの町区に分かれており、2筋の道路しかないせまい土地だったが、「日本橋浜町」と同じく多くの武家屋敷が建ち並んでいたという。しかも江戸時代初期の地図「寛永江戸図」を見ると、すでに「北新堀町」の一部には町家が形成されていたことも分かる。  
こうした成り立ちを持つ「箱崎町」「北新堀町」は、隅田川、日本橋川、箱崎川、浜町川という4つの河川に囲まれた島地帯だったため、江戸時代より水運を生かした物流・交通の要所として発展した。1657年(明暦3)には幕府の御用船が停泊する御船蔵が設置されるなど船の往来が多数あったため、水上および周辺の治安維持を目的とする船見番所と呼ばれる施設も設けられていた。  
また、「北新堀町」の南側には、同地と深川方面を結ぶ渡り舟が運行していたが、1698年(元禄11)には「永代橋」が架橋。いわゆる赤穂四十七士が、この「永代橋」を渡って吉良上野介邸に向かったといわれ有名である。  
元禄・享保年間には、いまの「箱崎一丁目」にあたる場所に、江戸を代表する豪商・奈良屋茂左衛門の弟・安左衛門が30以上の倉庫を備える蔵屋敷を建設。このほかにも、船からの荷揚げ・荷卸しのために利用された蔵が数多くあった。現在、日本IBM箱崎ビルが建つ場所には、かつて東京最大の倉庫であった三井倉庫が存在するなど、箱崎町が倉庫街としても知られるのは、こうした歴史的背景によるものだといえる。 
日本橋兜町 

幕府水軍衆の根拠地  
楓川を挟んで日本橋1〜3丁目に接する兜町の地は、天正18年(1590)8月の徳川家康の江戸開府までは、海岸部で隅田川河口部の砂洲でした。楓川に沿って埋立てた土地部は、武家屋敷となり、江戸時代初期に海岸線の埋立てを完了しました。  
この地域は、当初から隅田川河口部と海(東京湾)から江戸を守る軍事上の拠点でしたので、もともと東海地方の大名であった徳川家康に早くから仕えて水軍として活躍した向井将監や間宮造酒丞、小浜弥三郎等の屋敷があり、海岸と海の守りを固めていました。当時は水軍のことを海賊衆とも呼んだことから楓川には海賊橋という名の橋が架かって本材木町から日本橋地区へと連絡していました。ところが、元禄年間(1688〜1704)に、向井将監の屋敷地が町場となり、坂本町1・2丁目が成立。小浜弥三郎の東に接する小笠原備前守の屋敷地が、神田新銀町塗師町、松下町(現、千代田区)の代地となって町場化し、のちに三代町(「東京通志」には「サンダイチョウ」とあるが、一般的には「ミシロチョウ」と呼んだ)と呼ばれることになります。  
兜町の成立  
当町域の中ほどに屋敷のあった九鬼式部少輔は、丹波綾部(京都府綾部市)の藩主で1万9千石、もと水軍大名の屋敷でした。九鬼氏も豊臣秀吉、のちに徳川家に仕えて水軍を務めています。北部の河口部地は丹後田辺(京都府田辺市)藩主牧野家3万5千石の上屋敷でしたが、明治4年(1871)町場となり、はじめて兜町が起立しました。町名の由来は兜神社の兜塚・甲山によると伝えています。これらの町場と水軍旗本の屋敷跡地を合わせて、昭和8年(1933)には兜町1〜3丁目が成立し、のちには日本橋区、京橋区の区割り変更で、京橋区松屋町が編入され、兜町3丁目の一部となりました。昭和22年(1947)には日本橋区の消滅で、中央区日本橋兜町1〜3丁目と町名改正をしましたが、同57年(1982)に住居表示の実施により丁目をやめて日本橋兜町となり、現在に至っています。  
株式・金融の町へ  
明治元年(1868)の明治維新によって武家地が明治政府に収公されて官有地となると、兜町の地には、民部省通産司や政府公認の米商会社のほか大小の銀行が設立され、金融の中心地になります。明治7年(1874)には楓川と日本橋川の合流する海運橋(もとの海賊橋)橋詰に洋風のモダンな第一国立銀行が建てられ、新都東京の名所となりました。同11年(1878)に米商会社が他に移転し、その跡地に東京株式取引所が設立されました。明治5年(1872)には通産司の御用商人によって木橋の鎧橋が架けられ、のちに鉄橋である鎧橋に改架されて、日本橋地区との交通が至便になると、兜町は証券取引の町として大いに繁栄し、日本経済の中心地として兜町の名を高めたのでした。  
江戸時代からの坂本町は日枝山王社(茅場町稲荷)の社前に出た植木職人が多く住み、植木店と呼ばれていました。幕府の御用学者であった荻生徂徠が住んでいたので知られています。  
海運橋と第一国立銀行  
明治元年(1868)に江戸が東京に改まり、武家屋敷が消えると、明治政府はこれらの跡地を収公して、公共建物を建設していきました。日本橋川と楓川の合流地点に当たる旧牧野邸跡には洋風建築の第一国立銀行が建ち、その前の海運橋(旧、海賊橋)と共に、東京の新名所となり、当時の錦絵にも多く描かれています。九鬼、小浜両氏の屋敷跡は坂本町になりましたが、警視分庁、阪本小学校、会議所、区役所、国立病院が次々と建設され、政府公共機関の町になったのです。警視分庁はのちの中央警察署の前身です。この地は、明治後期には坂本公園として洋式公園になり、公園に隣接して楓川女子尋常小学校、第一消防署(のちの日本橋消防署)、阪本小学校に楓川高等女学校が併設されました。楓川高等女学校は昭和22年(1947)に紅葉川中学校となり、同31年(1956)に八重洲4丁目に移転しました。  
株式の町を囲む運河  
昭和の戦前・戦後を通して、東京証券取引所といえば兜町といわれるほどに「株の町」として有名でした。証券取引所の始まりは明治初年の民部省通商司が設置され、第一国立銀行、米商会社などの政府公認の物品取引機関や金融機関があったためでした。明治11年(1878)に米商会社が蛎殻町に移転した跡に新たに東京株式取引所が開設され、周辺には証券会社や銀行の支店などや証券マン相手の旅館や飲食店などが集中していきました。  
大正12年(1923)の関東大震災の後、円形の正面事務所をもつモダンな設計の東京証券取引所のビルが完成しました。これより前の明治18年(1885)に楓川の河口部に兜橋が架けられ、日本橋地区とも直結する町となりました。  
兜町の東端にあり、日本橋小網町と茅場町を結ぶ鎧橋はもともと日本橋川にあった渡舟の鎧の渡しがあった所に明治5年(1872)に私費で架けられた木橋が始めでした。同22年(1889)鉄橋となり、大正年間(1912〜1926)には中央を市電の通る大型の鉄橋となりました。昭和32年(1957)架け替えられ、現在も残っています。  
江戸時代には海賊橋といわれ年(1875)に石造橋となり、関東大震災後はコンクリート橋になり、昭和37年(1962)に楓川が道路になったため撤去されました。  
坂本町と日本橋1丁目を結んでいた千代田橋は震災復興橋として昭和3年(1928)に新しく架けられた橋で現在も当時のまま残っています。新場橋は、江戸時代は対岸に新肴河岸があったため新場橋と呼ばれました。この橋も現在残っています。  
坂本町と日本橋1丁目を結んでいた千代田橋は震災復興橋として昭和3年(1928)に新しく架けられた橋で現在も当時のまま残っています。新場橋は、江戸時代は対岸に新肴河岸があったため新場橋と呼ばれました。この橋も現在残っています。  
坂本公園とその周辺  
戦前、戦後を通して兜町は株式と金融の町として活気を呈していますが、隣接する坂本公園(現、坂本町公園)の周辺は、公共機関と学校のある静かな一角となっています。阪本小学校は明治6年(1873)に開校した由緒ある小学校で、以後、一二〇年の間に、文豪谷崎潤一郎はじめ多くの卒業生を輩出し、各方面で活躍されています。坂本本町公園に隣接して、日本橋消防署、新場橋の橋詰には新場橋区民館があり、区民のいこいの場となっています。 
日本橋本石町 

諸問屋の町  
本石町は江戸開府と共に、江戸で最初の町割りが行われた所と云われています。いわば江戸の城下町としての基礎をなす場所です。また、金貨を鋳造する金座が置かれた所として有名で、江戸でも特別の町でした。本石町2丁目と3丁目の間の通りには「本町通り」の称があって「将軍御成り」といった時の通過路であり、しきたりのやかましい場所でした。また、1丁目、2丁目は特に呉服商業地区として指定された地域で、いわば江戸で一番という商業を営む人々にとってあこがれの場所だったのです。  
格式の高かったことは有名で、江戸の豪商の集まる場所でもあったのです。町名の由来も、江戸初期に諸国の米問屋が多く集まった町である所から本石町と名づけられたと伝えられています。江戸末期には、地廻り米問屋として小原屋清兵衛、中村屋治助、若狭屋和吉、玉屋新兵衛の名が『諸問屋名前帳』にあります。ほかに大問屋も多く、春米屋4軒。薪炭問屋2軒、炭薪仲買5軒、板木屋2軒、両替屋2軒などがあったようです。  
江戸の商業は関西、特に伊勢や近江の商人に負う所の大きいことは云う迄もありません。そこに諸問屋活躍の舞台が広がっていきました。日本橋一帯には大通りばかりではなく、その裏通りなどにも問屋という大きな商業界を左右する店々が並んでいて、一般の商店とは別に多くの店員をかかえて、活躍していました。10人二20人などと一口にいいますが、主人はそうした店員と一緒の生活です。しかも3食、おかず付きで食べさせます。そのための人員も必要です。どんなに問屋の主人や商店の主人たちが、経営上大変だったかがわかりましょう。番頭という店の事務をやる頭分の人に仕事を任せる面があったにしても、大変でした。  
その上、商売上の事ばかりでなく、町としてのいろいろな「つきあい」というものがあり、宴会なども必要でした。「問屋の主人は苦労人」という言葉、苦労しなくては店が発展しないのです。その諸問屋の集中する日本橋一帯、本町、馬喰町、大伝馬町、小伝馬町などと共に、本石町も大きな力を占める諸問屋の店々のあった所で、江戸商家の基礎を築いたといわれているほどの賑わいでした。諸問屋が並び、江戸商業の中心を占めるといっても過言でなく、家屋も明暦の大火で復興してからは、たいてい塗屋土蔵造りで、白壁のつらなる町の偉容を示していたといわれていました。昭和7年9月布告の町名変更、区画整理で、大きく町の範囲が変化し、混乱しました。それでも現在でも本石町1〜4丁目は、室町1丁目から4丁目、本町1丁目から4丁目と同様、東京の明治・大正時代に至っても、江戸商業の中心地を引きついで大商業圏の一部を形成しているといえます。現在の町名より昔、少なくとも関東大震災前の町名とは非常に違う町名になってしまったという事はぜひ覚えていてほしいことと思います。  
本石町には今では全く忘れられているものに龍閑川の大きな土堤があります。  
龍閑川は本石町4丁目の所を流れていたのですが、火除のため石を使って土手を築いて、高さ2丈4尺、長さ8町に及ぶ防火地帯としたのは、万治元年(1658)の事といわれています。『江戸名所図会』にも「明暦年間、火災を除かしめんか為に是を築しむ、今は同町本銀町2丁目・3丁目の辺、わずかに其形を残せり。延宝8年の江戸絵図に銀町1丁目より大門通りの所迄、石垣の土手をしるして松の並木を画けり」とあります。安政4年(1857)になって、これをこわして町屋にしましたが火除地の名は幕末まで残っていたといいます。龍閑川は埋め立てられてしまいましたが、場所によっては、まだつづいて少し土の盛り上がっている所があって、わかるなどと云う人もあります。  
幕末の町の賑わい  
嘉永4年(1851)の『諸問屋再興』当時の本石町1〜4丁目の諸問屋数をみると、『中央区史』上巻によれば、1丁目に炭薪仲買が八軒と一番多く、両替屋・春米屋・竹木木炭薪問屋・紺屋が各三軒ずつ、地廻米穀問屋・脇店8カ所組米屋が各2軒、ほかに真綿問屋・下り蝋燭問屋・小間物問屋・地掛蝋燭屋・番組人宿・六組飛脚屋が1軒づつとあります。2丁目には、呉服問屋四軒が目立って多く、ほかに地廻米穀・薪炭・真綿・紙・畳表・小間物・雛人形の各問屋が1軒づつ、3丁目には春米屋3軒のほか、炭薪仲買2軒、地廻米穀・脇店8カ所組米屋・紺屋・下り水油・地廻水油・蝋燭・薬種・荒物・小間物の問屋が各1軒、4丁目には春米屋・薬種が4軒、ほかに地廻米穀・脇店8カ所組米屋、畳表・紙・荒物・小間物・雛人形・番組人宿・6組飛脚・木綿・真綿・薬種などの問屋が目白押しに並び、特に小間物問屋が7軒と多いのが目につきます。  
このように江戸城下では問屋数においては、中央区が第1位を占める問屋数と云われます。  
また、玉井哲雄氏の『江戸町人地に関する研究』によると、東京大学史料編纂所所蔵の「日本橋本石町2丁目戸籍下書」を紹介して、本石町2丁目の住民構成について述べています。それによると、家数101軒、地主は5戸、約5%、地借66戸、64%、店借32戸、31%となっていて、地主5戸のうち3戸は出店で、主人は江戸不在でした。御用菓子師金沢三右衛門は居住地一筆をすべて自家で使用していましたが、ほかの4戸は表通りに面して、自分の店を持ち、裏は数戸に貸しています。町内の家持者は17筆です。しかし、明治9年(1876)版の『各区地主名鑑』によると19筆で、そのうち出店も含めた居付地主所有地は11筆になっていて、ほかに他町居住の地主の所有地が見られます。居付地主の所有地を含めて1筆ごとに家主=差配人を置き、地面内の管理を依託しています。また、玉井氏の研究によれば、すでに18世紀前半には江戸町人地の地貸、店貸率は、ここにあげた本石町2丁目の例を上まわって、かなり高くなっているとのべています。江戸という都市のうち、最も繁華な日本橋地区の住民構成が、かなり高かった事が察せられます。  
さらに『中央区30年史』によれば、明治9年『各区地主名鑑』第1大区の部には本石町は全くのっていません。他の区に所有者がいて、誰も個人で所有する人が住んでいなかったのか、その点がよく判明しません。10名の1万円以上の土地を所有する大地主のうちには1人もいません。いや5万円以上の土地所有者十18名という名簿からも洩れています。この点一応ありのままに記しておきます。しかし、本石町3丁目松沢孫八といえば蝋・水油で有名な大店でしたが、この点はよくわかりません。 
日本橋1〜3丁目 

江戸時代には、現在の日本橋1〜3丁目の地域は、商人の多く住む庶民の町でした。徳川家康が天正18年(1590)8月に江戸に入ると、関東8か国の大名の居城地として江戸は、日本橋地域から城下町の建設が進み、全国から商人や職人の集住する庶民の町として発展していきました。日本橋から西に通じる中央通りは、のちに東海道の出発地となる大通りで、現在の皇居(江戸城)の外濠と、東の楓川の運河に挟まれた日本橋地区は、特に近江や伊勢・三河の商人が来住して大商人や問屋の多くに商いする城下の中心地として活気を呈していきました。  
江戸城下の中心地  
現在の日本橋1丁目の地は、中央通り(日本橋通り)を中心に、通1〜4丁目、通1丁目新道、西河岸町、呉服町新道、元四日市町(活鯛屋敷・日本橋蔵屋敷)江戸橋広小路、本材木町1・2丁目、万町、青物町、平松町の一部、佐内町などの多くの町があり、江戸城下の中心として活気あふれる庶民の町でした。万町と青物町の間の南北の通りを中通りといいました。  
日本橋は慶長9年(1604)に制定された五街道の起点として急速に諸国からの人々に往来で賑わい、中央通りの両側には大型の商店である呉服の白木屋をはじめ、両替屋や大問屋が進出し、堂々とした店構えの店が軒をつらね、江戸城下のみならず、日本経済の中心となっていきました。  
日本橋1丁目北端の日本橋川には、日本橋と東に架かる江戸橋があり、川添の地は、日本橋蔵屋敷や四日市蔵地、江戸橋蔵屋敷があり、諸国から船で江戸に入る物産を納める白壁の蔵々が並んでいました。日本橋広小路には御肴役所もありました。  
また、一心太助の話でも有名な魚河岸が日本橋のたもとの対岸にあり、江戸っ子気質の魚屋で大変な賑わいと活気をみせていました。  
日本橋から西方の外濠の方には一石橋が架かり砥石河岸がありました。通1丁目と西河岸片町の小路を稲荷新道といい、西河岸町には、もと幕府の奥医師久志本家の屋敷神であった鹿児島稲荷が鎮座していました。  
当町域の東にあたる楓川に面する地域は、中世には海岸部でしたが、江戸開府直後に櫛の歯の様に何本かの深い入堀が造成された所で、江戸城の築城用材木や石材を陸揚げしたところでしたが、寛永10年(1633)ごろにはいくつかが埋め立てられ、のちの元禄3年(1690)には、残りの入堀もついに姿を消し、音羽町小松町という町が成立しました。現在の日本橋3丁目南の地域にあたります。  
町人と職人の住む町  
日本橋2丁目の地域は、江戸時代には中央通りに沿って通2丁目、同3丁目があり、それに隣接して元大工町、数寄屋町、江戸橋広小路、本材木町3丁目、平松町の一部、佐内町の一部、新右衛門町、川瀬石町、南油町、小松町などの町々がありました。  
通2丁目から西方の江戸城外濠方面に、元大工町新道への小路を十九文横町といい、つづいて樽新道が通じていました。  
中央通りの左側には通2丁目新道があり、その南の小路を式部小路といい、江戸初期から幕府の奥医師を務めた久志本式部の拝領屋敷地があった所です。  
当地域の南のうちの新右衛門町の辺りは、元禄年間(1688〜1704)までは、中央通りと直角に交差する道でした。外濠から東に伸びて楓川に至る東西の幅広い道で、広小路と呼ばれていました。元禄11年(1698)にその大通りを廃して、町場とし、新右衛門町、尾張町1丁目代地、数寄屋町のほか、道寿屋敷、三島屋敷といわれる町場になりました。江戸城下の人口増加による庶民居住地の拡大でした。  
楓川から入り込んだ入堀  
現在の日本橋3丁目の地域も、江戸時代の初めから庶民の町で、中央通り(日本橋通り)に沿って通4丁目、檜物町、上槙町、下槙町、福島町、本材木町4丁目、箔屋町、岩倉町、榑正町などがあり、大店のほか小売商店や職人が多く生活していました。当町域の福島町の地は楓川から深く入り込む堀割でしたが、元禄3年(1690)にその入堀を埋めて福島町が成立しました。  
諸国物産と職人の集中  
江戸時代の日本橋通り(現、中央通り・国道15号)は、日本橋を起点とする5街道の第1、東海道の起点でもあったので、諸国との人々や物品交易の集中する繁華街となりました。全国への飛脚(通信制度)の元締をつとめた和泉屋甚兵衛が佐内町に、大坂屋茂兵衛が元四日市町で業務を行っていました。  
これらの物品の流通と日本橋川の水運によって通1〜4丁目には、1丁目の紙問屋の須原屋、墨の古梅園や畳表など大問屋が32軒も集中していました。4丁目の雁皮紙問屋須原屋佐介(金花堂)ほか問屋七軒が大型店鋪を構えていました。その周辺の町々には、それら諸国の物産を材料にして商品を製造する職人も多く住み、数寄屋町の乗物・表具・茶道具・箔屋町の金銀箔、檜物町に金銀細工・家具などを扱う店や問屋が集中しておりました。本材木町、南油町も問屋街として商業の町であったのです。  
江戸文化を代表する書籍や絵草子・浮世絵などの刷物の生産も多く、通1丁目の須原屋は幕府公認の江戸切絵図や「武鑑」(大名・旗本・御用商人等の名簿)を発行発売をして有名な大店でした。南油町の浄瑠璃本の版元鶴屋喜右衛門も絵草子で知られていました。これらの文化の流れを受けて、明治時代に入っても当地域には本屋や新聞・出版等の企業が発展するもととなりました。現在も紙問屋や印刷関係の企業が多いのもそのためなのです。  
日本橋川の河口部にあたる楓川に沿った本材木町の河岸場には多くの蔵屋敷が並び諸国物品が集積されていました。久新河岸には肴棚(魚市場)があり、毎朝、魚市場が開かれて、賑わっていました。  
江戸時代の有名店鋪  
現在の中央通り(旧、通1〜4丁目)には、江戸時代からの有名店鋪が多く、大通りに面した通1丁目西側に醤油問屋の大国屋勘兵衛、その南隣には塗り物の黒江屋太兵衛、切り絵図の版元の須原屋茂兵衛、その向かいの東側には荒物問屋の近江屋甚五郎、同庄右衛門、同伝右衛門の3店が並び、その南には呉服商の白木屋彦太郎、通2丁目には西側に白粉の柳屋五郎三郎、東側に荒物の大文字屋利右衛門、茶の山本屋喜兵衛、通4丁目には西側に水油の駿河屋長兵衛、荒物の大文字屋正六、東側には荒物の近江屋甚五郎などが知られていました。  
これらの大店には度重なる火災の対応として土蔵造りの防火建築とし、江戸後期には白壁を黒塗りにしたため大通りは全く黒色の街となって明治維新を迎えました。  
なお、日本橋川には日本橋と江戸橋、楓川には海賊橋と中の橋(新場橋)が架かっており、日本橋によって日本橋室町、江戸橋で人形町方面、海賊橋と中の橋で八丁掘方面と結ばれていました。  
明治維新と日本橋  
明治元年(1868)に江戸は東京となり、幕府・大名や旗本が消滅したために、これらの大消費相手を失った御用商人や御用職人は大打撃を受けて店を閉める者もありました。やがて、新政府の首都として東京が日本経済の中心になると、大店の人々も努力しながら近代化経営に乗り出し、再び商業の町として復活していったのです。近代文明の発端となる郵便制度も江戸橋橋詰に設置された郵便局が置かれて、のちの日本橋郵便局に発展しますし、人力車の元締の要助は箔屋町に開業して発展しています。のちの市電に発展する鉄道馬車が明治15年(1882)に新橋 〜日本橋間に開通し、その線路を同36年に市電が開通しています。その市電は、その後、日本橋を中心にして品川、上野、三田、新宿、深川、青山の各方面に路線を伸ばし、日本橋周辺の大型企業の発展と、それへの通勤客が増加してきたこともあって、明治末 〜大正時代には主要交通となりました。特に関東大震災後、東京郊外に移転した人々も日本橋に群集し、近代的企業の集まるビジネス街へと変容していきました。木橋であった日本橋は帝都のメインシンボルとして明治44年(1911)石造橋に改架され、現在に至っています。  
昭和通りの開通と地下鉄の開業  
大正11年(1923)の関東大震災によって当町域も大きな被害を受け、江戸時代以来の木造建築が消滅していきました。しかし、その後の復興も早く、郊外電車の発達と市電、市バスの発展などで日本橋周辺に集中した証券、金融、デパートなどへの通勤客や買物客が益々増加して、昭和に入った頃には、日本経済の中心地として完全に復興したのでした。  
これらの人々の集中によって交通も自動車の普及などで、道路状況が悪くなりました。平行して、国や東京市が計画した震災復興計画によって、昭和初期に江戸橋から南下する中通りで新橋に至る幅広い昭和通りを完成。昭和7年(1932)には渋谷 〜浅草間に、地下鉄銀座線が開通し、日本橋駅が開業しました。その後、地下鉄は昭和40年代には銀座線に交差して営団地下鉄東西線、ついで都営地下鉄三田線が南北に開通し、交通は益々便利になりました。 
相模屋政五郎
文化4年-明治19年(1807-1886) 幕末から明治にかけての侠客、口入屋。通称は相政、明治になってからは、山中政次郎と名乗った。『日本鉄道請負業史』に新橋横浜間の請負人として記録された山中政次郎とは維新後の相政のことである。  
文化4年(1807)、口入屋、大和屋定右衛門の次男として、江戸に生まれる。その後、同業者相模屋幸右衛門の養子となり、文政年間には日本橋箔屋町で一家を構えた。  
弘化3年(1846)、山内豊熈に見出され、土佐藩江戸屋敷の火消頭になり、火消一切を任された。安政2年(1855)の土佐藩邸火災で、火薬庫に引火するのを阻止し、大火を防いだ。この頃から慶応年間までが、政五郎の全盛期で江戸の口入屋の中でも図抜けた存在であり、子分1300人と称された。  
文久2年(1862)に行われた文久の改革の余波により大名屋敷の規模縮小が行われ、雇われていた中間、小者が大量に解雇された。政五郎はこの手合の者を、ほぼ同時期に発足した常備軍である幕府陸軍に歩兵として送り込んでいる。  
慶応3年(1867) 組合銃隊は廃止され、各旗本は、銃卒を差し出すことを免れる代りに公租の半分を幕府に供出することになり、その結果元組合銃隊の歩兵は直接幕府に雇用された一部除く約5000人が解雇されることとなった。それにより解雇された歩兵が徒党を組ん屯するようになり、吉原で暴れて、遊郭の若い者を殺したり、逆に返り討ちに遭うなど大きな社会問題になった。  
その際、政五郎はこれを見かねて、子分を使い、「元公儀歩兵の方で江戸から旅に出られる方には草鞋銭を差上げる。」と伝えさせ事態の沈静化に努めた(一人2分ずつ遣り、600両ほど掛っている)。又、返り討ちにあって死んだ歩兵を寺に葬っている。翌1868年(慶応4)、鳥羽・伏見の戦い後の歩兵の脱走騒動時も、陸軍総裁・勝海舟の依頼を受けて、事態の沈静化に協力している。  
明治3年(1870) 山内容堂から長年の労を労われ、名字帯刀御免、10人扶持となり、山中(やまうち)の姓を賜った。明治5年 容堂が死ぬと自らもこれに殉じて殉死しようとしたが、板垣退助に説得されて思い止まった。明治19年(1886) 新富町で、80歳で死去。
日本橋久松町 

江戸時代の久松町とよばれた地域は武家地で、元年3年(1617)松平越前守邸が上地となり、邸跡に四辻が出来て、橘町が起立した時と同じ頃、年代は明確ではありませんが、本多豊前守邸跡(1・2番地辺という)が町屋となったといわれています。今の15・16番地辺で、それ以外の場所は明治まで武家地であったといいます。  
久松町になったのは明治5年(1872)4月で、それ以前のことは明らかでなく、どんな状態だったのかもよく判りません。町名の由来は、『東京府志科』に、「この地はもと村松町の分地なれど」とあり、村松町から分かれた町とあります。村松町から分かれた町であったから、永く栄える意味で、凡らく久松とつけたのだろうとも云われていますが、正確にはよく判りません。武家屋敷の並ぶところに町屋があり、かなりの数の商店があって、その多くの店が刀剣などを売る店でした。それもごく安い新刀を売る店で、脇差などを主として売り、武家の使用人などの使う木刀を売る店も多かったという話です。  
大小の形をした木刀などは、ほとんどここへ買いにきたようです。武家屋敷にまじって、そうしたものを売る店などがあった町といった方がよいでしょう。  
ここのかなりな部分を占めていた小笠原邸は維新の際に越前勝山藩邸となり、明治4年にはまた小笠原邸と囚獄司用地となり、のち、警視庁用地や敷地となって、種々異動があったようです。  
品川県門訴事件について  
僅かの間ですが、明治初年、旧江戸の周辺の3人の代官の支配した幕府領の土地は、そのまま3つの県となり、品川県、大宮県(浦和県)、小菅県となりました 日本橋・京橋などの区の外側には品川県が出来たのです。  
品川県は県庁をどこにするかという時、一番大きい建物のあるのは品川の東海寺だ、それなら東海寺を県庁らしく立て直すべきだなどとの意見が強く、それを立て直すうち、臨時に品川県事務所を設けて、そこで、とりあえず事務をとる事になり、その臨時の事務所になったのです。この品川県事務所は、のちの明治座のはすかいあたりにあった旧小笠原弥八郎の屋敷跡を借りたもので、これが品川県門訴事件の起こった場所です。  
この3つの県は、明治4年の廃藩置県でなくなってしまい、東京府の15区の外側の区として府にとりこまれるのですが、ここで、その品川県でおこった事件の話をします。  
どうも品川県・小菅県・大宮県という名称は布告の前にきまっていたようで、布告が翌年正月から2月にわたって行われる前に3県の印章があらかじめ作られていたといわれています。  
このうち『明治史要』によると、明治2年2月9日武蔵知県事古賀定雄を品川県知事に、武蔵知県事宮原忠英を大宮県知事に任命したとあります。大宮県は間もなく2年9月19日浦和県となり、浦和に県庁が置かれました。一番早く布告されたのは小菅県で、明治2年正月13日武蔵知県事河瀬秀治が小菅県知事に任ぜられています。  
この3県成立当初は、日本中が全国的飢饉に見舞われ、維新政府としても、新しい首都東京の周辺県に食糧不足や市民の不安が高まれば、由々しい問題となります。2年8月25日には節倹の詔書を出し、諸官省の役人達も、給料の内から割り当てで救恤のための金を出すことを定めるなど、対策に苦心したようです。  
8月25日、とりあえず東京府に3千石の救助米を毎月下附する旨を伝えるなど種々の手を打っています。11月には酒造免許高の3分の1の醸造を許可したり12月8日には天災窮民措置を定めるなどの対策を行いました。  
また、年末の26日には全官庁職員に官禄の幾分かを返上する様令し、それを救助資金に充てるといった非常手段をとるなど、国をあげて救済策に苦心したようです。この結果、一番問題にされたのが、各町村を通じての備荒貯蓄でした。その貯穀高から品川県で大きな問題が起こったのです。  
しかし、古くからの村々と違い、新田開発につとめる農村にとっては大きな打撃で、ことに品川県では米を出させて貯穀するのではなく、米1斗1円の割で、金納させました。その金を積み立てて凶荒に備えるという方針をとり、土地を持たぬ人々からは、上は3升、中は2升、下は1升といった具合で、あく迄も金納という令でした。これは、武蔵野・小金井・一帯の新田の村々、野中、南野中、上保谷、大沼田、内藤、保谷、鈴木、梶野、高木、関野、戸倉、関前等の新田12か村の村々の人達が、到底こんな苛酷な割り当てでは、いくら自分達のために万一の凶作に備えるための貯穀代でも、到底納める事は出来ない。何とか考え直してほしいと大騒ぎになったのです。その結果、ついに新田の人達だけが相談して、その窮状を県庁に訴え出ようということになりました。  
しかし、県知事の古賀は、県庁を大きな建物にして、その偉容を示したいという気持が強かったらしく、米1斗1円の割りで、あく迄金納を命じました。その間、臨時に設ける品川県の事務所として、それ迄品川宿と関係の深かった平林九兵衛などの斡旋があって、旧小笠原弥八郎の屋敷跡を借りて、そこで品川県の事務をとることになりました。これが俗にいう「浜町の品川県事務所」です。  
武蔵野新田12か村の人々は、明治3年1月10日の夕刻から蓑笠姿で、各自柄物をもち、名主を先頭に3百余名が閧の声をあげて中野方面めがけて押し出したのです。  
はじめは武蔵野新田12か村の人々も田無新田の村人達も、歎願、又歎願と、何度か歎願の交渉の末、特に困窮の農民は出穀を免除する。それ以外の農民達で出穀することで妥協が成立していました。一時は出張した役人の指示で7石2斗8升余の割りあてを3分の1に減らし、2石5斗7升分を金で出穀して積み立てればよいときまりました。ところが古賀知事はこれに大不満で、この案を拒否し、とりきめた県の役人を首にするといった挙に出たため、田無新田はここで脱落し、武蔵野新田の人々だけが押しよせる事になったのです。この事件については『武蔵野市史』が詳細に史料をのせています。  
農民の押し寄せるのを聞いた中野、角筈、柏木などの名主達は、淀橋で何とか食いとめようと努力し、橋のたもとに鳶の者を集め、梯子をいくつも倒して往来をさえぎりました。押し寄せた農民達は、ここで他の村の人々と争っても仕方がない、多くは中止の態度をとったのですが、一部の百人ばかりの人々が、雑司ヶ谷から高田馬場方面に迂回して浜松町方面に向かった事を、新宿の名手高松喜六の通知で知った品川県事務所の人々には、農民たちが門内に入れば強訴で処罰できる、何とか門内に入れようとしたのですが、農民達はこれを充分知っていました。門外で騒いでいるうち、ついに乱闘になり、県庁側の役人が鎌で腹をえぐられる事件がおこり、大混乱となったのです。一揆ということで、武蔵野新田12か村の名主の多くが捕えられ、逃げた村人たちも後に捕縛される者が相つぎました。この事件では一般農民の処罰が、死罪などを出さないように取り計らわれたなどと、当時の資料に見えます。むしろ村役人に重い処罰を加えたのは、明治になったばかりで、庶民感情を考慮した点もあったという説もあります。  
何にしても、久松町で、こうした大きな事件があったことは、ぜひ知っておいてもらいたい事です。  
ただ一言しておきたいのは、事件の大きさのかげで、各村の農民達が積金として出したものが、明治12年ごろ以降、小学校教育という明治政府の大事業を行っていくため、小学校舎の建設費に利用され、大きな効果をあげた事です。一部の土地の事かも知れませんが、東京府や埼玉県などで、それらしい文書を見受けることが出来ます。  
僅か4・5年にすぎませんが、明治初年、品川県という県の県庁ともいうべき品川県事務所がここに置かれた事は、知る人も少なくなってしまいましたので、特記すべき事と云えます。  
明治時代の久松町  
江戸末期頃の久松町は、問屋の街にかこまれてはいましたが、どうも小商売の店が多かったようで、幕末嘉永年間(1848〜54)の諸問屋再興の時の記録でも、薪炭仲買が1軒記されているだけで、そんなに商店街というほどの町ではなかったようです。残念ながらどんな店があったのかよくわかりません。明治初年でも人口500人たらずの町、袋物の製造販売で知られた町と云った方がよいかもしれません。何しろ維新後に出来た明治座のあったことで一般には知られていました。今『東京府志科』によって久松町の状況をみると、明治2年の概況がよくわかります。  
久松町   
此地ハモト村松町ノ分地ナレトモ、其年代詳カナラス。明治5年士地及び華族稲葉正善・小笠原長守二邸ヲ此町ヘ合併ス。  
[土地]形勢 西ノ方浜町堀ニ接シ、平坦ニシテ低シ、地積(マゝ)  
[戸口]戸数 135戸(中略)/人口 473人 内男233人、女240人/寄留 251人、内男154人 女97人  
[小学]久松学校 明治6年7月創建ス、華族久松定謨ノ献金ヲ資本トシテ新築セシカバ、其姓ヲ取ッテ校名トセリ  
[馬車]車 人力車5輛 荷車1輛 小車1輛 馬2匹  
[物産]袋物 製造高4,680箇 価2,340円  
その後の発展は、武家屋敷がまだ明治になっても残っていましたから、久松町となって、町人の町のような形が出来ても、武家地が、かなり残っていたことは言う迄もない事です。明治10年頃から、西南戦争の終わったのを契機に、東京も明治政府の中心として急速に発展していきました。それは云う迄もなく、明治天皇の東幸によって、事実上新しい東京が日本の首都になったことによります。  
しかし、明治に入っての久松町は、全く昔の面影を残した町のように、いろいろの会社や商店が諸問屋と一緒に共存していった町と云えます。  
明治30年代の様子を伝える『新撰東京名所図会』にしても、その状況はパッと発展するといった様子はなく、ジリジリと少しずつ開けていった町というベきでしょう。町内の橋としては、久松橋、小川橋、高砂橋、栄橋のあったことを伝えるほか、特別にどうという町でなく、明治座と茶屋五軒が大きな存在だったようです。  
商業も別にとりたてるほどの事もなく、次にのべる程度で、活版印刷業の有交会、洋品商上野屋、呉服商額田善兵衛支店、旅館八木精一店、土井洋傘店、絹屋古着店、今井呉服店、野沢器械打綿店、中林洋毛織物店、藤村太物店、加藤太物店、そのほか明治座の「芝居茶屋」中村屋、山本、いつみや、尾張屋、武蔵屋があったことを『新撰東京名所図会』がのせています。  
昔は劇場へ芝居を見に行くのに、土地によっては、多くの観客のための茶屋と云うものがありました。そこを通して、座席をとってもらい、飲み食いもそこで行いました。幕があく時になると枡席といってわくの中に何人か座って見物します。また見物人が役者との交流に宴会もするといった茶屋制度が設けられていたのです。  
のちにのべる明治座にも5軒の茶屋があったと記していますが、そうした茶屋を利用していろいろの商談なども行われる便利な仕組みが出来ていました。また、時には大きな事件に関係するようなこともありました。芝居には、一般の人は勿論、自分で切符を買って入るのですが、茶屋制度を利用する人も相当あったようです。  
ついで明治30年代の町の状況は、「南は浜町2丁目に、東は同1・2丁目及村松町に隣り、北は同村松町と橘町1丁目に境し、西は浜町川に沿えり」と『風俗画報』にあります。  
概況としては、北部は商店が軒をつらねていて、南部には劇場があり、中部には官署、学校(市立久松小学校)があり、日本橋警察署がある。神社として胡桃下稲荷(紋三郎稲荷ともいう)があるとのべています。神社は常陸笠間の藩主牧野氏が安政6年(1859)浜町2丁目の邸内社として祀ったのを、明治5年(1872)に今の地に移したと記しています。また、概況として小川橋通りは市区改正で道幅が拡がり、西は親父橋に到り、東は大川端に達するとのべています。明治三十年代の姿です。  
ただ、ここで一言しなくてはならないのは、明治以降の市街の発展に伴って、東京市が市中に電車を走らせる計画が出来、小川橋通りは市区改正で、道幅3等(10間)と定められたうえ、明治29年から33年にかけて工事が進行していきました。この拡張工事で、浪花町から浜町大川端まで大体完成し、明治36年12月には、東京市街鉄道路線が開設されました。この路線開通は、久松町一帯に大きな変化を与えました。  
明治座  
明治・大正・昭和、いや平成の今も明治座はありますが、町の区域の変化があって、町名に変転もあり、ややこしい点もあります。しかし、一応、久松町といえば明治座と云う江戸っ子のかなりの人々がまだ居る限り、かつては市川左団次の大活躍をした時代、二世左団次の新しい歌舞伎と共に「久松町の明治座」という言葉は残っていくものと思います。明治座について明治時代の記事で一番簡潔なのは明治30年代の『新撰東京名所図会』の記事です。  
明治座  
旧幕府時代、両国広小路にありて、薦張の芝居なりを、明治5年に及びて、取締を命ぜられしより、同6年4月28日、久松町37番地へ、劇場建設の許可を得て、喜昇座と称して開場せり。同12年6月久松座と改め、建築を改良せし故、同年8月23日を以て大劇場の部に入る。同13年火災に類焼し、浜町2丁目に仮小屋を造り、同16年5月迄興行したるが、同年12月24日元地へ建築の許可を得たるが、工事中暴風雨の為に吹倒され、17年12月落成して千歳座と改称し、翌年1月4日開場式を行ふ。当時の建物は、間口18間、奥行27間の塗家なりしが、同22年、場中より出火して再び焼失し、遂に現今の建物を新築したるなり。其の建築中一時日本橋座と改めたる事もありしが、同26年11月落成して、明治座と改称せり。とあります。初代左団次の活躍していた時代です。二代目左団次はまだ一般の人々からは珍しがられた新演劇の道を切り開き、小山内薫達と共に、新しい演劇発展に努力して多くのファンを歌舞伎とは違った意味で引きつけたのです。  
明治座は、特に二代目左団次と結びついて、大正・昭和と多くの劇作家のものを取り上げて上演したことでも知られています。勿論、二世左団次の新しい演劇は明治座ばかりでなく、歌舞伎座などでも上演されたのですが、やはり、多くのファンは先代左団次と二世代団次の牙城のように明治座を見ていた事はたしかです。「鳥辺山心中」「新宿夜話」「権三と助十」など岡本綺堂のものや小山内薫のものなど、新歌舞伎劇といわれる演劇がどんどん上演され、二世左団次といえば、そうした新しい時代物と云うほどになっていったのです。  
しかし、二世左団次亡きあとは、明治座は次第に木挽町の歌舞伎座、東劇、あるいは有楽町を中心として東宝劇場などの賑わいにおされて、賑わなくなっていきました。  
明治座について特記すべきは火災焼失のことでしょう。  
明治座は明治13年2月4日、久松座時代に類焼し、更に23年5月6日千歳座時代に失火で焼失、大正12年9月の関東大震災での焼失、昭和20年3月10日の大空襲での焼失、それに昭和32年4月2日失火焼失と5回の焼失にみまわれました。大劇場として、江戸時代はともかく、明治以降で、この様に焼失をくりかえしたのは、都市東京における出来事として大きな事件として記憶されるべき事と云えましょう。  
昭和20年3月9日・10日の大空襲は、東京に大打撃を与えたのですが、明治座も焼失したことは云う迄もありません。復興で東京が活況を呈するに至った24年、明治座も11月復興に着手、25年12月海老蔵(団十郎)、羽左衛門などで、「忠臣蔵」を晝の部、夜の部での通し上演で大好評を得ました。それ以降、順調に多くのファンを集めていったのですが、昭和32年4月2日、また、出火で焼失。直ちに復興にかかり、33年2月竣工、3月の新派の一座で開演、多くの観客をよぶようになったのです。こうして明治座は浜町・久松町一帯の人々と共に歩み、平成5年に新しく再建されて美しい姿を見せ、芝居好きの人々を喜ばせています。  
山伏の井戸  
俗に久松町の町裏35番地に、かって、名高い山伏の井戸とよばれる井戸があったのです。よくこの辺の地名として用いられる程に有名だったということですが、どうもよく判明しません。『江戸総鹿子』六に「元矢の御蔵若松町より西手、堀長門守殿御屋敷後通りニ在り」と記し、『江戸図解集覧』にも「今按ズルニ、従来ノ曲り角辻番ノ向ニ在ル廃井ナリ。昔山伏来リテ此井ノ水ヲ封ス。因テ廃井トス。」とあります。市民の間に歯痛に効験があるなどといわれ、信仰の方で有名になり、井戸が廃井になって蓋がしてあったのを、上に塩と楊枝をあげて拝む人が絶えなかったなどという伝説も残っていて、この井戸は評判でした。しかし後には、井戸の水が悪水となり汲む人もなく、明治15年に取り潰してしまって、今は場所さえも明らかでありません。江戸時代は地名の代りになるほど知られていたという話すら知る人も少なくなってしまいました。 
江戸三十三観音巡り 第3番札所 / 大観音寺
大観音寺は「おおがんのんじ」と呼びます。大観音寺は聖観音宗に属しています。聖観音宗は金龍山浅草寺を本山とする宗派で、昭和27年天台宗から独立した宗派です。  
ご本尊は鋳鉄製の観音菩薩像の頭の部分です。秘仏ですので、公開がされるのは毎月17日ですので、日頃は本堂に写真が飾られています。  
この仏像は、北条政子が京都の清水寺の清水観音に帰依し、鎌倉に「新清水寺」を創建して、そこの本尊として祀られたものです。  
新清水寺が鎌倉時代の1258年(正嘉2年)1月17日に火災にあった際に、本尊は井戸の中に投じられました。  
その後、江戸時代になって、頭部のみが鶴岡八幡宮の井戸から掘り出され、その井戸は「鉄(くろがね)の井」と呼ばれました。そして、その井戸の脇に鉄(くろがね)観音堂が建立されました。  
明治になって、廃仏毀釈運動により、この鉄(くろがね)観音像も捨てられそうになったおり、人形町の住人の努力により、鎌倉から移されて明治9年(1876)に大観音寺に安置されたものです。  
この菩薩頭は鋳鉄製で、高さが170cm、面の幅が54cmもある大きな像です。  
頭頂部のみは後に補修された鋳銅製で、鋳銅製蓮華座に乗っているそうです。  
鎌倉時代製作の優秀な作品として、昭和47年4月、東京都の指定有形文化財に指定されています。  
大観音寺(おおがんのんじ)という名前は、現在のご本尊様の仏頭を指すと思われがちですが、もとは別に丈六の観音様が安置されていたことに由来するそうです。  
その観音様は関東大震災で崩壊してしまったそうです。  
そのかわりに造られたのが、お前立ちの観音様です。  
日ごろは、ご本尊様の前にある「お前立ち」の観音様にお参りすることになります。  
本堂内には、観音様のほかに 不動明王、毘沙門天などの仏様が祀られています。  
さらに、境内には、地蔵菩薩や荼枳尼天(だきにてん)や韋駄天(いだてん)が祀られているお堂があります。  
右の荼吉尼天(だきにてん)は、狐にまたがる姿で現されるため日本の稲荷神と習合したインドの神様です。  
荼枳尼天は元はインドの女夜叉神でしたが、日本に伝わっでからは、狐に乗っている姿で現されるようになりました。そのため、狐の稲荷神と習合したようです。  
この荼枳尼天をお祀りしているので有名な寺院が豊川稲荷です。  
豊川稲荷は神社と思っている人が多いようですが、実は曹洞宗の妙厳寺(みょうごんじ)という寺院です。  
下の韋駄天は仏法を守る神で、もとバラモン教の神で、仏舎利(ぶっしゃり)を盗んだ捷疾鬼(しょうしつき)を追いかけて取り返したというので、足の速い神とされています。  
そのためか、この韋駄天には市民マラソンランナーがお参りすることも多いそうです。  
なお、この大観音寺は人形町にある関係からか、人形供養を受け付けていますので、本堂の中には人形がいくつも飾られていました。 
江戸三十三観音巡り 第5番札所 / 大安楽寺
小伝馬町牢屋敷  
大安楽寺は、江戸時代は、小伝馬町牢屋敷があった場所に建っています。  
大安楽寺が建立された経緯も小伝馬町牢屋敷があったことがきっかけになっていますので、まず小伝馬町牢屋敷について書いていきます。  
小伝馬町牢屋敷は、言い伝えによると、天正年間(1573〜92)に常盤橋外に牢屋ができて、それが慶長年間(1596〜1615)に小伝馬町に移されたとされています。  
江戸時代の初めから江戸時代を通じて、ここにあって、明治8年(1875年)に市ヶ谷監獄が設置されるまで使用されました。  
牢屋敷というと刑務所と思う方が多いと思いますが、江戸時代には、刑罰は死刑と追放刑が中心で、懲役刑がありませんでした(永牢という長期間収監する刑が例外的にあります)。  
ですから、この牢屋敷は、刑が決まるまでの一時的な収容所という施設、今で言うと未決囚の収容施設(拘置所)でした。  
牢屋敷は、約2、700坪ありました。現在の十思公園のほか、隣の十思小学校(今は十思スクェアと呼ばれています)と大安楽寺や身延山東京別院や民家のある場所を含めた範囲でした。  
牢屋敷は、町家のなかに位置し、周囲には 高さ7尺8寸(2m36cm)の練塀(ねりべい)を巡らし、練塀の外側に堀がありました。  
牢屋敷の表門は西側にあり、東側に裏門がありました。  
屋敷内の南側には、牢屋奉行の屋敷や役人の詰め所があり、牢屋は北側にありました。  
十思の由来  
小伝馬町牢屋敷の大部分は、現在、十思公園と十思スクエアになっています。  
十思というのは、あまり聞きなれない言葉です。  
明治になってから、ここの学区が第十四小区であったことから、中国の宋の時代の歴史書「資治通鑑(しじつがん)」の中にある「十思之疏(じっしのそ)」の十思の音が十四に通じるところから「十思小学校」と名づけられました。  
十思之疏(じっしのそ)とは、「資治通鑑(しじつがん)」の中で唐の名臣魏徴が、大宗皇帝にさし上げた十ケ条の天子のわきまえなければならぬ戒めです。  
十思学校の東隣にある公園も小学校の名をとって「十思公園」と名付けられました。  
大安楽寺は名の由来は、大倉と安田から?  
さて、大安楽寺は、高野山真言宗のお寺です。  
大安楽寺の塀には、「伝馬町牢処刑場跡」と書いてあります。その名のとおり、大安楽寺は、小伝馬町牢屋敷の刑場の跡に建立されたお寺です。  
明治の初年、ここを通った高野山の山科俊海というお坊さんが燐の火が燃えているのを見て、霊を慰めるためにお寺の建立を思い立ち、明治8年にお寺を建設されました。  
その頃、一坪100円程度した土地の値段が、ここは牢屋敷の跡だということで、3円50銭だったそうです。  
建立に際して、大倉財閥創業者の大倉喜八郎と安田財閥の創業者安田善次郎が多額の資金を出したことから、二人の名前をとって大安楽寺と名づけたと言われています。  
しかし、本当は 「理趣経」に基づく寺号とのことです。  
大安楽寺のご本尊は弘法大師様で、札所ご本尊様は十一面手観世音菩薩像です。十一面観世音菩薩像の高さ18センチあまりで、台座を入れても30センチに満たない大きさとのことです。  
延命地蔵菩薩像  
大安楽寺の境内に延命地蔵菩薩像が建っています。  
実は、このお地蔵様がたっているところで、死刑の人たちが処刑されました。  
土壇場という言葉はご存知だと思いますが、斬首される場所のことを土壇場と言います。土壇場の語源は、牢屋敷にあったことになります。  
延命地蔵菩薩像は、ここでなくなった人たちを供養するために建立されました。  
台座の下の部分に供養の言葉が書かれています。  
「為囚死群霊離苦得脱」と書かれています。勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末三舟」と呼ばれる山岡鉄舟が書いた文字です。  
安政の大獄で処罰された吉田松陰もここで処刑されました。そのため、隣の十思公園内に「吉田松陰終焉の地の碑」が建てられています。  
地蔵菩薩像の隣のお堂の中には、江戸八臂弁財天様が祀られています。  
八臂(はっぴ)とは8つの腕という意味です。この弁財天様は、北条政子の発願で作られたと伝わっているそうです。  
吉田松陰終焉の地の碑  
大安楽寺の隣の十思公園内に「松陰先生終焉之地」と刻まれたが建てられています。  
吉田松陰は、2回、小伝馬町の牢屋敷に入っています。  
一度目は 安政元年(1854年)のペリーの2回目の来航の時に、アメリカに密航しようとして、果たせず、下田奉行所に自首した後、この牢屋敷に入っています。  
2度目は、安政の大獄で牢に入れられます。安政の大獄は、特に水戸藩や一橋派を標的にしたものでしたので、吉田松陰は、それらに関係して訳ではなかったので、遠島ぐらいと思われていましたが、斬首の刑となってしまいました。これは井伊大老の指示だったという説もあります。  
1859年(安政6年)10月27日に、小伝馬町牢屋敷で処刑されました。  
「松陰先生終焉之地」の碑は、昭和14年に、萩の有志の人が建てたもので、当初は十思小学校の校庭にあったそうですが、GHQの命令で、こちらに移転したそうです。  
この碑は、松蔭のお墓ではありません。お墓は、世田谷の松蔭神社、千住の小塚原回向院、萩の吉田家の墓地にそれぞれあります。  
碑には、辞世「身はたとえ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂」と書かれています。  
吉田松陰の辞世には、この歌のほか、家族宛に「親思うこころにまさる親心 今日のおとづれ なんと聞くらん」というのがあります。 
 
深川 界隈

 

 
                                深川七福神 (中央・青の7点円) 
                                深川七場所 (下段・白の7点円) 
 
                                御家人斬九郎の辰巳芸者・蔦吉 
                                勝海舟正妻の深川芸者・勝民子 

   
 
辰巳の深川

 
 
 

深川が江戸の辰巳(東南)の方角にあることから深川芸者を「辰巳芸者」と呼びますが、深川は江戸時代中期に江戸に編入されたもので、前期には江戸とは呼ばれませんでした。深川は江戸の芥捨て場でしたし、文禄三年(1594)に千住大橋が架けられてから、万治二年(1659)に両国橋が架けられるまでの、65年の間、千住大橋から下流には橋が無かったのです。隅田川の西の住人から見れば、東の住人は「川向こう」の田舎者だったのです。犯罪人も隅田川を渡って東に逃げ込めば追われなかったと言います。隅田川は江戸(武蔵)と江戸以外(下総)の土地とを区切る境川でもあったのです。明暦の大火(振袖火事)で焼死した108000人の遺体(この数字はいろいろです)を、三途の川(隅田川)を渡り両国の回向院に埋葬したことからも解かります。深川が江戸になってから三百年経ちますが、この拘りは今でもあるのでしょうか。ざっくばらんで情に厚い下町と、お高くとまって薄情な山の手との違いは、仕事の上でも感じたものです。   
深川が町らしくなるのは、徳川家光の時代、寛永四年(1627)に江戸の芥捨て場を整備して、富岡八幡宮が創建され門前町が出来てからだそうです。特に徳川綱吉の時代、元禄十一年(1698)に永代橋が架かると日本橋に近くなったので、武士や町人相手の茶屋や料理屋が深川に増えました。酒の相手をする芸者も増えていきました。   
深川芸者は「芸は売っても身体は売らない」との心意気で男の羽織を着て、音吉・蔦吉・豆奴等と男の源氏名を名乗ったのです。この羽織姿が特徴的なことから「羽織芸者」とも呼ばれ、「意気」と「張り」を看板にし、舞妓が京の「華」なら、辰巳芸者は江戸の「粋」の象徴と称えられたのです。(後に岡場所深川は、吉原を凌ぐ存在になったのです)。  
深川の隣に木場が出来て材木問屋が建ち並ぶと、紀伊国屋文左衛門に象徴されるように、何万両もの金を動かす旦那衆が増えました。遊びも豪快そのもので、紀伊国屋文左衛門は吉原を買切って大盤振る舞いをしたそうです。そんな旦那衆を相手にした辰巳芸者の気質も自然と豪快になったのです。 
 
岡場所 
 
 
江戸時代を舞台にした時代劇について話をしていて、”え岡場所って、吉原の中にある庶民向けの地域じゃないんですか”と驚くので、岡場所の話。  
前段として、吉原というのは徳川幕府が公認した売春街の事で、対象が武家や大商人など、金と暇がある人達向けの施設で一つの文化の発信地でもありました。  
もっとも、吉原の全盛期は徳川300年の歴史の中でも安永(1772)から文政(1830)くらいまでの約60年ほどに過ぎず、値段の高さと手続きの煩雑さから江戸の庶民は岡場所に流れ、次第に岡場所の方が繁盛していくことになります。  
かといって、岡場所に対抗して吉原が値段を下げたら下げたで、”値段が高く、一定の格式があるから吉原の遊びである”とする人達が離れてしまい、盛り返すことはできなかったようです。  
当時の色里の代金を現代に換算すると幾らになるかはかなり難しい部分があるのですが、吉原の遊びでは上は天井無し(紀伊国屋が一度の遊びで2〜3億円使ったのが事実上の上限になっている)ですが、普通は1両少々(10〜2万円)が相場で、吉原の中でも安かった東西の河岸の女郎ともなると3〜5千円くらいだったようです。  
これに対して、岡場所の場合は、人気がある飯盛り女郎でも1分(2万円くらい?)程度だったようで、下の方になると相場が24文と言われた夜鷹と良い勝負だったようです。  
料金の他に、岡場所が繁盛した理由の一つに、江戸の街が”娘一人に婿八人”と言われたほど、男女比率が不均衡だったことがあるわけですが、武家や大商人などが複数の側女や妾を囲っていたことも少なからず影響を与えていたようで、女日照りにあえぐ庶民達がいる一方で将軍家の大奥のように数百名の女性を一人の男性が占有していたわけですから ・・・。  
まあ、女性が少ないから男性の性欲がそれに比例して減衰するかというと、そんなことはもちろん無く、当然のように性欲を処理する場所が求められ、半ば自然発生的に売春する女性を置くようになった地域を岡場所とよんだわけです。  
時代が下がるにつれて江戸の街の女性の比率は増加していくのですが、実際には、娘一人に婿4〜5人程度で推移していたようです ・・・ 公式の統計に乗らない人達も少なからずいたようですが。  
ちなみに、岡場所というのは特定の地域の名称ではなく、岡場所の岡は”傍ら”を意味し、そこから”(公認されていない)外の色里”を意味するようになったようです。  
したがって、江戸四宿(品川、千住、板橋、内藤新宿)と深川を中心に、二百カ所以上の岡場所が存在し、数千名の”飯盛り女郎”という遊女が在籍していたようですが、その大半が人間扱いされなかったこともあって、推計が可能な資料さえ残っていません。  
女郎の中でも幸運な人達は、お客に身請けされて足を洗う事ができ、奥さんや後添えや妾などになったりしているのですが、建前上は給料前払いの年期奉公になっていたこともあって、売り飛ばした親兄弟がさらに給料を前借りする事が珍しくなく、死ぬまで年季が明けない女郎が珍しくなかったようです。  
女郎屋の主たちも、そのあたりは割り切ったもので、日用品などを割高に女郎達に買わせて、油断しているとその購入費用で借金が膨らんで、年季が伸びる仕掛けにもなっていたのですが、艱難辛苦を乗り越えて、無事に年季が明けたから女郎達が堅気の世界に戻れたのか?となると、結局、親元を含めて外の世界に居場所が無かったり、体を売る以外に稼ぐ手だてが無かったりで、色里に留まる選択をするケースもあったとされています。  
もっとも、死ぬまでとはいっても、十代から女郎をやっているようだと二十代中頃には性病を患ったり結核などの病気に感染して死亡する事が珍しくなかったようですし、死んでしまえば筵に撒いて寺に放り込まれて無縁仏として処理されたとも言われています。  
このあたり、二十代中頃の飯盛り女郎が中年増(なかどしま)と呼ばれて熟女に区分されていた事実があり、いずれにしても元気で長生きできる商売ではなかったようです ・・・ もちろん、長生きした女郎も絶無では無かったようですが。  
生きている間は、”娘の給金を親が前借りして何が悪い!”と親が店を訪れたり、年季明けに(他の店への転売を含めて)再び親が売ることはあっても、その娘が死亡した場合に、その亡骸を引き取りに来る親は皆無だったようで、そのあたりでもこの世であってこの世では無い”苦界”だったのだなと。  
それはともかく、何故に、幕府に公認されてもいない色里が二百カ所以上も営業することができたのか?というと、岡場所の多くが寺社の領内(境内で営業していることも多かった)にあり、町奉行所の管轄外であったためのようです。  
支配者が”風紀を乱す”という名目で、庶民のSEXライフに干渉するのは今に始まった話ではなく、寛政の改革や天保の改革などで取り締まりが強化され、幕末の頃には、江戸市中から岡場所は姿を消したことになっています ・・・ 少なくとも表面上は 。  
資料を調べていて、しみじみと、為政者が庶民の娯楽に難癖を付けて、彼らの主張する”道徳”を強要するのは江戸時代に既にその原形があるな〜と思うわけで、江戸時代に幕府から目の敵にされたのが寄席(歌舞伎芝居)と遊郭(岡場所)ですが、酷いときには縁台将棋のような娯楽まで禁止項目になっています。  
皮肉なことに、取り締まりが強化され、幕府の考える”清く正しく美しく”を徹底すべく取り締まりが強化されるのに比例して幕府を支持する人は減少し、後の世から幕末と呼ばれる時代に突入していくことになります。 
 
辰巳芸者

 
 
 

 
辰巳芸者1
江戸時代を中心に、江戸の深川(後の東京都江東区)で活躍した芸者のこと。深川が江戸の辰巳(東南)の方角にあったことから「辰巳芸者」と呼ばれるが、羽織姿が特徴的なことから「羽織芸者」とも呼ばれる。「意気」と「張り」を看板にし、舞妓・芸妓が京の「華」なら、辰巳芸者は江戸の「粋」の象徴とたたえられる。  
「羽織芸者」の心意気  
深川は明暦ごろ、主に材木の流通を扱う商業港として栄え大きな花街を有していた。商人同士の会合や接待の場に欠かせないのは芸者(男女を問わず)の存在であったために自然発生的にほかの土地から出奔した芸者が深川に居を構えた。その始祖は日本橋の人気芸者の「菊弥」という女性で日本橋で揉め事があって深川に居を移したという。しかし土地柄辰巳芸者のお得意客の多くは人情に厚い粋な職人達でその好みが辰巳芸者の身なりや考え方に反映されている。  
薄化粧で身なりは地味な鼠色系統、冬でも足袋を履かず素足のまま、当時男のものだった羽織を引っ掛け座敷に上がり、男っぽい喋り方。気風がよくて情に厚く、芸は売っても色は売らない心意気が自慢という辰巳芸者は粋の権化として江戸で非常に人気があったという。また源氏名も「浮船」「葵」といった女性らしい名前ではなく、「音吉」「蔦吉」「豆奴」など男名前を名乗った。これは男芸者を偽装して深川遊里への幕府の捜査の目をごまかす狙いもある。現代でも東京の芸者衆には前述のような「奴名」を名乗る人が多い。   
深川七場所  
地下鉄東西線の門前仲町駅の周辺には、深川不動尊、富岡八幡宮などがあり、下町風情を味わうことができます。富岡八幡宮の周辺には、江戸時代から遊里があり、深川七場所と呼ばれました。七場所とは、仲町、土橋、櫓下、裾継(すそつぎ)、新地、石場、佃の七つの遊所をいいました。  
深川七場所の一つ、仲町は、現在の仲町通り商店街のあたりにありました。仲町は、土橋、新地とともに、もっとも繁栄をきわめた土地です。仲町は、永代寺門前仲町の略称です。裾継は、油堀に囲まれた角にありました。現在の赤札堂のあるあたりです。油堀があった場所には、現在は首都高速道路が通っています。  
油堀川公園の名に当時の堀の名前を見ることができます。櫓下は、現在の清洲通り沿いにありました。
 
辰巳芸者2
芸者というのは、武芸者という言葉があるように、本来は武芸の達者な者といったあたりが始まりだという説があり、そこから武が取れて、芸達者という意味が強くなっていき、歌舞音曲の類を一定以上の水準でこなす芸達者達も芸者と呼ばれるようになっていったと考えればわかりやすいかなと。  
意外かも知れませんが、体を売るだけで芸事のできない遊女の方が圧倒的に多く、芸のみでも売る芸者が職業として登場したのは、江戸時代も半ばになる宝暦(1751〜1764)の頃とされ、この頃、そうした女を女芸者、男を男芸者(あるいは幇間)と呼ぶようになったようです。  
幇間の方は、太鼓持ちとして後の世にも生き残っていくわけですが、その意味では、次第に芸を売るよりもマネージメントで稼ぐようになっていったと言えなくもないかなと。  
この宝暦年間というのは、太夫(たゆう)、格子(こうし)、端(はし)の三階級だった吉原の遊女のランクの格子の下に、散茶(さんちゃ)、梅茶(うめちゃ)の2つが増設された時代でもあり、吉原も大衆化が進み始めた時代ということになるのですが、このランクは後にもっと細分化されていく一方で太夫などは廃止されていきます。  
ランクが細分化されることで、自分の懐具合に応じて遊びやすくなったようですが、全体としては大衆化が進み、選ばれた者だけの社交倶楽部という性格は薄れていくことになっていきます。  
ところで、遊女といっても、遊郭の中でも高級な遊女である初期の太夫や後に登場する花魁などは、幼少の頃から芸を仕込まれ、和歌、茶の湯、華道、香道、書、舞踊、三味線 ・・・などなど、さまざまな技芸でトップクラスの知識と教養を身に付けていたとされます。  
個人差はあったでしょうが、大名や(超大)富豪に身請けされて、時には本妻に遇されたとしてもそれに応える事ができるだけの技芸というか知識と教養を身に付けていることが要求される職業というか身分だったということです。  
当然、そうした仕込みには手間暇とそれなりの費用がかかりますから、数千人とも数万人ともいわれる遊女の中から選ばれたトップクラスの数名ということになりますから、当時の庶民にとっても高値の華だったと言えます。  
江戸時代中頃までの吉原が単純な売春地帯ではなく、文化の発信地や社交の場として機能していて、このあたりのことは岡場所概論でも少し触れましたが、売春を主とする即物的な岡場所と吉原に代表される遊郭とでは、少々求められているものに差があったとも言えます。  
なお、花魁と言う名称は後に岡場所でも使われるようになり、吉原の方言というか業界用語である廓言葉も広まっていったのですが、それも天保(1830〜1844)の頃を境に衰退していくこととなり、江戸のピンク産業も幕末の動乱と無関係ではいられなかったようです。  
話を芸者に戻すと、無い物ねだりは世の常で、吉原の外でも(太夫の技芸とまではいかなくても)踊りなどを表芸(裏芸は売春)にする町芸者が求められるようになり、明和(1764〜1772年)の頃ごろから急速に増加していったようです。  
吉原の大衆化で、吉原文化とでもいったものに触れる機会が増加した一般大衆が、より手頃な価格でそうした雰囲気を味わいたくなったためかもしれませんが、いずれにしても初期の町芸者というのは、江戸の岡場所界隈がルーツになり、振袖(ふりそで)に帯を長くたらし、左褄(ひだりづま)をとって年中素足で羽織を着ないという異様さは、いわゆる男文化のカブキモノの系譜を意識的に演出することで吉原の女文化に対抗していたと見ることもできるかなと。  
そんな中でも、一般的な芸者と一線を画したのが辰巳芸者とか深川芸者と呼ばれた女性達で、深川芸者達だけは羽織を着用しており、このことから羽織芸者とも呼ばれていて、その気風も意気と侠気が看板に加わっていたようです。  
ちなみに、なぜに辰巳芸者と呼ばれたかと言えば、江戸城や吉原から見て深川が東南の方向(辰巳の方向)にあったためで、羽織を着るだけでなく男物の着物を着ることも特徴で、当然、真冬でも素足で通していたとされます。  
なんとなく男装の麗人という表現を連想しますが、芸者の中でも別格として辰巳芸者というブランドが初期から成立していたわけです ・・・ そう考えていくと、一部の少女達の憧れの存在であった可能性も高いような気が私はします。  
もっとも、1873年に芸妓取締規則が施行されて以後は、営業がやりやすくなったようで、芸妓置屋の制度が発達し、江戸というより既に東京になってからになりますが、柳橋や新橋の芸者が隆盛していくことになります。  
安土桃山時代末期というか江戸時代初期に活躍した出雲の阿国の女歌舞伎を芸者のルーツの一つと考えると、当時から表で歌舞音曲の芸を売り、裏で体を売るのが定番といえば定番の営業だったわけで、後に歌舞伎が男だけの世界になっていったのも、性風俗の取り締まり(風紀を乱すという理由で1629年に女歌舞伎は禁止)と無縁では無かったりします 。もっとも、それはそれで陰の文化の温床となってしまうのですが深入りはしません。  
いずれにしても、芸者は芸を売る事を表看板にした事は、出雲の阿国への回帰と言えなくもないわけで、一つの芸者文化を形成していくこととなり、深川芸者とか柳橋芸者とか新橋芸者という、御当地名を付けて呼ぶ事があるのも、やはりその土地土地の文化や風俗とでもいったものが遊びや美意識などに反映しているからかもしれません ・・・ 芸者遊びなんぞしたことがありませんから伝聞です。 
 
いき(意気)
江戸における美意識(美的観念)のひとつであった。江戸時代後期に、江戸深川の芸者(辰巳芸者)についていったのがはじまりとされる。身なりや振る舞いが洗練されていて、格好よいと感じられること。また、人情に通じていること、遊び方を知っていることなどの意味も含む。反対語は野暮(やぼ)または無粋である。粋を「いき」と読むのは誤用・誤読である。「いき」には、単純美への志向であり、「庶民の生活」から生まれてきた美意識である。また、「いき」は親しみやすく明快で、意味は拡大されているが、現在の日常生活でも広く使われる言葉である。 わび・さびには、日本の美的観念という共通部分もあるが「いき」とは大きく違う。  
いきでいなせ  
「いきでいなせ」という言葉がある。舟木一夫の「火消し若衆」において、「火事とけんか」や「男っぷり」と歌われており、喧嘩っ早い火消しの江戸っ子を表現している。この語をわけて『「いき」は火消しの事で「いなせ」は魚屋の事』という説もあるが、これは定かとなっていない。江戸っ子は地味な服を好むがいきなオシャレを楽しんだとされる。『佃節』では「いきな深川、いなせな神田、人の悪いは麹町」と読まれている。  
九鬼による「いき」  
九鬼周造『「いき」の構造』(1930)では、「いき」という江戸特有の美意識が初めて哲学的に考察された。九鬼周造は『「いき」の構造』において、いきを「他の言語に全く同義の語句が見られない」ことから日本独自の美意識として位置付けた。外国語で意味が近いものに「coquetterie」「esprit」などを挙げたが、形式を抽象化することによって導き出される類似・共通点をもって文化の理解としてはならないとし、経験的具体的に意識できることをもっていきという文化を理解するべきであると唱えた。  
また別の面として、いきの要諦には江戸の人々の道徳的理想が色濃く反映されており、それは「いき」のうちの「意気地」に集約される。いわゆるやせ我慢と反骨精神にそれが表れており、「宵越しの金を持たぬ」と言う気風と誇りが「いき」であるとされた。九鬼周造はその著書において端的に「理想主義の生んだ『意気地』によって霊化されていることが『いき』の特色である。」と述べている。  
九鬼の議論では、「いき」が町人の文化であることを軽視している点、西洋哲学での理屈付けをしている点には批判もある。  
故日浦日向子氏のNHK「お江戸でござる」での解説によると「宵越しの銭は要らねぇ」の後に「金なら欲しいがな」と続くのが正しく「宵越しの金は持たぬ」と言うのは間違いらしい。放送後に異を唱えるものは現れなかったが、特段の賛成意見も見当たらない。  
いきと粋  
いきは粋と表記されることが多いが、これは明治になってからのことで、上方の美意識である「粋(すい)」とは区別しなければならない。「いき」は「意気」とも表記される。上方の「粋(すい)」が恋愛や装飾などにおいて突き詰めた末に結晶される文化様式(結果としての、心中や絢爛豪華な振袖の着物など)、字のごとく純粋の「粋(すい)」であるのに対し、江戸における「いき」とは突き詰めない、上記で解説した異性間での緊張を常に緊張としておくために、突き放さず突き詰めず、常に距離を接近せしめることによって生まれると言われる。 『守貞謾稿』には、「京坂は男女ともに艶麗優美を専らとし、かねて粋を欲す。江戸は意気を専らとして美を次として、風姿自づから異あり。これを花に比するに艶麗は牡丹なり。優美は桜花なり。粋と意気は梅なり。しかも京坂の粋は紅梅にして、江戸の意気は白梅に比して可ならん」と書かれている。 
 
芸者島次の心意気・志満寿ざくらの碑

 
 
 

皆さん、「芸者遊び」ってしたことありますか?いやかくいうこのわたくし其角主人も、深川っ子の端くれ、「最後の辰巳芸者」玉奴ねえさんのお座敷の隅っこで「芸者遊び」を体験したことがあります。三味線に太鼓が入ってにぎやかなお座敷で、芸者さんが踊り、そのほか、いろいろなお座敷遊びをするわけです。ただね、正直申しまして、小唄のひとつくらいは謡えるとか、お座敷遊びのひとつも知ってるとかしないと、まあ、おろおろするばかりで、何が楽しいんだかよくわからないまま終わってしまいます。まだ若かった頃なので、右も左もわからないまま、「芸者遊び」はお開きとなってしまいました。その後、何度か、それらしき遊びは体験しましたが、まあ「よくわからなかった」が正直な感想です。不調法、じゃあなかなか遊べない世界であります。  
深川といえば「辰巳芸者」です。気っぷのよさが売り物で、芸者だてらに羽織をはおり、「芸は売っても体は売らない」芸者だったそうです。逆に言うと、芸者も普通は「枕芸者」と呼ばれる、「体を売る」芸者が多かったってことでしょうね。戦前まで、「割烹」というと、個室の座敷で飲み食いして、ふすまをガラッと開けると、真っ赤な夜具が延べてあって、という時代劇でおなじみのパターンが普通だったようで、だから「辰巳芸者」の「体は売らない」という心意気は、とても受けたんでしようね。  
辰巳芸者も、絶滅しました。私が子供の頃は、近所に料亭が沢山ありました。永代通りの一本大横川よりの裏通りが料亭街でして、そこの座敷に上がる芸者さんたちが、よく歩いてました。しかし、そこの上客だった「木場の材木問屋の旦那衆」が、木場の移転やら、問屋の会社化やらで、すっかり芸者遊びをしなくなり、木場の材木問屋の財力に寄りかかっていた深川の料亭街は、あっという間に火が消え、それにともなって、辰巳芸者も絶滅してしまったのです。政治家やら企業の接待で生き残った新橋、赤坂、神楽坂あたりとは、そこが違うところです。  
深川不動尊に、芸者の建てた碑があります。ここまでの話の流れだと、辰巳芸者であって欲しいのですが、残念ながら新橋芸者の碑です。場所は、以前に紹介した「五世尾上菊五郎の碑」のすぐ隣です。このあたりには、大きな石碑が沢山建っていて、木も少しだけうっそうとしているので、私が子供の頃には、この石碑の裏あたりを秘密基地にしたり、缶けりの隠れ場所にしたものであります。今でも夏には子供と蝉採りする場所です。  
この石碑の寄贈者は、新橋芸者の「若菜屋島次」というひとです。明治十三年に建てられたそうですから、この後ろの玉垣と同じくらい古い。後ろの碑文を書いたのは、明治の文学者、仮名垣魯文ですから、力の入った由緒正しい石碑です。碑文によりますと、この島次というひとは、有名な画家らしき一松斎芳宗という人の娘で、三味線は新橋一うまく、慈悲と信仰に厚く、上野の養育院にお金を寄付したり、お不動様を信心して、お不動様の境内に桜の樹数十本を寄付したりしているそうです。 このさくらがが碑文おもての「志満寿さくら」なんでしようね。  
しかし、疑問だらけです。だいいち、そんな有名な画家の娘が芸者になるわけがない。上野の養育院(孤児院、でしょうね)に寄付をするくらいだから、彼女自身孤児だったんじゃないでしょうかね。何らかの形で画家の家に養子にはいった。うーん、それもありそうに無いな、芸者として有名になってから養子になったとか、さもなくば、親の画家が幕末から明治の混乱で、実は食い詰めていたとか。わかりません。  
それにですね、上野の養育院にお金を寄付したり、お不動様の境内に桜の樹を数十本も寄付したり、そんなに芸者が儲かるはずがありません。芸者という商売も、置屋とかに持っていかれるお金も大きいですから、結局のところ、旦那、というパトロンあってのもので、それでも着物を買ってもらたり、家をもらったりするのが精一杯で、なかなか、大金を寄付するまでにはいかないのが普通です。そのなけなしの中から、寄付をした、というところが美談なんでしょうけれど。  
それに、お不動様の境内に、数十株もの桜を植える場所があったかどうか、今でもお不動様には、沢山の桜の木がありますが、数十本はありません。それに、「歌仙桜」は有名ですが、「志満寿さくら」というのは、資料には全く登場しません。それに、この石碑が出来た当時は、深川不動が出来たばかりですから、当然、桜は寄付したばかりだったわけですから、まだ深川名物として有名だったとは思えません。その「志満寿さくら」の碑がなぜ建てられたのか。  
そして、最大の疑問は、明治十三年、深川不動が出来たばかり、そしてお不動様は絶大な信心を集めていた、その時代に、芸者が石碑を建てることが出来た、ということです。なんせ当時の団十郎や菊五郎だって、柱の一本、石の一つに名前が刻まれているだけ、料亭や遊郭だって、日清戦争勝利記念の燈明台でやっと名前が入った、そんな時代に、芸者が自分の名前の石碑を、境内に建立できた、というのは、はっきりいって大きな謎です。だって、桜の木を寄付しただけでなく、かなりの額の寄進をしなければ、石碑は建てられないと思いませんか?この島次、という女性には、かなり大金持ち、または貴族かなかにの著名なパトロンがいて、なおかつ、彼女自身がすごく有名なカリスマ芸者でもないと、全く不可能な話です。  
ですから、やはり、パトロンはともかく、島次自身、心意気のある芸者としてとても有名だったんでしょうね。芸者島次は、多分新聞に載るくらいの、大変有名な芸者で、この碑が建ったのも、実は当時、大きな話題になったのかもしれません。でないと、この石碑が建てられた理由は説明できません。  
そのほか、「しまずさくらの碑」のとなりの、「歌沢節」という小唄のようなものの流派の家元「三世歌沢芝金の碑」というものです。大正六年に建てられたものだそうです。この三世芝金というひとにも、有力なお金持ちの門人がいて、この人の力で、この碑は建ったようです。  
このほか、この並びには、華道の古流の家元の碑とか、そういう碑が立ち並んでいます。いずれも、有力者とか、コネと金の力で立った石碑、みたいですね。なんていうと、失礼か。とりあえず、子孫にも忘れ去られた石碑、ということではないようで、これらの石碑の周りには、子孫の歌沢節の人たちや、古流のかたがたの奉納した、玉垣がめぐっています。それはともかく、いつもは静かに、蝉時雨の中にただずんでいます。 
 
深川の花街・巽芸者の街

 
 
 

深川、門前仲町の花街、というと、其角せんべいから、永代通りをはさんだ反対側、永代通りと大横川の間の二本の裏通りです。ここらあたりは、わたしが子供の頃から高校生くらいの頃までは、料亭が立ち並び、黒塗りの車が列を成して止まり、深川の「巽芸者」と呼ばれる粋な芸者衆が、三味線や太鼓を持って歩いていたものです。  
ちなみに、「巽芸者(辰巳芸者−たつみげいしゃ)」というのは、深川の芸者たちを江戸時代そう呼んだことに始まるようです。巽芸者という呼び名は、深川が江戸城からみて巽の方角にあるから、そう呼んだようです。以前にも書きましたが、「芸は売っても体は売らない」のが身上で、当時としては異例に、男のように羽織をはおったので、「羽織芸者」とも呼ばれたそうです。このことから考えると、当時、芸者は体を売る遊女と大差なく、羽織をはおることすら憚られるほど社会的地位もすこぶる低かった。そこに、芸は売っても体は売らず、羽織すらはおってみせる、誇り高く気風のいい「巽芸者」たちがあらわれて人気を博して、ひいては「芸者」というものの社会的地位の向上に大きな役割を果たした、ということになるのでしょう。現在私たちが知っている「芸者」というものは、この「巽芸者」に始まる、といってよいのだと思います。  
深川の花街の隆盛を支えたのは、もちろん、木場の材木問屋の大旦那衆です。ただその分、政財界などへの食い込みは少なかったようで、木場の移転や衰退とともに、深川の花街の灯は、あっという間に消えていきます。  
花街全盛の頃は、其角でも、こういった花街の料亭からの注文があるため、夜11寺くらいまで店を開けていなければならなかったそうです。そんな夜遅くでも、料亭から、お客様の手土産用に注文があると、おせんべいの箱詰をもって料亭まで配達に行く、というのは、全く普通のことだったそうです。開けてないと怒られた、なんて聞きます。  
わたしも当時、何度か料亭に配達に行ったことがあります。いつもは気のいいおばさん、みたいな感じの料亭の女将が、きりりと帳場に座って、私らのことなんか鼻も引っ掛けない、くらいの感じの厳しい調子だったのに、とても驚いた記憶があります。それくらいじゃないと、あの料亭というものを切り回していくことは出来ないんでしょうね、大変なんだなあ、と感心した思い出があります。  
花街を歩いていると、芸者さんたちとすれ違ったり、料亭から三味線や小唄の調べが漏れ聞こえてきたり、それは粋な風情がありました。 まあ、当時はそれが当たり前だと思ってましたから、「粋だ」なんて思いもしませんでしたが。あと、私は残念ながら行き会ったことはありませんが、「新内流し」というのも花街を流していたそうです。なんというんですか手ぬぐいを頭につけて、三味線を爪弾きながら、新内を謡って流して歩く。今でこそ、新内は江戸の粋、みたいに言われてますが、じつはもともと新内は、小唄とか常磐津とかに比べて格が低いものとされていて、新内流しは料亭の客に呼ばれても、座敷に上がることは出来ず、庭や門口で新内を聞かせて、おひねりを投げてもらったもの、なのだそうです。新内を流して歩いてるところに、料亭の二階の窓がスーッとあいて芸者さんがポンと、おひねりを投げる、これを新内流しが深々と頭を下げて拾い、新内を少し大きな声で窓に向かって謡う。いやあほんとうに、これも粋な光景だったでしょうねぇ、見てみたかった。  
前にも書きましたが、私も芸者さんの上がっているお座敷の端っこに加わらせていただいたことが何度かあります。芸者さんは、島田を結ったきれいな芸者さんと、三味線を弾く年配の芸者さんが対で来ます。豪華な宴の場合は、これに太鼓を叩く、年若い半玉さんがついたり、他に芸者さんが来たりするようです。まず、芸者さんが三味線に合わせて、踊りを見せてくれます。そのあと酒宴となりますが、そのあとは、野球拳みたいな、大人のお遊びのようなものもあるにはありますが、基本的には、まあ、小唄のひとつでも唄えないと、その後はほとんど何をしていいかわからない、といったところで、こういうところで遊ぶのも、結構な素養、たしなみがいります。往年の木場の大旦那衆の頃は、小唄や常磐津などは男の唄うものではなく、男なら長唄を唄うもの、だったそうで、長唄の三味線が出来ないと、巽芸者はつとまらなかったそうです。また、深川の料亭で遊ぶ男は、長唄くらいはたしなんでおかないと恥をかいた、ということです。正直、私には長唄と小唄の違いは全然わかりませんが・・・・  
今はもう、この深川の花街も、普通の飲み屋街です。でも中には、料亭も残っています。これらの料亭は、私が子供の頃からあるものばかりです。ただ、「巽芸者」は今はもう誰一人居らず、芸者を呼ぶ、となると、他から呼ぶようになるようです。今度深川に来た折には、かつての花街を歩いてみてはいかがでしょう。芸者衆、新内流し、そんなものを思い浮かべながら。 
 
落語「おさん茂兵衛」と深川七場所

 
 
 

六代目三遊亭円生の噺、「おさん茂兵衛」によると。  
深川やぐら下は花柳界でも非常に勢いがあった。そこから縮緬浴衣の揃いを深川仲町呉服屋中島屋惣兵衛に注文があった。当時の産地は桐生だったので、女嫌いで堅物の二十五、六になる手代茂兵衛に30両持たせて使いに出した。  
江戸を発って3日目に上尾の宿に入った。中食に一膳飯屋に入ったが、中で働く二十一、二になる女性で、頭は櫛巻き化粧もなかったが実にイイ女であった。茂兵衛さんその女性が気になって発ち去る事が出来なかった。地元の三婦(さぶ)親分の事を小耳に挟み、その親分のところに頼みに行った。  
女嫌いの茂兵衛なのだが、生まれて初めて素敵な人だと思った。だから半刻(はんとき=1時間)でいいのでお茶を酌み交わしたいので、こちらで会わせて貰えないかと懇願した。  
その女性は品川で芸者をしていて、ここの祭りに来たが三婦親分の子分で金五郎がどうしてもと言って、親分に仲に入ってもらって夫婦になった。金五郎は質(たち)の悪い奴だし、子分の女房を紹介したとなると示しが付かないので、諦めろと言う。  
諦めきれず、裏に回って井戸に飛び込もうとして、親分に止められ、祭りでアイツも金が必要だから、この30両は預かるので、ここに泊まっていけという事になった。  
金五郎は女房おさんに質屋に2〜3日行って金を作ってくれと、言っているところに親分が来て、「半刻話をしてやって、命を助けてやったら30両の金が入る」やってくれるか。金五郎は乗り気だが、おさんは嫌がった。「出来れば2〜3日泊まって全財産巻き上げてこい」とまで言われた。女房を売ってまで、金をほしがる亭主に呆れるばかりであったが、親分に言い含められて出かけてきた。  
亭主・金五郎は金さえ入れば女房さえ切り刻むのと比べ、茂兵衛は「あのお金はご主人のもので、私は思いが遂げられたら死ぬ覚悟です。」と言われ、心が”雪と炭”程違うのに気付いた。道ならぬ事ではあるが、茂兵衛と一緒にいて、どうか3日でもいいから添い遂げたいと、おさんの心がここでがらりと変わった。手に手を取って逐電するという、おさん茂兵衛の馴れ初めです。  
 
江戸落語としては上尾という舞台設定が珍しい。また、この様な男女間の痴話もの、週刊誌で書かれるような三流ゴシップものも講談以外で、落語になっているのも珍しい。続きがあるのか、ここでお終いなのか良く分からない噺です。そのせいか円生もあまりやらなかった噺です。おさんと茂兵衛さんは深川に戻ってご主人に頭を下げたのか、本当に行き先不明になってしまったのか・・・。ウブな男にいったん火が点くと大変です。  
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深川仲町(ふかがわ なかちょう / 江東区門前仲町) 呉服屋中島屋惣兵衛の店があったところ。深川門前仲町を略して、門仲、仲町といった。富岡八幡の門前町で賑わっているところで、深川(辰巳)芸者で有名。深川には岡場所(吉原以外の遊所)が多く、仲町、新地、櫓下、裾継、石場、佃、土橋を「深川七場所」と呼んだ。なかでも、仲町はもっとも高級として知られていたが、深川七場所どこも二朱(2/16両、一万円)で遊べたという。  
八幡宮参道入り口にあった一の鳥居(門仲交差点西)から永代寺・富岡八幡宮前に向かって永代寺門前仲町、永代寺門前山本町、永代寺門前町、永代寺門前東町などと江戸時代は街が並んでいます。  
特に有名な料理茶屋として、八幡境内の松本、伊勢屋の二軒茶屋が知られており、天明時代(1781〜)には向島の葛西太郎、それから大黒屋孫四郎、真崎の甲子(きのえね)屋、百川楼と、ここ深川の二軒茶屋が五指に入る第一級の名店だったという。また、山谷・八百善、柳橋・万八楼(万屋八郎兵衛)、王子・海老屋・扇屋、向島・八百松、なども江戸名店のひとつでした。
 
「深川七場所」 ( 白の7点円 )

 
 
 

櫓下(やぐらした) 
(江東区門前仲町2丁目4〜9) 永代寺門前山本町の地。現在の門前仲町交差点角から清洲通り東側の一画。火の見櫓があったので、「表やぐら」「裏やぐら」と呼ばれた岡場所があった。その北側、裾継と合わせて「三やぐら」と称した。  
裾継(すそつぎ) 
(江東区門前仲町2丁目10〜11赤札堂辺り) 櫓下と並んで高速道路下、富岡橋跡までの一画にあった。  
仲町(なかちょう) 
櫓下から東へ八幡様の参道までの一画(富岡一丁目8〜13)、及び、永代通りを渡った大横川(大島川)までの一画(富岡一丁目1〜7)深川七場所の中で、天保時代(1830〜43)一番栄えたところ。永代通りの北側に尾花屋、通りの南側に梅本に山本の、有名な3軒の茶屋があった。天和年間に水茶屋が許され、女を置いたのが起源とされる。芸者総計七十七人、女郎六十八人がいたとされる。八幡境内本殿北東には、有名な二軒茶屋(料亭)があって、その二軒とは伊勢屋に松本であった。伊勢屋は現在の横綱碑がある奥辺り、松本は数矢小学校辺りにありました。 非常に高級で高かったので、庶民が簡単に入れるような料理屋ではなかった。  
石場 
(牡丹一丁目の一部) ここら辺を新石場と呼んだ。その南に古石場(町)があります。江戸時代千葉・鋸山から運ばれた石材をここに集積したので、この名がおこった。  
新地 
(門前仲町から南へ黒船橋を渡り、次の交差点を左に曲がると上記石場に出るが、右に曲がり越中島一丁目の西端、または、永代一丁目川岸(当時は海岸だった) 隅田川と大島川の合流点にあった。船で来る客が多かったので、一番利便性が良かった上、百歩楼、船通楼(旧・五明楼)、大栄楼などの高楼ができ、隅田川が一望でき風光明媚で江戸中心に近く繁盛した。  
佃(つくだ) 
俗に”あひる”と呼称されていた。八幡宮正面、南の大島川に架かる巴橋(蓬莱橋・がたくり橋)を渡った左右、牡丹二〜三丁目の一部。現在の巴橋を渡った左側が佃町。  
土橋 
八幡境内を出た、東側(三十三間堂があった)汐見橋が架かる平久川(三十間川)までの一画(富岡二丁目)と、永代通りを渡った大島川までの一画(富岡一丁目24〜26)。安永・天明(1772〜88)の頃には仲町と並ぶ賑やかさを誇っていたが、寛政の改革(1789)と津波によって大打撃を被り、三十三間堂が無くなったあおりをうけ、この場所も衰退した。富岡二丁目にあった平清(ひらせい。江戸訛りで、ひらせ)は、遊女を連れて飲食するなど、有名料理茶屋として明治39年8月まで続いた。  
 
どの地域も吉原のように堀や厳密な境界線があった訳ではなく、重複したり、自然と次の呼び名の地区に入っていったりした。また、そのぐらい多くの花街が民家と渾然一体となって、散在したり集中したりしていました。  
 
辰巳と言われた深川周辺の岡場所には、深川七場所以外に、以下のような場所も有名でした。網打場(門前仲町1−13)、三角屋敷(深川1−5)、直助屋敷(三角屋敷近所)、井の堀(深川扇橋。水上娼婦である「船饅頭」があった)、大橋(新大橋東)、がたくり橋(巴橋)、こんにゃく島(霊巌島)、三十三間堂(富岡2)、中洲(日本橋中州)、深川入船町(牡丹3−33と木場1−1辺り)、深川おたび(新大橋2−21西光寺西・八幡旅所)、弁天(おたび北、一つ目橋南岸)、安宅(あたけ。深川おたび南)、深川常磐町(高橋北西)などがありました。もっと細かい花街等もこの地に散見されます。数え上げたら両の手・足の指を動員しても数え切れません。  
早い話、富岡八幡宮の回りは岡場所で囲まれていた事になります。しかし、当時は神社仏閣と遊廓は隣り合わせの、セットで参拝され、お互い持ちつ持たれつの関係にあったのが普通です。この八幡宮も江戸中期にはさびれていたのを、境内の中に茶店を置き、遊行させて人を集めたとも言われます。隅田川東部の開発を進める為、幕府は八幡宮とその周辺の岡場所を黙認していた時期があります。  
しかし、この岡場所も寛政の改革(1789)に続き、天保の改革(1842)で完全に解体されてしまった。と言う事になっていますが、明治以降にもしぶとく生き残ったところもあります。
 
勝海舟正妻 深川芸者勝民子の意地

 
 
 

勝海舟は、どうやって知り合ったか、どの文献もその点は書いてないが、旗本小普請組(41石)が人気高い美女の深川芸者を射止めて妻にしたのである。深川芸者は勝民子となった。勝と共に貧乏暮らしをしていた。その貧乏は、すざましかった。長屋の天井板を全部はがして、冬の暖房のために燃してしまって、天井がなかったらしい。  
貧乏から抜け出し、役職に付くころから、勝は堂々と妾と妻を同居させる生活をした。二つ三つ年上の妻民子なら芸者であり、文句をいわず認めてくれると高をくくっていた。甘えがあっただろう。芸者は男をあしらうプロ、嫉妬などないと、思い込んでいたのかもしれない。  
賢妻といわれてきた民子も、死に際しては、勝海舟の墓に入るのを拒否して、早逝した長男小鹿ころくの横に葬ってほしいと頼んだ。昔は、耐える妻を美徳のようにいうが、昔も今も、やっぱり妻をないがしろにする夫には腹を据えかねる。  
勝海舟の子どもは、正室民子に、男二人、女二人(長男小鹿早逝)があり、個室(妾)に男二人、女三人があった。  
維新後に住んだ氷川邸(港区赤坂氷川小学校内)には、二人の側室(女中増田糸、小西かね)が同居。梅屋敷別邸と長崎西坂の個室(森田栄子、梶玖磨女)が住んでいた。  
多分コレだけではすまないだろう。明治の男たちは、みな「男の甲斐性」だと思っていたし、それを世間が認めていた。法律上でも、女の浮気は認めないで処罰の対象であったから、男にとっては都合がよかった。その常識に勝海舟はそれに乗っかっていただけだが、開明的は思想を持っていても、女を人間扱いをしない点では、民主的なアメリカを見て、「大統領の子が今なにしているかわからない」と日本の社会を批判しながら、自分の女、妾制度をなんとも感じないのは、勝海舟に限界かもしれない。  
妻勝民子の生き方も、その当時の賢夫人を貫き通しているが、殻を破る人ではなかったというところか。それより、勝海舟の妹佐久間順の生き方は、波乱に富み、女の枠を超えている。 
勝民子 2  
勝民子は勝海舟(勝隣太郎)の妻で生年不詳、元は元町の炭屋・砥目茂兵衛の娘で深川の人気芸者だったが二十五歳のときに二歳年下で二十三歳の勝海舟(麟太郎)と結婚したといわれている。当時、勝海舟が住んでいた本所入江の地主で旗本・岡野孫一郎の養女となって輿入れした。(海舟の父・小吉とは深い付き合いで実家の男谷家を出て転居を繰り返したうちの最も永く住んだのが岡野家の敷地だった。)勝家は当時、小普請組の四十一石取り無役小身の旗本で三畳一間の極貧生活を余儀なくされたが民子は不満1つ言わずに蘭学の本を読みふける夫を支えた(冬の寒い日には天井板を剥がして燃やし暖をとり家の中でも空が見えたという暮らしだった。)夫婦は中睦ましく結婚翌年の弘化三年には長女・夢子が生まれ、その後次女の逸子、嘉永五年には長男の小鹿が生まれ麟太郎・民子夫婦は二男二女をもうけ幸せな生活を送ったと晩年に語った。この頃には海舟は蘭学の私塾を開いていたがペリーの黒船が来航して幕府はその対応に苦心していた。海舟(麟太郎)は幕府に海防の意見書を提出し老中・阿部正弘に認められ安政二年に長崎海軍伝習所を創設して海事研究を始め二年後には伝習所教授に就任した。海舟(麟太郎)はこの地で「おひさ」(おくま)という十四歳の未亡人を妾にし男の子を生ませたという。その後、貧乏生活から脱した麟太郎は糸の切れた凧のように各地で妾を作り維新後には自宅にも二人の妾(女中の増田糸と小西かね)と同居して本妻の民子に苦労を掛けたという。また、梅屋敷別邸に森田栄子、長崎の西坂に前述の「おひさ」(梶玖磨)を囲った。正妻の民子は自分の子、二男二女と妾たちの子、二男三女の九人の子供たちを分け隔てなく育て上げ愛妾達から「おたみさま」と慕われたという。だが嫡男の小鹿が四十歳で急逝し小鹿の長女・伊代子に旧主徳川慶喜の十男・精(くわし){当時十一歳}を迎えて勝家を相続させが伊代子が早逝すると実父・徳川慶喜同様に女と趣味に情熱を燃やし写真やビリヤード、当時発売されたばかりのオートバイ(ハーレーダビットソン)に熱をいれ屋敷内にオートバイ専用鉄工所を設けて国産大型オートバイ「ジャイアント号」を完成させた(後にこのメンバーが目黒製作所を作り川崎重工の吸収によってカワサキのオートバイへと発展していった)妻の伊代子亡き後は女中の水野まさという人を妾にしていたがその愛人と服毒心中した。話を元に戻すが海舟は嫡男・小鹿の死や嫡孫に当たる精(くわし)の非行などの心労によって明治三十二年に脳溢血で倒れ「これでおしまい」と言葉を残して帰らぬ人となり富士の見える所の土になりたいとの遺言により別邸千束軒のあった洗足池公園に葬られた。その六年後の明治三十八年に民子は亡くなるのだが最後に「頼むから勝のそばに埋めてくれるな、私は(息子の)小鹿の側がいい」という遺言を残し青山墓地に葬られたが後に嫡孫・精の独断で洗足池の勝海舟の墓のとなりに改葬され現代にいたる。余談だが前述の長崎の愛妾・おくまが生み民子が引取って育てた三男・梅太郎(後に実母の実家・梶家を継いだ)は明治政府の依頼で日本の商業教育に招いたアメリカ人のウィリアム・ホイットニー家族を勝海舟は邸内に住まわせて世話をしたがその娘・クララ・ホイットニーと国際結婚し一男五女を儲けたが後に離婚してアメリカに帰国した。  
 
御家人斬九郎・蔦吉

 
 
 

 
 
 
 
 
 
柴田錬三郎による時代小説。1976年(昭和51年)に講談社から単行本が刊行され、翌年2篇の読み切りが「オール讀物」で発表された。晩年の柴田が最も力を入れた連作である。フジテレビでドラマ化されている。  
江戸時代の末期を舞台に、大給松平家に名を連ねる名門の家柄ながら無役・三十俵三人扶持の最下級の御家人である松平残九郎家正(通称、斬九郎)が、かたてわざと称する武士の副業によって活躍する物語。残九郎の許婚(いいなずけ)の松平須美、幼馴染で北町奉行与力の西尾伝三郎、馴染みの辰巳芸者のおつた、など多彩なキャラクターが登場する。  
蔦吉  
深川育ちの辰巳芸者で江戸っ子気質。武家の生まれだが、両親とは死別して植木職人、辰五郎の養女となる。芸者として多くの座敷に出入りしている事情通で、たびたび残九郎に有益な情報をもたらす。残九郎とは相思相愛だが、粋な性格が邪魔して素直に甘えることができず、顔を合わせれば痴話げんかになる。なお原作では“おつた”といい、残九郎の情婦というテレビ版とはまるっきり別設定となっている。本名は大沼妙子 。
 
深川七福神 ( 青の7点円 )
 
  深川七福神 

 
 
 

 
 
 
 
 
 
深川には江戸時代から有名な寺院や神社が多く、七福神詣があり、七難即滅と愛敬冨財(恵比寿神)、芸道富有(弁財天)、人望福徳(福禄神)有福蓄財(大黒天)、勇気授福(毘沙門天)、清廉度量(布袋尊)、延命長寿(寿老神)の七福即生という勝縁が授かるといわれてきた。  
恵比須神/富岡八幡宮(とみおかはちまんぐう) 江東区富岡 
旧府社で深川八幡宮ともいう。祭神は誉田別命(ほむだわけのみこと)に天照大神(あまてらすおおみかみ)ほか三柱を配祀する。天平宝字年間(757〜765)の創建と伝えるが、『江戸名所図会』には源三位頼政(げんざんみよりまさ)が尊崇した神像を千葉・足利両氏が伝え、のち太田道灌の守護神になるという。1627(寛永4)年に永代(えいたい)島に再建、江戸下町の繁盛につれてとくに深川木場の尊崇を集める。恵比須神は、富岡八幡宮境内の西側にある恵比須宮に奉祀されている。  
弁財天/冬木弁天堂(ふゆきべんてんどう) 江東区冬木 
冬木弁天堂は、木場の材木商だった冬木弥平次が宝永2(1705)年、中央区茅場町から、深川に屋敷を移転した際、邸内の大きな池のほとりに、竹生島から移した弁財天を安置した。そのため今でも冬木町という。その弁財天は、等身大の裸形弁天なので、毎年1回衣装の着替行事を行ってきたが、大正12年の関東大震災で焼失。現在の弁天堂は昭和28年に再建された。冬木弁天堂は古義真言宗に属している。  
福禄寿/心行寺(しんぎょうじ) 江東区深川 
元和2(1616)年京橋八丁堀寺町に創立された浄土宗の寺で開山は観智国師の高弟である屋道上人、開基は岩国城主吉川監物の室・養源院殿であり、寛永10(1633)年現在地深川寺町に移った。関東大震災と戦災により二度も焼失したが、現在の本堂は昭和42年に再建さた。昭和50年に福禄寿が安置されている六角堂が完成した。 
大黒天/円珠院(えんじゅいん) 江東区平野 
円珠院は、享保のころ旗本永見甲斐守の娘、お寄の方が起立した後、円珠院殿妙献日寄大姉の法名で、享保15(1730)年末にこの寺に葬られた。享保5(1720)年11月13日に画かれた大黒天の掛軸があり、木造の大黒天が安置、境内に石造の破顔大黒天が安置されている。江戸時代から深川の大黒天として有名。  
毘沙門天/龍光院(りゅうこういん) 江東区三好 
慶長16(1611)年に馬喰町に創立され、明暦3(1657)年大火で焼失、天和2(1682)年岩井町から深川の地に移転した。移転した時鬼門除けとして東北角に毘沙門天が安置され昭和11年に毘沙門堂が建立され、戦災で焼失したが昭和50年復興した。 
布袋尊/深川稲荷神社 江東区清澄 
寛永7(1630)年の創立、深川地区では創立の古い神社。祭神は、宇賀魂命、西大稲荷ともいう。この付近の旧町名は、深川西大工町で、昭和7年8月1日深川清澄町と改称し、その旧名から西大稲荷という。この神社の裏の小名木川は、江戸時代初期から、船の往来がはげしく、この付近一帯に、船大工が住み、船の修理、造船をしていたので、この町名が生まれたといわれる。この神社は無住社で町会によって管理運営されている。  
寿老神/深川神明宮(ふかがわじんみょうぐう) 江東区森下 
深川において創立の最も古い神社。大阪摂津の深川八朗右衛門が、この付近に深川村を開拓し、その鎮守の宮として慶長元(1596)年伊勢皇大神宮の御分霊を祀って創建した。徳川家康が、この村に来て村名を尋ねたが 判らないので、深川八朗右衛門の姓をとって、深川村と命名せよといわれた由以来深川村が発展し、深川地区の各町に冠せられ、深川の地名のもとになった。
 
芭蕉庵
 

 
 

