鬼と邪鬼

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諸説 / 鬼門1鬼門2羅刹天酒呑童子1酒呑童子2酒呑童子3天狗1天狗2夜叉山の神餓鬼鬼子鬼瓦節分1節分2節分3節分4邪鬼龍原寺三重塔大江山の鬼伝説1大江山の鬼伝説2桃太郎1桃太郎2桃太郎3鬼ヶ島鬼無里の伝説鬼女紅葉1紅葉2紅葉3鬼女紅葉考信濃の伝承牛頭天王牛頭天王縁起八面大王狛犬1狛犬2狛犬3白鬼女綱の鬼退治鬼の伝承民話天狗の伝承民話「黒塚」安達ヶ原の鬼婆鈴鹿御前一寸法師おむすびころりん案山子土蜘蛛坂上田村麻呂と清水寺縁起原体剣舞連(鬼剣舞)鬼剣舞の鬼ひとつのいのち考三鬼大権現鬼ごっこの起源なまはげの起源浅茅ヶ原の鬼婆鬼の昔話牛鬼百目鬼阿久留王伝説妖怪百談
「太平記」に見る「鬼」表記
 

雑学の世界・補考   

鬼1

日本の妖怪。民話や郷土信仰に登場する悪い物、恐ろしい物、強い物を象徴する存在である。「鬼」という言葉には「強い」「悪い」「怖い」「ものすごい」という意味もある(鬼 (曖昧さ回避)でも説明)。また、なまはげ(秋田)やパーントゥ(宮古島)など、各地で様々な呼び名があり、角があったり、みのを着ていたり、全身泥だらけなど姿も様々である。
様々な鬼
日本人が「鬼」を一般的に連想する姿は、頭に角(二本角と一本角のものに大別される)と巻き毛の頭髪を具え、口に牙を有し、指に鋭い爪が生え、虎の毛皮の褌を腰に纏い、表面に突起のある金棒を持った大男である。また、肌の色によって「赤鬼」「青鬼」「緑鬼」などと呼称される。このように、鬼が牛の角と体、虎の牙と爪を持ち、虎の毛皮を身に付けているには、丑の方と寅の方の間の方角(艮:うしとら)を鬼門と呼ぶことによるもので、平安時代に確立したものである。なお、現在の鬼の姿は仏教の羅刹が混入したものである。
また伝説の酒呑童子は赤毛で角があり、髭も髪も眉毛もつながっており、手足は熊の手のようである。鬼は元々はこのような定まった姿は持っておらず、後述する語源の「おぬ(隠)」の通り姿の見えないこともあった。まれには、見目麗しい異性の姿で現れて若い男や女を誘うことがある。
「悪い物」「恐ろしい物」の代名詞として利用されることの多い鬼ではあるが、鳥取県伯耆町(旧日野郡溝口町)では、鬼が村を守ったとして「強い物」とし崇めている。
このように、日本の鬼は「悪」から「神」までの非常に多様な現れ方をしており、特定のイメージでかたることは困難である。
鬼の学説
文芸評論家の馬場あき子は5種類に分類している。
1.民俗学上の鬼で祖霊や地霊。
2.山岳宗教系の鬼、山伏系の鬼、例、天狗。
3.仏教系の鬼、邪鬼、夜叉、羅刹。
4.人鬼系の鬼、盗賊や凶悪な無用者。
5.怨恨や憤怒によって鬼に変身の変身譚系の鬼。
馬場によれば、元々は死霊を意味する中国の鬼(キ)が6世紀後半に日本に入り、日本固有のオニと重なり鬼になったのだという。「オニ」とは祖霊、地霊であり「目1つ」の姿で現されており、片目という神の印を帯びた神の眷属とみる見方や「一つ目」を山神の姿とする説(五来重)もある。いずれにせよ一つ目の鬼は死霊と言うより民族的な神の姿を彷彿とさせる。また日本書紀にはまつろわぬ「邪しき神」を「邪しき鬼(もの)」としており得体の知れぬ「カミ」や「モノ」が鬼として観念されている。説話の人を食う凶暴な鬼のイメージは「カミ」、「モノ」から仏教の獄鬼、怪獣、妖怪など想像上の変形から影響を受け成立していったと言える。平安の都人が闇に感じていた恐怖がどのようなものかが窺える。
また、大東文化大学講師の岡部隆志によれば、鬼とは安定したこちらの世界を侵犯する異界の存在だという。鬼のイメージが多様なのは、社会やその時代によって異界のイメージが多様であるからで、まつろわぬ反逆者であったり法を犯す反逆者であり、山に住む異界の住人であれば鍛冶屋のような職能者も鬼と呼ばれ、異界を幻想とたとえれば人の怨霊、地獄の羅刹、夜叉、山の妖怪など際限なく鬼のイメージは広がるとしている。
平安から中世の説話に登場する多くの鬼は怨霊の化身、人を食べる恐ろしい鬼であり、有名な鬼である大江山の酒呑童子は都から姫たちをさらって食べていた。『伊勢物語』第六段に夜女をつれて逃げる途中に鬼に女を一口で食べられる話がありここから危難にあうことを「鬼一口」と呼ぶようになるが、岡部隆志はこれを、戦乱や災害、飢饉などの社会不安の中で頻出する人の死や行方不明を、異界がこの世に現出する現象として解釈したものであり、人の体が消えていくことのリアルな実演であり、この世に現れた鬼が演じてしまうものと推測している。また岡部は、鬼は異界の来訪者であり、人を向こう側の世界に拉致する悪魔であり、昔話のように福を残して去る神ともしている(例、一寸法師、瘤取り爺さんの鬼)。異界と幻想される地名として大江山が著名であるが、それは京都の都として異界の山であったためであり、異界としての山に接する地域には鬼伝承は多い。
国文学者・阿部正路、歴史学者・松本新八郎、評論家・馬場あき子が指摘するように、鬼の形態の歴史を辿れば、初期の鬼というのは皆女性の形であり『源氏物語』に登場する鬼とは怨霊の事だが、渡辺綱の一条戻橋に出てくるように、初めのころは女性の形で出てくる。 また鬼の一つ、茨木童子の鬼などは説話中、切られた自分の腕を取り返すために女に化け渡辺綱のところへ来て「むすこの片腕があるだろう」と言い、それを見せてくれと言うなり奪い取るくだりがあり、そこから女の本質は鬼であり、また母親が持っている、自分の子供を戦争で傷つけたものに対する憎悪のようなものが読み取れ、その怖さに合理性がかいま見えてくる。
鬼の語源
「おに」の語はおぬ(隠)が転じたもので、元来は姿の見えないもの、この世ならざるものであることを意味した。そこから人の力を超えたものの意となり、後に、人に災いをもたらす伝説上のヒューマノイドのイメージが定着した。さらに、陰陽思想や浄土思想と習合し、地獄における閻魔大王配下の獄卒であるとされた。
古くは、「おに」と読む以前に「もの」と読んでいた。平安時代末期には「おに」の読みにとって代わられた「もの」だが、奈良時代の『仏足石歌』では、「四つの蛇(へみ)、五つのモノ、〜」とあり、用例が見られ(仏足跡歌碑#与都乃閇美伊都々乃毛乃を参照)、『源氏物語』帚木には、「モノにおそはるる心地して〜」とある。これらの「モノ」は怨恨を持った霊=怨霊であり、邪悪な意味で用いられる(単なる死霊ではなく、祟る霊。)。
なお、大野晋は独自の研究として、「モノ」はタミル語由来であるという仮説を唱えている。タミル語における「鬼」も多くは女性がなるものと捉えられた。大野晋は、これらのことから、中国の道教が伝わって広まる以前の弥生時代から南インドにおける鬼(モノ)を恐れる観念=御霊信仰が伝わり、由来となったと指摘している。
説話文学に見られる鬼
百鬼夜行 / 平安時代に都の中を歩いてゆくとされた化け物行列のことである。『宇治拾遺物語』巻一の十七で修行僧が龍泉寺という寺で、百鬼夜行に遭った話が伝わっている。また、『今昔物語集』にも巻第十四に若者が百鬼夜行に遭ったという話が伝わっている。当時、百鬼夜行を目撃すると死んだり病気になるなどと恐れられていたが、この二つの話はどちらも信仰が身を助けたという話になっている。
赤鬼・青鬼 / 『宇治拾遺物語』巻一には、瘤取り爺の説話が所収されているが、爺が目撃した鬼として、赤い者や青い者、目が一つの者、口が無い者など様々な異形な者がいたとされている。
藤原千方の四鬼 / 藤原千方に使役されたと言われる4人の鬼。
羅刹国 / 『大唐西域記』11巻 僧伽羅国(シンガラ)の僧伽羅傳説の女羅刹国と似た『今昔物語集』5巻に登場する僧伽羅が漂着した女性の鬼しか存在しない島。後に日本の南方あるいは東方に存在すると信じられるようになった。
仏教の鬼
生前に貪欲だった者は、死後に餓鬼道に落ち、餓鬼になるとされている。
また、地獄で閻魔の配下として、鬼が獄卒の役を務めているとされる。
心の中にすむ3匹の鬼
仏教には、青鬼、赤鬼、黒鬼が出てきます。そんなのいるわけないだろと思う人もいるでしょう。ところが、この青鬼、赤鬼、黒鬼は、私たちの心の中に住んでいるのです。
青鬼とは、限りのない私たちの欲の心です。なければないで欲しがり、あればあったで欲しがる欲の心が青鬼です。ちょうど、海は深ければ深いほど、青さをましていきますが、その海と同じように、私たちの欲には際限がありません。自分の欲のためには、どんな恐ろしいことでも思ってしまうので、まさに鬼です。
赤鬼とは、その欲が妨げられるとカッと燃え上がる怒りの心です。腹が立つと親でも家族でも、恩人でも心の中で焼き殺してしまいます。
黒鬼とは、恨みや妬みの心。
この3匹の鬼などおとぎ話といえる人はいるでしょうか。仏教はその鬼の姿を映し出し、その鬼がどうしたら救われるのかを明らかにした教えです。 
鬼と人
人に化けて、人を襲う鬼の話が伝わる一方で、憎しみや嫉妬の念が満ちて人が鬼に変化したとする話もある。代表的な例としては、能の「鉄輪」や「紅葉狩」に、嫉妬心から鬼と化した女性の話が伝わっている。「般若の面」はその典型である。
『梁塵秘抄』(平安時代末期成立)には、女が男を呪った歌として、「〜角三つ生ひたる鬼になれ〜」と記されており、この事から12世紀末時点で、人を呪いで鬼にしようとした事、また、頭に角が生えた鬼といったイメージが確立していた事が分かる。これは自発的に鬼になる事例とは異なり、相手を鬼にしようとした例といえる。
修験道の役行者の使い鬼である前鬼・後鬼は、共にその子孫が人間として、その名の村を構えている。仏教でも似た例はあり、比叡山の八瀬の村の伝承には、村の祖先は「我がたつ杣(そま)」の始めに、伝教大師に使われた鬼の後裔であると称している(八瀬童子も参照)。このように、宗教界の偉人の使い鬼を先祖とする例が散見される。折口信夫の解釈では、八瀬の伝承は、本来、鬼ではなく、神であり、仏教を受け入れた事による変化としている。
珍しい事例として、『今昔物語集』巻二十第七に記された話には、藤原明子の物の怪を祓った縁から親しく交際するようになった大和国葛木金剛山の聖(ひじり=僧侶、信濃国の山中出身で肌は赤銅色)が、のちに暗殺者の追手を逃れ、崖から転落しながらも生き延び、再会した時に「聖の道を捨て、恋愛の鬼となった」と語る場面がある。山賊のような凶悪な存在ではないが、朝廷で無用者扱いを受けて、鬼(または天狗)扱いをされ、聖自身も恋愛の鬼となったと悟る。鬼であると自他共に認めてしまうが、藤原明子が没する晩年まで交際を続けた。朝廷にとって不都合な存在を鬼とする一事例といえる話である。
中国における「鬼」
中国で鬼(グウェイ、ピンイン : guǐ)という場合、死霊、死者の霊魂のことを指す。日本で言う「幽霊」の方がニュアンスとして近い(中国語版ウィキペディアの記事『鬼』は、日本語版『幽霊』にリンクされている)。中国では、直接鬼と呼ぶのはタブーであることから、婉曲して好兄弟ともいう。また日本にもこの思想が入っており、人が死ぬことを指して「鬼籍に入る」などと言う言い方がある他、元来の意味合いと混交したイメージでも捉えられている。
また他国の人種を蔑称する際「鬼子(広東語:鬼佬)」といい、日本人を最大級の蔑称として日本鬼子を使用する。2010年の尖閣諸島中国漁船衝突事件を受けて中国で発生したデモで、多く日本人が目にした言葉であるが、日本人にとって「鬼」=「強い力」を意味するなど肯定的な意味に捉えることもできるため、肝心の日本人にはいまひとつ侮蔑の意が伝わらなかった。  
 
鬼2

はじめに
「鬼」とは…“その得たいが知れぬだけに身がすくみ、縮み上がるほど実(げ)に恐ろしきモノ、化け物、妖怪の類”と、ほとんどの人々が考えていると思います。誰一人として、本物の「鬼」など見たこともないのにです。
往昔から、“何か分らぬが、とてもおぞましきモノ。角や牙を生やし、金棒を振り回しては、人々を恐怖のどん底に陥れる、赤や青色の皮膚をした怪物”なる言い伝えによる先入観から、「鬼」=「化け物」のイメージを膨らませるだけ膨らませてしまっているのです。
筆者は、石見国(島根県)「鬼村」(おにむら)の生まれです。ご多聞に漏れず、筆者自身も、「鬼」=「おぞましきモノ」なるイメージから、<何故、「鬼村」などという恐ろしい所に生まれたのだろう>と、幼少の頃から思い悩み続けてきました。
「鬼」は悪者なり≠ニ、洗脳され続けてきたため、「鬼」の村=「鬼村」などという恐ろしい地名に嫌悪感を抱き続けてきたことから、この地を選んだ先祖を恨んだものです。 それゆえに、つい最近まで、出身地が「鬼村」であることを語れずにいました。「鬼の村」だなんて…、このものすごい地名≠ェ、とてもとても恥ずかしかったのです。
その理由はといえば… 前出のごとく、「鬼」など見たこともないのに、戦勝者による鬼は悪しき化け物である≠ニのキャッチフレーズを、鵜呑みにしてきたからにほかありません。
三世紀に「九州王朝」に敗れ、七世紀には「近畿王朝」に敗れと、敗れに敗れ、まさに敗者となった「鬼」…。
歴史は、いつも戦勝者側ストーリーであることから、「鬼」の「実像部分」は、ほとんどが抹殺されてしまい、「鬼」は化け物・妖怪・悪者である≠ニの「虚像部分」のみが、一,八〇〇年もの間、全国津々浦々へ喧伝され続けてきたことから、「鬼」に対するイメージは今もって劣悪極まりないのです。
「鬼」は、本当に、人々に乱暴を働き、子供までをも捕っては喰らう妖怪≠ネのでしょうか?ここまでトコトン嫌われる理由は、一体何なのでしょう?
「鬼」は、本当に化け物なのか?
「鬼」? ほとんどの人々が、化け物・妖怪の類と信じて止まない、あの オニは、赤・青色の皮膚をし、金棒を振り回しては乱暴狼藉を働いた挙句、子供を捕っては喰らい、人々を苦しめる悪しきモノ と言われるほど、如何とも致し難き「悪者」なのでしょうか?
答えは「ノー」です!
筆者は、「鬼村」(島根県大田市大屋町鬼村)の生まれであるため、幼少の頃から、〈鬼村だことのワーイワイ、ざいごべ、ざいごべェ〉(ざいごべ=在郷べえ) つまり、「鬼村だなんて、ド田舎モン」とからかわれたものです。
それから五十年を経た今でも〈すごい地名ですねえ、ものすごい所なんでしょ?〉(何がものすごいのか分かりませんが…)なる言葉が返ってきます。
そして、〈深山幽谷、それこそ「鬼」でもいそうな所に住んでいるんだこの人は…〉というような眼差しで見られるのが常なのです。
内心ややムッとしながら、〈そりゃあ、鬼村だなんて、かなりインパクトが強烈で、変わった地名ではありますがねえ…〉〈そういうあなたは、「鬼」の正体をご存知なのでしょうか?〉、〈「鬼」をごらんになったことが、おありなのですか?〉などと思いつつです。
このようなコメントは、十人が十人、いや百人が百人の人々が、「鬼」など見たことも無いのに、『桃太郎の鬼退治』『大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)』等々の伝承話、あるいは、『古事記』『日本書紀』『上記(うえつふみ)』等々の書物に見える、鬼は、化け物、妖怪であるとの記述から、「鬼」とは、なにやら不気味で得体の知れぬおぞましき怪物、という思い込みによるものであると思います。
人類が、宇宙へと旅立つことが可能となった二十一世紀の世となった現代でも、目には見えぬ人間以上の力を持つと恐れられ、人に害を与える怪物であり、得体の知れぬ実におぞましきものの代表格に挙げられている「鬼」…。
全国津々浦々、このように「鬼」というだけで、だれもが眉をひそめるほどに忌み嫌い、挙句の果てに、鬼婆(おにばば)鬼畜(きちく) 鬼門(きもん) 天邪鬼(あまのじゃく) 等々、「鬼」への悪しき表現は枚挙にいとまが無いほどです。
『古事記』には― 荒ぶる神=乱暴する鬼(かみ)まつろわぬ(服従せぬ)人等 なる記述があり、『上記』にも― 禍鬼(まがかみ)荒ぶる鬼(かみ)=乱暴をはたらく鬼(かみ) 子供を捕っては食べる鬼(かみ)と、散々ですが、悪いながらも「鬼」を「かみ」と読ませていることから、「鬼」=「神」なる時代があったと考えるのです。
また、『広辞苑』においては― 天つ神に対して、地上などの悪神。邪神。恐ろしい形をして、人にたたりする怪物。もののけ。と、まるで講釈師のごとく、見てきたかのような「鬼」への罵詈雑言です。
どの書も、よくぞここまで、「鬼」=「おぞましき化け物」として描いているものです。
往古から、これら異常とも思える「鬼」を誹謗中傷する表現が、「鬼」=「悪者」として人々の心の中に住みつき、現在も君臨し続けているという訳です。
だからこそ、このような悪しきモノ(鬼)など生かしておく わけにはいかぬ! よって、我々は鬼退治をする、又は、したのだ≠ニ、戦勝者(「九州王朝」・「近畿王朝」)は躍起になって、大義名分を振りかざし続けてきたのです!
「鬼」のたとえは、このような悪しき表現の多い中、京都、兵庫、東北地方の一部では、「鬼」は「善きモノ」としても伝承されています。
節分ともなれば、全国のほとんどの地で、[福は内、鬼は外]と「鬼」を追い払う行事が多い中、かの地では[福は内、鬼も内]であったり、鬼払いのための豆まきはしない≠ニ聞きます。
海士なる「鬼一族」は、オロチ討伐後、その勢力拡大のため全 国の鉱物産出地を侵略していったのではないでしょうか? 
ヤマタノオロチから奪取した、高文化の「ふいご」を用いるという精錬技術をもってすれば、いかなる鉱物も加工可能です。
祭器・宝器をはじめ、太刀・槍・弓・鎧(よろい)・兜(かぶと)などの武器・武具類、鍬・鎌・鋤(すき)等の農具類、包丁・匙(さじ)等の調理器具製造など、造作も無いことであったでしょう。
この「鬼」と「ふいご」の関係を示す「絵」なるものが存在します。
岩手県立博物館所有のふいごを使い、喜々として製錬技術を人間に伝授している鬼達の絵≠ナす。中世に描かれたものとのことですが、いずれにせよ、妖怪の顔をした「鬼」が、にこやかに笑みを浮かべながら、人間と共に、ふいごの把手(はしゅ)を押したり引いたりしながら、精錬作業をしている絵なのです。実に楽しそうなのです!
これは、「鬼一族」がふいごを使うことによる能率性の高い製錬技術を、侵略地の人々に伝授しているところではないでしょう か? この絵の様子では、「鬼」と人間との関係がさほど悪そうに見えないことから、かの地での「鬼」は、あまり忌み嫌われる存在ではなかったと思われます。
全国には、この「絵」に限らず、「鬼と鉱物 」との関係を伺い知ることのできる、諸々の事物が有形無形で存在すると思われます。
では、この「鬼」の正体とは、一体何なのか?です。残念ながら、今日にいたるまで、その正体を知る人はほとんどいません。
「鬼」とは、ほとんどの人々が化け物・妖怪と同列に考えていますが、筆者は、「鬼=人=神(死後、神として祀られた人)」と考えることから、なぜこのように、角や牙を生やし、金棒を振り回しては乱暴狼藉の限りを尽くし、人を捕っては喰らう実(げ)に恐ろしきものの象徴≠ニされてしまったのか…。納得がいかないのです。
また、「禍鬼(まがかみ)」「悪鬼(わるがみ)」などと、「鬼」を「神(かみ)」と呼びつつも、乱暴、粗暴、粗悪、卑劣、下品≠ニ、ありとあらゆる誹謗中傷的な表現をされるのは何故なのか? 裏を返せば(逆転の発想をすれば)、「鬼」は、かつて神(鬼神)と呼ばれた時代があり、人々から崇め敬い慕われ、信望は絶大であった! からこそ、「鬼」をワルモノに仕立て上げねば、 戦勝者側の立場が成り立たなかったから≠ナあると推察します。
だからこそ、「鬼」は、如何とも致し難き悪しきモノなるゆえ、正義の 味方である戦勝者側はこれを討伐する、或いはしたのだ≠ニ、躍起になって「大義名分」を振りかざし、「鬼」一掃作戦を遂行してきたものと考えます。
この戦勝者側の「大儀」を成立させるために、1800年もの長きに渡って、「鬼」は悪神であり、また、恐ろしい形をしたもののけであると喧伝し続け、そのイメージ作りに勤しんだのです。
その証拠に、二十一世紀となった今日でも、これほどまでに「鬼」なるもののイメージが劣悪なのは、戦勝者側の執拗なまでの作為的喧伝が、全国津々浦々に浸透しているからにほかありません。
敗者「鬼」と 戦勝者「九州王朝」「近畿王朝」
ここでいう敗者、「鬼」とはなんぞや? また、戦勝者とはなんぞや?です。
まず、敗者「鬼」ですが― 島根県大田市大屋町鬼村「大年神社(おおどしじんじゃ)」の祭神「大年神(おおどしがみ)」と、かつて、同村に存在した「八代姫神社(やじろひめじんじゃ)」の祭神「八代姫(やじろひめ)」を元祖とする「鬼一族」のことであると考えます。つまり、「鬼」とは世にいうバケモノではなく、 「鬼」なる地に拠点を置く一族の名称、 「鬼一族」をいうのです!
「鬼」地出身である神々の功績など、認めたくないのが戦勝者です。その功績が大きければ大きいほど、戦勝者にとっては、目の上のタンコブであることから、「鬼」は恐ろしき化け物なり≠ニ吹聴し続けてきました。つまりは、長年に渡る執拗なまでの「鬼排斥運動」=鬼に対する劣悪なイメージ作り≠ノ勤しんだのです。その結果が、前述のごとく、「鬼=化け物。妖怪。もののけ」の図式成立にこぎ着けたという訳です!
ここまで「鬼」を嫌われモノに仕立てあげれば、戦勝者の思うツボです。
『史観の変遷』の著者、木幡吹月氏によれば― 大和朝廷でつくられた『古事記』『日本書記』は、『出雲神話』の良いところは黙殺したうえに、出雲国土経営の祖神、スサノヲノミコトをアマテラスオオミカミの弟にでっちあげ、国譲りを合理化したり、出雲国を黄泉国(よみのくに。死後魂が行くという所)と称して逆臣追放の地としている勝手な話である。これぞ、大和朝廷の御用歴史学者の筆先によるフィクションであると、かなり手厳しい批判です。
筆者も同感ですが…。
そこで、実(げ)に憎き「石見王朝」「出雲王朝」の主=「鬼」は、人に害を与える怪物である≠ニ、国譲り後(西暦200年頃)、全国津々浦々に喧伝しまくったのです! かくして「鬼」は、長きにわたり、 悪役総代表として君臨し続けるという訳でありまして…。もっとも、徹底的な「鬼」退治は、701年から始まる「近畿王朝」になってからのことですから、これ以後かもしれませんが…。
「石見神楽」
スサノヲとは一体何者なのでしょうか?また、どこからやって来たのでしょうか?
スサノヲが、出雲市「産(うみ)神社」の生まれであるとか、大陸からの渡来人であるなどと諸説ありますが、筆者は、石見「鬼」(現「鬼村」)出身の「鬼一族」であると考えます。
というのは、スサノヲの出自を物語るものに、「石見神楽(いわみかぐら)」があります。
( 「石見神楽」 / 八つの頭を持つ、悪しき大蛇ヤマタノオロチを退治するという、スサノヲノミコトの戦勝者サクセスストーリーである。島根県石見地方では、特に盛んに演じられる。「石見神楽」の元祖「大屋神楽社中」による、島根県大田市大屋町「大屋姫神社」での奉納神楽。)
中国地方では、最も有名な神楽の一つで、並み居る神々の中でも、スーパーヒーローことスサノヲを語るのに最も相応しい話といえば、なんといっても、ヤマタノオロチ退治を題材にしたこの「石見神楽」以外には無いでしょう。 
そもそも「石見神楽」とは… スサノヲノミコトが、乱暴狼藉を働き人々を苦しめる、八つの頭を持つ悪しき「八岐大蛇(ヤマタノオロチ)」を退治する≠ニいう内容の勇壮な神楽です。つまり、ヤマタノオロチを敗者とするスサノヲ(鬼一族)側の 戦勝者サクセスストーリーをいうのです。
では、ここに登場する「石見(いわみ)」「石見神楽(いわみかぐら)」とは一体何なのでしょうか?
「石見」… 現在は、島根県西部地方を指しますが、そもそもそもは、同県大田市大屋町鬼(おに)村(むら)にある「鬼岩(おにいわ)」(鬼石)から起こる地名であると考えます。()内に、「鬼石(おにいわ)」と書くのは、大きな石には、神が宿る≠ニする、縄文時代以前にもさかのぼる巨石信仰のシンボルのことで、つまり、この地に拠を構える「鬼一族」としていた、「鬼」(地名)の「大石(おおいわ)」のことなのです。
「鬼岩(おにいわ)」(=「鬼石(おにいは)」)
「鬼一族」の憑代(よりしろ)である。縄文時代より続く巨石信仰のシンボル。島根県大田市大屋町鬼村 御崎(みさき)
白川静著『字訓』によれば― 石、岩、巌、磐も同じ。「石(いは)」は、特に大きな石を言うことが多く、『万葉集』をはじめ、「石」はもともと大石をいう字であり、古くは信仰の対象とされたものであると記されていることから、現「鬼岩」は、元は「鬼石(おにいは)」であったと考えるのです。
そして、この鬼石(おにいわ)を見(み)る≠アとが、鬼石を崇(あが)める≠ニいう意味であることから、「石見(いわみ)」なる地名は、この「鬼石(おにいわ)」より起こった!と考える理由なのです。
『記・紀』には見えませんが、縄文時代には、大きな石には神が宿るとする巨石信仰≠ェありました。「鬼一族」は、縄文時代から、この「鬼石(おにいわ)」を憑代(よりしろ)として崇め敬っていたに違いありません。今も、地元の人々によって大切に守られており、「巨石信仰」が色濃く残っています。近年、島根県天然記念物に指定されました。
さて、「鬼一族」本貫地と思われる「鬼村」ですが… 今から、およそ3000前の縄文時代、日本に「王朝」なる確固たるものが存在したかは定かではありませんが、それに近い「長(おさ)」を中心とした 「王国」らしきものは存在したと考えられます。はじめは、血縁関係者2、30人ほどの大家族に始まり、やがては血縁関係者以外をも含む大所帯となり、これらの集団がいくつも集まり、まとまったものが「ムラ」という形になりました。そして、「ムラ」→「邑(むら)」→「県(あがた)」→「国(こく)」→「郡(こほり)」→「評(ひょう)」の単位に変化していきました。(七世紀末まで「九州王朝」で使われていた「評」の存在は、奈良県の藤原京、伊場から出土した木簡から証明されています)
いつごろから「鬼」地に「村」が付加されたのか定かではありませんが、『神国島根』に― 「宇摩志摩遅尊(うましまぢのみこと)」は、天磐船に乗り、丹後を経て石見の鶴降山に舞い降り、忍原(おしはら)、於爾(お に)、曾保理(そほり)の兇賊を退治した後、八百山の麓「物部神社」(石見国)の地にやって来たとあります。 
ここに見える「於爾(おに)」とは、石見の「鬼」(現「鬼村」)のことです。また、200年前の手描きの地図にも、「鬼」としか記されていないことなどから、往昔よりこの「鬼村」は、「鬼」そのものの地であった に違いありません。
全国には、「鬼一族」の足跡と思われる、鬼崎、鬼木(おんのき)、鬼童(おんどう)、鬼頭(おにがと)、鬼峠、鬼袋、鬼前等々、数えきれないほどの「鬼」地名が存在しますが、「鬼」そのものの村=「鬼村」は、全国広しといえども、石見のここだけなのです!
鬼村には、大年(おおどし)(小字)大年(おおどし)(穂ノ木)の地に、「大年神社(おおどしじんじゃ)」が鎮座します。祭神は、この地の開祖「大年神(おおどしがみ)」(以下オオドシガミ)です。()内の「穂ノ木(ほのき)」ですが、小字(こあざ)の最小単位をいいます。(「穂ノ木」に関しては、山口県周防大島町にお住まいの郷土史研究家、藤谷和彦氏に御教授いただきました)
「大年(おおどし)神社」祭神「大年神(おおどしがみ)」
「鬼一族」本貫地に鎮座。「大年神」は、この地「大年」の開祖であり、「鬼一族」の元祖である。「石見神楽」を最初に舞った社で、祭礼日が4月19日であることから、この日が、ヤマタノオロチ退治記念日かもしれない。島根県大田市大屋町鬼村大年(おおどし)
鬼村は、この社を中心に、「鬼村上(おにむらかみ)」と「鬼村下(おにむらしも)」とに二分されます。「鬼村上」は、「村」という単位を除けば「鬼上(おにかみ)」です。「上(かみ)」は、「神」の借字であることから、「村」という戸数単位が付加される以前は、「鬼上(おにかみ)」=「鬼神(おにかみ)」だったはずです。本来、神とは、「その地の長(おさ)が死んで祀られた人」、つまり、「地名+長(おさ)名」をいうことから、「鬼」(地名)の長=「鬼神」です!
よって、諸々の事物に現れる、「鬼神(おにがみ)」の大本は、ここ「鬼」地の「神」をいうに違いありません! 鬼村は、「大年神社」がすべての中心で、地番も [鬼村一番地]とこの社から始まります。
『石見史』に、鬼村に「鬼加美社(おにかみしゃ)」ありという記述があります。
「鬼加美社(おにかみしゃ)」の「加美」は、「神」の借字であることから、「鬼神社」です!これらの事柄から、「鬼神」を祭神とする「鬼神社」も、「大年神社」の地に存在していたと思うのです。「大年神」を祀る「大年神社」周辺を、「鬼(村)上」と呼ぶことから、「鬼上(おにかみ)」=「鬼神」=「大年神」という図式ではなかったでしょうか。
『神社名鑑』には― 大年の開祖は「大年神」であり、八代(やじろ。鬼村の小字地名)の「八代姫(やじろひめ)」とは夫婦であるとも記されています。
オオドシガミが、鬼村「大年」の開祖であることから、夫婦であるこの二人が、「鬼」地の一族=「鬼一族」の元祖であると考えるのです。
そして、後に登場する、「大国主命(おおぐにぬしのみこと)」(以下オオグニヌシ)「五十猛命(いそたけるのみこと)」(以下イソタケル)「饒速日命(にぎはやひのみこと)」(以下ニギハヤヒ)「大屋津彦命(おおやつひこのみこと)」(以下オオヤツヒコ)「大屋津姫命(おおやつひめのみこと)」(以下オオヤツヒメ)「抓津姫命(つまづひめのみこと)」(以下ツマヅヒメ)「宇摩志摩遅尊(うましまぢのみこと)」(以下ウマシマヂ)等々の、そうそうたる神々はすべて「鬼一族」なのです!
話を「石見神楽」に戻しましょう。
石見国「鬼一族」の子孫、スサノヲノミコトのヤマタノオロチ退治の舞台は、出雲国(現奥出雲町)であるのにもかかわらず、「石見神楽(いわみかぐら)」と呼びます。  
出雲での戦いであれば、当然のことながらその地の名を取り「出雲神楽」と称すべきではないでしょうか? 「白村江(はくすきえ)の戦い」「川中島の合戦」「桶狭間(おけはざま)の戦い」のように…。ところが、イワミカグラなのです!このことは何を意味するのでしょうか? これは、冒頭で述べた戦勝者サクセスストーリーに由来するのです。
ここでの戦勝者とは、石見の「鬼一族」スサノヲであり、敗者はヤマタノオロチをいいます。
オロチ退治の舞台が出雲でありながら、「石見神楽」と呼ぶのは、オロチ討伐後、スサノヲがその先祖オオドシガミに戦勝報告 をし、石見「鬼」地の「大年神社」で、「戦勝記念の舞い」である「神楽」を披露したことに始まるのです。つまり、スサノヲを大将とする石見の「鬼」が、オロチ討伐を元祖「大年神」に報告し、「大年神社」で、戦勝記念に披露した舞が「石見神楽」の起源である! という訳です。
「 石見(地名)」「石見神楽」は、本貫地「鬼」以外の地でも健在です。
というのは、「石見」の起点である「鬼石(おにいわ)」を憑代(よりしろ)とする石見の「鬼」は、全国の鉱物資源を求めて各地を侵略したことから、これらの地に「石見」「石見神楽」を持ち込んでいるからです。
「鬼一族」の侵入を裏付ける、鳥取県:岩美(石見)町、上石見、中石見、下石見、石見川、「石見神社」 / 岡山県:石見町 / 奈良県:石見 等々の「石見」名称をはじめ、「備後・備中」でも盛んに演じら れる「石見神楽」がそれを物語っています。これらは、波紋現象を見るがごとく、中心地である「鬼」本貫地よりも、外に広がる波紋(「鬼」侵略地)に色濃く残っているのです。
「鬼」にちなむ地名
全国に、「鬼」と名の付く地名は多い中、「鬼一族」発祥の地、島根県大田市大屋町「鬼村(おにむら)」は、村なる戸数単位を除けば「鬼」そのものの地です。前述の通り、「鬼」のすべては、「鬼神」こと「大年神」を祖とする「鬼神社」・「大年神社」より始まります。
というのは、
1. 『石見風土記』に、鬼村に「鬼加美社(おにかみしゃ)」あり と記されていることから、「鬼神社」も、この地に存在したと考えられること。(現存せず) (「加美」は、「神」の借字であることから、「鬼加美社」=「鬼神社」)
2. 「地名から起こる長(おさ)名=神」が最も古いスタイルであることから、「鬼」地の長が死に、「神」として祀られた のがこの「鬼神」である。「かみ」は、「加美」、「上」共に「神」の借字であることから、「大年神社」を中心とする地区名「鬼村上(おにむらかみ)」は、「村」なる単位を除くと、「鬼上(おにかみ)」=「鬼神(おにかみ)」と呼ばれる所以の地である。よって、「鬼神」を祀る「鬼神社」も、「大年神社」と同地に存在したと考えられること。
3. 鬼村の地番は、「大年(おおどし)」(小字)、「大年(おおどし)」(穂ノ木)地にある「大年神社」が[鬼村一番地]である ことから、村の中心はこの社であること。
と、以上三点の事柄から、大年の「鬼神社」・「大年神社」が「鬼」のすべての中心であり、二社の祭神は、共に「鬼神」こと「大年神」であると思うのです。
「鬼神」=「大年神」の図式。 
古田武彦氏によれば、日本歴代王朝の源は「出雲王朝」であるとのことですので、「出雲王朝」以前には「石見王朝」が存在したと考えます。つまり、「鬼」こそは、日本歴代王朝の起点であるという訳です!
何故? いかなる理由からか?ですが…「石見王朝」・「出雲王朝」の天王スサノヲ・オオグニヌシ=「鬼一族」なる図式と考える筆者にとって、「鬼」に係わる諸外国や日本の書物類をはじめ、全国の地名 ・神社名・祭神名・姓等が、それを語っているから≠ノほかありません。
『魏志倭人伝』には、卑弥呼(ひみか)は、鬼道に事(つか)えた。卑弥呼の支配国に三十三ヶ国あり。国内に「鬼国」、「鬼奴国」…ありと記されています。この「鬼道」「鬼国」「鬼奴国」とは、「鬼一族」に関わる名称ではないでしょうか? 「鬼道」は、中国の宗教的なものでは?≠ニ記された書物も ありますが、本当のところはわかりません。また、「鬼国(きこく)」・「鬼奴国(「きどこく」、または「きぬこく」)」がどこであるのか、探し当てた者もいませんが、ヒミカ以前がアマテラス、それ以前がスサノヲ・オオグニヌシであることから、「鬼国」=鬼村、「奴」は、「あたり」という意であることから、「鬼奴国」=石見を指しているのではないでしょうか?
つまり、『魏志倭人伝』は、三世紀における「出雲王朝」→「九州王朝」の変遷から、「鬼」(鬼村)地も「石見」も、ヒミカ(倭人)の支配下になってしまった≠アとをいっているのです。ヒミカの本拠地「筑紫(ちくし)」は、かつて、「鬼一族」スサノヲ・オオグニヌシの支配地でありました。
筑紫には、それを物語るかのように、「鬼」にちなむ、鬼木(おんのき)、鬼古賀、鬼津、鬼前、鬼塚、等々の地名が存在し、スサノヲを祀る「須佐神社」が、福岡県に は、嘉穂郡:36社/三瀦郡:30社/田川郡:21社/宗像郡:27社にものぼり、北部九州における、かつての「荒ぶる神スサノヲ」の勢いを表す数の多さです。
これらは、何か来歴(いわれ)があってこその地名・神社数であり、何の脈絡も無きところに突然ヒョッコリ現れるといったものではないでしょう。
わずかな例ですが、島根県出雲市にも「鬼一族」にちなむ、「大年(おおどし)神社」、大年(おおどし)(地名)、「鬼村(おにむら・きむら)」(姓)をはじめ、全国には、鬼沼、鬼神谷、鬼門崎、鬼入道山、「大国(おおぐに)」(姓)、「荒木(あらき)」(「荒鬼」)(地名・姓)、「島根」(地名・姓)等々が存在することから、「鬼一族」が、石見から出雲、筑紫、 全国各地へと侵略していった足跡が伺えます。 
 
鬼3 雑説

鬼とは
1.どの人間の心にも、必ずこれが潜んでいると思う。
2.日本の悪魔。
悪魔と言うよりは、精霊や魔物の方が適切なんですけどね。英語で「節分」を説明するとき、ちょっと考えて、evilとしました。 鬼はdemonでそ。まあ一応フォローすると、節分の鬼なら災厄、害悪、悪意って意味では、あながち間違いじゃないかなぁと。ちなみにdevilだと鬼は連想しづらい。 デーモンってギリシャ語ではダイモーンだけど「守護霊」という意味もあるよ。ちなみに人の名前にもなるよ。デーモン=ヒルとか。 鬼!悪魔!ちひろ!
3.豆を投げつけて撃退する。
成田山の節分では「福は内」しか言わない。不動明王の御利益で鬼は悪いことが出来ないからだとか。 鬼頭さんや鬼山さんが多い地区では「福は内」「鬼も内」という掛け声もあるらしい。
鬼が農村開拓に貢献した伝承を持つ地域や、鬼を祀り神としているような所でも「鬼は外」を節分での禁句としている例がある。 名古屋の大須観音は後者。伊勢から授かった鬼の面が祀られている。
運送業界では大荷につながるとして、鬼もうちというらしい。
4.トゲトゲの金棒を常に携行している。
5.角がある。電気を発する個体もいる。また、その個体はビキニ姿であることが多い。
6.小学校教師の左の手袋の中身。
7.この団体の三代目の長。 犬ともめた。
8.地上最強の生物の別名。 彼の背中に浮かび上がる。
9.赤か青が標準的な鬼の色。
10.いいパンツを履いている。 艮(うしとら=東北)の方向を、風水では「鬼門」と称する。それで鬼は「ウシ」の角と「トラ」のパンツを備えた生き物ということになったらしい。ダジャレかよ! なので、実はこのスタイルの「鬼」は日本特有。中国で言う「艮(ごん)」は別にウシとトラのことを意味しているわけではないので。
ちなみに中国で「鬼」というと亡霊のこと。だから強いイメージはあんまり無い。 中国人がよく言う「日本鬼子」というのは実はこっち。 最近萌えキャラになった。
イタリアの登山電車のテーマ。
11.酒が大好きな個体もいたようだ。
12.諺では色々と使われている。
13.どんな悪事をしているのかわからんが、いつも退治される運命。 桃太郎にも一寸法師にも退治される。 岡山には「鬼側から見た桃太郎」をうたった歌があるようで(鬼が島が観光名所ゆえか)。
その後一寸法師を雇用している鬼もいる。
源頼光に退治された酒呑童子も鬼の一族らしい。
善良な村人から金銀財宝を奪ってるんだよ。
14.時々いいヤツも居る。 人間と仲良くしたい仲間のためにあえて悪役を演じる、泣かせるヤツも。
子を失う母の苦しみを知って改心し、仏教の守護夜叉となった鬼もいる(鬼子母神)。 これらに感化されて上記の節分で「鬼は外」を言わなくなるところもあるようで。
15.西洋のオーガは同類と思われる。
16.姿は似ているが雷様は別者らしい。
17.地獄にいて閻魔大王の手下として働く。
18.牛の顔をしたやつ(牛頭)や馬の顔をしたやつ(馬頭)など、いろんな種類がいる。
19.とりつかれると空腹に苦しめられてしまう種類もいる。飢餓の際によく現れる。 山仕事の時などは昼飯の米粒を少し残しておいて、襲われたときにはそれを食べると助かるらしい。 つまり空腹で血糖値が下がって動けなくなる(いわゆるシャリばての状態)のを餓鬼に襲われるといったようだ。紀州ではダル、と呼んだらしい。
でも最近では子供を指して言うことが多い。悪ガキ、とか。
20.一般的に角は2本だと思うが、1本で描かれている場合もある。どっちでも良いのか?
21.捕まると交代してさっき鬼だったやつが逃げ始め、捕まって鬼になったやつが追いかけ始める。ちゃんとズルせずに10数えてから追いかけ始めろよ。 捕まえても鬼は逃げずに鬼のまま残り、徐々に鬼が増えていく場合もある。高いところは鬼に捕まらない安全地帯の場合もある。でも鬼が近くにきて10数え始めたら降りて逃げなきゃいけない。影を踏まれたら捕まる場合もある。この場合は建物や木の影は安全地帯。でもやっぱり鬼が来て10数え始めたらでなきゃいけない。鬼は盲目の場合もある。このときは周りの子はあまり逃げずに手拍子しながらはやす。 鬼さんこちら、手の鳴る方へ〜 それあれ、時代劇で悪代官や悪徳商人が手当たり次第に腰元に抱きつくっていう死亡フラグ。特に番組開始30〜40分頃なら、もれなくカチコミがある。
22.32.5t以上37.5t未満の荷物客車。
23.鹿部はこっちだ!
24.状況により、一画目の「ツノ」に当たる部分を省く場合がある。  
鬼一覧
天邪鬼
1.ツンデレ、アベコベの代名詞
2.四天王に踏まれているが、退治されているのではなく、四天王をかっこよく見えるように「踏まれ役」を買って出ただけ。 そもそも四天王はいずれも夜叉、食人鬼、餓鬼などを部下に従える「鬼神」である。
3.仏教上の天の邪鬼は単なる「サラリーマン」だが神道は違う。天稚彦、天探女が由来。悲しい伝説あり。
4.素手で地形を変える程の馬鹿力を持つらしい。
茨木童子
1.酒呑童子の副首領
2.茨木市のマスコットキャラ
3.実は捨て子。床屋に拾われた。成長して床屋やってた時にお客様を誤って切ってしまい、その時人間の血を舐め、実は自分が鬼であったことを知る。 依頼人間の血が大好物となり客をわざと傷つけるようになり、育ての親からも捨てられる。その時、酒呑童子に拾われた。
4.酒呑童子が討取られた時、命からがら大江山の城から脱出。
温羅
1.桃太郎が退治したのは多分この人。
2.百獣戦隊ガオレンジャーの2代目幹部で知った人も多そう。
餓鬼
1.餓鬼界に落ちた亡者たちのこと。
2.餓鬼界に落ちたものを供養するのが「施餓鬼」。
3.子供は餓鬼のようにむさぼるように食べるから餓鬼→ガキになったのはあまりにも有名な話。
4.『ゲゲゲの鬼太郎』では、「夜行さん」と呼ばれる死神に殺された同朋の死体を奪い合って食っていた。トラウマどころの騒ぎじゃない。
鬼童丸
1.酒呑童子討伐後に捕えられた鬼。
2.頼光が鞍馬に行くと聞いた鬼童丸は先回りし、そこらへんにいた牛を抹殺して体内に隠れたが見破られ、牛の体から出てきたところ殺された。
3.大蛇丸配下の音の五人衆が一角。
鬼八法師
1.阿蘇の伝説。弓矢拾いにボイコットした鬼。健磐龍命に仕えていた。
2.部下である鬼八法師を切っても切ってもすぐ肉体がつながる。細切れにして遠くに放置したら「阿蘇に実らせないようにしてやると」激怒。しかし首を温めてくれと懇願。
3.健磐龍命は鬼八法師の首を温めた。すると阿蘇に作物が実るようになったという。
牛鬼
1.鬼っつーかこれ蜘蛛じゃね? 何がどう牛なのかもよく分からない。
2.海岸などで襲うモンスターだが宇和島では守護神なんだとか。
紅葉
1.伝承では「もみじでんせつ(紅葉伝説)」というが実は子の名前は「くれは」である。ここでは名を重要視し「くれは(紅葉)」の項とした。
2.会津出身の両親が子に恵まれなかったので、第六天魔王に子を授かるように祈願。こうして生まれたのが紅葉である。
3.美女として京に送られる。しかし、流行病を紅葉のせいとされたため都を追われ最後は戸隠に逃げ伸びるも抹殺。 以後、紅葉伝承の舞台である場所のひとつは鬼無里(きなき)と呼ばれるようになる。鬼が退治され鬼がいなくなったという場という意味である。 がしかし、鬼無里では紅葉が住民を施し、飢えさせないようにしたという伝説も残っている。 都合の悪い人物は「鬼」として始末される黒い歴史が垣間見える。この物語は「鬼女紅葉」として長野県民にとっては常識という噂。
牛頭天王
1.祇園社の神。赤き角を持つ。厄病神である。
2.龍宮へ行き、八大竜王の1人沙竭羅の三女の婆利采女と結婚し七男一女の王子(八王子)を授かった。これが東京都八王子市の「八王子」の由来である。 八王子(八将神)は凶事を自由に操るという。陰陽師にとって大事な神である。以下記載する。八柱(やはしら)とも言う。 太歳神(総光天王)、大将軍(魔王天王)、太陰神(倶魔羅天王)、歳刑神(得達神天王)、歳破神(良侍天王)、歳殺神(侍神相天王)、黄幡神(宅神相天王)、豹尾神(蛇毒気神天王)
3.あれれ?厄病神なのにいつのまにか厄病と戦う神に化けてるぞ?? しかもスサノヲと習合した。 蘇民将来の娘を助けたことをきっかけに厄病と戦う神に化けたんだとか
牛頭馬頭鬼
1.地獄で地獄の亡者を責める獄卒。牛頭馬頭鬼(ごずめずき)という。
2.獄卒のリーダーが牛頭。 獄卒は羅刹がお勤めされているのに、なぜかリーダーは牛頭。 牛頭には「阿傍(あぼう)」という別名があり、羅刹と並び「阿傍羅刹」と称される。一説によると阿傍は山を引っこ抜いて運べるほどの馬鹿力を持つとも言われている。虞や虞や汝を如何せん。
3.馬頭のほうはなんと地上に出て百鬼夜行に参加する場合がある。
鈴鹿御前
1.鬼、天女、盗賊、女戦士・・・これほどまでにぶれるキャラは日本民話でもまれ。
2.第四天魔王の娘!? 第六天魔王以外にもいたのか。第六天魔王由来の鬼女はちなみに紅葉の項を参照。
3.漫画だと「鬼切丸」で有名か?
酒呑童子
1.我が国の「鬼」の代表格 別名酒天童子または朱点童子ともいう。 大江山だけでなく新潟にも酒呑童子伝説がある。 熊童子(青鬼)、虎熊童子(白鬼)、星熊童子(肌色の鬼)、金熊童子(赤鬼)という四天王を従える(色は「日本の鬼交流館」の鬼面から)。副首領は茨木童子(別項で説明)。日本三大妖怪の一人。
2.大江山伝承では八岐大蛇と人間の娘との間で生まれた子とされる。 竜神は人の形をとるとされるから、人間に変身して×××したのか? 憶測でしかないが八岐大蛇って普通は人間の娘を生贄として要求し、差し出されたものを喰うらしいが、中には結ばれたものもいるのでは(憶測にすぎないけど)。ちなみに八岐大蛇を神として祭る神社はちゃんと岐阜にある。竜神で正解。
3.酒呑童子は大江山伝承では頼光四天王(渡辺綱、坂田公時、碓井貞光、卜部季武)に退治される。つまり四天王同士のバトル。 名前から察するように泥酔状態にして酒呑童子を抹殺。 調べてみたら「新羅三郎の刀で首を切られ、それでも執念で兜に喰らいついたが噛み砕く前に力尽きた」と出たんですが新羅三郎って源頼光の死後の生まれじゃありませんでしたっけ? 誰か教えて。 源義光=新羅三郎じゃね?たぶん別名なんじゃないかと 卜部季武という人物、陰陽道に長けたいわば魔法戦士である。そして実は卜部季武の子孫が卜部兼好(吉田兼好)である。吉田兼好にはもう魔力はなかったらしいが。
4.大江山の城は竜宮城のような大変立派できらびやかな城であったのと同時に実はダンジョン。
5.「朱点童子」と言えば「俺の屍を越えて行け」で有名。
6.イケメンだったらしい。 新潟伝承では女を振って振って振りまくってとうとう女の呪を受けて鬼になったらしい。平安版「リア充爆発しろ」か? 大江山の鬼の像や絵巻物ではむさくるしいがたい鬼になってるが特に「朱点童子」と記すときはイケメン鬼扱い(ただしイケメンの絵がない)。
7.大江山の鬼討伐の命令の理由もすごい。京で995年に天然痘がはやった時に「鬼の仕業だ」と称して討伐される。
8.外道丸の異名を持つ。 結野家の式神がこの酒呑童子その人という設定。ちょうど頼光四天王の一角である坂田金時の名を冠した主人公と主従関係になるというのは面白い。
前鬼・後鬼
1.修験道の開祖である役小角が従えたという鬼。
2.夫が前鬼で赤鬼、妻が後鬼で青鬼。
3.子供は5人いる。この子供たちを五鬼(ごき)という。 子孫は生駒山地に今でもいる。氏も五鬼。
4.漫画『鬼神童子ZENKI』でわりとこの鬼は有名になった。
滝夜叉姫
1.平将門の娘。五月姫という。
2.復讐すべく貴船神社に行き、「丑の刻参り」を行い念願の鬼の体を手に入れる。このとき人間時代の五月姫の名を捨て滝夜叉姫と名乗る。 五月姫が「丑の刻参り」によって無事鬼の体と心を手に入れた時、鬼の身体と心と力を授けた貴船明神の荒御霊が「今日からお前は五月姫などではない。今日からお前は滝夜叉姫と名乗るのじゃ」とお告げを出したというバージョンもある。五月姫はありがたくこの御託を頂き五月姫の名を捨て、滝夜叉姫と名乗った。
3.千葉で復讐すべく反乱をおこすも陰陽術で成敗される。 あげくに滝夜叉姫の部下、夜叉丸は改心し坂上田村麻呂側に寝返る。 滝夜叉姫は『山東京伝』作品では「がしゃどくろ」をはじめさまざまな妖怪を召喚して戦うが坂上田村麻呂に敗れ去り、最後は改心して将門のもとへと昇天する。この『山東京伝』作品によって「がしゃどくろ」は有名になった。
4.小説「滝夜叉姫」で有名になった。
5.無論、忍たま乱太郎の滝夜叉丸の元ネタである。 フルネームが「滝・夜叉丸」ではなく「平・滝夜叉丸」なのはこの為だから覚えておこう。
なまはげ
1.鬼というより鬼神。守護神。秋田男鹿地方の鬼としてあまりにも有名。
2.いい子にはご褒美。悪い子には・・・
3.欧米文化を打破するために超獣「スノーギラン」を連れてクリスマスの街を襲う。おい、英語が入ってるぞ。
4.山形だと「アマハゲ」になる。 能登だと「あまめはぎ」 日本海側の北部の守護神なんかな?なまはげっていうのは。
橋姫
1.「丑の刻参り」であまりにも有名。文字通り橋にいる鬼女。
2.悪縁切りしたければこいつに願え。
3.嫉妬の女神。
八面大王
1.8つの頭があったのではなく、たくさんの姿を持つという意味で「八面」という意味らしい。
2.坂上田村麻呂が北征する際、信濃の住民から食料を略奪し、激怒して立ち上がった英雄。ちなみに安曇野なんだとか。
3.英雄たちは体中にペイントして「八面鬼士大王」と名乗って抵抗するも虐殺され、坂上田村麻呂側から耳そぎまでされた。どっちが鬼なんだか。 おとぎ話などではなく、史実ということが分かった。
風神
1.仏である風天とはまったく関係ない。
2.基本鬼として描かれる。
3.風神・雷神はセット扱い。 俵屋宗達は偉大だ。 大阪の遊園地では…いや、なんでもない。ただでさえ縁起でもないこの項目をより縁起でもなくしたくない。
雨はどうでもいいのかな。
青山剛昌の『YAIBA』も始まりは風神と雷神の物語だったな。スサノオの力を二つに分けて封じたんだっけ?
4.風神が運ぶ風はいいものとは限らない。病も運んでくる。 関西では改源のCMにより、本人も風邪をひいてることで知られていた。
八雷神
1.伊邪那美命(いざなみのみこと)が火之迦具土神を生んだ時に陰部に大やけどを負って死んだ。その時伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が黄泉の国に行って妻伊邪那美を連れ戻そうとするが、醜い姿を見られたくないとして拒んだ。それでもと伊邪那岐命が見た姿とは・・・ 体中に蛆がうごめきながら頭に大雷神、胸に火雷神、腹に黒雷神、女陰に咲雷神、左手に若雷神、右手に土雷神、左足に鳴雷神、右足に伏雷神の八雷神が伊邪那美命と融合しているという恐るべき姿であった。 この姿を見られた伊邪那美は激怒し自分の体から八雷神を分離させて伊邪那岐を追って殺そうとしたが失敗した。 どこのRPGのラスボスだよというぐらいの姿であまりにもおいしい設定だが、我が国の国生みの神話でしかもいざなみ・いざなぎの話というせいもあってゲーム化は厳しい模様。 八雷神は一応鬼扱いになっておい、同時に雷神扱いである。八雷神の総称は「火雷大神」である。
2.八雷神は「やついかづちのかみ」とも「やはしらいかづちのかみ」とも言う
四鬼
1.四鬼(よんき)という。津市の伝承。金鬼(きんき)、風鬼(ふうき)、水鬼(すいき)、隠形鬼(おんぎょうき)4匹。 水鬼が土鬼(どき)に、隠形鬼が火鬼(かき)に入れ替わる場合がある。
2.藤原千方はこの四鬼を従え、朝廷に反乱をおこしたが紀朝雄の和歌で四鬼は退散してしまう。そして・・・抹殺される。 和歌つーか、魔法に近いな。西洋で言う吟遊詩人? 「草も木もわが大君の国なればいづくか鬼の棲なるべき」と言っただけで鬼は退散したらしい。 伊賀市にある千方橋の四鬼のレリーフは鬼ではなく完全に「忍者」として描かれている
3.白土三平の「忍法秘話」にも出るように忍者の祖先に当たるらしい。にしても弱いw
4.ゲームでは「無双OROCHI」で有名
雷神
1.雷様で有名。 太鼓をたくさん背負っている。
2.雷神でおそらく最も有名なのは怨霊と化した菅原道真(菅原道真項目参照の事)。
3.風神・雷神はセット扱い。
4.ザボーガーではない。 高木ブーでもない。
鬼子母神
それはお経のなかに・・
鬼子母神様はお釈迦様のお説きになられた「法華経」というお経のなかに説かれる神様です。お名前をサンスクリット語(古代インドの言語)でハーリティー”(Hariti)といい、これを訳して“鬼子母神”または音訳して、“訶梨帝”(かりてい)などと呼ばれます。
鬼子母神様には、ひとつの伝説があります。
鬼子母神は般闍迦(Pancika パーンチカ)と云う神様の妻であるとても美しい女神で、500人ものたくさんの子どもがいました。鬼子母神はこの愛する子供たちを育てるため人間の子供をさらってなんとこれを食べていたのです、人間達は子供たちをさらわれることを恐れ苦しみ、お釈迦様に相談しました。
お釈迦様は一計を案じ、鬼子母神がもっとも可愛がっていた一番下の子供の姿を神通力によって隠してしまいました。鬼子母神は嘆きそして悲しみ、必死になって世界中を気も狂わんばかりに探し回りましたが、勿論見つかるはずもなく、途方に暮れついにお釈迦様の元に行き、自分の子供が居なくなり見つからないことを話し、助けを求めました。
お釈迦様は鬼子母神に「500人の子供の内、たった1人居なくなっただけで、おまえはこのように嘆き悲しみ私に助けを求めている。たった数人しかいない子供をおまえにさらわれた人間の親の悲しみはどれほどであっただろう。その気持ちがおまえにも今わかるのではないか?」とはなし、「命の大切さと、子供が可愛いことには人間と鬼神の間にも変わりはない」とおしえられ、子供を鬼子母神の元に返しました。
鬼子母神はお釈迦様の教えを受け、改心し以後は全ての子供たちとお釈迦様の教え、またお釈迦様の教えを信じる全ての人たちを守ることを誓いました。これ以降、鬼子母神は鬼ではなく仏教・法華経と子供の守り神となりました。
「鬼」の字のお話
さどわら鬼子母神の“鬼”の文字は本当は、一画めの点すなわち「ツノ」を取ったのような、普通使わない文字を使います。なぜでしょうか?
それは上のお話のように、鬼子母神はお釈迦様とお会いになる前、まさに鬼のような事をしてきました。しかし、お釈迦様の教えを受け、改心し鬼ではなくなったのです。そのことをあらわすため、「ツノ」を取った字を使うのです。
ざくろ
鬼子母神様は右手にざくろの枝をもち、ふところに子供を抱いています。鬼子母神様がざくろを持っていることについてよく、「ざくろは人の肉の味がするから、子供を食べられなくなったかわりに食べている」といわれます。
鬼子母神様は今でも昔の悪い行いを捨てられないそんな神様なのでしょうか?そうではありません!!
ザクロの実をみると1つの実の中に又たくさんの小さな実があり、その一つひとつがそれぞれに小さな種を持っています。このことからザクロは古くから子孫繁栄をあらわす縁起のよい果物として「吉祥果」ともいわれています。鬼子母神様がこのザクロの枝を手に持つのは子供を守る神として子孫繁栄の願いが込められているのです。 
 
鬼4 起源と発達

「鬼」を何と読むか
現在「鬼」という字は普通「おに」と読まれていますが、有名な「九鬼文書」(くかみもんじょ)のように「かみ」と読むこともあります。また古代には「もの」と読んだ例もあるようです。「もののけ」の「もの」ですね。この文字は中国ではgui(キ)と読み、人間の霊魂あるいは亡霊を意味する文字ですが、日本では初期の段階では霊的な存在一般を表すのに使用されたようです。
「おに」の語源
「おに」の語源について多くの本が判で押したように、源順「倭名類聚鈔」(937年頃)の「隠(おぬ)が訛ったもの」という説を取っています。すなわち、「おに」というのはそもそも「見えないもの」であったのが、やがて仏教の夜叉・羅刹などを描いた絵画の影響で、現在のような鬼の姿が描かれるようになったとしています。
「おに」は大和言葉なのではないか、という説もあります。しかし大和言葉だとすると、それをなぜ十世紀の源順が知らなかったのだろうか?というのも疑問点として残ります。あるいは非常に古い言葉で、その頃には既に「鬼」という字と密接に結びつき、もう語源が不明になっていたのでしょうか?
初期の「鬼」
「おに」の初出は多分日本書記(720年)の欽明天皇5年(544年)12月の項だろうと思います。
『彼嶋之人、言非人也。亦言鬼魅、不敢近之。』 (その島の人、人にあらずともうす。また、おにともうして、あえて近づかず)
『有人占云、是邑人、必為魅鬼所迷惑。』 (人ありて占いていわく、必ずおにの為にまどわされん)
ここで「鬼魅」「魅鬼」という単語が出てきており、一般にはこれにどちらも「おに」と訓をつけています。
しかし「魅」は「み」(中国音mei)という文字ですから、この熟語を「おに」と読むのは苦しいかも知れません。
具体的にはここに出てきている「鬼魅」というのは外国人の海賊か何かをさしているのではないかと思われます。
また、日本書紀では斉明天皇の葬儀の時(661年)に、「朝倉山に鬼が出て大笠を着て葬儀をのぞいていた」という記述があります。
初期の頃の鬼の姿で、笠をかぶり簑を着ているというのはポピュラーな姿でした。これはいわゆる稀人(まれびと)の姿であり、現代でも秋田のなまはげにその名残を見ることが出来ます。
この日本書紀の次は出雲風土記(733年)です。これの大原郡阿用郷の項に「目一鬼」(まひとつのおに)というのが出てきます。この地方に目一鬼が人を取って食ったという伝説があることが記述されています。この「目一鬼」は地方柄、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)と関連があるのではないかと思われます。
天目一箇神は出雲地方で盛んであった製鉄の神様で、一つ目の神様ですが、焼けた鉄を見つめている内に視力を失った人の象徴ではないか、と一般に言われています。(一つ目は太陽の象徴であり、太陽神ではないかという説もある。)
ごくごく常識的な解釈をしますと、「目一鬼来たりて田作る人の男を食う」というのは、製鉄の作業に人手を強制的に徴用され、視力を失ったり命を落としたりした者が大勢いた、ということを表しているのかも知れません。
平安時代の「鬼」
平安時代には鬼に関する記述がかなり増えて来ます。
伊勢物語(904年)
第6芥河の段。男が愛し合っていた女を連れだし、逃げる最中小屋に隠れていたら、そこに鬼が出て女を食べてしまいます。しかし鬼の姿自体は出てきません。このモチーフは源氏物語・夕顔の帖でも、寂しい寺で夕顔が物の怪に取り殺されるという形で使われています。
枕草子(1002年頃)
第153段に「名おそろしきもの」として牛鬼というのがあげられています。牛の角をはやした鬼でしょうか?
大鏡(1081年頃)
藤原師輔があはのの辻で百鬼夜行にあった話が収録されています。師輔は尊勝陀羅尼を唱えてこれをやり過ごしました。百鬼夜行に逢う話は今昔物語巻24の16にもあります。安倍晴明が子供の頃賀茂忠行に従って道を行っている時に出くわし、忠行が術を使って難を逃れたとされています。
今昔物語(1106年頃)
巻24の第24「玄象の琵琶、鬼の為に取られし語」。羅城門の鬼のところで述べました。ここでは鬼は姿は現していません。
巻27。この巻はまるごと鬼の話で、大量に記述されています。第8では鬼は男の姿をしていました。第13ではかなり恐ろしい形相になっています。真っ赤な顔で目は一つ。背丈は270cmくらい。手の指は3本で爪は15cmほど伸びていて刀のよう。目は琥珀のようで、髪は乱れている。第23では古典的な笠をかぶり、水干を着た鬼が出てきます。
現代につながる鬼の姿というのは平安時代後期くらいに形成されてきたのかも知れません。
室町時代の「鬼」
室町時代になると、現在見るような感じの鬼の絵が残されています。
東京国立博物館蔵の「百鬼夜行絵巻」に出てくる鬼・妖怪たち、同館蔵「不動利益縁起」や清浄華院蔵「泣不動縁起」に出てくる式神などに、鬼の姿の原形が見えます。これらの絵は室町時代の作品です。
また、大江山の鬼退治などが収録されている御伽草子も室町時代頃にまとめられています。
鬼に似たもの
鬼に似た扱いのものとして、まずよく言われる夜叉(やしゃ<ヤクシャ),羅刹(らせつ<ラクシャ)といったインドの鬼がいます。これは日本では法隆寺の玉虫厨子(600年頃)にも既に描かれています。恐らくは仏教の輸入とほぼ同時に、釈迦説話などとともにこういった鬼の姿も輸入されたのでしょう。
つまり、日本人は既に7世紀には外国の鬼の絵姿を見ていたことになります。
同じ仏教関連でも地獄の獄卒である、牛頭(ごず)・馬頭(めず)はどちらかというと中国起源でしょう。敦煌などからも出土しています。源信僧都が往生要集(985年)の中で言及しており、そのころには日本でも少なくとも一部の人には知られていたことになります。清少納言が書いた「牛鬼」もこの牛頭のことかも知れません。
上記「不動利益縁起」の式神が鬼のような姿で描かれています。室町時代の人は式神というのを鬼のようなものと考えたのかも知れません。「鬼」という名前のつくものとしては、役行者(えんのぎょうじゃ)が使っていた前鬼・後鬼というのもあります。これが何なのかというのは意見が分かれるところですが、式神のようなものではないかという意見も有力です。
現代にみる牛の角を生やして虎の皮のパンツをはいた鬼については、いわゆる鬼門が東北の方位で、この方位は十二支でいうと、丑の方位と寅の方位の中間にあたるためである、というのが通説です。つまり「丑寅」の方角が鬼門なので、鬼は牛と虎の要素を持っているというわけです。
節分の豆まきのセリフで「鬼は内、悪魔外」という地方があります。この「悪魔」あるいは「魔」とはお釈迦様が修行していた時に誘惑に来たものです。インドではマラと呼びましたが、これを中国語に訳す時に「魔」という文字を発明して「魔羅」と音写しました。この魔羅を略して魔といい、特に邪悪なものであることを強調するとき「悪」を付加して「悪魔」と呼びました。(男性器をマラと呼ぶのは、やはり修行中に誘惑する存在であるからです。)
能面の「般若」は鬼のような顔をした女の面です。通常燃えたぎるような嫉妬を表す手段として使用されます。似た面に「蛇」がありますが、般若には耳があり、蛇は舌が出ていることで区別できます。基本的には「般若」の段階ではまだギリギリ人間ですが、「蛇」になるともう人間ではなくなっています。
般若には、赤般若・白般若・黒般若の三種類があり、白般若は「葵上」、赤般若は「道成寺」、黒般若は「安達原」などで使用します。
なお、もともと「般若」という言葉は仏教用語でパンニャの音写。智慧という意味です。これは知識よりも高度の精神的働きを表します。なぜ、その「般若」が鬼女の面になってしまったかというと、この般若面を最初に作ったのが、般若という名前の面打ち師であったため、というのが一番通っている説のようです。
「北野天神縁起絵巻」には雷神と化した菅原道真公が清涼殿に雷を落とすシーンがダイナミックに描かれています。この雷神の姿はやはり鬼に似ています。
一般的な「雷様」のイメージというのは、鬼と同じような姿で、太鼓を持っているものです。この太鼓を叩くと雷鳴が轟き、雨が降るということになっています。
鬼の権威低下
平安時代から室町時代頃まで恐れられた鬼ですが、江戸時代以降はどうもその権威が低下してきて、人々が闇の中に見る恐怖はむしろ「幽霊」の方に移っていったようにも思えます。
鬼は、一寸法師・桃太郎などの昔話の中でやられる者としてとらえられ、節分の豆で追い払われ、来年のことを言うと笑う存在になってきました。
それどころか、浜田広介(1893-1973年)の「泣いた赤鬼」になると、鬼は人間と仲良くしたいと思っています。鬼もずいぶんとフレンドリーな存在になってきたものです。(この問題についてはまた後で触れます)
戦時中はアメリカやイギリスのことを当時の政府が「鬼畜米英」と言わせ、桃太郎がその「鬼畜米英」を倒しに行く、などという物語まで作られたりしています。ここで鬼はもう恐れるべき相手ではなくなっていました。倒せる相手だと思ったからこそここに「鬼」が出てきたのでしょう。
鬼はいるのか?
さて、現代の日本において、幽霊の存在は信じる人が多いですが、鬼の存在を信じる人は非常に少数だと思います。しかし「鬼」と呼んでよいものは確かに存在しているようです。これはたちの悪い悪霊の一種であると考えていただければよいかと思います。
基本的にこういった「鬼」は陰陽五行説的に言えば陰(マイナス)の気が極端に集まったものです。
そういう「鬼」が潜んでいる場所は日本中にいくらでもあるようです。そういう意味では「鬼」は「陰」と通じるものがあります。
さて、1000年前の源順は「鬼(おに)」を「隠(おぬ)」と考えて、「見えないもの」と考えたのですが、どちらかというと「陰(おぬ)」だったかも知れません。
鬼はよほど強烈なものでないかぎり、一般の人の目には見えません。通常描かれる鬼の姿というのは、こういったものを感じ取ることのできる人が感じ取った雰囲気を絵にしたものでしょう。そういう意味では、あの鬼の姿は純粋な想像の産物とはいえない面があります。
こういう霊感的な力というのは本当は誰にでもあるのですが、こちらから相手が見えると、それに相手も気付いて逆に危険ですので、普通の人の場合、小さい頃にそういう回路は閉じられてしまいます。しかしまれに、そういう回路が何らかの原因で閉じられなかった人たち、あるいは何らかのきっかけ(一般には大病や臨死体験など)でそれが突然開いてしまう人もいます。
こういった純粋な意味での「鬼」以外に、過去の日本の歴史の中で「鬼」として取り扱われてきたものがあります。それは「よそもの」です。
日本書紀の欽明天皇の巻に描かれた「鬼」は実際問題として外国人のようです。民俗学者の一部には、「鬼」というのは通常暮らしている共同体の範囲外に住む人のことである、と捉える向きがあります。これは確かにそういう面があったようです。
一般に昔の日本の村では、村の一番外側のところに、道祖神・地蔵・あるいは巨石・古木などがあって、そこが一種の結界になっていました。そしてその結界の外側に存在するものは「鬼」として処理されたのです。
道祖神はその「鬼」の不法侵入を防ぐ働きがあります。これは仲のよい男女神なので、その間を無理矢理通り抜けようとすると、「邪魔するな」とばかりに跳ね返されてしまう訳です。
この共同体の外のものを「鬼」とみなすという心理構図は、例えば「おむすびころりん」で穴の中に落ちたおむすびを求めて行くと、そこには鬼がいた、などといった話の中にも見ることができます。桃太郎も海を越えて鬼ヶ島に行きました。海はこの世界とあの世界を隔てる結界です。
そして、この構図は戦時中に敵国に対して「鬼畜米英」という言葉を使ったところにも通じるものです。つまり日本という大きな結界の外にいるものは全て「鬼」だという思想がそこにはあったのでしょう。
しかし、この「よそもの」は害をなす場合は「鬼」ですが、福をもたらす場合は「稀人(まれびと)」になります。
つまり「訪れる神」で、日本神話の世界でも、恵比須神・少彦名神・事代主神などがこの「稀人」型の神です。日本にはこういった「稀人」を迎え入れる神事を行っている地方があります。能登半島の「あえのこと」、男鹿半島の「なまはげ」などはそのタイプの祭と考えられます。沖縄方面にも海からやってくる神様を迎えるお祭りをするところがあるようです。
日本とアメリカの関係も戦時中は「鬼」と呼んでいたアメリカを、戦後は一転して神様のように扱い、日本人はこの50年間、どんどんアメリカの真似をしてきました。やはり「おに」と「かみ」は転換可能な面もあるのでしょう。それ故に「鬼」の字を「おに」とも「かみ」とも読むのかも知れません。
アメリカとの関係については、戦時中は日本という単位の結界が使用されていたのに対し、戦後は日本とアメリカをまとめた結界が使用されるようになったことからくる転換と考えることもできます。つまり「仲間」の範囲が広がった訳です。浜田広介の「泣いた赤鬼」も象徴的です。これはそれまでよそものとされていた人が村人が認めることにより、「仲間入り」したことを表します。近代の特徴として、人々の「身内」とみなす範囲がどんどん広がってきていることがあげられます。以前は村までだったのが明治以降日本全国がひとつになり、戦後は欧米まで広がり、最近はその結界の中にアジアを加えようとしつつあります。
「おむすびころりん」の物語は心理学的にも面白いものです。おむすびがころがり落ちた穴。そこは外界に通じる、結界の外であると同時に、足元にあるもの、つまり心の中にあるものでもあります。
いくら外に結界を張っても、心の奥底には深い闇が広がっています。鬼は私たちの心の中にも潜んでいるかも知れません。 
 
鬼5

1.鬼だらけの国日本
「渡る世間に鬼はない」という諺があるが、日本は鬼だらけの国であった。「仕事の鬼」やら「将棋の鬼」、「野球の鬼」、「鬼嫁」に「鬼婆」などなど、まさしく「渡る世間は鬼ばかり」であったのだ。「鬼の目にも涙」、「鬼に金棒」、「心を鬼にする」などの言い回しが広く使われることでも分かるように、鬼は身近に存在した。
日本の昔話のうち鬼のでないものはほとんどないのではないかと思うくらい、昔話に鬼はつきものである。さらに『今昔物語』などの説話集にも鬼は登場する。日本人は昔から鬼と隣り合わせに暮らしてきたのである。
2.鬼の力
昔話では、大きな図体を持ち、頭に角のある力の強い赤鬼やら青鬼が描かれている。鬼の持つ力とはいかなるものか。昔話のなかの鬼はよく「人を喰う」し「人に化ける」。仏教において、地獄にいる羅刹鬼が人間を喰うことから導かれているのかもしれない。とにかく鬼は凶悪で有害な恐るべき存在であった。
鬼はどこで手に入れたのか宝物をいっぱい持っている。魔法の道具はたくさん持っている。遠くへ移動することができる「千里のくつ」、身長を伸ばせる「打ち出の小槌」に生死を思うままに操る「生き棒・死に棒」、姿を隠せる「かくれ蓑」、どこまでも遠くを見渡せる「千里眼」等々。しかし、どういう訳か鬼はいつもこれらの宝物を人間に奪われてしまうのである。反対に人間の方はそのおかげで幸せになれる。
3.鬼の弱点
大男で力も強く人間に恐れられているはずの鬼だが、結構弱点も多い。お天道様にすこぶる弱く朝が来ると逃げ出すし、なぜだか「菖蒲」に弱かったりする。第一鬼は「頭が弱い」のである。いつも鬼は「人間の知恵」に負かされてしまうのである。結局のところ鬼は痛みも感じれば、恐怖心も抱く、マヌケでおおらかな弱点だらけの、人間とさほど変わりない存在なのである。
鬼は昔話の中では、いつも脇役である。鬼の力、宝、恐ろしさは、鬼を退治する人間の人間の知恵を賞賛するための道具にすりかえられてしまっている。鬼が巨大で荒々しく、強く凶悪であればあるほど、鬼を退治した主人公たちの武勇がたたえられ、それゆえ鬼は脇役として簡単に人間に負けたり、だまされたりするのである。
鬼が人間に簡単に負け、だまされ、さほどの理由もなく退治されてしまうところに、その姿、形とはまるで正反対の、気が良く、単純で、おおらかで間のぬけた鬼の真実の姿をみる。それは、博打を打ちながら、酒を飲み、踊りの好きな鬼の姿も多いことからも言えるのではなかろうか。「狂言」や『お伽草子』に描かれる鬼は、どこかにくめない。鬼が人間の生活と同じ営みをする、これもまた、昔話の中で鬼の存在が語りつがれてきた原動力なのかもしれない。柳田国男は、「昔話の天狗、狐、鬼も、山姥も、皆少々、愚かで弱く、伝説の方では、常に強豪で、人を畏服せしめる。」と述べている。
4.騙されやすい鬼
♪山に住んでた赤鬼は人間になりたいなりたいと〜〜・・・
人間になりたい鬼に対し神様が夜明けまでに100段の階段を作れば人間にしてやるという。鬼は99段まで積み上げて眠ってしまい、やがて夜明けとなって結局鬼は人間になれなかった。人間達の役に立つことによって人間の仲間入りをしたい鬼とその心情を巧みに利用して鬼に奉仕させる人間。しかし結局、鬼は鬼でしかなく人間の仲間に入れてもらえなかったのである。
5.鬼のすみか
昔話に出てくる鬼のすみかは「鬼ケ島」、または「山の中」と大概相場が決まっている。柳田国男は『山人考』において、「上古史上の国津神が二つに分かれ、大半は里に下って常民に混同し、残りは山に入り又は山に留まって山人と呼ばれたと見る。」と述べている。馬場あき子は、「彼らが純粋に山岳部だけを跋渉して生きたことはなお疑わしいとしても、本拠を山に置き、鬼と呼ばれつつ生活の場を持っていたことはいわゆる〈もののけ〉的鬼や呪術の世界に跳梁する鬼とはまったく別種の鬼であったことはたしかである。彼らは生活のすぐ隣に棲んでいた鬼であり、同時に人間界の秩序とは没交渉の、別個の規約に統制されていたと考えられる。」としている。
鬼ヶ島はどこにあるのか。『桃太郎』が鬼ヶ島へいったときも海を渡る話はない。ヤクザの「島」ではないが、島とは「一定の領域」のことであると本居宣長もいっている。だから海に浮かぶ島を「海島」という場合がある。「敷島」も奈良盆地のある地域を指すのが原義である。それゆえ、鬼の棲み家や場所を総称して鬼ヶ島と呼んだのではないかと推測される。「鬼ヶ島」は普通の人々の住んでいる場所とは違う場所である。そして不思議なことに「鬼ヶ島」には必ず宝物があるのである。鬼の住処は、恐ろしい場所である反面、宝の溢れる場所でもある。
6.鬼とは何か
源順(みなもとのしたがう)が著したわが国最初の辞書『倭名類聚鈔』によれば、「鬼ハ物ニ隠レテ顕ハルルコトヲ欲セザル故ニ、俗ニ呼ビテ隠ト云フナリ」、と解説されている。「オニ」という国語は、隠(オン)という字音から導かれたという。
それにしても鬼(キ)と書いて「オニ」と読むのは如何なる訳か。いうまでもなく鬼(キ)は中国語である。「鬼」という字は、もともと死体の象形文字で、そこから死者の霊魂を指すようになった。だから人が亡くなることを鬼籍に入るというのである。もちろん、中国語の鬼のイメージには、日本のように角をはやし虎のパンツをはいた赤鬼・青鬼といったイメージはない。
古来、日本においては、「鬼」=「オニ」ではなかった。仏教経典を通じてのインドの夜叉、羅刹・羅刹婆、餓鬼、地獄の獄卒などと中国的な鬼とが混同され、さらに丑寅の方(北東の方角)に鬼の居場所があるという陰陽道の説から、牛のように角をはやし虎のパンツをはいている鬼のイメージができあがったと思われる。折口信夫は、「畏るべきもの」という共通点から、オニをカミとも言う場合があったのではないかと推測している。実際、鬼と書いてカミと読む場合がある。『日本書紀』『万葉集』などでは、鬼は「もの」「しこ」「かみ」「おに」などと、場合に応じて読み分けられている。馬場あき子は、『日本書紀』景行紀に、「山に邪しき神あり、郊(のら)に姦(かだま)しき鬼あり」と記されていることから、鬼は邪神と対をなしている同じ系列のものとして認識されているといっている。『民俗学事典』によれば、「鬼は山の精霊、荒ぶる神を代表するものの一呼称であった」のではないかとされている。
文献上に「鬼」の字が初めて現れるのは、『出雲国風土記』の、大原郡阿用郷の名称起源の説明で、「昔或人、此処に山田を佃(つく)りて守りき。その時目一つの鬼来りて佃(たつく)る人の男を食ひき」と書かれている。『日本書紀』斉明紀に、朝倉山の上から「鬼」が笠を着て斉明天皇の喪の儀を見ていたという記事がある。
7.鬼の種類
「鬼」の持つイメージには大別して三つある。一つは仏教的な鬼であって、「悪」や「恐怖」のイメージである。仏教系の鬼には、牛頭鬼や馬頭鬼、羅刹女などがあり、鬼に出会ったという話がたくさん残っている。地獄の獄卒である牛頭鬼、馬頭鬼は出会えば必ず理由なく人を殺す。これはもともと、罪深い人間を脅すための演出であった。仏教系の鬼は類型的で、因果応報の仏罰と仏や経文の効能を広く世に伝えるための材料として登場する。
次に、生身の人間でありながら「鬼」と呼ぶ他はない人々である。松谷みよ子によれば、「鬼は、容姿のうえでは架空の存在であるが、もっている性格・行動などには、人間そのもののイメージが重なっているのではないか」という。個人的な恨みや憎悪から、生きながら「鬼」となって怨恨をはらす人々。さらに王朝の繁栄のために犠牲となり世の暗闇に破滅していった「まつろわぬ」闇の世界に棲む人々。例えばゲリラ的盗賊集団の首領、大江山の鬼「酒呑童子」である。馬場あき子は、「常人の知識をこえる不測の行動は、その敏捷果敢さとともに、彼らのもっとも誇りとするところであり、彼らはまさに王朝の政治の暗黒に乗じて生きた鬼の一大典型であった。」といっている。
そして、もう一つは昔話に出てくる鬼。どこか間が抜けていて騙されやすく、陽気でユーモラスなイメージである。
8.鬼の源流
筆者は現実の世に「鬼」として扱われていた人々がいたと思う。普通の人間の住んでいる場所とは違う一定の区域を住処とし、恨みを抱き、悪とされ、恐怖の対象であった人々。しかも、酒と踊りが好きで、素朴で騙されやすく、はては「宝」をとられ征伐されてしまう人々。彼等こそ「鬼」と呼ばれた人々である。そのような要素を兼ね備えた人々が実際に存在したのか。存在したとしたらそれは一体誰か。
「鬼」とは、大和朝廷によって抹殺された者たちであると思う。土蜘蛛は神武天皇東征のとき、吉野山中に穴居し水銀を採取していた。倭建命(日本武尊)によって征伐された熊襲建や出雲建は朝廷支配下の「普通の人間」が住まないところに住んでいる。そして日本武尊を簡単に信頼し、まんまとその罠にはまって亡んでいった「素朴」な人間であった。同じく北の蝦夷達も異国に住み「悪人達」であり「強く」「恐ろしい」人々であるわりには、あっさりと征服されてしまう。しかも「宝物」を持っているのである。彼等こそ鬼の要素を具備した人々といえる。
大和朝廷は自らと対立する列島の先住民たちを「蝦夷」「土蜘蛛」「隼人」等と呼び、あるいは懐柔しあるいは策略を用いそしてある時は武力を以て征服していった。とくに大化の改新(645年)以降、大和朝廷は奥羽に住む縄文人としての特徴を色濃く持ち言語も風俗も異なった「蝦夷」の征伐にのりだす。朝廷にとって先住民族である蝦夷は、滅ぼすかしない「鬼」であった。阿倍比羅夫の東北遠征(656年)から蝦夷対大和の戦いが何度も繰り返され、桓武天皇の時には、征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷討滅の最後の決戦に臨むべく大軍を率いて、蝦夷の王「阿弖流為ーアテルイ」を攻め立てた。
3千から5千の戦力で5万、10万の朝廷軍と互角に戦ったアテルイも結局802年(延暦21年)に投降した。田村麻呂の助命の約束は反故にされ、朝廷はアテルイの首をはねた。アテルイは「鬼」や「悪路王」として、朝廷にはむかう「大悪人」となった。奥羽地方の砂金を始めとする「宝」が朝廷のものになった。蝦夷の大王アテルイこそ日高見の「鬼」である。
9.鬼の末裔
弥生人が縄文人を征服し、日本に統一国家ができたのは、4世紀から6世紀にかけての古墳時代である。そして、支配者になった弥生人のもつ北方系の顔は人相のよい顔とされ、虐げられた南方系の縄文人の顔は鬼の顔になった。世界中に征服された先住民がコビトや、妖精になる話がある。修験道の開祖である役小角にしたがった前鬼、後鬼も、先住民の末裔であったにちがいない。
平安時代の中頃から武士が台頭する。梅原猛は「武士は、もともと狩猟採集を業としていた縄文の遺民とみてまちがいないであろう。」「関東は縄文文化の影響が強く、関東人は縄文人がそのまま農耕化したという自然人類学の学者の説もある。」そして、「中世とは人間的にも文化的にも縄文的なものの最盛の時代なのである。」といっている。武士もまた「鬼」の末裔である。
東北の日高見の国を屈服させた朝廷は、全国各地に投降帰順した蝦夷である「俘囚、夷俘」の人々を集団的に移住させた。歴史研究家・菊池山哉氏は、明治時代に全国215か所の別所地名を調査、分析し「別所は俘囚 に移配地である」という説をとった。そして、別所の特徴として、東光寺、薬師堂、本地仏十一面観音の堂社(白山神社など)を祀り、慈覚大師円仁の伝承があると言う。別所各国の国府や郡家に近接して存在することが多い。八切止夫は菊池山哉の説に再び光を当てた。在野の古代史研究家・柴田弘武氏は、菊池説を発展させ『鉄と俘囚の古代史−蝦夷「征伐」と別所−』で、別所とは蝦夷の俘囚を配した製鉄遺跡であるとして全国各地の例を挙げている。
別所という地名起源については「仏教諸宗の修学・修行に不満を抱く聖たちが、本寺を離れた別の場所に隠遁して、それぞれ集団を結んだ場所」( 『岩波仏教辞典』 )というのが通説である。柴田弘武氏は全国550余か所の別所地名を訪ねて分析、「本寺を離れた修行僧の隠遁地」とするだけでは説明できない所が多いという菊池説を裏付けている。柳田国男は別所の人々が山の者、谷の者、峡(カイ)の者等とも呼ばれたという。
日蓮聖人は、貞応元年(1222年)に安房国長狭郡東条郷小湊の漁村に、三国大夫(貫名次郎)重忠を父とし、梅菊女を母として生まれた。自身の出生について、「日蓮今生には貧窮下賎の者と生まれ旃陀羅(せんだら)が家より出でたり」(佐渡御書)「日蓮は安房国東条片海の石中(いそなか)の賎民が子なり」(善無畏三蔵抄)等と述べている。日蓮聖人は小湊西蓮寺で養育された。小湊西蓮寺は、山号が東光山で、本尊は薬師如来、そして東国に観音、薬師信仰を広め、先住民を教化した慈覚大師円仁が開基である。西蓮寺こそ安房国別所の重要拠点であったと考えられる。この先住民たちこそが日蓮聖人の言う「旃陀羅」であろう。
出雲大社近くの安養寺に、有名な出雲阿国の墓がある。歌舞伎の創始者といわれ、サンカのエラギ(芸能)の源流ともされる阿国も「鬼」と呼ばれた蝦夷の末裔かもしれない。
10.鬼は亡んだか
馬場あき子は、「反体制、反秩序が、基本的な鬼の特質であるとすれば、近世の封建的社会体制の確立しゆくなかで、当然、鬼は滅びざるを得ないものであり、そして滅びたといえよう。」という。
古来、人々は、世の悪に対する怒りの気持ちを鬼に託していた。最近の日本には、権力者の暴走を止め支配者と対峙する「鬼」ではなく、「Panem et circenses.パンとサーカス」に踊らされる大衆しか存在しなくなってきている。「鬼」的な潜在エネルギー「鬼」が醸し出す緊張感を失った日本は文化的創造力を失い弱体化していくのではないか。日本文化に喝を入れこの国を元気にするためには、いまこそ鬼の復活、復権を図るべきであるといえよう。 
 
邪鬼1

 

1 たたりをする神。また、物の怪(け)。怨霊(おんりょう)。
2 四天王像に踏まれている鬼。仏法を犯す邪神として懲らしめられ、苦悶の表情をみせる。
祟りをする神、物の怪(もののけ)などを総称していうが、仏像に関しては仁王像や四天王像の足の下に踏まれている小型の鬼類をさす。毘沙門天(四天王の多聞天)の足下にいる鬼を特に天邪鬼(あまのじやく)と呼ぶという説がある。〈天邪鬼〉は毘沙門天像の鎧に付けられた鬼面の名称であることが室町時代の《壒囊鈔(あいのうしよう)》に記されており、当初は鬼面の名称であったが後に足下の鬼をも意味するようになったと考えられる。
四天王邪鬼 (東大寺戒壇院)
東大寺の戒壇院の四天王は誰もが認める超リアルでカッコいい四天王ですが、彼らに1200年以上もの間踏まれながら我慢し続けている邪鬼のファンも多いのでは。戒壇院にはこれまで何度か足を運びましたが最近は男前の四天王よりも邪鬼たちの表情が気になって、四天王よりも長時間邪鬼たちを見つめている私です。
邪鬼は悪いことばかりして四天王から懲らしめられている小悪魔たちのように見えますが、本当は四天王たちの部下であり、お釈迦様の説法や仏法を邪魔するためにやってくる悪魔たちを追い払うために四天王から「やっつけてこい」と指示を待つ夜叉神(善神)のことなんです。
ですから見た目には「イテテ‥四天王のダンナ、もっと優しく踏んでくださいよ!」と言っているように見えますが私にはやってくる悪魔たちに対して威嚇して「いきり立っている」、そう感じずにいられません。少しでも四天王たちが足元を緩めると、すぐに飛び出して悪魔たちに向かって行こうかというところではないのでしょうか。「コラーッ、俺たちは踏まれっぱなしだけど本当は怒ったら怖いんだゾーッ!」と歯軋りしながら強がって威嚇する声が聞こえてきそうです。
四天王などに踏まれている【邪鬼】
Q / 本を読んでいたら、興福寺の四天王像の邪鬼の説明に「人の心に住む悪いものを鬼の姿で表したもの」との説明がありました。以前私の読んだ本には、「悪さをしていた鬼達が改心して、四天王などの天部達に仕えているのが邪鬼」という意味の説明が書いてありました。
これはどちらの説明も正しいのでしょうか?
A / 実際には、インドにアーリア民族がやってきて、先住民を駆逐したことを、宗教的に表現しています。踏んでいるのが、ヨーロッパからやってきたアーリア人(四天王)、踏まれているのが、インド先住民であるドラヴィダ人(邪鬼)です。
実際に踏んでいる人の身体的特徴や衣服は、アーリア系のものですし、踏まれている人の特徴は、現在インド南部に住んでいるドラヴィダ人のものとなっています。
仏教は、インド古来の宗教の影響を多く受けており、布教する時に、人々にわかり易くするために、神話や伝説を利用しています。
昔から伝わってきたアーリア人による征服伝説を使い、仏教の布教に利用しているのです。
四天王像はアーリア人がドラヴィダ人を征服しているところ、ヒンドゥーに改宗したドラヴィダ人が邪鬼と考えられます。
ちなみに、阿修羅も征服された人たちが信じていた神様で、仏の教えに従って非常に苦労しながら修行している顔と言われています。  
 
邪鬼2

 

我が愛しき邪鬼たち
自分でも何故なのか今だに分からないのですが、何時しか仏教に興味を持ち、仏様を尊崇する気持が強くなり、お寺について関心が高まってきました。ところで最近特に興味をもって眺めているのが「邪鬼」です。
本尊を守っている四天王が、足の下に踏みつけている「よこしまな心を持つ鬼であり、邪悪なるもの」といわれるあの邪鬼です。私のささやかな知識によると、初めから今のように、四天王に踏みつけられていたのではなく、インドではストゥーパの門柱を支えていたようです。詳しいことは知りませんが、京都の東寺へ行きますと、薄暗い講堂にズラリと迫力を持って並んでいる立体曼荼羅と呼ばれる仏像群の中で、邪鬼を踏みつけているのは、四方を守っている四天王ばかりでなく、明王の中にも、憤怒の形相で邪悪なるものを踏みつけて居られるものがあります。
明王の憤怒の形相は、人間を救おうとする並々ならぬ決意の形相であると言われます。勿論四天王は、固い決意で、本尊を守っているわけですから、それを表現するのに、邪鬼を踏みつける迫力は、その真剣さ、偉大さを認めさせるためにも必要なのだと思います。
足の下の邪鬼は、ある者はこれ以上の痛みは無い、といった形相で踏みつけられ、又ある者は、参った!といった顔で、またあるものは恨めしそうに踏みつけている四天王を下から見上げています。それぞれに筋肉隆々の邪鬼で、決して易々と倒され音を上げる弱々しい邪鬼ではありません。
面白いことに、隙あらばその足から飛び出して、反撃に打って出ようという形相のものがあるかと思うと、剽軽(ひょうきん)な顔で、踏みつけられていることをまるで楽しんでいるかのようにさえ思われるものもあります。
私が見た中で一番古い邪鬼は、多分法隆寺の木造の四天王の邪鬼でしょうか。四天王は本来は憤怒の形相のところが、ここは何故か、比較的穏やかな顔をしておられます。従って、踏みつけられている邪鬼も、少しばかり穏やかな感じを受けます。「和」を尊ばれて、新しい国造りに励まれつつも命絶えた、聖徳太子の魂を慰める為に建立されたという説があるようですが、そういう事も一つの理由なのでしょうか。
中でも広目天の邪鬼は正面を向いて、頭の上に広目天の両足を載せ、両肘を折った形で、耳の近くに掌を拳に握り、眼は下向きで、厚い瞼の下に細くあり、口だけが、左右に大きくへの字になっていて、じっとこらえている感じが出ています。ても広目天も邪鬼も何となく穏やかです。
同じ四天王でも、東大寺の四天王となると、顔立ちも厳しくなり、従って邪鬼も、広目天の邪鬼などは、今にも飛び出そうと隙を狙っているようにも見えます。後ろ側の広目天と持国天そのものの顔立ちは、比較的怒りは押さえられているようですが、邪鬼は違います。
更に高野山金剛峯寺にいたっては、鎌倉時代の仏師、快慶作という四天王は、一層迫力があって、邪鬼もまた並々ならぬ迫力があります。こういった邪鬼に何故心が引かれるのでしよう。
私は仏像に興味を持ち始め、古寺を巡って仏像を眺める旅を始めた頃に、仏像彫刻の中で、一番先に気に入ったのが、中宮時の弥勒菩薩像と東大寺の戒壇院の四天王像だったのです。東大寺戒壇院を守る四天王は、日本人の身長に近い位の小ぶりではありますが、それは見事な像で、均整の取れた美しさと逞しさで、遠く中央アジアの様式の甲冑を身に付け、四天王のその精神がひたひたと伝わってくる見事な像に、感嘆しきりでした。
その時は未だ邪鬼には余り興味は無かったのですが、ある時、邪鬼だけ少しばかり抜き出して、写真になっている資料本に出会いました。それを眺めている内に、邪鬼の立場にやや同情する心が芽生えたようです。
よこしまな心を持った邪悪なるものとして、踏みつけられ押さえつけられていないと、世の中が平和に立ちゆかないといった様に、重い四天王の両足で踏みつけられ、身動き一つ出来ない様子は、何とも気の毒ではあります。平べったく潰れているものさえあります。
四天王の強さを表現する為に、考え出された邪鬼なのか、四天王にはそれぞれ名前があるように、邪鬼にも名前があるものなのか、私は知りませんが、一つ一つの邪鬼をじっと眺めていますと、矢張り愛しき者と言えそうな感じがして来るのです。「將たる者は心に一匹の鬼を飼わねばならない」と將たる者の心得を言った武将がいましたが、リーダーの条件として、それくらいの心構えが必要なのでしょう。人間は心の何処かに、ある種の邪鬼を持っていることを悟らせようとしているでしょうか。又、これを作った仏師の、主役を引き立てようとする魂の有り様に、感動する心があるとも言えます。 
東寺では、四天王ばかりでなく、明王の足の下に踏みつけられているものがいます。
例えば、降三世明王立像(こうざんぜみょうおうりゅうぞう)の足下に踏むのは、この明王が、むさぼり、いかり、おろかさという、三界の悪を 降伏(ごうぶく)することを目的としていますので、それを表す為に、ヒンズー教の煩悩を表す主尊と、無智を表すその妃を踏みつけているのです。東寺の講堂はこの世を救う為に、怒りに満ちた明王五体を左に、中央に本尊の大日如来を含む如来五体、右に菩薩五体を据えて、それを守護する四隅の四天王、加えて帝釈天と梵天の計21体の像によって出来ていて、まさに圧倒される思いです。眼が五つある、珍しい金剛夜叉明王像などは、戻って二度も見て来ました。
京都駅から直ぐ近くにありながら中々行けなかったのですが、一たび空海発願の立体曼荼羅と言われる彫刻群に取り付かれるや、時間があれば通って眺めます。
少し面白いことに、法隆寺の多聞天の邪鬼と、後に行った延暦寺の多聞天の邪鬼がやや似ていることに気付きました。延暦寺の多聞天は、体躯堂々としていて、身に付けた具足も少し腰を捻った出で立ちも力がみなぎっていて、法隆寺の静かな多聞天とは違いますが、邪鬼は少しユーモラスで、前向きであることや両手を肘から折っていることなど、共通点があります。法隆寺は、眼は下向きてですが、延暦寺では目玉が飛び出しています。
こうして邪鬼に目を奪われて来ますと、沢山の寺院に四天王が居られますから、中々面白いものです。内部を写真に撮って来ることは出来ませんが、買ってきた資料や、手持ちの本などから、探し出して比べると、又新しい面白さが発見出来ます。
   邪鬼もまた愛しと思へる日のありて薄暗き古寺に目を凝らし見る
   顔の高さに合掌しつつゆく僧の横顔若し永平寺回廊  
 
四天王1

 

(してんのう、サンスクリット語:चतुर्महाराज caturmahārāja) 欲界の六欲天の中、初天をいい、またこの天に住む仏教における、4人の守護神をいう。この四天王が住む天を四王天、あるいは四大王衆天(しおうてん、しだいおうしゅうてん)ともいう。
六欲天の第1天、四大王衆天の主。須弥山頂上の忉利天(とうりてん)に住む帝釈天に仕え、八部鬼衆を所属支配し、その中腹で伴に仏法を守護する。
須弥の四洲(東勝神洲=とうしょうしんしゅう、南瞻部洲=なんせんぶしゅう、西牛貨洲=さいごけしゅう、北倶廬洲=ほっくるしゅう)を守護し、忉利天主・帝釈天の外臣である。この天に住む者の身長は半由旬、寿命は500歳で、その一昼夜は人間界の50年に相当する。
持国天 - 東勝神洲を守護する。乾闥婆、毘舎遮を眷属とする。
増長天 - 南瞻部洲を守護する。鳩槃荼、薜茘多を眷属とする。
広目天 - 西牛貨洲を守護する。龍神、毘舎闍を眷属とする。
多聞天 - 北倶廬洲を守護する。毘沙門天とも呼ぶ。原語の意訳が多聞天、音訳が毘沙門天。夜叉、羅刹を眷属とする。
日本での信仰
四天王は早くから日本でも信仰されていた。 『日本書紀』によれば仏教をめぐっておこされた蘇我馬子と物部守屋との戦いに参戦した聖徳太子は、四天王に祈願して勝利を得たことに感謝して摂津国玉造(大阪市天王寺区)に四天王寺(四天王大護国寺)を建立したとされる。(後、荒陵の現在地に移転。)後世の仏像製作においても、釈迦三尊像などのメインとなる仏像の置かれる須弥壇の四隅には、たいてい邪鬼を踏みしめて立つ四天王像*が配置されている。四天王像としては、東大寺(奈良市)の戒壇院のものが有名である。 
 
四天王2

 

天部の中の「四天王」について記述いたします。天部とは天を住処としておりますが何故天だけに部が付いたのか?それは、天でなく天部とした方が語感が良いからでしょうか。
仏教では、世界の中心に聳える山を「須弥山(しゅみせん)」と呼び、仏堂に設けられた一段高くなった壇は須弥山を象徴したもので「須弥壇」と言います。皆様の仏壇の中にも須弥壇があります。
四天王は須弥山を守る役目を担うことから金堂、本堂などの須弥壇をも守ることになったのでしょう。須弥山において四天王は帝釈天に仕えております。
「四天王像」はインドで誕生した当時は憤怒ではなく温和な顔付きのうえ華麗な装飾を着けた貴人のようです。しかも甲冑を着けないだけでなく「バールフト」の像にいたっては武器すら手にせず合掌手の如くで守護神らしくありません。
バールフットの像には銘があり多聞天(毘沙門天)となっております。邪鬼はおとなしい蹲踞の姿勢で多聞天に踏みつけれた苦しみから逃れようとする反抗的な態度は見られません。
「法隆寺金堂の四天王像」は現存最古の遺構であり武器を手に執っておりますが貴人がスッと立っているようでインド様式の名残かも知れません。その貴人スタイルの四天王が中国では甲冑を着けた武将像に変化いたしました。その様式が我が国に伝わり殆どが中国風の四天王像であります。
四天王像は「仁王像」と同じく躍動感のある像なので人気があります。と言いますのも、老若男女を問わずじっと立っているよりも動きのあるものの方が好まれるからです。我が国古来の日本舞踊でも庶民には動きの無い「女舞」より動きがある「男舞」の方が世間で受けるのと同じことでしょう。
菩薩は「沓」を履きませんが四天王の殆どが沓を履いております。ただし、「東大寺三月堂の日光・月光菩薩像」のような例外もあります。
聖徳太子が発願された「四天王寺」の本尊が四天王、また、「東大寺」は「金光明四天王護国之寺」と呼ばれ本尊が四天王であると思われがちですが他にも主役の本尊がありますので準主役扱いといった方が正確かも知れません。「東寺」の正式名は「金光明四天王教王護国寺秘密伝宝院(略して教王護国寺)」で四天王とはどういう関係があるのでしょうか?
戦勝祈願や国家鎮護の守護神として四天王が盛んに信仰されたようです。古代は戦勝祈願の対象といえば四天王のみだったようですが時代が下れば「毘沙門天(後述)」「勝軍地蔵」も現れて参ります。
四天王寺は聖徳太子が物部氏との戦いで勝利を四天王に祈願され、そのご利益のお陰で見事に勝利した後、太子の発願で建立されたのであります。四天王寺の創建は法隆寺より古いですが第二次世界大戦で焼失したため戦後の再建でまだ新しい建造物ばかりです。ただ不思議なことは、四天王寺がどうして大阪に建立されたのかのと南北一直線の伽藍配置であるのに通常の出入りは西側からという変則なことです。戦勝祈願のお礼というより何か大きな目的があって大阪に四天王寺を建立されたのでしょう。
四天王が天の「王」と言う尊称が付けられるくらいの主役待遇だったのは天平時代迄で平安時代以降は脇役となります。須弥山、須弥壇の四方を守る護法神だったり国家を鎮 護する守護神だったり戦勝の守護神だったりと尊崇されていたのにガードマン如き脇役となってしまったことは大変な格落ちであります。そこで善男善女の皆さん、お参りの際最初に出くわす持国天に会釈した後本尊にお参りください。
東南西北(通常、東西南北ですが時計回りでは)の守護神は、四天王の「持国天(じこくてん)」「増長天(ぞうちょうてん)」「広目天(こうもくてん)」「多聞天(たもんてん)」の配置となります。そこで、持国天の「じ」、増長天の「ぞう」、広目天の「こう」、多聞天の「た」で「じぞうこうた(地蔵買うた)」と覚えるのがよいと伝えられております。そういえば、先月は「地蔵菩薩像のお話」でしたね。
持国天は須弥山の中腹で東方の門を守ります。右手で宝珠を執ることがあります。
増長天は須弥山の中腹で南方の門を守ります。
広目天は須弥山の中腹で西方の門を守ります。戦闘神たる武将が武器を持たずになぜ巻物と筆を持つのかは分からないです。
多聞天は須弥山の中腹で北方の門を守ります。宝塔を右手で捧げていたのが平安時代は左手で捧げるようになります。
四天王の「持物(じもつ)」に関しては広目天の巻物と筆、多聞天の宝塔ぐらいで決まった定型がなく像一つひとつに変化があって四者の違いや甲や衣に施された華麗な文様を調べられるのも一興かと思われますのでしっかりとご覧ください。それと同時に、方位の五色では東が青色、南が赤色、西が白色、北が黒色ですが実際の四天王の肌色は何色かを調べて見てください。
須弥山なら四天王が東南西北の門の守護神でいいですが、須弥壇での現実は、持国天は東南、増長天は西南、広目天は西北、多聞天は東北の方向を守っております。それは、須弥壇の南に増長天を安置いたしますと本尊の真ん前となりそれでは不都合となるから でしょう。それから、鬼がいる方向を鬼門といいそれは東北すなわち丑寅(うしとら)の方向です。それゆえ、鬼の様相は頭に牛の角があり、口には虎の牙を供え、腰には虎皮のフンドシを穿いております。それらを踏まえて、平安京の場合北方を鞍馬寺(後述)、 鬼門の東北を比叡山と2方向の王城鎮護が考えられたのでしょう。
その昔、いろんな分野で四天王が選ばれ「何々の四天王」と呼ばれたものですが最近ではあまり聞かなくなりました。浮世では浮き沈みが激しいので四者が揃うことが出来ずせいぜい御三家どまりでしょうか。 
時代が下ると「仁王」が中門から南大門に移りましたのを受けて中門には四天王のうち二天を祀り伽藍を守らせたのであります。この門を「仁王門」に対し「二天門」と言います。この二天には「持国天と多聞天」あるいは「持国天と増長天」の二通りの組み合わせがありますが四天王の代表格である多聞天が入る持国天と多聞天の組み合せの方が多いようです。また、二天で須弥壇を守るケースもあります。
四天王の足で踏みつけるのは「邪鬼(じゃき)」ですが「天邪鬼(あまのじゃく)」といったほうが理解しやすいでしょう。仏法の敵とは言えもう少し穏やかに優しく出来なかったのでしょうか?と言いますのも建屋を守らせるのに中国、韓国では屋根に多くの霊獣がおりますのに我が国では鬼瓦一辺倒で、仏敵の鬼に建物を守らせるのですから不思議な風潮ですね。いずれにしても、我が国での鬼は毀誉褒貶の激しい生き物です。邪鬼には一鬼、二鬼があります。四天王は邪鬼か「岩座」または、「岩座上の邪鬼」に乗ることもあります。最近は使われなくなりましたが人が亡くなると「鬼籍に入る」といい戒名が鬼の戸籍簿に記されます。このことは故人が鬼になることですがここでの鬼は悪い鬼ではなく敬うべき鬼と言うことでしょう。邪鬼が惨めな姿にされ虐げられるようになり、その後に反発する邪鬼に変貌した頃から四天王がガードマン的な脇役となっていったようです。 
平安時代になると広目天が従来の巻物と筆ではなく「赤い索」を持ち、多聞天は宝塔を右手でなく「左手」で捧げるようになります。それと、長く広い袖を結び背面には裳裾が垂れるようになります。
鎌倉時代になると天平以前のスタイルである広目天が巻物と筆を持ち、多聞天が右手で宝塔を捧げます。広く長い袖を結ぶのは前代と同じですが結んだ袖と背面に垂れた裳 裾が大きく棚引くように翻り激しい動的な姿となります。動き易くするため袖を結ぶの であれば袖なしにするとか長い裳裾がない方がフットワークにはよいと思われますが。
四天王の影が薄くなる平安時代頃から、多聞天が単独で祀られるようになりその際尊名を「毘沙門天」と変え尊崇されるようになります。四天王が公の祈願ですが毘沙門天は公、個人共の祈願として広く信仰され、後には「七福神」の仲間にも選ばれ個人祈願の神として庶民の人気が続きました。七福神といえば毘沙門天より奥さんでもある「吉祥天」の方が宝珠(参照:後述の法隆寺像)を持っておられるので適任だと思われますが「弁財(才)天」が嫉妬して駄目だったのかも知れませんね。嫉妬深いといえば恋人同士で弁財天をお参りするとそのカップルは別れることになるという言い伝えがあります。ゆえに、付合っている相手と別れたい時は弁財天にお参りすることです。誰ですかもう少し早く弁財天を知っておけば良かったと悔やむ不心得者は。インドでは単独尊の毘沙門天の方が四天王より早く出現したらしいですが我が国では毘沙門天は四天王より遅れて現れます。毘沙門天は戦勝神、財宝神などとして広く信仰を集めました。「楠木正成」は「信貴山 朝護孫寺」の毘沙門天に安産祈願して誕生したので幼名を「多聞丸」と名付けました。ま た、「上杉謙信」は毘沙門天を尊崇し戦勝祈願をしたので軍旗は「毘」の一文字が刷り込まれておりました。毘沙門天の像容は多聞天とほぼ等しく右手か左手で宝塔を捧げその反対の手で戟か矛を執ります。
邪鬼か岩座に乗るのが通例です。
「兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)」は我が国では数少なく中国では毘沙門天より兜跋毘沙門天の方が多いということで我が国とは大きな違いです。像容については後述の「東寺像」で記載いたします。
「奉先寺洞(中国・龍門石窟)」は五尊仏で本尊を挟んで弟子、菩薩像、天王像、仁王像となり本尊は「盧舎邦仏」で俗称「奉先寺大仏」と呼ばれるものです。本尊・盧舎邦仏の像高は17.14mで現在の東大寺大仏が14.98mに比べ約15%も大きく、いかに奉先寺洞が大型のものか想像いただけますことでしょう。天王像と仁王像は左右の壁(緑矢印)に造られており正面からは眺めることは出来ません。向かって右の緑矢印の先に僅かに見えるのが天王像の顔で、菩薩より像高は低いです。本尊に向かって右へ阿難像、菩薩像、多聞天像、仁王像です。逆は迦葉(かしょう)像、菩薩像、持国天像(?)、仁王像となります。これ以外にそれはそれは多くの像があり大変見応えのある洞です。四天王は動きのある武将像ですが憤怒相ではありません。憤怒相の四天王は我が国の方が中国より多いような気がいたします。中国は我が国と違って四天王像より二天像の方が多いとのことですが中国では石窟像が多いため、壁面に四天を彫ると四天王像だけが目立ちバランスが取れないからでしょう。
「鞍馬寺」は牛若丸、鞍馬天狗、弁慶などでお馴染みの名刹寺院です。「仁王門」を潜ると間もなく「ケーブルカー」の山門駅ですが駅前に立て看板があり、「山頂本殿まで木立の中の九十九折(つづらおり)参道は約1Kmです。途中、重要文化財の由岐神社拝殿や、義経公供養塔など諸堂めぐりもできます。むかし、清少納言や牛若丸も歩いた道です。
「竹伐り会式(たけきりえしき)」の鞍馬法師が竹を大蛇に見立てて斬りつける勇壮なシーンは圧巻で見る人を感動させております。余談ですが、新聞の『子を抱く親心』で「子を抱く狛犬」が安置された「由岐神社」と「帯解寺」の「腹帯地蔵」が紹介されておりました。
毘沙門天
「毘沙門天立像(びしゃもんてんりゅうぞう)」は本殿金堂の本尊ではなく「霊宝殿」に祀られております。鞍馬寺は平安京の真北に当たるので北方の守護神「毘沙門天像」を祀り平安京の鎮護とされましたゆえ当初は本像が本尊だったことでしょう。
創建当時は私寺建立禁止であるにもかかわらず特別に建立許可されたのは王城鎮護という重要な役割を担った寺院だったからでしょうか?
本像は橡(とち)の一木造で橡が素材の像は初めて見ました。彩色などの装飾はなく檀像風で黒っぽく見えましたが通常なら漆箔が剥落して下地の黒漆が現れる筈ですが本像は何の装飾彩色は施しておりませんので素材の色でしょうか。守護神に相応しい鍛え上げた隆々たる肉体でしかも全体に黒光りしておりましたので余計に頑強な感じがいたしました。 
毘沙門天のシンボルである宝塔を持っておらず、左手を髪の生え際の少し上にかざし、精悍な鋭い眼で平安京を望見しております。いかにも都の守護神らしいスタイルと言えましょう。後述の「浄瑠璃寺像」、「唐招提寺像」は左手を腰に当てているように手を腰に当てる像は結構あり、本像も手を腰に当てるべきところを作者のユニークな発想で手をかざす様式にしたのでしょう。この様式は鞍馬様と呼ばれ途中の疲れを吹き飛ばしてくれる創意にあふれ神秘的魅力を持った逸品です。
毘沙門天(像高176p)を中尊とし奥さんである「吉祥天(像高100p)」とお子さんである「善膩師童子(ぜんにしどうじ)(像高95p)」が脇侍の如く安置されております。毘沙門天より吉祥天は小さく造られておりますが後述の「法隆寺金堂像」の場合は毘沙門天と吉祥 天とはほぼ同寸法で造られております。これら吉祥天の違いは、王城を鎮護する役目の毘沙門天の脇侍としての立場と法隆寺像のように吉祥悔過の本尊を務める立場の違いでこのような像高差になったのでしょう。毘沙門天三尊では現存最古の遺構です。
天部は独尊で尊崇されるのは少ないのに毘沙門天と吉祥天とは単独尊でありますから結婚が出来お子さんが生まれたのでしょう。尊像が家族で表現されるのは稀なことです。
「兜」の中央には宝珠が刻まれており宝珠がある毘沙門天は珍しいです。宝珠があれば福徳神だと分かり衆生に広く信仰されたことでしょう。 
邪鬼ではなく岩座に乗っております。
「冬柏亭(とうはくてい)」は霊宝館の目の前に設置されております。この建屋は与謝 野晶子さんの「書斎」が回りまわって現在地の神々しい鞍馬山に移築されました。
「東寺」は今までに建築物で紹介してまいりましたが後述の「兜跋毘沙門天像」が展示されております「宝物館」しろすべての建物がまとまった位置関係にありこれほど楽に回れるのは京都では他にないでしょう。
多聞天
「多聞天像」は講堂の東北隅に祀られ須弥壇を守護しております。
密教と顕教との違いは密教の場合堂内に多くの尊像が安置されていることです。講堂には四天王と合わせて密教の諸尊の数は21尊もあります。それゆえ、東寺は密教美術の宝庫と言われる所以でしょう。ただ、天平時代の宝石箱と言われる「東大寺三月堂」には狭小の内陣に15尊も安置されていると言う例外もありますが。憤怒の表情、勇壮な姿には見る人を圧倒させる四天王のです。多聞天像は補彩が施され息を吹き返したようで創像当初の煌びやかな像容が偲ばれる見応えのある像となっております。台座は邪鬼や岩座ではなく後述の兜跋毘沙門天の様式である尼藍婆(にらんば)、毘藍婆(びらんば)の二邪鬼と地天女(ちてんにょ)でありこの様式は本像だけと言う独創性に富んだ像です。ですから、尼藍婆、毘藍婆の二邪鬼と地天女であれば兜跋毘沙門天だという区別が出来なくなりました。
兜跋毘沙門天
「兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)」は中国の故事により王城鎮護には最適の守護神といわれたのを受けて、中国からの請来像を平安京の表玄関にあたる「羅城門」の楼上に安置されました。ところが、その羅城門が強風で倒壊いたしましたので東寺に移安されたのが本像です。本像は中国産の魏氏桜桃という桜材で造られており中国で制作されたことは間違いないようです。魏氏桜桃の素材と言えば「清涼寺の釈迦如来立像」が思い出されます。本像を中国から持ち帰ったのは弘法大師空海でしょうか、それとも伝教大師最澄でしょうか?法隆寺金堂の四天王像のように直立不動の姿勢です。兜跋毘沙門天と聞くだけで敵が恐れをなして尻込みするのか威嚇のポーズではなく節度あるスマートな像容であります。熟練の仏師が緻密に彫り込み、胸には鬼面のようなものが二つと腰のところに獅嚙、その他色々な装飾文様など細かい細工が見事に表現されております。 
背の高い山型宝冠の中央に鳳凰や孔雀、金翅鳥といわれる鳥の文様が前面一杯に彫られております。鳥そのものではなく鳥の羽が付いているのは後述の「戒壇院の持国天像」で見られます。ハーフコートのような衣装を着け大陸風の姿でもなく西域風の様相で異国情緒あふれる像です。この像も右手に戟を執り、左手で宝塔を捧げていたことでしょう。
尼藍婆(にらんば)、毘藍婆(びらんば)の二邪鬼を従えた地天女(ちてんにょ)が両手の掌で直立する兜跋毘沙門天の足を受け止めております。我が国では何故か兜跋毘沙門天はあまり多くは造像されなかったようで間もなく衰退いたしますが東大寺中門には近世の兜跋毘沙門天像が安置されております。
持国天
「持国天像」は「九体仏」と壁との隙間に遠慮がちに立っております。装飾の見本帳ともいわれるくらい豪華絢爛たる像で完成された様式美が心ゆくまで味わえます。平安時代の四天王像としては屈指の名作といわれる像がこれほど間近で拝観できるのは幸せなことです。九体仏もいいですがこの四天王像だけでも訪れる価値は充分あります。袖、裾を翻しているのは中門なら風が吹き込んできますが堂内なら風もそよ風くらいですので仏敵と闘っている激しい動きの瞬間を表しているのでしょう。それだけに、気迫のこもった力強い感じがいたします。
「邪鬼」は小太りでぎょろ目の可愛らしい相好で重量のある四天王に踏み付けられてもそんなに苦しんでいるようには見えず逆に微笑んでいるように見えました。
「増長天像」は皮革製の甲冑で身をかためているようにも見えずしかも憤怒相でありません。兜ではなく宝冠を被り異国的な様相を示しております。すらりとしたプロポーションの本像に対し邪鬼の体系は大き過ぎるぐらいなのと踏みつけられてもだえ苦しむのではなく素直な従者の如く憎むべき鬼ではなく眷属のようであります。踏み付けられているというよりもちょんこと乗って貰っているという方が適切かもしれない。四天王は四者で様相に違いがあるのが通例ですが法隆寺金堂像はさほど変わり映えがしない古典的な像容です。四天とも直立不動で動きはなし、広目天以外の他の三天は共に左手に戟を持つという姿です。
「毘沙門天像」、「吉祥天像」共に法隆寺金堂に安置されております。平安時代から吉祥悔過が盛んに行われるようになり吉祥天(像高116p)と毘沙門天(123p)のご夫婦像が本尊の左右に増設されました。ご夫婦像としては最初の記念すべき尊像です。しかし、吉祥悔過の本尊は吉祥天であり何の役目のため多聞天が動員されたのでしょうか?吉祥天像の左手には「宝珠(青矢印)」が捧げられております。気品ある像容の毘沙門天像、均整の取れた美人像である吉祥天像と共に当初の漆箔、切金文様、彩色がよく残っており見る人の心を魅了せずにはいられない像です。毘沙門天像は創像当初は邪鬼か岩座に乗っていたことでしょう。平安時代から多聞天は左手に宝塔を捧げるようになりますが『陀羅尼集経』による場合は宝塔を右手で捧げます。しかし、法隆寺像は『金光明最勝王経』の経典により造られたらしいのでなぜ右手の宝塔となったのかは分かりません。多聞天ではなく毘沙門天だからかまたは同じ金堂安置の飛鳥時代の「四天王像」に合わせて古式で制作されたのでしょうか?お経に関しては何の知識も持ち合わせておりませんので詳しいことは分かりません。

「持国天像」は東大寺戒壇堂に安置され、四天王は須弥壇の中心に向かって立っておりましたが現在は四天王総べて南向きに改変されております。四天王像は当初の像ではなくどこからか移安されたものらしいです。これだけの見事な像は東大寺内のいずれかの仏堂かそれなりの名刹寺院にあったものでしょう。像容は天平時代の特徴である軽快な姿で敏捷な動作が取れるスタイルです。時代的に一番スリムな体付きを的確に表現し写実の妙として感動を呼びますが次の平安時代のように恰幅がよくありませんから威圧感は乏しいです。
「邪鬼」は頭が大きいうえ目、鼻、口が大きく、指は潰れており、まるで妖怪のようです。四つん這いの姿勢で頭と腰を踏みつけられており苦しみのあまりか口を大きく開けております。諧謔に富んだ邪鬼と言えましょう。 
写実を重んじる彫刻と言えば、削り過ぎたりすると修整が難しい木彫ではなく、修整が幾らでも効く塑造か脱活乾漆造であります。塑造は手間、乾漆造は費用を要しますので国家体制が充実していた天平時代以外では無理な技法でした。塑造の手間とは焼きもせず高温多湿の奈良で保存させるため素材の仕込みに年月を掛けてからまず最初に裸形像を造りそれから我々が着付けるように下着を着けそして順次装っていき最後に装飾品で飾るのであります。材料費は土ですから無料ですが余りにも制作時間と手間が掛かりますので本格的な塑像は天平時代までしか制作されませんでした。それゆえ、国宝指定の塑像は奈良以外では存在いたしません。それら名品の制作に膨大な国家予算をつぎ込んだため財政破綻を起こし財政再建が迫られたことが平安京への遷都の一因となったのであります。本像は天平時代の終わりに見られる誇張された表現ではなく古典的な節度ある表現といえましょう。
広目天
「広目天像」は「東金堂」の須弥壇に安置されております。東金堂は堂名の通り興福寺の東側に西向きに建立されておりますので通例通りの東南西北の守護神とはならないため当初からこの配置だったのでしょうか。四天王の持物に関して記載されているものは『陀羅尼集経(だらにじっきょう)』という経典だけでその経典に基づいて制作されたのが東金堂の四天王像です。広目天といえば巻物と筆を持っておりますのが通例ですが東金堂像では右手に少し判別し難いですが索(青矢印)を執り、左手には広目天以外が手に執る「戟(げき)」を執っております。戟とは先が三つ(緑矢印)に分かれているもので分かれていない一つのものは槍です。多聞天は右手で宝塔を捧げております。
天平時代はスマートな体格ですが平安時代になると亀の子のように縮めた首、目をむいてしかも重量感のある筋肉質の体格でまさに仏敵と闘う寸前の迫力で今にも動きだしそうであります。
邪鬼は身体が柔らかいのかそれとも重量感のある四天王に踏みつけられているためか身体が海老のように二つ折りになっており苦しみに耐える邪鬼の姿には哀れみを誘います。
増長天
「増長天像」は右手に金剛杵、左手は腰に当てるポーズです。寺伝では天平時代の作となっておりますが広袖の先を絞り、長い裳裾が垂れる様式からは次の平安時代初期の作と思われます。しかし、多聞天像が宝塔を右手で捧げておりますので天平と平安に跨って造られた像でしょう。大陸的な悠揚迫らぬ風貌で兜は被らず宝髻というのは仏敵も幼稚な武器しかない和やかな時代だったからでしょう。
木彫像、一部乾漆仕上げでこれからまもなく木彫全盛時代となり彫刻の歴史は木彫の歴史となります過渡期の作品です。増長天像(187p)の少し斜め後の千手観音像(535p)、本尊の盧舎邦仏像(304p)、薬師如来像(336p)と比べると脇役の四天王といえども像高が低すぎます。しかし見方によっては三尊が大き過ぎるとも言えます。なぜこのような像高の差が出たのか歴史の謎には興味が尽きないですね。他の三天が閉口で本像のみが開口です。

「当麻寺金堂」の本尊が塑像で四天王が脱活乾漆像であり何故素材の違いが出たのか不思議です。塑像は安価な粘土に比べ脱活乾漆像は高価な漆で制作されています。ランク付けをすると如来、菩薩、(不動明王)、天部となりますから素材の使い方から考えられることは創像当時においては如来と四天王は対等の関係にあったのかそれともどこからか移安されてきたのかは分かりません。それが現在では四天王は脇役になっておりますのは寂しいですね。見事な顎鬚と口髭を付けた異国的な四天王像は他では見たことがありません。これらの鬚髭(しゅし・あごひげとくちひげ)の表現が出来たのも乾漆なので難しくなかったことでしょう。というのも木彫像でも髪の毛などの細かい表現には乾漆で制作することがあります。飛鳥から白鳳時代の作と言われる「法隆寺の六観音像」も素材は樟ですが髪の毛などには木屎漆で仕上げられております。
後の時代の「邪鬼」は仰向けや横向きになり暴れて反抗していますが、「邪鬼」は手を組んで蹲り畏まっております。 
 
当麻寺金堂四天王像の邪鬼

 

−7世紀‐10世紀の東アジア作例の形式分類をもとに−
当麻寺金堂四天王像のうち古様が指摘される持国天像・増長天像の邪鬼について、形式の面からあらためて考察を加える。これまでの邪鬼研究では、東アジアを含む通史的な観点からの検討が十分にされてこなかった。本発表では、7−10世紀における中国・朝鮮半島・日本の邪鬼の形式分類と大陸の邪鬼との造形比較を通じて、当麻寺の二邪鬼の歴史的定位について検討する。
邪鬼の形式は、神将像との関係から「乗せる」「踏まれる」「支える」の3類に大別され、神将像のポーズの変遷とも関連しながら、「乗せる」邪鬼から「踏まれる」邪鬼と「支える」邪鬼へと展開した。この3類は、さらに5種の型に分けられる。「乗せる」邪鬼は、背に神将像を乗せる【台座型】、「踏まれる」邪鬼は、急所を神将像に踏まれる【踏鬼型】にそれぞれ分類される。「支える」邪鬼は、上体を起こし左右対称で両方の掌や肩で神将像を支える【地天型】、左右非対称で、片方の掌や肩で神将像を担ぐ【坦鬼型】、急所を踏まれながらも神将像を担ぐ【坦鬼かつ踏鬼型】に細分される。
大陸においては、8世紀までに5種類の型があらわれ、その全てが10世紀まで継承される。一方、日本においては、7世紀の段階で法隆寺金堂四天王像邪鬼に台座型、玉虫厨子宮殿正面扉二天像邪鬼に地天型、東京藝術大学蔵天王像邪鬼に踏鬼型がみられるが、坦鬼型と、坦鬼かつ踏鬼型はみられず、8世紀以降は踏鬼型が主流形式となる。そこに大陸とは異なる、日本の邪鬼の地域的な特徴が指摘できる。
当麻寺の二邪鬼は台座型である。二邪鬼の材料は欅かとされ、平安前期の後補ではないかとする見解がある。しかし、興福寺北円堂四天王像邪鬼(791年)、東寺講堂四天王像邪鬼(839年)、東寺食堂四天王像邪鬼(899−909年)など、平安前期の作例では踏鬼型が主流形式となっており、形式の面から、当麻寺の二邪鬼を平安前期に位置づけることは難しい。さらにその造形に注目すると、上体は起こさず、支える動作はともわないが、顕著な左右対称性を示している。これに類似した造形は、龍門石窟奉南洞西壁天王像邪鬼や慶州感恩寺西塔出土舎利具青銅製龕附属の浮彫四天王像のうち多聞天像邪鬼など、7−8世紀の唐と新羅の作例にみられ、当麻寺の二邪鬼は、大陸風をうけた古式な造形を示すものととらえることができる。
当麻寺金堂の四天王像については、その脱活乾漆技法と甲制に関して、奈良時代の定型とは直結しない濃厚な大陸風が指摘されている。こうした四天王像の特質は、まさに台座型の形式と左右対称の造形に、強い大陸風が指摘できる邪鬼に通じるものといえる。以上のことから、当麻寺金堂持国天像・増長天像の邪鬼は、四天王像と共に7世紀末頃に制作された当初作である可能性を指摘できると考える。  
 
日本の仏教彫刻における鬼神像に関する一考察

 

