冥途

「死のある風景」久世光彦逝く 
 
内田百閧知る 
冥途のイメージを文章で教えてくれた人 
怖いもの見たさを超えて 
老いの怖さに襲われそう
 


 

内田百1内田百2「冥途」考まあだだよ件(くだん)あの世はあるのか呑竜様倶生神1東家秘伝倶生神2倶生神3・・・
冥途の飛脚1冥途の飛脚2冥途の飛脚解説・・・
 
 
【死出】 死んで冥途(めいど)へ行くこと。しで(死出)の山の略。 
死出の旅 死出の山に行くこと。死ぬこと。冥途の旅。「死出の旅に立つ」 
死出の山 死後、越えて行かなければならない山。冥途。 
【冥土・冥途】 仏語。死後、死者の霊魂がたどって行く道。亡者のさまよい行く世界。地獄・餓鬼・畜生の三悪道など。 
冥土にも知る人 どのような所でも知己はできるものだ。どんな遠い未知の土地に行っても知人にめぐりあえる。 
冥土の旅 死んで冥土に行く旅。死出の旅。
 
【冥途の飛脚】浄瑠璃・世話物・三段、近松門左衛門作。大坂の飛脚問屋亀屋の養子忠兵衛は遊女梅川になじみ、友人八右衛門と張り合うために封印切りの大罪を犯し、梅川とともに郷里新口(にのくち)村に逃げるが捕らえられる。 
【泉下】黄泉(こうせん)の下。死後人の行くところ。あの世。冥途。 
泉下の客と成る 死ぬ。なくなる。
 
【賽の河原】 子どもが死んで行くといわれる冥途にある河原。子どもの亡者はここで恋しい父母のために小石を積んで塔を作ろうとするが、何度作っても鬼が来てすぐこれをくずしてしまう、そこへ地蔵菩薩が現われて子どもを救うという。無駄な努力のたとえ。「賽の河原の石積み」 
門松は冥途の旅の一里塚 (「めでたくもありめでたくもなし」とつづく一休の歌から)正月の門松は飾るたびに一つずつ年をとるので、死への道の一里塚のようなもの。 
【別路】 この世と別れて冥途へ行く道。 
【倶生神】 (くしょうじん・くじょうじん) インド神話に基づく仏教の神。人が生まれた時から、その左右の肩の上にあって、その人の善悪の所行を記録するという同名、同生の二神。また、これを男女の二神とし、男神は同名といい、左肩にあって善行を記し、女神は同生といい、右肩にあって悪行を記し、死後、閻魔(えんま)王による断罪の資料とするという。また、俗に、閻魔王の側で罪人を訊問し罪状を記録する神とする。 
 
賽の河原口説き 
月に群雲 花には嵐 釈迦にだいばや太子に守屋 
さらば皆さん御聞きなされ  定め難きは無常の嵐  
散りて先立つ習いと云えど まして哀れは冥土と娑婆よ 
賽の河原に止めたり 二つや三つや四つや五つ 
十より下の幼児が  朝の日の出に手に手を振りて 
人も通わぬ野原に出でて 山の大将は我一人かな 
云うもありまた片ほとりには 土を運んで上りつ下り 
石を運んで塔築く塔は  一丈築いてはそれ父のため 
父の御恩と申せしものは 須弥山よりも高くして 
言葉に何か述べがたき 二条築いてはそれ母のため 
母の御恩と申せしものは  恵の恩の深いこそ 
蒼海よりも深いぞえ 三条築いては主従兄弟我が身のためと 
何れ仲良く遊びはすれど 日暮れ方にはもの寂しさよ 
父をたずねて姥こいと呼ぶ  声は木霊に響き立つ 
恋したちまちあわきと云えど 役の塔をも築ごうとすれば 
ここに邪険なあくどい鬼が 何を遊ぶや子供や子供 
鏡照る日の眼の光  築いた岸をも早や引き崩し 
何処ともなく失せにける かかる嘆きのその折節に 
地蔵菩薩が現れ給い ここへ来いとて衣の袖を 
かざし給えば皆取りついて  透かし給えばおことら顔よ 
顔をさすりつ髪なで下げる 地蔵菩薩に取り付き嘆く 
共に涙の御暇よりも 父さん母さん何故ござらぬか 
我に預けしよりも当娑婆にて  帰りを待つぞ去りながら 
罪は我人ある習いじゃが 殊に子供のその罪咎は 
母の胎内十月が間 苦痛様々この世に生まれ 
四年五年また七つ年  成るや成らいで今帰るゆえ 
賽の河原に迷い来る 父はなくとも母見えずとも 
我に頼めど叶わぬ浮世
 
「生きることは、書くことだった」 瀬戸内寂聴・久世光彦  
初期短篇の素晴らしさ  
瀬戸内 私はね、まだ全く世にも出ていない、同人誌にも載るか載らないかという時から、同人雑誌の友だちと全集の話ばっかりしていたんですよ。早く全集を出したいって。ろくに食べるものもなく、水飲んでいてもいつかは自分たちではひとかどの小説家になるって信じていたんでしょうね。だから、今度ようやく全集を出してもらえることになってうれしくて……。  
久世 今回の全集ではまず一巻の短篇群がいいですよね。僕はデビュー作の「女子大生・曲愛玲(チユイアイリン)」という小説をリアルタイムで読んでいるんですよ。確か「新潮」だったと思うけど、これは昭和三十二年ですね。僕はまだ大学に入ったばかりだったんだけれど、色っぽい年上の女(ひと)が書いたんだ、ってとても印象的だった。  
瀬戸内 新潮社同人雑誌賞を受賞した作品なんです。今回の全集には、全作品について自分で解説を書くことにしているんですけれど、そのために当時の選評を読んだら、意外に誰も褒めてくれてないのよ。三島由紀夫さんが「官能性の一語を以て推す」と言って、井伏鱒二さんが「色慾描写を買う」って書いてくださっているんだけれど、むしろ評判悪かったんですよ。他も低調だったんです。それなのにあの時何であんなにうれしかったんだろうと今、不思議で。  
久世 僕は今回、瀬戸内さんの初期短篇を読み直して、あの頃を再発見した気がしたなあ。読んだときの自分をも思い出してしまったし……。「女子大生・曲愛玲」と「花芯」の間は何年くらい空いているんですか?  
瀬戸内 ほとんどないです。「花芯」は昭和三十二年十月の「新潮」だから。  
久世 無礼なことを言いますけれど、ほんの少しの間に、ずい分うまくなっているんですよね。  
瀬戸内 ありがとう。「花芯」は褒めてくれる人が少ないの。新潮社同人雑誌賞受賞第一作と言うことで、こちらは張り切って百枚ぐらい書いたのに、削られて六十枚になってしまったし。  
久世 僕はその時二十二歳だから、やっぱり色々あの作品には感じたけれど、それは今でいう「ポルノグラフィ」じゃなくて、ちょっと目線を上に上げた感じのエロティシズムというものだったような気がしますね。  
瀬戸内 当時は「子宮作家」というレッテルを貼られて、その後五年間文芸誌から依頼がなかったぐらい酷評されたんですよ。  
久世 でも、あれは「気持ち」の色っぽさですよね。夢中になってしながら、したくない、したくないって呟いているみたいな――僕らには永遠にわからない女の人の生理的なものが言葉になっているという感じで、そうした緋色の靄のようなものを描いた意味であの作品を越えるものはちょっとないんじゃないかな。  
瀬戸内 結局、恋愛は肉体より精神だということを言いたかったんですよ。それを全く反対に取られちゃったんですよ。その後「現代のポルノグラフィ」というのは、最大の賛美の言葉として使われているけれど、私のときはそれが悪いこととしてひどい目にあったんですからね。そのときに一緒に、石原慎太郎さんの「完全な遊戯」という作品も叩かれたの。マスコミに追随しているとか、エロに媚びているとか書かれて。石原慎太郎さんはその時すでに「太陽の季節」を書いたスター作家だったから悪評されても干されなかったけれど、ずいぶん腹は立ったみたいで、会ったこともないのに電話を下さったのよ。「瀬戸内さん、僕たちの小説は決して悪いものじゃない。将来自分の文学全集が出るときには必ず僕はその中に入れてやる。瀬戸内さんもあれはいい作品だから、絶対に全集の中に入れなさい」って。それ以来、私は慎太郎さんと仲がいいんですよ。
「死と別れ」すなわち「孤独」を書く  
久世 その後に書かれた「夏の終り」がまたいいですよね。これも好きな小説です。この作品では、文章のつながりがまこと気持ちがいいんですよ。接続の仕方というか、転調の妙というか、そこにリズムがあるんですね。この女の声を聞きたい、と読者が思うときに、ちゃんと台詞があるんですよ。僕もドラマの演出ではそういうリズムを考えますけれど、この作品はそういう点でもうまいんだなあ。それに一つの文章の長さ短かさとか流れとか、文章読本にしてもいいと思う。  
瀬戸内 死ぬ前に一番好きな作品を挙げろと言われたら、やっぱり「夏の終り」でしょうね。読み直すと未熟なところもいっぱいありますが、三十代の終わりごろ、作家として欲得なく張り切っているんです。  
久世 この小説は絶賛しますよ、僕は。瀬戸内晴美時代の白眉です。  
瀬戸内 いま「新潮」に連載している「場所」という作品で、「夏の終り」の舞台になったところも全部訪ねているんです。もう四十年経っていますから、家も何も残っていないけれど、そこへ行くと土地の記憶と言うものが足の裏から語りかけてくれるんですね。それを、じいっと考えていると、四十年前あの男がああ言ったのはこういう意味だったんじゃないか、とかわかってくるんですね。今になってはもう取り返しのつかないことですけれどね。  
久世 そういうふうに悔いるのではなく、ふっと思い当たるというところが、さやかでいいですよね。  
瀬戸内 結局ずっと私は死を書いてきているんですね。「死と別れ」ということは、すなわち孤独を書くことですけれども、私の歳になると、もう周りは全部死ぬのよ。長生きするということは、こういう目に遭うことだなあと思うのよ、最近。この全集にも入れたんですけれど、「霊柩車」っていう短篇があるんですよ。私の父親の話なんだけれど……。  
久世 確か指物職人でいらしたんですよね。  
瀬戸内 全部自分で手をかけて仕事をして、日本一豪華だと自慢していた霊柩車で、市からの依頼で作ったものなんだけれど、戦後まで焼けないで残っていたので、最後は自分で作った霊柩車に入って送られたという話です。これは吉行淳之介さんが編集長をしていたときの雑誌「風景」に書いたんですよ。吉行さんに依頼されて、光栄に思ってうれしくてね。吉行さんは本当に格好よかったんですよ。  
久世 僕がちょうど学生の頃のスター作家ですよね。〈第三の新人〉には安岡章太郎さんや遠藤周作さんがいて、僕らの仲間の中ではやっぱり吉行さんが一番人気がありました。僕自身は小沼丹さんが好きでした。  
瀬戸内 でもね、みんな死んじゃって……。これはやっぱりすごいことですよ。久世さんはまだ若いからお友だちはそんなに死んでいないだろうけど、あなたも「週刊新潮」の連載エッセイの「死のある風景」でずっと死について書いてきていますよね。  
久世 今度また、連載をまとめた二冊目の『薔薇に溺れて 死のある風景』(十二月、新潮社刊)という本を出したんです。僕が死について書くのは、やはり十歳で戦災を体験して、死体をゴロゴロ見たことからですかね。十歳の子供に非常に強烈な体験でしたから。  
瀬戸内 私はちょうどその頃は北京へお嫁に行っていたので、戦災というのを実は全く知らないんですよ。あの本の中で久世さんは、遺書について書いていらっしゃるでしょう。私、吉行淳之介さんの遺書を見たことがあるんですよ。いつも使っている原稿用紙にきれいな字できちんと書いてありました。あの人は遺書をいつ書いたのか知らないけれど、湯浅芳子さんは毎年お正月に遺書を書き直していました。  
久世 加藤治子さんが全く同じですよ。瀬戸内さんと同じお歳ですけれど、毎年大晦日に遺書を書き直す。大晦日にその一年を振り返って、あの人は意地悪だったから、とか思い出して名前を消したりしているらしい。加藤さんと瀬戸内さんは、同じ大正十一年生まれの、色っぽい双璧ですねえ。  
瀬戸内 私なんかは今、もういつ死んだっていいの。全集も出ることだし。  
久世 そういう人が一番長生きなんですよ。森繁久彌さんなんて、二十年以上前から「もう俺は死ぬ」って言い続けてますからね。加藤治子さんもそうですよ。  
瀬戸内 そうかしら。でも「死のある風景」は死を書いていてもきれいで、暗くなくて、全編詩のようで、ちょっと格調高くていい連載ですよ。これからも楽しみにしていますよ。  
久世 僕は演出が仕事なのでつい考えちゃうんですが、「夏の終り」などの短篇は是非ドラマ化してみたいなあ。  
瀬戸内 まあ、ありがとう。この間、香港映画のウォン・カーウァイ監督と会いましてね。そうしたら、中国で「夏の終り」を読んでいて、映画にしたいっていうんですよ。それで、登場人物の若い方の男をキムタクにやらせたいって言うんだけれど。  
久世 僕がドラマにするときは、「あふれるもの」の女が若い男に会いに、銭湯に行くのを装って走っていくところなんて感動的なシーンだなあと思うんですよ。何かしに行くんじゃない、ほんの三十秒か一分、ただ男の顔を見に行くんですよね。  
瀬戸内 それを結構誤解されているんですよ。洗面器に石鹸を入れて、走るとコトコト音がしちゃうから、タオルでしっかりくるんで走るんですよ。それで男の部屋へ行って、走っていったから汚くなった足を、ただ洗って拭いてすぐ帰るのよ。ちゃんとわかるわよね?  
久世 わかりますよ、それは大丈夫です。
はみ出した女たち  
久世 瀬戸内作品の中で、僕はまず短篇に惹かれるんだけれども、その次は「美は乱調にあり」などの伝記ものが好きなんですよね。大杉栄や伊藤野枝の時代にとても興味があるということもあるんですが……。  
瀬戸内 久世さんは私よりずっと若いのに、私が若い頃に読んだものと久世さんが読んだものが一緒なのね。例えばあなたも北原白秋が好きなのよね?  
久世 白秋と三人の妻を描いた「ここ過ぎて」は非常に好きなんです。僕はこの作品とシンメトリーに、白秋の側からも書きたいという思いがあるんですよ。  
瀬戸内 まだ白秋はいっぱい書くことがありますよ。久世さんだったら書けると思うわ。是非お書きなさいね。  
久世 自信はないけれど、そのうちに書きたいと思っています。それで今回、是非直接お聞きしたかったのは、「遠い声」の幸徳秋水と管野須賀子であり、伊藤野枝であり、そういう女の人たちに、瀬戸内さんが心駆られるのは何故なんでしょう?  
瀬戸内 私がもしもあの頃に生まれていたら、ああなっていただろうと思うんです。  
久世 そういう革命憧憬みたいな素質がおありなんですか。  
瀬戸内 今でもあります。正義感が強いでしょう。それで単純なのね。これは世のため人のためと思うと命なんか要らないんですね。そういう馬鹿なところがあるんですよ。管野須賀子も伊藤野枝にしたって非常に単純な女で、しかも情熱があり余っていたんですよ。私はその情熱に感じるものがあるの。  
久世 「余白の春」の金子文子もそうですか?  
瀬戸内 大変に頭のいい人です。でも規格に入らない。何かこう、はみ出す情熱があるんですね。だから私は、真っ直ぐおさまる人には余り魅力を感じない。はみ出して、世間からははじき出されて、という人たちが好きなんですよ。私があの時代に生きていたら、多分ああいうことをしていたと思うんです。
「不良」文学へ  
久世 「田村俊子」や「かの子撩乱」の岡本かの子もずいぶんはみ出していましたけれど、その中では誰が一番興味深いですか。  
瀬戸内 最初から不良の人の方が好きなの。やっぱり管野須賀子かな。一番かわいそうだけれど、面白かった。荒畑寒村さんからもいろいろ聞くことができたから、やっぱり興味深いですよ。伊藤野枝も面白いですけれどね、次から次へと十二人ぐらい子供を産んで……。  
久世 今たまたま瀬戸内さんの口から「不良」という言葉が出たけれども、ある言い方をすると、瀬戸内晴美の文学は「不良の文学」であると思う。僕らの頃の不良と言うのは、男も女もすごくチャーミングでロマンがあったんですよね。走る炎みたいで、はかなくて。  
瀬戸内 私は女学校を卒業するまでずっと模範生だったんですよ、それが嫌でしてね。その頃から不良に憧れていたの。でも何もできなくって、結婚してもいい奥さんで、終戦で帰ってきてからやっと不良になったのよ。その時にもうせいせいした。軌道からはずれて、あの人は不良だと言うレッテルを貼られると、すごく自由になった。出家してからまたもっと自由になった。これ以上の自由はないから、あの世へ行っても大して面白くないんじゃないかと思う。  
久世 僕はものすごく憧れたけれど、結局不良にはなれなかった。だから瀬戸内さんには是非、不良に戻っていただきたいなあ。戻るというか、今でもかなりの不良なんでしょうけれど、もっと不良ぶりを出していって欲しいんだなあ。  
瀬戸内 そう言われると、やっぱりうれしいわね。  
久世 「瀬戸内寂聴」って言うと、今の人たちはもう「不良」だなんて思っていないと思う。でも、僕の中ではいつまでも、瀬戸内さんは「寂聴」じゃなくて「瀬戸内晴美」なんだな。  
瀬戸内 そうね、今は不良だと思われないかもしれないわね。  
久世 カタログに「第十八巻 新作長篇」って書いてあるじゃないですか。この作品は、是非とも不良小説を書いて、不良の瀬戸内寂聴を世間にアピールしてください。不良の尼さんなんて、ドキドキします。 
 
昭和のいのち  
黒柳徹子さんから聴いた話である。  
作家の高橋玄洋さんは、終戦の夏のころ旧制の中学生で広島の郊外に学徒徴用で働いていた。  
原爆の日、広島がやられたというので、救出作業のため列を組んで市内に入った。  
恐ろしい光景に震えながら怪我人を運び、倒壊した家屋の下に誰かいないか探したりしているうちに、4、5歳の女の子が一人、いつの間にか自分の後をついてくるのに気がついた。  
玄洋さんたちが次々に場所を移動しても、どこまでもその子はついてくる。  
顔に大火傷をしていて、もう助からないと高橋玄洋さんは思ったが、追い払うこともできず、何となく一日連れ歩くことになった。  
玄洋さんも話かけなかったし、女の子も何も言わなかった。  
夜になって、中学生たちにその日はじめて小さなおむすびが一つずつ配られた。  
お腹が空ききっていた玄洋さんたちは、むさぼるように食べた。  
ふと女の子と目が合った。  
まだ手には半分のおむすびが残っていたが、玄洋さんはそれを女の子に分けてやらなかった。  
女の子は、欲しそうな顔をするでもなく、怨めしそうな目で訴えるでもなく、ぼんやり玄洋さんを見ていたそうである。  
どうしてあのとき、一口でもおむすびを分けてやらなかったのだろう、  
夏がくるたびに玄洋さんはあの女の子を思い出し、その辛い思いは年を経て薄れるどころか、ますます深い痛みとなって、玄洋さんを責めるのだった。  
あの子の親兄弟はみんな死んだのだろう。  
玄洋さんは、もしかしたら親戚のお兄さんか誰かに似ていたのかもしれない。  
命の火が消えそうなあの子に、どうしておむすびをやらなかったのか、そしたら女の子は、爛れた顔でニッコリ笑ったかもしれない。  
黒柳さんがこの話を高橋玄洋さんから聴いたのは、終戦50年の年だったが、玄洋さんは話しながら泣いていたそうである。  
私に玄洋さんの話をする黒柳さんも、声をつまらせ、洟を垂らして泣いていた。 
 
夕暮れ・闇夜 
昔 妻と奥志賀にドライブ 
夜 何となく夜道を下り街に買い物に 
新月ネオンもない山道 ヘッドライトだけがどこまでも延びる
   
真っ暗闇を知る 
怖くなり宿に引返した
 
川筋の土手 
お彼岸春秋お盆の墓参り   
母と渡良瀬土手を渡る(市場)
 
遠くに田んぼ中を走る東武電車 
その先に呑竜様を見る
 
道連れ 
友は選ばねばならない 
相手を間違えると道連れにされることもある 
同僚上司会社も同じ
 
一匹狼を通せたので関りはなかったが 
多くの可愛そうな道連れ劇を見てきた
 
通夜 
父の通夜の晩 
疲れきった母に代わって父のそばに寝ずに付き添う 
線香を焚く 
夜中ふっと怖さを感じる
 
閻魔大王 
人は死ぬと七日目には三途の川の辺に到着。人が冥土に行く為には、渡らなければならない三つの川、すなわち「葬頭川」(そうずがわ)三瀬川(みつせかわ)「渡り川」がある。川の流れは三つに分かれていて、前世の行為(業)にしたがって、それぞれにふさわしい流れを渡ることになる 。三途とは地獄・餓鬼・畜生の三悪道のことだが、この川の辺に衣領樹(えりょうじゅ)という木がある。木の下には「奪衣婆」(だつえば)という老婆がいて、木の上には「懸衣翁」(けんえおう)というお爺さんがのっている。お婆さんが着ている衣類を脱がせ、木の上のお爺さんに渡し、木の枝に掛けると、その重みで枝が垂れる。枝の垂れ方で生前の罪の軽重が分かる仕掛けである。その「懸衣翁」と「奪衣婆」が、35日目の閻魔大王の裁判に、陪席しているので嘘の申告は出来ないのである。
 
倶生神(くしょうじん) 
どんな人間でも生れ落ちた時その瞬間から、二人の神様がその人の両肩に乗かっているそうだ。神様だから重みを感じない。この神様の名前は「倶生神」で、左の肩には、男の神様が、右の肩には女の神様が乗る。この倶生神が、閻魔大王の命により、その人の善行・悪行の全てを記録している。男の神様は善行を、女の神様は悪行を記録し、35日目の閻魔大王の裁判の時、肩から降りて、閻魔大王に最大漏らさず奏上する。

 


 
2006/ 
 
 
内田百闔 / 芥川龍之介

 

内田百闔≠ヘ夏目先生の門下にして僕の尊敬する先輩なり。文章に長じ、兼ねて志田流(しだりう)の琴に長ず。 
著書「冥途(めいど)」一巻、他人の廡下に立たざる特色あり。然れども不幸にも出版後、直に震災に遭へるが為に普(あまね)く世に行はれず。僕の遺憾とする所なり。内田氏の作品は「冥途」後も佳作必ずしも少からず。殊に「女性」に掲げられたる「旅順開城」等の数篇等は戞々(かつかつ)たる独創造の作品なり。然れどもこの数篇を読めるものは(僕の知れる限りにては)室生犀星、萩原朔太郎、佐佐木茂索、岸田国士等の四氏あるのみ。これ亦(また)僕の遺憾とする所なり。天下の書肆(しよし)皆新作家の新作品を市に出さんとする時に当り、内田百闔≠顧みざるは何故ぞや。僕は佐藤春夫氏と共に、「冥途」を再び世に行はしめんとせしも、今に至つて微力その効を奏せず。内田百闔≠フ作品は多少俳味を交へたれども、その夢幻的なる特色は人後に落つるものにあらず。こは恐らくは前記の諸氏も僕と声を同じうすべし。内田百闔≠ヘ今早稲田ホテルに在り。誰か同氏を訪うて作品を乞ふものなき乎(か)。僕は単に友情の為のみにあらず、真面目に内田百闔≠フ詩的天才を信ずるが為に特にこの悪文を草するものなり。 
点心(抜粋)・冥途  / 芥川龍之介    
この頃内田百(うちだひやくけん)氏の「冥途(めいど)」(新小説新年号所載)と云ふ小品を読んだ。「冥途」「山東京伝(さんとうきやうでん)」「花火」「件(くだん)」「土手(どて)」「豹」等(とう)、悉(ことごとく)夢を書いたものである。漱石(そうせき)先生の「夢十夜」のやうに、夢に仮託(かたく)した話ではない。見た儘に書いた夢の話である。出来は六篇の小品中、「冥途」が最も見事である。たつた三頁ばかりの小品だが、あの中には西洋じみない、気もちの好(い)い Pathos が流れてゐる。しかし百闔≠フ小品が面白いのは、さう云ふ中味の為ばかりではない。あの六篇の小品を読むと、文壇離れのした心もちがする。作者が文壇の塵氛(ぢんぷん)の中に、我々同様呼吸してゐたら、到底(たうてい)あんな夢の話は書かなかつたらうと云ふ気がする。書いてもあんな具合(ぐあひ)には出来なからうと云ふ気がする。つまり僕にはあの小品が、現在の文壇の流行なぞに、囚(とら)はれて居らぬ所が面白いのである。これは僕自身の話だが、何かの拍子(ひやうし)に以前出した短篇集を開いて見ると、何処(どこ)か流行に囚(とら)はれてゐる。実を云ふと僕にしても、他人の廡下(ぶか)には立たぬ位な、一人前(いちにんまへ)の自惚(うぬぼ)れは持たぬではない。が、物の考へ方や感じ方の上で見れば、やはり何処(どこ)か囚はれてゐる。(時代の影響と云ふ意味ではない。もつと膚浅(ふせん)な囚はれ方である。)僕はそれが不愉快でならぬ。だから百闔≠フ小品のやうに、自由な作物にぶつかると、余計(よけい)僕には面白いのである。しかし人の話を聞けば、「冥途(めいど)」の評判は好(よ)くないらしい。偶(たまたま)僕の目に触れた或新聞の批評家なぞにも、全然あれがわからぬらしかつた。これは一方現状では、尤(もつと)ものやうな心もちがする。同時に又一方では、尤もでないやうな心もちもする。
  
内田百閨E仮想に酔いつつ、現実的な算段をすること

 

私たち人間の体験の中で、現実と仮想の関係はかなり微妙なものである。原理的に考えれば考えるほど、両者の関係は微妙である。微妙であるにもかかわらず、私たちは、両者の間に厳然とした相違があると普段は考えている。端的に言えば、そうしなければ生きていく上で支障が生じるからである。  
たいていの場合、日常の生活の中で起こることは現実に属していると思っている。たとえば、自分が朝のコーヒーを飲むためにとりあげるマグカップ、外の光を取り入れるためにガラガラと開けるガラス窓、身につける服。これらのものは、現実だと思っている。これらの「今、ここ」にあるもの、意識の中ではっきりと知覚されるものは、おそらく現実なのだろうと、私たちは考えている。  
一方、本当は「今、ここ」にはないのに、私たちの脳がかってにつくり出してしまったものは、現実とは異なる、仮想のカテゴリーに属していると考えている。鬼や龍、麒麟といった現実には存在しない動物たちは、仮想の世界の住人である。平成15年は確かにんげんじつであるが、かっては現実であったとしても、もはや「今、ここ」にたぐり寄せようもない記紀万葉の過去も、今となっては「仮想」であるとしか考えられない。  
「今、ここ」にあるものは現実であり、ないものは仮想である。そして、現実の生活の中で起こったことを記すのが随筆であり、仮想の世界のことを記すのが小説である。このような棲み分けを前提に、たいていの場合の人間の思考は成り立っている。  
ところが、内田百閧ノおいては、このような現実と仮想の棲み分け、随筆と小説の峻別がおそらく成り立たない。成り立たないところに、百閧フ文学のユニークな価値があるのだと私は思っている。  
現実と仮想の棲み分けが定かではない、と言っても、たとえば「冥途」の中で、主人公が食す「酢のかかった人参葉」や「どろどろした自然生の汁」は現実であって、一方でどうやらお父様らしい、「親指をたてた」人は仮想だが、「羽根の撚れた様になって飛べないらしい蜂」は現実か仮想か判然としない、だからこそ、蜂は現実の世界から仮想の世界への橋渡し役をつとめることができている、といった類の話ではない。  
それを言うならば、そもそも言語によって世界をとらえる人間において、何が現実で何が仮想なのか判ったものじゃない。開高健の絶筆「珠玉」の最後には、「女だった。女だった。」という一文がある。この「女」が、その時主人公の前にいる現実の女なのか、それとも仮想の女なのか、そんなことは判然としない。判然としないところに、言葉で世界を構築する人間が見る世界の本質がある。  
もちろん、人間の主観的体験の中に現れる様々な表象のうち、ごく一部分しか言葉として定着されてはいない。ピカピカ、ギラギラ、キラキラといった言葉のレパートリーよりもはるかに複雑で豊かな輝きのニュアンスを、私たちの意識はとらえる。意識のとらえる広大な表象の世界のうち、マグカップや窓といった「今、ここ」にあるものは、物質的実在によって担保されている現実であるように、私たちはふだん考えている。しかし、表象の成り立ちを冷静に考えてみると、そこには物質的実在による担保に支えられた自然主義態度ではとらえきれない仮想の自由が入り込んでいることが反省される。  
 
