冥途

「死のある風景」久世光彦逝く 
 
内田百閧知る 
冥途のイメージを文章で教えてくれた人 
怖いもの見たさを超えて 
老いの怖さに襲われそう


 

内田百間1内田百間2「冥途」考まあだだよ件(くだん)あの世はあるのか呑竜様倶生神東家秘伝倶生神2近松の世話物「冥途の飛脚」1「冥途の飛脚」2日本人と死後の世界
 
【死出】 死んで冥途(めいど)へ行くこと。しで(死出)の山の略。 
死出の旅 死出の山に行くこと。死ぬこと。冥途の旅。「死出の旅に立つ」 
死出の山 死後、越えて行かなければならない山。冥途。 
【冥土・冥途】 仏語。死後、死者の霊魂がたどって行く道。亡者のさまよい行く世界。地獄・餓鬼・畜生の三悪道など。 
冥土にも知る人 どのような所でも知己はできるものだ。どんな遠い未知の土地に行っても知人にめぐりあえる。 
冥土の旅 死んで冥土に行く旅。死出の旅。
 
【冥途の飛脚】浄瑠璃・世話物・三段、近松門左衛門作。大坂の飛脚問屋亀屋の養子忠兵衛は遊女梅川になじみ、友人八右衛門と張り合うために封印切りの大罪を犯し、梅川とともに郷里新口(にのくち)村に逃げるが捕らえられる。 
【泉下】黄泉(こうせん)の下。死後人の行くところ。あの世。冥途。 
泉下の客と成る 死ぬ。なくなる。
 
【賽の河原】 子どもが死んで行くといわれる冥途にある河原。子どもの亡者はここで恋しい父母のために小石を積んで塔を作ろうとするが、何度作っても鬼が来てすぐこれをくずしてしまう、そこへ地蔵菩薩が現われて子どもを救うという。無駄な努力のたとえ。「賽の河原の石積み」 
門松は冥途の旅の一里塚 (「めでたくもありめでたくもなし」とつづく一休の歌から)正月の門松は飾るたびに一つずつ年をとるので、死への道の一里塚のようなもの。 
【別路】 この世と別れて冥途へ行く道。 
【倶生神】 (くしょうじん・くじょうじん) インド神話に基づく仏教の神。人が生まれた時から、その左右の肩の上にあって、その人の善悪の所行を記録するという同名、同生の二神。また、これを男女の二神とし、男神は同名といい、左肩にあって善行を記し、女神は同生といい、右肩にあって悪行を記し、死後、閻魔(えんま)王による断罪の資料とするという。また、俗に、閻魔王の側で罪人を訊問し罪状を記録する神とする。 
 
賽の河原口説き 
月に群雲 花には嵐 釈迦にだいばや太子に守屋 
さらば皆さん御聞きなされ  定め難きは無常の嵐  
散りて先立つ習いと云えど まして哀れは冥土と娑婆よ 
賽の河原に止めたり 二つや三つや四つや五つ 
十より下の幼児が  朝の日の出に手に手を振りて 
人も通わぬ野原に出でて 山の大将は我一人かな 
云うもありまた片ほとりには 土を運んで上りつ下り 
石を運んで塔築く塔は  一丈築いてはそれ父のため 
父の御恩と申せしものは 須弥山よりも高くして 
言葉に何か述べがたき 二条築いてはそれ母のため 
母の御恩と申せしものは  恵の恩の深いこそ 
蒼海よりも深いぞえ 三条築いては主従兄弟我が身のためと 
何れ仲良く遊びはすれど 日暮れ方にはもの寂しさよ 
父をたずねて姥こいと呼ぶ  声は木霊に響き立つ 
恋したちまちあわきと云えど 役の塔をも築ごうとすれば 
ここに邪険なあくどい鬼が 何を遊ぶや子供や子供 
鏡照る日の眼の光  築いた岸をも早や引き崩し 
何処ともなく失せにける かかる嘆きのその折節に 
地蔵菩薩が現れ給い ここへ来いとて衣の袖を 
かざし給えば皆取りついて  透かし給えばおことら顔よ 
顔をさすりつ髪なで下げる 地蔵菩薩に取り付き嘆く 
共に涙の御暇よりも 父さん母さん何故ござらぬか 
我に預けしよりも当娑婆にて  帰りを待つぞ去りながら 
罪は我人ある習いじゃが 殊に子供のその罪咎は 
母の胎内十月が間 苦痛様々この世に生まれ 
四年五年また七つ年  成るや成らいで今帰るゆえ 
賽の河原に迷い来る 父はなくとも母見えずとも 
我に頼めど叶わぬ浮世
 
「生きることは、書くことだった」 瀬戸内寂聴・久世光彦  
初期短篇の素晴らしさ  
瀬戸内 私はね、まだ全く世にも出ていない、同人誌にも載るか載らないかという時から、同人雑誌の友だちと全集の話ばっかりしていたんですよ。早く全集を出したいって。ろくに食べるものもなく、水飲んでいてもいつかは自分たちではひとかどの小説家になるって信じていたんでしょうね。だから、今度ようやく全集を出してもらえることになってうれしくて……。  
久世 今回の全集ではまず一巻の短篇群がいいですよね。僕はデビュー作の「女子大生・曲愛玲(チユイアイリン)」という小説をリアルタイムで読んでいるんですよ。確か「新潮」だったと思うけど、これは昭和三十二年ですね。僕はまだ大学に入ったばかりだったんだけれど、色っぽい年上の女(ひと)が書いたんだ、ってとても印象的だった。  
瀬戸内 新潮社同人雑誌賞を受賞した作品なんです。今回の全集には、全作品について自分で解説を書くことにしているんですけれど、そのために当時の選評を読んだら、意外に誰も褒めてくれてないのよ。三島由紀夫さんが「官能性の一語を以て推す」と言って、井伏鱒二さんが「色慾描写を買う」って書いてくださっているんだけれど、むしろ評判悪かったんですよ。他も低調だったんです。それなのにあの時何であんなにうれしかったんだろうと今、不思議で。  
久世 僕は今回、瀬戸内さんの初期短篇を読み直して、あの頃を再発見した気がしたなあ。読んだときの自分をも思い出してしまったし……。「女子大生・曲愛玲」と「花芯」の間は何年くらい空いているんですか?  
瀬戸内 ほとんどないです。「花芯」は昭和三十二年十月の「新潮」だから。  
久世 無礼なことを言いますけれど、ほんの少しの間に、ずい分うまくなっているんですよね。  
瀬戸内 ありがとう。「花芯」は褒めてくれる人が少ないの。新潮社同人雑誌賞受賞第一作と言うことで、こちらは張り切って百枚ぐらい書いたのに、削られて六十枚になってしまったし。  
久世 僕はその時二十二歳だから、やっぱり色々あの作品には感じたけれど、それは今でいう「ポルノグラフィ」じゃなくて、ちょっと目線を上に上げた感じのエロティシズムというものだったような気がしますね。  
瀬戸内 当時は「子宮作家」というレッテルを貼られて、その後五年間文芸誌から依頼がなかったぐらい酷評されたんですよ。  
久世 でも、あれは「気持ち」の色っぽさですよね。夢中になってしながら、したくない、したくないって呟いているみたいな――僕らには永遠にわからない女の人の生理的なものが言葉になっているという感じで、そうした緋色の靄のようなものを描いた意味であの作品を越えるものはちょっとないんじゃないかな。  
瀬戸内 結局、恋愛は肉体より精神だということを言いたかったんですよ。それを全く反対に取られちゃったんですよ。その後「現代のポルノグラフィ」というのは、最大の賛美の言葉として使われているけれど、私のときはそれが悪いこととしてひどい目にあったんですからね。そのときに一緒に、石原慎太郎さんの「完全な遊戯」という作品も叩かれたの。マスコミに追随しているとか、エロに媚びているとか書かれて。石原慎太郎さんはその時すでに「太陽の季節」を書いたスター作家だったから悪評されても干されなかったけれど、ずいぶん腹は立ったみたいで、会ったこともないのに電話を下さったのよ。「瀬戸内さん、僕たちの小説は決して悪いものじゃない。将来自分の文学全集が出るときには必ず僕はその中に入れてやる。瀬戸内さんもあれはいい作品だから、絶対に全集の中に入れなさい」って。それ以来、私は慎太郎さんと仲がいいんですよ。
「死と別れ」すなわち「孤独」を書く  
久世 その後に書かれた「夏の終り」がまたいいですよね。これも好きな小説です。この作品では、文章のつながりがまこと気持ちがいいんですよ。接続の仕方というか、転調の妙というか、そこにリズムがあるんですね。この女の声を聞きたい、と読者が思うときに、ちゃんと台詞があるんですよ。僕もドラマの演出ではそういうリズムを考えますけれど、この作品はそういう点でもうまいんだなあ。それに一つの文章の長さ短かさとか流れとか、文章読本にしてもいいと思う。  
瀬戸内 死ぬ前に一番好きな作品を挙げろと言われたら、やっぱり「夏の終り」でしょうね。読み直すと未熟なところもいっぱいありますが、三十代の終わりごろ、作家として欲得なく張り切っているんです。  
久世 この小説は絶賛しますよ、僕は。瀬戸内晴美時代の白眉です。  
瀬戸内 いま「新潮」に連載している「場所」という作品で、「夏の終り」の舞台になったところも全部訪ねているんです。もう四十年経っていますから、家も何も残っていないけれど、そこへ行くと土地の記憶と言うものが足の裏から語りかけてくれるんですね。それを、じいっと考えていると、四十年前あの男がああ言ったのはこういう意味だったんじゃないか、とかわかってくるんですね。今になってはもう取り返しのつかないことですけれどね。  
久世 そういうふうに悔いるのではなく、ふっと思い当たるというところが、さやかでいいですよね。  
瀬戸内 結局ずっと私は死を書いてきているんですね。「死と別れ」ということは、すなわち孤独を書くことですけれども、私の歳になると、もう周りは全部死ぬのよ。長生きするということは、こういう目に遭うことだなあと思うのよ、最近。この全集にも入れたんですけれど、「霊柩車」っていう短篇があるんですよ。私の父親の話なんだけれど……。  
久世 確か指物職人でいらしたんですよね。  
瀬戸内 全部自分で手をかけて仕事をして、日本一豪華だと自慢していた霊柩車で、市からの依頼で作ったものなんだけれど、戦後まで焼けないで残っていたので、最後は自分で作った霊柩車に入って送られたという話です。これは吉行淳之介さんが編集長をしていたときの雑誌「風景」に書いたんですよ。吉行さんに依頼されて、光栄に思ってうれしくてね。吉行さんは本当に格好よかったんですよ。  
久世 僕がちょうど学生の頃のスター作家ですよね。〈第三の新人〉には安岡章太郎さんや遠藤周作さんがいて、僕らの仲間の中ではやっぱり吉行さんが一番人気がありました。僕自身は小沼丹さんが好きでした。  
瀬戸内 でもね、みんな死んじゃって……。これはやっぱりすごいことですよ。久世さんはまだ若いからお友だちはそんなに死んでいないだろうけど、あなたも「週刊新潮」の連載エッセイの「死のある風景」でずっと死について書いてきていますよね。  
久世 今度また、連載をまとめた二冊目の『薔薇に溺れて 死のある風景』(十二月、新潮社刊)という本を出したんです。僕が死について書くのは、やはり十歳で戦災を体験して、死体をゴロゴロ見たことからですかね。十歳の子供に非常に強烈な体験でしたから。  
瀬戸内 私はちょうどその頃は北京へお嫁に行っていたので、戦災というのを実は全く知らないんですよ。あの本の中で久世さんは、遺書について書いていらっしゃるでしょう。私、吉行淳之介さんの遺書を見たことがあるんですよ。いつも使っている原稿用紙にきれいな字できちんと書いてありました。あの人は遺書をいつ書いたのか知らないけれど、湯浅芳子さんは毎年お正月に遺書を書き直していました。  
久世 加藤治子さんが全く同じですよ。瀬戸内さんと同じお歳ですけれど、毎年大晦日に遺書を書き直す。大晦日にその一年を振り返って、あの人は意地悪だったから、とか思い出して名前を消したりしているらしい。加藤さんと瀬戸内さんは、同じ大正十一年生まれの、色っぽい双璧ですねえ。  
瀬戸内 私なんかは今、もういつ死んだっていいの。全集も出ることだし。  
久世 そういう人が一番長生きなんですよ。森繁久彌さんなんて、二十年以上前から「もう俺は死ぬ」って言い続けてますからね。加藤治子さんもそうですよ。  
瀬戸内 そうかしら。でも「死のある風景」は死を書いていてもきれいで、暗くなくて、全編詩のようで、ちょっと格調高くていい連載ですよ。これからも楽しみにしていますよ。  
久世 僕は演出が仕事なのでつい考えちゃうんですが、「夏の終り」などの短篇は是非ドラマ化してみたいなあ。  
瀬戸内 まあ、ありがとう。この間、香港映画のウォン・カーウァイ監督と会いましてね。そうしたら、中国で「夏の終り」を読んでいて、映画にしたいっていうんですよ。それで、登場人物の若い方の男をキムタクにやらせたいって言うんだけれど。  
久世 僕がドラマにするときは、「あふれるもの」の女が若い男に会いに、銭湯に行くのを装って走っていくところなんて感動的なシーンだなあと思うんですよ。何かしに行くんじゃない、ほんの三十秒か一分、ただ男の顔を見に行くんですよね。  
瀬戸内 それを結構誤解されているんですよ。洗面器に石鹸を入れて、走るとコトコト音がしちゃうから、タオルでしっかりくるんで走るんですよ。それで男の部屋へ行って、走っていったから汚くなった足を、ただ洗って拭いてすぐ帰るのよ。ちゃんとわかるわよね?  
久世 わかりますよ、それは大丈夫です。
はみ出した女たち  
久世 瀬戸内作品の中で、僕はまず短篇に惹かれるんだけれども、その次は「美は乱調にあり」などの伝記ものが好きなんですよね。大杉栄や伊藤野枝の時代にとても興味があるということもあるんですが……。  
瀬戸内 久世さんは私よりずっと若いのに、私が若い頃に読んだものと久世さんが読んだものが一緒なのね。例えばあなたも北原白秋が好きなのよね?  
久世 白秋と三人の妻を描いた「ここ過ぎて」は非常に好きなんです。僕はこの作品とシンメトリーに、白秋の側からも書きたいという思いがあるんですよ。  
瀬戸内 まだ白秋はいっぱい書くことがありますよ。久世さんだったら書けると思うわ。是非お書きなさいね。  
久世 自信はないけれど、そのうちに書きたいと思っています。それで今回、是非直接お聞きしたかったのは、「遠い声」の幸徳秋水と管野須賀子であり、伊藤野枝であり、そういう女の人たちに、瀬戸内さんが心駆られるのは何故なんでしょう?  
瀬戸内 私がもしもあの頃に生まれていたら、ああなっていただろうと思うんです。  
久世 そういう革命憧憬みたいな素質がおありなんですか。  
瀬戸内 今でもあります。正義感が強いでしょう。それで単純なのね。これは世のため人のためと思うと命なんか要らないんですね。そういう馬鹿なところがあるんですよ。管野須賀子も伊藤野枝にしたって非常に単純な女で、しかも情熱があり余っていたんですよ。私はその情熱に感じるものがあるの。  
久世 「余白の春」の金子文子もそうですか?  
瀬戸内 大変に頭のいい人です。でも規格に入らない。何かこう、はみ出す情熱があるんですね。だから私は、真っ直ぐおさまる人には余り魅力を感じない。はみ出して、世間からははじき出されて、という人たちが好きなんですよ。私があの時代に生きていたら、多分ああいうことをしていたと思うんです。
「不良」文学へ  
久世 「田村俊子」や「かの子撩乱」の岡本かの子もずいぶんはみ出していましたけれど、その中では誰が一番興味深いですか。  
瀬戸内 最初から不良の人の方が好きなの。やっぱり管野須賀子かな。一番かわいそうだけれど、面白かった。荒畑寒村さんからもいろいろ聞くことができたから、やっぱり興味深いですよ。伊藤野枝も面白いですけれどね、次から次へと十二人ぐらい子供を産んで……。  
久世 今たまたま瀬戸内さんの口から「不良」という言葉が出たけれども、ある言い方をすると、瀬戸内晴美の文学は「不良の文学」であると思う。僕らの頃の不良と言うのは、男も女もすごくチャーミングでロマンがあったんですよね。走る炎みたいで、はかなくて。  
瀬戸内 私は女学校を卒業するまでずっと模範生だったんですよ、それが嫌でしてね。その頃から不良に憧れていたの。でも何もできなくって、結婚してもいい奥さんで、終戦で帰ってきてからやっと不良になったのよ。その時にもうせいせいした。軌道からはずれて、あの人は不良だと言うレッテルを貼られると、すごく自由になった。出家してからまたもっと自由になった。これ以上の自由はないから、あの世へ行っても大して面白くないんじゃないかと思う。  
久世 僕はものすごく憧れたけれど、結局不良にはなれなかった。だから瀬戸内さんには是非、不良に戻っていただきたいなあ。戻るというか、今でもかなりの不良なんでしょうけれど、もっと不良ぶりを出していって欲しいんだなあ。  
瀬戸内 そう言われると、やっぱりうれしいわね。  
久世 「瀬戸内寂聴」って言うと、今の人たちはもう「不良」だなんて思っていないと思う。でも、僕の中ではいつまでも、瀬戸内さんは「寂聴」じゃなくて「瀬戸内晴美」なんだな。  
瀬戸内 そうね、今は不良だと思われないかもしれないわね。  
久世 カタログに「第十八巻 新作長篇」って書いてあるじゃないですか。この作品は、是非とも不良小説を書いて、不良の瀬戸内寂聴を世間にアピールしてください。不良の尼さんなんて、ドキドキします。 
 
昭和のいのち  
黒柳徹子さんから聴いた話である。  
作家の高橋玄洋さんは、終戦の夏のころ旧制の中学生で広島の郊外に学徒徴用で働いていた。  
原爆の日、広島がやられたというので、救出作業のため列を組んで市内に入った。  
恐ろしい光景に震えながら怪我人を運び、倒壊した家屋の下に誰かいないか探したりしているうちに、4、5歳の女の子が一人、いつの間にか自分の後をついてくるのに気がついた。  
玄洋さんたちが次々に場所を移動しても、どこまでもその子はついてくる。  
顔に大火傷をしていて、もう助からないと高橋玄洋さんは思ったが、追い払うこともできず、何となく一日連れ歩くことになった。  
玄洋さんも話かけなかったし、女の子も何も言わなかった。  
夜になって、中学生たちにその日はじめて小さなおむすびが一つずつ配られた。  
お腹が空ききっていた玄洋さんたちは、むさぼるように食べた。  
ふと女の子と目が合った。  
まだ手には半分のおむすびが残っていたが、玄洋さんはそれを女の子に分けてやらなかった。  
女の子は、欲しそうな顔をするでもなく、怨めしそうな目で訴えるでもなく、ぼんやり玄洋さんを見ていたそうである。  
どうしてあのとき、一口でもおむすびを分けてやらなかったのだろう、  
夏がくるたびに玄洋さんはあの女の子を思い出し、その辛い思いは年を経て薄れるどころか、ますます深い痛みとなって、玄洋さんを責めるのだった。  
あの子の親兄弟はみんな死んだのだろう。  
玄洋さんは、もしかしたら親戚のお兄さんか誰かに似ていたのかもしれない。  
命の火が消えそうなあの子に、どうしておむすびをやらなかったのか、そしたら女の子は、爛れた顔でニッコリ笑ったかもしれない。  
黒柳さんがこの話を高橋玄洋さんから聴いたのは、終戦50年の年だったが、玄洋さんは話しながら泣いていたそうである。  
私に玄洋さんの話をする黒柳さんも、声をつまらせ、洟を垂らして泣いていた。 
 
夕暮れ・闇夜 
昔 妻と奥志賀にドライブ 
夜 何となく夜道を下り街に買い物に 
新月ネオンもない山道 ヘッドライトだけがどこまでも延びる
   
真っ暗闇を知る 
怖くなり宿に引返した
 
川筋の土手 
お彼岸春秋お盆の墓参り   
母と渡良瀬土手を渡る(市場)
 
遠くに田んぼ中を走る東武電車 
その先に呑竜様を見る
 
道連れ 
友は選ばねばならない 
相手を間違えると道連れにされることもある 
同僚上司会社も同じ
 
一匹狼を通せたので関りはなかったが 
多くの可愛そうな道連れ劇を見てきた
  
 
通夜 
父の通夜の晩 
疲れきった母に代わって父のそばに寝ずに付き添う 
線香を焚く 
夜中ふっと怖さを感じる
 
閻魔大王 
人は死ぬと七日目には三途の川の辺に到着。人が冥土に行く為には、渡らなければならない三つの川、すなわち「葬頭川」(そうずがわ)三瀬川(みつせかわ)「渡り川」がある。川の流れは三つに分かれていて、前世の行為(業)にしたがって、それぞれにふさわしい流れを渡ることになる 。三途とは地獄・餓鬼・畜生の三悪道のことだが、この川の辺に衣領樹(えりょうじゅ)という木がある。木の下には「奪衣婆」(だつえば)という老婆がいて、木の上には「懸衣翁」(けんえおう)というお爺さんがのっている。お婆さんが着ている衣類を脱がせ、木の上のお爺さんに渡し、木の枝に掛けると、その重みで枝が垂れる。枝の垂れ方で生前の罪の軽重が分かる仕掛けである。その「懸衣翁」と「奪衣婆」が、35日目の閻魔大王の裁判に、陪席しているので嘘の申告は出来ないのである。
 
倶生神(くしょうじん) 
どんな人間でも生れ落ちた時その瞬間から、二人の神様がその人の両肩に乗かっているそうだ。神様だから重みを感じない。この神様の名前は「倶生神」で、左の肩には、男の神様が、右の肩には女の神様が乗る。この倶生神が、閻魔大王の命により、その人の善行・悪行の全てを記録している。男の神様は善行を、女の神様は悪行を記録し、35日目の閻魔大王の裁判の時、肩から降りて、閻魔大王に最大漏らさず奏上する。

 


 
2006/ 
 
 
内田百間氏 / 芥川龍之介

 

内田百間氏は夏目先生の門下にして僕の尊敬する先輩なり。文章に長じ、兼ねて志田流(しだりう)の琴に長ず。 
著書「冥途(めいど)」一巻、他人の廡下に立たざる特色あり。然れども不幸にも出版後、直に震災に遭へるが為に普(あまね)く世に行はれず。僕の遺憾とする所なり。内田氏の作品は「冥途」後も佳作必ずしも少からず。殊に「女性」に掲げられたる「旅順開城」等の数篇等は戞々(かつかつ)たる独創造の作品なり。然れどもこの数篇を読めるものは(僕の知れる限りにては)室生犀星、萩原朔太郎、佐佐木茂索、岸田国士等の四氏あるのみ。これ亦(また)僕の遺憾とする所なり。天下の書肆(しよし)皆新作家の新作品を市に出さんとする時に当り、内田百間氏を顧みざるは何故ぞや。僕は佐藤春夫氏と共に、「冥途」を再び世に行はしめんとせしも、今に至つて微力その効を奏せず。内田百間氏の作品は多少俳味を交へたれども、その夢幻的なる特色は人後に落つるものにあらず。こは恐らくは前記の諸氏も僕と声を同じうすべし。内田百間氏は今早稲田ホテルに在り。誰か同氏を訪うて作品を乞ふものなき乎(か)。僕は単に友情の為のみにあらず、真面目に内田百間氏の詩的天才を信ずるが為に特にこの悪文を草するものなり。 
点心(抜粋)・冥途  / 芥川龍之介    
この頃内田百間(うちだひやくけん)氏の「冥途(めいど)」(新小説新年号所載)と云ふ小品を読んだ。「冥途」「山東京伝(さんとうきやうでん)」「花火」「件(くだん)」「土手(どて)」「豹」等(とう)、悉(ことごとく)夢を書いたものである。漱石(そうせき)先生の「夢十夜」のやうに、夢に仮託(かたく)した話ではない。見た儘に書いた夢の話である。出来は六篇の小品中、「冥途」が最も見事である。たつた三頁ばかりの小品だが、あの中には西洋じみない、気もちの好(い)い Pathos が流れてゐる。しかし百間氏の小品が面白いのは、さう云ふ中味の為ばかりではない。あの六篇の小品を読むと、文壇離れのした心もちがする。作者が文壇の塵氛(ぢんぷん)の中に、我々同様呼吸してゐたら、到底(たうてい)あんな夢の話は書かなかつたらうと云ふ気がする。書いてもあんな具合(ぐあひ)には出来なからうと云ふ気がする。つまり僕にはあの小品が、現在の文壇の流行なぞに、囚(とら)はれて居らぬ所が面白いのである。これは僕自身の話だが、何かの拍子(ひやうし)に以前出した短篇集を開いて見ると、何処(どこ)か流行に囚(とら)はれてゐる。実を云ふと僕にしても、他人の廡下(ぶか)には立たぬ位な、一人前(いちにんまへ)の自惚(うぬぼ)れは持たぬではない。が、物の考へ方や感じ方の上で見れば、やはり何処(どこ)か囚はれてゐる。(時代の影響と云ふ意味ではない。もつと膚浅(ふせん)な囚はれ方である。)僕はそれが不愉快でならぬ。だから百間氏の小品のやうに、自由な作物にぶつかると、余計(よけい)僕には面白いのである。しかし人の話を聞けば、「冥途(めいど)」の評判は好(よ)くないらしい。偶(たまたま)僕の目に触れた或新聞の批評家なぞにも、全然あれがわからぬらしかつた。これは一方現状では、尤(もつと)ものやうな心もちがする。同時に又一方では、尤もでないやうな心もちもする。
  
内田百間・仮想に酔いつつ、現実的な算段をすること

 

私たち人間の体験の中で、現実と仮想の関係はかなり微妙なものである。原理的に考えれば考えるほど、両者の関係は微妙である。微妙であるにもかかわらず、私たちは、両者の間に厳然とした相違があると普段は考えている。端的に言えば、そうしなければ生きていく上で支障が生じるからである。  
たいていの場合、日常の生活の中で起こることは現実に属していると思っている。たとえば、自分が朝のコーヒーを飲むためにとりあげるマグカップ、外の光を取り入れるためにガラガラと開けるガラス窓、身につける服。これらのものは、現実だと思っている。これらの「今、ここ」にあるもの、意識の中ではっきりと知覚されるものは、おそらく現実なのだろうと、私たちは考えている。  
一方、本当は「今、ここ」にはないのに、私たちの脳がかってにつくり出してしまったものは、現実とは異なる、仮想のカテゴリーに属していると考えている。鬼や龍、麒麟といった現実には存在しない動物たちは、仮想の世界の住人である。平成15年は確かにんげんじつであるが、かっては現実であったとしても、もはや「今、ここ」にたぐり寄せようもない記紀万葉の過去も、今となっては「仮想」であるとしか考えられない。  
「今、ここ」にあるものは現実であり、ないものは仮想である。そして、現実の生活の中で起こったことを記すのが随筆であり、仮想の世界のことを記すのが小説である。このような棲み分けを前提に、たいていの場合の人間の思考は成り立っている。  
ところが、内田百間においては、このような現実と仮想の棲み分け、随筆と小説の峻別がおそらく成り立たない。成り立たないところに、百間の文学のユニークな価値があるのだと私は思っている。  
現実と仮想の棲み分けが定かではない、と言っても、たとえば「冥途」の中で、主人公が食す「酢のかかった人参葉」や「どろどろした自然生の汁」は現実であって、一方でどうやらお父様らしい、「親指をたてた」人は仮想だが、「羽根の撚れた様になって飛べないらしい蜂」は現実か仮想か判然としない、だからこそ、蜂は現実の世界から仮想の世界への橋渡し役をつとめることができている、といった類の話ではない。  
それを言うならば、そもそも言語によって世界をとらえる人間において、何が現実で何が仮想なのか判ったものじゃない。開高健の絶筆「珠玉」の最後には、「女だった。女だった。」という一文がある。この「女」が、その時主人公の前にいる現実の女なのか、それとも仮想の女なのか、そんなことは判然としない。判然としないところに、言葉で世界を構築する人間が見る世界の本質がある。  
もちろん、人間の主観的体験の中に現れる様々な表象のうち、ごく一部分しか言葉として定着されてはいない。ピカピカ、ギラギラ、キラキラといった言葉のレパートリーよりもはるかに複雑で豊かな輝きのニュアンスを、私たちの意識はとらえる。意識のとらえる広大な表象の世界のうち、マグカップや窓といった「今、ここ」にあるものは、物質的実在によって担保されている現実であるように、私たちはふだん考えている。しかし、表象の成り立ちを冷静に考えてみると、そこには物質的実在による担保に支えられた自然主義態度ではとらえきれない仮想の自由が入り込んでいることが反省される。  
 
椰子さん、僕はいつも汽車に乗る時、そう思うのですがね、汽車が走っている時は、つまり、機みがついて走り続けているなら、それで走って行ける様な気がするのだが、こうして停まって、静まり返っているこれだけの図体の物を、発車の相図を受けたら動かし出すと云う、その最初の力は人間業ではないと思う(中略)気になるのは、動いている汽車と停まっている汽車とは丸で別物だと云う事です。その別別のものを一つの汽車で間に合わせると云う点が六ずかしい  
 
百間の「阿房列車」の中のこの一節は、汽車というのはすなわち外の客観的世界にある物質実在のことであるという素朴な態度を超えた、私たちの表象する世界の本来的無限定性をとらえている。いわゆる現実は、いわゆる仮想と一つながりの大陸なのだ。  
開高健が「珠玉」で言う「女」が、現実の女によって担保されている必要はどこにもない。表象としての女は、現実存在としての女に比べて、途方に暮れるくらい大きな仮想の世界につながっている。思春期にあこがれる女と、現実の女は別者である、その別別のものを、一つの女で間に合わせようとするからむずかしい。階段で上るビルの4階と、エレベーターで上るビルの4階は別物である。その別別のものを、一つの4階で間に合わせようとするからむずかしい。さあ、これから食べるぞ、と表象されるラーメンと、実際に食べている時のラーメン、そして、食べ終わってああおいしかったと振り返るラーメンは丸で別物である。その別別のものを一つのラーメンで間に合わせると云う点が六ずかしい。  
私たちの意識がとらえる表象は、それが現実を代表しているように見える時でも、実は現実によっては担保されない仮想の世界の自由度を内包している。そんなことは、自らの体験を少し振り返って見れば、当然のことであって、そう考えれば、内田百間の随筆と、小説を峻別して、前者は現実を書き、後者は仮想を書いているから両者は別のカテゴリーだと言うことはできない。百間の随筆の中の汽車は、現実の汽車であると同時に、仮想の汽車でもあるのである。  
私たちの人生はもちろん有限であるが、その有限の人生にさまざまな表象が密に絡み合っていることを思うと、有限の人生が本当に有限なのか、判らなくなってくる。その判らなくなったところに百間の随筆がぽんと入ると、独特の感銘が生じる。あからさまなフィクションを描いた百間の小説は、もちろん仮想の世界を扱っている。一方、現実を描いているかのように見せて、そこに無限定な仮想の世界の気配が絡んでくる「阿房列車」のような随筆は、有限の人生における現実を扱っているかのように見えて、実は無限定の仮想をも扱っている。その微妙な間合いがたまらない。  
 
遁道を出たと思うと、線路の近くで蛙の鳴いている声が聞こえて来た。蛙の鳴く時候ではあるし、夜ではあり、そうだろうと思った。  
放心した気持ちで、聞くともなしに聞いていたが、暫くすると、或はそうでないかも知れないと思い出した。蛙の声にしては、あまりいつ迄も同じ調子である。又その調子が規則正しく繰り返しているのがおかしい。蛙の声でなく、車輪の軋む響きが伝わって聞こえるのかも知れない。そう思って聞くと、そうらしい。そうだろうと思った。  
 
「鹿児島阿房列車」の中で、保土ヶ谷の先でずっと聞こえてくる「蛙の声」は、もしそこに注意を当てて拡大すれば、その中に「冥途」も「旅順入城式」も全て入ってしまうような広大な領域へとつながっている。何気なく書かれたかのように見える阿房列車の進行の随所に、無限定な仮想の世界への入り口がぽっかりと口を開けている。  
小林秀雄が、そのベルグソン論「感想」の冒頭で、扇ガ谷を飛ぶ蛍を見て、死んだおっかさんだと思う。この時、蛍という表象は現実で、おっかさんという表象は仮想だ、と整理するのは一見わかりやすい。しかし、本当は、蛍という表象自体が、すでに仮想なのである。現実の世界のどこにも、私たち人間が「蛍」という言葉で指し示している表象は存在しない。和泉式部は、「物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂かとぞ見る」と詠んだ。江戸時代の若い恋人たちが、沢で蛍を見て、「ああ、蛍だ」と言った。「蛍」という言葉には、日本語という体系の中でこの言葉が使われてきた履歴の記憶が何層にも積み重なっている。そのようなニュアンスをも引き受けた表象として、「蛍」は私たちに意識される。つまり「蛍」は、人間の精神が生み出した仮想である。一方、現実に存在するのは、腹の節の一部を光らせ、黒々とした羽根を持ち、触角を奇妙な感じで動かしている節足動物だけである。節足動物の存在によって、「蛍」という概念が担保されると考えて安心するのが自然主義的態度である。それではとらえきれないのが、表象の世界の実相である。  
「鹿児島阿房列車」で、保土ヶ谷の先からずっと聞こえていた蛙の声は、やがて、山系が言い掛けた「ちッとやそッとの」という言葉へと変容する。  
 
汽車に乗っていて、そう云う事が口に乗って、それが耳についたら、どこ迄行っても振るい落とせるものではない。「ちッとやそッとの、ちッとやそッとの」もう蛙なぞいない。今度著くのはどこだろう。お酒がないだろう。  
ちッとやそッとの、ちッとやそッとの「山系君」  
「はあ」  
ちッとやそッとの、ちッとやそッとの「お酒はどうだ」  
口に乗り、耳に憑いたばかりでなく、お酒を飲み、佃煮を突っついている手先にその文句が乗り移って、汽車が線路を刻むタクトにつれ、「ちッとやそッとの」の手踊りを始めそうになった。  
 
人は酒に酔うばかりではない。人は、仮想にも酔う。蛙の声から変容した「ちッとやそッとの」は、百間を酔わせる。その有様は、歌舞伎の名作「義経千本桜」の道行初音旅で、佐藤忠信に化けて静御前の供をする狐忠信が、折からの春の風に舞ってきた蝶に、思わず獣性をあらわにしてじゃれつく様子を思い起こさせる。  
おそらく、百間という人は、阿房列車の旅をしている間中、仮想という精神の酒に酔ったままだったのだ。  
もちろん、私たち人間は、物質的、実際的限定の中に生きている。仮想に酔ってばかりいて、生活の実際的限定の中での実際的な段取りの算段に心を砕かなければ、現実の阿房列車は出発しない。時刻表を毎晩眺めては飽くことのない百間のことだから、仮想の阿房列車に乗っているだけでも満足かもしれないが、やはり現実の阿房列車が出発しなければ、「阿房列車」という作品も成立しない。  
「阿房列車」の最初の作品、「特別阿房列車」は、その現実的算段の部分が、味わい深い。列車はなかなか出発しないが、何時までも出発しなくても別にかまわない、と思われる。「阿房と云うのは、人の思わくに調子を合わせてそう云うだけの話で、自分で勿論阿房だなどとは考えてはいない。用事がなければどこへも行ってはいけないと云うわけはない。なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う。」という書き出しから、「さて読者なる皆様は、特別阿房列車に御乗車下さいまして誠に有難う御座いまする」という文まで、手元のちくま文庫で二十五ページを費やしている。阿房と言えば、全くの阿房であるが、極上の読み心地の阿房である。  
百間の現実的算段は、おおむね二つの動機に導かれている。一つは、自分の美意識に合うように、事を進めようという動機である。そんなどうでも良いことは、適当でいいだろうと思ってしまっては、百間がその「どうでも良いこと」にこだわる心根が由来する、蝶にじゃれつく狐忠信に通じる明るい狂気の世界に触れることはできない。  
一等車に乗るか、三等車に乗るかということは虚栄に属することのように思われるし、もちろん内田百間は虚栄の人でもあるのだけれども、そのスノッブが突き抜けて得体の知れない狂気に転じているところが、百間の凄いところである。  
 
今度は用事はないし、一等車はあるし、だから一等車で出かけようと思う。お金の事を心配している人があるかも知れないけれど、それは後で話す。しかし用事がないと云う、そのいい境涯は片道しか味わえない。なぜと云うに、行くときは用事はないけれど、向こうへ著いたら、著きっ放しと云うわけには行かないので、必ず帰って来なければならないから、帰りの片道は冗談の旅行ではない。そう云う用事のある旅行なら、一等になんか乗らなくてもいいから三等で帰って来ようと思う。  
 
百間の現実的算段を導く動機の二つ目は、いかにして旅行の費用を調達するかという点にある。ここでも、金のやりくりをつけるという最も現実的な工夫が、「ちッとやそッとの」の手踊りに転化している。  
 
「大阪へ行って来ようと思うのですが」  
「それはそれは」  
「それに就いてです」  
「急な御用ですか」  
「用事はありませんけど、行って来ようと思うのですが」  
「御逗留ですか」  
「いや、すぐに帰ります。事によったら著いた晩の夜行ですぐに帰って来ます」  
「事によったらと仰しゃると」  
「旅費の都合です。お金が十分なら帰って来ます。足りなそうなら一晩くらい泊まってもいいです」  
「解りませんな」  
 
阿房列車という作品自体が、実際的な人なら「解りませんな」と感想を漏らすであろう現実的算段の繰り返しである。どの列車で行ってどの列車で帰ってくるか、夜のお酒をいかにおいしく飲むか、余ってしまった握り飯を、いかにもったいなくない形で処分するか、いかに、見送りの椰子君に紳士たるものの体面をつぶされないようにするか。  
一つ一つをとればとるに足らないように思われる現実的算段の積み重ねが、いつの間にか奇妙な非現実に転化して行く。スノッブな人のスノッブなふるまいが、幻視の人の幻視のふるまいにずれていく。「阿房列車」は、現実と仮想、日常と非日常、実際と幻想の間のありきたりの思いこみを溶かし、現実を実際的に生きることがすなわちもっとも幻想的な行為と思われるような、メタモルフォーゼを起こす作品である。  
考えて見れば、私たち人間の人生とは、そのほとんどが次に何をどうするかという現実的算段の繰り返しである。その現実的算段の繰り返しの中で、私たちは様々なことを夢見るが、そんな中でも時間はどんどん進行して、肉体は衰え、やがてこの世界から去る時がやってくる。現実よりも夢の方が人間の魂の本来の場所である、という類のロマンティックな幻想を抱くことは実はやさしい。むずかしいのは、人生とは現実的算段の積み重ねであるという事実を直視した上で、実はその現実的算段の中に、底抜けの仮想の世界の気配がいつの間にか忍び込んでいることに気づき、それを味わうことである。人生の有限性が、そのまま仮想の無限性に接続していることを悟ることである。  
「まあだかい」は、あからさまに人生の有限性を扱った作品である。百間が還暦を迎えた時、三畳の間ばかりの手狭の家に誕生日前日の五月二十八日から飛び飛びに日を選んで八月四日までに九晩を祝い収めた。今度は、教え子たちが秋の祝賀会を虎ノ門の晩翠軒で開いてくれた。その祝賀会が恒例化したのが「魔阿陀会」である。  
 
その御迷惑と云う事を考えると、既に昨年還暦を祝って戴いた私が、今夕またかくの如き仕儀となっては、この糞じじい、まだ生きているかと云うのが今晩の魔阿陀会です。まアだかいとお聞きになるから、私はまアだだよ、とこうして出てまいったわけであります。こう云う事にして下さいました以上、どうか来年もさらい年も、一先ずまアだかいと尋ねて戴きたいのでして、その内にきっと、もういいよと申し上げる所存で御座いますが、その節は御香典のご用意を成る可く沢山と云う事にお願い申します。  
 
「まあだかい」を読み進めるうちに、読者は、ある種の緊張感を自覚する。毎年積み重ねる魔阿陀会の様子をおもしろおかしく記したこれらのエッセイが終わる時は、すなわち、内田百間という人がこの世からいなくなる時であるという単純なる因果関係を悟るからである。  
第二回の魔阿陀会の百間の算段は、「私が招かれてその席へ出掛けるに就いては、先ず当夜の出で立ちを心に描く。お洒落で云うのではないが、お洒落でない事もないけれど、それは呼んでくれる諸君に対する礼儀であり、お目出度い会なのだから縁起に叶う必要もある。」であった。第六回の魔阿陀会の当日の百間の心配は、「彼らが今年も後を追って私の家に闖入するか否かはその時のはずみであり勢であって、勿論こちらからは誘引はしないが、だからと云って、来てはいかんと予めことわっておく可き事でもなく、又ことわっても来る者は来るだろう。」であった。どちらの心配も、どうでも良いと言えばどうでも良く、気持ちの良い酒席を開くという意味では、これ以上重要なこともないと言えばそうとも言える。  
魔阿陀会は積み重なり、第十六会を迎える時には、百間の算段の内容は変化する。その変化は、読む者を不意打ちにし、やがて厳粛な気持ちにさせる。  
 
楽しみにしていたその魔阿陀会がいよいよ近づき、後もう二三日という時になって、どうも足もとがおもしろくない。(中略)なにしろ広くもない家の中で、畳の上を歩き、廊下を伝うのにさえ事を欠く始末になった。膝の前にある机や卓袱台に両手を突いて、先ず起立する姿勢を準備し、気合いを掛けて、やっとこさと起ち上がる。その上で自分の行きたいと思う方へ行こうとするのだが、独り歩きは容易でない。柱につかまり、壁に手を支え、つまりしかし、そうしなければどうなると云うのだろう。よろよろしながら考えて見ればおかしな話で、柱も壁もなければ、一足も前へ出られないと云うのだろうか。(中略)二三日後に迫った魔阿陀会へ出掛ける自信があやしくなった。  
 
