無頼漢・雑題・うわさ話

ごろつき極道義理ヤクザ雑題用水池湖の伝承日本将棋の起源・・・
うわさ話 / 道鏡最澄紫式部藤原頼長北条政子北条泰時新田義貞後醍醐天皇高師直一休宗純日野富子蓮如朝倉義景武田信玄上杉謙信前田利家慶ァ井伊直政出雲阿国春日局細川忠興宮本武蔵松平忠直徳川家光高尾太夫東福門院徳川光圀本寿院徳川吉宗平賀源内長谷川平蔵本居宣長前野良沢鼠小僧次郎吉徳川家斉山田浅右衛門吉利葛飾応為吉田松陰佐久間象山松原忠司坂本龍馬土方歳三天璋院木戸松子陸奥宗光中江兆民楠本イネ勝民子お龍伊藤博文乃木希典秋山真之徳川慶喜徳富蘆花野口英世山本権兵衛新渡戸稲造東郷平八郎与謝野鉄幹高村智恵子岡本かの子南方熊楠島崎藤村石原莞爾斎藤茂吉高浜虚子永井荷風藤田嗣治内田百聞河上彦斎
 

雑学の世界・補考   

ごろつきの話

無頼漢(ゴロツキ)などゝいへば、社会の瘤のやうなものとしか考へて居られぬ。だが、嘗て、日本では此無頼漢が、社会の大なる要素をなした時代がある。のみならず、芸術の上の運動には、殊に大きな力を致したと見られるのである。ごろつきの意味に就ては、二様に考へられてゐる。雷がごろごろ鳴るやうに威嚇して歩くからだともいふが、事実はさうでなく、石塊がごろごろしてゐるやうな生活をしてゐる者、といふ意味だと思ふ。徳川時代には、無宿者・無職者・無職渡世などいふ言葉で表されてゐるが、最早其頃になつては、大体表面から消えてしまうたと言へるのである。ごろつきが発生したには長い歴史があるが、其は略する。此が追々に目立つて来たのは、まづ、鎌倉の中期と思ふ。そして、其末頃になると、此やり方をまねる者も現れて来た。かくて、室町を経て、戦国時代が彼等の最跳梁した時代で、次で織田・豊臣の時代になるのだが、其中には随分破格の出世をしたものもあつた。今日の大名華族の中には、其身元を洗うて見ると、此頃のごろつきから出世してゐるものが尠くない。彼等には、さうした機会が幾らもあつたのだ。此機会をとり逃し、それより遅れたものは、遂に、徳川300年間を失意に送らねばならなかつたのであつた。
巡遊団体の混同
先、彼等は、どんな動き方をして現れて来たかを述べよう。日本には、古く「うかれ人」の団体があつた事を、私は他の機会に述べてゐる。異郷の信仰と、異風の芸術(歌舞と偶人劇)とを持つて、各地を浮浪した団体で、後には、海路・陸路の喉頸の地に定住する様にもなり、女人は、其等の芸能と売色とを表商売とするやうになつたのであつたが、いつか彼等の間にほかひゞとの混同を見るやうになつた。大和朝廷の統一事業と共に、失職した村の神人たち、或は、租税を恐れて、自ら亡命したものなどがあつて、山林に逃げ込み、地方を巡遊したりしたものがあつたからだ。一方、うかれ人の方も、漸次生活が変化して行つたが、何と言つても、彼等は奴隷としての待遇しか受けることが出来なかつた。かうして、此二者は早くから歩み寄つてゐたのであつたが、更に、平安朝の末に至ると、愈其等のものが混同し、同化するやうになつた。行基門徒の乞食・陰陽師・唱門師・修験者など、さうした巡遊者が続出したからであるが、尚、それの一つの大きな原因は、貴族の勢力が失墜すると同時に、社寺の勢力も亦衰頽を来した為、其等の社寺に隷属してゐた奴隷たちが、自由解放を行うた事である。其等の社寺には、神人(ジンニン)・童子などゝ称し、社の祭事・寺の法会などに各種の演芸を行つたものが居つたが、彼等は生活の不安を感じ出した事によつて、其等の社寺を離れ、各自属した処の社寺の信仰と、社寺在来の芸能とを持つて、果なき流浪の旅に上る様なことになつた。彼等は、山伏し・唱門師の態をとつて巡遊したのであつた。在来の浮浪団体に混同したのは、当然のことである。更に、此頃になつて目立つて来た、もう一つの浮浪者があつた。諸方の豪族の家々の子弟のうち、総領の土地を貰ふことの出来なかつたもの、乃至は、戦争に負けて土地を奪はれたものなどが、諸国に新しい土地を求めようとして、彷徨した。此が又、前の浮浪団体に混同した。道中の便宜を得る為に、彼等の群に投じたといふやうなことがあつたのだ。後世の「武士」は、実は宛て字である。「ぶし」の語原はこれらの野ぶし・山ぶしにあるらしい。又、前の浮浪者とても、元来が、喰はんが為の毛坊主商売なのであつて見れば、利を見て、商売替へをするには、何の躊躇もなかつた。
野伏し・山伏し気質
彼等は、先、人里離れた山奥に根拠を据ゑ、常には、海道を上り下りして、他の豪族たちの家々にとり入り、其臣下となり、土地を貰ひなどしたのであつたが、又中には、其等の豪族にとつて替つたものなどもあつた。彼等が、豪族にとり入つた手段には種々あるが、一体に、彼等が道中したのは、武力で歩いたのではなく、宗教を持つて歩いた。行法を以てした山伏しである。義経が奥州へ落ちる時、山伏し姿で道中したのは、後の人から見れば、つくり山伏しであるが、当時としては、道中をするには其が普通だつたとも見られる。彼等は団体をなして歩いた。山伏しについては、曾て「翁の発生」の中でも触れて置いたが、彼等が団体的に行動するなどゝいふことは、平安朝の頃まではなかつたのであつたが、時代の刺戟は、彼等を団体的に行動せしめるやうになつたのである。虚無僧・普化僧は、其一分派である。即、禅宗に結びついて出来たものである。彼等は単独の形をとつた。これの著しく目立つて来たのは、略、南北朝頃と思はれる。彼等の団体には取締り監督があつた。先達が、其である。彼等は行く先々の家々村々を祈つて歩いた。彼等は、其で易々と糊口の道が得られたのであつた。若し、其等の家々村々でよくしないと、彼等は祈りの代りに呪ひをかけた。山伏しが逆法螺を吹くといふ事は、後々までも恐しい事にされてゐた。山伏しの悪業は近世ほどひどくなつたのであつたが、昔から、依頼と恐怖との二方面から見られてゐた。だから、彼等は易々と道中する事が出来たのであつた。
治外法権下の悪業
昔から、宗教の方面には、政治の手が届かなかつた。其には理由があるので、言はず語らずの掟があつて、彼等は全く政治家の権力以外を行つた。江戸時代になつてからも、寺社奉行などはあつたが、山伏しの取締りには、随分幕府も困つた様である。駈落者・無宿者・亡命の徒などが彼等の中へ飛び込めば、政治家も、其をどうする事も出来なかつた。こんな事は以前からもあつた。だから、武力を失うたものが、逃避の手段として、山伏しになつたなどゝいふのが少くない。前に述べた様な理由と、二重の理由によつて、易々と生活して行けたからである。更に、彼等は後々までも、殊に徳川初期に於て諸大名たちを弱らせた事実に就ても、考へて置かねばならぬ。彼等が大名たちを弱らせたには、弱らせるだけの理由があつたと見られる。諸大名が出世をしたには、皆彼等の手を借りてゐる。彼等は、戦国の当時には、殆ど庸兵として、諸国の豪族に腕貸しをしてゐる。後に大名になつたもので、彼等の助力を受けてゐないものは殆ど一人もない、と言うてよからう。又、彼等の中から出世したものもある。上州徳川の所領を失うたといふ徳阿弥父子が、三河の山間松平に入り婿となる迄の間は、遊行派の念仏聖として、諸方を流離したのであつた。江戸時代になつて、虚無僧は幕府から朱印を貰うたといふが、其には、訣があつたのだと考へられる。かゝる事情があつた為に、彼等は後々までも我儘をし、大名たちも、其を抑へる事が困難だつたのである。それには、彼等が法力を持つてゐたことも関係してゐたと思はれる。九州彦山の山伏しが虐殺されたことがある。如上の理由があつて、あまりに彼等の我儘が募り、悪業が高じた為だと思はれる。
祝言職としての一面
彼等はさうした法力を示してゐたが、山伏しの為事は、其だけではなかつた。常には、舞ひや踊りや歌をやつた。彼等は、前にも言うたやうに、山奥に根拠を据ゑてゐた。私は幾度か三河の山奥へ行つたが、参・遠・信の三国に跨り、方五六里に亘つて、さうした山伏し村が多い。勿論、今は山伏しの影を止めてゐるに過ぎない。私たちが見学に行つたのは、既に「翁の発生」で述べて置いたやうに、其等の村に「花まつり」と称する初春の行事があつたからである。花まつりは、一口にいへば、其年の稲の花がよく咲く様にと祝(コトホ)ぎする初春の行事なのだが、其態は舞踊であつて、なかなか発達してゐる。何故、こんな山奥に、こんな舞踊が発達したか。其は決して偶然ではなかつたと考へられる。即、戦国の末に、彼等が勢力を貸した豪族の家々が、其後栄えたからである。歴史の表面では、彼等がどれだけの事をしてゐるか、殆ど記されてゐないが、断篇的の記録はある。三河には徳川氏と関係ある地方に居つた者が多くゐて、徳川氏が栄えて後、擁護を受けたからである。彼等は、戦争に際しては、其等の家々に勢力を貸したのであつたが、また初春には恒例として、其等の家々、即、檀那の家へ出て来ては、祝福をして行つたのである。ほかひ人としての、昔の記憶を忘れなかつたのである。由来、日本の戦争には、法力の戦争が栄えた。旗・差し物なども、それから生れたものである。此には長い歴史があるが、其は略する。ともかくも、彼等が戦争に勢力を貸したといふのは、法力で戦争を勝たせるのが主であり、本筋のものだつたのである。
にせ山伏しとの結合
ところで、此、初春に里へ出て来る山人といふのは、日本には至るところにあつて、必しも参・遠・信の山奥とは限らない。思はぬ奥山家から、大黒舞・夷舞などが出て来る。彼等は、年に一度、暮れ或は正月になると、どこからともなく出て来て、或特定の村、即、檀那村を祝福して歩いては、またどこへともなく帰つて行く。「隠れ里」の伝説はこれから起つたので、更に「隠れ座頭」などの嘘噺も出来、又、偶然山奥へ迷ひ込んだものゝ中には、此等の芸人村のあることを発見して、山伏し以上の法螺を吹いたものもあつたりしたのであつたが、要するに、隠れ里の伝説が、単なる伝説上のものでなかつた事だけは考へられるのである。此も「翁の発生」で触れて置いたことだが、芸人の団体には、山奥のものと、更にもう一つ、海の岬に根拠を置いて海道を歩いた、くゞつとの二者があつた。併し、近世では、かうした芸人は、山奥のものに限られた。そして、此が本筋の山伏しだつたのであるが、鎌倉以後、戦国時代には、此をまねた、或は彼等の群に投じたにせ山伏しが横行するやうになつたので、此等のものが諸所の豪族の家々を頼つて、海道筋を上り下りし、其等の家々にとり入り、遂には、其にとつて替らうとさへしたのであつた。
すり・すつぱ・らつぱ
あまりに有名だから、名を出してもいゝだらう。蜂須賀家の祖先小六は、それの有名な一人である。彼が地位を得たのは、豊臣氏が栄えたからである。彼等は、海道筋を上り下りする中に、一定の檀那(擁護者)を得たものが落ちつき、其を得ないものがうろつく。そして其中には落伍者が出来たので、其単独のものがすりとなり、団体的のものはすつぱ・らつぱと言はれた。いづれも盗人職だつたのである。職人とは土地を持たないものを謂うたので、髪結ひを女工業と言うたなどは、職人の直訳とも見られる。ともかくも、当時はさうした盗人職・ごろつき職が厳然として存在してゐたのであつた。尤、現在だつて不思議な団体があつて、而も彼等は厳然として存在してゐるのである。すりは、すりといふ道具をもつて歩いた団体だともいひ、旅人の旅具をすり替へることから、さう呼ばれるやうになつたのだとも言ふが、恐らくはほかひ・くゞつなどゝ同じやうに、旅行者の持つて歩いた旅具からついた名だと思はれる。世人は、それを恐れてさう呼んだのであらう。後には、熟練を得て頗る敏捷なものになつたが、当時のは、もつと鈍なものだつたに相違ない。すりは、早くから単独の職業になつたが、すつぱの方は--狂言では田舎人を訛す悪党で、すり・すつぱと同じやうに言はれてゐるが--もう少し団体的のもので、親分を持つてゐた。そして更に、一層団体的だつたのが、らつぱである。小六は即らつぱの頭領だつたのである。当時は、かやうなものが幾つとなく、彷ひ歩いてゐた。尚、此外に、がんどう提灯に名残を止めた、強盗などもあつたのである。
ごろつきの例
押し借り強盗は武士の慣ひとは、後々までも残つた言葉であるが、当時は、実際にさうしたものが、諸民の部落を荒して廻つたので、山伏しも、陰陽師となつて、諸国に神道の祈りをして歩き、一方には、舞踊や唱歌をもした。其に交つた浪人者があり、其間に発達したらつぱ・すつぱもあり、荒すこと専門のらつぱ・すつぱがあり、一方、海道筋をうろつくがんどう連がある、と言うた訣であつた。らつぱの専門は、庸兵となつて、諸国の豪族に腕貸しをする事であつた。そして其処の臣となり、或は、即かず離れずの態度で、其保護をうける。其中に、其主家にとつて替つたなどゝ言ふのもあつた。相模の後北条早雲の出身は確かでない。伊勢関氏の分れだと言ふが、同時に、其はらつぱといふ事にならうかと思はれる。探りを入れて見ると、叡山・山王の信仰を伝へて歩いた山伏し、或は唱門師とも見られるので、戦国の頃、段々、東に出て来て、庸兵となつて歩いたらしい。妹が今川氏の妾(或は側室ともいふが)になつてゐたので、今川氏に頼り、それから段々、勢力を得た様にも言はれてゐるが、怪しいものである。妹を今川氏に入れるなどゝ言ふことは、後にも出来ることであり、殊に、彼等が豪族にとり入つたには、男色・女色を以てしたのが、一の手段でもあつたのだ。ともかくも、祖先伊勢新九郎の出身は、宇治の山奥、田原であつて、其家は穴太(アナホ)であつたらしくもある。此が伊勢の関まで出てゐたのであらう。彼が最初に連れて出た家来と言ふのは、10人足らずであつたが、いづれも宇治地名を帯びた名を持つてゐる。早雲は、後に追々と勢力を得て、遂に、小田原に根拠を据ゑるやうになつたが、最初は、山伏しとなり、庸兵となりして歩いたものだと思はれる。更に、古い例としては、小早川氏もさうのやうである。「小」といふ字の付くのは、嫡流に対する小流(妾腹)の意で、小田原在に早川といふ所があるが、土肥実平の分れであつて、山伏し系統の巡遊者となつたものだと考へられる。これらは古い例であるが、近世には頗多い。併し、あまり名前を挙げて行くことは遠慮しよう。
村落制度から生れた親分・子分
かやうに、鎌倉末から戦国時代にかけては、或は山伏しとなり、或は庸兵となつた様な無頼の徒が、非常に多かつたのであつたが、此等の中、織田・豊臣の時代までにしつかりとした擁護者を得なかつたものは、最早、徳川の平定と共に、頭を上げることが出来なくなつて了うた。彼等は、止むを得ず、無職渡世などゝいつて、いばつて博徒となつた。此が侠客の最初である。何故、彼等は、さうならなければならなかつたか。此には考ふべきことがあると思はれる。若、彼等が単独であつたら、譬へ徳川の平定があらうとも、博徒にはならずとも済せたかも知れない。もう少しは、何とか身の振り方が着いたであらう。けれども彼等には多くの仲間があつた。彼等は、先、其等の仲間・子分の処置に困つた。此処で、親分・子分のことを一言述べて置くが、彼等の親分・子分は、農村の制度からとつたのだと思はれる。農村には、親方筋・子方筋といふのが幾軒もある。其外檀那筋など言ふのもあるが、親方・子方となると、其子供は親方の養子分となる。出産があれば、戸籍吏に届け出る様に、親方へまで届ける。此親子の関係が、らつぱ・すつぱにもある。彼等の団体は、此村落の生活が基礎になつてゐた、と見られるのである。
人入れ稼業の創始
徳川氏の方でも、天下をとつて、納まると同時に、先、困つたのは、彼等らつぱ・すつぱの連衆の処置であつた。此までは、助力を得たのであつたが、関个原・冬・夏の戦ひで、彼等には手を焼いてゐる。其が多勢の子分を連れてやつてくる。而も、彼等は法力を持つてゐる。ひと先、整理をつけなければならぬ時が来たのであつたが、其処置には、全く困惑したやうであつた。かうして彼等のうち、織田・豊臣の時代までに、しつかりとした擁護者を得て、落ちつく事が出来なかつた者は、再、落ちつく機会を失つて了うたのであつた。それでも、村落にしつかりとした基礎を持つてゐたものは、まだよかつた。即、彼等は、そこへ帰つて、郷士となつた。又、彼等の中には、早く江戸を棄て、宗教の名を借りて、悪事を働いた高野聖の様なものもある。其後も、永く旅人を困らせたごまの灰は、高野聖の一種であつた。高野でも、此には困つたので、非事吏などゝ、意味もないやうな名をさへ出したほどである。彼等の中、最、困つたのは、江戸や大阪・堺などに未練を持つた連衆で、何と子分の始末をすべきか、其が大きな問題であつた。そこで、彼等は、其子分たちを、諸大名の家へ売りつけることを考へた。人入れ稼業は、かうして始つたのである。そして、彼等は所謂侠客となつた。親分・子分の関係は、前に述べた様に、農村の制度からとつたものであるが、今日人口に膾炙してゐる親分・子分は、此人入れ稼業から始つたと見ていゝ。有名な幡随院長兵衛の頃には、もうそんなことはなく、ほんとうの人入れ稼業になつてゐたのであらうが、古くは、其子分を大名の家に売りつけたのであつた。其を「奴」といつた。奴の名は髪の格好から出たものと思はれる。鬢を薄く、深く剃り込んだ其形が、当時ははいから風であつたのだ。そして、其が江戸で流行を極める様になつた。町奴の称が出来たのは、旗本奴が出来たからであつて、もとは、かぶきものと言うた。旗本奴もかぶきもの・かぶき衆などいはれたのであつた。併し、後には、此二者が交錯して、かぶきの中に奴が出る様なことにもなつたのであつた。
かぶきとかぶき踊り
かぶきと言ふ語が、文献に現れたのは古いが、直接後世と関係したのが見えて来るのは、室町時代からだと思ふ。乱暴する、狼藉する意に用ゐられたのだが、古い用語例らしい。此語の盛んに用ゐられた一つの中心は、桃山時代であつた。当時は、事実此風が、盛んに行はれもしたのであつた。阿国の念仏踊りを、かぶきと言ふ様になつたのは、彼女には、いろいろな演芸種目があつて、其一つに「かぶき踊り」と言ふのがあつたのだと思ふ。当時の貴族・豪族たちは、何でも、異つたものに目を止めた。阿国も、さうして認められた一人だつたのだ。彼女が京に出て来て、五条の橋詰め・北野の東などに舞台を構へた時に、此等の大名たちは、直に其に目を止めた。彼女が頭を擡げて来たのは、さうした擁護者を得る事が出来たからだつたのである。彼等の芸を、何故かぶきと言うたかと言へば、彼等の持つてゐた演芸種目の中に「いざやかぶかん、いざやかぶかん」と言うて踊る踊りがあつて、其から名づけられたものだと思ふ。阿国の演芸では、阿国と名古屋山三との問答があり、それから「いざやかぶかん」になるので、此をかぶき踊りと言うたらしい。
幇間の前駆
かぶき踊りの起原は、名古屋山三が教へたとあるが、山三が阿国に教へたのは、早歌であつたらう。山三は、幸若の舞太夫だつたと思ふ。当時は、幸若舞の最盛んな時代だつたので、舞ひと言へば幸若舞の事を言ふのであつた。其他、舞々・舞太夫、すべて幸若に関したものを言うたのであつた。幸若舞は、千秋万歳に系統を持つ曲舞から出たので、曲舞のうち、武家に好まれたものが、即、幸若舞であつた。随つて、幸若舞には、武張つたものが多い。併し、もともと、幸若は社寺の芸術だつたのである。伝説によると、山三は、蒲生氏郷の寵を受けた、当時有名の美少年だつたとあるが、其見出される迄は、建仁寺の西来院に居つたともある。当時、有名な美少年としては、彼の外に、もう一人、秀次の愛を受けた、不破伴作があつた。併し、もともと、彼等は、ごろつきだつたのである。山三は、蒲生家から浪人して後、諸国を廻つたとあるが、彼等は、さうして、主君にありついた時には、其酒席に侍つた。男色は彼等が主君にとり入る一つの手段だつたのである。すつぱと同じやうな意味を含んだ語に、しよろりといふものがあつた。やはり、諸国を流浪し、豪族たちの庸兵となつたので、其まゝ臣下となつたものもあつたが、多くは、一時的の臣だつたのである。併し、しよろり・そろりの語から考へて、此は後の幇間の前駆をなしたもの、と見ることも出来ると思ふ。日本には、幇間的職分を持つたものは、古くからあつた。王朝時代、貴族に仕へた女房たちの為事と言ふのは、そこの子弟を教育するのが、主なるものとなつてゐたのだが、其教育は、なかなか行き届いたもので、時には、其娘や息子たちの為に、艶書の代筆などをもやつてゐる。此が、後には、男で文筆あるものが替つてやるやうになつた。隠者の文学は、そこから発生した。兼好法師が、師直の為に艶書の代筆をしたといふのは、事実であつたらう。当時では、決して、珍しいことではなかつたのである。尚、此外に、奴隷から出て、君側に侍つたものがあつた。併し、戦国時代には、すつぱ・しよろりなどが侵入して、いつか、此等のものとの間に、歩み寄つた生活をしてゐた。何故、彼等が、其等のものとの間に歩み寄つた生活を為し得たかに就ては、考ふべき点があると思ふ。
異風・乱暴の興味
阿国歌舞妓は、念仏踊りの一変化したもので、幸若舞に系統を持つ、謂はゞ、山三の芸の濃いものであつた。そして、此は初代の阿国の時あつたものではなく、二代の阿国が舞ひ出したのだと思ふ。其訣は、前にも言うた様に、かぶき踊りは、阿国と、山三の亡霊との間に問答があり、それから「いざやかぶかん」になる。此事実からも考へられると思ふのである。かぶかんとは「あばれよう」と言ふ事である。即、舞ひに狼藉振りを見せたものらしい。後の芝居では、此が六法(ロツパフ)となつて残つてゐる。尚、六法は、前に言うたかぶき者の別名ともなり、其一分派には、丹前など言ふものも出来た。共に、あばれ者であり、伊達な風をして、市中を練つて歩いたのであつた。「六法はむほふとも訓むべし」など言ふやうになつたのは、恐らく、彼等の、さうした行動から出たものであつたらう。併し、六法は、其以前からもあつた。室町の中期頃に、六法々師と言ふものがあつて、祭礼に練つて歩いた。京の街では、早くから、祇園祭に異風の行列が流行つた。これのはつきりして来たのは、室町からであつたが、既に、其以前、平安朝に於ても、其風はあつたのだ。さうして、これの愈発達して来たものが、風流(フリウ)であり、六法である。彼等は、仮装をして、盛んに暴れ廻つた。当時としては、其がはいからであり、さうして人目を驚かすことに、社会一般の興味があつたのだと思ふ。彼等は、好んで外国渡来の品などを身に著けた。かうした、異風・乱暴は、其がまた、性欲的でもあつたのだ。当時は、異風と荒つぽいことに性欲を感じたのである。此等の傾向は、其後、歌舞妓芝居の舞台に、長く残つた。大帯なども、其一つと見られるのである。
歩く芸
戦国時代から徳川の初期へかけては、諸大名の中にも、さうした異風を好み、此をまねたものが少くなかつた。織田信長なども、其一人であつた。当時は、社会一般が、異風といふことに、興味の中心を置いてゐたので、文芸・芸術もまたさうであつたと言へるのである。風流・六法は、さうして出来たものであつた。風流は、後には、飾りものゝ名の様になつて了うたが、元来は、異つた扮装をする事を言うたのである。異つた扮装をして、祭礼などに練つて歩いた。此が多少の変化を来して、動作が主になつたものが、六法であり、それの分派がかぶきであり、それから「奴」が出来、徳川中期には「寛濶」などゝ言ふものも出来たのだが、もともと此等の芸は、風流系統のものである。だから此等の芸は、後々までも、歩く芸--練つて歩く芸、謂はゞ祭礼のくづれ--として残つたのであつた。芝居の六法は、かう考へて見るとき、あの特別な歩き振りにも、一つの意味が発見されようと思ふ。
幸若の影響
歌舞妓芝居では、元禄以後になつてからでも、平気で舞台を歩く芸があつた。若衆の出て来る芝居などにも、舞台を散歩してゐる様なものがあつた。奴をつれて「いゝ花ぢやなあ」といつた調子で、舞台を散歩してゐるのである。尤、此には、顔を見せるといふ事があつた。此も見逃せない事の一つであるが、歌舞妓を散歩芸として眺めるのには、尚、他にも考ふべき事があるので、譬へば、道行きには「舞ひ」の手ぶりがある。即、幸若が割り込んで来たからである。元来、幸若の舞ひぶりなるものは、地固めの舞ひ(即、反閇(ヘンバイ))から生れたもので、足ぶみをして舞ふものなのである。歌舞妓は、これから変化したものであつて見れば、愈、散歩芸・足の芸とならざるを得なかつたわけである。かういふわけで、散歩芸にも其起りがある。風流・六法・丹前・奴・寛濶--此等はいづれも皆歩く芸であつたのである。歌舞妓芝居はそれから生れたのだが、尚、此には、狼藉の所作振りと、人目を驚かす異風とがとり入れられた。勿論、此にも、理由はあるので、前にも言うた様に、かぶくとはあばれる事であつた。かぶき者・かぶき衆とは、異風をしてあばれ廻つた連衆のことである。後には、あぶれ者など言ふ語をさへ生む様になつた程で、もともと彼等はごろつきだつたのである。山三が、津山で切り死にをしたといふのも、彼があばれ者だつたからである。団十郎が、舞台で殺されたのにも、さうした関係があつたのだと思ふ。荒事などゝ言ふものが演じられたのも、決して偶然の発生ではなかつたに相違ない。此乱暴狼藉は人形にまで影響した。即、金平ものゝ発生が其である。
遊女を太夫と言うた訣
かやうに当時は、乱暴・異風が、社会の興味の中心となつてゐた。それから歌舞妓のやうな芸術も生れた訣だが、此風潮は啻に、男の世界ばかりに見られたのではない。女の方にも、やはり、それがあつた。吉原其他の色街に於て見られたのである。元来、吉原・島原の遊女を、何故太夫と言うたかと言へば、彼等は元は、幸若の女舞太夫だつたからだと思ふ。そして当時は、此女舞太夫が非常に流行を極めた。其訣は、男は一般に見識を持つて、あまり舞はなかつたが、女の方は激しく此舞ひを舞うて、それが世間に受けたのだと思ふ。彼等は、それぞれ座を持つてゐたので、最初は、市内の彼方・此方で演じてゐたのだが、遂に吉原に押し込められるやうになつた。それでも彼等は、時を定めて、此を演じた。其が受けたので、追々これをまねるものが出来、彼等も亦、太夫を称へる様になり、遂に、此が遊女の称とさへなつたのである。併し、彼等が最初、座を持つてゐた時には、村々によつて、其が違うた。随つて、彼等は、其等の村々の方言を持つてゐた。ざます・ありんすは、即、其形見と考へられるのである。而も、此言葉は、新吉原になつて後も、長く廓(サト)言葉として、保存されることになつたのであつた。
八文字は女六法
それはとにかく、彼等が男のかぶき・六法の、直接の影響を受けたと見られるものは、道中に見せた八文字である。八文字は明らかに女の六法であつた。此が嵩じては、かの一中に謡はれた、勝山に迄なるので、一中節では、彼女が道中の途次、湯巻を落したが、其まゝ道中を続けたと言うて、大いに此を讃美してゐる。我々から考へれば、どこに其ほど讃美する価値があるのか、と思ふのであるが、要するに、当時としては、其が女六法にかなつてゐた。そして其が、性欲的でもあつたのだ。いき・はりなど言うても、もはや今日では、訣らぬものになつて了うたやうだが、所詮、女性と男性との意志の一緒になつたものである。かうした気風は、吉原だけに見られたのではない。京の島原・大阪の新町、此等の廓(サト)にもあつたのだ。此様にかゝる方面にまで、ごろつき・あばれものゝ影響があつたのである。
美的な乱暴
以上述べて来た様に、歌舞妓芝居の起るまでには、従来考へられてゐたものゝ外に、かうしたあぶれ者・乱暴者の生活から発生してゐると言ふ事実があり、尚、直接の原因としては、幸若の舞太夫の扶持を離れたものが、民間に下つたと言ふことがある。そして、此二者が相寄つて、美的な乱暴を創始した。美的とは言うても、其は美学的見地からのものではない。尤、中には「助六」の様な美しくて、力のあるものもある。殊に、当時の、さうした風潮を念頭に置いて此を見るならば、団十郎の此を作つた気持ちは、容易に訣ると思ふのである。かやうに、かぶき・かぶくと言ふ語の、元の意味は、乱暴する・狼藉するといふことであつたので、歌舞妓芝居はそれから生れたのであるが、もはや今日の歌舞妓には、さうした元の意味は、殆ど無くなつて了うてゐる。併し、今日でも、全然それが無くなつてしまつたとは、言はれない。譬へば、日本の芝居には、濡れ場・殺し場など言ふ、残虐な或は性欲的な場面が少くない。学者の中には、此は日本の国民性に合はない、不思議な挿入物だ、と言ふ様に見てゐる人もある。坪内・藤岡両博士の御意見も、さうの様であつたと記憶するが、此なども、以上述べたやうな、これの発生・源流に就て考へて見るならば、一応の解釈はつくと思はれる。勿論、さうしたことは、時代の好尚、其他の事情によつて、特に、病的に発達して行くこともある。しかし、歌舞妓芝居にあつては、既に、其起りが、乱暴・異風--そして、それが性欲的であつた--を採り入れた芸術なのであるから、さうしたこと--残虐的、或は、性欲的な場面--が、多分にあつたとしても、其は、必しも、不思議とするには当らないのである。
「士道」と「武士道」と
大体、今日一般が考へてゐる道徳なるものは、歴史的に見て、此がどれだけの価値を持つてゐるか、一考を要すべき点があらうと思ふ。今日、一般が考へてゐるところの、所謂武士道なるものは、大体、徳川氏の世になつて概念化されたものである。徳川氏は、天下を取ると同時に、先、儒教によつて一般を陶冶しようとした。即、謀叛・反抗をしてはならぬといふ、道徳的陶冶をなすべく、最初は、此を禅僧に謀つたのであつた。山鹿素行などの一流の士道なるものは、其後に出来たのである。武士道は、此を歴史的に眺めるのには、二つに分けて考へねばならぬ。素行以後のものは、士道であつて、其以前のものは、前にも言うた野ぶし・山ぶしに系統を持つ、ごろつき道徳である。即、変幻極まりなきもの、不安にして、美しく、きらびやかなるものを愛するのが、彼等の道徳であつたのである。だから、彼等の道徳には、今日の道徳感を以て考へては、訣らないやうなものもある。
気分本位の生活
一例を挙げるなら、北条早雲が三浦荒次郎を攻めたとき、三浦の城が落ちると聞くや、早雲の家来10幾人は、三浦方の方を向いて、割腹した。此は嘗て、三浦方に捕はれたとき、彼方で好遇を受けた其恩に感じたのだと言ふ。今日、それだけの雅量あるものが、果してあらうか。後世の侠客・ごろつきの中には、多少それに似た道徳感が流れてゐた。睨まれゝば、睨み返すのが、彼等の生活であつた。即、気分本位で、意気に感ずれば、容易に、味方にもなつたが、また直に、敵ともなつた。我々が、多少でも、かうした気分を味ひ得たのは、釈場に於てゞあつたが、それも、今日では極めて淡いものになつてしまうた。時代々々の道徳の力は、あらゆるものを変化せしめずには置かない。同時に、時代々々の文芸・芸術は、此と交渉なしには生れない。現代の道徳は立派であると言へよう。だが、今日では、多少、それが固定したと思はれる。随つて、感激性を失つた。現代の文芸・芸術が、此を重視しなくなつたのには、さうした理由があるのだと思はれる。
結び
話が、かなり岐路に分れたと思ふが、要するに、日本のごろつきには古い歴史がある。而して、鎌倉以後は、此が山伏しと結びつくやうになつて、著しく社会の表面に顔を出す様になつた。法術を利用して、大名にとり入るやうになつたからである。併し、彼等が根拠地としたのは山奥で、常には、舞ひや踊りを職業とし、年の始めには、檀那の家々を祝福して廻りもしたので、其中には、山奥に残るものもあり、里に出て来たものもあり、里に出て来たものゝ中には、大名となり、また其臣下となつたやうなものもあつたが、遂に、其機を逸したものは、徳川の初期に於て人入れ稼業を創始して、大名・旗本に対しても、横柄を振舞つた。歌舞妓芝居は、彼等の間に生れた芸術で、それには幸若舞が与つて、大きな力を致してゐる。歌舞妓芝居は、其後非常な発達をして、もはや、昔の俤は止めぬほどになつてしまうたが、それでも尚、此等の、発生当初のものとの関係は、全然、別れ切りにはならなかつた。其間に纏綿たるものゝあつた事は考へなければならぬ。尚、無頼の徒の芸術には、文学方面にも、言及すべきものがある。日本の文学は、王朝時代に於ける女房の文学に始まり、次で隠者の文学が起り、此にごろつきの文学が提携し、此等のものゝ洗礼を受けて生れたのが、即、江戸時代の町人文学である。此等の点については、いづれ細論する日もあらう。茲には無頼の徒の芸術として、歌舞妓芝居の発生を述べた。大体、其特色は尽した積りである。
 
極道・義理・ヤクザ

極道
本来仏教用語で仏法の道を極めた者という意味であり、高僧に対し極道者(ごくどうしゃ)と称し肯定的な意味を指すものであった。然し江戸時代より侠客(弱いものを助け、強い者を挫く)を極めた人物を称える時に「極道者」と称した事から、博徒(ばくちで生計を立てる者)までも極道と称する様になった。そのため、本来の意味を外れ道楽を尽くしている者、ならず者や暴力団員と同義語で使われる逆の意味で使用される事が多くなった。
明治期の落語や劇では、素行の落ち着かない者、就労せず遊んでいる者を、「国道」と呼んでいる。尚、ヤクザものが自己を指して極道と言うのは、暴力団組員と呼ばれるのを嫌うためであるとされる。暴力団が極道を称するのは、かつての侠客に憧れを抱いているのが理由であるとされるが、実際の活動は反社会行動集団を指す。
ヤクザという意味は本来「何の役にも立たない」と云う意味であり、極道という言葉の意味とは微妙な差異があるが、世間一般ではヤクザも極道もほぼ同意に取られる。ヤクザも極道も「暴力団」に変わりはなく、法的な定義ではどちらも同じ「暴力団員」である。また、暴力団員ではなくとも、反社会的な行動をする者をヤクザまたはヤクザ者と呼ぶこともある。
義理
「義父や義母」は「義理の仲」です。「浮世の義理」の「義理」もあります。現在使われている意味は、儒教の意味合いが強いのですが、古くは現代使われているような意味では使われてはいませんでした。
「義理」の意味
@自身の利害に関りなく、人として行うべき道。特に交際上、いやでも他人にしなければならないこと。
A血のつながりはないが、配偶者や養子縁組の子供などを血縁者とみなすことによって生じる続き柄であること。
B(古)言葉の意味。交際上の関係。つきあい。
とあります。「義理」は、よく使うのは「義理の親」とかいった場合ですね。奥さんが旦那さんの親をさして「義理の父、母」とか言います。略せば「義父、義母」になります。これはAにあたります。あとは、「義理がたたない」、「義理があるから・・・」、「お義理でも・・・」などと使いますね。これは、@やBの意味です。ただ、よくわからないのは、Bの「(古)言葉の意味。」という解釈です。古くは、「義理」と言う言葉で「言葉の意味」という内容を表していたようですね。実は、この解釈が、仏教の意味に最も近いんですよ。
仏教での「義理」の解釈
@ことわり。道理。事柄のすじみち。
Aためになること。
B事柄、わけ。教えられていること。
C名の含む内容。D教典の説く意義・道理。ことわり。
E正しい道すじ。
F俗に、他人に対して行うべき道。つきあい、交際。
意味がたくさんあるように見えますが、@DEは似たような内容です。まあ、これが本来の使われかたです。
「義理」とは、本来、お経の説く「意義、道理、すじみち」のことを意味していました。ですから、使い方としては、「お経の義理を知って、衆生のために説くのだ」という感じで、「お経の道理・内容を知って、人々のために説くのだ」と言う意味です。お経の内容、意味のことを「義理」といったのです。これが、@DEの意味です。
Aは、お経に説かれていることがためになることであるから、お経のすじみち自体がためになること、となり、義理の意味に加わった、と思われます。Bは、ひらったく言えば、「すじみち・道理」と言う意味と同じようなことですね。言い換えただけです。Cは、名前の意味内容のことです。お経の意味内容ではなく、名前の意味内容、ということで使用されていたようです。このような使用は、少ないようですが・・・・。Fは現代の意味と同じです。この意味で使われるようになったのは、時代がもっと下がってからのことです。
時代が下がり江戸時代にもなると、儒教の影響を受けまして人間関係に関る言葉へと変化していくのです。初めは、人間関係において通さねばならないすじみち、のことを意味するようになったようですが、さらに、恩義のある関係へと発展していきます。こうして「義理を通す、義理立てする、義理がある」などと使われるようになったわけです。初めは、お経の「すじみち」だったのですが、人間関係の「すじみち」へと広がっていったわけです。