椰子さん、僕はいつも汽車に乗る時、そう思うのですがね、汽車が走っている時は、つまり、機みがついて走り続けているなら、それで走って行ける様な気がするのだが、こうして停まって、静まり返っているこれだけの図体の物を、発車の相図を受けたら動かし出すと云う、その最初の力は人間業ではないと思う(中略)気になるのは、動いている汽車と停まっている汽車とは丸で別物だと云う事です。その別別のものを一つの汽車で間に合わせると云う点が六ずかしい  
 
百閧フ「阿房列車」の中のこの一節は、汽車というのはすなわち外の客観的世界にある物質実在のことであるという素朴な態度を超えた、私たちの表象する世界の本来的無限定性をとらえている。いわゆる現実は、いわゆる仮想と一つながりの大陸なのだ。  
開高健が「珠玉」で言う「女」が、現実の女によって担保されている必要はどこにもない。表象としての女は、現実存在としての女に比べて、途方に暮れるくらい大きな仮想の世界につながっている。思春期にあこがれる女と、現実の女は別者である、その別別のものを、一つの女で間に合わせようとするからむずかしい。階段で上るビルの4階と、エレベーターで上るビルの4階は別物である。その別別のものを、一つの4階で間に合わせようとするからむずかしい。さあ、これから食べるぞ、と表象されるラーメンと、実際に食べている時のラーメン、そして、食べ終わってああおいしかったと振り返るラーメンは丸で別物である。その別別のものを一つのラーメンで間に合わせると云う点が六ずかしい。  
私たちの意識がとらえる表象は、それが現実を代表しているように見える時でも、実は現実によっては担保されない仮想の世界の自由度を内包している。そんなことは、自らの体験を少し振り返って見れば、当然のことであって、そう考えれば、内田百閧フ随筆と、小説を峻別して、前者は現実を書き、後者は仮想を書いているから両者は別のカテゴリーだと言うことはできない。百閧フ随筆の中の汽車は、現実の汽車であると同時に、仮想の汽車でもあるのである。  
私たちの人生はもちろん有限であるが、その有限の人生にさまざまな表象が密に絡み合っていることを思うと、有限の人生が本当に有限なのか、判らなくなってくる。その判らなくなったところに百閧フ随筆がぽんと入ると、独特の感銘が生じる。あからさまなフィクションを描いた百閧フ小説は、もちろん仮想の世界を扱っている。一方、現実を描いているかのように見せて、そこに無限定な仮想の世界の気配が絡んでくる「阿房列車」のような随筆は、有限の人生における現実を扱っているかのように見えて、実は無限定の仮想をも扱っている。その微妙な間合いがたまらない。  
 
遁道を出たと思うと、線路の近くで蛙の鳴いている声が聞こえて来た。蛙の鳴く時候ではあるし、夜ではあり、そうだろうと思った。  
放心した気持ちで、聞くともなしに聞いていたが、暫くすると、或はそうでないかも知れないと思い出した。蛙の声にしては、あまりいつ迄も同じ調子である。又その調子が規則正しく繰り返しているのがおかしい。蛙の声でなく、車輪の軋む響きが伝わって聞こえるのかも知れない。そう思って聞くと、そうらしい。そうだろうと思った。  
 
「鹿児島阿房列車」の中で、保土ヶ谷の先でずっと聞こえてくる「蛙の声」は、もしそこに注意を当てて拡大すれば、その中に「冥途」も「旅順入城式」も全て入ってしまうような広大な領域へとつながっている。何気なく書かれたかのように見える阿房列車の進行の随所に、無限定な仮想の世界への入り口がぽっかりと口を開けている。  
小林秀雄が、そのベルグソン論「感想」の冒頭で、扇ガ谷を飛ぶ蛍を見て、死んだおっかさんだと思う。この時、蛍という表象は現実で、おっかさんという表象は仮想だ、と整理するのは一見わかりやすい。しかし、本当は、蛍という表象自体が、すでに仮想なのである。現実の世界のどこにも、私たち人間が「蛍」という言葉で指し示している表象は存在しない。和泉式部は、「物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂かとぞ見る」と詠んだ。江戸時代の若い恋人たちが、沢で蛍を見て、「ああ、蛍だ」と言った。「蛍」という言葉には、日本語という体系の中でこの言葉が使われてきた履歴の記憶が何層にも積み重なっている。そのようなニュアンスをも引き受けた表象として、「蛍」は私たちに意識される。つまり「蛍」は、人間の精神が生み出した仮想である。一方、現実に存在するのは、腹の節の一部を光らせ、黒々とした羽根を持ち、触角を奇妙な感じで動かしている節足動物だけである。節足動物の存在によって、「蛍」という概念が担保されると考えて安心するのが自然主義的態度である。それではとらえきれないのが、表象の世界の実相である。  
「鹿児島阿房列車」で、保土ヶ谷の先からずっと聞こえていた蛙の声は、やがて、山系が言い掛けた「ちッとやそッとの」という言葉へと変容する。  
 
汽車に乗っていて、そう云う事が口に乗って、それが耳についたら、どこ迄行っても振るい落とせるものではない。「ちッとやそッとの、ちッとやそッとの」もう蛙なぞいない。今度著くのはどこだろう。お酒がないだろう。  
ちッとやそッとの、ちッとやそッとの「山系君」  
「はあ」  
ちッとやそッとの、ちッとやそッとの「お酒はどうだ」  
口に乗り、耳に憑いたばかりでなく、お酒を飲み、佃煮を突っついている手先にその文句が乗り移って、汽車が線路を刻むタクトにつれ、「ちッとやそッとの」の手踊りを始めそうになった。  
 
人は酒に酔うばかりではない。人は、仮想にも酔う。蛙の声から変容した「ちッとやそッとの」は、百閧酔わせる。その有様は、歌舞伎の名作「義経千本桜」の道行初音旅で、佐藤忠信に化けて静御前の供をする狐忠信が、折からの春の風に舞ってきた蝶に、思わず獣性をあらわにしてじゃれつく様子を思い起こさせる。  
おそらく、百閧ニいう人は、阿房列車の旅をしている間中、仮想という精神の酒に酔ったままだったのだ。  
もちろん、私たち人間は、物質的、実際的限定の中に生きている。仮想に酔ってばかりいて、生活の実際的限定の中での実際的な段取りの算段に心を砕かなければ、現実の阿房列車は出発しない。時刻表を毎晩眺めては飽くことのない百閧フことだから、仮想の阿房列車に乗っているだけでも満足かもしれないが、やはり現実の阿房列車が出発しなければ、「阿房列車」という作品も成立しない。  
「阿房列車」の最初の作品、「特別阿房列車」は、その現実的算段の部分が、味わい深い。列車はなかなか出発しないが、何時までも出発しなくても別にかまわない、と思われる。「阿房と云うのは、人の思わくに調子を合わせてそう云うだけの話で、自分で勿論阿房だなどとは考えてはいない。用事がなければどこへも行ってはいけないと云うわけはない。なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う。」という書き出しから、「さて読者なる皆様は、特別阿房列車に御乗車下さいまして誠に有難う御座いまする」という文まで、手元のちくま文庫で二十五ページを費やしている。阿房と言えば、全くの阿房であるが、極上の読み心地の阿房である。  
百閧フ現実的算段は、おおむね二つの動機に導かれている。一つは、自分の美意識に合うように、事を進めようという動機である。そんなどうでも良いことは、適当でいいだろうと思ってしまっては、百閧ェその「どうでも良いこと」にこだわる心根が由来する、蝶にじゃれつく狐忠信に通じる明るい狂気の世界に触れることはできない。  
一等車に乗るか、三等車に乗るかということは虚栄に属することのように思われるし、もちろん内田百閧ヘ虚栄の人でもあるのだけれども、そのスノッブが突き抜けて得体の知れない狂気に転じているところが、百閧フ凄いところである。  
 
今度は用事はないし、一等車はあるし、だから一等車で出かけようと思う。お金の事を心配している人があるかも知れないけれど、それは後で話す。しかし用事がないと云う、そのいい境涯は片道しか味わえない。なぜと云うに、行くときは用事はないけれど、向こうへ著いたら、著きっ放しと云うわけには行かないので、必ず帰って来なければならないから、帰りの片道は冗談の旅行ではない。そう云う用事のある旅行なら、一等になんか乗らなくてもいいから三等で帰って来ようと思う。  
 
百閧フ現実的算段を導く動機の二つ目は、いかにして旅行の費用を調達するかという点にある。ここでも、金のやりくりをつけるという最も現実的な工夫が、「ちッとやそッとの」の手踊りに転化している。  
 
「大阪へ行って来ようと思うのですが」  
「それはそれは」  
「それに就いてです」  
「急な御用ですか」  
「用事はありませんけど、行って来ようと思うのですが」  
「御逗留ですか」  
「いや、すぐに帰ります。事によったら著いた晩の夜行ですぐに帰って来ます」  
「事によったらと仰しゃると」  
「旅費の都合です。お金が十分なら帰って来ます。足りなそうなら一晩くらい泊まってもいいです」  
「解りませんな」  
 
阿房列車という作品自体が、実際的な人なら「解りませんな」と感想を漏らすであろう現実的算段の繰り返しである。どの列車で行ってどの列車で帰ってくるか、夜のお酒をいかにおいしく飲むか、余ってしまった握り飯を、いかにもったいなくない形で処分するか、いかに、見送りの椰子君に紳士たるものの体面をつぶされないようにするか。  
一つ一つをとればとるに足らないように思われる現実的算段の積み重ねが、いつの間にか奇妙な非現実に転化して行く。スノッブな人のスノッブなふるまいが、幻視の人の幻視のふるまいにずれていく。「阿房列車」は、現実と仮想、日常と非日常、実際と幻想の間のありきたりの思いこみを溶かし、現実を実際的に生きることがすなわちもっとも幻想的な行為と思われるような、メタモルフォーゼを起こす作品である。  
考えて見れば、私たち人間の人生とは、そのほとんどが次に何をどうするかという現実的算段の繰り返しである。その現実的算段の繰り返しの中で、私たちは様々なことを夢見るが、そんな中でも時間はどんどん進行して、肉体は衰え、やがてこの世界から去る時がやってくる。現実よりも夢の方が人間の魂の本来の場所である、という類のロマンティックな幻想を抱くことは実はやさしい。むずかしいのは、人生とは現実的算段の積み重ねであるという事実を直視した上で、実はその現実的算段の中に、底抜けの仮想の世界の気配がいつの間にか忍び込んでいることに気づき、それを味わうことである。人生の有限性が、そのまま仮想の無限性に接続していることを悟ることである。  
「まあだかい」は、あからさまに人生の有限性を扱った作品である。百閧ェ還暦を迎えた時、三畳の間ばかりの手狭の家に誕生日前日の五月二十八日から飛び飛びに日を選んで八月四日までに九晩を祝い収めた。今度は、教え子たちが秋の祝賀会を虎ノ門の晩翠軒で開いてくれた。その祝賀会が恒例化したのが「魔阿陀会」である。  
 
その御迷惑と云う事を考えると、既に昨年還暦を祝って戴いた私が、今夕またかくの如き仕儀となっては、この糞じじい、まだ生きているかと云うのが今晩の魔阿陀会です。まアだかいとお聞きになるから、私はまアだだよ、とこうして出てまいったわけであります。こう云う事にして下さいました以上、どうか来年もさらい年も、一先ずまアだかいと尋ねて戴きたいのでして、その内にきっと、もういいよと申し上げる所存で御座いますが、その節は御香典のご用意を成る可く沢山と云う事にお願い申します。  
 
「まあだかい」を読み進めるうちに、読者は、ある種の緊張感を自覚する。毎年積み重ねる魔阿陀会の様子をおもしろおかしく記したこれらのエッセイが終わる時は、すなわち、内田百閧ニいう人がこの世からいなくなる時であるという単純なる因果関係を悟るからである。  
第二回の魔阿陀会の百閧フ算段は、「私が招かれてその席へ出掛けるに就いては、先ず当夜の出で立ちを心に描く。お洒落で云うのではないが、お洒落でない事もないけれど、それは呼んでくれる諸君に対する礼儀であり、お目出度い会なのだから縁起に叶う必要もある。」であった。第六回の魔阿陀会の当日の百閧フ心配は、「彼らが今年も後を追って私の家に闖入するか否かはその時のはずみであり勢であって、勿論こちらからは誘引はしないが、だからと云って、来てはいかんと予めことわっておく可き事でもなく、又ことわっても来る者は来るだろう。」であった。どちらの心配も、どうでも良いと言えばどうでも良く、気持ちの良い酒席を開くという意味では、これ以上重要なこともないと言えばそうとも言える。  
魔阿陀会は積み重なり、第十六会を迎える時には、百閧フ算段の内容は変化する。その変化は、読む者を不意打ちにし、やがて厳粛な気持ちにさせる。  
 
楽しみにしていたその魔阿陀会がいよいよ近づき、後もう二三日という時になって、どうも足もとがおもしろくない。(中略)なにしろ広くもない家の中で、畳の上を歩き、廊下を伝うのにさえ事を欠く始末になった。膝の前にある机や卓袱台に両手を突いて、先ず起立する姿勢を準備し、気合いを掛けて、やっとこさと起ち上がる。その上で自分の行きたいと思う方へ行こうとするのだが、独り歩きは容易でない。柱につかまり、壁に手を支え、つまりしかし、そうしなければどうなると云うのだろう。よろよろしながら考えて見ればおかしな話で、柱も壁もなければ、一足も前へ出られないと云うのだろうか。(中略)二三日後に迫った魔阿陀会へ出掛ける自信があやしくなった。  
 
ここで生じている厳粛な気持ちは、人生が有限のもので、いつしか終わらなければならないという事実だけに対するものではない。実際的な段取りに心を砕く算段というものが、案外人間が生きる上で本質にかかわっているのではないか、という発見に伴う背筋がぴんと伸びるような気分が、読む者を打つのである。どうでも良い、取るに足らないことのようについつい思ってしまう、日常の生活の中の様々な算段たちが、突然人生そのものであるように思われてくる。  
百閧ヘ、やがて、毎年開かれる会に出られなくなり、自宅でその事後報告を聞くようになる。第二十回の魔阿陀会では、テープレコーダーに挨拶を吹き込んで、東京ステーションホテルの参会者に挨拶をする。そこまでするのも、魔阿陀会をはじめとする教え子との会に、「みんなもとの様に出たいな」と百閧ェ心から願っていたからである。その願いの強さは、大雨の夜に姿を消してしまった愛猫に対する思いを綴った「ノラや」と同質のひたむきさで、読む者の心を打つ。  
その一方で、百閧ヘ、もちろん魔阿陀会にもとの様に出ることはもはや叶わぬことを悟っていた。  
 
天知る地知る。わかっとる。  
 
十九年目の魔阿陀会に出られなかった顛末を書いた「殺さば殺せ」の末尾のこの文章には、ひんやりとした秋の夕暮れのような寂しさがある。  
作品としての「まあだかい」を読んでいる限りでは、魔阿陀会がどのように終わりを迎えたのか、百閧ェどのように亡くなり、その死を教え子たちがどのように受け取り、その後魔阿陀会はどうなったのか、判然としない。その意味で、「まあだかい」という作品は、尻切れトンボである。毎年の会の様子を小説新潮に報告するという作品の成立の由来からして、そうなることは運命付けられていた。そもそも、人生というものは、文学という仮想の世界の論理など気にせずに、ある日突然脈絡なく終わってしまうものである。起承転結のはっきりした作品という芸術の一つの理想は、人生の実際によって裏切られる運命にある。ウェルメイドな作品につきまとううさんくさは、私たち人間の生の実感に由来している。  
仮想に酔う人、内田百閧焉A衰える肉体という現実からは逃れきれずに、入滅した。人間がいつか死すべき存在であるという現実は、分かり切ったことである。いつか死ぬという現実は分かり切ったこととして、酔い心地の良い仮想の世界を構築するのが、文学者である。百閧ヘ、仮想の酔い心地を、日常の世界のもっともつまらない算段と一つながりの世界の中に醸成した。そこに、実際的な配慮が人々の生活体験の大部分を占め、一方で生活の実際から乖離したファンタジーが純粋の仮想として消費される現代における百閧フ今日的な、そして文学の未来につながる価値がある。  
締め切りや原稿料を巡る現実的な算段をしつつ、文学者は、時々永遠のことを気に掛ける。酒の酔いは、いつか醒める時がくる。一方、仮想に酔うことに、本当に終わりがくるのかどうかは判らない。仮想の酔いはひょっとしたら永遠に続くのかもしれない。死とは、実は仮想に酔ったままになることなのかもしれない。文学作品が永遠の命を持つとは、つまりそういうことなのだろう。  茂木健一郎
 
内田百閨u冥途」考
 

 

「冥途」は1922年(大正11)に処女作品集として稲門堂書店より刊行されているが、所収の作品のうち何篇かは、この作品集刊行以前に改稿・改題を加えながら別の雑誌に掲載されている。  
明治四十三年発行「校友会会誌」に「烏」、大正六年発行「東亜之光」に「道連」「山東京伝」「冥途」、大正十年発行「新小説」「我等」に「烏」「舞台の熊(後の「蜥蜴」)」「土手(後の道連)」「柳藻」「豹」「支那人」「石畳」「山東京伝」「波止場」「花火」「冥途」「蝦蟇口(後の「流木」)」である。  
「冥途」の出発点ともいえる「烏」の初出である明治四十三年は、東京帝国大学に入学した年であり、漱石に弟子入りする一年前である。  
「校友会会誌」版の「烏」は、明治四十一年の春、十日を費やして児島三十三箇所を遍路した百閧フ体験を下敷きにして書かれた、ある宿屋での見聞記調の作品である。「新小説」版では説明・写生的描写だった文体を隠喩・象徴的に変更し、「死期を迎えた老猫が死に場所を求める」というくだりも削られる。  
この「烏」という作品は、百閧フ少年時代における「父の死」「実家の没落」という大きな消失を背景に描かれているものと考える。  
表題となっている「烏」は、作中では苦しげな声で鳴き、生きたまま羽根を毟られ、最終的にはくびり殺されてしまう。だが、「私」はその烏の姿を見ることはないままである。  
「烏」という鳥には不吉のイメージがあるが、これは西欧・キリスト教的な考えからきているものである。百閧フ場合は夏目漱石「倫敦搭」に登場する烏のイメージなどから刷り込まれているものとも考えられる。一方で、古来日本では烏は「神鳥」として扱われた。  
そのイメージから考えると、作中の烏は百閧フ父親なのではないかと考えられる。百閧フ父は病を患って死に、またそれに伴い実家も没落し、貧乏生活を余儀なくされる。烏の苦しみは百閧フ父の苦しみであり、生きたまま毟られる羽根は家の状況を示しているとも取ることができる。そしてその全ては自分の目の前=自分に知覚できる・干渉できる範囲では行われてはいない点も、自分のあずかり知らぬところで事態が動いていくのを感じることしか出来なかった百閧フ記憶とみていい。猫のくだりが省かれたのは、「死」のイメージの重複を恐れたからであろう。  
次に、変更点が多くあった「道連」について考えたい。「東亜之光」掲載の「道連」は、「冥途」収録のそれとは内容が異なっており、構想段階では副題として「坊主頭」というタイトルが付けられていた。「私」が長い峠をこすと日が暮れ、いつの間にか一人の道連れと土手のような道を歩いている。「私」は次第に恐怖にかられ、道連の足音を頼んで歩くのだが、そのうちに水音を聞く。道連に尋ねると「今に話す」といって黙って山裾まで歩く。ふと立ち止まった道連はその場所に井戸があると示し、気味悪がって離れようとする「私」を掴まえて、逢引をしていた尼と坊主が馬に憑かれてこの井戸で死ぬこととなった話を聞かせる。すると道連が恐ろしい大きな声で「己がその坊主だ」と言い、途端に世界の全てが消失する。この話は、夏目漱石「夢十夜」における「第三夜」とほぼ同じストーリーの運びとなっている。「第三夜」で背負われている子供は「道連」である。夢十夜では主人公は思うように進めないうねった道を歩いており、これは漱石の内にある迷宮を現している。対する百閧ヘ土手のような道を道連と並んでその足音を頼りに歩いており、漱石のように曲がりくねった道ではないのに自分の足を頼れないという点から、先の見えぬ人生あるいはその終焉に対する恐怖をあらわしていると考える。  
この作品は「新小説」掲載時にタイトルが一度「道連」から「土手」へと変わり、内容もがらりと変わって「冥途」所収のものとなっている。  
この頃の百閧ヘ「死の不安」に囚われている。百閧フ死生観として、一族の血脈への執着が見て取れる。百閧ヘ自分の息子に父の名前をつけ、また百闔ゥ身にも祖父の名をつけてもらっている。親の命は子供に受け継がれて一体となり、一族の血脈がつながっていくことでその魂は不死となるのである。作品中で道連が「私」の声を聞きたがることや、生まれなかった兄である道連と「私」・父親の声がおなじである点に、こうした考え方が現れている。  
しかし、冥途の中に登場する子供の存在は、そうした考え方に反し「死すべきもの」として現れてくる。「白子」では女の子供である白子が「私」に踏み潰されて死に、他にも「短夜」では狐の化かしたものであることを証明するために、「私」によって赤ん坊がいぶり殺される。「柳藻」でも女の子供の手がぽきりと折れ、殺したはずの老婆へと姿を変えてしまう。唯一「木霊」においては生きているものの、「声は細くて、元気がな」く、泣き声はそれよりもなお元気がない。ここにあらわれてくる子供たちは「私」自身の子供ではないからだろうか。ここでまた、夏目漱石「夢十夜」第三夜をひくと、おぶわれた子が百年前に殺した人間であるという箇所がある。ここのイメージから生じたものなのかもしれない。また一方で、百闔ゥ身の成熟願望であるとも取れる。百閧ノとって子供時代は失われた輝ける楽園であり、彼の文学にも回帰願望がありありと見て取れる。前述した子供たちを殺すもしくは傷つけるのが「私」である点から考えると、百閧ヘ回帰を望みながら、どこかで過去との決別を望んでいたのではないだろうか。  
さて、先ほどより文中にしばしば「夢十夜」が顔を覗かせている。百閧フ「冥途」は漱石の「夢十夜」の影響を強く受けている。百闔ゥ身夏目漱石を盲信・崇拝しており、処女作において彼の作品を模倣してしまうのも仕方がないといえよう。  
特に強く影響が見られるものとして、前述の「道連」に加えて「木霊」、「花火」、「蜥蜴」、「柳藻」、「波止場」などが挙げられる。  
作中に出てくる「女」について考える。「冥途」の中に出てくる女は、みなどこかに影を負って、物悲しげで不健康な姿をしている。そしてなにかしら「私」を脅かす存在として描かれている。これは百閧フ抱える女性像の投影ではないだろうか。  
百閧ヘ幼少の頃より祖母に溺愛され、非常にわがままに育った。後々そのことを作品の素材とするほどである。心理学的に母なるものは肯定的な面では優しく包み込み育てるものだが、否定的な面では誘い呑み込み子供の自立を妨げ食い殺してしまうものでもある。この母なるものを乗り越えるのは思春期の課題でもあるのだが、その点において百閧ヘ克服できているのだろうか。そう考えたときに、先述した「過去との決別を望む」ことが頭をよぎる。少年時代と決別できない百閧ヘ、母なるものである祖母ともまた、決別できては居ないのではないだろうか。  
また、妻との関係も考える。作中において「妻」という存在がでてくるのは「波止場」「疱瘡神」の二つだけである。どちらにおいても、妻は「私」以外の男性についていき、「私」と別れる結末となる。百闔ゥ身は借金のことから妻である清子と疎遠になり、ついには愛人である佐藤こひの家へ住み着くようになる。本妻と別れないまま愛人と暮らすことにより借金は一層膨らんでいった。  
このことから考えていくと、「花火」にでてくるそばにいてほしがる女の「浮気者浮気者浮気者」という発言や「尽頭子」の女の「あなたは私を忘れてはいないでしょうね」という発言も合点がいく。「木霊」の泣きながら歩き続ける女もそうだろう。また、「蜥蜴」や「白子」においては見たくないもの、気付きたくないものへと「私」を引っ張っていく存在として女が現れる。これは百閧ェ直視したくないもの、それは例えば借金であり、死であり、およそ現実的な問題と思われるのだが、そういったものことを言い立てる妻の姿ではないだろうか。  
「冥途」は全編を通して物悲しく、不穏で克つ滑稽な空気が漂っている。陰鬱で重たい漠然としたもの。それはおそらく百闔ゥ身の死に対する恐怖から来るものだろう。処女作品集「冥途」刊行までに、百閧ヘ多くの大切な人たちを亡くしている。それは父であったり、祖母であったり、崇拝し尊敬した師・夏目漱石や親友達であった。大切な人を亡くすたびに、百閧ヘ誰にもいつかは等しく訪れる死の影におびえた。そのことは彼の日記にも記されている。彼にとって人の生というものは生まれたときから死に向かってゆっくりと歩いていくようなものなのだろう。  
また、はっきりと明示されてはいないものの、この作品群は「夢」の話である。生きることとは正にゆめまぼろしのようなもの、と栄華と没落とを実際に体験した百閧ヘ悟っていたのだろう。  
そして百閧フ夢は、自身の少年時代につながる故郷のイメージを舞台として展開されていく。自らのペンネームとして名前を取ったほどである「川」のモチーフも土手という形を取って現れ出る。この「川」こそ時間の流れであり、彼岸と此岸を分かち、人の生涯を象徴的に表していると考えられる。故に「冥途」終結部において土手が現れるのだ。これは「道連」においても同じことが言える。  
百閧フ死生観は何よりもこの作品集の「冥途」というタイトルに現れている。「冥土」ではなく「冥途」なのである。「冥」界へと向かう道の「途」中なのだ。そこでひとの人生が交錯するのだ。 
 
「まあだだよ」 黒澤明 

 