ここで生じている厳粛な気持ちは、人生が有限のもので、いつしか終わらなければならないという事実だけに対するものではない。実際的な段取りに心を砕く算段というものが、案外人間が生きる上で本質にかかわっているのではないか、という発見に伴う背筋がぴんと伸びるような気分が、読む者を打つのである。どうでも良い、取るに足らないことのようについつい思ってしまう、日常の生活の中の様々な算段たちが、突然人生そのものであるように思われてくる。  
百間は、やがて、毎年開かれる会に出られなくなり、自宅でその事後報告を聞くようになる。第二十回の魔阿陀会では、テープレコーダーに挨拶を吹き込んで、東京ステーションホテルの参会者に挨拶をする。そこまでするのも、魔阿陀会をはじめとする教え子との会に、「みんなもとの様に出たいな」と百間が心から願っていたからである。その願いの強さは、大雨の夜に姿を消してしまった愛猫に対する思いを綴った「ノラや」と同質のひたむきさで、読む者の心を打つ。  
その一方で、百間は、もちろん魔阿陀会にもとの様に出ることはもはや叶わぬことを悟っていた。  
 
天知る地知る。わかっとる。  
 
十九年目の魔阿陀会に出られなかった顛末を書いた「殺さば殺せ」の末尾のこの文章には、ひんやりとした秋の夕暮れのような寂しさがある。  
作品としての「まあだかい」を読んでいる限りでは、魔阿陀会がどのように終わりを迎えたのか、百間がどのように亡くなり、その死を教え子たちがどのように受け取り、その後魔阿陀会はどうなったのか、判然としない。その意味で、「まあだかい」という作品は、尻切れトンボである。毎年の会の様子を小説新潮に報告するという作品の成立の由来からして、そうなることは運命付けられていた。そもそも、人生というものは、文学という仮想の世界の論理など気にせずに、ある日突然脈絡なく終わってしまうものである。起承転結のはっきりした作品という芸術の一つの理想は、人生の実際によって裏切られる運命にある。ウェルメイドな作品につきまとううさんくさは、私たち人間の生の実感に由来している。  
仮想に酔う人、内田百間も、衰える肉体という現実からは逃れきれずに、入滅した。人間がいつか死すべき存在であるという現実は、分かり切ったことである。いつか死ぬという現実は分かり切ったこととして、酔い心地の良い仮想の世界を構築するのが、文学者である。百間は、仮想の酔い心地を、日常の世界のもっともつまらない算段と一つながりの世界の中に醸成した。そこに、実際的な配慮が人々の生活体験の大部分を占め、一方で生活の実際から乖離したファンタジーが純粋の仮想として消費される現代における百間の今日的な、そして文学の未来につながる価値がある。  
締め切りや原稿料を巡る現実的な算段をしつつ、文学者は、時々永遠のことを気に掛ける。酒の酔いは、いつか醒める時がくる。一方、仮想に酔うことに、本当に終わりがくるのかどうかは判らない。仮想の酔いはひょっとしたら永遠に続くのかもしれない。死とは、実は仮想に酔ったままになることなのかもしれない。文学作品が永遠の命を持つとは、つまりそういうことなのだろう。  茂木健一郎
 
内田百閨u冥途」考
 

 

「冥途」は1922年(大正11)に処女作品集として稲門堂書店より刊行されているが、所収の作品のうち何篇かは、この作品集刊行以前に改稿・改題を加えながら別の雑誌に掲載されている。  
明治四十三年発行「校友会会誌」に「烏」、大正六年発行「東亜之光」に「道連」「山東京伝」「冥途」、大正十年発行「新小説」「我等」に「烏」「舞台の熊(後の「蜥蜴」)」「土手(後の道連)」「柳藻」「豹」「支那人」「石畳」「山東京伝」「波止場」「花火」「冥途」「蝦蟇口(後の「流木」)」である。  
「冥途」の出発点ともいえる「烏」の初出である明治四十三年は、東京帝国大学に入学した年であり、漱石に弟子入りする一年前である。  
「校友会会誌」版の「烏」は、明治四十一年の春、十日を費やして児島三十三箇所を遍路した百閧フ体験を下敷きにして書かれた、ある宿屋での見聞記調の作品である。「新小説」版では説明・写生的描写だった文体を隠喩・象徴的に変更し、「死期を迎えた老猫が死に場所を求める」というくだりも削られる。  
この「烏」という作品は、百閧フ少年時代における「父の死」「実家の没落」という大きな消失を背景に描かれているものと考える。  
表題となっている「烏」は、作中では苦しげな声で鳴き、生きたまま羽根を毟られ、最終的にはくびり殺されてしまう。だが、「私」はその烏の姿を見ることはないままである。  
「烏」という鳥には不吉のイメージがあるが、これは西欧・キリスト教的な考えからきているものである。百閧フ場合は夏目漱石「倫敦搭」に登場する烏のイメージなどから刷り込まれているものとも考えられる。一方で、古来日本では烏は「神鳥」として扱われた。  
そのイメージから考えると、作中の烏は百閧フ父親なのではないかと考えられる。百閧フ父は病を患って死に、またそれに伴い実家も没落し、貧乏生活を余儀なくされる。烏の苦しみは百閧フ父の苦しみであり、生きたまま毟られる羽根は家の状況を示しているとも取ることができる。そしてその全ては自分の目の前=自分に知覚できる・干渉できる範囲では行われてはいない点も、自分のあずかり知らぬところで事態が動いていくのを感じることしか出来なかった百閧フ記憶とみていい。猫のくだりが省かれたのは、「死」のイメージの重複を恐れたからであろう。  
次に、変更点が多くあった「道連」について考えたい。「東亜之光」掲載の「道連」は、「冥途」収録のそれとは内容が異なっており、構想段階では副題として「坊主頭」というタイトルが付けられていた。「私」が長い峠をこすと日が暮れ、いつの間にか一人の道連れと土手のような道を歩いている。「私」は次第に恐怖にかられ、道連の足音を頼んで歩くのだが、そのうちに水音を聞く。道連に尋ねると「今に話す」といって黙って山裾まで歩く。ふと立ち止まった道連はその場所に井戸があると示し、気味悪がって離れようとする「私」を掴まえて、逢引をしていた尼と坊主が馬に憑かれてこの井戸で死ぬこととなった話を聞かせる。すると道連が恐ろしい大きな声で「己がその坊主だ」と言い、途端に世界の全てが消失する。この話は、夏目漱石「夢十夜」における「第三夜」とほぼ同じストーリーの運びとなっている。「第三夜」で背負われている子供は「道連」である。夢十夜では主人公は思うように進めないうねった道を歩いており、これは漱石の内にある迷宮を現している。対する百閧ヘ土手のような道を道連と並んでその足音を頼りに歩いており、漱石のように曲がりくねった道ではないのに自分の足を頼れないという点から、先の見えぬ人生あるいはその終焉に対する恐怖をあらわしていると考える。  
この作品は「新小説」掲載時にタイトルが一度「道連」から「土手」へと変わり、内容もがらりと変わって「冥途」所収のものとなっている。  
この頃の百閧ヘ「死の不安」に囚われている。百閧フ死生観として、一族の血脈への執着が見て取れる。百閧ヘ自分の息子に父の名前をつけ、また百闔ゥ身にも祖父の名をつけてもらっている。親の命は子供に受け継がれて一体となり、一族の血脈がつながっていくことでその魂は不死となるのである。作品中で道連が「私」の声を聞きたがることや、生まれなかった兄である道連と「私」・父親の声がおなじである点に、こうした考え方が現れている。  
しかし、冥途の中に登場する子供の存在は、そうした考え方に反し「死すべきもの」として現れてくる。「白子」では女の子供である白子が「私」に踏み潰されて死に、他にも「短夜」では狐の化かしたものであることを証明するために、「私」によって赤ん坊がいぶり殺される。「柳藻」でも女の子供の手がぽきりと折れ、殺したはずの老婆へと姿を変えてしまう。唯一「木霊」においては生きているものの、「声は細くて、元気がな」く、泣き声はそれよりもなお元気がない。ここにあらわれてくる子供たちは「私」自身の子供ではないからだろうか。ここでまた、夏目漱石「夢十夜」第三夜をひくと、おぶわれた子が百年前に殺した人間であるという箇所がある。ここのイメージから生じたものなのかもしれない。また一方で、百闔ゥ身の成熟願望であるとも取れる。百閧ノとって子供時代は失われた輝ける楽園であり、彼の文学にも回帰願望がありありと見て取れる。前述した子供たちを殺すもしくは傷つけるのが「私」である点から考えると、百閧ヘ回帰を望みながら、どこかで過去との決別を望んでいたのではないだろうか。  
さて、先ほどより文中にしばしば「夢十夜」が顔を覗かせている。百閧フ「冥途」は漱石の「夢十夜」の影響を強く受けている。百闔ゥ身夏目漱石を盲信・崇拝しており、処女作において彼の作品を模倣してしまうのも仕方がないといえよう。  
特に強く影響が見られるものとして、前述の「道連」に加えて「木霊」、「花火」、「蜥蜴」、「柳藻」、「波止場」などが挙げられる。  
作中に出てくる「女」について考える。「冥途」の中に出てくる女は、みなどこかに影を負って、物悲しげで不健康な姿をしている。そしてなにかしら「私」を脅かす存在として描かれている。これは百閧フ抱える女性像の投影ではないだろうか。  
百閧ヘ幼少の頃より祖母に溺愛され、非常にわがままに育った。後々そのことを作品の素材とするほどである。心理学的に母なるものは肯定的な面では優しく包み込み育てるものだが、否定的な面では誘い呑み込み子供の自立を妨げ食い殺してしまうものでもある。この母なるものを乗り越えるのは思春期の課題でもあるのだが、その点において百閧ヘ克服できているのだろうか。そう考えたときに、先述した「過去との決別を望む」ことが頭をよぎる。少年時代と決別できない百閧ヘ、母なるものである祖母ともまた、決別できては居ないのではないだろうか。  
また、妻との関係も考える。作中において「妻」という存在がでてくるのは「波止場」「疱瘡神」の二つだけである。どちらにおいても、妻は「私」以外の男性についていき、「私」と別れる結末となる。百闔ゥ身は借金のことから妻である清子と疎遠になり、ついには愛人である佐藤こひの家へ住み着くようになる。本妻と別れないまま愛人と暮らすことにより借金は一層膨らんでいった。  
このことから考えていくと、「花火」にでてくるそばにいてほしがる女の「浮気者浮気者浮気者」という発言や「尽頭子」の女の「あなたは私を忘れてはいないでしょうね」という発言も合点がいく。「木霊」の泣きながら歩き続ける女もそうだろう。また、「蜥蜴」や「白子」においては見たくないもの、気付きたくないものへと「私」を引っ張っていく存在として女が現れる。これは百閧ェ直視したくないもの、それは例えば借金であり、死であり、およそ現実的な問題と思われるのだが、そういったものことを言い立てる妻の姿ではないだろうか。  
「冥途」は全編を通して物悲しく、不穏で克つ滑稽な空気が漂っている。陰鬱で重たい漠然としたもの。それはおそらく百闔ゥ身の死に対する恐怖から来るものだろう。処女作品集「冥途」刊行までに、百閧ヘ多くの大切な人たちを亡くしている。それは父であったり、祖母であったり、崇拝し尊敬した師・夏目漱石や親友達であった。大切な人を亡くすたびに、百閧ヘ誰にもいつかは等しく訪れる死の影におびえた。そのことは彼の日記にも記されている。彼にとって人の生というものは生まれたときから死に向かってゆっくりと歩いていくようなものなのだろう。  
また、はっきりと明示されてはいないものの、この作品群は「夢」の話である。生きることとは正にゆめまぼろしのようなもの、と栄華と没落とを実際に体験した百閧ヘ悟っていたのだろう。  
そして百閧フ夢は、自身の少年時代につながる故郷のイメージを舞台として展開されていく。自らのペンネームとして名前を取ったほどである「川」のモチーフも土手という形を取って現れ出る。この「川」こそ時間の流れであり、彼岸と此岸を分かち、人の生涯を象徴的に表していると考えられる。故に「冥途」終結部において土手が現れるのだ。これは「道連」においても同じことが言える。  
百閧フ死生観は何よりもこの作品集の「冥途」というタイトルに現れている。「冥土」ではなく「冥途」なのである。「冥」界へと向かう道の「途」中なのだ。そこでひとの人生が交錯するのだ。 
 
「まあだだよ」 黒澤明 

 

黒澤明監督による1993年公開の日本映画。大映が製作し、東宝の配給により公開された。内田百閧フ随筆を原案に、戦前から戦後にかけての百閧フ日常と、彼の教師時代の教え子との交流を描いている。黒澤作品の前・中期に見られる戦闘・アクションシーン等は皆無で、終始穏やかなトーンで話が進行する。
キャッチ・コピーは「今、忘れられているとても大切なものがここにある。」。
黒澤明の監督生活50周年・通算30作目の記念作品として大きな期待を集めたが、同時期に公開された『ロボコップ3』や『許されざる者』などのヒット作に押され、興行的には失敗となった。
この作品の公開後、次回作の脚本を書いている矢先、骨折。闘病後1998年9月6日に黒澤は脳卒中により逝去し、本作が半世紀以上の監督生活を全うした黒澤の遺作となった。
あらすじ
法政大学のドイツ語教師・百關謳カは随筆家としての活動に専念するため学校を去ることになり、学生たちは『仰げば尊し』を歌って先生を送る。職を辞したのちも、先生の家には彼を慕う門下生たちが集まり、鍋を囲み酒を酌み交わす。先生には穏やかな文士生活が訪れるはずであった。しかし時代は戦争の只中、先生も空襲で家を失ってしまう。妻と2人、先生は貧しい小屋で年月を過ごすことを余儀なくされるが、戦後門下生たちの取り計らいで新居を構えることを得る。
昭和21年、彼らは先生の健康長寿の祝いのために「摩阿陀会」なる催しを開く。なかなか死にそうにない先生に「まあだかい?」と訊ね、先生が「まあだだよ!」と応える会である。月日は経ち、17回目の「摩阿陀会」は先生の喜寿のお祝いも兼ねて盛大に開かれる。門下生たちの頭にも白いものが交り、彼らの孫も参加したこの会で、先生は突然体調を崩してしまう。大事をとって帰ることになるが、かつての教え子たちは昔と同じように『仰げば尊し』を歌って会場を後にする先生を送るのだった。
その夜、付き添った門下生たちが控える部屋の奥で、先生はおだやかに眠る。夢の中、かくれんぼをしている少年は、友達に何度も「まあだだよ!」と叫ぶ。少年が見上げた夕焼けの空が、やがて深く彩られ、夜になっていくところで映画は終わる。  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エピソード
○ スタッフの野上照代は、東京で出版社に勤めていた時に原稿を受け取りに内田百間の家を訪れ、本人と面会したことがある。おみやげの日本酒を見せると、急に態度が変わり、ご機嫌になったという。
○ 黒沢清監督は「黒澤明では『まあだだよ』が好き。あっこ(あそこ)まで行ったら最早凄いよね」と語っている。
○ この作品にからめて黒澤は周囲に対し、「これが最後の作品ですかね?」「まあだだよ」などと冗談をいっていたという。
○ 香川京子の演技があまりに見事だったので、脚本でも指示がなく、指導もしていない。監督は現場でもほとんど見ていないという。
○ 登場する猫は重たかったので抱くときは苦労したという。また、暴れることもあったので眠くなるような薬を飲ませて撮影したらしい。
○ 馬鹿鍋のシーンでは本物の馬肉と鹿肉が用意された。黒澤は「わからないから、他の肉でもいい」とこだわらなかったのだが、助監督の配慮である。井川比佐志は馬肉と鹿肉は食べられないということで、助監督に頼んでわざわざ自分用に他の肉を用意してもらったものの、鍋の中に入れると、どれがその肉かわからなくなってしまい結局、ごぼうしか食べられなかったという。
○ ラストの夕焼け空にはハリウッドから輸入した「サイレント・フロスト」というコンピュータ制御のシステムが使われている。この夕焼け空は「雲名人」ともいわれる島倉二千六の手によるものである。
○ ビートたけしが黒澤に「自分は映画には使わないのか?」と訊いたところ、「おまえ言うこと聴かないじゃないか」とあしらわれたという。そこでたけしが「所使ったじゃないですか」と言うと、「あいつは役者じゃないじゃないか!」と返事をした。たけしによると黒澤は猫と同じ感覚で所を起用したのだという。そのことをたけしが所に言うと「それで俺のとき何にも文句言わなかったんだ」と納得したという。
○ 劇中で登場人物が歌ったり、街頭スピーカーから流れてきたりする以外の音楽としてはヴィヴァルディの「調和の霊感」第9番の第2楽章が使われているのみだが、この演奏を指揮しているクラウディオ・シモーネは、『乱』以降の作品で助監督のひとりとして参加している、イタリア人ヴィットリオ・ダル・オレ伯爵の伯父である。 
 
「件(くだん)」伝承 

 

「依而如件(よって件のごとし)」という言葉があります。若い方はたぶんご存知ないかもしれませんが、昔の証文等の文末にしばしば使われた定型文でございます。(いや、実は私も実際に使われてるとこを見た事ないですが) 「件」は、「くだん」と読み、「以前に述べた事柄」という意味。「よって件のごとし」とは、「前述のように真実をもって(嘘偽りなく)」という意味があります。一見、ただの古い言い回しのようですが、この「件(くだん)」。  
 
人面牛身で、未来を予言するという妖怪の名前でもあります。(「妖怪」と言っていいものかどうかもちょい疑問やが) 小説やコミック、最近では映画『妖怪大戦争』にも登場してる(らしい)、河童とか子泣きじじい程じゃないにしろ、わりと有名な妖怪なんで、ご存知の方多いんでないでしょか。  
妖怪にはそれ程興味があるわけではない私ですが、この「件」には惹かれました。その名前が、証文等公的な文書に定型文として使用されている妖怪という事に、ものごっつ興味を持ったわけです。公的文書にまで名前が使われるって、普通の妖怪とちょっと違うのか?なんか、他の妖怪と違ってリアリティあるといいますか、現実社会に浸透してた分、身近に感じるんですよね。  
件(くだん)  
姿形・能力 / 件 (くだん)とは、「件」の文字通り、人と牛が合わさった怪物。その姿は、人間の顔と牛の体、もしくは牛の頭部と人間の体を持つ。牛から生まれ、人間の言葉を話し、様々な予言をする。また、雄のくだんの予言は必ず当たるが、雌のくだんがその予言の回避方法を教えてくれるという説もある。  
寿命 / 生まれて数日(3日?)で死ぬ。予言してたちどころに死ぬ。歴史上の大凶事が始まる前兆として生まれ、凶事が終ると死ぬ。(その間、異変についての一切を予言する) 予言をし、予言の実現を見届けてから死ぬ。  
目撃談・噂 / 江戸時代から昭和前半まで、西日本(九州・中国・関西地方が多いよう)を中心に、日本各地で一種の都市伝説として様々な目撃談がある。発祥は中国山地との説も。最後に現れたときは、「日本が戦争に負ける」と予言したとされる。  
岡山  
昭和38年に調査した時の話。八束村で聞いた話では、件(クダン)が生まれ、来年6月には大戦争があると予言したという。その件は隣の川上村でうまれたとのことなので、川上村へ行くと件は中和村で生まれ、例年は大豊作だが、流行病があると予言したと言う。中和村で聞くと、件は八束村で生まれ、大風が吹くと言ったと言う。  
新見市千座で、大佐町に件が出たという。  
憑き物の結果として、クダンという、牛と人間のアイノコができて、千里眼が出ることがある。どこそこに千里眼が出てこれこれのことを言ったという噂が伝わってくることもある。こうした憑き物がした者が言うことをクチバシルという。  
子供の頃、草間村に生れたクダンを見に行った。ぶよぶよした赤い膚にちらちら毛が生えていたことだけが印象に残っているという。  
和歌山  
26、7年前三輪崎の村外れの漁村の家で、件を檻に入れて養っていた。それはその家に生まれた子で、成長しても白痴で、獣のように這うだけだった。顔は牛のようで、体は人であった。この者の言うことに偽りが無いので証文に件の如しと書く。  
件は頭は人間で体は牛である。件は生まれたら一言何かしゃべって死んでしまう。二度と何も言わない。それで約束事をするとき、言い直しはしないとい意味で、約束事を言った後に「よって件の如し」という。薬の広告で件の絵を見たが、薬の効き目も件の言葉同様きっと約束するということなのだろう。  
鳥取  
関東大震災を予言したクダンの話を、鳥取出身のある者が記憶している。  
広島  
満州事変当時、クダンが「来年は大戦争と悪疫で大半の国民が死ぬ。この災いを免れようと思うなら、豆を煎って7つの鳥居をくぐれ」と予言したという。  
牛が人面牛身の化け物を産むことがある。クダンと言い、生後1週間ほどで死ぬが、それまでに重大な予言を残す。予言は必ず的中するそうだが、第二次世界大戦の初頭、クダンが「3年後には日本の勝利で終わる」と予言したという話を覚えている。  
 
この他、小松左京氏の小説『くだんのはは』は、当時(昭和20年前後)実際に神戸周辺で語られていた噂が元になってるそう。岡山は、牛と縁が深い土地柄故、牛関係の伝承も多いようです。ちなみに、岡山の作家・岩井志麻子氏の『依って件の如し』も件モノ。(でも、どっちかってーと、「牛の首」系のような気も) 地元の人が読むと一層気味悪いのかもしれませんな。西日本に多い伝承のようですが、東北でも「件」伝承はあるみたいです。  
 
あと、「くだんの描かれた絵を家内に貼っておくと厄難病難除けになる」という言い伝えもあります。絵だけでもご利益あるからか、上記の目撃談中にもある薬の広告も実際にあったようですな。私も、何かの本かサイトで薬の広告を見たのですが、かわいくデフォルメされてるわけでもなく、よく古い文献で見る妖怪画(百鬼夜行とか)のようなタッチで不気味やったのを覚えとります。いくら薬が「件のように真実をもって」効くスゴイもんやったとしても、あの広告見て購買意欲が湧いたんでしょかね。 当時の消費者の皆さんは。(私はダメですわ…。なんか「ばんとう(?赤ん坊の…アレ)」でも入ってそうで) 当時と今じゃ、やっぱ感覚が違うんか?  
 
とまぁ、「件」とはこういう感じの妖怪でございます。牛は、農耕民族の日本人にとっては身近で貴重な家畜でありました。故に、神格化されたり畏怖の対象になったり民話になったり。「件」のような牛の物の怪が生まれるのも不思議ではありませんな。また、母牛が病気に感染し、奇形の仔牛が生まれる事もあります。昔の人はそれを、祟りや凶事の前兆、異端のモノと捉えたんでしょう。自分達と姿形が異なる「異形のモノ」を畏怖するのは、よくあることのようですし。(「天狗」も「西欧人」やっていう説もありますしな)  
とはいえ、公文書に名前が使われる程、特別な妖怪の様でもなし…。 
「件 (冥途)」  
『件の話は子供の折に聞いた事はあるけれども、自分がその件にならうとは思ひもよらなかつた。からだが牛で顔丈人間の淺間しい化物に生まれて、こんな所にぼんやり立つてゐる。どうしていいか解らない。何故こんなところに置かれたのだか、私を生んだ牛はどこへ行つたのだか、そんな事は丸でわからない』  
「件」というのは、人面牛身で、未来を予見するといわれた謎の生物のことである。伝説上の生物と思われているが、その起源については、明治初期の学者の冗談からとも言われ、定かではない。古代中国の「神農」に擬する説や、「山海経」に起源を求める説もあるが、辞書によると、「件の字は古書に見当たらず、その由来は明らかではない」、とあるから、虚説であろう。  
「件」について、辞書には、「人と牛の合字。人と牛を見分けることは容易であることから、物の仕分け、区分けを意味する字。 転じて、区切り毎に数える数詞として用いるようになった」とある。昔の証文、書付の末尾には、決まり文句として、「仍而如件(よってくだんのごとし)」と書かれていたが、この意味は、「既に何件もの例がある通りで、特に変わった点はない」という程度の意味である。証文には必ず書いてあるので、「一体くだんって何です」と聞かれて、答えに窮した挙げ句、出まかせの冗談で「人面牛身の神」とか何とか言ったのであろう。それも、一人や二人が言ったのではなく、あちこちで似たようなことを言うと、あたかも本当らしく思えてくるものである。私見であるが、落語に出てくる「一丈の大いたち」とか、「ろくろっ首」や「蛇娘」という類いの見せ物があったのではあるまいか。  
「件」のはなし  
岡山駅前の市電ターミナルの近くに、横長の大きな広告看板があった。痔の民間薬の広告のようで、大きく「ぢ」という文字があり、看板一杯に人間の顔をした牛が描いてあった。その絵と字体がなんともいえず古くさく、救いようのない暗さである。鍼のツボを示す人型の絵にこういうのがあって、牛人(件)は輪郭だけで描かれている。男ともつかず女ともつかず、大人とも子供とも判別ができず。頭も輪郭だけだから坊主頭の気の弱い少年のようにもみえる。顔は薄笑いのようにもみえるし、途方にくれているようにもみえる。痔を治すという責任に耐えかねているようでもある。  
駅前ターミナルから市電で二つ目の駅の近くに、祖父や叔父が住んでいたので、しばしば帰郷して、ときには長逗留になった。そのたびに、この看板を見るのだが、その度になにか途方にくれる気分が起こる。烏城や後楽園の近くで育って、第六高等学校生徒であった内田百閧焉A当然この看板を見ていた筈である。  
「件」は大正九年百闔O十一歳のときの作品である。初恋の人と結婚したのが大正元年、翌年長男が生まれている。妻との不和が書かれているのは大正十一年だが、そこに『永い間の心労』 という文字がある。大正九年の頃に、すでに将来別居の予感があったかどうか。  
「件」を書いたとき、(一部省略) 心労の投影と牛人を描いた広告板の投影とが作品にあったかどうか。もっとも、それが分かったからといって、どういうこともない。『件』のこぼればなし、といったところである。 [懐かしい人たち−吉行淳之介]  
私説「件」考  
「件」が書かれた時期を年譜で見ると、大正8年5月に腹案を纏め、大正9年8月頃に脱稿している。  
読んでみると、結論も何もないただの話なので、読んだ後いきなり野原に放り出されたような、索漠とした気持になるのだ。  
一体、百閧ヘ「件」で何を書こうとしたのか、という疑問が湧いてくるのは当然であろう。  
対象とする物の内部に入って、その心理を描写する手法は、ホフマンの影響であろうが、件(クダン)が現れたので予言を聞こうと集まった人々に、只、居座っているだけで、群衆が逃げ散った後、「私はほつとして、前足を伸ばした。さうして三つ四つ續け樣に大きな欠伸をした。何だか死にさうもない様な氣がして來た」。で終わる話である。  
同じ頃の作品「瑪瑙」もそうだが、“珍奇な物が、その本性は実に下らぬ”と言っているように受け取れる。  
この辺りに、この作品を読み解く鍵があるかも知れないと思い、周辺を漁ってみた。  
当時の文壇は、明治の自然主義文学を超える反自然主義を模索して、志賀直哉等の理想主義や、永井荷風、谷崎潤一郎の耽美派が活躍しており、幻想文学や、ポーに刺激された怪奇趣味の文学が生まれ始めていた。 百閧ヘ創作活動を始めるに際して、そのような、時代の先端をゆく流れに、身をおこうとしたであろうと思われる。  
「件」の腹案が浮かんだ大正8年という時期だが、その前年に米騒動が全国的に発生していることから類推すると、「件」に群がる群衆とは、世直しを期待する民衆をイメージしているのではなかろうか。  
そう考えると、かの「件」は、国の内外に大騒動を引き起こしながら、威圧する以外に為す術を知らない無能な為政者を、暗に批判するかのようである。(百閧ヘ陸軍の高級官吏であり、軍部や政治を批判できない立場にあった)。  
それは、それとして、作品の前段で、「私を生んだ牛はどこへ行つたのだか、そんな事は丸でわからない」と云いながら、終段では「その聲はたしかに私の生み遺した倅の聲に違ひない」、「群衆の中にゐる息子を一目見ようと思つて、私は思はず伸び上がつた」 のだから、「私」は母牛と生き別れた牝牛のようである。それが人間の姿をした倅を持っている。人間だった時に生んだ子なのか、いつの間にか母牛とすり代わったのか模糊としている。しかも群衆の中には、人間だった時の親戚や学校で教わった先生、教えた生徒がづらづら列んでいるのである。牡のようであったり、牝のようでもあり、なんだかややこしい。ここいらが「件」のクダンたる所以かも知れないし、本音の処を何重にも隠蔽するうちに、錯綜したと思えないでもない。 
 
あの世はあるのか、ないのか

 

今日は死ということがテーマで、いろんな角度から死が論じられてきたわけでございますけれども、私の話は当然何百万年前の話とか何万年前の話とかではなく、たかだか二千数百年前ぐらいからのお話でございます。現在、死ぬということを新聞とかで見ますと「永眠いたしました」という言葉が新聞上では一番流行っているわけです。この「永く眠る」ということは従来の伝統的な死ぬという用語とは違っているのではないかと思っておりますが、今はとにかくそれが一番人気があります。我々がお葬式に行って、一応「南無阿弥陀仏」ってお葬式させていただくんですけども、その後で大体御出棺の時におっしゃる御遺族の挨拶は「天国に行く」とかあるいは「草葉の陰」とかいうお話でして、あまり「極楽」とかいう言葉は御遺族から出てこないわけです。  
「永眠」あるいは「天国」、その言葉が今は人気がありますが、もともと日本では「往生」とかあるいは「入寂」、……往生は文字通り「往き生まれる」わけですからどこかに往って生まれるわけでして、あるいは入寂という「寂」は悟りの世界のことですから、悟りの世界に「入る」というのが入寂という言葉ですし、また、天に昇る「昇天」というのもキリスト教にはございますし、もっとも一般的には「他界」するという言葉が使われたんではないかと思います。  
それが何故今「永く眠る」という言葉になっているのか、それぞれにお考えいただきたいわけですけれども、それと並行してあの世を表す言葉も「天国」が今はお子さんにも人気があるようですが、もともと日本の伝統では「冥途(冥土)」です。冥土の「冥」は冥い(=暗い)という漢字ですので何か暗いところへ行くんじゃないかというイメージ……。あるいは「浄土」仏様の清らかな世界……、浄土っていうのは仏の世界と言う意味ですけれどもいっぱい仏さんがいらっしゃるなかで、阿弥陀仏の世界のことを「極楽」というように仏教語としては申してまいりました。  
しかし、先ほどからのお話でも極楽という言葉は今はどういうイメージで使われているかというと、決して阿弥陀仏の浄土というイメージではなくて、とにかくこの世よりもなんか他のしげな所、つまり英語でいう「paradise」なんでしょうか、そういう場所として使われております。ところが仏教語としての阿弥陀仏の浄土は、つまり極楽のことは英語で「pure land」と普通言うわけで、決して「paradise」ではありません。ですから、ピュアな国……、ピュアっていうのはどういうことかといいますと、要するに極楽と言う場所は普通におっしゃってるような楽しい、この世で出来なかったことが何となく出来る、……この世でゴルフし足りなかった方は向こうへ行ってゴルフをするとか、あるいはこの世で叶わなかった夢が叶う場所……。そのようなのが阿弥陀仏の浄土すなわち極楽ではなくて、あくまでも仏教語としての極楽はそこで仏様にならしていただける場所、と、そういう意味でございます。つまり悟りの世界……、この世で仏(ほとけ)になれないので阿弥陀仏の浄土に一旦往生させていただいてそこで成仏させていただく、悟らせていただく。つまり極楽って言う世界は決してゴルフをしに行くためにあるんじゃなくて、悟るために行くというのが仏教としての極楽の意味でございます。迷いの世界の中で悟れない人間が仏の悟りの世界に行かせていただいてそこで悟らせていただくというのが「極楽往生」ということの仏教としての意味ではないかと思います。  
日本人のあの世のイメージは仏教が説いてまいりました超越的な世界、この世ならざる所、仏の世界、……例えば極楽という世界は、西方十万億の仏の国を過ぎたところに世界があって名づけて極楽という。西の方に十万億の仏国土、仏様の浄土、それを過ぎたところに阿弥陀仏の浄土があると、こういうようにお経の中では語られてまいりました。日本人のあの世のイメージにはそればかりではなく「草葉の陰」などという言葉もございますし、あるいは我々がお盆に何故大文字山に火を燈すのかということを考えますと、これは決して西方浄土へ送るというよりは、つまりその方が生まれ育ってらっしゃった場所、その生活してらっしゃったところに近い山にその霊は鎮まっていくのであると。あるいは海辺の村ですと、鐘楼流しなどに代表されますように海の方に他界はあるんだと。つまり「この世」の地続きのところに「あの世」があると。「この世」の中にいわば「あの世」があるというようなイメージを従来日本人は持ってきたのではないかと思います。そういうことと対極的に仏教が、「この世」の中に「あの世」があるんじゃなくって全く違うところに、我々の預かり知らないところに浄土はあるんだと、そこで我々は仏にならしていただくんだと、こういうことを一方で説いてきたという歴史があるかと思います。  
そういうことを踏まえさせていただいて、二千数百年前まで、すなわちインドでお釈迦様が出られました頃までさかのぼらせていただきます。紀元前の5世紀から4世紀にかけてインドで釈迦なる方がおいでになった。そしてその方が悟りを開かれた。このお釈迦様が仏教を開く前提となりましたのがインド人の間で当時広がっておりました輪廻思想というものでございます。  
六道輪廻、生き物はぐるぐるぐるぐると生き死にを繰り返していくんだという考え方は別にお釈迦様が考えられたわけではなく、インド人の間で当時ポピュラーになっていた……。紀元前の7世紀とか6世紀、お釈迦様が出られる100年とか200年前にはっきりとしたそういう形を取って、それ以後インド人の心の中で普通に信じられるようになった。この六道輪廻思想、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天、という6つの世界を生き死にを繰り返していく。その生き物の生存状態のことを漢字では「有(う)」という言葉で表し、生有・本有・死有・中有というふうに周4つの有を繰り返していく。「生有」というのが生まれる瞬間、そして「本有」というのが一生涯、「死有」が死ぬ瞬間、そして次にどこかの世界に生まれるまでの間を「中有」、あるいは普通「中陰」という言葉で表しておりますが、この世での命を終えてあの世の生を受けるまでの状態を中有・中陰と申しまして、これが最長49日間あるとように普通インド人は考えた。49日たつとどこかに生まれる場所が決まる。この世の行いによって次にどこにうまれるのかが決まっていく。その六道の中に地獄道があり、餓鬼道があり、畜生道があり、阿修羅道があり、人間道があり、天道がある。よく仏教はあの世について地獄か極楽かということを説くんだというように言われますが、それは間違いでございます。つまり、まだ六道をぐるぐる廻っていくのから極楽へ生まれる、特に阿弥陀仏とご縁のあった方はもう六道をぐるぐる廻らないで極楽へ往生するんだと、これが私の考えますように、正しい仏教思想理解だと思います。つまり地獄か極楽かというように二者択一ではなくって、まだ六道をぐるぐる廻っていくのか極楽へ往生するのか、これが正しいあの世への往き方、というかあの世のイメージであろうと私は思っております。  
日本人は死者のことを「ホトケ」と普通呼んでまいりました。誰でも死んだら、ホトケと。このホトケはここで書きましたカタカナのホトケでございます、いわば。漢字の「佛(ブツ)」という言葉は目が覚めた方、心の目が覚めた人、悟りを開いた人、というのがブッダというサンスクリット語からきた「佛」という漢字で表されている言葉であります。  
したがって、日本人がずっと死者をホトケと呼んできた、そしてそのホトケの先にご先祖様というのがございます。死者は当初ホトケなんだけれども、死者が生者によって弔われることによってご先祖様になる。それが普通三十三回忌と考えられている。三十三回忌まで生者が死者を弔うと三十三回忌をもってそのホトケはご先祖様になられる。  
ところが日本人の従来の信仰心、……これは決して仏教そのものではなくて先祖崇拝を教といたします「先祖教」という宗教でございますが、この先祖教が室町時代中頃から顕著になり、ずっと江戸時代になって定着して、ほぼ高度経済成長期まで日本人の宗教心を形作ってまいりました。こういう先祖教においては生者が死者を弔うことによって、死者すなわち最初はホトケですが、それが三十三回忌まで弔われることによってご先祖様になられる。ところがそのご先祖様になったけれども、それはなりっぱなしではなくてまた何代かするとその家に生まれ変わってくると。人は生き、そしてホトケになりご先祖様になり、また人として生まれてくると。「あの人はだれそれの生まれ変わり」という言い方がございますが、そういうような中に少し断片が残っておりますように、つまりご先祖様になったらそれはなりっぱなしではなくてまた何代かするとその家に生まれてくると。こういう日本人の普通の宗教心、高度経済成長までの一般的な宗教心、それと別個に日本には仏教という宗教が伝統的にあったと、こういうように考えたほうがわかりやすいと思います。  
そういう先祖教に協力してきた仏教のことを普通「葬式仏教」というように申しております。この仏教というのは決して現代になって葬式仏教になったわけではなく、室町時代からずっと基本的に日本の仏教は葬式仏教だったと思います。これが先祖教という宗教心を持っている日本人にとってはきわめて有効な宗教であって、つまり仏教の儀式を借りて先祖教を信仰してきた。日本人の先祖教は決してだれが高開祖であるということもなく日本人の間で室町時代以降、つまり農業生産が飛躍的に拡大して家が続いていくようになって、そういう社会の中から何となく自然発生的に信仰されるようになった、それを先祖教というように民俗学者は名づけていると思いますが、こういう先祖教の流れと別個に仏教そのものの流れも並行してきたんではないかと思います。  
ですから日本人の中で、死んだら六道をぐるぐる行くんだとか、あるいは地獄へ行くんだとかそういう考え方とともに、先程申しましたホトケになってご先祖様になると、こういうような気持ちもずっと長く並行してあったんではないかと思います。どちらかといえば普通は、ホトケになってご先祖様になるというほうが強かったんではなかろうかと思います。お寺に行くと何となく地獄とか極楽とかを説かれて、そういうイメージもあの世には少なからず持ってこられたとは思いますが、一般的だったのは決して極楽……、仏教が説く極楽、西方、西の方の遠い遠い世界、ではなくって「あの世」は「この世」の中に地続きのところにあるというイメージできたんではないかと思います。  
その一つの証拠は、お墓参りのときに墓へ行って水を手向けるわけですけれども、なんで水を手向けるかというと要は生きていた空間、故郷を死者が忘れないようにするためであると、そのようにいわれております。特に産湯を使った水を死者に手向けるのが、その死者が故郷をいつまでも忘れず生者を見守りながら、また生者に弔われてご先祖様になっていくとされています。ですから日本人にとっての故郷とは何であったかといいますと、結局は、死者と生者が一緒に暮らしているという意識を持てる空間、これを日本人は長く故郷と呼んでまいりました。決して、山とか海とか川とか田んぼとかそういう風景を故郷という言葉はイメージしているのではなく、生きてる人間と死んだ人間がいっしょに暮らしてる場所。交流を持ちながら暮らしていると意識できる場所、それが日本人にとっての故郷というもんだったと思います。これが先程申しましたように、高度経済成長によって壊されてしまいました。一緒に親と子供が住むことは稀になりましたし、その同じ家の人間が同じ場所で一生暮らして、その近くに死者の霊がいて生きてる人間をいつも見守っているということが、高度経済成長以降は普通には信じられなくなったわけでございます。高度経済成長によって日本人の故郷は喪失したと申せるのではないかと思います。  
それが日本人の今までの「あの世」と「この世」の関係であったと思いますけれども、振り返って今日は法然院でせっかく聞いていただきますので、ご承知だと思いますが仏教のことを少し申させていただきます。仏教というのは、要するに「わたし」などというものはないんだと二千数百年前に釈迦という方が悟られた、これが仏教という宗教であると思います。つまり釈迦は何を悟ったかというと「縁起」ということをお悟りになりました。一言でいうと縁起という法……、法というのを真理といたしますと、縁起というこの世をつかさどっている真理を釈迦という方は悟られました。縁起というのは、すべての存在は因縁によって生じているのであって何物も独立して、いかなる存在も他とは無関係には存在できない、万物は現象として存在しているが実体としては存在していない、その時その時のわたしがいるのであって、赤ん坊のときのわたしと今のわたしは同じわたしではなく全く違うわたしでもない、一瞬前のわたしと今のわたしも全く違いもしないけど全く同じではないと。こういうことを「空」あるいは「無自性」、もの・ことが常に同一性を保ち続け、それ自身で存在するという本体、もしくは独立し孤立している実体――、こういう自性というのはないと仏教は考えてきたと思います。ですから変わらない魂などというのを仏教では認めません。魂という言葉でイメージされる何かわたしの中で不変の「我」というようなものはないのであって、常にその時その時の「わたし」。あるいは今現在のわたしであっても、皆様方お一人お一人にとってのわたしはある意味で違うわたしであると。誰かにとっての「わたし」と誰かにとっての「わたし」は違うのであるというように……。つまり、わたしなるものに変わらない実体を認めないというのが仏教という宗教というか、お釈迦様の悟りの一番の特徴だと思います。  
ですから、仏教においては神が何かを創造したということもございません。それぞれがお互いに支えあって存在しているだけだというのしかございません。縁起でございますので、始めに何かがあって何かを全部造りましたというようなことはございません。お互いがお互いを支えあっているだけであって、わたしが存在しているということは常に他者の存在が前提となっているということであると思います。  
ですからこの世があるのかないのか……。この世のわたし自身の存在が実体としてはないというわけですから、現象としてはあるが実体としてはないというようなことになります。今申し上げましたことは般若心経では「色即是空」といわれていることですが、――「色」(物質的存在には)「即ち是れ空」(実体がない)と、現象としてはあるが実体はない。しかし「色即是空」だけじゃなく般若心経は逆の「空即是色」も説いております。実体がないからこそ物質的に存在できるといっております。つまり、それぞれの存在にわたしなる実体がないので、それぞれの存在が今のようなあり方で存在できてるのだというのがこの世をつかさどっている真理ではないかと、その時その時の存在しかないのではないかと。  
そういうことを釈迦という方は二千数百年前におっしゃったと私は受け止めさせていただいておりますので、先程の内堀先生のお話ですと、「わたしというものがどんどん差異化しておりまして結局わたしというものにこだわるという気持ちが、私なりに申しますと非常に強くなってくるということにおいて、それぞれの人間がわたしの死というものをよりこだわって考えざるを得なくなっている」ということのようでございますけれども、もともと仏教ではこだわるなということしか教えておりません。「わたし」がないんだから「わたし」にもこだわらないし、「わたし」のものなどというのはどこにもない。「わたし」のものと思っているものは、「わたし」がなければそんなものはどこにもないはずですので、ただ「わたし」があると思っているから「わたし」のものがどこかにあるという理屈になるんだと思います。「わたし」があれば「わたし」の愛するものと「わたし」がどっちでもいいものができて、当然愛するものには執着していくわけでございます。ですから本来的に「無我」、我などというのはないのである、「諸法無我」という言葉を仏教では申します。諸々の法、……法というのは真理という意味もございますし、その真理がブッダ(悟られた方)の口をついてでますと、それが「教え」という意味にもなりますし、またこの世の我々一つ一つの存在が縁起の法によってこういう形で存在させられているんだとすれば、我々一個一個の存在も法と呼んでもよろしいと。このように仏教は考えてまいりました。ですから諸法無我というときの法は我々一個一個の存在という意味でございまして、諸々の存在には我という実体はないというのが仏教の旗印の一つになっております。  
そういう中で今日の最終的テーマは、「あの世はあるのか、ないのか」ということでございますけれども、インド人が輪廻思想を考えたときは、当然「この世」というのは「あの世」の一つだと考えたのでございましょう。前世があってこの今の世があるわけでございますので、当然この今の世が前世からいいますとあの世なのでございまして、そういう意味でこの世があるといえばあの世があるということになるのでございましょう。そういう輪廻という考え方、これが唯一、唯一といってもいいと思いますが東洋では倫理道徳をつかさどってきた思想なのであります。良いことをしたら良い報いがあって、悪いことをしたら悪い報いがありますよと。この世で悪いことをした人間はこの世ではそう大した処罰を受けなくっても、あの世でそれの報いが待っているんだと。このような六道輪廻というものを信じていたということが、おそらく東洋人の倫理道徳に大きな影響を与えていたと思いますけれども、これが近代以降だんだん信じられなくなってまいったようでございます。  
あの世はあるのか、ないのか。あの世はないというように考えるほうが、ある人によっては科学的だとおっしゃったりいたします。でも、科学というのはやはりこの世の我々が知っている範囲内のことをあるのかないのかと吟味できる学問であって、「あの世があるのか、ないのか」、あの世のことは科学でも証明も出来ないし否定も出来ないというように私は思っております。そういう意味で、あの世があると思うのも宗教的にですが信心なら、あの世がないと思うのも信心一つだとなろうかと思います。  
昔の方、昔というのはいろいろいえますが、例えば法然上人だったら法然上人、800年前当時の方は当然、神仏の存在というのは自明のことであって、法然上人がともかく阿弥陀仏を信ぜよとおっしゃったのは他の仏様や神様を信じないで阿弥陀仏を信じよという意味であったと思います。それが、日本では明治時代以降いろいろと神仏の存在が自明のことではなくなってまいりました。そういう中で、いったい神仏の存在とは何なのかということを明治以降の哲学者の方がお考えになってきたと思います。代表的なのが清沢満之という日本で最初の宗教哲学者といわれている方ですが、この方が神仏の存在は主観的事実だとおっしゃいました。わたしにとってそれが事実かということでございますから、わたしが結局あの世はあると思うか、ないと思うかだけである。当たり前のことのようですが、そういうことではないかと私も思います。あの世があると思いたいか思いたくないかということでございましょう。  
仏教という宗教は非常にメニューの豊富な宗教でございまして、極楽に往生しましょうという仏教があるかと思えば、決してそんなことを言わない、すべて空であるからあの世・極楽などというのはないのであるという仏教も当然あるのでございます。ですから仏教一つとりましてもあの世というのをあると思うかないと思うか幅の広さがございまして、自由でございます。要は、その方の思い、主観であるかと思います。  
法然上人が800年前に、「往生は一定と思えば一定、不定と思えば不定なり」という言葉をおっしゃっておられます。これは徒然草を書かれた兼行法師によっても非常に賞賛された言葉でございますけれども、往生は出来ると思ったら出来る、出来ないと思ったら出来ない。わたしが出来ると思うか出来ないと思うか、極楽往生したいのかしたくないのか、それ一つであるというようなことでございます。「あの世はあるのか、ないのか」それぞれお一人お一人でお考えくださいますようにお願いを申し上げます。つまり、あると思いたい人生なのかないと思いたい人生なのか、それはご自身が生きていかれる道、それこそ出会われる命とのご縁によって変わっていくことであろうと思いますので、今どう思ってらっしゃるかということとまた将来どう思われるかということも違うのではないかというように思っております。 
 