「義理」といえば、なんでしょう?。やっぱり「人情」ですね。「義理と人情秤にかけりゃ義理が重たいこの世界」高倉健さんのファンならきっとこの歌はご存知でしょう。いまどき、「義理と人情」なんて、あまり言いませんね。そんな言葉が出てくるのは仁侠映画ぐらいでしょうか。でも、「義理」といえば「人情」です。切るに切れない二つの仲は、この頃で希薄になりました。この「人情」も、仏教では意味が少々異なります。
一般的には、
@人ならば、誰でも持っているはずの、心の働き。同情・感謝・報恩・献身の気持ちのほかに、同じことなら少しでも楽をしたい、よい方を選びたい、よい物を見聞したい、十分に報いられたいという欲望など。
A男女の愛情
と辞書にはありました。
「それが、人情っていうもんだよ・・・。」なんていいますよね。まあ、心の動き、とでもいいましょうか。仏教では「情」は「心」と理解しています。ですから「 人情」とは「人の心そのもの」という意味になります。そこから発展し、「人の気持ち、人間らしい心情」という意味で使われています。また、中国禅では、「人の持つ執着心、人間的迷いの心」のことを意味していたようです。
つまり、仏教では、「迷いのある人の心そのもの」という意味で使われていました。「人間らしい」というのは、「煩悩にさいなまれている」と言った意味です。人間が本来も持っている迷いにとらわれている状態の心を人間らしい心と言うのです。仏教ではね。もちろん、これは、「よくない状態」です。あくまで仏教的な意味で、ですよ。
仏教では、人間らしい=煩悩に纏われている、ということですからね。
ここから、発展して、「人の心の働き」を「人情」と言うようになったのでしょう。元の意味をあわせて考えれば、すなわち情とは、切り難きしがらみ、執着のことなのです。特に人の情は、なかなかに切り難いものがあります。人情とは、そうした切り難い心の働き、欲望のことなんですね。
さて、世の中「義理堅い」人は、段々と少なくなっていき、すじみちを通さずに自分勝手に推し進めていこうとする方が増えているようです。
自分のいうことを聞かない部下は、バッサバッサと切り捨てる。義理も人情もあったもんじゃない。どこかの国の前の代表がそのいい例で、義理も人情もない判断をしているようですからね。「義理と人情」を大事にした「美しい国づくり」なんてスローガンかかげませんかね。
「義理と人情」の世界といえば、やくざな世界ですが、このやくざ屋さんのことを「極道」とも言いますよね。この「極道」、「道を極める」という意味なのですが、本来の極めるべき「道」とは、「仏道」のことで、「極道」とは「仏教の道を極めたもの」といえば修行中のお坊さんのことなのです。だからお坊さんとヤクザ屋さん似ている人が多くなったのかな。どこが似ているかって?。だってどちらも人を脅してお金をとるでしょう。ヤクザ屋さんは怖い顔で脅し、お坊さんは「祟りじゃー」なんて脅してね。
達者
達者というと、ある物事に熟達していることか、からだが丈夫なことの意味で使われています。なぜか「お」をつけてお達者とすると、元気で若いものには負けてないご老体を指すようです。
仏教で達者とは、「真理に達した人」、「これ以上なすべきことも知るべきものもない境地に達した人」を指す。つまり、仏さまや菩薩さま、高僧などを示す言葉だったのです。言葉は時が変わると意味が転じていく、これは世の常のようで、この達者も 堪能・壮健の意味に変わっていきました。そういえば、仏教語の「達者」と同義とされている「極道者」も随分変わってしまったなぁ。
ヤクザ
現代に言う「やくざ」とは、組織を形成して暴力を背景に職業的に犯罪活動に従事し、収入を得ているものを言う。この偏倚(へんい)集団を特徴づける要因の一つに集団内部の「親分子分」の結合がある。
「やくざ」研究の古典的名著とされる岩井弘融の「病理集団の構造」(以下「岩井」と略)の序説で「親分乾分(岩井は故意に、乾としている)」の関係は民俗学(柳田國男他)や社会学(川島武宜他)において説明されるところのオヤカタ・コカタの関係と共通の社会的基盤を持つと説明している。
戦後に来日したニューヨーク・ポストの特派員ダレル・ベリガンは、その著作で有名な「やくざの社会」の中で「日本の家族は与太者の集まりであり、家族の長は与太者の長である」という文から始まる、日本社会の内部構造についての報告をまとめている。また、かつて横浜の塚越一家に所属した右翼活動家の野村秋介は、「やくざ」について説明する際に「やくざとは職業ではなく」、「実業家、ジャーナリスト、政治家にもやくざは存在する」と発言したが(出典:「暴力団新法」)これも個人間の繫がりとして絶対的権威(親分)と追随者(子分)の関係が広く社会で見られる点を示唆するものである。
ただし、その上で「やくざ」を特徴づけている別の内部要因として、集団の共通目的、成立の社会的条件、存続のための経済的活動、社会的価値基準から逸脱した副次文化等がある。ジャーナリストの朝倉喬司は明治の自由民権運動と「やくざ」の関連を指摘する一方で現代の制度的空間や価値基準との関連において「暴力団」と呼ばれるとしている(出典:「ヤクザ」)。
「やくざ」という単語は暴力団組員を指すか否かに関わらず近年では言葉狩りの対象となっており、漫画・アニメにおいて伏字処理をしたり、後述する隠語や別の表現に置き換えられるケースが多く見られる[1]。
多くのやくざは「暴力団員」という呼ばれ方を嫌い、自らは「極道」「俠客」と言うことがある。
逆に自ら「俺は、暴力団員だから」と表現する者もいるが、その場合において相手に脅迫(強迫)を行ったとも解せる事があるので、通常だと「組の者、団体の者」と表現し、暴力的な脅威を相手に与えないよう配慮をする事もあるらしい。
現在では、「やくざ(Yakuza)」との言葉を理解する他国の民も多い。テレビゲームでも、アメリカ製の「グランド・セフト・オートシリーズ」に日系人のマフィアが「ヤクザ」の名称で登場していたり(シマ、若頭といった日本語も使用されている)、日本製の「龍が如く」が海外で「Yakuza」というタイトルで販売されたとの例がある。また、北野武監督のヤクザ映画も海外で人気が高く、ヤクザの知名度を上げる一つの要因になっている。アメリカンコミック「X-メン」シリーズには、日本人でヤクザの親分という設定のキャラクター、シルバー・サムライが登場する。
隠語
「やくざ」を指す隠語・別称には「ヤー公」「ヤーさん」「その筋の人」「やっちゃん」「「や」の付く自由業」「スジモン」「渡世人」「稼業人」「筋者」「本職」「不良」「現役」「プロ」「ヤー」「893」、頬骨から顎先までを指でなぞり「これもん(Scarface:傷、痘痕のある顔を表現する)」などがある。また主に警察などで使われている「マルボウ」などもある。
特定の暴力団にアルファベットで内部分類コードを付けて「マルB(暴力団)」「マルG(極道)」などと呼ぶこともある。
歴史
本来だとやくざは、「風来坊、根無し草(定住先が無い者)、渡世人、無頼漢、ごろつき、不良」等と同義で、そんな生き方をする人達を指した。その意味では、生業を指す「博徒」と「的屋」(香具師)とは、微妙なずれがある。ただし博徒・的屋にやくざ者が多いのが事実であって、戦後に暴力団と言う言葉が一般になると、主に暴力団の構成組員を意味するように成った。
一般的に博徒よりも的屋の方が起源が古いとされている。 博徒の起源は平安時代で、任俠の徒“俠客”の起源は室町時代とされ、「渡世人」とも呼ばれた。的屋は「香具師」とも称する。江戸時代、征夷大将軍によって、「賭博は、重犯罪」として厳しい取締りがあったが、江戸中期以降に賭博を常習的に行う博徒集団が現れ、現代に至っている。一方、的屋は「非人身分」とされていた。江戸時代には寺社の境内などで賭博を催し収入(いわゆるテラ銭)を得ていた。都市部だけでなく、地方にも存在する。現在に至るまで「社会枠組の外」となる人々である。
また、ヤクザよりも、やや広い、より合法的な性格を持った「顔役」と呼ばれる人もいた。いわゆる俠風に富んだ「男」としてある種畏敬を持って迎えられ、「その人のためなら命をも惜しまぬ」と言う子分を多数従え、地域社会に隠然とした力を持ち、その中に公然と代議士に成る者もいた。昭和初期のある新聞に「親分議員列伝」として、近代ヤクザの鼻祖とされる吉田磯吉や小泉又次郎(元首相小泉純一郎の祖父)などの名が上がっている。吉田磯吉や、その系列に属する初期の山口組は、古典的な意味でのヤクザでなく、それゆえ旧来の伝統的な稼業に拘ることなく、いち早く現代的な暴力団に変貌していったといえる。
大正11年(1922年)2月17日付の「中外日報」に「代議士武勇列伝」と題するコラム記事が出ている。
「武勇列伝とは余り酷だ、我々だって武を標榜して選良になった訳じゃない、文に依って生きんとして選良になったと云うのに…とは昨日の衆議院の二階廊下で中島鵩六さんがあの大きな太鼓腹を突き出しての仰せであった。で、次は野党側へと眼鏡を向けよう…まあず野党の議席を見渡して何時も金仏様のように黙然と控え、然も一朝事あるときは何事かを引起さん面構えをしているのに吉田磯吉親分がある。磯吉親分は、人も知る炭鉱太郎として九州に大縄張りを持ち、今幡随院の名さえある人だけに、勇に於いては、他に匹敵する人はあるまいと云うから、未来の選良になろうとする者の好典型だろう。・・・・・続いては、臨時議会の時、国勢院総裁小川平さんを速記台下で殴り飛ばそうとして、一大波瀾を捲起した三浦郡の大親分小泉又次郎さんで、一肌脱げば倶利伽羅紋々の凄い人である。」
親分(おやぶん)議員が吉田磯吉一人ではなく、与野党に数多くいたことがこのコラム記事から理解できる。この時代の政界には、「暴をもって暴を制す」理論が公然とまかり通っていたわけで、まさに政治家たるものは「腕前がなければならぬ」のであった。・・・[2]。
語源
「ヤクザ」とは、その語源が明確でないが、賭博用語が語源であるとする説が通説である。花札を使った三枚(またはおいちょかぶ)と言う博奕では、3枚札を引いて合計値の一の位の大小を競う。8・9の目が出れば17となり、一般的な常識人にとっては“7”の場合「もう一枚めくる」事はしないのだが、投機的で射幸心が強く、且つ非常識な輩は そこで「一か八かで、もう一枚を引く」。その結果で“3”を引き、最悪最低の得点である“0(8+9+3=20、しかし勝負で争うのは、「一の位」でのみなので、数値的に零だと最弱である:俗称で「ぶた」等とも呼ばれる)”となる。それに例えて、行動パターンや人生設計を「物賭け的に挑戦する者の生き方」を象徴的に表現していた。 8・9・3を続けて読んだ「ヤクザ」が、世間的に「「敗者、失望者、失墜者」が、「反社会的な意識を持って(苦労をして稼ごうとの世間体に負けた者)」を、意味する」ようになり、それが転じて博徒集団のことを指すようになったとする。 さらに一部の地域では8・9・3のブタだけは、「勝負なし」とのルールを採用しており、そこに由来すると主張する博徒の親分もおり、本居宣長ら江戸時代の学者も、その説を取り上げている。
他にも、歌舞伎役者の派手な格好を真似た無法者(傾(かぶ)き者)のことを「役者のような」と言っていたことから「ヤクシャ」が訛って「ヤクザ」になったと言う説、「役戯れ」(やく ざれ)から来たという説、「やくさむ者」からとの説、更に別枠で「その昔に喧嘩などの仲裁を行う者を「役座」と呼んだ事に由来する」との説(飯干晃一)もある。また、「儒教において数字の8・9・3は悪数(縁起の悪い数字)と定めている事から、そこに由来する」との説もある。
他説では博徒集団の「貸元、若頭、舎弟頭」の三役(サンヤク)の隠語とも言われる。
「組」の名称
1884年の「大刈込み」(賭博犯処分規則により賭博犯すなわち博徒は裁判なしで10年の懲役が課される)への対策として博徒の多くは土木建築請負の看板を上げ「組」を名乗るようになった(鶴見騒擾事件より)。これ以前は屋号(例えば清水次郎長は「ヤマチョウ」、会津小鉄の一門は「大瓢箪」)を用いた。一家を名称とするのは、明確ではないが明治・大正期に多く使われている。的屋の影響と推察されるが明確ではないし内務省の係がつけた可能性もある。明治の「東海遊俠伝」では次郎長を漢語で「大哥」と呼んでいるが中国でも目上の人や親分には「哥」を附ける。日本語のイメージでは親分ではなく「兄貴」あたりであろう。
暴力団
組織された暴力を使って金品の利益などの私的な目的を達成しようと、日本を中心に活動する反社会的な集団。暴力団自身は任侠団体(にんきょうだんたい。仁侠団体とも書く)などと自称している。暴力団の構成員を主に暴力団員(ぼうりょくだんいん)やヤクザと呼ぶ。生き残りのため系列に政治団体(右翼団体。右翼標榜暴力団)や合法的な会社(企業舎弟)を傘下に組織することがある。
「暴力団」という呼称は、警察やマスコミが戦後に命名したものであるが、平成3年に通称暴力団対策法が施行されて、公安委員会が指定暴力団を特定するようになった現在では、暴力団という言葉は法的にも意味を持つものとなっている。したがって、反社会性があっても指定暴力団にならない限りは団体自体を法の網にかけることは困難であり、近年特定団体に所属しない形で生き残ろうと地下組織やマフィアになっていると言われている。
創設者の姓名や拠点とする地名などに「組」、「会」、「一家」、「連合」、「連合会」、「興業」、「総業」、「企画」、「商事」などを添えた団体名を名乗る場合が多い。 江戸時代からほとんどの団体は「一家」を冠し、傘下に「組」を冠する団体を置いていた。また、昭和から明治にかけて複数の一家が集まった「会」、「連合」などが現れた。平成の現在も「会」の傘下に「一家」を置き、さらにその傘下に「組」や「興業」を置く団体が多いが最大勢力の山口組に関しては他の暴力団に比べ新興組織であるため例外と言える。社会に対しては企業や右翼団体、また近年ではNPO法人を装うこともある。 「シノギ(凌ぎ)」と呼ばれる資金獲得行為には、いわゆる「みかじめ料」(縄張り内で一般人が商業を営む際の挨拶代や権利代。用心棒料)徴収などの恐喝行為、売春の斡旋、覚醒剤や麻薬などの薬物取引、賭博開帳、誘拐による身代金、闇金融などの非合法な経済活動を行っていることが多い。また、日本刀や銃器などを用いた団体間の抗争を行うことがあり、それによる殺人事件も数多く行っている。刺青、指詰め、盃事(さかずきごと)などの特殊な文化を持つ。 構成員は社会的には「暴力団員」と呼ばれるが、その他にも「ヤクザ」、「極道」、「渡世人(とせいにん)」、「稼業人(かぎょうにん)」、「筋者」、「不良」、「チンピラ」などと呼ばれる。ヤクザの語源は多説あるが、カルタ賭博の追丁株で一番悪い目である「八」「九」「三」の数(いわゆるブタ)から由来するという説、喧嘩などの仲裁を行った「役座」という社会的地位に由来するという説などがある。数字の「893」は「ヤクザ」の直接的表現を避ける場合に使われる。「極道」は自らを美称する呼び名で、“男の道を極めし者”から来ているという説、「極道楽」の略で「道楽を極める遊び人」の意との説がある。
「顔」、「面子」を潰されることを最も嫌い、組織内での制裁も指詰めから除籍、破門、絶縁、所払い(ところばらい)に至るまで、多岐に渡る。
歴史と区分
江戸時代の町火消から始まったという説がある。 祭礼の周辺で商業活動を営む者を的屋(てきや)または香具師(やし)と呼び、丁半などの博打を生業とする者を博徒(ばくと)と呼ぶ。江戸時代においては、これらの者達は一般社会の外の賤民(せんみん)的身分とされていた。現代の一般社会からは、的屋も博徒も同じ「暴力団」と見なされているのが現状である。現代の暴力団は的屋の系譜を継ぐ団体(的屋系暴力団)、博徒の系譜を継ぐ団体(博徒系暴力団)の両方が存在するが、明確な区別は建前上でしかなく、上に挙げたような様々な非合法活動を行っている。
これら伝統的な団体の他、第二次世界大戦後の混乱の中で形成された愚連隊(ぐれんたい)などの不良集団からも暴力団は誕生した。 その後、日本の急速な経済復興に伴い沖仲仕、芸能興行など合法的な経済活動にのみ従事する「企業舎弟(フロント企業)」も生まれた。
 
雑題

桟敷の古い形
此字は、室町の頃から見え出したと思ふが、語がずつと大昔からあつたことは、記紀の註釈書の全部が、挙つて可決した処である。言ふまでもなく、八俣遠呂知対治(ヤマタノヲロチタイヂ)の条に、記・紀二つながら、音仮名で、さずきと記してゐる。それより後の部分にも、神功の継子の二皇子、菟餓野(ツガヌ)に祈狩(ウケヒガリ)して、各仮(サズキ)にゐると、赤猪が仮に登つて、麑坂(カゴサカ)ノ王を咋ひ殺した(神功紀)ことがある。又百済ノ池津媛、石河ノ楯とかたらひして、天子の逆鱗に触れて、二人ともに両手・両脚を、木に張りつけ、仮の上に置(ス)ゑて、来目部(クメベ)の手で、焚き殺された(雄略紀)よしが見える。
此尠くとも奈良以前に、磔殺(ハタモノ)の極刑のあつたことを示した伝へは、罪人を神の前に火殺する、一種の神事と仮との関係を示すと共に、形は、足代の上に、屋根なしの箱槽(ハコブネ)を置いた様だつたことを思はせる。二皇子の場合も、うけひの神事と、猟りの矢倉とを兼ねた物らしい。山・塚・旗・桙などの外に、今一種神招(ヲ)ぎの場(ニハ)として、かう言ふ台に似た物を作つたことがあつたのだらう。
又、菟道(ウヂ)・鹿路(シヽヂ)に目柴(マブシ)立て、射部配(ス)ゑたゞけでは適(カナ)はぬ猛獣の場合に構へたらしいこと、今尚、此風の矢倉構へる猟師があるのでも訣る。記に、門毎に仮を結ぶと見え、紀に仮八間(ヤマ)なるを作るとあるのも、入り口の上に構へた物もあり、柱間の広い物もあつたことを示すのである。
祭り其他の物見に作り構へた桟敷は、古くはやはり、矢倉の一種であつたと思はれる。桟敷と言ふと、字義と実際とが相俟つて、長く造りかけた物らしく思はせてゐるが、古い形は、今の人の聯想とは、交渉を没した姿で、地上からやゝ高くそゝり立つてゐたのであらう。
稲むらの蔭にて
河内瓢箪山へ辻占問ひに往く人は、堤の下や稲むらの蔭に潜んで、道行く人の言ひ棄てる言草に籠る、百千の言霊(コトダマ)を読まうとする。人を待ち構へ、遣り過し、或は立ち聴くに恰好な、木立ちや土手の無い平野に散在する稲むらの蔭は、限り無き歴史の視野を、我等の前に開いてくれる。此田畑の畔に立つ稲むらの組み方や大小形状については、地方--で尠からず相違があるらしいが、此と同時に、此物を呼ぶ名称も亦、至つてまちまちである。
○すゝき……………………大阪四周の農村・河内・大和・山城・紀伊日高
○すゞし……………………因幡気高郡
すゞしぐろ……………同じ地方
すゞぐろ………………同上
すゞみ…………………美濃大垣・揖斐・尾張西部
○にえ………………………紀州熊野
にお……………………信州全体・羽前荘内・陸前松島附近
にご……………………信州諏訪
のう(ノの長音)……周防熊毛郡
○ほづみ……………………阿波
こづみ…………………熊本・薩摩・日向
ぼと……………………摂津豊能郡熊野田附近
ぼうど(長音)………徳島附近の農村
いなむらぼうと……同上
ぼつち…………………武蔵野一帯の村々・磐城・岩代
○くま………………………因幡気高郡
○くろ(清音)……………備前
ぐろ(濁音)…………阿波板野郡
わらぐろ………………備前
○としやく…………………長門萩
○じんと(?)……………河内九箇荘
○いなむら…………………阿波其他
いなぶら………………伊豆田方郡・遠州浜松辺・武蔵野一帯の地
此だけの貧弱な材料からでも、総括することのできるのは、各地の称呼の中には sus, nih 又は hot の語根を含むものゝ、最著しいことである。ほとは、即ほづみのみを落したものと見ることが出来る。
私どもの考へでは、今が稲むら生活の零落の底では無いか、と思はれる。雪国ならともかくも、場処ふさげの藁を納屋に蔵ひ込むよりは、凡、入用の分だけを取り入れた残りは、田の畔に積んで置くといふ、単に、都合上から始まつた風習に過ぎぬものと見くびられ、野鼠の隠れ里を供給するに甘んじてゐる様に見える。告朔の羊は、何れは亡びて行くべき宿世を負うて居る。而も、古くして尚、痕を曳くのは、本の意の忘却せられて後、新しい利用の逋(ニ)げ路を開くゆとりのあるものであつた為である。
蓋、水口祭(ミナクチマツ)りに招ぎ降した田の神は、秋の収穫の後、復更に、此を喚び迎へこれまでの労を犒うて、来年までは騰つて居て貰はねばならぬ。田の神上げもせずに、打ち棄てゝ置けば、直に、禍津日の本性を発揮せられたであらう。尤、次年の植ゑ附けまで山に還つて山の神となつてゐられる分は、差支へも無い理であるが、此は一旦標山(シメヤマ)に請ひ降した神が、更に平地の招代に牽かれ依るといふ思想の記念であるらしい。併し、其は山近い里の事で、山に遥かな平野の中の村々では、如何なる方法を採るかゞ考へものである。一郷一村の行事となれば、壇も飾り、梵天塚も築くであらうが、軒別に、さうした大為事は出来よう筈がない。而も其が、毎年の行事である。至極手軽な標山を拵へる方法が、講ぜられねばならぬ。私は、稲むらが此為に作り始められたものだ、と信じたい。
まづ、最初に、nih 一類の語から考へて見る。第一に思ひ当るのは、丹生(ニフ)である。「丹生のまそほの色に出でゝ」などいふ歌もあるが、此は略、万葉人の採り試みた民間用語に相違ない様である。山中の神に丹生神の多いのは、必しも、其出自が一処の丹生といふ地に在つた為と言はれぬとすれば、此を逆に、山中の丹生なる地が神降臨の場所であつた、とも言ひ得られる。江戸時代に発見せられた天野告門(アマノヽノリト)を読んだ人は、丹生津媛(ニフツヒメ)の杖を樹てたあちこちの標山が、皆丹生の名を持つてゐるのに、気が附いたことであらう。私には稲むらのにほが其にふで、標山のことであらう、といふ想像が、さして速断とも思はれぬ。唯、茲に一つの問題は、熊野でにえと呼ぶ方言である。此一つなら、丹生系に一括して説明するもよいが、見遁されぬのは、因幡でくまといふことで、くましろ又はくましねと贄(ニヘ)との間に、さしたる差別を立て得ぬ私には、茲にまた、別途の仮定に結び附く契機を得た様な気がする。即、にへ又はくまを以て、田の神に捧げる為に畔に積んだ供物と見ることである。併し、此点に附いては「髯籠の話」の続稿を発表する時まで、保留して置きたい事が多い。
那須さんの所謂郊村に育つた私は、稲の藁を積んだ稲むらを、何故すゝきと謂ふか、合点の行かなかつた子供の時に「薄(スヽキ)を積んだあるさかいや」と事も無げに、祖母が解説してくれたのを不得心であつた為か、未だに記憶してゐる。ともかくも、同じく禾本科植物の穂あるものを芒(スヽキ)と謂ふ事が出来るにしても、其は川村杳樹氏の所謂一本薄(ヒトモトスヽキ)の例から説明すべきもので、祖母の言の如き、簡単なる語原説は認め難い。田村吉永氏などは御承知であらうが、真土山(マツチヤマ)界隈の紀・和の村里で、水口祭(ミナクチマツ)りには、必、かりやすを立てるといふ風習は、稲穂も亦、一種のすゝき(清音)であつて、此に鈴木の字を宛てるのは、一の俗見であるらしいことを考へ合せると、何れも最初は、右の田の畔の稲塚に樹てた招代(ヲギシロ)から、転移した称呼であることを思はせるのである。
処が茲にまた、こづみといふ方言があつて、九州地方には可なり広く分布してゐるやうである。徳島育ちの伊原生の話に、阿波では一个処、此をほづみと謂ふ地方があつたことを記憶する、と云ふ。果して、其が事実ならば、彼のこづみも、木の積み物又は木屑などの義では無く、ほづみの転訛とも考へ得られる上に、切つても切れぬ穂積・鈴木二氏の関係に、又一つの結び玉を作る訣になる。尚、遠藤冬花氏の精査を煩したいと思ふ。
hot については、私は二つの考案を立てゝ見た。即、一つはそほどと、他の一つはぼんてんと関係があるのでは無いか、といふことである。そほどを案山子だとすることは通説であつて、彼の山田の久延毘古(クエビコ)を以て、案山子のことゝすれば、なるほど、足は往かねども天下のことを知る、といふ本文の擬人法にも叶ふ様であるが、仮に、こつくりさんの如き形体のものであるにしても、たかだか人造の鳥威しの類を些し、神聖化し過ぎた様な気がする。それかと言つて、国学以前から伝習して来た、俳諧者流の添水(ソウヅ)説も、頗、恠しいものである。
私の稲むらを以てそほどとし、或はそほどの依る処とする考へは、勿論、方言と古語との研究から、更に有力な加勢を得て来なければならぬものであるが、前掲の如くぼとと濁音になつて居るのは、頭音が脱落したものであることを暗示してゐる様でもある。またほとは、ほてから来たらしいといふ説も、標山には招代を樹てねばならぬ、といふ点から見て、一応提出するまでであるが、何れにせよ、後に必、力強い証拠が挙つて来さうな気がする。
くろは畔の稲塚だから言うたもので、必、畔塚と言ふ語の略に違ひがないと考へる。じんとととしやくとの二つに至つては、遺憾ながら、附会説をすらも持ち出すことが出来ぬ。
さて、若し幸にして、稲むらを標山(シメヤマ)とする想像が外(ハヅ)れて居なかつたとすれば、次に言ひ得るのは、更めて神上げの祭りをする為に請ひ降した神を、家に迎へる物忌みが、即、新嘗祭りの最肝要な部分であつた、と言ふ事である。神待ちの式のやかましいことは、 誰(ダレ)ぞ。
此家の戸押(オソ)ぶる。新嘗(ニフナミ)に我が夫(セ)をやりて、斎ふ此戸を(巻14)鳰鳥(ニホドリ)の葛飾早稲(ワセ)を嘗(ニヘ)すとも、その愛(カナ)しきを、外(ト)に立てめやも(同)と言ふ名高い万葉集の東歌と、御祖神の宿を断つた富士の神の口実(常陸風土記)などに、其俤を留めてゐる。此等の東人の新嘗風習を踏み台にすれば、我々には垣間見をも許されて居らぬ悠紀(ユキ)・主基(スキ)の青柴垣に籠る神秘も、稍、窺はれる様な感じがする。新嘗・大嘗を通じて、皇祖神(スメロギ)との関係を主として説く従来の説は、どうも私の腑に落ちぬ。小むづかしい僚窓の下でひねくられた物語りよりも、民間の俗説の方が、どれだけ深い暗示を与へてくれるか知れぬのである。
大嘗をおほにへ・おほむべなど云ふに対して、新嘗がにひにへともにひむべとも云ふことの出来ぬ理由は、民間の新嘗に該当する朝廷の大嘗が、大新嘗といふ語から幾分の過程を経て来た為だ、と私は考へてゐる。
全体、万葉の東歌の中には、奈良の京では既に、忘れられてゐた古い語や語法を多く遺してゐる。此から考へると、にふなみといふ語を、新嘗といふ漢字の字義通りに説明する語原説も、まだまだ確乎不抜とは言はれぬ様に思ふ。「葛飾早稲をにへす」といふにへが、単に贄物(ニヘモノ)を献る、といふ今日の用語例と一致したもので無く、新嘗の行為全部を包容する動詞だとすれば、にふなみのにふは、新(ニヒ)の転音だといふばかりで、安心して居られなくなる。私は今は、にへなみ・にふなみ何れにしても、格のてにをはなる「の」と「いみ」との熟したもので、即、にふのいみ(忌)といふ語であるらしいことを附記して、考証の衣を著せられない、哀れな此小仮説をとぢめねばならぬ。
もおずしやうじん
泉北郡百舌鳥(モズ)村大字百舌鳥では、色々よそ村と違つた風習を伝へてゐた。其が今では、だんだん平凡化して来た。此処にいふもおずしやうじんの如きは、殊に名高いものになつて居た。
此村には万代(モズ)八幡宮といふ、堺大阪あたりに聞えた宮がある。其氏子は、正月三个日は、たとひどんな事があつても、肉食をせないで、物忌(モノイ)みにこもつた様に、慎んでゐなければならぬので、堺あたり(堺市へ廿町)へ奉公に出てゐるものは、三个日は、必在処に帰つて、ひきこもつて精進をする。此村から出る奉公人は、目見えの際、きつと正月三个日藪入りの事を条件として、もち出す事になつてゐた。処が、村へ戻れぬ様な事でもあると、主家にゐて、精進を厳かに保つてゐる。労働者なんかで、遠方へ出稼ぎに行つてるものも、やはり、所謂其もおずしやうじんを実行したものだ。でなければ、冥罰によつて、かつたい(癩病)になる、といふ信仰を持つてゐたのである。
もおずしやうじんは、三个日は無論厳かに実行するのだが、其数日前から、既に、そろそろ始められるので、年内に煤掃(スソハ)きをすまして、餅を搗くと、すつかり精進に入る。来客があつても、もおずしやうじんのなかまうちである村の人は、なるべくは、座敷(オイヘ)にも上げまいとする。縁台を庭に持出して、其に客を居させて、大抵の応待は、其処ですましてしまふ。
三个日の間は、村人以外の者と、一つ火で煮炊きしたものを食はない。それから、此間は、男女のかたらひは絶対に禁ぜられてゐるので、もし犯す事もあつてはといふので、一家みな、一つ処にあつまつて寝る。そして、三日の夜に入つて、はじめて精進を落す事になつてゐる。家によると、よそ村から年賀に来る客の為に、酒肴を用意して置いて、家族は一切別室に引籠つてゐて、客に会はない。そして、客が勝手に、酒肴を喰べ酔うて帰るに任せてあつた、とも聞いてゐる。近年は徴兵制度の為に、軍隊に居る者が三个日の間に肉食をしても、別に異状のないことやら、どだい、だんだん不信者の増した為に、厳重には行はれない様になつたさうである。
此風習の起原は、両様に説明せられてゐる。一つは、此村はかつたいが非常に多かつたのを、八幡様が救つて下さつた。其時の誓によつて、正月三个日は精進潔斎をするのだといふ。今一つは、ある時、弘法大師が此村に来られた処が、村は非常に水が悪かつたので、水をよくして下さつた。其時村人は、水を清くして貰ふ代りに、正月三个日は精進潔斎をいたしますと誓つた。其時、証拠人として立たれたのが、万代八幡様であつたとも伝へて居る。
あはしま
どこともに大同小異の話を伝へてゐるあはしま伝説を、とりたてゝ言ふほどの事もあるまいが、根源の淡島明神に近いだけに、紀州から大阪へかけて拡つてゐる形式を書く。
加太(紀州)の淡島明神は女体で、住吉の明神の奥様でおありなされた。処が、白血長血(シラチナガチ)(しらちながしなどゝもいふ)をわづらはれたので、住吉明神は穢れを嫌うて表門の扉を一枚はづして、淡島明神と神楽太鼓とを其に乗せて、前の海に流された。其扉の船が、加太に漂着したので、其女神を淡島明神と崇め奉つたのだ。其で、住吉の社では今におき、表門の扉の片方と神楽太鼓とがないと言ふ。此は淡島と蛭子とを一つにした様に思はれる。しかし或は、月読命と須佐之男命と形式に相通ずる所がある様に、淡島・蛭子が素質は一つである事を、暗示するものかも知れない。
処で、此処に、も一つおもしろい事がある。其は、住吉につゞく堺の朝日明神の社に就ても、同様形式を伝へてゐる事である。白血長血、扉の件は同じで、海に放たれたのを朝日明神様であるといふ。神楽太鼓の件は、此方の話にはあるかないか断言しかねる。7月30日(昔は大祓の日)には、堺の宿院の御旅所へ住吉の神輿の渡御がある。其をり、神輿が堺の町に這入ると、本道の紀州海道は行かないで、わざわざ海岸を迂回して、御旅所に達する。此は、神明の社が紀州海道に面してゐる(宿院行宮も同様海道に面し、神明社の南十町ほどに在る)ので、神明様の怨まれるのを恐れて、避けられるのだと言ふ。此日、朝日明神の社では、住吉の神輿が新大和川を渡つて、堺の町に這入られるから、宿院に着かれるまで、太鼓をうちつゞけに打つ事になつてゐる。此は、神明様の嫉妬・怨恨の情を表象するものだと伝へる。
南(ナ)ぬけの御名号(ミミヤウガウ)
木津には、7軒の旧家があつた。願泉寺門徒が、石山本願寺の為に死に身になつて、織田勢と戦つた功に依つて、各顕如上人から苗字を授けられたと伝へ、雲雀のやうに、空まで舞ひ上つて、物見をしたので雲雀(ヒバル)、上人紀州落ちの手引きをして、海への降り口を教へた処から折口(ヲリクチ)、其節、莚帆を前にして、匿して遁げたのが莚帆(ミシロボ)だなどゝ云ふ話を聞かされてゐた。
其中の雲雀氏は、代々の通称が五郎左衛門で、其苗字の外に、六字の名号を布に書いたのを頂戴して、永く持ち伝へ、家に法事のある毎に、人に拝ませてゐたが、此御名号には唯「無阿弥陀仏」の5字だけしか無かつた。何代目かの五郎左衛門が、放蕩から此宝物を質屋の庫に預け、後に此を受出して見ると、南の一字が消えて了うてゐたので「南(ナ)ぬけの御名号(ミミヤウガウ)」と称して、恐しく神聖な物と考へられて居た。近年はどういふ折にも見せぬ様になつた。
算勘の名人
此は何処からどうして来た人とも、今以て判然せぬが、安政の大地震の時の事である。大阪では地震と共に、小さな海嘯(ツナミ)があつて、木津川口の泊り船は半里以上も、狭い水路を上手へ、難波村深里(フカリ)の加賀の屋敷前まで、押し流されて来た時の話である。木津の唯泉寺(ユヰセンジ)(大谷派)の本堂が曲つて、棟の上で一尺五寸も傾いた。其節誰かゞ十露盤(ソロバン)の名人と云ふ人を一人連れて来て、此を見せると、即坐に、此堂を真直ぐにしよう、と請合うた。さて、自分が堂の中で為事をしてゐる間は、一人も境内に居てはならぬ、と戒めて置いて、自分一人中に入り、門を鎖(シ)め、本堂の蔀(シトミ)までも下して、堂内に静坐し、十露盤を控へて、ぱちぱちと数を詰(ツ)めて行つたさうだ。すると、段々、其が熟して来たと見えて、外から見てゐると、ぎいぎいと音がして、棟も柱も真直ぐに起き直つた、と云ふ事である。現に、此を見て居つたといふ人が、何人か今も居る。
樽入れ・棒はな
木津では若(ワカ)い衆(シユ)の団体たる若中(ワカナカ)の上に、兄若(アニワカ)い衆(シユ)と云ふ者があつた。若中(ワカナカ)に居た時から人望があつた者が、若い衆の胆煎(キモイリ)をするので、其等の家が、年番に「宿」と称して、若い衆の集会所になつたものであつた。
此兄(アニ)若い衆は、すべて、若中を心の儘に左右し、随分威張つてゐた。祭りが近くなると、町々の「宿」の表には、四尺四方ぐらゐな四角の枠の中に、一本隔てを入れたのに、大きな御神燈を二張(ふたはり)括り附けて、軒に懸けてゐた。だいがくに出る揃への衣裳の浴衣地は、此処で分けてくれた事を覚えてゐる。此処は若中の策源地なので、余程こはもてのしたものであつた。
ばうたの哀訴も、此処へ提出せられる事が多かつた。町内の豪家に婚礼があると、此処に集る若い衆が、おめでたのある家の表へ空樽を積み込む。さうして、一挺幾らづゝかの勘定で、祝儀の金を乞ふ。其が憎まれてゐる家である時は、空樽の山を築き、驚くべき入費を掛けさせて、痛快とする。
若しまた、若中或は兄若い衆の怨を買うた節には大変で、更に、ばゞかけと称する野臭の漲つた挙に出る。其は、肥桶(コエタゴ)を宴席に担ぎ込んで、畳の上にぶちまけるので、其汚物の中には蛙・蟇などが数多く為込んであつて、其がぴよんぴよん跳ね廻つて、婚礼の席をめちやめちやにする。十四五年前、木津から半里(ハンミチ)ばかり隔たつた津守新田(ツモリシンデン)の某家から、他村へ輿入れの夜、嫁御寮を始め一同、十三間堀(ジフサンゲンボリ)といふ川を下つて了うた処が、土橋の上に隠れてゐた津守の若い衆が、其船目掛けて、肥桶をぶちまけたので、急に、婚礼の日取りを換へた、と云ふ話もある。
若中の権威は、啻に婚礼の晩に発揮するばかりではなかつた。祭りの際には、兼ねて憎んでゐる家に、棒はなといふ事をする。此は、だいがくの舁(カ)き棒を其家の戸なり壁なりに撞き当てる方法で、何しろ恐しい重量を棒鼻に集中して打ち当てるのだから、堪(タマ)つたものではなかつたさうである。
執念の鬼灯(ホヽヅキ)
「五大力恋緘(ゴダイリキコヒノフウジメ)」に哀れな物語りを伝へた、曾根崎新地の菊野の殺された茶屋は、今年56になる私の母が、子供の頃までは残つて居たさうだ。芝居で見て知るよりも以前から、既に、私等は此話を聞いてゐた。其は曾祖母から口移しの話で、菊野が鬼灯を含んで鳴して居る処へ、源五兵衛(仮名)が来て、斬り殺したと云ふ事で、其執念が残つて、其茶屋の縁(エン)の下には、今でも鬼灯が生えるといふ物語りを、母が其まゝ、私等に聞かせた。子供の時分は、北の新地へさへ行けば、何時でも、菊野のかたみの鬼灯が見られるものと信じて居た。
六部殺し
熊野八鬼(ヤキ)山の順礼殺しのからくり唄に、云ひ知らぬ恐怖を唆(ソヽ)られた心には、この大阪以外には、こんな鬼の住み処も有ることか、と思うてゐたのに、其大阪もとつとのまん中、島の内にも有つたのだとは、此頃始めて、教へ子梶喜一君から聞き知つた。而も、其家の名まで明らかに知れてゐるのは、何だか田園都市の匂ひを感ぜずには居られぬ。
南区三丁目の沖田といふ家は、今はすべて死に絶えて、唯一人残つた老婆が、天王寺辺で寂しく御迎へを待つてゐるといふ。御一新騒ぎの当時、此家へ一夜の宿りを求めた六部があつた。処が、其翌日、彼が立つて行く影も形も見た者が無いのに、其姿は其儘消えて了うた。其後、何処から得た資本ともなく、たんまりとした金が這入つた模様で、色々の事に手を出し、とんとん拍子で指折りの金持ちになつたが、どうも不思議だ、といふ取沙汰(トリサタ)の最中に、主人が死に、息子が死にして、殆ど枝も幹も残らぬ様に、亡びて了うた。長堀から鰻谷(ウナギダニ)へかけて、沖田の六部殺しと言うて、因果の恐しさを目前に見た様に噂した事であつた。
日向の炭焼き
難波(ナンバ)の土橋(ドバシ)(今の叶橋(カナフバシ))の西詰に、--といふ畳屋があつた。此家は古くから、日向に取引先があつたと見えて、土橋の下には、度々日向の炭船が著いてゐたさうである。其炭船が日向へ帰つた後では、きつと行方知れずになる子供が尠からずあつたといふ。此は、畳屋が子供を盗んで、日向へ炭焼きに遣るのだ、といふ評判であつた。其で、私等の子供の頃にも、どうかした折には、土橋の畳屋へ遣ると嚇されたものである。
しゃかどん
大阪府三島郡佐位寺(サヰデラ)に「つの」とも「かど」とも訓む字と、其第三の訓(クン)とを用ゐて、家の名とした一家がある。其一門は、男女と言はず、一様に青黒い濁りを帯びた皮膚の色をしてゐるので、古くから釈迦どんと言うてゐる。唯の黒さでなく、異様な煤け方である。其家の持ち地であつて、今は他家の物となつたと言ふ、村の山地には、釈迦个池と言ふ池がある。
夙村
河内の夙村では、村をとりまく濠やうの池のある事は、郷土研究にも見えた。但、其池はすべて、への字なりになつて居るといふ。
うしはきば
此は、美濃路から東方に亘つてゐると思はれる、馬捨て場と同じ意味の場処である。多くは池の堤や、村から入りこんだ小川の岸などで、大抵人の行かぬ場所にあつた。わりあひに神聖な処と考へられてゐる様である。死んだ牛の皮を剥ぐ場処の意で、はきを清音に言ふ。河内辺に多い地名である。牛を剥ぎにはえたが来て、皮・肉などは貰うて帰るのださうである。馬を使ふ農家はないから、一村の為事に、馬といふ考へは這入つてゐないのである。
名字
木津・難波には、本(モト)と言ふ字のつく姓がある。樽屋が樽本、下駄屋が桐本、材木屋が木元など、皆、其商品を此が資本だ、と言ふ積りで拵へたのである。此は木津に多い。
妙玄・法覚・法西・覚道など言ふのは、難波に沢山ある名字で、戸主が本願寺のおかみそりを頂く節、貰うた法名を、そのまゝつけたのである。その中、会所であつたのをもぢつて改正、商買の質をわけて竹貝(タケガイ)・からやと言ふ屋号を、唐谷(カラタニ)としたのなどは、秀逸の部である。旧来の通称の儘のは、茶珍(チヤチン)・徳珍(トクチン)・鈍宝(ドンボオ)・道木(ドオキ)・綿帽子(ワタボオシ)・仕合(シヤワセ)・午造(ゴゾオ)・宝楽(ホオラク)・雷(カミナリ)・鳶(トビ)・鍋釜(ナベカマ)などいふ、思案に能はぬのもある。
南波屋(ナンバヤ)が南波、木津屋(ヤ)が木津谷(キヅタニ)になつたのは普通だが、摂津・丹波の山間十石から出て来て、屋号としたじゅっこくを名字にしてから、俄かに幾代か前に、十石米を貧乏人に施した善根者があつたので、十石で通ることになつたのだ、と由緒を唱へ出した家もある。皆恐らくは、親類会議や、役場の役人の意見を借りたのであらうが、妙な名字を持つた家の子どもは、大困りである。「茶珍ちやあ(茶)沸せ」「徳珍とっくりぶち破つた」「宝楽(炮烙)わったら元の土」などゝ、小学生仲間から、始終なぶられてゐた。
由緒を誇る雲雀(ヒバル)(「折口といふ名字」参照)も、一歩木津の地を出ると、気恥しいと見えて、中学へ行つた一人は、うんじゃくと音読をしてゐた。道木(ドオキ)の方も、重箱訓みを恥ぢて、みちきと言うてゐた。
人なぶり
はげ八聯隊、横はげ(又、単に横)四聯隊。
はげ山鉄道(てつと)道、汽車すべる。
散文的な文句だが、音勢を揺ぶる様に強く謡うて、くやしがらせる。又みっちゃ面(あばた)には、 へんば(みっちゃの一名。南区船場の口合ひ)火事発(イ)て、みっちゃくちゃ(むちゃくちゃを綟る)に焼けた。
みっちゃを更に、みっちゃくちゃとも言ふのである。
みっちゃみっちゃ、どみっちゃ。ひきずりみっちゃ引っぱった。ひっぱったら切れた。切れたら、つないだ。
へんばは少し下卑た言ひ方である。ひきずりみっちゃは、痘痕(アナ)の続いてゐる旁若無人なあばた面を言ふ。獰猛な顔つきは、子どもの憎悪を唆ると見えて「みっちゃみっちゃ」の唄なども、其では慊(あきた)らぬか「ど、ど(又「ど※ど」)みっちゃ…」と憎さげに言ひかへる事もある。跛足(チンバ)を罵る時にも、同様「ち※ばち※ば。どち※ば」と謡ふ。
文句は確か、此ぎりの短いものであつた。其外か※ち(か清音)めくらなどを嬲る文句も、あつた様だが忘れた。
下水道(スヰド)にはまるとか、糞を踏むとか、泥を握るとかした時は「びゞ※ちょにさぁ(触(サハ))ろまい。石・金踏んどこ(<で置かう)」又は「石・金持っとこ」と言ふ。びゞ※ちょは穢れた人と言ふ意。かう謡ひながら、石なり、釘なり、雪駄の裏金なりを、道ばたで拾うて持つ。びゞ※ちょと言はれた子は、やつきになつて、びゞ※ちょをうつさ(伝染)うとする。石・金を持たぬ子は、びゞ※ちょになつて了ふので、石・金を持つてゐる中は、穢れが移らぬのである。裏金のついた雪駄をはいた者は、どんな事があつても、びゞ※ちょの仲間入りはせぬ。人なぶりから、遊戯に近くなつてゐる。
遊んでゐて、泣くと「泣きみそきみそ」と言ふ。喧嘩に負けたり、虐められた子供の親がおこりに出ると、 子どもの喧嘩に親出すな。親があきれて、ぼゞ出すな。
人の顔を見つめると「人の顔見る者(モン)、飯(マヽ)粒・小つぼ」と言ふ。名前をよみ込む文句では古いのは、 信(ノブ)こ。のったらの※十郎(ジユウラウ)。のらのっち※ぺぇら(ぽいらとも)。 勝こ。かったらか※十郎。からかっち※ぺぇら。
幾分新しいのでは、
寅こ。とっと言へ。とりき、とゝりき、とやまのとんのくそ。
清(キヨ)こ。きっと言へ。きりき、きゝりき、きやまのきんのくそ。
など名がしらの音を、頭韻(ありたれいしよん)に挿んで、誰にでも当てはめる。又、
せいやん雪隠(センチ)で、ばゝ(糞)こ(泌)いて、まっちゃん松葉で掻きよせて、たぁやんた※ご(たご--角桶)で汲みに来て、みいちゃん見に来て臭かつた。
清造とか、松太郎とか、辰三・簑吉とか、名がしらの、此歌の中にあるものが一人でもあると、謡うて悔しがらせる。何でもない事の様で、讒訴に堪へられぬ憤懣を感じたものである。男の子と女の子とが遊んでゐると、
男とをなごとあすばんもん(物)。一間(イツケン)まなかに(の?)疵がつく。
又「男とをなごときっきっき」。痛いと叫ぶと「いたけりや、鼬の糞つけい」と言ふ。
らつぱを羨む子ども
10年程此方(このかた)、時々、子どもの謡ふのを聞く。軍人や、洋服を着た学生を見ると「へえたいさん。ちんぽと喇叭と替へてんか」と言ふ。20年前に子どもであつた私らの知らぬ、軍人羨望或は崇拝である。大正2年、阿蘇山を越して、豊後の竹田辺でも、此歌を旅姿の我々に、女の子の謡ひかけたのを聞いた。勿論、女の子の物をよみ入れてゐた。
 