黒澤明監督による1993年公開の日本映画。大映が製作し、東宝の配給により公開された。内田百閧フ随筆を原案に、戦前から戦後にかけての百閧フ日常と、彼の教師時代の教え子との交流を描いている。黒澤作品の前・中期に見られる戦闘・アクションシーン等は皆無で、終始穏やかなトーンで話が進行する。
キャッチ・コピーは「今、忘れられているとても大切なものがここにある。」。
黒澤明の監督生活50周年・通算30作目の記念作品として大きな期待を集めたが、同時期に公開された『ロボコップ3』や『許されざる者』などのヒット作に押され、興行的には失敗となった。
この作品の公開後、次回作の脚本を書いている矢先、骨折。闘病後1998年9月6日に黒澤は脳卒中により逝去し、本作が半世紀以上の監督生活を全うした黒澤の遺作となった。
あらすじ
法政大学のドイツ語教師・百關謳カは随筆家としての活動に専念するため学校を去ることになり、学生たちは『仰げば尊し』を歌って先生を送る。職を辞したのちも、先生の家には彼を慕う門下生たちが集まり、鍋を囲み酒を酌み交わす。先生には穏やかな文士生活が訪れるはずであった。しかし時代は戦争の只中、先生も空襲で家を失ってしまう。妻と2人、先生は貧しい小屋で年月を過ごすことを余儀なくされるが、戦後門下生たちの取り計らいで新居を構えることを得る。
昭和21年、彼らは先生の健康長寿の祝いのために「摩阿陀会」なる催しを開く。なかなか死にそうにない先生に「まあだかい?」と訊ね、先生が「まあだだよ!」と応える会である。月日は経ち、17回目の「摩阿陀会」は先生の喜寿のお祝いも兼ねて盛大に開かれる。門下生たちの頭にも白いものが交り、彼らの孫も参加したこの会で、先生は突然体調を崩してしまう。大事をとって帰ることになるが、かつての教え子たちは昔と同じように『仰げば尊し』を歌って会場を後にする先生を送るのだった。
その夜、付き添った門下生たちが控える部屋の奥で、先生はおだやかに眠る。夢の中、かくれんぼをしている少年は、友達に何度も「まあだだよ!」と叫ぶ。少年が見上げた夕焼けの空が、やがて深く彩られ、夜になっていくところで映画は終わる。  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エピソード
○ スタッフの野上照代は、東京で出版社に勤めていた時に原稿を受け取りに内田百閧フ家を訪れ、本人と面会したことがある。おみやげの日本酒を見せると、急に態度が変わり、ご機嫌になったという。
○ 黒沢清監督は「黒澤明では『まあだだよ』が好き。あっこ(あそこ)まで行ったら最早凄いよね」と語っている。
○ この作品にからめて黒澤は周囲に対し、「これが最後の作品ですかね?」「まあだだよ」などと冗談をいっていたという。
○ 香川京子の演技があまりに見事だったので、脚本でも指示がなく、指導もしていない。監督は現場でもほとんど見ていないという。
○ 登場する猫は重たかったので抱くときは苦労したという。また、暴れることもあったので眠くなるような薬を飲ませて撮影したらしい。
○ 馬鹿鍋のシーンでは本物の馬肉と鹿肉が用意された。黒澤は「わからないから、他の肉でもいい」とこだわらなかったのだが、助監督の配慮である。井川比佐志は馬肉と鹿肉は食べられないということで、助監督に頼んでわざわざ自分用に他の肉を用意してもらったものの、鍋の中に入れると、どれがその肉かわからなくなってしまい結局、ごぼうしか食べられなかったという。
○ ラストの夕焼け空にはハリウッドから輸入した「サイレント・フロスト」というコンピュータ制御のシステムが使われている。この夕焼け空は「雲名人」ともいわれる島倉二千六の手によるものである。
○ ビートたけしが黒澤に「自分は映画には使わないのか?」と訊いたところ、「おまえ言うこと聴かないじゃないか」とあしらわれたという。そこでたけしが「所使ったじゃないですか」と言うと、「あいつは役者じゃないじゃないか!」と返事をした。たけしによると黒澤は猫と同じ感覚で所を起用したのだという。そのことをたけしが所に言うと「それで俺のとき何にも文句言わなかったんだ」と納得したという。
○ 劇中で登場人物が歌ったり、街頭スピーカーから流れてきたりする以外の音楽としてはヴィヴァルディの「調和の霊感」第9番の第2楽章が使われているのみだが、この演奏を指揮しているクラウディオ・シモーネは、『乱』以降の作品で助監督のひとりとして参加している、イタリア人ヴィットリオ・ダル・オレ伯爵の伯父である。 
 
「件(くだん)」伝承 

 

「依而如件(よって件のごとし)」という言葉があります。若い方はたぶんご存知ないかもしれませんが、昔の証文等の文末にしばしば使われた定型文でございます。(いや、実は私も実際に使われてるとこを見た事ないですが) 「件」は、「くだん」と読み、「以前に述べた事柄」という意味。「よって件のごとし」とは、「前述のように真実をもって(嘘偽りなく)」という意味があります。一見、ただの古い言い回しのようですが、この「件(くだん)」。  
 
人面牛身で、未来を予言するという妖怪の名前でもあります。(「妖怪」と言っていいものかどうかもちょい疑問やが) 小説やコミック、最近では映画『妖怪大戦争』にも登場してる(らしい)、河童とか子泣きじじい程じゃないにしろ、わりと有名な妖怪なんで、ご存知の方多いんでないでしょか。  
妖怪にはそれ程興味があるわけではない私ですが、この「件」には惹かれました。その名前が、証文等公的な文書に定型文として使用されている妖怪という事に、ものごっつ興味を持ったわけです。公的文書にまで名前が使われるって、普通の妖怪とちょっと違うのか?なんか、他の妖怪と違ってリアリティあるといいますか、現実社会に浸透してた分、身近に感じるんですよね。  
件(くだん)  
姿形・能力 / 件 (くだん)とは、「件」の文字通り、人と牛が合わさった怪物。その姿は、人間の顔と牛の体、もしくは牛の頭部と人間の体を持つ。牛から生まれ、人間の言葉を話し、様々な予言をする。また、雄のくだんの予言は必ず当たるが、雌のくだんがその予言の回避方法を教えてくれるという説もある。  
寿命 / 生まれて数日(3日?)で死ぬ。予言してたちどころに死ぬ。歴史上の大凶事が始まる前兆として生まれ、凶事が終ると死ぬ。(その間、異変についての一切を予言する) 予言をし、予言の実現を見届けてから死ぬ。  
目撃談・噂 / 江戸時代から昭和前半まで、西日本(九州・中国・関西地方が多いよう)を中心に、日本各地で一種の都市伝説として様々な目撃談がある。発祥は中国山地との説も。最後に現れたときは、「日本が戦争に負ける」と予言したとされる。  
岡山  
昭和38年に調査した時の話。八束村で聞いた話では、件(クダン)が生まれ、来年6月には大戦争があると予言したという。その件は隣の川上村でうまれたとのことなので、川上村へ行くと件は中和村で生まれ、例年は大豊作だが、流行病があると予言したと言う。中和村で聞くと、件は八束村で生まれ、大風が吹くと言ったと言う。  
新見市千座で、大佐町に件が出たという。  
憑き物の結果として、クダンという、牛と人間のアイノコができて、千里眼が出ることがある。どこそこに千里眼が出てこれこれのことを言ったという噂が伝わってくることもある。こうした憑き物がした者が言うことをクチバシルという。  
子供の頃、草間村に生れたクダンを見に行った。ぶよぶよした赤い膚にちらちら毛が生えていたことだけが印象に残っているという。  
和歌山  
26、7年前三輪崎の村外れの漁村の家で、件を檻に入れて養っていた。それはその家に生まれた子で、成長しても白痴で、獣のように這うだけだった。顔は牛のようで、体は人であった。この者の言うことに偽りが無いので証文に件の如しと書く。  
件は頭は人間で体は牛である。件は生まれたら一言何かしゃべって死んでしまう。二度と何も言わない。それで約束事をするとき、言い直しはしないとい意味で、約束事を言った後に「よって件の如し」という。薬の広告で件の絵を見たが、薬の効き目も件の言葉同様きっと約束するということなのだろう。  
鳥取  
関東大震災を予言したクダンの話を、鳥取出身のある者が記憶している。  
広島  
満州事変当時、クダンが「来年は大戦争と悪疫で大半の国民が死ぬ。この災いを免れようと思うなら、豆を煎って7つの鳥居をくぐれ」と予言したという。  
牛が人面牛身の化け物を産むことがある。クダンと言い、生後1週間ほどで死ぬが、それまでに重大な予言を残す。予言は必ず的中するそうだが、第二次世界大戦の初頭、クダンが「3年後には日本の勝利で終わる」と予言したという話を覚えている。  
 
この他、小松左京氏の小説『くだんのはは』は、当時(昭和20年前後)実際に神戸周辺で語られていた噂が元になってるそう。岡山は、牛と縁が深い土地柄故、牛関係の伝承も多いようです。ちなみに、岡山の作家・岩井志麻子氏の『依って件の如し』も件モノ。(でも、どっちかってーと、「牛の首」系のような気も) 地元の人が読むと一層気味悪いのかもしれませんな。西日本に多い伝承のようですが、東北でも「件」伝承はあるみたいです。  
 
あと、「くだんの描かれた絵を家内に貼っておくと厄難病難除けになる」という言い伝えもあります。絵だけでもご利益あるからか、上記の目撃談中にもある薬の広告も実際にあったようですな。私も、何かの本かサイトで薬の広告を見たのですが、かわいくデフォルメされてるわけでもなく、よく古い文献で見る妖怪画(百鬼夜行とか)のようなタッチで不気味やったのを覚えとります。いくら薬が「件のように真実をもって」効くスゴイもんやったとしても、あの広告見て購買意欲が湧いたんでしょかね。 当時の消費者の皆さんは。(私はダメですわ…。なんか「ばんとう(?赤ん坊の…アレ)」でも入ってそうで) 当時と今じゃ、やっぱ感覚が違うんか?  
 
とまぁ、「件」とはこういう感じの妖怪でございます。牛は、農耕民族の日本人にとっては身近で貴重な家畜でありました。故に、神格化されたり畏怖の対象になったり民話になったり。「件」のような牛の物の怪が生まれるのも不思議ではありませんな。また、母牛が病気に感染し、奇形の仔牛が生まれる事もあります。昔の人はそれを、祟りや凶事の前兆、異端のモノと捉えたんでしょう。自分達と姿形が異なる「異形のモノ」を畏怖するのは、よくあることのようですし。(「天狗」も「西欧人」やっていう説もありますしな)  
とはいえ、公文書に名前が使われる程、特別な妖怪の様でもなし…。 
「件 (冥途)」  
『件の話は子供の折に聞いた事はあるけれども、自分がその件にならうとは思ひもよらなかつた。からだが牛で顔丈人間の淺間しい化物に生まれて、こんな所にぼんやり立つてゐる。どうしていいか解らない。何故こんなところに置かれたのだか、私を生んだ牛はどこへ行つたのだか、そんな事は丸でわからない』  
「件」というのは、人面牛身で、未来を予見するといわれた謎の生物のことである。伝説上の生物と思われているが、その起源については、明治初期の学者の冗談からとも言われ、定かではない。古代中国の「神農」に擬する説や、「山海経」に起源を求める説もあるが、辞書によると、「件の字は古書に見当たらず、その由来は明らかではない」、とあるから、虚説であろう。  
「件」について、辞書には、「人と牛の合字。人と牛を見分けることは容易であることから、物の仕分け、区分けを意味する字。 転じて、区切り毎に数える数詞として用いるようになった」とある。昔の証文、書付の末尾には、決まり文句として、「仍而如件(よってくだんのごとし)」と書かれていたが、この意味は、「既に何件もの例がある通りで、特に変わった点はない」という程度の意味である。証文には必ず書いてあるので、「一体くだんって何です」と聞かれて、答えに窮した挙げ句、出まかせの冗談で「人面牛身の神」とか何とか言ったのであろう。それも、一人や二人が言ったのではなく、あちこちで似たようなことを言うと、あたかも本当らしく思えてくるものである。私見であるが、落語に出てくる「一丈の大いたち」とか、「ろくろっ首」や「蛇娘」という類いの見せ物があったのではあるまいか。  
「件」のはなし  
岡山駅前の市電ターミナルの近くに、横長の大きな広告看板があった。痔の民間薬の広告のようで、大きく「ぢ」という文字があり、看板一杯に人間の顔をした牛が描いてあった。その絵と字体がなんともいえず古くさく、救いようのない暗さである。鍼のツボを示す人型の絵にこういうのがあって、牛人(件)は輪郭だけで描かれている。男ともつかず女ともつかず、大人とも子供とも判別ができず。頭も輪郭だけだから坊主頭の気の弱い少年のようにもみえる。顔は薄笑いのようにもみえるし、途方にくれているようにもみえる。痔を治すという責任に耐えかねているようでもある。  
駅前ターミナルから市電で二つ目の駅の近くに、祖父や叔父が住んでいたので、しばしば帰郷して、ときには長逗留になった。そのたびに、この看板を見るのだが、その度になにか途方にくれる気分が起こる。烏城や後楽園の近くで育って、第六高等学校生徒であった内田百閧焉A当然この看板を見ていた筈である。  
「件」は大正九年百闔O十一歳のときの作品である。初恋の人と結婚したのが大正元年、翌年長男が生まれている。妻との不和が書かれているのは大正十一年だが、そこに『永い間の心労』 という文字がある。大正九年の頃に、すでに将来別居の予感があったかどうか。  
「件」を書いたとき、(一部省略) 心労の投影と牛人を描いた広告板の投影とが作品にあったかどうか。もっとも、それが分かったからといって、どういうこともない。『件』のこぼればなし、といったところである。 [懐かしい人たち−吉行淳之介]  
私説「件」考  
「件」が書かれた時期を年譜で見ると、大正8年5月に腹案を纏め、大正9年8月頃に脱稿している。  
読んでみると、結論も何もないただの話なので、読んだ後いきなり野原に放り出されたような、索漠とした気持になるのだ。  
一体、百閧ヘ「件」で何を書こうとしたのか、という疑問が湧いてくるのは当然であろう。  
対象とする物の内部に入って、その心理を描写する手法は、ホフマンの影響であろうが、件(クダン)が現れたので予言を聞こうと集まった人々に、只、居座っているだけで、群衆が逃げ散った後、「私はほつとして、前足を伸ばした。さうして三つ四つ續け樣に大きな欠伸をした。何だか死にさうもない様な氣がして來た」。で終わる話である。  
同じ頃の作品「瑪瑙」もそうだが、“珍奇な物が、その本性は実に下らぬ”と言っているように受け取れる。  
この辺りに、この作品を読み解く鍵があるかも知れないと思い、周辺を漁ってみた。  
当時の文壇は、明治の自然主義文学を超える反自然主義を模索して、志賀直哉等の理想主義や、永井荷風、谷崎潤一郎の耽美派が活躍しており、幻想文学や、ポーに刺激された怪奇趣味の文学が生まれ始めていた。 百閧ヘ創作活動を始めるに際して、そのような、時代の先端をゆく流れに、身をおこうとしたであろうと思われる。  
「件」の腹案が浮かんだ大正8年という時期だが、その前年に米騒動が全国的に発生していることから類推すると、「件」に群がる群衆とは、世直しを期待する民衆をイメージしているのではなかろうか。  
そう考えると、かの「件」は、国の内外に大騒動を引き起こしながら、威圧する以外に為す術を知らない無能な為政者を、暗に批判するかのようである。(百閧ヘ陸軍の高級官吏であり、軍部や政治を批判できない立場にあった)。  
それは、それとして、作品の前段で、「私を生んだ牛はどこへ行つたのだか、そんな事は丸でわからない」と云いながら、終段では「その聲はたしかに私の生み遺した倅の聲に違ひない」、「群衆の中にゐる息子を一目見ようと思つて、私は思はず伸び上がつた」 のだから、「私」は母牛と生き別れた牝牛のようである。それが人間の姿をした倅を持っている。人間だった時に生んだ子なのか、いつの間にか母牛とすり代わったのか模糊としている。しかも群衆の中には、人間だった時の親戚や学校で教わった先生、教えた生徒がづらづら列んでいるのである。牡のようであったり、牝のようでもあり、なんだかややこしい。ここいらが「件」のクダンたる所以かも知れないし、本音の処を何重にも隠蔽するうちに、錯綜したと思えないでもない。 
 
あの世はあるのか、ないのか

 

今日は死ということがテーマで、いろんな角度から死が論じられてきたわけでございますけれども、私の話は当然何百万年前の話とか何万年前の話とかではなく、たかだか二千数百年前ぐらいからのお話でございます。現在、死ぬということを新聞とかで見ますと「永眠いたしました」という言葉が新聞上では一番流行っているわけです。この「永く眠る」ということは従来の伝統的な死ぬという用語とは違っているのではないかと思っておりますが、今はとにかくそれが一番人気があります。我々がお葬式に行って、一応「南無阿弥陀仏」ってお葬式させていただくんですけども、その後で大体御出棺の時におっしゃる御遺族の挨拶は「天国に行く」とかあるいは「草葉の陰」とかいうお話でして、あまり「極楽」とかいう言葉は御遺族から出てこないわけです。  
「永眠」あるいは「天国」、その言葉が今は人気がありますが、もともと日本では「往生」とかあるいは「入寂」、……往生は文字通り「往き生まれる」わけですからどこかに往って生まれるわけでして、あるいは入寂という「寂」は悟りの世界のことですから、悟りの世界に「入る」というのが入寂という言葉ですし、また、天に昇る「昇天」というのもキリスト教にはございますし、もっとも一般的には「他界」するという言葉が使われたんではないかと思います。  
それが何故今「永く眠る」という言葉になっているのか、それぞれにお考えいただきたいわけですけれども、それと並行してあの世を表す言葉も「天国」が今はお子さんにも人気があるようですが、もともと日本の伝統では「冥途(冥土)」です。冥土の「冥」は冥い(=暗い)という漢字ですので何か暗いところへ行くんじゃないかというイメージ……。あるいは「浄土」仏様の清らかな世界……、浄土っていうのは仏の世界と言う意味ですけれどもいっぱい仏さんがいらっしゃるなかで、阿弥陀仏の世界のことを「極楽」というように仏教語としては申してまいりました。  
しかし、先ほどからのお話でも極楽という言葉は今はどういうイメージで使われているかというと、決して阿弥陀仏の浄土というイメージではなくて、とにかくこの世よりもなんか他のしげな所、つまり英語でいう「paradise」なんでしょうか、そういう場所として使われております。ところが仏教語としての阿弥陀仏の浄土は、つまり極楽のことは英語で「pure land」と普通言うわけで、決して「paradise」ではありません。ですから、ピュアな国……、ピュアっていうのはどういうことかといいますと、要するに極楽と言う場所は普通におっしゃってるような楽しい、この世で出来なかったことが何となく出来る、……この世でゴルフし足りなかった方は向こうへ行ってゴルフをするとか、あるいはこの世で叶わなかった夢が叶う場所……。そのようなのが阿弥陀仏の浄土すなわち極楽ではなくて、あくまでも仏教語としての極楽はそこで仏様にならしていただける場所、と、そういう意味でございます。つまり悟りの世界……、この世で仏(ほとけ)になれないので阿弥陀仏の浄土に一旦往生させていただいてそこで成仏させていただく、悟らせていただく。つまり極楽って言う世界は決してゴルフをしに行くためにあるんじゃなくて、悟るために行くというのが仏教としての極楽の意味でございます。迷いの世界の中で悟れない人間が仏の悟りの世界に行かせていただいてそこで悟らせていただくというのが「極楽往生」ということの仏教としての意味ではないかと思います。  
日本人のあの世のイメージは仏教が説いてまいりました超越的な世界、この世ならざる所、仏の世界、……例えば極楽という世界は、西方十万億の仏の国を過ぎたところに世界があって名づけて極楽という。西の方に十万億の仏国土、仏様の浄土、それを過ぎたところに阿弥陀仏の浄土があると、こういうようにお経の中では語られてまいりました。日本人のあの世のイメージにはそればかりではなく「草葉の陰」などという言葉もございますし、あるいは我々がお盆に何故大文字山に火を燈すのかということを考えますと、これは決して西方浄土へ送るというよりは、つまりその方が生まれ育ってらっしゃった場所、その生活してらっしゃったところに近い山にその霊は鎮まっていくのであると。あるいは海辺の村ですと、鐘楼流しなどに代表されますように海の方に他界はあるんだと。つまり「この世」の地続きのところに「あの世」があると。「この世」の中にいわば「あの世」があるというようなイメージを従来日本人は持ってきたのではないかと思います。そういうことと対極的に仏教が、「この世」の中に「あの世」があるんじゃなくって全く違うところに、我々の預かり知らないところに浄土はあるんだと、そこで我々は仏にならしていただくんだと、こういうことを一方で説いてきたという歴史があるかと思います。  
そういうことを踏まえさせていただいて、二千数百年前まで、すなわちインドでお釈迦様が出られました頃までさかのぼらせていただきます。紀元前の5世紀から4世紀にかけてインドで釈迦なる方がおいでになった。そしてその方が悟りを開かれた。このお釈迦様が仏教を開く前提となりましたのがインド人の間で当時広がっておりました輪廻思想というものでございます。  
六道輪廻、生き物はぐるぐるぐるぐると生き死にを繰り返していくんだという考え方は別にお釈迦様が考えられたわけではなく、インド人の間で当時ポピュラーになっていた……。紀元前の7世紀とか6世紀、お釈迦様が出られる100年とか200年前にはっきりとしたそういう形を取って、それ以後インド人の心の中で普通に信じられるようになった。この六道輪廻思想、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天、という6つの世界を生き死にを繰り返していく。その生き物の生存状態のことを漢字では「有(う)」という言葉で表し、生有・本有・死有・中有というふうに周4つの有を繰り返していく。「生有」というのが生まれる瞬間、そして「本有」というのが一生涯、「死有」が死ぬ瞬間、そして次にどこかの世界に生まれるまでの間を「中有」、あるいは普通「中陰」という言葉で表しておりますが、この世での命を終えてあの世の生を受けるまでの状態を中有・中陰と申しまして、これが最長49日間あるとように普通インド人は考えた。49日たつとどこかに生まれる場所が決まる。この世の行いによって次にどこにうまれるのかが決まっていく。その六道の中に地獄道があり、餓鬼道があり、畜生道があり、阿修羅道があり、人間道があり、天道がある。よく仏教はあの世について地獄か極楽かということを説くんだというように言われますが、それは間違いでございます。つまり、まだ六道をぐるぐる廻っていくのから極楽へ生まれる、特に阿弥陀仏とご縁のあった方はもう六道をぐるぐる廻らないで極楽へ往生するんだと、これが私の考えますように、正しい仏教思想理解だと思います。つまり地獄か極楽かというように二者択一ではなくって、まだ六道をぐるぐる廻っていくのか極楽へ往生するのか、これが正しいあの世への往き方、というかあの世のイメージであろうと私は思っております。  
日本人は死者のことを「ホトケ」と普通呼んでまいりました。誰でも死んだら、ホトケと。このホトケはここで書きましたカタカナのホトケでございます、いわば。漢字の「佛(ブツ)」という言葉は目が覚めた方、心の目が覚めた人、悟りを開いた人、というのがブッダというサンスクリット語からきた「佛」という漢字で表されている言葉であります。  
したがって、日本人がずっと死者をホトケと呼んできた、そしてそのホトケの先にご先祖様というのがございます。死者は当初ホトケなんだけれども、死者が生者によって弔われることによってご先祖様になる。それが普通三十三回忌と考えられている。三十三回忌まで生者が死者を弔うと三十三回忌をもってそのホトケはご先祖様になられる。  
ところが日本人の従来の信仰心、……これは決して仏教そのものではなくて先祖崇拝を教といたします「先祖教」という宗教でございますが、この先祖教が室町時代中頃から顕著になり、ずっと江戸時代になって定着して、ほぼ高度経済成長期まで日本人の宗教心を形作ってまいりました。こういう先祖教においては生者が死者を弔うことによって、死者すなわち最初はホトケですが、それが三十三回忌まで弔われることによってご先祖様になられる。ところがそのご先祖様になったけれども、それはなりっぱなしではなくてまた何代かするとその家に生まれ変わってくると。人は生き、そしてホトケになりご先祖様になり、また人として生まれてくると。「あの人はだれそれの生まれ変わり」という言い方がございますが、そういうような中に少し断片が残っておりますように、つまりご先祖様になったらそれはなりっぱなしではなくてまた何代かするとその家に生まれてくると。こういう日本人の普通の宗教心、高度経済成長までの一般的な宗教心、それと別個に日本には仏教という宗教が伝統的にあったと、こういうように考えたほうがわかりやすいと思います。  
そういう先祖教に協力してきた仏教のことを普通「葬式仏教」というように申しております。この仏教というのは決して現代になって葬式仏教になったわけではなく、室町時代からずっと基本的に日本の仏教は葬式仏教だったと思います。これが先祖教という宗教心を持っている日本人にとってはきわめて有効な宗教であって、つまり仏教の儀式を借りて先祖教を信仰してきた。日本人の先祖教は決してだれが高開祖であるということもなく日本人の間で室町時代以降、つまり農業生産が飛躍的に拡大して家が続いていくようになって、そういう社会の中から何となく自然発生的に信仰されるようになった、それを先祖教というように民俗学者は名づけていると思いますが、こういう先祖教の流れと別個に仏教そのものの流れも並行してきたんではないかと思います。  
ですから日本人の中で、死んだら六道をぐるぐる行くんだとか、あるいは地獄へ行くんだとかそういう考え方とともに、先程申しましたホトケになってご先祖様になると、こういうような気持ちもずっと長く並行してあったんではないかと思います。どちらかといえば普通は、ホトケになってご先祖様になるというほうが強かったんではなかろうかと思います。お寺に行くと何となく地獄とか極楽とかを説かれて、そういうイメージもあの世には少なからず持ってこられたとは思いますが、一般的だったのは決して極楽……、仏教が説く極楽、西方、西の方の遠い遠い世界、ではなくって「あの世」は「この世」の中に地続きのところにあるというイメージできたんではないかと思います。  
その一つの証拠は、お墓参りのときに墓へ行って水を手向けるわけですけれども、なんで水を手向けるかというと要は生きていた空間、故郷を死者が忘れないようにするためであると、そのようにいわれております。特に産湯を使った水を死者に手向けるのが、その死者が故郷をいつまでも忘れず生者を見守りながら、また生者に弔われてご先祖様になっていくとされています。ですから日本人にとっての故郷とは何であったかといいますと、結局は、死者と生者が一緒に暮らしているという意識を持てる空間、これを日本人は長く故郷と呼んでまいりました。決して、山とか海とか川とか田んぼとかそういう風景を故郷という言葉はイメージしているのではなく、生きてる人間と死んだ人間がいっしょに暮らしてる場所。交流を持ちながら暮らしていると意識できる場所、それが日本人にとっての故郷というもんだったと思います。これが先程申しましたように、高度経済成長によって壊されてしまいました。一緒に親と子供が住むことは稀になりましたし、その同じ家の人間が同じ場所で一生暮らして、その近くに死者の霊がいて生きてる人間をいつも見守っているということが、高度経済成長以降は普通には信じられなくなったわけでございます。高度経済成長によって日本人の故郷は喪失したと申せるのではないかと思います。  
それが日本人の今までの「あの世」と「この世」の関係であったと思いますけれども、振り返って今日は法然院でせっかく聞いていただきますので、ご承知だと思いますが仏教のことを少し申させていただきます。仏教というのは、要するに「わたし」などというものはないんだと二千数百年前に釈迦という方が悟られた、これが仏教という宗教であると思います。つまり釈迦は何を悟ったかというと「縁起」ということをお悟りになりました。一言でいうと縁起という法……、法というのを真理といたしますと、縁起というこの世をつかさどっている真理を釈迦という方は悟られました。縁起というのは、すべての存在は因縁によって生じているのであって何物も独立して、いかなる存在も他とは無関係には存在できない、万物は現象として存在しているが実体としては存在していない、その時その時のわたしがいるのであって、赤ん坊のときのわたしと今のわたしは同じわたしではなく全く違うわたしでもない、一瞬前のわたしと今のわたしも全く違いもしないけど全く同じではないと。こういうことを「空」あるいは「無自性」、もの・ことが常に同一性を保ち続け、それ自身で存在するという本体、もしくは独立し孤立している実体――、こういう自性というのはないと仏教は考えてきたと思います。ですから変わらない魂などというのを仏教では認めません。魂という言葉でイメージされる何かわたしの中で不変の「我」というようなものはないのであって、常にその時その時の「わたし」。あるいは今現在のわたしであっても、皆様方お一人お一人にとってのわたしはある意味で違うわたしであると。誰かにとっての「わたし」と誰かにとっての「わたし」は違うのであるというように……。つまり、わたしなるものに変わらない実体を認めないというのが仏教という宗教というか、お釈迦様の悟りの一番の特徴だと思います。  
ですから、仏教においては神が何かを創造したということもございません。それぞれがお互いに支えあって存在しているだけだというのしかございません。縁起でございますので、始めに何かがあって何かを全部造りましたというようなことはございません。お互いがお互いを支えあっているだけであって、わたしが存在しているということは常に他者の存在が前提となっているということであると思います。  
ですからこの世があるのかないのか……。この世のわたし自身の存在が実体としてはないというわけですから、現象としてはあるが実体としてはないというようなことになります。今申し上げましたことは般若心経では「色即是空」といわれていることですが、――「色」(物質的存在には)「即ち是れ空」(実体がない)と、現象としてはあるが実体はない。しかし「色即是空」だけじゃなく般若心経は逆の「空即是色」も説いております。実体がないからこそ物質的に存在できるといっております。つまり、それぞれの存在にわたしなる実体がないので、それぞれの存在が今のようなあり方で存在できてるのだというのがこの世をつかさどっている真理ではないかと、その時その時の存在しかないのではないかと。  
そういうことを釈迦という方は二千数百年前におっしゃったと私は受け止めさせていただいておりますので、先程の内堀先生のお話ですと、「わたしというものがどんどん差異化しておりまして結局わたしというものにこだわるという気持ちが、私なりに申しますと非常に強くなってくるということにおいて、それぞれの人間がわたしの死というものをよりこだわって考えざるを得なくなっている」ということのようでございますけれども、もともと仏教ではこだわるなということしか教えておりません。「わたし」がないんだから「わたし」にもこだわらないし、「わたし」のものなどというのはどこにもない。「わたし」のものと思っているものは、「わたし」がなければそんなものはどこにもないはずですので、ただ「わたし」があると思っているから「わたし」のものがどこかにあるという理屈になるんだと思います。「わたし」があれば「わたし」の愛するものと「わたし」がどっちでもいいものができて、当然愛するものには執着していくわけでございます。ですから本来的に「無我」、我などというのはないのである、「諸法無我」という言葉を仏教では申します。諸々の法、……法というのは真理という意味もございますし、その真理がブッダ(悟られた方)の口をついてでますと、それが「教え」という意味にもなりますし、またこの世の我々一つ一つの存在が縁起の法によってこういう形で存在させられているんだとすれば、我々一個一個の存在も法と呼んでもよろしいと。このように仏教は考えてまいりました。ですから諸法無我というときの法は我々一個一個の存在という意味でございまして、諸々の存在には我という実体はないというのが仏教の旗印の一つになっております。  
そういう中で今日の最終的テーマは、「あの世はあるのか、ないのか」ということでございますけれども、インド人が輪廻思想を考えたときは、当然「この世」というのは「あの世」の一つだと考えたのでございましょう。前世があってこの今の世があるわけでございますので、当然この今の世が前世からいいますとあの世なのでございまして、そういう意味でこの世があるといえばあの世があるということになるのでございましょう。そういう輪廻という考え方、これが唯一、唯一といってもいいと思いますが東洋では倫理道徳をつかさどってきた思想なのであります。良いことをしたら良い報いがあって、悪いことをしたら悪い報いがありますよと。この世で悪いことをした人間はこの世ではそう大した処罰を受けなくっても、あの世でそれの報いが待っているんだと。このような六道輪廻というものを信じていたということが、おそらく東洋人の倫理道徳に大きな影響を与えていたと思いますけれども、これが近代以降だんだん信じられなくなってまいったようでございます。  
あの世はあるのか、ないのか。あの世はないというように考えるほうが、ある人によっては科学的だとおっしゃったりいたします。でも、科学というのはやはりこの世の我々が知っている範囲内のことをあるのかないのかと吟味できる学問であって、「あの世があるのか、ないのか」、あの世のことは科学でも証明も出来ないし否定も出来ないというように私は思っております。そういう意味で、あの世があると思うのも宗教的にですが信心なら、あの世がないと思うのも信心一つだとなろうかと思います。  
昔の方、昔というのはいろいろいえますが、例えば法然上人だったら法然上人、800年前当時の方は当然、神仏の存在というのは自明のことであって、法然上人がともかく阿弥陀仏を信ぜよとおっしゃったのは他の仏様や神様を信じないで阿弥陀仏を信じよという意味であったと思います。それが、日本では明治時代以降いろいろと神仏の存在が自明のことではなくなってまいりました。そういう中で、いったい神仏の存在とは何なのかということを明治以降の哲学者の方がお考えになってきたと思います。代表的なのが清沢満之という日本で最初の宗教哲学者といわれている方ですが、この方が神仏の存在は主観的事実だとおっしゃいました。わたしにとってそれが事実かということでございますから、わたしが結局あの世はあると思うか、ないと思うかだけである。当たり前のことのようですが、そういうことではないかと私も思います。あの世があると思いたいか思いたくないかということでございましょう。  
仏教という宗教は非常にメニューの豊富な宗教でございまして、極楽に往生しましょうという仏教があるかと思えば、決してそんなことを言わない、すべて空であるからあの世・極楽などというのはないのであるという仏教も当然あるのでございます。ですから仏教一つとりましてもあの世というのをあると思うかないと思うか幅の広さがございまして、自由でございます。要は、その方の思い、主観であるかと思います。  
法然上人が800年前に、「往生は一定と思えば一定、不定と思えば不定なり」という言葉をおっしゃっておられます。これは徒然草を書かれた兼行法師によっても非常に賞賛された言葉でございますけれども、往生は出来ると思ったら出来る、出来ないと思ったら出来ない。わたしが出来ると思うか出来ないと思うか、極楽往生したいのかしたくないのか、それ一つであるというようなことでございます。「あの世はあるのか、ないのか」それぞれお一人お一人でお考えくださいますようにお願いを申し上げます。つまり、あると思いたい人生なのかないと思いたい人生なのか、それはご自身が生きていかれる道、それこそ出会われる命とのご縁によって変わっていくことであろうと思いますので、今どう思ってらっしゃるかということとまた将来どう思われるかということも違うのではないかというように思っております。 
 