1.入庵前の芭蕉の動向  
芭蕉が、後に江戸で出版されることになる「貝おほひ」の原稿を携えて伊賀上野を立ったのは、寛文12年(1672年)29歳のときであった。江戸到着後、最初に足をとどめたところについては、日本橋本舟町の名主卜尺方、小田原町の杉山杉風方などの説がある。卜尺は、芭蕉が京都の北村季吟に学んでいるときに出会った同門の俳友であり、杉風は、日本橋で「鯉屋」という名の幕府御用の魚問屋を営み、豊かな経済力で芭蕉の生活を支えた門弟である。  
杉山杉風について  
芭蕉が北村季吟から連歌俳諧の秘伝書「埋木」の伝授を受けた翌年の延宝3年(1675年)5月、東下していた談林俳諧の中心人物・西山宗因(梅翁)を歓迎する百韻俳諧が江戸本所で興行された。連衆は、桃青(芭蕉。本俳席が文献上「桃青」号初出)の他、芭蕉が一時執筆役をつとめた幽山(高野直重)や、「目には青葉山ほととぎす初鰹」の句で知られる山口信章(素堂)、木也、吟市、少才、似春などの面々だった。  
芭蕉は、この西山宗因を「上に宗因なくんば、我々が俳諧今以て貞徳(貞門俳諧の祖)が涎(よだれ)をねぶるべし。宗因はこの道の中興開山なり」(去来抄)と高く評価し談林俳諧に傾注した。以降、芭蕉は次のような経緯の中で次第に頭角をあらわし、延宝5年(1677年)または同6年に万句興行を果し、俳諧宗匠として立机することになる。  
延宝3年(1675年) 32歳  
広岡宗信編「千宜理記」に「伊州上野宗房」として発句六句入集。  
内藤露沾判「五十番句合」に発句二句入集。  
延宝4年  
山口素堂と両吟で天満宮奉納二百韻を興行し「江戸両吟集」として刊行。  
北村季吟編「続連珠」に発句六句、付句四句入集。  
延宝5年  
この年から4年間、神田上水(小石川上水)の工事に携わる。  
内藤風虎主催「六百番俳諧発句合」に二十句入集。  
伊藤信徳と山口素堂との三吟百韻を興行。  
延宝6年  
前年からの信徳、素堂との三吟三百韻が「江戸三吟」と題して京の書肆寺田重徳から刊行。  
調和系俳人の「十八番発句合」の判者をつとめる。  
「江戸通り町」、「江戸新道」、「江戸広小路」、「江戸十歌仙」などに入集。  
そして延宝8年(1680年)に、杉風、卜尺、嵐亭(嵐雪)、螺舎(其角)らの門人が名を連ねる「桃青門弟独吟二十歌仙」(実際は総勢21名)を刊行して桃青門の存在を世に問うなど、芭蕉は、江戸俳壇の中で確固たる地位を築きはじめていた。  
2.第一次芭蕉庵  
しかし、この年の冬、芭蕉は突如として宗匠生活を捨て、江戸市中から深川の草庵に転居した。なぜ芭蕉が隠棲の道を選択したかについては、同年冬の「しばの戸」から、内なるものが垣間見られる。それは、名誉欲や利欲の渦巻く俗世間からのがれ、深川、草庵、隅田川といったシチュエーションの中に自らを誘い、清貧を礎にした漢詩文中の世界を自己の現実生活で体現しようとした芭蕉の心中である。  
こゝのとせ(九年)の春秋、市中に住み侘て、居を深川のほとりに移す。長安は古来名利の地、空手(くうしゅ)にして金なきものは行路難しと云けむ人のかしこく覚え侍るは、この身のとぼしき故にや。  
しばの戸に茶をこの葉掻くあらし哉  
[解釈] 江戸市中にわび住まいをして9年の歳月を経たところで、住まいを深川のほとりに移した。白楽天が「白氏長慶集」の中で「中国の都長安は昔から名誉と利得の地で、手ぶらでお金を持たずに歩くことなどできないところだ」と書いたのを分別わきまえたことと思えるのは、この身が貧しいためだろうか。  
お湯をわかしたい気持ちを知ってか知らでか、嵐が、しばの戸(草庵)まで燃料となる木の葉を掻き集めてきてくれている。侘びしく暮らしていると風までが身内のように思えてしまうものだ。(解釈:LAP Edc. SOFT)  
芭蕉が棲み家とした草庵は、もとは杉風所有の生簀(いけす)の番小屋だったもので、天明5年(1785年)の「杉風句集」に「此方深川元番所生洲(いけす)の有之所に移す。時にばせを庵桃青と改られ候」とある。  
「元番所」の位置は、むかし「三つ股」と呼ばれた小名木川と隅田川の合流点付近の岸辺で、延宝8年(1680年)に描かれた「江戸方角安見図」(東京都公文書館所蔵)で確認できる。芭蕉の「寒夜の辞」に、庵の地理にふれた「深川三またの辺に草庵を侘て、遠くは士峰の雪をのぞみ、ちかくは万里の船をうかぶ」のくだりがあるが、北斎の富嶽三十六景「深川万年橋下」はまさにこの光景を描き出している。  
小名木川の向こう岸に、当時、鹿島根本寺住職の仏頂禅師が1年半ほど寓居していた臨川庵があり、芭蕉は禅師の知遇を得、朝夕参禅する日々を送った。この後、芭蕉の作品には、李白、杜甫などに詩精神を学んで得た漢詩文調の作風に加え、「佗」の詩情が色濃く投影されるようになる。  
抑此臨川寺は、むかし仏頂禅師東都に錫(僧などが持つ杖)をとどめ給ひし旧地也。その頃ばせを翁深川に世を遁れて、朝暮に来往ありし参禅の道場也とぞ。  
(「芭蕉と仏頂禅師について-芭蕉由緒の碑」より)  
芭蕉は、庭先から船や雪をかぶる富士山が眺められたことから、杜甫の「窓含西嶺千秋雪 門泊東呉万里船(窓ニハ西嶺千秋ノ雪ヲ含ミ、門ニハ東呉万里ノ船ヲ泊ム)」を想起して庵を「泊船堂」と名付け自らの号としたが、天和元年(1681年)の春に、門人の李下(りか)から贈られたバショウの株を庭に植えたところ、大きく茂って近隣の名物となり、草の庵は誰言うとも無く「芭蕉」の号で呼称された。  
芭蕉翁絵詞伝-深川芭蕉庵  
芭蕉は、天和2年(1682年)の春、望月千春編「武蔵曲(むさしぶり)」の中で自らも「芭蕉」と名乗り「芭蕉翁桃青」と署名した。芭蕉は、この年の秋、風雨にたたかれる庭のバショウを題材に「芭蕉野分して」の句を吟じている。  
老杜、茅舎破風の歌あり。坡翁ふたゝびこの句を侘て、屋漏の句作る。其世の雨を芭蕉葉にきゝて、独寝の草の戸。  
芭蕉野分して盥(たらい)に雨を聞く夜哉  
[解釈] 老杜(杜甫)の「芽屋秋風ノ破ル所トナル歌」(秋風があばらやを吹き飛ばした)と題する詩句の中に「牀頭、屋漏リテ乾ケル処無キニ、雨脚ハ麻ノ如ク未ダ断絶セズ」(枕もとあたりは、雨漏りで乾いたところがなくなっているというのに、雨あしは麻糸を張ったように降り、まだ止もうとしない)とある。坡翁(蘇東坡)は、後年この句を侘びしく思って、自らも雨漏りの詩句を「牀牀、漏ヲ避ク幽人ノ屋」(寝床という寝床を雨漏りから避けなければならない、この世捨て人の家は。)と書いている。古人がしたためた雨音を芭蕉の葉に聞きながら、一人寝する草の戸(草庵)で一句詠んだ。  
嵐吹く一人寝の夜に、芭蕉の葉が風にあおられ、雨に叩かれている音が聞こえてくる。家の中はといえば、まさに老杜や坡翁が体験したと同じように雨が漏っていて、なんとかたらいで凌いでいるありさまだ。このような句を詠むひとときを味わえるのも、草の戸のわび住まいならではと念じる一夜である。 
暮れも押し詰まった天和2年(1682年)の12月28日、駒込の大円寺を火元とする大火が発生し、火は折からの北風にあおられ深川まで燃え広がった。「芭蕉」なる新たな俳号を授けた芭蕉庵であったが、「八百屋お七の火事」ともいわれるこの火事で草庵は全焼し、芭蕉は厳寒の中、焼け出されることとなった。  
芭蕉翁絵詞伝-深川芭蕉庵類焼  
江東区史によれば、火事は午の上刻(午前11時ごろ)に発生し、下谷、浅草、本所から本郷、神田、日本橋にも飛火し、大名75家、旗本166家、神社47社、寺院48宇を焼き尽し、千人を超す焼死者を出した後、翌朝卯の下刻(6時ごろ)ようやく鎮火したという。  
其角の「芭蕉翁終焉記」に、大火の様子などについて「深川の草庵急火にかこまれ、潮にひたり、苫をかづきて、煙のうちに生きのびけん、これぞ玉の緒のはかなき初めなり」と書かれている。  
3.第二次芭蕉庵  
住まいを失った芭蕉は、支援者の杉風も罹災したことから窮地に陥ったが、天和3年(1683年)夏、秋元藩家老・高山伝右衛門繁文(麋塒)の招きで甲斐の谷村に移り、5月まで逗留した。同年6月、其角編「虚栗」に「栗と呼ぶ一書、其味四あり。」ではじまる跋文「芭蕉洞桃青鼓舞書」を書き与え、当時の俳諧観を吐露している。  
松尾芭蕉の総合年譜と遺書-天和3年(「芭蕉洞桃青鼓舞書」)  
同年の9月、知友山口素堂が新庵の建築を願って作成した「芭蕉庵再建勧化簿」により、門弟や友人ら総勢52名から寄付金が集められ、これを元手に第二次芭蕉庵が第一次芭蕉庵とほぼ同じ位置に建てられた。その住所について下里知足著「知足斎日々記」に「深川元番所、森田惣左衛門屋敷」とある。  
松尾芭蕉の総合年譜と遺書-天和3年(「素堂筆勧化文」)  
新庵はこの年の冬に完成。芭蕉は、新築の芭蕉庵に入った感慨を、落ちそうで落ちない枯れ柏葉を己の生き様に例え「ふたたび芭蕉庵を造り営みて 霰(あられ)聞くやこの身は元の古柏」(続深川集)の一句を捻っている。芭蕉40歳の時であった。芭蕉は、貞享元年(1684年)以降、この新庵を拠点に人生すなわち旅であることを実践し、杜甫や西行といった先人が旅によって風雅に迫った境涯を体現するべく、東へ西へと漂泊した。  
野ざらし紀行  
貞享元年(1684)8月、門人千里(ちり)を伴い「野ざらしを心に風のしむ身かな」を矢立の初めとし、故郷、伊賀上野に向かって旅立った。前年に亡くなった母の墓参を兼ねての旅でもあった。東海道から、伊勢、伊賀上野、当麻、吉野山、大垣、桑名、熱田、名古屋、伊賀上野(越年)、奈良、京都、大津、水口、鳴海 と旅し、木曽路から甲州路に入り、貞享2年4月末、江戸に戻った。この旅の紀行は「野ざらし紀行(甲子吟行)」としてまとめられた。  
松尾芭蕉の旅-野ざらし紀行  
鹿島紀行  
貞享4年(1687年)8月14日、月見と鹿島神宮参詣を兼ねて、曽良と宗波を伴い鹿島へ旅立った。旅中、根本寺前住職の仏頂禅師をその山内の住まいに訪ね、止宿している。本紀行を綴った「鹿島紀行(鹿島詣)」は、同年8月25日に成立した。  
松尾芭蕉の旅-鹿島紀行  
笈の小文  
貞享4年(1687年)10月11日、旅を前にして其角亭で送別句会が開催され、10月25日、「笈の小文」の旅に出た。江戸から、鳴海、豊橋、渥美半島、伊良湖崎、熱田神宮、伊賀上野(越年)、伊勢、吉野、高野山、和歌浦、奈良、大阪と巡り、貞享5年4月20日、須磨、明石を訪れ、須磨に一宿したところまでの紀行が「笈の小文」としてまとめられている。  
更科紀行  
貞享5年(1688年)8月11日、8月15日の「中秋の名月」を見るために、蕉門越人(えつじん)とともに岐阜から信濃国の更科へ旅立った。木曽路を登って更科の姨捨山へ行き、長野から浅間山の麓を通って江戸に戻った。この旅の紀行が「更科紀行」である。古来、更科から鏡台山や姨捨山にかかる月を見るのが風流とされており、多くの旅人が当地を訪れている。  
江戸歌舞伎・市川宗家の基礎を確立した柏莚こと二代目市川団十郎(1688〜1758)は、この第二次芭蕉庵における芭蕉の生活ぶりについて、台所に2つのかまどや10個の茶碗、庖丁があって、柱に米が2升4合ほど入るふくべ(瓢箪で作った器)が2つ掛けてある、米は門下の者がつぎ足してくれたが、空になると芭蕉自ら求めに出かけた、芭蕉は当時40歳前後だったが60歳ほどの老人に見えたそうだ、などと「老の楽」に記している。これは、実際に庵を訪れたことのある蕉門の小川破笠が、享保20年(1735年)2月8日、柏莚に語ったものである。  
桃青深川のはせを庵、へつゐ二つ、茶碗十を、菜切庖丁一枚ありて、台所の柱にふくべを懸けてあり、二升四合程も入べき米入なり、杉風文鱗弟子の見次にて、米無くなれば又入れてあり、若弟子よりの米、間違ひて遅き時ふくべ明けば、自ら求めに出られしが、其頃笠翁子(破笠)は二十三か二十四の時の由、翁(芭蕉)は六十有余の老人と見えし由、其頃翁は四十前後の人か、(中略)嵐雪なども、俳情の外は翁をはづし逃げなど致し候由、殊の外気がつまりて面白からぬ故なりと、翁は徳の高き人なり、今大様翁の像に衣をきせ候へ共、笠翁の覚え候由、常に茶の紬の八徳のみ着申され候、(中略)翁の仏壇は、壁を丸く掘ぬき、内に砂利を敷き、出山の釈迦の像を安置せられし由、机一脚、まのあたり見たりとの笠翁物語り。 (老の楽)  
貞亨5年(1688年)の9月30日に年号が「元禄」となり、その半年後の元禄2年(1689年)2月(旧暦)末、芭蕉は「おくのほそ道」の旅を前にして第二次芭蕉庵を手放し、出立の日まで杉風の別墅採荼庵で仮住まいをした。採荼庵は仙台堀に架かる海辺橋の南詰にあった。芭蕉は、翌月27日早朝、ここを立って見送りの門人とともに仙台堀に浮かぶ船に乗り、隅田川をさかのぼった。  
採荼庵 
「おくのほそ道」への旅立ち  
4.第三次芭蕉庵  
元禄2年(1689年)8月21日に「おくのほそ道」の旅を大垣で終えた後、芭蕉は伊賀上野や膳所、京都など上方を漂泊。その間、義仲寺に逗留していた芭蕉のもとに、杉風から、第二次芭蕉庵の再入手を試みたが資金繰りに難渋し、実現できなかった旨の書簡が届けられた。  
芭蕉は、元禄4年(1691年)9月28日、居住地を失ったまま江戸へ旅立ち、同年10月29日に到着した。帰着直後の芭蕉の所在については、11月13日の曲水宛の書簡に「いまだ居所不定に候」とあるが、5日後の18日に書かれた中尾源左衛門・浜市右衛門連名宛書簡には「宿は(日本橋)橘町彦右衛門と申すものの店にて」と記されている。芭蕉は、この彦右衛門の借家で元禄5年(1692年)の正月を迎えた。  
同年の5月になって、杉風と枳風の出資、曽良と岱水の設計により、旧庵の近くに第三次芭蕉庵が新築された。この庵は、元禄7年(1694年)5月11日に江戸を離れるまでの丸2年間の住まいとなった。以下は、一株から育てた芭蕉への思い入れを綴る「芭蕉を移す詞」の全文である。  
菊は東雛に栄え、竹は北窓の君となる。牡丹は紅白の是非にありて、世塵にけがさる。荷葉は平地に立たず、水清からざれば花咲かず。いづれの年にや、住みかをこの境に移す時、芭蕉一本を植う。風土芭蕉の心にやかなひけむ、数株の茎を備へ、その葉茂り重なりて庭を狭め、萱が軒端も隠るばかりなり。人呼びて草庵の名とす。旧友・門人、共に愛して、芽をかき根をわかちて、ところどころに送ること、年々になむなりぬ。一年、みちのく行脚思ひ立ちて、芭蕉庵すでに破れむとすれば、かれは籬の隣に地を替へて、あたり近き人々に、霜のおほひ、風のかこひなど、かへすがへす頼み置きて、はかなき筆のすさびにも書き残し、「松はひとりになりぬべきにや」と、遠き旅寝の胸にたたまり、人々の別れ、芭蕉の名残、ひとかたならぬ侘しさも、つひに五年の春秋を過ぐして、再び芭蕉に涙をそそぐ。今年五月の半ば、花橘のにほひもさすがに遠からざれば、人々の契りも昔に変らず。なほ、このあたり得立ち去らで、旧き庵もやや近う、三間の茅屋つきづきしう、杉の柱いと清げに削りなし、竹の枝折戸やすらかに、葭垣厚くしわたして、南に向ひ池に臨みて、水楼となす。地は富士に対して、柴門景を追うて斜めなり。淅江の潮、三股の淀にたたへて、月を見るたよりよろしければ、初月の夕べより、雲をいとひ雨を苦しむ。名月のよそほひにとて、まづ芭蕉を移す。その葉七尺あまり、あるいは半ば吹き折れて鳳鳥尾を痛ましめ、青扇破れて風を悲しむ。たまたま花咲けども、はなやかならず。茎太けれども、斧にあたらず。かの山中不材の類木にたぐへて、その性たふとし。僧懐素はこれに筆を走らしめ、張横渠は新葉を見て修学の力とせしなり。予その二つをとらず。ただその陰に遊びて、風雨に破れやすきを愛するのみ。  
[現代語訳] 菊は東の垣で栄え、竹は北の窓で「此の君」となる。牡丹は、紅色と白色のどちらがよいか論じられるなど、俗人にけがされている。はすは平地にはそだたず、水が清らかでなければ花は咲かない。いずれの年であったか、すみかをこの境、深川に移したとき、芭蕉を1株植えた。ここの風土が芭蕉の生育に適したのだろうか、1株が数株に増え、葉が茂って庭を狭め、萱(かや)の軒先も隠してしまいそうである。人が芭蕉庵と呼ぶので、これを草庵の名にした。旧友や門人は、ともに芭蕉を愛し、芽をかいたり根を分けて、あちらこちらに送ることが毎年のこととなった。ある年、みちのくに行脚することを思い立ち、芭蕉庵はもはやうち捨てることになったので、芭蕉の株を垣根の外に植え替えて、庵の近くに住む人に、霜除けや風除けなど、くれぐれも頼みおいて、とりとめもなく心の赴くままにつづった中にもこのことを書き残し、西行がそのむかし「松はひとりになりぬべきにや」といって残される松を哀れんだと同じように、遠くに旅をしながらも芭蕉への気がかりが積もって、人々との別れ、芭蕉への名残、ひとかたならぬ侘しさも、ついには5年の歳月を過ぎて、再び元気に育っている芭蕉に会って涙を流すのである。元禄5年の5月半ば、古歌に詠われた、人を懐かしむ「花橘」は以前と同じように近くから香っているが、これと同じように人々との通じ合いも昔と変わってはいない。やはり、この近辺を立ち去ることができず、旧庵からやや近いところの、三間の草庵としてはふさわしいものである。杉の柱がたいへん美しく削られ、竹づくりの枝折戸は風情があって心地よく、よしでつくられた垣根は厚く築かれ、南に向かって池に臨んで、水楼のようである。敷地は富士に面していて、芝の門はその景色をさえぎらないように斜めに建てられている。淅江のような潮は三つまたの淀に満々と湛え、月を見るにふさわしいので、三日月の夕べから、雲や雨が観月の邪魔をしないかと不安である。名月の装いのために、旧庵にあった芭蕉をまずこちらに移した。その葉は七尺余り、あるいは葉が風に吹かれて半ばで折れて鳳凰の尾が痛ましい姿になったようであり、また青扇が破れたようであり、なんとも風が憎らしい。たまたま花は咲くが、華やかではない。茎は太いが斧で切られることはない。荘子の「此ノ木不材ヲ以テ其ノ天年ヲ終ルヲ得タリ」にあるように、山中にあって使用されない木の類は、天年を全うすることになるので尊いものだ。僧懐素は芭蕉の葉に文字を書き、張横渠は芭蕉の勢いのある新しい葉から修学の姿勢を学んだ。私はそのようなことは行わず、ただ、芭蕉の葉のかげで遊び、風雨に破れやすいのを愛するのみである。
5.第三次芭蕉庵のその後  
江東区史によれば、芭蕉が元禄7年(1694年)10月12日に旅先の大阪で没した後、第三次芭蕉庵は杉風らによって保護されていたが、元禄10年(1697年)に、芭蕉庵のあった元番所から六間堀にかけての一帯が、飯山藩松平忠喬の屋敷に取り込まれ、その後、芭蕉庵の周辺は松平遠江守の屋敷となった。芭蕉庵は、屋敷内に旧蹟として保存されたが、幕末から明治にかけて消失したという。  
それから半世紀ほど経過した大正6年(1917年)、台風がもとで江東区などの海岸域に大津波が発生し、このとき、稲荷神社が建つ江東区常盤1丁目3番付近で芭蕉遺愛のものとみられる石蛙が発見された。これより、東京府は大正10年、当地を芭蕉ゆかりの庵跡に指定し、同神社に石蛙を祭って芭蕉稲荷とした。芭蕉庵跡地の「証人」となった石蛙は、現在、近隣の芭蕉記念館に保存・展示されている。  
 
築地・八町堀・日本橋南 界隈

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                         御宿かわせみ / 大川端町 (上段右) 
                         同心組屋敷 / 組屋敷 (上段中央・青点円) 
                         人足寄場 / 石川島 (中段右端・青点円) 
                         中村主水 / 八丁堀 (中段中央) 
                         八丁堀の七人 / 八丁堀 (中段中央) 
                         江島生島 / 木挽町 (山村座 ・八丁堀やや下) 
 
                         北町奉行所 / 呉服橋門内 (上段左端) 
                         中町奉行所 / 鍛冶橋門内 (中段左端) 
                         南町奉行所 / 数寄屋橋門内 (下段左端)

   
 
必殺仕置人 / 八丁堀

 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
必殺シリーズの第2弾として、朝日放送と京都映画撮影所が制作し、TBS系列で1973年4月から10月にかけて放映された時代劇。  
中村主水  
北町奉行所定町廻り同心。普段は「昼行灯」を演じているが実際には頭のキレる策士で剣術の腕も立つ。前述の経緯から仕置人を結成する。本作は中村主水の初登場作品であり、主水シリーズの第1作目に数えられるが、主に知恵袋的な立ち回りで殺しには参加しない回もたびたびある。全く仕置きに関わらないことすらあり、登場しない回もある。  
表稼業での顔  
奉行所内外で「昼行灯」と評され、軽んじられるヒラ同心。実際、職務も怠慢が目立つが、それ以上に自分の担当地域の商屋に袖の下(賄賂)を要求したり、同じく軽犯罪の場合には金で見逃す、現代でいうところの悪徳警官である。史実として同心(役人)に付け届けを払うということは実際によくあったことだが、必殺シリーズが誕生した当時の時代劇の常識として、主人公である同心がこのような小悪党という設定は珍しいことであった。普段は無気力な一方で、有力旗本や大名などの巨悪が絡む事件については上の命令を無視してまで捜査をしようとするなど、元来の性格が現れることもある。多くの上司は主水のことを軽んじたり蔑ろにし、時には疫病神と呼んで嫌ったが、中には主水の素質と性格を見抜いて報償金を使って上手くコントロールした者もいた。同僚たちからも馬鹿にされる一方で、10年以上に渡って宴会の幹事を行い、宴会の仕切りに関しては同僚たちからも信頼されていた。また賭け事の胴元をすることも多く、その際には、普段は口うるさい上司も上手く丸め込んだ。  
家での顔  
妻・りつ、姑・せんと3人で、八丁堀の役宅に暮らしている。恐妻家で、やる気のなさゆえに奉行所での出世の見込みがないこと、主水自身の怠惰な生活態度から、家庭内では2人から疎まれ、陰に日向にいびられ続けている。主水も、そのような態度で接する二人、特に厳しく当たってくるせんに対しては相当に嫌気が差している様子が窺える。しかし一方、表に出ないだけで実際は深い愛情で結ばれてもおり、それを示唆するエピソードも劇中に数多く見られた。30歳を過ぎても子供ができず、妊娠の兆候もないことから、せんとりつからは「種無しかぼちゃ」と罵られている(『暗闇仕留人』から)。その後『商売人』ではりつが妊娠し、同作の重要なテーマにもなったが、最終的には死産に終わり、その後は再び「種なしかぼちゃ」に戻ってしまった。『新仕事人』第37話のように親子愛が描かれたこともあった。また、へそくりが趣味で、袖の下や裏の仕事などで得た金銭を創意工夫を凝らして家の様々な場所に隠している。それをせん・りつに見つかってしまうことも多い。  
裏稼業での顔  
主水は、その経歴の中で裏稼業として「仕置人」「仕留人」「仕業人」「商売人」「仕事人」を名乗った。主水は元々参謀的な脇役として登場し、殺し以外にも、同心という表の仕事を利用した情報収集やサポートを行なった。初作『仕置人』は特にその傾向が強く、実際に殺しを行うのは鉄と錠だけで、サポートにすら関わっていないエピソードも存在する。そのような一部の前期シリーズを除けば、主水は所属するチームのリーダー的な役割を務め、数々の法で裁けぬ悪人達を葬った。  
裏稼業に対する姿勢は、シリーズでの主水の経歴を追うことで読み取ることができる。『仕置人』で仕置人となった当初はアルバイト感覚で仕置きに参加し、自らの正義が叶うことのないやり場のない日々の怒りを悪人にぶつけるように積極的に仕置きに関わっていた。その傾向は次作『助け人』でのゲスト出演や『仕留人』での裏稼業結成でも同様であった。しかし、その後『仕留人』で糸井貢が仕留人としての自らのあり方に苦悩して命を落とすと、殺しに対する意識が変わりはじめる。以後は殺しのプロとして、裏稼業に感情をなるべく出さず、仲間と馴れ合うことを避けるようになる。ただし昔なじみである念仏の鉄と2回目に組んだ『新・必殺仕置人』時期は、もともと鉄の仲間だった他の仲間たちのことも信用しており、主水が『仕置人』『仕留人』時代以外で仲間と友人のように馴れ合う場面が多く見受けられるのはこの『新・仕置人』時代のみである。事件に私情を挟むことはほとんどなく、むしろ私情を持ち込もうとする仲間に対して牽制や警告を行なう。精神的に未熟で感情的に行動しがちであった初期の秀や、子供じみた正義感を振りかざす西順之助に対しては鉄拳を振るったこともある。また、チームが危機に瀕した場合には、その原因であるメンバーを容赦なく斬ることを宣言するなど、裏の仕事に関してはシビアな面が強い。そのため仲間からは「そんなに我が身がかわいいか」と非難されることも多いが、本当に仲間が危機に陥った場合には自ら危ない橋を渡って助けようとすることも多く、実際に仲間を粛清したり裏切ったりしたことはない。  
例えば『新・仕置人』で重要な伏線となるように、前期シリーズにおいて主水の正体は裏稼業界では知られていなかった(裏稼業界でも主水は自分の正体を隠していた)。特定の斡旋人(元締)の下で働くということもなく、むしろ主水自身はそのような人物・組織を「人殺しの集団」「信用できない」と呼んでいたこともある。全シリーズを通して見ても「寅の会」や「闇の会」など間接的に関わった例を除けば、主水が特定の元締の体制下で依頼を請け負っていたのは『仕事人』と『仕事人・激突』の時だけである。主水の名が仲間以外の裏稼業者に知られていることを確認できるのは主水シリーズの第6作目『商売人』の第22話が最初である。  
逆に後期シリーズ(仕事人シリーズ)においては、主水は裏稼業界でも名の通った仕事人となり、様々な同業者達と面識があった。その中には有力な元締もおり、しばしば仕事の斡旋を受けたこともあるが、先述したように特定の元締の体制下で依頼を行ったことは少ない。関連して後期エピソードの中にはその回の悪党が裏稼業界を牛耳るために有力な仕事人である主水を手元に置こうと謀略をしかけた話が多数ある(『V・激闘編』第24話・最終話、『V・風雲竜虎編』第1話など)。『仕事人』第82話のように、主水のことを知らない闇の稼業の者達も登場している。 
 
御宿かわせみ / 大川端町

 
 
 

 
 
 
平岩弓枝作の連作時代小説シリーズ。旅籠「かわせみ」を舞台にした人情捕物帖。  
時は江戸時代末期、ところは江戸大川端(現在の墨田区吾妻橋から江東区新大橋にかけての一帯)。腕利きの町奉行所定廻り同心だった父を亡くした庄司るいは、家督を親戚に譲り、大川端に旅籠「かわせみ」をひらく。一つ年下の幼なじみで恋人の神林東吾は、奉行所与力の弟。東吾の友人で八丁堀の定廻り同心の畝源三郎や、医者で将軍家御典医の倅の天野宗太郎、かわせみの奉公人嘉助・お吉らとともに市井の事件を解決していく。  
連作の初期から中期には、身分違いを気にするるいと東吾のなかなか進展しない恋愛模様が長く描かれ、いわば永遠の青春の呈を表していたが、近年では東吾の出仕、るいとの結婚と子供の誕生と、幕末の時代の流れの中でそれぞれの登場人物の時間が動いていくさまが描かれるようになってきている。  
神林東吾 
南町奉行所吟味方与力・神林通之進(かみばやし みちのしん)の弟。伸びやかな性格の持ち主。美男子。 神道無念流の遣い手で練兵館では高弟の一人。八丁堀の道場の師範の一人であり、方月館の師範代を務めた。 長らく二男坊の冷や飯食らいで、るいとは正式に結婚できなかったが、通之進の配慮により祝言を挙げることができ、さらに望外にも講武所の教授方と軍艦操練所勤務(後に教官並)となる。 八丁堀に生まれたものの使命感と持ち前の好奇心のもとに、親友である畝 源三郎の手伝いをしたり、かわせみに飛び込んでくる事件に首をつっこんだりして捕り物に関わる。 なお、苗字は当初「かんばやし」と表記されていたが、現在は「かみばやし」に統一されている。  
(庄司)るい 
大川端にある旅籠かわせみの女主人。東吾の妻。 鬼同心と言われた庄司源右衛門の一人娘。父の死後、本来なら養子を迎えて家を嗣ぐべきところ、同心株を返して旅籠を始める。 東吾とは幼なじみ。子どもの頃から東吾のことが好きだったが、身分違い(東吾は子のない通之進の跡継ぎと目されていた)であることと家付き娘であることから半ばあきらめていた。作品中美人であることが強調されている。たびたび女長兵衛をきどる情け深さの一方、勇敢に小太刀を振るうことも。旅籠かわせみは、深川の外れ、大川端町というところ。東吾の住む八丁堀とは目と鼻の先。  
畝源三郎 
定廻り同心。東吾の親友。東吾やるいにとっては幼なじみ。 定廻りにしては野暮ったいと言われるが、誠実な男。東吾には「源さん」と呼ばれる。 
 
八丁堀の七人 / 八丁堀
 

 
 
 

 
 
 
 
 
テレビ朝日系で放送された、片岡鶴太郎・村上弘明主演の時代劇テレビドラマである。テレビ朝日・東映の共同制作により第7シリーズまで制作された。  
毎回のストーリー展開としては殺人事件が起きて、与力の青山と青山の部下の同心六人を合わせた主役の七人が捜査していく上でそこに絡む人間模様を描き、最後は殺人犯を捕縛するというもの。仏田も青山も悪人を殺さずに捕らえる事を目的としているが、悪人が何か、善良に生きようとする(した)町人の誰にも言えない過去をばらそうとする時は口封じのために殺す事もあったりと、捕物劇というよりはサスペンスドラマ色の濃い時代劇であった。  
仏田八兵衛 / 片岡鶴太郎  
北町奉行所定廻同心。別名「仏の八兵衛」と言われるほどお人よしで、他人に優しく自分には厳しい人柄からか人望も厚い。生真面目な性格故に上に食って掛かることも多かったり、一時期黒沢左門によって物書き同心に降格させられたこともあった。血の繋がっていない娘おやいを実の娘のように熱心に育てている。弥生とは喧嘩するほど仲が良いといった間柄だが、亡くした妻の事もあり、好きとはなかなか言い出せずにいる。但し、女心にやや鈍い面も。捕り物では独特の鉄製鉢巻(鉢金)をしている。捕り物の時は普通は法に則り生かして捕らえるが、本気で許し難い相手の場合のみ抜刀する事を辞さない。自宅で近所の子供の為に手作りの凧を作り、絵を描いたりしている。青山や磯貝からは「八」「八兵衛」、同僚からは「八兵衛さん」と呼ばれている。  
青山久蔵 / 村上弘明   
北町奉行所与力。剣の腕も随一の上、常に一歩二歩先を見通しているかなりの切れ者。歯に衣着せぬ言動で、上役達に忌み嫌われている。無類の酒好きであるが、悪酔いして取り乱すことは決して無く、釣りも趣味のようである。部下の八兵衛とは捜査方法の違いなどでよく衝突するが、正義を貫く気持ちの強さは同じである為、部下の中でも一番信頼しており、特に容疑者を白状させる「落とし」のテクニックは八兵衛が奉行所で一番と言っている。仕事以外の場では上下関係無く気の置けない友人としても接している。そんな久蔵も父親としてはイマイチのところもあり、妻を亡くしてからは息子の市之丞に少々手を焼いている。上司以外には「おいら」という一人称を使い、キザな物言いが特徴。捕り物では十手や刀を使わず、鉄鞭を使っている事が多い。八兵衛同様生かしておけない程の許し難い相手に対してのみ、抜刀する事を辞さない。八兵衛達からは「青山様」と呼ばれる。「葉菊紋」を家紋とするところから徳川譜代の青山氏の庶流を想定していると推定される(徳川譜代青山氏の本家は丹波篠山藩主青山氏)。 
 
絵島生島事件 山村座(芝居小屋) / 木挽町
 
  絵島生島 

 
 
 

 
 
   
 
 
 
 
 
 
 
 
江戸中期、大奥女中の絵島と歌舞伎役者の生島新五郎ら多数が処罰された風紀粛正事件である。絵島生島事件、絵島事件ともいう。 
正徳4年1月12日(1714)江戸城大奥の御年寄・江島は仕えている月光院の名代として前将軍・家宣の墓参りのため、宮路らと共に寛永寺、増上寺へ参詣。その帰途に懇意にしていた呉服商・後藤縫殿助の誘いで木挽町(現在の東京都中央区東銀座界隈。歌舞伎座周辺)の芝居小屋・山村座にて生島の芝居を見た。芝居の後、江島は生島らを茶屋に招いて宴会を開いたが、宴会に夢中になり大奥の門限に遅れてしまった。大奥七ツ口の前で通せ、通さぬの押し問答をしている内にこの事が江戸城中に知れわたる事になり、評定所が審理することになった。 
当時の大奥には、現将軍・家継の生母・月光院を中心とする勢力と前将軍・家宣の正室・天英院を中心とする勢力とがあった。月光院が家継の学問の師である新井白石や側用人の間部詮房らと親しい事から、大奥では月光院側が優勢であった。この事件は天英院側にとって、勢力を挽回するための絶好の機会であった。天英院は家宣・家継の元で幕政を牛耳っていた新井白石・間部詮房を追い落とすため、譜代大名(関ヶ原の戦い以前からの徳川氏の家臣)や5代将軍・綱吉時代からの老中達とこの事件を画策したという説がある。 
評定所によって関係者が徹底的に調べられ、それにより大奥の規律の緩みが次々と明らかにされた。江島は生島との密会を疑われ、評定所から下された裁決は死一等を減じての遠島(島流し)。連座して、旗本であった江島の兄の白井平右衛門は武士の礼に則った切腹ではなく斬首、同弟は重追放となった。月光院の嘆願により、江島についてはさらに罪一等を減じて高遠藩お預けとなったが、事実上の流罪であった。江島の遊興相手とされた生島は三宅島への遠島、山村座の座元も伊豆大島への遠島となって、山村座は廃座。この巻き添えを食う形で江戸中にあった芝居小屋は簡素な造りへ改築を命ぜられ、夕刻の営業も禁止された。このほか、取り巻きとして利権を被っていた大奥御殿医の奥山交竹院とその弟の水戸藩士、幕府呉服師の後藤とその手代、さらには材木商らも遠島や追放の処分を受けるなど、大奥の風紀粛正のために多数の連座者が出された。最終的に1500名余の人々が罰せられたと言われている。 
この事件により天英院側が優勢となり、2年後の正徳6年(1716)に家継が亡くなると、天英院が推していた(月光院が推していたとする説もある)紀州の徳川吉宗が次の将軍となった。そのため、この事件が将軍決定を巡る謀略との見方もあるが、幕府を牛耳っていた白石・詮房を追放するために天英院と譜代大名や老中がスキャンダルをでっち上げたという説もある。
 
町奉行  北町奉行所 / 呉服橋門内
 
       中町奉行所 / 鍛冶橋門内  
       南町奉行所 / 数寄屋橋門内

 
 
 

       伝馬町牢屋敷 / 小伝馬町 
       小塚原刑場 / 小塚原 
       鈴が森刑場 / 浜川町の南の一本松
 
       人足寄場 / 石川島 
       同心組屋敷 / 組屋敷
江戸時代の職名で、領内の都市部(町方)の行政・司法を担当する役職。幕府だけでなく諸藩もこの役職を設置したが、一般に町奉行とのみ呼ぶ場合は幕府の役職である江戸町奉行のみを指す。また、江戸以外の天領都市の幕府町奉行は大坂町奉行など地名を冠し、遠国奉行と総称された。町奉行という役職は一般に江戸時代に幕府や藩で用いられた役職である。しかし、後北条氏の例のように、江戸時代以前に町奉行という役職が用いられたこともある。  
町奉行所は一般に現代でいう警察と裁判所の役割を持った公的機関と知られているが、実際にはもっと広い範囲の行政も担当した。特に町方(町人)の調査(人別改)も町奉行所の仕事であり、他にも防災など現代でいう役所全般の職務も含まれていた。また、他の奉行(寺社奉行・勘定奉行)も、その職権が定められた範囲において司法権を持つ役職であり、司法権は町奉行のみが有した権限ではない。  
町奉行は幕府や藩が「町方」として指定した地域を管轄する役職であり、通常は町方の多くは藩庁のある城下町(陣屋町)に限定されたため、町奉行という役職もそこに限定された(ただし、広島藩における尾道のように、藩庁以外に町方を指定したケースもある)。また、町方は通常は武家町・寺社町・町地を含むものであり、町奉行所の管轄は一般にこの中の町地に限定された(諸藩においては、町奉行が寺社奉行職務を兼任することも多かった)。一方で、重要な交通路にあった宿場町など規模の大きい町であっても、町方に指定されていない地域は、通常は郡奉行(郡代)が担当した。  
町奉行  
町奉行は寺社奉行・勘定奉行とあわせて三奉行と称された。他の二奉行と同様評定所の構成メンバーであり、幕政にも参与する立場であった。基本的に定員は2人である。初期は大名が任命され、後には旗本が任命された。旗本が任命されるようになってから以降の町奉行の石高は3000石程度であった。  
その職務は午前中は江戸城に登城して老中などへの報告や打ち合わせを行い、午後は奉行所で決裁や裁判を行なうというもので、夜遅くまで執務していた。そのため役宅は奉行所内にあった。激務のため在任中に死ぬものも多かった。  
部下は与力や同心である。これらは将軍家の家臣であり、世襲制で奉行所に勤めていた。奉行は老中所轄の旗本であって、与力や同心たちとは直接の主従関係は無かった。奉行と主従関係にあった与力は内与力(うちよりき)と呼ばれ、通常の与力とは区別された。内与力は将軍からは陪臣にあたるので、本来は与力よりは格下であり禄高も低いが、実際には奉行の側近として上席与力の待遇を受けることが多かった。講談などでは南北奉行所が互いにライバル関係にあり仲が悪かったかのように描写されるが、後述する南北奉行所の関係(月番制や管轄)からもわかるように、むしろ、奉行の方が余所者であって信頼関係が薄かったとされている。  
町奉行所  
1631年に幕府が町奉行所を建てるまで、町奉行所は、町奉行に任ぜられた者がその邸宅に白州を作ってその職務を執り行っていた。管轄区域は江戸の町方のみで、面積の半分以上を占める武家地・寺社地には権限が及ばなかった。ただ寺社の門前町についてはのちに町奉行管轄に移管された。1818年には江戸の範囲が地図上に赤い線(朱引)で正式に定められたが、同時に町奉行の管轄する範囲も黒い線(墨引)で示された。これは後の東京15区、即ち市制施行時の東京市の範囲とほぼ一致する。町奉行所と言う名称は、その役職から来た名であるため、町人たちからは御番所(ごばんしょ)や御役所と呼ばれていた。  
月番制と管轄  
よく北町奉行(所)・南町奉行(所)と言われるように、(一部の時期を除き)江戸町奉行所は2ヶ所あり、月番制によって交互に業務を行っていた。これは民事訴訟の受付を北と南で交替で受理していたことを指すものであり、月番でない奉行所は、月番のときに受理して未処理となっている訴訟の処理等を行った。奉行が職権で開始する刑事事件の処理などの通常業務は、月番であるか否かにかかわらず、常に行われていた。現在で言うところの管轄区域は南北奉行所で分け合ったのはなく、南北双方の奉行所にいた廻り方同心各自に受け持ち地域を指定した。  
南北という名称は、奉行所所在地の位置関係によりそう呼ばれていたということであり、南北は正式な呼称ではなく公式には一律で町奉行とのみ呼ばれた。従って1つの奉行所が移転されたことによって、各奉行所間の位置関係が変更されると、移転されなかった奉行所の呼称も変更されることになる。宝永4年(1707年)に本来北町奉行所であった常盤橋門内の役宅が一番南側の数寄屋橋門内に移転した際には、その場所ゆえに南町奉行所と呼ばれるようになり、従来鍛冶橋内にあった南町奉行所が中町奉行所に、同じく呉服橋門内にあった中町奉行所が北町奉行所となった。   
 
伝馬町牢屋敷 / 小伝馬町

 
 

江戸に存在した囚人などを収容した施設である。江戸時代の刑法には現在の懲役や禁固に類する処罰が原則として存在せず、伝馬町牢屋敷は現代における刑務所というより、未決囚を収監し死刑囚を処断する拘置所に近い性質を持った施設である。所在地は日本橋小伝馬町(現在の日比谷線小伝馬町駅周辺)一帯に設置され、2618坪(約8639m2)の広さがあった。常盤橋外に牢屋敷にあたる施設が設けられたのは天正年間。それが慶長年間に小伝馬町に移って来たようである。明治8年(1875年)に市ヶ谷監獄が設置されるまで使用された。周辺は土手で囲まれ、堀が巡らされており、南西部に表門、北東部に不浄門が設けられていた。高野長英や吉田松陰らも収容されていた。  
大伝馬塩町の東にあり、北は竜閑川(神田掘)、南と東は小伝馬町1丁目と小伝馬上町に接する。いわゆる伝馬町牢屋敷である。徳川氏関東入部当初の天正年中(1573-92)には常盤橋御門外、町年寄り奈良屋市右衛門と金座後藤庄三郎の屋敷に置かれていたが、慶長年中(1596-1615)北東方のこの場所へ移転した(御府内備考)。寛永江戸図には「ろうや」、享保年中江戸絵図には「牢屋」の南西に石出帯刀(いしでたてわき)の役宅が示され、安政6年(1859)再板の尾張屋版切絵図には「囚獄石出帯刀」とある。石出帯刀は江戸期を通じて典獄の職を務め、牢屋敷内に役宅があった。牢屋敷の広さは敷地2618坪(うち帯刀居宅480坪)で、周囲に濠を巡らし、表門を南に向けていた。表門から入って宣告場、張番所があり、獄舎は御目見え以上の罪人を入れる揚屋敷(二間半×三間)、士分・僧侶を入れる揚屋(三間四方)、百姓町人以下の大牢(五間×三間)、同婦人の女牢(部屋ともいい、四間×三間)の四ヶ所に分かれており、他に拷問場・処刑場・検死場、病囚のための薬煎所、役人長屋があった。役人は同心78名、獄丁46名(牢獄秘録)。  
天保12年(1841)頃成立の「朝日逆島記」によれば、役人は「牢獄秘録」の記事よりも減って石出帯刀の下に20俵2人扶持の牢屋同心56名、牢屋下男36名。逆に獄舎は拡張されている。また、牢屋敷には日々南北の町奉行所から見回衆が一名ずつ、御下役衆として三名ずつが巡回、南北両町奉行本人も非番の折に月に一度ずつ見回り、御目付衆も年に四、五回は見回りにきたという。 
 
小塚原刑場 / 鈴が森刑場

 
 

江戸幕府の刑法では武士の死刑は切腹、死罪、斬罪、庶民の死刑には磔(はりつけ)、火罪、獄門、死罪、下手人があった。死罪、下手人、斬罪はいずれも斬首の刑で、前二者は牢内の切場で、後者の斬罪は小塚原の刑場で施行されるのが通例であった。獄門は牢内で切った首を小塚原の刑場に運んで3日2夜晒し、罪状を記した捨札(すてふだ)を30日間たてた。  
刑を執行する場所を刑場と呼んでおり、これは死罪以上の刑のものを処刑し、また処刑した後を晒した。牢屋敷の切り場、千住小塚原(普通浅草の刑場と呼んでいる)品川の鈴が森が刑場として有名で、他に板橋にもあった。牢屋敷内では斬首のみを行い、小塚原と鈴が森は磔、火焙り、獄門の場所であった。なぜ小塚原と鈴が森が刑場に選ばれたかというと、江戸に入る東西の入口で、宿場があり、往還が激しかったから、江戸幕府の警告・威嚇主義から人目につく場所を選んだのである。処刑人の捨札はこのほかに、両国、板橋、新宿という江戸に入る街道の入口にも立てられた。  
刑場磔刑場の配置「徳川刑罰図譜」に描かれた獄門首小塚原刑場(仕置場)切絵図にみる仕置場(1853)仕置場は初め本町4丁目(現中央区)付近にあり、後に2箇所に別れ、一方は浅草鳥越橋(現台東区)の橋詰へ、さらに浅草聖天(しょうでん)町の西方寺に移り、その後小塚原に移転したという。寛文7年(1667)本所の回向院(現墨田区)持ちとなる。本所回向院は万治年間(1658-61)町奉行渡辺大隈守・村越長門守により牢死者。行き倒れ人の埋葬を命じられるが、わずか2年で寺地に余裕がなくなったことにより、寛文2年小塚原縄手の刑場の地を持ち地として与えられ別寮(現浄土宗回向院)を建て、阿弥陀仏を置き、無縁物の回向を行なった。  
回向院には毎年町奉行所・寄場役所から回向料が与えられた。寛保元年(1741)には刑死者を弔うため高さ一丈余の地蔵菩薩が建立された。これは俗に首切り地蔵とよばれ、傍らには題目を刻んだ石碑がある。明和8年(1771)には杉田玄白らが刑死者の腑分けを実見し、「ターヘルアナトミア」の信憑性を確認、翻訳書「解体新書」を刊行している。演劇で名高い片岡直次郎や鼠小僧らもこの地で処刑された。回向院では刑死者のほか安政の大地震による羅災者らの菩提も弔われ、幕末には多くの勤皇の志士が葬られた。同寺には首切り役人であった山田浅右衛門が奉納した斬首刀が残されている。  
延命寺 / 回向院が建立した寺。線路により回向院が分断されたのである。寛保元年(1741)に刑死者のために建立された、高さ一丈二尺の地蔵は首切り地蔵と呼ばれ、台座には発願者7人の名があります。「新編武蔵風土記稿」によると、高さ一丈の坐身の地蔵、元禄11年(1698)建立の高さ一丈余の題目塔などが記されています。もとは南千住貨物線の南にありましたが、鉄道工事により、現在地に移されました。また、現在側にある題目塔は慶応3年(1867)に再興されたものです。  
首切地蔵 / 新鳥越町一丁目西方寺の向。日本堤上り口、八間斗の明地をいふ。「江戸志」に「事蹟合考」を引て云、(普通の事蹟合考此條なし)、此処に刑罰場あり、かの浅草旅籠町より此処に移されしなり。此西方寺の門前すこしき所明地にて、十間ばかりの長さ、巾は弐間斗もあらん所にうつされたり。此時道哲という浄土宗の道心者、かの罪人仏果得達のため昼夜念仏してありしが、滅後この寺に葬れり。されば土手の道哲と唱へたり。」  
鈴が森刑場 / 旧浜川町南方の海岸近くにあった江戸時代の品川御仕置場跡。江戸の北の刑場である小塚原刑場に対して、南の刑場として慶安4年(1651)に浜川町の南の一本松と呼ばれるところに設置された。東海道の西側すぐ脇に当たる場所で、一本松の獄門場ともいい、鈴が森というようになったのは隣接する不入斗(いりやまず)村(現大田区)に鈴森八幡(現岩井神社)があったことによる。ここで処刑された人は明治4年に廃止されるまで、数万人-20万人ともいわれるが数字は確定できない。著名な人物では、疑義はあるが慶安の変(由井正雪の乱)に関係した丸橋忠弥の一味(首塚が品川妙蓮寺にある)、平井権八(芝居では白井権八)、放火未遂を起こした八百屋お七、盗賊日本左衛門として知られる浜島庄兵衛らがいる。鈴ヶ森刑場は元禄8年(1695)の検地によると、間口40間(74m)、奥行8間(16.2m)の規模があった。現在は文久2年(1862)に開かれた日蓮宗大経寺の境内である。処刑に使用したといわれる台石、首洗いの井戸などが残されているほか、近代以降のさまざまな供養塔も建てられている。 
鈴ヶ森刑場2  
東京都品川区南大井にかつて存在した処刑場である。江戸時代には、江戸の北の入口(日光街道)に設置されていた小塚原刑場、西の入口(甲州街道)沿いに設置されていた八王子市の大和田刑場(または中仙道入口の板橋刑場とする説もある)とともに、江戸三大処刑場といわれた。元々この付近は海岸線の近くにあった1本の老松にちなんで「一本松」と呼ばれていたが、この近くにある鈴ヶ森八幡(現・磐井神社)の社に鈴石(振ったりすると音がする酸化鉄の一種)があったため、いつの頃からか「鈴ヶ森」と呼ばれるようになったという。  
寛政11年(1799)の大井村「村方明細書上」の写しによると、慶安4年(1651)に開設された御仕置場で、旧・東海道に面しており、規模は元禄8年(1695)に実施された検地では、間口四十間(74m)、奥行九間(16.2m)であったという。閉鎖される明治4年(1871)までの220年の間に10万人から20万人もの罪人が処刑されたと言われているが、はっきりした記録は残されていない。当時は東京湾沿いにあり、刑場近くの海で水磔による処刑も行なわれたとの記録も残されている。  
当時の東海道沿いの、江戸の入り口とも言える場所にあるが、処刑場設置当時、浪人が増加し、それに伴い浪人による犯罪件数も急増していたことから、江戸に入る人たち、とくに浪人たちに警告を与える意味でこの場所に設置したのだと考えられている。  
最初の処刑者は江戸時代の犯乱事件“慶安事件”の首謀者のひとり丸橋忠弥であるとされている。反乱は密告によって未然に防がれ、忠弥は町奉行によって寝込みを襲われた際に死んだが、改めて磔刑にされた。その後も、平井権八や天一坊、八百屋お七、白木屋お駒、鼠小僧次郎吉といった人物がここで処刑された。 
鈴ヶ森刑場3  
当刑場は、慶安4年(1651年)に、大井村浜川(現在の品川区南大井周辺)の東海道往還西側の五反歩(地名)に作られた。それまで江戸の刑場は、北の浅草・南の芝の2ヶ所にもうけられていたが、幕府成立から半世紀近く経ち人口も増え、刑場付近まで人家が立ち並ぶようになったため、より人目に付かないところに移される事になった。その当時、浅草から千住に移されたのが北の「小田塚」で、芝から移されたのが、この「鈴ヶ森」とされている。江戸時代の刑罰は厳しく、10両以上盗めば死刑とされた。単なる死罰は伝馬町の獄で執行されたが、獄門の場合は獄内で打ち首ののち、鈴ケ森・小塚原に首を3日間さらした(さらし首)。磔・火刑(火あぶり)の場合は、江戸市中引き回しのうえ、鈴ケ森・小塚原で執行された。  
当時は目の前に海岸線が開けており、刑場は波打ち際にあった1本の老松にちなんで「一本松」とも呼ばれていたが、大井村の隣の不入斗(いりやまず)村[現在の大田区大森北周辺]に鈴ヶ森八幡あった事から、いつの間にか「鈴ヶ森」と呼ばれるようになったと言われている。  
明治4年(1871年)に廃止されるまで、数多くの有名無名人たちがここで処刑されてきたが、それらの処刑に使われた台石や数多くの供養塔が「大経寺」の境内に集められ、昭和29年には「鈴ヶ森刑場跡」として東京都史蹟の指定を受け、品川百系のひとつにも選ばれる貴重な文化遺跡となっている。 
 
人足寄場 / 石川島

 
 

 
 
人足寄場は、江戸近郊にいた無宿人のうち捕縛されて入墨あるいは敲の刑になったものや吟味したものの無罪が確定したものを収容した施設。石川島の人足寄場は寛政2(1790)年に火附盗賊改方長谷川平蔵宣以が老中松平定信に建議して創設された。正式な名称は「加役人足寄場」といった。  
このような無宿人に対して授産をもって懲戒主義の追放刑に代えるという思想は、近代的自由刑の最初といわれるアムステルダムの懲役場に通じるものがあると考えられている。もっとも、無宿人対策という意味では、安永6(1777)年に勘定奉行石谷清昌の建議によって佐州水替人足の制が敷かれている(石谷清昌はかつて佐渡奉行を務めた)。これは無宿人を佐渡へと送るものだが、同じく安永9(1780)年には南町奉行所が「無宿養育所(深川茂森町)」を開いている(瀧川博士)。しかし、「無宿養育所」は早く天明6(1786)年には廃止されており、その意味でも機能していたのは「石川島人足寄場」だと言える。  
石川島人足寄場送りは文化2年以後の佐州水替人足と同じく保安処分であった。  
しかし、文政3(1820)年には、江戸払以上の罪を宣告されたもののうちから情状によって5年程度の人足寄場送りという、追放刑の換刑としての懲役場としての性格を持つようになる。この制度は一旦は天保9(1832)年に廃止されるものの、天保11(1834)年には旧に復した。収容者は寛政5(1793)年には132人、文化10(1832)年で132人、天保13(1842)年には430人、弘化2(1845)年では508人であった。  
この人足寄場は、松平定信が『宇下の人言』で言及しているとおり一定の成功を収めた。また、天保13(1842)年には老中水野越前守が追放刑の廃止を建議するという画期的なことがことが起こるが、評定所(和田倉御門内辰ノ口評定所)で結論が出ず、次善の策として浅草溜に非人寄場が設けられている。こうした積み重ねの結果を見て、幕府は追放刑に換えて自由刑を科す寄場の設置を江戸以外の天領と大名領に勧めるに至る。  
なお、石川島人足寄場は明治3(1870)年に廃止された。  
沿革  
人足寄場の設置以前には、無宿の隔離及び更生政策として佐渡金山への水替人足の制度があった。しかし、水替人足は非常に厳しい労役を強いられるものであり、更生というより懲罰という側面が強かった。そのため、犯罪者の更生を主な目的とした収容施設を作ることを火付盗賊改方長官である長谷川宣以が松平定信に提案し、人足寄場が設置された。寛政元年(1789年)火付盗賊改方長官・長谷川宣以(平蔵)が老中・松平定信に人足寄場設置を建言。寛政2年(1790年)2月19日(4月3日)平蔵、加役人足寄場取扱を拝命。2月28日(4月12日)仮小屋完成。5月14人が出所。初めての出所者。明治維新により廃止。  
組織  
最初期は火付盗賊改方長官が所管していたが、平蔵が寛政4年(1792年)に退任してからは町奉行所に属する人足寄場奉行として新たに役職が設置された。配下には町奉行所から目代として派遣された与力、同心、寄場差配人(模範的な人足の中から選抜された身寄が遠国にいる人足の身元を引き受ける保証人の類)、医師、心学の教師、船頭等が所属していた。幕府からの運営資金が不足したため、平蔵は幕府から資金を借りて銭相場に投資しその利益を運営資金に充当、また大名屋敷跡地を有力商人に資材置き場として賃貸し借地代をも運営資金に充当する、という型破りの手段を用いざるを得なかった。  
設備  
所在地は江戸石川島(現在の東京都中央区佃2丁目)付近にあった。後に寄場奉行が設置した石川島灯台が復元されたのが佃公園にある。他に常陸国筑波郡上郷村(現在の茨城県つくば市上郷)、大阪、箱館(現在の函館市)に設置された。収容定員は数百人程度。300〜400人を収容していたという。施設内には作業所のほか浴場、病室も設置された。また喫煙や煮炊きも許され、炬燵も設置されていた。  
更生  
飢饉などで田畑を捨て江戸に流れ込んできた無宿者や入墨、敲等の処分を受けた軽罪人を約3年間収容した。生活指導や職業訓練による自立支援・再犯防止のためのプログラムが行われていた。大工、建具製作等の特技をもつ者にはそれらを訓練させ、特技のない者には単純軽作業(手内職)や土木作業を指導した。現在の刑務所と同様に労働に対する手当を支給したが、手当額の一部を強制貯金し、3年の収容期間を終えて出所する際にはこの貯金を交付し、彼らの更生資金に当てさせるというシステムだった。生活指導プログラムとして、月3回三のつく日の暮六つ時から五つ時まで石門心学(神道・仏教・儒教を混ぜて仁義忠孝や因果応報などの教訓や逸話をわかりやすく説く)の大家・中沢道二の講義も実施された。収容者はその講話に感動してよく涙を流したといわれ社会復帰にあたっての精神的な支えになった。  
収容期間満了後、江戸での商売を希望する者には土地や店舗を、農民には田畑、大工になる者にはその道具を支給するなどした。ただし収容された無宿は元々犯罪者崩れだったため、様々な問題を引き起こすことも多かった。囲いの外に出して土木作業をさせると「公儀の御人足だ」と称して周辺の百姓達を困らせる。竹橋にある勘定所の文書倉庫で書類整理をさせると、役人が書き損じた書類を勝手に破いて寄場に持ち帰る(紙は当時非常に高価だった)。監視役の同心が説教しても開き直る(「どんなことをしても首が落ちるだけ。首が落ちるのを怖がっていられぬ」)。 
  
八丁堀同心組屋敷 / 組屋敷

 
 

慶長17年(1612年)ごろ、江戸城への物資搬入や防衛上の観点から掘削された堀の長さが「八町(丁)」あった事から名付けられた「八丁掘」。1町(丁)は60間のこと。1間は6尺で約1.82mですから、8町(丁)は約873.6mの長さになります。江戸時代、「町」は距離の単位として用いられており、「丁」は「町」の略字となるため、「八町掘」と表記されることもあったようです。  
江戸時代のいわゆる地域としての「八丁堀」は、現在の亀島川・日本橋川・首都高速道(旧楓川)・旧桜川(この南側の一部も含む)に囲まれた地域で、現町名では八丁堀、日本橋茅場町、日本橋兜町と広い範囲を通称したもの。「与力・同心八丁堀組屋敷」として知られている屋敷筋もこの範囲内にありました。  
八丁堀組屋敷は南北で約700m(最長部)、東西約300m(最長部)の範囲の大繩拝領地で、総面積は約32,800坪(約108,000u)程あったといわれています。与力と同心の屋敷地割合はほぼ半々で、与力の拝領屋敷は武家地、同心が住むのは町屋敷として町地に相当しました。俗に八丁堀の旦那(だんな)とよばれ、町人の畏敬(いけい)の的になっていましたが、両者の人数が相当数いたことから、それぞれ1戸あたりの屋敷地が大分狭かったことも記録として残されています。  
堀自体は昭和35年〔1960〕から昭和41年〔1971〕頃にかけて埋め立てられてしまいましたが、埋立地の一部は、桜川公園として整備され、この辺りに堀割があったことをしのばせています。  
八丁堀の旦那の街  
鉄砲洲稲荷神社から新大橋通りに向かって歩くと、新大橋通りと鍛治橋通りが交差する辺りに、八丁堀与力・同心組屋敷跡の碑があります。この辺りは、かつては寺院が集中する寺町でした。ところが、3代将軍徳川家光の頃、大半の寺は幕府の命により移転させられ、その跡地が町奉行所与力・同心の組屋敷となります。江戸中期以降の話ですが、江戸の市政を担う南北町奉行所には与力が25騎、同心が120人ずつ付属していました。与力の家禄は150〜200石。同心は30俵2人扶持でした。組屋敷とは、組単位で幕府から拝領した屋敷のことです。まとめて拝領し、これを人数で分けたのです。与力の屋敷は250〜350坪。同心の屋敷は100坪ほどというのが相場でした。この屋敷は与力・同心だけが住むのではなく、一部を学者や医者などに貸して、地代を徴収していました。与力・同心たちは、JR有楽町駅近くの南町奉行所や東京駅近くの北町奉行所に通勤したわけですが、距離にして1キロ前後といったところでしょう。もちろん、徒歩通勤でした。北町奉行所の方が遠かったようです。  
堀部安兵衛 / 霊岸橋から亀島川に沿って南に歩くと5分ほどで亀島橋が現れます。ここに、堀部安兵衛住居跡の碑が立っています。かつて安兵衛は、現在の八丁堀一丁目に住んでいたことがあったようです。あの高田馬場の仇討ちの前ですが、その由緒に因んで碑が建立されたそうです。  
 
芝・愛宕下(汐留・浜離宮) 界隈

 

 
                            金刀比羅宮 (上段左) 
                            曲垣平九郎 / 愛宕神社 (中段) 
                            増上寺 (下段) 

   
 
増上寺1 歴史

 
 
 

増上寺は、明徳四年(1393年)、浄土宗第八祖酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって開かれました。場所は武蔵国豊島郷貝塚、現在の千代田区平河町から麹町にかけての土地と伝えられています。室町時代の開山から戦国時代にかけて、増上寺は浄土宗の東国の要として発展していきます。  
安土桃山時代、徳川家康公が関東の地を治めるようになってまもなく、徳川家の菩提寺として増上寺が選ばれました(天正十八年、1590年)。家康公がときの住職源誉存応(げんよぞんのう)上人に深く帰依したため、と伝えられています。慶長三年(1598年)には、現在の芝の地に移転。江戸幕府の成立後には、家康公の手厚い保護もあり、増上寺の寺運は大隆盛へと向かって行きました。三解脱門(さんげだつもん)、経蔵、大殿の建立、三大蔵経の寄進などがあいつぎ、朝廷からは存応上人へ「普光観智国師」号の下賜と常紫衣(じょうしえ)の勅許もありました。家康公は元和二年(1616年)増上寺にて葬儀を行うようにとの遺言を残し、75歳で歿しました。  
増上寺には、二代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、十四代家茂公の、六人の将軍の墓所がもうけられています。墓所には各公の正室と側室の墓ももうけられていますが、その中には家茂公正室で悲劇の皇女として知られる静寛院和宮さまも含まれています。現存する徳川将軍家墓所は、本来家宣公の墓前にあった鋳抜き(鋳造)の中門(なかもん)を入口の門とし、内部に各公の宝塔と各大名寄進の石灯籠が配置されています。恵心僧都(えしんそうず)源信の作とも伝えられるこの阿弥陀如来像を家康公は深く尊崇し、陣中にも奉持して戦の勝利を祈願しました。その歿後増上寺に奉納され、勝運、災難よけの霊験あらたかな仏として、江戸以来広く庶民の尊崇を集めています。黒本尊の名は、永い年月の間の香煙で黒ずんでいること、また、人々の悪事災難を一身に受けとめて御躰が黒くなったことなどによります。やはり家康公の命名といわれています。  
江戸時代、増上寺は徳川家の菩提寺として隆盛の極みに達しました。全国の浄土宗の宗務を統べる総録所が置かれたのをはじめ、関東十八檀林(だんりん)の筆頭、主座をつとめるなど、京都にある浄土宗祖山・知恩院に並ぶ位置を占めました。檀林とは僧侶養成のための修行および学問所で、当時の増上寺には、常時三千人もの修行僧がいたといわれています。寺所有の領地(寺領)は一万余石。二十五万坪の境内には、坊中寺院四十八、学寮百数十軒が立ち並び、「寺格百万石」とうたわれています。  
明治期は増上寺にとって苦難の時代となりました。明治初期には境内地が召し上げられ、一時期には新政府の命令により神官の養成機関が置かれる事態も生じました。また、明治六年(1873年)と四十二年(1909年)の二度に渡って大火に会い、大殿他貴重な堂宇が焼失しました。しかし明治八年(1875年)には浄土宗大本山に列せられ、伊藤博文公など新たな壇越(だんのつ)(檀徒)を迎え入れて、増上寺復興の兆しも見えはじめました。大正期には焼失した大殿の再建も成り、そのほかの堂宇の整備・復興も着々と進展していきました。明治・大正期に行われた増上寺復興の営為を一瞬の内に無に帰したのが、昭和二十年(1945年)の空襲でした。しかし、終戦後、昭和二十七年(1952年)には仮本堂を設置、また昭和四十六年(1971年)から四年の歳月を三十五億円の巨費を費やして、壮麗な新大殿を建立しました。  
平成元年(1989年)四月には開山酉誉上人五五〇年遠忌を記念して、開山堂(慈雲閣)を再建。さらに法然上人八百年御忌を記念して平成二十一年(2009年)圓光大師堂と学寮、翌二十二年に新しく安国殿が建立されました。現在、焼失をまぬがれた三解脱門や黒門など古くからの建造物をはじめ、大殿、安国殿、圓光大師堂、光摂殿、鐘楼、経蔵、慈雲閣等の堂宇が、一万六千坪の境内に立ち並んでいます。
 
増上寺2 諸説

 
 
 

時代劇によく登場するお寺の一つが、芝増上寺であり ます。なぜ、よく登場するかというと、一つにはこの寺 が「徳川将軍家の菩提寺」だからですし、もう一つには 「忠臣蔵で、浅野内匠頭が畳替えをした寺だから」ということだと思います。もっとも、忠臣蔵の方は本当かどうかかなり疑問ですけどね!  
もともとは今の紀尾井町あたりにあったという増上寺ですが、以前は真言宗の寺でした。しかし、徳川家康の入府以前には、浄土宗の寺に変わっていました。  
家康は、浄土宗を信奉していました。また、江戸入府の際に増上寺の上人と意気投合したことが、この寺を自らの家の菩提寺にする原因となったようです。  
上野寛永寺が江戸城の鬼門を守る寺なら、紀尾井町から芝に移された増上寺は江戸城の裏鬼門を守る寺と位置づけられたのではないかと思われます。  
ところで、増上寺は菩提寺のはずなのですが、将軍家はなかなかここに葬られないのです。増上寺に埋葬されているのは、二代秀忠、四代家宣、七代家継、九代家重、十一代家慶、十三代家茂であります。  
三代家光は「祖父と同じ」場所が良いとして、日光に埋葬されています。五代綱吉は上野寛永寺に埋葬されていますし、八代吉宗も「綱吉様と同じ場所」として上野に埋葬されています。  
増上寺は「菩提寺はこちらのはず!」と寛永寺に抗議しましたが、結局この6人しか埋葬されることは無かったようです。しかも、それら霊廟は、西武がここにプリンスホテルを建てた際に、かなり破壊されています。  
結局、芝増上寺の権威は江戸時代には十分発揮されていましたが、寛永寺との葛藤や将軍家の増上寺離れの為に、衰退を余儀なくされました。  
 
増上寺3 諸説

 
 
 

 
 
仕事絡みで時々JR浜松町駅を利用することがあるが、夏の暑い時期など、ホームに降りた瞬間、湿気を含んだ海風の気配と、潮の香りを感じることがある。浜松町という場所は、それほど海が近い。JR浜松町駅北口から竹芝ふ頭(伊豆・小笠原諸島への定期便が出ているほか、東京湾遊覧船などにもここから乗れる)までは歩いて数分の距離だ。この竹芝ふ頭に続く道を何度も歩くうちに、遅まきながらこの道の起点が増上寺だということに気付いた。この道は増上寺の参道だ。しかも、はっきりと増上寺と海を結ぶ意図を持って作られた道なのである。  
1680年製の古地図で確認してみたところ、増上寺の向きも、この道の道筋も、江戸初期から変わっていないことが分かった。ただ、芝大門交差点から間近い浜松町駅の辺りからは、江戸時代には海岸だったようだから、増上寺から海までの距離は当時500メートル程度しかなかったのではないだろうか。  
海と増上寺を結ぶ道、何か意味がありそうだ。1858年の古地図を使って、増上寺と海を結ぶ道を示してみた。それにしてもこの地図を眺めるにつけ、増上寺の寺域の広大さには驚かされる。地図で赤く塗られているのは寺および寺の関連施設だ。増上寺の周囲を取り囲むように立ち並ぶ赤色の建物は、全て僧の宿舎・学寮と「坊中寺院」と呼ばれる塔頭(西の金地院や、北側の愛宕山周辺の寺は除く)。なにしろ、増上寺には修学僧が常時3000人も学んでいたというのだから、関連施設の数もハンパじゃない。これらの関連施設を含む境内の広さは、なんと25万坪にも及ぶものだったという。  
建物の広さに関して、メディアなどではよく「東京ドーム〇個分」と表現されることがあるが、その物差しで言えば「東京ドーム18個分」ということになる。・・・多分そう言われても全くイメージが湧かないと思うが、とりあえず、「途方もない広さ」であることは間違いない。  
ところで、増上寺に関してよく言われるのが、江戸城の裏鬼門に位置する鬼門封じスポットにあたるということだ。徳川家の菩提寺である寛永寺と増上寺は、各々江戸城の鬼門・裏鬼門を護るべくロケーションされたとか・・・江戸市街の建設に風水の概念を取り入れることは、家康〜家光のアドバイザーであった天海和尚の発案とも言われる。実際、増上寺は、もともと紀尾井町辺りにあったものを、1598年にわざわざ芝に移転させられている。移転先が芝でなければならない何らかの事情があったことは確かだ。ただ、家康(寛永寺については家康の死後、家光の時代に建立された)ほどの百戦錬磨の武士が、陰陽道の呪術的なセキュリティーバリア理論を優先して街づくりを進めたとは、到底考えられない。それに、以前から気になっていることだが、増上寺は江戸城の裏鬼門というには若干東に偏りすぎている気がする。純粋に裏鬼門の護りという機能を求めるのであれば、もっと西側に造られるべきだったのではないだろうか。あるいは、増上寺のロケーションにはもともと、裏鬼門の鬼門封じという意図はなかったのでは・・・?  
仮に増上寺が江戸城裏鬼門を護る意味で芝に配されたのだとしても、家康が天海の案を取り入れたのは、それが呪術的な方位学に適っていただけでなく、現実の要請に重ね合わせた結果から芝が最適なロケーションと判断したからだろう。その「現実の必要性」の上で、増上寺の位置は、江戸城の裏鬼門=南西よりも少し東よりでなければならなかったのだと思う。  
では、その必要性とは何なのか?寛永寺と増上寺のロケーションの必然性に関しては、もうひとつのポピュラーな説がある。こちらは、軍事面からのアプローチだ。  
増上寺や寛永寺のロケーションについては、江戸城の鬼門封じという以外に、江戸から各地への幹線道となる東海道・奥州街道との関係が指摘されることがある。増上寺は寛永寺よりも早く、1598年から芝の現在地に移転しているが、たしかに、その場所はまさに東海道の道筋にあたっている。  
現在増上寺大門の建つ交差点・芝大門交差点で参道と交差しているのは日比谷通りだが、芝大門交差点から海岸方向へ参道を戻った一つ目の交差点は第一京浜道、すなわち旧東海道と交わる。つまり、増上寺が海側を向いているのは、東海道の街道筋に向かって建てられているため、という解釈も成り立つわけだ。現在のロケーションで見ると増上寺から旧東海道までは少し距離がある感じがするが、江戸期の地図では、東海道道筋までは増上寺の付属施設で固められており、実質的に増上寺は東海道に面しているような格好になっていた。  
東海道を江戸方面へ下ってきて最後の宿場となるのが品川宿。品川を出ていよいよ江戸市街に入るという丁度江戸の入口のあたりに、芝は位置している。そういう意味で、東海道沿いに有事には砦に早変わりする寺というハコ物を配置することは、江戸を防御する上で必要な措置だったのかもしれない。さらに、品川宿−江戸間でも特に芝という場所が選ばれたことについて、ひとつ考えられる理由がある。それは、愛宕山の存在だ。  
現在も、虎ノ門から愛宕山下を通り、増上寺に続く道があるが、虎ノ門からこの道を南に向かって歩き始めると、じきに大きな東京タワーが見えてくる。東京タワーは増上寺の境内だった場所に建てられた東京のランドマーク。とても分かりやすい増上寺の目印でもある。東京タワーが近くに見えるということは、増上寺が近いということだ。虎ノ門から増上寺までは、直線距離にして約2キロ程度しかない。そして、その途上にあるのが、愛宕山。江戸市街で最も高く見晴らしのいい場所として知られ、江戸城にも近い。陸上戦では、見晴らしのいい高台は必ず陣地になる。戦争を知らない私にはあまりピンと来ない話だが、恐らく愛宕山のような場所は、軍事上要注意地点だったに違いない。にもかかわらず、東海道を増上寺のあたりで脇道に入ると、愛宕山まではすぐの距離だ。そして、愛宕山から江戸城も、また至近距離にある。何故増上寺は芝にあるのか・・・という問題を考える時、愛宕山の存在はひとつの大きな手がかりになる気がする。  
愛宕山に注目しながら1860年の江戸の地図を眺めると、ちょっと面白いことが分かる。愛宕山の山頂には愛宕神社があるわけだが、これは江戸開府の時家康が京都の愛宕神社を勧請したものだ。江戸市街の防火祈願のためと言われるが、勿論それだけではなく、この丘陵を管理下に置くことが大きな目的のひとつだったのだろう。さらに、まるで愛宕山の周囲を取り囲むように、寺が立ち並ぶ。愛宕山の裏手を守るように細長い構えを持つのが天徳寺。そして、愛宕山と増上寺との間をつなぐような位置に、青松寺。このほかにもいくつかの寺が、愛宕山の周囲を固めている。地図上で寺は赤く表示されている(青松寺は何故か白だが)のだが、愛宕山の周囲から増上寺までは、真っ赤だ。この辺りは、いわゆる寺町なのである。  
ところで何故この場所に寺が多いのか?・・・それは、ここに寺町を作る意図をもって寺が集められたからである。天徳寺・青松寺とも、増上寺と同じく家康の時代にこの場所に移転させられた寺だという。移転の発端は江戸城の拡張のためだが、敢えてこの地が移転先に選ばれたのは理由があってのことだろう。また、両寺とも、増上寺同様徳川幕府に厚遇された寺でもある。  
こうした事実を見ても、東海道から江戸城へのアプローチ、特にその中継地点で江戸を見渡せる場所にある愛宕山へのアプローチを阻む目的で、この一帯に寺が重点配備されたという事情が見えてくる。寺は江戸時代地域住人の宗教・身元の管理にも利用されていたことは知られているが、軍事的にも幕府機構に深く組み込まれていたのだと思う。増上寺が芝に置かれたのも、愛宕山周辺を寺=有事のための要塞で固める計画の一環としてのことだったのではないだろうか。  
ちなみに虎ノ門付近から愛宕山下を通り、増上寺に向かう道は、将軍の御成り道でもあったようだ。この道に面して愛宕神社の鳥居があり、神社へは急斜面に設けられた険しい石段を登らなければならない。この石段を、別名「出世の石段」という。この名の由来は、将軍家光が増上寺に参詣する途上、家臣に馬に乗ったまま石段を駆け上がる競争をさせたという逸話から来たものだという。将軍が増上寺に参詣する際には、虎ノ門が使われたのだろうか?  
時代を遡ると、家康が駿府と江戸を行き来するのに使っていたと言われる中原街道は、現在の桜田通り。増上寺御成り道の一本西側にある通りで、その起点はやはり虎ノ門だ。江戸初期には、虎ノ門界隈は主要街道の突き当りだったわけだ。虎ノ門が、何故虎の方角(東北東)ではないのに「虎ノ門」なのかについては謎とされているようだが、街道との関係などを見ると、この門は江戸城防御の上で何か重要な意味を持っていたように思える。(ただ、何故「虎」なのかという問題とは、結びつかないが・・・)  
 
愛宕神社 (東京都港区)

 
 
 

 
 
東京都港区愛宕一丁目にある神社である。山手線内では珍しい自然に形成された山である愛宕山(標高26m)山頂にある。京都の愛宕神社が総本社である。防火・防災に霊験のある神社として知られる。  
1603年(慶長8年)、徳川家康の命により創建。また、徳川家康が信仰した勝軍地蔵菩薩を勧請し、別当寺である円福寺に祀ったことからはじまる。明治の廃仏毀釈により円福寺が廃寺となった後は、将軍地蔵は近くの真福寺に移されたが関東大震災で焼失した。  
愛宕神社(京都府京都市右京区) / 総本社  
旧称は阿多古神社。旧社格は府社で、現在は別表神社。全国に約900社ある愛宕神社の総本社である。現在は愛宕さんとも呼ばれる。山城・丹波国境の愛宕山(標高924m)山頂に鎮座する。古くより比叡山と共に信仰を集め、神仏習合時代は愛宕権現を祀る白雲寺として知られた。  
火伏せ・防火に霊験のある神社として知られ、「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれた愛宕神社の火伏札は京都の多くの家庭の台所や飲食店の厨房や会社の茶室などに貼られている。また、「愛宕の三つ参り」として、3歳までに参拝すると一生火事に遭わないと言われる。上方落語では、「愛宕山」「いらちの愛宕詣り」という噺が存在する。  
大宝年間(701-704年)に、修験道の祖とされる役小角と白山の開祖として知られる泰澄によって神廟が建立されたのが創建とされる。なお『延喜式神名帳』に「丹波国桑田郡 阿多古神社」の記載があるが、これは亀岡市の愛宕神社(称 元愛宕)を指すと考えられている。  
天応元年(781年)慶俊僧都、和気清麻呂によって中興され、愛宕山に愛宕大権現を祀る白雲寺が建立される。その後は神仏習合において修験道の道場として信仰を集め、9世紀には霊山として七高山の1つに数えられた(愛宕信仰も参照)。この時代、本殿には愛宕大権現の本地仏である勝軍地蔵が、奥の院(現 若宮)に愛宕山の天狗の太郎坊が祀られていた。江戸時代には勝地院・教学院・大善院・威徳院・福寿院等の社僧の住坊があり、栄えていたとされる。  
明治の神仏分離により、白雲寺は廃絶されて愛宕神社になると同時に、勝軍地蔵は京都市西京区大原野の金蔵寺に移された。  
明治14年(1881年)に府社に列格。第二次大戦後は神社本庁の別表神社となった。 
 
愛宕神社・故事

 
 
 

曲垣平九郎 寛永三馬術 誉れの梅花 愛宕山  
江戸初期の馬術の達人、曲垣平九郎は、讃岐生駒藩四代領主、高俊に仕えていた馬術師範役だったといわれます。平九郎が、一躍名を挙げた「愛宕山馬術の誉れ」は、寛永11年(1634)正月、江戸の芝愛宕坂の故事にちなんでいます。  
この日、菩提寺である芝増上寺を参拝した将軍家光公は、その帰途、愛宕山の下を通りかかりました。そして、ふと見上げた山の上に梅の花が美しく咲いているのを見て「誰か馬にてあの梅の花を手折ってまいる者はおらぬか」ときんじゅう近習(常に主君のそば近くに仕える人)の者に問いかけました。  
愛宕山は、標高四十五メートルの小さな山で、愛宕神社が奉られています。拝殿までは、山の下から四十度という急勾配の石段があり(八十六段)正面の参道を男坂。これに対して女坂と呼ばれる登り道は、男坂の右側にあり、石段は百九段ありますが男坂より勾配はかなり緩やかです。  
山上まで一直線に上る急勾配の男坂を、騎馬で登れという将軍の言葉に従う大名、旗本の面々は、互いに顔を見合すだけで、誰一人として名乗り出ようとしません。  
そのとき、讃岐国の領主、生駒高俊が「わが藩の馬術師範曲垣平九郎にお申し付け願いたい。」と申し出ました。  
将軍や諸大名の居並ぶ前でこの難問に挑もうとする平九郎は、将軍に一礼するとひらりと馬の首を石段に向けると、ピシッと鞭を当て、一気に石段を駆け登りました。平九郎は、七合目あたりの所で馬の左目を扇子で目隠しし、首筋を軽く叩き馬の気を鎮め、機を見て残る三十段程の石段を「綾千鳥」という、石段をジグザグに登る方法をとりました。  
この時平九郎は、高い石段の上から下を見て馬が驚かないよう馬の目を左右交互に扇子で目隠しをするという手綱さばきを見せたのです。  
固唾を飲んで見上げていた将軍家光公はじめ、居並ぶ大名や旗本は、平九郎の見事な手綱さばきにドット歓声をあげました。  
山上で馬を降りた平九郎は、本殿を拝した後、紅梅と白梅を一枝づつ折って、それを襟にさし、再び馬に乗って石段を下りました。無事、下山した平九郎は、家光公に梅の枝を差し出し、再び上がった歓声の中で「その方、日本一の馬術の名人ぞ」と言った家光公の言葉だけが、平九郎の耳にひときわ高く響きました。  
平九郎には、将軍直々に、脇差し一振りを与え、生駒高俊、平九郎主従は大いに面目を施したということでした。平九郎の名は一日にして全国に轟いたと伝えられています。 
 
出世の石段  
愛宕神社に上がる石段は「出世の石段」と呼ばれています。その由来は講談で有名な(っていっても近頃は知らない人の方が多いけれども)「寛永三馬術」の中の曲垣平九郎(まがきへいくろう)の故事にちなみます。  
時は寛永11年、パパンパン(ってこれ、講談の張扇です)。江戸三代将軍、家光公が将軍家の菩提寺である芝の増上寺にご参詣のお帰りに、ここ愛宕神社の下を通りました。折しも春、愛宕山には源平の梅が咲き誇っておりました。  
家光公は、その梅を目にされ、「誰か、馬にてあの梅を取って参れ!」と命ぜられました。  
しかし、この愛宕山の石段はとても急勾配です。まあ、一度いらしゃってみて下さい。歩いてのぼり降りをするのだに、ちょっと勇気が必要なのに、馬でこの石段をのぼって梅を取ってくることなど、とてもできそうにありません。下手すれば、よくて重傷、悪ければ命を落とします。せっかく江戸の平和の世に、こんなことで命を落としてはたまりません。家臣たちは、みな一様に下を向いております。家光公は、みるみる機嫌が悪くなってきます。  
もう少したてば、怒りバクハツ!というそのときに、この石段をパカッ、パカッ、パカッとのぼりはじめた者がおりました。家光公。その者の顔に見覚えがありません。  
「あの者は誰だ」近習の臣に知る者はありません。「おそれながら」「おう」「あの者は四国丸亀藩の家臣で曲垣平九郎と申す者でございます」「そうか。この泰平の世に馬術の稽古怠りなきこと、まことにあっぱれである」  
平九郎は見事、山上の梅を手折り、馬にて石段をのぼり降りし、家光公に梅を献上いたしました。平九郎は家光公より「日本一の馬術の名人」と讃えられ、その名は一日にして全国にとどろいたと伝えられております。この故事にちなみ、愛宕神社正面の坂(男坂)を「出世の石段」と呼び、毎日多くの方が、この男坂の出世の石段を登って神社にお参りにみえております。  
なお、実際に神社にみえた方は男坂をごらんになって、「こんな石段を馬が上れるわけがない。曲垣平九郎の話は講談だからウソだろう」と思われるのですが、江戸以降にも男坂を馬で登り降りすることにトライをして、成功している方が何人かいらっしゃいます。  
明治15年・石川清馬(宮城県出身) / 大正14年・岩木利夫(参謀本部馬丁)廃馬になる愛馬のために最後の花道をつくった) / 昭和57年・渡辺隆馬(スタントマン) 
井伊直弼を討った水戸浪士集結の場所  
万延元年、3月3日。時の大老、井伊直弼を水戸浪士が討った桜田門外の変は有名ですが、その水戸浪士が集結したのは、この愛宕神社だったのです。浪士たちは神社内の絵馬堂(現存せず)に集結し、神前に祈願したのち、歩いて桜田門に向かったのです。家康公が建てられた愛宕神社に祈願したわけですから、浪士たちにとって井伊大老を討つということは、幕府のためだという確固たる信念があったのでしょう。 
勝海舟、西郷隆盛の会談  
世界史上の多くの革命が血と犠牲の上で行われたのに対し、勝海舟と西郷隆盛による江戸城の無血開城は、日本の近代史上、世界に誇れる快挙です。そして、実は愛宕山は、この無血開城に大きな役割を果たしていたのです。ときは江戸から幕府に移るころ。江戸城明け渡しについて勝海舟と西郷隆盛は、ともにそのバックからのプレッシャーもあって、行き詰まり状態にありました。明治元年、3月13日。両人は家康公ゆかりの当山に登り、江戸の町を見渡しました。そして、どちらから言い出すともなく、「この江戸の町を戦火で焼失させてしまうのはしのびない」と談し、ともに山を下りたのです。そして、そののち三田の薩摩屋敷で歴史的な会見をして、無血開城の調印を行いました。 
十二烈士女  
昭和20年8月。日本は長かった大東亜戦争に対して降伏というかたちでピリオドをうちました。しかし、すべての国民がその決定に静かに従ったのではありませんでした。同年、8月22日。日本の降伏に反対していた尊攘義軍10名が愛宕山にこもり、手榴弾で玉砕をしました。その後始末をしたのが、義軍烈士の夫人2人ですが、彼女たちもすべての務めを終えた後、あとを追って自刃して果てました。
  
金刀比羅宮(金毘羅大権現)
 

 
 
 

万治三年(1660年)に讃岐国丸亀藩主であった京極高和が、その藩領内である象頭山に鎮座する、金刀比羅宮(本宮)の御分霊を当時藩邸があった芝・三田の地に勧請し、延宝七年(1679年)、京極高豊の代に現在の虎ノ門(江戸城の裏鬼門にあたる)に遷座致しました。爾来江戸市民の熱烈なる要請に応え、毎月十日に限り邸内を開き、参拝を許可しました。当時は“金毘羅大権現”と称されていましたが、明治二年(1869年)、神仏分離の神祇官の沙汰により事比羅神社に、明治二十二年(1889年)には金刀比羅宮に社号を改称し現在に至ります。ご神徳は海上守護、大漁満足は勿論のこと、五穀豊穣・殖産興業・招福除災の神として広く庶民に尊信され、東国名社の一つとして知られています。  
大物主神(オオモノヌシノカミ)  
大国主神と少名彦神が国造りの際、事を為す前に少名彦神が海の彼方の常世の国に渡ってしまい大国主神が嘆いていたところ、遠い沖合いから海原を照らして光り輝きながら近寄ってきた、その神様が大物主神です。大和の三諸山(三輪山)にお祀りされた神様で、後に和光同塵(わこうどうじん)の御神意をもって讃岐国の金刀比羅宮(本宮)に顕現されました。『日本書紀』では大国主神の異称として、『古事記』では大国主神の和魂(にぎみたま)として記されています。大物主神とは「大いなるモノ(神霊)」、すなわち「神々の中でも最も偉大なる力を持つ神」という意味の神名であり、海陸安穏・五穀豊穣・万民泰平、国や人々に平安をもたらしてくださる神様です。また、一説に運を掌る神とも伝承されております。  
崇徳天皇  
崇徳天皇は鳥羽天皇の皇子で、保安四年(1123年)に第75代の天皇として即位され、永治元年(1141年)に上皇となられました。保元元年(1156年)の保元の乱の厄により讃岐国へ遷られ、その後も讃岐国で過ごされた崇徳天皇は、象頭山中腹に鎮座する金刀比羅宮(本宮)を日夜崇敬なさっていました。長寛二年(1164年)に崩御される前年には参籠し、荒行をなされたと伝えられております。46歳で崩御された翌年の永万元年(1165年)、その不遇な生涯と崇敬の篤さを偲び、金刀比羅宮(本宮)の相殿にお祀りされることとなりました。  
 
芝・高輪 界隈

 

 
                     落語「芝浜」 / 沙濱 
                     泉岳寺 / (中段やや下中央) 
                     藤枝梅安 / 品川台町の雉子の宮 (下段左) 
                     幕末太陽傳 / 品川宿 (下段右) 

   
 
仕掛人・藤枝梅安 / 品川台町の雉子の宮

 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
池波正太郎が『小説現代』で1972年から1990年の間に発表した全20篇の連作時代小説。主人公である藤枝梅安の表の顔は鍼医者だが、その実、凄腕の仕掛人(殺し屋)である。仕掛人は、依頼者(起り)からの依頼を取り次ぐ仲介人(蔓)を通じて殺しを請け負う。  
藤枝梅安  
普段は腕のいい鍼医者として暮らしているが、凄腕の仕掛人という裏の顔を持つ。坊主頭に、六尺(180cm)ほどの大男で両目はドングリのように小さく、額は大きく張り出し無骨な印象がある。生かしておいては為にならない極悪人を、金をもらって殺す裏家業を営む。大抵は何処の誰とも知れない依頼人からの頼みを、香具師の元締め等を経由するという形式をとっている。梅安の場合、その仕掛料(報酬)は最低でも50〜70両の大金が支払われる(テレビの必殺シリーズのように僅かな金で殺しを請け負うこともなければ、殺しの依頼も恨みにより発生するわけではない)。本作品のシリーズでは、殺しを「仕掛け」、それを行う者を「仕掛人」、または「仕掛け屋」と呼んでいる。梅安は針師(鍼灸医)であるため、やはり殺しにも針を使うことが多いが、短刀、毒薬なども使うことがある。殺しの際に使用する針は治療用のものよりも太く、長さは三寸余(約10センチ)である。梅安は明和元年に駿河の藤枝宿の桶職人の長男(幼名は初出・梅吉だったが、後に庄太と記述された)として生まれたが父が病死したのち、母親が幼い妹だけを連れ、流れ者と逃げてしまった(妹とは後に殺しの標的として再会し、自分の手で始末することになった)。その後、旅籠で下働きをしていたところを、針医者の津山悦堂(つやまえつどう)に拾われた(寛政11年で35歳)。住所は江戸・品川台町の雉子の宮の近く。 
梅安料理ごよみ 
梅安は大根が好物。彦次郎は豆腐が好物。小説を読んでいると、大根と豆腐が頻繁に出てくる。さて、本書は最初に池波正太郎による梅安の世界を簡単に述べた章があり、その後に佐藤隆介・筒井ガンコ堂による「仕掛人・藤枝梅安」に登場する料理を紹介している。本書では蘊蓄話として、醍醐味の醍醐の意味や味噌という名前の由来が述べられている。こういう雑学もなかなか楽しい。  
 
「池波正太郎・梅安を語る」池波正太郎が仕掛人・藤枝梅安の世界を語る。食べ物に関して、そば、鮨、天ぷら、鰻が江戸の食い物の代表のようにいわれているが、これは明治以降のことで、それまでは江戸前の魚を主体にした料理だったそうだ。変わったところでは、鳥肉の中でも、大名は鶉や鶴を食していたとのこと。戦国時代以前は酒は高価なものであり、それは江戸時代でも変わらなかった。「飲む、打つ、買う」といわれる三大道楽は酒と博奕と女遊びを指すが、当時は酒で身代を潰すことがあり得た。現在とは大きく違う。旅の心得として、旅の時の心得として、初日・二日目は無理をしないことだと、述べている。これは自身の実体験からもそうであると断言している。木賃宿の由来も述べている。文字通り、木の賃、つまり薪代だけを意味し、自炊が前提の宿を木賃宿といっていた。女性について、池波正太郎の描く女性は、むっちりとした肉付き豊かな女性が多い。それは戦前まではそれが美人の標準だったからだという。美人の基準は時代と共に変わるとはいうのは本当で、一度美人の類型を時代ごとに追いかけてみると面白いかもしれない。もし、そのような本があればの話しだが...  
佐藤隆介・筒井ガンコ堂による「仕掛人・藤枝梅安」に登場する料理を紹介  
「貝柱飯」この貝柱は青柳の貝柱を指す。貝柱のかき揚げは絶品である。  
「白魚鍋」シラウオとシロウオ。とても紛らわしい。が、ここで述べているのはシラウオ科のシラウオ。一方はハゼ科のシロウオで、生きたままのおどり食いをする。味わったことがないが、個人的には食さなくてもよいかなと思うものである。  
「兎汁」「猪鍋」肉類は「薬喰い」と称して賞味されたものらしい。薬と称することで宗教上の禁忌から放たれるという飛び技である。そのため、猪を山鯨とよび、兎は鳥の仲間とみなして一羽、二羽と数えたようである。そして、猪はぼたん、牛は冬ぼたん、鹿がもみじと呼ばれた。日本人らしい融通のきかせかたである。  
「菜飯田楽」おでん。もともと関東で生まれたものが、関西に伝わり「関東煮」と呼ばれて発達してお座敷おでんとなる。そして関東に逆輸入された。  
「蕎麦と蕎麦屋」ここで神田「まつや」が紹介されている。「まつや」自体が有名店だが、すぐ近くに他の某有名蕎麦店がある。比較するに、「まつや」の方が味が上で、値段もリーズナブルである。私は蕎麦を食したくなったら「まつや」に度々出かける。  
 
泉岳寺

 
 
 

 
 
 
泉岳寺1  
曹洞宗の寺院です。曹洞宗のご本山は二つあり、一つは道元禅師が開かれた福井県の永平寺、もう一つは横浜鶴見の総持寺です。道元禅師の主著は仏教の真髄を表した『正法眼蔵』という95巻に渡る書物です。  
さて、泉岳寺は慶長17年(1612年)に門庵宗関(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を拝請して徳川家康が外桜田に創立した寺院です(現在の警視庁の近く)。しかしながら寛永18年(1641年)の寛永の大火によって焼失。そして現在の高輪の地に移転してきました。時の将軍家光が高輪泉岳寺の復興がままならない様子を見て、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名に命じ、高輪に移転した泉岳寺は出来上がったのです。  
浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来のものです。一般的には赤穂義士のお墓があることで有名ですが、創建時より七堂伽藍を完備して、諸国の僧侶二百名近くが参学する叢林として、また曹洞宗江戸三か寺ならびに三学寮の一つとして名を馳せていました。その家風は引き継がれており、人数は少ないものの、大学で仏教を学びつつ泉岳寺で修行を勤めるという若い修行僧が、現在もいます。
   
泉岳寺2  
慶長17年(1612年)に徳川家康が外桜田に門庵宗関を招いて創建。寛永18年(1641年)寛永の大火で焼失したが、徳川家光の命で、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の5大名により、現在の高輪の地で再建された。  
元禄赤穂事件で有名な浅野長矩と赤穂浪士が葬られていることで知られ、現在も多くの参拝客が訪れる。また、毎年4月初旬と12月14日には義士祭が催される。また境内に、赤穂浪士ゆかりの品を所蔵している「赤穂義士記念館」がある。  
義士の討ち入り後、当時の住職が義士の所持品を売り払って収益を得たことに世間の批判が集まり、あわててこれらの品を買い戻しに走ったことがある。  
他に、「高島易断」で知られる高島嘉右衛門の墓もある。  
境内には学寮があり、後に吉祥寺の旃檀林学寮、青松寺の獅子窟学寮と統合して駒澤大学に発展したほか、現在でも僧侶は境内の学寮で共同生活を行いながら大学に通学している。 
 
落語「芝浜」 / 沙濱

 
 
 

「ねぇ〜、お前さん、起きておくれよ」、と起こしたが、休みついでだからもう少し休ませろ、とか、出し抜けに起こすなよ。とグズグズしている勝五郎。男らしくないね、明日から出るのでイッパイ飲ませろと言って呑んだのに、その上釜の蓋が開かないよ。  
「行くけど半月も休んで飯台がゆるんで水が漏るだろ」、「魚屋の女房だよ。ヒトったらしも水は漏らないよ」、「包丁は」、「そこまでは腐っていなかったね。研いだ包丁が蕎麦殻に入っていて、秋刀魚のようにピカピカ光っているよ」、「ワラジは」、「出ています」。「やけに手回しが良いな」、「仕入れの銭も飯台に入っています。やな顔をしないで行っておくれよ。ワラジも新しいし気持ちがいいだろ」、「気持ち良かない」。グズグズしながら出かけて行った。  
「磯臭い匂いがしてきたな。これだから辞められない」。しかしどの店も閉まっていた。増上寺の鐘が鳴っている。カミさんが時間を間違えて早く起こしてしまったのだ。仕方がないので、浜に出てタバコを吸っていると、陽が揚がってきた。波の間に間に何か動いている。引き寄せてみると、革の財布であった。  
慌てて家に帰ってきた。カミさんが謝るのも制止し、水を一杯飲み、「浜で財布を拾った。中を覗くと金が入っているので慌てて帰ってきた。いくら入っている?」。カミさんと数えたら82両あった。  
「早起きは三文の徳と言うが、82両の徳だ。釜の蓋も開くし、明日から仕事に行かないで、朝から晩まで酒飲んでいてもビクともしないよな。金公や虎公には借りがあるんだ。存分に飲ませて食わせて借りを返さなくては・・・。」、「夜が明けたばかりだから、昼過ぎになったら声掛けるワ」、「昼まで起きていられないから、残り酒をくれよ」。と言う事で一杯やって寝込んでしまった。  
「ねぇ〜、お前さん、起きておくれよ」、「何だ」、「商いに行っておくれよ」、「何で?釜の蓋が開かない? 昨日の82両で開けとけよ」、「82両って何だよ」、「昨日、拾った革財布に入っていただろう」、「何処で拾ったの」、「おい、82両渡しただろう。少しイクのはイイが、82両そっくりイクのはヒドいじゃないか」。  
「悲しいね。お金が欲しくて、そんな夢見たのかい」、「おい、夢!? 一寸待てよ。こんなハッキリした夢見るか。芝の浜で財布拾って、お前と二人で数えただろう」、「お前さん、私の格好を見なさいよ。この寒さの中、浴衣二枚重ねて着ているんだよ。まるで乞食だよ。しっかりしておくれよ。お前さんは昨日芝の浜なんかには行ってないんだよ。起こしたら怒鳴られたので、手荒な事をされるとイヤだから放っておいた。昼頃起き出して風呂に行き、帰り際に友達大勢連れてきて、酒買ってこい、天ぷら誂えろ、と言ったが、顔を潰す訳にも行かないから黙って回りで工面して買ってきた。一人ではしゃいで、さんざん飲んで寝てしまったんじゃないか。芝の浜には行ってないよ」。  
「一寸待て。増上寺の鐘は何処で聞いたんだ」、「ここでも聞こえるよ。今鳴っているのがそうだろ」、「・・・夢か、・・・、子供の時からやにハッキリした夢見る事があるんだよ。82両は夢で、友達と飲んだのは本当なのか。やな夢見たな。借金もずいぶん有るだろ。おっかぁ〜、死のうか」、「馬鹿言うんじゃないよ。お前さんが死ぬ気になって商いに行けば何の事もないよ」、「そうか。分かった、商いに行く。それに酒が悪いんだ。止めた。一ったらしも呑まないよ」。  
これから行って来るよと出かけた。  
人間がガラッと変わってよく働いた。元々腕がイイのでお客も戻ってきた。  
3年経つか経たない内に裏長屋から表通りに店を持つまでになって、小僧も置くようになった。  
丁度3年目の暮れ。風呂から戻ってきて、正月の手配を小僧にするが、全部払いは済んでいるから掛け取りは来ないし、その上、もらいに行く所もあるが行かないと言う。畳も取り替え、サラサラと門松が触れ合う音が聞こえた。ゆっくりしろと優しいカミさんであった。  
小僧を風呂に出してカミさんが言うには、  
「お前さん、これから話す事、最後まで怒ったり、手荒なまねはしないで聞いて欲しいんだよ。約束してくれるかい。そ〜、聞いてくれるかい。では見せたい物が有るんだよ。これなんだけれど見覚えは無いかい」、「汚い財布だな〜。ヘソくりかい。イイんだよ。何処のカミさんだってやるんだ。でも、こんなにやるなんて女は恐いな。で・・・・82両も有るぜ」、「その革財布と82両に覚えは無いかい」、「・・・、ある。先年芝の浜で82両入った財布を拾った『夢』を見た事がある」、「その財布だよ」、「なにぃ。あの時の金ぇ。お前は夢と言っただろ」、「だから怒らないで聞いてくれと約束しただろ。最後に殴ると蹴ると好きにしてイイから。ホントはね、拾ってきたんだよ。悪いことした金かと思ったが、そうでもなさそうだし、お前さんが残り酒を呑んで寝てしまったのを幸いに、大家さんに相談した。その金はお上に届けなければ勝の身体が大変な事になる、勝には夢だ夢だと騙してしまえ。で、夢だと騙したら、酒も断って仕事に精を出し、3年経ったらこの様な店も出来た。ず〜っと騙してた私も辛いが勝つぁんには申し訳ないと思っていた。このお金も、と〜に下げ渡されていたが、元の勝つぁんに戻られたらと思うと見せられずいたが、今の様子を見ていると大丈夫だと思った。ごめんなさい。女房に騙され悔しかったでしょ、ぶつなり蹴るなりしてください」、「手を上げてくれ。お前の言うとおりだ。あの時使っていれば、お仕置きになって、良くて戻ってきてもコモを被って震えていなければならない。お礼は俺の方で言う。ありがとう」、「なんだね〜、女房に頭下げて。許してくれるんだね。今日は機嫌直しにお酒と好きな料理が二三品用意した有るんだよ」、「ホントだ、好きな物が有るわ。やっぱり女房は古くなくてはいけねぇ〜。なんだ、お燗がついてる? どーもさっきからいい匂いがしてると思った。畳の匂いだけではないと思っていたんだ。ホントに呑んで良いのか。俺が言い出したんじゃないよ」。  
女房にお酌をしてもらって、3年ぶりかの盃を口元に運んで感激していたが、  
「ん。止めておこう。夢になるといけねぇ〜」。  
 
芝浜 / 芝の中でも、古川河口の三角州に、江戸時代よりも昔から開けたところで本来の芝という意味で、本芝と呼ばれた。江戸時代「沙濱」と記され、浜になっていて、舟で魚を運んでここで魚河岸としての商いが行われていました。  
「芝浜」は”日本橋の河岸”より古く”雑魚場”と呼ばれ、江戸前(東京湾)の魚を主に扱い今獲れたばかりの小魚を扱っていた。ウナギ、アナゴ、キス、ハゼ、カレイ、シャコ、スズキ、アジ、海老、蛤、アサリ等多くの魚貝類が商われた。江戸っ子は新鮮な江戸前ものを”芝肴”として珍重し、喜んだ。しかし、芝の雑魚場は、昼に水揚げされた小魚をその日の夕方から始まる魚河岸で取引され、「夕河岸」と呼ばれ日本橋の河岸の様に早朝からは商われなかった。  
棒手振り / 街は朝早くから行商人の声で賑わった。食べ物の貯蔵は出来なかった時代、新鮮な野菜・魚は、毎日売りに来た。日用品や生活必需品はお客がついているので、決まった道筋、時間に売り歩いていた。その中でも天秤棒の前後に荷物を提げ売り歩く行商人を棒手振り(ぼてふり)と言った。勝五郎も表店(おもてだな)に出る前はこの様な棒手振りであった。ある落語家さんは今より便利で、買い物に出なくても相手が来てくれた。 
 
幕末太陽傳1 / 品川宿

 
 
 

 
 
 
 
 
『幕末太陽傳』(1957/川島雄三)は、「2009年キネマ旬報オールタイムベスト映画遺産200/日本映画篇」で『東京物語』(1953/小津安二郎)『七人の侍』(1954/黒澤明)『浮雲』(1955/成瀬巳喜男)に続いて4位に選ばれ、喜劇作品では第1位となりました。  
時は幕末、文久2(1862)年。東海道品川宿に北の吉原と並び称される色町がありました。相模屋という遊郭へわらじを脱いだ主人公の佐平次(フランキー堺)は、勘定を気にする仲間三人を尻目に、呑めや歌えの大尽騒ぎ。実はこの男、懐に一銭も持ち合わせていないのですが。“居残り”と称して相模屋に居ついてしまった佐平次は八面六臂の大活躍!巻き起こる騒動を片っ端から片づけてゆきます。自らの身に起こった困難をものともせず、攘夷派の高杉晋作(石原裕次郎)らとも交友を紡ぎ、乱世を軽やかに渡り歩くのでした。50年代のオールスター・キャストが織り成す、笑いあり涙ありの江戸の“粋”な心に感じる、生きることの喜び。これは、閉塞した現代日本に元気と知恵、そして喝を入れてくれる珠玉の時代劇です。  
45歳という若さでこの世を去った川島雄三。『洲崎パラダイス赤信号』(1956)や『しとやかな獣』(1962)等、人間の性をシニカルかつ客観的に描き、全51作品を世に送り出しました。 
幕末太陽傳2

 

 
 
 
 
 
 
文久2年(1862年)の江戸に隣接する品川宿。お大尽を装って遊郭旅籠の相模屋で豪遊した佐平次は、金がないのを若衆に打ち明けると居残りと称して相模屋に長居を決め込み、下働きから女郎衆や遊郭に出入りする人々のトラブル解決に至るまで八面六臂の活躍をし、果てはこの旅籠に逗留する攘夷派の志士たちとも渡り合う。様々な出来事の末に佐平次は体調を悪くするが、それでもなお「首が飛んでも動いてみせまさぁ」と豪語するのだった。  
時代背景  
この作品の舞台となる品川宿は、現在の京急本線・北品川駅周辺にあたる。映画の冒頭に、舞台となる相模屋の映画撮影当時の姿である「さがみホテル」が登場する。バックに流れる加藤武のナレーションはここを「北品川カフェー街と呼ばれる16軒の特飲街」と紹介する。つまり赤線地帯である。映画の撮影当時は、まさにこの赤線廃止が目的で作られた売春防止法成立直前であり、カメラは滅びつつある風景を写しながら既に滅びてしまった風景へと遡っていく不思議な効果を生んでいる。相模屋は実在する旅籠である。舞台となる文久2年には、実際に高杉晋作や久坂玄瑞が逗留していたといわれている。高杉らはこの旅籠に滞在し、御殿山に建設中だった英国公使館焼き討ち事件を計画していた。相模屋は地元では土蔵相模という呼び名の方が良く知られている。実物は現存しないが、模型が品川区立品川歴史館に展示されている。模型を見ると、川島雄三とスタッフが細部に至るまで、この旅籠を忠実に再現していることがわかる。なお、映画内に登場する志道聞多は井上聞多のちの井上馨、伊藤春輔は伊藤俊輔のちの伊藤博文である。  
ラストシーン  
映画の最後は、こはるに熱を上げるしつこい旦那を煙に巻こうとした佐平次が、千葉からやって来た旦那の杢兵衛を海蔵寺の墓場に連れて行き、出鱈目な墓を指してそれをこはるの墓であると騙すというものである。結核を暗示する咳をし、顔色の悪い佐平次に杢兵衛は「(墓石を偽ると)地獄に落ちねばなんねえぞ」と言い、佐平次の体調不良を天罰だと罵る。すると佐平次は「地獄も極楽もあるもんけえ。俺はまだまだ生きるんでえ。」と捨て台詞を吐き、海沿いの道をどこまでも走って逃げていくというものである。  
このラストシーンは、脚本段階では、佐平次は海沿いの道ではなく、杢兵衛に背中を向けて走り始めると墓場のセットが組まれているスタジオを突き抜け、更にスタジオの扉を開けて現代(昭和32年)の街並みをどこまでも走り去っていくものであった。佐平次が走り去っていく街並みはいつかタイトルバックに登場した北品川の風景になり、その至るところに映画の登場人物たちが現代の格好をして佇み、ただ佐平次だけがちょんまげ姿で走り去っていくというものだったという。これは川島がかねてから抱いていた逃避願望や、それとは相反する形での佐平次に託した力強さが、時代を突き抜けていくというダイナミックなシーンになるはずだったが、現場のスタッフ、キャストからもあまりに斬新すぎると反対の声が飛び出した。川島が自らの理想像とまで見なしていた佐平次役のフランキー堺まで反対に回り、結局川島は現場の声に従わざるを得なかった(但し、フランキー堺は後に「あのとき監督に賛成しておくべきだった」と語っている)。しかし幻のラストシーンも現存するそれも、それまでの軽快なタッチとは異なり、墓場という陰鬱な風景をなかば嫌悪と恐怖を持って描いており、そこから逃避するという点では一貫している。このラストについては、日活に対する川島の怒りが撮り逃げという形で表れたとする説、「サヨナラだけが人生だ」という言葉を残した川島の人生哲学が反映したとする説、あるいは故郷の恐山に対する嫌悪と畏怖など諸説がある。なお、この幻ラストの方は、後に様々な映画人によって、意識的、無意識的に踏襲されている。今村は自身のドキュメンタリー映画「人間蒸発」でラストシーンの部屋がセットだという事を観客に明かし、映画とドキュメントと現実社会の境界の曖昧さを問い掛けた。川島と同郷である寺山修司は、恐山を舞台にした『田園に死す』のラストで、東北の旧家のセットが崩壊すると、その後ろから1970年代の新宿駅東口交差点が現われるという演出をしている。また、崩壊したセットの周囲を現代人となった映画の登場人物たちが往来するなどにも川島の影響をうかがわせる。  
また、アニメーター・映画監督の庵野秀明が『新世紀エヴァンゲリオン』制作中に「幕末太陽傳をやりたかった」と各媒体でたびたび語っている。なお、テレビ版最終回で実写のスチル映像が紛れ込んだり、「もう一つの可能性」と称してまったく雰囲気の異なる学園ラブコメになりその最後がアフレコ台本で終わるのも、『幕末太陽傳』のラスト、そして川島の積極的逃避哲学から庵野が影響を受けた結果であるという。  
影響  
スタッフ、キャストのうち、今村昌平とフランキー堺は特にこの映画と川島から影響を受けている。今村が昭和56年(1981年)に製作した『ええじゃないか』は、舞台を両国橋周辺に移し時代も数年先としているが、『幕末太陽傳』でやり残した部分を映画化した気配が濃厚な作品だった。フランキーは生前の川島と東洲斎写楽の映画を作ろうと約束していたという。それが果たされずに川島が死亡したため、フランキーは俳優業の傍ら写楽の研究を続け、平成7年(1995年)に自ら企画・製作に参加して『写楽』(篠田正浩監督)を作り上げた。フランキーが高齢になったため、写楽役は真田広之が演じることになりフランキーは蔦屋重三郎役に回ったが、川島は「写楽はフランキー以外に考えられない」と語っていた。フランキーは師とあおぐ川島との約束を果たし、その翌年に死去している。川島を師と仰ぐ藤本義一は、舞台を大阪にした『とむらい師たち』の脚本で、勝新を川島に見立て、主人公を造型した。(葬式屋の生涯:墓場は、川島が好んで使用したシーン)。ラストで勝新が生と死の挟間で彷徨する地獄とも思えるシーンは、川島の出身地恐山そのものである。 
品川遊廓考
そもそも東海道の宿場街であるはずの品川が、なぜゆえに遊興の地となったのでろうか。同地の貸座敷「山幸楼」の三代目、秋谷勝三氏の著書『品川宿遊里三代』には2つの理由が記してあった。  
まずは昔の旅が、いまのそれと大きく異なっていること。交通機関はなく、治安も穏やかならざる江戸時代のこと、無事に帰ってこられるかどうかわからないのだ。そこで江戸から東海道の旅に出る時は「無事に帰って来たい」と願い、帰って来た時は「ああよかった、無事に帰れた」と胸を撫で下ろした。なるほど、命懸けの旅の最初と最後に、女郎買いが伴うのは、まぁ、判らなくもない。  
秋谷氏の記述はそれから「品川の情愛」にまで発展する。「貸座敷の商いも、体を売る前に、まず情愛を売った」というのだが...これはどうかなァ。  
一晩に複数の客を取る「廻し」は浜松以東の遊廓だけにあった制度だというし、劇中にも南田洋子のこはるが裕次郎演ずる高杉晋作から「お前、また廻しか。はげしい奴じゃ」と言われるシーンがあった。それになにより、そのこはるが「わっちァ女郎でござんすよ!因果家業でござんすよ!騙しますよと看板を掛けてこの商売をしてるンじゃないか!」と大見得を切る名場面(?)もあった。  
秋谷氏本人もその点は十分承知しており、直後に「女郎の誠と卵の四角、あれば晦日に月が出る」と続けているが。  
ちなみに女郎買いの客はその廻しの都合から、「割部屋」と呼ばれる個室で待たされて、廊下を駆けるお女郎の高草履に、まだかまだかと胸を踊らせていたそうな...という話を劇中でその「そわそわ」を演じていた本人、仏壇屋倉造こと殿山泰司氏の『三文役者あなあきい伝』で読んだ。なるほどあれは芝居じゃなかったんだな(笑)。  
なおその割部屋に対し、娼妓(女郎のこと)の「個室」とでもいうべき「本部屋」もあり、この部屋で遊ぶのは格段に高価だったそうだ。ここには娼妓個人の茶箪笥や長火鉢などもあり、ここで相手をされると「間夫」(まぶ−要するに"パパさん"だ)になった様な勘違いをしてしまい...というから男なんて間抜けなもの(苦笑)。劇中にもおそめ(左幸子)の本部屋が何回も登場する。  
そしてもうひとつ、江戸に近い品川宿では旅籠屋は宿泊施設というよりも、遊興施設としての色が自ずと濃くなってしまったというもの。単純に地理的条件がつくり出した理由だ。東海道の起点、お江戸日本橋からは二里(8km)、歩いて2時間程度だったという。  
宿場は役人や大名が泊まる「本陣」(脇本陣)、一般の旅人が泊まり食事を出す「旅籠」、食料持参でただ泊まるだけの「木賃宿」に分類される。そしてこの旅籠にも二種類あり、食売女(めしうりおんな、飯盛女とも呼ぶ)を置いているのが「食売旅籠」、食売女がいない処を「平旅籠」と云った。そしてこの食売女が女郎の役目を果たし、前述の通り、食売旅籠イコール女郎屋となったわけだ(女郎屋は同時に「貸座敷」という呼び方もする)。  
こうした理由から、「北国」(ほっこく)と呼ばれた北の吉原と並び、「南国」「南蛮」と呼ばれた巨大な遊里(ゆうり)となり、東海道中など関係ナシに、只々ナニを目的に通っていた者も多かったのだ。ちなみに前述の旅籠屋111軒のうち、91軒に遊女がおり、飲食宿泊以外の"多角経営"に乗り出していた。  
しかしここで落とせないことがある。食売女が競った品川ではあるが、ただ女郎買いだけが売り物ではなかった。「おとづれて、風景足らずと、いふことなし」とまで云われる風光明媚な土地でもあったのだ。  
劇中の佐平次の台詞にもある通り、「膳の上から安房上総まで見渡せる」海沿いに位置し、御殿山の桜や海案寺の紅葉など四季の変化も美しく、そして新鮮な海の幸がふんだんに堪能出来る..まさに江戸の「リゾート地」であったわけだ。胸の病の為に「俺ァ女は絶ってるんでィ」という佐平次が、女郎買いなど考えもせずサナトリウムよろしく相模屋に居残りを決め込んだ理由はこの環境の良さにあった。  
制度について少しだけ。まずは「お茶屋」。これはいわば「紹介所」のようなもので、客はまず茶屋に立ち寄り、そこから食売旅籠に案内される。そしてその手数料を旅籠屋が茶屋に払う、という仕組みになっている。この手数料を「引き手料」と称したところから、「引手茶屋」とも呼ばれる(吉原とかススキノに今でもあるような気が...)。  
劇中、こはるがおそめのことを「お茶っぴき」と馬鹿にして壮絶な大喧嘩が始まるが、これは固定の上客が付かず、一見の客ばかり相手にしているということである。では、上客が付くとどうなるか、それが「ウツリカエ」の習慣で、これも劇中に出てくる。  
ウツリカエは娼妓の着物が夏物から冬物に変わる時に、上客がその資金を「援助」してくれるという、まぁ、高級クラブの「スーツ新調日」のような、今でもよくあるナニだ。ウツリガエの日は各妓楼ごとに決まっており、その日に良い客の付かなかった娼妓は「泣いて身の不運を歎いた」そうだ。  
上客に見放され気味のおそめが、貸本屋金造(小沢昭一)と「品川心中」を図ったのはまさにこれが理由。結局、蓮光院の和尚、梵全がやって来て思い止まり、「先にやっちまった」金造の"飛び込み損"となるのだが(笑・ところがこの梵全和尚が大した金を持って来ず、「しみったれのクソ坊主!」と恨まれることにもなる)。  
「台屋」「台の物」という言葉も出てくる。実はこれら貸座敷は「食売旅籠」とはいうものの、通常料理を作る設備や人手は持たず、客の注文によって出入りの「台屋」に作らせて届けさせていたのだ。今風の言葉でいえば「ケータリング」である。  
台屋の持って来る料理が「台の物」と呼ばれ、豪華な塗りの足つきの膳に乗せて客に出された。僅かな原価に膨大な「サービス料」が上乗せされ、非常な贅沢であったらしい。むむ、これまた今でも聞いた事のあるハナシ...。  
心中に来た金造におそめが「何でもおいしいもん取ってさ、じゃんじゃん景気よくやっておくれ」と言い、言われた金造が舞い上がってしまったり、息子・清七の女郎買いを見つけた仏壇屋の父・倉造(殿山泰司)が「こんな贅沢な台の物まで取りやがって!」と怒るのはこのためである。また担ぎ込まれた金造の棺桶を佐平次が削り、「割り箸にして台屋に卸す」という台詞もあった。  
「敵娼」−あいかた、というのも独特の言い方。お相手をつとめるお女郎さんのことだ。そして客が複数の場合、誰にどのお女郎をあてるかを決めるのが「引附」の段取り。これも冒頭に出てくる。これを行う部屋が「引附部屋」、行う婆さんを「遣り手婆ぁ」という、が、遣り手婆ぁを知らない人はいないよねぇ!劇中では"日本一の遣り手婆ぁ女優"と私が日々考えている名優・菅井きんが演じている(ちなみに関西では浪速千栄子だろう。昭和32年の宝塚映画『太夫さんより女体は哀しく』(稲垣浩監督)で実際に演じていた)。  
「新造さん」という言葉も登場するが、これは個人名ではなく、遊廓の従業員を意味する一般名詞である。宿代を溜め込んだ高杉晋作が「居残りは辛い。近頃は新造遣手までが、ええ顔はせん」というシーンがあった。  
なお終業時間は通常の「引け」が午前零時、深夜延長営業(?)の終業「大引け」が午前二時であった。英国公使館焼き討ちのシーンで、火事見物と大引けが重なっているが、実際の焼き討ちは12月13日の八つ半(午前2時)ごろだったというから見事に一致する。  
品川宿の流転 / 幕末・維新・赤線廃止  
繁栄を見せた品川宿ではあるが、『幕末』の劇中から6年後の1868年、明治維新という大変革の影響を受けることとなる。いや、正確に言えば品川宿にとって大きな変化となったのは続く明治5年の鉄道開業であろう。そして実はここが、ひとつの、いやいや、"ひとつめの"転機でもあったのだ。  
日本初の鉄道は「汽笛一声 新橋を」で知られる明治5年9月開業の新橋(現汐留)駅〜横浜(現桜木町)駅間と云われているが、実はその直前の明治5年5月に品川駅(現在とほぼ同じ場所)〜横浜駅間で「部分開業」していたのだ。つまり本当の「汽笛一声」、日本初の鉄道は品川からだったということになる(ちなみに当時の品川〜横浜間は約40分、現在の倍であった)。  
ところがその鉄道開業が品川宿にとっては逆風となってしまった。明治政府が1869年(明治2年)に決定した布設計画は「東京〜京都〜神戸」という旧東海道に準じたもので、当然品川駅の場所は東海道第一番目の親宿である品川宿付近が予定されていた。だがなんと、地元がそれに反対してしまったのだ。理由は「宿場がさびれる」というものだった。  
今ならば「鉄道駅誘致」のため地元権力者と政治家センセイが血マナコになったりするが...なにしろ日本初の「鉄道誘致問題」ゆえ、「逆の判断」をしてしまったのだなぁ。そのため"仕方なしに"品川宿をはずれ、少々新橋側の、しかも高輪にあった軍用地の関係から、海に突堤を築くという苦労までして出来たのが現在の「品川駅」である。  
その結果、1.品川駅なのに品川区ではなく港区にある、2.品川駅の南にあるのに「京急北品川駅」という奇妙な事態が発生してしまった(鉄道開通までの「品川」の中心はあくまで目黒川に架かる品川橋を中心とした南北品川で、その中心地は現在の京急新馬場駅付近であった)。  
当初はまだ良かったそうだ。鉄道の営業が品川〜横浜間だったうちは、まだ東海道を関西に向かう人は徒歩が多く、宿場もそれなりに賑わっていた。ところが4カ月後に新橋〜横浜間に延伸されると関西や東海地方に行く人も横浜方面までとりあえず汽車で向かうことが多くなり、交通の「起点」として品川の劣位は決定的となった。旅客の止宿は減少につぐ減少となり、「手のほどこしようもない状態」と記した本もあるくらいだ。  
対する鉄道は絶大な人気を誇った。当時の運賃、「新橋〜横浜間下等三十七銭五厘」が庶民に対してどれくらい手の出る金額だったかは不明だが、部分開通のみの明治5年7月の時点で「週ノ旅客人員一万五千人」というのだから、その盛況ぶりが偲ばれる。  
駅の切れ目が縁の切れ目、さらに鉄道以外にも「伝馬制」の廃止による人馬提供義務の終了、郵便制度導入による飛脚の廃止といった制度面による変化もあった。ともあれいずれもが品川宿に対して逆風として作用するもので、旧品川宿を行き交う旅人は減り、籠や早馬が通る事もなく、かつての繁栄は見られなくなってしまった。  
品川駅前の現状は御存知の通り。「品川プリンスホテル」「メリディアンパシフィック東京」といった超巨大ホテルが林立、今や都内でも有数のシティホテル密集地となった。時代が変われども、やはり品川は東京の南の玄関口、「宿場」の需要は十分にあるのだ。  
そして本来の宿場町、京急北品川駅周辺は加藤氏のナレーションにもある通り、「東海道線の下り電車が品川駅を出るとすぐ...」という"素通りされる街"になってしまった。自らが拒んだ駅の誘致で宿場町としての地位を明け渡してしまい、さらに「品川」の場所までもズラしてしまったとは、なんとも皮肉なものである。  
但し、旧品川宿が明治維新を期に急激にさびれたというわけではない。続く明治、大正、そして昭和の中頃まで、この地は「遊廓〜赤線地帯」としてちょっと特殊な繁栄を誇ってもいた。それなりに、したたかに生き延びていたのだ。  
ここにも一旦は開化の影響が及びかけた。鉄道開通と同じ明治5年10月、金で買われた身の娼妓たちを「借金棒引きで全部御破算にする」という娼妓解放令が政府によって布告され、まさに品川宿は瞬間的に寂れて「晴天の霹靂」とも云うべき状況に陥ってしまった。直後の品川宿は「絲竹ノ音ヲ絶チ、俄カニ冬枯ノ景況ヲナセリ」と新聞に書かれたりしている。  
ところがこの娼妓解放令は政府が期待した効果は生まず、身寄りのない生活に不安な娼妓たちの私娼密淫売化を呼んだため、翌明治6年12月、自由度を高めた新しい娼芸妓規則の布告へ至った。そしてこれにより品川遊廓はしたたかに復活する。  
前述の鉄道開業の影響で、街道沿いの宿場町としての役目は終わったが、その後はその「サービス」を活かした遊里としてそれなりに栄えていた。都内に十数箇所あった赤線地帯のひとつとして冒頭のナレーションの如く、「接客婦」のお姐ィさんたちががんばっていらっしゃったわけだが...これも昭和32年4月発布の「売春防止法」で姿を消す。  
江戸時代からの大店はこれを期に商売替えを余儀なくされ、加藤氏のナレーションの通り昭和33年3月31日をもって「三百五十余年の伝統を誇る品川遊廓の歴史もここに幕をおろした」わけだ。  
これがふたつめの転機。結局、これが決定打だったのではないだろうか。廃娼の圧力には逆らえず、詳しくは後述するがいずれの店も"無害な"商売に転換し、結局地味な商店街になってしまった。  
公娼の是非は考えねばなるめィが、風情ある街並みがすっかり姿を消してしまったというのは少々残念でもある(街並みの変化には1980年代のバブルによる土地開発の影響も少なからずあったらしい。旅籠調の旧家やカフェー風のモダン建築が集中的に取り壊され、マンションやコンビニに生まれ変わったのはその頃だそうだ)。  
しかしこう考えてみると、映画に登場した華やかな「品川宿」というのがまるで幻の街の様に思えて来る。なる程、貴重な映画なのだなぁ...。
 