呑竜様

 

江戸初期の浄土宗の僧。号は源蓮社然誉大阿。武蔵国岩槻の人。慶長18年徳川家康に招かれて上野国(群馬県)太田の大光院を開山。当地の堕胎の風潮を嘆いて赤子を育て、多くの人々に尊崇され、「子育て呑竜」といわれた。(1556-1623)
大光院(だいこういん)
群馬県太田市金山町にある浄土宗の寺院である。山号は義重山。詳名は義重山大光院新田寺。通称「子育て呑龍」、「呑龍様」もしくは「呑龍さま」。東上州三十三観音特別札所、群馬七福神の弁財天。中島飛行機で開発された百式重爆撃機という航空機の愛称「呑龍」は同寺院の通称から名づけられたものである。
慶長18年(1613年)、徳川家康が先祖とする新田義重を祀るために呑龍を招聘して創建。境内裏には、新田義重や呑龍の墓がある。義重は九条兼実に従い法然上人に帰依した。建久6年(1195年)3月に寺尾城内に大光院を建立した[1]。時を経て、家康は観智国師・土井利勝・成瀬正成に遺跡を探させ、墓石と礎石などをここに移した。
呑龍は当時、多くの子どもが間引かれて殺されていたことを悲しみ、これらの子どもを弟子として引き取って育てたため、後世の人々から子育て呑龍と慕われた。
大光院正面の大手門は徳川家康の大坂城落城の日当日に落成したため、吉祥門と名づけられたという。 
大光院と呑龍上人
「子育て呑龍」として広く世に知られる大光院は、「呑龍さま」と呼ばれて人々に親しまれています。その正式の名称は、「義重山新田寺大光院」であり、徳川氏の始祖と言われる新田義重をまつるお寺です。
慶長16年(1611)3月、前将軍の徳川家康は徳川氏一族の繁栄と天下泰平、さらに始祖義重の追善供養の為、先祖の地に菩提寺を建立する計画を立てました。
そこで家康は、この問題をかねてから尊敬している芝増上寺の観智国師に相談しました。その結果、菩提寺建立の適地として太田金山南麓の現在地が選ばれました。
翌17年の春、大光院の工事が始まり、およそ1年かかって本堂・方丈・庫裏などが竣工しました。
それと同時に開山の選任が検討され、観智国師の門弟で四哲の一人といわれる呑龍上人が就任することになりました。
呑龍は、弘治2年(1556)4月、武蔵野国埼玉郡一の割村(埼玉県春日部市)に生まれ、竜寿丸と名付けられました。竜寿丸は、2,3歳の頃から念仏を聞くとニコニコとうれしそうな顔をし、また7,8歳を過ぎた頃には友達を集めて泥で仏像を作り、念仏を唱えたそうです。13歳の春、竜寿丸は僧侶になる決心をし、修行の道に入りました。そして翌年の8月、得度して呑竜と称するようになりました。
大光院に入山した呑竜上人は、看経カンキン・講義・説法などに力をいれ、また因果応報を熱心に説きました。そのため上人の学徳を慕う僧侶1000余人が大光院に集まり、また周辺村々の農民も上人の教えに服したので、寺運は大いに栄えました。
しかし、戦国の余じんのくすぶる乱世において人心は乱れ、そのうえに天災が続いたので人々の生活は困難をきわめました。そのために捨て子や間引き、子殺しなどの非道な行為が平然と行われました。この事態を憂えた上人は、精力的に村々を回って人々を訓戒しましたが、効果はなかなか上がりませんでした。そのため上人は、捨て子や貧しい人々の子供を7歳になるまで上人の弟子という名目で寺に受け入れ、寺の費用で養育しました。
元和9年(1623)夏、上人の衰弱が目立つようになりました。8月3日、弟子や関係者を枕辺に集めた上人は、「来る9日正午に往生をとげる。その時には雷鳴が鳴り渡るであろう」と語りました。そして9日の正午、仏前に合掌しながら入寂しました。 
 
倶生神をめぐって 

 

倶生神(くしょうじん) [諸解説]
1 肩に宿る神様 「人間が生まれてから死ぬまでの一生の間、人間の両肩にとまって人間がした良いこと悪いことを全部記録し、そしてその記録を閻魔さんに伝える仏さんである。」
2 常に人の肩にいて善悪の行動を記録し、死後、閻魔王に報告するとされる同生・同名という二神。インドでは冥界を司る双生児神だが中国・日本で十王信仰と結びつき、十王図では閻魔王の前に立つ人頭杖の上に乗る視目嗅鼻みるめかぐはなとよばれる二つの鬼の首として描かれる。
3 人が生まれるときに倶ともに生じ、常にその人の両肩にあって、その人の善悪の行動をしるして閻魔王えんまおうに報告するという同名どうみょう、同生どうしょうの二神のこと。同生神ともいう。経によっては倶生神ぐしょうじんを一人といい、男女なんにょの二人にするなど一様ではない。男女の二神の場合は、同名は男神で左肩にあって善業をしるし、同生は女神で右肩にあって悪業をしるすという。華厳経には「人の生まるより二種の天あり、常随じょうずい侍衛じえいす。一を同生といい、二を同名と曰う。天はつねに人を見るも、人は天を見ざるがごとし」とあり、十王経には「そのときには世尊、大衆に告げていわく、もろもろの衆生、同生神、魔奴闍耶まぬじややというものあり。左の神は悪を記す。形、羅刹らせつのごとし。つねに随って離れず、ことごとく小悪をも記す。右の神は善を記す。形、吉祥きちじょうのごとし。つねに随って離れず、皆微善をも録す。総じて双童そうどうと名づく。亡人の先身の、もしは福、もしは罪の諸業を皆書して尽くす閻魔えんま法王に奉与す。其王、簿をもって亡人を推問すいもんし、、所作を算計し、悪に随いてこれを断分す」とある。薬師経には「その人の屍形しぎょうは臥ふして本処にあり、閻魔の使人しにん、その神識を引いて閻魔えんま法王の前に置く、この人の背後に同生神あり、その所作のもしは罪・もしは福に随っていっさい皆書し、ことごとく持して閻魔えんま法王に授与す。時に閻魔法王、その人に推問し、所作を算計し、善に随い悪に随って之を処分す」とある。薬師琉璃るり光如来こうにょらい本願功徳経には「もろもろの有情には倶生ぐしょう神じん有って、その所作に随って、もしは罪、もしは福、皆つぶさにこれを書して、ことごとく持して閻えん魔ま法王に授与す。そのとき彼の王は、その人に推問して所作を計算し、その罪福に随ってこれを処断す」とある。天台大師の摩訶まか止観しかん巻八に「同名同生天はこれ神、よく人を守護す。心固ければすなわち強し、身の神もなおしかり」とあり、妙楽みょうらく大師の止観しかん輔行ぶぎょう伝弘決でんぐけつには、更にこれを注釈して「身と名を同じくし、身と生を同じくするを名づけて天神となす、自然じねんあるがゆえにこれを名づけて天となす、つねに人を守るといえども、かならず心の固かたきによりて神の守りすなわちつよし、ないし身の両肩の神、なおつねに人を護る」といい、吉蔵きちぞうの無量寿経義疏に「一切衆生に皆二神あり、一を同生と名づけ、二を同名と名づく。同生は女にして右肩の上にありてその作悪を書し、同名は男にして、左肩の上にありてその作善を書し、四天善神は一月に六反その名籍を録して大王に奏上す、地獄もまたしかり」とある。これらをうけて、日蓮大聖人は四条金吾殿女房御返事に「又人の身には左右のかた肩あり、この方に二つの神をはします一をば同名・二をば同生と申す、此の二つの神は梵天ぼんてん・帝釈たいしゃく・日月の人をまほらせんがため母の腹の内に入りしよりこのかた一生をわるまで影のごとく眼のごとく・つき随いて候が、人の悪をつくり善をなしなむどし候をば・つゆちりばかりも・のこさず天にう訴たへまいらせ候なるぞ」と述べられ、更に、同生同名御書には「人の身には同生同名と申す二ふたりのつか使ひを天生うまるる時よりつけさせ給いて影の身に・したがうがごとく須臾しゆゆも・はなれず、大罪・小罪・大功徳・小功徳すこしも・おとさず、かはる・かはる天にの上ぼて申し候と仏を説き給う」と仰せである。具生神とは、生命自身のもっている因果の法理を象徴化したものと考えることができる。
4 インド神話から仏教に受け継がれた神。誕生から死に至るまで人間の両肩に乗ってその行為を記録し、閻魔王えんまおうに報告するという。女神「同生」が悪を記録し、男神「同名」が善を記録する。
5 倶生とは、倶生起(くしょうき)の略で、本来は生まれると同時に生起する煩悩を意味する。人が生まれると同時に生まれ、常にその人の両肩に在って、昼夜などの区別なく善悪の行動を記録して、その人の死後に閻魔大王へ報告する。左肩にある男神を同名(どうめい)といい、善行を記録し、右肩にある女神を同生(どうしょう)といい、悪行を記録するという。インドでは冥界を司る双生児の神であったが、仏教が中国に伝わると、司命などの中国固有の思想などと習合し、また中国で成立した偽経の中において様々な性格を付加されるに至った。また日本に伝えられるや、十王信仰と共に知られるようになり、絵画や彫刻などでも描写されている。 
三友健容博士のコメント  
「生まれつき背後に結びついている」というのが、守護することであるというならば、悪人に生まれつき背後に結びついている倶生神は悪人を守護する神ということになるが、あくまでも個人の善悪の諸行を天に報告する神が原意であろう。すなわち長尾氏は、『世記経』を取り上げて(「漢訳仏典における「倶生神」の解釈」『パーリ学仏教文化学』58頁)、この記述がディーガニカーヤ(DN)にないことから、DNのあとに増補されたものとし、『世記経』の伝承者とは異なる思想的立場の求道者たちがいて、その人々は『守護鬼』の存在を否定していると述べ、『薬師経』の伝承者たちが、『世記経』の同じ立場に立つているとすれば…そのひとの守り神だということになる。と疑義的に推定している通り、ショーペンの言う「生まれつき背後に結びついたデーヴァター」が、閻魔に報告するという立場から守護する神に変わるとすれば、悪人にもデーヴァターがあるのだから、このデーヴァターは悪人も守護するという矛盾に突き当たることになる。それゆえ、ショーペンがどういおうと勝手だが、本来のデーヴァターは鬼神などに邪魔されることなく善悪の行為をあやまりなく記録し閻魔に報告する者というのが原意であることは明らかである。  
倶生神について日蓮聖人は、  
「人には必二の天、影の如にそひ(添)て候。所謂一をば同生天と云、二をば同名天と申。左右の肩にそひて人を守護すれば、失なき者をば天もあやまつ事なし。況や善人におひてをや。されば妙楽大師のたまはく、必仮心固神守則強等[云云]。人の心かたければ、神のまほり必つよしとこそ候へ。 」「 同生同名と申て二の天、生れしよりこのかた、左右のかた(肩)に守護するゆえに、失なくて鬼神あだむことなし。」「日本国を捨て、同生同名も国中の人を離れ、天照大神・八幡大菩薩、いかでかこの国を守護せん。 」 
等といわれている。  
『乙御前御消息』に仰せの「失なき者をば天もあやまつ事なし」の「守護」というのは、鬼神などに邪魔されず、そのひとの善悪諸行すペてを誤りなく天に報告するという意味での守護であって、霊断の「倶生霊神符」をもっているひとを無条件に守護するということでは断じてない。  
このように理解すれば、おのずから、『曽谷二郎入道殿御報』の文章は「同生同名も国中の人を離れ」たがために、正確に天に報告することができず、天照太神・八幡大菩薩も善悪の判断区別ができないのだから、どうしてこの国を守護することができようか、ということになる。 」  
三友博士のコメントによると、長尾氏が「『薬師経』の伝承者たちが、『世記経』の同じ立場に立つているとすれば…そのひとの守り神だということになる。」と論じているそうですが、この「倶生神はそのひとの守り神だ」と言う思想の系譜に『華厳経入法界品第三十四之一』や天台大師や宗祖は立っていると言えます。  
三友博士は『乙御前御消息』や『種種御振舞御書』に示している倶生神の守護は「鬼神などに邪魔されず、そのひとの善悪諸行すべてを誤りなく天に報告するという意味での守護である」と限定していますが果たしてそうでしょうか?。  
天台大師の「心は是れ身の主なり。同名・同生天は是れ神、能く人を守護す。心固ければ則ち強し、身の神も尚爾り。況んや道場の神をや。」 
との教示は、「観病患境」の中の文で「若し、善く四三昧を修して、調和所を得れば、道力を以ての故に必ず衆病無し、設ひ少しく違反すとも冥力扶持して自ずから当に銷癒すべし。仮令(たとひ)、衆障峰起すとも当に死を推して命に殉ふべし、残生余息、誓って道場に畢る、捨心決定せば何の罪か滅せざらん、何の業か転ぜざらん。・・・心は是れ身の主なり。同名・同生天は是れ神、能く人を守護す。心固ければ則ち強し、身の神も尚爾り。況んや道場の神をや。・・・但だ一心に三昧を修すれば衆病銷す。」と教示している中の文です。  
池田魯参教授が次のように現代語訳しています。  
「もしも四種三昧を行じて、あるべきように調和するときは、修行の力によって必ず病はなくなるであろう。仮りに少しく違反するようなことがあっても冥助を受けて自然に癒えることになるであろう。たとえ諸障が蜂起するようなことがあっても、死を賭して仏の教えに殉ずる決意で、残された命を道場で終えようと誓い、すべてを捨てる覚悟で心を決めれば、どんな罪も滅しないはずはなく、どんな業も転じないはずはないのである。陳鍼や開善がそうであった。云云。四大や五臓の病も調い治らないことはないはずである。たとえば小鬼が帝釈天の堂を敬い避けるように、道場の神が偉大であるから病は妄りに侵入することはないのである。また城主が剛ければ守る者も強く、城主が弱ければ守る者は逃げ出すようなものである。 心は身の主であり、「同じ名の、同じ生まれの二人の天の神が人を守護している」のであるから、心が固いとこの身の二神も同様に強くなるのであり、道場の神まで強くなるのである。例えば、『大智度論』で精進を釈して、鬼が五処に黏ずること云々。を示しているようなものである。ただ一心に三昧を修めれば諸病は治るのである。」  
天台大師は、倶生神の守護を衆病・衆障の除去を助けてくれる働きをすると見ていたことがわかります。  
『乙御前御消息』に見える倶生神の守護も「鬼神などに邪魔されず、そのひとの善悪諸行すペてを誤りなく天に報告するという意味での守護である」と三友博士のように、単なる伝達神に過ぎないと限定的に見ることは文意に外れていることが引用の文の前後を読めば分かります。  
この文の前後も揚げれば、  
「羅什三蔵は法華経を渡し給しかば、毘沙門天王は無量の兵士をして葱嶺を送し也。道昭法師野中にして法華経をよみしかば、無量の虎来て守護しき。此も又彼にはかはるべからず。地には三十六祇、天には二十八宿まほらせ給上、人には必二の天、影の如にそひ(添)て候。所謂一をば同生天と云、二をば同名天と申。左右の肩にそひて人を守護すれば、失なき者をば天もあやまつ事なし。況や善人におひてをや。されば妙楽大師のたまはく、必仮心固神守則強等[云云]。人の心かたければ、神のまほり必つよしとこそ候へ。是は御ために申ぞ。古への御心ざし申計なし。其よりも今一重強盛に御志あるべし。其時は弥々十羅刹女の御まほりもつよかるべしとおぼすべし。例には他を引べからず。日蓮をば日本国の上一人より下万民に至まで一人もなくあや(失)またんとせしかども、今までかう(斯)て候事は一人なれども心のつよき故なるべし、とおぼすべし。」 です。  
口語訳は 「法華経は女子に対しては、暗夜を行く時には灯火となり、大海を渡る折は大船となり、又怖しい場所では護となると誓はれてゐる。羅什三蔵が中國へ法華経を渡された時、毘沙門天王は無数の兵士を遣してこの三蔵を守り、彼の葱嶺の険を送られたと云ひ、又道昭法師が中国の曠野で法華経を読誦した時は、数限りない虎が現れて護ったと傅へらる。御許も亦羅什等のやうに、神佛が守護して下さるに相違ない。地には三十六神があり、天には二十八宿があって守られるばかりではなく、誰しも人には必ず二神が影の如く添うてゐる。即ち同生天と同名天がそれである。その二神が人の左右の肩に居られて守護ずるから、罪の無い者は天も罰ずることは出来ない。まして善人に罰無きことは言を待たない。それ故、妙楽大師は「人の志操が堅ければ堅い程、神の守護は必ず強い」と述べられてゐる。斯く申ずのは、御許の為めに申ずのである。日頃の法華信仰の御志は今更云ふまでもなく堅固であるが、其よりも尚一層強く信仰せられよ。其時は愈々十羅刹女の御守も強くなることゝ確信されるがよい。その志堅ければ神佛の守護も強い例を、遠く他人に求めるまでもない。この日蓮をば、日本國の上一人より下萬民に至るまで、一人も残らず害しようとしたが、今日まで、斯様に無事で居ることは、日蓮一人ではあるが、法華経に捧ける心が強いから、神佛が守護されたものと思はれるがよい。 」と訳されています。 
そして注に「4 華厳経(旧訳巻四十四)『入法界品第三十四之一』に『人の生に従いて、二種の天有り、常に隨って侍衛せり。一には同生と曰ひ、二には同名と曰ふ。天は常に人を見るも、人は天を見ず』とあり、聖祖はこれに依られたものらしい。」と注記しています。  
三友博士は「日本国を捨て、同生同名も国中の人を離れ、天照太神・八幡大菩薩、いかでかこの国を守護せん」『曽谷二郎入道殿御報』(定遺一八七五頁)の文意を切り文して恣意的に読んでいます。  
この文は、「日本国の挙ぐるところの人々の重罪はなお大石(だいせき)のごとし。定めて梵釈(ぼんしやく)、日本国を捨て、同生同名(どうしようどうみよう)も国中の人を離れ、天照太神(てんしようだいじん)・八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、いかでかこの国を守護せん。」とある部分です。  
「若し爾らば此の大菩薩は宝殿をやきて天にのぼり給うとも、法華経の行者日本国に有るならば其の所に栖み給うべし。」「正直の人の頂の候はねば居処なき故に栖なくして天にのぼり給いけるなり、」  
との御書を参照して読めば、「梵天や帝釈が日本国を捨て去り、倶生神も各人から離れ守護を止めてしまう。同様に天照大神・八幡大菩薩も守護してくれないであろう」との文意と見るべきです。  
ですから文意は「梵天や帝釈や倶生神も日本国を捨て去り、離れてしまうし、同じく天照大神・八幡大菩薩も国を守護することをやめてしまうのである」と、いわゆる神天上の一片を述べている箇所です。そもそも「倶生神の報告伝達を受けなければ天照大神・八幡大菩薩は国を護らない」と言うような天照大神・八幡大菩薩観を宗祖が懐いていた文証は無いでしょう。  
だから、『日蓮聖人御遺文講義』においても、この箇所を  
「これを日本国の人々の謗法の重罪に比較すれば、大石と軽毛とのおおいなる異があるのである。かく正法を国民が謗るために、正法守護の梵天や帝釈も日本国を捨て、一生身に添うて守って下さる同生同名神も、国中の人を離れ、天照大神・八幡大菩薩もこの国を守護しては下さらないである。(以上は謗法罪の重科なることを述べ、諸天善神、守護せざることを明かされたのである)」と意訳しているのでしょう。  
「同生同名も国中の人を離れ」たがために、正確に天に報告することができず、天照太神・八幡大菩薩も善悪の判断区別ができないのだから、どうしてこの国を守護することができようか、というような文意ではないでしょう。  
三友博士は 「生まれつき背後に結びついている」というのが、守護することであるというならば、悪人に生まれつき背後に結びついている倶生神は悪人を守護する神ということになるが、あくまでも個人の善悪の諸行を天に報告する神が原意であろう。」 と述べていますが、守護の働きの中には「常に随って、その者が善道に向くように教導しようとしている」こともあると考えるべきだと思います。  
と言うのは、倶生神が正神であれば、「我常に衆生の道を行じ道を行ぜざるを知って度すべき所に随って為めに種々の法を説く」との仏の精神や『大智度論巻第八』の文「今、十方の諸仏は、常に経法を説き、常に化仏を遣わして、十方世界に至り、六波羅蜜を説きたまへども、罪業の盲聾の故に、法の声を聞かず。是(ここ)を以ての故に尽く聞見せず、復た聖人は大慈心有りと雖も、皆な聞き皆な見しむること能わず。若し罪滅びんと欲し、福将(まさ)に生ぜんとすれば、是の時に乃ち仏を見、法を聞くを得ん。」に見える「罪業の者をも何とかして教導してやろう」との仏の慈悲に倣って、受け持ちの者が悪人ならば、その者を善導しようと努めるはずだからです。  
山崎師が   
「日蓮聖人御遺文を拝読すると、同名同生の二神は、「同名同生の天是れ能く人を守護す」と「天にうたへまいらせ候」と説かれているが、この守護とは梵天帝釈日月に知らせることにより間接的に善行者の守護となる「告げ知らせる神」と考えられる。」 
と述べて、三友博士と同じく倶生神を「告げ知らせる神」すなわち単なる伝達神としていますが、私が上に述べたように、天台大師や日蓮聖人は、倶生神を各人を守護する身の神としているし、『華厳経・入法界品第三十四之一』に『常に隨って侍衛せり」と言って、各人を侍衛すなわち守護している神と言っているのです。  
また山崎師は  
「また、生まれると同時に身に添うている神であるならば「倶生神符」をわざわざ身に着ける必要は無い、ということになる。」 
と言っていますが、宗祖や直檀が倶生神をお守りにして身に着けた事跡はないから、「必ずしもお守りの形にして着ける必要性はない」と前にも私は書いています。しかし、お守りと言う形にして身に着けることを強いて否定するまでも無いと私は主張しているのです。  
月に一度でも倶生神符を受けに寺院教会結社に集まり、御本尊の前で読経唱題し、法話を聴聞することになる。  
お守りと言う形にして着帯すれば「身の神である倶生神が常に護っていてくれるのだ」との意識を忘れにくくする。  
などの利点があるので、お守りと言う形にして身に着けることを強いて否定するまでも無いと私は主張しているのです。  
山崎師は 
「次に「倶生神」。高佐日煌師は、戦前から「倶生神」について述べている。『聖衆読本』には、我身の無事安泰に就いては、寸時も離れず傍に附いて御守護下さる、倶生霊神にお任せして置けば宜しいのであります。此の守護神は太神が我等を生み給うと共に遣わされて云々とあり、『皇道仏教読本』には、世界の群類は理として申せば天之御中主神の胎中から生まれたのもので、伊弉諾、伊弉冊の二柱はその神業を直接に行われた遠祖であってこの御神を倶生の神と申すとある。このように、高佐師がいう「倶生神」は、天之御中主神もしくは天照大神という本体・根源・創造主から生まれたものである。高佐師がいう「倶生神」と、日蓮聖人御遺文に記載された「倶生神」と名が同じだと関係があるように錯覚しているかもしれないが「法華思想の範疇の倶生神」と、「創造主から生まれたという外道の倶生神」とは天地の相違で両者は全くの無関係である」 
といって倶生神符を貶していますが、霊断師会の『新日蓮教学概論』にも、こんな馬鹿げた倶生神観を陳述していないし、倶生神符を配布している教師の中にも、こんな馬鹿げた倶生神観を懐いている者など居ないでしょう。  
言うまでもなく戦時中の時代迎合の高佐師の主張は大いに批判されるべきでものです。高佐師も戦後は転向して、馬鹿げた倶生神観を披瀝主張していないし、現在の霊断師会においても高佐師の戦時中の倶生神観を継承していないでしょう。もしも、現在においても霊断師会や倶生神符を配布している教師が、戦時中の高佐師の倶生神観のもとに倶生神符を配布しているならば、その倶生神観を大いに貶しても良いでしょう。  
しかし、戦時中の高佐師の倶生神観のもとに倶生神符を配布している者など居ない現在において、戦時中の高佐師の倶生神観を持ち出して倶生神符その物を貶すことは大いに筋違いでしょう。 
 
「東家秘伝」 / 「神世七代」考・倶生神

 

北畠親房「東家秘伝」中の「日本書紀」神世七代段に関する解釈の文である。北畠親房は、その神世七代に関する解釈を展開するにあたって、「日本書紀」文中の附註が元々述べている解釈を「常説」として認めつつ、自らが述べる説を「秘説」として位置付けた。  
 
「日本書紀は、(中略)古来、この紀を読む者は、或いは秘して其の伝を絶やし、或いは暗して其の致を失ふ。故に、用心の道を明らかにし、理世の術を識らんと欲する者は、迥かに印度の釈典を訪ね、遠く支那の書史に決するのみ。予久しくわが国の旧史を覧て、粗此の道の所在、天地造化の根元、神皇授受の因起を了る。其の理玄妙。其の詔明白。此を異域の道に検するに、果然、秋毫の異なること無し、凡そ厥の陰陽の道、造化の端、始自り終わりに至るまで、五運を離ること無し。五運の消息、終わって又始まる。当に天壌と与に窮まり無かるべき者、蓋し此の道也。是を以て、粗神書の明文に拠り、敢えて聊か愚管の見を勒す。文筆削せず。心を立つるを致と為す。都て十箇条、命けて東家秘伝と曰ふ。(中略)  
第三、陰陽初判、一物中に生れり也。  
又曰く、天地之中、一物生れり。状葦牙の如し。便ち化りて神と為る。國常立尊と号く。  
解曰。天地之中生一物。状若葦牙。便化為神。号國常立尊ト云ウハ。(略)〔此中央ノ五位ニ相応シテ化生シ給へル神也〕元氣ヨリ萌牙シ。五大ヲ化生シ給へリ。此神五大ヲ一身ニ備へ給へリ。然而獨立尊ニ坐ス。五徳ノ一以テ不可名之故天地ノ倶生神トモ申ス也。  
第四、次に國狭槌尊。次に豊斟淳尊。凡三神坐す矣 國常立尊を加へ奉る。乾道獨り化りて此の純男を成す所以なり。次に埿土煮尊。沙土煮尊。次に大戸之道尊。大苫辺尊。次に面足尊。  
惶根尊。乾坤の道相参り而して化りて男女を成す所以なり。  
解曰。常説ニハ。國常立ヨリ次第ニ化生ス。上三代ハ純男。次三代ハ陰陽。形已ニ著レテ。  
其態無シト思ヘリ。秘説ニハ。國常立ヲ五徳ノ神ニテ代ノ次第ニハ非ル也。此五尊ノ出生シ給へルコト。又五行ノ出生ニテ料簡シ奉ルべシ。   
第五、陰陽の二神、人物を産生む。  
次に神あり。神伊弉諾尊、伊弉冊尊云々。  
解曰。上來ノ五神ハ五行ノ精妙ナル処也。此五徳ト陰陽ノ二神ヲ造化ノ元祖ト云給へル。  
此ヲイサナキイサナミト申ス。(略)天地倶生神ハ和魂也。中間ノ五神ハ五行ノ徳也。[幸魂ハ此義歟]陰陽二神ハ荒魂也。次第ヲ約メテ七代ト称スレドモ実ニ二代也。七代十一神坐ス也。  
第六、五行を変易して、八卦を建立つ。  
乾 坤 坎 離 震 艮 巽 兌  
解曰。今此八卦ヲ建立スル。我國ノ説ニハ見エズ。而其理ハ炳焉也。五方ノ位ヲ成シ了レバ。四維ノ道ハ随テ有リ。(略)我國ノ神道ニ配当スベシ。五行ノ八神ニテ其義ヲ成スベキナリ。陰陽倶生シテ神中央ニ在テ不動。〔國常立ノ神ノ御事也。中央ノ五地ノ極ニ配ル右ニ記之了。〕故水火木金土ノ五行八神ハ八方ニ居ル。(略)五徳ノ神ヲ五方ニ安ジテ。然後八位ヲ成スベシ。所謂五徳者。(図略) 八位者。(図略)  
上行ノ五行八卦ノ配当ハ。恐是今案也。然而五行ヲ以テ之ヲ推セバ無過失也。(略)故陰陽二神磤馭盧島降リ給ヒテ。八尋殿ヲ見立テ。即チ大八洲國ヲ産生ス。又日像ノ寶鏡ヲ作テハ八咫鏡ト名付ケ。(略)甚深ノ義不可勝計矣。」 
倶生神1  
人の善悪を記録し死後に閻魔大王に報告するという2人の神のこと。  
倶生とは、倶生起(くしょうき)の略で、本来は生まれると同時に生起する煩悩を意味する。人が生まれると同時に生まれ、常にその人の両肩に在って、昼夜などの区別なく善悪の行動を記録して、その人の死後に閻魔大王へ報告する。左肩にある男神を同名(どうめい)といい、善行を記録し、右肩にある女神を同生(どうしょう)といい、悪行を記録するという。  
インドでは冥界を司る双生児の神であったが、仏教が中国に伝わると、司命などの中国固有の思想などと習合し、また中国で成立した偽経の中において様々な性格を付加されるに至った。また日本に伝えられるや、十王信仰と共に知られるようになり、絵画や彫刻などでも描写されている。  
倶生神2  
常に人の肩にいて善悪の行動を記録し、死後、閻魔王に報告するとされる同生・同名という二神。インドでは冥界を司る双生児神だが中国・日本で十王信仰と結びつき、十王図では閻魔王の前に立つ人頭杖の上に乗る視目嗅鼻(みるめかぐはな)とよばれる二つの鬼の首として描かれる。  
倶生神3  
人が生まれるときに倶(とも)に生じ、常にその人の両肩にあって、その人の善悪の行動をしるして閻魔王に報告するという同名、同生の二神のこと。同生神ともいう。経によっては倶生神(ぐしょうじん)を一人といい、男女(なんにょ)の二人にするなど一様ではない。男女の二神の場合は、同名は男神で左肩にあって善業をしるし、同生は女神で右肩にあって悪業をしるすという。華厳経には「人の生まるより二種の天あり、常随(じょうずい)侍衛(じえい)す。一を同生といい、二を同名と曰う。天はつねに人を見るも、人は天を見ざるがごとし」とあり、十王経には「そのときには世尊、大衆に告げていわく、もろもろの衆生、同生神、魔奴闍耶(まぬじやや)というものあり。左の神は悪を記す。形、羅刹(らせつ)のごとし。つねに随って離れず、ことごとく小悪をも記す。右の神は善を記す。形、吉祥(きちじょう)のごとし。つねに随って離れず、皆微善をも録す。総じて双童(そうどう)と名づく。亡人の先身の、もしは福、もしは罪の諸業を皆書して尽くす閻魔法王に奉与す。其王、簿をもって亡人を推問し、、所作を算計し、悪に随いてこれを断分す」とある。薬師経には「その人の屍形(しぎょう)は臥(ふ)して本処にあり、閻魔の使人(しにん)、その神識を引いて閻魔法王の前に置く、この人の背後に同生神あり、その所作のもしは罪・もしは福に随っていっさい皆書し、ことごとく持して閻魔(えんま)法王に授与す。時に閻魔法王、その人に推問し、所作を算計し、善に随い悪に随って之を処分す」とある。薬師琉璃(るり)光如来(こうにょらい)本願功徳経には「もろもろの有情には倶生(ぐしょう)神(じん)有って、その所作に随って、もしは罪、もしは福、皆つぶさにこれを書して、ことごとく持して閻魔法王に授与す。そのとき彼の王は、その人に推問して所作を計算し、その罪福に随ってこれを処断す」とある。  
天台大師の摩訶(まか)止観(しかん)巻八に「同名同生天はこれ神、よく人を守護す。心固ければすなわち強し、身の神もなおしかり」とあり、妙楽(みょうらく)大師の止観(しかん)輔行(ぶぎょう)伝弘決(でんぐけつ)には、更にこれを注釈して「身と名を同じくし、身と生を同じくするを名づけて天神となす、自然(じねん)あるがゆえにこれを名づけて天となす、つねに人を守るといえども、かならず心の固(かたき)によりて神の守りすなわちつよし、ないし身の両肩の神、なおつねに人を護る」といい、吉蔵(きちぞう)の無量寿経義疏に「一切衆生に皆二神あり、一を同生と名づけ、二を同名と名づく。同生は女にして右肩の上にありてその作悪を書し、同名は男にして、左肩の上にありてその作善を書し、四天善神は一月に六反その名籍を録して大王に奏上す、地獄もまたしかり」とある。これらをうけて、日蓮大聖人は四条金吾殿女房御返事に「又人の身には左右の肩あり、この方に二つの神をはします一をば同名・二をば同生と申す、此の二つの神は梵天・帝釈・日月の人をまほらせんがため母の腹の内に入りしよりこのかた一生をわるまで影のごとく眼のごとく・つき随いて候が、人の悪をつくり善をなしなむどし候をば・つゆちりばかりも・のこさず天に訴たへまいらせ候なるぞ」と述べられ、更に、同生同名御書には「人の身には同生同名と申す二(ふたり)の使ひを天生(うま)るる時よりつけさせ給いて影の身に・したがうがごとく須臾(しゆゆ)も・はなれず、大罪・小罪・大功徳・小功徳すこしも・おとさず、かはる・かはる天にの(上)ぼて申し候と仏を説き給う」と仰せである。具生神とは、生命自身のもっている因果の法理を象徴化したものと考えることができる。 
閻魔参り  
浮世絵「美南見」は品川の遊郭。閻魔の斎日の風景。例年1月16日と7月16日は閻魔の斎日として品川の東海寺は山門を開いて信徒を入れ、人々であふれたという。この絵は閻魔参詣の人々が東海寺の入り口に近い柵門外の牛頭天王社の近くを通る場面と説明されています。  
江戸時代「閻魔参り」という歳時がありました。当時の人々は皆どこかの寺に所属しており、その寺ではどんな宗派も「極楽往生」という、死後極楽浄土に行けるのだという教えを説いていました。「極楽往生」出来ない場合、という対比として経典の中で「地獄」という場を説明していたのです。  
「悪業や罪を犯す人間は地獄に落ちる」という戒めはずっと以前からありました。この地獄が具体的に形成されたのが「往生要集」で895年に完成され、その説明は今日まで続いています  
ここまでは仏教の教えですが、それとは別に中国唐末から始まる「十王信仰」というのがあり、これによると地獄には「十王」がいて、「閻魔王」はその一人と説明されていました。その後日本にその経典も普及し、さらに「閻魔王」が「閻魔大王」となり、「死者を極楽浄土に送るか地獄に送るかを決めるのは閻魔大王様だ」となったのであります。  
江戸の人々は普通の仏教だけでは心もとなく思い、仏様と閻魔様に二股をかけ「極楽往生」を願ったのでしょうか、それともちょいとした罪を毎年閻魔様に懺悔することにより帳消しにしてもらおうと思ったのでしょうか、その辺はわかりませんが「閻魔参り」は盛んだったようであります。以下「閻魔様について」と「閻魔参りのお寺」をご紹介します。  
正月十六日 / 閻魔参 世にえんまの斎日という。  
浅草御蔵前長延寺(閻魔丈六倶生神脱衣婆立像)、同大円寺十王堂、浅草寺奥山(並脱衣婆在、虫歯病者祈願す)、同寺中正智院寝釈迦堂内、浅草誓願寺中西慶院、下谷広小路常楽院、下谷坂本善養寺(丈六)、下谷金杉背尊寺(並脱衣婆)、湯島円満寺(並脱衣婆)、本郷六町目法眞寺内、本銀町四丁目観音内(並脱衣婆)、茅場町薬師境内、深川寺町法乗院(十王倶生神脱衣婆)、同霊巌寺中開善院(並脱衣婆)、同八幡宮境内観音堂の内、本所回向院(並脱衣婆)馬頭観音の堂へ十王像地獄の畫幅を掛る、同霊山寺、同法恩寺中大教院、同北割下水花厳(けごん)院、同五ツ目羅漢寺三帀(そう)堂の内、芝増上寺山内(蓮池の向也、倶生神在)、同花岳院地蔵堂内、芝金地院(石像霊験の像なり、煎茶いり豆を拕く)、西ノ窪天徳寺中随養院(木像)・栄立院(石像)、麻布一本松長伝寺(石像)、六本木崇願寺(十王並脱衣婆)、目黒不動尊境内地蔵堂内(脱衣婆)、目黒安養院(十王、脱衣婆)、渋谷長谷寺観音堂内、三田寺町実相寺境内、同四丁目春林寺観音堂、高輪如来寺本堂内、南品川長徳寺、牛込通寺町養善院(並脱衣婆)、同原町松雲寺境内、小日向桜木町還国寺(木像石像並脱衣婆)、同上水ばた日輪寺内、小石川富坂善雄寺、市谷柳町光徳院、市谷八幡宮境内(石坂右)、同谷町地福院、薬王寺、雑司ヶ谷玄浄院法明寺中、駒込小苗木(おなき)縄手正行寺(並脱衣婆)、同寺町光源寺大観音内(並脱衣婆)、巣鴨眞性寺(脱衣婆、十王、倶生神、赤青の鬼、浄婆利の鏡の前にて罪人の業(ごう)のはかりに掛たる像在)、谷中天王寺内瑞雲院、麹町八丁目栖岸院内、同九丁目心法寺(十王像)、平河天満宮社地、四谷内藤新宿太宗寺(丈六余)、同所裏通正受院(並脱衣婆)、同南寺町眞成院汐干観音内、中野成願寺観音内(十王並脱衣婆)、赤坂一ッ木浄土寺(石像)、同威徳寺内、同新町専修寺内、青山泰平観音境内、同教学院(並脱衣婆)、同善光寺境内地蔵堂内、千住金蔵寺、同勝専寺、豊島川端専称院。  
毎月・小石川下冨坂町源覚寺閻魔参 世俗蒟蒻閻魔という。  
〇今日商家の奴婢やぶいりとて、主人の暇を得て家に帰り、父母兄弟に詣し、自在(ほしいまま)に逍遥す。貝原好古云、やぶいりは宿居(やどおり)の誤りなるべし。  
七月十六日 / 閻魔参 えんまの斎日という。  
参詣の場所、正月十六日のくだりに記する如し。  
〇商家奴婢後の薮入、正月十六日に同じく、主人の暇を得て随意に逍遥す。 
閻魔様とは  
仏教の他界観は、六道輪廻・浄土思想といったきわめて複雑な宇宙論的他界観を説く。  
六道とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天道をいい、最もひどい世界は閻魔大王が盟主の地獄であり、地獄とは途方も無く深い地下の牢獄である。地獄から天道の他化自在天までを欲界、その上に色界、さらに上に無色界があり。この欲・色・無色の垂直的三界が衆生の住む六道の世界である。この天界も六道の一つであるため、やがて快楽尽きて他の世界へ輪廻する。これとは別次元に浄土があってそこに仏たちが住む。その浄土も、阿弥陀如来が住む極楽浄土、釈迦の住む無勝浄土、薬師の住む浄瑠璃光浄土等々多様である。  
この別次元を連続的に捕らえる思想が生じ十世紀末「往生要集」によってその体系が成立した。六道を穢土としてここからの解脱により浄土往生が可能であり、それには念仏が必要であるとする。  
厭離穢土と欣救浄土の対立する二大概念で阿弥陀の極楽浄土への往生を説き、一方では地獄の恐怖を強調したのである。  
八大地獄  
地獄とは死後の世界であり、悪業を行ったものは必ず地獄に落ちると信じられていた。地獄を説く経典には、長阿含経巻19。地蔵菩薩本願経、他がある。往生要集(985年完成)で説く八大地獄が今日で最もよく知られる地獄である。  
一、等活地獄(とうかつ) 生前殺生をしたものが落ちる。  
二、黒縄地獄(こくじょう) 殺生や盗みを働いたものが落ちる。  
三、衆合地獄(しゅうごう) 邪淫の罪を犯したものが落ちる。  
四、叫喚地獄(きょうかん) 飲酒の罪を犯したものが落ちる。  
五、大叫喚地獄(だいきょうかん) 嘘の罪を犯したものが落ちる。  
六、焦熱地獄(しょうねつ)  
七、大焦熱地獄(だいしょうねつ)  
八、阿鼻地獄(あび)  
閻魔王 / 閻魔は梵語(ぼんご)ヤマの音写で、焔魔(えんま)、夜魔(やま)、炎魔(えんま)、閻羅(えんら)とも書き、双王、平等などと訳されている。古代インドの神話で、ヤマは人類最初の死者とされ、善業をつんだ者のゆく天上界にあって死後世界の支配者であったのが、のち転じて地下にある奈落(地獄)の主となり、死者の生前の罪を暴く法王の性格も備えた。  
焔魔天 / このヤマが仏教に取り込まれてその住む天界が、六欲中の第三位に位置づけられ、密教において特に焔魔天と呼ばれ、護法神として南方守護の天となって、十二天の一天に加えられている。胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)では外院(げいん)南方に配され、その形姿は左手に人頭幢(にんとうどう)を持ち、水牛に乗る二臂(にひ・二本の手)の天部形に描かれ、眷属(けんぞく)として泰山府君、焔魔后などを伴っている。  
以上平安期までの仏教における閻魔王の位置づけであります。 
閻魔と十王  
閻魔が中国の冥界観(めいかいかん)と混淆(こんこう)して特異な発展をみせたのが、死者の裁判官としての閻魔王である。中国土着の冥界の支配者であった太山府君(たいざんふくん)が太山王として吸収され、閻魔の異称であった平等王も加えられるなどして、唐末ころ十王が成立する。十王とは冥界における十人の裁判官のことで、中国における死者の七日ごとの供養と結びついたのである。冥界において生前の罪を裁断する十王のうち最も権威あるのが閻魔王である。  
冥界では初七日以下十忌日の順で、秦広王(しんこうおう)、初江王(しょこうおう)、宋帝王(そうだいおう)、五官王(ごかんおう)、閻羅王(えんらおう・閻魔大王)、変成王(へんじょうおう)、太山王(たいざんおう)、平等王、都市王、五道転輪王(ごどうてんりんおう)が裁判を行うといい、中国、朝鮮に伝わる「預州十王生七経(よしゅうじゅうおうしょうしちきょう)」、日本に伝わる「地蔵菩薩発心因縁十王経」(ともに中国で作られた民俗仏典)を典拠としている。  
これら中国から伝わる十王図をもとに鎌倉時代から日本で十王信仰が移入され十王図が描かれ始めます。また日本の十王は以前よりの仏教と混淆し本地仏が同時に描かれています。つまり、中国の民俗信仰が日本では仏教と混ざって民俗信仰化されていったのであります。  
十王図(日本室町時代)  
秦広王 不動明王  
初江王 釈迦如来  
宋帝王 文殊菩薩  
五官王 普賢菩薩  
閻羅王(閻魔王) 地蔵菩薩  
変成王 弥勒菩薩  
太山王 薬師如来  
平等王 観世音菩薩  
都市王 勢至菩薩  
五道転輪王 阿弥陀如来  
十王の像容は中国宋代の裁判官の服制にのっとり、上に開く方形の冠をかぶり、あげ頚の道服を着て笏を持ち両眼をかっと見開いて叱咤の勢を示すのが一般的であります。中世に十王経により閻魔王は十王の中の一人となったが、近世において再び冥界の王として敬われ「閻魔大王」と称され、十王経の舞台は閻魔大王の舞台となっていきます。そのため、姿は中国「宋」時代の姿のままです。そこで、閻魔大王の舞台に上る一族を紹介しましょう。  
閻魔大王の一族  
三途の川(さんずのかわ)、死後7日目に冥土の閻魔庁へ行く途中で渡るとされる川。  
この川には三つの渡しがあり、生前の行いによって渡るところが異なることから、三途の川といわれる。三瀬川(みつせがわ)、わたり川、葬頭河(そうずか)ともいう。川岸には衣領樹(えりょうじゅ)という大木があり、脱衣婆(だつえば・奪衣婆)がいて亡者の衣類をはぎ、それを懸衣翁(けんえおう)が大木にかける。生前の罪の軽重によって枝の垂れ方が違うので、それを見て、緩急三つの瀬に分けて亡者を渡らせるという。この説明は中国宋代、または日本の平安時代につくられたといわれる「地蔵菩薩発心因縁十王経」という偽経(ぎきょう)の中で詳しく述べられるが、仏教本来の説ではない。日本では中世以降にこの俗信が広まり、こんにちでもなお棺の中に渡し銭を入れるなどの風習が見られる。  
文禄3年(1595)起立といわれる正受院は、浄土宗の地院である。この寺には三途の川で人の衣類を身ぐるみはぐという奪衣婆の像が安置されている。この奪衣婆は子供の虫封じや咳止めの神として知られていたが、これが嘉永2年(1849)に大流行したのである。これに伴い大量の錦絵が発行された。錦絵の絵柄には、奪衣婆の回りでさまざまな人々や動物が願をかけている様子が描かれているもの。  
わが国では十王の造像は鎌倉時代から行われ、十王十躯とともに、司命(しみょう)、司録(しろく)、倶生神(ぐしょうしん)、鬼、人頭杖(にんとうじょう)、脱衣婆像なども造られ閻魔堂に安置されたと思われる。これらの一具像は近世になると大量に作られて村村の閻魔堂にも祀られた。  
司命、司録は冥府の役人を代表する者で、一般には司命は筆と書簡をとり、司録は書簡をひもといて読む姿にあらわされる。倶生神は、同名、同生と呼ぶ二神で人の誕生時からその左右の肩にいて、その人の所業の善悪を全て記録しているという。  
十王図では各王の側に司命、司録が描かれ、浄玻璃鏡(じょうはりきょう)、業秤(ごうのはかり)や罪業を問われる亡者も描かれる。「閻魔庁」で閻魔大王に亡者が罪業を問われている。脇で司命、司録が補佐している。生前の罪を映し出す「浄玻璃鏡」で、嘘は許されない。お寺の閻魔像の脇にはこの鏡が置かれていることがある。  
 