用水・池・湖の伝承

七ヶ用水の歴史とその伝承
霊峰白山を源とし流れ出る手取川は古来より暴れ川と言われ、氾濫を繰り返しながら「七たび水路を変えた」と伝承される。現在の位置へと移り変わる間に日本でも代表的な扇状地を形成した。その本流跡、分流としてできた七つの用水は、平安時代後期より地域における稲作の発達とともに田畑に水が引かれ、いつの頃からか「七ヶ用水」と呼ばれるようになった。その歴史は水との戦いであり、水不足や洪水などで農民たちは幾多の困難を乗り越えると同時に、加賀百万石の礎を築きこの地域を育んできた。
見沼代用水の歴史とその伝承
「見沼溜井」の造成から「見沼代用水」の開削に至る歴史的背景、農民の苦労、土木技術、民話、伝説等について語る。かつては武蔵の国第一の大沼だった見沼を伊奈忠治が寛永6年に「八丁堤」で締め切り大きな溜井(見沼溜井)を造って下流5,000haの農地を潤した。その約100年後、新田開発を奨励した8代将軍徳川吉宗は井澤弥惣兵衛を起用し「見沼溜井」を開拓し、1200haの新田を拓いた。開拓にあたり見沼溜井の代わりとして利根川に水源を求め、60kmの用水路(見沼代用水)をわずか半年で開削した。見沼代用水については、現在も15,400haもの水田を潤す農業用水として活用されているとともに、埼玉県民や東京都民の水道用水としても利用されている。
来間島の地域興しの語り〜島に嫁いできて〜
私が嫁いできた頃、22年ほど前の来間島(くりまじま)は大変貧しく、干ばつがあると大変な被害がでる島だった。ユイマール*で細々とさとうきびや葉たばこの栽培を営んでいた。私も義父の葉たばこを手伝う傍ら、畜産をはじめて牛を増やしたり、平成元年からマンゴーの栽培をはじめた。農業基盤整備事業が進み、農業生産高が上がると同時に、平成7年に宮古島と来間島を結ぶ来間大橋が架かり、かんがい用水も整備され、ますます農業がやりよい環境になった。平成12年に、夫が経営するマンゴー園が有機JAS認証をとり、マンゴーの全国発送もさらに好調になってきている。平成14年には有限会社「楽園の果実」を立ち上げ、島内産の食材を用いたカフェや特産物販売、手作り食品館(農産物加工施設)での農産物加工など、いかに宮古島産の農水産物に付加価値をつけ販売するか!「島」をいかに知ってもらうか!日々奮闘中。ユイマール/さとうきび刈りを共同で行う農作業など、沖縄における相互扶助のこと。
田沢湖の辰子(たっこ)
昔々、院内の神成沢に三之丞という家があって親達と娘と三人で暮らしていた。辰子という娘は母親が四十近くになってから生まれた娘で子供の頃からかわいくて、娘盛りなったら本当に美人になりみんなにきれいだきれいだとほめられていた。或る時、水鏡に映った美しい自分の姿を見ていて、いつまでも若く、美しくいたいと大蔵山の観音様に願をかけることを決心した。そして、みんなが眠った百日目の満願の夜、ついに願いは聞き入れられ、やがて辰子は・・・。そして田沢湖が生まれ、今も田沢のタッコとして語りつがれている。今でもその水は田沢疏水として1万五千町歩の仙北平野に大きな富をもたらしている。
大芦池のいわれ
岡山県美作市上山にある大芦池の由来。昔、大木のおおう山に2人の男が来て田を開き、稲を作る。それを見て、多くの人が田を開くが水不足になる。2人は山中に芦の生えた場所を見つけ、池を造ろうと提案。人々は2人を信じて池を掘る。翌春には水が溜る。堤防を高くし、水路を作り、水田は広がり、上山地区の棚田となる。暮らしが楽になって人々は、2人を上山神社として祭り、池を大芦池と呼ぶようになった。
割亀井堰と人柱地蔵
岡山県新見市大佐千谷にある割亀井堰の由来。小阪部川をせき止めて割亀の井手が造られていたが、洪水でたびたび流失。千谷地区では稲ができない。困った村人が相談、人柱を立てることにする。六部に頼むと村人のためならと人柱になる。それから井手は洪水でも流されなくなった。六部を祭ったのが人柱地蔵である。
おだきさん
栃木県高根沢町の伝説で、現在も農業用水として活用されている湧水池「おだきさん」にまつわる話である。
むかし、美しく、心やさしい「おだきさん」という村の評判の娘がいた。江戸時代は天明の時、日照り続きのため、農作物不作による大ききんがあった。貧しい百姓の娘だった「おだきさん」は、村の庄屋をしている弥平の家に奉公に上がった。「おだきさん」は、よく働いたので、みんなから可愛がられた。特に、跡取りの弥一は「おだきさん」を気に入り、「おだきさん」も弥一を好きになっていた。しかし、身分の違いから、結婚はあきらめていた。そんなある日、弥一に縁談が持ち込まれ、結婚が決まった。病身になった「おだきさん」は、裏山の森の中の泉に行き、誰にも云えなかった胸の内を涙に込めて、ぽとりぽとりと泉に落とし、入水した。以来、「おだきさん」の落とした涙の跡から、こんこんと清水が湧き出して、どんな日照りが続いても枯れることなく、弥一の田はもちろん、周囲の田を、今も潤している。

日本将棋の起源

日本将棋の起源とケガレ思想による将棋のマネーゲーム化
将棋(しょうぎ)とオセロというのは日本で最もポピュラーなボードゲーム(盤上遊戯)であり、子ども時代に誰でも一度は友人と勝負したことがあるゲームだと思いますが、将棋は特に古来から日本にある伝統のゲームという一般認識が持たれています。日本の将棋、中国の象棋(シャンチー)、西欧のチェスを合わせて世界三大将棋といいますが、それらの起源を遡ると古代インドで発明されたチャトランガという立体駒を用いたボードゲームに辿り着きます。韓国の将棋(チャンギ)やタイのマークルックといったチャトランガ起源のゲームもありますが、それらは基本的に相手の王を倒そうとする「戦争」をモチーフとしたボードゲームと見なされています。
基本的に将棋を指す場合には、「玉将(王将)」を自軍の頭領とする軍団をイメージし、「飛車(龍王)」や「角行(龍馬)」を武勇に優れた猛将、「金将」や「銀将」を王を補佐する側近の武将、「桂馬」を騎馬、「香車」を槍(飛び道具)、「歩兵」を足軽(雑兵)と見なす人が多いと思います。日本の将棋を、論理的な推測能力と棋譜の記憶能力を駆使した「戦争のバーチャルゲーム」と見なすのは一般的な認識ですが、将棋には「持ち駒(取った駒)の再利用」と「玉将を取らずに詰む(動けなくする)」という独創的なルールがあります。日本の将棋の特徴は、将棋の各駒に「象徴的な死」が存在せず、何度でも持ち駒として復活しもう一度ゲームに参加させることが出来るということです。チャトランガ起源の他のゲームにはこの「持ち駒の再利用のルール」は存在せず、相手に取られてしまった駒は「死」を迎えて二度と使うことが出来ません。
将棋の駒の名前を見ると「玉(宝玉)・金・銀・桂(肉桂,シナモン)・香(香料)」という仏教経典に登場する宝物・珍品の名称がつけられており、戦争ゲームとしての統一感を弱めようとしているとも取れるのですが、井沢元彦氏の「逆説の日本史8 室町文化と一揆の謎」の第四章「室町文化の光と影編」に興味深い将棋についての解説があります。井沢元彦氏は「倒した敵(相手の駒)」がゾンビのように蘇って「味方の兵士(持ち駒)」として再利用できる将棋は戦争ゲームではないという結論を出しており、日本の将棋は「戦争ゲーム」がケガレ思想と言霊思想によって「マネーゲーム(宝物取りゲーム)」に変質したものであるという仮説を提示しています。将棋の原型となるゲームがいつ日本に輸入されたのかについては定説がありませんが、遅くとも平安時代までには日本に将棋の原型となるゲームがもたらされ、室町時代末期(16世紀・戦国時代)頃に現在の持ち駒を再使用できる本将棋の形式が整えられたと考えられています。1696年に書かれた「諸象戯図式」では、天文期(1532年-1555年)に第105代・後奈良天皇(在位1526-1557)が藤原晴光(ふじわらのはるみつ)・伊勢貞孝(いせさだたか)に命令して、小将棋から酔象の駒を取り除いて現在の本将棋の原型が成立したとされています。
ケガレ思想というのは簡単に言えば流血と死穢(しえ)を徹底して嫌う思想であり、天皇が居住する京都(近畿)を最も清浄な場所としてそこから離れれば離れるほどケガレが強まるという考え方のことです。ケガレ思想は天皇を中心とする小中華主義と融合しながら、後世において種々様々な差別偏見の淵源となる弊害をもたらしましたが、古代日本の貴族階級(公家階級)において普遍的な世界観を構成していました。平安時代の藤原氏をはじめとする上級貴族たちは、京都から遠く離れた辺境の地に国司として赴くことを嫌い、遙任国司となって代官の受領(ずりょう)を任命地に赴かせましたが、それは文明の地を離れて生活が不便になるという理由だけではなくて、京都から離れれば離れるほど穢れの強い地に入るという宗教的な恐怖(偏見)を持っていたからです。貴族(皇族)から賜姓源氏・賜姓兵士として派生した武家が身分的に差別されたのも、敵を殺傷する戦闘行為によって死穢に触れるからですが、その忌避する武力によって朝廷の勢力圏(貴族の生活圏)が護られていたことを考えると嫌な仕事を他人に押し付ける身勝手な思想ではあります。
日本人は戦争や政争の敗者を手厚く葬って祭祀した歴史を持つ世界でも珍しい民族ですが、それは「敗者(死者)の怨念・憎悪」が死後にも残留して、自分たちに何らかの災厄や危険をもたらすという怨霊信仰を古代の日本人が深く信じていたからです。大国主命を祭祀した出雲大社や菅原道真を祀った太宰府天満宮、後醍醐天皇の霊を慰めた天竜寺など、日本には無念・遺恨を残して死んだ争いの敗者を祀った神社・寺院が相当多くありますが、ギリシアのポリスでもローマ帝国でも中華帝国でもイスラム帝国でも、戦った相手(敗者)を滅亡させた後に、死後の復讐(怨恨)を恐れて祭礼施設(宗教施設)を建設した事例などはまずありません。ヨーロッパの神話や伝説などで敗者の亡霊などが登場することは確かにありますが、各民族の支配層が持つ信仰として、人が死ぬ軍事活動(戦争)を完全に嫌悪して放棄するほどの死穢思想が根付いた地域は恐らく日本以外には無かったのではないかと思います。
そういった死のケガレを恐怖して遠ざけようとする思想的背景を考えると、井沢氏の仮定する「将棋のマネーゲーム化」は興味深い仮説に思えますが、それと対置する大内九段の仮説では南北朝時代の「寝返り・裏切りを当然とする風潮」が持ち駒の再利用のアイデアにつながったとしています。三国志や戦国時代のテレビゲームでも倒した敵方の武将を自軍の武将として再活用できるので、大内九段の寝返り(捕虜再利用)仮説にも現代的視点からは説得力を感じますが、日本古来の伝統的思想の系譜を踏まえると井沢氏のマネーゲーム化したとする仮説も想像力を刺激されて興味深いと思います。言霊思想との関連では「不吉な事柄を言葉にすればそれが現実になる」という意味で、王の死を忌避して将棋の駒の名前を財物化したということになるのですが、言霊(コトダマ)は現代日本においても縁起やジンクスとして「悪い未来を招き寄せるような言葉を言うべきではない(縁起でもない)」とする形で残っている部分があります。
最後に歩兵が成ると「と金」になりますが、なぜ、「と金」というのか「と金」とは何なのかについて実に明確な説明がなされておりなるほどと思われました。井沢氏の「と金説」は定説からすると異端なのだと思いますが、Wikipediaのと金の説明よりも個人的には説得力があるような感じを受けます。鍍金という言葉(呼び方)がいつから使われていたのかという問題もありますが、武具などのメッキ技術そのものは日本の古代から存在しています。
そういえば、将棋の歩が成って金将と同じ働きをするようになった時、なぜ「と金」というのか。それは「鍍金(ときん)」であろう。鍍金とは「金メッキ」のことである。では、当時の日本人にとって最も身近な「鍍金物」は何かといえば、それは仏像なのである。当時は木造仏の方が多かったから、科学的に厳密に言えば「金メッキ」ではなく、「金箔を押したもの」なのだが、古代に造られた仏像が本当の金メッキ(例・奈良の大仏)であったこともあり、当時の日本では「金のコーティング」のことをおしなべて「鍍金」と呼んでいたのである。
金ではないが金と同じ働きをするもの→鍍金という発想が出てくるのは、まさに僧侶と親しい貴族階級であって、武士ではない。そもそもこの時代の武士はそれほど文化的に成熟していない。そういう観点から見ても、やはり将棋は公家文化の精華と考えるのが最も妥当であろう。
Wikipediaの「将棋」の項目には、封建的思想・軍事的指向の強い競技や娯楽の排除を狙ったGHQが「将棋はチェスとは違い、敵から奪った駒を自軍の兵として使う。これは捕虜虐待という国際法違反である野蛮なゲームであるために禁止にすべきである」という理由をつけて、将棋を廃止しようとしたという話が掲載されています。しかし、井沢氏のマネーゲーム化仮説を採用するとすれば、将棋は「象徴的な死者を出さないように工夫されたボードゲーム」ですから、GHQの日本の再軍事化を懸念する主張は的外れであったということになりそうです。 
 
うわさ話

道鏡 
天皇が信頼のできる側近を重用するのは当然といえば当然だが、奈良時代の女帝・称徳天皇の道鏡(生年不詳〜七七二)に寄せる信頼は度を越したものだった。
道鏡は禅宗の僧で、加持祈鵡によって病気を治癒するすべに長けていた。称徳天皇の信頼も、病で臥せったとき、道鏡の祈鵡によって治ったことに端を発する。
道鏡は称徳天皇の後ろ盾で出世し、大臣禅師から左大臣にまで昇進した。さらに、その上の位である太政大臣禅師に任じられ、七六六(天平神護二)年には法王に任命されている。衣・食・住まで天皇と同等の待遇とされ、道鏡の住んでいる由義宮は、西京と呼ばなくてはならなかったほどだった。
七六九(神護景雲三)年には、「道鏡を天皇にすれば天下泰平になる」との字佐八幡の託宣があったとされ、大騒ぎになった。
称徳天皇の命で託宣を確認しに行った近衛将監・和気清麻日は、託宣はこれとはまったく反対であったと報告をする。これが称徳天皇と道鏡の怒りを買い、清麻呂は九州の大隅国へ左遷されてしまった。
このように、称徳天皇の偏愛ぶりはすさまじいものだったのである。
称徳天皇は、道鏡と夫婦同然の生活をしており、道鏡のなすがままだったともいわれる。「日本霊異記」には、「弓削(道鏡の俗姓)の氏の僧侶道鏡法師、皇后と同じ枕に交通し:::」という記述がある。「交通」とは、つまり性交のことである。
称徳天皇を虜にした道鏡の男としての魅力とは、何だったのか。
諸説あるが、道鏡は情事の際に密教のさまざまな秘術を使い称徳天皇をよろこぼせたという。また、たいそう立派な一物の持ち主で、それを使って称徳天皇をいいなりにしたともいわれている。
驚くことに、日本で初めて女性上位の体位を実践したのは、称徳天皇と道鏡だったとされる。初めての経験に、称徳天皇が夢中になったとしてもおかしくはないかもしれない。 
最澄

 

平安時代初期の僧・最澄(七六七〜八二二)は、一九歳のとき東大寺で受戒したあと、比叡山で草庵を結んで修行に励み、その後、桓武天皇に見出されて八〇四(延暦二三)年に遣唐使に随行し、唐に渡った。
最澄は、円密禅戒(天台・密教・禅・戒律)を学び翌年に帰国すると、天台宗を閉創し、法華経の教えを広げるとともに、僧侶を育成する戒壇の設立に尽力した。
最澄が随行した遣唐使と同使で入唐したのが、真言宗の開祖・空海である。空海は最澄より一年長く唐に滞在し、恵果和尚から真言密教を伝授された。多くの経典・仏画・仏具などを携えて帰国すると、最澄と空海は交友関係を持つことになる。
帰国後、自らが学んだ密教だけでは不完全と感じた最澄は、空海が密教の奥義を修得して帰国したことを知ると、唐から持ち帰った密教の書物を借り、弟子入りして教示を請うのである。
最澄の熱意に打たれた空海は快く書物を貸したが、八一二(弘仁三)年末、最澄が「理趣釈経」の借用を申し出ると、「汝が心を正しくし、汝が戯論を浄めて、理趣の句気、密教の逗留を聴け」と拒否した。自分の元で真言宗を修学せずに、奥義だけを手に入れようとする最澄に不信感を抱き始めたのである。
以来、二人の関係は急速に疎遠になる。そしてついに、二人が挟を分かつ決定的な出来事が起こる。
最澄は、自ら密教を学ぶとともに、円澄・賢栄・泰範・光定などの弟子たちを空海の元に送り、「真言秘法」を受法させていた。自分は空海の元で長い期間修行することはできないので、代わりに弟子たちに密教を学ばせようとしたのだろう。
だが、不運にもこれらの弟子のうち、泰範がそのまま空海の元にとどまってしまったのである。
泰範は、比叡山の総別当を任されていたことから、最澄にとって特別な存在だったことがわかる。最澄は初め、厨子を泰範に貸し与えてもらえるよう、空海に頼むなどしていたが、日がたつにつれ不安が募っていった。帰ってくるように手紙を出したが、泰範が戻ってくることはなかった。
空海と絶交したあとも、最澄はたびたび泰範にあてて手紙を書いている。そこには、「泣きの涙であなたの帰りを待っている」とか「捨てられた同法、最澄」などと、まるで恋人に捨てられたような言葉がつづられているのである。
後世になって、最澄と空海の仲たがいの原因が、泰範をめぐるホモセクシャルな三角関係だったと語られるようになった。
しかし、最澄が高齢に近いことを考えると、泰範との関係は肉欲的なものではなかっただろう。最澄は純粋に、泰範を優秀な弟子として自分の元に置いておきたかったのである。
のちに空海の十大弟子の一人となるほど優秀であった泰範の離反は、最澄にとって大きな打撃となった。深い孤独に陥った最澄は、空海を非難するばかりか、旧来の南都諸宗とも対立するようになり、寺院社会から孤立を深めていったのである。 
紫式部 

 

( 〜1020年前後) 同じ平安時代の才女であっても、才気活発な清少納言に対して、紫式部(生没年不詳)のほうは、控えめで空想好きな女性といったイメージで語られることが多い。
しかし、式部は初めから物静かな女性だったわけではない。少女のころは活発で明るい性格だったという。
大学寮で詩文や歴史を教えていた父・藤原為時、歌人として有名な藤原為信の娘だった母から才能を受け継ぎ、父が兄に教えた「史記」を隣の部屋で問いただけで、兄よりも先に覚えてしまうほと、記憶力もよかったらしい。
式部は二二、二三歳のときに、四〇代半ばの藤原宜孝と結婚し、女の子をもうけた。親子ほど年が違い、宣孝には妻や妾もいたが、式部の結婚生活は円満だった。
しかし、幸せな生活は長く続かなかった。わずか三年ほどで宣孝が他界してしまったのである。
式部は幼い娘を連れて実家に戻り、そこで未亡人としてひっそりと暮らしながら、寂しさを紛らわせるために「源氏物語」を書き始めた。式部はこのまま実家で娘と暮らし、気ままに物語をつづって余生を過ごすのだと感じていただろう。ていしみちながところが、中宮定子に仕える清少納言に対抗できる女房を探していた藤原道長が、式部の才能に目をつけた。そして道長の命により、式部は道長の娘で一条天皇の中宮である彰子に仕えるようになり、宮廷生活を送ることになったのだ。
一説には、式部は道長にいい寄られて、彼と愛人関係にあったともいわれている。
しかし、式部の言動を見てみると、彼女の関心は道長よりも、むしろ仲間の女房たちに向けられていたようである。
式部は、女友だちと「お姉さま」「妹君」と親しく呼ぴ合って文通を交わしたり、小少将の君という女と同じ部屋で暮らしていたりした。小少将とのあまりの親密さに、道長は「相手の恋人が忍んできて間違えて袴をともにするようなことがあったら困るではないか」と式部に苦情をいうほどだった。
式部の日記を見ても、美人といわれる女性の記述が多く、「肌が白く、むっちりと肉がついて」とか、「スタイルがすばらしく洗練されている」などと、細かい身体描写や性格描写をしている。そこに見られるのは、まるで男が女に送るかのような、嘗めるような視線だ。彼女が、 同性に対して尋常ではない関心を抱いていたことがうかがえる。
こうした事実から推測すると、式部が控えめな女性とされているのは、宮中のほかの女房たちのように、競って男の気を引くようなことをしなかったからといえるかもしれない。
式部が実際に同性同士で肉欲にふけったかはわからないが、彼女が男性の魅力よりも女性の魅力のほうに引きつけられていたのは確かだろう。 
藤原頼長  

 

平安時代末期の有力貴族に、藤原頼長(一一二〇〜一一五六)という人物がいる。
関白・藤原忠実の次男として生まれた頼長は、当時の知的階級である貴族のなかでも第一級のインテリだった。本来なら兄の忠通が父の跡を継ぐところだが、忠実が長男の忠通を嫌って頼長ばかりかわいがったため、忠通と頼長は対立して政権を争うようになる。
そういう兄弟関係のためか、頼長は自分に逆らう者たちに容赦がなかった。鳥羽上皇の近臣・藤原家成と対立してその邸宅を破壊するなどといった過激な処断を行ない、鳥羽上皇の近臣たちとも対立を深めていく。そのため、鳥羽上皇の近臣たちは頼長と敵対する忠通に接近した。
やがて勃発した保元の乱では、忠通が鳥羽上皇側についたのに対し、頼長は崇徳天皇側についた。結局、頼長は夜襲を受けて敗走する途中、矢に目を射られて死亡した。
平安貴族にしては波乱万丈な生涯を生きた頼長は、「台記」という日記を書き残している。
「日本第一の大学生」と称賛された頼長らしく、学問に対する精励ぶりがうかがわれる内容だが、その一方で、少々特殊な性的晴好についても、赤裸々に記述されている。
頼長には正室も側室もおり、子どももいるが、男色趣味もあったのだ。しかも、日記によると、どうやら挿入する側より、される側が好みだったらしい。
これは、エリートである頼長にとっては大問題だった。
当時は男同士の関係も珍しくはなかったが、どちらが女役をするかとなると、どうしでも地位が関係してくる。宮廷の公卿同士の男色関係では、自分よりも位の高い者を犯すのは気後れしてしまうものだ。そのため、頼長自らが挿入する側にならざるをえなかったのである。
やむなく頼長は、自分に仕える身分の低い者を男色の相手にした。いっそ低位の者なら、身分の上下に関係なく、遠慮なく挿入してくれるのではないかと期待したのである。実際に彼は家司、随身、雑色といった低位の人々と関係を持っている。
ところが、一一四四(天養元)年、頼長にとってうれしい出来事があった。かねてより関係のあった皇族の三位中将が、以前とは逆に男役をしてくれるようになったのである。身分があるうえ、頼長の希望に沿ってくれる相手を見つけたというわけだ。
頼長は「ついに本意を遂げられた」と、その感激を日記に書き記している。
また、家臣のなかでも特に寵愛した秦公春という者が、一一五三(仁平三)年一月に死ぬと、しばらくは公の仕事を放棄してしまうほど落胆したという。
過激なインテリ公卿だった頼長は、意外なほど性愛の欲望を抑え切れない甘さと弱さを持つ人物でもあったのだ。 
北条政子  

 

源頼朝の妻・北条政子(一一五七〜一二二五)は、頼朝の存命中は御台所(将軍の正室)として幕府のなかで重きをなし、頼朝の死後には幕府を支えて「尼将軍」と呼ばれたほど、為政者として活躍した女性である。
この政子には、たいへんなやきもち焼きという一面もあった。それを示すのが、鎌倉幕府の史書「吾妻鏡」にも書かれた「亀ノ前事件」である。
一一八二(寿永元)年六月、政子が長男の頼家を身ごもり別宅に移っていたとき、頼朝は愛妾の亀ノ前と関係していた。彼女は、頼朝が伊豆にいたころから親密な間柄であった人物で、一年も前から不義を重ねていたのだ。
それだけでなく、外聞をはばかってか、頼朝は家臣の家に亀ノ前を招き入れている。
つまり、家臣に浮気の手伝いをさせたわけである。
同年一〇月、出産を終えた政子が、頼家を連れて頼朝の屋敷へ戻ってきた。もっとも、自分の出産中に夫が浮気をしたことなど気づいていなかった。
政子が不義を知ったのは、自宅に戻った翌月、政子の父・北条時政の親子ほど年の離れた後妻で、政子にとっては継母にあたる牧ノ方が、告げ口したのである。
政子はたちまち激怒して、牧ノ方の一族である牧三郎宗親に命じ、亀ノ前がそのころ身を寄せていた御家人の伏見広綱の屋敷を破壊させてしまった。
これは、そのころ時折見られた「うわなり打ち」の風習だと思われる。当時は、夫が妻の家に住み、妻の実家に生活の面倒を見てもらうという結婚形態が一般的だった。
そのため、投資した夫がほかに女をつくったとき、妻には「うわなり(二人目以降の妻)」の家を襲って乱暴を働く権利が黙認されていたのである。
そういう風習があったとはいえ、政子の場合、家を丸ごと壊してしまったのだからすさまじい。広網と亀ノ前は命からがら脱出し、大多和義久という者の家に避難した。
この事件を知った頼朝は激怒し、かえって意地になったのか、亀ノ前をますます寵愛したが、亀ノ前は政子の怒りを恐れてびくびくしていたという。
頼朝を愛するがゆえの憎しみとはいえ、政子の気性の激しさを物語る逸話である。 
北条泰時  

 

武家政権最初の成文法は、鎌倉幕府三代執権・北条泰時(一一八三〜一二四二)が、一二三二(貞永元)年に編纂した「御成敗式目(貞永式目)」である。泰時は、これらの制定により、鎌倉幕府の基礎を固めた人物として高く評価されている。
御成敗式目は、基本的に、私情やえこひいきを退けて公平な裁判を行なうためのものだ。それを制定した泰時は、情に厚く、人格的にもすぐれ、武家・公家の双方から人望が厚かったと伝えられている。
そんな泰時にとって、自分の弟妹だけは特別な存在だったようである。弟妹に盲目的ともいえる愛情を注いでいたことがうかがわれるエピソードが、数多く残されているのだ。
例えば、父・義時の死後、遺領の配分を決める際、泰時は弟妹たちに多くの領地を与え、自身は少ししか取らなかった。「自分よりも弟妹に」という彼のやさしさに、尼将軍と呼ばれ幕府の最高権威者となっていた伯母の北条政子(源頼朝の寡婦)は、感涙したという。
また、あるとき幕府で評議中に、弟の名越朝時の館に賊が押し入ったという知らせが入った。すると、泰時はただちに馬を走らせ、朝時の館に駆けつけたのである。
泰時の家来の平盛綱が、「執権という重職についておられるのですから、ご自分で駆けつけず、私たちを差し向けるべきです」と諌めると、泰時は「朝時が敵に囲まれているのは、他人から見れば小さな事件だろうが、兄の気持ちとしては大きな合戦と同じ一大事なのだ」と答えた。
あとでこの話を聞いた朝時は、「子孫に至るまで泰時の系統に対して無二の忠を尽くす」という内容の誓文を書いたといわれている。
ただし、これらの逸話は、必ずしも泰時と弟妹たちとの結束が強かったことを示しているとはいえない。
朝時をはじめ、泰時の弟妹たちは母親違いで、総執がある者もいた。なかでも、父・義時が円以後の妻・伊賀の方との聞にもうけた政村に至っては、義時の死の直後、母親にかつがれて泰時を廃する陰謀に加担している。
しかし、泰時はこの政村も許しているのだ。
もっとも、これはただ弟妹たちに甘かった、というだけではない深い事情があったようだ。弟妹たちに強圧的な態度をとれないという、泰時の不安定な立場もうかがえるのである。
当時、北条一族は男子だけの系図を見ても、三〇人以上という大家族となっていた。しかも、それぞれが館や所領の地名を冠していて、分流の傾向が色濃くなってきていた。
弟たちは味方にすればこの上なく頼りになるが、一歩間違えれば執権の対立候補となる可能性を秘めているということになる。そのような状況のなか、北条一族が瓦解せぬように全体をまとめ上げ、一族を結束させるのが泰時の果たすべき務めであった。
泰時は、弟妹たちを愛していたというより、弟妹たちに気を使い続けた苦労人だった、と考えたほうが正しいのかもしれない。 
新田義貞 

 