本郷・湯島 界隈

 

 
                             八百屋お七 / 駒込吉祥寺 (上段右) 
                             赤ひげ / 小石川養生所 (上段下左端) 
                             振袖火事 / 丸山町本妙寺 (中段 下中央) 
                             神田神社 (下段中央) 
                             平将門 
                             銭形平次 / 神田明神下 (下段中央)

   
 
銭形平次捕物控 / 神田明神下

 
 
 

 
 
野村胡堂による小説、またはこの小説を基にした映画、テレビ時代劇、舞台作品。翻案作品ではタイトルを『銭形平次』とするものもある。  
銭形平次  
神田明神下に住む岡っ引の平次(通称 銭形平次)が、子分の八五郎(通称:ガラッ八)と共に卓越した推理力と寛永通宝による「投げ銭」を駆使し、事件を鮮やかに解決していく。岡本綺堂『半七捕物帳』と共に最も有名な捕物帳であり、代表的な時代劇作品の一つでもある。作品の舞台が江戸時代のいつ頃かははっきりしない。原作の最初の頃は寛永期(1624年〜1645年、江戸初期)を舞台にしていたが、第30話から文化文政期(1804年〜1830年、江戸後期)に移っている。 
 
神田神社

 
 
 

東京の中心、神田・日本橋・秋葉原・大手丸の内・旧神田市場・築地魚市場、108町会の総氏神様です。「明神さま」の名で親しまれております。  
当社は天平2年(730)に出雲氏族で大己貴命の子孫・真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村・現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建されました。神田はもと伊勢神宮の御田(おみた・神田)があった土地で、神田の鎮めのために創建され、神田ノ宮と称した。 
その後、天慶の乱で承平5年(935年)に敗死した平将門の首が京から持ち去られて当社の近くに葬られ、墳墓(将門塚)周辺で天変地異が頻発、嘉元年間(1303-1306)に疫病が流行した。将門公の御神威として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊をお慰めして、さらに延慶2年(1309)当社に奉祀いたしました。戦国時代になると、太田道灌や北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く崇敬されました。 
慶長5年(1600)天下分け目の関ヶ原の戦いが起こると、当社では徳川家康公が合戦に臨む際、戦勝のご祈祷を行ないました。すると9月15日神田祭の日に見事に勝利し天下統一を果たされました。これ以降、徳川将軍家より縁起の良い祭礼として絶やすことなく執り行うよう命ぜられました。 
江戸幕府が開かれると、当社は幕府の尊崇する神社となり、元和2年(1616)江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の地に遷座し、幕府により社殿が造営されました。以後、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、幕府をはじめ江戸庶民にいたるまで篤い崇敬をお受けになられました。 
明治時代に入り、社名を神田明神から神田神社に改称し、東京の守護神として「准勅祭社」「東京府社」に定められました。明治7年(1874)はじめて東京に皇居をお定めになられた明治天皇が親しく御参拝になり御幣物を献じられました。大正12年(1923)未曾有の関東大震災により江戸時代後期を代表する社殿が焼失してしまいましたが、氏子崇敬者をはじめ東京の人々により、はやくも復興が計画され、昭和9年当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート、総朱漆塗の社殿が再建されました。 
昭和10年代後半より、日本は第二次世界大戦へと突入し東京は大空襲により一面焼け野原となってしまいました。当社の境内も多くの建造物がほとんど烏有に帰しましたが、耐火構造の社殿のみわずかな損傷のみで戦災を耐えぬきました。 
御祭神 
一之宮/大己貴命(おおなむちのみこと)  
だいこく様。縁結びの神様。天平2年(730)ご鎮座。国土開発、殖産、医薬・医療に大きな力を発揮され、国土経営、夫婦和合、縁結びの神様として崇敬されています。また祖霊のいらっしゃる世界・幽冥(かくりよ)を守護する神とも言われています。大国主命(おおくにぬしのみこと)という別名もお持ちで、島根県の古社・出雲大社のご祭神でもございます。れ、国土経営・夫婦和合・縁結びの神様としてのご神徳があります。  
二之宮/少彦名命(すくなひこなのみこと)  
えびす様。商売繁昌の神様。商売繁昌、医薬健康、開運招福の神様です。日本に最初にお生まれになった神様のお一人・高皇産霊神(たかみむすひのかみ)のお子様で、大海の彼方・常世(とこよ)の国よりいらっしゃり、手のひらに乗るほどの小さなお姿ながら知恵に優れ、だいこく様とともに日本の国づくりをなされました。  
三之宮/平将門命(たいらのまさかどのみこと)  
まさかど様。除災厄除の神様。延慶2年(1309)にご奉祀。平将門公は、承平・天慶年間、武士の先駆け「兵(つわもの)」として、関東の政治改革をはかり、命をかけて民衆たちを守ったお方です。明治7年(1874)一時、摂社・将門神社に遷座されましたが、昭和59年に再びご本殿に奉祀され今日にいたっております。東京都千代田区大手町・将門塚(東京都指定文化財)には将門公の御首をお祀りしております。  
草創の説話  
創建について又その由来については諸説がある。  
天平2年(730)武蔵の国造(当時の地方長官)であった真神田臣が、豊島群芝崎村の地に社を建て、地祇(国神)大己貴命を奉ったとされ、この 社のことを真神田の社といっていたが、後に、これを略して神田神社と言うよなったと言う説。その二は、忌部族(海部族)が、今の房総半島に定住していたが、その人々の守護神、つまりは海神として安房神社に奉られていた神を、八世紀の始めごろ分社して、豊島群芝崎村の地に奉ったのが起源と言う説。  
又、天平2年(730)豊島群芝崎村の神田台(江戸城神田橋御門内、現在の大手町)にその地の人々によって、産土の神・鎮守の神が奉られ、神田の神社と呼ばれた。祭神は大己貴神であった。名の由来は、その地が伊勢神宮の神田であったことに因んでいると言う説。  
「神田とは、国家の公田をその神社に賃貸しした地子田のことをいい、厳密には社領でなかったのであるが、それが後には社領として恒常化したのである。神田は御戸代田とも、神戸田地ともいわれて、神田の民又は、近傍の民をして耕作させた。 神社は大体二割を田租とした。 これを神税ともいった。」 
このように、八世紀頃創建され、近郷の人々の産土の神・鎮守の神として崇められた。また、祭神の大巳貴命は、古事記によれば「海を光して依り来る神」とある。 遷座の地形からみて海の守護神としても崇められたことであろう。祭礼も旧暦9月15日に、天下太平・五穀豊穣又、豊漁や海路の安全を願う秋祭りとして盛大に行われていたという。
日輪寺1 
日輪寺(台東区西浅草3丁目)が神田明神の前身?で、将門の塚があったという伝説があります。 鎌倉時代、将門の滅亡(天慶3年・940)から三百数十年後の1303年、時宗の真教上人が将門塚を訪れた時、塚は荒廃し、付近の村には疫病が蔓延しており、これが将門の祟りだと恐れられていました。真教上人は将門に「蓮阿弥陀仏」という法号を追贈して塚を修復し、供養したところ疫病がやみ、喜んだ村人たちは上人に近くにある日輪寺に留まってもらうこととしました。真教上人は天台宗だったこの寺を時宗の念仏道場としました。1307年に真教上人は将門の法号を石板に刻み、塚の前に建てました。さらにその翌々年には旧・安房神社の社殿を修復し、将門の霊を合祀して神田明神としたことが日輪寺の記録にあったそうです。同時に日輪寺も「神田山日輪寺」と改名し、両社とも将門の霊を祀る所となりました。ところで、当時、首塚・日輪寺・神田明神のあったこの芝崎付近は湿地帯で、対岸の駿河台や本郷とは川で分けられておりました。駿河台あたりは小高い山をなしており、当時から神田山と呼ばれておりました。神田山は「からだやま」、すなわち将門の胴体部分を埋めた山という意味だそうです。その後、神田神社(神田明神)も日輪寺も現在の場所に移転しました。なお、現在、将門の首塚に建てられている石塔婆は、上述の真教上人の建てたものから取った拓本を元に復元したものだそうです。
日輪寺と芝崎町2 
「東京府志料」は「日輪寺 神田山ト号ス 時宗相州鎌倉郡藤澤山清浄光末寺 往古ハ芝崎村ニアリ今ノ神田橋ノ内ナリ 故ニ神田道場ト唱フ 天正十九年白銀町ヘ移リ慶長八年今ノ地ヘ再転ス 開山眞教」と記している。清浄光寺は、時宗の開祖一遍上人(別名遊行上人)の寺で、神奈川県藤澤市に現存し遊行寺とも呼ばれている。日輪寺開山の眞教は一遍上人二世であった。 
「新撰東京名所図絵」によると、眞教は嘉永3年(1305)芝崎村に日輪寺を創建し、明暦3年(1657)の江戸大火後、この地に移ったという。日輪寺の現在地移転後には、慶長9年(1603)と、明暦大火後の二説がある。どちらが真説かは不明。旧地の現千代田区大手町に平将門の首塚と伝えるものが現存する。日輪寺は将門とのゆかりが深く、その点でも名高い。昭和40年の住居表示前まで、この付近を浅草芝崎町といったが、その町名は日輪寺に由来している。  
 
平将門
 
 
 
 
神田明神は、平将門公を祀る神社としての方が有名である。各時代の文書にも「神田明神は平将門公を祀る神社なり」とあるように将門公は主神と思われているのである。平将門は、承平5年〈935〉堕落し荒廃する京都政権をしり目に、東国の民及びその当時胎動しはじめた兵達に支えられて、いわゆる独立戦争的な戦いをおこした。その当時すでに坂東平野は、水運の便も開け、生産力も大きく、有数の馬の産地であり、その土地に合った独自の文化を持っていたのである。こうした東国は、京都の貴族政権にとっては、ただ遠い国「あずまえびす」の地であり、植民地として蔑視し、搾取の対象としての地としか考えられていなかった。京都で数年を過ごしたといわれる将門は、貴族達の何か欠落した生活、又律令体制の裏面のいやな事を数多く見たにちがいない。将門には我慢のならなかったことであろう。  
「天慶の乱」の蜂起は、わずか5年間という短い期間ではあったが、平将門のことは東国の民の目に武士の目にその心の中に、強く静かに記憶され、かの地の隅々にまで伝わって行くのである。将門は、皇位を狙った逆臣という汚名をきせられたまま、俵藤太によって討たれるのである。時に天慶3年(940)2月14日のことであった。首級は、京都の東の市において晒されるのであるが、何人かによって持ち去られ、豊島群芝崎村・神田の社の境内に手厚く祀られて、慰霊されることになるのである。 これが、有名な「首塚(将門塚)」である。  
将門についての話は、これで終わりにならず、その死後、いわゆる「将門伝説」「将門信仰」として残っていくのである。現在、将門ゆかりの場所は東京の都心部だけを取り上げてみても五ヶ所とは下らない。まして将門の本拠地であった、常陸・下総はもちろん東国(関東一円)には、そのゆかりの場所が、それこそ無数にある。  
江戸・東京に伝わる伝説では、将門の首は京都で晒されるが、ある夜、白く光を放って自ら、東の方に飛び去り、武蔵国豊島群芝崎村の地に落ちた。その音は物凄く、東国一円に轟き渡り、大地は、三日三晩鳴動し続けた。郷の人々は、恐れ慄き、近くの池で首を洗い、塚を築いて手厚く祀り、供養したので、その祟りが鎮まったと言われている。 
天変地異が続いた時、それを一人の人間の祟りと考え、その人間を祀る事で、それを鎮めようとする事が、古くはしばしば行われた。菅公、将門がそれである。この場合、その人々は、決して生前悪人だったのではなく、逆に民衆には、良い人間だったと記憶され、それが不運の中に死んでいったのだと信じられていたのである。前途の様な伝説と共に、神田の社をはじめ関東各地に将門が祀られた事は、将門が、如何に強く関東の人々の記憶の中で、尊敬され、同時に畏れられていたかを物語っていると思われる。 
余談ではあるが、後の江戸時代、神田明神の氏子達は、南天の箸を使わず、また成田山へのお詣りにも行かなかったという。それは俵藤太が、成田山新勝寺に戦勝の祈願をし、将門との戦いに臨んだ上、将門の一命を落とした御神矢が、南天の枝で作られた新勝寺の御神矢だったと言う、言い伝えがある為である。  
神田明神と成田山新勝寺 
この神田明神を崇敬する者は成田山新勝寺を参拝してはいけない事と云われている。これは当時の朝廷から見て東国(関東)において叛乱を起した平将門を討伐するため、僧寛朝を神護寺護摩堂の空海作といわれる不動明王像と供に現在の成田山新勝寺へ使わせ平将門の乱鎮圧のため動護摩の儀式を行わせた。即ち、成田山新勝寺を参拝することは平将門を苦しめる事となるので、神田明神崇敬者は成田山の参詣をしてはならないとされている。なお、同じく平将門を祭神とする築土神社にも同様の言い伝えがあり、成田山へ参詣するならば、道中に必ず災いが起こるとされた。平将門に対する信仰心は、祟りや厄災を鎮めることと密接に関わっていたのである。   
 
 
 
 
平将門の首塚1 
平將門の首を祀っている塚。将門塚(しょうもんづか)とも呼ぶ(伝承地は各地にあるが、ここでは主に東京都指定旧跡のものを取り上げる)。 
首は平安京まで送られ東の市・都大路で晒されたが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、数カ所に落ちたとされる。伝承地は数ヶ所あり、いずれも平将門の首塚とされている。その中でも最も著名なのが、東京都千代田区大手町1-2-1にある首塚である。かつてはマウンドと、内部に石室ないし石廓とみられるものがあったので、古墳であると考えられる。 
この地はかつて武蔵国豊嶋郡芝崎村であった。住民は長らく将門の怨霊に苦しめられてきたという。諸国を遊行回国中であった他阿真教が徳治2年(1307)将門に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈って首塚の上に自らが揮毫した板碑を建立し、かたわらの天台宗寺院日輪寺を時宗芝崎道場に改宗したという。日輪寺は、将門の「体」が訛って「神田」になったという神田明神の別当として将門信仰を伝えてきた。その後江戸時代になって日輪寺は浅草に移転させられるが、今なお神田明神とともに首塚を護持している。時宗における怨霊済度の好例である。 
首塚そのものは関東大震災によって倒壊し、周辺跡地に大蔵省が建てられることとなり、石室など首塚の大規模な発掘調査が行われた。その後大蔵省が建てられるが、工事関係者や大蔵省職員の相次ぐ不審死が起こり、将門の祟りが大蔵省内で噂されることとなる。大蔵省内の動揺を抑えるため昭和2年に将門鎮魂碑が建立され、神田明神の宮司が祭主となって盛大な将門鎮魂祭が執り行われる。この将門鎮魂碑には日輪寺にある他阿真教上人の直筆の石版から「南無阿弥陀仏」が拓本された。 
将門首塚2 
10世紀、天慶の乱。戦いに敗れた将門公の体は、終焉の地に近い公の菩提寺に埋葬された。現在の茨城県坂東市の延命院である。寺のある地を神田山(かだやま)といい「(将門公の)からだ」が語源と言われている。延命院の境内には拓本から起こした真教上人真筆の石卒塔婆が建てられている。一方首級は京に運ばれ河原にさらされたが、公の無念やるかたなく空を飛んで東国に戻り、武蔵国豊島郡の芝崎に下ったという。思うに有縁の者が願って(あるいは無断に)首を京より持ち帰り、当時は当局の目も届かない芝崎の地に埋め、しばらくして遺体も合わせて埋葬、塚を築いて供養したのであろう。このときにつくられた神社が築土明神(現築土神社・千代田区九段北1丁目)といわれる。社伝によればこの地の井戸で首を洗い上平川村の観音堂で供養、さらに塚を築き祠を建てたという。首桶は秘宝として長く同神社に伝えられたが、関東大震災で焼失。 
築土明神はほどなくして後の江戸城内に移転、江戸城築城に伴い牛込に移り、地主神の築土八幡と社を並べたが第2次大戦で被災したため草創の地に近い九段中坂に移り、世継神社と同じ地に社を新設して現在に至っている。祭神は明治年間にアマツホコニニギノミコトに定め将門公は相殿。  
時代は下って14世紀鎌倉時代の嘉元年間、遊行二世真教上人がこの地を通りがかる。上人は念仏をもって仏教を民衆の中に浸透せしめるという時宗の祖・一遍上人の教えを受け継ぎ諸国を旅していた。この芝崎の地では飢饉、天災などに人々は苦しみ、放置され荒れ果てた公の塚のたたりではと言う者もいた。上人は公に「蓮阿弥陀仏」の法号を追贈、ねんごろに供養するとともに村人の願いに応じ近くの寺にとどまることとした。寺を天台宗から時宗の念仏道場に変え(神田山日輪寺)、ここが塚の管理に当たるようになった。徳治2年(1307)に上人は秩父石の板石卒婆を塚の前に建て、2年後の延慶2年(1309)傍らの荒れていた社を修復、公の霊を祀って「神田明神」とした。   
祟り伝説 
築土神社や神田明神同様に、古くから江戸の地における霊地として、尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受け続けてきた。この地に対して不敬な行為に及べば祟りがあるという伝承が出来たのも頷ける。そのことを最も象徴的に表すのが、第二次世界大戦後に、GHQが周辺の区画整理にとって障害となるこの地を造成しようとしたとき、不審な事故が相次いだため、結局、造成計画を取り止めたという事件である。 
結果、首塚は戦後も残ることとなり、今日まで、そのひと気のない様に反し、毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりを示している。近隣の企業が参加した「史蹟将門塚保存会」が設立され、聖域として守られている。 
隣接するビルは塚を見下ろすことのないよう窓は設けていないとか、それらのビルでは塚に対して管理職などが尻を向けないように特殊な机の配置を行っているといったことが話題に上ることがあるが、これらは都市伝説の類である。
 
将門伝説
 
 
 
 
平将門の乱の歴史性  
「更級日記」にのみ登場した武芝伝説は、武蔵武芝が生きた同時代の平将門伝説という大きな物語のひとつでもある。大きな物語の中の小さな物語である。もし、菅原孝標女がたけしば寺跡で小さな物語を聞いたのなら、平将門の乱の記憶と共に、それは足立郡のなかに伝承されたものであっただろう。平将門の乱についてはたくさんの先行研究や歴史小説が描かれている。大きな物語にはたくさんの人々が注目する。ここでは武蔵武芝との関連の中で、平将門について論を組み立てた。そのひとつは水の道との関連である。  
将門の支配した下総国豊田郡・猿島郡一体は鬼怒川(もともとは毛の川であったろう。下野国、つまり毛の国から流れてきた川)や渡良瀬川に挟まれた低湿地であり、開発の遅れた地域であった。飯沼、菅生沼、鵠戸沼などたくさんの湖沼が乱流地帯であることを物語っている。広大であっても、そこは生産力の弱い地域であったろう。ここが父良持、あるいは母方から受け継いだ領地であった。「将門の所領は藤原氏に寄進されていたと見なすことが出来る。つまり豊田郡、猿島郡に開いた私営田を摂関家に寄進して,国衙支配から逃れようとしたのである。」(「将門記」1965年展望大岡昇平)ここから藤原忠平との関係が生まれていたと思われる。「将門記」では私の君と藤原忠平を呼んでいる。開発の遅れた地域であったからこそ、舎宅を営み、私営田の開発に意欲的であったろう。  
父良持は鎮守府将軍であり、桓武平氏という軍事貴族の一員であった。良持は将門を初め子どもたちに将のつく名前をつけている。これは自分が将軍であったことによる、という見解もある。この良持は、関東北部にたくさんの同族を持っている。国香、良兼、良正、良文などが土着して勢力を競っていた。この兄弟の父・高望王が889年寛平1頃に上総介となって下向したことから桓武平氏の歴史が始まる。父の死後、都から帰った平将門はこの血族間の争いに明け暮れることとなった。一族間の争いから隣国武蔵国内の争いに介入した武蔵武芝の事件は、将門が次の段階に入ったことを示す。この動きは新たな東国独立王国の自立への道につながっていた。このようなストーリーで平将門の乱の説明が始まるのは一般的である。  
なぜ、武蔵国への介入を平将門が行ったのか。突然の行動とも思われるが、ここは水運、陸運の要地であり、関東全体を抑えるには必須の地域であった。そして、平将門が支配する猿島郡・豊田郡に隣接したのが武蔵国足立郡である。東国独立王国をこの時点では、意図していたのではないとおもわれるが、それでも新たな布石を打つつもりはあったであろう。新たな布石は、当たり過ぎた。東国支配の要に立ち入ってしまったというだけではなく、源経基という人間の飛躍を用意してしまった。この点はまた後述するとして、坂東を一括で見る広域行政の要であることを強調したい。すでに、東海道への武蔵国編入について次のような目的を持って行われたという見解が出されている。この物資等の補給をもって平将門の父・良持も鎮守府将軍として水沢の地に赴いたのであった。佐々木虔一はいう。「『坂東諸国』を一つの広域行政区として再編制するために、注目されたのが武蔵国である。武蔵国は『坂東諸国』のほぼ中央に位置し、この地域の交通上の要地に当たること、また、国内を南北に多摩川・入間川(荒川)・利根川などの大河川が流れ、海に注ぐなど、水上・海上交通の便もよいことなどがその特色である。武蔵国のこの特色を生かして、『坂東諸国』を一つの広域行政区に編成するために行った措置が、771年の武蔵国の東山道から東海道への編入だったのである。」(「古代東国社会と交通」)  
将門の支配地が、生産力の弱い地帯であると先に述べたが、富を生むのは農業生産だけではない。乱流による地形形成は自然堤防や舌状地を作る。ここは馬を飼うのに適した地形である。兵部省の官牧「大結馬牧」が置かれていた。馬の生産は強大な軍事力を形成する。また、この地形は一方からの風の通りを作り、製鉄に必要な炉の風送りを可能にする。小規模の製鉄炉が東国各地に広がる。将門の支配地入沼排水路に沿った尾崎で製鉄遺跡が発見されている。このような視点はつぎつぎに出されてきている。  
ここで新たな視点として紹介したいのは水運との関係である。承平・天慶の乱と西の藤原純友の乱と一括されるため、水軍(海賊)を基盤とする藤原純友と対比されて騎馬軍団が注目されてきた。だが、官道を押さえるのみならず、水の道を押さえることも重要なことである。大規模なもの、重いものは水運が必須である。米の運送も水運を主としたものと考える。「寛平6年(894)7月16日の太政官符では、上総・越後等の国解によると、『調物の進上は、駄を以って本となす、官米の運漕は、船を以って宗となす』とあり、上総国からも、官米の輸送が船を利用して行われていた可能性が窺えるのである。」(「古代東国社会と交通」)水運の使えるところは「船を以って宗となす」は合理的である。  
注目する論文を鈴木哲雄が発表している。  
葛飾区郷土と天文の博物館が開催している「地域史研究講座」シリーズの講座報告である。行われたのは1995年平成7年1月29日。その中で、鈴木哲雄の発表した特論「古代葛飾郡と荘園の形成」がすばらしい。関東には内海が二つあったのだという。ひとつは利根川=内海(古東京湾)、もうひとつは鬼怒川=内海(香取海)である。以下はその抜粋である。  
「古代から中世にかけての関東には、二つの内海がありました。ひとつは先にお話しした利根川=内海(古東京湾)地域の内海です。もう一つが千葉県の北部から茨城県にかけてかつて広がっていた内海です。現在は千葉県側に印旛沼や手賀沼が、茨城県側に霞ヶ浦や北浦がありますが、これらの湖は連なって大きな内海を構成していたと推定されています。私は後者の内海世界を鬼怒川=内海(香取海)地域と呼んでいます。平将門の乱はこの内海(香取海)世界で展開されました。」「しかし『将門記』には、舟も出てきますし、川の支配や渡しなどをめぐる争いもでてきます。将門の乱は、坂東の海のひとつである内海(香取海)世界で行ったのですから、鬼怒川などの河川や内海における船、水上交通、そういったものをめぐる戦いであったと見ることもできるのです。将門は内海(香取海)を征服したのち、下野国(栃木県)の国府(国の役所)を占拠します。下野国府の西の方は太日川(オオイガワ、フトイガワ)が流れていました。太日川は、現在の渡良瀬川から江戸川にかけてを流路とした河川で、その西側を利根川が流れています。下野国府の位置は、ちょうど鬼怒川=内海(香取海)と利根川=内海(古東京湾)地域との接点にあたるわけです。将門は、鬼怒川=内海(香取海)地域を征服したあと、東山道に属する下野・上野両国を占拠し、そして新皇(新天皇)を名乗りました。さらに利根川=内海(古東京湾)地域に軍隊を進め、武蔵国府から相模国府までをいっきに征服し、関東全域の支配圏を確保します。」  
この鬼怒川=内海(香取海)のひとつの拠点として霞ヶ浦の奥に常陸国府があった。現在の石岡市である。939天慶2年、11月21日、常陸国府の軍勢を破り、将門は常陸国府を焼き払った。これにより、国賊となった将門は関東八カ国の支配を目論んで各国府を落としていく。こうして12月19日には上野国府において「新皇」に即位する。  
「将門が内海世界の一番奥まった場所に都=王城を設置したことは確かだと思います。将門の都は内海に面した都であり京都と対比されています。」  
「『将門記』では、鬼怒川や小貝川の渡しである子飼の渡し、堀越の渡しなどがでてきまして、これらの渡しは、将門の乱での重要な戦場となっています。将門の乱の前半は、こうした鬼怒川=内海(香取海)地域の交通支配をめぐって戦乱がおこなわれたとみることもできるのです。地域の交通を支配する者が、地域自体を支配します。」  
「このとき将門は、関東を東西に結ぶ東山道、東海道などの陸の官道と、利根川・太日川・鬼怒川・那珂川などの関東を南北に結ぶ水の道と、そして東西南北の水陸交通を地域的に一本化させえる二つの内海(古東京湾・香取海)の交通を掌握したと考えられるのです。」(「古代末期の葛飾郡」熊野正也編1997年5月崙書房)  
新しい将門の世界が、新しい視点での東国の地図が、ここにはある。二つの海から平将門の乱をアプローチしたことによって、水と陸とを同じ視点で見ることができるようになった。関東を一つに押えるための新たな発想である。古代人から見た地域の再発見により、交易・軍事を考える場合の多様な発想が可能となった。私営田、そして荘園化という重要な要素とともに、物流が大きな富を生み出し、文化を広げる。古代の2つの海を制して、東国独立国家の樹立に走った平将門を捉えることができる。  
将門と道真  
平将門は上野国府を手中に収めた。都に最も近い国府である。ここで東国独立国家の樹立が宣言された。そのきっかけまことに不思議な事柄に触発されている。「将門記」にはこのような記述がある。「時ニ昌伎アリ、云ヘラク、八幡大菩薩ノ使ヒゾトクチバシル、『朕ガ位ヲ蔭子平将門ニ授ケ奉ル。其ノ位記ハ左大臣二位菅原朝臣ノ霊魂表スラク、右八幡大菩薩八萬ノ軍ヲ起シ朕ガ位ヲ授ケ奉ラム。今須ラク卅ニ相ノ音楽ヲ持テ早ク之ヲ迎ヘ奉ズルベシ』ト」神がかりした昌伎を介して、将門を新皇とせよとのお告げが八幡大菩薩によって告げられたのである。八幡神は豊後宇佐にある宇佐八幡である。お告げをする神として有名である。道鏡と和気清麻呂の話は知られている通りである。位記を書くのは都に降りた怨霊の菅原道真である。位記とは叙位の文書である。だが、位を授けるのは天皇なので、天皇の位には叙位はない。「爰ニ将門ハ項ヲ捧ゲテ再拝ス。」と続けて記されている。この後には興世王などへの除目がおこなわれ、新皇による東国政権が樹立された。  
菅原道真が流配地大宰府で亡くなった903年延喜3に平将門が生まれたという説がある。この説を昌伎が知っていたかは分からないが、「将門記」の作者は知っていたのであろう。  
大岡昇平は「菅原道真が流謫地大宰府で死んだのは延喜3年、その年将門が生まれたという説があることは前に書いた。その年は全国的に旱魃あり、疫病が流行した。7年、政敵藤原時平が急死し、8年、清涼殿に落雷あり、藤原菅根が雷死した。これらはすべて道真の怨霊の仕業と信ぜられた。宇佐八幡は和気清麿が受けた神託以来、皇室の信仰厚く、男山に勧請されている。道真が雷神として全国に流行するに及び、宇佐八幡の神人達がその霊験を全国に説いて廻った。この神託は興世王や藤原玄明の演出の疑いは十分にあるが、地方の巫女が巷説や俗信に基づいて霊感を口走ったとしてもおかしくない。」(「将門記」)と状況を読んでいる。興世王など都に育った受領階層が持ち込んだことも考えられる。それより早く民衆の中で伝播していくものであろう。都ばかりでなく、「宇佐八幡の神人たち」によって東国にも菅原道真の怨霊騒ぎが持ち込まれたとの確証はない。伝えられていった可能性はある。  
幸田露伴も「平将門」で「道真公が此処へ陪賓として引張り出されたのも面白い。公の貶謫と死とは余ほど当時の人心に響を与へてゐたに疑無い。現に栄えてゐる藤原氏の反対側の公の亡霊の威を籍りたなどは一寸をかしい。たゞ将門が菅公薨去の年に生れたといふ因縁で、持出したのでもあるまい。本来託宜といふことは僧道巫覡の徒の常套で、有り難過ぎて勿体無いことであるが、迷信流行の当時には託宣は笑ふ可きことでは無かつたのである。現に将門を滅ぼす祈祷をした叡山の明達阿闇梨の如きも、松尾明神の託宣に、明達は阿倍仲丸の生れがはりであるとあつたといふことが扶桑略記に見えてゐるが、これなぞは随分変挺な御託宣だ。宇佐八幡の御託宣は名高いが、あれは別として、一体神がゝり御託宣の事は日本に古伝のあることであつて、当時の人は多く信じてゐたのである。此の八幡託宣は一場の喜劇の如くで、其の脚色者も想像すれば想像されることではあるが、或は又別に作者があつたのでは無く、偶然に起つたことかも知れない。古より東国には未だ曾て無い大動揺が火の如くに起つて、瞬く間に無位無官の相馬小次郎が下総常陸上野下野を席捲したのだから、感じ易い人の心が激動して、発狂状態になり、斯様なことを口走つたかとも思はれる。然らば、一時賞賜を得ようとして、斯様なことを妄言するに至つたのかも知れない。」 
この見解は通常の範囲である。だが、「道真公が此処へ陪賓として引張り出されたのも面白い。」という独特の言い方がいい。菅原氏は東国にあって人的にも身近な存在ではなかったか。怨霊の家系・菅原氏の一族も道真の左遷に伴って地方へ追いやられ、後に許されて都に戻るという出来事が起っている。道真の子の大学頭高視(土佐介)、式部大丞景行(駿河権介)、右衛門尉景茂(飛騨権掾)、文章得業生淳茂(播磨)も都から遠ざけられていた(「政治要略」)。が、906年延喜6には許されるところとなって都に戻る。大学頭高視(土佐介)につながるのが嫡流、孝標である。この中で、菅原景行はいち早く東国に向った。菅原氏の所領が東国にあったからだともいわれている。  
「将門は、幼少より、坂東太郎利根川や小貝川、鬼怒川付近の山野を駆け巡り心身を鍛え、常盤真壁郡羽鳥に住した菅原道真の子・景行に師事して学問を修め、文武両道に優れていた事が認められ,宮中近衛府の北面衛士として勤務する事12年、承平元(931年)、母より将弘が病死し領内周辺が伯父達の非違道に依って脅かされる事を知り」(「宍塚の自然と歴史の会20015斗蒔便り2001・12より抜粋」佐野邦一翁古老が語る宍塚の歴史<41>)と伝承では菅原景行が平将門の幼年時代に学問の師匠をしていたことになっている。別の伝承では将門の弟将平の師となっているようである。この菅原景行は909年延喜9に下総守となったとも記されている(7.11見紀略/1137)。また、929延長7には菅原道真三男景行(常陸介54歳)が大生郷天満宮(茨城県水海道市大生郷町)を祀ったといわれている。この年は平将門が京より戻る前年に当たる。海音寺潮五郎の「将門記」にも菅原景行は登場している。このような伝承がある程度史実に基づいているならば、道真の怨霊が、やがて将門の怨霊へと受け継がれていった東国での根は深い、と思われる。怨霊に仮託した人々の願いがそこに見られる。  
首を都に晒された将門は宙を飛んで東国へと戻ってきた。怨霊となった将門は、道真のように摂関政治の思惑の中で御霊に祭り上げられることもなく、怨霊のままに東国の守護神と化した。 
 
振袖火事 [明暦の大火] / 本郷丸山町本妙寺
 
  振袖火事 

 
 
 

 
 
 
明暦3年(1657)正月18日昼頃・未の刻(午後二時)、本郷丸山町本妙寺から出火、おりからのはげしい北西風にあおられて、湯島、浅草、八丁堀、佃島、まで広がった。前年の11月から80日あまり雨が降らず乾ききっていたうえに、強風に吹きたてられ、方々に飛び火したのである。  
翌19日、未明に一旦鎮火したのもつかの間、昼前に再び小石川伝通院表門下、新鷹匠町の武家屋敷から火の手があがり、北の丸の大名・旗本屋敷をはじめ、江戸城本丸・二の丸・三の丸をも焼いた。4時頃より風はますます激しくなり、中橋・京橋の町屋や四方の橋が焼け落ち、逃げ遅れた人々の累々たる屍は、南北3町、東西2町半のあいだにも及んだという。  
さらに同日夕刻、麹町5丁目の町屋から出火、山王権現、西の丸下、愛宕下の大名屋敷に延焼し、増上寺よりさらに南の芝口の海手につきあたり、燃えるものがなくなって、20日の朝鎮火した。  
この火事で、本郷から芝口までの60余町が焼け野原になった。橋は江戸中60余個所のうち、浅草橋と一石橋がかろうじて残った。土蔵は9千余あったが、災難を免れたのは1/10もなかった。死者は10万人を越すといわれ、無縁仏を弔うために建てられたのが、両国の回向院(えこういん)である。なお、本妙寺の施餓鬼で焼いた振り袖が原因となったという因縁話がついて、振り袖火事といわれるようになったのは後の事である。 
消防組織
江戸時代初期には消防組織が制度化されていなかったが、度重なる大火などを契機として火消の制度が設けられていった。火消は、武士によって組織された武家火消と、町人によって組織された町火消に大別される。また、武家火消は大名による大名火消と旗本による定火消に分類される。  
火消による消火は、火事場周辺の建物を破壊し、それ以上の延焼を防ぐ破壊消防という方法が用いられた。明和年間ごろからは竜吐水(りゅうどすい)と呼ばれた木製手押ポンプが配備されたが、水を継続的に供給する手段に乏しく、明治維新に至るまでの間、消火の主力は火消人足(中核は鳶職人)による破壊消防であった。  
大名火消  
桶町火事より2年後の寛永20年(1643年)、大名火消が制度化された。これは幕府が大名に課役として消防を命じたものである。従来、火事が発生してから奉書により大名に消火を命じていたが、これを改め事前に消火を担当する大名を任命したものであった。他に大名火消の一形態として、霊廟・神社・米蔵など幕府にとって重要な場所の消防を担当させた所々火消、江戸の町を方角などで地域割りして消防を担当させた方角火消、各大名屋敷の自衛消防組織に対し近隣の火事へ出動義務を課した各自火消などが設けられた。  
定火消  
明暦の大火翌年の万治元年(1658年)、定火消が制度化された。これは幕府の直轄であり、旗本に消防を命じたものである。火の見櫓を備えた火消屋敷(現在の消防署の原型)を与え、臥煙(がえん)と呼ばれる専門の火消人足を雇わせ、消防活動を担当させた。はじまりは4組であったが、一時期15組まで増加し、幕末には逆に1組まで減少するなど、幕府の財政や兵制、町火消の整備などによって増減している。10組で構成された期間が長く、十人屋敷・十人火消とも呼ばれた。  
町火消  
享保5年(1720年)、享保の改革の一環として町火消が制度化された。これは町人による火消であり、各町ごとに火消人足の用意と火事の際に出動する義務を課したものである。町奉行に就任した大岡忠相が名主などの意見も取り入れて考案し、複数の町を「組」としてまとめ、隅田川から西を担当するいろは組47組(のちに1組増加していろは四十八組となる)と、東を担当する本所・深川の16組が設けられた。享保15年(1730年)には、火事場への動員数増加と効率化を目的として、数組ずつに分けて統括する大組が設けられた。町火消は当初町人地の消防のみを担当していたが、町火消の能力が認められるに従って活動範囲を拡大し、武家地への出動をはじめ橋梁・神社・米蔵などの消火活動も命じられ、江戸城内の火事にも出動した。幕末には武家火消が大幅に削減されたため、江戸の消防は町火消が主力となって明治維新を迎えている。 
 
八百屋お七 [天和の大火] / 駒込の吉祥寺

 
 
 

 
 
 
 
 
( 本郷の円乗寺、正仙寺? ) 
寛文8年(1668)?-天和3年3月29日(1683/4/25)江戸時代前期、江戸本郷の八百屋太郎兵衛の娘。生年は1666年で生まれとする説があり、それが丙午の迷信を広げる事となった。下総国千葉郡萱田(現・千葉県八千代市)で生まれ、後に江戸の八百屋太兵衛の養女となった。お七は1682年(天和2年)12月の大火(天和の大火)で檀那寺(駒込の吉祥寺、本郷の円乗寺、正仙寺とする説もある)に避難した際、そこの寺小姓生田庄之助(左兵衛とする説も)と恋仲となった。翌1683年(天和3年)、彼女は恋慕の余り、その寺小姓との再会を願って放火未遂を起した罪で、捕らえられて鈴ヶ森刑場で火刑に処された。遺体は、お七の実母が哀れに思い、故郷の長妙寺に埋葬したといわれ、過去帳にも簡単な記載があるという。  
その時彼女はまだ16歳(当時は数え年が使われており、現代で通常使われている満年齢だと14歳)になったばかりであったため奉行が哀れみ、お七は15歳だろうと聞いた(15歳以下の者は罪一等を減じられて死刑にはならない)が、彼女は正直に16歳であると主張し、お宮参りの記録を証拠として提出した程だったという。  
お七処刑から3年後の1686年(貞享3年)、井原西鶴がこの事件を「好色五人女」の巻四に取り上げて以降有名となり、紀海音の「八百屋お七」、菅専助らの「伊達娘恋緋鹿子」、為永太郎兵衛らの「潤色江戸紫」、鶴屋南北の「敵討櫓太鼓」など浄瑠璃・歌舞伎の題材として採用された。芝居では寺小姓と再会するため、火の見櫓の太鼓を叩こうとする姿が劇的に演じられる場面が著名。 
 
赤ひげ / 小石川養生所

 
 
 

 
 
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1972-1973年NHKで放送されたテレビ時代劇ドラマ。ドラマは、長崎留学から戻った保本登が、将軍徳川吉宗の命で建てられた小石川養生所に着任するところから始まる。養生所では、所長の赤ひげ−立派な赤い色をした口ひげをたくわえていたことから、皆からそう呼ばれていた−こと新出去定が、江戸町奉行所の定めた規則を守らずに診療を行っていた。例えば規定の診療時間外に飛び込んで来た患者を診察したり、治療費を払えない貧しい患者からは金を取ろうとしなかった。こうした赤ひげ流のやり方に保本は反発し、「規則ではこうなっている筈です」と声を顕わに非難、ことごとく対立する。規則を守れと言う保本と、今までのやり方を決して変えようとはしない赤ひげ。赤ひげに反発する保本は、「お仕着せ」と呼ばれる、養生所医師用の制服の着用を拒み、長崎で使っていた頃の自分の服で診察を続けた。しかし、次第に赤ひげや養生所の先輩医師達、そして患者達との心の交流を通じ、医師として、そして人間として成長していった保本は、ある時からお仕着せを着用するようになる。赤ひげと対立することもなくなっていた。保本が着任してから1年後。彼にまた長崎行きの命が下った。代わりにやって来た新人医師は、1年前の保本そっくりであった。赤ひげに反発し、規則を守れと言って譲らない新人医師。その姿を見つめる赤ひげの傍らには、お仕着せを着たまま黙って佇む保本の姿があった。  
 
江戸中期には農村からの人口流入により江戸の都市人口は増加し、没落した困窮者は都市下層民を形成していた。享保の改革では、江戸の防火整備や風俗取締と並んで下層民対策も主眼となっていた。享保7年(1722年)正月21日には麹町(現東京都新宿区)小石川伝通院(または三郎兵衛店)の町医師である小川笙船(赤ひげ先生として知られる)が、将軍への訴願を目的に設置された目安箱に貧民対策を投書する。笙船は翌月に評定所へ呼び出され、吉宗は忠相に養生所設立の検討を命じた。  
設立計画書によれば、建築費は金210両と銀12匁、経常費は金289両と銀12匁1分8厘。人員は与力2名、同心10名、中間8名が配された。与力は入出病人の改めや総賄入用費の吟味を行い、同心のうち年寄同心は賄所総取締や諸物受払の吟味を行い、平同心は部屋の見回りや薬膳の立ち会い、錠前預かりなどを行った。中間は朝夕の病人食や看病、洗濯や門番などの雑用を担当し、女性患者は女性の中間が担当した。  
養生所は享保7年(1722年)12月21日に小石川薬園(現在の小石川植物園)内に開設された。建物は柿葺の長屋で薬膳所が2カ所に設置されていた。収容人数は40名で、医師ははじめ本道(内科)のみで小川ら7名が担当した。はじめは町奉行所の配下で、寄合医師・小普請医師などの幕府医師の家柄の者が治療にあたっていたが、天保14年(1843年)からは、町医者に切り替えられた。これらの町医者のなかには、養生所勤務の年功により幕府医師に取り立てられるものもあった。  
当初は薬草の効能を試験することが密かな目的であるとする風評が立ち、また無宿者と同等の扱いを受けるのを嫌われ利用が滞った。そのため、翌、享保8年2月には入院の基準を緩和し、身寄りのない貧人だけでなく看病人があっても貧民であれば収容されることとし、10月には行倒人や寺社奉行支配地の貧民も収容した。また、同年7月には町名主に養生所の見学を行い風評の払拭に務めたため入院患者は増加し、以後は定数や医師の増員を随時行っている。  
幕末になると、蘭方医が台頭し「医学所」と「医学館」が対立し、漢方医の権威が低下するとともに養生所の質は低下する。  
明治維新により一旦は廃止されたものの医学館の管轄に移り「貧病院」と改称して存続したが、新政府の漢方医廃止の方針によって間もなく閉鎖されている。薬園とともに養生所施設は、1870年に文部省の管轄に移行され、1877年、東京帝国大学に払い下げられ、最終的には理学部に組み込まれている。  
2012年(平成24年)9月19日に、「小石川植物園(御薬園跡及び養生所跡)」として国の名勝および史跡に指定された。現在、小石川植物園(正式名称は「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」)内に、当時養生所で使われていた井戸が保存されており、関東大震災の際には被災者の飲料水として大いに役立ったという。 
江戸三十三観音巡り 第7番札所 / 心城院
心城院は「しんじょういん」と読みます。心城院は、湯島天神と関係の深いお寺です。  
江戸時代は神社とお寺が一体となっていました。そのため、神社に付属して、神社の管理やお祀りをおこなうお寺が神社の境内にありました。これを別当寺といいます。  
湯島天神の場合には、喜見院という別当寺がありました。  
湯島天神は、いうまでもありませんが菅原道真が祭神ですが、菅原道真は、藤原時平の讒言により 九州へ流されたとき、聖天様を篤く信仰され、冤罪がそそがれるよう聖天(大聖歓喜天・大聖歓喜自在天)様に深く祈念されたそうです。   
5代将軍綱吉の治世の元禄7(1694)年、湯島天神の別当寺であった喜見院の住職 第三世宥海大僧都が、菅原道真の信仰していた聖天様を湯島天神境内にお祀りしました。  
その聖天様は比叡山から勧請したもので、慈覚大師作と伝えられています。  
この聖天様は湯島の聖天さまとして、江戸っ子から篤く信仰され、有名な紀国屋文左衛門も帰依したと言われています。  
江戸時代の喜見院は相当の境域があったそうですが、明治維新の神仏分離令の影響で廃寺となってしまいました。  
もともと喜見院の弁天堂であった現在の心城院も廃寺の運命にあるところでしたが、運よく、その難を逃れました。そして、寺名を心城院と改め、建立当時の経緯から天台宗に属し現代にいたっているそうです。  
心城院は湯島天神の男坂の坂下にあります。  
湯島といえば天神様ということで湯島天神を多くの人がお参りしますが、この心城院というお寺を拝観する人は少ないだろうと思います。しかし、心城院の境内は狭いながら、拝観する価値が大いにあるお寺だと思います。  
聖天様  
聖天様は、歓喜天・歓喜自在天・大聖歓喜天ともいい、「しょうてん」様、「しょうでん」様と二通りで呼ばれますが「しょうでん」様のほうが正しいようです。  
元々、ヒンズー教で信仰されている象頭人身のガネーシャという神様が仏教に取り入れられたものだそうです。  
大変霊験あらたかで、仏教の守護神として崇拝されています。そのため、菅原道真も聖天さまに帰依されたそうです。  
聖天様の像には単身の象頭人身の像と双身の像とがあるそうです。  
しかし、聖天様は秘仏中の秘仏とされ、一般の人は絶対見られないそうです。  
心城院でも聖天さま独特の修法である浴油供つまり聖天様に油を浴する修法をご住職だけで行っているとのことでした。  
聖天様を祀るお寺には、シンボルとして巾着袋(砂金袋)と大根を図案化したものが多く見られます。大根は身体を丈夫にし、良縁成就、夫婦和合のお加護があるそうです。  
巾着は商売繁盛を表すそうです。  
心城院でも各所に巾着袋と大根があります。外陣上の幕にも巾着袋と大根が刺繍されていました。  
さて、心城院の札所ご本尊さまは十一面観音様です。お聖天さまは仏さまである十一面観世音菩薩さまが化身された神様ですので、聖天様が心城院のご本尊ですから、まさに一体となってお祀りされているといえます。  
札所ご本尊さまが安置されている内陣には入れませんが、外陣に写真が掲示されていました。  
心城院はもと喜見院の弁天堂であったため、弁財天さんもお祀りしてあります。宝珠弁財天といいます。また大黒天も祀られています。  
江戸時代の仏具  
心城院は、何回も発生した江戸の大火や関東大震災や東京大空襲の戦災にも幸いなことに遭いませんでした。  
火災にあっていないため、仏具類は江戸時代のものがそのまま残っています。  
本堂内にある花瓶、灯篭、ろうそく立て、香炉も大部分が江戸時代のものです。  
江戸時代の仏具が残っているのは大変貴重なものです。さらに驚くのはこれが見事に磨かれていることです。 ご住職の日ごろの手入れの良さのなせる業だと思いました。  
柳の井戸  
本堂の前に手水がありますが、これは「柳の井戸」と呼ばれている江戸名水の一つです。 心城院は「柳の井戸」があることから「柳井堂(りゅうせいどう)」とも呼ばれます。  
江戸時代の「紫の一本(ひともと)」という本に次のように書かれているそうです。   
『この井は名水にして女の髪を洗えば如何ように結ばれた髪も、はらはらほぐれ、垢落ちる。気晴れて、風新柳の髪をけづると云う心にて、柳の井と名付けたり』  
この名水で髪をあらうと柳の葉が風になびくように髪がさらさらとしたということのようです。  
この名水は関東大震災の時、湯島天神の境内に避難した人々の飲料水となり多くの命を守ったため、当時の東京市長から感謝状を受けたそうです。  
現在、水はポンプでくみ上げられていますが、保健所からも飲用してもよいとのお墨付きをもらっているとのことで飲むことができます。実際に飲んでみるとまろやかな味がしました。  
また境内の弁財天放生池は今は小さな池となっています。  
しかし、江戸時代の江戸砂子という本に  
江戸砂子に言う、此所の池は長井実盛(後に斉藤別当実盛になる)庭前の池と伝ふ。昔は余程の池なりしを近世其の形のみ少しばかり残りたり。  
と記され、昔はかなり大きな池だったようです。  
昔から病気平癒などの祈願に縁起の良い亀を池に放したため、「亀の子寺」として親しまれていました。しかし、最近、池を改修して以降は亀がうまく育たなくなってしまったそうです。
江戸三十三観音巡り 第8番札所 / 清林寺
清林寺は、東京メトロ本駒込駅から徒歩5分弱のところにあります。  
浄土宗のお寺で正式には東梅山花陽院清林寺と言います。清林寺は文明15年(1483)で、鎌倉光明寺八世貫主の祐崇上人によって開山されました。  
清林寺を創建した祐崇上人は、応享11年(1439) 13歳で鎌倉光明寺七世照山慶順上人の下で剃髪受戒されました。  
その後、佑崇上人は、若干27歳で千葉の木更津に選択寺を建立しました。  
それ以来祐崇上人は、京都山城に永養寺を起立し、文明14年(1482)に鎌倉光明寺八世貫主となりました。   
祐崇上人の代となってからの光明寺は、関東六派の本山号を賜った後、慶長13年(1608)、徳川家康によって関東十八檀林の首位とされ、関東における浄土宗の中心となりました。  
その祐崇上人が鎌倉光明寺八世貫主となられてすぐ建立した寺がまさしく清林寺でした。  
明応4年(1495)に祐崇上人は、宮中に上洛参内し、天皇陛下に21日間におよぶ阿弥陀経講義をされたこともあります。  
その後の約100年間の清林寺の歴史は文書が焼失しているためはっきりしないそうです。  
江戸時代に入って、清林寺は台蓮社光誉天歴上人によって再興されました。  
光誉天歴上人は、徳川家康が江戸に入府した際にお祝いを言上し、松竹梅の鉢植を一鉢ずつ拝受しました。その鉢植を、それぞれ、天下栄の松、万年の竹、相生の東梅と呼んだことから、寺号が東梅山陽花院清林寺と命名されました。  
また、清林寺の寺紋は梅の紋ですが、この寺紋もこの由緒に基づくものだそうです。  
清林寺は当初、武蔵国豊島郡 神田三河町四軒町にて境内1080坪の拝領を受けて創建されましたが、その後、慶長18年(1613)に神田三河町四軒町から神田川柳原移転しました。  
さらに、慶安元年(1648)に、現在清林寺が所在している駒込蓬莱町(現東京都文京区向丘2−35−3)に移り、創建時の如く1080坪を拝領し 今日に至っているそうです。  
清林寺のご本尊は阿弥陀如来像です。昭和20年の東京大空襲で本堂書院等すべてを焼失してしまいましたが、ご本尊阿弥陀如来は納骨堂の地下に安置していたため焼失を免れました。  
そして、昭和24年に仮本堂を建て、昭和33年に本堂を再建しました。これが現在の本堂です。  
このご本尊様の阿弥陀様は非公開ですので拝観できませんが、12世紀後半から13世紀初めの特色をもったものだそうです。阿弥陀様の脇侍が観音菩薩像ですが、この観音菩薩像は江戸時代の製作とのことです。しかし、この観音様も非公開ですので拝観できません。  
そこで札所観音様が 庫裏の脇に鎮座しています。札所ご本尊の観音様は、聖観音菩薩像です。  
また、境内にある水屋に石造の水鉢をよくみると元禄9年聖観音と刻まれています。  
清林寺が元禄時代から「江戸三十三観音」の札所であったことを物語っています。  
清林寺では、現在三重塔を建立中です。この三重塔は、奈良県の斑鳩にある法輪寺や法起寺を模した飛鳥様式の塔です。  
この塔を建立しようとしているご住職の難波光定師のお話では「飛鳥は日本仏教の根源であるので、飛鳥様式で建築しようとしている」との説明でした。また、「失われつつある職人技術を継承することも大きなねらいである」とのことでした。昭和52年に起工されて33年経ちます。  
途中、お願いをしていた大工さんが建築を断念するという思いがけない事態も発生したようです。そのため、一度解体して、再度建築しているとのことであり、現在2層目の構造部までができあがっています。心柱が真ん中に建てられています。この心柱は木曾ヒノキであり、高さが10メートルあり、下部の直径が73センチ、上部が65センチもある非常に太い柱です。現在ではなかなか入手できない逸品です。 清林寺では30年前に入手したそうです。
江戸三十三観音巡り 第9番札所 / 定泉寺
定泉寺は、東京メトロ南北線「本駒込」駅2番出口を出て本郷通りを挟んだに西側にあります。縁起によれば、蜂屋九郎次郎善遠が旧本郷弓町(文京区本郷)にある「太田道灌の矢場跡」を賜り、元和7年(1621)堂宇を建立しました。後に増上寺第18世となる定譽随波上人を開山に迎えました。  
蜂屋善遠は蜂屋善成の子供として生まれ、慶長年間から徳川秀忠に仕えました。  
御近習番や御小姓組など勤め、しばしば加恩があり、1000石を知行しています。  
寛永10年8月29日に41歳でなくなりました。  
なお、「寛政重修諸家譜」では、定泉寺の開基は父の善成となっています。  
開山の定譽随波上人は、念仏弘通に邁進され豪放の中にも繊細で信の徳が高く、人々に敬愛された上人であったようです。  
定泉寺の院号は見性院と言いますが、これは定譽随波上人が己に具わる仏としての本性を見ぬくという意味で付けられた院号で、開基の蜂屋善遠の院号に基づくものです。  
定泉寺は、明暦3年1月(1657)に本郷弓町の近くの本郷丸山から起きた明暦の大火(いわゆる振袖火事)により焼失してしまいました。  
その後、現在地に移転し、広大な寺域に本堂・庫裏・鐘楼・山門が建てられました。  
鐘楼に掛けられた鐘は江戸の丹波守藤原重正が造ったもので駒込の名鐘の一つといわれましたが、現在は残されていません。  
定泉寺は、幸いなことに江戸時代を通じて火災にあいませんでしたので、戦前までは土蔵造りの本堂が残っていました。  
しかし、昭和20年5月の東京大空襲により建物を焼失してしまいました。それにもかかわらず、ご本尊・過去帳など、開山上人のお名号は守り、現在に至っているとのことです。  
戦災に焼失したものの、檀信徒の力により昭和27年5月27日に本堂が再建されました。これが現在の本堂です。  
ご本尊は阿弥陀如来像です。制作時期ははっきりしないものの江戸時代初期の作と言われています。  
札所ご本尊は、ご本尊様の脇に安置されている十一面観世音菩薩像です。  
この観音様は、定泉寺19世住職進誉徳龍上人が修業された鈴鹿市白子本町にある終南山悟真寺という浄土宗知恩院派のお寺からをお迎えしたものだそうです。  
常泉寺には、石造の六阿弥陀仏があります。本堂の前に左手にある六阿弥陀が刻まれた宝篋印塔です。六阿弥陀は六道を照らす役目をもった仏様です。台座には元禄9年と刻まれています。  
また参道右手には五重の層塔があります。これも江戸時代の作で、五重の層塔は天地宇宙を表しているそうです。  
参道左手は墓地となっていて、開山の蜂屋家の墓もあります。また、中ほどには、中興開山の登譽見道上人の墓があります。珍しい家形の墓石で、その中に内仏として観音さまが鎮座 しています。また、江戸時代の書家「林家川崎」の墓もあります。「林家川崎」と刻まれた墓碑銘の文字は、川崎本人が書いたものだそうです。  
門を入ると左脇に 夢現地蔵菩薩尊と参道左脇に閻魔大王碑があります。さらに参道脇に、清林寺開創期からある井戸があります。この井戸は現在は石蓋がされていますが、終戦後までは、寺に関わる人々の「生命泉」だったそうです。  
夢現地蔵菩薩は、5代将軍綱吉の時代、定泉寺の第2世住職登譽見道上人の頃、檀信徒であった根津に住む村井家当主が、貞享2年(1685)8月8日に夢のお告げを得て床下より地蔵菩薩像を掘りあてましたが、これを定泉寺に合祀したものだそうです。  
夢現地蔵の名前のごとく夢を現実にしようという向上心を願う尊像として多くの人々に崇められています。  
毎月8の日が縁日となっていて、江戸時代、縁日には近くにやっちゃば(土物店)もあり大勢の参拝客があったようです。毎月8の日には開扉されます。  
また、定泉寺には子育てと稚児の守り仏として「夢現塚」もあります。
江戸三十三観音巡り 第10番札所 / 浄心寺
浄心寺は、正しくは「湯嶋山定光院浄心寺」と言います。  
寺伝によれば、浄心寺は、元和2年(1612)に還蓮社到誉文喬和尚を開山上人とし、湯島妻恋坂付近に創建されました。還蓮社到誉文喬和尚の生まれ等は明確にはわかりませんが、増上寺で修業し、館林善導寺に移った後、駿河赤坂で浄心寺を起立しました。その何年かに後江戸に移り元和2年(1616)浄心寺を起立しました。そして、元和7年(1621)に浄心寺でなくなりました。年齢60有余歳でした。  
浄心寺は畔柳(くろやなぎ)助九郎が大旦那となり創建されました。  
畔柳(くろやなぎ)助九郎は、寛政重修諸家譜によれば、徳川家康の父松平広忠の頃から松平家に仕え、3代目の助九郎武重が、黒柳そして畔柳と名のったようです。  
畔柳氏は、歴代助九郎を名のっていますが、浄心寺の開基は助九郎武重といいます。  
畔柳助九郎は、家康に仕え、家康のすぐ傍で数々の戦さを戦っています。  
特に三方ヶ原の戦いでは、負け戦となり、家康が自ら武田軍に斬りこもうとしますが、それを推しとどめたのが夏目吉信です。夏目吉信は、家康が乗る馬の轡(くつわ)を浜松城に向けたあと、そばにいた畔柳助九郎に家康をお守りするようにと言い残して武田軍に斬りこんでいきました。  
畔柳助九郎は家康の御馬のそばを離れずお守りし家康は浜松城へ無事帰還することができました。このことにより、後に金の扇子を家康より賜っています。  
この話は備前岡山藩主池田氏に仕えた徂徠学派の儒学者湯浅常山が書いた「常山紀談(じょうざんきだん)」の中に書かれています。  
助九郎は御中間頭までなっていますが、家康への報恩のため、湯島の拝領地の一部を割り出して浄心寺を建立したと伝えられています。  
湯島の内に建立されたことから、山号は湯嶋山(とうとうさん)と名付けられました。  
しかし、天和2年(1682)12月28日に発生した江戸の大火いわゆる「お七火事」といわれる大火で類焼し湯島広小路とするため浄心寺の用地が召し上げとなり、湯島での替地は難しく、駒込に600坪の借地を拝領し 翌年、駒込に移転しました。  
浄心寺は、昭和20年の戦災で、本堂等を焼失しました。現在の本堂は昭和48年に再建されたものです。  
ご本尊は、阿弥陀如来像です。脇侍として観音菩薩像と勢至菩薩像が安置されています。ご本尊の阿弥陀如来像は昭和48年に、観音菩薩像は昭和30年代後半、勢至菩薩像は昭和40年代初期に造られました。阿弥陀如来立像の高さは俗に「丈六」と呼ばれる1丈6尺((約4.85メートル)もある大きなものです。このうち向って左側の観音菩薩像が、札所ご本尊様で「子育て桜観音」こと十一面観世音菩薩像です。この三体の仏像は、高村光雲の弟子である阿井瑞岑師と先崎栄伸師によって制作されたものです。また、内陣右脇には虚空蔵菩薩像も安置されていました。また、本堂内には、重さ500キロもある木魚が置かれています。日本国内で一番大きいと言われている木魚です。この日本一大きな木魚は、大きすぎるので法要の際などには使いませんが、実際叩くと鳴るそうです。  
境内の入り口、本郷通りの脇に、小さな広場が作られていて、そこに春日局ゆかりのお地蔵様が祀られています。  
浄心寺がある場所は、元は春日局のお花畑があった場所でした。地蔵菩薩は春日局が哀願していたものだそうです。  
墓地には、佐々倉桐太郎(ささくら とうたろう)のお墓があります。佐々倉桐太郎は、咸臨丸で勝海舟と一緒に渡米をした人物です。佐々倉桐太郎は、浦賀奉行所の与力でした。嘉永6年(1853)ペリー来航のとき応接方をつとめた後、長崎海軍伝習所の第1期として軍艦操練技術を学び、伝習終了後、築地の,軍艦操練所教授方となりました。そして、安政7年(1860)幕府遣米使節に随伴した咸臨丸に乗艦して渡米しました。この時の艦長が勝海舟です。維新後は海軍兵学寮につとめています。明治8年12月17日に46歳でなくなり、浄心寺に埋葬されました。
江戸三十三観音巡り 第11番札所 / 円乗寺
円乗寺の創建時期は、文京区の説明では天正9年(1581)に開創されたとありますが、「御府内寺社備考」という書物には元和6年(1620)川越の喜多院に住する宝仙法印により起立されたとも書かれていて、明確なことは不明のようです。  
当初は、本郷の加賀金沢藩の御屋敷(現在の東京大学)の近くにあり、密蔵寺といいましたが、後に円乗寺と寺号が変わりました。明暦3年(1653)に起きた明暦の大火のため本郷の用地が収公されたため、現在地に移転しています。  
参道をまっすぐ進むと、正面に本堂があります。戦災で焼失してしまい、戦後再建されました。  
円乗寺のご本尊様は釈迦牟尼仏です。本堂中央に鎮座していらっしゃいました。その脇に札所ご本尊様である聖観世音菩薩像が鎮座されています。  
戦前、円乗寺には秘仏の聖観世音菩薩像がありましたが、戦災で焼失してしまい、この観音様は、「昭和新撰江戸三十三観音札所」が昭和51年に再興されるのに合わせて造立されたものだそうです。  
そして、ご本尊の脇には、八百屋お七の御位牌がありました。「妙栄禅定尼」と八百屋お七の戒名が書かれています。  
本堂内には、八百屋お七の絵も飾られています。  
円乗寺は、なんといっても八百屋お七のお墓があることで有名です。そこで、「お七火事」や「八百屋お七」について書いてみます。  
天和2年(1682)12月28日に大火事が発生しました。この大火事は天和の大火(てんなのたいか)と呼ばれ、江戸十大大火の一つに挙げられほどの大火でした。この火事が俗に「お七火事」とも称されます。駒込の大円寺から出火したとされ、28日正午ごろから翌朝5時ごろまで、下谷・浅草・本所・本郷・神田・日本橋まで延焼し続けました。  
この大火で焼失した大名屋敷は、火元近くの加賀藩、大聖寺藩、富山藩の各前田家や村上藩榊原家、津藩藤堂家、対馬藩宗家など73家。旗本屋敷は166家、寺院は霊巖寺など48ケ寺、神社47社という数字も残されています。亡くなった人は3500名余と推定されています。  
松尾芭蕉は、このころ深川の芭蕉庵に住んでいましたが、芭蕉庵もこの天和の大火で燃えています。  
この火事が「お七火事」とも呼ばれるのは、翌年にお七の放火による火事が起き、これと混同して「お七火事」と呼ばれるようになったと思われます。  
お七の放火による火事は、ボヤ程度のもので、大火というほど大規模なものではなかったようですが、あまりにも印象が強かったのでしょう。大火だろうという思い込みから、前年の大火が「お七火事」と呼ばれるようになったのではないでしょうか。  
八百屋お七については、有名な話ですが、井原西鶴の『好色五人女』に書かれている内容をはじめ、諸説があります。その中で、最も事実に近いのだろうと言われているのが『天和笑委集(てんなしょういしゅう)』です。  
それによると、お七の生家は本郷の森川宿(現在の東大正門向かい側の北側辺り)の八百屋でした。父は市左衛門(『好色五人女』では八兵衛となっている)といい、加賀金沢藩前田家に野菜を納めるほどの大きな八百屋だったようです。  
天和の火事で、森川宿に住んでいた八百屋の市左衛門の一家も焼け出されました。そのため、市左衛門は女房や娘のお七と一緒に、駒込の円乗寺(『好色五人女』では吉祥寺となっている)に避難しました。  
菩提寺と書いたものもありますが、円乗寺の市原ご住職によると、円乗寺はお七の家の菩提寺ではないとのことであり、円乗寺が駒込に移転する前はお七の家と近い本郷にあったので、お七一家は円乗寺に避難したのではないだろうかということです。この時にお七は円乗寺の寺小姓、生田庄之助(『好色五人女』では小野川吉三郎、文京区教育委員会の案内板では「佐兵衛」となっている)と恋仲になりました。  
やがて自宅が再建され、お七は家に戻りましたが、恋仲になった生田庄之助に会いたい一心で、天和3年3月2日、付け火をします。付け火はすぐに発見され、消し止められました。お七は付け火の道具を持ってさまよっていたため、すぐに捕えられました。  
火事はボヤで済みましたが、江戸時代は放火は大罪です。放火の罪で捕らえられたお七は、天和3年3月29日、鈴ヶ森で火あぶりの刑にされました。  
この時、お七は16歳でした。江戸時代は、罪に問われるのは15歳以上であり、15歳未満であれば無罪となります。町奉行の甲斐庄(かいしょう)正親は、なんとかお七を助けてやりたいと思い、「14歳だろう」と問います。しかし、お七は正直に16歳ですと答えたため、鈴ヶ森の刑場で火あぶりの刑に処せられてしまったという話が伝えらえています。  
ただし、実際に八百屋お七を捕まえたのは、火付改役(ひつけあらためやく:後の火付盗賊改役)の中山勘解由(なかやまかげゆ)です。  
このお七の放火は、さまざまな創作物で取り上げられ、大変有名になりました。そのうち最も有名なものが、井原西鶴が書いた小説『好色五人女』です。   
また、歌舞伎・浄瑠璃にも数多くの作品があります。代表的なものとして「八百屋お七歌祭文」「伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)」があげられます。さらに、「お七」という落語にもなっています。  
その八百屋お七のお墓が、円乗寺参道西側にあります。昔は屋根がなかったそうですが、現在は屋根が造られています。  
お墓は3基あります。中央は、円乗寺の住職が供養のために建てたものです。お墓が丸く削られていますが、これは、一時期、お七のお墓を削った石粉をもっていると御利益があるという噂がひろまり、墓石が削られてしまったと市原ご住職が話されていました。  
右側は、寛政年間に歌舞伎役者の岩井半四郎が建立したお墓です。岩井半四郎がお七を演じた縁で、建立したものです。  
墓碑正面に「妙栄禅定尼」とお七の戒名が刻まれています。墓碑右脇に建立時期が刻まれていますが、寛政という文字は読み取れましたが、建立した年は不明でした。  
左側のお墓は、近所の有志がお七の270回忌法要のために建てたものです。  
お七のお墓には、いつお参りしてもきれいな花が手向けられています。円乗寺の人が手向けているようですが、大変気持ちの良いものです。また、お墓の脇にはノートが置かれていて、参拝者の願いごとや感想が書かれています。願いごとは、恋愛成就と諸芸上達が多いようです。  
最後に、円乗寺で珍しいおみくじを紹介されました。水で溶けるおみくじです。 
江戸三十三観音巡り 第12番札所 / 伝通院
正式名称を無量山伝通院寿経寺といいますが、通称伝通院と呼ばれています。「でんつういん」と清音で呼ばれることが多いのですが、正しくは「でんづういん」と濁音です。  
もともとは、南北朝時代の応永22年(1415)、浄土宗第七祖了誉上人が開山した浄土宗のお寺でした。開山当時は、小石川極楽水(現在の小石川4丁目15番の宗慶寺がある場所)の小さな草庵で、無量山寿経寺という名で開創されました。  
それから約200年後の慶長7年(1602)8月、徳川家康の生母於大(おだい)の方が75歳で伏見城で亡くなった際に、芝増上寺の存応(ぞんのう)上人と相談した結果、この寿経寺を菩提寺とすることになりました。そして、極楽水から現在地に移転し10万坪の面積をもつお寺を造営して、於大の方の法名「伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼」にちなんで「伝通院」と名付けられたのです。存応上人の高弟正誉郭山和尚が住職となり、幕府から600石を賜っています。  
伝通院は、享保6年(1721)、享保10年(1725)、明治40年(1910)と三度の大火にあい、その都度、再建されました。しかし、昭和20年5月25日の大空襲で、すべての建物が焼失しました。その後、昭和24年に本堂を再建し、さらに昭和63年に建て替えられたものが、現在の本堂です。  
また、戦災で焼失した山門が、平成24年3月に67年ぶりに再建されました。総ひのき造り、間口10.2メートル・奥行4.8メートル・軒高8.9メートルで、両脇には練塀も造られています。山門の2階には、釈迦如来像が安置されていて、毎月第三土曜日には公開されているそうです。  
伝通院のご本尊は阿弥陀如来です。戦前まで本堂に安置されていたご本尊は戦災で焼失したため、開山堂に安置されていた阿弥陀如来様を本堂に安置なさったそうです。阿弥陀様は江戸時代の作とのことです。  
観音札所としての本尊は無量聖観世音菩薩といいます。この観音様は、昭和51年に信者の方が寄進なさったものだそうで、観音様の前に、寄進者のお名前が掲げられていました。  
このお寺は、教育面でも大きな足跡を残しています。  
江戸時代はじめの慶長18年(1613)には、増上寺の学問僧300人が伝通院に移されて、関東十八檀林(僧の学問修行所)の上席と位置づけられていました。多い時には、学寮に席をおくもの千人以上という状況だったそうです。  
その伝統から、明治24年、芝三縁山増上寺から浄土宗学本校(現在の大正大学の前身)が伝通院へ移され、さらに明治25年には伝通院境内に淑徳女学校が設立されています。淑徳女学校は、現在は淑徳SC中等部・高等部となり、境内脇に校舎を構えています。  
では、伝通院に葬られている人たちについてみていきましょう。  
於大の方  
伝通院の名前の由来になっている於大の方は、享禄元年(1528)、三河刈谷城主水野忠政の娘として生まれ、天文10年(1541)、岡崎城主松平広忠と結婚しました。於大の方は14歳、広忠は16歳でした。結婚の翌年、於大の方は竹千代(のちの徳川家康)を出産します。  
ところが、於大の方の父水野忠政が病死した後、刈谷城を継いだ兄信元は織田方に属しました。そのため、今川氏の保護を受けていた広忠は、天文13年(1545)、於大を離縁して刈谷に帰すことになり、於大の方は3歳になった竹千代を岡崎に残して、刈谷に帰されます。  
その後、於大の方は兄信元のすすめによって、天文17年(1547)、尾張国阿久居の城主久松俊勝に再嫁しました。しかし、於大の方は、家康が織田方の人質になってからもつねに衣服や菓子を贈って見舞い、音信を絶やすことがなかったと伝えられています。また、家康が今川義元の人質として駿府にいた際にも、ひそかに使いを送って日用品を届けたと言われています。  
於大の方は、久松俊勝との間に、康元、康俊、定勝の3人の男の子をもうけました。天下統一後、家康は久松家を親戚として尊重します。これが久松松平家です。  
久松松平家は、伊予松山藩や、幕末には桑名藩の藩主になりました。寛政の改革で有名な松平定信は、田安家から久松松平家に養子に入り、白河藩3代藩主となって、のちに老中となったのです。  
於大の方は、夫の久松俊勝が天正10年(1582)に亡くなると、天正16年(1588)に髪をお ろし、「伝通院」と号しました。上の肖像画は、永禄3年(1560)、母華陽院の死を悼んだ於大の方が、母の像とともに描かせた肖像画です。ふたりの肖像画は、一対として刈谷市の楞厳寺(りょうごんじ)に納められたものといわれています。  
於大の方は、家康の天下統一を見届けたのち、慶長7年(1602)8月、家康の滞在する伏見城で亡くなりました。家康は、於大の方の死を悼んで京都の智恩院で葬儀を行ない、江戸に遺骸を送って、伝通院に納骨しました。  
於大の方のお墓は、本堂西側にある、東向きに立った大きな五輪のお墓です。  
千姫(天樹院)  
伝通院には、有名な千姫をはじめとして、将軍家ゆかりの人たちが多く埋葬されています。千姫は2代将軍秀忠の長女で、母は大河ドラマ『江〜戦国の姫たち〜』の主人公の江(崇源院)です。  
千姫は慶長2年(1597)に、伏見で生まれました。この頃はまだ豊臣秀吉が生きており、江も江戸でなく伏見にいたのです。  
慶長3年(1598)、病床にあった豊臣秀吉は、秀頼と家康の孫女千姫との婚約を結びました。ふたりの母親である淀君とお江は姉妹ですので、ふたりは従兄弟の関係にあたります。秀吉が死んだのちもこの婚約は守られ、慶長8年(1603)、7歳の千姫は11歳の秀頼に嫁ぎます。なお、家康がこの政略結婚を仕掛けたという説もあります。  
家康が豊臣氏を攻めた大坂冬・夏の陣の際、千姫は大坂城にこもっていましたが、元和元年(1615)5月、落城の前夜に脱出して家康の陣営に戻り、ついで7月に江戸に移りました。阿茶局をはじめ侍女数百人が付き添い、安藤対馬守重信が護衛していました。  
翌元和2年、千姫は伊勢桑名城主本多忠政の長子忠刻(ただとき)に再嫁します。千姫20歳、忠刻21歳でした。  
大坂城脱出の際、家康が「救い出したものに千姫を与える」と言ったのを聞いた坂崎出羽守直盛が城内に入り、千姫を救出したという説があります。彼はこのとき顔に火傷をおい、千姫はそれを嫌って本多忠刻に嫁いだので、これに憤った坂崎出羽守が騒動を起こし、殺害されたというのです。  
しかし、これには異説も多く、救出したのは坂崎出羽守ではないという説もあり、千姫の公家への嫁入りをまとめた坂崎出羽守が、面目をつぶされたことを怒って騒動を起こしたという説もあります。  
元和3年に忠政が姫路へ転封となったので、千姫は忠刻とともに姫路城に住むことになります。千姫と忠刻との間には勝姫と幸千代が産まれましたが、幸千代が3歳で病気で亡くなり、さらに忠刻も病に倒れ、31歳という若さで亡くなりました。寛永3年(1626)、30歳になった千姫は勝姫とふたたび江戸城に戻り、剃髪して天樹院と称し、勝姫とふたりで江戸城内の竹橋御殿に住みました。  
ところで、忠刻が亡くなった後、江戸に戻った千姫は乱行をほしいままにし、多くの美男を誘い込んで、遊蕩三昧の一生を送ったという話もあります。「吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振り袖で」という俗謡も、千姫の乱行をうたったものと言われています。しかし、これはまったく根拠のない話のようで、こんな俗説がなぜたてられたのか、疑問に思います。  
寛永5年(1628)に勝姫は池田光政の元へ嫁ぎ、千姫(天樹院)はひとり暮らしになりまし た。正保元年(1644)には、3代将軍家光の側室のお夏の方(のちの順性院)が、三男綱重を懐妊しました。この時、家光は厄年にあたっていたため、災厄を避けるために千姫(天樹院)を綱重の養母としました。そのため、千姫はお夏の方(のちの順性院)や綱重と暮らすようになります。  
千姫(天樹院)は、寛文6年(1666)に70歳で亡くなりました。法事は、千姫が養母となっていた綱重が執り行なったそうです。千姫も伝通院に葬られており、本堂西北の少し低くなった場所に、五輪の大きなお墓があります。  
家光の正室孝子(本理院)  
伝通院には、於大の方や千姫のほか、たくさんの徳川家関係者が葬られていますが、その多くは、将軍の正室や側室です。3代将軍家光の正室だった鷹司孝子(のちの本理院)も、伝通院に埋葬されています。  
鷹司孝子は、はじめて摂関家から将軍正室に迎えられた人です。3代将軍家光は、「生まれながらの将軍」だったため、大名より位の高い摂関家から正室が求められたのです。これ以降、将軍の正室は、摂関家または宮家から選ばれるようになりました。  
孝子は慶長7年(1602)に京都で生まれました。父は関白を勤めた鷹司信房です。元和9年(1623)12月に西の丸に入り、寛永2年(1625)に将軍家光と正式に婚礼を行なって御台所となりました。孝子23歳、家光は21歳でした。  
しかし、将軍家光との仲は結婚当初からうまくいかず、実質的な夫婦生活はなかったようです。孝子は本丸大奥に住まず、吹上の広芝に設けられた御殿に住まされ、「中の丸殿」と呼ばれました。幕府の記録でも、「御台所」とは記録されていないそうです。このため、当然のごとく、家光との間に子どもはありませんでした。  
このように夫婦仲が円満でなかった理由は、家光と孝子の間に子どもができて、朝廷の力が増大するのを恐れた幕府側が、作為的に不仲にしたという説や、家光が男色好きで孝子を顧みなかったという説など、いろいろあげられています。  
慶安4年(1651)4月に家光が48歳で亡くなると、孝子は落飾し、「本理院」と名乗ります。孝子は延宝2年(1674)に、73歳で亡くなりました。  
孝子のお墓は、千姫(天樹院)のお墓の北側に、南に面して立っています。  
浪士組  
伝通院は、新選組の母体となった浪士組が結成された場所としても有名です。  
浪士組結成のきっかけをつくったのは、出羽国庄内藩出身の清河八郎です。文久2年(1862)、清河が時の幕府政事総裁(従来の大老にあたる役)の松平春嶽に、急務三策(1攘夷の断行、2大赦の発令、3天下の英材の教育)を建言しました。尊攘志士に手を焼いていた幕府は清河の建言を採用し、文久3年2月4日、浪士組が小石川伝通院の塔頭処静院(しょじょういん)において結成されることになります。浪士組の山岡鉄舟と親しかった処静院の住職が、結成のための場所を提供したと言われています。  
浪士組は、当初の予定では50名を定員としていましたが、清河による仲間の勧誘もあって、最終的には234名の浪士が集まります。浪士組の中には、のちに新撰組を結成する芹沢鴨・近藤勇・土方歳三・沖田総司なども入っていました。浪士組は2月8日に江戸を出発し、京都に向かいました。  
処静院は現在の伝通院の西側にありましたが、廃寺となってしまいました。処静院があ った場所の近くには、現在、文京区教育委員会の説明板が設置されています。また、伝通院の山門の脇には、処静院の門前に設置されていたという「戒律を守らない人は境内に入ってはいけない」という意味の「不許葷酒入山門(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)」と刻まれた石柱が残されています。  
清河八郎のお墓も、この伝通院にあります。  
 
下谷(上野) 界隈

 

 
                        寛永寺 / (上段中央) 
                        天海 
                        伝七 / 黒門町 (中段やや左)

   
 
寛永寺

 
 
 

 
 
 
 
東京都台東区上野桜木一丁目にある天台宗関東総本山の寺院。山号は東叡山(とうえいざん)。東叡山寛永寺円頓院と号する。開基(創立者)は徳川家光、開山(初代住職)は天海、本尊は薬師如来である。徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠る。17世紀半ばからは皇族が歴代住職を務め、日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇ったが、慶応4年(1868年)の上野戦争で主要伽藍を焼失した。 
創建と伽藍整備  
江戸にあった徳川家の菩提寺のうち、増上寺は中世から存在した寺院であったが、寛永寺は天海を開山とし、徳川家により新たに建立された寺院である。徳川家康・秀忠・家光の3代の将軍が帰依していた天台宗の僧・天海は、江戸に天台宗の拠点となる大寺院を造営したいと考えていた。そのことを知った秀忠は、元和8年(1622年)、現在の上野公園の地を天海に与えた。当時この地には伊勢津藩主・藤堂高虎、弘前藩主・津軽信枚、越後村上藩主・堀直寄の3大名の下屋敷があったが、それらを収公して寺地にあてたものである。秀忠の隠居後、寛永2年(1625年)、3代将軍徳川家光の時に今の東京国立博物館の敷地に本坊(貫主の住坊)が建立された。この年が寛永寺の創立年とされている。当時の年号をとって寺号を「寛永寺」とし、京の都の鬼門(北東)を守る比叡山に対して、「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」とした。その後、寛永4年(1627年)には法華堂、常行堂、多宝塔、輪蔵、東照宮などが、寛永8年(1631年)には清水観音堂、五重塔などが建立されたが、これらの堂宇の大部分は幕末の上野戦争で失われた。このようにして徐々に伽藍の整備が進んだが、寺の中心になる堂である根本中堂が落慶したのは開創から70年以上経った元禄11年(1698年)、5代将軍徳川綱吉の時である。 
徳川家と寛永寺  
近世を通じ、寛永寺は徳川将軍家はもとより諸大名の帰依を受け、大いに栄えた。ただし、創建当初の寛永寺は徳川家の祈祷寺ではあったが、菩提寺という位置づけではなかった。徳川家の菩提寺は2代将軍秀忠の眠る、芝の増上寺(浄土宗寺院)だったのである。しかし、3代将軍家光は天海に大いに帰依し、自分の葬儀は寛永寺に行わせ、遺骸は家康の廟がある日光へ移すようにと遺言した。その後、4代家綱、5代綱吉の廟は上野に営まれ、寛永寺は増上寺とともに徳川家の菩提寺となった。当然、増上寺側からは反発があったが、6代将軍家宣の廟が増上寺に造営されて以降、歴代将軍の墓所は寛永寺と増上寺に交替で造営することが慣例となり、幕末まで続いた。また、吉宗以降は幕府財政倹約のため、寛永寺の門の数が削減されている。  
徳川家霊廟  
東京国立博物館裏手の寛永寺墓地には、徳川将軍15人のうち6人(家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定)が眠っている。厳有院(家綱)霊廟と常憲院(綱吉)霊廟の建築物群は、東京の観光名所として知られ旧国宝に指定されていた貴重な歴史的建造物であったが、昭和20年(1945年)の空襲で大部分を焼失。焼け残った以下の建造物は現在重要文化財に指定されている。  
厳有院霊廟勅額門、同水盤舎、同奥院唐門、同奥院宝塔  
常憲院霊廟勅額門、同水盤舎、同奥院唐門、同奥院宝塔  
輪王寺宮  
寛永20年(1643年)、天海が没した後、弟子の毘沙門堂門跡・公海が2世貫主として入山する。その後を継いで3世貫主となったのは、後水尾天皇第3皇子の守澄法親王である。法親王は承応3年(1654年)、寛永寺貫主となり、日光山主を兼ね、翌明暦元年(1655年)には天台座主を兼ねることとなった。以後、幕末の15世公現入道親王(北白川宮能久親王)に至るまで、皇子または天皇の猶子が寛永寺の貫主を務めた。貫主は「輪王寺宮」と尊称され、水戸・尾張・紀州の徳川御三家と並ぶ格式と絶大な宗教的権威をもっていた。歴代輪王寺宮は、一部例外もあるが、原則として天台座主を兼務し、東叡山・日光山・比叡山の3山を管掌することから「三山管領宮」とも呼ばれた。東国に皇族を常駐させることで、西国で天皇家を戴いて倒幕勢力が決起した際には、関東では輪王寺宮を「天皇」として擁立し、気学における四神相応の土地相とし、徳川家を一方的な「朝敵」とさせない為の安全装置だったという説もある。 
衰退と復興  
江戸時代後期、最盛期の寛永寺は寺域30万5千余坪、寺領11,790石を有し、子院は36か院に及んだ(現存するのは19か院)。現在の上野公園のほぼ全域が寛永寺の旧境内である。最盛期には、今の上野公園の2倍の面積の寺地を有していたというから、その規模の大きさが想像できる。たとえば、現在の東京国立博物館の敷地は寛永寺本坊跡であり、博物館南側の大噴水広場は、根本中堂のあったところである。上野の山は、幕末の慶応4年(1868年)、彰義隊の戦(上野戦争)の戦場となったことから、根本中堂をはじめ、主要な堂宇はこの時焼失し、壊滅的打撃を受けた。明治維新後、境内地は没収され、輪王寺宮は還俗、明治6年(1873年)には旧境内地が公園用地に指定されるなどして寺は廃止状態に追い込まれるが、明治8年(1875年)に再発足。もと子院の1つの大慈院があった場所に川越の喜多院(天海が住していた寺)の本地堂を移築して本堂(中堂)とし、ようやく復興したものの、寺の規模は大幅に縮小した。第二次世界大戦の空襲では、当時残っていた徳川家霊廟の建物の大部分が焼失した。上野戦争で焼け残り、第二次世界大戦の戦災もまぬがれたいくつかの古建築は、上野公園内の各所に点在している。 
 
天海

 
 
 

 
 
(天文5年?-寛永20年 1536?-1643) 安土桃山時代から江戸時代初期の天台宗の僧。南光坊天海、智楽院とも呼ばれる。大僧正。諡号は慈眼大師。徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した。  
天海の出自 / 三浦氏の一族である蘆名氏の出自で、陸奥国に生まれたとされる。その根拠は、『東叡山開山慈眼大師縁起』に「陸奥国会津郡高田の郷にて給ひ。蘆名修理太夫平盛高の一族」と記されていることである。しかし同時にそこには「俗氏の事人のとひしかど、氏姓も行年わすれていさし知ず」とあり、天海は自らの出自を弟子たちに語らなかったとある。また、「将軍義澄の末の御子といへる人も侍り」と足利将軍落胤説も同時に載せられている。須藤光暉『大僧正天海』では諸文献の比較検討により、蘆名氏の女婿である船木兵部少輔景光の息子であると結論づけている。  
生年 / 天海の生年はっきりしていないが、100歳以上の長命であったことは確かであるとされる。小槻孝亮の日記『孝亮宿祢日次記』には、天海が寛永9年4月17日(1632年6月4日)に日光東照宮薬師堂法華経万部供養の導師を行った記事があるが、天海はこの時97歳(数え年)であったという。これに従うと生年は天文5年(1536年)と推定され、没年は107歳(数え年108歳)となる。このほか永正7年(1510年)(上杉将士書上)、享禄3年(1530年)、天文11年(1542年)、天文23年(1554年)といった説がある。しかしこれらは比較的信頼度が低い史料が元であるとされている。須藤は12種の生年説を比較検討した上で、天文5年説を妥当としている。  
前半生 / 龍興寺にて随風と号して出家した後、14歳で下野国宇都宮の粉河寺の皇舜に師事して天台宗を学び近江国の比叡山延暦寺や三井寺、大和国の興福寺などで学を深めたという。元亀2年(1571年)、織田信長により比叡山が焼き打ちに合うと武田信玄の招聘を受けて甲斐国に移住する。その後、蘆名盛氏の招聘を受けて黒川城(若松城)の稲荷堂に住し、さらに上野国の長楽寺を経て天正16年(1588年)に武蔵国の無量寿寺北院(現在の埼玉県川越市。後の喜多院)に移り、天海を号したとされる。  
喜多院住持 / 天海としての足跡が明瞭となるのは、無量寿寺北院に来てからである。この時、江戸崎不動院の住持も兼任していた。浅草寺の史料によれば北条攻めの際、天海は浅草寺の住職忠豪とともに家康の陣幕にいたとする。これからは、天海が関東に赴いたのはそもそも家康のためであったことがうかがえる。豪海の後を受けて、天海が北院の住職となったのは慶長4年(1599年)のことである。その後、天海は家康の参謀として朝廷との交渉等の役割を担う。慶長12年(1607年)に比叡山探題執行を命ぜられ、南光坊に住して延暦寺再興に関わった。ただし、辻達也は天海が家康に用いられたのは慶長14年(1609年)からだとしている。この年、朝廷より権僧正の僧位を受けた。また慶長17年(1612年)に無量寿寺北院の再建に着手し、寺号を喜多院と改め関東天台の本山とする。慶長18年(1613年)には家康より日光山貫主を拝命し、本坊・光明院を再興する。大坂の役の発端となった方広寺鐘銘事件にも深く関わったとされる。  
後半生 / 元和2年(1616年)、危篤となった家康は神号や葬儀に関する遺言を同年7月に大僧正となった天海らに託す。家康死後には神号を巡り崇伝、本多正純らと争う。天海は「権現」として山王一実神道で祭ることを主張し、崇伝は家康の神号を「明神」として吉田神道で祭るべきだと主張した。天海が2代将軍となった徳川秀忠の諮問に対し明神は豊国大明神として豊臣秀吉に対して送られた神号であり、その後の豊臣氏滅亡を考えると不吉であると提言したことで家康の神号は「東照大権現」と決定され家康の遺体を久能山から日光山に改葬した。その後3代将軍・徳川家光に仕え、寛永元年(1624年)には忍岡に寛永寺を創建する。江戸の都市計画にも関わり、陰陽道や風水に基づいた江戸鎮護を構想する。紫衣事件などで罪を受けた者の特赦を願い出ることもしばしばであり、大久保忠隣・福島正則・徳川忠長など赦免を願い出ている。これは輪王寺宮が特赦を願い出る慣例のもととなったという。堀直寄、柳生宗矩と共に沢庵宗彭の赦免にも奔走した。寛永20年(1643年)に108歳で没したとされる。その5年後に、朝廷より慈眼大師号を追贈された。墓所は栃木県日光市。慶安元年(1648年)には、天海が着手した『寛永寺版(天海版)大蔵経』が、幕府の支援により完成した。
 
伝七捕物帳 / 黒門町

 
 
 

 
 
中村梅之助主演の人気痛快時代劇。「遠山の金さん」で人気スターとなった中村梅之助が岡っ引きの「黒門町の伝七」を演じた。 毎回、物語のラストで、伝七が「しめようか」と言い、みんなで親指と人差し指を拍子木のように打って「よよよい よよよい よよよい よい」と一本締めをし、最後に伝七が「めでてぇな」と言い、仲間たちが「へい!」と相づちをうち締めるものだった。  
彼の十手の房は本来は与力をあらわす紫色である。これは元々伝七が罪人であったのを、彼の器量に惚れ込んだ奉行(中村梅之助・二役)から特別に罪を許されると共に直々に岡っ引きに任じられたためである。普通の岡っ引きというのは同心がポケットマネーで雇っているわけだが、彼の場合は奉行に雇われた岡っ引きという特殊な立場であった。 
江戸三十三観音巡り 第6番札所 / 清水観音堂
江戸三十三観音めぐりの第6番札所は、上野の清水観音堂です。清水観音堂は、寛永寺の一部です。  
寛永寺は、寛永2年(1625)天海大僧正によって創建されました。  
天海大僧正は、上野に比叡山延暦寺に倣って「東叡山寛永寺」を開きました。  
比叡山が京都御所の鬼門を守護していることから、寛永寺は江戸城の鬼門の守護する役割をもっていました。  
次々と建立した建物も、比叡山とその近くの京都・近江の建物・風景を模したものとなっています。  
不忍池は琵琶湖に模していて、不忍池の弁天堂は琵琶湖の竹生島を模したものです。  
そして、清水観音堂は、京都の清水寺を模したものです。  
清水観音堂  
清水観音堂は、寛永8年(1631)に、天海大僧正によって創建されました。  
当初、現在地より100メートル余り北方の摺鉢山上にありましたが、元禄7年(1694)現在地に移築されました。  
建物は、桁行五間、梁間四間、単層入母屋造り、本瓦葺です。  
不忍池に臨む正面の舞台造りは、京都の清水寺のものを模したものです。  
江戸時代にも浮世絵に描かれるなど、著名な風景でした。  
平成2年より全面的な解体・修復工事を実施し平成8年5月に完成しました。国の重要文化財に指定されています。  
ご本尊は千手観世音菩薩像で、平安時代の高僧恵心僧都の作と言われ、京都清水寺より奉安したものだそうです。  
このご本尊は、長門本「平家物語」に書かれた壇ノ浦の戦いで敗れ鎌倉に送られた平盛久を救ったという伝説のある「盛久受難の身代わり観音」としても知られています。  
観音様は秘仏で厨子内に安置されていて通常は拝観できませんが、毎年2月の初午の日には開扉され拝観できます。  
脇本尊の子育観音は、子供に関する願いをかなえていただけるとして多くの人々の信仰をあつめていて、特に子授けは霊験あらたかだそうです。子授札が2千円、子授祈願のロウソクが1本1千円でした。  
子育観音様への願い事が成就した際には身代わりの人形を奉納します。そのため、子育観音の脇には奉納された人形が並んでいます。  
毎年9月25日には、奉納された人形を供養する人形供養が行われます。境内には人形供養之碑も建立されています。  
多くの人が見過ごしてしまうかもしれませんが堂内には5枚の大きな絵馬が掲げられています。江戸時代のもの2枚、明治時代のもの2枚、平成になって奉納されたもの1枚が掲げられています。入口の上に掲げられている絵馬が江戸時代に奉納されたものです。手前が宝暦7年(1757)の「景清牢破り図」、奥が寛政12年(1800)の「盛久救難図」です。  
秋色桜(しゅうしきざくら)  
清水観音堂の周辺には、西郷隆盛銅像、彰義隊士の墓など見るべきものがありますが、それらはかなり知られていますので、あまり知られていない「秋色桜」を紹介します。  
上野は、現在も桜の名所ですが、江戸のはじめから桜の名所として知られていました。  
数多くの桜の中で、固有の名を付せられた樹も何本かあったそうですが、代表的なものが、この『秋色桜』です。  
「秋色」というのは人の名前です。  
元禄の頃、日本橋小網町の菓子屋の娘お秋が次のような句を読みました。  
 井戸ばたの 桜あぶなし 酒の酔  
桜の枝に結ばれたこの句は、輪王寺宮に賞せられ、一躍江戸中の大評判となりました。  
お秋は当時13歳だったと伝えられています。あ秋は、宝井其角に俳句を学んでいて俳号を菊后亭秋色といいましたので、以来この桜は、『秋色桜』と呼ばれています。  
ただし、当時の井戸は摺鉢山の所ともいう説もあり正確な井戸の位置についてはハッキリしていないそうです。  
現在の桜は、昭和53年に植え接いだもので、およそ9代目にあたると推定されています。  
現在の桜の品種名ヤエベニシダレのようです。  
寛永寺の歴史  
寛永寺は、寛永2年(1625)天海大僧正によって創建されました。  
寛永寺の正式な名前は、東叡山寛永寺円頓院といいます。  
開基(創立者)は徳川家光、開山(初代住職)は天海、本尊は薬師如来です。  
天海大僧正は、徳川家康、秀忠、家光の三代にわたる将軍の帰依を受けた大僧正です。  
天海は、江戸に天台宗の拠点となる大寺院を造営したいと考えていました。  
そのことを知った秀忠は、元和8年(1622)、現在の上野公園の地を天海に与えた。  
当時この地には伊勢津藩主・藤堂高虎、弘前藩主・津軽信牧、越後村上藩主・堀直寄の3大名の下屋敷があったが、それらを収公してお寺の敷地としました。  
秀忠が隠居した後、寛永2年(1625)、3代将軍徳川家光の時に今の東京国立博物館の敷地に本坊(貫主の住坊)が建立されました。  
寛永寺の建立時期については諸説があるそうですが、この本坊ができた年が寛永寺の創立年とされることが多いのです。  
天海大僧正は、比叡山延暦寺を手本に寛永寺を建立しました。  
寛永寺は江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に建立されました。  
これは比叡山延暦寺が、京都御所の鬼門に位置し、鬼門守護の役割を果たしていたことにならったものです。  
そこで山号は東の比叡山という意味で東叡山とされました。  
そして、寺号も延暦寺が建立当時の年号を使用して命名されたとの同じように、創建時の年号を使用することを勅許され、寛永寺と命名されました。  
年号が、お寺の名前に使用されているのは、ほかに仁和寺と建長寺があるくらいであり、非常に稀な例です。  
また、院号として円頓院という院号が使われていますが、これも「円頓止観」という言葉があり、延暦寺が止観院と称していたことによるものだそうです。  
寛永寺の境内は、最盛期には現在の上野公園を中心に約30万5千坪に及び、さらにその他に大名並みの約1万2千石の寺領を有しました。  
そして現在の上野公園の噴水広場にあたる「竹の台」には、 間口45m、 奥行42m、高さ32mという壮大な根本中堂が、元禄11年(1698)に、5代将軍徳川綱吉により建立されました。  
また、現在の東京国立博物館の敷地には寛永寺本坊がありました。本坊というのは寛永寺の住職である輪王寺宮が生活していた場所です。  
さらに清水観音堂、 五重塔、開山堂、大仏殿などの伽藍が並び立ち、子院も各大名の寄進により三十六坊を数えました。  
こうした壮大な伽藍も上野戦争で大部分が焼失してしまいました。その中で、清水観音堂は焼失を免れた貴重な建物です。 
 
 
■ 時代劇・諸説
 
 
遠山の金さん

 

 
 
 
 
 
江戸町奉行・遠山金四郎景元を主人公にした時代劇。講談・歌舞伎で基本的な物語のパターンが完成し、陣出達朗の時代小説「遠山の金さん」シリーズなどで普及した。「水戸黄門」「暴れん坊将軍」と同様、「気のいい町人」が最後に「実は権力者」の正体を明かして悪を征し、視聴者はカタルシスを得る。  
1.事件が起き、“奉行の遠山景元”が“遊び人の金さん(正体を知らない岡っ引き等には“金の字”と呼ばれていたりする)”として自ら潜入捜査を行い、事件の真相と黒幕を突き止める。その後、被害者や共犯者など関係者が全員揃った場所(多くの場合、黒幕の屋敷)に乗り込み、突き止めた悪事の数々を言い立てる。しかし悪人たちは金さんをただの遊び人と見下し、悪事を全て認めたうえで、被害者と共に抹殺しようとする。ここで金さんは「この桜吹雪、散らせるもんなら散らしてみろぃ!」などと啖呵を切って片肌を脱ぎ、桜の彫り物を見せつける(梅之助主演の初期の版では片肌ではなく両肌脱いでおり、テーマ曲でもそのように歌っていた)。この後金さんと悪人たちが入り乱れてチャンバラとなり、悪人たち全員が金さん一人に気絶させられる(金さんは多くの場合素手だが、刀などの得物を奪って峰打ちで返り討ちにする場合もある(杉良太郎、松方弘樹)。高橋英樹は水を濡らした布が得物)。立ち回りの終盤、奉行所の同心たちが悪人を捕縛するためその場に駆けつけるが(同心が「御用だ!!御用だ!!北町奉行所の物だ!!」と言う)、金さんは彼らに姿を見られないよう、到着前に立ち去る。  
2.後日、捕縛された悪人たちがお白洲に曳き出され、吟味に掛けられる。お白洲には「至誠一貫」と書かれた額が掲げられており、遠山奉行が「北町奉行・遠山左衛門尉様、ご出座〜」の声と太鼓と共に登場する。 幕府高官が悪人の仲間である場合、必ず陪席する。  
3.遠山が「これより**について吟味を致す、一同の者面を上げい」「さて○○(悪人)、××(罪状)とあるが相違無いか」と悪人に罪状を問いただす。悪人は犯行を否認するが、被害者は証人として“遊び人の金さん”を呼ぶよう訴える。しかし悪人は金さんの存在を否定し、遠山に罵声を浴びせる。 幕府高官が陪席している場合、その高官が「遠山殿、これは全く意味のない白洲ですぞ。」「**奉行である身供をここに座らせるとは、御身のお立場も危ういですぞ」等と、とぼけた様に悪人の無罪を主張したり、圧力をかけたりする。  
4.悪人や取り巻きたちの罵声が最高潮に達した時、遠山が「やかましぃやい! 悪党ども!!」「おうおうおう、黙って聞いてりゃ寝ぼけた事をぬかしやがって!」などと、今までの謹厳な口調とはガラリと変わった江戸言葉で一喝する。  
5.遠山が「この桜吹雪に見覚えがねぇとは言わせねえぜ!」などと言いながら片肌脱ぐと、そこには“金さん”と同じ桜の彫り物(このとき金さんが桜吹雪を見せている時の映像を回想の様に流す事もある)。一同、全てを“金さん”こと遠山に見られていた事を知って驚愕する。このとき多くの悪人は「ははぁ!!畏れ入り奉りました!!」などと観念する。 幕府の高官が陪席している場合、その高官が「おのれ遠山!」などの言葉とともに遠山に斬りかかろうとし、撥ね返される(大体、長袴で蹴り倒される)。  
6.悪人が観念したところで遠山が姿を戻し、判決を言い渡す。主犯には大抵「(市中引き回しの上)打ち首獄門」または「磔獄門」、共犯は「終生遠島」、高官には「御公儀(評定所・**藩)より、追って極刑(切腹)の沙汰があろう」と言う。その後「引っ立てい!!」となる。悪人の手下はこの時もジタバタしている。  
7.悪人が連れ出された後は、「さて△△(被害者)…」となり、被害者が「お奉行様とも知らずご無礼を…」などと言い、平身低頭する。被害者が軽微な犯罪を犯している場合、大概「江戸十里四方所払い(つまり江戸市中からの追放)」「寄場送り」などの温情判決を下す。最後に、小声で“金さん”になり「達者で暮らすんだぜ」「お父っつぁんを大事にしなよ」などと温かい言葉をかけ(無罪になった場合は「俺が金さんって事は内緒にしておいてくれよ」などとも言う)」、「これにて一件落着」でお開きになる。  
8.後日、自宅で嫁と談笑したり、“金さん”として岡っ引きや行き付けの店の町人などと軽口を叩いたり、被害者のその後が語られたりして番組は終わる。  
作品によっては、金さんの正体を知る同心が金さんの協力者として立ち回る場合もある。岡っ引きはあくまで同心から委託を受けた民間人であるため、金さんの正体を知らなくても不自然ではない。  
本来火付盗賊改方の所轄である、放火や強盗などは平気で裁いているのに、やけに寺社奉行には神経質になっている事が多い。  
「たった数日で金さんの顔を忘れる訳が無い」、「毎度『金さんとやらをだせ!』と凄みながら本当に金さんが来たらどうするのか?」とか「毎週事件が起こるのは遠山の管理責任だ」などと言うツッコミがあるが、そこはご都合主義の「フィクション時代劇」として割り切って見るべきである。バラエティ番組などでは金さんを自ら演じていた高橋英樹が往々にしてそういうツッコミをすることがある。  
なお、実際の江戸町奉行は朝は江戸城へ登城し、午後からは奉行所で夜遅くまで執務するという多忙な職務であり、市内へ探索に出ているような時間はないが、これも「フィクション時代劇」として割り切って見るべきである。  
 
テレビ東京では中村梅之助の主演のテレビドラマ『そば屋梅吉捕物帳』を製作している。これは町奉行の景元に代わり、背中に彫り物を入れた瓜二つのそば屋が事件を探る、と言うもので奉行と金さんを分離してそれを一人二役で演じるというバリエーション物。また日本テレビ系で放送された中村梅之助主演のテレビドラマ『伝七捕物帳』でも紫房の十手を持つ黒門町の伝七(中村)がそっくりの顔の奉行(中村・二役)から指示を受ける場面が何度かあった。これも「遠山の金さん」が下敷きにあってのものであろう。また、「悪を裁く立場の者が二つの顔を持つ」というパターンの類型として、さらに極端なバリエーションとしては萬屋錦之介主演のテレビドラマ『長崎犯科帳』が存在する。本質的には必殺シリーズなどと同じいわゆる裏稼業ものに分類される作品であるが、主人公・平松忠四郎は表の顔は長崎奉行でありながらも、その裏で表の奉行の顔では裁けぬ悪を許さず一刀両断してゆく闇奉行という二つの顔を持っている。
 
遠山景元  
江戸時代の旗本で、天保年間に江戸北町奉行、後に南町奉行を務めた人物である。テレビドラマ(時代劇)『遠山の金さん』のモデルとして知られる。幼名は通之進、通称は金四郎(きんしろう)。官位は従五位下左衛門少尉。  
前半生 
知行500石の明知遠山氏の分家の6代目にあたる人物である。父は長崎奉行を務めた遠山景晋、母は榊原忠寛の娘。父・景晋は永井家から遠山家に養子入りしたが、後に養父の実子景善が生まれたため、景晋は景善を養子にしていた。景元出生時には未だ景善の養子手続きをしていなかったため、景元の出生届はその手続が終わった、誕生の翌年9月に提出された。文化6年(1809年)、父の通称であった金四郎に改める。青年期はこうした複雑な家庭環境から、家を出て町屋で放蕩生活を送るが、後に帰宅する。文化11年(1814年)には堀田一定(主膳)の娘で、当時百人組頭であった堀田一知の妹けいと結婚する。堀田伊勢守家は知行4200石で知行500石の遠山家とは釣り合いが取れないが、この時当主の景晋は長崎奉行であり、堀田家は景元の将来性を見込んだのだろうとされる。文政7年(1824年)末に景善が亡くなったため、翌年の文政8年(1825年)に幕府に出仕、江戸城西丸の小納戸に勤務して役料300俵を支給され、当時世子だった徳川家慶の世話を務めた。文政12年(1829年)4月、景晋の隠居に伴い家督を相続、知行地500石を相続する。天保3年(1832年)に西丸小納戸頭取格に就任、同時に従五位下大隅守に叙任され、天保5年(1834年)に西丸小納戸頭取に昇進、翌天保6年(1835年)に小普請奉行に転任、天保7年(1836年)に官職を左衛門少尉(左衛門尉)に転じた。天保8年(1837年)に作事奉行、天保9年(1838年)に勘定奉行(公事方)、天保11年(1840年)には北町奉行に就く。  
北町奉行時代 
天保12年(1841年)に始まった天保の改革の実施に当たっては、12月に町人達を奉行所に呼び出して分不相応の贅沢と奢侈の禁止を命令していて、風俗取締りの町触れを出したり、寄席の削減を一応実行しているなど方針の一部に賛成していた。しかし、町人の生活と利益を脅かすような極端な法令の実施には反対、南町奉行の矢部定謙と共に老中水野忠邦や目付の鳥居耀蔵と対立する。天保12年9月、景元は水野に伺書を提出しているが、その内容は町人への奢侈を禁止していながら武士には適用していないことを挙げ、町人に対しても細かな禁止ではなく分相応の振る舞いをしていればそれでよいとする禁止令の緩和を求めた。水野はこの伺書を12代将軍になった家慶に提出したが、景元の意見は採用せず贅沢取締りの法令を景元に町中に出させた。同年に鳥居による策謀で矢部は過去の事件を蒸し返され、翌天保13年(1842年)に罷免・改易となり伊勢桑名藩で死亡、鳥居が後任の南町奉行になり、景元は1人で水野・鳥居と対立することになった。寄席の削減についても水野と対立、当初景元は禁止項目に入っていた女浄瑠璃を出している寄席の営業停止を水野に伺ったが、水野は寄席の全面撤廃を主張、景元は芸人の失業と日雇い人の娯楽が消える恐れから反対、結果として水野の方針より大幅に緩和してではあるが、寄席は一部しか残らず、興行も教育物しか許されなかった。天保12年11月、水野が鳥居の進言を受けて芝居小屋を廃止しようとした際、景元はこれに反対して浅草猿若町への小屋移転だけに留めた。この景元の動きに感謝した関係者がしきりに景元を賞賛する意味で、『遠山の金さん』ものを上演した。鳥居や水野との対立が「遠山=正義、鳥居=悪逆」という構図を作り上げたのである(ただし鳥居は、それ以前から江戸っ子からの評判が悪かった)。他にも株仲間の解散令を町中に流さず将軍へのお目見え禁止処分を受けたり、床見世(現在の露店に相当する)の取り払いを企てた水野を牽制したり、人返しの法にも反対して実質的に内容を緩和させるなど、ことごとく改革に抵抗する姿勢を保った。しかし天保14年(1843年)2月24日、鳥居の策略によって北町奉行を罷免され、大目付になる。栄転であり地位は上がったが、当時は諸大名への伝達役に過ぎなかったため実質的に閑職だった。在任中の12月29日に分限帳改を兼ね、翌天保15年(弘化元年、1844年)2月22日に朝鮮使節来聘御用取扱を担当した。同年11月に寺社奉行青山幸哉の家臣岩井半兵衛に依頼した甲冑「紺糸威胴丸」が完成している。  
南町奉行時代、晩年 
天保14年閏9月13日に水野が改革の失敗により罷免、鳥居は反対派に寝返って地位を保ったが、翌弘化元年6月21日に水野が復帰、水野の報復で鳥居が失脚し、水野の弟・跡部良弼が後任の南町奉行となったが、弘化2年(1845年)3月に水野の老中罷免の煽りを受ける形で小姓組番頭に異動、景元が南町奉行として返り咲いた。同一人物が南北両方の町奉行を務めたのは極めて異例のことである。南町奉行在任中は株仲間の再興に尽力、床見世の存続を幕府に願い出て実現させた。景元就任前には寄席も制限を撤廃され復活した。水野の後を受けて政権の地位に座った阿部正弘からも重用され、嘉永4年(1851年)の赦律編纂にも関わっている。嘉永5年(1852年)に隠居して家督を嫡男の景纂に譲ると、剃髪して帰雲と号し、3年後に63歳で死去。戒名は帰雲院殿従五位下前金吾校尉松僲日亨大居士。墓所は東京都豊島区巣鴨の本妙寺(江戸時代は文京区本郷にあった)。  
「遠山の金さん」を巡る諸説  
青年期の放蕩時代に彫り物を入れていたといわれる。有名な「桜吹雪」である。しかしこれも諸説あり、「右腕のみ」や「左腕に花模様」、「桜の花びら1枚だけ」、「背中に女の生首」、「全身くまなく」と様々に伝えられる。また、彫り物自体を疑問視する説や、通常「武家彫り」するところを「博徒彫り」にしていたという説もある。彫り物をしていた事を確証する文献はないが、時代考証家の稲垣史生によれば、若年のころ侠気の徒と交わり、その際いたずらをしたものであると推測される。続けて稲垣の言によれば、奉行時代しきりに袖を気にして、めくりあがるとすぐ下ろす癖があった。奉行として入れ墨は論外なので、おそらく肘まであった彫り物を隠していたのではないかという。ただ、これらは全て伝聞によっており、今となっては事実の判別はし難いのが実情である。  
また、景元は長年痔を患っており、馬での登城が非常に困難となり、幕府に対して駕籠での登城の許可を申請し、受理された文書が残っている(景元の身分では駕籠での登城は許されていなかったため、疾病を理由に申請した)。  
景元の死後、講談・歌舞伎で基本的な物語のパターンが完成し、陣出達朗の時代小説「遠山の金さんシリーズ」などで普及した。現在では、テレビドラマの影響を受けて名奉行として世に認知され、大岡忠相と人気を二分することもあるが、ドラマのような名裁きをした記録はほとんどない。そもそも三権分立が確立していない時代、町奉行の仕事は江戸市内の行政・司法全般を網羅している。言わば東京都知事と警視総監と東京地方裁判所判事を兼務したような存在であり、現在でいうところの裁判官役を行うのは、町奉行の役割の一部でしかない(もっともこれは大岡にも言えることである)。  
ただし、当時から裁判上手だったという評判はあり、名裁判官のイメージの元になったエピソードも存在する。天保12年8月18日の「公事上聴」(歴代の徳川将軍が一代に一度は行った、三奉行の実際の裁判上覧)において、景元は将軍徳川家慶から裁判ぶりを激賞され、奉行の模範とまで讃えられた。景元が、たびたび水野や鳥居と対立しながらも、矢部のように罷免されなかったのは、この将軍からの「お墨付き」のおかげだと考えられる。景元のこうした「能吏中の能吏」としての名声は、時代が江戸から明治に移っても旧幕臣をはじめとした人々の記憶に残り、景元を主人公とした講談を生み、映画やテレビの時代劇へ継承される大きな要因となったと言えよう。  
 