閻魔大王の舞台に江戸の人々はどのように接していたのであろうか。次の文章が纏めでありましょう。近世になり、江戸市中だけ考えても、有名な閻魔堂は66ヶ所を数え、その多くは正月と7月の16日の斎日に地獄変相図や十王図を掲げてその恐ろしさを盛んに解説したのである。ただ一ついえることは閻魔にしても獄卒にしても、極めてユーモラスに描かれており、恐怖感より近親感さえ覚えるほどである。近世社会の文化の構造は一口にいって庶民の現実主義的な人生観なり生活観を根底としている。このような傾向はおそらく近世における地獄観と無関係ではないだろう。近世的な開放感の中で、地獄も極楽も茶化され、パロディーとなって絵画に投影されたと見て間違いないであろう。  
江戸では元禄年間(1688-1703)以降庶民信仰が急激に展開し、ミニチュア版西国巡礼・四国巡礼等が登場する。天保9年(1838)刊、斎藤月岑の「東都歳時記」には観音札所めぐり10コース、地蔵巡り6コース他が記載され、その中の一つに閻魔百ヶ所詣りが含まれている。近世段階でも遊山の一環としてこの閻魔参りが行われていたことはいうまでもないが、この時点で既にさまざまな見世物同様に、一つのショウを見る趣で地獄の実見におもむいたものと予想される。  
藪入りの休みを利用して神仏詣でを行い、恐ろしい地獄を見物し、その際閻魔に願をかけるという都市独特の習俗が生じていた。正月と7月の15日前後にはあの世から祖霊が戻ってくるが、同時にあの世のイメージが、寺院の閻魔詣りによっていっそう具体化されるのだという、都市人の現世的感覚によってこのような習俗が維持されていた。  
蒟蒻については源覚寺(蒟蒻閻魔)のみならず、多くの寺院で閻魔の供え物として用いられていたらしく、ここでは嘘をつく舌の代わりといい、嘘をついた人が懺悔の意味を込めて備えるのだと説明されている。  
近世的開放感の中で地獄や閻魔は半ばパロディー化され、一つのショウを見る趣きで地獄の実見に赴くようになるに対応して、閻魔像もすこぶる柔和な表情となる。このような閻魔のイメージが象徴的に示されているのが、本格昔話、笑話に登場する閻魔といえよう。古代、中世以前のおどろおどろしき世界を離脱した閻魔信仰が近世以降出現したのである。 
 
倶生神について
 

 

天台大師が『摩訶止観』に、「四種の三昧の何れでも修して、身心が調えられれば、道力(修行の功徳力)によって、衆病に罹らないで済む。たとえ、少し四大不調和になり、病気が起こっても、冥力(仏神の加護)の助けを受け平癒する。たとえ沢山の病気が次々と起こっても、「何れ死ななければならない身であるから、余命の日々を修行に励み、この修行の場で、命を終えよう」と、心を決めて修行し続けるならば、いかなる重い宿悪業でも、消滅できたり、その報果を軽く変化させて受け流す事が可能である。陳鍼や開善の実例がそれを証明している。不調があっても、決定として、四種の三昧を修すれば、四大や五臓の不調は調えられ癒えるであろう。帝釈天の堂を小鬼が敬い避けるように、道場の~の守護力が大きければ、好き勝手に病魔も侵すことがない。また、城主が強ければ城を護る家臣たちの防戦力も強く、反対に城主が怯弱だと、家臣達の防衛力も弱くなるが、心は身の主である。同名・同生天(倶生神)が人を守護しているのであるが、心が固ければ倶生神の護りが強くなる。身の~と同様に、道場神も、修行者の心が固ければ、いっそう守護を加えてくれるのである。大智度論では、「鬼の五処を黏(ねん)する商主」の説話をもって、精進すべきことを教えている。ただ一心に四種三昧を修すれば衆病を消すことが出来る。」(天全止観)と述べています。
開善(かいぜん)の霊験談とは、続僧伝の六に「開善が、金剛般若経を誦し、短寿を転じ長寿を得た」とあるそうです。
陳鍼(ちんしん)の霊験談は『随天台智者大師別伝』に出ている実話です。
天台大師の長兄である陳鍼が50歳の時、張果(ちょうか)と云う易者に占ってもらったら、「本年の暮れか新年早々に死ぬ定めだ」と云われた。相談を受けた天台大師は陳鍼に「方等懺」(懺悔行)を行じさせた。
夢か幻か、行中の陳鍼に、天上界に有るお堂が見えた。そのお堂の門の看板を見ると「これは陳鍼のお堂で、15年後に陳鍼が住むことになっている」と、書いてあった。そして陳鍼は実際にその後15年間生きた。
占った時より幾年も過ぎた時分、元気で居る陳鍼に逢った易者の張果が、驚いて「よほどの財を施して福を積んで寿命が延びたのか、しかし陳鍼さんはそれほどの財力はないはず、いかなる薬を飲んだのですか」と、問うと、陳鍼は「いや、ただ懺悔行を修しただけです」と答えた。易者の張果は「そうでありましょう。道力以外では貴方の寿命を延ばす手だてはなかったでしょう」と感嘆した。と云う霊験談です。(天台宗教聖典)
『大智度論』にある「鬼の五処を黏(ねん)する商主」の説話とは、
「釈迦は先世で商主であった。諸の商人を先導し、羅刹が居ると云う険難処を行くとき、案の定、羅刹が出てきて、行く手を遮った。商主は右手を以て羅刹を撃つと、拳は羅刹鬼に著き、離す事が出来ない。商主は又、左拳・右脚・左脚を以て攻撃したけれど、手足はみな羅刹の体にくっついて離れなくなってしまった。頭を以て衝くと、頭も著いてしまい身動きが出来ない。鬼が「さあ、どうする。もう諦めろ。まだ逆らう気は失せないのか」と問うと、商主は「五処を繋がれても、心は終に休まず、精進力を以て汝と相撃つことを懈退せず」と答えた。すると、鬼はこれを聞いて歓喜の心を生じ、「この人の胆力極めて大なり」と念って、「汝は精進して必ず休息せざれ、我は今汝を放たん」と語った。この商主のように、行者は善法の中に於て、初・中・後夜に、身心懈(なまけ)ないようにすべきである」と云う話です。
さて、妙楽大師が「此に四の意有り。故に病として差えざること無し。一には道力、二には冥加、三には治法、四には不惜身命なり。」と云って、病が癒える四つの条件をあげていると補釈しています。
天台大師は、病気平癒の条件の一つである冥力として、道場神と倶生神との守護力を挙げているのですね。
妙楽大師が、「道場の神の護って、諸の病は浸さず。・・・城は身の如く、主は心の如く、守る者は身の神の如し。身と同名なり。身と同生なるは名づけて天神と為す。自然に有るが故に之を名づけて天と為す。常に人を護ると雖も、必ず心固きに仮って神の守り則ち強し。・・・身の両肩の神は尚常に人を護る。況んや道場の神をや。」と補釈しています。
この『摩訶止観』の説明に基づいて、日蓮聖人も倶生神について、
「止観の第八に云く『帝釈堂の小鬼敬い避くるが如し、道場の神大なれば妄(みだ)りに侵嬈(しんにょう)すること無し、又城の主剛(たけ)ければ守る者も強し、城の主恇(おず)れば守る者忙(おそ)る、心は是れ身の主なり、同名同生の天是れ能く人を守護す、心固ければ則ち強し。身の神、尚爾(なおしか)なり、況や道場の神をや』弘決の第八に云く『常に人を護ると雖も、必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し』又云く『身の両肩の神、尚常に人を護る、況や道場の神をや』云云。人所生の時より二神守護す、所謂同生天・同名天是を倶生神と云う華厳経の文なり」(道場神守護事)と教示しています。
また、「五戒を持てる者をば二十五の善神これをまほる上、同生同名と申して二つの天、生れしよりこのかた左右のかた(肩)に守護するゆへに、失なくて鬼神あだむことなし」(種種御振舞御書)とあり、また『乙御前御消息』には、「地には三十六祇、天には二十八宿まほらせ給う上、人には必ず二つの天、影の如くにそひて候。所謂一をば同生天と云ひ、二をば同名天と申す。左右の肩にそひ(添)て人を守護すれば、失なき者をば天もあやまつ事なし。況や善人におひてをや。されば妙楽大師のたまはく、『必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し』等云云。人の心かたければ、神のまほり必ずつよしとこそ候へ。是は御ために申すぞ。古への御心ざし申す計りなし。其よりも今一重強盛に御志あるべし。其の時は弥々十羅刹女の御まほりもつよかるべしとおぼすべし」と、「お題目を固く信じれば、地神天神や倶生神のご守護を受けるばかりでなく、なお一層強盛に信心を重ねれば、十羅刹女のご守護もいよいよ強くいただける事でしょう。」との旨を教示しています。
こうした教示を無視して「倶生神は人の善悪の行いを閻魔に伝達するだけの役割である」だとか「倶生神は自ら直接に守護するのでなく、他の諸天に、守護を依頼する仲介的な役割の~である」だとか、言い張る人が居ます。
御経によっては、「倶生神は自分が担当する人が行った善悪の行為の一つ一つを漏らすことなく閻魔様に報告するを~である」とのみ説いてある御経もありまが、「守護の働きをする」と説いている御経もあるのです。
『世記経・忉利天品第八』に「一切の男子女人の初始生の時には、皆、鬼神あり。随逐擁護(ずいちくようご)す。もし其の死する時には、彼の守護鬼その精気を摂(と)る。」(長阿含経巻第二十・国訳一切経阿含部7・427頁)とあって、訳者注記に「此の一段に於いて鬼神の存在、並にそれが守護神たるを説く」とあります。また、『華厳経巻第四十四・入法界品第三十四之一』にも、「人の生に従ひて二種の天有り、常に従って侍衛(じえい)せり。一には同生と曰ひ、二には同名と曰ふ。」とあります。「侍衛」とは「そばにひかえて、その身をまもる・こと」です。
上のような『摩訶止観』や日蓮聖人の御書、経典を根拠にして「倶生神は伝達の役目だけではなく、守護の働きもする」と私が云いますと、「倶生神に守護の働きがあると仮定すると、誰にでも、生まれたときから、倶生神がついていると云うのだから、倶生神は悪人をも守護していることになる。悪者を守護する善~など無いはずだ。だから倶生神の働きは、その人の善悪の行為を閻魔に伝達するだけと考えることが道理上から正しい」と反論する人が居ます。
こうした反論をする人は、私が上に挙げた「倶生神は身の~で守護の働きをする」と説いてある『世記経』『華厳経』や、天台大師、日蓮聖人の倶生神観を否定することになります。
上掲の『世記経』の文は続いて、
もし、外道の修行者に『一切の男女の初始生の時には、皆、鬼~ありて隨逐守護するなら、何故に悪鬼神に障害を受ける者と受けないで済む者とが有るのか?』と訊かれたら、「汝等応に彼の言に答ふべし。『世人は非法行を為す。邪見顛倒して十悪業を作す。是の如き人輩の若しは百、若しは千に、乃ち一~護あるのみ。譬へば群牛群羊の若しは百、もしは千に一人の守牧なるが如し。彼も亦、是の如し。非法行を為し、邪見顛倒して十悪業を作せる是の如き人輩のもしは百、もしは千に、乃ち一神護あるのみ。若し人ありて善法を修行して、正信行を見、十善業を具す。是の如き一人には百千の神護あらん。譬へば国王、国王の大臣に、百千人ありて一人を衛護するが如し。彼れも亦是の如し。善法を修行し、十善業を具する是の如き一人には百千の神護ある。是の縁を以ての故に、世人は鬼~の為めに触嬈せられる者あり、鬼~の為めに触嬈せられざる者あるなり』と。」(世記経)と有ります。『世記経』も「一切の男女に善鬼神が生まれたときより隨逐守護している。しかし、善法を修行し十善業を具する者は多くの神護を受けられるが、悪行邪見の者は強い多くの守護を受けられない」と云う教示をしています。
大正大蔵経に、光宗撰『渓嵐拾葉集』と云うものがあります。光宗と云う人も「華厳経に云はく『一切衆生初生の時、二神が必ず随って生ず。一を同生天と名づけ、二を同命天と名づく。亦、遊行神と名づく。本有倶生神是れなり云々。』と。示して云はく、迷妄の時は、惡菩薩評量の霊鬼なり。覚悟の時は常随擁護の善神なり云々。」(783a)と述べています。文意は、「倶生神は衆生が迷い道に外れている時は、その衆生の悪の度合いを公平にはかり、修行の道を歩んでいる時には常に随って擁護する善神である」と云う趣旨でしょう。
天台大師も「必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」と注意し、日蓮聖人も「今一重強盛に御志あるべし」と教示しています。倶生神は正法を固く信じ修する者を守護してくれると云うことです。
正法不信・悪者に対する守護は薄くなったり、ついには止めてしまい、単に伝達の働きをするだけになってしまうと考えれば、上記ような反論は出てこないでしょう。
また、「倶生神は単なる伝達神である」と云う考えに固執して、「直接倶生神が守護するのではなく、諸天に守護を申し込む伝達をするだけ」などと云うような事を主張する人がいます。この主張も天台大師や日蓮聖人の倶生神観を無視しているものです。
「倶生神が自分の守護力が及ばないときには上位の諸天善神に守護の応援を頼んでくれると言う伝達もしてくれる」と、考える方が、天台大師や日蓮聖人の倶生神観に適ったものでしょう。
また、「わたしたちには四大菩薩が前後左右を守ってくださっておりますのに、なぜ訳もわからない倶生神に頼る必要があるのでしょう。四大将軍が守ってくれており、そのほかにも法華守護の鬼子母神さまなどが守ってくれているというのに、どうして一伝令兵を頼む必要があるのでしょうか。」と云う質問を寄せた日蓮宗僧侶がいました。
この質問者は倶生神の事を「訳もわからない~」「一伝令兵に譬えられる~」と理解しているようです。
『華厳経』や天台大師や日蓮聖人が「身の~である」と明確に述べているのに、「訳もわからない~」などと、ことさら卑しめています。
『華厳経』や天台大師や日蓮聖人が「守護の働きをする~」と明確に述べている事実を無視して、一伝令兵としての伝達の働きだけする~であると、低く見ています。この質問者が「四大菩薩が守ってくれているのだから、倶生神に頼る必要など無い」などと云っています。しかし、日蓮聖人や天台大師が「倶生神が守護しくれる」と教示してあるのだから、その言葉を素直に信じて、倶生神の守護を願っても良いではありませんか。
『撰時抄』にも、「霊山浄土の教主釈尊・宝浄世界の多宝仏・十方分身の諸仏・地涌千界の菩薩等、梵釈・日月・四天等、冥に加し顕に助け給はずば、一時一日も安穏なるべしや。」と有るように、正法の信行者は四大菩薩だけでなく、多くの諸天も守護しているのだから、四大菩薩だけでなく、諸天にも感謝と時に応じて守護をお願いしても良い道理です。『撰時抄』のこの文に、「四天等」と有りますが、この「等」は「その他の多くの諸天」と云う意味です。『華厳経』に、倶生神を「二種の天」と云って、諸天の一つとしているので、「四天等」の「等」の字の中に、倶生神も入っていると理解して良いでしょう。
宗内には鬼子母神のお守りとか七面大明神のお守りとか、また、お寺の守護神(道場神)のお守りを授与する教師も居ることでしょう。しかし、そうした教師達も、「鬼子母神あるいは七面大明神あるいはお寺の守護神の守護だけを信じて、お守りを着けていれば良い」などと偏信している人など居ないでしょう。私も、「御本尊より倶生神の方を帰依礼拝の根本的対象としなさい」などと、馬鹿げた指導などしていません。
私は、「諸菩薩や鬼子母神やその他の諸天善神よりも、倶生神は、有り難い優れた~で有る」などと、馬鹿げた説明はしていません。
倶生神のお守りの着帯を強要したり、倶生神だけを偏信して、他の諸菩薩諸天ないし御本尊をないがしろにする信仰形態であれば大いにその偏信を批判すべきですが、倶生神をお守りの形として身に着けること自体は強いて否定する必要はないでしょう。
この質問者はさらに
「日蓮聖人はそれを中心的な神と位置づけたのでしょうか?」
「天台大師にとって根本的な神という位置づけだったのでしょうか?」
と訊いていますが、「倶生神は中心的な~、根本的な神である」などと云う馬鹿げた倶生神観を私が懐いていると勝手に決めつけて、得々と、的外れな質問を寄せています。
また、このような勝手な決めつけをして、さらに、「それほどまでに重要な倶生神であるならば、大曼荼羅のどこの、どの位置に勧請されているのでしょうか。」などと質問を寄せています。
日蓮聖人が「倶生神は身の~といって個々人の神」である説明しています。大勢の人が礼拝する大曼荼羅に、個々人を守護している倶生神を、勧請する訳はないです。それなのに、質問者は、「また仮にそのようなお曼荼羅があったとして、それは現存している大曼荼羅の何パーセントにあたるのでしょうか?」などと訊いていますが、そんな大曼荼羅御本尊など無いでしょう。
また質問者は、「一兵卒も戦力のひとつですから全面否定するということではありません。しかし、「信仰の王道」と言ったのは、四菩薩や『法華経』擁護の神のご守護を願うのが筋ではないかということです。一部の妥当性をもって、全体を見失ってはいけないということです。」などと諭しを垂れています。
これも、「日蓮聖人は倶生神を中心的な神と位置づけている。諸大菩薩や鬼子母神等の諸大善神より、倶生神は有り難い上位の~で有るから、中心根本的な守護神として守護を求めて行くべきだ」などと云ってない私に対しては、全く不必要な説諭です。
また質問者は、「一兵卒・伝令兵の神の信仰を勧めたり、毎月交換しないと御利益がないという霊神符などをもたせるよりも、一生涯離さず持たせる大曼陀羅ご本尊を勧めてはいかがなのですか? 」と説諭を垂れています。
私は御存知のように、「罪障消滅・積徳・仏心顕現する為めに、御本尊を対象として唱題修行する人の事を諸菩薩・諸天~を始め倶生神も守護してくれますよ」と指導していますね。「倶生神だけ信じていれば良い」などと云う信仰を勧めてなどいませんね。
「毎月交換しないと御利益がない」などと説いていませんね。「毎月替えるごとに『倶生神が護ってくれているのだ』と、改めて意識するので「心固ければ護り強し」に繋がるし、信行に参加し、御本尊の前で読経唱題し、法話の聴聞もするので信仰増進の機会を持つことになる助けになる」と説いていますね。
日蓮聖人が、お守りとして懐中御本尊を信徒さんに授けた事例はたしかにあります。しかし信心未決定で退転しそうな人には御本尊を授けなかった事例もあります。懐中大曼荼羅御本尊をやたらに授けられないですね。
参考 『渓嵐拾葉集』
「一.本有倶生護法事 華嚴經云。一切衆生初生之時。二神必隨生。一名同生天。二名同命天。亦名遊行神。本有倶生神是也云云示云。迷妄之時者。惡菩薩評量之靈鬼也。覺悟之時者。常隨擁護之善神也云云是以釋尊ニハ普賢文殊也。藥師ニハ日光月光也。彌陀ニハ觀音勢至也。不動ニハ羚迦羅制多伽也。辨財天ニハ船車童子也。吒天ニハ須臾馳走頓遊行神是也。」「倶生神が自分の守護力が及ばないときには上位の諸天善神に守護の応援を頼んでくれる」と、考える方が、天台大師や日蓮聖人の倶生神観に適ったものでしょう。 
  
近松の世話物「冥途の飛脚」

 

亀屋忠兵衛    亀谷の養子  
梅川        槌屋の格子女郎  
妙閑        亀谷の後家・忠兵衛の養母  
勝木孫右衛門   忠兵衛の実父  
丹波屋八右衛門 忠兵衛の友達  
忠三郎       忠兵衛の幼な友達  
越後屋清     越後屋の女主人 他  
あらすじ  
大坂淡路町の飛脚問屋亀やへ、朝から為替銀の催促に何人も押しかけてくる。親仁の代にはなかったことで、後家妙閑は、この頃の養子忠兵衛の落ち着かぬ様子をも合わせて心配する。  
日暮れ近くに家に戻った忠兵衛は、為替銀五十両の催促に来た友人の八右衛門と出くわし、責められ、実は馴染みの遊女梅川が他の客に身請けさせられるのを引き止めるために、手付金として流用してしまったと白状する。八右衛門は、忠兵衛の必死の思いに免じて金を待つするが、八右衛門の声を聞きつけた妙閑は、忠兵衛に早く金を渡すように促す。切羽詰った忠兵衛は鬢水入を包んで渡し、八右衛門も承知で受け取る。  
その後、梅川のいる遊郭新町にやってきた八右衛門は、女将遊女たちの前で、忠兵衛は為替銀に手をつけるほど無理をしているので廓に寄せつけないでほしいと、鬢水入を見せて話す。  
それを外で立ち聞きした忠兵衛は、かっとなって店に飛び込みお屋敷に届けねばならぬ為替銀の封を切ろうとする。八右衛門は、忠兵衛を思っての友情ゆえと諭すが、のぼせ上がった忠兵衛は、ついに三百両の為替銀の封印を切ってしまう。そして、八右衛門に五十両を叩きつけるばかりでなく、梅川の身請けにまで使ってしまう。 座敷に梅川と二人きりになった忠兵衛は、梅川にことの次第を打ち明け、逃げる覚悟を確かめ合って、急いで廓を出る。  
二人は人目を避けながら、奈良や三輪を経由して、忠兵衛の実家のある大和新口村にたどり着くが、既に追っ手が来ていることを知り、幼な友達の忠三郎の家に身を潜める。ちょうどその時、家の表を忠兵衛の実父孫右衛門が通りがかり、水溜りですべって下駄の鼻緒を切る。孫右衛門に会えない中米の代わりに、梅川は思わず飛び出し、「見始めの見納め」となる舅を親身に介抱すると、孫右衛門もその様子から察して、忠兵衛によそながら意見し、後ろ髪を引かれる思いで立ち去る。そばまで追っ手が来たことを知った二人は、裏口から逃げ出してゆくのだが、ついには捕らえられてしまう。 
冥途の飛脚 / 近松門左衛門の世話浄瑠璃 
冥途の飛脚は、文楽のほか歌舞伎として演じられることもあり、近松門左衛門の作品の中では、現代人にも比較的なじみが深い。といってもテーマが現代人にも分かりやすいということではない。女のために犯罪を犯し、逃走する男とそれに付き添う女の物語という点では、いまでもどこかで起こりそうな出来事とはいえそうだが、男が罪を犯す動機がどうも納得できない。  
主人公の忠兵衛は、今でいえば銀行に勤めるサラリーマンといった役柄で、お客からの預り金を女のために流用してしまうのだが、男を流用に走らせる動機がどうも不純なのだ。  
忠兵衛は、恋人である遊女の梅川が田舎ものによって見受けされそうなのに慌てて、金の工面で無理をする。よくある話だ。彼はその金を年来の友人八右衛門から無断で借用することによって用立てるが、相手が友人であることがかえってあだになる。  
忠兵衛は後により一層始末の悪い横領を重ねてしまう。年来の友人の前で自分のメンツを守るため、店の金を横領し、それを友人の目の前に投げ捨てるようにして、借金を返すのである。  
これは手前勝手な思いに発した行為だ。その手前勝手な思いが、社会から厳しく追及されて、身の破滅につながっていく。  
普通に考えれば、忠兵衛のとった行動はあまりにも浅はかだ。猿知恵か子供の思い違いとしかいいようがない。この劇の眼目は、梅川を身請けするために横領を重ねるところにあるのだが、それがあまりにも見え透いた行為であるため、なぜそんなバカげたことをやらかしたのか、ほかにもっとうまくてばれないで済む方法があったのではないか、そんな批判を浴びそうで、したがって格好よくないのだ。  
この劇は忠兵衛が梅川のために他人の金を横領する封印切の場面と、忠兵衛・梅川が忠兵衛の故郷新口村へ逃げていく場面からなっている。その二つの場面をつなぐのは、忠兵衛の決断だ。だがその決断は、必然性を欠いているように見える。  
近松はこの作品を実際に起きた出来事をもとにして書き上げた。その出来事とは、女のために預り金を横領した飛脚の話であった。飛脚は問屋仲間で信用を支えあっており、仲間の誰かが大損をしたときには、皆でその損を埋めるという仕掛けを作っていた。いわば運命共同体のようなものであった。だから成員の誰かが意図的に仲間に損害をかぶせれば、そのものは必ず罪を償わなくてはならない。そんな世界の中で生じた横領と、それに対する仲間全体による制裁という事件が、近松の想像力を刺激したのだろう。  
近松は、飛脚仲間のひとりである忠兵衛が、どんな動機から固い掟を破るに至ったか、そこに個人の意思を超えた運命のようなものが作用していたのか、このことに強烈な関心を抱いたのではないか。  
封印切という、金融業者として、やってはならない行為に忠兵衛を借り駆り立てたのは、梅川への熱い思いであった。その行為をやってしまった瞬間、忠兵衛は、飛脚仲間は無論、社会全体から葬り去られる運命に陥る。  
梅川はそんな忠兵衛の自分への愛を受け入れ、忠兵衛を夫として、絶望的な逃避行についていく。この若い男女の熱い愛が、近松を動かしてこの作品を書かせたのではないか。  
二段目 / 封印切  
冥途の飛脚二段目(中の巻)は、忠兵衛の身の破滅のもととなるできごとを描いた封印切の場面である。封印切とは、飛脚問屋として客から預かった大事な金の封印を、客に無断で切ってしまうこと、つまり横領の行為をさしていう言葉だ。信用がもとでの商売で、これほど重大な犯罪行為はない。この罪を犯した者は、死を以て償うしか道がないのだ。  
この封印切には伏線がある。忠兵衛は梅川の身請け問題を巡って金の入用に迫られ、友人の八右衛門へ届けられた金を無断で使ってしまっていた。金の受け取りを催促しに来た八右衛門は、忠兵衛から事情を聞かされて、怒るどころか一時立て替える形で、受け渡しを延期してやった。それどころか、心配する養母の気持ちをなだめてやるために、忠兵衛がきちんと金を受け渡したと見せかける芝居に協力までしてやるのである。  
この芝居を打つ場面がまた、見どころの一つになっている。忠兵衛は櫛箱から鬢水入れを取り出すと、それを紙に包んで金貨の包みのように見せかけ、養母の目の前で八右衛門に手渡す。それを八右衛門は何の疑問もない表情で受け取るのだ。  
地色「ヤレ有難や此の櫛箱に焼物の鬢水入、これ氏神と三度頂き紙押広げるくるくると、駿河包みに手ばしこく金五十両墨黒に、似せも似せたり五十杯、母には一杯参らせし、  
フシ「その悪知恵ぞ勿体なき  
詞「これこれ八右衛門殿、今渡さいでもすむ金ながら、母の心を休める為、  
地色「男を立てる其方と見て詮方なう渡す金、きっぱりと受け取って母の心を  
色「休めてたも  
忠兵衛の勝手放題ともいえる望みに、八右衛門はどこまでも調子を合わせ、養母の目の前で偽の受け取り証文まで書いてやる。  
こうしてみれば、八右衛門は忠兵衛にとっては恩人であるべきはずを、忠兵衛はつまらぬ意地を張るために、八右衛門と梅川の目の前で、封印切という重大な罪を犯してしまうのだ。  
その意地というのは、忠兵衛の八右衛門にたいする面当てという形をとっている。八右衛門は別に、忠兵衛に対して金の催促をしたわけでもないのに、忠兵衛は八右衛門の態度に自分への侮蔑を感じ取って、何が何でも負債を解消してやろうという激情に駆られる、この激情にそそのかされる形で、封印を切ってしまうのだ。  
このやりとりが、封印切を名場面にしているのだが、この場面を演じる二人の役者、八右衛門と忠兵衛とが、何となく呼吸が合わぬ雰囲気を醸し出し、どうも割り切れない気持ちを観客に与える。  
封印切が演じられるのは、梅川らの遊女が遊んでいた茶店である。そこへ八右衛門がやってきて、遊女たちを相手に茶のみ話をする。話の内容は忠兵衛のことだ。これまでのいきさつを明かしたうえで、もうこんな男とは係わりを持たぬほうがよいと、女らに話す。それを二階にしのびながら聞いていた梅川は、忠兵衛を案じて涙を流す。  
そこへ忠兵衛もやってきて、八右衛門の話を立ち聞きし、大いに起こる、そこから一気に封印切へと邁進するのだ。  
地「忠兵衛元来悪い虫押えかねてずんと出で、八右衛門が膝に  
色「むんずと居かかり・・・  
詞「措いてくれ気遣すな五十両や百両、友達に損かける忠兵衛ではごあらぬアア、八右衛門様八右衛門め、  
地色「さア金渡す手形戻せと、金取り出し包みを解かんとする所を  
ところが、八右衛門はここでも冷静にふるまう  
色「やい忠兵衛  
詞「よっぽどのたはけを尽くせ、その心を知ったる故異見をしても聞くまじと、郭の衆を頼んで此方から避けてもらうたらば、根性も取直し人間にもならうかと、男づくの念比だけ、五十両が惜しければ母御の前でいふわいやい、てんがうな手形を書き無筆の母御をなだめしが、是でも八右衛門が届かぬか  
この言葉から、八右衛門はどこまでも友達の身の上を案じて言っているのがわかる。ところが忠兵衛のほうは、そんな忠告は耳に入らない、自分の不始末をなじられたことでのぼせ上り、当座の勢いで封印を切って、その金を八右衛門にぶつけるのだ。  
この様子を見ていた梅川は、そもそもこの事態は自分のために忠兵衛が無理をして金の工面に走ったのが原因だと思えば、自分を思う忠兵衛の気持ちはありがたく感じられながらも、大それた行為の行く末を思うと胸のつぶれるほど心配になる  
地「情なや忠兵衛様なぜそのやうに上らんす、そもや郭へ来る人のたとへ持丸長者でも金に詰まるは  
フシ「有る習  
色「ここの恥は恥ならず何を当てに人の金、封を切って蒔散し詮議にあうて牢櫃の、縄かかるのといふ恥と替へらるか、恥かくばかり梅川は何とされといふことぞ、とっくと心を落しつけ八様に詫び言し、金を束ねて其の主へ早う届けて下さんせ、わしを人手にやりともないそれは此の身も同じこと、身ひとつ捨てると思うたら、皆胸に込めてゐる、年とてもまあ二年下宮島へも身を仕切り、大阪の浜に立っても此方様一人は養うて、男に憂き目かけまいもの気を静めて下さんせ、浅ましい気にならんしたかうは誰がした、私がした、皆梅川が故なれば忝いやらいとしいやら、心を推して下さんせと、口説き立て口説き立て小判の上にはらはらと、  
フシ「涙は井出のやまぶきに露置き、添ふるごとくなり  
ここで梅川は、大阪の浜に立っても忠兵衛を養ってやる覚悟だから、なにとぞこの場の恥を忘れて、大それたことはしないでと、忠兵衛に哀願している。大阪の浜に立つとは、むしろ一枚持って男を引く女のことである。自分は幾多落ちぶれても、お前のためなら苦労とは思わない、だから命を大事にして自分と細々と生きてほしい、これはそんな切羽詰まった女の言葉なのだ。  
だが忠兵衛は女の真心を受け止めない。忠兵衛の心は目先の恥のためにかたくなになっている。そんな忠兵衛を前に、梅川は絶望し、八右衛門はあきれ返る。  
こうして大それた罪である封印切が行われる。忠兵衛に残されているのは、死ぬ定めだけである。忠兵衛はその定めを、自分が命を張ってまで愛した梅川とともに、受け入れたいと願う。  
地「なぜに命が惜しいぞ二人死ぬれば本望、今とても易いこと分別据ゑて  
色「下んせなう  
詞「ヤレ命生きゃうと思うて此の大事が成るものか、生きらるるだけ添はるるだけ高は死ぬると覚悟しや、  
地色「アアさうじゃ生きらるるだけ此の世で沿はう、・・・  
色「木綿附鳥に別れ行く栄耀栄華も人の金、果ては砂場を打ちすぎて、後は野となれ山となれ、  
二人は大和路を目指して逃げ延びてゆく。 
三段目 / 忠兵衛梅川相合駕籠  
冥途の飛脚三段目(下の巻)は、忠兵衛と梅川の絶望的な逃避行を描く。まづ冒頭で二人の相合駕籠の道行が語られる。二人が向かう先は大和の国の新口村、忠兵衛の生まれ故郷であるが、実家の父親は今では後妻をもらい、養子に出した忠兵衛のことは人にくれたものとあきらめている。そんな父親でも親子は親子、息子は死出の門出に会いたいと思うのだ。  
大阪を出た二人は、人目を忍んで駕籠を乗り継ぎ、やっと大和の新口村にたどり着く。  
地色「無慚やな忠兵衛我さへ浮世忍ぶ身に、梅川が風俗の人の目立つを包みかね、借り駕籠に日を送り、奈良の旅籠屋三輪の茶屋、五日三日夜を明かし廿日あまりに四十両、使ひ果して二分残る金も霞むや初瀬山、よそに見捨てて親里の新口村に  
色「着きけるが  
新口村には、すでに追手がかかり、二人をからめ捕ろうと大勢の飛脚仲間が待ち構えていた。  
地「清める世の  
フシ「掟正しく  
地色「畿内近国に追手かかり中にも大和は生国とて、十七軒の飛脚問屋或は順礼古手買、節季候に化けて家々を覗きの機関飴売りと、子供に飴をねぶらせて、口をむしるや罠の鳥、網代の魚の如くにて  
フシ「逃れがたき命なり  
この絶望的な状況の中で、忠兵衛は何とか追手の目を盗んで父親と会いたいと願う、しかし父親の周辺には追手の目が光っている、そこで忠兵衛は昔友達の忠三郎を頼る、  
いよいよ父親の孫衛門が、雪道の中を寺参りから帰ってくる。孫衛門はすでに、息子が大それたことをしでかし、大勢の追手がかかっていることを知っている。そんな父親に忠兵衛は面と向かって会いにゆくことができない。そのかわりに梅川が、挨拶をするのだ。  
孫衛門が下駄の鼻緒を切って難儀しているところへ、梅川が助力を申し出る。梅川を見た孫衛門は、倅の連れ合いであることをすぐに見抜くが、孫衛門も梅川もそれに触れることはせずに、淡々としたやり取りをする。梅川はその行為を忠兵衛の妻として演じ、孫衛門は梅川を倅の女房として認め、受け入れるのである。  
このように三段目は、夫婦と親子と、家族の恩愛ともいうべきものを描いている。そこがほかの心中ものとは一風異なったところだ。恐らく現実に起きた事件に引きずられる形でこうなったのであろうが、そのことによって、恋愛劇としては興味が拡散したことは否めない。  
ひとつ救いとなる点を挙げるとすれば、梅川を忠兵衛の女房として描くことによって、ほかの心中ものにはない、女の健気さのようなものが描かれている点であろう。この劇は、男である忠兵衛の思慮のなさと下手な生きざまを、女である梅川が繕い、そのことでみじめさが幾分でも償われ、二人の最後に人間的な輝きがもたらされていると感じられるのである。  
最後は二人が追手にかかり、しかも父親の孫衛門もそれを目の前にするところで終わる。  
詞「亀屋忠兵衛槌屋の梅川  
地「たった今捕られたと北在所に人だかり、程なく捕手の役人夫婦を絡め引き来る、孫衛門は気を失ひ息も絶ゆるばかりなる、風情を見れば梅川が夫も我も縄目の科、眼も眩み泣き沈む忠兵衛  
色「大声あげ  
詞「身に罪あれば覚悟の上殺さるるは是非もなし、御回向頼み奉る親の嘆きが目にかかり、  
地カカリ「未来の障これ一つ面を包んで下されお情なりと泣きければ、腰の手拭引絞りめんない千鳥百千鳥、鳴くは梅川川千鳥水の流れと身の行方、恋に沈みし浮名のみ難波に、残り留まりし  
めんない千鳥とは、子供の遊びの中で、目隠しをされた鬼のことだ、忠兵衛はその鬼のように、手拭で目隠しされることを願った。父親に自分の顔を見られたくなかったのだ。 
  