新田義貞(一三〇一〜一三三八)は、腐敗が著しい鎌倉幕府と北条家の支配に耐え切れず、後醍醐天皇の挙兵要請に応じ、鎌倉攻略に成功し倒幕の偉業を成し遂げた名将である。
ところが、天皇を奉じての新政のなかで、倒幕に尽力した武家を軽んじる風潮に不満が高まっていく。天皇と足利尊氏との対立が深まり、いつ争乱が起きてもおかしくない一触即発の雰囲気が漂っていた。
結局、尊氏は後醍醐天皇と袂を分かって鎌倉に本拠地を置いた。一方、義貞は変わらぬ忠誠を誓って京にとどまり、天皇からの寵愛を受ける。鎌倉時代、衰退の一途をたどっていた新田家に、栄達の道が聞かれたときであった。
その都での生活で、義貞が出会ったのが勾当内侍である。
「太平記」の記述によれば、二人の出会いは秋の夜の宮中であった。武者所の長官として宮中の警護にあたっていた義貞が、琴をかき鳴らす勾当内侍を竹垣越しに見初めたのだ。
勾当内侍は、天皇側近として秘書的な役目をしていた評判の美女だった。その夜から彼女に恋い焦がれるようになった義貞は、歌や手紙を送り、思いのたけを訴えた。
そのうわさを聞きつけた後醍醐天皇は、義貞に内侍を下賜したのである。
彼女の役割からして、天皇お手つきの一人だった可能性は高いが、義貞が功臣であることに厚情をかけ、これを許したのだろう。以後の義貞と勾当内侍の仲は、非常にむつまじいものだった。
しかし、その一方で、義貞の内侍への執着は、やがて彼自身を滅ぽすことになる。
都で内侍との生活を営む聞も、新田対足利の対立は続いており、入京を狙う足利軍討伐のために義貞はたびたび出兵しなければならなかった。
一三三六(建武三)年、義貞との戦いに敗れて九州に落ち延びていた尊氏が、西国諸国の武将たちの力を借りて軍を立て直し、東征してきた。義貞は迫撃して尊氏軍を壊滅させるか、迎え撃ちに出るかしなければならないところである。
だが、義貞は内侍を思う気持ちが強く、武士としての闘争心を失ってしまっていた。彼は、どうしても内侍と別れ難く、追撃をやめたばかりか、出兵もあと一日、あと一日と延ばしてしまう。その聞にも尊氏軍はどんどん兵を進め、湊川の戦いで天皇軍を率いていた楠木正成を破り、入京してしまった。
後醍醐天皇を奉じ比叡山へと逃れた義貞だったが、ここでも内侍との愛欲におぼれ、京都奪回に出遅れるという大失態を演じる。
義貞はさらに越前まで内侍を連れていこうとしたが、先々の苦労を考え、琵琶湖畔の今堅田(現・滋賀県大津市)に彼女を残し、必ず迎えに来ると約束して別れを告げた。
しかし義貞は、その後、越前で敗死するまでの二年間、生きて彼女と会うことはかなわなかった。内侍が義貞に呼ばれて越前へ向かっているさなか、死んでしまったのである。悲しみに沈み京都へ戻った内侍が再会したのは、獄門にさらされた義貞の「首」であった。
「太平記」は、「美女はひとたび笑んで国を傾く」と古人がいったのは本当のことだと、一時は栄華を極めた武将の死を伝えている。 
後醍醐天皇 

 

後醍醐天皇(一一八八〜一三三九)といえば、足利尊氏や新田義貞らと組んで鎌倉幕府を倒し、短期間ながら雄武の新政を行なった人物である。
政治の実権は鎌倉の北条氏に握られ、京都の朝廷でも院政が続いていた時代、後醍醐天皇はそれをよしとしなかった。二二一二(元亨元)年から、父の後宇多法皇による院政に代わって天皇自身による政治を行ない、さらには鎌倉幕府を倒 して天皇親政を完成させたのである。
そこから想像するのは、理想にあふれ、意志の強い、高潔な人物像ではなかろうか。
だが後醍醐天皇は、それとはかけ離れた、むしろ好色で性的にかなりくだけた性格だったと思われる。
彼は生涯、三三人以上の妃嬪を持ち、ほぽ同じ数の皇子皇女をもうけている。この「英雄色を好む」を地でいった、奔放に生きた人数は、後宮の数が多かったことで知られる嵯峨天皇や亀山院の子どもの数を、はるかに上回っている。それゆえ、妃蹟聞に勢力争いが生じることも避けられなかった。
「太平記」には、彼の好色ぶりがうかがえるエピソードが記されている。鎌倉幕府時代、後醍醐天皇は無礼講と称してたびたび酒宴を催した。招かれた人々はほとんど裸で、肌の透けて見える薄い着物しか着ていない美女たちに酌をさせたという。
「太平記」は歴史書ではなく物語なので、記述のすべてが史実とは限らない。だが、この宴席については、のちに後醍醐天皇と対立することとなる花園院が書いた「花園院寵記」にも「ほとんど裸形の飲茶の会これあり」と言及されているから、宮中でヌードパーティが開催されていたのは事実のようだ。
ただ、この酒宴が、実は倒幕計画を練るための隠れ蓑だったという説もある。
不満分子が集会していれば、幕府側の疑惑を招いてしまう恐れがあるが、いかにも乱れ切った無礼講なら、倒幕の謀議をしているようには見えない。それを狙ったのだろう。
真実のほどはわからないが、そうまでして完成させた建武の新政が、わずか三年で幕を閉じることになるとは、皮肉なものである。 
高師直  

 

高師直(生年不詳〜一三五一)は、室町時代創設期の実力者である。足利尊氏の側近として仕え、足利家の執事に任じられている。一三四人(正平三)年の四条畷の戦いで楠木一族を破り、室町幕府の政権を安定させた第一功労者ではあるが、無類の女好きとしても知られている。
特に有名なのは、古典「太平記」のなかで描かれた、出雲・隠岐両国の守護であった塩治判官高貞の妻に横恋慕したうえ、夫婦を自害にまで追いつめた事件である。
ただ、師直は自分で言い寄るようなことはしていない。もっと狭滑で、今でいうストーカーlまがいのことまでやってのけたのだ。
まず、塩冶判官の妻に手紙を送って恋心を告げようとするのだが、その手紙の代筆を「徒然草」を著した吉田兼好に頼んでいる。ところが、手紙が封を切られることすらなく捨てられてしまうと、「役立たず」と兼好を叱責したうえ、懲りることなく別の歌人に代筆をさせた。しかし、これも見事な返歌で断られてしまう。
ここまで師直が執着したのは、塩冶判官の妻が絶世の美女だといううわさ話を聞いたからだった。手紙さえ拒否され会うことができないゆえに、師直の恋慕はますます募る。そこでめぐらせた秘策が、なんと「のぞき見」だった。
侍従を使って、判官の妻に仕える女房たちを買収し、彼女が湯浴みから上がったところを見計らって判官の屋敷へ忍び込んだのだ。
師直の目に飛び込んできたのは、湯気のなかにかすむ彼女の姿ーー。空薫きの香の香り漂うその幻想的な光景に、師直は息を呑んだに違いない。
これでますます恋心が激しくなった師直は、寝ても覚めても彼女のことばかり考えるようになった。そして、塩治判官を失脚させて妻を奪い取ろうと画策し、判官に謀反の罪を着せたのだ。塩冶判官夫婦は京都を追われ、追っ手から逃れられないことを悟ると自ら命を絶ってしまう。
ところが、師直にこれを反省した様子はなかったようだ。権力を手にしたのをいいことに、公家の娘たちを次々に口説いては一夜の相手を務めさせた。
伝えられるところでは、そのなかには身分からいえば皇后の地位にもつけるほどの女性もいたという。
こうした師直の好色ぶりは、当時の都ではかなり有名だったようだ。
それは、三〇〇年以上を経た後世にまで伝わっていたのだろう。江戸時代に歌舞伎の演目として描かれた「仮名手本忠臣蔵」で、師直はぴったりの悪役に名前を使われている。
「仮名手本忠臣蔵」とは、吉良上野介に輔され斬りつけた罪で切腹させられた赤穂藩主・浅野内匠頭のあだ討ちを、赤穂浪士四七人が果たした元禄赤穂事件について、それにかかわる人物たちを「太平記」の登場人物と置き換えて描いたものである。
このなかで高師直の名は、赤穂浪士たちの仇である吉良上野介にあたる役に使われている。事件の前、吉良上野介は浅野内匠頭の妻に言い寄っていた、という話があり、それが師直と塩冶判官の確執に重なるからだ。もちろん、浅野内匠頭にあたる役には塩冶判官の名が使われている。
三〇〇年後の人たちも、師直のやり口をよしとはしなかった、ということだろう。 
一休宗純  

 

愉快なとんちで大人をやりこめる小坊主の一休さん。和尚さんに怒られでも、明るくやり返す、そのイメージは、彼が死んでから一九〇年近くたった江戸時代初期に書かれた本「一休頓智附」がもとになっている。実在の一休宗純(一三九四〜一四八一)は、その生涯を通じ、ひたすらものの本質を追究し、偽善や俗悪を憎むまじめで堅物な人物だった。
一六歳のとき、建仁寺の法要に集まった禅僧たちが、自分の出身を自慢し合っているのを聞いた一休は、「禅僧はこの世の名誉などは捨てたはずなのに、そうしたものを自慢するのはおかしい」と疑問に思い、その疑問を師である慕苗への詩に表わしている。このことからも、彼が禅に対してどれほど真撃に向き合っていたかがわかる。
一休が、僧として徳を積むことに全身全霊を傾けたのには理由があった。
彼は、北朝の後小松天皇と南朝の公卿の娘との子である。つまり母は、敵方である北朝の天皇の子を身ごもったことになり、一休を懐妊すると宮中を追われてしまった。
不遇の母にとっての唯一の希望は、息子の一休が立派な僧になることだった。そのため一休は六歳のときに京都・安国寺の像外集鑑の元で出家させられ、仏門に入ったのである。
厳しい修行に耐えかねて自殺しようとした一休は、母がつけた見張りによって阻止されたこともある。そうした母の執念にも似た祈りが通じ、一休は真の禅者として印可証を授けられるまでになった。
しかし、その後の一休は、まじめ一途の青年から一変して、自ら「風狂」と称した通り、禅宗では禁じられている酒や肉を味わい、遊郭に通う有様だった。
あるとき、川で女が水浴びをしているのを見つけると、じっくりとその姿を眺め、女に向かって三度も礼拝した。なぜそんなことをするのかと女が一休に尋ねると、「女性のあそこは、釈迦も達磨もひょいひょいと生む、偉大なところだ」と答えたという。
ほかにも、信じられないような奇行の逸話が残っている。
正月には、どくろをつけた竹の棒を持って「ご用心」といいながら、家々を回ったという。正月早々、縁起でもないと、怒りをあらわにする人もいたが、これは一休の「正月だからといって浮かれてはいけない。人間は死ねば必ずどくろのようになってしまうのだから」という主張だったのだ。
また、七七歳のときに出会った、森という四〇歳くらいの盲目の美女との情欲は、一休にとっては甘美な経験だったようだ。彼女の体のすばらしきゃ魅力をほめた漢詩がいくつも残っており、一休が森との愛欲生活におぼれていたことがわかる。
僧として大成した途端、まるで今までの欲を満たすかのような生活を送り始めた一休だが、そこには世間体や名誉にばかりこだわることこそ、人の悩みのもとであるといった、独特の持論があったともいわれている。
名高い僧であっても形式や権威を嫌い、自由奔放に生きた一休は、京や堺の人々からとても慕われていたという。 
日野富子  

 

室町幕府八代将軍・足利義政の正室であった日野富子(一四四〇〜一四九六)は、よく悪女の代表として名を挙げられる。高利貸しで財を蓄えたり、政治に口出ししたりしたあげく、次の将軍に決められていた義視を廃して、息子の義尚を将軍にしようとし、全国の守護大名を巻き込んだ応仁の乱を招いたとされているからだ。
その一方で、政務をかえりみようとしなかった義政の無能ぶりや幕府財政の困窮から、蓄財するのも政治に口を出すのも無理はなかったと考え、同情する人も多い。
富子が悪女かどうかはともかくとして、同時代の人々がささやいていた富子の陰口には、高利貸しの件などのほかにもう一つ、息子の義尚に関するうわさがあった。義尚の父は義政ではなく、後土御門天皇だというのである。一四六四(寛正五)年、義政は、僧籍に入っていた弟の義視を還俗させて後継ぎにすると決定した。富子になかなか懐妊の兆しがないとはいえ、義政も富子もまだ若いのだから、子どもを授かる可能性は十分にある。当然、富子は激しく憤った。
富子は憤慨のあまり、室町御所を出て、宮中に仕える「焼母御前」なる女官の元に転がり込んだ。そしてこの間に後土御門天皇と関係を持ち、身ごもったのが、翌年に誕生した義尚だというのである。
ただし、これが史実かどうかは明らかになっておらず、「嬢母御前」がどういう女性なのかもわかっていない。
さらに富子と後土御門天皇とのうわさは、一四七一(文明一二)年にも起こった。応仁の乱の戦火で内裏が焼けたため、後土御門天皇は室町御所に移って義政・富子夫婦と同居した。そのとき、天皇が渡り廊下でつながれた富子のいる棟を、夜更けにしばしば訪れていたというのである。
このうわさは、義政と富子の夫婦喧嘩を招き、一時は義政の別居騒ぎとなった。
富子と後土御門天皇との聞に男女関係があったかどうかは定かではないが、二人は旧知の仲で年も近かったというから、少なくとも不倫疑惑が起こるほど仲がよかったとはいえるのだろう。 
蓮如  

 

室町時代中期、戦乱が続き疫病や飢謹が起こると、仏の教え(仏法)が滅びるという末法思想が広がり、人々を不安に陥れた。そんな世に庶民の間で流行したのが、親鷲が広め、蓮如(一四一五〜一四九九)が確立した浄土真宗であった。
浄土真宗は、難しい修行をしなくても「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで救われると説き、「悪人」といわれる身分の低い者こそ救われるとしたので、庶民の心のよりどころとなったのだ。
また仏教では、女性は、男性よりもこの世に執着しやすいなどの五つの罪を背負っており、そのため成仏できない存在とされている。しかし、浄土真宗では、「悪人」と同じように、徳が薄い女性こそ、もっとも救われるべき存在だとしている。
こうした教えのせいか、浄土真宗を広めた親鷲も、その後継者である本願寺八世の蓮加も妻帯している。
通常の仏教では女犯は罪であり、僧は妻帯を許されなかったにもかかわらず、である。当時、親鷲と蓮如は、かなり異端の存在であったといえるだろう。
蓮如は、五人の妻をめとり、二七人の子どもをつくった性豪であった。
こう書くと好色家のようだが、蓮加の場合はすべて正式な妻であり、愛人や妾はいなかった。妻が五人いたのも、蓮如の浮気心のせいではなく、次々と死別したためである。
しかも、蓮如は妻を亡くすと、その妻を悼み、しばらく再婚することはなかった。このことからも、蓮如が連れ添った妻を大事に思っていたことがわかる。
それでは、妻が生きているときは愛人もつくらず、妻一筋だったにもかかわらず、なぜ蓮如は次々と新しい妻をめとったのだろうか。
己の性欲を絶つことができなかったこともあるだろうが、前述したように、仏教では罪と見なされている女性の存在を、自らが妻帯することで肯定するためでもあったのだろう。
しかし一説には、浄土真宗布教のための戦略だったともいわれている。
蓮加は多くの子どもを各地へ赴かせ、息子を有力な寺の後継者として、娘はわざわざ敵対しそうな寺に嫁がせた。
自分の血統を引いた子孫を門徒勢力の中心に据えることで、浄土真宗を急速に各地へ布教することに成功し、さらには宗門の結束を強固にすることができたといわれているのである。
もし、それが真実であるとすれば、蓮加は、庶民を救いたい一心の宗教家の顔とは別に、宗教を通して絶大な力を持とうとした野心家の顔も、持ち合わせていたのだろうか。 
朝倉義景  

 

戦国時代末期、越前(現・福井県)の大名であった朝倉義景(一五三三〜一五七三)は、大坂の石山本願寺と結んで織田信長に敵対し、一五七三(天正元)年、信長に攻められて自害した。
天下人の信長に抵抗し続けたところから、勇ましい戦国武将という姿が思い浮かぶが、実は、美女に惑って武将としての気概を失った人物であった。
朝倉家の盛衰が描かれた「朝倉始末記」を読み解くと、義景が生涯にわたって多くの女性たちとかかわりを持っていたことがわかる。
義景の最初の妻は、京都の名門・細川晴元の娘で「細川殿」と呼ばれていた。彼女は深窓育ちで体が弱かったのか、娘や二人生んだのち、若くして亡くなった。
次いで、細川義種の娘をめとった。「近衛殿」と呼ばれたこの女性はたいへんな美女だったが、いっこうに子どもができなかった。
そこで義景は、朝倉家重臣・鞍谷副知の娘で、母の高徳院に仕える侍女の小宰相を側室とした。そして、小宰相との聞に、女児二人のほか、待望の嫡子・阿君が生まれると、義景は内室の元に足を運ぶことが少なくなってしまう。傷心の近衛殿は自ら身を退き京都に去り、義景は小宰相を正室とした。
だが不運なことに、まもをく小宰相が風邪が原因で亡くなり、阿君も七歳で天逝してしまう。愛する女性と息子争二度に失った義景は、悲しみのあまり政務や軍事を怠るようになった。
慌てたのは家臣たちである。義景を立ち直らせるためにも、また世継ぎを得るためにも、義景の新しい妻を見つけなければならないと考え、自薦他薦を問わず美女を探し回った。
その結果、家臣・斎藤兵部少輔の娘の小少将が義景の妻に迎えられた。
小少将は絶世の美女で、しかも話し上手で愛想がよかった。義景はすっかり彼女に夢中になり、世継ぎの愛王丸も生まれた。
こうして悲しみから立ち直った義景だが、皮肉にも、今度は彼女への愛欲によって骨抜きになっていった。
遊興に明け暮れ、自ら赴かなければならない合戦に、部下だけを派遣することもあったという。
小少将は、次第に愛王丸お付きの女房衆とともに政治に口出しするようになり、義景はまさに彼女のいいなりになってしまった。小少将が口添えすれば、功績のない家臣に恩賞を与えるようなこともしたという。
こうした、美女に弱く、精神的にもろいところが、ついには義景を破滅へと導いたのかもしれない。 
武田信玄 

 

父親を領主の座から追い払い、甲斐一国を手にした武田信玄(一五二一〜一五七三)は、名高い騎馬軍団を組織して近隣諸国を手中に収め、川中島で上杉謙信とたび重なる戦いを繰り広げるなど、勇猛果敢な武将というイメージが強い。
義理や人情を重んじたと伝えられる謙信と比較して、信玄は時に非情ともいえる行動をためらいも見せずに行なっている。これが「甲斐の虎」と、世聞から恐れられたゆえんである。
しかし、公の顔はそうであっても、ごく近しい人に見せる素顔は、戦いぶりからは想像できないほど甘いものであった。それは、寵愛した春日源助という美少年に与えた手紙に見ることができる。
戦国時代において、戦に明け暮れる武将たちが、女性の代わりに美少年を戦場に伴うのはごく当然のことだった。
では、源助は信玄にとってどんな存在だったのだろうか。史料として残されている源助にあてた信玄の誓詞から、二人の関係を読み取ることができる。
手紙の内容は、信玄が弥七郎という少年と寝床をともにしたのではないかと疑う源助の嫉妬に対し、誓ってそのような事実はなかったと釈明するものであった。
しかも、「いい寄ったことはあるが、彼が虫気(腹痛)を理由に断ってきたため寝たことはない」などと、いい訳にもならないような詫びを述べている。そのうえ、武田家ゆかりの神仏に誓って偽りではないと結んでいるのである。
文体は候文といって堅いものだが、その内容はまるで寝所における会話を盗み聞いたような恥ずかしきを読む人に与えるものだ。まして領主が、家臣へ書いた手紙としては異例である。
世間からは恐れられる信玄だが、もしかしたら源助に手玉にとられていたのかもしれない。
源助はのちに、高坂弾正虎綱(もしくは昌信)と名乗る武田家きつての武将へと成長している。武田流軍学の集大成ともいえる「甲陽軍鑑」を著したのも、この高坂弾正といわれているのだ。
「甲陽軍鑑」の巻頭で、高坂の経歴が紹介されている。
「信玄公御年廿二歳、我等十六にて御奉公に罷り出でて舟日の内に近習になされ、殊更奥へ召し寄せられ、御膝本にて御奉公仕り:::」
つまり、一五四二(天文一一)年、源助が一六歳のときに二二歳の信玄に仕えるようになり、すぐに奥へ召し寄せられたというのである。武将の少年愛というより、まさに恋人同士の関係だったといえそうだ。
当時は男女の愛情より、男同士の愛のほうがむしろ崇高とする考え方があった。そう考えれば、信玄がラブレターともいえそうな手紙を書き送ったことも納得できる。 
上杉謙信  

 

戦国の覇者である上杉謙信(一五三〇〜一五七八)は、武田信玄と戦った川中島の合戦などでよく知られている。謙信は実直で正義感にあふれ、信仰心に厚い武将であった。
戦国時代の武将は、子孫を多く残すために、正室のほかに何人もの側室を持つのが常だったが、謙信は生涯、妻を一人もめとっていない。愛人のうわさもほとんどなく、清廉潔白で道徳心ある、不犯の英雄といったイメージがある。
謙信が女性をそばに置かなかったのは、仏教では女犯は罪とされているため、その戒めをかたくなに守ったのだとか、謙信は性的に不能であったとか、果ては男色家であったなどと諸説ある。
こうしたことから、謙信は女の色香に惑わされない、戦いだけを好む禁欲的な「戦の鬼」と思われがちだが、歴史をひもとくと、違った一面も見えてくる。
謙信の実母は六〇余歳まで生き、常に謙信を見守っていた。実姉・仙桃院も八〇余歳とさらに長生きした。謙信はこの肉親の二人の女性から愛情いっぱいに育てられている。少年時代の謙信は、母や姉に甘やかされた子どもだったのだろう。
肉親の女性から深い愛情を受けすぎた男の子は、精神的に未熟で、異性に対して消極的になることがある。謙信にほとんど女性の影が見られなかったのも、二人の女性の影響で部信が奥手であったからかもしれない。
その一方で、謙信は少なくとも三人の女性とつき合いがあったという説もある。
その三人とは、家臣の直江実綱の娘、関白近衛前嗣の妹、そして、上野国平井城主の千葉采女の娘・伊勢純である。
特に、伊勢姫には強く心を引かれ相思相愛の仲であったが、彼女は敵方からの人質であったため、心を許してはいけないと家臣に諌められた。二人の仲が成就するすべはなく、鎌信は泣く泣くあきらめたという。
女性を寄せつけない猛々しい武将として知られる謙信だが、こんなロマンスを胸に秘めていたのかもしれない。 
前田利家  

 

加賀藩の藩祖・前田又左衛門利家(一五三八〜一五九九)は、織田信長や豊臣秀吉に重用された猛将である。利家は、信長の元では、大将の命令を味方の武将たちに伝あかほろきんじえる「赤母衣衆」を務めた。赤母衣衆に選ばれるのは、黒母衣衆と並んで、近侍の騎馬武者たちのなかでも勇猛な者たちだった。
彼は、若いころは派手で奇抜な服装や振る舞いを好む「傾き者」であった。長い槍を持ち歩く武辺者だというので、「槍の又左」とも呼ばれた。
その猛々しきは老いても変わらず、臨終の際まで、「もし地獄で責め苦にあったら、先に死んだ家来らを従えて鬼どもを攻め、冥途に武名を上げようぞ」といったという逸話も残されている。
このように武道一辺倒かと思える利家だが、実はたいへんな計算上手でもあった。
そのころ、徳川家康・秀忠父子と並んで「算勘三上手」と呼ばれたほどである。
利家は、愛用のそろばんを用いて、自ら兵員や金・銀・米などの計算を行なった。出陣の際には、甲胃などを納めておく具足植にそろばんを入れ、陣中に持参したという。このそろばんは、幅三寸(約九・一センチメートル)、長さ六寸(約一八・二センチメートル)と小ぶりなもので、現存する日本最古のそろばんとして知られる。
そろばんは中国からの伝来品で、日本の文献に初めて登場するのは、一五九五(文禄四)年ごろから編纂された「日葡辞書」といわれている。これを考えれば、利家が愛用していたそろばんは、中国から伝わってまもないものだったと思われる。利家は、計算のためにいち早く中国伝来の新しい道具を取り寄せたのである。
金勘定が得意なうえ、道具にもこだわるあたり、いかにも加賀百万石を築いた利家らしい話である。 
慶ァ  

 

戦国時代に肥前(現・佐賀県)一帯を支配していた龍造寺家は、一時は没落しかけていたが、一五四八(天文一七)年に分家から入った龍造寺隆信が、長年にわたる苦労の末に龍造寺家を再興した。その陰には、隆信の母・慶ァ(生年不詳〜一六〇〇)の活躍があった。
慶ァは龍造寺家本家の生まれだったが、分家の龍造寺周家に嫁ぎ、隆信を生んだ。
だが、一五四五(天文一四)年、慶ァが三八歳、仏門に入っていた隆信が一七歳のとき、敵対していた綾部城主・馬場頼周との戦いで、周家をはじめ一門の主な者たちが殺されてしまった。
すでに八九歳の高齢になっていた周家の祖父・龍造寺家兼は、翌年、曾孫の隆信を還俗させて後継ぎにするよう遺言を残して死去する。そのため、遺言にしたがって隆信は龍造寺周家を継ぎ、さらにその二年後には、龍造寺の惣領家をも相続した。
幼いころから寺で育った若者がいきなり戦国大名となったのだから、家中をまとめるのは難しい。隆信は家臣たちの反逆によって居城の佐嘉城(現・佐賀市)を追われたこともあった。
そんななか、苦労する隆信を励ましたり、ときには戒めたりして支えたのが、母・慶ァである。
彼女は家臣の心をつかむために、信じられないような手段もとっている。
慶ァが、家臣のなかでもっとも信頼できると判断した鍋島清房は、周家の妹と結婚し、この妻が亡くなったあと独り身だった。その清房の嫡子・信昌(のちの直茂)は、武勇に秀で、思慮深く、思いやり深いすぐれた若者だった。
これに目をつけた慶ァは、一五五六(弘治二)年のある日、清房に「再婚相手を紹介して媒酌してあげよう」と申し出る。ほかでもない亡き主君の正室からの申し出なので、清一房はこれを受け入れた。
婚礼の当日、清房・信昌父子が期待に胸を膨らませて輿入れの行列を待っていると、輿から降りたのは、何と媒酌をするといっていた慶ァ本人だった。
驚きを隠せない二人に、慶ァは「龍造寺家安泰のため、信昌に隆信の兄弟になってほしいのだ」と説明した。慶ァは、鍋島家と龍造寺家の絆をより強いものにしようとしたのである。
このとき慶ァは四九歳。ただし、実年齢より一〇歳は若く見える美人だったという。
それもあってか、今さら断れなかったからか、はたまた亡き主君のためと思ったのか、清房は慶ァの説得に応じた。おかげで、信昌の助けによって、隆信は龍造寺家復興を成し遂げたのである。
戦国の世において政略結婚は少なくないが、慶ァほど思い切ったことを考えた女性は珍しいだろう。 
井伊直政  

 

徳川四天王の一人とされ、敵方の武士に恐れられた井伊直政(一五六一〜一六〇二)は、徳川家康に目をかけられ、勇敢で知られる甲州武士を部下として与えられた。
甲州武士は、旗や武具、甲胃に至るまで赤一色だったために、いつしか直政の軍勢は「井伊の赤備え」と称されるようになった。
また直政は、武勇の土であるのみならず、政治の世界でも家康に信任され、着々と出世をしていった。
しかし、そんな直政にもただ一人、頭が上がらない人物がいた。正室の花である。
花の父は松平康親といい、己の力で立身出世を築いた、たたき上げの実力者だった。
直政と同じタイプといえるが、父を尊敬する花から見れば、直政の出世などは物足りないものだったらしく、事あるごとに直政の尻をたたいた。
直政は、幼いときに母と二人で流浪の生活を送った経験があり、人の情や愛情に飢えていた。そのため、しとやかでやさしい妻に温かい家庭を築いてもらうのが理想であった。
ところが現実はそう甘くない。
帰宅すれば、自立心旺盛で、自分の父と比べては、直政の未熟さを叱陀激励する花がいる。直政は、花がかなり苦手であったらしい。
しかも、直政には、花に頭が上がらない理由がもう一つあった。
直政と花の縁組を取り計らったのは、主君の家康だったのである。それだけでも花を粗末にすることはできないのだが、さらに面倒なのは、花は家康の養女として直政の元に嫁いできたという点である。
養女とはいえ、主君の娘である花を邪険にすることなど、直政にはとうていできない話であった。また、花自身もそういった関係を十分に承知していたので、気に入らないことがあると、直政の行状を養父である家康にいいつけに行ったりしたのである。
そんななか直政は、出来心で花の侍女・阿こに手をつけてしまった。たった一度のあやまちだったが、不運にもそれで阿こが懐妊してしまうのだ。
これに対し、花が事の次第を激しく問いつめると、直政は花のいう通りに、早々に阿こを実家に帰してしまった。その後、阿こは男の子を生んだが、花の怒りを買うのが恐ろしくて、引き取ることもできなかったのだ。
この子は六歳ごろまでは実母の元で育ったが、阿この頼みで直政は息子を引き取ることにしぶしぶ同意する。
だが、それは阿この命と引き換えにというのが条件だった。「母が亡くなったので」といったいい訳なしには、息子を自宅に引き取れなかったほど、彼は正室の花のことを恐れていたのだ。
天下にその名をとどろかせた英雄も、妻の前では、まるでおびえる子猫のようだったのである。 
出雲阿国  

 

今日では歌舞伎を演じるのはすべて男性だが、最初期の歌舞伎の演者は女ばかりであり、その創始者も女性である出雲阿国だった。
阿国の生没年や素性ははっきりしない。本人は舞台で「出雲の杵築大社(現・出雲大社)の亙女」と名乗っていたが、それが事実か、舞台を盛り上げるための演出だったかは定かではない。
ともあれ、彼女は、それまでにはなかった女だけの一座をつくり、一六〇三(慶長八)年四月、京都の北野神社で興行して一躍、人気者となった。
長引く戦乱の世に疲れ果てていた人々は、新しい享楽を望んでいた。当時の歌舞伎は一般民衆が楽しめるわかりやすい娯楽で、美女の阿国が男役を演じて茶屋の女となまめかしくたわむれる場面などは、観客を熱狂のうずに巻き込んだのである。
この阿国には、名古屋山三郎という恋人がいた。
山三郎は、元は戦国大名・蒲生氏郷の小姓で、浪人となったあとは森忠政に仕えた。
当時は、奇抜な服装や歩き方などで人目を引き、伊達(おしゃれ)を気取る人聞を「傾き者」と呼んでいたが、山三郎はその一人で、「京の街にその人あり」といわれるほど評判の美男子だったという。
阿国が舞台で演じるのも傾き者で、この「傾き」が「歌舞伎」の語源になっているようだ。
とにかく、阿国と山三郎は、いわば傾き者同士の美男美女のカップルだったのだ。
そのため、二人の恋は人々の注目を集め、阿国一座の人気をさらに高めていった。
ところが、一六〇三(慶長八)年、二五歳の山三郎は、同僚の井戸字右衛門とのいさかいにより、殺されてしまう。
たいていの女性は、突然、恋人に死なれたりしては、うちひしがれてしまうだろう。
だが、阿国は違った。何と恋人の死を舞台の題材にしたのである。それを聞いて、人々は続々と阿国一座の舞台に押し寄せたという。
超満員の観客が見守るなか、役者が鉦を打ちながら念仏踊りを踊り、山三郎の霊を誘い出す。すると客席から、亡き恋人の霊に扮した阿国が現われていう。
「名古屋山三郎だ」
これまでにない斬新な展開に、観客は興奮して沸き返ったという。
もしかしたら、阿固なりの弔いの儀式だったのかもしれない。あるいは、阿国は恋人の死さえ舞台に利用する、「芸の鬼」ともいうべき女性だったのだろうか。 
春日局  

 

江戸時代の大奥の女性たちのなかでもとりわけ有名な実力者といえば、三代将軍・徳川家光の乳母を務めた春日局(一五七九〜一六四三)だろう。
両親から疎まれがちな家光が将軍になれるかどうかを心配して、家康を説得し、家光が世継ぎであると宣言してもらったという話はよく知られている。
将軍の乳母として選ばれたのなら、申し分のない経歴の女性かと思うところだが、彼女には、何と殺人の前科がある。
春日局は本名を福といい、明智光秀の家臣・斎藤利三の娘として生まれた。利三は、光秀の主君殺しに加担した大罪人として豊臣秀吉に処刑され、福は母とともに追っ手を逃れて流浪した。のちに、母の一族である稲葉重通らの嘆願によって罪を許され、重通の清水城(現・岐阜県)に引き取られている。
その縁で、福は一七歳のとき、重通の養子・稲葉正成と結婚した。二人の聞には三人の男の子も生まれ、何の問題もなさそうであった。もっとも、新婚時代、福は二人の賊を長万で殺したというから、勇ましい新妻ではあったようだ。
ところが正成は、重通が隠居して京都に移ると、それまで隠していた本性を発揮した。何人もの愛妾をつくり、福と同居させたのである。福にしてみれば、耐え難い屈辱だったに違いない。
福は、子どものためにと妻妾同居をじっと我慢するような性格の女性ではなかった。
結婚して八年後の一六〇四(慶長九)年、彼女は突然、夫の愛妾の一人を刺し殺したのである。
その夜のうちに清水城を脱出した福は、京都にある養父・重通の家に駆け込んだ。
最初は「何てことをしでかした」と怒りをあらわにした重通だったが、それ以上とがめることなく、福が自分の家で暮らすことを了承した。
以来、福は家事を手伝いながら、仕事を探すために積極的に出歩いた。そんな折、栗田口の高札場で一本の高札を目にする。
「将軍家の孫、竹千代君の乳母を募集」
彼女はすぐさま京都所司代の板倉勝重を訪ね、見事、乳母として採用されたのであった。
愛妾の殺害については真偽が定かではないが、これが事実であれば正当性のない殺人を犯したことになる。それでも、春日局が生涯にわたり罪を追及されなかったのは、彼女を重用した家康のかばい立てがあったからであろうか。
春日局の気の強さをうかがわせるエピソードは、乳母時代にも尽きない。
例えば、仏師(仏像の彫刻家)に彫像をつくらせたとき、自分に似すぎていて美人でないというので春日局は激怒した。かといって、別人のような美女にしても怒る。
困った仏師が、顔を美しく、眼光だけを彼女に似せて鋭くすると、やっと納得したという。
現代なら敬遠されそうな人材だが、まだまだ戦国時代の名残が強い時代だったためか、春日局のこの性格は、将軍家の乳母として好ましいと判断されたのだ。
その後の彼女の活躍ぶりを見ると、その判断は正しかったといえそうである。 
細川忠興  

 

細川忠興(一五六三〜一六四五)は、織田信長の武将・細川藤孝(幽斎)の長子で、信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕えた。一五七七(天正五)年、忠興は数えの一五歳で初陣、まもなく信長に武功を認められて、丹後国(現・京都府北部)に一二万石余りを与えられた。
忠興は、京都育ちだったためか、武勇だけでなく芸術方面にもすぐれていた。茶のせん回りきゅうきんさい湯に通じ、千利休とも親しく交わり、のちには茶の湯の流派の一つである三斎流の祖とされるようになったほどである。
さらに、山崎の戦いに際しては秀吉側、関ヶ原の戦いでは徳川側、と時流の流れを見誤らずに読んで勝者側に味方し、順調に出世していった。
こうした経歴から、理知的な大人物といったイメージが浮かぶが、忠興には、妻の玉を愛しすぎるがゆえの狂気じみた面もあった。
玉は明智光秀の娘で、一五七八(天正六)年に信長の命により忠興の元に嫁いだ。政略結婚ではあったものの、互いに愛し合う仲むつまじい夫婦だった。しかし、結婚からわずか四年後、本能寺の変で光秀が信長を滅ぼしてしまう。
その際、忠興は男の光秀の懇請を退けて秀吉側につき、「逆臣の娘」である玉を、丹後の山奥に幽閉してしまう。離縁したくない、自害もさせたくないという、玉への愛ゆえの決断であった。その後、秀吉に働きかけて、二年で玉を大坂の屋敷に迎えた。
晴れて最愛の妻と同居できるようになった忠興だが、離れていた二年間は、二人の聞に大きな講をつくってしまった。
玉は、反逆者として殺された両親や一族を悼み、キリスト教の洗礼を受けてガラシャという洗礼名を名乗るようになっていたのである。忠興はこれに腹を立てた。
忠興は短刀で脅して、妻に改宗を迫った。秀吉がキリスト教禁止令を出したという事情があったとはいえ、ずいぶん過激である。あるいは、玉の心を占めるようになったキリスト教に嫉妬したのだろうか。
それでも拒否する玉に対して、忠興は、しばしば常軌を逸しているとしか思えない行動を見せている。
あるときなど、庭師に玉が声をかけただけで、忠興は嫉妬のあまり庭師を斬り殺した。しかも、その首をはねて、食事中の玉のそばに置いたのである。
ところが、玉は顔色一つ変えず平然と食事を続けた。忠興が「蛇の化身のような女だな」というと、彼女は「罪のない職人を殺すあなたは鬼です。その女房なら蛇がちょうどいい」と答えている。
関ケ原の戦いに際しでも、忠興は、留守を預かる家老に、「玉の外出を禁じ、屋敷を出なければならなくなったときには殺害せよ」と命じて出陣した。
そのため、石田三成が攻めてきて人質にされそうになった玉は、家臣に槍で胸を突かせ絶命したという。キリスト教徒であったため、自害することはできなかったのである。
玉の死を知った忠興は、彼女を助け出さずに逃亡した長男の忠隆の妻を責め、その妻をかばった忠隆をついには追放してしまった。彼の玉に対する行動のすべては、愛情に裏打ちきれたものであったということだろう。夫の深すぎる愛が、妻を死に追いやってしまったのだ。 
宮本武蔵  

 