呑竜様

 

江戸初期の浄土宗の僧。号は源蓮社然誉大阿。武蔵国岩槻の人。慶長18年徳川家康に招かれて上野国(群馬県)太田の大光院を開山。当地の堕胎の風潮を嘆いて赤子を育て、多くの人々に尊崇され、「子育て呑竜」といわれた。(1556-1623)
大光院(だいこういん)
群馬県太田市金山町にある浄土宗の寺院である。山号は義重山。詳名は義重山大光院新田寺。通称「子育て呑龍」、「呑龍様」もしくは「呑龍さま」。東上州三十三観音特別札所、群馬七福神の弁財天。中島飛行機で開発された百式重爆撃機という航空機の愛称「呑龍」は同寺院の通称から名づけられたものである。
慶長18年(1613年)、徳川家康が先祖とする新田義重を祀るために呑龍を招聘して創建。境内裏には、新田義重や呑龍の墓がある。義重は九条兼実に従い法然上人に帰依した。建久6年(1195年)3月に寺尾城内に大光院を建立した。時を経て、家康は観智国師・土井利勝・成瀬正成に遺跡を探させ、墓石と礎石などをここに移した。
呑龍は当時、多くの子どもが間引かれて殺されていたことを悲しみ、これらの子どもを弟子として引き取って育てたため、後世の人々から子育て呑龍と慕われた。
大光院正面の大手門は徳川家康の大坂城落城の日当日に落成したため、吉祥門と名づけられたという。 
大光院と呑龍上人
「子育て呑龍」として広く世に知られる大光院は、「呑龍さま」と呼ばれて人々に親しまれています。その正式の名称は、「義重山新田寺大光院」であり、徳川氏の始祖と言われる新田義重をまつるお寺です。
慶長16年(1611)3月、前将軍の徳川家康は徳川氏一族の繁栄と天下泰平、さらに始祖義重の追善供養の為、先祖の地に菩提寺を建立する計画を立てました。
そこで家康は、この問題をかねてから尊敬している芝増上寺の観智国師に相談しました。その結果、菩提寺建立の適地として太田金山南麓の現在地が選ばれました。
翌17年の春、大光院の工事が始まり、およそ1年かかって本堂・方丈・庫裏などが竣工しました。
それと同時に開山の選任が検討され、観智国師の門弟で四哲の一人といわれる呑龍上人が就任することになりました。
呑龍は、弘治2年(1556)4月、武蔵野国埼玉郡一の割村(埼玉県春日部市)に生まれ、竜寿丸と名付けられました。竜寿丸は、2,3歳の頃から念仏を聞くとニコニコとうれしそうな顔をし、また7,8歳を過ぎた頃には友達を集めて泥で仏像を作り、念仏を唱えたそうです。13歳の春、竜寿丸は僧侶になる決心をし、修行の道に入りました。そして翌年の8月、得度して呑竜と称するようになりました。
大光院に入山した呑竜上人は、看経カンキン・講義・説法などに力をいれ、また因果応報を熱心に説きました。そのため上人の学徳を慕う僧侶1000余人が大光院に集まり、また周辺村々の農民も上人の教えに服したので、寺運は大いに栄えました。
しかし、戦国の余じんのくすぶる乱世において人心は乱れ、そのうえに天災が続いたので人々の生活は困難をきわめました。そのために捨て子や間引き、子殺しなどの非道な行為が平然と行われました。この事態を憂えた上人は、精力的に村々を回って人々を訓戒しましたが、効果はなかなか上がりませんでした。そのため上人は、捨て子や貧しい人々の子供を7歳になるまで上人の弟子という名目で寺に受け入れ、寺の費用で養育しました。
元和9年(1623)夏、上人の衰弱が目立つようになりました。8月3日、弟子や関係者を枕辺に集めた上人は、「来る9日正午に往生をとげる。その時には雷鳴が鳴り渡るであろう」と語りました。そして9日の正午、仏前に合掌しながら入寂しました。 
 
倶生神をめぐって 1

 

倶生神(くしょうじん) [諸解説]
1 肩に宿る神様 「人間が生まれてから死ぬまでの一生の間、人間の両肩にとまって人間がした良いこと悪いことを全部記録し、そしてその記録を閻魔さんに伝える仏さんである。」
2 常に人の肩にいて善悪の行動を記録し、死後、閻魔王に報告するとされる同生・同名という二神。インドでは冥界を司る双生児神だが中国・日本で十王信仰と結びつき、十王図では閻魔王の前に立つ人頭杖の上に乗る視目嗅鼻みるめかぐはなとよばれる二つの鬼の首として描かれる。
3 人が生まれるときに倶ともに生じ、常にその人の両肩にあって、その人の善悪の行動をしるして閻魔王えんまおうに報告するという同名どうみょう、同生どうしょうの二神のこと。同生神ともいう。経によっては倶生神ぐしょうじんを一人といい、男女なんにょの二人にするなど一様ではない。男女の二神の場合は、同名は男神で左肩にあって善業をしるし、同生は女神で右肩にあって悪業をしるすという。華厳経には「人の生まるより二種の天あり、常随じょうずい侍衛じえいす。一を同生といい、二を同名と曰う。天はつねに人を見るも、人は天を見ざるがごとし」とあり、十王経には「そのときには世尊、大衆に告げていわく、もろもろの衆生、同生神、魔奴闍耶まぬじややというものあり。左の神は悪を記す。形、羅刹らせつのごとし。つねに随って離れず、ことごとく小悪をも記す。右の神は善を記す。形、吉祥きちじょうのごとし。つねに随って離れず、皆微善をも録す。総じて双童そうどうと名づく。亡人の先身の、もしは福、もしは罪の諸業を皆書して尽くす閻魔えんま法王に奉与す。其王、簿をもって亡人を推問すいもんし、、所作を算計し、悪に随いてこれを断分す」とある。薬師経には「その人の屍形しぎょうは臥ふして本処にあり、閻魔の使人しにん、その神識を引いて閻魔えんま法王の前に置く、この人の背後に同生神あり、その所作のもしは罪・もしは福に随っていっさい皆書し、ことごとく持して閻魔えんま法王に授与す。時に閻魔法王、その人に推問し、所作を算計し、善に随い悪に随って之を処分す」とある。薬師琉璃るり光如来こうにょらい本願功徳経には「もろもろの有情には倶生ぐしょう神じん有って、その所作に随って、もしは罪、もしは福、皆つぶさにこれを書して、ことごとく持して閻えん魔ま法王に授与す。そのとき彼の王は、その人に推問して所作を計算し、その罪福に随ってこれを処断す」とある。天台大師の摩訶まか止観しかん巻八に「同名同生天はこれ神、よく人を守護す。心固ければすなわち強し、身の神もなおしかり」とあり、妙楽みょうらく大師の止観しかん輔行ぶぎょう伝弘決でんぐけつには、更にこれを注釈して「身と名を同じくし、身と生を同じくするを名づけて天神となす、自然じねんあるがゆえにこれを名づけて天となす、つねに人を守るといえども、かならず心の固かたきによりて神の守りすなわちつよし、ないし身の両肩の神、なおつねに人を護る」といい、吉蔵きちぞうの無量寿経義疏に「一切衆生に皆二神あり、一を同生と名づけ、二を同名と名づく。同生は女にして右肩の上にありてその作悪を書し、同名は男にして、左肩の上にありてその作善を書し、四天善神は一月に六反その名籍を録して大王に奏上す、地獄もまたしかり」とある。これらをうけて、日蓮大聖人は四条金吾殿女房御返事に「又人の身には左右のかた肩あり、この方に二つの神をはします一をば同名・二をば同生と申す、此の二つの神は梵天ぼんてん・帝釈たいしゃく・日月の人をまほらせんがため母の腹の内に入りしよりこのかた一生をわるまで影のごとく眼のごとく・つき随いて候が、人の悪をつくり善をなしなむどし候をば・つゆちりばかりも・のこさず天にう訴たへまいらせ候なるぞ」と述べられ、更に、同生同名御書には「人の身には同生同名と申す二ふたりのつか使ひを天生うまるる時よりつけさせ給いて影の身に・したがうがごとく須臾しゆゆも・はなれず、大罪・小罪・大功徳・小功徳すこしも・おとさず、かはる・かはる天にの上ぼて申し候と仏を説き給う」と仰せである。具生神とは、生命自身のもっている因果の法理を象徴化したものと考えることができる。
4 インド神話から仏教に受け継がれた神。誕生から死に至るまで人間の両肩に乗ってその行為を記録し、閻魔王えんまおうに報告するという。女神「同生」が悪を記録し、男神「同名」が善を記録する。
5 倶生とは、倶生起(くしょうき)の略で、本来は生まれると同時に生起する煩悩を意味する。人が生まれると同時に生まれ、常にその人の両肩に在って、昼夜などの区別なく善悪の行動を記録して、その人の死後に閻魔大王へ報告する。左肩にある男神を同名(どうめい)といい、善行を記録し、右肩にある女神を同生(どうしょう)といい、悪行を記録するという。インドでは冥界を司る双生児の神であったが、仏教が中国に伝わると、司命などの中国固有の思想などと習合し、また中国で成立した偽経の中において様々な性格を付加されるに至った。また日本に伝えられるや、十王信仰と共に知られるようになり、絵画や彫刻などでも描写されている。 
三友健容博士のコメント  
「生まれつき背後に結びついている」というのが、守護することであるというならば、悪人に生まれつき背後に結びついている倶生神は悪人を守護する神ということになるが、あくまでも個人の善悪の諸行を天に報告する神が原意であろう。すなわち長尾氏は、『世記経』を取り上げて(「漢訳仏典における「倶生神」の解釈」『パーリ学仏教文化学』58頁)、この記述がディーガニカーヤ(DN)にないことから、DNのあとに増補されたものとし、『世記経』の伝承者とは異なる思想的立場の求道者たちがいて、その人々は『守護鬼』の存在を否定していると述べ、『薬師経』の伝承者たちが、『世記経』の同じ立場に立つているとすれば…そのひとの守り神だということになる。と疑義的に推定している通り、ショーペンの言う「生まれつき背後に結びついたデーヴァター」が、閻魔に報告するという立場から守護する神に変わるとすれば、悪人にもデーヴァターがあるのだから、このデーヴァターは悪人も守護するという矛盾に突き当たることになる。それゆえ、ショーペンがどういおうと勝手だが、本来のデーヴァターは鬼神などに邪魔されることなく善悪の行為をあやまりなく記録し閻魔に報告する者というのが原意であることは明らかである。  
倶生神について日蓮聖人は、  
「人には必二の天、影の如にそひ(添)て候。所謂一をば同生天と云、二をば同名天と申。左右の肩にそひて人を守護すれば、失なき者をば天もあやまつ事なし。況や善人におひてをや。されば妙楽大師のたまはく、必仮心固神守則強等[云云]。人の心かたければ、神のまほり必つよしとこそ候へ。 」「 同生同名と申て二の天、生れしよりこのかた、左右のかた(肩)に守護するゆえに、失なくて鬼神あだむことなし。」「日本国を捨て、同生同名も国中の人を離れ、天照大神・八幡大菩薩、いかでかこの国を守護せん。 」 
等といわれている。  
『乙御前御消息』に仰せの「失なき者をば天もあやまつ事なし」の「守護」というのは、鬼神などに邪魔されず、そのひとの善悪諸行すペてを誤りなく天に報告するという意味での守護であって、霊断の「倶生霊神符」をもっているひとを無条件に守護するということでは断じてない。  
このように理解すれば、おのずから、『曽谷二郎入道殿御報』の文章は「同生同名も国中の人を離れ」たがために、正確に天に報告することができず、天照太神・八幡大菩薩も善悪の判断区別ができないのだから、どうしてこの国を守護することができようか、ということになる。 」  
三友博士のコメントによると、長尾氏が「『薬師経』の伝承者たちが、『世記経』の同じ立場に立つているとすれば…そのひとの守り神だということになる。」と論じているそうですが、この「倶生神はそのひとの守り神だ」と言う思想の系譜に『華厳経入法界品第三十四之一』や天台大師や宗祖は立っていると言えます。  
三友博士は『乙御前御消息』や『種種御振舞御書』に示している倶生神の守護は「鬼神などに邪魔されず、そのひとの善悪諸行すべてを誤りなく天に報告するという意味での守護である」と限定していますが果たしてそうでしょうか?。  
天台大師の「心は是れ身の主なり。同名・同生天は是れ神、能く人を守護す。心固ければ則ち強し、身の神も尚爾り。況んや道場の神をや。」 
との教示は、「観病患境」の中の文で「若し、善く四三昧を修して、調和所を得れば、道力を以ての故に必ず衆病無し、設ひ少しく違反すとも冥力扶持して自ずから当に銷癒すべし。仮令(たとひ)、衆障峰起すとも当に死を推して命に殉ふべし、残生余息、誓って道場に畢る、捨心決定せば何の罪か滅せざらん、何の業か転ぜざらん。・・・心は是れ身の主なり。同名・同生天は是れ神、能く人を守護す。心固ければ則ち強し、身の神も尚爾り。況んや道場の神をや。・・・但だ一心に三昧を修すれば衆病銷す。」と教示している中の文です。  
池田魯参教授が次のように現代語訳しています。  
「もしも四種三昧を行じて、あるべきように調和するときは、修行の力によって必ず病はなくなるであろう。仮りに少しく違反するようなことがあっても冥助を受けて自然に癒えることになるであろう。たとえ諸障が蜂起するようなことがあっても、死を賭して仏の教えに殉ずる決意で、残された命を道場で終えようと誓い、すべてを捨てる覚悟で心を決めれば、どんな罪も滅しないはずはなく、どんな業も転じないはずはないのである。陳鍼や開善がそうであった。云云。四大や五臓の病も調い治らないことはないはずである。たとえば小鬼が帝釈天の堂を敬い避けるように、道場の神が偉大であるから病は妄りに侵入することはないのである。また城主が剛ければ守る者も強く、城主が弱ければ守る者は逃げ出すようなものである。 心は身の主であり、「同じ名の、同じ生まれの二人の天の神が人を守護している」のであるから、心が固いとこの身の二神も同様に強くなるのであり、道場の神まで強くなるのである。例えば、『大智度論』で精進を釈して、鬼が五処に黏ずること云々。を示しているようなものである。ただ一心に三昧を修めれば諸病は治るのである。」  
天台大師は、倶生神の守護を衆病・衆障の除去を助けてくれる働きをすると見ていたことがわかります。  
『乙御前御消息』に見える倶生神の守護も「鬼神などに邪魔されず、そのひとの善悪諸行すペてを誤りなく天に報告するという意味での守護である」と三友博士のように、単なる伝達神に過ぎないと限定的に見ることは文意に外れていることが引用の文の前後を読めば分かります。  
この文の前後も揚げれば、  
「羅什三蔵は法華経を渡し給しかば、毘沙門天王は無量の兵士をして葱嶺を送し也。道昭法師野中にして法華経をよみしかば、無量の虎来て守護しき。此も又彼にはかはるべからず。地には三十六祇、天には二十八宿まほらせ給上、人には必二の天、影の如にそひ(添)て候。所謂一をば同生天と云、二をば同名天と申。左右の肩にそひて人を守護すれば、失なき者をば天もあやまつ事なし。況や善人におひてをや。されば妙楽大師のたまはく、必仮心固神守則強等[云云]。人の心かたければ、神のまほり必つよしとこそ候へ。是は御ために申ぞ。古への御心ざし申計なし。其よりも今一重強盛に御志あるべし。其時は弥々十羅刹女の御まほりもつよかるべしとおぼすべし。例には他を引べからず。日蓮をば日本国の上一人より下万民に至まで一人もなくあや(失)またんとせしかども、今までかう(斯)て候事は一人なれども心のつよき故なるべし、とおぼすべし。」 です。  
口語訳は 「法華経は女子に対しては、暗夜を行く時には灯火となり、大海を渡る折は大船となり、又怖しい場所では護となると誓はれてゐる。羅什三蔵が中國へ法華経を渡された時、毘沙門天王は無数の兵士を遣してこの三蔵を守り、彼の葱嶺の険を送られたと云ひ、又道昭法師が中国の曠野で法華経を読誦した時は、数限りない虎が現れて護ったと傅へらる。御許も亦羅什等のやうに、神佛が守護して下さるに相違ない。地には三十六神があり、天には二十八宿があって守られるばかりではなく、誰しも人には必ず二神が影の如く添うてゐる。即ち同生天と同名天がそれである。その二神が人の左右の肩に居られて守護ずるから、罪の無い者は天も罰ずることは出来ない。まして善人に罰無きことは言を待たない。それ故、妙楽大師は「人の志操が堅ければ堅い程、神の守護は必ず強い」と述べられてゐる。斯く申ずのは、御許の為めに申ずのである。日頃の法華信仰の御志は今更云ふまでもなく堅固であるが、其よりも尚一層強く信仰せられよ。其時は愈々十羅刹女の御守も強くなることゝ確信されるがよい。その志堅ければ神佛の守護も強い例を、遠く他人に求めるまでもない。この日蓮をば、日本國の上一人より下萬民に至るまで、一人も残らず害しようとしたが、今日まで、斯様に無事で居ることは、日蓮一人ではあるが、法華経に捧ける心が強いから、神佛が守護されたものと思はれるがよい。 」と訳されています。 
そして注に「4 華厳経(旧訳巻四十四)『入法界品第三十四之一』に『人の生に従いて、二種の天有り、常に隨って侍衛せり。一には同生と曰ひ、二には同名と曰ふ。天は常に人を見るも、人は天を見ず』とあり、聖祖はこれに依られたものらしい。」と注記しています。  
三友博士は「日本国を捨て、同生同名も国中の人を離れ、天照太神・八幡大菩薩、いかでかこの国を守護せん」『曽谷二郎入道殿御報』(定遺一八七五頁)の文意を切り文して恣意的に読んでいます。  
この文は、「日本国の挙ぐるところの人々の重罪はなお大石(だいせき)のごとし。定めて梵釈(ぼんしやく)、日本国を捨て、同生同名(どうしようどうみよう)も国中の人を離れ、天照太神(てんしようだいじん)・八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、いかでかこの国を守護せん。」とある部分です。  
「若し爾らば此の大菩薩は宝殿をやきて天にのぼり給うとも、法華経の行者日本国に有るならば其の所に栖み給うべし。」「正直の人の頂の候はねば居処なき故に栖なくして天にのぼり給いけるなり、」  
との御書を参照して読めば、「梵天や帝釈が日本国を捨て去り、倶生神も各人から離れ守護を止めてしまう。同様に天照大神・八幡大菩薩も守護してくれないであろう」との文意と見るべきです。  
ですから文意は「梵天や帝釈や倶生神も日本国を捨て去り、離れてしまうし、同じく天照大神・八幡大菩薩も国を守護することをやめてしまうのである」と、いわゆる神天上の一片を述べている箇所です。そもそも「倶生神の報告伝達を受けなければ天照大神・八幡大菩薩は国を護らない」と言うような天照大神・八幡大菩薩観を宗祖が懐いていた文証は無いでしょう。  
だから、『日蓮聖人御遺文講義』においても、この箇所を  
「これを日本国の人々の謗法の重罪に比較すれば、大石と軽毛とのおおいなる異があるのである。かく正法を国民が謗るために、正法守護の梵天や帝釈も日本国を捨て、一生身に添うて守って下さる同生同名神も、国中の人を離れ、天照大神・八幡大菩薩もこの国を守護しては下さらないである。(以上は謗法罪の重科なることを述べ、諸天善神、守護せざることを明かされたのである)」と意訳しているのでしょう。  
「同生同名も国中の人を離れ」たがために、正確に天に報告することができず、天照太神・八幡大菩薩も善悪の判断区別ができないのだから、どうしてこの国を守護することができようか、というような文意ではないでしょう。  
三友博士は 「生まれつき背後に結びついている」というのが、守護することであるというならば、悪人に生まれつき背後に結びついている倶生神は悪人を守護する神ということになるが、あくまでも個人の善悪の諸行を天に報告する神が原意であろう。」 と述べていますが、守護の働きの中には「常に随って、その者が善道に向くように教導しようとしている」こともあると考えるべきだと思います。  
と言うのは、倶生神が正神であれば、「我常に衆生の道を行じ道を行ぜざるを知って度すべき所に随って為めに種々の法を説く」との仏の精神や『大智度論巻第八』の文「今、十方の諸仏は、常に経法を説き、常に化仏を遣わして、十方世界に至り、六波羅蜜を説きたまへども、罪業の盲聾の故に、法の声を聞かず。是(ここ)を以ての故に尽く聞見せず、復た聖人は大慈心有りと雖も、皆な聞き皆な見しむること能わず。若し罪滅びんと欲し、福将(まさ)に生ぜんとすれば、是の時に乃ち仏を見、法を聞くを得ん。」に見える「罪業の者をも何とかして教導してやろう」との仏の慈悲に倣って、受け持ちの者が悪人ならば、その者を善導しようと努めるはずだからです。  
山崎師が   
「日蓮聖人御遺文を拝読すると、同名同生の二神は、「同名同生の天是れ能く人を守護す」と「天にうたへまいらせ候」と説かれているが、この守護とは梵天帝釈日月に知らせることにより間接的に善行者の守護となる「告げ知らせる神」と考えられる。」 
と述べて、三友博士と同じく倶生神を「告げ知らせる神」すなわち単なる伝達神としていますが、私が上に述べたように、天台大師や日蓮聖人は、倶生神を各人を守護する身の神としているし、『華厳経・入法界品第三十四之一』に『常に隨って侍衛せり」と言って、各人を侍衛すなわち守護している神と言っているのです。  
また山崎師は  
「また、生まれると同時に身に添うている神であるならば「倶生神符」をわざわざ身に着ける必要は無い、ということになる。」 
と言っていますが、宗祖や直檀が倶生神をお守りにして身に着けた事跡はないから、「必ずしもお守りの形にして着ける必要性はない」と前にも私は書いています。しかし、お守りと言う形にして身に着けることを強いて否定するまでも無いと私は主張しているのです。  
月に一度でも倶生神符を受けに寺院教会結社に集まり、御本尊の前で読経唱題し、法話を聴聞することになる。  
お守りと言う形にして着帯すれば「身の神である倶生神が常に護っていてくれるのだ」との意識を忘れにくくする。  
などの利点があるので、お守りと言う形にして身に着けることを強いて否定するまでも無いと私は主張しているのです。  
山崎師は 
「次に「倶生神」。高佐日煌師は、戦前から「倶生神」について述べている。『聖衆読本』には、我身の無事安泰に就いては、寸時も離れず傍に附いて御守護下さる、倶生霊神にお任せして置けば宜しいのであります。此の守護神は太神が我等を生み給うと共に遣わされて云々とあり、『皇道仏教読本』には、世界の群類は理として申せば天之御中主神の胎中から生まれたのもので、伊弉諾、伊弉冊の二柱はその神業を直接に行われた遠祖であってこの御神を倶生の神と申すとある。このように、高佐師がいう「倶生神」は、天之御中主神もしくは天照大神という本体・根源・創造主から生まれたものである。高佐師がいう「倶生神」と、日蓮聖人御遺文に記載された「倶生神」と名が同じだと関係があるように錯覚しているかもしれないが「法華思想の範疇の倶生神」と、「創造主から生まれたという外道の倶生神」とは天地の相違で両者は全くの無関係である」 
といって倶生神符を貶していますが、霊断師会の『新日蓮教学概論』にも、こんな馬鹿げた倶生神観を陳述していないし、倶生神符を配布している教師の中にも、こんな馬鹿げた倶生神観を懐いている者など居ないでしょう。  
言うまでもなく戦時中の時代迎合の高佐師の主張は大いに批判されるべきでものです。高佐師も戦後は転向して、馬鹿げた倶生神観を披瀝主張していないし、現在の霊断師会においても高佐師の戦時中の倶生神観を継承していないでしょう。もしも、現在においても霊断師会や倶生神符を配布している教師が、戦時中の高佐師の倶生神観のもとに倶生神符を配布しているならば、その倶生神観を大いに貶しても良いでしょう。  
しかし、戦時中の高佐師の倶生神観のもとに倶生神符を配布している者など居ない現在において、戦時中の高佐師の倶生神観を持ち出して倶生神符その物を貶すことは大いに筋違いでしょう。 
 