「冥途の飛脚」

 

淡路町の段  
みをづくし難波に咲くやこの花の、里は三筋に町の名も、佐渡と越後の合の手を通ふ千鳥の淡路町、亀屋の世継忠兵衛、今年二十の上はまだ四年以前に大和より、敷金持つて養子分、後家妙閑の介抱故、商ひ功者駄荷積づもり、江戸へも上下三度笠、茶の湯俳諧碁双六延に書く手の角取れて酒も三つ四つ五つところ紋羽二重も出ず入らず、無地の丸鍔象嵌の国細工には稀男、色のわけ知り里知りて暮れるを待たず飛ぶ足の、飛脚宿の忙しさ、荷を造るやらほどくやら、手代は帳面算盤を奥口ともにどや/\と、千万両のやりくりも筑紫東の取りやりも、ゐながら金の由由さは、一歩小判や白銀に翼のあるがごとくなり。 
町廻りの状取立帰つて、『それ/\』と留帳付くるところへ、「誰そ頼もふ忠兵衛宿にゐやるか」と、案内するは出入の屋敷の侍、手代ども慇懃に、「ヤアこれは/\甚内さま、忠兵衛は留守なればお下し物の御用ならば、私に仰せ聞けられませ、お茶持ておじや」とあひしらふ、「イヤ/\下りの用はなし、江戸若旦那より御状がきた、コレお聞きやれ」と押し開き、「『来月二日出の三度に金子三百両差上せ申すべく候ふ、九日十日両日の中その地亀屋忠兵衛方より、右三百両受取り、内々申し置き候ふ事ども埒明け申さるべく候ふ、則ち飛脚の受取証文この度上せ候ふ間、金子受取り次第この証文忠兵衛に渡し申さるべく候』サこれ、この通り仰せ下された、今日まで届かぬ故、大事の御用の手筈が違ふ、なぜかやうに不埒な」と、鼻を、しかめて云ひければ、「ハヽ御尤も/\さりながらこの中の雨続き、川々に水が出ますれば道中に日が込み、金の届かぬのみならず、手前も大分の損銀、もし盗賊か切り取りか、道からふつと出来心万々貫目取られても十八軒の飛脚宿から弁へ、芥子ほども御損かけませぬ、お気遣ひあられな」と、云はせも果てず、「コレサ/\云ふまでもない。 
卸損かけては忠兵衛が首が飛ぶ、日限延びては御用の間が明くにより、それ故の詮索、迎ひ飛脚を遣はして、早速に持参せい」と徒士若党も刀の威光、銀拵へもうさんなる、なまり散らして帰りしが、また、「頼みませふ/\中の島丹波屋八右衛門から来ました。 
江戸小舟町米問屋の為替銀、添へ状は届いたが銀はなぜ届きませぬこの中文を進ぜても返事もござらず、使を遣れば酢のこんにやくのといつ届けさつしやるぞ。 
『この者に渡して人をつけて下され、手形戻そ』と申さるゝサア、金子受け取らふ」と立ちはだかつて喚きける。 
主思ひの手代の伊兵衛騒がぬ体にて、「コレお使、八右衛門さまがそのやうに理屈臭い口上はあるまい、五千両七千両人の銀を預つて百卅里を家にし江戸大阪を、広ふ狭ふする亀屋、そこ一軒ではあるまいし遅いこともなふては、今でも旦那帰られたらばこの方から返事せふ。 
五十両に足らぬ金、あたかしましう云ふまい」嵩から出れば、気をのまれ、使は真面目に帰りけり。 
母妙閑は炬燵の側離るゝことも納戸を出で、「ヤア今のはなんぞ、丹波屋の金の届いたはたしか十日も以前のこと、なぜ忠兵衛は渡さぬの、けさから二軒三軒の金の催促聞いてゐる、親父の代からこの家に金一匁の催促得ず、つひに仲間へ難儀をかけず十八軒の飛脚屋の、鑑と云はれたこの亀屋、皆は心もつかぬか忠兵衛がこの頃の素振りがどうも呑み込まぬ、昨今の者は知るまいが、じたいこれの実子でなし、もとは大和新口村、勝木孫右衛門といふ大百姓の一人子、不思議の縁でこれの世取に貰ひしが、世帯廻り商売ごと何に愚かはなけれども、この頃はそは/\と何も手に付かぬと見た、意見のしたいことあれど、せは/\云ふより云はぬ身を恥じ入らせふと思ふて目をねぶつても聞き所、見所は見てゐる、いつの間にやら大気になり、延の鼻紙二枚三枚手に当り次第、重ねながら鼻かみやる過ぎ逝かれし親父の話に、鼻紙びんびと使ふ者は曲者ぢやと云はれたが、忠兵衛がうちを出ざまに延紙三折づゝ入れて出て、なにほど鼻をかむやら戻りには一枚も残らぬ、身が達者なの若いのとてあのやうに鼻かんでは、どこぞで病も出ませふ」とよまひ言して入りければ、丁稚、小者も笑止がり、「早う帰つて下されかしと、待つ日も西の戻り足、見世さし頃になりにけり。 
籠の鳥なる、梅川に焦れて通ふ廓雀、忠兵衛はとぼとぼと外の工面内の首尾、心は蜘蛛手かく縄や十文色も出て来るは、『南無三宝日が暮れる』と足をそらに立帰り、門口には着きけれども、「留守のうちに方々の催促使、妙閑の耳に入つていかやうの、首尾になつたも気遣はし、誰ぞ出よかし内証を、とくと聞いて入りたし」とわが家ながら敷居高く、うちを覗けば飯焚の、まんめが酒屋へ行く体なり「きやつは木で鼻没義道者、たゞは云ふまじ、濡れかけて、だまして問はん」と思案する間にによつと出る、樽持つた手をしかと締むれば、「アレ/\旦那さんの/\」と声立つる、「アアかしましい/\コリヤ/\粋めおれが首だけなづんでゐる、思ひ内にあれば色外に顕わるゝ、目付きをそちも見て取つたか、可愛らしい顔付きで、気の毒がらすはどうじやいやい、いつそ殺せ」と抱き付けば、「エヽ嘘つかんせ、毎日々々新町通ひ、延の鼻紙二折三折、結構な鼻をかまんすもの。 
なんのわしらに手鼻もかみたふあるまい、あの嘘つきが」と振り切るを、また抱き付いて、「そちに嘘ついてなんの徳、コリヤ、実じや、実じや」と云ひければ、「ムヽそれが定なら晩に寝所へござんすか」「オヽなるほど/\忝ない、それについて今ちよつと問ふことあり」と云ひけれども、「アそれも寝所でしっぽりと聞きませふ、コレ旦那はん、必ず騙にさんすなゑ、そんならわしはお湯沸かいて、腰湯して待ちます」と云ひ捨て、振り切り走りけり。 
忠兵衛はうそ腹の、立煩ひてゐるところに、「北の町からいかつげに来るは誰ぢゃ、ヤア、中の島の八右衛門、きやつに逢てはむつかし」と、東の方へ、出違へば、「ヤコレ忠兵衛、はづすまい/\」と声かけられ、ヤ八右衛門この中は久しい、昨日も今日も 一昨日も、人やろ/\と思ふてなにやかやと延引した。 
めつきりと寒い、が親父の疝気は、婆様の 虫歯は、アヽいかふ酒臭い過しやるな/\、明日は早々人やらふ、ヤコレれそが言伝てしたぞや、近日一座いたしたい」とたくしかくれば、八右衛門、「おけやい/\/\口三味線に乗せかけても乗るやうな男でない、コリヤそちが商売は三度でないか、身が方へ上つた江戸為替の五十両はなんとして届けぬ、五日三日は了簡もあるぞかし、心易いは格別、高駄賃かくからは大事の家職十日にあまれど埒明かず、今日も使をやつたれば、手代めがかさ高な返事した、よもや脇へはそうもあるまい、八右衛門をなぶるかい、北浜靫中の島天満の市の側まで、親爺とも云はるゝ八右衛門、なぶってよくばなぶられふ、が金は今日受け取る。 
たゞし仲間へこたゑふか、まづお袋に逢はう」と、内へ入るを引留め、「さりとては謝つた、これ手を合はす、たつた一言聞いてたも、拝む/\」とさゝやけば、「また口先で済まそふや、梅川をだましたと男の意気は逢ふた、云ふことあらばサア聞かふ」と苦々しくきめつけられ、「これ、その声を母が聞けば死んでも一分立たぬこと、一生の御恩ぞさりとては面白ない」とはら/\と泣きけるが「なにを隠そふこの金は十四日以前に上りしが、知つての通り梅川が田舎客、金づくめにて張り合ひかける、この方は母手代の目を忍んでわづか二百目三百目のへつり銀、追い倒されて生きた心もせぬところに、請け出す談合極まつて手を打たぬばかりといふ、川が歎き、われらが一分、すでに心中する筈で、互の咽へ脇差のひいやりとまでしたれども、死なぬ時節かいろ/\の邪魔ついて、その夜は泣いて引別れ、明くれば当月十二日、そなたへ渡る江戸金がふらりと上るをなにかなしに、懐に押込んで新町までいつ散に、どふ飛んだやら覚えばこそ、だん/\宿を頼んで、田舎客の談合破らせ、こつちへ根引の相談しめ、かの五十両手附けに渡し、まんまと川を取り留めしも、八右衛門といふ男を友達に持ちし故と、心の内では朝晩に北に向ひて拝むぞや。 
さりながらいかに懇ろなればとて、さきに断り立て置いて使へば借るも同前、跡ではいかゞと思ふうちその方からは催促、嘘に嘘が重なつて初手の誠も虚言となれば、今なにを云ふても誠には思はれじ、されども遅ふて四五日中ほかの金も上る筈、いかやうとも仕送つて一銭一字損かけまじ、この忠兵衛を人と思へば腹も立つ。 
犬の命を助けたと思ふて了簡頼み入る。 
これを思へば世の中にお仕置者の絶へぬも道理、この上は忠兵衛も盗みせふよりほかはなし、男の口からかやうのこと、云はれふものか推量あれ、咽より剣を吐くとても、これほどにはあるまじ」と絞り、泣きにぞ泣きゐたる。 
鬼とも組まん八右衛門、ほろりと涙ぐみ、「云い憎いことよふ云ふた、丹波屋の八右衛門男ぢや、了簡して待つてやる、首尾よふせよ」と云ひければ、忠兵衛土に額をつけ、忝い/\父二人母三人、親は五人持つたれどもその恩よりは八右衛門、貴殿の御恩忘れぬ」とかふは、涙ばかりなり。 
「そふ思へば満足、サア人も見るそのうち」と立ち別れんとせしところに、内より母の声として「ヤア八右衛門さまか、忠兵衛これへ通しましや」と、声かけられて、詮方なく、もぢ/\連れ立ち入りにけり。 
母は律儀一遍に、「さきほどはお使、また御自身のお出で、御尤も御尤も。 
コレあなたの金の届いたは十日も以前なんとして延引ぞ、胸にとつくと手を置いてよふ思案してみや、遅ふ届けば飛脚はいらぬ、なにがそなたの商売ぞ、サア今渡してあげましや」と云へども渡す金はなし、八右衛門も底意は聞く、「コレお袋恥づかしながら八右衛門が五十両や七十両、急にいることもなし、これよりすぐに長掘まで参れば、明日でも」と立たんとすれば、「イヤ/\大事のお金預れば気遣ひで夜も寝られず、ノウ忠兵衛、きり/\渡しや」とせり立てられ、『あつ』と云ふより納戸に入り、うろ/\しても、金はなし、入れもせぬ戸棚の錠開ける顔して、ぴんといふ鍵の手前も恥づかしく、胸に願立て神おろし狂気のごとく気をもみしが、『ヤレありがたや、この櫛箱に焼物の鬢水入れこれ氏神』と三度戴き紙押し広げくる/\と、駿河包に手ばしこく金五十両墨黒に、似せも似せたり五十杯、母には一杯参らせし、その悪智恵ぞ勿体なき。 
「コレ/\八右衛門殿、今渡さいでも済む金ながら母の心を休めるため、男を立つるそなたと見て詮方なふ渡す金、さつぱりと受取つて母の心を安めてたも。 
包は解くに及ぶまじ、いらふて見ても五十両、サどふしてたもる」と差し出す。 
八右衛門手に取つて、「ハテ誰ぞと思ふ、丹波屋の八右衛門、受け取るに仔細はない。 
コレお袋、江戸為替確かに受け取りました。 
不動参りに待ちます」と立つところを、妙閑誠と思ひてや、「コレ忠兵衛、仕切為替の作法は金と手形と引替へ、もし御持参なきならば一筆ちよつと書かせましや、ものは念じや」と云ひければ、「オヽそれ/\、母は無筆の一文字も読まれねども、しるしばかりに一筆」と硯出して目配せすれば、「易いこと/\忠兵衛、文言これ見や」と、筆に任せて書き散らす。 
『一ツ金子五十両受け取り申さず候。 
右約束の通り晩には廓で飲みかけ、我等はたいこ実正明白なり。 
何時なりとも騒ぎの節きつと参上申すべく候。 
依つて紋日の為鬢水入件の如し』と、あほうのたらだら書き散らし、「さらばお暇申さう」と、表へ出づれば、妙閑は、「書いたものこそもの云へ」と、まただまされし正直の親の心や仏の顔も、三度飛脚の江戸の左右待つ夜もやう/\更けにけり表に馬の鈴の音、「コリヤ/\駄荷が着いたぞ、中戸々々」と声高に、手んでに葛籠、かたげ込む。 
忠兵衛親子機嫌よく、「サア拍子が直つた来年も仕合せ馬、馬子衆に酒よ煙草よ」と、硯控へつ帳付けて、家内どんどと賑へば、手代の伊兵衛けうとげに、「ノウ堂島のお屋敷から『金三百両九日に来る筈、先状が上つた、なにとて遅い』とお侍の甚内殿が睨め付けて帰られた、なんと/\」と云ひければ、宰領が打飼より、「その三百両合点、これ急々の御用今夜中にお届け」方々の為替金高八百両、ぐはらり/\と取り出す、忠兵衛いよ/\勢ひよく、「白銀は内蔵へ、金子は戸棚へ、母者人わたしは直にこの小判、お屋敷へ持参する。 
人の金を預れば表も気をつけ早ふ締め、火の用心が第一、戻りはちつと遅ふても、駕籠で行けば気づかひない、夜食しまふてはや寝よ」と、金懐中に羽織の紐、結ぶ霜夜の門の口、出馴れし足の癖になり、心は北へ行く/\と、思ひながらも身は南、西横掘をうか/\と、気にしみづきし妓がこと、米屋町まで歩み来て、「ヤア、これはしたり、堂島のお屋敷へ行く筈、狐が化かすか南無三宝」と引返せしが、「ム、われ知らずこゝまで来たは、梅川が用あつて、氏神のお誘ひ、ちよつと寄つて顔見てから」と立帰つては「いや大事、この金持つては使ひたからふ、おいてくれふおいてくれふ/\おいてくれふか、いて退けう/\/\/\いて退けうか、イヤ/\やっぱりおいてくれふ/\/\/\おいてくれふか、いて退けういて退けう/\/\いて退けうか、………、エ、行きもせい」と、一度は思案二度は不思案、三度飛脚。 
戻れば合はせて六道の、冥途の、飛脚と 
封印切りの段  
「ゑい/\/\烏がな/\、浮気烏が月夜も闇も、首尾を求めてな逢はふ/\とさ青編笠の、紅葉して、炭火ほのめくタベまで思ひ思ひの恋風や、恋と哀れは種一つ、梅かんばしく松高き、位は、よしや引きしめて哀れ深きは見世女郎、さらさ禿が知るべして、橋がかけたや佐渡屋町越後は女主人とて、立寄る妓も気兼ねせず、底意残さぬ恋の渕。 
身の憂きしほで梅川も、こゝを思ひの定宿と、よその勤めもかきのもと、島屋をちよつと島隠れ、「申しきよさん、今日は島屋でかの田舎のうてずに、せびらかされて頭が痛い、忠さんはまだ見へぬかゑ、せめての所縁にこなさんの、顔が見たさに貸しに来た」と、入るさの門の障子戸も、明くる朝の形見かや。 
「さつてもよふござんした、アレ二階にも女郎さんたちが大勢遊びにござんして、お客待つ間の酒ごと、拳をしてござんする、こなさんも気晴らしに一挙して洒一つ、傍輩さんもござんす」と、上る二階の隙間風、男交ぜずの火鉢酒、拳の手品の手もたゆく、「ろま、せさい」「とうらい」「さんな」「同じこととよ」豊川に、声の高瀬がさす腕には、「はま」「さん」「きう」「ごう」「りう」「すむゐ」「ソレ/\なんと、地体一つは鳴波瀬さん。 
アレ梅川様のござんした」「ノウよいところへ来て下んした、こなさん拳の上手、宵から千代歳さんに、仕つけられて無念な、敵取つて下んせ、銚子直しや」と云ひければ、「アヽうたての酒や、拳をする気もあらばこそ、この梅川が今の身を少しは泣いてもらいたい、田舎の客が身請のこと、今日も今日とて島屋にて、理屈をつめてねだれ言、腹が立つやら憎いやら、とは云ひながらこれは先。 
忠兵衛さんは後手といひ宿の精力一つにて、手附も渡し約束の日限切れるも云ひ延し、今日まではつながれしが、忠さんも世帯持、養子の母御の手前といひ、屋敷方歴々の町方を引受けて東路かけての大事の商売、いかなることか邪魔になり、田舎の客に請けられては、わが身一つは死んでものけふ、天神太夫の身でもなし、『さもしい金に気が触れた見世女郎の浅ましさ』と世間の唱へ、傍輩の掃部(かもん)殿を始めとして格子女郎衆の手前もあり、忠さんと本意を遂げ、とやかふ人に謡はれし、面が脱ぎたふござんす」と、泣きしみづきて語るにぞ、一座の女郎身の上に、思い合せて『もつとも』と連れて涙を流せしが、「アヽいかふ気がめいる、わつさりと浄瑠璃にせまいか、禿どもちよつと往て竹本頼母様借つておじや」「イヤさきに鬢附買ふとて聞きましたが、芝居からすぐに越後町の扇屋へ往かんしたげな、私は頼母様の弟子なればよふ似た所を聞かんせ、サア三味線」と夕霧の昔を、今にひきかけて、「傾城に誠なしと世の人の申せども、それは皆僻言訳知らずの詞ぞや、誠も嘘ももと一つ、たとへば命なげうちいかに誠をつくしても、男の方より便りなく遠ざかるその時は、心やたけに思ひても、かふした身なればまゝならず、おのづから思はぬ花の根引きに合ひ、かけし誓ひも嘘となり、又始めより偽りの勤めばかりに逢ふ人も、絶へず重ぬる色衣つひの寄るべとなる時は、始めの嘘も皆誠、とかくたゞ恋路には偽りもなく誠もなし、縁のあるのが誠ぞや、逢ふこと叶はぬ男をば思ひ/\て思ひが積り、思ひざめにも醒むるもの辛や所在と恨むらん。 
『恨まば恨めいとしいといふこの病ひ、勤めする身の持病か』と、恋に浮世を投げ首の酒も、白けて醒めにけり。 
中の島の八右衛門九軒の方より浄瑠璃聞きつけ、「ヤア皆知つた妓の声々、花車内にか」とつつと入り、柄差箒逆手に取り、二階の下から板敷を、ぐはた/\と突き鳴らし、「女郎衆あんまりぢやぞや、こゝにも人が聞いてゐる、いかなる男でそれほどに恋しいぞ、男がなふて淋しくば、お気には入らずと、これにも一人、貸してやろか」と喚きける、梅川はそれとも知らず、「テモ逢ひたいが定ちやもの、憎いなら来て叩かんせ、きよさん、下なは誰さんぢやえ」「イヤ大事ござんせぬ中の島の八さん」と聞くより梅川『ハツ』として「アコレ/\あのさんには逢ひともない、皆さんおりて下さんせ。 
私が二階にゐることを、必ず必ず云ふまいぞ」「そこらは粋じや」と打ちうなづき皆々、座敷に出でければ、「ヤア千代歳さん、鳴渡瀬さん、歴々の御参会、梅川殿は宵の口、島屋をもらふて去なれたげな、忠兵衛もまだ見へそもない、コレ花車こゝへ寄らしやれ、女郎衆も禿どもも忠兵衛がことにつき、耳打つて置くことがあるサこゝへ/\」とひそ/\すれば、「ハアなにごとやら気づかひな」と思へど二階の梅川に、『悪い噂も聞かせんか』と皆気を配る折節に、忠兵衛は世を忍ぶ心の氷三百両、身も懐も冷ゆる夜に越後屋に走り着き、内を覗けば、八右衛門横座をしめてわが評判、『はつ』と驚き立ち聞きす、二階には梅川が、心をすます壁に耳漏るゝぞ仇の始めなる。 
かくと知らねば八右衛門、「コレ、かふ云へば忠兵衛を憎み猜むやうなれど、あの男が身のなる果てが可愛ひ、もつとも千両二千両人の金をことづかりしばしの宿を貸すれども、手金といふては家屋敷、家財かけて十五貫目、二十貫目に足らぬ身代、大和の親が長者でも、亀屋へ養子に越すからはモたかの知れた百姓、かういふこの八右衛門も若い者の習ひ、一年に五百目一貫目、揚屋の座敷も踏まねばならぬ、身にも応ぜぬ忠兵衛が梅川にのぼりつめ、島屋の客と張り合ひ、五月よりこのかたの揚げ詰め、身請もこの頃極まり、百六十両のうち五十両手附に渡したげな。 
それ故に方々の届け金が不埒になり、当るところが嘘八百、いかふ鐺がつまつて来た、今でも梅川が、請出さるゝに極まらば、借銭もあらふし、泣いても二百五十両、天から降ろふか地から湧かふか、盗みせふより外はない、かの手附けの五十両、マどこから出たと思し召す。 
身が方へ来る江戸為替中で取つて使ふたを、それとも知らず乞ひに行く。 
養子の母御がいとしぼや、のぼつた金は知つてなり『渡せ/\』とせつかれて、忠兵衛が戻した小判、ドレお目にかけふか」と一包み取り出し、「コレ、かふ見たところは五十両、さらば正体あらはして獄門の種御覧あれ」と包みを切つて切りほどけば焼物の鬢水入主も一座の女郎も『ハアヽ』とばかりに怖気立ち、身を縮むれば、二階には、顔を畳に摺り付けて声を隠して泣きゐたり。 
短気は損気の忠兵衛、傾城は公界者、五十両の目腐り金、取り替へた倦上、若い者に恥かゝせ川が聞いたら死にたかろ、懐の三百両、五十両引抜いて面へぶちつけ存分云ひ、わが身の一分川が面目、すゝいでやらふか、アゝされどもこれは武士の金、ことに急用こゝが大事の、堪忍」と手を懐へ幾度か、とやせんかくやしやうげ鳥、いすかの嘴のくひちがふ心を知らぬぞ是非もなき。 
八右衛門水入取り上げ、「コレこれも買はば十八文、いかに相場が安いとて五十両を二分五厘替へ、神武このかたないこと、友達さへこれなれば他人を騙るは御推量、この次は段々に巾着切から家尻切、はては首切りイヤモいかにしても笑止な。 
あのごとくに乱れては主親の勘当も、釈迦達磨の意見でも聖徳太子がぢきに教化なされても、いかな/\直らぬ、廓でこの沙汰ぱつとして、寄せつけぬやうに頼みます。 
梅川どんへも吹き込んで、こつちから挨拶切り、島屋の客にさらりと請け出させて仕舞ひたい、皆あの流が心中か女郎の衣裳を盗むか、ろくなことは出かさず、片小鬢剃りこぼたれ大門口に曝され、友達の一分捨てさする、人でなしとはあれがこと、ヤコレ可愛くば寄せつけて下さるな」と語るを聞けば梅川も、悲しいといとしいと身のはかなさをかきまぜて、胸引き裂ける忍び泣き、「アゝ刃物がな鋏でも、舌を切つても、死にたい」と悶へ伏したる苦しみを、下には各々推量して、「ひよんな心にならんした運の悪い梅川さん、いとしぼいは川さんお一人に止めた」と、下女、料理人、うら若き、禿も袖を絞りける。 
忠兵衛元来悪い虫、押へかねてずんど出で、八右衛門が膝にむずとゐかゝり、「コレ丹波屋の八右衛門殿、常々の口ほどあつてオオ男ぢゃ見事ぢゃ、三人寄れば公界忠兵衛が身代の棚卸してくれる忝いわい、コリヤこの水入も男同士、母の心を安めるため、『受取つてくれるか』と、謎をかけて渡したをこの忠兵衛が五十両損かけふかと気づかひさに、廓三界披露して男の一分捨てさするのか、たゞしまた島屋の客に賄賂取つて、梅川に藁を焚きあちらへやらふといふことか、措いてくれ/\/\、気づかひすな五十両や百両、友達に揖掛ける忠兵衛ではごあらぬごあらぬ/\ごあらぬわいの、八右衛門さま、八右衛門め、サア金渡す手形渡せ」と、金取り出し包を解かんとするところを、八右衛門押へて、「コリヤ/\/\待てやい忠兵衛、よつぽどのたはけをつくせ、その心を知つた故意見をしても聞くまじと、廓の衆を頼んでこつちから除けてもらふたらば、根性も取直し、人間にもならふかとコリヤコレ男づくの懇ろだけ、コリヤ五十両が惜しければ母者の前で云ふわいやい、てんがうな手形を書き無筆の母者をなだめたがこれでもこの八右衛門が届かぬか、エ、その金嵩も三百両、手金のあらふやうもなし、定めてどこぞの仕切金、その金に庇をつけ、八右衛門をしたやうにコリヤ、鬢水入ではわれ済むまいぞよ、たゞし代りに首やるか、のぼりつめるその手間で、届けるところへ届けてしまへ、エゝ性根の据らぬ気違ひめ」と割つつ口説いつ叱れども、「イヤ/\/\仁義立て措いてくれ/\/\、この金をよそのとは、この忠兵衛が三百両持つまいものか、女郎衆の前といひ身代を見立てられ、なほ返さねば一分立たぬ」と、思い切つたる封印の、包解いて十二十三十、始終つまらぬ五十両、くる/\と引包み、「コレ亀屋忠兵衛が人に損をかけぬ証拠、サア受け取れ」と投げつくる、「エゝ男の面へなんとするぞい、恭いと礼云ふて、 返し直せ」と投げ戻す、「おのれになんの礼云はふ」と、また投げつけつ投げ返し腕まくりしてぎしみ合ふ。 
梅川涙にくれながら梯子かけおり、「ノウすつきりわしが聞きました。 
皆島八さんのがお道理ぢや、コレ/\/\手を合せる、梅川に許して下さんせ」と声をあげて泣きけるが、「情なや忠兵衛さん、なぜ、そのやうにのぼらんす、そもや廓へ来る人の、たとへ持丸長者でも金に詰るはある習ひ。 
こゝの恥は恥ならず、なにをあてに人の金、封を切つて撒き散らし詮議にあふて牢櫃の、縄かゝるのといふ恥とこの恥と替へらるか、恥かくばかりか梅川はなんとなれといふことぞ。 
とつくと心を落しつけ八さんに詫言し、金をつかねてその主へ早ふ届けて下さんせ。 
わしを人手にやりともないそれはこの身も同じこと、身一つ捨つると思ふたら皆胸にこめてゐる、/\年とてもマア二年下宮島へも身を仕切り、大阪の浜に立つてもこなさん一人は養ふて、男に憂き目はかけまいもの、コレ気を静めて下さんせ、浅ましい気にならんしたかふは誰がしたエゝわしがした、皆梅川が故なれば忝いやらいとしいやら、心を推して下さんせ」と口説き立て/\小判の上にはら/\と涙は、井出の山吹に、露置き添ふるごとくなり。 
忠兵衛気も有頂天前後括らぬ間に合筵敷金のこと思ひ出し、「ハテ喧しい、この忠兵衛をそれほどたはけと思やるか、この金は気づかひない。 
八右衛門も知つてゐる、養子に来る時大和から、敷金に持つて来てよそへ預け置いた金、身請のために取り戻した、 コレ花車こゝへ」と呼び寄せ、「先に手附に五十両、今百十両、合せて百六十両、これ川が身の代、これまた四十五両、いつぞやしめた帳面、買ひがかりの借銭、五両は遣手九月からの揚銭、万事十五両ほどと覚えたが、算用が喧しい、二十両で帳消しや、この十両はこなたへ御祝儀やら骨折分、りんも玉も五兵衛も一両づゝじや来い/\」と金銀降らす邯鄲の夢の間の栄耀なり。 
「サア今の間に埒明け、今宵の中に出るやうに、頼む/\」と云ひければ、主俄かに勇みをなし、「ないほどはないも金、ある段にはあるものかは、気を死なそふことではない、川さん嬉しう思はんしょ、大事の金を持つて行く、りんも玉も供しや」と引連れ走り、出でにけり。 
八右衛門も済まぬ顔、「誠とは思はねども、たゞさへもらふこの小判、返すものを云はれぬ辞儀、五十両確かに受取つた、ソレ手形返す」と投げ出し、「梅川殿、へゝよい男持つてお仕合せ、妓さんたちこれに」と金懐中し出でければ、「わしらもいざ帰りましよ、川さんめでたふござんす」と皆宿々へぞ帰りける。 
忠兵衛は気をせいて、「花車はなぜ遅いぞ、五兵衛行てせいてくれ」と立ちに立つてせきければ、「イヤ、身請の衆は親方が済んでから、宿老殿で判を消し、月行事から札取らねば大門が出られませぬ、まちつと隙が入りませふかい」「そこらをはやう、こりや頼む」と、また一両投げ出す、「おつとまかせ」と足軽く、走る三里の灸よりも小判の利きぞ、応へける。 
「サア/\この間に身拵え、べた/\した取りなり、帯もきりゝと仕直しや」とめつたに急けば、「なんぞいの、一代の外聞、傍輩衆へも盃ごと、暇乞ひも訳よふして、ゆるりと出して下さんせ」と、なに心なく勇む顔、男は『わつ』と泣き出し、「いとしやなにも知らずか。 
今の小判は堂島のお屋敷の急用金、この金を散らしては身の大事は知れたこと、随分堪えて見つれども友女郎の真中で、可愛い男が恥辱を取り、そなたの心の無念さを晴らしたいと思ふより、ふつと金に手をかけてもふ引かれぬは男の役、かうなる因果と思ふてたも。 
八右衛門が面つき直に母にぬかす顔、十八軒の仲間から詮議に来るは今のこと、地獄の上の一足飛び、飛んでたもや」とばかりにて、縋りついて泣きければ。 
梅川『ハツ』と慄ひ出し声も涙にわな/\と、「それ見さんせ、常々云ひしはこゝのこと、なぜに命が惜しいぞ、二人死ぬれば本望、今とても易いこと分別据へて下んせなふ」「ヤレ命生きやふと思ふてこの大事がなるものか、生きらるゝだけ添はるゝだけ、たかは死ぬると覚悟しや」「アゝそふぢゃ、生きらるゝだけこの世で添はふ、ほんに忘れた私が大事の守をうちの箪笥に置いて来た、これが欲しい」と云ひければ、「ハテ、かゝる悪事を仕出して、いかな守の力にもこの科が逃れうか、とかく死ぬ身と合点してわれはそなたの回向せん、そなたはこの忠兵衛が回向を頼む」と、泣きければ、梅川ひしと抱きつき、むせ返りてぞ歎きける。 
越後主従立帰り、「サア/\どこもかも将明けた、お出の勝手近ければ西口ヘ札が廻つた」と、云へども、夫婦はわな/\と、「さらば」「さらば」も震ひ声、「お寒さうな酒はいの」「酒も咽喉を、トゝゝ通りませぬ」「めでたいと申そふか、お名残り惜しいと申そふか、千日云ふてもつきぬこと」「エ、その千日が迷惑」と、ゆふつげ鳥に別れ行く、栄耀栄華も人の金、果は砂場を打過ぎて、跡は野となれ大和路や足に、任せて 
道行相合かご  
翠帳紅閏に枕ならべし閨のうち、馴れし衾の夜すがらも、四ツ門のあと夢もなし、さるにても我がつまの秋よりさきにかならずと、仇し情の世を頼み、人の頼みの綱きれて、夜半の中戸もひきかへて、人目の関にせかれゆく、冷えたる足を太股に、相合炬燵相輿の膝組み交すかごのうち、狭き局の睦言の過ぎしその日が思はれて、いとゞ涙のこぼれ口、比翼煙管の薄煙り、霧も絶え/\晴れ亙り、麦の葉生えに風荒れて、朝出の賤や火をもらふ、野守が見る目恥づかしとかご立てさせて暇をやる。 
価の露の命さえ惜しからぬ身は惜しからず、惜しむは名残りばかりぞや、今は人目も慰めの言葉やさしく忠兵衛が、「コレイノウコレ梅川、なにくど/\と思うぞや、定めなき世の定めぞと、思ひ定めたわが命、ともに一蓮托生の約束ごととあきらめて、赦してたも」とうち沈む。 
「ノウなに云はんすぞ忠兵衛さん、いろで逢ひしは、はや昔、今は真身の女夫合い、恋は今生さきの世まで冥途の道をこのやうに、手をひこうぞや」「ひかれふ」と、また取り交し泣く涙、空に霙のひと曇り、霰交りに吹く木の葉、袖の凍りと閉合へり。 
はや故郷のほど近し、こゝは人目も多ければ、里の裏道畦道へ、こちへ/\と袖覆ひ、すぢりもちりて行く程に、「アレ、あれを見や、どこの田舎も恋の世や」背戸に菜をつむ十七八が「門に立つたは忍びの夫かゑ、野風身の毒こち這入らんせ、野風身の毒、身の毒野風、エゝこち入らんせ、こちござれ、恋は楽しや苦しや辛や、いよ忍びての、忍びてのよその睦言ねたましく「それ覚えてか、いつのこと、かの初雪の朝込みに、寝巻ながらに送られし、大門口の薄雪も、今この雪も変らねど、変り果てたる互の身、われゆえ染めていとほしや。 
もとの白地を浅黄より、恋は誉田の八幡に、起請誓紙の筆の罰、そなたを避けて」と泣く涙、「ノウ、コレ申しさりとては、今さら聞えぬなんの愚痴。 
逢ひ初めてから二度三度、待つ夜、待つ夜の畳算、仇な勤めを実にして、末は女夫と心の誓ひ、越後で切つた封印の科はこなたの科でなし、皆この私ゆえなれば、女冥利に尽きること、たとえこの身は縛り首、逆轢もいとはねど、唯いとしぼは私が母、京の六条数珠屋町、定めてこの中この間、詮議に人がいきつらふ。 
日頃が目まい持ちなれば、どうならんした事ちややら、ま一度京の母さまにも、一目逢うて死にたいもの」「オゝ道理とも尤とも、我もそなたののお袋に婿ぢゃと云ふて逢ひもしたし、また新口の実の親に、嫁ぢゃと云ふて引き逢はせ、喜ぶ顔も見たけれどそれも叶はぬ身のしだら。 
親父さまの百年の御寿命めでたふ過ぎてのち、せめて未来で嫁舅、必ずやいの梅川」と人目なければ抱き合い、よゝと崩おれ泣き沈む。 
涙の雨の横時雨、野辺の笹原薄原、ばう/\さらさらさつとなつたは、もしや追手の尋ぬるよと、おおい重なり影かくす。 
ふりさけ見れば人にはあらで妻恋鳥の羽音にも、怖ちる身となる落人の、身をしのぶ道、恋の道、ここの旅寵、かしこの宿、三日四日いつかさて、命のかねのわびしくも、消ゆる心の細の道、我から狭き憂世の道、野越え山くれ里村越えて、行くは恋ゆえ捨つる世や、 哀れはかなき 
 
  
日本人と死後の世界

 