江戸時代に生きた剣客・宮本武蔵(一五八四〜一六四五)は、その著書「五輪書」で剣聖としての精神を深く伝えている。
また、佐々木小次郎と決闘した巌流島での戦いなど、有名な逸話が残されているからだろう、今日でも、剣の道を究めようと真撃に人生を貫いたイメージが強い。彼は家庭を持つことなく、それどころか生涯を不犯で終えたとまで伝えられている。
たしかに史実では武蔵に婚姻歴はない。五〇代後半で武蔵が細川家に仕官した際に提出した口上書にも、「妻帯の経験はない」と述べられている。そのため、「武蔵は女嫌いだった」、さらには「男色家だった」という説があるほどだ。
ところが、その武蔵が、不犯どころか吉原の遊女に入れあげて、通いつめていたと伝える史料が残されている。江戸時代初期に吉原創設にかかわったという家系に伝わる、一七二〇(享保五)年に書かれた「異本洞房語園」という書物である。
あちこちで剣名の高い剣客たちとの果たし合いを重ね、剣豪として名を高めた武蔵は、事実、江戸へも赴いている。いずれかの大名家へ仕官を望んでのことだったようだが、彼が吉原通いをしたのはこの時期のことと考えられる。
まだ仕官先は決まっていないから、とても遊女を買う余裕などないように思えるが、武蔵が入れあげたのは彼につりあった相手だった。
当時、遊女は上から順に「太夫・格子・散茶・局」というランク分けがされていた。そのうち、もっとも地位の低い「局」の雲井という女性が、武蔵の相手だ。雲井がどのような女性だったかは明らかではない。しかし、六尺余の体躯で異様な風貌、しかも風呂にも入らず悪臭を放っていたという武蔵の相手をしたのだから、よほど物好きだったのだろう。
武蔵の雲井への思い入れはただならぬものだったようで、「異本洞房語園」によれば、彼は一六三七(寛永一四)年に起こった島原の乱に出陣する前夜、わざわざ吉原まで雲井に別れを告げに訪れたとしている。
雲井も武蔵の思いに応えるように、自分の紅鹿子の布を使って彼の陣羽織を手ずから調えたという。
しかし、当時、九州小倉の細川家の客分だった武蔵が、なじみの遊女に別れを告げるためにわざわざ江戸へ出たというのはとうてい考えられない。
「異本洞房語園」は、武蔵の死後七〇年ほど経過してから書かれたもの。没後にますます剣聖としての名を高めた武蔵の生涯に彩りを持たせるために、多少のフィクションが加えられた可能性は否めない。
剣術の腕はある。その名も世に知られている。しかし、仕官の口はないーー。
そんな欝屈した日々を吉原の遊女におぼれて過ごした若き日の武蔵の姿を、伝説の豪傑にふさわしい愛の物語に仕立てたのかもしれない。 
松平忠直 

 

江戸時代初期の越前福井藩主・松平忠直(一五九五〜一六五〇)は、徳川家康の次男・結城秀康の長男である。若いころから武将としての評判が高く、一六一五(元和元)年、二一歳のときには大坂夏の陣で、猛将と名高い真田幸村を討ち取るなどの大きな功績を上げ、祖父の家康にほめたたえられている。
血筋がよく、武勇にもすぐれた忠直だが、美女のために道を誤り、二九歳のときに豊後(現・大分県)に配流され、出家してそこで生涯を終えている。
幕末に越前福井藩士が編纂した「続片聾記」によると、忠直は、あるとき風に飛ばされてきた一枚の絵の美女に一目惚れした。
さっそく、家臣に命じてその女性を捜させたが、領内の遊女町には見当たらない。
そこで領外へ足を延ばすと、美濃(現・岐阜県)の関ヶ原で、ようやく絵によく似たおむにという女が見つかった。おむには長さ一丈余りの黒髪をなびかせた、怖いぐらいに官能的で魅惑的な女性であった。
彼女は忠直の寵愛を受けて側室に迎えられ、「一国にも替え難い」という意味から「一国御前」と呼ばれた。
しかし、一国御前は無口でめったに笑わない。そこで、忠直は何とか彼女を喜ばせたいと頭を悩ませた。
そんなある日、一国御前がふとつぶやいた。「人を殺すところを見たいーー」。
それを聞いた忠直は、すぐさま死罪が決まっている罪人を牢から連れてこさせ、家臣に斬り殺させた。
すると一国御前が笑みを浮かべたのである。感情が高まったせいだろうか、一国御前の美貌はよりいっそう際立ったという。
以来、忠直は一国御前を喜ばせるため、ためらうことなく次々に罪人を殺させた。
死罪の者がいなくなると、罪の軽い者も殺させ、さらには何の罪もない小姓や家臣まで殺していった。あげく、寵臣の小山田多門に命じて、領内の農民や町人をさらってこさせて惨殺した。
普通の殺し方では飽き足らず、焼き殺したり頭蓋骨を砕いたりもした。とりわけ、妊婦の腹を裂いたときは二人して喜んだという。
「続片聾記」には、一国御前はその残酷極まりない饗宴を見て、「よろこびのあまり手を打ち大いに笑い、面白いといった」と記されている。
この凶行が八年もの問、続いたのである。
忠直の正室で、二代将軍・徳川秀忠の娘の勝姫は、この有様を幕府に通報し、忠直は豊後萩原に流された。このときまでに忠直に殺された無実の人間は、一万人におよんだという。
こういった忠直の狂気の所行が事実であったかどうかについては疑問もあるが、忠直が豊後に流されたのは史実として残っている。
もしも伝えられている通りではなかったにしても、側室を愛するあまり、評判を落としたり、将軍の娘である正室に恨まれるようなことはあったのだろう。 
徳川家光 

 

江戸幕府三代将軍・徳川家光(一六〇四〜一六五一)は、若いころは男色家で、女性にまったく興味を示そうとしなかった。
当時、若衆が傾いた化粧をしてきらびやかな服装で踊ることが流行っていた。家光もそのように踊るのを好み、合わせ鏡を使って化粧をすることが多かったという。家光の女装趣味を諌める者もいたが、彼はいっこうに耳を貸さなかった。
それでも一六二五(寛永二)年、家光が二二歳のとき、京都の関白・鷹司信房の娘・孝子を正室として迎えている。だが、夫婦仲がうまくいかず、まもなく別居。不仲の理由は定かでないが、一説には家光の男色が原因ではないかといわれている。
男色自体は、戦国時代の武将たちが女性のいない戦場で男性と関係を持った名残が、家光の時代にもあり、男色は珍しくもなければ禁忌ともされていなかった。しかし、男色におぼれるあまり女性に見向きもせず、世継ぎが生まれないとなれば大問題である。
ある日、真つ昼間から小姓とたわむれる家光の姿を目撃した乳母・春日局は、さすがに「このままでは徳川家の血が途絶える」と心配した。そこで、家光を女性に目覚めさせるべく、側室にふさわしい女性を探し始めた。
彼女が最初に側室として選び出したのは、蒲生家の家臣・岡重政の娘・お振の方だった。お振の方の祖母は、春日局の遠縁にあたる。そのってによって、江戸城大奥で家光に仕えることになったのである。
春日局は、お振を大奥に呼び寄せ、自分の手元で行儀などを仕込み、家光の性癖なども教えたうえで、家光の元に送り込んだ。
それまで女に興味のなかった家光も、自分の好みに合わせて選ばれた聡明で美しいお振には、心を動かされたのだろう。何度か彼女の元に通った結果、一六三七(寛永一四)年、千代姫が生まれた。
家光は三四歳にして初めて父親になったのである。
このお振の方のほかにも、春日局は、京都の町家で見つけたお夏の方とお玉の方、浅草参詣の帰りに駕龍のなかから見つけたやはり町娘のお楽の方など、家光の元に何人もの側室を送り込んでいる。
また、家光自身が見つけた側室には、お万の方がいる。
彼女は、京都の公卿・六条有純の娘で、伊勢神宮の別当・伊勢慶光院の院主となり、そのあいさつに江戸城に登城した際、家光に見初められた。尼僧なので頭を剃っているところに、男色趣味の家光がそそられたといわれている。
家光が初めて自分から惚れた女性とはいえ、相手は尼僧である。春日局はうれしさの半面、ためらいを隠せなかった。それでも家光は、お万の方を強引に江戸城にとどめて、還俗させてしまった。
女性に開眼したのちも、家光の男色趣味は女性の好みに反映していたようである。
とはいうものの、春日局の努力のかいあって、お楽の方は四代将軍家綱を、お玉の方は五代将軍綱吉を生み、無事に世継ぎを残すことができたのだ。春日局は胸をなでおろしたことだろう。 
高尾太夫 

 

江戸時代の遊里・吉原は、葺屋町(現・東京都中央区)にあったが、一六五七(明暦三)年、明暦の大火で焼失したため、幕府に命じられて浅草寺の裏に位置する浅草田圃に移転し、新吉原と呼ばれるようになった。
そこで艶名をとどろかせたのが、吉原の大妓楼・三浦屋に抱えられた高尾太夫であった。
高尾太夫というのは、三浦屋に代々にわたって襲名された名前である。吉原解体まで七人が名乗ったとも、一一人だったとも伝えられている。
いわば遊女の最高位の代名詞であるだけに、高尾太夫にまつわる伝承は多く、さまざまな逸話が歌舞伎や裕瑠璃に仕立てられている。
そのなかで一国をゆるがす騒動のきっかけになったと伝えられるのが、江戸時代初期の万治高尾だ。彼女が引き金になったといわれる仙台藩伊達騒動にちなんで、仙台高尾と呼ばれることもある。
彼女は仙台藩三代目領主・伊達綱宗に見初められ、身請けを申し出られた。
綱宗は一六六〇(万治三)年、幕府より小石川埋め立て工事の監督を命じられていた。そのため江戸に滞在するうちに、吉原通いに熱を上げてしまったのである。
身請けの代金は一万両とも、彼女の体重と同じ重さの小判だったともいわれ、綱宗の執着ぶりをうかがうことができる。
身請けの当日、綱宗は吉原でにぎやかな宴を催し、三浦屋の楼主だけでなく、ほかの妓楼の楼主も集めての大盤振る舞いをした。
しかし、そのなかで高尾太夫は幸せとはほど遠い心境にあった。彼女には結婚を誓った特別な男性がおり、綱宗の身請けを拒否していたのである。
浅草から屋形船を仕立て、芝の屋敷へ高尾太夫を伴って帰ろうとした綱宗に、高尾太夫は遊女の意地と義理を通し、身請け話を承知していない旨をいい続けた。そんな高尾太夫の態度に激昂した綱宗は、酒に酔っていたこともあって彼女を斬殺してしまう。俗に「高尾の吊し斬り」といわれる事件である。
もともと綱宗は、二代目伊達藩主の側室の子でありながら、藩主の正室にかわいがられて三代目の座を得ていた。この正室の死亡により後見役を失い、その座が不安定になっていた時期だ。それゆえの吉原通いで、遊女遊びに逃げていたのが、この事件で立場がますます危うくなった。
これを機に、仙台藩の跡目をめぐって伊達藩を二分する「伊達騒動」が起きたのだといわれるのである。
だが、高尾太夫に伊達綱宗からの身請け話があったのは事実としても、それに続く物語は、多くの高尾伝説のなかの一つに過ぎないのだろう。一説には、高尾は綱宗と仲むつまじく暮らし、彼が隠居してからもよく仕え、七八歳まで生きたともいわれている。 
東福門院 

 

娘を天皇の妃にし、娘が生んだ子どもを天皇位につけて、自らは天皇の外祖父になる:::。これが、古代の藤原一族に始まる権力者の究極の栄達の道だった。
戦乱の世を統一して強大な権力を手中に収めた徳川家康ですら、この実現に奔走した。そして、二代将軍秀忠の娘・和子(一六〇七〜一六七八)を後水尾天皇の女御とすることを思いつく。これは家康の存命中に果たされることはなかったが、彼の没後げんなじゆだい二年たった一六二〇(元和六)年、和子は家康の思惑通り女御として入内した。
和子は後水尾天皇の子どもを七人生んで皇后となるが、そのうちの皇子二人は早世し、内親王の興子が奈良時代の称徳天皇以来、八五九年ぶりの女帝・明正天皇として即位している。とはいえ、初めての公武合体といえるこの結婚は、決して祝福されたものではなかった。
何より、御所を預かる公家たちは、武家による支配を快く思ってはおらず、後水尾天皇本人も、将軍家に権力を侵されるのを恐れていた。そこに、和子の入内に合わせて、警護名目の武士たちが内裏に常駐するようになったのだから、緊張感もさらに増してくる。
結局、徳川家の血を引く明正女帝の誕生は、天皇に退位をちらつかせて駆け引きした結果、成しえたものだったのだ。ただ、女帝は七歳という幼きであったため、後水尾上皇の院政が行なわれることになった。また、和子はそれに合わせて東福門院という院号を名乗るようになる。
時は三代将軍家光の時代。兄が将軍、夫が上皇、娘が天皇という状況下で、武家と公家のせめぎ合いの板、はさみにあった東福門院にとって、高い身分とは裏腹に、決して心休まる日々ではなかったはずだ。
それが如実に表われているのが、彼女がもらっていた「化粧料」という名目のお小遣いである。
彼女が嫁いだころ、天皇家の所領は一万石、徳川家との婚姻で加増されたものの二万石であった。ところが、皇后である彼女には、別に一万石が渡されていたのである。
しかも、東福門院と称されるようになってからは、この化粧科が一万石でも足りず、彼女は兄の家光にたびたび無心するようになった。
では、それほどまでの莫大な費用が何に使われたかといえば、驚くことにほとんどが衣装代だった。それも、ただの呉服商からの購入ではなかった。都の一流庖に、色や織り、柄染めまでを細かく注文しながらあつらえた特注品だったのだ。しかも飽きてしまうと、すぐに公家や皇族の妻や女官たちに、惜しげもなく下げ渡していたという。
東福門院は、後水尾上皇と最後まで仲むつまじく暮らし、三三人にもおよぶ上皇の子どものよき保護者として、お小遣いもふんだんに与えていた。しかし、心やさしかった彼女にもそれなりのストレスがあったのだろう。趣味である呉服を次から次へ買い求めることで、そのうさ晴らしをしていたのかもしれない。 
徳川光圀  

 

テレビ時代劇の「水戸黄門」は、好々爺然とした風貌の水戸光圀(一六二八〜一七〇〇)が、諸国をめぐりながら葵の御紋の入った印龍をかざし、悪人退治をする勧善懲悪の物語である。
脚本の土台となっているのは、明治時代に書かれた「水戸黄門漫遊記」という講談本である。これは、幕末のころから講談師が語っていた光聞の旅物語から生まれたものだ。
もっとも、光圀の生きていた時代、たとえ引退したとはいえ、一国の領主が自由に旅をすることなどありえなかった。ただ、旅がフィクションであるにしろ、水戸藩主としての光圀の名君ぶりは、幕末まで語り継がれるほどのものだったといえる。
光圀は次男の身でありながら藩主を継いだことを心苦しく思い続け、早々と引退して兄の子・網条に領主を議っている。隠居後は、西山荘(現・常陸太田市)で農民に交じってつましく暮らしたという。
しかし、こうした光圀の名君ぶりに関する伝承は、実は彼の暴君ぶりをごまかすために、わざと流布されたものだった可能性が高い。
現存する西山荘も、元は豪邸だったものを、光圀の死後、名君にふさわしい質素なものに建て替えられているのだ。
ほかにも暴君の片鱗をうかがわせるエピソードが、いくつか伝わっている。
例えば、そのゆるぎない名声の由縁である歴史書「大日本史」の編纂大事業についてである。
光圀はこの事業のために、諸国の歴史や地理を確認する旅を行なったのでは、という伝承が講談師の語りの元になっているのだが、実際に編纂作業を行なったのは、水戸藩の江戸屋敷に置かれた「史館」で働く学者たちだった。
しかも、その運営費は藩費の二割を超えたという。その莫大な費用のために、家臣たちは扶持米の全額を支給されたことがなく、農民たちからの搾取はさらにすさまじいものであった。棄農して脱走する農民もあとを絶たなかったため、「村の人口が半減した」とか、「村が無人になった」などといわれ、この話は「水戸の村荒れ」として今に伝えられている。
また、側近中の側近である家老を手打ちにしたという話まである。本人はその理由を「つい、カツとして」としか語っていないが、おそらく乱費を諌めた家老を、怒りにまかせて斬り捨てたものと考えられる。
光圀は若き日に、遊郭通いを繰り返し、ケンカ三昧、さらには刀の試し斬りと称して非人を殺害したという記録もある。御三家に名を連ねる水戸藩の領主と早くから定められた若殿の野放図さが、やがて傍若無人な暴君としての姿につながったのだろう。
領民にやさしい名君ぶり、大事業を遂行したリーダー性:::。これらは、つくられた光圀像でしかなかったのだろうか。 
本寿院  

 

( 〜元文四(1739)年) 性欲におぼれるのは、何も男性ばかりではない。権力をかきにきて、次々と目当ての男たちと淫行にふけった女性もいた。尾張藩四代藩主の生母・本寿院である。
本寿院は尾張藩同心の娘で名を福といい、尾張藩三代藩主の徳川綱誠の側室となって、徳川吉通を生んだ。綱誠は一六九九(元禄二号年、福が三五歳のときに死去したため、自分の子である吉通が四代藩主となったために、藩主の生母としての絶大な力を手中に収めたのである。
すると、本寿院は欲望をむき出しにするようになった。三五歳といえばまだまだ女盛りである。芝居見物に繰り出しては眉目秀麗な役者を屋敷に呼ぴ、情交した。役者だけではなく、町人であろうと、相撲取りであろうと、気に入れば、誰彼かまわず屋敷に引き込んだという。
しかし、一番迷惑していたのは尾張藩の藩士たちであった。江戸の藩邸に住んでいた本寿院は、尾張から新しく江戸詰めになった藩士を湯殿に連れていき、素っ裸にして一物の値踏みをしたのだ。さらにそれで気に入れば、情交の相手までさせたという。てんいだたい本寿院は、出入りの典医にまで恋文を送っている。それまで何度も本寿院の堕胎手術をさせられていた典医は、彼女を恐れてそれ以後出仕を断ったという話まである。
やがて、こうした本寿院の行状を知らぬ者はいなくなり、さすがの幕府も見過ごせなくなった。というのも、御三家筆頭の尾張藩主の生母がこうした有様では、幕府の機威にまで傷がつきかねないからだ。
そこで、幕府は本寿院を尾張に帰し、そこで聾居するように申しつけた。こうして、本寿院は城下の御下屋敷に幽閉されることになる。このとき四一歳。それから七五歳で死ぬまで、幽閉生活は三四年間も続いた。
本能の赴くままに男をむさぼってきた本寿院にとって、幽閉生活は長くつらいものであったのだろう。独り身の寂しさからか、髪をふり乱して屋敷の大木によじ登っていたという話も伝わっている。 
徳川吉宗  

 

江戸幕府八代将軍・徳川吉宗(一六八四〜一七五一)は、質素倹約を旨とした享保の改革により、悪化していた幕府の財政を立て直した名君として知られている。
紀州藩主の四男として生まれ、母の身分も低く、将軍どころか藩主になれる見込みも薄かった人物である。彼は鷹狩りなどに出歩くのが好きで、豪放語落な暴れん坊将軍というイメージも強い。
しかし、尾張藩主・徳川宗春に対する態度を見ると、吉宗には「喰らいついたらどこまでも」というような意外に執念深い面もあったようだ。
宗春は、一七三〇(享保一五)年に尾張藩主の座について以来、吉宗の質素倹約政策に反対する態度をとり始めた。
例えば、もともと江戸にいた宗春は藩主になってからも、吉原遊郭へ足繁く通ったり、昼夜を問わず藩邸に芸人たちを出入りさせたりした。
初のお国入りにあたっては、施政方針を記した「温知政要」という書物を藩士たちに配布したが、そこには、「倹約ばかり強調すると慈悲の心が簿くなり、人々の苦痛となる」といった吉宗批判が書き連ねられていたのである。
また藩政においても、名古屋の城下に新たな遊郭を聞いたり、芝居奥行を奨励するなど、吉宗と正反対の政策を行なっている。
吉宗にしてみれば、腹立たしいものだったに違いない。しかし吉宗は、すぐに宗春を処罰したりはしなかった。
その代わり、宗春をたたく機会がめぐってきたとき、吉宗は容赦なかった。
宗春の政策は領民たちに歓迎され、名古屋の城下町は繁栄したが、その一方で宗春の散財によって藩財政が逼迫したり、城下の風紀が乱れたりしたため、一七三四(享保一九)年には、施政の方向転換をはからざるをえなくなった。
宗春は、家臣に対して歓楽街へ出向くことを禁じ、遊郭や芝居小屋の縮小を進めた。だが、すべては遅かったのである。
かねてより宗春の施政に不満を持っていた家老の竹腰正武をはじめとする重臣は、ついに、幕閣に宗春失脚の画策を持ちかけたのだ。
すると吉宗は自らの側近と連携をとらせ、一七三九(元文四) 年、宗春に隠居謹慎を命じ、名古屋城三の丸に幽閉した。ほうれきめいわ以来、一七五一(宝暦元)年に吉宗が死去したときにも、さらには一七六四(明和元)年に宗春自身が亡くなったときでさえ、その謹慎が解かれることはなかった。宗春の墓石には金網がかぶせられたほどだったという。
結局、宗春の謹慎が解かれ、金網が撤去されたのは、七六周忌目の一八三九(天保一〇)年のことである。
吉宗は、彼に数十年仕えた側近でさえ怒声を聞いたことのない、おだやかな人柄だったとも伝えられている。しかし、吉宗の死後も続いた宗春への処置が彼の遺志なら、おだやかというより、怒りを表に出さずにため込んで、ひそかに復讐の炎を燃やす性格だったのかもしれない。 
平賀源内  

 

江戸時代に生きた傑物・平賀源内(一七二八〜一七七九)は、摩擦熱によって電気を起こすエレキテルを復元したことで有名だが、医学、物理学、化学、地理学、動植物学、鉱物学など多岐にわたる分野でも才能を発揮した。老中の田沼意次からは、「オランダ本草翻訳御用」に抜擢されてもいる。
また、「福内鬼外」「風来山人」というペンネームを持ち、浄瑠鴻の脚本家としても活躍した。そのほか、洋画家でもあり、当時流行した「菅原櫛」や「金唐皮」といった商品をつくって売り出す商才もあった。まさに博学多才、「日本のダ・ヴインチ」というべき人物だ。
ところが「天才と狂気は紙一重」の言葉通りなのか、源内は、どうでもいいようなことにひどく腹を立てる欄績持ちだった。その度合いは常軌を逸しており、それが原因で殺傷事件を起こしてしまうのである。
一七七九(安永八)年の一一月、源内の家に建築請負業をしている久五郎と、松本伊豆守の用人・丈右衛門の二人が訪れた。
目的は、久五郎が請け負った、伊豆守の屋敷の改築費の相談であった。久五郎の見積もりでは高すぎるということになり、建築請負業をしていたことのある源内に意見を求めたところ、見積もりの三分の一でできるというので、その方法を聞くためにやってきたのである。
源内は自分の見積書を広げ、詳細を説明した。半信半疑だった久五郎は、源内の理論にすっかり感服し、三人は意気投合して酒を酌み交わした。そのうち、源内は酔って寝入ってしまい、二人の客人も源内の家に泊まった。
ところが、源内が明け方目覚めると、自分の見積書が見当たらない。「仕事がとられると考えた久五郎が盗んだに違いない」と考えた源内は、慌てて久五郎を起こし、問いつめた。
久五郎は「知らぬ」の一点ぱりだったが、源内がなおも詰問すると、「もし盗んだとしたらどうします」と逆に尋ねたのだ。
激怒した源内は、「こうしてくれる」といって、久五郎を斬りつけた。丈右衛門も、屋外に逃れた久五郎のあとを追う源内を止めようとして斬りつけられ、負傷してしまう。久五郎は深手を負って命を失った。
事の真相は、源内自身が手箱に見積書をしまったにもかかわらず、そのことをすっかり忘れていたのである。源内は無実の久五郎を斬りつけてしまったのだ。
悔恨の情にかられた源内は、切腹しようと万を抜いた。そこで騒ぎを聞いた門人たちがやってきて、源内は自刃を果たすことなく役人に捕えられ、投獄される。
しかし、門人が切腹を止めに入ったときについた傷からばい菌が入って破傷風にかかり、一二月一八日、源内は死んだ。
一説には、これほど源内が激しやすくなったのは、本来の気性もさることながら、パセドウ氏病か糖尿病、または肝硬変にかかっていたため、精神が不安定になっていたからともいわれている。
人がうらやむほどの才能の持ち主であっても最期が獄死とは、人生はわからないものである。 
長谷川平蔵  

 

江戸時代後期、江戸の拡大に伴って増加した放火事件や火事場泥棒などに対応するため、従来の町奉行所とは別に、「火付盗賊改」という組織が創設された。
火付盗賊改を扱った池波正太郎氏の小説「鬼平犯科帳」で人気を集めたのが、「鬼平」こと長谷川平蔵(一七四五〜一七九五)。鬼平とは「悪人に対して鬼のように恐い平蔵」という意味だが、平蔵が当時そのように呼ばれていた記録は残っていない。
平蔵は、京都町奉行を務めた四〇〇石の旗本・長谷川宣雄の子で、一七七三(安永二)年に家督を継ぎ、一七八四(天明四)年に、先手組頭と呼ばれる指揮官三四人の一人である御先弓頭に任じられた。火付盗賊改は、この先手組頭のなかから、通年で一人、冬期のみもう一人が兼任として任じられる決まりだった。
平蔵は、一七八七(天明七)年秋から翌年春まで、冬期のみの火付盗賊改、同年秋から一七九五(寛政七)年に没するまで、通年の火付盗賊改を務めている。
彼は火付盗賊改となってまもなく、評判をぐんぐんと上げた。町人によく気配りし、実績もよかったので、町人たちは「平蔵さま」と呼んでたたえたのである。名奉行・大岡忠相になぞらえて、「今大岡殿」とも呼ばれた。気難しい老中首座の松平定信で
さえ、「平蔵ならば」と信頼を示したという。
評判を聞いた平蔵は鼻高々。黙っていればいいものを、「今の町奉行は何の役にも立たない」と広言するようになった。さらには町奉行や同僚よりも活躍していることを自慢した。平蔵は有能だったが、いささか高慢なところもあったようだ。
そんなことを口にしていれば、当然町でうわさになる。それを耳にした同僚や幕府上層部からは、次々と平蔵を批判する声が出た。
松平定信も、無宿者や泥棒を減らした平蔵の功績を認めながらも、「平蔵は功利を追求する山師みたいに狭賢いために評判が悪い」と書いている。
どうやら平蔵は、人気者であると同時に嫌われ者でもあったようだ。不審者の召し捕りゃ大盗賊の摘発など多くの功績を上げながら、平蔵はこれといった昇進もなく、父と閉じ町奉行にもなれなかった。その高慢さのために損をしたのだろうか。 
本居宣長

 

江戸中期の国学者で「古事記伝」などの作者として知られる本居宣長(一七三〇〜一八〇一)は、仏教や儒教といった外国伝来の思想より、日本古来の神道の思想を尊重するよう主張した人物である。
仏教では、人が死後に赴く世界は、生前の行ないや信仰によって極楽や地獄に分かれるとされているが、日本神話では、死後の世界は地下にある黄泉国だとされている。
そこから、宣長は、「身分の高い人も低い人も、善人も悪人も、みんな死後は必ず予美国(黄泉国)に行かなければならない。悲しいことである」といい、死後の世界についてはそれ以上語ろうとしなかった。自分の死後を語るのは無益な空論だ、とも主張している。
だが、一八〇〇(寛政一二) 年に宣長が書いた遺言書は、自身の主張してきたことと正反対の内容だった。
宣長の遺言書には、「葬儀は菩提寺である樹敬寺で行なうが、亡骸を納めた棺はそちらに送らず、山室山の妙楽寺近くに葬り、墓所は菩提寺と山室山の二カ所に設けるように:::」などと、自分の葬儀や墓所についての指示が詳細に書かれていたのだ。
山室山は、現在の三重県松阪市の中心地から南南西に六キロメートルほどのところに位置する山である。宣長は妙楽寺の住職と親しく、遺言書を書いたあと、門人たちを連れて山頂近くの妙楽寺付近を歩き、自ら墓所を定めたという。
さらにこの遺言書には、戒名、位牌、供養などについても、前例がないほど細かい注文が記されていた。例えば、本居家から樹敬寺まで向かう葬儀については、乗り物を中心に行列を組むことが説明付きでくわしく図解されていた。
宣長は、この遺言書を書いた翌年に風邪をこじらせて亡くなったが、書いた時点では健康だったというから、老いて気弱になったというわけでもないらしい。
どうやら宣長は、国学に基づいたふだんの主張とは裏腹に、自分の死後に並々ならぬ関心を抱いていたようである。 
前野良沢  

 

前野良沢(一七二三〜一八〇三)といえば、杉田玄白とともに「解体新書」を手掛けた人物として名高い。良沢は中津藩の藩医、玄白は小浜藩の藩医だった。
一七七一(明和八)年、江戸の小塚原刑場で刑死体の解剖が行なわれることになり、玄白はその見学を許すという知らせを町奉行所から受け取った。そこで、同僚の中川淳庵と彼の知人であった良沢を誘い、三人で解剖を見学することにした。
そのとき偶然にも、玄白と良沢は、それぞれオランダ語の外科医学書「ターヘル・アナトミア」を手にしていたのである。
「ターヘル・アナトミア」には、人体の解剖図がいくつも載っていた。二人は死体から取り出された内臓と書物の図とを照らし合わせ、この書物がいかに正確かを知って驚いた。
これがきっかけとなり、三人は協力して「ターヘル・アナトミア」の翻訳事業に取り組むことになる。この結実が、のちに出版された「解体新書」である。
三人のうち、もっとも有名なのは玄白だが、翻訳の中心となったのは、実は良沢だつた。
良沢が、「心臓」や「肺」など、多少オランダ語の単語を知っていたのに対し、玄白はアルファベットさえ知らなかった。何とか翻訳できそうなのは、長崎でオランダ語を学んだことのある良沢だけだったのだ。
彼らは、約一年半を費やして、一応は最後まで翻訳することができた。
ところが、それですぐに出版されたわけではない。不備が見つかって出版禁止などの事態になってはまずいというので、一一回もの推敲を重ねたのである。
それほど手聞をかけたにもかかわらず、良沢はなおも納得しなかった。彼は社交性に欠ける変わり者で、徹底的な完壁主義者だった。玄白が、多少の間違いがあっても、なるべく早く翻訳書を世に出そうと考えたのに対して、良沢は不完全と思えるものを出版するのが気に食わなかったのである。
学者肌の良沢は、序文を書いてほしいと玄白に頼まれでも断固として拒否した。良沢が出版に反対し続け、翻訳者として名前を出すことさえ潔しとしなかったので、やむなく玄白は、訳者名の欄から良沢の名を削り、良沢の師である吉雄幸左衛門に頼んで序文を書いてもらった。
そのため「解体新書」には、ほとんど良沢が訳したにもかかわらず、その名は記されなかったのである。
自分の行なった業績を他人にとられて怒る人は多いが、良沢のように、自分の名前が出るのを拒否する人聞は珍しい。自分が有名になれるかどうかには関心がなく、ひたすら完壁を求める堅物だったのだろう。
いずれにしても、翻訳着手から四年の歳月を経て一七七四(安、水三)年に世に出た「解体新書」は、日本の洋医学を大きく前進させたのであった。しかし当然、その功績の多くは良沢ではなく、玄白のものとなっている。 
鼠小僧次郎吉  

 

鼠小僧次郎吉(一七九七〜一八三二)は、盗人といえども庶民の味方。大名屋敷や裕福な武家屋敷しか狙わず、盗んだ金は貧しい人々に分け与えた。盗むために人を殺したり傷つけたりするようなことはせず、鮮やかな手口で金を盗み、屋根から屋根へひょいひょいと飛ぴ移って、役人たちの追跡を逃れたという。
これが、鼠小僧次郎吉の伝説である。まるで小説のヒーローのようだが、次郎吉は実在した人物だ。
では、現実の姿が右の通りかといえば、そうではなかったようだ。江戸の寛政期に生まれた次郎吉は、元は建具職人だったが、その後鳶職人となった。そのため手先が器用で、身のこなしは軽く、屋根づたいに歩き回るのもお手のものだった。
しかし、妻子と両親との五人暮らしで、職人の稼ぎでは家族を食べさせていけない。そこで、やむなく二六、七歳のとき泥棒稼業に身を落としたのだ。
結局、次郎吉は一八三二(天保三)年、三六歳のときに捕らえられ、江戸中を引き回しのうえ、獄門刑に処せられた。
次郎吉は捕まるまでの一〇年間に、九五カ所以上の屋敷に何度も忍び込み、八三九回もの盗みを働いた。この数は、本人が記憶しているものだけだというから、実際にはもっと数が多いかもしれない。
ただ、次郎吉の妹が加賀の前田家に女中として奉公に上がっていたため、前田家だけには盗みに入らなかったという。
盗んだ金の総額は三〇〇〇両以上。現在の金額に換算すると、一億円はくだらない。
それほどの金を盗んでいながら、次郎吉は長屋住まいだったし、部屋にはたいした家具もなく、特に派手な遊びをしている様子もなかった。
なるほど、貧しい人々に盗んだ金の大半をばらまいたのだとすれば、自身の暮らしぶりが貧しかったのもうなずけるが、次郎吉が人々に金を与えたという記録はどこにもない。
のちに語られるようになった次郎吉のヒーローぶりも、よくよく考えると、ほかにもつじつまの合う説明をすることができる。
次郎吉が大名屋敷や武家屋敷だけを狙ったのは、そこに金がたんまりとあったからで、金以外のものを盗まなかったのは、物品では足がつきやすいからにほかならない。
役人と殺傷沙汰にならなかったのは、それほどの武道の心得がなかったに過ぎないのである。
それでは、三〇〇〇両の大金を手にしたにもかかわらず、相変わらずの貧しい暮らしを続けたのはなぜだろうか。そこが最大の疑問なのだが、どうも博打ですべて使ってしまったらしい。
次郎吉はとかく博打が弱かった。盗めども盗めども、博打で巻き上げられてしまうので、仕方なくまた盗みを繰り返した。
これが、「義賊」とまで呼ばれ、もてはやされた鼠小僧の正体だったようだ。 
徳川家斉  

 

徳川幕府の歴代将軍のなかで、とりわけ性豪の子だくさんで知られるのは、将軍・徳川家斉(一七七三〜一八四一)である。
家斉は、徳川家の分家である御三卿の一つ、一橋家の出身で、嗣子のなかった一〇代将軍・徳川家治の養子となり、一七八七(天明七)年に一五歳で将軍となった。
彼の側室は四〇人といわれ、そのうち一六人の側室と正室の計一七人から二八人の男児と二七人の女児が生まれている。
それほど子どもが多いだけあって、家斉は精力絶倫で、手が早かった。
例えば、一七八九(寛政元)年、一七歳のときに薩摩藩主・島津重豪の娘の茂姫を妻に迎えたが、どうやら婚礼より前に手を出していたらしい。茂姫は婚礼からわずか五〇日ほどのちに子を生んだと伝えられている。
今日なら珍しくはないことだが、江戸時代の上流階級としては異例だろう。
それ以後も家斉は、側室を次々に増やし、夜ごとの快楽にふけった。寛政の改革で有名な老中・松平定信まで「回数が多すぎては体によくない」と忠告したが、家斉は聞き入れなかったという。
また、家斉は相手の品定めにも余念がなかった。夜になると、正室や側室のところに渡るだけでなく、大奥の奥女中たちが住む長局をさまよい歩き、奥女中の部屋をのぞいて回ったという。
ある夜、奥女中たちが太った女中のうわさ話をしていた。
「あの人がもし妊娠したら、太鼓腹がさらに大きくなって、どうなるでしょうね」それを聞いた家斉は、さっそくうわさの女中に夜の相手をさせて、彼女の腹がどうなるか試そうとした、という話が伝わっている。
いずれも史実かどうかはわからないが、家斉がいかにもこうした伝説が語られそうな好色家だったのは確かである。 
山田浅右衛門吉利 

 

江戸時代、武士が務めた世襲制の役職には、物騒なものもあった。山田浅右衛門家が任にあたった「将軍家御試御用」の職である。これは、二代目・吉時のころから任されるようになったもので、将軍の万の切れ味を試すという仕事であった。山田家の当主は代々、「山田浅右衛門」の名を受け継ぎ、七代目・吉利(一八二一〜一八四四)のときに明治維新を迎えるまで、その役目をこなした。
刀の良し悪しをはかるには鋭い鑑識眼がなければならないが、一番の仕事は実際に試し斬りをしてみることであった。日本刀の本当の切れ味を試すには、実際に人体を使ってみるのがもっとも確実なのだ。
では、その人体をどこから調達したのか。
それは、死刑囚であった。試し斬りとは、処刑された首のない罪人たちを複数重ねて斬ることだったのだ。
罪人の死体とはいえ人を斬る職業だったため、山田家は浪人扱いとされ、公式の役人ではなかった。しかし、将軍の刀を鑑定するという権威があり、また日本中でこの役目をこなせるのは山田家のみということで、大名たちから刀の鑑定を依頼されることも多く、収入はかなりあったようだ。
そのうち、処刑そのものも山田家が行なうようになる。処刑は本来、役人の仕事であるが、腕の立つ者でなければかえって罪人の苦しみを長引かせてしまうということで、山田家の仕事となったのだ。
処刑を引き受けることで、山田家はますます裕福になった。将軍家からの収入、試し斬りの礼金以外に、処刑人の権利として、刑死者の内臓などを譲り受けることができたからである。
当時は、人体の肝や陰茎、血液などを材料とした薬は、特に効能が高いと珍重されていた。山田家がつくる人の肝を原料とした人丹は、肺病薬として人気があり、薬の販売で大きな利益を上げたのである。
山田家・七代目当主の吉利は、特に鑑識眼にすぐれ、剣の腕も抜群であった。彼は、安政の大獄で処刑された橋本左内や吉田松陰を手にかけた人物でもある。
山田家は吉利の代に隆盛を極めたのだが、剣の達人で、冷徹に罪人を斬ると恐れられた吉利には意外な一面があった。
処刑があった日は、必ず周囲の者を引き連れて大酒宴を朝まで催しているのである。酒を浴びるように飲まなくては、精神的にもたなかったのだろう。
罪滅ぼしのつもりか、吉利は処刑した者の慰霊供養のために無縁塔を建てたり、二一カ所もの寺院に寄付をしたりしている。また、泉岳寺への月に一度のお参りを欠かさなかった。浮浪者を自宅に連れて帰り風呂に入れて食事をさせ、家人の古い着物やお金を与えたりもした。
人斬り人である吉利の素顔は、憐悔と信仰の心、貧しい人を思いやるやさしさにあふれでいたのである。 
葛飾応為  

 