「東家秘伝」 / 「神世七代」考・倶生神 2

 

北畠親房「東家秘伝」中の「日本書紀」神世七代段に関する解釈の文である。北畠親房は、その神世七代に関する解釈を展開するにあたって、「日本書紀」文中の附註が元々述べている解釈を「常説」として認めつつ、自らが述べる説を「秘説」として位置付けた。  
 
「日本書紀は、(中略)古来、この紀を読む者は、或いは秘して其の伝を絶やし、或いは暗して其の致を失ふ。故に、用心の道を明らかにし、理世の術を識らんと欲する者は、迥かに印度の釈典を訪ね、遠く支那の書史に決するのみ。予久しくわが国の旧史を覧て、粗此の道の所在、天地造化の根元、神皇授受の因起を了る。其の理玄妙。其の詔明白。此を異域の道に検するに、果然、秋毫の異なること無し、凡そ厥の陰陽の道、造化の端、始自り終わりに至るまで、五運を離ること無し。五運の消息、終わって又始まる。当に天壌と与に窮まり無かるべき者、蓋し此の道也。是を以て、粗神書の明文に拠り、敢えて聊か愚管の見を勒す。文筆削せず。心を立つるを致と為す。都て十箇条、命けて東家秘伝と曰ふ。(中略)  
第三、陰陽初判、一物中に生れり也。  
又曰く、天地之中、一物生れり。状葦牙の如し。便ち化りて神と為る。國常立尊と号く。  
解曰。天地之中生一物。状若葦牙。便化為神。号國常立尊ト云ウハ。(略)〔此中央ノ五位ニ相応シテ化生シ給へル神也〕元氣ヨリ萌牙シ。五大ヲ化生シ給へリ。此神五大ヲ一身ニ備へ給へリ。然而獨立尊ニ坐ス。五徳ノ一以テ不可名之故天地ノ倶生神トモ申ス也。  
第四、次に國狭槌尊。次に豊斟淳尊。凡三神坐す矣 國常立尊を加へ奉る。乾道獨り化りて此の純男を成す所以なり。次に埿土煮尊。沙土煮尊。次に大戸之道尊。大苫辺尊。次に面足尊。  
惶根尊。乾坤の道相参り而して化りて男女を成す所以なり。  
解曰。常説ニハ。國常立ヨリ次第ニ化生ス。上三代ハ純男。次三代ハ陰陽。形已ニ著レテ。  
其態無シト思ヘリ。秘説ニハ。國常立ヲ五徳ノ神ニテ代ノ次第ニハ非ル也。此五尊ノ出生シ給へルコト。又五行ノ出生ニテ料簡シ奉ルべシ。   
第五、陰陽の二神、人物を産生む。  
次に神あり。神伊弉諾尊、伊弉冊尊云々。  
解曰。上來ノ五神ハ五行ノ精妙ナル処也。此五徳ト陰陽ノ二神ヲ造化ノ元祖ト云給へル。  
此ヲイサナキイサナミト申ス。(略)天地倶生神ハ和魂也。中間ノ五神ハ五行ノ徳也。[幸魂ハ此義歟]陰陽二神ハ荒魂也。次第ヲ約メテ七代ト称スレドモ実ニ二代也。七代十一神坐ス也。  
第六、五行を変易して、八卦を建立つ。  
乾 坤 坎 離 震 艮 巽 兌  
解曰。今此八卦ヲ建立スル。我國ノ説ニハ見エズ。而其理ハ炳焉也。五方ノ位ヲ成シ了レバ。四維ノ道ハ随テ有リ。(略)我國ノ神道ニ配当スベシ。五行ノ八神ニテ其義ヲ成スベキナリ。陰陽倶生シテ神中央ニ在テ不動。〔國常立ノ神ノ御事也。中央ノ五地ノ極ニ配ル右ニ記之了。〕故水火木金土ノ五行八神ハ八方ニ居ル。(略)五徳ノ神ヲ五方ニ安ジテ。然後八位ヲ成スベシ。所謂五徳者。(図略) 八位者。(図略)  
上行ノ五行八卦ノ配当ハ。恐是今案也。然而五行ヲ以テ之ヲ推セバ無過失也。(略)故陰陽二神磤馭盧島降リ給ヒテ。八尋殿ヲ見立テ。即チ大八洲國ヲ産生ス。又日像ノ寶鏡ヲ作テハ八咫鏡ト名付ケ。(略)甚深ノ義不可勝計矣。」 
倶生神1  
人の善悪を記録し死後に閻魔大王に報告するという2人の神のこと。  
倶生とは、倶生起(くしょうき)の略で、本来は生まれると同時に生起する煩悩を意味する。人が生まれると同時に生まれ、常にその人の両肩に在って、昼夜などの区別なく善悪の行動を記録して、その人の死後に閻魔大王へ報告する。左肩にある男神を同名(どうめい)といい、善行を記録し、右肩にある女神を同生(どうしょう)といい、悪行を記録するという。  
インドでは冥界を司る双生児の神であったが、仏教が中国に伝わると、司命などの中国固有の思想などと習合し、また中国で成立した偽経の中において様々な性格を付加されるに至った。また日本に伝えられるや、十王信仰と共に知られるようになり、絵画や彫刻などでも描写されている。  
倶生神2  
常に人の肩にいて善悪の行動を記録し、死後、閻魔王に報告するとされる同生・同名という二神。インドでは冥界を司る双生児神だが中国・日本で十王信仰と結びつき、十王図では閻魔王の前に立つ人頭杖の上に乗る視目嗅鼻(みるめかぐはな)とよばれる二つの鬼の首として描かれる。  
倶生神3  
人が生まれるときに倶(とも)に生じ、常にその人の両肩にあって、その人の善悪の行動をしるして閻魔王に報告するという同名、同生の二神のこと。同生神ともいう。経によっては倶生神(ぐしょうじん)を一人といい、男女(なんにょ)の二人にするなど一様ではない。男女の二神の場合は、同名は男神で左肩にあって善業をしるし、同生は女神で右肩にあって悪業をしるすという。華厳経には「人の生まるより二種の天あり、常随(じょうずい)侍衛(じえい)す。一を同生といい、二を同名と曰う。天はつねに人を見るも、人は天を見ざるがごとし」とあり、十王経には「そのときには世尊、大衆に告げていわく、もろもろの衆生、同生神、魔奴闍耶(まぬじやや)というものあり。左の神は悪を記す。形、羅刹(らせつ)のごとし。つねに随って離れず、ことごとく小悪をも記す。右の神は善を記す。形、吉祥(きちじょう)のごとし。つねに随って離れず、皆微善をも録す。総じて双童(そうどう)と名づく。亡人の先身の、もしは福、もしは罪の諸業を皆書して尽くす閻魔法王に奉与す。其王、簿をもって亡人を推問し、、所作を算計し、悪に随いてこれを断分す」とある。薬師経には「その人の屍形(しぎょう)は臥(ふ)して本処にあり、閻魔の使人(しにん)、その神識を引いて閻魔法王の前に置く、この人の背後に同生神あり、その所作のもしは罪・もしは福に随っていっさい皆書し、ことごとく持して閻魔(えんま)法王に授与す。時に閻魔法王、その人に推問し、所作を算計し、善に随い悪に随って之を処分す」とある。薬師琉璃(るり)光如来(こうにょらい)本願功徳経には「もろもろの有情には倶生(ぐしょう)神(じん)有って、その所作に随って、もしは罪、もしは福、皆つぶさにこれを書して、ことごとく持して閻魔法王に授与す。そのとき彼の王は、その人に推問して所作を計算し、その罪福に随ってこれを処断す」とある。  
天台大師の摩訶(まか)止観(しかん)巻八に「同名同生天はこれ神、よく人を守護す。心固ければすなわち強し、身の神もなおしかり」とあり、妙楽(みょうらく)大師の止観(しかん)輔行(ぶぎょう)伝弘決(でんぐけつ)には、更にこれを注釈して「身と名を同じくし、身と生を同じくするを名づけて天神となす、自然(じねん)あるがゆえにこれを名づけて天となす、つねに人を守るといえども、かならず心の固(かたき)によりて神の守りすなわちつよし、ないし身の両肩の神、なおつねに人を護る」といい、吉蔵(きちぞう)の無量寿経義疏に「一切衆生に皆二神あり、一を同生と名づけ、二を同名と名づく。同生は女にして右肩の上にありてその作悪を書し、同名は男にして、左肩の上にありてその作善を書し、四天善神は一月に六反その名籍を録して大王に奏上す、地獄もまたしかり」とある。これらをうけて、日蓮大聖人は四条金吾殿女房御返事に「又人の身には左右の肩あり、この方に二つの神をはします一をば同名・二をば同生と申す、此の二つの神は梵天・帝釈・日月の人をまほらせんがため母の腹の内に入りしよりこのかた一生をわるまで影のごとく眼のごとく・つき随いて候が、人の悪をつくり善をなしなむどし候をば・つゆちりばかりも・のこさず天に訴たへまいらせ候なるぞ」と述べられ、更に、同生同名御書には「人の身には同生同名と申す二(ふたり)の使ひを天生(うま)るる時よりつけさせ給いて影の身に・したがうがごとく須臾(しゆゆ)も・はなれず、大罪・小罪・大功徳・小功徳すこしも・おとさず、かはる・かはる天にの(上)ぼて申し候と仏を説き給う」と仰せである。具生神とは、生命自身のもっている因果の法理を象徴化したものと考えることができる。 
閻魔参り  
浮世絵「美南見」は品川の遊郭。閻魔の斎日の風景。例年1月16日と7月16日は閻魔の斎日として品川の東海寺は山門を開いて信徒を入れ、人々であふれたという。この絵は閻魔参詣の人々が東海寺の入り口に近い柵門外の牛頭天王社の近くを通る場面と説明されています。  
江戸時代「閻魔参り」という歳時がありました。当時の人々は皆どこかの寺に所属しており、その寺ではどんな宗派も「極楽往生」という、死後極楽浄土に行けるのだという教えを説いていました。「極楽往生」出来ない場合、という対比として経典の中で「地獄」という場を説明していたのです。  
「悪業や罪を犯す人間は地獄に落ちる」という戒めはずっと以前からありました。この地獄が具体的に形成されたのが「往生要集」で895年に完成され、その説明は今日まで続いています  
ここまでは仏教の教えですが、それとは別に中国唐末から始まる「十王信仰」というのがあり、これによると地獄には「十王」がいて、「閻魔王」はその一人と説明されていました。その後日本にその経典も普及し、さらに「閻魔王」が「閻魔大王」となり、「死者を極楽浄土に送るか地獄に送るかを決めるのは閻魔大王様だ」となったのであります。  
江戸の人々は普通の仏教だけでは心もとなく思い、仏様と閻魔様に二股をかけ「極楽往生」を願ったのでしょうか、それともちょいとした罪を毎年閻魔様に懺悔することにより帳消しにしてもらおうと思ったのでしょうか、その辺はわかりませんが「閻魔参り」は盛んだったようであります。以下「閻魔様について」と「閻魔参りのお寺」をご紹介します。  
正月十六日 / 閻魔参 世にえんまの斎日という。  
浅草御蔵前長延寺(閻魔丈六倶生神脱衣婆立像)、同大円寺十王堂、浅草寺奥山(並脱衣婆在、虫歯病者祈願す)、同寺中正智院寝釈迦堂内、浅草誓願寺中西慶院、下谷広小路常楽院、下谷坂本善養寺(丈六)、下谷金杉背尊寺(並脱衣婆)、湯島円満寺(並脱衣婆)、本郷六町目法眞寺内、本銀町四丁目観音内(並脱衣婆)、茅場町薬師境内、深川寺町法乗院(十王倶生神脱衣婆)、同霊巌寺中開善院(並脱衣婆)、同八幡宮境内観音堂の内、本所回向院(並脱衣婆)馬頭観音の堂へ十王像地獄の畫幅を掛る、同霊山寺、同法恩寺中大教院、同北割下水花厳(けごん)院、同五ツ目羅漢寺三帀(そう)堂の内、芝増上寺山内(蓮池の向也、倶生神在)、同花岳院地蔵堂内、芝金地院(石像霊験の像なり、煎茶いり豆を拕く)、西ノ窪天徳寺中随養院(木像)・栄立院(石像)、麻布一本松長伝寺(石像)、六本木崇願寺(十王並脱衣婆)、目黒不動尊境内地蔵堂内(脱衣婆)、目黒安養院(十王、脱衣婆)、渋谷長谷寺観音堂内、三田寺町実相寺境内、同四丁目春林寺観音堂、高輪如来寺本堂内、南品川長徳寺、牛込通寺町養善院(並脱衣婆)、同原町松雲寺境内、小日向桜木町還国寺(木像石像並脱衣婆)、同上水ばた日輪寺内、小石川富坂善雄寺、市谷柳町光徳院、市谷八幡宮境内(石坂右)、同谷町地福院、薬王寺、雑司ヶ谷玄浄院法明寺中、駒込小苗木(おなき)縄手正行寺(並脱衣婆)、同寺町光源寺大観音内(並脱衣婆)、巣鴨眞性寺(脱衣婆、十王、倶生神、赤青の鬼、浄婆利の鏡の前にて罪人の業(ごう)のはかりに掛たる像在)、谷中天王寺内瑞雲院、麹町八丁目栖岸院内、同九丁目心法寺(十王像)、平河天満宮社地、四谷内藤新宿太宗寺(丈六余)、同所裏通正受院(並脱衣婆)、同南寺町眞成院汐干観音内、中野成願寺観音内(十王並脱衣婆)、赤坂一ッ木浄土寺(石像)、同威徳寺内、同新町専修寺内、青山泰平観音境内、同教学院(並脱衣婆)、同善光寺境内地蔵堂内、千住金蔵寺、同勝専寺、豊島川端専称院。  
毎月・小石川下冨坂町源覚寺閻魔参 世俗蒟蒻閻魔という。  
〇今日商家の奴婢やぶいりとて、主人の暇を得て家に帰り、父母兄弟に詣し、自在(ほしいまま)に逍遥す。貝原好古云、やぶいりは宿居(やどおり)の誤りなるべし。  
七月十六日 / 閻魔参 えんまの斎日という。  
参詣の場所、正月十六日のくだりに記する如し。  
〇商家奴婢後の薮入、正月十六日に同じく、主人の暇を得て随意に逍遥す。 
閻魔様とは  
仏教の他界観は、六道輪廻・浄土思想といったきわめて複雑な宇宙論的他界観を説く。  
六道とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天道をいい、最もひどい世界は閻魔大王が盟主の地獄であり、地獄とは途方も無く深い地下の牢獄である。地獄から天道の他化自在天までを欲界、その上に色界、さらに上に無色界があり。この欲・色・無色の垂直的三界が衆生の住む六道の世界である。この天界も六道の一つであるため、やがて快楽尽きて他の世界へ輪廻する。これとは別次元に浄土があってそこに仏たちが住む。その浄土も、阿弥陀如来が住む極楽浄土、釈迦の住む無勝浄土、薬師の住む浄瑠璃光浄土等々多様である。  
この別次元を連続的に捕らえる思想が生じ十世紀末「往生要集」によってその体系が成立した。六道を穢土としてここからの解脱により浄土往生が可能であり、それには念仏が必要であるとする。  
厭離穢土と欣救浄土の対立する二大概念で阿弥陀の極楽浄土への往生を説き、一方では地獄の恐怖を強調したのである。  
八大地獄  
地獄とは死後の世界であり、悪業を行ったものは必ず地獄に落ちると信じられていた。地獄を説く経典には、長阿含経巻19。地蔵菩薩本願経、他がある。往生要集(985年完成)で説く八大地獄が今日で最もよく知られる地獄である。  
一、等活地獄(とうかつ) 生前殺生をしたものが落ちる。  
二、黒縄地獄(こくじょう) 殺生や盗みを働いたものが落ちる。  
三、衆合地獄(しゅうごう) 邪淫の罪を犯したものが落ちる。  
四、叫喚地獄(きょうかん) 飲酒の罪を犯したものが落ちる。  
五、大叫喚地獄(だいきょうかん) 嘘の罪を犯したものが落ちる。  
六、焦熱地獄(しょうねつ)  
七、大焦熱地獄(だいしょうねつ)  
八、阿鼻地獄(あび)  
閻魔王 / 閻魔は梵語(ぼんご)ヤマの音写で、焔魔(えんま)、夜魔(やま)、炎魔(えんま)、閻羅(えんら)とも書き、双王、平等などと訳されている。古代インドの神話で、ヤマは人類最初の死者とされ、善業をつんだ者のゆく天上界にあって死後世界の支配者であったのが、のち転じて地下にある奈落(地獄)の主となり、死者の生前の罪を暴く法王の性格も備えた。  
焔魔天 / このヤマが仏教に取り込まれてその住む天界が、六欲中の第三位に位置づけられ、密教において特に焔魔天と呼ばれ、護法神として南方守護の天となって、十二天の一天に加えられている。胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)では外院(げいん)南方に配され、その形姿は左手に人頭幢(にんとうどう)を持ち、水牛に乗る二臂(にひ・二本の手)の天部形に描かれ、眷属(けんぞく)として泰山府君、焔魔后などを伴っている。  
以上平安期までの仏教における閻魔王の位置づけであります。 
閻魔と十王  
閻魔が中国の冥界観(めいかいかん)と混淆(こんこう)して特異な発展をみせたのが、死者の裁判官としての閻魔王である。中国土着の冥界の支配者であった太山府君(たいざんふくん)が太山王として吸収され、閻魔の異称であった平等王も加えられるなどして、唐末ころ十王が成立する。十王とは冥界における十人の裁判官のことで、中国における死者の七日ごとの供養と結びついたのである。冥界において生前の罪を裁断する十王のうち最も権威あるのが閻魔王である。  
冥界では初七日以下十忌日の順で、秦広王(しんこうおう)、初江王(しょこうおう)、宋帝王(そうだいおう)、五官王(ごかんおう)、閻羅王(えんらおう・閻魔大王)、変成王(へんじょうおう)、太山王(たいざんおう)、平等王、都市王、五道転輪王(ごどうてんりんおう)が裁判を行うといい、中国、朝鮮に伝わる「預州十王生七経(よしゅうじゅうおうしょうしちきょう)」、日本に伝わる「地蔵菩薩発心因縁十王経」(ともに中国で作られた民俗仏典)を典拠としている。  
これら中国から伝わる十王図をもとに鎌倉時代から日本で十王信仰が移入され十王図が描かれ始めます。また日本の十王は以前よりの仏教と混淆し本地仏が同時に描かれています。つまり、中国の民俗信仰が日本では仏教と混ざって民俗信仰化されていったのであります。  
十王図(日本室町時代)  
秦広王 不動明王  
初江王 釈迦如来  
宋帝王 文殊菩薩  
五官王 普賢菩薩  
閻羅王(閻魔王) 地蔵菩薩  
変成王 弥勒菩薩  
太山王 薬師如来  
平等王 観世音菩薩  
都市王 勢至菩薩  
五道転輪王 阿弥陀如来  
十王の像容は中国宋代の裁判官の服制にのっとり、上に開く方形の冠をかぶり、あげ頚の道服を着て笏を持ち両眼をかっと見開いて叱咤の勢を示すのが一般的であります。中世に十王経により閻魔王は十王の中の一人となったが、近世において再び冥界の王として敬われ「閻魔大王」と称され、十王経の舞台は閻魔大王の舞台となっていきます。そのため、姿は中国「宋」時代の姿のままです。そこで、閻魔大王の舞台に上る一族を紹介しましょう。  
閻魔大王の一族  
三途の川(さんずのかわ)、死後7日目に冥土の閻魔庁へ行く途中で渡るとされる川。  
この川には三つの渡しがあり、生前の行いによって渡るところが異なることから、三途の川といわれる。三瀬川(みつせがわ)、わたり川、葬頭河(そうずか)ともいう。川岸には衣領樹(えりょうじゅ)という大木があり、脱衣婆(だつえば・奪衣婆)がいて亡者の衣類をはぎ、それを懸衣翁(けんえおう)が大木にかける。生前の罪の軽重によって枝の垂れ方が違うので、それを見て、緩急三つの瀬に分けて亡者を渡らせるという。この説明は中国宋代、または日本の平安時代につくられたといわれる「地蔵菩薩発心因縁十王経」という偽経(ぎきょう)の中で詳しく述べられるが、仏教本来の説ではない。日本では中世以降にこの俗信が広まり、こんにちでもなお棺の中に渡し銭を入れるなどの風習が見られる。  
文禄3年(1595)起立といわれる正受院は、浄土宗の地院である。この寺には三途の川で人の衣類を身ぐるみはぐという奪衣婆の像が安置されている。この奪衣婆は子供の虫封じや咳止めの神として知られていたが、これが嘉永2年(1849)に大流行したのである。これに伴い大量の錦絵が発行された。錦絵の絵柄には、奪衣婆の回りでさまざまな人々や動物が願をかけている様子が描かれているもの。  
わが国では十王の造像は鎌倉時代から行われ、十王十躯とともに、司命(しみょう)、司録(しろく)、倶生神(ぐしょうしん)、鬼、人頭杖(にんとうじょう)、脱衣婆像なども造られ閻魔堂に安置されたと思われる。これらの一具像は近世になると大量に作られて村村の閻魔堂にも祀られた。  
司命、司録は冥府の役人を代表する者で、一般には司命は筆と書簡をとり、司録は書簡をひもといて読む姿にあらわされる。倶生神は、同名、同生と呼ぶ二神で人の誕生時からその左右の肩にいて、その人の所業の善悪を全て記録しているという。  
十王図では各王の側に司命、司録が描かれ、浄玻璃鏡(じょうはりきょう)、業秤(ごうのはかり)や罪業を問われる亡者も描かれる。「閻魔庁」で閻魔大王に亡者が罪業を問われている。脇で司命、司録が補佐している。生前の罪を映し出す「浄玻璃鏡」で、嘘は許されない。お寺の閻魔像の脇にはこの鏡が置かれていることがある。  
 
閻魔大王の舞台に江戸の人々はどのように接していたのであろうか。次の文章が纏めでありましょう。近世になり、江戸市中だけ考えても、有名な閻魔堂は66ヶ所を数え、その多くは正月と7月の16日の斎日に地獄変相図や十王図を掲げてその恐ろしさを盛んに解説したのである。ただ一ついえることは閻魔にしても獄卒にしても、極めてユーモラスに描かれており、恐怖感より近親感さえ覚えるほどである。近世社会の文化の構造は一口にいって庶民の現実主義的な人生観なり生活観を根底としている。このような傾向はおそらく近世における地獄観と無関係ではないだろう。近世的な開放感の中で、地獄も極楽も茶化され、パロディーとなって絵画に投影されたと見て間違いないであろう。  
江戸では元禄年間(1688-1703)以降庶民信仰が急激に展開し、ミニチュア版西国巡礼・四国巡礼等が登場する。天保9年(1838)刊、斎藤月岑の「東都歳時記」には観音札所めぐり10コース、地蔵巡り6コース他が記載され、その中の一つに閻魔百ヶ所詣りが含まれている。近世段階でも遊山の一環としてこの閻魔参りが行われていたことはいうまでもないが、この時点で既にさまざまな見世物同様に、一つのショウを見る趣で地獄の実見におもむいたものと予想される。  
藪入りの休みを利用して神仏詣でを行い、恐ろしい地獄を見物し、その際閻魔に願をかけるという都市独特の習俗が生じていた。正月と7月の15日前後にはあの世から祖霊が戻ってくるが、同時にあの世のイメージが、寺院の閻魔詣りによっていっそう具体化されるのだという、都市人の現世的感覚によってこのような習俗が維持されていた。  
蒟蒻については源覚寺(蒟蒻閻魔)のみならず、多くの寺院で閻魔の供え物として用いられていたらしく、ここでは嘘をつく舌の代わりといい、嘘をついた人が懺悔の意味を込めて備えるのだと説明されている。  
近世的開放感の中で地獄や閻魔は半ばパロディー化され、一つのショウを見る趣きで地獄の実見に赴くようになるに対応して、閻魔像もすこぶる柔和な表情となる。このような閻魔のイメージが象徴的に示されているのが、本格昔話、笑話に登場する閻魔といえよう。古代、中世以前のおどろおどろしき世界を離脱した閻魔信仰が近世以降出現したのである。 
 
倶生神について 3
 

 