  
1.仏教における浄土への転生 
(1)六道輪廻 −仏教における死後の世界  
仏教における世界は、無色界、色界、欲界の「三界」で構成されており、その最下層の欲界は六段階で構成されている。その六つの段階は、天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄からなり、これを「六道」という。そして人間の魂は、この六道の中を輪廻転生(りんねてんしょう)すると考える。したがって死とは、魂が次の世界へ転生することであった。  
この思想は、インドにおいて古来行われてきたものであるが、仏教思想を通して伝来する中で、中国、日本においては人の生を無限の過去から未来へと開く、新しい思想として受容された。  
すでに、古く万葉集の中でも、  
   この世には人言しげし来む世にも  
       逢はむわがせこ今ならずとも (高田女王)  
   この世にし楽しくあらば来む世には  
       虫に鳥にも我はなりなむ (大伴旅人)  
などと、輪廻転生の思想がうたわれている例を見る。  
藤原道長などの平安京の貴族では、当時極楽を模した寺院の建立などによる「生ける浄土」の実現を通して、輪廻の思想は常識として行われていたと思われる。(和辻哲郎「日本の文芸と仏教思想」「続日本精神史研究」所収)  
人間の魂の転生の最高位は、神となって天上界へ転生することであり、第2が再び人間となって人間界へ再生することである。この世での権力者は、当然死後にもこの世のそれを越えた地位を得て、天上界に転生したいと考えたことであろう。 
(2)古代貴族の死に方  
念仏三昧による極楽往生 −藤原道長  
今から約1000年の昔、後一条天皇の万寿4(1027)年12月、一段と冷え込む平安の都、富小路の東に広大な地域を占める土御門京極殿の東寄りに、極楽浄土を模して建立された法成寺阿弥陀堂で、一人の貴人が死を迎えようとしていた。  
その貴人は、「藤原時代」とよばれる時代をつくり、「この世をば、わが世」と読んだ「御堂関白 従一位太政大臣 藤原道長」(966-1027)である。この「望月の欠けることなき」貴人にも、老いと病いは自分の思いのままにはならなかった。  
すでに50歳を越えて出家したころから「風病」(今の風邪ではなく、広義の成人病であり、貴族の多くがかかっていた)に「胸病」(「小右記」)が加わり、足も弱り、眼も見えない状態になってきていた。(岸元史明「王朝史の証言」)  
11月24日には、背中の腫れ物が胸まで広がり、12月1日にはその腫れ物を針でつぶした(「小右記」)。さらに、消化器系の病気が致命的になってきていたようである。  
さてこのような状態になった段階での道長の言動は、「栄花物語」に次のように記されている。まず長子の頼道に対して、祈祷や読経、さらにそばへ来ることまで断り、念仏だけを要求していた。彼は、自分の終焉を阿弥陀堂の念誦の室で迎えたいというのが年来の希望であり、その部屋には高い屏風を引き回し、そこには人を近づけないようにした。  
道長の長女彰子は一条天皇の后、同じく次女妍子(9月に死去)は三条天皇の后、三女威子は後一条天皇の后である。つまり三代にわたる皇后の父親が道長である。病気を心配した後一条天皇の行幸と東宮の行啓だけは、かろうじて受けたが、女院や中宮とも顔を合わさず、念仏三昧に過ごしたと言われる。  
この阿弥陀堂では、朝夕日中の3回の念仏は平生からもおこなわれていたが、めぐらせてあった屏風の西の方だけをあけ、阿弥陀仏の御手から我が手に5色の糸を引いて、北枕に寝て、最後まで念仏を唱えながら、62歳の生涯を閉じた。12月4日の午前10時ごろのことであった。死んだあとにも口が動いて、念仏を唱えていたといわれる。  
阿弥陀堂には、極楽に往生するための段階、九品往生に沿って9体の阿弥陀仏が安置されていたと思われる。9体の阿弥陀仏の安置は、藤原中期以降の阿弥陀信仰の特徴であり、東京の世田谷に今も残る「九品仏」の名もここに由来している。(岩本祐「極楽と地獄」 三一新書)  
道長は、この世に極楽世界さながらといわれた法成寺をつくっただけでなく、真の極楽世界への再生をかけて、念仏三昧の中で死んでいった。  
道長の葬送は、12月7日の夜、雪が降り続く鳥辺野で行われた。阿弥陀堂の南大門の脇の門から出た葬列は20町も続いた。念仏僧は、奈良、三井寺、比叡、岩倉、仁和寺、横河、法性寺の僧や尼僧が参加した。葬場では、院源座主が導師をつとめた。  
火葬がすみ、骨上げが行われた頃は夜明けとなっていた。甕に入れられた骨は、左少弁章信が首にかけて、定基僧都といっしょに藤原家の墓所がある木幡へ埋葬にいった。そこまでついていった人々も少なくなかったという。
源信の「臨終の行儀」  
藤原道長の死から200年の後、嘉禎元年(1235)4月頃から、三条家の右大臣・藤原実親の妻の容体が急に悪くなった。彼女は死期が迫ったことを知り、出家をして、6月15日夜に亡くなった。  
この状況を藤原定家の「明月記」が詳しく書いている。それによると、当日彼女は沐浴のあと浄衣をまとい、清い畳を敷いて端座し、五色の糸を阿弥陀如来像の手から引いて定印を結び、死期を待った。  
午後2時頃からは、無言で観想を行い、夜半にいたって遷化した。  
この女性には、未婚の妹がいて8年前の安貞元年(1227)に亡くなっているが、最後に大病でやせ細った妹は、前日の朝に出家し、死去の日には念仏を数百回も唱え、五色の糸を引いて定印を結び、午後4時頃に亡くなった。  
これらは源信(942-1017)の「往生要集」(985)の「臨終の行儀」に記された方法に従ったものであり、姉妹ともに絶賛に値する往生であった。(角田文衛「平安の春」)  
往生要集は、寛和元年(985)に天台沙門源信により書かれた、念仏信仰の書である。これにより、地獄・極楽のイメージが日本人の心に定着したといわれる。  
前記の道長の死も明月記に書かれた姉妹の死も、この源信の「臨終の行儀」に従ったものであると思われる。そしてこの行儀に従い臨終を迎えた貴紳衆庶は、おびただしい数にのぼるといわれ、それは「日本往生極楽記」(985-986成立)をはじめとする往生伝に、多数記録されている。  
この行儀は、臨終に臨み阿弥陀如来の来迎をお迎えするためのものである。高野山の「聖衆来迎図」を見ると、彩雲に乗った25人の聖衆が、音楽を奏したり舞踏をしながら、金色燦然と輝く阿弥陀仏を囲ぎょうして、しずしずと湖水の面に天下っている光景を描いている。  
ご来迎の様子は、身近な人の夢の中などにでてくる。例えば、叡山西塔の沙門仁慶は、死の病の中で、自ら法華経を読み、結縁の衆僧を請じて、読経・念仏を唱えて入滅した。  
そのとき傍らの人の夢に、大宮大路に五色の雲が空より降りて、音楽と妙なる香りが空に満ち溢れた。仁慶は頭を剃って大きな袈裟を着て、威儀具足して手に香炉を持って、西に向かって立っていた。そこへ雲の中から蓮華台が下りてきた。  
仁慶はこの蓮台に座して、雲の中を西方遙に去っていった。時の人は、これは仁慶が極楽に迎えられたしるしであるといった。(「大日本国法華経験記」第52) 
(3)死後浄土への転生 −浄土とは何か?  
ナムアミダブツ −念仏往生による浄土への転生  
道長は、ひたすら念仏を唱えることにより、極楽浄土への転生を祈願した。いま我々もお仏壇に向かい、鐘を鳴らして「ナムアミダブツ」と唱えるが、道長もたぶん「ナムアミダブツ」と唱えたと思われる。  
道長の念仏は、極楽往生のためとはいえ半端ではない。56歳の寛仁5年(1021)の「御堂関白記」9月の条によると、1日11万遍、2日15万遍、3日14万遍、4日13万遍、5日17万遍唱えたと記録されている。  
称名念仏の「ナム」(南無)とは、仏教語で「絶対的な信仰を表すために唱える語」(岩波書店 国語辞典)であり、「ナム」の後に信仰対象としての仏の名前が続く。これが「称名」である。つまり、「ナム−アミダブツ」とは、私の身命を投げ出して阿弥陀仏の教えに従います(帰命する)という意味である。  
したがって当然のことであるが、信仰する仏様により「ナム」に続く「称名」が変わることになる。たとえば禅宗では、釈迦如来をご本尊にしていることが多く、そこでは「ナム−シャカニブツ」となる。また観音菩薩に向かっては「ナム−カンゼオンボサツ」、日蓮宗では「法華経」に帰依していることから「ナム−ミョウホウレンゲキョウ」となる。  
奈良の大仏様の前では、「ナム−アミダブツ」ではない。大仏は華厳経に基づく盧舎那(ビルシャナ)仏の場合が多い。当然「ナム−ビルシャナブツ」ということになるし、四国のお遍路さんは「ナム・タイシ−ヘンジョウコンゴウ」となる。  
念仏往生において念ずる仏の浄土は、「極楽浄土」だけではない。「極楽」はアミダブツの浄土であって、信仰する仏によりいろいろな浄土がある。  
「浄土」つまり「清浄な仏国土」を意味する述語は梵語にはなく、中国で発達し展開したといわれるが(岩本祐 「極楽と地獄」)、仏の支配する仏浄土は210億もあるといわれ、「極楽」はそのひとつにすぎない。(同書)  
つまり念仏称名とは、自分の信仰する仏の名を呼び、その仏国土に再生することを、その仏に念願する呪文である。  
民芸の研究家である柳宗悦という人が、昭和になって「南無阿弥陀仏」という書物を書いた(岩波文庫)。これは彼の最高傑作といわれている。この中で彼は、「南無阿弥陀仏」という6字でいかに多くの霊が安らかにされたかを語り、この念仏思想を最後に仕上げた一遍上人の歴史的位置を語った。  
また他力と自力信仰が、山の上ではいっしょになるとする見解を示している。
聖徳太子の「天寿国」  
日本で初めて正式に仏法の摂政を行ったのは、聖徳太子(574-622)といわれるが、太子自体の実像は極めて不明確である。  
その伝説の集大成でもある「聖徳太子伝歴」(917)によると、畝達天皇4年2月15日、2歳の太子は「掌を合わせ、東に向かって南無仏と唱えて再拝したもう」と記されている。この東方礼拝は、「古今著聞集」(1254)にもでてくる。  
阿弥陀仏の極楽浄土は西の浄土であるから、西向きの拝礼になる。東の浄土は華厳経の華厳浄土であり、仏は太陽の化身としての盧舎那仏による蓮華蔵世界である。このほかにも阿弥陀信仰に先立つ地方仏信仰で、阿しゅく仏の妙喜国も東方千世界のかなたにある。  
家永三郎「上代仏教思想史」には、「聖徳太子の浄土」に対する詳細な研究が記されている。そこでは中国における仏像の造像銘が多数あげられており、弥勒、釈迦、観音、その他の諸仏の浄土は、すべて西方に設定されていることがみられる。  
「天寿国」の方位が明確に記された唯一の傍証として、三井家所蔵の華厳経巻46 開皇3年(583)の奥書がある。そこには、「願亡父母託生西方天寿国」(亡き父母に願い、西方の天寿国へ生を託す)と記されており、天寿国も西方にあるようである。  
したがって、西方浄土の思想が支配的になった頃に書かれた聖徳太子伝が、東方礼拝と記しているのは不思議である。
阿弥陀仏の「極楽浄土」  
西方十万億土にあるといわれる「極楽浄土」は、阿弥陀仏の仏国土である。阿弥陀仏とその浄土である極楽世界の状況は、浄土教の基本的な経典である「浄土三部経」(大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)に詳しく述べられている。  
ここでは、その中から「仏説阿弥陀経」に記されている極楽浄土の姿を見てみよう。  
「仏説阿弥陀経」は、釈迦が晩年になりその涅槃が近づいた頃、弟子の中でも最も知恵が優れ徳の高い舎利弗を呼び、遺言のように語られたものといわれる。その中で、釈迦は極楽世界について次のように述べる。(暁烏敏「仏説阿弥陀経講和」)  
是より西方十万億仏土をすぎたところに、阿弥陀仏の国土があり、これを極楽という。この国では終生、衆の苦はなく、いろいろな楽が受けられることから、極楽という。  
十国土には、それぞれ七重の欄干のある建物があり、宝珠をつないだ網で飾られ、七重の木々に囲まれ、金・銀・瑠璃・玻璃の四宝がめぐらされている。  
また七宝の池があり、八功徳の水があふれている。池の底は、金の砂が敷かれている。池の周りには廊下があり、そこは金・銀・瑠璃をはじめとする宝石で飾られている。上には楼閣があり、これも金銀その他の宝石で飾られている。池の中には大きな車輪のような蓮華の花が咲き、青、黄、赤、白などの色は、それぞれの光を出し、よい香りに満ちている。極楽国土では、このような功徳荘厳が成就されている。  
また常に荘厳な音楽が流れて、地面は黄金で造られており、夜昼6時に曼荼羅華の雨が降る。その国の人々は朝早く自分の着物に花をもり、十万億の仏を供養して、自分たちも食事をいただく。  
またこの国には、いろいろな綺麗な鳥がいて、昼夜6時に優しく雅やかな声で鳴く。その音は仏法にかなったものであり、浄土の人々はこの鳥の声を聞いて、仏を念じ、法を念じ、僧を念じる。  
またこの国には、そよ風が吹き、木々や飾りが微妙な音を奏でている。その音は、百千種の楽を同時に聞くようであり、自然に仏、法、僧を念じる心がおこる。このような功徳荘厳ができあがっている。  
阿弥陀経では、このような極楽世界の美しい描写に続いて、この国土を成仏以来、十劫という長い時間をかけて築いてきた、阿弥陀仏とその声聞の多くの弟子があることを述べる。  
このような話を聞けば、衆生はこの国に生まれたいと思うであろう。しかし小さな善根や福徳で、この世に来ることはできない。この国に生まれるためには、阿弥陀仏を念じて、1日でも、2日でも、3日でも、・・・・、7日でも、一心不乱に念仏称名を唱えると、阿弥陀仏がお迎えに来てくださると記す。 
(4)極楽往生を目指す思想 −源信、法然  
道長の死は、極楽往生を現世の栄華世界の延長線上に求める耽美的なものであった。しかし道長の死から30年後の後冷泉天皇の永承7年(1052)をもって、末法の時代に入ったとする説が普及するにつれて、悲観的、厭世的な暗い念仏信仰に変わっていった。  
後冷泉天皇(1025-1068)の頃から、この末法思想を裏付けるかのように、平安京では放火が昼夜を問わずに起こり、盗賊は横行し、その上大火、地震、疱瘡、大旱魃、飢饉などの天災地変が相次いだ。  
仏教では、釈迦の入滅後の時代を正法、像法、末法の3期に分け、正法千年、像法千年、末法一万年として、永承7年からこの最後の時代に入ったとしていた。人々はこの暗い末法の世の中で、厭離浄土、欣求浄土の厭世的な思想の拠り所を、念仏思想の中に求めた。
源信の「往生要集」 −厭離穢土・欣求浄土のすすめ  
念仏思想は、天台沙門源信(942-1017)の「往生要集」(985)により幕開いた。この書で源信は、浄土往生に関する従来の経論を抜粋、編集し、過去の160数部の文献から950余の文章を引用して、極楽浄土に往生するための思想と方法を説いた。  
第1章の「厭離穢土(おんりえど)」では、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天の六道の、世界の内容を述べた。特に地獄における等活地獄から阿鼻地獄にいたる8段階の恐ろしい世界の描写は、鬼気迫る迫力を持つ。  
第2章「欣求浄土(ごんぐじょうど)」では、念仏をつんだ人が死に臨んだ時、阿弥陀仏が多くの菩薩や比丘達をつれて迎えに来る「聖衆来迎図」を初めとする10の楽をあげて、極楽浄土への転生を勧誘する。  
第3章「極楽の証拠」で、十方浄土や兜率浄土に対して極楽浄土が優れている証拠をあげ、第4章から極楽往生のための念仏修行の方法を具体的に述べる。  
「往生要集」は、従来の難解な仏教理論に対して、念仏往生のための明解な理論と方法を提起することにより、浄土宗を起こす契機を作り出した。
法然上人の「選択集」(せんちゃくしょう) −浄土教の確立  
日本の浄土教の思想は、源信から約百年後の法然上人(1133-1212)により、さらに発展した。日蓮の言葉を借りると、源信の「往生要集」により日本の1/3が阿弥陀念仏者になり、法然の「選択集」により、日本の2/3が念仏者になった。(日蓮「撰時抄」)  
この書は上人の代表作であるのみでなく、日本に浄土教を確立した名著であると言われる。  
表題の「選択」とは、諸行を捨てて念仏を選び取るという意味である。この専修念仏の選択は、単に法然の選択ではなく、阿弥陀仏の選択であり、また釈迦仏の選択であり、さらに十方常沙(無数)の仏の選択であることを、本書により示そうとした。  
法然は、大・小乗の「自力聖道門」は難行道であり、普通の人は選択できない門であると考える。そこで普通の人、たとえば愚鈍下智の者、貧賎の者、少聞少見の者、破戒の者は、易行道としての「他力浄土門」を選択すべきであり、浄土門のほうが聖道門より優れたものとする。その理由は、阿弥陀仏の称号の中に、万徳が帰するものとしている。  
つまり法然は、選択の根本を専修念仏とし、易行、易修、易往としての念仏こそが、一般大衆に開かれたものと考えた。  
平安期の仏教は、基本的には社会の頂点に立つ貴族を対象にしたものであり、その思想も修行も、一般大衆から離れた遠いところで行われていた。つまり道長の極楽往生の方法は、一般大衆はまったく真似ることのできないものであり、そのことは、普通の大衆には極楽往生は不可能であることを示すものであった。  
源信、法然の浄土宗の思想は、さらに親鸞をへて、一般大衆の極楽往生への道を開くものとなった。  
しかし「選択集」では専修念仏を強調するあまり、法然は専修念仏以外の人を「破法の人」として切り捨てた。このことが、内に「破法の人」をつくり、外にいる多くの求道の士を敵にまわすことになった。
(5)もう一つの仏浄土 −弥勒の浄土  
弥勒菩薩の天上の浄土 −兜率天  
日本では、阿弥陀信仰による極楽浄土よりも古くから信仰された浄土が、弥勒菩薩の弥勒浄土=兜率天(とそつてん)である。弥勒菩薩は、天上と地上に2つの浄土をもつ仏である。その天上の浄土が「兜率天」である。この浄土は、「仏説観弥勒菩薩上生兜率天経」(略して上生経)に示されている。  
そこには五百万億の天人がいて、補処の弥勒菩薩を供養するために、五百億の宝宮がある。それぞれの宝宮には、七重の垣があり、その垣は七宝でできている。その宝は光明を、光明は蓮花を、蓮花は七宝の樹を出し、五百億の天女は、樹下に立って妙なる音楽を奏でる。五百億の竜王は、垣のまわりをめぐって雨を降らせる。  
ときに、この宮に、牢度抜提という神があって、弥勒菩薩のために善法堂を造ろうと発願すると、額から、自然に五百億の宝珠を出し、摩尼の光は宮中をめぐり、化して四十九重の宝宮となった。九億の天子、五百億の天女が生れ、天楽おのずからなり、天女は歌舞し、その歌を聞くものは、無上の道心を発する。兜率天に往生するものは、みなこの天女にかしずかれる。(速水佑、弥勒信仰 −もう一つの浄土信仰)  
この天上浄土は、阿弥陀仏の極楽浄土に比べると、天上では低いレベルにあるといわれるが、そこに描かれるイメージは、極楽に比べてどのように違うか?といっても、ほとんど分からない。  
説話では、急死した加賀前司藤原兼隆の娘が、のちに蘇生して冥途の有様を人々に語っている。その中で「これは極楽世界か、さもなければ兜率天上か」と思ったという。  
あるいは、一条天皇(980−1011)が、子嶋寺真輿に、「極楽のありさまをみたい」と願ったところ、真輿は、極楽ではなく兜率天の内院を現わしたが、その美しさは筆舌につくしがたく、天皇は真輿の法験に感じたという(「子嶋山観覚寺縁起」)。(速見佑「弥勒信仰」から)  
このように見ると、浄土往生の先として、極楽と兜率天に大きく差をつけていたようには見えない。その差はどこにあるかというと、極楽に往生できれば、魂はそこでの無限の生を保証されるが、兜率天での生は四千歳(その1日は、人間界の400年)である。  
そのため悪心があると、兜率天から地獄へ落ちることもある。(道綽「安楽集」)
明恵上人は兜率天への往生を目指した  
明恵上人(1173−1232)は、山城高山寺の開祖であり、華厳宗の中興の祖といわれる。  
上人は、釈迦の思想とその風土にあこがれ、三蔵法師のようにインドまで旅に出ようと考えたほどであった。また修行に夢を取り入れて、その記録である「夢記」を書いたりした。いろいろとエピソードが多い有名な上人であり、それらの話は、徒然草、古今著聞集、謡曲など、いろいろなものに残されている。  
「徒然草」では「栂尾の上人」として登場する。ある日、上人が川で馬を洗う男を見た。この男は、馬に「足、足(あし、あし)」といい、足を引かせながら洗っていた。  
仏教で梵語の「あ」の字は12母音の最初のもので、宇宙一切の本源・種子の意味をもつものである。上人は馬引く男までが、「阿字、阿字」と尊い言葉を唱えながら仕事をするものと、感心する話が出てくる。しかもその馬は、皇居の警備を司る役所のものとわかり、「うれしき結縁をもしつるかな」といって、上人は感涙をぬぐわれた。落語の「豆腐問答」に似た話である。  
また「古今著聞集」では、上人が釈迦の遺跡拝礼のため弟子千人以上をつれて、インドへ渡ろうと考えたが、春日明神の御託宣により中止になる話がある。この話は能の「春日竜神」にもなっている有名なエピソードである。  
春日大社は、藤原氏の祖神・天児屋根命を氏神として祀る神社である。平安末期には、同じ藤原氏の氏寺である興福寺の管理下にある神社であった。摂関貴族が神託を得るために利用されており、僧侶が神社の神託によるのも面白い。  
春日明神のご託宣は、釈迦在世中ならばインドへ渡るのもよいが、春日明神も仏法守護のためにこの国にいるほどであり、上人も国内にいて衆生を済度すべきであるというものであった。春日明神は、このご託宣の正しさを証明するために、いろいろな不思議を見せる。そこで上人も納得し「涕泣随喜して、渡海の事も思い留り給ひけり」と記されている。  
明恵上人の臨終にあたっての儀の沙汰は、弟子により記録された「最後御所労以後事」と、「最後臨終行事事」に詳細に述べられている。その内容は道長の比ではなく、プロフェッショナルの臨終儀式ともいえるものである。ここではその要点のみを記す。  
まず、兜率天を選択する理由は、そこで弥勒書薩の教えを聞くことにある。弥勒は釈迦の弟子として実在したとされる仏であり、釈迦の入滅後に未来仏として、再度この世に下り、竜華菩提樹の下で釈迦の教えを説く。それまでは天上の兜率天において、釈迦の教えを説き続けるといわれる。  
明恵上人は、釈迦の教えを弥勒菩薩から直接聞きたいために、兜率天への往生を選択したといえる。臨終の儀には弥勒仏が安置された。それは弥勒仏を釈迦と同体とし、兜率天への往生を願ってのことであろう。  
寛喜3年(1231)は大飢饉の年で、春から京都の町は餓死者が道にあふれるほどであった。5月には飢餓民の暴動がおこり、7月にはさらに餓死者が増える状態であった。  
この年の秋から上人の病は悪化し、自分が5色の糸になって閻浮台をまわり、人々をみな縫い取る夢とか、虚空を呑んでしまい、すべての衆生草木河海が我が虚空の中にあるといった夢を見る。  
翌寛喜4年(1232)1月19日、上人は亡くなった。既に前年の10月から弥勒仏が安置されて、その前に端座して宝号を唱える臨終の儀が開始された。1月10日から病状が悪化した。  
上人は手を洗い、浄衣を着て袈裟をかけて、結跏趺座して行法座禅に入った。その間、弥勒菩薩のとばりの前の土砂が、紺青色になり、焔を発して部屋中に散った。この行法座禅は、1月の始めから1日に2〜3度繰り返していた。  
1月11日には、「置文」つまり「遺言状」を書いた。1月12日から人々を集めて、昼夜不断に文殊の五字真言を唱えさせた。この陀羅尼は、1遍唱えると8万4千の陀羅尼蔵を誦する効果があるといわれる。この間も座禅し法を説いた。この間、何度も呼吸が止まった。弟子たちは、ひたすら宝号を唱え真言を誦した。  
16日の座禅では左脇に不動尊が現れた。この日、弥勒の像を学問所に移し、五聖(毘廬舎、文殊、普賢、観音、弥勒)の曼荼羅を東に掛け、南を枕として右脇臥の儀別にならった18日には、諸衆のダラニをやめ、一人しずかに座禅念誦を行った。  
19日午前7時頃、手を洗い、袈裟を付け、念珠をとり、看病者に寄りかかり安座して、臨終の時であることを告げ、高声で心地観経と華厳経の一節を唱えた。そして人々には、慈救呪、五字真言と宝号を唱えるように頼み、右脇に臥した。  
「南無弥勒菩薩」と数変唱え、目を閉じて、静かになった。最後の言葉は、「我戒ヲ護ル中ヨリ来ル」(弥勒が善財につげた言葉)であった。  
既に、1月の始めから多くの人の夢に明恵上人の往生が現れていたが、19日には、信然阿闍梨の叔母が、西方からたなびく紫雲の中に明恵の立つ夢を見た。
弥勒下生 −この世を浄土に!  
仏教では、その思想が釈迦の入滅後、一定期間の間は正法が保たれるが、その後、像法の時代を通して衰退し、最後に末法の時代を迎えるとしている。  
それぞれの年数は教団により異なるが、藤原時代以降は、正法千年、像法千年としており、日本では永保元年(1081)頃から末法の時代に入ったとされている。(「扶桑略記」)  
さて弥勒菩薩は、釈迦の教えが絶える末法の世までは、天上界の兜率天に住み、そこが弥勒浄土である。 しかし末法の世に入り、五十六億七千万年の後に弥勒仏はこの世に下生(げしょう)する。この時、閻浮台は化して金色になり、この世に弥勒の浄土が実現されるとしている。  
一念弥勒を礼拝すると、死後に兜率天に生まれなくても、未来世において、竜華菩提樹の下で、弥勒に値遇することができる。つまり弥勒は地上に下生することにより、地上の閻浮台(=人間世界)は化して金色となり、この地上そのものが仏国土になる。  
このような現世の弥勒浄土の思想により、死後の浄土往生のねがいから、長生きする生き物に姿を変えて、この世で修行しながら弥勒の世を待つとか、輪廻転生を繰り返しながらも、弥勒下生のときにこの世に生まれることを切望するという、多様な修行・生き方の道を開いた。  
道長は、死後に極楽浄土への往生を目指して、涙ぐましい努力をした。毎日十万回を超える念仏を行い、死に際しては阿弥陀如来と五色の糸で手を結び、死んでからも、口が動いて念仏を唱えているようにみえたといわれる。  
これほどにも極楽往生を祈求した道長が、同時に弥勒菩薩の下生の暁には、極楽浄土から再びこの世の弥勒浄土に転生したいと考えていた。  
道長の弥勒信仰は、吉野の金峰山での埋経のかたちをとっている。  
平安の中期以来、吉野の金峰山は、弥勒浄土の地とされていた(道賢「冥途記」)。このことから「金の御嶽は(兜率の)四十九院の地なり」(「梁塵秘抄」二六四)などと歌われていた。  
寛弘4年(1007)8月、道長はこの地を参詣し、法華経や阿弥陀経などに加えて「弥勒上生経」、「弥勒下生経」、「弥勒成仏経」などを金箔の筒に納め、金銅の燈篭を建ててその下に埋めて、「金峰山経典願文」を捧げた。  
その願文によると、「法華経」は釈迦の恩に報い、弥勒に値遇し、金峰山の蔵王権現(本地垂迹説では、その本地は、釈迦=弥勒とされる)に親近するため、また「阿弥陀経」は、臨終のときに心身乱れず極楽世界に往生するためである。  
そして「弥勒経」は弥勒仏が下生してこの世が浄土になったとき、弥勒の法華会を聴聞いて成仏の記をうける際に、この庭に埋めた経典が自然に湧出して、会衆を随喜させるためであった。(「大日本史料」ニノ五)  
このような埋経は、道長の娘である上東門院彰子も、長元4年(1031)に行っており、「私は、のちの世に三界を出てかならず極楽浄土に生れ、菩提の道を修し、・・・弥勒の世にも逢って、この経で人々を済度しよう」と記されている。(「平安遺文目録」五、六八号)  
このような弥勒下生信仰は、貴族社会ではあまり発達しなかったが、院政期に民間で全国的に流行したといわれる。(速水 侑「弥勒信仰 −もう一つの浄土信仰」)  
つまり道長の段階では、阿弥陀と弥勒の浄土はあまり深刻な矛盾は示していない。しかし、浄土を死後に求めるか、生前に求めるかは、実は深刻な問題をはらんでいる。通常、「欣求浄土」と、「厭離壌土」は一対の言葉として結合されているが、必ずしも一対の言葉とはいえないわけである。  
平安末期から鎌倉初期にかけて、浄土教家の中にも極楽・兜率天への往生に絶望した人々の中から、弥勒下生に活路を見つけようとする人々がでてきた。「古事談」には、後三条天皇(1034−1073)の護持僧の勝範は、「極楽・兜率に往生するのぞみはともにとげがたい。そこで私は幼年から「法華経」を読誦し、この善因によって長寿鬼となり、慈尊(弥勒仏)の下生に会いたいと願っている」と語る。  
また覚空という僧も、「十八の年から両界供養の法(密教の修法)を勤め長寿鬼となって、慈尊の下生に会おうと願っている、と語る。  
叡山西塔の性救という僧は、極楽・兜率往生の望みはとげがたいので、死後、天皇の眷属(けんぞく 家来)となれば救われる日は早いかと思う。また、後に法然門下に入る出雲路の上人覚愉は、はじめ、毘沙門の眷属となり、弥勒の出世を待とうといった。  
あげくのはてに、入水・焼身などにより蛇身・長寿鬼になって、弥勒の出世を待とうという行為まで見られるようになった。法然の師であった肥後阿闍梨は、宏才博覧で智恵深遠な僧であったが、おのれの劣機を覚り、浄土往生は難しいと考え、蛇に身を変え長命の果報を得て、弥勒下生に値遇し得道しようとした。  
そこで叡山を去り、遠江国笠原荘の桜他に入水して、大蛇となって弥勒下生を待つことにした、という「桜池伝説」が、法然上人の伝記に残されている。(「源空上人私日記」)
便同弥勒 −親鸞聖人の浄土  
親鸞(1173−1262)は、阿弥陀信仰において死後に極楽往生を求める思想と、弥勒の世の実現を通して現世に回帰する思想の、矛盾した2つの道を統一的に把握するという、困難な仕事を行った。  
親鸞が清廉した鎌倉期には、日蓮(1222−1282)による日蓮宗、栄西(1141-1215),道元(1200−1253)による曹洞宗などが登場し、貴族を中心にした宗教から、武士や民衆までが参加する新しい宗教に変わりつつあった。  
この中で、親鸞は南宋の王日休の『竜舒浄土文』のなかの、「一念往生・便同弥勒」という言葉を重視した。  
この意味は、晩年の「御消息集」の中で、「まことの信心あるひとは、等正覚の弥勒と、ひとしければ、如来とひとしとも、諸仏のほめさせたまひたりとこそきこえてさふらえ」と記されており、臨終を待たずとも、阿弥陀の本願を信じたときには、往生が決定するという意味である。このことにより、死後の極楽往生とこの世における弥勒浄土の実現は、統一的に理解されることになった。  
この意味は、「正像末和讃」の中で、やさしく解説されている。  
(原 文)  
五十六億七千万 弥勒菩薩はとしをへむ まことの信心うるひとは このたびさとりをひらくべし  
念仏往生の願により 等正覚にいたるひと すなはち弥勒に同じくて 大般涅槃をさとるべし  
真実信心うるゆえに すなはち定聚にいりぬれば 捕處の弥勒におなじくて 無上覚をさとるなり  
(意訳) ミロク菩薩は、56億7千万年という長い先に人間界へ如来として降臨されるが、まことの信心をうる人は、このたびさとりを開くことができるであろう。念仏往生を願って、等正覚のくらいに達した人は、そのくらいは弥勒と同じであり、臨終の夕には仏果にいたるであろう。真実、信心がえられるために、正定聚の位に入ることができるので、捕處の弥勒大士とおなじく、無上覚を悟り仏になることができるであろう。 
(6)異相往生 −難行・苦行の浄土行  
「僧尼令」において、僧の焼身捨身は禁止されていたが、実際には、唱名念仏による極楽浄土を欣求する信仰の他に、焼身、入水という過激な方法で往生を願った僧侶達もいた。  
焼身  
焼身は、「法華経」の薬王菩薩普門品の中に出てくる喜見菩薩が、仏の供養のために身を焼く故事を真似たものである。「大日本国法華経験記」(第9)に日本最初の焼身として記されているのは、紀伊熊野那智山の僧応照の焼身である。  
この僧は、法華経の「薬王品」を転誦するたびに、喜見菩薩が身を焼き肘を焼いたことに「恋慕随喜」した。そこで念願を起こして、自分も薬王菩薩のように、我が身を焼いて仏に供養しようと思い、穀と塩を断ち、甘い物をやめ、松葉を食べ雨水を飲み、内外の不浄を清めた。焼身に臨んでは、新しい紙の法服を着て、手に香炉をとり、薪の上に結跏趺坐して、西方に向かい、諸仏を勧請して発願の言葉をのべた。  
定印を結び、妙法を誦し、心の三宝を信じた。体は灰になっても、経の声は絶えなかった。乱れた様子もなく、煙りも臭くなく、沈檀の香の香りがし、数百羽の鳥が鳴いて飛んだ。  
この焼身が何時行われたかは明確ではないが、その後、同じような焼身供養が続出した。  
たとえば、長徳元年(995)9月、六波羅蜜寺の僧が、菩提寺の北辺で焼身供養し、花山天皇や貴族たちが見物した。(「日本紀略」長徳元年9月15日条)その翌日には、近くの阿弥陀ケ峰でも焼身自殺があった。(「百錬抄」同年9月16日条)  
また万寿3年(1026)(「左経記」7月15日)、治暦2年(1066)(「扶桑略記」5月15日)、には、僧尼が鳥辺野、船岡で焼身自殺し、人々が見ている。  
焼身供養の場合は、焼身者の極楽往生のみでなく、見る人々も共に極楽浄土を目のあたりに体験し、浄土往生を期待させるという性格をもっていたといわれる。  
入水往生は、平安時代の後期、つまり12世紀の中頃以降に実行する人が現れ始める。これについては別項で述べる。  
入水、縊死  
その他の異相往生の例としては、桂川への身投げ往生(「宇治拾遺物語」)、首吊り往生(「沙石集」)などが記録されている。  
難行・苦行  
往生のための苦行も、いくつか肉体を酷使するかたちで行われた。その第1が断食であり、穀物や塩を断つことである。これについては別に述べているので省略する。  
第2は、自分の体の一部を仏に捧げることにより、その代償として極楽往生を獲得する方法をとった人がいた。たとえば、丹波国の仙命という僧は、四天王寺に詣でた時、聖霊堂の前において、手の中指を燈して尊像を供養したら、紅燭の光の前に青竜が現れた。このことから、処々の道場で指に燈して仏に供養した。(「拾遺往生伝」上9)  
指を焼くことも、焼身の一種として禁止されていた筈であるが、行われた例である。  
さらに酷い例で、自分の手の皮膚をはがして仏に供養した人もいた。  
伊勢国飯高郡上平郷のある尼僧は、長年、手の皮をはいで極楽浄土をそこに写したいと考えていた。しかし自分で剥ぐことができなかったところ、一人の僧が来て尼僧の手の皮をはがして見えなくなり、極楽浄土を写して持ってきて、尼僧はそれを片時も離さなかった。  
臨終の時、天に音楽が聞こえて、尼僧は極楽へ往生した。(「日本往生極楽記」32)  
「今昔物語」巻15第51にも、伊勢国飯高郡の老嫗の極楽往生潭があるが、手の皮の話はない。 
  
2.日本人の死後世界 

 