「富撮三十六景」などで有名な江戸の浮世絵師・葛飾北斎には、息子が二人と娘が三人いた。そのうち、北斎が死ぬまでともに暮らしたのは、三女の栄(生没年不詳)である。
北斎と栄は、どこまでも似たもの親子だった。栄も父と同じ絵の道に進み、江戸時代の代表的な女性絵師となったのである。特に美人画では、父よりも優れているという評価もあるほどだった。
共通しているのは画才だけではない。北斎は、自ら画狂人と名乗る変わり者だったが、栄もまた、様々な奇行の逸話を残しているのである。
栄は、南沢等明という絵師と結婚したが、すぐに離婚してしまった。離婚の理由は、等明の絵を遠慮なくこきおろしたため、追い出されてしまったのだという。北斎の絵を見て育ち、自らも画才のあった栄の目には、等明の絵は物足りなく映ったのだろう。
また、栄が用いた画号も風変わりだ。栄の画号「応為」は、北斎が彼女のことをいつも「オーィ、オーイ」と呼んだからだとも、栄が父親を「オーィ、オーィ、おやじどの」と呼んだのに由来するともいわれている。いずれにせよ、親子聞の呼び声をそのまま画号にしたのである。
絵を描き始めると周囲を気にしないのも父親譲りで、炊事を面倒がって、食事は惣莱屋で買ったものですませていたという。しかも食べたあと、惣菜を包んでいた竹の皮をそのまま放置するので、悪臭を放ってハエが飛び回るという有様だったらしい。
無頓着な奇人の画家二人が住む家は、なかなかすさまじい様子だったようである。
北斎が九〇歳で死去すると、栄は家を出て忽然と姿を消した。一説によると、旅に出て、行く先々で絵筆をふるい、足の赴くままに流れていったという。
父が生涯に九三回も転居していることを考えると、栄が諸国を放浪したという説も真実味があるかもしれない。
(19世紀江戸時代後期の浮世絵師、晩年は仏門に帰依し、安政2-3年(1855-1856年)頃、加賀前田家に扶持されて金沢にて没したともされる。また、北斎没後8年目に当たる安政4年(1857年)に家を出て、それっきり消息不明になったとも、伝えられ、家出した年に応為は67歳であったという。一方で虚心は、「浮世絵師便覧」で慶応年間まで生きている可能性を示唆しており、これらを整合させると、生まれた年は寛政13年(1801年)年前後で、慶応年間に没したことになる。) 
吉田松陰  

 

幼いころから藩主に進講して天才の誉れを得ていた吉田松陰(一八三〇〜一八五九)は、のちに松下村塾を聞き、高杉晋作をはじめとする多くの幕末維新の志士たちを世に送り出した。
松陰は、塾開設前の一八五四(安政元)年、江戸遊学中にペリlの黒船来日に遭遇し、密航を企てたことが罪に関われ、萩城下の野山獄に投獄された。幕府は、故郷の萩藩での聾居を命じただけだったのだが、藩主が事を大きくとらえて、あえて投獄したのである。
獄中での松陰の生活は、かなり自由が認められており、彼は識中仲間を集めて「孟子」を講じている。また、句会を聞く許可を得て、獄中で連歌の会を聞いたりもしてした。
これらの経験が、のちの松下村塾での弟子指導へとつながったといえる。
生涯を通じて女性の影が薄いと思われがちな松陰だが、獄中での句会で、高須久という年上の女囚と運命的な出会いをしている。
長州藩士の未亡人だった彼女は、素行不良を理由に投獄されていたというから、おそらく恋愛問題を関われての罪だったと思われる。たとえ未亡人ではあっても、当時の武家に嫁いだ女性には、貞節が求められていたからだ。
連歌の会では、一人が五・七・五と上の句を詠むと、次の人が七・七と後句づけをする。句会で席が隣り合った松陰と久が詠んだ句が残されているが、そこには、男女の心の交情がそこはかとなく漂っている。
当時二五歳の松陰に対して、久は三七歳の女盛り。投獄の理由が理由だけに、自由奔放さを備えた情熱家であったに違いない。初めは久のほうが、積極的だったようだ。
それは、松陰の詠んだ句に、久が愛をうかがわせる後句づけをしていることから推し量ることができる。
しかし、句会が重ねられていくうちに、松陰の詠む句からも、久への思いがくみ取れるものが出てくるようになる。そのうち句会が終わると、松陰は久に問われるままに、投獄されるきっかけとなった事件のことや、これまでの旅のことなどを話すようになった。こうして、二人の心は次第に接近していったのである。
とはいえ獄中のこと、二人の愛は小さく温かい日常会話のなかで交わされるだけにとどまった。
一年余りで聾居を解かれた松陰が野山獄を去るとき、久は「鴫立つであと淋しきの夜明けかな一声いかで忘れんほととぎす」の句を贈っている。この匂には、一人残される女心の寂しさが表われている。
以後、松陰と久はこの世で二度と会うことはなかった。松陰は松下村塾を聞き、その生活のなかで、女性との交流などが持てる時間はなくなっていくのである。
それでも、一八五人(安政五)年に起きた井伊直弼による尊皇撰夷派の弾圧・安政の大獄に連なって松除の罪が定まり、江戸へ送られることになったとき、久は手縫いの汗ふき布を贈っており、松陰もそれに返歌を贈っている。
「箱根山越すとき汗の出でやせん君を思ひてふき清めてん」
この歌からは、獄中での句会のときと閉じ温かい感情を読み取ることができる。松陰のなかには、久への愛が消えずに残っていたのだろう。 
佐久間象山  

 

幕末期を代表する思想家・佐久間象山(一八二〜一八六四)は、東洋の儒教道徳を保ちながら西洋の技術を取り入れるよう主張し、幕臣・勝海舟、長州の思想家・吉田松陰などに大きな影響を与えた。
土佐の坂本龍馬が勝海舟の弟子で、吉田松陰の門下に多くの噂皇擁夷派の志士たちがいたことを思えば、象山が間接的に感化した人間はさらに多い。
しかし、彼の開国の主張は一部の尊皇擁夷派の反感を買い、一八六四(元治元)年、人斬りとして有名な肥後(現・熊本県)の河上彦斎に暗殺された。
学識豊かな人物として知られる佐久間象山だが、子どものころから秀才と呼ばれ、期待されていたためか、かなりの自信家であったことがうかがえるエピソードが伝えられている。
象山は常々、「尻の大きな女を妾として紹介してくれ」と、あちこちで頼み回っていた。しかし、彼は別に「尻好き」だったわけではない。彼のこの行動の裏には、聞きかじった生物学の知識と、自分がもっとも優秀だという自信が隠されていたのである。
象山は、「頭のよい自分と体格のよい女の聞に生まれる子どもなら、聡明で体格のよい理想的な日本人になるだろう。それに、尻の大きな女は安産型だから、子どもがたくさん生まれる可能性が高い」などと大まじめに考えていた。
彼はこの信念のもとに、尻の大きな女を探し、同時に何人もの妾を持ったのである。
また、象山は頭脳と体格だけでなく、容姿も大事と思ったらしく、美男美女の子孫を残せそうな美女の妾を探そうともしたという。
女性に対しては、「子どもを生む道具」といった意識が強く、対等の人間とか、愛情の対象として見ることはできなかった。東洋の精神を高く評価した象山であったが、日本的な美徳である「謙虚さ」は持ち合わせていなかったようだ。
結局、象山は正妻の順子とはしっくりいかず、妾のお菊に生ませた子・幡二郎も学問とは無縁で、父譲りなのは「好色」だけだったというから、皮肉なものである。 
松原忠司  

 

幕末に京都で活躍した新選組の隊士のなかに、松原忠司(生年不詳〜一八六五)という人物がいる。
一八六三(文久三) 年、松原は大坂で柔術の道場を梢えていた。そこで結成してまもない壬生浪士組(のちの新選組)の隊士募集の知らせが入り、松原はそれに応じて入隊したのだ。
松原は休絡がよく、坊主頭に白鉢巻きを締め、大長刀を持った姿が弁慶を連想させるため、隊士たちから「今弁慶」と呼ばれていた。
そのあだ名にふさわしく、勇杭で仕事熱心だった松原は、近藤勇局長ら幹部たちからの許制も高く、七番隊の組長に抜擁されている。一八六凶(元治元)年の六月には、新選組の名を一躍知らしめた池田屋騒動にも出動し、その功績が認められて褒美を拝領するなど、輝かしい戦歴を残している。新選組の屯所があった壬生の住民たちからも、親切者だと評判がよかった。
そんな快男児の松原が、やがて身を滅ぼすほどの恋をするなど、誰が想像しただろうか。
そのきっかけは、ある日、祇園で飲んだ帰り道に起きた。酔っていた勢いで通りすがりの浪人と口論になり、カツとなって相手を斬り殺してしまったのである。
自分の短気を悔いた松原は、身元を確かめて壬生の天神横丁の住人と知ると、遺体を届けた。すると、殺した男には妻がいたのである。
松原は、自分が斬ったとはいえず、その後も頼りない身の上となった女の元を、何度も訪れては世話を焼いた。それを繰り返すうちに、松原は女に好意を持つようになり、女も彼の親切にほだされ、いつしか二人は男と女の仲になってしまった。
これを知った副長の土方歳三は、殺した男の妻と関係するなどとんでもないと、松原を叱責した。純粋に女を愛していた松原は、思いつめて切腹しようとしたが、止めに入った隊士によって一命を取りとめた。
この一件で平隊士に降格された松原は、仕事に対する意欲を失い、酒におぼれるようになる。全快したと思われていた切腹傷もじわじわと悪化していった。けいおうこつぜんそして、一八六五(慶応元)年の夏のある日、松原は屯所から忽然と姿を消した。無断外泊が続くので、新選組の隊士たちが女の家を訪ねてみると、松原と女が心中していたという。
松原が女に真実を告げ切腹するというと、女もともに死ぬことを望み、そこでやむなく、女を殺して自分も腹を切ったのだといわれている。
ただし、心中事件というのは後世の創作で、松原の死因は切腹傷の悪化という説もある。新選組の記録では単に「病死」となっており、真相は薮のなかだ。
心中だったにせよ、そうでなかったにせよ、松原は、自分が殺した男の妻に思わず好意を寄せたり、うまくいかないと心中するほど思いつめてしまうような、情にもろくて純情な男だったのだろう。 
坂本龍馬 

 

坂本龍馬(一八三五〜一八六七)といえば、幕末、対立していた薩摩と長州に薩長同盟を締結させ、政権を幕府から朝廷に返還させる大政奉還の実現に貢献するなど、日本の歴史を大きく動かした人物である。
龍馬は、新しい時代を見ることなく、一八六七(慶応三)年一一月に暗殺されてしまうが、もし暗殺されなかったとしても、あまり長生きはできなかったかもしれない。
龍馬の写真を見ると、額の生え際がかなり後退して、禿げ上がっている。これは、梅毒が原因といわれている。少年時代、長崎で龍馬の使い走りをしていた中江兆民が、のちに「龍馬の額が広いのは梅毒で髪が抜け落ちたから」と語っているのだ。
姉たちのなかでかわいがられて育った龍馬は、女性に甘えたり女心の機微をつかむすべに長けていたのであろう。龍馬の行くところに女の姿あり、といえるくらいにモテた。そのため、性生活は乱れに乱れていたらしい。龍馬の恋愛といえば、京都・伏見の船宿・寺田屋のお龍が有名だが、それ以外にも幾多の女性たちと関係を持った。
郷里の土佐(現・高知県)では一〇代のころから、姉の嫁ぎ先に泊まりがけで遊びに行くと、女中部屋に夜ぱいに行っていた。一九歳で江戸に出ると、入門した千葉道場の道場主の娘・千葉佐那と恋仲になり、二四歳のときに婚約までしている。
結局、佐那とは結婚せず再び土佐に戻れば、土佐藩士・平井収二郎の妹・かほ、高知城下の漢方医の娘・お徳といった何人もの恋人をつくっている。
龍馬は亀山社中の設立などでしばしば長崎に滞在していたが、そこでの遊び場は、もっぱら遊郭であった。長崎では幕府方の探索の目を心配せずに思う存分色事に興じることができたのである。
しかも、長崎で龍馬と行動をともにしていた土佐藩士・佐々木三四郎は、遊郭を訪れたイカルス号のイギリス人乗務員二人が殺傷された事件の探索をする使命を帯びており、遊郭への立ち入りを認められていたので資金が潤沢だった。龍馬は三四郎をだしに遊びほうけたのである。何ともちゃっかりした遊び人である。
こんな龍馬がどこかで梅毒をうつされていたとしても、不思議ではなさそうだ。 
土方歳三 

 

新選組副長(のち隊長)の土方歳三(一八三五〜一八六九)は、美男子と評判が高く、女性にモテたとよくいわれる。
例えば、江戸から上洛して半年あまりたった一八六三(文久一一一)年、歳三は、郷里で親しくしていた多摩(現・東京都西部)の小島鹿之助にあてた手紙で、自分に惚れている遊女や芸妓・舞妓の名を連ねて自慢している。しかも、文末には「報国の心を忘るる婦人かな」という勾まで詠んだ。婦人たちによって国に尽くす心も忘れてしまいそうだ、というのである。
それほど女性にモテたのなら、さぞかし女心の機微がわかる人物だったのだろうと想像される。実際、東京・日野市の土方家に伝わる伝承では、歳三は心やさしく気配りのできる人物で、村の女性たちにもよく気を使っていたという。
ただ、同時代の女性たちにも好かれ、現代でも女性ファンの多い歳三だが、意外なことに、女性を見下した一面もあったらしい。
歳三の六代目の子孫にあたる土方愛氏の「子孫が語る土方歳一二」によると、一八げんじおい六四(元治元)年、土方家の当主となっていた甥の隼人作助の妻・たねが初めての子どもを生んだとき、それが女の子だと聞いた歳三が送った手紙には、たった一言「女は下の下なり」と書いであったというのである。
この手紙を受け取ったたねだけは、土方家のなかでも歳三のことをよく思わず、「歳さんはねえ、ひどいんだよひどいんだよ」とよくいっていたそうだ。しんせきこそでつる閉じころ長男が誕生した親戚の橋本家に対しては、小袖や「一羽の鶴が高い山の上をゅうゅうと飛んでいく。そんな立派な人物になってほしい」という内容の漢詩をお祝いとして贈っていたというから、明らかに差がある。
歳三は実家に早く後継ぎができるようにとやきもきしていたので、生まれたのが女の子だと聞いてがっかりしたのだろうが、たねはずいぶん傷ついたに違いない。
ふだんは女性にやさしい歳三も、家の後継ぎ問題がからむと、女心をかえりみる余裕を失ってしまったようである。 
天璋院 

 

徳川幕府一三代将軍・徳川家定は、病弱で暗愚なうえ、後継ぎも望めない不能者だったといわれる。一方、正室の篤姫(一八三六〜一八八三)は、夫と対照的に聡明な女性だった。彼女は、わずか一年半で夫の家定と死別して未亡人となると、落飾し天璋院と号した。その後、幕府が終罵を迎えるまで、大奥の最高権威者であった。
天璋院は薩摩藩の島津家の出身、だったが、薩摩藩が討幕に踏み切っても徳川家を見捨てず、大奥の女性たちにも江戸の住民たちにも尊敬されていた。幕府の崩壊後には、一四代将軍・家茂の正室だった和宮と協力し、最後の将軍・慶喜に代わって徳川家の当主と認められた幼い家達を育てている。
だが、そんなしっかり者の天璋院にも、勝海舟との艶聞のうわさがあった。
海舟は天璋院や和宮に信頼されており、天璋院と和宮が二人で海舟の家を訪ねたという話が「海舟座談」に記されている。
一八七七(明治一〇)年、和宮が亡くなり、家達がイギリスに留学したので、天璋院は寂しい境遇となった。そのためか、海舟は天璋院をあちこち連れ歩いた。吉原や浅草などを見物させて孤独を慰めたり、庶民の様子を見聞させたりしたのである。
二人のロマンスはそれだけにとどまらない。「海舟座談」のなかで、海舟のお手つきの女中が、「海舟と天璋院は船で話をしていたらしく、帰りが夜中の二時か三時ごろになることがたびたびあった」と証言しているのである。
当時、屋根のついた船は男同士の商談や密談などによく用いられていた。しかし、それが好いた男女同士であれば密会用にほかならない。海舟と天薄院が利用していたのがそうした屋根船なら、二人は話をするだけでは終わらなかったかもしれない。
実際に海舟と天璋院が男女関係にあったかどうかは定かではないが、二人でよく出歩いていたのなら、互いに好意を持っていたのは確かだろう。天璋院が、自分で縫った羽織を海舟にプレゼントしたというほほえましい話も残っている。
天璋院は家定に嫁いで以来、長らく大奥に閉じ込められて暮らしていた。幕府が崩壊して初めて、自由に羽を伸ばせるようになったのかもしれない。 
木戸松子 

 

明治新政府の元勲・木戸孝允は、西郷隆盛、大久保利通と並んで「維新の三傑」と称される。維新志士時代の名は桂小五郎。当時の彼は「逃げの小五郎」と呼ばれることもある。倒幕運動を代表する長州藩士として幕府に追われる身で、いわば指名手配犯であった彼は、捕まりそうな危機を何度も脱出しているからである。
それを陰から支えていたのが、彼の愛人であった京都の芸妓・幾松(一八四三〜一八八六)だ。
幾松は美人で利発な売れっ子であった。一方の桂は長州藩の若きエリートで、金もあるし、現存する写真を見る限りなかなかの男前だったようだ。
宴会に名を借りた密議の席で知り合った二人が、やがて愛し合うようになったのは必然だったかもしれない。藩邸のすぐ裏にある三条木屋町に幾松が妾宅を構えるほどの仲になっている。
このころの幾松には、桂を捜して自宅へ乗り込んできた新選組を追い返したとか、逃亡中の桂が潜んでいた二条大橋の下へ変装して握り飯を届け続けたなどというエピソードが数多く伝えられている。
明治新政府の誕生後に桂が木戸孝允と改名して参議になると、幾松は晴れて正妻として迎えられ、松子と名乗るようになる。彼女が、その後は名士夫人として幸福な後半生を送った:::というのであれば、維新時代の苦労は報われただろう。
ところが皮肉なことに、身の危険をかえりみず木戸を守るのとはまた別の苦労が、彼女を襲ったのである。
幕末動乱のなか、幾松という愛人がありながら、木戸は逃亡先のあちこちで別の女性とも関係を持ち、子どもまで生ませていた。幾松には、そうした子どもたちを次々に引き取って、養育する役目が待っていたのである。ほかにも木戸の異母姉の子や松子自身の妹の子も養子として迎え、子育てに尽力している。しかし、自らは子どもを生むことはなかった。
また木戸はといえば、維新という混乱のなかではその才を発揮したが、新しい時代を迎えて活躍の場所を見つけられずにいた。
もともと健康に不安を抱えていたうえ、神経質だった木戸は、猫疑心が強く優柔不断な男だった。そのため、新政府で与えられる役職を、次々に自分に合わないと辞したうえ、その不満を女遊びで晴らすこともあった。
そんな浮気相手の一人が、松子の妹だったという話も伝わっている。これにはさすがに松子も愛想を尽かしたのだろう。自分も負けじと芝居見物に通うことが多くなり、役者相手に浮き名を流すことが一度ならずあったという。
立ち向かうべき困難があるときは結ぼれていた固い鮮が、平穏な世では弱まってしまうという悲しい現実が、松子を襲ったのである。
このような悔しい思いをしたにもかかわらず、松子は病弱な木戸の面倒をよく見た。
彼の死後は出家して、木戸が隠居所として用意していた京都木屋町にある別邸で隠遁生活を送っている。苦労させられたものの、木戸への愛情はいつまでも残っていたのだろうか。 
陸奥宗光 

 

明治時代の外交官・陸奥宗光(一八四四〜一八九七)は、紀州(現・和歌山県)の出身で、幕末に京都で尊皇嬢夷の志士に仲間入りしたり、坂本龍馬の海援隊に加わるなどして、明治の元勲の一人となった人物である。
外交官としては、一八九二(明治二五)年に成立した第二次伊藤博文内閣の外務大臣として、幕末に諸外国と結ぼれた不平等条約の改正に尽力し、日清戦争の講和においても活躍した。
外交官といえば、巧みな話術や的確な状況判断の能力がなくては務まらないが、宗光は少年のころから口がうまかったらしい。一四歳のときに家出して、江戸で儒者・安井息軒の門人になったときも、最年少であったが、議論や討論では負けることがなかったという。
彼は一八六三(文久三)年、他の紀州藩士の子弟二四人とともに兵庫(現・神戸市)にあった勝海舟の海軍操練所に入所し、伊達小次郎と名乗った。ここでは「うそつきの小次郎」と呼ばれたという。
その二枚舌の才能は、のちに愛妻に対しても用いられている。
宗光の妻の名は亮子といい、元は小兼という名の芸妓で、まれにみる美貌と聡明さを持つ女性だったという。
一八七七(明治一〇)年、長州か薩摩の出身者以外はなかなか出世できない藩関政治に不満を抱いた宗光は、土佐出身の林有造らの政府転覆計画に加担した。翌年、この計画が発覚すると、禁固五年の刑をいい渡される。
その獄中から、宗光は妻の亮子へ手紙を送っている。
亮子は、宗光から受け取った愛情深い手紙を励みに、離れ離れの日々を耐え抜いた。
夫の友人宅に寄宿しながら、宗光の母に仕え、子どもを育てたのだ。
さらに宗光は、四年で特赦放免されたが、その後も亮子と一緒に暮らせたのは短い期間で、翌年から約四年間、欧米諸国を外遊している。その聞にも宗光は、亮子に何十通もの手紙を送った。
離れていても固く結ぼれた夫婦の愛:::と、亮子はおそらく信じていただろうが、意外な事実もわかっている。
実は宗光は、獄中で洗濯女に子をはらませていたというのである。しかも、彼の死後には、ほかに隠し子がいることもわかった。
外交官でならした二枚舌か、宗光は、妻にせっせと愛のこもった手紙を書きながら、その一方で別の女性に手を出していたのである。
外遊先から妻にあてた手紙には、次のようなことが書かれている。
「夫婦は道連れの旅人ですから、晴雨寒暑はともにすべきものです。このことは同居していても、離れていても変わりのないことです」
「夫婦とは、ともに生きること」と強調してきた宗光の手紙は、真に妻・亮子を愛する気持ちの表われだったのだろうか、それとも遠く離れた妻を縛りつけるための手段だったのだろうか。今となっては知るよしもない。 
中江兆民 

 

土佐藩の足軽の子に生まれた中江兆民(一八四七〜一九〇一)は、日本における自由民権運動の思想的リーダーであり、フランス留学の経験をもとに広く民衆に啓蒙したところから「東洋のルソー」とも呼ばれる。
過去の因習、権威・権力などへの反逆という、中江の後半生を貫いた精神性から高潔な人物像を想像するが、その一方で、中江は多くの奇行が伝えられている人物でもある。
若き日、中江がまだ文部省の官更だった時代の見合いの席で、とんでもない行動を起こしている。
下級武士の出身とはいえ将来を嘱望されていた中江の元へ、華族令嬢との縁談が持ち込まれ、見合いの席が設けられた。岩崎祖堂氏が著した「中江兆民奇行談」によれば、相手は一六歳で美人、才にあふれで家政のしつけもしっかり受けた申し分のない女性だったという。
先に見合いの席についた中江は、相手の到着も待たずに飲み食いを始め、令嬢が姿を見せたときにはすっかり出来上がっていた。そして、おもむろに下半身をはだけたうえに、ふんどしをはずして陰嚢を取り出した彼は、それを両手で広げてみせたのである。
さらに同席していた友人に、そばにある火鉢の炭を広げた陰嚢に乗せるよう命じた。友人も酔いに任せて、面白がっていわれた通りにした。しかし、それは熱くおこった炭火である。あまりの熱さに悲鳴を上げて中江は席を飛び出したという。
これでは見合いが失敗に終わって当然である。後日、相手の使いがやってきて、「この縁談はなかったことに:::」と申し入れた。
実は、それこそが中江の狙いだったのだ。
炭が熱かったのは計算違いだったようだが、縁談を断らせる自分の計略はうまくいったと大よろこびしたという。
中江は、若くして結婚するのは出世の妨げになると考えていたようである。ほかにも見合いの席で、相手の頬に臀部をすりつけたという話もあり、同じ見合いを断らせるにしても、かなり過激な方法を好んでいたようだ。
かつて中江は、宴席で同じように陰嚢を広げ、そこに酒を注いで芸者に飲ませようとしたこともある。
そのときは芸者のほうが一枚上手で、イヤとはいわずに酒をすべて飲み干し、「それでは今度はご返杯」とばかりに熱澗の酒を陰嚢に注ぎ込んだ。
これにはさすがの兆民も度肝を抜かれてしまったという。 
楠本イネ  

 

近代医術の世界が男社会だった幕末に女性として医術の道を志し、日本の女医第一号となった楠本イネ(一八二七〜一九〇三)は、出島に滞在して鳴滝塾を聞いた医師フランツ・フォン・シーボルトと、彼の日本人妻たきとの聞に生まれた娘である。
出島への日本人の立ち入りは禁止という原則はあったが、遊女だったたきは例外であった。そこでたきを気に入ったシ1ボルトが妻に迎えたのである。ほかにも出島の外国人に愛された遊女がいなかったわけではないが、たきのように子どもを生み、しかもその子が元気に成長したという例は珍しい。
シーボルトの帰国後、母・たきの再婚先に引き取られたイネは、成長するにつれて自分が社会では異端であることに気づく。それは母の連れ子という境遇のためではなく、混血児であるためだった。
これが、普通に結婚して妻になるという女の道に対して疑問を生じさせた。その結果、イネは、医師であり博物学者でもあった父の血を継ぎ、明断な頭脳に恵まれていたこともあって、自らも医師になることを決意する。
イネは、父の教え子だった伊予・宇和島の二宮敬作の元で、医学の道の第一歩を踏み出した。こニで基礎を身につけ、二宮に勧められて産科医を専門に学ぶことになった彼女は、やはり父の弟子だった石井宗謙を頼って岡山に渡る。
ところが岡山では、イネの混血児としての美貌があだとなる。
透き通るような白い肌、青い瞳、彫りの深い顔、すらりとした手足||。その異性を引き寄せてやまない女としての魅力が、石井の欲望に火をつけてしまったのである。
岡山に訪ねてきたたきを見送って帰る小船のなかで、イネは尊敬すべき師匠に犯されてしまったのだ。
さらに不運なことに、この暴行によってイネは妊娠し、女児を出産する。失意に暮れるイネは、娘を連れて故郷の長崎に帰った。
石井の暴行を知った二宮は、責任を感じてイネを再び宇和島へ招いた。これには、二宮と旧知の仲で、自身もシーボルトの弟子だった外科医の大村益次郎による強力な勧めもあった。
大村の知過を得たことで、イネは外科医としての勉学にも励むことになり、やがて彼について江戸に出ると開業医となった。
その後のイネは、娘をやはり医者である二宮の甥に嫁がせ、女医第一号としての道をまっとうした。
混血児、未婚の母という不過を克服したのは、何より自立をめざしたイネの努力のたまものだった。 
勝民子  

 

(1821-1905年) 幕末に幕臣として活躍した勝海舟の妻は、名を民子という。民子は砥目屋という炭屋の娘で、深川の芸者をしていたが、徴禄とはいえ御家人である勝家の正妻とするため、旗本・岡野孫一郎の養女という形をとって結婚した。
結婚して三年ほどは、畳や天井板を薪の代わりにしなければならないほどの赤貧生活が続いたが、民子の本当の苦労は、海舟が幕府に才能を認められるようになってから始まった。
結婚して一〇年後の一八五五(安政二)年、三三歳になった海舟は、幕府海軍の伝習生として長崎に単身赴任し、そこで梶久子という現地妻をつくったのである。
海舟の浮気は、五年後に長崎から帰ってきてからもやむことはなかった。
海舟は、屋敷の若い女中たち全員に手をつけたのだ。女たちも最初からそのつもりで屋敷に来たらしい。表向きは海舟の身のまわりの世話や台所方を担当する女中だが、内実は妾。そんな女たちが何人も屋敷に住み、妻妾同居の暮らしをしていたのである。
海舟の妾の数は、彼が出世の階段を駆けのぼっていくにつれて増えていった。名前が残っているだけでも、久子のほかに、増田いと、小西かね、森田米子、おふさ、おなか、おたけの六人もいる。しかも、いずれも子どもをもうけているのである。さらに、このほかにも記録に残されていない妾がいたと思われるし、家の外にも愛人をつくっていた。
民子はこの妻妾同居の生活にも文句をいわず、嫉妬も表に出さず、家のなかをそつなく切り盛りした。妾たちは尊敬を込めて民子を「おたみさま」と呼んだという。
さらには居候の門下生たちにもやさしく接し、門下生たちは、「先生があまりやかましいので幾度も出ょうかと思ったが、夫人がやさしくいたわってくれるので、その手前逃げ出すことができなかった」と語っている。
こんな民子に海舟は感謝し、訪問客によく妻の自慢をしていた。
やがて海舟が没し、その六年後に民子が死んだ。
彼女はこの世を去るとき、たった一言、「勝のそばにだけは埋葬しないでください。
私は小鹿のそばがよい」という遺言を残している。小鹿とは、四〇歳で先立った長男の名である。明治時代の婦女道徳に沿ってじっと耐えていた民子だが、無類の女好きの夫に対して、内心で怒りを募らせていたようだ。
民子の墓は遺言通り、海舟の墓のある洗足池畔ではなく、青山墓地につくられた。
それでも、やはり二人はどこまでも離れられない運命にあるのだろうか。皮肉なことに第二次世界大戦が終わると、民子の墓は海舟の墓の隣に移設されたのである。
民子は並んで立つ墓の下で、生前口にすることのなかった愚痴を、海舟にこぼしているのかもしれない。 
お龍  

 

幕末維新の志士のなかで異色の輝きを見せた坂本龍馬。その妻だったお龍(一八四〇〜一九〇六)は、一八六六(慶応二)年、寺田屋事件の際に龍馬の危機を救ったことで知られる女性だ。京都伏見の船宿・寺田屋の養女だったお龍は、伏見奉行が差し向けた龍馬の追っ手が寺田屋に迫っていることを入浴中に知り、裸のまま飛び出して襲撃を知らせたというから、かなり大胆で肝の据わった女性だったといえる。
この事件で傷を負った龍馬をかいがいしくお龍が手当てするうちに、二人は恋に落ちた。
そして、龍馬の志士仲間であった西郷隆盛の媒酌のもと、お龍は龍馬の妻となる。
まもなく、二人は西郷の招きで鹿児島へ旅をしているが、これは日本で初めての新婚旅行だったといわれている。二人の男女の仲は、さぞかしむつまじかったのだろうと想像される。
ところが、一八六七(慶応三)年、龍馬が暗殺されたあとのお龍は、一転して零落の人生を歩み始める。亡き夫に対して貞節を守るどころか、独り身の寂しさに耐えられず、何人かの男性遍歴を重ね、晩年は貧しい大道商人の妻として最期を迎えているのである。
お龍が龍馬と過ごしたのは、実は鹿児島へ旅行した短い期間のみ。動乱の世を東奔西走する龍馬と離れ、長州の志士の家に預けられたまま、龍馬と死別している。このとき彼女は二八歳だった。
お龍は一時、土佐の龍馬の実家に引き取られたが、奔放、間違な気性が災いして、女傑だったという龍馬の姉・乙女と折り合いが悪く、すぐに飛び出している。
その後は知人の元を転々とした末に、横須賀にいた妹夫婦の家に転がり込んだ。
しかし、その妹の家に腰が落ち着いたわけではなかった。お龍は寂しさを紛らわせるためか大酒を飲み、幾人かの男性と関係を持ったのである。それでも、やがて隣家の呉服商・西村松兵衛と再婚した。
維新の混乱が収まり、龍馬の功績が見直される時代になって、お龍捜しが行なわれたとき、彼女は落ちぶれた商人の夫とともに堕落した生活を送っていたという。
龍馬の奏だったことがわかり、世間の注目が集まると、お龍は夫を尻に敷くようになっていった。お龍は、この時代の彼女を知る人がのちに語ったところによると、もろ肌脱ぎにあぐらをかき、べらんめえ口調でしゃべりながら酒を飲んでいたという。
彼女は酒が原因の脳溢血で、一九〇六(明治三九)年、六六歳で没した。
裸で男性の前に立つこともいとわないような勝ち気な性格は、龍馬というこれまた規格外の羅針盤があれば道に迷わなかったのかもしれない。しかし若くして龍馬を失ったお龍は、自身をコントロールできないまま、その生涯を終えたのだった。 
伊藤博文  

 

伊藤博文(一八四一〜一九〇九) といえば、まず昔の千円札の潟像が思い浮かぶ人も多いかもしれない。
幕末、長州務士のなかにあってまだ若手であった伊藤は、倒幕運動ではさしたる功績を語られることはないが、その後の新政府でその才覚を大いに発揮している。
薩長の志士たちが、幕末から新政府草創期の混乱で次々と消えていくなか、伊藤は大過なく過ごせたことも幸運だった。内閣総理大臣、枢密院議長など、数々の役職を歴任し、大政治家として世に名を残したのである。
しかしこうした表舞台での栄達の陰で、伊藤の私生活、特に女性関係は、意外にも乱脈を極めたものだった。
正妻を離縁していた伊藤は、倒幕運動の最中に下関で知り合った芸者・小梅を愛人とし、新政府が誕生すると小梅を本妻に据えた。
しかし、幕末の志士活動の間にも、行く先々で愛人をつくっていたという。そうした伊藤の女遊びは、政府要人となってもやむことはなかった。
さらに、東京へ出ると、すぐに芸者のお鉄を愛人に囲って落籍し、たまに遊ぴに来るお増、林子、浜子など、彼女の同僚たちにも次々に手をつけるという有様。
休養に出かけた大磯では旅館・仙招閣の仲居だったお福を気に入って愛妾とし、また木戸孝允が亡くなるとその愛人だった祇園の名妓・お加代とお房を自分のものにしている。
ほかにも大阪、広島、熊本など旅先での宴席に呼んだ芸者を、ほとんどといっていいほどものにしたという。伊藤は相手の美醜はほとんど問わず、手あたり次第に女性を愛でた。
これだけ多くの愛人の存在が知られているのは、伊藤本人がまったく隠そうとしなかったからである。それどころか、「国務の疲れを癒すのに、芸者に勝るものはない」とまで豪語していたという。
伊藤の相手は、芸者のような玄人に限らなかった。
当時は外交政策の一つとして鹿鳴館や首相官邸でパーティが聞かれていたのだが、伊藤はこうした席で女性を庭に連れ出したり、部屋に連れ込んだりすることがあったようだ。髪や服装を乱した貴婦人が庭から戻ってくるところを目撃されたとか、伯爵夫人が素足のまま馬車で逃げ帰ったというような話が伝えられている。
「絵入自由新聞」は、一八八七(明治二〇)年に首相官邸で催された大宴会のときの女性の様子を、次のように伝えている。
「いかなる変事に遭遇されしか、髪もおどろに振乱し、色青ざめて、くちびる慨ひ、踏む足さへも地につかず、はだしのままにて腰ふらつき、いとくちおしきふしぎの形相、心細きに前後を見返り:・・・:」
ここまできたら、強姦である。この女性は、実は岩倉具視の娘だったという。
こうしたエピソードが、ゴシップとして堂々と新聞紙面を飾ったというのだから、伊藤の無類の女好きは世間一般の広く知るところであった。
内政面で功績があったとはいえ、見境のない女性関係はあまり感心できない。それでも伊藤が多くの人に好かれたのは、開けっぴろげで豪快な性格によるところが大きい。 
乃木希典1  

 