天台大師が『摩訶止観』に、「四種の三昧の何れでも修して、身心が調えられれば、道力(修行の功徳力)によって、衆病に罹らないで済む。たとえ、少し四大不調和になり、病気が起こっても、冥力(仏神の加護)の助けを受け平癒する。たとえ沢山の病気が次々と起こっても、「何れ死ななければならない身であるから、余命の日々を修行に励み、この修行の場で、命を終えよう」と、心を決めて修行し続けるならば、いかなる重い宿悪業でも、消滅できたり、その報果を軽く変化させて受け流す事が可能である。陳鍼や開善の実例がそれを証明している。不調があっても、決定として、四種の三昧を修すれば、四大や五臓の不調は調えられ癒えるであろう。帝釈天の堂を小鬼が敬い避けるように、道場の~の守護力が大きければ、好き勝手に病魔も侵すことがない。また、城主が強ければ城を護る家臣たちの防戦力も強く、反対に城主が怯弱だと、家臣達の防衛力も弱くなるが、心は身の主である。同名・同生天(倶生神)が人を守護しているのであるが、心が固ければ倶生神の護りが強くなる。身の~と同様に、道場神も、修行者の心が固ければ、いっそう守護を加えてくれるのである。大智度論では、「鬼の五処を黏(ねん)する商主」の説話をもって、精進すべきことを教えている。ただ一心に四種三昧を修すれば衆病を消すことが出来る。」(天全止観)と述べています。
開善(かいぜん)の霊験談とは、続僧伝の六に「開善が、金剛般若経を誦し、短寿を転じ長寿を得た」とあるそうです。
陳鍼(ちんしん)の霊験談は『随天台智者大師別伝』に出ている実話です。
天台大師の長兄である陳鍼が50歳の時、張果(ちょうか)と云う易者に占ってもらったら、「本年の暮れか新年早々に死ぬ定めだ」と云われた。相談を受けた天台大師は陳鍼に「方等懺」(懺悔行)を行じさせた。
夢か幻か、行中の陳鍼に、天上界に有るお堂が見えた。そのお堂の門の看板を見ると「これは陳鍼のお堂で、15年後に陳鍼が住むことになっている」と、書いてあった。そして陳鍼は実際にその後15年間生きた。
占った時より幾年も過ぎた時分、元気で居る陳鍼に逢った易者の張果が、驚いて「よほどの財を施して福を積んで寿命が延びたのか、しかし陳鍼さんはそれほどの財力はないはず、いかなる薬を飲んだのですか」と、問うと、陳鍼は「いや、ただ懺悔行を修しただけです」と答えた。易者の張果は「そうでありましょう。道力以外では貴方の寿命を延ばす手だてはなかったでしょう」と感嘆した。と云う霊験談です。(天台宗教聖典)
『大智度論』にある「鬼の五処を黏(ねん)する商主」の説話とは、
「釈迦は先世で商主であった。諸の商人を先導し、羅刹が居ると云う険難処を行くとき、案の定、羅刹が出てきて、行く手を遮った。商主は右手を以て羅刹を撃つと、拳は羅刹鬼に著き、離す事が出来ない。商主は又、左拳・右脚・左脚を以て攻撃したけれど、手足はみな羅刹の体にくっついて離れなくなってしまった。頭を以て衝くと、頭も著いてしまい身動きが出来ない。鬼が「さあ、どうする。もう諦めろ。まだ逆らう気は失せないのか」と問うと、商主は「五処を繋がれても、心は終に休まず、精進力を以て汝と相撃つことを懈退せず」と答えた。すると、鬼はこれを聞いて歓喜の心を生じ、「この人の胆力極めて大なり」と念って、「汝は精進して必ず休息せざれ、我は今汝を放たん」と語った。この商主のように、行者は善法の中に於て、初・中・後夜に、身心懈(なまけ)ないようにすべきである」と云う話です。
さて、妙楽大師が「此に四の意有り。故に病として差えざること無し。一には道力、二には冥加、三には治法、四には不惜身命なり。」と云って、病が癒える四つの条件をあげていると補釈しています。
天台大師は、病気平癒の条件の一つである冥力として、道場神と倶生神との守護力を挙げているのですね。
妙楽大師が、「道場の神の護って、諸の病は浸さず。・・・城は身の如く、主は心の如く、守る者は身の神の如し。身と同名なり。身と同生なるは名づけて天神と為す。自然に有るが故に之を名づけて天と為す。常に人を護ると雖も、必ず心固きに仮って神の守り則ち強し。・・・身の両肩の神は尚常に人を護る。況んや道場の神をや。」と補釈しています。
この『摩訶止観』の説明に基づいて、日蓮聖人も倶生神について、
「止観の第八に云く『帝釈堂の小鬼敬い避くるが如し、道場の神大なれば妄(みだ)りに侵嬈(しんにょう)すること無し、又城の主剛(たけ)ければ守る者も強し、城の主恇(おず)れば守る者忙(おそ)る、心は是れ身の主なり、同名同生の天是れ能く人を守護す、心固ければ則ち強し。身の神、尚爾(なおしか)なり、況や道場の神をや』弘決の第八に云く『常に人を護ると雖も、必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し』又云く『身の両肩の神、尚常に人を護る、況や道場の神をや』云云。人所生の時より二神守護す、所謂同生天・同名天是を倶生神と云う華厳経の文なり」(道場神守護事)と教示しています。
また、「五戒を持てる者をば二十五の善神これをまほる上、同生同名と申して二つの天、生れしよりこのかた左右のかた(肩)に守護するゆへに、失なくて鬼神あだむことなし」(種種御振舞御書)とあり、また『乙御前御消息』には、「地には三十六祇、天には二十八宿まほらせ給う上、人には必ず二つの天、影の如くにそひて候。所謂一をば同生天と云ひ、二をば同名天と申す。左右の肩にそひ(添)て人を守護すれば、失なき者をば天もあやまつ事なし。況や善人におひてをや。されば妙楽大師のたまはく、『必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し』等云云。人の心かたければ、神のまほり必ずつよしとこそ候へ。是は御ために申すぞ。古への御心ざし申す計りなし。其よりも今一重強盛に御志あるべし。其の時は弥々十羅刹女の御まほりもつよかるべしとおぼすべし」と、「お題目を固く信じれば、地神天神や倶生神のご守護を受けるばかりでなく、なお一層強盛に信心を重ねれば、十羅刹女のご守護もいよいよ強くいただける事でしょう。」との旨を教示しています。
こうした教示を無視して「倶生神は人の善悪の行いを閻魔に伝達するだけの役割である」だとか「倶生神は自ら直接に守護するのでなく、他の諸天に、守護を依頼する仲介的な役割の~である」だとか、言い張る人が居ます。
御経によっては、「倶生神は自分が担当する人が行った善悪の行為の一つ一つを漏らすことなく閻魔様に報告するを~である」とのみ説いてある御経もありまが、「守護の働きをする」と説いている御経もあるのです。
『世記経・忉利天品第八』に「一切の男子女人の初始生の時には、皆、鬼神あり。随逐擁護(ずいちくようご)す。もし其の死する時には、彼の守護鬼その精気を摂(と)る。」(長阿含経巻第二十・国訳一切経阿含部7・427頁)とあって、訳者注記に「此の一段に於いて鬼神の存在、並にそれが守護神たるを説く」とあります。また、『華厳経巻第四十四・入法界品第三十四之一』にも、「人の生に従ひて二種の天有り、常に従って侍衛(じえい)せり。一には同生と曰ひ、二には同名と曰ふ。」とあります。「侍衛」とは「そばにひかえて、その身をまもる・こと」です。
上のような『摩訶止観』や日蓮聖人の御書、経典を根拠にして「倶生神は伝達の役目だけではなく、守護の働きもする」と私が云いますと、「倶生神に守護の働きがあると仮定すると、誰にでも、生まれたときから、倶生神がついていると云うのだから、倶生神は悪人をも守護していることになる。悪者を守護する善~など無いはずだ。だから倶生神の働きは、その人の善悪の行為を閻魔に伝達するだけと考えることが道理上から正しい」と反論する人が居ます。
こうした反論をする人は、私が上に挙げた「倶生神は身の~で守護の働きをする」と説いてある『世記経』『華厳経』や、天台大師、日蓮聖人の倶生神観を否定することになります。
上掲の『世記経』の文は続いて、
もし、外道の修行者に『一切の男女の初始生の時には、皆、鬼~ありて隨逐守護するなら、何故に悪鬼神に障害を受ける者と受けないで済む者とが有るのか?』と訊かれたら、「汝等応に彼の言に答ふべし。『世人は非法行を為す。邪見顛倒して十悪業を作す。是の如き人輩の若しは百、若しは千に、乃ち一~護あるのみ。譬へば群牛群羊の若しは百、もしは千に一人の守牧なるが如し。彼も亦、是の如し。非法行を為し、邪見顛倒して十悪業を作せる是の如き人輩のもしは百、もしは千に、乃ち一神護あるのみ。若し人ありて善法を修行して、正信行を見、十善業を具す。是の如き一人には百千の神護あらん。譬へば国王、国王の大臣に、百千人ありて一人を衛護するが如し。彼れも亦是の如し。善法を修行し、十善業を具する是の如き一人には百千の神護ある。是の縁を以ての故に、世人は鬼~の為めに触嬈せられる者あり、鬼~の為めに触嬈せられざる者あるなり』と。」(世記経)と有ります。『世記経』も「一切の男女に善鬼神が生まれたときより隨逐守護している。しかし、善法を修行し十善業を具する者は多くの神護を受けられるが、悪行邪見の者は強い多くの守護を受けられない」と云う教示をしています。
大正大蔵経に、光宗撰『渓嵐拾葉集』と云うものがあります。光宗と云う人も「華厳経に云はく『一切衆生初生の時、二神が必ず随って生ず。一を同生天と名づけ、二を同命天と名づく。亦、遊行神と名づく。本有倶生神是れなり云々。』と。示して云はく、迷妄の時は、惡菩薩評量の霊鬼なり。覚悟の時は常随擁護の善神なり云々。」(783a)と述べています。文意は、「倶生神は衆生が迷い道に外れている時は、その衆生の悪の度合いを公平にはかり、修行の道を歩んでいる時には常に随って擁護する善神である」と云う趣旨でしょう。
天台大師も「必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」と注意し、日蓮聖人も「今一重強盛に御志あるべし」と教示しています。倶生神は正法を固く信じ修する者を守護してくれると云うことです。
正法不信・悪者に対する守護は薄くなったり、ついには止めてしまい、単に伝達の働きをするだけになってしまうと考えれば、上記ような反論は出てこないでしょう。
また、「倶生神は単なる伝達神である」と云う考えに固執して、「直接倶生神が守護するのではなく、諸天に守護を申し込む伝達をするだけ」などと云うような事を主張する人がいます。この主張も天台大師や日蓮聖人の倶生神観を無視しているものです。
「倶生神が自分の守護力が及ばないときには上位の諸天善神に守護の応援を頼んでくれると言う伝達もしてくれる」と、考える方が、天台大師や日蓮聖人の倶生神観に適ったものでしょう。
また、「わたしたちには四大菩薩が前後左右を守ってくださっておりますのに、なぜ訳もわからない倶生神に頼る必要があるのでしょう。四大将軍が守ってくれており、そのほかにも法華守護の鬼子母神さまなどが守ってくれているというのに、どうして一伝令兵を頼む必要があるのでしょうか。」と云う質問を寄せた日蓮宗僧侶がいました。
この質問者は倶生神の事を「訳もわからない~」「一伝令兵に譬えられる~」と理解しているようです。
『華厳経』や天台大師や日蓮聖人が「身の~である」と明確に述べているのに、「訳もわからない~」などと、ことさら卑しめています。
『華厳経』や天台大師や日蓮聖人が「守護の働きをする~」と明確に述べている事実を無視して、一伝令兵としての伝達の働きだけする~であると、低く見ています。この質問者が「四大菩薩が守ってくれているのだから、倶生神に頼る必要など無い」などと云っています。しかし、日蓮聖人や天台大師が「倶生神が守護しくれる」と教示してあるのだから、その言葉を素直に信じて、倶生神の守護を願っても良いではありませんか。
『撰時抄』にも、「霊山浄土の教主釈尊・宝浄世界の多宝仏・十方分身の諸仏・地涌千界の菩薩等、梵釈・日月・四天等、冥に加し顕に助け給はずば、一時一日も安穏なるべしや。」と有るように、正法の信行者は四大菩薩だけでなく、多くの諸天も守護しているのだから、四大菩薩だけでなく、諸天にも感謝と時に応じて守護をお願いしても良い道理です。『撰時抄』のこの文に、「四天等」と有りますが、この「等」は「その他の多くの諸天」と云う意味です。『華厳経』に、倶生神を「二種の天」と云って、諸天の一つとしているので、「四天等」の「等」の字の中に、倶生神も入っていると理解して良いでしょう。
宗内には鬼子母神のお守りとか七面大明神のお守りとか、また、お寺の守護神(道場神)のお守りを授与する教師も居ることでしょう。しかし、そうした教師達も、「鬼子母神あるいは七面大明神あるいはお寺の守護神の守護だけを信じて、お守りを着けていれば良い」などと偏信している人など居ないでしょう。私も、「御本尊より倶生神の方を帰依礼拝の根本的対象としなさい」などと、馬鹿げた指導などしていません。
私は、「諸菩薩や鬼子母神やその他の諸天善神よりも、倶生神は、有り難い優れた~で有る」などと、馬鹿げた説明はしていません。
倶生神のお守りの着帯を強要したり、倶生神だけを偏信して、他の諸菩薩諸天ないし御本尊をないがしろにする信仰形態であれば大いにその偏信を批判すべきですが、倶生神をお守りの形として身に着けること自体は強いて否定する必要はないでしょう。
この質問者はさらに
「日蓮聖人はそれを中心的な神と位置づけたのでしょうか?」
「天台大師にとって根本的な神という位置づけだったのでしょうか?」
と訊いていますが、「倶生神は中心的な~、根本的な神である」などと云う馬鹿げた倶生神観を私が懐いていると勝手に決めつけて、得々と、的外れな質問を寄せています。
また、このような勝手な決めつけをして、さらに、「それほどまでに重要な倶生神であるならば、大曼荼羅のどこの、どの位置に勧請されているのでしょうか。」などと質問を寄せています。
日蓮聖人が「倶生神は身の~といって個々人の神」である説明しています。大勢の人が礼拝する大曼荼羅に、個々人を守護している倶生神を、勧請する訳はないです。それなのに、質問者は、「また仮にそのようなお曼荼羅があったとして、それは現存している大曼荼羅の何パーセントにあたるのでしょうか?」などと訊いていますが、そんな大曼荼羅御本尊など無いでしょう。
また質問者は、「一兵卒も戦力のひとつですから全面否定するということではありません。しかし、「信仰の王道」と言ったのは、四菩薩や『法華経』擁護の神のご守護を願うのが筋ではないかということです。一部の妥当性をもって、全体を見失ってはいけないということです。」などと諭しを垂れています。
これも、「日蓮聖人は倶生神を中心的な神と位置づけている。諸大菩薩や鬼子母神等の諸大善神より、倶生神は有り難い上位の~で有るから、中心根本的な守護神として守護を求めて行くべきだ」などと云ってない私に対しては、全く不必要な説諭です。
また質問者は、「一兵卒・伝令兵の神の信仰を勧めたり、毎月交換しないと御利益がないという霊神符などをもたせるよりも、一生涯離さず持たせる大曼陀羅ご本尊を勧めてはいかがなのですか? 」と説諭を垂れています。
私は御存知のように、「罪障消滅・積徳・仏心顕現する為めに、御本尊を対象として唱題修行する人の事を諸菩薩・諸天~を始め倶生神も守護してくれますよ」と指導していますね。「倶生神だけ信じていれば良い」などと云う信仰を勧めてなどいませんね。
「毎月交換しないと御利益がない」などと説いていませんね。「毎月替えるごとに『倶生神が護ってくれているのだ』と、改めて意識するので「心固ければ護り強し」に繋がるし、信行に参加し、御本尊の前で読経唱題し、法話の聴聞もするので信仰増進の機会を持つことになる助けになる」と説いていますね。
日蓮聖人が、お守りとして懐中御本尊を信徒さんに授けた事例はたしかにあります。しかし信心未決定で退転しそうな人には御本尊を授けなかった事例もあります。懐中大曼荼羅御本尊をやたらに授けられないですね。
参考 『渓嵐拾葉集』
「一.本有倶生護法事 華嚴經云。一切衆生初生之時。二神必隨生。一名同生天。二名同命天。亦名遊行神。本有倶生神是也云云示云。迷妄之時者。惡菩薩評量之靈鬼也。覺悟之時者。常隨擁護之善神也云云是以釋尊ニハ普賢文殊也。藥師ニハ日光月光也。彌陀ニハ觀音勢至也。不動ニハ羚迦羅制多伽也。辨財天ニハ船車童子也。吒天ニハ須臾馳走頓遊行神是也。」「倶生神が自分の守護力が及ばないときには上位の諸天善神に守護の応援を頼んでくれる」と、考える方が、天台大師や日蓮聖人の倶生神観に適ったものでしょう。 
  
近松の世話物「冥途の飛脚」 1

 

亀屋忠兵衛    亀谷の養子  
梅川        槌屋の格子女郎  
妙閑        亀谷の後家・忠兵衛の養母  
勝木孫右衛門   忠兵衛の実父  
丹波屋八右衛門 忠兵衛の友達  
忠三郎       忠兵衛の幼な友達  
越後屋清     越後屋の女主人 他  
あらすじ  
大坂淡路町の飛脚問屋亀やへ、朝から為替銀の催促に何人も押しかけてくる。親仁の代にはなかったことで、後家妙閑は、この頃の養子忠兵衛の落ち着かぬ様子をも合わせて心配する。  
日暮れ近くに家に戻った忠兵衛は、為替銀五十両の催促に来た友人の八右衛門と出くわし、責められ、実は馴染みの遊女梅川が他の客に身請けさせられるのを引き止めるために、手付金として流用してしまったと白状する。八右衛門は、忠兵衛の必死の思いに免じて金を待つするが、八右衛門の声を聞きつけた妙閑は、忠兵衛に早く金を渡すように促す。切羽詰った忠兵衛は鬢水入を包んで渡し、八右衛門も承知で受け取る。  
その後、梅川のいる遊郭新町にやってきた八右衛門は、女将遊女たちの前で、忠兵衛は為替銀に手をつけるほど無理をしているので廓に寄せつけないでほしいと、鬢水入を見せて話す。  
それを外で立ち聞きした忠兵衛は、かっとなって店に飛び込みお屋敷に届けねばならぬ為替銀の封を切ろうとする。八右衛門は、忠兵衛を思っての友情ゆえと諭すが、のぼせ上がった忠兵衛は、ついに三百両の為替銀の封印を切ってしまう。そして、八右衛門に五十両を叩きつけるばかりでなく、梅川の身請けにまで使ってしまう。 座敷に梅川と二人きりになった忠兵衛は、梅川にことの次第を打ち明け、逃げる覚悟を確かめ合って、急いで廓を出る。  
二人は人目を避けながら、奈良や三輪を経由して、忠兵衛の実家のある大和新口村にたどり着くが、既に追っ手が来ていることを知り、幼な友達の忠三郎の家に身を潜める。ちょうどその時、家の表を忠兵衛の実父孫右衛門が通りがかり、水溜りですべって下駄の鼻緒を切る。孫右衛門に会えない中米の代わりに、梅川は思わず飛び出し、「見始めの見納め」となる舅を親身に介抱すると、孫右衛門もその様子から察して、忠兵衛によそながら意見し、後ろ髪を引かれる思いで立ち去る。そばまで追っ手が来たことを知った二人は、裏口から逃げ出してゆくのだが、ついには捕らえられてしまう。 
冥途の飛脚 / 近松門左衛門の世話浄瑠璃 
冥途の飛脚は、文楽のほか歌舞伎として演じられることもあり、近松門左衛門の作品の中では、現代人にも比較的なじみが深い。といってもテーマが現代人にも分かりやすいということではない。女のために犯罪を犯し、逃走する男とそれに付き添う女の物語という点では、いまでもどこかで起こりそうな出来事とはいえそうだが、男が罪を犯す動機がどうも納得できない。  
主人公の忠兵衛は、今でいえば銀行に勤めるサラリーマンといった役柄で、お客からの預り金を女のために流用してしまうのだが、男を流用に走らせる動機がどうも不純なのだ。  
忠兵衛は、恋人である遊女の梅川が田舎ものによって見受けされそうなのに慌てて、金の工面で無理をする。よくある話だ。彼はその金を年来の友人八右衛門から無断で借用することによって用立てるが、相手が友人であることがかえってあだになる。  
忠兵衛は後により一層始末の悪い横領を重ねてしまう。年来の友人の前で自分のメンツを守るため、店の金を横領し、それを友人の目の前に投げ捨てるようにして、借金を返すのである。  
これは手前勝手な思いに発した行為だ。その手前勝手な思いが、社会から厳しく追及されて、身の破滅につながっていく。  
普通に考えれば、忠兵衛のとった行動はあまりにも浅はかだ。猿知恵か子供の思い違いとしかいいようがない。この劇の眼目は、梅川を身請けするために横領を重ねるところにあるのだが、それがあまりにも見え透いた行為であるため、なぜそんなバカげたことをやらかしたのか、ほかにもっとうまくてばれないで済む方法があったのではないか、そんな批判を浴びそうで、したがって格好よくないのだ。  
この劇は忠兵衛が梅川のために他人の金を横領する封印切の場面と、忠兵衛・梅川が忠兵衛の故郷新口村へ逃げていく場面からなっている。その二つの場面をつなぐのは、忠兵衛の決断だ。だがその決断は、必然性を欠いているように見える。  
近松はこの作品を実際に起きた出来事をもとにして書き上げた。その出来事とは、女のために預り金を横領した飛脚の話であった。飛脚は問屋仲間で信用を支えあっており、仲間の誰かが大損をしたときには、皆でその損を埋めるという仕掛けを作っていた。いわば運命共同体のようなものであった。だから成員の誰かが意図的に仲間に損害をかぶせれば、そのものは必ず罪を償わなくてはならない。そんな世界の中で生じた横領と、それに対する仲間全体による制裁という事件が、近松の想像力を刺激したのだろう。  
近松は、飛脚仲間のひとりである忠兵衛が、どんな動機から固い掟を破るに至ったか、そこに個人の意思を超えた運命のようなものが作用していたのか、このことに強烈な関心を抱いたのではないか。  
封印切という、金融業者として、やってはならない行為に忠兵衛を借り駆り立てたのは、梅川への熱い思いであった。その行為をやってしまった瞬間、忠兵衛は、飛脚仲間は無論、社会全体から葬り去られる運命に陥る。  
梅川はそんな忠兵衛の自分への愛を受け入れ、忠兵衛を夫として、絶望的な逃避行についていく。この若い男女の熱い愛が、近松を動かしてこの作品を書かせたのではないか。  
二段目 / 封印切  
冥途の飛脚二段目(中の巻)は、忠兵衛の身の破滅のもととなるできごとを描いた封印切の場面である。封印切とは、飛脚問屋として客から預かった大事な金の封印を、客に無断で切ってしまうこと、つまり横領の行為をさしていう言葉だ。信用がもとでの商売で、これほど重大な犯罪行為はない。この罪を犯した者は、死を以て償うしか道がないのだ。  
この封印切には伏線がある。忠兵衛は梅川の身請け問題を巡って金の入用に迫られ、友人の八右衛門へ届けられた金を無断で使ってしまっていた。金の受け取りを催促しに来た八右衛門は、忠兵衛から事情を聞かされて、怒るどころか一時立て替える形で、受け渡しを延期してやった。それどころか、心配する養母の気持ちをなだめてやるために、忠兵衛がきちんと金を受け渡したと見せかける芝居に協力までしてやるのである。  
この芝居を打つ場面がまた、見どころの一つになっている。忠兵衛は櫛箱から鬢水入れを取り出すと、それを紙に包んで金貨の包みのように見せかけ、養母の目の前で八右衛門に手渡す。それを八右衛門は何の疑問もない表情で受け取るのだ。  
地色「ヤレ有難や此の櫛箱に焼物の鬢水入、これ氏神と三度頂き紙押広げるくるくると、駿河包みに手ばしこく金五十両墨黒に、似せも似せたり五十杯、母には一杯参らせし、  
フシ「その悪知恵ぞ勿体なき  
詞「これこれ八右衛門殿、今渡さいでもすむ金ながら、母の心を休める為、  
地色「男を立てる其方と見て詮方なう渡す金、きっぱりと受け取って母の心を  
色「休めてたも  
忠兵衛の勝手放題ともいえる望みに、八右衛門はどこまでも調子を合わせ、養母の目の前で偽の受け取り証文まで書いてやる。  
こうしてみれば、八右衛門は忠兵衛にとっては恩人であるべきはずを、忠兵衛はつまらぬ意地を張るために、八右衛門と梅川の目の前で、封印切という重大な罪を犯してしまうのだ。  
その意地というのは、忠兵衛の八右衛門にたいする面当てという形をとっている。八右衛門は別に、忠兵衛に対して金の催促をしたわけでもないのに、忠兵衛は八右衛門の態度に自分への侮蔑を感じ取って、何が何でも負債を解消してやろうという激情に駆られる、この激情にそそのかされる形で、封印を切ってしまうのだ。  
このやりとりが、封印切を名場面にしているのだが、この場面を演じる二人の役者、八右衛門と忠兵衛とが、何となく呼吸が合わぬ雰囲気を醸し出し、どうも割り切れない気持ちを観客に与える。  
封印切が演じられるのは、梅川らの遊女が遊んでいた茶店である。そこへ八右衛門がやってきて、遊女たちを相手に茶のみ話をする。話の内容は忠兵衛のことだ。これまでのいきさつを明かしたうえで、もうこんな男とは係わりを持たぬほうがよいと、女らに話す。それを二階にしのびながら聞いていた梅川は、忠兵衛を案じて涙を流す。  
そこへ忠兵衛もやってきて、八右衛門の話を立ち聞きし、大いに起こる、そこから一気に封印切へと邁進するのだ。  
地「忠兵衛元来悪い虫押えかねてずんと出で、八右衛門が膝に  
色「むんずと居かかり・・・  
詞「措いてくれ気遣すな五十両や百両、友達に損かける忠兵衛ではごあらぬアア、八右衛門様八右衛門め、  
地色「さア金渡す手形戻せと、金取り出し包みを解かんとする所を  
ところが、八右衛門はここでも冷静にふるまう  
色「やい忠兵衛  
詞「よっぽどのたはけを尽くせ、その心を知ったる故異見をしても聞くまじと、郭の衆を頼んで此方から避けてもらうたらば、根性も取直し人間にもならうかと、男づくの念比だけ、五十両が惜しければ母御の前でいふわいやい、てんがうな手形を書き無筆の母御をなだめしが、是でも八右衛門が届かぬか  
この言葉から、八右衛門はどこまでも友達の身の上を案じて言っているのがわかる。ところが忠兵衛のほうは、そんな忠告は耳に入らない、自分の不始末をなじられたことでのぼせ上り、当座の勢いで封印を切って、その金を八右衛門にぶつけるのだ。  
この様子を見ていた梅川は、そもそもこの事態は自分のために忠兵衛が無理をして金の工面に走ったのが原因だと思えば、自分を思う忠兵衛の気持ちはありがたく感じられながらも、大それた行為の行く末を思うと胸のつぶれるほど心配になる  
地「情なや忠兵衛様なぜそのやうに上らんす、そもや郭へ来る人のたとへ持丸長者でも金に詰まるは  
フシ「有る習  
色「ここの恥は恥ならず何を当てに人の金、封を切って蒔散し詮議にあうて牢櫃の、縄かかるのといふ恥と替へらるか、恥かくばかり梅川は何とされといふことぞ、とっくと心を落しつけ八様に詫び言し、金を束ねて其の主へ早う届けて下さんせ、わしを人手にやりともないそれは此の身も同じこと、身ひとつ捨てると思うたら、皆胸に込めてゐる、年とてもまあ二年下宮島へも身を仕切り、大阪の浜に立っても此方様一人は養うて、男に憂き目かけまいもの気を静めて下さんせ、浅ましい気にならんしたかうは誰がした、私がした、皆梅川が故なれば忝いやらいとしいやら、心を推して下さんせと、口説き立て口説き立て小判の上にはらはらと、  
フシ「涙は井出のやまぶきに露置き、添ふるごとくなり  
ここで梅川は、大阪の浜に立っても忠兵衛を養ってやる覚悟だから、なにとぞこの場の恥を忘れて、大それたことはしないでと、忠兵衛に哀願している。大阪の浜に立つとは、むしろ一枚持って男を引く女のことである。自分は幾多落ちぶれても、お前のためなら苦労とは思わない、だから命を大事にして自分と細々と生きてほしい、これはそんな切羽詰まった女の言葉なのだ。  
だが忠兵衛は女の真心を受け止めない。忠兵衛の心は目先の恥のためにかたくなになっている。そんな忠兵衛を前に、梅川は絶望し、八右衛門はあきれ返る。  
こうして大それた罪である封印切が行われる。忠兵衛に残されているのは、死ぬ定めだけである。忠兵衛はその定めを、自分が命を張ってまで愛した梅川とともに、受け入れたいと願う。  
地「なぜに命が惜しいぞ二人死ぬれば本望、今とても易いこと分別据ゑて  
色「下んせなう  
詞「ヤレ命生きゃうと思うて此の大事が成るものか、生きらるるだけ添はるるだけ高は死ぬると覚悟しや、  
地色「アアさうじゃ生きらるるだけ此の世で沿はう、・・・  
色「木綿附鳥に別れ行く栄耀栄華も人の金、果ては砂場を打ちすぎて、後は野となれ山となれ、  
二人は大和路を目指して逃げ延びてゆく。 
三段目 / 忠兵衛梅川相合駕籠  
冥途の飛脚三段目(下の巻)は、忠兵衛と梅川の絶望的な逃避行を描く。まづ冒頭で二人の相合駕籠の道行が語られる。二人が向かう先は大和の国の新口村、忠兵衛の生まれ故郷であるが、実家の父親は今では後妻をもらい、養子に出した忠兵衛のことは人にくれたものとあきらめている。そんな父親でも親子は親子、息子は死出の門出に会いたいと思うのだ。  
大阪を出た二人は、人目を忍んで駕籠を乗り継ぎ、やっと大和の新口村にたどり着く。  
地色「無慚やな忠兵衛我さへ浮世忍ぶ身に、梅川が風俗の人の目立つを包みかね、借り駕籠に日を送り、奈良の旅籠屋三輪の茶屋、五日三日夜を明かし廿日あまりに四十両、使ひ果して二分残る金も霞むや初瀬山、よそに見捨てて親里の新口村に  
色「着きけるが  
新口村には、すでに追手がかかり、二人をからめ捕ろうと大勢の飛脚仲間が待ち構えていた。  
地「清める世の  
フシ「掟正しく  
地色「畿内近国に追手かかり中にも大和は生国とて、十七軒の飛脚問屋或は順礼古手買、節季候に化けて家々を覗きの機関飴売りと、子供に飴をねぶらせて、口をむしるや罠の鳥、網代の魚の如くにて  
フシ「逃れがたき命なり  
この絶望的な状況の中で、忠兵衛は何とか追手の目を盗んで父親と会いたいと願う、しかし父親の周辺には追手の目が光っている、そこで忠兵衛は昔友達の忠三郎を頼る、  
いよいよ父親の孫衛門が、雪道の中を寺参りから帰ってくる。孫衛門はすでに、息子が大それたことをしでかし、大勢の追手がかかっていることを知っている。そんな父親に忠兵衛は面と向かって会いにゆくことができない。そのかわりに梅川が、挨拶をするのだ。  
孫衛門が下駄の鼻緒を切って難儀しているところへ、梅川が助力を申し出る。梅川を見た孫衛門は、倅の連れ合いであることをすぐに見抜くが、孫衛門も梅川もそれに触れることはせずに、淡々としたやり取りをする。梅川はその行為を忠兵衛の妻として演じ、孫衛門は梅川を倅の女房として認め、受け入れるのである。  
このように三段目は、夫婦と親子と、家族の恩愛ともいうべきものを描いている。そこがほかの心中ものとは一風異なったところだ。恐らく現実に起きた事件に引きずられる形でこうなったのであろうが、そのことによって、恋愛劇としては興味が拡散したことは否めない。  
ひとつ救いとなる点を挙げるとすれば、梅川を忠兵衛の女房として描くことによって、ほかの心中ものにはない、女の健気さのようなものが描かれている点であろう。この劇は、男である忠兵衛の思慮のなさと下手な生きざまを、女である梅川が繕い、そのことでみじめさが幾分でも償われ、二人の最後に人間的な輝きがもたらされていると感じられるのである。  
最後は二人が追手にかかり、しかも父親の孫衛門もそれを目の前にするところで終わる。  
詞「亀屋忠兵衛槌屋の梅川  
地「たった今捕られたと北在所に人だかり、程なく捕手の役人夫婦を絡め引き来る、孫衛門は気を失ひ息も絶ゆるばかりなる、風情を見れば梅川が夫も我も縄目の科、眼も眩み泣き沈む忠兵衛  
色「大声あげ  
詞「身に罪あれば覚悟の上殺さるるは是非もなし、御回向頼み奉る親の嘆きが目にかかり、  
地カカリ「未来の障これ一つ面を包んで下されお情なりと泣きければ、腰の手拭引絞りめんない千鳥百千鳥、鳴くは梅川川千鳥水の流れと身の行方、恋に沈みし浮名のみ難波に、残り留まりし  
めんない千鳥とは、子供の遊びの中で、目隠しをされた鬼のことだ、忠兵衛はその鬼のように、手拭で目隠しされることを願った。父親に自分の顔を見られたくなかったのだ。 
  