時代 江戸時代後期  
生誕 寛政5年8月23日(1793年9月27日)  
死没 安政2年2月29日(1855年4月15日)  
改名 通之進(幼名)、景元、帰雲(法名)  
別名 金四郎(通称)  
戒名 帰雲院殿従五位下前金吾校尉松僲日亨大居士  
墓所 東京都豊島区本妙寺  
官位 従五位下大隅守、左衛門少尉  
幕府 江戸幕府小普請奉行→作事奉行→勘定奉行→北町奉行→大目付→南町奉行  
主君 徳川家斉→家慶  
氏族 明知遠山氏  
父母 父:遠山景晋、母:榊原忠寛の娘 養父:遠山景善  
妻 正室:堀田一定の娘けい  
子 植村景鳳、景纂、景興、景明  
  娘(大道寺内蔵助室)、娘(伊奈半十郎室)  
  娘(河野貞之丞室)、娘(成瀬勝三郎室)  
 
  
大岡裁き / 大岡忠相 

 

 
 
 
  
   
 
 
(おおおかただすけ) 江戸時代中期の幕臣・大名。大岡忠世家の当主で、西大平藩初代藩主。生家は旗本大岡忠吉家で、父は美濃守・大岡忠高、母は北条氏重の娘。忠相の子孫は代々西大平藩を継ぎ、明治時代を迎えた。大岡忠房家の4代当主で、9代将軍・徳川家重の側用人として幕政においても活躍したことで知られる大岡忠光(後に岩槻藩主)とは遠い縁戚に当たり、忠相とも同族の誼を通じている。  
8代将軍・徳川吉宗が進めた享保の改革を町奉行として支え、江戸の市中行政に携わったほか、評定所一座に加わり、地方御用や寺社奉行を務めた。越前守だったことと『大岡政談』や時代劇での名奉行としてイメージを通じて、現在では大岡越前として知られている。通称は求馬、のち市十郎、忠右衛門。諱は忠義、のち忠相。  
出生から町奉行就任まで  
1700石の旗本・大岡忠高江戸屋敷での四男として生まれる。貞享3年(1686年)、同族の1920石の旗本・大岡忠真(大岡忠右衛門)の養子となり、忠真の娘と婚約する。貞享4年(1687年)には5代将軍・綱吉に初めて御目見する。元禄9年(1696年)には従兄にあたる大岡忠英の事件に連座して閉門処置となる。翌年には赦され、養父病死のため元禄13年(1700年)、家督と遺領を継ぎ、忠世家3代当主となる。  
将軍綱吉時代に、寄合旗本無役から元禄15年(1702年)には書院番となり、翌年には元禄大地震に伴う復旧普請のための仮奉行の一人を務める。宝永元年(1704年)には徒頭、宝永4年(1707年)には使番となり、宝永5年(1708年)には目付に就任し、幕府官僚として成長する。宝永6年(1709年)には嫡男・忠宜が誕生する。  
6代将軍・家宣の時代、正徳2年(1712年)正月に遠国奉行のひとつである山田奉行(伊勢奉行)に就任、佐野直行の跡役で、相役は渡辺輝。同年4月には任地へ赴いている。同年には従五位下能登守に叙任。正徳3年(1713年)には交代で帰府し、翌年に再び赴任している。  
在職中には、奉行支配の幕領と紀州徳川家領の間での係争がしばしば発生しており、山田(現・伊勢市)と松坂(現・松阪市)との境界を巡る訴訟では、紀州藩領の松坂に有利だった前例に従わずに公正に裁いたという。  
7代将軍・家継の時代の享保元年(1716年)には普請奉行となり、江戸の土木工事や屋敷割を指揮。大久保忠位の跡役で、相役は島田政辰と朽木定盛。同年8月には吉宗が将軍に就任し、解任された新井白石や間部詮房らの屋敷代にも携わっている。忠相は翌享保2年(1717年)、江戸町奉行(南町奉行)となる。松野助義の跡役で、相役の北町奉行は中山時春、中町奉行は坪内定鑑。坪内定鑑の名乗りが忠相と同じ「能登守」であったため、このときに忠相は「越前守」と改める。  
町奉行時代の活躍  
将軍吉宗は享保の改革と呼ばれる幕政改革に着手するが、忠相は諸改革のうち町奉行として江戸の都市政策に携わることになり、評定所一座にも加わり司法にも携わった。このころ奉行所体制の機構改革が行われており、中町奉行が廃止され両町奉行所の支配領域が拡大し、忠相の就任時には町奉行の権限が強化されていた。享保4年(1719年)には本所奉行を廃止して本所深川地域を編入し、奉行所の機構改革も行う。享保8年(1723年)には相役中山時春が辞任し、跡役は諏訪頼篤となる。  
市政においては、町代の廃止(享保6年)や町名主の減員など町政改革も行なう一方、木造家屋の過密地域である町人域の防火体制再編のため、享保3年(1718年)には町火消組合を創設して防火負担の軽減を図り、享保5年(1720年)にはさらに町火消組織を「いろは四十七組(のちに四十八組)」の小組に再編成した。また、瓦葺屋根や土蔵など防火建築の奨励や火除地の設定、火の見制度の確立などを行う。これらの政策は一部町名主の反発を招いたものの、江戸の防火体制は強化された。享保10年(1725年)9月には2000石を加増され3920石となる。風俗取締では私娼の禁止、心中や賭博などの取締りを強化する。  
下層民対策では、享保7年(1722年)に直接訴願のため設置された目安箱に町医師小川笙船から貧病人のための養生院設置の要望が寄せられると、吉宗から検討を命じられ、小石川薬園内に小石川養生所が設置された。また、与力の加藤枝直(又左衛門)を通じて紹介された青木昆陽(文蔵)を書物奉行に任命し、飢饉対策作物として試作されていたサツマイモ(薩摩芋)の栽培を助成する。将軍吉宗が主導した米価対策では米会所の設置や公定価格の徹底指導を行い、物価対策では株仲間の公認など組合政策を指導し、貨幣政策では流通量の拡大を進言している。  
現在では、書籍の最終ページに「奥付」が記載されるが、これは出版された書籍の素性を明らかにさせる目的で享保6年(1721年)に大岡越前が強制的に奥付を付けさせることを義務化させたことにより一般化した(ただし、少数ながらそれ以前にも自発的に奥付を付けている書籍はあった)。  
また、在任中の享保7年(1722年)には弛緩していた江戸近郊の秩序再建のため、地方御用を拝命して農政にも携わり、役人集団を率いて武蔵野新田や上総国新田の支配、小田原藩領の酒匂川普請などに携わっており、さらに儒教思想を浸透させるため忠孝者への褒賞も積極的に行っている。  
寺社奉行時代から晩年  
元文元年(1736年)8月、寺社奉行となり、評定所一座も引き続き務める。寺社奉行時代には、元文3年(1738年)に仮完成した公事方御定書の追加改定や御触書の編纂に関わり、公文書の収集整理、青木昆陽に命じて旧徳川家領の古文書を収集させ、これも分類整理する。寺社奉行時代には2000石を加増され5920石となり、足高分を加え1万石の大名格となる。寺社奉行は大名の役職であり、奏者番を兼帯することが通例であるが、旗本である忠相の場合は奏者番を兼帯しなかったため、兼帯している同役達から虐げられたという。そこで将軍吉宗は寺社奉行の詰め所を与えるなどの配慮をしたという。  
寛延元年(1748年)10月、奏者番を兼任し、同年には三河国西大平(現岡崎市)1万石を領し、正式に大名となる。町奉行から大名となったのは、江戸時代を通じて忠相のみである。寛延4年(1751年)6月、大御所吉宗が死去。忠相は葬儀担当に加わっている。この頃には忠相自身も体調が優れず、『忠相日記』の記述も途絶えている。吉宗の葬儀が最後の公務となり、同年11月には寺社奉行を辞職し自宅療養し、12月に死去、享年75。  
法名:松雲院殿前越州刺史興誉仁山崇義大居士。墓所:代々の領地のある神奈川県茅ヶ崎市堤の窓月山浄見寺。また、東京都台東区谷中の慈雲山瑞輪寺。 
 
 
 
経歴  
貞享3年12月10日(1687年1月23日)-大岡忠真の養子となる。  
元禄13年7月11日(1700年8月25日)-家督相続。  
宝永元年10月9日(1704年11月6日)-書院番頭・大久保豊前守忠庸組から徒頭に異動。在職中の諱は忠相。また、市十郎から忠右衛門に改称する。  
宝永4年8月12日(1707年9月7日)-徒頭から使番に異動。  
宝永5年7月25日(1708年9月9日)-使番から目付に異動。  
正徳2年1月11日(1712年2月17日)-目付から山田奉行に異動。3月15日、従五位下能登守に叙任。  
正徳6年(1716年)2月11日(3月4日)-山田奉行御役御免。2月12日(3月5日)-普請奉行に異動。  
享保2年2月3日(1717年3月15日)-普請奉行から江戸南町奉行に異動。越前守に転任。  
享保10年9月11日(1725年10月16日)-石高2,000石加増。  
元文元年8月12日(1736年9月16日)-南町奉行から寺社奉行に異動し、石高2,000石加増。  
寛延元年閏10月1日(1748年11月21日)-奏者番を兼帯。石高4,000石加増で合計1万石(三河国西大平)となる。  
寛延4年11月2日(1751年12月19日)-病気依願により寺社奉行御役御免。  
大正元年(1912年)11月19日-贈従四位。 
 
 
 
 
  
大岡政談  
江戸町奉行時代の裁判の見事さや、江戸の市中行政のほか地方御用を務め広く知名度があったことなどから、忠相が庶民の間で名奉行、人情味あふれる庶民の味方として認識され、庶民文化の興隆期であったことも重なり、同時代から後年にかけて創作「大岡政談」として写本や講談で人々に広がった。「徳川天一坊」、「村井長庵」、「越後伝吉」、「畔倉重四郎」、「後藤半四郎」、「小間物屋彦兵衛」、「煙草屋喜八」、「縛られ地蔵」、「五貫裁き」、「三方一両損」などのエピソードがある。これらは日本におけるサスペンス小説の原初的形態を示すものと言える。忠相の没後から講釈師による原型が作られると、幕末から明治にかけて発展し、歌舞伎などの素材などに使われ、また現代にいたってもTVドラマ化されている。  
史学的検証では、数ある物語のうち忠相が町奉行時代に実際に裁いたのは享保12年(1727年)の「白子屋お熊事件」のみであることが指摘されている。現代に「大岡裁き」として伝えられているものの多くは、関東郡代や忠相の同僚など他の奉行の裁定したものや忠相没後の事件も含まれている。また尾佐竹猛は、旧約聖書の列王記にあるソロモン王の英知として、互いに実子と主張し一人の子を取り合う2人の母親に対する調停の伝承など、聖書などに記される裁判物語がイスラム圏を経由し、北宋の名判官包拯の故事(「縛られ地蔵」と同様の逸話)になった後、エピソードに翻案され含まれたとする説を提唱。永禄3年(1560年)に、豊後でイエズス会の宣教師がクリスマスにソロモン裁判劇を行なったという記録もあり、木村毅は『比較文学新視界』「ソロモン裁判と大岡政談」(昭和50年(1975年))でチベットの伝説や釈尊(釈迦)の伝説が日本のキリシタンの影響で紛れ込んだとする。  
通常、大岡は庶民の味方、正義の武士として物語に登場する。だが、学習院大学名誉教授の大石慎三郎は、大岡に関する伝記史料として信ずるに足りるのは『大岡忠相日記』がほとんど唯一のものである、とする。この日記は、私生活を記したいわゆる日記ではなく、公人としての忠相の職務日録であり、行政官僚としての町奉行を活写しており、大岡政談とほとんど関係ないことがわかる。しかしながら町火消し制度の創設や、小石川養生所の設置などの事実に、「政治家はかくあるべし」という江戸庶民の願望が仮託されて「政談」に結晶されたともいえる。  
エピソード  
忠相は痔の持病があり痔の悪化により公務を欠席した事がある(『大岡忠相日記』より)。  
勤務中はいつも髭抜きを使いながら仕事をしていた。彼の肖像画にも髭抜きで髭を抜く姿が描かれた物がある。  
大岡家文書  
大岡家文書(三河国額田郡西大平大岡家文書)は『大岡日記』(大岡越前守忠相日記)や『享保撰要類集』や将軍家内書など忠相期を中心に忠相以前の将軍家朱印状などを含めた文書群で、昭和43年(1968年)に大岡家から国文学研究資料館に寄託されている。『撰要類集』は忠相が町奉行時代に編纂させた判例集で、忠相の評定所時代から寺社奉行時代、死後も幕末まで編纂は続けられた。  
 
 
眠狂四郎

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
柴田錬三郎の小説に登場する剣客。1956年5月から『週刊新潮』に連載された「眠狂四郎無頼控」で初登場した。『大菩薩峠』(中里介山著)の主人公机竜之助に端を発するニヒル剣士の系譜と、柴錬の作風を貫くダンディズムが融合した複雑な造形がなされているキャラクターである。転びバテレンと日本人の混血という出自を持ち、平然と人を斬り捨てる残虐性を持つ。その生い立ちを背負い、虚無感を持ちつつ「円月殺法」という剣術を用いて無敵の活躍をし、以後剣豪ブームを巻き起こした。毎週読み切りという形での連載で、初期の週刊誌ブームを支えた。 
 
 
番町皿屋敷 / 牛込御門内五番町

 

 
 
 
 
 
江戸の「皿屋敷」ものとして最も人口に膾炙しているのが1758年(宝暦8年)の講釈士・馬場文耕の『皿屋敷弁疑録』が元となった『番町皿屋敷』である。  
牛込御門内五番町にかつて「吉田屋敷」と呼ばれる屋敷があり、これが赤坂に移転して空き地になった跡に千姫の御殿が造られたという。それも空き地になった後、その一角に火付盗賊改・青山播磨守主膳の屋敷があった。ここに菊という下女が奉公していた。承応二年(1653年)正月二日、菊は主膳が大事にしていた皿十枚のうち1枚を割ってしまった。怒った奥方は菊を責めるが、主膳はそれでは手ぬるいと皿一枚の代わりにと菊の中指を切り落とし、手打ちにするといって一室に監禁してしまう。菊は縄付きのまま部屋を抜け出して裏の古井戸に身を投げた。まもなく夜ごとに井戸の底から「一つ……二つ……」と皿を数える女の声が屋敷中に響き渡り、身の毛もよだつ恐ろしさであった。やがて奥方の産んだ子供には右の中指が無かった。やがてこの事件は公儀の耳にも入り、主膳は所領を没収された。 その後もなお屋敷内で皿数えの声が続くというので、公儀は小石川伝通院の了誉上人に鎮魂の読経を依頼した。ある夜、上人が読経しているところに皿を数える声が「八つ……九つ……」、そこですかさず上人は「十」と付け加えると、菊の亡霊は「あらうれしや」と言って消え失せたという。  
しかしこの話、まず了誉上人は実在の人物ではあるものの1420年(応永27年)に没した人物、火付盗賊改が創設されたのは1662年(寛文2年)、千姫が姫路城主・本多忠刻と死別した後に移り住んだのは五番町から北東に離れた竹橋御殿、などと矛盾やこじつけがあまりに多い。しかしその筋立てのおもしろさ故か、「青山主膳とお菊の番町皿屋敷」というイメージが他でも取り入れられるようになった。  
東京都内にはお菊の墓というものがいくつか見られる。現在東海道本線平塚駅近くにもお菊塚と刻まれた自然石の石碑がある。元々ここに彼女の墓が有ったが、戦後近隣の晴雲寺内に移動したという。これは「元文6年(1741年)、平塚宿の宿役人眞壁源右衛門の娘・菊が、奉公先の旗本青山主膳の屋敷で家宝の皿の紛失事件から手打ちにされ、長持に詰められて平塚に返されたのを弔ったもの」だという。  
 
 
雲霧仁左衛門 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
池波正太郎の時代小説。「週刊新潮」で1972年8月26日号から1974年4月4日号まで連載され、新潮社から上下巻で刊行された。現在は新潮文庫上下巻、『完本池波正太郎大成 17巻』(講談社、2000年)もある。  
モデルとなった雲霧仁左衛門(雲切仁左衛門とも)は、享保年間に雲霧五人男(雲霧仁左衛門・因果小僧六之助・素走り熊五郎・木鼠吉五郎・おさらば伝次)の頭目として活動した盗賊で、講釈・大岡政談に登場する。江戸末期から明治期にかけては歌舞伎の題材ともされた。  
あらすじ1  
享保年間。江戸市中にとどまらず全国を股にかけ、一人の殺生もなく大金を奪う盗賊団を、人々は「雲霧一党」と呼び、その活躍に喝采を送っていた。雲か霧のように姿を消してしまう盗賊団の首領・雲霧仁左衛門(天知茂)の顔を見た者はいなかった。新任の火盗改方長官・安部式部(田村高廣)は、自らの資財を投げ打ってでも「雲霧一党」を捕らえることを宣言、戦いの火ぶたが切られた…。  
あらすじ2  
享保年間、「犯さず、殺さず、貧しき者からは奪わず」の三ヶ条を守り、江戸から上方まで縦横無尽に盗み働きをする神出鬼没の大盗賊がいた。町の者から陰口を言われるような強欲な金持ちから大金を奪い、盗みの後は雲か霧のように消えてしまうことから、人呼んで雲霧一党。その首領は仁左衛門(山崎努)。配下には、武士の主従関係にも似た心の絆で結ばれた小頭・木鼠の吉五郎(石橋蓮司)、大奥の女中からおぼこ娘まで自在に化ける七化けのお千代(池上季実子)などがいる。度重なる一党の犯行に、火付盗賊改方長官が辞任、新長官にキレ者の安部式部(中村敦夫)が就任した。大盗賊・雲霧仁左衛門と、雲霧の召し捕りに執念を燃やす火付盗賊改方長官・安部式部の間で繰り広げられる緊迫感溢れる頭脳戦の結果は…。  
あらすじ3  
享保7年。江戸市中では豪商ばかりが襲われる事件が頻発していた。火付盗賊改め長官の安部式部(市川染五郎=現・松本幸四郎)は、盗賊・雲霧一味の仕業と捜査に全力を傾けるが、一向に手がかりは得られなかった。一味の首領・雲霧仁左衛門(仲代達矢)は、尾張の豪商・松屋(丹波哲郎)襲撃を最後に足を洗うことを手下に告げる。一方、安部式部は、按摩・富の市(宍戸錠)から仁左衛門の正体と過去を聞き出す。10年ほど前、尾張藩の勘定方・辻蔵之助(松本幸四郎[白鸚])は公金横領の罪を被せられ、妻子や一族は皆殺しにされる。蔵之助と弟の伊織(仲代達矢)は逃げ延びるが、伊織の許嫁・志乃(松坂慶子)は、藩主・中納言継友(山口崇)に奪われてしまう。この伊織こそ、復讐を誓い天下を騒がす盗賊・雲霧仁左衛門の正体だった…。  
 
 
鞍馬天狗 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
大佛次郎の時代小説シリーズである。幕末を舞台に「鞍馬天狗」を名乗る勤王の志士が縦横に活躍をするさまを描いた、大衆小説の代表作である。頭巾をかぶった覆面のヒーローが善を勧めて悪を懲らしめるという構図は、後代の『月光仮面』や『仮面ライダー』などの「仮面ヒーロー物」の先駆けとなった。大正13年(1924年)、娯楽雑誌『ポケット』に第1作「鬼面の老女」を発表して以来、昭和40年(1965年)の「地獄太平記」まで、大佛は長編・短編計47作を発表した。また幾度も映画化・テレビ化がされ、特に40本以上にのぼる嵐寛寿郎主演の映画は、鞍馬天狗像を決定づけるものとなった。  
時代背景は幕末。生麦事件や蛤御門の変といった歴史上の事件を背景とした作品もある。戦後発表された作品には物語が明治に入ってから展開するものもある。個々の作品の間には明確な関連性が見ない。例外的に、初期の『ポケット』誌に連載された短編は大枠で繋がりをもったあらすじ展開となっており、また第二次世界大戦中に発表された3編の長編のうち、昭和20年(1945年)の「鞍馬天狗破れず」は昭和18年(1943年)の『天狗倒し』の続編となっている。舞台は主に京都・大坂が中心となっているが、作品によっては江戸や横浜、果ては松前といった土地が舞台となっているものもある。  
人物像  
主人公は、普段は倉田典膳(くらた でんぜん)を名乗っているが、本名ではない。また作品によっては館岡弥吉郎(たておか やきちろう)、海野雄吉(うんの ゆうきち)と名乗っているものもある。その素性は謎が多く、天狗党の生き残りではないかと言われたこともあるが、確証はない。容姿は、「身長五尺五寸ぐらい。中肉にして白皙(はくせき=色白)、鼻筋とおり、目もと清(すず)し。」と描写されている(「角兵衛獅子」)。宗十郎頭巾に紋付の着流し姿というお馴染みのイメージは、嵐寛寿郎主演の一連の映画において創られた鞍馬天狗の姿で、原作者の大佛はこれを快く思っていなかった。日本の将来に思いをめぐらす勤王志士だが、討幕派でいて幕府方を代表する勝海舟と繋がりがあったり、新撰組の近藤勇とも奇妙な交友関係をもつ(原作で天狗が近藤と一対一の対決をするのは「角兵衛獅子」1作のみ)。また維新後は新政府に対して否定的な側面を見せており、権力の批判者であることを貫いている。  
映画  
『鞍馬天狗』の映画版は、1924年の實川延笑主演の『女人地獄』に始まり、1965年の市川雷蔵主演の『新 鞍馬天狗 五条坂の決闘』まで、延べ60本近く製作され、天狗は様々な俳優が演じてきた。特に原作からは『角兵衛獅子』、『天狗廻状』が多く映画化されている。そのうち40本以上はアラカンこと嵐寛寿郎(当初は嵐長三郎名義)が演じており、このアラカンの『鞍馬天狗』が最も有名である。しかし、戦前撮られた『鞍馬天狗』には紛失・消失してしまい、現在では観られないものが多々ある。  
アラカンと鞍馬天狗  
マキノ入社直後、嵐はマキノ省三から「このなかからやりたい役を選べ」と雑誌『少年倶楽部』昭和2年(1927年)3月号を渡される。嵐は『角兵衛獅子』を読み、鞍馬天狗をやりたいと伝えたことにより、『鞍馬天狗余聞・角兵衛獅子』で映画デビューを果たす事となる。その後、嵐のはまり役として寛プロ・東亜キネマ・新興・日活・東宝・東映とまたに駆けて40本以上もの鞍馬天狗映画に出演した。嵐扮する鞍馬天狗が敵を次々と切り倒すその壮快なチャンバラ劇は長きに渡り大衆を魅了し続けた。  
しかし、この状況に不満を抱いていた人物がいた。他ならぬ原作者・大佛である。1954年、大佛は著作権無視、原作を書き換えて題名だけ盗んでいる、映画の鞍馬天狗は人を斬りすぎて原作者の意向を無視している等との理由を挙げて非難し、嵐が演ずる鞍馬天狗の制作中止を要求。そして大佛は自ら「天狗ぷろだくしょん」を設立してプロデューサーに就任し、同年より東宝で『次郎長三国志』シリーズの清水次郎長役で知られる小堀明男の主演による『新鞍馬天狗』シリーズの制作を開始し、同年10月に『新鞍馬天狗 第一話 天狗出現』を封切。この作品にはアラカンの鞍馬天狗なら5本は撮れると言われた程の潤沢な資金が毎回投入されたと言われる。  
この『新鞍馬天狗』は、原作者自ら手掛ける映画作品として当初こそ話題にはなったものの、実際に完成した作品は小堀明男の天狗姿とチャンバラシーンが常に嵐と比較され酷評ばかりで、また、30代前半の壮年として描かれるべき近藤勇の役に当時既に50代で老け役も演じていた志村喬を起用するなど、大佛の人選による配役にも無理があり、ストーリーもクライマックスで天狗が敵に拳銃を構えるだけで大儀を唱えるだけで戦うことなく退散してしまうなど、大衆が好む時代劇の骨法や様式をまるで無視したものであった。さすがにこの様な作品が成功する道理は無く、興行面で不振を極め、「日本映画史に残る大失敗作」「大佛が作家としての自身のキャリアに自ら疵を付けた」と酷評される悲惨な結果に終わった。また、巻き添えとなる形で、天狗役を演じた小堀にとっても俳優キャリアの疵となってしまった。  
大佛プロデュース・小堀主演の『新鞍馬天狗』シリーズの興行成績は惨憺たるもので、作を重ねる毎に映画館サイドからの大佛に対する不満の声だけが増えていった。結局、大駄作という評を覆す事には程遠く、全10作を予定するも1955年6月公開の第3作『新鞍馬天狗 夕立の武士』を最後に打ち切りとなる。  
この『新鞍馬天狗』で3度も煮え湯を飲まされる格好になった映画館サイドは、その損失補填を理由に大佛にアラカンの鞍馬天狗の復活を強硬に要求した。自らプロデュースした作品で与えた損失が原因であるだけにさすがの大佛もこれは呑まざるを得ず、嵐が当時所属していた東宝の同系会社である宝塚映画で新作が企画され再登板となるも、ただでさえ反骨の性格の嵐はここまでの経緯もあり乗り気ではなく、1956年前半の短期間に『鞍馬天狗 御用盗異変』『疾風!鞍馬天狗』の2作品を立て続けに撮ると、「天狗も歳をとりました」という名言を残してさっさと天狗役を降りてしまい、アラカンの鞍馬天狗は打ち止めとなった。  
その後、東宝グループでは鞍馬天狗の映画は制作されることなく、東映『鞍馬天狗』で東千代之介、大映『新・鞍馬天狗』で市川雷蔵が天狗を演じたものの、千代之介は単発、雷蔵も2作で終了といずれも長続きしなかった。 
 
 
木枯し紋次郎

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
笹沢左保の小説。またその主人公の異名。小説を原作とし、フジテレビ系列で1972年より放映されたテレビドラマ。同じく1972年東映制作の映画、菅原文太の主演で『木枯らし紋次郎』『木枯らし紋次郎 関わりござんせん』の2本が制作された。  
この番組は「市川崑劇場」と銘打たれ、市川は監修のみならず第1シリーズの1話 - 3話・18話では演出(監督)を務めている。元々原作の紋次郎は田宮二郎をモデルとしていたらしいが、「主役は新人で」という市川の意向により、当時すでに準主役級の俳優として活躍していながらも、一般的な知名度は必ずしも高くはなかった中村敦夫が紋次郎役に抜擢された。  
本作は、これまでの股旅物の主流であった「ヒーロー然とした渡世人がバッタバッタと悪人達をなぎ倒し、善良な人々を救う」といったスタイルを排し、他人との関わりを極力避け、己の腕一本で生きようとする紋次郎のニヒルなスタイルと、主演の中村敦夫のクールな佇まいが見事にマッチし、空前の大人気番組となった。また、殺陣についてもリアルさを追求し、渡世人同士の喧嘩に近い殺陣となっている(当時の渡世人が名刀を持つことなどありえず、刀の手入れをすることもないため、通常時代劇に見られる「相手が斬りかかってきた時に、自分の刀で受ける」などの行為は自分の刀が折れてしまうので行わず、また、正式な剣術をマスターしているわけではないので、刀は斬るというより、はたいたり剣先で突き刺したりといった形で使われるなど、リアリティを重視した擬斗がシリーズを通して展開されている)。  
また劇中で紋次郎が口にする「あっしには関わりのねぇことでござんす」との決め台詞が流行語となった。しかしテレビ版では「あっしには関わりのねぇこって…」と答えるのが定番であり、無宿の渡世人という設定から語尾に「…ござんす」が付けられ、誤って流布したものである。ちなみに菅原文太主演の東映版では「…ござんす」となっており、結果として、東映版の決め台詞が普及した事になる。  
なお、このドラマの主題歌『だれかが風の中で』を歌ったのは上條恒彦であり、こちらも大ヒットした。  
1977年には『新・木枯し紋次郎』が製作され、東京12チャンネルで放映された。同じく、1993年には、中村敦夫主演で映画『帰って来た木枯し紋次郎』が東宝配給で制作された。こちらは従来の中村敦夫主演のテレビ版の続編であり、このために原作者の笹沢左保が新たにシノプシスを書き下ろし、監督も市川崑が務めた。当初はTVスペシャルのために製作されたが、出来栄えが良かったため急遽劇場上映が決定した。主題歌も、テレビ版の『だれかが風の中で』が使われている。この作品では、紋次郎の台詞が東映版に準じた「あっしには関わりのねぇことでござんす」となっている。  
 
舞台は天保年間。上州新田郡三日月村の貧しい農家に生まれた紋次郎は、生まれてすぐに間引きされそうになる所を姉おみつの機転に助けられた。「間引かれ損ない」として薄幸な子供時代を過ごした紋次郎は、10歳の時に家を捨てて渡世人となる。 ボロボロな大きい妻折笠を被り、薄汚れた道中合羽を羽織り、長い楊枝をくわえる(紋次郎の設定はほぼ原作に準じているが、唯一、口にくわえている楊枝だけは、見栄えを考えかなり長く設定されている)のが彼のスタイルである。ストーリーは1話ごとのオムニバス形式となっており、ストーリーの連続性はない。レギュラーは主人公の紋次郎のみである。 
 
 
芸者の歴史

 

  
巫女〜白拍子〜江戸時代初期
芸者の起源・巫女  
芸者の歴史は、その流れを辿っていくと、白拍子、あそびめ、さらには巫女にたどりつきます。巫女は、「古事記」・「日本書紀」に記される日本神話では、天岩戸の前で舞ったとされる天鈿女命の故事にその原型が見られますが、神事において古くから男女の巫が舞を舞う事によって神を憑依させた際に、一時的な異性への変身作用があると信じられていました。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が熊襲征伐において女装を行い、神功皇后が三韓征伐の際に男装を行ったという話も彼らが巫として神を憑依させた事の象徴であったと考えられます。  
源平と白拍子  
平安時代になると、巫女が布教の行脚中において舞を披露していく中で、白い直垂・水干に立烏帽子、白鞘巻の刀をさすという男装姿で歌や舞を披露する白拍子が生まれてきます。白拍子は、男女問わずに舞われましたが、主として女性・子供が舞う事が多く、白い装束(水干、長袴)をつけて舞うところから、あるいは楽器がなくても手拍子をとり、歌で舞うところから白拍子と呼ばれるようになりました。白拍子を舞う女性たちは貴族の屋敷に出入りすることも多かったために、身分や見識の高い人が多く、平清盛の愛妾となった祇王や仏御前、源義経の愛妾静御前など貴紳に愛された者もいたようです。  
豊臣秀吉と日本最古の花街上七軒  
白拍子は鎌倉時代まで続きますが、やがて戦乱の世となり次第に廃れていきます。そして室町時代には、日本最古の花街と芸者が生まれる素地が整います。そのきっかけは、十五世紀中頃、北野天満宮の一部が焼失し、この神社の修造作業中に、残った材料を払い下げてもらい現在の上七軒にお茶屋を建てた事に始まります。一五八二年には、天下統一を果たした豊臣秀吉が北野でお茶会を催し、その際、休憩所として七軒茶屋が利用されたことから、お茶屋の営業権が与えられます。また北野天満宮には、古くから巫女がおりましたが、成熟した女性ともなると巫女としての職を離れなければならず、彼女らは後に、七軒茶屋で茶立て女や茶汲み女になり三味線を弾いたり舞や踊りをすることで客を惹きつけるようになります。  
出雲阿国の登場  
一六〇三年、同じ京都に、出雲大社勧進のため、女たちと共に諸国を巡業して、歌や踊りで客を楽しませる女性が現れます。出雲の巫女であった阿国の登場です。特に、京都四条河原で演じた男装に刀をさし、茶屋遊びに通う伊達男を演じる歌舞伎踊りは大変な人気を博し、元和年間(一六一五〜一六二四年)には四条通の南側に三座、北側に二座、大和大路に二座、合計七つの櫓が公許されるにまで至ります。出雲阿国以降、大勢の遊女がそれを真似して、新しく渡来した楽器である三味線を伴奏に、はなやかな舞台を展開し、遊女歌舞伎と称されるようになっていきます。 
  
江戸時代初期〜江戸時代中期
吉原の成立  
遊女歌舞伎は、旅芸人である遊女たちによって各地に伝播し、江戸でも人気を博し、彼女らは踊子と称されるようになりますが、元来やくざ者を真似した行為であるという事と、女性の肉体的魅力を表現し過ぎたという事で、一六一七年には駿河と江戸で女歌舞伎は禁止されます。これは単に女歌舞伎だけが禁止されたのではなく、女舞・女浄瑠璃等、すべての女芸能人が公衆の前に立つことを禁止したものでした。  
そして幕府は一六一八年に体制秩序を名目に、庄司甚右衛門に吉原遊郭を作ることを許可します。芸能と売色を分離し、騒擾力を制御する為の吉原の成立です。市中の遊女屋をまとめて管理する治安上の利点などを求める幕府と、市場の独占を求める一部の遊女屋の利害が一致した形で、吉原遊廓は始まりました。芸能民としての遊女たちは、吉原に吸収されるか、吉原に入らずに「踊子」として芸能を披露する場を、劇場から武家屋敷へと変え、経済力のある武家に雇われたり呼ばれたりするようになりました。  
非公認の深川芸者  
一六五七年、江戸では明暦の大火と呼ばれる大火事があり、この頃から江戸の郊外にある深川へ多くの人が移動します。深川は水運が便利で、火事も少なく、寺院や武家屋敷が移り、料亭や幕府非公認の遊所である岡場所も多く存在するようになります。この深川の新しい料理屋や岡場所に踊子たちが集まり始め、一七〇〇年頃には菊弥という女芸者の存在があり、一七四〇年頃には深川の芸者は、世間的にも認知されるようになっていきます。  
幕府公認の本格芸者・吉原芸者  
一七五三年、深川で私娼を兼ねていた踊子百十五人が検挙がされ、幕府の管理下である吉原へと引き渡される事件がおきます。その頃、吉原は衰退の途をたどっており、歌舞音曲に達者なものを、それに専念させ、代わり売色から手を引かせる事で、いわゆる色を売らない吉原芸者を生み出します。特に一七六〇年頃に活躍した、扇屋の歌扇は踊りや歌、そして三味線を得意とし、巧みな話術で座を盛り上げ、今のお座敷に近い状態を演出します。  
芸者の監視役・見板の設立  
一七七九年には、芸者と遊女の職分を明確にする為に、角町の大黒屋が芸者の監督所を創設します。男女あわせて100人を登録し、それぞれの名札をかけたので見板と称しました。これが江戸から現代まで続く見番(検番)のはじまりです。見板では、登録した男女の芸者を監督し、遊女屋及び引き手茶屋からの注文に応じて、指名された芸者を派遣し、座敷を取り持つことに専念するように言い渡されました。更に、芸者が遊女の職分を侵さぬように、検番から服装に関する規則まで出されました。吉原芸者は白襟無地の紋付の小袖に、縫いの無い織物の帯を締めることを義務付けられてきましたが、遊女の前帯と区別するために、一つ結びという前帯をぐるりと後ろへ回して裾近くまで垂らした形としました。縮緬の白の蹴出しを巻いて素足とし、頭も島田髷に平打の笄一本、櫛一本、簪一本という質素な格好でしたが、幕府より唯一公認された芸者が吉原芸者だけであり町の芸者からは羨望の眼差しでみられました。 
  
江戸時代中期〜江戸時代後期
京都六花街の形成  
一方、踊子の発祥地である京都では、北野天満宮を中心とした上七軒、八坂神社を中心とした宮川町、先斗町、祇園(後に祇園甲部と祇園東に分かれる)、更に日本最古の公許遊郭である島原を加えて一大都市が形成されていきます。京都に芸者が現れたのは一七五〇年頃と言われ、その成り立ちも吉原と似たようなもので一七五〇年に島原以外の遊女に対する取締りを行った結果、祇園町、宮川町の遊女が島原へ送り込まれ、そこから歌舞音曲に優れたものが色を売らない芸者となっていきます。  
辰巳芸者の隆盛  
文化年間(一八〇四〜一八一八)、江戸では深川の芸者が吉原芸者を圧倒する勢いをみせます。この頃には、深川の芸者は、場所が江戸からみて、東南(辰巳)の方角にあることから、辰巳芸者ともいわれます。辰巳芸者は粋で人情に厚く、芸は売っても色は売らない心意気を自慢とし、身なりは地味で薄化粧に、当時男のものだった羽織を引っ掛け座敷に上がり、男っぽい喋り方をします。また芸名も「鶴吉」「鶴八」「竹助」など男の名前(権兵衛名)を名乗っています。これは男芸者を偽装して深川遊里への幕府の捜査の目をごまかす狙いもあったようです。  
水辺の柳橋芸者  
色を売って芸を売らない者を女郎といい、芸を売って色を売らない者を芸者といいますが、深川では色と芸を兼ねる女郎芸者が増えてきたために一八四二年、水野越前守により二十七箇所の岡場所で取締りが行われます。色気無しでは、花柳界という社交場は成り立ちませんが、色が目的になっても社交の場は失われます。深川はこの取締りにより完全に息の根を止められ、かくして、辰巳芸者の多くは吉原へ舟で向かう客がまず立ち寄る柳橋へと移っていき、柳橋芸者となっていきます。柳橋は舟運の要地であり、その中心は船宿で、万八、河内といった有名な料理屋も多かったのも発展した要因です。柳橋芸者は、あっさりとして趣があり、媚びる事無く、江戸芸者の正統として日本橋界隈の老舗の旦那を中心に強い支持を得ます。  
江戸の終焉と金春芸者  
幕末になると、米の値が急騰したのをきっかけに貧民の打ちこわしが多発し、江戸三座は木戸を閉め、吉原は全焼しました。その中で、汐留川の両岸から木挽町へかけて船宿や料理茶屋が、勤皇か佐幕かに揺れる各藩の留守居役の交渉の場として繁盛し、それらを出先とする酌人は慶応年間に急増し二百人を数えるようになります。彼女達は、能役者の屋敷跡に住みついた常磐津などの女師匠で、その中から金春芸者と自称するものが出てきます。この頃には、酒気を帯びたお座敷ともなれば斬り合いも珍しくなく、そんな中で金春芸者が物怖じもせず、親身に勤めた為に、勤皇派の西国侍が自然とこの界隈に馴染むようになりました。そして、この金春芸者が、明治維新以降、柳橋芸者に代わって隆盛を誇る新橋芸者へとなっていきます。 
 
江戸時代後期〜明治時代後期
 
 
 
 
 
明治維新と祇園  
同じく幕末期に、勤皇派を受け入れ、明治維新以降、西の代表格としての地位を築き上げたのが京都の祇園です。木戸孝允の正妻となった幾松など、著名な芸者を輩出し、明治維新以降は、没落士族の娘などかなりの数が芸者に転身し、社会の表舞台へと躍進する原動力となりました。幕末の藩士が芸者と密接に関わっていったのは、花街の料亭やお座敷の機密性が、高い信頼を得ていたからだといえます。  
鑑札制度による芸者の増加  
明治になると、近代国家としての体面を整える必要もあり、明治五年に芸娼妓解放令が出され、一切の人身売買が禁止されます。芸者の年季奉公も禁止され、更に借金も棒引きされた為に芸者は晴れて自由な身となりました。これでは流石に、抱え主が納得しないと思ったのか、政府は遊女も芸者も人権すら持ちえぬ牛馬に等しいものだと思って我慢しろと付け加えたので、後にこの布告は「牛馬の切りほどき」と称されるようになります。更に、貸座敷渡世規則・娼妓規則・芸妓規則が制定され、芸者になりたい者は各知事に届け出て鑑札(営業許可証)を受け、月々三円の鑑札料(営業税)を納める事で誰でもなれるようになりました。この事により、全国津々浦々に芸者がいる花街が出現したのです。  
新橋芸者VS柳橋芸者  
誰もが芸者になれるようになりましたが、芸者の世界には花代と課税率によりはっきりと格付けがなされていました。明治初期の東京の芸者は、一等地が花代壱円の新橋と柳橋、二等地が日本橋、葭町、新富町、数寄屋橋で八拾銭、三等が烏森、吉原で五拾銭、四等が深川、神楽坂の参拾銭、五等が赤坂等であったようです。このうち新橋は、明治五年に汐留停車場から改称されたもので、この界隈を出先とする金春芸者もこれ以降、新橋芸者と呼ばれるようになりました。新橋芸者の中からは新政府の高官の側室のみならず、本妻にまで出世する者が少なからず現れるようになった為に、この頃から新橋は柳橋を追い抜く勢いをみせはじめます。更に、三井系の財界茶人が茶器や書画の類を披露する茶会を新橋の料理屋や待合で盛んに開いた為に、そのような席を勤める新橋芸者の趣味教養はますます深まり、各財閥の園遊会や、諸外国の賓客を接待する場にも頻繁に呼ばれるようになりました。また、明治三十五年頃には、瓢家という待合の主人が、当代一流の家元や名人を師匠に迎え、新橋に籍のある芸者であれば三円の月謝で幾通りでも稽古を受けてよいという制度を設けたことから、新橋芸者の芸は急激に向上していきました。  
赤坂の台頭  
東京では、新橋の台頭に加えて、もう一つ大きく躍進した場所があります。それが赤坂です。明治の初期には五等地に過ぎなかった赤坂が、昭和の初期には二等地まで昇りつめたその背景には、春本と林家という二軒の芸者屋の奮闘があります。特に、新政府の高官や政治家を受け入れた新橋と異なり、赤坂は軍人を受け入れて発展していきます。明治四十一年には文芸倶楽部の美人投票で全国一位になった名妓「萬龍」を育て上げ、戦後には柳橋・新橋と三和会を組織し、他の花柳界との格の違いを主張するまでに至りました。 
  
明治時代後期〜現在
祇園の都おどり  
都が東京に移った京都では、新たな観光名物が必要となり、明治五年、京都府知事と槇村正直らにより博覧会の余興として都をどりが考案されます。これは、当時としては新しい集団舞踏といわれ、三世井上八千代による振り付けで五〜十人が揃って同じ踊りをする難しさがあり、芸舞妓の公の発表の場として、京都の年中行事の一つとして定着していきます。この時期、京都は夏目漱石や谷崎潤一郎といった文人や政治家等に愛され大いに繁栄します。  
女紅場と祇園  
芸娼妓解放令により、職を失った女性が増えた事から、裁縫や、機織り、製茶などを教える婦女職工引立会社が各地で設立されます。祇園の場合、京都府が窮民産業所設立の名目で建仁寺、蓮乗院、蓮華光院などから上地させた一万八千坪の土地を婦女職工引立会社に格安の値段で払い下げられたことにより、大きな地番の中にお茶屋や置屋が建てられ、土地取得の負担が軽減され、借地料の支払いによって運営されるという芸者文化への投資が早くから始められました。この婦女職工引立会社は後に八坂女紅場学園となり、芸者のお稽古場として中心的な役割を果たします。  
新橋の東おどり  
東京では、第一次世界大戦による好況と、芸の向上により、新橋を名実共に都第一の花柳へと押し上げあました。しかし、東京には京都や大阪と違って、演劇場が無かったために、大正十四年、新橋の菊村が政治力を発揮し、新橋演舞場を創設、新橋芸者総出演の東おどりを考案します。当時東京では新橋以外の花柳界は舞踊の公演に関してはほとんど興味が無く、東おどりが本当に力を発揮するのは、古典作品と作家に舞台作品を依頼する新作を織り交ぜるスタイルを確立した戦後の事です。  
戦時中の芸者  
昭和十四年、警視庁より料理屋と待合の午前零時以降の営業が禁止され、その一ヵ月後に国民徴用令が実施されます。主だった花柳界の芸者は、大日本国防婦人会の会員となり、これを境に芸者稼業を廃業する者も多かったのですが、赤坂などは、軍人の壮行会などでむしろ忙しくなります。昭和十六年には太平洋戦争が始まり、料理屋で出される料理も、配給物資で賄われるために粗末なものとなり、昭和十九年には決戦非常措置要綱に基づき、花柳界の営業は即日停止となります。40歳以下の芸者は、勤労挺身隊に入り、臨時工場に当てられた料理屋や検番などで軍需品の製造作業に従事させれます。といえども、灯火管制の夜陰に乗じて、昔なじみの客は密かに酒や肴を持ち寄り芸者を呼んでいた事もあったようです。  
戦後の衰退  
昭和二十年、敗戦後の焼け跡から、芸者業は復活します。進駐軍などの接待により芸者はその活躍の場を見出し、やがて景気の上では戦前に勝る繁盛を迎え、政治の密談から商店街の親睦会まで客の身分と懐具合に合わせて、お座敷がかかるようになりました。しかし昭和三十年頃から、大衆化が進み、三味線や踊り以外にも選択肢が増え、安価で簡便な遊興への欲求が高まっていきます。更に、満十七歳にならなければ芸者になれないという労働基準法や、児童福祉法により仕込みの期間が制限され、幼い頃から芸者を育てる事が事実上不可能となっていた事も拍車をかけ、花柳界全体の発展がみられなくなります。各地方では、芸者は廃業へと追い込まれ、新橋や柳橋、赤坂などの一流所も政治家や大手企業の経営者、重役などが接待の場をバーやクラブへと移行させていき、平成に入ると、柳橋や赤坂の料亭も軒並み廃業し、新橋のみが辛うじて残る程となりました。  
祇園が残った理由  
その一方で、京都の祇園は古都である強みを活かし、寺社仏閣や古い街並みといったハードウェアに加えて、芸者文化の育成保存によるソフトウェアを整え、地域全体が歓楽装置として機能しています。具体的には、八坂女紅場学園による技能育成とおどりの披露という自前で人材を育て、晴れの舞台として興行を打つという吉本新喜劇や宝塚歌劇に受け継がれたシステムが早くから確立されている点。京都の桜が咲き始める四月初旬から祇園甲部の都おどりと宮川町の京おどりが始まり、四月中旬の遅咲き桜にあわせて上七軒の北野おどり、新緑が鮮やかな五月に先斗町の鴨川おどり、紅葉シーズンの十一月に祇園東の祇園おどりがあり、観光シーズンにあわせた年中行事として出来上がっている点。各お茶屋では、舞妓に幼い頃から(現在では十五歳から)歌や舞、お茶やお花などの作法を教え、舞妓を育てるための諸費用を全て負担しいる点(その代わりお座敷での花代はもらえません)など、舞妓・芸子が祇園全体のものとして育てられ、町の華やかさが演出されている点にこの地域の強みがあります。  
現在  
平成十九年現在、京都以外の芸者は、各検番や置屋に十数名が在籍する程となっており新潟市や秋田市では会社制度に転換したりして後継者を育成し続けています。この時代になっても、芸者になりたいという人材は少なからずおり、むしろ受け皿の整備と革新的な発想が各地では必要となってきています。  
 
 
「新地橋・深川澪通り木戸番小屋」北原亞以子

 

武士をやめて木戸番として細々とした生活をしている「笑兵衛」と「お捨て」の夫婦、彼らを最後の心の拠り所としている人々の話で、しみじみとした人間のあり方が伝わる珠玉の作品である。  
『新地橋 深川澪通り木戸番小屋』は、「第一話 新地橋」「第二話 うまい酒」「第三話 深川育ち」「第四話 鬼の霍乱」「第五話 親思い」「第六話 十八年」の全六話からなっており、「第一話 新地橋」は、かつては新地と呼ばれる岡場所で遊女をし、今は、相愛の男の犠牲によって岡場所を出て小さな団子屋をしている「おひで」という女性の話である。  
彼女の相愛の男は、「おひで」を岡場所から脱け出させるための金を作ろうと質屋に強盗に入り、捕まって遠島になっている。彼が遠島になる時、彼の弟分の男に「おひで」を頼むと言い残していった。弟分は風采のあがらない笊売りだったが、「おひで」に憧れ、彼女を助け、やがて夫婦になる。しかし、「おひで」の心には彼女を身受けして岡場所から脱け出してくれた前の男への思いがある。  
「おひで」の夫となった弟分はそのことを知ってはいるが、生活の中で次第にやりきれない気持が膨らみ、「おひで」に暴力を働いたり、博打に走ったりして借金を作ってしまう。「おひで」が心に抱いている前の男が罪を減じられて赦免になって帰って来るという。「おひで」は夫との間にできた子どもを夫の暴行で流産する。  
だが、「おひで」は、その夫の借金を返すために再び岡場所に身売りする。そして、夫は、苦界に沈む「おひで」を助け出そうと、彼の兄気分がしたことと同じように質屋に強盗に入ろうとする。  
木戸番の「お捨て」は、そういう「おひで」にそっと寄り添う。そして、彼女の夫が強盗しようとするところを、身を呈して止める。木戸番夫婦は、そういうどうにもならないところでもがく「おひで」夫婦を見守っていくのである。  
「第二話 うまい酒」は、女房を弟弟子に寝とられて自棄になって江戸へ出てきた腕のいい左官が、一文なしになり、空腹を抱えて木戸番の焼芋の匂いに誘われ、蹲ってしまったところに、木戸番の裏の炭屋が穴のあいた壁の修理が必要だとの話を聞き、ふらふらと名乗り出る。木戸番の「お捨て」は、彼に「にぎりめし」を作り、「笑兵衛」は、その仕事をしろと言う。その瞬間の出来事が次のように表わされている。  
「気がつくと、木戸番の女房の姿が見えなかった。炭屋から支払われる賃金で、焼芋を買わせてくれと頼むつもりだった偬七(左官)は、垣根の破れをふりかえった。木戸番小屋の前まで、破れの向こうの路地を立って歩いていけるかどうか、自信がなかった。  
その破れから、木戸番の女房があらわれた。板のように平らなものと、丸いものを持っていた。  
偬七は、かすんできた目をこらした。平らなものは盆、丸いものは土瓶で、盆の上にはにぎりめしがのっていた」(文庫版 66ページ)  
彼はこうして木戸番のある「いろは長屋」に住むことになる。しかし、女房に裏切られ、弟弟子に裏切られ、人を信じることができないでいる。  
その「いろは長屋」に、心から人の良い「善蔵」という油売りがいた。「善蔵」は、偬七と友だちになりたいと願って偬七を助けようとする。だが、人を信じることができなくなっている偬七は、それを鬱陶しく思う。  
「お前、――それほどまでにして、どうして人の世話をやくんだ」善蔵は黙って笑った。「どうしてだよ。買いたいものも買わずに、どうして人の世話をやくんだよ」「だってさ・・・」善蔵は、土間を眺め、自分の膝を眺め、それからやっと偬七を上目遣いに見た。  
「俺、人に好かれねえから・・・」蚊の鳴くような声だった。  
「俺、小さい時から好かれねえから。――一所懸命、人の面倒をみて、ようやくつきあってもらえるんだよ」偬七は口をつぐんだ。小さい頃から頭がよいと言われ、左官となってからは親方より腕がよいと評判をとった偬七も、気がついてみれば、心を許せる友達は一人もいなかった。  
だが、偬七は思う。  
「けっ、何が『偬さんならずっとつきあってくれると思った』だ。何が『長屋の人達は親戚みたようなものだ』だ。笑わせないでもらいたい。二世を契った女でさえ、何くわぬ顔で亭主を裏切るのである。文字通り、弟のように可愛がっていた弟弟子は、『兄貴の恩は忘れねえ』と言いながら女房の袖を引いた。血でつながった弟はいなくとも、仕事でつながった弟がいると思い、博奕の借金を払ってやり、割のいい仕事をまわしてやって、そのあげくに突きつけられたのが、『姐さんは俺に惚れているんだ』という科白なのだ。何が身内だ、何が親戚だ・・・・・誰も、あてにならねえ。女房だって、兄弟だって。  
そういうふうにして「善蔵」のひたむきな気持ちを踏みにじった偬七を、木戸番の「笑兵衛」は殴りつける。「善蔵」は、どこまでも偬七を大事にしようとする。「笑兵衛」に殴られた傷の心配をする。そういう温かさに触れて、彼の不信で尖ったような心が和らいでいく。 
「第三話 深川育ち」は、木戸番小屋のある地域に仲の良い姉妹二人で切りまわしている居酒屋に、いい男だが遊び人で金が目当ての男が通い、その男をめぐって姉妹が争い合うという話である。姉は妹のために嫌なこともして居酒屋を開いた。だが、いい男が妹に色目を使って手を出そうとする。姉は妹があきらめてくれるようにと、妹を守るためにその男と寝るが情が移ってしまう。その男は妹も誘う。そして、妹は姉がその男と寝たことを知り、姉を殺そうとまでする。  
木戸番夫婦は、様子がおかしくなった姉妹を案じ、妹が出刃包丁を振りかぶったところに飛び込んで、それを止める。木戸番の「お捨て」は言う。  
「お二人とも深川育ちですもの。いやなことは、川に流してしまわれますよ」  
本当にその通りだ、と思う。嫌なことや取り返しのつかないことが山ほどある。そんなものはみんな川に流してしまえ。生きることは前を見ることだから。そんなことを思いながら、ここで本を閉じた。今夜は、また、静かにこの続きを読もう。 
「第四話 鬼の霍乱」は、木戸番小屋の笑兵衛の妻「お捨て」が急な病気で倒れ、夫婦の深い絆が描かれて、「よく分れずに、ここまで来た――。今、落ち着いた気持ちで毎日を過ごせるのは、お捨てが連れ添ってきてくれたからではないか」(文庫版 176ページ)と笑兵衛が思ったりする。  
お捨ての病が癒えて帰ってきた時、出かけていた笑兵衛が帰って来るとそこにお捨ての姿を見る場面が、何とはなしにしみじみしていい。  
「お捨てが寝床の上に座り、おけいと弥太右衛門(木戸番小屋の向かいにある自身番の責任者夫婦で、お捨てを引き取って看病していた)が女房にはさまれて、白湯を飲んでいた。『お帰りなさいまし、あなた』笑兵衛はふと、涙ぐみそうになった。お捨てが弥太右衛門の家に運ばれて行ったのは三日前のことだった。その上、今日も見舞いに行っているのである。が、片頬に深い笑靨(えくぼ)のできるお捨ての面に、ようやく会えたような気がするのだ。『もういいのか』と、笑兵衛は言った。『熱なんざ、やたらに出すな』お捨てのころがるような笑い声が、狭い番小屋の中に響いた」こういう味わいのある情景が随所に描かれていくのである。  
その一方で、隠居させられた木綿問屋の主人が、妻をなくし、話し相手をなくして、人付き合いが不器用で孤独のうちに日々を過ごしていく姿が丹念に描かれていく。  
「三国屋(木綿問屋)からはじき出され、長屋の人達はなじんでくれず、忠実な喜兵衛(手代)にはその姿は見せられない。浜吉(隠居させられた木綿問屋の主人)の言う通り、天涯孤独にひとしい淋しさではないか。お捨ての作った味噌汁を飲んでいる時の、或いは弥太右衛門(木戸番小屋の向かいにある自身番の責任者)と深夜まで将棋を指している時の浜吉は、いったいどこで笑っていたのだろうか」と笑兵衛は思う。  
浜吉は、ひとりですねて、ひとりで孤独になっているのである。しかし、この老人の心情を木戸番夫婦は察していくのである。 
「第五話 親思い」は、木戸番夫婦を親のように慕う複雑な生育経過を持つ蔬菜(青物野菜)売りの豊松が、自分の生みの親が、自分が嫌っている老婆であることを知り、また、父親がひどい武家だったことを知り、その中で葛藤していくが、生みの親と育ての親、そして笑兵平夫婦に「親孝行」をしていく話である。  
人違いから豊松に自分の武家としての家を再興するチャンスが訪れる。家を再興するために育ての親のもとを離れ、四国丸亀藩へ行こうとする。そのくだりは、次のように表わされている。  
「『戸田(武家としての豊松の家)を再興する時がきた、俺あ、そう思ったよ。おふくろは、親父を自慢していた。その親父を殿様も藩の人達も見直してくれたのだもの。あの世でどんなにか喜んでいるだろうと思った。すっかり気持ちが昂っちまってね。寝床の中で、武家の礼儀作法を、あらためて小父さん(笑兵衛)に仕込んでもらわなくっちゃならねぇと、そればかり考えていたんだが』でも――と、豊松は言う。『六つの鐘が鳴る前に起きて台所に行くと、もうおみねおっ母(育ての親)がめしを炊いているんだ。赤飯を炊いているんだと言ったけど、おみねおっ母は泣いていた――』お捨ても、ふと涙ぐみそうになった。八歳の時から、いや、赤子の時からあとを追われ、田圃や畑にも連れて行って育てた豊松であった。この子は武士の子、いつか離れてゆくことがあるかもしれないと自分に言い聞かせていても、諦めきれぬものがあるにちがいない。それは、吾助(育ての父親)とて同じことだろう。『俺あ、おみねおっ母や吾助父つぁんと顔を合わせているのがつらくなって、うちを飛び出して来たんだ』」  
こういうくだりは、それぞれの優しい思いやりが素朴ににじみ出ている。 
「第六話 十八年」は、指物大工をしてそれぞれに修業を重ねた二人の男の姿を描いたもので、ひとりは、不器用で気が聞かない奴と言われながら、修業を重ね、親方の娘に惚れていたが、娘はもう一人に惚れて結婚し、もう一人の男を羨みつつすねて、自分の職人としての腕にも言い訳ばかりしていたが、良きできた女房をもらい独立し、もう一人は、優れた腕を持って親方の娘と結婚したが、自分の職人としての気質が理解してもらえず、夫婦別れをして上方に修業に出ようとするのである。  
一人は独立し、その祝いの席にお捨てが招かれ、もう一人は、上方へ立つ前に留守番をしていた笑兵衛を訪ねる。人生は、まことに奇異。  
『深川澪通り木戸番小屋』は、人の幸いも不幸も描き出される。不幸には涙を流し、幸いには喜ぶ。そういう木戸番夫婦の姿が、人情味あふれて描かれるのである。  
本書の「第五話 親思い」に最初に、お捨ての人柄を見事に描いた場面が出てくる。お捨ては、土間の床几の上で居眠りをして、床几から転げ落ちそうになる。  
「『あら、いやだ』床几から落ちそうになっていたにちがいない自分の姿を想像して、お捨ては笑い声を上げそうになった。が、夫の笑兵衛は、一間しかない四畳半で眠っている。枕屏風の向こう側から、少々荒い寝息が聞こえてくるのは、昨夜の騒動で疲れているせいかもしれなかった。お捨ては両手で口許をおおい、急いで外へ出た。指の間から笑い声がこぼれてきて、お捨てはふっくらと太った軀を二つに折って笑った。床几から転げ落ちそうになっている自分の姿は、想像すればするほどおかしかった。ころがるような笑い声が澪通りにひびいたが、向かいの自身番は静まりかえっている」  
お捨ては、自分に正直で素直で、天真爛漫である。そういうお捨てを夫の笑兵衛は、包み込むように愛していくのである。こういう夫婦に触れた人々が、その夫婦の姿を見ただけで、深い慰めを覚えていくのである。彼らの木戸番小屋は、いつも開いている。  
 
 
昭和初期 東京・大阪・京都花街の芸妓(芸者・芸子)

 

関東の「芸者」(げいしゃ)、あるいは関西や長崎の「芸子」(げいこ)は、あらたまった呼称、あるいは公式用語としては「芸妓」(げいぎ)と呼ばれる。芸者・芸子は、江戸時代から明治・大正期にかけて全盛期を誇った宴会専門職の女性であり、万葉集の時代の「遊行女婦」以来、時代により「遊女」「傀儡女」「白拍子」「遊君」「踊り子」「芸者」「女給」「ホステス」などと場所と名を変えながら続いてきている遊女の流れを汲んでいる。  
芸者・芸子という語は死語となりつつあるが、日本古来の遊女の伝統がなくなってしまうわけではなかろう。なお、遊女(ゆうじょ)は「あそびめ」とも称されるが、もともとは、「遊ばせてくれる女」というより、「遊んでいる女」という意味である点に注意が必要である。遊女の歌を国歌にしている国は日本だけであろう。  
遊女には「芸のある遊女」と「芸のない遊女」とがあり、後者は娼婦と位置づけられる。我が国では、前者の流れが主流である点に特徴があると考えられる。  
芸者は「芸をもつ遊女」というメインの流れに属しているが、江戸時代以降、幕府の位置づけにより、遊女が、女郎・花魁と芸者・芸子に役職分離したため、娼婦的な役回りはタテマエとしてもたないものとされるに至った。それでも芸者が遊女と見なされてきたのは、遊興に不可欠の歌舞音曲の芸で身を立てているのみならず、「旦那」と呼ばれる準夫婦関係を結んだ者から金銭的支援を受けることが多いためであった。沢尻エリカに代表される現代の女性タレントの場合は、「旦那」が「準」夫でなく「一時的」夫に変化していると考えれば、やはり、遊女の流れに属しているととらえられる。何かと騒がれることの多い女子アナも見方によっては芸妓的伝統の流れの上にある。  
花街の構成は、宴席専門の芸妓のみの場合もあれば枕席(ちんせき)専門の娼妓のみの場合もあれば、両者が混合している場合もある。二流以下の花街では、芸妓のみの花街であっても宴席を盛り上げるるとともに接待の延長で枕席に侍る芸妓(この合意を得ることを「転ばす」といった)、あるいは枕席専門の芸妓(不見転「みずてん」芸者)がいない訳ではなかった。花街は花柳界とも呼ばれるが、戦後、娼妓が禁じられたため、花柳界というと芸者まちのイメージが強い。  
芸妓と娼妓は免許のことなる別々の存在であったが、東京では、基本的に芸妓のみの花街と娼妓本位の花街とに明確に分かれており、関西の場合には、芸娼妓混合・両本位の花街が多かった。花街は江戸時代の岡場所(吉原や島原といった公認遊郭以外の色里)に起源を有する場合が多いが、江戸時代に、将軍のお膝元である江戸においては、岡場所における売娼行為の禁止を原則崩さず、検挙された娼妓は足を洗わない限り吉原遊郭に送られるという形を取り続けたのに対して、京都においては、江戸と同様に取締りを行ったが徹底できず、本来の許可地である島原遊郭の出張所として祇園などの岡場所が位置づけられ営業継続が半公認されるという形をとった。こうした歴史の違いが芸娼妓配置に関する明治以降の東京と関西の花街のあり方の差の原因となったと考えられる。  
東京の花街は三業地の指定により営業していた。ここで三業とは芸者置屋、料理屋、待合のことであり、三業組合の事務所として見番(検番)がある。待合は貸席業であり料理は仕出しによる(花街によっては宿泊も可)。他の花街での営業や船遊び・行楽地への同行など所属三業地以外での芸者の活動は「遠出」と称して別料金となる。これを含めて、芸者の花代(時間料金)は席代とともに料理屋が決済していた。同じ花街の中では客は馴染みの料理屋や芸者を優先し、逆に料理屋や芸者も贔屓筋を大切にし、それを相互に尊重し合っていたが、花街がちがえばそうした配慮は必要なかった。なお、戦後は、料理屋と待合はともに料亭と名乗るようになった。  
大阪と京都では芸妓が料理屋へ入らない。また大阪では、芸妓は検番ではなく花街ごとに「店」という芸妓扱席に所属。関西の娼妓は、遊郭の居付き女郎でない限り、各自が家(家形)を有し貸席に招かれて営業し、東京などの娼妓のように妓楼居住の籠の鳥式束縛を受けない、など関西と東京では花街の仕組みが異なった。  
関東大震災後の芸妓数は、東京府で約1万人、愛知県、大阪府がそれぞれ約5千人といわれるが、図で取り上げた東京の芸妓数は合計8,943人であり、ほぼ全体をカバーしているといえる。
東京では、「柳橋」と「新橋」を柳新橋と称して2大花街とする場合がある。  
「柳橋」は、吉原、深川などへの舟運(猪牙舟「ちょきぶね」)の出発地に位置し、元吉原から発した踊り子・三味線師匠の流れに、天保の改革の幕府による取締りで流れてきた深川の辰巳芸者などを加え、浅酌低唱の客を集めて大繁盛し、明治時代のはじまりの段階で、江戸の伝統をひきつぐ町芸者の開祖となった花街である。古来遊女は川遊びとの親和性が高いが、柳橋では大正の初めごろまで、駆け出しの芸者のことを「あの妓(こ)はまだ船もうまく乗れない奴だ」といったそうである。  
「新橋」は維新の志士との付き合いが深く、明治の交通新拠点に開かれた新興の花街であり、明治に入って柳橋を凌駕する威勢をしめした。戦後も外務省が海外の賓客を迎えた。芸者の本場とされる柳橋の芸者が基本的に江戸っ子のベランメイ女であり、明治の官員となった田舎武士とそりが合わなかったのに対して、新興の新橋芸者は現金主義で人みしりをしないところが新時代にふさわしく、繁昌の中心が柳橋から新橋にシフトしたのも同じ理由とされる。  
柳新橋に軍人や政治家を客に迎えて繁昌した「赤坂」(別名「溜池」、「山王下」)を加え、この3者が三和会という親睦会を組織し、芸で身を立てる宴会専門の花柳界として他とは異なることを暗に主張していたことから3大花街とする場合もある。  
人数的に最も芸妓数が多かったのは、この3花街ではなく、浅草寺の門前町で有名な料理屋が多かった「浅草」であり、大衆的な土地柄で上京客の遊び場所として栄えたという(新橋は駅の反対側の新橋烏森とあわせると最多であるが両者は別の花街)。  
次ぎに人数の多いのは東京で最も古い江戸初期以来の歴史を持つ「芳町(よしちょう)」である。分散していた遊里を湿地帯の埋め立て地である吉原(葭原)に1618年に集めたことにはじまり、陰間茶屋(歌舞伎俳優が舞台の合間に男娼として、兼業で、あるいはのちに専業で色を売った店)があった。明暦の大火で新吉原に移転した後も踊り子が芸者に転じ、明治以降、下町の商工業者をお客に繁昌した。  
江戸時代の公認の遊郭として一大中心地だった「吉原(新吉原)」は昭和初期にも洲崎と並ぶ大娼妓地区であった。新たな中心地として人口が急増していた江戸に流れ着いた遊女の末流が、江戸版白拍子として踊り子を業とするようになり、さらにその後歌舞伎、浄瑠璃にならって三味線を弾き唱いするようになった。そして、最後には、幕府の不許可売春取締りによって吉原に送り込まれ、幇間とともに吉原遊女の引き立て役(宴会専門職)として吉原芸者が誕生したとされる。こうした経緯により吉原芸者がそれ以後の芸者の本家本元とされる。吉原以外の遊里は非公認ということで岡場所と呼ばれたが、岡場所の芸者は町芸者と呼ばれ吉原芸者と比べ一段低い位置づけとなっていた。19世紀安政年間には300人を越えるまで増加した吉原芸者であるが、昭和初期までに他所への転出も多く、人数的には少なくなっていた。幇間がなお多いのも吉原の特長であった。  
最後の吉原芸者といわれるみな子(2009)が戦前の吉原芸者の気風を伝えている。吉原芸者に敬意を表して吉原芸者が使う白い半襟を余所の花柳界では使わず必ず薄くても色付きの襟をつけていた。また吉原芸者はお披露目(デビュー)について余所のように旦那の水揚げや資金援助の習慣が無く自前で調達するなど芸一本で身を立てる気風があった(花魁の職域を極力おかさないということだと考えられる)。気位が高い分吉原芸者は貧乏。などといったことが語られている。  
「深川」は、江戸時代、公許であることにあぐらをかいて衰微した吉原に代わって繁昌した岡場所であり、本来男にしか許されない羽織を着てお侠(おきゃん)で鳴らした辰巳芸者(羽織芸者)が、男嫌いのふりをしてそれでも最後には身を任せる手管で評判をとった。吉原とは逆に女郎(娼妓)は芸者の風下に立つことになり、これが、柳橋、そして明治以降の花柳界の基本スタンスとなった。天保の改革の取締りで衰え、明治はじめに娼妓が洲崎に移されたのち、昭和初期には三流どころの花街となっていたが、面長で義理堅く人情に脆い深川芸者は羽織芸者の流れを汲んでいたといわれる。  
「日本橋」は、新吉原への移転の際に元吉原の一部が移り、また深川の瓦解(天保の改革)で柳橋とともに一半が流れ込んで来たという歴史をもつ古い花街であり、下町風の昔の町芸者気風(かたぎ)の残り、官吏・政治家には向かない場所といわれる。  
「神楽坂」は毘沙門天の門前町で、尾崎紅葉の硯友社など文士の利用、低廉な価格で人気があった花柳界だったが、昭和に入って妓品の向上を目指し、とかく乱脈な営業の目立った他の山の手の土地とは異なるという気概を見せたといわれる。  
不忍池の眺めが特徴の「下谷」は地元商家の旦那・番頭、本郷界隈の学生客の客が多かった。  
今でも大塚三業通の路地の看板がある「大塚」は昭和の初めごろまで流れていた谷端川ぞいの風情の好さ(昭和箱根と呼ばれた)から料理屋が集まり関東大震災で都心の新橋や芳町から転出した料亭を迎えて繁昌した。現在は芸者10人弱、料亭・料理屋5軒という。  
「尾久」「五反田」は鉱泉を掘り当てた新開地であり、はじめは旅館の女中に怪しい振る舞いをさせていたのが許可地となり芸者街に転じたもの。西尾久碩運寺境内で1914年に見つかったラジウム鉱泉が「寺の湯」と名付けられ周辺が三業地として発展した「尾久」(荒川区)は阿部定事件(1936年)の舞台となったことで知られる。阿部定とその愛人石田吉蔵は中野区の料理屋「石田屋」の従業員と店主だったが尾久の待合「満佐喜(まさき)」における一週間の情事の果てに事件を引き起こしたのだった。尾久検番には日本初の芸者学校ができたという。  
「芝浦」は明治末期以降に埋立がはじまるまでは都心から近い眺望の良い粋な海岸リゾート地域として、また落語で有名な芝浜にあがる鮮魚などの料理屋街として栄えたため花柳界ができた。旅館・待合が文士のサークル室のように利用されていた(小山内薫・谷崎潤一郎など2次新思潮グループや青山二郎・小林秀雄・中原中也グループ)。巻末表の通り、料理屋が多い点が特徴である。
大阪、京都については、江戸時代の吉原にあたる公許の遊郭であった場所は、大阪は新町、京都は島原であるが、ともに昭和初期には娼妓本位の花街であった。  
大阪は、奈良時代の港町難波津以来の長い花街の歴史を有する。大阪の宗右衛門町に代表される「南地」は「島の内」とも呼ばれるが花街の代表格ということで東京の新橋に当たる。また、北の新地、北陽とも呼ばれる「曾根崎新地」は芸と粋(意気)に優れた柳橋ともいわれる。もっとも客層から言うと、南地が船場の旦那衆中心に対して、曾根崎新地は、官庁向きといった風らしい。  
平安時代以降江戸時代まで日本の首都であった京都も大阪に次ぐ花街の長い歴史を有する。京都については、江戸時代に公認遊郭であった島原が江戸の吉原に当たり、非公認であった祇園は江戸の深川・柳橋に当たる。  
「祇園」は祇園社(八坂神社の旧称)、円山、清水寺などへの道筋に当たる地域に近世初期から栄えた茶屋、水茶屋の茶汲女がおこりである。祇園芸妓の歴史は古い。秀吉没後、北政所は大阪城を出て1599年に京都三本木に落ち着き、その後、家康の後押しで建立した高台寺に1605年に移り住んだ。北政所のところに集まってきていた白拍子の流れを汲む舞芸者たちが三本木や高台寺近くの下河原・円山の芸妓となり宴席に招かれ祝儀をもらい芸で身を立てるようになった。南向きの祇園の正面石鳥居の前の通りが下河原であり、下河原の「町芸者と称する」(京都坊目誌)芸妓が「旧風を存し、品格の正しき」ヤマネコ(山猫、山根子)として知られるようになり、のちに鴨川べりへ進出、茶汲み女と合流して、祇園芸妓の起源となったといわれる。なお、三本木は1876年頃消滅し(1900年料理屋「清輝楼」の2階で京都法政学校、のちの同志社大学が創立)、下河原は1886年祇園甲部に吸収された。  
祇園は、江戸時代に公許の島原に対抗して繁昌した岡場所であり、幕府による寛政二年(1790年)の不許可営業一斉取締りで1,147人の芸子・娼妓が召取られ、島原に送られたが、島原には受入能力がなく、結局、島原の出先という形を取って祇園新地が公認された。明治に入って、芸娼妓分離政策の下、東京では深川の娼妓が洲崎に移されたように、祇園町では、明治14(1881)年、芸妓の甲部遊郭と娼妓の乙部遊郭に分けられた。祇甲と祇乙のおこりである。映画監督溝口健二のリアリズム開眼作である「祇園の姉妹」(1936)の舞台にはあえて芸娼妓が混合する祇乙が選ばれ、内容を含め花街関係者の不評を招いたとされる。今では当たり前となっているが、はじめて現実の人間像を描いたことでその後の日本映画に大きな影響を与えたといわれるこの映画が花柳界を題材としている点が興味深い。祇乙は北側に膳所藩屋敷があったことから膳所裏とも呼ばれていたが、現在「祇園東」となっている。  
「先斗町」は江戸時代三条の橋のたもとに出来た祇園より新しい細長い花街であり、有料マンスリーワイフというべき「わたぼうし」が名物となっているなど近世では娼妓が主の遊里だったが、維新とともに芸妓中心に転換。一見(いちげん)の旅の者では楽しくもない祇園と異なり、初会から親しみやすく遊べる所だったという。  
「宮川町」は四条河原での二代目阿国の歌舞伎興業、その後の若衆歌舞伎の小屋と男色を売る陰間茶屋から発展した花街といわれる。「音羽屋」「成駒屋」といった歌舞伎役者の屋号は当時若衆が出入りした宮川町の宿屋の屋号に由来する。昭和初期には多くのダンス芸者がおり、今も「群舞い」が素晴らしいという。  
「上七軒」は北野天満宮とのむすびつき、女かぶき踊り興業、秀吉の「北野大茶の湯」の際の茶屋免許などにさかのぼることができる古い「芸の町」であり、西陣旦那衆が祇園より地元上七軒を愛して育ててきた影響が大きい。 
 
 
 
 
 
 
 
昭和初期の東京花街の芸妓数 
千代田区 講武所 152 千代田区 富士見町(九段) 340 中央区 新富町 201 中央区 霊岸島 84 中央区 日本橋 287 中央区 芳町 713 中央区 新橋 669 港区 烏森 294 港区 赤坂(別名「溜池」「山王下」) 425 港区 麻布 136 港区 芝浦 150 新宿区 神楽坂 619 新宿区 四谷荒木町 252 新宿区 四谷大木戸 99 新宿区 新宿(娼妓地区) 26 娼妓550名 文京区 白山 302 文京区 湯島天神 120 文京区 駒込神明町 202 台東区 柳橋 366 台東区 浅草 750 台東区 吉原(娼妓地区) 155 娼妓2469名 台東区 下谷(別名「池の端」) 426 台東区 亀戸 130 墨田区 向島 239 江東区 深川 149 江東区 洲崎(娼妓地区) 80 娼妓2210名 品川区 品川(娼妓地区) 48 娼妓400名 品川区 大井 250 品川区 五反田 220 大田区 大森海岸 130 大田区 大森新地 150 世田谷区 玉川 14 渋谷区 渋谷(渋券) 300 渋谷区 渋谷(道券) 56 豊島区 大塚 260 北区 王子 35 荒川区 尾久 114  
 
 
花柳界用語

 
一本(いっぽん)  
一人前の大人の芸者さんのことをいいます。また、芸者さんの三十分の花代のことも一本といい、時計がなかった時代、お座敷をつとめる時間を、線香一本が燃えつきるまでの単位として計った為にそのように呼ばれます。  
置屋(おきや)  
芸者さんを直接抱えて、芸やしきたりを教え込む所です。検番(見番)は、いくつかの置屋を取りまとめる統括的存在です。  
お座敷(おざしき)  
芸者さんの勤務又は勤務地を指します。芸者さんを呼ぶ場合は「お座敷をかける」といい、芸者さんのほうでは「お座敷がかかる」といいます。  
お座付き(おざつき)  
芸者さんが宴席に呼ばれたお座敷で踊りを披露することです。お座敷に来て、まず第一に掻き鳴らす御祝儀物を指す場合もあります。  
お茶を挽く(おちゃをひく)  
お座敷がかからず芸者さんが暇なことを言います。  
 
 
花柳界(かりゅうかい)  
江戸から続く、料亭があり芸者衆が往来する社会の事を言います。花柳は、艶やかな赤い花と鮮やかな緑の柳の意味で、色とりどりな華やかな世界を指します。  
玉代(ぎょくだい)  
芸者さんを呼んで、お座敷遊びを楽しむための料金の事です。花代とも言います。  
芸妓(げいぎ)  
芸妓とは、唄や踊り、三味線などの芸で宴席に興を添えることを仕事とする女性の事をいいます。関東では芸妓を「芸者(げいしゃ)」、見習を「半玉(はんぎょく)」・「雛妓(おしゃく)」などと呼びます。関西では芸妓を「芸子(げいこ)」、見習を「舞妓(まいこ)」と呼びます。ちなみに、松山検番では芸妓を芸者、見習いを半玉と呼びます。  
芸名(げいめい)  
芸者さんの名前。源氏名は遊女の芸名のことで、芸者さんは「芸名」と言います。  
検番(けんばん)  
見番ともいい、料亭などで芸者さんを呼びたい時に取次ぎを頼む事務所の事をさします。かつては芸者さんの名前が板に書かれていた為に板番と言われましたがこれから派生して、見番や検番となりました。電話が無い時代、料理屋からお座敷がかかると、女中さんが歩いて検番へ芸者の名前と時刻を告げに来ます。見番には箱屋が居て、これを置屋に知らせます。箱屋は芸者をお座敷へ送り届けると、検番に帰ってお帳場さんにこのことを告げここで線香を立てて時間を計ります。線香台には小さな穴の下に芸妓の名札を置くようになっており、芸妓の名札がある上部の小穴に、何本かの線香を立て、これが灰になったら時間が来たことを料亭へ知らせる役割を果たしていました。  
小唄(こうた)  
三味線のつま弾きを伴奏とする短い歌曲で、唄と三味線だけでサラリと聴かせる粋な音楽です。  
 
 
差し紙(さしがみ)  
京都・大坂の風習で、初店の芸者を紹介する紙片の事。名前、出身などを書いて関係先に配る。  
差し込み(さしこみ)  
宴席の芸者が客に願って妹芸者を同席させる事。  
三業地(さんぎょうち)  
料理屋、待合、置屋が三位一体となって営業を許可された花街の事。  
汐先(しおさき)  
夕刻の芸者が出動を開始する時間帯をさす。  
地方(じかた)  
三味線・唄・鳴り物・笛などを受け持つ芸者さんのことです。  
線香代(せんこうだい)  
花代の事です。かつて、お座敷での時刻を計るのに線香が用いられた事に由来します。一本燃え尽きるのに約三十分、一席設けると四本必要で、延長は一本単位となっています。  
 
 
立方(たちかた)  
踊りを披露する芸者さんのことです。  
都々逸(どどいつ)  
「三千世界のカラスを殺し主と朝寝がしてみたい」と高杉晋作が唄った様に七・七・七・五の音数律に従い、三味線と共に歌われるお座敷での出し物。  
な行  
長唄(ながうた)  
長唄は、元々歌舞伎音楽として発展しましたが、幕末になるとお座敷長唄という純粋に演奏用の長唄が作曲されました。長唄の演奏には唄と三味線が使用され、賑やかなものになるとお囃子も入れて演奏されます。  
二業地(にぎょうち)  
芸者を呼ぶことができる料理屋と待合茶屋によって組織され、こうした業種が営業を許された地域をさします。  
日本髪(にほんがみ)  
日本女性の伝統的な髪形の総称です。お座敷をかける際に、洋髪か日本髪かを尋ねられたら、普通の着物姿で良いか、それとも白塗りに日本髪で行った方が良いかという意味です。  
 
 
箱屋(はこや)  
お座敷に出る芸者に従って、三味線を入れた箱を持って行く男の人の事であり、その他にも芸者さんの着付けの手伝いをしたり、お座敷がかかった料理屋や旅館へ芸者を送り届けると、見番に帰って「お帳場さん」にこのことを告げるなど芸者のマネージャー的役割を果たします。  
花代(はなだい)  
お座敷に花を添える芸者さんを呼ぶ際に発生する料金のことです。玉代(ぎょくだい)、線香代ともいわれます。  
半玉(はんぎょく)  
一人前になる前の芸者さんのことです。かつては、花代が一本の芸者さんの半分だったことから、このように呼ばれるようになりました。  
左褄を取る(ひだりつまをとる)  
芸者になる事を指します。引着の褄を左手で持つことから転じており、左手で褄を持つと、着物と長襦袢の合わせ目が反対になるため、男性の手が入りにくくなり、「芸は売っても身体は売らない」という意思表示です。  
一座敷(ひとざしき)  
お座敷に入った芸者さんがつとめる時間のことです。一座敷二時間で四本という単位が一般的です。  
 
 
舞妓(まいこ)  
半玉とも言います。一人前になる前の芸者さんのことです。  
町芸者(まちげいしゃ)  
宝暦頃、吉原遊郭外に現れた芸者をさします。これに対して、廓内にいるのを里芸者と呼びます。  
 
 
雇女、雇仲(やとな)  
雇われ仲居をいい、配膳等に従事し、宴が始まれば酌をし、歌舞にも及ぶ。大正時代、大坂に発生し、近畿一円に普及しました。  
宵廻り(よいまわり)  
初めて一本立ちした芸者が、披露目の前夜に茶屋へ挨拶回りすること。 
 

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雑話
 
 
湯島
 

湯島の地名  
平安時代中期に作られた辞書和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は平安時代中期に作られた辞書です。「和名抄」「倭名鈔」「倭名抄」とも略称されてます。 それには武蔵国豊島郡湯島郷とあり、日本民俗学の祖菅江真澄の「北国紀行」には由井(ゆい)島と示されています。また、「神道大系 神社編17 武蔵国」(神道大系編纂会)油嶋天神御縁起には、武州豊嶋郡江戸油嶋郷とも示されています。 不忍池や上野広小路あたりはもともと海であったから、上野の山や御茶ノ水あたりから見ると、天神様があった高台が島のように見えたのではないでしょうか?確かに、白梅商店会地域でビル建築を行う時の基礎工事を見ますと、貝殻が沢山出てきますことからも海だったのは間違いないでしょう。  
『神道大系 神社編17 武蔵国』「油嶋天神御縁起」から  
爰武州豊嶋郡江戸油嶋郷天神宮は仁皇九十八代崇光院御宇に或人信心の渇仰不浅、雲井杳に凌年月運歩送星霜所に、依霊夢之神告、後光厳院御宇文和四年乙未 二月二十五日に奉勧請之所に参詣之諸人継踵比肩。賞罰之利生現当にして門前成市。油嶋は是塵外無双の霊地、東ハ滄海漫々とて朝日垂影跡月光鮮なり。南ハ江城の金殿玉楼重軒並甍、西ハ武野の郷里幽遠にして民村を煙にし、北は筑波山久堅の神代の空に詠、前には貴賎の往還後には筑波之嶺雲高梢、左ハ角田川の流静にして青龍も遊戯し、右ハ武蔵の広野、白虎も可栖之所、四神相応之霊場神仙之所居と可疑、一度運歩者滅罪生善の浄砌也。而に当社者権者の化身和歌之仏坐也。  
古い情報  
武蔵国は大化の改新で無邪志国(むざしのくに)と知々夫国(ちちぶのくに)を合わせ一国として成立したとされています。今の東京都・埼玉県・神奈川県横浜市・川崎市の地域を指しています。戦国時代の16世紀なかばには、小田原北条氏の家臣が住む領地であったとも言われていました。江戸時代、武蔵国の新座郡(橋戸村、小榑村)と豊島郡(その他の村)に属しており、豊島郡は現在の練馬・豊島・板橋・北・荒川・台東・文京・新宿のあたりと千代田・港・渋谷あたりの一部だったようです。「和名抄」には豊島郡内の郷を日頭(ひのと)・占方(うらかた)・荒墓(あらはか)・湯島・広岡・余戸(あまるべ)・駅家(えきか)と記載されています。文京や上野などの地名と違い、新座・豊島などは古くからあった地名なんですね。それでも京の都から見ればディープな田舎だったのでしょう。  
自然神である石も祀っていたということは?  
その昔、湯島の村人は自然神である石も祀ってた。石敢當(イシカントー・セキカントー)とは、古代中国の強力無双の力士の名前で、この3字を石に刻んで三叉路や丁字路等に建て厄除けとする習慣が沖縄、南九州地方に伝わったのが始まりのようです。多くは高さ1・2尺の石であるが、稀には4尺にも及ぶものもあるそうです。一種の自然神である石神信仰である。おもに西日本に限られた風習となっているが、東京にもあったと知りびっくり。白梅商店会から天神様を通って、ちょっと先まで歩くと湯島金助町がありますが、そこには文字に朱を塗ったものがあったそうです。きっと、西からの移住者や西との交流があったのでしょう。  
江戸の繁栄は治水事業の成功  
家康が江戸に城下を開いたが水不足に悩まされた。ことに埋め立て造成した下町は、井戸を掘っても塩気があってとても飲めるものじゃなかった。そこで、3代家光の時までに神田上水が整備された。しかし、町の拡大と人口増加のため水不足となり、4代家綱により2年がかりで玉川上水を完成させた。その後も、青山上水(1660年、四谷大木戸脇から)、三田上水(1664年下北沢から)仙川上水(多摩郡保谷村から、主に小石川白山御殿・湯島聖堂・上野寛永寺・浅草御殿などへ)が引かれて行く。昭和30年代までは、あちらこちらに井戸があり、地下水を汲み上げて飲んでいましたが、江戸時代に、塩気があった井戸水を仙川上水から水を引いたことで飲めるようになり、その水脈が残っていて利用していたのかもしれません?  
湯島に住まった道真の子孫と隣の根津には何かつながりが  
江戸時代に松平采女正忠節(ただとき)が小県と佐久に領地を与えられ旗本となり、その末裔が幕府終焉を期に久松と改名。先祖を菅原道真とする、信州の久松氏と湯島や根津には、深い関わりがあるかもしれません。信州東御市(東部町)の千曲川東岸にある緩い浅間山麓の傾斜地に旗本久松氏(松平)の領地がありました。久松氏の領地を支配する陣屋は祢津村(西町立町)にあったため、禰津知行所と呼ばれ、そこに奉行と代官その他の家来を常住させていたそうです。自らは江戸に常住となり、江戸湯島に上屋敷約2,000坪(地下鉄湯島駅5番出口付近)、下屋敷約3,000坪を保有していたとされてます。現在の湯島の隣には根津がありますが、久松氏が湯島に住んでいたとすれば、当然のごとく、身内や家来を近所に住まわせていたとも考えられます。そのようなことからすると、久松氏の領地である祢津村になぞらえて、根津という地名を付けたとも思えてなりません。更に、調査をしていて興味をそそられたのは、根津神社の御祭神に須佐之男命・大山咋命・誉田別命・大国主命の神話の神様とともに菅原道真が祀られていることです。今後も引き続いて調査をしたいと思います。  
菅原道真と平将門は関係があったように思われる  
明治40年発行の「平将門故蹟考」の記述には「菅原道真は延喜三年死す、将門此の歳に生る故に菅公の再生という評あり」。将門死後の「将門記」には、道真の霊力により将門に「親皇」の位を授ける位記(いき:位を授けるための文書)を送ったと記されている。また、道真の三男・菅原景行は駿河へ一時左遷されて後、赦免され東国に下り茨城県真壁郡に住んだとされ、その地が、将門の父・良将が住んでいた茨城県豊田群(現・石下町周辺)に近いことから、将門の叔父・良兼らと真壁郡羽鳥(現・真壁町)に菅原天満宮を創建したとされている。両者とその一族が生きた時代や境遇が似ており、菅原道真が太宰府で没したその年に将門が生まれていることや、死後の処遇も神として祀られていることなどから「将門は道真の生まれ変わり」との伝説が生まれたのではないでしょうか?築土神社では古くから本殿に将門、末社(木津川天満宮)に道真をそれぞれ祀っていたが、1994年、道真が築土神社本殿に配祀(はいし)されたことで、結果として、将門と道真が死後一千余年の時を経て築土神社本殿に相殿(あいどの)として一緒に祀られることになった。  
徳川も道真や将門に敬意を払った  
移設したり隠したり、合祀したり分祀したりと、昔も今も人の思惑が介入すると歴史が解からなくなるようです。二代将軍・秀忠は,伊達政宗 に命じて,本郷の台地を崩して御茶の水に川をつくり,湯島台と駿河台を分離した一方,芝崎町( 現大手町)にあった神田明神を,将門首塚(大手町)を除いて北西の湯島に移して江戸総鎮守とし,風水上の護りも完璧に行った。そう言えば、江戸城から見て湯島・上野・浅草は風水上の鬼門の方角なので、神社仏閣が多かったことも理解できました。平将門については、平成2年に、御祭神が将門であったと発表した飯田橋の築土神社のページが面白い。明治時代に「皇国史観」(天皇への忠義を重んじる歴史観)を絶対とする政府が、天皇に反抗した平将門を「逆賊」と考えても無理はなく、圧力を感じた神社が隠していて、今になって表に出すことができたのでしょう。徳川も皇室に遠慮して首塚を神社と分けたのかもしれません。平成になって築土神社の神輿が皇居の一部に入ったのも時代の変遷でしょう。  
江戸時代の湯島近辺  
湯島1丁目から旧6丁目までは 中山道の街道筋として古くから開けた古町(こちょう)である。古町とは寛永年間(1624〜44)までに開けた町のことであり、新年には将軍に目通りがかなうなどの特典が与えられていた町を言うらしい。司馬遼太郎の「上野と伊賀」には、伊賀上野の藩主である藤堂高虎が屋敷内の山に、家康を祭神とする東照宮を作り、その地を伊賀上野になぞらえて上野にしたと記されています。更に、伊賀上野には上野の車坂・清水坂という地名があり、不忍の池という名前は忍者が身を隠す必要がある時に、この池は葦や蓮の葉が生い茂っていてあえて忍ばなくとも大丈夫という意味で不忍の池と名付けられていることから、やはり伊賀との強いかかわりがうかがえます。その後、三代将軍家光が東照宮を作り変えて大切にしていることなどからも、将軍家が江戸城から東照宮・寛永寺への参拝の途中に、上野広小路や湯島近辺を通っていたことからも、当時から栄えていたことがうかがえるわけです。将軍と祭りと言えば、当事、江戸城内まで入れる神輿は、山王・神田・根津神社の三社(天下祭り)だったそうな。根津神社から湯島を通って江戸城まで神輿を担いでいたと思うと、祭り好きの下町っ子としては、なにやらわくわくいたします。また、平成18年9月16日〜18日には、根津神社の御遷座300年祭において、六代将軍家宣が奉納した三基の大神輿と山車を修復して町内を練り歩きました。通常2年に1度、1基が渡御するので、3基みようとすると6年かかります。  
人気のあった湯島天神の富くじ  
籤(クジ)は、古くは、神意をうらなう方法でありました。後に、容易に決しがたい事柄の決定に採用されるようになったものです。その籤が江戸時代に、多数の富札を販売し、抽籤によって賞金の当る、賭博の一種となったものです。時代劇にも出てきますが、富札と同数の番号札を箱に入れ、箱の上にあけた小穴から錐を突き入れ、刺さったものを当り番号とし、多額の賞金を出し、残額を興行者の収入としました。これらは、社寺修理料などをまかなうため、寛永(1624〜1644)の頃から公認され、江戸では、谷中感応寺・目黒不動・湯島天神を三富(さんとみ)と言いました。なかでも、湯島神社の富くじは千両だったようです。しかし、天保13年(1842)には禁止されております。江戸の頃の富くじをめぐる巷の話は、悪い旗本が寺社奉行などと仕組んだインチキ興行や落語に出てくる呑み助の職人を改心させる話などに良く伺えます。  
湯島に縁のある作家さん  
本郷三丁目交差点近くの「喜之床」(本郷2−38−9・新井理髪店)に間借りしていた石川啄木が朝日新聞社に勤めていた頃、夜勤帰りに上った坂は湯島3丁目と4丁目の間の切通坂であったと文献に残っています。作家の久保田万太郎も湯島天神女坂下に住んでいて、足繁く通ったとされるのが、シンスケ(天神下)やうなぎ屋伊勢庄さんというお店。伊勢庄は昭和の終わり頃まで上野広小路と湯島の間に在りました。蕎麦屋の更科さんの前にありましたが、跡継ぎが無く跡地は台東区が管理しています。江戸川乱歩のわが青春記(昭和32年11月)には、早稲田大学政治経済学部予科に入学。横浜市に住む叔父・岩田豊麿の世話で、下谷区湯島天神町の小活版屋・雲山堂に住み込み、学校の余暇に印刷を手伝うが、南京虫と過労のため三か月ほどで退職とあり、一時期、湯島に住んでいたことがうかがえます。  
 
 
湯島天神

 

日本の神々と言えば、自然神・生活神・人間神で成り立っているようです。そもそも「天神」とは、「天の神」のことであったという説が有力のようです。自然神であり、晴雨を支配する天の神であり、農業に欠かせない雨や雷に象徴されるようである。火雷天神という地主神もその仲間でしょう。日本の神様ベスト3と言えば、日本において多く祀られているのは、商売のお稲荷さん(農耕神)・八幡様(応神天皇)・天神様(菅原道真)です。五穀豊穣でもあるお稲荷さん・戦が多いと八幡様・江戸時代のように平和な時は天神様が盛んに信仰されたそうです。  
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創建時、神話の神を祀(まつ)ったのなら、天神(てんじん)は天津神(あまつかみ)を主神とするのが正しいのでは?湯島天神創建は御宇二年一月(458年)と伝えられ、雄略天皇の勅命により天之手力雄之命(アメノタジカラヲノミコト)を祀る神社として建てられたとされている。そのようなことから、天神(てんじん)とは天津神(あまつかみ)であり、あまつかみの御祖(みおや)とされる天照大御神(アマテラスオオミカミ)の命令で天から降りた神々を天神としたのではないだろうか?昔からの言い伝えでは、天神をアマツカミ、地祇をクニツカミと読み、「天神とは高天原に生ずる神をいう」とある。  
 
湯島天神創建時に祀られた神話の神様(天之手力雄之命)は、単に腕力が強かっただけで無く、もろもろの妖しい罪や穢れを祓い清め給う徳と威厳のある神とされている。日本の天皇の始祖と言われる天照大御神が、孫の邇邇藝命(ニニギノミコト)を豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに=日本)に降臨させた時にも随伴の神に加わり、永く皇統を守ったとされる偉い神様として伝えられています。道真は903年大宰府にて没し、905年味酒安行(うまざけやすゆき)が道真の遺徳を偲んでお墓である祠廟を建立した。その後、10年の歳月を経て安行は道真の御墓、つまり安楽寺(大宰府天満宮)を創建した。遺言とおり、牛が止まったところに菅公を葬り、その上に社殿を建てたのが安楽寺の創草であるとされているので、むしろ寺院としての性格が強く安楽寺天満宮とも呼ばれていたようである。室町時代には、「太宰府天満宮」の呼称も登場している。後に合祀されることとなる菅原道真は、後に合祀されることとなる菅原道真は、903年大宰府にて没し905年味酒安行(うまざけやすゆき)が道真の遺徳を偲んでお墓である祠廟を建立した。  
 
祭神ナンバーワンをめぐる謎も、昔の人が行ったことだとすると、それも含めて文化や伝統と言うのでしょう。458年創建ということは、道真は903年に没していることからすると、それまでは天之手力雄之命一神を祀っていたと想像できるわけで。道真は、その後に合祀された祭神であったのだ。それが、摂社として境内裏の戸隠神社に祀られているのは何故だろう。摂社とは本社に付属し、本社の祭神と縁故の深い神を祀ったとされる神社と言われているが、先輩神であり、天神(あまつかみ)である天之手力雄之命という地主神を本社から摂社に分祀し、道真を本社の祭神としたのは本末転倒の事態じゃないのだろうか?昔の人は、神話の自然神と人の欲求から祀られた人間神を同等に扱っていたのではないだろうか?  
 