■序論 仏教彫刻における鬼神像の源流と伝来
第一章 仏教彫刻の起源と流れ
仏教は日本の古代文化において大きな基盤の一つといえるだろう。そして、彫刻・絵画で現された仏像や涅槃図などは、その重要な要素の一つである。紀元前五世紀の古代インドで始まった釈迦の教えは、その弟子逮や綿々と受け継いだ信仰者達による仏典結集などで形成され、古代インドの神々さえもその懐に取り入れて創造され一大教義となって構築されていった。そして南伝・北伝という大きな枝分かれも合め、教義の変遷とともに仏伝に関する浮彫や彫塑などが制作され、紀元前後の頃にガンダーラやマトゥラーなどで初めて釈迦(仏陀)の像、つまり仏像が制作された。中国には紀元後一世紀に伝えられたとされるが、中国社会に根をおろし発展をみるのは、仏図澄・鳩摩羅什や法顕らの活動がみられる四世紀以降といえる。中国南北朝時代には、北魏などの国家的保護政策もあり、各地に石窟寺院が営まれ、多くの壁画や浮彫・彫塑などの仏像(広義には如来・菩薩・明王・天像等を合む)が描かれ刻まれることになる。中国で漢訳された経典は、その後仏像などの偶像とともに朝鮮、さらに日本へともたらされる。
二十一世紀の現代にいたるまで、それぞれの国での仏教を取り巻く状況は様々な変遷をみるが、伝えられた仏像に関していえば、日本におけるそれら仏教遺産はインド・中国を凌ぐとさえいえるのではないかと考える。日本の仏教文化財は木造主体の建築・彫塑の類が多く、地ぷによる火災や台風、さらに戦火や廃仏毀釈などの社会事象により失われてしまったものも多い。しかし、それらの災禍を逃れ、人から人へと大切に受け継がれた遺産は、誇りうる先人達の心なのだと与える。
本考はそのような仏教遺産のひとつである仏教美術の中で、仏殿・仏像を「支える鬼神(力士・邪鬼等)像」に聞してその変遷を探りつつ、特に仏殿(仏塔) の軒下を支える力士・邪鬼像について、日本に現存する像を対象に検討を加えたい。
第二章 インド・中国・朝鮮の仏教彫刻における鬼神像
仏教彫刻における鬼神像の源流はパールフトやサンチーなどの仏教遺跡の欄楯にみられる。図版1がインドのカルカッタ博物館に収蔵されているものでその碑文には【クヴェーラ・ヤクシャ】と刻まれている(前二世紀)。インド神話に出てくる【クヴェーラ】という財神は【ヤクシャ】と呼ばれる従者を率いておリ. 神話の中では人間に害をなす悪鬼の類でもあったが、仏教に取り込まれてからは仏法を守る護法神となった。これが四天王のうちの多聞天のルーツとされる。その像容をみると武将形ではなく、またその表情に忿怒の様はない。佐和隆研編『仏像図典』によると、四天王像は「もともと仏教本来の神ではなく、その表現にもとくに規制がなかった」ので、「インドに於いては貴人の姿に表現」され、中央アジアから中国に至る間に「次第に武人像として完成」、さらに日本において「忿形著しい武芸天部形」となったとある。たしかに、その像の造形は日本のものと大きく違っている。ただ足下の従者像は、蹲踞して肩部でクヴェーラを支え、両腕を前方で組み、またその表情に関して視線は前方下をみつめ思索的な様子がが見て取れる。
ヤクシャ像はまた仏塔の周囲に建てられた門柱にも現されているが、サンチ-第一塔の西門柱の梁を頭と手で支える短躯(侏儒)・太鼓腹の像がそれである。この塔門は前一世紀後半頃のものとされ、仏殿等の建造物を支える像の源流といえるだろう。この侏儒形で下支えのヤクシャ像は、ガンダーラではギリシ
ャ的容貌をもちギリシャ神話のアトラスとして表現きれている。古代インドにおいて、従者としてのヤクシャは尊像や仏閣の一部を「支えるもの」として表現されている。金岡秀友氏は「外教たると仏教たるとを問わず、古代インドにおいて、鬼は人間や神と絶縁した存在ではない。その両者と連携し、相互に影響を与えあい、時としてその何れにも変容する。神が鬼の形をとり、鬼が人の形をとる。」としているが、このことはその後の伝播地おいても、内包された本質として受け継がれていったものと考える。
中国における仏教美術の遺産としては、各地で営まれた石窟寺院の壁画や浮彫・彫塑があげられ、四世紀以降、敦煌莫高窟・雲崗・龍門・炳霊寺石窟などに残された。そこにも仏殿・仏座を「支える」像が多数表出している。
壁画や浮彫などに現されたこれらの像は「夜叉」・「薬叉」(Yaksa=ヤクシャ)とされ、前述のクヴェーラを支える従者や塔門を支える侏儒の変形で、中国西域においては力強い容貌に大きく変化している。また鞏県石窟寺には浮彫の仏台座等を支える像が刻まれているが、「力士」「邪鬼」「怪獣」「神王」「地神」「托山力士」など様々な名称がついている。その支え方は、おおむね両足を開き蹲踞し両手を開いて(又は片手で)支える姿で現されている。表情は一部を除き、穏やかなものが多く、ほとんど苦しみの様はみられない。雲崗石窟にも仏座や仏龕のアーチ状の柱を支える像が多く見られるが、特徴的なのは第9窟前室天井に高浮彫で現された侏儒(アトラス)像であろう。前述したガンダーラでのヤクシャ像はギリシャ神話のアトラスとして示され、多くは仏座を支える者として現されているが、ここでは木米のアトラスの役割である天空を支えるような像として表現されており、このことはとても興味深い。龍門石窟には、仏座ばかりでなく香炉を複数の力士が支えており、仏具にも同様な役割を担う表現がみられる。
朝鮮における「支える像」としては高句麗時代の古墳にみられ、安岳3号墳[四世紀後半築造]の前室と奥室の境にある石柱3本の柱頭に怪獣(邪鬼)が描かれ、長川1号墳〔五世紀中葉〕の前室の天井の隅に作り出された三角形の部分に、足を踏ん張り上の天井持ち送りを両手で支える力士像が描かれている。このように、中国・朝鮮の仏教美術において、ヤクシャの担っていた「支える」役割は様々な姿で表現され、時には天王像に踏まれる「邪鬼像」として、また仏座を支える「神王」として、また天井を支えるアトラスになぞらえた姿で表出している。そのルーツである、クヴェーラの従者(眷属)としてのヤクシャは、それぞれの時代や伝えられた土地で、制作者の様々な思いに応えているようである。
第三章 「支える」鬼神像の日本への伝来
仏教美術における鬼神像について、図像を合めて日本への最初の伝米は不明であるが、ここではその伝来に関わる例をふたつ考察したい。
図版7は七世紀後半に描かれた法隆寺金堂壁画九号壁(弥勒浄土図といわれているが、異説もある)の描き起こし図で、図版8はその台座部分の拡大図である。そこには、前章でみてきた台座を支える「力士」か「邪鬼」的な像が描かれている。この図様の伝来を考えるにあたり、示唆を与えてくれてのは梶谷亮治氏の説である。梶谷氏は白鳳期に日本で描かれた法隆寺金堂壁画六号壁(阿弥陀浄土図)と唐からの請来品とされている勧修寺繍帳(釈迦如来説法図奈良国立博物館蔵)の相似性を指摘し、また敦煌332窟東壁南側壁画の阿弥陀三尊五十菩薩図との関連にも言及している。その中でキーパースンなっているのが黄文本實という七世紀後半頃の官吏である。その名は『薬師寺仏足石銘文』に残されており、その内容から、本實が渡唐した際、王玄策(唐の官吏)によってインドからもたらされた仏足石図を転写し持ち帰ったことが知られている。梶谷氏は、本實は六五三年に入唐した道昭(日本における法相宗の開祖)とともに赴いたのであろうとしている。そして、道昭は玄奘に師事していたのだから、同時期に長安の西明寺にいた道宣(中国南山律の開祖)と近傍であったのではないかとし、阿弥陀三尊五十菩薩図についての知識が道宣周辺から本實らにもたらされた可能性を指摘している。
推古朝の六O四年に画師に任ぜられた黄書(黄文)家に生まれた黄文本實は、玄奘や王玄策が請来して早々のインド・西域の仏教美術にいち早く接し、飛鳥文化後期(白鳳期)の様式に大きな貢献を果たしたはずである。そして、道昭の指示のあるなしに関わらず、多くの仏画を書写したはずである。帰国に際し彼が請来した中に、法隆寺金堂壁画州六号壁阿弥陀浄土図ばかリでなく、九号壁画(支える邪鬼像を含む図像)に繫がる図様があったのではないだろうか。
図版9は白鳳期作とされる當麻寺四天王像(持国天)とその足下の邪鬼像である。先行研究の多くは現存最古の法隆寺金堂像と次第に忿怒形を強める天平期の唐風様式の過渡的なものと位置づけ、その鬚のある点に閲しては、新羅からの来歴も指摘されている。しかしその西域的風貌や人間的表情、そして邪鬼像の哲学的ともいえる思索的視線などを鑑みると、他に類する像がみられず、かといって当時の仏師の独創的な意匠とも考えにくい。(四天王邪鬼像のうち持国天邪鬼と増長天邪鬼像が思索的表情をしているが、この二つの邪鬼像はともに後補である。平安初期頃のものと推定されているが、平安初期の邪鬼はほぼ例外なく懲罰の役割をもち忿怒形となった四天王に踏まれ、もがき苦しむ姿である。にもかかわらず、何故このような思索的・哲学的表情をもつかということを考えれば、 やはり、元の像がそうであったので、忠実に再現しようとして補作されたのであろうと思う。二体が同意匠の像ということも、このことの裏付けと言えるのではないだろうか。) そこで、序論第二章で触れた【クヴェーラ・ヤクシャ】の足下の像と、二体の邪鬼像の身体の屈ませ方や、前方下方を思索的に見つめる表情がとても似ていることとの関連を考えてみたい。この章で初唐期に入唐した黄文本實という人物を、七世紀後半(白鳳期)の仏教美術界のキパースンとして挙げた。【クヴェーラ・ヤクシャ】の足下の像に近い四天王邪鬼像は、中国石窟には見あたらない。玄奘や王玄策らがインドから直接持ち帰った仏画か彫刻に【クヴェーラ・ヤクシャ】と同じ同じ意匠の四天王像及び邪鬼像があり、それを黄文本實のように当時入唐していた人物が、その像容を書写するなどして持ち帰ったのではないだろうか。小林山太郎氏は、当時の状況について、「玄奘や王玄策の携歸した印度の諸佛像及び粉本が、唐において直ちに模されて」とし、また義淨の『大唐西域求法高僧傳』を引用して「当時においては、入竺の諸僧諸人が彼の地の處々の名高い佛像及びその模本などを多く携歸することが一の流行をなした」と説明している。四天王像の像容が西域的であることから、書写の元の像はガンダーラとの関連があるかもしれない。前述した法隆寺金堂九号壁画に現れた脇侍を四天王と捉える説もあり、この像容には豊かな鬚が示されている。當麻寺像は四体とも他寺の像に比べて襟の高い胸甲を身につけているが、この点も共通項といえる。どちらにしても、法隆寺金堂像は、六世紀までに請来された古様で、そして當麻寺像はエポック的に現れた新像様だったが、次の天平期には四天王の役割が変化し、次第に忿怒を強め、大きな動きを示すことが必要になったのだろう。邪鬼像については、法隆寺金堂像・當麻寺像までは「従者」的意味合いが色濃く残っているものと考える。
■本論 仏塔や仏殿の屋根の軒下を支える力士・邪鬼像

 

第一章 その現状と像容・意匠の特徴
濱島正士著『日本仏塔集成』(中央公論美術出版)によると三重塔・五重塔・多宝塔など木造仏塔は全国に約二七O基が現存し、そのうち近世以前に建造比されたものが約二二O基である。本稿で研究対象にした【軒下を支える力士・邪鬼像】を伴う仏塔は井関正敬氏の調査によると昭和期まで含めると二十一基だが近世以前の塔に限ると十九基現存する。さらに、仏殿等まで範囲を広げると現在まで確認できたものは九棟で、本稿では近世以前の仏塔十九基・仏殿九棟、合計二十八棟の軒下の像を対象としてみていく。
二十八棟のうち基本的に屋根下の隅木を尾垂木に乗って(座って)手や頭・肩等で支える像は二十六棟である。(残りの二隙は専修寺唐門像は門表裏の梁を二体ずつで支え、久米寺本堂像は堂正面の梁を六体で支えている) 尾垂木に乗り隅木を支える像は、構造的にいうと「東」の役割を果たすもので、短い長方柱である「束」に彫刻されたものといえる。
現存最古と考えられる像は、唐招提寺金堂像(南西像を除く三体)で、八世紀後半の作と推定されているがそれに次ぐものとしては、滝山寺三門像(文永四・一二六七年)、次いで法道寺多宝塔像(正平
二三・一三六八年) となり、その間の5〜600年間を埋める像がない。井関氏は塔のみを対象に、「南北朝以前の塔に天邪鬼はない」と指摘しているが、屋根下四隅の構造部材である「束」に彫刻を施すことは、唐招提寺金堂像の例があるのだから、天平末以降の時代で、突如として鎌倉期の滝山寺三門や岩船寺三重塔に現れたり、南北朝期の法道寺多宝塔に現れたりと考えるよりは、九世紀後半に創建された東寺五重塔など著名な寺院建築にその例があったのではないかと考える。
資料にその像容等を一覧にしたが、二十八例を比較・検討すると、その像容・形態・意匠は非常に個性的で、共通する像容としては、東寺像と仁和寺像及び千光寺像と越光寺像の一部に認識できる程度である。また力士像として捉えうるもの、邪鬼像として捉えうるらの、どちらとも判断しにくいらのなど様々である。時代は違うが、序論第二章でみたように中国での「支える像」の像容も多様であり、崇拝の対象となる仏像と違って、彫刻師の自由な発想・イメージが具現化したものと考えられる。表で示した像容を見てもわかる通り、邪鬼的・力士的というばかりでなく、力強いもの[東寺・仁和寺・道成寺像など]・瓢々としたらの[穴太寺・千光寺像]・弱音を吐きそうなもの[龍原寺像]・笑みさえ浮かべているもの[善峯寺・興願寺・久米寺像]・コミカルなもの[名草神社・柏原八幡神社・滝山寺像]など多様な意匠をもって造られている。ただ、古いものについては、装飾的要素以上の意味合いがあるのではないかと考えるので、次章でそれを検討したい。
第二章 唐招提寺金堂の「隅鬼」
(1) その名称と像容
本稿ではこれまで仏殿・仏塔の軒下の像を「邪鬼」「力士」と記してきたが、表に示した岩船寺三重塔の旧像は「隅木受飾束」とされ重文に指定されている。また昭和四十五(一九七O)年に出された「法道寺食堂・多宝塔修理工事報告書」では、この像を「下重隅木支承の力士」として、次のような記述がある。
下層軒廻:斗栱は和様出組、軒天井、支輪を備え、隅だけ尾棰を納め上ばに力士を置いて隅木を支承し、軒は二軒繁棰、切裏申を付ける。
前章で記したように唐招提寺金堂四隅のうちの三体は、金堂創建時(八世紀後半〜末期頃)と推定されており、この像は展覧会等では「隅鬼」と明示されている。
その像容は、元禄期に補作された南西像一体を除き、同意匠というよりほぼ同形・同表情である。各方向に正対し頭頂部より少し後方の頭部と両肩で隅木を支え、尾垂木上に正座して両手は腿に当て隆々たる二の腕を持っている。その表情は強く大きな目で前方を注視し、歯をこれ以上できないほどに食い縛っている。これに対し、南西像は、正対・正座・支え方等は同じだが、その表情は弱々しく情けなきげな印象を受け、二の腕は太いが筋力を強調するものとはなっていない。他の現存する像が、初めて造られたものに必ずしも似ているとは限らないことをこの像は示していると忠われる。つまり、仏塔修理等の際に傷んだ像に代えて新たに造った場合や火災等で焼失し新造した場合などにおいて、その時々の彫刻師が古像の像容にとらわれることなく、独創的な発想をもって制作されたものも多かったと考えられる。
(2) 唐招提寺金堂の創建
「隅鬼」が創建当初のものであるとして、その建立に関して調査した。唐招提寺はいうまでもなく渡来僧鑑真が創建した寺院である。ただ、鑑真在世中には講堂など一部の建物しかなく、寺院というより僧侶の仏門研鑽のための施設であった。そこでまず、いくつかの堂宇について記す。
1 講堂 / 平城宮の東朝集殿を天平宝字四(七六O)年頃に当地に移築した奈良時代宮廷建築唯一の遺構。現在講堂に安置されている木造持国天、増長天立像は、甲(よろい)の文様の彫り口などに盛唐後半期(八世紀半ば)の石彫との類似が指摘され、特に増長天像は鑑真とともに来朝した仏工の作と推定されている。
鑑真の渡来に関しては、弟子の思託による『鑑真伝』をもとに淡海三船が著した『唐大和上東征伝』に詳しい。授戒できる高僧の渡来を依頼するため入唐した栄叡・普照の要請を受けた鑑真の渡航は、五度の失敗と十年を越える歳月をかけてようやく実現したが、その内の第二回目の渡航準備に次のような記述がある。
苓脂紅緑米一百石、甜鼓三千石(略)實像一鋪、金泥像一躯(略)青銭十千貫、正爐銭十千貫(略)僧祥彦・道輿・徳清・栄叡・普照・思託等十七人、玉作人・画師・雕檀・刻鏤・鋳写・繍師・修文・鐫碑等工手都百八十五人、同駕一隻舟
このように、持参する食料・仏像・現金などとともに随行メンバーが記され、その中に雕檀(ちょうだん=飾り彫師)・刻鏤(こくろう=彫刻師)といった工人も率いている。六度目の渡航成功時(天平勝宝五〈七五三〉年)の人員規模は小さかったが、同様に画師や彫刻師など各種工人を率いていたことは間違いないであろう。この点に関しては、金堂創建についての部分でも触れる。
2 金堂 / 奈良時代建立の寺院金堂としては現存唯一のものである。金堂の部材には西暦七八一年に伐採されたヒノキ材が使用されており、建造は同年以降ということになる。『招提寺建立縁起』(『諸寺縁起集』所収)によると、鑑真の死後に和上と共に渡米した弟子の如宝によって造営された。この他、経楼・鐘楼なども如宝による造立かとされている。
3 五重塔 / 束塔があったが、(『日本紀略』によれば、弘仁元〈八一O〉年の創建)享和二(一八O二)年に落雷で焼失した。西塔については不明。
(3) 如宝について
金堂をはじめとして唐招提寺の伽藍整備に大きな役割を果たした如宝という人物は、『唐大和上東征伝』には六度目の渡航者のひとりとして初登場している。
相随弟子揚州白塔寺僧法進、泉州超功寺僧曇静、台州開元寺僧思託、(略)揚州優婆塞潘仙童、胡国人寶最、如寶、崑崙国人軍法力。
鑑真はこの六度目の渡航に、十四人の師弟僧と三人の尼僧、その他外国人など総勢二十四人を率いて来朝している。如宝は胡国人という記述から西域の出身(ソグド人とも)者だったとされる。(但し、元禄十四〈一七O一〉年に義澄が撰修した『招提千歳伝記』巻上之一の第四祖如宝少僧都伝には、「少僧都、諱如宝。朝鮮国人也。不知何氏」とあり、詳細は不明である。)中国出立時は出家者ではなかったようで、来朝後に東大寺戒壇院で受戒している。前述の如宝少僧都伝には『弘仁六(八一五)年正月七日、安然而化。府一十扶桑六十余年。齢治八旬云』とあり、来朝した天平勝宝五(七五三)年にはまだ二十歳に満たない青年だったと推定されている。鑑真の死に際する記事として同書の第二祖法載和尚伝に「太祖臨減、嘱師(法載)及義静・如宝三公、権招提衆務。」とある。法載は第一回目の渡航から鑑真と行動を共にしており、おそらくその死に際しては最上位の高弟であり、義静も中国楊州興雲寺で師事していた高弟のひとりだった。如宝は受戒して十年足らずで三十歳前後の年若い弟子の一人だったが、おそらくその才や人格を高く評価されていたものと思う。結果、師の死後五十年に及ぶ期間に、唐招提寺の伽藍整備ばかりでなく、仏像制作にも大きな役割を果たしている。如宝の造立とされているのは、前述の様に建築物では金堂・経楼・鐘楼などで、彫刻では金堂安置の薬師・梵天・帝釈天・四天王像が挙げられる。このことについて久野健氏は、「堂と像とが同期の設計により(金堂正面の扉を聞くと丁度額縁の中に像を安置したように)出米上がっている」としている。如宝は金堂建立のため、『金堂一宇、右少僧都唐如宝、率有縁檀主等、建立如件』(「建立縁起」)とあるように資金調達に奔走したが、そればかりではなく金堂の設計や仏像の規模・制作方法・様式など多岐に亘って関わっている。斉藤孝氏は如宝の日本美術史の位置づけとして、「初唐・盛唐様式を基調とする天平芸術から、中唐・晩唐様式を中核に持つ貞観芸術」へ日本の工匠たちを導いた「一種のアート・ディレクター」と評している。『日本後紀』の巻廿四に如宝の卒伝がみえる。
弘仁六(八一五)年正月己卯 少僧都博傳大法師位如寶卒。大唐人。不知何姓。固持戒律。無有缺犯。至於咒願。天下絶疇。局量宏遠。有大国之風。能堪一代之壇師者也。
十代で師に従って異国に渡り、奈良後期から平安初期にかけての激動期に、師の教えを実践すべく活動した彼を、「天下絶疇。局量宏遠。有大国之風。」と賛しているが、『本朝高僧傳』巻五十七には、「桓武帝輿后妃太子、就寶受戒」とあり、『元亨釈書』にも「戒行清白ナリシカハ、当代コレヲ崇敬セリ」と記されている。斉藤氏は『性霊集』中の「為大徳如宝奉謝恩賜招提封戸表」を引用し空海との親密な交流も指摘しており、鑑真の後継・唐招提寺造営の中核だったばかりでなく、平安初期における仏教界及ぴ芸術界の先導者として、最も重要な人物の一人だったと忠われる。
(4) 「隅鬼」について
金堂創建時(八世紀末)に設置されていたと推定される「隅鬼」は、どのような意図をもって、堂の四隅の尾垂木に座り隅木を頭で支える像として配置されたのであろうか。鑑真は在唐時より戒律を広めるために弟子達を率いて各地に旅したが、『唐大和上東征伝』の天寶九(七五O)年の一節に次のような記述がある。
従此七日至潤州江寧縣入瓦官寺登寶閣閣高二十丈是梁武帝之所建也至今三百餘歳微有傾損、昔一夜暴風急吹、明旦人看閣下四隅有四紳跡長三尺入地三寸、今造四神王像扶持閣四角、其神跡今尚存焉。
これによると瓦官寺宝閣は、三百年の歳月を経て僅かに傾いていたが、その四隅には長さ三尺、深さ三寸の巨大な足跡が残っており、それに関する逸話として、足跡は暴風の吹いた翌朝に出来ていたもので、寶閣を暴風から守るため支えた四神の残した足跡と伝えられていた。鑑真一行が立ち寄った時には四神王の像が造られ閣の四隅を扶持している、という様子が記されている。足跡は地面に残されたものであろうが、この記事だけでは四隅に造られた四神王の像がどの位置にあったか不明である。
『唐大和上東征伝』に出てくるもう一つの記事として、次のようなものもある。これは、天寶七(七四八)年の五回目の渡航の試みの記事である。(結果は海南島に漂着し失敗。)
去岸漸遠風急波峻、水黒如墨沸浪一透如上高山、怒涛再至似入深谷、人皆荒酔但唱観音、舟人告白舟今欲没有何所惜、即率棧香籠欲拠、空中有聲言莫拠、即止中夜時舟人言莫怖有四神王著甲把杖二在舟頭二在檣舳邊、衆人聞之心裏稍安。
ここにも暴風に対する守護神として「四神王」が記されている。「四神王」という語句がみえる経典としては、陀羅尼集経など三経あるがいずれも暴風との関連はみられない。
これらに記された「四神王」が、「隅鬼」のモデルとなった可能性は十分あるのではないだろうか。前述したように渡来した鑑真一行には〈雕檀・刻鏤〉と記された彫刻師が同行してきたはずで、「隅鬼」の制作者は、これらの工匠、あるいは彼らの指導を受けた日本の工人だったのであろう。金堂本尊の盧遮那仏蓮花座の内部に「造漆部造弟麻呂 造物部広足」という墨書があり、また薬師如来像光背の唐草の背面に「右白下七枚 買奴彫之 左白下七枚 乙尊彫之」という墨書がある。これらの人名は仏像制作や唐草彫刻に従事した工人であろう。ただそこには、金堂創建全体の「アー卜・ディレクター」たる如宝の意志が反映していたはずで、瓦官寺寶閣の四神王のイメージがあったとすれば、「隅鬼」は暴風から金堂を守り扶持する願いを込めた像といえる。さらにいえば、弘仁元(八一O)年に創建されたとされ、江戸中期の一八O二年に落雷で焼失した唐招提寺五重塔にも、隅木を支える「四神王」が設けられ、これにならって九世紀後半に創建された束寺五重塔にも設置されたということも考えられる。
このように類推すると「隅鬼」とされていることに疑問の念が浮かぶ。像容を再検討すると、手指は五本あるようで、「鬼神形」の特徴(手足の指は二〜三本)にそぐわない。(山石岡茂樹氏は、日本における五本指の鬼形の例としてこの像など三例をあげているが、逆にこの像は鬼ではないとの証例ともいえる。)瓦官寺の話には、「閣の四角を扶持」する「四神」「四神王」とあらわされ、そこには「鬼」的要業はみられない。唐招提寺像の場合、歯を必死に食い縛り大きく目を見開く表情から「鬼」と認知されてしまったのではないだろうか。もしかするとそこには、奈良期や平安期に多くつくられ、苦闘し叫喚する四天王邪鬼像の影響があったのかもしれない。
第三章 まとめ
ここまで、仏殿・仏塔の軒下を支える邪鬼・力士像についてみてきたが、各寺院には仏殿・仏塔・仏像に関する史料(古記録や棟札等)はあっても、軒下の像に関するものは皆無に近い。それ故か、先行研究も殆どなく、像容に関する比較検討に終始してしまった観がある。個人的想像の範疇を超えないまとめだが、唐招提寺創建時に屋根の四隅の隅木を支える束として、堂の倒壊を防ぐ願いをこめた「支承の力士(神王)」= 「隅鬼」を設置したことが、このような像の起源となったのではないだろうか。もちろん、インドにも塔の門柱の梁を支える「ヤクシャ」があり、ガンダーラにも仏座を支える「アトラス」があり、中国や朝鮮にも仏寵・仏座・仏具等を支える「力士」「神王」等がある。それらと同じく、仏の教えに従いその一部の下支えとしての役目、暴風等から仏閣を守り倒壊を防ぐ役目を、彼らは千数百年間果たし続けているのであろう。唐招提寺金堂以降の建造物にも、その役目の採用・不採用の多寡は不明だか、主として畿内中心に広まっていたのではないだろうか。しかし、仏像と違って明確な信仰の対象とはならず、またその意味するところが正しく伝わらずに、次第に仏殿・仏塔の四隅で「邪気」を払う「邪鬼」としての性格付けをされたり、あるいは装飾的な意味合いに転化したりという変遷をたどったと考える。いずれにしても本来は、仏殿・仏塔の周囲の「邪」なるものに対する見せしめやそれらを寄せ付けない魔除けのためのものではなく、仏にとっての従者(眷属)であり、形象としての尊格を支えるものとしての意味をもつものと考える。また、密教においては塔を密教の中心仏である大日如来の三昧耶形(如来そのもの)とみなしている。そうであれば、如来の台座を支える神王・力士の変化形とみることもできるのではないだろうか。
■ 結ぴにかえて

 

本稿をまとめるにあたり、四天王像や軒下の像を求めて、この二年間に百余の寺社を訪れた。軒下の像に関してはその像容の多様さに驚きを感じ、ときには奇妙な像に対面して首をかしげることもあった。四天王邪鬼について、水尾比呂志氏はその著作『邪鬼の性』のなかで、それぞれの邪鬼像の「性」を的確
に表現され、また岡本太郎氏は『芸術新潮』に寄稿した「邪鬼」と題した一文のなかで、様々な形相に閑し、「その言い知れないカオスに、われわれの存在の矛盾の状況が凝縮している」と表現されている。両方の邪鬼像ともに、歴史という大きなうねりや混沌の中での、人々の凝縮された思いの姿であることを強く感じている。
この稿をおこすきっかけとなったのは、二OO五年春に東京国立博物館で開催された『金堂平成大修理記念 唐招提寺展 国宝 鑑真和上像と盧遮那仏』において、「隅鬼」を間近に見たことであった。高さ三十センチほどの、力強いが小さな体躯で巨大な金堂の軒下を支えているという。それも千二百年という時間を。風雨に晒されてきた事を考えると、現存していること自体が奇跡的なことだと感じた。本稿は、その宗教性や思想的背景を詳らかにすることを志したが、その端緒に留まっているという感はぬぐえず、今後もこのテーマを追い統けたいと考えている。
 
資料 黄文本実(實)
薬師寺の仏足石と仏足歌碑のこと
御跡(みあと)作(つく)る 石(いし)の響(ひび)きは 天(あめ)に到(いた)り 地(つち)さへ揺(ゆ)すれ 父母(ちちはは)がために 諸人(もろひと)の為(ため)に / [父母のために、また衆生のために仏足跡を刻むその石の響きは天地を震い、諸天諸仏も感応あれと祈ろう。]
三十(みそち)余(あま)り 二(ふた)つの相(かたち) 八十(やそ)種(くさ)と 具足(そだ)れる人(ひと)の 踏(ふ)みし跡処(あとどころ) 希(まれ)にも有(あ)るかも / [三十二相八十種好が具わった人(釈迦)の踏んだ跡は、たいへん珍しく、ありがたいものである。]
この御跡(みあと) 八万(やよろづ)光(ひかり)を 放(はな)ち出(いだ)し 衆生(もろもろ)済(すく)ひ 度(わた)し給(たま)はな 済(すく)ひ給(たま)はな / [この仏足跡から八万の光明を放ち出して、迷いの衆生を救い、悟りの彼岸に至らし給え。]
大(おほ)御跡(みあと)を 見(み)に来(く)る人(ひと)の 去(い)にし方(かた) 千歳(ちよ)の罪(つみ)さへ 滅(ほろ)ぶとぞ言(い)ふ 除(のぞ)くとぞ聞(き)く / [一たび仏足跡を拝めば、過去千歳の罪も消滅するのである。]
薬師寺の大講堂に銘文のある仏足石(高さ69cm)と仏足歌碑(高さ194cm。写真左)がある。もともと、両者は西塔跡南方の仏足堂内に祀られ、仏足石の後方に仏足歌碑が立っていた。同寺の西塔など伽藍復興の機会に講堂内に移されたのだろう。仏足石はその側面に彫り出された銘から、文室真人智努(ちぬ)(天武天皇孫)が亡夫人茨田(まんだ)郡主 法名良式の供養に造立したものである。造立年は天平勝宝5(753)年7月15日である。作業は前年の天平勝宝4年9月7日から始まっており、落慶に1年以上を要している。仏足図が仏足石の上面に彫りだされている。それは、唐の王玄策が中天竺の仏跡から転写し唐の普光寺にあったもの(第一本)を、入唐の使人黄文本実が写し帰り(第二本)、奈良の禅院(道昭創立)に保管されていたものを転写(第三本)し、画師越田安万が石に写したものだ。中天竺の仏足図から数えて第四本である。仏足石の側面に、仏足の由来と奇跡が西域伝や観仏三昧経の一節を引き刻まれている。こちらは銘から推して三国真人淨足(継体天皇の皇子椀王の後裔)が引き写したものであろう。石工は判読不可。仏足石は不整形な自然石で埃をかぶったような褐色である。仏足図が描かれた石の表面は研摩されているが下部は造立当初から土中にあり、凹凸の補正を必要としなかったのであろう。いくつかの陥没穴や掻き毟ったような傷が相当広範囲にみえる。
さて、仏足石の後方に立つ仏足歌碑は粘板岩で、その周辺部が磨耗、劣化し板状の摂理面が露出している(写真参照)。石面を上下段に別け、総数21首の仏足歌が刻まれている。歌は5・7・5・7・7・7で歌われ、末尾の6句目が5句目の歌いかえになっており歌碑では小文字であらわされている。歌は仏足歌体といわれるもので、仏足石と一緒に遺存するわが国最古のものだ。後半部に呵嘖生死の4首をおき、前半部の17首は仏足石の製作風景(標記の歌1首目)から始まり順次、その功徳や滅罪の作用、釈迦への思慕など歌われている。歌中の2首目「三十余り二の相八十種と・・・」(標記の2首目)の句が後拾遺和歌集第20巻に採られ、光明皇后が山階寺(興福寺)にある仏跡に書き付けたものとして出ており、歌碑は興福寺にあった仏足石に附置されていたと考える者がいる。歌碑の来歴につき、江戸時代に奈良近郊の藪の中の小橋として用いられていたが、歌中に薬師の字がみえたところから薬師寺に移されたと述べる者もいる。古来、仏足石や歌碑の由来について論議があり、契沖や眞淵などもそれぞれ所説を述べている。歌碑の造立が仏足石の制作年代より下がるものであるにせよ、仏足石と仏足歌碑は創から薬師寺にあったものかどうか、疑問なしとしないというわけである。しかし、私は、歌碑はやはり薬師寺の本尊との関係や第1首目の詠歌のイメージから創から仏足石も仏足歌碑も薬師寺にあったものと思いたい。
仏足石の部材について、二上山辺りから産出するサヌカイトと推することができないものか。室戸の最御崎寺の境内に、石で叩くと澄んだ金属音がする鐘石という不思議な石がある。長年月にわたり叩かれ続けるうちに石の表面に沢山の陥没穴ができている。その形状は薬師寺の仏足石に似たところもある。サヌカイトは非常に硬く、叩くと石中で共鳴をおこし、よい音が出る。そうすると、仏足図等の製作に1年以上かかったとしても不思議ではないし、仏足図の製作時にノミの打撃音が辺りに響きわたったことであろう。仏足歌の表現は多少の誇張があるにせよ、実景であったという見方もできる。仏足石は踏むものだけではなく、堅木でできた木槌様のもので叩いて拝む作法もあったのではないか。仏足石の脇を叩くときっと澄んだよい音がするに違いないと思うのだが・・・。仏足石の製作が始まった天平勝宝4年9月、東大寺の盧舎那仏の開眼供養が行われている。翌天平勝宝5(753)年6月には鑑真和上が来朝している。そうした奈良の仏教的雰囲気が最高潮に達した頃、文室真人智努は仏足石の造立を発願したのである。  
 
仏教における「鬼」に見る日本人の宗教観

 

仏像や仏教と鬼のイメージはちょっと結びつかないように思えますが、四天王(してんのう)像などの足元をよく見ると、踏みつぶされているかわいそうな邪鬼(じゃき)がいます。そして、平安時代ころから行われている「追儺会(ついなえ)」や「鬼やらい」の仏教行事にも鬼が登場します。

古代インドの闇の神「夜叉」は、はじめは仏法に敵対しますが、お釈迦さまに調伏(ちょうぶく)されて護法善神として仏国土に控える戦士(神将)になりました。そして彼らの家来である邪鬼は、かつては夜叉神の命令で闇世を飛び回り、さまざまな災厄をもたらしていたのですが、今では四天王に調伏されて、踏みつけられています。
お釈迦さまが亡くなられたあと、その遺骨を盗んで逃げた捷疾鬼(しょうしつき)といわれる鬼が、韋駄天(いだてん)に取り押さえられる話があります。この捷疾鬼は、ペストやコレラ、インフルエンザなどのはやり病(やまい)の象徴であったと思われます。
さて寺院のなかの邪鬼を見ていきましょう。まず法隆寺金堂の飛鳥時代につくられた四天王は、中国北部の硬い造形を持った仏像様式を示し、その邪鬼は、青銅器の饕餮文(とうてつもん・古代神話の怪獣の顔)のようなユーモラスな顔をして、まるで四天王を守る乗り物のようにも見えます。
唐の様式である天平時代につくられた東大寺戒壇堂(かいだんどう)の四天王に踏まれている邪鬼は、たいへん表情豊かで、いうことをきかない猛獣が駄々(だだ)をこねているようです。それが、鎌倉時代の邪鬼になるとたいへん写実的で、苦悶や忿怒を思わせる顔をしながらも、どこか愛嬌(あいきょう)があります。
法隆寺五重塔では、初層の屋根と裳階(もこし)の間で、邪鬼(力神)が四隅に一体ずつ、重量挙げのようなスタイルで軒を支えています。かつては悪鬼だった邪鬼が、改心して縁の下の力持ちとして仏法のお役に立とうとしているけなげな姿に見えてきます。
興福寺の一対の有名な邪鬼の像・天燈鬼と龍燈鬼は、立ち上がって灯明をささげ、仏法の光で闇を照らしています。この2体の邪鬼は、私たち日本人が考える「オニ」の姿にもっとも近いものがあります。
中国の「鬼(キ)」と日本の「オニ」は違います。中国の鬼は悪霊や亡霊のことで、姿は見えないものです。しかし、日本では早くからさまざまに擬人化され、絵画などに登場しました。
「オニ」は、酒呑童子(しゅてんどうじ)や茨木(いばらき)童子のような人をも食らう恐ろしい物怪(もののけ)である反面、いったん味方になってくれたら、その強さゆえに、災厄を払い福を招く頼もしい存在であるという二面性をもっています。
今日でも、「鬼神」「鬼将軍」のような表現が用いられます。これは、「悪源太」「悪兵衞」の名前のように「悪」が「強い」を意味しているのと同じです。また荒くれ者が調伏されて、守護者となる構図は、弁慶(べんけい)と牛若丸(うしわかまる)とも共通しています。
京都の祇園祭(ぎおんまつり)は、八坂神社(やさかじんじゃ)のご祭神「牛頭天王(ごずてんのう)」のお祭りですが、牛頭天王の姿や性格は、不動明王とともに日本人が共通して抱く「オニ」のイメージにぴったりです。また牛頭人身(ぎゅうとうじんしん)の容貌魁偉(ようぼうかいい)な神は、ギリシャ神話の怪物・ミノタウロスを連想しますし、『西遊記』や中国の演劇にも登場する「牛魔王(ぎゅうまおう)」にも似ています。
大みそかに山から降りてくる神さまを、家々で迎える習慣は古代からあったようです。この神が鬼の姿に転じた行事が、秋田の「なまはげ」など日本各地に今も残っています。人々は鬼を恐れながら囃(はや)し、もてなします。彼らは、日本人の「オニ」観をよく表しています。
ひたすら恐れ忌避すべき中国の「鬼」を、愛すべき日本の「オニ」に変化させた私たちの宗教観は、かつての朝廷の反逆者・平将門(たいらのまさかど)を今なお神田明神の祭神として祀る心情と共通する、絶対悪をつくらない日本人の優しい心を感じます。
またそのことは、すべての者が救われるとする日本の仏法が背景にあるためだといえるでしょう。 
 
七福神 / 毘沙門天

 

七難を避け、七福を与える北方守護の神仏である毘沙門天は、仏教とそれを信じる人々を守る四天王の一人であり、憤怒の相に唐の武人装束をまとい、左手に宝塔、右手に金剛棒(あるいは三叉戟:先が三つになった槍)を持ち、二体の邪鬼を踏みつけている姿で表わされ、古くから武人たちの厚い信仰を得ている。
北方守護の神
毘沙門天のルーツは、インドの前期ヴェーダ時代(紀元前1500〜紀元前1000頃)からの古い神で、北の方角を守る神ヴァイシュラヴァナで、これが毘沙門天と訳されており、多聞天と呼ばれる場合もある。また、吉祥天は毘沙門天の妻である。
インドでは四方を守る神がいて、北を守る毘沙門天のはかに、東のドリタラーシュトラ(持国天)、西のビルーバクシャ(広目天)、南のビルーダカ(増長天)、これらが仏教に取入れられて四天王と呼ばれるようになった。
仏教での四天王
仏教の世界観では、世界の中心には須弥山という山があり、そのまわりに九つの山と八つの海があるという。須弥山の頂上にはインドラ(帝釈天)がおり、その配下として、須弥山の中腹で四天王が四方を守るという。そこから、優れた部下四人を四天王と呼ぶようになった。
四天王の伝来は仏教の伝来とはぼ同時であるが、平安時代になると、平安京を守るため都の北方に建てられた鞍馬寺に毘沙門天が祀られている。また、毘沙門天を本尊とする寺院としては、仏教擁護をめぐって蘇我・物部の争いで、不利に陥った蘇我馬子と聖徳太子が信貴山に登って生身の毘沙門天像に祈願し、勝利を得たあと太子が伽藍を建立し、自作の毘沙門天像を安置したと伝えられる信貴山真言宗の朝護孫子寺が有名である。
天邪鬼
毘沙門天をはじめ四天王は邪鬼を踏んでいるが、これを天邪鬼(あまのじゃく)といい、仏教の教えやそれを信じる人々に害をおよぼす邪鬼であるいう。日常生活でもアマノジャクという言葉が使われるが、実はここから出ている。この天邪鬼のモデルは、毘沙門天の鎧の腹部にある鬼面だという。
武道の神
毘沙門天の勇壮な姿から、九世紀ごろには、中国で武道の神として崇拝されていたようだ。その姿もインドから中国に渡るにつれ、貴人から武将の姿に変化していったという。日本では戦闘の神として信仰を集めた。
南北時代の武将楠木正成は、自らを毘沙門天の申し子とし、幼名を多聞天にちなんで多聞丸と称したし、上杉謙信も自分のことを毘沙門天の生まれ変わりだと信じ、丸に毘の字をかたどった戦旗を使用していた。
福の神
四方の守護神あるいは戦闘の神である毘沙門天が、なぜ福神になったのかというと、あまりはっきりしたことがわっかていない。
毘沙門天の「びしゃもん」は、サンスクリット語で「あまねく聞く」という意味で、もともとヒンドゥー教の倶毘羅(クーベラ)という、鰐を神格化した神で、財宝を守る神とされている。このヒンドゥー教で財宝・福徳をつかさどる神クベーラと毘沙門天が同一視されたことによるという説もあるが、室町時代には、すでに福神のイメージができあがっていたらしい。
たとえば、「蛭子(エビス)毘沙門天」という狂言がある。その内容は、エビスと毘沙門天が美しい娘の花婿に立候補するが、結局かなわず、二人は福を授けて帰っていくというものである。
毘沙門天とムカデ
毘沙門天には意外な使者がついている。ムカデである。毘沙門天を祀った鞍馬寺では、昔正月の初寅の縁日に「お福むかで」といって生きたムカデを売った。(といっても漢方薬に使ったらしい)七福神の絵のなかにも、毘沙門天の横にムカデを描いたものもあるが、なぜムカデなのかというと、これも謎である。
毘沙門天が鉱物を掘る鉱山師や、その鉱物を加工する鍛冶師などにも信仰されていたという形跡がある。そこから推理すると、ムカデは鉱山の神ともされているが、それは細長く連なる鉱脈の形や鉱山の穴がムカデの形に似ているからであろう。そうなると、鉱山の神=ムカデ=毘沙門天という関係がでてくることになる。 
毘沙門天2
毘沙門天(多聞天)は、世界を守護する最上級の神である四天王(持国天、増長天、広目天、多聞天)のひとりで、夜叉や羅刹を配下にもち、北方を守る。財神(金持ち)で、武神(強い武力をもつ)である。
インド神話では、「ふたつの巨大な戦車を持ち、大空をかけて、宝石の雨を降らせたりした」。「巨大な戦車」とは、悪を粉砕する「法輪」の基であろうから、忍者の使う「八方手裏剣」の原型は「毘沙門天」も持っていたということになる。後に、日本で七福神のひとりに加えられる。
日本での毘沙門天
1 仏教において 〜 表情は、穏やかで、皮革製の甲冑をつけ、左手に三つ又になった槍、右手に宝塔を持ち、直立で立つ(足下に邪鬼をふみつける)。
2 武神として 〜 憤怒の形相で、腰に獅子や天邪鬼の飾りをつけ、足下に邪鬼をふみつける。
3 七福神となる 〜 四天王の一人として日本に入ってきたが、たくさんの財宝を持つゆえに、七福神に加えられる。
平安時代の初めに、毘沙門天単独の信仰の「鞍馬寺」が建てられた。義経(遮那王)は、ここに預けられ、仏教や武術、陰陽道などを学んだのではないだろうか。
そのほか、毘沙門天は、護法神、戦勝神であり、「悪鬼、羅刹」に対しては、退魔力を持つ「切り札」であった。
平清盛は、源氏調伏のため、毘沙門天の像を作らせた。
楠正成の幼名は、「多門丸」であった。
上杉謙信は、自らを毘沙門天の生まれ変わりと信じ、旗に「毘」の文字を使った。  
妖怪と絵馬と七福神
現代は、平安末期・室町末期あるいは江戸の文化・文政期に似ている。妖怪と絵馬と七福神というのが、これらの時代を象徴する三点セットであり、現代も流行しているのがその証だというわけである。平安末期は末法の世であり多くの妖怪が跋扈した。室町末期も中世から近世への大転換期であり付喪神(つくも)・絵馬・七福神が現れた。文化文政期は、元禄時代というバブル後の低成長期であり、怪談が流行り、小絵馬・七福神巡りができた。
妖怪あるいは怪談というのものは、人々の共同幻想・共同幻覚によってイメージされ作り上げたものである。妖怪は、一面では人を恐れさせ危害を加えるものであり、他面では恵みを与えた。妖怪は他界との境に出没した。峠・里山・海浜・辻などである。更地に家を建てると地神が出ることもある。それらが平安末期に百鬼夜行した。陰陽師は「鬼」を言い、密教層は「天狗」を言い、他にも御霊が祟って河童や狐が出た。
鬼は、正月に訪れる年神(としがみ)などの他界から来訪する祖霊の変形である。一つ目の鬼は、神祭の生贄として片目・片足を損じられた神である。その零落した姿が一つ目小僧である。大江山の酒顛童子は山の神の化身である。山の麓に住む人の祖霊が山中の他界に止まって成った神であった。最澄が比叡山を開いたとき帰依を拒んだ山神が大江山に籠ったのである。童子姿なのは子供が心霊の憑巫(よりしま)と成り易いからであった。
天狗は、人間界と隔絶した山に棲み、山の支配者として人に畏怖される超自然的な存在だった。天狗が人に害をなすのは、人が天狗の支配領域を犯したからである。山中で修行する山伏とイメージを重ねられることもあった。しかし人との交渉で里に棲むようになり、人より劣る道化へと落ちぶれることもあった。
河童は2種居た。人型の者は頭に皿があり、獣型の河童は背に甲羅があり人や馬を水中に引きずり込んだ。また相撲やキュウリが好みだった。キュウリは人の味がするからだそうである。水の精であるが山中にも交互に棲んだ。
岩井氏は河童の由来を書こうとしないので、ケノが書く。河童は東南アジアのワニとカエルのキメラである。古事記にある白兎海岸でウサギの皮をはいだ和鰐と同じく、本当のワニの棲む邦から渡ってきた海族の記憶が変化したものである。川辺の鹿なんぞ引きずり込んで食っちまうのだ。
現代の妖怪は、1960年代、水木しげる等による妖怪マンガのブームに始まった。今でも鬼太郎やベムは生きている。それは高度経済成長期の裏面にある人の不安や挫折感を解消しようとする際の不合理世界を表していた。1975年から80年頃は、口裂け女を始めとする都市伝説が現れた。高度成長の歪が顕著になった。同時に新宿の母や風水という占いが流行った。1990年代は、学級崩壊と並行してトイレの花子さんなどの学校の怪談も生まれた。1997年の『もののけ姫』や2001年の『千と千尋の神隠し』といった宮崎駿のエコロジーと神界の話が組合わさった映画が大いに受け入れられた。現代も百鬼夜行しているのである。
絵馬は古い歴史を持つ。元々は奈良時代に雨乞いや暴風雨鎮静のため馬を神社に献上したことに始まった。日食の際にもあった。奈良末期になると生馬ではなく、木で作った馬形(うまがた)を献上した。馬形を作り得ない所は馬の絵を奉納するようになり16世紀は絵馬が主流となった。室町中期には馬以外の画題が登場し、後期には大型化して一種のブームがあった。江戸期には、二月初午(はつうま)と十二月荒神祭に、小型の絵馬がかけられた。やがて個人的な願望や悩み解消を図示するようになり、文化文政期は絵馬の全盛となった。それが現代では受験合格祈願に特化し、江戸期までの匿名性が失われている。
ケノ的な余談である。神戸市の六甲山の展望台に、南京錠を手すりに掛ける習(ならい)が生まれている。ずばり恋愛成就の祈願で、女性が男性に対し両名の名を書いた南京錠を掛けさせるのである。江戸期の絵馬に「酒に錠」の絵柄があったが、それに似たこの南京錠も絵馬の一種だと言えよう。それにしても、指輪や貞操帯の換喩のようでもあり、キモチの悪いものである。
七福神がなったのは、室町末期であった。それまでに6神や8神の時代があった。7神に決まったのは、「般若波羅蜜を講ずれば、七難即ち滅し、七福即ち生じ、三姓は安泰にして帝王は歓喜す」という文言から七福となしたと言われている。恵比寿・大黒天・弁財天・毘沙門天・布袋・福禄寿・寿老人である。
恵比寿は、夷(エビス)と同じで異郷から来臨して幸福をなす客神(まろうどがみ)・寄神(よりがみ)であった。摂津西宮の広岡神社の摂社として夷神が祀られて、後に「戎まわし」「戎かき」「傀儡舞(くぐつまい)」という操り人形芝居の全国興行で一躍人気を博し、恵比寿神が知れ渡った。
大黒天は、もとマハーカラという忿怒形の恐ろしい戦闘神であったが、中国の唐代に寺院の食堂の守護神へと変容した。更に日本の天台宗に伴って渡ってきたが、大国主のダイコクと習合して民衆への支持を広げた。商品経済が発展する室町期には、俵と打出小槌を持つ商売繁盛の神となった。家々に大黒天のオフダを貼る民間信仰が流行したが、その時にオフダを貼った土間と床間の境の柱を「大黒柱」と呼ぶようになった。
弁財天は、河の神サラスヴァーティで、音楽に秀でた女神であった。その漢訳が大弁才天女であり省略して弁才天と呼んだ。源頼朝の依頼で文覚上人が江ノ島に弁才天を勧進したところ、室町時代に福の神として民間に広まり、名も弁財天となった。
毘沙門天は国家鎮護の軍神であった。やはり室町末期に財を授ける神として信仰されるようになった。
布袋和尚は、弥勒菩薩の分身で阿逸多(あじた)や梅多里(みとら)の異名を持つ。奈良時代に伝わり平安期に広く説かれた。その弥勒下生信仰が福の神へと変容したのである。
福禄寿および寿老人は共に南極寿星(カノープス)が神格化した仙人であった。異名同士だったのだが、室町時代に2人として絵に描いたことから別人となった。不老長寿をもたらすとされた。
先に書いたように室町末期に7神に固まった。平安末期に起こった観音霊場巡拝を真似て、江戸期に京都で七福神にちなんだ寺院を巡る「七福神巡り」が考え出された。これが寛政年間に江戸に伝わり、江戸の七福神めぐりができた。更に各地に伝わりローカル七福神めぐりが設定された。それは今も観光スポットとして人気を保っているのである。
 
鬼は煩悩の化身

 

鬼は外
「福は内、鬼は外」。このかけ声には、しあわせになりたい。わざわいから逃れたいという素朴な願いがこめられています。自分自身の心の鬼を払いたいという思いもひそんでいるような気がします。また、この短いかけ声の中に、鬼とは何なのかが語れられています。鬼は福=しあわせの反対のもの。人にふりかかる、いろいろな災厄を、鬼のしわざと考えたのですね。節分の鬼は、まさに、そんな疫病や災厄のシンボルですね。逆の言い方をすると、節分の鬼は、人の災厄を肩代わりしてくれる気のいい鬼たちなのかも知れません。
鬼は隠
平安時代「和名抄」に、「おには隠」とあります。「隠はおん」。目に見えないもので大原神社の節分す。清少納言も「鬼は目に見えぬぞよき」と言っています。また、万葉仮名で書きあらわされている万葉集では、鬼という字を「モノ」とか「シコ」とよんでいます。今でも、「あやしいもの」とか「もののけ」などと言いますね。目に見えず、人にわざわいをもたらすもの、それが「モノ」。鬼のルーツは、「モノ」だったようです。節分の豆まきは、室町時代の中頃から行われていますが、もっぱら、暗闇に向かって豆をまいています。昔は、「オニオドシ」とか「オニヤライ」と言う、一種のまじないをしていました。節分になると、柊(ひいらぎ)の小枝や、鰯の頭、ネギなどを玄関にかざすのです。今も続けておられる家があったら貴重なものです。是非続けて下さい。これは、トゲや臭いで鬼の侵入を防ごうというわけですね。追うというより防ごうとしています。鬼を姿のないものと見ています。
鬼門
目に見えずこわいもの、これほど不気味なものはありません。今でも新型肺炎や狂牛病など、目に見えぬものにおびえています。そこで、人々は鬼を目に見えるものにしようと考えました。陰陽道(おんみょうどう)で、鬼は鬼門(きもん)から出入りすると考えられていましたが、鬼門は北東の方向、昔は丑寅(うしとら)の方向といったので、牛の角(つの)、虎の皮のふんどし姿の鬼となったわけです。人がふんどしをしなくなると、鬼もパンツをはくようになります。
鬼は神か妖怪か
日本の鬼は、時にナマハゲのように神を思わせ、酒呑童子のように人のようにもなり、醜悪怪異なオバケともなります。そんな鬼の特徴をよく示しているのが「こぶとり爺さん」の鬼です。鬼はコブをとるという超能力をもっているのです。そして、よいお爺さんのコブはとってやる。悪いお爺さんにはコブをくっつける。昔の人は、鬼は人の心次第で、恩恵も与えてくれるし、懲罰もあたえるとみていたのでしょう。多神教国・日本ならではの鬼であり、欧米の悪魔と大きく違う点です。
鬼は煩悩の化身
日本の鬼を多彩にしたのは仏教です。餓鬼、鬼子母神、夜叉(やしゃ)など、インドの鬼たちが、お釈迦さまと一緒に日本へやって来ました。それに、邪鬼(じゃき)や天燈鬼といった鬼も生まれます。仏教では、鬼を煩悩(ぼんのう)の化身(けしん)とみています。また、地獄の鬼は、日本の鬼を非常にこわいものにしました。鬼婆は地獄の奪衣婆(だつえば)が原型のようです。不思議なことに鬼爺と言いません。何故でしょう。鬼は仏さまの引き立て役になりながら、人の心の中へは入り込み、多彩なものとなっていったのでしょう。
鬼は今も生きている
鬼は昔の人々の共同幻想がつくり出したものですが、今も人の心の中に生き続けています。良かれ悪しかれ、鬼と言われる人は、いつの世にもいるのです。仕事の鬼もいるし、鬼才といわれる人もいます。鬼は遊びの素材となって暮らしに潤いをもたせる役割を果たしなが柳田村 猿鬼の宮(岩井戸神社)ら、ちょっぴり戒めの役割も果たしてきました。「鬼にならずに 人になれよ」と訴えてきたのです。いま、「ないもの」「欠けているもの」が見えない時代といわれます。価値観も多様化し、人の心がバラバラの不安な時代です。鬼を通して、目にみえぬものをみつめようとした先人たちに学びたいものです。大江山の周辺に、鬼伝説が定着したのは、厳しい山村にあって、伝説を共有することによって、地域の絆を強めあおうとしたからだと思います。
猿鬼
最後に申年なので珍しい猿鬼を紹介しておきましょう。能登半島の先端近い柳田村です。大昔、猿のようにすばしっこい鬼がいて、結局神さまに、弱点の目を射ぬかれてやられてしまいます。そこを当目といい、鬼塚や猿鬼の宮があります。猿鬼の正体は何者だったのでしょうね。 
 
節分の鬼

 

鬼は隠
今年も節分が来ました。現在の生活の中では、節分といっても暦の上の通過点の一つぐらいの感覚しかありませんが、昔の人々にとっては、節分というのは、一年の大きな節目の日でした。
旧暦で、農業が主体であった大昔、旧暦の大晦日と春を告げる節分は、ほぼ同時期だったのです。年があらたまり、万物の甦る春の訪れを告げる日、「邪気を払い、今年も元気で過ごそう」と、自らをふるいたたせようとして始まったのが、節分の豆まきだったと思います。現代でも新春を迎えると信仰をこえて、ドッと初詣でに人が繰り出しますが、似たような心理ですね。
今では、幼児でも鬼の実在など信じていませんが、大昔の人々は、かなり実在感をもって鬼を見つめています。それを笑うよりもむしろ、その背後にあった生活の厳しさや、まじめな生き方に目をむけるべきでしょう。
「鬼」のルーツは「隠」といわれます。隠れているもの、目に見えず災厄をふりまくもの、人間の力を超えた不思議な出来ごとに、鬼を感じ、鬼のしわざと考えたのです。鬼は、人の心の不安感に根ざして、つつしみの心、おそれの心がつくり出したものともいえますね。
京都は鬼のふるさと
日本の鬼の原型をつくり出したのは、平安京の都人たちであったであろう。とりわけ、陰陽師や密教僧など、当時の知識人が、その形成に大きな役割を果たしたのではないかといわれています。以来、千年の歳月をこえて、鬼は人の心にすみついて、長い長い歴史をたどってきました。だから、鬼は実に多様です。
人々は、つくり出した鬼の属性を巧みに使い分け、強いもの、こわいもの、疫病のシンボル、時には山の神の化身として、また子どもたちの遊びの素材として、暮らしの戒めとし、生活のアクセントとして活用してきました。
鬼のことわざの多彩さは、よくそのことを物語っています。鬼のふるさととでもいうべき京都には、実にさまざまな鬼の芸能や伝承が残っています。酒呑童子物語も平安京を舞台にした話です。そんな京都に、実にユニークな節分行事が伝わっています。
廬山寺の鬼法楽
寺社の多い京都では、さまざまな節分行事が行われています。それぞれに工夫をこらした多彩な内容です。また京都では、節分に、「四方詣」といって、東北の吉田神社、東南の稲荷大社、西北の北野天満宮、西南の壬生寺の四社寺へ参詣する風習もあるということです。
そのうち、正鬼門に当たる吉田神社の節分祭は、方相氏(ほうそうし)があらわれるなど、古式をとどめています。今年は、非常におもしろい「廬山寺の鬼法楽」を紹介しましょう。
廬山寺は、中京区広小路上ル、府立医大病院の近くにあるお寺ですが、「角大師(つのだいし)」といわれた元三大師良源の開創になる寺です。ここの節分行事は、天暦四年(九五〇)、良源が宮中で三百日の修法を行ったとき、三匹の鬼があらわれて妨害したのを、良源が護摩の力で退散させたという故事に由来するといわれています。
松明と剣を持った赤鬼、斧を手にした青鬼、槌を持った黒鬼の三鬼があらわれ、踊り狂います。法弓師が天と四方に向かって破魔矢を放つと、これを合図に観衆たちが一斉に豆や餅を投げつける。鬼は苦しみ悶えて退散していくというストーリーですが、おもしろいのはこの三鬼、赤鬼は「貧」(どん=欲望)、青鬼は「瞋」(しん=怒り)、黒鬼は「痴」(ち=愚痴)をあらわすといわれていることです。
鬼は欲望の化身
この廬山寺の節分の鬼は、鬼を人の心にひそむ悪ととらえ、まがまがしい行為のシンボルとして鬼をみている代表的な事例ですが、昔の人々は、多分に、鬼を人間の欲望の化身としてとらえているふしがみられます。
仏教思想の影響と思われますが、鬼を「欲望をあらわにして傷ついたもの」、もっと端的にいえば、「煩悩(ぼんのう=心をわずらわす妄念)の化身」ととらえているのです。結婚式の「角隠し」の風習も、こうした考え方の延長上のものといえますね。
鬼は外
私たちは、近代文明の恩恵を受けて、豊かで便利な生活を享受しています。不景気だ、先行き不透明だといいながら、世界の中で最も平穏で恵まれた国の一つであるような気がします。しかし、「欲望」「怒り」「愚痴」がうずまき、何となく不安であり、不満感が漂っています。子どもの非行どころか、大人の非行があとを絶ちません。豊かな物質文明を手にする中で、人間の力を過信してしまったツケが回って来ているような気がします。
先人たちが節分に託した「つつしみ」と「おそれ」の心を、せめて節分の夜、ふりかえってみたいものです。近くの寺社に詣で、暗闇にむかって、声高く「鬼は外」と叫び、心の鬼を追っ払ってみませんか。 
 
神と鬼の山

 

神々の足跡 / 天照さんと海人族
近年の由良川流域における埋蔵文化財調査の成果は、めざましいものがあります。全国的に注目された広峰古墳の景初四年紀年銘鏡の出土は、その最たるものです。これら多くの出土品は、当地方の古代の栄光をしのばせてくれます。まずは、そうした成果を、みんなで再確認しあいたいものです。
ところで「実証」が重視される世の中、郷土史の研究においても、伝承や伝説などは、とかく他愛もないものとされがちです。勿論、史実との混同は避けなければなりませんが、伝承や伝説を、ひたむきに生きた祖先たちが暮らしの中で育み、その記憶の深層にあったもののエキスととらえれば、ものの見方に幅ができます。日本人は、古来、人を神としてまつり、平気で人を鬼と呼んできました。神を実在した人々の投影と考えれば、ロマンがひろがっていきます。
天照神社 一例をあげましょう。福知山市今安の「天照さん」こと天照玉命神社。発掘調査が物語るように、福知山でもいち早く開けた豊富郷の総社で、福知山では数少ない延喜式内社の一つです。この「天照さん」と、宮津市天橋立、傘松公園の下にある丹後一の宮こと「籠(この)神社」、そして若狭湾の冠島にある老人嶋(おいとしま)神社の祭神が同じ神なのです。
地図上でこの三社を結んでみると、古代、若狭湾と由良川が、人々や文化を運んだ海の道であり、川の道であったことがわかります。この三社の祭神、天照国照彦天火明命(あまてるくにてるひこあまのほめかりのみこと)は、当地方の古代を開拓したと思われる海人族(あまぞく)の祖神とされる神なのです。
「天田」という地名は、古代の皇室御領の田部に由来すると説明されてきましたが、私は「アマダ=海人田」説に傾いています。
浦島太郎の話は、海人族が運んだ話です。福知山の戸田に浦島神社があっても不思議ではないのです。由良川流域の海人族の足跡を一緒にさぐってみませんか。
信仰の山 / 大江山と三岳山
大江山中腹の鬼の博物館につとめて、はや10年。この間、足腰の達者なうちにと思い、ひまをみつけては大江山を歩きました。この年まで知らなかった、いろいろなものに出あいました。その感想は、一言でいうなら、大江山も三岳山も、人を拒絶した深山幽谷ではなく、早くから人の行き交う山だったんだという思いです。古い石碑や小祠、わけありそうな地名の何と多いことでしょうか。
大昔、山は祖霊の鎮まるところ、神のいるところと意識されていたのでしょう。この地方の農耕儀礼に色濃く残る田の神の信仰をみても、田の神は春になると里へ降り、秋が終わると山へかえると信じられ、今も素朴な「山の神さん」の信仰をとどめています。それに、山は里人に豊かな恵みを与えてきました。また水源でもあったのです。大江山の南斜面を流域とする宮川は、古文献に、昔、神通河と呼んだとあります。
大江町の元伊勢内宮の背後に、美しいピラミッド型の日浦ケ嶽があります。山頂には、岩座(いわくら=神の依代)と思われる巨岩が立っています。この山、一願成就の神体山として、今も信仰されていますが、遙拝所からみると、夏至の日、夕日が山頂に沈みます。偶然とは思えぬ神秘的な光景です。
巨岩といえば、福知山市の天座と大江町橋谷の境、かつての但馬街道、俵(たわら)峠の頂上に、巨岩がゴロゴロと並んでいます。「御座岩」といわれ、天照大神降臨の地で、これが天座の地名由来と伝えていますが、この巨石群の正体は一体何なのでしょうか。
大江山と三岳山が、古い時代、修験の霊場であったことも、今では忘れ去られようとしていますが、修験の関連遺跡は、今もかなり残っています。この両山の麓に、古刹が多いことも忘れてはなりません。すでに普甲寺や大仲寺はあとかたもありませんが、大江山や三岳山が信仰の山として栄えた日があったことを、ひとときたぐりよせてみたいものです。
陸耳御笠の伝説 / 加佐は笠
陸耳御笠(くがみみのみかさ)、聞きなれない名だと思いますが、大昔、青葉山から与佐大山(大江山)にたむろして、日子坐王(ひこいますのみこ=崇神天皇の弟)に討たれた土蜘蛛(つちぐも)の名前です。「古事記」にも記載され「丹後風土記残欠」に、かなりくわしくのっています。最近、この「丹後風土記残欠」偽書説も出されていますが、由良川筋の地名の起こりが、この土蜘蛛退治とのかかわりで説明されています。
この陸耳御笠についての論考は、ほとんどなされておらず、私の知る限りでは、民俗学者の谷川健一氏が、若狭、丹後、但馬に残るミやミミのつく地名の多いことをあげ、昔、耳飾りをつける風習を持っていた渡来集団の首長だったのではないかと推論しています。海人族の首長だったというわけです。
ところで、大江町と舞鶴市は、かつて加佐郡に属していました。「丹後風土記残欠」にも、加佐郡のルーツは「笠郡」とのべています。
この「笠」に関連して、興味深い伝承が青葉山に伝わっています。ご承知のように、青葉山は山頂が2つの峰に分かれていますが、その東側の峰には若狭彦、西峰には笠津彦がまつられているというものです。笠のルーツは、この笠津彦ではないのか、そんなふうに考えていたところ、先年、大浦半島で関西電力の発電所建設工事中、「笠氏」の刻印のある9世紀頃の製塩土器が発見されました。笠氏と呼ばれる古代豪族が、ここに存在していたことが証明されたわけです。また、ここから、大陸との交流を裏づける大型の縄文の丸木舟が出土し話題となりました。
陸耳御笠。何故、土蜘蛛という賊称で呼ばれながら、「御」という尊称がついているのか。長年の謎が一つ解けたような気がしています。ヤマト王権の国家統一前、ここに笠王国ともいうべき小国家があったのかもしれない。陸耳御笠と笠津彦がダブってみえてきます。由良川筋の陸耳御笠伝説を紹介したいと思います。
無量寺縁起と仏谷 / 福知山の麻呂子親王伝説
麻呂子(まろこ)親王、これもあまり聞きなれない名前だと思いますが、聖徳太子の異母弟とされる人物です。
この麻呂子親王が、三上山(大江山)にすむ、英胡(えいこ)、軽足(かるあし)、土熊(つちぐま)という三鬼にひきいられた鬼どもを討ったという伝説が、当地方の古社寺の開創縁起となって伝えられています。当地に仏教が流入した時期と麻呂子親王の時代とではズレがありますから、先行していた麻呂子伝説を、寺社創始の権威づけのため利用し混合していったと考えるべきでしょうか。
この両丹地方には、大江山の周辺を中心に実に多くの伝説関連地が残っており、地名の由来となっているケースも多くみられます。今回の話の中で、そうした福知山に残る麻呂子親王伝説を紹介しようと思いますが、中でも、筈巻の無量寺に残る縁起書は、年号の記されている縁起書としては、両丹地方最古のものですし、ゆかりの仏像もまつられています。また雲原の仏谷(ほとけだに)は、親王が鬼退治を祈って、七仏薬師を刻んだところと伝えています。長安寺や長田の願来寺など、親王ゆかりの薬師如来像をまつると伝える寺院もあります。
私が、この麻呂子伝説で一番興味をもっているのは、大江町河守の清園寺の「古縁起」に、親王に討たれた鬼どもが、「火」と「風」と「水」を自在にあやつるとあることで、「火」「風」「水」をあやつるのは、古代製鉄に従事したタタラ師たちではないかと思っています。麻呂子親王が、この地方では、もっぱら「金丸親王」とよばれ、「金屋皇子」とも呼ばれていること、それに鬼の首領の「英胡」の「胡」は、早くから製鉄技術をもっていた中国の胡族を連想させるのです。
大江山には古い時代のタタラ跡が残っています。「魔谷」(大江町北原)、「火の谷」(福知山市天座)など、タタラ跡のあるところは、鬼を思わせる地名ですね。麻呂子親王伝説の裏にひそむ鉄の争奪を、私なりに推論してみたいと思います。
酒呑童子の供養碑 / 福知山の酒呑童子伝説
大江山や三岳山の周辺には、酒呑童子にまつわる伝説がたくさん残っていますが、大江山や三岳山が、鬼の山とされたのは、そう古いことではないような気がしています。江戸中期、この地を旅行した貝原益軒の「西北紀行」には、この地の人々が、大江山を「御嶽」と呼んでいると記していますし、三岳山も、「丹波志」に「女人結界」(女人禁制)とあります。三岳神社は明治初年に改名されたもので、それまでは「三嶽蔵王権現社」でした。蔵王権現は、修験道の一派「回峰修験」の流れをくむ山伏たちの守り神。三岳山のルーツも「御嶽山」であったのでしょう。
南北朝時代の初め(14世紀)に「大江山絵詞」という絵巻物がつくられ、酒呑童子は、その主人公として誕生しました。以来、謡曲「大江山」、能「大江山」そして御伽草子「大江山」が流布していく中で、大江山は酒呑童子の山となっていきます。ここにそうした酒呑童子の物語を、まるで伝説のように定着させていったのは、修験者たちと、在地の民衆との一宿一飯の交流を通じての作業であったような気がします。
福知山市の東北部、雲原、金山、三岳地区に多くの酒呑童子伝説をとどめていますが、それらを紹介しながら、先人たちが、何故こうした鬼伝説を育てていったのだろうということを考えあってみたいと思います。 私が一番感動したのは、天座の奥深く、千丈ケ嶽の頂上近くの山あいにある「酒呑童子の供養碑」です。「酒呑童子断迷開悟」(酒呑童子 迷いを断って悟(さと)りを開け)と刻まれています。何とやさしい心根でしょうか。また、この天座には、酒呑童子の命日に、鎌など刃物を一切使わないで、仕事を休み、この碑の前で大般若経をあげ、酒呑童子の霊を慰める「鎌止め」の風習があったといいます。この風習は大江町側にもあったようで、俳人の加賀千代の旅日記の中で、感動をもって、「鎌止め」にふれています。
 
鬼の日本史

 

このレポートは、これからお盆を迎える諸君、鳥居火や大文字の送り火に見とれたい諸君、盆灯籠や精霊流しに心鎮めたい諸君、盂蘭盆や川施餓鬼や二十日盆に今年は気持ちを向けてみたいと思っている諸君、とくに精霊流しがどうして水に流されていくのかを知りたい諸君のために、贈りたい。
こういう本をゆっくり採り上げるチャンスがなかったので、ちょうどいい。

その前に、著者の成果を紹介しておくと、この人は『隠された古代』でアラハバキの伝説や鎌倉権五郎のルーツを白日のもとに曝した人である。おもしろかった。それだけでなく続けさまに『閉ざされた神々』『闇の日本史』『鬼の太平記』、そして本書、というふうに(いずれも彩流社)、日本各地に伝わる隠れた神々の異形の物語を探索してきた。そういう民間研究者だ。たいていの神社を訪ねたのではないかとおもわれる。
そこには土蜘蛛から河童まで、スサノオから牛頭天王まで、稗田阿礼から斎部広成まで、出雲神話からエミシ伝説まで、ワダツミ神から鍛冶神まで、一つ目小僧から酒呑童子まで、歪曲と誇張の裡に放置されてきた“鬼”たちが、斉しくアウトサイダーの刻印をもって扱われる。これは負の壮観だ。
負の壮観なだけではなく、負の砲撃にもなっている。ときには負の逆襲や逆転もおこっている。ぼくは『フラジャイル』のあとがきに、著者からいくつかのヒントを得たことを記しておいた。むろん肯んじられないところも多々あるけれど、むしろぼくとしては、これらの負の列挙にたくさんの導入口をつけてくれたことに感謝したい。著者はごく最近になって、ついに『鬼の大事典』全3巻(これも彩流社)もまとめた。
まずは、この偉業、いやいや異業あるいは鬼業を、諸君に知らせたかった。

では、質問だ。これから始める真夏の夜の「超絶日本・オカルトジャパン不気味案内」(笑)の直前肝試しにいいだろうので聞くのだが、上に書いたアラハバキって、知っているだろうか。
鬼ですか、人ですか、神ですか。知らないよね。
アラハバキは「荒吐」「荒脛」と綴る正体不明の“反権王”のことをいう。江戸時代にはすっかり貶められて土俗信仰の中に押し込められていた。しかし、愛知三河の本宮山の荒羽羽気神社はアラハバキを祭神として、鬱蒼たる神域に囲まれた立派な社殿をもっている。だから何かが、きっとある。が、ここに参詣にくる人は、ほとんどアラハバキの正体を知ってはいない。
推理を逞しくすれば、アラハバキは「荒い脛穿(はばき)」だから、脛巾のこと、すなわち脚絆にまつわる神だろうということになる。ということは遠出の神か道中安全の神か、ちょっと捻って解釈しても、足を守る神なのかなというあたりになろう。ところが、そんなものじゃない。
アラハバキを「荒吐」と綴っているのは、知る人ぞ知る『東日流外三群誌』(つがるそとさんぐんし)という東北津軽に伝わる伝承集である。そこには「荒箒」という綴りも見える。ホウキというのだから、これはカマドを浄める荒神箒のことかと思いたくなるが、一面はそういう性格もある。ただし東北のカマド神は京都に育ったぼくが知っているカマド神とはまったく異なっていて、かなり異怪な面貌の木彫だ。
まあ、最初から謎めかしていても話が進まないから、ここで著者がたどりついた正体をいうと、これはナガスネヒコ(長脛彦)なのだ。

ナガスネヒコって誰なのか。これも知っている人は少ないかもしれないが、ただのナガスネヒコなら、長い脛(すね)の持ち主という意味だろうから、大男ということで、ダイダラボッチ型の巨人伝説の一人ということになる。
けれども記紀神話の読み取りでウラを取ろうとすると、そうはいかない。『日本書記』では、物部の祖先のニギハヤヒがナガスネヒコを誅殺して、イワレヒコ(神武天皇)に恭順の意をあらわしたというふうになっている。そして、ニギハヤヒはナガスネヒコの妹を娶ったと記録されている。恐いですね。
なぜこんなことがおこったかというと、ナガスネヒコはそれ以前に神武の兄のイツセノミコト(五瀬命)を殺してしまった。だいたいナガスネヒコの一族は、神武の軍勢が大阪湾から難波・河内・大和のルートに入ろうとするときに、これを阻止して暴れた一族なのだ。そのためナガスネヒコは大和朝廷のために殺された。
ところが、である。ここが日本神話の謎多きところになるのだけれど、『古事記』ではナガスネヒコが殺されたとは記していないのだ。
このように記紀の記述に違いがあるときは、だいたい記述に疑わしいものが交じっていると考えたほうがいい。おそらく『書紀』にも粉飾があるのだろう。この見方、おぼえておいてほしい。よろしいか。
さあ、そう思って『東日流外三群誌』を読むと、ナガスネヒコが津軽に落ち延びてアラハバキ王になったと書いてある。その証拠のひとつに、津軽の小泊にいくつもの荒磯神社があって、そこにはアラハバキ神としてのナガスネヒコが祭神になっている。
それを荒生神とも荒木神ともよぶ。つまりは荒い呼吸をする猛々しい神だ。世の荒木クンたちの先祖だね。

そもそもナガスネヒコは神武以前の奈良盆地にいた割拠リーダーの一人だったはずである。奈良五條市今井町には荒木山を背にした荒木神社があって、大荒木命あるいは建荒木命あるいは祭神不明となっている。
このあたりはいまでも「浮田の杜」といって、かつては足が地につかないほどの浮き土があった。京都の伏見淀本町にも同じく「浮田の杜」があり、「淀」も「浮」も同じ意味だったということが察せられる。
こうしたことから、どうもアラハバキあるいはナガスネヒコは、こんなふう荒れた土地を開墾したか、まるごと管理していたか、いずれにしても処置しにくいことを収められる荒っぽい一族だったということが推理されてくる。そのナガスネヒコを大和朝廷の先触れたちが利用したのであろう。けれどもナガスネヒコはそれを知ったか、利用価値がなくなったかで、北へ向かう「化外の人」となったのだ。
それともひょっとして、そもそも北のどこかにエミシ王国のようなところがあって、その一部が流れて畿内あたりに来ていたのを、ニギハヤヒが目をつけたのか‥‥。と、まあ、これ以上のことは、『隠された古代』を読んでもらうということになる。
如何でしたかな。以上が枕の話です。

ということで、入門肝試しだけでもこんなに長くなってしまったのは、このような話は今日の日本人にとっては、まったく何の知識もないことになっているからだ。嘆かわしいね。いや、あまりにも勿体ない。
そこで、以下には『鬼の日本史』のごくごく一部の流れだけを抜き出して、諸君の好奇心と真夏の精霊流しにふさわしい物語を、一筋、浮き上がらせることにする。あらかじめ言っておくけれど、こういう話には、正解も誤解もない。どの立場に依拠するかで、歴史も伝承もとんでもなくワインディングするものなのだ。
では、少しくぞくぞくっとしながら、日本の奥に出入りする「本当の精霊流し」とは何かという話に目を凝らしてみてほしい――。

大和朝廷を作りあげた一族は、天孫降臨した一族だということになっていることは、知っているだろうね。天孫降臨なんてカンダタの糸ではあるまいに、空中から人が降りてくるわけないのだから、これは海の彼方から波濤を蹴立てて日本列島にやってきた一群だということになる。
侵略者とはかぎらない。騎馬民族ともかぎらない。馬に乗ったまま来られるはずもないから、なんであれ波浪を操れる一群とともにやってきた。ここまではいいですね。
で、この天孫降臨した一群のリーダーの名は、記紀神話ではニニギノミコトというふうになっている(正式にはヒコホノニニギノミコト)。ついでに言っておくけれど、このニニギから何代も下って登場してきたのが、ニニギの血統を受け継いだイワレヒコ、つまりカムヤマトイワレヒコ、すなわち神武天皇だね。
もっともこれからの話はそこまでは下らない。ニニギは大和朝廷派の血筋をもったルーツだということがわかっていれば、いい。しかし、そこにはニニギの一族に取って代わられた者たちもいたということだ。それをわすれちゃいけない。アラハバキ伝説もそんな敗北の歴史をもっていた。でも、もっともっと別の宿命を背負った者たちもいたわけだ。

それでは話を元に戻すが、そのニニギがそうやって上陸した九州のどこかで、ニニギはアタツヒメという女性と出会い、これを娶ったのである。一夜の契りなのにすぐに妊娠したというので、その貞操が疑われたという女性だ。
この女性は誰かというと、薩摩半島の西に野間半島があって、そこに阿多という地域があるのだが、その阿多の女というので、アタツヒメとなった。ここは阿多の隼人が君臨していた地域で、アタのハヤトは大豪族だった。
もっともアタツヒメは俗称で、別名は諸君もよく知っているコノハナサクヤヒメ(木花之佐久夜)なのだ。絶世の美女で、姉はイワナガヒメというひどいブスだったというのだが、むろんあてにはならない。
ところが、出雲神話ではこの姉妹はオオヤマツミノカミ(大山津見)の娘だということになっている。これは困る。オオヤマツミの子はアシナヅチ・テナヅチで、その娘は例のヤマタノオロチの犠牲になりそうになった可憐なクシナダヒメ(櫛名田)だ。そのクシナダを娶ったのがスサノオだ。なぜ、そんな娘がニニギの近くに出没することになったのか。
ところがまた他方、『日本書紀』では、ニニギが娶ったのはカアシツヒメ(鹿葦津)で、その別名がコノハナサクヤヒメだったと記している。どーも混乱している。何かがおかしい。

まず、オオヤマツミは字義通りでいえば山を司る神のようなのだが、それだけの意味の神なのかという疑問がある。
たとえば『伊予国風土記』には、「オオヤマツミ一名は和多志大神」とあって、この神は「百済国より渡り来坐して」というふうに出てくる。これなら海を渡ってきた神だということになる。ワタシ大神というんだからね。では、コノハナサクヤヒメとはいったい何者なのだろうか。
そこで本書の著者は阿多の野間半島に注目して、そこに野間神社があることを知った。そして野間神社を調べてみた。そうすると、東宮にはコノハナサクヤヒメが、西宮には「娘媽神女」が祀られていた。「ろうま」と読む。こりゃ、何だ?あまり聞いたことがない女神だろう。日本っぽくもない。「娘媽神女」とは何なのか。それに、なぜ二人の女神が一対になっているのだろうか。どーも、怪しい。
さあ、ここからがめくるめく推理と謎が一瀉千里に走っていく。やや急ぎたい。

娘媽神女の正体はわかっている。またの名を「娘媽神」「媽祖」「天妃」「天后」といって、中国福建省や広東省などの華南地方の海岸部一帯で信仰されている女神のことをいう。中国出身なのだ。娘媽は漢音ではジョウボ、呉音ではナウモと読む。慣用音ではニャンマとかニャンニャンともいう。
つまり海の民の象徴だ。東シナ海・南シナ海を動かしていた海洋一族に深い関係がある。
ぼくもドキュメンタリーを見たことがあるのだが、この海の民たち(蜑民とよばれることもある)は、地元に派手な媽閣廟を構え、船の舳先にはこれまた極彩色の娘媽神を飾って遠海に船出していく、潮風が得意な冒険の民なのだ。
そうだとすると、ニニギが日本に上陸したときは、この娘媽神にまつわる海の一族がなにかと協力していはずだ。海域から考えてもそうにちがいない。いや、ニニギがその一族のグループの一つだったかもしれない。そういう可能性もある。それならニニギが娶ったアタツヒメも、きっとその一族の流れなのである。
とするのなら‥‥アタツヒメとは実はワタツヒメであって、ワタツミ(海津見・綿津見)の一族のことなのではないか。ワタとは海のことをいう。
おそらくは、そうなのだ。ニニギはワタツミ一族とともに九州のどこかに“降臨”し、そこで子孫をふやしたのである。
ということはオオヤマツミ(山の司祭)はオオワダツミ(海の司祭)こそが原型で、その後に列島の内陸に入っていって、山をも圧えたのだろう。コノハナサクヤヒメもきっと本来は娘媽神型の海女神であったのが、オオワダツミがオオヤマツミに変じるにしだかって、山の花を象徴する陸上型の美女に変身していったのだ。

だいたい日本には、おかしなことがいっぱいおこっている。その痕跡がいろいろのところに残っている。
たとえば信州の最高峰のひとつの穂高には、船が祀られている。そして舟を山に上げる祭りがおこなわれている。なぜ船なんぞが山の祭にあるのかといえば、そこに、古代の或る日、海の民が到達したからだ。そこにコロニーをつくつたからだ。
加えてもうすこし証拠をあげておくと、あのあたりの安曇野という地名は、もとは渥美半島から北上して山地に入ったアヅミ一族の名残りの地名なのである。アツミ→アヅミノというわけだね。アヅミとはアマ族のこと、つまり海の民たちの総称だ。
こういうことが、各地でいろいろの呻き声をあげているというべきなのだ。
だんだん話が広がってきたね。が、ここまではまだまだ序の口の話なのである。著者は野間半島で、もうひとつの発見をする。そこには天堂山という山があって、その名は唐人によって、天堂山、天童山、また天道山と名付けられたという記録があった。
ここでやにわに「天道」が浮上する。ここからちょっとややこしくなっていく。ちゃんと付いてきなさいね。

天道童子を知っているだろうか。これがなんとも妙な話なのである。まあ、聞きなさい。
『天道童子縁起』の文面によると、天武天皇が没した686年に9歳だった天道童子は、故郷の対馬を出て都(藤原京)に上って巫祝の修行を積み、大宝3年(703)に帰島したというふうになっている。
その後、霊亀2年(718)に元正天皇が重病に罹ったとき、すわ一大事と陰陽博士が占ってみると、対馬に天道法師という者がいて、これを召して祈らしめよと卜占に出た。知らせをうけた天道童子はさっそく都に飛んで、すぐさま病気平癒をなしとげた。こうしてその後は、その誉れを称えられて、天道童子は母とともに対馬の多久頭(タクツ)神社に祀られているという。母子神になったわけだ。
変な話だよね。でも、ここにはいろいろ気掛かりな暗示が含まれているようだ。たとえばこの天道童子を生んだ母親は、ウツロ舟に中で日輪を飲み込んだときに懐妊したということになっている。
むろんこんな話はあとからいろいろくっつけた牽強付会であろうけれど、それでもいろいろ気になることがある。ひとつはこの話が対馬と朝廷をつないでいること、ひとつはウツロ舟が関与していること、ひとつはタクツ神社という奇妙な名はそもそも何を意味しているのかということだ。

対馬と朝廷が関係していることは、天武持統朝の交易にすでに対馬が絡んでいること、また、海の民の能力が必要とされていたことを暗示する。しかもこのころ朝廷は罪人や問題人を対馬に流して、そこで管理させていた。
次のウツロ舟というのは、古代の海の民が乗っていた丸木舟のことで、記紀神話では「天磐楠舟」(あめのいわくすふね)とか「天鳥船」(あめのとりふね)と出てくる。これは知っている諸君も多いだろうが、楠などの内側を刳り貫いたのである。つまりはウツなるウツロの舟だ。
なぜこのウツロ舟が重要かというと、まずもって天孫降臨の一族はこのウツロ舟で、その舳先にサルタノヒコを案内役としてやってきたと記述されているからだ(ということはサルタノヒコももともとは海洋関係者だったということだよね)。もうひとつは、日本の伝承や伝説の多くには、幼児を流すときにたいていこのウツロ舟が使われているということだ。あとで説明するが、実はこれはヒルコ伝説につながっていく。
のこる問題はタクツ神社の意味だ。これはちょっとわかりにくいかもしれないが、著者は「タクツ神」は「謫つ神」であろうと推理した。「謫」って、わかるよね。流された者、流竄の者のことをいう。そう、ワーグナーのオペラの主人公たちである。
うーむ、もしそういうことならば、これはたいへんな逆転劇になる。なぜなら「謫つ神」だとすると、天道童子は「流された者」ということになるからだ。となると、どうなるか。
わかるかな、この逆転と逆倒の意味が――。

三つくらいのヨミ筋が考えられるんだね。
第一の仮説は、天道童子は9歳で都に上がって修行を積んだのではなく、もともと呪能のあった者がしだいに力を得たので、対馬に流されたか、海の民の平定のために派遣されたのだ。なぜ対馬かといえば、朝廷はなんとか対馬を支配したかったのである。こういうヨミだ。
第二の仮説は、タクツ神はもともと対馬の氏神か氏の上で、当然に海洋神だった。その子孫の天道童子はなんらかの目的で朝廷に交渉に行った。おそらくは海の民が本来もっていた物語や機能や職能を認めさせたかったのだろう。それを奏上しに伺った。ところが、朝廷はこれを拒絶したか、利用した。そういう経緯だ。
第三の仮説は、さらに過激なものになる。実はタクツの一族は漂着民であって、タクツ神とはもともとそのような漂着・流民のシンボルを集約していたのではないか。すなわち、ニニギが日本に来たときニニギの一族は海の民を利用したのだけれど、その後はその力が疎ましくなって、再び海に流そうとしたのではないか。それは、ひっくるめていえば、“流され王”型のヒルコ伝説を総称している物語の原型のようなものではないかというものだ。
いやいや、どれが当たっている仮説なのかということは、このさい問題ではない。
どうであれ、ここには日本の確立をめぐる二つ以上の勢力の協力と対立とが、その逆の、激突と融和とが、また、懐柔と反発とがひそんでいるのではないかということなのだ。ふーっ。

ところで、海の民とか水の神といえば、日本中にはたくさんの弁天様がいる。しかも半裸のような姿になっている。弁財天のことだよね。一番有名なのは江ノ島の弁天様だけれど、なぜ、あんな水っぽいところに祀ってあるんだろう。海の塩でも好きなんだろうか。
もうひとつ、宗像三神って知っているだろうか。九州福岡の宗像神社に祀られているイチキシマヒメ、タキツヒメ、タギリヒメの3人の女神のことだ。住吉の神々と並んで日本で最も有名な海の女神たちである。実はこの福岡には名島弁財天という有名な神社があって、貝原益軒の『筑前風土記』という旅行記にも「多々良浜名島に弁財天祠あり。昔は大社なり。宗像三神を勧進せしるなるべし」と書いている。
さすがに益軒は、弁財天と宗像三神が一緒になっているところに注目したわけだ。意味深長だねえ。

そうなのだ、実はこれらの女神たちは、もともとのルーツは違っていても、どこかで同じ係累の女神たちになっている。これは日本ではミヅハノメ(罔象女・弥都波能売)に一括内包される者たちなのだ。
ミヅハノメというのは、水にまつわるいっさいの女神のことをいう。「罔象」という字義は「形、小児のごとき水中の妖しき女」という意味をもつ。不気味だね。これを折口信夫は「水の女」と総称したけれど、和名では「水の端の女」という意味だ。
このミヅハノメはおそらく日本で一番多く祀られている女神で、そこから水分神(ミクマリ)、丹生明神(ニブツヒメ)、貴船神、宗像三神、水垂明神、淡島、竜女神、弁天、トヨタマヒメ、乙姫などが次々に“分派”し、あるいは逆に、それらが次々にミヅハノメになった。みんながみんな水々しい神々で、水源や河川や海辺に深い関係をもっていて、しかも女性の姿を象っている。
このうち一番遠いところから漂流するかのように日本に定着したのが弁財天だ。インドからやってきた。本名はサラスヴァティという。娘媽神が次に遠くからやってきたけれど、すでに話してきたように、これは日本の女神に変換されて定着した。それがアタツヒメで、さらにコノハヤサクヤヒメにまで変換していった。
さてと、このような水の女神や海の女神は、シャーマニックな呪能や職能に富むばあいが多く、どこかで必ずや「禊」(みそぎ)とかかわっている。そうだね。
ということは、そこには水に流れていくものたちの運命や宿命、あるいは蘇生や流産もかかわっていたということなのだ。たとえば『中臣祓』という祝詞では「根の国・底の国に坐すさすらふものの姫」というような言い方をする。そこには水子のイメージも重なっている。とくに淡島(淡島様)はウツロ舟に乗せられて流されるという儀式を必ずともなっている。
流し雛を見るとき、日本人ならその意味するところが感覚的にではあれ、なんとなく了解できるはずだよね。

一方、男神で水や海に関係が深い神々も多い。代表的にはオオワタツミ(大綿津見)や海幸彦や宇佐八幡や八幡神だけれど、このほか塩土神やアドベノイソラなどがいる。イソラは海中から出現した神で、顔中にワカメのようなものが覆っている。それが形象化されて、顔に布を垂らして舞う芸能ができたくらいだ。
が、こうしたなかでも最も注目すべきはエビス神やヒルコ神だろうね。二神は名前が違っているけれど、まったくの同一神だ。足が萎え、流謫されている。つねに漂流しつづける神様だ。しばしばウツロ舟で流される。
でも、いったいどうしてエビス=ヒルコは流されたのか?何か罪を犯したのだろうか。ここで、これまでの話がことごとく結びついていく。

まずもって日本列島が海に囲まれた国であることが、大きな前提になる。花綵列島といわれるように、たくさんの島が点々としている。このすべての島嶼を潮の流れが取り巻いている。そこには干満があり、緩急があり、高潮があり、津波があり、そして夥しい漂流漂着がある。椰子の実も鉄砲も、これに乗ってやってきたわけだよね。
なかで、古来の人間の漂着がやはり図抜けていて、この国の歴史に決定的な影響を与えてきた。とくにこの国に君臨した天孫族の一群の到来は、それ以前に流れ着いた一族たちとの葛藤と摩擦と軋轢をつくっていった。わかりやすくいうのなら、ナガスネヒコが先に来ていて、あとからニギハヤヒやイワレヒコがやってきたのだ。
この、先に定着していた一族たちのことを「国津神」といい、あとからやってきた連中のことを「天津神」という。このあとからの連中が天孫降臨族である。
国津神の一族には服属をした者たちもいたし、抵抗した者たちもいた。また天津神に組み込まれた者たちも少なくない。そのような宥和服属の関係が、主に記紀神話に記された物語になっている。
けれども、服属できず、また抵抗した者たちの物語は、徹底的に貶められ、換骨奪胎されて、地方に流された者の物語に、あるいは山中に押し込められた者の物語になっていった。これらが本書でいう「鬼」の物語の主人公なのだ。

他方、国の歴史は子孫を誰がつくるかという歴史でもあるわけだね。そこには女性たち、母になる者たちの歴史が加わった。娘媽神も弁天もミヅハノメもコノハナサクヤヒメの物語も、そのような婚姻の事情がどのようであったかを物語っていた。
婚姻し、子孫を生めば、たいていのばあいはそこで名前がすげ替えられた。オオヤマツミの子供たちがいくつもの名の娘になっているのは、このためだ。記紀や風土記で名前や係累が異なっているなんてのは、当然のことなのだ。

日本人は優美なところも残虐なところもあるけれど、事実を徹底的にリアルに記録するという能力には残念ながら欠けていた。
語り部も史部(ふみべ)も、またそれらの伝承者も、どこでどんな相手に話をするかで、いろいろ工夫というのか、ヴァージョンを変えるというのか、ともかく「柔らかい多様性」とでもいうような話法や叙事性をつくってきてしまったんだね。
それに、初期の日本には文字がなかったから、語り部の記憶も完璧というわけにはいかない。加えて蘇我氏のところで、『古事記』『日本書紀』より古い史書がみんな焼かれてしまった。
そういうわけで、古い時代の各地の信仰や一族の動向を推理しようとすると、なかなか難しい。それでもふしぎなもので、そういう動向のいつくもの本質が、地名や神名や神社名に残響していたりするわけだ。
ともかくも、そのような残響をひとつひとつ掘り起こして組み合わせていくと、そこに大きな大きな或る流れが立ち上がってくるわけだ。それは、海からやってきた者たちの歴史、陸地を支配した者たちの歴史、排斥されていった者たちの歴史、忘れられていった者たちの歴史‥‥というふうな、幾つかの流れになってくる。
それをぎゅっと絞って、対比させるとどうなるかというと、「国をつくった歴史」と「鬼になった歴史」というふうになる。本書はその「鬼になった歴史」をいろいろな視点で綴ったわけだった。

では、ここに綴られた物語で、最もドラスティックな仮説を一言だけ紹介して、この真夏の精霊流しの話を終えることにする。
それは、そもそもアマテラス信仰にまとめられた系譜の物語の原型は、実は海の一族が最初にもってきた物語だったのではないかというものだ。アマテラスの原義がどこにあるかという議論はまだ決着がついていないから、結論的なことなど言えないのだけれど、本書の著者はアマテラスは「海を照らすもの」の意味だったと考えている。字義がどうであれ、ぼくもそういう可能性がそうとうに高いと思っている。
ここでは話せなかったけれど、中世に傀儡子(くぐつ)たちが伝承した説話や舞曲や人形語りがあるのだが、これらはどうみても、海洋型のものなんだねえ。鈴鹿千代乃さんたちが研究していることだ。

日本神話の中核部分の原型は、ことごとく海にまつわっていたんだねえ。そのこと自体は驚くべきことではないだろう。
それよりも、そのような原型の物語はつねに改竄され、奪われ、変更され、失われてきたわけだ。その後も神仏習合や本地垂迹をうけるなかで、大半の“流され王”たちがまったく別の様相のなかに押し込められ、ときに悪鬼や悪霊のような扱いとなったということに、驚くべきなんだろう。そのうえ、そのような変遷の大半をわれわれは看過したり軽視したり、また侮蔑するようになってしまったわけだ。これは悲しいね。
ぼくも、そのようなことについて『フラジャイル』のなかで「欠けた王」などとして、また『日本流』では負の童謡として、『山水思想』では負の山水としていろいろ持ち出している。けれども、ぼくが予想しているのとは程遠いくらい、こういう話には反響がない。寂しいというよりも、これはこういう話には日本人が感応できなくなっているのかと思いたくなるほどだ。

あのね、話というのは、そもそもそこに凹んだところと尖ったところがあるんだね。尖ったところは、どちらかといえば才能がほとばしったところか、さもなくば我田引水なんだ。
だからこそ絶対に逃してはいけない大事なところは、凹んだところなんですね。そこは痛切というものなのだ。その痛切を語ってあげないと、歴史や人間のことは伝わらない。なぜなら、その痛切は我田からではなく、他田から引かれてきた水であり、そこに浮かんだ舟のことなのだ。
その舟には自分は乗ってはいないで、誰かが乗っている。それが弁天だったり淡島だったり、ミヅハノメだったり百太夫だったりするわけだ。つまり知らない人たちなのだ。
だからそこには、ぼんやりとした灯りがふうーっと流れるだけなのだ。それが流し雛であって、精霊流しなんだね。

さあ、見えてきましたか。鬼というのは、このように語られなくなった者たちの総称のことだったわけだ。異様異体の外見を与えられ、申し開きができない歴史に閉じ込められた者たちのことなんである。
えっ、だから、ほら、語りえないものは示しえない、ということだっけ。戦艦大和はどう沈んでいったっけ。葉隠って、どの葉に隠れることだっけ。
 
日本最初の鬼 / 阿用の一つ目鬼

 

日本書紀の黄泉醜女は地獄の鬼のイメージを持つものですが、実際に記録として「鬼」と記述されている最初のものは、出雲国風土記です。
大原郡阿用郷、現在、島根県大原郡大東町と呼ばれるあたり、阿用下分(あよしもわけ)、甲斐川に合流する赤川と阿用川の流域です。
古老(ふるおきな)の伝えていへらく、昔或人、此処の山田を佃りて(つくりて)守りき。 その時目一つの鬼来たりて、佃る人(たつくるひと)の男(おのこ)を食ひき。その時、男の父母(かぞいろ)、竹原の中に隠りて(かくりて)居りし時に、竹の葉動げり(あよげり)。その時、食はるる男、動(あよ)、動(あよ)、といひき。故(かれ)、阿欲(あよ)といふ。神亀三年、字を阿用と改む。
風土記の時代は、卑弥呼の鬼道、アニミズムによって、託宣を下す事で一地域を統率する支配形態が日本中にありました。
一つ目はこの託宣を下す巫女、神官であったと考えられています。
超自然的存在、神的存在と交流する事で、常人を越えた力を得るためにいけにえの風習がありました。いけにえは動物の場合と、人間の場合があり、人間の場合は、体の一部分を傷つける行為が世界的に行われていました。
時代が下り、いけにえとして殺される事は無くなりましたが、片足を折られる、片目を潰される、という象徴的な行為は残っていました。日本の場合、いけにえにする前、いけにえとなる神の候補(王)は、片足を折られて逃げられなくさせられているか、また、捧げ物として片目を潰されていました。体の一部分を著自然的な存在に捧げる事で、常任にはない力を得たのです。
阿用に現れた鬼は、神官が暴力的に土地の者の財を自分のものにしようとして起った惨劇、と読まれています。
そして時代がもっと下がり、アニミズムの力をもった者、集団が、支配階級から転がり落ち、大和朝廷の新たな主神、天皇の統率から離れて、山野道路を漂白流浪し始めた時、新たな鬼が生まれたのです。
鬼と大人
民族学者・折口信夫はオニを大人(おおひと)、大和朝廷に征服された先住民ではないかと述べています。「風土記」には土蜘蛛という先住土着民の中で力の強大な集団の記述が多くあります。「土蜘蛛」の名は「逸文風土記」の中で、神武東征の際、偽者土蛛(あたつちくも、あたは賊の意)がいたが、穴居していたため、「賎しき号(な)」を賜い「土蛛」と呼ぶようになった、とかかれてあります。
風土記に記述されている土蜘蛛は、卑弥呼的なイメージを持っています。松浦郡の土蜘蛛、名を海松樫媛(みるかしひめ)という。景行天皇巡幸の時、随従の大屋田子(おおやたこ)に殺される。杵島郡嬢子山(おみなやま)に土蜘蛛八十女(やそめ)あり。山頂にあり天言を下し、村を支配し服従せず。景行軍を派遣し滅ぼす。彼杵郡(そのきのこおり)浮穴郷の土蜘蛛、浮穴媛(うきあなひめ)、巡幸に無礼。敬の心なしと滅ぼされる。
土蜘蛛は朝廷に反発した者ばかりではありません。「日本書紀」の「景行天皇紀」には八女県(やめのあがた)の美形の山に八女津媛(やめつひめ)という女神(ひめかみ)が住み象徴的存在として、民心をつかんでいた、と書かれてあります。
また肥前国風土記には、左嘉郡に女土蜘蛛、大山田女(おおやまだめ)・狭山田女(さやまだめ)あり、荒ぶる神、人を殺すとき、下田の土をもって人形・馬形を作り祭れと占う。言葉の通り神しずまって殺人の事絶える。と、あります。
土蜘蛛は、或る者は国つ神として、朝廷の神々に組み込まれ、また大和朝廷の一方的な政令に反発したものとして、滅ぼされていきます。そして文化的に低い者として辱められ、次第に山深い奥地に追いつめられて行きます。もとは神として、それから山に追われ棲んだ鬼として、里と交渉を持つものがいました。
福も鬼も同じものだったのかもしれません。  
「ああ」という鬼 

 

日本の鬼の最初の記述は、出雲国風土記、阿用の一つ目鬼のお話です。そこで、鬼に喰われる男は、「動動(あよあよ=動くな、との意味)」と、言葉を残すのですが、その言葉につながる鬼の昔話があるのです。
「"ああ"という鬼。」むかし、ある所に怠け者(せやみ)な定吉という若者がいました。何をするにつけても、文句ばかり言う男で、いつも「ああ、こわぁい、ああ、こわぁい(疲れたという意味)」と言っていました。ある時、定吉は、主人に言いつかって、山向こうの村に使いに出かけました。うら寂しい山道ですから、人にも出会わず、いつもなら、文句を言い続けていられるのですが、この時ばかりは、黙って歩き続けなければいけませんでした。>それでも、山を登りきったところで、あまりに疲れてしまい、大きな松の木のそばに座ると、ああ、こわぁい(疲れた)。」といいました。「あぁい。」どこからか、声がしました。定吉は、きょとんとあたりを見回しました。しかし声の主はどこにも見つかりません。「・・・いま、あぁいと返事したヤツ、誰だぁ?」定吉は、恐る恐る聞きました。「俺だぁ、俺が返事しただぁ。」その声は、ちょうど定吉の座っている松の木の下から聞こえてきました。「おめぇ、どこにいるだぁ?」「ここだぁ、地面の中だぁ。」「・・・おめぇ、なにもんだ?」定吉はあとずさりしながら、聞きました。「俺は、”ああ”という鬼だ。」「鬼?」定吉はびっくりしました。
「俺は、悪い事をしすぎて、神様に小箱の中に入れられ、ここの土の中に埋められた鬼じゃ。」その声は地面を震わせながら続きました。「長い間、埋められたままでの、俺は苦しくて苦しくてしかたない、誰かが通ったならば助けてもらいたいとおもうておったが、誰も通らぬのか音も聞こえぬ。」「途方に暮れておったらば、わしの名前を呼ぶものがいるではないか。どうか、わしを掘り起こしてくれぬか?そうしたならば、お前を一生、安楽に食わせてやろう。」一生、安楽に食わしてもらえる?定吉は大喜びで、その地面を掘りました。すると、小さな鉄の箱が石の下から見つかりました。定吉はその箱をかたかた振りました。すると中から、「おい、何をする?そんなにふりまわすな。痛くてかなわぬ、早く開けてくれ。」と、あの鬼の声がしました。定吉はわけがわからないまま、その箱をパチンと開くと、箱の中から、ボォウと大きな物が出てきました。それは定吉の倍もある黒鬼で、腕は臼のような、脚は樽のような、仁王さまのような、大きな鬼でした。
定吉が腰をぬかして見上げていると、鬼はヒザをついて定吉をのぞき込みました。「おかげで助かった。約束通り、一生安楽に食わせてやろう。」そう言うと、鬼は定吉にフゥ〜ッ!と大きく息を吹きかけました。「うわぁっ!」定吉の体はふわっと浮くとどこか遠くに飛ばされてしまいました。定吉は、おっかなくて目をぎゅっとつむっていたのですが、どこかにばったり落ちてしまいました。目をそ〜っと開けると、そこは色とりどりの木々に囲まれた、大きなお屋敷でした。「ここはどこだぁ?」「俺の屋敷だ。」定吉のそばには、あの黒鬼の「ああ」がたっていました。「この屋敷で、お前は好きなだけ遊んで、好きなだけ食べて暮らせば良い。」黒鬼のああは、定吉を屋敷に招き入れました。定吉はそこで毎日ぶらぶらして、好きなだけ酒を飲み、うまいものをたらふく食べて暮らしました。もう、定吉は文句一つ言う事が無くなってしまいました。何を食べてもうまい、何をしても楽しくて仕方ありませんでした。屋敷の中には、五つの倉があり、そこの扉を開くと、春夏秋冬、それぞれの季節へ行く事が出来ました。右の扉を開くと山へ、左の扉を開くと海へ、つながっていました。黒鬼のああは、自由になれたことがうれしいのか、その時々で気に入った季節へ行って、山の幸、海の幸をとり、また、あちこちの山に出かけては、知り合いの鬼達と遊び歩いていました。ただ、三番目の倉だけはけっして開けようとしませんでした。
ある時、ああは、「俺は、親の年忌法要があって、でかけるから、留守の間、お前は倉を開けて好きな所へ行って遊んでいるがいい。」「だが、いいか?三番目の倉だけは開けてはならんぞ。」そう言って定吉に倉の鍵を渡しました。定吉は、ああが出かけると、次々に倉の扉を開けて、それぞれの季節の山や海へ行き、果物をほお張り、遊びました。
ただ、一つだけ倉の鍵が残りました。定吉は、ほんの少し扉を開けてみるだけならいいだろう、そう思って、三番目の倉の鍵をはずしました。ガキンと音がしました。定吉はそおっとあたりをみまわしましたが、何も起こりませんでした。定吉は右の扉を開けてみました。その向こうには、うっそうと茂る木々があり、向こうは見えませんでした。定吉は扉を閉め、今度は左の扉を開けました。しかしその向こうも、やはり、うっそうと茂る木々があり、向こうが見えませんでした。定吉は、何があるのじゃろうと、扉の向こうへ脚を踏み入れました。空は木の葉が幾重にも重なって、見る事が出来ません。定吉はきょろきょろしながら、うっそうと茂った森を進みました。
何かが茂みの中を動きました。定吉は振り向くと、そこには大きな狼がいました。驚いて走り出すと、狼は吠えながら向かってきました。定吉は木に飛びあがると、そのまま木に登ろうとしました。狼が定吉に飛びかかってきました。定吉は枝にしがみつきましたが、狼は今にも定吉に食いつきそうでした。定吉は「ああっ、おっかなああい!」と叫びました。すると風が飛んできて、定吉をつかみあげると、木を突き抜けて空にのぼって行きました。鬼の面の形をした岩山が、あっという間にはるか下へと見えました。そこは、鬼ヶ島だったのです。そして、いつの間にか元の鬼の屋敷へたどり着いていたのです。
「あれほど、入らぬようにと言っていたのにのう。」黒鬼のああはため息をつきました。「お前がおっかないと叫ぶだで、親の法事を勤められんかった。約束を守れぬ男は、もう大事にはできんのう。」そう言うとまた風のように消えてしまいました。ああがいなくなって、定吉があたりを見回すと、そこは元の松の木の下でした。定吉は、しばらく、そこに座っていましたが、腰をあげると、ただ黙って、歩き出しました。
「ああ」という鬼。
このお話は、グリム童話KHM99「ガラス瓶の中のばけもの」と似たような趣向を持っています。グリムのお話では、ガラスの中の化け物から、宝物を得て裕福になりますが、日本の物は、後半部が「見るなの座敷」「見るなの蔵」となっているようです。原話は岩手県「昔話研究」創刊号、藤原貞次郎さんとなっています。 
「ああ、ああ」という鬼 

 

ある所に木挽きが山奥で木を切っておりました。年をとって、山仕事をするのが辛くなり、ノコの手を止めるとポソリ、独り言を言いました。「誰か、銭コをくれたら、三人娘のうち、一人をくれてもよいのだがなあ、ああ、ああ。」すると、突然目の前に若者が現れました。
「聞いたぞ、爺様。今言うた事は本当か?」「ああ、本当だ。だが、お前さんは誰だい?」「俺は、ああ、ああと言うものだ。では、どっさりと銭コをやろう。娘を一人もらうぞ。」「ああ、ホントに銭コをくれたら、娘をやろう。」木挽きの爺がそう言うと、若者はどこにもっていたのか、大判小判のたくさん入った袋を差し出しました。木挽きの爺は家に飛んで帰り、大判小判を娘達に見せました。そして一番目の娘に「嫁に行かぬか?」と聞くと「変わった名前の方ですが、そのようなお金持ちなら喜んで行く。」と答えました。一番目の娘が、山を登って行くと、ああ、ああが待っていました。娘は、ああ、ああに連れられて、山奥の家へ向かいました。その家は、壊れかけたあばら屋で、娘はがっかりしました。「うむ、山奥の暮らしは、不安だろうの。そうだ、今、良いものを取ってきてご馳走してやろう。待っておれよ。」そう言って、ああ、ああは娘を置いて駆け出しました。家はあばら屋でしたが、娘は、自分を大事にしようとする、ああ、ああが気に入ったのか、家の中を片づけ、掃除をし、野の花を摘んでいけ、ああ、ああの帰りを待ちました。
しばらくして、ああ、ああは何かを持って、帰ってきました。「良いものを取ってきてやったぞ、さぁ、食え。」娘は目を見張り、思わず声を上げそうになりました。ああ、ああが差し出したものは、血がべっとりついた人の腕だったのです。「え、ええ、わかりました。料理して食べる事にいたします。」娘はやっとの事で、答えました。「そうか、では、俺はまた出かけて来る。待っておれよ。」ああ、ああはまた出かけて行き、娘はひとり、残されました。
娘は目の前に置かれた腕を前に、どうしたものかわかりませんでした。どう見ても、人の腕です。食べるわけにもいきません。娘は庭の隅をほり、そこに埋めて隠し、急いで汁を作って、椀に入れると、ゴクンゴクンと飲み干しました。娘は、なんとか形がつけ、やっと、胸をなでおりしました。すると、戸口に、ああ、ああが立って、こちらを見ていました。「ちゃんと、食べたか?」ああ、ああは娘に聞きました。「え、ええ。ちゃんと食べました。」「ほんとに食べたのか?」「ほんとに食べました。」ああ、ああの目には、何か異様なものが光りました。「・・・それなら、呼んでみようか。」「腕や!腕やぁ!」庭の方で、ベコリと音がしました。そして何かが、ずりずりとこちらの方へ動いて来て、戸口の所から中へ入ってきました。それは、娘の埋めた腕でした。「おまえ、嘘をついたな。」ああ、ああは娘の髪をつかむと、そのまま岩穴まで引きずって行き、手足を縛って中に押し込んでしまいました。
木挽きの爺は、ああ、ああにもらったお金で、飲んだり食ったりしていましたが、たちまちお金をすべて使い切ってしまいました。こまった爺は山へ行って、「誰か、銭コをくれたら、娘をもう一人、くれてもよいのだがなあ、ああ、ああ。」と、言いました。
すると、また、ああ、ああが現れ、「聞いたぞ、爺様。前の娘は亡くなってしもうた。もう一人娘をくれるなら銭コをやろう。」と、大判小判のたくさん入った袋を差し出しました。「よし、娘をやろう。待っておってくれ。」木挽きの爺はそう言って、銭コをたくさん持って、家に帰りました。そして二番目の娘に銭コの袋を見せ、姉が亡くなったで、変わりに山へ行ってくれと言いました。
二番目の娘は、山にのぼり、ああ、ああに連れられて、山奥のあばら屋へ着きました。「姉のお墓はありますか?」「うむ、参ってやってくれ。」ああ、ああは娘を岩屋の側の石の前に連れて行きました。ああ、ああは手を合わせる娘に、「腹がすいたろう、何か取って来るから、待っていろ。」と言って、山に入って行きました。なんて優しい人だろう。
娘が家を片づけていると、しばらくして、ああ、ああが帰ってきました。「おかえりなさい。」「ただいま。良いものを取ってきてやったぞ、さぁ、食え。」ああ、ああは、何か肉の塊を差し出しました。それは、人のももから下の足でした。娘は一瞬自分の目を疑いました。なにか知らない獣の肉ではないか?しかしそれはやはり人の足だったのです。「え、ええ、わかりました。料理して食べる事にいたします。」娘が、やっと声をしぼりだして言うと、ああ、ああは「そうか、では、俺はまた出かけて来る。待っておれよ。」と、また出て行ってしまいました。娘は、大急ぎで、その足を囲炉裏の灰の中に隠し、汁を作って、飲み干しました。戸口に、ああ、ああが立っていました。「ちゃんと、食べたか?」ああ、ああが聞きました。「え、ええ。ちゃんと食べました。」「ほんとに食べたのか?」「ほんとに食べました。」「・・・それなら、呼んでみようか。」ああ、ああの目に、何か異様なものが光りました。「腿(もも)や!腿(もも)やぁ!」灰の中から、腿が立ち上がりました。それは、娘の埋めた人の足でした。「おまえ、嘘をついたな。」ああ、ああは娘の髪をつかむと、そのまま岩穴まで引きずって行くと、手足を縛って中に押し込んでしまいました。
木挽きの爺は、また毎日、飲んだり食ったり、遊び暮らしていましたが、また、お金を使い切ってしまいました。こまった爺は山へ行って、「誰か、銭コをくれたら、残った娘を、くれてもよいのだがなあ、ああ、ああ。」と、言いました。すると、また、ああ、ああが現れ、「聞いたぞ、爺様。もう一人の娘も亡くなってしもうた。最後の娘をくれるなら銭コをやろう。」「最後の娘だ、どっさりと銭コをくれ。」「ああ、どっさりとやろう。」ああ、ああは大判小判のどっさり入った袋を差し出しました。「よし、最後の娘をやろう。待っておってくれ。」木挽きの爺はそう言って、銭コをたくさん持って、家に帰りました。爺は最後の娘に、二番目の姉も亡くなったで、変わりに山へ行ってくれと言いました。
最後の娘も、山にのぼりました。そして、ああ、ああに連れられて、山奥のあばら屋へ着きました。「姉達のお墓はどこですか?」「岩屋の前にある。」ああ、ああは娘を岩屋の側の石の前に連れて行きました。「姉達の最後は、どうだったのですか?」娘は手を合わせながらたずねましたが、ああ、ああは何も答えず、「・・・腹がすいたろう、何か取って来るから、待っていろ。」と言って、そのまま、また山に入って行きました。
最後の娘が不思議に思っていると、どこからか声が聞こえて来ました。「あれは鬼だよ。何を持って帰っても驚かずにるのですよ。」娘は不思議に思いました。
今の声は、どこから聞こえて来たのでしょう?鬼ってどういう事でしょう?
娘は岩屋の中をのぞいてみました。そこには見慣れた着物が二つ、ありました。「お姉さん!」近寄ってみると、岩屋の中には大きな鉄の柱があり、そこには二人の姉が骨となって、うち捨てられていました。「鬼が帰ってきますよ。 早く家を片づけて待ちなさい。」「お姉さんたちをこのままに出来ません。」「行きなさい、早く家を片付けなさい。」娘は声の言う通りに、鬼のあばら家を片づけました。洞窟の中には二人の姉が横たわったままでした。木々の葉音が震えると、心がちぎれるように震えました。葉音がやみました。
ああ、ああが帰ってきました。何か持っていました。娘は驚かないように、心の震えを止めました。「良いものを取ってきてやったぞ、さぁ、食え。」鬼が差し出したものは、人のすねでした。「・・・ええ、わかりました。料理して食べる事にいたします。」娘は、静かに答えました。すると、ああ、ああは、「そうか、では、俺はまた出かけて来る。待っておれよ。」と、また出て行ってしまいました。娘は、すねをどうしていいかわからず、沢の下に捨てようとしました。するとまた声が聞こえました。「捨てないで、黒焼にして腹に巻きなさい。」娘は、その言葉通りにしました。とても気味の悪い事でしたが、着物を脱いで腹に巻き付けました。そして着物を着て帯を締めました。臭いにおいが、体にまとわりつきました。吐きそうになりました。それでも、それがとても良いように思えたのです。
ああ、ああが帰ってくると、娘を見据えて尋ねました。「・・・ちゃんと、食べたか?」ああ、ああが聞きました。「ちゃんと食べました。」「ほんとに食べたのか?」「食べました。」娘は何が起こるのか恐ろしくてたまりませんでした。なぜ、すねを黒焼にして腹に巻いたのか、わからなかったのです。ああ、ああの目には、何か異様なものが光りました。「・・・それなら、呼んでみようか。」「すねや!どこにおる?!」「・・・はらにいて、出られねえ。」ぷぅーんとイヤなにおいが立ちこめました。その声は腹に巻いたすねの黒焼から出ていました。ああ、ああは急に優しい目になりました。「おめぇは正直者なのだな、なら俺の秘密を教えてやろう。」ああ、ああは囲炉裏の自在鉤の上の柱に隠してあった小箱を取り出し、開けて見せました。中には金と銀の針、そして小さな小槌がありました。「よいか、この金の針は刺すと病気を治し、死人を生き返らす針、銀の針は生き物を殺してしまう針じゃ。そしてこの小槌は願えば金銀小判財宝、何でも出してくれる打出の小槌じゃ。」ああ、ああは小箱を閉め、梁の上に置きました。「これさえあれば、何不自由なく暮らして行ける。もう、何も心配せずとも良いぞ。」そう言うと、娘を抱き寄せ、そのまま小さな子供のように、クゥクゥと寝てしまいました。娘は梁の上の小箱を見上げました。金の針があれば、姉達が生き返るかもしれない。娘は寝ているああ、ああの側を離れ、そっと梁の上に手を伸ばしました。しかし、梁の上には手が届きません。娘は壁伝いに鴨居にのぼり、梁へと伝って行きました。「何をしておる?!」ああ、ああが目を覚まして叫びました。娘は手を伸ばして小箱をつかみましたが、ああ、ああに足をつかまれ、そのまま、引っ張られました。
「ああっ!」娘は小箱と一緒に落ちてしまいました。カターンと音がしました。小箱の中の小槌が転がって行きました。その後を小判が散らばりました。娘が目を開けると、ああ、ああが、足をつかんだまま、息絶えていました。眉間に銀の針が刺さっていました。金の針を探すと、それは小箱の中にありました。娘は金の針を持って、岩屋の中へ行きました。そして、黒くなって横たわっている姉達を刺しました。すると二人とも血の気が通い始め、しばらくすると元通りの姉となりました。三人は泣いて喜びあい、山を降りました。
それから後、三人の娘は、何不自由する事なく、病気になる事も無く、暮らしたと言う事です。
ああ、ああ。
お話の中では、鬼を殺すのには、熊柳の五葉で耳を刺すとなっています。また、死んだ後、化け物はあまのじゃくだったとしてあります。本来は熊柳の五葉が、もとで、金の針が後からついたものなのか?金と銀の針があって、熊柳の五葉が後からついたものなのか?それとも、もともとあったものなのか?重複したもの、死に針と熊柳の五葉の理由が今一つわかりません。さて、もう一つ、お爺さんはどうなるんでしょう?ある意味、こっちの方が鬼なような気がするんですが、みなさん、どう思いますか? 
それをかく鬼とはいふなりけり 

 

鬼は大和朝廷の形成過程で滅ぼされた先住民族で、それは縦穴式住居に住んだ居穴人であったり、またアイヌやイヌイット、ロシア系のオホーツク人だったと思われています。そこに目には見えない超自然的な力や、得体のしれないなにか、死者、そしてその魂と死の国、洞穴に暮らし、岩穴に住すなど、さまざまなイメージが重なって、鬼という概念ができ上がったようです。
そしてもう一つ、符号としての鬼、が登場します。
力すら持たぬ女性を死いる、巨大な権力や、恐ろしい力を持ったもの、犯人はわかっているが捕らえようもない、その名前を口にする事が、はばかれる時、そのものは「鬼」と呼ばれたのです。
「日本霊異記」の「女人悪鬼に點(けが)されて食(は)まるる縁」では、聖武天皇の時代(714〜748)の頃、大和国十市郡庵知村(あむちむら)の東、鏡作造(かがみつくりのみやっこ)の女、で名を「万(よろず)の子」という女性が、「鬼」の犠牲となっています。
万の子、は「かおかたち端正(きらきら)しく」、「高姓の人よばうになお辞みて年を経たり」、身分のよい家柄の人から、求婚されてたが、それを断り続けて、いました。
そのうち「彩の帛(しみのきぬ)三つの車」を贈られ、「父母はこれを見て、忽ち財に耽る心出で来て」富裕の人の申し出を受けてしまいました。
鏡作は伴造(とものみやっこ)で、中央と直結した富貴の家柄でした。その「万の子」の父母は地方豪族「高姓の人」の申し出を断り続け、「彩の帛」を贈った「富裕の人」を選んだ事になります。それが地域の者の不満に火をつけます。
しばらくして「富裕の人」は「万の子」の元に通ってきます。そして夜半、「万の子」の閨から「痛きかな。」と叫び声が聞こえてきた。初夜の夜半の事で、両親もたいした事と思わず寝てしまいました。
翌朝、「万の子」の閨は、血にまみれ、そこには小さな指と頭が残されていただけでした。その上、「彩の帛」は獣骨となり、車は茱萸の木となり投げ出されていました。親達は子の頭を高価な「韓筥(からばこ)」に納めて仏事を営んだそうです。
汝(なれ)を嫁に 欲しと誰。あむちのこむちの万の子。南無南無や。 仙さかもさかも持ちすすり。法(のり)申し山の知識。 誠に誠に。
お前を嫁にというは誰。あむちのこむちの万の子。南無や危ないそのようす。 仙さかもさかも持ちすすり。法を申すは山ひじり。 まことにまことにご愁傷。
この凶事が起る前に童謡が起ったそうです。
童謡は「わざうた」、呪的な部分が含まれていて、この童謡には「万の子」に対する警告的な意味が含まれていたようです。
「万の子」の両親には地方の「高姓の人」への抵抗があり、その事を地域の者は良く思っていなかった。両親の「富裕の人」への了解は、自らの家柄の誇示であり、それが地域全体の不満の頂点へとつながった、のでしょうか。
結局この事件は「鬼」の仕業とされ、犯人の追及はなされなかったようです。
実際に山に住む僧、聖がかかわっていたかどうかもわかりませんが、本当の犯人がはっきりわかっていながら、被害者すら抗議も反論も出来ない事、詳述してはならない部分、理由を言うことがはばかられる部分。
伊勢物語では「それをかく鬼とはいふなりけり。」と言うと書きしるしています。 
 
日本の鬼

 

はじめに
「鬼」という存在について深く考えた事はなかったのです。「鬼」は鬼。角をはやして、虎皮のパンツをはいて、口元からは牙を覗かせ、人をおそう。そんな者でしょうって。悪者の代表。もちろん、実在のものだと考えたことは(少年時代を除いては)ありません。
日本で有名な「鬼」といったら?
「泣いた赤鬼」ほのぼのとして、ちょっぴり切なくていいお話しですね。青鬼さんカム・バーック!!
昔、某TV局でやっていた「日本昔話」で見た「牛鬼」はそりゃあもう怖かった。きこりの持つのこぎりの一番下の刃は鬼を切るためのもので、それが折れてしまったきこりが牛鬼に襲われてしまうお話しです。本気で怖かった。
御伽草子に出てくる「酒呑童子(しゅてんどうじ)」はいかがでしょう。源頼光と四天王+頼光叔父に倒された鬼です。恥ずかしながら、まじめに内容を知ったのはつい最近です。酒呑童子の名前は聞いたことがありましたが、なにしろその出所が某少年週刊誌のまんがだったのですから。(しかも、プロレスもの)
他に有名な鬼といえば「伊吹童子」。伊吹山に巣くう乱暴な鬼だったようです。
それから、羅生(城?)門の鬼(茨木童子;酒呑童子の片腕だった鬼)。頼光の四天王だった渡辺綱に方腕を切り落とされてみちのくまで逃げた鬼です。 
日本の鬼伝説
古典の中の有名な鬼伝説をまとめてみます。どんな鬼たちがいたのでしょう。
1 酒呑童子伝説(「御伽草子」より)
平安代(かな?)、丹波国(京都中部から兵庫東北部あたり)大江山に住む鬼たち(酒呑童子とその眷属)が都の姫君たちを次々にさらうという事件がありました。
この事件に心を痛めた時の天皇は、清和源氏の嫡流源頼光にその討伐を命じました。
命を受けた頼光はその四天王(碓井貞光・卜部季武・渡辺綱・坂田公時)と叔父の藤原保昌を率いて、山伏の姿に身をやつし酒呑童子の討伐に出かけました。
一行は千丈岳(大江山か?)に鬼どもの住みかを探しますがなかなか見つかりません(鬼の神通力か何かでしょうか?)。ようやくの思いで山中に人の住む庵を見つけると、そこには三人のご老人が住んでいました。源頼光一行はご老人たちに道案内をたのみ、さらに、大酒呑みの酒呑童子を倒すための「神便鬼独酒(しんべんきどくしゅ)」という、鬼が呑むとその神通力が失われやがて眠くなる効果を、頼光たちが呑むと力がみなぎるという、誠に便利なアイテムを頂きました。
実はこの老人たちは、頼光たちが出発前に詣でた石清水八幡宮、住吉明神、熊野権現の神だったのです。
三神の道案内で鬼の鉄の御所にたどり着いた頼光は、山伏になりきり、鬼たちをごまかし、自分たちを歓迎して開いてくれた宴会にて、ぐてんぐてんに酔っ払った(「神便鬼独酒」を呑んだ)酒呑童子とその眷属を討ち果たしましたとさ。
2 羅生門の鬼伝説
平氏が権勢を誇っていた頃、京の都の朱雀大路の南の端"羅生門"には、人々に悪さを働く悪鬼・茨木童子がおったそうな。
その頃、勇猛豪胆で知られる侍渡辺綱(頼光四天王が一人)は、ある夜一人でこの羅生門へ出かけ、茨木童子に戦いを挑み、その右腕を切り落としました。茨木童子は切り落とされた腕をその場に置きざりにしたまま、命からがら逃げ出しました。
茨木童子は京の都を離れみちのく(東北地方)へ逃亡。渡辺綱は10人の家来を引き連れてそれを追います。
そして、ついにみちのくは村田の姥ヶ懐(宮城県)にて茨木童子と対峙。
しかし、綱の叔母に化けた茨木童子にまんまとだまされ、石の長持ちの中にあった右腕を取り返されて逃げられてしまったとさ。
3 紀長谷雄に美女を献上する鬼(「御伽草子」より)
菅原道真公の門下に紀長谷雄というお公家様がおりました。この方かなりの博打好きで、ある夜怪しげな男に誘われて朱雀門の楼上で双六の勝負となりました。勿論、博打・賭け事ですから、お互いに、長谷雄が勝てば美女を、男が勝てば長谷雄の持つ宝をすべて、相手に渡すという条件で双六が始まりました。
勝負は長谷雄の連戦連勝。男は連戦連敗の悔しさのあまりに興奮。ついに本性を現します。この怪しげな男、実は鬼だったのです。しかし、長谷雄は気づかぬふりをして、勝負は終了しました。鬼は(男は)言います。
「約束通り、貴方の理想の美女を差し上げよう。」
後日、長谷雄の屋敷に男(鬼)が美女を連れてやってきます。長谷雄に美女を献上するにあたって、鬼は一つ条件を出しました。
「今から100日の間はこの女体を犯してはならない」
というもの。なんだそのくらいは簡単だと思った長谷雄はふたつ返事で承諾します。長谷雄は80日まで、しっかり我慢しました。
しかし、男というもの、毎日側に美女がいるのにそんなに我慢が続くものではありません。美女にすっかりまいってしまっていた長谷雄は美女の手を取って、ついに閨に・・・。
すると、美女は水のように流れて跡形もなくなってしまいました。しばらくするとあの男(鬼)がやってきて、「せっかくたくさんの死体から良い所だけを使って作り上げたのに。100日すれば人の魂も定まるはずだった。なのに貴方という人は!」 鬼の形相で長谷雄につかみかかろうとしたその瞬間、雷神となった菅原道真公が現れて・・・。
「一生悔やむが良いわ!!」の鬼の捨て台詞に、紀長谷雄は本当に一生悔やんだとさ。
4 源博雅とともに笛を吹く鬼(「十訓抄」第10−20より)
平安期、天皇のご一族に源博雅(最近「安部晴明」を題材にした小説で晴明の親友として描かれています。)という楽がとってもお好きな方がおりました。特に笛の名手として知られ、よく月のあかかりける夜に、朱雀門の前にて終夜笛を吹かれておりました。
すると、もう一人男が現れて、博雅と共に笛を吹きます。二人の笛の音は互いに響き合って、それはそれは美しい調べを。その笛の音、この世に類を見ないほどの優れたものだったそうな。初めて会った男同士ではありましたが、二人とも何も言わずずっと笛を吹きあっていたそうな。
やがて笛を取り替えて吹く事になりましたが、吹いているうちに博雅の笛を持ったまま男は消えてしまいました。
この時、その男が博雅に残した笛の名は「葉二(はふたつ)」。
この後、鬼の笛ということが分かるが、天下第一の笛として伝えられることになったとさ。
鬼の正体
鬼の正体については、以前から様々な見地からの研究がなされ諸説紛紛。
もともと中国では「鬼」という文字は「キ」と発音し、死者や亡者を指す言葉でした。日本でも平安期頃までは、菅原道真に代表される怨霊や亡者、または疫病を運ぶ者として表されていたようです。
菅原道真のような怨霊として「鬼」を考えると、恨みを残して死んでいった人間が魂のみの存在となった時、そのあまりに強い怨念が、ある特定の対称(全ての場合に当てはまるとはかぎりませんが)に対し仇をなすことを目的として鬼となる。このころ、各地では飢饉などもあり、人が満足に平等に生きるのが難しい時代でもあったようです。差別や貧富の差が激しく、劣等感や妬み恨みなどが各所で溢れ、食人さえも日常的にあった(と聞いた)といいます。そんな時代ですから、人は簡単に鬼になっちゃう(されちゃう?)し、物も気を抜くと妖怪になってしまう。
ところが、武家社会が始まり室町期になると、鬼は牛角が頭上に戴き、虎のパンツをはくようになりました。そして、そのままの姿でいわれなくただの悪者として人を襲ったりする(「桃太郎」や「一寸法師」など)。「鬼」という妖怪が、人々に強烈にイメージされるようになりました。なにしろ、それまでの怨霊に比べて分かりやすいのですから。ただ、妖怪「鬼」がまったくの想像上のものでしかなかったかというと、そうでもないような気がするのです。というのは「鬼」の表現に具体的でとても生々しい人間くさい部分が感じられたりするのです。
例えば酒呑童子は源頼光に、「自分は越後の山寺に育ったが法師に恨みを持ちたくさんの法師を殺してしまった。そのため、比叡山では伝教法師に、大江山では弘法大師に追い出された。しかし、弘法大師が亡くなったので、大江山に戻ってきたのだ。」と、語ったそうな。
なんだ。そしたら酒呑童子って人じゃん。って思いたくなりますよね。要するに修行僧なのではないのかなあと。それが人を殺し破戒僧(という表現が正しいかは分からないが)となり、各地を転々としたのかなあと。そういう、脛に傷持つ人々が、一種社会からはじき出されたアウトローとして「鬼」のモデルの一端を担ったのかなあなんて思ったりします。
実際どんな説があるのかは以下の通り。
1 外国人漂流者説
漂流して日本にたどり着いた外国人が鬼として表現されたという説。髪の紅い(赤毛)大男で赤い血(葡萄酒)を呑むという表現は西洋人ぴったり!
2 山人説
日本列島の先住民説。日本に農耕民族がやってくる前から日本で生活していた人々(ようするに縄文人?)の一部が、中央政権である大和朝廷に従わず自分たち独特の生活を里とは隔絶した山間で送っていたのではないか。確か、土蜘蛛なんていう怪物が葛城山(だっけ?)にはいたって、なんかに書いてあんだよね。その怪物の名称はそういう人々(一族)を総称したものではないかという説。
実際、(つながりがあるかどうかは知りませんが。というか詳しくは全く何も知らない。)「サンカ」と呼ばれる人々は昭和期にはいり終戦を迎えるまで山で暮らし、人里にはほとんど姿を見せず暮らしていたという。
3 疫病説
当時、天然痘が大流行。それを流行らせた(とされる)鬼神、疱瘡神ではないかという説。雷神・菅原道真さんも一面にはここに入るのかなあ・・・。
4 修験者説
修験道を志す人々が山岳で修行している姿を鬼とした説。実際、役行者はこの修行で体得した超自然的な能力を使い前鬼・後鬼という鬼(弟子?)を従え空を飛び回っていたという。
5 鉱山労働者説
山の乱開発に対する農耕民の敵意的な感情が、その労働に従事する人々(灼熱に焼けただれたタタラ師たちの顔が鬼にも見えた要因の一つではないかともいう)をそう見せたのではないかという説。今も昔も、公害は恐ろしい。
6 山賊説
峠越えをしてきた人々を襲って金品を巻き上げていた人々だという説。面なんかかぶっていたら、本気で鬼にも見えたかも。伊吹童子はここに入りそう・・・。
7 反体制勢力者説
いつの時代にも隠れ住み、時代を転覆させようとした人々はいるものです。そういう人達ではないかという説。ちなみに、忍者の里として有名な伊賀はいつの頃からは知りませんが、中央での勢力争いに敗れた者たちが集まり住んだ地で、戦国期に活躍した忍者はそれらの人々の末裔だという話しです。忍者を指して織田信長は「人外の化生」と呼んだとか・・・。
おわりに
どこでどうして「鬼」という存在がいわれるようになったのかは分かりませんが、潜在的に人々が恐れる「目に見えないもの」の力を具現化したもののような気がします。
そういうものを意識しているうちに、やがて、常人とは違う特異な力をもった人が現れる。それがモデルとなり、世の人に面白おかしく読んでもらおう書物に描かれることになった。
そして、今に伝わる「鬼」という妖怪が生まれたのではないでしょうか。 
 