(1)仏教の死後世界と臨死体験  
冥途への旅路 死後世界の体験記  
本当の極楽浄土とそこへの道程はどのようなものであろうか? といっても実際に本物を見てくることはできない。しかし、慶滋保胤の「日本往生極楽記」や鎮源の「大日本国法華経験記」を始めとする、多数の「往生伝」の中には、夢に極楽世界を見た話や、臨死体験により見てきた話が、数多く登場する。  
実際に死後世界を見てきた例を見てみよう。  
源尊法師という僧は幼児の頃から仏門にあり、日々、法華経の数部を読誦していた。盛年になり、重病を数日病んで亡くなった。死後、恐ろしい閻魔の庁へ行った。その僧は、閻魔王の前で、法華経の第1巻から第8巻までを声高く読んだところ、閻魔をはじめとする地獄の役人は、合掌してこれを聞いた。そこへ貴僧の姿をした観世音菩薩が現れて、汝は元の国にかえり、この経を読めといい、さらに菩薩の力で暗誦できるようにしてあげようといわれた。  
僧は、一晩たって蘇生し、その後、法華経を毎日3部、自分のため衆生のために読んだといわれる。(「大日本国法華経験記」第28)  
また摂津の国豊島郡多々院のある僧は、数十年の間、法華経を読み、三業修行(身・口・意の所行)を行ってきたが、はやり病で亡くなり、死後5日たって蘇った。  
死後、閻魔王の前に行くと、汝は罪業が深く地獄に残すべきであるが、長年、志しをもって法華経を読誦してきた功徳により、特にこの世にもどしてあげよう、といわれた。  
この話にはさらに続きがあり、この世への帰路に僧が見た「あの世」の有様が語られている。  
そこでは、山野の間に数十の七宝の塔があり、荘厳微妙で僧や聖人が宝塔に向かってすわっていた。口から火をだして七宝の塔が焼けた。このとき虚空に声があり、この塔は僧や聖人が法華経を誦するときに出現するものである。怒りの心を止めて法華経を誦すれば、微妙な宝塔は世界に満ちあふれるであろう。汝はこのことを聖人につげるべきである、といわれた。  
僧は、この世に蘇生した後に、聖人にこのことを語り、聖人は慙愧の心をおこして、法華経を読誦するようになったという。(大日本国法華経験記」第32)  
醍醐寺の僧蓮秀は、この世とあの世の境を見た。蓮秀は、重病により冥途への道をたどり、人間世界の境を越えた。深く幽ある山、険難の高い峰を越えて、その道は遠かった。  
鳥の声は聞こえず、鬼神暴悪の類がいた。深い山を越えると、大きな河があった。広く深くこわかった。この河の北岸に老女の鬼がいた。その形は醜く卑しくて、大きな樹の下に住んでいた。  
その樹には、多くの衣が懸けられていた。この鬼が僧に言うには、「この河が三途の河であり、我は三途の河の渡し守である。おまえの衣服をぬいで、我に渡して渡れ!」といった。そこへ4人の天童がきて、この僧は法華の持者で観音に加護されている人です!と言うと、老女は合掌して敬った。  
天童が僧に言うには、ここは冥途であり、悪業の人のくる所です。はやく元の国へ帰り、よく妙法を持し、観音を称念し、生死を捨て離れて、後に浄土に生れて下さい、と言った。  
帰途、2人の天童に迎えられて、1晩後に蘇生した。(「大日本法華経験記」、第70)
阿弥陀来迎  
臨終に当たっては、「聖衆来迎図」に見られるように、阿弥陀如来のご来迎を得て極楽往生できれば最高の喜びであろう。しかし実際のご来迎の状況の記述は、多くの往生伝を見ても、関係者の夢の中に現れる場合が多く、詳細な記述は少ない。  
しかし「往生要集」の著者・源信については、「臨終の行儀」を現した、いわば「臨終」の作法のプロであり、ご来迎についても正式に行われる必要があった。  
「大日本国法華経験記」(第83)の叙述を見よう。寛仁元年(1017)、僧都は重い病の床にあったが、念仏読経を続け、観念行法を怠らなかった。臨終が近付いたとき、兜率天の弥勒菩薩からの使者がお迎えにきた。しかし僧都は、極楽へ往生して、阿弥陀仏の妙法をお聞きしたく、極楽界で弥勒の礼拝をしたいので、弥勒菩薩に極楽往生できるように力を貸してほしいとたのんだ。  
源信は、6月10日の午前4時頃、76歳で亡くなった。この時、天に微妙な音楽が流れた。ある人は、楽の音が西から東を指してくるといい、ある人は、東から西を指していくという。また香しい風が吹いて、奇妙な香気が、虚空に満ちあふれた。草木の枝葉は、萎へ衰へた形になり、涕涙鳴咽の声は山林に満ちた。  
極楽世界を主宰する仏である阿弥陀には、2つの意味があるといわれる。その1は、時間にかかわるもので、永劫、無限を意味する「無量寿」、その2は、空間にかかわるもので、「碍りなき光」、一切の光を意味する「無量光」がそれである。つまり無限にあふれる光といったものである。  
観無量寿経は、どのような人にも、極楽浄土を手にとるように見えるようにするための、訓練マニュアルともいえるお経であるが、その第1ステップは、毎日、落日を見て、次に、目を閉じて落日を心に想い浮かべる訓練を行う。これを「日想観」という。  
つまり、阿弥陀仏は、沈む太陽を象徴した仏といえるように思われる。
臨死体験  
最近、臨死体験が詳しく研究され始めた。それらは、たとえば立花隆「臨死体験」上・下に詳しく実例をあげ、分析されている。この中で、臨死にあたり、光・香り・音などが共通して現れてくることが報告されている。  
その一つに、臨死の際における「まばゆい光」の体験がある。それは「太陽の何倍もの白光」であり、一つの解釈として、「呼吸を止めて仮死状態に入ったときに、瞳孔が拡大するので無限光を感ずるのだ」という言葉が紹介されている。  
この無限光は、低酸素状態に入ったとき、脳内につくりだされるエンドルフィンという麻薬の作用でおこる恍惚状態と複合してくる。この状態になると、人間にとって「死」はまったく怖くなく、逆に至福の状態になるといわれる。  
このような状態に、音や香りが加わる。また場合によっては、体がどんどん上昇する体験も報告されている。無量光は、まさに阿弥陀仏=無量光如来のご来迎であり、そのとき、美しい音楽と香りに満ち、体が浮いて上昇し始めたら、これはまさに仏教的な極楽往生そのものではないかといえる。  
現代の人々が、念仏三昧にあけくれて極楽往生するとは考えにくい。むしろ古来の人間の臨死体験に、仏教思想がそれなりの解釈を加えてきたものが「極楽往生」かもしれない。
「日本霊異記」に見る蘇生と転生  
生物学的な「死」とは、呼吸が止まり、心臓が停止した時をもって「生」が終わることをいうのであろう。「あろう」というのは、一時的に停止しても、人工呼吸や電気ショックによって、それらの活動が再開すれば、意識がなくてもまだ死んではいないことになる。  
つまり死の時点を決めることは、意外に難しいといえる。  
仏教的な「死」は、人間界における肉体から、魂が分離して次の世界へ「転生」することを意味する。つまり、魂は多くの場合、欲界の六合世界の中で「輪廻転生」を繰り返すと考えられてきた。  
ここで肉体から分離した「魂」又は「霊魂」というものが独立して存在するものかどうか? また、それが「輪廻転生」するものかどうか? これらの問題を日本人がどう考えてきたか? これらは、大変面白い問題である。  
死んだと思った人が生き返って、その間の体験談を語る。これは最近「臨死体験」として研究の進んできた分野であるが、その古い事例が最も豊富に記載されている「日本霊異記」のケースを見てみよう。
 推古天皇の33年(625)12月、紀伊国名草郡の大部屋栖野古の連の公が浪速で亡くなったが、死後3日で蘇った。その間、聖徳太子に会い、共に山頂に登った。太子に、「早く家に帰って、仏を造る所を掃除せよ、私が仏前で懺悔し終わったら、宮へ帰り仏をつくろう」といわれて蘇った。(上巻第5)  
 膳臣広国は、慶雲2年(705)秋に亡くなった。死後3日で蘇り、地獄へ行った話をした。 (上巻第30)  
 聖武太上天皇の御代(750-)、摂津の国の金持ちが、漢神の祟りから逃がれようと、毎年1頭の牛を殺して神を祭り、合計7頭を殺した年に亡くなった。死ぬとき、死後9日は火葬にするな、といいつけたが、9日をへて蘇り、地獄の有様を語った。(中巻第5)  
 天平勝宝元年(749)12月、武蔵国多摩郡の役人であった大伴赤麻呂という人が死んだ。 翌2年5月に、黒牛に生れかわった。その理由は、自分が造った寺の物を借り用いて、そのままにしていた報いであった。(中巻第9)  
 聖武天皇の御代(724-749)、讃岐国香川郡に一人の金持ちがいた。この男が使用人と薪取りに山へ入り、枯れた松から足を踏み外して死んだ。卜者に伺いをたてると、「7日間は、火葬にするな。」といわれたが、約束の7日目に蘇った。贖った貝を放った功徳により、死後に行くべき宮を見た話をした。(中巻第16)  
 聖武天皇の御代、讃岐国山田郡の布敷臣の衣女が、急な病で閻魔王の使いの鬼に連れていかれた。このとき、衣女が鬼に門の左右に祭ってあった食べ物をご馳走したところ、そのお礼に同姓同名の人がいたら替え玉にしてやるといわれた。そこで鵜垂郡の衣女が替え玉として鬼に連れていかれてしまった。しかしその替え玉の女は、閻魔王に見破られて無事この世に帰ってきたが、3日たっていたため、既に、体が火葬に付されていた。困った鵜垂郡の衣女が、閻魔王に苦情を申したてたところ、山田郡の衣女のからだがあるならば、そちらへ蘇るよういわれて、そちらで蘇った。しかし山田郡の両親は蘇った娘が、我が家は鵜垂郡にあるといっても納得できない。そこで強引に鵜垂郡へ行って、わたしはここの娘です、というと、そこの両親は娘は既に火葬にしましたという。そこで衣女は、閻魔王の話を両家の両親に詳しく説明した結果、両家の娘となり、「二つの家の宝を得」ることになった。(中巻第25)  
 聖武天皇の御代、奈良の山寺の僧が亡くなった。死に際し、「自分の死後、3年間は、部屋の扉をひらくな」と弟子に遺言した。死後、49日に部屋の扉の所に、大きな毒蛇がいた。部屋の中には銭30貢が隠してあり、大蛇に生れかわりその銭を守っていたことが分かった。(中巻第38)  
 神護景雲2年(768)2月、藤原朝臣広足が大和国の山寺において病気で亡くなった。3日目に行くと蘇生していて、死後、閻魔の庁へ行った話をした。(下巻第9)  
 宝亀4年(773)4月、信濃国小県郡の他田舎人蝦夷が急死した。死後7日日に蘇生して、死後に閻魔の庁へ行った話をした。(下巻第22)  
 宝亀5年(774)3月、信濃国小県郡の大伴連忍勝という僧が、信徒の暴行を受けて死んだ。5日目に蘇って、地獄から帰ってきたことを話した。(下巻第23)  
 宝亀7年(776)7月、讃岐国美貴郡の田中真人広虫女が病死した。7日目に蘇ったが、腰から上が牛になり、額には角が生えていた。(下巻第26)  
 奈良時代に、佐伯宿禰伊太知という人が筑前に下り、病死した。その後蘇って、死後49日の閻魔の庁における苦役の話をした。(下巻第37)  
 大和国山辺郡の善珠禅師は、下顎に大きな黒子(ほくろ)があった。延暦17年(798)に死去する際、日本国王の夫人丹治比の胎に宿り、王子に生れ変わると予言した。翌延暦18年に丹治比の夫人に一人の王子が誕生し、下顎の右の方に禅師と同じ黒子があり、大徳親王といった。この親王は、3年後に亡くなったが、その霊が卜者に自分が善珠法師であるといった。(下巻第39)  
 孝謙天皇の御代(750-758)、愛媛県の石槌山に寂仙菩薩という浄行の禅師がいた。臨終に際して、死後28年の後に国王の子として誕生し、名を神野といい寂仙の生まれ変わりであると予言した。それから28年後、桓武天皇の御代の延暦5年(786)の翌年、神野親王が生まれた。この親王が、嵯峨天皇(在位809-823)である。(下巻第39)
「日本霊異記」は116話から構成されているが、そのなかで蘇りと再生に関する話が、上記の12話である。 一割以上を占めているわけで、その後の「往生伝」に比べて、非常に多い。霊異記の成立の時期は、822年頃と見られているが、最後の神野親王の話は、昔話ではなく、在世中の天皇に関する重大な挿話であることに驚かされる。  
この日本最古の説話集のなかに、その後に出た夥しい説話や伝承などの原型が、ほとんど網羅されている。  
古来、日本では死後の霊は、何日かの間、あの世とこの世の間をさ迷っていると思われた。仏教的には、その期間が49日となる。上記の12話からも、死後の蘇りの日数は、3日が4件、5日1件、7日2件、9日1件、49日1件となる。  
死後、蘇りまでの日数は、7日以内が7/9件であり、1週間以内で殆どが蘇る。また生れ変わりは、人から人が2件、人から牛が2件、人から蛇が1件となり、その期間は、7日から28年と大きなばらつきがある。
蘇生と魂呼び  
仏教において人の魂が死後に肉体からはなれて、次の世界へ転生するまでの期間は、49日であった。その間、魂は肉体を離れて、あの世とこの世の間をさ迷っていることになる。前記の「日本霊異記」においても、蘇りの期間は、3日から49日であり、3日が最も多かった。  
この蘇りの日数は、一般的な死霊に対する取扱いと対応している。つまり、死後3〜49日は、魂が他界へ向かいつつある時なので、死霊の向かう方向、つまり、井戸の底、海の方、山の方、霊山の方、西の方、墓地の方に向かって、タマヨビの儀礼が行われることが多い。遺体は、北枕、西向きにする例が多く、西、北の方角も、タマヨビの方角となる。  
「日本書紀」巻11の「仁徳紀」に、3日日に「髪を解き屍に跨りて、三たび呼びて日はく、「我が弟の皇子」とのたまふ。乃ち応時にして活てたまひぬ。自ら起きて居します」として、魂呼びとそれによる蘇生譚が記されている。  
平安期にも魂呼びの記録がある。藤原道長の第4女嬉子(後冷泉天皇の母)は、万寿2年(1025)8月5日午後4時、赤斑瘡のため19歳の若さで亡くなった。その夜、雨降る中で、魂呼びが行なわれた。  
魂呼びは、嬉子の御衣を打ち振り、文言を唱えるやり方で行われた。「小右記」8月7日条には「尚侍殿の御衣を以て、魂喚を修す」とある。  
「栄花物語」巻26、「楚王の夢」には、男達が「たゆむな、たゆむな」と魂呼びの効果を期待し、僧達は、「観音、観音」と蘇生を祈った。「女房どよめき泣きたる声、制すべき方なく、いみじくゆゆしとは、これをだにいはでは何事をかはと見えたり」と栄花物語は記している。  
嬉子の遺体は、法典院北僧房に安置され、8月15日夜、蓮台野で火葬にされた。死後、10日目のことであった。
(2)神道の死の世界 −清浄な生者の世界と穢れた死者の世界  
仏教における人間は糞尿のかたまりであり、その人間達のつくる人間世界は、8世紀に最澄が「願文」に記すように、「三災(刀兵災・疾疫災・飢餓災、ないしは火災・水災・風災)の危(あやうき)に近づき五濁(劫・煩悩・衆生・見・命の汚辱)の深きに没(しづ)む」五濁悪生の末世の世、つまり「穢土」であるとしている。  
そのため、この穢れた人間世界から、念仏修行により極楽浄土に転生したいとする思想が「厭離穢土・欣求浄土」という考え方になって出てきた。  
これはインド、中国から朝鮮半島を経由して伝来した仏教の考え方であるが、それ以前からある日本的人間世界の考え方とは、逆のものであった。  
日本の古代思想は、むしろ死後の世界を穢れたものとし、生者の世界を清浄なものと考えた。  
日本神話において、国生みを行ったイザナギ・イザナミの2神は、次々に神生みを行った。岩石、土砂、家屋、風雨、海、山などの神を生み、最後に火の神カグツチを生んだ時、イザナミは局部のやけどにより死んでしまう。  
この病臥中のイザナミが苦しんで吐いた嘔吐物や糞尿からも、鉱山、粘土、漕漑用水、食物の神が生み出される。つまり、汚れた人間の排出物から、人間の食べる食物が出てくるわけで、この世は汚れたものという思想は全く感じられない。  
しかし、イザナギが死後のイザナミの所を訪れたとき、そこで見たイザナミの体には、気味の悪い姐虫がわき、腐れ爛れた頭、胸、腹、手足、陰部には、恐ろしい雷神がうずくまっていた。  
この恐ろしい死の世界から逃げ出したイザナギは、追い掛けるイザナミをふりきり、大きな岩で黄泉比良坂を塞いだために、生の国である高天が原と死の国である黄泉の国の2つに分れたとする。この黄泉の国は穢れた国であるために、そこから出たイザナギは、お清めのための「ミソギ」を行う。  
今でも、日本人が葬儀の後、自宅へ入る時に、清め塩によるミソギを行う。これは仏教儀式とは無縁のものである。  
日本神話における高天が原は、神々のふるさとであり浄土であるが、極楽浄土のように死者の世界ではなく、清らかな生者の国である。
高天が原 −天空にある神々の浄土  
「日本書紀」の注釈書である「釈日本紀」には、「高天原は、私記に言う。師説は、上天を請うなり。案ずるに虚空を言うべきなり。」と注記している。「日本書紀聞書」にも、「虚空をさす」とあり、「神代紀抄」には、「神道ニハ雲中ヲサス也」とある。  
つまり、上代には単に、「上天・虚空・雲中」にすぎなかった「高天が原」は、中世神道において、陰陽五行や仏教思想と習合して、心身論的な解釈が加えられていく。  
たとえば、八剣勝重の「中臣祓句投」には、「謹て按ずるに、高天原は上天の謂なり。人ありて一物なく、之胸中なり」とあり、忌部正通の「日本紀神代口訣」には「高天原は、空虚清浄の名なり。人ありて一念なく、胸中なり」という。  
つまり高天原は、天空にある神々の浄土ではあるが、極楽浄土などとは全く異なり、死者が死後に行く場所ではなく、生きている神々の浄土であった。(鎌田東二「異界のフォノロジー」)
黄泉の国と常世の世界 −死者の国々  
死者の行く世界は、黄泉の国である。そこは穢れた邪霊や悪神、死霊の国であり、根の国、底の国、また古事記では根の堅洲の国と呼ばれた。上代の日本人は、単純に人間の生活する現世は太陽の満ちあふれた光明の国であり、善神が主宰する楽土であると考えた。  
これに対して死者の居所は黄泉の国であり、そこは永遠に光のない暗黒世界であり、悪神が支配する汚辱の国であると考えた。疾病、罪悪、災厄のごとき、あらゆる厭うべき、忌むべき物は、すべてこの世界に属するものと考えた。  
「底」の国は、必ずしも地下に限定されず、現世を遠くへだてた国とも解釈されている。古事記には、太陽神アマテラスの弟のスサノオが、黄泉の国を慕って泣き叫び、そのためイザナギは怒って、スサノオを黄泉の国へ追放する話が出てくる。  
そこでスサノオが赴く先は、出雲の国であり、このことから古代の出雲の国が、「根の国」に対比されることになる。  
そしてスサノオの信と愛を受けて、出雲の国を支配したオオクニヌシは、黄泉の国=根の国の王となった。このオオクニヌシと一緒になって、この出雲の国をつくり固めたのがスクナヒコナの神である。この神は、オオクニヌシが出雲の美保の岬にいたとき、船に乗って海外から渡来した神である。このスクナヒコナの神は、出雲の国造りが成功した後に、「常世国」へ旅立った。  
スクナヒコナは、記紀にはわずかに登場するのみであるが、各地の風土記や万葉集に歌われていて、古代の日本人にとってかなり身近な神であった。しかもこの神の行く先が、今一つの死者の故郷の「常世国」である。  
この国は光明のない死者の地である黄泉の国ではなく、仏教の極楽世界のようなユートピアのようである。この常世の国は、アマテラスの有名な岩戸がくれの段にも登場する。  
アマテラスは、弟スサノオの乱暴に困り果てて、天の岩戸を閉ざして籠ってしまった。太陽神アマテラスが、岩戸を閉ざしたために、高天原も日本列島もすべてが真っ暗になり、一斉に災いが起こり始めた。  
そこで神々が天安の河原に集まり、一計を考えた。岩戸の前で鶏を鳴かせて暁を告げさせ、賑やかなお祭りを始める。自分がいないのに、なぜ朝がきてお祭りが始まるのかと、不審に思ってアマテラスが少し、岩戸を開けたところで、鏡を差し出す。それにアマテラスの光があたると、さらに不審に思って、いま少し岩戸を開けようとする。そこを、力自慢のタジカラオの神が、一挙に岩戸を開いてアマテラスをお迎えしようという計画である。  
このときに登場した鶏こそが、「常世国」から集めた長鳴鳥であった。  
さて「常世国」は、江戸末期の国学者鈴木重胤(1812-1863)の「日本書紀伝」では、3種の意味があるとする。(1)常世長鳴鳥の棲息する日の出の国の意味、(2)万葉集巻一に、「わが国は常夜にならむ」とあるごとく、永久不変の意味、(3)遥かに隔たって容易に交通できない海外の国の意味、である。  
重胤は、スクナヒコナの常世国は、この(3)の意味であるとしている。  
「常世国」は、朝鮮半島とする説がある。また、書紀一書の第六では、スクナヒコナは、「熊野の御碕にいたり、ついに常世郷にいでましぬ。」またの説では、「淡路島に至りて、粟茎により、弾かれ渡りて常世郷にいたる」とある。  
つまり根の国は、地下の国ではあるが、現世では、出雲とか熊野がそれに当てられてきた。それらは、邪霊の支配する暗黒の世界ではない。  
特に熊野は、神仏習合の思想ともあいまって、死者の霊が集まる聖地として位置づけられるようになった。
(3)儒教における死後世界  
日本の神道は、現世利益を中心につくられているため、死後世界は仏教のそれに比べると、非常に単純な形で考えられていることが分かる。そして、中国の儒教はさらに現世を中心につくられているように見える。  
「論語」には、弟子が孔子に死の祭礼について尋ねる話が出てくる。(先進第11)「子路が、孔子に鬼神に仕える方法について尋ねた。すると、孔子は、生きている人にもまだ十分仕えることができないのに、どうして鬼神に仕えることができようか、と答えた。  
さらに、子路が死についてたずねると、生きている人間のことが分からないで、死後の問題などわかるものか、といった。」  
儒教で「鬼神」とは、死者の魂のことをいう。この鬼という言葉は、論語で次の2か所にでてくる。  
(1)子日く、その鬼に非ずして之を祭るは、諂いなり。(後略)(為政第二)  
孔子がいうには、祭るべき鬼でないものを祭るのは、これはほかに求める心のある諂い である。この場合の鬼は、祖先の霊魂のことであるが、一般的に神のことを鬼という場合もある。  
つまり、祭るべき祖先の霊魂を祭らず、いい加減な祭りを行うことは、諂いである、と孔子はいましめている。  
(2)樊遅、知を問う。子日く、民の義を努め、鬼神を敬して之を遠ざくるは、知をいうべし。(後略)(雍也第六)  
樊遅が知者の態度を質問した。これに対して孔子は、人として行うべき道を努力して努め、鬼神に対しては崇敬の念をいたすが、これを汚す事の内容、近づきなれることをしない。これが知者の態度であると答えた。  
さらに、魯の大夫の孟懿子が、孔子に親孝行について聞いたときに、次のように答えている。  
親の存命中は、身分を越えない礼を以てこれに仕え、親がなくなった時は、礼を以て葬り、礼をもって年忌の祭りをいとなむ。かくのごとく、生けるにも死せるにも、身分を越えない礼をもってこたえるのが、孝道である、と孔子は説明する。  
孔子にとっての死者は、それを祭るという観点からのみ関心があることが分かる。  
儒教には、祖先崇拝の信仰があり、子孫は死んだ祖先に敬虔と愛を捧げることにより、死者からこの世での幸福を得る事ができ、死者は、子孫の規則的な奉仕により幽界での安寧を得ることができると信じられている。  
そのため、死者を生きているように思慕し、祭祀を行うことが子孫の義務とされている。祭祀されない人鬼は、生者に災いをなすと考えられた。人は死ぬと幽界へ行き、幽界での生活をしており、鬼神は人間に類似した形態と機能を持つと思われていた。  
しかしこれらの死者の世界が、どこにあるかは不明確である。津田左右吉の「上代支那人の宗教思想」(全集第28巻所収)によると、「幽都」という言葉があるものの、単なる地中世界、また陰陽思想から陰の方角として、北方の地といった程度の漠然としたもののようである。  
韓国では儒教の影響は非常に強いものの、他宗教の影響も多く、儒教のみで語ることはできないが、死後の世界は津田左右吉の言うように西ではなく、北の方角に設定されている。  
韓国では、死後世界のことを、チョスン(あの世)と呼び、日本と同じ「黄泉」(ファンチョン)という言葉も使われている。そして日本と同様に、人の死後、死者の上着を持って庭に立ち、あるいは屋根に上がって死者の氏名を大声で呼ぶ「魂呼ばい」の儀式も広く行われている。ただこの場合に、通常は、家の裏で北に向かって行う。  
この北の方角での死後世界の設定は、陰陽五行説において北を陰の極地とすることからきており、「あの世」は、北の空の彼方、山を越え、川を越えたはるかに遠い所にあると思われている。それは平地三千里、険路三千里を越え、さまざまな地獄を越え、さらに雁の羽も沈むといわれる弱水三千里の彼方にあるといわれる。  
「あの世」が、このように遠いので、葬送に当たっては、十分に旅装を調え、食料や旅費を持たせてやる習慣がある。(竹田旦「韓国における他界観について」−環中国海の民俗と文化3「祖先祭祇」凱風社、所収)  
(4)日本仏教の死後世界  
日本人の死後世界は古来、神道、仏教、儒教、道教、景教などが、いろいろな時代を通じて渡来してきたため、それらが混在、習合した複雑なものである。すでにそのうちから、死後の世界観に最も大きな影響を及ぼした仏教における浄土をみてきた。そこで次に、極楽浄土の対局にある地獄とそこへの道程について眺めてみる。  
822年につくられた「日本霊異記」には、死後、閻魔王の前で地獄の審判を受ける話が多数記載されている。しかし日本で死後世界の道筋や、閻魔王庁の詳細が民間信仰としてまとめられたのは、平安末期に日本でできた偽経といわれる「地蔵菩薩発心因縁十王経」のあたりからであろう。  
そこには俗説の死後の旅が詳しく記されている。 
死出の山路  
まず、閻魔王の国境に、死天山の南門がある。非常に険しい山で、死後にまず遭遇する難所とされる。「千載和歌集」(1188)に、鳥羽院(1103-1156)の御製として「死出の山路」が歌われている。  
常よりも睦まじきかなほととぎす 死出の山路の友と思えば  
また、南北朝の動乱で、足利高氏が京都に攻め込んだ時、六波羅の北の探題であった北条仲時は、落ち延びて近江番場で自決した。元弘3年(1333)5月のことである。それは432人が切腹し自決する凄惨な戦いであった。仲時の父は、わが子の死をきき、  
まてしばし死出の山路のたびの道 同じく越えて浮世語らむ  
とよみ、あとを追って自決した。  
ここで歌われている死天山の発所である「死出の山路」が、冥途の旅の第1歩となる。  
「日本霊異記」に登場する閻魔庁では、閻魔王に8人の宮人(つかさびと)が奉仕している程度であった(上第30)。しかし「十王経」の段階になると、閻魔王が支配する冥府は、10人の王の役所が並び、死者はそこで裁断をうけて行き先が決まる組織的なものになっていた。  
しかもこの冥府での手続きは、即、死者に対する葬送の儀式に対応するものとなっていた。
秦広王=不動尊  
まず、死出の山を越えて死後の初7日に、第1王廳である秦広王の所につく。秦広王の本地は、不動尊である。すべての死者は、ここで一息切断、つまり一息ついて、来世への第一歩を踏み出す。地獄へ落ちる人は、ここで早くも行き先が決まる。  
この第1王廳から第2王廳の初江王の所へ行く途中で、三途の川を渡ることになる。 
三途の川  
「三途の川」は、別名を渡り川、三つ瀬川、葬頭河など、いろいろの名で呼ばれる。  
「蜻蛉日記」(972-976成立)には、「みつせ川、浅さのほども知られじと、・・」とあり、また「源平盛衰記」巻十に、「冥途の三途川こそ思ひやらるれとて、思ひやれ、くらき暗路のみつせ川、瀬ぜの白波・・・」。  
「古今和歌集」(908-913)には、小野篁(802-852)が妹を亡くしたときの歌に、次のものがある。  
なく涙、雨と降りなむ渡り川 水まさりなば返へり来るがに  
日蓮(1222-1282)は、「十王讃嘆鈔」で「三途の川」について詳しく説明している。それによると、この川には3つの渡しがある事から、「三途」と呼ぶわけで、浅い所は罪の浅い人が渡り、善人は金銀七宝でできた橋を渡る。悪人は、強深瀬という流れが早く、波の高い所を渡る。  
悪人は地獄へ入る前にこの川渡りで大苦をうけ、7日7夜をへてやっと向う岸につくことになる。  
「十王経」も大体において同じであり、その後で、死者の衣服を剥ぐという懸衣翁と奪衣婆について記している。「十王経」は、平安末から鎌倉期にかけて成立したもので、「三途の川」の信仰も鎌倉期から普及してきたようである。  
太平記にも、「さては誰がために暫しの命をも惜しみ候べき。死出の山、三途の大河とかやをも、共に渡らせばやと存じ候へば、ただ急ぎ首を召され候へ。」(下29)「師直以下誅せらる」)といったように、冥途の対句として使われている。  
中国では、既に六朝時代に冥府に川があることが知られており、冥府遊行のいくつかの説話がある。しかし、日本では「蜻蛉日記」(10世紀後半)が初出といわれる。  
また「日本霊異記」(822成立)には、「三途の川」という名前はないが、冥府の川は2か所で登場する。  
慶雲2年(705)9月、一度死んで蘇った膳臣広国という人が、冥界へ行く途中の「路の中に大河あり、橋を度い、金を以て巌れり」という。  
また、別の話で、神護景雲2年(768)2月、同じく死んで蘇った藤原朝臣広足が、冥府へ「往く前の道、中断して深き河有り、水の色黒黛くして流れ不、沖く寂びたり」と述べている。つまり日本でも、冥府に川があることは、かなり古くから知られていたようである。
初江の王=釈迦如来  
さて三途の川を渡ると、閻魔の国の官庁が連なるのが見えて、まず、最初の初江の王のところへ行く。  
「十王経」は、「葬頭河の曲、初江の辺において官庁相連なり、渡さるるを承く。」と記している。この王は、本地釈迦如来といわれ、死後27日(ふたなぬか)、つまり2×7=14日にここを通る。餓鬼道へ落ちる人が決まる。  
宗帝王=文殊菩薩  
本地は文殊菩薩であり、37日(みなぬか)、3×7=21日にここを通る。聡明智略で冥官に尊敬されている王であり、畜生道へおちる人が決まる。  
五官王=普賢菩薩  
本地は普賢菩薩であり、4×7日(28日)でここを通る。五官は五刑であり、刑罰を司る。修羅道へ落ちる人が決まる。  
閻魔大王=地蔵菩薩  
地獄の総主であり、本地は地蔵菩薩である。5×7日(35日)でここを通る。悪行の人を断じて仏果に至らしめる。人間に生まれ変わる人が決まる。  
変成王=弥勒菩薩  
本地は弥勒菩薩であり、6×7日(42日)で通る。煩悩を断盡し、心法を植え付ける。天道へ行く人がきまる  
太山王または太山府君=薬師如来  
本地は薬師如来であり7×7日(49日)で通る。この王は、閻魔大王の太子であり、常に大王の傍らにあって、人の善悪を記する役割を行う。最終、次に生まれる世界が決まらなかった人もここで決まり、中有が終わる。  
平等王=観音菩薩  
本地は観音菩薩であり、100ケ日を司る。この王は、よく世の音を観じて、平等に解脱させることから、この名がある。善人、悪人にかかわらず、我が子のように慈悲をたれ、平等に解脱させる。  
都市王=勢至菩薩  
本地は、勢至菩薩であり、1周忌を司る。遍く一切を照らして三途を離脱せしめ、涅槃の果を得せしめることを本誓とする。  
五道転輪王=阿弥陀如来  
本地は阿弥陀如来であり、3年忌を司る。五道の巷に住して妙法輪を転じて、衆生の悪業を催破することからこの名がある。  
このように死者が、死後に10王の官庁をめぐる手順は、残された家族にとっての仏事とかかわっている。しかしその後に、10王に更に3王が加わり、7年忌を蓮生王=阿しゅく如来、13年忌を抜苦王=大日如来、33年忌を慈恩王=虚空蔵菩薩が司ることになった。
中陰=死後転生までの服喪期間(7〜49日)  
仏教には「中陰」という言葉がある。中陰は中有ともいい、次の生をうけない期間である。この期間は、早い死者は秦広王のところで初7日で決まる。遅い死者は太山王のところで49日で決まるとされる。そこで49日を「満中陰」といい、ここで喪が明ける。  
江戸時代の中期に、伊勢貞丈が表した「貞丈雑記」には、「中陰というは、人死して七七、四十九日の間をいう。中有ともいう。四十九日の間は、死したる人、極楽へも行かず、地獄へも行かずして、迷いありくによりて、法事をして、極楽へ赴くようにすることなりとぞ。これは出家がたの説なり。」とある。  
そこでこの中有の間は、7日ごとに仏事を行い、死者に回向して、その冥福を祈るわけである。49日を越える百日忌、一周忌、三年忌は、中国的な祭祀習俗が付加されたものと考えられる。
(5)八大地獄  
極楽世界については既に詳しく述べたので、地獄について述べる。  
地獄は、大地の下の4万由旬の所にあるといわれる。1由旬は、20〜30kmといわれるので、地表から100万kmの地下にあるということになる。しかしこの距離は、極楽が十万億土という遠い先にあることを考えると、非常に近い距離にあることになる。  
地獄は、八大地獄で構成されている。最下層の阿鼻地獄から、順に大焦熱地獄、焦熱地獄、大叫喚地獄、叫喚地獄、衆合地獄、黒縄地獄、等活地獄の8つがそれである。  
さらに、この八大地獄の近辺には、おのおの16の地獄があり、その数は128になる。  
これに八大地獄を加えて、総数は136ある。  
これらの地獄の場所は、人それぞれの罪の軽重にしたがって落ちて行くとしたので、餓鬼はその字のごとく飢餓に苦しむ境涯であることから、須弥山の外輪をなす鉄囲山の間の、日月の光がささない所にあるといわれる。  
また、修羅は、闘争を繰り返す境涯であるため、須弥山の東西1千由旬の外にあるとか、大海の下、2万1千由旬のところにあるとか、仏教的宇宙のいろいろなところに造られているようである。  
この地獄の複雑さや壮大さは、極楽世界の単純さに比べて、驚くべきものである。  
「往生要集」(985)に詳述されており、以下、簡単に述べる。
等活地獄  
「等活地獄」は、地獄の最上層部にある。ここの罪人は互いにいつも敵愾心をいだいており、互いに傷つけあう。獄卒の鉄棒などで粉々にされるが、風がふくとすぐ元の形にもどる。生き物を殺した人が落ちる地獄である。この地獄の4つの門の外にはさらに、糞尿でどろどろになり、中に虫が充満した「屎泥処」、また周囲を鉄の壁に囲まれ、中には猛火が燃え盛り、刀の林が人を傷つける「刀輪処」、罪人を鉄の甕に入れて煮る「瓮熱処」など、16の地獄が付属している。  
黒縄地獄  
「黒縄地獄」は、等活地獄の下にあり、罪人は熱した鉄の地面に臥せさせられ、熱い鉄の墨縄で縦横にからだに墨がうたれ、墨に合わせて熱い鉄斧、鋸、刀で切り刻まれる。体はばらばらの断片になり撒き散らされ、風がふくと体に縄がからまり、肉を焼き骨を焦がす。左右の鉄の山の上には、縄を張り、その下に煮えたぎった釜を置き、罪人は鉄の束を背負って釜の上の縄を渡る。この地獄の苦しみは、等活地獄とその付属地獄の十倍も重いという。  
衆合地獄  
「衆合地獄」は、黒縄地獄の更に下にある。多数の鉄の山が向い合ってあり、罪人は、牛、馬の頭をした獄卒にここへ追い込まれる。すると山が両方から迫ってきて、罪人は潰され、体は砕け、血は地上に溢れる。鉄の山は空から落ちて罪人をくだき、あるいは、罪人を石の上に置いて潰す。残忍な獣、鳥、鷲が罪人のはらわたを、先をあらそって食い荒らす。火の川があって熱い赤銅がとけて流れている。地獄の鬼は、罪人を捕らえてこの中に投げ落とす。罪人は、手をあげて泣き叫び、助けを求めるが、だれも助けてくれない。  
叫喚地獄  
「叫喚地獄」は、衆合地獄のさらに下にある。金色の頭の地獄の鬼が、目の中から火をだし、赤い着物をきて、恐ろしい声をだし、鉄の棒で罪人の頭を打って、鉄の地面を走らせ、熱い炒り鍋や熱い釜に罪人を入れてあぶり、煮たりする。また金鋏で罪人の口を開け、煮えた銅を流し込むと、内臓から肛門まで流れ出てくる。  
大叫喚地獄  
「大叫喚地獄」は叫喚地獄の下にあり、生き物を殺したり、盗みをしたり、よこしまな淫にふけったり、酒を飲んだり、嘘をついたものが落ちる。ここでは、前の4つの地獄と16の特別な地獄で受ける苦しみを、10倍した苦しみを受ける。この地獄へ落ちる理由をみると、現代に生きる人間は、すべてこの大叫喚地獄より下に行くしかないように見える。この恐ろしい地獄の表現は難しく、「往生要集」も内容を書いていない。ただ付属する特別地獄の「受鋒苦処」において、罪人は熱い鉄の針で唇と舌を刺し通されて、もはや泣き叫ぶことさえできない。また受無辺苦処という特別の地獄もある。地獄の鬼が熱い鉄の金鋏で罪人の舌を抜くが、抜くとすぐ生える。生えるとすぐ抜く。目をくり抜くと、これも同様になる。 大叫喚といいながら、叫ぶこともできないという、恐ろしい地獄である。  
焦熱地獄  
「焦熱地獄」は、大叫喚地獄の下にある。地獄の鬼が罪人を熱い鉄の地面に横たえ、頭の先から足の先まで熱い鉄の棒で打ったり、突いたりして肉団子のようにしてしまう。あるいは鉄鍋のなかで罪人を煮たり、焼いたりする。鉄串で尻から頭まで突き通し、繰り返し炙る。この地獄の豆粒ほどの火でも、地上世界では大火になるほどのものである。この地獄に付随した分茶離迦処という地獄では、罪人の体中けし粒ほどの余地もないほど火炎につつまれる。また闇火風処という地獄では、罪人が悪風によって吹き上げられ、掴まる所もなく、車輪のようにくるくる回っている。  
大焦熱地獄  
「大焦熱地獄」は、焦熱地獄の下にあり、前の6つの地獄の10倍くらい苦しい。ここに来る罪人は、死後、地獄に落ちるまでに、大地獄の苦しみや恐ろしい状況を見せられたうえでやってくる。この状況に恐れおののく罪人を、地獄の鬼は火炎の塊の中に突き落とす。この地獄に付属する地獄も、大空までことごとく燃え盛るところで、何億年ものあいだ、たえず焼かれる。また普受一切苦悩処という地獄では、炎をあげる刀で、体の皮膚をすべてはがされ、熱い地面の上で焼かれ、更にどろどろに溶けた鉄が体に注がれる。  
阿鼻地獄  
「阿鼻地獄」は、大焦熱地獄の下にあり、欲界の最下底の地獄である。罪人はここへ落ちていくとき、その間も泣き叫ぶという。二千年もかけて逆さになって落ちつづける地獄である。地獄の城のまわりは、刀の林に囲まれ、四隅には銅製の恐ろしい犬と18人の恐ろしい鬼がいる。その牙からは火を吹き出していて、頭は羅刹、口は夜叉、64の目をもち、鉄の塊を吹上げ、撒き散らす。前の7つの大地獄とそれに付属する特別の地獄でうける苦しみを全部合わせたものの、千倍を越える苦しみを味わうことになる。
以上の8大地獄に、それぞれ16ずつの特別地獄がついており、総数136の地獄の壮大さは想像を絶するものである。「往生要集」は、その主要な部分を非常な迫力をもって描写しており、そのいくつかの部分は「地獄図絵」に措かれて今に残る。  
記述の中で、極楽と地獄について詳しく述べたが、それを含めて、仏教世界の概要をまとめてみる。 
(6)三界 −欲界・色界・無色界  
欲界  
「欲界」は、食欲、性欲をもつものの住む世界であり、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天の6つの世界からなる。これを「六道」といい、人間の魂は、死後にこの六道を輪廻転生する。「道」は、世界とか境界を意味する。  
色界  
「色界」は、欲界の2欲を離れたものの住む世界であり、清浄なすぐれた物質からなる世界である。4つの禅を修めたものが生まれる天といわれる。  
無色界  
「無色界」は、物質を越えた世界であり、4つの禅 四無色定 を修めたものが生まれる世界であり、この無色界の最高が「有頂天」となる。
(7)六合 −欲界の内容  
地獄  
欲望にまみれた者の住む世界であり、欲界の最下層をなす。八熱地獄とそれに付属した16の小地獄、および八寒地獄、弧地獄などがある。  
餓鬼  
常に飢えと渇きに苦しめられている、鬼たちの住む世界である。鬼には、9鬼、36鬼などがある。これらの餓鬼には、人の住む所を住居にするものと、餓鬼の世界にすむものがいる。餓鬼の世界は、閻魔大王の国と、今一つは人間と天の世界の中間にあるという。「正法念(処)経」では、「物おしみをし・貪り、嫉み・妬んだものが、餓鬼の世界に墜ちる」という。  
畜生  
鳥・獣・虫など、すべての動物の住む世界である。愚痴で、恥知らずの人がこの世界に生れ変わる。地獄、餓鬼、畜生の3つを三悪道、三悪趣といい、三塗にあてる。  
阿修羅  
阿修羅の城は、須弥山の四方の海中にあり四王がいる。いつもさまざまな天によって侵害され、身体をそこない、若くして命を落とす。毎日、昼夜を問わず苦しみがせまり、憂苦が絶えない世界という。  
人  
人間世界は、不浄、苦しみ、無常の3つの相でみられる。  
天  
欲界に六欲天、色界に四禅天、無色界に四無色天がある。欲界の天を地上に近い方からあげると、(1)四天王天、(2)三十三天、(3)夜摩天、(4)兜率天−都史多縁天、(5)化楽天−楽変化天、(6)他化自在天の6つである。  
極楽浄土  
そこで極楽浄土は、三界のどこにあるのか?というと、それが必ずしも明解ではない。通常は、天にあると思いがちであるが、とすれば、欲界の天なのか?それとも無色界の有頂天なのか?「大無量寿経」をみると、阿弥陀浄土を欲界の第6天である「他化自在天」に比較する箇所が、いくつか登場する。たとえば「大無量寿経」のなかに、極楽浄土の宝は「一切世界衆宝の中の精なり。其宝猶し第六天宝のごとし」と記しており、極楽浄土の宝は、第六天に存在する宝と同じくらい美しく立派であると述べている。また、別の箇所では、「処する所の宮殿・衣服・飲食・衆の妙華香・荘厳の具、猶し第六天の自然の物のごとし」と記しており、極楽浄土の物は、第六天に備えられているものと同じだ」とも言っている。ここで極楽浄土の文物が、常に第六天のものと比較されていることに注意する必要がある。つまり、極楽浄土は第六天と比較されるものの、天上にはなく、どこか遠い地の果てに設定された浄土なのである。この点、天上の「兜率天」とは全く異なる浄土といえる。 
  
3.来世への生き方 

 