「冥途の飛脚」 2

 

淡路町の段  
みをづくし難波に咲くやこの花の、里は三筋に町の名も、佐渡と越後の合の手を通ふ千鳥の淡路町、亀屋の世継忠兵衛、今年二十の上はまだ四年以前に大和より、敷金持つて養子分、後家妙閑の介抱故、商ひ功者駄荷積づもり、江戸へも上下三度笠、茶の湯俳諧碁双六延に書く手の角取れて酒も三つ四つ五つところ紋羽二重も出ず入らず、無地の丸鍔象嵌の国細工には稀男、色のわけ知り里知りて暮れるを待たず飛ぶ足の、飛脚宿の忙しさ、荷を造るやらほどくやら、手代は帳面算盤を奥口ともにどや/\と、千万両のやりくりも筑紫東の取りやりも、ゐながら金の由由さは、一歩小判や白銀に翼のあるがごとくなり。 
町廻りの状取立帰つて、『それ/\』と留帳付くるところへ、「誰そ頼もふ忠兵衛宿にゐやるか」と、案内するは出入の屋敷の侍、手代ども慇懃に、「ヤアこれは/\甚内さま、忠兵衛は留守なればお下し物の御用ならば、私に仰せ聞けられませ、お茶持ておじや」とあひしらふ、「イヤ/\下りの用はなし、江戸若旦那より御状がきた、コレお聞きやれ」と押し開き、「『来月二日出の三度に金子三百両差上せ申すべく候ふ、九日十日両日の中その地亀屋忠兵衛方より、右三百両受取り、内々申し置き候ふ事ども埒明け申さるべく候ふ、則ち飛脚の受取証文この度上せ候ふ間、金子受取り次第この証文忠兵衛に渡し申さるべく候』サこれ、この通り仰せ下された、今日まで届かぬ故、大事の御用の手筈が違ふ、なぜかやうに不埒な」と、鼻を、しかめて云ひければ、「ハヽ御尤も/\さりながらこの中の雨続き、川々に水が出ますれば道中に日が込み、金の届かぬのみならず、手前も大分の損銀、もし盗賊か切り取りか、道からふつと出来心万々貫目取られても十八軒の飛脚宿から弁へ、芥子ほども御損かけませぬ、お気遣ひあられな」と、云はせも果てず、「コレサ/\云ふまでもない。 
卸損かけては忠兵衛が首が飛ぶ、日限延びては御用の間が明くにより、それ故の詮索、迎ひ飛脚を遣はして、早速に持参せい」と徒士若党も刀の威光、銀拵へもうさんなる、なまり散らして帰りしが、また、「頼みませふ/\中の島丹波屋八右衛門から来ました。 
江戸小舟町米問屋の為替銀、添へ状は届いたが銀はなぜ届きませぬこの中文を進ぜても返事もござらず、使を遣れば酢のこんにやくのといつ届けさつしやるぞ。 
『この者に渡して人をつけて下され、手形戻そ』と申さるゝサア、金子受け取らふ」と立ちはだかつて喚きける。 
主思ひの手代の伊兵衛騒がぬ体にて、「コレお使、八右衛門さまがそのやうに理屈臭い口上はあるまい、五千両七千両人の銀を預つて百卅里を家にし江戸大阪を、広ふ狭ふする亀屋、そこ一軒ではあるまいし遅いこともなふては、今でも旦那帰られたらばこの方から返事せふ。 
五十両に足らぬ金、あたかしましう云ふまい」嵩から出れば、気をのまれ、使は真面目に帰りけり。 
母妙閑は炬燵の側離るゝことも納戸を出で、「ヤア今のはなんぞ、丹波屋の金の届いたはたしか十日も以前のこと、なぜ忠兵衛は渡さぬの、けさから二軒三軒の金の催促聞いてゐる、親父の代からこの家に金一匁の催促得ず、つひに仲間へ難儀をかけず十八軒の飛脚屋の、鑑と云はれたこの亀屋、皆は心もつかぬか忠兵衛がこの頃の素振りがどうも呑み込まぬ、昨今の者は知るまいが、じたいこれの実子でなし、もとは大和新口村、勝木孫右衛門といふ大百姓の一人子、不思議の縁でこれの世取に貰ひしが、世帯廻り商売ごと何に愚かはなけれども、この頃はそは/\と何も手に付かぬと見た、意見のしたいことあれど、せは/\云ふより云はぬ身を恥じ入らせふと思ふて目をねぶつても聞き所、見所は見てゐる、いつの間にやら大気になり、延の鼻紙二枚三枚手に当り次第、重ねながら鼻かみやる過ぎ逝かれし親父の話に、鼻紙びんびと使ふ者は曲者ぢやと云はれたが、忠兵衛がうちを出ざまに延紙三折づゝ入れて出て、なにほど鼻をかむやら戻りには一枚も残らぬ、身が達者なの若いのとてあのやうに鼻かんでは、どこぞで病も出ませふ」とよまひ言して入りければ、丁稚、小者も笑止がり、「早う帰つて下されかしと、待つ日も西の戻り足、見世さし頃になりにけり。 
籠の鳥なる、梅川に焦れて通ふ廓雀、忠兵衛はとぼとぼと外の工面内の首尾、心は蜘蛛手かく縄や十文色も出て来るは、『南無三宝日が暮れる』と足をそらに立帰り、門口には着きけれども、「留守のうちに方々の催促使、妙閑の耳に入つていかやうの、首尾になつたも気遣はし、誰ぞ出よかし内証を、とくと聞いて入りたし」とわが家ながら敷居高く、うちを覗けば飯焚の、まんめが酒屋へ行く体なり「きやつは木で鼻没義道者、たゞは云ふまじ、濡れかけて、だまして問はん」と思案する間にによつと出る、樽持つた手をしかと締むれば、「アレ/\旦那さんの/\」と声立つる、「アアかしましい/\コリヤ/\粋めおれが首だけなづんでゐる、思ひ内にあれば色外に顕わるゝ、目付きをそちも見て取つたか、可愛らしい顔付きで、気の毒がらすはどうじやいやい、いつそ殺せ」と抱き付けば、「エヽ嘘つかんせ、毎日々々新町通ひ、延の鼻紙二折三折、結構な鼻をかまんすもの。 
なんのわしらに手鼻もかみたふあるまい、あの嘘つきが」と振り切るを、また抱き付いて、「そちに嘘ついてなんの徳、コリヤ、実じや、実じや」と云ひければ、「ムヽそれが定なら晩に寝所へござんすか」「オヽなるほど/\忝ない、それについて今ちよつと問ふことあり」と云ひけれども、「アそれも寝所でしっぽりと聞きませふ、コレ旦那はん、必ず騙にさんすなゑ、そんならわしはお湯沸かいて、腰湯して待ちます」と云ひ捨て、振り切り走りけり。 
忠兵衛はうそ腹の、立煩ひてゐるところに、「北の町からいかつげに来るは誰ぢゃ、ヤア、中の島の八右衛門、きやつに逢てはむつかし」と、東の方へ、出違へば、「ヤコレ忠兵衛、はづすまい/\」と声かけられ、ヤ八右衛門この中は久しい、昨日も今日も 一昨日も、人やろ/\と思ふてなにやかやと延引した。 
めつきりと寒い、が親父の疝気は、婆様の 虫歯は、アヽいかふ酒臭い過しやるな/\、明日は早々人やらふ、ヤコレれそが言伝てしたぞや、近日一座いたしたい」とたくしかくれば、八右衛門、「おけやい/\/\口三味線に乗せかけても乗るやうな男でない、コリヤそちが商売は三度でないか、身が方へ上つた江戸為替の五十両はなんとして届けぬ、五日三日は了簡もあるぞかし、心易いは格別、高駄賃かくからは大事の家職十日にあまれど埒明かず、今日も使をやつたれば、手代めがかさ高な返事した、よもや脇へはそうもあるまい、八右衛門をなぶるかい、北浜靫中の島天満の市の側まで、親爺とも云はるゝ八右衛門、なぶってよくばなぶられふ、が金は今日受け取る。 
たゞし仲間へこたゑふか、まづお袋に逢はう」と、内へ入るを引留め、「さりとては謝つた、これ手を合はす、たつた一言聞いてたも、拝む/\」とさゝやけば、「また口先で済まそふや、梅川をだましたと男の意気は逢ふた、云ふことあらばサア聞かふ」と苦々しくきめつけられ、「これ、その声を母が聞けば死んでも一分立たぬこと、一生の御恩ぞさりとては面白ない」とはら/\と泣きけるが「なにを隠そふこの金は十四日以前に上りしが、知つての通り梅川が田舎客、金づくめにて張り合ひかける、この方は母手代の目を忍んでわづか二百目三百目のへつり銀、追い倒されて生きた心もせぬところに、請け出す談合極まつて手を打たぬばかりといふ、川が歎き、われらが一分、すでに心中する筈で、互の咽へ脇差のひいやりとまでしたれども、死なぬ時節かいろ/\の邪魔ついて、その夜は泣いて引別れ、明くれば当月十二日、そなたへ渡る江戸金がふらりと上るをなにかなしに、懐に押込んで新町までいつ散に、どふ飛んだやら覚えばこそ、だん/\宿を頼んで、田舎客の談合破らせ、こつちへ根引の相談しめ、かの五十両手附けに渡し、まんまと川を取り留めしも、八右衛門といふ男を友達に持ちし故と、心の内では朝晩に北に向ひて拝むぞや。 
さりながらいかに懇ろなればとて、さきに断り立て置いて使へば借るも同前、跡ではいかゞと思ふうちその方からは催促、嘘に嘘が重なつて初手の誠も虚言となれば、今なにを云ふても誠には思はれじ、されども遅ふて四五日中ほかの金も上る筈、いかやうとも仕送つて一銭一字損かけまじ、この忠兵衛を人と思へば腹も立つ。 
犬の命を助けたと思ふて了簡頼み入る。 
これを思へば世の中にお仕置者の絶へぬも道理、この上は忠兵衛も盗みせふよりほかはなし、男の口からかやうのこと、云はれふものか推量あれ、咽より剣を吐くとても、これほどにはあるまじ」と絞り、泣きにぞ泣きゐたる。 
鬼とも組まん八右衛門、ほろりと涙ぐみ、「云い憎いことよふ云ふた、丹波屋の八右衛門男ぢや、了簡して待つてやる、首尾よふせよ」と云ひければ、忠兵衛土に額をつけ、忝い/\父二人母三人、親は五人持つたれどもその恩よりは八右衛門、貴殿の御恩忘れぬ」とかふは、涙ばかりなり。 
「そふ思へば満足、サア人も見るそのうち」と立ち別れんとせしところに、内より母の声として「ヤア八右衛門さまか、忠兵衛これへ通しましや」と、声かけられて、詮方なく、もぢ/\連れ立ち入りにけり。 
母は律儀一遍に、「さきほどはお使、また御自身のお出で、御尤も御尤も。 
コレあなたの金の届いたは十日も以前なんとして延引ぞ、胸にとつくと手を置いてよふ思案してみや、遅ふ届けば飛脚はいらぬ、なにがそなたの商売ぞ、サア今渡してあげましや」と云へども渡す金はなし、八右衛門も底意は聞く、「コレお袋恥づかしながら八右衛門が五十両や七十両、急にいることもなし、これよりすぐに長掘まで参れば、明日でも」と立たんとすれば、「イヤ/\大事のお金預れば気遣ひで夜も寝られず、ノウ忠兵衛、きり/\渡しや」とせり立てられ、『あつ』と云ふより納戸に入り、うろ/\しても、金はなし、入れもせぬ戸棚の錠開ける顔して、ぴんといふ鍵の手前も恥づかしく、胸に願立て神おろし狂気のごとく気をもみしが、『ヤレありがたや、この櫛箱に焼物の鬢水入れこれ氏神』と三度戴き紙押し広げくる/\と、駿河包に手ばしこく金五十両墨黒に、似せも似せたり五十杯、母には一杯参らせし、その悪智恵ぞ勿体なき。 
「コレ/\八右衛門殿、今渡さいでも済む金ながら母の心を休めるため、男を立つるそなたと見て詮方なふ渡す金、さつぱりと受取つて母の心を安めてたも。 
包は解くに及ぶまじ、いらふて見ても五十両、サどふしてたもる」と差し出す。 
八右衛門手に取つて、「ハテ誰ぞと思ふ、丹波屋の八右衛門、受け取るに仔細はない。 
コレお袋、江戸為替確かに受け取りました。 
不動参りに待ちます」と立つところを、妙閑誠と思ひてや、「コレ忠兵衛、仕切為替の作法は金と手形と引替へ、もし御持参なきならば一筆ちよつと書かせましや、ものは念じや」と云ひければ、「オヽそれ/\、母は無筆の一文字も読まれねども、しるしばかりに一筆」と硯出して目配せすれば、「易いこと/\忠兵衛、文言これ見や」と、筆に任せて書き散らす。 
『一ツ金子五十両受け取り申さず候。 
右約束の通り晩には廓で飲みかけ、我等はたいこ実正明白なり。 
何時なりとも騒ぎの節きつと参上申すべく候。 
依つて紋日の為鬢水入件の如し』と、あほうのたらだら書き散らし、「さらばお暇申さう」と、表へ出づれば、妙閑は、「書いたものこそもの云へ」と、まただまされし正直の親の心や仏の顔も、三度飛脚の江戸の左右待つ夜もやう/\更けにけり表に馬の鈴の音、「コリヤ/\駄荷が着いたぞ、中戸々々」と声高に、手んでに葛籠、かたげ込む。 
忠兵衛親子機嫌よく、「サア拍子が直つた来年も仕合せ馬、馬子衆に酒よ煙草よ」と、硯控へつ帳付けて、家内どんどと賑へば、手代の伊兵衛けうとげに、「ノウ堂島のお屋敷から『金三百両九日に来る筈、先状が上つた、なにとて遅い』とお侍の甚内殿が睨め付けて帰られた、なんと/\」と云ひければ、宰領が打飼より、「その三百両合点、これ急々の御用今夜中にお届け」方々の為替金高八百両、ぐはらり/\と取り出す、忠兵衛いよ/\勢ひよく、「白銀は内蔵へ、金子は戸棚へ、母者人わたしは直にこの小判、お屋敷へ持参する。 
人の金を預れば表も気をつけ早ふ締め、火の用心が第一、戻りはちつと遅ふても、駕籠で行けば気づかひない、夜食しまふてはや寝よ」と、金懐中に羽織の紐、結ぶ霜夜の門の口、出馴れし足の癖になり、心は北へ行く/\と、思ひながらも身は南、西横掘をうか/\と、気にしみづきし妓がこと、米屋町まで歩み来て、「ヤア、これはしたり、堂島のお屋敷へ行く筈、狐が化かすか南無三宝」と引返せしが、「ム、われ知らずこゝまで来たは、梅川が用あつて、氏神のお誘ひ、ちよつと寄つて顔見てから」と立帰つては「いや大事、この金持つては使ひたからふ、おいてくれふおいてくれふ/\おいてくれふか、いて退けう/\/\/\いて退けうか、イヤ/\やっぱりおいてくれふ/\/\/\おいてくれふか、いて退けういて退けう/\/\いて退けうか、………、エ、行きもせい」と、一度は思案二度は不思案、三度飛脚。 
戻れば合はせて六道の、冥途の、飛脚と 
封印切りの段  
「ゑい/\/\烏がな/\、浮気烏が月夜も闇も、首尾を求めてな逢はふ/\とさ青編笠の、紅葉して、炭火ほのめくタベまで思ひ思ひの恋風や、恋と哀れは種一つ、梅かんばしく松高き、位は、よしや引きしめて哀れ深きは見世女郎、さらさ禿が知るべして、橋がかけたや佐渡屋町越後は女主人とて、立寄る妓も気兼ねせず、底意残さぬ恋の渕。 
身の憂きしほで梅川も、こゝを思ひの定宿と、よその勤めもかきのもと、島屋をちよつと島隠れ、「申しきよさん、今日は島屋でかの田舎のうてずに、せびらかされて頭が痛い、忠さんはまだ見へぬかゑ、せめての所縁にこなさんの、顔が見たさに貸しに来た」と、入るさの門の障子戸も、明くる朝の形見かや。 
「さつてもよふござんした、アレ二階にも女郎さんたちが大勢遊びにござんして、お客待つ間の酒ごと、拳をしてござんする、こなさんも気晴らしに一挙して洒一つ、傍輩さんもござんす」と、上る二階の隙間風、男交ぜずの火鉢酒、拳の手品の手もたゆく、「ろま、せさい」「とうらい」「さんな」「同じこととよ」豊川に、声の高瀬がさす腕には、「はま」「さん」「きう」「ごう」「りう」「すむゐ」「ソレ/\なんと、地体一つは鳴波瀬さん。 
アレ梅川様のござんした」「ノウよいところへ来て下んした、こなさん拳の上手、宵から千代歳さんに、仕つけられて無念な、敵取つて下んせ、銚子直しや」と云ひければ、「アヽうたての酒や、拳をする気もあらばこそ、この梅川が今の身を少しは泣いてもらいたい、田舎の客が身請のこと、今日も今日とて島屋にて、理屈をつめてねだれ言、腹が立つやら憎いやら、とは云ひながらこれは先。 
忠兵衛さんは後手といひ宿の精力一つにて、手附も渡し約束の日限切れるも云ひ延し、今日まではつながれしが、忠さんも世帯持、養子の母御の手前といひ、屋敷方歴々の町方を引受けて東路かけての大事の商売、いかなることか邪魔になり、田舎の客に請けられては、わが身一つは死んでものけふ、天神太夫の身でもなし、『さもしい金に気が触れた見世女郎の浅ましさ』と世間の唱へ、傍輩の掃部(かもん)殿を始めとして格子女郎衆の手前もあり、忠さんと本意を遂げ、とやかふ人に謡はれし、面が脱ぎたふござんす」と、泣きしみづきて語るにぞ、一座の女郎身の上に、思い合せて『もつとも』と連れて涙を流せしが、「アヽいかふ気がめいる、わつさりと浄瑠璃にせまいか、禿どもちよつと往て竹本頼母様借つておじや」「イヤさきに鬢附買ふとて聞きましたが、芝居からすぐに越後町の扇屋へ往かんしたげな、私は頼母様の弟子なればよふ似た所を聞かんせ、サア三味線」と夕霧の昔を、今にひきかけて、「傾城に誠なしと世の人の申せども、それは皆僻言訳知らずの詞ぞや、誠も嘘ももと一つ、たとへば命なげうちいかに誠をつくしても、男の方より便りなく遠ざかるその時は、心やたけに思ひても、かふした身なればまゝならず、おのづから思はぬ花の根引きに合ひ、かけし誓ひも嘘となり、又始めより偽りの勤めばかりに逢ふ人も、絶へず重ぬる色衣つひの寄るべとなる時は、始めの嘘も皆誠、とかくたゞ恋路には偽りもなく誠もなし、縁のあるのが誠ぞや、逢ふこと叶はぬ男をば思ひ/\て思ひが積り、思ひざめにも醒むるもの辛や所在と恨むらん。 
『恨まば恨めいとしいといふこの病ひ、勤めする身の持病か』と、恋に浮世を投げ首の酒も、白けて醒めにけり。 
中の島の八右衛門九軒の方より浄瑠璃聞きつけ、「ヤア皆知つた妓の声々、花車内にか」とつつと入り、柄差箒逆手に取り、二階の下から板敷を、ぐはた/\と突き鳴らし、「女郎衆あんまりぢやぞや、こゝにも人が聞いてゐる、いかなる男でそれほどに恋しいぞ、男がなふて淋しくば、お気には入らずと、これにも一人、貸してやろか」と喚きける、梅川はそれとも知らず、「テモ逢ひたいが定ちやもの、憎いなら来て叩かんせ、きよさん、下なは誰さんぢやえ」「イヤ大事ござんせぬ中の島の八さん」と聞くより梅川『ハツ』として「アコレ/\あのさんには逢ひともない、皆さんおりて下さんせ。 
私が二階にゐることを、必ず必ず云ふまいぞ」「そこらは粋じや」と打ちうなづき皆々、座敷に出でければ、「ヤア千代歳さん、鳴渡瀬さん、歴々の御参会、梅川殿は宵の口、島屋をもらふて去なれたげな、忠兵衛もまだ見へそもない、コレ花車こゝへ寄らしやれ、女郎衆も禿どもも忠兵衛がことにつき、耳打つて置くことがあるサこゝへ/\」とひそ/\すれば、「ハアなにごとやら気づかひな」と思へど二階の梅川に、『悪い噂も聞かせんか』と皆気を配る折節に、忠兵衛は世を忍ぶ心の氷三百両、身も懐も冷ゆる夜に越後屋に走り着き、内を覗けば、八右衛門横座をしめてわが評判、『はつ』と驚き立ち聞きす、二階には梅川が、心をすます壁に耳漏るゝぞ仇の始めなる。 
かくと知らねば八右衛門、「コレ、かふ云へば忠兵衛を憎み猜むやうなれど、あの男が身のなる果てが可愛ひ、もつとも千両二千両人の金をことづかりしばしの宿を貸すれども、手金といふては家屋敷、家財かけて十五貫目、二十貫目に足らぬ身代、大和の親が長者でも、亀屋へ養子に越すからはモたかの知れた百姓、かういふこの八右衛門も若い者の習ひ、一年に五百目一貫目、揚屋の座敷も踏まねばならぬ、身にも応ぜぬ忠兵衛が梅川にのぼりつめ、島屋の客と張り合ひ、五月よりこのかたの揚げ詰め、身請もこの頃極まり、百六十両のうち五十両手附に渡したげな。 
それ故に方々の届け金が不埒になり、当るところが嘘八百、いかふ鐺がつまつて来た、今でも梅川が、請出さるゝに極まらば、借銭もあらふし、泣いても二百五十両、天から降ろふか地から湧かふか、盗みせふより外はない、かの手附けの五十両、マどこから出たと思し召す。 
身が方へ来る江戸為替中で取つて使ふたを、それとも知らず乞ひに行く。 
養子の母御がいとしぼや、のぼつた金は知つてなり『渡せ/\』とせつかれて、忠兵衛が戻した小判、ドレお目にかけふか」と一包み取り出し、「コレ、かふ見たところは五十両、さらば正体あらはして獄門の種御覧あれ」と包みを切つて切りほどけば焼物の鬢水入主も一座の女郎も『ハアヽ』とばかりに怖気立ち、身を縮むれば、二階には、顔を畳に摺り付けて声を隠して泣きゐたり。 
短気は損気の忠兵衛、傾城は公界者、五十両の目腐り金、取り替へた倦上、若い者に恥かゝせ川が聞いたら死にたかろ、懐の三百両、五十両引抜いて面へぶちつけ存分云ひ、わが身の一分川が面目、すゝいでやらふか、アゝされどもこれは武士の金、ことに急用こゝが大事の、堪忍」と手を懐へ幾度か、とやせんかくやしやうげ鳥、いすかの嘴のくひちがふ心を知らぬぞ是非もなき。 
八右衛門水入取り上げ、「コレこれも買はば十八文、いかに相場が安いとて五十両を二分五厘替へ、神武このかたないこと、友達さへこれなれば他人を騙るは御推量、この次は段々に巾着切から家尻切、はては首切りイヤモいかにしても笑止な。 
あのごとくに乱れては主親の勘当も、釈迦達磨の意見でも聖徳太子がぢきに教化なされても、いかな/\直らぬ、廓でこの沙汰ぱつとして、寄せつけぬやうに頼みます。 
梅川どんへも吹き込んで、こつちから挨拶切り、島屋の客にさらりと請け出させて仕舞ひたい、皆あの流が心中か女郎の衣裳を盗むか、ろくなことは出かさず、片小鬢剃りこぼたれ大門口に曝され、友達の一分捨てさする、人でなしとはあれがこと、ヤコレ可愛くば寄せつけて下さるな」と語るを聞けば梅川も、悲しいといとしいと身のはかなさをかきまぜて、胸引き裂ける忍び泣き、「アゝ刃物がな鋏でも、舌を切つても、死にたい」と悶へ伏したる苦しみを、下には各々推量して、「ひよんな心にならんした運の悪い梅川さん、いとしぼいは川さんお一人に止めた」と、下女、料理人、うら若き、禿も袖を絞りける。 
忠兵衛元来悪い虫、押へかねてずんど出で、八右衛門が膝にむずとゐかゝり、「コレ丹波屋の八右衛門殿、常々の口ほどあつてオオ男ぢゃ見事ぢゃ、三人寄れば公界忠兵衛が身代の棚卸してくれる忝いわい、コリヤこの水入も男同士、母の心を安めるため、『受取つてくれるか』と、謎をかけて渡したをこの忠兵衛が五十両損かけふかと気づかひさに、廓三界披露して男の一分捨てさするのか、たゞしまた島屋の客に賄賂取つて、梅川に藁を焚きあちらへやらふといふことか、措いてくれ/\/\、気づかひすな五十両や百両、友達に揖掛ける忠兵衛ではごあらぬごあらぬ/\ごあらぬわいの、八右衛門さま、八右衛門め、サア金渡す手形渡せ」と、金取り出し包を解かんとするところを、八右衛門押へて、「コリヤ/\/\待てやい忠兵衛、よつぽどのたはけをつくせ、その心を知つた故意見をしても聞くまじと、廓の衆を頼んでこつちから除けてもらふたらば、根性も取直し、人間にもならふかとコリヤコレ男づくの懇ろだけ、コリヤ五十両が惜しければ母者の前で云ふわいやい、てんがうな手形を書き無筆の母者をなだめたがこれでもこの八右衛門が届かぬか、エ、その金嵩も三百両、手金のあらふやうもなし、定めてどこぞの仕切金、その金に庇をつけ、八右衛門をしたやうにコリヤ、鬢水入ではわれ済むまいぞよ、たゞし代りに首やるか、のぼりつめるその手間で、届けるところへ届けてしまへ、エゝ性根の据らぬ気違ひめ」と割つつ口説いつ叱れども、「イヤ/\/\仁義立て措いてくれ/\/\、この金をよそのとは、この忠兵衛が三百両持つまいものか、女郎衆の前といひ身代を見立てられ、なほ返さねば一分立たぬ」と、思い切つたる封印の、包解いて十二十三十、始終つまらぬ五十両、くる/\と引包み、「コレ亀屋忠兵衛が人に損をかけぬ証拠、サア受け取れ」と投げつくる、「エゝ男の面へなんとするぞい、恭いと礼云ふて、 返し直せ」と投げ戻す、「おのれになんの礼云はふ」と、また投げつけつ投げ返し腕まくりしてぎしみ合ふ。 
梅川涙にくれながら梯子かけおり、「ノウすつきりわしが聞きました。 
皆島八さんのがお道理ぢや、コレ/\/\手を合せる、梅川に許して下さんせ」と声をあげて泣きけるが、「情なや忠兵衛さん、なぜ、そのやうにのぼらんす、そもや廓へ来る人の、たとへ持丸長者でも金に詰るはある習ひ。 
こゝの恥は恥ならず、なにをあてに人の金、封を切つて撒き散らし詮議にあふて牢櫃の、縄かゝるのといふ恥とこの恥と替へらるか、恥かくばかりか梅川はなんとなれといふことぞ。 
とつくと心を落しつけ八さんに詫言し、金をつかねてその主へ早ふ届けて下さんせ。 
わしを人手にやりともないそれはこの身も同じこと、身一つ捨つると思ふたら皆胸にこめてゐる、/\年とてもマア二年下宮島へも身を仕切り、大阪の浜に立つてもこなさん一人は養ふて、男に憂き目はかけまいもの、コレ気を静めて下さんせ、浅ましい気にならんしたかふは誰がしたエゝわしがした、皆梅川が故なれば忝いやらいとしいやら、心を推して下さんせ」と口説き立て/\小判の上にはら/\と涙は、井出の山吹に、露置き添ふるごとくなり。 
忠兵衛気も有頂天前後括らぬ間に合筵敷金のこと思ひ出し、「ハテ喧しい、この忠兵衛をそれほどたはけと思やるか、この金は気づかひない。 
八右衛門も知つてゐる、養子に来る時大和から、敷金に持つて来てよそへ預け置いた金、身請のために取り戻した、 コレ花車こゝへ」と呼び寄せ、「先に手附に五十両、今百十両、合せて百六十両、これ川が身の代、これまた四十五両、いつぞやしめた帳面、買ひがかりの借銭、五両は遣手九月からの揚銭、万事十五両ほどと覚えたが、算用が喧しい、二十両で帳消しや、この十両はこなたへ御祝儀やら骨折分、りんも玉も五兵衛も一両づゝじや来い/\」と金銀降らす邯鄲の夢の間の栄耀なり。 
「サア今の間に埒明け、今宵の中に出るやうに、頼む/\」と云ひければ、主俄かに勇みをなし、「ないほどはないも金、ある段にはあるものかは、気を死なそふことではない、川さん嬉しう思はんしょ、大事の金を持つて行く、りんも玉も供しや」と引連れ走り、出でにけり。 
八右衛門も済まぬ顔、「誠とは思はねども、たゞさへもらふこの小判、返すものを云はれぬ辞儀、五十両確かに受取つた、ソレ手形返す」と投げ出し、「梅川殿、へゝよい男持つてお仕合せ、妓さんたちこれに」と金懐中し出でければ、「わしらもいざ帰りましよ、川さんめでたふござんす」と皆宿々へぞ帰りける。 
忠兵衛は気をせいて、「花車はなぜ遅いぞ、五兵衛行てせいてくれ」と立ちに立つてせきければ、「イヤ、身請の衆は親方が済んでから、宿老殿で判を消し、月行事から札取らねば大門が出られませぬ、まちつと隙が入りませふかい」「そこらをはやう、こりや頼む」と、また一両投げ出す、「おつとまかせ」と足軽く、走る三里の灸よりも小判の利きぞ、応へける。 
「サア/\この間に身拵え、べた/\した取りなり、帯もきりゝと仕直しや」とめつたに急けば、「なんぞいの、一代の外聞、傍輩衆へも盃ごと、暇乞ひも訳よふして、ゆるりと出して下さんせ」と、なに心なく勇む顔、男は『わつ』と泣き出し、「いとしやなにも知らずか。 
今の小判は堂島のお屋敷の急用金、この金を散らしては身の大事は知れたこと、随分堪えて見つれども友女郎の真中で、可愛い男が恥辱を取り、そなたの心の無念さを晴らしたいと思ふより、ふつと金に手をかけてもふ引かれぬは男の役、かうなる因果と思ふてたも。 
八右衛門が面つき直に母にぬかす顔、十八軒の仲間から詮議に来るは今のこと、地獄の上の一足飛び、飛んでたもや」とばかりにて、縋りついて泣きければ。 
梅川『ハツ』と慄ひ出し声も涙にわな/\と、「それ見さんせ、常々云ひしはこゝのこと、なぜに命が惜しいぞ、二人死ぬれば本望、今とても易いこと分別据へて下んせなふ」「ヤレ命生きやふと思ふてこの大事がなるものか、生きらるゝだけ添はるゝだけ、たかは死ぬると覚悟しや」「アゝそふぢゃ、生きらるゝだけこの世で添はふ、ほんに忘れた私が大事の守をうちの箪笥に置いて来た、これが欲しい」と云ひければ、「ハテ、かゝる悪事を仕出して、いかな守の力にもこの科が逃れうか、とかく死ぬ身と合点してわれはそなたの回向せん、そなたはこの忠兵衛が回向を頼む」と、泣きければ、梅川ひしと抱きつき、むせ返りてぞ歎きける。 
越後主従立帰り、「サア/\どこもかも将明けた、お出の勝手近ければ西口ヘ札が廻つた」と、云へども、夫婦はわな/\と、「さらば」「さらば」も震ひ声、「お寒さうな酒はいの」「酒も咽喉を、トゝゝ通りませぬ」「めでたいと申そふか、お名残り惜しいと申そふか、千日云ふてもつきぬこと」「エ、その千日が迷惑」と、ゆふつげ鳥に別れ行く、栄耀栄華も人の金、果は砂場を打過ぎて、跡は野となれ大和路や足に、任せて 
道行相合かご  
翠帳紅閏に枕ならべし閨のうち、馴れし衾の夜すがらも、四ツ門のあと夢もなし、さるにても我がつまの秋よりさきにかならずと、仇し情の世を頼み、人の頼みの綱きれて、夜半の中戸もひきかへて、人目の関にせかれゆく、冷えたる足を太股に、相合炬燵相輿の膝組み交すかごのうち、狭き局の睦言の過ぎしその日が思はれて、いとゞ涙のこぼれ口、比翼煙管の薄煙り、霧も絶え/\晴れ亙り、麦の葉生えに風荒れて、朝出の賤や火をもらふ、野守が見る目恥づかしとかご立てさせて暇をやる。 
価の露の命さえ惜しからぬ身は惜しからず、惜しむは名残りばかりぞや、今は人目も慰めの言葉やさしく忠兵衛が、「コレイノウコレ梅川、なにくど/\と思うぞや、定めなき世の定めぞと、思ひ定めたわが命、ともに一蓮托生の約束ごととあきらめて、赦してたも」とうち沈む。 
「ノウなに云はんすぞ忠兵衛さん、いろで逢ひしは、はや昔、今は真身の女夫合い、恋は今生さきの世まで冥途の道をこのやうに、手をひこうぞや」「ひかれふ」と、また取り交し泣く涙、空に霙のひと曇り、霰交りに吹く木の葉、袖の凍りと閉合へり。 
はや故郷のほど近し、こゝは人目も多ければ、里の裏道畦道へ、こちへ/\と袖覆ひ、すぢりもちりて行く程に、「アレ、あれを見や、どこの田舎も恋の世や」背戸に菜をつむ十七八が「門に立つたは忍びの夫かゑ、野風身の毒こち這入らんせ、野風身の毒、身の毒野風、エゝこち入らんせ、こちござれ、恋は楽しや苦しや辛や、いよ忍びての、忍びてのよその睦言ねたましく「それ覚えてか、いつのこと、かの初雪の朝込みに、寝巻ながらに送られし、大門口の薄雪も、今この雪も変らねど、変り果てたる互の身、われゆえ染めていとほしや。 
もとの白地を浅黄より、恋は誉田の八幡に、起請誓紙の筆の罰、そなたを避けて」と泣く涙、「ノウ、コレ申しさりとては、今さら聞えぬなんの愚痴。 
逢ひ初めてから二度三度、待つ夜、待つ夜の畳算、仇な勤めを実にして、末は女夫と心の誓ひ、越後で切つた封印の科はこなたの科でなし、皆この私ゆえなれば、女冥利に尽きること、たとえこの身は縛り首、逆轢もいとはねど、唯いとしぼは私が母、京の六条数珠屋町、定めてこの中この間、詮議に人がいきつらふ。 
日頃が目まい持ちなれば、どうならんした事ちややら、ま一度京の母さまにも、一目逢うて死にたいもの」「オゝ道理とも尤とも、我もそなたののお袋に婿ぢゃと云ふて逢ひもしたし、また新口の実の親に、嫁ぢゃと云ふて引き逢はせ、喜ぶ顔も見たけれどそれも叶はぬ身のしだら。 
親父さまの百年の御寿命めでたふ過ぎてのち、せめて未来で嫁舅、必ずやいの梅川」と人目なければ抱き合い、よゝと崩おれ泣き沈む。 
涙の雨の横時雨、野辺の笹原薄原、ばう/\さらさらさつとなつたは、もしや追手の尋ぬるよと、おおい重なり影かくす。 
ふりさけ見れば人にはあらで妻恋鳥の羽音にも、怖ちる身となる落人の、身をしのぶ道、恋の道、ここの旅寵、かしこの宿、三日四日いつかさて、命のかねのわびしくも、消ゆる心の細の道、我から狭き憂世の道、野越え山くれ里村越えて、行くは恋ゆえ捨つる世や、 哀れはかなき 
 