日本の鬼2
鬼とは自然の猛威への恐怖から生まれたものであり、鬼以前にモノ(物、神)であった。自然の脅威の最たる者は雷電(神鳴)である。雷を司るモノ(雷神)は雨や風も支配すると考えたので、それは河川の氾濫を起こす水霊(ミズチ、オカミ:異説あり)でもあった。また、このモノの姿は蛇体であると想像された。山河でモノに対して呪具を以って祀ったのは巫女であった。また河の渡渉地点や山の峠のあたりには交通を担う人々が屯し、都市文明から取残され中世になっても、このモノに対する古代の信仰が残っていた。いつしか毛むぐしゃらの鬼の姿となった。
鬼といえば、大江山の酒呑童子や羅生門に現われた茨木童子であり、これらを成敗したのが渡辺綱である。この話が出てきた背景には水辺の人々に残った水霊信仰があったという。渡辺綱は武蔵国の美田からでた者であり、渡渉地点にあった人々の勢力と関係していた。中臣鎌足も常陸国阿威や鹿島の地からして水辺の人々との関係が想像される。他に、鬼が出る話といえば、安達原や矢口の渡がある。いずれも中世の渡渉地点に係わっている。神田明神や浅草寺雷門にも同じ背景が見えてくるのである。宇治川の民には「千早人」という呼び名があった。千早振る人々である。
強力な雷神や水霊にどのような対抗をしたのか。それは先の尖った呪具が使われた。具体的には威嚇の矢である。例えば、関東の古代中世の河川の渡渉地点には「矢」を含む地名が多い。府中矢崎、調布矢野口、矢口渡、矢切渡、三河矢矧橋、近江矢橋渡、矢早瀬渡、矢走渡、竹屋渡などで、そこが水霊に呪矢で対抗した信仰があった名残と思われる。また山でも、矢神、矢祭、矢立、弓箭などの地名があり、山の雷神に対抗した呪矢の祭が想像されるのである。更に、蓮華王院三十三間堂の通矢も弓神事を経由した古代の対抗呪術の後裔と見ることができる。なるほど、斉藤慎一『中世を道から読む』にある路次不自由という言葉は重みを増す。
対抗する呪具は矢ばかりでなく、串・櫛・箸・竿などもあった。神武紀、三島湟咋の娘を大物主は丹塗矢に化けてものするが、良く似た倭迹迹日百襲姫の話では、櫛筥の中に大物主を見たために箸で衝いて死んでしまう。大物主が蛇体の雷神であり百襲姫が対抗する巫女で、櫛や箸という呪具が神話に取込まれたのである。極端な例であるが、琵琶湖野島の伊崎寺から琵琶湖に突き出したサオ(竿)がある。著者は那智滝権現や葛川息障明王院のヒデ(碑伝)との比較により、共に湖上の嵐や滝の氾濫をもたらす水霊への対抗呪具として修験者によって立てられた物であることを示す。竿を横にするか立てるかの違いに過ぎないのだ。
先の尖った呪具は矢や竿のほかにも、先の尖った長い葉の植物(長剣状葉)がある。稲、菖蒲、杜若、竹、茅などがそうである。これらの葉の形は稲妻の形であるので雷神に対抗できると考えられたのであろう。因幡堂の鬼瓦には稲葉が隠れている。五月の菖蒲を葺く行事もここから来ている。尾形光琳「燕子花図屏風」に描かれた杜若も、伊勢物語の「水行く川の蜘蛛手なれば…」の故事を踏まえた水霊への対抗呪具の名残と見ることができそうである。
その伊勢物語や大和物語には、水辺の美女が鬼に食われるか、美女が鬼に化けて勇者を襲う話がある。橋姫伝説と言われるが、水霊を祀りその対抗呪術を行った巫女に由来する。本来は水霊こそが鬼であったが、更に時代が下ると、水霊を祀る巫女が鬼と見做されるようになったのである。更に複雑となり、巫女のラブマジックを行う貴船神社に詣でた女が嫉妬に狂って鬼へと変身する話へと発展したり、謡曲鉄輪の鬼が水に入って蛇体と化し後に改心して宇治の橋姫となるなどの例がある。久米の仙人が川で洗濯する娘の脛の白きを見て墜落するのも水霊を祀る巫女と遠くつながっている。
太古の雷神は電撃により火事を発生させるところから火の神でもあった。雷は虚空から到るので鳥として表現された。雷神は火の鳥であった。火具土神を生んだイザナミが神去るときに天津鳥船が生まれており、また建御雷神に天津鳥船が同行していることでも分る。雷神が火の鳥である神話は日本固有のものではないと著者は書くが例は書いていない。ケノ的に追加しておくと、古代メソポタミアには怪鳥アンズーがいた。ライオンの鬣を持ち吼えながら飛ぶ雷神で(小林登志子『シュメル』)、ハッダ神やヤハヴェ神の祖先であった。
 
鬼の話 / 昔話に見る日本の鬼

 

鬼と聞いて現代人が思い浮かべるのは、まず節分の鬼であろう。二本の角を生やし、髪は赤茶けた巻き毛で、口には牙が生え、トラの皮の褌を締めている。これが春の訪れとともにやってきて、人間たちに悪さをするというので、人びとは「鬼は外」と叫びながら、厄除けの豆を投げつけて鬼を退散させ、自分たちの無事を祈るのである。
秋田のなまはげは節分ではなく、大晦日の夜に現れるが、やはり上に述べたような鬼の特徴を有している。ただし褌を締める変わりに蓑をかぶっているが。
このように、鬼は現代人にとっては、年中行事の一齣で出会うメルヘンチックな産物に過ぎなくなってしまったが、かつての我々の祖先たちにとっては、日常生活の中で大きな意味合いを持ったものであった。
日本人は古来、朝廷が編集した書かれた神話としての記紀のほかに、地方ごとに独自の口誦伝承を伝えてきた。それらは「昔話」あるいは「昔語り」として、世代から世代へと語り継がれ、その一部は「日本霊異記」や「宇治拾遺物語」を始めとした説話集に収録された。
こうした昔話を読むと、鬼をテーマにした「鬼むかし」とよばれるジャンルのものがもっとも多いことに気づかされる。昔話は、記紀とは別の次元で日本人の神話的なイメージを凝縮しているものと思われるので、そこに鬼が頻繁にでてくるというのは、日本人と鬼とが古来深い因縁で結びついていることを感じさせるのである。
そもそもその鬼というものが、日本人にとって何をさしていたかについては、柳田国男や折口信夫らの研究を通じて、死者の霊魂、それも祖霊を意味していたとする見解が有力になっている。
日本人の霊魂観については、筆者は別のところで論を展開したことがある。その論旨を改めていうと、人間の霊魂というものは、人が死んでも滅びることはなく、死者の遺骸の周りを漂いつつ、しばらくは死者に縁あるものの近くにある。そして機会があればほかの生き物に生き移って、違う形で甦ることもあれば、場合によっては、生前の怨念がたたって生者に災厄をもたらすこともある。鬼は、死者の霊魂のうちで、この祟りをもたらす荒ぶる霊魂を形象化したものだといえるのである。
古代の日本人は「おに」という言葉に、「鬼」という漢字を当てたが、漢語の「鬼」はそもそも「霊魂」を意味する言葉である。「おに」は漢語の「穏―おん」が転化したとする俗説があるが、それは順序が逆な説といえる。もともと日本の「おに」が意味の近接性から漢語の「鬼」と表記されたのであって、漢語の音が日本語の「おに」という言葉に転化したのではない。
古来日本人の文化的伝統において、祖霊との関わりほど重要なものはなかった。日本人が一年の節々に催すさまざまな行事には、この祖霊が決定的な役割を果たしている。上述した節分の行事やなまはげ、また各地の伝統的な祭事は殆どが、この祖霊を迎える行事に端を発している。神道などはこの祖霊とのかかわりを体系化したものともいえるのである。
祖霊の中でも、日本人をもっとも悩ましたのは、荒ぶる魂であった。この荒ぶる魂が、日本人の生業たる農耕に災いをもたらすとき、それは疫病神となった。日本人は世界の中に農耕民族として登場して以来、この疫病神に悩まされ続けてきたのであり、疫病神の怒りを静めるために、さまざまな努力を重ねてきた。京都の祇園祭をはじめ、今日でも日本各地に残っている伝統行事の多くは、その起源を厄払いにもっている。
こうした荒ぶる死霊、あるいは疫病神としての鬼については、日本書紀にも言及がある。斉明天皇七年の条に、天皇の葬儀にあたって、蘇我入鹿の霊が出てくる。
朝倉山の上において、鬼ありて、大いなる笠を着て、喪の儀を臨み観る
入鹿は斉明天皇が重詐する以前の皇極天皇であった時に、大化の改新に際して殺されたために、しばしば天皇に祟りをした。また、少し下った時代の菅原道真は、死後怨霊となって都に出没し、自分を陥れた者たちに祟りをもたらし続けた。
こうした死者の荒ぶる霊が、鬼という形をとって、人々の畏怖の対象となっていったのである。
この荒ぶる霊が今日のような鬼の形をとるに至るのには、仏教の影響が働いているものと思われる。その詳細については、今後の論及の中で明らかにしていきたい。 
 
鬼女

 

日本の伝承における女性の鬼。一般には人間の女性が宿業や怨念によって鬼と化したものとされ、中でも若い女性を鬼女といい、老婆姿のものを鬼婆という。日本の古典の物語、昔話、伝説、芸能などによく見られ、有名なものには信州戸隠(現・長野県長野市鬼無里)の紅葉伝説、鈴鹿山の鈴鹿御前がある。
安達ヶ原の鬼婆(黒塚)も名前は婆だが、鬼女とされる。また土佐国(現・高知県)の妖怪譚を綴った『土佐お化け草紙』(作者不詳)には「鬼女」と題し、身長7尺5寸(約230cm)、髪の長さ4尺8寸(約150cm)の鬼女が妊婦の胎児を喰らったという話があるが、これは本来福島県の発祥である安達ヶ原の鬼婆伝説が土佐に伝わり、地元の話と共に語り継がれたものである。
転じて、鬼のように心の酷い女性も鬼女と呼称される。 
 
鬼神

 

1 きしん、きじん、おにがみとも読む。普通人の耳目ではとらえることができない、超人的な能力をもつ存在で、人間の死後の霊魂や鬼、化け物などをいう。
2 中国では亡霊を鬼(き)といい、特に横死してまつられない亡霊(幽鬼)は祟(たたり)があるとした。鬼神も祖霊などの半人半神の霊的存在、ことに荒ぶる神霊をいったが、仏教伝来後、その羅刹(らせつ)などの影響で怪異な姿の悪鬼に描かれるようになった。
3 死者の霊魂を神として祀(まつ)ったものをいう。これを「きじん」ともいうが、その場合は荒々しい鬼の意として使われることが多い。オニガミということばは恐ろしい神の意とされている。『古今和歌集』の仮名序に「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ……」と書かれている。鬼神という語は中国より伝来したもので、その意義は多様である。祖先または死者の霊魂をいうが、幽冥界(ゆうめいかい)にあって人生を主宰する神ともされており、さらに妖怪変化(ようかいへんげ)ともみられている。中国の古典にはいろいろと鬼神のことが述べられている。たとえば『礼記(らいき)』には鬼神が天地、陰陽(いんよう)あるいは山川と連想されたり、併称されたりしている。そして鬼神を祀ることが礼であるという。この鬼神の語がわが国に移入されたのであるが、鬼は一般に妖怪のように悪者とされている。鬼退治の伝説、昔話が多く語られている。大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)や桃太郎の昔話などでよく知られている。しかしその一方に、戦場に赴く者が「死して護国の鬼とならん」などというのは、中国の鬼神と相通じるものがあり、人の過去帳に載るのを「鬼籍に入る」という漢語表現も使用されているのである。
4 …1800年(寛政12)刊。近世思想史上の一争点であった〈鬼神〉の存在について、人間の生死を〈陰〉〈陽〉二気の集合離散と見る立場から、人間の死後、〈陰〉は〈鬼〉、〈陽〉は〈神〉となって天地に帰ると合理的に説明しているが、一面では超自然の怪異もみとめている。ために後年、山片蟠桃(やまがたばんとう)の《夢の代》の無鬼論、平田篤胤(あつたね)の《鬼神新論》の有鬼論の双方から批判された。…
5 鬼神という言葉は、民間信仰から仏教まで多岐にわたって使用されており様々な意味を持つ。“鬼”とつくように、凶暴な荒ぶる神に対する呼称として使われる。その一方で、死んだ人の魂や祖霊を表し、「古今和歌集」の序文においては死者の霊魂と天地の神霊を意味する言葉としても扱われる。仏教では超人的な能力を持つ存在の総称として、仏道の護法を行うものから悪事を働くものまで多くの存在が“鬼神”とされ、「仁王経」でも『国土乱れん時はまず鬼神乱る。鬼神乱るるがゆえに万民乱る』という記述が存在する。儒教においても「詩経」で超常の神霊、「中庸」では世界を創造した神を意味する言葉として扱われている。  
「鬼神」
『玉勝間』をみると、江戸時代の国学者本居宣長さんは、「鬼神」の二通りの読み方について、「ことばの知識人」として深い関心をもっていたのですネ。
西来寺藏『仮名書き法華経』に「鬼神」八例、うち二例に読み仮名があっていずれも「きしん」と清音で表記されています。妙一本でも「きしん」三例、「くゐしん」五例計八例で同じく清音なのです。
これをうけて、鈴鹿本『今昔物語集』で「鬼神」を検索すると、一七例あり、原本(五月二五日影印本発売予定)には読み仮名が未記載なのですが、これを校訂した岩波大系本では、鈴鹿本該当箇所の巻における「鬼神」の読みは「きじん」一四例、無表記三例となっていて、すべて濁音読みです。
「きしん」と読むべき内容のところの頭注四273六六には「人の目に見えず、超人間の自由自在の力をもつもの。普通は乾闥婆・阿修羅・迦樓羅・緊那羅・摩=羅伽等をさす。」としています。
『栄花物語』一五<大系上四四三I>にも見えます。「十億恒河沙の鬼神まもるものなり」。これを索引でも「くゐじん」としているのです。
ここで角川古語大辞典は眼を開いてくれます。この「鬼神」を両様別項目とし、「きしん」では、「鬼」は死者の霊魂、「神」は天地の神霊の意。超人間的な力を持つ、目に見えぬ神霊。天地万物の霊魂。「きじん」とは本来別であり、『日ポ』(日葡辞書)では「Qixin おに、かみ<悪魔と神と>」「Qijin おに、かみ<悪魔>」と区別し、謡曲でも両者を発音し分けているが、近世には混同されて、ともに「きじん」ということが多くなった。(以下省略)
さらに「きじん」の方は、「ジン」は呉音。1仏語。超人間的な威力・能力を持つ神。仏法を守護する善鬼神と、それを妨害する悪鬼神とがある。2恐ろしい力を持つ鬼〔おに〕。変化〔へんげ〕。悪鬼。3「きしん(鬼神)」に同じ。とあります。
実に詳細に識別区分されていて用例も引かれ、「きしんは邪なし」である『今昔物語集』巻第二七・31の大系四520N「実の鬼神と云ふ者は道理を知て不曲ねばこそ怖しけれ。」をこの諺の最も古い用例として取り上げています。
死者でも自分に縁の深い霊魂は「きしん」なのです。縁の薄い祟りをもたらすものこれが「きじん」なのでしょう。室町時代の『玉塵抄』に「なを妄執の瞋恚とて鬼神魂魄の境界に帰り、我と此身をくるしめて」は「きじん」なのです。
ですから、日本国語大辞典の上記ことわざの「きじんに横道=邪なし」の記述はおかしいのです。ついでに、「鬼神簿」は「きしんぼ」と正しく記載されています。 
鬼の女房に鬼神
[おにのにょうぼうにきじん / 鬼のような男には、情け知らずの鬼のような女が、妻になるということ。]
鬼のように気性が激しく、冷たい心をした男には、それにふさわしい、人に服従しないような強い女が 妻になるということのようですが、 鬼神を単に、それと考えると、結婚しない男のことを言っているようにも感じます。 どうして、こんなに難しいことわざが生まれたのか、音吉は頭をかかえてしまいます。 「鬼の女房に鬼」ではなく、なぜ「鬼神」が女房になるのかが、分かりません。 玉勝間では、女の鬼のことを、鬼神と呼ぶ、と書いてあるようです。
重要語の意味 / 鬼=鬼のように血も涙もない人。鬼は「隠(おん)」を意味し、姿が見えないことをいう。 女房=妻。男性が結婚した場合の相手の女性。 鬼神=「きしん」又は「きじん」と読み、1死んだ人の霊魂、神霊。2荒々しく恐ろしいもの。3化け物や妖怪。 情け知らず=他人に対して、その人の気持ちや立場を考えないこと。 玉勝間=「たまかつま」と読み、本居宣長の随筆集。  
敬遠 (けいえん)
表面はうやまうような態度をして、実際は疎んじて親しくしないこと。また意識して人や物事を避けること。
用例:「あまりに口うるさいので、みんな彼のことを敬遠している。」

(出典)【論語・雍也第六】より
樊遅問知。子曰、務民之義、敬鬼神而遠之。可謂知矣。
(書き下し)
樊遅(はんち)知を問う。子曰(いわ)く、民の義を務(つと)め、鬼神(きしん)を敬(けい)して之(これ)を遠ざく。知と謂(い)うべし、と。
(語注)
○樊遅(はんち):孔子(こうし)の弟子。
○民之義(たみのぎ):人としてのつとめ。
○鬼神(きしん):亡霊、死者の霊魂。
(現代語訳)
樊遅(はんち)が知恵について孔子に尋(たず)ねると、孔子は答えて言った。「人としてすべきことを行い、死者の霊魂のことは、それを敬(うやま)いながらも遠ざけておく、それが知恵ということだ」

「春秋戦国時代」と呼ばれる時代は、前半の「春秋時代」と、後半の「戦国時代」の二つの時代の総称です。どちらも諸侯が勢力を競った時代ではありますが、諸侯の上に形式上は君臨している周王朝の権威は、「戦国時代」にいたると一層ないがしろにされ、世の中は弱肉強食の様相を呈してゆきます。
実力主義の風潮が広まると、諸侯の国はもとより、一般民衆の社会生活においても、様々な価値観が変化しはじめます。そうした中で、周王朝が建国された当時の古き良き時代の世の中を理想として、古代への復古を目標としたのが孔子(こうし)でした。
姓は孔、名は丘(きゅう)、字(あざな)は仲尼(ちゅうじ)、政治家であり、教育者であり、そして思想家としては儒家(じゅか)の祖と仰がれる孔子は、後代の中国はもとより、韓国や日本など東アジア諸国の思想や学問、政治にも絶大な影響を与えた人物です。
孔子の教えは多岐(たき)にわたり、とても一言では言い尽くせませんが、特色の一つを挙げるならば、「尚古(しょうこ)主義」であったと言えます。「尚古」とは、すなわち「古きを尚(とうと)ぶ」の意で、周王朝の古代の制度の復活を願ったことからも、その姿勢を窺うことができます。
新しいものに価値を見いだすのではなく、古い時代の制度や文化を良しとする孔子は、「述(の)べて作らず、信じて古(いにしえ)を好む。」という言葉を残しています。その意は、「古(いにしえ)の正しい思想を継承して伝えゆき、自分の説をむやみにつくったりはしない。私は、古代の賢人たちの述べた思想の正しさを信じて、それを実践することを好むのだ」ということです。
古代を尊び、すでに行われたことの中にすぐれたものを見いだす、という姿勢は、同時に、根拠の無い想像や迷信を戒める姿勢とも重なります。
孔子は「怪力乱神を語らず」であったと言います。孔子が話題にしなかった「怪(かい)・力(りょく)・乱(らん)・神(しん)」とは、怪奇なこと、力をたのんだ武勇伝、世の中や倫理の乱れ、神怪などのことです。孔子は、現実に存在すべきでないことや、存在するかどうか分からないものについては話そうとしませんでした。
また、あるとき、孔子の弟子の一人、季路(きろ)が、「鬼神(きしん)」について、孔子に尋(たず)ねました。中国でいうところの「鬼(き)」とは、日本の鬼(おに)のことではなく、死者・亡霊のことで、「鬼神」とは死者の霊魂のことです。
季路が尋(たず)ねて曰く、「先生、鬼神(死者の霊魂)を祀(まつ)り仕(つか)えるには、どのようにしたらよろしいのでしょうか」すると孔子が答えて言うには、「まだ、生きている人間に仕えることすら満足にできないのに、どうして鬼神(死者)に仕えることができるだろうか」と。
そして、さらに季路が「では、死ぬということは、どのようなことでありましょうか」と尋(たず)ねると、孔子曰く、「まだ、生きるということがどういうことなのか満足に分かっていないのに、どうして死ぬということが分かろうか」。
ことほど左様(さよう)に、孔子は現実のことにのみ目を向けた思想家、政治家でした。しかし、孔子は「鬼神」の話題をしなかったとはいえ、死者の霊魂を無視したり、軽蔑したりした、というわけではありませんでした。そのあらわれとして、樊遅(はんち)という弟子には、こう述べています。
「鬼神(きしん)を敬(けい)して、之(これ)を遠ざく」
鬼神(死者の霊魂)は存在するかどうか、定かではない。だから、そうしたことにとらわれすぎて、現実のことがおろそかになってはいけない。鬼神を敬いながらも、それに近寄って深入りはせず、生きている人として、日々なすべきことを行うべきなのだ、孔子はそう教え諭(さと)したのです。
孔子の、「敬鬼神而遠之(鬼神を敬して之を遠ざく)」という言葉を縮めて、日本では「敬遠」と言い、表面的には敬(うやま)いながら、実際には疎(うと)んじて親しくしないこと、 また意識して人や物事を避けること、を言うようになりました。
「敬遠」という言葉は、常に現実に向かい合おうとした孔子のあり方を端的に示しています。定かではないことに直面したときには、軽々しく妄信(もうしん)せぬよう戒めながらも、無造作(むぞうさ)に排斥(はいせき)することもしない。そうしたあり方は、バランスのとれた「中庸(ちゅうよう)」を重んじた孔子ならではで、まさしく「知」と呼ぶに相応(ふさわ)しい、しなやかな態度であった言えるでしょう。 
マダラ鬼神
マダラ鬼神とは、漢にては摩多羅(魔多羅)の字をあてるも、その源流は、印度の外金剛部の神にして、観世音菩薩の主宰し玉う『補陀洛浄土』の守護神である。
当山開創の砌、法輪独守居士は、延命観世音菩薩を捧持して東支那海を渡航したとき、風波にわかに荒く、大船正に海中に没せんばかりであったが、法輪独守居士の『観音の称号』をとなえ奉る声に応じて摩多羅神現れ玉い、船のへさきに立って波を静め航路を開いたと伝えられている。
マダラ鬼神祭の縁由
1、序 章
文明3年(1471)6月24日、上杉顕定(あきさだ)の部将長尾景信(かげのぶ)の軍勢、古河城を攻撃して古河公方足利成氏(こがくぼうあしかがしげうじ)を破り古河城を占領す。成氏(しげうじ)は弟弘尊(ひろたか)以下一族とともに千葉に逃れ、千葉孝胤(たかたね)にかくまわれる。
2、古河城の奪回
文明4年2月3日、結城城主結城氏広(うじひろ)の援兵を得て弟弘尊(ひろたか)率いる自軍と併せて15,000の兵が、夜陰利根川を渉って古河城を奇襲し遂に奪還に成功した。成氏(しげうじ)は長尾方の敗兵を追って裏筑波山系の雨引山を囲んだ。
3、雨引山楽法寺の焼失
裏筑波山系の雨引山に長尾勢を追い上げた足利勢は、四方から火を放って長尾勢を攻め立てた。当山はこのため炎上し、本尊延命観世音菩薩(像高175cm)は自ら光明を放って観音堂前の椎の老木に難を避けられた。火収まり両軍退去した後、蝟集(いしゅう)した信者は本尊仏の安泰に随喜の涙を流した。
それから幾日か後のこと、夜毎多数の鬼が雨引山上に集まり、材木を運び工事をしているという噂が立った。夜になるのを待ち兼ねるように多数の覆面をした職人が現れて、仮堂を制作していたのである。17日目にして仮本堂が建った。その鬼形の人々を統率したのが馬上姿の鬼神であり、白馬に跨(またが)って覆面の鬼の職人を指揮していた。
これを直視した土地の人々はその異形さに驚き、この鬼の大将こそ天竺(てんじく)のマダラ鬼神であろうと噂し合った。この噂の根元は当山の住持吽永和尚(うんえいわじょう)であったとも伝えられ、或いは吽永(うんえい)の師の坊である吽賀阿闍梨(うんがあじゃり)であったかも知れない。
然し当山にはそれを伝える確実な証拠は何一つ残っていない。
兎(と)に角(かく)、覆面し或いは面を被った職人集団が、無償で仮本堂を建設したという説話が生まれ、これがマダラ鬼神祭の原点であることだけは確かなようである。
ただ謂(い)えることは、日本国内ではマダラ鬼神の祭礼を行っているのは京都の太秦(うずまさ)の広隆寺(こうりゅうじ)と当山のみであり、広隆寺(こうりゅうじ)のそれはマダラ鬼神が鬼面を着け牛に乗り唐風(からふう)の衣装を着けていることに対し、当山のマダラ鬼神は馬に乗り弓箭(きゅうせん)を帯し破魔矢(はまや)を天空に放つという違いが有ることである。
それに当山中興第一世の吽永(うんえい)は吽賀阿闍梨(うんがあじゃり)の弟子であり、吽賀(うんが)は京都の醍醐三宝院(だいごさんぼういん)の阿闍梨(あじゃり)であったということを考えれば、「日本二大鬼祭の一」と位置付けられるマダラ鬼神祭が、当山に於いて実施されるという因縁も判然といたすのである。
この祭礼は、それ以後断続的に継承されて江戸時代にまで続いて来たが、江戸時代初期にいたり当山中興第十三世尊海僧都(そんかいそうづ)が出るに及び、漸く定着するに至った。
尊海僧都(そんかいそうづ)は武蔵国河越六万石の城主松平伊豆守信綱(まつだいらいずのかみのぶつな)侯の二男にして、寛永18年当山住職に就任するに当たり、信綱(のぶつな)侯より当山に内帑金(ないどきん)壱千両を贈られて祭祠料とされた。 依って寛永19年3月、中断していたマダラ鬼神祭を復興した。その際信綱(のぶつな)侯夫人は御自身の衣装を袈裟に改造して当山に納められた。
第二次大戦後の昭和27年、マダラ鬼神祭復興に当たって此の袈裟を鬼神に被着させて、その意義を世に訴えたのである。
祭典の開始は花火の轟音を以て合図となし、古式床しい裃(かみしも)姿の侍(さむらい)を従えたマダラ鬼神が馬上凛々と鬼達を従えて大石段を駈け登り、境内の竹矢来(たけやらい)の中で鬼達の踊りと、鬼神の破魔矢(はまや)の発遣(はっけん)や柴燈護摩(さいとうごま)と太鼓の合奏の裡(うち)を、大祇師(だいぎし)と称する僧侶の大太刀の修抜(しゅうばつ)が行われ、厄災を攘(はら)う光景は圧巻である。正に日本二大鬼祭の名に恥じない。 
 
鬼神論とは何か 有鬼と無鬼 

 

1 鬼神の住むところ
鬼神はどこに住むのでしょうか?鬼神の住処(すみか)はまず何より人間の言語です。そして言語とともに人間の作る建造物がまさしく鬼神の目に見える住処となります。それは霊廟であり、日本では神社です。このような問いと答えとは奇妙に聞こえるかもしれません。
しかしたとえば『朱子語類』の巻三を構成している鬼神をめぐって繰り返されている朱子と門弟間の問答の累積を見た人ならだれでも、鬼神が人間の、ことに儒家知識人の言説上に、その言語のうちに住んでいることを直ちに納得されるでしょう。まさしく私に鬼神についてのこのような問題関心を抱かせたのは朱子たちの鬼神をめぐる言説なのです。なぜ彼らによってこのように繰り返し問われ答えられる形で鬼神が論じられているのか、しかもその問答がなぜ朱子学説の重要な構成要素をなすものとしてあるのか、という疑問からなのです。
そしてもう一つ私に鬼神をめぐる問題関心を抱かせたのは、荻生徂徠の次のような言葉です。
「鬼神の説、紛然として已まざる所以の者は、有鬼・無鬼の弁のみ。それ鬼神なる者は、聖人の立つる所なり。あに疑いを容れんや。故に、鬼なしと謂う者は、聖人を信ぜざる者なり。」(『弁名』天命帝鬼神)。
徂徠はここで、「鬼神なる者は、聖人の立つる所なり」といっているのです。これも簡単には理解できない言葉です。「聖人の立つる所」とはいったいどういうことなのだろうか。徂徠の学説と儒家鬼神論の理解へと私を促した動機の一つをなしているのは、この徂徠の言葉であったのです。この言葉をめぐっては後に詳しく申し上げますが、ここでは最初に私が提示した「鬼神の住処」をめぐる問いと答えにかかわる限りで簡単にのべておきましょう。
徂徠における聖人とは、広い意味での文化体系を具えたものとしての人間世界の制作者の謂いです。聖人とは同時に歴史的古代の先王なのです。聖人=先王の制作になる文化体系を徂徠は「礼楽刑政」という言葉でいいます。このような聖人概念の理解を前提にして考えれば、「鬼神なる者は、聖人の立つる所なり」という徂徠の言葉は、鬼神とは、聖人の制作になる「礼」の体系、すなわち祭祀体系によってはじめて存立するにいたったのだ、ということを意味するはずです。人間の文化体系をこの祭祀体系をも含めて考え、そして文化体系とは同時に言語的表象の体系でもあると考えれば、人間にとって鬼神が存立するにいたるとは、鬼神が人間の文化体系に、あるいは人間の言語体系に住処をえるにいたったということを意味するはずです。
鬼神とはどこに住むのかという問いに、その住処は人間の言語であるというように答えることは、以上のような私の疑問と理解から導かれたことです。鬼神の住処は人間の言語であるということは、いいかえれば鬼神というのは人間の言説上の存在だということです。だから儒家の鬼神論というのは、鬼神を主題として言説上に存立せしめた儒家の議論が鬼神論だということです。鬼神が有るとすれば、儒家言説上に居るのです。鬼神が無いとすれば、儒家言説から消されているということです。それは決して言説外の実体的な鬼神の有無にかかわる問題ではないのです。ところが人々は鬼神をめぐる問題を言説外の実体的鬼神をめぐる問題だと考えてきました。実はそう考えることから、徂徠がいっていたように、紛然として已むことのない有鬼・無鬼の議論が生起することになるのです。人間の言語のうちにはじめて住処をえた鬼神を、あたかも言語外に実在するかのように考えるところから、まさしく幻影(fantom)の鬼神を追って尽きることのない有無の議論が生じてくることになるのです。 
2 鬼神論と言説論的転回
鬼神が人間の言語に住むようになるには、鬼神をめぐる見方の転回を経由しなければなりません。すなわち鬼神が人間によって問われる存在にならなければなりません。この鬼神の言説化というべき転回の原初的なあり方を示しているのが、『論語』先進篇における孔子と子路との間でなされた周知の問答です。
「季路鬼神に事えんことを問う。子曰く、未だ人に事うること能わず、いずくんぞ能く鬼に事えん。敢えて死を問う。曰く、未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん。」(先進篇)
鬼神と人間の死、あるいは死後がここではじめて問われたのです。この問答は、祭祀的共同体的な人間の生活のうちに問われることなく存続していた鬼神(祖霊)が、その祀り方を問うという形ではじめて言説上に存在することになった原初的な事件を伝えるものです。それは鬼神が共同体的な生における自然的な存在から人間の言説上の存在になるという一つの重要な転回を示す事件です。そしてこの転回を通じて、孔子の教説もまた成立するといえるのです。この転回とは、自然的な事態への人間的な問い直しであります。『論語』に示されている孔子教団における問答とは、問われることなく継承されてきた儀礼習俗の意義を問い直すことからなる言説化(教説化)の作業だといえます。儀礼習俗が人間社会にとってもっている意義が問い直されることを通じて孔子の教説、すなわち儒家の教説は成立するのです。この儒家教説の成立を劇的に示しているのが、上の鬼神をめぐる『論語』の問答です。
このように鬼神が人間の言説上に住むようになるには、いいかえれば儒家の教説が成立するようになるには人間は一つの転回を経る必要があったのです。この転回を言語論的転回(linguistic turn)に因んで私は言説論的転回と呼びます。と同時に、鬼神をめぐる事態をこのように見うるためには、私たち自身における言説論的な転回を必要とします。すでにいいましたように、鬼神論とは言説上に主題として鬼神を存立せしめた儒家の議論であり、鬼神が有るといえば儒家言説上に居るのであり、無いといえば儒家言説上から消されたのであると見うるためには、われわれが言説論的な転回をする必要があるのです。われわれの視点を言説論的な立場へと転回させる必要があるのです。
「言説」を「事件」と見る言説論的な立場について、私はすでに『「事件」としての徂徠学』でのべました。言説が事件であるとは、それが言説空間的世界に向けて何かが事件性をもって言い出されたことによります。言説の意味とはしたがって、何が新たに言い出されたかという、言説上の差違への注目から、さらには言説空間的な世界との関わりから導かれねばなりません。ではこの言説論的な立場から、儒家鬼神論とはどのように考えられるのか。 
3 鬼神の解釈的言説
朱子の鬼神観は『中庸章句』「鬼神之為徳」章の注釈文中にはっきりと示されております。
「程子曰く、鬼神は天地の功用にして、造化の迹なり。張子曰く、鬼神とは二気の良能なり。愚おもえらく、二気をもっていえば、すなわち鬼とは陰の霊、神とは陽の霊なり。一気をもっていえば、すなわち至りて伸ぶるものは神たり、反りて帰するものは鬼たり。その実は一物のみ。」(第十六章)
ここにしめされているような朱子の鬼神観について、朱子研究者たちは鬼神を陰陽という自然哲学的概念に哲学的に昇華したものだと評してきました。あるいはこれを無鬼論の哲学的な表現であるとみなしてきました。しかしこの朱子の注釈の言語をよく見れば、これは鬼神を陰陽二気論という自然哲学的言語をもって言い換えたものだということが分かります。いわば鬼神を自然哲学的に解釈した言語からなるものです。もちろんこの自然哲学的な解釈はそれとして興味あることだし、ここから朱子の気的自然理解への問いも生じます。しかしここでは朱子鬼神観の言説構成のあり方、それがいかなる言語からなるものかに注目したいのです。朱子の鬼神論とは、鬼神を陰陽二気論的な解釈コードで読み解いた解釈的な言語からなるものです。
鬼神についての解釈的言語からなる朱子の鬼神論的言説から解釈対象としての鬼神は無くなりません。朱子の言説上に常に解釈される主題として鬼神は存在します。したがってこれを無鬼論的言説だと言い切ることはできません。しかし、さりとて朱子は鬼神の実在をいうわけではない。ですから、朱子の鬼神説とは有鬼とも無鬼ともつかないもの、鬼神の有無をいわないものです。私はこれを解釈的鬼神論と呼んでいます。ところで朱子の解釈的鬼神論とはどのような意味をもっているのでしょうか。 
4 鬼神言説化の光景
『朱子語類』の「鬼神」を主題とした第三巻は朱子と門弟たちとの間でなされた鬼神をめぐる執拗な問答によって構成されています。門弟たちが朱子に執拗に問い続けたのは何でしょうか。それは祖先祭祀の根拠づけをめぐってです。たしかに朱子の陰陽二気論的鬼神説は、祖霊と子孫との祭祀の場における合一をそれなりに解釈し、説明します(『中庸章句』十六章)。しかしこの朱子の自然哲学的な解釈は究極的には祖霊への信仰を危うくするのではないか。それこそ師に執拗に問い続けた門弟たちの心裡にある危惧です。その危惧には己れの死後をめぐる実存的な問いも含まれているでしょう。
朱子は門弟によるこの執拗な問いに対して、終始、理気論的な哲学的レベルでの回答を続けます。決して朱子は門弟たちの内心の危惧に安心を与えるような回答はしません。そのことがいっそう弟子たちを不安にさせ、彼らにさらなる質問を続けさせるのです。これはすさまじい言説的な光景です。何がすさまじいのか。それは鬼神が知識人の言語に住むことになる、そのことから派生する問題のすさまじさです。
鬼神は朱子によって哲学的に解釈され、彼の哲学的言説の形をとってその言説上に住むことになります。朱子の鬼神説とは、鬼神を哲学的に変形して自己の言説上に住まわせることにするという鬼神言説化の徹底したあり方を示すものだと思います。それは学者の言語が鬼神的存在を言説化する極致を示しています。しかしこの言説化は鬼神が共同体的な生活にもっていた根を断ち切ってしまいます。自然的鬼神が言説的鬼神になるということはそういうことです。それこそ門弟たちを不安にさせ、彼らを執拗な問いへと向かわせた原因です。
『論語』における孔子と子路との問答が、鬼神の言説化への原初的な光景を示すものだとすれば、『朱子語類』や『朱子文集』における朱子と門弟との問答は鬼神の言説化の究極的な光景を示すものだとみなされます。
ところで鬼神の言説化は、すでにいいましたように、鬼神を言説上に主題化しても鬼神を消し去ることはしません。儒家の鬼神説というのは、鬼神を自己の言説上に住まわせることによって鬼神に新たな意味づけを与える言説でもあるのです。それは鬼神祭祀の再編なり、再形成を意味しています。この方向は、孔子における鬼神の言説化とともに始まることは、『礼記』における諸篇に示されている通りです。儒家鬼神説というのは、鬼神を自己の言説に住まわせながら、鬼神とその祭祀に新たな意味づけを与え、その祭祀を再編していくものです。ある飛躍を覚悟していえば、朱子における鬼神の究極的な言説化とは、帝国の学者官僚による鬼神祭祀のトータルな再編への道を示すものではないでしょうか。
[付記]私がこのように考えるのは、近代日本の国家神道は鬼神を国家的言説の上に住まわせたものだと考えているからです。国家神道の成立に後期水戸学を称される儒家の言説が大きな役割を果たします。その点については徂徠の鬼神説とともに後にふれます。英霊とは死霊を国家的言説の上に住まわせ、変形させたものです。国家は英霊を必要とします。だからこそ日本の首相は国際的な非難にもかかわらず靖国神社への参拝を続けるのです。 
5 無鬼論的言説
儒家の鬼神説において無鬼論とみなされるものがあるとすれば、それはどのようなものでしょうか。いま伊藤仁斎(1627?1704)が『論語』先進篇のあの問答に付した注釈を見てみましょう。孔子が子路の問いにあのように答えたのは次のような考えからだと仁斎はいうのです。
「其の意蓋し人に事ふることを務めて鬼神に諂うこと勿かれ、生存の道を尽くして死の裡を求むること勿かれと曰うがごとし。夫子之を抑えること深し。蓋し仁者は力を人道の宜しき所に用い、智者は其の知り難き所を知ることを求めず。苟も力を人道の宜しきに用いて、又能く生存の道を尽くすときは、則ち人倫立ち、家道成る。学問の道において尽くせり。」(『論語古義』)
ここで仁斎は人間の行為と知識とをはっきりと限定しようとしています。仁者とはみずからの行為を人倫的世界の生存の道に限定し、そこに全力を尽くすものの謂いであり、智者とは人間にとって知り難きことを敢えて知ろうとしないものの謂いだと仁斎はいうのです。これはカントの認識批判におけると同様な、現世的人間の行為と認識との自己限定をいうものです。鬼神の問題は、この限定された人間の世界の外に置かれることになります。こうして人間の行為と知識をめぐる儒家的言説の上から鬼神は主題としても消えてなくなります。儒家言説における無鬼論とはこのような言説であると私は考えます。
しかしこの無鬼論的な言説は祖先祭祀をも否定してしまうのでしょうか。しかし家族道徳を基底にしている儒家の道徳思想からすれば、祖先祭祀の否定はありえません。仁斎における無鬼論は祖先祭祀を否定するというよりは、それを倫理的な祖先への崇敬に再編成するというべきでしょう。仁斎にとって親への敬愛の延長上に祖先への姿勢もあるのだし、そうでなければならないのです。孔子が子路に答えた言葉はまさしくそのことを意味すると仁斎はいうのです。『論語』の本来の意味(古義)を仁斎はそのように読みとるのです。 
6 有鬼論的言説
儒家における無鬼論的言説を仁斎の鬼神説に私は見ました。では有鬼論的言説はだれにどのような形で見出されるのでしょうか。荻生徂徠(1666?1728)が書いた一つの文章があります。それは『徂徠集』にある「私擬対策鬼神一道」という文章です。これは人間の社会的共同体への視点をもった徂徠の思想がよく現れた文章です。やや長いが以下に引きます。
「聖人の未だ興起せざるに方りてや、其の民散じて統無く、母有ることを知りて、父有ることを知らず。子孫の四方に適きて問わず。其の土に居り、其の物を享けて、其の基むる所を識る莫し。死して葬むること無く、亡じて祭ること無し。鳥獣に羣りて以て?落し、草木と倶に以て消歇す。民是れを以て福い無し。蓋し人極の凝らざるなり。故に聖人の鬼を制して以て其の民を統一し、宗廟を建てて以て之れに居き、丞嘗を作りて以て之れを享る。・・・礼楽政刑是れよりして出ず。聖人の教えの極なり。」(『徂徠集』巻十七)
徂徠はここで聖人の制作によって人間共同体が成立する以前の、いわば自然状態としての人間の存立のあり方を描き出しております。これはルソーの『社会契約論』における社会を形成する以前の人間の自然状態の描写を思わせる文章です。ただ人間社会の成立は徂徠にあっては社会契約によるのではなく、聖人(先王)の制作によります。ところで徂徠は人間社会はまず祭祀的共同体として成立すると考えます。上の文章で徂徠は、聖人が「鬼を制することで民を統一した」といっています。聖人が「鬼を制する」とは、すでに『「事件」としての徂徠学』で触れましたように、祭祀対象を明確にし、祭祀儀礼を制定することです。この鬼神祭祀を通じて人間社会はまず祭祀的共同体として成立すると徂徠はいうのです。
徂徠は人間の社会的な存立のあり方に注目した思想家です。この徂徠によってはじめて鬼神は人間の共同体的存立をめぐる言語をもって語られることになったのです。人間の社会的共同性の成立にとって鬼神祭祀が決定的な意味をもつとすれば、鬼神とその祭祀が否認されることはありません。鬼神は人間の共同体を語る言語の上に己れの住処をもつことになります。鬼神ははっきりとこの言語の上に存在します。私が有鬼論的言説というのは、このような言説をいうのです。 
7 徂徠鬼神説と国家神道
徂徠鬼神説において人間共同体の形成にとってもつ鬼神祭祀の意義を認識するものは聖人です。そしてまたこの聖人に政治論的に一体化する為政者であり、認識論的に聖人に一体化して考える儒家思想家です。徂徠の言語はこのようにして成立します。たしかに徂徠の言語は、さきにルソーを引き合いに出しましたように近代の社会思想的な言語との類似性をもっています。しかしここでは、制作者としての聖人を前提にする徂徠的言語は、容易に政治的言語に転形するものであることをいっておきたいと思います。
さきにも触れました後期水戸学に国家神道への視点が成立するにあたって、徂徠学が論理形成上の示唆を与えたと私はみなしています。19世紀の中期、欧米諸国による開国通商の要求によって動揺した徳川末期日本にあって、危機の政治思想として登場したのが後期水戸学です。本来、水戸学は明の亡命学者朱舜水の指導下に形成された朱子学です。徳川後期社会で政治思想として自らを再形成していった水戸学を、初期のものと区別してわれわれは後期水戸学と呼んでいます。この後期水戸学の代表者会沢正志斎に『新論』という著書があります。この書は危機の時代の政治的活動家(幕末の志士)たちに絶大な影響を与えました。この書で会沢は、対外的危機に対応するにあたってもっとも重要なのは「民心の統一」だといいます。では民心を統一するためには何が必要なのか。それは祭祀を通じての民族的な統一であると会沢は答えます。ここで会沢は古代日本における天皇による国家の神道的な祭祀的統一を回顧しながら、その再興を説くのです。ここには、やがて明治政府によって形成される国家神道のアウトラインがすでに明確に引かれています。と同時に、私はここに徂徠鬼神説のはっきりとした影を見出すのです。
仏滅後二千五百年を経た今日の台北で仏舎利が多くの信者を集めておりますが、鬼神が人間の言語に住むようになって同じく二千五百年余を経過した今日、鬼神は己れの住む人間の言語を通して私たちにますます大きな力を振るっているようであります。 
 
鬼の故事来歴

 

「おに」の語源
1 「隠(おん)」の字音から転じた
「おに」の語源説で最も古いのは、日本最初の百科辞典とも言える『和名類聚抄』である。
鬼和名於爾 或説云、隠字音於爾訛也、鬼物隠而不欲顕形、故俗曰隠也
鬼は物に隠れて形が顕れることを欲しないので俗に「隠(おん)」といい、それから「鬼(おに)」と言うようになったというのである。一般にはこの説が有力とされている。
2 「陰(おん)」の字音から転じた
しかし、貝原益軒(『日本釈名』)、新井白石(『東雅』)は、「陰(おん)」説を採る。陰(おに)は音を以って訓とせしなり。いける人は陽なり。死せる人は陰(おん)なり。(『日本釈名』)
大和岩雄は『鬼と天皇』の中で、陰と隠は死にかかわる表記として同じに使われているのだから、陰と隠の二つの意味の「おん」が「おに」に転訛したと、1と2の折衷説を述べる。
3 日本古代の固有言語
3の説は、折口信夫が『信太妻の話』の中で、「一体おにという語はいろいろな説明が、いろいろな人で試みられたけれども、得心のゆく考へはない。今、勢力を持っている「陰」「隠」などの転音だとする漢音語源説はとりわけこなれない考えである。」と、漢字の転音であるという説を批判し、日本の古代の信仰の方面では、「かみ(神)と、おに(鬼)と、たま(霊)と、ものとの四つが代表的なものであった(『鬼の話』)」として、「おに」は日本古代の固有の語であるとしたものである。
これに対し大和岩雄は、「かみ(神)と、おに(鬼)と、たま(霊)と、もの」は、平安時代なら適用するが、それ以前は、「かみ」「たま」「もの」の三つであって「おに」は入らない。(『鬼と天皇』)と批判している。
4 オホビト(大人)のこと
4も折口が示した説(『日本芸能史ノート』)で、オは大きい意。ニは神事に関係するものを示す語。オニは神でなく、神を擁護するもの。巨大な精霊、山からくる不思議な巨人をいい、オホビト(大人)のこと(『日本国語大辞典』)とするが、鬼は巨大なイメージだけではない。 
漢字「鬼」
「鬼」という字の解釈は様々であるが、死体をかたどった象形文字に、後に賊害の意味を持ち音を表す「ム」の部分が加わったものとみられている。中国においては、「鬼(き)」は死者の霊魂を意味する。人間は陽気の霊で精神をつかさどる魂と、陰気の霊で肉体をつかさどる魄(はく)との二つの神霊をもつが、死後、魂は天上に昇って神となり、魄は地上にとどまって鬼となると考えられていた。 
「鬼」の字の日本での初見
現存遺跡では法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の中の「鬼前大后」(聖徳太子の母の穴穂部間人皇女のこと)とあるのが「鬼」の字の初見で、飛鳥時代から「鬼」の字が用いられていたことを示す。日本の文献に「鬼」字が初めて使われたのは、『出雲国風土記』で、大原郡(おおはらのこおり)阿用郷(あよのさと)の名称起源を説いた文である。
「昔或人、此処(ここ)に山田を佃(つく)りて守(も)りき。その時目一つの鬼来りて佃(たつくる)る人の男(をのこ)を食(くら)ひき」と書かれている。「目一つの鬼」という鬼の形態と食人性、山との関連を示しており興味深い。 
和訓「おに」
漢字の「鬼」という字が「おに」という和訓を獲得し、それがほぼ定着したのは平安時代末期のころで、それまで『日本書紀』『万葉集』などでは、鬼の字を「もの」「しこ」「かみ」と訓じていた。
なぜ「おん」ー「おに」になったのか
なぜ「陰」「隠」の「おん」が「鬼(もの)」にとってかわったかについて、大和岩雄は「晴明や保憲は、普通の人には見えない異界(陰・隠の世界)のもの(鬼)たちを見ることができ、自らも「隠形の術」をおこなっている。こうした陰陽師とかかわる「おん(陰・隠)の鬼(もの)」が表記で「物・者」と区別されただけでなく、言葉も区別され、「もの(物・者)」に対して「おん―おに(鬼)」といわれるようになったのだろう。(『鬼と天皇』)」と述べている。
「もの」とよむ「鬼」
折口信夫は「極めて古くは、悪霊及び悪霊の動揺によって著しく邪悪の偏向を示すものを『もの』と言った。万葉などは、端的に『鬼』即『もの』の宛て字にしてゐた位である(『国文学』)」と書いている。
この「もの=精霊=鬼」とみる折口説に対して、大野晋は「『もの』という言葉」と題した講演で、『もの』という言葉は『精霊』という意味だけで使われたのではないと批判し、「『もの』という精霊みたいな存在を指す言葉があって、それがひろがって一般の物体を指すようになったのではなく、むしろ逆に、存在物、物体を指す『もの』という言葉があって、それが人間より価値が低いと見る存在に対して『もの』と使う、存在一般を指すときにも『もの』という。そして恐ろしいので個々にいってはならない存在も『もの』といった。古代人の意識では、その名を傷つければその実体が傷つき、その名を言えば、その実体が現れる。それゆえ、恐ろしいもの、魔物について、それを明らかな名で言うことはできない。どうしてもそれを話題にしなければならないならば、それを遠いものとして扱う。あるいは、ごく一般的普遍的な存在として扱う。そこにモノが、魔物とか鬼とかを指すに使われる理由があった。」と述べて、「鬼」を「もの」と訓じていた理由を説く。
藤井貞和も『古事記』の「物」表記三四例をあげ、大部分が物象一般だとして大野同様に折口を批判しているが、その中で僅かに「得体が知れない存在物」で『物』としかいいようのないものがあることを認めている。(『物の語り ー モノは『霊魂』か『物象』か』)
大和岩雄は、藤井の言う「得体が知れない存在物」を「霊魂に近い」ものとみて、物象と霊魂の両義性が「もの」にあるという考えを示している。そして、この両義性が、人が作った「物」にも霊魂が宿るという日本人的な発想を生み、付喪神(つくもがみ)を造ったと説明している。
ヨーロッパ人は、「物」と「霊」をはっきり区別している。だから人工的に作られた「物」は妖怪にはならない。(『鬼と天皇』)
同じように、荒俣宏は『妖怪草子』の中で、「日本と違って西洋では、道具を人間が作り出しているという意識が非常に強い。だから人工物には霊が宿らないのです。」と述べ、小松和彦は付喪神について、「そういうものはかなり昔からあったと思います。ものに対する日本人の感性が、相当前から育んで来たイメージでしょう。」と語っている。
付喪神と呼ばれるこの「神」は、百鬼夜行絵巻に描かれているように「鬼(もの)」である。
「しこ」とよむ「鬼」
『万葉集』では、巻二、百十七番の舎人(とねり)親王が舎人郎子をおもう歌で、「大夫や片恋せむと嘆けども鬼(しこ)の益らをなほ恋ひにけり」と「鬼」を「しこ」と読ませている。
「鬼」は「醜」に通用させたもの(『新編日本古典文学全集 万葉集』)であるとされ、馬場あき子は「鬼の面貌が「醜」につながることが、一般的な訓をみちびき出しているこの例は、中国的な〈鬼〉の概念がすでに広く流入していたことを思わせる。(『鬼の研究』)」という。
一方、『現代語対照 万葉集(上)』では、しこ(鬼・醜)について
「本集のシコの用字例には「鬼」の字が五例もあり、『鬼』は一方でモノとも訓まれているので、シコは、異郷・霊界から出現するモノ(精霊)と同義に考えられたようである。それが醜く、けがらわしく、うとましいさまをいうようになり、さらに自嘲的な表現にもなったのであろう。」と注釈を付けている。
また、大国主の別名は「あしはらしこを」といい、記は「葦原色許男」、紀は「葦原醜男」と書くが、西郷信綱はこの「しこを」について、「彼を鬼類・魔性のものと見なしていたためで、たんに醜い男ということではない。(『古事記注釈』)」と述べている。大和岩雄は大国主神の名前の変化に注目している。大国主は記・紀では大穴牟遅(おほなむぢ)神とも名乗るが、「「根の国」(中略)に行ったとたん、この大穴牟遅の名は葦原色許男に変わっている。根の国には黄泉の国のイメージがあり、(中略)この国から逃げて黄泉比良坂(よもつひらさか)を抜け出ると、大国主に名を変えている。大国主神は、黄泉国にいるときにのみ「しこを」を名乗っており、「しこめ」は「黄泉(よも)」がつくように、黄泉国にいる「しこめ」である。いずれも「しこ」は死の国にかかわっている。 「しこ」の漢字表記に「鬼」を用いたのは「しこ」が死の国とかかわる言葉だったからであろう。」と推論している。
「かみ」とよむ「鬼」
折口信夫は『信太妻の話』の中で、「聖徳太子の母君の名を、神隈とも鬼隈とも伝へて居る。漢字としての意義は近くとも、国訓の上には、鬼をかみとした例はない。ものとかおにとかにきまってゐる。してみれば、此は二様にお名を言うた、と見る外はない。此名は、地名から出たものなるは確かである。基地は、畏るべきところとして、半固有名詞風に、おにくまともかみくまとも言うて居たのであらう。」と言う。
馬場あき子はこの文章を引いて、「これによれば、鬼はけっしてかみとは呼ばれなかったが、「畏るべきところ」として近似した感銘から、おにをかみともいう場合があったのではないかという推測で、その例証として「鬼隈」と「神隈」と二様に呼ばれた人名があげられているが、この名称については残念ながらいまだに検証できないでいる。」と述べるが、これは前にあげた法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の中の「鬼前大后」と関係があるのではないかと思う。
このように「畏るべきところ」として「おに」と「かみ」が近似するという説の他に、次の『日本書紀』の「鬼」の検討から、「おに」は「かみ」の蔑称であるという考え方がある。 
『日本書紀』に見られる「鬼」
『日本書紀』で雷以外の鬼関係の記事を挙げる。
1 「神代紀」で高皇産霊(たかみむすび)が瓊々杵(ににぎ)を葦原国に派遣しようとした時。
彼(そ)の地(くに)に、多(さは)に蛍火の光(かがや)く神、及び蠅声(さばへな)す邪(あ)しき神あり。復(また)、草木咸(ことごとく)に能(よ)く言語(ものいふこと)あり。故、高皇産霊(たかみむすび)尊、八十諸(やそもろ)神を召し集(つど)へて、問ひて曰(のたま)はく。「吾、葦原中国の邪(あ)しき鬼(もの)を揆(はら)ひ平(む)けしめむと欲(おも)ふ。当(まさ)に誰を遣(つかは)さばよけむ」
ここでの「鬼(もの)」とは(1)「蛍火の光(かがや)く神」、(2)「蠅声(さばへな)す邪(あ)しき神」、(3)「咸(ことごとく)に能(よ)く言語(ものいふこと)」がある「草木」のことであり、「鬼(もの)」のなかに「神」が含まれていることに注目すべきである。
2 「神代紀」で、派遣された経津主(ふつぬし)神・武甕槌(たけみかづち)神のニ神が大国主の国譲りのあとで、「是に、ニの神、諸(もろもろ)の順(まつろ)はぬ鬼神(かみ)等を誅(つみな)ひて、果(つひ)に復命(かへりことまう)す」とある。馬場あき子は、この「誅(つみな)ひ」という対象が先住者の国つ神にあたり、先住民族の「かみ」に〈鬼〉字をあてたことを、「強い民族意識を表だてつつ討伐の記事にみちている『日本書紀』」の鬼の概念だという。(『鬼の研究』)
3 「景行紀」には、天皇が東国遠征に向かう日本武尊(やまとたけるのみこと)に対して
山に邪(あ)しき神あり、郊(のら)に姦(かだま)しき鬼(もの)あり。衢(ちまた)に遮(さいぎ)り径(みち)を塞(ふさ)ぐ。多(さは)に人を苦(くるし)びしむ。其の東の夷(ひな)の中(うち)に、蝦夷(えみし)は是(これ)はなはだ強(こわ)し。
と言う。馬場あき子はこの「山に邪(あ)しき神あり、郊(のら)に姦(かだま)しき鬼(もの)あり」を、「鬼は邪神と対をなす同じ系列のものとして認識されている」と書く。
そして、その考えがあるからこそ、2の大国主の国譲りのあとで「諸(もろもろ)の順(まつろ)はぬ鬼神(かみ)等を誅(つみな)ひ」というように、「かみ」に「鬼神」をあてるのだと記している。
また、大和岩雄は、この景行天皇の言葉の「姦(かだま)しき鬼(もの)」とは蝦夷のことを指しているとして、「『日本書紀』が辺境の蝦夷らを正史の立場で蔑視したため」に葦原中国の「神」を「鬼(もの)」といい、蝦夷らの異人をに「姦(かだま)しき鬼(もの)」としたのだと説く。(『鬼と天皇』)
大野晋は『岩波古語辞典』で、「人間をモノと表現するのは、対象となる人間をヒト(人)以下の一つの物体として蔑視した場合から始まっている。」とし、『源氏物語』で、「痴れもの、すきもの、ひがもの、古もの、わるもの、なまけものどもなど、片寄った人間、いい加減な人間、一人前でない人間などについて、モノという複合語が使われ、痴れひと、わるひと、ひがひとなどとはいわなかった。それは、モノがヒト以下の存在だという基本の観念が働いていた結果である」と書く。(『日本語をさかのぼる』)
これらのことから大和岩雄は、次のように結論する。『古事記』で「まつろわぬ人」と書くのに対し、『日本書紀』が「ひと」を「もの」といい、さらに「鬼」という字をあてるのは、正史である『日本書紀』の史観によるもので、神・人で、物に近いと蔑視されたものが、「鬼(もの)」なのである。(『鬼と天皇』)
4 「欽明紀」には、魅鬼(もこ)(鬼魅)の文字が見られる。
越国(こしのくに)言(まう)さく。「佐渡嶋の北の御名部の碕岸(さき)に、粛慎人(みしはせのひと)ありて、一船舶(ふね)に乗りて淹留(とどま)る。春夏捕魚(すなどり)して食に充(あ)つ。彼(そ)の嶋の人、人に非(あら)ずと言(まう)す。亦(また)鬼魅なりと言(まう)して、敢(あへ)て近づかず。嶋の東の禹武邑(うむのむら)の人、推子(しひ)を採拾(ひろ)ひて熟(こな)し喫(は)まむと為欲(おも)ふ。灰の裏(なか)に着(お)きて炮(い)りつ。其の皮甲(かは)、ニ(ふたり)の人に化成(な)りて、火の上に飛び騰(あが)ること一尺餘許(あまり)。時を経て相闘ふ。邑(むら)の人深く異(あや)しと以為(おもひ)ひて、庭に置く。亦(また)、前の如く飛びて、相闘ふことやまず。人有りて占(うら)へて云はく、「この邑の人、必ず魅鬼の為に迷惑(まど)はされむ」といふ。久(ひさ)にあらずして言ふことの如く、それに抄掠(かす)めらる。
粛慎人(みしはせのひと)とは、ツングース系民族とも言われる。
鬼は(中略)『日本書紀』において、初めて、天皇に仇成す討たれるべき「諸(もろもろ)の順(まつろ)はぬ鬼神(かみ)」として登場する。それらは、天皇権力に敵対する蝦夷や異人種の粛慎人を魅鬼(もこ)(鬼魅)として蔑視するものであった。こうした有形の鬼は、死して怨霊と化し、天皇に害を及ぼす無形の鬼へと変貌していく。(『陰陽道の本』)
5 「斉明紀」天皇の葬儀がおこなわれた日の夕方、朝倉山の上に
鬼有(あ)りて、大笠を着(き)て、喪(も)の儀(ぎ)を臨(のぞ)み視(み)る。衆(ひとびと)、皆(みな)嗟怪(おかし)ぶ。
この二ヶ月前に、朝倉社の木を切って宮殿を作ったので、神の怒りが落雷となって宮殿を壊し、鬼火となって人々を殺したという記事がある。朝倉山は朝倉の人々にとって神の宿る山であり、神木を外から来た者たちが勝手に切ったので神が怒ったのである。そして日本書紀の編者が天皇の急死の原因も同じと考えたので「鬼が天皇の葬儀を朝倉山の上で見ていた」というふうに書いたのだと、大和岩雄は考え、この「朝倉山の鬼」を朝倉山の山の神だとする。
そして以上の『日本書紀』に記された鬼関係の記事について、「わが国最初の正史において「鬼」が主に皇祖神・天皇との関係で記されていることは無視できない」とし、対照的に『古事記』には「鬼」の表記がまったくないことを考えると、「このように、鬼の視点から見ると、「正史」のもつ「差別意識」「うさんくささ」が、はっきり見えてくる。」と結んでいる。(『鬼と天皇』) 
鬼の分類
馬場あき子は『鬼の研究』の中で、次のように鬼の系譜を分類している。
(1) 神道系…日本民族学上の鬼(祝福にくる祖霊や地霊)
(2) 修験道系…山伏系の鬼、天狗
(3) 仏教系…邪鬼、夜叉(やしゃ)、羅刹(らせつ)、地獄卒、牛頭鬼(ごずき)、馬頭鬼(めずき)など
(4) 人鬼系…放遂者、賎民、盗賊など、人生体験の後にみずから鬼となった者
(5) 変身譚系…怨恨、憤怒、雪辱などの情念をエネルギーとして復讐をとげるために鬼となった者
(1)〜(3)と(4)・(5)は微妙なかかわりは見せているがまったく別種であると記す。
小松和彦も「互いに深く関連し合っている」としながらも、鬼を次の二系統に大別する。
(1) 想像上の鬼…説話や伝説、芸能、遊戯などにおいて語られ演じられるものとしての鬼
(2) 歴史的実在としての鬼…周囲の人々から鬼もしくは鬼の子孫とみなされた人々、あるいは自分たち自身がそのように考えていた人々 
想像上の鬼
想像上の鬼は異様な姿で描き語られ、その基本的属性は食人性にある。〈神〉の対極にいるのが〈鬼〉であり、人々にとって恐怖の対象である鬼は、しかし最終的には神仏の力や人間の武勇・知恵のために、慰撫され、退治もしくは追放される運命を担わされていた。
また仏教思想や雷神信仰と結合し、死後に罪人が行く地獄の獄卒や天上界の雷神を鬼とみなす考えも広まった。
鬼のすみかは、人里離れた山奥や海原遠くにある島などで、そこに鬼ヶ城があるともいう。
鬼は、町や村里のはずれの辻や橋や門など異界(他界)との接点に現れる傾向があり、時刻は夕方から夜明けまでの夜の間とする考えが広く認められている。〈百鬼夜行〉という語は、鬼の夜行性をよく示している。
日本の鬼は、人間や神と互いに変換しうるものとして考えられている。鬼たちの多くは、人間とその補助物である道具などがなんらかの契機によって鬼になったもので、鬼になる契機は大別して二つある。
(1) 過度の恨みや憎しみをいだくこと。
(2) 年を取り過ぎること。年老いた女は鬼女になり(『今昔物語集』)、古ぼけて捨てられた道具は付喪神(つくもがみ)になるという(『付喪神記』)。(小松和彦『世界大百科事典』) 
歴史的実在としての鬼
小松和彦は、「想像の世界の中において、人々に鬼の実在を確信させた背景には、鬼とみなされた人たちの存在があった。」とし、これを次のように分類する。
(1) 大和朝廷などの体制に従わない人々
(2) 体制から脱け出し徒党を組んで乱暴狼藉を働く山賊
(3) 農民とは異なる生業に従事する山の民や川の民、商人や工人、芸能者たち、山伏や陰陽師、巫女たち
(4) 鬼もしくは鬼の子孫とされ、自分たちもそのように考えてきた家や社会集団(『世界大百科事典』) 
大和朝廷などの体制に従わない人々
高橋克彦作品では、鬼とみなされた人たちの存在が大きくクローズアップされる。先に『日本書紀』の「鬼」について見たように、大和朝廷などの体制に従わない「まつろわぬ人」は鬼(もの)と呼ばれ、彼らの祭る神もまた「鬼神(もの)」と蔑視されている。
先住者を鬼とみなしたことは、酒呑童子物語にもみられる。例えば、酒呑童子物語を書き記した最古の『大江山酒呑童子絵巻』では、酒呑童子が頼光に次のように身の上話を語る。平野山を先祖代々の所領としていたが、伝教大師が延暦寺を建てたために逃げ出し、仁明天皇の代より大江山に棲みついている、と。
『日本妖怪異聞録』の中で小松和彦は、「いってみれば、強力な呪力を持った外来者が、先住者である弱い呪術しか持たない者を追い払ったというわけである。つまり、先住者=民=敗者=鬼、征服者=勝者=人間」という図式が見えるとし、「酒呑童子はたしかに京の都の人びとにとっては極悪人で、仏教や陰陽道など、京の人びとの生活を守る信仰にとっても敵であり、妖怪、化物であったろう。しかし、退治される側の酒呑童子にとっては、自分たちが昔から棲んでいた土地を奪った仏教の僧や、欺し殺す武将や陰陽師たち、さらに、その中心にいる帝のほうこそ、極悪人なのである。」と記す。
これら先住者たちを討つ側の論理は「勅なれば」であり、「草も木も我が大君の国なれば、いづくか鬼の棲(すみか)なるべき」という歌である。
天智天皇の時代に、藤原千方というものが四性の鬼を使って体制に背き、伊賀と伊勢は「是が為に妨げられて王化に順ふものなし」という状態であった。宣旨を受け、追討に向かった紀友雄が、鬼にこの歌を送ったところ、四性の鬼はたちまち四方に去って失せたという。(『太平記』)
『酒呑童子(伊吹山)』(赤木文庫旧蔵)では、「土も木も我が大君の国なれば、いづくか鬼の宿とさだめん」と記し、同じ主旨の歌は、他の酒呑童子の物語や謡曲「大江山」、謡曲「土蜘蛛」にも見られる。
大和岩雄は、景行天皇が日本武尊に向かって言った「この天下は汝の天下なり」という発想も、「土も木も我が大君の国なれば」と同じ発想であり、「この天皇の国には鬼の住むところはないということである」と記す。
酒呑童子の物語で印象深いのは、風流の心を持ち、まことに知恵深そうで、山伏に身をやつして潜入してきた頼光らの嘘にころりと騙されて歓待する酒呑童子の姿である。謡曲「大江山」では頼光らに討たれる酒呑童子に次のように言わせている。
情なしとよ客僧達、偽りあらじといひつるに、鬼神に横道なきものを
鬼は横道(道に外れたこと)をせず、鬼を「勅なれば」といって討つ側が横道をするという発想が、酒呑童子譚の根底にある。(大和岩雄『鬼と天皇』)
このように謡曲の作者たちが権力に討たれる鬼の側に立っているのは、彼らが差別されていたからであり、同じ差別されている鬼に心情的に荷担しているのである。
「大江山」の作者らは、室町幕府御用の芸能者だが、彼は漂泊芸能民の頂点にいた存在で、同類の多くは、天皇の「オオミタカラ」といわれる定着農耕民から差別されていた。彼らにとって、「土も木も我が大君の国なれば、いづくか鬼の宿とさだめん」といって「横道なきもの」を討つように命じる権力こそ、「横道」をおこなうものであった。(大和岩雄『鬼と天皇』) 
鬼もしくは鬼の子孫
鬼もしくは鬼の子孫とされ、自分たちもそう考えて来た人々がいる。
例えば、比叡山麓の有名な八瀬(やせ)童子や、吉野において役行者に仕えた前鬼・後鬼の子孫と伝えられる人々などである。
八瀬童子は、成人になっても童形の髪型(長髪の禿(かむろ)姿)で、自ら鬼の子孫であると称し、特権を得ていた。八瀬童子は大葬で天皇の霊柩をおさめた「葱華輦(そうかれん)」という輿を舁(か)くのみならず、即位の際の御大典には「鳳輦(ほうれん)」という輿も舁(か)き、両極の儀に参与する。
八瀬童子・酒呑童子・茨木童子など「童子」と名がつくものはもちろん、長髪の禿姿の金太郎・桃太郎も皆、「童子」である。
なぜ童子が鬼と関係しているかについては、仏教の護法童子との関連や、「童」が神に近い存在であったこと、童男(をぐな)と呼ばれた日本武(やまとたける)尊の荒々しさとの共通点などが指摘されている。
一方、吉野裕子は八卦からその性状を見る。
少男(乾坤六子の末子、五、六歳―十三、四歳の童男)の易の卦は艮(うしとら)、自然は山、方位は丑寅であり、童子とは丑寅の象徴だというのである。丑寅とは、年・季節・日のいずれをとっても「陰から陽へ」の交代・変化を表している。
年―丑月(旧十二月)、寅月(旧正月)―年の境
季節―丑(冬・陰気)、寅(春・陽気)―季節の境
日―丑刻(夜深い・陰)―寅刻(暁・陽)―日の境
つまり、丑寅の象徴である鬼も童子も鬼門も「陰から陽への転換呪物」なのである。
「新旧交代によってこそ、連綿とつづくべきその永遠性は保証される」のであるから、都の丑寅の地の住民が「鬼の子孫」を名乗り、天皇の葬儀に参与するのも、天皇命の永遠性を保証する陰陽の転換呪術のための呪物として」であると説く。(『神々の誕生』) 
愛され続ける鬼
鬼の物語はどれも、鬼が極悪非道の限りをつくしたから退治されるのだということが語られる。しかし、それにもかかわらず鬼は民衆に愛され続けている。
民衆の側からすれば、鬼の出現などの社会不安は、一種の徳治主義の中での体制への批判であり、鬼が反権力の象徴ともみなされたことや、鬼の絶対的な力・破壊力に対する憧れなども、鬼が愛される理由としてあげることができるであろう。
また、理由の一つに、鬼が人間に富をもたらすという福神としての側面がある。
(1) 鬼とみなされた人々との交流・交換を通じて富を入手していたであろうということ、
(2) 社会内部に生じた災厄などを鬼がその身に背負って社会の外に運び出してくれると考えていたこと、
(3) 鬼は結局は敗れ去るものとされていたこと、等々が、鬼が福神化した理由としてあげられる。
春を招ぶ鬼には悪鬼のイメージが見られないといって珍しがる民俗学的論に対し、吉野裕子は、もともと鬼の本質には善も悪もないと説く。
鬼門とは天門・地門・人門・鬼門の四門の一つであって、「天を意味する乾―天門」と「風を意味する巽―地門」を結ぶ西北対東南の軸は、天地という「不変の定位」を示す。一方この軸と直交する「現世を意味する坤―人門」と「彼世を意味する艮―鬼門」の東北対西南の軸は、人間における「変化の運命(さだめ)」を示すものである。
鬼門に対する考えは日本独特のもので、もともと中国の古書に出てくる鬼門は、方角禁忌までは含んでいなかったのである。
宇宙の永遠性は輪廻によって保証され、その輪廻は陰陽の転換によるという古代中国の世界観に立つ限り、陰陽の境をなす丑寅の造型としての鬼は、その転換の荷い手に過ぎず、本来、その本質の中に善悪の道徳性など持ち込まれるはずのないものである。(『神々の誕生』) 
 
鬼の起源

 

鬼。オニ。日本人になじみの深い妖怪ですね。巨大な体。立派な角。虎柄のパンツ。数々のおとぎ話の主要キャラクターであり、”鬼のような”という形容詞もあるくらい我々に親しんでいます。しかし、最初から鬼がこのような形をしていたわけではありません。今昔物語集や宇治拾遺物語集に登場する鬼は、体長約3m。体の色は赤や青で、一つ目の鬼もいます。ですが、角はないし、虎のパンツは履いていません。
結論から言えば、平安時代の後半からちらほら、角や虎の皮をかぶった鬼が出てきます。これは当時流行していた陰陽道の影響です。陰陽道とは、平たく言えば、災いを振りまく方位神を避けるにはどうしたらいいか、というテクニックを突き詰めた学問です。
基本的に方位神は、ずっと移動しているのですが、北東の方角の方位神だけは動きません。いわゆる、鬼門です。この方角は、歴史的にみても重要でした。わざわざ鬼門に備えて、平城京では東大寺、平安京では延暦寺、江戸では寛永寺が造られています。そんな鬼門=北東は、十二支であらわすと”ウシトラ”の方角です。もうお分かりですね?つまり、牛の角や虎のパンツは鬼門→北東→丑寅→ウシとトラと連想された、一種のジョークです。
鬼のイメージが平安時代に固まったことはわかりました。では、そもそも鬼が生まれたのはいったい何時なのでしょうか。もともと、鬼とは中国語で霊魂をさします。魂魄という言葉に鬼が含まれていることからも明らかですね。一方で、鬼の発音は中国語で、”qui”・”kwai”など、漢音でも呉音でも日本語のオニとはなじみませんね。鬼という漢字をなぜオニと発音するようになったのでしょうか。また、何故霊魂を指す鬼が妖怪になったのでしょうか。
この問題については、定説があります。平安時代の倭名類聚鈔によると、オニは元は隠(おぬ)という、隠れているものという言葉がなまったものであるとのこと。平安時代以降、オニは隠から来ている、これが定説です。しかし、私には納得がいきません。以前紹介した風土記の記事を見てください。これが日本の資料上、鬼の初出になると思います。
”或人、ここに山田を作りて守りき。そのとき、目一つの鬼来たりて、田作る人の男を食らいき”…全然隠れていませんよね?むしろ、襲ってきています。しかも、鬼という漢字との因果関係がさっぱりわかりません。
以下は私の推測ですが、古今東西”怪物”はどこにでもいます。もともと、日本にはオニという”得体のしれない化け物”はすでに存在したと考えます。中国から”鬼”という漢字が伝わったとき、”目に見えないもの”という意味で、鬼を日本風にオニと呼んだのではないでしょうか。そう考えると、鬼という言葉の意味が、日本と中国で異なるも納得出来ます。異論は承知ですが、倭名類聚鈔が書かれたのは、風土記から300年も後の話です。その記述を信じ切るには、少々時代が離れすぎているかと思います。
さて、鬼への考察を続けましょう。鬼にはいろいろな側面があります。たとえば、地獄の獄卒としてのイメージ。これは仏教からきています。ビジュアル的にも、夜叉や羅刹といった、仏教の鬼神から影響を受けています。あまりに鬼のあり方が多様的ですので、その性質ごとに7種類に分類しました。
1) 人を食う化けものとしての鬼。
これはもっとも古い形態です。風土記にもありましたが、伊勢物語にも人を食う鬼の話があります。
2) 霊魂・妖怪の総称としての鬼
中国語の鬼の原議に近いです。百鬼夜行、という言葉に含まれる鬼はまさにこれです。
3) 仏教の従事者としての鬼
地獄であくせく働く鬼ですね。
4) 退治される鬼
桃太郎の鬼がこれです。一条戻橋で、渡辺綱が鬼の腕を切った話あたりが元祖でしょうか。
5) まつろわぬ民としての鬼
これは4)に近いですが、あえて分けます。土蜘蛛や、鬼の総領 酒呑童子といった妖怪は、大和朝廷に従わない人々という側面があります。実際、土蜘蛛はもともと朝廷に従わない領主の蔑称から、妖怪に転じています。鬼という言葉には同じくまつろわぬ民への蔑称という側面があると考えます。
6) 変身する鬼
たとえば丑の刻まいりを経て鬼に変じてしまった橋姫伝説。あるいは、今昔物語で、姫への恋慕から死んで鬼となった僧の話。このように、妄執が人を鬼にするという側面があります。
7) 畏怖の対象としての鬼
戦国武将には、鬼というニックネームで呼ばれる武将がたくさんいます。鬼柴田、鬼武蔵、鬼美濃、鬼作佐…etc。
現在、おとぎ話を除いて、残っている鬼は、6)と7)でしょうか。”この鬼!”と人にいうときはよっぽどのことです。過度な嫉妬や羨望、貪欲さの象徴になっていますね。また、”鬼のような”という言い回しや、若者言葉の”オニ強い”のような表現において、畏怖の対象として、鬼は生きています。
鬼の起源は古く1500年近い、最古参の妖怪のひとつです。今日のところは7分類としましたが、今後増減する可能性大です。泣いた赤鬼、のような人に親しむ鬼が一般的になれば、それだけで分類は増えますから。 
 
鬼が作った日本

 

鬼とは、権力の外にいながら強力な技術と思想をもったグループのことである。彼らは、ある時は権力に利用され、ある時は対抗しながら、日本の歴史を動かしてきたのだ。本は、古代から明治時代にいたるまでの、鬼グループの動きについての対談である。これをケノ流にまとめてみた。けだし、二人は鬼の歴史を語ることで闇の世界を想像する力を思い起こさせ、文化に活力を取り戻そうという魂胆なのだ。鬼は時代の裂け目に動き出すものだから。
鬼には2種の系統がある。柳田國男の言う常民とは異なる上に書いたような実在のグループが一つ。本書のメインテーマだ。もう一つは、伝説や芸能で取り上げられる空想上の生き物である。この系統は、馬場あき子の『鬼の研究』に詳しい。観念上の鬼は、中世に卑女=般若として完成したという。もちろん空想といっても何らかの実在の背景を持っていてキッチリ割りきれるものではない。馬場は実在のグループへも迫っている。また土蜘蛛や天狗の話もあって面白い。後者の系統の鬼に興味の方は是非にも読まれたい。
では先ず、鬼に登場願おう。大和朝廷は、ツクシ(北九州)・タニハ(丹後)・ケヌ(関東地方西北部)・スワ(諏訪)の各国を吸収してゆくが、クマソ(熊襲)・ハヤト(隼人)・エゾ(蝦夷/東北地方)は「まつろわぬ(不服・不順)」人々として残った。朝廷の版図に摂り込まれながら、その征服戦の際に抵抗が強かった場所、たとえば葛城や熊野は後々「闇」の空間として見られ、鎮撫のため大きな神社が建てられた。すなわち、過去の強力な敵対者が鬼になるのである。武力で勝てない被征服者は、呪術・宗教を通じて無意識の反抗をした。朝廷からは、土蜘蛛・夜刀神・国栖・佐伯などと呼び蔑まれて、且つ恐れられていた。また東北(夷)からはいつも闇の贈り物があった。ここから「鬼」の歴史が始まったのだ。
天変地異や疫病の流行は為政者を恐れさせた。奈良時代、天然痘の大流行があった。順わぬ民や政敵もいる。例えば藤原広嗣の乱。これらは悪霊が蔓延ったからに違いない。それらから霊的に防衛するため、大陸渡来の宗教、特に仏教が国家安護に利用された。聖武天皇は、奈良に金ピカの大仏(毘廬遮那仏)を作らせ、全国の国分寺の総本山として鎮座させたのだ。その金を大量に供給したのが陸奥国小田郡で、砂金の発見者は百済王敬福であった。渡来人は優秀な技術を持っていたわけである。この大仏建立事業はインフレを招き、平城京を混乱させることになった。
早々にケノ的脱線となる。大仏建立に僧行基がおおいに働いた。資金の調達(「勧進」と言う)、技術者・作業者の確保、聖武天皇・橘諸兄など行政との調整をこなしたのであるが、彼が組織化したのが土木建築の技術者と作業者の鬼グループだったに違いない。行基自身は毘廬遮那仏の完成を見ることはなく没したが、一方、大仏建立のために組織化されながら、その組織体は大仏完成後も一定の力と政治的発言権を持ちつづける。組織体を維持するため、東大寺西塔竣工後も次ぎの仕事を要求するようになるのだ。
この構造は、高度成長期からバブル期に成長した土建業界と行政の産官複合体と同じである。中央政府は独立行政法人を作ったが、地方自治体は暗黙の産官複合体を作った。例えば、神戸市がそうである。六甲山の裏側を削り宅地や工業団地を造成した。掘った土は大阪湾を埋めてポートアイランドと六甲アイランドという人口島を作くり、そこに市営住宅を建てた。「神戸市株式会社」と言われたほど産官の複合化が進んだのだ。その産官複合体は、関西国際空港建設で生き延びた。発案は中央主導だったが、要求(陳情)がなかったとは言えないだろう。こうして瀬戸内の島が削られて行った。とくに小豆島の向かいにある家島諸島は島一つがなくなるほど削られている。やがて関西国際空港1期工事が終わると、神戸産官複合体を維持するために、今度は無駄と分りきっている神戸空港建設を要求するようになった。市議会はいつもこの問題でゆれている。では、8世紀の奈良朝末期、新しい大土木事業が要求されなかっただろうか?
地方の反乱・仏教勢力の増長などを嫌い、生臭い政変を経て、桓武天皇は秦氏の領地である宇多村に新都を造営した。平安京である。ここも霊的に防衛しなければならない。今度は仏教ではなく風水を採用した。それは、東=川=青龍、西=道=白虎、南=池=朱雀、北=山=玄武という四神相応という理論に基づいている。鴨川、山陰道、巨椋池、船岡山(貴船山・鞍馬山)が地理的に対応する。艮(うしとら)の鬼門には、内裏に大将軍八神社、外には一条戻り橋、更に延長上に延暦寺を配したのだ。
またケノ的脱線となるが、青龍・白虎・朱雀・玄武の原イメージは四季であろう。春は青、秋は白、夏は赤(朱)そして冬は黒(玄)という古代中国の季節と色の対応があり、更に、青春=東、白秋=西、朱夏=南、玄冬=北という季節・色・太陽位置という3要素の連想である。ここまでは何となく理解できる。ただ、川・道・池・山が東・西・南・北に対応する媒介項は別にあるようだ。風水にかかわらず象徴体系は、分かったようで分らない。だから面白いのだが…。
さて、京都にはもう一つ、鬼よけの奇策があった。門である。朱雀大路の最南に羅城門がある。内裏の南には朱雀門がある。これらの門は登桜に行くための階段が設えてなかったらしい。ガランとした空間が門の上部に広がっていた。あっても仁王像くらいのものだった。なぜならここは観念上の鬼のために作られていたのだ。鬼が都のあちこちを徘徊しないように門の上部に鬼だけが登れる特等席が儲けられていたわけだ。実際は、夜になると盗賊が寝泊まりしたかもしれないが、彼らは警備員の役も果たしたに違いない。鬼を封じ込めた事には変わりなかったのだ。
このように古代は、何らかの霊的コンセプトを基に国家基盤のグランドデザインとしたのである。何かを発案する時には、最初の取っ掛かりが必要だ。鎌田東二は『聖なる場所の記憶』の中で、「第一行目は神から来る」という言葉を使っている。また「わたしは、そうしたイメージの第一行目を探りあてようとする あえかで 幽(かそ)けき感覚を『もののけ感覚』と呼んでいる」とも書く。時の天皇は「もののけ感覚」によって鬼の気配を感じ、やはり「もののけ感覚」を論理化した宗教=呪術を以って鬼に対処したのだ。
順わぬ人々に目を移そう。奈良葛城地方の人は土蜘蛛と呼ばれたが、一言主という国津神を信仰していた。こういった山には先住の猟師・山岳民族がいたのである。柳田國男は「山拠の人」と呼んだが、山蒿(サンカ)のことであろう。明治時代まで見られたと言う。先に上げた土蜘蛛・夜刀神・国栖・佐伯が当時の日本各地の先住民族の呼称だった。ここに道教の神仙思想がはいり習合する。それにつながる賀茂一族のスーパースターが役行者(小角)である。葛城山に住むシャーマン的な呪術者であった。
更に平安時代になり山へ密教僧が入ってくる。一部の軋轢はあったが結局、習合して修験道が生まれた。彼らは渡来系の人が多く、鉱山や薬草などの高度の知識・技術を持っていた。先に書いた百済王敬福の砂金献上話もそれを裏付けている。平泉の藤原三代も黄金文化であったが、これを支えていたグループがあった筈だ。不老長寿薬の原料である水銀はどうか。また、日本刀の発祥地、岩手県の舞草の鉄を見出しのは誰か。そう考えてくると鬼の広がりが想像できる。柳田國男は、日本の山は東北から中部地方の末端まで全く下山することなく渉り歩くことができたと言う。移動する修験者同士のネットワークが日本の山々に張り巡らされていたのだ。中央政府とは別の、高度な技術と思想を持つ集団=鬼の世界があったのである。
馬場あき子は、文学に現れる鬼を集計して山・橋・門が登場ヶ所ベスト3だという。山は集団で現れることが多く、橋や門は単独が多い。山では、鈴鹿の鬼(鈴鹿御前、立烏帽子)、逢坂山(関山)、そして有名な大江山の鬼を紹介している。大江山の鬼は、比叡山の童(雑役)がことあって集団で大江山へ移り拠点としたことと対応しているという。説話では、酒呑童子として書かれている。特徴は、歳をとっても童(わらわ)と呼ばれ、童髪(肩までの乱髪)をしていたことだ。結髪の令が出ている時代に神部・斎宮宮人及び神人は結髪の制を免れていた。この乱髪は、死後の風俗として想定されている。国津神の末裔が生活のため寺の雑役をさせられ、故あってそこを去った歴史が浮かび上がるのだ。一方、橋や門は交通の要衝であったことと関係があると考察している。この話は中世に重要となってくる。
山岳系の鬼のネットワークがあれば、平地にも鬼はいたはずだ。時代は遡るが、日本書紀の景行天皇紀に「山に邪しき神あり、郊(むら)に姦(かだま)しき鬼あり」とある。平地に住む順わぬ民は、姦計をなして反抗していたのだ。卑弥呼は鬼道をなすとあり、呪術をよくした。その類の末裔かも知れない。奈良時代から道教をベースとした天文学や医薬に詳しい渡来系の者が入ってきてた。共に呪術=医術を業としていた。呪禁道といわれるが、これに密教が加わり、占いまで行う陰陽道(おんみょうどう)へと発展する。上は天皇の相談役、下は町の辻占いをした。彼らを陰陽師(おんみょうじ)という。そのスーパースターが安倍清明である。このグループも後に鬼となって行くのだ。
陰陽師は、式神という鬼を用いて術をかける。一種の催眠術である。奈良期の呪禁道では呪う時には毒虫などを用いていたのだが(蠱毒)、後に象徴的に紙製の人形(ひとがた、式人形)を用いるようになった。これに霊を乗り移らせて治療なり呪詛なりをする。さらに発展して紙の人形を召使のように使う術になる。それが式神である。伝令をしたり人を殺めたりするのだ。式神は、寺男のような実在者(童)だったという説もある。仏教説話にある護法童子は修験道の呪法で用いられるが、式神はこれとも関係があるかもしれない。ここで注目すべきなのは、陰陽師が紙を自由に入手できる立場にあったことで、製紙業と関係していたと考えられるのだ。先端技術を握っていたので為政者ともつながりができる。製紙技術・医術・呪術・占術などの特殊技能をもって権力の中枢に入っていったのだ。
平安末期になって陰陽師そのものが鬼になる。密教僧や修験者が中央政界に入って来たり、武士が実権を握り出すと、陰陽師は権力の近くから追い出された。それで地方の武士団に流れ込み軍事顧問や相談役になる。もちろん振れこみは、恐ろしい呪術者・先端技術者であったから、周りは彼らを「鬼」と見なしたのだ。それが後に自ら武装するようになったのが、忍者である。渡来系の大伴氏は遁甲術を伝えており、中央政治に敗れ甲賀に落ち延び甲賀忍者になったという説、唱門師系統の下級陰陽師が甲賀に入ったとする説、などがあるが、要は追い出された陰陽師が忍者になっていったのである。
陰陽師などの異能者がすべて忍者になったのではなく、生きて行くために色々な職に特化して行った。農民ではないので手に職をつけたのだ。「ガマの油売り」を思い浮かべると良い。良く切れる刀を持っている。紙を惜しげもなく切って花吹雪を上げられるのは紙をふんだんに用意できるからだ。口上も上手い。蝦蟇(ガマ)は「蠱毒」の原料の一つである。傷の治療は医術。傷があっという間に治ったように見えるのは奇術や催眠術だ。こうやって生き延びたのである。そしてここから芸や工が生まれた。日本の中世に発展した芸能の担い手は、表に出てきた鬼だったのだ。能にある般若が観念上の鬼の完成だという馬場あき子の結論と符合しそうである。なお小松と内藤は、諸芸に守護霊(神)があることと陰陽道・修験道の精神構造まで比べ論じている。
600年間を鎮座まします奈良毘廬遮那仏の伽藍も源平の戦いで炎上してしまう。これを再建したのが僧重源であった。先に行基の話をだしたが同じ勧進聖(ひじり)だ。今回は国家プロジェクトではなく、民間組織で行った。チャリティーショウを行って募金を募るのである(勧進興行。現在の寺社の縁日の祭りにできるテキヤの出店はその末裔と言えなくもない)。そこに上記の芸能者が組織されたのだ。このように勧進聖というのは、土建系および芸能系の鬼のネットワークのオーガナイザーであったわけだ。
非農民は生産手段を持たないため、土地課税ではなく賦役による課税が行われた。そういった人々が集まる場所を散所といった。本所に対する言葉である。当然、農耕に適さない坂・河原・谷・浜辺が居住地になる。ここから坂の者や河原者という言葉ができる。平安末期頃から触穢の観念と結び付いて、これらの人々は非人とも呼ばれるようなった。しかし、交通の要衝である奈良坂や清水坂には非人宿があり、関西から北陸まで血縁を媒介としたネットワークが作られていたといわれる。形式的には寺社の下級僧の扱いではあるが、様々の職で生計を立てていた。彼らには天皇家と繋がる起源伝承があった。その血縁がアイデンティティとネットワークを支えていたようだ。天皇は武家に権力を奪われたが、非人に対しては王であり続けたのだ。室町期に非人が増えた。気候の寒冷化があって農民から移った者もいたのかもしれない。そうすると結果的に天皇の権力が強くなる。後醍醐天皇の建武の中興や、南北朝時代の南朝が比較的続いた背景には、非人ネットワークのバックアップがあったといえる。因みに南朝の楠木政成は山の民であった。
天皇家と鬼との関係強化は室町期に突然始まったのではなく、武士が力を得はじめた頃の200年前から始まっていた。熊野詣である。宇多上皇に始まり、白河上皇、鳥羽上皇、後鳥羽上皇がそれぞれ院政をしきながら10〜30回も熊野に御幸したのである。天皇は伊勢神宮に守護神があるので、たとえ熊野権現信仰があっても行幸はできない。上皇だから可能なのである。しかし信仰だけが熊野詣の理由ではないだろう。網野は『異形の王権』で、清浄光寺の後鳥羽天皇像にあるように、後鳥羽天皇は頭上に皇祖神の血統と密教の教主・大日如来の付法を受け継いで日本に現れ出た絶対王者として自らを定めたのであると言う。ここから時間を逆に類推すると、宇多上皇は熊野の修験道を目指しており、その路線を各上皇が追い、後鳥羽上皇が完成させたという説ができる。松本・内藤はもっと積極的に、熊野にある修験者を中心とした鬼のネットワークに接近するためだと言うのである。上皇は熊野の別当と指しで話をしたかったのだと。
熊野には、表面上は修験者でありながら水軍や土建の技術者集団があった。現在でも全国に3000もの熊野神社があるが、それらは平安末期からネットワーク作りが始まっていた。やはり姻戚関係を結ぶやりかただ。船は陸地を進むより速く移動できる。その駆動力が多いに利用されたのだ。水軍は、商船でもあり海賊船でもある。松浦水軍は倭寇でもあった。これは何も中世の日本に限ったことではない。バイキングやルス(川のバイキング)も相手が強そうなら商取引をしたのである。地中海でのカタルーニャやシチリアの商船も風向きが変れば海賊だった。この水軍が全国の津々浦々を押さえていた。そしてその力は源平の合戦で示されたのである。瀬戸内海の制海権を握っていた熊野水軍は、始め平家についていたが、熊野大社のご信託により源氏につくことで屋島の戦いの決着をつけたのだ。鎌倉・室町時代を通じ交易を中心として水軍は、幕府とは独立の勢力を持っていた。
戦国時代ともなると水軍の様相は変った。水軍は戦国大名と繋がり、姻戚同士で戦わざるを得なくなる。すなわちネットワークが切れて行き、水軍は完全に弱体化する。そして秀吉が朱印船という形で水軍の技術者を管理し始め、徳川幕府は鎖国により交易の長崎集中管理を完成させるのだ。
岡の鬼はどうなったか。戦国期から安土桃山時代となると都市(城下町)が発達してくる。特殊な芸や技能を持つものは都市に流れ込んだ。戦国大名の懐に吸収されたのである。山岳系の鬼は、戦国大名のスパイ活動などの協力をしながらもある程度の力は持っていた。しかし織田信長が伊賀の里、甲賀衆がいた琵琶湖東岸の観音寺城(比叡山水軍があった)、比叡山と潰して行き、最後に一向一揆を武力制圧してしまうことで滅んでしまうのだ。実は、一揆は散発的な戦いが 100 年間も続いており、単に蓮如の布教による浄土真宗門徒だけが一揆を構成していたわけではない。戦いの兵站を担った部隊は琵琶湖の堅田衆といわれる水軍であったし、訓練された戦闘員は白山−大日山の山岳系の修験者であったのだ。一向一揆が終結すると鬼の歴史が消えるのである。
非人の王であり続けた天皇に対し、秀吉や家康がどのように挑んで行ったのかを最後に見ておこう。
前出の『聖なる場所の記憶』で鎌田は、家康があらゆる物を縛って行った過程を書いている。豊臣秀吉が西方=浄土=阿弥陀如来=八幡大菩薩志向であるのに対し、家康は東方=瑠璃光浄土=薬師如来志向であると言う。秀吉は阿弥陀ガ峰に埋葬するよう遺言を残し、死後そこへ葬られたあと、吉田神道当主である兼見によって豊国大明神と名づけられた。一方、家康は「関八州の鎮守」となることを望んだ。秀吉の七回忌法要のあと豊国神社はとり壊され、大阪夏の陣が起こる。こうして霊的対抗者が消された。戦勝者・家康は、更に武家諸法度・禁中並公家諸法度・諸宗諸本山法度を制定し、国を縛ったのだ。
家康が没した時は僧梵舜が吉田神道で埋葬の儀を行ったが、後に僧天海の山王一実神道が勢力を付け、日光東照宮への遷祀は天海が執行している。その際、天台宗の教義を神道流に変容させ、仏の姿の薬師如来=人間の姿の家康=神の姿の東照大権現というアラヒトガミ理論で武装したわけである。この上で家光は、寛永の諸法度で宗教界を縛る。ありきたりの神事祭礼しか執り行えないとしたのだ。国の縛りが完成したのである。
しかし、さすがの鎌田東二も家康=天海が図った霊的縛り戦略に気付きながら、そこまでだった。小松は、秀吉が十文字に仏・如来を配した曼陀羅を京都に作ったことを見出したのだ。この十文字の曼陀羅は、豊国神社の東西の線上に両本願寺と阿弥陀ガ峰の阿弥陀如来(過去)が配置され、中央に三十三間堂の観音菩薩(現在)があり、北は方広寺の毘廬遮那仏(未来)、南は奈良(の大仏)を指している。しかもその秘密を家康は知っており曼陀羅を崩すため、豊国神社あとに智積院を建てたというのだ。
ここで思い出されるのが、佐伯快勝『仏像を読む』。仏像の配置の基本パターンは、薬師(東)・阿弥陀(西)・弥勒(北)・釈迦(南)であり、密教は中央に大日如来(毘廬遮那仏)が来るなどのバリエーションがある−という指摘がある。しかし秀吉曼陀羅に相当する配置は、本のどこにも書いてはなかった。小松の指摘は面白いが、本当に曼陀羅を意図したものかの疑問は残るのだ。
家康は更に天皇を西方浄土に霊的に封じ込めた、とも小松は言う。江戸を中心に東(北)は日光東照宮を配し、西の京都に行くまでに東海道五十三次をおいた。これが、華厳経に53人目の普賢菩薩の説教で善財童子が阿弥陀浄土への往生を願う話と対応しており、京都が「あの世」になったことを意味しているというのだ。これを徳川曼荼羅と名づけている。日光(東)の薬師−京都(西)の阿弥陀という配置は、確かに佐伯の本にもある配置パターンである。江戸城の周りを徳川代々の墓(守護神)で覆った天海の霊的企みと合わせて、ありそうに思える。しかし完全に封じこめることはできなかった。江戸時代の後期には、国学者が神道を復活し明治政府のイデオロギーとなって王としての天皇は蘇るからである。小松・内藤は言ってないが、ケノ的結論はこうだ。もっとも強力な鬼は天皇ではないかと(不敬罪で訴えないでね)。 
 
妖怪

 

妖怪談義 
川童・小豆洗い・団三郎・狐・ひだる神・ザシキワラシ・山姥・山男・狒々・チンコロ・大人弥五郎・一つ目小僧・天狗が取扱われていて、有名な「幽霊とお化けの違い」や「お化けは古い神が零落した姿」という考えが書かれている。中身は、少し我慢して読めば分るので紹介しない。関連する事項をあげることで本書の魅力を浮き立たせることにしたい。
まず個人的な話。小さい頃、暗くなるまで遊んでいると「オーマガドキにはアムジョが来るよ」と母や祖母に脅されたものだ。「逢魔ケ時」は長じて直ぐに分ったが、この本ではじめて「アムジョ」の正体がわかった。由緒正しいお化けだったのである。お化けは中世には「咬もうぞ」とか「取って咬も」と言いながら登場した。関西のチンピラさんが「カンダロか!」と脅すのと同じである。大口を開けて「ガァー!!」と襲うイメージからお化けの呼び名がでて、モウ系・ガゴ系・ガガモ系という3系統があると柳田はまとめている。N崎にはそのガガモ系のガモジョがいる。更にg音がとれてアモジョとなった。なるほど「逢魔ケ時には咬もうぞが来る」と言っていたのである。
水木しげる『神秘家列伝−其ノ四』に柳田國男がでてくる。土蔵の普請の際に埋めたとおぼしき銭を掘り出した時に茫然とした気持ちになり空を見ると真昼なのに星を見たという柳田の少年期のエピソードが描かれている。これは本書から採ったようだ。水木の本には、最後に柳田の墓を描いて「当時は妖怪の本というのはあまりお目にかからなかったが柳田國男の『妖怪談義』ではじめて妖怪のことが書いてあるものを読んでそれが非常に面白かったわけです」と。本書の最後に「妖怪名蒐」があって、コナキジジ、スナカケババ、ヌリカベなど水木ワールドの登場人物?も納められている。水木氏は柳田から「影響を受けた」以上のつながりがあったのだ。
「影響を受けた」という意味では、宮崎駿雄『もののけ姫』もこの世界の中にある。本書の後半は、妖怪と見間違えられた山岳民族の話である。山男、山姥、大人、大太良坊などと書き、密かに「大人はある地方では猿田彦のことだと使えている」と仕込んだり、「佐伯と土蜘蛛と国巣と蝦夷と同じか別かは別問題として、これらの先住民の子孫は恋々としてなかなかこの島を見捨てはせぬ」と言う。そこに『秉穂録』という書を引用して「熊野山中にて炭を焼く者の所へ、七尺ばかりなる大山伏の来ることあり。魚鳥の肉を火に投ずれば腥きを嫌ひて去る。又白き姿の女の猪の群を追掛けてくることありという」とか「熊野の山中に長八尺ばかりなる女の屍あり。髪は長くして足に至る。口は耳のあたり迄裂け、目も普通よりは大なりしとぞ」と。ほら、もののけ姫がいる。 
日本妖怪異聞録 

 

小学生向けの中世妖怪物語の解説書である。果たして小中学生が読んで楽しめるか疑問であるが、大人が読んで楽しい本である。扱われている妖怪を列挙しよう。(1)大江山の酒呑童子、(2)妖狐 玉藻前、(3)是害坊天狗、(4)崇徳上皇、(5)鬼女 紅葉、(6)つくも神、(7)鈴鹿山 大嶽丸、(8)宇治の橋姫。『妖怪学新考』なんかと違って、ストーリーを追うのが主で、これに当時の妖怪の観念を抽出する程度の考察を加えるに留めている。配列も平安期から明治までの順に凡そ沿っている。ディテールを削ると物語は面白くなくなるのを承知で、ケノ的要約をしておこう。
(1) 大江山の酒呑童子
物語の紹介の後、酒呑童子の出自を調べている。越後の国に生まれ山寺で稚児として育てられたが、殺人を犯し諸山を転々とするうちに鬼になったとされる。母が信濃戸隠山に参拝祈願して解任したと書かれている。ここから小松氏は、戸隠山権現や九頭龍信仰を背後に認めている。一方、伊吹山の大明神の子とする説話もある。伊吹山大明神とは、出雲から追われたヤマタノオロチである。その子も越前説と似た顛末で鬼となって大江山に棲むようになった。これらから、酒呑童子の怨念に被征服者の魂の叫びと小松氏は読み取っている。
(2) 妖狐 玉藻前
化粧前という美しい遊女が鳥羽院の寵愛を独り占めにし「玉藻前」という名まで賜った。やがて院は病となるが、原因は玉藻前であって、それが下野国那須野の八百歳を経た大狐であると陰陽師安倍泰成が占で見破る。祭文と祓えで玉藻前を追い出すと鳥羽院の病が平癒したという物語である。
この話は、鳥羽院の后であった美福門院保子と関白藤原忠通が諮って、近衛天皇を呪い殺したのが左大臣頼長と父忠実であると鳥羽院に告げたことから、やがて保元の乱に発展した史実をベースにしている。当時の呪詛の方法とは狐霊を用いる荼枳尼天法であった。東寺が伏見稲荷を支配下に置き、狐を辰狐王菩薩と称して信仰していたのである。また、狐が美女に化ける話の元は『抱朴子』に求めている。
小松氏は物語から、病の治療者の業務分担を抽出している。医師(典薬頭)は薬物治療が主であり、効果の範囲は限られていた。密教僧は、護摩壇を設けて修法するが、物怪の正体を予め知る術はなかった。一方、陰陽師は占法で物怪の正体を知った上で、泰山府君祭により物怪調伏を行った。このころは陰陽師が活躍した。
(3) 是害坊天狗
烏天狗は平安時代に天台僧によって語られることが多かった。愛宕山が天狗の拠点とされ、首領は日羅坊といった。天狗は「人さらい」や修行僧を騙すことをなした。僧であったものが戒を破ったため天狗になるとも言われた。天台僧は、この世の異常を天狗によって説明し、天狗を打ち負かすことで僧の験力を誇示した。本には中国から来た是害坊という天狗が天台高僧の護法童子により懲らしめられる話をのせて、天台僧の語り口をクローズアップさせている。
(4) 崇徳上皇
藤原頼長と組んで兵を挙げた崇徳上皇はあっけなく後白河天皇−平清盛軍に敗れ、讃岐に配流された(保元の乱)。九年後、怨念を残して亡くなり白峰山に葬られた。ほどなくして京は疫病に見舞われ、崇徳上皇の怨念がその原因であるとされた。この風評を広めたのは山伏である。『太平記』では、崇徳上皇は天狗たちの首領となったと書く。院政期ともなると、怨念を持って死んだ皇族・貴族が天狗の上層を占め、愛宕山の日羅坊(太郎坊)天狗もその配下へと追いやられる。更に、中世後期になると天狗から怨霊の要素が消え、鬼と区別がつかなくなった。
慶応4年に明治維新軍が奥羽越列藩軍への攻撃を開始する時、明治天皇は、讃岐白峰御陵から崇徳院霊を招霊し、京都上京区に白峰神宮を創建した。孝明天皇や明治天皇は、崇徳院の怨霊が災いをなす事を恐れたのである。こうして、天狗の首領は、神になったのである。
(5) 鬼女 紅葉
応天門の変の首謀者として流罪になった伴大納言善男の子孫にあたる伴笹丸が、第六天ノ魔王に願をかけて娘が生まれた。呉葉という。長じて近くの豪家の子息と婚姻することとなったが、呉葉と笹丸夫妻は支度金だけを取って京へ出奔した。呉葉は紅葉と名を変えた。やがて妖術を使って源経基に取り入り、寵愛を受けて子を宿した。次に正室の御台所を呪詛して正室の差を手に入れようとする。比叡山の大行満の律師によって、その正体が鬼であると見破られ取えられて戸隠山へ追い返された。ところが、紅葉は妖術を使って戸隠山で盗賊団の首領に納まり、始めは義賊気取りだったが、そのうち、紅葉一党は食人鬼と化すのであった。信濃守護から冷泉天皇へこれが奏上され、平惟茂軍が討伐に向かう。数回の戦闘でも落とせなかったが、天台宗常楽寺の北向観音に祈願して「降魔ノ剣」の下賜を受けてやっと退治できたのであった。
小松氏は、もう一つの戸隠山の鬼である「九しやう大王」の話も付けている。
(6) つくも神
鎌倉初期の百鬼夜行は、妖怪が夜に酒宴を開くために集まる行列であった。夜行中に人を捕まえて食うのである。真言密教の呪文が書かれた物を身に付けておくと、その難から免れたようである。室町期になると百鬼夜行は、ユーモラスな妖怪となる。その一つが器物の妖怪(つくも神)である。器物は百年経つと霊を獲得して人を騙すようになる。これを付喪神と呼んだ。そこで、百年になる前に「煤払い」として古道具を路地に捨てたのである。しかし器物は捨てた人を怨んで妖怪となった。これを九十九神と呼んだのである。
(7) 鈴鹿山 大嶽丸
大嶽丸とは鈴鹿山に棲む鬼である。設定は大江山の酒呑童子と似ている。藤原俊宗大将軍は鈴鹿山に住む鈴鹿御前の協力を得て大嶽丸を討ち取った。しかし、大嶽丸の魂魄は天竺を経て日本へ戻って来て、陸奥霧山に立てこもり世を乱し始める。再度、俊宗が討伐に出陣し、蝦夷ガ島で決戦となって討伐されたのである。酒呑童子や玉藻御前の遺骸と共に宇治宝物倉に納められているという。
(8) 宇治の橋姫
別に女を作った夫の左衛門を怨んで、妻は貴船明神へ丑の刻参りをする。願が叶って、生きながらに鬼に変じる作法を教わる。その異様な作法を果たして、鬼となった妻は京へ向かったのである。一方、夢見が悪い左衛門は安倍晴明に相談すると、今夜のうちに怨みのために命を落とすことになるかもしれないと言われる。そして鬼神退散の祭儀を受けた。やがて、鬼に変じた妻が左衛門の家の寝部屋に入ってきて、左衛門を取って行こうとする。そこへ三十番神が出現して鬼女は追い払われてしまった。その鬼女は、続いて洛中で無差別に人を襲い始めたのである。これを聞いた帝は、源頼光に鬼神討伐の勅命を下す。頼光の命により出動した渡辺綱と坂田公時の気迫に負け、鬼神は降参して自らを弔って欲しいと言い残して、宇治川に消えた。帝は、百人の僧による法華経供養の他に、安部晴明に宇治川のほとりに一社を設けさせた。鬼女は「宇治の橋姫」と名付けられて祀られたと。 
妖怪の民俗学 

 

本は、妖怪のとらえ方、化物屋敷考、妖怪のトポロジー、都市の妖怪という4編からなっている。「妖怪のとらえ方」では、柳田国男と井上円了の説という2つの対抗軸を取り上げる。妖怪の本質をやや形式的な民俗学からみた考えと科学合理主義からのとらえ方である。これは「化物屋敷考」では、南方熊楠のポルターガイスト説と井上円了の科学合理主義という2つの軸にかわる。宮田は何れの説にも組しない。「妖怪のトポロジー」では、境界という民俗学らしい概念から心霊スポットが説明される。最後の「都市の妖怪」では、江戸の通り悪魔、金沢の魔所、那覇の石敢当という魔除けなど、前のトポロジーの話につながる。都市全体が「辻」となったのである。ひと頃の「口裂け女」という都市伝説も、なるほどと了解できる。この本は梅雨に読むべき本である。夏前に仕込んでおいて、夏の楽しみを2倍にしよう。というわけで、ケノ的にメモしておく。
柳田国男は妖怪を神の零落した姿であるとした。祀り上げられた神は恵みを与えるが、祀り捨てられると災害を与え、更に人の方が神より勝ると考えるようになると、グロテスクな姿の妖怪となって現れるのである。よく似た幽霊が個人的な恨みから生ずるのとは異なり、妖怪は現れる場所や時が決まっており、多くの人が出会う性質のものとした。宮田は、人家周辺に棲む何かよく分からない精霊みたいなモノで、神であったり妖怪であったりと、厳密に区別はできないのではないかという。幽霊と妖怪の区別も曖昧だと書く。例に磯女という吸血鬼の話が載せてある。宮田は妖怪の原因を、人間の潜在的な恐怖心がもとにある不思議を生み出す精神構造、および開発することによる自然破壊という原罪意識であろうとする。
先に読んだ『ヒメの民俗学』にあった番町皿屋敷の話が、この本にもある。ここでは別の視点を強調しておこう。お菊が紛失したのは皿であるが、先に「サラ屋敷」の言葉があった。それは「更地」のサラであった。都市が拡大し周辺地域の開発がすすむと、土地柄の悪いところにも屋敷が立つ。そもそも空き地(更地)はたいがい低地の水はけの悪い所である。ここには土地開発に抵抗する土地霊がいたりするもので、屋敷住人が病気になると土地霊の仕業とみなされたのである。
皿にはもう一つの観念がまとわり憑いていた。それは付喪神(つくもがみ)と呼ばれている。九十九神とも書く。室町時代に古道具には霊魂があり人に祟りをなすとの考えが生まれた。この時代に工業や物流が拡大して家財道具の更新が多くなり路地に捨てられることが増えたことが、付喪神信仰の背景であろう。お菊の幽霊は皿を9枚まで数え10枚目に「足りない…」と嘆くが、この9が九十九神のキーワードであった。番町屋敷のお宝の皿には、それが憑いていたと思わせる仕掛けである。江戸の民にとって番町皿屋敷は「よく分かる」怪談だったのである。
化物屋敷では合理的解釈や念動(ポルターガイスト)説とは異なり、人柱説を言う。そもそも大工の棟梁は、家の霊を管理して封じ込める役を担っていた。その方法の一つとして娘を大黒柱の下に埋めるということがあったのかもしれないが、それは櫛などを代用する習となった。ここから、家の霊が悪さをしたり、居住する若い女が念動で家を揺らしたりする話へとなったのである。家に霊がいると思われていたことは、「開かずの間」が大屋敷に作られていることから逆に推定できる。家霊を封じ込めておく部屋が、いつの間にか虐待された者の幽霊が住む部屋となったのであると。
ここでケノ的に思い出すのは、白川漢字学である。「家」という字は、屋根の下に豚がいるのではなく、犠牲の犬が収められていると言う。家長は、地霊を鎮めるために犬を殺して埋め、こうして清めた土地の上に住居を建てたのである。「祓」の旁も犠牲の犬である。この習は日本にも伝わったと言われている。地鎮祭や棟上式などの建築儀礼のルーツは、すばらしく古いものであった。このように家と地霊はセットなのだ。
妖怪の出現場所は、辻と橋であるという。直ぐにケノ的にまとわり付くが、鬼の出現場所は山と門の他に橋がベスト3であった(馬場あき子『鬼の研究』)。宮田氏は鬼や河童という言葉を出していないが、妖怪という語で包含しているようである。百鬼夜行はどう見ても妖怪である。加賀一揆の後に鬼は呼び名を変えて都市周辺の辻や橋に現れるようになったのである。
辻(つじ)は道がクロスする地点であるが、ここは霊が集まりやすい所であった。ここで人を困らせるのが「つむじ風」である。時には鎌イタチという妖怪が人を切ることもあった。葬儀の帰り道の辻には竹串をさして、死霊が村落に戻らないようにした。辻はあの世とこの世の境でもあった。そこには辻神とか道祖神と呼ばれる神がいたので、未来を占ってもらうことがあった。辻占いとか夕占(ゆうけ)と呼んだ。黄昏時に辻に立ち、通り行く人の会話の中から解決のキーワードを探すのである。そもそも占いとは、この世の裏を見ることである。辻神にあの世を見せてもらおうとするのである。更に、辻では霊魂を鎮めるための舞を行った。「辻わざ」と呼んだが、ここから幾つかの芸能がうまれた。
橋も妖怪の出現スポットである。集落の端であり境界である。橋の袂には柳の木が植えてあり、辻の竹串と同じで原理で、これに神霊が依り憑き易いのである。もともと橋には橋姫という守護神がいた。それから未来を聞くという橋占があった。橋姫は忘れ去られたが、橋が神霊スポットであることは記憶されたのである。面影橋、言問い橋、姿不見橋などの橋の名が、それを物語っている。
江戸の都市圏の北東部に、○○七不思議というスポットが語られ始めた。「置いてけ堀」などが近頃まで記憶されている。先にも書いたが、江戸自体が巨大な辻空間と化したと宮田は言う。都市開発により昔の境界を多く取り込んだのである。こうして都市に妖怪が出現し始めたのであると。 
妖怪と怨霊の日本史 

 

妖怪と怨霊の日本史この本は、人に害を与える日本の霊的存在の史的展開を綴ったものである。多くの史料や書籍にあたり、中身の濃い妖怪巡礼話となっている。ケノ的にそのエキスを掬ってみよう。
中西進は、「自然」なる語の自立する以前の万葉時代には自然はいつに「もの」であった−という。「もの」とは霊を得て「もの」なのであって、物は霊と一体であった。その「もの」から霊が排除されてゆくとき、「もの」は物質になり、人間は「もの」から遠ざかって、人間と対応する「自然」が見出されるようになる。
では、遠ざかった「もの」はどこへ行ったのか? それは人間に害を為すモノノケとして帰っきたのである。始めは「物の気」があった。「物の恠」と書かれ、モノノサトシとも読まれた。「神仏その他正体の明らかでない超自然的存在が人間の振る舞いに怒りや不快を覚えていることを告げ知らせる、あるいは後に大きな災いが起きるであろうことを予告するための異変」を意味していた。<もの>神の名残である。
もう一つ「物の気」もあった。病気の素・邪気のことである。平安時代に人々は「もの」と総称しうる霊的存在の「氣」に触れ、その影響力により病気になったり、時には死ぬものと信じていた。物の気を強く持つ生き物が、鬼である。彼には近づいてはならない。
10世紀半ばに「物の怪」と書かれるようになった。多くの人々が病になるのではなく、特定の個人や家柄にとり憑き悩ます存在と変わったのである。権謀渦巻く閉塞的な貴族社会における個人的な怨念が、それへと変質した。病気治療に立ち会った憑坐(よりしま)に憑いた霊が、その正体の名を明かした。初めは死んだ者の名(怨霊)であったが、やがて生きている者の名(生霊)も出てくる。というのも人には「心の鬼」が住んでいるからだ−と認識されたからである。平安京の夜は「百鬼夜行」に支配され、陰陽師が活躍した(次回、荒俣宏『陰陽師』へ)。
このようにモノノケだけを見ても霊的存在が変遷していることが分かる。この大転換点は8世紀であったという。「怨霊」の誕生である。その辺りをまとめておこう。
6世紀初めまでは、地の神への畏れがあった。7世紀半ば、律令制が導入されると、国の役人が地祇を使役するような話も出てきた。しかし地方では、国家の力は弱く行基のような霊能力に優れた僧が活躍した。仏教には地の神の個性を越えて、普遍的な呪力があったからである。実はこの時、死後に共同体の祖先霊と融合するという考え方が揺らぎだした。
生産性が上がり地方の豪族の力が強まり、律令制が崩れだす。豪族の個人的な欲望が増大し、共同霊はいなくなった。律令性導入で弱まった地方神はもはや行き場がなくなり、仏教に助けを求めた。神仏習合である。神宮寺が作られ、仏教に吸収された神もあれば、八幡大神のように菩薩となって力を増した神もあった。
中央政界では長屋王呪詛事件をきっかけに藤原四兄弟が権力を強めた。天平年間は、地震や気象異常で不作が続いたところに、天然痘の大流行があった。藤原四兄弟の病死の後を襲った橘諸兄の革新政権は、藤原弘嗣の反乱を招いてしまった。天武天皇の描いた国家構想はズタズタに引き裂かれたのである。
この危機を聖武天皇は仏教による神聖国家建設で乗り切ろうとした。遷都には失敗して平城京にまい戻ったが、大仏(ビルシャナ佛)の鋳造は為した。これには宇佐八幡大神の神託と陸奥国での金鉱発見が寄与した。東大寺を中心とし全国に国分寺を配して仏教の呪力ネットワークで固め、神聖国家建設は一定の成功を果たしたのである。
その平城京は、怨霊の生まれ故郷でもあった。怨霊は貴族社会で生まれたが、疫神と死霊が結びついたものである。先にあるように、疫病は神の祟り(警告)であった。それが、疫病を流行させる専門の鬼神がいると観念されるように変わった。「疫神」と呼ばれている。こうなった背景は、都市の成立がある。人が集中し、そこへ外から伝染病が持ち込まれると一度に流行するのである。故に、疫神は外からやってくものと考えられた。
一方、古代の共同体では死後、祖先の集合霊に融合するものと観念されていた。この共同体が破壊された所や都市住民にとっては、死後に融合すべき祖先の集合霊がいない。その行く先は仏教が提供してくれたが、さまよう死霊も出て来たに違いない。貴族社会での権力争いに敗れた者は怨念を持って死んだ。長屋王、藤原弘嗣、橘奈良麻呂…その例は多数あった。そして彼の死霊も怨念を持つと考えるようになった。
政治的敗北者が冤罪で流刑に遭い、遠方で憤死した。すると、外から疫病が入って来た。それは、かの者の怨念を持った死霊による復讐である−と考えられた。『日本書紀』延暦24年(805年)4月5日に「怨霊」という言葉がはじめて出てくるという。しかしそれまでに怨霊は十分にその威力を知らしめていたに違いない。道鏡は淳仁天皇を廃帝とし称徳天皇の後を奪おうとする。760年代は飢饉が続く。天武帝の血筋は途絶え、天智系の光仁天皇が立つ。遠い天武系の氷上川継が反乱を起こす。とうとう桓武天皇は平城京を捨てて、新たな神聖国家建設を始めることとなった。そのベースは道教である。785年、交野相原で天帝を祀る儀式を執り行い、暴風雨で長岡京建設をあきらめた後、794年に平城京へ移った。
怨霊を鎮める祭りは「御霊会」と呼ばれ、民間により各地で開かれていた。道教=陰陽道の道饗(みちあえ)と同じように、芸能で御霊を饗応しておとなしく帰っていただくというものである。これを政府が一度だけ行った。貞観5年の御霊会である。このときはインフルエンザが流行したと言われているが、内裏東の神泉苑を解放して「御霊六座」を祀った。個々の怨霊を「御霊」という一般的な観念に解消することで、政敵は疫神へ落とし込めれれた。この貞観の御霊会は、藤原良房(北家)の摂関政治開始のセレモニーであった。民間の御霊会はその後も続くが、疫神から牛頭天王となっていった。
疫神におさまらない個人的な怨霊は、藤原政権内のミクロな争いから幾座も生まれた。それらは生前と同じように恨みや欲望を持ち続けた。内面を持つ死霊である。これは江戸以降の「幽霊」に近い。その典型が「紺青鬼」である。死んでも后妃と逢引を繰り返した。中世の「鬼」は歪んだ内面を持つ死霊である。鬼が生前に仏教の修行をしていると、1ランク上の「天狗」となった。これは何時しか山野へ入っていった。
死霊が生前と同じように内面を持つのであれば、その内面(鬼の心)自体が悪さをするかもしれない。であれば、生きている者の内面であっても怨霊となりうる。それは「生霊」と呼ばれた。源氏物語の葵君や夕顔を取り殺したのが六条御休所の生霊であったのは、その代表例である。
本は上の後も、スケール違いの怨霊である菅原道真(天神)、龍となった安徳天皇、稲荷と狐、武家が天皇を凌いで天皇の怨霊に怯えること、など『太平記』までの害を為す霊的存在を綴っている。田中氏は荒俣氏の弟子筋のようだけど、センセもうかうかしてられない。怨霊に史的展開を持ち込み、現代の幽霊の元祖を発見したところなんか、なかなか刺激的である。 
男鹿半島の歴史  

 

「男鹿」の由来は、阿倍比羅夫に降伏したこの辺りの蝦夷の長、「恩荷(おんが)」から来ているらしい。男鹿半島は、いくつかの急な山により成り立っており、日本海を航海する船から見ると島に見える。山は、主に真山•本山•毛無山の3つある。日本海は縄文時代の頃より、交易に使用されており、この山はいつからか神聖な神が宿る山と信じられるようになった。やがて和人が移り住み、これらの島に日本の神が祀られることとなった。
真山の真山神社、本山の赤神神社がそれだ。
なまはげの地、真山神社
真山神社がある辺りは、なまはげゆかりの地だ。この神社のすぐ近くになまはげ館という施設もある。
主祭神
天津彦火瓊々杵命(あまつひこほににぎのみこと)
武甕槌命(たけみかづちのみこと)
由緒
社伝によれば景行天皇の御代、武内宿禰がおくりく地方諸国視察のため男鹿半島へ下向の折、涌出山(わきいでやま、現在の真山・本山)に登り使命達成と国土安泰・武運長久を祈願して
瓊々杵命(ににぎのみこと)
武甕槌命(たけみかづちのみこと)
を祀ったのが資源とされる。
平安時代以降仏教の伝播が男鹿へも至り、貞観年中には慈覚大師によって涌出山を二分し、北を真山、南は本山としたと伝えられる。以来修験の信仰が昂(あが)り、天台僧徒によって比叡山延暦寺守護神の赤山明神と習合された。
南北朝時代には真山別当光飯寺は真言宗に転じ、支配も東北豪族の安部氏・清原氏・藤原氏と移りながらも、その庇護のもとに修験霊場として一山繁栄を誇った。
江戸時代には国内十二社に指定され、佐竹候の祈願所として数々の寄進崇敬とともに、幾多の堂塔伽羅が営まれてきた。
明治維新後は神仏分離令によって元の神域に復し、名も赤神神社から真山神社と改められた。明治十四年には県社に列格され、ますます深厳な境内を維持してきた。
平成三年九月、台風による烈風で多くの老杉が倒れて甚大な被害を受けるも、七年間の復興事業で境内整備が完工した。
ご本殿は今なお真山山頂に鎮座し、国家安泰・五穀豊穣・海上安全・勝運の守護神として崇敬されている。
柴灯祭(せどまつり)
本社の特異神事であるこの祭りは、正月三日夕刻境内内に柴灯を焚き、この火によってあぶられた大餅を、お山に鎮座する神に献じその年のなまはげはこの神の使者「神鬼」の化身といわれ、長治年中により行われてきた。また毎年二月の第二金・土・日には「なまはげ柴灯祭り」として当神社を会場に開催される。この時神鬼に献じられる餅は胡麻餅(ごまのもち)と称され、災難除去の御護符として氏子参拝者に頒賜される。玄関の宵に斎行される神秘な神事で、冬の東北雪まつりの一つとして広く知られている。
徐福の到着地?赤神神社五社堂
赤神神社の創立はきわめて古く、赤神は漢の武帝の飛来したところと伝えられ、貞観二年(八六〇)、慈覚大師がここに日積寺永禅院を建て、赤神をその山神としていたという。
建保四年(一二一六)に源実朝は堂社をことごとく比叡山に模して造営したとされている。
その後、応安五年(一三七二)に安倍高季によって修復され、元和三年(一六一七)拝殿造営、寛永一五年(一六三八)、寛文二年(一六六二)再興、延宝三、四年(一六七五〜七六)には堂全体の造営があった。
現在の社殿は、秋田藩主第四代佐竹義格(よしただ)の命により大久保小左衛門が普請(ふしん)奉行となり、宝永四年(一七〇七)から七年(一七一〇)にかけて建て替えられ、江戸中期様式を示す建築である。
五社は、向かって右側から三の宮堂、客人権現堂(まろうどごんげんどう)、赤神権現堂、八王子堂、十禅師堂で、五棟とも格桁行二間、梁間三間一重、正面入母屋造(しょうめんいりもやづくり)、背面切妻造、妻入、向拝一間、唐破風造、鉄板葺の建造物である。
中堂は、厨子をおさめるため他より大きい。また、同型式の社殿五棟が山中に横一列に並んで現存しているのは極めてまれである。
この地は、平安時代末から天台宗山岳仏教の修験道場として発展し、後に真言宗に改宗。藩主から多くの神殿を寄進され、衆徒の存在も知られ、おおいに栄えていたが、明治になり神仏分離令により赤神神社として残る。 
 
鬼住山伝説 / 日本最古の鬼伝説

 