犯人は誰だ! 迷惑しているのは振り回される神々ではないか?南北朝時代の1355年{正平10年(1346−1370)・文和4年(1352−1356)}に郷民(村人)の請願により菅原道真の御遺徳を慕い文道の太祖と崇め、京都北野天満宮の分霊を勧進(寄付を集める)して本社を造り祀ったと伝えられていたそうな。その後、何度も火事にみまわれています。大田道灌の再建後の明治になって郷社となり、ついで府社へと昇格している。この時代には天神(あまつかみ)より完全に道真がナンバーワンとなる。ならば、天神様でなく湯島天満宮が正しいのかな?平安時代以降、個人がお参りするようになり、仏教における個人救済同様に自分だけの祈願や利益を欲する傾向になる。こうして、霊験あらたかな神々が日本国中で勧請(カンジョウ)され、新たな神道信仰が発展した。どうやら、昔、湯島に住んでいた村人達が平和を祈って天神様に菅原道真をお招きしたのが本当のようです。  
 
菅原道真が神にまで崇められるようになったのは?大宰府天満宮が埋葬された土地でもあることから庶民に近い存在に見え、北野天満宮は権力者の都合を引き受けたものに思えるので、大宰府から勧請(カンジョウ)とも考えますが遠かったのでしょう。平安時代末期から鎌倉時代ごろには、道真を怨霊として恐れることが減り、天神様は慈悲神、正直神として信仰されて行き、学問の神様として庶民に親しまれるようになったのは、天正十八年(1595)徳川家康公が江戸城に入る時に湯島神社を崇敬し、湯島郷の内五石の朱印地を寄進し、泰平永き世が続き、文教大いに賑わうようにと菅公の遺風を仰ぎ奉ったからとされています。しかし、これも神道の天海僧正がついていたことを考えると、菅原道真を島流しにした朝廷と周辺一族が祟りを鎮めるために神として祀り、庶民には、学問の神として広めたように、将軍もまた、天海僧正に言われて祟りを避けることを目的として崇敬させたのかもしれません。なにはともあれ、火雷天神「あまつかみ」と同一視されるようになり学問の神として信仰されるように代わって行きました。かくして、湯島の天神様は勉強の神様として菅原道真を祀る神社となったとさ。めでたしめでたし  
以下の二首は道真が「誠の道」と「清き心」を詠った神道の本質といわれるものである。  
*心だに 誠の道に かなひなば 祈らずとても 神や守らん  
*海ならず たたえる水の 底までも 清き心は 月ぞ照らさん  
 
ますます解らなくなる神社の謎、真実は迷宮の中へ  
ちなみに神田明神の正式名称は神田神社、根津権現の正式名称は根津神社です。徳川に着いていた天海僧正の神道が権現(神の姿をとって現われた仏)、吉田神道が明神(神は仮の姿ではなく明らかな姿で現れている)と呼ばせたのでしょう。現在「神社」と呼ばれるものの多くは、江戸時代には「神社」ではなく「明神」や「権現」の社号を掲げるのが一般的であったとすると、湯島明神とか湯島権現と呼称された時期もあったかもしれません?いったいぜんたい、アマツカミの天神様なのか、大宰府や北野を習って天満宮なのか、それとも湯島の明神様か権現様なのか全く解らなくなりました。きっと、神社も時代の波を受けて為政者に従って呼び名を変えて生き延びてきたり、住民の欲求を受け入れて代わらざるをえなかったのでしょう。しかし、人間神として祀られたけがれなき神である菅原道真の御遺徳には変わりがないでしょう。  
追伸、安政3年(1856)の江戸時代地図には、湯島神社と戸隠明神と併記されているものがあります。ちなみに、戸隠明神とは地主神である天之手力雄之命(アメノタジカラヲノミコト)であります。  
 
磐座(いわくら)や神の住む場所である禁足地(俗に神体山)などで行われた祭事の際に臨時に建てた神籬(ひもろぎ)などの祭壇であり、元々は常設のものではなかった。現在でも古代から続く神社では、本殿を持たない神社もあり、磐座や禁足地の山や島などの手前に拝殿のみを建てているところもある。原則として全ての神社を「〜神社」と称するようになったのは近代になってからである。神道の違いで「〜明神」や「〜権現」などと神名をもって社号としていたところや、もしくは「〜稲荷」「〜八幡」と「神社」の部分が省略されていたところ、「〜社」としていたところなどがあったが、全て原則として「〜神社」と称することになったのである。これを権現号の使用禁止と関連させて、明治の排仏政策によるものとの指摘もあるが、それよりはむしろ国家管理の施設としての合理化によるものといえるだろう。そもそも、日本の神というのは自然神が多ことから、山なり川なりに住んでいて神主さんが呼んだ時だけ神社に降りてこられたとされています。きっと湯島は、そんな神が降りてきやすい高台だったのでしょう。  
 
巫女さんにも女性にも敬意を払わないと知りませんよ。巫女の始祖と言えば、「日本書紀」によると菊理媛神(くくりひめのかみ)が祖だと言うことになるそうです。伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が黄泉の国へ降りようとしたときに、声をかけた女神と記されているそうです。ここまでは、アニミズムの世界のように思えます。人間としては、卑弥呼(ひみこ)が最初に巫女として登場するそうです。中国の書物にも卑弥呼は鬼道を用い人民を治めていたと記されているそうな。人間の営み以外で、自然界で起こる全ての事象は神の御業とされた時代では、神の使いとしての巫女(卑弥呼)の力は強かったと推測できます(シャーマニズム)。神話の神々の世界やその後の歴史については、時の権力者に都合の良いように編纂されているかもしれないことを思うと、物語として捉えるのが一般的のようです。  
 
雄略天皇が登場すると九州王朝説まで飛び出した。湯島天神創建は御宇二年一月(458年)と伝えられ、雄略天皇の勅命により天之手力雄之命(アメノタジカラヲノミコト)を祀る神社として建てられたとされている。その雄略天皇が畿内勢力の大和王権(朝廷)開祖的存在であったことは歴史家の共通するところらしい。「律令国家が完成したのは奈良時代だが、その奈良時代に向けて歴史は未開から文明へと進んでいく。その担い手は一貫して大和王権だ」引用は「倭国と日本古代史の謎」斉藤忠氏。しかし、斉藤氏は、未開から文明社会である大和王権の時代までに矛盾する記述や出土品の年代鑑定と使用している文化圏に食い違いがあり過ぎると指摘している。1968年に出土した埼玉県の稲荷山古墳の金錯銘鉄剣に書かれた銘文をめぐり、それまでは、獲加多支鹵大王(ワカタケル)を雄略天皇とする解釈と、九州王朝説の主唱者・古田武彦氏や前出の斉藤忠氏が言う、大王の摂政(王の親戚)乎獲居(ソワケ)が治める大和王権とは別の関東の王が存在したとする解釈に分かれるている。更に、九州と関東が同じ文化で繋がれており、畿内文化だけが別の様相をていしている。近年になって、古墳などから出土する鉄・銅器や木片の鑑定方法が進歩、あるいは、中国などの歴史書との矛盾から、正史とされてきた「日本書紀」「古事記」への疑いが増しているのも事実であろう。そのようなことから斉藤氏は、大和王権は、畿内に侵略してきた饒速日命や神武の勢力か畿内土着の勢力と結びついた神武の勢力ではないかとも指摘している。その時、既に存在していたであろう畿内勢力に対して、侵略を命じたのは高天原(九州王朝説)であったとしている。それ以前に男系の倭国(委奴国)があり、それに取って代わったのが宗教的権威を持った倭国でもあり邪馬台国(三国志にある邪馬壹国)の卑弥呼を宗主とする王統交替があったとしている。そして、卑弥呼の後継王朝である天神一族(倭国)が、饒速日命や神武を畿内に派遣しているとして、当時の北九州に都を置く王朝が大和王朝以前に存在していたとしている。そして、その派遣された神武の一族がクーデターによって九州王朝を滅ぼし大和王朝を築いたとも著している。かたや、日本書紀にある大和王朝の仁徳・継体・雄略天皇の即位や崩御にも大きな矛盾が指摘されている。そうなると、458年という5〜6世紀の天下を治める王を名乗る支配者は、大和王朝ではなかったということになり、湯島天神(祠)を創建したとされる年代や、雄略天皇の命という伝承や記載は大和王朝による改ざんであり、当時、関東を治めていた王が九州から勧進したのかもしれません。しかし、調べていて気づいたのは饒速日命や神武も九州にいた一族であり、大和に移住して大和一族と関わったのであれば、九州王朝と大和王朝は親戚関係であったとも考えられるわけです。どうあれ、日本人としては昔の王朝が何らかの形でつながっていたであろうことは理解いたしました。詳しくは、九州王朝説の古田武彦氏や「倭国と日本古代史の謎」斉藤忠氏を参照されるのが良いかと思います。いずれにせよ、一つの考えに捉われず日本の歴史認識を正していただきたいものです。  
 
 
湯島天神・遊廓色街跡

 

「湯島天神」はその名の通り、本郷台地に端にある神社の門前に広がっていた花街だ。どうも天神下の同朋町や池の端の数寄屋町をひっくるめて大きな花街のようなものを形成していたのもあってごちゃごちゃになって語られることが多いんだが、上の大正11年(1922年)出版の『東京藝妓名鑑』の中で地図を見ると分かるように(小さくて申し訳ない)、そこだけでキチンと独歩していた花街である。後の昭和4年に同朋町と数寄屋町は合併して下谷の花街となるのだが、この時も湯島天神は孤高を保っている。どうも、坂の下と上とじゃ一緒になれないような毛色の違いがあったようでなんである。花街を調べていく上で避けて通れない昭和4年(1929年)発行の松川二郎・著『全國花街めぐり』がこの辺りをどのように触れている触れているかというと〜  
菅公を祀る湯島神社を中心として起こった花街で、余り古いことは知らないが寛政時代にはすでに若干の芸妓が居たらしく、「ころび芸者」の名府内に喧伝されて居たことから察すれば、発展家ぞろいであったと見える。  
ころんだら食はふくとついてゆく、芸者の母のおくり狼。  
などという狂歌さへ出来ていた。池の端の花街とほとんど地を接して連なり、帝大生を常得意として両々相まって発展して来たものであるが、地を接しているだけに常に池の端に押されている気味がある。  
しかし、池の端が水に望んで独特の風趣を有せるに対して、ここは天神の台地を舞台として下町の夜の灯を一目に見下ろし、忍ヶ丘の翠色を一望に収める趣き、また甚だ捨てがたいものがある。  
思いっきり「池の端に押されている気味」って書かれちゃってるが、泉鏡花(今回お約束過ぎるのであえて触れません)を出すまでもなく、良く言えば隠花的なというか、有り体に言うと地味な場所だったっつーことだ。わざわざ上野・御徒町方面から坂を上がって来るモノズキは少ないので、基本の贔屓筋は本郷方面から来る東大生や教授、医療関係(東大病院の歴史に付随するカタチで本郷は医療系の会社が妙に多い)なんかを中心としたお固い上に、それほど景気が良いとは言えないようなヒトビトだったのである。地味になってもしょうがないというか。  
地味な色になったのはそれだけが原因ではない。松川二郎が江戸の寛政後の状況にちょっと触れているが、それ以前の湯島天神は芳町(日本橋人形町)、芝神明(芝大門一丁目)と並ぶ陰間遊びのメッカとして繁盛していたからである。もっとストレートな隠花エリアだったわけだ。  
江戸の始め、太平の世となりやることの無くなった武士の間で男色的なものが妙に盛り上がる流れがあり(旗本奴と町奴の抗争の盛り上がりと内容的にもややかぶっている)、そこに売春とイコールになっていた女歌舞伎の禁止が合わさり、美少年をゾロリと並べた若衆歌舞伎が生まれることになる。これに女犯が厳しく禁止された(特に江戸初期は厳しかった)坊主共も夢中となりこれが大流行となるが、当然風紀はヤヤコシイ方向に乱れ、幕府はそのややこしさを嫌い規制をビシビシと打ち出すことになる。  
しかし、規制が出来たことでイケナイコトをしているってのが幕府公式認定となったことで、逆に隠花的な方向が強まってしまい、むしろその弊風が盛んになってしまうのである。禁忌侵犯欲ってやつですな。当然、困惑と怒りの幕府は断固禁止措置を取ることに。しかし、一年後にどういうわけか「若衆」から「野郎」名前を変えて、野郎よろしく前髪を剃り落せばオッケーと再許可をするのである。  
この野郎歌舞伎になってから、何故か陰間という男娼行為がもれなく付いてくるようになるのである。若衆の頃には役者達も矜持を持ち簡単に身体を売ることは無かったのに、野郎になったら男娼に堕したというのは、男色から戦国の余風的なもの、歌舞いた(傾いた)部分を抜きたかった幕府の目論見が規制したり再許可したりで見事成功したからだろう。こうして、男色はただの風俗となって世俗化していくのである。西鶴の『好色一代男』なんかにその辺がサラッと扱われている(というか主人公がサラッとというか)ので記憶している人も多いだろう。こうして、一般化と共に彼ら陰間は凛々しい若衆姿から派手な女装姿となっていく。因みに、陰間になるには荒々しい江戸っ子は無理だっつーことで、わざわざ関西方面から良さげな人材を集めて来ていたそうだ。  
湯島に陰間がそういうことを行う茶屋が多かったのは、近所に住まう上野の門地の高い坊主どもへの需要があり、その辺りが贔屓筋だったからである。明暦の大火以前の江戸の姿を描いたという江戸図屏風を見てみると、神社の門を出たトコロに何やらそれらしき小屋があり、その前を矢張りそれらしき人達がウロウロしているのが分かる。彼らは普段はナヨナヨとした女装姿だが、坊主に誘われた時はキリッと小姓姿で芝居見物や縁日に出かけたりもして(寺内に招かれることも)、その姿を一般が真似するような一種のファッションリーダー的な側面もあったして。記録に残る湯島藤村屋の力丸という有名陰間なんかは、上野三十六坊の院主全員が客だったので、それぞれの院主の名前は忘れても、力丸の名を忘れる坊主は居ないなんて言われるくらいだったそうだから、この頃に湯島天神を訪れると頭を頭巾や傘で隠した客が茶屋を出入りするのを簡単に見ることができたのだろう。なお、坊さんはあくまで湯島の贔屓筋であって、他の場所では御殿女中や商家の後家のような女性達が客として来ることも多かったようだ。上の浮世絵は三味線を持っているのが陰間、もう一人が遊びに来た御殿女中である。どっちが女だか分からんね。  
この陰間の隆盛とともに湯島のソッチ方面も大いに繁盛となるわけだが、江戸時代中期頃から状況がやや変わってくる。一旦許した後の幕府は陰間をほとんど放置していたと言ってよかったのだが、財政的・対外的な余裕が無くなってくると、どういうわけかソッチの下半身規制に乗り出し始めるのである。江島生島事件以降という話もあるが、自信が無くなっちゃった上部構造がそういう規制を始めるってのは今も昔も変わらないのだ。こうして続けての細かい規制で衰微していったトコロに、水野忠邦が天保13年(1842年)に完全な禁止令を出し、陰間行為はパーフェクトな隠花となってしまうわけである。  
では、それ以降の湯島天神には陰間が居なくなっちゃったのかというと、そういうわけでもない。上野寛永寺の貫主は天皇の猶子であり、御三家と並ぶ格式プラス強力な宗教的権威ってのを政策上幕府も認めていた手前、その下に群がる坊主どもとの諍いを避けるということもあり、湯島天神に限って大っぴらでないカタチでの陰間営業をお目こぼしするということになったからである。まぁ急に止めろって言われても坊主も困るよな。男ってのはそういうもんである。といっても陰間市場はすでに縮小していた上でのことであって、それだけで食えなくなった湯島天神の陰間茶屋なんかが芸妓・娼妓を他所から呼ぶようになったのが湯島天神花街の出発点なのだ。そりゃカラリとした感じにはならないわな。なお、陰間が湯島天神から完全に居なくなるのは寛永寺が上野戦争で灰燼に帰しちゃった後である。  
芸妓は主に数寄屋町方面から、娼妓は黒門町辺りから天神女と呼ばれる女性たち(値段は銀12匁というから今の二万くらいか)が出張して来ていたようだ。“ころび芸者”(売春行為をする芸者)なんて呼ばれたのはここからかな。こうして花街として出発した湯島天神なんだが、幕末になっても定着していた芸者は十人を超えない程度の規模であったとのこと。人数的にイマイチ気合が入っていないのは、陰間が一応というカタチで認められていたのと、上の浮世絵のように江戸の景勝地(男坂よりの眺め)ってことでソッチ方面と関係なく、そこそこ食えたっつーことだろう。  
その辺を押さえた上で(どの辺だ)今回確認の為、改めて『江戸名所図会』の湯島天神の項を見てみると、芝居小屋の隣に「楊弓」と書かれた小屋があるのに気づく。これは縁日によくある射的の元祖のような店で、おもちゃの弓で矢を的に当てる遊技場だ。時代劇なんかで隣の女性が「あたーりー!」と叫ぶのがそうだな。この女性を矢場女と言うんだが、実は彼女たち全部が全部じゃないが“色”を売る場合もあったんである。杉浦日向子の『百日紅』の中で矢場女をするおきゃんな女性が客に尻を触られて「そんなんじゃねえよ!」という場面があったと記憶しているが、その辺を踏まえとかないと意味がよく分かんないわけだ。ともかく“ころび芸者”だけじゃなかったんだと。  
しっかし、上記のように芝居小屋の役者ってのも基本舞台以外じゃ“色”を売ってたわけだし、なんだか湯島天神の境内はイロイロとヤヤコシイ状況だったっつーことだね。なんだか網野善彦のアジール話みたいになってきたが、この神社境内で行われていた宮地芝居の特殊性も含め、いずれこの辺はこのシリーズで突っ込むことになるだろう。  
その後の明治維新と維新政府の施政によって純然たる“花街”というのが生まれることになるわけだが、湯島天神もその辺は他とご同様。湯島的状況としては明治政府と結びついた新興勢力や一旗組が多く流れこんできたというのがある。これは神田なんかのガチガチの江戸が残った場所に比べて、湯島はある種の場末ということで有象無象が入り込みやすかったというのがあったのだろう。切通坂の向こうにある三菱の岩崎家本宅も始めは湯島天神側(湯島梅園町)にあったらしい。  
その有象無象を当て込むカタチなのか湯島天神周辺(および境内)に料理屋やらがビシビシとオープンすることになるのだ。これもそれまでの店がアカンようになっての入れ替わりってのもあるんだろう。その後も長く残った有名店としては明治2年(1869年)開業の魚十がある。落語の「王子の幇間」にも出てくる店だ。いけすを設けた活魚料理の元祖とも言っていい店で、目印としてカバーのすりガラスに“魚十”と入ったガス灯を入口に設置してあり評判だったとのこと。以前サラッと紹介した老舗すき焼き屋・江知勝なんかも明治4年(1871年)創業だ。こうして芸妓を呼んでドンチャンするような店が出来て花街としての体裁を整えていく行くと。  
さらに湯島天神的には何となくのイイカンジの流れが続く。まず、明治5年(1872年)芸娼妓解放令からのゴタゴタから芸妓と娼妓の分離が進み、広義の花街から遊廓的なものを抜いた狭義の花街が成立していったことである。元々規模が小さい湯島天神も芸妓方面へ一本化し、スッキリというかこじんまりと分かりやすくなったことで、その後に必要なのりしろが出来るわけだ。  
続けて、明治9年(1876年)にお雇い外国人の官舎が建てられ、ややハイソな場所に変わっていた本郷に東京医学校(後の東京帝国大学)が移転してきたことである。近所の本郷が司馬遼太郎曰くの欧米の文明を需要する“配電盤”になったことで、上記のようにそこのエリート達が贔屓筋になるわけである。さらに、その時代の先端に匂いを嗅ごうと文士たちも多く本郷周辺に住み着くことになり(漫画家が吉祥寺に集まるみたいなもんか)、ちょこちょこと出入りする彼らも加えて、金はバンバン落ちるわけじゃ無いが帝大生と文士が集まって来るといったような何やら文芸的な湯島天神のイメージが出来上がっていくというわけなのだ。  
湯島の芸妓は天神の梅林から「梅鉢芸者」と呼ばれていたそうである。 梅の花言葉は「高潔、上品、忍耐」だそうだけど、実際「梅鉢芸者」と呼んでいた人達が仮託していたのもその辺りなんだろう。  
しかし、加藤藤吉『日本花街志』に出ている花街の紋章は梅ではなく、神社の御神鏡からの八咫の鏡形である。まぁ梅じゃ真ん中に文字入れられないってのもあるけど。よくインチキ超古代史で見るカタチだね。その「睦」の文字は三業組合が始め睦組合と名乗っていた時に作ったからだとか。スグにその名乗りは止めちゃったそうだけど、対外的に特に必要ってことも無いので、そのまま使用し続けたとのこと。この花街らしいというかなんというか。  
その“個性”がハッキリした湯島天神の最盛期は、他の花街と同様大体明治末から昭和恐慌(昭和5年〜)までの、いわゆる「成金」達が幅を利かせた頃だ。先にふれた『東京芸妓評判録』には大正11年(1922年)で「藝妓六十九人、半玉十一人、待合拾五軒、料理屋七軒」となっている。そして、7年後の恐慌前ギリギリの昭和4年(1929年)の状況は同じく先ほどふれた『全國花街めぐり』にこのように書かれている。  
藝妓屋 五十九軒。 藝妓 百二十名。  
料理屋 十五軒。 待合 三十一軒。  
主たる藝妓 梅代、和子、峰子、本太郎、十三吉、小しげ、蔦江、小まん。  
主たる料亭 魚十、松仲、鳥又、下金、末松、いづみ。  
主たる待合 瓢々、花の家、平の井、喜代志、千梅。  
此地では何と言っても料亭では魚十、待合では瓢々が一際光っている。今も尚その通りかどうか知らないが、瓢亭という家は京都風の優雅な庭造りで、殊に庭下駄をはいて座敷へゆくあたりの気分が伸(のん)びりとしていてよかった。  
エライ人数増えてるんで、どっちもちゃんと測っているのかよって思っちゃうが、同じ年に出た今和次郎・著『新版大東京案内』には「芸者屋・三十五 芸妓数・一〇〇」となってるのでおおよそ三桁に乗っていたと見ていいだろう。資本家方面の客筋との結びつきが薄い湯島天神にもそれなりに金が落ちるようになったと思われる。といってもパーっと騒ぐような花街で無いってのは今まで触れた通りなので、どうもイマイチ不夜城的な街であったようなイメージが湧かないし、多分そういった感じでは無かったような気がするんだけど。  
ともかく、以上でザッと湯島天神花街の最盛期までの説明は終わったので、果たしてそういう盛りの残り香が残っているのかを含め、その後の湯島天神の花街がどうなっていったかは実際の場所を“めぐり”つつふれていくことにしよう。 

 

“突っ込む”という言葉ついでに、この湯島天神下(どっちかいうと男坂下の方)には陰間必需品の薬・通和散を販売する「伊勢七」という店があったんだそうだ。通和散ってのは今で言うローション。黄蜀葵 (とろろあおい)の根っこを細かく挽いて何度も粉ふるいをかけたものなんだが、それをぬるま湯で溶かして使用したらしい。他でも売っていたらしいが、「伊勢七」のが質が一番良いと評判だったんだそうである。「天神のうら門でうる通和散」なんて川柳も残ってる。  
天神下交差点から湯島天神へ向かうには春日通りを本郷方面へ。つまり切通坂を登っていくのが最短ルートである。道路左側歩道をオリジン弁当やらの前を抜けて、東京うどん天神の先、居酒屋「シンスケ」の手前を曲がるのがよろしい。本当は真っ直ぐ行って切通の途中にある登龍門(夫婦坂)から入るのが身体的には負担が無くて楽なんだけど、ちょっと男坂・女坂方面から神社に入りたい理由があるのだ。  
この角にある「シンスケ」は大正14年(1925年)創業の由緒ある居酒屋で、その手の雑誌が名店居酒屋特集なんかをやると必ず登場したりする有名店である。嵐山光三郎氏や太田和彦氏の本で知ってる人も居るんじゃないかな。酒は一種類のみというハードボイルドさから来る雰囲気がナカナカよろしいのだが、居酒屋としてはお値段も微妙にハードボイルドであり、いい店だけどちょっと通うには難しいかなという。まぁ、酒飲みながらやたらと食い物注文する自分が悪いんだけどさ。ということでしばらくご無沙汰なんだけど、どうも最近ミシュランの星も付いたらしく、そういうのがお好きな紳士・マダムが押し寄せやがるので、ますます足が遠のいちゃって。別に誰が何処で何食おうが知ったこっちゃないけど、流石に運転手付き黒塗り車をそこらに停めっぱなしはどうなんでしょか。店にも近所にも迷惑だし。というか、居酒屋くらいてめえの足で来い。  
ヒートアップしつつちょい進んだところには、うまい具合に氷屋がある。この讃岐屋氷室は現役バリバリの氷屋で、夏場のほどよい時間に通りかかると店の前でシャカシャカと氷を切ってるのを見れたりする。この手の昔ながらの氷屋が生き残ってるってのは、同じく昔ながらのバーや飲み屋が顧客として近場に生き残っているということでもある。  
ただ、氷屋の隣も歯が抜けたように駐車場になっちゃってるけど、この辺りここ数年でズンズン古い木造日本家屋が消えてイッてるんだよね。というか、湯島から本郷にかけての辺りでここ数年異様にマンション建設が多いんですな。それだけ開発の手が伸びてなかったってことだろうけど、バブル期に上がっちゃった地価からくる税金の負担ってのが、今になって効いて来てるってのもあるんだろうね。プラス住居都心回帰みたい需要があって。  
すぐ先に野坂昭如が丸谷才一に連れて行ってもらったと『東京十二契』に書いた割烹「魚志ん」も残ってはいるんだが、「木造三階建ての、珍しい家並み」「(魚志ん)の一劃の、あの落着いたたたずまい」という姿は無く、すでに思いっきりオサレなビルになっちゃってるんだな、これが。  
男坂・女坂下周辺には古い湯島の風情が一番濃厚に残っているなんて言われたりもしていたわけだけど、それも後数年だろう。明治時代のこの辺りから三組坂の間は坂下のパッとしない土地ってことで、安宿やら安下宿が多かったようで、上京したての宇野千代や五島慶太なんかも住んでたりしている。  
よく考えたら、自分は彼らの後継なわけだ。しかし、住んでてなんだけど今もパッとしないっちゃーしない場所なんで、その辺りで古い木造家屋が残ってたってのもあるんだろうと思う。残りっぷりも開発されっぷりも、注目されてってわけじゃないって辺りが、この土地らしいんである。  
もちろん、花街の残り香もがするような店もキッチリと残っている。四代続く三味線の専門店、菊岡三絃店。元々は幕末の頃に浅草で開業。終戦後の昭和25年(1950年)にこの場所に移って来たそうで、つまりその頃は周辺の花街の景気が良かったっつーことだろうね。長唄三味線方の名跡である杵屋五三郎の初代が湯島の生まれ(で在住)だったって辺りも関係あるのか、この辺りには昔からその手の師匠が多かったってのもあったようだけど。今じゃ三味線の音なんて聞こえてこないけどねぇ。  
因みに、三味線って言えば猫の皮って話が出るが、国内の動物愛護団体がやかましいってのもあり、今じゃ皮はほぼ(中国からの)輸入品なんだそうである。ナンカ監視カメラがあるけど、その辺のパーツ含め高級品っつーことなんだろうね。  
なお、この店の向かいには(恐らく戦後もしばらく)櫻湯という銭湯があったらしく、上下の花柳界関係者が仕事前に入りに来たそうである。  
さて、ここで一旦氷屋の前まで戻ろう。その氷屋の斜め前、女坂入り口の角にちょっとそこだけ時代感が違うような(さっきの野坂昭如の本には「ものものしい構え」と書かれている)木造の建物がある。実はここに寄るためにこっちに道を選んだのだ。現在、この建物は美術商「羽黒洞」のギャラリーである「天神下 はぐろ洞 」という店になっている。が、用があるのはこの店でも建物じゃなくて、この店の創業者・木村東介(初代)である。  
この羽黒洞主人・木村東介は美術商・骨董商としても巨人だったのだが、建設大臣を努め「元帥」と呼ばれた政治家・木村武雄の兄であり、若い頃は壮士よろしく暴れまわって左手首を切り落とされたり、中野正剛自刃時にただ一人花輪を出したり、占領下に潜行三千里・辻政信を匿ったり(その縁で辻の長男と東介の長女の親友が結婚している)と、紹介するだけでも疲れてしまう、詳しくはググってくれと言いたくなるほどエピソード満載のユニークな人生を送った人物である。  
そして、ミュージシャン絡みの本を良く読んでいる人は来店したジョン・レノン、オノ・ヨーコ夫婦に日本の書画骨董を売った人、その後に歌舞伎座に連れて行った人として記憶しているかもしれない。売った掛け軸の中に白隠和尚の書があって、そこから禅を学んで「イマジン」が生まれたとか、歌舞伎座で歌右衛門(六代目)の楽屋へ行き「ビートルズの首領、ジョン・レノンが会いに参りました」と紹介したとかいうホンマかいなという話もあるんだが、このような面白すぎる生き方の人物を出版社が放っておくはずもなく、エッセイ的な本をちょこちょこと出していたりする(文章もナカナカ豪快)。そしてここが重要なんだが、そういう本の中に湯島話と一緒に自らの女道楽、湯島天神の芸妓をコレにしていたことなんかを書いていたりするのである。  
自分は花街や遊廓の往時を知るような年齢ではない。ということで、このシリーズでは毎回案内役になるような人物(が書いた本だけど)をピックアップして行こう思っているのだが、今回の湯島天神花街の案内に木村東介以上ウッテツケの人物はいないってのを分かって戴けただろうか。っつーことで以降ちょぼちょぼ登場してもらいます。  
ということで歩を進めよう。このまま「天神下 はぐろ洞 」の横を抜けて女坂へ。この道もここ数年で木造家屋がなくなりマンションになっちゃったりしている。実はこの道は以前を仕事帰りの近道として使っていて、途中にあるラブホテルの窓がちょっと窓が開くのか知らんが、タマに喘ぎ声が思いっきり聞こえちゃったりして閉口したり興奮したりしながら通っていたんだが、しばらくぶりに来たらまだ有りやがんの。マンション建設時に無くなるかと思ったんだけど。というかマンション住人どうしてんだ。なんか場違いな南欧風の住宅も出来てるし。戦前ここらに関東に名を轟かした大親分、国粋会の梅津勘兵衛が住んでいたそうだが、そこが今はマンションでホテルで南欧ってのは東京らしくて宜しい。  
花街衰退後、湯島と言えばラブホテル街ってことで、池波正太郎を筆頭にいろんな作家がナンダカなみたいなことを書いている。映画『マルサの女』の山崎努演ずる権藤が隠れ経営してるラブホテル群の中に湯島のもあったはずだ。しかし、その頃のバブル期をピークに今じゃ大分数が減り、その後には木造住宅なんかと同じくマンションが建ったりしている。ラブホテル全体としての需要が減ってるってのもあるんだろうけど、若いカップルが来るような場所じゃないし、車じゃないと場所的に使いづらいって辺りだろうね。花街衰退の原因ともややかぶっているんだけどね。そうそう、はぐろ洞裏には魚の味噌付け店・よろずやがあるのでそういうのが好きな人は寄ってみると吉。  
道の突き当りには原田悠里「おんな坂」歌唱記念(北島三郎書)の碑が建っており、この前に休みの日には必ず占いが出ていて、女性客で繁盛してたりシテなかったりする。最近この手の「運命鑑定」みたいなの夜の町中でよく見るけど、やっぱり景気が悪いってのも関係あんのかな。  
湯島天神・女坂は横の梅林と石垣に挟まれ、江戸時代と変わらないような雰囲気があるような個人的にも好きな坂である。まぁ、流石に休みにはカメラ親父が大量に湧いてくるので、朝早くか夜限定だけどね。登り口横の石垣は湯島天神の立地の高さがひと目で分かる唯一の場所であるし、途中には寄進者名が刻まれていたりするので、その辺もチェックポイントだ。浄瑠璃連と彫られた名前も並んでいたりする。芸事関係者は当たる当たらないってのがあるから昔から神社への寄進(というか神頼み)は普通のことなんだよね。  
と、ここを登りたいトコロを抑えて横の小路に入る。この小路の途中に短期間ではあるが久保田万太郎が住んでいたんで、ちょいと寄ってから(どの家だったか詳細は不明)。この湯島の家は戦争で焼け出された万太郎がようやっと手に入れたものだったりするのだが〜  
久保田万太郎の最初の妻・京子は花柳界(浅草)出身。昭和10年(1935年)に万太郎の浮気性で傲岸な性格が原因で、自死に近いカタチで“事故死(睡眠薬量の間違い)”している。流石に反省したのか、再婚するのは息子の結婚後の昭和21年(1946年)。しかし、その再婚の相手である同じく花柳界(湯島天神出身かは未確認)出身の君子(きみこ)は二十以上歳下で最初は喜んでいたものの、いざ暮らし始めると万太郎顔負けのアレな性格で、こりゃタマランと万太郎はこのせっかくの湯島の家を出奔してしまうのだ。“短期間”てのはそういうわけ。晩年の万太郎が文壇・演劇界の妖怪となり嫌煙されるような存在になっちゃったのはこういう私生活事情もあるようなんである。  
その後、万太郎は六十を越えてようやく甲斐甲斐しく尽くしてくれる同年代の同じく花柳界(吉原)出身の一子(いちこ)と巡り合い(昔馴染みだったとも)、赤坂に居を構えやや落ち着くわけだが、当然のように君子は離婚に承知せず、周囲の人間が湯島を“北朝”、赤坂を“南朝”と呼ぶようなゴタゴタが続くことになる。そんな中で最愛の一子が急死してしまい(間に息子も亡くしている)、その悲しみの中で読んだのが有名な句「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」なのだ。全員相手が花柳界出身ってのもあり今回的にこの話はふれておかないとね。  
なお、万太郎は一子の死の半年後、梅原龍三郎邸での宴席で寿司を喉につまらせて急死する。君子はその後もここで「久保田」の表札を出し、この地でお茶の師匠とかしながら十数年前まで健在だったとも聞く。どうも万太郎死後もゴタゴタは続いたらしく、出版社を含む万太郎関係者からの評判は最悪だったそうだけど、まぁどっちもどっちだ。万太郎が息子と一子が死んだ最晩年に著作物一切を母校(慶應)に寄付しちゃったのはこういうことかっていう。  
その万太郎のことをご近所だった木村東介はこう回想している。  
万太郎さんが、文化勲章、芸術院会員、法務省更生保護委員その他、長のつくいかめしい肩書きをいろいろと身につけたことは、いいたいことのなにひとつとしていい得なかった過去の気の弱さを自ら護らんがための、いわばサザエの殻のようなもので、柔らかい中身と硬い外観とは、およそ裏腹なものであった。  
ちょっとわびしい気持ちになりつつそのまま小路を抜けて男坂へ。女坂を見たすぐ後だとなんだかヒドく切り立っているように見えるな。女坂は江戸中期頃に後から作ったものだそうで、倍の長さにして楽に登れるようになっているとのこと。この丁寧な仕事っぷりは両坂が単なる神社の参道(裏門)ってだけじゃなく、主な移動手段が徒歩だった江戸時代には本郷方面へ抜ける幹線だったからだ。  
その頃の地図を見ると、当時最も繁華な場所の一つだった下谷(現上野)広小路から男坂の方に真っ直ぐ道が伸びており、本郷台地上に上がるのに一番分かりやすい道だったのが分かる。当然、人の流れも多いってことでこの“天神下”の通りもそれなりに繁盛することになるのだ。このシリーズで後に紹介することになるだろう下谷同朋町はこうして発展していった街である。  
春日通りになる遥か前、この頃の切通坂は階段じゃ通れない荷車や籠なんかが上がり下がりするための補助的な道で、見ての通り(地図の方ね)今よりも細くて、しかも勾配が急だったようだ。木村東介曰く、坂下には勾配が緩やかになった昭和に入っても「雲助のような」が5人くらいとぐろを巻いていて、リヤカーや馬力のない車から小遣いを貰って“押し屋”をやっていたそうなので、江戸期からそういう荒っぽい連中がタムロしてて、陰間との対比が面白いような感じになっていたのだろうと思う。名人・三遊亭圓朝は切通坂下の生まれ(天保の頃)だそうで、その辺を見て育ったんだろう。  
男坂を登る前に振り返ると、そこには湯島聖天・心城院、美術茶房・篠(甘味処)、酒席・太郎なんかがある。酒席・太郎は講談の人間国宝・一龍斎貞水師匠の女将さん(外房小湊出身)が自宅一階でやっている居酒屋。非常に評判もよく一度入ってみようと思っているのだが、前を通った時に中を覗くと何時もカウンターに常連さんがいっぱいで未だ果たしていない。でも店に入れそうで入れないっていう時の気持ちも嫌いじゃないので、このまま入らないかもしれない。  
途中にある小路にも古い家屋が並んでいるので入ってみると良いだろう。  
人ん家の駐車場奥に古い石垣も見ることが出来る。迷惑にならんようにね。  
と、戻って一気に男坂を登る。真ん中の波波の手すりは数年前に取り替えられたものである。この坂上(と途中)には不忍池を望む景色を見せて飯を食わせる茶屋が並んでいたというのは前編でふれたが、当然ながら今はビルが見えるばかりだ。神社側もがっかりしちゃイカンと配慮しているのか知らんが宝物殿やらの建物を作ってそっちが見えないようにしてある。  
唯一、男坂下の参道は昔を同じように広小路まで抜けているので、どんなもんか井上安治の版画集『江戸名所』の湯島天神と同じようなアングルで撮ってみたがナンカ違う。というか茶屋が無くなって鳥居向こうの景色が変わっているだけじゃなく、境内のいちょうも育ちすぎだ。  
湯島天神の正式名称は湯島天満宮。観光的な説明はネット上にいくらでもあると思うのでイランと思う。イラなくない情報としてはこの神社、江戸時代は富籤(富突き)で有名だったという辺りだ。落語の「水屋の富」、「宿屋の富」などナンカに出てきて、志ん生・志ん朝親子が演目にしていたのでソッチが好きな人はお馴染みの話だろう。  
神社(もしくは寺)が修理・改築なんかを捻出するのに幕府の許可を得てやっていたもんだけど、湯島なんかはほとんど興行化していて年3回、許可されれば4回ほどやっていたそうである。大きな木の箱に番号の入った木札を入れ、よーく混ぜてから小窓を開け、そこから長い錐で突いて当選番号を決める。当たる千両が現在の一億以上だから結構なもんだけど、その内の二割を興行主(湯島天神)が持っていく。いわゆるテラ銭っていう言葉はここから来てる。しかし、富籤は一枚・金一分(3〜5万くらいか)もするので、共同で買うなんてことが多くて、そこからの揉め事も多かったようだ。後には、財政的に苦しくなった大名が興行を始めたりして、勝新がテレビで演じたりした有名な茶坊主・河内山宗春(役の場合は河内山宗俊)がインチキ興行をした水戸藩を強請ったりもしている。  
面白いのはこの富籤の興行、陰間と同じように天保の改革で全面禁止になってるのだ。当然ながら神社の経営は苦しくなる。というか以降、昭和に入ってもこの神社の経営はず〜と苦しかったようなのだ。この辺を木村東介はこのように書いている。  
〜庶民と一般大衆から、天神様は見放されていた。戦後は焼け残ったものの、天神経営は愈々困難を極め参詣人は全く途絶えてしまった。祭りを出すのに経費がかかるから出しようがない。御輿など担げない。丸一年の収入は賽銭わずか六百五十円。  
といったようなひどい状態だったらしい。切通坂の方にある地下駐車場はその頃に困って作ったものだそうだ。が、高度成長期が訪れると状況が全く変わってくる。  
しかし、それまで窮迫した天神様に奇跡が起きた。すなわち、入学や進学の少年少女達にご利益があるという噂と仮説だ。それは近隣の人と関係なく、遠く北海道、九州、四国、奥州から東都に進学を志す親や子で、江戸期に伊勢参りに庶民が押し寄せたように、祈願をこめる人々が多くなったのだ。  
合格祈願ってのは他の人間が落ちることを願うのと同様だから一種の呪詛なのだと深沢七郎が看破していたが、そういう意味では怨霊の第一人者として定評のある菅原道真にお願いするってのは誠に正しい姿である。そういやこの神社『帝都物語』にも出てきたよね。  
現在は受験シーズンだけではなく、土日ともなれば境内はそういう呪詛を行う人でいっぱいである。今の宮司さんはやり手だそうで、そのような人達を相手の商材やらイベントやらをイロイロと増やし、業績(っていうのか)をグングンを上げているらしい。自分が通うようになったここ数年だけでも施設がドンドンと充実してきて結構なことである。  
自身で食っていけるようになったのも原因なのか、良くも悪くも東京の神社らしい雰囲気が強く、その商売っけの強さを差し引いても、境内に居るとそれなりにイイ気分になれたりする。  
その中でも腐りかけの銃で営業する射的屋がいい味を出している。江戸の頃は矢場女だったんだろうが、今はオッサンが子供の相手をしている。銃は古いが景品はワンピースとAKBだ。他の露天も何やら古風な感じなのが多いのは、その辺絞ってるのかな。  
忘れちゃいけないのが奉納者名のチェックだ。手水舎の隣にタバコスペースとしてリーマンがよくタムロっている建物(額堂)がある。ここに奉納額なんかが掲げられているのだ。しっかし、古いのは色が落ちていて分からない上に、ハトよけの網がくっつけられていて、さらに分かんないのだ。内側に掲げられてるのは暗くて全く分からん(ナンカそれらしきものはあるんだけどね)。  
丹念に見ていくと、撫で牛側の奉納額にいくつか湯島天神花街の店らしき名をいくつか発見できた。『全國花街めぐり』にも出てくる料亭・松仲と待合(だと思う)の大和屋とか。しかし、まとまっての「三業組合」的な奉納名は発見できなかった。「魚十」とかも派手に名前があるかと思ったんだけどねぇ。“地味”という花街の性格から外れてはいないんだけど、規模的に小さかったってのもあるんだろうな。どっかにあるのか知らんけど。それはともかく、上を凝視して奉納者名チェックしてたら普通の参拝者に怪訝がられたりして。その通りでございます。  
なお、この神社内にはさまざまな記念碑が山ほどあり、記念碑の前に記念碑が建てられ後ろのが隠れちゃってるのもあったり。さっき紹介した久保万太郎やらの文学者もそうだが、花街と関係ありそうな小唄顕彰碑には今回の木村東介なんかの名も見つかられるのでモノズキの人は細かくチェックしていくと良いだろう。  
以上のチェックが終了して花街跡に向かいたいところだが、一旦神社裏から夫婦坂から切通坂へ出ることにする。途中の神社裏には元々この地にあったという戸隠神社が追いやられたようにある。戸隠神社の祭神はアメノタヂカラオ(古事記では天手力男神)。アマテラスを岩戸から引きずりだした力持ちの神様であり、現在はスポーツの神というポジションとのこと。南北朝時代、湯島の住人が筋肉方面だけでは寂しいということで頭脳方面の菅原道真を合祀したらしい。この神社、筋肉バカと頭でっかちがルームシェアしているわけである。想像するとやや地獄絵図という気がしないでもない。どちらにとってかは分からんが。  
夫婦坂は坂下から湯島天神へ一番楽に(階段を余り登らずに済む)入れるということで、上下する参拝者が一番多かったりする。なお、この坂は明治維新後に作られたものである。下っての切通坂も(勾配のゆるやかになった現在)一番楽に本郷台地上に行けるってことで平日朝なんかはそちらへ通勤する方々が並んで歩くような状態である。  
夫婦坂向かいにある湯島ハイタウンは昭和40年代中頃から建築が始められた大規模高層マンションの先駆けとなった建物群である。  
古い写真で見ると、マンションになる前はどうも森だったようだ。森の奥には旧岩崎邸がある。進駐軍占領時には森にキャノン少佐が庭木を撃つ音がコダマしていたと思われる。  
確かこの辺に江戸川乱歩がアルバイトをしていた活版屋があったはずなんだけど、写ってる古い日本家屋がそうだろうか。  
切通坂は明治時代には勤め先(朝日新聞)帰りの石川啄木なんかも本郷の下宿(床屋の二階)へトボトボと登っていった道でもある。途中にそのことが書かれた碑もある。すでに市電は走っていたようだが、本郷行き最終は早く終わってしまうので、広小路から歩くしかなかったんだそうだ。なんとなく人の金で湯島でもドンチャンと遊んでそうだが、田舎者で派手好きって辺りを考えると、ここの花街とは合わなかったような気がするんだがどうだろう。  
坂の途中に湯島天神入口交差点があり左手には大鳥居。さらに、その奥に唐門、続けて神社正面の銅鳥居がある。なんでこっちに周って来たのかと言うと、活魚料理屋・魚十のあった場所を確認するためである。木村東介によると「切通しの坂を登りつめた鳥居の前の角が魚十という大きな料亭で〜」とのことなのだが、どっちの前でどっちの角なのかサッパリ分からなかった。で、調べようと古い地図(昭和初期)を見てみたらアッサリと魚十が出ていたのである。  
というか地図に出るほどの有名店だったのね(梅園町と書かれた文字の上の赤字)。これで境内の角にあるってのが大体分かったのだが、そこからさらに調べてみると元々そこには津の国屋清六、加賀屋半蔵という陰間茶屋があり、魚十は明治二年(1869年)にその土地をゆずりうけて商売を始めたっていうことも分かった。というか、陰間茶屋はやっぱり境内にあったんだな。  
最後にトドメとして出てきたのは写真だ(地図と同じく昭和初期)。角っこに鶏卵屋ともう一件何かの店があるが、後ろの大きな建物が魚十である。もうガス燈ではないようだが、店入口の前に電灯のようなボンボリがあるのが分かるだろうか。  
しっかし、魚十は“境内”って情報が初めからあったが、陰間茶屋が幕末までモロに境内にあったとは知らなんだ。まぁエライ坊主は籠に乗ってくるんだろうから(なので階段は無理)、顧客的に切通坂側にあるってのは正しいだけど。坊主が籠に揺られながらウキウキウォッチングな気持ちで坂を上がってきたっつーわけだ。  
轢かれそうになりながら似たようなアングルで撮ってみた。  
現在、魚十のあった場所は湯島天神の駐車場になっている。その前は湯島プラザホテルという回転式展望台の付いた古くて何やら怪しげなホテルがあった(安かったので外人客が多かったようだ)のだが、取り壊されてしまった(2006年頃か)。一度だけ下のイタリアンを利用したことがあるが、店員が早く帰りたいので客を追い出しにかかるというユカイな店だったような記憶がある。ホテルが建てられたときはまだ神社の経営苦しかった頃なんだろう。ホテルの奥にあったマンションはまだ健在である。この辺は神社側が儲かるようになっても、スグに戻せるってもんでもないんだろうな。  
富籤禁止からの窮迫、そして土地貸しっていう流れは今もケリが付くこと無く続いているってわけなのだ。ただ、それが湯島天神花街成立に色々と寄与した部分もあるっつーことで、しつこく追ってみたんだけど、どないだ。  
湯島天神花街のランドマークであった魚十の場所(だけじゃないが)がハッキリとしたところで、ようやく、その前に花街が広がっていたという神社表門の銅鳥居前まで進むことができた。 

 

松川二郎著『全國花街めぐり』によれば、花街(花柳界)にはそこで遊ぶ料金(玉代)と芸妓への課税率によって大雑把なランク(等級)のようなものがあったようなんだけど、湯島天神は大体3級(の甲乙で甲)といった辺りだったようだ。ただ、同時期の他の本での自己申告では2級と答えてたりしてその辺はホント曖昧だったりする。書いた松川二郎も順番オカシクねと、あくまで「参考」としている。どうも大正成金時代を経て全体的に料金が上がってしまってゴチャゴチャになっちゃったってのもあるようなんだね。さらに料金体系もドンドンと複雑になって行ってと。その辺を料金が安く、ややこしくないカフェーやらバーに突っ込まれた後、恐慌からの浜口内閣の緊縮政策で値段をガンガン下げざるを得ないっていう状況になっていくわけだ。この料金やらの体系とその推移ってのは自分もまだ良く分かってなかったりするので、何れまとめんとイカンなぁって思ってるんだけど〜  
まずは目の前の湯島天神花街である。当然ながら今回も観光的なものはすっ飛ばさせてもらうが、かと言ってイキナリ花街跡に突入してもイメージが取りづらいだろうと思うので、まずは花街が現役バリバリだった頃の昭和9年(1934年)の本郷区(今の文京区の東側)地図からの湯島天神周辺を見てもらおうと思う。この地図、火災保険特殊地図(火保図)といい、主に火災保険料率を決めるために保険会社の依頼で作られた(木造が多い当時火事は大事だからね)見た目は今の住宅地図に近いもの。違いは住宅の建築構造(木造かコンクリートかみたいな)とか消火栓の位置なんかがハッキリ分かる辺り。まぁ保険屋が見るもんだからね。こんなんあったんだったら、もっと早く出せば良かったんじゃねえのとお思いの貴方。この図入手したの前編、中編が書き終わってからナンすよ。すいませんね。  
“割烹”と書かれている花街のランドマーク魚十は赤色。『全國花街めぐり』に「待合では〜一際光っている」と書かれている瓢々は緑色。他、料亭では松仲。待合では花の家、平の井(平井)、喜代志(きよし)なんかが確認できるが、これらは湯島天神の扁額にあった大和屋も含め、疑わしいヤツも全部まとめて青色にしてみた。名前が書かれているものだけでコレだから、小さい小料理屋や名前が書かれていない(ので確認できない)小さい待合・置屋なんかも含めると結構なもんだね。黄色く色が付いているのは見番(芸妓屋組合事務所)のあった場所である。神社正面表鳥居ド真ん前のもスゴイな。まぁ、ホントに湯島天神門前に広がってたっていうか、チンマリとまとまってたと言うべきか。他の花街と比べてもドカーンと大きな建物がない辺り、あんまりドンチャンとっていう場所じゃなかったというのが分かるな。  
その辺をザックリと押さえてもらったトコロで、いざ出陣。と、言いたいところだが、先に以前から気になっていた正面鳥居を出てから左手側にある煉瓦塀をチェックだ。  
実はコレ切通坂向こうに移る前の岩崎邸跡と言われているのだ。道路に面しているところしか見えないが、裏では神社を支えるカタチで男坂の方まで伸びている。確かにこの立派さはそれっぽいが、それにしても岩崎家(時期的に弥太郎だろうか)も妙なトコロに家を建てたもんである。向こうに移るまでの一時的なものだったのかもしれんが、ここに住み続けてれば夏目漱石にも揶揄されずに済んだような気がする。  
現在、敷地の一部には「湯島食堂」という自然食レストランがあり、旧岩崎家煉瓦塀を眺めながら食事ができるそうだ。しかし、まだ陰間達が去って間もない湯島天神の隣に大財閥の長が住んでいたというのはこの花街の一側面として捉えておかねばならない辺りだな。ツマリその頃、ここは本郷方面から伸びてきている“山の手”の端だったっていうことなんだよね。あくまで明治維新後の新興勢力的な意味での“山の手”だけど。この概念というか区分は時代によってドンドン変わっちゃうもんなんで、正直煉瓦塀が残ってなかったらそういうのを認識するのは難しかっただろう。そういう意味ではよく残ってくれたと言える。  
ということで、追加でそこを押さえたトコロでイヨイヨ花街へ。っつても鳥居の前が見番跡だ。現在は金型年金会館というまるで関係ない建物になっている。この辺り、何故かこの手のよく分からない組合とか年金とかの建物も多いんである。そして死にそうなジーサンが出入りしていたりと。  
この旧見番周りの一角には魚十跡の駐車場もそうだが、裏通りの瓢々跡もマンションに変わり果てており、残念ながら全く花街の匂いのするものは無い。まぁ目につくようなところは最初に開発されちゃうからねえ。火保図で見ても、(色を付けて無いのも含めると)この通りには最も待合・置屋が多かったようだが、それがかえってまとまっての廃業から開発という流れが早く進んだってのもあるようだ。なお、戦後に花街の規模が縮小してからの見番はこの裏通りにあったとのこと。  
鳥居前に戻ってまっすぐに進んで行くと、金型年金会館の向かいは神社駐車場となっており、その奥にコンクリ模擬土蔵な建物がある。現在カフェに改装中のこの建物には京都に本店があるにしんそばのやぐ羅が入っていた。今はチェーン系の蕎麦屋でにしんそばは食べられたりしちゃうんだが、ちょっと前まで本格的なにしんそばを東京で食おうとするとここに来るしかなかったんだな。が、その本格派が東夷の口に合わなかったのか、ヤル気の無い接客が嫌煙されたのか、撤退となったようである。多様性ということでは残念なことだが、何度か入った自分からするとしょうがないかなというかなんというか。しかし、京都からってのも天神様絡みで何かそういうコネクションがあるんだろうか。  
隣には大正元年(1912年)創業という鳥料理屋「鳥つね」がある。親子丼の評判が高く、前々から入ろうと思っては居るのだがいざとなると足が向かず、近所だというのに入ったことが無い。まぁ近所だとってのあるよね。同じ湯島(といっても池之端の方)には鳥栄という明治42年(1909年)創業の有名な軍鶏鍋屋もあり、なんか関係あんだろうかと思ったりするが、神田連雀町の鳥すき焼き・ぼたんもそうだけど、こういう鳥を食わす店ってのは昔はアチコチにあったんだろうね。なお、この鳥つねは秋葉原に近い末広町に支店があるので、親子丼を食べてみたいという人はソチラに行っても良いだろう(以前はそこの裏でラーメン屋もやっていた)。  
その向いは看板建築プラス鏝絵(こてえ)といった造りの建物で営業する喫茶店「がまぐちや」。替わった名前だが、以前はこの建物で巾着袋などの和装小物を製造・販売していたことから付いた名前だそうだ。花街の女性達も客だったんだろうな。ここは一度モーニングに入ったことがあり(500円)、トースト・コーヒー・固いゆでたまごと全てが好みと合っていたんだけど、ここも近所っつーことでどうも足が向かなくなってしまった。店内も落ち着いていていい雰囲気なんだけどね。近くにカフェが出来て心配だが、客層が違うんで大丈夫だろう。  
この辺りから段々花街の残り香がしてきたわけだが、「がまぐちや」の隣なんかはモロそんなような造りだ。現在は普通の住宅のようだが、恐らくそういう店だったものをリフォームしたものではないだろうか。イイカンジになって来やがった。  
この家の前が湯島天神中坂。『御府内備考』によれば妻恋坂と男坂の間に中間にできたからこの名が付いたっていうけど、妻恋坂遠すぎるだろ。いずれにしろ、江戸の結構後期に出来た坂のようだ。この坂の途中にもラブホテルがチラホラと。休憩、宿泊共に妙に高いのは孫のような韓国人ホステスを連れ込みに(上野方面から)やってくる重役系オッサンがメイン客だからだろう。  
この坂は登って行くとだんだん急になって行くという極悪坂で、若者でもママチャリで一気に上がるのは厳しいくらいの角度がある。このため明治が終わるまでは歩行者専用道だったようだ。途中でズリ落ちたら大惨事だもんな。  
戻ってリフォーム住宅の塀に沿うように右に曲がってちょっと歩くと、左手には待合の花の家という店があったようだがここはマンションになってしまっている。しかし、右手の建物は入口に暖簾受けがあり、なんらかの商売をしていたのがまるわかりである。多分待合だったんだろうなぁ。その後に小料理屋辺りか。  
そのまま建物の前を通って火保図に「川元」とある奥の家の方に行ってみると御影石の小路がそのまま残っている。やっぱり、リフォーム住宅は待合か何かで小路は鳥居前の通りからここまで続いていたのだろうと思う。火保図じゃリフォーム住宅の庭、“タバコヤ”ってなってるしな。しかし、花街に小路ってのはお約束なんだなぁ。この店にたどり着くまでの迷宮感ってのが大事だったんだろうな。カランコロンと芸妓が歩く音が聞こえてくるような気がする。  
小路でことでちょっと思い出して鳥居前の通りに戻る。ちょい横の天ぷら「天庄」という店が小路を入っていくような入口なのだ。この「天庄」は鳥栄と同じ明治42年(1909年)創業。元々は現在支店になっている広小路店の方からここ湯島に店を出し、後に支店と本店が入れ替わってという流れらしい。寄席がある広小路に店があることから落語家を筆頭に芸能系の方々と縁が深く、有名ドコロじゃ古今亭志ん生から息子の志ん朝、最近じゃ内海桂子師匠がここで打ち上げやったみたいなツイートをしていた。確か、司馬遼太郎が「街道をゆく」シリーズでこの辺をウロウロした時、高峰秀子・松山善三夫婦と飯食ったのもここだったはずだ。余談だが、高峰秀子・松山善三夫婦は久保田万太郎が寿司を喉に詰まらせて苦悶の内におっ死んだパーティーに同席している。  
この店も足が向かなかったりするのだが、近所だからではなくチョイとお高いからだ。ごま油で揚げた江戸前の天麩羅で評判はよろしいんだけど、一人でパッと寄る店ではないんだよね。どうも自分は「天麩羅は元来そう高くなくってみんなと一緒に楽しむ成り立ちのものだと思う。」と言った小島政二郎と近いもんがあるようなのだ。小島政二郎好きじゃねえけどさ。まぁ有名店なんで、ネットのアチコチに紹介記事があると思うんで、内容詳細はそっちで見てね。  
ともかく、問題はこの小路だ。一見店の入口用に見えるが、火保図で見ると鍵型に曲がって奥に通り抜けられるようになっている。そして小路の両サイドは待合と。しかし、店に入らないのにこのまま奥に進んでいくのは気が引けるので、裏側の路地から回りこんでみると、見事に小路が残っていた。  
そして、入り口につくばいが置かれた建物もある。ちと新しいんで花街があった頃のかは分からんけど、その頃の小路の雰囲気はそれなりに残っている。往時にこの小路に入ると客はキタキタキタと気分が盛り上がったんだろうなぁ。現在この一角はどうも大体「天庄」の持ち物となっているようだが、恐らく花街が斜陽になった時にまとめて買ったんじゃないだろうか。現在本館が営業している建物の場所も平の井(火保図では平井)という待合そのまんまだっていうか、建物も引継ぎじゃね。  
ストリートビューで一応店内が確認できるんだが、モロ待合の造りだな。部屋に入る前に小部屋(やってきた芸妓を捌く待合サイドの女中控えと思われる)が有りやがるし。当てずっぽうだが、この何となくの色っぽい造りは間違いないんじゃないかな。  
と、このように公表しないで花街を引き継ぐ店がある一方、もう一本南の路地にはそれを公表するカタチで営業している店もある。すきうどん・満川だ。うどんすきプラスと京粕漬(また京都だな)を出す会席料理屋なんだけど、創業は昭和23年(1948年)というからそんな古くないというか戦後だな。その前は何か別の店をやっていたのか、他から来たのかは分からないが、店のホームページによれば花柳界が衰退するなか昭和49年(1974年)に現在の業態になったとある。火保図では店の向こうっ側にも小路があったようだね。  
さて、この辺りで戦後の湯島天神花街の栄枯盛衰をザーッと。どうも終戦後すぐに下谷の花街も含めてアメ横方面の闇市から金の流れがあったようで、それで比較的早く復興していったとも聞く。まぁどんな状況になっても持ってるヤツは持ってるもんだ。昭和24年(1949年)には料亭が11軒ほどと満川のホームページにもある。そして、今回の案内役・木村東介の本によれば、その復興した(というか戦前からか)湯島天神花街は「長谷川」という人物が仕切っていたとのこと。なんで木村東介がその辺の事情を知っているのかというと、丁度その頃に「長谷川」の娘とアレだったからだ。  
その頃、私に定まるお菊さんというのがいたが、それは湯島天神花街を牛耳る料亭長谷川の一人娘だ。一人娘のくせに、好きで芸妓になり、踊りでは先々代坂東三津五郎の彼女だった坂東三津代の高弟であった。<中略>彼女は戦時中も戦後も私と一緒にいた人だから、私の一生を通じての、心と魂の一番こまやかに通っていた人のように思う。私の食い道楽の本性これ程汲んだ人はなかった。  
これだけホメているのに、食い物を勝手に全部食ってしまったという理由で別れちゃうんだけどね。このお菊さん、「長谷川」の実際の娘というわけではなく、単騎シベリヤ横断でも知られる福島安正の息子が湯島天神の芸妓に産ませた子を引き取ったというナカナカにヤヤコシイ出自であったとのこと。それはともかく、湯島天神の方はその後、他と花街と同じような流れで衰退していくわけだが(昭和30年代には芸妓が30人ほど、最盛期の3分の1以下だね)、満川が転業した昭和40年代のオワリ頃には他に料亭は二、三軒という寂しい状況になっていたようである。そのちょっと後の三業組合が解散した昭和50年代半ば頃、湯島天神花街の終焉といった頃の状況も木村東介の本で確認できる。  
湯島天神は、年と共に栄えてきたが、湯島花街の火は消えた。今お菊さんのいる料亭長谷川がたった一軒、八つ墓村のモデルのような家と屋敷が残っていて、ここ二、三年唄や三味の音を聞いた人がいないという。私は尋ねてみたい衝動にかられているが、九十余歳の親父が、あれに来られてなるものかと意地になって長生きしているので行けない。長谷川老人が、料亭長谷川と、置屋長谷川と、見番とを掌握し、次々と近隣の料亭を買い占め、湯島花街を掌握し、完了し得た頃、かつて百人にあまる芸妓と絃歌さんざめいた歌と踊りと三味の街は全く消え失せて、料亭は長谷川一軒、芸妓はたった一人、若龍という姐さんだが、若龍に非ず老龍と称すべき六十五、六歳。それも月に二、三度客があるか無しという。  
そういや以前に芝神明の花街のことをちょろっと調べてことがあったが同じく閉じたのは昭和50年代だったな。滅びんの早くね?とお思いの方も居るだろうけど、これ花街が斜陽になったときに転職できるような若い人は他(例えば温泉地とか)に行っちゃったり、見合いして結婚しちゃったりするからなんだよね。で、他に行きようのない気合の入った姐さん(上の若龍のような)だけが残っての限界点が昭和50年代であったと。って辺りでザーッとは以上。なお、「長谷川」がどこにあったかは、大体目星は付いているんだけど、しっかりとした資料が見つかったら加筆することにしよう。  
全然関係ないけど、満川横の家の泥棒よけが物々しくて何かイイ。  
満川の路地から鳥居前の通りに出ると向かいに駐車場がある。どこにでもある時間貸しパーキングだ。  
問題はその奥に古めの建物が二軒見えることなんだね。火保図では近松旅館、陽明旅館ってのが並んで建っている辺りだ(横には天理教)。  
ということで駐車場奥まで進んで壁向こうを見てみると、どちらの建物も旅館かナンカやってましたと白状するように入口にロッカーが置いてある。ただ、しばらく人が入った形跡がなく完全に空き家のようである。ここ、敷地の樹木がほうっておかれてるんで夏になるとセミ集合場所になってるんだよね。斜面に建ってるんで二階が入口みたいな造りのようだ。  
かといって戦前からのそのままの建物といったわけではなく、外壁等はそれなりに手が入っているような。多分戦後もしばらく下宿等で稼働していたんじゃないだろうか。どちらも合わせると結構な敷地なわけで放置されているのがよく分からんけど、バブル期に開発業者が入口の土地(駐車場)を買ったものの、その後上手く行かずというパターンだろうか。いずれ開発されるのかもしれないが、この土地らしいタンパクな風景ではある。  
旧花街側に戻って南にちょい下がると横に小路が見事に残ったそれらしき空き家がある。郵便箱は残っているが入口は思いっきり塞がれているな。  
火保図では表側が「料理ヤ」、奥が「福寿美」となっている。読みは“ふくずみ”かな。現在同じ敷地になってるというか、これ別々に書いてあるけど当時からどっちも福寿美だったんじゃないだろうか。『全國花街めぐり』にある瓢々の造りが「京都風の優雅な庭造りで、殊に庭下駄をはいて座敷へゆく」ってのと同じなんじゃね。小路はさっきと同じ両側花街系って感じか。小路南の「ソバヤ」は今も営業中。なんか表に霊波之光の看板がいっぱい貼ってあります。  
ということで小路に入ってみると丸見えになった庭に灯篭等が残っており、そういう場所だったのがしっかりと分かる。その先の建物も明らかにカタギじゃない。二階の窓には高欄もしっかりと。というか庭から何から『全國花街めぐり』の記述そのままじゃん。  
さらに奥に進んでいくと丸窓もあった。凝った造りだなぁ。完全にその頃からの建物ですな。二階の高欄の造りも美しいね。下にエアコンの室外機があるからどうも最近まで人が住んでいたようだ。しかし、こういう建物が空き家になってるってのは廃墟・廃屋系の人にはウケるかもしれないけど、もったいないなってのが正直なところだな。オサレビルじゃなくて、こういうガシッとした建物で日本料理屋やってみたいって人が居ると面白いんだけど。  
家の裏に回ると奥に釜が積んである。料亭系だったっつーことかな。その横に古道具屋で見たようなモンが置いてあるが(筒状のものがくっついているやつ)、ナンだったか思い出せん。うーん。  
考えつつ歩いて行くとそのまま先の路地まで通り抜けることが出来た。ナカナカ良い小路だった。  
抜けての路地もそういう店があったようだが、現在それらしき建物は残っていない。以前小さな寿司屋が一軒あって昼の丼物を食べてみようかと思っていたら閉店していた。かといってそういう寂しい話ばかりではなく、新しくイタリアンがオープンしてそれなりに繁盛していたりする。多分新たにバシバシ出来ているマンション住人を引っ張れれば、やっていけるのりしろはあると思われる。実際、天庄の前にベビーカーが並んでてびっくりしたこともあったしね。こういう新規住人であるハイソを気取った若マダム辺りを狙っていくってことになるんだろうが、それから脱落していく店も出てくるんだろうな。  
といった辺りでもう一度鳥居前通りに戻る。火保図上でハッキリと花街的店舗があるのはこの蕎麦屋辺りまでなんですな。ということで後はゆるゆるとそれっぽい残り香を探して彷徨くことにしよう。蕎麦屋前から黒門町方面を振り返ってみると、エライ急角度な階段がある。実盛坂である。白髪を染めて最後の出陣をした斎藤別当実盛がこの辺に住んでいたとか。地元の人はその急角度と幅の狭さからおばけ階段と呼んでいる(いた)そうである。狭い階段なんだけど、千代田線湯島駅から本郷方面へ向かう人で朝の通勤時間は結構人通りが多い。  
坂の途中からコンクリで埋め込まれた石垣なんかを眺めることができる。  
下ってみると男坂よりも急角度で長いのが分かると思う。元の幅は下の部分ね。下の方だけ権利関係で広げられないんだろうな。こういう横に溝が無い妙な造りなんで雨の日はビッタビタになって大変歩きづらい。いろいろと変わってはいるんで坂マニアの間では結構知られた坂らしいけど。  
坂の途中にも旅館があったそうだが、火保図で見ると坂を下ったトコロに花水旅館、鶴村旅館という結構大きめの旅館がある。前に坂の下は安宿や下宿が多かったということはふれたと思うが、今は結構しそうなマンションが並んでいたりする。今は湯島駅まで歩いて1分くらいだしね。坂登らずに済むし。  
気になるのはこの辺りに小料理屋っぽい建物が幾つか残っていることだ。下の「小ばやし」はそういう建物を利用して現在も営業しているお店だ(どうも一見さんお断りなのか業態は不明、店自体は新しい)。花街との直接的な繋がりがあったかは分からないが、戦後に花街がズルッとなってから人が来やすい坂下に小料理屋系が移って来たのかもしれない。  
急な実盛坂を登るのは面倒なので、三組坂の方を回って坂上へ戻ることにする。坂の説明はアチコチに坂好きサイトがあるからいいよね。  
途中、江戸時代にはゴミ集積場だったというガイ坂(芥坂、ブラタモリに出てきたっけ)を通って三組坂へ出るとラブホだらけである。ただどれも本気ラブホか偽装ラブホかちょっと分かんないというか。ちなみにこの辺りは妻恋坂周辺のホテルと合わせて不倫によく使われるなんて噂があったり。まぁ中途半端で目立たない場所だからね。こっちでも重役系とギャルのカップル多し。カップルじゃねえけど。  
よく花街は衰退後、ラブホテル街に移行して行った何てことを聞いたことある人もいるかと思う。部屋数が多い待合や置屋が同伴旅館に転業して、それからラブホテルって流れだね。しかし、ここまで読んだ人にはなんとなく気づいたかもしれないが、この湯島天神花街のコア部分にはラブホ無いんである。湯島小学校が近かったってのもあるんだろうけど、どうも花街自体は衰退した時に特に生き残りに汲々とせず(「長谷川」が牛耳ってたってのもあるんだろう)、どうもぶら下がってた周りの下宿、旅館等が同伴旅館からラブホへ移行していったようなんだね。湯島天神に限ってはどうも花街をどーこー言うのは冤罪と言っていいのだ。  
ラブホに関しては難しい問題が多すぎてちょっと手を突っ込めないんだけど、2011年に改正された風営法含めラブホ動向は湯島をウォッチしていく上で外せない辺りである。  
三組坂を登っていく途中にはラブホではないホテル江戸屋がある。基本ビジネスホテルらしいが、二人部屋の和室が一泊1万しないってことで結構外国人に人気があり、どこぞに出かける前なのか白人家族が店の入口の縁台に佇んでいたりする。秋葉原、上野、浅草に出やすい場所ではあるしね。震災後しばらく外国人客が減ったようだが、最近はゴロゴロをキャリーバックを引っ張って坂を登る姿をよく見るようになった。良かった良かった。  
坂の途中には歴史があるだけに、伊豆石(多分)で作られた石垣や階段がちょろちょろと残っている。東京(江戸)には石の産地なんてないんで、江戸城の石垣もそうだけど、基本は伊豆から小田原辺りの安山岩を切り出して持ってきてるんだよね。街歩きのチェック項目としては分かりやすい(明治になっても使われてはいるんだけど)。  
上がりきったところで、そろそろ何か腹に入れたくなったので蕎麦屋に飛び込む。臆することなく入れるっていうことでは蕎麦屋に勝るものはない。まぁお似合いというか。というか看板の家紋?が特徴的なこの「古式蕎麦」にはチョロチョロと来てるんですな。  
さらに特徴的なのはこの蕎麦屋一押しの古式もりそば。見ての通り挽きぐるみで真っ黒。しかもツユは大根の絞り汁と生醤油を混合させるという、正直ココ以外で見たことがない代物。で、食べてみると妙にサッパリと、ソバの味もしっかりと分かって妙にイイ。ということで、タマに来てる店だったりするんですが、小さいお店なんで土日の昼時には満員のことも多いので気をつけましょう。後、店主に蕎麦のこと質問すると長いって噂も聞くのでその辺も。その辺好きズキですので。そうそう、ここ蕎麦湯が湯のみで来るんで何だと思うんだけど、ツユの方をそっちに注ぐのが正解らしいです。  
腹が膨れて気持ち的にまったりとしてしまったが、後は花街の残り香を探してフラフラするだけなので問題ない。蕎麦屋を出て向かいの路地に入って行くと古い下宿風の建物を改装して営業する「イタリア食堂・ピッコロ」がある。数回入ったが紹介する時に“食堂”の方を強調したいような内容のお店である。最近入っていないので分からないが、以前は猫が店内をウロウロしていたりして、撫でたくなったら来ていたという感じ。ここもその辺好きズキなんで。店主が緑色だったりはしません。  
と、そのまま先に進むと道の真中にボヤッとした感じで猫が。偶然過ぎると近づいていくと当然のように道端へ。  
しかし、そりゃそうかと遠ざかると何故か着いて来ようとする。どうしたいんだお前は。  
この辺りにも品のある古い住宅がいくつか残っている。三味線の師匠とかが住んでる風ではある。実際住んでたかもしれん。  
が、その先は思っきりのマンション建築現場。何度もふれてるけど、ほんっとブロックごとにやってんだよね。そのマンション街化に地域社会がナンの対応(抵抗)もしてないってのが特徴っていえば特徴かな。  
とはいえ、路地横には植木鉢が並んでていたりして東京の古い街的な情景もしっかりと残っている。  
さらに彷徨くと、明らかに料亭か何かだった建物が。  
入口みたらモロそうだね。というか花街からはチョイ外れているし、火保図でも普通の住宅みたいなんで、戦後バラけた系のお店だったのかもしれない。現在は普通の住宅のようで、高級車も停まっている。そういやここ“山の手”なんだった。  
それでいて七十年代的装飾のラブホが図書館の隣にあるとか。まぁ花街の後だと小ネタだな。  
ということで、そろそろ見るもんも無くなってきたんで総括に入ろうと思うが、彷徨いてみて湯島天神花街跡から受ける印象として良くも悪くも“山の手”ってのが何となく残るトコロではある。タンパクってのはちょっと書いたけれど、逆に言いうと主体性が無いというか。こういう印象はどうも正しいようで、加藤藤吉の『日本花街志』にはこんなことが書かれている。  
ここの花街は極めて地味な土地で昔から名妓も生まれなかった。更に屑もない処で土地っ子がすべてを支配しているため、他のような合理化を謀る資本家の進出も無いので、妓品の目立って落ちるものも無く、親の代から湯島の高台で平々凡々の日々を送迎しているのだから、他の花街のような生存競争の生々しさは、爪の先程も見られない。それがこの花街の生命であるらしく客筋も経済界に縁の遠い、学界の人やそれに関連する方面なので、派手な話も生まれないかわり、不渡り話も無い。広い東京だからこんな花街もあるのであろうが不思議な存在である。  
この本が出版されたのは昭和31年(1956年)なわけだけど、花街のその後と今を見て来た後だと、その見抜きっぷりはマコトに慧眼という他はない。その良く言えば“不思議”な中途半端さからピンク街にもならず、飲み屋街にもならず、ラブホと山の手が混在する街になったと。しかし、「名妓も生まれなかった」というクダリは木村東介が突っ込みたい辺りだろう。  
昭和十年、湯島に店を持ち始めた時、切通しの坂を登りつめた鳥居の前の角が魚十という大きな料亭で、そこに歌妓舞妓の美しく着飾ったのが出入りするのをときおり見かけたが、その中に小蝶と小はんという名妓がいて、心の中でアッと思ったことがある。<中略>芸妓の歩く姿を横目で睨みながら「いつか成功して、必ず大盤振る舞いしてやる」と固く心に誓って脇目もふらずに働いた。そして間もなく、名妓が苦もなく呼べるようになり、湯島花街で佐野の大尽並みになれた頃、戦争に突入した。  
小はんの方はその後、いい旦那に引き取られ無事疎開したらしいが、小蝶の方は東京大空襲(木村東介の本には間違えて昭和19年と書いてある)の時に明治座の地下に逃げ“黒焼けになってしまった”そうである。この小蝶、湯島天神内の碑の中にチラホラと名前を見かける美人画の大家・伊東深水(朝丘雪路の父親)のモデルになっていたそうで、戦前の作品群の中に「名妓小蝶の姿は今もなお生きている」そうだ。悲劇的な話であると同時に、運命に抗えない感じは湯島天神花街跡から受ける印象とかぶるものがある。オワリとしてふれるエピソードとしてはふさわしいような気もするが、どうも湿っぽいね。  
というわけで、最後は木村東介が別れたお菊さんと再会する話がカラリとしてナカナカ良いのでそれを引いて終わることにしよう。こっちの方が何か最後にふさわしいような気がするのだ。坂の上の明るさというかね。  
湯島天神の縁日とか、その他お詣りや朝の散歩にかこつけ、料亭付近をうろついたことも五、六回あったが、毎日の手形小切手に追いかけられると息つく暇なく五、六年は夢の間に過ぎたが、不思議に会わぬ。しかし、一度、上野広小路の雑踏の中ですれ違ったときは一瞬を捉えて、  
「オイ! たまにはさせろ!!」と呼びかけたら、真剣な顔をして、  
「場所みつけていらっしゃい!」と電撃的な返事を返して、稲妻のように別れた。そしてあれこれと場所を考えたが、その場所と日付とその間隙を探しだすのに命がけの苦労だし、それに向こうへ電話をかけようにも、電話番号は何度聞いてもわからぬ性分で、即ち数字に弱い白痴症は、小学校以来の修正で、折角の神機も時の流れにムザムザと押し流され、もう十余年になった。  
 
 
吉原遊郭

 

都市計画の売春  
いかに歴史が苦手な方でも、「イイクニつくろう鎌倉幕府」と並んで「1600年関が原の戦い」だけは覚えられるものです。この関が原の戦いの3年後、1603年(慶長8年)徳川家康が江戸に幕府を開くことによって、それまで一面の湿地帯であった江戸に大土木工事が施され、巨大都市江戸が誕生するのでありました。  
戦国の気風を色濃く残す江戸も初期、大土木工事に従事する者はと言えば「オ・ト・コ」なのであります。朝から夕暮れまで力仕事に従事した男たちは、日が暮れれば酒を飲み、野郎ばかりの憂さ晴らしに博打を打ったことでしょう。中には、酒癖悪く暴れる仲間がいるのも今と変わりないことなのであります。いやぁ、酒だけは先に酔った方が、介抱する側よりよほど得なのであります。暴れまわろうと悪態つこうと、酔っ払ってりゃ怖いものなしですからな。  
さて、この江戸の治安回復に頭を痛めましたのが、征夷大将軍徳川家康その人でありました。平成になりますと、誠意大将軍として名を馳せました羽賀の健ちゃんでありますが、家康ちゃんも「ご盛んなこと」では負けてはいません。そりゃもう、種馬のごとくあっちこっちの後家さんに手を出し側室としましたし、その子沢山なことと言いましたら、歴史に名を残すほどでありました。健ちゃんのように最後にはアンナに肘鉄などということは、なしなのでありました(うらやまし〜)。  
そのご盛んな家康ちゃん、考えぬいた治安回復策が「そうだ! 江戸に売春宿を呼び寄せよう」ということであったのですから、二十世紀の政治家が思っていても口に出せない「飛びぬけた政策」としか言いようがありませんな。家康の号令の元、旧領地駿河・遠江・三河・甲斐、ばかりか京都・大坂・堺の売春宿までも呼び寄せたのでありました。  
本当に、治安回復に効果があったのでしょうかね? よけいに頭に血が上ってしまったんじゃないかってぇのは、下司の勘ぐりでありましょうか? 
江戸に遊女屋がやって来た!  
かくして京都「六条」、駿河府中「弥勒町(みろくちょう)」、伏見「夷町(えびすちょう)」、奈良「木辻」といった栄えた遊女町から大挙して江戸の町へ遊女屋が移転して来たのでありました。  
そうなると、普請人足の働くこと、働くこと……そりゃもう、馬車馬のごとく、種馬のように、ちぎっては投げ、ちぎっては投げ……。えっ、見てきたようなことを言うなって? そりゃ、見てきたわけじゃございませんが、目の前にニンジンがブラブラしているのに、走らない馬がいた試しはございません。きっと、ええ、きっとですよ、・アれが原動力となりまして、巨大都市江戸は作られたんでしょうなぁ。  
ところで、江戸にやって来た遊女屋は、元をただせば太閤秀吉より官許を得て、近畿地区に営業していたものでありました。秀吉も、エッチなことでは歴史に燦然と名を残す武将でありましたから「英雄色を好む」の格言通り、遊女屋の営業許可には寛大だったようであります。なんせ、一夜城で有名な関東征伐にも、朝鮮に大軍を派遣した文禄・慶長の役でも、本妻於祢(おね、ねね)の方を都に残し、淀の方以下、若い側室を連れて行ったという日本史に残るスケベ親父、いやいや、出世の神様、太閤秀吉でございます。  
そういや、サルだ、ハゲネズミだといわれた秀吉は、相当のマメであったようで、今で言えば「マメ夫」君の代表でありましょう。プレゼントにしたって、並じゃぁありません。ときには親兄弟を大名へとポンとプレゼントするのですから、女の方もまんざらではなかったのでは、と思いますが「その地位を利用して言い寄るとセクハラ」と現代ではいわれますから、秀吉はセクハラでもナンバー1なのでありました。  
さて、普請の槌音が響く江戸の町のあちこちに点在していた遊女屋が、ある日結束する事になりました。というのも、遊女屋などという風俗営業はバラバラにあるよりも、一箇所に固まった方が華やかで、利益もあげやすいというわけなんです。そりゃそうでしょう、商店街にポツンとある風俗営業よりも、ドカ〜ンと一大歓楽街にあったほうが、サービスもいいんじゃないかと考えるお父さんの発想は永遠なんです。  
「歌舞伎町!とにかく歌舞伎町にいけば、なんとかなる!」  
現代でも歌舞伎町と聞いただけで、鼻の穴がふくらむお父さんもいるようですし。  
こうして幕府に対し、風紀取り締まりを訴え、遊郭の設置を庄司甚右衛門なる御仁が音頭を取り願い出るのでありました。  
まあ早い話が、お父さんのためのディズニーランド計画が立ち上がったのであります。ええ、ディズニーランドにだって負けやしません。ミッキーやドナルドには、花魁や芸者がおります。夜を彩るファンタリュージョンにだって負けない、花魁道中ってのがあるじゃございませんか。  
こうなりゃお父さん、行きたい方は決まったもんじゃないですか! 
「性のアミューズメントパーク」吉原誕生  
こうして「性のアミューズメントパーク」は誕生する事になったのであります。幕府から許可が出た場所は、当初現在の中央区人形町二丁目界隈でありました。当時はひと気もない葦が茂る原っぱであったと言います。この葦が茂る原っぱに作られた遊郭こそ葦原(よしはら)でありまして、のちに縁起のよい字をあて「吉原遊郭」となるのでありました。これが1618年(元和3年)、江戸に幕府ができて、たった15年後のことでありました。1614年(慶長19年)、1615年(慶長20年)と大坂城の豊臣氏を攻めた大阪の陣のたった4年後には家康ちゃん、下半身の心配をしていたのでありますから、並のジジイじゃございません。 さて、俗に廓(くるわ)とも曲輪とも字を当てられるものですが、元々は江戸城の外曲輪、内曲輪のように周囲を土や石で囲った地域を指したのだそうです。その郭が遊郭と同義語になったのは、1585年(天正13年)に太閤秀吉が、大坂三郷の遊女町を許可し、遊女屋が特定の地域を定められて遊郭を形成して以来だと申しますから、元々の発想は家康ではなく秀吉にあったようで、「スケベ」度では秀吉に軍配が上がるようですな。 ところで、もっと古くは遊郭は当の都長安にあったそうですな。北康里(ペイコーリー)といって、のちに日本の遊郭がまねた碁盤の目のような街作りも、柳の木を植える風習も、元祖の元祖はここだそうですが、秀吉さん、北康里を夢見て大陸進出を企てたんじゃないでしょうねぇ……? ちなみに、遊郭を指す言葉としては、くるわ(郭、曲輪)、さと(里)、いろざと(色里)、いろまち(色町)、遊里、傾城町などがあるそうですが、傾城町とは良く言ったものでございます。しかし、のちに太夫・花魁を身請けして、本当に領国を危うくする大名が出現するとは、このときには夢にも思っていなかったのであります。 
スケベパワーで江戸は拡大するのだ  
幕府が開かれてからというもの、江戸の人口は爆発的に増えつづけたのであります。1725年(享保10年)の人口調査によりますと、江戸には推定で102万〜112万もの人口があったとは驚き以外なにものでもありません。この享保10年という年がピンと来ない方は、有名な赤穂浪士の討ち入りから10年後、時代は八代将軍徳川吉宗の治世、堅物町奉行大岡越前の時代というと身近に感じてくれますでしょうか。また、この人口の凄さは世界一でした。1800年ころ調査された人口統計によりますと、霧の都ロンドンが86万人で2位、花の都パリが67万人で3位ですから、それより70年以上も前に、華のお江戸は世界第一位の人口を誇ったのでありました。  
ついでにお話しておきますと、江戸の人口の特徴といたしまして、男性人口が異常に多いと言うことが言えます。男女比で2対1ですよ。主に参勤交代や出稼ぎなどで、単身赴任者が多かったことが、このアンバランスな男女比を作り出していたんですね。また、このアンバランスがあぶれた男を……、いえいえ、さびしい男たちを作りだし、吉原へ吉原へと向かわせた原動力になったわけでございました。  
この男女比のアンバランスが解消されるのは、江戸も後期になってからのことでありました。  
さて、開闢からたった100年余りで100万都市へと成長した江戸ですが、町も拡張する一方です。1636年(寛永13年)江戸の町作り第一期工事が終了するのでありますが、そのころには300余りの町が出来ていたといいます。みなさん、どこかおかしくないですか? そうです、江戸といえば「八百八町」というはずです。これじゃ500も足りやしない。いえいえ、これはあくまでも第一期です。江戸の中期には800なんてケチなこといってないで町数1,000を越え、幕末には2,000を越えるまでに成長するのでありました。 
吉原移転へ  
江戸の町が無計画に拡張して行くと、心配になるのは我らが吉原遊郭であります。葦の原っぱにぽつんと作ったはずの遊郭が、拡張を続ける町に飲み込まれてしまうんじゃないかと、夜も眠れないお父さんもいらっしゃる?  
ご心配はごもっとも! 実際に吉原遊郭は町に飲みこまれてしまったのです。それもですよ、よりによってお江戸のど真ん中にエッチの殿堂が位置してしまったのでありました。ご本尊を花びらが囲むようにして町が出来ていたなんて、これじゃ、女性の……、アレ、そのもの……、これじゃぁ洒落にもなりゃしません。  
ときは四代将軍家綱公の1656年(明暦2年)の10月ことでありました。知恵伊豆こと老中松平伊豆守信綱に呼び出され、ついには町奉行より吉原総代に、即刻、移転しろとのお達しでございます。幕府から提示された場所は浅草寺裏のこれまた寂し〜い田圃のど真ん中か、橋すら一つしか架けられていない新開地深川でありました。  
ええ、我らが吉原は抵抗いたしました。「そんなことされたら、商売になるはずがねぇ」と切実な訴えです。「そんな無理なこと言うのなら、エッチさせないぞ!」との脅迫は、いかに移転推進派といえども黙り込む飛び道具なのでありました。まさに団体交渉です。普段なら反対など言わせはしない幕府でしたが、ことが吉原遊郭となると腰が引けちまうとこが可愛いというか、情けないと言うか ……。どうです? お宅と一緒じゃありませんか?  
それでも、吉原遊郭連合軍はがんばりました。移転と引き換えに、それまで二町四方(約118m四方)だった面積は五割増に、昼のみの営業許可だったのを昼夜を問わず営業できるように。それだけじゃございません。吉原を脅かす江戸時代のソープランドとでも申しましょうか『湯女(ゆな)風呂』と申します、これまたウッシシな特殊浴場の取り締まり権まで勝ち取ったのでありました。さらにさらに、移転費用も幕府持ちにしてしまったのであります。  
恐るべき、エッチパワーの前に、幕府は腰砕けになったのでありました。  
ところで、明暦という年号を聞いてピンときた方「通」ですね。そうです、明暦の大火です。  
明暦3年(1657年)1月18日の昼過ぎ、本郷丸山の本妙寺から出火した火事は、烈しい北西風に煽られ、たちまち湯島から駿河台に広がり、神田、日本橋方面に南下、夕刻に風が変わり延焼地はさらに拡大し佃島、石川島にまで及びました。翌19日午前2時頃鎮火という大火災でした。江戸の総面積のおよそ六割を焼き尽くし、市中に死者10万人、さらに江戸城天守閣まで焼け落ちたのであります。  
当然「吉原遊郭」も無傷では済みませんでした。1月の消失から8月の新吉原での営業開始までは、焼け後で仮営業となったのであります。ところが、転んでもただじゃ起きない吉原であります。仮営業中は料金を半額にしたのであります。すると、今まで敷居が高く吉原に来なかった客まで押し寄せ、大繁盛。これこそ「人間万事塞翁が馬」の故事でありましょうか。いやしかし、江戸の六割までが燃えたと言うのに、遊郭へと通う男たちの、馬鹿さ加減、なんとかならないのでありましょうか?  
詮索好きの方が、「あれじゃないのか? 野放図に拡張してしまった江戸の都市行政をやり直すために、幕府が火をつけたんじゃないのか? 吉原だけはもったいないって、移転させておいて、幕府が黒幕だろう?」ってなこと、おっしゃいますが、そんなことはないと思いますよ。たぶん……。ええ、いくらスケベな家康さんの作った政権でも、そこまではしないでしょうね。ねぇ、家康ちゃん? 

 

浅草田圃へ  
さて、焼失してしまった人形町二丁目の吉原を「元吉原」、浅草寺裏に移転したのちの吉原を「新吉原」とも言いますが、普通吉原と申しますと、浅草寺裏に移転したのちの「新吉原」を吉原というようです。本稿でも、それにならって今後は「吉原」といえば、浅草寺裏の吉原を指すことにいたしましょう。  
さてさて、規模も1.5倍になった吉原の話は、さらに続くのであります。  
商人の力が台頭し、武家の力が陰りを見せはじめた元禄年間(1688〜1704)になりますと、吉原も隆盛を極めることになるわけです。というのも、当時の吉原といえば、現代の「銀座で接待」という感覚らしいのです。「売春で接待?」と驚く方もあるかもしれませんが、遠方からの客に「女性を世話する」というのは当然の「もてなし」であったのであります。まあ、現代でも、それに近い話は聞きますが、幸か不幸か、わたしを接待してくれる人がいませんので、話は藪の中のことですが……。  
本当なんですよ! 吉原へ連れて行き、接待するのは最上級の接待だったのです。中には、出費を惜しみ、雇っている女中に小遣いを渡して、済ませてしまう吝嗇もあったと聞きますが、そのあたりのお話は『第弐夜』でお話いたしましょう。えっ、もったいぶるなって? それくらい、いいじゃない!  
俗に『江戸三千両』と言う言葉がありまして、一日に千両の金が動く町が江戸には三つあったそうです。一つは日本橋の魚河岸、もう一つは堺町の芝居町、そして三つ目が我らが吉原でございました。ちなみに、一両の価値は、どんなに安く見積もっても3万円だそうですから、千両というと……。途方もない金額が遊郭に注込まれていたわけであります。  
こうなると、吉原は押しも押されもしない天下で一、二を競う傾城町となったわけです。ライバルは遠く、京都「島原遊郭」、大坂「新町遊郭」でありました。また、『江戸期の三大遊郭』といえば、この三ヵ所でありまして、三ヵ所制覇は男の夢でもあったことでしょうなぁ。  
事実、当時発行された『遊郭番付』では、吉原遊郭は東の大関か、別格として行司として扱われたのであります。えっ、横綱はどうしたって? 横綱という地位が確立されたのは明治以降のことでありまして、江戸期には大関こそが最高位だったのでありました。 
太夫がいなくなった!  
客筋が武家から町人へと変わりますと、求められる遊女像も変わってくるのでありました。  
武家を得意客としていたころには『百人一首』をそらんじ、『万葉集』を語り合える学識を持つ遊女が求められたのであります。その学識は、良家の妻子を凌ぐほどの教養と品格があったと言うのですから、現代的に言えば超一流四年制大学を優秀な成績で卒業、しかも『容姿端麗』というのですから、『ミス××大学』の肩書きくらい持ってないと、一流の遊女にはなれなかったのであります。ガングロの「チョー〜」、「マジ〜」を連発するような女子高生あたりじゃ、お話にもならなかったのであります。  
ところが客筋が町人に代わりますと、こういった学識はかえって邪魔になったのでしょうか、それとも遊女の質が低下していったのでしょうか。太夫とよばれる超一流の遊女は減る一方になってしまいます。時代考証家の林美一氏の著書によりますと、新吉原に移転した当時25人いた遊女の最高位である太夫が、享保年間(1716〜1736年)には10人前後、寛保(1741〜1744年)以降は2〜3人、宝暦2年(1752年)にはついに1人となってしまうのでありました。そして、ついには絶滅であります。う〜む、佐渡島のトキを思い出しますなぁ。  
ところで、遊女には相撲の番付のように格付がしっかりとありました。そのトップには太夫がおり、その下に格子(こうし)、端(はし)という上・中・下の3ランクがあったのでありますが、新吉原へ移転したのち、この格付けが太夫・格子・散茶・うめ茶・局の5ランクになるのであります。  
なぜ、そうなったかと申しますと、吉原が移転時に手に入れた権利の一つ「湯女風呂の取り締まり」がおおいに関係するのです。というのも警察の手入れよろしく、検挙された江戸期のソープランド嬢湯女を、吉原遊郭が接収したのであります。簡単に言い換えれば、不法営業だった湯女を吉原に組み入れ、見せしめとして散茶という手軽に遊べる遊女にしたのでありました。その下の「うめ茶」というのは散茶よりも価値が下がるというので「薄い茶」という意味から「うめ茶」と名づけられたそうでありますが、上手いこといいますなぁ、ウチのカカアなんてそんなら「水」とでも呼んでやりましょうかねぇ。ええ、もちろん聞こえないように、そーっとですがね 。  
さて、上級遊女であります太夫・格子が消滅してしまった(格子もいなくなってしまったんです!)あと、格付けのトップは散茶女郎になってしまうのでありました。これを消滅した2つのランクを補うようにして呼び出し・昼三(ちゅうさん)・附け廻しの3ランクに分けましたのを『花魁(おいらん)』と呼ぶようになったのであります。ですから、江戸の中期以降は太夫はいなくなり花魁が吉原遊女のトップを表す言葉となっていったのでした。そういえば、相撲でも十両以上は「関取」なんて言いましたっけねぇ。それと同じなんでしょうなあ? 
花魁登場  
さて前章でお話しました通り、『花魁』という新しい呼び名が出てまいりました。  
この花魁という言葉、もともとは妹分の遊女が姉遊女を「おいらの姉さん」と呼んだことが語源といわれております。  
もう一つ、花魁といえば「〜でありんすぅ」という花魁言葉なるものも、テレビの時代劇などで聞きますな。これは単純に、お国訛りを隠すために作られた言い回しだとも言われています。『江戸は方言の吹き溜まり』とも言われるほど、地方出身者が多かった町でして、男も女も気風(きっぷ)のいい江戸弁を自由に使いこなせる者の方が少なかったぐらいらしいのであります。花魁といえども、その例のほかではございません。元をただせば、小さな農村の生まれだったりするのです。「吉原遊郭」は夢を売る場所ですから、いざ花魁と話してみて同窓会が始まったんじゃシャレにもなったもんじゃありません。  
「オラァは山奥村だんがよゥ、花魁はどこの生まれんだァ?」  
「お客さん山奥村だんべかァ、オラは隣村だんよゥ。懐かしいなァ」  
これじゃ、やっぱり、どうも、ねぇ。  
現代でも花魁言葉に似た職業口調というものがあるじゃないですか。そうです、バスガイドやエレベーターガールの口調というのは、やっぱりお国訛りを消す職業口調なんですね。その先駆とも言うべきを、吉原はやっていたんですなぁ。  
さて、吉原遊郭は幕末期、4,000とも5,000とも言われる遊女がいたといいます。この驚くべき遊女の数は日本一だったんでしょうねぇ。信じられますか? 4,000ですよ、4,000! この遊女の数、とっかえひっかえしったって、10年は毎日違う遊女と……。おっと、それは出来ないのありました。なぜ、出来ないかと言うとですねぇ……、ええいっ、面倒くさい! そいじゃ実際に遊んでもらいましょうか、吉原で! それも、とびっきりの花魁「呼び出し」とですよ。懐のお宝の準備はいいでしょうね? 
吉原、支度編  
それでは、吉原に遊びに行く前にちょっと支度をしましょうか。支度ったって、新しいパンツに履きかえるだけじゃございませんよ。相手は天下一と謳われる吉原の花魁です。  
まずは予約です。お目当ての花魁がお休みとも限りません。自分で予約に走るようじゃ、足許を見られちゃいますからね。ここは一つ、誰か人を雇って吉原の引き手茶屋に今夜の予約を入れに走らせましょう。  
その間に、こっちも支度を急ぎましょうか。そうです、男ぶりをあげるために入浴、髭剃り、散髪を済ませておきましょう。しかも、髪は2日前に結ったように「ゆる〜く」結ってもらいましょう。えっ、なぜって? そりゃ、あなた、「いざ、吉原!」と鼻息荒く来た客と思われたくないじゃないですか。そこは「なあに、吉原なんか通いなれてらぁ」と、さりげなく2日前くらいに結った髪の乱れが「粋」なのですよ。  
さて、次は服装です。羽織はお持ちでしょうか? 表通りに店を張る大店(おおだな)の主人なら、日ごろから羽織を着なれてるでしょうが、長屋住まいのお父さんとなると、羽織を持っていないこともあったのであります。そうしたら、借りるしかありません。それも、口の固い女房を持った友達でないと、あとでその後日の問題に発展するわけでございますよ。  
幸か不幸か、羽織を押入れの柳行李(やなぎこうり)の底にでも持っているとなると、またこれがたいへんな苦労をするわけであります。  
「おい、今夜はちょっと出かけるから、羽織を出しておいてくれ」  
と女房に言ったとたん、俗に言う「女の感」というやつが、こういうときに限ってピンと働くもんであります。  
「お前さん、羽織なんか着てどこへ行くんだい?」  
とすまし顔で聞き返されたが最後、心にやましいところのあるお父さん、しどろもどろになってしまいます。  
「あのー、ちょっとな、へへへ……。あれだ、あれ……」  
こうなったら、もう小皿の一枚も飛んでくるのを覚悟しなくてはなりませんな。もう楽しみにしていた吉原もパーです。  
しかし、お父さんもこう言った修羅場は何度となく、くぐり抜けてる古強者であります。まずは、一緒に行く友達に羽織を借りに来させ、自分は友達の家に羽織を借りに行き、あとで交換、めでたく出陣と相成るわけでありました。  
夢を壊すような話ですが、本当は、羽織一つ持ってない貧乏人が、花魁と遊べるはずもなかったのであります。だいたい、1回花魁を呼んで10〜20両の出費を余儀なくされるのでありますから、現代の相場に直しますと、どう安く見積もっても30万円から60万円になり・ワすかな。これだけの金額をポンと惜しげもなく、出せるお大尽でないと、最高級の遊びは出来ないのであります。どーです、お父さん懐具合は?
いざ、吉原  
『いざ、鎌倉』という言葉は、鎌倉幕府に対する武家の忠誠度の高さを現した言葉でありますが、今日という今日だけは『いざ、吉原』であります。心の中では高らかに『軍艦マーチ』が鳴り響き、制限時間いっぱいの力士のように顔を何度も叩きたくなる気持を抑えつつ、知らぬまに頬が緩み切っているのはご愛嬌でありましょうか。  
さて、浅草寺裏の「吉原遊郭」に行く方法ですが、猪牙船(ちょき)という小型の船に乗って山谷堀の二番目の橋、三谷橋の袂で陸に上がり、日本堤を駕籠に揺られてか徒歩で吉原へ向かうという方法がありますが、懐具合とよく相談して決めましょうか。そうそう、猪牙船というのは現代的に言いますと水上タクシーでして、江戸独特の軽快な小船なのであります。  
大川(隅田川)から吉原の北側を流れる掘割を山谷堀といいまして、その堀の吉原側の土手を日本堤と申しました。夜になると、辺り一面真っ暗な田圃の中に、煌々と光を放つ不夜城吉原、それに続く日本堤には火を灯した提灯が点々と列をなしていたと申しますから、その繁盛ぶりが窺えるじゃありませんか。  
猪牙船を降りました三谷橋近辺は、料理茶屋、船宿が多く見られますが、ここで待ち合わせや、腹ごしらえしている連中は、みんな吉原へ繰り出そうというご同輩なのであります。いやはや、吉原の手前をも繁盛させる吉原パワーの凄まじいこと。みんな今夜は、ムフフ……な夢を見にくり出そうと言うのであります。  
さあさあ、先を越されないうちに急ぎましょうか?  
日本堤をやって行きますと、道の両側に掛け小屋が数件並んでいます。これが編笠茶屋というものでして、ちょっと顔を見られたくない方は、ここで編笠を買って行くのですが、買って行くのは名のなるお武家や僧侶であります。僧侶だって、来ていたのであります。ありがたい観音信仰を、宗派にかかわらずお持ちになっていたのでありましょう 。  
日本堤から長さ五十間の緩やかな「く」の字の坂が大門まで続いていますが、これが衣紋坂であります。それをちょいと下ると、お待たせいたしました。「吉原遊郭」でございます。入口にには、左手に高札、右手に有名な見返りの柳があり、その先が吉原の大門です。  
吉原の出入り口といいますと、ただこの一ヵ所大門しかございません。もちろん、出入りの監視のためでありますが、あとはお歯黒堀に黒塀がぐるっと囲んで、別世界を作り出しておりました。さあさあ、ディズニーランド、違った! 「吉原遊郭」にとうとうやってきました。あまりの嬉しさに、泣き出すのはまだ早いですよ。何がって? さあ、その謎は次章をごらんくださいな。別な意味で、涙がチョチョ切れるのであります。 

 

引き手茶屋  
まず吉原に遊びに行きますと、引き手茶屋に行きましてお大尽な宴会をしなくてはなりません。ええ、ここで惜しんではいけません。芸者を呼び、太鼓持ちを呼んで、懐が温かいのを見せ付けてやりましょう。もちろん、野暮はいけませんよ、野暮は。いかにも、いかにも遊び慣れたという風にしていなきゃいけません。そうです、家にいるときのように、デンと構えて……、えっ、家にいるときの方が落ちつかないって? そんじゃ、嘘でもいいから、もの欲しそうな顔だけはしないでおいてくださいな。  
実を言いますと、品定めされているのはこっちなのであります。ほらほら、さっきから茶屋の女将が二度、三度と挨拶に来りしてるじゃありませんか。あれですよ、あれが品定めに来ているのであります。言ってみれば、この客が「通」な客か「野暮天」か、スパイに来てるんですよ。この女将の挨拶を上手くかわさなきゃ、花魁を呼んでもくれませんよ。だから、女将へも「ご祝儀」を奮発しておきましょう。  
てなわけで、したくもないドンチャン騒ぎをしておりますと、またまた女将の登場です。  
「花魁がみえました」てなこと言うんでしょうなぁ。(私は知りませんが) ススッーっと一間隔てた座敷に花魁御一行様がやってまいります。御一行様のメンバー紹介をさせていただきますと、まず手前に座ったお下げ髪の子供2人が禿(かむろ)と申しまして将来の花魁候補生で、歳は14〜15歳以下でしょうか、いっちょ前に化粧をしております。これに妹分のアシスタント、新造(しんぞう)というのを一人か二人、おまけに遣り手という世話焼き係のばばあが一人くっついて参ります。これに花魁を入れ総勢5人前後に、鉄棒持ちの若い衆を先頭にして、この引き手茶屋までファンタリュージョンよろしく、花魁道中して参ったわけであります。  
いざ、夢にまで見た花魁を目の前にすると心臓がバクバクいっております。「高尾でありんすぅ」  
無表情に一言、花魁が自己紹介をいたしました。ここで、夫婦固めの杯を交わして、花魁は、颯爽と座敷を後にするのでありました。  
よかった、ねぇ、よかった。大成功であります。さあ、もうちょっと飲んで帰りましょうか。うんうん、よかった! ここまで来た甲斐があるってぇもんですよ。  
えっ、どうしたんです、渋い顔しちゃって? なに、エッチはどうなったって?  
ありませ〜ん。はい、今日はここまでです。ここまでで、金10両也です。  
「冗談じゃない! こ、こんなの、ボッタクリじゃないか」  
って怒っちゃいけません。初会が大成功だったのですから。なんだか、よく分からないって? そうでしょう、そうでしょう。でも、大成功だったのです。  
といいますのも、花魁がお客を見て気に入らなかったら、夫婦固めの杯も交わさず帰ってしまっていたのであります。そうです、ここでの選択権は花魁にあったのです。お客側に選ぶ権利はないのであります。  
「これじゃぁ、見合いと変わらないよ」  
おっしゃる通り、今回は自己紹介とでも思ってください。自己紹介料10両であります。  
吉原はただの売春街じゃないんであります。吉原は一夜の恋愛をする場所なのであります。  
ねぇ、最初っからヤラせる女じゃ、ありがたみがないじゃないですか、そうでしょ? なに、そっちの方がありがたいって?!  
今夜は布団を引っかぶって、花魁の夢でも見ながら、膝でもかかえて寝ましょうか、ねぇ。さびしい〜〜〜! ほ〜ら、泣けてきた? 
裏を返す  
初会が大成功に終わりまして、いよいよ二会目です。えっ、まだ行くのかって? そうです、行かねばならぬのです。初会を済ませ、再度花魁を呼ぶことを「裏を返す」と申します。この「裏を返す」のが重要なのでありました。  
『裏に呼ばぬは女郎の恥』という諺が存在するのであります。意味は「同じ女郎を再度買うのはその女郎を気に入った証拠、再度買わぬのは気に入らぬ証拠であるから、女郎の恥である」と『江戸語の辞典』(講談社学術文庫 前田勇著)にはそう書かれております。  
女に恥をかかせることは禁物であります。なぜって、いまさら説明も不必要でございましょうが、一言で言うと「後が怖い」のでありますよ。下手すると、これで一巻の終わりになるかもしれません。若い時分にオモテになったお父さんなら、分かりますよねぇ。  
ついでにご忠告もうしますと、ほかの女郎に鞍替えもいけません。  
そうなんです。初会で夫婦固めの杯を交わしました。と言うことは、ほかの女郎でも買ったとなったら「浮気」とみなされるわけであります。これからは決まった穴に針を通すミシン針よろしく、花魁に「男の操」を立てなくてはならないのであります。  
ちょっと、話がそれまして、遊郭のお客の掟なるものを記しておきましょう。ええ、遊ぶ方にも掟があったのです。  
一、馴染みの遊女がいるのにほかの店の遊女のところへ行ってはならない。  
一、同じ店で別の遊女と寝てはならない。ただし、馴染みの遊女の代理としてはべる新造(妹遊女)は別である。  
一、同じ店で別の遊女とねんごろになったり恋愛をしてはならない。  
であります。この掟を破るとどうなるかと申しますと、捕まえられて座敷に軟禁された上に散々なぶりものにされるのであります。えっ、そっちの方が楽しそうだって? 冗談じゃありません。米つきバッタよろしく平謝りに謝った上に、詫び金をたっぷり支払わないと、お許しいただけなかったのでありますよ。ええ、お父さんの浮気がバレたときに、買わされてしまった指輪と同じお仕置きなんですな。  
なんですって? バレないようにすりゃいいだろうって。ところが敵もさる者引っかく者であります。吉原をあとにする時刻ころには、唯一の出入り口である大門付近に店の若い衆や、ときには花魁その人が陣取っているのでありました。 もう一つ、脱線ついでに「タダ乗り、ただ喰い」の制裁も書いておきましょうか。  
これには「桶伏せ」という恥ずかし〜い制裁が・メっておりました。道端に放り出され、上から窓の開いた大きな桶を被せられるのであります。その上から脱走防止に重石をのせられ、支払うまでその中で過ごさなくてはなりません。ええ、もう糞尿まみれですから、恥ずかしいの恥ずかしくないのって、一種の「晒し者」になるわけですが、こんなことをされても、性懲りもなくまた足は吉原へと向かうんでありますから、男の馬鹿さ加減にも頭が下がるのでありました。 さてさて、初会と同様に引き手茶屋で、飲みたくもない酒を飲み、ヤケのヤンパチでドンチャン騒ぎをしておりますと、再び花魁様御一行の到着であります。 ええ、今回は初会のようなことはございません。ちゃんと花魁は上座にお座りになって、前よりも少しばかり長くいてくれます。しかも「ぬしさんぇ」などと煙管で一服勧めてくれるやも知れません。ほかにも、二言三言も声をかけてくれますが、目の前の膳には目もくれず、目の保養だけをさせてくれ、お帰りになってしまうのでありました。ハイ、10両! であります。 
また今夜も、さびし〜!  
『二度と行く所でないと三度行き』  
これは誰が詠んだ川柳なんでしょうか。とうとう花魁の元へ足繁く通うのも三度目であります。  
ええ、馬鹿だなぁと反省しつつ、ついに三会目であります。もう、目なんか血走って来てもおかしくない状況であります。ええ、盆暮れに付合い程度にしか相手にしなかった女房でさえ、観音様に見えてくる飢餓状態というんでしょうか。久しぶりに里に降りて来た山男とでも言うんでしょうか、月に向かって吼えたくなる心境でありましょう。  
しかし、しかしであります。苦節三回、ついに三会目となりますと、やっと花魁はお客を名前で呼んでくれるようになるのであります。私だったら「周さんぇ」となります。身も震えるような興奮を抑えつつ、何気ない顔で「なんだい、花魁」なんて答えられればいいんですが、そ、そんな余裕はございません… …。いきり立つムスコ、いえいえ気持を抑えるだけで精一杯であります。  
なぜ、そんなに興奮してるのかって? もう決まってるのです。三会目には待ちに待った「お床入り」があるのです。  
しかもその前に、この虚しくドンチャン騒ぎをした引き手茶屋から三枚重ねの布団が敷かれた妓楼まで、花魁道中の先頭に立ってゆっくりと歩くという、男の花道が待っているのであります。垂涎の視線を浴びながら、妓楼まで花魁を従えて歩くことが出来る……。この一瞬こそが、もしかしたら歓喜の時間なのかもしれませんな。  
しかし、なんですなぁ、「これからスルぞ!」という行列をヨダレを垂らして見送る方も見送る方ですが、鼻の下をなが〜くして歩いて行くというのも、考えてみればとんでもない恥ずかしいことのようですが、江戸のお大尽たちは平気だったのでしょうから、たいしたツラの皮としか言いようがありませんな。  
さて、妓楼に着いてもまた、ここでドンチャン騒ぎをしなくてはなりません。もう、腹だってチャポンチャポン、酒なんか入るはずもありません。それでも旗色の悪い選挙の候補者と同じです。「今一歩、最後のお願いにやってまいりました〜」てな具合で、形だけでも飲まなくてはなりません。  
するっていうと、横に座った花魁が「周さんぇ、おひとつぅ」などと、銚子を手に、なま暖かい視線を送ってくるではありませんか。急いで、冷え切っていた酒を飲み干し、花魁の前へ、  
「これはこれは……とんだそそうをぇ」  
うっかり着物にこぼした酒を慌てて拭こうとする花魁の白い指が、股間の上を行ったり来りするじゃありませんか。う〜〜〜ん、もう限界です! 思わず交わる視線と視線。思わせぶりに口元に笑みを浮かべた花魁が、さっと目線を落とします。  
ウホホホ……。来ました来ました! これです、これをどんなに待ちつづけたことか。涙チョチョ切れ、股間をギュッと握ってしまいそうです。 あとで冷静になって考えれば、これも花魁の手練手管の一つなのでしょうが、こんなことされて冷静でいられる男がいるはずもありません。いや、いたらオトコじゃありません。満月に向かって叫ぶオオカミの心境がこのときばかりは、痛いほどよく分かるはずです。もうドンチャン騒ぎの音なんか聞こえるはずもありません。ワォ〜〜〜! 
秘儀…のようなもの  
引け四つの拍子木が打ち鳴らされますと、ドンチャン騒ぎもお開きと決まっております。いよいよであります! ついにお床入りの時刻がやってきたのでありました。  
普通四つといいますと、午後10時なのでありますが、ここ吉原の「引け四つ」といいますと、それより4時間も遅い午前2時なのであります。というのも、すこしでも宴席の時間を長くし、懐のお宝を使っていただこうという魂胆からなのでありますが、この4時間の長いこと長いこと。中には酔いつぶれてしまい、今夜は使いモノにならないお大尽の醜態も見られましたようで。ここまで来ての脱落は、さぞ悔しいことでしょうなぁ。  
さて、ここまでお読みくださったスケベ、いやいや好き者じゃなかった、好奇心旺盛なお父さん方はお気づきと思いますが、花魁の仕事は「惚れさせる」ことなのであります。それもいよいよ最終段階。三重、四重に積み敷かれた絹の布団の上でのデスマッチによって、完成されるのであります。ですから、花魁の秘儀というのもそれはもう……なのでありましょう。えっ、どうして肝心のところをボカすんだって? そんなこと言ったって、私は知らないのですよ。花魁の×× がまるで生きもののように、いきり立った××を吸い込み、さざなみのごとく揺れ揺られ……、となるのでしょうか?  
さて、秘儀がいかなるものであったかは、私が持ちます資料には詳しく書かれていませんが、その一端、花魁たちがその準備にどれくらい気を使っていたかは伝わっているのであります。  
花魁の朝は朝四つ(午前10時)ころの起床から始まります。まずすは、入浴です。この入浴にはたいへん気を使い、まさに磨き上げたのであります。布袋に米糠をいれた「糠袋」を口にくわえ、湯船にどっぷりと浸かって昨夜の疲れを落とすのでありました。やんわりと桜色に肌が染まるころ、洗い場に出てこの糠袋で隅々まで磨き上げるのであります。当然、その……あの……秘所も丹念に清めるのでしょうな。  
その遊郭の湯殿の隅には、「毛切り石」なる小石が二つ置いてあったそうです。この小石を使って、その下の毛をですな、切りそろえるのだそうです。そんなもん、鋏でチョキチョキと切っちまえばいいものを、とお思いかもしれませんが、石で切るか線香で焼くかだと毛先がチキチクしなくなるのだそうで、これも花魁のお客へのエチケットでありましょうか。  
さて、またまた股のお手入れを、花魁は入念に行うのであります。その、盆栽よろしく特徴を持った形に刈り込むのだそうでございますよ。花魁によっては、その秘所の上に小花が咲いたように小さく毛を残したり、秘所の左右に筋を描くように刈り込んだり、一度見たら忘れられないよう、印象深い盆栽作業をするのだそうであります。えっ、そんなとこ、1人じゃ見られないのにどうやってやるのかって?ご心配はいりません。禿(かむろ)や新造といった妹分や見習がおります。これに石を持たせ、股をおっぴろげ……、いやいや、後輩たちに教育を施しながら、作業をしたのでありましょう。また、吉原にはアッチのお毛毛専門の床屋があったとも言うから、驚くじゃありませんか。まさか、パーマや脱色まではしなかでしょうねぇ。  
そのあとは、ここにかぐわしい麝香や伽羅といった香を焚きこめるというのですから、その花魁が布団の中であられもない声をあげるころ、きっとその香りが鼻をくすぐるのでありましょう。 
後朝の別れ(きぬぎぬのわかれ)  
あっという間に朝が参ります。そりゃそうでありましょう、四つ(午後10時)だと思っていたのが実は八つ(午前2時)で、それから束の間の「お楽しみ」を過ごしたのでありますから、時のたつのも早く感じるわけであります。  
しかも明け六つ(午前6時)には、階下で臼に玄米を入れ、杵で突き、精米をはじめるのでありますから、うるさくて、とてもじゃありませんが寝てなどいられません。慌てふためき着物に袖を通し、妓楼をあとにするのでありました。  
大門を出てたところで、まだ夢から覚めない男は、ふと思うのであります。  
「昨夜のことは現実だったのか……」  
そして、今出てきたばかりの吉原を振りかえる。ちょうどここに柳が植わっておりまして、誰がつけたか「見返りの柳」であります。そして、また「来よう。また来れるようにがんばろう」と襟元を直す坂が通称「衣紋坂」と言いました。来るときには「花魁によく思われよう」と襟を直した坂道が、帰りには「女房にバレないよう」と、手を襟にかける坂でもありました。  
「そういえば、花魁のアソコは……?」  
特別にご開帳いただいた、花魁のご本尊様が脳裏に焼きついております。すっかり骨抜きになった男には、まぶしい朝日に目を細め、一夜の夢を思い起こすのでありました。  
花魁との一夜の約束事といたしましてキスは厳禁、ふっくらとしたオッパイに口をつけることばかりかモミモミも許されません。加えてご本尊様にむしゃぶりつくなんてもってのほかであります。この日のために鍛え上げたフィンガーテクニックも封印されたままの「飛車・角落ちの将棋」といった感じさえする夜の激闘は、花魁の勝利だったのか、はたまたスケベ親父が辛勝を勝ち得たのかは、本人にも分かるはずもありません。ただただ、「の」の字を書いて責め立てたのには、花魁は「い」の字を書いて応戦いたすこと数回。プロのテクニックにお父さんは翻弄され、堪能したのだけは間違いありません。その「かりそめの恋」も、朝と共に露と消えたのでありました。 く〜〜、こんな朝、むかえてみたい!何を申す私なんて、淡白太政大臣でありますから、太陽が黄色く見えるなんて経験すらないのであります。どうですお父さん、トドのように寝ているカミさんをちょっと花魁風に仕込んでみては? そりゃ、魚河岸で売れ残ったマグロとは違ったものになるのは請け合いですよ。えっ? ものが違うって……。そりゃぁ、ごもっともさまでありました。 
その後の吉原  
忘れてました!本稿は『吉原史』なのでありました。というわけで、その後の吉原のお話であります。  
江戸時代を通しまして、天下無双の遊郭の名を欲しいままにした吉原遊郭も、徳川幕府瓦解と共に明治を迎えるのでりました。確かに、幕末期には吉原で幕軍将兵が鉄砲を打ち放火などして、一部が焼失することもありましたが、政権が変わりましても男の欲望は普遍でありました。時のニーズに答え、徐々にその姿を変えながらも、なんと昭和33年『売春禁止法』実施まで延々と続いたのであります。昭和33年といえば、あの長島茂雄が栄光の巨人軍に入団したとしでありますから、歴史の上ではつい最近のことと言えるでしょうな。そしてついに、昭和33年4月1日、売春禁止法によって400年にわたる吉原遊郭の歴史に幕が下ろされたのでありました。くしくもその年の1月、オリンピック準備委員会が設立され、「戦後」という時代に終止符を打とうと言う時期に差し掛かっていたというのは、なにか関係があったのでしょうか?  
と、寂しそうに筆を置くのはちょっと早い! そうです、売春禁止法から40年あまりたつというのに、いまだに「吉原」という言葉に「パラダイス」を思い浮かべるというのはどういうことだ? 町名にしても吉原と言う町名は昭和41年に千束3丁目、4丁目となってしまっているのに。  
そうです。非合法化しても吉原は生きているのです。旧聞ですが、1987年発行の『江戸東京学辞典』によりますと、『いま新吉原は、不夜城とよばれたかつてのおもかげを取りもどした感がある。特殊浴場は162軒、ソープランド嬢は約2500人もいるという』じゃありませんか。  
本稿を書いた身にとって一言吉原へ言うことがあるとすれば、  
「がんばってくれ〜! 吉原」でありましょうか。世の中の女性の的とも目される傾城町ではありますが、たぶん消え去ることはないんでありましょうなぁ。男の欲望が続く限りは。  
 
 
売女 (ばいた)

 