町宮まれすけりよじゅん乃木希典(一八四九〜一九一二)は、日露戦争で旅順攻略を指揮した陸軍大将で、質実剛健の大将軍主して知られる。たいへん厳格な人柄で、妻や書生たちは、乃木の前に出るときにはおどおどしていたという。
二人の息子に対しても、はなから軍人にすると決めて教育した。子どもたちを庭の木の下に立たせ、ピストルで空砲を撃って胆力をつけるといった訓練まで行なったという。
乃木の死に際も、その性格にたがわぬ豪快なものだった。明治天皇の崩御に殉じて腹をかっきぱき、この世を去ったのである。
そんな乃木だが、実は意外にもユーモア精神の旺盛な一面も持ち合わせていた。
一八九二(明治二五)年、乃木は歯痛に悩まされ、四〇歳を少し過ぎた年齢で歯を全部抜いて入れ歯にしてしまった。その後、人に「入れ歯では不自由でしょう」といわれるたびに、乃木は重々しい口調でこう答えた。
「いやいや、これは一つの武器を備えたようなものだ。万一の場合、敵に組みつくとき、多くの人は歯で伽噛みついたりするが、入れ歯をしていれば、まず引き抜いてこれを敵に投げつけ、機先を制する効能がある」
こんな冗談を、まじめな顔でさらつといってのけたのである。
また、乃木は学習院の院長をしていたとき、平日は学生寮に泊まり込み、時々、寮の食堂で学生たちとともに食事をしたり、一緒に入浴したりした。幼年寮で小さな子どもたちと一緒に入浴するときには、白髭にシャボンの抱を塗りたくり、「白熊だ」
といって子どもたちを笑わせていたという。
乃木は厳格な院長として熱心に教育にあたったが、その一方で、こうしたユーモア精神で生徒たちに気さくに接する、面白くて人間味のある先生でもあったのだ。 
乃木希典2
軍人として後に多くの尊敬を集めた乃木希典は、決して幸福な人生を送った人ではなかった。戦場での失態は彼を一生苦しめることになる。研ぎ澄まされた彼の良心が彼自身を決して許さなかったからである。この良心ゆえに苦しみもし、この良心ゆえに彼は窮地に活路を開いていく。彼の最大の転機はドイツでの留学体験であった。
精神としての「乃木希典」
乃木希典は明治時代の軍人であり、日露戦争の英雄である。乃木神社ができ、軍神と仰がれるほどに、国民から絶大な尊敬を集めた。しかし軍人としての乃木の現実は、軍神のイメージとはおよそかけ離れたものであった。明治政府に反旗を翻した薩摩軍との戦い(西南戦争)で、敵軍に軍旗を奪われるという失態を冒し、日露戦争では、乃木の無策のゆえに数万の兵士が犬死にを強いられたと言われた。
それにもかかわらず乃木が軍神と称賛され、国民の尊敬を集めたのは何故だろう。もちろん、後の政府が戦意高揚のため乃木を利用した面もあることは事実であろう。しかし、単にそれだけではない。乃木の生き方、死に方が多くの日本人に感銘を与えたからである。
乃木の一生は、表向きは栄光に彩られている。陸軍では大将、皇族の教育機関であった学習院の院長、さらには伯爵にまでのぼりつめた。しかし、表の栄光とは全く裏腹に、彼の内情は苦渋に満ちたものであった。
戦争を美化してはならない。しかし戦争という極限情況は、先鋭化された人間精神の形を作り上げるということも事実なのだ。明治という時代情況が作り上げた精神としての「乃木希典」。ここには、日本人として、人間として持つべき普遍性があるように思えるのである。
軍旗を奪われる
乃木希典の苦悩の人生は西南戦争に始まる。軍旗(連隊旗)を敵軍に奪われたのである。合理主義的な現代社会では、およそ想像もつかないことだが、軍旗を奪われるということは、当時の軍人にとって捕虜になること以上に不名誉なことであり、屈辱的なことであった。軍旗は大元帥陛下を象徴するものであり、軍隊団結の核心であり、神聖なものであったからである。
この時以来、乃木は常に死ぬことを考え続けることになる。しかし、軍旗を奪われたとはいえ、乃木の連隊はよく耐え、よく戦った。敵軍(薩摩軍)の北上を食い止め、政府軍の勝利に大いに貢献したのである。乃木自身、体に弾痕11個も受けながら奮戦した。その活躍は超人的であったと言われている。
軍旗喪失という失態に対し、極刑に処すべしとの意見も出たが、乃木の活躍に対する評価がそれを上回った。結果的に乃木は昇進する。しかし罪を許されることで、かえって乃木の苦悩は深まった。国が乃木を許しても、彼の良心は自分自身を許すことができなかったのである。
乃木は自決(切腹)を決意する。それを止めたのは、同郷の友人児玉源太郎であった。乃木が今まさに軍刀を手にして、腹を切ろうとしている。間一髪、児玉は乃木の部屋に飛込み、乃木を怒鳴り付けた。「死んで責任が逃れると思うか。死ぬことぐらい楽なことはないんだ。何故、一生かかって死んだつもりでお詫びをしないのか」。乃木は自決を思い止まった。しかし、それは自決の中止ではなく、延期にすぎなかった。そして、死にまさる苦しい生の始まりでもあったのである。この時、乃木は28歳であった。
酒びたりの日々と結婚
乃木の精神的な苦痛の日々が続いた。それを紛らわすかのように酒に溺れていく。泥酔したあげく、朝帰りもめずらしくはなかったという。死に場所を得られない悶々とした思い。磨ぎ澄まされた良心が、必要以上に自身を責め苛む。まるで記憶を消し去ろうとするかのごとく、彼は酒をあおり続けた。
乃木の荒れた生活は、母寿子を心配させた。息子の内情など知るすべのない母は思い悩んだ末、妻を持たせようとする。妻帯をして、暖かい家庭を築くようになれば、息子はもとの優しく真面目な人間に変わるものと考えたのであった。
しかし、乃木にとって妻帯は考えられないことであった。軍旗喪失の罪を詫びようと、国家のため死ぬ時期と場所を考え続けていた乃木である。若くして妻を寡婦にすることになる結婚は、想像すらできない選択であったのだ。彼は母の申し出を断り続けた。しかし、彼は元来が親思いである。母の執拗な見合い話に抗し切れず、しぶしぶ結婚に踏み切った。これが生涯の伴侶となり、死の道までも共にすることになる静子であった。
結婚は、乃木の生活に何の変化をも引き起こさなかった。毎晩のように酒をあおり、泥酔して帰宅した。むしろ、乃木は結婚により苦悩を深めることになった。結婚すれば、当然子供が産まれる。嬉しくないはずがない。しかし、死に場所を考えている乃木は、妻や子にいつまで守ってあげられるかと不安になる。そして無責任に結婚し、子供を作ってしまったそのことを後悔して、自らを責める。この苦悩から逃避するかのようにまた酒を飲む。荒れた自堕落な生活が続くのである。
ドイツ留学
乃木にドイツ留学の話が持ち上がったのが、結婚8年後のことである。陸軍の兵式をフランス兵式からドイツ兵式に切り替えなければならないという意見が台頭したため、その視察を目的としてドイツ留学を命じられたのであった。この留学はわずか1年半にすぎないものであったが、乃木の人生に決定的な転換をもたらすことになった。
乃木は別人となって帰国した。自堕落な生活を捨て、謹厳な乃木となっていた。帰国後、酒杯はほとんど手にしなくなる。宴会に出ても、芸者が現われるとすぐさま退席するような始末であった。そこには生まれ変わった乃木の姿があったのである。
いったい何があったのか。ドイツに行ってみて、まず驚いたことがある。ドイツは、文明開化の持つ華やかなイメージとは全く異なっていた。質実な生活態度。自国の伝統を重んずる精神。国王と国民との間にある親愛の情。これらは、幕末から明治維新にかけて日本の武士や軍人たちが共通に持ち合わせていたものであり、乃木自身の内面に深く根を下ろしていた武士道的精神そのものであった。
ドイツ留学は、乃木の愛国心を呼び覚まし、それに磨きをかけた。同時にドイツ軍人の奢りをも見逃さなかった。将校や士官たちは高級な煙草を好み、女性の気を引くため香水をつけ、奢侈に流れていた。ドイツ軍人の心はおごり、伝統精神から乖離を始めている。これが乃木の実感であった。ドイツの伝統精神に学び、その兵式を採用しても、おごりや奢侈を取り入れてはならない。乃木の心には深く期するものがあった。「日本軍の範となる」。乃木はこの決意をもって帰国した。
日露戦争
1904年2月、乃木希典54歳のとき、日露戦争が勃発した。5月に第三軍の司令官に任命され、日本を出発することになる。このときすでに、乃木の二人の子供、長男勝典と次男保典は父親に先立って前線に出ていた。司令部を率いて東京の新橋駅を出発し、広島に到着した段階で、乃木に不幸な知らせが届いた。長男勝典の戦死である。
その知らせを受け、乃木は一瞬ぐっと瞳を見開いた。そして静かにうなづいただけだったという。それから、妻に「勝典の名誉の戦死を喜べ」と電報を打った。乃木はこの戦争で、自らの死と二人の息子達の死を覚悟していた。それ故、親子3人の柩が揃うまでは、葬式を執りおこなうなと妻に手紙を出した。乃木は一家をもって、真っ先に国民全体の鑑になろうとしていたのである。
次男保典の上官にあたる第一師団長は、乃木の長男の死に同情し、保典を後方勤務にまわそうとした。しかし保典本人からの強い申し出で前線にとどめざるを得なかった。12月1日、次男保典が203高地にて戦死。保典戦死の知らせを報告に来た参謀に、乃木は涙を見せまいとして、ローソクの火を消した。
乃木の悲劇はこれにとどまらない。旅順の要塞に対する攻撃で、5万7千の兵隊の内1万5千以上の命が失われた。乃木の愚直なまでに繰り返される戦法の誤りだと指摘された。このことに国内の軍人、国民から非難の嵐がわき起こり、激高した人々は乃木邸に押しかけ、投石し窓ガラスや屋根瓦が壊されたという。
当然、乃木更迭の話しも持ち上がる。これを止めたのが明治天皇であった。「乃木を替えてはならぬ。そのようなことをしたら、乃木は生きておらぬであろう。誰が引き受けても同じである」。大山巌元帥の意見も天皇と同じであった。「旅順のような困難な要塞を破るには、将兵がこの人のもとでなら喜んで死のうと思うようでなければできないものだ。乃木はその信望を得ている」と言って乃木の更迭に反対した。
乃木の偉さは、言い逃れや弁解を一切しないことである。弁解の余地はいくらでもあった。しかし、すべて自らの不覚としたのである。
明治天皇と乃木
戦争後、宮中に参内し明治天皇に戦争経過を報告した。乃木の頬肉はげっそりと落ち、顔には深い皺が刻まれ、髭は真っ白になっていた。乃木は自らの不覚を天皇に詫び、涙と共に報告を終えた。乃木の報告が終わるやいなや、天皇は「乃木、卿の奉公はまだ終わっていないぞ。朕が命令を待ち、すべからく自重せよ」。天皇のこの言葉を聞いて、乃木は肩を震わせて嗚咽した。乃木を死なせたくないという天皇の気持ちが痛いほどに伝わってきたからである。その後、天皇は乃木に学習院院長の職を与えた。
1912年7月30日天皇崩御(死亡)。9月13日が御大葬(葬式)と決められた。乃木はようやく死に場所を得たと感じたのであろう。殉死することで、天皇へのご恩に報い、国家に奉仕できると。
乃木ははじめ一人で死ぬつもりであった。死の前日書いた遺書は妻静子の生を前提として書かれている。おそらく、乃木の死の直前、静子は一緒に死なせてほしいと頼み込んだのであろう。遺書を書き換えることもできない程の直前に。
乃木は妻を先に死なせた。女性の身として、万一死の苦しさに身もだえして、衣服が乱れることがないようにという、夫としての最期の優しいいたわりだったと言われている。乃木は妻の死を見とどけたうえで、自ら割腹した。乃木希典63歳、静子53歳。公に生き、公に殉じた乃木の生涯は、明治の日本精神として語り伝えられ、精神としての「乃木希典」として昇華した。  
秋山真之  

 

秋山真之(一八六八〜一九一八)は伊予(現在の愛媛県)松山から東京に出て、のちに海軍兵学校に進み、海軍大学を経て中将にまでのぼりつめた明治・大正期の生え抜きの軍人である。
彼の名を広めたのは、日露戦争の日本海海戦において、東郷平八郎率いる連合艦隊の参謀を務めたことである。当時のロシアが誇ったパルチック艦隊を壊滅状態に追い込むことができたのは、ひとえに彼の立てた作戦によるものだった。
彼は日本海軍史上最高の頭脳の持ち主として、「天才」の名をほしいままにしたのである。
しかし、知性あふれる名参謀としての功績が語り継がれる陰で、秋山の並はずれた変人ぶりも数多く伝わっている。
風体だけを見ても、ワイシャツの裾はズボンからはみ出し、ときにはスリッパと靴を片足ずつ履いていたという無頓着ぶりであった。
こうした性格は彼の行動にも随所に表われている。
彼は炒り豆が好物で、常にポケットに入れて持ち歩いていた。
そら豆やえんどう豆をポリポリやりながら作戦を考える、などというのはまだ序の口。海外出張にも妙り豆を持参し、街路でもどこでもポリポリかじって同行者を困惑させたという。
さらに立ち小便も彼の悪癖だった。
海軍大学校へ通っているとき、まるで犬の習癖のように、必ず玄関前の桜の木の根元に向かって小便をかけていた。これもまた海外旅行だからといってやめることはなく、訪問先の家庭の門脇で、小便をすませてからベルを鳴らしたというからあきれてしまう。
軍人のエリートとして海外留学の経験を持っていたにもかかわらず、食事のマナーも、身につけることはなかった。
秋山は食事のあと、必ず靴と靴下を脱いで水虫をかく習慣があり、パリ社交界での食事の席でも、周囲の翠盛などおかまいなしで実行したという。
国内あるいは戦艦での勤務中にも、それは変わらなかった。ゆっくり晩酌をしながら食事をしている上司の前で、さっさと食べ終えた秋山が、同じテーブルに足を乗せて指と指の聞をボリボリかき始めるのである。上司もあきらめていた、とのちに同僚たちが語っている。
軍隊では、夕食時は長官が席についてから座り、退席してから退席するというのが習慣だったが、それも無視して、フルーツだけをつかみ部屋に閉じこもることもあった。東郷の前でさえ、こうした傍若無人とも思われる行動をしている。東郷も、「天才のやることだからしょうがない」と許していたのだろう。
地図と模型を使って戦略をあれこれ考える、という緻密な頭脳作業に集中するあまり、日常生活において使わなければならない神経の回路がつながらなかったのかもしれない。 
徳川慶喜  

 

江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜(一八三七〜一九二ニ)は、フランスの援助を受けて幕政改革を推進したが、挽回はかなわず、一八六七(慶応三)年に大政を奉還、翌年には江戸城を明け渡した。
江戸城を無血開城できたのは、勝海舟の手腕もさることながら、争っても家臣を無駄死にさせるだけだという、慶喜の先見の明があったことも否めない。
一一歳で一橋家を相続し、三〇歳で将軍となった若き慶喜は、一年足らずで将軍職を辞して隠居生活に入った。
その後の慶喜は静かに暮らしながら、趣味であるカメラや絵画、書、和歌、俳句などに没頭する毎日を送った。
特にカメラはお気に入りだったようで、撮影場所を求めて、様々なところを歩き回った。
慶喜の写真への関心は、撮られることから始まった。お抱えの写真師に山門像を撮らせているうちに、いつしかカメラに興味を覚えたのである。
また一説には、父の徳川斉昭の影響だろうといわれている。斉昭と、こちらも写真好きで有名だった島津斉彬との問で交わされた、写真について記した書簡が残っているからである。
しかし、将軍として政務に追われている問は、カメラを抱えている暇などなく、静岡へ隠遁してから本格的に撮影を始めたらしい。
彼は「華影」という雑誌に、投稿までしている。
この雑誌は、華族の写真愛好家向けの投稿誌で、毎月テ1マを決めて作品を募集し、応募作品のなかから選者が入選作を決めるというもの。洋画家の黒田清輝と写真家の小川一真の二人が選者を務めた。
慶喜の作品は、少なくとも九点は掲載されており、そのうちの一点は二等をとっている。このことからも、慶喜がいかに多くの写真を搬影し、継続的に投稿していたかがわかる。
慶喜は趣味の域を越えるほど精力的に、撮影活動を行なっている。凝り性であったといわれる慶喜らしいといえばそれまでだが、能力がありながらも、政治の表舞台から退かなくてはならなかった彼が、その悔しさを紛らわせる手段として、趣味に没頭したのではないかとも解釈できる。
慶喜が将軍職を継いだとき、すでに幕府は慶喜一人の力では改革のしょうもないところまできていた。慶喜は最善の策として、なるべく穏便に将軍職を辞することしかできなかったのである。
結局、慶喜は三〇歳そこそこで隠遁生活を余儀なくされたわけだ。才能のある者としては、これほど無念なことはなかったかもしれない。 
徳富蘆花  

 

徳富蘆花(一八六八〜一九二七)は、小説「不知帰」や随筆「みみずのたはこと」などを著した近代日本の代表的な作家の一人である。
ヒューマニストとして知られる蘆花だが、実は、多くの女性の墾壇を買いそうな日記を残している。
氏家幹人氏の「江戸の性風俗笑いと情死のエロス」によると、一九一六(大正五)年九月三日の日記には、次のように書かれているという。
「冨白色白白(妻の愛子のこと)の陰毛を撫で冶居ると、到頭慾を発し、後から犯す。精液がどろどろ、快甚」
妻の陰毛を撫でているうちに欲情し、後ろから犯したところ、精液がどろどろしてたいへん快感だった:::という、ずいぶんあけすけな性日記だ。
しかも、何年にもわたって、毎回の性行為を体位や快感の大きさまで克明に日記に記しているのである。
ずいぶん妻を熱烈に愛していたように見えるが、ここまで彼が書き記したのは、子がほしくてもできない焦りと、妻が婚前に兄の蘇峰と関係を持ったのではないかという疑いがあったためとされている。しかし、それだけではない。彼にロリコン趣味があったことも、動機の一つになっているようなのだ。
蘆花は、一九一八(大正七)年三月の日記に「女学生は制服に限る」と書いている。このとき、蘆花は五一歳。その年齢で、親子以上に年の離れた女学生の制服姿に鼻の下を伸ばしていたのである。
ほかにも、「若い女性の肉体に惹かれる。恐ろしいことだ」とか、「始終若い女性を愛さないと生きていけない」などと本音を漏らしている。
ただし、蘆花は若い女性の使用人たちにもずいぶん執心したが、彼女たちと不倫はしなかったらしい。妙齢の女性が大好きだったが、実際には手を出さず、たまった欲望は妻へ向けたり、日記につけたりすることでバランスをとろうとしていた、というのが真相のようだ。 
野口英世 

 

野口英世(一八七六〜一九二八)は、幼いときに火傷がもとで変形した左手の障害や生家の貧しさを乗り越え、細菌学者として大成した偉人として名高い。
その人生から、英世は困難に立ち向かい続けた忍耐の人というイメージが強い。福島県会津若松市にある英世像の台座には、彼の自筆で「忍耐」の文字が刻まれている。
だが英世には、その人物像が疑問に思えるエピソードもある。彼は、ずいぶん衝動的に金を浪費しているのだ。
英世は、勉強のために上京するとき、四〇円ほどの金を持って郷里を出た。当時の四〇円は大金であり、汽車賃や毎月の下宿代を払っても、しばらくは暮らしていけたはずだ。ところが、わずか二カ月後には、ほほ無一文になってしまっている。
これはまだ序の口で、英世の浪費癖は次第にエスカレートしていく。金がなくなると、友人、知人に借金をし、なくなればまた借金をし・・・と、常に金欠状態だった。その借金もしばしば踏み倒している。
では何に金を使っていたのかというと、酒や遊郭だというから驚きだ。田舎から出てきた英世は、あるとき、悪友に洲崎の遊郭へ連れていかれた。ここで味をしめた彼は、吉原や深川にある遊郭に通うようになり、盛んに遊女たちと遊んだのである。
英世は本来の名を清作といい、二一歳のときに英世と名を変えている。これも放蕩が原因だった。当時人気のあった坪内遁遥の小説「当世書生気質」で、遊楽街に女を買いに行く医学生の名が「野々口精作」であったことから、自分のことを書かれたのではないかと気に病んで、英世と改名したのである。
もっともこの小説は英世がまだ子どものころに書かれたもので、名前が似ていたのは偶然だった。
こうした逸話からすると、金もないのに酒や女遊びで散財していた英世は、あまり忍耐強かったとは思えず、むしろ抑制がきかない人物であったように見える。
とはいえ、遊郭にまで本を持ち込んでいたという話も残されており、勉学をおろそかにしていたわけではないようだ。 
山本権兵衛 

 

日本海軍の父と慕われた山本権兵衛(一八五二〜一九三三)は、「ぼっけもん(向こう見ずな人)」とあだ名されるほど、何をしでかすかわからない荒くれ男だった。
薩摩藩主の側近で、槍術師範としてならした父・山本五百助に似て腕っぷしが強く、一二歳にして薩英戦争に従軍、戊辰戦争にも年齢を二歳もごまかして一六歳で行っている。
戊辰戦争後は、西郷隆盛の紹介で勝海舟に引き合わされ、その後、海軍操練所に入学し、海舟の自宅から通うようになる。これが、海軍兵学寮の前身となった。
海舟は、近代国家では海軍の整備が不可欠と考え、近代的な海軍の創設には、権兵衛が適任であると見抜いていたようだ。
しかし、海軍を近代化するのは容易なことではなかった。維新の功労者は過去の戦績を忘れず、近代化をよしとしなかったからである。
そこで、改革のために薩摩閥の大先輩たちをはじめ、功績のある人物をリストラすることが権兵衛の仕事となった。そのとき、権兵衛は大佐の階級に過ぎなかったのに、である。
この海軍大リストラの難業が敢行できたのは、機兵衛を全面的にバックアップした海軍大臣の西郷従道の力も大きいが、権兵衛という若いながらも意志が強く、何事も恐れない猛者の存在も同じくらい大きかったのである。
このような雄々しきから、およそ女性とは縁のないイメージを持たれがちな権兵衛だが、色恋沙汰が・なかったわけではない。
まだ若かったころ、品川の遊郭に出かけていったときに、そこへ貧困のために売られてきた少女に恋をしてしまったのである。
遊女との恋といえば、泣く泣く別れるというのが定番なのだが、権兵衛はあきらめなかった。「何とか彼女を救い出したい」||そう考えた権兵衛は、遊女の「足抜け」を実行してしまったのだ。
遊女が合法的に自由になるには、身請け金として遊郭に多大な金を払って、その身を譲り受けるか、遊女の年季奉公が明けるのを待っかしかない。機兵衛には金などないし、年季が明けるには長い年月がかかる。
そこで、弟や学友を引き連れていき、遊女を遊郭から連れ出して逃げたのである。
もちろんこれは、娼家にとっては誘拐されたも同然。捕まれば重い懲罰を受けることになる。
しかし、権兵衛はこの企みを見事に成功させた。このときの少女が、のちの権兵衛の妻・トキ子夫人である。
一八七八(明治一一)年に二人が結婚するとき、権兵衛が妻に渡した証文によると、「互いに礼儀を守る。生涯仲よくする。妻以外の女性を愛さない」「この結婚が原因で出世できなくても、自身がどんなに栄達しても離縁しない」といった誓いが書かれていた。
その誓い通り、権兵衛は生涯、委を愛し続け、愛人を闘うこともなかった。荒くれ者の心のうちには、ゆるぎない信念と純情が秘められていたのである。 
新渡戸稲造1 

 

新渡戸稲造(一八六二〜一九三三)は、農政学者、教育者として多彩な活躍をし、国際連盟事務局次長などを務めた文化人である。
日本と国際社会を結ぶために尽力する一方、幕末に武士の子として生まれたためか、古武士的な面もあり、日本の思想や習慣を外国人に説明するために「武士道」を英語で執筆し、「BUSHID〇」という語を世界中に広めた。
稲造はまた、アメリカ人女性と熱烈な恋愛結婚をした日本人でもある。
彼は、札幌農学校(現・札幌大学)在学中にキリスト教徒となり、一八八四(明治一七)年、二三歳でアメリカに留学した。そのとき、華美なアメリカのキリスト教会に違和感を覚え、キリスト教の一派でも質素なクエーカー派に加わっている。
クエーカー派は、聖職者と一般信徒の区別のない独特の礼拝形態を持つ宗派で、本職の宣教師がいなかった札幌農学校のキリスト教の集会と、偶然にも雰囲気が似ていた。稲造はそこが気に入ったらしい。
一八八六(明治一九)年のある日、クエーカー派の集会で、稲造は知人にメアリー・パタlソン・エルキントンという若い女性を紹介された。
日本に興味を持っていたメアリーは、稲造に日本について熱心にいくつかの質問をし、稲造はこれにていねいに答えた。二人は初対面で互いに好感を抱いたという。稲造は美しいメアリーに一目惚れし、メアリーは友人に「あの人は私の運命を決定する人かもしれない」と告げている。
まもなく稲造は、ある出版社から「アメリカにおける婦人の地位」と題する文章の執筆を依頼され、メアリーに協力を頼んだ。
これを機に親しくなった二人は、稲造がドイツに留学してからも文通によって交流を続けている。そして稲造は、ますますメアリーへの恋心を募らせるようになったのである。
そんなある日の夕方、稲造は、向こうから歩いてくる人を見て驚いた。クエーカー派の黒っぽい服を着た、メアリーの姿に見えたのだ。ドイツにどうしてメアリーがいるのかといぶかりながらも、稲造は駆け寄って握手しようとした。だが、それはカトリックの修道士だった。人違いだったのである。
稲造が下宿に帰ると、ちょうどメアリーからの手紙が届いていた。しかも、その手紙で、彼女は初めて稲造に恋心を告白していたのである。「これは神のお導きに違いないーー」。稲造は神秘的で運命的なものを感じ、自分の気持ちを彼女に書き送った。
その後、二人の文通はいっそう盛んになり、理解が深まるにつれて互いに結婚の決意を固めていく。
一八九一(明治二四)年、反対していた親族の了解を得て、二人はついに結婚した。
以来、メアリーは稲造が七二歳で生涯を閉じるまで添い遂げたのである。
人違いを神秘的と感じるとは:::。稲造の信仰の深さと、ロマンチストぶりがうかがえるエピソードである。 
新渡戸稲造2  
新渡戸稲造は、「日本最初の国際人」として多方面で活躍した。彼はアメリカに留学し、アメリカのキリスト教に対応する日本の精神文化は武士道であると主張する。アメリカ人女性メリーとの国際結婚。「太平洋の橋」を築く第一歩が始まった。 
日本最初の国際人
新渡戸稲造は、5千円札の肖像として知られている。しかし彼の人物やその足跡に関しては意外に知られていない。彼の業績で特筆されるべきは、第一次世界大戦後、世界の紛争解決を目指して設立された国際連盟の事務局次長としての活躍であろう。日本が生んだ「最初の国際人」と言われるゆえんである。
国際人としての新渡戸は、歴史教科書にも載るほどの有名人であるが、実は彼にはもう一つ教育者としての顔がある。京都大学の教授、一高(後の東大教養部)の校長、東京女子大学の学長として彼は長年教育者として学生を指導した。後世に与えた影響という点で言えば、むしろこちらの方が大きいのかもしれない。さらに台湾総督府に役人として奉職した時期もある。また著述家として膨大な著作を残してもいる。新渡戸の活躍は多方面にわたっているのである。
札幌農学校へ
新渡戸の国際人としての第一歩はキリスト教の受容にある。彼が入学した札幌農学校はキリスト教の熱気が充満する他に類のない学校であった。アメリカのマサチューセッツ州立農学校長ウイリアム・クラークが創設と同時に招聘された。北海道の開拓はアメリカをモデルにするという政府の方針があったからである。
クラークが日本で教えていた期間はわずか7ヵ月にすぎなかったが、学生に与えた影響は甚大なものであった。彼の教育方針は明確である。キリスト教を根底にする人格形成、これに尽きる。人格の涵養こそ、人間としての生きるべき基本であり、これなしにいかなる教育もあり得ない。教育者クラークにとってこの一点は妥協の余地のない信念であった。
クラークの影響のもと、札幌農学校の1期生全員がキリスト教の信者になった。新渡戸が2期生として入学した当時の農学校の雰囲気は、すでにクラークが帰国していたとはいえ、キリスト教信仰の熱気に満ち溢れていた。入学1ヵ月後、新渡戸は早々とキリスト教信者になってしまった。最後まで頑固に抵抗した人物が同期の内村鑑三である。内村は後に日本を代表するキリスト教徒となり、新渡戸とは生涯の友として親密な交流を続けることになる。
太平洋の橋
新渡戸と内村は、共に日本を代表する知識人であり、キリスト教徒であり、かつ教育者である。両者とも、アメリカでの留学体験を通して、日本のアイデンティティに目覚めていく。新渡戸は『武士道』という本をアメリカで出版した。アメリカの教育の原点にキリスト教的モラルがあるように、それに対応する日本の道徳が、実は武士道であるということを欧米人に伝えようとしたのである。内村も日本の武士道精神は、アメリカのキリスト教以上にキリスト教的であると主張した。
この二人は共にすぐれた教育者であった。内村が日本人に神を伝えることを自らの使命と感じていたように、新渡戸は日本人に世界を伝えようとした。
新渡戸といえば、「願わくは、われ太平洋の橋とならん」の言葉で有名である。この言葉が最初に発せられた時のエピソードを紹介しよう。農学校卒業後、彼はしばらく北海道開拓に従事していた。しかし、学問の深奥を究めたいという欲求が澎湃として興り、東京大学英文科への入学を希望した。その時面接した教授とのやりとりである。
教授「英文学をやってどうします。」
新渡戸「太平洋の橋になりたいと思います。」
教授「何のことだか私はわからない。何のことです。」
新渡戸「日本の思想を外国に伝え、外国の思想を日本に普及する媒酌になりたいのです。」
東大退学、米留学へ
学問に対する押さえがたき情熱をもって東大に入学した新渡戸ではあったが、東大での授業は向学心旺盛な彼を満足させるものではなかった。むしろ彼は東大に失望し、友人に「愛想が尽きました」と手紙を書いている。23才の時、新渡戸は東大を退学し、横浜港からアメリカに向かった。
新渡戸の生涯が「太平洋の橋」として象徴されるのは、彼の国際的見識、人脈、あるいは後の国際連盟の事務次長や『武士道』の著者としての活躍ばかりではない。もっと実生活での体験そのものによって、裏付けられている。アメリカ人女性メリー・エルキントンとの国際結婚である。
新渡戸とメリーの出会いの機縁となったのは、彼が札幌で得たキリスト教の信仰である。渡米後、新渡戸は日曜日ごとに教会に足を運んだ。そこで彼が見たものは、札幌で彼が体験したキリスト教とは似ても似つかない姿であった。荘厳な建物、数万数千の聴衆、驕奢な服装、贅沢なアクセサリー。どれ一つとってみても、違和感が彼を襲った。
札幌の教会は粗野で質素なあばら屋、礼拝も信者の学生が持ち回りで担当するような素朴で原始的なものであった。しかし、若者たちの精神の中には、確かな内的覚醒が芽生えていたのである。
アメリカの教会に失望しつつあった頃、彼が出会ったのがクエーカーであった。クエーカーは17世紀にイギリスに起こったキリスト教の一派で、儀式や形式よりも、神やキリストとの霊的交わりによる宗教的感動を重視する集団である。その感動の絶頂の時、体が震動するので、クエーカー(震える人)と呼ばれるようになった。
クエーカーはそれまで、彼が出会ったアメリカのどの教会とも趣を異にしていた。質素な建物、古風な服装、礼拝も信者が瞑想し心に宗教的感動が生じた者が、立って短い感想を述べるだけ。「なるほど、これが本当の教会の姿だ」。新渡戸は札幌での原初体験を思い出したに違いない。後に彼の妻になるメリー・エルキントンは、このクエーカーの熱心な信者であった。
国際結婚の障害を越えて
当時にあっては、日本人が外国人女性と結婚するというのは、驚天動地の大事件である。彼の悩みは一通の手紙から始まった。彼女から届いたプロポーズのラブレター。「これはエライことになった」というのが彼の率直な気持ちだった。西洋人を妻にして、閉鎖的な日本社会で生きていけるのか?好奇の目にさらされて生きていかねばならないのでは?さまざまな障害が予想された。
さんざん思い悩んだ末、彼は決断した。自分に向けられた彼女の愛と、自分自身の彼女への愛に委ねることにしたのである。彼は神に祈りを捧げた後、彼女に結婚承諾の返事を書いた。
しかし障害は新渡戸側だけにあったわけではない。むしろメリーの側にこそあったのである。白人の上流階級の娘が、アジアの未開社会である日本人、つまり黄色人種に嫁ぐというのである。メリーの両親も、兄弟も大反対であった。宗教的感動と人間の兄弟愛を説くクエーカーの人々すら反対した。
結婚の話が持ち上がって以来、新渡戸に対するアメリカ人の人種的偏見と敵意は想像を絶するものであった。「黄色人種は血が濁っている。白人の娘を妻にしようとするなんて、とんでもない思い上がりだ。あの男を許すな」。それまで彼を暖かく迎え入れてくれた人々が手のひらを返したように、差別と偏見と敵意を彼に向けた。
しかし二人の愛は変わらなかった。新渡戸の信念は「太平洋の橋」となることである。結婚という現実に直面して、日米間の溝の深さに改めて気づかされた。だからこそ、彼は「橋」となる必要があると考えた。新渡戸にとって二人の結婚は、二人の愛の確認にとどまることなく、彼の信念の一つの実践でもあったのである。
状況は徐々に緩和されてきた。強固な反対姿勢を貫いていたメリーの兄弟たちが、まず理解を示すようになってきた。親戚やクエーカーの有力者たちも、賛同に変わり始めた。メリーの両親は結婚式の出席を拒否したが、新渡戸夫妻が日本に向かう直前、二人の結婚に賛意を伝え、家に招いて別れを惜しんだという。
外交官として、教育者として、新渡戸の「日本最初の国際人」としての活躍はめざましいものであった。しかし、時代の流れは新渡戸の信念とは全く逆の方向に向かっていた。太平洋に橋を懸けるどころか、両国の間に戦争の気配が押し寄せていた。
1933年3月、日本は新渡戸がかつて奉職していた国際連盟を脱退し、戦争への道を突き進むことになる。青年時代に抱いた「太平洋の橋」になるという夢は、もはや砂上の楼閣となった。同年10月、新渡戸は失意の内に息を引き取った。しかし、戦後日本は新渡戸の夢を追うかのごとく、太平洋に強固な橋を構築した。戦後の平和と繁栄は、新渡戸が残した一つの遺産であるに違いない。  
東郷平八郎 

 

東郷平八郎(一八四七〜一九三四)は、一九〇五(明治三人)年五月、日露戦争の勝敗を決した日本海海戦でロシアのパルチック艦隊を破って大勝利を収め、「生ける軍神」と呼ばれた名提督である。
一九一三(大正二)年、東郷は六七歳で元帥に任命される。元帥は終身職で、この称号を得れば軍人として生涯現役を保証されたようなものである。
日本海軍では、重要な案件を検討する際、海軍全体で吟味したのち元帥の元に回され、元帥の賛成によって案件が可決されるという伝統があった。つまり元帥は、海軍のほかの者たちが賛成した案件でも単独で否決できたのである。
とはいえ、東郷は、大正時代には悠々自適の隠居生活を楽しみながら、時々、回ってくる海軍の案件を決裁していた程度で、それほど政治に介入することはなかった。
しかし、第一次世界大戦後、日本が軍縮を目的としたワシントン会議に参加すると、態度が一変した。
当時、海軍の軍人たちは、軍縮を行ない諸外国と協調しようとする政府の方針に賛成する穏健派と、アジアへの勢力拡張を望み軍縮を不満とする強硬派、どちらにも偏らない中立派に分かれていた。海軍の拡充を望む東郷は、八〇代の高齢にして軍縮条約反対派の筆頭となり、積極的に政治介入するようになった。かつては「無口な指揮官」と呼ばれた男が、打って変わって声高に軍縮反対を叫ぴ始めたのである。
戦争を避けようとする谷口尚真軍令部長が軍縮条約批准の必要性を説明しても、東郷は断固として聞き入れない。谷口はさぞ困っただろうが、生き神扱いされている東郷には逆らえなかった。
東郷は海軍から穏健派を次々に追放し、軍部のファシズム化を急速に進めた。こうした動きが、やがて日中戦争や太平洋戦争へ突入する原因につながっていくのだ。
東郷に政治的野心はなかったようだが、帝国主義的な価値観に固執し、時代が自分の思惑と違う方向に動きそうになると口出しせずにはいられなかった。そんな頑固さが、その後の日本に悲劇的な戦争をもたらしたのかもしれない。 
与謝野鉄幹 

 

明治末期から大正、昭和初期にかけての歌人である与謝野鉄幹(一八七三〜一九三五)は、妻の晶子とともに歌壇に一大旋風を巻き起こし、膨大な量の作品を残している。
晶子は和歌の師匠として鉄幹を尊敬し、やがて二人は夫婦となった。歌人としてはよきライバルとして、また人生のパートナーとして支え合ったが、鉄幹を一人の男として見ると、晶子に誠実であったとはいえない。
そもそも二人が出会ったときには、すでに鉄幹は妻子ある身でありながら、弟子の何人かと関係を持っていたようなのだ。
このころ、鉄幹が発行した「明星」は大流行で、特に若い女性に人気があった。情熱的な恋の詩をうたい上げる鉄幹に、理想の恋人像を重ね合わせる女性も少なくなかった。
そうしたあこがれが、いつしか鉄幹を慕う気持ちへと変化していったのだろう。というのも、鉄幹は美男子ではなかったし、「明星」の発行も妻の実家からの援助で始めたものであり、鉄幹自身が裕福というわけではなかったからだ。
鉄幹との恋愛関係が知られている弟子は何人かいるが、有名なのは晶子と山川登美子との三角関係である。
二人の鉄幹への恋情は若さゆえの盲目的な愛で、嫉妬に狂い争うこともなく、ただ一心に燃えるような愛を鉄幹に捧げている。
だが、「春短し何に不滅のいのちぞと力ある乳を手にさぐらせぬ」という歌に見られるような晶子の積極さに対し、登美子は「それとなく紅き花みな友にゆづりそむきて泣きて忘れ草摘む」とうたい、三角関係から身を引いた。
その後、鉄幹は妻・滝野と別れ、晶子は晴れて鉄幹の妻となったのである。
しかし、晶子と夫婦になってからも鉄幹の情欲は衰えることを知らなかった。彼は、性科学者の小倉清三郎が設立した「性の研究会」に入会して、エロスの追求にかかわっている。
入会時に小倉から自らの性体験を尋ねられた鉄幹は、「妻のアソコに入れたバナナを翌日には自分が食べました」と告白した。それを聞いた小倉は眉一つ動かさずに、「そんなことぐらいでは変わった体験とはいえない」と切り返したという。何とも風変わりな集団である。
この研究会には、坪内迫遥や芥川龍之介、平塚らいてうなどの知識人も多く入会していたというから面白い。
何はともあれ、鉄幹にとっては、女性を求める情熱と歌への情熱は表裏一体だった。 
高村智恵子 

 

彫刻家で文筆家でもあった高村光太郎の妻・高村智恵子(一八八六〜一九三八)は、光太郎が著した「智恵子抄」で有名な女性だ。
芸術への苦悩や結婚生活の困窮、実家の破産などによって精神を病んだ姿から、智恵子は繊細な女性というイメージが強く、実際、健康なときから内気で物静かな性格だったらしい。
だが、だからといっておとなしいばかりの女性ではなかったようだ。
若き日の智恵子は、郷里の福島県から単身上京して日本女子大学に入学したり、画家になって平塚らいでうの主宰する女性雑誌「青鞘」創刊号の表紙を描くなど、明治の女性にしては積極的に行動している。男性のヌlドを描く際、性器まで丹念に描写し、周囲を驚かせたこともあったという。
彼女のこの積極性は、光太郎との恋においても発揮されている。光太郎の文章を読んで引かれた智恵子は、一九一一(明治四四)年末ごろ、知人の柳八重に頼んで光太郎のアトリエに連れていってもらったのである。
翌年夏には、智恵子は鉢植えを手土産に一人で光太郎のアトリエを訪れている。また、光太郎が千葉県の銚子に写生旅行へ行ったと聞くと、彼女はあとを追っていき、二人で散歩をしたり、海を写生したりしたという。
さらに、塑年夏に光太郎が長野県の上高地を旅行したときにも、智恵子は彼を追っていった。
こうした智恵子の側からの積極的なアプローチのかいあって、初めはその気がなかった光太郎も彼女に恋心を抱くようになる。
双方の両親の許しを得ると、二人は一九一四(大正三)年に結婚した。光太郎三二歳、智恵子二九歳のときであった。
ここまで大胆に好きな男性のあとを追いかけて行動する女性は、現代でも珍しいのではないだろうか。智恵子は口数は少ないが、「自分の人生は自分で決める」という強い信念に生きたのである。 
岡本かの子 

 