伯耆志に「村の東南の山を鬼住山と云う。怪談あり。西村楽々福大明神の下に弁ず。」とある。
第七代孝霊天皇の世、鬼住山に悪い鬼兄弟眷属が住みついて近郷近在の女子供をさらったり、食料や宝物を奪って住民を苦しめていた。
天皇は鬼退治をしようと決め、鶯王を総大将に、臣下の大連を副将に命じ、鬼住山の鬼退治に行かせることにした。鶯王は鬼住山よりもさらに高い鬼の館を見下ろす南の笹苞山に陣を敷いた。山に布陣して作戦を練り、攻撃を開始することにした。 ところが布陣した山があまりにも高い山なので、食料を補給するのも難しく、苦戦の日々が続いた。村人たちは自分たちも手伝うことを考え、団子を造り笹づとにして鶯王たちのもとに送り続けた。
笹苞団子に元気をつけた鶯王たちは、あらゆる作戦を使って鬼を退治した。しかし、鶯王はこの戦いで戦死してしまった。
人々が献上した笹巻の団子を三つ並べて鬼をおびき出しにかかると、大牛蟹の弟の乙牛蟹(おとうしがに)が出できた。大矢口命が矢を射ると、見事に命中し、乙牛蟹は死んでしまった。
兄の大牛蟹(おおうしがに)は手下を連ねて、反抗にでてなかなか降伏しなかった。
ある夜、天皇の枕元で「笹の葉刈りにて、山の如くせよ。風吹きて鬼降らむ。」と、天津神のお告げがあった。笹の葉を刈って山のように積み上げて待っていると、三日目の朝、強い南風が吹きつけ、あれよあれよと言う間に、笹の葉はひとりでに鬼の住処へと飛んでいった。
鬼は笹の葉が身にまとわりついて成す術もなかった。うず高く積もった笹が突然燃え出し、鬼はひとたまりもなく逃げて散った。逃げた鬼は蟹の様にはいつくばって、「我れ、降参す、これよりは手下となりて、北の守り賜わん」と願ったので、天皇は、「よし、汝が力もて、北を守れ」とお許しになった。
一説には、笹の葉が助けてくれ、一兵も失わず、鬼退治ができた、とする伝える話もあるようで、天皇自ら布陣したと伝えるものや、あくまでも部下や皇子に命じたとするものや、諸説伝わっているようだ。
平成6年の溝口町の「鬼住山ものがたり」によると、鬼を退治したのは、社の社伝にある孝霊天皇自身だとするのが、地元では一般的だとしている。異説として、崇神天皇の世の四道将軍で大吉備津彦命・妻木の朝妻姫の子の孝霊天皇の皇子である鶯王・歯黒皇子や天皇が歯黒皇子や新之森王子、那沢仁奥等を率いて伐ったとも紹介している。
鶯王が戦死した場所に楽楽福社を建て、鬼たちが住んでいた山を鬼住山、鶯王が布陣して笹苞団子を食した山を笹苞山、日野川にかかる橋を鬼守橋と呼び、鬼退治の伝説を伝えている。
また、孝霊天皇が自ら軍を率いてこの山の鬼を退治し、さらに奥の鬼林山の鬼退治に向かったとも伝えられる。この時、孝霊天皇が居を構えていた行宮が「楽楽福(ささふく)」で、笹で葺いた家という意味で、鬼林山の麓にあった、ともつながっている伝承もある。楽楽福(ささふく)は、孝霊天皇の進軍に関わる伝承で他の地域にもあり、佐々布久とする社も出雲国の月山と対峙する勝山の麓の石原集落里山裾にある。飯梨川筋を進軍していったと伝えられるものによるようだ。鬼住山の鬼伝承も、日本書紀・古事記・社の古文書や日野郡史などからの研究がある。
日野川流域伝承
鬼住山鬼退治
孝霊天皇は鬼住山に鬼がいて村人を困らせているのを聞き、鶯王を総大将に、臣下の大連を副将に命じて早速鬼住山の鬼退治に行かせることにした。早速鶯王は鬼住山よりもさらに高い山に布陣して作戦を練り、攻撃を開始することにした。ところが布陣した山があまりにも高い山なので、食料を補給するのも難しく、苦戦の日々が続いた。村人たちは自分たちも手伝うことを考え、団子を造り笹づとにして鶯王たちのもとに送り続けた。笹苞団子に元気をつけた鶯王たちは、あらゆる作戦を使って鬼を退治した。しかし、鶯王はこの戦いで戦死してしまった。村人たちは悲しみ、鶯王を楽楽福大明神として祀り、鶯王が戦死した場所に楽楽福神社を建てたという。鬼たちが住んでいた山を鬼住山、鶯王が布陣して笹苞団子を召し上がられた山を笹苞山、日野川にかかる橋を鬼守橋と呼び、鬼退治の伝説を伝えている。孝霊天皇は鶯王の死がよほど哀しかったのであろう。楽楽福神社の境内を自らの御陵地と定められた。
菅福の里
孝霊天皇は大倉山・鬼林山に鬼が出没するうわさを聞き、皇后細姫、歯黒王子を伴い鬼退治に出発した。丁度上菅の里に着いたとき、皇后細姫の陣痛が始まった。戦いに向かう途中なので何の準備もなく、日野川の河瀬の大岩の平坦なところに菅の葉を敷き、しばらく休んでもらうことになった。これにより、この周辺を下菅、中菅、上菅と呼ぶようになった。やがて、細姫はかわいい姫を産まれ、福姫命と名づけられた。そのとき産湯を使われた産盥という場所も残っている。福姫命は13歳までこの地で過ごされたといい。そのときの行宮が高宮神社の小高い丘である。福姫命はこの地から4キロほど離れた井原の温泉場に出かけられることがしばしばあり、この地の対岸の福長という地名は福姫命が井原までの長い道のりを歩かれたことに由来するという。菅の里というのは、菅を刈って敷物を作り小屋掛けをされたところから名づけられ、「鏡石」は細姫命が肌身離さず持っておられた鏡を石の上に置かれたところ、鏡のあとがくっきりと残ったところから名づけられた。また、孝霊天皇と細姫命、福姫命がしばらく過ごされた頃、このあたりは仮の都となり、地名も「都郷(都合)」と呼ばれるようになったという。孝霊天皇は鬼たちとの戦いになかなか勝つことができなかった。福姫命が13歳になったとき、印賀にも鬼が現れ、孝霊天皇は細姫命、福姫命を印賀の里に連れて行った。
大倉山の伝説
昔、大倉山には牛鬼というとても恐ろしい鬼が住んでいた。里に下りては村人に危害を加えていた。上菅に住んでいた孝霊天皇は、早速歯黒王子を総大将として鬼退治をされることになった。まず、歯黒王子がこの山に登り総攻撃を仕掛け、孝霊天皇は麓で待機して攻撃した。牛鬼一族は歯黒王子の総攻撃にたまりかね、転げ落ちるようにして日野川に方へ逃げてきた。孝霊天皇は待ってましたとばかりに鬼たちに攻撃を始めたので、さすがの牛鬼の大将も降参した。このときに鬼が転げ落ちた滝を獅子ヶ滝とよび、孝霊天皇は合戦のあとこの滝で身を洗い、そぐ側の滝壺で刀を洗ったと伝える。
大宮の楽楽福神社
生山八幡宮の山上に柴滝というところがあって、ここで皇女福姫命が生まれ生山の地名となった。福姫命は13歳まで菅福で過ごされた。この頃、印賀にも鬼が現れ、福姫命は孝霊天皇に連れられて、印賀の里に移り住んだ。のどかな山里で楽しい毎日を過ごされるうち、15歳になったある日、孝霊天皇が印賀の鬼退治をして留守をしていたとき、福姫命は畑にたくさん育ったえんどう豆を採りに行かれた。ところがえんどう豆の蔦が竹に絡み付いて思うように採ることができず、力いっぱい蔦を引っ張ったところ竹の端が目に突き刺さってしまった。福姫命の目が大きく腫れ上がって様態は次第に悪くなっていった。その内、高熱を発してうなされる日々が続き、孝霊天皇や細姫命の看護もむなしく、ついにこの地で薨去されてしまった。村人たちは悲しみ、村の小高い丘(貴宮山)に福姫命を埋葬すると、その麓に楽楽福神社を造り、福姫命を祭神として祀ることになった。
鬼林山
孝霊天皇が大倉山と印賀の鬼退治を終えて菅福の地でしばらく休んでいると、鬼林山の鬼退治をしてほしいと人々が駆けつけてきた。孝霊天皇は再び歯黒皇子を連れて出かけることにした。孝霊天皇は宮内に居を移し、鬼退治をすることになった。鬼林山には赤鬼・青鬼の獰猛な鬼がいて簡単に倒せる相手ではなかった。この合戦のとき、急な病で最愛の皇后細姫が崩御された。孝霊天皇は悲しみの中で住居の裏山(崩御山)に細姫を埋葬した。
孝霊伝説
孝霊伝承と云われる一群の伝承群がある。記紀が記す第七代孝霊天皇、もしくはその皇子を主人公とした伝承たちで、吉備国から南北に延ばした線上に沿って分布している。吉備三カ国(備前・備中・備後)の一の宮、およびそれにまつわる伝説は除き、その他のものを北から南へと拾ってゆく。
(1)鳥取県大山町 / 孝霊山、高杉神社
孝霊山の名の由来は、孝霊天皇が行幸したからと云われているが、別に高麗山とも表され、所在する村の旧名は高麗村である。その山麓の高杉神社は孝霊天皇を祀る。
(2)鳥取県溝口町 / 楽楽福神社(ささふくじんじゃ)
隣の日南町にも、東楽楽福神社、西楽楽福神社があり、いずれも孝霊天皇を祀る。孝霊天皇が(もしくは、その皇子の鶯王と共に)鬼を退治したと云う伝説を伝えている。鬼住山(きずみやま)と云う山に鬼が住み人々を苦しめたので、天皇は、その山よりも高い笹苞山(ささつとさん)で笹の葉を刈って積み上げると、風が吹いて来て笹の葉を吹き飛ばし、鬼住山の鬼たちの所へ飛んで行き、鬼にまとわりついたので、その隙に鬼を斬ったと云う。誠にお伽噺よりも他愛ない話である。
(3)広島県府中市 / 南宮神社
孝霊天皇と吉備津彦を祀る。備後一の宮の吉備津神社は隣の新市町にある。
(4)香川県高松市鬼無町 / 桃太郎神社(旧名は熊野神社)
孝霊天皇の皇子の稚武彦が本津川で洗濯をしていた娘に一目惚れして、その婿となり、女木島に住んでいた鬼を退治したと云う伝説を伝えている。
(5)香川県高松市一宮町 / 一宮寺、田村神社
四国八十八か所第八十三番一宮寺(いちのみやじ)は、隣接する田村神社の別当寺である。本堂の脇にある三基の宝塔は孝霊天皇・倭迹々日百襲姫、吉備津彦の供養塔と伝えられ、一宮御陵と呼ばれている。田村神社は讃岐国の一の宮で、祭神は初めは猿田彦命であったが、いつの頃からか、倭迹々日百襲姫命、五十狭芹彦命(吉備津彦命)、天五十田根(あめのいたね)命、天隠山(あめのかくりやま)命を加えて五柱としている。
この他にも、愛媛県越智郡の河野氏(越智氏)が物部系と伝えられる一方で、孝霊天皇の第三皇子伊予皇子(記紀にはなし)の末裔であると云う伝えを持っていることなども、孝霊伝説の一端に数えられる。
美作国中山神社
このように、吉備国を中心として、その南北に分布している孝霊伝承のうち、南の四国の方のものは、単なる文化の伝播のようにも見られるが、北の方に分布しているものについては、一概にそう云い切ることが出来ないように思われる。そこで、美作国の一の宮、岡山県津山市一宮の中山神社のことを少し考えておく。
美作国は和銅六年備前国の六郡割いて置かれたものであるが、その国の一の宮中山神社の祭神は、吉備三カ国の場合とは異なり、鏡作神・石凝姥神・天糠戸神であり、鍛冶、採鉱の守護神とされている。(ただし、大日本史は備中の吉備津神社と同神と述べている)。中世には中山大明神、または南宮とも称せられた。地主神の大己貴命が中山神(鏡作神)にこの地を譲って、自らは祝木(いぼき)神社に退いたと云う伝承を持ち、また、神社の奥の長良嶽の磐座にある猿神社には、今昔物語(巻26第7)が伝える猿神伝説がある。これは、毎年美しい娘を生け贄に要求する老猿を猟師が退治する話で、伝説の豪傑岩見重太郎の狒狒(ひひ)退治の話とよく似たものである。
美作国は備前国の六郡を割いたものであるから、本来ならば、備前国と同じ神を祀るべきであるのに、そうしなかったのは何故か。美作分国は吉備の国の勢力を削減するための措置であるから、分立した美作からは吉備の影を少しでも薄めたかったためであることは想像に難くない。しかし、それにしても何故、鏡作神や石凝姥神なのか。それは、云うまでもなく、美作地域における製鉄を意識して、金属冶金に関わる神を持ってきたのである。この社が南宮と呼ばれたこともあると云うことは、製鉄神金山彦を祀る美濃の南宮神社との関連も思わせる。しかも、本来の地主神である大己貴神(大国主神)が、その地を譲ったと伝えることは、換言すれば、この地方における製鉄はもともと出雲の勢力下で行われていたが、新しく侵出してきた勢力、すなわち吉備の勢力によって、それを奪われたと云うことである。
そしてそこに猿が関わる。桃太郎の三人の家来、イヌ・サル・キジのうち、サルは楽楽森彦(ささもりひこ)をモデルにしたものと云われる。このことと結び付けると、この地方の製鉄を出雲から奪い取った吉備の勢力とは楽楽森彦に代表される勢力だったとも考えられる。
楽楽福神社
楽楽福神社なるものは、鳥取県西部を南北に流れる日野川に沿って分布している。日野川は砂鉄の採れる川である。
製鉄民と農耕民との紛争の話であるとされる八俣大蛇伝説を伝える記の「肥の川」、紀の「簸の川」は、島根県の斐伊川ではなく、鳥取県のこの日野川である可能性もある。
楽楽福神社にまつわる「鬼」なるものも製鉄民のことで、この伝承も同様に製鉄民と農耕民との紛争であるとの説をなす人もいる。その説によると、「ささ」は砂鉄のことであり、「ふく」は製鉄炉への送風の意味であると云う。私もこの説に概ねは賛同してもよいように思うが、ただ、「ささ」を砂鉄のこととするのは如何かと思う。砂を「いさご」、細かい砂を「まさご」(真砂)と云うから、「ささ」は砂鉄ではなく、単なる「砂」の意味であろう。しかし、砂鉄には「真砂(まさ)」と「赤目(あかめ)」の二種類があり、山陽側で採れる砂鉄が赤鉄鉱、褐鉄鉱を含んで「赤目」と呼ばれるのに対して、山陰側は磁鉄鉱のみからなる良質なもので「真砂」と呼ばれていたので、「ささ」にも副次的に「砂鉄」の意味があると見てもよいのかも知れない。
いずれにもせよ、「楽楽福」の意味を、このように製鉄に関するものと解釈すると、次に考えられるのが楽楽森彦との関係である。「楽楽福」と「楽楽森」の類似は単なる偶然だろうか。先の中山神社の場合と同様に、この日野川の製鉄も楽楽森彦に代表される吉備の勢力によって、出雲から奪われたのであろう。そう考えると、楽楽福神社にまつわる鬼退治の話は、製鉄民と農耕民との紛争ではなく、砂鉄資源を奪い合う出雲と吉備の紛争であると考えることが出来るのである。
楽楽福神社(ささふくじんじゃ) / 鳥取県西伯郡伯耆町宮原
“ささふく”という名前の由来は、“砂”即ち砂鉄をたたら吹きで製鉄することを意味するとされる。つまり、古来より中国山地一帯で盛んにおこなわれていた製鉄を神聖視して祀った神社であるとされる。しかし、一方でこの神社の祭神である孝霊天皇にまつわる伝説にもまつわるとされる。
神社の近くに鬼住山という名の山があり、そこを根城にして暴れ回っていた鬼の集団があった。この地を訪れた孝霊天皇はその話を聞き、早速鬼を退治することを決めた。鬼住山の隣にある笹苞山に陣を築いて、敵を見下ろす形で対峙した。まず献上された笹巻きの団子を3つ置いて鬼を誘い出すと、鬼の兄弟の弟・乙牛蟹を射殺すことに成功した。しかし兄の大牛蟹は降伏するどころか、手下を率いてさらに激しく抵抗して暴れ回ったのである。
事態が膠着しているさなか、天皇は霊夢を見る。天津神が枕元に立ち「笹の葉を刈って山のようにせよ。風が吹いて鬼は降参するであろう」と告げたのである。天皇はお告げに従い、笹の葉を刈って山のように積み上げた。すると3日目に南風が吹き荒れて、笹の葉はまたたく間に鬼住山に飛んでいった。天皇が敵陣へ軍を進めると、そこでは笹の葉が全身にまとわりついて狼狽える鬼達がいた。そこに火をつけるとあっという間に燃え広がり、天皇は一兵も欠けることなく勝ちを収めたのである。
破れた大牛蟹は、蟹のように這いつくばって命乞いをした。そして手下となって北の守りをすることを約束したのである。人々は喜び合い、奇瑞を示した笹の葉で屋根を葺いた社殿を造り、天皇を祀ったのである。これが今の楽楽福神社の始まりであるとされる。またこの鬼退治が、日本最古の鬼にまつわる伝承であるとされている。
楽楽福神社の境内には、孝霊天皇の墓とされる墳丘が残されている。土地の伝説によると、鬼退治を推敲した後も天皇はこの地に崩御するまで留まったという。
日本最古の鬼伝説の残る土地ということで、大牛蟹をモチーフとした巨大像が、鬼住山の対岸の丘に造られている(元は鬼関連のミュージアムだったが閉館)。また鬼住山の北にあり、降伏した鬼達が守ったという鬼守橋には、名前にちなんで鬼のオブジェが置かれている。
孝霊天皇 / 第7代天皇。ただし“欠史八代”と呼ばれる、実在が非常に疑問視される8天皇のひとりである。皇子に吉備津彦命と稚武彦命という“桃太郎伝説”のモデルとなった2人がおり、孝霊天皇の鬼退治伝説もこれと関連があると考えてよい。またこの鬼退治の伝説は、製鉄に使う砂鉄の所有をめぐって、吉備氏(孝霊天皇)と出雲氏(大牛蟹)が争った史実に基づくとも考えられる。  
 
孝霊天皇の関連伝承

 

孝霊天皇の関連伝承
瀬戸内の備中備後、伯耆、土佐に祭神とする神社が主に分布しており、活躍圏を示しているようだ。特に伯耆の樂樂福神社には、「孝霊天皇は武勇絶倫の彦狭島命を伴いて巡幸され、西の国を治め給う」との由緒を持っている。また、備後(広島県府中市)の南宮神社は孝霊天皇の御陵とされている。
孝霊天皇の妃に大倭玖迩阿禮比賣命(記では意富夜麻登玖邇阿礼比売命)がいる。三代目安寧天皇の子師木津日子の子和知津美命の娘であり、和知津美命は淡道(淡路島)に宮を置いた。淡路の大倭と言えば、式内社の大和大國魂神社が鎮座、この大和に縁の名だろうか。
淡路の大倭玖邇阿礼比売、即ち大和国を出現せしめた姫、イザナミの神そのもの、原形のように思える。阿波国美馬郡にイザナミを名乗る唯一の式内社である伊射奈美神社が鎮座している。同じ郡に式内倭大國玉神大國敷神社二座も鎮座、淡路とよく似ている。なお名方郡に鎮座の式内天佐自能和気神社の祭神の一柱に大倭玖迩阿禮比賣命の名が見える。
古事記にては、第3代安寧天皇の子の3番目の子、師木津日子命(しきつひこみこと)に二王が居て、その内の一人和知都美命(わちつみみこと)が淡道之御井宮にいた。とされています。そして、その和知都美命の子に蝿伊呂泥(はえいろね)=大倭玖邇阿禮姫(おほやまとくにあれひめ)(=第6世代に相当)と妹の蝿伊呂杼(はえいろど)が居て、どちらも第7代孝霊天皇の妃になっています。そして、大倭玖邇阿禮姫(おほやまとくにあれひめ)が倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)(=第7世代に相当)を儲けています。
倭迹迹日百襲姫命
(やまとととひももそひめのみこと/やまとととびももそひめのみこと、生没年不詳) 記紀等に伝わる古代日本の皇族。第7代孝霊天皇皇女で、大物主神(三輪山の神)との神婚譚や箸墓古墳(奈良県桜井市)伝承で知られる、巫女的な女性である。
『日本書紀』では「倭迹迹日百襲姫命」、『古事記』では「夜麻登登母母曽毘売(やまととももそびめ)」と表記される。名称のうち「トトビ」は「鳥飛」、「モモ」は「百」、「ソ」は「十」の意味と見られ、「鳥飛」から脱魂型の巫女を表すという説がある。なお、『日本書紀』崇神天皇7年8月7日条に見える倭迹速神浅茅原目妙姫(やまととはやかんあさじはらまくわしひめ)は諸説で百襲姫と同一視される。また本居宣長は『古事記伝』において、『日本書紀』に第8代孝元天皇の皇女として見える倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)を百襲姫と同一視する説を挙げる。
讃岐の水主神社 伝承
社伝によると、倭迹迹日百襲姫命都の黒田宮にて、幼き頃より、神意を伺い、まじない、占い、知能の優れたお方といわれ、7歳のとき都において塵に交なく人もなき黒田宮を出られお船に乗りまして西へ西へと波のまにまに播磨灘今の東かがわ市引田安堵の浦に着き、水清きところを求めて、8歳のとき今の水主の里宮内にお着きになり成人になるまでこの地に住まわれた。土地の人に弥生米をあたえて、米作り又水路を開き、雨祈で、雨を降らせ、文化の興隆をなされた御人といわれる 。
孝霊天皇は倭迹迹日百襲姫の父親
伝承には伝えられてはいないが、孝霊天皇もこの地を訪問されともに住んでいた時期があったのではないだろうか。孝霊天皇はAD179年西国平定のために大和から吉備中山に移動しているが、その経路は不明であった。孝霊天皇は大和から淡路島経由でこの讃岐国を訪れ、しばらく倭迹迹日百襲姫とともに暮らした。その後孝霊天皇は吉備中山に、倭迹迹日百襲姫は高松の船岡山に移動したと考える。
『日野郡史』「第四章 神社」の部分に,『伯州日野郡染々福大明神記録事』
「人皇第七代ノ天皇也孝安天皇ノ御子也 一榮々福大明神者孝靈天皇ノ御后也福媛ト申則細媛命トモ中ス孝靈四十五年乙卯二天下三十六二割其頃諸國一見之御時西國隠島工御渡有依レ夫此地二御着有・・・・・・(中略)・・・・・・・・・后歳積り百十歳二シテ孝靈七十一年辛巳四月二十一日ノ辛巳ノ日二崩御シ給テ則宮内西二崩御廟所有り帝悲ミ給ヒテ大和國黒田ノ都へ御節城有テ百二十八歳同七十六年ノ丙戌二月八日二帝崩御也・・・・・・」
これによると,孝霊天皇は孝霊45年(171年)から孝霊71年(184年)頃まで山陰地方にいたことになっている。実際に鳥取県西部の日野川沿いには孝霊天皇を祭る神社が点在し凶賊を征したという伝承が伝わっている。また,孝霊天皇が梶福富の御墓山(イザナミ御陵)に参拝したという伝承もある。
13年間も山陰地方に滞在することは大変大きな事件であったことを示しているが,古事記・日本書紀は黙して語らない。
鳥取県溝口町鬼住山鬼退治伝承 / 鬼住山伝説
その昔、楽楽福神社の御祭神の孝霊天皇、当国に御幸遊ばすに、鬼住の山に悪鬼ありて人民を大いに悩ます。天皇、人民の歎きを聞召し、これを退治召さんとす。
先づ、南に聳える高山の笹苞(ささつと)の山に軍兵を布陣し給うに、鬼の館直下手元に見下し給う。その時、人民笹巻きの団子を献上し奉り、士気盛となる。山麓の赤坂というところに団子三つ並べ鬼をおびき出され給うに、弟の乙牛蟹出来(おとうしがにいでき)。大矢口命、大矢を仕掛けるに、矢、鬼の口に当たりて、鬼、身幽る。この山を三苞山とも言い。赤坂より、今に団子石出づ。
されど、兄の大牛蟹(おおうしがに)、手下を連ね、武く、仇なすことしきり、容易に降らず。
或夜、天皇の枕辺に天津神現れ曰く。
「笹の葉刈にて山の如せよ、風吹きて鬼降らむ。」と、天皇、お告に随い、刈りて待ち給うに、三日目の朝後先き無き程の南風吹きつのる。あれよ、あれよ、笹の葉、独り手に鬼の住いへと向う。天皇、これぞとばかり、全軍叱咤し給う。軍兵は笹の葉手把(たばね)て向う。笹の葉軍兵を尻辺にし鬼に向う。鬼、笹の葉を相手に、身に纏われ、成す術知らず。
うず高く寄りし春風に乾きたる軽葉、どうと燃えたれば、鬼一たまりもなく逃げ散り、天皇一兵も失わず勝ち給う。
麓に逃れた鬼、蟹の如くに這い蹲(つくば)いて、「我れ、降参す、これよりは手下となりて、北の守り賜わん」と、天皇「よし、汝が力もて北を守れ」と、許し給う。後に人民喜びて、笹で社殿を葺き天皇を祭る。これ、笹福の宮なり。(楽楽福神社古文書より)
このあと、宮原の地に笹で葺いた仮の御所が造られ天皇はこの地で亡くなられた、と伝える。
鬼住山伝承別伝
伯耆国日野郡溝口村の鬼住山に、悪い鬼がたくさん住みついていました。この鬼たちは、近くの村々に出ては人をさらったり、金や宝物や食べ物を奪って、人々を苦しめました。
これをお聞きになった孝霊天皇は、早速鬼退治を計画されました。その時、大連が策略を進言しました。
「鬼退治の総大将は、若宮の鶯王にお命じください。私は鶯王の命令に従って、鬼住山の鬼に向かって真っ先に進軍し、必ず鬼を征伐してごらんに入れましょう。」と。
大連は、約束のとおり軍の先頭に立って進軍し、鬼を征伐しました。これをご覧になっていた天皇は、大連の功績を称えて進の姓を賜りました。それ以来人々は進大連と呼ぶようになりました。
また、総大将の鶯王はこの戦いのときに戦死されましたので、土地の人々は、皇子の霊を楽楽福大明神として、戦死の地に宮を建てて祭りました。
この伝承には他にさまざまな別伝がある。それをまとめると。
鬼を退治した人物
 ・ 四道将軍の大吉備津彦説
 ・ 妻木の朝妻姫を母とする孝霊天皇の皇子の鶯王説
 ・ 歯黒皇子説。この皇子は彦寤間命(ひこさめま)とも稚武彦命とも伝う
 ・ 楽楽森彦命説
 ・ 孝霊天皇が歯黒皇子、新之森王子、那沢仁奥を率いて退治したという説
鬼住山に来た方向
 ・ 孝霊天皇が隠岐国の黄魃鬼を退治した後、北からやってきた説。
 ・ 吉備国から伯耆国に入ったという説。
 ・ 備中の石蟹魁荒仁(いしがたけるこうじん)、及び出雲の出雲振根も同時に平定されたという説。
孝霊山の伝承
鳥取県の大山北麓に孝霊山という山がある。この山に孝霊天皇の伝承が伝わっている
第7代孝霊天皇の時代のことです。
「伯耆国の妻木の里(大山町妻木)に、朝妻姫という大変美しくて心がけの良い娘がいるそうな。」 「朝妻は比べ物のないほどの絶世の美女だ。」 「朝妻の肌の美しさは、どんな着物を着ても透き通って光り輝いているそうな。」
などと、うわさは都まで広がって、とうとう天皇のお耳に達しました。
天皇は早速朝妻を召しだされ、后として愛されるようになりました。 朝妻は、故郷に年老いた母親を残しておいたのが毎日気にかかって仕方ありませんでした。このことを天皇に申し上げて、しばらくの間お暇をいただき妻木に帰って孝養を尽くしていました。
天皇は、朝妻を妻木に帰してから、日増しに朝妻恋しさが募り、朝妻の住んでいる妻木の里に下って来られました。
伯耆国では、天皇がおいでになったというので、大急ぎで孝霊山の頂に淀江の浜から石を運び上げて、天皇と朝妻のために宮殿を建てました。そのうちにお二人の間に若宮がお生まれになって鶯王と呼びました。
伝承にいう妻木は孝霊山麓の妻木晩田遺跡のことと思われる。妻木晩田遺跡は後期中葉から後葉にかけての遺跡で後期後葉としては全国最大級の規模の遺跡である。孝霊天皇がこの地に訪れたのはまさに最盛期であった。孝霊天皇の皇后の出身地であるからこそ最大級の遺跡になったとも考えられる。孝霊天皇は孝霊山頂に居を移したとあるが山頂に住むのはいろいろな面で不都合である。実際には,妻木晩田遺跡のすぐ近くの大山町宮内の宮内古墳群周辺に住んでいたのであろう。すぐそばに高杉神社があり、孝霊天皇が祀られている。
崩御山 / 鳥取県日南町宮内
崩御山は孝霊天皇がこの地に滞在中、その皇后細姫が孝霊71年にこの地でなくなり、この崩御山に葬られたというものである孝霊天皇がこの地で崩御したと伝えられているが,孝霊天皇はこの後も活躍しており,亡くなったのは鶯王であろう。また,孝霊天皇の幼名は楽楽福(ササフク)。
楽楽福神足洗池伝承
孝霊天皇は祖神伊弉冊命を祭る御墓山山麓の熊野神社に参詣し、砥波(阿毘縁)の大塚家に立ち寄られた。この地を訪れた孝霊天皇は、乞食のような身なりをしていた。飯を与えようとして近づくと、あたり一面大海のようになって近づくことを得ず、これは尊い方であろうと気づき、衣服を改めてくると、大海は跡形もなく消えうせた。そこで天皇を招じ入れたが、そのときに足を洗われたのが足洗池である。
日野郡史
「孝霊天皇が宮内に宮を作ってしばらくした頃、備中の石蟹魁師荒仁が兵を集め天皇を襲おうとした。天皇はそれを察知し日南町霞に關を作り、吉備津彦(歯黒皇子)に備中へ向かわせた。荒仁は吉備津彦に恐れをなし、大倉山の麓で戦わずして降参した。」
別伝
「孝霊天皇が石蟹魁師荒仁を退治したときに宮内に宮を構えた」
備中の伝承(新見市石蟹)
「強賊の石蟹魁師が石窟に居城を構えて横暴を極めていた。そこで、吉備津彦命がこれを征服して殺した。」
石蟹魁師荒仁の名を直訳してみると「石蟹族の頭領である荒仁」となり、「蟹」は鬼住山の兄弟の「大牛蟹」「乙牛蟹出来」と共通するところがあり、出雲族にもつけられた名で同属と考えられる。
これらの伝承をまとめると、石蟹族は岡山県新見市から、鳥取県日野郡日南町にかけての土地を領有していた出雲族に属する豪族で、土地の広さからして新見市周辺を拠点にしていたと思われる。まず、高梁川をさかのぼってきた孝霊天皇軍を新見市石蟹に居城を設けて迎え撃ったが、吉備津彦が応援に駆けつけ、たちまちたちまち敗走した。新見市の拠点も奪われた石蟹魁師荒仁は日南町霞まで退却しそこを拠点に最後の抵抗を謀ったが大倉山の麓にて降参したと推定するのである。そうすると、孝霊天皇は石蟹魁師荒仁を打ち破った後、鬼林山の牛鬼を破り、そのまま日野川を下って鬼住山の出雲族と戦うことになったと考える。
楽楽福神社
鳥取県にある楽楽福(ささふく)神社のうち、日野郡日南町宮内の楽楽福神社(通称・東楽々福神社)と西楽楽福神社、西伯郡伯耆町の楽々福神社、西伯郡南部町の楽々福神社、米子市安曇の楽々福神社ががあるが、いずれも祭神として大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)を祀っている。
「ささふく」の名称由来
ある夜、孝霊天皇の枕元で「笹の葉刈りにて、山の如くせよ。風吹きて鬼降らむ。」と、天津神のお告げがあった。そのようにすると鬼は降参した。この伝承に基づいて名付けられた名称である。
神社の屋根を笹で葺いて造ったから「ささふく」神社というとする説があるが、伝承に基づいて笹で屋根を葺いたものと思われる。
「ささふく」神社の祭神は、大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)であり、島根県野義郡広瀬町石原の佐々布久神社の祭神も大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)であると解される。倭大乱を平定するためにここまで来られて拠点とされた。
佐々布久神社は安来市広瀬町石原にある。
倭健命については鳥取県中部に二か所伝承が残っている。
鳥取県倉吉市(旧関金町)に、ヤマトタケルが伯耆と美作国境の矢筈仙の山頂の岩石の上に立ち、「この矢のとどく限り兇徒、悪魔は退散して我が守護の地となれ」と念じ矢を放った場所が塔王権現で、現在は石祠と石塔が残る。また、放った矢は現在の倉吉市生竹まで飛び、その地の荒神が受け止めたといわれ、「矢留の荒神さん」と呼ばれる神社が建立されている。
宮崎神社 / 鳥取県北栄町
由緒には「是に於て孝霊天皇の御宇皇子大日本根子彦国牽尊、土人の為今の本社地に御祖伊弉諾尊伊弉冉尊を奉齋し給ひき、是れ本社の濫觴なりと、斯くて数十年を経て景行天皇の御宇、皇子日本武尊征西の御時、北海の霪風御艦を悩まし奉りしが不思議の神助にて御艦引寄するが如く本社地乾の隅に着御し給へり、尊大に歓喜し給ひて宣はく 斯く清らかなる地の海面に浮出つるはこは浮洲にや と、是より社地を称して浮洲の社と云ふ、洲の中央に大麻を挿立て御自ら御飯を爨き給ひて二尊を祭り神助を謝し給へり、御飯を炊き給ひし地は本社の北にあり今飯ノ山といふ、斯くて其後風波穏やかになりければ如何なる御訳にや、小艇は此地に置き給ひて、御艦に召され進発し給ひしと云ふ・・・又御難風の御時尊の御沓一隻海に失い給いしが後潮引ける時本社より西方なる山岸によれり、土人この沓を奉して祀れり、是今の汐宮なりという」とある。
伊予の伝承
伊予神社
河野氏の系譜を記した『予章記』には孝霊天皇の皇子の彦狭島命が反抗する民を制圧するために伊予国に派遣されたとあり、続けて皇子が現社地にあたる神崎庄に鎮座し、このことから当社を親王宮と呼ぶと記している。速後上命は『先代旧事本紀』内の「国造本紀」では神八井耳命の子孫とされており、成務天皇の時代に伊予国造に任命されたとある。

美濃国 土岐郡 天津日神社 是れ一書に孝霊天皇の御代の頃なる由を記せり。
尾張国 海東郡 津島神社 孝霊天皇45年に、建速須左男命(タケハヤスサノオノミコト)の御魂が韓郷の嶋より帰朝。
近江国 野洲郡 御上神社 孝霊天皇の治世期、天之御影神が三上山に降臨した。
近江国 犬上郡 春日神社 孝霊天皇五年亥の年虚空より 鹿来り千々の境内をかけ廻りて死す。
丹後国 熊野郡 三嶋田神社 孝靈天皇の御宇、武諸隅命(海部直の祖)生嶋に大山祇命・ 上津綿津見命・表筒男命を祀りて三嶋神社と稱し奉る。
伯耆国 八橋郡 宮崎神社 孝霊天皇の御代、皇子大日本根子彦国牽尊、土人のために今の 本社地に伊弉諾、伊弉冊尊を奉す。
長門国 美禰郡 八幡磨能峰宮 孝霊天皇の御宇、初めて創立し天照大神、蛭子大神を奉斎。
讃岐国 大内郡 水主神社 創祀は遠く孝霊天皇の御宇。
肥後国 阿蘇郡 阿蘇神社 孝霊天皇の時、御子速瓶玉命に勅して大神を祭られたのが当社創建の始め。
肥後国 蘆北郡 陣内阿蘇神社 孝霊天皇の9年(前281年)現在の阿蘇郡一の宮町に阿蘇神社と して祀られたと伝えられている。
伊予国 温泉郡 出雲崗神社 孝霊天皇の御代の創建。
美作国 東北条郡 寄松神社 孝霊天皇の御代に紀州熊野神社より勧請した。 
 
鬼とは古来日本列島に居住していた縄文人

 

不比等死後、不比等の地位だった右大臣になり名実共に政権トップとなった長屋王は、行基と藤原一族の陰謀におとしめられてしまった。天平一(七二九)年、長屋王は聖武天皇を呪術で呪ったという嫌疑をかけられ、自決した。不比等の子、光明子が妃から聖武天皇の皇后となることによって、藤原四兄弟による宮廷での地位は固まり、藤原一族は権力を把握した。そして藤原一族の陰謀に加担した行基は大和仏教の統帥僧侶へと上昇していった。
東北、出羽国と陸奥国の蝦夷を統治するためには、坂東、下野国の蝦夷反乱は壊滅されている必要があった。下野国の北部は陸奥道への入り口であり、ここが安全でなくては、多賀城に東山道や東海道から万余の軍隊を派兵することはできない。下野国は奥州侵略の前線基地だった。各村からは家族ごと農民が、蝦夷の領域であった地帯へ、屯田兵として入植させられていった。蝦夷への遠征のたびに、若い男は兵士として動員され、下野国は疲弊し、たびたび飢饉に襲われていた。前線基地での百姓反乱は、どんな小さな動きでも許されなかった。百姓を監視する役割が高句麗・新羅から移植してきた渡来人屯田兵だった。屯田兵によって河川周辺の土地を奪われ、山奥へと蝦夷は追われていった。渡来人にとって蝦夷は意味不明の不気味な山岳の鬼だった。
鬼とは古来から日本列島に居住していた縄文人だった。そして朝廷軍の軍神、坂上田村麻呂のルーツは、「おもいかね」として神話に登場する公孫氏だった。2世紀後半、後漢の地方官だった公孫度が遼東に国を築く。公孫氏は朝鮮半島まで浸透していくが、やがて公孫氏は魏に滅ぼされた。逃れた一族は朝鮮半島の南部へとやってきた。そこで伽耶諸国を創建する。公孫氏は金属の生産と加工に優れた技術を持っていた。さらには軍事技術があった。やがて公孫氏は伽耶諸国から日本列島に移住を開始する。そして歴代朝廷軍の主力勢力となっていった。公孫氏坂上田村麻呂の系譜は、アテルイの反乱から二百五十年後に勃発した前九年合戦で、安倍貞任、藤原経清ら安倍一族軍を鎮圧した、陸奥守源頼義とその子八幡太郎義家に流れていた。渡来人系譜源氏の奥州征伐への執着は、源頼朝による奥州藤原氏平泉炎上によって帰結した。
雄大な高原山を拝める盆地には木幡神社があった。延暦十四(七九五)年、蝦夷征伐に向かう坂上田村麻呂によって創建されたという。この地と古代那須国を結ぶ佐久山街道の豊田には坂上田村麻呂の将軍塚がある。豊田将軍塚は、坂上田村麻呂将軍が宿泊したと伝えられる、由緒ある場所とされている。そこで坂上田村麻呂は、延暦十四(七九五)年、鬼怒一族に暗殺されたという異史がある。その伝承によると将軍塚は田村麻呂の墓であるというのだ。田村麻呂の暗殺に驚愕した朝廷は、田村麻呂の死を隠蔽し、彼の弟を田村麻呂将軍として祭り上げた。朝廷の自作自演が必要だったのは、東北蝦夷征服の最後の切り札が田村麻呂将軍であったからである。朝廷軍は東北蝦夷征伐の遠征軍を派兵するたび敗北していた。この地は東北反乱の蝦夷と切っても切れない関係にあった。木幡神社には朱色の業火に焼かれ、逃げ惑う鬼たちの地獄絵が本殿の内壁に描かれている。その鬼こそ高原山の縄文人である鬼怒一族とされている。木幡神社は大和朝廷軍が滅ぼした鬼怒一族の怨霊を永遠に封じ込めるための呪術神社とされているが、異史によると木幡神社も鬼怒一族の社であったというのだ。鬼怒一族は社を未来永劫に残すために、坂上田村麻呂将軍によって創建されという風説を下野全土に流した。蝦夷の知恵だった。
前九年の役より二十五年後、頼義の子八幡太郎義家が奥州清原氏の内乱に介入したのが、後三年の役だった。この後三年の役が東国における源氏の覇権と、武家の頭領としての地位を固めた。
坂上田村麻呂系譜である、源氏の関東、東北支配を許すまじと、奥州アテルイの系譜である安倍一族の反乱に呼応し、高原山鬼怒一族の同盟軍でもある八溝山の蝦夷岩獄一族は、北坂東蝦夷の部族反乱を八幡太郎義家源氏軍に対して起こした。下野、常陸、奥州にまたがる山脈こそ八溝山だった。
鬼怒一族も八溝山に入り、北坂東蝦夷山岳ゲリラ軍の中枢を担ったのだが、源氏の家来である那須貞信軍の亀裂な謀略によって、八溝山蝦夷軍は鎮圧されてしまった。那須貞信は相模国から遠征軍を募り、総勢五千の鎮圧軍を形成した。八溝山の蝦夷討伐によって那須貞信は朝廷から源氏の一党として那須国を与えられた。那須貞信は新興那須家の祖となった。
新興那須氏二代目の那須資道は、八幡太郎義家の家来として、奥州征伐「後三年の役」に従軍している。新興那須家の「那須国」は、源氏による奥州侵略の要基地となった。
平家と源氏の「屋島の合戦」で、義経に命じられ、海の小船、平家の女房が持つ扇を射止めたのが、弓で有名な那須与一。古来よりの那須国を奪った、貞信の系譜である。
敗北し、屈辱的に殺された八溝山蝦夷軍の大将、岩獄丸は怨霊となった。
木幡神社には八幡太郎義家が、奥州征伐へ向かう途中、戦勝祈願している。
「鷲の棲む深山には、概ての鳥は棲むものか、同じき源氏と申せども、八幡太郎は恐ろしや」(白河法皇)
白河法皇は源氏の頭角を恐れた。八幡太郎義家は白河法皇の陰謀によって、力を削がれ、孤立化していった。最後は病死した。鬼怒一族の怨霊にやられたのだろうと白河法皇は、院政の御所で薄く笑ったという。
「下野の高原山、その山が見下ろす里、木幡神社は源氏の軍神、坂上田村麻呂が奥州蝦夷征伐祈願のため、建てたというが、実はのう……鬼怒一族が建てた怨霊社であるとか、結界に入った蝦夷討伐の覇者は、復讐の霊に呪われるという、恐ろしや、木幡神社の云われをけして源氏に教えてはならぬ、宮廷の公卿にも知らせてはならぬぞえ」
白河法皇は言葉に出さす自分を戒めた。
鎌倉幕府を開いた源頼朝も那須野が原の狩のおり、先祖ゆかりの木幡神社に祈願したという。その後、源頼朝はある日、相模川から鎌倉への帰途落馬し、御所で死んだ。
「もののふの矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原」(源実朝)
兄、頼家が追放されたあとを継ぎ、鎌倉幕府三代将軍になった源実朝も那須が原での狩のおり、先祖ゆかりの木幡神社に祈願した。
その後、実朝は、兄頼家の子である公暁に、鶴岡八幡宮の社前で正月拝賀の際暗殺された。公暁は、北条義時ら幕臣に実朝が父のかたきであると聞かされていた。兄弟を皆殺しにした源頼朝の征夷大将軍系譜は消滅した。院政の後鳥羽上皇は、鬼怒一族の怨霊とは恐ろしや、木幡神社に祈願するたび源氏が死んでいく……鬼怒一族を味方に引き入れなければならぬ。かつて朝廷が滅ぼした山の民蝦夷を味方にせねばならぬと胸で誓った。そして後鳥羽上皇は、今が鎌倉幕府打倒の好機と、京都守護伊賀光季を討ち、執権北条義時追討の宣旨を発令し承久の乱を起こしたのだが、鎌倉幕府軍に敗退してしまった。後鳥羽上皇は隠岐に流された。後鳥羽上皇の意思を蘇らせたのが後醍醐天皇だった。
高原山と八溝山の源氏への怨霊をおそれた鎌倉幕府北条執権は、自らを平氏の出自であると宣言するようになっていた。鎌倉幕府最後の執権である北条高時を裏切ったのが、源氏の出自である足利尊氏だった。
奈良時代に高原山から農耕奴隷として西国各地に流された鬼怒一族の末裔は、鎌倉時代末期になり、後醍醐天皇による北条鎌倉幕府打倒の綸旨に応じ、後醍醐天皇の王子である大塔宮が指揮する山岳ゲリラ軍に参加し、安芸の山の民である有留一族と共に、みごと北条鎌倉幕府軍を敗退させる一翼を担った。しかし、山岳ゲリラ軍の将軍である大塔宮は朝廷内の陰謀により、足利尊氏軍に引き渡され、鎌倉に送られてしまい、足利尊氏の弟である足利直義の命令によって暗殺されてしまった。大塔宮を鎌倉から奪還し、山岳ゲリラ軍の再建を計画していた鬼怒一族と有留一族は、大塔宮の死により展望を喪失し、西国に帰還した。やがて朝廷が分裂し後醍醐天皇と足利尊氏の内戦が勃発した。鬼怒一族と有留一族は吉野の山に入り、今度は楠木正成軍に加わる。しかし楠木正成軍は足利軍に敗れてしまう。生き残った有留一族は一度四国に逃れ、そこから安芸の故郷に帰還。鬼怒一族は足利軍による敗軍残党狩りを恐れながら流民となって西国を脱出し、坂東下野北部に向かった。坂上田村麻呂将軍塚があり鬼怒一族の聖地高原山を拝める豊田村を開拓し住み着いたという。豊田村の東には裏高原山の塩原から箒川が流れていた。箒川は那須国の那珂川へと合流する。 
 
蝦夷と鬼

 

1.蝦夷と鬼伝説
東北の鬼伝説といえば、岩木山の大人伝説、男鹿のナマハゲ伝説、安達が原の鬼婆伝説などが代表格である。中でも、安達が原の鬼婆伝説は、能では「黒塚」、人形浄瑠璃や歌舞伎では「奥州安達が原」などに取り入れられ、よく知れわたっている。
福島県二本松市の北東部、阿武隈川の東岸に安達が原がある。
平安時代の半ば、天暦(947ー957)の頃に成立したとみられる『大和物語』に、平兼盛が、
みちのくの 安達ケ原の黒塚に 鬼こもれりと 聞くはまことか
と詠んでいるので、よほど古くから鬼の棲む場所とされていたことになる。
安達が原の観世寺やその周辺には、鬼婆を埋めた黒塚、鬼婆の住んだ岩屋、はては鬼婆の使った包丁から夜泣石、恋衣地蔵堂・伊駒地蔵堂まである。
観世寺の「黒塚縁起」によると、京都のある公家の乳母であった岩手は、てしおにかけて育てた姫の病気が妊婦の生ぎもを飲めば治ると聞かされて、東に下り、みちのくの安達が原の岩屋に住みつく。木枯らしの吹く晩秋の暮れどき、伊駒之助・恋衣と名乗る若夫婦が一夜の宿を乞い、その夜、身ごもっていた恋衣はにわかに産気づき、伊駒之助が薬を求めて出かけたすきに、岩手は出刃包丁をふるって恋衣の腹を裂く。恋衣が苦しい息の下で、母を尋ねて旅してきたことを語ると、岩手はその守り袋を見て、幼いときに都に残したいとしい我が子と知り、気を狂わし、ついに鬼と化す。
以後、宿を求めてきた旅人を殺し、生き血をすすり肉を喰らう「安達ケ原の鬼婆」として恐れられるようになるが、如意輪観音の加護を得た熊野の僧東光坊によって退治される。その鬼婆の死骸を埋めた場所が黒塚で、如意輪観音を祀った寺が観世寺というわけだ。
人形浄瑠璃や歌舞伎の「奥州安達が原」は、安倍貞任と源義家との戦いを軸としながらも、恋衣や貞任の妻で盲目となる袖萩など薄幸の女たちを多く登場させる。鬼と化した岩手も凄惨ではあるが、薄幸の女性の一人である。
「奥州安達が原」では、蝦夷の安倍貞任・宗任が活躍するが、もとの鬼婆伝説には登場しない。しかし、北東北の鬼伝説は、中央政府にまつろわないために鬼とされた蝦夷の首長たちの話が大半である。そういえば、平兼盛の歌は、鬼婆よりも、いわれなくして鬼とされた者たちの面影が感じられる。
岩手県の鬼伝説地を訪ねると、たとえば、西磐井郡花泉町太田沼の「空泣山の鬼婆」のように、子どもが井戸に落ちたとウソ泣きして、道行く人をだまし、突き落として取って喰った鬼婆もいるが、おおむね、坂上田村麻呂の征夷伝説と結びついて語られている。
岩手の人びとが最も嫌う伝説の一つに、東磐井郡平泉町の達谷の窟伝説がある。窟の毘沙門堂を管理する西光寺の縁起によると、ここに住んでいた悪路王・赤頭らが人を害し猛威をふるうので、坂上田村麻呂は毘沙門天の加護を得てこれを平定し、京都の鞍馬寺にならって毘沙門堂を建立、百八体の像を刻んで祀ったという。
この伝説は、『吾妻鏡』の文治5年(1189)9月28日条にも、立ち寄った源頼朝の問いに答える記事として登場するので、よほど古い時代に定着した話だと思う。また、江戸時代中期に訪ねきた菅江真澄も「かすむ駒形」(天明6年1月26日条)に、「むかし、赤頭、達谷などという鬼が、この窟に籠っていたのを、田村麿がうち平らげられた」と書いている。
一関市真柴の鬼死骸は、江戸時代から明治初期までは村名だった。その由来は、田村麻呂に討たれた大武丸の死骸を埋めたところだからだそうで、もとは鹿島神社の社の下に高さ5尺・周囲3丈余の大石があり、そこに埋めていたという。この鬼石は、現在もJR東北線の東脇の田圃の中にあり、200メートルくらい南には大武丸の背骨石・筋石・兜石などと呼ばれる石も残っている。また、首は宮城県の鳴子鬼首に飛んで行ったとも語り伝えている。
江刺地方には、大武丸(大嶽丸)の子の人首丸(ヒトカベマル)にまつわる話が多く、15・16歳の若武者として語られている。達谷の窟を逃れた人首丸は、北上川の支流伊手川をのぼり、江刺市原体の鬼渕に潜み、さらに藤里の愛宕山の洞窟に隠れた。しかし、追撃は急で、米里の大森山(820メートル)にたてこもり、ついに物見山(種山、870メートル)に陣をはった田村麻呂の女婿の田村阿波守兼光に討たれた。
兼光が取った首を見ると、美少年。鬼ではあるが、顔は人。兼光は不憫に思い、観音堂を建立して丁重に祀った。これが、のちに玉里に移された大森観音。地元民は、明治8年までこの地を人首村と称して、人首丸を偲んだそうだ。また、大森山の頂上から100メートルばかり下った所に岩屋があるが、ここが大森観音跡で、さらにやや下った鞍部に立っている2メートル余の石碑を「鬼っこの墓」と呼んで、供養してきたという。案内してくれた佐伯公郎さんは、人首の村名を忌んで米里に変更してから、次第に人首丸を供養する気持ちも失せ、やがて「鬼っこの墓」も忘れられていった、と話してくれた。
気仙地方にも田村麻呂に追われた鬼伝説がたくさんある。大船渡市猪川には赤頭という鬼が棲んでいたという。その頭領の高丸は、久名畑から日頃市に逃げようとして、盛川ぶちの2丈もある大きな岩の上に追いつめられ、最後の力をふりしぼって、向岸に飛び越え逃れた。そこで、この岩を「鬼越」と称したそうだが、道路改修で今はない。同市猪川の長谷寺、陸前高田市小友の常膳寺、同市矢作の観音寺は「気仙三観音」と呼ばれ、田村麻呂が討ち取った鬼の死骸を分割して三寺に葬ったのに由来する。
三陸町越喜来は、「鬼喜来」(鬼が喜んで来た)から来たといい、鬼の隠れ場所だった。しかし、田村麻呂は海から上陸し、たちまちのうちに鬼を討ち取り、その死骸をバラバラにして海に流した。このとき、たくさんの鬼を沢に追いつめ殺したので、「鬼沢」と呼ぶようになった。また、バラバラの死骸が流れついた所を「首崎」「脚崎」「牙ケ崎」などと名づけたと伝えている。
岩手山の周辺にも田村麻呂と蝦夷にまつわる鬼伝説は多く、「鬼ケ城」「鬼古里山」「鬼越」など由来する地名がある。鬼伝説に由来する地名といえば、県名となった「岩手」を忘れる訳にはいかない。盛岡市三ツ割の東顕寺境内にある大きな三つ石は、「鬼の手形」で知られる。田村麻呂に三人の蝦夷が降伏し、その誓約の証に、岩に手形を押したものという伝承もある。だが、一般には、里に下りて来て悪さをする羅刹を三つ石の神が捕え、二度と現われないと約束したので放免したときの、誓約の手形だと語られている。二度と来ないから「不来方」で、岩に押した手形だから「岩手」。そのときの里民の喜びの踊りが「さんさ踊り」になったという。
そのほか、東磐井郡室根村の室根山は鬼首山ともいい、日本武尊が鬼神を退治し、神社を勧請したと伝えられる。大槌町の大槌・小槌も鬼に関する昔話が地名の由来になっている。鍛冶屋は毎夜現れる鬼を金槌で追い帰すが、鍛冶屋と鬼、金属民と鬼とにまつわる話で興味深い。
若尾五尾さんは鬼を古修験(原始修験)との関連でとらえる。古修験者は道教で説く不老長寿薬としての水銀を獲得するため山中に踏み込み、金の採掘・精練をしたが、その手下となった採掘鉱夫を鬼と称した、と若尾さんはいう(『金属・魂・人柱その他ー物質と技術のフークロアー』)。
岩手県内で見られる鍛冶屋の守護神「鍛冶神」の掛図は、全国的にどの程度の広がりを持つか不明だが、岩手では鍛冶屋のフイゴ祭りに仕事場の神棚などに祀る。図柄は、中央部ないし中央上段に三宝荒神、下段に鍛冶場の様子を描いているものが多い。三宝荒神と随神だけの図柄もあるが、フイゴに風を送ったり、向こう槌をふり上げて鍛冶屋を手伝う鬼の入った図柄も多い。鬼は鍛冶屋につきものなのである。
小野寺正人さんは、若尾さんの論を受けて、宮城県の蝦夷伝説と鬼地名を分析している。鬼地名のある近くには金山などの鉱山が存在する。坂上田村麻呂によって征伐された蝦夷を鬼とするのは、鉱山の金工と鬼退治とが結びついたためで、のちに鉱山が廃れ関係が薄れると、鬼退治伝説だけが語られてきたからだという(「宮城県の鬼地名について」『東北民俗』第22輯)。
そうした視点で岩手県内の鬼地名を見直すと、気仙地方など金山や鉄山がセットで存在するものもある。だが、胆沢地方は田村麻呂と闘ったアテルイやモレなど蝦夷の本拠地であり、敗走する蝦夷が岩手山周辺や北上山地や沿岸地方に追いつめられ鬼伝説を残した考えるのが妥当。ただ、大槌町の大槌・小槌伝説は、製鉄の鍛冶屋と鬼との関わりで生まれたのである。
また、厨川柵で敗死した蝦夷の最後の頭領である安倍貞任は、源義経と同様に、これを慕う人々の心の中でいつまでも生き続け、ついには北行伝説として蘇った。その軌跡は、上閉伊郡宮守村の砥石森、下閉伊郡川井村江繋の安倍ケ森、岩手郡岩手町御堂などを経て、北のはて青森県下北郡佐井村に至り、とうとう「貞任鬼」になったという(菊池敬一『安倍貞任伝説』)。北海道まで渡ったとする義経北行伝説の先行形である。
2.アテルイと安倍貞任
『日本紀略』の延暦21年(802)4月15日条に、蝦夷の首長である大墓公アテルイと盤具公モレらが手勢500人を率いて、征夷大将軍坂上田村麻呂の前に投降したという記事がある。次いで、8月13日条には、京都に送られた二人が斬られたとある。
田村麻呂は、二人を胆沢の地に送り返し、彼らを利用して奥地の蝦夷の帰順を図るべきだと力説したらしいが、多くの公家たちは、「野性獣心、反覆定まるなし。奥地に放置するは、虎を養いて患いを遺すものなり」と厳しく退けたので、河内国杜山(現在の大阪府枚方市)で二人は斬られた。強大な中央軍に対して、雄々しく戦って散ったみちのくの英雄の最期である。
アテルイやモレの住む日高見国(ヒタカミノクニ)は、北上川流域の豊かな平和な国だった。ところが、『日本書紀』の景行紀に、「その土地は肥沃にして曠し。撃ちて取るべし」とあるように、中央政権にとっては、掠奪すべき「水陸万頃」の国だった。
とはいえ、祖先以来ここに暮らす人々には、守るべき父祖の地で、襲いくるものがあれば、阻み追い返すべき聖なる土地だった。だから、中央政府では、「まつろわぬ者」「あらぶる者」として「蝦夷」と賤しめ、口実を以て征夷の対象としたのである。
延暦8年(789)春、「板東の安危この一挙にあり」という桓武天皇の特命を受けた紀古佐美は、東山・東海・北陸の諸道の国々から武器・食料・兵士5万2000人を多賀城に集め、軍を分けて衣川に進んできた。以後、しばらく進軍が停滞したので、桓武天皇はいらだち、再度の進撃をうながした。そこで、古佐美は、4000人の精鋭を選りすぐって北上川を渡河し、アテルイの本拠と見られる巣伏村を衝かんとした。だが、アテルイは、わずかな手兵でこれを誘い、伏兵で逆襲し壊滅的打撃を与えたのである。
『続日本紀』によると、渡河軍四千人のうち、戦死者25人、矢に射られて負傷した者235人、溺死者1316人、裸にて帰着した者1257人という散々たる有様で、紀古佐美は、すごすごと都に帰っていった。こうして、坂上田村麻呂が登場することになった。
以後、坂上田村麻呂とアテルイ・モレらの長くて激しい戦いが続くが、時に利あらず、アテルイらは降伏し、ついに斬られてしまう。身長5尺8寸、胸の厚さ1尺2寸、怒れば猛獣もたちまち斃るといわれ田村麻呂も、意に反して処刑された北方の雄者アテルイの最期に、熱い涙を注いだことだろう。
このアテルイに重ね合わす英雄に安倍貞任がいる。奥六郡の郡司に任じられた安倍頼良の子である。
坂上田村麻呂の勝利によって、蝦夷の制圧に成功した朝廷は、その蝦夷の本拠地である現在の水沢市佐倉河に胆沢城を築いた。延暦21年(802)のことであった。次いで翌22年(803)には、現在の盛岡市太田、雫石川の南に紫波城を築いたが、これは川の氾濫による水害が激しかったので、弘仁2年(811)、現在の紫波郡矢巾町徳田の地に徳丹城を築いた。また、延暦23年(804)には鎮守府を多賀城から胆沢城に移し、胆沢の地を東北経営の中心にすえた。
その一方で、衣川以北に胆沢・江刺・和賀・稗貫・紫波・岩手の六郡を設置し、「奥六郡」と称して、降伏した陸奥・出羽国の蝦夷を移住させて封じ込めた。いわゆる俘囚(帰服した蝦夷)であり、その首長を俘囚長として官位を与え、課役を免じて懐柔した。そのため、のちには国司をしのぐ勢力を持つ安倍頼良が登場するのである。
安倍頼良は、蝦夷の血筋を受けて奥六郡の蝦夷を統率し、金や馬などのを基盤とした経済力と軍事力を持ち、南端の衣川を越える勢いであった。永承6年(1051)、それを危惧した朝廷では国司に攻めさすが大敗した。そこで、源頼義を陸奥守と鎮守府将軍に任じ、東国の武士団をさしむけた。頼良は頼義と同音である名前をはばかって「頼時」と改め、金や馬などを献上して恭順のの意思を示して一時おさまる。だが、幾度かの謀略が仕掛けられ安倍軍は暴発させられてしまう。
この源頼義・義家父子と安倍頼時・貞任父子の戦いが前九年の合戦(1051ー62)である。安倍軍の中心は貞任と頼時の女婿・藤原経清で、川崎柵(東磐井郡川崎村)の攻防で安倍側は勝利する。頼義は出羽仙北の清原武則一族と手を結び、小松柵・衣川柵・鳥海柵など安倍氏の拠点を次々と攻め落とし、ついに厨川柵(盛岡市)で安倍氏を滅ぼした。康平5年(1062)のことである。
『陸奥話記』には安倍貞任の最期を、「貞任は剣を抜いて官軍を斬る。官軍は鋒をもってこれを刺し大楯に載せ六人でこれをかつぎ将軍の前に置く。その長さ六尺有余。腰の囲は七尺四寸。容貌魁偉、皮膚肥白なり。将軍、罪を責む。貞任は一面して死す。」と記している。
「一面して死す」とは、頭を下げて死んだことで、貞任は最後まで雄々しく戦い、敵将源頼義に別れの挨拶をして、息をひきとったのである。見事な死にざまであった。「容貌魁偉、皮膚肥白」、これが貞任の姿容貌であった。
その後、奥六郡は清原氏が手にするが、清原氏の内紛によって後三年の合戦がおこり、最後に藤原経清を父に、安倍頼時の娘を母に持つ藤原清衡が継ぐことになる。こうして奥六郡の南の端の衣川を越えた平泉に館を築いて進出し、平泉藤原四代の時代が始まるのである。蝦夷の系譜はこうして藤原清衡・基衡・秀衡らに受け継がれのである。
3.田村麻呂伝説と毘沙門天
先に触れたが、平泉町の達谷の窟に住んでいた悪路王・赤頭らが人を害し猛威をふるうので、坂上田村麻呂は毘沙門天の加護を得てこれを平定し、京都の鞍馬寺にならって毘沙門堂を建立、百八体の像を刻んで祀ったとあった。
悪路王は、アテルイなどの蝦夷首長を象徴した伝説上の人物である。「悪」は、本来、悪源太や悪左府のように、抜群の体力と能力を持った者に冠する称号だった。ところが、いつの間にか、悪鬼羅刹にすり替えられ、高丸・赤頭とともに「三鬼」と呼ばれる鬼に転じられた。
しかし、討たれて都に運ばれた悪路王の首は、はるか北のふるさとを目指して、天を飛んだという。茨城県鹿島町の鹿島神宮にある「悪路王首像」は、田村麻呂が戦勝を祈願し、その報謝に献納したものだと伝承されるが、一方で、天を翔んだ首だと信じられてきた。像は鼻が高く、眉や目尻がつり上がり、伎楽面の酔胡王を思わせる忿怒の容貌をしている。『陸奥話記』に記された安倍貞任の「容貌魁偉」を具象化すれば、このようになるかもしれないと思わせる容貌である。
悪路王伝説は、上総国から常陸国・岩代国などでは平将門伝説と習合して、さらに大きく生き続けるようだ。また、茨城県桂村の鹿島神社にも「悪路王首像」がある。
田村麻呂伝説では、彼は北方の守護神である多門天(毘沙門天)の生まれ変わりとされている。その毘沙門天を祀るお堂が、北上山地の山ひだに点在している。
たとえば、和賀郡東和町の成島毘沙門堂には、地天女の手のひらにのる兜跋毘沙門天像(国重文)が祀られているが、これは像高(地天女とも)472.7センチ巨像。傍らには毘藍婆(ビランバ)・尼藍婆(ニランバ)の二鬼がひかえている。兜跋毘沙門天像は、ほかにも江刺市の藤里毘沙門堂蔵(国重文)などがある。
また、邪鬼を踏んつけている毘沙門天像は、北上市の立花毘沙門堂蔵(国重文)、江刺市の小名丸毘沙門堂蔵、同藤里毘沙門堂蔵(県指定)、宮古市の小山田薬師堂蔵(県指定)などがある。
毘沙門天に踏まれた邪鬼を、先祖が踏みつけにされている姿と思っている人が意外に多い。岩手県立博物館のエントランホールの成島の兜跋毘沙門天像(複製)を見て、何故、先祖を踏みつけているような像をシンボル的に展示するのかと、クレームをつけられる方がままあったものだ。地天女は土地神で、その手に支えられている姿だと説明しても、なかなか納得されない。
先の『吾妻鏡』の伝説は、「坂上田村麻呂利仁」が主人公。奥浄瑠璃の「田村三代記」は、立烏帽子という鈴鹿の鬼女を妻にした彼が、その協力で近江国の高丸や奥州達谷窟の大嶽丸を征伐する物語りである。『御伽草子』の「田村草子」や『元亨釈書』『平泉誌』など、田村麻呂ないし田村麻呂利仁が悪路王や高丸や大嶽丸などの鬼を討伐する話がたくさんある。それが各地の鬼伝説を増幅して行ったのだから、鬼を自分たちの先祖と考えるのも無理からぬことなのである。
しかし、小山田薬師堂の毘沙門天像の邪鬼を見ると、鬼だってなかなかどうして、踏んづけられても簡単に悲鳴を上げたりはしない。頬杖などをして、実に悠然と構えている。
私は、日高見国の呼ばれた北上川流域を母なる国として、そこで暮らした遠祖たちが、その豊かな土地を「討ちてとるべし」という進言にもとづいて、蝦夷と蔑まれ、鬼と呼ばれてと征討されたことの復権を願う。だから、ここに、声を大にして「よみがえれ北天の鬼」と叫びたい。 
 
諸説

 

鬼門1  
北東(艮=うしとら:丑と寅の間)の方位のことである。陰陽道では、鬼が出入りする方角であるとして、万事に忌むべき方角としている。他の方位神とは異なり、鬼門は常に艮の方角にある。鬼門とは反対の、南西(坤、ひつじさる)の方角を裏鬼門(うらきもん)と言い、この方角も鬼門同様、忌み嫌われる。(巽)を「風門」、北東(艮)を「鬼門」とした。
陰陽道においては、北と西は陰、東と南は陽とされ、北東と南西は陰陽の境になるので、不安定になると説明される。
中国から伝わったものとされるが、家相や鬼門に関しては、さまざまな諸説があり、正式な出典証明のない諸説ばかりであり、かつ整合性のある諸説もなく、諸説が一人歩きしているのが現状である。
鬼門の忌避
鬼門思想は中国から伝来した考え方であることに間違いはないが、日本の鬼門思想は中国から伝わった思想とは大きく違った思想になっている。なぜなら風水に鬼門思想はなく、日本独自の陰陽道の中で出来上がった日本独特の思想であると考えるべきである。
現代でも、人々は、縁起を担ぎ、家の北東、鬼門の方角に魔よけの意味をもつ、「柊」や「南天」を植えたり、鬼門から水回りや玄関を避けて家作りする現状があり、根強い鬼門を恐れる思想がある。
十二支で鬼門(丑寅)とは反対の方角が未申であることから、猿の像を鬼門避けとして祀ったりしたといわれている。代表的な例が、京都御所であるが、京都御所の北東角には軒下に木彫りの猿が鎮座し、鬼門に対抗し(猿ヶ辻)といわれ、築地塀がその方位だけ凹んでおり、「猿ヶ辻」と称されてきた説がある。
現在でも、家の中央から見て鬼門にあたる方角には、玄関、便所、風呂、台所などの水を扱う場所を置くことを忌む風習が全国に強く残っている。また、南西の方位を裏鬼門として、鬼門同様、水まわりや玄関を嫌う風習も根強く残っている。これは、京都御所の築地塀が鬼門、北東方位を凹ませてあることから、御所が鬼門を恐れ避けている、鬼門を除けていると考えられ、それから鬼門を避ける鬼門除けの手法とされてきた。
また、都市計画においては、平城京では鬼門の方向に東大寺が、裏鬼門の方向に植槻八幡宮が、平安京では大内裏から鬼門の方向に比叡山延暦寺が、裏鬼門の方向に石清水八幡宮が、鎌倉では幕府から鬼門の方向に荏柄天神社が、裏鬼門の方角に夷堂 が、江戸では江戸城から鬼門の方向に東叡山寛永寺が、裏鬼門の方向に三縁山広度院増上寺が置かれたといわれている。
鬼門の真実
現代でも、家の中央から見て鬼門にあたる方角には、玄関、便所、風呂、台所などの水を扱う場所を置くことを忌む風習が全国に強く残っている。また、南西の方位を裏鬼門として、鬼門同様、水まわりや玄関を嫌う風習も根強く残っている。
これは、京都御所の築地塀が鬼門、北東方位が凹ませてあることから、御所ですら鬼門を避けている、除けていると考えられ、それから鬼門を除ける手法とされてきたことにある。建築家清家清著 現代の家相には、京都御所の猿ヶ辻を家相の教え通りに凹ませていると書かれている。
俗語の「鬼門」
以上のように、鬼門は本来呪術的な意味を持つ言葉であるが、転じて「よくない結果が起こりやすい事柄」に対してこの言葉が用いられるようになっていった。方角に限らず、場所、時間帯や特定の教科などを指すこともあり、その用途は幅広い。 
 
鬼門2
鬼門とは、陰陽道では、鬼が出入りする方角であるとして北東:艮(うしとら:丑と寅の間)の方位を定めており、万事に忌むべき方角としてます。ちなみに、鬼門とは反対の南西:坤(ひつじさる:未と申の間)の方角は人門といいますが、別名裏鬼門(うらきもん)と言い、この方角も鬼門同様、忌み嫌われる方角になります。
東南(巽)は「風門」、北西(乾)は「天門」、南西(坤)は「人門」、北東(艮)は「鬼門」という。陰陽道においては北と西は陰、東と南は陽とされ、北東と南西は陰陽の境で不安定になるため、鬼門、裏鬼門と称される訳です。
そもそも太陽や五惑星が通る道筋を地球上に投影した黄道は、平面上では北東と南西を結んだ線になります。古代ではその黄道が神が通過する道筋と考え、そこから神が通る聖なる通路を常に清浄にしておくという風習が生まれ、北東の玄関を「鬼門」、南西の神が去っていく裏玄関を「裏鬼門」と呼ぶようになったのです。
門鬼思想は中国から伝来した考え方ではあるのですが、日本の鬼門思想は中国から伝わった思想とは大きく違った思想になっています。誤解しがちなのですが、風水に鬼門思想はなく、日本の陰陽道と神道、仏道、宮廷での鬼門思想の文化で出来上がった日本独特の思想なのです。
現代でも、縁起を担いで鬼門の方角である家の北東に魔よけの意味をもつひいらぎ南天を植えたり、鬼門から水回りや玄関を避けて家作りする風習が残っています。また、十二支で鬼門(丑寅)とは反対の方角が坤(ひつじさる)であることから、猿の像を鬼門避けとして祀ったりした風習もあるそうです。京都御所や東寺などには、御所や五重塔の北東角に軒下に木彫りの猿が鎮座していますし、京都御所の築地塀の北東方位を凹ませてあるのも、鬼門避けのひとつの手法とされてきた訳です。
他にも平安京や江戸城などは有名ですよね。
平安京に遷都した際に京都の平穏を祈るため、鬼門の方位にあたる比叡山に延暦寺を建てて鬼門鎮護の霊場としましたし、徳川幕府も江戸城の鬼門にあたる上野に東の叡山ということで東叡山寛永寺を造営し、表鬼門の鎮護にあたったとのことです。ちなみに、江戸城の裏鬼門を鎮護するのが芝の増上寺。二つの寺は幕府安泰の意を込め、代々の将軍の墓所が交互に設けられています。また、江戸の街の北座にあたる日光に東照宮を造営し、家康を神として祀ってあるのですが、その真北に北極星が位置しているというのは偶然ではないでしょう。
もう少し余談を加えておくと、徳川の繁栄に万全を期すため、将軍家に世継ぎが生まれなかった場合は、徳川御三家の尾張あるいは紀州から世継ぎを迎えることとしました。そんな中、水戸は常に江戸にあって将軍家を支え、決して将軍を出してはならないとしたのですが、それは水戸が江戸城から見て鬼門の方位だったためです。そもそも徳川幕府を作り上げるときに、水戸から将軍を出すときが幕府の終わるときである、という訓戒があったらしいのですが、徳川最後の将軍徳川慶喜が最初の水戸出身だったというのは、偶然というだけでは信じがたい何かがあります。
江戸時代は、二百六十年もの間戦乱もなく平和が続いた世界でも稀に見る時代ですが、これひとつとっても、鬼門や陰陽道の考え方が単なる風習だけで片づけられない理由がそこにあるのです。
 
羅刹天

 

(らせつてん、Skt:Rākṣasaの音写) 仏教の天部の一つ十二天に属する西南の護法善神。羅刹(らせつ)とも言う。
羅刹とは鬼神の総称であり、羅刹鬼(らせつき)・速疾鬼(そくしつき)・可畏(かい)とも訳される。また羅刹天は別名涅哩底王(Nirrti-rajaの音写、ラージャは王で、ねいりちおう、にりちおう)ともいわれる。破壊と滅亡を司る神。また、地獄の獄卒(地獄卒)のことを指すときもある。四天王の一である多聞天(毘沙門天)に夜叉と共に仕える。
ヒンドゥー教に登場する鬼神ラークシャサが仏教に取り入れられたものである。 その起源は夜叉同様、アーリア人のインド侵入以前からの木石水界の精霊と思われ、ヴェーダ神話では財宝の神クヴェーラ(毘沙門天)をその王として、南方の島、ランカー島(現在のスリランカ)を根城としていた。『ラーマーヤナ』ではクヴェーラの異母弟ラーヴァナが島の覇権を握り、ラークシャサを率いて神々に戦いを挑み、コーサラ国の王子ラーマに退治される伝説が語られている。概ねバラモン・ヒンズー教では人を惑わし食らう魔物として描かれることが多い。
仏教普及後は、夜叉と同様に毘沙門天の眷属として仏法守護の役目を担わされるようになる。十二天では「羅刹天」として西南を守護し、手にした剣で煩悩を断つといわれる。図像は鎧を身につけ左手を剣印の印契を結び、右手に刀を持つ姿で描かれる。全身黒色で、髪の毛だけが赤い鬼とされる。
中国以東では羅刹の魔物としての性格が強調され、地獄の獄卒と同一視されて恐れられることが多かった。10世紀の延暦寺の僧、源信著『往生要集』はその凄惨な地獄描写で有名だが、そこでも羅刹は亡者を責める地獄の怪物として描かれている。
羅刹の男は醜く、羅刹の女は美しいとされ、男を羅刹娑・羅刹婆(ラクシャーサ、ラークシャサ、ラクシャス、ラクシャサ、ラクササ)、女を羅刹斯・羅刹私(ラークシャシー)・羅刹女(らせつにょ)という。また羅刹女といえば法華経の陀羅尼品に説かれる十羅刹女が知られるが、これとは別の十大羅刹女や八大羅刹女、十二大羅刹女として、それぞれ名称が挙げられており、さらに孔雀経では72の羅刹女の名前が列記されている。 
 
酒呑童子

 

丹波国の大江山、または山城国京都と丹波国の国境にある大枝(老の坂)に住んでいたと伝わる鬼の頭領、あるいは盗賊の頭目。酒が好きだったことから、部下たちからこの名で呼ばれていた。文献によっては、酒顛童子、酒天童子、朱点童子などとも記されている。彼が本拠とした大江山では龍宮御殿のような邸宅に住み棲み、数多くの鬼共を部下にしていたという。
一条天皇の時代、京の若者や姫君が次々と神隠しに遭った、安倍晴明に占わせたところ、大江山に住む鬼の酒呑童子の仕業とわかった。そこで帝は長徳元年(995年)に源頼光と藤原保昌らを征伐に向わせた。頼光らは旅の者を装って鬼の居城を訪ね、酒を酌み交わして話を聞いたところ、最澄が延暦寺を建て以来というもの鬼共の行き場がなくなり、嘉祥2年(849年)から大江山に住みついたという。頼光らは鬼に毒酒を飲ませて泥酔させると、寝込みを襲って鬼共を成敗、酒呑童子の首級を京に持ち帰って凱旋した。首級は帝らが検分したのちに宇治の平等院に納められた。
歴史家の高橋昌明は、正暦5年(994年)に大流行した疱瘡がこの伝説に関わっているのではないかと見ている。また、『史記』に記される蚩尤伝説や、唐代の小説『補江総白猿伝』、さらには明代の『陳巡権梅嶺失妻記』との類似も認められるという。
出生の伝説
酒呑童子は、一説には越後国の蒲原郡中村で誕生したという。また伊吹山の麓でスサノオとの戦いに敗れた八岐大蛇が出雲国から近江へと落ち延び、そこで富豪の娘に産ませたのが酒呑童子だという伝承もある。その証拠に、父子ともども無類の酒好きであることが挙げられる。
越後国の酒呑童子
伝教法師や弘法大師が活躍した平安初期(8世紀)に越後国で生まれた彼は、国上寺(新潟県燕市)の稚児となった(国上山麓には彼が通ったと伝えられる「稚児道」が残る)。12, 3歳でありながら、絶世の美少年であったため、多くの女性に恋されたが全て断り、彼に言い寄った女性は恋煩いで皆死んでしまった。そこで女性たちから貰った恋文を焼いてしまったところ、想いを遂げられなかった女性の恨みによって、恋文を燃やしたときに出た煙にまかれ、鬼になったという。そして鬼となった彼は、本州を中心に各地の山々を転々とした後に、大江山に棲みついたという。一説では越後国の鍛冶屋の息子として産まれ、母の胎内で16ヶ月を過ごしており、産まれながらにして歯と髪が生え揃い、すぐに歩くことができて5〜6歳程度の言葉を話し、4歳の頃には16歳程度の知能と体力を身につけ、気性の荒さもさることながら、その異常な才覚により周囲から「鬼っ子」と疎まれていたという。『前太平記』によればその後、6歳にして母親に捨てられ、各地を流浪して鬼への道を歩んでいったという。また、鬼っ子と蔑まれたために寺に預けられたが、その寺の住職が外法の使い手であり、童子は外法を習ったために鬼と化し、悪の限りを尽くしたとの伝承もある。和納村(現・新潟県新潟市)では、村付近の小川に棲む「とち」という魚を妊婦が食べると、その子供は男なら大泥棒、女なら淫婦になるといわれ、その魚を食べたある女の胎内に16ヶ月宿った末に生まれた子供が酒呑童子だといい、この地には後に童子屋敷、童子田などの地名が残されている。
伊吹山の酒呑童子
奈良絵本『酒典童子』によれば、酒典童子は、近江国須川(米原市)の長者の娘・玉姫御前と、伊吹山の伊吹大明神(八岐大蛇)との間に生まれた。伊吹大明神の託宣によって、出産後、玉姫は伊吹山に上り、酒典童子は祖父である須川の長者の子として育てられた。10歳のとき、酒典童子は高野山と比叡山のどちらかで仏道修行をするよう祖父から勧められ、高野山は遠すぎるという理由で、近くにある比叡山の稚児となった。入山後、彼は三塔一の学僧とたたえられるまでになったが、酒好きであった。これは五戒の一つ飲酒戒に反するため、彼は皆から軽蔑されたが、師僧に強く叱らると酒を断った。その頃、都が平安京に移り、内裏では祝賀行事として京都の人々による風流踊が催され、諸寺にも風流踊を披露するよう勅命があった。比叡山が都の鬼門に当たるということから、酒典童子の提案で比叡山の僧たちは「鬼踊り」を披露することになった。踊りの際に用いる鬼の面は酒典童子が全て用意した。内裏での披露が終わると、比叡山の僧たちに酒が振る舞われた。鯨飲した酒典童子は、鬼の面を着けたまま山に帰って寝た。翌朝、目を覚ましてみると鬼の面が外れなくなっていた。その姿を僧たちから恐れられ、最澄によって比叡山を追われた酒典童子は、祖父・須川の長者のもとに帰った。しかし祖父は鬼の姿となった酒典童子を迎え入れず、両親のいる伊吹山に追い払った。酒典童子は伊吹山に上り、母の導きで山の北西にある岩屋にこもると、神通力を持つ本物の鬼となり、一帯の人々をさらって食べるようになった。これを憂えた最澄の祈祷によって伊吹山から追放されると、日本中の山々をさまよい、最終的に大江山にたどり着いた。
大江山の酒呑童子 1
平安時代から鎌倉時代に掛けて都を荒らした無法者としての“鬼”は、丹波国の大江山、または現在の京都市西京区大枝(おおえ)、老ノ坂(おいのさか)(京都市洛西地区)及び隣接する亀岡市篠町王子(大江山という小字がある)に本拠があったという。丹波国の大江山の伝説は、大枝の山賊が行人を悩ませたことが誤り伝えられたものとする説がある 。
大和国の酒呑童子
大和国(現・奈良県)の白毫寺の稚児が、近くの山で死体を見つけ、好奇心からその肉を寺へ持って帰り、人肉だと言わずに師の僧侶に食べさせた。その後も稚児は頻繁に肉を持って帰り、やがて死体の肉を奪うだけでなく、生きている人間を襲って殺し、肉を奪うようになった。不審に思った僧が稚児の後を追って真相を知り、稚児を激しく責め、山に捨てた。この稚児が後に酒呑童子となり、捨てられた場所は「ちご坂」の名で後に伝えられた。別説では、白毫寺の住職のもとに生まれた子が、成長に従い牙や角が生え、後には獣のように荒々しい子供となった。住職は世間体を恥じて子供を捨てたが、後にその子が大江山に入り、酒呑童子となったという。
大江山の酒呑童子 2 / 山の神と鬼
鬼の話の中でも、古来もっとも人口に膾炙したのは大江山の酒呑童子の話だろう。能の曲目にも取り上げられ、お伽草紙をはじめ民話の中にも類似の話は多い。それらの話のテーマになっているのは人を食う鬼であり、その鬼を源頼光のような英雄が退治するというのが大方に共通する筋書きである。
能の「大江山」では、丹後の大江山に住み着き、人を攫っては食うという鬼神を、源頼光とその従者50人が山伏姿となって山に踏み入り、退治するという筋書きになっている。そのクライマックスの部分を、謡曲は次のように描いている。
「頼光保昌もとよりも、鬼神なりともさすが頼光が手なみにいかで洩すべきと、走りかゝつてはつたと打つ手にむずと組んで、えいや/\と組むとぞ見えしが、頼光下に組み伏せられ、鬼一口に食はんとするを、頼光下より刀を抜いて、二刀三刀刺し通し刺し通し、刀を力にえいやとかへし、さも勢へる鬼神を推しつけ怒れる首を出ち落し、大江の山を又踏み分けで、都へとこそ帰りけれ。」
「鬼一口に食はんとするを」の部分は、人を食う鬼の恐ろしさを表現したものであり、日本の民話に出てくる多くの鬼に共通する原イメージというべきものである。
このように山中ひそかに住み着き、人を襲ったり食ったりする鬼のイメージは、日本人にとってはなじみの深いものである。お伽草紙などの民話にも類似の話が多く出てくるし、現代においてさえ、鬼を主題にした漫画が好んで読まれているほどだ。時によって鬼は眷属を伴い、集団で鬼の踊りをしたりもする。また百鬼夜行といわれるような、妖怪集団のイメージを伴うこともある。
この鬼が果たしてどういう起源のものであるかについては、五来重などは宗教民俗学の視点から、山神の転化した形であろうと推測している。山の神は、鬼のほかにも天狗や山姥、場合によっては河童などの形をとることもあるが、いづれも日本人の山岳信仰と、その背後にある祖霊信仰に根を持っている。山は古来先祖の魂が去っていくところと思念されていたし、また先祖の霊がこの世に現れるときに、そこを通ってやってくるところであった。
その祖霊としての山神が、何故鬼の形をとって人を食うようにならなければならないのか。なかなか難しい問題だが、そこには古来悠然と流れてきた日本人の山に対する複雑な心性が作用している。
山は死者が葬られるところであったし、また場合によってはその中に踏み込んだ人間たちが忽然と姿を消していなくなることもあった。そんなところから、山は神聖なものであると同時に恐ろしいものでもあった。こんな両義的な感情が山の神に鬼のイメージを重ね合わせさせたのかもしれない。
ところで能ではその恐ろしい鬼が童子の形をとっている。説話の世界でも伊吹童子や茨木童子など、童形の鬼の話はほかにもある。大江山の鬼は酒呑童子という名だが、源頼光がその名の由来を尋ねると、鬼は「我が名を酒呑童子と云ふ事は、明暮酒をすきたるにより、眷属どもに酒呑童子と呼ばれ候」と答えている。
民話研究家の佐竹昭広はこの「しゅてんどうじ」とは「すてご(捨て子)童子」が転化したものだろうと推測しているが、いまその真偽を明らかにすることはできない。一方五来重は、童子を鬼の形に重ね合わせるのは、シャーマニズムの憑霊の儀式において、子どもが霊のヨリシロとなったことを反映しているのではないかと推測している。
酒呑童子は、今は大江山に住んでいるが、そもそもは比叡山にいたということを、能の中の鬼は語っている。
「われ比叡の山を重代の住家とし年月を送りしに、大師坊と云ふえせ人、嶺には根本中堂を建て、麓に七社の霊神を斎し無念さに、一夜に三十余丈の楠となつて奇瑞を見せし処に、大師坊一首の歌に、阿縟多羅三貘三菩提の仏たち、我が立つ冥加あらせ給へとありしかば、仏たちも大師坊にかたらはされ、出でよ/\と責め給へば、力なくして重代の比叡のお山を出でしなり。」
ここには、仏教伝来以前より比叡山には山の神がいて、それが伝教大使によって追い出されたということが語られている。比叡山の山の神は比叡山を追い出された後、筑紫の彦山、伯耆の大山、白山、立山、富士とさすらい歩いて、最後に大江山に住み着いたのだと語っている。
これは天狗ものにおいて、天狗たちがこもる山の名と共通するところがある。こうした山々は古来、日本人にとって山岳信仰の拠点とされてきたところである。そこには日本民族にとって悠久の昔から山の神が住み着いていた。だがそれらは仏教の伝来によって、山の主人としての地位を追われた。追われた山の神の中には、仏の眷属となって生き延びるものもいたであろうが、大江山の酒呑童子のように叛旗を翻すものもあったのだろう。
こうしてみると、大江山の酒呑童子の伝説は、比叡山の山の神の記憶と遠く結びついていることがわかる。
西洋の伝説に出てくる魔女や魔法使いは、もともとヨーロッパ土着の土地の神が、キリスト教の伝来によって異教の魔物とされたことにそのルーツを有しているとされる。文化の衝突によって、古いものが新しいものの視点から位置づけなおされた例である。酒呑童子の伝説においては、それと同じようなことが、日本固有の山の神と、仏教の教えとの間に生じたのであろう。 
酒呑童子の配下
酒呑童子の配下は副首領の茨木童子、そして四天王として熊童子、虎熊童子、星熊童子、金熊童子の四人の鬼が在り、いくしま童子という名前も伝承上には存在する。
茨木童子との関係
酒呑童子とともに京都を荒らした大鬼、茨木童子だが、実は彼らの関係も様々な諸説がある。その諸説の中に、実は茨木童子は“男の鬼ではなく、女の鬼だった”という説があり、または酒呑童子の息子、はては彼の恋人だったという説も伝わっている。そして、しばらくしてから酒呑童子と茨木童子は互いの存在を知り、共に都を目指すようになったといわれている。
妖怪としての酒呑童子
京都に上った酒呑童子は、茨木童子をはじめとする多くの鬼を従え、大江山を拠点として、しばしば京都に出現し、若い貴族の姫君を誘拐して側に仕えさせたり、刀で切って生のまま喰ったりしたという。あまりにも悪行を働くので帝の命により摂津源氏の源頼光と嵯峨源氏の渡辺綱を筆頭とする頼光四天王(渡辺綱、坂田公時、碓井貞光、卜部季武)により討伐隊が結成され、長徳元年(995年)に討伐に向かった。姫君の血の酒や人肉をともに食べ安心させたのち、頼光が神より兜とともにもらった「神便鬼毒酒」という毒酒を酒盛りの最中に酒呑童子に飲ませ、体が動かなくなったところを押さえて、寝首を掻き成敗した。しかし首を切られた後でも頼光の兜に噛み付いていたといわれている。
頼光たちは討ち取った首を京へ持ち帰ったが、老ノ坂で道端の地蔵尊に「不浄なものを京に持ち込むな」と忠告され、それきり首はその場から動かなくなってしまったため、一同はその地に首を埋葬した。また一説では童子は死に際に今までの罪を悔い、死後は首から上に病気を持つ人々を助けることを望んだため、大明神として祀られたともいう。これが現在でも老ノ坂峠にある首塚大明神で、伝承の通り首から上の病気に霊験あらたかといわれている。大江山(京都府福知山市大江町)の山中に埋めたとも伝えられ、大江山にある鬼岳稲荷山神社の由来となっている。
また京都府の成相寺には、この神便鬼毒酒に用いたという酒徳利と杯が所蔵されている。
酒呑童子という名が出る最古のものは重要文化財となっている「大江山酒天童子絵巻」(逸翁美術館蔵)で、南北朝時代後期もしくは室町時代初期に造られたといわれている。この内容は上記の酒呑童子のイメージとはかなり異なっている。まず綴りが酒「天」童子であり、童子は一種の土着の有力者・鬼神のように描かれていることがうかがえる。また童子は「比叡山を先祖代々の所領としていたが、伝教大師に追い出され大江山にやってきた」とも述べている。酒で動きを封じられ、ある意味だまし討ちをしてきた頼光らに対して童子は「鬼に横道はない」と頼光を激しくののしった。 
 
伊吹童子ー酒呑童子の誕生

 

「おおえやま」石原和三郎作詞 田村虎蔵作曲
一 むかし、たんばの、おおえやま、おにどもおおく、こもりいて、
  みやこにでては、人をくい、かねやたからを、ぬすみゆく。
  (わかき、ひめをば、ぬすみゆく)
二 げんじのたいしょう、らいこうは、ときのみかどの、みことのり、
  おうけもうして、おにたいじ、いきおいよくも、でかけたり。
三 けらいは、なだかき、四天王、やまぶしすがたに、みをやつし、
  けわしき山や、ふかき谷、みちなきみちを、きりひらき。
四 おおえの山に、きてみれば、しゅてんどうじが、かしらにて、
  あおおに、あかおに、あつまって、まえようたえよの、大さわぎ。
  (のがるるひめをば、ひっとらえ)
五 かねてよういの、どくのさけ、すすめておにを、よいつぶし、
  おいのなかより、とりいだす、よろいかぶとに、みをかため。
六 おどろきまどう、おにどもを、ひとり、のこさず、きりころし、
  しゅてんどうじの、くびをとり、めでたくみやこに、かえりけり。
明治34年7月発行「幼年唱歌」より。※カッコ内の歌詞は明治34年の初出時のもの。現在の歌詞には「検定唱歌集」大正15年刊で変更されました。作詞、作曲とも「きんたろう」と同じコンビです。
この歌は源頼光が四人の部下とともに大江山に棲む鬼、酒呑童子を退治する話を児童唱歌にしたものです。酒呑童子が京を恐怖のどん底に陥れた時代は平安中期、藤原兼家の五男、道長が、「この世をば わが世とぞ思う 望月の かけたることも なしと思えば」と、歌に詠んだ藤原家全盛の時期の事です。当時の京は、藤原家の栄華の裏で、魑魅魍魎が跋扈し闇に凶賊が走る時代でした。安倍晴明が陰陽道を駆使し、また源頼光をはじめ武士が武力を持って京の治安を守っていました。そのころ大和朝廷の形成過程で山に追われた神々の末裔は、あるものは山岳信仰を形成し、独自の規律、独自のつながりをもって自分たちの生活を形成していました。一方、山には山の人間ばかりがいたわけではなく、町を追われたものが逃げ込む所でもありました。何かの都合で町にすめなくなったり、追われたり、すてられたり、また犯罪をおかして逃げ込む場所も山だったのです。
酒呑童子は捨て童子、ある理由のために捨てられた子供だとされています。
近江の国に大野木殿とという有徳な人がいました。彼には十六歳になる美しい一人娘があり、この姫君のもとに、夜毎かよってくる男のあったのですが、誰も気がつかずにいました。そのうち姫は身ごもってしまい、驚いた乳母が問いただすと、姫君は、どこの誰とは知りませんが「そのありさまけだかき人」が毎晩通ってくる、と答えました。乳母から事情を聞いた母親は、その男がおそらく変化のものと察し、正体をつきとめるために、娘の姫に針のついた苧環(おだまき)を渡し、男のすそに縫い付けさせました。朝になって帰っていった男の後を、糸を頼りにたどると、垣の穴から外へ、そして伊吹山のほとり、弥三郎の家へと続いていました。この弥三郎は野山のけだものを狩って食べ物としていました。けものが捕れない時は、家畜として飼われている、薪を背負った馬や、田を耕していた牛まで奪い取り、打ち殺して食べてしましました。そのさまは、まさに鬼神、人も喰うとして、あたりのものは皆逃げ出し、伊吹の里には人がすまなくなっていました。常人ではないと世間に聞こえた弥三郎が相手と知り、姫君の父大野木殿は、おろそかに扱う事が出来ず、その晩は姫君のもとへ山海の珍味を贈り、夜通し弥三郎の好物の酒でもてなした。弥三郎は姫に宿った子が尋常ならざる能力を備え、国の主ともなりうる男子であると予言します。しかし、弥三郎は大野木殿が勧めた酒を過ごしたため、死んでしまいます。
三十三ヶ月程を経て、姫には異様な男の子が生まれました。生まれてきた男の子は黒々とした髪の毛が肩のまわりまで垂れ、歯は上下とも生えそろい、抱きかかえあげた乳母の手の中で、カッと目を見開くと、「父はいずくにましますぞ。」と、人語を発して皆を驚かせました。この赤ん坊は伊吹童子と名づけられますが、世間には大野木殿の姫君が恐ろしい鬼子を生んだという噂が広まりました。
姫の兄、大野木の太郎は、父に対し進言します。世の中の人々は、伊吹童子を鬼神の変化と言って恐れています。人々の言うように童子は世の子供とは違います。 このまま成長して、おとなしくならず、世の中のためにならない事も起るのではありませんか、その時後悔しても、どうにもなりません。父の大野木殿は、童子が父の伊吹の弥三郎の凶悪無比な血を受け継いでいる事を考えると、恐ろしくてなりません。ついに意を決して、伊吹山中の谷底に童子を捨ててしまいました。童子は始めの頃は泣き叫んでいましたが、しばらくするとケロッとしてあたりを駆け回って遊ぶようになりました。山中の狼や猪、鹿は童子を守り、花や食物を運び、童子は捨てられて死ぬどころか、ますます元気に成長していきます。
山の神の庇護を受け、けものに育てられ、丈夫にそだった伊吹童子は、不老不死の薬と言われる伊吹山の「さしも草」の露をなめ、そのしたたりの水を飲み、たちまち仙術を得て神通力を自在に使う身となりました。そして、それから長い年月がたったのか、大野木殿の事も弥三郎とのいきさつも、遠い昔語りとなり、詳しい事を知るものは誰もいなくなっていました。しかし、それほどの年月がたっても 伊吹童子は、十四、五歳くらいにしか見えませんでした。その力は山を動かし、空を稲妻のように翔け、多くの鬼神を従えてしたい放題の乱暴を働いていました。その乱暴狼藉はついに伊吹大明神の怒りに触れ、伊吹童子は山から追放されました。伊吹童子は比叡の東の峰に翔び、大比叡の山に移りましたが、伝教大姉の法力と山王権現の神力には勝てず、比叡山から逃げ出し、さらに西の山に向かって飛び去りました。西に翔んだ伊吹童子は、丹波の国に大江山という高く険しい山に降り、そこに岩屋をたててすみかとします。大江山は、人の通いが難しい要害で、伊吹童子は岩を積んで築地とし、岩をうがって窟をつくり、また門という門に異形異類の鬼神を置いて警護しました。そして、虚空をかける眷属を都に送り、人の宝を奪い、みめよく若い女房、娘をかどわかして、岩屋のうちに連れ込み、すぐれた女を召使いにし、劣ったものは打ち殺して喰らいました。岩屋にはいつしか金銀財宝がうずたかくつまれていました。この岩屋は鬼ケ城と呼ばれるようになり、恐れて近づく者さえいませんでした。それは人間だけではなく、鳥やけものでさえも、近づこうとしませんでした。
以上が、伊吹童子のお話で、酒呑童子の出生から大江山に住みつくまでの事を、伊吹童子として書かれています。誕生の部分は三輪山縁起のの蛇婿入苧環型の形式を取っています。
伊吹山の伊吹大明神は本地が八岐大蛇とされていて、伊吹の弥三郎は、八岐大蛇の申し子、末裔と考えられています。弥三郎が酒好きで、大野木殿が弥三郎に酒を飲ませたのも、大蛇退治を踏んでいる事になります。また、狼は山の神を暗示する生き物で、しばしば山中に捨てられた子供を守り育てます。ただ、酒呑童子の出生譚である伊吹童子の物語の成立は、酒呑童子より数百年後、でした。
まず酒呑童子の物語があって、後になって出生譚が成立しました。史実として藤原頼光に退治されたと考えられる酒呑童子は千年前後、弥三郎の物語が現れるのは1407年に成立した「三国伝記」です。ここでの弥三郎は、異類のものとして住民を恐怖に落とし入れ、退治された後、明神として祭られた、とされています。
これより先1201年、史実上伊吹の弥三郎という凶賊が討伐されています。1185年壇ノ浦の戦いで平家を破った源氏は武家政治を開始します。柏原弥三郎は平家との戦いで軍功をあげ、近江の国、柏原庄の地頭に任じられました。
地頭は兵糧米を一反につき五升の割で徴収する代わりに、反乱などを鎮圧する役目を持ち、警察権、徴税権、土地管理権をもっていましたが、弥三郎は農民支配に乗りだし、寺社領をも横領しはじめました。
そこで近江の国の守護、つまり弥三郎の上司にあたる、佐々木定綱に柏原弥三郎討伐の命が下されました。しかし、定綱は弥三郎を取り逃し、弥三郎は伊吹山中に逃亡し、一年半にわたり、近隣の集落を襲う凶賊と化したのです。弥三郎は定綱の四男、佐々木信綱によって討たれるのですが、弥三郎の恐怖は数世紀にわたり続きます。
廿一日。 大風近国ノ山木半吹倒ス。 弥三郎風ト云。
元和七年1(621年)十一月二十一日、近江の国一帯に大風が吹いて、山間部に被害が出ました。今で言う台風被害ですね。 この台風だけでなく、不思議な事や理解できない事、何か凶事があると、弥三郎の仕業として恐れ理解したようです。そして弥三郎の子、伊吹童子は酒呑童子とむすびつき、酒呑童子の誕生譚となって語られるようになっていったと考えられています。
 
大江山の鬼 酒呑童子

 

酒呑童子は十四、五の少年の姿のまま神通力を持った不老不死の怪物となって、京の町を襲います。酒呑童子とその眷属は「うつくしき稚児に化けて」、またある時は「母御の姿をまなび」、また「乳母がありさまとなって言い寄」り、なんの疑いも無く見ている女房や娘達を、宙にひっさげ虚空に翔んで、「夜毎に人を取りくらい」ました。町から夜な夜な娘が消えていく、それも公家も武家も区別なく、警戒をしても、連れ去られるものは増えていくばかり。帝はついに酒呑童子討伐の勅命を発し、それを受けた藤原頼光、平井(藤原)保昌、そして頼光四天王、渡辺綱、坂田金時、碓井定光、卜部季武の六人は、山伏の姿となって、大江山「禅定が嶽」へ向かいます。
一行が大江山に入ると、頼光らは三人の翁に出会います。三人の翁は八幡、住吉、熊野の神々の化身で、翁達は頼光達に三つの物を授けます。一つは「しんべんきどくしゅ、神の方便、鬼の毒酒と読む」不思議の酒。この酒を鬼が飲むと、飛行自在の力を失い、切っても突いてもわからなくなり、頼光達が飲むと、薬になるというお酒です。二つ目は「打銚子(うちでうし)」。(ながえのてうし、とも言う。)この銚子は昔神世の時、鬼神と争いがあった時、この銚子で酒を飲ませ、鬼をたいらげたもの。口の二つあるのは毒と薬のへだてで、柄のながいのは、命の縁起をかたどったもので、このちょうしで酌むなら、不思議の酒もいくら飲んでも尽きないものでした。最後は「ほしかぶと」(ぼうしかぶと、帽子兜)という兜。このかぶとは昔神軍が悪魔を鎮める時、「正八幡大菩薩が召したる」もので、これをかしらにいだだいていれば、万人力でくろがねの矢をはなち、矛をふりあげられるようになり、体になんのさわりがないという不思議な兜でした。三人の翁は頼光一行の先達をつとめ、険しい峰を越え、深い谷を渡って行き、大きな岩穴に案内します。
頼光らは翁達とその岩穴に入って行きますが、その洞穴は先に行くほど狭くなり、暗く長い闇の中を、翁達に遅れないようについていきます。三町ほど歩くと明るいところに出て、谷川の岸に出ると翁達は、「この川上に十七、八の上臈がいる、詳しい事はその娘に聞きなさい。」と言い残すと消えてしまいました。一行が川の上流へとのぼっていくと、川のほとりで涙にくれながら血の付いた衣を洗っている上臈がいました。頼光らはこの娘が「鬼の眷属が変化した」ものか、「鬼神が女に変じ、われらをたぶらかさんと」したものか、疑いますが、娘は鬼に連れ去られ、働かされていたものと分かり、「鬼が城」への道を聞いて、娘を配下に送り届けさせます。頼光らは鬼が城のつくと門番と激しい応酬を繰り広げます。山伏姿の頼光一行が、本当に山伏なのか? 門番の鬼達は疑いますが、酒呑童子に注進に行った鬼が「童子の意」を伝え、頼光達を城内に通します。酒呑童子は頼光ら一行を招き入れると、酒を勧め、酒盛りを始めます。酒呑童子は頼光を「どこかで見た人」と疑います。酒呑童子は神通力で人の心をさとりますが、ほしかぶとの力で頼光の心が読めません。酒呑童子は疑いながらも頼光の進める酒の毒に少しづつ参っていきます。全身に毒が回った酒呑童子は、もはや座る事さえ出来なくなり、頼光達を残して寝所に入ります。頼光達はよいつぶれた鬼を倒し、寝所に進むます。 鬼の城は客殿が幾重にも重なり、四季の庭を続く不思議な空間でした。その中にひときわ美しい寝殿がありました。するとふたたび三人の翁が現れ、「よくここまで来られた。鬼の手足は鎖で四方の柱につないである。酒呑童子は身動きすらとれない。」と鉄の扉を押し開くとまた消えてしまいます。
酒呑童子は鎖につながれ、寝所の中で眠っていました。その姿は稚児の姿ではなく、身の丈二丈(約六メートル)、髪は赤く逆さまに生え、髪の間から角が生え、髭も眉もしげり、足と手は熊のようなものでした。
頼光は名剣髭切りの太刀で酒呑童子の首をはねます。その首は怒りをなして虚空に舞い上がり、頼光めがけて襲いかかります。酒呑童子の首は頼光の兜を食い破りますが、その下につけていたほしかぶと、ぼうしかぶとを破る事が出来ずに終わります。一行が外に出ると、眷属の一人、茨城童子が襲いかかり、渡辺綱がこれを倒します。あたりにはもう鬼の姿も見えず、頼光は生き残っているはずの姫君、女房達を救い出すよう命じますが、その声を聞くやいなや、あちこちから生き残った姫君達が出てきて頼光達に駆け寄って来ました。姫君達は頼光達に喰われて亡くなった者、手足を切られ死んだ堀江の姫君、捕らえられていた間の事をはなします。その時、残っていたいしくま童子、かね童子が頼光達に襲いかかりますが、酒呑童子亡き後、鬼の力は弱っていて、他の鬼ともども、とらえられます。
こうして頼光達は生き残った姫君や女房三十余名と捕らえた鬼をつれ都に帰ります。池田中納言の一人娘そして他の姫君達を親元に送り届け、源頼光、平井保昌の二人の大将は宮中に報告に参内します。
帝は頼光に丹波の国を、保昌に丹後の国を、四天王それぞれにも、勲功の賞がありました。この時、帝より望みがあるなら申せとの言葉に、保昌はつい「和泉式部」と答えてしまい、保昌は帝より和泉式部を賜った、そうです。いきさつの真偽は?ですが史実上、平井(藤原)保昌は和泉式部の夫で間違いありません。
こうして、酒呑童子退治は幕を下ろすのですが、異説の一つに猟奇的色彩の強いものがあります。
比叡山に容姿の美しい稚児があり、毎晩僧達と酒を飲んで戯れ遊んでいた。この稚児は酔った後、人に噛みついて血を絞り出し、それを酒に混ぜて飲む、という奇妙な癖を持っていた。この稚児は比叡を出た後大江山に住み着き、石熊、金熊、ほか数十人の鬼となるものと徒党を組んで、毎晩都に現れ、人民婦女子を攫い害した。一条帝は勅命を発し、頼光は保昌、綱たち七人と共に大江山に向かった。
この後退治の部分は同じで、この後頼光達は童子の首を持って帰り帝に差し出すと、帝は喜んでこの首を石の箱に入れて山中に埋めたそうです。
京都府中郡大宮町三重の岩屋寺に伝わる酒呑童子の由来記によると、酒呑童子の首は七条河原に七日間さらされた後大江坂に葬られた、と記され、実際に首塚とされているものも存在します。柏原弥三郎にしても、この比叡山の稚児にしても、史上稀に見る凶悪犯、犯罪集団で、それゆえに「酒呑童子」という鬼となり、また呼ばれるようになったのかもしれません。 
 
天狗1

 

日本の民間信仰において伝承される神や妖怪ともいわれる伝説上の生き物。一般的に山伏の服装で赤ら顔で鼻が高く、翼があり空中を飛翔するとされる。俗に人を魔道に導く魔物とされ、外法様ともいう。また後白河天皇の異名でもあった。
由来
元々天狗とは中国において凶事を知らせる流星を意味するものだった。大気圏を突入し、地表近くまで落下した火球(-3〜-4等級以上の非常に明るい流星)はしばしば空中で爆発し、大音響を発する。この天体現象を咆哮を上げて天を駆け降りる犬の姿に見立てている。中国の『史記』をはじめ『漢書』『晋書』には天狗の記事が載せられている。天狗は天から地上へと災禍をもたらす凶星として恐れられた。
なお仏教では、経論律の三蔵には、本来、天狗という言葉はない。しかし、『正法念處經』巻19には「一切身分光燄騰赫 見此相者皆言憂流迦下 魏言天狗下」とあり、これは古代インドのUlkā(漢訳音写:憂流迦)という流星の名を、天狗と翻訳したものである。
日本における初出は『日本書紀』舒明天皇9年2月(637年)、都の空を巨大な星が雷のような轟音を立てて東から西へ流れた。人々はその音の正体について「流星の音だ」「地雷だ」などといった。そのとき唐から帰国した学僧の旻が言った。「流星ではない。これは天狗である。天狗の吠える声が雷に似ているだけだ」
飛鳥時代の日本書紀に流星として登場した天狗だったが、その後は文書の上で流星を天狗と呼ぶ記録は無く、結局中国の天狗観は日本に根付かなかった。そして舒明天皇の時代から平安時代中期の長きにわたり、天狗の文字はいかなる書物にも登場してこない。平安時代に再び登場した天狗は妖怪と化し、語られるようになる。
付会と俗信
空海や円珍などにより密教が日本に伝えられると、後にこれが胎蔵界曼荼羅に配置される星辰・星宿信仰と付会(ふかい)され、また奈良時代から役小角より行われていた山岳信仰とも相まっていった。山伏は名利を得んとする傲慢で我見の強い者として、死後に転生し、魔界の一種として天狗道が、一部に想定されて解釈された。一方民間では、平地民が山地を異界として畏怖し、そこで起きる怪異な現象を天狗の仕業と呼んだ。ここから天狗を山の神と見なす傾向が生まれ、各種天狗の像を目して狗賓、山人、山の神などと称する地域が現在でも存在する。
したがって、今日、一般的に伝えられる、鼻が高く(長く)赤ら顔、山伏の装束に身を包み、一本歯の高下駄を履き、葉団扇を持って自在に空を飛び悪巧みをするといった性質は、中世以降に解釈されるようになったものである。
事実、当時の天狗の形状姿は一定せず、多くは僧侶形で、時として童子姿や鬼形をとることもあった。また、空中を飛翔することから、鳶のイメージで捉えられることも多かった。さらに尼の転生した者を「尼天狗」と呼称することもあった。平安末期成立の『今昔物語集』には、空を駆け、人に憑く「鷹」と呼ばれる魔物や、顔は天狗、体は人間で、一対の羽を持つ魔物など、これらの天狗の説話が多く記載された。これは1296年(永仁4年)に『天狗草紙(七天狗絵)』として描写された。ここには当時の興福寺、東大寺、延暦寺、園城寺、東寺、仁和寺、醍醐寺といった7大寺の僧侶が堕落した姿相が風刺として描かれている。これら天狗の容姿は、室町時代に成立したとされる『御伽草子・天狗の内裏』の、鞍馬寺の護法魔王尊あるいは鞍馬天狗などが大きな影響を与えていると思われる。
『平家物語』では、「人にて人ならず、鳥にて鳥ならず、犬にて犬ならず、足手は人、かしらは犬、左右に羽根はえ、飛び歩くもの」とあり、鎌倉時代になると、『是害坊絵巻』(曼殊院蔵)を始めとする書物に、天台の僧に戦いを挑み、無残に敗退する天狗の物語が伝えられるようになる。また、林羅山の『神社考』「天狗論」、また平田篤胤の『古今妖魅考』に、京都市上京区に存在する「白峯神宮」の祭神である金色の鳶と化した讃岐院(崇徳上皇)、長い翼を持つ沙門となった後鳥羽上皇、龍車を駆る後醍醐天皇ら、『太平記』に登場する御霊が天狗として紹介される。
『吾妻鏡』天福2年(1234年)3月10日条の記述には、「2月頃、南都に天狗怪が現れ、一夜中にして、人家千軒に字を書く(「未来不」の三字と伝えられる)」と記述されている。『吾妻鏡』では、彗星に関する記述も多く記載されているが、この天狗の記述(13世紀中頃)に関しては、彗星ではなく、別の怪異(けい)と認識していたことが分かる。外観についての記述はないが、字を書けるということは分かる内容である(一夜にして千軒の家に字を書くことが、人ではなく、天狗の所業と捉えられた)。
天狗は、慢心の権化とされ、鼻が高いのはその象徴である。これから転じて「天狗になる」と言えば自慢が高じている様を表す。彼等は総じて教えたがり魔である。中世には、仏教の六道のほかに天狗道があり、仏道を学んでいるため地獄に堕ちず、邪法を扱うため極楽にも行けない無間(むげん)地獄と想定、解釈された。
天狗の種類
前述のように、天狗が成立した背景には複数の流れがあるため、その種類や姿もさまざまである。一般的な姿は修験者の様相で、その顔は赤く、鼻が高い。翼があり空中を飛翔するとされる。このうち、鼻の高いのを「鼻高天狗」、鼻先が尖ったのは「烏天狗」あるいは「木の葉天狗」という。
種類としては、天狗として世にあだなし、業尽きて後、再び人身を得ようとする「波旬」、自尊心と驕慢を縁として集う「魔縁」と解釈される場合もある。
またその伝承も各地に伝わっており、変わったものとして、紀州に伝わる、山伏に似た白衣を着、自由自在に空を飛ぶ「空神」、長野県上伊那郡では「ハテンゴ」といい、岩手県南部では「スネカ」、北部では「ナゴミ」「ナゴミタクリ」という、小正月に怠け者のすねにできるという火まだらをはぎとりに現われる天狗などが伝えられる。姿を見た者はいないが、五月十五日の月夜の晩に太平洋から飛んでくる「アンモ」もこの類で、囲炉裏にばかりあたっている怠け童子の脛には、茶色の火班がついているので、その皮を剥ぎにくるという。弱い子供を助けてくれ、病気で寝ている子はアンモを拝むと治るという。静岡県大井川では、『諸国里人談』に、一名を「境鳥」といい、顔は人に似て正面に目があり、翼を広げるとその幅約6尺、人間と同じような容姿、大きさで、嘴を持つ「木の葉天狗」が伝えられており、夜更けに川面を飛び交い魚を取っていたと記されている。また、鳥のくちばしと翼を持った鳥類系天狗の形状を色濃く残す「烏天狗」は有名である。有名な是害坊天狗などもこの種で、多くの絵巻にその姿が残されている。尼がなった「女天狗」や、狼の姿をした狗賓という天狗もいた。
神としての天狗
神として信仰の対象となる程の大天狗には名が付いており、愛宕山の「太郎坊」、秋葉山の「三尺坊」、鞍馬山の「僧正坊」(鞍馬天狗)、比良山の「次郎坊」の他、比叡山の「法性坊」、英彦山の「豊前坊」、筑波山の「法印坊」、大山の「伯耆坊」、葛城山の「高間坊」、高雄山の「内供坊」、富士山の「太郎坊」、白峰山の「相模坊」などが知られる。滋賀県高島市では「グヒンサン」といい、大空を飛び、祭見物をしたという。高島町大溝に火をつけにいったが、隙間がなくて失敗したという話が伝わっている。鹿児島県奄美大島でも、山に住む「テンゴヌカミ」が知られ、大工の棟梁であったが、嫁迎えのため60畳の家を1日で作るので藁人形に息を吹きかけて生命を与えて使い、2,000人を山に、2,000人を海に帰したと言う。愛媛県石鎚山では、6歳の男の子が山頂でいなくなり、いろいろ探したが見つからず、やむなく家に帰ると、すでに子供は戻っていた。子に聞くと、山頂の祠の裏で小便をしていると、真っ黒い大男が出てきて子供をたしなめ、「送ってあげるから目をつぶっておいで」と言い、気がつくと自分の家の裏庭に立っていたという。
山神としての天狗
天狗はしばしば輝く鳥として描かれ、松明丸、魔縁とも呼ばれた。怨霊となった崇徳上皇が、天狗の王として金色の鷲として描かれるのはこのためである。また、山神との関係も深く、霊峰とされる山々には、必ず天狗がいるとされ(それゆえ山伏の姿をしていると考えられる)、実際に山神を天狗(ダイバ)とする地方は多い。現在でも、山形県最上郡の伝承にみえる天狗は白髪の老人である。山伏を中心とする天狗の信仰は、民間の仏教と、古代から続く山の神秘観山岳信仰に結びついたもので、極めて豊富な天狗についての伝説は山岳信仰の深さを物語るものである。
山形県などでは、夏山のしげみの間にある十数坪の苔地や砂地を、「天狗のすもう場」として崇敬し、神奈川県の山村では、夜中の、木を切ったり、「天狗倒し」と呼ばれる、山中で大木を切り倒す不思議な音、山小屋が、風もないのにゆれたりすることを山天狗の仕業としている。鉄砲を三つ撃てばこうした怪音がやむという説もある。その他、群馬県利根郡では、どこからともなく笑い声が聞こえ、構わず行くとさらに大きな声で笑うが、今度はこちらが笑い返すと、前にもまして大声で笑うという「天狗笑い」、山道を歩いていると突然風が起こり、山鳴りがして大きな石が飛んでくる「天狗礫」(これは天狗の通り道だという)、「天狗田」、「天狗の爪とぎ石」、「天狗の山」、「天狗谷」など、天狗棲む場所、すなわち「天狗の領地」、「狗賓の住処」の伝承がある。金沢市の繁華街尾張町では、宝暦5年(1755年)に「天狗つぶて」が見られたという。静岡県の小笠山では夏に山中から囃子の音が聞こえる怪異「天狗囃子」があり、小笠神社の天狗の仕業だという。佐渡島(新潟県佐渡市)でも同様に「山神楽」(やまかぐら)といって、山中から神楽のような音が聞こえる怪異を天狗の仕業という。岐阜県揖斐郡徳山村(現・揖斐川町)では「天狗太鼓」といって、山から太鼓のような音が聞こえると雨の降る前兆だという。
また夜中に明かりをつけ飛ばす「天狗の火」の話など、神奈川県津久井郡内郷村(現・相模原市緑区)で夜中に川へ漁に行くと真っ暗な中を大きな火の玉が転がることがある。河原の石の上を洗い清め採れた魚を供えると、火の玉が転がるのが止まる。また投網を打ちに行くと、姿は見えないが少し前を同じく投網を打つものがいる。また大勢の人の声や松明の灯が見えるが誰もいない、これは「川天狗」と称し、川天狗に対して山に住む天狗を「山天狗」ともいう。
「天狗の揺さぶり」の話もある。山小屋の自在鉤を揺さぶったり、山小屋自体までガタガタ揺する。さらには普段住んでいる家まで揺する。埼玉県比企郡では天狗が家を揺さぶるのは珍しくなく、弓立山近くの山入では夜、山小屋を揺さぶる者が居るので窓からそっと覗くと赤い顔の大男がいたので、驚いて山の神に祈り夜を明かしたという話が伝わっている。
特に、鳥のように自由に空を飛び回る天狗が住んでいたり、腰掛けたりすると言われている天狗松(あるいは杉)の伝承は日本各地にあり、山伏の山岳信仰と天狗の相関関係を示す好例である。樹木は神霊の依り代とされ、天狗が山の神とも信じられていたことから、天狗が樹木に棲むと信じられたと考えられる。こうした木の周囲では、天狗の羽音が聞こえたり、風が唸ったりするという。風が音をたてて唸るのは、天狗の声だと考えられた。愛知県宝飯郡にある大松の幹には天狗の巣と呼ばれる大きな洞穴があり、実際に天狗を見た人もいると云う。また埼玉県児玉郡では、天狗の松を伐ろうとした人が、枝から落ちてひどい怪我を負ったが、これは天狗に蹴落とされたのだという話である。天狗の木と呼ばれる樹木は枝の広がった大木や、二枝に岐れまた合わさって窓形になったもの、枝がコブの形をしたものなど、著しく異形の木が多い。
民俗学者・早川幸太郎の『三州横山話』によると、愛知県北設楽郡東郷村出沢の三作という木挽きが仲間8人と山小屋に居たとき、深夜に酒2升を買い、石油の缶を叩いて拍子をとり乱痴気騒ぎをした。すると、山上から石を投げ、岩を転がし、小屋を揺さぶり、火の玉を飛ばし、周りの木を倒す音がした。一同は酔いが醒めて抱き合い、生きた心地もしなかった。夜が明けたら木1本倒れていなかった。天狗の悪戯であったという。この話は「天狗倒し」「天狗礫」「天狗火」「天狗の揺さぶり」が一挙に現れたもので興味深い話である。これらの話は大体天狗の仕業とされる代表的なもので、全国津々浦々少しずつ話を変えて伝えられている。
天狗と猿田彦
古事記・日本書紀などに登場し、天孫降臨の際に案内役を務めた国津神のサルタヒコは、背が高く長い鼻を持つ容姿の描写から、一般に天狗のイメージと混同され、同一視されて語られるケースも多い。
祭礼で猿田彦の役に扮する際は、天狗の面を被ったいでたちで表現されるのが通例である。
天狗と迦楼羅(カルラ)天
天狗は、一説に仏法を守護する八部衆の一、迦楼羅天が変化したものともいわれる。カルラはインド神話に出てくる巨鳥で、金色の翼を持ち頭に如意宝珠を頂き、つねに火焔を吐き、龍を常食としているとされる。奈良の興福寺の八部衆像では、迦楼羅天には翼が無いが、京都の三十三間堂の二十八部衆の迦楼羅天は一般的な烏天狗のイメージそのものである。 
天狗の話 / 山の神と山伏
天狗といえば、鬼や山姥とならんで日本の妖怪変化の代表格といえる。天狗を主題にした物語や絵ときものが古来夥しく作られてきたことからも、それが我が民族の想像力にいかに深く根ざしてきたかがわかる。中でも能には、天狗を主人公にしたものがいくつもあり、いずれも勇壮な立ち居振る舞いや痛快な筋運びが人びとの人気を博してきた。
能の天狗ものの代表格は「鞍馬天狗」であろう。これは鞍馬山に年経て住める大天狗が、義経に剣の手ほどきを行い、平家打倒に備えるという筋書きになっている。その大天狗が名乗りを上げる部分を、謡曲は次のように描いている。
後シテ「そも/\これは。鞍馬の奥僧正が谷に。年経て住める。大天狗なり。
地「まづ御供の天狗は。誰々ぞ筑紫には。
シテ「彦山の豊前坊。
地「四州には。
シテ「白峯の。相模坊。大山の伯耆坊。
地「飯綱の三郎富士太郎。大峯の前鬼が一党葛城高間。よそまでもあるまじ。邊土においては。
シテ「比良。
地「横川。
シテ「如意が嶽。
地「我慢高雄の峯に住んで。人の為には愛宕山。霞とたなびき雲となつて。月は鞍馬の僧正が。
地「谷に満ち/\峯をうごかし。嵐こがらし滝の音。天狗だふしはおびたたしや
名乗りから伺われるとおり、日本の主だった山々にはそれぞれ天狗が住みつき、中でも鞍馬の天狗は大天狗として、首領格であると主張されている。
この天狗とはいったいどういうものなのか。まずその面相を見ると、今日鞍馬山に存置されている天狗の像は赤ら顔に大きく飛び出た鼻を持っていることが特徴的だ。これはいうまでもなく記紀神話に出てくる猿田彦の面相を髣髴とさせる。これが関東では鎌倉の建長寺や高尾山の天狗のようにカラスの嘴がついていたりする。
だがいずれの天狗も山伏のいでたちをしていることでは共通している。
天狗が山伏の印象と結びついたのは鎌倉時代だろうといわれている。平安時代には天狗は明確な像としては意識されておらず、中国の言い伝えを採用して流星であるとされたり、地上に災いをもたらす天の妖怪として観念されていた。
日本人にはもともと、祖霊信仰としての山岳信仰があった。祖霊のうちでも人に取り付いて害をなすものは怨霊として痛く恐れられていた。平安時代最大の怨霊に菅原道真のものがあるが、それが国を挙げて恐怖の対象になり、道真の怨霊を静めるための祭が今日の祇園祭に発展したほどなのは、日本人に古来伝わる霊魂観が底にあったからである。
怨霊のうちでも多くのものは山に住むと観念され、それは鬼という形をとって人々を恐れさせた。天狗もいつしかこの鬼の一種として、妖怪変化の中に取り込まれていったと思われるのである。
天狗が山伏という人間の姿と結びついたのには、さまざまな事情があったのだろう。山伏は修験道といって、厳しい山岳修行で知られ、山中を自由自在に駆け巡るというイメージが強かった。それが天を駆け巡るようにも受け取られたので、天狗の観念と結びついたのではないか。
それ以上に、山伏自体の出自にかかわる事情もある。山伏は大峰や比叡山を拠点に、大きな寺院に従属して、大衆として寺院の雑役に従事していた。それ以前には、山伏の先祖たちは山岳の神をつかさどる立場にあったものと考えられる。これらの山岳に伝教大師や弘法大師が仏教の拠点を開くようになると、山伏の祖先たちは寺院に降伏してその下役になるか、寺院に反逆して放浪の旅に出る事を選んだ。
こうした事情を物語るものに「鞍馬寺縁起」がある。それによれば藤原伊勢人がこの地で観音の像を見出し、それを本尊として鞍馬寺を建てるのであるが、この地には既に鞍馬山に年経て住める神がいた。その神は観音の威力に降伏し、そのかわりに魔王尊として祭られる。それがいまいう鬼の姿になったのである。
山伏はこの魔王尊にかかわりあるものとして観念された。つまり鬼の子孫であるという性格付けを持たされたのである。
このほか、大江山の昔話では、酒呑童子はもと比叡山の山の神であったのが、伝教大師に追われて全国を放浪した挙句、大江山に落ち着いたのだということになっている。
こうしてみると、日本の山にはもともと山の神が住んでいたのが、仏に追われて放浪の鬼になったとする信仰が古来あったことがわかる。その鬼が山々を駆け巡る山伏の姿と結びついて、山伏姿の鬼、つまり天狗の形になったのではないか。
なお、天狗にカラスを結びつけるのは、天狗の話が芸能化したためだという説が強い。これにもいわくがありそうである。カラスはやた烏に見られるように、古来霊的な鳥だとも受け取られてきた。古墳の周りに住み着いて、高貴な人の霊を守るのだとする言い伝えもある。こうしたカラスの霊性が、天狗のイメージとどこかで結びついたのかもしれない。
菅原道真の怨霊
能「雷電」は菅原道真の怨霊をテーマにした能である。藤原時平らの陰謀によって失脚し、大宰府に流された道真が、死後怨霊となって都にあらわれ、時平らを呪い殺したり、自然災害をもたらして人々を恐れさせる。それは道真に不実の罪を着せたことへの報復だと考えた朝廷は、道真に天神の称号を贈り、厚く遇することで、怨霊の怒りを鎮めた。こうした道真にまつわる伝説を作品化したものが「雷電」である。
雷電とは字の如く雷や稲妻のことをいうが、それは道真の荒ぶる魂が形として現れたもので、怨霊のシンボルのようなものである。太平記では、道真の怨霊が雷電となって宮中を襲い、時平らを呪い殺すところが語られている。
この作品では、道真は比叡山延暦寺の座主法性坊のもとに現れ、これから雷神となって暴れまわると宣言するところから曲が始まる。そしてその言葉通り宮中で暴れまわることになった道真の怨霊を、法性坊が法の力によって取り鎮め、最後には宮中から天神の称号を贈られた道真の怨霊が、感謝しながら去っていくという結構になっている。
作者や製作年代は不明だが、そんなに古い能ではないらしいことは、複式能の形をとっていることから伺われる。
前段では、道真の怨霊と法性坊とのやりとりが行われ、後段では雷電となって暴れまわる道真の怨霊を法性坊が呪文を唱えながら取り鎮める。そして最後に天神の称号を贈られた道真は、天空の彼方へと飛び去っていく。
非常に単純なストーリーで、劇的展開には乏しいが、雷神のおどろおどろしい舞が怨霊のすさまじさを表現している。どちらかというと、視覚的効果に富んだ作品といえよう。
ここでは先日NHKが放送した宝生流の番組を紹介する。シテは宝生和英、ワキは森常良だった。
舞台にはまず、比叡山延暦寺の座主法性坊が二人の従僧を伴って現れる。(以下テクストは半魚文庫から)
ワキサシ「比叡山延暦寺の座主。法性坊の律師僧正にて候。
詞「偖もわれ天下の御祈祷のため。百座の護摩を焚き候ふが。今日満参にて候ふ程に。頓て仁王会を取り行はゞやと存じ候。
サシ「げにや恵も新たなる。影も日吉の年古りて。誓ぞ深き湖の。漣寄する汀の月。
地「名にしおふ。比叡の御嶽の秋なれや。比叡の御嶽の秋なれや。月は隈なき名所の都の富士と三上山。法の燈火自ら。影明らけき恵こそ。人を洩らさぬ誓ひなれ。人を洩らさぬ誓ひなれ。
法性坊は天下祈祷の胡麻を焚き終わり仁王会を行っているところだが、そこへシテ(道真の亡霊)が現れ、中門の扉を叩く。
シテ「ありがたや此山は。往古より仏法最初の御寺なり。げにやかりそめの値偶も空しからず。我が立つ杣に冥加あらせてと。望を適へ給へとて。満山護法いちれつし。中門の扉を敲きけり。
ワキ詞「深更に軒白し。月はさせども柴の戸を。敲くべき人も覚えぬに。いかなる松の風やらん。あら不思議の事やな。
シテ詞「聞けば内にも我が声を。怪め人の咎むるぞと。重ねて扉を敲きけり。
不思議に思った法性坊が物の隙よりよくよく見ると、それは死んだはずの道真。法性坊はとりもあえず中に入るよう道真に呼びかける。
ワキ「あまりの事の不思議さに。物の隙よりよく/\見れば。これは不思議や丞相にてましますぞや。心騒ぎておぼつかな。
シテ詞「頃しも今は明け易き。月にひかれてこの庵の。樞を敲けば内よりも。
ワキ「不思議や偖は丞相か。はや此方へと。
シテ「夕月の。
地「影珍しや客人の。影珍しや客人の。稀にあふ時は。なか/\夢の心地して。いひやる言の葉もなし。上人の丞相も。心解けて物語。世に嬉しげに見え給ふ。あはれ同じ世の。逢瀬とこれを思はめや。逢瀬とこれを思はめや。
中に入った道真と法性坊は、対面して互いになつかしみあう。というのも、道真と法性坊は子弟の間柄なのだ。法性坊は道真を師と仰ぎ、道真も法性坊を可愛がり、なにかと目をくれてやり、おかげで法性坊は、ついには天台宗の高僧にまで出世することができた。
ワキ詞「さて御身は筑紫にて果て給ひたるよし承り候ふ程に。種々に弔ひ申して候ふが届き候ふやらん。
シテ「なか/\の事御弔悉く届きてありがたう候。秋に後るゝ老葉は風なきに散り易く。愁を弔ふ涙は問はざるにまづ落つ。されば貴きは師弟の約。
ワキ「切なるは主従。
シテ「睦しきは親子の契なり。是を三悌といふとかや。
シテ「中にも真実の志の深き事は。師弟三世に若くはなし。
地「忝しや師の御影をばいかで踏むべき。
次いで居グセでは、二人のなれそめを道真が語る。
クセ「いとけなかりし其時は。父もなく母もなく。ゆくへも知らぬ身なりしを。菅相公の養ひに。親子の契いつの間に。有明月のおぼろけに。憐み育て給ふこと真の親の如くなり。さて勧学の室に入り。僧正を頼み奉り。風月の窓に日を招き。蛍を集め夏虫の。心のうちも明かに。
シテ「筆の林も枝茂り。
地「詞の泉尽きもせず。文筆の堪能上人も。悦び思しめし。荒き風にもあてじと御志の今までも。一字千金なりいかでか忘れ申すべき。
やがて道真は、自分はこれから鳴雷となって宮中に飛び入り宿敵どもを殺すつもりだが、ついては宮中から厄払いに召されるかもしれない。そのときはかまえて応じないようにと道真が言うと、法性坊は、一度や二度ならともかく、三度も勅使を追い返すわけにはいかないと応える。するとその言葉に道真は怒り、本尊の前に備えられていたザクロをかみ砕くと、それを炎に変えて口から吐きだしながら、行方も知らず消え失せてしまう。
シテ詞「われ此世にての望は適ひて候。死しての後梵天帝釈の憐を蒙り。鳴雷となり内裏に飛び入り。われに憂かりし雲客を蹴殺すべし。其時僧正を召され候ふべし。かまへて御参り候ふな。
ワキ「縦令宣旨はありといふとも。一二度までは参るまじ。
シテ「いや勅使度々重なるとも。かまへて参り給ふなよ。
ワキ「王土に住める此身なれば。勅使三度に及ぶならば。いかでか参内申さゞらん。
シテ「其時丞相姿俄に変り鬼のごとし。
ワキ「をりふし本尊の御前に。柘榴を手向け置きたるを。
地「おつ取つて噛み砕き。おつ取つて噛み砕き。妻戸にくわつと。吐きかけ給へば柘榴忽ち火焔となつて扉にばつとぞ燃え上る。僧正御覧じて。騒ぐ気色もましまさず。灑水の印を結んで。鑁字の明を。唱へ給へば火焔は消ゆる。煙の内に。立ち隠れ丞相は。ゆくへも知らず失せたまふ。ゆくへも知らず失せたまふ。
(中入)中入では間狂言として法性坊の従者が現れる。従者は、これまでの主人と道真とのやりとりを反復した後、道真の怨霊が宮中で暴れているので、宣旨を蒙った主人がこれから宮中に赴き、祈祷をするところだと宣言する。
後段では、台座の作り物二台が正面に据えられ、そこに法性坊が現れて台座の一方の上に乗り、祈祷を始める。
ワキ「偖も僧正は紫宸殿に坐し。珠数さらさらとおし揉んで。普門品を唱へければ。
地「さしも黒雲吹き塞がり。闇の夜の如くなる内裏。俄かに晴れて明々とあり。
ワキ詞「さればこそ何程の事のあるべきぞと。油断しける所に。
地太鼓頭「不思議や虚空に黒雲覆ひ。不思議や虚空に黒雲覆ひ。電四方にひらめき渡つて。内裏は紅蓮の闇の如く。山も崩れ。内裏は虚空に溯るかと。震動ひまなく鳴神の。雷の姿は。現れたり。
ワキ詞「其時僧正雷に向ひて申すやう。卒土四海のうちは王土に非ずと云ふ事なし。況んや菅丞相昨日までは。君恩を蒙る臣下ぞかし。内恩外忠の威儀未練なり静まり給へ。あらけしからずや候。
法性坊が祈祷しているところへ道真の怨霊が雷電となって現れ、おどろおどろしく舞いまわる。それへ向かって法性坊が数珠を押しもみながら祈祷の言葉を浴びせかける。祈祷が効を奏し、道真の怨霊は静まる。そこで朝廷に天神の位を贈られて、喜んだ道真は黒雲にうち乗って虚空に舞い上がっていく。
シテ「あら愚や僧正よ。われを見放し給ふ上は。僧正なりとも恐るまじ。われに憂かりし雲客に。
地「思ひ知らせん人々よ。思ひ知らせん人々とて。小龍を引き連れて。黒雲にうち乗りて。内裏の四方を鳴りまはれば。いな光電の。電光頻りにひらめき渡り。玉体危く見えさせ給ふが。不思議や僧正の。おはする所を雷恐れて鳴らざりけるこそ奇特なれ。紫宸殿に僧正あれば。弘徽殿に神鳴する。弘徽殿に移り給へば。清涼殿に雷なる。清涼殿に移り給へば。梨壷梅壷。昼の間夜の殿を。行き違ひ廻りあひて。われ劣らじと祈るは僧正。鳴るは雷。もみあひ/\追つかけ/\互の勢たとへんかたなく恐ろしかりける有様かな。千手陀羅尼をみて給へば。雷鳴の壷にもこらへず。荒海の障子を隔て。これまでなれやゆるし給へ。聞法秘密の法味に預かり帝は天満自在。天神と贈官を。菅丞相に下されければ。嬉しや生きての怨死しての悦これまでなりやこれまでとて。黒雲にうち乗って虚空にあがらせ給ひけり。
宝生流では、雷電は「来殿」と言う題名で、長らく異なった形で上演されてきた。後段での雷電のおどろおどろしい舞のかわりに、天下泰平をことほぐ祝祭的な舞が挿入されていたのである。
宝生流は加賀の前田侯の庇護を受けていたが、前田氏は菅原道真の子孫を名乗っていた。そんなところに、徳川時代の末に菅公九百五十年忌を記念した催しがあった際に、メインの曲目としてこの「雷電」が選ばれたが、もともとの形では、道真公の雰囲気に相応しくないと言うので、後段のおどろおどろしさを省いて、その代わりに祝祭的な舞を持ち込む小書を作ったわけである。宝生流が、上記のような古来の形にのっとった演出をしたのは昨年が初めてのことだという。 
猿田彦と天狗
東京各地の祭りでは、ほとんどどこでも猿田彦が登場して、神幸祭の行列を先導している。長い鼻と赤ら顔の天狗の面をかぶり、一枚歯の高下駄をはき、色あでやかな衣装をまとったその姿は、行列の人気者である。いつの頃から猿田彦が天狗となり、神々の先導役を勤めるようになったか、その鍵は天孫降臨神話の中にある。
猿田彦について、日本書紀天孫降臨の条はつぎのように書いている。
「一神あり、天八達之衢(あめのやちまた)に居り、其の鼻の長さ七咫(ななあた)、背の長さ七尺余り、まさに七尋(ななひろ)といふべし、且(また)口尻明り耀れり、目八咫鏡の如くにして、?然(てりかがやけること)赤酸漿(あかかがち)に似れり、即ち従の神を遣はして往いて問はしむ、時に八十萬神あり、皆目勝ちて相問ふことを得ず、故(か)れ特に天鈿女(あめのうずめ)に勅して曰く、汝は是れ人に目勝つ者なり、宜しく往いて問ふべし、天鈿女乃ち其の胸乳(むなち)を露にかきたて、裳帯(もひも)を臍(ほぞ)の下に抑(おした)れ、あざ笑ひて向ひ立つ、是の時に衢の神問ひて曰く、汝かく為ることは何の故ぞや、対へて曰く、天照大神の子の幸(いでま)す道路に、此の如くにして居るは誰ぞ、敢て問ふ、衢の神対へて曰く、天照大神の子今降行(いでま)すべしと聞きまつる、故れ迎へ奉りて相待つ、吾が名は是猿田彦大神」
この後、猿田彦は天鈿女の問に答えて、天孫の降臨すべき場所は筑紫の日向の高千穂である旨を告げる。この告げに従って天孫の一行は高千穂の串触(くしふる)の峰に天下るのである。
ここに描かれている猿田彦の形相は、長い鼻に真っ赤な顔というのであるから、今日いう天狗のまさに原型のようなものである。その猿田彦が天孫の天下りすべき場所を教えているというのは興味深い。天孫一行は猿田彦の案内がなければ、無事天下ることができなかったとも受け取れる。そこからして、今日の祭においても、神々の行く手は猿田彦が案内するものと、相場が決まったのだろう。
猿田彦の形相は天狗を思い出させるが、実はもともと天狗であったわけではない。日本書紀の中でも、天狗への言及があるが、それは流れ星をさして天狗といっているのであり、もともとは天狗と猿田彦とは別のものであった。両者が結びついて、今日のような天狗のイメージが定着するのは室町時代以降のことである。鞍馬山に住む天狗や、謡曲に多く出てくる天狗のイメージが其の始まりと見られている。
天狗は長い鼻を持ち、一夜にして千里を翔る。形相においては猿田彦を連想させ、神出鬼没な面は流れ星に似ている。日本人の想像力が育てた傑作といえるかもしれない。
 