湯女(ゆな)風呂でサッパリするのだぁ  
江戸のソープランド嬢、湯女から、はじめましょうか。  
元々、「湯屋」と「風呂屋」というものは別のものだった、と言うのはご存知でありましょうか? 風呂桶に入ってんのがお湯だなんて冗談は、当節小学生も笑ってくれない「さむさ」ですな。冷え切った雰囲気には「お湯」が効きますよ(これもさむ〜い!)  
江戸以前は湯につかるという習慣のほかに、いわゆるサウナ風呂に入る習慣があったのです。お湯にドボンとつかるのが「湯屋」でありまして、サウナ風呂形式に高熱の蒸気に蒸されるのが「風呂屋」でありました。どうして、この2つの習慣があったのか、また「風呂」の習慣が江戸期に消えてしまったのかは、わたしの持ちます資料には詳らかにされておりません。というのも、興味の対象が違うのでしょうなぁ、こっちは『ムフフ……』を知りたいのであって、お湯がどうしたこうしたには、興味がないのですよ 。  
さて、「湯女」がおりましたのはサウナ形式の「風呂屋」でありました。この風呂を「湯女風呂」といったそうであります。建物はと申しますと、どれもこれもが二階建てになっていたようであります。まず、一階はサウナであります。蒸気を逃さぬよう明かり取りの窓を極力小さくした薄暗い部屋に、褌をきりりと締めたまま入ります。するってぇと、薄物一枚姿の湯女がサービスをしてくれるのですな。お父さん! ご注意しておきますが、ここでナニをいたすのではありません。そんなことしたらお父さん、血圧が上がってポックリですよ。えっ、本望だって。よしなさいって、お楽しみはたっぷりとあるんですから。  
ここでは、竹のへらで浮き出た汚れを掻き取ってくれたり、髪を洗ったりしてくれるだけなのですよ。まあ、1913年アメリカのジャコブさんがブラジャーの特許を取るより以前の17世紀初頭の話でありますから、背中にたわわに揺らぐ乳房が密着(!)というありがた〜いご利益はあったかもしれませんが、ここでは「ポチ、お預け!」状態で我慢しましょう。付け加えておきますと、巨乳が持て囃されるのは昨今のことでありまして、日本の永〜い歴史を見てみますと「巨乳は格好悪い、気持ち悪い」と思われ、女たちはさらしで胸を潰していたんだそうですから、もったいない。お父さんご期待の「密着」は期待うす、チョ〜期待うすだったのであります。(しかし、ジャコブさん、余計なものを発明したもんだ!)  
さあ、汚れを取ってもらい、すっかり綺麗になりましたころには、湯女に冗談の一つも言って気分も和らいできていることでしょう。もしも、ここで湯女が気に入りましたら、「ご指名」であります。  
「ムヒヒヒ……君ぃ、可愛いねぇ。名前、なんていうの?」  
「ま・つ・おで〜す」  
「そう、松尾っていうの。いい名前だぁ。ボクの初恋の人もね、松尾って名前だったんだよ。君を見ていると思い出すなぁ、あの人を。どう、上に行ってお茶でも」  
なぁんて会話があったのかどうか知りませんが、湯女風呂の二階は座敷になっておりまして、現代の「健康ランド」のような造りであったのであります。ただ1つ、違っているのは『ムフフ……』は、ここで行われたのでありました。  
といっても、すぐにナニが出来るわけではありません。そんな、野暮な御仁は嫌われますよ。まずは衣服を改めた湯女を相手に、三味線やら小唄やらの宴会、酒宴であります。江戸時代、宴会と書いて「散財」と読むんじゃないかと思うほど、宴会にこだわるもんですなぁ。まあ、現代で言えば、風呂上りに冷えたビールをキュ〜〜〜っと飲むようなもんなのでありましょうが、真の目的にはまだまだ遠い道のりなのでありました。  
そうしているうちに、日はとっぷりと暮れ、お隣さんとの目隠しに金屏風をひき回した小さな空間には、夜具が敷かれるのでありました。 
湯屋からスーパーアイドル誕生!  
神田は堀丹後守屋敷前に紀伊国屋市兵衛という湯女風呂屋がありました。丹後守の屋敷前にあることから通称「丹前風呂」と呼ばれていたそうであります。この湯女風呂に名物湯女がおりました。外出の際には男風の黒仕立ての着物に、編笠をかぶり、腰には大小の木太刀の手挟んでいたというのですから、現代的には宝塚の男役といった雰囲気でありましょうか。  
このような服装でありますから、目鼻立ちもキリッとしていて、それでいながらくちびるに女性らしさを持っていた、とまあ自分の好みで想像しているのですが、いい女には間違いなかったのでありましょう。その名を勝山と申しました。  
承応二年(1653年)6月、旗本と御家人の乱闘騒ぎの煽りを受け、この紀伊国屋は廃業に追い込まれるのでありますが、その年の8月、今度は吉原遊郭の山本芳順抱えの太夫として勝山は再デビューするのでありました。  
この勝山、吉原に移ってからも「丹前の勝山」とますます人気を博したのであります。小唄が巧く、手跡も見事で和歌のたしなみもあったという太夫の中の太夫という存在であったのでありました。  
のちに明暦三年(1657年)に、元吉原から浅草田圃の新吉原へ移転するのを期に引退し、西国三十三箇所巡礼の後、江戸に帰って尼になったとも伝えられますが、その後半生はまったくの謎であると言います。  
どうしてこの勝山がスーパーアイドルであったかというと、その流行を作り出したパワーの凄さなのであります。  
「後ろ髪を白元結にして、片曲げの伊達結びにし、先を細めて輪のように大きく曲げて前に返し、笄(こうがい)を横に差して先端を止めた髪型」と、まあ文字で表すと何がなんだか分からないのでありますが、今の世にも名を残す「勝山髷」は、当時遊郭はどころか日本全国の女性がこぞって真似したのでありました。テレビや雑誌がないこの時代、一人の女が作り出した創意工夫が口コミで日本全国の流行どころか、文化にまで発展したということが、どれほどの偉業かということは、推し量ることもできないことでありましょう。  
勝山が流行らせたのはこれだけではありません。草履の鼻緒を緋色の二本にした勝山鼻緒も江戸の娘たちがこぞって真似をしたものです。こればかりか、花魁道中の歩き方で、それまで内から外へ、内から外へと歩み出す京都は島原遊郭風の「内八字」という歩き方から、奴風の外から内へ、外から内へと歩む「外八字」という後世、吉原遊郭のスタンダードを作り出したのも、この勝山であったと申しますから、驚くばかりでであります。  
「なぁに、古い話ばかりだねぇ」  
と、仰言るお父さんは、社員旅行で行った温泉で、湯上りに浴衣の上に「丹前」という広袖のゆったりした上っ張りを着たことがあるはずです。何を隠そう、この「丹前」を広めたのも、湯女風呂時代の勝山であったと伝えられているのであります。  
一人の湯女が広めた流行が、300年の時代を下ったわたしたちにまで及んでいるというのですから、この勝山をスーパーアイドルといっても文句はございますまい。ね、お父さん! 
湯女風呂禁止へ  
さて、この湯女風呂はたいへん繁盛したのでありました。寛永年間(1624〜44)は湯女風呂も最盛期となり、実にその数200軒! どれほどの繁盛ぶりかと言いますと、官許の遊郭、お父さんのディズニーランド「吉原遊郭」が湯女風呂に客を奪われ、衰微したというのですから、驚くばかりであります。  
時代は下って明暦三年(1657)であります。吉原の浅草田圃への移転で、幕府から得た条件は覚えていらっしゃるでしょうか? えっ、そんなこと忘れたって? そうでしょう、そうでしょう、わたしも忘れちゃいました。忘れついでに詳しくもう一度書いておきましょうか。これ、期末試験に出ますよ。  
一.二町四方だった土地を、5割増にする。  
一.昼間だけの営業であったのを、昼夜を問わず営業できるようにする。  
一.市中に200軒余りある風呂屋(←湯女風呂のこと)をすべて取り潰す。  
一.山王・神田の祭礼、出火の跡火消しなどの町役の免除  
一.移転料として1万5000両を下賜される。  
この五項目が吉原移転の条件として、幕府から許可されたのでありました。  
いま話題にいたしますのは、「3.市中に200軒余りある風呂屋をすべて取り潰す」ということなのであります。そして、これはすぐ実行されました。人員過剰の幕府であります、こういうことは即実行なのであります。  
このとき、検挙された業者70人、湯女512人いたそうであります。これらをどうしたかと言いますと、新吉原に組み入れ新規参入組にいたしたのであります。  
ただ、この新規参入組は、湯女風呂をそっくりそのまま吉原に移転させたような営業体制を取ったのでありまして、それまでの吉原風俗とはちょっと異なったようです。そこで、吉原では堺町、伏見町という二町を新規参入組のために拡張いたしたのでありますが、この二町は吉原の下級街と位置付けられるのでありました。  
ちょっと、私娼窟のお話とそれてしまうのですが、この新規参入組は吉原遊郭の「意地」と「張り」というものを持っていなかったそうでして、客は一切断らない、そればかりか客引きをする、というので吉原遊女の格付けでは下級の散茶、太夫、格子、端の下に新たに散茶女郎という格を作り出した起源になったのであります。  
ついでに話しておきましょうか。逮捕された湯女(のちには岡場所の売女も)は、吉原に連れてこられると入札で楼主に払い下げられたそうです。格好よく言えば「吉原版ドラフト会議」でしょうか。懲罰として廓勤めをさせられた売女も、享保六年(1721年)以降は、懲罰期間が5年に、さらに短縮され3年とされ、それをすぎた後は自由の身となったそうであります。  
また、稿を改めまして申しますが、この湯女(岡場所)から検挙して、吉原で働かせるのが、遊女の供給源としてはバカに出来なかった数がいるのだそうですよ。 
岡っ引に岡惚れ、岡場所って?  
さあ、これから時代劇でもよく耳にする「岡場所」というのを覗いてみよう、と思っているのでありますが、その前に「岡場所」ってなんでしょうね? ええ、ほかにも「岡」のつく言葉はありますよ。岡っ引に岡惚れなんて言う言葉も、同じ「岡」がつくのであります。が、岡田さんや岡山県の「岡」とは違う意味なのでありましょう。  
この「岡」というは、「正規でない、本当でない」という意味があるのだそうです。官許の吉原遊郭に対して私娼窟である場所は、正規の許可を受けてないので「岡場所」なのでありますな。『銭形平次』や『人形左七』という岡っ引はといえば、幕府公認の捕吏ではなく、与力・同心が個人的に使用している人間だったので、「岡」がついているのですよ。ですからね、「おりゃぁ、岡引の平次というもんだが」というのは決して自分では言わない台詞なんですな。むしろ、「岡引」ということで蔑んでるわけですよ。正しくは「目明し」「御用聞き」、京阪ですと「口問い」とも言ったそうです。  
そういや、『岡サーファー』なんてのもありましたっけね。これもまた「サーフィンをしない格好だけのサーファー」の意味ですから、この「岡」も伝統にのっとった名づけ方なんでしょうか? 誰が付けたんだろう? 江戸人かな……。  
さて、このような厳格な言葉の使い分けというのは、ほかにもあったのだそうですが、今覚えておいて欲しいのは、「遊女」と「売女」でありましょうか。  
「ええい、この売女(ばいた)が……」ビシッ、バシッ、ピンピンピン……。  
「お、お前さん……許しとくれ。わたしが……わたしが悪かったんだよ、つい魔が差しちまったんだよぅ……うっううう……」  
なんてのは、ちょっと昔の時代劇にあった場面ですが、今じゃこれも逆ばかり、男が情けなくなりましたねぇ。えっ、おまえんとこはどうだって? ご同輩、聞いちゃいけませんよ。たぶん、お宅と一緒ですよ。それじゃぁ、悲しいもの同士、沢田研二『カサブランカ・ダンディー』でも歌っちゃいましょうかねぇ。  
話は脱線いたしましたが、「売女」(ばいた)は辞書を引きますと「売春婦、遊女。またはそれらをさげすんで言う言葉」とありますが、ここでは素直に「ばいじょ」といいましょうか。  
官許「吉原遊郭」で働く女を「遊女」とはいいますが、「売女」とは言わない、と記した文献があります。確かに「吉原遊郭は売春ではなく一夜の夢を売る場所である」と申し上げたと思います。その点では恋遊びの相手「遊女」という言葉は、ピッタリとはまるのでありますが、岡場所に働く女は、客の選り好みをしない(客を断らない)、擬似恋愛などに時間をかけない、単純に体をひさぐという点では「売女」という言葉が適しているのかもしれません。  
この「遊女」と「売女」の使い分けなんぞ、ちょっと辛い区別があったもんだと胸が痛くなるのでありました。だってそうでしょう、ゴールは一緒じゃないですか? ゴールは。えっ、この考え方が野暮天なんだって……、おっしゃる通りです、ハイ! 
ど〜して岡場所が必要なの?  
確かにそーであります。吉原遊郭というワンダーランドがありながら、岡場所なんていう私娼窟がなぜ必要なのかというのは、はなはだ疑問でありますな。  
まず、思い出していただきたいのが吉原遊郭の格式の高さであります。遊びは売春ではなく擬似恋愛、遊女が気に入らなければ客の意に沿わぬこともある。「お床入り」までにはさまざまな儀式とでも言いたくなる決め事をこなさなくてはならない。加えてその費用の目玉が飛び出るような高さ。一般庶民の年収を上回る金額が必要になるというと、わたしのような人間には手が出ない世界でもあるんですな。お父さんだってそうでしょう。他人様の財布で銀座はあるけど、自腹で銀座豪遊という経験はないのではありませんか?  
そして何より、浅草田圃のど真ん中、北国(ほっこく)と呼ばれた江戸の北はずれに移転し、歩いて行くにはちょっと遠すぎる地理的影響は大だったのであります。遠くて高くて、格式が高くての吉原遊郭に行きたいことは行きたいが、そこは「安近楽」な岡場所で済まそうという発想は、現代不況化の旅行事情とそっくりではありませんか。  
まあ、いろいろと申し上げましたが「もっとも重大な理由は?」と申しますと、やっぱりアレが好きだからということになるんでしょうか。目くじらを立てちゃいけませんよ、お母さん! 灯火も高価だったこの時代、日暮れからの楽しみと言ったら、そうそう選択の余地はなかったのでありますから、ねぇ。 

 

お江戸岡場所案内  
さて、お待ちどうさまでございました。ここで一気に「お江戸岡場所一覧」をご紹介させていただきましょう! この底本は樋口清之著『江戸性風俗夜話』(河出文庫)であります。さらに、『別冊歴史読本 江戸のエロス』が引用したものを、すっかり孫引きせていただきましょう。  
深川 / 三十三間堂、古石場、新石場、佃、網打場、表櫓、裏櫓、裾つき、たび、あたけ、土橋、直助長屋、入船町、仲町、大新地、小新地、之堀  
本所地区 / 亀沢町、弁天、入江町、本所大下、松井町、六尺長屋、大徳院前、回向院前、六軒。  
浅草 / 柳ノ下、新鳥越、堂前、朝鮮長屋、三島門前、浅草広小路、駒形、田原町三丁目、三好町、金竜寺前、門跡前、竹町、新寺町、どぶ店、元徳寺前、万福寺、馬道、知楽院門前。  
日本橋 / 大橋、元吉原、こんにゃく島、あさり河岸、中州、新大橋  
神田 / 麦飯、市兵衛町、やぶ下、高稲荷。  
市ヶ谷四ツ谷 / 市ヶ谷八幡、ぢく谷、さめが橋、あいきょう稲荷  
音羽赤城下 / 桜木町、赤城、音羽、音羽裏町、ねずみ坂、新長屋、行願坂  
谷中根津 / 宮永町、門前町、いろは。  
芝 / 神明、三角、同朋町、赤羽根、いなり堂、根芋、高輪中町  
上野本郷 / 山下、大根畑、新畠  
白山 / 白山、丸山、千駄木  
青山 / 氷川、高井戸、青山  
麹町 / 大橋内柳町、鎌倉河岸、麹町八丁目  
千住 / 小塚原  
いや〜、あるある! 全部で88ヵ所、巡礼できるくらい。これじゃ江戸全部が岡場所に見えてきますよ。ここに記されたのは、記録に残っている岡場所だけで、ほかに素人売春、流しの売春、隠し淫売などを加えたら、ものすごい数になりますねぇ。江戸で暮らすってことが、どんなに性を身近に感じなくてはいけなかったのか、改めて分かった次第であります。  
さて、数は分かりましたが人数も気になるところであります。江戸の別天地、深川の最盛期といわれる安永年間(1772〜1780)に深川仲町には娼婦も兼ねた羽織芸者が144人いたそうであります。  
同じく土橋には娼妓115人、表櫓、裏櫓には歌妓、娼妓あわせて120人ずつ。裾つきには44人、新地に103人、古石場に24人、新石場約70人、深川全体では最盛期の合計800人以上の芸者、娼妓がいたというではありませんか。深川だけでこの数ですから、吉原遊郭に4000人、岡場所に4000人、江戸四宿と言われる品川、千住、内藤新宿、板橋に2000人以上いたとすると、その数おどろくなかれ1万人の風俗産業に従事していた女性がいたわけです。  
この数がどれほど凄いのかといえば、江戸の総人口は男女、武家、町人、僧侶の区別なく合計して110万人くらい、近郊人口を加えて120万人と考えますと、総人口100人に1人が娼婦。この総人口の45%が女性であったわけですから、およそ45人に1人が娼婦でありますよ。 信じられますか、お父さん! いやはや……、とんだ売春都市であったんですなぁ。 
江戸性風俗版『地球の歩き方』だって?  
聞くところによりますと、アメリカ人というのは、何でもランキングするのが好きなんだそうですね。そういえば日本の金融機関が格付けを落とされて、信用度ががた落ちし、資金調達が困難になったため倒産、などと言う話を聞いたのは、つい最近のことでありました。  
本邦やいかに? と国内を見れば、またランキングは大好きなようですし、江戸時代は現代よりももっと好きだったようであります。まあ、さすがに江戸時代に「ランキング」なんてシャレた言葉は使いませんでしたが、「番付」と言っていたのであります。よく見りゃ、相撲番付もちゃんとしたランキングになっているじゃありませんか。  
ことが色事となると、その道に血道を上げる熱心な方がやはりおりまして、そういった方が自身の研究成果を発表するのに、ランキング形式の「番付」を作ったのでありました。  
東洲斎写楽や喜多川歌麿といった江戸の浮世絵師を発掘したことで有名な蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)という浮世絵の版元が身代を起こしたのは、『吉原細見』という吉原の遊女ランキング兼ガイドブックなのでありました。参勤交代で江戸に来た武士や商用でやってきた町人にとっても吉原遊郭は、必ず行きたい観光地であったのです。しかし、右も左も分からぬ吉原遊郭となると、不案内な上に懐具合の心配もひとしおなのでありました。このとき、役に立つのが『吉原細見』! ひと目で、どこになんと言う遊女がいて、ランクはどれくらい、花代はいくら、と事細かに情報満載。役だった上に、最後は故郷への土産にもなる便利物。そういった「おのぼりさん」に『吉原細見』はバカ売れしたのでありました。いうなれば、吉原遊郭を目指す「スケベパワー」が蔦屋重三郎の身代を作り、写楽、歌麿を輩出した源になったのであります。ちょっと、飛躍しすぎかな?  
「じゃあ、岡場所のは?」といいますと、やっぱりあったのです。  
『大江戸遊里番付』  
上品上生之部 新吉原 馬道  
上品下生之部 品川 一ツ目 回向院前  
中品上生之部 深川表櫓 深川裏櫓 深川裾つき 四ツ谷新宿 芝浦明地内 南品川 牛込行願寺  
中品中生之部 深川佃 深川新大橋 深新地 深川石置場 八幡御旅屋 築地新地 市ヶ谷八幡 三田同朋町 大根畠 浅草柳下 上野山下  
中品下生之部 三十三間堂 音羽町 深川入船町 市ヶ谷愛敬 赤阪田町 三田新地 市ヶ谷いろは 麻布藪下 板橋 浅草どぶ店 世尊院門前 根津 千住  
下品上生之部 朝鮮長屋 音羽裏町 品川三丁目 万福寺門前 本郷 大橋六間堀 麻布市兵衛町 赤坂田町  
以下、まだまだ続くのでありますが、切りがないのでここまでにしますが、好き者が集まっては議論に明け暮れたのでありましょうか。さすがに、売女ひとりひとりについてまで、書かれたものはあったかどうか分かりませんが、どこへ行けば、どのランクの遊びが出来たかは、しっかり分かったのでありますな。  
何より驚くのは上品上生之部に官許新吉原と並び、岡場所馬道が堂々ランク付けされていることであります。まあ、現代的に言えば☆☆☆☆☆の5つ星であります。しかも吉原より「安くて、近くて、気楽に」遊べるのですから、岡場所だからといって侮れない存在であったのであります。 
鬼より怖い「けいどう」とは、これいかに?  
官許「吉原遊郭」の最大のライバルと言えば、もちろん江戸市中に点在する「岡場所」であることはお分かりいただけたと思います。「安くて・近くて・気楽に遊べて」という岡場所はますます吉原の目の上のタンコブと成長するのであります。  
これを吉原が黙っているはずがありません。吉原は官許の遊郭として幕府に莫大な運上金、早い話が法人税を支払っているのであります。「もぐり」業者である岡場所の伸張は根幹を揺るがす死活問題なのであります。  
そこで登場するのが「けいどう」であります。主に「警動」と字を宛てますが「驚動、傾動、怪動、刑道」などとも宛てるそうであります。  
官許吉原遊郭は、目に余る繁盛振りをみせる岡場所があると、町奉行に「お恐れながら……」と訴え出るわけであります。すると、町奉行配下、同心などが一斉検挙に向かうわけでありますが、これには吉原よりも『忘八(くつわ)』という吉原遊郭の強面も同行したようであります。  
ちなみにこの『忘八』、『南総里見八犬伝』でもお馴染みの『仁、義、礼、智、忠、信、考、悌』という人の道に必要な八つの教えを忘れた外道な人間、という意味でありまして、それほどに怖い存在だったのでありました。普段は遊郭内で酒を飲み、博打を打ち、ぶらぶらしているだけの存在でありますが、遊女が足抜きをしたときに捕まえる、またそのあとの凄惨な仕置き、と言うときになると、俄然この忘八がしゃしゃり出てくる、言ってみれば「吉原の裏の顔」なのでありました。  
さて「警動」であります。  
出動して営業を差し止めるだけのことではないことは、本稿冒頭にお話した通りであります。そうです、売女を『奴刑(やっこけい)』という強制労働刑に処して吉原遊郭で働かせるという大目的が、この「警動」にはあったのであります。ですから、あまりにも評判が立つような売女は、かえって吉原の標的にされ、岡場所の首を絞める存在にもなったのでありましょうな。逆にいえば、吉原としては評判が立つまで待ってから、一気に接収するほうが、宣伝効果もあり好都合でもあったのでありましょう。 
ご婦人も通ったと言う「陰間茶屋」  
ありきたりな女遊びにはもう飽きた、とおっしゃる「通な」お父さんのために、ちょっと毛色の違った世界をご案内いたしましょうか? ええ、もう一度覚えたら病み付きになるって評判の遊びなのであります。  
その名も『陰間茶屋』、ちょっと淫靡な感じがいいでしょう? この名前の起こりは、日本史の教科書にも出てきた「出雲の阿国」がはじめたという歌舞伎にあるそうであります。この世界では舞台に上がる出演者を「舞台子」とか「色子」と呼ぶそうで、その一方、舞台には上がれない見習者を「陰子」とか、俗には「陰間」と呼んだのでありました。この「陰間」、舞台にも上がれないような半人前でありますから、当然賃金はないに等しいわけで、アルバイトをしなくては喰って行けないのであります。そこで出かけて行ったアルバイト先が、宴席で踊ったり、歌ったりしたのでありますが、そこは舞台を目指す美少年たちであります。客の要求はより過激になってゆき、ついには同衾、枕席のお相手となったのであります。  
つまり、この『陰間茶屋』というやつは男色専門店、「モーホーさんのお店」だったのであります。  
起源が歌舞伎なだけあって、もっとも陰間茶屋が集まった場所は、元々芝居町として有名であった堺町の近く、芳町というところでありました。ここには100人もの男娼がいたといいます。いやはや、あまり興味のない、いやいやまったく興味のないわたしなんか、100人ものオカマが……と思っただけで、ご勘弁願いたい気持ちでありますが、結構好かれるタイプなのであります、わたくしは……。  
ほかにも、木挽町、塗師町、神田花房町、芝明神前、湯島天神前、麹町天神前と江戸には7ヵ所の男娼窟があったといいますが、規模は芳町が最大であったのであります。  
ごく初期には、紅白粉で化粧に、緋縮緬の腰巻などをして、中性的な雰囲気を売り物にしていたのでありますが、江戸も中期に差しかかるまでには、男女の見分けもつかないものになっていた、というのですから妖艶であったのでありましょう。  
それもそのはずで、日光には一切当らないよう外出するときは昼といわず夜であっても常に笠をかぶり顔を隠し、日頃から香り豊かなようにと、香りの良いものしか口にしないなど、女性以上に日頃の精進を怠らなかったというくらいですから。  
さらに、この陰間のなり手でありますが、こちら方面に元々趣味がある男ばかりではなかったようであります。武家の次男、三男といった婿養子の口でもない限り、一生を部屋住みとして兄の厄介者として過ごさなくてはならない少年たちの、手っ取り早い職業としても、陰間はあったというのであります。  
これもまた、遊女、売女の陰に隠れ、悲しい男の生き方でもあったのであります。  
さて、今度はその陰間の買い手でありますが、江戸に7ヵ所あったという町名を見てピンときませんでしょうか? そうなんです。「門前町」という寺の前に広がった町に陰間茶屋はあったのであります。さらに言えば、お客は陰間茶屋の隠語で「タコ」と呼ばれた僧侶が一番多かったのでありいます。  
聞くところによれば、僧侶という世界は「色即是空」でありまして、女性関係はご法度。露見すれば仕置き場で晒し者の刑が待っているのでありました。また、寺院の中は男ばかり、ここで先輩から後輩へ綿々と男色を仕込まれていたというのですから、すさまじいですな。男色を覚えることが、僧侶の登竜門となっていた、なんて話もあるくらいで、わたしゃ僧侶にはなりたくないですな。  
さて、タイトルにもありました通り、陰間茶屋にはご婦人も通われたそうであります。どこのご婦人かといえば、「やんごとなき高貴な場所でお勤めの方」であります。えっ、それじゃ分からないって? では岸田今日子ナレーションで、  
「男子禁制の女の花園でございます大奥では……」  
というところであります。この『大奥丸秘物語』なんて知っている人も少なくなったでしょうか? さて、この大奥というところはまったくの男子禁制。完全寮制の女子校みたいなもんで、一ヵ月いても、男1人見ることもない世界であります。しかも、大奥の存在理由というものは徳川将軍家の血筋を絶やさないため、そのためには将軍のお手が付くよう着飾った世界であります。言うなれば、将軍専用「吉原遊郭」なのであります。  
このような閉鎖社会でありますから、ホモの僧侶と双璧なレズ社会であったという噂は庶民の好奇の目を集めたのであります。お父さん、このくだりになったら目の輝きが違ってきましたねぇ。  
月に一度の墓参りなどの宿下がりに、そっお忍びで陰間茶屋をご堪能されたようでありまして、しばしば、女性専用の駕篭が陰間茶屋に止まっていたと、あれやこれやの本には騒がれていたのであります。  
付け加えるなら、陰間茶屋に就職しようというのでしたら、宮本武蔵よろしく二刀流でなくてはいけなかったのでありましょうか。 
地獄買い  
やっぱり男はなぁ……、と喰わず嫌いのお父さんには、それじゃぁ『地獄買い』にでもお連れしましょう。えっ、男娼の次は地獄かって? まあまあ、そう言わずに『地獄』の由来でも聞いてくださいな。  
『近世風俗誌』という江戸時代の風俗を解説した本がありまして、その本によりますと「或物の本伝、俗に売女に非ざる者と地者或いは素人とも云、其他ものと極密々にて売女するが故に地獄と云也」とあるのです。お分かりでありましょうか? 地者つまり素人をごく密かに売るので地者の「地」とごくひそかにの「極」をつなげて『地獄』というのであります。つまり、本項では素人売春をご紹介するのであります。  
いちおう、別説もご紹介しておきましょうか。  
この地獄宿に行き、暖簾をくぐりますと、「いらっしゃいまし、さあさあ、お二階に」と、出迎えてくれるのであります。この「お二階に」の字を変えまして「鬼買いに」となり、「鬼がいるのは地獄に違いない」というので「地獄」という。もう1つ、遊女、売女は首から上を白く化粧していたのでありますが、この素人売春はそんな化粧はしなかったのだそうです。つまり、首から上も暗い。暗いは「奈落の底」のイメージにつながり、奈落の底は地獄のイメージにつながったというのでありますが、どれもこれもシャレや言葉遊びという江戸っ子の好きなものばかりです。  
現代でいえば、「援助交際」「エンコー」なんて言うそうでありますが、まあ、そん感じでありましょうか。女性の就ける職業といったら、サービス業しかなかった江戸の世にあっても「手っ取り早く大金が欲しい」となると、やっぱり性風俗産業へと走るのも、現代とまったく変わりゃしないのですな。  
この地獄には、もちろん江戸市中のどこにでもいそうな娘や女房、近郊農家の娘など、いろいろな娘が人目をはばかりながらも、働いたそうであります。  
プロフェッショナルなサービスに飽きた通人などが、技巧馴れしない『ムフフ…』や、不倫の雰囲気を楽しみに通ったという地獄でありますが、意外と金額は高く上は金一分(一両の1/4)、下でも二朱(一両の1/16)であったといいます。並大工の月収が一両余りあったことからも、ちょっと手が出しにくい高額な遊びであったわけであります。 

 

芸者だって負けちゃいません!  
素人売春が、こんな調子ですと、プロだって負けるわけにはいきません。といって、何を勝ち負け言ってるんだといわれると困るのですが……。  
江戸の性風俗の最前線に立っていたのが遊女、売女であるとするならば、芸者はその後方支援部隊といった役回りが本来あったのだと思います。というのも、芸者とは酒席にはべり、歌や踊り、楽器の演奏を担当したのであります。吉原にも、ちゃんと芸者はいましたが、これはやはり酒席に出るのみで同衾は禁じられた存在でありました。  
ところが、江戸城の南東、辰巳の方角にある江戸の新開地、深川の芸者はこの一線を踏み越えて、同衾まで行うようになったのであります。  
現代でも、競争が激しくなると、サービス競争、価格競争が勃発するように、江戸でも辰巳芸者が過剰サービス化し、性風俗戦線の最前線に立つようになったとは、江戸も中期になってからのことでありました。  
意地と張りが自慢の辰巳芸者、または男風に黒羽織を羽織っていたことから、「羽織芸者」などといわれる深川の芸者でありますが、この中で売春をする芸者を「女郎芸者」、または「転び芸者」といったそうであります。  
この「転び」というのは、古くはキリシタン禁制の折、キリスト教を捨てたものを「転びバテレン」と言ったのと同じに、少々蔑んだ意味合いのある言葉でありまして、「相手の要求に屈した」または「客に求められるとすぐに寝転ぶ」が語源と思っていただければ間違いないかと思います。  
さらに、さげすみますと「けころ」、字を宛てますと「蹴転」というようになり、一回の花代(売春代)が200文、当時一杯十六文といわれた蕎麦代を「立ち喰いそば」のかかくとしますと、だいたい5,000円ほどのリーズナブルな価格ですから、数をこなさないといけないことから、泊り客を断り、一夜に何人もの客の相手をしたという、芸者から完全に売春にシフトしきった存在もいたのであります。主に、江戸の繁華街であります、浅草や下谷にいたそうです。  
さて、もう一つ「昆布巻き芸者」も付け加えておきましょうか。  
なぜ、「昆布巻き」というかがまた面白いのであります。  
最近でも成人式に着物を着る女性は多いようでありますが、この成人式を「性人式」にしてしまう不埒者もいるようでして、その前後の日になりますとラブホテルには「着物の着付けいたします」の張り紙が出るそうですね。いえいえ、わたしはまったく縁のなかった口でありまして、これについては伝聞にしか過ぎません。  
売春をする芸者は、元から着物をゆるく着ていて、いつでも客の求めに応じられるようにしていたそうでありますが、帯だけはゆるく結んで起きますと、歩いているうちに、スルスルと落ちてしまうんでありましょう。そうゆるく結ぶことが出来ないんでしょうな。て言いますと、勘のよいお父さんならすぐ分かるかと思いますが、上を剥き、下を広げると、帯だけが「昆布〆」のように裸体に残ることから「昆布巻き芸者」と言ったそうであります。ちなみに、ありがたくも帯まで解き、全裸になる芸者を「夏蜜柑」といったそうです。うまいこと言いますねぇ。すっかり剥いてプリプリした蜜柑が出てくりゃいいですが、喰い残しみたいな「皺もの」が出てきた日には、「ああ、昆布巻きにしときゃ良かった」と溜息が出たのでしょうか。 
山猫・金猫・銀猫  
江戸も中頃になりますと、芸者そのものを「猫」と言ったそうであります。「猫」といえば聞こえは言いようですが、「寝子」をもじって「猫」と字を宛てたそうですから、当時の芸者の多くが売春をしていたことが分かりますな。  
そう言えば、現代でもホモセクシャルやレスビアンの世界では、男役を「タチ」、女役を「ネコ」と呼んでいると耳にしたことがありますが、語源は一緒なのでしょうかね?  
さてさて、すっかり芸者も売春業に精を出すようになりますと、やはり検挙が怖いわけであります。芸者といえども唯一の官許「吉原遊郭」以外はすべて、非合法売春なのであります。この売春での検挙は「奴刑」として吉原遊郭で年季奉公を勤め上げなくてはなりません。当然、労働の対価としての収入なんて、期待できないのであります。なんとか法の目を潜り抜けて行こうとするもの、それを規制しようとする町奉行所、こうなれば「いたちごっこ」です。知恵の比べあいです。  
ところが、江戸には町奉行所の手の届かない場所がけっこうあったのでありました。法の盲点というやつですな。それはどこかというと、寺社奉行の管轄地であります、寺社の門前に広がる門前町なのでありました。ホモの巣窟と化していた宗教界であっても、江戸の人々の信仰を集めていたのであります。寺社に参詣することは日常的なことであり、門前には町が開けていたのであります。この門前町の警察権を含めて管轄していたのは、寺社奉行なのであります。町奉行よりも格が上の奉行なのであります。つまり、町奉行配下の役人不入の地、つまりアンタッチャブル、越権の地だったのであります。この辺、ややこしいのですが、江戸末期になりますと門前町が町奉行の管轄に組み入れられるのでありますが、目に余る荒廃ぶりだったのでありましょうなぁ。  
その寺ですが、どこも「××山」という名称を持っていまして、山に住む猫を「山猫」、つまり町奉行所の手の届かない門前町で商売していた芸者を「山猫」と言ったそうであります。  
また、金猫・銀猫というのはその代金をあらわすのでありまして、「金猫」は金一分(一両の1/4)、「銀猫」は銀二朱(一両の1/16)と決まっていたそうであります。  
ここまでくると、売女とまったく区別がない、としか言いようがありません。 
江戸時代のセーラー服願望か? 比丘尼茶屋  
「落書きするな」とかいてある壁には、必ず落書きが書いてありますが、あれって、人間の本能なんでしょうか? 「だ・め・よ」といわれりゃ、ますますその気になるっていうのは……。  
本項でご紹介します『比丘尼茶屋』というのは、やはりそれと同じものなんでしょうか。比丘尼といいますのは、簡単に言えば「尼さん」であります。剃髪し、墨染めの法衣を纏って仏に仕えるのが比丘尼の本分でありますが、これに茶屋が付きますと、立派な売春宿になってしまうのであります。  
ものの本によりますと、白という色は清純、潔白、純血を表し、黒という色は戒めを表しているのだそうです。現代のわたしたちが、黒に近い紺色のセーラー服に白いスカーフという取り合せや、喪服の薄幸そうな未亡人に、ちょっとした色気を感じるというのも、この白と黒のせいなのかもしれませんね。  
江戸の方々も、禁欲の世界にいる比丘尼という存在に、ある種の特別な感情を抱いたようであります。江戸初期には、もう比丘尼売春があったと記述が残っているそうであります。  
時代が下って行きますと、この比丘尼、化粧をし、縮緬の頭巾までするようになったのであります。こうなると、比丘尼というコスチュームのみの売女でありまして、『ムフフ……』の最中に頭巾が取れてみると、ちゃんと髪の毛があった、という話まであるくらいなのでした。  
まあ、このあたり、現代でもコスチュームプレーというのがあるそうですから、男なんてまったく進歩がない生き物なんですなぁ、ご同輩。ところで、比丘尼だったら、看護婦の方がムラムラっとくるタイプですか、それともスチュワーデス?  
そうそう、重要なことをお話するのを忘れてました。  
この比丘尼、僧形でありますから町奉行所には捕まらないのです。普段は市中を回って取締りを行わない寺社奉行の管轄でありましたから、取締り逃れに比丘尼の格好をしていたとも言えなくはありません。 
売春婦デリバリーサービス  
江戸というところはたいへん便利なところでありまして、長屋で待っていれば、天秤棒を担いだ行商が、米や魚、油に薬となんでも売りに来てくれたのでありました。その点では、わたしみたいなぐ〜たらには持って来いの場所だったのであります。う〜む、残念だぁ。  
売女にしても、ベルトコンベア―で運ばれてくるようにして、居ながらにして買うことが出来たのでありました。もちろん、「え〜、ご町内の皆様、毎度お騒がせいたしております売女でござぁい。売春はいかがでしょうか〜」と来るわけはありません。そんなことしたら、一発で女房にバレちゃいますよ、じゃなかった捕まっちゃいます。  
そこは変装して来るのでありました。  
たとえば「枝豆売り」です。この時代、枝豆は庶民のスナックであったので、酒のつまみや、ちょっと小腹が空いたとき、ぽんぽんと口にするものでした。この枝豆売りに化けて、というか実際にも売るのですが、買い手があると家の中までお届に参上して、『ムフフ……』もサービスしていたのであります。  
もちろん、枝豆が一年中あったわけじゃありません。季節によっては、草餅売りであったり、それぞれの季節にあった物を『ムフフ……』とセット販売して歩いたのでありました。しかも料金は格安、明朗会計! ちゃんと「枝豆代××文、サービス料××文」と取っていたという、業界の鏡みたいな料金設定であったといいますから、現代も見習ってもらいたいものであります。  
これの主な客筋は、参勤交代で江戸に来ている下級武士で、屋敷から外には出られないときなどは、小窓からこのデリバリーサービスを呼び入れたそうであります。 
買ってはいけない  
そういえば、昨年でしたか『買ってはいけない!』という本がベストセラーになりましたっけ。なんでも、一見安全そうに見えるものでも、実は人体に有害な添加物を多量に含んでいる商品を批判した本だったと記憶にあります。確かに、目に見えないものって言うのは、どんな危険があるのか分からなくて、困ったものですなぁ。  
そう言えば、江戸時代にも「買ってはいけない」ものが、ワンサカあったのであります。えっ、急にまじめな話をするなって? 大丈夫であります。不肖、周五郎、そこは生真面目にスケベでありますから、本線をはずしておりません、ハイ。  
昨年はピルが解禁されたのでありますが、エイズ予防の観点からも、コンドームの使用を奨励する向きもあるようですな。第参夜でお話する予定でありますが、江戸時代には避妊具というものがありませんでした。ですから、中条流という堕胎専門の医師がいたり、産婆が堕胎も受け持ったりとしたのでありますが、やはり困ったのは性病感染だったのであります。  
特に梅毒は江戸時代には非常に蔓延していたようであります。もちろん、性風俗の最前線におります遊女、売女はその危険に毎日さらされ、迷信に「昆布を食べると予防になる」と、好んで昆布を食べたりもしたそうであります。  
さて、元々中南米はハイチ島の風土病であった梅毒が、コロンブス一行によってヨーロッパに持ち込まれ、日本にやってきたのは永正9年(1512年)で、わずかコロンブスから20年でやって来たというのですから、「人類は一家みな兄弟」もまんざらウソじゃなかったようであります。しかし、早い! 交通期間が帆船しかなかったこの時代、驚くべき速さで来日し、また驚くべき速さで国内に蔓延していったのでありました。  
江戸も末、『解体新書』で有名な杉田玄白の晩年の回想によりますと「年間の診察患者数1000人のうち、700〜800人は梅毒であった。それが40〜50年間も続いた」というのであります。いや〜、これを聞くと「江戸で遊ぼう!」という気が一気に萎えるじゃありませんか。晩年の坂本竜馬も、梅毒で髪の毛が抜けていたという話ですから、颯爽としたイメージとは裏腹に、お安い買春をしてしまったのでありましょうな。  
先に『岡場所番付』を記しましたが、これがランクが下がるにしたがって、梅毒に感染した売女がいる確率がグングン上がるのだそうであります。というのも、やはり一晩に何人もの客を取り、前の客の湿気が残っている夜具を使いまわしに使うことに原因があったそうであります。衛生という観念が広まるのは後年のことでありますから、致し方ないといえばそれまでですが、他人の肌のぬくもりが残る夜具に入るのは、ちょっと気が進みませんね。  
特にこの時代、梅毒の有効な治療法は確立されておらず、一度罹ってしまえば完治は及ばなかったというのですから、怖いったらありゃしない。  
では、江戸性風俗版『買ってはいけない!』を発表します。  
船饅頭  
これは、船に乗って売女をデリバリーする売春です。男と女が一組になり、小船を操り、おもに水夫を相手に商売をしていました。なんせ、職業別罹患率では抜群にトップである水夫を一晩に何人も相手にしていたのでありますから、梅毒の温床といっても過言じゃないでしょう。ただし料金は安く、交渉次第の面もあったようですが、現代の価値で1000〜3000円が相場であったようです。  
夜鷹  
これも危険! できればバイオハザードで隔離が正解でしょう。というのも、夜鷹という売女になるには、おおかた転落の人生があったのであります。たとえば、元遊女なども夜鷹にはいたそうでありますが、遊女であっても梅毒の症状が出てしまうと、お客は避けて通るのが当たり前です。すると、吉原からポイでありまして、ほかに生業を知らない遊女でありますから、自然と夜鷹になってしまうケースも多かったようです。この夜鷹、どれほど危険だったかといいますと、「付け鼻」をした者もかなりいたというのですから、船饅頭と双璧の病原体状態だったのでしょう。しかし、こちらも格安! もちろん交渉次第でありますが、だいたい現在の貨幣にして500円から、しかも「お土産付き」であります。お土産の内容は、もちろん性病であります。笑ってる場合じゃありませんが……。  
ようするに、一見割安感のある、料金格安の売女に手を出すと必ずといっていい確率で、「お土産」が付いて来るのであります。つまり、ケチなこといわずに、ぽ〜んと金離れ良く遊ばなきゃ病気になるぞ! という結論なのでありました。 
 
 
魚河岸の歴史

 

 
 
 
 
頭上を高速道路におおわれた日本橋。痛々しいばかりの景観に、昔を知る人は、かつての面影がすっかり失われてしまったことを嘆きます。広重の錦絵に描く川面を船が行き交い、遠景に浮かぶ富士を望むなんて風情は、もはや想像すらかないませんし、泉鏡花の『日本橋』に登場するガス燈にぼうっと浮かび上がる幻想的な町並、あるいはそんな昔のことでなくとも、チンチン電車の音ものどかな昭和の風景だって、どれもかつてはここにあったものばかりなのに、まるで別の世界のお話みたいになりました。  
でも、この場所が確かにお江戸の中心だったことをしめす証が今も残っています。  
橋の北詰に乙姫さまの像が建っているのをご存知でしょうか。それは忙しく車の行き交うなかにひっそりとしているから、道行く人が気づくことすら稀だと思いますが、この像こそかつてこの地に栄えた魚河岸の痕跡をとどめるものなのです。  
現在の築地魚市場はその昔、ここ日本橋にありました。江戸が開かれたころから大正時代までの三百年あまり、商業の中心地にあってとりわけ活況を呈した日本橋魚河岸の在りし日を偲ぶために、昭和二十九年にこの像は建設されました。もしも私たちのご先祖の活気に満ちた情景を想い描きたくなったなら、足を止めて乙姫さまの前に立ってみて下さい。そこには魚河岸の由来を記した記念碑が刻まれています。  
本船町小田原町安針町等の間悉く鮮魚の肆(いちぐち)なり。遠近の浦々より海陸のけぢめもなく鮮魚をここへ運送して、日夜に市を立て甚賑へりと江戸名所図会にのこれる日本橋の魚市魚河岸のありしはこのあたりなり。旧記によればその濫觴(らんしょう)は遠く天正年間、徳川家康の関東入国と共に、摂津の国西成郡佃大和田両村の漁夫三十余名、江戸にうつり住み、幕府の膳所に供するの目的に漁業営みしに出づ。その後慶長のころほひ幕府に納めし残余の品を以って、これを一般に販売するに至り、漁るもの商ふものの別おのづからここに生じ、市場の形態漸く整ふ。さらに天和貞享とすすみて諸国各産地との取引ひろくひらけ、従ってその入荷量の膨張驚くべきものあり。かくしてやがて明治維新の変革に堪へ、大正十二年関東大震災の後をうけて、京橋築地の移転せざるのやむなきにいたるまで、その間じつに三百余年、魚河岸は江戸及び東京に於ける屈指の問屋街としてまた江戸任侠精神発祥の地として、よく全国的の羨望信頼を克ちえつつ目もあやなる繁栄をほしいままにするをえたり。すなはちここにこの碑を建てる所以のもの。われらいたづらに去りゆける夢を追ふにあらず。ひとへに以てわれらの祖先のうちたてる文化をながく記念せんとするに外ならざるなり。  
東京に江戸のまことのしぐれかな  
昭和二十九年三月、旧日本橋魚市場関係者一同に代りて  
日本芸術院会員 久保田万太郎  
この碑文に魚河岸の本質が言いつくされているといっても過言ではないでしょう。魚河岸が幕府の御用魚を納めた残りを市中で売り出したのがそのはじめであること。また、単に規模の大きな市場であったばかりでなく、「江戸任侠発祥の地」とし、江戸民衆の精神的シンボルとなり得たことは、魚河岸の最も特徴的なことだからです。  
つまり、将軍家御用達に何よりも誇りを持ち、それをよりどころに独自の気骨に満ちた、鼻っ柱の強い気風が生まれ、「江戸っ子の見本」と言われるまでに定着した。お芝居に登場する魚河岸の兄ィたちは、みな一様に威勢が良くて義理固く、時にはちょっと軽率にも見えるくらいの行動力あふれる人物です。かれらは日本一繁盛している魚屋たちのうつし絵でもあるのでしょうが、同時に庶民の思い入れの具現化だったともいえます。御用魚を城内に届ける際には通行中の武士の列も道をゆずった、などという逸話に人びとは喝采を送りました。そこに反骨と侠気に満ちた魚河岸の兄ィのイメージを結んだのでしょう。  
また、一方で「朝千両」とも言われた魚河岸の繁盛ぶりが、財力にものを言わせて江戸文化のパトロンとしての役割を果たしました。たとえば歌舞伎の「助六」での総見であるとか、吉原での派手な金遣いなどがそれですが、寶井其角や杉山杉風(すぎやまさんぷう)らのように魚河岸の旦那衆が江戸の代表的文化人でもあるなど、江戸文化の担い手として一目置かれ、それが手きびしい江戸市民の信望を集め、シンボルのように扱われたという側面があったのではないでしょうか。  
いずれにしろ魚河岸の歴史を辿ることは、江戸から東京へと脈々と引き継がれる世相史をなぞることにもなりましょう。「江戸っ子」ということばには多少の軽薄の意も含まれるでしょうが、この郷土愛に満ちたことばの持つ心情の行方を探すとき、その代表格とされる魚河岸の生い立ちをみるのも、あながち的はずれではないように思います。  
そこで、かつての栄華の証として現在も日本橋のたもとに建つ魚河岸の記念碑乙姫像。あたかも煙のように消えてしまったかのような日本橋魚河岸の存在を示す唯一の証拠物件であるこの碑を、まずは足がかりとして、これから魚河岸の歴史を辿ってみることにいたしましょう。 
 
草創期の百年

 

 
 
魚河岸の創始者 森一族  
天正十八年(1590年)、徳川家康が江戸入りしました。この時、家康に従うように摂津国西成郡佃村(現在の大阪市淀川区佃町)の名主森孫右衛門が、佃及び隣村大和田村の漁師三十四名と共に江戸に出てきて、江戸向島(のちに佃島と名づけられます)を拝領するとともに、江戸近辺の海川の漁業権を与えられ、そのかわりに徳川家の御膳魚を納める役を仰せつかりました。そして、その後、納魚の余りを日本橋小田原河岸で販売したという、これが魚河岸のはじまりであり、森孫右衛門ら一族がその始祖といわれています。  
魚河岸の歴史的史料を伝える『日本橋魚市場沿革紀要』(以下『紀要』と略す)には、森一族が江戸に渡るに至った経緯が、くわしく記されておりますので、要約してみましょう。  
「天正年中(1573〜1593年)、家康公が上洛された折、住吉神社に参拝された。そのとき川を渡るのに渡し舟がなく難儀したが、安藤対馬守が佃村名主の孫右衛門に命じて、かれの支配の漁船で無事に川を渡ることができた。その際に孫右衛門の家に立ち寄りご休息なされたので、孫右衛門は古来より所持していた「開運石」を御覧に入れたところ、家康公は"この神石を所有することは開運の吉祥なり"と喜んで賞美し、差し上げた白湯を召し上がった。そして、屋敷内の大木の松三本を御覧になって、"木を三本合わせれば森となる。今後は森孫右衛門と名乗るがよかろう"と仰せになるので、ありがたくたまわった。  
その後、慶長四年(1599年)に家康公が伏見在城の際には御膳魚の調達につとめ、徳川軍が瀬戸内海や西国の海路を隠密に通行するときは命令があり、孫右衛門の漁船でとどこおりなく通行させるなどの手助けをしていたが、とくに慶長十九年(1614年)の大坂冬の陣、及び翌元和元年の同夏の陣では、付近の海上を偵察し、軍船を漁船に仕立てて毎日本陣へと報告した。  
この褒美として、佃村、大和田村の漁民に大阪城の焼け米を大量に下され、大坂表町屋敷地一万坪あまりを拝領される。しかし、この土地には持主があったため、両村の漁民らは困って、その旨を申し上げると"それはもっともなこと"となり、"何でも良いから他のことを願い出よ"とおっしゃるので、孫右衛門並びに漁民らは"江戸に出て末永く家康公にお仕えしとうございます"と申し出た」  
渡し舟、開運石、三本の松などのくだりは、いかにも伝説めいていて、あるいは後世にできあがったお話かもしれません。それに、森一族がどのような者であったかについて明らかにはされていないのですが、ただ、文中には何らかの軍事的な役割を果たしていることが示唆されています。そこには海上偵察とのみ記されていますが、広く江戸湾の漁業権を与えられるほどですから、戦国の世に徳川家と何らかの深いつながりがあったのではとも推測されてくるのです。  
そこで、森一族=海賊説というのが出てきます。  
『魚河岸百年』(以下『百年』と略す)では、かれらの起源を家康と結びつきの強かった海賊の一党ではなかったかとしています。  
海賊、すなわち当時瀬戸内海から西国の沿岸にかけて、強大な勢力をもった武装船団をもつかれらは、戦国大名と結びつき、武力を行使して海上交通、貿易を牛耳っていました。森一族はまさにその一党ではないかというのです。確かにそう考えれば家康のかれらに対する厚遇も理解できる気がします。ですが、その真偽を明らかにすることはできません。ここでは史料のとおり、魚河岸の創始者である森一族は西国からやってきた漁民だったとのみ確認しておきたいと思います。  
江戸に出てきた一族のうち、孫右衛門の長男である森九右衛門が将軍家への納魚をつとめるかたわら魚を販売し、これが魚河岸のはじまりとなります。そして、他の者は江戸湾で漁業を営みながら、海上の様子を幕府に報告する役目につきました。かれらは、後に佃島に住み、漁業に専念するようになります。 
森孫右衛門は二人いた?  
魚河岸の創始者とされる森孫右衛門について調べてみると、ある不思議な記述に行きあたります。かれの生没年についての謎です。築地本願寺に残っている墓碑には、寛文二年(1662年)没とあり、故郷の摂津佃村で九十四歳の長寿をまっとうしたことになっています。そこから逆算すれば、孫右衛門は永禄十二年(1569年)の生まれ。すると家康が多田の住吉神社へ参詣し、そこではじめて孫右衛門と会ったとされる天正十年(1582年)の時点では、かれはわずか十四歳にしかなってないことになります。いくらなんでも家康に謁見するには若すぎるようです。一方、『紀要』の家康との出会いを三十五歳とする方をとるなら、寛文二年には実に百十五歳となり、これもなかなか考えにくいことになります。  
この疑問について『日本橋魚市場の歴史』(以下『歴史』と略す)では、実は二人の森孫右衛門が存在したと推理しています。二人は父子で、天正十年に家康に会ったのは父孫右衛門の方。おそらく当時三十五歳前後で、子はまだ幼名でした。その後、江戸に渡った孫右衛門は子の方であったとしています。孫右衛門は庄屋としての名を世襲しますので、こうしたことは珍しくはありません。  
その仮説を裏付けるものとして、小田原町に店を開いたとされる孫右衛門の子九右衛門が、『紀要』では孫右衛門二男九右衛門と説明されたり、孫右衛門の長男なりという記述があったりと混同しているほか、別の書に弟九右衛門とする記述もあり、はなはだ矛盾するのですが、もしも父子孫右衛門が存在したなら、九右衛門は父孫右衛門からみれば二男であり、子の孫右衛門にとっては弟なので、すっきりと説明することができます。また、後年父子孫右衛門が一人の存在と解釈されるようになると、必然として九右衛門は長男ということになり、ここに長男、二男、弟とそれぞれの記録が残るようになったのではないかと思われるのです。  
いずれにしろ、その正体は海賊なのでは、といわれる森一族は、多くの謎につつまれた存在であり、そのぼやけた実像の向こうから魚河岸が生まれてきたのですから、実にミステリアスです。  
江戸の市街づくりと魚河岸のはじまり  
では、魚河岸のはじまりが何年のことかというと、はっきりとは断定できないものがあります。家康が江戸入りした当時、そこは東国の小都市、というよりも一寒村に過ぎないというありさまで、中世に大田道灌によって一時にぎわった城下町もすでにさびれ、荒廃した道灌居城の下には、数えるほどの漁村が点在するだけのまさに「空より広き武蔵野」が広がっているばかりでした。日本橋はもちろん掘割もなく、魚河岸の登場は、家康による江戸市街の建設が行われるまで待たねばならないわけです。  
初期の江戸づくりは、後に世界一の大都市にまで発展するその基礎となるものですから、ここで簡単に追ってみましょう。  
家康入国が天正十八年(1590年)八月一日。  
当時の江戸の地形は、現在の桜田、日比谷のあたりまで海に面していて、神田川は雑司ヶ谷と池袋と市ヶ谷の各方面からの流れが合流して大きな池をつくり、現在の溜池は、そのころは本当に大きな池で、赤坂一帯を水びたしにして、そこから桜田と日比谷を分断するように流れ込んでおりました。神田川と溜池からの流れの合流するところには大田道灌の居城があり、後にここに江戸城が築かれます。ここから海へとそそぐ川を平川と呼び、中世の昔より、この川のほとりには「四日市」の名で、四のつく日ごとに市がたち、商売の船などが行き来しては、諸国の名産が売買されていましたから、ここだけが唯一にぎやかな場所でした。北東に目を向けると、不忍池と思われるものは、現在の数倍の大きさがあり、さらに千束池と思われるものが、下谷から浅草の裏手まで広がっています。また、隅田川は石浜から浅草と牛島の間を抜けて湾にそそぎ、その川幅も広く、河口は大きく広がっておりました。  
つまり、その頃の江戸は川や池が深く入りくみ、陸地も湿地が多く葦が茂る原野。たとえば四谷は、そのころ四ツ家ヶ原といって、人家は梅屋、木屋、茶屋、布屋の四軒だけというくらいの寂しい土地だったのですから、今では想像もできないことです。  
家康がまず行ったのが江戸城の整備。といっても本格的なものでなく、居城の体裁を整える程度のものだったでしょう。このときには野武士のような強盗があらわれて悩まされたといいます。  
それから飲料水の確保のため、家臣の大久保忠行に命じて水源を調べさせます。忠行はさっそく井の頭の水源を見つけてきます。これがのちの井の頭上水で、工事を指揮した忠行には主水の名が与えられました。水なので濁らず主水(もんと)と読みます。  
さて、唯一の商業地域であった平川辺に、堀が引かれ河岸地が出来て町屋が開かれます。この地に将軍の侍医である道三法眼が住んでいたので、この堀を道三掘(どうさんぼり)、この一帯を道三河岸(どうさんがし)と呼びました。  
家康江戸入りの八年後の慶長三年(1598年)、豊臣秀吉逝去。さらに五年(1600年)には関ヶ原の戦いに石田三成を破り、いよいよ家康の天下となりますが、そんな矢先の翌六年十一月、城下より出火した火災は、せっかくつくりはじめた江戸の町を一軒残らず焼いてしまいます。多くの死者も出し、手痛い打撃を受けた家康は、市中の草葺屋根が火災を大きくしたと判断、草葺を板葺屋根に変えること命じました。それで後の市街づくりは、より堅固なものになるのですが、大火のたびに発展する江戸の基本パターンはすでにここからはじまっていたわけです。  
慶長八年(1603年)二月、家康は右大臣征夷大将軍に任ぜられ、名実共に天下人となりました。ここに江戸幕府が正式に発足。全国の大名に大号令を発し、一千石につき一人の役夫を差し出させる、いわゆる千石夫(せんごくふ)をかりだして、大規模な江戸市街の造営を開始します。  
膨大な人数と機動力によって、神田山を切り崩し、その土で日比谷の入江を埋め立て、そこに町屋をつくっていく。現在の日本橋も銀座もこのときに埋め立てられた土地です。  
翌九年には江戸城の本格普請。天守閣をいただき五層からなる壮麗な江戸城が築かれます。そうして、おおよそ寛永九年(1632年)までには、今の丸の内あたりに大名屋敷が整然と並び、日本橋から京橋にかけての城下町である下町ができあがる。江戸の基礎がすっかりと完成するのです。  
ここで魚河岸の成立年代ですが、先の『紀要』には、「慶長の頃に森九右衛門が、売場を日本橋本小田原に開設する」とあります。しかし、本小田原町は、慶長九年の江戸城普請の時に、小田原の石工善右衛門が親方となり、この地を石揚場として賜ったことから小田原町の名がつけられたのが、のちにこれが築地に移って南小田原町と唱えたため、こちらを本小田原町と呼ぶようになった。そういう場所と考えると、慶長九年の時点では、魚河岸は出来ていないことになります。  
また、日本橋の架設時期をみても、それを慶長十七年(1612年)としたり、もっと下って万治元年(1658年)とするなど、諸説さまざまですが、定説となっている慶長八年架設としても、やはりこの時期の本小田原町には、魚河岸は存在していないわけです。  
しかし、将軍への魚の献上は行われていて、実際に「紀要」に「慶長九年、若君(三代将軍家光)誕生のご祝儀として鮮鯛二百枚等を奉献し、金百七十五両、銀百五十枚を頂戴する」とあります。  
そこで、魚河岸が日本橋小田原町にできる以前にどこかで幕府への魚調達を行っていたと考えられます。その場所はおそらく当時、交易の中心にあった道三河岸でしょう。道三河岸は四日市のあったところに道三掘を通して海路への便利を得たことで、さらに活況をみることになり、慶長年間には、すでに数軒の遊女屋がつくられたという記録があります。江戸で始めての銭湯もここにつくられました。  
そうした繁華な場所であり、しかも城内への魚の調達の便も良かったので、そこに魚河岸の原型のようなものがつくられた。もっとも、魚河岸なんて名称もなかったでしょうし、ごく小規模なものだったでしょうから、後の魚河岸とは比較になりません。そこで、この段階を仮にプレ魚河岸としておきましょう。  
プレ魚河岸は、江戸の開発がはじまるとまもなく、道三堀にできます。森九右衛門らがここに魚店を開いたことでしょう。店といっても、あくまでも城中上納が主体でしたが、家臣や武士相手に多少の売買もしたのではないでしょうか。納魚は九右衛門だけでは次第に大きくなる江戸城の御膳を賄えなくなっていくことから、後に同族、あるいは同郷の者らが順次に店を開くことがあったかもしれません。また、道三河岸には古くからの魚店も多数あって、それらは主に塩干物でしたが、全体として、ばくぜんと魚市場の様相になっていたというのが、その状況だったと思われます。  
さて、繁盛していた道三河岸でしたが、江戸造営が本格化してくると、ここに各国大名の江戸屋敷がつくられることとなります。そこで、開けていた町屋でしたが、これがそっくりと新たに埋め立てられた日本橋方面に移転させられます。この整備が江戸をさらに発展させることになり、日本橋地区はメインストリートとして末永く繁盛していくのですが、さて、プレ魚河岸も、ちょうど本小田原町の石揚場が廃止されるのと入れ替わるかたちで、道三河岸から日本橋へと移って、やがてそこに正式な魚市場を形成するに至るとみると自然ではないでしょうか。  
道三堀の町屋の移転は、慶長十六年頃とされますので、この前後に日本橋魚河岸がはじまり、そして、江戸市街が発展をみる寛永年間に、その形態を整えていったものでしょう。 

 

魚河岸天正十八年成立説をめぐって  
魚河岸の天正十八年成立にはどうも無理があることは、多くの研究者の指摘するところですが、では、なぜそのように記録されたか。その疑問について『歴史』では、魚河岸の権威づけのためではないかと述べています。  
そもそも魚河岸の成立は、『紀要』の冒頭「魚河岸ノ起源」の記載をもとに一般に浸透してきたものです。  
これを文脈に沿って要点化すると次のようになります。  
1) 孫右衛門は大坂夏の陣(1615年)の後、江戸に出て家康に永く仕えたいと願い出た。  
2)天正十八年(1590年)に孫右衛門らは家康と共に江戸に出た。  
3) 安藤対馬守の命令で漁民三十余名が江戸に出て白魚漁をはじめた。  
これは町奉行所へ提出した書上で、魚河岸側から役所に対して、自分らの出身はこうですよ、と説明するものですが、よくみると変なところがあります。魚河岸成立のきっかけが大坂の陣での軍功の褒美として江戸に出たいと願い出たにもかかわらず、その二十五年前にすでに家康と共に江戸に出ている。記述の順番も逆です。なぜこんな矛盾した由来を提出したのでしょう。  
また、下って天保十三年(1842)の「肴納屋由来書」にも「天正十八年、家康公御入国と共に魚市場起立」とあり、これは前年の水野忠邦の"天保の改革"による株仲間廃止が魚河岸に波及するのをかわそうとして自らの出生の古さを示そうと、天正十八年を強調しているように思われます。さらに安政五年(1858年)の町奉行所への上申でも「家康公御入国以来の……」とあり、とにかく江戸の最初より魚河岸は開かれたということをお上に申し上げるのが常套手段であるかのような印象を受けます。  
これに対して町奉行からは、たびたび魚河岸成立時期について問いただしていたようです。「佃島文書」といわれる史料には年代は不明ですが、その質疑が記録されていて、およそ次のようなやり取りがされます。  
「そなたらは天正年中より御用を勤めているというが、その証拠はあるのか」  
これに対し佃漁民は、  
「お恐れながら我らは天正年中より江戸に出てまいりましたことは、先祖よりの伝承により……」  
「いつもそのように申すが、本当のところはどうなのだ。年号の間違いではないのか」  
「そのように申されましても、私どもが天正年中より……」  
このような問答が続き、明確な返答は出てまいりません。  
ともかく魚河岸側は何としてでも天正十八年魚河岸成立ということにしたかったということです。なぜならその年は家康江戸入りであり、江戸が開かれたときにすでに魚河岸はあったとすることで他の問屋とは違うことを強調し、自分たちの存在に重みを持たせようとしたというのが本当のところでしょう。  
実際、天正十八年に森一族が家康について江戸に出てきたのは事実のようですが、それは魚店を開くためではなく、むしろ軍役にかかわることであった。そして、日本橋に魚市場が定着するまでにはさらに二十数年かかるわけですから、魚河岸側が天正十八年をやたらに主張したことにより、魚河岸の起源がより分かりにくくなってしまったわけです。  
最初に来た者と後から来た者  
慶長から元和の頃に日本橋本小田原町に魚河岸がひらかれたとすれば、『紀要』の中にでてくる慶長九年の家光誕生の際に御祝儀魚を仰せつかったという七人こそ、最初に店を開いた者であったことでしょう。  
森九左衛門(森九右衛門と同一人物)  
森与市右衛門  
森作治兵衛  
井上与市右衛門  
井上作治兵衛  
矢田三十郎  
佃屋忠左衛門  
この七人は森一族であり、やがて江戸の人口増加に伴って拡大していく魚河岸の源流と思われます。魚河岸は、はじめは本小田原町で商売をしていたのが、やがてより荷揚げに便利な本船町へと進出していったといいます。その過程はなかなか難しいものがあるので、少し整理してみましょう。  
森一族は魚問屋をはじめたけれども、もともとは漁民で、その手法は産地の魚を持ってきて売るという旧来のかたち、経営規模もあまり大きくはなく、需要の増大には問屋数の拡散をもって対応するものでした。しかし、後に魚河岸に出てくる問屋は、主に関西から来た商人たちであり、独自の産地を持ち(持浦といいます)、その集荷力を背景にしての商売をします。後々まで魚問屋の屋号に関西の地名を冠したものが多かったのはこうした理由です。これら関西商人の開いた問屋が次第に立地の良い本船町に進出し、そこでメインストリートを形成していったとみてよいでしょう。すなわち魚河岸はその草創期に、当初のかたちが変容しつつ出来上がっていったもので、それは最初に店を開いた森一族以後にやってきた商人らの力が大きくかかわったことを考えてみる必要があろうと思います。  
さて、七人に続いて魚河岸に入ってきたのは、当然ながら佃村や大和田村など森一族と結びつきの強い摂津の問屋でした。以後、森一族とその同郷の流れを組む魚商を摂津系と呼びましょう。摂津系問屋は魚河岸の主流をなす存在であり、同族同郷による独占状況にあったはずです。しかしどうしたことか、まさに摂津系による魚河岸専制が形づくられていく元和二年、この流れとはまったく別の魚商である大和屋助五郎という者が日本橋に出てきます。かれは大和国桜井の出身で摂津一派とは何のつながりもありません。このたった一軒の新規参入が、あたかも水面に投じた小石が波紋を広げるように、その後の魚問屋のかたちを変えてしまうほどの影響を与えます。それは助五郎の商売の方法が摂津系とは全く違ったものだったからです。 
本小田原町に河岸はない  
「本小田原町に魚河岸がひらかれた」と言われて「はいそうですか」と納得すればそれまでですが、ちょっと考えてみると、なぜ本小田原町なのかという疑問にぶつかります。そこは市場を開くのに決して適した場所ではない。とても重要なもの、水辺がここにはないのです。  
切絵図で確認すれば分かるように、本小田原町は川に面していません。どこにも河岸がないのです。そして、本小田原町の南側、本船町が日本橋川に面していて便がよく、後にこちらに魚河岸が進出してくることになります。  
すると、はじめから本船町に魚河岸をひらかず、なぜ不便な本小田原町にひらいたのかという疑問にぶつかりませんか。実はその答えは容易で、つまり当初本船町には別のもの、すなわち船具商や麻店があって魚河岸が入りこめなかったというだけのことなのです。そこで市場建設としては二等地ともいえる本小田原町に甘んじなければならなかったけれど、本船町の河岸は実に魅力的で、ノドから手が出るほど欲しい場所でした。ですから魚河岸が拡大すると、その勢いに乗じて、なしくずしに本船町一帯を侵食していくことになります。  
さて、ここで注目しておきたいのが、本船町という一等地には大きな持浦のある魚問屋が進出し、魚河岸のメインストリートを形成するにいたったということで、それは魚河岸の創始者たる森一族の流れをくむ摂津系問屋以外の者らが入りこむ余地が生まれたという点です。もしも、森一族がはじめから本船町に店をひらくことができたなら、その後の魚河岸の形態も違っていたことでしょう。想像をたくましくすれば、もっと小規模で素朴な魚市場を思い浮かべることもできます。その結果、江戸市中には他にも数ヶ所の魚河岸がひらかれたことでしょう。それは、後に芝とか深川とか築地にできる中堅市場が日本橋に拮抗、あるいは凌駕する勢力として存在するというかたちだったかもしれません。  
しかし、実際の歴史はどうであったかというと、メインストリートに並んだのは、その後にやってきた新進の魚問屋らが多く、摂津系問屋は主流をいくものではあるけれど、商売の方法からみれば、地方に漁場を求めるという点では特異な存在ではなく、却って多くの魚問屋の中に埋没していくことになります。そして、後発参入者の入り込む余地があったことが、江戸の人口増加及び需要増と相まって、魚河岸は巨万の富を生み出す一大商業地へと成長していくことになります。  
それは、本船町に最初から魚河岸がひらかれなかったことがきっかけともなったともいえ、歴史上のちょっとしたアヤが後になって多大な影響を及ぼすという例がここにもあるわけです。  
もうひとつ、本小田原町の由来ともなった石揚場ですが、これまた水辺でないところにそんなものはつくれません。一説によるとここには単に石工たちの住居があっただけで、石揚場は鎌倉河岸にあったといいます。なるほどその方が江戸城造営には便利な場所であり合点がいくように思われます。  
大和屋助五郎の活鯛流通システム  
元和二年(1616年)に本小田原町に住んだ大和屋助五郎は、翌三年より営業を開始し、それから十年以上の歳月をかけて活鯛流通のあたらしいシステムをつくりあげていきます。  
助五郎は駿州地方の各浦を回って漁民と契約をし、かれらに仕入金を貸付けた上で、その浦々に活鯛場を設けました。そして旅人(たびにん)と呼ばれる在方問屋に対してもすべてに仕入金を与えて独占的な契約を結びます。それによってそこで捕れる鯛はすべて助五郎に渡ることになるわけで、さらに鯛だけでなく、広くその地方の魚類を引き受けるということをしました。  
従来の問屋のやり方は、それぞれの旅人との結びつきによって特定の魚を仕入れるというものでしたが、助五郎は産地に資本を投下した上で、そこの魚をそっくり自分のものとする。産地とすれば、何しろすべては仕入金で縛られていますから、助五郎以外の問屋には荷を出すことは出来ません。その浦は助五郎の独占となります。  
これは相当の資力を必要とする事業であり、漁法、蓄養、運搬とさまざまなノウハウにかかわってくる大がかりなものです。助五郎はパイオニアとして、この難業を貫徹し、独占的な営業を打ち立てることで巨利を得たのです。  
大和屋助五郎の功績はまさに魚問屋体制の確立にあります。その大規模な活鯛流通システムは魚河岸のなかでも際立ったもので、むしろアウトサイダー的な位置づけになるのでしょうが、その後の魚問屋は多かれ少なかれの商売の影響を受けたことと思います。各地から集まってきた魚商たちは皆、自分のところに魚を送って来る浦を持っていました。最初に店をひらいた森一族らにしても佃島という自分の浦があり、その後、さら各地に浦を求めていきます。  
魚問屋が浦を支配していく体制を確立することによって魚河岸は確固たる地位を築いていくのです。 

 

森一族と大和屋助五郎に対立はなかったのか  
元和二年(1616年)当時、魚河岸は森一族の独占状況にあったわけで、そこに外部から新規参入した大和屋助五郎は、いわば「殴りこみ」をかけたに等しい行動だったことでしょう。とすれば、既権利者である森一族が黙っているはずはなく、両者の間に何らかの確執があったと考えるのは、むしろ当然のことと思います。  
しかるに『沿革』には、どこにも対立の記録はなく、  
「……元和二丙辰年、和州桜井町大和屋助五郎此地ニ来リ、本小田原町ニ住居シ  
魚商トナリ、本小田原町、本船町ニ於テ更ニ市場ヲ開クコトヲ許サレ……」  
とさらりと記述してあるばかりです。  
『歴史』は、元和年中(1615〜24年)に町奉行島弾正忠による改めがあったことに注目して、この改めが森一族と大和屋助五郎との間の訴訟事件をきっかけにしたものではないかとした上で、森九右衛門ら一族にはこれまで通りの営業を認めると同時に、助五郎には記述のように「更に市場を開くこと」が許されたのだとしています。また、以後町奉行の改めというのが魚河岸の制度確立に重要な意味を持ってくることを指摘しています。  
さらに、助五郎の後見人としての町年寄奈良屋の存在を述べ、喜多村、樽屋と並んで江戸三大町年寄として町人町を支配する最高地位にある奈良屋が、大きく助五郎を引き立てたではないかと推論しています。それは、安藤対馬守が森一族にとっての絶大な庇護者であったのと同じようなものでしょう。  
そうしてみると両者の持つ権限は、政治力によってもたらされたものであるけれど、それは単なる枠組で、内実はずっと流動的であり、不確定な要素が強かったということでしょう。森一族は佃島を賜り、幕府への納魚の義務の見返りに江戸湾の漁業権を得て、さらにそれを市中に売ることが許されましたが、だからといって売場の独占まで保証されるものではなかった。助五郎にしても、やはり納魚を名目として、あらたに売場を開くことを許可され、さらに責任ある活鯛供給を任されて、のちには祐太夫という重々しい名前と日本橋の対岸元四日市に「活鯛屋敷」を拝領するに至るのですが、それもまた永代保証ではなく、実績いかんということの結果だったことでしょう。  
これは初期の幕府が自由主義経済をとっていたことと関係あるように思われますが、それはさておき、市場史という見方をすれば、当初の森一族の商売が、需要の増大に対しては問屋数を増やしていったのに対し、あらたに現れた大和屋助五郎の活鯛流通は、問屋形態を大型化して大量流通を拓いたとみることが出来るでしょう。  
魚河岸の創始者という栄誉ある名を授かり、魚河岸の主流をいった森一族とそれに続く摂津系問屋の流れ。一方で魚問屋の確立者としての実を取り、繁栄をみた大和屋とその子孫。そんな対比は一面的な見方かもしれませんが、後々まで暗闘をくり返しながらも、どこかで認めざるを得ないものがあったであろう両者は、共に魚河岸をかたちづくった大きな存在であることは間違いありません。  
魚問屋のしくみ  
寛永年間(1688〜1703年)になると関西地方の資本力のある商人たちが江戸に集まってきて問屋になることを願い出ました。この際それぞれが納魚を名目にしたため、その代償に公租公課を免除されることになり、これがのちのち幕府の魚河岸への特例ともなっていきます。この時期に何軒の問屋が存在したのかはっきりとはしませんが、魚河岸がかたちを整えて、ある程度の規模になっていたことは確かでしょう。  
では、魚問屋はどのように魚を集め、商売をしたのか。そのしくみについてみてみましょう。  
魚問屋はそれぞれ自分の店に魚を送ってくる漁場を持っていました。これを持浦といいます。ただし活鯛問屋は敷浦といいました。持浦、敷浦がなければ魚問屋は商売ができません。いわば財産でしたから、浦方とは固い契約を結び、密接な関係を保ちました。  
魚問屋は浦方の網元から直接、あるいは在方問屋を通じて魚を買い入れます。在方問屋とはそれぞれの産地で集荷・販売など行なう旅人(たびにん)と呼ばれる商人で、塩干物を集める者は五十集商人(いさばしょうにん)とも呼ばれました。  
このとき浦方からは、その浦で獲れた魚は一尾残さず在方問屋なり、魚河岸に荷を運ぶ押送業者に渡すという仕入証文を入れます。魚問屋はそれに対して仕入金を出すということで契約がなされました。これは船主や網元に規模に応じて百両から三百両くらいが相場だったようです。  
魚問屋と浦との契約は四ヶ月を一職と呼んで一漁期と定めており、その切換えとなるのが三月十五日、七月十五日、十一月十五日で、このときに清算をします。そこには予定の水揚げが設定されていて、それに達すればそのままですが、もしも不漁などで達しなかった場合、不足の分を返済するか、次の職に持ち越されることとなります。  
魚問屋は浦方に対して何につけても金で縛りつけるかたちをとりましたし、魚問屋同士は互いの持浦をおかさないように注意していましたから、浦方には自分以外の問屋に荷を出すことをまかりならぬ、を不文律とするなど、かなり従属に近い関係を強いました。また魚問屋には魚上納の義務という大義名分がありましたから、これが持浦に対する発言力をいっそう強くさせたということもあります。  
いっぽう浦方では、漁法の発達により漁獲量が増えてくると、あたらしい在方問屋や押送業者がでてきたり、複数の問屋へ出そうとする者もあらわれたりすると。そこでいざこざも起こります。また、仕入金が足かせになって、魚価を抑えられる、高い口銭を取られるといったことで不満は強く、それが後に本牧浦周辺の漁師らが訴えを起こし、商人の力を借りて本材木町に新市場を開くという事件にもつながっていきます。  
魚河岸の発展と市場地域の拡大  
江戸の人口増大による需要増とそれに見合うための供給量増加によって魚河岸はどんどん大きくなっていきます。  
これを如実にあらわす事例として『歴史』はひとつの逸話をあげています。  
「寛永十三年(1636年)頃、伊勢町の米問屋、米屋太郎兵衛が同郷人で館山の魚商佐治兵衛から"儲かるから"とさそわれて出荷を受けたところ、江戸市中日増しの繁盛により格別の利潤を生み、これにより商売替えをして本船町に魚店を開いた」  
伊勢町というのは魚河岸のとなりに位置し、そこには米河岸がありました。米河岸は江戸初期にはまことに繁盛し、たいそうな羽振りをきかしましたが、本小田原町の魚屋連中はかれらが大嫌いで、犬猿の仲というほどに対立していたといいます。それが元禄の頃には逆転し、魚河岸の方がはるかに繁盛していきます。この話はその五十年以上も前のことですが、すでに大尽商売の米問屋から魚問屋に転身をしようというほどに魚河岸は発展しつつあった、とみてよいでしょう。ちなみにここで登場する米屋太郎兵衛は、後に「米屋」を名乗る魚問屋の創始です。現在も築地市場の仲卸業者にみられる商号「米○」の源流はこの時代にみられるのです。  
さて、こうした需要増によって魚河岸は問屋数が増加し、市場地域を拡大していきます。  
最初は本小田原町に店をひらいたのが、荷揚げの便利さから本船町へと拡大していったことは先に述べましたが、その後、近接地域の本船町横町に拡がり、さらに本小田原町と本船町にはさまれた安針町もまた市場地域に組み込まれます。安針町は、慶長五年(1600年)日本にやってきたイギリス人ウイリアム・アダムス、帰化名三浦安針の拝領屋敷があったための町名ですが、おそらく安針の没した元和六年(1620年)以降に屋敷が廃止されて町人地となり、ここに魚問屋が入り込んでいったのではないでしょうか。  
請下(仲買人)の発生  
次第に増大する需要によって魚河岸全体の売上もまた増えていきます。しかし、限られた地域に小さな問屋がひしめく魚河岸では、たとえ市場地域が拡大しても、各々の魚問屋が商売の規模を拡大するには、おのずと限界がありました。  
そんなとき、魚問屋が多くの需要に対応するには3つの方法があったと考えられます。  
そのひとつは大和屋助五郎が大規模な経営で活鯛問屋の独占体制をきずき、一業者としての規模を拡大していったやり方です。しかし、これは特殊な例で、大和屋だからできたことであって他の問屋には無理な相談でした。  
多くの問屋は自分の系列下に問屋を新設するという方法をとります。問屋数の増加で対応することで、さらに需要は増大し、魚河岸も拡大していくという循環が生まれてきます。けれど、魚問屋にしてみれば、いくら自分の系列にある孫店といえども、自らの集荷力を分散することともなり、かんばしくありません。  
そこで問屋が自分の集荷の権利を手離さずに商売を拡大させる方法として、「請下(うけした)」と呼ばれる者を自分のところに置きました。請下とは問屋が請人(保証人)となって小売商などに魚を売ったことから、そう呼ばれたもので、つまり仲買人のことです。それまで魚問屋といえば「問屋兼仲買」であり、問屋業務のなかに仲買行為が含まれているものでしたが、これを分業とすることで商売の効率化が生まれてきます。  
ただし、これが現在の仲卸のはじまりだというと必ずしも正しくないように思われます。現行の卸売市場法における卸の集荷機能、仲卸の分化・評価機能という役割分担が公平公正の市場原則にのっとったものであるのに対し、初期の請下(仲買人)はあくまでも荷物の「下売り」がその使命であって、魚問屋とは従属関係にあるからです。  
『紀要』の記事を拾ってみると請下の発生を次のように書いています。  
「市場の仲買は従来より請下仲買といい、問屋の付属として売買についても組合規約に至るまで、その親問屋の引き受けにて渡世する者であり……問屋の下売りをするだけで、原価を定めず、あるいは原価を定めても現金を持たず、魚の売買の後に相場を定めて代価を支払う。別に口銭というものもなく、売買の間に多少の利潤を得る程度である」  
これにより請下は当初ごく小さな商いであったことが分かります。  
さて、請下は本船町河岸際の家屋の軒下を借りて魚を並べ売りしました。その際、魚を並べた台を板舟(いたぶね)といいました。これは盤台の縁に三寸ばかりの板を打ちつけたかたちが舟のように見えるからついた名称で、この縁板は並べた魚の鮮度保持のために水をかけたのが流れないようにしたものだといいます。  
かれらは毎朝、問屋から魚をもらい、これを自分の器量で売りさばきます。その後、河岸引けに問屋が集まって、その日の相場によって魚の値を決めるのですが、その言い値よりも自分の売り値が高ければ儲けとなります。もしも言い値が高ければ問屋に掛け合って値切ることもでき、自分の裁量次第でどうともなる商売ではありました。  
はじめは問屋の従属機関であった請下が、商売として成り立ってくるようになると、次第に問屋から独立していき、仲買専業の店が生まれる土壌ができていきます。そして魚河岸を形成する重要な役割を担うことになります。  
魚会所と四組問屋の設立  
幕府へ献上した残余の魚を市中で売ったことがはじまりとされるように、魚河岸では納魚こそが重要な使命でした。問屋にとってそれは義務というよりは名誉なことで、また、幕府も三代将軍家光の頃までは財政に余裕があったため、魚河岸の誠実な納魚に対して褒美金を下賜するなど、そこには良好な信頼関係が保たれていました。しかし、需要の増大や魚価の高騰などにより、問屋は幕府に廉価で高級魚を納めることが次第に負担になっていきます。幕府も台所事情の苦しさから、請負人制度の導入であるとか、後には肴納役所を設けて容赦ない取立てをするようになり、信頼関係などあっけなく崩れてしまいます。  
魚会所というのは、いわば組合事務所のようなものですが、主に納魚の事務処理機関として、まだ幕府と問屋とが蜜月の時期にあった元和のはじめ頃、本小田原町に置かれました。『紀要』には「幕府への納魚はもっぱら本小田原町がおこなった」とあり、幕府への納魚が権威であったことを感じさせます。つまり、本小田原町の問屋が日本橋魚河岸の権威を握る存在であり、発言力も強かったでしょうから、自主的に魚会所もつくるわけです。本船町へと進出した問屋には権威はありません。ただ、納魚がない分だけ負担が減少し利益は上がるわけですから、その立地の好条件も含めて、本船町は名より実をとったともいえるでしょう。  
魚会所が納魚のために設立したならば、それを運用するための何らかの組合組織が発生していたと考えられます。おそらく当初は本小田原町問屋を中心とする単一の組合ができて、魚会所をつかさどっていたのでしょう。それが市場地域の拡大により、本船町から本船町横町、そして安針町へとあたらしい問屋が進出していくと、古い問屋による本小田原の単一組織というわけにいかなくなります。そこには地域差による利害もあれば納魚の格差も生じてきます。してみるとすでに納魚が名誉なものから負担なものになりはじめていたのかもしれません。ともかく地域並びに問屋の性格別に四つの魚問屋組織が編成され、魚会所も組合ごとにできて(本船町横組と安針町組は持ち合い)、納魚も分担し合うようになります。  
ここで四組魚問屋それぞれの特徴をみてみましょう。  
・本小田原町組  
本小田原町は、森九右衛門ら森一族が最初に魚市場を開いた場所で、古い魚問屋で組織される魚河岸の中心的な存在であり、とくに初期には最も発言力が強かったと思われます。  
・本船町組  
ここには、あらかじめ持浦のある魚商が入り込んでいった場所で、荷揚げの便利も良く最も繁盛し、やがて小田原町組からその中心的地位を奪っていきます。この組は後に古くからの問屋による古組と、古顔が牛耳るのを嫌った新興問屋によって組織された大組に分離します。  
・本船町横組  
『紀要』に「更に組合を分かち」とあるのを見ると、本船町が古組と大組に分かれたのちに、さらに横組に分割されたのかもしれません。  
・安針町組  
この組は本材木町に新肴場ができた際、そちらへ転入しようという問屋が何軒も出ました。

 

魚河岸古法式書  
問屋数が増え取扱量も大きくなってくると、魚河岸の秩序をつくるための成文法が必要となってまいります。たとえば、他人の荷をせりとってはいけないとか、勝手に問屋をはじめてはいけないといったことの取り決めです。つまり実際にそうした問題も起きつつあったのでしょう。納魚のために魚会所を設けたその延長線上に法式書をつくることは自然な流れだったともいえます。  
これは江戸の昔から現代にまで一貫していることと思うのですが、魚河岸では小さな地域に同業者がひしめき合い、しかも、その誰もが経営者であって、それぞれの店の売上に格差はあるけれど、全体としてみると莫大な売上となる。そこは世間の枠組みには収まりきらない特殊な環境であって、さまざまな軋轢やら利害関係が渦巻いております。そこで全体を律するような魚河岸独自の法がなくてはやっていけません。現在でいえば卸売市場法がありますが、行政的な原則では見えないところでも、暗黙の了解というものまで含めて、あらゆるローカルルールがここには存在します。欲望や思惑を腹に持ちつつも苦しいときには同病相哀れむの精神も忘れない。大事は小事となり小事が大事ともなる。清濁併せ呑むようにして閉鎖社会の秩序は保たれていきます。だからこそ確執をくりかえしながらも、深いところでは共同体の意識で結ばれています。この微妙なバランスを保ちながら四百年間も続いてきたというのは大変なことで、現代の視点から縦に割っても横に切ってみても、光をあてられない部分が多く存在しているのが、魚河岸だといえます。  
それはともかく、寛永二十一年(1644年)に制定されたといわれる法式書は、魚河岸にできた最初の成文法となりました。後に享保十二年(1731年)に町奉行大岡越前守の意向によって「四組法式書」というものが制定されたので、それとの対比の意味から「古法式書」と呼ばれます。十ヶ条から成る取り決めは、市場内の取引を規定するとともに、ひいては浜方への統制をねらったものと思われますが、当時の問屋の様子が分かる文献ですので、その全条項についてみてみようと思います。  
(第一条)納魚は月行事(がちぎょうじ)から触れがあれば、隠し置かず即座に差し出し、時間が過ぎても指定の魚が入荷したなら、すぐに月行事に申し出て、その指図を受けてからでなければ販売してはならない。  
これは後に問題となる「隠し売り」や「脇揚げ」などの納魚逃れを禁止する条項です。すでにそうした事件があったのでしょう。ここで月行事とは、本小田原町魚会所、本船町魚会所、本船町横町魚会所の三ヶ所からそれぞれ問屋の代表役員が月ごとに交替で勤めて、幕府膳所からの納魚をとりまとめる役目のことです。  
(第二条)権利のない者が問屋業務を行うことを禁ずる。たとえ浜方から送り状が来ても宰領番が船宿で吟味し、権利なき者には送り状を渡さない。  
これによると、問屋のなかから選ばれた宰領番というのがいて、魚河岸内の船宿に詰めて、各問屋に送り状を渡していたことが分かります。この点検により取引が開始され、量目検品ののち荷揚げとなります。その際に問屋の権利のない者には送り状を渡してはいけないというのが第二条です。  
(第三条)請下(仲買)でない者に店前で販売させてはならない。また請親のない請下には問屋として一切売掛けをしてはならない。  
仲買に関する規定です。正式でない仲買が横行して混乱していた様子が伺えます。条項では、もしも仲買人を解雇した場合、問屋は町中に触れ知らせることとし、もしも買掛けが残っていれば問屋主人がこれを弁償することを規定しています。買掛けを残したまま逃げてしまう仲買人、それを清算しない請親問屋が多かったのでしょう。また、問屋は仲買人に対し「売荷物を大道に出しゃばらせないこと」や「喧嘩口論をさせないこと」を明示しています。仲買人は荒っぽく、のちのちまで魚市場の売場でみられる粗雑さが特徴で、かれら同士、あるいは買出人や大家との間で喧嘩口論が多く、いろいろと問題になっていました。  
(第四条)他の者が納めている御屋敷をせりとってはならない。ただし、その者との談合の上での取引は差し支えない。  
これは「屋敷方魚納」という仲買人に対する規定です。大名や大身の武家への魚を納める仲買を「屋敷方魚納」と呼んで一般の仲買とは区別され、職務上問屋と同格とされていました。  
(第五条)問屋が仕入金を渡してある浜方からきた旅人(たびにん)の荷物をせりとってはならない。ただし年季明けになれば浜方の願いによって別の問屋が取り 扱うことができる。  
問屋は仕入金を出して浜方と契約しているので、ほかの問屋が勝手に取引はできないと規定したものですが、廻浦といって複数の問屋に出す浜方がいて、これを規制しようというのがこの条項のねらいでしょう。旅人(地方問屋)には変名で送り状を送ってくる者もいて、荷物はよく吟味をして仕入金をしている問屋に渡すこととし、もしも吟味をしないで別の問屋が受入れた場合、これまでの仕入金その他を残らず早急に立て替えることを決めています。  
(第六条)問屋が直接浜方に出向いて魚を直買してはならない。また「分け合い」の荷物がきた場合には「片附売り」をしてはならない。新規の旅人に対して仕入金をする場合は月行事に届け出をし、他町へも申し渡しをすること。内証で取引すれば「売り止め、過料金」を加える。  
第五条同様、浜方に対する問屋の権利を確保するものです。「分け合い」とは出荷先の問屋を区分するもので、一方だけが販売してはならないとしています。これらを取り締まるのが各組合の魚会所で、罰則が規程されているように、自治組織としての規制力の強さをうかがい知れます。  
(第七条)問屋が店仕舞をする場合は、月行事と相談した上で問屋の権利を持っている 者に譲り渡すこと。その際の買掛け、借金などはすべて譲受人の責任で完済 すること。自分の問屋の孫店に貸そうとする場合でも同様の処置である。家主や問屋が勝手に転貸してはならない。五分荷物が来たときには、荷主に直売させてはならない。  
主に問屋数に対する規制条項と読めます。すでに問屋が一定数に達していたから、新規問屋に対しては注意ぶかく認定しています。五分荷物とは、荷主が問屋に代わって販売を行い、口銭の五分を問屋に渡したり、仕入金を受けていない荷主の販売は五分の口銭を取るというもので、なかば黙認されるかたちで存在していましたが、これを続けていけば、新規問屋発生の温床ともなりかねないと禁止したものでしょう。また、問屋名義を書き換えた場合は、新規問屋は魚会所に「樽代」として金一両一分と銀五匁、さらに譲り渡した者への謝礼として「菓子代」金一分、銀五匁を差し出すことを決めています。  
(第八条)自分の集荷を増やすために「増し仕切」をする行為は、「正直なる他の問屋大 勢」が難儀するので、してはならない。  
「増し仕切」は浜方に多額の仕入金をしてその歓心を引こうというもので、これを禁止し、違反者には罰則を与えるとしています。  
(第九条)板舟の寸法は横幅二尺三寸(約70p)、長さ五尺(約1.5m)を守ること。  
ここでいう板舟とは、公道を利用する販売場所としてのもので、販売量の増加によって売場を公道まで出張る問屋が出てきたことを規制しようという条項です。後に麻店前の仲買の販売行為が問題となり、大岡越前守が間に入って板舟権というものが出来ますが、それは八十年も後のことで、この時期にこうした条項が出てくるのは不思議に思えます。  
(第十条)毎年三月、本店、孫店が総参会して万事を取り決めること。  
毎年総会を開くことを決めたものです。  
(罰則)以上条項については、問屋は勿論、仲買にもよく申し付け、違反の場合は「商売停止」、「過料金」などを申し渡し、一切の弁解もさせず実行することとする。  
最後にこのような罰則を決め、すべての問屋の連判により法式書を結んでいます。
新肴場の開市  
延宝二年(1678年)、日本橋魚河岸とは別の魚市場として、本材木町一丁目、二丁目に「新肴場」が公許されます。これは日本橋魚河岸の締めつけに耐えかねた武州・相州の漁民たちが立ち上がり幕府に訴願した末に開設に至ったもので、日本橋魚河岸はじまって以来の大事件、自らの権威にかかわるということで大騒動となりました。  
事の起こりは武州本牧村の漁民が日本橋魚河岸のやり方に対して「あまりにひどい」と声を上げたことによります。本牧浦は魚河岸への出荷一本でやっていましたが、他の江戸内海の各浦からの魚に比べて距離的な理由から生鮮度が落ちるなどとされ、ぐっと安い仕切価格に抑えられていました。それだけならまだしも、一割六分という高率の口銭(マージン)がかけられたからたまりません。ついに不満が吹き出すかたちで、魚河岸側との抗争がはじまりました。  
本牧浦はまず近隣の三浦村などと話合いの上で味方に引き入れ、武州・相州で十七ヶ村  
もの盟約を取り付け、これにより魚河岸側と交渉に入ります。しかし魚河岸には幕府納魚という大義があります。漁民であっても納魚を負担するという意味の口銭であると突っぱねました。そこには、どうせ仕入金を入れてあるのだから、連中にはそれを返す力はあるはずがない、とタカをくくった魚河岸の態度が見えます。  
さて、直接交渉ではダメだとなると、漁民側は時の勘定奉行甲斐庄喜右衛門に対して日本橋魚河岸の口銭一割六分を軽くするように願い出ます。願いを受けた甲斐庄喜右衛門は、まず、双方の示談を考え、魚河岸側に対して説得をしますが、その返答は「口銭引下迷惑之趣」というきっぱりとしたものであったので、最早これは勘定奉行の判断では決着しないものと考え、当時の最高裁判所ともいえる「評定所」へと上申をしました。  
まもなく評定所からの裁定が下ります。それは、魚河岸側が口銭の引下げに応じず、漁民側もなおこれに不満をもつのであれば、「何方ヘ成共新規問屋取建、勝手ニ魚類差送可申」としたもので、つまり、自力で新しい市場を開設し得るならば、そこへ出荷してもよいという許可でした。  
これですべては解消したかに思えました。なぜなら、現実問題として漁民側に市場を開設するなど無理な相談だからです。魚河岸側はそれ見たことかと高笑いしたことでしょう。  
しかし、問題は急転直下します。本材木町の家主九人とその名主が漁民達に力を貸そうと申し出たのです。かれらは日本橋川を隔てた向こう岸の日本橋魚河岸の繁盛を見ていて、そこの家主らがずいぶんといい思いをしているのを知っていましたから、この期に乗じて自分たちも同じことがしたいと、新市場を自分らの町に招致することを提案しました。そのために漁民らが魚河岸によって足かせとされていた仕入金三千両を含む必要経費六千両を、本材木町に新市場を開設する資金として拝借したいという願いを勘定奉行に対して起こします。前回の裁定で市場を開設してもかまわないということでしたから、今度は魚河岸側も口を出せません。かれらがキリキリする思いで見守るなか、裁判はトントンと進み、結局、本材木町の九人の家主たちは抵当として家屋、財産一式を担保に入れ、沽券状も提出した上で、六千両の貸下げが決定しました。  
家主たちはさっそく魚河岸の仕入金を返済させることで、魚河岸と漁民との関係を断ち切りますと、次に本材木町に店借りしていました材木商らを立ち退かせました。もちろん、その際かなりの費用がかかったことでしょうが、ここに晴れて新市場「新肴場」が誕生することとなりました。通称「新場」。そして、仇敵である日本橋魚河岸側に対しては、おそらく対抗意識もあったでしょう、「新場」に対して古い権力の集まりという意味の「古場」という名で呼んだといいます。  
苦心の末にようやく開設した「新場」。しかし順風満帆とはいきませんでした。家主らを通じて借用した六千両の毎月の返済は重くのしかかり、大きな負担のうちで商売をしなければなりません。また、魚問屋に対する何のノウハウもないままの開設のために相次ぐトラブルの発生に頭を悩ませました。  
さらに受難は続きます。日本橋魚河岸による一種の意趣返しという意味もあったでしょう、魚市場をはじめる上は納魚の義務を遂行すべしという通達があります。そして当番として毎月十日までの割り当て、すなわち全体の三分の一にあたる納魚を受け持たされることになりました。これはまだ集荷力の乏しい新市場としては過酷ともいえる量です。  
しかし、新場はどうにかこうにか、こうした初期の困難をのりこえて、江戸時代を通じて商売を続け、日本橋魚河岸に続く、いわばナンバー2としての地位を築いていきます。  
この新市場の誕生は、日本橋魚河岸にはかりしれないショックを与えました。うなぎのぼりで増加する売上と次第に整っていく市場組織、さあこれから発展を遂げようという時期に、魚問屋のしくみそのものを揺るがすこの事件の発生は、魚河岸がその初期段階においてすでに抱えていた矛盾を露呈するものだったのです。そして、これより先、同様のもめごとが、より深刻なかたちで起こってくるのですが、まさにそれを感じさせる不吉な予兆として、魚河岸の行く末に暗い影を落とすのです。

 

佃島の完成  
ここで再び時間を戻してみましょう。  
魚河岸の歴史の冒頭で森孫右衛門らが家康と共に江戸に出てきて、江戸向島、のちの佃島を拝領して漁業を営み、幕府に魚を献上した残りを市中に売ったというのが魚河岸のはじまりというものでした。このとき江戸向島に移り住んだという漁師たちは、同じ森一族でありながら、魚河岸をはじめた九右衛門らとは別のグループだということを確認しておきましょう。かれらのその後の消息について『紀要』には詳しい記述がありません。果たして魚河岸とは無関係の道を歩んだのでしょうか?  
『江戸名所図会』の佃島の由来には森一族の記述があり、江戸へ出てからのかれらの行動が記されています。これによると、大坂の陣で家康に仕えた後、漁師三十四人が江戸に呼ばれ、小網町の安藤対馬守の屋敷をはじめ、小石川網干町、難波町(のちの日本橋浪花町)などの屋敷町に分宿し、漁業を営む一方で海上偵察の任にあたり、その様子を安藤対馬守に報告していました。そして慶長十八年(1613年)、江戸湾での漁業の特権を得たとあります。  
この特権というのが江戸近辺の海川なら自由に操業して良いというお墨付きで、佃の名主のもとに明治の頃まで大切に保管されていたといいます。江戸近辺ならどこでもとは大変な約束ですが、同じような話に青山忠成という人が家康から一頭の老馬を与えられたのち、この馬が倒れるまで一日乗り回しただけの土地を与えようという約束をもらったといいます。これが現在の港区青山の由来というのですが、江戸のはじめにはこうした大盤振る舞いの言い伝えをよくききます。佃の漁民もお墨付きをもらったとはいえ、本当に江戸湊全体を手にしたわけではありません。そこには以前よりの在住漁民がいまして、かれらとの間でトラブルもあり、かなりの緊張状態にあったといいます。  
江戸の在住漁民たちの漁法というのは四つ手網や一本釣りといった原始的なものであったのに対して、森一族らは地獄網と呼ばれる大量漁獲法を持っていたため、比較にならない漁獲高を上げ、これが幕府献上の残余を市中に売買することを可能にすることになるのですが、当時の世相を記録した『慶長見聞集』には、この地獄網の威力とともに、それによる資源枯渇の危惧を「この地獄網にて取り尽くしぬれば、いまは十の物一つもなし」と書かれています。  
さて、漁業の特権を得た森一族は「白魚漁」を専業として幕府の御膳魚の調達をするようになります。これには面白い逸話がありまして、江戸近辺に網を引くことを許された当時、ある日のこと雪のように白い小魚が網にかかりました。漁師たちがまだ見たこともない魚で、何と頭のところに葵の紋が浮かび上がっております。葵は徳川家のしるしなので大騒ぎし、さっそくこれを献上したところ、家康の方ではこの魚をよく知っていて、これは白魚といい、生国三河にある頃、浜の漁民が余の食膳に供したものである。江戸の地でこの魚を見ることができたのはまことに目出度いことだ、と大喜びしたというのです。もちろんこれは白魚を価値づけるための伝説でしょうが、実は白魚という魚は江戸にはもともとなく、家康入国の際に誰かが三河から持ってきて浅草川(隅田川)に流したものだとも言われております。そのために将軍家献上以外は獲ってはいけない「御止魚」となり、永らく佃島漁師の独占となりました。  
寛永七年(1630年)向井将藍が海賊奉行に就任し、海賊橋際に将藍屋敷をつくり海上警護にあたることになりました。すると、漁民に江戸湊の偵察にあたらせるのも不都合ということで、かれらに鉄砲洲干潟百間四方を与えて、そこで漁業に専業させることとしました。森一族は江戸湾入江に位置するその干潟が故郷の佃村にそっくりだということで、佃島と名づけて造成工事に着手します。  
それから実に十五年もの歳月をかけて築造は続き、正保元年(1644年)にようやく佃島は完成をみます。ですから佃島を拝領したといっても、実際はそんな簡単なことではなく、漁民たちは測量、土木、建築などの専門的工事を自力で行うという、まことに大変な努力をして自らの土地を築いたのです。  
それは現在でいえば都市プランナーにあたるようなもので、特殊な技術力と計画性を有していたといってもさしつかえないでしょう。それが明暦の大火で焼失した西本願寺の再建をやってのけることになります。 
南小田原町と魚河岸の関係  
南小田原町とは、現在の築地市場に隣接する築地六、七丁目にあたる地域の旧い町名で、もと海幸橋のあったところをわたり、波除神社から晴海通りを隔てた向こう側までがその範囲となります。  
先に江戸の町づくりのところで、日本橋魚河岸が最初につくられた本小田原町は、江戸城普請の際に、小田原の石工たちの石揚場があったことからついた名で、これが慶長末に築地に移ったために、日本橋の方を本小田原町、築地を南小田原町と呼ぶことになったことを記しました。さらに本小田原町には荷揚げのための河岸はないことから、そこが本当に石揚場だったかも疑わしく、鎌倉河岸あたりに石揚場があって、本小田原町には石工たちの住居があったのではないか、という説もみました。  
ということは、話の流れからすれば南小田原町には本小田原町から移ってきた石工たちの拝領地があったはずです。しかし、慶長の頃、あるいは少し下って元和年間(1615〜1624年)としてみても、築地辺の埋立ては行われておらず、海川あるいは干潟のような状態だったといいます。果たしてそんな土地を拝領したのか、また、南小田原町をひらいたのが石工だったのか、はなはだ疑問になります。  
南小田原町が石工移住によるものとするこの定説に対して、京橋区史はその由来を「寛文四年(1664年)小田原町の魚問屋たちが官許によってその地に市街を立てたから」としています。もしもこの説をとるなら、南小田原町は魚河岸の問屋によって開かれた土地であり、町名もその際につけられたとみることができます。  
『歴史』は南小田原町が魚河岸の問屋による、まさに先行投資によってつくられた市街地ではないかと推理しています。『紀要』の安政五年(1858年)文書には、肴役所より魚河岸に「魚問屋どもは南小田原町に住んでいたことがあるのか」と尋問するのに対し、魚河岸側は「旧記にてすでに焼失してしまい」云々としどろもどろに答えているのが記録されています。『歴史』は『紀要』が魚河岸にとって都合の悪いことはあえて記さないことを指摘した上で、同書に魚問屋が四千両を上納し、寛文四年五月十六日、南小田原町に屋敷地を賜ったという記述があり、あいまいな表現ながら「とても四千両を投じて獲得する」場所とは思えない南小田原町への先行投資の思惑をみます。  
そこには、明暦の大火(1657年)後に本願寺が浅草横山町から現在の築地へ移転してきたことが前提となりました。大火で焼失した本願寺は同地に再建することが許されず、替地として"八丁堀の海上"を下附されることとなりましたが、その際に建立を行ったのが佃島の漁師たちでした。日頃より同寺を信仰するかれらは浅瀬に土地を築き、自力で築地御坊を開いたのです。佃島がかれら自身の手でよって十五年間もの期間をかけて造成された土地であることはすでに述べましたが、そこで培われたノウハウ、さらに信仰心の力によって本願寺の建立工事は行われ、明暦の大火から数えて十九年後の延宝元年(1673年)に完成をみます。そもそも築地の地名は佃島漁師たちが本願寺建立のために築いた埋立地として称されたものなのです。  
魚問屋が四千両と引き換えに南小田原町を拝領したという寛文四年は、本願寺建立工事の真っ只中にありました。本願寺の隣接地域の裏手にあたる同町もまた、技術者集団である佃島漁師らによって造成することを見越していたことでしょう。本願寺と南小田原町の造成はセットものとして、魚河岸にとってはあらま欲しきものでありました。そこがどれほどの利益を生み出したものかは不明です。江戸図をみると、文化図(1813年)には南小田原丁、肴丁とあり、文久図(1861年)にも南小田原町に魚店と記されています。そこに何らかの魚販売が行われていた形跡もみることができますが、そのために大枚四千両と膨大な人的労力を払ってまで開発したとはとても思えません。  
そこで考えてみたいのが、四千両上納が本願寺建立による築地一帯の沽券高の高騰をみての先行投資という面は確かにあったかもしれませんが、前後の状況からみると、むしろ打算的な思惑以上のものだったのではないかということです。長年の労苦によって開発した島を故郷佃村を連想させることから佃島と名づけ、さらに信仰となる御坊を自らの力によって築いたことで、その寺社地と佃島を結ぶ地域である南小田原町はお金には換えられない土地とみたのではないかということです。表裏一体の関係にある魚河岸と佃島漁師にとって築地一帯は自らのルーツをとどめる聖地の意味があったのではないでしょうか。  
思えば関東大震災後、魚河岸が中央卸売市場として南小田原町の隣接地に移転してくるのも、偶然とはいえ、魚河岸の起源に密接な関係を持つ同地であれば、まことに因縁めいたものすら感じてしまうのです。 

 

まとめ / 江戸の世相と魚河岸  
ここまで魚河岸での出来事を中心にみてきましたが、あらためてその発展過程を当時の社会状況と重ねてみようと思います。  
そこで、まず知っておかなければならないのは、江戸時代というのはある日突然にやってきたのではないということです。日本史年表をみれば江戸時代の前は戦国時代であり、家康が征夷大将軍となり幕府を開いた慶長八年(1603年)は、その三年前に関ヶ原の戦いがあり、さらに大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡する元和元年(1615年)は十二年後の出来事となります。江戸時代は戦国時代の延長としてはじまったのです。  
元来、江戸を含む関東の武士というのは大変に気性の荒いことで有名で、関八州の荒武者がそろえば全国の軍勢を相手にできるとまでいわれていました。江戸が開かれてなお七、八十年ほどの間は戦国時代の気風が色濃く残っていて、こうした荒武者のなれの果てが市中を闊歩し、寛永の頃には辻斬(つじぎり)というのが大変に横行します。寛永六年(1629年)幕府は、辻斬を取り締まるために辻番所(つじばんしょ)を設けますが、これが約百年後の元文年間(1736〜41年)までに930ヶ所にも及んだといいますから、戦国時代の鼻息は長く続いていたとみるべきでしょう。  
無礼打(ぶれいうち)というのもありました。これは町人が武士に無礼を働いた場合に斬られても文句は言えないというもので、五代綱吉の生類憐みの令で禁止された遺風なのですが、よくテレビの時代劇で登場するような横暴な武士というのも当時にはいたようです。もっとも斬られる側の町人の方でも、武士に負けずという者もおり、逆に侍を打ち倒したという話もありますから、階級制度上の武士の威厳とかいうよりも、強い者が幅を利かせるという空気が世の中に満ちていたといえます。  
そうした武士の強さは、まだ幕府の財政が健全であったことを示すもので、江戸初期に金を持っていたのは武家の側だったことがその勢いを強めていたという面があります。ですから魚河岸が納魚を目的としたのも、それが上納という名目であれ、慶長九年の家光公誕生のご祝儀、鯛二百枚に対して、金百七十五両、銀百五十枚の褒美が下された例にみられるように下賜金は少なくはなかったという面があります。また、江戸城以外にも大名や大身の武家が重要なお得意先であり、活鯛問屋で名を成した大和屋助五郎もまた将軍家の活鯛御用達を目ざして江戸に出てきたわけですから、当初の魚河岸は、武家のふところの豊かさをあてにした商売だったわけです。  
しかし、武家の世の中はそう長くは続きませんでした。平和な時代の到来により、武士の存在はやがて形骸化していきます。何しろ禄高というものは増えません。しかし、消費都市江戸にあっては、その発展と共に物資の需要増による物価高が起こってきます。したがって武士は疲弊していき、それと対照的に町人が豊かになり、身分上では勝つことができない武士に対して「金で面をはたく」ようになっていきます。町人の力がひとつの頂点をみたのは元禄時代なのでしょうが、その発端として、明暦三年(1657年)の大火、世にいう振袖火事があると思います。  
明暦三年正月十八日、乾(いぬい)の強風が朝から吹くなか、午後二時頃、本郷五丁目丸山本妙寺より出火、火は瞬く間に湯島、神田、浅草御門、鎌倉河岸、京橋、八丁堀、霊岸島、鉄砲洲、佃島、深川をなめつくします。さらに十九日午前十時、今度は小石川伝通院前より出火、牛込御門、田安御門、神田橋御門、常盤橋御門、呉服橋御門、八代洲河岸、大名小路が焼失、前日に無事であった江戸城内にも火が回り、本丸、二の丸、三の丸と焼き、「金のシャッチョコを横目に睨んで、水道の水を産湯に使い、拝み搗きの米を喰って、日本橋の真ン中で育った金箔つきの江戸っ子」と自慢のタネともなった"金のシャッチョコ"こと江戸城の壮麗な五重の天守閣も焼け落ちて、そのまま再建されることはありませんでした。  
死者十万余ともいわれるこの大火で、家康の開府以来五十年余りにわたって営々と築き上げられた江戸の町は一瞬のうちに灰燼に帰します。しかし、その復興はことのほか早く、三月には町屋も復活し、魚河岸も元通りに再興したといいます。そして、武家屋敷や寺社の移転、新地の造成、町割の整備、火除地の設置や道路の拡張、両国橋の架橋と本所・深川の開発など開府以来の徹底的な都市計画の結果、江戸はさらに大きな都市へと変貌していくことになるのです。  
その一方で大火後、最も顕著になったのは幕府がその財政を大きく悪化させたということです。江戸復興に遣った金は百万両以上といわれます。世の中は慢性的なインフレ状態にあり、これがさらに幕府の財政はひっ迫させます。家康の時代に六百万両あったといわれる幕府の金銀は五代将軍綱吉の時代には、ほとんど底をついてしまいました。それらがどこへいったのかといえば、つまり町人の手に渡ったわけで、元禄時代には河村瑞賢や紀伊国屋文左衛門らの豪商が輩出されるように、経済の実権は完全に町人が握ることとなるのですが、武士が元気をなくし、世の中全体が金に走るようになると、江戸市中には奢侈があふれ、町人が普段着にも羽二重やちりめんを身につけるようになり、食べ物の贅沢さも高価なものから、珍しいもの走りものの魚などに大金を投じることを誇りとするといった風潮が生まれてきます。寛文五年(1665年)に魚河岸に出された令は、走りものの魚を禁じて、魚の売出す時期を決めたもので、それによれば  
ます 正月より  
かつお 四月より  
あゆ 四月より  
なまこ 八月末より  
さけ 八月末より  
あんこう 十一月より  
生たら 十一月より  
しらうお 十二月より  
と制限されましたが、実際には大した効力はなかったといいます。  
幕府が緊縮財政へと転換することで、魚上納によって幕府と密接な関係にあった魚河岸にも変化が起こります。それまで名誉なことであった納魚がやがて負担となってくるのです。将軍家にはどうしても高級魚を出さなければならないのですが、市中に出せば高く売れる魚をみすみす納魚に回すのは惜しいという考えがでてきます。魚河岸は四組問屋を結成して持ち回りで納魚の責任を果たしていきますが、これは重い負担を皆で分け合おうというもので、魚河岸が将軍家への納魚という名誉によってある種の特権を得てもなお、それがよろこばしいことではなかったということを表わしているといえます。  
そのしわ寄せは魚河岸の支配する各地の浦方におよびます。仕入金によって統制する浦方に対して、魚河岸は幕府納魚を掲げることで、より強い発言力を持つことになります。その反動がついに延宝二年(1678年)浦方が日本橋魚河岸に反抗するかたちで、本材木町に新場を開くにいたります。  
一方で人口や需要の増加による売上げの拡大があり、また一方では納魚の負担や浦方との軋轢が生じるという矛盾をはらんだまま、魚河岸は江戸時代のバブル期ともいえる元禄期の繁栄の時代へと入っていくことになります。 
 
繁栄期の百年 / 元禄元年〜天明八年 (1689-1788)

 

 
 
 
 