冥途の飛脚 解説

 

あらすじ
人形浄瑠璃の演目のひとつ。全三段、大坂竹本座にて初演。近松門左衛門作。
上之巻
(淡路町の段)亀屋忠兵衛はもと大和国新口村の大百姓勝木孫右衛門のせがれであったが、四年以前に大坂淡路町の飛脚問屋亀屋へ養子に出されていた。亀屋では養父に当たる当主はすでに死去し、今は跡継ぎの忠兵衛が店を差配する立場である。だがその忠兵衛は最近新町の遊女梅川に入れあげ、家にもろくに帰らないので店の業務は滞りがちであった。
日も暮れて店じまいの時分、忠兵衛は亀屋を訪れた友人の丹波屋八右衛門から、すでに届いたはずの八右衛門宛の江戸為替五十両が届かない理由を問い詰められる。忠兵衛はその金を、惚れあった仲の梅川を身請けする手附けに使ったと打ち明けた。梅川が近々田舎の客に身請けされそうになったので、たまたま手にした八右衛門宛ての五十両を手附けに使ってしまったのだという。土下座して泣きながら待ってくれと頼む忠兵衛、それを見た八右衛門は忠兵衛を許すことにしたが、今度は養母の妙閑から八右衛門の五十両について問いただされる。妙閑は早く八右衛門に五十両を渡せと忠兵衛にせかすが、そんなものはない。進退に窮した忠兵衛は、その場しのぎにありあわせた鬢水入れを紙に包んで小判を装い、それを八右衛門に渡して嘘の受取りも書かせ養母を騙す。八右衛門は帰っていった。
ちょうどその時、大名家の蔵屋敷に届ける三百両が到着し、その金は届ける期日がとっくに過ぎていたので、夜分にもかかわらず忠兵衛自身で急ぎ届けることになった。しかし道の途中で梅川のことが気にかかり、その足はいつのまにか新町のほうへと向いている。はっとこれに気付いた忠兵衛、しかし結局は大事の預り金をそのまま懐にして、梅川のいる新町へとは向うのである。
中之巻
(新町の段)新町の越後屋では、梅川が忠兵衛の来るのを待ち焦がれている。そこへ八右衛門がやって来て、女郎たちに先ほどの忠兵衛の一件を話す。二階に隠れてそれを聞いていた梅川は、顔を畳にすりつけて声を隠して泣く。越後屋の表に来合わせた忠兵衛は八右衛門の話を聞いてかっとなり、中に入って口論となる。ついには持っていた預かり金の中から五十両を出して八右衛門に投げつけ、残った金は養子に来た時の敷銀(持参金)だと偽り、これも梅川の身請けに使ってしまう。二人は晴れて夫婦となったが、飛脚屋が客の預かり金を使い込んでしまっては、同業の飛脚屋仲間からの詮議は免れない。忠兵衛と梅川は世間から身を隠さねばならなくなる。
下之巻
(道行相合駕籠〈みちゆきあいあいかご〉)追手におびえながら忠兵衛と梅川は、駕籠や徒歩で逃避行を続ける。
(新口村の段)ほどなく正月を迎えようという頃、忠兵衛と梅川のふたりは忠兵衛の生まれ故郷大和国新口村まで辿り着く。村には忠兵衛の実父孫右衛門がいたが当然会うことはできない。そこで忠兵衛とは幼馴染みだった忠三郎を頼ろうと、その家を訪ねるも忠三郎は不在である。だが村にはすでに同業の飛脚屋からの追手が入り、忠兵衛が大坂で大金を横領した事が知れ渡っていた。忠兵衛たちは素性を隠し、居合わせた忠三郎の女房に忠三郎を呼んでくれるよう頼むと出かけていき、家の中は忠兵衛と梅川ふたりきりとなる。表は雨が降っていた。
そんな中、孫右衛門が近くを通りかかるのを二人は家の中から見る。すると孫右衛門が下駄の鼻緒を切らして泥田へと転んだ。梅川は、おもわず家から飛び出しこれを助ける。素性を隠して孫右衛門を介抱する梅川だったが、孫右衛門はこのあたりでは見かけぬ顔の梅川を見てさてはと悟り、息子忠兵衛の身の上を思って孫右衛門が嘆くと、梅川も声をあげて泣く。しかし孫右衛門は世間や養家亀屋への義理を思って忠兵衛に会おうとはせず、また忠兵衛も隠れて父を伏し拝み泣くばかりだった。孫右衛門は路用にせよと持っていた金を梅川に渡し、嘆きつつ立ち去る。
やがて戻った忠三郎のはからいで、忠兵衛と梅川はいったんはその場を逃れるが、ついに役人に捕まってしまう。村の者たちもこの騒ぎに出てきて見る中、忠兵衛と梅川は縛りあげられ、この様子を見た孫右衛門はあまりのことに気を失った。忠兵衛も「身に罪あれば、覚悟の上殺さるるは是非もなし。御回向頼み奉る親の歎きが目にかかり、未来の障りこれ一つ、面を包んで下されお情なり」と泣きわめきながら訴え、梅川ともども大坂へと引かれてゆくのであった。  
解説
本作はいわゆる「梅川忠兵衛」を題材とした浄瑠璃である。「梅川忠兵衛」の実説については長らく不明とされてきたが、藤堂藩城代家老の日記『永保記事略』の記事により明らかとなっている。その宝永7年(1710年)正月25日の項によれば以下のようであった。
藤堂藩の領分である大和国新口村(現在の奈良県橿原市新口町)に小百姓の四兵衛という者がおり、そのせがれの清八は六年以前に大坂へ養子に出され、「亀屋忠兵衛」と名乗って養家を継いでいた。ところが忠兵衛は金銀を盗んでその金で遊女を身請けし、ともに大和郡山の上里村に親類を頼って逃げ隠れていたが、両名は見つかり捕縛、大坂に送られて入牢となった。実の親の四兵衛は大坂町奉行所より処罰せぬようにとの知らせがあったが、忠兵衛が盗んだ金については四兵衛が弁償することになったという。
この実説が当時巷間に広まったと見られ、以後京都や大坂で「梅川忠兵衛」の事が歌舞伎の舞台に取り上げられているが、宝永8年正月に京都で上演された『けいせい九品浄土』では忠兵衛が主人公ではなく、梅川にはほかに男がいて廓を抜け出す手段として忠兵衛を利用し、忠兵衛は最後には馬子に金をとられて殺される。忠兵衛はほんの脇役だったという。ほかに浮世草子にも「梅川忠兵衛」は取り上げられており、そんな中で近松が世話物として書いた浄瑠璃がこの『冥途の飛脚』であった。
なお『冥途の飛脚』の初演の時期については、正徳元年(1711年)の7月以前らしいという事しかわからず、はっきりしない。またこれと近い時期に同じ題材を扱った紀海音作の『傾城三度笠』があるが、この作も確かな初演の時期が不明である。『傾城三度笠』は『冥途の飛脚』の改作ともいわれるが、このふたつのいずれが先であったかがわからないので、その影響関係についても明らかではない。
「飛脚屋」はもともと大坂発生のもので、書状と貨幣を預って輸送していた。十八軒の飛脚屋による仲間(組合)が作られ、もしその中で品物の輸送ができなくなった場合には、まず飛脚屋仲間でその事情を取調べ、連帯責任で以って相応の負担をした。顧客からの預かり物を盗みなどした飛脚屋は家財没収の上、死罪という厳しい掟が定められていた。「封印切」とは飛脚屋が人から預かって送る金の、その封印のある包み紙を破くことであり、「新口村」の最初において「十七軒の飛脚問屋あるひは順礼古手買ひ…家々を覗きからくり飴売りと」とあるのは、亀屋以外の組合加盟の飛脚屋から、忠兵衛捕縛のための追手が様々に変装して村中をうろついていたということである。
忠兵衛の年齢は「今年はたちの上はまだ四年…」すなわち二十四歳と記されている。二十四という歳で、四年も飛脚屋の中で暮らしていながら、上でも述べたように飛脚屋が人から預かった金を横領すればどうなるか、本来わからないはずはないが、「淡路町」で八右衛門宛てに届いたはずの五十両を勝手に梅川の手付金に使ったと白状しているのを見ても、遊郭の女に夢中となって分別を失った若い男の姿がそこにはある。しかし、ここで八右衛門が飛脚屋仲間へと直ぐに訴え出れば、忠兵衛と亀屋は相応の処罰を受けたであろうが、土下座して泣きながら自分を犬とでも思ってくれと謝る忠兵衛を八右衛門は見て「ほろりっと涙ぐみ」、「言ひにくいことよう言うた。丹波屋の八右衛門、男じゃ了簡して待ってやる」と、結局忠兵衛を許すのである。つまり忠兵衛は、八右衛門に命を助けられたことになる。
だが事はこれで収まらなかった。忠兵衛が大事の預かり金を懐にしながらうかうかと越後屋の表にまでくると、先に越後屋に来ていた八右衛門が、例の鬢水入れのことまで暴露して忠兵衛の棚卸しをしている。前段「淡路町」で忠兵衛を庇ったはずの八右衛門が、なぜいきなり越後屋で忠兵衛への悪口をし始めるのか。これについては八右衛門を「物事を表面的にとらえて、相手の態度次第でどうにでも変ってゆくような人間」であり、「無責任な放言もする」のだという解釈もある(藤野義雄)。しかし『冥途の飛脚』を実際に語った四代目竹本越路大夫は八右衛門について、「実際に友人思いの、人情のある男で、忠兵衛よりも一回り大きな人物ですよ。悪人ではないです」と述べている。すなわち悪口するように見えて、じつは忠兵衛のことを思い遊郭や梅川から忠兵衛を遠ざけようとしたということである。そのように考えれば「淡路町」でも「越後屋」でも、八右衛門の性格は一貫しているといえる。
しかしいずれにせよ、忠兵衛はその八右衛門の言葉に怒り、感情に任せてついに「封印切」の大罪を犯してしまう。その直ぐ前の「淡路町」亀屋において、八右衛門から許され助けられたにもかかわらず、同じ過ちを繰り返してしまうのである。友人どうしのことならまだしも、武家の蔵屋敷へ届ける大金を使い込んでは最早言い逃れはできない。本来顧客へ金を届ける飛脚屋が、自ら死へと赴く「冥途の飛脚」となってしまったのだった。一方、「傾城に誠なし」とは作中でもいわれているが、この忠兵衛の相手をする梅川は「新口村」での孫右衛門に対する態度を見ても、遊女ながらも善良な人物として描かれているのが救いといえよう。
忠兵衛と梅川は追手に怯えながら「新口村」まで逃れてくるが、この「新口村」では忠兵衛の実父孫右衛門に比重が置かれている。いわば本作の、もうひとりの主人公とも言うべき人物である。姿は見せないが直ぐ近くに居るであろう息子に向けた悲痛な思いを、孫右衛門は梅川を前に次のように語る。
「…世の譬へにいふ通り、盗みする子は憎からで縄かくる人が恨めしいとはこのことよ。久離切った親子なれば、よいに付け悪いに付け、構はぬこととはいひながら、大坂へ養子に行て、利発で器用で身を持って、身代も仕上げたあの様な子を勘当した孫右衛門はたはけ者、あほう者といはれても、その嬉しさはどう有ろう。今にも捜し出され、縄かかって引かるる時、よい時に勘当して、孫右衛門は出かした、仕合せじゃと誉められても、その悲しさはどう有ろう…」
そして縁を切ったといっても親子、大金がいる事があるならばどうして前もって自分に相談してくれなかったのか、そうすれば間違いなどさせなかったのにと嘆く。『冥途の飛脚』はその後内容を改作されて『けいせい恋飛脚』や『恋飛脚大和往来』として上演されることになるが、この「新口村」は最後の場面を除き、おおむね大きな改変はなされずに使われており、子を思う切ない親心という内容が現代にまで伝えられたのだといえる。しかし忠兵衛たちは結局捕まり、縛られて大坂へと引かれてゆく様を孫右衛門は目にすることになる。本作の最後は「…水の流れと身の行方、恋に沈みし浮き名のみ難波に。残しとどまりし」とあるが、その「恋に沈みし浮き名」は人々を不幸にして終ったのだった。
近松門左衛門作の『冥途の飛脚』は名作と評されてはいるが、実際にこれを人形浄瑠璃の舞台にかけた場合、話の芯になる人物たちが破滅に向って終るだけというのは、近松よりものちの人々にとっては物足りなく感じるようになっていた。そこでこの「梅川忠兵衛」の話を少しでも膨らませようとしてできたのが『けいせい恋飛脚』であり、歌舞伎の『恋飛脚大和往来』であった。実際『冥途の飛脚』は初演ののち、江戸時代における上演は文政3年(1820年)の大坂での興行が確認できるのみであり、演目として本格的に上演されるようになるのは大正3年(1914年)以降のことである。そのあいだ人形浄瑠璃では、改作の『けいせい恋飛脚』がもっぱら上演されていたのである。ただし下之巻の「道行相合駕籠」だけは、一中節や宮園節に曲を移して語られている。  
善福寺 / 梅川・忠兵衛の供養碑
近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)の浄瑠璃の名作「冥土の飛脚」(めいどのひきゃく)のモデルとなった忠兵衛(ちゅうべえ)の故郷が新口(にのくち)町です。善福寺(ぜんぷくじ)には、忠兵衛と梅川(うめかわ)の供養碑があります。
「奈良の旅籠屋三輪の茶屋、五日、三日、夜を明し、二十日あまりに、四十両、使い果して二分(一両の半分)残る。鐘も霞むや初瀬山・余所に見捨ての親里の、新口村に着きにけるが」という名文句があります。
「冥土の飛脚」では、ふるさとの父により大阪淡路町の三度飛脚亀屋の養子に出された忠兵衛は、新町槌屋の遊女の梅川と恋仲になり通い詰めます。梅川の身請けの為に金に詰まった忠兵衛は、預かっている三百両の封印切りの大罪を犯してしまいます。
忠兵衛は生まれた大和新口村(やまとにのくちむら)(現在の新口町)に、梅川とともに手に手を取って駆け落ちしましたが、二人ながらに捕らえられ、大阪千日前の刑場で処刑されます。
梅川は近江矢橋の十王堂で、忠兵衛の菩提を弔いつつ懺悔の日々を50年余り送ったというお話です。 
ぶんか探訪 咲大夫さん 2009/4
かつて花街、文楽の舞台――豊竹咲大夫さんと行く大阪・新町界隈
今ではマンションやオフィスビルが並ぶ大阪・新町はかつて、名の知られた花街だった。文楽の舞台ともなり、近くの四ツ橋文楽座はにぎわいを見せた。9歳の時、その文楽座で初舞台を踏んだという文楽太夫の豊竹咲大夫さんと界隈(かいわい)を訪ね、往事の思い出を聞いた。
新町は江戸時代は幕府公許の郭(くるわ)で、戦後しばらくまでは花柳界が栄えていた。東には四ツ橋文楽座があったほか、世話物の舞台になるなど一帯は文楽とも関係が深い。咲大夫さんにとっては幼いころから親しんだ界隈だ。昭和の名人と言われた父・八世竹本綱大夫は文楽座の近くに住み、咲大夫さんは浄瑠璃を子守歌代わりに聞いて育った。物心ついたころから楽屋にいたという。
父親同士も仲が良かったという幼なじみの歌舞伎役者、15代目片岡仁左衛門さんと遊ぶのも、文楽座か大阪歌舞伎座(千日前)の楽屋。「小道具の刀やカブトがあるでしょう。それで、ちゃんばらごっこしてました」
4月に文楽の山場(切場)を語る「切場語り」に昇格した咲大夫さん。太夫の最高位で、親子2代での栄誉だ。入門は9歳のとき。父に連れられて、番組収録の現場で名人、豊竹山城少掾(やましろのしょうじょう)に会ったのがきっかけだった。小ぶりの見台をあげる、と誘われ、山城門下に入った。四ツ橋文楽座で初舞台を踏む。豆太夫で人気を博したが、なかなかのやんちゃだったとか。舞台があるのに楽屋にいないので大騒ぎ。「遊びたい盛りで、外に紙芝居が来てるからそっちのほうが面白い言うて」
咲大夫さんの記憶にある新町は、しっとりとした情緒に満ちている。今では埋め立てられ、車が行き交う長堀通は、かつては川だった。「昔は材木を乗せたいかだが流れていて、橋が4つ架かっていました」。4つの橋が架かっているから四ツ橋。そんな名残も今は石碑に残るだけ。文楽座は1930年に新築され、後に空襲で全焼したものの間もなく復興。1956年に道頓堀に移るまで文楽の拠点だった。
咲大夫さんにとって、新町の花柳界もなじみ深い世界だった。井原西鶴「好色一代男」にも登場するなど、古い歴史を持つ花街。戦後もしばらくはお茶屋が軒を連ねていた。「新町はどちらかと言えば知る人ぞ知る、という花柳界だった」そうだ。かつての目抜き通りを歩きながら、咲大夫さんが示す場所はマンションやビルに変わっている。咲大夫さんによれば、今から約40年前までは色町の名残をとどめていたという。
新町を舞台にした人形浄瑠璃の名作を挙げてもらった。近松門左衛門「冥途(めいど)の飛脚」。飛脚問屋の養子・忠兵衛と新町の遊女・梅川との恋物語。忠兵衛は300両の為替金を届けに北の堂島に行くはずが、梅川恋しさに新町のある南の方に向かう。
新町へ行った忠兵衛は懐の金の封印を切って梅川を身請けし、2人で逃げる。「浄瑠璃を読んでいくと、米屋町、狐小路と出てきて新町に行ったことが分かる。適当な思いつきではなく、実際の地名を芝居に盛り込んでいるのが近松のすごいところ」。地名の一つ一つに意味が隠されているという。
地名に照らして足跡を追うと、恋に身を滅ぼしていく青年の切迫した思いが伝わってくる。「行き当たりばったりの男やね」と苦笑しながらも、咲大夫さんの言葉には情がこもっている。
新町を東から西に歩き、なにわ筋を渡った公園には砂場の碑がある。砂場とは新町にあった地名だ。「果てはすな場をうち過ぎて。あとは野となれやまと路や」。ここを過ぎて忠兵衛の故郷・大和に向かったことが表されている。
「『砂場』と、金銀を“砂”のようにまき散らしたという意味が両方掛け合わされているんです」と咲大夫さん。ここから大和国に当たる奈良までは、ずいぶん遠い。「あとは野となれ山となれ」と駆け去った、2人の寄る辺ない心情が鮮やかに浮かび上がった。

とよたけ・さきたゆう 文楽太夫。1944年、大阪市生まれ。本名、生田陽三。53年豊竹山城少掾に入門、竹本綱子大夫を名乗る。同年「伽羅先代萩」の鶴喜代君で初舞台。66年豊竹咲大夫に改名。2009年、文楽太夫の最高位「切場語り」に昇格。同年日本芸術院賞受賞。父は八世竹本綱大夫。