天狗2

 

藤と天狗さま / このお話は塩尻市洗馬の芦野田・元町両区の産土(うぶすな)、槻井泉八幡神社の藤にまつわるものである。
昔々、産土さまの大藤が大杉に絡んでいたそうな。春になりゃ、紫色の長ーい房を下げ、そりゃあ、見ごとなまでの咲きっぷりだそうな。
そんなみごとさにひかれて、式右エ門さとこの子守り娘が大藤の下にきて 「わあっ。なんていいにおいっ。それにいい色合いだこと」と、うっとりと藤の花を見上げていたかと思ったら、ぞうりをぬいで木にかき登り、何本かの花房を採ってしまったんですと。さぁ、その晩から娘は高い熱にうなされ続けた。ちょうどその頃は野良仕事の忙しいさなかで、娘の看病もしてやれなかった。せめてもと 「おとなしく寝てろよ」と言い残して出掛けるのが精いっぱいであった。
娘がうつらうつらしていると 「これこれ、ちょいと起きなされ」と、声がした。娘がぼんやり目を開けると、白い長い髭に高い赤鼻のおじいさんが立っていた。くぼんだ目をしていたし、おっかねぇ人だと思ったけれど、やさし気な声だったんで、ちょっとばかし安気になった。「この水を飲むとじきに熱が下がるぞえ、それから、あの藤の花を2度と採るではないぞよ」と、いうと、瓦笥(かわらけ)にきれいな水を残し、あっ、という間に姿を消してしまったんですと。
娘は夢かなって思ったんだけど、素直にその清水を飲むと、たちまち熱が下がって達者になったそうな。
その話を聞いた衆は、くちぐちに「そりゃ、お天狗さまに違げえねぇ」といったそうな。
冠着山の麓の麻績村から大岡村に通じる野間というところに天狗松と呼ばれる大きな松の木があったそうな。この木は、天狗がここを通るとき腰かけて休むんだそうだ。
この村に、怠け者で毎日ぶらぶら遊んでばかりいる若い男がいたそうな。ある日のこと、男は天狗松の下でさいころをころがしながら、「おっ、大阪が見えた。今度は京都だっ」と大声で騒ぎながら遊んでいた。と、ちょうどその時天狗が松の梢で休んでいた。
「これっ、お若いの。お前さんは変な物をころがして、大阪が見えるだの京都が見えるだのいっとるが、ふんとに見えるだかやあ」と声を掛けてきた。「あぁ、ふんとさ」 「じゃあ、わしにも見せてくれや」 「だめだめ、おらの宝物だものむやみに貸せねぇさ」 「それじゃ、わしの一番大事な、姿の見えなくなる隠れみのとさいころを、ちっとの間換えるというのはどうかな」
男はしめたっ、と思い、天狗の隠れみのとさいころを換えっこし、さっさと村に帰っていった。
一方、喜んで山のすみかに帰った天狗、大阪や京都を見ようとしてさいころをころがしても何んにも見えない。ギェ、こりゃだまされたと天狗は赤い顔をさらに赤くして男の村に飛んでいった。けどねぇ、いくら探しても男は見つからなかったの。そりゃそうよね、隠れみのを着てるんだもの姿が見つからないはず。
一方、天狗の隠れみのをだまし取った男は、おっかさんも目を見張るほどの働き者になり、孝行息子になった。おっかさんが起きるころにゃあ、ほっかほっかの飯がもう炊けているという具合だ。
近所で病人が出ると、なんと枕元には良薬が置かれていたり、貧しい家にはお金や米が配られるようになった。ところが、評判の悪い庄屋の屋敷では不思議なことが次々と起こっていた。炊きたての飯はなくなるし、蔵の米や、はたまたお金までもが毎日盗まれるのだ。寝ずの番をしてもむだであった。
天狗の隠れみのを着た男の仕業なのかしらん。そうしたことは村の衆は知らず仕舞だったということだが、天狗松は村人から、ずっと大切にされていたそうな。
天狗3兄弟
昔、上山田町力石と坂城との境に自在坊があって、そこに山伏の首長級の3兄弟が住んで天狗に仕えていたそうな。自在坊で、熊野権現を拝し、加持祈祷を生業としていたんですと。ある時、千曲川の大水にあって3人の山伏はちりぢりになってしまった。一番上の兄さんは戸倉の自在山へ、二番目の兄さんは松代の皆神山へ、末の弟は力石の岩井堂に移り住み、厳しい修行を積みながら、民人のために加持祈祷を行っていたそうな。民人たちはその徳を慕って天狗として祀ったそうな。
天狗の枝垂栗
塩尻市北小野の秋の山にはいろいろな実がなる。なかでも栗は大人にも子どもにも人気がある。大人たちは木に登って落としてくるが、子どもたちはそうはいかない。上を見ればいい栗が笑んでいる。ほしい、ほしいと泣き出す子もいる。そこに白い髯を生やした鼻の高いおじいさんが通りがかり、おやげなく思って木に登り、枝を下げて子どもたちに取りよくしてくれたそうな。その後、この栗の木の枝は垂れるようになったと。あのおじいさんは天狗さんであったそうな。
解説
天狗話の収集は長野県立歴史館の中條昭雄さんのお力添えで民話のデータベースより抽出していただいた。出典が違うたびに同じ伝承が現れる煩雑さはあったが、一話ずつ整理する楽しさがあったので救われた。データベースの他は筆者の心のポケットともいいかえる収集のいくつかを開けてみた。
天狗話は北信・中信・東信・南信と、まんべんなくあり、その数の多さには驚かされた。
さてさて、天狗の絵を描いてごらんといわれれば、まず、ふっくらした顔の輪郭を、次に、顔を赤く塗り長い赤鼻と大っきくて鋭い目を描く、あとは山伏の衣装を着せ、手にはヤツデの葉を羽団扇代りに描き、そうそう杖もね。
絵が出来上ったところで天狗の正体を結論づけると、研究者の間では、鉄(鉱石・鉱物)を求めて山から山へと渡り歩く産鉄民の山伏姿への畏敬と不思議な生態が里人から「天狗」とみられていた。つまり天狗は産鉄民だというのである。李寧熙先生も天狗はたたら師だといっているそうなので、いずれにしても天狗=製鉄師の等式が成る。
本稿では民話の中から製鉄に関わりのある部分を解読し、伝承地の周辺の鉄に関わる歴史と地名を探ってみたい。さらに新しい発見があれば嬉しいことである。
まずは「藤と天狗さま」であるが、塩尻市洗馬の槻井泉八幡神社に伝承されるお話である。まず「藤」は何を暗示しているのかというと、製鉄時の火の色であると共に古代砂鉄を漉(こ)すに用いたざるの材が藤の蔓であったといわれているので、その双方を象徴していると思われるのである。
次に驚くことに、祭神は誉田別命と猿田彦である。
誉田はふいごの地、猿田は砂鉄の地の意である。それに製鉄に不可欠な湧水もある。
槻井泉八幡神社のある塩尻市を雑ぱくに見てみると、弥生時代から水田耕作が行われた黒崖をはじめとして芝宮からは三遠式といわれる完全な銅鐸が発見されている。最近、京都府山城町の郷土資料館で山城町出土の銅鐸を観た。舌を付け銅鐸の音を再生する試みもあったが、それに比べても芝宮の銅鐸は立派である。
西洗馬(朝日村)の五社神社には、鉄鉾と3つの鉄鐸を宝物として持つ。お祭りの神々も製鉄神と考えられる。ここに記した銅鐸や鉄鐸が、どう製鉄と関わっているのか、を後に記すことにしたい。
次に地名を読んでみたい。まず洗馬。古代に洗馬牧があるので洗馬の表記は100パーセント賛成なのである。が、もう少し推考を進めて洗馬は洗場で鉄の場では、と推理してみる。神社の近くの芦野田、銅鐸の出土した芝宮、鉄磨(と)ぎと読める宗賀、桔梗ヶ原は古くは菅の荒野とも称したそうである。菅は鉄磨ぎ、荒は古代韓国にあった阿羅に置き換えられることが多い。菅の荒野とは阿羅の鉄磨ぎと読めるので、桔梗ヶ原は早くから渡来の人々によって鉄作りがなされて来た場所なのだろうか。古代韓国語を元に荒野を読んでみれば、単に耕作に適さない荒地でないことが推測できるのである。
二つ目は「天狗の隠れみの」である。同類のお話は中信の北安曇と南信の上伊那にもある。
天狗話の中で松の木の登場は多い。天狗の腰掛はだいたい松の木と決まっているらしい。上田市の市民の山と親しまれる太郎山にも、かつて天狗の腰掛の松があった。「天狗の隠れみの」にも天狗松が出てくるが、「松」はなぜ天狗とセットになるのだろうか。
天狗がたたら師だとすると、たたらには炭が不可欠である。栗の木の炭は最上質のものであるそうな。
赤松の炭も火力が強く上質とされている。「天狗の隠れみの」での「松」は松炭を暗示しているのではないだろうか。
たたらでは、炭をくべ次に砂鉄を投げ入れる作業が3日3晩で1000回におよぶという。
さて、姿の見えなくなる隠れみのは何を暗示しているのだろう。
製鉄の場は、技術や砂鉄、出来上った上質の玉鋼が盗難にあっては経済の非常な損失である。そうしたことがないよう、閉鎖された場所で行われたのかもしれない。そのことが隠れみのに象徴されているのではという仮説を立ててみた。
天狗の持っていた隠れみのを換えっこした男は、悪庄屋の持ち物を失敬し困っている村人に配り、皆幸せに暮したとさ。とあるのは、たたらの技術を体得したか、はたまた、たたら場に侵入し鉄塊を失敬し売りさばいたのかな? そうした市場もあったのかしらん。
お話に出てくる「麻績(麻続)」が機織の意であることは古くから市民権を得ていることだが、古代において麻は布や糸の代名詞であったそうな。
布の意の韓国語「べ」を知った時は懐かしい思いにかられた。なにしろ、幼い頃、着物を「べべ」といっていたからだ。叔母がよく歌ってくれた。お正月さんは良い人で/赤いべべ着て羽根ついて/水晶のような餅食べて―。衣食遊びをくださるお正月を称えた羽根つき歌にもべべが出てくる。布と布を継ぎ合わせたもの「べ・べ」が「べべ」なのである。改めて韓国語との繋がりに驚く。
麻績は「延喜式」にも出てくる由緒ある地名である。地図上に麻績村の文字が鮮やかに踊っている。お話の中の大岡村は長野市と合併。蛇足だが上山田町が千曲市になり「斯羅(さら・新羅)の鉄生み」と読める更級郡が地図上から消えてしまった。
次は「天狗3兄弟」についてである。
大水にあって後、兄弟は四散し、長兄は戸倉の自在山に住んだそうな。いつの頃からか、その山は「天狗山」と称され、樹齢400年から500年ほどの「天狗松」や「天狗の祠」がある。天狗山の山麓には、天狗の立像が出現した。平成7年春のことである。身の丈8mちょっと、体重ときたら約5トン。鉄骨と強化プラスチック製で千曲天狗の愛称を持つ。
そもそも、天狗3兄弟のお話をしてくださったのは、元県議会議員の故・大谷秀志さんであった。大谷さんのご研究では、天狗は産鉄民との認識があり、天狗山を越えた、千曲市森の岡地地区にある清水製鉄遺跡こそ、長兄の天狗ゆかりの地であったのではないかと考えていた。
清水製鉄遺跡は上信越自動車道の建設に伴い発掘された。製鉄のたたら遺跡、大鍛冶の鉄精錬遺跡、小鍛冶遺跡と一貫した作業が行われた製鉄の一大コンビナートであった。発掘の報告書には砂鉄の残存も認められたともある、希有な遺跡である。場所を示すならば、上信越道を千曲市側から上田市に向って1つ目のトンネル、有明山トンネルを通過したすぐの所が清水製鉄遺跡のあった所である。
地名の岡地は大鍛冶が転訛したのではないか、と筆者はみている。
戸倉には福井(福は真金吹くの吹く=福とも考えられている)という地名が天狗山の近くにあり気になっていたところ、近くの山にたたらがあったという情報を得た。だが、それについて詳しい人は病弱とのことで、話を伺うのは難しそうである。曖昧な話で恐縮であるけれど、かつてそうした場所があったらしい、といわれる所と天狗山が指呼の距離にあるので、長兄天狗との関連があるのではと考えている。
次は「天狗3兄弟」についてである。
大水にあって後、兄弟は四散し、長兄は戸倉の自在山に住んだそうな。いつの頃からか、その山は「天狗山」と称され、樹齢400年から500年ほどの「天狗松」や「天狗の祠」がある。天狗山の山麓には、天狗の立像が出現した。平成7年春のことである。身の丈8mちょっと、体重ときたら約5トン。鉄骨と強化プラスチック製で千曲天狗の愛称を持つ。
そもそも、天狗3兄弟のお話をしてくださったのは、元県議会議員の故・大谷秀志さんであった。大谷さんのご研究では、天狗は産鉄民との認識があり、天狗山を越えた、千曲市森の岡地地区にある清水製鉄遺跡こそ、長兄の天狗ゆかりの地であったのではないかと考えていた。
清水製鉄遺跡は上信越自動車道の建設に伴い発掘された。製鉄のたたら遺跡、大鍛冶の鉄精錬遺跡、小鍛冶遺跡と一貫した作業が行われた製鉄の一大コンビナートであった。発掘の報告書には砂鉄の残存も認められたともある、希有な遺跡である。場所を示すならば、上信越道を千曲市側から上田市に向って1つ目のトンネル、有明山トンネルを通過したすぐの所が清水製鉄遺跡のあった所である。
地名の岡地は大鍛冶が転訛したのではないか、と筆者はみている。
戸倉には福井(福は真金吹くの吹く=福とも考えられている)という地名が天狗山の近くにあり気になっていたところ、近くの山にたたらがあったという情報を得た。だが、それについて詳しい人は病弱とのことで、話を伺うのは難しそうである。曖昧な話で恐縮であるけれど、かつてそうした場所があったらしい、といわれる所と天狗山が指呼の距離にあるので、長兄天狗との関連があるのではと考えている。
「天狗の枝垂栗」のお話のある塩尻市北小野と辰野町小野には2つの神社が隣り合っている。塩尻市側は小野神社、辰野町側は矢彦神社で細い水路で境がなされている。両神社は信濃二之宮(一之宮は諏訪大社上社本宮)と称され、小野盆地を憑(たのめ)の里とか頼母(たのも)の里というそうである。また、例祭は田の実祭といい、天候の平穏や稲の豊作を祈る祭だそうだ。
平成17年4月半ば、両神社は御柱の準備がほぼ出来ていた。田の実祭は頼む(み)の意ではないかとの仮説を立ててみた。では何を頼むのか、その辺を探りたくて、特に小野神社の氏子の方々にお世話になった。
両神社には宝物がある。小野神社には、鐸鉾(さなきぼこ)に鉄鐸を麻幣(あさしで)で結びつけたものがある。鐸鉾は矢型状の両刃の剣で、鉄鐸は薄い鉄板をぐるりと巻いた鈴状のもので12口(1つは舌のみ)ある。
矢彦神社にも3口の鉄鐸が現存している。
唐突だが先日、御代田町の浅間縄文ミュージアムでの企画展「古代の音・色」で、複製の銅鐸に紐を巻きつけた舌の柔らかな音色を聴いた。銅鐸は鉄鐸と同様に振り鳴らされたものらしい。『古代の鉄と神々』(真弓常忠著)で祭祀学の著者はいう。最も古い様式を伝えるのは常に祭祀である。祭祀は始源の状態を繰り返すところに本意があり、時代の変遷にもたえて持続すると。「鉄を制する者は天下をも制する」。鉄は銅に比べはるかに有用で実用的なことは周知のことである。その鉄を求めて、つまり、砂鉄以前の湖沼に生える禾科の植物の根に沈澱する褐鉄鉱の塊の生成を祈って銅鐸や鉄鐸は振られたらしいのである。振り鳴らすだけでなく地中に埋祭したものが銅鐸である。より強い祈りを込めたものだろうか。古代人は銅が腐蝕しないことを知っていたのである。
小野神社の「田の実祭」は実は「頼む」の意の祭ではなかったろうか。鉄の生長を頼む(お願い)である。境内にある孔のあいた石を御鉾社という。穴に鐸鉾(さなぎぼこ)を立て、向こうにあるその名も藤池に向かい鉄鐸を振り鳴らしたと考えられる。
「天狗の枝垂栗」を観る旅で辰野町にも足を延ばした。北大出明神社では御船お奉りという、天狗と獅子が参加する珍しい祭がある。氏子の方が、古面の天狗面を見せてくださった。
次に校歌にも歌われている「月丘の森」に行った。
「月」の字が付くので多分製鉄と関わりがあるだろうと考えていたら、そこには諏訪神社があり、建御名方命(たけみなかたのかみ)とその祖母神を祭る。小塚があるが祖母神の陵墓であるそうな。御孫君が出雲から諏訪に向かわれる時同行なさってきたが、祖母神だけは月丘の森に住まわれ長寿の後にここで亡くなられたそうな。
古代「月」の名称は製鉄に関わりがある。月丘の森も、製鉄に適していると考え祖母神はそこにとどまったのかもしれない、と縁起の裏を読んでみた。
次に気になる地名を読んでみたい。
太平洋水系と日本海水系の分水嶺となっている牛首峠を西に下ると、木曽楢川の旧村境を経て桜沢に至る峠道がある。が、その牛首は上等な鉄燒きと読めるし、桜沢は鉄蔵の沢と読める。
たたら場跡はなくても、地名や古い様式を伝える祭祀から製鉄の匂いが伝わってくる。
天狗の冠を持つ、山・石・木・温泉・原はすべてと明言はしないが、その多くは製鉄や鉱物に関わりがあることは確かであるように思える。
伝承も時代と共に変わって行く部分はあるかもしれないが、特に製鉄に関しては、暗示と家徴型伝承の多いことを実感するのである。 
 
夜叉

 

(やしゃ、梵:यक्ष yakṣa、パーリ語:ञक्ख yakkhaの音写、訳:暴悪・捷疾鬼・威徳) 古代インド神話に登場する鬼神。薬叉(やくしゃ)とも称する。のちに仏教に取り入れられ護法善神の一尊となった。
インド神話
一般にインド神話における鬼神の総称であるとも言われるが、鬼神の総称としては他にアスラという言葉も使用されている(仏教においては、アスラ=阿修羅は総称ではなく固有の鬼神として登場)。
夜叉には男と女があり、男はヤクシャ(Yaksa)、女はヤクシーもしくはヤクシニー と呼ばれる。財宝の神クベーラ(毘沙門天)の眷属と言われ、その性格は仏教に取り入れられてからも変わらなかったが、一方で人を食らう鬼神の性格も併せ持った。ヤクシャは鬼神である反面、人間に恩恵をもたらす存在と考えられていた。森林に棲む神霊であり、樹木に関係するため、聖樹と共に絵図化されることも多い。また水との関係もあり、「水を崇拝する(yasy-)」といわれたので、yaksya と名づけられたという語源説もある。バラモン教の精舎の前門には一対の夜叉像を置き、これを守護させていたといい、現在の金剛力士像はその名残であるともいう。
護法善神として
インド神話における夜叉は仏教に包括され、仏法を守護する八部衆の一つとして、また毘沙門天の眷属として羅刹と共に北方を守護する。また夜叉には、天夜叉・地夜叉・虚空夜叉の三種があり、地夜叉以外は飛行するという。
大乗仏典では薬師如来の十二神将や、般若経典を守護する十六善神などが夜叉である。
その他の文化
スリランカではヤカ(Yaka)という病魔とされ、王にマハーコーラ・サンニ・ヤカー(Mahakola Sanni Yaka)がいるとされる。
タイでは、ヤック(ยักษ์)と呼ばれ、緑色と赤色の対になった巨大な像が寺院等の門にしばしば置かれている。画像はタイのバンコク・プラナコーン区タイ王室宮廷内の寺院入口にあるワット・シーラッタナーサーサダーラームのヤック像である(実はタイ国際空港にも同様のヤック像が置いてある)。
仏教の影響を受けたマニ教パルティア語文書(バクトリア出土)では、イエス・キリストとマニの名において夜叉などのデーウ(悪魔)を祓う、と書かれた護符文書がある。またいくつかの夜叉の特徴も併記されており、たとえばヴィシュヴァパーニ(Viśvapāṇi)は一日の第五の時間を支配し、ペシャワルに住み、塩味のものを食べる、とある。
ジャイナ教ではヤクシャ、ヤクシニーは守護神とされる。 
夜叉2
1.元々のインド神話では、善神であった。
夜叉の原型は、インド神話にでてくる「ヤクシャー」だそうだ。ヤクシャーは、北インドで信仰される善神、または、水を守護する山河の聖霊で、命の息吹をもたらす種族という。
ヤクシャーの女は、ヤクシーといい、豊穣をもたらす美しい女神であった。
後に、異民族が侵入してきて、かれらは、善神から魔族におとしめられた。ヒンズー教の伝承では、ヤクシャー族は、黒い体、猛獣の牙、曲がった爪と青い瞳を持ち、性格は、残虐で人肉を好み、人を惑わすとされた。つまり、異民族からは、その勇敢さ、気性の激しさ、攻撃力、抵抗力、復讐心 は相当に怖れられたのか。
さらに後に、ヤクシャーの王クヴェーラ(ヴァイシュラヴァナ、毘沙門天)が、ヒンズー教の重神となり、それにともない、配下のヤクシャー族は、天界の北方と宝物の守護の働きをする「善神」にと復帰した。
2.後に仏教と融合した
ヒンズー教の伝承やインド神話は、仏教に取り入れられた。インド神話が、仏教に取り入れられた経緯については、仏教が広まるときには、その国や地域の文化、習慣、宗教などを否定せずに取り入れるから と推測します。
仏典によれば、彼らの王クヴェーラが仏教を信仰し、多聞天(四天王のひとり、毘沙門天のこと)となり、それにともない、彼ら夜叉は、仏教を信仰し、天界八部衆、八大夜叉大将、十二神将などの要職を任ぜられることになる。
天界八部衆とは、釈迦如来の配下として、仏教と信者を守る組織をいうそうだ。
  天界八部衆
1、天部(梵天、帝釈天、四天王 などの最重神)
2、龍王
3、夜叉
4、乾ダ婆
5、阿修羅
6、迦桜羅
7、緊那羅
8、魔ゴ羅迦
3.さらに、中国、朝鮮を経て、日本に伝わると・・・仏法を守る善神なのだが、なぜか日本では、一般的な、女の鬼の俗称となった。「修善寺物語」「今昔物語」「申楽談義」「仮面譜」 など に登場する。 
日本伝承の「女の鬼」
 名前 / 土地 / 特技 / 解説
紅葉(くれは) / 長野県戸隠村、鬼無里村など / 幻術、妖術、変身、呪殺、人を食う / 937年、奥州の会津生まれ。身代わりを結婚させ、京に出て、ファッション関連の店を開く。その後、妖術を使う罪に問われ、戸隠に流罪される。ついには、盗賊の首領となる。絶世の美女であった が → その後、角が生え、眼はらんらんとし、口は耳まで裂け、身の丈3mとなる。生まれ年まではっきりしているのは、実在したということだろう。そして、忍者ゆかりの戸隠に縁があるとは、いかなることか。ともあれ、 想像を絶する鬼である。
鈴鹿御前 / 鈴鹿 / 神通力、飛行、剣術 / 絶世の美女。古代から中近世まで、鈴鹿の山は、鬼の総本山だった。鬼とは、中央の支配権力に従わない者たちの総称だったのか。
清姫 / 和歌山 / 変身 / 少女、妖艶な熟女、10mの大蛇などに変身。参考、娘道成寺。
六条御息所 / 京? / 呪殺 / 才色兼備の理想的な女性。参考、源氏物語。
鬼婆(おにばば) / 全国 / / 銀髪を振り乱し、眼をらんらんと光らせ、口から血をしたたらせ、手には包丁を持っているというイメージが、一般的。自分のテリトリーに迷い込んだ旅人を餌食にする。
山姥(やまうば) / 全国 / / 悪から善まで、また、若い女から老婆まで、地方によりいろいろの説がある。金太郎の母親の説もあり。富山の立山には、「おんばさま」がいる。
鬼子母神 / / / 鬼子母神は、ヤクシャー族(夜叉)の出身である。インドでは、古来から、求児、安産、育児の神とされている。仏典では、夜叉神の娘で、鬼神般ジャ迦の妻。一万(500、あるいは、1000の説あり)の鬼子の母なので鬼子母神という。誕生のときには夜叉族が歓喜したという。性質は、凶暴で人の子をとって食うのを常とした。釈迦はそれを見て哀れみ、末子を取って隠した。鬼子母神は、7日間探しても見つからず、うろたえ取り乱し、釈尊のところへ行き、その安否を尋ねた。釈尊は、その悪行を戒め、人の子を取って食うことをしないと誓わせて、その子を返した。仏教に帰依した鬼子母神は、仏教を守護する善神となった。鬼子母神は、美しい女の神で、江戸時代、大奥の女性は、子宝をさずかるため、鬼子母神をよく拝んだ。
羅刹(らせつ) / / / 悪鬼の総称で、女は、羅刹女。羅刹は、醜い形で人を怖れさせ、羅刹女は、美しい姿で人を惑わせ、その血肉を食うといわれる。自由自在に飛行し、走るのも速い。夜叉族の出身ともいわれる。後に仏教に帰依し、仏法守護の善神となる。鬼子母神と同じく、我々の生命の中に潜む「ひとつの悪の生命」であるが、仏教に帰依することによって、「善」に転じ、仏教と信者を守護すると説かれる。  
 
山の神

 

山に宿る神の総称である。山神(やまがみ)と言う。
実際の神の名称は地域により異なるが、その総称は「山の神」「山神」でほぼ共通している。その性格や祀り方は、山に住む山民と、麓に住む農民とで異なる。どちらの場合も、山の神は一般に女神であるとされており、そこから自分の妻のことを謙遜して「山の神」という表現が生まれた。このような話の原像は『古事記』『日本書紀』のイザナミノミコトとも一致する。
概要
農民の間では、春になると山の神が、山から降りてきて田の神となり、秋には再び山に戻るという信仰がある。すなわち、1つの神に山の神と田の神という2つの霊格を見ていることになる。農民に限らず日本では死者は山中の常世に行って祖霊となり子孫を見守るという信仰があり、農民にとっての山の神の実体は祖霊であるという説が有力である。正月にやってくる年神も山の神と同一視される。ほかに、山は農耕に欠かせない水の源であるということや、豊饒をもたらす神が遠くからやってくるという来訪神(客神・まれびとがみ)の信仰との関連もある。
猟師・木樵・炭焼きなどの山民にとっての山の神は、自分たちの仕事の場である山を守護する神である。農民の田の神のような去来の観念はなく、常にその山にいるとされる。この山の神は一年に12人の子を産むとされるなど、非常に生殖能力の強い神とされる。これは、山の神が山民にとっての産土神でもあったためであると考えられる。山民の山の神は禁忌に厳しいとされ、例えば祭の日(一般に12月12日、1月12日など12にまつわる日)は山の神が木の数を数えるとして、山に入ることが禁止されており、この日に山に入ると木の下敷きになって死んでしまうという。長野県南佐久郡では大晦日に山に入ることを忌まれており、これを破ると「ミソカヨー」または「ミソカヨーイ」という何者かの叫び声が聞こえ、何者か確かめようとして振り返ろうとしても首が回らないといい、山の神や鬼の仕業と伝えられている。
また、女神であることから出産や月経の穢れを特に嫌うとされるほか、祭の日には女性の参加は許されてこなかった。山の神は醜女であるとする伝承もあり、自分より醜いものがあれば喜ぶとして、顔が醜いオコゼを山の神に供える習慣もある。なお、山岳神がなぜ海産魚のオコゼとむすびつくのかは不明で、「やまおこぜ」といって、魚類のほかに、貝類などをさす場合もある。マタギは古来より「やまおこぜ」の干物をお守りとして携帯したり、家に祀るなどしてきた。「Y」の様な三又の樹木には神が宿っているとして伐採を禁じ、その木を御神体として祭る風習もある。三又の木が女性の下半身を連想させるからともいわれるが、三又の木はそもそもバランスが悪いため伐採時に事故を起こすことが多く、注意を喚起するためともいわれている。
日本神話では大山祇神などが山の神として登場する。また、比叡山・松尾山の大山咋神、白山の白山比盗_など、特定の山に結びついた山の神もある。
オーストリアの民族学者アレクサンダー・スラヴィクは、日本の「山の神」研究を紹介するとともに、ドイツにおける「山の中に眠っている王(カール大帝やフリードリヒ・バルバロッサなど)」「山に住む神々」と比較し、類似点を指摘した。
鉱山における山神
日本の鉱山においては、安全と繁栄を祈願してカナヤマヒコ・カナヤマヒメを祀る神社が設置される事が多く、これらも略称して山神と称する。鉱山で採掘された鉱石がご神体となる事もある。多くは祠程度の規模のものが多いが、歴史が長かったり、規模の大きかったりする鉱山においては一般的な神社と同じ規模のケースもある。
鉱山の閉山後は朽ち果て自然消滅する場合が多い。しかし、鉱山閉山後も製錬所が操業を続けたり、廃水処理施設が稼働したりする場合には、神社が施設の守り神として維持される事がある。 
 
餓鬼

 

(がき、サンスクリット語ラテン翻字: preta、音写: 薜茘多(へいれいた)) 仏教において、亡者のうち餓鬼道に生まれ変わったものをいう。preta とは元来、死者を意味する言葉であったが、後に強欲な死者を指すようになった。六道また十界の1つである。十界のうちでは迷界、三悪道(趣)に分類される。
俗に、生前に贅沢をした者が餓鬼道に落ちるとされている。ただし仏教の立場から正確にいえば、生前において強欲で嫉妬深く、物惜しく、常に貪りの心や行為をした人が死んで生まれ変わる世界とされる。しかし大乗仏教では、後々に死後に生まれ変わるだけではなく、今生においてそのような行状をする人の精神境涯をも指して言われるようになった。
餓鬼は常に飢えと乾きに苦しみ、食物、また飲物でさえも手に取ると火に変わってしまうので、決して満たされることがないとされる。極端な飢餓状態の人間と同じように、痩せ細って腹部のみが丸く膨れ上がった姿で描かれることが多い。
「正法念処経」巻16には、餓鬼の住処は2つある。
1. 人中の餓鬼。この餓鬼はその業因によって行くべき道の故に、これを餓鬼道(界)という。夜に起きて昼に寝るといった、人間と正反対の行動をとる。
2. 薜茘多(餓鬼)世界の餓鬼。閻浮提の下、500由旬にあり、長さ広さは36000由旬といわれる。しかして人間で最初に死んだとされる閻魔王(えんまおう)は、劫初に冥土の道を開き、その世界を閻魔王界といい、餓鬼の本住所とし、あるいは餓鬼所住の世界の意で、薜茘多世界といい、閻魔をその主とする。余の餓鬼、悪道眷属として、その数は無量で悪業は甚だ多い。
餓鬼の種類
餓鬼の種類はいくつかある。
「阿毘達磨順正理論」は、3種×3種で計9種の餓鬼がいると説く。
1. 無財餓鬼、一切の飲食ができない餓鬼。飲食しようとするも炎となり、常に貪欲に飢えている。唯一、施餓鬼供養されたものだけは食することができる。
2. 少財餓鬼、ごく僅かな飲食だけができる餓鬼。人間の糞尿や嘔吐物、屍など、不浄なものを飲食することができるといわれる。
3. 多財餓鬼、多くの飲食ができる餓鬼。天部にも行くことが出来る。富裕餓鬼ともいう。ただしどんなに贅沢はできても満足しない。
「一に無財鬼、二に少財鬼、三に多財鬼なり。この三(種)にまた各々三(種)あり。無財鬼の三は、一に炬口鬼、二に鍼口鬼、三に臭口鬼なり。少財鬼の三は、一に鍼毛鬼(その毛は針の如く以て自ら制し他を刺すなり)、二に臭毛鬼、三に癭鬼なり。多財鬼の三は、一に希祠鬼(常に社祠の中にありその食物を希うなり)、二に希棄鬼(常に人の棄つるを希うて之を食すなり)、三に大勢鬼(大勢大福、天の如きなり)」
「正法念処経」では36種類の餓鬼がいると説かれている。
1. 鑊身(かくしん)、私利私欲で動物を殺し、少しも悔いなかった者がなる。眼と口がなく、身体は人間の二倍ほども大きい。手足が非常に細く、常に火の中で焼かれている。
2. 針口(しんこう)、貪欲や物惜しみの心から、布施をすることもなく、困っている人に衣食を施すこともなく、仏法を信じることもなかった者がなる。口は針穴の如くであるが腹は大山のように膨れている。食べたものが炎になって吹き出す。蚊や蜂などの毒虫にたかられ、常に火で焼かれている。
3. 食吐(じきと)、自らは美食を楽しみながら、子や配偶者などには与えなかった者がなる。荒野に住み、食べても必ず吐いてしまう、または獄卒などに無理矢理吐かされる。身長が半由旬もある。
4. 食糞(じきふん)、僧に対して不浄の食べ物を与えたものがなる。糞尿の池で蛆虫や糞尿を飲食するが、それすら満足に手に入らず苦しむ。次に転生してもほとんど人間には転生できない。
5. 無食(むじき)、自分の権力を笠に着て、善人を牢につないで餓死させ、少しも悔いなかった者がなる。全身が飢渇の火に包まれて、どんなものも飲食できない。池や川に近づくと一瞬で干上がる、または鬼たちが見張っていて近づけない。
6. 食気(じっけ)、自分だけご馳走を食べ、妻子には匂いしか嗅がせなかった者がなる。供物の香気だけを食すことができる。
7. 食法(じきほう)、名声や金儲けのために、人々を悪に走らせるような間違った説法を行った者がなる。飲食の代りに説法を食べる。身体は大きく、体色は黒く、長い爪を持つ。人の入らぬ険しい土地で、悪虫にたかられ、いつも泣いている。
8. 食水(じきすい)、水で薄めた酒を売った者、酒に蛾やミミズを混ぜて無知な人を惑わした者がなる。水を求めても飲めない。水に入って上がってきた人から滴り落ちるしずく、または亡き父母に子が供えた水のわずかな部分だけを飲める。
9. 悕望(けもう)、貪欲や嫉妬から善人をねたみ、彼らが苦労して手に入れた物を詐術的な手段で奪い取った者がなる。亡き父母のために供養されたものしか食せない。顔はしわだらけで黒く、手足はぼろぼろ、頭髪が顔を覆っている。苦しみながら前世を悔いて泣き、「施すことがなければ報いもない」と叫びながら走り回る。
10. 食唾(じきた)、僧侶や出家者に、不浄な食物を清浄だと偽って施した者がなる。人が吐いた唾しか食べられない。
11. 食鬘(じきまん)、仏や族長などの華鬘(花で作った装身具)を盗み出して自らを飾った者がなる。華鬘のみを食べる。
12. 食血(じきけつ)、肉食を好んで殺生し、妻子には分け与えなかった者がなる。生物から出た血だけを食べられる。
13. 食肉(じきにく)、重さをごまかして肉を売った者がなる。肉だけを食べられる。四辻や繁華街に出現する。
14. 食香烟(じきかえん)、質の悪い香を販売した者がなる。供えられた香の香りだけを食べられる。
15. 疾行(しっこう)、僧の身で遊興に浸り、病者に与えるべき飲食物を自分で喰ってしまった者がなる。墓地を荒らし屍を食べる。疫病などで大量の死者が出た場所に、一瞬で駆けつける。
16. 伺便(しべん)、人々を騙して財産を奪ったり、村や町を襲撃、略奪した者がなる。人が排便したものを食し、その人の気力を奪う。体中の毛穴から発する炎で焼かれている。
17. 地下(じげ)、悪事で他人の財産を手に入れた上、人を縛って暗黒の牢獄に閉じ込めた者がなる。暗黒の闇である地下に住み、鬼たちから責め苦を受ける。
18. 神通(じんつう)、他人から騙し取った財産を、悪い友人に分け与えたものがなる。涸渇した他の餓鬼に嫉妬され囲まれる。神通力を持ち、苦痛を受けることがないが、他の餓鬼の苦痛の表情をいつまでも見ていなければならない。
19. 熾燃(しねん)、城郭を破壊、人民を殺害、財産を奪い、権力者に取り入って勢力を得た者がなる。身体から燃える火に苦しみ、人里や山林を走り回る。
20. 伺嬰児便(しえいじべん)、自分の幼子を殺され、来世で夜叉となって他人の子を殺して復讐しようと考えた女がなる。生まれたばかりの赤ん坊の命を奪う。
21. 欲食(よくじき)、美しく着飾って売買春した者がなる。人間の遊び場に行き惑わし食物を盗む。身体が小さく、さらに何にでも化けられる。
22. 住海渚(じゅうかいしょ)、荒野を旅して病苦に苦しむ行商人を騙し、品物を僅かの値段で買い取った者がなる。人間界の1000倍も暑い海(ただし水は枯れ果てている)の中洲に住む。朝露を飲んで飢えをしのぐ。
23. 執杖(しつじょう)、権力者に取り入って、その権力を笠に着て悪行を行った者がなる。閻魔王の使い走りで、ただ風だけを食べる。頭髪は乱れ、上唇と耳は垂れ、声が大きい。
24. 食小児(じきしょうに)、邪悪な呪術で病人をたぶらかした者が、等活地獄の苦しみを得た後で転生する。生まれたばかりの赤ん坊を食べる。
25. 食人精気(じきにんしょうき)、戦場などで、必ず味方になると友人を騙して見殺しにした者がなる。人の精気を食べる。常に刀の雨に襲われている。10年〜20年に一度、釈迦、説法、修法者(仏・法・僧)の三宝を敬わない人間の精気を奪うことができる。
26. 羅刹(らせつ)、生き物を殺して大宴会を催し、少しの飲食を高価で販売した者がなる。四つ辻で人を襲い、狂気に落としいれ殺害して食べる。
27. 火爐焼食(かろしょうじき)、善人の友を遠ざけ、僧の食事を勝手に食った者がなる。燃え盛る炉心の中で残飯を食べる。
28. 住不浄巷陌(じゅうふじょうこうはく)、修行者に不浄の食事を与えた者がなる。不浄な場所に住み、嘔吐物などを喰う。
29. 食風(じきふう)、僧や貧しい人々に施しをすると言っておきながら、実際に彼らがやってくると何もせず、寒風の中で震えるままにしておいた者がなる。風だけを食べる。
30. 食火炭(じきかたん)、監獄の監視人で、人々に責め苦を与え、食べ物を奪い、空腹のため泥土を喰うような境遇に追いやった者がなる。死体を火葬する火を食べる。一度この餓鬼になった者は、次に人間に転生しても必ず辺境に生まれ、味のある物は喰うことができない。
31. 食毒(じきどく)、毒殺して財産を奪ったものがなる。険しい山脈や氷山に住み、毒に囲まれ、夏は毒漬けと天から火が降り注ぎ、冬には氷漬けと刀の雨が降る。
32. 曠野(こうや)、旅行者の水飲み場であった湖や池を壊し、旅行者を苦しめた上に財物を奪った者がなる。猛暑の中、水を求めて野原を走り回る。
33. 住塚間食熱灰土(じゅうちょうかんじきねつかいど)、仏に供えられた花を盗んで売った者がなる。屍を焼いた熱い灰や土を食べる。月に一度ぐらいしか食べられない。飢えと渇き・重い鉄の首かせ・獄卒に刀や杖で打たれる三つの罰を受ける。
34. 樹中住(じゅちゅうじゅう)、他人が育てた樹木を勝手に伐採して財産を得たものがなる。樹木の中に閉じ込められ、蟻や虫にかじられる。木の根元に捨てられた食物しか喰えない。
35. 四交道(しきょうどう)、旅人の食料を奪い、荒野で飢え渇かせた者がなる。四つ角に住み、そこに祀られる食べ物だけを食べられる。鋸で縦横に切られ、平らに引き延ばされて苦しむ。
36. 殺身(せっしん)、人に媚びへつらって悪事を働いたり、邪法を正法のごとく説いたり、僧の修行を妨害した者がなる。熱い鉄を飲まされて大きな苦痛を受ける。餓鬼道の業が尽きると地獄道に転生する。
餓鬼への供養
1. 中元(旧暦の7月15日)の日、餓鬼道に堕ちた衆生のために食べ物を布施し、その霊を供養する施餓鬼(施餓鬼会)という法会が行われる。
2. 餓鬼に施しを与えて鎮める方法がある。地蔵菩薩の足元へ水やお粥を供え、経文をあげると餓鬼に飲ませたり食べさせたりできる。これを行うと、餓鬼にとりつかれても飢えが鎮まる。
民間信仰における餓鬼
仏教の布教とともに餓鬼が市井に広まると、餓鬼は餓鬼道へ落ちた亡者を指す仏教上の言葉としてではなく、飢えや行き倒れで死亡した人間の死霊、怨念を指す民間信仰上の言葉として用いられることが多くなった。こうした霊は憑き物となり、人間に取り憑いて飢餓をもたらすといい、これを餓鬼憑きという。 
俗語
子供は貪るように食べることがあるため、その蔑称・俗称として餓鬼が比喩的に広く用いられる。餓鬼大将・悪餓鬼など。
 
鬼子

 

(おにご) 親に似ていない子供、異様な姿で生まれた子供、特に歯が生えた状態で生まれた子供のこと。
民間信仰
日本各地の俗信においては、歯の生えた鬼子は良くないもの、縁起の悪いものとして生まれた後に殺害したり、捨てて他の誰かに拾ってもらうなどの事例が見られる。群馬県山田郡ではかつて、歯が生えて生まれた子供は捨て、近所の人に拾ってもらっていた。同県の別の地方では、生まれてすぐに歯の生えた子供は三つ辻に捨て、人に頼んで拾ってもらっていた。また長崎県久賀島でも、33歳のときに娘を産むと親に逆らう鬼子になるといい、別の親に拾わせる風習があった。
古典
古典においては異様な姿で生まれた子供が怪談として、怪異をなす怪物のように語られることが多い。
貞享時代の怪談本『奇異雑談集』には、京都東山の獅子谷という村で、ある女が異物を3度分娩した末に4度目に鬼子を産んだ話がある。この子供は生誕時にしてすでに3歳児ほどの大きさで、朱のように真っ赤な色で、両目に加えて額に目があり、耳まで裂けた口の上下に歯が2本ずつ生えていたという。この鬼子は、父に殺されそうになりながら噛みついて抵抗したものの、ついに殺害されて崖下に埋められるが、翌日になって生き返り、話を聞いていた周囲の人たちに殴りつけられ、ようやく息絶えたという。
明治中期の怪異小説『夜窓鬼談』では、ある酒屋夫婦が客の金を盗んだことでその客が自殺してしまうが、後に酒屋に生まれた子供は3か月で歯がすべて生えそろった上、顔が死んだ客そっくりの鬼子となり、怨みつらみを述べたために夫婦により殺害され、後に酒屋の妻は病気で死に、夫も家運に見放されて店を失ったという話がある。同様に親の因果により鬼子が産まれるという話は、寛文時代の『因果物語』などにも見ることができる。 
 
鬼瓦1

 

和式建築物の棟(大棟、隅棟、降り棟など)の端などに設置される板状の瓦の総称。略して「鬼」とも呼ばれる。厄除けと装飾を目的とした役瓦の一つ。
鬼瓦は、棟の末端に付ける雨仕舞いの役割を兼ねた装飾瓦で、同様の役割を持つ植物性や石、金属などの材料で葺かれた屋根に用いられるものを「鬼板(おにいた)」というが、鬼面が彫刻されていない鬼瓦も鬼板という。一般的に鬼瓦といえば、鬼面の有無にかかわらず棟瓦の端部に付けられた役瓦のことをいう。
鬼の顔を彫刻したものから、シンプルな造形の「州浜(すはま)」や「陸(ろく)」と呼ばれるものや蓮の華をあらわしたもの、また、家紋や福の神がついたものなどがある。
ルーツはパルミラにて入口の上にメドゥーサを厄除けとして設置していた文化がシルクロード経由で中国に伝来し、日本では奈良時代に唐文化を積極的に取り入れだした頃、急速に全国に普及した。寺院は勿論、一般家屋など比較的古い和式建築に多く見られるが、平成期以降に建てられた建築物には見られることが少なくなった。 鬼瓦を作る職人は、鬼師と呼ばれる。
鬼瓦2
建物の大棟や降り棟の端を飾る瓦を鬼瓦と呼んでいます。それは、とくに室町時代以降の鬼瓦が立体的な鬼面として作られるようになったからでしょう。飛鳥時代や白鳳時代の鬼瓦はまだ鬼面ではなく、蓮華文を飾っていました。おかしいようですが、それでも鬼瓦と呼んでいます。
邪鬼をあらわした瓦が使われるようになりますのは、奈良時代になってからのことです。悪霊が寄りつくのをさけるためなのでしょう。平城宮や、平城京の寺々でまず使われるようになります。平城宮の鬼瓦は顔を正面に向け、上唇を突出させ、舌を出し、両腕を膝においてうずくまった姿勢の全身像をあらわしたものです。まさに悪霊を強くこばむ形相です。
天平年間には顔面だけの鬼瓦、まさに鬼面文鬼瓦が作られるようになります。注意して見ますと、よく似た顔つきで大小ありますので、大棟用と降り棟用とが使い分けられたのでしょう。平城京の寺々の鬼瓦は額に鋸歯文をおいたり、眼がとび出したりしており宮殿のものと様相がちがいます。このような鬼瓦は、国分寺の造営とともに全国に広まっていきます。
鬼瓦が大きく変化するのは室町時代のことです。その前の鎌倉時代ではまだレリーフ状でしたが、これが立体的になり、しかも耳まで裂けた口、剥き出した牙、眼を吊り上げて天空を眺みつける形相になります。 
 
節分1 

 

雑節の一つで、各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のこと。節分とは「季節を分ける」ことをも意味している。江戸時代以降は特に立春(毎年2月4日ごろ)の前日を指す場合が多い。この場合、節切月日の大晦日にあたる。本項目では、立春の前日の節分、およびその日に行われる伝統的な行事について述べる。大寒の最後の日であるため、寒さはこの日がピークである。
一般的には「福は内、鬼は外」と声を出しながら福豆(炒り大豆)を撒いて、年齢の数だけ(もしくは1つ多く)豆を食べる厄除けを行う。また、邪気除けの柊鰯などを飾る。これらは、地方や神社などによって異なってくる。
季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられており、それを追い払うための悪霊ばらい行事が執り行われる。
節分の行事は宮中での年中行事であり、『延喜式』では、彩色した土で作成した牛と童子の人形を大内裏の各門に飾っていた。
「土牛童子」ともいわれ、大寒の日の前夜の夜半に立てられ、立春の日の前夜の夜半に撤去された。『延喜式』によれば、土偶(土人形の意)も土牛も、各門での大きさは同じで、土偶は高さ2尺で、方1尺5寸・厚さ2寸の板に立てる。土牛は高さ2尺・長さ3尺で、長さ3尺5寸・広さ1尺5寸・厚さ2寸の板に立てる。陽明門および待賢門には、青色のものを、美福門および朱雀門には、赤色のものを、郁芳門、皇嘉門、殷富門および達智門には、黄色のものを、藻壁門および談天門には、白色のものを、安嘉門および偉鑒門には、黒色のものを、立てる。『公事根源』十二月には、「青色は春の色ひんかしにたつ赤色は夏のいろ南にたつ白色は秋のいろ西にたつ黒色は冬の色北にたつ四方の門にまた黄色の土牛をたてくはふるは中央土のいろなり木火金水は土ははなれぬ理有」とある。
これは、平安時代頃から行われている「追儺」から生まれた。
『続日本紀』慶雲三年十二月の条によると706年にこの追儀が始まり(「是年天下諸国疫疾百姓多死始作土牛大儺」とある)、室町時代に使用されていた「桃の枝」への信仰にかわって、炒った豆で鬼を追い払う行事となって行った。
『臥雲日件録(瑞渓周鳳)』によると、1447年に「鬼外福内」を唱えたと記されている。
近代、上記の宮中行事が庶民に採り入れられたころから、節分当日の夕暮れ、柊の枝に鰯の頭を刺したもの(柊鰯)を戸口に立てておいたり、寺社で豆撒きをしたりするようになった。
豆まき
邪気を追い払う為に、節分には古くから豆撒きの行事が執り行われている。宇多天皇の時代に、鞍馬山の鬼が出て来て都を荒らすのを、祈祷をし鬼の穴を封じて、三石三升の炒り豆(大豆)で鬼の目を打ちつぶし、災厄を逃れたという故事伝説が始まりと言われる。豆は、「穀物には生命力と魔除けの呪力が備わっている」という信仰、または語呂合わせで「魔目(豆・まめ)」を鬼の目に投げつけて鬼を滅する「魔滅」に通じ、鬼に豆をぶつけることにより、邪気を追い払い、一年の無病息災を願うという意味合いがある。
豆を撒き、撒かれた豆を自分の年齢(数え年)の数だけ食べる。また、自分の年の数の1つ多く食べると、体が丈夫になり、風邪をひかないという習わしがあるところもある。初期においては豆は後方に撒くこともあったと言う。
豆撒きの仕方
豆を撒く際には掛け声をかける。1447年の「臥雲日件録」には「散熬豆因唱鬼外福内」とあるように、掛け声は通常「鬼は外、福は内」である。しかし、地域や神社によってバリエーションがある。鬼を祭神または神の使いとしている神社、また方避けの寺社では「鬼は外」ではなく「鬼も内(鬼は内)」としている。新宗教の大本は鬼神を「艮の金神(国常立尊)」と解釈しているので、同じく「鬼は内」とする。家庭内での豆まきに於いても、「鬼」の付く姓(比較的少数だが「鬼塚」、「鬼頭」など)の家庭もしくは鬼が付く地名の地域では「鬼は内」の掛け声が多いという。大名九鬼家の領地でも、藩主に敬意を表して「鬼は内」としている。
使用する豆は、お祓いを行った炒った大豆(炒り豆)である。豆を神棚に供えてから撒く地方もある。炒り豆を使用するのは、節分は旧年の厄災を負って払い捨てられるものである為、撒いた豆から芽が出ては不都合であったためであるという。北海道・東北・北陸・南九州の家庭では 落花生を撒く場合もあるが、これは「落花生は大豆より拾い易く地面に落ちても実が汚れない」という合理性から独自の豆撒きとなった。
かつては、豆のほかに、米、麦、かちぐり、炭なども使用されたという。豆撒きとなったのは、五穀の中でも収穫量も多く、鬼を追い払うときにぶつかって立てる音や粒の大きさが適当だったからとする説もあるが定かではない。
近代の傾向
節分の時期になると、多くのスーパーマーケットでは節分にちなんだコーナーが設けられ、その中で福豆(ふくまめ)として売られている。厚紙に印刷された鬼の面が豆のおまけについている事があり、父親などがそれをかぶって鬼の役を演じて豆撒きを盛り上げる。しかし、元来は家長たる父親あるいは年男が豆を撒き鬼を追い払うものであった。豆のおまけとしてお多福の面がついてくることもある。
小学校では5年生が年男・年女にあたる。そのため、5年生が中心となって豆まきの行事を行っているところも多い。神社仏閣と幼稚園・保育園が連携している所では園児が巫女や稚児として出る所もある。相撲力士を招いて(醜・しこ・四股を踏む事により、凶悪な鬼を踏みつけ鎮める悪魔祓いをする)豆撒きをする社寺もある。 
 
節分2 

 

2月といえば節分ですね。節分は、もともと各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のことをいい、「季節を分ける」ことを意味しています。江戸時代以降からは「節分」といえば立春(毎年2月4日ごろ)の前日を指す場合が多く、これは旧暦の新年の始まりに相当する「立春」の前日にあたる節分がもっとも重要視されたためだと考えられています。そして、これが現在の節分のさまざまな行事に伝わっています。 今回は現在に伝わる節分行事の中から、食べ物に関連したものをご紹介します。
豆まき
節分といえば豆まきははずせませんね。豆をまき、豆を自分の年齢(数え年)の数だけ食べます。また、自分の年の数+1つの豆を食べると、体が丈夫になり、風邪をひかないというならわしがあるところもあります。豆は「魔滅」に通じ、鬼に豆をぶつけることにより、邪気を追い払い、一年の無病息災を願うという意味合いがあります。まく豆は主に炒り豆ですが、最近では落ちた豆も食べることができることから落花生をまく家庭も多いようです。豆をまく時は「鬼は外、福は内」が一般的ですが、地域や地方によってその掛け声もさまざまあるようです。ちなみに新潟の佐渡両津では昔、田植えが暴風雨に遭った時、鬼が助けてくれたという伝説があるため「福は内、鬼も内」というようです。
節分いわし
節分の習慣自体は中国から伝わったものとされていますが「鰯(いわし)の頭を柊(ひいらぎ)の枝に刺したものを玄関に飾る」という節分いわしの風習は近年になってからのもののようです。主に西日本では鰯を食べる習慣がありますが、これは節分いわしに由来しています。節分いわしは鰯を焼くと出る激しい煙と臭いで邪気を追い払い、そして柊の針で鬼の眼を刺すという魔よけの意味があります。また鰯にはDHAやカルシウムなど栄養が豊富なので、その鰯を節分に食べることで健康や無病を願うという意味合いもあるのかもしれませんね。
恵方巻き
節分の行事として今や豆まきと同じくらい有名になった恵方巻き。近畿地方で始まったとされている巻き寿司ですが、最近ではスーパーやコンビニでも売っていて、予約するほど人気の商品もあるようです。その年の「恵方」を向いて願い事を思い浮かべながら、包丁をいれずにそのまま食べるのは「縁を切らない」という意味が込められています。また、七福神にちなんでかんぴょうやきゅうり、伊達巻など7種類の具材が入れられていて「福を巻き込む」という意味も込められています。ちなみに今年の恵方は「南南東」です。

「節分」つまり季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられており、それを追い払うためにその地方でさまざまな悪霊ばらい行事が行われます。その土地の食環境や食習慣によってさまざまな行事がありますが、共通していることは自分たちの身近な食べ物を用いて邪気を追い払い、人々の健康や幸せを願っているということだと思います。私も今年の節分は、自分や家族の願いを込めて、今までやったことのない節分行事をやってみたいと思います。 
「鬼の子小綱」と豆まき
節分と言えば豆まき。豆まきと言えば鬼。「鬼は外、福は内。」とは言っても、福の話より鬼の話、お面も鬼。鬼って怖いけど、魅力的な存在なんですね。鬼と言う言葉は、「隠」に由来していて、姿を見せない超自然的存在と意味付けられています。鬼は人里離れた山奥、川や海の向こう側に棲み、人里にやって来て、物を略奪し、人をさらい、また時には喰ってしまう。雷を呼び、嵐を起こし、奇怪な現象を起こし、技を使う、神と同等の力を発揮する恐ろしい存在として描かれています。鬼のイメージの元型は、日本神話にあり、火の神を生んで亡くなった伊邪那美(いざなみ)の命を、黄泉の国へ迎えに行った伊邪那岐(いざなぎ)の命が、黄泉醜女(よもつしこめ)に追われる話があり、この黄泉醜女がオニのイメージの原型となっています。黄泉醜女に追われた伊邪那岐の命は、身に付けていたものを投げ、黄泉平坂(よもつひらさか)を地上へと逃亡するのですが、これを呪的逃走譚(じゅてきとうそうたん)と呼び、この話の類型に「鬼の子小綱」と言うお話があります。
「鬼の子小綱」は岩手県遠野市の話です。
鬼に誘拐された娘を探しにおじいさんが探しに出かけ、川の上流、山の奥の鬼の隠れ家にたどりつき、娘と再会します。娘はお爺さんを櫃の中に隠しますが、帰ってきた鬼は、人の数だけ花が咲く人花の花が咲いているのを見て、誰か他の人間がいるのではないか?と疑います。娘は妊娠したためだとうそをついて難を逃れ、お爺さんと娘は鬼の子小綱をつれて小舟で川を下ります。気づいた鬼は、船を吸い寄せようと川の水をどんどん呑み込みます。小綱は娘にお尻を叩けと言い、娘がその通りにすると鬼は笑って水を吐き出し、三人は無事に家に帰る事が出来ました。「鬼の子小綱」の話はほぼ全国に分布し、娘を姉、お爺さんを弟、夫、鬼の子の名前を片・片子・片角・デキボシと呼ぶ地方もあります。
この話の最後で、小綱は人間と暮らす事が出来ず、里から追われる事になるのですが、そのためこの話は豆まきの由来として語られています。 

節分3 

 

強欲(ごうよく)にたとうべき烈(はげ)しき火はなく
怒りにくらぶべき強き握力(あくりょく)はなく
愚痴(ぐち)になぞらうべき細かき網はなく
愛欲にまさる疾(はや)き流れはなし  [法句経251]
節分
季節の始まりを示す立春、立夏、立秋、立冬の前日はいずれも節分です。節分とは「季節を分ける」ことから「節分」といいますが、現在では節分といえば立春の前日だけを指すようになりました。特に立春の前日には厄払いの行事が各地で催されます。寺社の多い京都では、さまざまな節分行事が行われています、「四方詣」といって、東北の吉田神社、東南の稲荷大社、西北の北野天満宮、西南の壬生寺の四社寺へ参詣する風習もあります。
節分・立春の前日に鬼打ち豆をまき、鰯の頭を柊の枝にさし戸口につけ呪いとする風習もあります。農耕が主であった大昔は、旧暦の大晦日と春を告げる節分とは、ほぼ同時期であり、年があらたまり、万物が甦る春の訪れを告げる日である節分に、「邪気を払い、今年も元気で過ごそう」との思いから始まったのが、節分の豆まきです。
節分の豆まきについては、中国から渡来し宮中で行われていた「追儺(ついな)」の行事と寺社が邪気をはらうために行った「豆打ち」の儀式が融合したものだともいわれています。おにやらい・追儺(ついな)と称して、豆打ちで鬼を追い払う行事です。鬼を追い払うのは石ころとか、弓矢や鉄砲玉でなくて鬼打ち豆とか福豆 と呼ぶ豆(煎り豆)であるところがおもしろいです。豆を打つ音で見えない邪を払ったのです、「福は内」「鬼も内」と豆をまく寺もあります。
今日では、幼児でさえも鬼の実在をあまり信じませんが、大昔の人々は、さまざまな恐ろしい鬼が実在すると信じていたようです。節分の鬼にかぎらず、鬼の喩えが多いのも、人の心にひそむ悪を鬼として、また人間の欲望の化身としてもとらえているからです。それは仏教の影響だと思われますが、鬼を「欲望をあらわにして傷ついたもの」、「煩悩(ぼんのう)の化身」だというのです。結婚式の「角隠し」の風習も、こうした考え方の延長上のものといえるようです。
節分の鬼
「鬼」のルーツについては「隠」だといわれています、隠(おに)すなわち姿が見えないものをさしたようです。隠れているもの、目に見えず災厄をふりまくもの、人間の力を超えた不思議な出来ごとに、鬼を感じ、鬼のしわざだと考えたのです。伝説上の山男、巨人、山姥や種族の異なる者、そして死者の霊魂、亡霊、たたりをする怪物、もののけ、餓鬼、地獄の赤鬼・青鬼、さらには天つ神に対して、地上の悪神・邪神、はては、鬼のような人、無慈悲な人、借金取りまでをもイメージしているようです。
そもそも鬼というのは、その姿が見えないものであり、人の心の不安感に根ざして、つつしみの心、おそれの心がつくり出したものだともいえます。
古来より、人々は、つくり出した鬼の属性を巧みに使い分けて、強いもの、こわいもの、疫病のシンボル、時には山の神の化身として、また子どもたちの遊びの素材として、暮らしの戒めとして、等々、生活のアクセントとして活用してきたようです。それは鬼のことわざの多彩さが、よくそのことを物語っています。
鬼に金棒・・・・・・・・・・・・・・・・強いものが加わり、怖いものなし
鬼のいぬまに洗濯 ・・・・・・・・怖い人のいぬ間に、思う存分にくつろぐ、命の洗濯
鬼が住むか蛇が住むか・・・・人の心の底ははかりかねる 本音・本性はわからない
鬼が出るか仏が出るか・・・・・先のことはわからない 来年のことを言えば鬼が笑う
鬼の霍乱 ・・・・・・・・・・・・・・・丈夫な人が珍しく病気になる
鬼の首を取ったよう・・・・・・・・手柄を立て、得意になる
鬼の空念仏・・・・・・・・・・・・・・無慈悲な人が心にもない慈悲をよそおう
鬼の念仏・・・・・・・・・・・・・・・・みせかけだけの情け深さ
鬼も十八・・・・・・・・・・・・・・・・番茶も出花、年頃になると女性はみな魅力が出てくる
鬼の目にも涙・・・・・・・・・・・・冷酷・無慈悲なものでも情に感じて涙、
幸運
立春の前日の厄払いは、人々が神仏に祈って災難をとりのぞいてもらい、幸せの到来を願う行事です。運・不運というのは向こうからやってくるものですが、でもその運が自分の方に向かってくる何かがはたらいているはずです、それは、自分自身の日頃の生き方がそうさせているんだと思います。そして幸運に恵まれるということは、目の前の幸運をつかむことができる能力が自分にあるかどうか、ということでも、あるようです。
中国の昔話に仙人の話が多くありますが、その一つにこういうのがあります。ある寒い冬の日のことです、道士(道教の僧)が道観(道教のお寺)に帰ってきた時、衣はぼろぼろで泥に汚れた、見るからにみすぼらしい老人が門のところにうずくまって、さかんに菱の実をたべていました。近づくとその老人は汚れたあかぎれの両の手に菱の実をささげ持って、その道士に食べませんかというのです。あまりにも汚らしいので思わず道士は振り払うようにして、その場を立ち去り道観の中に入っていった。
そこでまてよ、この寒い冬に菱の実などあろうはずはない、先ほどの老人は仙人であったのかもしれないと思い、もう一度門のところに行ったけれど、その老人の姿はなく、食べ散らされた菱の実の皮だけが残っていた。先ほどのみすぼらしい老人は神仙(神通力を得た仙人)であったのかもしれない、せっかく出会えたものを惜しいことをした、と道士は思った。
そして道観の中にもどった時、あの老人が食べていた菱の実は不老不死の妙薬であったかもしれない、そうだ、せめて、食べ散らかした菱の実の殻でも拾っておこうと、急いでまた門のところへ行ったけれど、その菱の殻も消えてなくなっていた。道士は自分自身のものごとの判断能力のなさを思い悔しがったというお話です。これは幸せが目の前にあるのにそれに気づかず、幸せをのがしてしまうことが実に多いことの喩え話です。
幸せは「福」と「禄」と「寿」
幸運を授けてくれる仙人が目の前に現れて、幸せを授けてくれたとしても、それを幸せと受けとめる力が備わっていないと、幸せのチャンスを逃してしまう。幸せとは何かを見極める力を持つことが肝心です。幸せの基準は人によってさまざまです、幸運は日頃の生き方の善循環によりうまれるものです、生き方が悪いと悪循環します。また幸運を得たと有頂天になっていると、運に見放されてしまうから、これも心得なければいけないのでしょう。
人の願いは幸せになることです、では何をもって幸せであると言えるのでしょうか。それは「福」と「禄」と「寿」が揃って初めて幸せだということでしょう。すなわち「福」は不安なこともなく心がおだやかであるという精神的な幸せ、そして「禄」は、金や財、食べ物に不足していない、満ち足りているという物質的な幸せ、そして「寿」は、健康で長寿であるという肉体的な幸せです、この三つが揃っていると、幸であると実感できるのでしょう。
人は幸せを願うあまりに、それが満たされないと、欲望をあらわにして、人の心にひそむ邪悪な心が鬼と化してさまざまな恐ろしい行動に出ることがあります。長男の母親殺し、妻が夫を殺害、次男が妹を殺害、このような事件が昨年から今年にかけて相次いで起きています、そして凶悪な事件が後を絶ちません、まさに自制がきかない人間の悪の心による行動としか理解できません。昔の人々は、鬼を人間の欲望の化身としてもとらえています、ほんとうに恐い鬼は己の心に潜む邪悪な心です。
神仏からの賜り物、天から与えられるものを福分といいますが、幸せをつかむ努力をしているところに、運がめぐり、福分が授かるでしょう。幸せを自分だけのものとせず、おしまず他に福分けをしているところに、福分も大きくふくらむでしょう。幸せの種まきをしている限り、その人から福分が無くなることはないでしょう。 
 
節分4 

 

「鬼は〜外! 福は〜内!」――節分といえば豆まきですが、豆まきの風習には、実は東洋医学にも通じる歴史があるってご存知ですか?今月の元気通信では、節分の4大不思議や、鬼をめぐる4大ミステリー、地方によって異なる節分祭、豆まきに欠かせない大豆の健康効果まで、節分に秘められた数々の謎に迫ります!最近はバレンタインデーに押され気味の節分行事ですが、今年の節分はぜひ景気よく豆まきを!
節分の4大不思議
1.節分は年に4回もあった?!
そもそも「節分」とは、四季を分ける節目の日のこと。立春・立夏・立秋・立冬の各前日のことで、本来は1年に4度ありました。中でも大寒の最終日である立春は、厳冬が明けて草木が芽吹く1年の始まりとして重視されたことから、立春前日がいわゆる「節分」として定着したのです。つまり、節分は1年が始まる前日、すなわち大晦日に相当する日といえるのです。ちなみに、節分の日は必ずしも2月3日ではなく、閏年(うるうどし)には2月2日や4日になることもあります。
2.陰陽師の秘儀が節分になった?!
季節の変わり目には体調を崩すという人が少なくありませんが、古来、季節の変わり目には鬼(邪気)が生じるといわれており、奈良時代〜平安時代の宮中では、節分に陰陽師(おんみょうじ)によって旧年の鬼(厄)をはらう「追儺(ついな)式」が執り行われていました。これは俗名「鬼やらい」ともいわれ、中国で大晦日に行われていた儀式が7世紀頃に日本に伝来したようです。今でも節分祭で有名な京都の吉田神社では、四つ目の仮面をかぶった鬼を陰陽師が祭文を読み上げて追いはらう追儺式が行われています。
3.豆まきと陰陽五行の深い関係とは?
東洋医学の基本でもある「陰陽五行説」は、万物を「陰」「陽」に分け、「木・火・土・金・水」の5つの要素によって森羅万象が成立していると考えます。冬から春に向かう節分は、ちょうど陰から陽に移る節目です。陰陽五行説では、豆や鬼、疫病は「金」にあたり、「火」は「金」に勝つので、豆を火で炒ることで、鬼や病に打ち勝つという意味があります。つまり、炒り豆は「悪鬼退散・疫病退散」の象徴なのです。ちなみに、炒らずに生の豆をまくと、拾い忘れた豆から芽が出る可能性があり、縁起が悪いのでご注意を!
4.まくのは大豆じゃなきゃだめ?
豆まきの由来は、平安時代に京都の鞍馬山の鬼が都を荒らしにきた際、毘沙門天のお告げによって、炒り大豆を鬼の目に投げつけたところ、鬼を退治できたという逸話がもとになっているという説があります。鬼の魔の目=「魔目(まめ)」に豆を投げることは、魔を滅する=「魔滅(まめ)」に通じ、豆を炒ることは「魔を射る」につながると考えられていたのです。また、大豆は米や麦などと並ぶ五穀のひとつで、古来より穀霊(豊饒を司る精霊)が宿るといわれ、神事でも重用されてきました。ただし、近年では北海道、東北、北陸の6〜7割の人が、節分に大豆ではなく「殻つき落花生」をまいているようです(※ネオマーケティング2013年調査)。「掃除が簡単」「殻つきなので衛生的」というのがその理由のよう。ピーナッツで鬼退治ができるか否かは“神のみぞ知る”ですね!
鬼の4大ミステリー
1.「鬼は外」ならぬ「鬼は内」もあり?!
豆まきの口上といえば「鬼は外、福は内」が定番ですが、東京の浅草寺では、「観音さまの前に鬼はいない」として、「千秋万歳(せんしゅうばんぜい)福は内」といって豆をまきます。鬼をまつっている神社や、鬼が姓や地名につく地域では「鬼は内」ということも多いそう。寺社によっては、追い払われた鬼を迎え入れて改心させる“鬼の駆け込み寺”もあるのだとか。鬼が泣いて喜びそうですね?!
2.鬼はどうしてカラフルなの?
赤鬼や青鬼……鬼はなぜみんなカラフルなのでしょう?実はこれも陰陽五行説に由来するという説があります。京都の廬山寺(ろざんじ)では、節分祭にでっぷりした赤鬼、青鬼、黒鬼が踊りますが、三色の鬼たちは人間の煩悩の化身で、赤鬼は「貪欲」、青鬼は「怒り」、黒鬼は「愚痴」を表しているのだとか。また、五色の節分鬼踊りで知られる新潟県三条市の本成寺では、赤鬼は「全ての悪い心」、青鬼は「貧相」、黒鬼は「疑心」、黄鬼は「甘え」、緑鬼は「おごり」を意味するといわれています。
3.鬼はゴージャスな虎のふんどしがお好き?
鬼といえば、派手な黄色と黒の虎しま模様のふんどしがお決まり。なんとこれも陰陽五行説の「鬼門」と深い関係があるのだとか。鬼の出入りする鬼門は北東にあたり、十二支にあてはめると「丑(うし)」と「寅(とら)」の方角になります。そのため、鬼には牛の角があり、虎のふんどし姿なのだそう。節分で鬼の扮装をする際は、くれぐれも「ヒョウ柄」や「ゼブラ柄」とお間違えなきように!
4.鬼の泣き所はヒイラギとイワシ?
最近は少なくなりましたが、節分になるとヒイラギの小枝にイワシの頭を焼いて刺す「焼嗅(やいかがし)」を戸口や窓に吊るし、鬼を忌避する習慣があります。ヒイラギの尖った葉が鬼の目を刺し、イワシの頭の異臭が鬼避けになると考えられていたのです。「イワシの頭も信心から」――とるに足らぬものでも信ずれば救われるというシニカルなことわざの由来にもなりました。西日本では、今も焼いたイワシを節分に食べる風習が残っています。
正しい豆まきスタイル
1 福豆をスタンバイ
大豆を炒った「福豆」を、枡に入れて神棚にお供えしておきます。
2 豆まきは日暮れ後に
鬼は真夜中に現れるので、豆まきは夜にスタート。豆をまくのは家長または年男、年女、厄年の人が担当。家族全員でもOKです。
3 豆まきは奥の部屋から
まず胸の辺りで枡を持ち、奥の部屋から順番に鬼を追い出すように戸や窓を開けて「鬼は外」と豆をまき、次に鬼が戻らないよう即ドアや窓を閉めて「福は内」と室内に豆をまきます。(※口上や順番などは地方によって異なります)
4 豆をいただく
豆をまき終えたら、新年の厄払いを祈願して、数え年=「自分の年齢+1粒」の豆を食べます。食べきれない時は、炒った大豆3粒に塩昆布と梅干しを添えてお湯を注ぎ、「福茶」にしていただきます。(※食べる豆の数は地方によって異なります)  
 
邪鬼龍原寺三重塔 

 

(じゃき りゅうげんじさんじゅうのとう) 臼杵市平清水
平清水、龍原寺三重塔のそばを歩くことがありましたら、塔の一層目の軒裏にちょっと目をとめてみてください。(軒を支える柱上の軒受け材)の上に座って重そうな軒を肩で支えながら、ユーモラスな表情でこちらをみおろしている小さな鬼たちに気づかれることと思います。
この小さな鬼たちは、仏教の世界で邪鬼と呼ばれ、仏教を理解しようとせず、ひねくれて仏教信者にならない衆生(すべての動物)のことといわれています。天邪鬼ということばがあるようになかなかのひねくれ者たちなのですが、中には仏の説得によって仏教に帰依したいと改心する者もあらわれ、すすんで仏の役に立ちたいと灯火を捧げたり、その台座のかわりに我が身を投げ出したりするとされています。彫刻ではこうした仏に対する奉仕の様子をユーモラスな表情で表現しており、荘重な仏教彫刻の中にあって極めて人間臭い存在といえるでしょう。
この邪鬼像が龍原寺三重塔のように建築物の中にとり込まれていることは極めて珍しい例であるようです。この三重塔は京都や奈良の木造古塔を参考として、臼杵の名匠・高橋団内が設計し安政五年(1858)に完成したものですが、京都や奈良の塔で邪鬼をこのような位置にはめ込んだものは見あたりません。恐らく団内や、この三重塔の製作に携わった工匠たちの発想によるものと思われます。
この邪鬼像は、高橋団内の弟子である宇野定治の作と伝えられています。それぞれ表情やポーズは異なっていて、苦しげな表情で両手と肩で軒を支えるもの、かと思えば片手で軽々と垂木を持ち上げているものなど、確かな彫刻技術の中に軽やかな遊び心も感じられます。ただ残念なことに、東南隅の一体はすでに建築当時のものが失われており、現在その位置には、昭和四十三年度の塔の修理工事の際に他の三体をモデルとして新しく造られた模造像が置かれています。
建築構造の面からみれば、これらの邪鬼像は力学的に何の役割も持たない純粋な装飾だとのことですが、そのリアルな表情を見れば一心にこの塔を支え、仏に仕えようとする邪鬼達の奉仕の念が伝わってくるようです。 
 
大江山の鬼伝説1 / 神の里から鬼の山へ

 

はじめに
秋の1日、ゆっくり、のんびりと山道を歩きながら、先人たちが、きびしい暮らしの中で、神に祈り、仏に救いを求め、鬼に畏怖の情を託しながら、絆(きずな)を強めあい、生活のうるおいとした足跡を探ってみましょう。自然と共存しながら、肩を寄せあって生きた人々の声が聞こえてくるかもしれませんよ。
熊坂峠
KTR大江山口内宮駅から、毛原(けわら)の集落入り口まで約1・5km。府道9号のなだらかな坂道が続きます。この峠が熊坂峠です。こんな名前がついているのは、昔から毛原の棚田熊の出没するところだったのでしょうか。数年前の薄暮、この府道をノシノシと熊が歩いていて話題となったことがありました。私も朝夕の通勤途上、小動物が道を横切るのをよく見かけます。「けものみち」を人間さまが道路をつけて遮断してしまったのでしょう。
大江山連峰は、ツキノワグマをはじめ、シカ、イノシシ、タヌキ、キツネ、サルなど野生動物の多いところで、禁猟区になっています。しかし、最近のイノシシの被害は、目に余るものがあります。
酒呑童子の物語本を読んでいると、酒呑童子の家来の鬼に、熊童子、星熊童子、虎熊童子、金熊童子など、熊のつく鬼が多いのが目立ちます。やはり、大江山には大昔から熊がいたのでしょうか。
棚田の里、毛原
最近できた雪よけトンネルをくぐりぬけると、前面の谷あいに平地が広がります。毛原の集落です。昔から棚田が多く、近年「日本の棚田100選」にも選ばれました。「OZ(オズ)」という結婚式場を備えたイタリアンレストランも出来て、大江山の観光ポイントの一つになりました。
府道から少し入った旧道の道端に、そう大きくない自然石があり、「右ふけん 左なりあい」と彫りこんだ素朴な道標が残っています。「ふけん」は普賢で、現在の大江山スキー場下の「寺屋敷」(宮津市小田)にあった普甲寺のことで、本尊が普賢菩薩だったことから、その寺を「ふけん」と呼んでいたのでしょう。
戦国時代、若狭の武田氏と丹後の一色氏の戦場となり焼失しましたが、平安時代、棄世上人によって開山された大寺で、北の高野山とまで言われた古刹でした。今昔物語の中に、この元普甲道のことが出ています。この毛原は、古い時代、その元普甲道の入り口の村だったのです。明治時代まで、大きな旅籠(はたご=旅館)があったと伝えています。
元不(普)甲道
今回は元普甲道は歩きませんが、おもしろいところなので少し説明します。この道、歩きませんというより歩けません。廃道になって久しく、笹が背丈以上に茂っていますが、ところどころ見事な石畳が残っています。
この毛原から毛原峠を越えて栃葉(舞鶴市大俣)へ入り、辛皮(からかわ=宮津市)を経て普甲寺のあった寺屋敷を通り、普甲峠越えで宮津へ向かう道でした。
毛原峠の頂上には、首と胴を切られてバラバラになったお地蔵さんが祀(まつ)られています。昔、剣豪の岩見重太郎が橋立で親の仇討ちをしての帰途、ここで待ち伏せられて返り討ちになりそうになった時、このお地蔵さんが身代わりになって助かったということで、このお地蔵さんを「袈裟斬り(けさきり)地蔵」と呼ぶようになったということです。
普甲峠は大江山スキー場のあるところですが、昔、ここに不甲神社(延喜式内社)があって、その祭神を「天吹男命(あまのふくおのみこと)」と言ったので、この峠を「吹男越え(ふくおごえ)」と呼んだことに始まると伝えています。
如来院
府道9号の大きなS字状の急坂が終わるあたり、左手に古刹、如来院(にょらいいん)が望めます。今回は参詣する時間的な余裕がありませんが、麻呂子親王が鬼退治をしたあと、鬼たちの菩提を弔い、護持仏を納めて開基したと伝え、その由来を記した「佛性寺縁起」が残っています。奥付の部分が後年改編されており、成立年代がわかりませんが、漢文体であり、その内容からみて、この地方に残る麻呂子親王伝説を記す寺社の縁起書の中では、最も古いものではないかと思われます。
山号を鎌鞭山(かまむちざん)といいますが、麻呂子親王が護持仏と共に、兵法の鎌を納めたことに由来すると言われます。本尊の胎内仏は秘仏で、鉄製の薬師如来座像という珍しいものです。また完形の懸仏六面(その1つに応永10年=1403年=の銘)が残され、京都府の登録文化財に指定される優品です。その中に蔵王権現像を刻むものがあり、修験道とのかかわりを持った時期があったのではないかとも言われています。 
馬止めと赤坂
現在の府道9号のコースとなった旧道(宮津街道)は、宮津藩2代・京極高国の命によって開削され、元普甲道に対して普甲道とも呼びました。先年、文化庁の「歴史の道100選」に指定されましたが、部分的にしか残っていません。
二瀬川渓流 毛原から、その旧道を通って青少年センター(旧物成小学校)へ出たあたりは、小字「馬止め(うまどめ)」と言います。ここ仏性寺には麻呂子親王の鬼退治伝説が色濃く残っていて、親王の軍勢がここまで来ると、一天にわかにかきくもり、ものすごい嵐となって、馬が立ち往生したところから、ここを「馬止め」というようになったのだと言われています。
すると、そこへ額(ひたい)に鏡をつけた白犬があらわれ、嵐にむかって鏡を照らすと、明るい光がさし、道が開けました。その坂を「あかさか」と言い「赤坂」の地名が今に残っています。
鬼の足跡
現在の府道の山側に宮津街道の道筋が、はっきりと残っています。以前は見事な石畳道が続いていました。少し歩くと、「鬼の足跡」に出ます。左手の山(骨ケ嶽)の中腹にある「鬼飛岩」から飛びおりた時ついた足跡と伝えています。スケールの大きな話ですね。その横の巨岩が「頼光の腰掛け岩」。こんな大きな岩にどうして腰をかけたのかと首をかしげますが、鬼の話は大きい話の方がよかったのでしょう。与謝蕪村の名句「岩に腰我頼光のつつじかな」は、ここで詠んだ句だと思います。春になると、実に山ツツジが美しく咲き誇ります。
少し歩くと、先年完成した二瀬川渓流をひとまたぎする大吊り橋「新童子橋」へ出ます。ここから見下ろす渓流は、まさに絶景です。吊り橋から見える丸い渕が鎌渕(かまぶち)。地元の人々は「鎌渕さん」と呼びます。麻呂子親王が鬼を切った鎌を、鬼のたたりのないようにと投げ入れたところと伝えています。あたりは絶好の水遊び場でしたが、昔はこの鎌渕さんへは女の子は入れなかったということです。
吊り橋の左手、山側にある小祠が「美多良志荒神」です。地元の人々は「みたらしさん」と呼んでいます。麻呂子親王を助けた白犬のつけていた鏡をおまつりしたところと伝えています。
鬼ケ茶屋
大吊り橋の下、府道沿いに「鬼ケ茶屋」があります。帰途、時間があれば立ち寄りたいと思います。ここは江戸時代、西国三十三霊場の成相寺へむかう巡礼たちの峠の茶屋であり宿場でもあったのです。
歴代、桝屋と号しています。このあたりの鬼退治伝説関連地を開発したのは、この歴代の鬼ケ茶屋の主人ではなかったか−と思っています。巡礼たちの旅情を慰めようと、いろいろな工夫をしたのでしょう。
鬼ケ茶屋といえば、鬼退治のふすま絵です。これは幕末、丹後の三大画僧の1人といわれた黙知軒光研の筆によるものです。また鬼ケ茶屋が刊行した「大江山千丈ケ嶽 酒呑童子由来」(初版弘化年中)の版木も完在しています。きわめつけは「酒呑童子愛用の盃(さかずき)」。ご愛嬌の品と言ってしまえばそれまでですが、かなり古い越前焼系の優品のようです。その大きさは、直径15cmを超える大きいもの。酒呑童子にふさわしい盃です。
千丈ケ原
ゆるやかな坂を登りきると平地が開け、右手に大きな池がみえます。千丈ケ池、かつて仏性寺発電所の貯水池だったところです。このあたりの村が千丈ケ原。かつて十二、三戸の村と古文書にありますが、現存するのは1戸、廃村の危機にあります。ここから右手へ直角についている道は、鍋塚への登山路です。
鍋塚は、麻呂子親王が鬼退治に成功すると、愛用の白馬が死んだので、その馬を葬り、その場所を鍋塚と言いました。それが後世、山そのものの名となったようです。この鍋塚の鞍部を加悦へ越す峠が加悦峠で、藩政時代は、こちらも加悦も同じ宮津藩領で、結構往来があったようです。加悦側へ少し下りたところに池ケ平(いけがなる)というところがありますが、ここは、白犬を葬ったところと伝えています。
千丈ケ原をすぎると、植林の間を通りぬけ急坂にさしかかり、カーブも大きくなります。途中、緑の森のオーナー制度の「思い出の森」の大きな看板のあるあたりに、左手へ下りる新しい道がついています。大谷林道で、平家の落人が開いたと伝える北原(奥北原)へ通じています。その途中、木地屋(きじや)集落の跡や、多量の鉄滓(タタラで鉄をふいた残りかす)の散布している北原遺跡があります。昔、ここでタタラを吹いていたのでしょう。このあたり、大江山系で最も深い谷、幽すいな感じのするところです。地元の人々は、この谷を魔谷と呼んでいます。
河守鉱山
宮津街道を通りぬけると、大江山へむかう町道へ出ます。左手の山ぎわに、庚申塔や大きな地蔵と並んで、大きな石碑が立っています。鉱山のもとになった鉱石の発見者・藤原吉蔵氏の記念碑です。大正6年(1917)、千丈ケ原に発電用のダム工事中、藤原氏が鉱脈の露頭を発見したことが鉱山開発の引き金となりました。
同年、大江山鉱山と称して銅鉱採掘を始め、本格化したのは、昭和3年、日本鉱業河守鉱業所となってから。盛期は戦後で、日本鉱業のドル箱鉱山として栄え、昭和30年代竪坑の深度は地下500m、坑道の延総延長は70kmに達しており、昭和41年の「採鉱概要」によると、従業員219名とあります。従業員の住宅がたち並び、山内人口1000名を超える府下最大の鉱山だったのです。
主な採鉱物は黄銅鉱で、他に硫化鉱、クローム鉄鉱、銀鉱がありました。ここで精鉱し、大分県佐賀関製鉄所へ送られていました。昭和44年、折からの鉱山合理化策の一環として休山。残った鉱山諸施設を撤去し、昭和48年に完全閉山となりました。
なお、現在の青少年センターから山手へ約1kmのところ(及谷)には、昭和9年から20年の終戦まで、兵器生産に欠かすことのできなかったモリブデン(水鉛)を採掘していた仏性寺鉱山もありました。 
酒呑童子の里
閉山後、一時荒廃していた河守鉱山跡地は酒呑童子の里として再生、大江山観光開発の拠点として生まれ変わりました。その中核施設として、国や府の支援のもと建設されたのが日本の鬼の交流博物館と京都府青少年山の家グリーンロッジです。過疎化の進行によっ鬼嶽稲荷て崩壊の危機を迎えた村々を、先祖の残してくれた鬼伝説によって、衰退に歯止めをかけたいという山村振興策でもあったのです。
建物の方が先行した博物館でしたが、全国の鬼ファン、町民、町出身者など、多くの方々のご支援とご協力によって、豊富な鬼に関する資料や展示品を収集することができ、たくさんの方々を迎え賑わっています。先年、両陛下をお迎えするという栄に浴したことは、本当に大きな喜びでした。
今回のラジオウオーク、当館が昼食場となると思いますが、ひととき、ゆっくりと鬼に接し、先人が鬼に託したものを探って下さい。なお、このあたりで海抜は250mです。
大江山平成の大鬼
博物館の前庭に立つ巨大な大鬼瓦は、高さ5m、重さ10トン、ギネスブックにも記載されている日本一の大鬼瓦です。
製作は、日本鬼師の会(鬼瓦製作者有志の会)の会員のみなさん60名が、それぞれ分担して、130箇の部分品を、それぞれの地域の焼き方で仕上げ、ここで組み立てたものです。これは建設省の「手づくりふるさと賞」を受賞しました。
日本の鬼は、時に神となり、人となり、そして妖怪にもなりますが、日本の鬼の造型物で最もポピュラーで親しまれているのが鬼瓦です。古く飛鳥時代から屋根の守護神としてにらみをきかせてきました。「鬼もて魔を追う」という発想は、多神教国日本ならではの発想であろうと思います。
この大江山平成の大鬼は、鬼師さんたちの職人芸を芸術へと高める契機となると思います。将来、必ずや大江山の宝物となることでしょう。
大江山鬼のモニュメント
博物館から大江山へは、本部の準備されるバスで登る予定です。予定地の8合目にある鬼嶽稲荷まで5・2km、バスですと10分ほどです。もし、荒天で視界のきかない時は、博物館で地図上で説明します。
博物館から少し登ったところ、右手の小丘に、大江山鬼のモニュメントが見えます。大江山にたてこもった鬼の頭(かしら)たち、酒呑童子、茨木童子、星熊童子の像で、ウルトラマンの美術監督でもあった彫刻家、成田亨さんの製作です。酒呑童子は、きびしい表情で都の方向を指さしています。
このモニュメントのあたり、鉱山時代、ボタ山として廃土を埋めており、昔の面影はありませんが、江戸時代の地誌書「丹哥府志」によれば、このあたりに酒呑童子屋敷跡があると記され、その礎石、長さ70間、幅40間とあります。一体、何ものの住居跡だったのでしょうか。すぐ下の谷あいに、千丈ケ瀧があります。三段の瀑布状で、水量の多いときは壮観です。
鬼嶽稲荷
大きなカーブの左手に、大型バスの回転場があります。ここから700〜800mで鬼嶽稲荷へ着きます。海抜610m、大江山登山の八合目にあたり、主峰の千丈ケ嶽(833m)まで、あと1kmです。あたりはブナの原生林で、秋は紅葉の名所、そして雲海見物のポイントになります。
ここへ伏見の稲荷大社から鬼嶽稲荷の神号を受け、稲荷社を建てたのは、江戸中期、弘化年間(19世紀中頃)のことです。折から当地方で発展した養蚕の守り神として、農民たちの厚い信仰を受けていました。正面の鳥居の神号額は、最後の宮津藩主、本庄宗武の筆、寄進になるものです。
それ以前は、もっと頂上近くに社があったと伝え、御嶽大明神と呼んでいたようです。貝原益軒の「西北紀行」にも、「土地の人々は、この山を御嶽と呼んでいる」とあります。そういえば、地元の人々は、今も「オニタケ稲荷」でなく「オンタケ稲荷」と呼んでいます。
おもしろいのは、本殿前の狛犬ならぬ狛狐(?)の尻尾が男性のシンボルの形をしています。先人たちのご愛嬌の作なのでしょうが、道祖神信仰の名残なのかもしれません。
鬼嶽不動の滝
本殿下の手洗鉢の建物の少し右手に、山の方へむかう小道があります。ブナ林のまっただ中の坂道を4〜5分歩くと、正面に小さな滝が流れ落ち、そばにお不動さんの石像が立っています。近くにトチの巨木があり、秋になると、たくさんのトチの実が落ちます。流れ落ちる水は清冽そのもの、実に冷たいですが、こんな高い所でありながら、この滝の水が涸れることのないのは、ブナの保水力のすごさなのでしょう。すぐそばに、「睦姫さん」と地元の人々が呼んでいる小祠があります。こんな山深いところにおまつりされている女性、何かわけがありそうですが、どんな女性なのか、全く伝承も伝わらず、わかりません。
この道は昔、山頂へむかう旧道であったらしく、少し上へあがると、巨木の根が横たわっており、地元では、金太郎こと坂田公時が巨木を倒して谷に橋とした、その巨木の根っこと伝えています。ウソとわかっていても楽しい話です。
一方、鬼嶽稲荷の社務所の右手から下へ降りる道、天座へむかう旧道ですが、その途中に中を深くくりぬいたような巨岩があります。「大亀石」と呼び、昔、修験者たちの行場であったところと伝えています。また、すぐそばに無数に割れ目のついた岩があり、これを、頼光さんが鬼切り丸のためし切りをしたところといい、横に鬼丸稲荷がまつられています。  
天の岩戸
稲荷からバスで約10分下ると府道にもどる。そこから数分、ほとんど直角に近いカーブのあるところでバスを降り、天の岩戸への旧道を歩きます。道端に「元大神宮 天の岩戸」と記した古い石の道標があります。このあたり、マイノといいます。真井野と書かれていますが、昔、舞堂があったので舞野と呼んだという話に説得力を感じます。
しばらく歩くと、「真名井」と呼ばれる古い井戸があります。水は涸れてありません。立て札には、丹後の天女の降り立った真名井が池のような説明がしてありますが、地元の岩戸神社伝承では、大昔、元伊勢内宮のご神鏡を鋳造した時、水を汲んだ井戸だと伝えています。
しばらく歩くと、今も稼働している内宮発電所の貯水池があります。ここを通りすぎてカーブを曲がると天の岩戸です。何となく霊気のようなものを感ずる別天地です。晩秋になると紅葉が実に美しいところです。
私が説明するより、江戸中期、ここを旅した俳人、加賀千代の旅日記の一節をかりて紹介しましょう(現代かなづかいに改変)。
「此山大木数多有れども大昔より一本も杣入れず 産湯の釜 産だらいという岩あり 此岩何程湛水しても水増さず 百日の旱りにても一合も水干ることなし。 岩橋やわれ涼しくはぬるません」
日浦ケ嶽
今回のラジオウオークでは、表参道でなく天の岩戸側の裏参道から内宮へ向かいます。この裏参道のあたりは、岩戸山原生林で、カシを主体とした常緑広葉樹と落葉広葉樹が入り混じっています。神域とあって、古来から斧を入れることもなく、珍しい植生をとどめ、植物の宝庫で京都府歴史的自然環境地域に指定されています。
200〜300m歩くと、日浦ケ嶽遥拝所につきます。真っ正面のピラミッド型の山が日浦ケ嶽。古来、内宮の神体山として、一願成就(じょうじゅ)の山として信仰を集めてきました。
山頂には大きな磐座(いわくら=社のなかった頃の神のよりしろ)と、石を規則的に並べた謎の造型物があります。夏至の日、この遥拝所から眺めると、夕陽がとがった山頂に沈みます。神秘の光景です。みなさんも是非、欲張らずに「一願」を祈って下さい。必ず成就することでしょう。
元伊勢内宮
元伊勢内宮の正式名は皇大神社、祭神は伊勢の内宮と同じアマテラスオオミカミ(天照大神)。社伝によれば、崇神天皇の時、大和笠縫邑から、ここへ天照大神のご神鏡を移し、4年間おまつりした旦波吉佐宮(たにはよさのみや)の跡地と伝えています。正面の鳥居は、日本で2例しかない珍しい黒木(木の皮をつけたまま)の鳥居です。本殿の周りに約80社の境内社があり、古事記に出てくる神様は、すべて揃っているとのことです。
もともと60年毎の式年遷宮でしたが、明治以降とだえており、現在の本殿は、明治元年(1868)、宮津藩主・本荘氏の寄進になるもの。三間社神明造りです。前庭の神楽殿は文政6年(1823)の建立です。
近くを流れる川は五十鈴(いすず)川、鎮座する山は宮山。シイを中心とした原生林です。近くに宇治橋もあり、まさにミニ伊勢神宮の観があります。
平安時代の和名抄に、この内宮のある旧河守上村は、神戸郷(かんべごう=大社に仕え租税を納める人々の村)とありますから、古くから、かなりの社があったのでしょう。すぐ隣の台地、梅ケ平からは縄文時代の石鏃が出土しており、周辺に古墳があることからも、このあたりが古い歴史を持っていることを物語っています。
竜灯杉
本殿左にある巨木が竜灯杉(りゅうとうのすぎ)で内宮のご神木です。樹齢千年といわれますが、なお青々と緑をつけています。
節分の夜、この竜灯杉の梢に、竜が灯をともすという伝承が残っていますが、この竜神信仰は海人族(あまぞく)の信仰なのです。それに本殿のすぐ横に独立して三女神社があります。三女とは、これも宗像(むなかた)系海人族の祖神である宗像三女神のことです。境内社の中に浦島神社もありますが、祭神は白土翁とあります。府道沿いの田の中に、港石(みなといし)と呼ばれる巨石があり、これも航海民であった海人族を連想させます。元伊勢には海人族を感じさせるものが非常に多いのです。
表参道の最上段に麻呂子親王お手植えの杉という巨杉があり、3本あったうちの1本は健在です。この内宮、古くから、麻呂子親王勧請説があったことも付け加えておきます。表参道を下ると、KTRの駅はすぐ近くです。 
 
大江山の鬼伝説2

 

一 陸耳御笠(くがみみのみかさ) −日子坐王伝説−
大江山に遺る鬼伝説のうち、最も古いものが「丹後風土記残缺」に記された陸耳御笠の伝説である。 青葉山中にすむ陸耳御笠が、日子坐王の軍勢と由良川筋ではげしく戦い、最後、与謝の大山(現在の大江山)へ逃げこんだ、というものである。
「丹後風土記残缺」とは、8世紀に、国の命令で丹後国が提出」した地誌書ともいうぺき「丹後風土記」の一部が、京都北白川家に伝わっていたものを、15世紀に、僧智海が筆写したものといわれる。
この陸耳御笠のことは、「古事記」の崇神天皇の条に、「日子坐王を旦波国へ遺わし玖賀耳之御笠を討った」と記されている。
土蜘蛛というのは穴居民だとか、先住民であるとかいわれるが、土蜘蛛というのは、大和国家の側が、征服した人々を異族視してつけた賎称である。
一方の日子坐王は、記紀系譜によれば、第九代開化天皇の子で崇神天皇の弟とされ、近江を中心に東は甲斐(山梨)から西は吉備(岡山)までの広い範囲こ伝承が残り、「新撰姓氏録」によれば古代十九氏族の祖となっており、「日子」の名が示すとおり、大和国家サイドの存在であることはまちがいない。
「日本書紀」に記述のある四道将軍「丹波道主命」の伝承は、大江町をはじめ丹後一円に広く残っているが、記紀系譜の上からみると日子坐王の子である。 この陸耳御笠の伝説には、在地勢力対大和国家の対立の構図がその背後にひそんでいるように思える。
二 英胡(えいこ)・軽足(かるあし)・土熊(つちぐま) −麻呂子親王伝説−
用明天皇の時代というから六世紀の末ごろのこと、河守荘三上ケ嶽(三上山)に英胡・軽足・土熊に率いられた悪鬼があつまり、人々を苦しめたので、勅命をうけた麻呂子親王が、神仏の加護をうけ悪鬼を討ち、世は平穏にもどったというものである。 麻呂子親王伝説の関連地は70ヵ所に及ぷといわれている。
麻呂子親王は用明天皇の皇子で、聖徳太子の異母弟にあたる。 文献によっては、金丸親王、神守親王、竹野守親王などとも表記されているが、麻呂子親王伝説を書きとめた文献として、最古のものと考えられる「清園寺古縁起」には、麻呂子親王は、十七才のとき二丹の大王の嗣子となったとある。
この伝説について、麻呂子親王は、「以和為貴」とした聖徳太子の分身として武にまつわる活動をうけもち、仏教信仰とかかわり、三上ケ嶽の鬼退治伝説という古代の異賊征服伝説に登場したものであろうといわれているが、実は疫病や飢餓の原困となった「怨霊=三上ケ嶽の鬼神の崇り」を鎮圧した仏の投影でもあり、仏教と日本固有の信仰とが、農耕を通じて麻呂子親王伝説を育て上げたものであるともいわれる。 この麻呂子親王伝説は、酒呑童子伝説との類似点も多く、混同も多い。 酒呑童子伝説成立に、かなりの影響を与えていることがうかがえる。
三 酒呑童子(しゅてんどうじ) −源頼光の鬼退治−
平安京の繁栄−それはひとにぎりの摂関貴族たちの繁栄であり、その影に非常に多くの人々の暗黒の生活があった。 そのくらしに耐え、生きぬき抵抗した人々の象徴が鬼=酒呑童子であった。 酒呑童子物語の成立は、南北朝時代(14世紀)ごろまでに、一つの定型化されたものがあったと考えられており、のち、これをもとにして、いろいろな物語がつくられてきた。
酒呑童子という名が出る最古のものは、「大江山酒天童子絵巻」(逸翁美術館蔵)であるが、この内容をみると、まず「酒天童子」であり、童子は明らかに「鬼神」である。 また大江山は「鬼かくしの里」であり、「鬼王の城」がある。 あるいは、「唐人たちが捕らえられている風景」、「鬼たちが田楽おどりを披露する」など興昧深い内容がある。 そして頼光との酒宴の席での童子の語りの中に、「比叡山を先祖代々の所領としていたが、伝教大師に迫い出され大江山にやってきた。」とある。 また「仁明天皇の嘉祥2年(849)から大江山にすみつき、王威も民力も神仏の加護もうすれる時代の来るのを持っていた」とあるから、神仙思想の影響もうかがえる。
つまりは、酒呑童子は、山の神の化身とも考えられるわけだが、酒呑童子は仏教によって、もとすんでいた山を追われる。 それは山の神が仏教に制圧されていく過程であり、酒呑童子を迎えてくれる山は、仏教化されていない山−もっと古い時代から鬼のすんだ山−土着の神々が支配する山である大江山しかなかったのである。
酒呑童子は、中世に入り、能の発達と共に謡曲「大江山」の主人公として、あるいは「御伽草子」の出現により、広く民衆の心の中に入り込んでいった。
酒呑童子は頼光に欺し殺される。 頼光たちは、鬼の仲間だといって近づき、毒酒をのませて自由を奪い、酒呑童子一党を殺したのだ。 このとき酒呑童子は「鬼に横道はない」と頼光を激しくののしった。
酒呑童子は都の人々にとっては悪者であり、仏教や陰陽道などの信仰にとっても敵であり、妖怪であったが、退治される側の酒呑童子にとってみれば、自分たちが昔からすんでいた土地を奪った武将や陰陽師たち、その中心にいる帝こそが極悪人であった。 酒呑童子の最後の叫ぴは、土着の神や人々の、更には自然そのものが征服されていくことへの哀しい叫ぴ声であったのかもしれない。
酒呑童子の出生伝説
「御伽草子」は、酒呑童子の出生地を越後としているが、越後国(新潟県)には、酒呑童子出生にまつわる伝説が、かなり残っている。 中でも弥彦山系の国上山にある国上寺(分水町)には、「大江山酒呑童子」絵巻に、酒呑童子の生い立ちがくわしく記されている。
それは、垣武天皇の皇子桃園親王が、流罪となってこの地へ来た。
従者としてやってきた砂子塚の城主石瀬俊綱が、妻と共にこの地にきて、子がなかったので信濃戸隠山に参拝祈顕したところ懐妊し、三年間母の胎内にあってようやく生まれた。 幼名は外道丸、手のつけられない乱暴者だったので、国上寺へ稚児としてあずけられる。 外道丸は美貌の持ち主で、それゆえに多くの女性たちに恋慕された。
そうしたうちに、外道丸に恋した娘たちが、次々と死ぬという噂が立ち、外道丸がこれまでにもらった恋文を焼きすてようとしたところ、煙がたちこめ煙にまかれて気を失う−しばらくして気のついたとき、外道丸の姿は見るも無惨な鬼にかわっていた−外道丸は戸隠山の方へ姿をけしたのち、丹波の大江山に移りすんだというものである。
もう一つの酒呑童子出生についての異説は、近江国(滋賀県)伊吹山、井口とする説であり、奈良絵本(酒典童子)に描かれている。
嵯峨天皇(809−823)のとき比叡山延暦寺に、酒呑童子という不思議な術を心得た稚児がいた。 人々が怪しんで素性をしらぺたことろ、井口の住人須川殿という長者の娘王姫の子であり、伊吹山の山の神=伊吹大明神の申し子であっつたというもので、3才のころから酒を飲んだので酒呑童子と名づけ、十才のとき比叡山の伝教大師のもとへ稚児として弟子入りする。
帝が新しい内裏に移ったお祝いの祭日の日、「鬼踊り」をしようということで三千人の僧の鬼の面をつくり、とくに精魂こめて作った自分用の面をつけ京の都へくり出し、大変な人気であった。
山に戻って、大宴会ののち、酔いがさめ鬼面をとろうとしたが、肉にくいついてとれない。 伝教大師は、酒呑童子を山から追い出し国にもどすが、肉親からも見すてられ、山々を転々とし、ついに大江山にいたったというものである。
酒呑童子異聞
「福井の意外史」(読売新聞)では、この鬼退治は越前の出来事ではなかったかという。
「正史国司考」によれば、この頃、頼光の父、源満仲が越前国司(福井県武生市)として一族と共に入国していた。 当時大江山ならぬ丹生ヶ岳(この事件より 鬼ヶ岳となる)に鬼が棲み、付近を荒らし回っていたので、国司の威信にかけても討伐しなければならなかった。 そこで満仲は六人の子供に命じて、鯖江白鬼女の津(現 白鬼女橋)に出没したところを討ったという。(白鬼女というように女の鬼である)
鬼ヶ岳も大江山もどちらも鬼の岩屋と呼ぶ洞窟があり、討ち手が六人と似たところが多い。 鬼ヶ岳にまつわる伝説で、大江山の話を越前に付会したものかも分からない。
源頼光のあと、弟の頼親(二弟)と頼信(三弟)の二人が、跡目相続争いをし、頼親は負けて杣山城(福井県南条町)に入り、頼信が家系を継ぐことになるが、鯖江、武生にはこの一族たちの伝説が多い。 
 
桃太郎1

 

日本のおとぎ話の一つ。「桃太郎」が、お婆さんから黍団子(きびだんご)を貰って、イヌ、サル、キジを従えて、鬼ヶ島まで鬼を退治しに行く物語。
桃太郎の物語は、いくつかの場面で出典により違いがある。ただし、物語後半にある鬼との戦いの場面では、概ねどの書籍でも桃太郎側の視点での勧善懲悪物語となっている。桃太郎の出生に関しては、桃から生まれたとする場合や、桃を食べた老夫婦が若返って子供を産んだとする場合がある。桃太郎の成長過程については、お爺さんとお婆さんの期待通り働き者に育ったとする場合や、三年寝太郎のように力持ちで大きな体に育つが怠け者で寝てばかりいるとする場合がある。成長した桃太郎は、鬼ヶ島の鬼が人々を苦しめていることを理由に鬼退治に旅立つが、その決意を自発的に行う場合と、村人や殿などに言われて消極的に行う場合とがある。出征時には両親から黍団子を餞別に貰う。道中、遭遇するイヌ、サル、キジにその黍団子を分け与えて家来にする。鬼ヶ島での鬼との戦いで勝利をおさめ、鬼が方々から奪っていった財宝を持って帰り、最終的に郷里のお爺さん・お婆さんの元に帰って幸せに暮らしたとして物語は締めくくられる。
ゆかりの地
ゆかりの地とされる場所は全国にある。その中でも岡山県は桃太郎作中の「黍団子」と同音の江戸時代の地元土産品「吉備団子」をつなげさせるなど、全県を挙げての宣伝活動からゆかりの地として全国的に有名になったが、「吉備団子」と作中の「黍団子」との関係は証明されていない。以下は桃太郎サミットや日本桃太郎会連合会に参加する自治体とそのゆかりの場所。
岡山県岡山市・総社市 / 吉備津神社 / 吉備津彦神社 / 鬼ノ城 / 中山茶臼山古墳 / 矢喰宮 / 楯築遺跡 (倉敷市) / おかやま桃太郎まつり
香川県高松市 / 田村神社 (高松市) / 桃太郎神社 (高松市) / 女木島 (鬼ヶ島) / 鬼無
愛知県犬山市 / 桃太郎神社 (犬山市)
奈良県磯城郡田原本町 / 廬戸神社(孝霊神社) / 法楽寺 / 初瀬川 / 黒田廬戸宮(孝霊天皇の宮比定地)
成り立ち
物語の成立については諸説存在し、それぞれ争いのあるところである。
有力説の一つとしては、第7代孝霊天皇の第3皇子彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと、吉備津彦命)、稚武彦命兄弟の吉備国平定における活躍と、岡山県(吉備国)の温羅伝説に由来するものとする説がある。これは、古代の大和政権と吉備国の対立構図を、桃太郎と鬼の争いになぞらえたとするものである。 この説をもとに、桃太郎のモデルとなった人物が彦五十狭芹彦命であるとする見方が広く知られている。 これにちなんで、彦五十狭芹彦命の故郷である奈良県磯城郡田原本町では、桃太郎生誕の地として黒田庵戸宮(廬戸宮)を観光PRの一つとして取り上げている。田原本町の初瀬川 には、川上から男の子が甕に乗って流れてきて、西の方角に向かい神様となったという伝承が残る(本朝神社考)。西の方とは、『古事記』や『日本書紀』の孝霊天皇、彦五十狭芹彦命の記述から、吉備(岡山)や讃岐(香川)をさすと考えられている。
発生年代は正確には分かっていないが室町時代とされ、江戸時代以降に広まったとされる。草双紙の赤本による『桃太郎』『桃太郎昔話』などが出版により広まった最初の版であるとされる。
また赤本、豆本、黄表紙、青表紙などに登場した桃太郎は、曲亭馬琴の『童蒙話赤本事始』で五大昔噺の冒頭を飾る。
明治時代初期までは桃を食べて若返ったお爺さんとお婆さんの間に桃太郎が生まれたという回春型の話の方が主流であった。この他にも「赤い箱と白い箱が流れて来て、赤い箱を拾ったら赤ん坊が入っていた」、「川上から2つの桃が流れて来たのでお婆さんが『緑の桃はあっちゃいけ、赤い桃はこっちゃ来い』と言うと赤い桃が寄って来た」など、物語に差異のあるものが多数伝わっているが、巖谷小波により1894年(明治27年)に『日本昔話』としてまとめられたものがその後の語り伝えに大きく影響した。1887年(明治20年)に国定教科書に採用される際にほぼ現在の形のものを掲載して以降、これが定着した。因みに舞台の一つとされる岡山県で桃の栽培が始まったのも明治時代以降である。
桃太郎の姿が、日の丸の鉢巻に陣羽織、幟を立てた姿になり、犬や鳥、猿が「家来」になったのも明治時代からである。それまでは戦装束などしておらず、動物達も道連れであって、上下関係などはない。明治の国家体制に伴い、周辺国を従えた勇ましい日本国の象徴にされたのである。
またその誕生の仕方も「たんす」や「戸棚」や「臼」に入れておいた桃が自然に割れて男児が誕生するなど一様でない。
また、香川県では桃太郎が女の子だった、とする話がある(生まれてきた女の子があまりにも可愛らしいので鬼にさらわれないように桃太郎と名づけた)。
その後語り、絵共に様々な版が生まれ、また他の創作物にも非常に数多く翻案されたり取り込まれたりした。落語の『桃太郎』などもその一例である。
なお、太平洋近海の国に伝わるおとぎ話に「樽」や「果実」の中に入った子供が出てくる話が多数あり、日本人の先祖の一つに海洋民族があることを示している証拠だとする説もある。 また岡山県を中心とした地域には、横着な性格と大力を持った隣の寝太郎型の桃太郎も多い。鬼退治にしても鬼を海中に投げ宝物をとって帰ったり鬼に酒を飲ませて退治する例もある。
岩手県紫波郡には母親の腰近くに転がってきた桃を拾って帰り、綿に包み寝床に置いておいたら桃が割れ子供が生まれた桃の子太郎という伝承や、越後、佐渡(現・新潟県)の「桃太郎」だと桃の代わりに香箱が流れてきたとあり、この香箱は女性の陰部の隠語でもある。
南西諸島の沖永良部島(鹿児島県大島郡)では「桃太郎」は「ニラの島」へ行ったという。龍宮であるニラの島で島民はみな鬼に食われていたが、唯一の生存者の老人の家に羽釜があり、その蓋の裏に鬼の島への道しるべが書かれており、その道しるべどおり地下の鬼の島へ行き、鬼退治に行く筋書きである。
沖縄県宮古島の古謡「仲宗根豊見親八重山入の時のあやご」では、1500年のオヤケアカハチの乱に参戦した豪族の一人に桃多良(むむたらー)の名があり、この時期までの沖縄への桃太郎伝承の伝播の可能性が論議されている。
岩手県の桃太郎は父母が花見に行った時に拾った桃から誕生。地獄の鬼から日本一の黍団子を持って来いと命じられ、地獄へ行き鬼が団子を食べている隙に地獄のお姫様を救う。婚姻譚を伴う桃太郎である。福島県の桃太郎も山向こうの娘を嫁にする話。黍団子の代わりに粟・稗の団子の設定の高知県の話。またお供も猿・犬・雉ではなく石臼・針・馬の糞・百足・蜂・蟹などの広島・愛媛県の例もある。地方には多様なバリエーションがある。
東京北多摩(現・東京都多摩地域北部)地方には蟹・臼・蜂・糞・卵・水桶等を家来にする話があり、これは明らかに猿蟹合戦の変型とする見方もある。
山梨県大月市には「岩殿山(九鬼山という説もある)に住む鬼が里山の住民を苦しめていた」「百蔵山には桃の木が生い茂り、そこから川に落ちた桃をおばあさんが拾い持ち帰った」「上野原市の犬目で犬、鳥沢でキジ、猿橋でサルを拾った」等のいわゆる「大月桃太郎伝説」が存在する。
語り部によって、桃が川に流れている描写を「どんぶらこっこ すっこっこ」、「どんぶらこ どんぶらこ」などと表現する。
桃太郎の物語りはインドの有名な叙事詩「ラーマーヤナ」の影響を受けたという説もある。桃太郎に登場する猿は、西遊記に登場する孫悟空と同様に、ラーマーヤナの中のハヌマーンがモデルとする説である。
解釈

上流から流れてきた桃を食べて老夫婦が若返ったというくだりは、西王母伝説、あるいは日本神話のイザナギの神産み#黄泉の国にみられるように、桃は邪気を祓い不老不死の力を与える霊薬である果実とされている。また、山奥に住む仙人にも桃は欠かせない存在である。桃太郎を齎した桃は、こうした力のある桃が山から流れて来たものとも考えられる。世界的には霊力のある植物は桃とは限らず、古くはギルガメシュ叙事詩での不死の薬草、旧約聖書の『創世記』における生命の樹と知恵の樹、田道間守の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ、橘の実とされる)や徐福伝説の神仙薬などが挙げられる。桃太郎の対的説話としては瓜から生まれた瓜子姫が指摘され、沖縄県久高島には黄金の瓜から生まれた男子が後の琉球王(西威王とされる)となったという伝説のバリエーションもある。桃である理由は、桃は大昔より数少ない果物であり、匂いや味、薬用性および花の美しさがそろい、紅い小さな花と豊潤な果実を付けるところが不老不死のイメージにぴったりであり、人に利益を与え死の反対の生のシンボルを思わせ、その中でも特に桃の実が柔らかくみずみずしく産毛、筋目から命の源の女性器に似ているからであり、そのイメージには邪悪な鬼を退散させる力を感じさせるからであろう。桃そのものが女性であったという説もある。おばあさんが拾ってきたのは、大きな桃ではなく、若い娘であった。桃は若い娘のお尻の象徴であった。子供が出来ず悩んでいたおばあさんは、拾ってきた娘におじいさんの子供を孕ませた。おばあさんはその娘から、子供を取り上げた。それが、桃を割るということであった。

鬼は、風水では丑と寅の間の方角(北東)である「鬼門」からやって来ると考えられていることから、敵役である鬼が牛のような角を生やし、虎の腰巻きを履いているのも、風水の思想によるという解釈もある。
猿・雉・犬
桃太郎は「鬼門」の鬼に対抗して、「裏鬼門」に位置する動物(申(サル)、酉(キジ)、戌(イヌ))を率いた、という解釈がある(曲亭馬琴「燕石雑志」など)。しかし丑と寅(艮・ウシトラ)の逆の方位に当たるのは、未(ヒツジ)と申(坤・ヒツジサル)であり、申、酉、戌ではなく、この解釈には多少無理があるため、率いている動物には別の意味があるともされる。吉備津神社縁起物語によると、吉備津彦命が、犬飼部の犬飼健命(いぬかいたけるのみこと)、猿飼部の楽々森彦命(ささもりひこのみこと)、鳥飼部の留玉臣命(とめたまおみのみこと)という三人の家来と共に、鬼ノ城に住む「鬼」である温羅を倒したとされているが、この家来たちを桃太郎の逸話に置き換えると「犬飼健=犬」「楽々森彦=猿」「留玉臣= 雉」となるとする説がある。
物語
桃太郎の深層に対して最初に学問的なメスを入れたのは民俗学者・柳田國男である。昔話に日本の固有信仰の姿を発見することにあった。桃から生まれた桃太郎の背後に異常誕生・成長の「小さ子」の物語の想定、一寸法師、瓜子姫、川上から流れる桃の展開から異界の存在と水辺との関連。それらを統率する存在として水辺の「小さ子」、「海神少童」伝承、カガイモの皮の船に乗り波の流れに沿って流れよったスクナヒコナ神話へとたどり着くのである。柳田はここで昔話とはかつての神話の零落した一つの姿であると言っている。視点を変えれば異常出生の神の子が共同体から除外されつつも異郷に赴く「英雄神話」が抽出できる。また『桃太郎の誕生』の中で、古代ローマのミトラ教神話には、少年の姿をしたミトラ神が犬やサソリを伴って猛牛を退治する話があり、同類型の話が日本以外にも存在すると述べている。
桃太郎を文化人類史的視点から見たのが文化人類学者・石田英一郎である。「桃太郎の母」に現れる「水界の小さき子」の影に付きまとう「水界の母子神」へと行き着き、南島の島々、太平洋周辺の諸民族に伝わる伝説の研究へと行き着く。浜辺に神の子を産み残していく「豊玉姫型の伝承」や南風に身を晒して子を産む「女護が島型の説話」などのユーラシア大陸、旧石器時代の文化との関連へと「桃太郎の母」探しは壮大に発展する。遠い昔に信仰された原始母神とその子神とにまつわる霊童の異常出生譚的な神話を想定している。
神話学者・高木敏雄の「桃太郎新論」では「英雄伝説的童話」と位置づけられ出自そのものの桃にこだわった所であり「梨太郎」・「林檎太郎」でなくなぜ桃太郎なのかに拘った所である。桃は前述のように邪気を祓う霊物であり長生不老の仙果であり太郎が老夫婦に育てられるのと桃が不老長寿の果物であることは無関係でないと述べている。
民俗学者・関敬吾は鬼が島征伐の冒険的行為に社会慣習としての通過儀礼である成年式が反映していると考えた。
評価・変遷
福澤諭吉は、自分の子供に日々渡した家訓「ひゞのをしへ」の中で、次のように非難している。
「もゝたろふが、おにがしまにゆきしは、たからをとりにゆくといへり。けしからぬことならずや。たからは、おにのだいじにして、しまいおきしものにて、たからのぬしはおになり。ぬしあるたからを、わけもなく、とりにゆくとは、もゝたろふは、ぬすびとゝもいふべき、わるものなり。もしまたそのおにが、いつたいわろきものにて、よのなかのさまたげをなせしことあらば、もゝたろふのゆうきにて、これをこらしむるは、はなはだよきことなれども、たからをとりてうちにかへり、おぢいさんとおばゝさんにあげたとは、たゞよくのためのしごとにて、ひれつせんばんなり。」
(桃太郎が鬼ヶ島に行ったのは宝を獲りに行くためだ。けしからんことではないか。宝は鬼が大事にして、しまっておいた物で、宝の持ち主は鬼である。持ち主のある宝を理由もなく獲りに行くとは、桃太郎は盗人と言うべき悪者である。また、もしその鬼が悪者であって世の中に害を成すことがあれば、桃太郎の勇気においてこれを懲らしめることはとても良いことだけれども、宝を獲って家に帰り、お爺さんとお婆さんにあげたとなれば、これはただ欲のための行為であり、大変に卑劣である)
現代でも「本当は鬼が島に押しかけた桃太郎らが悪者ではないか」と思う者もおり、裁判所等で行われる模擬裁判の事例やディベートの議題として取り上げられることがある。
芥川龍之介をはじめとして、尾崎紅葉、正岡子規、北原白秋、菊池寛などの作家たちも競って桃太郎を小説の題材にしている。桃太郎は「日本人」の深層の何かを伝えていたといえる。
太平洋戦争の際には桃太郎は軍国主義という思想を背景に、勇敢さの比喩として語られていた。この場合桃太郎は「鬼畜米英」という鬼を成敗する子としてスローガンに利用された。戦時中には孝行・正義・仁如・尚武・明朗などの修身の徳を体現した国民的英雄として、大正期の童心主義では童心の子として、プロレタリア主義では階級の子、また戦後になると民主主義の先駆として語られる。
「桃太郎」というネーミングはジェンダーバイアスを押し付けるものだとして主人公が「桃子」になっているものも存在する(次項に挙げられる『モモタロー・ノー・リターン』の主人公も「桃子」である)。男性であるお爺さんが「山へ柴刈りに」、女性であるお婆さんが「川で洗濯」をするという点についてもジェンダー的な作業分担の現れと見て、それに異を唱えている団体がある。例えば「北名古屋市女性の会男女共同参画委員会」は名古屋弁の創作劇『モモタロー・ノー・リターン』を作成しており、この作品の中では両者の役割を逆転させている(男性であるお爺さんが「川で洗濯」に、女性であるお婆さんが「山へ柴刈り」に行く)。
NHK教育テレビの番組「おはなしのくに」で放映されたものでは桃太郎は「乱暴者で親の手伝いをしない怠け者」であり、村を襲ってきた鬼に育ての親のお婆さんが襲われたことで目が覚め、鬼ヶ島の鬼たちを懲らしめる。現代的な問題提起要素を加え、「やればできる」という教訓付きのストーリーになっていた。
「暴力的な話」だとして、絵本や子供向けの書籍では「鬼退治」ではなく「話し合いで解決した」などと改変されている。しかし、この場合、どこからどうして金銀財宝が出てくるのか、判然としない。また、「金銀財宝」の獲得、つまり経済的成功こそが正義とする思想も価値観が多様化する現代においては受け入れられ難くなっている。
宝はすべて、もともとは村人のものであり、宝は「取り返しにいく」と改変されているDVDも存在する。このDVDでは、宝はすべて元の持ち主の村人に返している。そして、宝を取り返してもらった村人は、その一部をお礼として、桃太郎とお爺さんとお婆さんに渡している。桃太郎達は、お礼の宝をたくさんいただいて幸せに暮らした、となっている。
近年、桃太郎も他の日本の昔話、グリム童話同様に、『本当は怖い昔話』などで書籍化、出版され、官能話あるいは残酷話として、意図的に話が曲解されているものもある。
唱歌
唱歌「桃太郎」は、文部省唱歌の1つ。1911年(明治44年)の「尋常小学唱歌」に登場。作詞者不明、作曲・岡野貞一。
1. 桃太郎さん、桃太郎さん、お腰につけた黍団子、一つわたしに下さいな。
2. やりましょう、やりましょう、これから鬼の征伐に、ついて行くならやりましょう。
3. 行きましょう、行きましょう、貴方について何処までも、家来になって行きましょう。
4. そりや進め、そりや進め、一度に攻めて攻めやぶり、つぶしてしまへ、鬼が島。
5. おもしろい、おもしろい、のこらず鬼を攻めふせて、分捕物をえんやらや。
6. 万万歳、万万歳、お伴の犬や猿雉子は、勇んで車をえんやらや。
暴力性を感じさせるという理由からか、現在では歌詞が改変されたり、後半部を削除したりする場合が多い。これと似たような経緯で後半部を削除された童謡に、てるてる坊主がある。両者とも、歌詞の意外性・残酷性が『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』で取り上げられたことがある。
また、上記に比べ知名度は劣るが、作詞・田辺友三郎、作曲・納所弁次郎による「モモタロウ」もある。
1. 桃から生れた桃太郎、氣はやさしくて力持、鬼ケ島をばうたんとて、勇んで家を出かけたり。
2. 日本一の黍團子、情けにつきくる犬と猿、雉ももらうてお供する、急げ者どもおくるなよ。
3. 激しいいくさに大勝利、鬼ケ島をば攻め伏せて、取つた寶は何々ぞ、金銀、珊瑚、綾錦。
4. 車に積んだ寶もの、犬が牽き出すえんやらや、猿があと押すえんやらや、雉がつな引くえんやらや。
吉備団子
吉備団子は、黍団子に因んで江戸末期に売り出された物。吉備とは、備前・備中・備後・美作地方の古名で、現在の岡山県にあたる(備後は広島県)。 
桃太郎と鬼が島
桃太郎の話は日本の昔話の中でも最もポピュラーなものである。いまでも子供向けのキャラクターとして人気を集めているし、絵本の世界や母親のお伽話にとっては欠かせないものだ。小さな子どもが親元を離れて冒険の旅に出るというのは、世界中共通した児童文学のパターンであることからも、桃太郎の話には国や時代を超えた普遍性があるといえる。
川上の山の奥から桃に包まれてやってきた子どもが、大きくなってから鬼が島へ鬼退治に出かけ、鬼の宝物を持ち帰るという話である。中にはお姫様を連れて帰るというパターンもある。
ごく単純な話であるが、そこには日本の昔話にとって大事なモチーフがいくつか含まれている。
まず主人公の桃太郎は山の奥、つまり異界と目されるところから桃にくるまれてやってきた。古代の日本人にとって、山はこの世とあの世を結ぶ接点であり、そこには先祖の霊が漂っているとされた。その先祖の霊のうち、浮かばれぬ霊が怨霊となり、それが鬼という形をとって人間にさまざまな災厄をもたらす。だから山の奥からやってきたというのは、桃太郎が鬼の子であるとまではいえぬまでも、異種異形の人、つまり「まれびと」であることを意味する。
桃太郎は後に、お婆さんに黍団子をつくってもらい、それを持って鬼が島へ出かけるのであるが、子どもがそのような冒険をするという話の展開にとって、その子が「まれびと」としての強さを備えていることが必要だったのであろう。
次に、桃太郎が鬼退治に出かける先は鬼が島、つまり海の彼方にあるところである。日本の昔話には、浦島太郎のように海底を舞台にするものもあれば、その背景として記紀神話の山の幸の物語もある。だが普通の昔話で語られる鬼は山の中に住んでおり、山の神の化身であることをうかがわせる。その点で、桃太郎の出かける鬼が島の鬼は、通常の昔話に出てくる鬼とは聊か毛色が変わっているといえる。
しかも桃太郎の話に出てくる鬼は、ほかの物語に出てくる鬼のような荒々しい印象を与えない。桃太郎を一口で食ってやろうというような残忍さはなく、むしろ簡単に降伏して自ら進んで宝物を差し出す。
桃太郎の鬼が島遠征は、荒ぶる鬼の退治が目的なのではなく、祖霊の住むなつかしい国を訪問するというのが、そもそもの形だったのではないか。桃太郎が持ち帰る宝物は、先祖からの尊い贈り物だったのではないか。
柳田国男の説を始め、日本人の祖先を海洋民族に求める有力な説がある。記紀の神話にも、日本人の祖先の少なくとも一部が海洋民族であったと考えられる要素がある。山の幸の話もそうだし、オオクニヌシやスクナヒコナの話にも、南方起源と思われる要素が伺われる。
スサノオ神話には、母の住む根の国を訪ねる話が出てくるが、その根の国とは海の彼方にある国であった。またスクナヒコナは海の彼方から小さな舟に乗ってやってくる。沖縄では今でも海の彼方の国をニライカナイといって信仰することが行なわれているらしいが、この「ニライカナイ」とはとりもなおさず、根(ニ)の国の転化した形なのである。
こうしてみると、桃太郎の伝説には、日本人の間にある海洋民族としての想像力が紛れ込んでいるのではないか、そのように考えられるのである。
桃太郎の話には殆どの場合、猿、キジ、犬が従者として出てくる。何故これらの動物でなければならないのか、十分明らかにすることはむつかしいが、この話を鬼の話としてとらえると糸口が見えてくるかもしれない。鬼は方角からいうと、丑寅の方角に住むと、古来伝えられている。北東を鬼門というのはここから出ている。これに対して申、酉、戌はその対極に位置する。このあたりがヒントになるかもしれない。
桃太郎は黍団子を持参する。話によっては、団子を持って訪ねてくれと、鬼に呼びかけられるというパターンもある。団子には古来祖先の霊を供養する効用があると信じられていた。今日においても、お盆や節々の行事に団子を捧げて、祖先の霊を供養する風習が廃れずに続いている。だから、これは鬼を退治するのが目的なのではなく、祖先の霊に会いに行くことを物語っているのではないかとも思える。
最後に、桃太郎は何故桃から生まれたのかという疑問が残る。陶淵明が桃源郷を詩に歌ったように、中国では桃に霊力を見る見方があった。西王母の桃は長寿の霊力があると信じられていた。
あるいは中国の信仰が日本の説話の中に紛れ込んだのかもしれない。だが記紀の神話の中でも、イザナキが桃を投げつけて黄泉醜女を追っ払った話が出てくるから、日本でも古来桃に特別な霊力を見ていたのかもしれない。そんな霊力を持ったものから生まれたことを強調することで、「まれびと」としての桃太郎の力を際立たせたかったのだろう。
普通の物語では、お婆さんが川で拾った桃を持ち帰って二つに割ると、中から桃太郎が生まれてきたということになっているが、筆者が聞いた伯耆地方の話では、お婆さんは桃を食って若返ったことになっている。お爺さんにも残りの桃を食わせるとやはり若返って立派な若者になったので、二人は喜んで抱き合い、その結果子どもが生まれたというのである。
桃の形が人の尻を連想させることから思いついた、一つのエロチックなバリエーションなのであろう。 
 
桃太郎2

 