消費文化の発展とともに町人が華美をきわめた元禄時代、需要増加と魚価の高騰で魚河岸はかつてないほどの繁盛をみます。「朝千両の商い」といわれ、金銀が乱れ飛んだという本船町、本小田原町界隈では、江戸で最も威勢の良い旦那衆らが我が世の春を謳歌するかにみえました。しかし、需要が高まり、魚が売れるほど、幕府への納魚は重い負担となり、産地からの仕入価格と城内への低価格納入のギャップをどう埋めるか、繁栄期ともいえる百年間を通じて魚河岸は腐心を続けていきます。 
元禄時代と魚河岸魚  
元禄時代の特徴をひとくちに言おうとすれば、幕府の財政が窮乏し、武家が元気をなくしていったのに対し、町人が豊かになって豪勢な暮らしをするようになり、消費文化の時代が到来した、ということになるでしょう。  
明暦の大火(1657年)の後、幕府は江戸の再建に百万両余をつかったほか、大名、旗本への拝借金、下賜金や町人への給付金として銀一万貫(約十六万両)を下しました。この出費がのちのちまで響くことになりますが、さらに翌年の万治元年(1658年)にも大火があり、町人に銀三千貫を下付しています。このような大火や、あるいは飢饉などが起こるたびに、江戸の再建や社会不安を抑えるための施策といったことに幕府は金をつかいますから、その資産は徐々に目減りをしていきます。幕府から出た金銀は、たとえば材木問屋であるとか米問屋とか青物問屋、そして魚河岸など生活物資をつかさどる商工業者に流出して、これが世の中にあふれることになります。すると好景気から消費がどんどん増大し、それにともなって諸物価ははねあがります。物が高くなれば、さらに多くの財貨が動くということで、江戸は慢性的ともいえるインフレ状況を迎えました。  
「……一寸先は闇なり。なんの糸瓜(へちま)の皮、思い置きは腹の病、当世当世にてらして、月雪花紅葉にうちむかい、歌をうたい酒のみ、浮にういてなぐさみ、手前のすり切(貧乏のこと)苦にならず……これを浮世と名づけるなり」と描かれているように、享楽的な空気が世の中に満ちあふれていて、巷では銭が水の如くに流れ、白銀が雪のように舞ったと『百年』に紹介されています。子どもの玩具にまで金銀がちりばめられたり、破魔弓ひとつを小判二両で買う分限者(成金)があらわれるとか、その頃最高級品であった佃島の白魚も「白魚を十チョボ(二百十匹)炒り玉子にからりと煮つけて、喜撰花の煮(上等な番茶)の苦いやつでお茶漬けを食べよう」といったグルメな嗜好が世間にあふれたといいます。何しろ銭は豊富にあるから、どんな高価なものにでも、馬鹿馬鹿しいくらいに惜しみなくつかう、いわば消費バブルの波にのって、経済の主体は町人が握ることとなります。  
このような消費天国の状況にあって、魚はたいそう高く売れました。高級魚の代表である鯛についてみますと、西鶴の『日本永代蔵』に「十月二十日のえびす講につきものの鯛は、その時期に値段が高くなるが、それでも京都ではどんな富豪だって一尾銀二匁五、六分で買ったのを近所で分けるのに、江戸では中くらいの鯛すら一尾一両二分もする。実に豪気なものだ」と出てきます。ここで銀六十匁を一両としますと、二匁五、六分はわずか二十五分の一両ですから、いかに江戸の物価が高かったか分かります。当時の町人の裕福さを示すものですが、さらに江戸人の大名気分というのも加わって、とめどもなくなっている様子がうかがえます。その頃は、魚の値段というのは消費者にはまったくわかりません。公正な取引なんてなく、魚価は問屋と請下との掛合いで決まりましたし、問屋は幕府への納魚の負担もあるので市中には何とか高く売ろうとします。そこに江戸の町人は高いものを買うことは外聞が良いという風潮があったので、法外な金額で魚が売買されることも珍しくありませんでした。だからこの時代に魚問屋はとても儲かった、そう考えても差し支えないものと思います。  
ところで、幕府がその財政を決定的に悪化させたことに、五代将軍綱吉の乱費がありました。なかでも有名な「生類憐れみの令」、これは貞享四年(1687年)に出されたものですが、生類の虐待を禁じ、特に犬については手厚く扱って、中野に広大な犬小屋を建築したり、違反者を厳罰に処したりで巷間には大変な不評を呼び、“犬公方”などとささやかれました。本来は聖徳太子の世には慈悲は鳥獣にまでおよぶという理想の実現を目指したもので、捨子や行き倒れの保護がうたわれたり、鷹狩を禁じることで在村の鉄砲を統制するとか、人心を温順にして庇護と支配の下に置き、諸大名を懐柔しようという志の高いものだったのですが、これがなかなかに費用がかさみ、元禄時代を通じて二十数年も続いたこの法令は幕府財政を明らかに深刻化させたといいます。食用の魚、鳥、貝類を畜養して売ることを禁じられたため、魚河岸でも、かなり困ったことと思います。こんな極端な政策がでてまいりますのも、太平の世が定着してきたからにほかなりません。いくさがないから武力が無用化し、何よりも金の力がものをいい、財力の勢いが世の中を動かしていく。そうした風潮にあふれたのが元禄時代であり、魚河岸の繁盛はその代表的なものでした。 
棒手ふりの朝  
ここで、魚河岸の実際の商売がどんな様子だったかを知るために、ひとつ魚屋になったつもりで仕入れに行ってみることにしましょう。  
魚屋といえば日本一有名なのが一心太助です。この人は架空の人物なのですが、ここは固いことを言わずに、ご登場ねがうことにしましょう。  
一心太助は、いわゆる棒手(ぼて)ふりと呼ばれる行商人でありまして、このように肩から天秤棒をかついで町中を売り歩き、お得意先を回ります。当時の魚屋のほとんどがこのスタイルで、店持ちというのはごく少数でした。棒手ふりの魚屋は、路地までやって来てくれて、その場で魚をさばいてくれるのですから、ありがたい存在です。魚屋に限らず、あらゆる商品は棒手ふりの商人が売り歩きましたので、居ながらにしてコンビニが向こうからやって来てくれるようなものです。そういう意味では、とても便利な時代だったともいえますね。  
明六ツの空がかすかに白んでくる時分、太助は肩から提げた空っぽの盤台をカタカタいわせながら、小走りに日本橋へとやってきました。もう隣町にさしかかった頃から、鮮魚の臭いがぷんと鼻をつきます。すでに朝売りが始まっているのです。  
「おぅ、ごめんよ」太助は挨拶ももどかしく、盤台を器用に左右に振りながら通行人をすり抜けるようにして黒塗りの木戸に飛び込みました。  
そこは、魚河岸のメインストリートともいえる本船町の表店。すでに買出人でごった返しています。なにしろ江戸中から魚屋が集ってくる上、その多くは太助と同じように天秤棒を提げた棒手ふりですから、魚河岸の店先は、人の行き交うのも難しいくらいの混雑ぶりです。太助はもう慣れたものでしたが、はじめて河岸に来たころには、盤台をぶつけて、せっかく買った魚を路上に放り投げてみたり、荷が勝ちすぎて右にも左にも動けずに立ち往生したこともありました。  
「やいやい、買っていけ、いいコハダだ」  
「おう、呉れてやれ、ヤリイカだ。おう、どこへ行く。お前にゃもったいねえくれえの品だ」  
人いきれのなかを売り手の怒号のような声が飛び交います。威勢が良いというか、乱暴というか、まるで喧嘩でもしているかのような勢いですが、これが魚河岸流。何といっても魚は鮮度が命、サッと並べてパッと売ってしまうのを身上としましたから、恐ろしいほどの勢いで取引が行われます。魚河岸の威勢の良さは鮮魚の活きの良さと競争するようなものだったわけです。  
「さあさぁ、見てみなよ。今朝方、押送舟(おしょくり)で河岸に揚がったばかりのサンマだ。お、太助の兄ィ、ちょうどいいところへきなすった。どうだい、いいサンマだろ」  
いつもの店の前を通りかかると、顔見知りが声をかけてきました。太助も樽のなかをのぞきこんで足を止めます。  
「うん、ピカピカ光ってやがるな」  
「あたりめえだよ。ついさっきまでピチピチはねてたくらいだ」  
店先で勢い良く魚を売っているのが請下と呼ばれる仲買人です。魚問屋がひと樽とか箱売りといったまとめ売りをする魚を買ってきて小分けにして売るのがかれらの仕事で、その日の入荷や季節に応じて目先をきかせて売ることが良い仲買人の条件でした。仲買人の多くは問屋に雇われていて、いわば従属の関係にありましたが、自分の裁量しだいでなかなかに儲かる商売でしたから、のちには仲買が独立した店を持つようになります。  
目先を利かせるのは、太助のような魚屋も同じで、その日の入荷状況を見ながら、お得意さんの好みを考えつつ魚をそろえます。ですから、売る方も買う方も相応の目利きができて、状況を判断しながらの売り買いにより、自然に魚の値段も決まっていきます。  
太助はお目当ての魚を求めて何軒かの店を回ることにしました。飛び交う売り声をやり過ごし、せまい通りをすり抜けながらも、左右にするどい視線を向けています。  
通りに並ぶ店々は、それぞれ魚をのせた台を軒先にせり出すようにしています。この台を板舟といいます。これは魚の鮮度を保つために張った水が流れないように縁板をしたのが舟のかたちに似ていることからついた名ですが、これを通りに出して売ることが、ひとつの権利となっていました。魚河岸のメインストリートでは、この板舟一枚が、千両で売買されたともいわれています。  
魚は板舟にのっているものばかりでなく、ヒラメやタイなどの活物は生簀に入れて売られたり、江戸橋寄りの地引河岸では、イワシやコノシロなどを「ダンベ」という大きな桶に入れて笊で計り売りします。  
さて、河岸をまんべんなく回って盤台を魚でいっぱいにし、天秤棒の重さが肩にずしりと食い込む頃には、東の空から、お日さまもすっかりと顔を出しています。  
「太助さん、休んでいきなよ」  
通りを隔てた品川町の釘店(くぎだな)の方から潮待茶屋のおばさんが声をかけます。潮待茶屋とは、日本橋川から荷揚げするのに都合の良い上げ潮になるのを、荷捌人が待ったことからそのように呼ばれ、魚売りがひと休みをする場所ともなっていました。  
「ありがとよ。でも今朝はゆっくりもしてられねえんだ」  
もう太助の気持はお得意さんに向かっています。いま仕入れたばかりの魚を一刻も早く届けたい。長屋のおかみさん連中がこのサンマを見たら喜ぶだろうな。伊勢屋の旦那にはコハダを持っていってと。おっと、忘れちゃなんねえ。大久保のお殿さまには、いの一番にクロダイをお届けしなくちゃ。  
太助は飛ぶように天秤棒を揺すりながら、朝もやの向こうに消えていきました。 

 

買問屋と売問屋  
大阪では、問屋に買問屋と売問屋という棲み分けがあるといいます。この区分では、生産地から商品を集荷して業者に卸すところが買問屋であり、さらに買問屋から仕入れた商品を業者に卸したり、一般に売ったりするのが売問屋ということになります。  
これを築地市場にあてはめてみると、築地本場そのものは買問屋となり、それに対する売問屋として場外市場が存在するということになるでしょうか。ただし、築地場内は売問屋をかねている側面もあり、場外市場にも産地からの直接仕入もありますから、実際には混在しているわけですが、なべてみれば買問屋と売問屋それぞれの性格にかなっていると思います。  
さて、江戸時代の状況はどうだったかをみてみると、元禄十年の『国華万葉集』の記録に、「日本橋北東の中通り安針町より北へ誓願寺前まで、肴、八百屋、塩、醤油、つき米、薬問屋など多シ」とあって、日本橋魚河岸の裏手一帯が食料品街の様相を呈していたことがわかります。ちょうど現在の築地場外市場に近いものでしょう。この場合、魚河岸が買問屋、それに付属する地域に売問屋が拡がっていたとみることができます。  
さらに魚商の多い町として、「本船町、本小田原町、本材木町(新かし)、鈴木町、新右衛門町、八官町、大伝馬町二丁目、久保町、芝一、二、三丁目(片川也)、糀町三、四丁目、浅草駒がた、牛込、本郷、平松町、上野黒門町」と紹介しています。まるで玉石混合というかたちで並んでいますが、本船町、本小田原町は魚河岸、本材木町は新場、芝の片川というのは芝の魚市場のことです。芝市場は、家康入府以前に四日市に肴店を開いていた日比谷の漁師らが、江戸造成にあたって芝に移り市場を開いたもので、その歴史は魚河岸よりも古く、寛永年間に「御用魚撰立残魚売捌場」という名で正式に認められ、上納の残りを売ったことから「雑魚場」と呼ばれました。商いも小さく取扱高も知れていましたが、「芝肴」と呼ばれて江戸っ子には人気がありました。  
そのほかの、ここにあらわれている町名は、魚市場というほど規模は大きくはなく、単に魚店が多かった町だと思います。江戸時代に魚屋の多くは棒手ふりで、店持ちはごくわずかだったのですが、その数少ない店持ちが散在するのが、これらの町まちなのでしょう。といって、それを現在の魚屋のような店前で売る小売店と想像すると、ちょっと事情がちがいまして、ここでいう魚店とは、先の売問屋を考えてみる必要があります。つまり、棒手ふりの魚売りたちが働いて金をため、いつかは表店に魚屋を出すというのが、どういうことが知れてきます。それは、まさに売問屋を開くということにちがいありません。  
売問屋は買出しに行くにも棒手ふりのように天秤棒をかついでは行きません。足下もこれまでのように裸足や草履ばきというのではなく、長い股引きに高歯の下駄をはいて、颯爽と買付けをいたします。かれらは買問屋である魚河岸のように、地方に持浦があってそこから集荷するというものではないけれど、体裁としては問屋であって、棒手ふりにも売れば、自分のところでもお得意に配送する。そのため魚店の立地は魚市場に近接地や便利の良い場所であれば、なお好都合だったでしょう。  
たとえば、上の町名でいえば平松町というのは、今の八重洲に近いあたりで、本材木町の新場からもそう遠くない位置にあたります。そのような場所に魚店が集中していく傾向にあったのだと思います。 
小田原町風がかっこいい  
この頃魚河岸は「朝千両の商い」といわれるようになります。これは早朝だけで千両の売上げがあるということで、ほかにも昼は芝居町で千両、夜は吉原で千両、合わせて三千両という金が毎日江戸で流れるとされていましたから、魚河岸の繁盛は当時を代表するものだったわけです。  
『百年』は、この時代の羽振りの良い魚河岸の旦那衆が、吉原で大盤振舞いをした様子を紹介しています。とくに「突出し」といって、吉原でまだ客に接していない新造がはじめて客をとるときの御祝儀があるのですが、この掛かりが三百両とか五百両といった大金にもかかわらずポーンと出すほどの気前の良さだったというのです。「突出し」は売れっ子の太夫が客に頼むのが通例でしたが、それも札差とか魚河岸、青物河岸、酒問屋、金銀座の役人といった景気の良い連中に限られます。ことに魚河岸の旦那衆といえば粋であることを自認する連中でしたから、なじみの太夫に頼まれれば嫌とは言えません。むしろ突出しをすれば遊びも一人前という風でしたから、ふたつ返事で応えます。もしも金がなければ河岸に戻って相談すると誰かが出してくれる。時には組合の共有金から立替えたというくらいですから、魚河岸の「はり」といったら大したものでした。  
それから幕府への納魚、これが大変な負担ではありましたが、一方でおおいに名誉なことで、御城に献上の魚を運ぶのに「御献上肴」と大きく幟を仕立てた大八車で行くのが何より自慢でした。これが通るときには大名行列さえも道をゆずったといいますから、まさに魚河岸の面目躍如たるもの、江戸の庶民で最も勢いのあった連中だったといえます。  
だから魚河岸といえば江戸っ子の見本のようなものだといわれました。当時、かれらのことを魚問屋のある町名から小田原町と呼んでいましたが、小田原町風というのがたいそう格好の良いものだ、当世風だ、と流行をみました。  
元禄期に流行した髪形に“本多髷(ほんだまげ)”があり、これは月代(さかやき)を髷の内側まで剃ってその堺をなくし、元結(もっとい)は三つより多く巻かないようにした、坊主だか野郎だか分からない髪型だということで、疫病本多などと呼ばれました。これは本多忠勝の家風から来たとされるのですが、三田村鳶魚はその著書『江戸ッ子』のなかで、どうも肴屋の方から来たらしいと述べており、本多髷は実は本田髷で、本小田原町の本と田をとったのではないかとしています。  
それから、着る物にしても、魚河岸では着物の下に「紅襦袢」を着て意気がって見せるのを常としましたが、これを芝居が真似たことで、いわゆる男伊達の風俗として流行し、やがて定着していったといいます。  
下駄の流行も小田原町からだったと鳶魚翁は書いています。元禄年間の魚河岸は繁盛を重ねていましたから、路面は一年中乾くひまがなかった。いつも雨後のぬかるみの様だったから草履で歩くことをきらった魚河岸の旦那衆がいつも下駄を履くようになりました。これが島桐の目の細かい台に樫の歯を入れた上等品に、わざわざ革の鼻緒をすげ換えて目立つようにしてありましたから、これがとても格好良く見えたといいます。小田原町の連中は河岸引けになると下駄のまま晴れ空のもと、遊びに出かけたのですが、世の通人といわれる人たちがこれを真似して晴天でも下駄を履くようになったそうです。  
もっとも、鳶魚翁は享保年間(1716〜1736年)以降になると魚河岸の景気も下火となり、商いも少なくなって路面が乾いたので、草履履きでも平気になったとも書いています。 

 

初鰹 五両してもかまわぬ  
消費景気によって魚の価格がはねあがりますが、なかでも勢いの良かったものに初鰹の値段があるでしょう。初鰹の景気というのがいつの頃からはじまったのかはっきりとしませんが、元禄の頃にはだいぶ高くなり、天明期(1781〜1789年)にピークに達したものといわれています。  
高い物の親玉初鰹 五両してもかまわぬ  
これは文化十年(1813年)に流行った「かまわぬ尽し」という歌の一節で、五両とはずいぶん高い気もしますが、それでも実際に最盛期には二、三両はしたそうです。  
初鰹袷を殺す毒魚かな  
この句は、江戸っ子の気性を言い当てたものとして三田村鳶魚が紹介しています。初鰹の出る季節にはもう袷の着物は必要ないと、これを売り飛ばして一尾を買い求めるなどという見栄は、江戸ならではのものでしょう。  
初鰹はもちろん魚河岸にも出回りましたが、新場の方が江戸前の芝魚を扱うことを売り文句としていましたから、より盛んだったようです。初鰹を運ぶ押送舟(おしょくりぶね)は夜着きました。後にこれが猪牙舟(ちょきぶね)となり、さらに馬で運ぶ陸送もはじまって、海と陸が競争するように届けたといいます。  
河岸に揚がった初鰹は、先を争うように取引され、大急ぎで市中に売りに出されるのですが、初鰹売りというのは、とても気が強くて侠客のようだったそうです。言い値で買わないで値切るような客には絶対に売らない。「わたしは売りたいけど、魚がいやだというのでね」などと悪口を言って行ってしまいます。  
さて、三田村鳶魚の『庶民の食物志』のなかには、紀伊国屋文左衛門のエピソードが書かれています。面白いのでご紹介しましょう。  
「あるとき紀文が吉原の大店を仕切る重兵衛というものに、今年はぜひ初鰹を吉原で食いたいから、何とか江戸に一本も入らないうちに料理して食わせるようにしてくれ、と頼んだ。重兵衛はすべての肴問屋に前金を打って、鰹の荷をすべて押さえた。そうして紀文が大勢をひき連れて吉原へやってくると、たった一本の鰹を料理して出した。ところが、大勢なのであっという間に食べてしまった。皿をながめていても仕方ないから、もっとないのかと催促するけれども重兵衛は出さない。紀文はもどかしくなって、何故後を出さないのかというと、重兵衛は大きな箱のフタを取って、鰹はこんなにありますが、初鰹は一本のみです。残りはあとで皆にやってしまいますと言った。紀文はこれを聞いてむしょうに嬉しくなり、当座の褒美だとかれに五十両を呉れた」  
これが幕末になると、鰹の御注進というのが義務づけられるようになります。魚市場にはじめて鰹が着いたときには、幕府に届けて、これを上納したのちでなければ、市中に販売してはならぬ、ということになり、次第にむやみな景気も収まっていきます。 
鯛と鯉の御用役  
多くの魚のなかでも鯛と鯉は御用魚の主力でしたから、活鯛問屋および鯉問屋はそれぞれ員数も決まっていて、魚河岸のなかでも特別な地位にありました。  
これまで活鯛問屋については、元和二年(1616年)に大和屋助五郎が江戸に出てきて、大規模な活鯛流通システムをつくりあげたことをみました。大和屋は創業から百年以上経った天明の頃には、関東、東海から四国に至るまで幅広い敷浦を持ち、活鯛御用はいよいよ大和屋の独占となって、その絶頂期を迎えようとしていました。これについては、あとで詳しくみてみたいと思います。  
そして、鯉の方はというと、宝永元年(1704年)の武鑑に鯉御用役として、本小田原町一丁目 尾張屋二郎右衛門、伏見屋作兵衛、鯉屋小兵衛の三人の名前がありまして、享保十七年(1732年)の武鑑ではここから尾張屋がはずれ、伏見屋と鯉屋の二人になっています。  
ここで伏見屋作兵衛は森孫右衛門とともに江戸に下った井上作兵衛の子孫であり、鯉屋小兵衛も同じく森一族の一人井上与市兵衛の三代目にあたり、鯉のお役目にあたって鯉屋を名乗ったものです。すなわち鯉御用は森一族ゆかりの摂津系問屋がつかさどっていたことになります。これは森一族の本国である摂津大和田村が「大和田の鯉のつかみどり」といわれるほどの名産地だったことも関係あります。  
『百年』は鯉御用役の特権について次のように述べています。  
鯉は出世魚として武家に珍重され、幕府でも正月三ヶ日の料理に欠かせないものであり、法会には放生の行事というのがあって、芝増上寺の池に鯉を放ちました。また、大奥で出産があると、二十一日間、子持ち鯉のかたちを揃えて毎日上納するというのが決まりでした。大名や旗本なども、男子出産や元服の行事などに鯉を食べる風習があるなど、武家を中心に多くの需要がありました。  
鯉の値段というのは、幕府御用の場合、大小にかかわらず一尾八十文しかもらえなかったのですが、大名、旗本の御用聞きでは、一尾一両から一両二分といった法外な高値となりましたので、それがために鯉御用というのは、たいへんに儲かり、幅のきく役目でした。  
鯉御用で最も顔を売ったのが鯉屋庄五郎で、この人は鯉屋小兵衛の次の代と思われますが、鯉上納のお籠に幕府御用という大きな提灯をつけるのが習慣で、さらに納入時だけでなく、普段もこの提灯を手にして意気揚々とねり歩いたといいます。また、鯉屋庄五郎こと鯉庄を染め抜いた襦袢をつくり、これを着ていると城内本丸や西の丸、増上寺の一部の出入りが自由であったといわれ、これでみても鯉御用役が大きな権限を持っていたのがわかります。また、江戸市中で鯉を商う者は、鯉庄の顔色をうかがわねばなりませんでした。貫三といって鯉の代金一貫(一両の四分の一)に対して三百文ずつの冥加金を鯉屋に支払ったという記録もあります。  
鯉庄の生簀(いけす)は深川にあって、ここに鯉を囲っておき、毎朝、魚河岸に舟で運んでくるのですが、もしも大水などで深川の生簀が流れてしまうとか、臨時のことで鯉の数がそろわない場合には、町奉行の許可を得た上で、江戸市中どこの家の池からも鯉をとって良いというとんでもない特権を与えられていました。相手がこれを拒んだり、鯉を隠したりすると、鯉庄の若い衆が夜中にその者の家の外に立っていて、鯉が池ではねる音をききつけると、これを襲って持って行ったといいます。  
しかし、庄五郎がしりぞくと、鯉御用役もおとなしくなり、このような乱暴な振舞もきかなくなったそうです。 

 

芭蕉と杉山杉風  
「おくのほそ道」で知られる俳人松尾芭蕉は、寛文十二年(1672年)江戸に下り、日本橋本小田原町の魚問屋二階に草鞋を脱ぎました。  
その前年、芭蕉は初の著作「貝おほひ」を伊賀上野天満宮の菅原道真公七百七十年忌例祭に奉納し文運を祈願、意気軒昂として東下の旅に出たといます。  
当時は貞門俳諧(ていもんはいかい)といって、和歌、連歌で禁じられている漢語や俗語である俳言(はいごん)を使用して日常や感情を、ユーモアをもって表現する手法が流行していましたが、いささかマンネリぎみであり、言葉遊びに終始する体であったところへ、西山宗因の談林俳諧がより大胆に「おかしみ」を追求していて、若き芭蕉も談林調に傾倒していきます。しかし、独自の蕉風俳諧を確立し、いわゆる「わび」「さび」の域に到達するのは、これよりずっと先のこと。当時芭蕉はわずか二十九歳、自らの境地を極める旅ははじまったばかりであり、いわば試行錯誤にあったその若き日々を日本橋魚河岸で過ごすことになったのです。  
芭蕉が身を寄せていた魚問屋というのは、北村季吟の同門下だった小沢仙風の俳号を持つ鯉問屋、杉山賢水宅でした。そして賢水の長男にあたる杉風(さんぷう)こそが、芭蕉がまだ有名にならない前からの支持者であり、芭蕉十哲のひとりとして終生追随した杉山杉風その人です。杉風は師に対して経済的な援助を通じて、スポンサー的役割も果たし、のちの蕉風俳諧を築いていく上での最大功労者といわれています。  
杉風の家業である鯉問屋が、先に述べましたように魚河岸では特別の存在で、たいへんに羽振りが良かったことが芭蕉への庇護を可能にしたといえます。鯉屋では鯉を囲っておくための生簀を深川に二ヶ所持っていたといいますが、そこにあった番小屋を改造したのが芭蕉庵であり、その名も生簀に植わっていた芭蕉からつけられました。  
 古池や蛙飛び込む水の音  
この有名な句はまさに芭蕉庵で詠まれたといいます。  
芭蕉が若き日々を送り、杉風を通じて由縁をもった魚河岸は、芭蕉にとっては馴染み深い土地であったことでしょう。  
 鎌倉を生きて出でけん初鰹  
これは魚河岸の繁盛と初鰹の景気を詠んだ気持の良い句です。魚問屋の二階で吟行に励む芭蕉の眼に、喧騒に満ちた早朝の魚河岸の賑わいはどのように映ったでしょうか。  
芭蕉が「おくのほそ道」の旅に出るときに、杉風に送ったといわれる句があります。  
 ゆく春や鳥啼き魚の目はなみだ  
元禄二年(1689年)三月二十七日、芭蕉庵を出てから舟で隅田川をさかのぼり、千住で送別の人たちと別れたといわれ、そのときに芭蕉は長年世話になった杉風に対してこの句を詠んだものと思われます。杉風は芭蕉の北行にあたって、春先の寒さを案じて、その出発をとどめたといいます。互いのあたたかい心の通じ合いが、旅立ちにあたってこのような留別の句を詠ませたのでしょう。あるいは魚という一文字には、自らが魚河岸で過ごした若き日への決別の念がこめられているのかもしれません。  
さて、杉山杉風についてみてみましょう。  
杉風は正保四年(1647年)幕府鯉納入御用問屋の長男として生まれました。ちなみに芭蕉は杉風より三歳長じる正保元年(1644年)の生まれです。  
通称鯉屋市兵衛、藤左衛門、または鯉屋杉風と称し、寶井其角、服部嵐雪とともに芭蕉門下の代表的俳人で、流行を追わない着実な作風は、人柄とともに芭蕉のもっとも信頼のおく門人でした。  
 頑なに月見るやなほ耳遠し  
 影ふた夜たらぬ程見る月夜かな  
 年のくれ破れ袴の幾くだり  
 がつくりとぬけ初る歯や秋の風  
杉風は聾者で耳がひどく遠く、同門で粋を旨とする其角は、杉風は耳が聞こえぬから世間に遅れている、などと揶揄すると芭蕉はひどく機嫌を損ねたといいます。芭蕉は杉風の心情を察して生涯にわたって聾者のことを句にしませんでした。  
また、杉風は俳諧以外にも絵画を狩野派に学び、その筆致はきわめて写実的で、かれの手になる「芭蕉像」は多くの肖像のなかでも最も信頼されるもので、のちに大英博覧会にも出品されました。  
貞享四年(1687年)の「生類憐れみの令」では、魚鳥類の畜養売買禁止となり、これには大きな痛手を受けたと思われますが、温和で豊かな生涯であったといえるでしょう。享保十七年(1732年)八十三歳で死去。遺骨は築地本願寺内の成勝寺に納められますが、同地は関東大震災の被災により、現在は世田谷区宮坂の伏見山成勝寺にあります。また、杉風の子孫である山口家は、栃木県の倭町で創業百年を越える老舗「ホテル鯉保」を開いており、同家の長女が女優の山口智子さんであるということです。  
最後に杉風と師芭蕉とのこまやかな心情のやりとりを伝えるものとして、芭蕉が最後に杉風に送った遺書をご紹介したいと思います。  
「杉風へ申し候。久々厚志、死後迄忘れ難く存じ候。不慮なる所にて相果て、御暇乞ひ致さざる段、互ひに存念、是非なき事に存じ候。弥俳諧御勉め候ひて、老後の御楽しみになさるべく候」(杉風に申します。長い間親切な志をたまわりましたことを死んでも忘れません。思いがけない所で命果てることとなり、お別れを伝えに行けないことが、互いに心残りですが、仕方のないことだと思っています。あなたはこれからも俳諧に力を入れて、老後の楽しみになさってください) 
洒落者、寶井其角の一生  
杉山杉風と並ぶ芭蕉の代表的門人に寶井其角(たからいきかく)がいます。  
魚河岸生まれの生っ粋の江戸っ子俳人である其角は、寛文元年(1661年)日本橋堀江町の医者竹下東順の長男として生まれました。幼名を源助といい、何不自由のない、あたたかい家庭に育ちます。少年の頃から、医学、経済、書道を学ぶ才気煥発ぶりが、わずか十四歳にして芭蕉に認められ、たちまち高弟のひとりと数えられるようになります。  
 鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春  
 夕涼みよくぞ男に生まれける  
 わが雪と思えばよろし傘の上  
 名月や畳の上に松の影  
 越後屋にきぬさく音や更衣  
其角の作風は軽妙で庶民的な滑稽さをたたえたものが多く、師芭蕉の枯淡な風情といかにも相容れないものであったため、他の門人からはとやかく言われました。でも、芭蕉は「私が静寂を好んで細やかに唄う。其角は伊達を好んで細やかに唄う。その細やかなところは同じ流れなり」と誰よりも理解を示したと申します。芭蕉は其角にとって実によい師であったといえるでしょうし、また、其角の句は見事に江戸情緒を詠んだものであることを、何よりも芭蕉は認めていたのでしょう。  
ところで、其角には面白いエピソードがいくつもあります。  
たとえば有名な雨乞いの話。これは元禄六年(1693年)、其角が門人と三囲神社に参詣したおり、土地の農民らが集って雨乞いの祈願をしていました。その頃、其角は坊主頭をしていまして、それを見つけた農民たちが、  
「これは和尚様、よいところへいらっしゃいました。私共は長く日照り続きで困っております。ぜひ雨乞いの妙法を唱えてください」  
などと言ってきましたから、其角は驚いて、  
「あたくしは坊主じゃなくて、ただの俳人なんですヨ」と断りますが、  
「まあ、それでも構いませんから」とにかく頼みこまれます。  
そこで、仕方なく其角は開き直って、もうどうにでもなれと一句詠みました。  
 夕立や田を三囲の神ならば  
そのとたんに句が天に通じたのか、みるみるうちに空はかき曇り、大粒の雨がポタリポタリと落ちてくるではありませんか。農民たちは大喜び。その脇で雨にしとどに濡れながら、其角たちは狐にでもつままれた心持ちだったといいます。  
また、よく講談などにも登場する赤穂浪士討ち入りの前夜、大高源吾との両国橋での別れがあります。  
時は元禄十五年(1702年)十二月十三日、舞台は江都両国橋、其角が橋詰にかかると、向こうからやってくるみすぼらしい笹売りにふと足をとめました、  
「お前は子葉ではないか」  
はっと上げたその顔はまさしく其角の俳句の弟子である大高子葉こと源吾。はて、その格好はさても困窮してのことであろうと察し、それには触れないで様々な世間話などした後、別れ際に其角が  
 年の瀬や水の流れと人の身は  
と上の句を詠みますと、源吾がただちに  
 あした待たるるその宝舟  
と返しました。其角は源吾の身を哀れんだの対して「その宝舟」とつけたその真意を知らず、きっとどこかへ仕官したいのだろう、と解釈しました。  
その翌日、其角は赤穂浪士討入りの報せを受けます。あの笹売りの姿こそ吉良邸密偵のために源吾が身をやつしたものだったのです。其角は己の無知を大いに恥じたといいます。  
翌元禄十六年二月四日、鶯の鳴くしずかな春の日に、大石良雄以下四十六名の赤穂浪士は自刃します。家で一杯飲っていた其角は、この突然の報に、  
 うぐいすに此芥子酢はなみだかな  
と詠み、はらはらと涙を落としました。其角四十歳の春のことです。  
もうひとつ、よく知られている話に元禄期を代表する町絵師英一蝶(はなぶさいっちょう)との交友があります。  
其角の俳句の弟子であり、同時に絵の師匠であった英一蝶は、「朝妻船」という絵で、時の権力に追随して立身した柳沢吉保が、自分の娘を将軍綱吉の側室にしたことを風刺的に描き、お上の怒りにふれ、三宅島に遠島となりました。  
それからというもの其角は毎朝魚河岸を訪れては、  
「おい、島の荷はまだ着いてないか」とあたりかまわずに大声で呼びます。  
「へえ、どうかあちらの親方に」  
小揚衆にうながされて、一軒の魚問屋に入ってゆくと、今度は小僧に向かって  
「旦那はいるかえ、いねえ? なら番頭でも良い。ちょいと呼んどくれ」  
すると、すぐに奥から番頭が飛んでまいりまして  
「これは榎本の旦那さま、こんなところまでご足労いただきまして面目ございません。どうにも私共の若い者が気がつきませんもので、へえ、三宅の荷なら着いております。旦那がいらっしゃると思い、別に分けてございます」  
其角はすぐに荷を開けさせると、狂ったように中を引っ掻き回しはじめました。しばらくすると中から「くさや」のひと包みをつかみ出し、「おお、無事であったか」と歓喜の声をあげるのです。  
其角が大切そうに手にしている「くさや」の包み。それは、英一蝶からのものでした。一蝶は別れ際、親友の其角に三宅島での無事の知らせに、特別の印をつけた「くさや」の包みを送ると約束し、それがある限り自分は健在と思え、と言い残し去っていったのです。  
其角は一蝶の身を心配しながらも、一方では反骨精神のために三宅島に流されてしまった友に比べて、時勢をうたいながら世を渡ってきた自分に対する嫌悪を感じておりました。世間で囃されるように自分は幇間俳諧師なのだ、そんな自嘲的な思いが沸き上がってきて、えもいわれぬ淋しさに襲われるのでした。  
英一蝶が江戸に戻ったのは、それから十数年後。その時すでに其角はこの世を去っております。  
 鶯の暁寒しきりぎりす  
其角辞世の句です。放蕩に明け暮れ、絢爛華美をきわめた其角でしたが、その晩年はとても辛いものでした。師芭蕉が逝き、門弟たちにも先立たれた後、長年の放蕩に見切りをつけた妻子からも去られ、失意のうちに息をひきとったのです。享年四十七歳。江戸の庶民感覚を痛快に詠んだ俳人のあまりに若く、せつない最後でありました。 

 

元禄大地震とその影響  
元禄十六年(1703年)十一月二十二日は、夕刻より稲妻が空を真昼のように明るくし、江戸の人びとは、しきりに不安がっていましたが、ついに夜半になってドロドロという不気味な地鳴りとともに、大地が大きく震え出しました。房総南岸沖を震源とする推定マグニチュード8.2の元禄大地震の襲来です。  
新井白石は『折焚く柴の記』に烈震の模様を詳しく記しています。  
「我はじめ湯島に住みしころ、癸未の年、十一月二十二日の夜半過ぎるほどに、地おびただしく震ひ始て、目さめぬれば、腰の物どもとりて起出るに、ここかしこ戸障子皆倒れぬ。妻子共のふしたる所にゆきて見るに、皆々起出たり……道にて息きるる事もあらめと思ひしかば、家は小船の大きなる浪に、うごくがごとくなるうちに入て、薬器たづね出して、かたはらに置きつつ、衣改め著しほどに、かの薬の事をば、うちわすれて、走せ出しこそ、恥ずかしき事に覚ゆれ。かくてはする程に、神田の明神の東門の下に及びし此に、地またおびただしく震ふ……おほくの箸を折るごとく、また蚊のなくごとくなる音のきこゆるは、家々のたふれて、人のさけぶ声なるべし。石垣の石走り土崩れ、塵起りて空を蔽ふ……」  
これは白石が甲府の徳川綱豊(のちの将軍家宣)に仕えていて、地震と共に湯島の自宅から日比谷門外の藩邸へかけつけたときのことを書いたもので、突然の揺れに市中が混乱し、自らも取り乱している様子があらわれています。  
地震の翌日未明には、江戸市内に火災が発生。本郷追分より出火した炎は、谷中までを焼き、その後再び小石川より出火、北風にあおられて上野、湯島、筋違橋、向柳原、浅草茅町、神田、伝馬町、小舟町、堀留、小網町と焼きつくし、さらに本所へ飛び火して回向院から深川、永代橋までを焼いて、両国橋は西の半分が焼け落ちました。  
地震の被害は、江戸よりも震源に近かった小田原や房総周辺に集中し、とくに地震発生と共に相模湾と房総半島東岸を襲った大津波により二千人を超える溺死者が出ました。房総半島南端では、地面が五メートルも隆起し、島だった野島は陸続きとなり、現在の野島崎となります。  
震災地全体での潰家は二千、死者はおよそ五千二百人にのぼり、幕府では応急処置として流言を取締り、大寺大社に天下安全を祈らしめ、当時「生類憐れみの令」により町方に負担させていた「犬扶持」を免除することにしました。また、この地震によって年号が宝永と改められます。  
魚河岸では、周辺の町が被災するなか、大きな被害を出さずに済みました。しかし、生産地の被害は甚大で、房州の各浦では、ちょうどイワシの豊漁期のため、沿岸の納屋集落が漁師もろとも大津波にのまれたことで、出荷はもちろん中断し、人的、物的損失は深刻でした。魚問屋では各浦に仕入金を渡して、漁船や漁具の資金としていましたから、この災害であらたな資金調達を迫られることになったのです。  
なぜか魚河岸は、自分のところの被災には強いのですが、産地の被災にはめっぽう弱いという特性をもっていました。明暦の大火をはじめ、たびかさなる火災に何度も全焼の憂き目にあうのですが、すぐに再生します。焼けても、どうということのない安普請、何となれば野天でも営業出来るし、それに店借りの身ですから、財布を痛めるのは大家ばかりという考えです。しかし、浦方から入荷が途絶えてしまえば、もうどうにもなりません。そういう意味で元禄地震は魚河岸に多大な損害を与えたというべきでしょう。  
この地震に先立って、江戸では元禄十一年と十五年にも大火に見舞われており、さらに宝永四年(1707年)には、東海地方の大地震とそれに続く富士山の大噴火があり、打ち続く大災害によって、さしもの元禄の消費景気も冷え、世の中は低成長期に入っていきます。そして、ここにいたって幕府財政は危急の状況を迎えることとなり、緊縮財政の必要が求められ、その結果として、享保の改革が断行されることになります。 
幕府の納魚助成  
元禄時代のインフレに拍車をかけたものとして、元禄八年(1695年)の貨幣改鋳が原因のひとつとしてあげられます。それまでの基準であった慶長期のものに比べ、粗悪な金銀を改鋳することは、幕府の悪化する財政に対する、いわば一時しのぎの施策だったわけですが、これが極端な物価高をうながすことになります。本来ならインフレ打破のために、ここで金銀の質を戻したいところですが、相次ぐ天変地異のあおりを受けて財政はさらにひっ迫し、その結果、宝永年間(1704〜1711年)にも二度にわたる改鋳を行い、さらに質を落とすことになります。特に宝永八年(1711年)に改鋳された四宝字銀は、通称「土芥(つちあくた)」といわれたほどに評判の悪いものでした。  
そんな事情もあって、元禄期に高騰した物価は、宝永期を通じてなかなか下がる気配を見せません。およそ十年ほどで米価が倍になったのに比べ、庶民の賃銀や手間賃はたいして上がりませんから大変苦しい家計となります。ところで米の値段が上がると皆が苦しいかといえばそうでもなく、俸禄、つまり給料を米でもらっている武家は、食べるに困らない上、その米を金に換えれば時価なので、かえって都合が良いということになります。  
さて、魚河岸では諸物価が上がっても、元禄期の消費景気の頃と比べて高い魚が飛ぶように売れるということはありませんし、そればかりか幕府に対しては相変わらず安値で上納しなければならないので、そのギャップは損失として、年を追うごとに大きくふくれあがっていきました。  
そこで、最初は本材木町の新場が幕府に助成の願いを申し入れ、これに続くかたちで日本橋本小田原町組も訴願に及びます。ここで本小田原町組が単独で願い出たのには、同組が相変わらず納魚について強い権限を持っていたとも考えられます。この訴願は宝永元年(1704年)に出されたものと思われ、それから丸一年、老中出座による慎重な裁定が行われます。  
幕府としては、魚河岸は納魚を前提として成立している上、公租公課も免除されるのだから、上納は当然のことであるという考えではありましたが、これまで納魚が滞ったことはなく、ここでそれが止まってしまっても都合が悪いということになり、結局、宝永二年(1705年)、魚河岸に十一ヶ所、新場に五ヶ所の助成地を与えることにしました。この助成地というのは、通常、あたらしい町割などでいちじるしく不利な土地へ移されたものに対して代替地として与えられるのですが、この場合は、助成地の地代や家賃収入をもって納魚の助成に充てるという特別な措置でありました。  
ここで魚河岸が拝借した助成地についてみてみますと、日本橋音羽町、富沢町、新材木町、南大工町、神田旅籠町、同二丁目、永井町、霊岸島銀町、赤坂一ツ木町、赤坂新町、四谷伝馬町一丁目の十一ヶ所で、のちに神田旅籠町、霊岸島銀町、赤坂新町の三ヶ所がそれぞれ紺屋町と神田多町、同二丁目へと替地になりました。これらの町の沽券地としての価値は、合計で三千六百七十八両一分と記録されており、ここからの年間収入は、町内入用などの経費を差し引くと、おおよそ二百八十六両と銀五匁六分七厘になり、それなりの助成を果たしていたと思われます。  
ともあれ、これまで当然のこととされてきた納魚に対して、幕府があらためてその負担を認めて制度上の助成を設けたということは、魚問屋にとってはありがたいことではありました。しかし、ある種の信頼関係で行われていたことが制度上のものとなった時点で納魚はすでに義務と化し、次第に幕府が魚を取り上げるというかたちに変容していくことになります。助成地は宝永二年より享保四年(1719年)までの十五年をもって返還されますが、それは納魚に「請負人制度」が導入されたからです。これは特定の請負人に納魚の一切をまかせるというものなのですが、これについては後述します。  
それから、これより六十年も後の安永七年(1778年)になりますが、本船町組が一万両を拝借するということがありました。助成地のときは、本小田原町組に許されたものが、このときは本船町組が対象となったということは、この六十年間に納魚の主体が本小田原町組から本船町組に移ったのかもしれません。一万両の借入は、毎年一割(千両)の利息を上納するということになっていましたが、返済については決められておらず、結局は何年か利息を納めただけで、元金は貸し下されとなったと思われます。  
問題になったのは、この拝借金が本船町組単独で願い出たということで、ぬけがけを食ったほかの三組もさっそく拝借金を願い出て、安永九年(1780年)に千五十両の貸付金を拝借しました。やけに半端な金額は、いかにも値切って貸し付けたという印象ですが、先の本船町の一組に一万両と比べれば、三組で千両余りというのはあまりにも差が多すぎます。これは察するに、すでに市場内の取り扱いに差が出ていて、高級魚は本船町組で取り扱い、それ以外の三組問屋では市販用の惣菜魚が多かったということではないでしょうか。いずれにしろ、それまで何事も四組問屋が合議の上で決めていたことが破られたので、組合では内紛に近い状況があったのではと推測されます。 

 

大岡越前魚河岸政談   
政談 / 四組法式書の統一  
享保元年(1716年)五月、徳川吉宗が八代将軍となり、これまで重用されてきた間部詮房、新井白石らを罷免し、官僚制の整備、旗本・御家人の財政救済、年貢増収、商業資本の統制などを目的とする享保の改革を断行します。  
吉宗は改革推進のために多くの人材を幕府の要職に登用していきますが、なかでも享保二年二月に南町奉行に就任した大岡越前守忠相は、その代表的なひとりで、後世に名奉行の誉れ高いかれの治績は“大岡裁き”としてあまりにも有名です。  
大岡越前守は、魚河岸に対しても数多くの裁定を下していて、それらは市場機能の方向性を後々まで示すような名裁きなのですが、一般にはあまり知られていないのが残念です。そこで、ここはひとつ時代劇風に名奉行の魚河岸裁きを、年代を追ってみることにしましょう。  
享保三年(1718年)、南町奉行大岡越前守の第一回吟味にあたり、同奉行所より日本橋魚問屋の月行事に突然の出頭命令があり、会所の総代らに緊張が走ります。  
「またぞろ吟味とはおだやかではないですなあ」  
「大きな声では言えませんが、脇揚げもだいぶ横行しておりますし……」  
「いやはや、大事にならねばよいが」  
「ところで、今度のお奉行様はどんな方なのでしょうか」  
魚問屋たちが心配するうちに奉行所出頭の日がやってまいりまして、両組月行事が奉行の前に並びます。  
「大岡越前守忠相様御成り、一同おもてを上げませい!」  
一同が頭を上げますと、物静かそうな顔がこちらを見下ろしています。その眼は大きくはないけれど、物事を見透かすような鋭さがあり、きりりと結んだ口元には、えもいわれぬ気品を漂わせています。魚問屋らは皆、奉行の威厳に満ちた顔つきに恐れ入り、思わず「はあ」とため息をもらしてしまいました。  
「魚問屋各組月行事一同、御城内納魚並びに屋敷方納の儀につき吟味いたす」  
ぴんと張りつめた空気を切り裂くようなひと声に、一同「そら来た」と身をこわばらせました。ところが次の瞬間、奉行の顔が突然ほころび、気さくな調子で話しかけてくるのに意表を突かれてしまいます。  
「朝起きは三文の得とか申すもの。そちらは早朝より業務によく励み、お上への魚献上、つねに不足なきことは、真にほめられることであるぞ」  
あ、これは話の分かるお奉行だ。魚問屋らは経験からすぐにそう感じました。これまで何人もの町奉行の達しを受けてまいりましたが、中には魚問屋連中を毛嫌いして、ずいぶん難くせをつけてくる人もいたのです。  
「しかし、そちらが五組問屋に分かれ、本船町に古組と大組があるのは解せぬことだな。そもそも統一の法式書がありながら、別の商法というのも何かと不都合。大切な納魚にも差し障りがあろう。そこで奉行より、本船町両組の合併並びに法式書の徹底を申し渡す」  
この吟味に一同はっとしました。寛永二十一年(1644年)の法式書制定以来八十年以上を経過し、その間に元禄の繁盛期の混乱で法式書は形骸化していき、今では各組合がそれぞれの事情によって取り決めを行っていました。脇上げなどの納魚逃れなどが止まないのも、魚問屋の統一した法があやふやになっていたためともいえます。  
大岡越前の魚河岸裁きの手始めは、長年にわたって魚河岸に堆積していた問題を一言のうちに片付けたという見事な手際でありまして、これによって本船町古組と大組はひとつになり、後には古法式書を手直しするかたちの統一した四組法式書が制定されるに至ります。 
政談 / 仲買人どもに申し渡す!  
それは享保十二年(1727年)四月十二日、本船町麻店前で起きました。かねてより店先を借りている魚市場仲買人と麻店家主との間でトラブルが絶えなかったのが、この日の朝に激しい口論となり、ついに刃傷沙汰にまでおよんだのです。  
「なに言いやがる、このべらぼうめ。こちとら、鮮魚の目ン玉見ながら商売してんだ。魚がもういいと言わねえうちから店じめえしろたあ、どういうわけだい!」  
「ぞんざいな口を聞くじゃないか。お前さん方には朝六ツまでという約束で店先を貸しているんだ。それも不都合があれば何時でもお返ししますという一筆も入っている。文句があるなら出ていって貰おうじゃないか、ええ。こちらは閑漁期で商売も忙しいんだ。さ、出ていってもらおうか」  
「何だと、このきんかくしの因業め。閑古鳥鳴いてる手前ンとこの店先を使ってやってるだけ有りがたいと思え。言ってみりゃ、ここは天下の大道だ。生き馬が目ン玉抜かれても三町歩かねえことにゃ気がつかねえ魚河岸のど真ん中だ。うろうろしてるてえと、向う脛かっぱらうぞ」  
「ひ、ひどい事を。おい、みんな出といで。さあ早く、仕事はいいから、出てきてこいつをどうかしておくれ。たかが“あかとり”の魚屋風情になめた口聞かれるじゃないよ」  
店主の呼び声を聞きつけて、店の中からバラバラッと若い衆が出てまいりして、仲買人を取り囲みます。  
「ふん、出てきやがったな、船底大工のなりそこないども。お前らみたいなサンピンの相手になるようなお兄いさんとは訳がちがうぜ」  
この騒ぎに周囲の仲買人たちもかけつけて来ると、麻店前では敵味方に十数人の連中がくんずほぐれずのこずき合いを始めます。もとより本気の喧嘩ではないのですが、その時仲買の持っていた手カギがひょいと麻店若い衆の足をえぐったから大変。ざっくりと切れた膝がしらから血が吹き出してきたから、すわっ刀傷事件だと、店主は奉行所に訴願、「大岡裁き」に持ち込んだのでございます。  
ここにいう麻店というのは、本船町が町人地に町割されたときに、この地域に先に住みついた船具商のことで、後に本小田原町にいた魚問屋らが、この地域の河岸地という好条件を得たくて、徐々に進出してきて、今では本船町の多くは魚問屋に占拠されるかたちとなりましたが、それでも昔からの麻店が少数ながら残っていました。  
魚問屋は当初地借りや店借りというかたちで、空き家などに正規に入り込んだのですが、いつのまにか夜明け前に麻店前の公道に板舟を置いて商売をするようになっていました。  
「近年、本船町地引河岸麻店前にて、明六つ迄という約束で魚市場仲買が魚売買を始めたが、時間を過ぎても売買を続け、のみならず往来へ荷を出張って道を塞ぎ、耳障りな大声で叫ぶ、暴れるなど不届きな行状、さらに今回の刃傷沙汰に対する訴えにつき吟味いたす」  
大岡越前守はぎろりと仲買人らを睨みつけると、いつになく厳しい口調で言いました。  
「平生より魚河岸はおびただしく混み合っていて公道をふさぎ、その上、売人らの風俗がきわめて悪く乱暴の多いことは奉行も聞き及んでいる。かねがね戒めようと考えていたところである。そこで仲買人ども、お前たちに申し付ける。魚河岸での商売は古来の定法どおり道へ出張らぬこと、麻店前で営業している者はただちに場所を明渡すこととせよ」  
これで困ったのは営業停止を食らった仲買とかれらをかかえる問屋たちです。さっそく会所に集まって協議の上で、  
一、 夜明け前に限って営業すること  
一、 往来には出張らないこと  
一、 武家方がご通行の折には無礼をしない  
一、 喧嘩口論は禁物とし、もしも口論が起こったときは仲間一同で立会いすぐに静めて町内の迷惑にならないようにする  
一、 ごみは往来へ掃き捨てず掃除を怠らない、  
以上事柄を問屋、仲買、小売の者ども協議の上違反させない、万一みだらなことあれば、いずれへ訴えられても異議はない  
という魚問屋連判状を作成して家主へ差し入れました。  
魚問屋側よりわび証文が出されたことで、今回に限り麻店前の営業を再開してもよろしいということになり、奉行所よりその旨のお達しがあります。これで魚河岸の連中はほっと胸をなでおろしました。結局はこのお裁き、麻店側が一方的に勝訴したかに見えますが、実のところ、かれらは魚問屋、仲買からある種の店賃のようなものを受け取っていたことは間違いなく、それは店前の占拠であるとか、早朝から客寄せの大声による安眠妨害といったことに対する迷惑料といったものでしょうが、いくらかでも貰っているから妥協しないわけにはいかない。奉行もそれを知っていて、一時的に営業禁止措置をとることで魚市場の秩序を回復しようという、いわばひと芝居打って魚問屋らを威嚇したというのが本当のところでしょう。人情味ある「大岡裁き」によって、麻店と魚河岸の長年の対立を丸くおさめたともいえます。  
この争いを契機として、仲買の営業権がクローズアップされることになり、「板船権」というものが出てきます。これは仲買人にとっては魚を売るための板船を軒先に広げるための権利であり、麻店にすればその場所代を得る権利です。「板船権」の確定で仲買人の権利も明確化するわけで、それまでの問屋の従属から独立して、問屋業務と仲買業務の分業化がはじまることになります。  
ところで、これより二百年以上も後のことになりますが、魚河岸が日本橋から築地へ移転するにあたり、この「板船権」の補償をめぐって、魚河岸側が代議士に賄賂を贈ったことが発覚したことによる、いわゆる「板船権疑獄」が起こります。これは昭和の三大疑獄事件のひとつといわれるほどの大騒動なのですが、その根源をたどれば、享保時代の「大岡裁き」に行きつくわけで、ささいな口論が、世の中をひっくり返す大事件にまで至るという、講談の「大岡政談」でも語られなかった逸話がそこにはあります。 

 

政談 / 言い方を間違えた  
魚河岸の日本橋川沿いの河岸地には「納屋」と呼ばれる長屋風の倉庫が建っていました。納屋には通りに面した表納屋と川側の裏納屋があって、ともに魚を貯蔵する場所でしたが、表納屋は売場も兼ねていました。もともと日本橋川沿いには様々なかたちの納屋が建っていたのですが、将軍の遊漁、遊覧のための川お成りにあたって、たいへん見苦しいということで、寛文五年(1665年)、当時の町奉行渡辺大隈守の指示により、整然とした一棟が建てられたものです。  
納屋は荷揚げに利便であったので、どの魚問屋も欲しいのですが、その数は限られておりましたから、所有者は「納屋持ち」といわれて、ある種特権的な株となっていました。ところが河岸地というのは御用地でありましたから、すべて自分たちの自由にするわけにはいきません。出来ることならこの場所を自分たちのものにしたい、そんな思いをずっと持っていたことでしょう。  
享保十三年(1728年)関東一円が飢饉に見舞われ、各地で百姓一揆が多発、さらに十五年(1730年)には、打ち続く不況を反映して、江戸では地代や家賃の引き下げを求める庶民の声が高まっていました。そのような世情を受けて、魚河岸はかねてより希望としていた河岸地の拝借を願い出ます。  
これは、冥加金として三千両を幕府に上納するかわりに、河岸地を十年間拝借したいというものです。三千両とは、ずいぶんと高額なようですが、一度拝借してしまえば、後は既得権的にずるずると借りられるだろうという思惑があったのかもしれません。  
訴願は、町年寄奈良屋役所での評議ののち、魚河岸の地主、家主、魚問屋どもが奉行所内寄合へ呼ばれて吟味となりました。  
大岡越前守はいつもの鋭い眼で一同を見すえて、こう質しました。  
「その方らは三千両もの金を上納するというが、はて、どういうことであろうな。十年に限って借して欲しいというのか、それとも」  
にやりと笑って、  
「永久に使用したいというのか」  
このときカマをかけられたのに気づかない魚問屋側が、  
「それはその、永代にわたってお借りしたいものです」  
などと答えたものですから、とたんに町奉行の顔が険しくなり、「それならば、あやふやな願いでなく、書面できちんと申し立てよ」と言い放ち、憮然として奥へと引っ込んでしまったといいます。  
結局のところ「河岸地は地主どもの土地でもなく、魚問屋どもに下されるものでもない御用地である。願いの儀は聞き入れることはまかりならぬ」として訴願は却下されてしまいました。  
魚河岸では、十年間お慈悲でお借しくださいといっても通るかどうか分からないのに、拝領したいなどと不埒な願いと取られても仕方なかった、と反省しましたが、あとの祭りです。いわば名奉行の眼力の前に、手もなくひねられたかたちとなったわけですが、いざというときに、ついポロリと本音が出てしまう正直者の魚河岸気質は、いつの時代でも失敗をくり返していくわけです。 
政談 / 魚屋は鳥を売ってはならぬ  
明治に入るまで日本人は畜肉類を食用に供することはほとんどなくて、一部で薬用として食べられているくらいでした。わずかに鳥肉だけがごくまれに食膳に乗せられることがありましたが、それも大した需要ではありません。  
江戸時代、鳥肉商は安針町に多くて、鳥会所も設けられていましたが、鳥肉商の株が確立されたのは、享保十年(1725年)のことで、このとき許可された件数は水鳥問屋六人、岡鳥問屋八人の計十四人のみでした。  
当時、鳥屋の専業というのは大変だったようです。それでなくても需要の少ない商売だったうえに、魚問屋、青物問屋らが兼業で鳥肉を扱うケースが多かったからです。幕府に納める分に関しては、鳥問屋たちが一手に引き受けていましたが、大名や旗本などの屋敷納めの方は魚問屋、青物問屋が押さえてしまっていて、武家屋敷の方でも注文を魚問屋らに出していました。魚問屋は注文に応じて、鳥問屋から仕入れて屋敷方に納入するのですが、多めに仕入れた分を勝手に売買するということで、鳥問屋は大変に困り、ついに奉行所に訴え出たのです。  
訴願を受けた大岡越前守は、享保十一年九月二十七日、魚問屋並びに青物問屋総代を呼びつけ、  
「魚問屋並びに青物問屋が鳥肉を売買することは相まかりならぬ」  
と言いわたして禁止令を出します。  
ところが、これがあまり効果がありません。  
そこで、十一月二十二日、再度吟味となり、  
「よいか、ふたたび申しつけるぞ。魚問屋、青物問屋が鳥を売ってはならん」  
再度言いわたして決着をつけました。しかし、これまた守られません。  
「何度言わせるのだ。鳥を売ってはいかん」  
ついには温厚な奉行も怒り出す始末です。  
どういうわけか、たびたび禁止令が出されても、魚屋が鳥を売るという旧弊はなかなか直らなかったようで、近代に至るまで鳥屋という商売が発展しなかったのですが、それは魚河岸のせいだったともいえます。 

 

政談 / おイモ先生奮闘記  
本船町に佃屋半右衛門という魚問屋がありました。そこの長男である文蔵は、小さい頃から大の学問好きだったので、父半右衛門はかれに家業を継がせることを早くからあきらめ、好きな勉学を修めさせるために、我が子を京都に上らせました。  
そこで文蔵は、儒学者で古義学派の創始者である伊東仁斎の子、東涯に古学を学び、名も青木昆陽と改めました。その後江戸に戻り、享保六年(1721年)、八丁堀に塾を開きます。  
昆陽は、かねてより島流しになった罪人が食べ物がなくて、多数が餓死するということを聞き及び、離島での栽培植物として甘藷(さつまいも)に注目しました。これを発端として、凶荒対策として甘藷をと説く「蕃藷考」を著すこととなり、その普及に努めます。  
これが八丁堀の名主加藤枝直の目に止まり、かれの推薦により大岡越前守に「蕃藷考」が提出されると、すぐに奉行お目通りということになりました。  
「そなたが青木昆陽であるか」  
そう尋ねたとき、奉行は思わず笑いをもらしそうになりました。というのも、昆陽が世間から「甘藷先生」などと呼ばれていると加藤枝直から聞いていたのですが、いま目の前の「あばた」だらけの顔を見ると、まるで「おイモ」そのものだったからです。その頃、江戸では「あばた」のことを「イモ」といっていました。  
しかし、昆陽はそんなことにはいっこうに気にせずに、奉行に対して、甘藷栽培の重要性を得々と説き続けました。その熱心さと知識の深さに感じ入った奉行は、すぐさま、八代将軍吉宗に「蕃藷考」を手渡します。かねてより殖産を施策の柱としていた吉宗公は、大岡越前守を通じて昆陽に甘藷の栽培実験を命じ、小石川御薬園、現在の小石川植物園において甘藷の種を栽培、これを伊豆七島、八丈島、佐渡島などに送り、その培養を奨励します。  
昆陽はその後、吉宗の命により蘭学を始めることとなり、江戸参府の蘭人を宿舎に訪ねて質問、その成果を「和蘭文字略考」「和蘭文訳」などにまとめました。その仕事は、前野良沢に引き継がれ、蘭学興隆の基礎をつくります。  
大岡越前守は、昆陽の研究が実を結ぶころには、すでにこの世を去っていたのですが、それでも初対面のときの「おイモ顔」が忘れられず、生涯気にかけていました。大名並として屋敷を賜ってからも、時々は昆陽のことを思い出して、「おイモ先生は頑張っているかなあ」などと側近にもらしたといいます。  
昆陽は明和六年(1769年)に没します。生前に目黒不動の裏手に自分の墓を建て、「甘藷先生墓」と自分で書き入れました。 
政談 / 川浚いで魚河岸移転  
江戸時代を通じて日本橋の地で営業を続けてきた魚河岸ですが、ほんの数ヶ月間だけ別の場所に移転をしたことがありました。  
それは、享保十八年(1733年)に日本橋川の川浚いが行われるにあたり、大岡越前守の特例によって、「両国橋向広小路ニ於テ仮売場」の設置が許可され、同年六月から九月までの間、魚河岸が移転したというものです。  
両国橋向広小路というのは、両国橋を渡った本所側で、現在の回向院の寺域で川に面した火除地ではなかったかと『歴史』は推定しています。そして仮市場の施設は、魚納屋を設けて本船町河岸と同じく問屋に割渡し、十七ヶ所の井戸を整備して、それら全部の経費は、各問屋の取扱高に応じて徴収したといいます。  
ところで、この川浚いというのは、前年にイナゴの大発生により作物の凶作が起こったために、一種の失業者対策として行われたものだといいます。十五歳から七十歳までの者を人夫として雇い、一日五十文の給与が支給されました。  
さて、川浚いもつつがなく終わると、十月には魚河岸も日本橋に帰ることができました。四ヶ月間の本所での営業がどうだったのかという記録はありません。おそらく売上げの減少する夏季ということもあり、大した差もなかったものと思われます。  
そして、今回のお裁きを最後として、元文元年(1736年)八月、大岡越前守は十九年間勤めた町奉行職を辞し、寺社奉行へと昇進します。ここまでみたとおり、一般には知られていないものの「大岡裁きと魚河岸」とは浅からぬ縁があり、この期間、魚河岸にとっては、温情ある行政のもとでの幸せな時代であったと思います。 

 

板舟権の確定  
魚河岸のメインストリートである本船町は、町割が出来たときには麻店(船具商)が営業を許可された場所であり、後に魚河岸がその規模を拡大する際に、河岸地で荷揚げに都合の良い場所ということで、徐々に麻店を侵食するかたちで入り込んでいったという経緯があります。しかし、数は減りながらも、麻店は従来通りの営業も続けていたため、仲買人は早朝までという条件で、その店先を借りて商売をしていました。  
ところが、魚河岸の仲買人というのは、何といっても「いさみ肌」をかざす商売ですから、乱暴な振舞いや往来をふさぐ行為、時間が過ぎても営業を続けるといったことで、麻店側とたびたび争いがあり、特に享保十二年(1727年)四月には、刃傷沙汰の騒動にまで発展、名奉行大岡越前の裁きにより、魚河岸側は「喧嘩をしない、道に出張らない、時間を守る」等の一札を入れて何とか事無きを得た、ということは前にみました。  
ところが、丸く収まったかにみえた魚河岸と麻店との関係は長続きせず、十四年後の寛保元年(1741)には、問題が再燃いたします。  
享保十二年のときには、争いの直接の原因は、魚河岸と麻店との口論からはじまったと言われていますが、今回は特に荒っぽい事件が起きたということではないようで、たぶん魚河岸側は奉行所に一札を入れた通りに、しばらくはおとなしく営業を続けていたのでしょうが、当時は不況が長く続いたことで、問屋間の競争が激化し、結局は最初の状況に戻ってしまったということでしょう。麻店としては何度も魚問屋と話合いをしましたが、解決には至らず、約束を破られたも同然ですし、何しろ魚河岸側は先に一札入れていて立場は弱かったということもあって、寛保元年六月十二日、当時の南町奉行石河土佐守正民に対して「店前における魚商引払願い」の訴えを起こすことになりました。  
町奉行石河土佐守は、この一件を直接は取り扱わずに、本船町名主太郎兵衛と家主の仲裁に委ねます。これは店子である麻店と公道使用の魚河岸の争いであったからで、名主と家主らは双方の言い分を聞いた上で、魚河岸側に具体的な協定書を差し出させることとしました。前回はわび証文というかたちでしたが、今回はもっと具体的な取決めとなりました。  
なかでも重要なのは、仲買人の公道使用許可証として「板船権」が確定したことです。  
板船とは仲買人が魚を並べる台のことですが、この大きさが間口四尺五寸と定められて、板船一枚あたりの庭銭は一ヶ月銀十三匁五分と決定されました。  
四尺五寸はメートル法に換算しますと約1.4メートル。これが銀十三匁五分というと銀六十匁で金一両の計算ですから、約四分の一両弱ということになり、これは当時の物価などからすると、ずいぶんと高い借り賃だったといえるでしょう。  
そして、その支払先は家主ではなく、店子として営業している麻店の方でした。したがって、「板船権」は仲買人からすれば営業権ということになり、場所を貸している側からすれば使用料を徴収する権利となります。この二面性がずっと後になって市場移転案が浮上してきたときに、その補償に対して大きな問題となるのですが、それはさておき、「板船権」の確定によって、仲買人はそれを有することで自由に商売が出来ることになり、それまでの問屋従属のかたちから離れて、独立して営業する者も現れるようになります。結果として問屋と仲買の分業化のはじまりということになるでしょう。 
行政の横やりで右往左往  
いつの時代にも扱いにくい役人はいるものです。やけに実直だったり、口やかましかったり、あるいは横柄だったりと、生態もさまざまですが、どれも権威をふりかざす点では同じようなものです。江戸時代の魚河岸も、ものの分かっていない役人の介入で、大迷惑をこうむることがありました。  
延享四年(1747年)に、道奉行松平忠左衛門による道路行政上からの市場検分というのが行われました。このとき、魚問屋は公道を私的に利用して他業種住民の邪魔になっているのではないか、ということで厳しく申しつけられます。  
「お前らは往来に板船なるものを並べて商売をしているが、いったい何年に何という奉行に許されたことなのか。その委細について魚市場の絵図面を添えて提出せよ」  
この松平忠左衛門という人は、築地門跡前に屋敷を持つ五百石の旗本で、道奉行とともに上水改めという、現在の水道局長にあたるような職を兼ねていたこともあり、インフラ行政の親玉なのですが、ずいぶんと硬骨漢だったようで、ずけずけと言うばかりでなく、本来は町奉行所と協議して検分するところを単独でやってしまいます。  
おどろいたのは魚問屋たちで、今まで町奉行所から許可されていたことを咎められたわけですから寝耳に水です。ともかくも取り急ぎ市場の由来書と絵図面を作成し、道奉行役宅に提出しました。松平忠左衛門もこれを了解して、まずは落着とあいなります。  
ところが、この件について、今度は南町奉行能勢肥後守頼一より呼びつけられまして、  
「このたびの道奉行へ書面を提出し受理されたならば、魚市場は今回道奉行の裁断によって新規許可を与えられたということになるぞ」と言われます。  
長い間、魚河岸の道路使用許可を穏便にはからってきた町奉行所としては、その権限を侵害されるかたちとなり、すこぶる面白くない、というわけです。  
「お前たちは町奉行を何と心得ておるか」  
などと一喝されたものですから、魚河岸総代らは泡を食って、再度、道奉行役宅に伺い、文書の取下げを願い出ます。すると今度は、一度受理したものをお前たちの勝手で取り消すわけにはいかん、と言われて、またも町奉行所へと逆戻り。  
結局、道奉行、町奉行の両役宅を右往左往したあげく、ようやく両奉行間で調整ができたのは一ヵ月後、とりあえず文書は取り下げられて事なきを得ました。  
今でいえば官庁の縄張り争いに巻き込まれたようなもので、魚河岸はとんだ道化を演じたわけです。 

 

本船町引払い願い  
宝暦四年(1754年)、本船町を市場地域からはずし、問屋すべてを本小田原町の旧地に移転させて欲しいという訴願が町奉行所に及びまして、またも市場にひと騒動が持ち上がります。  
訴願したのが誰なのかは記録に残されていません。本船町といえば魚河岸のメインストリートで、これまで何度も道路使用をめぐって麻店と抗争をくりかえしてきました。そこで、今回も麻店からの願いかと思いがちですが、実は麻店には、各魚問屋より毎月銀十三匁五分ずつの庭銭が支払われていて、これが大きな収入でしたから、あえて訴願するほどの理由は見あたりません。  
唯一考えられるのは、本小田原町の家主らが願い出たのではないかということです。同じ市場地域なのに、本船町は繁盛しているけれど、魚市場発祥の地である本小田原町の方はさびれつつあり、休業問屋も多く発生しているという状況でした。そこで何かと問題の多い本船町でしたから、そこを突ついて、魚問屋を呼び戻し、何とか昔の活気をとり戻したかったのでしょう。  
当然のことながら本船町の魚問屋たちは、この訴願に猛烈な抵抗を示し、町奉行所に対して弁明書を提出しました。  
そこで強調しているのは、本船町は「船着き」の場所であり、本小田原町に移っては、荷揚げに著しい不便が生じ、さらに問屋それぞれが掘井戸等の資本投下をしていることもあり、このまま営業を継続したいというものでした。  
結局は本船町の言い分がすんなりと認められて、何事も起こらずに済みましたが、考えてみれば、同じ市場地域内で訴訟し合ったようなものですから、地域格差の問題はだいぶ根強かったとみるべきでしょう。  
また、この事件より五十五年後の文政二年(1819年)にも、本小田原町月行事他が本船町へと移転した魚問屋らを相手取って、元に戻るべきだという訴えを起こしています。このときも、本船町に移った問屋は、商売上移ったのであって、元に戻れば商売が出来なくなると主張し、解決にいたりませんでした。  
本小田原町の衰退は、江戸時代を通じて何ら好転することなく続き、幕末期には廃市同然という状況にまで追いこまれます。明治時代に室町通りや日本橋上での仲買出店が禁止となると、これらの業者が本小田原町に入り込んできて、再び活況を取り戻すことになるのですが、それまで苦難は続くわけで、魚河岸も繁盛しているようで、内部にはさまざまな矛盾をかかえて大変だったことがわかります。 
船改めの強化で魚問屋定数が決まる  
享保五年(1729年)幕府はそれまで下田にあった「船番所」を浦賀に移して「浦賀奉行所」としました。そもそも「船番所」というのは、江戸開府後間もない元和二年(1616年)に、諸国廻船に通行許可の切手を与える海の関所としてはじめられたもので、これを機能強化し、積荷の厳重監査を行おうというのが、このときの奉行所設置の主旨でした。  
もっとも、当時の八代将軍吉宗が農業を奨励していて、西日本の綿、野菜、藍、茶、煙草などが江戸に入ってくるのを見越した上で、そこから物品の通行税を取ろうというねらいがあったようで、ただそれだけの理由では問屋たちの理解を得られないということから、積荷改めを前面に打ち出したという見方もあります。  
ちなみに、そのとき船積禁制とされた代表的なものを列記してみますと、具足、脇差、居合刀、竹刀、木刀、馬具、盾、旗竿、陣笠、鳶口、松明、火縄などの武器類が対象となっています。  
こうして、江戸湊を往来する船は、必ず「浦賀奉行所」によって船改めを受けることとなりましたが、漁船並びに魚荷だけの押送船(おしょくりせん)に限っては、奉行所へ寄港することなく、魚市場へ直行しても良いとされました。これは、浦賀奉行所開設にあたって、日本橋四組問屋に新場、芝を加えた七組魚問屋から、生魚は幕府納魚のために迅速に運ばなければならないから、特別なはからいをして欲しいという嘆願をしたことが認められたものでした。  
そこで、魚問屋側が浦賀奉行所に対して積荷を保証するために「印鑑問屋」という制度ができます。「印鑑問屋」とは、魚問屋に認可される鑑札で、別名、魚船問屋ともいい、各地から生魚を運んでくる漁船、押送船に対して、あらかじめ通行手形を発行する機関のことです。この手形があれば、船主が浦賀奉行所を通るときに、それを提示するだけで、船改めをしないでも良いことになっていました。  
印鑑問屋には、日本橋本小田原町組から六名、本船町組から三十四名、本船町横組から三名、安針町組から六名、さらに新場から九名、芝市場の本芝組から三名、芝金杉組から三名の合計六十四名が選ばれています。  
また、生魚のなかでもとくに活鯛に関しては、遠国の荷物を取扱うということで、廻船問屋同様に通行切手を発行しましたが、これもまた迅速に運び入れる必要があることから、活鯛のための通行切手を発行する「紙切手問屋」というものが制度化し、これには本小田原町組、本船町組より十四名の問屋が選ばれました。  
印鑑問屋、紙切手問屋ともに通行証明のための便宜上の機関に過ぎず、特別な問屋がつくられたわけではありません。あくまでも魚問屋のなかから代表的な者が選ばれただけのことですが、かれらは他の魚問屋に比べれば優位性が強かったのはまちがいなく、権力をふりかざしたり、不正な行為が多かったため、後年、印鑑問屋と同様の役目を持つ浮船問屋(ふせんとんや)や積合問屋(つみあいとんや)というものも発生してきます。しかし、これもまた定数化してしまい、印鑑問屋組合、浮船問屋組合、紙切手問屋組合という具合に組合が結成されます。つまり権利の分散・固定化が行われるわけです。  
ところで、印鑑問屋制度の意義は、幕府が魚河岸に対してはじめて鑑札を与えたというところにあり、これによって組合の統制力が強化され、魚問屋は定数制となり、正式な問屋名簿も作成されます。  
『紀要』によれば、享保年間の書上に問屋定数は三百四十七人とありますが、これを『東京市史稿・産業編』にある享保二十年(1735年)の魚問屋数三百十五人と比較すると、定数割れ三十二人となります。  
《享保二十年魚問屋数》  
本小田原町組五十三人 休業二十四人  
本船町組 百二十三人 休業五人  
本船町横組七十三人 休業一人  
安針町組六十六人 休業二人  
この二十四年後の宝暦九年(1759年)の同様の史料では、問屋数二百九十一人とあり、休業問屋の増加は、魚河岸が元禄期をピークとして年を追うごとに衰退していった状況をあらわしています。  
《宝暦九年魚問屋数》  
本小田原町組四十六人 休業三十一人  
本船町組百十七人 休業十一人  
本船町横組七十二人 休業二人  
安針町組五十六人 休業十二人 

 

洒仲買人、魚商に鑑札交付  
宝永五年(1708年)に仲買人および魚商に鑑札が交付されます。これは各問屋組合が発行する、いわば魚河岸公認の証といった性格のもので、行政上の鑑札ではありません。しかし、とくに仲買人についていえば、業種として認められたようなものですから、板船権の確定と併せて、問屋からの独立段階にあったといえるでしょう。  
鑑札は、札銭(登録料)として銭百文を組合に対して支払いました。百文がどのくらいの金額だったかというと、蕎麦が二八の十六文が相場です。でも、宝永年間に蕎麦切はなかったので、酒でみると、今でいう一級酒が一合二十文くらいだったといいますから、ちょっと奢った晩酌五日分ということで、たいして高い札銭ではなかったはずです。  
しかし、発行枚数をみると全部で八百六十八人となっており、これを問屋数で割れば、問屋一店あたり二・二人にしかならず、鑑札を受けた者は、仲買人、魚商の一部でしかなかったようです。  
さて、もともと問屋の「請下」として発生した仲買ですが、業種として独立するにあたって、それぞれの性格により、問屋請仲買、組合請仲買、脇店仲買という三つのかたちがあり、そこに階級的な差も生じていました。  
このうち問屋請仲買は、問屋の身内や使用人などが分店のかたちで出店したもので、仲買のなかでも権限が強く、のちに仲買専業店などもでてきます。組合請仲買とは、各組合がそれぞれの地域内に許可した仲買で、信頼のできる者を組合が雇い入れたものです。そして、脇店仲買というのは、文字通り市場外の店の仲買で、市場近隣に店を出して棒手ふり相手の商売をする、いわば零細仲買ともいえる存在ですが、うまい位置に店を出せばかなりの収入になったようです。 
四組法式書  
魚河岸の業務規定は、寛永二十一年(1644年)に制定された古法式書によって統一されていましたが、時代とともにその効力が失われ、四組組合がそれぞれの事情で取り決めを行うという状況が続いていました。そこで、町奉行大岡越前守の指導により、あらたに四組統一の法式書の制定が決まり、享保十六年(1731年)に「肴問屋四組法式書」として、四組問屋連判の上、正式に認可を得ます。その後、寛保三年(1743年)に、さらに改正条項を加えたものが町奉行石川土佐守ならびに島長門守に再度提出され、翌延享元年(1744)年三月に認可を得ています。  
四組法式書の構成は、八つの条項から成っていて、それに奥書きとして追加条項が付されています。古法式書の内容を吟味した上で、よりきめ細かいかたちに再編成した感が強いのですが、とくに当時激化の一途にあった問屋間の荷引競争を考慮して、ぜひともこれに歯止めをかけたいという意図が盛り込まれた内容となっています。それは、問屋業務に対する規定はもちろんですが、生産者サイドにしても利益増大をはかるため、魚問屋との間でさまざまなかけ引きが行われていたわけで、これらを牽制する意味から、浜方への仕込み規定を重大に取り扱うこととなりました。  
(第一条) 公儀よりの法度並びに触れはきっと守り、御用の納魚は申すに及ばず、お屋敷への納魚についても、〆売り、隠し売り、脇揚げをしてはならない。  
納魚に関する規定です。古法式書においては、城中への納魚に限っていましたが、あらたに屋敷方についても規定しています。また、これまでの隠し売り、脇揚げに加えて「〆売り」も禁止しています。これは、一ヶ所にまとめて売る行為で、このようなことは、公平な配分を破るからいけないと言っています。  
(第二条) すべての魚荷について、仕入金を渡してある場合、または仕入金を渡していなくても年来のなじみである旅人(たびにん)の場合、他の問屋がこれをセ リ取ってはいけない。また、名前や所在が不明の旅人からの荷物は、早々に 積んできた押送船の船元宰領番に報せ、もしも不明の時には四組の月行事(がちぎょうじ)に届けること。  
附り 前日より「分け合い」の荷物が来たときは、「片附売り」をしてはいけない。ただし、問屋双方に証文がある場合は格別の儀とする。  
第二条は、古法式書の第五条、六条にあるのと同じ内容の規定です。ほかの問屋の旅人(在方問屋)の荷物をセリ取ってはいけないとか、不明な荷物については月行事に届けなければならないという規定は、これまでと変わってはいません。また、四組法式書では二条から五条まで「附り」として追加条項が追加されています。第二条では、分け合いの荷物が来たときには、片方だけに売ってはいけないというもので、これも古法式書にうたわれている規定と同じです。  
(第三条) 鮎川並びに平目浦よりの仕入は、古来より仕入れ方、送り方が互いに定めが あって、過分な仕入金や年貢等も上納しているため、決まっている問屋以外 は荷物を受けてはならない。また、そこの漁師と馴合い、決まっている場所 以外で漁獲したように見せかけたり、他の旅人の荷物に仕立てたり、網船の 乗組員を替えて、新しい名目で仕込みをすることは、決まっている問屋の仕 入金が無駄になってしまうので、一切禁止する。  
附り 江戸の問屋からの仕入金を受けた大職網が手船にて魚を送るのは勿論だが、積み余った荷物については、たとえ仕入金があっても、地元の商人と相対で売っても構わない。また、所々に囲われた活魚が、暴風雨などで流損した場合、それがどこかで拾われて、そこの魚市場などで売られたなら、早々に簀船持ちの問屋に知らせることとし、吟味もなく拾得者と問屋とで隠密に行ってはならない。  
「鮎川」、「平目浦」はそれぞれ鮎の産する川、平目の獲れる浦という意味で、これらの取引は昔から出荷者と問屋とで取り決めがあって、多額の仕入金などの資本投下がされているから、決められた以外の問屋が荷を引いてはいけないとするものです。  
「〜してはいけない」とあえて禁止するということは、実際にそうしたことが横行していたからだと考えて差し支えないでしょう。ここでは、市場内での無法な荷引きが多発していて、しかも、問屋と漁師と旅人のそれぞれに問題があったことを示しています。とくにアユとヒラメに限っているのは、これが鯛と並んで幕府納魚の重要な品目だからです。鯛については、すでに活鯛流通システムが確立していて、それを脇から介入するような余地はありませんでしたから、鯛への規定は法式書には一切登場しません。しかし、アユ、ヒラメについては、しっかりとした流通経路が出来ているわけではないので、法式書において規定が加えられたとみられます。  
さて、追加条項の方はまったく別の性格の規定で、大職網という漁法によって漁獲される魚は、手船という、いわば補助的な船で江戸に運搬されるため、そこに積み余った魚については、地元で売りさばいてかまわないというものと、簀船で蓄養した活魚が暴風雨などで流されたときに、それを拾得したものは必ず簀持ちの問屋に報せなければならず、隠れて取引はまかりならないとするものです。  
いずれも生産地に対する規定ですが、古法式書においてもそうだったように、そこには、多分に産地に対して牽制するという意味が含まれています。しかし、法式書はあくまでも魚河岸内部の規定であって、産地にたいしての法的な強制力はないわけですから、このような一方的な押しつけがきちんと守られていたわけではありません。  
(第四条) 新たな仕入取組や漁職取立の場合は、肝煎口入が相違無しとしても、替名その他親類筋などの身上を調べ、これまでの問屋関係に残金がないかこれまでの漁業に支障がなかったかをしっかりと確かめた上で、旅人の名前、漁場名販売する魚種を明記して、各組の月行事の承認を取らなければならない。  
附り 仕入金の儀は、旅人商い、漁職の筋並びにその場所によって年に二度、売上高から清算すること。年々により出荷の多少が生じるときは、仕入金の増減 をする場合もある。  
新たに仕入金の取決めを行ったり、漁業を始めようという場合は、「肝煎(きもいり)」が間違いなしとしても、変名ではないか、親類筋まで身上を調べ、これまでの問屋関係や漁業に支障がないかを確認の上で、旅人の身元、漁場、魚種を明記して、月行事に承認を取ることとして、むやみに問屋が増えることを制御しています。  
追加条項は、仕入金についての規定で、年二回の清算と、荷物の多少により額の増減を行うことをうたっています。また、旅人との最初の契約時に、押送船の諸費用や、元手金などが相当額にわたって手渡されている場合、長い年月にわたりその仕入金で荷物を支配できるとしています。  
(第五条) 浦方川筋については、五分、一割の口銭があるから、その最寄の地方や同類の荷物については、その筋をしかと確かめた上、同様の口銭を定める。また、荷物が着岸した折は、水帳面を吟味し、売立相場の相違無きようにすること。若し上場日付を変えて下値にしたり、又は他の旅人の荷物をセリ取るために増し仕切をおこなった場合は、必ず取調べて処罰する。  
附り 立合のときに分合問屋の方へ口銭一割と決めておいて、内証にて旅人に五分の相返しを行うなどは、きっと取調べて処罰する。  
販売口銭に関する規定です。問屋は委託販売をしていて、浦方川筋から五分ないし一割の口銭を取っているから、最寄や同類からの出荷に関しても、それに準じた口銭率を定めるとしています。口銭率といえば、延宝二年(1678年)に新材木町に新場が開かれる直接の原因となったのも、荷に対する口銭が原因でした。その時は、一割六分という高口銭率であり、これを引き下げるかどうかという争いでしたから、それから延享元年(1744年)までの七十年近くの間に口銭率はかなり低くなったことが分かります。  
追加条項は、分合問屋についての規定ですが、「分け合い」荷物については、本式書の第一条の附りでも規定しています。出荷先の問屋を区分した「分け合い」の荷物が来たときは、片方だけに売る「片付売り」をしてはいけないということは、古法式書においてもうたわれておりましたが、このような事例が増えてきて、「分合問屋」という呼称が生まれたようです。このとき口銭一割と決められているのに、分合問屋の一人が相方に秘密で、旅人に五分のリベートを渡すような行為が行われつつあり、これはその旅人をセリ取ることに他ならないので禁止し、そうした事実が発覚した時には吟味の上で処罰するとしています。  
(第六条) 問屋並びに仲買共、浦方川筋を回っての諸魚直買はしてはならない。近年、押送船を仕立て仕入ある浦方へ回す、或いは鮑浦沖合にて盗買を致す、陸付荷物を道中にて押留る、塩魚を打金にて買付る、等の行為は、仕入金も廃り、罷成の問屋も迷惑するので禁止する。  
問屋や仲買が産地を回って直接買い付けすることを禁じた条項です。古式法式においても禁止されていた行為ですが、近年みられるようになった行為について、とくに問題としています。  
問屋が押送船を仕立て、他の問屋が仕入金をしてある浜方へ回すという行為は、本来からいえば全く逆のやり方です。これは、浦賀奉行所の設立によって押送船の通行許可を発行する印鑑問屋ができましたが、これが時を経ると権力化していき、まるで問屋所属の押送船のようになってしまいました。すると、これを利用して、問屋側から浜方へ押送船を仕立て、他の問屋が仕入金を打ってある浜方を回る問屋が出てきたというものです。  
鮑浦はアワビの獲れる浦のことで、当時、干しアワビは、イリコ、フカヒレとともに中国への重要な輸出商材でしたから、幕府は生産、加工、流通にわたって厳しく統制していました。それをかいくぐっての盗み買いが横行しているとしています。  
陸付荷物というのは、陸行で運ぶ出荷のことで、アワビやサザエなど単価が高いものが多いことから、これを横から現金によって強引に買い取る行為が目立ってきたということです。  
塩干魚は、日本橋川をはさんで対岸の四日市組や小船町組らの市場の扱いでしたが、塩干魚でも塩魚に関しては、魚河岸でも取扱い業者が増えてきて、これを脇から買い付けることがあったといいます。  
これらの行為について禁止しています。  
(第七条) 総ての組合の問屋は勿論、屋敷売の肴屋並びに問屋請仲買、組合請仲買、脇店仲買売買の儀は、その日払いとして代金滞らぬようにすべし。若し売掛に滞納が無くとも、仲買分の者不届のあるときは、組合一同相談の上、売りを留める。  
市場内の営業規定で、とくに仲買について、売買の仕切を当日払いとして、遅滞金のないようにするほか、不届きな行為があれば、問屋一同が相談した上で、売り止めの措置とすることで、古法式書同様に従属性を明らかにしています。  
この時期には、仲買業務が問屋から独立しつつあり、問屋側にとっては脅威の存在になってきたことから、あえてこのような規定を盛り込んだものでしょう。  
さらに、市場内業者として、総組合の問屋、御屋敷売りの肴屋、問屋請仲買、組合請仲買、脇店仲買の五つに定めています。  
(第八条) 問屋名題の無い者が荷物を引請、仕切するなど問屋箇間敷(がましき)筋は固く禁じ、勿論新たに問屋株を相立てず、且又、組合所定の仲買以外の他は売場にて一切の商売を禁じる。  
問屋名義のない者が問屋行為をすることを禁じ、新たに問屋を増やさず、所定の仲買以外が市場地域内で営業してはならないとしたものです。  
「肴問屋四組法式書」には、このあとに法式書制定と町奉行所改めなどの経緯と、さらに追加条項、罰則などが奥書きのかたちで記載されています。  
追加条項というのは、過料金と営業停止の処分を覚悟の上で、どうしても欲しい旅人に、従来の問屋との関係を切らせて自分と結ばせようとした者があったときに、これまでであれば、過料金を支払って、営業停止の期間を過ぎれば、自由に旅人と契約できたため、これはかんばしくないということから、たとえ旅人が従来の問屋と手を切ることがあっても、処罰を受けた問屋とは結ばせないという旨を明示したものです。  
罰則は次の通りに規定しています。  
・法式書違反の罰則 / 吟味の上、古法式書通りに、過料金三両を組合に納め、一定期間の商売遠慮(営業停止)とする。  
・法式書以外の罰則 / 法式書に具体例がなくても紛争などを起こせば、同様に過料金多少、商売遠慮とする。  
・組合に従わない者への罰則 / 組合の裁定に従わない問屋は、奉行所に対して「問屋株の取り上げ」を訴え出る。 

 

納魚請負人制度(一) 大和屋助五郎の栄光  
幕府への納魚が大きな負担となってきたため、宝永二年(1705年)に魚問屋への助成の意味から十一ヶ所の拝借地が与えられたことは前にみました。拝借地の地代や家賃収入の上がりで魚問屋らの負担を補おうというねらいでしたが、結局それでも根本的な解決にはならず、納魚への不満は絶えません。  
そこで、南町奉行大岡越前守の裁断により、享保四年(1719年)、これまでの直納(じきのう)による納魚制度を廃して、「請負人制度」に変えるという大改革が行われます。どういうことかというと、それまでの納魚は、初期においては本小田原町組が、後に本船町組がそれぞれ中心となって、多数の問屋から適格品を選んで上納しましたが、今度は納魚の一切を特定の請負人の権限と責任の下に任せるということです。  
請負人は組合の代表として選ばれた者が就任し、そして、毎日城内賄所からくる、翌日の納入品についての達しに応じて上納魚を揃えるのが、その使命でありました。  
はじめて請負人に選ばれた者は、  
越前屋孫右衛門 伊勢屋岸右衛門 柴田四郎兵衛  
の三人で、請負人制度の実施により、納魚助成地十一ヶ所は返還されることになりました。  
さて、請負人という役職は、たいへんに権威のあるものでした。何しろ御用魚を一手に引き受けるのですから、請負人の指図、すなわち御上の絶対命令に等しいものがあったことでしょう。魚問屋の代表として、入荷する魚を取りしきることが出来ました。  
しかし、それとうらはらに、その経済的負担は想像を絶するものがありました。というのも、納魚の価格は、「本途値段」といって、市場卸売価格の十分の一程度でしかなく、これが後に三割六分増となりますが、それでも七分の一の価格に過ぎません。納魚品は各問屋の儲けなしとして原価で買い上ますが、それでも大幅な損金が生じ、それがそのまま請負人の負担となるわけですから、商売としてはまったく立ちゆかなくなります。  
請負人三名は、この負担に堪えられずに奉行所に訴え出ます。仕方がないということで、享保八年(1723年)、大岡越前守の判断で請負人制度は中断することになりました。そして、旧来の通りの納魚が復活いたしますが、今度は助成金が与えられるわけではない。助成地も返還したままですから、当然、魚問屋らは「これじゃ堪らない」と騒ぎ出します。そこで、同十五年、今度は請負人を六人体制として、制度の復活となります。  
ここまでの経緯をみると、請負人制度は、大岡越前守が魚問屋らの不満に応じて、その都度変えていったもので、行き当たりばったりという印象すら受けますし、もとより無理を押しての制度だったともいえるでしょう。  
任命された六人が誰であったかは記録に残されていませんが、どうやら何事もなく責務をまっとうして、享保二十年(1735年)に任期満了となったようです。そして、続いて任命されるのが次の四人。  
鯉屋藤左衛門 西宮甚左衛門 堺屋長兵衛 大和屋助五郎  
このうち最初の三人は、森一族の流れをくむ摂津系問屋であることに注目すべきでしょう。そして最後の一人、大和屋助五郎は、森一族が魚河岸を開いた当時、殴りこみをかけるように市場に参入、独占的な活鯛流通システムをつくりあげた大和屋助五郎の子孫で、三代目にあたる同名の人物です。つまり、水と油をいっしょにしたような人選であり、これが、昔からくすぶっていた摂津系問屋と大和屋の確執に火をつけることになりました。  
大和屋助五郎は、この時期まさに絶頂期にありました。生類憐みの令が終結する正徳年間(1711〜1716年)には、関東から西日本に至るまでの広大な地域に流通ルートを広げ、それら敷浦においては、一村すべての魚介類を支配し、活鯛納人はかれひとりの手中にあり、その地位はゆるぎないものとなっていました。  
しかし、大和屋にどれほど実力があっても、市場においては摂津系問屋こそが魚河岸創始以来の伝統を引き継ぐ主流派であるという暗黙の認識があり、組合内での発言力にも差があったと考えられます。大和屋にしてみれば、いつまでもアウトサイダー的な扱いには、きっと臍をかむ思いだったことでしょう。自分の実力が大きいほど、それに見合った権威は欲しくなるものです。  
元文五年(1740年)ニ月、四人の任期満了を一ヶ月後に控えるその時期に、請負人をめぐって勃発した問題について、日本橋四組魚問屋並びに新肴場、芝の各行事が奉行所に呼び出されます。その問題とは、大和屋と摂津系問屋が納魚価格について大きく対立したことでした。  
大和屋と摂津系問屋の四人は、水面下で反目しながらも、五年間の任期を大きな問題もなく終えようとしておりました。ところが、年明け頃より後任の準備にかかると、かねてより懸案とされていた納魚価格の引き上げ案が浮上、お互いが真っ向から対立します。これより以前に、両者は共同で納魚値段引き上げを幕府に要請しており、「本途値段」の三割六分の増額が認められていました。しかし、それでも損金が生じるため、摂津系問屋の三人は、さらに二割五分引き上げて、合計六割一分の増額となるように願い出ます。これに対して大和屋は、「三割六分増しのままでやっていける」と言い放ち、両者の主張はまったく相容れぬままに平行線をたどりました。  
奉行所は各組問屋行事に対し、今回の問題によって納魚の差し障りのないように申し付けた上で、請負人らの調停に乗り出しますが、両者の対立は激化するばかりです。ついに摂津系三問屋は、価格引き上げ要求が通らないなら請負人を辞退することを表明します。すると、それに対して大和屋は、「三人の者は御用召し上げということにして、私一人に任せて頂ければ、一両年はやっていける」と大見得を切りました。  
奉行所にしてみれば、安く上がる方が都合が良いわけですから、大和屋の意見を取上げます。毎月の納魚代金の三分のニを前払いして欲しいという、唯一の付帯条件を聞き入れた上で、請負人を大和屋一人に任命しました。  
このような大役を一人の者に任せるのは、きわめて異例です。それは大変な名誉であり、最高の権威を手にしたことになります。それと同時に、その経済的負担はきわめて大きいものでした。何しろ、四人制の下でも損金が大きく、摂津系問屋はやっていけないと音を上げたくらいですから、それを一人でやっていくには、想像を絶する負担を強いられたはずです。  
しかし、大和屋助五郎は言ってのけます。  
「一両年の間は、価格引き上げなどの願いは一切しないし、それで納魚がとどこおったならば、いかような罰を命じられてもかまわない」  
これほどの自信には訳がありました。すでに独占的な活鯛事業を展開する大和屋でしたが、ついに浦賀奉行より浦賀検校崎に横幅百三十間(約230m)という広大な「永代活鯛囲簀場所」新設の許可を受けることになっていたからです。  
さらに寛保三年(1743年)、それまで伏見屋作兵衛、鯉屋小兵衛が請け負っていた江戸御用聞商人も引き受けます。これは御屋敷方に納める役目であり、これまた権威のある座です。  
すなわち大和屋助五郎は、納魚請負人と活鯛御用人と江戸御用聞商人という、本来は分かれていたはずの主要な職分をすべて手中に収め、魚問屋の権威を一人占めすることになったのです。まさに栄光は大和屋の頭上に輝き、得意の絶頂にあったことでしょう。  
しかし、納魚請負人の座をめぐって摂津系問屋との抗争は避けがたいものとなり、さらに大和屋に江戸御用聞商人を追われた伏見屋、鯉屋も共に摂津系問屋であったことで、これより打倒大和屋を目指して摂津系問屋の巻き返しがはじまります。 
納魚請負人制度(二) 大和屋助五郎と摂津系問屋との抗争  
納魚請負人、活鯛御用人、江戸御用聞商人という魚問屋の主要な職分を一人占めにした大和屋助五郎は得意の絶頂にありました。その昔、本小田原町で問屋を開業するにあたっては、森一族らの摂津系魚問屋との確執に明け暮れました。そして不断の努力により活鯛流通システムを創りあげ、自らは活鯛御用人としての地位を確固とし、しかもその方式は他の魚問屋に大きく影響を与えました。にもかかわらず、魚河岸でのかれの位置づけはあくまでもアウトサイダーであり、四組問屋の実権を握るのは、相変わらず摂津系問屋でありました。しかし、ここにすべての権威を手に入れ、押しも押されぬ魚問屋の第一人者となったのですから、開業以来、百三十年にわたって持ちつづけた目標がついに実現したといえるでしょう。  
大和屋の意気込みはすさまじいものがあり、一人では到底出来ない仕事をテキパキとこなしました。奉行所も魚問屋に対し、「大和屋より御膳御用となる魚の入荷についての問合せがあったときには、当日に限らず、翌日、翌々日であっても、品種、数量を正確に知らせるように」という具合に強くお達しをいたしますので、各組合とも納魚納入にきちんと努めます。  
しかし、栄華をきわめる大和屋も、ついに泣きを入れるときがきます。寛保三年(1743年)、「このたび御用取続きが困難となりまして……」として請負人の辞意を表明したのです。それは、元文五年(1740年)の就任から数えて満三年を迎えるときでした。もともと「一両年」という約束でしたから、それが三年続けられたことだけでも大したことだといえるでしょう。強大な活鯛流通を擁する大和屋だからこそ出来たことかもしれません。  
奉行所は、このまま大和屋に辞められては大変だということで、なんとか慰留につとめます。納魚価格を五割六分増しにすることで折り合いをつけ、あらたに向こう五年間、延享五年(1748年)三月までの年季を定めて再任させることとし、大和屋の単独請負人は二期目に入ります。  
ところが、再任四年目を迎える延享三年(1746年)に事件が起こります。それは、大和屋助五郎が請負人新任以来の七年間、納魚のために他の問屋から仕入れた魚の代金を、ずっと滞納したままであるとして、これを不満とする問屋らが奉行所に訴願したものです。さらに次の五人に代金を肩代わりさせるように願い出ました。  
西宮源右衛門 佐野屋七兵衛 佃屋佐兵衛 佃屋九佐衛門 伏見屋作兵衛  
この五人はいずれも摂津系問屋です。つまり、大和屋に奪われた四組問屋組合の代表の座を取り戻すべく、失地回復に立ちあがった様子が見てとれます。とくに伏見屋は、四十年間続けてきた江戸御用聞商人の地位を、先年、大和屋に横取りされたばかりでしたから、これを好機と巻き返しに出たのでしょう。ここに閉鎖的社会における権力争いの激しさがうかがえるように思います。  
それにしても、七年間にわたっての仕入代金滞納というのは穏やかではありません。これでは摂津系問屋につけ込まれるのは当然のことです。あるいは大和屋を陥れるための策謀かと勘ぐりたくなりますが、今回の訴えは事実であり、大和屋には多額の滞納金があったのです。奉行所に対しては「代金引き上げなどいたさずに勤めてみせる」と大見得を切りながらも、その実態は問屋への代金を支払わずに体面のみをとりつくろうものでした。  
これは明らかに失態であり、大和屋は断罪されても仕方のない状況です。しかるに奉行所は大和屋がまだ“年季中”ということで訴えを却下します。ただし、未納金返済には善処するように申し付け、最近半年間については向こう三十日以内に返済し、それ以前の分は、おいおいながら、きっと完済するように命じましたが、一切のお咎めもなく、そればかりか、延享五年(1748年)をもって年季明けとなる大和屋をまたも再任させ、単独請負人として三期目に突入することになりました。  
この大和屋に対する奉行所の庇護ともとれる手ごころの加え方に納得がいかないのは、摂津系問屋の面々です。たとえ大和屋が請負人に再任されても、うまくいくはずがありません。抗争は収まりをみせず、多分何らかの衝突があったのでしょう、大和屋は任期中である寛延三年(1750年)、ついに請負人の座から降りることになりました。さらに、それから間もなく江戸御用聞商人の地位からもすべり落ちています。その後、大和屋は活鯛御用は何年か継続するも、魚河岸の表舞台からその姿を消し、結果として魚河岸草創期から続いてきた摂津系問屋との抗争はここに終結をみることになります。  
大和屋の絶頂期は終りを告げ、再び摂津系問屋がイニシアティブを取ることになり、請負人として新任したのが、  
西宮甚左衛門 梶木九右衛門 三河屋善兵衛 佃屋九兵衛  
の四人です。  
ところが、今回の請負人は就任後わずか一年で、納魚上の不手際をとがめられ、重い処罰を受けた上、失脚してしまいます。  
不手際というのは、寛延四年(1751年)五月二十七日の午後二時過ぎに城内賄所より「明朝までに、大小の鯛一折として予備を見込んで八尾、スズキも同様に八尾、マスも同じく八尾を納入せよ。ただし、マスはまだ漁期早々につき、念のために畜養している大小の鯛やスズキを充ててもかまわない」という達しがあったのですが、実際に納入されたのは、大小の鯛五枚、フッコの大小七本、活ボラ七本でした。注文と納入品では、鯛以外は品違いで、しかも数量が少なく代替の品が添えられておらず、事前連絡もしなかったなどとして、城内賄所が町奉行所へ訴え出たものです。  
実のところ、季節によっては命令された通りの魚が調達できないことも多く、ありあわせの魚を納入することが慣例のようになっていました。そこで、奉行所としては、この際だから引き締めにかかろうという意図があったのかもしれません。また、この訴訟を担当した町奉行能勢肥後守頼一は、延享四年(1747年)に道奉行松平忠左衛門が、道路行政の上から魚河岸運営に介入したときに、それにクレームをつけたその人で、今回も武骨なところを示したともいえます。  
しかし、そこには明らかに四人の請負人を追い落とそうという意図があったように思われます。任期途中にあった大和屋を引きずり降ろしたかれらが憎くもあったのでしょう。とくに、西宮甚左衛門については、かつて請負人が大和屋を加えた四人制であったときに、納魚価格の引き上げをめぐって大和屋と対立した問屋です。そこに含むところが多かったことは容易に想像できます。  
そして、四人に対して「身代取上げ」という、とんでもなく重い過料が課せられます。当然、問屋業務の存続は不可能となり、四代続いた西宮は消滅。他の三人も同様の末路をたどりました。これは、大和屋が七年間もの代金滞納があっても請負人を続けたのに比べれば、あまりにも不平等な措置であったといえるでしょう。  
よく考えてみれば、納魚請負人という多大な負担を被っても一銭の得もない名誉職をめぐって、血肉を分かつような激しい争いが繰りひろげられたのも、摂津系問屋と大和屋という古来からの二大勢力による魚河岸の覇権をめぐっての衝突にほかなりません。  
そこに勝利者はありませんでした。野望を砕かれた大和屋、没落していった摂津系の問屋たち。抗争に費やされた時間とエネルギーは、はかなく消えただけでした。問屋らは疲れ果て、ただ毎日の商売のみに追いまくられるようになります。  
すでに魚河岸の繁栄期は終りを告げていたのです。 
納魚請負人制度(三) 請負人制から直買制への移行  
納魚品不手際事件により西宮甚左衛門らが断罪された後、納魚請負人に選ばれたのは次の三人です。  
鯉屋藤左衛門 神崎屋又兵衛 竹口勘右衛門  
筆頭の鯉屋は摂津系問屋です。大和屋助五郎を追い落とした摂津系問屋でしたが、今度はかれらの代表が断罪されて没落していきました。にもかかわらず、その後を継いだのが同じ摂津系であるのはどういうことでしょうか。大和屋助五郎にはすでにカムバックするほどの力は残されておらず、抗争も終結していて、無難に請負人を勤められるのにふさわしい者として選ばれたのかもしれません。  
壮絶な抗争の後だけに穏やかな引継ぎとなったようですが、実はこのときを境に、制度の見直しが行われ、納魚そのものが大きく変容するきっかけが生まれています。それは、これまでの請負人制度が特定の請負人にすべてを任せたのに対し、ここではじめて幕府賄所による直買(じきがい)が行われるようになったことです。あくまでも請負人を仲介して納入魚を集めるのですが、その差配から納入方法まで役人が口をはさむことになり、請負人はお上の指示によって動くもので、その権限はいちじるしく抑えられることとなりました。  
その後、幕府は「御納屋」という直買機関を設置して、役人が市場内を回って目欲しい魚を「取り上げる」という本格的な直買に移行し、歴史ある納魚は末期的な状況を迎えるのですが、その前段階として、請負人を介しての部分的直買がはじまったといえます。  
もっとも、このような変化は、単に経費削減をねらったもので、請負人制度がはじまって以来、「本途値段」より五割六分増しまで納魚価格は引き上げられていましたから、何とかこれを下げたい。さらに諸経費をも圧縮しようというもくろみがそこにありました。それは、とりもなおさず、窮乏する幕府財政を反映してのことでしたが、魚問屋の納魚に対する負担を解消するべく誕生した請負人制度が、結局は失敗に終わったことを物語るものといえるでしょう。 

 

まとめ / 納魚の変容  
『歴史』の著者のひとり、木戸憲成氏が同書のあとがきで次のように書かれています。  
「幕府は、江戸城中で必要とするあらゆる商品について“御用聞商人”の制度を定めていたが、水産物や青果物のほかは、よしんば納入価格が低いにせよ、市中向け販売において、御用聞商人という特権と信用により、巨利を取得することが可能であったのに対し、水産物や青果物など食糧品においては、そのような消費者への転嫁の方法はなかった……産地側からの仕入価格と江戸城中への納入価格の格差をどのように補てんするかについては、行政面からの助成も時に見られたが、魚市場側も自主的に何回か方策を実施し、やがて失敗するという繰り返しを続けた。他商品の御用聞商人が消費者への転嫁を計ったのと同様の手法が、生産者(出荷者)側へ転嫁するという方法であった。これは、さまざまな方法で行われたものと推測されるが、ある一定の法則を生み出すまでに至らず、個々の問屋がそれぞれの才覚で、さまざまな手法を編み出していったように考えられる。別な表現でいえば、幕府が低廉な価格で生産者からその生産物を取り上げる、その中間に魚問屋が介在したという事になる。ただし、この手法を悪用することにおいて、不当な利益を取得することもあり得た。あるいは、それが日常化したかとも考えられる。」  
これを読むと、納魚の負担がどのようなものであったかが、よく理解できると思います。  
魚河岸は幕府への魚上納の残余を市中に売り出したことが始めとされるように、その主要業務は納魚にありました。そして、それは魚問屋にとっては非常に名誉なことだったことは、これまでに何度も述べた通りです。納魚は、御用の高張堤燈を掲げた大八車に魚介類を積んで、毎日、竜の口の賄所に届けるというものでしたが、この御用魚というのは大変なもので、その輸送には、百万石の大名行列ですら横切って通ることを許されませんでした。そんなことから、魚河岸には他の問屋とは違うのだという特権意識が生れてきます。あるいはかれらの向こう気の強さというのも、幕府御用達という誇りからきたものかもしれません。  
しかし、木戸氏が指摘しているように、魚河岸の他にも、幕府御用を勤める商人というのはたくさんいました。しかもかれらは、たとえ幕府への納入価格が問題にならないくらい低くても、幕府御用というのが何よりの信用となり、特権的な商売を展開できたので、いくらでも消費者相手に利潤を得ることができるという「うまみ」があって、安定した儲けを見込めたのです。  
ところが、魚河岸や「やっちゃば」にはそれがありません。食料品市場は全体としてみれば大きな商いでも、その中身は小さな問屋が凌ぎをけずるものでしたから、消費者に対して幕府御用を売りにしても、各問屋がその恩恵をこうむるというものではありませんでした。それに「菓子」とか「呉服」ならともかく、「幕府御用のさんま」とか「将軍家御用達のすずしろ」といったところで、さほどありがたみはないでしょう。いってみれば、自然のままの一次食品を扱うわけですから、問屋の看板がどうというよりも、季節や天候といった産地の状況に大きく左右されるわけで、他の商工業者のように幕府御用をかかげて商売を伸ばしていくことはできなかったのです。  
そうなると、納魚はいかに名誉であっても、負担ばかりが目立ち、ありがたいものではなくなっていきます。幕府への上納品は、一尾四十文とされ、鯛ですら眼の下一寸四十文という、とんでもない廉価に抑えられていました。それでも大名や旗本への御用が、かなり高値で納められ、これが上納の損失を充分に補って、なお儲けを出しましたから、魚問屋らは争って御用を勤めたといいます。ところが、幕府の財政逼迫にともない、諸大名の台所事情も苦しくなってきますと、諸物価の高騰もあって、代金の払いも悪くなります。一方、市中には高く売れますから、そちらの儲けが大きくなればなるほど、納魚の負担は増していくことになります。  
木戸氏の指摘するように、納魚の損失は産地に転嫁されました。幕府御用は、消費者に対しては、大した売り文句とはなりませんでしたが、産地をしめつける名目として大きな力を持ったのです。幕府の御威光によって産地を統制し、その結果、鮮魚流通を独占することにつながっていきます。その状況を木戸氏は“幕府が生産者から生産物を取り上げる、その中間に魚問屋が介在した”と逆説的に述べていますが、産地支配とそれによる流通の独占こそが、納魚によってもたらされる唯一の「うまみ」だったともいえるでしょう。しかし、産地に対してあまりに高率な口銭をかけたために逆に反発にあい、本材木町に「新肴場」がつくられたように、納魚の負担を産地へ転嫁するにも限界があって、問題の根本的な解決にはいたりませんでした。むしろ各問屋が幕府御用を傘に着て、いろいろと悪どいことをするとか、産地の旅人を奪い合うといった状況が生まれてくるわけです。  
そうして魚河岸は、納魚の負担を解消できないまま、産地との問題もはらみつつ、時代を経ていくことになります。いつかは行きづまる状況でしたが、しばらくは大きな問題としては発展しなかったのは、幕府が安定期にあり、魚河岸に影響を与えるような社会事件がなかったこと。そして、何よりも商売が繁盛していたために何とかなっていたというのが、その理由だと思います。  
魚河岸が最も繁盛をみたのが元禄時代で、この時期は江戸の高度成長期にあたり、大いに消費景気に沸いたのですが、とくに魚河岸は「朝千両」といわれ、芝居町、吉原と共に、江戸で最も繁盛する場所に数えられました。この頃の魚河岸旦那衆の吉原での派手な遊びといったら、昭和末期のバブル景気ですらママゴトかと思えるほどの羽振りの良さでした。かれらは江戸中の評判となりましたし、髪型にしても服装にしても、その風俗が大変な流行をよびます。魚河岸が時代のトレンドとなったのは、後にも先にもこの時期だけでしょう。現在の築地魚市場をみても、新しいのは鮮魚ばかりで、むしろレトロな風格をたたえるばかりですが、かつては魚河岸こそが流行の発信地だという、そんな時代もあったことを記しておきたいと思います。  
魚河岸の元気の良さは、元禄期に頂点を迎えた後は、それぞれの時代で浮き沈みをくりかえしながらも、平成の現代に至るまでスローダウンし続けているといっても過言ではありません。それというのも、元禄以後の三百年間、魚河岸はいつだって時代の変化に即応できずにきたからです。もっといえば、時代に翻弄され続けたともいえるでしょう。  
さて、元禄期の繁盛も下火を迎えますと、納魚の負担が次第に深刻化してまいります。もはや産地への転嫁ではたちゆかないことから、「何とかして欲しい」と訴願に及ぶこととなります。幕府としても助成地を与え、後には助成金を与えるなど、そのつど措置をしますが、状況は好転しません。そこで出てくる納魚請負人制度は、魚問屋組合による直納から、特定の請負人に納魚を任せるというもので、もともと魚問屋の負担の軽減がねらいでした。しかし、これが内部紛争の引き金ともなり、一方で賄費の高騰が問題化して、結局は廃止の方向に向かいます。  
「繁栄期の百年」は、大まかにいえば、魚河岸が納魚の矛盾に対して腐心を続けた結果、問題を解決できずに終わった百年であったともいえるでしょう。このあと納魚制度は、幕府による直買へと移行します。悪名高い「御納屋」が設置され、手カギをもった役人が容赦なく魚を取り上げるようになると、幕府と魚河岸との信頼関係に成り立っていた納魚の伝統は終わりを告げるのです。  
これより先、魚河岸は、かつての繁栄を取り戻すことができず、次第に力が衰えていくと、産地との関係や他市場との紛争といった、それまで押えられてきた様々の問題との対峙を余儀なくされることになります。そして、幕末の混乱の末に幕府は瓦解。後ろ盾を失なった魚河岸が、時代の渦の中に否応なく巻き込まれるのです。 
 