人間として生まれた以上、最後に死ぬことはやむをえない。しかし、その死を迎えるにあたり受け身で仏のご来迎を待つよりも、修行によって自分自身が仏と一体化し、さらに、十万億土という遠い極楽世界へ行くよりも、遠い未来であってもこの世の浄土に転生したいという願いが、平安末期頃から現われ始めた。  
このような願いは、真言密教、修験道、弥勒信仰と結び付いて、新しい死に方と生き方を作り出した。 
(1)弥勒下生  
弥勒菩薩は、天上と地上に2つの浄土をもつ仏であり、弥勒の天上の浄土を「兜率天」という。釈迦の滅後、56億7千万年をへると、弥勒仏は兜率天から地上に下生(げしょう)し、華林園の中の竜華樹のもとで三会の説法を行い、万人を兜率天に済度する。  
そのときからこの地上が弥勒の浄土となる。このことから、弥勒下生にともなって、地上の浄土に生まれて、弥勒三会に値遇する(下生)とする信仰がひろまった。  
56億7千万年という未来は、実感できないはどの先のことである。しかし、「いまこそ弥勒下生のとき」とか、「**は、弥勒の化身である」とすれば、いますぐこの世に「弥勒浄土」が実現できるわけであり、阿弥陀信仰が死後の世界に信仰の対象を置いたのに対して、現世における未来志向の性格を持つ信仰となった。
空海入定  
弘法大師空海は、承和2年(835)3月21日、高野山で入定した。「弘法大師・・・五輪の即体を緑苔の洞にとどめ給へり。凡願力によりて依身をとどむること、天竺には迦葉尊者はるかに鶏足附受の暁を期し、日域には弘法大師まさに竜華下生の春をまち給ふ。」(聖戒「詞書」)とある。  
難しい言葉であるが、弘法大師は生きたままのお姿を、緑の苔が生えた洞窟の中にとどめられた。未来世の弥勒下生を期し、天竺では迦葉尊者が生きたままで待っておられるが、日本では弘法大師が竜華樹のもとでの下生を待っておられる、という意味であろう。  
「五輪の即体」とは、地水火風空の五輪よりなる我が身を観じて金剛輪を成じた生き身のことであり、迦葉尊者は、仏の十大弟子の弟子で、弥勒の出生まで生きつづけている伝説の人である。  
「依身」は、肉体を保って生き続けること。また、「入定」という言葉は、悟りの境地に入ることであり、そこには、生死はない。  
「今昔物語集」巻11には、空海の入定の伝説が詳しく記載されている。それによると、空海大師は、承和2年3月21日の午前4時頃、結跏趺坐して、大日如来の定印を結んで、入定された。御歳62才、弟子たちは、遺言に従い弥勒宝号を唱えた。  
その後、さらに長い間をへて、この入定の洞を開いて、御髪を剃り、御衣を着せ替え奉った。その後、さらに久しくして、大師の曾孫弟子に当たる般若寺の観賢僧正という人が、この山にお参りして入定の廟を開いて見た。霧が立って闇夜のようであったが、それが治まってから見ると、大師の御髪は1尺ばかり生えていた。そこで僧正は、水浴し清き衣を着て入り、水精の御念珠を掛け直し、御衣を清浄に整えて出た。  
その後は恐れて室を開く人はなかったが、人が詣でる時は、堂の戸が少し開き、山鳴りがした。またある時は、鐘を打つ音がするなど、不思議なことがあった。  
この空海入定の説は、平安中期、天台宗では既に、最澄(伝教大師)、円仁(慈覚大師)、円珍(智証大師)の3人に大師号が出されていた。これに対して真言宗では、京都東寺から観賢が、はじめて開祖空海の大師号の申請を出したわけで、空海聖者化の権威づけの一つが生身入定説であったといわれる。(村山修一「修験の世界」)
即身成仏 −ミイラになった上人たち  
極楽・兜率の往生に絶望した、平安末期から鎌倉初期の浄土教の人々の中には、弥勒下生信仰に活路を見付けようという人々が少なくなかったようである。  
前述の観賢による空海の生身入定説が、弥勒下生と大日如来の信仰とむすびつき、真言密教の「聖達」による即身成仏(ミイラ)になるための木食行と自己埋葬という苦行を生み出した。その最も多い湯殿山(出羽三山の一つ、古来、修験道の道場)では、24体の苦行者のミイラが発見された。  
即身仏(ミイラ)を志す聖(ひじり)は、ほとんど一生の間、五穀を断ち、十穀を断ち、野生の木の実しか口にせず、徐々に生きながら脂肪をなくする木食行を行った。1千日を単位として半年は雪に閉ざされる仙人沢で行う山籠修行、晩年には多くの一世行人がリューマチで苦しむことになった寒中水垢離、そして最後の土中の断食死が、修行の実態であった。  
自ら遺言してミイラとなった最古の記録は、貞治2年(1363)、新潟県三島郡野積村西生寺の僧弘智法印といわれる。その後、湯殿山で天和3年(1683)に入定した本明海上人、酒田市海向寺の忠海上人(宝暦5年・1755)、朝日村大綱大日坊の真如海上人(天明3年・1783)、酒田市海向寺の円明海上人(文政5年・1822)、朝日村大綱注連寺の鉄門海上人(文政12年・1829)、鶴岡市南岳寺の鉄竜海上人(明治10年・1877)などがある。  
これらの上人の法名に「海」とあるのは、空海の法脈をつぐことからきている。  
(村山修一「修験の世界」)  
これら湯殿山の一世上人の経歴は、初期の本明海上人と忠海上人は、下級武士の出身であったが、その後の真如海上人、円明海上人は百姓の出身となり、鉄竜海上人は乞食というように、段々下層化していく。  
彼等は僧侶のように仏教の教理に通じているわけではなく、せいぜい般若心経や湯殿山法楽などのほか、少々の真言(呪文)がいえる程度であり、寺でも最下層の存在であった。この一世上人達に許された唯一の名誉と特権が、ミイラになることであり、そのため彼等は、はじめから死を予定された人間であった。  
真言密教の根本教義は、修行により解脱して自身が即本尊、大日如来にまで昇化する「即身成仏」にある。このための行法は、手に本尊の印をむすび、口に本尊の真言をとなえて、行者と本尊が融合一致を観ずる(入我我人)ことにあった。苦行はそのための手段である。  
真如海上人  
真如海上人は、湯殿山麓の越中村の百姓仁左衛門の末子に生れた。ある日、野良仕事に行く途中に、担いでいた肥が武士にかかり、口論となり武士を殺害し、大日坊に逃げ込み出家したという人物である。  
真如海上人の一生は、地獄のような過酷な飢饉が続く時代であった。生れる前年の貞享4年(1687)は、郷里の庄内地方にウンカが発生し飢饉に見舞われたのをはじめに、彼が95才で入定する天明3年(1783)までの生涯に、享保17年(1732)、 宝暦5年(1755)の大飢饉をはじめ、20回近い凶作、飢饉を経験している。  
その中でも最もひどかったのが、彼が入定した天明3年の大飢饉であった。天明3年から4年にかけての津軽地方の被害は、餓死者が10万2千人、病死者が3万人を越え、南部藩でも餓死者4万人、病死者2万3千人を越えたといわれる。  
この飢饉では、人が死者の肉を食べるのみか、生きた人間を殺して食べるほどの地獄図絵が日常化していた。(「飢餓凌鑑」、「天明卯辰簗」)  
「誰とは知れぬ髪乱たる女の死たる上に座し、2、3歳の子ともの真白なる小腕を右の手に持喰ふ。・・」(「飢餓凌鑑」)  
「夫を騙し打殺して是を喰 我子をも鎌にて一打にてうちころし 頭より足迄食し 夫より倒死の死骸を見付 是を食し 又々墓々を掘返し 死骸を掘出 夜よ里に出て人之子供を追候・・」(「天明卯辰簗」)  
大日坊の近くに、「化けもの塔婆」と呼ばれる石碑がある。これは天明大飢饉のときに、秋田方面から落ちてきて、ここで行き倒れた多数の餓死者の葬られたものといわれる。  
このような中で、真如海上人は、ミイラになるための木食行と山籠修行に入った。  
天明3年は、異常な寒さではじまり、5月になっても寒さは去らず、6月土用には長雨が続き、7月にも長雨、台風で、刈り取る前に雪が降るという状況で、典型的な冷害型の大凶作となった。この年に真如海上人は、大飢饉の救済を祈願するために大日坊近くの大日山で土中入定したといわれる。(稲垣足穂、梅原正紀「終末期の密教」)
鉄門海上人  
湯殿山ミイラ史に、最も大きな足跡を残したのは、文政12年に入定した鉄門海上人である。上人は、大宝寺村の川人足・砂田の金七のせがれで、無類の荒くれ男であったと伝えられる。25歳のとき、職務怠慢の武士をなじり、そのことから2人の武士を殺害し、注連寺に逃げ込んだ。  
上人には左目がなく、その理由は、文政4年に江戸に出たとき、流行性の眼病の人々を見て、自分の左眼をくりぬき、湯殿山大権現に供えて、悪疫退散の祈願をしたためといわれる。また修行の邪魔になるとして、色欲の元となる睾丸をえぐりとったという伝説もある。  
上人は、加茂坂工事などの社会事業をはじめ、人助けのため捨身で活躍したり、魚具を考案したりして、生活に密着した布教を行った。ただし海向寺の「記録帖」では、上人は文政12年12月8日に風邪がもとで自然死をとげ、13日に「二重棺にして新山権現堂の後のかたに葬りけるとなり」と記録されており、土中入定ではなかったようである。  
しかしミイラの血液検査などから、まちがいなくミイラは上人のものと証明されており、土葬後にミイラづくりされたとみられる。(稲垣・梅原「終末期の密教」)
鉄竜海上人  
明治になってから入定した鉄竜海上人は、16歳の時、故郷の秋田で友人をケンカで殺した。そのまま家出して放浪(乞食)生活をして鶴岡にきて、南岳寺に物乞いにきたところを天竜寺の住職にたすけられた。また、一説には、川へ身を投げようとしたところを、天竜寺の住職に助けられたともいう。  
鉄竜海上人は、すぐれた呪力を示す行者であったようである。  
明治11年頃、62歳で自然死をとげた。死後、発掘してミイラにするよう遺言していたが、明治13年に墳墓発掘と遺体損壊を禁止する法律ができたため、そのままになっていた。その後、信者達の夢枕に上人がたびたび現れるので、有志達が極秘裡にあつまり、ミイラつくりをしたと伝えられる。  
これらのミイラつくりの技術は、文政期頃からの仙台医学館などからもたらされたものであり、蘭方医学の影響があったと思われる。
本明海上人  
彼等の土中断食死を決意させたものは、道長などの浄土往生の思想とは、大きく異なるものであったと思われる。道長で代表される多くの権力者達の極楽往生は、彼等自身の彼岸での地位を願うものであった。しかし、即身成仏した上人達の願いは、自分自身の浄土往生よりは、末世の人々を仏となって救済しようとするものであった。  
たとえば、本明海上人の場合、最初は藩主の病気祈願が出家の発端であったが、布教活動の中で、重税にあえぐ農民の姿を見て、土中入定を決めたといわれる。  
彼の遺言には、「我いま仏とならん、末世の諸人、善心の信を頼む心願は如何なることにても成就さしめん」と言い残したといわれる。(稲垣・梅原「終末期の密教」)
(2)高野聖とその浄土  
高野山は、空海がここを真言密教の聖地とする以前から、死者の納骨の霊場であり、近世には、「日本総菩提所」の名で、宗派にかかわらぬ納骨が行われていた。  
今でも高野山を年々訪れる数十万の参詣者の大部分は、納骨か塔婆供養を目的にしているといわれる。  
奥之院墓原の墓石群は、この納骨の成果であり、唱導により納骨参詣を誘引し、諸国を回って野辺の白骨や、委託された遺骨を笈にいれて高野山へ運んだのが「高野聖」である。  
また納骨や供養のために高野詣をする人に、高野山の宿坊を提供したのも高野聖であった。高野山の独特の宿坊建築や精進料理も、高野聖の遺産である。  
古代末期から中世にかけて栄えた高野聖は、その後に全く消滅する。その理由の第一は、高野聖の世俗性が、宿借聖や呉服聖とよばれるように、商行為や隠密まで働くように俗悪化していったこと、また第二に、真言密教が、高野山に来世信仰の聖や念仏にかかわる高声念仏・金叩・負頭陀(笈を負って托鉢すること)・念仏踊りを禁止し、さらに念仏信仰を異門邪義として圧迫するようになったことによる。  
慶長11年(1606)に全高野聖は、時宗をあらためて真言に帰入することが命令され、高野聖の歴史は滅びた。高野聖は、その発祥の頃は、道心ある隠遁者が多かったが、その後、遊行回国と社会事業の勧進、宿坊と納骨を職能として活動するうちに、世俗化していったと思われる。  
高野聖の念仏信仰については、いまなお各地で歌われる六斎念仏の曲に「高野ひじり」があり、歌念仏の中には「高野のぼり」があって、その詞はつぎのようなものである。  
いざや 高野へのぼれよ  
かるくのぼれよ 不動坂の道をも  
九品の浄土へ まいる身なれば  
ナムアイダンボ ナムアイダンボ ナムアイダンプツ  
高野へのぼりて 奥之院まいれば  
右や左の高卒都婆  
みな国々のなみだなるらん  
ナムアイダンボ ナムアイダンボ ナムアイダンブツ  
「高野山往生伝」所収の高野聖清原正国に対する入唐上人日延の夢告に、「汝、極楽に往生せんと欲せば、高野山に住すべし」とある。また「金剛峯寺建立修行縁起」には、「金剛峯寺は前仏(釈迦以前の仏)の浄土、後仏(釈迦以後の仏)の法場なり」と記されており、高野山は本来、仏浄土として信仰されてきたことが分かる。  
さらに、高野山荒廃の再興勧進にかかわった仁海僧正が、藤原道長に説いた「野山仏土の因由」には、「高野山は十方賢聖常住の地、三世の諸仏遊居の砌、善神番々之を守り、星宿夜々に之に宿る。釈迦転法輪のところ、慈尊(弥勒菩薩)説教の会場なり。」とあり、弥勒の下生の浄土でもあったことが分かる。(五釆重「高野聖」)  
高野聖の生き方の一つを「高野山往生伝」に見る。
 散位清原正国は、大和の国葛下郡の武士で造悪無頼であったといわれる。61歳で入道し、日課10万遍の念仏を27年間も修して往生を願った。この時に、上記の日延の夢告で高野山に登り、87歳で往生した。ただ極楽往生のために、高野山に登った例である  
 沙門蓮待は土佐の出身。幼くして生家を離れ、長く仁和寺に住まい叡山阿闍梨に師事した。壮年になってからは、道心堅固で草庵に住み、蓮待と名を改め、人は石蔵上人といった。  
日夜苦行して休まず、金峯山に籠って塩を断ち穀のみを食べ、そのため体は骨が顕になり枯れ木のようになった。僧たちは、上人が死んで聖地を汚すことを心配したので、高野山に移った。  
数年後に内心発願して、貧しい人々に奉仕するため山を離れ、苦行を重ねて土佐国金剛定寺までいったが、承徳2年(1098)5月19日に、高野山に戻ってきた。ある僧が、極楽と都率のどちらに往生したいか?と聞くと、どちらでもよいといって、ただ往生のためとして、法華経一万部以上を読んだ。  
往生にあたって、上人は自ら頭を剃り衣を整え、山門を出て、土佐に赴いた。臨終にあたっては、樹下に服を整え、西方に向かい、手に定印を結び、「南無三身即一阿弥陀如来、南無弘法大師遍照金剛菩薩」と露地に座って声をあげて称名を唱えた。人々が見守る中、両眼の涙を拭った。このとき、西天に雲が聳え、前の林には風が激しく吹き、雲の上には雷鳴が轟いた。その翌日、門弟子の夢に、空中に金剛界マンダラが現れ、その中に西方菩薩位の月の輪の中に、上人が端座し、「我ら菩提を発し、四つの無量心を修めた。今、西方に往き詣でて、金剛の位に登る」といった。  
この記述は、今日、真言の宗徒がとなえる「南無大師遍照金剛」というお題目の最も古い事例といわれる。  
この僧の場合、高野山信仰と弘法大師信仰が両立しており、修行により見事に仏となって往生した例である。さらにこの僧で面白いのは、自分の死後、葬儀を行わず、野原に捨てて鳥獣に施せといっていることである。これは親鸞が、死後鴨川に捨てて、魚鱗に施せ、といっているのに似ている。
(3)生者の浄土と霊場巡礼  
平安末期から鎌倉期にかけて仏教思想は庶民にまで普及し、さらに、仏教思想が神道や儒教の思想と習合して、生者と死者、そして浄土信仰の関係が、大きく変わっていった。  
たとえば「六合」は、死後の人間の魂が転生を繰り返していく世界であった。しかし、考えてみると、死後に設定したこれらの世界は、この現実世界や自分の心の中の世界に存在するものであり、その多くは生きているうちに経験するものでもある。  
また、死者の世界である仏浄土は、人間世界とは全く異なり遠く切り離されて設定されていたが、少なくとも「仏」という共通の媒体を通して、死者と生者が交わる浄土があってもよいではないか、という願望がある。  
これが現世利益とかかわる観音信仰とからんで、この世の浄土としての霊場信仰となっていった。
六合を生きた建礼門院 −「平家物語」の世界  
「六合(道)」とは、欲界を構成する天、人から地獄にいたる6つの段階である。人間の魂は何度も生死を繰り返しながら、この中を輪廻転生するというのが、仏教の考え方である。いま、我々は六合の一つである「人」の世界に生きている。この世界で死んだ後、より高い世界である「天」に生まれ変わりたいという願望と努力をいろいろ見てきた。  
しかし考えてみると、この六合は人間世界ですべて体験されるものであり、同時に、すべて人の心の中に存在するものでもある。このことが「平家物語」の「潅頂巻」にでてくる。  
鎌倉期の軍記物語の最高傑作といわれる「平家物語」は、13世紀の中頃に12巻本で成立したものである。さらに、その50年後に、出家後の建礼門院に関する「潅頂巻」1巻が加えられて完成した。  
「潅頂巻」は、平清盛の娘で高倉天皇の皇后になった建礼門院(1157−1213)の、一生の物語である。建礼門院は、壇の浦の戦いで平家一門の人々と共に入水したが、不幸にも源氏の兵に助けられた。彼女は、平家の滅亡後、京都大原の寂光院に身を隠すが、この隠れ家を、後白河法王が訪れた。これが有名な「大原御幸」である。  
このとき、女院が法王に語った彼女の一生が「六道之沙汰」と題される章であり、潅頂の巻の中心をなす物語である。  
女院は、その中で、この世において生きて六道の世界を見たと語る。しかし、考えてみると、われわれ庶民が生きて経験する世界は、実はそのほとんど大部分は、地獄やそれに近い餓鬼、畜生、阿修羅の世界である。  
それは、東北地方の即身成仏の歴史などを見たら分かる。この世で、あまりに酷い世界を見たために、せめて死後は安らかな極楽世界に転生したいという願いが、念仏往生の思想になり、さらに一世行人達は、この世の人々を仏となって救済し、将来、この世の浄土に行きたいという願いを込めて、土中入定したわけである。  
これら庶民とは異なり、建礼門院は、位人身を極めた平清盛の娘であり、さらに、皇后となって、この世で庶民が一生経験できない「極楽世界」を経験した。  
しかし、このことが、その後に地獄まで落ちていく六道の世界と対比して、普通の庶民より更に激しい有為転変を経験することになった。  
彼女は、権力者・平清盛の娘として生れ、高倉天皇の皇后になり、さらに、安徳天皇の母となった。すべての人は、彼女に従いまつり、「一天四海はなたなごころのまま」であり、 春夏秋冬、あけてもくれても遊興の連続で、「天上の果報も是には過ぎじとこそ」思われるほどの、まさに「天国」の生活であった。  
しかし寿永2年(1183)の秋、木曽義仲に追われて、平家の一門は都を離れ、女院は一門とともに西海に漂う。「人間の事は愛別離苦、怨憎会苦、共に我身にしられて侍らふ。四苦八苦一として残る所さぶらはず」。これは、まさに「人間界」の苦しみであった。  
九州へ逃げた平家は、九州からも追い出されて、船の中で人々は、飢餓に苦しめられた。「是又餓鬼道の苦とこそおぼえさぶらひしか」。これはまさに「餓鬼」の世界である。  
室山、水島の戦いに勝って、多少、前途に希望がみえてきたのに、一の谷の合戦にて一門の多くが滅びた後は、「修羅」の闘諍、帝釈の諍いもかくやという世界になった。  
壇ノ浦では、もはや戦の前途も見えたため、安徳帝を二位の尼がいだいて入水し、「叫喚大叫喚のほのおの底の罪人も、これには過ぎじとこそおぼえさぶらひしか」という「地獄」を体験した。  
しかし建礼門院は、心ならずも源氏の武士にとらえられてしまう。明石の浦についてまどろんだ夢の中で、昔の内裏に勝る美しい所に、先帝をはじめとする一門の人々が居並ぶのを見て、ここはどこかと尋ねたら、二位の尼らしき人が竜宮城と答えた。ここに苦はありませんか?とたずねると、「竜宮の苦は、竜宮経にかかれており、よくよく後世を弔って下さい。」といわれて目が覚めた(「畜生」)。  
このように建礼門院は、涙ながらに自分の人生を六道になぞらえて語った。この六道の中で、畜生道のみは、妙に空々しい。しかし実際には、助けられた後に、源氏の兵達に身をもてあそばれたという俗説の方が、畜生道として現実的であるが、恐れ多いのでぼかしてこのような話にしたのが本当であろう。(梅原猛「阿修羅の世界(平家物語)」、「地獄の思想」所収)  
天台の「十界互具」の思想は、人間の世界の中に六道があることを教える。実際、われわれ庶民は、生前、この六道のすべては経験しないものの、その中の多くを経験するといえる。むしろ、最も経験しない世界は「極楽」であり、せめて死後に求めようというのが、「欣求浄土」という思想を作り出したといえるほどである。  
平家物語は、全体として人間世界の中の六道を描いたといわれる作品である。たとえば、有名な安徳天皇が壇ノ浦に入水するところでも、8歳の天皇をだいた二位の局は、「極楽浄土というめでたい所にお連れいたします」といって天皇に念仏を唱えさせる。しかし実際に入水する時には、「浪のしたにも都のさぶろうぞ」といって慰めて、千尋の海に沈む。  
このところが「屋代本」では、「都のさぶろうぞ」がない。「是ハ西方浄土へトテ海ニゾ沈ミ給ケル」となっているそうであるが(岩波版、注)、まさに、人間世界の六道がここに現れている。つまり、平家一門の本当に行きたい先は、西方の極楽浄土よりも、一門が揃って以前と同じ生活ができる霊界の都なのである。そして、このことは建礼門院の竜宮城の夢にもでてきたものである。  
そこはもはや仏教的な悟りをひらいた極楽浄土ではなく、人間世界での都の再現であり、耳なし芳一における亡霊伝説になって語られるものである。 
(4)観音信仰 −六道の衆生をたすける  
極楽浄土の阿弥陀如来は、死後世界を支配する仏である。その浄土は十万億土という遠いところであり、しかも阿弥陀如来は、地獄では輪廻転生の先が決まるまでの王としても登場しない。3年忌を司るというのでは、庶民の日常世界にとっては、非常に縁遠い仏といわざるを得ない。  
人間世界で、生きているうちに六道を経験せざるを得ない庶民を、救済していただける身近な仏の第一は観世音菩薩である。  
観世音菩薩 −六観音から霊場信仰へ  
観世音菩薩は、六道の衆生を助ける仏である。極楽浄土を主宰する阿弥陀如来に対して、勢至菩薩(知恵を象徴する仏)とならび、現世利益をふくむ除災招福の仏として、阿弥陀如来の脇持仏をつとめる。  
この仏は、極楽から、人間界、畜生界、地獄にいたるすべてにおいて、人間の苦しみを救済する使命をもった、我々に最も関わりの深い仏である。  
既に奈良時代において、仏教信仰では、現世利益と浄土往生が並存していた。そこでは、阿弥陀・弥勒信仰は、追善的な浄土信仰が中心となっていた。そして観世音信仰は、同様の補陀落浄土への信仰のみでなく、薬師信仰とならんで除災招福を願った現世利益の信仰であった。(速水侑「観音信仰」)  
摂関期の貴族社会においては、さらに、六道抜苦の観音信仰に展開した。それが「六観音」であった。それが最もはなやかに登場するのが、藤原道長が建立した法成寺薬師堂における六観音の造像である。  
万寿元年(1024)6月26日、「扶桑略記」には「十方之浄土を移した」とされる薬師堂の供養が行われ、「六道衆生の抜苦のために、六観音を造る」と記されている。  
「六観音」とは、必ずしも統一されたものではないが、たとえば、聖観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、准胝観音、如意輪観音であり、六道抜苦に対応する。  
つまり、聖−餓鬼、千手−地獄、馬頭−畜生、十一面−阿修羅、准胝−人道、如意輪−天となる。  
道長が生きた院政期には、死後の極楽往生のみならず、現世利益を含む六道のすべてにわたる除災延命を、仏に祈念していた。
初期の観音霊場信仰  
観音信仰は、後世よりも現世の利益を得たいという気持とあいまって発展した。観音信仰の初期においては、特定の寺院や観音像に特殊な霊験があるとして参詣する例は、あまりなかった。  
9世紀頃から、特に大和の長谷寺、壷坂寺、香山寺などが霊験ある寺として律令国家の庇護を受けるようになり、10世紀になると、天台宗の六観音信仰が貴族社会の中で高まり、京幾周辺に新しい観音寺院が次々に建立された。  
これらの新しい寺院はほとんど参詣の対象にはならず、摂関期の貴族の参詣した観音寺院は、京周辺では、石山・清水・鞍馬・長谷・粉河などに、ほぼ限定されていたといわれる。(速水侑「観音信仰」)  
たとえば石山寺は、滋賀県大津市石山にある真言宗の寺院である。東大寺盧舎那大仏の建立にあたり、良弁がこの地に現在の本尊である如意輪観音を奉安して、真言の秘法を行ったところ、陸奥に金山が発見されたという。そこで聖武天皇は、この寺院を建立して、良弁を開祖としたという。(「石山寺縁起」)  
この経過から皇室の尊崇も厚く、古くから貴賎の参拝も多く、その様子は「源氏物語」、「栄花物語」をはじめ、多くの日記や文学作品に登場している。特に、貴族子女の参詣が多く、紫式部が「源氏物語」を執筆した間もある。  
石山寺の場合、その参詣には夕刻に京を発して、翌朝には帰郷できたが、長谷寺の場合は、前後5日を要する困難な参詣であった。  
全国に「長谷寺」という寺院は110余あるといわれるが、ここでいうのは、奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派の総本山である「長谷寺」である。「泊瀬寺」ともいい、「ちょうこくじ」ともいう。  
現在の長谷寺は、聖武天皇の時に、徳道上人が建立したものといわれる。京都の清水寺のように舞台づくりであり、昔からぼたん、さくらの名所として知られる。  
遠隔地で参詣が困難なため、僧による代理参詣もあったと思われるが、10世紀末から、貴族、民衆の参詣が盛んになった。参詣の道筋は冥路のように気味悪く、貴族の女人はおそれおののいてお参りしたという。  
たとえば「蜻蛉日記」の夜参りの状況に、「火ともしたれどふきけして、いみじくくらければ、夢のみちのここちして、いとゆゆしく、いかなることかとまで、おもいまどふ」とある。そのあげくは、「御堂にものするほどに心ちわりなし、おぼろげにおもふことおおかれど、かくわりなきに、物おぼえずなりにたるべし。」という参詣の始末が、生なましく記されている。  
長谷寺のご本尊は、十一の面をもって人につくす十一面観音であり、「霊験所第一也」(「三宝絵詞」)という霊験もあらたかな寺院であった。  
また「粉河寺」は、宝亀3年(772)創建で自然出現の千手観音を本尊とし、「霊験掲焉」の道場と伝えられる。当初から律令国家の信奉を得て、「紀州之中霊験之地」として、「一切衆生渇仰之道場」として名声をはくした。高野、熊野などとの組み合わせで参詣されることが多かったと思われる。
聖(ヒジリ)と新霊場の成立・発展  
11世紀後半から12世紀末葉にかけて、浄土信仰の形が大きく変わっていった。その一つが、「高野聖」のように山岳修行を行い、あるいは村里に出て布教する非官寺的僧侶の活動にあった。かれらの活動により、貴族中心の仏教から民衆中心の仏教へ大きく変化していった。  
これらのヒジリ達は、「山寺行う聖こそ、あはれに尊きものはあれ」と「梁塵秘抄」に歌われたごとく、無名の山寺にこもり、帰依する人に奇瑞を示した。  
これらの「聖の住所」がもとになって、観音霊場が成立した。その1つが、「西国三十三所観音霊場」である。成立の時期は、13世紀の始め頃と思われる。  
そしてこの霊場の巡礼が行われるようになった。  
観音菩薩は、変幻自在の仏であり、33身に形を変えて、観音を念じるあらゆる所で衆生を救い給うと教えている。この33という数字は無限を意味するものといわれ、観音信仰では多様な現世利益を生み出す観音の霊力が期待された。  
わが国の33か所の観音霊場の巡礼によって、仏教の信仰は、死後往生から現世における魂の救済に大きくウエイトを移していった。そしてさらに一寺一度の参詣よりは、多寺多度の参詣を過度に尊重するようになった。その最初が、西国三十三所観音霊場巡礼であり、畿内およびその周辺の大寺が、札所として名を連ねた。  
西国三十三所巡礼の始原と思われている記述は、1225〜1233年の問に成立したという「寺門高僧記」巻4所収の「観音霊場三十三所巡礼記」である。そこでは第1番札所が大和の長谷寺、第2番が大和の竜蓋寺で、最後の第33番は御室戸山の千手堂で終わる。  
地域的には、大和−紀伊−和泉−河内−摂津−播磨−丹後−近江−美濃−近江−山城となる。  
その後、西国三十三所観音霊場の内容は、かなり変わっていったようである。  
たとえば「寺門高僧記」巻6所収の「三十三所巡礼記」では、第1番は紀伊国那智山からはじまり、2番は名草郡金剛宝寺、33番は御室戸山で終わる。  
地域的には、紀伊−大和−和泉−河内−摂津−播磨−丹後−近江−美濃−近江−山城−丹波−山城となっている(速水侑「観音信仰」)。南北朝頃の状況は、「拾芥抄」に列記されている。  
現在の西国三十三所観音霊場巡礼は、第1番は那智山の青岸渡寺から始まり、和歌山県を北上して大阪府に入り、さらに奈良の古寺から琵琶湖の南端を経て京都の市中に至る。さらに、京都から西に進み、兵庫県に入り、そこから北上して日本海の沿岸に出て、再び滋賀県をへて、岐阜県の谷汲に至る。  
ここに、十一面観音を祭る天台宗の華厳寺があり、ここで結番となる。  
この観音霊場の巡礼は、15世紀までは修験山伏達の修行や貴族の遣使祈祷を中心に行われてきた。三十三か所の巡礼の実践は、十余国、行程数百里に及ぶ難行的性格をもつものであり、僧侶にとってはある種の資格の獲得を意味し、誇るべき経歴となった。  
しかし15世紀を境に「巡礼の民衆化」とでもいう現象が現れて、巡礼と民衆生活が密着したものとなっていったといわれる。巡礼は、三十三所の他にも、七観音詣、百観音詣などもあり、多様な形で行われていたようである。  
これらの巡礼に参加した民衆は、修行僧のほかに、京都の絹商人や東国の武士、僧侶、庶民など、雑多な階層を占めていたといわれる。(速水侑「観音信仰」)  
西国巡礼は、単一の社寺参詣とは異なり、いろいろな風俗を作り出した。その第1は一定の衣服の着用であり、第2は巡礼歌、第3は納札であった。  
一定の衣服は、「笈摺」(おひずる)といい、「近世風俗志」によると、「其扮、男女ともに平服の表に木綿の無袖、半身の単を着す、号をおひずると云、父母あるものは左右茜染、父母ともに亡きものは全く白也」とある。(新城常三「社寺参詣の社会経済史的研究」) 
(5)熊野信仰  
熊野という土地は、イザナミを葬った場所が「花の岩屋」として現在も残っており、出雲と並ぶ古代からの「黄泉の国」、「根の国」である。さらに、スクナヒコナが「常世国」へ旅立った「熊野の御碕」の場所でもあった。観音信仰の霊地に限定して考えることのできない複雑な土地である。  
和歌山県新宮市の熊野速玉神社、東牟婁郡の本宮熊野坐神社、那智勝浦町の熊野那智神社の三社を総称して、熊野三山または熊野三所権現という。各社ともに草創は古代にさかのぼるが、社格はそれほど高くなかった。  
三山のうち最も早く仏教化がすすんだのは那智であり、那智の主神牟須美神の本地仏は千手観音である。那智の滝を神体とする那智結神が本地観音とされ、観音信仰の興隆と共に那智は発展した。  
那智が観音の聖地として確立すると、本宮、新宮の本地も相対的に決まってくるわけである。那智の北西に位置する本宮(主神 家津御子神)の本地は阿弥陀如来、那智の北東に位置する新宮(主神 速玉神)の本地は薬師如来ということになる。  
院の熊野詣は、宇多上皇に始まり、花山上皇も行われたが、それが年中行事となったのは、白河院以降のことである。白河上皇は、寛治4年(1090)正月22日、熊野に行幸、三山検校を置いた。院の熊野詣は、白河院から後鳥羽院までの約100年で97回に及んだ。  
このように三山一体化の体制が確立し、11世紀末には白河上皇の御幸をえて、霊地として確立していった。  
熊野信仰の特徴は、神道と仏教が習合しているだけでなく、金剛童子をはじめとする王子眷属神など、護法神の巫道を取り入れた信仰になっていることにある。  
熊野巫道のご託宣は、死や滅亡にかかわる不吉なものが少なくない。「保元物語」によると、鳥羽法皇は、久寿2年(1155)冬、本宮証誠殿の前で現在、未来2世のことについてお祈りしていた。神殿内から童子が手を出してまねいたので、何かの瑞相と思い巫女にご託宣を求めると、「明年秋のころには、かならず崩御されよう。その後、世の中は手の裏をかえした大騒動になるだろう。」とお告げがあった。  
鳥羽上皇は、お告げの通り、翌年の保元元年(1156)7月に54才で崩御し、皇室を巻き込んだ保元の乱がおこった。このように権力者から庶民にいたるまで、自分の行く末や運命についての厳正な神意をきくことが、熊野参詣の目的の一つであった。  
同じような話は、「平家物語」や「源平盛衰記」にもある。治承3年(1179)5月、平重盛は、清盛処刑の悪夢を見て平家の前途を悲観し、熊野本宮に詣でる。  
「平家物語」で、重盛は自らの「運命をつづめて、来世の苦輪を助け給へ」と祈る。その時、灯籠の火のようなものが、重盛の体から出て消えた。また、帰途に岩田川を渡ったとき、公達たちの浄衣が水に濡れて喪服のように見えた。不吉なので着替えをすすめたが、そのままよろこびの奉幣をした。帰京の後、しばらくして病の床につき、亡くなった。(「平家物語」−医師問答)
死者の熊野詣と補陀落浄土  
死者の住む仏浄土は、十万億土の彼方にある極楽を始め、すべて人間世界からは非常に離れた所に設定されていた。しかし観音菩薩は、あらゆる苦難から人間を救う仏であり、その浄土も人間世界に対して分かりやすい場所に設定する必要があったと思われる。  
この観音菩薩が住む浄土を「補陀落浄土」といい、インドでは南海(インドの南海岸)の補陀落山にあるとした。また中国では、舟山列島を補陀落山とする。チベットでは、チベットそのものが観音の浄土であり、ダライ・ラマは、その化身であると信じられている。  
さて日本では、補陀落山はいろいろなところにあり、インドでそれが南海に設定されていることから、大体は日本の南海の彼方にあると思われた。  
その第一が紀伊半島の南端にある熊野の海の彼方である。その他にも、四国の足摺岬、館山市那古をはじめ、日本の太平洋に面した海岸の多くが、補陀落浄土への入り口に擬せられたのであろう。  
変わったところでは、日光の二荒山(フタラサン)がある。  
「日光山沿革略記」によれば、日光山は天平神護2年(766)に勝道上人が、二荒山内に四本龍寺を創建したのに始まる。さらに上人は二荒山の山腹湖北の地に立木観音を手刻し、中禅寺を創建した。  
「二荒山」は補陀落山の当て字であり、古来の観音の浄土であった。そして中禅寺湖が「南海」ということになる。これら補陀落浄土への多くの入り口の中で、最も浄土に近いのが熊野といわれた。  
熊野という霊地は、まず、イザナミの死霊の地、スクナヒコナが「いでました地」というように、古代から死者の霊地であった。  
822年に成立した「日本霊異記」の中には、熊野の永興禅師が山中で、修行僧の白骨死体に会う話がある。この白骨死体は、麻縄で2つの足を繋ぎ、巌に掛って身投げして亡くなっていた。しかし3年の間、死後も法華経を誦していたため、その舌だけが生きて読経を続けていた。  
同様な話は、1254年に成立した「古今著聞集」(巻15)にもでてくる。  
一叡という僧が紀伊国の宍背山に泊まった夜、人の姿はないのに、法華経を読む声が聞こえた。翌朝になって見ると、年をへた白骨があり、バラバラでなく一体化していた。髑髏の中に赤い舌があったので、一叡が髑髏にその訳をきくと、舌が答えて言うには、白骨の主は叡山の僧であり、修行中にこの山で亡くなった。死ぬ前に法華経6万部読む願をおこして死後も読みつづけ、今年ようやく読み終わり、兜率天の内院に生れ変わる、といった。  
熊野詣は、中世から近世にかけて極めて多く行われ、それは「蟻の熊野詣で」といわれるほどで、さらには、死者も熊野詣でをするといわれた。そして、生きている人も熊野詣での途中で、死者に会えるとまでいわれるようになった。  
近松門左衛門(1653-1724)の浄瑠璃「傾城反魂香」では、自分の死を隠し、7日と限って同棲した傾城遠山(土佐光信の娘)が、夫で画家である狩野元信に襖に熊野三山の絵をかいてもらい、その絵の上をたどって夫婦で熊野詣でに出る。  
絵の中で熊野詣でをするという話もすさまじいが、そこで元信がふと見ると、先を行く妻がさかさま、後ろ向きになって歩いているのを見る。近松の浄瑠璃は続く。「はつとおどろき是なう浅ましの姿やな。誠や人の物語、死したる人の熊野詣では、あるひはさかさま後向き生きたる人には変わると聞く。」として、はじめて夫は妻の死を知り、必死になって消えてゆく妻をさがす。  
熊野詣でにおける陸上の逆立ちは、さらに、海の彼方の補陀落浄土を目指した船出につながっていく。
浄土渡海  
極楽浄土からの阿弥陀如来のご来迎は、念仏を唱え、仏の手と5色の糸で結ばれて祈り続けて待つものであった。しかし阿弥陀浄土へも、積極的にこちらから行ってしまおうという試みが始まっていた。  
浪速の四天王寺(=荒陵寺:あらはかでら)では、創建伝説である「荒陵寺御手印縁起」が世に出た11世紀頃から、四天王寺の西門が「極楽浄土の東門にあたる」という新しい浄土信仰の霊場となった。当時の四天王寺の西門は、浪速の海に面して建っていた。  
藤原頼長の「台記」によると、極楽浄土の東門に面するといわれた四天王寺の西門付近には念仏所ができて、当時、都にも名のきこえた出雲上人という僧が、念仏集団を組織し、百万遍念仏を高声に唱えて、共に往生を期したという。  
「拾遺往生伝」には、金峰山の僧永快が、治暦の年中(1065-1068)の8月彼岸の頃に、天王寺に詣で一心の念仏して百万遍に及んだ。その後、私物を弟子に分け与えて、夜中に房をでて独り高声念仏を唱えながら西へ向かい、入水往生した話が記録されている。(「拾遺往生伝」巻下4)。  
また別書には、叡山の僧 行範上人が、大治年中(1126-1130)に四天王寺で7日の断食の後、衣の袖に砂をいれ、一心に念仏入水した記事がある。そのとき「調具音楽、方舟合奏、正修念仏」して亡くなった。そして同行者には、都率天の内院に生まれたという夢告があった。(「本朝新修往生伝」11)  
熊野の補陀落浄土への渡海は、舟に乗って行われた。しかもその舟は外から釘づけされ、扉もなく、内部には30日分の食料と灯と油が用意された。それは出羽三山の木食行、土中入定の海上版ともいえるものであった。  
この船出は、現代人から見れば自殺行の旅であるが、「吾妻鏡」「仮名東鑑」「北条九代記」「冥応集」などの記述は、必ずしもそうではない。  
貞永2年(1233)頃、上記の四天王寺の入水往生よりは百年後の話になる。源頼朝の那須野の狩りで鹿を射損ねて、出家した智定房という僧がいた。しばらく那智山にこもり修行していたが、やがて熊野の那智の浦から、舟で南海・補陀落山へ渡海した。  
この時の智定房の屋形舟は外から戸が釘付けされ、四方に窓はないため真っ暗で、灯火を微かにし、食物としては栗栢を少しずつ食べて命をつなぎ、一心に法華経を読誦した。補陀落山へは30余日でついた、という報告が北条泰時に届けられている。(「北条九代記」7)  
この後日談が、別書にある。  
補陀落浄土についた智定房は、上陸して岩の上から山をみると、山道は危なくて険しく、岩容は幽遠であった。山頂に池があり、大河が山を巡って海に入っていた。池のほとりに石造の天宮があり、観音菩薩が遊行される場所であった。智定房は、この山に50余日いて、また舟に乗って熊野へ帰ってきた。(「冥応集」)  
熊野における補陀落渡海は、貞観10年(868)11月3日慶竜上人、延喜19年(919)2月佑真上人と奥州の人13人、天承元年(1131)11月高巌上人、寿永3年(1184)平維盛、貞永2年(1233)智定房など、記録に残されているだけでもかなりある。 
(6)霊地巡礼の拡大  
各地の観音霊場の形成  
15世紀中葉を境として、巡礼が従来の山伏やヒジリ達を中心にしたものから、民衆を中心にしたものに拡大していった。この中で観音霊場も、西国33か所につくられたのに続いて、全国に展開していった。  
鎌倉幕府が開かれると、西国の仏教文化が広く関東に展開し、坂東33か所観音巡礼のコースが関東一円につくられた。この霊場の最古の記録は、福島県東白河郡八槻村の都々古別神社にある十一面観音の銘文といわれ、文暦2年(1235)7月19日と記されており、それ以前に「坂東33か所観音霊場」は成立していたと思われる。  
これらの関東における観音信仰の盛況は、源頼朝(1147-1199)の庇護によるといわれる。しかし関東の民衆による巡礼は、14〜15世紀になってからのことである。  
坂東33か所の観音巡礼の関東1番の札所、鎌倉の杉本寺(鎌倉市二階堂)は十一面観音をまつり、開山は行基菩薩と伝えられる。  
杉本寺から出発し海沿いに西進し、小田原の飯泉観音(勝福寺)から山沿いに北上し、埼玉県に入る。埼玉県比企郡都幾川村には、千手観音をまつる慈光寺(8番)があり、ここから南下して東京にはいる。浅草寺(13番)から西南にすすみ、横浜の弘明寺(14番)から北上し、群馬県榛名町の白岩観音(15番)から山沿いに東進し日光中禅寺をへて、茨城県を南下する。筑波山の大御堂(25番)をへて房総半島をめぐり、館山市那古の那古寺(33番)で壮大な観音巡礼は終わる。  
最後の那古寺は山号を補陀落山といい、千手観音を本尊とし行基上人の創建という。名前から明らかなように、この地を補陀落浄土とみる信仰が、江戸時代にかなり一般化していたようである。  
関東地方の観音霊場として今一つ「秩父34か所霊場」がある。この成立年代はわからないが、この巡礼路の最古の記録が、32番の法性寺につたわる1488年(長享2)の番付表であることから、大体15世紀の末葉に成立したと思われる。  
霊場は、1番が定林寺から始まり、最初は33番水込であったが、その後、江戸から最も近い妙音寺が1番に入り、34か所となった。  
15-16世紀には、江戸からの道程が最も近い四万部寺が一番となり、34か所の霊場が確立し、さらに秩父、坂東、西国の観音霊場とともに、「日本百観音」という全国規模の巡礼コースに組み込まれることになった。この全国規模の観音信仰の巡礼路が完成したのは、1488(長享2)から1536(天文5)の間といわれる。(中尾尭「寺院の歴史と伝統」)  
一生に一度のお陰参りの途中、この巡礼を共に回ることもよく行われた。「百か所参り」がこれであり、巡礼を無事に成就した人々により、「百番供養」の石碑が村や町の道ばたに建てられた。  
このような全国規模の大規模な巡礼に出ることはなかなか難しいが、一国単位の地方霊場が全国で作られていった。たとえば、下野国33か所(栃木県)、備中国33か所(岡山県)、筑後国33か所(福岡県)などがそれである。
四国八十八か所霊場の巡礼  
この他、弘法大師など仏教僧侶が修行をした霊場を参詣する巡礼も行われるようになった。その代表的なものが、弘法大師の四国八十八か所霊場の巡礼である。  
四国八十八か所霊場は、弘法大師(774-835)が42才の厄年に、四国の修行地を一巡して決めたと伝えられるが、一般の人が巡礼に出始めるのは、15世紀頃とみられる。  
その始まりは、弘法大師の遺徳を慕う真言の僧侶達が、山岳修行の1つの形として四国各地の霊場を歩いていたのが、88か所の霊場としてまとまっていったと思われる。  
四国の遍路は、木綿の白衣をまとい、白か浅黄の手甲・脚絆をつけ、胸には小さな札ばさみを下げて数珠を持つ。背には笈摺(おいずる)をはおり、身の周りの物を入れた笈を背負う。腰には尻敷をつけ、草鞋か白い地下足袋をはく。右手に「南無遍照金剛」とか「南無観世音菩薩」と書いた白木の金剛杖を持ち、左手には緒のついた鈴を携えて、鳴らしながら歩く。頭につけた笠には「迷故三界城、悟故十方空、本来無東西、何所有南北」と書き、住所氏名と「同行二人」と記す。  
寺へ着くと、本尊の前で「般若心経」や「観音経」を読み、御詠歌を歌い納札を納める。この納札は本来は木札で、壁や柱に打ち付けた。巡礼の寺院を「札所」というのは、ここからくる。また、霊場を巡ることを「打つ」というのも、これに由来する。  
参詣を終えたお遍路は、寺の納経所に写経を納め、納経帳にご本尊の仏名と納経印を押してもらう。  
四国の霊場巡りの1番は、徳島県鳴門市の霊山寺で、本尊は釈迦如来で真言宗の寺院であり、行基上人の開基といわれる。弘仁年間(810−824)に弘法大師が四国巡錫の途中、この寺で修行し、四国霊場第一番の寺としたという。本尊の釈迦如来は、弘法大師自身の彫刻したものと伝えられる。  
1番から始まった遍路の道は、吉野川をさかのぼって山中にはいり、小松島から南下して、県内の23番薬師寺で阿波国(徳島県)を終わる。土佐へ入って最初の霊場は、室戸岬にある第24番長御岬寺(ほつみさき)で、虚空蔵菩薩を本尊とする。807年以来の天皇の勅願所である。  
室戸岬から土佐湾の海岸に沿って西進すると、足摺岬の38番金剛福寺へつく。ここは南の海上にある観音の補陀落浄土の地として、三面千手観音を本尊とした。のちに、勅願所として嵯峨天皇から「補陀落東門」の額を与えられた。やがてここは熊野とならんで、補陀落渡海の霊地として有名になった。  
ついで宿毛市の39番延光寺で土佐国と分かれ、40番の観自在寺から伊予国(愛媛県)に入る。松山の道後の地には、51番石手寺がある。728年創建という古寺で、本尊の薬師如来は行基菩薩の作という。  
四国の最高峰である石槌山は、四国きっての山岳信仰の霊場で、ここには60番の横峰寺があり、四国霊場の中で最も険しい難所といわれる。651年に役小角が修行中に蔵王権現が現れるのを見て、その姿を彫ったといわれる。  
天平年間に、行基上人が大日如来を刻み、その胸中に蔵王権現を納めた。桓武天皇の代に勅願所となった。その後に弘法大師により堂宇が再興された。  
65番三角寺を最後に伊予国を離れて、山深い阿波国の雲辺寺を経て、弘法大師の故郷である讃岐国(香川県)に入る。  
67番大興寺、75番善通寺をへて、88番大窪寺で全行程1400キロの旅が終わる。歩くと60日以上が必要になる。
法然上人25霊場  
法然上人(1133−1212)の生涯に所縁のある25霊場がつくられた。巡礼は法然上人の生誕の地である岡山県の誕生寺から始まり、香川・兵庫・大阪・和歌山・奈良をへて、1212年に亡くなった京都の知恩院で終わる、広域なコースである。  
この諸寺は、第1は専修念仏を唱えて奇瑞を表し、民衆を教化したと伝えられる寺であり、第2は、法然上人が折りに触れて立寄ったと伝えられる、所縁の寺の2種類で構成されている。  
第25番の知恩院は、京都市東山にある浄土宗の総本山である。法然上人は、心づかいの安心と、それを行として日常生活の中で実現させることによる浄土往生の道をといた。  
法然上人は1212年(建暦2)1月、東山大谷禅房で亡くなった。この大谷の禅房は、その後、叡山の衆徒に焼き討ちされたが、大谷の故地として復興し、念仏の根本道場となった。
親鸞上人24霊場  
親鸞(1173-1262)は、「弟子一人ももたずさふらう」(「歎異抄」)といわれたが、その弟子達は、念仏の大教団をつくりあげた。その本願寺三世の覚如が、関東の有力門徒(二十四輩)を本願寺派の正当な門徒として認めたのがこの霊場である。  
したがって、これらの寺々は変動が激しい。
日蓮上人の霊場  
日蓮上人(1222−1282)の所縁の寺院を参詣する順拝は、室町時代から盛んになったが、霊跡が広域なため一つの順拝コースを形成するにいたらなかった。  
日蓮宗の順拝コースは、霊跡を離れてまず京都でつくられた。京都での日蓮宗は、孫弟子の日像上人(1269−1342)により、商工業者の支援をうけて発展した。  
京都での日蓮宗の発展は1530年代がピークで、「京都二十一か本山」といわれる大寺院が勢力を持ったが、叡山と戦国大名が組んだ「天文法華の乱」(1536)によりすべて灰燼に帰し、さらに幕府が日蓮宗の僧、信者の京都居住を禁じたため、京都での日蓮宗は衰退した。  
その後に、寺院の復興が行われ16か寺に減少したが、昔日の繁栄の回復を祈って「二十一か本山詣り」という言葉はのこされた。  
現在は、本山の数は15か寺になり、参詣する本山も毎年異なるが、行列参詣は現在もつづいている。  
このほか、日蓮宗でも日蓮上人の木像をお詣りするコースがいくつかある。  
日蓮宗の信仰が民衆の中に広まった江戸の下町では、「江戸十大祖師詣り」ができた。ここでは格式や順路の別はなく、自分の住まいにより便利なように順拝したようである。  
十か寺は、浄心寺(深川)、報恩寺(本所)、本覚寺(浅草)、長遠寺(浅草)、妙音寺(浅草)、瑞輪寺(谷中)、宗延寺(杉並)、宗林寺(谷中)、幸国寺(新宿)、幸竜寺(浅草−世田谷)である。  
さらに、少し時間をかけて順拝する、「八大祖師詣り」のコースもあり、これは千葉、東京、神奈川という広域なものになっている。  
日蓮宗では、西の高野詣でに対応した「身延山詣」がある。身延山は「この山をもととして参るべし」という日蓮上人の遺言に従って、信者が参詣する山である。山内には、日蓮上人の遺骨を納めた「御遺骨堂」、木像を安置する「祖師堂」、墓塔を拝する「御廟所」の3つの堂がある。  
この3つの堂に詣でて、「法華経」の信仰を広めた日蓮の霊性にふれるのが、身延山詣の目的であり、日蓮宗の僧侶や信者は勿論、立正佼正会、霊友会をはじめとする、新興宗教系の信者も参拝する。  
信者が亡くなると、分骨して仏殿の中の納拝堂に安置され、供養される。その意味で、身延山参詣は、「法華経」への結縁、日蓮への面拝、先祖供養の3つが重要な要素となっている。