誰もに親しまれてきた日本昔話「桃太郎」。桃から生まれ、イヌ、キジ、サルを伴って鬼征伐に行く。童話や絵本のなかの架空のヒーローと思いきや、吉備に伝わる古代伝承のなかに、 桃太郎は姿を変えて実在した。  
桃太郎の起源と昔話・桃太郎の誕生
〜桃太郎さん、桃太郎さん、お腰につけたキビ団子、一つ私にくださいな〜
イヌ、キジ、サルはキビ団子をもらい、桃太郎とともに鬼征伐に赴く。岡山駅前広場には家来を従えた桃太郎が「鬼退治にいざ出発!」と言わんばかりの像が立っている。桃太郎といえば岡山、岡山といえば桃太郎とキビ団子のイメージが定着している。名実ともに桃太郎は岡山のシンボルだ。
ところが、桃太郎話は日本の各地に残っている。“我が町の桃太郎”は全国に20〜30カ所もあり、それぞれ物語の設定は微妙に異なる。必ずしも桃から生まれるという筋書きだけではなく、桃を食べて若返った夫婦が子どもを授かる設定や、家来が石臼や馬糞、蜂、百足だったりする。それに鬼退治ではなく嫁探しという話もある。
とはいえ日本人の誰もが、童話や絵本、童謡を通して脳裏に刻みつけているのは、桃から生まれてイヌ、キジ、サルと一緒に鬼を退治する桃太郎だ。「おじいさんとおばあさんが、川から流れてきた大きな桃を家に持ち帰り、割ってみると桃のなかから男の子が現れた。おじいさんとおばあさんに大切に育てられ、立派に成長した桃太郎は、キビ団子を腰にぶらさげ、鬼ケ島へ鬼征伐に向かう。道中、イヌ、キジ、サルが家来となり、悪らつな鬼を退治した」。
「勧善懲悪」のヒーロー譚は、子どもにも分かりやすい。正義のもとに皆が助けあって鬼=悪者に立ち向かうヒロイズムは海外でも人気が高い。このお馴染みのストーリーの起源を辿れば、古代ギリシャや古代インド、中国や朝鮮半島の古い類話に至り、渡来の話が日本各地の風土と擦りあわされ、その土地固有の桃太郎伝説が口承されていった。物語の原話が形成されたのは室町時代とされ、鬼ケ島に渡る源為朝の武勇を描いた『保元物語』(鎌倉時代初期)がその雛形ではと考えられているが、昔話の多くの原形は『御伽草子』(室町時代から江戸時代初期)にあるというのが通説だ。
江戸時代になると、桃太郎話は内容がより標準化され、元禄の頃(1688〜1703年)には庶民の間に広く普及する。この頃には50冊近い桃太郎の関連本が出版され、とりわけ人気があったのは絵入りの庶民本として親しまれた「赤本」や「黄本」だ。滝沢馬琴の『燕石雑志[えんせきざっし]』や、京都上賀茂神社の神官が著した『雛廼宇計木[ひなのうけぎ]』の筋書きは、出生の部分がいささか異なるものの筋書きは今日の桃太郎話に近い。明治時代には、巌谷小波[いわやさざなみ]が『日本昔噺』を刊行、シリーズ第一編に取り上げられた桃太郎は全国で読まれるようになった。教科書にも掲載され、「勇」「智」「義」など徳育の教材として使われた。
さて、ではなぜ、岡山が桃太郎話の最有力地となったのだろう。『おかやまの桃太郎』の著者で、岡山市在住の市川俊介氏は、「岡山には桃太郎話にまつわる条件が揃っていて共通点が多いのです」という。岡山の古名は「吉備」、キビ団子の「黍」に通じ、桃は岡山を代表する特産物。だが、何にもまして信憑性を裏付けるのが“吉備の古代史”だ。桃太郎の寓話をそこに重ねあわせると、物語のなかの桃太郎、イヌ、キジ、サル、そして鬼の姿が歴史上に実在したかのように浮かび上がってくる。  
古代史に実在した鬼神と桃太郎の戦い
桃太郎伝説の地、吉備路へ。岡山市とその西隣の総社市を結んで吉備線が走る。車窓から望む風景は、肥沃な平野が遠くの山裾まで広がり、のどかで清々しい。古代、この沿線周辺は、大和政権と並ぶ勢力を誇った吉備国の中心地であった。この地こそ、『日本書紀』や『古事記』に記される桃太郎伝説の舞台だ。
吉備国は奈良時代、律令制によって4カ国(備前、備中、備後、美作)に分割されるまで、現在の広島県東部から岡山県全域を含む広大な領土を有した大国だった。高梁川と足守川が形成する大穀倉地帯吉備平野と、豊かな海産物と塩をもたらす瀬戸内海に恵まれ、国は大いに栄えた。中国山地を擁した吉備国は、鉄の一大産出地でもあった。大和朝廷を凌ぐ製鉄技術を駆使して農具をつくり、驚くばかりの農業生産量をあげた。『古今和歌集』に詠まれている「まがねふく吉備の中山おびにせる細谷川のおとのさやけさ」の「まがね」とは鉄であり、高度な製鉄技術や土木技術は、朝鮮半島から渡来した人びとがもたらしたものとされる。そして歌に詠まれた「吉備の中山」には、吉備津彦命を祀る吉備国の総鎮守、吉備津神社がある。吉備津彦命は「桃太郎」のモデルといわれ、吉備津神社に伝わる『吉備津宮縁起』には「温羅[うら]退治伝説」が記されている。温羅とはもう一方の主役「鬼」のことだ。
温羅の姿は、「人皇第11代垂仁[すいにん]天皇(または第10代崇神[すじん]天皇)の御代に、異国の鬼神が飛行して吉備国にやってきた。その名を温羅と呼んだ。鬼神温羅の両眼はらんらんと輝いて虎や狼のようで、その顎髭や髪は燃えるように赤かった。身長は一丈四尺(約4.2m)もあり力は大変強く、性質は荒々しく凶暴であった。温羅はやがて新山(現在の総社市黒尾)に居城を築き、そばの岩屋に盾(城)を構えた…」と描かれている(『おかやまの桃太郎』より要約)。
温羅は大和朝廷への貢ぎ物や物資を載せて瀬戸内海を渡る船を襲い、婦女子をたびたび略奪した。人びとは恐れおののき、温羅の棲む居城を「鬼ノ城[きのじょう]」と呼び、温羅の悪行を朝廷に訴えた。それに応えた朝廷は武将を派遣するが、神出鬼没にして変幻自在の温羅に、武将たちはことごとく追い返される。そこで朝廷は、孝霊天皇の皇子で武勇に優れた五十狭芹彦命[いさせりひこのみこと](吉備津彦命)を温羅退治に遣わす。その際、温羅征伐の供をしたのが三随臣、犬飼健命[いぬかいたけるのみこと]、留霊臣命[とめたまおみのみこと](鳥飼部の家系)、そして道案内役を務めた吉備足守の豪族・楽々森彦命[さざもりひこのみこと](猿田彦命)だ。これで桃太郎にイヌ、キジ、サルの顔ぶれがそろった。
向かうは、いざ鬼ケ島。吉備津彦命が陣を構えた吉備中山から北西を望むと、小高い山々が連なっている。遠目に山肌が露出しているように見えるその山頂が、温羅の棲み家・鬼ノ城だ。標高約400m、急峻な斜面には花崗岩の巨石がいくつも転がっている。露出しているように見えた山肌は、じつは土や岩石を積み上げて築かれた強固な城壁だった。
この山城は日本では数例しかない古代朝鮮式山城の典型で、国内最大規模。今も山腹に数カ所残る城壁は壮観で、古代にこれだけ頑丈で大規模な城を築いた吉備国の技術に改めて驚かされる。山上からは、両腕を広げてあまりある風景が眼下に展開する。遠くは屋島や讃岐富士(飯野山)が望め、麓を見下ろせば、小高い山々が海原に浮かぶ大小の島々のように見えてくる。現在の肥沃な平野部の大部分は当時、「吉備の穴海」と呼ばれる海だったという。つまり、鬼ノ城山が「鬼ケ島」だったとしてもおかしくはない。  
鬼は大和朝廷を脅かす吉備国の大王か
吉備津彦命と温羅がいよいよ一戦を交える時がきた。「温羅退治伝説」はさらにこう続く。
「(温羅は)戦うこと雷のようにその勢いはすさまじく、豪勇の吉備津彦命もさすがに攻めあぐねた。命の射る矢は不思議なことにいつも温羅の放つ矢と空中で絡みあい、海へ落下。そこで命は神力を現し、強力な弓を持って一度に二本の矢を射た。一本は岩にあたり落下したが、一本は温羅の左目にみごとに命中し、血潮がこんこんと流水のようにほとばしった…」。
矢が刺さった温羅の目から流れ出た血は瞬く間に川となる。鬼ノ城山の麓を流れ、足守川に合流するその川の名は「血吸川[ちすいがわ]」。温羅はたまらず雉[きじ]と化し山中に隠れるが、吉備津彦命は鷹となり後を追う。すると温羅は鯉に姿を変え血吸川へ逃走、命は鵜に化身し温羅を捕らえる。そして、命はついに降参した温羅の首をはねる…。鬼をみごと成敗し、めでたしめでたしで“おしまい”となるはずの桃太郎話だが、「温羅退治伝説」にはまだ先がある。
はねられた温羅の首は、その後何年も恐ろしい唸り声を発し、その声は辺りに大きくこだました。吉備津彦命はその首を犬に食わせるよう犬飼健命に命じ、首は髑髏[どくろ]となったが、それでも唸り声は止まない。そこで吉備津彦命は、吉備津神社御釜殿の床下に髑髏と化した首を埋める。しかしその後も「13年間唸り止まず」と『吉備津宮縁起』には記されている。ところがある夜、夢枕に温羅の霊が現れ、吉備津彦命にこう告げた。「吾が妻、阿曾姫[あぞひめ]をして釜殿の釜を炊かしめよ。もし世の中に事あれば、釜の前に参り給え。幸いあれば裕[ゆた]かに鳴り、災いあれば荒らかに鳴ろう」。お告げどおりにすると、なんと唸り声は鎮まった。
以降、吉備津神社では「鳴釜神事[なるかましんじ]」が行われるようになる。鳴釜神事はじつに不思議だ。厳かな空気漂う御釜殿には大きな鉄釜が据えられた土の竃[かまど]があり、巫女が甑[こしき]に少量の玄米を入れ、片手で玄米を蒸すような仕草をする。そして、神官が祝詞をあげるとやがて、目の前の鉄釜が唸りはじめ、御釜殿は大音響に包まれる。その音の響きで吉凶を占う。つい最近まで、この神事を司る巫女は阿曾姫の里、鬼ノ城山麓にある阿曾郷出身の女性に限られていた。
かくして、温羅を征伐した吉備津彦命は長きにわたり吉備国を統治した。この吉備津彦命と犬飼健命、留霊臣命、猿田彦命が桃太郎と従者のモデルというわけだ。桃太郎こと吉備津彦命は、吉備中山の茶臼山御陵に今も眠っている。
桃太郎は吉備津彦命。鬼は人知の及び知れないもの、隠れたるもの、すなわち外敵。「温羅退治伝説」を古代史と摺りあわせると、勢力拡大をもくろむ大和朝廷にとって、吉備国の大王は脅威なる「鬼」だったに違いない。そこで、吉備津彦命が吉備国制圧に起ち、吉備国を平定した。吉備津彦命亡き後の律令制による吉備国分国は、強大すぎた勢力の分割とは考えられないか。しかし奇妙なことに、吉備津彦命を祭神とする吉備津神社は、敵[かたき]であるはずの温羅も大切に祀っている。温羅は決して悪行、乱暴を極めた暴君ではなく、国に高度な技術を伝え導き、繁栄をもたらした大王として、吉備の民から広く敬われる存在だったのではないだろうか。
『おかやまの桃太郎』を著した市川氏は話す。「桃太郎を古代史に関わる伝承や資料に基づいて検証してみると、調べるほどに吉備津彦命が桃太郎のモデルとされた根拠が出てきます。しかし、この話を通して私が多くの人に本当に伝えたいことは、吉備の深い歴史や文化です」と。
こうして吉備路を歩き、吉備の伝承や史跡、文化に触れながら桃太郎伝説を辿ると、桃太郎はやはりこの地に“実在した”という気になってくる。 
 
吉備津彦と桃太郎3

 

吉備津彦命
古代日本の皇族。孝霊天皇の第3皇子で、生母は妃倭国香媛(やまとのくにかひめ)とも(『日本書紀』)、意富夜麻登玖邇阿礼比売命(おほやまとくにあれひめのみこと)(安寧天皇の皇曾孫)とも伝える(『古事記』)。また、本来の名は彦五十狭芹彦命(ひこいさせりびこのみこと。比古伊佐勢理毘古命にも作る)といい、亦の名前が吉備津彦命(『書記』)、大吉備津日子命(『古事記』)であったと伝える。吉備冠者(きびのかじゃ)ともいう。山陽道を主に制圧した四道将軍の一人。
1説に吉備国制圧の目的は同国の製鉄技術の掌握であったとされる。
また、同天皇60年には武渟川別(大彦命の王子)とともに出雲国へ出征して出雲振根を誅滅している。

備前の一宮
岡山市西部、備前国と備中国の境に立つ吉備の中山(標高175m)の北東麓に東面して鎮座する。吉備の中山は古来より神体山として信仰されており、北西麓には備中国一宮・吉備津神社が鎮座する。当社と吉備津神社とも、当地を治めたとされる大吉備津彦命を主祭神に祀り、命の関係一族を配祀する。
社伝では推古天皇の時代に創建されたとするが、初見の記事は平安後期である。神体山と仰がれる吉備の中山の裾の、大吉備津彦命の住居跡に社殿が創建されたのが起源と考えられている。
延喜5年(905年)から延長5年(927年)にかけて編纂された『延喜式神名帳』には、備前国の名神大社として安仁神社が記載されているが当社の記載はない。しかしながら、一宮制が確立し名神大社制が消えると、備前国一宮は吉備津彦神社となったとされている。これは天慶2年(939年)における天慶の乱(藤原純友の乱)の際、安仁神社が純友に味方したことに起因する。一方で吉備津彦神社の本宮にあたる吉備津神社が、朝廷による藤原純友の乱平定の祈願の御神意著しかったとして940年に一品の神階を授かった。それに伴い安仁神社は一宮としての地位を失い、備前の吉備津彦神社にその地位を譲る事となったとされる。
祭神は以下の12柱。
主祭神
大吉備津彦命 (おおきびつひこのみこと)
第7代孝霊天皇の皇子。大吉備津日子命とも記し、別名を比古伊佐勢理比古命とも。崇神天皇10年、四道将軍の一人として山陽道に派遣され、若日子建吉備津彦命と協力して吉備を平定した。その子孫が吉備の国造となり、古代豪族・吉備臣へと発展したとされる。
相殿神
吉備津彦命 (若日子建吉備津彦命、稚武彦命) – 大吉備津彦命の弟または子。なお、一般には「吉備津彦命」といえば主祭神の大吉備津彦命の方を指す。
孝霊天皇 – 第7代。大吉備津彦命の父
孝元天皇 – 第8代。大吉備津彦命の兄弟
開化天皇 – 第9代。孝元天皇の子
崇神天皇 – 第10代。開化天皇の子
彦刺肩別命 (ひこさしかたわけのみこと) – 大吉備津彦命の兄
天足彦国押人命 (あまたらしひこくにおしひとのみこと) – 第5代孝昭天皇の子
大倭迹々日百襲比売命 (おおやまとととひももそひめのみこと) – 大吉備津彦命の姉
大倭迹々日稚屋比売命 (おおやまとととひわかやひめのみこと) – 大吉備津彦命の妹
金山彦大神
大山咋大神

吉備津神社 備中一宮
岡山県岡山市に鎮座する備中国一宮、吉備津神社の社伝によると、その後、命は吉備の中山の麓に茅葺宮を造って住み、281歳で亡くなって中山の山頂(茶臼山)に葬られたとされている。この中山茶臼山古墳(正式名称は大吉備津彦命墓)は土地の人々には「御陵」や「御廟」とも呼ばれており、現在では陵墓参考地として宮内庁の管理下にある。
主祭神
大吉備津彦(おおきびつひこ)命
第7代孝霊天皇の第三皇子で、元の名を彦五十狭芹彦(ひこいせさりひこ)命(または五十狭芹彦命)。崇神天皇10年、四道将軍の一人として山陽道に派遣され、弟の若日子建吉備津彦命と吉備を平定した。その子孫が吉備の国造となり、古代豪族・吉備臣になったとされる。
相殿神
御友別(みともわけ)命 – 大吉備津彦命の子孫
仲彦(なかつひこ)命 – 大吉備津彦命の子孫
千々速比売(ちちはやひめ)命 – 大吉備津彦命の姉
倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命 – 大吉備津彦命の姉
日子刺肩別(ひこさすかたわけ)命 – 大吉備津彦命の兄
倭迹迹日稚屋媛(やまとととひわかやひめ)命 – 大吉備津彦命の妹
彦寤間(ひこさめま)命 – 大吉備津彦命の弟
若日子建吉備津日子(わかひこたけきびつひこ)命 – 大吉備津彦命の弟
古くは「吉備津五所大明神」として、正宮と他の4社の5社で一社を成した。

田村神社 讃岐 一宮
田村神社(たむらじんじゃ)は、香川県高松市一宮町にある神社。式内社(名神大社)、讃岐国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社
祭神は以下の5柱で、「田村大神」と総称される。
倭迹迹日百襲姫命 (やまとととひももそひめのみこと)
五十狭芹彦命 (いさせりひこのみこと)別名を吉備津彦命(きびつひこのみこと)。
猿田彦大神 (さるたひこのおおかみ)
天隠山命 (あめのかぐやまのみこと)別名を高倉下命(たかくらじのみこと)。
天五田根命 (あめのいたねのみこと) – 別名を天村雲命(あめのむらくものみこと)。
田村大神について、中世の書物では猿田彦大神や五十狭芹彦命指すとされ、近世には神櫛別命・宇治比売命・田村比売命・田村命など様々で一定していない。社伝創建前は井戸の上に神が祀られていたことから、元々は当地の水神(龍神)であったとする説もある。

桃太郎伝説は、古事記・日本書紀で語られる孝霊天皇の息子、兄、大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)とその弟の若建吉備津日子命(わかたけきびつひこのみこと)が大和国から出て、西方を平定した話から成立したという説があります。
大吉備津日子命は播磨国から古代山陽道に入り、吉備国へ向かったとされています。
また、大吉備津日子命は吉備の上の道の臣の祖となり若建吉備津日子命は下の道の臣の祖となったとされていることから現在の岡山県に残る桃太郎伝説のモデルが大吉備津日子命香川県に残る桃太郎伝説のモデルが若建吉備津日子命ではないかと言われています。
昔、百済の皇子とされる温羅とその一派が吉備国にやってきました。
温羅はとても大きく、人並み外れて強く、また凶悪な性格で、辺りの人々を襲っていたとされます。
温羅を恐れた人々は、彼らの居城を鬼の城と呼んでいました。
そこで大和朝廷が、武勇に優れた五十狭芹彦命(=大吉備津日子命)を討伐のため派遣しました。
五十狭芹彦命は、犬飼健(いぬかいたける)・楽々森彦(ささもりひこ)・留玉臣(とめたまおみ)ら、三人の家来と共に温羅討伐を開始します。
五十狭芹彦命の放った矢と、温羅の放った矢(石ともされています)は、ことごとくぶつかり合い、相殺されてしまいます。
この矢がぶつかり合ったとされる位置に矢喰神社があります。実際、鬼ノ城と楯築遺跡のほぼ中間地点にあります。
五十狭芹彦命は、片岡山に石の盾を設置して、鬼ノ城の温羅へ向かって矢を放ったといいます。鬼ノ城から片岡山まで直線距離で約8キロあります。
互いに矢が届かない状況が続く中、五十狭芹彦命は、二つの矢を一緒に放つことを思いつき、強弓を用意して、二本同時に矢を放ちました。
すると、一つの矢は温羅の矢とぶつかりましたが、もう一本の矢はみごと温羅に当たったのです。
このとき、温羅から流れた血が赤く染めたため、この川を血吸川と呼ぶようになりました。
川が赤くなる現象の理由として挙げられるのは、染料もしくは鉄分の流出です。
昔、この地域は製鉄が盛んだったと言われています。そういったことから、桃太郎伝説は、当時の大和朝廷が製鉄技術者達を制圧したことを物語にしたのではないかという説もあります。
最終的に、温羅は五十狭芹彦命によって首を刎ねられ、その首は串に刺され晒されました。しかし、温羅の首はずっと唸り続け人々を長く悩ませたといいます。 また、温羅を討った五十狭芹彦命は、吉備津彦と呼ばれるようになります。
夜毎唸り続ける温羅の首を、吉備津神社のお釜殿の下に埋めてもみましたが、一向に治まるようすはありませんでした。
ある夜、吉備津彦が夢に温羅が現れ、温羅の妻、阿曽媛に釜を炊かせ、自分を祀って、その釜の音で吉凶を占わせるよう告げました。
吉備津彦がその通りにすると、唸り声は治まりました。このことが、吉備津神社で今も行われる鳴釜神事の起こりであるとされています。
吉備津彦は281歳の長寿を全うしたといいます。
中山茶臼山古墳は、大吉備津彦命墓として宮内庁の管理下にあります。
若建吉備津日子命(=稚武彦命(わかたけひこのみこと))は、地方開拓のため讃岐国にやってきます。当時、瀬戸内海には海賊達が出没して、鬼と呼ばれるほどの非道の限りを尽くし、周辺の住民達は大いに困っていました。
若建吉備津日子命は、この川で洗濯をしていた美しい女性(=のちの昔話ではお婆さんが洗濯していたとされています)にひとめぼれします。
そこで、海賊の悪さを知った若建吉備津日子命は、この女性に婿入りし、老夫婦の養子となって、海賊退治に乗り出します。
若建吉備津日子命は、三人の勇士を従えて、鬼ヶ島に住む海賊達の討伐に乗り出します。現在女木島と呼ばれる瀬戸内海に浮かぶ島は、人工大洞窟が発見されたことにより、
この昔話で語られる鬼ヶ島として広く知られることになりました。
みごと海賊を退治して鬼ヶ島より凱旋した若建吉備津日子命と三人の勇士
(彼らの出身は綾南町の猿王・岡山の犬島・鬼無の雉ガ谷とされ、これが犬・猿・雉の元となったとされます)ですが、海賊達は報復しようと彼らを追ってきます。
しかし、逆に返り討ちにし、海賊達は全滅しました。この海賊達の屍を埋めた里を「鬼無」と呼ぶようになったといいます。
ここには桃太郎と犬・猿・雉、爺婆の墓や石碑があります。
香川県の桃太郎伝説は、讃岐国守だった菅原道真が、漁師から若建吉備津日子命と三人の勇士が海賊討伐をした話を聞き、おとぎ話としてまとめられたものが全国に広まったとされています。 
 
鬼ヶ島

 

御伽話説話の桃太郎や一寸法師などに登場する鬼が住んでいる島。
説話には具体的場所、状態の説明はない。そのため一般的には岩で出来た島で、鬼の要塞としての砦が築かれていると想像されるのみである。
鬼が住むとされる島の記述は、古くは13世紀前後成立の『保元物語』において、「鬼島(諸本によって「鬼が島」「鬼の島」)」が文献上に見られ、源為朝が鬼の子孫を称する島人と会話をし、「鬼持なる隠蓑、隠笠、打ち出の履(くつ)」といった神通力を有する宝具を所持していた(が、為朝上陸時点ではなくなっている)ことが説明されている。この鬼ヶ島については、青ヶ島の古名であり、青島に鬼島の伝承があったことを示唆するものとされる。
なお、後述する日本各地にある伝承地・モデルとされる地においては、必ずしも島であるとは限らず、陸地であるものもある。
伝承地
岡山県 / 桃太郎伝説のある地方のひとつで、吉備津彦・温羅伝説が残る岡山県総社市・岡山市では、総社市東部にある鬼ノ城という城が築かれた鬼城山(きのじょうざん)が鬼ヶ島のモデルとされている。桃太郎に登場する鬼のモデルといわれる温羅という大男が、伝説内で居城としていたためである。同県は、桃太郎が県のマスコット的な位置付けになっていることで知られる。
香川県 / 桃太郎伝説のある地方のひとつ香川県高松市では、高松港の沖合い約4kmの瀬戸内海に浮かぶ女木島を鬼ヶ島の一部であると伝えられる。鬼ヶ島は、美世夜島といわれ杉沢村などの都市伝説はこの島の伝説がもととなっている。美世夜島の由来は、鬼が住む=あの世とされ死者を敬うためにあの世を美しい世界と表したもの。夜という字は夜が死者の世界とされていたため。鬼の世界ということで今では沈んでしまい残った部分が女木島とされているという。
岐阜県 / 桃太郎伝説のある地方のひとつ木曽川中地域(愛知県・岐阜県)では、岐阜県可児市塩字中島の可児川(木曽川支流)にある中州が鬼ヶ島であると伝えられている。中州であるが、約2000万年にこの付近に存在した火山の噴火で発生した火砕流でできた凝灰角礫岩でできた島である。かつて山賊の住処であったと推測されている。 
鬼ノ城
岡山県総社市の鬼城山(きのじょうざん、標高397メートル)に遺る日本の城(神籠石式山城)。城跡は国の史跡に指定されている。
すり鉢形の鬼城山の山頂周囲を石垣・土塁による城壁が周囲2.8キロメートルに渡って取り巻く。城壁によって囲まれた面積は約30ヘクタールを測る。城壁の要所に、門、城外への排水機能を持つ水門を配する。門は東西南北4ヶ所、水門は6か所に確認されている。城の内部には食料貯蔵庫や管理棟などと推定される礎石建物が7棟、烽火場の可能性が指摘される焚き火跡、水汲み場、鍛冶場、工事のための土取り跡などが確認されている。
歴史沿革
飛鳥時代
663年(天智天皇2年)の白村江の戦いに倭国が敗れた後、唐・新羅の侵攻に備え築城したと考えられている。『日本書紀』などには西日本の要所に大野城など12の古代山城を築いたと記されており、鬼ノ城も防衛施設の一つであろうと推測される。しかし、どの歴史書の類にも一切記されていないなど、その真相は未だに解明されていない謎の山城である。史書に記載が無く、12の古代山城に該当しないものは神籠石式山城と呼ばれる。
現代
山中に石垣などの遺構が存在することは古くから知られていたが、1971年(昭和46年)に城壁の基礎となる列石が見つかり、古代山城と認識された。1986年(昭和61年)3月25日に国の史跡に指定された。指定名称は「鬼城山(きのじょうざん)」。現在は総社市教育委員会が2001年(平成13年)より史跡整備を行っている。特に西門遺構は建造物・土塁・石垣の復元を進めている。2006年(平成18年)からは、岡山県教育委員会による7か年計画の城内確認調査も開始された。なお、城内には湿地を中心として希少植物も多く分布するため、1999年(平成11年)には発掘調査と自然保護との調整が問題となったことがある。
伝承
当地には温羅と呼ばれる鬼が住んでいたという伝承が残っている。それによると温羅は当地を拠点とし、討伐に赴いた吉備津彦命と戦って敗北したのち、吉備津神社の御釜殿の下に埋められたという。
温羅(うら/おんら)
岡山県南部の吉備地方に伝わる古代の鬼。
温羅とは伝承上の鬼・人物で、古代吉備地方の統治者であったとされる。「鬼神」「吉備冠者(きびのかじゃ)」という異称があり、中央の伝承によると吉備には吉備津彦命(きびつひこのみこと)が派遣されたというが、吉備に残る伝承では温羅は吉備津彦命に退治されたという。伝承は遅くとも室町時代末期には現在の形で成立したものと見られ、文書には数種類の縁起が伝えられている。また、この伝承は桃太郎のモチーフになったともいわれる。
伝承によると、温羅は吉備の外から飛来して吉備に至り、製鉄技術を吉備地域へもたらして鬼ノ城を拠点として一帯を支配したという。吉備の人々は都へ出向いて窮状を訴えたため、これを救うべく崇神天皇(第10代)は孝霊天皇(第7代)の子で四道将軍の1人の吉備津彦命を派遣した。
討伐に際し、吉備津彦命は現在の吉備津神社の地に本陣を構えた。そして温羅に対して矢を1本ずつ射たが矢は岩に呑み込まれた。そこで命は2本同時に射て温羅の左眼を射抜いた。すると温羅は雉に化けて逃げたので、命は鷹に化けて追った。さらに温羅は鯉に身を変えて逃げたので、吉備津彦は鵜に変化してついに温羅を捕らえた。そうして温羅を討ったという。
討たれた温羅の首はさらされることになったが、討たれてなお首には生気があり、時折目を見開いてはうなり声を上げた。気味悪く思った人々は吉備津彦命に相談し、吉備津彦命は犬飼武命に命じて犬に首を食わせて骨としたが、静まることはなかった。次に吉備津彦命は吉備津宮の釜殿の竈の地中深くに骨を埋めたが、13年間うなり声は止まず、周辺に鳴り響いた。ある日、吉備津彦命の夢の中に温羅が現れ、温羅の妻の阿曽媛に釜殿の神饌を炊かせるよう告げた。このことを人々に伝えて神事を執り行うと、うなり声は鎮まった。その後、温羅は吉凶を占う存在となったという(吉備津神社の鳴釜神事)。 
鬼無の桃太郎伝説
鬼無(きなし)は高松市北西部にある一地区で、高松市役所鬼無出張所の管内。鬼無町藤井、鬼無町是竹、鬼無町佐料、鬼無町佐藤、鬼無町山口、鬼無町鬼無の6町からなる。かつては全域が「香川郡上笠居村」(かみかさいむら)として存在し、1956年9月30日に高松市に編入された。
この鬼無地区は桃太郎伝説の地の1つであり、南西部の袋山山麓には「桃太郎神社」が存在する。
鬼無地区の桃太郎伝説、すなわち高松の桃太郎伝説が知られる所以になったのは、当時上笠居小学校(現・高松市立鬼無小学校)の訓導(教諭)であった橋本仙太郎が1930年(昭和5年)、四国民報(現・四国新聞)に掲載した論文『童話「桃太郎」の発祥地は讃岐の鬼無』に始まる。
彼は24歳であった1914年(大正3年)秋に、当時の内閣総理大臣兼外務大臣であった大隈重信が鬼無駅で行った演説「この駅はオニナシかと思えば、キナシと読むそうだ。なかなか面白い地名だと思う。とにかく、村人諸氏は地名のそれのように何とぞ心の中に鬼が無いように、個人も団体も皆ますます向上発展に努力されたい…」を聞いて郷土の歴史に興味を持ち、郷土研究を始めた。その後、古文書研究などから桃太郎伝説は実話で、鬼無という地名からその場所が現在の鬼無地区であることをまとめ、演説を聴いてから16年後、彼が40歳の時にその論文を発表するに至った。
その論文によると
桃太郎 / 第七代孝霊天皇(前342 - 215年)の第八皇子である稚武彦命。
鬼 / 高松市沖にある女木島を本拠としていた海賊。
お爺さん・お婆さん / 安徳(鬼無町)の大古家(おおふるや)に住んでいた宇佐津彦命の後裔。 お婆さんは実は年頃の美しい娘である。
2人は海賊を恐れ、約1.5km内陸にある神高(かんだか、鬼無町山口)に避難し、「やらい屋敷」と呼んだ。
犬・猿・雉:実在した勇士達で「犬」は岡山県犬島の住人、「猿」は香川県綾川町陶の陶芸師猿王(さるおう)、「雉」は鬼無町雉ヶ谷の住人。
お爺さんが芝刈りに行った山 / 高松市香西北町の「芝山」
お婆さんが洗濯に行った川 / 本津川
当時、鬼達は周辺各地に出没して非道の悪事を重ね、住民は恐怖の毎日を過ごしていた。その頃、地方開拓のためこのあたりに立ち寄った桃太郎は本津川で洗濯をしていた美しい娘(お婆さん)に一目惚れした。そこで、悪事を重ねる鬼の話を知ると2人の住む「神高」に養子入りして、鬼退治のため援軍を募り、犬・猿・雉をはじめ多くの強力な軍勢を仲間にした。桃太郎はお婆さんの作った「黍団子」を腰に鬼の本拠である女木島へ出撃し激戦の末、大勝利を収めて無事凱旋した。後日、鬼は桃太郎軍に逆襲してきたが、「せり塚」という場所で一人残らず返り討ちに遭い、全滅させられた。その鬼たちの屍を埋めたのが、今の「鬼ヶ塚」である。そこでこの里を「鬼無」と言うようになった。その後、当時讃岐国守であった菅原道真が漁師にこの海賊征伐の話を聞き、おとぎ話としてまとめ、全国に「桃太郎伝説」を広めた。
この論文が発表された翌年の1931年(昭和6年)には橋本仙太郎によって女木島に人工の大洞窟が発見され、論文の効果と相まって桃太郎伝説の信憑性は一気に高まった。鬼無地区やその周辺には桃太郎伝説にあやかった愛称が多数存在する。 
桃太郎神社
愛知県犬山市栗栖(くりす)にある神社。犬山市には桃太郎伝説が存在する。全国的にも珍しい桃型の鳥居があるほか、桃太郎のおばあさんが洗濯をした洗濯岩などがある。毎年、5月5日のこどもの日には桃太郎祭りが開かれる。祭りで披露される「桃太郎おどり」は、野口雨情が作詞したという桃太郎音頭のことである。神社周辺は桃太郎公園として整備されている。道路から、一の鳥居、二の鳥居を経て、石段を上ると、桃鳥居と拝殿がある。なお、一の鳥居と二の鳥居は、普通の神社にあるような鳥居である。地元では、子どもの健康を祈る神社としての認識が高く、大切にされている。
地域の桃太郎伝説
この地域(岐阜県・愛知県の木曽川中流域)に伝わる桃太郎伝説では、桃太郎は栗栖(現・愛知県犬山市栗栖)で育ち、鬼ヶ島(現・岐阜県可児市塩の可児川にある島)へ鬼退治へ行ったという。この地域では、桃太郎に関わる地名も多く残っている。
犬山(現・犬山市) / 家来の犬がいた地
猿洞(現・犬山市) / 家来の猿がいた地
雉ケ棚(現・犬山市) / 家来の雉がいた地
今渡(現・可児市) / 鬼が桃太郎が乗った船を見つけた地
取組(現・坂祝町) / 桃太郎と鬼が取っ組み合いをした地
勝山(現・坂祝町) / 桃太郎が勝どきをあげた地
宝積寺(現・各務原市) / 鬼から奪った宝を積み上げた地 
 
信州・鬼無里の伝説

 


鬼女紅葉1
その昔、会津の伴笹丸・菊世夫婦は第六天の魔王に祈って娘呉葉を授かりました。娘が才色備えた美しい女性に成長したとき、一家は都に上って小店を開き呉葉は紅葉と名を改めて琴の指南を始めました。
ある日、紅葉の琴の音に足を止めた源経基公の御台所は紅葉を屋敷に召して侍女といたしました。紅葉の美しさは経基公の目にも止まり、公は紅葉を召して夜を共にしました。経基公の子を宿した紅葉は公の寵愛を独り占めにしたいと思うようになり、邪法を使い御台所を呪い殺そうと計りましたが企てが露見してしまい、紅葉は捕らえられ信濃の戸隠へ流されてしまいました。
信濃に至り、川を遡ると水無瀬という山里に出ました。「我は都の者。御台所の嫉妬で追放の憂き目にあいなった。」と語る麗人に純朴な里人は哀れみ、内裏屋敷を建てて住まわせました。紅葉は喜び、里人が病に苦しむと占いや加持祈祷で直してあげたのでした。紅葉は付近の里に東京、西京、二条、三条、などの名をつけて都を偲んでいましたが、月満ちて玉のような男の子を産むと、その子を一目経基公に見せたいと思うようになり、兵を集め力づくでも都へ上ろうと考えました。
里人には「経基公より迎えが来たので都へ戻ります」と言い置き、戸隠荒倉山の岩屋に移ると、戸隠山中の山賊を配下とし、村々を襲い軍資金を集めました。
そのうわさが冷泉天皇の知るところとなり、天皇は平維茂に紅葉征伐を命じました。平維茂は山賊共を打ち破り、紅葉の岩屋へ攻め寄せますが、紅葉は妖術を使い維茂軍を道に迷わせます。妖術を破るには神仏の力にすがるほかないと別所温泉北向き観音に籠もり、満願の日に一振りの宝剣を授かりました。
意気上がる維茂軍を紅葉は又もや妖術で退けようとしましたが宝剣の前に術が効きません。やむなく雲に乗って逃げようとする紅葉に、維茂は宝剣を弓につがえて放つと、紅葉の胸に刺さり、地面に落ちて息絶えました。享年33歳と伝わります。
人々はこれより水無瀬の里を鬼のいない里・鬼無里と言うようになりました。
鬼女紅葉2
紅葉伝説(もみじでんせつ)は、信州戸隠(とがくし)、鬼無里(きなさ・現、長野県長野市)、別所温泉に伝わる鬼女にまつわる伝説で、紅葉は女主人公の名前である。紅葉の討伐に勅命を承けた平維茂が紅葉と戦い討ち捕る話として伝えられている。
北向山霊験記戸隠山鬼女紅葉退治之傳全からの要約
937年(承平7年)のこと、会津には子供に恵まれなかった夫婦、伴笹丸(とものささまる)と菊世(きくよ)がいた。2人が第六天の魔王に祈った甲斐があり、女児を得、呉葉(くれは)と名付けた。才色兼備の呉葉は豪農の息子に強引に結婚を迫られた。呉葉は秘術によって自分そっくりの美女を生み出し、これを身代わりに結婚させた。偽呉葉と豪農の息子はしばらくは睦まじく暮らしたが、ある日偽呉葉は糸の雲に乗って消え、その時すでに呉葉の家族も逃亡していた。呉葉と両親は京に上った。ここでは呉葉は紅葉と名乗り、初め琴を教えていたが、源経基の御台所の目にとまり、腰元となりやがて局となった。紅葉は経基の子供を妊娠するが、その頃御台所が懸かっていた病の原因が紅葉の呪いであると比叡山の高僧に看破され、結局経基は紅葉を信州戸隠に追放することにした。956年(天暦10年)秋、まさに紅葉の時期に、紅葉は水無瀬(みなせ・鬼無里の古名)に辿り着いた。経基の子を宿し京の文物に通じ、しかも美人である紅葉は村人達に尊ばれはしたものの、やはり恋しいのは都の暮らしである。経基に因んで息子に経若丸(つねわかまる)と名付け、また村人も村の各所に京にゆかりの地名を付けた。これらの地名は現在でも鬼無里の地に残っている。だが、我が身を思うと京での栄華は遥かに遠い。このため次第に紅葉の心は荒み、京に上るための軍資金を集めようと、一党を率いて戸隠山(荒倉山)に籠り、夜な夜な他の村を荒しに出るようになる。この噂は戸隠の鬼女として京にまで伝わった。ここに平維茂が鬼女討伐を任ぜられ、笹平(ささだいら)に陣を構え出撃したものの、紅葉の妖術に阻まれさんざんな目にあう。かくなる上は神仏に縋る他なしと、観音に参ること17日、ついに夢枕に現れた白髪の老僧から降魔の剣を授かる。今度こそ鬼女を伐つべしと意気上がる維茂軍の前に、流石の紅葉も敗れ、維茂が振る神剣の一撃に首を跳ねられることとなった。呉葉=紅葉33歳の晩秋であった。
一夜山の鬼
昔むかし、天武天皇は遷都を計画され、その候補地として信濃に遷都に相応しい地があるかを探るため、三野王、小錦下采女臣筑羅らを信濃に遣わしました。使者は信濃の各地を巡視して候補地を探し、水内の水無瀬こそ都に相応しい地相であるとの結論を得ました。そこで早速この地の地図を作り奉り天皇に報告いたしました。
これを知ったこの地に住む鬼たちは大いにあわて、「この静かなところに都なんぞ出来たら、俺たちの棲むところがなくなってしまう。」「都が出来ぬように山を築いて邪魔してしまえ。」と、すぐさま一夜で里の真ん中に大きな山を築いてしまいました。
これでは遷都は出来ません。怒った天皇は阿部比羅夫に命じて鬼たちを退治させてしまいました。
この時から、この水無瀬の地に鬼はいなくなったので 人々はこの地を鬼無里と、又真ん中に出来た山を一夜山と呼ぶようになりました。
 
鬼女紅葉1

 

戸隠に伝わる鬼女紅葉の物語  
紅葉の父
今から、千年以上も前、清和天皇(850〜880)御宇貞完八年(866)に皇居正面の応天門が、一夜にして炎上するという事件があり時の大納言、伴善男(とものよしお、万葉の歌人大伴家持の子孫)が放火の犯人とされ、その罪で伊豆へ流された。恵まれぬ境遇から身を起こして大納言までなれた切れ者で、政治的野心を持っていたと思われる伴善男の失脚によって時の太政大臣藤原良房の権力が一層強化されることになったという。伴善男は、その後大赦を受けた。
その子孫の伴笹丸というものが奥州会津に住んでいた。その妻菊世と云い、二人の間に子がなかったので、子が欲しいと神明仏陀に祈ったが効果がなかった。たまたま或人が第六天(欲界六天「欲六天」の第六で欲界の最高所、この天にうまれたものは他の楽事を以て自由自在に自己の楽とするから他自在天ともいう。なお欲六天とは、四大王衆天「四王天しおうてん」仞利天「とうりてん」、夜魔天「やまてん」、兜率天「とそつてん」、楽変化天「らくへんげてん」、他自在天「たけじざいてん」をいう。)の魔王に祈れば霊験あらたかであると教えたので、その教えに従って山谷に籠(こ)もって一心に祈ったところ、妻の菊世が身重となり、承平七年(937)の秋、女の子を出産した。
幼名呉葉
笹丸は喜んでその子の名前を呉葉とつけた、後の紅葉である。成長するに従い、その天性は自ずと現れて、近隣の大人も及ばぬ賢さとなった。読み書き、算用、琴、和歌、文章に至るまで才能を発揮して評判となる。呉葉が年頃になると美貌も評判となり、やがて遠近者達の噂に上るようになる。ファンレター、ラブレターを送るものも多く中には袖を引くものも現れたが、中でも会津の里に近い安賀寿村の富豪庄屋、河瀬源右衛門の一子源吉という者は呉葉の妖艶に心を迷わし、幾度かラブレターを送ったが呉葉は一向に相手にせず手紙の封も切らずに突き返したので、源吉は日々胸を焦がし、鬱々(うつうつ)と日を送るうちに朝夕の食事さえ進まなくなり、体は痩せ衰えて床につく日が多くなったので、これを憂いて源右衛門と、妻の岩里は使用人二人(勝丞、千代平)に金百両を持たせ笹丸のもとへ急いだ。ところが笹丸は我が子呉葉は無双の美貌で殊に才気尋常ではないから、早々に都(京都)に連れて行って高官貴氏に縁づけて、笹丸の身を起こそうと平素から望んでいたので、今この若者に嫁がせれば我が思いは果たすことができないと思い呉葉に相談すると、この金をだまし取ることを考え、呉葉は第六天の魔性を現わし、私を守る神様に頼みましょうといって庭先にでて天を仰いで呪文を唱えると、一天俄にかき曇り、髪型や衣服まで寸分違わぬ一人の娘が出現した。それは身代わりの魔性娘であった。それと知らぬ使用人二人は、その身代わりの娘を駕籠に乗せ安賀寿村へ急いだ。大金が入った三人は日暮れを待って人目を忍び都を目指して旅たった。これが天暦六年五月半ばと伝えられる。 一方身代わりの魔性娘の美貌に驚く両親とともに、うれし泣きする源吉に寄り添って身の回りの世話や看病に精出したので、源吉は見る見る良くなって元気を取り戻した。数日後源吉が庭先の木に蜘蛛が、糸を張っているのを見ていると、呉葉がそばに来て「私があの糸を取り払ってきましょう。」と言って箒を持って築山に登り枝に張られた蜘蛛の糸を払うと、不思議なことに箒に絡んだ蜘蛛の糸が見る見る大きくなって、雲となり、呉葉はその雲に乗って天上に昇っていってしまた。源吉が驚いて泣き叫ぶと皆が集まってきて不思議、不思議というばかりで他に声も出なかった。千代平ふと思いついて早速呉葉の里の会津へ急いでいって見ると、家は閉じられ空き家になっていた。
紅葉が京都へ
かくて笹丸親子三人は住み慣れた会津を後に都へ行き、四条通りの旅籠(はたご)に逗留して笹丸は伍輔、菊世は花田、呉葉は紅葉と名を改めた。しばらく都に住んで小さな店でも開いて生計を立てたいがと、宿の主人に相談を持ちかけたところ、宿の主人は、紅葉の容貌が尋常でないのを見て、必ず一度は世に出て栄えるであろうと思い、彼らのために四条通りのはづれに小さな店を借りてやった。 伍輔と花田は流行の髪道具や男女の履き物などを商いし紅葉は奥の一間で琴の指南を始めたところ、紅葉の容貌が美しいのでそれを見るために買い物に来る人も多く、店は賑わい、また琴の弟子入りする者も次第に多くなって来た。天暦七年の水無月の末の頃(陰暦の六月の末は今の八月に当たる)折からの暑さをさけて大勢の人が夕涼みに四条河原に出て居たが、その中に女中を交えた五人連れの客がいて、伍輔の店の前に立ち止まって紅葉のしらべる琴の音に聞き入っていた。 
これが源の経基(つねもと)公の御台所とお付きの女中達であって、御台は、老女深見に「このような賤しいあばらやで妙なる琴の音がするのは、或いは昔由緒ある人が落ちぶれて世を忍んでいるのかもしれない、立ち寄って見よう。」と言われたので、深見がこの家の妙なる琴の音が大変気に入ったので暫時休んでいきたいが、と申し入れると、伍輔はこんなあばら屋へようこそと引き入れた。さらに一曲所望されると紅葉は、未熟の芸でお恥ずかしいですけれども一時のお慰みにと言って、秘術を尽くして弾ずると、御台始め一同感に入って聞き入っていたが、聞き終わって御台は、「琴の音を聞いて身も心も澄み渡り、世の憂きことも忘れ大変楽しい一時を過ごすことが出来ました。これをご縁に今度は我が館にお招きしたいのでその節は是非お越しください。」と言って帰って行かれた。かくて御台は帰館後、紅葉の容貌骨柄が賤しくなく、琴の調べも素晴らしいので、賤しい商家においておくのは惜しいと思い、老女深見を使わしてその旨伝えた所、伍輔親子は渡りに船と喜んでお受けしたので、紅葉は支度料を賜って腰元として召し抱えられた。
経基公のもとへ
腰元に採用された紅葉は、まめまめしく仕えたので奥方に気に入られ、やがて先輩を追い出して早くも老女の待遇を受け、自分の局(つぼね)を持ち、下女まで召し使える身分に出世した。紅葉の才気芸能は誰言うとなく経基公の耳に届くようになる、公はある日の宴に紅葉を召して琴を調べさせよと言はれた。召し出された紅葉は末席の方から、公の前に進み出て、心にかの第六天を念じつつ、今日を晴れと力一杯弾じたので、連なる人々は皆紅葉の調べに感歓した。やがて一曲終わって経基公が紅葉を側近くに召されて御盃を賜った時、経基公は紅葉の艶麗さにふと心を動かされた。其の後公は紅葉のことが忘れらず、近習の侍三谷隼人の妻である百手(ももて)を局に使わして紅葉を誘った、はじめは断っていたが、お誘いが再三に及んだので遂に御意に従った。
紅葉の転落
かくて月日を経るうちに紅葉はいつしか経基公の御種を宿したが、そうなると紅葉は御台が次第に邪魔に思われるようになって、ついには御台を亡き者にしてその権勢を奪おうと考えるに至ったのは恐ろしいことである。紅葉は局の奥深く人目を忍んで壇を設け、怪しい魔術を行って御台を調伏したので、御台は始めは風邪のような症状で床に伏したが、典薬を召しても治療をしても一向に癒らず、病は日に日に重くなるばかりであった。ある時御台は、「我が病は不思議である昼間の苦しみは我慢できる程度だが、夜の丑満(午前三時)頃になると鬼の形をした者が多数現れて自分を悩ますが其の苦しみはたとえようもなく、さながら地獄に堕ちて鬼の阿責にあっているようである、仏に祈って何とかこの苦しみから逃れられないものなのだろうか。」と言われたので、老女深見は三谷隼人と相談し比叡山へ病悩平癒を祈願する事にした。三谷隼人は家に帰って妻の百手の弟、浅田伝蔵を呼び寄せて御台の病状を説明して、自分の代りに比叡山に行って病悩平癒を祈願するよう頼んだ。この時百手は傍らで其の話を聞いて、先刻所用があって紅葉の局へ立ち寄ったところ、下女だけが居て、下女が言うには、主人の紅葉は御台様の看護のため昼夜お側に詰めておいでになりますと言ったが、その時、局の奥で奇妙な音がしたので何事かと思って下女と二人で奥に入ると、紅葉が白い上衣を着て何か祈っている様子だった。しかし紅葉の体が自分の局と御台の部屋と同時に二人いるのはおかしいことではないかと申し述べた。かく百手の弟浅田伝蔵が比叡山に行くことになり、特に大行満の律師(千日回峰を満行した偉い僧)御台の病悩を詳しく説明してその全快祈念をお願いした。律師は早速壇に登り暫く祈念をこらしてから加持符(かじふ、お札のこと)を数枚持って来て浅田に渡し、是を館に持ち帰って御台を始め看護の者一同の襟に掛けさせて病悩全快を祈りなさい。また紅葉は非常の曲者で、姿は花のように美しいが、悪鬼羅刹(あっきらせつ)の如くで、御台を害し奉ってその権を奪わんが為に邪術を行っている。早く帰って私が言ったことを経基公に伝えよと言って奥に入った。浅田は帰って三谷と相談の上、律師の言を経基公に伝えると、公は不機嫌になって暫く言葉がなかったが、やがて、「紅葉は容貌は美しいが時々眼が鋭く光ることがある。或いは律師の言う通りかもしれぬ。」と言って、三谷に加持符を御台始め看護する者の襟に付けるよう命じるとともに時を同じくして浅田に紅葉の所に行かせ、もし怪しい行動があれば即刻召し取れと命じた。三谷は御台の病室に入り、皆に律師から渡された加持符を襟に掛けて病気全快を祈念せよとの経基公の命を伝えた所、一同皆ありがたく受けたのに、紅葉は我が身に穢れがあるから身が清らかになるまでそれを預かってくださいと深見に言って加持符に手を触れようとしなかったので、三谷は殿の命に背いて加持符をつけないのは不届きであると詰め寄ると紅葉の姿がフッと消えてしまった。一方紅葉の局に向かった浅田は、奥の室で白衣を着て怪しい行動をしてた本物の紅葉を見つけて取り押さえた。経基公は、深見と浅田から以上の報告を受け、また紅葉をとらえた後は御台の寝所に夜半、鬼の姿が現れることが無くなり、食も進んで回復も近いことを知って、やはり叡山(比叡山)の律師の言う通り紅葉は非常の曲者であったかと思ったが、経基過って一度愛した者を今になって其の科をとりたてて刑に処すれば帰って自分の恥となって、世の中の笑い者になるから、どこか遠い所へ追いやって隠してしまうのが良かろう。
都追放
ついてはどこがよいかと考えるに、「隠す」に縁がある戸隠が良かろうと言うことになって戸隠山の山奥に追いやれと命じた。三谷と浅田は、伍輔、花田、紅葉の、親子三人をそれぞれ、別々の駕籠に押し込めて自分たちで警護しつつ信濃路さして落ちて行った。伍輔と花田は、我が子紅葉の働きで身も家も起そうと思った事が思い通りに行かず、親子三人縄目とは何の因果かと泣き沈んだがどうにも成らなかった。天暦三年九月末(十一月始め)のことである。やがて三人が置き去りにされた場所は、戸隠山塊に源を発する裾花川の上流の奥裾花渓谷のあたりであった。方位方角も分からない山奥であったが、水の流れに沿って下っていけば必ず人里に出るであろうと思って三人がとぼとぼと下っていくとやがて思ったとおり人里にたどり着くことが出来た。
鬼無里に
そこは今の鬼無里村の根上りという部落で当時は戸数十三戸ほどであったという。そこで紅葉は村人を欺(あざむ)いて我こそは都の者、経基公の寵愛深い身であったが、一子を宿したため御台所に嫉妬され女中や侍が相謀って私に無実の罪を着せてこの山奥に捨てたのであるが、腹に宿した子が安産して成人すれば都に帰る身であると披露した。都の人がこんな山奥に来るのはきわめて珍らしいので、里人は栗やらそば粉やら持ち寄って紅葉達に与えたので、当面食事に不自由しなかった、やがて紅葉は占いや、加持祈祷のような事をして村人の病気を癒してやったり、女子には裁縫、男子には読書算用を教えたりして次第に里人との親しみを深め、お礼などの収入も増えてきて生活も楽になっていった。世間を知らない山里の人々は紅葉を敬い尊び、其の美しさに驚いて内裏様と名付けて紅葉のために館を作って住居とした。今も内裏屋敷跡として残されている。そのうちに紅葉に子が産まれたが、それが男子であったので紅葉親子の喜びは限りなく、身の憂きことも忘れ、蝶よ花よと慈しみ、また父経基の経の字をとって経若丸(つねわかまる)と名付けた。そうして平和な年月が過ぎたが、紅葉は楽しかった京都の時代を思い出してこの地を水無瀬と呼び東京(ひがしきょう)西京(にしきょう)二条(にじょう)三条(さんじょう)四条(しじょう)五条(ごじょう)高尾(たかお)東山(ひがしやま)清水(きよみず)加茂(かも)春日(かすが)などの都の地名をこの深山の里につけて、つれづれ(たいくつなこと)を慰めた。だが、紅葉の強い欲望はこのように静かで平和な生活をいつまでも続けていくことに満足できず、やがて経若丸が成長してくるに従い、もう一度都に上り、出来れば我が子を経基の跡継ぎとして、再び昔のような栄光を手に入れたいという欲望が芽生えてくるのを押さえることが出来なかった。
盗賊に
たまたま戸隠山をめぐる十四,五里の村里を荒らし回っていた盗賊の一団があったそれらは天慶三年に平貞盛等に滅ぼされた平将門の従類であった長狭(ながさ)七郎保時、鷺沼(さぎぬま)庄司光則の子孫と名乗る鬼武、熊武、鷲王、伊賀瀬の四人と其の部下達で、逆賊とされた将門の残党であるため本名を名乗って世に出ることが出来ず、仮り名を使って黒姫山や草津の山奥に隠れ住んで鬼武を兄分として手下を集めて盗賊となっていたが彼等は紅葉の噂を聞いて、あやしい者だが興味がある会ってみようと四人揃ってやって来た。紅葉は官女の装束を着飾って敷物の上に座して彼等と対面したので、四人はまず彼女の異様を見て気後れしたが、鬼武が勇気を出して、かねて噂によれば紅葉殿には医師、陰陽師、加持祈祷を一身に持ち切って多くの人をたぶらかして金銭を取って生活しているが、経基殿の妾と称するのも不審である本性は一体何者か、我々の手下となって夜盗の手助けをするならばよし、さもなくばこの家を明け渡せと迫った。紅葉は、世にも名高い経基様の若君はここにおられる。其の母である紅葉が、おまえ達の手下などになれるかと言って両手を胸において口に呪文を唱える、忽(たちま)ち山谷鳴動し、空かき曇って、吹き来る嵐に障子ばたばたと倒れ、庭を見れば、四,五寸ばかりの氷玉に火の球が混じって降ってきたので賊戸四人は驚いて刀の柄を握りしめたが忽ち黒煙が満ちきて暗闇となり、手足がしびれて動かすことが出きず、四人は一度に倒れ伏した。紅葉は大いに笑って再び口に呪文を唱えると空は晴れ渡り黒煙も消えて無くなった。鬼武は辺りを見回して隙を見て逃げ出そうとしたが体が動かなかった。紅葉は鬼武の傍らに立って鬼武が持っていた剣を奪って、覚悟せよと喉元に突きつけると鬼武はかかる尊き姫御前と知らずして失礼を働きましたことをお許しくださいと詫びたので、汝等が紅葉に召し使われるなら許してやるというと、鬼武は、我々は主君平将門が敗れてしまった今は信濃の仮住居で盗賊稼業をして世間をはばかりながら世を渡っているので、この世の辛さを痛切に感じている。今経基公の若君に使えることが出来れば願ってもない仕合わせであり、やがて若君が花の都へ御帰還あられるならば、永久に部下としてお仕えしたいと行った。かくして彼等は家来になったが、村人達には都から迎えの者が来たのだと称し、彼等が持参した物の一部を都からの土産物と言って村人達に分け与えた。彼等は昼はおとなしくしていて、夜の間に遠く離れた村落へ出かけていって富豪の家などをおそって略奪暴行をしたが、時には里の貧しい者に施し物をしたりしていたので、里人は紅葉の富貴を羨んだが彼等の悪事には気がつかなかった。しかし村里に住んでいては何かと不便なので、紅葉達は近くの荒倉山の山塞に移り、次第に豪華な暮らしをするようになった。やがてそれとなく紅葉達の噂を聞いて手引きを求めて賊の仲間入りをする者も出て来て、手下もだんだん増えてきた。その中で目立ったのは鬼のおまんという女で、年は二十三,四才七十人力の力を持ち、生まれつき強暴で力業を好み、山から薪を切り出したり、猪猿などを打ち殺したりしてそれを売りさばいて暮らしていたが、重い物を背負って山道を上り下りする事では彼女に敵う者は居なかったので紅葉達に重用された。
鬼女
地元はさけて遠くの村落へ出かけて略奪、暴行の悪事をしていても、それらの悪事は、やがて世間に漏れてきて、誰言うとなく戸隠に住む紅葉は鬼女であるとの噂が流れ出した。父伍輔は心配して娘の悪行をやめるよう何度も説得し、もしやめなければ俺は死ぬぞとまで言ったが、紅葉は是も父上や母上に楽な生活をしていただく為と、手下共の欲に迷った行為に応ぜざるを得ないからですと聞き入れず、そのうち伍輔は病気になり、昔夫婦に子供が無かった時に第六天の魔王に祈って我が子紅葉を儲けたのは間違いだったと後悔しながらこの世を去った。しかし、噂は次第に広まり、いつしか信濃の国守の耳に入るようになって、国守からこの旨上奏されるに至った。時の冷泉帝は深く宸襟を悩ませられ、急ぎ紅葉を退治して国民の憂を除くべき旨勅定(ちょくてい)あり、朝廷は平朝臣維茂(たいらのあそんこれもち)を召して信濃守に任じ、山賊退治を命じた。時に安和二年七月のことである。この情報は早くも紅葉方に伝わったので紅葉は、鬼武、熊武、鷲王、伊賀瀬などを集めてどう対処すべきかを相談した。鬼武が言うには、此度攻めてくる維茂は平貞盛の嫡男である。貞盛等は天慶三年我等古主平将門を討ち滅ぼし、我等が祖長狭、鷺沼をも亡ぼした者であるから我々にとって旧敵である。いまその繁盛の嫡男である維茂がこの戸隠を攻めてくるとは思いがけない好機会である。去る天慶三年より三十年目に当たる今日敵に巡り逢えることは願ってもない幸運で、いわば憂曇華の花(三千年に一度咲くと言われている架空の植物)咲く春とも言うべきである。皆力を尽くして維茂を討ち取り、将門様の霊を慰めようではないかと言ったので、居合わせたものは皆賛同し、鬼武と行動を共にすることを誓った。紅葉は維茂が攻めてくると聞いて鬼武等が恐れて逃げ出すのではないかと心配していたので、この言を聞いて大いに喜び、汝等が敵と戦うときに通力で火を降らし水を出せば、敵は恐れて逃げ惑うであろうから、その時に追い討ちをかけて維茂を討ち取れと言い、早速館の四方に豪を掘り、二重三重に柵を廻らし防備を固めることにした。紅葉の母花田はこの騒動を見て、夫伍輔が末期のときに、やがてこんな大事が起こってつらい目にあう日が来ると思うが、その時は覚悟を決めて、命惜しさに逃げ惑って恥をさらすなと言ったのはこのことかと思い、経若丸を呼び、やがて紅葉討伐の敵が攻めてくるが、おまえは経基様の子だからその父を頼みにここを逃げ出し、自分には罪がないことを訴えて命をながらえ、祖父母の菩提を弔いなさいというと、経若丸は首を振り、たとえ我経基の子であっても、悪事を重ねた母の手で育てられた身であるからいまさら逃げ惑ってみても誰が救ってくれましょう。しかも経基も既に死んだと聞いている。明日にでも敵が攻めて来たらば婆様も一緒にここで死のうと言った。花田はにっこり笑い、かわいい孫よ、よう言うた。もし敵が攻めてきたら恥じをさらさずこの様に潔く死ぬんだよと懐剣で咽喉を貫いてその場で果てた。
一方維茂は早速譜代の功臣金剛兵衛政景、金剛太郎政秀、成田左衛門長国、真菰(まこも)次郎家忠、河野三郎勝永に命じ、軍備を整え、総勢二百五十騎夜を日に急行し、信濃国の出浦の郷(現在の上田市塩田)に着いて守護の館の入った。そこで維茂は先づ戸隠の地理を知っている土地の若者を選んで紅葉の巣窟へひそかに斥候を入れてその報告を待つこととしたが、その時、近くの七久里の里の数箇所の温泉が湧き出していることを伝え聞いた老臣金剛兵衛が、維茂に物見が帰って来る迄の数日間を無駄に過ごすのはもったいないから温泉に入って長途の旅の疲れを癒したらと勧めたので、維茂も尤もと思って非番の兵を連れて七久里の湯(現在の別所温泉)に入浴し、その時次の歌を詠んだ。
七くりも八くりも返しゆあみして 身も心も清めつるかな
五日後に物見の者が帰ってきたので維茂は守護の館に戻ってその報告を聞いたが、敵は厳重な防備を固め抵抗の構えであることを知って大いに怒り、「我勅命を奉じて下向せしと聞くならば、前非を悔いて走せ来り、命乞いをもなすべきに、我と争わんとは身の程知らぬ物共なり。いで討ち破って国の憂いを除くべし。」と部下の河野三郎、真菰次郎を召し、兵百五十騎を与えて攻撃を命じた。河野、真菰の両名は裾花川の沿った道を進み、その上流にある紅葉等の篭もる山塞を正面から攻撃しようとしたが、裾花川の深みに掛かる藤橋のあたりまで進んだ時のこれを迎え撃つ紅葉方との間に戦斗が始まると、突如として谷鳴り出して大風あたりに吹き、一天俄かにかき曇り、火の雨どっと降り来ったので官兵あっと驚くや、足元俄かに洪水となったので、度を失って一斉に退却した。
この旨老武者江上四郎によって塩田の本陣に注進されると維茂は、これは天災地変ではない、賊の幻術であろうと成田左衛門、金剛太郎に応援に行くように命じた。両名は裾花川に沿った道を進まず、間道を通って山の尾根伝いに樹間を通り抜け敵の巣窟に近寄り、夜明けを待って一気に岩屋へ押し寄せ、柵を討破って一気に攻め込んだが、戦況が紅葉方に不利になってくるとまたもや山谷忽ち鳴り出し、暴風吹くと同時に一転俄かに掻き曇り、氷球火玉が降って来た。これは幻術によるものだから驚くことは無いと自らに言い聞かせてなおも強引に切り込むと、忽ち四方八方暗夜の如く暗くなって敵も見方も見分けられず、洪水頻り(しきり)に押し寄せてきたので流石の成田、金剛、河野、真菰も驚いて引き上げざるを得なかった。
再度敗北の報を受けて維茂は大いに怒って、如何に妖術に長けたりともたかが女の業、無二無三に討つ時は妖術は摧(くだ)けて行われぬ筈、いで維茂自ら打ち向かい、一踏むに踏み破らんと言えば、金剛兵衛これを諌(いさ)めて、「紅葉の妖術は学び伝えたものではなく生来備わっているもので、姿は女であっても心は羅刹鬼神であるから、これを討つには神明仏陀の力によるべきでしょう。」と言上すれば維茂早くも悟り、「我この出浦(でうら)に来て見ればここに天台の梵刹有り。殊に霊応あらたなる北向観音がましませば、この観音の力を頼み、妖賊紅葉を調伏せん。」といえば、金剛兵衛は、「昔、日の御子の神武天皇が日の光を脊にして北に向かって長髄彦を攻め滅ぼしたように、今此の北向観音に帰依し、その霊光を後に背負って、此所より北に位置する紅葉の巣窟を攻めるなれば、一挙に賊を亡ぼしましょう。」と賛同した。
北向観音の通力
かくて維茂は金剛兵衛を従えて急ぎ北向観音に参籠して紅葉の妖術破滅を祈り、十七日の満願を迎えたが、翌朝暁に霊夢を見た。それは白髪の老僧が維茂の手を取って「来れ」と言うので、ついて行くと戸隠山の上空まで雲に乗って連れて行き、空から紅葉の巣窟を見せ、四五寸程の短剣を出して、「これは降魔の剣であるから是で紅葉を討て」と言って維茂に授けたという夢で、目が覚めた時、その剣が維茂の手中にあった。維茂は帰館し、前二回の敗北は賊紅葉の妖術によるもので汝達の不覚によるものではないと兵達を慰め、また金剛兵衛は、主君維茂公は北向観音に参籠されて不思議な感応を得られたから、もはや賊の妖術を恐れることは無いと彼等を励ました。かくて維茂は全軍を率いて紅葉討伐に向かったが、川の流れに沿った道は要害を通るので、先に援軍として派遣した成田、金剛と同様に山の中の間道を抜けて密かに進み、山塞の直前に出て一挙に攻撃することとし、成田、眞菰、河野は正面から、維茂と金剛兵衛は裏手から攻撃することとした。
是に対し紅葉方は先ず伊賀瀬、鷲王を頭とし、一の木戸で、大木、巨岩等も使って防ぎ、それが破られた場合には二の木戸に退いて、一の木戸と二の木戸との間に進入した敵を両木戸の間に封じ込め、袋のネズミのようにして妖術による火水の助けを得て全滅させる作戦を取った。やがて戦斗が始まると先ず一の木戸が破られたが、維茂方は柵を全部打壊して壕へ投げ込んで壕を埋め、立ち木を倒して橋とし、進退自由な体制をとって、二の木戸へ攻撃をかけて来た。表の木戸を守っていた伊賀瀬は戦況が思わしくないので、自ら紅葉の居る奥の間に走り込んで来て状況を報告し、妖術による火水の助けを要請した。
紅葉敗れる
紅葉はカラカラと笑って、では術を行ってやろうと言って壇に登り術を行ったが、風も無いのに紅葉の居る密室の数百の燈火が一斉に消えたので、はっと驚き、これは不吉の兆ではないかと疑ったが、不安な気持ちを抑え、随従に命じてもう一度点火させるとそれもそばから次々と消えていった。やむを得ないのでそのまま秘文を唱えると、紅葉の体が寒気だって来て壇からはたと下に落ちた。鬼武に助け起こされ、今こそ大事な時だからと励まされて再び壇上に上ったが、身体氷のように冷え渡ったのでいたたまれなくなって壇より降り、鬼武と、伊賀瀬に対して、「我に火水の通力行われなくなった以上、この城は陥落するであろう。ついては汝等は早く逃げ去れ。自分は後から雲を呼び、空中を飛んでこの城から脱出しようと思う。」と覚悟を述べると、鬼武はたとえここを逃れても一時凌ぎに過ぎず、所詮助かる命とは思えない。今維茂が手勢まで繰り出してこの山塞を取り囲んでいる所を見ると、維茂の手元は案外手薄と考えられるから、我等二人秘密の抜け穴を通って敵方の囲みの外に出て後方にある維茂の本陣に近づき、一太刀恨みの刃を浴びせてから討死にしたいと言えば、紅葉はこれを許し、急げと命じたので、二人は土民の姿に身をやつし、短刀を隠し持って抜け穴から出て行った。経若はこの場の様子を陰から見ていて、もし敵が攻めてきたら恥じを欠かずに清く死ねといった祖母の花田の言葉を思い出し、今こそ我も死なんと思い、室から密かに抜け出して庭に行き花田を埋めた塚の前に座して死んだ。
鬼武、伊賀瀬は抜け穴を出るとすぐ、穴の入り口を木の枝等で隠そうとしたが、運悪くそれを金剛太郎に発見されたので、「我々二人は麓の貧しい土民であるが、紅葉の手下の賊共に娘を奪われたのでそれを取り返しに来たのだが防備が厳重で中に入れない。どうか早く賊を討ち取って娘を助け出してください。」などと偽って逃れようとしたが、金剛太郎に「怪しい奴だ、逮捕する。」といわれたので隠し持った短刀を抜いて切りかかったが、その場で討ち取られ、そのうえ山塞の内と外を結ぶ秘密の抜け穴まで相手方に知られてしまった。金剛太郎は、紅葉が居る奥の庭面に通じている抜け穴を発見したことを維茂に報告すると、維茂は大いに喜び、脱出しようとした賊徒が我々に秘密の抜け穴を教えることになったのは観音様のお引き合わせである我に続けと言って主従二十五騎が直ちに攻め入った。紅葉は鬼武、伊賀瀬を送り出した後も益々体が冷えて来たので女達を集めて酒など飲んで体を温めていると、維茂主従が発見した抜け穴を通って紅葉の居る山塞の奥の庭へ進入して来たので、紅葉の側近等は驚いて逃げ惑った。紅葉はすぐに立ち向かおうとしたが、その時維茂が、北向観音から授かった降魔の剣を矢の根(矢尻)にした矢を射るとそれが紅葉の右肩に当たったので、紅葉はもはやかなわぬと観念し、本性を現して、鬼の姿となり、雲に乗って空中に舞い上がり、怒れる目で睨みつけながら維茂めがけて火焔を吹き付けて来たが、このとき不思議や天井から金光さっと照り、それが鬼神の頭に触れると、鬼神は忽ち魔力を失って空中にいたたまれず、地上にどっと落ちて、ついに維茂に討ち取られた。維茂は、そこに居合わせた紅葉の側近等をすべて捕らえて部下に時の声を三度上げさせたので、表の木戸を守備していた賊徒らはそれを聞いて既に山塞の裏木戸が破られたことを知り気落ちして浮き足立ったところを、表の木戸を攻めていた、成田、眞菰、河野はこの時とばかり激しく攻め立てたので、遂に木戸は破られ、そこを守っていた鷲王、熊武は敵(かな)わじとしって逃げようとしたが、深手を負って捕らえれれた。
他の賊徒等も中には逃げ延びたものもいたが、多くは討たれたり、捕らわれたりして戦いは終わり、維茂は成田に命じ、勝軍(かちいくさ)の式を整え諸卒一同鬨(とき)の声を上げた後、自ら南の方角にある北向観音に対して再拝し、一首を詠んだ。
頼みつる北向山の風さそひ あやし紅葉はとく散りにける
是ぞ案和二年(969年)十月二十五日(11月末)紅葉三十三歳の時であった。
鬼のおまん
かくて維茂は成田左衛門を召して、妖怪紅葉並びに賊徒退治の次第を急ぎ京都へ奏聞させた。なお鬼のおまんはけなげにもより来る敵を切り払い、従う手下と共に逃げ延びてあちこち隠れていたが、紅葉始め大半の仲間が討ち取られたのを知って所詮助からないと観念し、どうせ助からないのならば捕らわれて憂い目を見て死ぬよりも淵瀬へでも身を投げて果てた方がよいと考え、その前にこれまでの悪事を懺悔して後の世の苦愚を薄くしたいと思い、善光寺の御堂に忍び込んで夜の闇にまぎれて救け給えと念じていた所、たまたまおまんを知る人が居て、「おまえはお尋ね者になっているからこんな所に居ると召し捕らわれるぞ」といったのでそこを出て死に場所を求めつつ山野をさまよい、遂に戸隠の寺坊に辿り着いて、「私は岩屋の紅葉に組した罪深いおまんという者であるが、せめて今から仏門の弟子になってわが罪を少しでも軽くして死にたい」と涙を流して頼んだので、住僧寛明(かんめい)は哀れに思い、得度の式を整え、三帰五戒(三宝即ち仏法僧に帰依して、殺生、偸盗(チュウトウ ぬすみぬすむこと)、邪淫、妄語、飲酒の五種の禁戒を守ること)を授け、髪を剃り落とし、有り合せの袈裟と衣を与えたので、おまんは深く歓び、三拝九拝し終って、隠し持った懐剣で喉笛を刺して果てた。寛明は事の次第を訴え出て、罪人であるおまんを仏門の弟子にしてその自滅を許した自らの罪を謝し、罪を受けんと申し出たが、維茂は寛明を許したので、寛明僧都は寺坊に帰り、おまんの長髪を箱に入れて仏間に置き、朝夕その菩提を弔った。この時に剃り落としたおまんの髪は戸隠権現の別当勧修院(現、久山旅館)に修められ、おまん坊の毛として伝えられている。今は久山旅館近くにある足神さんがその墓である。
 

 

 
鬼女紅葉 2

 

937年(承平7年)の秋、伴笹丸(ばんささまる)とその妻菊世が子供が居ない事悲しみ、「大六天の魔王」に祈願した結果、この世に生を受けた。大六天の魔王、正しくは他化自在天と言い、仏教で説く6つの欲望の世界の王で人間の欲望を支配する外道の神とされていた。2人は生まれた女の子を呉葉(くれは)となずけ、呉葉は才識兼備の美しい女性に成長し、紅葉と名をあらため京にのぼる。
953年(天歴7年)に源経基(みなもののつねもと)の御台所(正妻)が紅葉の琴の演奏を耳にとめ、1曲所望される。この時紅葉は大六天を念じつつ秘術を尽くして弾き、紅葉の演奏を気に入った御台所は後日、紅葉を奉公人(使用人)として屋敷に招く。やがて、紅葉は主人(経基)の目に止まりその寵愛を一身に受ける事になり、経基の子を宿し、彼女は自分が正室となるために御台所を呪い殺そうとするが、下女にその姿を見られてしまう。紅葉は御台所の側で看病しているのに、彼女の部屋の奥から物音が聞こえてくるのを不審に思った下女がのぞいてみると、壇(だん)を設け白い上衣をきた紅葉が何やら祈りを上げていた。そして、側使用人の三谷隼人が配下の者を引き連れ、御台所の側に居る紅葉を捕らえようと、かき消すようにきえてしまい、奥の部屋に居る紅葉の方はあっさりと捕らえられた。そして彼女は、鬼無里の里の一夜山へとついほうされる。
初めの内は、麓の村に自分は無実の罪でここに流されたのだと訴え、時にはその力で病人を治してやったりして、生き神様とたたえられていた。やがて、経基の子を産みその子を経若丸となずけた。この頃、再び紅葉は鬼としての本性をあらわしはじめ、男姿に身をやつし夜な夜な麓に忍び出て何十里も離れた富家に忍び込んでは金銀財宝を盗んでいた。そして、紅葉のうわさを聞きつけた平将門の家臣の子孫と言われている鬼武、熊武、鷲王、伊賀瀬らに率いられた盗賊団が彼女のところにやってくるが、逆に紅葉は妖術を使い彼らを自分の配かにしてしまいます。
そして、近隣の村村を荒らしまわり、京から討伐軍が派遣される事になります。討伐軍を率いたのは、平維茂(たいらのこれもち)ですが、山に立てこもった盗賊団と紅葉の妖術の前に敗れてしまい、紅葉を破るには武力だけではなく神仏の力を借りる必要が有ると思い、出浦の里にある常楽寺の北向観音に戦勝祈願をすることにした。
7日間、北向観音に参籠(さんろう)して満願の日、白髪の老僧が夢に現れ、雲に乗せて呉葉の住処を隈なく案内してくれ、「これぞ降魔(ごうま)の剣なり」と四、五寸(12〜15cm)の小剣を彼に持たせたところで夢から覚める。夢が覚めても彼の手には夢の中で渡された降魔の剣が握られていた。そして彼は、再び部下を率いて紅葉討伐に向い、降魔の剣の力により妖術を封じられた紅葉は討ち取られた。
維茂は、降魔の剣を矢の根とした白羽の矢を、紅葉めがけて放った。矢は紅葉の肩に刺さり、本性をあらわした紅葉は巨大な鬼神となり空中に舞いあがり、口から火を吐き、眼光を輝かせて維茂をにらむが、その時、天から金色の光が射し込み、鬼女の頭 部に触れた。これにたまりかねた鬼神が地面に落ちてきた所を武将達の刀に体を刺し貫かれ、維茂がその首を切り落とした。こうして、鬼女「紅葉」は討ち取られた。 
 
鬼女紅葉 3

 

それは、平安時代の中頃、朱雀帝承平7年秋11月、奥州会津の貧しい暮しの笹丸、菊世の夫婦に、それはそれは愛らしい女の子が生れたそうな。お七夜の晩に女の子は呉葉と命名された。
両親の深い愛に守られ、呉葉は愛くるしい上、とても利発な娘に育っていった。幼い頃から、読み書きを覚え、いろりの灰に字を書いたり、かかさんから聞き覚えた物語をそらんじ、両親の目を見はらせた。
また、母の膝の近くで、縫事を覚え、その針の運びは母の菊世を驚かせた。両親は貧しい中から金子を工面して琴や和歌を習わせた。呉葉は何をやっても、その上達ぶりはみごとで 「ただ物覚えがいいっつうだけじゃなし。別ぴんさんだし、だが、ただの別ぴんさんじゃあなく、気高さちゅうか、気品があるわいね。呉葉はただ者じゃねぇぞ。そう、つぅ、ことは親もただ者じゃなかろう」 と世間ではうわさし合った。
母の菊世は針仕事の手を休めては 「今はうらぶれた身ではありますが、わが一族はかつて都で永く位の高い役人でありました。が、御所の応天門が炎上した事件に巻き込まれ都を追われる身となったのです。いつか、都の地に帰りたいと、ととさんはきっと思っておいででしょう。その時のために呉葉、学問や芸事を身に着けましょうぞ」 と呉葉にくちが酸っぱくなるほど言い聞かせた。
都に上る夢を呉葉16歳の夏、天暦6年6月に実行したのだった。
京へ上った親子は、父を伍輔、母を花田、呉葉は紅葉(もみじ)と名を改めた。親切な人にも出会い、その人の紹介で四条わたりの町はずれに一軒の小間物屋を開いた。屋号を「鈴屋」と呼び、そこで紅葉は琴や針仕事や習字を子どもや町娘に教えたそうな。
鈴屋の看板娘紅葉の、都の姫方と競っても負けないほどの気高さは、たちまち京の町のうわさとなってひろがっていった。特に琴の腕前は優れていて、紅葉が琴を弾けば、ウグイスはその音を止めてしまうとか。また夏の蒸し暑い日に弾けば、聞く者みんな、なんとなんと、自然に涼しさを感じるそうな。
ふとしたことから紅葉は宮廷の守護役の源経基の御台所に見出だされ、その腰元となった。琴の名手である紅葉のうわさは経基の知るところとなり、琴がとり持つ縁で経基の側室となった。やがて経基の子を宿したが御台所との確執に「紅葉は妖術でもって御台さまを呪い殺そうと企んでいる」との疑いがかけられ、信濃国の水無瀬(今の鬼無里)へ追放となった。
そこは草深い里で、西に山を背負い、前を裾花川が流れていた。今の内裏屋敷に紅葉は両親とわずかな供と一緒に入ったのである。そして、そこで経基の子を生んだ。男の子であった。父親の一字をとり経若丸と命名された。
水無瀬の里での紅葉は、はるかな都をしのび、やがては経若丸を連れ、経基との親子の対面をしたいもの、それには経若丸を立派に育てねばと、子どもへの養育をおこたらなかった。叶うことならば仕官を、と願い、京に使いを何度となく出したが、経基からの返事はなかった。
そうした間も、紅葉は里の人々に裁縫や読み書きそろばんを教え、病に苦しむ者あれば妙薬を与えたりしてとっても喜ばれ崇められていたそうな。
ある日、京よりの使者として、平維茂が信濃入りをした。紅葉の喜びは大変なもので、酒宴を開き、それはそれは、厚くもてなした。が、紅葉はその席で初めて経基が10年以上も前に他界していたことを知った。
「維茂さま、経基さまの後をうけ任にあるご子息の満仲さまに仕官のこと、どうぞ、おとりなしを」 紅葉は必死に頼んだ。
「今の京は荒れており、経若丸さまはこの里で暮すがお幸せかと。満仲さまも御台所さまの手前、あなたさまが考えるようなわけにはいかないと存ずる」 と、維茂は言いながらも、酒の酔いの中で(紅葉殿のよきようにしてやりたいが、どうしたものか)頭をかかえる維茂であった。
その後も維茂は紅葉の館に出向き話し合ったが、経若丸の末を思うあまり言い放つ紅葉の言葉に、鬼心を見た思いがした。
維茂はいったん京に帰り返事をすることを約束し、信濃を去ったかに見えた。が、別所の七久里に着き、ここで、京の満仲の元に使者を飛ばし、紅葉との交渉の経過を報告、断を仰いだ。その頃、紅葉は京の楽しかった日々を経若丸に語ってきかせていた。
平維茂のことも紅葉は、「維茂さまは、剛胆にて沈着、武勇にすぐれ、その上礼節も正しく、情愛も深く花も実もあるお方です。きっとよきようにおはからいくださるでしょう」 と、そんなふうに言った。
当の維茂は郷里の越後に帰る道すがら、満仲から紅葉の説得を頼まれ軽く引き受けたが、ここまでくると引き下がるわけにはいかなかった。その上七久里に、満仲から、家門を乱す怖れあり紅葉一家を滅ぼしてほしい、との依頼状が届いた。維茂は引き下がるわけにいかず、とうとう紅葉討伐に腰を上げた。
維茂が去って20日目の明け方、紅葉は突然の乱入騒ぎに気付いた、が、時すでに遅く、紅葉は、つわ者どもの刃のさびとなって果てたのである。これを知り経若丸は、館を抜け出して祖父母の土塚の前に座り、自らの命を絶ったのだった。
解説
紅葉に関する説話は、古くより今日まで数多くある。今昔物語、太平記、謡曲「紅葉狩」「北向山霊験記」。それに、戸隠の荒倉山を中心として多くの遺跡と遺物が存在するが、いずれも紅葉は魔性を身に付けた「鬼女」であると伝えている。
しかし、鬼無里では、京の官女として貴ばれ、尊敬され、里人のために裁縫、読み書きそろばん等を教えた「貴女」として伝わっている。
再話では紙幅の都合もあり、紅葉の出生から、子を思う母性愛を主とした。が、地名や神社創立の伝承を読み取るうち、紅葉伝説には密かに隠された別の真実のあった気配を感じる。それには鬼の正体を知らねばならないし、紅葉の語源にも迫りたい。きっと意外な真相が見えてくるであろう。期待感を持って鬼無里、戸隠を訪ねてみた。
鬼無里には何回か足を運んだ。1回は、元信濃毎日新聞社報道部の丸山祥司さんが、いろは堂というおやきの店のお母さんをご紹介くださった。
お母さんは、水無瀬の里で穏やかな日々を暮した紅葉の化身かと思われるような、容姿も物腰もそれは美しく、つつましやかで、なおかつ、情の深いお人柄であった。
さて、いろは堂の庭の先には水量豊かな裾花川が流れている。裾花川は古くは煤(すす)花川といった。ススバナとは、濯(すす)ぎ(洗う)生む処と読める。スソバナは、鉄濯ぎ(洗う)生む処と読め、ススバナとスソバナは同訓同義語である。ついでに鬼無里は、鉄生みの城と読める。鬼無里の古名水無瀬はというと、水鉄生みと読める。つまり砂鉄生みの意である。前出の語源を証明するかのように、裾花川の砂鉄量は多いのである。地名を付けた先人方はきちっと真の意味をとらえていたのである。
鬼無里には京の都になぞらえた、東京(ひがしきょう)、西京、高尾、東山、清水、二条、三条、四条等の地名がある。これらは、紅葉が京を懐かしみ名付けたとの伝承もあるが、紅葉が生きたとされる10世紀以前すでに都人が鬼無里に入っている伝承がある。
1日影地区の小高い所に白髯神社がある。社歴によると、西暦685年、天武天皇がこの郷に皇居を移そうとして、その鬼門にこの社を創立したという。
2西京の春日神社も、やはり天武天皇が遷都の地検分のため三野王(みぬの)が来村し創建したとある。
3紅葉が都から来て直に入ったといわれる今の内裏屋敷の裏山には「月夜ノ陵」という墳墓がある。やはり天武天皇時代に地形検分に来た皇族(三野王の墳墓かは不明)が客死したという伝承を持つのである。
1に興味をいだくのは祭神が猿田彦命であるということである。李寧熙先生はサルタヒコを砂鉄の地を祈る子(男子の祭祀者)と解いておられた。白髯神社の下の方に砂鉄の採れる裾花川が流れている。
2の春日神社で興味のあることは、この神社は裾花川と天神川の合流点に位置する。こうした場所には砂鉄がよく集まるそうである。
3の「月夜ノ陵」で心ひかれるのは、月夜である。
月は古代、製鉄炉(露天たたら)の象徴だった。三日三晩燃え続ける火は遠くから月のように見えたのでは、との説もある。月は一ヵ月たつと再びめぐってくるものであるし、鉄もまた再生できるとの認識から製鉄炉の象徴としての「月」があったのではないだろうか。
「夜」は、李先生によると上・古代の韓国に「穢(ええ)」と呼ばれた製鉄の部族国家があり、早期に日本に進出。日本の古文献の「ハ」や「夜」のつく神名、地名、人名は「穢」との関わりがあるそうである。
「月夜ノ陵」に眠る主は、穢(ええ)系の製鉄技術者という推測もできるのである。
鬼無里の地名、神社等の伝承や語源を洗えば製鉄(鍛冶を含む)に繋がる。そうした事柄から見えてくることは、鬼無里は上古代には名だたる鉄処であった、と考えられるのである。
さぁ、表題の「鬼女紅葉」とは? 隠された素性があるのだろうか、そしてどんな意味があるのだろうか。
もしも「鬼」の絵を描くとすれば、まず頭に1本か2本の角を描き、眼は厳しくランランと光り、くちは裂け、全身は真っ赤で筋肉はこんもりと発達している。そうそう忘れちゃいけないわ、虎皮のふんどしと、いぼの沢山ある金棒も描かなくてはね。
日本の鍛冶師(かじし)の守り絵図の鬼は、鍛冶師の向こう槌を打つ。鍛冶屋さんと最も息の合う相棒である。また、韓国の鬼も鍛冶屋で正しくは「たたき屋」であったそうで、金棒は熱い鉄のかたまりを叩くハンマーを指すと李先生は言う。また、虎の皮のふんどしは火に強いそうな。虎は日本に棲息していないところをみると、「鬼」は渡来の鉄の精錬師であったろう。厳しい表情から仕事への真剣さが伺いしれる。
さて次は「紅葉」であるが、生身の紅葉を解く前に戒名を見てみよう。
鬼無里の松巖寺には、小さな五輪の紅葉の墓がある。戒名は、「竈厳紅葉(ふがんこうよう)大禅定尼」という。「竈」の一字を調べると、「竈(かま)」はくどであり、へっついである。また、竈将軍といえば、一家の中で思うままに権力をふるう人のことである。戒名には当人の生きざまがよく刻まれるところから、「竈」=「製鉄炉(鍛冶炉も)」の等式が考えられる。紅葉は宮廷から派遣された人物で、美しく教養もあり、なおカリスマ性をも持つ鉄処の管理者であったろう。
紅葉は都から追放されたのではない、鉄処の管理者なればこそ、里人が用意したとされる屋敷に直に入れたというのもうなずける。
紅葉は会津に居た時は呉葉といった。紅葉の名は、京に来てからとも、信濃に来てからとも言われているが、語源に迫れば様々なことが見えてくるのである。まず呉葉は本名で紅葉は討伐命令が出てからのニックネームではなかったかと考える。そして、ナゼ紅葉が討伐されねばならなかったのか、すべての重大な答えは「もみじ」の語源にある。
李寧熙先生は韓国語のモッミチ(行き届かない、または及ばないこと)が日本に来て「もみち」→「もみじ」になったと言っている。
鉄処の女親分の仕事は、砂鉄を沢山漉し精錬し大量の農具と武器の生産性を上げることであろう。だが、
生産能率が悪かったか、鉄の流用でもあったのか。管理者落第の烙印を押され、宮廷で「もみじ」とあだなされた。平維茂は紅葉に、「身分を去れ」と説得にやって来たが、紅葉は拒否したため討たれたのではないだろうか。
真相を隠すために御簾を掛けたが、御簾の間から透けて漏れる真実もあった。表題の物語の発生はそんなところにありはしなかったかという思いが強い。また、紅葉伝説を訪ね戸隠の志垣の鬼塚も訪ねた。謡曲「紅葉狩」では、打ち落とした鬼女の首は重すぎて都に持ち帰ることが出来ず、首を埋め墓を建てたそうな。志垣は鉄磨ぎ城と読める。裾花川近くにある柵地区のしがらみを広辞苑で調べると、水流を塞き止めるために杭を打ち並べこれに竹や木を渡したもの、とある。きっと鉄に関係あると見ていたが、砂を塞き止める仕掛けが「しがらみ」とわかった。紅葉伝説のある所の地名の語源も鉄と繋がる。
 
鬼女紅葉考

 

紅葉とは何者か  
鬼無里に伝わる別の鬼伝承
鬼無里が「まつろわぬ民」の地であった── それを如実に語る伝承が、鬼無里に残っている。それは先に少し述べた、「鬼無里」という地名の由来説話である。その内容は次の通りである。
壬申の乱に勝ち、律令国家の体制を固めていた天武天皇は、信濃に遷都することを計画した。そこで、三野王(みののおおきみ)という皇族が派遣され、その三野王が選び、図面を提出した場所が水無瀬だった。しかし、これを嫌がった水無瀬の鬼達は、その候補地の真ん中に山を置いて塞いでしまった。遷都計画を邪魔された天武天皇は、蝦夷征伐で名高い阿倍比羅夫(あべのひらふ)を派遣して、その鬼達を討ったという。それにちなみ水無瀬の地は「鬼無里」と呼ばれるようになった、というものである。突拍子もない話だが、天武天皇の信濃遷都計画自体は日本書紀にも明確に記されていて、三野王が派遣され、図面を献上したことも書かれている。また、その後に再度信濃に使者を遣わし、近隣の温泉地に行幸するための一時的な宮作りを命じたことも記されていて、まるっきり荒唐無稽な話でもないのである。
遷都伝説の伝承地
この話からすると、鬼無里とは紅葉以前から鬼の跋扈する土地だったらしい。鬼とは繰り返し述べてきたように「まつろわぬ民」の象徴なのである。しかも、ここでは征夷で有名な阿倍比羅夫に討たれている。これは鬼無里がもとより「まつろわぬ民」の根拠地であった証左であろう。
なお鬼無里には、その鬼が一晩で作ったという作った一夜山という山をはじめ、この信濃遷都にまつわる伝承地がいくつもある。先に述べた、加茂神社も、派遣された三野王が「加茂大神宮」の称を与えたといい、勅使の館を置き、それによってこの地を「東京」と呼んだという。同じく紅葉が建てたという春日神社、春日神社のある「西京」も同様に遷都伝説に由来するものだという。遷都に由来する神社としては、新都の鬼門鎮護として建てられた白髭神社という神社もあり、平維茂が紅葉退治の折に戦勝祈願をした神社でもあるという。その他、遷都伝説に由来する場所として印象深いのは「月夜の陵(はか)」と呼ばれる墳墓で、遷都候補地調査の際、この地で客死した皇族某の墓と伝わる。この墳墓は、内裏屋敷のすぐ裏手の山にあり、ほとんど同一の場所である。また一説によると、月夜の陵は紅葉の侍女「月夜」の墓で、よく仕えたが夭折してしまったため、紅葉がその死を悼み、手厚く葬った場所ともいう。ほか、紅葉が京を偲んでつけたという地名には遷都伝説にも関わっているものが多い。紅葉が住んだ内裏屋敷にしても、そもそも遷都計画の際に定められた内裏の場所であったという。
紅葉と鬼無里の遷都伝説
このように、鬼無里の遷都伝説は微妙な現実味を伴い、不思議な感じがするが、こうして俯瞰してみると、遷都伝説にまつわる地は、大方同時に紅葉伝説にまつわる地であることが分かる。これはまことに奇妙なことだが、その一致のしかたはさらに奇妙である。遷都伝説において皇族やその行動にちなむものが、ほとんどそのまま紅葉とその行動にちなむものになっているのだ。これを端的に見るならば、紅葉が皇族と同一視されてしまっているということになる。もっとも鬼無里では紅葉を官女であったもとし、貴女と呼んでいるくらいだからまったく故なきことではない。後世、異なる二つの伝承が部分的に混同された結果だといえばそれまでだが、完全には混同されることなく重複して伝わっているというのも奇妙な話である。思うに、この二つの異なる伝承の間には何か関連する事象があったのではないか。単純に考えれば、追放の憂き目にあった紅葉が、たまたまこの地にあった皇族客死伝承と自分を結びつけて生き延びようとしたか、村人の側で勝手に結びつけて神聖視したなどということがあろう。しかしそういった一時的・表層的なつながりとは思えないような根の深い結びつきを、二つの伝承は示しているように思われる。では、遷都計画の際に鬼無里で没した皇族某の血を引く者であったというのはどうだろうか。紅葉を地元の出身とする伝承もあるし、遷都伝説で「鬼」と呼ばれた土着民と交わって生まれた子孫であれば、一方で官女と呼ばれ尊ばれつつ一方で鬼と呼ばれて官軍に討たれたという両面性にもつながる。その子孫が流れ流れて会津に暮らしており、紅葉の代になって京に上るも追放されて祖先の地に帰ってきたのかもしれない。あるいは、紅葉が土着民と交わった皇族某の子孫と再婚したという可能性もある。
八面大王再考
再婚、ということで思い出すのは、八坂村の紅葉鬼人の話だ。彼女は安曇野の八面大王と結ばれて、金太郎を生んだ。この紅葉鬼人が紅葉と同一人物ならば、経基から追放されて後の再婚ということになる。八面大王は、坂上田村麻呂に討たれた鬼であり「まつろわぬ民」で、皇朝と反する立場だが、土着豪族安曇族の末裔とも言われている。安曇族は古代日本にやってきた海洋民族とされ、賀茂氏と同じように一方で皇朝にも仕えつつ、一方で全国に移住し、その移住地には安曇の名が残っている。八面大王が根拠地とした信州安曇野はその代表的な例だ。八面大王を「やめのおおきみ」と呼び、地方豪族ながら由緒ある一族としての誇りを持っていたというような説もある。実際、安曇族は皇室とも並ぶ古く由緒のある一族である。もしかすると皇朝以前に「大王」とされるような尊き一族であったかもしれない。皇朝支配が全国に及ぶ前の時代には、特定の地方の「大王」であった可能性は十分にあるだろう。信濃が皇朝の枠組みの中に入ったのは西国に比べれば後のことなので、そこそこ後の世まで皇朝支配に組み込まれていない地方の「大王」の政権下にあった可能性はある。八面大王の伝承は、安曇族かどうか分からないが、そうした地方の「大王」の最後の抵抗を物語るものかもしれない。
紅葉伝説の真相
鬼無里の遷都伝説にまつわる鬼退治も、そうした地方政権の抵抗と敗北の伝説化と思われる。少なくとも「まつろわぬ民」の征服譚ではあろう。史実とされる天武天皇の信濃調査も、「まつろわぬ民」の鎮撫が目的で、別の政権の「都」を征服せんがためであった可能性もある。本当は「まつろわぬ民」達の「都」であったものが、皇朝により滅ぼされ、世を憚りつつもその誇りを伝えていこうという意志の結果が、「遷都」という伝説を生んだのかもしれない。かつてここに我々の祖先が築いた都があり、我々はその都人の子孫であるということこそ、遷都伝説が伝えられた真の意図かもしれないのだ。月夜の陵の主はそうした地方政権の支配者の墓かもしれないし、鬼無里の「都」の滅亡後、監視役として留まった皇朝の皇族なのかもしれない。後者だとしても、村人に丁重に扱われてきたことを考えれば、やがて土着化していったものと思われる。紅葉のように、土着民を慈しんで、皇朝の文化を伝えたのかもしれない。それであれば、後に紅葉の伝承と重なるということもあり得る。
やがて、安曇野で地方政権の最後の蜂起があった。そのとき、間接的にかもしれないが、八坂村や鬼無里村も八面大王に協力体制を取ったのではないか。あるいは、八面大王討伐後の落人を匿ったのかもしれない。落ち延びてきた八面大王の親族が、紅葉であり、紅葉は鬼無里の人々の協力を得つつ、再戦に備えたが、村人を巻き添えにするに忍びなく、郎党のみ引き連れて荒倉山の岩屋に陣取った。が、結局は皇朝の軍に敗れた。あるいは滅ぼされた八面大王の親族が、再起のためか復讐のためか京へ潜入した。やがて産鉄の民とのつながりを求める源氏との関係を構築するに至るが、源氏としてもリスクが大きいため、結局関係は切れてしまった。そして故郷あるいは後援者のいる鬼無里にて力を蓄え、荒倉山にて再蜂起を試みるが、やはり敗れてしまった。だが、その子孫は生き延びて、やがて様々な因縁と利害から源氏の棟梁直属の部下となった。それが金太郎、坂田金時である。
鬼無里の義仲伝承
紅葉伝説の真相とは、以上のようなものだったかもしれない。無論これは散在する伝承を筆者が組み上げた素人の推測にしか過ぎないが、紅葉伝説は、ただの空想、おとぎ話ではないのは確かだろう。まず山姥的な太古神の零落、女性中心の太古の呪術宗教の零落譚であることは間違いないだろうが、それ以上に、何やら妙に現実味を帯びた政治的・歴史的背景を感じ取らずにはいられない。その一つは、山の民とのつながりである。だがそれだけなら、大方の「鬼退治」譚に見られる事柄だ。今一つは、その「鬼退治」に活躍した源氏との関係である。紅葉伝説では、結局紅葉は源氏に追放されはするものの、源氏に討たれはしなかった。討ったのは、平氏である。時代からして、後の世の源平争乱とは無縁のように思えるが、これが全くそうでもないようだ。
鬼無里には紅葉伝説・遷都伝説の他に、清和源氏・木曽義仲の伝説もある。一つは義仲挙兵の際に鬼無里を通ったという話。もう一つは、義仲敗氏後、その子・力寿丸(りきじゅまる)が隠れ住んだという話である。鬼無里の山奥、内裏屋敷のそばを流れる裾花川のはるか上流に、「木曽殿アブキ」(アブキとはアイヌ語で「岩穴」を意味するとされ、この地に縄文の末裔達がいたことを偲ばせる)と呼ばれる巨大な岩穴があるが、これが義仲が進軍の折野営した地であり、また力寿丸の隠れ家でもあったという。このあたりからは刀剣も発掘されていて、あながちただの伝承とも思えないものがある。また内裏屋敷の少し上流には文殊堂があって、そこには義仲進軍の際か、義仲敗死後に力寿丸を伴った郎党達が祀ったという、義仲の守護仏・文殊菩薩が祀られている。力寿丸はその後家を再興させたと伝えるが、郎党の一部は鬼無里に土着し、今もその後裔を名乗る人々が住む。この他、鬼無里には義仲にまつわる伝説が数多くある。信濃という義仲挙兵の地であることからすれば当然といえば当然なのだが、問題なのは平氏との関係である。義仲の北陸道進出の足がかりとなったのが、越後にいた城長茂(じょうながしげ)との戦だったが、この城氏は紅葉を退治した平維茂の子孫である。
源氏と山の民の関係、そして紅葉
こうなると、紅葉伝説はこのこととも全く無関係ではないだろう。平維茂を破った源氏方の子孫が今に残る村で、平維茂が退治した鬼女を貴女と崇めるのは自然なことでもあるだろうが、それ以前に鬼無里には源氏との関係があったかもしれない。
先に、鉱業利権を得るため、経基の子・満仲は山の民に近づいたという経緯があることを述べたが、そうした関係の一つが鬼無里にもあった可能性もある。ただ、満仲は後に山の民を裏切り、それがために妖怪達の恨みを買ったという話もあって、満仲が戸隠で鬼女退治をしたという注目すべき話が太平記にもある。もしかすると紅葉を討ったのは経基の子・満仲であるかもしれない(ちなみに経基は紅葉が討たれる前に没している)。こうなってくると収拾がつかなくなってくるが、結局この地の山の民も源氏に裏切られたことを示すものだろう。満仲の子・頼光も鬼退治と土蜘蛛退治で名を馳せた人物である。源氏は鬼・妖魔退治の一族なのだ。
だが、時に応じて協力というか、互いに利用する関係にはあったかと思われる。その結び目を象徴するものが経基の紅葉寵愛であり、その後の義仲伝承ではないだろうか。
結 赤き紅葉の伝承
そして、その鉱業利権という源氏とこの地の山の民の結びつきを示すのが、内裏屋敷の鉄である。この鉄が紅葉伝説を異様な政治的・歴史的現実味を感じさせる最大の原因となっている。紅葉が鬼無里に文化を伝えたのなら、この鉄は農機具や狩猟の道具の製作の跡とも考えられる。しかし、紅葉が郎党とともに激戦の末討ち取られたことから考えれば、武器製作の跡と考えるのが自然である。激戦の伝承があり、実際に製鉄の跡があるなら、それは本当にその時代に何らかの戦があったということだろう。このことが、紅葉伝説をただのおとぎ話ではない、血生臭い現実味を帯びたものにしている。そして、その戦いとは、皇朝による土着民征伐であったろう。と、同時に、その信仰である女性主導の太古的呪術宗教抹殺の戦いでもあった。
これまで紅葉伝説に対し様々なアプローチを試みたが、このあたりをもって結論としたい。
それにしても紅葉伝説というのは、単純には論じられない多くの要素を含む、何と広く深い伝承なのであろうか。紅葉という名は、鬼の顔を現す赤、怒りという感情の赤、戦で流れる血の赤、溶けた鉄と鉄錆の赤、女性という性別を示す赤、巫女の袴を彩る赤、女性が真実巫女として輝いた時代を偲ばせる太陽の赤、そしてその落日の赤── そうしたものが一時に爆発し紅葉のごとく赤色に燃えて、そして紅葉のごとく一時で散り土に埋もれた── ということを象徴するもののように思える。千年の時を経た現在も、山の神は戸隠や鬼無里の山々を赤く染めさせる。かの紅葉を偲ぶかのように── 。  
巫女・紅葉とその霊能 

 

平安時代の宗教
そうなると、問題になるのは、紅葉の守護神第六天魔王である。これについては伝説の冒頭で述べた通り、仏教世界の悪魔なのだが、日本土着の信仰ではないし、当然鬼無里の神でも荒倉山の神でもない。
ここでまず当時の主流の宗教観を考えてみる。平安時代には、既に仏教が普及して主流の宗教といえば当然仏教であった。そして、当時仏教といえば天台か真言か、どちらにしても密教であった。また仏教とともに当時隆盛を極めていたのが、安倍晴明で有名な陰陽道である。いずれにしろ、当時の支配的な宗教は、呪術的宗教であった。
これらはあくまで宮廷というか中央の話だが、しかし、実は密教や陰陽道などの外来の呪術的宗教は朝廷が正式に導入するよりも早く民間に流布していた。修験道の開祖と言われる役小角(えんのおづぬ)は既に飛鳥時代に雑密(ぞうみつ)という未整理な密教を体得している。役小角は修験道の開祖といわれるように山林で修行したのであり、密教は朝廷に導入されるよりも先に古来の山岳信仰と結びついて流布していった。日本密教の確立者空海も入唐して本格的に密教を学ぶ以前に山林を彷徨って雑密を身に付けている。
陰陽道も、その基盤となる道教は中国の民間信仰が起源だけにどれぐらい昔から入っているのか不明なぐらいである。奈良時代には、陰陽道の前身といわれた呪禁道(じゅごんどう)が確立されており、呪禁師という官職まで置かれている。だが呪禁道でも陰陽道でも民間に流布し各地で「勝手に」まじないを行っており、民間の呪禁師や陰陽師を何度か取り締まっている。密教にして役小角は流刑に遭っているし、そもそも僧侶となるには朝廷の認可が必要で、勝手に僧侶となることを禁じている。
在野の平安呪術
中央でこうした外来の呪術を勝手に行うことを禁じたのは、まずそれが外来の先進技術を伴う、あるいは先進技術そのものであったことが一つ。もう一つは、その呪力を恐れたからで、民間に強力な呪術があふれれば朝廷が危ういと考えたからだろう。そういう先進技術であり、また危険だが強力なものを、国家の統制下に置きたいというのは自然な発想である。だが、実際にはそうした呪術は取締りの対象となるほど巷にあふれた。
そうやって民間に広まる中でも、役小角に見られるように、山岳信仰とは早くから結びついた。日本古来の信仰を、中央で呪術的要素を切り捨てて天津神中心の国家祭祀へと変容させたものが神道だったが、その切り捨てられた呪術的要素や辺境での信仰も、外来の呪術を取り込んで変容していったのである。国家という後ろ盾もなく、ともすれば弾圧されかねないそういった信仰は、そうしなければ生き延びられなかったのかもしれない。また、そういう信仰と結びついたために、民間の外来呪術を禁止したのかもしれない。
平安時代には、そういう妖しげな呪術が民間で跋扈していた。紅葉が使った呪術というのも、そういう流れを汲む呪術であった可能性はかなりある。紅葉が経基の奥方を呪うのに護摩壇を設けたという伝承もある。護摩壇とは言うまでもなく密教や修験道で用いられるものである。平安時代も中期となれば修験道もかなり普及してきており、まして修験の聖地戸隠ともなれば、鬼無里や荒倉山の信仰もそういった呪術と習合しつつあったかもしれないし、紅葉が外来呪術を持ち込んで土着の神をともに祀ったのかもしれない。
紅葉と平安呪術
そういう外来呪術においても第六天魔王とはやはり魔王なのだが、日本の怨霊信仰と同じように恐ろしく力があるからこそ祀って強力な力を得る、という発想が密教にもある。特にヒンドゥー教から取り込まれた神々に関する呪術はそういったものが多い。まして、山岳修験は修行により霊力を得ようというものである。時に恐ろしい神を祀ることも大いにあり得る。実際第六天魔王の起源シヴァを祀る自在天法や大黒天法、シヴァの息子ガネーシャを祀る歓喜天法などは、危険だが上手くやれば強力な力を得られる呪法ということで大いに用いられた。
紅葉伝説においても第六天魔王にすがることで伴笹丸はようやく子を得たのである。そして一時は栄華を得た。しかしそれがために最終的には悲惨な結果を招いた。これはこういった神が強力で頼りがいがあるが危険であると認識されていた、伝承の上での証左であろう。実際に、第六天魔王の信仰というものもある。
紅葉は山岳系の非公式的な呪術を行っていた── 一応はこう考えることはできるだろう。しかし、そこで一つ重大な問題が生じる。修験道は女人禁制だということだ。現在でも、女性が踏み込むことのできない山や場所がいくつかあるくらい、修験道では女性を忌避している。当時、まだ修験道は成立過程にあったかもしれないが、それでも女の山伏の話などは聞いたことがない。陰陽師についても同様で、官職としての陰陽師に女性はいない。平安時代の呪術宗教で女性が関与できそうなものは、修験道ではない密教か、民間の陰陽道ということになるだろう。しかし、女性が関与できる整備された純密(天台・真言ともに尼僧はいる)は、国家あるいは宗派によってしっかり管理されている。
結果として、当時女性の呪い師が身に付けていそうな呪術といえば、日本古来の民間信仰と雑密や呪禁、陰陽道などが渾然一体となった妖しいもの、と言えるだろう。紅葉の使った術は邪術、妖術と言われているぐらいだから、こうしたいかがわしい呪術であった可能性は十分にある。その中に、修験道とは袂を分かってしまった山岳信仰が含まれていることもあったろう。紅葉が使用した護摩壇にしても別に密教に特有のものではなく、名称は別として呪術に火を用いるのは普遍的なことである。これが修験道やその他民間呪術に取り込まれた際に、以前から使用していたものの形式と名称が護摩壇になったのだということもできる。
古代シャーマンの末裔
しかし、かつて古代世界で活躍した女性シャーマンはどこに行ってしまったのだろうか。古代では霊力や神と交信する能力は女性の方が高いと確実に信じられていた。古代日本の祭祀王は卑弥呼だし、神道の最高神天照大神、シャーマン神天鈿女命はともに女神である。だが、整備された後の神道では、実際に神に一番近いところで祭祀を行う神職は戦後まで男性に限られていた。巫女は存続したものの、整備された神道の下ではシャーマンとしての能力を失っている。神道とは呪術的要素を大きく切り捨てて成立したものなのだから当然といえば当然であろう。南北朝期までは存続した斎宮の制度(皇室の女性が伊勢に赴いて一定期間神宮の祭祀を行うという制度)に、その名残を見るぐらいである。
事情は、既に見てきたように仏教や陰陽道でも変わらない。奈良時代くらいから、女性が呪術の世界から締め出されていった。それは女性シャーマンとは古代から世界的に見られただけに古代を意識させるものであって、未開の土俗文化と見られたのだ。中国の官制を取り入れ中央集権化をはかり当時の近代国家・法治国家を目指す皇朝としては、できるだけ排除したいものであった。また、古代国家が卑弥呼の如き神権政治から専制政治あるいは法治主義へと移ってゆく過程で、母権社会から父権社会への移行もともになされ、女性の社会的地位が堕ちていったということも大きい。呪術的・土俗的要素の価値の低下と、女性の社会的価値の低下は、表裏一体、シンクロしているのである。
では女性シャーマンの文化は死滅してしまったのかというと、そんなこともなかった。それこそ民間呪術に溶け込んでいったのである。その後も女性シャーマンは民衆に支持された。現代に残る典型的な例は、青森のイタコなどがそうである。イタコは神や死者と交信し霊媒となってそれらを自らに憑依させるが、そのイタコは基本的に女性である(男性イタコもいることはいるが女性に比べて相当に小規模である)。
これが千年も昔の平安時代であれば、女性シャーマンはまだまだ民間で十分に健在であった。体制に組み込まれた「神道」の巫女とは別に、「歩き巫女」などと呼ばれる漂泊の女性シャーマンや、「口寄巫女」などと呼ばれるいわゆる霊媒(まさしくイタコのようなものである)が日本各地で見られた。彼女らは、場合によっては寺社で祈祷することもあったようである。また神社の中には国家の体制に組み込まれていない小社もたくさんあって、そこでは古来からの「土俗的な」祭祀や外来の民間呪術がかなり好きなように行われていた。だからこそ、現在でも地方によって、しかもわずかな距離間でも大きな差異が生じるような、その土地特有の祭祀や信仰が残されているのである。
注目すべき歩き巫女
特に「歩き巫女」は、シャーマンとして各地をさすらううち、その際に行う歌舞音曲に注目されるようになった。神事に臨む人々にとって、その歌舞音曲は一種の娯楽と映り始めたのである。また、安定した経済基盤を持たない歩き巫女の方でも、歌舞音曲がもてはやされることは収入の増加につながった。やがてこうした芸能が神事から離れて独り歩きし、歩き巫女は漂泊の芸能者も兼ねるようになった。時代を下ればさらに職業的に独り歩きさえして旅芸人ともなっていく。
あるいは、歩き巫女は娼婦の役割も兼ねた。娼婦と巫女というと、対極にあるもののように思われるが、必ずしもそうではない。世界的に見れば、古代フェニキアの神殿には神聖娼婦というものが置かれていて、参拝にやってくる巡礼者に快楽を与えたという。そもそも、シャーマンとは神憑りにより能力を発揮するわけだが、その際にトランス状態に入らねばならない。これは恍惚、エクスタシーの状態でもある訳で、それは性行為によるエクスタシーに近いものがあると受け止められたのである。また神憑りとは神を自分に降ろし一体となる訳だが、それは男性を自らの体内に迎え入れ一体となることとある種通じるものがあるとも受け止められた。世界の宗教の中にはインドのタントラ密教など、男女の交合によって神との一体化を図ろうとするものさえある。古代バビロニアの大地母神イシュタルも大いなる娼婦と呼ばれ、バビロニアの王はイシュタルと一体化した巫女と交わることによって王位を継承したともいう。このように巫女と性交とは案外と近い関係にある訳だが、それは古代日本の巫女においてもあり得たことだろう。それが歩き巫女に受け継がれていたということもまた大いにあり得る。かくして漂泊の巫女が各地で儀式としての性交を行って、やがて性交だけが芸能と同じように独り歩きしていった。特に先にあげた経済的基盤ということであれば、芸能よりもはるかに簡便で多くの金銭を得ることができる。
紅葉は歩き巫女だった
このように、歩き巫女は次第に漂泊の旅芸人、娼婦をも兼ねていった。これが平安後期となり、動乱の世の中になってくると、さらに顕著になる、それが「白拍子」と呼ばれるような存在である。彼女らは「今様」と呼ばれる歌と踊りを披露した。その今様の歌の内容は、「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」という本にまとめられて今に伝わっているが、それをまとめた後白河法皇はそれほどまでに白拍子に夢中になった。もちろん彼女らは遊女としての役割も担っていた。白拍子といえば義経の側室「静御前」が有名であるが、この二人などは貴人と遊女という間柄を越えて愛し合った稀有な例だろう。それだけに後世まで美談、秘話として語り継がれているのである。本来は、法皇のような究極的な貴人から寵愛を受けることがあっても、それは貴人の私的な愛に過ぎず、また一時的なものに過ぎなかった。そこに、白拍子の華やかさと同時に哀れさがある。この、華やかさと哀れさ、紅葉に非常によく通じるものがあると思うのは、筆者だけではあるまい。
そう、紅葉は歩き巫女だったのではあるまいか。それも、歩き巫女が白拍子などに零落する前の、まだ呪術性を十分に保った、「漂泊のシャーマン」としての歩き巫女だったのではあるまいか。紅葉の生涯を追っていくとそれにもうなづける。まず、魔性の娘と言われほどの天性の霊力。しかも紅葉は鬼無里でそれを生業とした。そしてやはりそれを生業とできるほどの歌舞音曲の才能。また、会津に生まれ、京に上り、信濃に流されるという漂泊の生涯。まさに歩き巫女そのものであろう。さらに言えば、貴人からの一時の寵愛や、それが生む悲劇も、後の白拍子を髣髴とさせる。紅葉伝説とは、古代から続く女性シャーマン達が、漂泊の芸能者、娼婦に零落していく過程を象徴している物語なのかもしれない。紅葉という実在の人物の生涯に、その時代状況が重ねられて形成されたものと見ることができるのである。 
鬼女紅葉伝説  
長野県戸隠村。長野県北中部、新潟県にもほど近いこの場所は、古来より様々な神話・伝説に彩られた、信仰の地であった。そもそも「戸隠」の由来は、天照大神の岩戸隠れにおいて、天手力雄命(アメノタヂカオノミコト)が岩戸を取り除いた際、その岩戸が地上に降ちてきて山となったのにちなむという。中世には戸隠山とその周辺は山岳信仰のメッカとなり、修験道が栄えた。近隣の飯綱(いずな)山は、妖術「飯綱の法」で有名な飯綱信仰発祥の地でもある。それらを受けて、後には忍者の隠れ里ともなった。そうした戸隠の伝説・歴史の中でも、現在ではさほどの知名度はないが、かなり古い部類に入るのが鬼女「紅葉」の伝説だ。謡曲「紅葉狩」にうたわれ、歌舞伎の題材ともなった紅葉伝説。まずはその謡曲のあらすじから見てみよう。
秋も深まった戸隠山。そこに余五将軍平維茂(たいらのこれもち。平安中期の武将で、陸奥守、鎮守府将軍などを歴任。陸奥の豪族・藤原師種や山城の鬼女を討つなどの功績があった。桓武平氏・平貞盛の15番目の養子であることから、「余五(よご)」と呼ばれた)が鹿狩りにやってきた。すると、人里離れた山中に、どこぞの高貴な姫君達か奥方達が、幕を張って紅葉狩の酒宴を開いていた。不審に思った維茂だったが、酒宴の妨げにならぬよう、馬を下りた。すると、酒宴を開いていた貴婦人方に声を掛けられ、酒宴に招き入れられる。維茂は勧めらるまま酒を飲み、美しい舞に打ち興じているうち、酔いが回って寝てしまう。やがて貴婦人方は忽然と姿を消してしまった。寝ている維茂の夢には、八幡大菩薩が現れ警告する。驚いて目を覚ますと、貴婦人は鬼となって維茂に襲いかかって来た。維茂は少しも慌てず、八幡大菩薩を念じて刀を抜き、鬼女を退治したのだった。
これが、室町後期の能役者・能作者、観世信光(かんぜのぶみつ)が書いた(世阿弥作という説もある)、謡曲「紅葉狩」のあらすじである。なお、各地に伝わる歌舞伎や神楽の中には、紅葉の配下に赤蜘蛛、白蜘蛛という蜘蛛を加えているものもある。さて、信光は、この話を書くにあたって、戸隠に伝わる鬼女伝説に取材したという。次に、その伝説の概要を見てみよう。
第六天魔王の申し子・呉葉
平安時代の貞観八(866)年、大納言伴善男(とものよしお)が、応天門の変で失脚し、伊豆に流された。伴善男は、古代軍事豪族大伴氏の末裔であり、一族には万葉集の編纂者といわれる大伴家持もいる。やがて大赦により流刑を解かれ流浪の身となった伴善男は、奥州会津へたどり着きそこに根を下ろしたという。大伴氏は家持の時代に至っても軍事を担い、対蝦夷の関係で陸奥と縁が深かったので、その縁を頼ったのであろうか。
その子孫である伴笹丸(とものささまる)は、菊世(きくよ)という妻とともに会津で細々と暮らしていたが、この夫婦には子がなかった。そこで様々な神仏に祈った挙句、第六天魔王に祈願する。第六天魔王とは他化自在天(タケジザイテン)とも呼ばれ、起源はヒンドゥー教のシヴァ神ともいうが、いずれ仏教における欲望と快楽を司る悪魔である。その祈願の結果、一人の娘を授かった。承平七(937)年秋のことという。
笹丸はこの娘を呉葉(くれは)と名付けて育てた。呉葉は生まれつき利発で、長ずるに従って多方面で頭角を現した。筆から和歌、琴と、文にも芸にも秀でており、その美貌とともに近隣の評判となった。そうなれば当然、思いを寄せる者も多くなる。地元の豪農の息子・源吉も紅葉を見初め、言い寄るが、全く相手にされず、それがために病気になった。源吉の両親は金にものをいわせ強引に呉葉と源吉の縁組を迫ろうと、笹丸に大金を渡そうとする。しかし、呉葉はこの息子をよくは思っておらず、縁組も不本意だった。
さて親の笹丸の方は笹丸の方で、落ちぶれても大伴の末裔ゆえか、都で立身出世しようという望みがあった。それで前々から才色兼備の呉葉を都の貴族に嫁がせようと思っていた。その旨を呉葉に伝えると、呉葉は第六天魔王により「一人両身」の法を授かって自らの分身を嫁がせる。大金だけをまんまと手にし、笹丸親子は京へ旅立ったという。呉葉十四歳のときであった。なお、分身の方は、しばらくして、源吉の家の庭の木の蜘蛛の巣を払ったとき、その蜘蛛の巣が巨大化して雲となり、そのまま糸の雲に乗って飛び去ってしまったという。源吉は呉葉の家に急いだが、既にもぬけの殻だった。
京での栄華と転落
都に上り、笹丸は伍輔(ごすけ)、菊世は花田(はなだ)、呉葉は紅葉(もみじ)と名を改めた。そして親子は四条通りで髪飾りや履物を扱う店を営む。また紅葉は店の仕事の合間に、近所の娘に琴を教えていた。紅葉の美貌と琴の腕がものをいい、店は繁盛し、琴弾きの弟子入りも増えていった。やがて、夜涼みのため四条にやって来た源経基(みなもとのつねもと)の奥方にその琴の腕を買われ、呉葉はその下で仕えることになった。天暦七(953)年六月末のことである。なお、源経基は清和天皇の孫であり、いわゆる清和源氏の祖で、平将門の反乱を訴えたり、藤原純友の乱を鎮圧するなどといった功績がある。
経基の下でも、多才さは発揮され、主人経基の耳に入ることになる。そうして紅葉は経基の寵愛を受けた。経基の寵愛はそれはそれは厚いものであったという。しかし、その頃から奥方が正体不明の病に苦しむようになった。しかも、その苦しみは丑三つ時に最も烈しくなり、その時間になると夜な夜な鬼が現れて責め立てるというものであった。そこで比叡山の僧侶に相談し、病気平癒の加持祈祷を行うと、これは何か魔物の邪術のせいであるとのことであった。そして僧が護符を渡して言うには、それを奥方の看病に当たる者の襟にかければ魔物は退散する、だが拒む者があれば注意せよ、特に紅葉には、とのことだった。
その僧の言葉を伝え聞いた経基は紅葉が怪しいなどと馬鹿馬鹿しいと退けたが、時折紅葉の眼が妖しく光ることを思い起こし、もしやと思い護符を配ることにする。皆喜んで護符を受け取ったが、紅葉だけが頑なに拒んだ。それを経基が問い詰めると、紅葉は自分が奥方に呪詛をかけたことを白状したのだった。そうして、紅葉は捕らえられることになった。捕まった紅葉は本来死罪となるところだったが、既に経基の子を身籠っており、また一度寵愛した女を殺したとあっては世間の笑いものになるため、どこかへ追放して隠してしまおうと思った。それで隠すことに縁のあるということで、戸隠の山中に流すことにした。こうして紅葉は親子共々流罪となった。天暦十(956)年、紅葉十九歳のときのことであった。
水無瀬の民との交流、断ち難き京への思い
紅葉親子は人里離れた戸隠の山中に放置されたが、通りかかった村人の助けにより、水無瀬(みなせ。現在の戸隠村の隣村鬼無里(きなさ)村)の村にたどり着いた。村の人々は、哀れな身の上の紅葉に同情し、また都人ということで尊敬の念をもっても迎えた。紅葉のために収穫物を捧げたり、内裏屋敷という館を建てたりもした。紅葉の方でも、村人の優しさに打たれ、あるいはその教養を授け、あるいはその芸を授けして村人の面倒をみた。また、得意の呪術や占いによって村人を助けたこともあった。紅葉の持っていた檜扇は傷や病を癒す力があって、呪医のような役目をも担ったという。こうして紅葉は水無瀬の人々と平和に暮らしたという。しかし、京への思いも消えた訳ではなかった。
やがて、経基の子が生まれた。経基の一字を取って経若丸(つねわかまる)と名付けた。そうなってくると、京への思いもますます断ち難い。内裏屋敷の東を東京(ひがしきょう)、西を西京(にしきょう)などと呼んだのをはじめ、清水、二条、三条、四条、五条など、今も鬼無里に残る地名を付けて京を偲んだ。また東京には加茂神社、西京には春日神社を建てたりした。あるいは村人に京の文化を伝えもした。
そうしたところに、近隣の村々を荒らし回る鬼武(おにたけ)率いる盗賊の一団が、紅葉の話を噂に聞いて興味本位でやって来た。先年敗れた平将門の元郎党という彼らは何か脅し取るかさもなくば紅葉を部下に引き入れようと思ったが、逆に紅葉の呪術の前に圧倒され、紅葉の配下となった。ここに、紅葉の再上洛の夢は現実味を帯びてくる。彼らは夜になると離れた村の富豪の家を襲って京へ上る資金を稼いだのであった。もっとも水無瀬の村人には盗品を分け与えたりしたので、問題になることはなかったが、村にいては何かと差し障りがあったので、近くの荒倉山に拠点を移した。そこで豪奢な暮らしをしもしたという。
そうした盗賊団の噂を聞きつけ、新たに加わる者も増えてきた。その中にはお万(まん)という鬼もいて、二十三、四の年うら若き女ではあったけれども、怪力無双、性質凶暴で山に暮らしていたが、力において並ぶ者なく、紅葉の側近ともなった。お万は一夜のうちに鳥のごとく数十里を駆ける俊足の持ち主でもあったという。
平維茂 紅葉との死闘
しかし、悪事千里を走るとはよく言ったもの、やがて荒倉山に鬼女が住むという噂が近隣に広まった。それを苦にした父伍輔は死去してしまう。噂は鬼女が都を狙っているとまでに膨れ上がり、ついには国司によって朝廷に上奏された。これを受けた時の帝冷泉天皇は、平維茂に紅葉退治の勅命を下したのであった。安和二(969)年のことである。  平維茂は、平将門を討った平貞盛の養子であった。つまり、先に紅葉の配下になった将門の元郎党鬼武らにとっては主君を討った許し難い仇敵の養子であって、彼らはますますいきり立ち、紅葉とともに、戦いに備えたという。これを聞いた紅葉の母花田は自害した。
勅命を受けた維茂は、軍勢を整え信濃に向かい、上田に入った。まずは配下を紅葉の元へ先遣隊として向かわせたが、紅葉の術に翻弄され、暴風と火の雨に撃退されてしまう。さらにその勝利の宴を開いているところを後ろから攻めようとするが、氷玉、火玉、洪水の術によって返り討ちにあった。
そこで維茂は、配下金剛太郎の勧めによって、神武天皇が太陽を背にし北に向かって長脛彦を討伐した故事に基き、上田の天台寺院北向観音に祈願し、北上して紅葉を討とうと、十七日間参籠に入った。その参籠の最後の日の夜、白髪の老僧が夢に現れ、維茂の手を取り白雲に乗せ、紅葉の立て籠もる岩屋を示して「降魔の利剣」(不動明王などが持っている魔障降伏の剣)を授けた。そして、目が覚めてみると、実際にその剣を手にしていた。
こうして意気付いた維茂一行は、紅葉のいる戸隠へと向かう。しかし、地形が複雑で紅葉の根城がよく分からない。そこで維茂は八幡大菩薩に祈願し一本の矢を放つと、遠くへ飛んでいった。その矢の飛んだ方向へ向かうと、紅葉達の立て籠もる荒倉山の麓へ出た。
維茂一行は荒倉山にたどり着き、三度紅葉との戦に望んだ。紅葉は笑いながら術を使おうとするが、一向に効き目なく、それどころか体が震え目がくらむ。北向観音の霊力を得た維茂には、もはや紅葉の呪術も効かないのであった。危機を感じた紅葉は鬼武達に逃げるよう勧めるが、彼らは潔く散ることを望み、せめて一矢報いんと撃って出て、維茂らに討ち取られた。術が効かないことに焦る紅葉。そこに維茂は降魔の利剣に白扇をつけ矢羽とし、大弓につがえて放った。矢は見事紅葉の右肩に命中した。怒り狂った紅葉は鬼の形相となり、雲に乗って空に舞い上がり炎を吐いて抵抗した。
しかしそのとき、突如黄金の光が空を覆い、紅葉を照らし出した。力を失った紅葉は地に落ちる。そこをすかさず金剛太郎が渾身の力を込めて紅葉の胴腹をえぐる。紅葉は金剛太郎の腕をつかみ荒れ狂ったが、維茂とどめの一太刀、紅葉の首を刎ねた。が、紅葉の首は空を舞い上がりいずこかへ消えてしまった。維茂は紅葉の両腕を首桶に収めて、穴深く、埋めたという。ここにとうとう紅葉は討ち取られたのである。安和二年十月二十五日、紅葉三十三歳のことであった。
こうして勅命により鬼女を退治した維茂ではあったが、紅葉を慕っていた村人の気持ちを汲み、また維茂自身も紅葉を哀れに思って、里に塚を立て紅葉の供養とした。
お万のその後
紅葉の死とともに、その配下も大方は討ち取られ、生き延びた者達も皆逃げた。紅葉の息子も戦いの最中祖母を追って自害した。鬼のお万も岩を投げつけるなどして奮戦し、手下ともに逃げ延びたが、紅葉の敗北を知って諦め、自害する決心をする。しかしこれまでの罪を悔いこの世の最後にその罪を仏の前で懺悔したいと思い立つ。そして戸隠の寺にたどり着き涙を流して仏法への帰依を懇願した。
哀れに思った住職はお万を剃髪し得度させた。感涙にむせび泣いたお万は自害して最期を遂げる。住職は維茂にお万の罪を許してやってくれと乞い、維茂の許可を得て剃髪した際のお万の髪を安置して弔った。この髪は現在も伝わっており、その髪は伸ばせば江戸まで届くといわれた。あるいはその毛はお万の陰毛であるとも伝えられる。
反逆の民・紅葉 

 