 
遊郭の歴史社会学

 

(一)  
かねてから葛飾北斎のことが気になっていた。といっても、北斎は、私などが相手にできるような一筋縄でいく人ではない。その前に、なによりも自分が北斎を好きなのか嫌いなのかがはっきりしないのだった。二〇〇五年一一月に東京国立博物館で北斎展が開催され、私も見にいった。それはかなり大がかりで見ごたえのあるものだったので、驚くほどたくさんの人びとが押しかけていた。そこで私もまたあらためて北斎の良さを見直したばかりでなく、自分の宿題までも思い出したのだった。  
エッセイの主題に取り上げるとき、なによりも取り上げた対象を好きか嫌いかが決まっていなければ、話は進まない。私の場合、生まれついての天邪鬼のせいで、とくに嫌いなものを取り上げることもけっこう多いのだけれど、実際には、書いているうちに、嫌いな相手のなかにも好きなところを見つけている。どこまでいっても嫌いな相手はもちろんいるけれども、そんな相手は一刀両断に斬り捨ててしまへば、もうあとは用がない。じっくり取り組む相手は、かならずどこかが好きなのである。  
私の評価などどうでもいいことだろうが、それでも自分では北斎をすごい画家だと思っている。こんどの展覧会でいえば、アメリカ人がもっていて、おそらく日本初公開だという軸なんかはとりわけ印象が深かった。強風に吹かれる柳の木が描かれていて、数羽のカラスがその風にあおられ、画面の奥の方へ揉まれるように素っ飛んでいく。画面全体は、嵐のなかのように薄暗い。もちろんカラスも黒々と描かれている。なみの浮世絵師は、たぶんこんな絵は描かない。狩野派の絵師だって書かないだろう。つまり、どちらかといえば、これは現代の画家が描きそうな絵である。版画「富岳三十六景」の一つ「甲州石斑沢図」で強風を表現する仕方、どちらもいかにも彼らしい着想だが、あれこれいう前に、何事かが兆し動き出しているような、こういう北斎が私は好きだ。同様に、広告でもしているみたいな、太い輪郭で縁取られた、何かを予感させるような奇怪な姿の亀も鯉も鶏も理屈抜きで感心する。  
では嫌いなところはどこか。  
北斎の画風には、なんといったらいいか、強烈な個性というかクセがある。風景でも人物でも、これでもか、これでもかと、ぐいぐいと描いて姿勢が見えて、そこが好きになれない。デフォルメの仕方も気に入らない。それはうまいと思うのとは別のことである。彼は九十すぎまで生きたが、自分の画風を一つに固定し、かつ自分だけの世界に閉じこもることを嫌ったかのように、何度も号を変え、九十三回も転居を繰り返し、その間も、あらゆる種類の絵を休む間もなく描きまくった。馬琴の絵本の挿絵から、浮世絵版画、風景版画、絵手本、肉筆の美人、動物・植物・静物から人物「漫画」のスケッチまで描かなかった題材がないくらいに。版本と版画だけでも一、三八五点あったといい、これには肉筆画と絵手本、刷物などの一つひとつは数えない。一説によれば、生涯に描いた絵は全部で三万点を越すともいわれるのである(日本の美術十二 河野元昭『北斎と葛飾派』一九九六年)。天才か奇才か、これだけ描き続けた人なら自分の技には絶対の自信があったろうし、芸術家に付きものの迷いなどには生涯無縁だったように見える。おそらく、絵と現実とをごっちゃにするような人だけが迷うのだろう。生活の現実と絵空事とがごっちゃになった芸術家は、努力すればするほど、生活の憂さが筆の運びにまで及んで、ますます迷う。だが迷わなければ、クセも薄まらず、奔放な筆使いが矯められるヒマもないだろう。北斎のクセは長いあいだ描き続けたその習熟の結果として出てきたものだった。だからシミのように身についている。北斎は北斎らしくしか描けない。それは彼の美人風俗画の変遷を見れば分かる。  
いうまでもなく北斎は浮世絵師であった。制約があるとすれば、それである。十九歳で勝川春章に入門して浮世絵師となった北斎はとても優秀な弟子だったに違いない。春朗の名を貰い、精進したその結果はすぐに出た。寛政六年(一七九四年)勝川から破門されるまでの十五年間に描いた「可憐で憂いを含む」女たちの面差し(永田生慈監修『北斎美術館第三巻・美人画』)のエッセンスは、クセが身について、もう可憐でなくなった後年の美人にあっても消えはしなかった。それはプロの浮世絵師としての北斎の芸だった。破門されたあと、俵屋宋理二世を名乗るころに北斎の美人画の様式は完成するのだが、それは長すぎかつ大きすぎる顔と、竹に着物を着せたようなちょっと反り返った、とりわけ丸い尻をどこかに置き忘れた女である。「北斎」を名乗った寛政一一年(一七九九年)に彼は四十歳を迎える。それからおよそ十数年文化期半ばごろまでが、浮世絵師としての北斎の脂の乗り切った時期だった。例えば、注文による配りものである刷物の狂歌絵本で、私たちがお目にかかる成熟した女たちは、北斎様式における円熟の極みといってよいのであるが、そこにはつい触りたくなるようなエロティックなカラダを想像させるようなものはあまりない。まだ見たことはないけれども、それは春画でも同じだろう。人や動物の姿態に抱いた興味を満たすスケッチは、みんな「北斎漫画」の方に委ねられた。粗いタッチで一気に描きあげる北斎独特の肉筆画のなかの、すっきりした立姿の女の顔は、たいてい横を向いて、屈託ありげで、遊女ではあっても、スケッチ風な、どこにでもいそうな女である。繊細な線をもって描かれた一般消費者向けの彼の浮世絵ではけっしてお目にかかれない。  
北斎は彼独自の浮世絵の様式を完成させるが、しかし同時に、文化三年(一八〇六年)北斎四十七歳のときに歌麿が去ったあと、彼が残した江戸浮世絵の様式には完全に従うのである。しかも北斎らしさという点で見応えのある版画をつくった。人物をそのなかに置いた町の景観を一体に描くことにおいてとくに。それは肉体の官能を表現するのではなく、官能的な風俗の表現であった。つまり北斎が奉仕した幕末のセックスの産業ということである。  
春画(ポルノグラフィ)をはじめとして、風俗画である美人浮世絵が性的興奮を高めるのを目的にしていることを鑑賞者たちは当然あてにしている。格段に画料のよかった枕絵(春画)を描かなければ生活が成り立たなかったという事情もあり、世間を憚るこの種の絵のマーケットを成り立たせている男どもの欲望を解き明かすには、当時も今も、女性からの批判は覚悟のうえである。今風にいえばジェンダーの視点であるが、江戸の人びとの風俗や日常の関心がもっぱら性というもの(セクシュアリティ)に向いていて、官能を刺激するものが大好きだったのも本当だろう。江戸の町民も武士も、みんな色と欲にとりつかれていたというのはもちろん正しくないが、しかし、似た者同志の現代の私たちの目にはやっぱりそう映ってしまう。ハーレムをつくった中国人やアラブ人がスケベエであると思われている意味合いにおいて、江戸人はスケベエなのだ。三千人の遊女たちが手練手管の限りをつくすこの世の極楽である吉原遊郭に通うことばかりを夢見ていた男どものありさまを見れば、江戸の男も女もおしなべてセックスに狂っていたといわれても反論はむつかしい。そのしるしである浮世絵が、あれほど市中に流布していたからには。  
私だってそうと信じているわけではないが、浮世絵を論じるからには、そうして北斎が浮世絵師であったかぎりでは、色事こそ江戸の華、そうしてジェンダー(男女の違い)こそもっぱら人びとのものを見る尺度だったことを前提にしなければ、彼の絵を理解できるとは思わない。ちょうどアラビアの王様や、中国の皇帝が三千の美妃をいつも周囲に侍らせていたように、江戸ではいつも、それに負けない吉原の遊女たちと、深川をはじめとする岡場所に、その何倍もの茶屋女たちが待ち構えていたのだった。吉原通いがそんなに日常的なものではありえなかったこと、江戸人の生活のほんの一部でしかなかったことは、もちろん知っている。でもやっぱり、たとえ仕組まれたステレオタイプのイメージであったとしても、私たちが浮世絵を通してみる江戸は、すべて好色と性差別の町であった。  
急進的なフェミニスト、キャサリン・マッキノンにとって、ポルノグラフィは男性の女性支配と従属とを目に見えるエロティックな形で表したものである。ここに、支配と権力が、男を勃起させるセクシュアリティ(性的なもの)の姿で取り出され、提供されていると(森田成也『資本主義と性差別』一九九七年)。「ポルノグラフィは、女性を性的使用物として構成し、その消費者(男には限らない)は、女性が所有され、残酷に扱われ、非人間化されることを望む状況を作り出す」と彼女がいうとき、私たち男は、多少の留保を加えたうえで、それをまぎれもない事実と納得するしかないと思う。現代の男たちに映像と挑発的な文章で日々提供される最新式なポルノグラフィは、江戸にはなかったけれど、その代わりにあったのが遊郭と岡場所だった。 
(二)  
戦後すぐに廃業してしまった深川富岡八幡宮前にあった鰻屋「宮川」の初代主人渡邊兼次郎(一八六六〜一九五七年)は、風俗研究家宮川曼魚として名を知られ、昭和二年(一九二七年)に『江戸売笑記』という本を著している。公認遊郭の吉原を中心に江戸の町の売笑婦たちの生態と変遷を描いていて、とかく興味本位になりがちな対象を立派に学問にしてみせた労作だった。実際問題として、売春はいつもどこにでもある人間社会のいちばん古い職業なのだから、私たちにはそれをできるだけ公正かつ客観的な目で見る必要と義務がある。  
曼魚は彼の考察を売笑の沿革から始める。売笑を初めて公認したのは鎌倉幕府で、わざわざそのために遊女別当という職を設けた。  
次の室町幕府は傾城局という役所をつくって、売笑に従事する者から銭十五貫文の税金を取った。京都柳町に遊郭をつくることを公許したのは豊臣氏であった。もっともその頃の客は武士も含めて貴顕紳士に限られていたから、犯罪や暴力沙汰といったややこしい問題もあんまり起こらず、したがってことさらに私娼と公娼の区別を立てる必要はなかった。  
江戸が出来たときから、もちろん売春は盛んなものであった。千代田城を取り巻いて、京都や駿河から移ってきた娼家が林立していたという。江戸売笑の変遷を曼魚は五期に分けるのだが、第一期は吉原ができる以前を指す。最初の葭原遊郭(のち吉原と書くようになった)が設置されたのは元和三年(一六一七年)で、曼魚はこれを第二期の開始とする。「元吉原」遊郭は、鈴が森で娼家をやっていた庄司甚内(のち甚右衛門と改名)の請願を受けた幕府が認可して現在の日本橋人形町二〜三丁目辺り(曼魚は日本橋葦屋町、現在の人形町三丁目としている)に設置されたが、そのときの請願の内容に、1遊興のために身を滅ぼす者が多いが、遊郭を一ヶ所に集めておけば取締りがしやすい 2かどわかしや奉公と騙して娘を売る風潮を取り締まりしやすい 3浪人や悪党を取り締まるのに便利という三つを挙げている。各所に娼家が散らばっていたのでは出入りする悪人どもの詮議も容易ではないが、一ヶ所に集まっていれば召し取るに便利であろうと。たしかにもっともな意見ではあるが、いかにもお役人の喜びそうな、ウソとはいわぬまでも、本音とは違う建前論であったと曼魚はいっている。  
江戸遊郭のしきたりはすべて京都に従い、遊女も京女郎に倣ってしつけられた。遊女たちの位が、太夫・格子・局の三段階であったのも京女郎に倣ったのである。彼女たちは娼家にあって客を待つだけでなく、招きに応じて貴紳大名の邸宅に出張したものだという。  
第三期は、明暦三年(一六五七年)に日本堤千束に移転してから元禄・正徳までの約六十年間、吉原が一般大衆でも行ける日本一の享楽の場として盛んになっていった時期である。その「新吉原」が全盛を迎える第四期を、曼魚は八代将軍吉宗の治世が始まる享保初年(一七一六年)から天明末年までの約七十年間とする。すでに吉原のありさまは爛熟という言葉がぴったりで、秩序は綻び、頽廃に向かっているが、それを象徴するのがかの田沼時代だった。吉原の衰退を決定的にした松平定信の寛政改革から始まる第五期は、いわゆる「化政文化」が花開いた時期を挟んで、幕府崩壊に至る約八十年を宛てている。なかでも水野越前の「凶暴なまでの禁制政策」である天保の改革で、深川を含む江戸の岡場所はすべて取り潰され、あおりを食った吉原までも火が消えたようになった。以後ひんぱんに起こった火災の度に、仮宅の営業で凌いでいたが、再建もままならぬ吉原本体はさびれていくばかりである。安政二年(一八五五年)の大地震とときなどは、仮宅から復帰するのを拒む娼家が続出するありさまだったという。万延の頃には公娼制度も有名無実となり、ここで二百数十年続いた江戸の伝統ある遊所もついに最後の幕を閉じたと『江戸売笑記』は記して終わる。  
一九六七年に新書版で出された法制史家石井良助の『吉原』は、曼魚以後の新しい考証を加え、より詳しく吉原の仕組と変遷を解説した本である。元吉原から浅草日本堤に新吉原が移転開業した明暦三年に、偶然とはいえ、元吉原を全焼させた「振袖火事」と呼ばれる明暦の大火があった。そのために移転が少し延期されたのだが、それでも引越し料の一万五千両はすでに受け取っていたし、規模が五割も拡大されたうえ、昼夜ぶっ通しに営業を許されることになっていたから、遊女屋の側にも、幕府の側にも、都心からこのような不便な場所への移転開業そのものに故障が出ることはなかったようである。吉原の方では、この機会に、唯一公認の遊郭としてのルールを徹底させて、そこいら中にある私娼窟を一掃したかったし、幕府の方でも、上納金のことは別にしても、人攫いや犯罪者の取り締まりを吉原一ヵ所に絞って、さらに監視を強化できる便があった。  
つまりこの移転は、構造的性差別という状況に押し込められた無力な女たちに向けられる無頼の男たちの虐待、あるいは女をモノとしてしか見ない男の無法な暴力をコントロールすると同時に、犯罪と法の網を潜り抜けたもろもろの悪とをできるだけ一ヶ所に押し込めて処理してしまうという合理的な動機に根ざしていたのだった。  
その証拠に、移転を期に、幕府はとかく悪の温床になりがちだった湯女を全面的に禁止する手を打った。江戸市中二百軒の風呂屋が取り潰されて、湯女たちは吉原に収容された。最初の検挙の後もなおしぶとく生き残っていた七十余件の風呂屋と湯女五百人は、寛文八年(一六六八年)に摘発され、郭のなかにわざわざ二つの町を設けて遊女屋をつくり、そこに移されたのであった。  
この結果、新吉原では遊女の質がすっかり変ってしまった。前にもいったように、江戸の遊郭は京都島原を手本としたが、芸でも教養でも見識でも、女の模範とされるほどの「太夫」は、時代と環境が異なる江戸では当然のことながらすたれてしまい、芸も教養もなく、手練手管ばかり達者な湯女あがりの遊女が大勢を占めることになったからである。新吉原にも享保五年(一七二〇年)には、まだ高尾、薄雲、音羽、白糸、初音、三浦といった太夫がいて全盛を誇ったものだったが、それからわずか二十年で太夫は一人もいなくなってしまう。  
十七世紀の後半、元禄の頃まで吉原の主な客は地位のある武士・貴人紳士たちだった。そんな大名や上級武士を凌ぐ財力をもった豪商が現れて武士に取って代わるのは元禄も半ばを過ぎ、十八世紀に入ってからである。一晩で千両使うとか、太夫の見受けにかかる費用が占めて何千両とかいった話が珍しくない、そんな貴人・豪商が出入りする吉原を代表する太夫といえば、まず三浦屋の高尾であろう。寛永のころ(一六二四〜一六四三年)の初代から始まって前後で十一人いたと曼魚はいっているが、西山松之助編『日本史小百科遊女』によると、実は諸説あってはっきりしない。新吉原に移った直後の万治三年(一六六〇年)に死んだ二代目「万治高尾」が、歴代のうちでも、すぐれて名妓のきこえが高かったとされる。世に名高い「仙台高尾」が同一人者だったかどうかはよく分からないが、曼魚はそう解している。下野国塩原の農家の娘から最高位の太夫に登った彼女が仙台公綱宗に送ったふみ「けさの御わかれなみのうえ御帰路・・・わすれねばこそおもい出さず 君はいま駒形あたりほととぎす」はあまりにも有名である。仙台公は舟でお屋敷へ帰ったのだ。「およそ人間ばなれのしたこんな艶ぶみを受け取って、いい心持に鼻毛をのばしていられたのは、太平無事な世にうまれ合わせた御大名たちに限られる」と曼魚もいっている。彼女については、身請けされた直後、情人島田重三郎がいるのが露見してお手打ちにあったというのと、隠居した綱宗と天寿を全うしたというのと二説があるが、後者だと万治三年に死んだという記事と合わなくなってしまう。仙台藩伊達家三代目当主綱宗(一六四〇〜一七一〇年)が藩主になったのが万治元年(一六五八年)で、わずか三年後の万治三年には幕命によって江戸品川の別邸に隠居させられる。遊蕩が過ぎて、狂人の風聞さえ流されたあげくのことであった。お手打ち事件とよく附合する。だが放蕩はしても、綱宗は世に知られた風雅の士で、諸芸に通じ、人にものをやるのが大好きで、家臣の受けも良かったという。怒りにまかせて愛人を吊るし斬りにするようにはみえない。綱宗公の公式の伝記に七人の側室がいたことまでは記してあっても、身請けした遊女のことまでは載っていない。身請けしたのは別の太夫だったとか、牢人島田某は五代目高尾の情人だったとかいろいろいわれていて、「仙台高尾」などもともといなかったという説もむろんある。いずれにせよ名妓の噂話はいろいろ取沙汰されるから面白いのである。「子持高尾」というのもいた。遊女に子供がいたっておかしくはないが、普通は隠すだろう。彼女のように乳母に子供を抱かせて道中したというのは類がない。もっとも、十一代のなかのどれがその高尾だったかとなると、とたんにあいまいになるのだが。  
曼魚はまた、「ますかがみ清き流れをよすがにて 塵なき空の月ぞやどれる」という歌をそえた額を浅草寺に奉納して江戸中の評判になった扇屋の遊女瀬川のエピソードを紹介している。夜鷹だって負けてはいなかった。「あだし身の露の命と消えかねて 草のむしろにぬれぬ夜ぞなき」と詠んだ夜鷹がいて、それをある歌人が推奨したという。こんな調子の歌を詠む遊女がいくらもいたのだろう。型どおりとはいえ、それはそれでひとかどの女流文学だったといっていいのである。  
でも目の玉が飛び出るような揚代をとり、教養を看板にする太夫が客を選ぶような時代は、すぐに終わる。時代が変り、客が変り、瞬くうちに吉原は湯女系の遊女が主流になって、遊女の組織も変った。いまでは「散茶」女郎といわれる遊女が吉原を支える。散茶(粉茶)は淹れるさい振り出さない。つまり客をけっして振らないのでそういったのである。さらにその下の「埋茶」女郎というのもあった。曼魚は「梅茶」の字を宛てているが、散茶を薄めたものという心である。  
もう一ついっておきたいのが、吉原と火事の関係だ。明暦三年の「振袖火事」で元吉原が全焼して以来、吉原には火事が付きものであった。新吉原に移ってからおよそ二十年たった一六七六年(延宝四年)に始まって、一八六六年(慶応二年)までの百九十一年間に実に二十二回も郭を全焼させた大火があった。前述の安政大地震のときなどは遊女が五百三十人以上も死んだという。おかしいのは吉原の楼主も女郎も火事を苦にしなかったことだ。火事が起きると、みんないっせいに逃げ出して、消火は二の次になった。なにもかも焼け落ちてしまえば、今のように保険のない世の中、損害は甚大である。でもその代わり彼らには復興まで仮営業が認められていた。  
仮営業の場所は深川、根津あたりが多かったという。なにしろ仮であるから、万事手軽であるし、ご法度も緩い。もともと吉原を凌ぐほど人が出盛る深川の地で、見世も調度もいろいろな仕来りまでも簡略化して営業するのである。かえって金持から職人までさまざまな種類の客で繁盛するし、実入りも格段に多かったという。彼らは仮営業がいつまでも続き、かつ頻繁であることを望んだのである。 
(三)  
吉原が盛りを過ぎたころにやってきた世にいう「化政文化」とは、寛政の改革の松平定信が寛政五年(一七九三年)に老中職を退いてから、つかの間の繁栄を楽しんだ文化・文政期を挟んで、天保五年(一八三四年)水野忠邦が老中になって「天保の改革」を始めるまでの四十年間の江戸を中心にした生活の様式と文化をいう。それを近世封建時代のなかの市民文化の形成期と見立て、現代日本の生活文化に直接繋がる重要な時代と位置づけるのは、いまでは常識になっている。  
九十まで生きた葛飾北斎にとって、文化・文政は通過点にすぎない。だが四十歳から七十歳までいちばん脂の乗り切った年代がまさにその時期に当たるのだから、彼を化政文化を代表する一人とすることに異存はないだろう。曲亭馬琴と組んだ読本で評判をとってからの北斎は、この時期を通して、量質ともに、挿絵画家として第一人者であったし、浮世絵や刷物の制作でも群を抜いていた。  
一七八三年から五年間続いた天明の大飢饉とそれに伴う打ち壊しがさしもの田沼時代を終わらせて、続く松平定信の寛政改革が江戸を火の消えたような町にしたあと、家斉の「大御所時代」が来る。  
宮中の太政大臣に匹敵するのが前将軍に与えられる大御所の尊号なのだが、老中松平定信が閑院宮典仁親王に太政大臣の尊号宣下を停止したとき、そのあおりをくって、将軍家斉の父治斉に大御所の称号を送ることができなくなったという事件があった。一説に、これが家斉の不興を招き定信の失脚に繋がったともされるのだが、彼の退陣で寛政の改革も一段落となり、そのあと家斉自身は晴れて大御所となることができた。良くも悪くもこれが化政文化を象徴する。  
側妾四十人、男子二十八人、女子二十七人、肩書きなし生母合わせて十六人、そのほかにも、手をつけた女中の胎児の密かに始末されたのが何人いたか分からない。千人といわれた大奥女中とともに、江戸城内に吉原遊郭の風情を現出してみせたと評される大御所家斉の豪奢な生活は、まさにけじめを失くした罰当たりな所業というべきであった。  
上が上なら下もそれに習う。化政期の世相に歌舞伎趣味が満ち満ちていたことはよく知られている。人びとは、日常生活でも、芝居がかった大仰な物言いや身振りを好み、芸事や素人芝居にうつつを抜かした。歌舞伎伴奏の長唄、常磐津、清元がいまの形に仕上がったのがこの時期である。いまでも名優を指していう「千両役者」が出現したのは、まさにそんな世相が背景になっている。役者の払底をいいことに、江戸では人気の中村歌右衛門や坂東三津五郎らが千三百から千四百両もの年給金を取ったのである。でもそれは、歌舞伎が隆盛だということではなかった。その反対に、江戸三座といわれた中村座・市村座・森田座でも毎年二〜三千両もの赤字を出し続け、昔からの座元の財力は底をつき、芝居はおろか役者衆の管理もおろそかになって、興行そのものが立ち行かなくなることさえ稀でなかった(守屋毅「江戸の歌舞伎興行」、林屋辰三郎編『化政文化の研究』一九七六年、所載)。座元の管理無能力につけ込んだ人気役者の驕慢・強欲ぶりに、私たちは化政文化の虚ろな本質のもう一つの象徴を見る。守屋は、一見、庶民的で華やかにみえる化政文化のこの現状こそ、天保改革を呼び込んだ理由ではなかったかと問うのである。  
実際、庶民の生活は酷いことになっていたのだ。士分といっても旗本に仕える家柄の滝沢解(曲亭馬琴、一七六七〜一八四八年)は、詳細な自分の家の記録を残した。微禄な滝沢家の人びとのありようは、現代のうだつの上がらない中小企業のサラリーマンと変らないどころか、それ以下である。二君にまみえずなどという道義はもう彼らには通用しない。勤めが面白くなかったり、首になったりで、安っぽい使い捨ての勤め人である彼らは年中就職口を変えている。  
すぐそこもやめて、放蕩と流浪の生活に落ちぶれてしまう。馬琴の父も主家をしくじった口である。どんなに惨めであっても、主家に連なる「家」に属している間は生活していけるが、かんじんのその家から「亡命」した侍の行く末はきまっていた。滝沢家の縁者のなかで、二十代で窮死した者が一人や二人ではない。だいいち、馬琴自身があやうくそうなるところだったのである。文筆で成功した馬琴の実の妹秀も悲惨な生涯を送っている。何度か恵まれない結婚をしては夫に先立たれ、ついにはどこかの寺に仮住まいしながら針子をして暮らしたという(浜田啓介「都市生活の家」、『化政文化の研究』所載)。四十を過ぎて家のない後家や遊女上がりの女には、この世は、男よりもずっと暮らしにくかったに違いない。  
それでも江戸は田舎よりはまだましであった。なにしろ相次ぐ天災・飢饉が農村をすっかり疲弊させていた。この時期、田沼政治の影響もあって、諸藩の英邁な君主たちは、争って、行き詰った藩財政を立て直すべく努力していた。そのやり方もたいてい決まっていて、ご当地物産の振興を図り、豪商たちにその経営を請け負わせるのである。そして、その結果もまた決まっていた。財政が持ち直すのはいっときだけで、増税とにわかの商品経済とが農村を食い荒らし、すぐにもとの木阿弥に戻ってしまう。儲かるのは御用商人と、一割もの税金のほかにしこたま賄賂を取る偉い役人ばかり、割りを食って損をするのがいつも農民なのだった。在所で食えなくなった下層民たちが、当てもなく、ただ何かいいことがないかと職を求めて集まって来る江戸の町は、途方もなく膨らみ続けた。江戸は、日雇とぼてふりばかりが目につく町になり、その日の暮らしにも困るような裏店の住人が、いつの間にか二百万人を超えている。そんな彼ら下層民のエネルギーが化政文化を創ったに違いないと、芳賀登はいう(「江戸の文化」、『化政文化の研究』所載)。いちばん金をもっているのは蔵前の札差九十六軒であるが、予期に反して、彼らは文化の担い手としては影が薄いのだ。旗本・御家人の扶持米を一手に引き受け、金貸しと併せて、なんの努力もせず濡れ手に粟の金儲けをしている彼らは、元禄の豪商のような夢も行動力も底力ももってはいない。ひたすら目立つことを避け、書画骨董に遊び、派手な郭通いよりは蓄妾に安んじ、九人も妾を蓄える者さえいたという。  
芸者に売るか、妾に出すか、いずれにせよ娘三人産めば暮らしは安泰といわれた。こんな世間の目を憚ってばかりいる、無気力で情けない連中が、現代の生活文化の骨格を作り上げた化政文化の担い手であったわけはないと芳賀はいうのである。  
ここで、私がいま住んでいる深川門前仲町の江戸時代の遊興環境をおさらいしておきたい。石井良助の『岡場所考』(一九七八年)(『女人差別と近世賎民』一九九五年、所載)によれば、江戸市中で新吉原以外の非公認の私娼窟を岡場所と呼んだ。江戸の岡場所は、天保一三年(一八四二年)には二十八ヶ所あったと取締り記録に残っている。深川近辺がいちばん多くて七ヶ所、ほかに根津、谷中、音羽などがその主なものである。諸国の旅籠が二人ないし三人の飯盛を置くことを黙認されていたのにたいし、江戸ではすべて隠売女として扱われた。幕府は、品川・板橋・千住・新宿各宿の飯盛は、街道四宿はいちおう江戸市外であるという理由で遊女として黙認していたから、この中には入らない。いくら盛んであっても、深川はもちろん岡場所扱いだった。宝暦年間に富岡八幡宮が永代島に建立されたとき、なにしろ不便な土地とて、人びとの参詣を促すために茶店を開くことが許可された。それがいつの間にか三味線を抱えた怪しげな女たちを置くようになった。享保以降は茶屋の建物も立派になり、またそこに抱えられる女たちも若くて綺麗なのを集め、たいそう繁盛した。その賑わいぶりは新吉原を凌ぐ、といわれたくらいである。  
この頃、江戸の女を代表するのは、吉原の遊女ではなく深川の芸者だった。吉原に遊女のほかに芸者がいたように、深川の岡場所にも娼妓のほかに芸者がいて、「羽織芸者」と呼ばれていた。この呼び名は、藩政建て直しで名高い雲州松平南海公(宗衍)がたいそう深川を好み、贔屓の芸者と幇間にお仕着せの羽織を着せた故事から出たとも、舟を使うことが多い彼女たちが川風を防ぐために羽織を用いたのが始まりともいう。芸者は吉原から始まる。遊芸に長じていた太夫がいなくなって無芸の遊女ばかりになり、枕と芸とが分化、芸専門の者を芸者と呼んだのだった。だから彼らは一流の芸能者であり、男も女もいたが、女芸者といえども色を売ることはきびしく禁じられた。でもやがて男は座持ち専門の幇間(たいこもち)になり、芸者といえば女芸者のことを指すようになるのは遊里の成り行きというものだった。厳しい掟の吉原でも、何度も禁制が出ているところをみれば、客と寝る芸者があとを絶たなかったのである。まして、娼妓とのあいだに区別をつける意味がなかった深川の羽織芸者も、ほかの岡場所同様、かんたんに客と寝るので有名だった。深川の二枚証文という。抱え主が娘を芸者として買い取るさい、色を売ってもよいという別の証文を作ったことからこの名がある。吉原が豪華な衣装と厳格なしきたりを守ったのにたいし、深川の女たちは芸を重んじ、伝法な口をきき、あっさりした化粧としゃれた着物を好んだ。江戸前の粋を身上としたのであろう。深川贔屓は吉原に行くのをいさぎよしとはしなかったと石井は述べている。  
『化政文化の研究』に載っている赤井達郎の「浮世絵における化政」という論考は、寛政三年(一七九一年)に江戸で侍の家に生まれ、文化五年菊川英二の弟子として十七歳でデビューした浮世絵師渓斎英泉の評伝である。二十歳のころ北斎に美人画を学んだ。文政年間(一八一八〜二九年)に美人大首絵で名を上げる。「浮世風俗美女競」「浮世四十八手」「今様美女競」など(名品揃浮世絵七 鈴木重三解説『国芳・英泉』、一九九一年)。切れ長の目とすっと通った鼻筋の英泉の女はどれも版で押したような同じ顔立ちで、みんないい女である。上半身を描いた大首絵は、わざと着崩した着物の隙間から仄見える女たちの熟れた肉体がまことに色っぽいのだ。英泉において、浮世絵の女たちはやっと肉体を取り戻したといっていいようである。北斎が描く女の乳はいかにもそっけないが、英泉の「浮世四十八手」の女から目をそらすのはむつかしい。  
人情本に出てくる深川のいきな芸者たちが英泉の好んで描いた女であり、それによって、北斎よりも彼こそが、化政文化の雰囲気をいちばんよく伝える絵師なのだった。英泉が挿絵を担当して天保三年に刊行された為永春水の『春色梅児誉美』が描き分けた美女たちのなかでは、深川芸者がいちばんいい女である。赤井が紹介している『春色辰巳園』で、春水は、深川の芸者を「上着はわざと目だたぬように・・・おとなし仕立、素人めかす風俗は、なお温厚に意気なりけり」と描写する。英泉の女がまさにそのようなものだったに違いない。英泉は一時遊里に沈潜し、放蕩無頼の生活を送ったという。知り合いの肩代わりをした借財に苦しんだためとも、版元と画料をめぐって確執があったためとも伝えられるけれども、売れっ子だった彼の収入そのものはかなりのものだったようである。でも全体に、読本作者や絵師の収入は不安定なものだった。山東京伝はたばこ屋の主として収入を補っていたし、曲亭馬琴は履物屋の入婿になった。そもそも彼らが決まった筆料を得られるようになったのがようやく化政期になってからなのである。北斎の画料は抜きん出ていたはずだが、奇行のせいもあったかしらぬが、それでも彼の生活が豊かどころか極貧に近いとしかいえない状態だったことはよく知られている。英泉は結婚してからずいぶんまじめに画業に励んだけれども、いい作品はあんまり残さなかった。一時は根岸で遊女屋を経営したこともある。天保改革後は絵を売るのもむつかしくなって、文筆に転向したりしたが、嘉永元年、五十八歳で死んだ。  
高く売れるのはやっぱり枕絵(春画)であったから、浮世絵師はみんなよく枕絵本を描いた。英泉も当初から積極的に枕絵本に手を染めていたが、そのなかの尤物には「ぞっとするほどの情痴の美をきわめたものがある」と赤井はいう。でもポルノグラフィには違いなくても、それらが現代の私たちと同じ利用のされ方をしていたかどうかは分からない。枕絵利用法の第一は、新婚の夫婦に贈る性生活の手引きだったのだから。赤川学は、現代のポルノグラフィを、男性が自分の性的欲望を確認することを通して自分自身を取り戻す手段だといった(『性への自由・性からの自由―ポルノグラフィの歴史社会学』一九九六年)。いってみれば、性欲とともに萎えてしまった現代男の自信を取り戻すよすがだったというわけであろう。だから自分のセックス体験の告白を欠いた江戸時代の艶本も春画もほんとうのポルノグラフィとはいわれない。昨今の悪名高い「ポルノコミック」がオナニーに耽る青少年を堕落させていると教育委員会の先生方が非難なさるようには、江戸幕府当局がそれを憂いていたとは思えない。いまのようなポルノグラフィが生まれるためには、十九世紀ヴィクトリア朝風の偽善的なお上品さと貞淑と、その偽善が過ぎて欲望そのものが減退してしまった、思いもかけない事態を通過することが必要だった。吉原遊郭が、政治的・文化的な価値としてどっしりと存在していた江戸では、男たちが求める性的興奮のあり方はいまとはよほど違ったものだったに違いない。 
(四)  
吉原の遊女たちがしっかりと身につけていた勤めのうえの躾・たしなみなど、手練手管といわれた驚くほど多彩な秘技を『遊女の知恵』(中野栄三、二〇〇三年)が紹介しているけれども、それらのほとんどは遊女が性の快楽に溺れないための方策なのである。強制されたセックスによって心が傷つかないのはロボットだけである。自分をロボットのようにしてしまわなければ、遊女は身が持たない。  
その事情は、娼婦であるかぎり、古今東西を問わず同じであろう。  
「色欲をつつしみ精気をおしみ、飲食を過ぎず」とは貝原益軒『養生訓』(正徳三年・一七一三年)の教えであるが、つまり養生のコツとして、つねに心を平らに、気持ちをおだやかに保つために、肉欲をほどほどに抑えることが奨励されているわけである。もともとわが国には中国から渡ってきた神仙思想と仏教医学の不老長寿の法が言い伝えられていて、いまだにいかがわしい健康法を信じる人があとを絶たぬ。益軒は、新しい儒教医学の立場から、不老長寿的健康法のたぐいに徹底的に批判を加えたのだった。その路線による養生訓が十七世紀から十八世紀にかけていくつも現れて庶民のあいだに広い信用をかちえた理由は、養生という新しい考え方がもつ生活技術の馴染みやすさと合理性にあったと思われる。益軒が説く禁欲主義には欲望を抑えることの愚かさも強調されていて、いわば、それは「楽しみほどほど主義」というべきものだったからである。遊女も利用したに違いないその内容をひとことで言い表すものとして、天保一三年、水野沢斎という人が詠んだ歌を引用したい。「飲み食いも色も浮世も人の欲 程よくするが養生の道」(樺山鉱一「養生論の文化」『化政文化の研究』所載)。  
私たちが理解すべきは、幕末文化の合理性を彩る「いい加減さ」であろう。それは、西欧近代主義的合理性、それを私たちはピューリタン資本主義風と言い換えてもいいが、その西洋風とはちょっとばかし違っている。いってみれば、男も女もともに愉悦(オルガスム)に到達することが前提になっているヨーロッパ生まれの「ポルノグラフィ」の思想は、もともと遊郭には無用なものだったのだ。  
セックスの作法ともいうべき洒落本などの艶本や春画は、現代風な意味ではポルノグラフィとはいわれないという赤川学の説を先に紹介したが、江戸時代の日本では、遊女そのものがポルノグラフィだったのである。何が似合わないといって、遊里でのポルノほど似合わないものはない。いってみれば、登楼した先で、散茶にも振られた遊客だけがポルノコミックなどを読んでいる。現代のポルノグラフィが、映像であろうと文字であろうと、男に自信をつけてくれるいっときの幻想にすぎないように、遊女のセックスもつくられた幻想だった。その意味では、彼女たちの性は美と紙一重のところにいた。明治の美術行政を牛耳ったアーネスト・フェノロサは嫌いだったらしいが、浮世絵こそ、吉原とともに江戸文化の粋といわなくてはならないようである。  
私はいま、江戸の歴史と文化を振り返って、懐かしい夢を紡ごうとするのではない。その反対に、いま振り返ってみて、この町の生活やしきたりが、ジェンダー・バイアス(男の視点によるものの見方・考え方の偏向性)(伊藤公雄『男性学入門』一九九六年)そのままだったのではないかと言おうとしている。ナショナリズムが近代国民国家とともに起こったように、「セックスというニュアンスを含まない」性差を表すジェンダーも現代に特有な概念である。徳川幕藩体制は、武士・百姓・町人と階級でもって人びとを差別した時代であった。どこでも父親がいちばん偉くて、家族全員が父親に逆らえない。もちろん財産を裁量するのも彼であった。それを家父長制度といい、いまでも、人によっては、日本伝来の美徳であるかのように心得ている者もいる。そうして女はすっぽりとそんな制度のなかに組み込まれて、たいていは支配され差別される側にいた。江戸では、男と女の区別は、区別そのもののなかに、性別と同時に、社会的な身分としての差別が含まれるという構造になっていた。  
ここで、ジェンダー(社会的・文化的性差)についての基本的な知識をおさらいしておきたい。ジェンダーはもともと性称をいう文法用語であって、上野千鶴子の『差異の政治学』(二〇〇二年)によると、「性差を生物学的宿命から引き離す概念装置として」この語が使われ始めたのはやっと一九七〇年代である。先に引用した『化政文化の研究』(一九七六年刊行)のなかに、その視点が欠けているのは当然かもしれない。ジェンダーはセックスとは別の概念で、男女が社会的に分割されたあとの差異化とその実践をいう。男と女は生物学的にはもちろん違った種類であるけれども、社会のなかでの区別(性差)は、生まれながらのものと違って、後から作り出されたものをいうのである。それは本来ただの男女の役割といっておけばいいはずのものだが、なぜか人びとが社会をつくるところではどこでも、一方が片方を抑圧し支配するという構図ができ上がってしまった。そこがフェミニスト(女権拡張論者・女性解放論者)たちの手でひとつの社会学の問題として差し出され、かつ「女性学」という名のもとに、ややもすると男どもを相手に喧嘩腰で論じられるようになったのである。  
難しくいえばそうなるけれども、要するに、女性学とは、女たちあるいはごく少数の男たちが、性というもの(セクシュアリティ)によって女が差別されたり、迫害されたり、あるいは特殊な扱いを受けたりすることの不当性を訴え、抗議する運動をいうのである。  
そういう差別や迫害を行う当事者は、たった二つしかないもう一方の性である男性しかありえない。だからこそ、ジェンダー論あるいは「女性学」は女性だけがする学であるといわれる。女性学の立場でいえば、男はペニスをもった性であることによって、すでに女を支配し従属させるように条件づけられているのだから、当の男たちがこの問題(ジェンダー)を論じるには、別に自ら「男性学」を立てるしかないのである。さしあたり、これがジェンダーについての基本である。  
でも、基本は基本であって、常識とは違う。男と女はいつも支配したりされたり、暴力を振るったり振るわれたりする関係ばかりでないことは、女にだって分かっている。フェミニズムだって、男と女が互いにコミュニケートしながら、協調し、尊敬し合う社会をつくっていけることまでを否定するものではない。だから、ジェンダーの問題を、社会科学として、構造的な問題として捉える立場がありうるのだ。科学的・客観的なのだから、そこには男も女もない、冷静な科学者・研究者がいるだけである。  
そんな立場で、ジェンダー問題の理論化を行ったのがマルクス主義であった。かなり前から、そしてソ連の崩壊以後はとくに、マルクス主義は社会科学の系列から脱落してしまっていたが、グローバリゼイションという経済と社会を巻き込んだ現象が急速に展開する過程で、まだ海のものとも山のものとも分からないうちに、いちはやくその新しい動きに対応する理論を紡ぎだすことで甦ってきた。  
もともとグローバリゼイションは福祉国家主義と相性が悪い。人道主義が唱える基本的人権と自由主義経済を同時に満足させるのは、資本主義の理論では至難の技である。それを新マルクス主義はやすやすとやってみせる。ナショナリズムに後押しされた「一国福祉」政策のバラマキ主義が行き詰るのは理論的に必然であると切って捨てる一方で、マジョリティ、マイノリティを問わず、それぞれの共同体の立場と性別を問わぬ個人の権利を尊重し合いつつすべての人びと全体の連帯に基づいた柔らかな連邦主義が可能だ、というグローバリゼイション幻想を振りまきながら。  
要するに、資本主義の構造的欠陥としての男性による女性の支配・抑圧をマルキストたちは、家父長制(パトリアーキー)に見たのだった。家父長制とは、もともと一家の家長が若いものや弱いもの(女性)を統率する伝統的な制度と社会構造を指す概念である。  
日本でいえば、ムラ制度とかイエ制度とか、藩制度とか、家元制度とか、現代の官庁や会社などの組織でも、お目にかからないところはないくらいだ。性差別もその構造の一部である。「資本主義は必然的に家父長制的であり、一つのものである」というあるフェミニストの言葉がそれをはっきりと語っている。そこで問われたのは、男性中心の(ということは、労働の適性がつねに男性を基準にしていて、女性の社会的なあり方やリズムを基準にしていない)資本主義社会で、家事労働を含む女性労働が不当に搾取されているということだった。女に押し付けられた家事や介護といった労働は、支払われずにみんな亭主(家父長)の収入に取り込まれたままだという批判である。解決のカギは女性の地位向上と、男女の格差是正による職業人および労働者としての女の真の力を引き出すことだと(森田『資本主義と性差別』前掲書)。そこにはまた、ナチス・ドイツやソヴィエト連邦の鉄の官僚主義が行き着いたはての、男女平等主義への反省がある。だからこそ、ネオ・マルクシズムは生身の人びとの触れ合いと話し合いに賭けるのだろう。ただし、その行き方で、政治システム・経済システム・文化システムの複雑な統合体である国家システム、同じことだが、資本主義社会の構造がよく説明でき、かつ効果的に批判できるかどうかは分からない。  
それに対し、女性の手で女性を論じる女性学を支える正統的フェミニズムは、マルクシズムの経済学的ジェンダー理論とは一線を画す(上野『差異の政治学』前掲書)。彼らの主題はあくまでもセクシュアリズム(性的なもの、および男性による女性支配の権力構造、あるいは女の差別そのもの)であって、ジェンダーの経済学ではないから。このエッセイでは、私もその路線に従う。それは、私自身も含めて、ジェンダーということがまだよく理解されていない現状では、まず性差別の現実を見極めることが先決だから。男性学が男性だけのものであり、女性学が女性だけのものである以上、両者の接点は、そこにいかに偏見が紛れ込んでいようとも、性差別の実態にしかない。私は、それを売笑制度という日本の歴史的現象のなかに探ろうと思っているのである。 
(五)  
吉原の遊女の身売りの実態を知りうる資料はたくさんはない。その典型的な例として石井良助が挙げる文久二年(一八六二年)の年季請状を紹介する。  
やすという女を、八月二十六日より慶応元年十二月二十六日まで、三年四ヶ月の年季で遊女奉公に差し出すという証文だ。「公儀御法度を守り、逃亡したときは本人を探し出して勤めに出させる。年季が明けて再度勤めるのは差し支えないが、そのときは改めて身代金を出す。以上、関係者、当女子も得心のうえで、請判を押すものである。ちなみに女の宗旨は日蓮宗で、寺は谷中一乗寺であるから、宗門改めのときはお問い合わせ願いたい云々」身代金二十両で売られたやすこと浜海老屋花の香は、慶応元年十二月にめでたく年季が明けて、兄の許に引き取られた。  
売られたときやすがいくつだったか記されていないが、吉原の遊女は二十七歳の暮に年季が明ける。いってみれば、それ以上は商品価値がなくなるということなのだが、そのために彼女たちの年季はさまざまだった。でも二十七かそこいらで年季の明けた遊女たちには、その先にまだ数十年の人生が待っている。セクシュアリティ(性というもの)をまるごと商品にして生きてきた女たちの行く末がそんなに明るいものであるはずがなかった。彼女たちの多くが、自前で再度の勤めをした。そんな遊女は「番頭新造」と呼ばれて、見世では、花魁たちの隙間を埋める重宝な存在だったのである。一流の遊女屋以外で、董が立った遊女でも働けるところが吉原にはいくらもあった。年季が明けても行くところがないか、問題のあった遊女たちは、そういう下等な見世に行くか、落とされるかしたのであった。女流の時代小説の書き手たちの作品には、遊女上がりの女たちが、大店のおかみや職人の女房に納まって、辛い勤めから学んだ自立した女として立派に采配を振るう姿を描いたものが多い。そこには、ジェンダーの視点とは異なる、経験を積んだ職業婦人としての誇りを感じ取る目がある。上野は、「複合差別論」(『差異の政治学』所載)というエッセイのなかで、アメリカの女性人類学者ライザ・ドルビーが祇園の芸者を調査して書いた『ゲイシャ』(一九八三年)という本を紹介している。そのなかでドルビーは、「賎視されていた彼女たちが自立した女として性的自由や経済的意思決定権を行使し、専業主婦たちを逆に蔑視していたこと」を指摘しているのだ。家父長制的支配がとりわけ強く残る遊里という特殊な世界についての著者の理解が十分だったとは思えない。でも芸者が花街という「シマ」の特別なセクシュアリティの環境のなかにすっぽり取り込まれ、自分の性が商品化されていることに十分に自覚的でないことを割り引いても、なおかつ彼女たちがひとつの文化的伝統のなかで、自我を確立し自立した女でいることは可能だったし、たくさんの実例もある。つまり上野もいうように、ジェンダーの問題はけっして一筋縄ではいかないということである。そんな女たちの自立は、やっぱりいくぶんか特異な形をしているだろう。年季が明けたその後の遊女たちが、所帯をもって普通の暮らしを送ることを得たかどうかについて、石井はなにも記していない。  
親は、きれいな女の子を八〜九歳で遊郭に売った。まだほんのあどけない売られた少女たちは「禿」と呼ばれ、てっぺんを剃った独特の髪型できれいな着物を着せられて、自分が付いた花魁の身の回りの世話をしたのである。少女たちは十三から十六で「新造」と呼ばれる遊女になった。そのときに改めて年季が決められて客を取ったのである。新造は「新艘」と書かれるときもあるが、それは女郎の隠語が「舟」だからだ。水揚げ前の女郎という意味を込めているのだろう。新艘たちは、着ているものによって「振袖新造」とか「留袖新造」とか呼ばれた。そういう区別とか位付けとかが、それぞれ商品としての彼女たちの値段に反映したのだった。全部がなれたわけではなかったが、そのなかでよい素質をもった者が十七から十八で「花魁」(おいらん)に昇格した。サラリーマンの世界でも、大勢の社員が一生をヒラで過ごすように、彼女たちも、花魁になれなければ、一生格落ちの新造で通すしかなかった。  
たくさんの親が娘を十五〜六歳で売ったが、そんな親たちの多くが養父であった。この事実は、江戸の社会に、娘を売るという仕組が出来上がっていたことを示す。ただし、封建時代といえども、表向き人身売買は禁止されていたのだから、仮装されて奉公契約の形になっている。すなわち遊女奉公・質物奉公・養子契約である。「遊女奉公」は前に実例をもって示した。「質物奉公」とは、借金のカタに実子を年季をきって奉公に出すことで、期限満了とともに利子・元金ともに償却される。給金前借の遊女奉公の身売り奉公契約と変わらない。身売り奉公を前提とする養子縁組は、実親が養父にたいし、あとで実子が生まれた場合の相続や待遇などの保障を求める文面を欠き、もちろん養育費を支払った形跡もない。逆にこれまでの養育費の名目で実親が身代金を受け取り、遊女など、どんな賤業につく目的で奉公に出そうと一向に構わないと記し、人身売買の成立を証拠立てるのである(西山篇『遊女』)。  
年季の期間は二十年以下と決まっていた。八歳で身売りされてちょうど二十年になる勘定である。「玉」によって異なるが、二十年年季の身代金は二百両ほどだったということである。  
昭和三三年に売春防止法が施行されて、吉原をはじめとする遊郭が日本から消滅した。だが花街は、芸妓の仕事場として存続する。  
明治五年の娼妓開放令はかえってことをややこしくした。遊女屋は営業不可能になったが、それはただ身代金を「前借金」、娼家を「貸座敷」と名前を変えただけで、芸妓も娼妓も鑑札を受けて同じ渡世となった。もっとも芸妓規則と娼妓規則とは区別されており、芸妓は娼妓の所業と紛らわしいことは一切してはならぬと命じられていた。ただしそれは、あっちの方専門の枕芸者という別種を作り出しただけだったが。鑑札料は月々三円であった。貸座敷は貸座敷としてだけの鑑札で、娼妓を抱えることができなくなった。これは人身売買の禁止を意識したための措置で、個人営業としての売笑そのものはかえって大っぴらになったのである(西山編『遊女』)。  
戦後の花街は、「娼妓」がいなくなっただけで、基本的には同じシステムで運営される。もとより鑑札はなくなり、自由な職業になった。だがしきたりはそのまま残った。貸座敷と置屋、それに契約のやり方も。貸座敷は茶屋という。貸座敷とはまたいかにもお役所らしい無粋な名称だったから、いまではだれも使わない。もともとは寺の境内などで休憩のおり茶を商っただけの「茶屋」が、長い風俗の歴史のなかで変遷を繰り返し、いつのまにか、いかにも高給な雰囲気を纏って、遊里の場に定着し今に至る。置屋は昔は遊女が起居するところで、高給な遊女はここから客が待つ揚屋へ呼ばれていったのである。ふだん起居する見世に客を迎えるのは、局女郎といった下等な娼婦に限られていたが、のちに遊郭が大衆化すると、それが普通になった。たいていの客は、「引手茶屋」と呼ばれた遊郭の門前にあった仲介所からそれぞれの見世に送り込まれた。いまでは、芸者(芸妓)がいるところが置屋である。芸者は呼ばれるとそこから茶屋へ出向く。昔の吉原の「呼び出し女郎」のしきたり・ありようが、岡場所に受け継がれ、現在の花街に残ったわけだった。吉原の揚屋のように、茶屋すなわち貸座敷は料理をつくらない。料理は別に仕出し屋から取り、置屋から芸者を呼んで客を遊ばせるだけである。ただし、遊女いまは芸者のあっせん、料理の手配から料金・チップにいたるまで茶屋の女将が相談に乗る。客は、いっさいをまとめて茶屋に払うから、手間いらずだし、馴染ともなれば、一文ももたずに遊べるのだ。でも、いまでは料理も自家でつくる割烹料理屋が主流になって、東京などでは、仕出し屋の商売が成り立たなくなってしまった。この点、京都では茶屋はまだ健在で、芸妓(芸者)の選別手配はもとより、料理は外から取るのである。「女芸者」以来「芸者」は由緒ある呼び方であるが、明治以降は正式には芸妓である。上方では以前から、芸者の名称を用いず、芸妓と呼び習わしている。  
芸者の契約のやり方にも昔風が残る。戦後はそんなことも許されなくなったが、戦前は、置屋の抱えになるには前借契約が慣習だった。義務教育の小学校を卒業するまでは、さすがに「売られる」ことはなく、芸者の契約は十五歳から七年の年季と決められていたのである。前借の額も事情によってまちまちだった。近代化された社会では、いくら貧乏でも、娘にあからさまなドレイ同様の奉公を強いるのが憚られるのは当然であるけれども、しかしこの世界には養女を取る習慣がいまでも残っている。養い親が置屋の女将や茶屋の主であるのをみれば、やっぱり偽装された人身売買だったと疑われても仕方がない。  
私は縁あって、新橋で芸者に出ていたひとといっしょになった。  
勤めに出たのが十三歳のときだったという。六十過ぎにやめるまで人生の大部分を花街で過ごした。芸者に出たいきさつを聞いたことはないけれども、前借は形式的なごく小額のものだったそうである。  
十五歳の誕生日までは仕込みの期間で、住み込みで下働きをしながらお稽古に通った。躾にうるさい格式のある置屋だったそうで、きびしく芸者としての心得と芸を仕込まれた。でも、主は優しかったし、雑巾がけといった手を荒らすような仕事は免除されたという。  
十五歳で芸妓のお披露目をして、お座敷に出る。そのときから数えて七年の年季が生じるので、二十二歳で自前の芸者になれる勘定である。出た当座は見習いで、「半玉」あるいは「雛酌」といった。玉代(花代)といった時間給金が一本立ちした芸者の半分だったからである。芸者は、なによりもまず芸に励まなくてはならなかった。  
それも一つだけでなく、最低二つか三つの芸を稽古する。それらに習熟し、たいていは踊りとか三味線とかどれか一つに特化するが、どんな客の要求にも応じられるのが一人前の芸者の資格である。一本立ちの芸者になるのは、人によって差があり、女将が決める。見込みのある妓は一年か二年で「一本」に昇格した。そうなれば、衣装なども自分で調え、置屋には看板料を払わなければならない。さらに自立して自分で置屋を起こす資格を得た者を「自前芸者」といった。半玉のあいだは、娘同様に振袖を着た。みんな置屋で面倒を見てもらっているから、借金は増えているわけだが、それほどあこぎなことはしないのが普通だった。十五歳前後のまだ可憐な振袖姿の娘(妓)を抱える置屋の方も、元は十分に取れるからである。自前の資格が得られたときにまだ前借の残りを抱えているようでは、土台いい芸者とはいわれない。ずっと同じ置屋の抱えでいようと、他へ移ろうと、あるいは自分で新しい置屋を開業しようと、彼女の自由であるだけに、今度はなによりも信用が大事なのである。  
私の家内は、きっといい芸者だったのだろう。いまでも、晴れて自前になったとき、芸も不十分、尊敬もされず、借金はあっても自由も利かないような芸者など、とうてい一丁前とはいえないと思っているふしがある。実は、このくだりを書くとき、ぜひ参考にしようと思っていた小説があった。群ようこ『小美代姐さん花乱万丈』(二〇〇二年)である。小美代姐さんが戦後あらためて芸者に出るとき、腕一本で家をつくる。足りない分の借金をするくだりを読む素人衆の読者は、作り話にしても、ずいぶん太平楽なエピソードだと思うかもしれない。でもこれは花柳界ではよくあった話である。  
私の家内がまさにそうだったのだから。しかも彼女が無担保・無利子・無期限の条件で借りた相手は、小説のように、肩入れしてくれる料亭の女将ではなく、ただの贔屓のお客にすぎない大相撲の親方だった。それが芸者の信用というものだと彼女は信じているのである。  
中野栄三は『遊女の知恵』に、遊女の「張り」と「意地」が、たとえやせ我慢ではあっても、男女の交情に尽きせぬ魅力をもたらしたといい、「芯に意地をもつ遊女は、稼業以上に相手の真情に応じることがある。意地が強い妓でも、一度、自分よりも上手の相手だと思うと、案外に弱く本当に惚れてしまう場合もある。遊郭の遊びが庶民的になると、こんな心意気を含んだ遊びが盛んになった」と書いている。私は、そんな花街の女たちの張りと意地の伝統が、いまでも芸者のあいだに伝わっていることを知っている。  
もとより花街は、しきたり・価値観すべてが外の普通の世界とは異なる。だから自由がもつ意味も、借金がもつ意味も、あるいは生活という意味そのものが同じではないに違いない。一生をそこで過ごした女たちには、当然のことながら、独特の性格が生まれる。そんな彼女たちがけっして忘れないのは、芸者が勤めだということ。  
そして、つねに見られているという点では芸能人に似ているが、事実、芸者というのは芸能人であるが、でも本質的には、モノやサーヴィスを相手に売る渡世人なのだ。仕事の内容からいって、レストランのウエイトレスや料亭の仲居さんと違っているわけではないが、ただ独立している。だからこそ、芸者は、芸能人とはまったく違った意味で、芸に命を賭ける。それは直接観客の喝采を受けるためのものでも、登録済みの商品のように広告されるものでもない。彼女たちの芸はお座敷の余興に客に見せるためのものであるが、実は、自分のためのものである。アマチュアとは違うけれども、登録され記録されることもないし、アーティストとして認められることもない。それはいつも日陰にある芸である。そうはいっても、芸に生きる彼女たちが大舞台で踊ることを夢見ていることに変わりはないし、自己顕示欲だって人一倍ある。またそれだけの力を備えている者も少なくない。でも芸者たちが舞台で踊るチャンスは、アマチュアと変らない、流派のお浚い会か特別なイヴェントに限られる。一般の人びとにとってお座敷姿の芸者を見る機会はほとんどないが、それは、密やかなことが彼女たちの仕事の一部だから。いい芸者ほど控えめで、表立たないことを心掛けるものだ。だから、芸者から背伸びしてアーティストになることを願った竹原はんは、いったいに彼女たちのあいだで評判が悪いのである。  
芸者は、歴史的には、遊女の系譜に属するのである。明治になって、きまり・掟といった支配の構図はまったく消滅したが、その代わり、遊里のシステムは文化と伝統の形で伝わった。これは、ジェンダーの見方からするとかなりやっかいな問題であって、性差別と抑圧の構図がそのまま残ったといっても、法律や権力の支配といったシステム化から逃れた生活世界のなかの女の自立の一つの例としてなら、棄てるにはまだ惜しい。戦後の芸者はとくに、組織のなかの渡世としてよりも、個人営業主としての性格が強い。モノを売るかわりに、サーヴィスを売り、色を売る。でも人の目・慣習・しきたり・シマの掟のおかげで、芸者は売笑婦に身を落とすことからは守られている。例外はいくらあっても、その点では、遊女とのあいだに立てられた区別は、そのまま残っている。むしろ個人営業化したいまの芸者は、風変わりではあるけれども、自立した女の見本でさえある。ジェンダー的偏見と性を商品化した世界の最前線に生きてきた芸者たちは、あからさまな性差別と侮蔑にはとても敏感だ。  
無神経にそんなことをする男は、無神経だからそんなことにも気がつかないだろうが、彼女たちの手ひどい蔑視に晒されることを覚悟しておいた方がよい。  
吉原のことを知るのに格好なものとして『吉原細見』という一種の手引きというか案内書があって、寛永一九年(一六四二年)にはじめて出版されてから、折にふれて吉原のことどもを記し、幕末にいたるまで出版が続いていたという。私たちが当時の揚代を知ることができるのもそのおかげである。その他にも『色道大鏡』『守貞漫稿』など、吉原について書いた本はいくつもあり、そのほかに、洒落本などに多くの遊女評判記がある。長い吉原の歴史のなかには、名のある遊女がたくさんいたわけだが、いい遊女の条件というのはいつもきまっている。みんなそれぞれ器量よしであるのはいうまでもないが、芸道に通じ、行儀作法にも非の打ちどころがなかったことにもまして重要なのが、気立てがいいということである。客や主人に逆らうなんてことはけっしてない。まことがあって情が深い、おまけに愛嬌があって、芸者や若いものにまでつねに気配りが行き届いている。吉原ではないが、京都島原の二代目吉野太夫は京の豪商灰屋紹由の子紹益に身請けされたが、それを紹由が許さず勘当にした。二人で陋屋に暮らしていたとき、たまたま雨宿りをした家の妻女の心のこもった扱いに感動した紹由が、それが吉野太夫だったと知って息子の勘当を許したという。二代目吉野太夫にはほかにも紺屋高尾と同工の話があり、彼女こそ、いわば遊女というものの美徳の理想だった。正保年間に、吉原の佐香穂という遊女がとつぜん奉行所に駆け込んで出家を願い出た。聞けば、死んだ愛人に操を立てたいと出家を決意したという。奉行所の口添えもあり、楼主の情けある計らいをもって、年季をいくらか残したまま出家を遂げたという。でも、考えてみれば、それがみんな二十六かそこいらのうら若い女なのだ。さんざん泥水を飲んで苦労した女たちだといっても、その年で、すでに立派な性格が完成されていたとは信じ難い。そんな美徳をぜんぶ備えた照菊という遊女が吉原にいたが、若いのに大酒飲みで、享保十一年、酒のために二十五の歳で命を落としたという。やっぱりどこか異常である。前にもいったが、吉原についての本は噂話ばかりで、実用手引きのほかには、確かなことはあんまり書いてない。いずれもちょっとした伝聞に基づいた作り話に違いないのである。私たちは、遊里の噂話はいい加減だからこそいいと知っている。確かなことが分ったって興ざめなだけ。男性優位の世界では、お話ははなからみんな男に都合のいいようにできているのだ。  
気立てのいい気配りの利いた芸者がいい芸者であるという鉄則は、いまでも生きている。ただし、それはふつうの素人の女たちが気立てがいいとか、優しいとかいうのとはちょっと違った意味においてである。いわば、それは信用のある商標というべきものだ。もとより評判だけ良ければ、本性はどうあれ、それでよいのだが、とかく色目で見られがちな芸者渡世のむつかしさは、付け焼刃の評判などすぐに剥がれてしまうところにある。女が男にかしずくことを生業とする、いわば性差別が構造化している世界で、それを逆用する知恵を身につけ、男に弱みをけっして見せずに世を渡ってきた彼女たちの人に好かれる性格は、天性にさらに人工的に磨きをかけて作り上げてきたものである。女性学の研究者から見れば、そんな「女らしさ」の美徳は、すべて男の都合で勝手につくられた「可愛い女」というものだというに違いない。その通りだと私も思う。それはそうだとしても、自前芸者たちが苦労して築き上げてきたそれぞれの自我を軽蔑していいということにはならない。その証拠に、自立した芸者たちは、アメリカの研究者が報告している祇園の芸妓のように、世の奥さんたちに引け目を感じたり、敵意をもったりはしないのである。 
(六)  
ジェンダーについて女が語るとそれが「女性学」になり、男が語ると「男性学」になる。こんないい加減な定義に満足する人などいそうもないが、それでも私はこの定義がけっこう気に入っている。  
叱られるのを覚悟でもう一ついってしまえば、従軍慰安婦の問題を告発するのが女性学で、男性学は売笑婦の歴史を調べる。従軍慰安婦は強制的な「性ドレイ」と定義できる面が強いから女性学はそこを厳しく問うけれども、売笑婦は無理やり身売りさせられた醜業婦でも、ともかく契約があり年季明けがある以上「性のドレイ」とまではいえない。カネで身を売る醜業の実態は、言ってはならぬ男と女の情愛まで含めれば、男性学の方がアプローチしやすいだろう。  
一九九〇年代に生まれた男性学は、それより二十年以上も早く出発した女性学の影響を受けている。というよりも、直接女性学から派生した学だといってよいようである。両者は相互に合い補うといっても、ともにフェミニズムが主題なのだから、その意味からいっても、男性学はむしろ女性学の侍女であろう。フェミニズムはアメリカで生まれた。誕生したばかりのフェミニズムを私たちは「ラディカル・フェミニズム」(急進的フェミニズム)と呼び習わす。なにしろ、それは「権威と常識に幾重にも守られた領域への素手の殴り込み」(江原由美子・金井淑子編『フェミニズム』一九九七年)だったのだから。「女らしさ」とは男が支配の道具として女に強制的に押し付けた一方的な価値観であって、そんな価値観をひっくり返して女の権利を勝ち取る闘いがフェミニズムというものであった。端的にいって、女は人間として二流であると見なされている事態をぜったいに認めないという主張である。そんな彼女たちのスローガンは「個人的なことは政治的である」ということ。このスローガンによって、個人的なこと、つまり女たちにとっての父親や夫を「政治的なもの」と捉える立場を宣言したのだった。家庭のなかの父親や夫のあり方はじつはつくられた、彼らに都合のいい制度にすぎず、変えなくてはならないものだし、望ましい形を求めてみんなで話し合い、必要とあらば、闘い取ると。  
だが時の経過とともに、当然のことながら、フェミニズムは進化し広がりをみせてきた。フェミニズムはもう一種類だけではなく、いまでは男女を問わず研究者も増え、その理念は、社会科学共通の学問的基盤・方法として無視できないまでになっているだろう。女性学が問いかけるフェミニズムが、基本的に、妥協を許さず、戦闘的であるのにたいし、男性学が問いかけるのは、同じフェミニズムでも、男女の対立より相方の橋渡しを目指し、説明のやり方が変われば、もつれた関係が解きほぐされるかもしれないと期待する。それは、男の得意分野であるリベラリズムとか民主主義といった西欧発の近代的政治路線に沿っているのである。  
実は、定義そのものはなんでも構わない。女性学と男性学は、寒さを防ぐために纏った服が、男と女ではデザインや柄の好みが違うようなものだと思っている。衣装といえば、それはまず女の世界の話であって、それだけに、女の衣装はことさら目立つように、見る人(男でも女でも)を惹きつけるようにできていて、それが、象徴的に、女性の役割を表している。このことは、遊女や芸者の衣装を見ればわかる。あれは男女別役割のなかの女の役割を特別にアッピールするためのものだ。その対極にあるのが軍人と警察官である。  
女兵士・女警官と男兵士・男警官がいて、それぞれ身体に合わせて仕立てた服を着ているが、ともにおんなじ色、おんなじデザインの制服で、ことさらに男女の区別をしていない。彼らはともに国民のなかから選抜された近代国民国家が独占する合法的な暴力装置に所属する者たちで、その場合、近代国家はけっして国民を男女で差別しないのである。でもそれが建前にすぎないことは誰にも分かっていて、本当のところは、国家というものはけっしてジェンダー・フリーではなく、そもそも国民をすべて「男性」としてしか把握していないのである(上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』)。看護婦さんはその中間のところにいる。職業の上にも国家のジェンダー化まがいが浸透してきて、看護婦さんを看護師と呼び、いまでは同じ制服を着た男看護師と女看護師がいるわけである。職業を中性化してしまうのは、ジェンダー・フリーにするよりは、むしろ男性化することになりかねないと思うのだが。  
ここで、何気なく使った、ジェンダー・フリーということを説明しなくてはならない。「ジェンダー・フリー」とは、ジェンダーの拘束から自由になることを意味する。私がこの言葉(あるいは概念というべきか)を知ったのは、伊藤公男『男性学入門』(一九九六年)であった。いま私はこの語を何気なく使ったといったけれど、それは著者の伊藤もおそらく確信しているように、二十一世紀のいまでは、ごくまともで常識的な考え方になっている。ところが、最近(二〇〇六年二月)私はこの問題が政治的にホットな争点になっているのを知ってびっくりした。それは、「社会的・文化的につくられた性差の解消を意味する言葉」として、「男らしさ」と「女らしさ」をすべて否定する危険思想だからと、東京都教育委員会が「ジェンダー・フリー」の語を使用しないことに決めているというものであった。  
いま保守主義者たちは、「男らしさ」がこの世から無くなってしまうという危機感から、社会から「ジェンダー」にかかわることを、いっさいの妥協なしに排除しようと決意している。それがこの馬鹿げた通達となったのだが、いくらわからずやの都の役人だって、男女平等という看板を降ろすことなく、ジェンダー抜きで語ろうとするのは無謀である。それは現代の諸問題を論じる哲学者や文芸評論家にむかって、「パラダイム」という言葉を使うなというに等しい乱暴な要求だ。ジェンダーとは前にもいったように、文化的・社会的な性差のことで、伝統的な性差の実態が時代に合わなくなり、拘束・束縛となって社会を蝕んでいる事態を検証しようというのが「ジェンダー」が使われる本来の意義であったはずだ。いうまでもなく、そこには歴史はつねに時代と環境につれて解釈し直される実体だという前提がある。そのことを、私たちは二十世紀の社会学が開いた新しいパラダイムから学んだはずだった。現代を「福祉」抜きで語れないように、「ジェンダー」も無視できない。ジェンダー・フリーは、男女の差別を解消しようとする動機に関するかぎりでは、たしかに問題があるかもしれない。女性学の立場からいえば、それは女性の告発を骨抜きにし、放っておかれた女性の権利をうやむやにしかねないし、一方でまた、私たちの生活世界から見れば、文化的・社会的に作り出されてきたすべての「女らしさ」「男らしさ」をやみくもに無くしてしまうのが、社会の住み心地をよくするとはいえそうにないからである。しかし、私が理解する「ジェンダー・フリー」はそういうものではない。それはむしろ男性学の視点から意識されるもので、保守主義者たちは同意しないだろうが、時代あるいはパラダイムから取り残されて、生活の拘束または足かせになっている社会通念を、お互いに脱ぎ捨てようという判断なのである。きつくなった服を脱ぎ捨てて、楽になろうというと、保守主義者たちはすぐにそれでは秩序が破壊されると文句をいうけれど、世情が変化すれば、かならず秩序の中身も変る。女が男社会のなかで苦労しているのなら、男もまた「男らしさ」の重荷に喘いでいる。そこのところをあざやかに指摘してみせたのが伊藤の『男性学入門』であった。  
ぜひ世の男性諸氏に一読をお勧めしたい。つまりジェンダー・フリーは「男らしさ」と「女らしさ」にこだわることなく、その対立をほどほどに緩和して、役割分担を見直そうという知恵であり戦略なのだ。  
そのことを、ジェンダーの本場であるアメリカの実情に探ってみたい。探るといっても、一冊の本を紹介するだけだが。それはエリス・コーズという黒人ジャーナリストがフェミニズムの攻撃に晒される男たちの戸惑いを書いた『マンズ・ワールド』(一九九五年、日本版、近藤和子訳、一九九八年)である。一九九〇年代のアメリカには、「かよわくバランスを崩し混乱する男たち」がすでにたくさんいたらしい。著者は、そんな男たちが居場所を再確認するのを助けてほしいと訴える。彼は数多くのインターヴューを通じて、アメリカ社会では、犠牲者はむしろ女ではなく男だということをはっきりさせる。女よりも男の方が危険な仕事につくから、三倍も多く殺され、四倍多く自殺する。男が稼いだ金を使うのは女で、男は犠牲にされ、操られ、支配され、虐待される(男が女を殴るよりも、女が男を殴る方がずっと多い)。男はみんな虐待者だ、レイピストだと非難される。とくに、一九七〇年代、この国でアファーマティヴ・アクション(少数集団優遇措置)が発動されて以来、女と黒人やヒスパニックのマイノリティ(少数者集団)が社会で有利になった結果、白人の男は就職や昇進で差別され、影響力をどんどん失っている。  
以上の証言の値打ちは、著者が黒人であることで大いに高められる。自身でいうように、「黒人男性には世界と仲良くやるなんて贅沢は絶対にないし、ここアメリカが彼らの世界ではないことを肝に銘じている」のだから。黒人であるコーズは、公平さを装って、白人男性の泣き言と抗議を代弁する。それほどまでに言われても、一家の大黒柱、良い働き手であるという意味の男らしさはぜったいに必要だし、女だって実はそう思っている。つまり、言いたのはこういうことである。男が悪いわけではない。フェミニズムの陰謀で、社会が男によく理解できないほど複雑なメッセージを送っている。矛盾したメッセージを送られた男は混乱しているだけだと。保守派としては比較的ジェンダーに理解がある著者は、必ずしも時代に逆行して喧嘩腰でいることを奨励しているわけではない。むしろ両性のどちらも権力を持っているのではなく、双方が認めるべきは、それぞれの役割なのだという。お互い居心地が悪いのなら、ジェンダーについて、はっきりしたやり方で話し合って和解する方がよいと勧めているのである。  
アメリカの男性学で、男らしさの回復・男の復権がいま流行だからといっても、現に、フェミニズムが下火になっているわけではない。逆である。その証拠に、丸善の洋書部を覗くと、社会学の棚にこれでもか、これでもかとばかりにジェンダーとセクシュアリティについて書いた本が並んでいる。いまフェミニズムはどんどん新しい理論武装を行って、社会学の一角に確固たる地位を占めた。「ジェンダーを抜きにしては、もはや何事も語れない」(上野)のである。  
それだけに、アメリカをはじめわが国でも、いまやフェミニズムに反対する保守主義者たちからの攻撃は執拗で、その上、手負いの猪のように、相手かまわず突っかかる。その一つとして林道義『フェミニズムの害毒』(一九九九年)を紹介する。林は自ら「真の男女平等主義者」・「フェミニスト」をもって任じるらしい。だが彼が考えるフェミニストは「女に理解がある優しい男性」のことで、女性であることを忘れて、男とまったく同じ仕事と権利を要求する戦闘的な運動の担い手ではない。それは悪いフェミニにズムで、したがってその害毒を糾弾し排除しなければならない。「フェミニスト」でありながら、林はまったく男性学の対極にいるから、みずからかよわい苛められる男をイメージすることはないし、むしろ女を理解し、優しく手を差し伸べる男らしさの権化だと自分では思っている。アメリカとはだいぶ様子が違うのである。林が言いたのは、母性と専業主婦が女の本質だということ。母性本能を備えた女は、家事と育児をやるように生まれついているのだから、根っからの男女平等主義者で、対等の麗しい夫婦愛のうえに健全な家庭を築き、素晴らしい子供を育てたと自画自賛する著者のなかでは、社会の矛盾というものは、すべて世のフェミニストという女性性を喪失した「おとこ女」の常軌を逸した振舞いから生じたものとしか思えない。そうしてそれは戦後教育の失敗という保守主義者たちの大合唱とぴったり響きあう。林によれば、「おとこ女」たちは一種の病理現象で、「働け・イデオロギー」という誤った男性同一化願望のおかげで一時的に母性本能が消滅してしまった状態をいう。母性は社会的に作られたものではないということを証明するために、彼はいろいろと生物学的かつ心理学的な説明を用意する。でも一方では、母性は学習されるもの(社会的に作られる)という説も同じくらいにある。林自身も母性は学んで得るものと部分的には認めていて、だからこそ、いったん失った母性の回復を期待することができる。つまり彼は、男女の役割を強調するうえで、社会的な性差をいうジェンダーはある程度認めても、フェミニズムだけは絶対に認めたくないのである。  
いずれにせよ、昔のままの「男らしさ」と「女らしさ」を回復・保存しておこうという保守主義者としての林の願いだけはっきりと出ている。残念ながら、その願いは空しいだろう。『家族の復権』『主婦の復権』『母性の復権』という同類の著述の題名を見るだけで、林が何に苛立ち、何に憎悪を募らせているかが分かる。 
(七)  
女はそれをつねにストレートに語るが、男がセクシュアリティ(性というもの)を語るときは、いくら率直に話したつもりでも、どこかに屈折したものが残る。それは、たぶん男がポルノグラフィや売春を語るさいにいちばんはっきりと出る。遊女の手練手管を詳述する中野栄三『遊女の知恵』は、それで女の性を貶めているわけではないし、男性優位を誇示しているわけでもなく、ただ事実はこうだったといっているのである。でもそれだけですまないのは、せっかく「ジェンダー」というものの見方が開発されているのに、それを無視しているからだ。いま売笑について何事かをいうときに、ジェンダー(文化的・社会的性差)の視点に触れないのは片手落ちだといわれてもしかたがないし、だいいち、それでは売笑の歴史社会学にならない。  
遊郭あるいは遊女の評判期・解説書のたぐいは、あくまでも遊客の手引きであって、売春ビジネスのノー・ハウではないが、それにしても、手引書の関心が、惚れられるか振られるか、男と女の恋の駆け引きにばかり集中していては、逆説めいて聞こえるかもしれないが、遊郭の真相を知るにはあまり役立たない。  
まだ修行中の二九歳の親鸞の夢に観音菩薩が出てきて、女が欲しくなったら、わたしが美女の姿になって相手をしてやろうといったという。このエピソードを聞いた男は、その観音さまを遊女の姿に重ね合わせたくなるに違いない。遊女というものにたいする男たちの憧れをそれがそっくり語っているし、しかも、それで少しは遊女を買うやましさが癒される気がするだろうから。どんなに安っぽい女だって、彼女を買う男たちは、そこにセックスのはけ口だけを求めているわけではなかろう。ほんのちょっぴりではあっても、心を満たすものを探している。彼らだって、か弱い性(女)を征服するだけでなく、なにか強い力に抱き包まれたいのだ。観音さまにかぎらず菩薩はみんな男で、衆生救済のときだけ、美女に化身して出てくると経典に書いてある。本来男の観音菩薩なら、きっと慈母のように、どんな男だって分け隔てなく優しく扱ってくれるだろう。キリスト教の聖母マリアにも同じような慈母的救済作用があるが、その聖母が処女懐胎だったところに男性性的な性格が現れているのではないか。そこに性差別を嗅ぎつけるフェミニストたちは、売春を男の立場から正当化しかねない宗教の機能を見る気がしたのだった。  
仏教では、女は元来罪深く淫乱な者で、そのままでは成仏できないとされる。成仏するためには、その前にまず女から男に変身しなければならない(田上太秀『仏教と性差別』一九九二年)。いろいろな経典があって、ときに言い分が相互で食い違ってしまうのだけれど、だれでもみんな如来(仏)を胎内にもっていて、だれでも必ず成仏できるという口の下から、いくら努力し修行しても浄土に生まれ変わることができない者がいたり、本当のところと方便とを区別したりと、中身を聞けば聞くほど、成仏するのは難しい。  
まして、ジェンダーの立場からいえば、仏教にかぎらず、神の前では男優先の性差別の思想がどの宗教にも沁み込んでいて、女はいつも二流の存在とされてしまうのだった(『フェミニズム』前掲書)。  
ただ遊里には遊里としての建前がある。それを文化といっても伝統といってもかまわないが、そこでは、男と女とはどこまでいっても違った生き物で、嘘かまことか、好きか嫌いか、という関係でしか付き合えないと相場が決まっていたのだった。上は江戸城の大奥から、町中の岡場所まで、日常生活のなかに簡単に再現できる吉原遊郭は、いってみれば、サイードの「オリエント」に似ている。  
パレスティナ人エドワード・サイードが一九七八年に発表した『オリエンタリズム』(日本版、今沢紀子訳、一九八六年)は、文化のあいだに生じる差別を論じて世界に衝撃を与えた著作である。この本で著者が光を当てたのは、階級の差ではなく、価値観の違いから来る差別意識だった。彼はいう。「オリエンタリズムとは、我々の世界と異なっていることが一目瞭然であるような世界を理解し、操縦するための意思である」と。それはオリエントを支配し再構成し威圧するための西洋のスタイルだといってはばからないサイードは、オリエンタリズムを「東洋と西洋とされるものとのあいだに設けられた認識論的区別に基づいた思考様式である」と定義する。言い換えれば、オリエンタリズム(オリエント学)は基本的に植民地を「支配し、操縦し、統合する」ための技術であり思想である。十九世紀末エジプトのイギリス総領事だったクローマーという男は、オリエンタルないしアラブは、いやらしい追従と陰謀と悪知恵に凝り固まった従属的種族なのだから、オリエント(ないしアジア)に属する一切のものが西洋の知恵によって矯正されるべきだといったということだが、それに共通する「根本的に生命力の不足したアジアを再生させるというロマンティックな考え方」はマルクスにもある。そして、そう考える点では、マックス・ウェーバーもまた同類だった。  
だがその一方でオリエンタリズムが前提にしているのは、西洋とは違う、永遠に変ることのない東洋という固定観念である。西洋人から見て、矯正しようとしてもけっして矯正できない存在がオリエント(ないしアジア)で、だからこそ、西洋はどこまでもオリエントを便利に利用できるのだし、両者の差別的関係(支配する者と支配される者)が永久に続くわけなのだった。ナポレオンのエジプト遠征は、そんな不遜なヨーロッパ人が、オリエントを一つの劇場に見立てて演出した大芝居だったとサイードはいう。オリエントをヨーロッパの流儀で研究し、ヨーロッパ好みのオリエントをそこに作り出そうと、ナポレオンは彼の遠征に多数のオリエント学者を引きつれていった。その後、一八八二年に今度は、イギリスがエジプトを占領する。彼らのそんな熱心さから伺われるように、オリエンタリズムと「オリエント幻想」はいまでも、フランスとイギリスでとりわけ広く行き渡っているのだった。  
けっして変らないオリエントはまた、「生まれつき性道徳を欠いた世界」でもあった。小説家フロベールは「彼の小説のすべてを通してオリエントを性的幻想による現実逃避」に結びつけたが、それは、いってみれば、そのままポルノの世界である。フロベールが描くオリエントの女はいつも神秘的で、魅惑的で、淫乱で、セックスではけっして男を失望させない。あたかも洒落本が描く吉原と各岡場所の遊女のように。いまでは「オリエント式性関係は探検しつくされ、統制され画一化されたものになり、安くて便利な商品のように、わざわざオリエントまで出掛けなくても」手に入る。それがポルノグラフィであり、どんな町にもある売春宿であった。  
オリエンタリズムが十八世紀に出来上がったように、ポルノグラフィも近代の産物だったのだから、西欧渡来の近代化が起こったところではどこでも、エキゾティシズムとポルノグラフィがついて回った。西洋人の目から見ればエキゾチックの見本みたいなわが日本でも、アラブ風のエロティシズムが受けた理由はそこにあった。「性道徳の欠けたオリエント(アラブ)」こそ、なににもまして十九世紀ヨーロッパ人御用達のイメージだったのだから。フランス人のオリエント幻想がいわば一つの流行だったことと、フランスでの北斎と浮世絵のジャポニスムの流行とはおそらく関係がある。それは彼らにエジプトやアフリカよりももっと新奇な「オリエント幻想」をもたらしたに違いなかった。  
吉原遊郭は、サイード風にいえば、この国のなかの「オリエント」だった。サイードの「オリエンタリズム」言説とほぼ同じ機能を、吉原遊郭言説が担ったと思う。とても本当とは思えない色とりどりの噂話が語るのは、ここばかりは、いつも変らない「性的幻想による現実逃避」の世界だということである。そう思ってみれば、運命には逆らわないかぎりで、セレブな人生を送った高尾太夫や吉野太夫は、ある意味で、エジプト女王クレオパトラみたいなものだったろう。植民地を支配するように、お上は吉原を支配し、操縦し、すべての売笑婦たちを統合していた。遊郭では、真相はことごとく隠蔽・駆逐されて、男と女の関係だけを微に入り細にわたって語ることだけが許される。しかも苦界に身を沈めた女たちの悲哀をたっぷりと聞かせたあと、一転して陰画が陽画に変るように、遊女たちが菩薩になり、身を削って衆生を救済する男性の本性を現すのだ。遊女たちがオルガスムに到達することはけっしてないが、遊客たちには起請文を書き、どこで調達するのか、心変わりをしない証として、生爪を剥がして送り、さらには切り落とした指を送りさえする。  
前述したように、吉原遊郭の全盛は十八世紀とともに終わる。文化・文政期はその最後の輝きだった。それと同時に、それが持っていた政治的な意味も消えてしまった。だとすれば、現代日本社会のよく意味も分からないもろもろのしきたりや伝統文化のなかに政治的でないものを探せば、それがそっくり化政文化の名残である。遊郭はなくなってしまったが、まだ他にもたくさん残っている。お稽古事と家元制度、歌舞伎をはじめいろいろな芸能・芸術それにアーティストのあり方、花街とその風習、西洋知識の受売りまでその他いろいろ。なによりも日常生活のなかに残る迷信や習慣の数々、土用の鰻から小言の文句まで。でもそういうものが、現に、日常生活世界が合理主義一点張りの政治権力が押し付ける規則や、利潤万能主義の大企業の身勝手な振舞いで窒息させられてしまうことからかろうじて私たちを守ってくれているのだから、あだやおろそかにはできないのである。化政文化は、いってみれば、歳を喰った遊女のようなシロモノだったかもしれないが、日本社会の長い歴史を背負っていたからには、かんたんにくたばったりはしない。くさって栄養豊富な土壌のなかから新しい芽が葺くように、幕末から明治にかけて、もとより政治的変動と連動しているのであるが、私たち現代人の知的好奇心に緊張と初々しさが甦ったのは、まさにその滋養たっぷりな土壌からだった。  
エッセイの締めくくりに、それを、こじつけがすぎるといわれるかもしれないが、葛飾北斎の仕事に見てみたい。北斎が画狂老人卍と号したのは天保六年(一八三五年)のことで、そのとき彼は七十五歳だった。彼の画業の集大成ともいうべき「富岳百景」を出し始めたのもこの年である。若い頃はあんまり旅行をしなかった彼が、八十五歳、八十六歳と立て続けに、信州小布施へ出掛ける。それから四年あとに死ぬとはとても思えない元気さなのだ。その精力は何よりも作品によって示されるだろう。肉筆画帖全十図を描いたのが天保七年(一八三六年)七十七歳のとき、いま宮内庁にある「西瓜図」を描いたのが天保十年(一八三九年)八十歳、紙本着色画帖(絵手本)十五図が天保十四年(一八四三年)八十四歳である。これらの作品の確かな筆さばき、その表現の瑞々しさは、説明書で確かめたあとも、とても本当とは思えない。例えば、冒頭に記した北斎展に出品されていた肉筆画帖である。私はこの画帖各図の表現に見る端正な味をはなはだ愛好する。たんなる写実というよりも、まるで偏執的に正確さを追求するイラストレーターが描いたような機械的な輪郭と透視の技法、細かいことへのこだわり。それをいちばんよく示すのが「鮭と鼠」で、この絵を見るたびに、私は高橋由一(一八二八〜一八九四年)の「鮭」を思い出す。しかも、その目玉を見ただけでも、北斎の方が由一よりはずっとモダンな印象を与える。  
たぶん日本で最初の洋画家といっていい由一は、油彩を実物以上に本物らしく見せる技と見極めていて、そのいちばん格好な題材が塩鮭だった。高橋が生まれたのが文政一一年、北斎六十九歳のときである。画狂老人卍と署名した北斎の鮭が描かれたとき由一はまだ子どもだったが、本当らしく見せるのに適する題材へのこだわりは二人に共通している。由一は吉原の花魁を描いた最後の画家でもあった。像を描いた相手は、吉原稲本楼の四代目小稲。遊女独特の兵庫髷の形をあとに残すために、小稲自身が志願してモデルになったという。ありのままに見せるのを身上とした由一の油彩を、いま残っている明治時代の花魁たちの写真と並べると、印象がとてもよく似ている。写真に撮られるには、今と違って長時間姿勢を崩さずいなければならなかったせいか、いったいに表情に乏しいところまでそっくりだ。そのせいか、浮世絵師北斎の「夜鷹図」と比べてさえ、色っぽさがまるで足りない。  
北斎は植物と動物を、とくに晩年になってから、よく描いた。それらの出来栄えは、他の日本の画家のだれにも劣らない。四つ足はダメだけれども、ひらめやあんこうなど、ぬめぬめした魚や貝、小さな昆虫、野菜、草花など、観察して描いたものがすばらしい。でもそれをただ北斎の天才と片付けてしまうには、ちょっといい足りないところがある。北斎にはたしかに、時代の鼓動というか、前触れを感得する力が備わっていたような気がするから。晩年彼が美人画を描かなくなったのは、老人になって顧客に気を使う必要も興味もなくなったせいとばかりはいえないだろう。浮世絵は時代に取り残された。吉原の華が消えていってしまったように、明治の代を経て、いまにいたるまで私たちの日常生活に伝わっている化政文化の遺産の大部分は残骸にすぎない。残骸でなければ、桎梏となって残っている。桎梏として残らないために、それらは、なにがしか目配りをし、ほどよく修正して、自ら生まれ変わった。北斎の絵がいまでも人びとに愛され、かつつねにその価値が見直されるのはそのためである。  
吉原遊郭が拵えものであったように、私たちが確かだと信じているものも、ものの見方が変われば、芝居の書割のように見てくれだけのものなのかもしれない。そこに働いていた原理はただ一つ、売られた者と買った者・支配される者と支配する者の関係であって、もともと色と欲という男と女の関係などなかったのに、そう見せるのが遊郭というものの手柄だったのである。  
 
謡曲「隅田川」

 

隅田川の死のイメージ  
明治の詩人たちは昔の江戸を懐かしんで、隅田川の流れをセーヌの流れに見立てたりしたものでした。しかし、関東大震災のルポルタージュのために上京した作家・夢野久作が、隅田川についてこんなことを書いています。(夢野久作は「浄瑠璃素人講釈」の著者・杉山其日庵(茂丸)の息子であります。)  
『隅田川は昔から身投げが絶えぬ。都会生活に揉まれて、一種の神経衰弱に陥った人間が、かの広い、寂しい、淀みなく流るる水を見ると、吸い込まれるような気持ちになるのは無理もないであろう。しかし、江戸の人口に差し支えるほど身投げがあったら大変で、隅田川が江戸を呪っていると云うのはそんなわけではない。もっと深刻な意味があるのである。隅田川は昔から水っ子の始まった処であった。水っ子と云っても、その中には堕胎した児、生まれてから殺した子、または捨て子(これも結局はおなじことであるが)が含まれている。しかもその数は統計にも何にも取られたものでないが、江戸っ子の人口減少の一端を引き受けたと認めているのだから恐ろしい。隅田川はこんな残忍な冷たい流れなのである。』(夢野久作:「街頭から見た新東京の裏面」)  
隅田川は身投げが多かったというのは、これはどうも本当のことらしいです。そういえば黙阿弥の「三人吉三」に土左衛門伝吉という人物が登場します。伝吉は和尚吉三の父親ですが昔は盗賊で、 その後改心して隅田川に浮いた水死者を引き上げては埋葬することをするようになって、それで誰とはなく彼を「土左衛門伝吉」と呼ぶようになったということになっています。(別稿「生は暗く死も暗い」をご参照ください。)このような設定があるくらいですから、隅田川への身投げは確かに江戸の昔も多かったようです。  
しかし、これは大都会生活によくある「心の病」のせいというだけではなさそうです。隅田川の流れには、心を病んだ人たちを吸い寄せるような魔力があるのかも知れません。実は江戸の世にあっては、隅田川の向こう岸(東岸)は他界(あの世)として意識されていたのです。他界として意識されていたからこそ、そこに回向院が建てられたわけです。「隅田川」の流れに、江戸の人々はそこに「生と死の境」を感じたのかも知れません。
梅若が死んだのは西岸か東岸か  
東国の辺境の地というべき隅田川の名が京都の人々に知れるようになったのは、「伊勢物語」での在原業平の東下りによってでした。「名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」という歌はあまりにも有名です。言問橋とか業平とかいう橋名や地名が残っています。  
そして、もうひとつ、隅田川の名を人々に忘れられないものにしているのは、古くから言い伝えられている「梅若伝説」です。 四十三代円融天皇の御代(970−980)のことですが、比叡山の月林寺に梅若丸という稚児がありまして、大変に学業に優れて評判の稚児であったそうです。梅若丸は京都の吉田の少将惟房(これふさ)とその妻斑女(はんじょ)の前との間の子ですが、梅若が5歳の時に父親が亡くなり、7歳の時に月林寺に入ったのです。  
ところが同じ比叡山の東門院に松若丸という稚児がいて、これも梅若丸と学才を競うほどの秀才でしたが、それぞれを応援する寺の僧侶たちが争いをする事態に発展してしまったのです。12歳になった梅若はこれに悩んで、こっそりと寺を抜け出してしまいます。 しかし、道に迷って京都に行くつもりが間違って大津の方へ出てしまったのです。そこで梅若は陸奥の人買い商人信夫藤太(しのぶのとうだ)にかどわかされて、同じように集められた数人の少年たちとともに東国に連れて行かれるのです。  
しかし、体の弱い梅若は長旅の疲れも重なって病気になってしまって、武蔵国の隅田川の渡しに差し掛かった時にはもはや歩けないほどの重態になっていました。信夫藤太は面倒臭く思って足出まといになる梅若をその場に打ち捨てて、他の少年たちを連れて川を渡ってしまいます。土地の人たちは梅若を哀れに思っていろいろ手を尽くしましたが、看病むなしく梅若はまもなく息を引き取ってしまいます。「たずねきて問はば答えよ都鳥すみだ川原の露と消えぬと」というのが辞世の歌だと言われています。梅若の遺骸は土地の人たちによって手厚く葬られ、そこに塚が作られました。それが梅若塚です。  
梅若丸の死んだのは貞元元年(976)3月15日のことと言われていて、毎年3月15日は「梅若忌」とされて江戸時代には大念仏が行なわれました。この日はよく雨が降ったそうで、その雨は「梅若の涙雨」だと言われたものです。「雉子鳴かかの梅若の涙雨」は小林一茶の句です。  
ところで、その一年後に梅若の母・斑女の前が我が子を求めて隅田川にまでたどり着き、そこで我が子の死を知ります。斑女の前はこの地で剃髪して妙亀尼と名乗り、梅若塚の傍に庵を建ててそこで念仏の日々を三年ほど送るのですが、ある日のこと、近くの鏡が池の水に映る我が子の姿を見て、そのまま池に飛び込んで死んでしまったのです。(別の説では自らの変わり果てた姿に絶望したからだとも言います。)そこで土地の人たちはそれを哀れんで、この薄幸の母親の菩提を弔うために塚を作りました。これが妙亀塚です。  
以上は「江戸名所図会」などに出てくる梅若丸にまつわる言い伝えです。ここでまず気が付くことは、観世十郎元雅作の謡曲「隅田川」では狂女の姿になって登場する斑女の前は渡しの舟に乗って隅田川東岸に着いてそこで梅若丸の死を知るという筋になっていることです。つまり、梅若塚(梅若の死んだ場所)が東岸にあることになっています。もちろん言うまでもなく、現在知られている梅若塚は隅田川東岸にあるのです。(梅若塚のある木母寺は昭和43年に隅田区堤通りに移転していますが、もとの梅若塚のあった場所には石碑が建っています。)  
それでは何が気に掛かるかと言うと、「江戸名所図会」では、『今はひとあしもひかれずとて角田川のほとりにひれふしたるを、なさけなくも商人はうちすてて奥にくだりける。梅若丸はいくほどなく むなしくなりにける。』とあって、梅若は重病で川を渡るどころではなくて、商人は無慈悲にも梅若を隅田川の西岸の橋場の辺り・昔の浅茅が原あたりに打ち捨てて、梅若はそこ(西岸)で死んだらしいと思われることです。確かに舟に乗るには舟賃が要るわけで すから、強欲な商人が瀕死の梅若丸を舟に乗せて対岸に渡すことはなさそうです。  
梅若が隅田川西岸で死んだらしいことは別のことからも推測できます。妙亀塚が西岸に現存していることです。(台東区妙亀塚公園、鏡が池は埋め立てられて現存していません。)梅若が東岸で死んだのならば斑女の前が庵を作るのに対岸にわざわざ住むわけはないし、妙亀塚も対岸に建てられることはなかったでしょう。妙亀塚は息子の塚の傍にあるのが自然ではないでしょうか。それならば、どうして梅若塚が隅田川西岸ではなくて東岸にあるのか・あるいは梅若塚はもともと西岸にあったのがある時期に何かの理由で東岸に移されたのではないかとも思われますが、よく分からないそうです。  
そういうわけで真相は不明なのですが、もしかしたら謡曲「隅田川」の影響か何かで・梅若塚は隅田川東岸にわざわざ移されたのではないか、という気がしなくもありません。確かに我が子の姿を求めて狂女の姿でさまよい歩く斑女の前がやっとの思いでたどり着いたの が東国の果てとも言うべき隅田川の渡しであった・そしてその川の向こうに我が子の墓があったという設定の方が劇的効果ははるかに高いようです。  
いや劇的効果というだけではありません。平安の世においては武蔵国・隅田川の渡しは京都の朝廷の政治の及ぶ東の果ての地であって、隅田川を渡ればそこは奥州への入り口であり・都人にとっては想像を絶する 辺境の地であったのです。そうした都人の隅田川のイメージは「この世の果て・生と死の境界」のイメージとも重なっています。隅田川の向こう・あの世の世界に我が子・梅若はいるのだということなのです。謡曲「隅田川」が生まれた室町時代においてもこういうイメージは大して変わっていないわけですから、梅若塚は「他界」である隅田川東岸になければならなかったのでしょう。  
別稿「かぶき者たちの心象風景」において、江戸幕府のかぶき者対策について考えました。江戸の町を俯瞰しますと 、江戸城の鬼門と浅草寺を結ぶ線の延長上に吉原(遊郭)・小塚原刑場・千住宿が連なっています。千住は奥州街道(日光街道)の基点であって、聖なる江戸と他界である東北(=蝦夷)との境界でありました。こういうイメージも決して江戸幕府だけが作ったものではなくて、平安時代から日本人の心のなかに植え付けられた隅田川の他界のイメージが基点にあるのだということが分かるでしょう。そうやって江戸幕府のかぶき者隔離の思想が江戸の住民の心の深層心理のなかに何の抵抗もなく・スンナリと入り込んでいくということなのです。  
そう考えると「隅田川は昔から身投げが絶えぬ」というのも、これは今でもそうなのかは知りませんけれど、隅田川の死のイメージがこれほどまでに人の心を呪縛するものなのかと考え込んでしまいます。「三人吉三」の大川端において、お嬢吉三が「月も朧に白魚の 篝もかすむ春の空・・・」という有名な長台詞の場面なども華やかなイメージがありますけれど、刀を持って隅田川の流れを見込んでのこの場面はもっと陰惨なイメージがあるのかも知れません。舞台の上のお嬢吉三は華やかであっても、隅田川の流れは人の心を吸い込んでしまいそうなほどに暗く深いのです。深夜の川端でお嬢吉三がおとせを川に突き落とす直前の会話が象徴的かも知れません。  
(おとせ)「ただ世の中に怖いのは人が怖うございます」(お嬢)「・・・ほんに人が怖いの」  
歌舞伎に登場する隅田川の流れは、現代の我々が想像するよりも深く暗く陰惨な流れなのかも知れません。
「梅若伝説」の示すもの  
ちょっと話がそれたかも知れません。舞踊「隅田川」の舞台を見ると陰惨な隅田川の死のイメージはあまり浮かんでこないのではないでしょうか。 吉之助にとっては「隅田川」と言えば 六代目歌右衛門であり・歌右衛門と言えば「隅田川」でもありましたが、歌右衛門の「隅田川」の舞台は陰惨ではなかったと思います。歌右衛門の「隅田川」の舞台は幻想的で、死のイメージよりは子を思う母・斑女の前の哀れさの方に目が行ってしまいます。斑女の前の哀しみは洗い上げられて幽玄のなかに昇華されています。歌右衛門の「隅田川」は海外でも何度も上演されて大好評を博しました。歌右衛門の「隅田川」は日本舞踊とか歌舞伎というジャンルをも超えてしまって、世界に通用する芸術作品になっていたと思います。  
しかし、作品として「隅田川」を読むうえではやはりこのような死のイメージを直視することは大事なことです。当時は飢饉が起こると子捨て・子売り・あるいは子をかどわかして売るなどの行為が日常茶飯事に行なわれていたので、子を失って悲嘆にくれて正気を失う母親の姿があちこちに見られたようです。これは西欧でも中世期においてはまったく同様でした。だから「隅田川」の主題は西欧人にもスンナリ理解されるのでしょう。イギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテンは謡曲「隅田川」の舞台からインスピレーションを得て歌劇「カーリュー・リバー」を作曲しています。  
「隅田川」が問いかけているのは、死の淵から照射された「生きることの意味」です。母親である斑女の前にとっては残酷なほど無慈悲なる生。まさに神も仏もないように思えます。しかしそれでも人間は生きねばならぬということです。  
別稿「文学のふるさと・演劇のふるさと」でも触れましたが、芸術作品においてはそういうものは昇華されてしまって生(なま)な形では提示はされないものです。「隅田川」においても母の哀しみは痛切に感じられますけれど、「無慈悲なる生」という印象は幽玄のなかで浄化されてしまっています。しかし、「梅若伝説」が人々の心をいつまでもとらえて放さないのは、我々の心の「ふるさと」がそこにあることを人々が感じ取るからに違いありません。
物狂いについて  
狂人を主人公にした「物狂物」は能楽の大きなジャンルです。「花伝書」の第二物学(ものまね)物狂いの項において世阿弥は、物狂いは能のなかでも最も面白さの限りを尽くしたもので、物狂いを習得した演者はあらゆる面を通じて幅の広い演技を身につけることが出来ると書いています。  
その昔は「気が狂う・狂気」ということを人々は「物が憑いた」とも言いました。狂気というのは、神仏とか生霊・死霊あるいは物の怪のようなこの世ならざるものが取り憑いて、その人の精神がその人のものでなくなってしまっておかしくなってしまったのだと当時の人々は考えたわけです。  
世阿弥は物狂いというのを二つの種類に分けて説明しています。ひとつは神仏・生霊・あるいは死霊などが取り憑いた物狂いで、これはその乗り移ったものの正体を把握して演技すれば役作りが出来ると言っています。能の始まりは物真似だと言われています。憑依したものの正体が、例えば憑いたのが狐であれば狐を・死霊ならばその生前の人物の、その真似をすればいいというわけですから、そこに役作りのヒントがあるということでしょう。これは比較的役作りが簡単な物狂いであると言えます。  
もうひとつは、親に別れたり・子供と別れたり・夫に捨てられたり・妻に死なれたりして狂乱する物狂いで、この役作りは容易ではない、こういう物狂いの場合は、相手のことを一途に思うという戯曲の主題を役作りの根本に置くべきであると世阿弥は言っています。  
世阿弥は上手な演者でも物狂いというだけでこれを区別せずにどれも同じようにただ狂乱だけを演じているから感動を与えることができないのだ、これは分けて考えなくてはいけないとも書いています。これを読みますと、物狂いは何物かが憑依することで起こるという考え方が当時は一般的であったのでしょう。能楽でももっぱらそういう解釈だけで物狂いを演じていたのであろうことが伺えます。  
ところが、世阿弥だけは何かが憑依するのではなくて、何らかの精神的ショック・あるいは 極度に思い詰めたことから自らの内面から精神が狂っていくこともあると考えていたわけです。これは演者としての世阿弥が人間のこころの内面を鋭く見詰めたところから発したものであったわけで、当時としてはきわめて斬新な・精神病理学的な考え方であったと 思います。  
さて、能の物狂物(狂女物)のなかでも、生き別れした子供を捜し求める母親の物狂いというのは、その最も代表的なものでありましょう。こうした作品が能に多いのは、当時は飢饉が起こると、子捨て・子売り・あるいは子をかどわかして売るなどの行為が日常茶飯事に行なわれていた ので、子を失って悲嘆にくれて正気を失う母親があちこちに見られたということが背景にあるのであろうとも言われています。あるいは、こうした狂った母親の姿を見て、世阿弥はその病み狂った心の風景を思い、その裏に潜むドラマを思ったのでありましょうか。  
例えば世阿弥作である謡曲「百万(ひゃくまん)」では、行方の知れない我が子を求めて気が狂った女曲舞(おんなくせまい)の舞手百万が登場しますが、「何ゆえ狂人とはなりたるぞ」とワキに尋ねられると、百万(シテ)は「夫には死して別れ、ただ一人ある忘れ形見のみどり子に生きて離れて候ほどに、思いが乱れて候」と答えています。彼女は子供を思う気持ちがあまりに強くて自分をコントロールできないのですが、自分が狂っているという事実と・その理由ははっきりと意識しているわけです。  
「花伝書」のなかで世阿弥は、女性の物狂いの役に武将や鬼神の霊のような強力な霊が憑いて怒り狂った演技をするならば、それは女性の役として不似合いである、また、女性の優しさを中心に狂うならば、憑依したものを表現できていないことになる、結局、そのような作品は演じるに値しないのだと述べています。逆に言えば、そのような作品ばかりが世間に横行していたことが世阿弥には不満であったのでしょう。この謡曲「百万」を読みますと、そうした世阿弥の「人間の真実を描いたドラマはこういう風に書くんだよ」という主張が見えてくるようでもあります。シテが狂っている理由をはっきりと理解して、シテの狂いの表面的な面白さを追うのではなく、役作りの本質をしっかり見極めることを世阿弥は要求しているように思えます。
梅若の亡霊  
謡曲「隅田川」は世阿弥の息子の観世十郎元雅の作品ですが、「申楽談儀」では「隅田川」の演出について世阿弥と元雅との間に意見の相違があったことが記されています。最後の場面でシテの眼前に死んだ梅若丸の亡霊が現れる場面です。元雅はここで子方を登場させる演出を採用しました。これに対して世阿弥は、作り物の塚のなかに子方がいない方が面白くなる、ここで現れるのは死んだ子供の亡霊であり幻なのだからとアドバイスをしました。しかし、元雅は「それでは自分はできない」と言ったというのです。世阿弥は「やってみなければ分からないではないか」と元雅をたしなめたそうです。現行の能の演出では子方を登場させる元雅の演出でやるのが普通です。(子方の声だけを聞かせて姿を出さない方法が採られる場合もたまにあるそうです。)  
ところで、世阿弥が「隅田川」のこの場面で子方を出さない演出を主張したというのは、前述の世阿弥の物狂いの考え方からすれば、世阿弥がそう考えるのがよく分かるような気がします。梅若塚を前にして母親(斑女の前)はここで突然現れる息子(梅若丸)の亡霊に操られるようにして心乱すわけではなくて・つまり何かが憑くような感じでこころ乱されるのではなくて、息子の姿は母親のこころのなかで響き・その姿がシテの瞼のなかに現れるのであって、いわば内面的に心乱れるのであると世阿弥は考えたのでありましょう。  
舞台上にその姿が現れてしまうと確かに状況は観客に理解し易くはなるのですが、何だか情感が浅くなってしまうような感じがします。眼前に息子が現れたかのように思い乱れる母親を演じる方が、演者としても工夫の仕がいがある・より深い芸を見せられように思うのです。  
あるいは次のようなことも考えられます。母親の眼前に息子の亡霊が現れるというのはある種の「奇蹟」であり「救い」であると考えることができます。しかし、それが母親の内面に現れた幻でしかないとしたら、その寂寥感と空しさは例えようのないものになるのではないでしょうか。そこに対象を突き放したような芸術家・世阿弥の冷徹なリアリズムが感じられるような気がします。
西洋の匂い  
「隅田川の世界」は歌舞伎のなかでも一大ジャンルをなしています。「隅田川」が歌舞伎のなかに取り入れられたのは比較的早い時期で、「大和守日記」には貞享5年に「角田川」が、元禄7年には「しかた角田川」が演じられている記録があります。また元禄17年には山村座で「けいせい角田川」が上演されています。隅田川ものが人気であったのは、江戸の人たちにとっては「ご当地もの」であったということもありましょう。  
しかし、歌舞伎での隅田川ものというのは梅若殺しの方に関心が行ったものが多いようで、謡曲「隅田川」を思い浮かばせるものがあまりないようです。同じ梅若伝説を源流にしてはいても、歌舞伎の場合は幽玄や無常と いった情感に目を向けるのではなくて・あくまで趣向として梅若伝説の骨格を借りているに過ぎないように感じられるものが多いようです。だから悪いと言っているわけではありません。当時は能役者と歌舞伎役者の交流は禁じられていましたから、謡曲をそのまま歌舞伎化することはできなかったのです。それに歌舞伎作者の題材に対する関心のあり方が謡曲の作者とは全然違っているということなのだろうとも思います。(この問題は非常に面白いテーマであると思いますが、いずれ別の機会に考えてみたいと思います。)  
ところで、舞踊「隅田川」は江戸時代にできた作品ではなくて、明治41年3月に四代目清元延寿太夫が発表した作品でした。これが舞台にかかったのはかなり遅くて大正8年9月歌舞伎座のことでした。初演の時の配役は二代目猿之助 (猿翁)の狂女・二代目段四郎の舟人でした。本作は歌舞伎の隅田川もののなかでは最も原曲である謡曲「隅田川」に近いものですが、明治以後は能取りものの松羽目舞踊が盛んに作られましたから、本作もその流れで出来たものでしょう。(明治に入ってからの松羽目舞踊の流行には歌舞伎役者の能に対するコンプレックスが背景にありました。これについては別稿「身分問題から見た歌舞伎十八番:天覧歌舞伎」をご参照ください。)つまり舞踊「隅田川」はちょっと先祖返り(能返り)の作品なのであって、本作を歌舞伎のいわゆる隅田川ものの系譜に入れてしまうと間違うという感じがいたします。  
吉之助にとっての舞踊「隅田川」は六代目歌右衛門の記憶と強く結びついています。歌右衛門の舞踊「隅田川」の舞台は幽玄でありました。それは能とか歌舞伎とかいうジャンルどころか、東洋・西洋の演劇舞踊の枠さえも越えてしまった舞台芸術作品という感じさえいたしました。歌右衛門がパリの劇場で「隅田川」を公演した時でしたか、熱狂した観客の拍手が二十分以上も鳴り止まず、カーテンコールに何度も何度も歌右衛門が呼び出される事態になったそうです。舞踊「隅田川」の舞台にはどこかに西欧人の感性にも共通するセンスがあるのだろうと感じます。この舞台にはなんとなく西洋の匂いがするのです。  
「死んだ子供を思う母親の気持ちは洋の東西変わらない普遍的な感情だ」というようなことを言いたいのではありません。吉之助の言いたいのは、そういう主題を描いた作品は他にもあるだろうに・なぜ舞踊「隅田川」だけが言葉も分からない外国人にもスンナリ心に入るのかということです。それはこの舞踊作品の成立過程と無関係ではないような気がしています。大正8年、二代目猿之助はヨーロッパでロシアン・バレエなどを見て帰国し、その帰朝第1回振付作品がこの「隅田川」でした。このことを猿之助はこう書いています。  
『このロシアン・バレエの感激を顧みた時、僕は「日本舞踊は舞台の機構もあるので如何にも奥行きがなく立体的でない。要するに日本舞踊は横の踊りで縦ではない」と感じた。この感じが帰朝後の僕の創作舞踊の基本になっており、翻訳的に、あるいは翻案的に、そして創作的にと、いろいろの型でロシアン・バレエの要素が摂取されているわけだ。帰朝後の第1作は「隅田川」を、梅若丸の幻想を追うところ、念仏の群集を使用して縦に横に立体的構成を意図した。こうした立体的構成を日本舞踊に適用したのはこれが恐らく最初である。』(二代目市川猿之助:「換骨奪胎」・伝統芸術の会会報・第41号・昭和32年9月)  
これを読みますと、猿之助初演の「隅田川」の舞台というのは吉之助が知っている歌右衛門の「隅田川」(藤間勘祖の振り付けによる)とはかなり趣きが異なっていた ようです。猿之助の文章に出てくる念仏の群集は歌右衛門の舞台にはありません。また猿之助初演の時は梅若の亡霊を出すやり方でありました。あの舞台はやはり歌右衛門風に徹底して洗い上げられたものなのでありましょう。  
しかし、猿之助の初演の舞台とは振り付け・演出が違っていたとしても、共通して引き継がれたセンスが恐らくどこかにあるのだろうと思っています。それは大正という時代が持つ浪漫の香りであり ・人間の心理を自然に描き出そうという演劇理念であり(これは二代目左団次の新歌舞伎にも共通したものでありますが)、歌舞伎とか日本舞踊とかの枠をも越えて普遍的な舞台芸術作品を生み出そうとした「芸術家」の精神であろうと思います。