大阪の万博公園にある「太陽の塔」の作者・岡本太郎の両親は、芸術家だった。父の岡本一平は、夏目漱石にも才能を認められた漫画家、母のかの子(一八八九〜一九三九)は、歌人で小説家であった。
岡本かの子は、歌人としては若いころから知られていたが、小説家としてデビューしたのは四七歳と遅く、病没するまでのわずか四年間の活動だった。だが、その短い期間に次々に発表した作品は、川端康成に追悼文で絶賛されるほどの才能を示した。
彼女は繊細で傷つきゃすい芸術家肌の女性で、その性愛のあり方は奔放かつ型破りだった。夫も子どももいる家に、愛人も住まわせていたのである。
もっとも、かの子が夫以外の恋人をつくったのは、少なくとも初めは夫の放蕩が原因だった。
結婚して二年目の一九一二(明治四五)年、一平に「朝日新聞」で連載された夏目漱石の小説「それから」の挿絵を描くチャンスがめぐってきた。風刺画の評判も上々で、一躍、売れっ子漫画家となった一平は、収入が倍増すると、毎日のように遊び歩き、めったに家に帰らなくなってしまう。
こうした夫婦生活の危機に追い打ちをかけるように、かの子は兄と母を相次いで亡くすことになる。精神的に追いつめられたかの子は、ついにノイローゼで入院してしまった。
その退院直後、かの子は自分の歌のファンだという美青年の学生・堀切重夫と知り合い、恋愛関係になったのである。
一方の一平は、妻がノイローゼになったことで自分の放蕩ぶりを反省し、妻の芸術的才能が開花するのを手助けしようと決意していた。彼は、かの子の感受性の鋭いところを愛していたので、狂気に陥った妻を見て、愛を再認識したらしい。
皮肉なことに、妻をかえりみなかった夫が、妻に愛を捧げようと決心したとき、妻には愛人ができていたわけである。
やむなく一平は、かの子のために堀切の同居を認めた。このときすでに長男の太郎が誕生しているから、かの子を中心として、夫、愛人、長男という奇妙な生活が始まったのである。
だが、この生活は長くは続かなかった。三角関係に疲れた堀切は、時折、家事の手伝いに来るかの子の妹・きんに心を引かれてしまったのだ。それを知ったかの子は怒りのあまり彼を追い出したのである。もともと病弱だった堀切は肺を病み、それからまもなく病死した。
一九二四(大正一三)年、かの子は三六歳のときに再び恋人をつくった。今度は新田亀三という医師で、一平はまたもや妻の愛人の同居を許している。それから、かの子が一九三九(昭和一四)年に脳溢血で急逝するまで、同居が続いたという。 
南方熊楠 

 

粘菌に関する研究で評価される生物学者にして、民俗学、人類学など広い分野での学識が知られる南方熊楠(一八六七〜一九四一)は、和歌山県の裕福な商人の家に生まれた。
当時、地方出身の秀才は、地元中学を卒業して東京の大学予備門に入り、帝国大学へ進むというコースが一般的だったが、熊楠は途中でこれを放棄している。興味の範囲があまりに広いので、官制教育の枠に収まり切れなかったのである。だが、実家の経済力に助けられ、熊楠はアメリカ、イギリスへ留学し、勉強を続けることができた。
熊楠は、イギリス留学で学者としての評価を定め、名が知られるようになった。しかし同時に、彼の変人ぶり、奇行の数々も、多くの人の知るところとなる。
研究に没頭するあまり、自分が食事をしたかどうかを家人に尋ねるというような行動はいつものことで、アリの習性に興味を持ち、それを知るために自分の急所に砂糖を塗って庭に座り込む、という有様だったという。とにかく、集中力は並ではなかったようだ。
こんな熊楠の興味の対象の一つに、少年愛の研究があった。
熊楠は、渡米前の一時期、故郷の和歌山で羽山という知人宅に滞在していた。その羽山家の若い兄弟、繁太郎と蕃二郎の眉目秀麗ぶり、居ずまいの美しさに心を引かれたのが、熊楠の少年愛研究の始まりだった。
アメリカに渡った熊楠は、羽山兄弟に何通もの手紙を出している。また、イギリス滞在中の日記には、何度もこの兄弟と一夜をともにした夢を見たという赤裸々な記述がある。そのことを友人にも手紙で書き送るなど、自らの同性愛を隠す様子はない。
幸いなことに、ヨーロッパは少年愛に古い伝統を持つ。熊楠は滞英中に古今の文献を探究し、帰国後は日本での性愛学の研究なども続け、とりわけ男色論について考察を重ねた。
熊楠の研究成果は、男性の同性愛には、不浄愛である男色と浄愛である男道があるとしたうえで、肉体的関係を伴わない浄愛、つまり男道の存在を、日本の武士と彼を慕う若者との間柄に見つけ出したところで完結している。自分の同性愛の形が、羽山兄弟への海愛だと納得したのだろう。
繁太郎は熊楠の在米中に、蕃二郎は熊楠の在英中にそれぞれ腕を病んで亡くなってしまったが、二人への思いは生涯、熊楠の脳裏を離れることはなかった。
熊楠の息子も、回想談のなかで、美男子で行儀がよく、物静かな言葉遣いの美しい若者を父は好んだ、と語っている。これはまさに、若くして亡くなった羽山兄弟の姿そのものだったのだろう。 
島崎藤村

 

詩集「若莱集」で世に出た島崎藤村(一八七二〜一九四三)は、その作品のほとんどが彼の生活の記録だったといわれる。しかし、その叙情あふれた作品とは裏腹に、小説家としての私生活は、ドロドロしたものだった。
なかでも作家生命の危機であったのが、姪とのあやまちである。
教師を辞めて作家となった藤村は、小説「破戒」でその評価を確立したあと、妻に早世された。幼い子どもを抱える身であったため、家事手伝いとして兄の娘・こま子を呼び寄せたのが、間違いの始まりだった。
姪のこま子は当時一九歳。聡明な文学少女ではあるが、さほど美人というわけでもなく、性格は消極的、女性としての魅力に欠けていたという。それでも、これから女として花開こうとする年ごろの彼女に、四二歳の藤村は欲望を抑えることができなかった。
名を残したけれど、本当は大迷惑な人たち
ある夜のこと、こま子のあられもない寝姿を見て欲情し、肉体関係を結んでしまうのである。
一度だけの関係なら、「つい」という言い訳もできただろう。しかし、同居している二人にとって、その関係はなかなか断ち切れるものではなかったようだ。やがて、こま子は妊娠してしまう。
藤村は、不道徳な行為が世間に知られて、社会的評価を失うことをもっとも恐れた。
その結果、身内には二人の関係を隠したまま、単身、パリへ逃避行に出てしまうのだ。
二度と帰国しないという決意のうえでの日本脱出だったが、第一次世界大戦の勃発で帰国を余儀なくされる。
藤村がパリに滞在していた三年の問、こま子は出産した子どもを養子に出して、藤村の子どもたちの面倒を見ていた。
こま子と再会した藤村は、彼女に結婚を勧めたが拒まれ、結局は以前と同様の関係に戻ってしまう。それがまた、藤村を探く悩ませるのだが、あるとき、このままではいけないと考えた彼は、二人の関係をもとにした私小説「新生」を著すことで贖罪を試みた。
世の批判を浴ぴることを覚悟しての発表だったが、かえって潔いという評価もあった。ただ二人の関係を知らなかった藤村の身内は驚き、こま子は台湾の伯父に預けられることになる。
その後、「新生」への賛否両論にさらされて、しばらく身を潜めていた藤村だが、やがて告白の誠実さが評価されるようになる。また、こま子との関係が切れたことで、新しい妻を得ることもできた。まさに、人生が好転したのである。
それが晩年の大作「夜明け前」へと結実したのだった。
そもそも、藤村が作家への道を進むことになったのも、教え子との恋愛に苦しんで漂泊した結果だったというから、女性と関係を持つことでひと皮むけるタイプの作家だったのかもしれない。 
石原莞爾

 

一九三一(昭和六)年九月の満州事変によって、関東軍は満州を占領し、翌年には満州国を創建した。この満州国誕生の立役者とされるのが、関東寧作戦参謀だった石原莞爾(一八八九〜一九四九)である。
石原は講演録「戦争史大観」のなかで、日本とアメリカによる世界最終戦争は避けられないものであるとし、アメリカと戦うためには、満州を占領するべきだと説いた。
旧荘内藩士を父として山形県に生まれた石原は、陸軍幼年学校時代から開校以来の秀才とうたわれ、陸軍士官学校、陸軍大学校においても、その秀才ぷりは変わらなかった。
しかし、頭のよさは群を抜いていたが、運動はまるでだめ。また、いたずらを好み、突拍子もない行動をとっては学友を驚かせた。
例えば、石原は風呂に入るのを面倒くさがっていたため、ついにはシラミがわいてしまった。すると、そのシラミを十数匹も捕獲してベン軸のキャップに入れておき、授業の最中に、キャップから出して机の上で競走をさせて遊んでいたという。
また、図面の宿題が出たとき、自分の陰茎を大きく描いて提出して、退学になりかけたという逸話もある。ここまでくると豪傑というよりも、ふてぶてしいと表現したほうがよさそうである。
英才の石原だったが、日中戦争以降は、さらなる戦線の拡大を主張する東条英機と意見が対立したため左遷されて予備役になり、敗戦時にはすでに軍籍を抜けていた。
その後、東京裁判で証人として出廷を命じられたが、そんなときでも、石原独特の持論を展開して、アメリカの判事を煙に巻いている。
石原は病気のため故郷の山形で静養していて上京できず、裁判は酒田の臨時法廷で行なわれた。そのとき石原は、リヤカーに乗って、着流しに戦闘帽といういでたちで出廷した。
まず判事が「英語を話せるか」と問うと、石原は山形弁で「日本語なら少し話せる」と答え、傍聴人たちを笑わせた。そして、「満州事変の責任は私にあるのに、なぜ自分は戦犯ではないのか」と堂々と主張したのである。
これにまごついた判事は、「証人はイエスかノlで答えるだけでよい」と注意し、さらに「満州事変では日本はどれくらいの被害を受けたか」と尋問を続けた。ところが石原は、「被害の状況はイエスかノーでは表わせない」といって、再び判事を困らせたのだ。
また「満州事変で日本はわずかな兵力で大鉄槌を下したのか」と聞かれると、「いやいや、中鉄槌程度です」と返答し、法廷内は大爆笑に包まれたという。
さらに、日本の犯した罪を日清・日露戦争までさかのぼりたいという検事の言葉に、「それなら徳川幕府をおどして日本を開国させた、あなたの国のペリーを呼んでこい」とやり込めた。
東京裁判にかけられたほかの多くの指導者たちに比べ、萎縮することなく堂々とした石原の態度に、敗戦の世の国民は、拍手喝采を送ったという。 
斎藤茂吉  

 

近代を代表する歌人・斎藤茂吉(一八八二〜一九五三)は、短歌同人誌「アララギ」を主宰し、「赤光」「あらたま」などの歌集を世に送り出したことで知られる。彼はまた、歌人として有名な一方、青山脳病院の院長でもあった。
歌の道でも医学の世界でも地位の高かった茂吉だが、晩年の女性関係を見ると、どこか変質者めいている。
茂吉は、五一歳のころまでは平穏な家庭のまじめな夫だったが、一九三三(昭和八)年、彼の人生を一変させる事件が起こる。
事の発端は、妻の不倫騒動であった。
若い男性のダンス教師が上流の女性たちを誘惑し、不倫の関係を結んでは金銭的援助を受けていたことが発覚したのである。捕まったダンス教師の自白から、数々の有閑マダムたちの不貞が明らかになった。そして、彼が関係した相手として挙げたなかに、茂吉の妻・輝子がいたのである。
輝子はこれを否定したが、茂吉は妻を信じられず、ショックで不整脈などの症状を起こすほどだった。
そして、怒りのあまり妻を別居させはしたが、離婚はしていない。婿養子という立場や世間体を考えたのか、もしくは妻への未練もあったのかもしれない。
その翌年、茂吉は正岡子規の三三回忌歌会で、「アララギ」の会員だった二四歳の永井ふさ子と出会い、その美貌に夢中になってしまう。
妻と別居中の孤独な暮らしだったこともあってか、茂吉はふさ子を自宅に招いて歌の添削指導をするようになり、やがて男と女の仲となった。
茂吉はふさ子にあてて、何と一五〇通以上の恋文を送っている。
そのなかには、「ふさ子さん!ふさ子さんはなぜこんなにいい女体なのですか」「あなたの電話のこゑは実になっかしい。かぶりつきたいやうなこゑです」など、驚くほどあからさまな文面が見える。
しかも、ふさ子に対する独占欲は異常なほど強く、彼女がほかの男と会っただけで責め立てたり、アパートの前で待ち伏せしたりした。
さらに、不倫関係や茂吉の嫉妬深さに疲れたふさ子が、郷里で見合いをして婚約すると、茂吉は相手とのキスや愛撫の場面を手紙で知らせるようにと、変態的な要求をしているのだ。このため、ふさ子は精神的にまいって寝込み、結局、破談になってしまったという。
しかし茂吉は、それほど熱烈にふさ子を愛しながら、妻と離婚してふさ子と結婚しようとはしなかった。できる限りふさ子との関係を隠し、日記にさえ書き記していない徹底ぶりだったのである。 
高浜虚子  

 

近代俳句の大家・高浜虚子(一八七四〜一九五九)は、正岡子規の愛弟子として句作にいそしみ俳句で大成する一方、長年にわたって俳句誌「ホトトギス」の主宰者としても活躍した。
「ホトトギス」は、元は愛媛県松山市の新聞編集者・柳原極堂が、子規の俳句革新運動を支援するために始めた小規模な同人雑誌で、県外にはほとんど出回っていなかった。そんななか、東京で失業中だった虚子が文学の雑誌発行を計画し、子規に知らせたところ、子規は自分の愛弟子が東京で「ホトトギス」を発行できるように、極堂に話をつけてくれたのである。
こうして編集者の顔を持つようになった虚子は、何と、あの文豪・夏目漱石の作品を大胆に添削したことがある。ただし、そのころの漱石は、まだ小説家ではなかった。
漱石は子規の友人で、虚子は子規を介して彼と知り合っている。
漱石は、一九〇三(明治三六)年にイギリス留学から戻り教師になったが、やがてノイローゼに陥ってしまう。虚子は、漱石の妻に頼まれて、彼を芝居や能に連れ出すなど、気分転換させようと心を砕いた。その一策として思いついたのが、見たものを忠実に文章にする「写生文」を書かせることだった。
これは、元は子規が始めたもので、そのころの虚子は俳句以上に熱中していた。漱石の豊かな文才に気づいていた虚子は、写生文を書くよう勧めたのである。
すると漱石は、「猫伝」と題した文章を書き始めた。風変わりな内容ではあったが、虚子は面白いと思い、タイトルを文章冒頭の「吾輩は猫である」の一文に変えた。さらに、文章が冗長だと思ったところを思い切って添削して、「ホトトギス」の一九〇五(明治三八)年一月号に載せたのだ。これが文壇ばかりでなく一般読者からも評判を呼んだ。こうして「ホトトギス」で「吾輩は猫である」の連載が始まり、漱石は脚光を浴びて、一躍、人気作家になったのである。
漱石の才能を見出し、成功へのきっかけをつくったのは虚子だった。俳人としてだけでなく小説の編集者としても、優秀な人物だったといえるだろう。 
永井荷風  

 

「あめりか物語」「糧東締諦」などを著した耽美派の作家・永井荷風(一八七九〜一九五九)は、下町や花柳界の情緒を愛した人である。こういうと聞こえはいいが、かなりの女好きで、同時に複数の愛人を持つ節操のなきであった。
それぞれの愛人とうまくつき合うならともかく、自分の浮気を隠そうともしなかったので、たまりかねた愛人が愛想を尽かして離れていくことが多かった。すると、荷風は未練たっぷりの恋文を送つては復縁を願うのだが、きっぱりと拒絶されてばかりである。
荷風の困った癖は、色恋沙汰だけではない。他人の情事を「見ること」が大好きだったのである。関係のあった芸者二人が互いに愛し合っていると知ると、二人を呼び寄せて、女同士で愛し合う姿をじっくりと観察した。愛人の女性とその恋人を招いて、二人の秘め事を写真に収めたりもしている。
そのうち、愛人の一人だった関根歌という女性に伺合茶屋を附かせ、そこへ来たお客の色事を隣の部屋からのぞくようになる。
人の性交を観察しては、「今のはお粗末だった」「あれは、なかなかよかった」などと批評し、気に入ると歌に「席料はまけておあげなさい」ということもあった。
その後、自宅が戦火で焼失した荷風は、住居を転々としたあと、フランス文学者の小四茂也宅に移り住む。すると、ここでも悲癖を抑え切れなかったようで、小四夫斐の寝室をのぞき見趣味の餌食としている。
それに気づいた夫人がのぞき穴をふさいでも、悪びれる様子もなくまた聞ける。そんなことが続くものだから、とうとう小西家から追い出されてしまった。
荷風は二度結婚しているが、いずれも長くは続かずに離婚している。その後は、自由な独身生活を楽しんだ。荷風の愛人の数は、一説には二〇人はくだらないという。
しかし、芸術至上主義者だった荷風は、それほどの女好きにもかかわらず、子どもがいなかった。芸術の邪・肱になるといって、子どもをつくることを断固拒否したのだ。避妊には人一倍気を使っていたようである。 
藤田嗣治  

 

丸眼鏡におかっぱ頭というユニークな風貌が印象的な藤田嗣治(一八八六〜 一九六八)は、大正から昭和にかけて活躍した洋画家である。彼は東京美術学校を卒業後、一九二ニ(大正二)年にフランスのパリへ渡り、その六年後にはサロン・ドートンヌという展覧会で出品した六作品すべてが入選、「エコール・ド・パリ」の一員としてもてはやされるようになった。
エコール・ド・パリとは、当時、外国からパリに移り住んで、自国の民族的資質をパリ画壇で開花させた画家たちの総称である。藤田は、浮世絵や墨絵の技法を油絵に取り入れて人気を陣した。
しかし、一九二九(昭和四)年に起こった世界恐慌の影響で絵が売れなくなり、エコール・ド・パリが終駕を迎えると、やがて藤田もパリを去った。第二次世界大戦後、再びパリに戻るとカトリックに改宗、レオナlル・フジタと名乗り宗教画を描いた。
こうした先駆者としての藤田を支えたのが、二六歳で初めてパリに渡ったとき耳にした、実に些細な一言であった。パストゥールの並木道を歩いているとき、一人の女性が彼を見て「ミニヨン」といったのを聞いた。フランス語のわからない彼は、その言葉を口にしながら宿へ戻り、さっそく辞書を引いてみると、そこに書かれていたのは「かわいらしい」「愛らしい」という説明だった。
女性に「かわいい」といわれると、子ども扱いされたと自信をなくす男性も多そうだが、藤田はこれを「モテた」と解釈した。俄然自信を持った彼は、「パリの女にモテたのだから、必ずパリをも征服できる」と叫んだという。その女性がほめたのかどうかもわからないのに、ずいぶんな楽天家である。
ともあれ、その自信通り、藤田はパリで人気画家になると同時に、女性からもモテた。新婚まもない妻を日本に残してパリにきたのに、手紙だけで一方的に離縁し、その後はフランスで女性遍歴を重ねて、結婚と離婚を繰り返したのである。
たった一言から得た確信が、見事現実となったのだ。これもまた、たぐいまれなる才能の一つ、ということなのだろうか。 
内田百聞

 

内田百開(一八八九〜一九七一)は、鋭い観察力と軽妙な筆致で独自の随筆のジヤンルを確立し、「阿房列車」「冥途」などの作品を残した近代文学の作家である。一九一一(明治四四)年に夏目 漱石を訪ねて門下となり、漱石の死後は全集の編纂に携わった。
百聞は、人に借金ばかりしていたことで有名だが、その借金の仕方には、自業自得といいたくなるような無神経で非合理的なところがあった。
例えば、一〇円の借金をするため、東京から千葉県まで、二等車(現在のグリーン車に相当)で出向いたという逸話がある。また、五円の借金をするため、往復一〇円のタクシー代を使ったともいわれる。これでは、借金がなかなか返済できずに困ったというのも無理はないだろう。
借金を申し込まれる友人たちは、これだけ経済観念が欠落していると怒る気も失せるのか、つい貸してしまっていたらしい。
しかも、彼が常に金に困っていたのも、稼ぎが少ないからではなく、考えなしに金を使うためだった。収入の多いときでは、法政大学の教授と、陸軍士官学校の教官と、海軍機関学校の教官を兼務して、当時としては会社の経営者並みの月収五〇〇円という高額所得者だったのに、やはり借金に追われ続けていた。友人知人だけでなく、高利貸しにも借金をするので、多額の利息を払わなければならなかったのだ。
しかし、周囲の人聞には明らかな借金地獄の原因が、百聞自身にはわからず、何か自分の知らないカラクリがあって、そのために貧乏が続くのではないかと考えていた百聞が書いた 漱石のパロディ「贋作吾輩は猫である」では、そんな彼の貧乏哲学が垣間見られる。
「君、貧乏というものを、そう手軽に考えてはいかん。貧乏と云うのは、立派な一つの身分だ」
偏屈でへそ曲がり。それでも、どこか浮き世離れした憎めない人物であった。 
河上彦斎  

 

はじめに
この「河上彦斎伝」は、今まで読んできたさまざまな参考文献と彦斎先生のご子孫の方から頂いた情報を基に作っております。ご子孫の河上様は、京都で居合(無双直伝英信流、神道幡蔭流)の道場をやっておられる方で、利治先生の代からの道場訓、「三流の教え」
一、己の為には汗を流せ
一、他人(ひと)の為には涙を流せ
一、君國(くに)の為には血を流せ
を守り、ご先祖の志を今に伝えておられます。
「※」と表記してあるものが、河上家に伝承されているお話です。貴重な情報をお寄せ下さり心より感謝申し上げます。
容貌
容姿枯痩、目瞳接上、顴骨高起
身長五尺足らず(150cm程度)、痩せ型。特に美男子というわけでもないが(美男子だったという説もあります…)、色白で頬骨が高く、一見女性を思わせるような容姿だったそうです。
誕生
天保五年(1834年)白川県肥後国飽田郡熊本新馬借町(現熊本市新町)小森家に四人兄弟の次男として誕生しました。小森家は兄の半左衛門が継ぐことになっていたので彦斎は谷尾崎町の河上彦兵衛の養子に出されたのです。11歳で河上家の養子になり、16歳で熊本城下のお掃除坊主へ上がるまでの五年間は、藩校である時習館に通い学問、剣道に打ち込みました。ちなみに彦斎は剣道の「試合」には弱く、いつも負かされていたそうです。「竹刀での剣術など遊びに過ぎん」などと言って…。
そして16歳でお掃除坊主となります。お城勤めとは言え、当時坊主職は軽視されておりました。が、彦斎は気にせず真面目に働き、余暇を見つけては文武に磨きをかけ、茶道やいけ花にも通じました。この頃轟武兵衛や宮部鼎蔵らに会い、教えを請う事によって勤王の志を強くしていきます。
黒船来航
20歳の時、藩主の参勤交代の供で江戸に行きますが、そこでペリーの黒船来航を聞きます。次々と不平等条約を結ばされる幕府に不安と憤りを感じ、その後熊本に帰り、勤王学者・林桜園の原道館に入門。彼の尊皇攘夷論に大いに啓発されるのです。後の神風連大野鉄兵衛、加屋栄太らもこの頃原道館に入門しています。
安政六年、井伊直弼により、過激な尊皇攘夷論を唱える吉田松陰・橋本佐内・梅田雲浜らを処刑する安政の大獄が起こります。全国の尊皇の志士たちはこれに憤慨し、翌万延元年、水戸浪士達によって井伊大老は暗殺されます。(桜田門外の変)この事件で重傷を負いながらも生き残った水戸浪士の森五六郎・大関和七郎・森山繁之介・杉山弥一郎の四人が、江戸の熊本藩邸にたどり着き、役所に行くまでしばらく休養させてくれるよう頼んできました。
大老を殺害したとされるこの四人をいかに扱えばよいか藩邸内は大騒ぎになりました。そんな中、家老付き坊主として江戸にきていた彦斎は、医者を呼び、茶の湯の接待をするなどして丁重にもてなしました。尊皇攘夷運動の先駆けとなった彼らに密かに敬意をもっていたのです。
結婚
文久元年、彦斎は熊本藩士三沢家の次女てい(後に彦斎が天為子と改めさせる)と結婚します。このていと言う女性、なかなかのしっかりもので、女だてらに長刀の有段者でありました。また武士の妻としての振る舞いも立派で、夫の死後も世間の冷たい目(斬首者の遺族という事で)に耐え一人で息子彦太郎を育て、河上家を守っていきました。
※天為子さんについて・・・
彦斎没後、貧窮を極めた遺族を哀れみ、ある時県庁を通じて山縣有朋より援助が来たのですが、天為子さんが県庁に行ってみると「下賜」と書いてある金一封がありました。天為子さんは貧窮していたのに係わらず、尊皇攘夷運動の先輩である彦斎、その遺族に対し「下賜」では受け取れないと言って県庁の役人を驚かせます。後に山縣さんも「さすがに・・・」とかたちを変えて援助したのです。
さすが彦斎の妻。大和女性の真の美しさはこういう所にあるのでしょう・・・。
清河八郎と彦斎
この年の暮れ、中山大納言家の諸大夫田中河内介(この年に最初に来熊し、肥後勤王党志士らと共鳴)の紹介状を携えて清河八郎が来熊しました。清河は中川大納言が攘夷に立つのでこれに肥後の有士たちも参加するよう説きにきたのですが、田中河内介の紹介とはいえ肥後勤王党員たちはこの清川を信用することができませんでした。彼を信じていた彦斎は何とか先輩同志たちを説得しますがそれも無駄に終わります。清河はそれに腹を立てて肥後の人間をけなし熊本を去りますが、彦斎のことは大きく評価していたようです。熊本を去った清河八郎は薩摩へ行き島津久光を説得、上京させることに成功します。島津久光が兵を率いて上洛すると聞いて、清河を信用しなかったことを後悔した宮部鼎蔵は、あわてて自分たちの藩論も尊皇攘夷に導こうとするものの、熊本藩はなかなか動きません。
坊主職を解かれ京へ
肥後勤王党の志士の中には脱藩するものもあらわれ、宮部鼎蔵も上京して全国の尊攘派志士達と政治活動に励みます。彦斎は茶坊主という身分であるし、また上洛するだけの資金がなかったので、宮部らと連絡を取り合いひたすら朝廷内の尊皇攘夷色を強くしていくという政治工作に奔走しました。それが功を奏し、朝廷から熊本藩へ京都警護の要請がきます。藩主の弟・長岡護美の随従員として、肥後勤王党から轟武兵衛、宮部鼎蔵らとともについに河上彦斎も上京するのです。このとき蓄髪が許され、坊主職も解かれます。
京都での活躍〜八.一八の政変
彦斎の評判は朝廷内でも良く、藩兵交代の時期がきても彼だけは引き続き警備の任に当たらせていたそうです。中でも三条実美は彼を大いに信頼し、次のような手紙を送っています。
方今、形勢日を逐うて切迫し、叡慮を悩まされ候段、悲嘆にたへず候。天下有志の士の憤発あるべきはこの秋に候。いよいよ尊攘の志を励まし、速やかに宸襟を安んずべきものなり。日と月の清き鏡に恥じざるは赤きまことの心なりけり
彦斎はこれに感激して、故郷の長男彦太郎に自分の手紙も添え、これを送っています。「この書を見るのは父をみるがごとくせよ。立派に成長し、父の志を辱めることなく国家のために働きなさい。」と。
京都で八・一八の政変が起こり、長州藩と三条実美ら長州派の公卿たちは京を追放されます。それと同時に肥後藩の警備兵も解散となり全員帰国を命じられますが、宮部鼎蔵をはじめとする勤王派の志士達は、幕府派である肥後藩に戻る気になれず脱藩して長州に入り、彼らとともに行動しようと考えるのです。
池田屋事件起こる
長州へと落ちていった志士達は、会津・薩摩による厳重警備態勢が敷かれている京へ再び潜り込み諸藩の勤王志士達と連絡を取り合って失地回復を計ろうとしました。宮部はこの不利な態勢を早急に打破するためには強硬手段しかないと考えます。風の強い日を選び御所に火をつけ、慌てて飛び出してきた京都守護職松平容保を討ち、公武合体派の公家たちを追放するというものです。
しかしこの計画を京都警備に当たっていた新撰組に知られ、宮部らは池田屋で会談中を襲撃されます。この事件で、宮部鼎蔵をはじめ彦斎の同志でもあり、親しい友人でもあった松田重助や高木元衛門、長州の吉田稔麿・杉山松助、土佐の北添佶麿らが殺害されます。長州でその悲報を同志の大楽源太郎から聞いた彦斎は悲憤し、いそいで京都へ上っていったのです。
佐久間象山暗殺
京都へ着いた彦斎は、長州追放および池田屋事件の黒幕であった佐久間象山に目をつけます。佐久間象山は吉田松陰の師であり今、行動を共にしている同志達の中には松陰の門下生、いわゆる象山の孫弟子も多い。しかしこの時点で象山は公武合体を唱える完全な佐幕開国論者であるのも間違いない。彦斎は象山暗殺を決意するのです。元治元年7月11日、彦斎は同志を集め斬奸状をしたため象山の宿舎の辺りで待っていました。佐久間象山暗殺に携わったのは彦斎を含め、因幡松平家の家中前田伊左衛門・平戸脱藩浪士松浦虎太郎・南次郎の4人。夕方、外出先から帰ってきた象山は三条大橋のそばで馬ならしをしていました。彼が通りの角を折り曲がった瞬間、前田伊左衛門と南次郎が左右から挟み撃ちにするように斬りかかります。足を斬られた象山は驚いてすぐさま鞭を叩き、馬を走らせます。松浦虎太郎が横から出てきて追いかけるものの間に合いません。宿舎が目の前に迫ってきた所で彦斎が馬の前にいきなり飛び出しました。(※利治先生によると、既に抜刀しておいて刀身を鞘に沿わせて近づいたとか・・・)馬はそれに驚いて棒立ちになり象山は落馬、間髪入れずに彦斎は初太刀を彼の胴に薙います。象山が刀を抜こうとした瞬間二の太刀が彼の頭を割りました。追いついた松浦虎太郎が最後に一太刀浴びせ、佐久間象山は絶命します。暗殺を成し遂げた彼らは、いそいで斬奸状を貼りだし姿を消しました。その斬奸状は次のようなものでした。
この者、元より西洋学を唱え、開国説を主張し枢機の方へ立ち入り国の方針を誤らせる大罪 捨て置くことができず、奸賊会津・彦根と共謀し、中川宮とはかり、恐れ多くも天子様を彦根城へ  奉ることを企て、その機会をうかがっているところであった 大逆無道の国賊である。それゆえ今日三条木屋町にて天誅を加えた。
昼間であったため、さらし首にはできない       皇国忠義士
ちなみにこの佐久間象山暗殺は長州の久坂玄瑞も関わり、それを扇動したという説もありますが、真偽はどうであれ最終的に河上彦斎の判断によって行われたものでした。彦斎はこの後仲間と別れ、再び長州軍に身を投じます。
※佐久間象山についてのもう一つの説・・・
なぜ彦斎が佐久間象山を斬ったかと言うと、象山がアメリカと交わす国書の中で日本の国名を「新アメリカ国」と書き、その国書は他の幕臣が破棄、その後自害します。
天為子さんはずっとこの説を信じ、孫である利治氏に語っていたそうです。
・・・佐幕開国派への天誅が次々と起きているこの時期に、国書に記した「新アメリカ国」・・・
一日ずれていれば・・・もしかしたら象山を暗殺したのは彦斎ではなかったかも知れません。
彦斎の剣法
河上彦斎が人を斬るときは、右足を前に出してこれを折り、左足を後方に伸ばして膝を地面にすれすれに接し、右手一本で斬りかかる。(※居合的な「逆袈裟の切り上げ」だという事です。)この独特の剣法で彼は、多くの暗殺を成し遂げた「人斬り彦斎」として描かれる事が多いですが、実際彦斎が斬ったのは佐久間象山だけが確実であって、他に誰を斬ったかは分かっていません。
禁門の変
象山暗殺の八日後の七月十九日、京を追放された長州藩は先月の池田屋事件でさらに怒りが爆発し、武力行使に出ます。兵力をもって長州派公卿、藩主の寃を訴える、禁門の変です。三家老を先頭に御所を守る会津、薩摩、桑名等の兵との激戦が始まります。このとき彦斎も長州家老の国司信濃隊に入って戦っています。しかし長州軍は圧倒的兵力差の前に敗れ去るのです。
指揮官であった来島又兵衛は戦死、久坂玄瑞、真木和泉らは自刃。国司隊も苦戦となり引き上げます。彦斎は国司信濃と別れしばらく鳥取藩邸に身を隠すのです。
長州征伐戦
禁門の変に敗れバラバラに撤退する長州軍。彦斎も一旦鳥取藩邸に身を隠し、村岡与一右衛門と共に米子挙兵を三条実美に上奏しますが土佐の土方久元らに反対され断念。その後長州へ帰ります。この戦いで政権が俗論党に傾いてしまった長州。征伐軍を整える幕府に俗論党は、福原越後、国司信濃、益田右衛門介、三家老の首を献上、四参謀を処断し謝罪します。高杉晋作、井上聞多ら残りの改革派は俗論党から命を狙われるようになり、筑前平尾山荘の野村望東尼のところにしばらく潜伏していましたが、保守派色が濃くなっていくのに見かねて下関の功山寺で改革兵を挙げます。
長州にとどまっていた彦斎はこの高杉晋作の挙兵を大いに喜び自らも一隊を組織しこれに呼応、ついに高杉率いる改革軍が藩の俗論党を打ち破り、藩政は再び改革派によって占められたのです。幕府は尊攘派が台頭した長州に再び征伐軍を送ります。第二次征長戦(四境戦争)の始まりです。彦斎はこの戦で芸州口、石州口を守り戦っていましたが、小倉で幕軍である肥後藩が長州軍と対峙したと聞き怒り悲しみます。そして桂小五郎、高杉晋作らが猛反対する中(このとき彦斎は開国派と転じてしまった高杉と絶交している)、長州軍を抜け一人熊本へ帰っていくのです。時勢に気づいていない藩首脳達を説得しに。
投獄〜大政奉還
帰国した彦斎は、茶坊主時代仕えていた家老の松井佐渡に会い説得しようとしますが、聞き入れられず脱藩罪で投獄されてしまいます。佐幕派の熊本藩は勤王志士達を全て捕らえて入獄させていたのです。彦斎が投獄されている一年の間に、大政奉還、鳥羽・伏見の戦いが起こり幕府側は朝敵となります。熊本藩では入獄させていた勤王派志士達を慌てて出獄させ、藩の役人に取り立てました。彦斎も書記に登用されますが、一年前には耳を貸そうともしなかった藩庁の重役たちの下で働く気になれず、これを拒否。藩庁は改めて彼を外交係に任命し、彼もこれに応じます。このころ長岡護美から改名を命ぜられ※高田(こうだ)源兵衛と名乗るようになります。               
有終館設立
外交役として各地を回っているうちに、彦斎は旧同士達が牛耳る新政府の方針が開国の方向へ進んでいる事を知り愕然とします。外国人が宮廷に出入りするなど、それは幕府時代より酷いものでした。旧同士であり、今や新政府要人である桂小五郎や三条実美に会い問い詰めるのですが、彼らも「攘夷は愚か、今は開国して外国の文明を吸収し富国強兵を計るべきだ」と完全に攘夷を捨てていたのです。彦斎は怒り嘆きます。「確かに今の日本の文明では外国に太刀打ち出来ぬ。しかし最初から負けを恐れて開国し夷人にへつらい何が富国強兵だ。今は攘夷断行し、たとえ負ける事があっても日本人全員が一丸となれば彼らも礼をもって接して来るだろう。開国はそれからでも遅くはない。」と必死で説得しますが議論は平行線に終わるのです。
何とか薩長中心の欧化主義政府を転覆させようと、古荘嘉門(元々は医者の出で、後に神風連に加わる)、竹添進一郎、植野虎平太ら同志達を江戸へ赴かせ、勝海舟ら旧幕臣との提携を図ろうとします。彦斎の策は奥羽諸藩が連合し、薩長にあたるというものでしたが、結局この連合策は勝には受け入れられませんでした。
そのころ熊本藩から帰国命令及び熊本藩飛び地である鶴崎兵隊長任命が下されます。彦斎はこれを受け鶴崎へ赴き、有終館という兵学校を設立。土地の儒学者毛利空桑を招いて兵士達に教授させたり、自らも国学を講義するなど、後進を育てる事に尽力します。
有終館解散〜投獄、護送
彦斎が有終館での教育に注力しているころ、新政府に不満をもつ奇兵隊の生き残り津守幹太郎、桑山誠一郎、大野省三の三人が鶴崎へやってきて、彦斎に奇兵隊の統括を頼みます。長州の内乱が気がかりではあったものの、彼は鶴崎の兵隊長という任についている以上これを断りました。新政府に対する攘夷派志士達の不満はさらに高まり、開国論者で新政府の参与となっている横井小楠や大村益次郎の暗殺、さらに山口では解散命令を出された奇兵隊がそれに反抗し、政庁を取り囲むという事件が発生。政庁は支藩の兵を差し向け討伐。両事件の黒幕とされる長州藩士大楽源太郎を捕らえようとしますが、大楽は脱藩し彦斎の元へ逃げ込みます。大楽は再起を図ろうと彦斎に有終館の兵を貸して欲しいと頼みますが、彦斎はこれを固辞。大楽の気持は分かるものの、藩から預かった兵を勝手に使うわけにはいかなかったのです。しかしその後、大楽ら脱走者を匿った疑い、また反新政府組織が大きな軍事力を持つことを恐れ熊本藩庁は彦斎を鶴崎兵隊長の任から解き、熊本へ帰るよう命じます。そしてこの時有終館も解散。彦斎を危険視した藩庁は彼に外出禁止令を出し、さらに大楽らを匿ったことが明白になると、再び逮捕投獄。
明治四年、ついに東京へ護送され何の取調べも無いまま裁判にかけられます。判事はかつての同志だった玉乃世履。玉乃は「新政府の方針に従い、共に働いてはくれまいか」と何度も説得を試みますが、彦斎は「この志は神国に誓ったものである。これをなぜ時勢によって曲げられよう。尊攘を夢見て共に戦い死んでいった仲間たちの事を思うと、そんな考えは到底およばない」と断固拒否。
「不容易陰謀相企候始末 不届至極に付庶民に下し斬罪申付」
明治四年十二月三日、「容易ならざる陰謀を企てた」として斬罪が言い渡されます。
河上彦斎は静かに、刑場へと消えていったのです。 
 

 

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