紅葉の出自
さて、ここで紅葉の出自について考えてみたい。紅葉は、陸奥、会津の出身である。陸奥とは、当時どういう場所だったか。
延暦二十一(802)年、胆沢城築城。元慶二(878)年、元慶の乱勃発。天喜四(1056)年、前九年の役勃発。これらは何かといえば、陸奥における蝦夷、俘囚(ふしゅう。朝廷側に服属した蝦夷の呼称)の反乱である(乱の前までは朝廷の勢力圏外であったことからすれば、「乱」ではなくて朝廷の外征に対する防戦である)。陸奥、出羽、即ち東北地方は、平安時代当時、まだ朝廷の勢力圏外だった。そして平安時代とは、皇朝による対蝦夷東北征服戦争の時代だったのである。先に挙げた平安遷都間もない時期の胆沢城築城は、かの征夷大将軍・坂上田村麻呂が行ったもので、その築城中に、数十年に渡って朝廷軍を撃退し続けた岩手中央部の蝦夷の長・阿弖流爲(アテルイ、以下カタカナ表記)が降伏する(それより少し前の宝亀十一(780)年には朝廷に仕え官位を授与されていた蝦夷・伊治呰麻呂(これはりあざまろ)が宝亀の乱を起こし、陸奥国按察使(あぜち)の紀広純(きのひろずみ)を討って、国府多賀城が炎上。それから田村麻呂の胆沢城築城まで蝦夷と朝廷の緊張関係が続いた)。当地の蝦夷は、その後服属して俘囚となる。一方、出羽の蝦夷が蜂起して、朝廷の秋田城を落城させたのが元慶の乱である。この乱は同年中と短期間で終息するものの、津軽や北海道の蝦夷も支援に回り、派遣された鎮守府将軍・小野春風が武力制圧ではなく統治を緩めることでようやく沈静化をみる。そして、岩手の俘囚の長であった安倍頼時(あべのよりとき)とその息子貞任(さだとう)の反乱が前九年の役であり、源頼義(みなもとのよりよし)とその息子義家(よしいえ)によって鎮圧された。なお、このとき朝廷の官人だったにも関わらず、婚姻関係から蝦夷側についた藤原経清(ふじわらのつねきよ)と安倍頼時の娘の間の子が、後三年の役を経て、東北全土をその影響下に置き、平泉に金色堂を建てた奥州藤原氏初代・藤原清衡(ふじわらのきよひら)である。
紅葉が生きた937年〜969年というのは、上の元慶の乱と前九年の役のちょうど中間に当たる。つまり、当時の陸奥は一応は朝廷の勢力圏になったとはいえ、まだまだ政情不安定な場所だったのだ。もっとも、会津は陸奥の中でも南端に位置しているから、かなり早くに朝廷の勢力圏に入っていた(古事記の十代崇神天皇の段に、四道将軍大彦命(おおひこのみこと)と武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)がそれそれ日本海側、太平洋側を行軍しそこでお互い出会ったので「会津」と命名したとの記述がある)が、それでも陸奥は陸奥、服属したとはいえ蝦夷という異文化、異民族の民が住む地には違いなかった。
紅葉は蝦夷か
紅葉の父笹丸は大伴氏の末裔となっており、朝廷側の人間である。しかし、もはや中央政界から追放された人間であり、場合によっては追手がかかるような立場にいる訳で、その意味では蝦夷と変わらない。中央を追われた人間は古来より陸奥に逃れてくるという、史実・伝説も豊富にある。古くは、神武天皇に敗れた長脛彦。蘇我氏に敗れた物部氏。平将門の残党。源義経一行。時代が下れば、北畠氏など南朝方。伴善男が住み着いたというのもこうした史実・伝承の一環と見ることができる。まして、大伴氏は陸奥との結びつきが強かった。その子孫が落ちのびてくるならば、岩手のような紛争地域ではなく、早いうちから朝廷に恭順した会津あたりであれば、政情的にも言語などの環境的にも(北方の蝦夷ほど言葉が通じにくくなるという日本書紀の記述もある)、生活しやすかったのではないだろうか。そして、「貧しい暮らしを送っていた」笹丸の代には、すっかり現地に土着し、蝦夷の娘も娶って、蝦夷に同化してしまっていただろう。
これは、史実かどうかは問題ではない。伝承上の意味を探るものである。中央を追われ土着化し蝦夷と一体となっている者の血を引いている、という伝承上の意味を問題としている。紅葉の出自をこのように説明しているということは、紅葉に、追われた者、追われている者、まつろわぬ者ども(朝廷に服属しない蛮族)、という宿命を背負わせ、そこに意味を持たせているということである。これは紅葉伝説のほとんどに共通の事柄なのだから。
蝦夷=鬼
さて、ここで先に紅葉が「鬼」であることの意義を再び考えてみたい。「鬼」とは、先に述べたように皇朝に対する反社会分子、脱社会分子である。それは律令体制に組み込まれようとしない山の民、漂泊の民などであるが、体制に組み込まれていないという点では蝦夷などはその最たるものであった。服属し「俘囚」となった蝦夷にしても、いつ反乱を起こすか分からない不穏分子であったし、そもそも習俗が大きく異なる。「鬼」とは異界の存在であるが、俘囚、蝦夷という存在は異界の存在そのものであった。そういうことで、都の貴族にとっては蝦夷は鬼も同然だったのである。そうした思考を受け継ぐ地方の官吏や、場合によってはその体制に組み込まれている里の民からしても蝦夷とは鬼で有り得た。そういう中央の発想が持ち込まれた結果、蝦夷は鬼と見なされた。平安時代の絵画には蝦夷を角のある者として描いたものがあるし、前九年の役の安倍貞任を鬼とする伝承もある。また岩手の平泉近くで田村麻呂に討たれたという鬼の王・悪路王(あくろおう)は、先のアテルイが変化して伝わったものともされる。蝦夷が鬼と見なされるようなことはようなことはいくらでもあったのである。青森の岩木山には鬼を祀る神社もあるが、これなどは、蝦夷が古来より崇めた当地の神が朝廷視点で鬼と堕とされつつも、当地での信仰が絶えることはなかった結果かもしれない。平安時代にあってはほとんど朝廷の影響を受けずに終わった地であれば、そういったこともあり得る。
先に、歩き巫女のような漂泊のシャーマンは、中央の宗教政策とその観念の普及により、古来の女性シャーマンが権威を失い弾圧されることもあり得るようになって、地元での活動が制限された結果、零落して生まれたものだと述べた。それは陸奥でも同じだった。もちろん、未だ体制に組み込まれていない北東北では古来の宗教が自由に行われていたろうが、早くに体制に組み込まれた南東北などでは場合によっては厳しいものがあったはずだ。あまり頭ごなしに地元の信仰を弾圧したのではかえって反乱を招くが、さりとて全く放っておいても反乱の種となる。古来より続く女性シャーマンなどは、間違いなく活動の制限を受けたろう。
東北の巫女
先に出たきたイタコのように、東北は女性シャーマンの信仰が強い場所だ。彼女達が活動の制限を受け、地元では生計が立てられなくなったとき、やはり漂泊のシャーマンとなったろう。朝廷の対蝦夷政策が強硬化した平安時代には、東北出身の漂泊シャーマンがかなり増えたのではないか。もしかしたら、平安末期に白拍子などの漂泊シャーマンの活動が活発化したのは、東北が朝廷の勢力下に置かれ、職を失った東北の女性シャーマンやその子孫が漂泊シャーマン化した結果なのかもしれない。最も有名な白拍子・静御前は奥州とつながりがあり、静御前の伝説もある。また、三重県と滋賀県の境にある鈴鹿峠に住み、坂上田村麻呂に討たれたという鬼女・女賊の鈴鹿御前は、先のアテルイをモデルとするという悪路王の婚約者だったというが、その伝えられる姿は白拍子そのものである(鈴鹿御前の別名である立烏帽子は白拍子のまとう装束の一。鈴鹿御前は第四天魔王の娘と伝えられていて、紅葉との共通点も多く興味深い)。
東北における歩き巫女は、イタコが祀る神「オシラ様」を祀り、イタコが唱える「オシラ祭文」を唱える、ということもあったようだ。歩き巫女の中でも東北にルーツを持つ者は、東北以外の地で別の神を祀りながらも、自らのルーツの神を祀ることを忘れはしなかっただろう。あるいは、東北以外の地での公共の場でも、ルーツの神々を祀ることもあったかもしれない。そのようなとき、周囲には理解に苦しんだり、難色を示す者もあったろう。
ただ、東北の女性シャーマンが漂泊シャーマンと化すにしても、あまりに習俗が違いすぎては生業が成り立たない。ある程度中央の文化が流入し交流もある場所に生まれた者でないと、蝦夷の女性シャーマンも東北以外の他地域に出入りする漂泊シャーマンと化すことはできなかったであろう。まして白拍子のように都に上ることも稀でないのであれば。そういうことであれば、南東北などは漂泊シャーマンを輩出するには最適の地であったかもしれない。
やはり紅葉は鬼である
さて、紅葉は蝦夷の血を引くか、少なくとも蝦夷の地の出身であった。そして、漂泊のシャーマンとしての属性も強く持っている。つまり、陸奥出身の漂泊シャーマンと見ることができるのである。しかも、漂泊シャーマンを輩出するに適した地、南東北、会津の出身なのである。ちなみに、会津にはオシラ様の信仰やそれを祀る巫女の存在が確認されている。
蝦夷、漂泊民。これはどちらも当時、あるいは後世、鬼と見なされても全くおかしくない存在であった。そんな属性を持つ紅葉が霊力を発揮するとき、ルーツたる陸奥の神に祈ることも大いにあったに違いない。それが京でのことであれば、周囲は理解に苦しんだことだろう。あるいは「鬼」や「悪魔」を祀る者と映ったかもしれない。仏教世界から見ればそれは魔王の力を借りた業であったろうし、紅葉の霊能にどこか神道でも仏教でもない土俗的な呪術の雰囲気があるのは、そのせいではないか。紅葉が実在の人物だったとして、これら全ての事柄を鑑みれば、鬼の女と見なされるのも然るべきことなのである。
ずっと前に、紅葉は物の怪としての「鬼」の属性に乏しいと述べた。しかし伝承上はれっきとした鬼であって、それならば鬼であらねばならない理由があったとも。その理由こそ、皇朝の体制に組み込まれよとしない「蝦夷」「漂泊民」、さらには古来から続く女性シャーマン、それももしかすると蝦夷の神々を奉じたかもしれない「異端的宗教者」といった属性を持っていることなのである。限りなく人間の女性であるのに、やはり鬼であるのは、こうした属性によるものなのだ。
紅葉の実像
紅葉伝説は、つまるところ鬼退治の話であるにも関わらず、主人公は鬼自身で、その上とても物悲しい。それは、漂泊の身を余儀なくされ、時に都での栄達を手にすることがあっても、結局は鬼とされて迫害されてしまう、悲しい辺境の女性シャーマンの身の上がその原像にあるからではなかろうか。あるいは、紅葉という人物は実際にはいなかったかもしれない。記紀の日本武尊が当時朝廷の最前線で戦った幾人もの将軍達の反映だといわれるように、紅葉も幾人もの辺境の漂泊女性シャーマンの反映と見ることもできる。
しかし、日本武尊にしても、全ての武勲を一人で立てた訳ではなくとも、それらの話の核となった、群を抜いて功のあった皇子は実在したであろう。同様に、紅葉についてもそれに相当するそれなりに世を騒がせた実在の漂泊女性シャーマンがいて、それに幾人もの同じような境遇の人間達の話が重ね合わさって伝説が形成されたのだと思われる。
もちろん、本当に紅葉伝説の話は全て紅葉という一人の女性の話なのかもしれないが、ともかく、紅葉のような女性は全く突飛な存在であったのではなく、似たような境遇の女性はいたであろうということで、逆に全くの架空の話ではあり得ないということである。いずれにしても当時の時代状況を反映した話なのである。
紅葉は「まつろわぬ民」である
紅葉は、皇朝に征服された古代日本の土着民の血と文化を受け継ぐ者ととれる。「勅命」により討伐されたという、明らかに皇朝に仇なす存在であったこと。皇朝に仇なす者がそう呼ばれたように「鬼」であったこと。皇朝に征服された、あるいは服属しない「蝦夷」の地の出身であり、その血を受け継いでいたかもしれないということ。皇朝の体制に組み込まれない「漂泊民」であった可能性があること。皇朝の組み立てた国家宗教に漏れた古来からの「女性シャーマン」であること。「蝦夷」の神々を祀ったか、そうでなくとも「漂泊民」「女性シャーマン」が祀った「妖しげな神々」を祀った可能性があること。紅葉という山に関係ある名、険しい山の岩屋に籠ったなど、山の神を祀ったことを示唆する部分はいくらもあるが、「山」は異界の領域であり「鬼」「漂泊民」の活動の場で、狩猟採集を生業とした縄文系の土着民との関係も大いにありそうだということ。このように、紅葉が古代日本の土着民の血と文化を受け継ぐ者だということを暗示する要素がいくらもあるのである。
しかしさらに、紅葉が古代日本の土着民の末裔を思わせる要素がある。それが、皇朝に手向かった「女賊」であるということだ。
土着民の女首領達
実は、皇朝に手向かって討伐された賊徒というのは、女性を首領とするものがかなりあるのである。それも、土着民の首領か、それとつながりがあるものが非常に多い。
近い時代の伝承としては、先に出た鈴鹿峠の鬼女、鈴鹿御前。立烏帽子の別称を持ち白拍子の如き少女の姿で描かれ、悪路王の婚約者にして坂上田村麻呂に討たれたというこの女賊は、第四天魔王の娘でもあり紅葉と共通点の多いものだと述べた。
時代を遡ると、記紀において反逆の土着民とされた「土蜘蛛」の首領は女性が多い。殊に日本書紀では、名草戸畔 (ナグサトベ)、丹敷戸畔(ニシキトベ)、新城戸畔(ニキトベ) などといった女賊が紀伊半島の山中で神武東征軍に立ちはだかって誅されている。「戸畔」という名称は、女賊を表すという説があり、それならば土着民の首領に女性が多かったことを示すことになる。他にも神功皇后が手を焼いた九州は筑紫の土蜘蛛の首領・田油津姫(タブラツヒメ)、同じく九州の、皇朝に恭順した神夏磯姫(カムナツソヒメ)など多くの女首領が出てくる。
肥前国風土記には海松橿姫(ミルカシヒメ)、大山田女(オオヤマダメ)、狭山田女(サヤマダメ)、八十女(ヤソメ)、速来津姫(ハヤキツヒメ)など多くの土蜘蛛の女首領が出てくるし、近隣の豊後国風土記には五馬姫(イツマヒメ)という首領が出てくる。丹後国風土記残欠(いわゆる古風土記とは異なる)には匹女(ヒキメ)というこれまた土蜘蛛の女首領が出てくる。そしてまつろわぬ民の本場、陸奥国の風土記逸文でも土蜘蛛の首領として神衣姫(カムミゾヒメ)、阿邪爾那姫(アザニナヒメ)の名がある。その舞台も福島県の南部、陸奥の国の最南端である。
女首領と女性シャーマン
上に列挙したように、かなりの数の土蜘蛛の首領が女性なのである。土蜘蛛の首領で具体的に名が挙げられているものはそう多くはない。その中でもはっきりと女性と分かるものは半分近くあるし、それ以外でも女性のものもあったろう。土蜘蛛とは女性を首領に頂くという習俗があった言っても言い過ぎではないほどである。
しかも、これらの多くが女性シャーマンであった言われており、巫女集団の長であったと言われている。中には、卑弥呼の末裔だとか、卑弥呼そのものではないかと言われているものもあるのだ。土蜘蛛とは皇朝がそれに服属しない民を十把一絡げにしてつけた呼称だが、そういう土着民には女性を首領とするものが非常に多く、しかも巫女集団の長であることもしばしばだったようである。であればこそ、女性シャーマンというものは国家宗教の枠組みに漏れ、弾圧の対象ともなったのかもしれない。
紅葉も、こうした土蜘蛛の女首領の系譜に連なる、最後の末裔である可能性も高いのだ。それはこれまで見て来た通りだが、別に紅葉と土蜘蛛のつながりを示唆する要素もあるのである。 
土蜘蛛及び紅葉異伝 

 

紅葉と土蜘蛛
それは紅葉の会津時代の最後に出てくる、地元の豪農の息子源吉に対して行った「一人両身」の術の顛末である。紅葉の分身は庭の蜘蛛の巣を払ったところ、蜘蛛の糸が巨大化して雲になり、分身はそれに乗って飛び去ってしまったという話だ。ただの蜘蛛と雲の語呂合わせでもあるのだが、土蜘蛛はまた土雲と記したことを思い起こさせられる。またここで蜘蛛が突如として出てくることも、不可思議なことなのだが、それも紅葉が土蜘蛛の末裔であることを示唆するものとも取れるのである。もちろんこれは暗示的要素であって、魔的存在の紅葉に同じく魔的属性を持つ蜘蛛がイメージ的に重なっただけかもしれない。
しかし、紅葉と土蜘蛛との関係を暗示するものは他にも見られる。聖地戸隠には様々な神が祀られるが、そのうちでも最も古い土着神とされるのが九頭竜権現である。これは中国の風水思想に基づく一種の竜神信仰だが、日本ではもっと複雑な事情があるようだ。それは「クズ」という音にあって、それは土蜘蛛の別称でもあるのだ(国巣、国栖、国主、国津、などいう字を当てる)。即ち日本において九頭竜を祀る場所というのは、「クズ」の活動拠点だったというのである。確かに、奈良盆地周辺では九頭竜を祀る神社も多く、中には「国津神社」というものまである。奈良盆地といえば神武東征以前は土蜘蛛の根拠地だった。その九頭竜を祀る神社や「クズ」の名を関する神社が全国にあって、それは土蜘蛛の根拠地を示すものだというのだが、戸隠もその痕跡を留めるものだというのだ。奈良盆地での祀られ方を見るならば、これもあながち異説と退ける訳にもいかない。
ほかに、紅葉伝説の故郷、鬼無里には、山中に巨大な蜘蛛が住んでいた淵があったという民話も残されている。その場所は紅葉が住んだという内裏屋敷の上流に当たる。また、紅葉伝説を再現した歌舞伎の中には、紅葉の配下に赤蜘蛛、白蜘蛛という蜘蛛の妖魔がいたとするものもある。これも紅葉と土蜘蛛の関係を示唆するものであろう。
大伴氏と土蜘蛛
もっと言及すれば、大伴氏と土蜘蛛の関係というものもある。大伴氏と親類関係にあった氏族に佐伯氏というのがある。この氏族中最も活躍したのは佐伯真魚(さえきのまお)だが、彼こそ真言宗の開祖弘法大師空海である。
この佐伯氏、大伴の配下にあってそれを支えたというのだが、日本書紀には佐伯とは帰属した蝦夷だとはっきり書かれている。また常陸国風土記では、佐伯という名の土蜘蛛が悪さをして朝廷の軍に誅されている。佐伯とは間違いなく蝦夷、土蜘蛛であり、先住土着民なのだが、これと大伴氏が縁戚関係にあるというのはどういうことだろうか。
大伴氏とは古代の軍事豪族だが、その歴史は古い。その祖は天孫降臨で皇孫とともに天下ったという。その子孫は神武東征において紀伊半島での戦闘に大いに活躍した。その後も天皇に刃向かう諸豪族を次々と平らげ、朝鮮半島にも赴いた天皇の側近中の側近である。大伴、とは大いなる伴、即ちしもべなのである。土蜘蛛を最前線で斬り殺した一族であるはずなのだ。おかしなことなのだが、このあたりの事情が複雑なのが日本の古代史なのである。
天孫降臨の際、皇孫を武力によって守る役目を担ったのが、大伴氏祖の天忍日命(アメノオシヒノミコト)と天津久米命(アマツクメノミコト)だった。天久米命は天忍日命の部下とも言われ、その後の神武東征でも大伴氏の祖は久米部という部族を率いて土着民と戦う。このとき久米部が歌ったとされるのが「撃ちてしやまむ」でいう久米歌なのだが、その久米歌の内容などから久米部というのは狩猟・漁労民で九州南方の土着民・隼人と同族であろうといわれる。その久米というのは佐伯とともに大伴氏の軍事力を担っていたわけだが、大伴家持の歌では自らの祖を大来米主(オオクメヌシ。古事記において久米部の首領として神武東征で戦った)としていたりして、久米と大伴とは同一なのではないかとも思われる。大伴というのはあくまで天皇の大いなるしもべという尊称であるから、久米の首領を大伴といったのかもしれない。
夷を以って夷を制す
そういう土着民の痕跡を持つ大伴氏が、やはり土着民である佐伯を率いている。そうしてみると大伴氏というのは一方で土着民を征服させていく急先鋒でありながら、また一方で土着民とも強いつながりがあったようだ。最前線に立ったからこそ、相手の土着民とも関係が深かったとも言える。征服した土着民を取り込むことによって、大伴氏の軍事力が保ち得た可能性もある。「夷を以って夷を制す」という皇朝がよく取った戦法の一つである。蝦夷に対するには同じく蝦夷を用いるという戦法だ。戦略、戦術上、相手の出方も分かる訳だし、和平の道も開きやすい。また土着民との深いつながりによって皇朝内での権力を維持するという意味合いもあったろう。戦乱を引き起こすも平和な世を保つも彼ら次第ということになるのだから。
同じく軍事氏族であった物部氏なども同様であったかもしれない。物部氏の祖は神武天皇最大の敵・長脛彦と血縁関係にあった。物部氏も各地で皇朝の征服戦争に従事し、蘇我氏に敗北した後、多くは陸奥に逃れ長脛彦の末裔達と合同したという。なお古代、大伴氏を失脚に追い込んだのは物部氏だった。
以上のように大伴氏は土着民を倒しつつも土着民と深い関係にあったのだが、土着民と皇朝とて必ずしも常に対立関係にあったとは限らないのだ。佐伯のように帰属した土着民も多くいるし、大伴氏自身や物部氏もその類かもしれない。古代に遡っていくとそのあたりは明瞭でなくなる。
それは、そもそも皇室とて同じなのである。どのような出自があるにせよ、皇室とて支配権を確立するまでは一部族だったのだ。遡れば遡るほど征服被征服という関係が曖昧なのは当たり前なのである。皇室の支配権が確立されるに従い文化・民族も融合されて、より古い時代に一体となったものは区別が曖昧となっていくのだが、それでも固有の民族性を色濃く残すものはあった。佐伯というのはその典型なのではなかろうか。
記紀編纂の時代に至ってもはっきりと土蜘蛛と書かれるからには、佐伯氏、佐伯部というのは皇朝同化後も固有の民族性や文化を明瞭に保持していた一族なのであろう。何の後ろ盾もないはずの空海があっさりと入唐できたり、拠出先不明の莫大な資金を持っていたりするのは、山の民による援助があったからだともいう。空海と水銀鉱脈の関係が指摘されるのもその向きに着目したものが多い。佐伯部は皇朝同化後も同化していない土蜘蛛達と関係を持っていた集団だった思われる。
紅葉と大伴氏と土蜘蛛と
そういう集団と、大伴氏は深い関係にあった。土蜘蛛達にとっても、大伴氏というのは時に自らを討ちに来る敵であると同時に、皇朝へのパイプでもあったろう。大伴氏が佐伯部を通じて土蜘蛛の情報を入手し、時には戦を有利に進め、時には和平の道筋としたのなら、土蜘蛛の方でも事情は同じはずである。単なる敵ではなかったはずだ。日本史の陰に隠された複雑な部分だが、ともかくも大伴氏と土蜘蛛はつながりがあった。やがて末裔たる伴氏が落ちのびるようなことになれば、土蜘蛛を頼ったであろう。征服戦争を前線で戦った物部氏が、蝦夷と合同したといわれるように。
紅葉伝説における伴笹丸の話が実話であるなら、そこに土蜘蛛との関係も見出せることになる。しかも、紅葉には蜘蛛にまつわる話もある。伴笹丸が実在したかどうかは分からないが、紅葉伝説が形成される上で重要な要素ではあるのだろう。紅葉が陸奥に落ちてきた大伴氏の末裔であるというのは。現在の我々には別になくとも話は成り立つように思えるような事柄だが、だからこそ重要なのかもしれない。当時や少し後世の人々にとっては意味のある事柄だったのではないだろうか。笹丸紅葉親子の上京は伴氏の中央復帰活動の一環だったかもしれないし、あるいは蝦夷と合同した伴氏のスパイ活動だったのかもしれない。いずれにしても明るみに出ればただでは済まされない活動だ。結局その上京が悲惨な結果に終わったのも、そうした因果のあることなのかもしれないのである。だがとにかく、紅葉が陸奥に落ちた大伴の末裔であるということは、土蜘蛛との関係を暗示するものであるのは確かである。
ところで、清和源氏は地歩を固めるのに鉱産資源を求め、山の民に近づいたという。佐伯真魚、即ち空海のところで述べたように山の民は鉱産資源と深いかかわりがあったからだ(鉱産資源は山から採掘するもので山に詳しくなくては採り出せない)。武士なのだから刀の原料となる鉄を求めるのは当然なのだが、その地歩を固めたというのが源経基の子、満仲(みつなか)なのである。経基と紅葉の関係というのも、このあたりの事情と無関係ではないのかもしれない。
紅葉鬼人の伝承
さて、今度は全く別の観点から紅葉がまつろわぬ民の系譜であることを述べてみたい。これまで、蝦夷との関連や、鈴鹿御前のところで出てきた坂上田村麻呂。彼は蝦夷を平らげた名実ともに「征夷大将軍」であり、蝦夷征服の代名詞と言っても過言ではない。また鈴鹿御前に見られるように別の鬼や賊も討ったという伝承もある。しかし、紅葉には直接関係はない。ないのだが、もう少し近づくような話がある。
それは坂田金時(さかたのきんとき)、いわゆる金太郎の出生譚である。金太郎といえば神奈川県の足柄山が有名だが、同じような場所が全国にいくつかある。そのうちの一つが、鬼無里村の約15キロ南方、八坂村の大姥山に伝わるものである。この山に荒倉山の岩屋のような洞窟がある。金太郎はここで生まれ育ったというのだが、その母が紅葉鬼人という赤い顔をした女だったというのだ。紅葉鬼人は西の安曇野の八面大王と恋仲になり、金太郎を生んだ。この八面大王とは、大姥山のさらに西南15キロほど、穂高町の有明山の岩屋に住んだ大鬼だという。強大な魔力を持ち、天候を操り、天地を飛び歩いて、多くの手下の鬼とともに付近の村々を荒らし回っていた。その噂はやがて京へ伝わり、八面大王は坂上田村麻呂により討たれる。悲しみにくれた紅葉鬼人は鬼無里へ去って自害したという。
この伝承に出てくる紅葉鬼人とは紅葉伝説にある紅葉と同一の存在を指すものと思ってよいだろう。八面大王は、土着の豪族、安曇族の首領ではないかとも言われているが、いずれ朝廷に逆らった者であることは間違いない。田村麻呂に討たれているというのが何よりの証拠だ。田村麻呂に討たれた、という伝承の意味は、その真偽はどうあれ朝廷からすれば蝦夷と同類ということなのである。その蝦夷と同類を夫に持ち、子を設け、夫の死を追って自殺したという紅葉の伝承がある。これは紅葉もまた蝦夷と同類ということを意味するものである。つまり、紅葉は「鬼」であらねばならないような存在であった、ということなのだ。
この伝承は紅葉の異伝ともいうべきものだが、伝承だけあって時代の整合性には乏しい。田村麻呂の時代と戸隠の紅葉が愛された源経基の時代とは同じ平安時代とはいっても若干の隔たりがある。しかし伝承にそうした整合性を求めても詮無きことである。そこから伝承に込められた意味を読み解いていかねばならない。
この話の主眼は紅葉が金太郎の母親だということである。この金太郎、先に出た源経基の子、満仲の子の、さらにまた子である頼光に仕えて、頼光四天王と呼ばれる名将となる。紅葉が経基の子を宿したというのが真実なら、筋の通った話ではある。金太郎がもとより源氏の血を引く者ということになるのだから。いずれにしても清和源氏との浅からぬ因縁があるのは間違いない。また金太郎の人並み外れた怪力も、鬼の子ということなら納得のいく話ということになる。ただ皮肉なのは、その鬼の子金太郎は頼光に従い鬼の王酒呑童子を討伐しているということである。これは皇朝の「夷をもって夷を制す」というやり方を反映したものなのかもしれない。
紅葉と山姥、山の民
さて、その紅葉鬼人が住んだという大姥山だが、その名の通りこの山には大姥様という山姥が住んでいたという。山姥というのは、山中に住んで人を食うとされる鬼の一種だが、八坂村の大姥様は、犯せば祟るような禁忌こそあれ、基本的には人々に恩恵を与える存在として信仰されている。金太郎はまたこの大姥様の子ともされていて、はっきりとはしないが、おそらくは大姥様というのは紅葉鬼人の別称、あるいは尊称であろう。そして鬼無里に行って自害したという伝承からして、この紅葉鬼人と戸隠の鬼女紅葉とは同一の存在に対する別伝承だと思われる。大姥様が住んだ洞窟は大姥山と、もう一つは戸隠にもあったという伝承もある。異なるのは夫と、追われたのが夫か本人か、他殺か自殺かということだけである。山に住んで霊力を発揮し、人々から畏怖と尊崇の念を抱かれる女性であった点はもちろん、中央からの迫害、源氏との深い関係という点など、大きな共通点が見られる。
そもそも、戸隠の紅葉も、山に籠って妖しげな術を行い悪さをし鬼と呼ばれるという点で、非常に山姥に近い存在である。紅葉とは山姥という存在のより原型に近い存在だということもできよう。山姥は人を食う鬼とされているが、元来は山の民の女性シャーマンであろうといわれる。山の民は生活・行動様式の違いから里人に理解されず鬼と呼ばれることもしばしばだし、そのシャーマンとなればますますもって理解不能である。人を食う鬼と解されても不思議ではない。山の民の女性シャーマンとしての山姥、紅葉はその原型としての要素も多分に持っているようである。
なお戸隠、鬼無里と境を接する中条村の虫倉山には、優しい子育ての神様としての山姥の伝承もある。このあたり一帯には、中央や里ではとうに忘れられた太古の女性シャーマンの信仰が、長く息づいていたようだ。険しい山岳地帯でもあるから、山の民の主要な活動拠点でもあったのだろう。大姥山の洞窟は越後の別の洞窟までつながっていると言われているが、その真偽はともかくとしても、鉱産資源を糧とし鉱業を生業とした山の民とのつながりを示唆するものとも受け取ることができる。 
紅葉が祈りし神々 

 

第六天魔王の正体
ここで、振り返って、紅葉の守護神、第六天魔王についてもう少し言及したい。第六天魔王とは仏教における強大な魔王であり、起源はヒンドゥー教のシヴァ神であることは既に述べた。そしてたとえ魔王のような存在であっても、その力ゆえに信仰された経緯があることも。だが、この第六天魔王についてはそれだけでは終わらないような側面がある。
実は、この第六天魔王は意外に多くの場所で祀られている。「第六天さま」と呼ばれる神社が各地にあって、祭神は面足尊(おもだるのみこと)・惶根尊(かしこねのみこと)とされている。この両神は日本神話における天地創造の神で、イザナギ・イザナミ両神の一代前に当たるのだが、最初の神から数えて六番目にあたる天の神である。それゆえに第六天と習合された。つまり後世の付会による。神仏習合が広まった中世と、神仏分離が行われた明治期になされたものであろう。そうした祭神が当てられる前から、確実に第六天信仰は存在した。その分布は、主に中部と関東である。そして奇妙なことに、仏教中の存在である第六天の信仰は、寺院とは関係が薄いところで成立しているようなのである。神社が建てられている場合もあるが、道祖神のような石碑として信仰されている場合もかなり多い。その起源を求めると── どうも、信州、長野県に行き当たるようなのだ。
信州は第六天信仰が最も集中している場所であり、特に諏訪地方では各集落ごとに第六天を祀る碑がある。中には、第六天を「御社宮司(ミシャグチ)」と規定しているものもあるのである。このミシャグチ神とは何者か。
諏訪には、信濃国一の宮・諏訪大社がある。一の宮というのはその国で最も篤く信仰されている神社だが、諏訪大社の信濃における信仰の篤さは、他国の比ではない。今も死人が出ることもある御柱祭の例を見るまでもなく、今なお熱烈に信仰されている神社で、長野県内をはじめ全国に数多くの分社がある。その諏訪大社の祭神を、建御名方神(タケミナカタノカミ)という。国津神の王、出雲大社の祭神大国主命の子で、天津神の国譲り要求に最も烈しく抵抗し、出雲から諏訪に逃れ、決して諏訪から出ないことを約束して、辛うじて命を救われたと記紀神話にはある。諏訪湖の神でもあって、龍神とも言われ、荒ぶる神として他の神から恐れられたという伝承もあるが、一方で威力ある神として朝廷に重んじられてもいる。その諏訪大社の祭神について、当の諏訪では記紀神話とは異なる伝承がある。
ミシャグチ神とは
はるか太古、諏訪には洩矢神(モレヤノカミ)という土着神がいた。そこに外部から建御名方神が侵入してくる。洩矢神は鉄の輪、建御名方神は藤のつるをもって戦ったが、洩矢神は敗北した。そうして洩矢神は子々孫々建御名方神を祀ることになり、その体制は明治まで続くのだが、その洩矢神の子孫・守矢家が祀っていたのがミシャグチ神なのである。ミシャグチ神は自然万物の精霊で、諏訪大社の祭祀は実際にはミシャグチ神の祭祀を中心としているし、地元諏訪でも信仰されている。またミシャグチ神には様々な別称があり、シャグジンなどとも呼ばれて、「石神」の字が当てられることもあるように、石の神でもある。その祭儀は動物を生贄に捧げるなど極めて狩猟民的な色合いも濃く、仏教流布後の殺生禁止の価値観の中で猟師に殺生を許す「鹿食免(かじきめん)」という免状を発行していたのも諏訪大社なのである。
そうしたことからミシャグチ神の信仰は、縄文時代にまで遡るという。縄文時代は狩猟文化であり、自然信仰であって、石棒などに見られるように石を敬う文化であった。またミシャグチ神は蛇体とも言われるが、縄文土器に蛇の文様をあしらったものが非常に多いように、蛇信仰という面でも共通するようである。特に縄文時代の信州は縄文文化が最も発達した地方の一つで、蛇文様の土器の出土は極めて多く、黒曜石の産地でもある。守矢家のある長野県茅野市の、八ヶ岳の麓には国宝・縄文のビーナスを出土した尖石遺跡があり、その尖石という名の由来となった縄文人が石を砥いだ石は、「尖石さま」と呼ばれて後世まで信仰の対象であった。同じく八ヶ岳の麓・長野県佐久町には日本最大の縄文時代の石棒も残る。そしてミシャグチ神の信仰は、諏訪を中心に中部から関東まで分布している。これは、同じ様式の縄文土器が出土する範囲なのである。即ち、縄文時代中期の文化興隆地域である。この地域には、太古から石を依代とする精霊ミシャグチ神を祀る文化があり、後世までその信仰が続いたのだ。
このミシャグチ神の信仰分布は第六天の信仰分布がほぼ重なっており、ミシャグチ神の故郷・諏訪では同一の存在だとも述べられている。先に述べたように、第六天は道祖神のように石に祀られていることもあるが、ミシャグチ神もまた石に祀られる。信州に見られる独特の信仰道祖神も、ルーツはミシャグチ神にあるともいわれるが、第六天の信仰もまた、ミシャグチ神にあるのであろう。
紅葉はミシャグチ神の巫女か
さて、話を紅葉に戻すが、紅葉伝説の主要な舞台である戸隠は紛れもない信州である。当然ながら諏訪信仰の圏内であり、紅葉が村人に慕われたという鬼無里の最も有力な神社には諏訪の神が祀られている、それは龍神として語られ、しかも鬼無里の発祥とも深く関わるような重要な存在である。そして、紅葉伝説と関わりのある神社であり、坂上田村麻呂との関わりさえあるのである。紅葉と諏訪の神とは、無関係ではないのだ。そして、紅葉の守護神第六天は、諏訪の土着の神、ミシャグチ神にルーツをもつ。即ち── 紅葉の守護神とは、ミシャグチ神なのではあるまいか。
ミシャグチ神は、縄文時代に遡る起源を持つ神であり、その後も狩猟文化と深く関わっている。狩猟免状を通じて、はっきり狩猟民とも関わっている。狩猟民とは、山の民だ。山の民がミシャグチ神を信奉していた可能性も大いにある。でなければ、狩猟免状が意味を成さないだろう。受け取る方も、諏訪大社に権威を認めていたのだ。そして山の民は狩猟を軸とした縄文の生活様式を続けた人々であり、縄文時代に起源を持つミシャグチ神を信奉していたとしても何ら不思議はないのである。
先に、紅葉が太古の信仰を伝える女性シャーマンであり、山の民の系譜に入るものだと繰り返し述べてきた。その山の民は、太古の信仰であるミシャグチ神を信奉していた可能性が大いにある。また紅葉の守護神第六天は、起源をミシャグチ神に持つ。そして戸隠の紅葉や大姥山の紅葉鬼人が籠った岩屋は、巨石信仰に結びついている。ミシャグチ神は、石に降りてくる精霊だ。これらのことから── 紅葉とは、ミシャグチ神の巫女だったのではないかとも思われるのである。
「夷の神」を以って夷を制す
紅葉と諏訪の神が直接関わるのは、鬼無里で諏訪の神を祀る鬼無里神社なのだが、それは奇妙な関わり方である。平維茂が、紅葉退治の戦勝を祈願したのが、鬼無里神社なのである。紅葉がミシャグチ神の巫女であり、それを守護神とするなら、平維茂は紅葉の守護神に戦勝を祈願したことになる。これはどういうことだろうか。
この神社は、それ以前に坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際戦勝を祈願したともされる。そして、本家である諏訪大社も、田村麻呂が蝦夷征伐の祈願をしたという。諏訪大社を代表する祭・御柱祭も田村麻呂の戦勝を祝って始められたという伝承もある(御柱祭は非常に原初的な信仰を伝えるもので、起源は縄文に遡るものといわれる)。
諏訪大社は、田村麻呂のはるか以前から朝廷の尊崇を受けているし、神話上でも荒ぶる武神であるのだから、勅命を受けた武人達が諏訪の神に戦勝祈願することはおかしなことではない。ただ、そこにはただの武神以上の意味合いがある。それは諏訪の神がもとより荒ぶる国津神であることが関係している。
皇朝は、その発祥から平安時代に至るまで、数多くの民族・部族間闘争を戦い抜いてきた。そして勝利した後、敗北した民の首領や武人、あるいはその民の崇めた神を、祟ることのないよう、またその民を鎮撫するため、神としてその土地に祀った。その際、その首領や武人、神の名をそのまま用いることもあったが、多くは出雲系の神を祭神とした。出雲系の神とは国津神であり、端的に言えば皇朝への反逆者である。もっと言ってしまえば、大いなる魔だ。その大いなる魔でもって、別の魔を霊的に封じようというものである。「夷を以って夷を制す」ということの霊的展開だ。もちろん、その反逆者たちが本当に出雲系の流れを組んでいたということも少なからずあるだろうが。あるいは、再蜂起を防ぐため、その反逆者や彼らが崇めた神の名を後世に残したくないという意図もあったろう。出雲系の神ならば、既に皇朝の神話体系に組み込まれてたものであるから、それが後世に名を残す分には支障がない。降伏した反逆者達も、勝利者側の神を押し付けられるよりは、まだ納得がいく。それこそ反逆者達が出雲系の流れを組んでいれば、尚更だろう。
かくしてこの方法は好んで皇朝に用いられた。やがて時代が下ると、あらかじめ出雲系の神に反逆者の鎮圧を祈願するということも行われた。「夷を以って夷を制す」ためである。夷の神が夷に味方することのないよう、鎮まってもらい、願わくば自分の味方をして夷を鎮めてくれるよう、祈願するのだ。
諏訪の神への戦勝祈願の意味
諏訪の神への戦勝祈願というのは、こうした意味合いが強いものだと思われる。しかも、諏訪の位置は皇朝から見れば夷の国の入り口に当たるのである。そして、諏訪の神は太古の東日本縄文文化圏の信仰の中心でもある。皇朝に取り込まれた夷の神とも言えるだろう。夷の側にとってもただの皇朝側の神ではない、自分達の崇める神そのものである場合もある。あるいは、諏訪の働きかけ次第では反逆者達も戦わずして降伏するかもしれない。逆に、諏訪が反逆者と手を組んでもらっては困る。皇朝が諏訪の神を重んじ、征夷の戦勝祈願をしたというのは、単なる精神的な意味合いだけでなく、そうした政治的な意味合いもあったと思われる。
こうしたことを考えるなら、平維茂が紅葉退治の祈願を諏訪の神にしたとしても少しも不思議ではない。そもそも鬼無里神社は土地の神であって、そこで戦をするのに土地の神に祈願するのはある意味当然ともいえるだろう。その神を戦う相手も拝んでいたとしても。また、鬼無里神社が戦勝祈願の場所ではなくて、紅葉退治後、紅葉の拝んでいた神を祀ることによって祟りを防ぎ封印したというのが実際だったかも知れない。紅葉を慕った人々を納得させるにも良い方法であるだろう。何しろ紅葉を慕った鬼無里のことなのであるから。あるいは、戦勝祈願の場にして封印の場であるという両方の可能性もある。何にせよ紅葉と諏訪の神の関連性を物語るものであることに違いはない。
諏訪の神と鉄の関係
話が前後してしまうが、諏訪と山の民の関連として、「鉄」というものも挙げておきたい。先に述べたように、諏訪の土着神洩矢神は、建御名方神との戦闘において「鉄の輪」をもって戦ったという。そして守矢家のミシャグチ神の祭儀には、鉄が重要視されている。佐奈伎(さなぎ)と呼ばれる銅鐸ならぬ鉄鐸、即ち鉄の鐘は今も守矢家に伝わっている。また諏訪大社は美濃の南宮大社と並ぶ冶金の神であったという。このように諏訪とは金属、鉄と非常に深い関わりのある神である。
一方、山の民達は山に住むだけに鉱脈を知り、鉱産資源を掘り出して加工することを生業とする産鉄民でもあったという。狩猟と冶金という二つの要素を通して、諏訪と山の民とは深いつながりがあった。また古代製鉄が盛んな場所といえば、出雲であり、もう一つは東北であった。どちらも皇朝への反逆者の土地である。出雲の製鉄は、八岐大蛇から出てきた草薙の剣の神話が産鉄民を征服した話だと見る向きもあるし、古代のたたら製鉄の跡が数多く見つかっている。東北の製鉄は、あまり有名ではないが、日本刀のルーツとされる、正倉院の宝物の中にある「舞草」銘の古代刀によって知られる。この「舞草」は岩手県にあり、非常に加工が容易で質の高い鉄を産出した。後世でも岩手は南部鉄器で知られるように鉄の産出地であり、現代でも新日鉄の釜石工場は有名である。
ミシャグチ神が縄文の信仰を伝えるものなら、鉄との結びつきは奇妙であるといえば奇妙である。なぜなら日本における鉄器の使用は弥生時代以降のこととされているからだ。後世、縄文の末裔達が山の民となり鉱業を生業としたことの反映であるといえばそれまでだが、実は製鉄の起源を縄文に遡る説もある。それこそ舞草で出るような加工のし易い磁鉄鉱石はそれほど高温でなくとも加工でき、大量生産は無理でも狩猟採集の道具ぐらいは簡単に作り出せたということだ。世界的にも、鉄青銅先行説というのものもある。鉄は青銅に比べて劣化しやすいため残っていないだけで、加工方法によっては鉄の方が温度が低くて済むから、という理由である。かつて、奈良時代以降中国から伝わったというのが常識だった漆が、縄文遺跡から大量に出土した漆器によって覆された。鉄器に関しても、同じようなことがいえるかもしれない。既に、学界で取り上げられつつあるようである。そして、貴重だったからこそ、鉄鐸のように信仰の対象となったのであろう。
紅葉と製鉄
この、諏訪と山の神を結びつける鉄── これが意外なことに、紅葉にも深い関係がある。鬼無里に残る、紅葉が住んだという内裏屋敷の跡で、九〜十世紀頃の土師器とともに、鉄滓(てっし、製鉄の際に生じる鉄屑)が発見されているのである。鉄滓は、製鉄を行わなければ生じない。そして、九〜十世紀とは、まさしく紅葉の生きた時代なのだ。ここから導き出される答えは一つ。紅葉は製鉄技術を持っていたということである。そしてそれは、産鉄民たる山の民と、鉄信仰を持つ諏訪の神との結びつきを示すものなのである。あるいは、製鉄技術を求めて産鉄民に近づいた清和源氏との関係すら、浮かび上がってくるのだ。さらに言うと、鉄滓を出土した内裏屋敷遺跡は縄文時代からの遺跡である。縄文時代から連続して人が住み続けた場所なのである。紅葉と縄文の末裔とのつながりをも、示唆するものだ。なお、先に出てきた八坂村の紅葉鬼人は赤い顔だったというが、これも産鉄民との関係を物語る。鬼が赤い顔であるのは伝承上一般的なことではあるが、それは繰り返しの溶鉱作業の末に赤く焼けた顔を持つ、産鉄民の特徴を表すものだという。
それにしても、内裏屋敷からの鉄滓の出土は、驚くべきことである。紅葉とは、ただの伝説上の悲劇のヒロインではないことは間違いない。太古からの信仰を受け継ぐ強力な女性シャーマンであるだけでなく、多彩な芸能と教養を身に付け、医者でもあり、先端技術の技術者でもあった紅葉。村人から尊崇の念を抱かれるのも当然なら、中央から危険人物とみなされるのもまた当然であろう。内裏屋敷の鉄滓は、そのような歴史的現実味を持つ考古学上の遺物である。 
「貴女紅葉」の坐しし鬼無里 

 

紅葉伝説を記述する「北向山霊験記」
紅葉が住んだという内裏屋敷の跡地が残り、そこから同時代の製鉄の跡が見つかった鬼無里村。そこで紅葉はその才知と霊能をもって村人に尽くし、村人にも慕われたという。実は、この鬼無里にまつわる紅葉伝説は、ほとんどが鬼無里村に独自に伝わったものである。
紅葉伝説には、大別して二つの系統がある。一つは、謡曲「紅葉狩」の系統で、戸隠の山中で平維茂が妖しい鬼女に出会い、これを討ったというもの。もう一つは、「北向山霊験記」と呼ばれる書物に書かれている物語の系統である。「北向山霊験記」とは、平維茂が紅葉退治の祈願のため参籠し、降魔の利剣を授かった、上田の北向観音の由来記のようなものだが、紅葉の生涯を詳細に語ったものはこちらの系統に入る。こちらの系統に入る、といっても、戸隠周辺に伝わる紅葉伝説はほぼこの「北向山霊験記」と話の筋が同じなのだが、鬼無里に伝わる伝承だけは大きく異なっている。大きく異なる部分というのは、当然ながら鬼無里が舞台となる村人のとの交流の部分である。もちろん、「北向山霊験記」でも紅葉と村人との描写はあるが、紅葉が高貴の身分と偽り邪術で村人を誑かし、昼は菩薩のように振る舞い、夜は夜叉の如き本性を現して悪事を働いたと、相当に悪しざまに書かれている。紅葉に対して多少とも感謝の念を伝えている伝承は、鬼無里の他では、荒倉山の麓、維茂の先遣隊が紅葉の術に翻弄されたり、維茂が岩屋を探すために放った矢が落ちたという場所、また紅葉の墓と菩提寺などのある、柵(しがらみ、現在の戸隠村栃原志垣あたり)に伝わるものぐらいのものである。柵での伝承には、紅葉は地元の出身だと伝えるものもある。
鬼無里の伝承の特異性
鬼無里に至っては、現在もなお、紅葉は人々に様々な施しをし、文化を伝え、慕われた、鬼女ならぬ「貴女」とし、恩人としている。神の如き尊崇の念を受けているのである。また、紅葉が住んだ内裏屋敷だとか、紅葉が名付けた京にちなんだ地名、紅葉が建てた加茂社や春日社などは、鬼無里独自の伝承である。「鬼無里」という地名についても、鬼無里では紅葉とは無関係な、全く別の由来を伝えている。鬼無里の伝承では、魔性の女性であったとか、鬼と化して討たれたとかいうことは、優先度がとても低いのだ。何よりも村人に厚く遇され、村人に恩恵をもたらした貴人であったことが強調されている。紅葉を宮中に仕えた官女(帝に仕える女官)であったともしているのだ。であればこそ、「内裏屋敷」という名も成り立つと言えるだろう。内裏とは他ならぬ天皇の住まう場所である。
この鬼無里での伝承は、他の伝承に比べ最も細部が詳細であるだけに、最も原型に近いものと言えるのではないだろうか。外部で形成された伝承に付け足したということはあるまい。外部で鬼と呼ばれ忌避されているものを、後からわざわざ鬼無里でだけ貴人とし崇めるような理由はないからだ。いかに伝承といえど、故なくして「内裏」などという名称を朝廷に征伐された「鬼」に結びつけることなど危険極まりなくて狂気の沙汰でしかない。故あることだとしても危険なことには違いないのだから、それでもそうした伝承を伝えるだけの意義があったということだ。意義とは紅葉を敬うことで、それほどまでに鬼無里の人々は紅葉を尊んできたということである。
鬼無里の伝承における紅葉のシャーマン性
鬼無里の伝承こそ紅葉伝説の原型だとするなら、それに合わせて紅葉伝説を再度省みてみる必要がある。これまでの検証の根幹は、紅葉が女性シャーマンであった、ということだ。これについては全く異存はない。紅葉が最もシャーマンらしい、呪医的役割を果たしたのは、鬼無里の伝承においてである。鬼無里には紅葉伝説を描いた絵もあるが、そこには白衣に緋袴という、明らかな巫女装束をまとった姿で紅葉が描かれている。その出で立ちで檜扇をもって人々を癒したり、神を祀る姿が描かれているのである。また紅葉が神社を建てたということにも注目したい。神社を建てるということは、神を招き、その礼拝所を建てるということである。これは神に仕える者にしかできない行為だ。シャーマンはシャーマンでも、万人が認めるような高レベルのシャーマンにしかできないことなのである。なお、紅葉と宗教文化ということでいえば、鬼無里にある紅葉の菩提寺・松巖寺(しょうがんじ)では紅葉の守護仏は地蔵菩薩であったとし、そもそも松巖寺も平維茂が紅葉の守護仏である地蔵菩薩を供養のため祀ったのが始まりという。実際松巖寺はもと鬼立山(きりゅうざん)地蔵院と称した。今でも松巖寺には空海作と伝えられる地蔵像があり、これが紅葉の守護仏だったという。紅葉の守護神を第六天とする一般の伝承とは大分異なるが、地蔵菩薩は冥界の管理者でありイタコのような死者を招くシャーマンを彷彿とさせられなくもない。
官女・紅葉
紅葉がシャーマンであったことは鬼無里の伝承においても揺るぎないどころか、ますます強固なものとなるほどである。では出自の問題はどうか。
鬼無里の伝承において特異なのは紅葉の鬼無里での行動であって、それ以外の部分に関しては、紅葉に同情的という他は特に目立った点はない。ただ紅葉が官女であったとするところが特異な点である。官女とは内裏で帝に仕える女性であって、経基の側室とは立場が異なる。このあたりは鬼無里の伝承でも明確に語られている訳ではない。もっとも、経基は源姓を賜った臣下とはいえ、それまでは経基王と称し、六孫王(清和天皇の第六皇子の子の意)とも称された、歴とした天皇の孫である。即ち元皇族なのだ。いずれ高貴な存在には違いないであろう。「源氏物語」でも光源氏は准太上天皇(太上天皇は譲位後の天皇の称号。光源氏は皇位に就いたことはなかったが、天皇の父であったため、これに準ずる称号を与えられた)の称号を授かっている。物語の話とはいえ、源氏物語は広く宮中から貴族達まで受け入れられたものであり、源姓が皇室に連なる高貴な姓であると認識されていた証左であろう。こうしたことまで考えるなら、経基の側室が官女とされることもあり得ない話ではない。都を遠く離れた信濃の山中であれば尚更である。
いずれにしろ紅葉が高貴な女性であったとすることは同じである。そして、白拍子の前身たる漂泊のシャーマン・芸能者であった可能性も依然として残るのである。また、蝦夷や土蜘蛛のような「まつろわぬ民」の系譜に連なる者であった可能性もまた残る。単なる追放された一官女であれば、勅命により討たれるということはない。皇朝にとって政治的に厄介であればこそであり、「鬼」と呼ばれるなどこれまで様々に検証してきたいくつもの事柄から、「まつろわぬ民」の系譜に連なる山の民、産鉄民であることはまず間違いがないのである。紅葉が住んだ内裏屋敷から出土した鉄滓は、そうした山の民、産鉄民との関係を如実に物語っている。
紅葉が建てた加茂神社
また、紅葉が建てたという神社のうち、内裏屋敷に最も近く、現在でも最も規模の大きなものが加茂神社であるが、この神社も土蜘蛛とのつながり示すものかもしれない。
この神社の祭神は建御雷男神(たけみかずちのおのかみ)で、国譲りの際、先述した諏訪大社の祭神・建御名方神を追い詰めた天津神であるが、これは京都の下鴨神社の祭神・賀茂別雷神(かもわけいかずちのかみ)を後世混同したものと思われる。京を偲んで建てたというなら尚更である。その賀茂別雷神の祖父を賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)といい、上賀茂神社の祭神であるが、この神は神武東征の際、八咫烏(ヤタガラス、三本足の霊鳥)となって天皇を助け、奈良の葛城に鎮まったという。
これを祖神として奉祭した古代豪族賀茂氏が京都に移って祀ったのが上賀茂・下賀茂神社であり、その根源たる高鴨神社という神社が奈良・葛城にある。しかし、その高鴨神社の祭神は味耜高彦根神(アジスキタカヒコネノカミ)という、大国主命の子神であり、そのことは古事記にも書かれている。それからすると、賀茂氏は出雲系の豪族ということになる。また葛城は神武天皇に討たれた土蜘蛛の一大根拠地でもあった。そのようなことから、賀茂氏は土蜘蛛と同じく当地の土着の豪族であり、そのうちの皇朝に組した一族とする説がある。
また、先に陸奥国風土記逸文に、土蜘蛛が暴れて討たれたという記述がある旨述べたが、それを討ったのは日本武尊で、討った後、そこに「土着の神」として味耜高彦根神を祀ったというのである。他にも、味耜高彦根神と土蜘蛛の関連を示すものがあるようで、賀茂氏というのは皇朝に組した元の土蜘蛛というだけでなく、先に述べた佐伯氏などと同じく、全国の土蜘蛛と交流を持ち、これを束ねるような役割を担っていたのではないかともいわれている。ただ、賀茂氏が隆盛を誇ったのは皇朝の黎明期であり、その後は没落気味であったようで、京都の賀茂神社は葛城を追われた賀茂氏が逃れて建てたものといわれる。もっとも、その後も呪術を行う一族として賀茂氏は一定の地位を保ってきた。修験道の開祖・役小角は賀茂氏であるし、安倍晴明が出るまで朝廷の陰陽道を独占していたのは賀茂氏で、晴明以後も陰陽師の家柄として続いている。
紅葉は賀茂氏に連なるか
そのような一族である賀茂氏は、一方で全国に移住開拓もした。そうした地には今でも「加茂」の地名や、加茂神社が残ったりしている。鬼無里の加茂神社も、そうしたものの一つである可能性は十分にある。紅葉の強力な呪術は、呪術師の一族たる賀茂氏と関係があるかもしれないし、紅葉が土蜘蛛に連なる者だったとして、その祖神を祀ったのが鬼無里の加茂神社なのかもしれない。
なお、鬼無里の加茂神社は、社伝によれば日本武尊が白鹿を撃ったときの矢を奉納し、加茂大神を祀ったのがはじまりとされている。これに近い話が日本書紀にあって、東国征伐を終えた日本武尊が、まだ反乱の気がある信濃に赴いたとき、山の神が邪魔しようと白い鹿となって現れ、尊がこれを撃ったという。加茂神社の創建にまつわる話は間違いなくこの系統に属するものだが、この白鹿は紛れもなく皇朝に敵対した「まつろわぬ民」であり、鬼無里にそうした勢力があったことを物語るものである。また、先の陸奥国風土記逸文の日本武尊の土蜘蛛退治では、退治した後「土着の神」として味耜高彦根神を祀ったとのことだが、同様に日本武尊が土着勢力を討った後に加茂大神を祀ったこの地は、土蜘蛛の根拠地であった可能性が高い。鬼無里はもともと「まつろわぬ民」の地であったのではないか。 
紅葉の都 幾千秋 

 

鬼無里に伝わる別の鬼伝承
鬼無里が「まつろわぬ民」の地であった── それを如実に語る伝承が、鬼無里に残っている。それは先に少し述べた、「鬼無里」という地名の由来説話である。その内容は次の通りである。
壬申の乱に勝ち、律令国家の体制を固めていた天武天皇は、信濃に遷都することを計画した。そこで、三野王(みののおおきみ)という皇族が派遣され、その三野王が選び、図面を提出した場所が水無瀬だった。しかし、これを嫌がった水無瀬の鬼達は、その候補地の真ん中に山を置いて塞いでしまった。遷都計画を邪魔された天武天皇は、蝦夷征伐で名高い阿倍比羅夫(あべのひらふ)を派遣して、その鬼達を討ったという。それにちなみ水無瀬の地は「鬼無里」と呼ばれるようになった、というものである。突拍子もない話だが、天武天皇の信濃遷都計画自体は日本書紀にも明確に記されていて、三野王が派遣され、図面を献上したことも書かれている。また、その後に再度信濃に使者を遣わし、近隣の温泉地に行幸するための一時的な宮作りを命じたことも記されていて、まるっきり荒唐無稽な話でもないのである。
遷都伝説の伝承地
この話からすると、鬼無里とは紅葉以前から鬼の跋扈する土地だったらしい。鬼とは繰り返し述べてきたように「まつろわぬ民」の象徴なのである。しかも、ここでは征夷で有名な阿倍比羅夫に討たれている。これは鬼無里がもとより「まつろわぬ民」の根拠地であった証左であろう。
なお鬼無里には、その鬼が一晩で作ったという作った一夜山という山をはじめ、この信濃遷都にまつわる伝承地がいくつもある。先に述べた、加茂神社も、派遣された三野王が「加茂大神宮」の称を与えたといい、勅使の館を置き、それによってこの地を「東京」と呼んだという。同じく紅葉が建てたという春日神社、春日神社のある「西京」も同様に遷都伝説に由来するものだという。遷都に由来する神社としては、新都の鬼門鎮護として建てられた白髭神社という神社もあり、平維茂が紅葉退治の折に戦勝祈願をした神社でもあるという。その他、遷都伝説に由来する場所として印象深いのは「月夜の陵(はか)」と呼ばれる墳墓で、遷都候補地調査の際、この地で客死した皇族某の墓と伝わる。この墳墓は、内裏屋敷のすぐ裏手の山にあり、ほとんど同一の場所である。また一説によると、月夜の陵は紅葉の侍女「月夜」の墓で、よく仕えたが夭折してしまったため、紅葉がその死を悼み、手厚く葬った場所ともいう。ほか、紅葉が京を偲んでつけたという地名には遷都伝説にも関わっているものが多い。紅葉が住んだ内裏屋敷にしても、そもそも遷都計画の際に定められた内裏の場所であったという。
紅葉と鬼無里の遷都伝説
このように、鬼無里の遷都伝説は微妙な現実味を伴い、不思議な感じがするが、こうして俯瞰してみると、遷都伝説にまつわる地は、大方同時に紅葉伝説にまつわる地であることが分かる。これはまことに奇妙なことだが、その一致のしかたはさらに奇妙である。遷都伝説において皇族やその行動にちなむものが、ほとんどそのまま紅葉とその行動にちなむものになっているのだ。これを端的に見るならば、紅葉が皇族と同一視されてしまっているということになる。もっとも鬼無里では紅葉を官女であったもとし、貴女と呼んでいるくらいだからまったく故なきことではない。後世、異なる二つの伝承が部分的に混同された結果だといえばそれまでだが、完全には混同されることなく重複して伝わっているというのも奇妙な話である。思うに、この二つの異なる伝承の間には何か関連する事象があったのではないか。単純に考えれば、追放の憂き目にあった紅葉が、たまたまこの地にあった皇族客死伝承と自分を結びつけて生き延びようとしたか、村人の側で勝手に結びつけて神聖視したなどということがあろう。しかしそういった一時的・表層的なつながりとは思えないような根の深い結びつきを、二つの伝承は示しているように思われる。では、遷都計画の際に鬼無里で没した皇族某の血を引く者であったというのはどうだろうか。紅葉を地元の出身とする伝承もあるし、遷都伝説で「鬼」と呼ばれた土着民と交わって生まれた子孫であれば、一方で官女と呼ばれ尊ばれつつ一方で鬼と呼ばれて官軍に討たれたという両面性にもつながる。その子孫が流れ流れて会津に暮らしており、紅葉の代になって京に上るも追放されて祖先の地に帰ってきたのかもしれない。あるいは、紅葉が土着民と交わった皇族某の子孫と再婚したという可能性もある。
八面大王再考
再婚、ということで思い出すのは、八坂村の紅葉鬼人の話だ。彼女は安曇野の八面大王と結ばれて、金太郎を生んだ。この紅葉鬼人が紅葉と同一人物ならば、経基から追放されて後の再婚ということになる。八面大王は、坂上田村麻呂に討たれた鬼であり「まつろわぬ民」で、皇朝と反する立場だが、土着豪族安曇族の末裔とも言われている。安曇族は古代日本にやってきた海洋民族とされ、賀茂氏と同じように一方で皇朝にも仕えつつ、一方で全国に移住し、その移住地には安曇の名が残っている。八面大王が根拠地とした信州安曇野はその代表的な例だ。八面大王を「やめのおおきみ」と呼び、地方豪族ながら由緒ある一族としての誇りを持っていたというような説もある。実際、安曇族は皇室とも並ぶ古く由緒のある一族である。もしかすると皇朝以前に「大王」とされるような尊き一族であったかもしれない。皇朝支配が全国に及ぶ前の時代には、特定の地方の「大王」であった可能性は十分にあるだろう。信濃が皇朝の枠組みの中に入ったのは西国に比べれば後のことなので、そこそこ後の世まで皇朝支配に組み込まれていない地方の「大王」の政権下にあった可能性はある。八面大王の伝承は、安曇族かどうか分からないが、そうした地方の「大王」の最後の抵抗を物語るものかもしれない。
紅葉伝説の真相
鬼無里の遷都伝説にまつわる鬼退治も、そうした地方政権の抵抗と敗北の伝説化と思われる。少なくとも「まつろわぬ民」の征服譚ではあろう。史実とされる天武天皇の信濃調査も、「まつろわぬ民」の鎮撫が目的で、別の政権の「都」を征服せんがためであった可能性もある。本当は「まつろわぬ民」達の「都」であったものが、皇朝により滅ぼされ、世を憚りつつもその誇りを伝えていこうという意志の結果が、「遷都」という伝説を生んだのかもしれない。かつてここに我々の祖先が築いた都があり、我々はその都人の子孫であるということこそ、遷都伝説が伝えられた真の意図かもしれないのだ。月夜の陵の主はそうした地方政権の支配者の墓かもしれないし、鬼無里の「都」の滅亡後、監視役として留まった皇朝の皇族なのかもしれない。後者だとしても、村人に丁重に扱われてきたことを考えれば、やがて土着化していったものと思われる。紅葉のように、土着民を慈しんで、皇朝の文化を伝えたのかもしれない。それであれば、後に紅葉の伝承と重なるということもあり得る。
やがて、安曇野で地方政権の最後の蜂起があった。そのとき、間接的にかもしれないが、八坂村や鬼無里村も八面大王に協力体制を取ったのではないか。あるいは、八面大王討伐後の落人を匿ったのかもしれない。落ち延びてきた八面大王の親族が、紅葉であり、紅葉は鬼無里の人々の協力を得つつ、再戦に備えたが、村人を巻き添えにするに忍びなく、郎党のみ引き連れて荒倉山の岩屋に陣取った。が、結局は皇朝の軍に敗れた。あるいは滅ぼされた八面大王の親族が、再起のためか復讐のためか京へ潜入した。やがて産鉄の民とのつながりを求める源氏との関係を構築するに至るが、源氏としてもリスクが大きいため、結局関係は切れてしまった。そして故郷あるいは後援者のいる鬼無里にて力を蓄え、荒倉山にて再蜂起を試みるが、やはり敗れてしまった。だが、その子孫は生き延びて、やがて様々な因縁と利害から源氏の棟梁直属の部下となった。それが金太郎、坂田金時である。
鬼無里の義仲伝承
紅葉伝説の真相とは、以上のようなものだったかもしれない。無論これは散在する伝承を筆者が組み上げた素人の推測にしか過ぎないが、紅葉伝説は、ただの空想、おとぎ話ではないのは確かだろう。まず山姥的な太古神の零落、女性中心の太古の呪術宗教の零落譚であることは間違いないだろうが、それ以上に、何やら妙に現実味を帯びた政治的・歴史的背景を感じ取らずにはいられない。その一つは、山の民とのつながりである。だがそれだけなら、大方の「鬼退治」譚に見られる事柄だ。今一つは、その「鬼退治」に活躍した源氏との関係である。紅葉伝説では、結局紅葉は源氏に追放されはするものの、源氏に討たれはしなかった。討ったのは、平氏である。時代からして、後の世の源平争乱とは無縁のように思えるが、これが全くそうでもないようだ。
鬼無里には紅葉伝説・遷都伝説の他に、清和源氏・木曽義仲の伝説もある。一つは義仲挙兵の際に鬼無里を通ったという話。もう一つは、義仲敗氏後、その子・力寿丸(りきじゅまる)が隠れ住んだという話である。鬼無里の山奥、内裏屋敷のそばを流れる裾花川のはるか上流に、「木曽殿アブキ」(アブキとはアイヌ語で「岩穴」を意味するとされ、この地に縄文の末裔達がいたことを偲ばせる)と呼ばれる巨大な岩穴があるが、これが義仲が進軍の折野営した地であり、また力寿丸の隠れ家でもあったという。このあたりからは刀剣も発掘されていて、あながちただの伝承とも思えないものがある。また内裏屋敷の少し上流には文殊堂があって、そこには義仲進軍の際か、義仲敗死後に力寿丸を伴った郎党達が祀ったという、義仲の守護仏・文殊菩薩が祀られている。力寿丸はその後家を再興させたと伝えるが、郎党の一部は鬼無里に土着し、今もその後裔を名乗る人々が住む。この他、鬼無里には義仲にまつわる伝説が数多くある。信濃という義仲挙兵の地であることからすれば当然といえば当然なのだが、問題なのは平氏との関係である。義仲の北陸道進出の足がかりとなったのが、越後にいた城長茂(じょうながしげ)との戦だったが、この城氏は紅葉を退治した平維茂の子孫である。
源氏と山の民の関係、そして紅葉
こうなると、紅葉伝説はこのこととも全く無関係ではないだろう。平維茂を破った源氏方の子孫が今に残る村で、平維茂が退治した鬼女を貴女と崇めるのは自然なことでもあるだろうが、それ以前に鬼無里には源氏との関係があったかもしれない。
先に、鉱業利権を得るため、経基の子・満仲は山の民に近づいたという経緯があることを述べたが、そうした関係の一つが鬼無里にもあった可能性もある。ただ、満仲は後に山の民を裏切り、それがために妖怪達の恨みを買ったという話もあって、満仲が戸隠で鬼女退治をしたという注目すべき話が太平記にもある。もしかすると紅葉を討ったのは経基の子・満仲であるかもしれない(ちなみに経基は紅葉が討たれる前に没している)。こうなってくると収拾がつかなくなってくるが、結局この地の山の民も源氏に裏切られたことを示すものだろう。満仲の子・頼光も鬼退治と土蜘蛛退治で名を馳せた人物である。源氏は鬼・妖魔退治の一族なのだ。
だが、時に応じて協力というか、互いに利用する関係にはあったかと思われる。その結び目を象徴するものが経基の紅葉寵愛であり、その後の義仲伝承ではないだろうか。
結 赤き紅葉の伝承
そして、その鉱業利権という源氏とこの地の山の民の結びつきを示すのが、内裏屋敷の鉄である。この鉄が紅葉伝説を異様な政治的・歴史的現実味を感じさせる最大の原因となっている。紅葉が鬼無里に文化を伝えたのなら、この鉄は農機具や狩猟の道具の製作の跡とも考えられる。しかし、紅葉が郎党とともに激戦の末討ち取られたことから考えれば、武器製作の跡と考えるのが自然である。激戦の伝承があり、実際に製鉄の跡があるなら、それは本当にその時代に何らかの戦があったということだろう。このことが、紅葉伝説をただのおとぎ話ではない、血生臭い現実味を帯びたものにしている。そして、その戦いとは、皇朝による土着民征伐であったろう。と、同時に、その信仰である女性主導の太古的呪術宗教抹殺の戦いでもあった。
これまで紅葉伝説に対し様々なアプローチを試みたが、このあたりをもって結論としたい。
それにしても紅葉伝説というのは、単純には論じられない多くの要素を含む、何と広く深い伝承なのであろうか。紅葉という名は、鬼の顔を現す赤、怒りという感情の赤、戦で流れる血の赤、溶けた鉄と鉄錆の赤、女性という性別を示す赤、巫女の袴を彩る赤、女性が真実巫女として輝いた時代を偲ばせる太陽の赤、そしてその落日の赤── そうしたものが一時に爆発し紅葉のごとく赤色に燃えて、そして紅葉のごとく一時で散り土に埋もれた── ということを象徴するもののように思える。千年の時を経た現在も、山の神は戸隠や鬼無里の山々を赤く染めさせる。かの紅葉を偲ぶかのように── 。 
 

 

 
信濃の伝承

 

謡蹟 紅葉狩(もみじがり)
秋も半ばの頃、戸隠山中で三、四人連れ立った美女が、宴を催して紅葉狩に興じています。そこへ、鹿狩りに来た平維茂の一行が通りかかります。維茂は興を妨げないようにと、馬から降り、道をかえて通り過ぎようとすると、美女は一樹一河の縁であるからと維茂の袂を引き、酒宴の仲間入りを勧めます。維茂は断りかね、勧めに応じて盃を重ね、美女の舞に見とれます。そのうち維茂は寝入ってしまい、女達はそれを見て「目を覚ますな」と言い捨てて山中に姿を消します。
維茂は、夢中に八幡宮の神より神剣を授かり、美女に化けていた鬼神を退治するよう神勅を受けます。そして目を覚ました維茂は、身支度をして待ちかまえます。やがて稲妻、雷とともに鬼女が現れ襲いかかって来ますが、維茂も神剣を抜いて応戦、激しい格闘の後、ついに鬼女を斬り伏せます。
鬼女紅葉伝説
紅葉は貞観8年(866)、平安時代中期、奥州会津の地で産まれ、幼名を「呉葉」といった。呉葉は成長し、その美しさと優れた才覚により、両親とともに上京することとなった。京の都では、名を「紅葉」と改め、源経基(つねもと)のもとに仕えた。経基の寵愛を受けた紅葉は、やがて子をもうけるが、経基の正妻に妖術を使って病にしたことが露呈し、その罪により北信濃の水無瀬の里(現在の鬼無里)に流された。
紅葉は、水無瀬の里で村人に様々なことを教え、妖術により病を治すなどしたので、やがて村人の信望を得た。その一方で、都を懐かしく思う気持ちで、内裏屋敷を構え、東京、西京、二条、五条など都にちなんだ地名をつけたり、加茂神社、春日神社等を祀った。
しかし、だんだん力を得てくるといつか都に向かいたいという気持ちが次第に強まり、次第に盗賊集団のようなものを形成するようになった。やがて、紅葉らは、戸隠の荒倉山中にある岩屋を活動の拠点とし、周囲に出向いて略奪を繰り返すようになった。その悪事は、都に聞こえ、朝廷の命により平維茂がこの地に向かった。紅葉を討伐するため、維茂は上田の別所北向き観音を訪れ、その力を授かった。北信濃のこの地は非常に地形が険しく、紅葉を探すのに難渋したが、維茂は願いを込めて一本の矢を放った。その矢が飛んだ方向に、維茂一行は向かった。
やがて、荒倉山麓へとたどり着いた維茂は、ここで酒宴をする一群と出会う。それが紅葉らであったのだが、維茂はその酒宴に加わることにした。やがて維茂は、毒酒により深い眠りに陥ってしまった。だが、これを案じた八幡菩薩の力により、一差しの刀を得て目を覚ました。力を得た維茂は、様々な難所を突破し、「龍虎が原」で鬼の姿を表した紅葉と最後の決戦に臨み、ついに紅葉を討伐した。
荒倉山、内裏屋敷跡、春日神社 (長野市鬼無里、戸隠)
京都からこの地に流された官女紅葉が最初に住んだのは、荒倉山の隣の鬼無里といわれ、鬼無里にはその住居跡といわれる「内裏屋敷跡」がある。
案内板によると紅葉のために村人たちが建てた屋敷跡で、東西70間、南北120間あったと伝えられている。草むらの中に「内裏屋敷跡」と記された木柱と案内板が立っているが、その後、「鬼女紅葉供養塔」も立てられ、背後には「内裏屋敷跡」と大きな丸い標識もたてられている。
鬼無里には、紅葉が都を偲んでつけたという、東京、西京、二条、五条等の地名が残っており、春日神社も紅葉が京を偲んで建てたものといわれる。加茂神社もある由だがまだ参詣していない。
紅葉の岩屋、朝(あした)ヶ原、山の神 (長野市戸隠)
紅葉は悪事を働くようになってから、紅葉の岩屋と呼ばれる岩窟に移った。荒倉山の山中、断崖の上に聳える巨大な岩屋である。ぽっかりあいた洞穴は不気味でいかにも鬼のすみかに似つかわしい。穴の中はかなり広く、驚いたことに大勢の謡曲の愛好者がここを訪ねて「紅葉狩」を謡ったとみえて、謡の会の名前や個人の名前を書いた札が沢山並んでいた。
鬼の岩屋から里へ出てきたあたりに「朝(あした)ケ原」という平坦地がある。飯綱山から遠くは浅間山まで見渡せる眺望のよい場所で、紅葉は朝な夕なここを散策したという。
その近くには「山の神」がある。紅葉が荒倉山にこもるに当たって、自らまつり祈願したところといい、下駄の歯の跡のついた岩や、維茂が紅葉退治の際残したという「駒の爪跡」がある。
将軍塚、安楽寺 (上田市別所温泉)
紅葉を攻め滅ぼした武将の名は平維茂である。維茂は平安末期の武将、鬼女紅葉を退治した功により信濃守に任ぜられた。上田市の別所温泉は維茂の別邸の地で将軍塚と呼ばれる維茂の供養塔があり、安楽寺も維茂の創建とも言われている。
柵神社、鬼無里神社 (長野市戸隠、鬼無里)
維茂は鬼女紅葉退治に出発したが、この地方の地理に明るくなく、紅葉の本拠を探しあぐね、弓矢によって占おうと見晴らしのよい場所に立ち、八幡大菩薩を念じて二本の矢を天に向かって放った。二本の矢は西北の方角に飛び、裾花川を越えてはるか志賀垣の里に落ちた。今この矢の落ちた所に矢先八幡(柵神社)がある。また、鬼無里神社は維茂が戦勝を祈願したところと伝える。
木戸、毒(ぶす)の平、能舞台 (長野市戸隠)
維茂はいよいよ軍勢をととのえて進発した。最初の激戦地は毒の平へ入る急傾斜地、木戸のあたり。上木戸・下木戸とあり嶮しい地形を利用し、木戸を置いて紅葉軍が守りを固めた場所といわれ、攻める側も守る側も入り乱れて戦ったところである。木戸を突破した維茂軍は勢いを得て更に進撃、そして毒(ぶす)の平で紅葉は維茂軍に討たれたという。現在この毒の平の地には能楽堂が建てられており、その鏡板には通常松の絵が描かれているが、ここの鏡板には松のかわりに紅葉が描かれている由。
鬼の塚 (長野市戸隠)
勝利をおさめた維茂は紅葉の遺体を、志垣の里は矢先八幡の近くの小高い丘に埋葬し、五輪の塔を建てて供養した。今ここには「鬼の塚」と呼ばれる立派な五輪の塔と傍らにはその家来の多数の塔が立っている。
大昌寺 (長野市戸隠)
鬼女紅葉伝説にちなんだ曹洞宗の名刹で、本堂には紅葉と維茂をひとつに祀った位牌が安置され、また狩野派の絵師、三村養益 による伝説鬼女紅葉の図が掲げられている。
松巌寺 (長野市鬼無里)
鬼女紅葉の守護仏といわれる地蔵尊をまつっている鬼女紅葉ゆかりの寺で、本堂には紅葉観音が祀られ、境内には「鬼女紅葉の墓」および「鬼女紅葉家臣の墓」がある。 
お善鬼様の伝説 / 白馬・青鬼集落
松本からのどかな安曇野の高原を通り、北へ昇ると青木湖のあたりで高瀬川が姫川に変わる附近で分水嶺となり、流れは日本海へと流れを変えます。糸魚川まで約30kmのところに白馬村はあります。白馬はアルプスの町と称されるように雄大な白馬連峰のパノラマを身近に仰ぐことができます。白馬は冬期オリンピックの開催地でもあり、交通の便もよく多くのスキーゲレンデや別荘地があります。八方ゴンドラではリフトを乗り継ぎ標高1830mまで登り、万年雪の白馬大雪渓遊歩道へ気軽に行くことができます。
ゲレンデなどの多い白馬の町から姫川を挟んだ対岸の南斜面の山裾に「青鬼集落」があります。青鬼集落へ行くには、白馬からさらにJR大糸線沿いの国道148号線を北へ、姫川第2ダムの東岸を川に落ち込む山肌の急斜面を上ります。一車線の狭い路を喘ぎながら2km程登りついたところが青鬼集落の入口です。戸数14戸のみの集落です。江戸末期から明治初期に建てられたものでその頃の土蔵、倉が8棟残されており、重要伝統的建造物群保存地区に指定されております。青鬼集落の東側には、物見山や八方山があり、背後の北側には、岩戸山(1356m)があり南から西に開け日本アルプスの山々を眺望できる明るい集落です。
集落内には、縄文時代中期・後期の善鬼堂遺跡・番場遺跡があり古くから人々の生活の場であったことがうかがえます。1860年頃3kmに及ぶ「青鬼上堰」開削が行われ水田が開かれました。
保存地区内には、平屋の建物と表側に中2階を造る建物があります。主屋は茅葺き(現在は鉄板被覆)の大型の民家で、現在も居住されています。これらの民家の特徴は、正面の軒を”せがい造り”とし、特に中2階の建物では、屋根の正面を”かぶと造り”にして、2階の壁面を白壁と化粧貫の意匠で統一しています。又、伝統的な土蔵、蔵が7棟あり、これらは、火災を考慮し主屋からは少し離れて建築されています。
集落の上部には、青鬼神社ががあり、又、集落の周りには「向麻石仏群」、「阿弥陀堂石仏群」など多くの石仏・道祖神があり、この地域独特の景観を造りだしています。
白馬は、松本から日本海側の糸魚川にかけて、かっては「塩の道」(千国街道)と呼ばれた沿道です。全長約120kmに及ぶ塩の道は、かつて番所が置かれた千国から親ノ原の近くの松沢にかけて石畳の道や石仏など街道の跡がよく残り、千国の源長寺から松沢までの6kmがハイキング道として整備されています。牛方宿や牛つなぎ石など往時の塩輸送の様子がうかがわれます。JR南小谷(おたり)駅近くには小谷村郷土館があり、街道関係の資料も多く保存展示されています。
お善鬼様伝説
青鬼集落は白馬村の北東端の岩手山の山腹に位置する農村集落で、この岩手山の東には戸隠村、鬼無里村があります。鬼の居ない鬼無里村に鬼のような大男がやってきて村人たちを苦していたため、村人はこの大男を岩手山の底なし穴に閉じ込めたそうです。その後一人の旅人が村に来て戸隠に鬼のような大男が来て村人を助けて喜ばれていると伝えたことから、穴を通じ戸隠の下を通ったときに魂が入れ替わったのだろうと思い、この鬼のような大男をお善鬼様としてあがめる様になったとのことです。
青鬼集落にはこのお善鬼様を祀る神社があります。青鬼はここでは「あおおに」とは呼ばれず、「あおに」としています。後から漢字で「青鬼」と表示するようになったのかも知れません。
石舟と女神
まだ石舟という地名もなかった頃のこと。
川っぷちで石工が朝から「かつん、こつん、かっかか」と、のみや槌をそりゃあうんまく操ってなぇ、石の舟を刻んでいたそうな。仕事にのめり込んでいたけれど、人を呼ぶ声にふっと顔を上げた。それから、声のする方へ目をやると、女の人が二人、杖を振り上げながら呼んでるようだ。
「う、うーん。なんだや?」
石工が手を休めながめていると、やがて二人が息を切らしてやって来た。見かけない母子連れだ。遠くからの旅人らしく、着物の裾も汚れ、足からは血を流し、目も真っ赤に充血している。
「ど、どうなすった?」 石工が聞くと、母子はおびえ顔でしきりに後ろを振り向き、振り向き 「助けてくだされ、わしは加賀の白山権現の女神で、連れているのは娘で、実は二人とも男神から逃げて来たところ」と、母神が言う。石工はただ、たまげてしまった。
「な、なんで男神さんから逃げなさったのかね?」 石工がたずねると
「男神は体のくされる病にかかってな。長年連れ添って子までなした仲だというのに、お互いに言葉も荒くなって、けんかばかり。あぁー。情けなや、情けなやぁ」
母親の嘆く姿を見て、娘神も涙ぐんでいる。「どうか、かくまっておくれ、頼みます」
拝まれても困るなぁと、石工は思った。
「あれっ、足音がする。男神の足音だ。わしにはわかる。かくまっておくれ」
毋神は神さんであることも忘れたように地に伏し、石工を仰ぎ見た。と、その時、石工に名案が浮かんだ。名案とは、今刻んでいる舟形の石をひっくり返し、その中に白山権現の毋子神をかくまうことだった。
「ささ、まずは身をちぢめ地に伏しておくんなすって」石工は身をかがめた二人を確認するやいなや、ありったけの力を出して舟形の石をかぶせた。それから、ひたひた走ってくる足音に耳をそばだてながら、石粉の付いた顔や手を洗い落した。と、急に野太い声がした。
「これこれ、ちとたずねるが、さいぜん、ここに二人の女人が来なかったか?」
石工が振り向くと、なるほど、女神が言っていた通りの病らしい。
「へぇ。女人ねぇ。知らんでぇ。わしゃ、朝っから石を刻んでいて、てめぇの手元を見てるばっかりだからなぇ」
「見なかったと? 気品のある女人をだ」
「へぇ。わしゃ石の舟の他は興味ごわせん」
木で鼻をくくったすげない物言いに男神は太いため息をついて
「あぁ、どこへ行ったか」と、せつなそうな顔をした。そして、懐から梅の花形の美しい杯を取り出し、いきなり川面めがけて投げ、流れに落ちるのを見届けると、木曽の白山へと帰っていった。
石工は、美しい杯は男神と女神の婚礼の時の杯であっただろうかと思いながら、男神の後ろ姿を見送ったと。
男神が杯を投げなさった川は神川と呼ばれ、この川に住むかじかのどこかに梅の花形がついているという。また、真田辺りでは胡麻を沢山作っていたが、女神が胡麻のさやで目をつかれたので、以後、胡麻を作る者がなかったそうである。それに女神はなぜかお湯がおきらいで、沢山湧いていたお湯を草の葉に包んで投げてしまわれた。落ちた所が群馬の草津だそうであるが女神のおきらいなものはまだあって、懐妊している人と2歳の子だという。
母と娘の神はこの地にとどまり、この辺りを守ってくれることになったそうな。
解説
表題のお話がいつの時代に成立したかさだかではないが、まずは、白山信仰が真田地方に伝えられて来たことを端的に示している伝承である。
お話の中で男神が白山の本宮ではなく木曽の白山に帰っていったとあるのが面白い。史実とは違うかもしれないが、白山信仰が木曽の大桑村の白山神社を経て伝播してきたひとつのルートを暗示しているように思える。また、男神が梅の花形の杯を神川に投げ捨てるのだが、この梅の花は白山本宮の神紋かと思ったが、本宮はもちろん大桑村の白山神社も「三つ子持亀甲瓜の花」で梅の花との関係はないようであるが、お話が成長する過程で、加賀百万石前田家の家紋が宿り木のように芽ぶいたものではないだろうか。
余談であるが、前田家の家紋をアレンジした「福梅」の名を持つ美味な銘菓が金沢市にある。立体的な紅白の最中の真ん中に金箔を一筆置いた、といった風情で、さすが茶道の盛んな町のお菓子だと感激して頂いたことがある。
さて、白山は地主神・水分神として一般的に崇拝されて、また、修験道の霊場として名高い。霊力を得ようと山岳をとそうしたのが山伏であるのだそうだが、皇学館名誉教授真弓常忠氏は、修験道発祥の根源にさかのぼる時、より現実的な動機があったに違いないと考えている。つまり修験道は、実は、高山幽谷に鉱床や鉄砂を求めて探査して歩いた採鉱者衆の宗教ではなかったかといっている。白山神が信仰の体系とは別に製鉄神ともいわれるゆえんであろうと得心している。
表題のお話の中に、女神が胡麻のサヤで目を突かれたとの伝承があるが、目を痛めたということは、溶鉄の状態を視つめて隻眼となったことを、また胡麻は砂鉄を暗示しているのではないだろうか。
男神から逃げてきた母神は石工が彫っていた石舟を伏せてその中に隠れたそうだが、その石舟は今は地中にあると風聞したことがある。実際にあった石舟だとするとなんのための石舟であろうか。かつて、岐阜県の南宮大社金床神社のご神体が平な金敷石と舟型の金床石であった。石舟の地名も製鉄炉(鍛冶炉)との関わりがあったのかもしれない。地中にあるかもしれないとのうわさのある石舟に、ひと目おめにかかりたいものである。
民俗学者・箱山貴太郎先生が生前、筆者を神川の生れと知っていて「神川ってどういう意味でしょう」と遠くを見ながら言われたことがあった。神が座す山を源流としているから神川、そうした答えを求めていないことははなからわかっていたので、「う〜ん」と心の中で唸るより他なかった。
数年前、3回ほど行った群馬県と埼玉県で、神川の語源と思われるものを得た。
群馬県鬼石(おにし)町の冬桜は有名である。標高591mの桜山に約7千本の桜が11月中旬から12月中旬まで咲き、紅葉と桜の花が同時に楽しめる。その桜山に向って吹き上げる谷風の強いこと強いこと、それも絶え間なく吹き上げる。3回目でとうとう叫んだ。「露天フイゴだっ」と。
鬼石町のどこかで製鉄が行われたのだろうか。資料には製鉄と関わりあるデーラボッチ伝説、鬼伝説がある。神流(かんな)川添いには製鉄神がぞろりと並び、おまけに鉄の場と読める諏訪の地名まである。決定的なことは神流川の「神流」である。
古代、鉄を採るのは鉄砂の多い山麓で、しかも河の流れのある所。土砂を崩し急流で洗うと土は去り、比重の重い鉄砂だけが残る。それを藤蔓のざるで漉す、これが「鉄穴流(かんなが)し」である。神流の語源はこの鉄穴にあるといわれている。
地名、伝説から見ると、鬼石町がかつては名だたる製鉄の地であったろうことは想像に難くないのであるが、今のところ鬼石町から製鉄跡は出ていない。
神流川を挟んで鬼石町の対岸の町、埼玉県神川(かみかわ)町も命名の元には鉄穴乱_流から神川が生まれたそうな。すごいことに神川町元阿保からは大鍛冶から小鍛冶までの製鉄遺跡が出ている。
「阿呆」とは最高の砂鉄とも読める、神流川はやがて坂東太郎のニックネームを持つ利根川に合流する。
以上のような経緯から、神川の語源の元には鉄穴の意があるのではないかと考えるようになった。
鬼石町と同じように真田町にも鬼伝説がある。
坂上田村麻呂将軍が、丸子町の鬼窪(荻窪)から鬼沢(神川)を通り角間(真田)の「毘耶(ひや)」という鬼を退治したそうな。その時、田村麻呂将軍、鬼を縛ったのが鉄縄だそう。傍陽の天台宗の寺、実相院の山号は金縄山(きんじょうさん)というそうであるが、筆者は小さい頃から「かなずなのお寺」と尊敬の念と親しみを込めて呼んでいた。8月初めの「りんご祭」は小さないとこ達と一緒に叔父が連れていってくれた。屋台を照らしていたアセチレンの火、ガスの臭いとアイスキャンデーの甘さが心に残っている。
地名も、菅平のスガは鉄磨ぎと読める。真田は鉄生みの地。長と書いて「お(を)さ」は、韓国語で大きな存在を表すウサ・ウシ・ウス。日本に来て「をさ」という大和ことばになったとされる。一方、をさ・うし・うすは丘鉄(鉄鉱石)のことだが、砂鉄まで含む「鉄」全般を指称する語であったと言われるのは、李寧熙先生である。
2月の初めに神川沿いの地域史を研究されている宮島武義さんを知る機会を得た。彼は地域の歴史を熱く語ってくれた。
3つ4つの子どもが「どうして?」を連発する時期があって、閉口した覚えがある。今の筆者も「なぜなの?」「どうしてかなぁ?」と首をひねることの多い日々を送っている。
郷土の素敵な場所や歴史を多くの人々に伝えたいと考えている宮島武義さんは、柔軟な考えをお持ちでも、やはり筆者と同様に前出の言葉を発している。
宮島さんの知人の半田姓と金子姓の家紋は諏訪大社上社本宮の神紋「梶」と同じであるそうな(半田姓、金子姓のすべてではない)。
半田姓も金子姓も金属に関わりある姓だと直感した。
半田はホムダの音と同根でフイゴの地の意である。
かつて、近所に半田姓の鍛冶屋さんがあった。姓と仕事の語源が合致する不思議さを思った。
また、全国に「金」の字のつく地名や姓は数多いそうだ。
筆者の古い縁者に金子姓があるが、いつの頃か定かではないが諏訪の金子村から移住してきたとの伝承がある。伝承は伝承として、では、なぜ金子という地名や姓が生れたのか、伝承ではそこまでを伝えていない。
金子の語源に迫る時、忘れてならないのは金屋子神のことである。
製鉄技術の文献に『鉄山必用記事』という書があるが、その中に金屋子神の降臨伝説が語られている。
金屋子神は、はじめ播磨国の岩鍋に矢降って鍋を作ったが、そこには住むべき山がなかったので、白鷺に乗って西に飛び、出雲国の非田に着き休んでいたところ、安部氏の祖の正重に発見された。(中略)朝日長者が宮を建て正重が神主となり、神みずから鍛冶となって朝日長者が炭と粉鉄を集めて吹けば鉄の湧くこと限りなし、とある。また、金屋子神はたたら炉の4本の押立柱の南方の柱に祀ることが記されている。
金子氏の出身との伝承がある現在の諏訪市中州には上・中・下金子地区があり、中金子の八竜神社の氏子は上社本宮と前宮の古い御柱休め(倒す事)や古い御柱の穴を掘ったり埋めたりすることに奉仕している。また、御柱はたたら炉の押立柱の名残りと見られる。しかも、押立柱の南の柱に祀られるのが金屋子神であることからして、金屋子雷燻qの地名や氏が生れたと考えるのは短絡すぎるだろうか。いずれにしても上古にたたら場の仕事に携わっていたのが金子氏とみて不思議はないと思う。「梶」の家紋もそれを語っている。
宮島武義さんが話してくださった金子姓について考察していくうち、古い縁者の住む上田市赤坂の金子萬英さん宅を訪ねた。ご多忙なのに、赤坂に伝わる伝承と伝承地を案内頂いた。赤坂には、塚穴古墳や将軍塚古墳があり開発の古さを示している。渡来系の臭いのする地名、小玉原(ばら)に瀧宮神社の前身の木魂(こだま)神社、そのご神体の兒玉(こだま)石等興味はつきないのである。特記すべきは、この地が上古の昔、名だたる鉄処であったろうと思われるお話を沢山してくださったことだ。まずは、旭さす/夕日輝く/へいじ岩/漆千樽/朱千樽/黄金千枚/二千枚 の伝承地へいじ岩へ、山道の悪路を金子さんの案内で行った。前出の俚謡は将軍塚等の高塚に伴うと伝承されているが、奇岩のへいじ岩には水酸化鉄かとおぼしき層があり、集落近くの崖は鉄砂の山である。集落内を流れる川には魚は住まないそうである。酸性度を示すペーハーは低いらしく水を飲んでも、酸味も渋味も感じなかった。
三重県美杉村の三坪山で謎の歌をたよりに掘ったら、山頂から経筒が出たそうな。へいじ岩の元からは土器の破片が出土したそうである。三坪山も赤坂の地も砂鉄の多い鉄砂の山である。
赤坂には鉄処によく伝承される竜のひっこし(小玉原の空池=からいけ)話や鬼伝説、それに鉄穴流しを連想させる降雨時だけに流れる不思議な川のこと等に加え、清らかな水の湧く瀧宮神社に伝わる片目の魚の話があり、身を引き込まれる。
神々の祭は、古くから行われてきた原初の状態をくり返し伝承すると『古代の鉄と神々』の著者はいうが、なるほどなるほどと再三得心する。瀧宮神社の秋の大祭(毎年は行われない)には、なんと舟が出て「うちわ振り」の奉納とケヤキの木に片方だけぞうりを縛り付ける行いがあるという。
舟の山車は諏訪社系の祭ではよく登場する。かつて下社秋宮でのお舟祭を見学したことがあった。
「うちわ振り」が「フイゴ」を象徴していることは明らかである。金子さんと意見が一致した。大木に片方だけぞうりを縛る話をしたときの金子さんは、いたずらっぽい目をしていた。筆者の反応や答えがわかっていたからであろう。
たたら場では身体に障害を起こす人が多いという。
例えば熔鉄の具合をホド穴から見つめ、そのため片目を失うというし、片足を悪くするのは足ぶみのフイゴを踏むからである。それに燃焼床の粘土を踏み固めるのも重労働である。
片方のぞうりはそうした行為の結果を暗示しているのであろうと、みごとに金子さんと思いが一致したのである。日本の祭は深い所で鉄に関わっていることに驚くばかりである。
さてさて、ずっと気になっていた延喜式内社の山家神社の由緒書きである。神社はもと、神社の裏山の古坊に鎮座していたが、西暦857年6月に大雨による山ぬけがあって社殿や神森が押し出し現在の地に遷ったとの伝承がある。それにより神主の姓を改称したと伝わる。
禾科の植物の生長には鉄分が必要であるという。粘土にはその鉄分が多く含まれる。それ故、粘土質の米はうまいとの定評があるのである。
山家神社裏の畑地は古坊とは地質が異なり、まずは驚くほど小石が多く耕作者のご苦労がしのばれるところである。土はさらさら感のある山砂で砂鉄量も多い。
さて山家神社の神官の旧姓は清原とある。「キヨハラ」なのか「スガハラ」なのか資料では訓じていないが、もしも「スガハラ」と訓めば古代韓国語では「鉄磨ぎ原」の意である。改姓の押森の押(ヲシ)は丘鉄から砂鉄までを意味するといわれる。森は頭領の意のモョリを森と表記した可能性も考えられるのである。
神官としては大雨により社叢が流されるということは一大事に違いないが、山ぬけ(自然の鉄穴流し)に比喩した出来事の真相は、元々鉄穴流しの仕事に関わっていたが実は「鉄漉しの長」になったと記事は伝えたかったのではないだろうか、長になる事もまた一大事件である。「長」は大きな存在の意である。旧長村の「長」でもある。
『鉄山必用記事』の中に「一に粉鉄、二に木山」とある。神川の砂鉄量も多い、それに真田の地は木(木炭)の補給力も充分である。そうした事を知って白山神はやって来たのだろう。白山神をかくまった石舟の石は継続の意のイッシ、舟は製鉄炉の意とすると白山神の想いはただ一つ、鉄作りを続けたくて真田に入ったといえはしまいか。
最後に、鬼(鍛冶師)を金縄で縛ったとの伝説の地、傍陽の実相院境内で風化した花崗岩を発見した。花崗岩の中に砂鉄はほぼ遍在しているそうである。洗馬(鉄の場の意と考える)川の地名もあることから、ここも名だたる鉄処であったことがうかがえる。 
旧望月町伝承
昨年、旧望月町の榊祭を見に行った。
暗くなる頃、東の山道から火をともした松明(たいまつ)の行列が次々にやってきて鹿曲川に架る橋の上から一斉に松明を川に投げこむ。その度に見物人から拍手が湧く。若者の中には松明を回す人もいるらしくその様はまるで「月」のように見えた。榊祭は火の祭りであることを実感した瞬間であった。
松明の投げ込みが終ると町の方へ移動をして次は御輿(みこし)見物である。御輿は背の高い二幹に分かれたナラの木が主体である。そして所々で「あおり」をすると御輿と見物人が一体化して盛り上がりをみせるのだ。T字型の大辻では御輿を激しく地に打ちつける。これを「どうずき」と言うそうな。にぎやかな掛声を背に受けながら大伴神社への参道を歩いた。そして、道々本来の榊祭ってどんな意味を持っているのか考えた。
この祭りの発生には三つの伝承があるようである。
一つは、昔、都から滋野親王が望月にお下りになっていたが、あまりに都のことを憧れなさったので、都の大文字山でかがり火をたくのをまねて、8月15日の夜東方の山上で大かがり火をお見せした。この山を松明山といっているそうな。
二つ目は、昔、望月三郎が武田信玄の軍に対してこちらも大軍ぞよとばかりに松明をたき、ついに武田勢を破った。戦勝を祝う祭りが榊祭であるとの伝承がある。
三つ目、延徳元年の中元の夜、大伴神社の榊祭を行おうとにぎわしい中、町の人と商人の他は通行を止めた。武田軍の斥候に備える意味もあった。武田軍にまだ占領されていない望月、芦田、香坂、志賀、平賀が烽火を合図に武田軍を夜討ちにしようと約束してあった。ところが榊祭のかがり火を合図かと各地一斉に火をたいたので武田軍は大軍かと驚き甲州へ退散した。
武田軍を引き退かせたことが例となって翌年から旧城址に松明をたき、若者が手に手に青葉のそだを持ち笛や太鼓で町内を練り獅子が舞ったそうな。
さてさて、榊祭とは滋野親王をお慰めしたことは別にして戦勝を祝う祭りなのだろうか。伝承を読めば、武田軍を甲州に引き退かせる以前から大伴神社に榊祭があったことがわかる。なぜ榊祭というのだろうか。
榊祭のいわれを探る前に大伴神社のことを記しておきたい。「延喜式」記載の「佐久三座」の一つが大伴神社である。(他の二つは長倉神社と英多神社)元は北よりの椀の木地籍にあったと伝えられている。祭神は武日連と月読命で、元は望月氏の祖大伴氏を祀ったとも考えられている。
大伴神社の金井宮司さんの紹介で松明山に行ったことがある。松明山には榊神社と書かれた小さな祠があった。祭神名を見て驚いた。製鉄神と考えられている木之花咲夜姫。すぐ近くには豊川稲荷大明神が座していた。明神は、日・月神、つまり火の神、製鉄神を指す。すると古い時代この地は製鉄の地ではなかったろうか、と考えてみた。
榊祭の中で地に御輿を打ちつける「どうずき」がある。「どうずき」とは「固め」の所作である。「どうずき」や「固め」は上古からの吉祥語である。思い出してほしい。家を建てる時地固めのどうずきをした。家が建てば屋固めの祝いをする。結婚することを身を固めると言ったではないか。「 固め」は幸せに通じる。かん天を煮溶かして冷ませば固まる。美味な羊かんに変身だ。羊かん一切れでお茶を頂くなぞ至福ここに極まるの感がある。そして、鋳造もまた固めである。何度でも話すが『古代の鉄と神々』の著者は、祭りというものは本来始源の状態を繰り返し伝承するものだと言っている。
「大伴神社注進状」を要約してみると、月夜見(月読)尊が竜馬に乗って、国々の川や谷をめぐり歩いている時、千曲川の川上に清水湧く谷川を見つけた。そしてこの霧湧く谷に永住しようと決めた。清水湧く谷川は、「角馬(つぬま)川」と記されていて、尊の乗った竜馬は「角馬(こま)」で、牧場の駒の種になったそうな。研究者は鹿曲川はつまり角馬川で元の意味は駒川であったと言っている。
前出で製鉄に関わりがあるかと考えられる個所がある。まずは、尊が清水湧く谷川を見つけたことだが、
つまり、砂鉄の採れる川を見つけたことを暗示しているのではないだろうか。実際鹿曲川の砂鉄量は多いのである。もう一つは、霧湧く谷の表現にある。製鉄(須恵器を焼くにしても、鍛冶をするにしても)には木炭が不可欠である。そして、大量の木が必要である。木がよく育つには霧が大切な役目をする。木は霧が与えてくれる水分を吸収し、早く生長するそうである。
また、民間の伝承として尊がゴマのサヤで目を突かれ負傷なさった。で、望月ではゴマを作らないそうな。
これは「ゴマを作らない話」の中に入る。なぜ、ゴマのサヤで目を痛めたのかを暗示することとして、まずゴマは砂鉄の状態を表し、目を痛めたことは、製鉄炉の熔鉄の状態を視つめて痛めたことを暗示しているのではなかろうかと推測するのである。
そして、延徳元年より前から大伴神社の祭として榊祭があったのだが、その榊祭の語源を解いてみると、
榊祭=鉄磨ぎ城祭となるのである。榊神社の祭神、木之花咲夜姫も製鉄の神とみなされているし、稲荷は火の神、大伴神社の祭神もまた「鉄」に関わりを持っていると、文献、伝承からそう読めるのである。伝承も決してあなどれないのである。
大伴神社の大伴と聞けば古代の豪族、大氏(多氏)を思い出す。それに、旧北御牧村の両羽神社の祭神のお一人、天太玉命と神殿内に座す、古木像の船代も大氏と深い関わりがあるように思える。
さぁ、両羽神社だが、中世には原宮、芝宮、八葉山大明神、望月氏の所領になってからは大宮大明神、そして両羽神社とまぁ、時代の諸事情あっての社名の変遷なのだろうと、想像に難くないのである。
『古語拾遺』に斎部の祖である太玉命が率いる五神の中に一つ目小僧で知られる天目一箇(あめのまひとつ)神がいる。製鉄炉の熔鉄状態を視(み)つめ隻眼となった鍛冶職を神格化した名であるが、目を痛めた月夜見(月読)尊と天目一箇神の姿が神名こそ違うがぴったりと重なる。
そして、太玉命の「太」の字は「多」の異表記である。太玉命は「大氏(多氏)」と同姓である。
前出の芝宮にしても、八葉山大明神にしても社名から「鉄の場」であったことが読めるのである。なお、両羽神社の神殿内には船代の像だとの伝承がある古木座像があるという。写真で見るかぎりではあるが、船代の容ぼうは、どんぐりまなこに、おっきな鼻、への字に結んだ口、厚手の衣を着ているというよりは太っているという表現の方がいいかもしれない。それに短驅の人であろう。座像丈とお顔の大きさからそう推測できるのである。
船代は勃海(ぼっかい)国からの渡来人で、調馬の師であったそうな。勃海国とは、高句麗の後身と言われ、今の中国北東部に国を建て聖武天皇の御代から日本と通交を始めた。なんと、勃海王の姓も大氏であるそうな。
鉄、馬飼、須恵器の技術に長けた集団が鹿曲川に上り、そこに住み、「鉄の場を守る」使命が各神々の仕事であったろうと推測する。
『佐久口碑伝説集』(北佐久編)に、土屋庄太郎さんが残した興味深い口碑があった。
それは「金山は望月町牧布施の一地名で、ここに沼がある。この沼底に鉄しょう色の土があって、明治21年頃まで、この土で白布を黒染にしたり、おはぐろに使ったという。一説に金山様の祠があるからだとも言われている」という内容である。
以前、牧布施での取材の折お世話になった土屋あさ子さんにお尋ねしておよその場所がわかったので、旧中山道の瓜生坂から歩いた。
畑で作業をしておいでの男性に金山を尋ねると、「この山が金山です。白い粘土の出る所があって、子どもの頃、粘土いじりをしたものです」と話してくださった。そして、沼はないが湿地ならあるそうで、その場所に近づいたが、なにしろ夏草とヨシの薮で、確認はできなかった。だが、ヨシ原の端で不思議な光景を見た。黄褐色の水が溜っていた。ええっ。ひょっとして鉄バクテリアかしらん、と思った。過去に佐久市平塚の西一里塚遺跡で鉄バクテリアを見たことがあった。
褐鉄鉱の塊は、沼沢や湿地に生える葦や茅、つまり禾科の植物の根に沈澱した水酸化鉄が鉄バクテリアの自己増殖によって外殻を形成する。そしてそれは弥生時代の貴重な原料であったと『古代の鉄と神々』の著者は言っているが、その原風景が目前にある。そうした雰囲気のある場所であった。
金山まで来たついでに、牧布施の山の中腹にある駒形社まで足を運んだ。
過去に土屋勝太郎さんと土屋春夫さんに牧布施の駒形社の祭神は猿田彦であること、社は昔、布施川に近い大門田にあったことを教えていただいている。
さぁ、駒形社の性格はどういうものだろうか。
筆者の母はお宮参りの折は必ず丘の中腹にある石祠の駒形社にも参った。その石祠は馬と蚕神の神さまだと話してくれた。
若い頃の母は、春蚕、夏蚕、秋蚕に晩秋蚕と年4回も蚕を養った。蚕室はもとより門の脇の長屋の二階、母屋の台所上の中二階に茶の間と座敷はすべてお蚕さまの養蚕室と化した。母はお蚕飼いが上手であった。病気も出さなかった。なにより養蚕仕事が丁寧であったように思えるが、お蚕の神さまと言われた裏のおじさんの指導を受けていたからかもしれない。細面で優し気な目をし、物静かなおじさんを見ては神さまって、きっとおじさんのような風ぼうなのだろうと、かなり大きくなるまでそう思っていた。
さて、その駒形社が望月の牧の推定地の範囲をまるで囲むかのように存在する。
小諸市駒形坂の駒形社は河岸段丘の中腹にあり、目の前の千曲川を渡れば御牧ヶ原の台地である。佐久市下塚原の駒形社はその脇を御代田町の血の池が源流の、赤い水の濁川が流れている。眼下には千曲川の流れがあり、はるか旧浅科村方面が見通せる。立科町には駒形社が2つある。外倉の小高い丘の見晴しのいい所と、藤沢の番屋川沿いの窪地にある。前出の社の祭神は保食神である。旧望月町の牧布施の駒形社は今でこそ山腹にあるが、元は布施川に近い平地にあったそうである。砂鉄量の多い布施川の縁にあり、祭神が猿田彦であるということでよけいに関心を深くする。
「牧」の冠を持つ牧布施にある駒形社なのだから馬の守り神の社と納得してしまいそうになるが、日韓の言語と歴史に詳しい李寧熙先生は、猿田彦を「砂鉄の地を祈る男子の祭祀者」を表すとしている。布施を古代韓国語に当てると、「鉄の火」と読める。なんと不思議なる一致であろうか。
牧布施の駒形社は正式には駒形大明神。明神と言えば製鉄神と学んでいる。無理に製鉄、鍛冶と結びつけようとしているのではなく、うなで(自然)に一致を見るのである。
李先生によれば「マガタ」とは「防ぐ所(防御の地)」の意であると言う。
「駒・マガタ」(馬防御の地)が転化して「コマガタ(駒形)」という意味不明の言語が生れ、「駒」の字を当てたことから駒形=馬の守り神化していったとの推測が可能であろう。
もう一つ、「小(コ)マガタ」から当て字の「駒形」が生れた可能性も考えられる。「小(コ)」は韓国式音読みで「ソ(ショ)」で牛または鉄の古語で高句麗など北方系の言葉である。とは、やはり李先生の見解である。つまり「小(コ)マガタ」とは「鉄防御の地」と読める。「駒、マガタ」にしても防御の地であればこそ、遠望のきく高台や重要地域の出入り口付近に設置され機能を果たしていたのではないだろうか。
さて、比田井の県道近くに遠目にも古墳かと見える彦狭嶋王の墳墓という伝承のある王塚がある。『日本書紀』の景行天皇55年2月の条に「彦狭嶋王を以って、東山道の都督(かみ)を拝(ま)け給ふ。是、豊城命の孫なり」の記事が見える。豊城命は豊城入彦のことで、上毛野(かみつけぬ・群馬)下毛野(しもつけぬ)君の始祖であるそうな。孫の彦狭嶋王が春日の穴咋邑(あなくいむら)に到り病に臥(ふ)して亡くなった。東国の百姓、この王が来なかったことを悲しんで、ひそかに王の亡きがらを盗んで上野国(かみつけののくに)に葬ったそうな。春日穴咋邑は今の奈良市古市町で猿田彦を祀る穴栗神社の一帯がその伝承地でもあるが、旧望月町では春日地区一帯に比定する考えが有力である。
王塚のある地字名は鹿島で、鉄磨ぎの場と学んでいるので伝承主は鉄に関わりがありそうである。
彦狭嶋王の祖父、豊城入彦命は御諸山(三輪山)から東に向って、槍と刀を8回ずつ振った。という夢占によって東国統治の任を得て上毛野朝日の原(群馬県榛名町)に居城を築いた。
命の事業の中に車川から水を引く堰造りがある。その堰は、くの字に折れ三角地を形成していると『榛名町誌』に記されていたので確かめに行ってみた。
S字形の地形は三角地帯といって、砂鉄が多く溜る場所である。確かにそれらしき地形は認められた。推測どおり堰跡の砂鉄量も多かったのである。
群馬県の古代の製鉄遺跡は赤城山方面にあるが、命は鉄塊の元になる砂鉄集めに力を注ぎ鉄処を治めた人物ではなかったろうか。
命の墳墓と伝承されるものは朝日の原を始め郷見区の諏訪や前橋市とあちこちにある。命が生きたとされる時代と伝承墳墓の時代差は『記紀』に登場する天皇が、重複して記された可能性があると見られている。遠い時代のことで推測の域を出ないが、伝承地に立ちその風景の中に身を置いてみると、伝承の真実性がそこはかとなく伝わってくるから不思議である。
また、榛名町には役行者が開山とされる通称白岩観音がある。
寺伝によると、行者は文武天皇の御代の人。大和葛城の生れで、藤の皮を身にまとい松の葉を食し葛城山の洞穴に籠って修行をして神通力を得、多くの鬼を使い水を汲ませたり薪を拾わせていた。ある年、諸国の峯々をめぐっていた時、上野国神州(からす・現烏)川の上空にさしかかると多くの天狗が出迎え、白岩山が優れた修行の適地であることを告げたという。
前出の藤、松、水、薪は製鉄には欠かせない物であるし、鬼や天狗もまたしかりである。寺伝から、鉄との深い関わりが見えてくる。
役行者(えんのぎょうじゃ)は、修験道の祖師と仰がれている。その身なりは、兜金(かぶとがね)をいただき、鈴懸(すずかけ)、結袈裟(ゆいげさ)を着け金剛杖をついている。そして、山から山へと跋渉(ばっしょう)する、そうした姿を思い浮かべる。
修験道は、古代からの山岳への崇拝と原始からあったとみられるシャーマニズムが結びついて発生したとするのが通説であるらしい。が、『古代の鉄と神々』(真弓常忠著)では「山伏が山林で修行し呪法を身につけるために自ら苦行を科し、呪法を修したについては、そもそもの発生にさかのぼるなら、より現実的な動機があったに違いないと思う」といっている。「より現実的動機」とはやはり、山に入り鉱物資源を探すことが修験者に課せられた任務の一つではなかっただろうか。
奇しくも、役行者伝説は旧望月町にもある。
瓜生坂の中腹に清水が湧き出している所があるが、昔役行者がこの地に来た時初めて身を清めるための水をとった場所だそうな。また、望月城跡の南方に鬼落しという急な谷があり、昔役行者が法力をもって鬼を使い、逆らう鬼がいればこの谷に追い落した。
立科町の雨境峠は望月側から「役行者越」の呼称がある。
かつて、旧望月町の古墳から出土したおびただしい鉄器類は、須恵器と同じに地産地消であったろうか。彦狭嶋王の祖父が活躍したとされる榛名町も鉄処と考えられるし、王の墳墓伝承地もまた鉄処である。地名の原意を推測してみよう。イ咋田=聖なる(または継承)焼物の地。あぐり山=最高焼きの山。百沢=集め集めの沢。比田井=刀の地の泉(池)。春日=鉄磨ぎ処。望月=(鉄)を集め嵌める(柄を付け加工する)製鉄地、と解ける。 
 
牛頭天王

 

昔、昔ここからはるかに遠い須弥山(しゅみせん)という山の北にケイロ界と言う所があって、そこを治めている方は白きの御門と言った。白きの御門には牛頭天王(ごずてんのう)とおっしゃる王子がおいでで、その天王にはまだお后がお決りではなかった。
ある日のこと。天王が庭の梅の木をながめていると一羽の山鳩が飛んできて梅の木に羽を休め、さえずりはじめた。
天王がそっとそのさえずりに耳を傾けると「釈迦羅龍宮には龍王の王女さまがいらっしゃいます。それはそれは美しいお方で、その王女さまこそ天王さまのお后にふさわしいお方でございます」
と、言っているように聞こえた。
山鳩のさえずりを聞いた時から天王はまだ見ぬ王女をいとおしく思い、王女を娶ろうと心に決め、南海の方面をめざして出発した。
やがて、午後になると天王はお疲れになられた。そうこうして日もとっぷりと暮れたころ、ちょうどそこにたいそう豊かそうな屋敷があったので、天王はその家の戸を叩いた。
主人の名は小丹長者と言うそうな。
天王が「一夜の宿をお貸しくだされ」と頼むと、長者は天王を見るなり「見ず知らずの者を泊めることはできん」とつっぱねてしまった。天王は「それでも、なんとか泊めてはくれまいか」と頼むのだが、長者は「だめだと言ったらだめだっ」と声を荒らげ、そばにいた者たちに「旅の者を追い出せっ」と命じた。
長者の屋敷を追われた天王が門の外に出ると女人がいたので、天王が「私に宿を貸してはくれまいか」と言うと、その女人は「わしは長者の家に仕える者です。主が貸さないと言っているのに、お貸ししたくてもお貸しできません」と目を伏せた。
「主の悪口を言うのはいやですが、長者は人の悲しみや困っている人がいても気の毒に思うこともありません……。そうそう、ここから東に一里(約4q)ほど行った所でお宿をお借りなさいませ」と、女人は言った。
一里ほど行くと松林があり、その中の一本はこんもりと繁っていて夜露がしのげそうであった。
その時、不意に木陰から品のいい女人が現れた。天王が「この木の下で一夜を過ごしたい」と言うと、「私は松の精です。ここから東に一万里(約4万q)ほど行きますと、とても親切な人がいますので、そこで宿をお借りなさいませ」と女人が教えてくれたので、そこに行くことにした。
そして、その家の戸を叩くと主が出てきた。
天王が「一夜の宿を貸してくだされ」と頼むと、主は「私は蘇民将来と申します。お見受けするところ、あなたさまは立派な身なりをしていらっしゃいます。私はそれはそれは貧しくて、あなたさまのようなお方にお出しする食事も寝所もありません」と言った。天王が「どうか宿をお貸しくだされ、あなたが食べている食事をいただけ、あなたと同じような布団でよろしいのです」と言うと、蘇民将来は「少しお待ちくださいませ」と言いながら急いで部屋をかたずけ、そこに粟がらを敷き干した莚を敷いて寝所の用意をし、夕飯は粟飯のごちそうをした。こうしたもてなしのお陰で天王は旅の疲れがすっかりとれたのだった。
翌朝、いざ出発という時に蘇民将来が、「あなたさまはどちらに行かれるのですか」と天王にお聞きになると、天王は「私は釈迦羅龍宮の王女に恋をしてしまいました。そこで、王女に会いたくて南海にある龍宮をめざして旅をしている者です」と、おっしゃった。
天王はなおも言葉を続けられた。「小丹長者は裕福な暮しをしているのに一夜の宿も貸してくれなかった。だから長者を罰し滅ぼしてしまおう」と言われた。すると蘇民将来は「長者のよ、よ、嫁は、私の娘です。どうか私の娘だけはお除きくださいますように」と強く頼んだところ、天王は「そうであったか。では、柳の木でお札を作り『蘇民将来之子孫也』と書いて、男は左側、女は右側に掛けておきなさい。それを目印として許してやろう」とおっしゃり、再び南海をめざして出発したのであった。
その後、天王は釈迦羅龍宮の王女に出会い結婚されて、12年のうちに8人の王子をもうけて南海からの帰国の途についた。
天王の従者は、なんと、9万8千人と、大所帯の数になっていた。
蘇民将来はこのうわさを聞いて、金の宮殿を造り天王が通られるのを待った。
いよいよ天王が到着され蘇民将来がお出迎えすると、天王はびっくりなさって「これはどうしたことなのですか」と尋ねられた。
「あなたさまがかつてお通りなされた後、天から宝が降り地から泉が湧き、とても裕福になりました。ですからあなたさまを3日間お泊めしたいのです」と蘇民将来は申し上げた。
天王はそこにお泊りの内に小丹長者の様子を窺わせた。すると、長者はやはり天王の帰国を聞き「魔王が通る」と言って、四方に鉄の塀を築き、上空には鉄の網を張り屋敷を守り固めていて、侵入するすき間はなかった。けれど、さすがの長者も水の出る所にはなんの防備もなかったので、天王の大勢の従者達はそこから侵入し、小丹長者の一族を滅ぼしてしまった。
小丹長者の子孫は一人も生き残れなかったが、その時から、蘇民将来の子孫は許され、繁栄したという。
解説
この物語は、信濃国分寺に伝わる「牛頭天王之祭文」を塩入法道住職が口語訳したものを元にしているが、お話を進める都合上、内容の一部を前後して再話をしている。
「牛頭天王之祭文」は、信濃国分寺所蔵のもので室町時代中期に書写されているということである。
さて、「祭文」とは、神仏に対して祈願や讃歎(さんたん)の心を述べる文章で、神社では祝詞と言い、天台宗では法則と言う。
また、牛頭天王は古代インドの国にあった、祇園精舎(釈尊やその弟子達のために造られた寺院)の守護神とされているが、この物語の主人公の牛頭天王は薬師如来の化身とも言われる一方で、牛の角をはやしたり、小さな牛を頭頂に掲げた憤怒の相の姿で表現され、除疫神として、京都市祇園の八坂神社などに祀られている。また、『日本書紀』や『古事記』に現れるスサノヲとも習合している。おそらく職能が共通していることが根底にあると思われるが、その事は後に記したい。
信濃国分寺は八日堂として広く知られている。1月7日の夜から8日にかけての縁日の賑わいは有名で、
小さい頃、縁日にはかならずと言っていいほど出掛けた。薬師如来さまに一年中の健康をお願いした後に蘓民将来符を買い求めた。その護符の姿は六角柱で頭頂部近くに切れ込みがあり、
その上は六角円錐型とでも言えばよいのかしらん、そうした形をし、寺の護符は蘓民将来子孫人也、大福、
長者等の文字だけである。檀信徒で作られるものには文字と七福人の絵が描かれている。
お気づきであろうか、お話の中の蘇民将来の「そ」を「蘇」と表し、寺の護符では「そ」を「蘓」と書いている。寺の伝統的な字使いなのであえてそう記した。
「蘓民将来子孫人也」と書かれた護符の材はドロヤナギだそうである。柳は薬木とする所もあるそうだが、 その生命力には驚かされることが多い。それをめでたいこととしてか、しなやかな印象をよしとしてかはわからないが、正月の床の間を結び柳がひっそりと飾る。
護符を持っている者は災難をまぬかれ、子孫も栄えたという説話が現在形としてとらえられ、青森県から長崎県壱岐島まで各地にこの信仰が残されている。
近くでは、佐久市下塚原の妙楽寺や同じく佐久市の新海三社神社に木札のものがある。また、三重県の二見町に旅をした時、将棋の駒形に文字が書かれてしめ縄に付けてあったのを見た。もう一つは、京都市祇園の八坂神社の祇園祭に出る各鉾町の粽にも紙の護符が付けてある。これは京都市出身の本山ケイ子さんから長いこと頂戴していた。
蘇民信仰は古くからのものであるが最古とされる護符は京都府長岡京市のもので、延暦10年と記された木簡と共に出土し、両面に「蘇民将来之子孫者」と墨書されていると言う。8世紀末にはすでにこの信仰があったことをこの木簡は教えている。
平成19年1月4日の信濃毎日新聞の朝刊に千曲市八幡の東条遺跡で「蘇民将来」と書かれた木簡が県内で初めて出土し、鎌倉後期から室町時代のものとみられると報じていた。その中で新発見があった。「蘇民」の「そ」の字が、国分寺伝統の「蘓」と書かれていたことであった。
お薬師さまのお参りの後は、母方の親類宅に寄るのが楽しみであった。当時は、玄関の大戸や障子は開け放たれ、清々しい部屋でコタツにあたり茶菓をごちそうになった。もてなしてくれたおばさんとその娘さんも母も、彼岸の里で思い出話をしているかもしれない。
『日本書紀』や『古事記』に現れるスサノヲの別称が牛頭天王であることは広く知られていることであるが、『記紀』に現れるスサノヲとはどのような神であったのだろうか、雑ぱくにまとめてみた。
イザナギが鼻を洗った時に生れたのがスサノヲである。そして「汝は海原を治めなさい」と命じられる。しかし、仰せつかった国を治めずに泣きわめき、青々とした山を枯らし、川や海をすっかり乾かしてしまったその様を見たイザナギが「どうしてお前は泣きわめくのだ」と問うと、「私は、亡き母の国、根の堅州(かたす)国に行きたい」と言って、イザナギから追放される。
スサノヲは姉のアマテラスに別れを告げるために高天原(たかまのはら)に行き、国を奪う邪心のないことを示す誓約をして勝つ。勝ちに乗じ乱暴のかぎりを尽くしたスサノヲは高天原から追放されて新羅国の曽尸茂梨(そしもり)に居たが、「この地に居たくない」と言って、とうとう赤土で舟を作り、それに乗って東に渡り、出雲国の斐伊川の川上にある鳥上の山に着いた。たまたまそこに人を呑む八岐大蛇(やまたのおろち)がいた。その八岐大蛇を退治し、国神の娘、奇稲田姫と結婚をし、ついに根の国に入る。
韓国に旅をした方はよくご存じであろう。韓国の地図を広げて見るとわかるのだが、慶尚北道と慶尚南道の境にそびえる山がかや山である。かや山は古くは牛頭山と呼ばれ、風化された花崗岩の岩壁が連なる古代の鉄の産地であったという。
スサノヲの別称が牛頭天王と言うからには、スサノヲは牛頭山(かや山)の辺りで製鉄を行い木々を採り尽くし、新たな進出の先としたのが出雲であったろう。
出雲の鳥上山から流れ出る斐伊川の砂は「真砂」と呼ばれるそうで「真砂」の原意は「上等鉄」と学んでいる。
李寧熙先生によれば、スサノヲは「鉄の頭領」の意であり、牛頭天王もまた「鉄王」を表すそうである。
ここで両者の職能の一致を見た思いがした。
牛頭天王物語に戻ろう。この物語には「鉄」を暗示するかと思われる事柄がいくつかある。
牛頭天王は前出の通り「鉄王」の意である。紙幅の都合上、牛頭天王の父王の別称であろうかと思われる武塔天神の名を割愛したが、「天神」もまた火や雷の神として製鉄に関わりを持っている。牛頭天王の妃「婆梨細女」も他に諸字が当てられるようであるが「細」を「セ」と読んだならば、古代韓国語の「鉄」の意となる。鉄と何かの関わりを持っていたであろう。
次に「牛頭天王祭文」の口語訳では「私が人間の姿に見えましょうか。雨風を着物として、松の木を本体として過ごしてきた者です」とある文章を、物語では「私は松の精です」と意訳させてもらった箇所がある。この「松」は製鉄、鍛冶にとって不可欠な物で、しかも上等材とされる松炭の「松」を暗示しているかと思われる。
また、小丹長者と蘇民将来を富める者と貧しい者、非情な人物と温情ある人物として対比させている。それは文学(昔話から創作まで)上、よく用いられる手法ではあるが、両者は互いに親戚関係にあることを思い出し、名前をよくよく見た。小丹長者の「小」も鉄の意がある。長者の「長」は大きな存在から、鉄鉱石から砂鉄までを表すと学んでいる。物語の中でも長者は防ぎょの為に鉄の加工品をふんだんに使っている。蘇民の「蘇」も「鉄」を表す「ソ」と同音である。
同じ職能であっても人生の浮き沈みのあったことを端的に表し、戒めの行為は魔除けにと繋がるのであろうか。 
牛頭天王伝説
牛頭天王をまつる信仰は、もともとインドから中国を経て伝わってきたものですが、わが国では、疫病や農作物の害虫そのほか邪気を払い流し去る神として、古代より定着したようです。牛頭天王は、八王子と八万四千の眷属を率いて、一族皆殺しの罰を与える、殺戮する恐ろしい神です。牛頭天王という名は、新羅に牛頭山という山があり、熱病に効果のある栴檀(センダン)を産したところから、この山の名を冠した神と同一視されました。素盞烏尊(すさのおのみこと)は、新羅の曽尸茂利(ソシモリ)という地に居たとする所伝も『日本書紀』に記されていまして、「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう韓国語で、牛頭または牛首を意味し、韓国には各地に牛頭山という名の山や牛頭の名の付や島がある由です。
昔、天竺の北方に九相という国がありました。九相国の王、牛頭天王(こずてんのう)は、もうそろそろ嫁をとらねばと思っていると鳩がやってきて「竜宮城へ行きなさい」と教えてくれました。そこで、牛頭天王は竜宮城へ竜王の娘を娶るため、一族を連れて旅に出ました。
旅の途中、牛頭天王一行は泊めてもらうところを探しているとこの辺りで一番のお金持ちの、巨旦将来(こたんしょうらい)の家がありました。そこで、巨旦の屋敷に宿を請いました。ところが貧欲な巨旦将来は、その頼みをむげに断ります。天王は、次に蘇民将来(そみんしょうらい)という者に宿を請います。貧しいながらも心優しい蘇民は快く応じ牛頭天王に粟のご飯をたいておもてなしをしました。次の日、出発する前に牛頭天王は泊めてもらったお礼に宝物の珠を蘇民にわたしました。この珠は、心の優しい人が持つとお金がたまるものでした。
その後、牛頭天王は旅を続け、目的である竜王の娘を娶ります。旅の戻り道、天王は再びこの地を通り、蘇民将来の家に立ち寄ってこう言いました。「私は、これから疫病神となって荒れ狂うであろう。しかし、そなたの親切には報いたい。そなたの子孫のみは、親切にしてくれた御礼に助けるであろう。」そして、恨みを抱いている巨旦将来の屋敷へと向かいました。巨旦将来は相師の占いにより、牛頭天王の襲撃を察知していました。千人の僧に大般若経を購読させ、牛頭天王が館に入って来れないよう結界を張っていたのです。
ところが、僧のひとりが眠気から、一字を読み間違えてしまいました。牛頭天王はその隙を見逃さず、館に侵入すると巨旦将来の一族を皆殺しにしてしまったのです。そして、蘇民将来のもとに戻ってきて、こう言いました。「あなたの子孫にこう伝えなさい。もし後世に疫病が流行ることあらば、『私は蘇民将来の子孫である』と名乗って、茅の輪を腰に巻きなさい。されば疫病から免れ得るであろう。」 代々蘇民の家の人たちは、このとき牛頭天王が言われたように「蘇民将来」と書いた木を身に着けていました。それがお守りとなったので幸せに暮らしたという言い伝えが残っています。
その後、牛頭天王は疫病神として各地で怖れられ、後世に言い伝えられるのです。現在も各地で行われている茅の輪くぐりは、ここからきているのです。
時は移り、貞観11年(869)のこと。京の都に疫病が流行し多数の死者がでました。これはきっと、牛頭天王の祟りだという噂が都に広まりました。そこで祗園の社に牛頭天王をまつり、疫病退散を祈願して鉾をたて、祈願したのです。これが現在の祇園祭の始まりとされています。 その後牛頭天王は、さまざまの神と集合した。八王子は人体とその病に対応するばかりか、方角神との対応があり、陰陽道の考えも加わっている。仏教との習合では、牛頭天王は薬師如来、婆利采は千手観音菩薩のそれぞれ本地垂迹であったとされた。八王子にも各菩薩がもっともらしく充てられた。更に、前述のように牛頭天王は素盞烏尊(すさのおのみこと)とも習合した。鎌倉期に書かれた『備後国風土記』や『釈日本紀』では、牛頭天王の名はなく「武答神」となった同様の話があり、さらに神は「我はスサノオの神である」と名のっている。
また、八王子は、本来は、人体とその病に対応する八種類の疫病や災厄の象徴であったとも考えられる。しかし、一般に、神様は信仰されるにつれて「格」が上がって、おとなしくなるものだ。牛頭天王も、殺戮する神から、殺戮者=疫病をコントロールする神へ、更に、疫病を防ぐ神=薬師如来と同体の神へと昇格していくのです。こうやって中世には、その8人の子を眷属神(けんぞくしん)(主神に従属する神々)とし、あらゆる人間の吉凶を司る方位の神として全国に広がっていったといいます。  
牛頭天王
(ごずてんのう) 仏教における天部の一つ。インドのインドラ神の化身の一つ(もしくは別名)ゴーマヤグリーヴァデーヴァラージャ(gomaya-griva-deva-raja)が仏教に取り入れられ、釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされた。これが中国に入り4世紀頃には神農とも習合して盛んに信仰されたが、唐以降は次第に衰えた。奈良時代までには日本にも入り、蘇民将来説話の武塔天神と同一視され神仏習合では薬師如来の垂迹であるとともにスサノオの本地ともされた。京都東山祇園や播磨国広峰山に鎮座して祇園信仰の神(祇園神)ともされ現在の八坂神社にあたる感神院祇園社から勧請されて全国の祇園社、天王社で祀られた。また陰陽道では天道神と同一視された。
牛頭天王は、京都祇園社(現八坂神社)の祭神である。
『祇園牛頭天王御縁起』によれば、本地仏は東方浄瑠璃界の教主薬師如来であるが、かれは12の大願を発し、須弥山中腹にある「豊饒国」(日本のことか)の武答天王の一人息子として垂迹し、すがたを現した。太子は、7歳にして身長が7尺5寸あり、3尺の牛頭をもち、また、3尺の赤い角もあった。太子は王位を継承して牛頭天王を名乗るが、后をむかえようとするものの、その姿かたちの怖ろしさのために近寄ろうとする女人さえいない。牛頭天王は酒びたりの毎日を送るようになった。
3人の公卿が天王の気持ちを慰安しようと山野に狩りに連れ出すが、そのとき一羽の鳩があらわれた。山鳩は人間のことばを話すことができ、大海に住む沙竭羅龍王の娘のもとへ案内すると言う。牛頭天王は娘を娶りに出かける。
旅の途次、長者である弟の古単将来に宿所を求めたが、慳貪な古単(古端、巨端)はこれを断った。それに対し、貧乏な兄の蘇民将来は歓待して宿を貸し、粟飯をふるまった。蘇民の親切に感じ入った牛頭天王は、願いごとがすべてかなう牛玉を蘇民にさずけ、蘇民は富貴の人となった。
龍宮へ赴いた牛頭天王は、沙竭羅の三女の婆利采女を娶り、8年をそこで過ごすあいだに七男一女の王子(八王子)をもうけた。豊饒国への帰路、牛頭天王は八万四千の眷属をさしむけ、古単への復讐を図った。古端は千人もの僧を集め、大般若経を七日七晩にわたって読誦させたが法師のひとりが居眠りしたために失敗し、古単の眷属五千余はことごとく蹴り殺されたという。この殺戮のなかで、牛頭天王は古単の妻だけを蘇民将来の娘であるために助命して、「茅の輪をつくって、赤絹の房を下げ、『蘇民将来之子孫なり』との護符を付ければ末代までも災難を逃れることができる」と除災の法を教示した。
牛頭天王の神格
牛頭天王の神格についてはさまざまな説があり、江戸時代から明治時代にかけて復古神道の影響下で主張されたスサノオ・朝鮮半島起源説が知られるが、神仏分離と国家神道の政治的な影響が大きいともいわれ、定説は確立していない。牛頭天王は、平安京の祇園社の祭神であるところから祇園天神とも称され、平安時代から行疫神として崇め信じられてきたが、御霊信仰の影響から当初は御霊を鎮めるために祭り、やがて平安末期には疫病神を鎮め退散させるために花笠や山鉾を出して市中を練り歩いて鎮祭するようになった。これが祇園祭の起源である。これについて、当時は疫病は異国からの伝染と考えて、異国由来の疫病神として牛頭天王を祀る由来となったと考える立場もある。いずれにせよ、牛頭天王は、子の八王子権現や眷属とともに疫病を司る神とされたのである。
『備後国風土記』等にみえる牛頭天王
鎌倉時代後半の卜部兼方『釈日本紀』に引用された『備後国風土記』逸文(詳細後述)では牛頭天王は武塔神とも称され、スサノオと同一視されたうえで富貴な兄の巨旦将来と貧しい弟蘇民将来の説話を記している。それに対し、『先代旧事本紀』ではオオナムチノミコト(大国主)の荒魂が牛頭天王であると解説する。また、平安時代末期に成立した『伊呂波字類抄』(色葉字類抄)では、牛頭天王は天竺の北にある「九相国」の王であるとしている。
スサノオとの習合・朝鮮半島との関係
新羅に牛頭山という山があり、熱病に効果のある栴檀を産したところから、この山の名を冠した神と同一視する説がある。
また『日本書紀』巻第一神代上第八段一書に、スサノオ(素戔嗚尊)が新羅の曽尸茂利/曽尸茂梨(ソシモリ)という地に高天原から追放されて降臨し、「ここにはいたくはない。」と言い残し、すぐに出雲の国に渡ったとの記述があるが、この伝承に対して、「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう朝鮮語で、牛頭または牛首を意味し、朝鮮半島の各地に牛頭山という名の山や牛頭の名の付いた島がある由と関連するという説もある。ただし現代のハングル表記による朝鮮語と古代の新羅語では発音が異なっていたとして、この説に対する異論もある。
また、ソシモリのソは蘇民のソで、蘇民は「ソの民」であるとして、蘇民将来説話と『日本書紀』のスサノオのソシモリ降臨と関連づける説もある。
祇園神が鎮祭されたのは、奈良時代以前に遡るとされ、記録の上では詳細不明である。八坂神社が1870年(明治3年)に出版した『八坂社舊記集録』上中下(紀繁継 『八坂社旧記集録』『八坂誌』ともいう)巻頭に承暦3年(1079年)の年代の記された記載を謄写したという「八坂郷鎮座大神之記」には
八坂郷鎮座大神之記
齊明天皇即位二年丙辰八月韓國之調進副使伊利之使主再來之時新羅國牛頭山座須佐之雄尊之神御魂齋祭來而皇國祭始依之愛宕郡賜八坂郷並造之姓十二年後 天地天皇御宇六年丁 社號為威神院宮殿全造營而牛頭山坐之大神乎牛頭天王奉称祭祀畢 淳和天皇御宇天長六年右衞門督紀朝臣百繼尓感神院祀官並八坂造之業賜為受續   奉齋御神名記   神速須佐乃男尊  中央座
とあり、斉明天皇2年(656年)高句麗の使、伊利之使主(イリシオミ)が来朝したとき新羅国の牛頭山の須佐之雄尊を祭ると伝えられる。伊利之は『新撰姓氏録』山城国諸蕃の八坂造に、意利佐の名がみえ、祇園社附近はもと八坂郷と称していた。この伝承にそのまま従うと「日本における神仏習合以前に、朝鮮半島ですでに日本神話のスサノオが信仰されており、その信仰をもちこんだ渡来人が住みついた後になってから牛頭天王と習合した」ということになるが、川村湊や真弓常忠は「朝鮮半島より渡来した人々が住みついて牛頭天王を祀ったが、その後、日本神話のスサノオと習合した」と解釈している。
陰陽道の天刑星との習合
陰陽道では天道神とされ、天刑星、吉祥天の王舎城大王、商貴帝と同一視された。また、蘇民将来説話の伝播にあたっては陰陽師の活動も大きかったと考えられる。
その他
これらのほか、牛頭天王は薬宝賢明王と称し、本地を薬師如来とする説も有力であり、もっとも一般的には、多くの場合、天竺の祇園精舎の守護神であると説明される。また同じ牛頭の武神であり、秦氏が日本に伝えたとする道教の兵主神=蚩尤と関連するとの説もある。
歴史
牛頭天王は、古代にさかのぼる蘇民将来の説話が陰陽師などによって伝承されるうちに、日本古来の霊信仰とむすびついて行疫神とみられるようになり、その霊力がきわめて強力であるがゆえに、逆にこれを丁重に祀れば、かえって災厄をまぬがれることができると解されて除疫神としての神格をもつようになったものである。荒魂が和魂へと転換されたわけであるが、日本神話では天上を追放された「荒ぶる神」スサノオとの習合がこの過程においてなされたものと考えられる。
『備後国風土記』の蘇民将来説話
『釈日本紀』に引用された『備後国風土記』逸文に「武塔天神」と「蘇民将来」兄弟の話が出てくる。『備後国風土記』は奈良時代初期に編纂された備後国(広島県東部)の地理書であるが、現在は鎌倉時代の逸文として引用のかたちで伝存したものである。ここでは、牛頭天王は「武塔天神」と同一視され、親切に迎え入れた兄の「蘇民将来」に対して疫病を免れしめ、その一宿一飯の恩に報いるために蘇民とその娘に除難の法を教えたと記している。本文に「批則祇園社本縁也」と記述された説話がそれであり、これは文献にあらわれた「蘇民将来」説話の最古の例である。
平安時代
平安時代の絵画『辟邪絵』(奈良国立博物館蔵)には、疫神や牛頭天王をつかんで食べる天刑星(疫神を食べる道教の神『封神演義』では桂天禄が封神された)の絵と詞が描写されている。この時代には、都市部でさかんに信仰されるようになり、祇園社の御霊会(祇園祭)において祀られるようになったといわれる。祇園御霊会がさかんになったのは10世紀ころからで、夏に流行しがちな疫病を鎮める効果が求められた。京都では感神院祇園社に祀られ除疫神として尊崇され、祇園社のある地は「祇園」と称されるようになった。なお、当時辞書として編まれた『伊呂波字類抄』(上述)の「祇園」の項では、牛頭天王は天竺北方の「九相国」の出身で、またの名を武答天神といい沙竭羅竜女を后とし八王子ら84,654神が生まれたとしている。
八坂神社由来
鎌倉時代末に成立した『社家条々記録』には「別記云 貞観十八年 南都円如先建立堂宇 奉安置薬師千手等像 則今年夏六月十四日 天神東山之麓祇園林ニ令垂跡御座」とあり、また、『群書類従』神祇部所収の「二十二社註式」には「牛頭天皇 初垂迹於播磨明石浦 移広峰 其後移北白河東光寺 其後人皇五十七代陽成院元慶年中移感神院 託宣曰 我天竺祇園精舎守護神云々 故号祇園社」とある。これらによれば、牛頭天王は、天竺では祇園精舎の守護神であったが、日本では、最初は播磨国明石浦(兵庫県明石市)に垂迹、ついで広峰(兵庫県姫路市)に移り、その後、京都東山の北白川東光寺へ、陽成天皇の貞観18年(876年)に東山山麓に垂迹したため堂宇を建立、あるいは元慶年間(877年-885年)東山の感神院に移ったとされるのが祇園社(現在の八坂神社)である。
中世
牛頭天王は疫病の神であるところから「蘇民将来」説話と混淆し、牛頭天王は武塔神と同一視されたり父子関係とされたりして、スサノオとも習合した。『神道集』巻第3 祇園大明神事では「抑祇園大明神者、世人天王宮ト申、即牛頭天王是也、牛頭天王ハ武答天神王等ノ部類ノ神也、天形星トモ武答天神トモ、牛頭天王トモ崇ル」と牛頭天王は天刑星、武答天神、天道神とされた。
その結果、以下さまざまな説話のバリエーションが派生した。
赤地の紙に金色の文字で「蘇民将来子孫之門」と書かれた札の由来となった次の説話がある(赤い紙に金色の文字は陰陽道で「疫病神が嫌う色」とされているからとされる)。
“ 昔、牛頭天王が老人に身をやつしてお忍びで旅に出た時、とある村に宿を求めた。このとき弟の巨丹将来は裕福なのに冷淡にあしらい、兄の蘇民将来は貧しいのにやさしく迎え入れてもてなした。そこで牛頭天王は正体を明かし、「近々この村に死の病が流行るがお前の一族は助ける」とのたまった。果たせるかな死の病が流行ったとき、巨丹の一族は全部死んでしまったのに、蘇民の一族は助かったという。 ”
『三國相傳陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集』(略称『金烏玉兎集』、『簠簋内伝』とも)第1巻牛頭天王縁起に詳細な説話が記され、『祇園牛頭天王御縁起』(上述)では牛頭天王は武答天皇の太子として登場し、牛頭天皇とも表記され、八大竜王の一、沙竭羅竜王の娘の頗梨采女を妃として八王子を生んだという。その姿かたちは頭に牛の角を持ち、夜叉のようであるが、こころは人間に似ていると考えられた。
日本仏教では、薬師如来の垂迹とされた。牛頭天王に対する神仏習合の信仰を祇園信仰といい、中世までには日本全国に広まり、悪疫退散・水難鎮護の神として「祇園祭」「天王祭」「津島祭」などと称する祭礼が各地で盛んに催されるようになった。
近世・近代
祇園社、天王社で祀られていた。単に天王といえば、牛頭天王をさすことが多い。牛頭天皇と呼ばれることもあり、奈良県や滋賀県域に所在する天皇神社はスメラミコトとしての天皇ではなく牛頭天王が祭神である。天王洲アイルの「天王洲」など、各地にある「天王」のつく地名の多くは牛頭天王に因むものである。
江戸時代の国学者平田篤胤は著書『牛頭天王暦神弁』で天野信景の牛頭天王辨は偽経であると記述した。
天野信景の牛頭天王辨といふ物尓
牛頭天王出佛説秘密心点如意藏王陀羅尼經
凡天王有十種反身曰武塔天神曰牛頭天王曰
摩羅天王曰蛇毒氣神曰摩那天王曰
曰梵王曰玉女(中略)
天刑星秘密儀軌 有牛頭天王縛撃癘鬼禳除疫難之事 と云り
然れど此は共に一切經藏に載せざれば偽經なる
織田信長(織田家の紋は祇園神社の神紋と同じ木瓜紋 津嶋神社と関わる)が神社破壊をした際に自衛のため牛頭天王が盛んになったとの説を『豊島郡誌』(今西玄章 1736年(元文元年))、『摂津名所図会』(1798年(寛政10年))が記述した。
神仏分離・廃仏毀釈
明治維新の神仏分離によって、権現類と並んで通達で名指しされた。天台宗の感神院祇園社は廃寺に追い込まれ、八坂神社に強制的に改組された。また、織田信長が神社破壊をした際に自衛のために、織田信長が信仰した牛頭天王を祭神に変えた社が多かったとし、実は古来からの祭神ではなかったと故意に主張され、全国の牛頭天王を祀る祇園社、天王社は、スサノオを祭神とする神社として強制的に再編された。 
 
「牛頭天王縁起」に関する基礎的研究

 

はじめに
「神仏習合」「本地垂迹説」の研究を切り拓いた辻善之助の記念碑的論考、「本地垂迹の起源について」が『史学雑誌』誌上に発表され、一世紀近くが経とうとしている。当然この間、辻論考をいかに批判し、修正し、乗り越えるかが常に課題となってきた。その結果というべきか、今日の研究動向を見るに、「神仏習合」、「本地垂迹」の捉え方は辻が見たそれと大きく異なるものになっている。
「神」「仏」という存在の流動性、「神」「仏」の二項対立的な見方への批判、日本固有の宗教的特徴とは言い切れなくなった「神仏習合」―近年の「神仏習合」に関するこれらの論点からも、この研究が一つの転換期を迎えていることが分かる。そしてそれは、「神仏習合」「本地垂迹」という枠組みをも根本から見直すことにも繋がっている。
ところで、「神」「仏」に区分できない「カミ」の中には、牛頭天王も含まれる。近世中期の国学者、天野信景が指摘するように、牛頭天王の名称は『華厳経』始め、幾つかの経典類に見られる「牛頭栴檀」からの由来であろう。また、室町期成立と思われる『祇園社略記』では、祇園社祭神について仏家は牛頭天王、神家は素盞烏尊、暦家は天道神と称していたことが分かる。そのため、牛頭天王は仏菩薩に近い存在として、慶應四年(後に明治元年に改元・一八六八)三月の神祇官事務局通達、いわゆる「神仏分離令」にて、「中古以来」、「仏語ヲ以神号ニ相称候」ことを理由に名指しで排斥の対象とされたのである。
一方、『渓嵐拾葉集』では陰陽道の鬼神として牛頭天王が仏、如来と対比されていることや、陰陽道の神(暦神)である天道神が、『三国相伝簠簋内傳金烏玉兎集』(以下、『簠簋内傳』)で牛頭天王と同体視されていることなど、牛頭天王が単純に「仏」の類であったとも言い切れない。
ここに「神」でも「仏」でもない「カミ」の象徴的存在としての牛頭天王が浮かび上がってくる。もちろん、牛頭天王信仰の解明は、「神仏習合」研究において重要である。しかし一方で、従来の「神仏習合」という枠組みを脱却しなければ、その解明は難しい。
例えば信仰、祭儀の「場」をいかに捉えるかという課題がある。信仰を伝える各主体(宗教実践者)による祭儀の「場」の違い、さらには時間軸や地域性など物理的な違いを無視し、牛頭天王という「カミ」を一つの像に規定することには無理が生じる。牛頭天王は、それぞれの「場」において、それぞれ固有の姿を現していたのではないか。
ここで大きな鍵を握るのが、各地に残されている「牛頭天王縁起」である。北条勝貴は「縁起」に見られる「聖地」(場)との関連性について、「お互いがお互いを規定しつつ、常に新しい存在へと生まれ変わらせてゆく」ような「相関関係」が見られると説く。果たして「牛頭天王縁起」はどのような「場」で用いられ、またどのような「場」を物語るのか。
それら一つ一つの縁起を地道に読み解くことこそ、それぞれの「場」における信仰の在り方を解明することへと繋がるであろう。
ただし、本論はそのような個別具体的な縁起の読解、検討を目的とはしない。むしろ、これまでの先行研究を踏まえ、整理した上で、先行研究では余り重視されてこなかった、各縁起の読解に入る「前段階」の作業、考察に重きを置きたい。そうした基礎的とも思われる作業、考察を経なければ、各「牛頭天王縁起」本文の異同や「場」によって生じる信仰の差異への言及に終始することになりかねない。差異を前提とした上で、それぞれの縁起世界がどのように独自の「場」を創り出し、他方でそれぞれの縁起や「場」がどのように関係し、影響を及ぼしていくのかを検討することがまず求められる。
本論では、牛頭天王信仰、とりわけ「牛頭天王縁起」に関する先行研究を踏まえ、整理した上で、先行研究では殆どなされてこなかった「牛頭天王縁起」の定義に関して検討を加え、さらにその定義を踏まえた上で「牛頭天王縁起」を大まかにではあれ分類する。そして、これらの作業を経てどのような「場」で「牛頭天王縁起」が受容されたのか、大掴みであれ掴むことを目的としたい。 
一、先行研究の整理と課題
本節では、牛頭天王信仰、とりわけ「牛頭天王縁起」に関する先行研究を整理し、また現段階での課題を捉えたい。先行研究では、中世以降の牛頭天王信仰がいかに広がり、またその背景には何があったかを総論的に述べる機会はほぼなかった。もちろん、「広がり」といっても、牛頭天王を祭神とする祇園社や津島天王社などでの信仰、祭儀の「場」と、法師陰陽師や修験者、或いは「太夫」や「博士」といった民間の宗教者実践者を中心にしたの「場」とが同質であったとは考えにくい。そこには、牛頭天王信仰という一言では括りきれないバリエーションがあったといえよう。そのような中で、近世期では天野信景や平田篤胤、小林百枝、松浦道輔といった国学者たちが、牛頭天王という存在について検討してきた。そこで彼らが導き出した牛頭天王像こそ、仏菩薩に近い存在であり、あるいは暦神であった。不幸にも明治維新期において、そのような牛頭天王は排斥の対象となり、必然的に牛頭天王信仰について本格的に論じた研究も見られなくなるのである。
このような研究動向が変わるのは、アジア太平洋戦後終了後になる。中でも、三崎良周はいち早く牛頭天王に関する本格的な論考を発表した一人であろう。三崎は、『阿娑縛抄』、『覚禅抄』といった台密、真密の事相書などから牛頭天王に関する記述を拾い、整理した。その結果、中世期におけるそれら密教と陰陽道、宿曜道との密接な関係によって、牛頭天王の複雑な習合関係が生じたとの結論に至った。この三崎の研究は、牛頭天王の複雑な習合関係を仏典等から整理したという点で先駆的業績といえよう。ただし、仏典によって異なる習合関係を、牛頭天王という「共通項」を用いてイコールで結ぶかのような姿勢も同時に見られる。
また、牛頭天王の習合関係を述べたものとしては、吉井良隆による論考がある。吉井は、『釈日本紀』所収の『備後国風土記』逸文(「疫隅国社縁起」)のに登場する武塔神には、その信仰を物語る説話があったと推察し、また武塔神は牛頭天王とは別系統の異国神、疫神であり牛頭天王より早く日本で信仰されていた、との説を立てた。さらに、スサノヲと武塔神とが結びついた理由については、『日本書紀』巻第一第七段一書に見られるスサノヲ追放譚におけるスサノヲ像と武塔神とが重なる部分があったからではないか、と述べている。スサノヲと武塔神との重なりという点では、論拠に欠けているが、牛頭天王と武塔神とが別系統の神であり、それぞれ別に信仰があったのではないか、とする見解は重要である。この『備後国風土記』逸文は、後述するように牛頭天王が登場しないため、「牛頭天王縁起」として位置付けることは難しい。ただし、この縁起を用いて卜部兼文が講義を行なったことで、祇園社祭神とスサノヲとが結び付けられる素地が形成されたことは間違いない。斎藤英喜は、卜部兼文・兼方がスサノヲと祇園社祭神とを結びつけた後も、吉田兼倶が登場するまで祇園社祭神の呼称は流動的であった、と指摘している。兼倶は牛頭天王とも武塔天神とも呼ばれていた祇園社祭神を「皆素戔烏ソ」としてスサノヲであると捉え、一方、祇園社社僧はあくまで牛頭天王を祭神と見なしていたという。この斎藤の指摘は、後述する「牛頭天王縁起」を「中世神話」として捉えることで明確になるものであり、示唆深い。
次に本論で中心的に取り上げる「牛頭天王縁起」に関する先行研究について検討したい。
まず「牛頭天王縁起」研究では、西田長男の論考は見過ごせない。西田は、いわゆる「祇園牛頭天王縁起」のみならず、牛頭天王が登場する祭文類や『簠簋内傳』、さらには日本で成立したと思われる牛頭天王に関する偽経なども用いて、その信仰の広がりを論じた。各縁起の中から、それぞれの信仰の「場」が立ち現われることを示しており、「牛頭天王縁起」研究の嚆矢となった論考といって良い。
また西田をさらに補った論考が、松本隆信による論考であろう。松本は、西田が紹介しなかった『須佐神社縁起』なども含め、その縁起に見られる縁起説話の展開を論じた。また、偽経類が牛頭天王縁起の成立に深く関与しているとの指摘は、先の三崎の論考に通じるところもあり、今後さらなる検討が必要となる。ただし、松本が捉える「牛頭天王縁起」は、「話の大筋もほとんど変っていない」ものである。「話の大筋」とは恐らく、蘇民将来譚を指すのだろうが、果たして蘇民将来譚にそった縁起だけが「牛頭天王縁起」といえるかは、疑問である。さらにいえば、西田や松本含め「牛頭天王縁起」を用いた諸論考の中で、「牛頭天王縁起」とはどのようなものか、その定義を論じるものがないという大きな問題がそこから見えてくる。それ故に一つ一つの縁起に迫る個別具体的な視点と、各地に残る「牛頭天王縁起」を俯瞰的に眺め、それらの縁起の相互の影響を模索する俯瞰的視点とがクロスせず、総合的に論じられてこなかった。この点はまた次節に譲りたい。
他にも岩佐貴三や村上學、今堀太逸、八田達男、金賛會、宮家準などがある。岩佐や宮家による陰陽道、修験道祭文と牛頭天王信仰との繋がりを論じる視点や、或いは村上のように具体的に『神道集』の「祇園大明神事」という個別具体的「牛頭天王縁起」の検討、或いは金のように韓国の疫神説話と「牛頭天王縁起」とに共通点を見出す研究など、その方向は多岐にわたっている。一方でマクロとミクロの視点とを重ね、牛頭天王信仰を総合的に論じるまでには至っていない。
さらに先の松本や今堀の論考では、各地の「牛頭天王縁起」を紹介しつつ、最終的に考察の帰着点として祇園社祭神としての牛頭天王の信仰でまとめようとする、いわば牛頭天王を祇園社祭神へと収斂させていく傾向が顕著に見られる。これは祇園社の創祀や、さらに祇園社そのものの機能とも関連して語られるが現状においては、祇園社創祀やその機能を巡っては定説化するに足る史料もなく、断定することは難しい。そのため、祇園社の創祀と祇園社祭神とを結びつけて語ることは困難であると認めざるを得ない。祇園社の祭神としての牛頭天王にばかりフォーカスを当てるのではなく、別の側面からの検討を行なうべきといえよう。
確かに中世末期から近世期に至るまで、牛頭天王は祇園社祭神―或いは津島天王社や広峯社祭神―として語られることが圧倒的に多い。しかし、中世初期から中期にかけて、果たして牛頭天王が祇園社祭神として語られるばかりであったかは、検討せねばなるまい。例えば、『簠簋内傳』の内容が、祇園社祭神としての牛頭天王を浮かび上がらせるかといえば、やはり違う。祇園社祭神に留まらない牛頭天王像もまた見出さねばならない。
そこで着目されるのが、「牛頭天王縁起」を「中世神話」として見るという方法論である。先にあげた斎藤や山本ひろ子の研究は、そうした各「牛頭天王縁起」を「中世神話」として読み解くことで、縁起によって異なる世界を神話の「変貌」として捉え、また牛頭天王の「変貌」として捉えている。信仰、祭儀の「場」によって異なる牛頭天王とは、「神話」たる「牛頭天王縁起」が宗教実践者により読み替えられ、または新たに解釈された結果である。この視点に立てば、縁起の中で「場」そのものもまた、本質的な「変貌」を遂げることもあり得るのである。
以上、簡単ではあるが先行研究について触れてきた。なお、この他にも志賀剛や松前健、福田晃、真下美弥子らの研究にも言及すべきではあるが、これもまた稿を改め論じたい。 
二、「牛頭天王縁起」の定義
さて、縁起そのものにそれぞれの「場」の背景が記されているならば、当然、一つ一つの縁起にもそれぞれの世界観がある。従って、一言で「牛頭天王縁起」といっても、その様態は様々といえよう。ただ、前述の通り、何をもって「牛頭天王縁起」といえるのか、先行研究ではほぼ触れられていない。そこで本節では、「牛頭天王縁起」の定義を明らかにしたい。
さて、「縁起」の定義づけについては、まず桜井徳太郎の論考が挙げられる。桜井は、その定義に「寺社縁起」を用い、「仏教の根本義」に則り、「神社仏閣の草創・沿革、またはその霊験などを言い伝えた文書や詞章」の総称を「広義の寺社縁起」と、そして「草創や沿革とその霊験を強調するために「縁起」と称するタイトルをつけた、特定の文章」を「狭義の寺社縁起」と位置づけた。
この桜井の定義を「牛頭天王縁起」に当てはめると、どうなるか。例えば、先にあげた西田や松本らの論考では、いわゆる「祇園牛頭天王縁起」諸本と同様に、『簠簋内傳』や「牛頭天王祭文」類も「牛頭天王縁起」として位置づけている。しかし、これらは、特定の寺社の創始や霊験を示すものではなく、桜井の定義でいえば「広義の寺社縁起」の範疇にも入らない。必然的に、縁起の定義そのものから外れることになる。
一方、近年「縁起学」を提唱している橋本章彦は、桜井による「縁起」の定義とは異なる見解を示した。橋本は、「縁起」をいわゆる寺社縁起に限らず「「由来」に関わる言説のすべて」を広く「縁起」と見るべきと主張し、「モノとコトの関係性によって宗教的価値を創出する言説」には「縁起性」が見られる、即ち「縁起」研究の対象であると定義づけたのである。
『簠簋内傳』や「牛頭天王祭文」類は、もちろん牛頭天王を祀る宗教儀礼において用いられた。『簠簋内傳』であれば暦神である天道神と牛頭天王とは同体であり、かつ天道神(牛頭天王)が司る方角は「萬事大吉」と説いている。このような論理は、官人陰陽師による論理世界ではあり得ず、従って、民間の陰陽師(法師陰陽師)たちによって成立し、彼らによって用いられたものであることは、既に指摘されている。このように宗教者実践者の姿が明らかになれば、自ずとその「縁起」が用いられた信仰の「場」、宗教的空間が浮かび上がってくる。『簠簋内傳』のような非寺社縁起であっても、北条が説く聖地(場)との相互連動が見られるのである。
本論では、「牛頭天王縁起」の定義を寺社縁起に限定せず、その内容から牛頭天王の由来を語り、「場」を想起させる(絵巻含む)テクスト全般としたい。しかし、牛頭天王をどの程度、信仰対象として規定しているかは、「縁起」によって「濃淡」があることも念頭に置かねばならないのである。
例えば、いわゆる「祇園牛頭天王縁起」と『簠簋内傳』とでは、前者が祇園社祭神の牛頭天王の由来譚とその利益のみを描くのに対し、後者は牛頭天王のみならず盤古王や土公神など様々な暦神の由来や利益を説くものである。そこには、「縁起」の本質的な違いがあり、それは「場」が違うことにより起因する根本的差異であることをまず認めねばなるまい。
ところで、『備後国風土記』逸文については、先行研究の多くは「牛頭天王縁起」と見なしているが、先述の通り厳密には「牛頭天王縁起」と位置づけることは難しい。ただし、この縁起がいわゆる蘇民将来譚の文献上確認できる初出であり、この縁起を元に後世、「祇園牛頭天王縁起」などが創りだされたことは明白である。そのため、牛頭天王信仰を検討する上で考察が欠かせない縁起の一つには違いない。そのため、次節の「牛頭天王縁起」の分類においては、この縁起を「「牛頭天王縁起」に関連する縁起類」として、一線を画す形で掲載した。 
三、「牛頭天王縁起」の分類
さて、前節までの内容を踏まえ、以下に「牛頭天王縁起」を分類した。もちろん、この分類では、先述した「濃淡」を判断することは難しい。そのため、横並びで比較をするための材料ではなく、あくまでも、一つ一つの縁起を検討する上で必要な基礎作業であることを明記したい。なお、近世期に入ると各地に祇園社や天王社が勧請されており、その神社の略縁起などを含めればその数は膨大になり、ともすると煩雑になりかねない。そこで本論では、特徴的と見なせるものを除き、近世以降の略縁起類については対象から除外している。 
   「牛頭天王縁起」一覧
T 寺社縁起
【一】「祇園牛頭天王縁起」
(一)   「祇園牛頭天王縁起」諸本
@ 真名本
 1  『祇園社記』巻三所収「祇園牛頭天王縁起」 
 2 内閣文庫蔵林家旧蔵 江戸初期写本『祇園牛頭天王御縁起』
 3 内閣文庫蔵和学講談所旧蔵 江戸中期写本『祇園牛頭天王縁起』
 4 宮内庁書陵部蔵 続群書類従原本『祇園牛頭天王縁起』 
 5 刊本『続群書類従』所収 「祇園牛頭天王縁起」 
A 真名本(異種縁起を含む)
 1 天理大学図書館吉田文庫蔵 長享二年写本『牛頭天王縁起』
   (※最初に「牛頭天王縁起」本文を載せ、続いて「禅観和尚」なる人物の牛頭天王に関する「勘文」が引かれ、更に祇園社と浄土宗との関係性を述べる説話が続いている)
 2 神宮文庫蔵 天明四年写本『牛頭天王縁起』
   (※最初の「牛頭天王縁起」に続き「八王子祭文」が載せられている)
B 仮名本
 1 西田長男氏蔵 室町写巻子本 『牛頭天王縁起』
 2 『祇園社記』巻四所収 慶長三年写本「感神院祇園牛頭天王御縁起」
C 仮名本(片仮名本)
 1 東北大学附属図書館狩野文庫蔵 文明十四年写本『牛頭天王縁起』 
(二)   『神道集』所収 「祇園大明神事」
(三)   寛文・延宝年間頃刊本『祇園御本地』巻四所収 「祇園社縁起」
【二】非「祇園牛頭天王縁起」(祇園社祭神に関する「牛頭天王縁起」)
(四)   十巻本『伊呂波字類抄』所収 「祇園」
(五)   『二十一社註式』所載 祇園社縁起
【三】非「祇園牛頭天王縁起」(祇園社以外の祭神に関する「牛頭天王縁起」)
(六)   『峯相記』所収 「廣峯山縁起」
(七)   『神道集』所収 「赤山大明神事」
(八)   広島県三次市須佐神社蔵 『須佐神社縁起』
(九)   『神道雑々集』下巻所収 「牛頭天王日域応現時節事」
(一〇) 愛知県津島市興善寺蔵 天文九年写『牛頭天王講式』
(一一) 愛知県津島市津島神社蔵 室町末〜近世初期写か 『牛頭天王縁起並年紀』
(一二) 愛知県津島市津島神社蔵 室町末〜近世初期写か 『津島牛頭天王祭文』
(一三) 滋賀県田中神社蔵 『若林天王社牛頭天王縁起』
【四】非牛頭天王祭神縁起
(一四) 「感應寺縁起」
@ 非流布本系
 1 『阿娑縛抄』諸寺略記所収 「感應寺縁起」
A 流布本系
 1 『元亨釈書』寺像志所収 「感應寺縁起」
 2 金沢文庫蔵 『観音利益集』所収「河崎観音」
 3 『􄆶嚢鈔』七觀音事所収 「感應寺縁起」
 4 『塵添􄆶嚢鈔』七觀音事所収 「感應寺縁起」
 5 国会図書館蔵 明暦四年写本『観音縁起』
(一五) 兵庫県神戸市近江寺蔵 『播州近江山近江寺縁起』
U 牛頭天王に関する祭文
【一】陰陽道・修験道系祭文
(一六) 信濃国分寺蔵 文明十二年写本『牛頭天王祭文』
(一七) 醍醐寺三宝院蔵 文明十七年写本『牛頭天王祭文』
(一八) 宮地直一蔵 天文十九年書写巻子本『灌頂祭文』
(一九) 尾張三河花祭祭文 寛永十年書写『牛頭天王島渡り』
【二】神道系祭文
(二〇) 神宮文庫蔵 宝暦八年書写『牛頭天王之祭文』
    (※神宮文庫蔵 天明四年写本『牛頭天王縁起』所載「八王子祭文」)
【三】その他祭文
(二一) 高知県香美市物部町 「いざなぎ流祭文」
 1 小松キクジ太夫蔵 『天行正祭文』
 2 中尾計左清太夫蔵 『天下小察(祭)ノ文』
(二二) 広島県旧佐伯郡山田家蔵 室町末期書写か「天刑星祭文」
V その他(非寺社縁起・非祭文)
(二三) 『三国相伝簠簋内傳金烏玉兔集』
  @ 流布本系
  A 非流布本系
  B 『簠簋内傳』注釈書
(二四) 名古屋市立博物館蔵 『牛頭天王之本地』
(二五) 京都市妙法院蔵 観応元年写『神像絵巻』
(二六) 天文本『伊勢神楽歌』所収 「天わうの哥」
(二七) 陸奥遠野早池峰神社大出神楽 「式外八番 牛頭天皇」
(二八) 『備後東城荒神神楽能本集』 「祇園の能」
(二九) 謡曲 『祇園』
(三〇) 近世期成立 「河原由来書」
(三一) 近世期成立 「河原細工由緒記」
 「牛頭天王縁起」に関連する縁起類
(三二) 『釈日本紀』所収 「備後国風土記」逸文「疫隅国社縁起」
(三三) 奈良国立博物館蔵 増田家乙本『地獄草子』「辟邪絵 天刑星」
(三四) 高知県香美市物部町「いざなぎ流祭文」
 1 中尾計左清太夫蔵『山の神の察(祭)文』
 2 竹添喜譜太夫蔵『山王神代神官祭文』 
以下、分類についてごく簡単に説明したい。
まず、先述の通り、0が非「牛頭天王縁起」、即ち牛頭天王信仰と密接にかかわる縁起類を指す。先にあげた(三二)『備後国風土記』逸文の他に、(三三)「辟邪絵」の「天刑星」並びに(三四)「いざなぎ流祭文」二本を加えた。この(三三)は、天刑星が疫鬼であり悪鬼である牛頭天王を喰らい、退治する様が描かれており、牛頭天王と天刑星とが習合する前の姿であること、かつ疫鬼、悪鬼の類として牛頭天王が描かれていることなど、牛頭天王信仰を検討する上で重要な史料といえよう。
さて、「牛頭天王縁起」を見ていくが、Tの寺社縁起は、さらに【一】〜【四】と分けた。【二】・【三】の非「祇園牛頭天王縁起」とは、「祇園牛頭天王縁起」に共通して見られる縁起の話型、即ち蘇民将来譚を含まない「縁起」を指す。【二】(四)の十巻本『伊呂波字類抄』は、鎌倉初期頃成立と推定されており、当然そこに収められる縁起はそれ以前の成立であろう。従って、「牛頭天王縁起」の中では最古の成立と考えられる。この(四)に蘇民将来譚が含まれてない点に着目したい。ここでは、武塔神と牛頭天王との習合が見られる他、また牛頭天王の出自が天竺北方であり、父は東王父、母は西王母であるとするなど、完全な異国神として描かれているのである。この縁起がどのように創られたものかは定かではないが、(四)に収録する前から存在していたことは確かであろう。次に【三】だが、それぞれ(六)は広峯社、(八)は小童の祇園社(現須佐神社)、(九)〜(一二)までは津島天王社、(一三)は若林天王社(現田中神社)の祭神としての牛頭天王の由来が示されたものである。また、(七)「赤山大明神事」は、赤山大明神と牛頭天王との習合を示しており、ここでしか見られない記述である。これら【一】〜【三】は牛頭天王が特定社寺の祭神として祀られた縁起であったのに対し、【四】(一四)の感應寺縁起、(一五)の近江寺縁起は共に、地主神かつ、寺院の伽藍神としての牛頭天王が登場する縁起となっている。そして双方とも、寺院の本尊には観音菩薩が置かれており、(一四)ではその観音の利益を牛頭天王が内包している形となっている。なお、(一四)は非流布本、流布本とさらに二系統に分けているが、詳しくはまた稿を改め記したい。
次にUであるが、寺社縁起とは異なり、修験者や法師陰陽師らによって使用されたことを考えると、恐らくはここに掲載したもの以外にもまだ多くの縁起が存在していると考えられる。中でも【三】は、修験者や法師陰陽師以外の民間の宗教者実践者による祭文であり、その広がりは全国的なものではなかったかと推察できる。今回あげた(二一)、(二二)は共に「天刑星」と牛頭天王との習合を示すものであるが、(二一)の1などでは、「祇園牛頭天王大明神」と記されている。祇園社の由来を説くものでないにも関わらず、「祇園牛頭天王」と記す点から、祇園社祭神としての牛頭天王が、祇園社の縁起を離れて広がっていったことを示すものと考えられよう。
最後のVは、分類上、「その他」と大変雑駁な括り方になっているが、(二三)『簠簋内傳』や(二五)の神像絵巻、(二六)の神楽歌、(二七)の神楽、(二八)、(二九)の謡曲(能)と様々な形態で牛頭天王の由来が示されている。これらもまた、橋本が説く縁起性を持つもの、即ち「牛頭天王縁起」として検討していく必要があり、いずれ稿を改め論じたい。
以上、雑駁ではあるが従来、論じられてこなかった「牛頭天王縁起」に関する基礎的考察及び作業を述べてきた。基礎的研究と題しただけに、具体的考察に乏しくまた、消化不良な面もあり、課題も山積したままではあるが、本論の果たすべき役割を考えまずはここで擱筆したい。 
 
八面大王

 

安曇野には八面大王に関わる伝承地や伝説が沢山ある。また、八面大王を退治したといわれる坂上田村麻呂が中興したり祈願をした寺や神社の数も多くある。
坂上田村麻呂は桓武天皇が征夷大将軍として派遣した人物である。
さて、八面大王って何者なのだろうか。長いこと気になっていた。心に刻んだ大王伝説をかかえ、大王の真の姿を求めて伝承地を歩いた。
大町市の源汲(げんゆう)には次のようなお話がある。
昔々、鹿島川の上流に鬼が住んでいて、その名を八面大王と言った。大王は、時々子分を引き連れて村人の作った米や野菜を奪いに来るので村人達は毎日びくびくして暮していた。そんな時、田村将軍が通りかかり村人に大王を退治することを約束した。そして、源汲の上手(わで)にある鍛冶屋で剣を作らせていた。すると、
それを知った大王は住み処の石をつかみ取って鍛冶屋めがけて投げつけたそうな。
投げつけた石とは赤茶色の柱状節理の矢沢石で「立石」と呼ばれていたが、別荘の開発が進んだ時に「立石」の姿は無くなっている。
かつて、「立石」が立っていた近くの森に金山神社がある。
前出の場所を教えてくださったのは源汲の槌市さんであったが、槌市さんのご先祖は鍛冶師かしらんと思ったりした。帰り道、里山の風景につかり「村のかじや」の唱歌を口ずさんで歩いた覚えがある。
大町の八面大王伝説は、朝廷にそむいたとがで征伐されたとは言っていないが、田村将軍に退治されたとの伝承から朝廷との確執があったのだろうか。
旧穂高町にも八面大王伝説は沢山ある。魏石鬼八面大王という鬼がいて手下の鬼たちと村々を荒しまわっていたけれど、田村将軍に打ちとられてしまった。
退治された八面大王の体はバラバラにされ、足を埋めたとされるのが「立足」の地名として残り、胴を埋めた二つの「大王神社」(大王わさび田と狐島)耳を埋めた「耳塚」。この「耳塚」は「大塚」の別称のあることから、安曇地方の支配者の古墳説が有力である。
この他に大王が立てこもったと言われる「魏石鬼(ぎしき)の窟」が有明神社の隣の正福寺境内から続く山道を行った所にある。この窟の正体は6、7世紀頃の古墳で、巨大な花崗岩を天井にした横穴式石棺で全国的にも珍しい。この辺りは花崗岩の風化した砂だらけである。
その他、松本市の筑摩神社境内に「首塚」が、大王の頭を埋めたとされる明科の「塔の原」等まだ沢山の大王ゆかりの地がある。
ここ穂高の地に来たら、穂高神社に寄りたくなる。
烏川扇状地の末端に日本アルプスを背景に東向きに建つのが穂高神社である。祭神は穂高見命、瓊々杵尊、綿津見命としている。また延喜式内社で「穂高神社大明神」と記され、安曇氏が奉斎したと言う。
奥宮は上高地明神池畔に座している。大明神を奉斎したのは、海神(わたつみ)系の安曇族で北九州に栄え大陸とも交渉をもち、高い文化を持つ氏族であったと穂高神社略記にある。
境内の摂社の数がこれまた沢山ある。古代韓国語に当てはめると「鉄磨ぎの間」と読める鹿島社、「フイゴの地」と読める八幡社の祭神誉田別命、「砂鉄の野の男」と読める八坂社の素戔鳴尊等製鉄、鍛冶に関わる神々が揃っておられる。
また宝物の中に機織具と鉄製の鍬がある。先人達の生業状態を表している。
本宮と奥宮の例大祭は御船神事である。本宮では勇壮なお船祭で、奥宮は平安朝さながらに優雅に行われる。祭は来し方を残していると思われる。
穂高神社界わいを歩くうち等々力という地名に出っくわした。その刹那、等々力が鉄に関わる地名であろうと感じ、記憶のポケットを開けた。トドロキとは、古代韓国語の「打つ」「叩く」の意の「ドゥドゥリダ」(語幹はドゥドゥ)が日本語になった言葉であろうと直感したので直ぐに地形と小字名を調べた。
等々力は穂高川と万水川(よろずいがわ)の自然堤防上に発達した所で、背後には烏川が流れ、縄文式土器や弥生式土器が出土しており、古くから開発された所である。等々力城跡などは、穂高川とざぼり川の合流点近くにある。まさに城跡は砂鉄の採れる三角地帯にあるのには驚いた。また驚いたことには製鉄に関わるとみられる、半尾・牛喰・桜畑の小字名の他に等々力姓と望月姓までがあった。
三角地帯のど真ん中で製鉄、鍛冶の名残を見つけた。
後日、李寧熙先生の後援会報『まなほ』の編集長に電話し、等々力の地名を話すと、直ぐに、韓国語で「トドロキ」という言葉があり、その意味たるやなんと、「やかましい」だそうである。なぜ「やかましい」か。それはもう、鍛冶場の、ふいごを吹く音やテンテン、ドンドン槌打つ響きの騒音に違いないのである。
テレホンセミナーで小踊りするほどのお話が聞けた。
穂高神社は別称、穂高大明神とおっしゃる。「明神」とは製鉄の神の意だとすでに学んでいる。また、安曇氏の墳墓とされる上原古墳出土の鉄剣は成分分析の結果、砂鉄から鍛造したことが解明されている。
6世紀半頃、製鉄の技術を持った安曇氏により、中房川流域の砂鉄を採って作った、と主張する研究者もいる。穂高での製鉄炉の発見が待たれるところである。
八面大王伝説のある大町でも古代の鉄の史料はふえてきている。
大町市平新郷の積石塚は朝鮮半島からの渡来人の墓と考えられている。その1号墓から鉄器についてのみ言えば、5口の太刀(たち)と50本の鉄鏃(てつぞく)と10本の刀子(とうす)、1個の轡(くつわ)が出土している。鉄器類の成分分析が出来ていないので故地からの伝来であるか当地での作であるかはわからないのである。
大町市常盤の長畑(ながばたけ)遺跡(縄文時代〜中世まで)に製鉄遺跡としては平安時代後期から中世にかけての炉の跡やおびただしい鉄滓(かなくそ)と羽口(はぐち=鞴口・ふいごぐち)等が出ているという。炉に関しては製鉄炉と製錬炉の区別がつけ難いらしく、第一次的な製鉄炉は山の斜面に埋もれているのでは、との考えもある。
『鉄山秘書』に「一に粉鉄、二に木山」というように、この地を流れる高瀬川の砂鉄量は多くはないが、花崗岩には鉱石と違って砂鉄がほぼ遍在しているし質はいいそうである。そして、木山(木炭)も豊かである。
大町ではもう1ヵ所、五十畑(ごしょばたけ)遺跡から小鍛冶の鉄滓とは思われないかなくそと、麻の皮をむくオカキ鉋丁ではないかと思われる鉄器が出ている。
「鉄」に関することを雑ぱくに調べただけだが、安曇地方はやはり名だたる鉄の産地であったと推測する。
八面大王も「大王」の呼称があるところから「首長」と見て、まず間違いはなさそうである。
「八面」とは、まさか、8つの顔を持つ人物? ではないと考える。原意不明時の頼みの綱は古代韓国語で読んでみることである。
「八面」は「エェ・モ」と発音する。意味は「穢集め」で、八面大王=穢の集団の首長の等式が成り立つ。
さぁ「穢」とはなんのことだろうか。
日韓両国の古代の歴史や言語をきちっと認識しておられる李寧熙先生の論文をお借りする。
(注=「穢 」は原稿では“さんずい”です)
上古代の韓国に「穢(えぇ)」と呼ばれた強力な部族国家があり、紀元前8世紀以前から、朝鮮半島北端の豆満江岸茂山の嵌入地帯の砂鉄が豊富に集まる「三日月地帯」に製鉄国を築いていた。後代、今の韓国江原道一帯の砂鉄・鉄鉱石が産出された鉄産地に南下、「東穢」または「穢国」「鉄国」などの名で製鉄を続ける一方、早くから日本列島に進出し勢力を広げていた。
『古事記』や『日本書紀』に表れる「八」または「夜」の字のつく神名、地名、人名、神宝名のほとんどは「穢」に関わりがあると見做される。
つまり、「や」は または 人を指す日本語である。「弥」「八」「夜」「谷」「野」「矢」「耶」「陽」等の漢字で書き表されていた。
ついでに、韓国人の根幹を成してきた古代からの、もう一つの部族をも紹介しておきたい。
日本ではコマ・ゴモ・クマ・クモ等と呼ばれ、金・雲・隈・熊・興毛等と表記されたのは貊人である。主に高句麗及び高句麗人を指称したが、広く朝鮮半島と、そこに住む人々の総称としても使われた。
「八面大王」に戻る。
「八面大王」を「穢の集団の首長」の意としたが古代韓国語は多義語である。「八面」は「集め行く」の意もある。「八面大王」は「集め行く大王」である。
何を集めるのか。それは清らかな水の底っこに沈んでいる花崗岩の砂鉄であろう。
「穢」は別名「鉄国」とまで言われた部族である。その「穢の集団の首長」と「集め行く大王」の意は異なるものの、鉄の場の管理者としての「八面大王」の姿が浮かび上る。「八面大王」の管理する鉄の場を坂上田村麿(朝廷)が奪い取ったことが「八面大王」討伐の真相であろうか。 (注=「穢 」は原稿では“さんずい”です) 
八面大王と穂高の地名 民話
安曇野 穂高には、宮城耳塚、古慨(ふるまや)、立足、大王農場、合戦小屋、常念岳、中房温泉と言う地名がある。名前が付いたのは人武天皇の頃と言い伝之られている。
それじや、この地名にまつわる、おらほの昔話しをしてやるかいな……、人武天皇さまの頃にな、有明山の山麓に「ここは我が住む地なり」俺の城、宮城と名付けて鬼が住んでいたんじゃ。その鬼は八面大王と言って里に下っては穀物を盗み、娘達をさらい、わるさのひどうしでな、村人はそりゃあ困っていたんじゃ。この話しをエゾ征伐に行く坂上田村麿が聞きつけて鬼を退治しに来たんじゃ。ところが八面大王は、雲を呼び、風を起こし、雨を降らし、近づく事もできなんだんじゃ。弓を射っても魔力があるんで一本も八面大王を射ることもできなかったということじゃ。ほとほと坂上田村麿は困って、観音様に手を合せて祈ったんじゃ。そうすると観音様が夢枕に現れて、「三十三節ある山鳥の尾で弓矢を作り満願の夜に射たおしなさい」とお告げがあったんじゃ。坂上田村麿は信濃一国布令を出したが、三十三節ある山鳥の尾はなかなか見つからなかったんじゃよ。
……さて話しはそれをさかのぼる事三年前の事じやがのう、弥助が穂高の暮れ市へ年越の買物に出かけたんじゃ。雪の峠を越えて松林にさしかかった時に大きな山鳥が罠にかかって鳴いておったのじゃ。心のやさしい弥助は山烏を助けて、罠には買物するはずだった五百文をかわりに置いて来たんじゃ。家に帰ると母親のおさくもそれは良い事をした。おこるどころか、ニコニコ笑っておったんじゃ。大晦日の夜に年の頃、17・8才の娘が、道に迷ったといって弥助の家の戸をトントンとたたいたのじゃ。気のいいおさくは、火を燃してぬれた体を暖めてやったんじゃ。ちょうどこの年は、大雪で正月になっても雪が降りやまず、娘はおさくと弥助を手伝って年を越して正月を迎えたんじゃ。娘は美しいばかりでなく、良く働く娘で、おさくも弥助もすっかり気にいって、弥助の嫁にしたんじゃ。土地や財産もなかったけれど三人で助け合って笑いの絶えない、そりゃ幸せな家庭だったという事じゃ。
そして弥助の嫁が来て三年たった時に田村麿が八面大王を退治に来たんじゃ…山鳥のおふれの出た次の日、弥助の嫁が書き置きを残して出ていったんじや。「三年間楽しい日々でした。この山烏の尾を八面大王の鬼退冶に使って下さい。やっとこれで恩返しができます。」と記してあったそうじゃ。
弥助は丹念に矢を作リ、矢を田村麿に差し出したんじゃ。有明に矢村という村があるじゃろう。矢が出た村という事で矢村というんじゃ。田村麿はこの弓矢の勢いを得て八面大王をどんどん山中に追いあげたんじゃ。しかし八面大王は魔力を使うため苦戦のしどうしだったんじゃが泉でのどをうるおし力を得て、大王を沢に追い上げたのじゃ、(中房に行く途中に力水という沢があるが、田村麿がのどをうるおした所と言われている)そして満願の夜に八面大王が月を背に受けて立っている時に弥助の矢を用いると、今まであった魔力が薄れ、大王の胸に弓矢がささり鬼が退治されたという事じゃ。そして戦いのあった沢という事で合戦沢と名付けられたんじゃ。そこにあるのが合戦小屋で山登りの基地として使われてるんじゃ。
そして大王の胸に弓矢がささった時に大王の血が安曇野の空を染め、雨となって降りそそいだのじゃ。それを浴びた民百姓は病に伏し、万病がはびこったという事じゃ。これには田村麿困りはて、お寺を作り観音様を安置して祈ったんじやが、ほれ、それが満願寺じゃよ。そこにこもって祈願すると、七日の満願の夜に有明山の上に観音様が御光をさして現れて「この近くに温泉が湧くであろう、その湯につかって病いを治しなさい。」というお告があったんじや。この温泉が今の中房温泉なんじゃが、民、百姓は、この温泉で湯治し万病もなおったという事じゃ。だから今でも中房温泉につかると何の病いも冶るという事じゃ。
八面大王を伐った坂上田村麿は魔力で八面大王が生き帰ることをおそれて体を切リきざんで埋めたんじゃ。大王の耳を埋めた所が有明の耳塚。足を埋めた所が立足。首を埋めたのが国宝の筑八幡宮、現在の松本筑摩神社。胴体を埋めたのが御法田のわさび畑、別名大王農場とりいわれているんじゃ。そして八面大王の家来に常念坊という坊さんがいて、八面大王が倒された時空高く舞い上り、一つの山に庵(いおり)を結び八面大王をとむらって念仏を上げていたというんじゃ。常に念仏が聞える山、これが安曇の空に高くそびえる常念岳なんじゃよ。…。
八面大王を伐つことができ、病いも治され、里も平和になったし、弥助も長者になれたんじゃがのう、しかし、嫁を夫った弥助は毎日、暮れになると悲しみの顔で、雪空をながめ、嫁のけえってくるのを毎日毎日待ってたという話しじゃ・・・ 
魏石鬼 八面大王
(ぎしき はちめんだいおう) 長野県の安曇野に伝わる伝説上の人物。「八面大王」とは、「魏石鬼(義死鬼)」の別称である。出典となった『信府統記』に読み仮名がないため、正式な読み方は不明である。やめのおおきみ(八女大王)と読んで、福岡の八女との繋がりも考えられている。坂上田村麻呂に討伐されたという『信府統記』の記述に基づく伝説が、広く松本盆地一帯に残っている。『仁科濫觴記(にしならんしょうき)』に見える、田村守宮を大将とする仁科の軍による、「八面鬼士大王」を首領とする盗賊団の征伐を元に産まれた伝説であると考えられる。八面大王については二通りの見方がある。
英雄 / 坂上田村麻呂の北征の際、途上にある信濃の民に食料などの貢を強い、それを見かねた八面大王が立ち上がり、田村麻呂と戦った。
鬼 / 民に迷惑をかけ、鬼と呼ばれていた八面大王を、田村麻呂が北征の途上で征伐した。
『信府統記』による八面大王
松本藩により享保年間に編纂された地誌、『信府統記』(第十七)に記される伝承の概略は次のようなものである。
その昔、中房山という所に魏石鬼という名の鬼賊が居た。八面大王を称し、神社仏閣を破壊し民家を焼き人々を悩ましていた。延暦24年(805年)、討伐を命ぜられた田村将軍は安曇郡矢原庄に下り、泉小太郎ゆかりの川合に軍勢を揃え、翌大同元年(806年)に賊をうち破った。穂高神社の縁起では、光仁天皇のころ義死鬼という東夷が暴威を振るい、のち桓武天皇の命により田村利仁がこれを討ったという。
また、八面大王に関連した地名や遺跡に関する以下のような記述もある。
中房山の北、有明山の麓の宮城には「魏石鬼ヶ窟」がある。
討伐軍が山に分け入る際に馬を繋いだのが今の「駒沢」で、討ち取った夷賊らの耳を埋めたのが「耳塚」、賊に加わっていた野狐が討ち取られた場所が「狐島」であるという。
八面大王の社と称する祠もあるという。一説には、魏石鬼の首を埋めたのが「塚魔」であり、その上に権現を勧請したのが今の筑摩八幡宮(つかまはちまんぐう)とされる。
魏石鬼の剣は戸放権現に納められたというが、この社の所在は不明である。剣の折れ端は栗尾山満願寺にあり、石のような素材で鎬(しのぎ)があり、両刃の剣に見える。
この件に関する『信府統記』の記述はすこぶる表面的であり、上記のように坂上田村麻呂と藤原利仁の混同をはじめとするおとぎ話的な側面を多く含むことは否めない。決定的なことは、坂上田村麻呂は、延暦20年(801年)の遠征以降、征夷の史実はないという点である。加えて、文中のコメントは伝聞調で「云々(うんぬん)」、「とかや」が散見しているため、史実としての信頼性を疑わせる。
『仁科濫觴記』による「八面大王」
一方、『仁科濫觴記』にみられる記述には、1. おとぎ話的要素を含まず、2. 実見したように詳細で、3. 歴史的整合性があり、4. 部分的に典拠も示されている、ことから、史実としての信憑性は高いといえよう。ここでは「八面大王」という個人ではなく、8人の首領を戴く盗賊集団あるいはその首領の自称として「八面鬼士大王」の名で登場する。概略は次のようなものである。
神護景雲(767年 - 770年)末から宝亀年間(770年-780年)にかけて、民家や倉庫から雑穀や財宝を盗む事件がおきた。宝亀8年(777年)秋に調べたところ、有明山の麓に盗賊集団(「鼠(ねずみ)」、「鼠族」)の居場所を発見した。その後、村への入り口に見張りを立てたが、盗賊は隙を窺っているらしく、盗みの被害はいっこうにやまなかった。そのうち盗賊たちは、「中分沢」(中房川)の奥にこもって、8人の首領をもつ集団になった。山から出るときは、顔を色とりどりに塗り「八面鬼士大王」を名乗り、手下とともに強盗を働いた。これを憂いた皇極太子系仁科氏3代目の仁科和泉守は、家臣の等々力玄蕃亮(3代目田村守宮)を都(長岡京)に遣わして、討伐の宣旨を求めさせた。延暦8年(789年)2月上旬、朝廷より討伐命令が下ったため、等々力玄蕃亮の子の4代目田村守宮(生年25歳)を追手の大将とし、総勢200名ほどで偵察を行い、それに基づいて搦手の大将高根出雲と作戦計画を立てた後、まず退治の祈祷を行った。延暦8年2月23日(ユリウス暦3月24日/グレゴリオ暦3月28日)、作戦決行。まず、前々の夜から東の「高かがり山」(大町市鷹狩山)に火をたかせた。田村守宮率いる部隊は、夜半に「八面大王」一派のいる裏山に登り、明朝の決行を待った後、翌24日(3月25日/3月29日)、夜明けとともにほら貝を吹き時の声をあげながら一気に山を下った。搦手も太鼓を打ち鳴らし時の声をあげた。寝起きを襲われた盗賊団は驚いて四散したが、多くの者は逃げ切れなかった。大将の田村は大声で「鬼どもよく聞け。お前たちは盗賊を働き人々の家の倉庫を打ち壊して財宝を盗んだことは都にも知られている。勅命に従って討伐に来た。その罪は重いが、これまで人命は奪ってはいない。速やかに降参すれば、命だけは助けよう。手向かえば、一人残らず殺すが、返事はいかに」といった。すると盗賊団はしばらく顔を見合わせた後、長老が進み出て、太刀を投げ出し、考えてから両手を付いた。そして「貴君の高名はよく承知しております。私の命はともかくも、手下たちの命はお助け下さい」といった。そして、抵抗を受けずに全員が縄にかけられ、城に連行された。合議によって、長老一人を死罪とし、残りは耳をそいでこの地から追放することとなった。すると、村の被害者たちが地頭(この職も平安末期以降であり、当時は無かった)とともに、私刑にしたいので彼らを引き渡して欲しいと嘆願に来た。これを切っ掛けとし、等々力玄蕃亮は考え直し、もう一度合議して、長老の死罪を許し8人の首領を同罪として両耳そぎ、残りの手下は片耳そぎに減刑することに改めた。耳そぎの執行の日、田村守宮は罪状と判決を述べた後立ち去った。そのため、役人が耳をそぎだすと、恨みある村人が我も我もと争って、70人あまりの盗賊の耳そぎが執行された。そがれた耳は、血に染まった土砂とともに塚に埋められて、耳塚(安曇野市穂高有明耳塚)となった。その後、盗賊の手下たちは島立(松本市島立)にて縄を解かれ追放された。一方の残る8人の首領は、恨みを持った村人たちによって道をそれて山の方に連れて行かれた。そして口々に、「これまでは公儀の裁きであった。これからは我らの恨みをはらすぞ。天罰であると思い知れ」といって、掘った大穴に突っ込まれた後、石積みにされて殺された。そのために、この場所を「八鬼山」(松本市梓川上野八景山(やけやま))というようになった。その後追放された盗賊団の手下たちは、もともと安曇の地に産まれた者たちであったので、日が経つにつれて徐々に親兄弟、知人を頼って、秘かに故郷に戻りかくまわれていた。そのことを聞き知った仁科和泉守は、延暦24年(805年)、父の仁科美濃守の100歳の祝いにあわせて彼らを免じ、八鬼山の地と3年分の扶持を与えて、開墾を奨励した。
坂上田村麻呂伝説と『仁科濫觴記』
『仁科濫觴記』の話は、詳細で客観的であることから、史実として認め得るであろう。これを史実として認めるとすると、上記の「八面大王」と呼ばれた盗賊団を捕えた大将とは、田村守宮であった。この田村守宮の「田村」が征夷で著名な坂上田村麻呂の「田村」と混同され、さらに上述した藤原利仁との混同が起る形で、さまざまな伝説として残ることとなった可能性が、仁科宗一郎氏によって詳しく考察されている。 
 
狛犬1

 

獅子や犬に似た日本の獣で、想像上の生物とされる。像として神社や寺院の入口の両脇、あるいは本殿・本堂の正面左右などに一対で向き合う形、または守るべき寺社に背を向け、参拝者と正対する形で置かれる事が多く、またその際には無角の獅子と有角の狛犬とが一対とされる。
飛鳥時代に日本に伝わった当初は獅子で、左右の姿に差異はなかったが、平安時代になってそれぞれ異なる外見を持つ獅子と狛犬の像が対で置かれるようになり、狭義には後者のみを「狛犬」と称すが、現在では両者を併せて狛犬と呼ぶのが一般化している。
起源
古代インドで、仏の両脇に守護獣としてライオンの像を置いたのが狛犬の起源とされる。また、古代エジプトやメソポタミアでの神域を守るライオンの像もその源流とされる。明治神宮では、起源は古代オリエント・インドに遡るライオンを象った像で、古代オリエント諸国では、聖なるもの、神や王位の守護神として、ライオンを用いる流行があり、その好例がスフィンクスであるとしている。
伝来
日本には、中国の唐の時代の獅子が、仏教とともに朝鮮半島を経て伝わったとされている。明治神宮では、伝来の時期は示していないが、日本人が異様な形の生き物を犬と勘違いし、朝鮮から伝来したため、高麗犬と呼ばれるようになったとの説を紹介している。神道学者の梅田義彦は、朝鮮が日本の犬だから日本の神社を守るために配置したものだとしているという意見もあるようであるが、学問的な中立性からは嫌疑がもたれる意見であろう。「こまいぬ」の語義には諸説あり、魔除けに用いたところから「拒魔(こま)犬」と呼ばれるようになったとする説などがある。奈良県法隆寺の五重塔初重の壁面塑造に彫られている像のように、はじめは仏や仏塔入口の両脇に置かれ、獅子または大型の犬のような左右共通の姿であった。
角を持つという狛犬の由来についてはさまざまな説があり、『延喜式』巻第46「左右衛門府式」に「凡そ大儀の日に(左衛門府は)兕(じ)像を会昌門左に居(す)ゑ、事畢(おは)りて本府(左衛門府)へ返収せよ。右府(右衛門府)は(会昌門の)右に居えよ」と記され、この「兕(じ)」は獣医学者の吉村卓三によれば、正体は判然としないが水牛に似た一角獣で鎧の材料になるほどの硬皮を持ち角は酒盃に用いたというが、この「兕」が狛犬であるという説もその一つである。
変遷
平安時代に入ると、『うつほ物語』に記述されているように「大いなる白銀(しろがね)の狛犬四つ」に香炉を取り付け、宮中の御帳(御帳台)の四隅に置いて使われており、『枕草子』や『栄花物語』などにも調度品として「獅子」と「狛犬」の組み合わせが登場し、こちらは御簾(みす)や几帳(きちょう)を押さえるための重し(鎮子)として使われていたことが記されている。
獅子と狛犬の配置については、『禁秘抄』と『類聚雑要抄』に共通して獅子を左、狛犬を右に置くとの記述があり、『類聚雑要抄』ではさらにそれぞれの特徴を「獅子は色黄にして口を開き、胡摩犬(狛犬)は色白く口を開かず、角あり」と描いている。獅子または狛犬は中国や韓国にも同様の物があるが、阿(あ)・吽(うん)の形は日本で多く見られる特徴であり、仁王像と同様、日本における仏教観を反映したものと考えられている。
一般的に、獅子・狛犬は向かって右側の獅子像が「阿形(あぎょう)」で口を開いており、左側の狛犬像が「吽形(うんぎょう)」で口を閉じ、古くは角を持っていた。鎌倉時代後期以降になると様式が簡略化されたものが出現しはじめ、昭和時代以降に作られた物は左右ともに角が無い物が多く、口の開き方以外に外見上の差異がなくなっている。これらは本来「獅子」と呼ぶべきものであるが、今日では両方の像を合わせて「狛犬」と称することが多い。
近世から現代にかけて、各地の寺社に膨大な数が造られており、形態にもさまざまなものがある。獅子・狛犬の有無も神社によりさまざまで、たとえば京都府の京都市内の神社では狛犬がいるところが約半数である。現在、各地の寺社境内で見かける狛犬には石製のものが多く、ほかにも金属製や陶製のものがある。前述のように宮中の御帳台などで調度品として使用されるものは金属製であったと思われるが、一方で神仏の守護の役割を果たす獅子像、狛犬像については屋内に置かれたものは木製が多く、屋外に置かれるようになって石が使用されるようになった。現存する木製の獅子・狛犬例には、奈良県薬師寺の鎮守休ヶ岡八幡宮や、滋賀県の大宝神社、京都府高山寺、広島県厳島神社などのものがある(いずれも重要文化財)。石製の古い例では奈良県東大寺南大門に置かれている一対の像があるが、これらは宋の様式が新たに日本に伝えられ、「唐獅子(からじし)」と呼ばれる種類のもので、阿吽形ではなく、両方が獅子の姿をしている。
神使
獅子・狛犬と同様の役割を果たす神仏の守護獣として猪・龍・狐・狼・虎などもあり、これら動物は神使と呼ばれる。この神使は神社(祀られる神)によって特定の動物が採用されている場合が少なからずある。稲荷神に狐、春日神に鹿、弁財天には蛇、毘沙門天には虎などが代表的な物である。また、土地の伝承などに基づくものもある。例えば、岩手県の常堅寺では河童伝説に基づき狛犬の代わりに河童像が置かれている。京都府京丹後市の金刀比羅神社の境内社木島社には狛犬ならぬ狛猫像が置かれ、阿吽の配置も左右逆となっている。大阪府大阪市天王寺区の大江神社には狛虎があり、阪神タイガースの優勝を祈願する張り紙や木札や阪神ファンからメガホン、虎の小さい置物やぬいぐるみなどが供えられている。 
 
狛犬2

 

狛犬
神社に奉納、設置された空想上の守護獣像です。本来は「獅子・狛犬」といい、向かって右側が口を開いた角なしの「阿像」で獅子、左側が口を閉じた角ありの「吽像」で狛犬です。阿吽の形になっているのは日本特有の形式で、中国の獅子像などは、多くは阿吽になっていません。獅子・狛犬はもともと別の生き物?ですが、現在ではこの形式を残したもののほうが少なく、形としては阿吽共に獅子に近いでしょう。呼び方も単に「狛犬」に定着しています。
狛犬の起源
古くは古代オリエントにまで遡ります。国王が強大な力を得るために、地上最強の動物(と思われていた)獅子(ライオン)の力を王に宿らせるという思想があり、玉座(王の椅子)の肘掛けに獅子頭を刻んだりするようになりました。狛犬博物館(下呂温泉内)の上杉千郷館長は、これを「獅子座の思想」と呼んでいます。ライオンが守護獣として尊重される風習は世界各国でよく見られるものです。ヨーロッパの家紋にはライオンを象ったものが多いですし、インドでは、仏像の台座にライオンを刻み、「獅子座」と呼んでいます。
日本に狛犬が入ってきた
いろいろな説がありますが、現在有力視されているのは大体以下のようなものです。
インド・ガンダーラを経由して、獅子座思想は中国に入ります。中国人は、龍や麒麟など、様々な霊獣を生み出すのが得意で、獅子も羽をつけたり角を生やしたりしてどんどん空想上の生き物に変質しました。いわゆる「唐獅子」と呼ばれる派手な獅子像は、中国文化が生み出した独特のものです。中国でも、皇帝の守護獣として獅子像が定着しましたが、それを見た遣唐使が、日本に帰ってきてから、宮中に獅子座思想を持ち込みました。
しかし、日本に持ち込まれた直後に、一対の獅子像は日本独特の「獅子・狛犬」という形式に変わります。向かって右側が獅子、左側が狛犬。獅子は黄色で口を開け角はなし。狛犬は白色で口を閉じ、角がある……というものです。この「阿吽」形式は、恐らく寺の山門を守る仁王像の阿吽などを取り入れたものと思われます。仁王も狛犬も、神(君主)を守護するという役割は同じだということからでしょう。これが日本独特の「狛犬」の始まりで、時期は平安時代後期と言われています。
つまり、日本の狛犬は、天皇の玉座を守る守護獣像として誕生しました。これを「神殿狛犬」あるいは「陣内狛犬」と呼んでいます。
中国獅子と狛犬
中国の獅子像は一対あってもほとんどは相似形で同じものが並んでいます。それに対して、日本で生まれた「獅子・狛犬」は、獅子という動物と狛犬という動物(どちらも想像上の動物)、2つの異なるものが組み合わさっているという点で中国獅子とはまず違っています。
特に、頭に角のある狛犬は、日本の「発明」ではないかと言われています。これには、「左近の桜 右近の橘」のように、アシンメトリー(左右非対称)配列を好む日本文化特有の気風が関係していたと思われます。獅子を左右に置くのではなく、片方には別のものを配したい、という欲求が日本人の美感覚にはあるのでしょう。そこで、獅子と釣り合う想像上の生き物として「狛犬」が誕生しました。
しかし、時代を経るに従ってだんだんと獅子と狛犬の区別が曖昧になり、呼び方も単に「狛犬」になりました。現代ではむしろ獅子・獅子という構図の「狛犬」が主流ですから、ここにきて、「狛犬と唐獅子は同じじゃないか」という疑問も当然出てくるわけです。
もともと「狛犬」は獅子ではない別の動物として発明されたのですが、時代を経るに従って形の上では獅子のほうが主流となり、呼び方は「狛犬」が定着したわけです。ですから、現在、中国獅子と日本の狛犬は似てしまっていますが、「狛犬という文化」が定着し、独自に発展したという意味においては、「狛犬は日本独自の文化である」としておきたいところです。
狛犬のルーツは朝鮮半島
いいえ。高麗の文字をあてることからそうした説が根強くあるようですが、「高麗」と「こま」犬とは関係がありません。狛犬の「狛」という字については諸説あります。
1)「狛」は本来、中華思想(中国が世界の中心だとする思想)では「周辺の野蛮な地」を指していた。従って、狛犬は「中国の外(野蛮な異国の地)に棲む正体不明の怪しい犬」という意味で、想像上の霊獣。
2)「狛」は今では中国でも使われなくなった言葉だが、本来「神獣」の意味。犬に似ていて頭部に角があり、猛々しい姿をしている。
いずれにしても、中国のものであり、朝鮮とは関係ありません。日本では「こま」という音から「高麗」を連想し、「こま犬」=「高麗犬」=「朝鮮の犬」といった誤解が広まったようです。高麗は中国では「カオリー」と発音するので「こま」とは何の関係もありません。
また「こま」の「犬」ではなく、あくまでも「こまいぬ」という空想の動物なのです。「犬」ではありません。
その意味では、獅子(ライオン)も、昔の日本人は実物を見たことがありませんから、同じように空想上の動物だったのです。
このへんの誤解は広辞苑、大辞林などの辞書にもそのまま掲載されてしまっているようで、早めに訂正を徹底させたほうがいいと思われます。
もうひとつの説は、朝鮮にある「ヘテ(ヘチ)」が狛犬のルーツではないかというものです。ヘテは真贋を見極める能力がある霊獣で、魔除け、守護獣として愛されています。野球の「ヘテ・タイガーズ」の親会社である韓国の財閥グループの名前でもあります。ソウル特別市はヘチをシンボルにしています(右の図)。
しかし、このヘテのルーツは中国の「カイチ」という霊獣ですので、もし、日本の獅子・狛犬のうち、狛犬のほうがヘテを真似たものだったとしても、ヘテのルーツはカイチであり、中国が先ということになります。
沖縄のシーサーは「狛犬」
獅子像をルーツにしたものという意味では同じですが、沖縄のシーサーは阿吽になっていないものが多いようです。意味合いも、村を守る、家を守る、火事を避けるなど、より庶民的な信仰と結びついています。厳密に分類・定義したがるのは人間の習性で仕方がないのですが、狛犬の歴史を考えれば、狛犬という存在は非常に曖昧で自由なものなのですから、決めつけずに、現に存在する狛犬やシーサーをそのまま楽しむという姿勢が、疲れなくてよいと思っています。
狛犬が神社に置かれる
当初、狛犬は宮中のもので、次に天皇家とも縁のある有名な神社へと伝わりました。その後、さらに時代を経て、一般の神社に入ってくるようになります。きっかけは、神社に神像を置くようになったことだとも言われています。日本古来の神道では、必ずしも形のある神を祀るわけではなかったのですが、仏教の影響を受け、仏像に代わるものを欲しがるようになりました。そこで、神像が誕生するのですが、これは生き神としての天皇を模して作られることになりました。
神像が設置されたため、それを守る霊獣として狛犬も置くようになったのでしょう。すでに宮中では天皇の守護獣として獅子・狛犬が定着していましたから。
現在、私たちが慣れ親しんでいる狛犬は、江戸時代に入ってから急速に変化を見せ、多様な形に発展しました。また、呼び方も、単に「狛犬」となりました。
この時期には、そもそも「こまいぬ」を見たことがない石工が造る狛犬が増えたため、素朴な「犬」のような狛犬が全国各地で造られるようになりました。これは宮中の「獅子・狛犬」とは別に、新たに「こまいぬ」という言葉から発生した別起源の狛犬と呼ぶこともできます。そうした素朴な狛犬を狛犬ファンは「はじめタイプ」と呼んでいます。「はじめ」型狛犬は、やがて伝統的な狛犬の姿形・様式と融合していき、江戸を中心に、さらにバラエティに富んだ狛犬分化が開花していきます。現在、私たちが実に様々な形の狛犬を楽しめるのは、江戸時代の庶民パワーのおかげと言えます。
石造りの狛犬
日本最古の石造り狛犬は、東大寺南大門にある狛犬で、建久七年(1196)と言われています。鎌倉時代ですね。ただ、これは中国(宋)から呼んだ石工に宋の石を使って作らせたもので、形も阿吽になっていません。石造りの中国獅子であり、正確には「狛犬」ではありません。
石造りの国産狛犬で最古のものは、京都府宮津市の籠神社の狛犬(鎌倉時代説、安土桃山時代説などあり、年代は特定されていない)、山梨県旧三珠町の熊野神社の狛犬(応永12年2月の銘が腹部に刻まれている。1405年だから、600年以上前)あたりだと思われます。これより確実に古いという証拠がある石造り狛犬の情報がありましたらぜひお知らせください。
石造りの狛犬は、狛犬が神社の参道に置かれるようになった江戸時代以降に主流になりました。狛犬がバラエティに富んだものになっていくのもこれからです。
参道に置くようになると、庶民が奉納するという形になり、ここで狛犬は宮中から一般大衆の世界に降りてきたわけです。
石造りの狛犬に重文がほとんどないというのは、やはり年代が新しいからということがあるでしょう。
狛犬探しをしていて、偶然古い狛犬を見つけるのはわくわくしますが、かといって時代が新しいから大したことがないということはありません。デザインや技術の面では、むしろ大正から昭和初期くらいがいちばん円熟していたと思われます。芸術として狛犬を見たとき、逸品はこの時期のものに多いような気がします。
戦後になると、岡崎型の大量生産狛犬の時代になり、一気につまらなくなっていきます。現代では、新規に奉納される狛犬のほとんどは中国製です。
狛犬の雄雌
狛犬が大衆化してからは、様々な説が生まれました。最も多いのは、向かって右の獅子は雄、左側の狛犬は雌というもの。狛犬の中には、股間にくっきりと男根や女陰を刻んだものもあります。逆に、阿像は弱いから吠えているので雌だ、などという説もありますし、守護獣は戦う獣なのだから両方雄だ、などなど、諸説あります。こうした説は、理屈をつけたがる人間の業が生み出したもので、これが正しいと決めつけられるようなものではないと思っています。
狛犬の分類
形からの分類ができるのは主に江戸以降です。石造り狛犬の歴史が非常に浅いので、この分類方法もまだ確立されておらず、また、学術的にもなかなか認知されていません。狛犬が庶民の文化になってからは、実に多くの石工たちがいろいろな狛犬を彫りました。当然、誰も本物の獅子(ライオン)を見たことがありませんから、田舎に行くと、空想だけで彫ったと思われる狛犬がたくさんあります。狛犬を彫ってくれと注文されても、真似るものがなければ、どう彫っていいのか分からなかったでしょう。従って、地域ごと、時代ごとに、おのずと似た形の狛犬が作られるようになります。
狛犬分類 / 江戸と畿内(浪花)
円丈分類に出てくる類別呼称では、「江戸」と「京」(あるいは「なにわ」)にあたります。
円丈本には、江戸だけでも「江戸でぶっちょ」「江戸くちびる」「江戸たいら」「江戸尾立ち」「謎の江戸原」「江戸くずし」「江戸獅子山」「準江戸会津」「江戸犬」「江戸角」「江戸はじめ」「江戸招魂社系」「江戸唐草」「江戸ボタン」「江戸角尾立ち」……などなど、実に様々な分類?が出てくるのですが、そもそも「江戸」とはなんでしょうか?
また円丈分類に出てくる「京」(なにわ)タイプとはどういうものでしょうか?
関西の狛犬に関しては、小寺慶昭さんが非常に細かく調べていらっしゃいます。そこでは大阪狛犬の細かな分類や、大阪狛犬が京都に影響を与えたという流れが解説されています。
そこでまず、一般の人にも分かりやすいよう、乱暴であることを承知の上で、最初に「江戸」と「畿内(浪花)」という大分類を試みてみます。(なお、ここでいう「浪花」タイプは、大阪だけでなく、京都・奈良などを含む畿内エリア全般をさしています。私は「浪花」という分類名称より「畿内」のほうがいいのではないかと思っています。)
頭部・顔の特徴
江戸:
前髪&眉:カールしてほぼ中央分けのヘアスタイル。
目:やや小さめで、楕円形。目玉の瞳は描かない場合が多い。
耳:伏せ耳が基本。
鼻:それほど大きさを強調しない。
髭:顎髭があり、前髪に合わせてカールしている。
唇:極端な二重にはならない。
歯:あまり彫り込まないが、ある場合は犬型(犬歯状)が多い。左右二本の犬歯のみ彫り込むこともある。
全体の形:やや平べったいが彫りは浅くない。犬などの獣の頭部に近い印象。吽型にも角のあるものはそれほど多くない。  
畿内:
前髪&眉:前髪はほとんどなく、代わりに太い眉がある。
目:おおきなぎょろ目。ほぼ正円形。目玉の瞳を描く場合が多い。
耳:折れ耳、または横耳が基本。
鼻:大きく胡座をかいた獅子鼻や団子鼻。
髭:顎の真下にはなく、顎の両脇に瘤状に描かれる。
唇:二重に縁取りする。
歯:特に阿型は多くが歯をむき出しにしており、形状は人間型(入れ歯型・獅子頭型)が多い。
全体の形:縦長で彫りが浅い。人面、鬼面に近い印象。また、本来の「獅子・狛犬」の形式を踏襲しているため、吽型の狛犬の頭部には角がある場合が多い。
身体全体の特徴
江戸
たてがみ・体毛:長毛で流麗に流れる。
尾:江戸後期からは下がって身体に巻くように密着。初期のものは尾が立っている。
背中:猫背で、丸みのラインの美しさを強調。
子獅子:阿吽合わせて、たいてい1〜3頭付属している。
姿勢:前脚を上げていたり、立ち上がっていたりするものもある。構図的に自由度が大きい。
畿内
たてがみ・体毛:らほつのように瘤状に短く巻いているものが多い。
尾:団扇型が基本で直立、背中側に密着している。
背中:ほぼ真っ直ぐ背筋を伸ばしている
子獅子:いても1頭どまりであることが多い。
姿勢:お座り(蹲踞)が基本で、あまり自由度はない。
歴史の考察
なぜ近畿地方には破天荒な狛犬が少ないのでしょうか? 江戸時代のものも昭和のものも、みな似たような印象を与えます。近畿地方の人に「狛犬が趣味です」と言っても、「狛犬? みな同じやないの?」と切り替えされてしまいますが、それもある程度無理ないかもしれません。
これはどうも、石産業の成り立ちに関係しているようです。
江戸時代、大阪城下では、石工町が固定化し、石切場も比較的近くにあったそうです。こうした環境のもとで、石工たちは一か所に集まり、石細工製品をシステマティックに作っていきました。狛犬制作もそうしたギルド的な「制度」の中でパターン化してしまったようです。つまり、「狛犬とはこういうものである」という常識が確立され、代々、石工たちはその「常識」「パターン」を踏襲していったようです。
近畿の狛犬には江戸期のものがまだ数多く残っており、細部の違いをよく見ていくと多くのバリエーションがあるのですが、パッと見た印象はそれほど違わないのです。近畿の石工たち、あるいは奉納者たちが破綻・異端を嫌ったのかもしれません。
片や江戸では、石工の組織は火消しの組織のようにいくつかの組にわかれて腕を競い合い、石切場も江戸城下からは遠く離れていたので、石問屋と石工の集団も分かれていたそうです。また、風土としても、伝統と形式を重視する畿内に対して、新しいもの、より流麗なもの、豪華なもの、芸術的なものを作り出そうという「江戸っ子」の気風に支えられた華やかな文化がありました。
江戸唐獅子の流れるような線はこうして生まれ、時代を追うごとに洗練されていったのでしょう。
こうして考えていくと、「江戸」タイプの呼称は、あくまでも地域としての「江戸」、関西地方の固定化した狛犬文化に対しての、江戸っ子風俗的な流麗で華やかな狛犬文化という意味が強いということになります(もちろん江戸時代を中心に発達したという意味では時代をさしていると言っても間違いではないでしょうが)。 
 
狛犬3

 

私たちが神社の境内などでよく見かける狛犬は、だいたい石でできています。ところが古い時代の狛犬は、ほとんどが木でつくられています。それはなぜでしょう。平安(へいあん)・鎌倉(かまくら)という古い時代、神社やお寺で狛犬の置かれた場所といえば、門やお堂の中、つまり屋内でした。建物やそこにまつられる神像・仏像が日本ではほとんど木造なので、そこに置かれる狛犬も当然木でつくられたわけです。狛犬が屋外に置かれ、それにともなって、雨風にさらされても良いよう石造となるのは、もっとあとのことです。
さて、怖ろしげな顔をし、たてがみもあるこの動物を「狛犬」と言うのは少し変だと思いませんか。私たちの知っている愛らしい犬とは、よほど違っていて、むしろ猛獣と言う方がふさわしいようです。昔の人もこれには悩んだようで、狛(こま)(現在の朝鮮半島(ちょうせんはんとう))から来た犬だと考えたり、隼人(はやと)(むかしの九州南部(きゅうしゅうなんぶ)の人たち)が犬の声をまねて、天皇の警固したことにちなむと解釈したりしています。しかしその本当の起源は、仏像の前に2頭のライオン(獅子)を置いたことにあり、狛犬の形はそこから来ているのです。
仏教はインドにはじまり、シルクロードを通って中国に入り、やがて朝鮮半島を経て、日本にもたらされたことは、君たちもよく知っているでしょう。6世紀のことです。当時、仏教を伝えるということは、仏像を伝えるということでもあったのです。そして仏像とともに、その前に置かれた2頭のライオン(獅子)も日本に入って来ました。こうして仏像の前に2頭の獅子を置く習慣が始まったのです。
しかしこの段階では、置かれたのは「獅子」で、「狛犬」ではありませんでした。
上の写真の狛犬を、よく見てください。そう、左と右とでは形が少し違っていますね。一方は口を開け、もう一方は口を閉じています。そして口を閉じた方には頭に角(つの)があります(角のとれたものもあるので注意してください)。この違いが大切なのです。実は、口を開けているのが獅子で、閉じて角のあるのが狛犬なのです。
わたしたちはひと口に「狛犬」と言ってしまいますが、正しくは「獅子」と「狛犬」の組み合わせだったのです。もちろん「狛犬」という言い方でも間違いではありません。
この組み合わせが出来たのは、平安時代の初めです。奈良時代までは獅子2頭だったのですが、ここに新しいセットがつくり出されました。そしてそれが、前にも述べましたように、宮中(きゅうちゅう)、神社、お寺などに置かれました。私たちが今見る狛犬の起源はこんなに古いところにあるのです。
ところで、面白いことが一つあります。平安時代以後は、「獅子」と「狛犬」という組み合わせが定着したように見られがちですが、時々、「獅子」が2頭だけという古い形が顔を出すのです。なぜこのようなことが起こるのかは、今のところよくわかりません。 
 
白鬼女

 

越前の国 平泉寺の若い僧が京都見物を思い立ち、名所旧跡を巡っての帰り道、琵琶湖岸の海津の浦に泊まった。
同じ宿に女の旅人が泊まり合わせていて、僧が美しいのに惚れ込み、その寝部屋に忍んで行って、あれこれ誘惑した。
僧は、いけないことだと思いながら、結局その夜は女を抱いて寝た。
朝になって見れば、女は年齢六十歳くらいの巫女で、薄い髪をばさばさにした凄まじい姿であった。
「このうえは、どこまでも跡をお慕い申しましょうぞ」と、すっかりその気になっていて、次の日も同じ宿に付いてきて一緒に寝た。
そもそも女連れで寺に帰るわけにはいかない。そこで若い僧は、「しばらくここに逗留するつもりです」と女を騙して、翌明け方に宿を逃げ出した。
いったんは騙されたとはいえ、さすがに巫女である。行く先を占って跡を追い、やがて追いついて周辺を探すと、僧は大木の窪みに丸くなって隠れていた。
「さてもさても情けなや。もはやそなたとは離れられぬ身なのじゃ。命あるかぎり離れませぬぞ」
僧はがっくりして、「しかたありません。一緒にまいりましょう」と言ったが、やがて渡し場で舟に乗ると、川の途中で女を引き寄せ、そのまま深みに沈めてしまった。
平泉寺に帰り着いた若い僧は、あまりに疲れていたので、まず自分の部屋に入って昼寝した。
その部屋に僧の師匠が行ってみると、眠っている僧に体長三十mほどの白い大蛇が襲いかかって、今にも彼を呑まんとしていた。
ところが、部屋には僧の家に代々伝わるという吉光の脇差があって、その脇差が自ら鞘を抜け、空中に舞って大蛇を切り払う。大蛇はどうしても僧に近寄れない。
その様子を見て、師匠は急いで部屋を立ち去った。そして人々に僧を起こさせると、何食わぬ顔で都の物語などを尋ねた。
師匠は元々、かの吉光を手に入れたいと思っていたが、先ほど目の当たりに霊験を見て、いよいよ欲しくてたまらなくなっていたのである。
師匠も黄金作りの脇差を持っていたので、いろいろうまく言って吉光と交換させた。
これによって大蛇は、思いのままに若い僧の部屋に押し入り、彼を引き裂き喰らった。
この後、かの渡し場を「白鬼女」と呼ぶようになったということである。
『曾呂利物語』巻之二「越前の国白鬼女の由来の事」より  
白鬼女の渡し / 鯖江市
今から半世紀前の昭和37年(1962)3月、日野川の河川工事中に、白鬼女(しらきじょ)橋下流の川底、地下約3mのところから一体の石仏が発見されました。翌年、安置するためのお堂が、工事関係者と地元鯖江市舟津(ふなつ)地区の人たちによって橋のたもとに建てられ、以後、「白鬼女観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)」と呼ばれて大切にまつられてきました。つややかな赤銅(しゃくどう)色の石に浮き彫りにされたこの観音さまは、像高約120cm、光背(こうはい)を含む全体は約145cmと、やや大柄(おおがら)で、やさしく端整(たんせい)な顔だちをされています。その仏前には、「白鬼女観世音堂奉賛会」の方が、絶えず花や線香を供えられています。
お堂の前の道は、鯖江と旧武生(たけふ)の市街地中心部を結ぶ最短コースです。歴史をたどると、白鬼女橋のあたりは、古くから北陸道が日野川と交差する地点で、水陸交通の要衝(ようしょう)でした。
戦国大名朝倉氏の時代には、兵員を迅速(じんそく)に移動させるため、川幅いっぱいに舟を並べた舟橋(ふなばし)が設けられていました。江戸時代には、幕府の命令で橋が架けられず、現在の白鬼女橋から百数十m上流に舟渡(ふなわた)し場がありました。当時の絵図には、東西両岸に1本ずつ柱を立て、川をまたいで綱を張り、渡し守(もり)が綱をたぐって舟を操る様子が描かれています。
鯖江市史によると、通常、舟を2艘(そう)用意し、東岸の渡し守小屋に昼夜、人が詰めて、通行人を渡したそうです。舟渡し賃は、武士とその奉公人は無料、一般の旅人からは天候や時刻、濁水(だくすい)時の水深などに応じて、あらかじめ定めた料金を徴収しました。
白鬼女の渡しは、明治6年(1873)に全長約70mの橋(私営の賃取り橋)が架けられるまで存続しました。その後、洪水による流出や河川改修等に伴い、場所を移して何度か架け替えられており、現在の白鬼女橋(全長約178m、幅13m)は平成20年に竣工したものです。
また、江戸時代から明治にかけて、白鬼女は、九頭竜川河口の三国湊(みなと)まで約48kmの川筋を川舟(かわぶね)が往来した日野川水運の起点(荷を揚げ降ろしする舟着き場)でした。水量豊富な日野川は、年貢米(ねんぐまい)をはじめとする荷物や旅客の輸送に利用され、北陸道と交わるこの地には、水陸運送の中継を行う上(かみ)鯖江宿(じゅく)が置かれました。
福井藩は江戸後期に、川舟輸送の拠点として、白鬼女のほか、足羽(あすわ)川の九十九(つくも)橋下、竹田川の金津(かなづ)の3カ所を「三河戸(こうど)」と定めています。しかし、活況を呈した日野川の川舟輸送も、明治29年(1896)の北陸本線・敦賀−福井間の開通により、急速に衰退しました。
こうした歴史のある日野川の川底から掘り出された白鬼女観音について、お堂の脇に設置されている説明板には、「建立(こんりゅう)時期等については不明だが、『渡河(とか)往来の守り像』として、かつての渡し場にあり、17世紀末の大洪水により流出していた」と記されています。
川底での永い眠りから覚めた観音さまは、お参りする人や道行く人たちを見守り、両手を胸元で合わせて人々の安全を祈っています。  
 
綱の鬼退治

 

きんたろうの同僚で四天王の一人、渡辺綱は実在の人物で、945〜1025の平安中期の武士で、嵯峨源氏の流れをくむ箕田源氏宛の子です。源満仲の婿敦の養子となり、養母の居所、摂津の国渡辺にちなんで、渡辺姓を名のり、源頼光の郎党となり、渡辺党の祖となった人物です。渡辺党は、難波の渡辺の地を中心に、渡場、橋詰などで渡渉の力役に従事し、水霊鎮斎、水難防止の呪術に携わっていたと考えられています。綱という名前も、綱渡し、籠渡しに使われる渡渉具としての綱を意味するものとも考えられています。
綱の鬼退治の話は、屋代本「平家物語」剣巻にあります。頼光が用事を思い出し、渡辺綱を一条大宮に派遣します。深夜の事で名剣「髭切」を渡し、馬で向かわせます。そしてその帰り、一条堀川にかかる戻橋の橋の東のつめで若い女房が一人南へ向かうのを綱は見ます。女房は綱を見て「五条わたりのものです、送ってください。」と頼みます。綱は女を馬に乗せ南へ送ろうと馬をはしらせますが、女は今度は都の外に送って欲しいといいます。綱は「どこへでも、行きたいところへ送りますよ。」と答えます。
その時女はさっと形相を変え、恐ろしい鬼となり、「わが行くところは愛宕山ぞ」というと、綱の髻(もとどり)をつかんで、西北天へ飛びました。綱は「髭切」の太刀を抜き、鬼の腕を切り落としますが、北野社の廻廊の屋根に墜落します。鬼は片腕を失いながら、愛宕の方向へ飛び去りました。綱は頼光のところへ戻り、残された鬼の腕を見せます。鬼の腕は漆黒の肌色で、白銀のような毛がびっしりと生えていました。頼光は安倍晴明にこの事を占わせると大凶。綱は七日間の慎み、鬼の腕を櫃に封じて仁王経が読誦される事となりました。
そして慎みの六日目、綱の伯母で養母にあたる者が上洛、綱は潔斎を破って対面します。伯母は来し方話のついでに、この厳重な物忌みを綱に聞きます。綱は、伯母にいきさつをはなし、鬼の片腕をつい、見せてしまいます。伯母は鬼を腕を眺めていましたが、突然鬼となって、「これは吾が手だ、持っていくぞ。」と言うと飛び上がり、破風を蹴破って外に出、光るものとなって虚空に消えました。以上が綱の一条戻橋の鬼の話です。同書の別の下りで、この鬼は物ねたみから貴船明神に祈って鬼女となった宇治の橋姫であったと伝えています。
この話は渡辺党の住まいが東屋で、破風を持たない由来譚とも考えられています。
またこの鬼は本来は水神で、カッパが馬を水に引き込もうとして、腕を切り落とされ、それを取り返しに来る話と同原であったものが、鬼女、鬼へと変化していったとも考えられています。 
金太郎1 / 山から降りてきた雷神
「きんたろう」石原和三郎作詞 田村虎蔵作曲
一 まさかりかついで、きんたろう、
  くまにまたがり、おうまのけいこ、
  はい、しぃ、どぅどぅ、はい、どぅどぅ、
  はい、しぃ、どぅどぅ、はい、どぅどぅ。
二 あしがらやまの、やまおくで、
  けだものあつめて、すもうのけいこ、
  はっけよいよい、のこった、
  はっけよいよい、のこった。
これは有名なきんたろうの歌で、明治三十三年六月発行の「幼年唱歌(初の上)」に掲載されました。きんたろうのお話はこの歌のように、足柄山で山姥の母と動物と共に暮らしていたところを、源頼綱に見いだされて家来となり、都にのぼる途中、鈴鹿峠の鬼を一人で退治し、頼綱に褒美をもらって立派な武士となり、生まれ故郷の足柄山の母と動物達も喜ぶ、というお話です。
きんたろうは、源頼光の郎党で四天王の一人、坂田金時(公時)とされています。源頼光と四天王の三人、渡辺綱、平貞道、平季武は実在の人物ですが、坂田金時は伝説化されて、その本人、モデルとなった人物は特定出来ません。信頼性の高いものとして、「今昔物語集」巻二十八第二話に、坂田金時は平貞道、平季武とともに、加茂のお祭りに牛車に乗って出かけたが、初めて乗った牛車にすっかり酔いつぶれた、という話があり、また、「故事談」巻六には、藤原道長と競馬(くらべうま)をした、という話がのっているそうです。他には大江山の酒呑童子退治、渡辺綱の一条戻橋の鬼の手を切り落とす話に四天王の一人として登場しています。総合すると、年老いた母と足柄山中で生活しているところを、二十一歳の時、頼光に見いだされ、坂田金時と名付けられ、頼光に仕え、三十六歳の時、酒呑童子退治に参加、妻子をもたず、頼光の死後、足柄山中で消息不明になった、というのが史実に近いようです。
「前太平記」によれば、足柄山の上空に赤い雲がたなびき、それを見た源頼光が、「あれは傑出した人物が隠れ棲んでいるあかし」とし、郎党の渡辺綱に足柄山の探索を命じ、金太郎を発見し、母に当たる山姥が頼光に出仕させた、となっています。ここでのきんたろうはすでに伝説化されていて、きんたろうの出生は、山で寝ていた母の山姥の夢に赤竜が現れ、目が覚めると、あたりに雷鳴がとどろききんたろうを身ごもっていた、とされています。
山姥は山の神に仕える女性、赤竜は雷神と考えられます。そのため、きんたろうは雷神の子で、神霊の象徴の赤い肌で、怪力を持ち、雷神の武器、まさかりを持ち、山中誕生の象徴として熊に乗る、というイメージを持っています。
きんたろうの伝説は足柄山にあった雷神の信仰が、史実の坂田金時と結びつけられ、「まさかりを担いで熊にまたがったきんたろう」というイメージを生みだしたものではないかと考えられています。
金太郎2
童謡「金太郎」では、動物たちとほほえましい(?)交遊の姿が表現されています。でも、他の童謡では、「桃太郎」にしろ「うさぎとかめ」にしろストーリーがあるのに、「金太郎」にはそれがありませんね。よくよく考えてみると、童話「金太郎」のストーリーが頭に浮かんできません。「金太郎」って、どういう話だったのでしょうか。今回は、「金太郎」からそれにまつわる話へと展開していきます。
「金太郎」のお話のあらすじは次のようなものです。
むかしむかし、坂田義家という大変勢力が強いお侍がいました。ところが一族の所領争いから義家は殺され、身の危険を感じた妻は生まれたばかりの子、金太郎を連れて足柄山の山奥へ逃れました。こうして、金太郎は山奥で熊やうさぎを遊び相手に育ちました。ある日、動物たちと共に谷川にさしかかると、橋が流されていました。金太郎は、木を力まかせに押し倒し丸木橋にして渡ろうとしたところ、一緒に渡った狸が橋から足をすべらせ川に落ちました。金太郎は、ためらうことなく川に飛び込み狸を助けました。この様子を、通りかかった源頼光という都で一番と言われる大将が見ていたのです。「こんな山奥で、このような気がやさしくて力持ちの若者に出会えるとはどうしたことか。」頼光は、金太郎に自分の家来になるよう勧めました。母も大変よろこび、金太郎は頼光の家来となりました。名を坂田金時(さかたのきんとき)と改め、都に上がった金時は、毎日一生懸命文武に励み、頼光の家来の中の四天王の一人として大江山の鬼を退治するなど、その名を天下にとどろかせる立派な大将となったのでした。
この金太郎のお話の原型とも言えるのは、近松門左衛門作の人形浄瑠璃「嫗山姥(こもちやまうば)」です。「坂田の子を宿した遊女八重桐は、山中に隠れ住み山姥と化す。やがて産まれた男子は怪童丸と名づけられ、怪力無双の少年として成長し、頼光に出会う…」このようなストーリー展開となってきます。
また、頼光の四天王とよばれる家来としての活躍は、「今昔物語」「源平盛衰記」「平家物語」「御伽草子」に収められています。
江戸元禄に歌舞伎の初代市川団十郎が演じた「四天王稚立(おさなだち)」や、江戸浄瑠璃の「金平浄瑠璃」≪坂田金時の息子金平(かねひら)を主人公とした武勇伝。ちなみに、金平ごぼうは、食べると元気が出る材料を使っているところから、坂田金平のように強くなりますようにという意味で名づけられたとか…≫にも、登場します。
この様に、物語に色々登場しますが、金時は,実在の人物と考えられています。藤原道長の「御堂関白日記」の寛仁元年(1017年)8月24日の項に、「この時の金時は、「相撲使」という相撲取りのスカウト役であったが、18歳で亡くなった。道長の近衛兵の中で第一の人物であるので、憐れむ者が多い」という記録が残されています。
金太郎のストーリーに出てくる大江山の鬼を退治する話は、「御伽草子」に出てくる「酒呑童子」という有名な話です。
ここからは、「酒呑童子」の話へと移っていきましょう。
大江山に住む「酒呑童子」という鬼が、都に出ては姫君達をさらう等の悪行を重ねていました。帝は、鬼退治の勅命を源頼光と藤原保昌に下し、頼光は配下の四天王と呼ばれる渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武を引き連れ大江山へと向いました。途中、一行は石清水八幡・住吉明神・熊野権現の化身である三人の老翁に出会います。老人たちは頼光らに、隠れ蓑と神酒を授けました。隠れ蓑は着ると姿が見えなくなり、神酒は、善人が飲めば良薬だが鬼が飲むと神通力を失うというものです。そして、老翁たちは、山伏の姿に変装するとよいと助言したのでした。
さらに奥に進むと、元、都の貴族の妻という老婆と出会い、鬼の城への道筋や城の中の様子を知ったのでした。頼光らは、鬼の城で一夜の宿を頼み、そのお礼にと酒を差し出し、酒盛りが始まりました。鬼も寝静まったころ、頼光らは隠れ蓑をつけて酒呑童子に近寄り、首をはねました。酒呑童子は「おのれ、図ったか。鬼に横道なきものを(鬼は決して人をだましたりしないものを)」と叫び絶命したのでした。
この「酒呑童子」の話の中で、酒呑童子は自分の身の上話を語っています。
『自分は最初比叡山に住んでいたが、伝教大師(最澄)が延暦寺を建てて結界を張ってしまったので居れなくなり、大江山に住むようになったのだ。』と。
また、「御伽草子」や越後の古文書などによると、童子は、越後の生まれなのだそうです。
「越後国のある城主が、子供に恵まれず、信濃の戸隠山に祈願したところ、願いがかなって子供を授かった。子供は3年間胎内にあってから生まれ、幼名を外道丸と名づけられたが、手のつけられない乱暴者で、困り果てた両親は寺へ稚児として出した。しかし、外道丸は、ずば抜けた美貌であったため多くの美女に愛されたが、その外道丸を愛した女が次々と死ぬといううわさがたった。外道丸はそれまでもらった恋文を焼き捨てようと箪笥(たんす)を開けると、煙が立ちこめ、気がつくと鬼の姿に変わってしまったのだ…。」
戸隠山は鬼伝承で有名であり、また、九頭竜神を守護神とする信仰がさかんで、戸隠山の申し子として生まれた酒呑童子も、いわゆる山神や鬼、竜神に代表される土着の神なのです。仏教や陰陽道を信奉する都の人々にとっては、土着民族、土着の信仰は邪教であり、征服の対象であったといえます。
酒呑童子が殺される時に叫んだ「鬼に横道はない」という叫びは、「正義」の名の下に征服を続ける当時の権力に向けた「どちらが本当の正義なのか!」という怒りの叫びだったのでしょう。
現代にも繋がるような話しですよね。
ちょっとかわった酒呑童子にまつわるお話をひとつ。
「続 福井の意外史」(読売新聞福井支局編)では、この源頼光が酒呑童子を退治する「大江山の鬼退治」の舞台は、実は越前だった。越前で起こった事件が「酒呑童子」の物語のヒントになったというのです。
源頼光(948−1021)は、源氏の三代目の頭領であり、朝廷の高官に貢物を贈るなどをして立身出世したともいわれ、武家中心の鎌倉時代になって源氏の家系を美化するため、各地に伝わる盗賊退治を誇張して武勇伝にしたてたのが「酒呑童子」の真相ではないかというのです。
「正史国司考」によると、この頃、頼光の父、源満仲が越前国司(福井県武生市)兼鎮守府将軍として一族を引きつれて入国していました。福井県武生市大虫町の鬼ヶ岳(当時、丹生ヶ岳と呼ばれていたが、この事件により鬼ヶ岳と呼ばれるようになったとか。533m)には、鬼が住んでいて、村の若い娘が鬼にさらわれていくので、国司である満仲は、6人の子供たち「頼光」「頼親」「頼信」「頼範」「頼平」「美女丸」に討伐を命じたといいます。頼光らは鬼たちを捕まえて、日野川の現在の鯖江市にある白鬼女橋付近の川原で、首をはね処刑をしました。(そこからこの場所を白鬼女の津と呼ばれるようになりました。)
大江山の鬼退治とは共通点があり、どちらも鬼の岩屋と呼ぶ洞穴があること、討ち手が6人、若い娘をさらうことなど似たところが多くあります。
源頼光のあと、弟の頼親(二弟)と頼信(三弟)の二人が、跡目相続争いをし、頼親は負けて杣山城(福井県南条町)にたてこもり、頼信が四代目頭領になりましたが、鯖江、武生にはこの一族たちの伝説が多く残っているのです。
頼光の「鬼ヶ岳の鬼退治」の話が、大江山の酒呑童子の物語となったのでしょうか。真実は分かりません…。 
 
「鬼」の伝承・民話

 

大工と鬼六 
このお話、有名なわりに採取例はわずか七話、地域では六つしかありません。岩手県胆沢郡、山形県最上郡、上山市の三話、最近になって岩手県紫波町の出身者から一つ、福島県信夫郡水俣町出身者から二つ、岡山県阿哲郡からの採取報告があり、計七話となったそうです。すご〜く珍しいお話なんですよ。
「大工と鬼六」
岩手の丹沢と言う所に流れの早い川が流れていました。山からどっと水が流れ込み、少しの雨でも強い流れとなりました。その流れは、橋を押し流し押し流し、何度橋をかけなおしても流してしまいました。橋が無ければ市にも行けぬ。村の者も町の者も橋が流されるたびに、ずっと川の下に下って、浅瀬を歩いて渡りました。
渡って一日、帰るに一日、それは二日がかりの仕事でした。弱った村の者は相談して、大工に頼んで流されない橋をつくってもらう事にしました。話を聞いた大工の鴈治郎は村人の頼みを喜んで承知しました。
しかし承知したものの、不安になりました。橋を流す川とはどんな流れなのか?鴈治郎は雨が降りはじめると橋の架かっていた淵に、川へ流れを見に行きました。河の流れは初めは穏やかでしたが、あっという間に渦を巻きはじめると、ドウドウと音をたてて岸の岩にぶつかり、あちこちに身を当てながら川を押し下って行きました。
「こんな流れでは橋げたなぞ、いっぺんに流されてしまう。」 鴈治郎は雨の中ポツリとつぶやきました。<
次の日から鴈治郎はどうにかして水に流されない橋を建てられないかと、毎日壊れた橋のある淵に行き川の流れを見ては考え込んでいました。すると川の淵のそこから泡がブクブクわき上がると中から大きな鬼が出てきました。鬼は鴈治郎を見下ろすと、「何を困っておる?」と聞いてきました。鴈治郎は鬼をにらみ返し、「ここに橋を架けねばならん。」と答えました。「ブワッハッハッハッ!」 鬼は大きな声で笑うと、「わしが架けてやろう、ただしお前の目ん玉をもらうぞ。」と言って、また川の淵へと沈んでいきました。
鴈治郎は「鬼のヤツ、勝手な事を言いおって。」と、気に入らない様子で帰っていきました、次の日、鴈治郎がでかけてみると淵の側には大勢の人が集まっていました。なんと、そこには半分橋が架かっていたのです。その橋は橋げたが無く、木をたくみに組んだ虹のような橋でした。
村人は鴈治郎を見ると、「さすがに腕のいい大工じゃ、こんな不思議な橋は見た事が無い。」と口々にほめました。鴈治郎は自分ではないとも言えず弱ってしまいました。
村の人が帰り、鴈治郎が一人になると、淵の底から泡がブクブクわき上がり、昨日と同じように大きな鬼が現れ、鴈治郎を見下ろしました。そして「目ん玉はもらうぞ。」 と言うとニッと笑って淵の底に消えました。鴈治郎は驚きました。鬼は本気で自分の目玉を奪うかも知れない。鴈治郎は恐ろしくなり、鬼がどうするつもりなのか見てみようと、その夜、淵へこっそり出かけてみました。するとあの大きな鬼が、半分架かった橋のそばにたっていました。鬼はどこからか引き抜いて来た木に爪を当てると、カンナのようにシャーッと削りました。そして出来た材木をノコのような歯で切り、自分の髭を一本抜くとノミのように使い、木にほぞを作りました。それは大工の鴈治郎の目から見ても出来の良い仕上がりでした。
鬼はふと手を止めると、隠れている鴈治郎の方を見ました。「お前の目玉はもらうぞ。ただの、俺の名前がわかったら勘弁してやろう。」 鬼はそう言うと楽しそうにまた橋をつくりはじめました。鴈治郎は家に飛んで帰ると、わずかな荷物をまとめ山奥に逃げました。
山を三つ越えると日が昇って来ました。鴈治郎は後を鬼が追って来ないかと振り返り振り返り山道を走りました。ちょうど、山道を駆け降りた時です。葦原の中で声が聞こえました。
鴈治郎は慌てて身を隠し、耳を澄ませて、その声の主を探しました。それは小さな女の子の声でした。女の子は鞠を突きながら唄を歌っていました。
はぁやく鬼六 まなく玉。もってぇこぅばぁ えぇいなぁ。
鴈治郎はその女の子の顔を良く見ると頭の上に一本、小さな角がありました。はたと鬼の言う事が鴈治郎の胸に落ちました。鴈治郎はそっとそこを離れるとあの淵へと向かいました。
淵には橋が架かっていました。その橋は見事な出来栄えで、川の両岸を結んでいました。鴈治郎が橋のたもとにつくと、淵のそこから泡がブクブクわき立ち、大きな鬼が現れました。「わしの名前がわかったか?わからぬならお前の目玉をもらうぞ。」 鬼は鴈治郎を見下ろして笑いました。
「なんの、お前の名前なぞ。」と、鴈治郎は鬼を見上げて笑いました。「ならば見事答えてみよ。」 鬼は合わせるように言いました。「橋を架けたは何処の誰。」 鴈治郎は唄うように言うと、鬼も答えました。「みごとみごとに答えて見よ。」 鴈治郎は一息おくと答えました。「答えられねば、まなく玉。子供にもって帰られる。」 鬼はうっ!とうめくように身を引きました。
「橋を架けたは、鬼六!」 鴈治郎が大声で叫ぶと、大きな鬼は真っ黒なかたまりのようになって、淵の底へ消えていきました。鬼が消えると鴈治郎はそこに座り込みました。しばらくすると村の人が集まりでき上がった橋を見て大喜びしました。鴈治郎はその橋を見て、「鬼のヤツ、良い仕事をする。」とポツリとつぶやきました。

このお話の特徴は、鬼が水の中から出現するという水神の性格を持つ点、化け物と問答をする、「化け物問答」の形式を取っていて、名前を言い当てると化け物を退治する事が出来る、という言霊の信仰・概念を持っている点、子供の歌う唄に謎をとく鍵がある、という点です。 
鬼の片足 
こぶとり爺さんのもとのお話は、鬼にコブを取られた、という話がもとになったとされていますが、鬼からの授かり物、という反対の話もあります。鬼のする事ですから、さて、どんな授かり物でしょうか?
「鬼の片足」
むかし、鋳掛け屋の職人がありました。その職人は片足で、どこに行くにも倍の時がかかりました。ある時、仕事が遅くなってしまい、帰る途中で日がくれて、夜中となってしまいました。仕方ない、どこかで休む事とするか。職人は野宿しようと、辺りを見回すと、ちょうど近くにお寺があり、宿を貸してもらおうと入って行きました。そこは土間と板間の小さな庵で、線香の匂いが立ちこめていました。「こんばんは、申し訳ねけねぇが、一晩宿を貸してくだせぇ。」しかし、誰も答えません。職人は板間に上がると、隅の方へ横になりました。
目をつむってしばらくすると、なにか異様な気配とともに、大きな男がお堂の中に入ってきました。その男は、あたりをじっと見回したあと、板間にどっかとすわりました。職人はおそるおそるその顔を見ました。すると、その男の頭には角が二本。男は赤い顔の鬼だったのです。職人は凍ったようになり、鬼から目を話す事も出来ませんでした。どれくらい時間がたったのか、目をつむった赤鬼は、そのまま眠ったようでした。職人は赤鬼に気がつかれないように、そっと庵の天井へ登り、隠れました。
職人は、ほっとしましたが、突然外から物音が聞こえてきました。ずるっずるっ、ずるずるっ、と、何かを引きずる音がちかずいて来たのです。赤鬼が目を開けました。職人は梁の上から、入り口を見ました。すると、青い鬼が、白いかたびらを着た死人を引きずりながら入って来たのでした。赤鬼は青鬼に突っかかりました。「おい、それは俺のものじゃ、置いて行け。」「何を言う?これはわしのものじゃ。」「わしは、その死人が運ばれてくるのを待っておったのじゃ。」「わしは、この死人を迎えにいっておったのじゃ。」二匹の鬼は言い合い、怒鳴りあいました。職人は恐ろしくて仕方ありませんでした。鬼の声は腹の底から響き、庵をゆるがしました。職人は梁にしがみつき、目をつむりました。赤鬼がいいました。「そんなに言うなら、これが誰のものか上におるものに聞いてみよう。」職人はハッと息を呑みました。自分がここにいる事は知らないものと思っていたのです。「そこにおるお前、聞きたい事がある、降りてこい。」鬼が二匹、自分をにらんでいました。職人は恐ろしくて、思わず梁から落ちそうになり、やっと板間に降りました。「お前、さっきから、天井で見ていたろう?」「この死人がどちらのものか、お前はどう思う?」二人の鬼は、顔を突き出し職人に聞きました。
職人はへたな事を言ったら殺される、どうしたらええのじゃろうと困り果てました。鬼が、じっと見つけていました。体には冷たい汗がたらたらと流れました。「・・・あっ、赤鬼さんは死体を待っておったし、青鬼さんは死体を連れてこられた。どちらも自分のものとも言えるんじゃなかろうか?」鬼はどちらも顔を見あわせました。「どっちのものでもあると言うのじゃの?じゃが、死人は一人しかおらん、どうしたらええ?」職人は困りました。どちらか一方のものと言えば、自分がもう一匹の鬼に連れていかれるかもしれません。それでも、いい考えは浮かびませんでした。仲間がケンカした時、いつも言っていたように、言うしかありませんでした。「こ、こんな時は、仲よう二人で一つの仕事をしたらええ。」鬼はハタと目をぱちくりしました。「考えてみんかったの。」「ああ、考えてみんかった。」「お前、なかなか良い事を言う男じゃ。」「そうじゃのう。」二匹の鬼は大きな声で笑いました。「見れば足が一本しかない、礼にこれをつけてやろう。」そう言うと青鬼は、死体から一本足を引きはがすと、職人にくっつけました。そして二匹の鬼達は闇夜に消えて行ったのです。
しばらくして正気になった職人は、自分の足を見てみました。不思議に血が通って、ヒザもかかとも、指も動きました。立ってみると、足のあった頃のように自由に動く事が出来ました。しかし、何かが変です。「ひぃぃ!」職人は腰を抜かしてしまいました。それは女の足だったのです。職人は女の足を向こうへ捨てようとしましたが、くっついた足はもう取る事は出来ませんでした。そして、日がのぼるとすぐ、その庵から転びながら逃げ出したと言うことです。

鬼と出会った時、コブを取ってもらうのはいいのですが、コブをつけてもらったり、片足をつけてもらったりするのは、ん〜、やっぱ考え直した方が言いかもしれません。 
こぶとり爺さん 1 
日本での最古のものは「宇治拾遺物語」第三話ですが、これは当時、鬼にコブをとられた、と言う話が世間に流布していて、それが記録されたもの、と考えられています。
「こぶとり爺さん」
昔、ある所に顔にこぶしほどのコブがある爺が二人いました。一人の爺が、コブがじゃまでみっともないからと、山奥のお宮へ参って、「どうか神様、おらの顔のこぶを取ってくだせぇ。」と、願をかけて、夜籠もりしました。
爺がうとうとしていると遠くの方から音が聞こえて来ました。笛や太鼓や囃子の音が、どんどんお宮の方へ近づいて来ます。「こんな夜中に誰じゃ?」爺が格子から外を見ると、大男が五、六人、鳥居をくぐり抜けて階段をのぼりながら、やって来ていたのです。
これは大変じゃ、と爺はお堂の梁に登り、じっと息をひそめ隠れました。すると、身の丈六尺、七尺あるような、角が一つの、角が二つのと、赤鬼、青鬼がぞろぞろ入って来ました。
とれれ、と〜れれ、と〜ひゃら、とひゃら、すっとん、すととん、すっとっとん。
鬼達は笛や太鼓を打ち鳴らし、酒を飲み、ご馳走を食べ宴会をはじめました。最初はにぎやかにしていましたが、どうも何かたりません。
「誰か、踊りを踊らんか?」「俺は踊りは苦手での。」「誰か、踊りを踊らんか?」「俺も踊りが苦手での。」
興ざめしたのか鬼達は不機嫌になり暴れはじめました。 爺は梁の上で怖くてガタガタふるえました。
「ん?人間の匂いがするぞ。」
鬼達は梁の上の爺を見つけると、引きおろし、「爺、お前何か踊ってみろ。」と言いました。爺は怖くて怖くて、たまりませんでしたが、とれれ、と〜れれ、と〜ひゃら、とひゃら、すっとん、すととん、すっとっとん、と
笛や太鼓の囃子が聞こえると爺は体がうきうきして、調子にあわせて踊り出しました。爺の踊りは面白く、とれれ、と〜れれ、と〜ひゃら、とひゃら、すっとん、すととん、すっとっとん、と三度も繰り返し踊りました。
鬼達は喜んで、手をたたいてほめました。「せっかく、面白う踊ってくれたが、お前さんの頬のこぶは目障りじゃ、そのコブを取ってやろう。」鬼はそう言うと爺のコブを、ちょんと取ってくれました。爺は、顔が軽くなり、嬉しくて鬼達と一晩、踊りを踊ったり酒を酌み回して遊びました。
次の日、その話を聞いた隣の爺は、お宮に籠って夜を待ちました。すると話の通り、鬼達が五、六人、笛や太鼓を鳴らしながらやって来ました。隣の爺は梁の上に隠れていましたが、鬼達がやって来て、笛や太鼓を打ち鳴らし、酒を飲み、ご馳走を食べ宴会をはじめると、怖くて怖くてたまりませんでした。
「う〜ん、やはり踊り手がいないとおもしろくないのぉ。」「うむ、昨日の爺がまたこねぇかのぉ。」「うむ、またこねぇかなぁ。」「・・・うん?人間の匂いがするぞ。」
鬼達はそう言うと梁の上にいた隣の爺を引き下ろしました。
「さざ踊ってくれ、爺。」
鬼達は笛や太鼓を鳴らしました。
でででら、でらでら、でひゃろろろ、ずでん、ずででん、ずっでんでん、
隣の爺はヒザがガクガク、ちぢみあがって、声は震え、歯はガチガチ音を立て、ころぶわ、しりもちをつくわ、まったく踊りになりませんでした。鬼達はあきれて、笛太鼓をやめてしまいました。「お前のようなヘタな踊りは初めて見た。これをやるからもう帰れ。」そう言って鬼達は昨日とったコブを隣の爺の顔につけると、どこかへ消えてしまいました。
爺は顔にコブが二つとなって、すごすご家に帰りました。

こぶとりのお話は、世界的に分布しており、日本では顔のコブ、西洋では背中のコブが一般的です。また、コブを取ってくれる存在が、日本では鬼、天狗等、西洋では知っている限りでは、森、山の精霊となっています。このお話、古くはコブを取る、と言うものではなく、何らかの福を得る、博打を打つ鬼→鶏の鳴き声をマネする→鬼の残した博打のお金を得る、と言うのがもともとの形だそうです。 
こぶとり爺さん 2
鬼と山伏と延年の舞 / 宇治拾遺物語
瘤取り爺さんの話は日本の昔話の中でももっともよく語られたものである。顔に大きな瘤のある爺さんが山の中で一夜を明かすと鬼の集団が現れて宴会の踊りを始める、爺さんがつられて一緒に踊ると、鬼はいたく感心し、また来るようにといって、質物に爺さんの瘤をとった。この話を聞いた隣の爺さんは、自分も瘤を取ってもらおうと思い鬼のところに出かけるが、うまく踊ることができずに鬼をがっかりさせる、そのうえもう来ないでもいいといわれて、質物の瘤までつけられてしまうという話である。
この話のモチーフは色々に解釈することができる。瘤取り爺さんが主人公なので、爺さんの瘤の由来や隣の爺さんの欲に焦点を当てることもできようが、この話には大勢の鬼たちが出てきて、踊りや宴を繰り広げるので、むしろ鬼の話の一類型としてとらえたほうが面白い。
この話の原型は宇治拾遺物語に出ており、古い形を伝えている。そこでは鬼の親分のほかに多くの鬼が登場して、その姿や振舞などについて詳しく書かれている。それを読むと、昔の日本人が鬼についてどんなイメージを持っていたか、おぼろげながらわかるのである。
そこでまず、宇治拾遺物語の原典に当たってみよう。
(宇治拾遺物語:鬼にこぶとらるゝ事) 「これもいまはむかし。 右のかほに大なるこぶあるおきなありけり。 大よそ山へ行ぬ。 雨風はしたなくて帰にをよばで。 山の中に心にもあらずとまりぬ。 又木こりもなかりけり。 おそろしさすべきかたなし。木のうつぼの有けるにはひ入て。 目もあはずかがまりてゐたるほどに。 はるかより人の声おほくしてとゞめきくるをとす。」
爺さんは山の中で雨風にあって家に帰れなくなり、木のうろに入って一夜を明かそうとする。するとそこに鬼たちが現れる。それは古来山にひそむ妖怪であると思念されていたものである。その妖怪たちのさまを、物語は続けて語る。
「いかにも山の中にたゞひとりゐたるに人のけはひのしければ。 すこしいき出る心ちしてみいだしければ。 大かたやう\/さま\"/なる物どもあかき色には青き物をき。 くろき色にはあかきものをき。 たたうさきにかき。 大かた目一あるものあり。 口なき物など大かたいかにもいふべきにあらぬ物ども百人ばかりひしめきあつまりて。 火をてんのめのごとくにともして。 我ゐたるうつぼ木のまへにゐまはりぬ。 大かたいとゞ物おぼえず。 むねとあるとみゆる鬼よこ座にゐたり。 うらうへに二ならびに居なみたる鬼かずをしらず。 そのすがたおの\/いひつくしがたし。 酒まいらせあそぶありさま。 この世の人のする定なり。」
妖怪には赤鬼や黒鬼がいる。また一つ目小僧を思わせるものや、口のないのっぺらぼうのようなものもいる。百鬼夜行のイメージである。百人ばかりいる妖怪の中に「むねとある」つまり親分格の鬼がいて、「横座」すなわち主人用の席に収まっている。その前に子分の妖怪たちは二列に並んでかしこまり、恐らく杯を回し飲みながら宴会を始めるのである。
「たび\"/かはらけはじまりて。 むねとの鬼ことの外にゑひたるさまなり。 すゑよりわかき鬼一人立て。 折敷をかざしてなにといふにかくどきぐせざることをいひて。 よこ座の鬼のまへにねりいでゝくどくめり。 横座の鬼盃を左の手にもちてゑみこだれたるさま。 たゞこの世の人のごとし。 舞て入ぬ。 次第に下よりまふ。 あしくよくまふもあり。 あさましとみるほどに。 このよこ座にゐたる鬼のいふやう。 こよひの御あそびこそいつにもすぐれたれ。 たゞしさもめづらしからん。 かなでをみばやなどいふに。 この翁ものゝつきたりけるにや。 また神仏の思はせ給けるにや。 あはれはしりいでゝまはゞやとおもふを。 一どはおもひかへしつ。 それになにとなく鬼どもがうちあげたる拍子のよげにきこえければ。 さもあれたゞはしりいでゝまひてん。 死なばさてありなんと思とりて。 木のうつぼよりゑぼしははなにたれかけたる翁の。 こしによきといふ木きるものさして。 よこ座の鬼のゐたるまへにおどり出たり。」
若い鬼が折敷を捧げて前に出て、親分に捧げた後、舞を舞う。続いてほかの鬼どもも下のほうから順次舞をする。そのうち親分が「かなで」を見たいと言い出す。「かなで」とは演奏のことであろう。
様子を見ていた爺さんはすっかり浮かれてしまい、恐ろしさを忘れて木のうろから飛び出すと踊りを始める。
「この鬼どもをどりあがりて。 こはなにぞとさはぎあへり。 おきなのびあがりかゞまりてまふべきかぎり。 すぢりもぢりゑいごゑをいだして一庭をはしりまはりまふ。 よこ座の鬼よりはじめてあつまりゐたる鬼どもあざみ興ず。 よこ座の鬼のいはく。 おほくのとしごろこのあそびをしつれども。 いまだかゝるものにこそあはざりつれ。 いまよりこのおきなかやうの御あそびにかならずまいれといふ。 おきな申やう。 「さたにをよび候はずまいり候べし。 このたびにはかにておさめの手もわすれ候にたり。 かやうに御らむにかなひ候はゞ。 しづかにつかうまつり候はんといふ。 よこ座の鬼。 いみじう申たりかならずまいるべきなりといふ。 奥の座の三番にゐたる鬼。 この翁はかくは申候へども。 まいらぬことも候はんずらん。 おぼしゝしちをやとらるべく候らんといふ。 よこ座の鬼しかるべし\"/といひて。 なにをかとるべきとおの\/いひさたするに。 よこ座の鬼のいふやう。 かのおきながつらにあるこぶをやとるべき。 こぶはふくのものなればそれをやおしみおもふらんといふに。 おきながいふやう。 たゞ目はなをばめすともこのこぶはゆるし給候はん。 とし比もちて候ものを。 ゆへなくめされすぢなきことに候なんといへば。 よこ座の鬼。 かうおしみ申物なり。 たゞそれを取べしといへば。 鬼よりてさはとるぞとて。 ねぢてひくに大かたいたきことなし。 さてかならずこのたびの御あそびにまいるべしとて。 暁に鳥などもなきぬれば鬼どもかへりぬ。」
こうして踊りに感心した鬼は、爺さんに再び来るように伝える。その際に、約束を守らせるための質物として、爺さんの瘤をとるのである。
物語はこの後の後半の部では、隣の爺さん方の教訓譚に移る。
おきなかほをさぐるに年来ありしこぶあとかたなくかひのごひたるやうにつや\/なかりければ。 木こらんこともわすれていゑにかへりぬ。 妻のうばこはいかなりつることぞとゝへば。 しか\"/とかたる。 あさましき事かなといふ。 となりにあるおきな左のかほに大なるこぶありけるが。 このおきなこぶのうせたるをみて。 こはいかにしてこぶはうせ給たるぞ。 いづこなる医師のとり申たるぞ。 我につたへ給へ。 このこぶとらんといひければ。 これはくすしのとりたるにもあらず。 しか\"/の事ありて鬼のとりたるなりといひければ。 我その定にしてとらんとてことの次第をこまかにとひければをしへつ。 このおきないふまゝにしてその木のうつぼに入てまちければ。 まことにきくやうにして鬼どもいできたり。 ゐまはりて酒のみあそびて。 いづらおきなはまいりたるかといひければ。 このおきなおそろしと思ひながらゆるぎ出たれば。 鬼どもこゝにおきなまいりて候と申せば。 よこ座の鬼こちまいれとくまへといへば。 さきのおきなよりは天骨もなくおろ\"/かなでたりければ。 よこ座の鬼このたびはわろく舞たり。 かへす\"/わろし。 そのとりたりししちのこぶ返したべといひければ。 すゑつかたより鬼いできて。 しちのこぶかへしたぶぞとて。 いまかた\"/のかほになげつけたりければ。 うらうへにこぶつきたるおきなにこそなりたりけれ。 ものうらやみはせまじきことなりとか。
隣の爺さん型の話は花咲か爺さんの「ここほれわんわん」をはじめひろく分布しており、古来一種の教訓話として流通していたものを、この話にも取り入れたのであろう。だがこの話の眼目は上に述べたように、やはり鬼のほうにあると思える。
この話に描かれた鬼の宴会について、宗教民俗学者の五来重は山伏の延年の舞を描写しているのではないかと推測している。山伏は山の神の従者を自認しているが、修験者として山中を飛び回るその姿から、民衆の目には山の神の化身とも映ってもいた。そこから天狗や鬼が山伏の姿にオーバーラップされるに至ったのだというのである。
延年の舞というのは、山伏たちが正月の修正会、三月の法華会、六月の蓮華会などの行事において、酒盛りをして宴会をし、舞を踊るというものである。古代末期から中世にかけて、延年の舞は寺院の中で催されることが多かった。それは山伏が寺院に従属するようになったことの現れであって、もともとは山伏の間に伝わった伝統的な行事であったらしい。
この舞の中で、山伏たちは鬼や天狗の面をつけて舞ったらしい。また舞の途中で、見物人の即興的な参加を許すこともあったらしい。
瘤とり爺さんに描かれている鬼の宴会は、この山伏たちの延年の踊りが昔話として伝えられたのではないか、そのように五来重は推測している。  
日蔵上人と鬼 
吉野山の日蔵上人は、山中で修業中に、十尺ほどの青鬼に遭った。その髪は赤くて、体はあばらが浮き出るほどに痩せこけ、腹だけが膨れていた。そして、ただ泣いていた。上人が話しかけると、鬼は身の上を語りだした。
『わたくしは、四五百年前までは人でございました。しかし恨みを残して死んだために鬼になってしまいました。憎む相手を望みどおりに殺し、その子孫にも祟り続けて参りましたが、とうとう誰もいなくなってしまいました。
生まれ変わった彼らを呪おうとも考えましたが、その行き先が分かりません。憎しみの炎は燃え続けているのに、相手がおらず、おのれのみが苦しむばかり。こんな恨みを抱かなければ、今頃は極楽に生まれ変わっていたかも知れないと思うと、苦しくて堪らずこうして泣いております。
人への恨みは自分を滅ぼす上、敵を失ってもこの命は終わらぬ。もし知っていたなら、本当に恨みなど残さず死んだのに』鬼はさらに泣いた。
話している間、鬼の頭からは炎が燃え出ていた。鬼は山の奥へと去った。上人は鬼をあわれに思い、その罪がなくなるように尽力したという。 
瓜子姫と天邪鬼
昔話の瓜子姫は残酷な話である。天邪鬼という鬼が瓜子姫をだまして食ってしまい、その皮をかぶって姫になりすますが、最後には正体を見破られるというのが大方の荒筋である。中には、柳田国男が紹介している出雲の話のように、瓜子姫は殺されずに裏庭の柿の木に裸で吊るされるというパターンもあるが、鬼に食われてしまうというものが圧倒的に多く、聴耳草紙の話もそのようになっている。
話の内容は大方次のようなものである。
婆さんが川で洗濯をしていると川上から瓜が流れてきた。それを拾ってきて割ってみると中から可愛い女の子が生まれてきた。瓜から生まれたので瓜子姫と名付け大事に育てているうちに大きくなり、機織をしてお爺さんお婆さんを助けるようになった。
或る時、お爺さんとお婆さんが出かけて留守の間に、瓜子姫はいつもどおりに機を織っていたところ、天邪鬼が現れ、瓜子姫をだまして家の中に入ってきた。そして包丁と俎板を持ってこさせると、瓜子姫の皮をはいで、肉を切り刻んで食ってしまった。痕には指と血だけを残し、自分は皮をかぶって瓜子姫になりすまし、お爺さんたちが帰ってくると、指は芋、血は酒だと偽って食わせてしまうのである。
そのうち瓜子姫を嫁にしたいという長者が現れる。瓜子姫に化けた天邪鬼が馬に乗ってゆくと、烏が「瓜子姫の乗り物に天邪鬼が乗った」と鳴く。長者の家に着いた天邪鬼が顔を洗うと化けの皮がはがれ、もとの天邪鬼になる。そして山の中に逃げていく、というものである。
指と血を残すという部分は、人を食うのがあまりにも残酷なので、話の信憑性を持たせるためあえて添えられたのであろう。それにしても、外にあまり例を見ない残酷さである。このような話が子ども相手に語られたとは、俄かに信じられないほどだ。
この話に出てくる天邪鬼は鬼の一種であるが、古来意地悪であるとか、人の真似をして困らせるといったイメージをもたれてきた。もしかしたら山彦の擬人化だったのかもしれない。山彦も時に山の神に擬せられることがあるし、そこから山の神の化身たる鬼に転化するのもありえたことだ。
天邪鬼が瓜子姫の皮をはいで瓜子姫に化けるというテーマも、山彦と同じく人の真似をするということを表しているのではないか。
天邪鬼のルーツについては、外にさまざまな説がある。その一つに天孫降臨神話に出てくる話がある。天孫降臨に先立って高天原から遣わされた天若日子は、芦原中国に懐柔されていつまでも復命しなかった。そこで建御雷神が派遣されることとなるのであるが、天若日子のほうは、雉に向かって放った矢が舞い戻ってきて、それにあたって死んでしまうのである。そこで、任務を怠って寝返りをした報いから、後に天邪鬼となって四天王に踏まれる運命を甘受するようになったとの伝説が生まれた。
天若日子ではなく、天探女が天邪鬼になったのだとする説もある。天探女はその名のとおり高天原から使わされたスパイであるが、これが天若日子側に寝返って二重スパイになり、その情報によって、天の死者である雉が殺される。こんなところから天探女は邪悪な女スパイとされ、やがて天邪鬼になったとする説である。
いずれにしても、天邪鬼は古代の鬼のイメージが仏教と混交して生まれたものであるようだ。それはほとんどの場合女形をとっているが、そこには山の神たる鬼が老女の形をとるという点で、山姥と同じような事情が働いたのであろう。  
山姥にまつわる昔話  
山に漂うと考えられた死霊あるいは祖霊のうちでも、その荒ぶる霊としての恐ろしい姿が鬼としてイメージされた。その中でも、山姥は女の鬼として、通常の男の姿の鬼とは一風異なった雰囲気を醸し出している。安達が原に出没したとされる山姥は、通りがかる旅人をことごとく食らいつくす恐ろしい鬼であるが、その山姥の口が裂けたイメージは、あらゆるものを飲み込んで抱擁する母性のイメージをも感じさせる。
たとえば「食わず女房」に出てくる山姥は、上の口からも下の口からも、食えるものを次々とかき入れて食い尽くす。下の口が性的なものをイメージしていることはいうまでもない。それはあらゆるものを飲み込み、生み出す母性のイメージであっただろう。
山姥をテーマにした昔話には、さまざまなバリエーションがある。その一つに、牛方山姥という一群の物語がある。牛方が馬方になったり、鯖売りになったりと微細な差異はあるが、同じような構成の話が全国さまざまなところに伝わっている。大方次のような筋書きである。
牛方が牛に荷を積んで峠にさしかかると、山姥が現れてそれをよこせという。よこさなければ牛もお前も食ってしまうぞというので、牛方は積んでいた食い物の一部を投げる。山姥がそれを食う間に牛方は逃げようとするが、山姥はすぐに追いついてくる。牛方はひとつづつ投げては逃げ続けるが、ついに投げるものがなくなり、牛を置いて一人で逃げると、山姥はその牛を食ってなおも追いかけてくる。
この話のパターンを、宗教民俗学者の五来重はイザナキの冥界訪問神話と関連付けて解釈している。イザナキは黄泉国を訪ねた帰りにイザナミの遣わした黄泉醜女たちに追いかけられるが、黒鬘を投げつけるとそれが海老に変わり、醜女たちが食っている間に逃げ延びたという話である。
イザナキはその後、さまざまに智恵を働かして、イザナミの死霊に食われることを免れるのであるが、牛方山姥の話においても、牛方はさまざまに智恵を働かせて逃げ延び、最後には山姥を欺いて殺してしまう。
五来重はさらに、この話を峠の辺りにさまよう山の神に、供物を捧げて無事を祈ったという古来の風習を結びつけて解釈している。山姥の伝説とは別に鯖 大師の伝説というものが流布しているが、それは峠を越えようとするものに、山の神が通行料として鯖を要求するという内容のものである。鯖は仏教の行事の中では、施餓鬼のために施されるものであった。なぜ鯖なのかはわからぬが、鯖を与えることによって、餓鬼の祟りを逃れようとする心理が働いていたのであろう。
鯖大師とは、峠のあたりに大師の像を立て、それに鯖を供えることを内容としている。そうすることで、餓鬼ならぬ山の神の祟りを免れようとしたのであろう。
このように、牛方山姥の話は、人を食う恐ろしい鬼と、鯖を供えてその祟りを逃れようとした考えがどこかで結びついて成立したのではないか、五来重はそう推測する。
山姥をテーマにした昔話には、「山姥問答」という一群の説話もある。例えば次のような内容のものである。
猟師が山の中で焚き火をしていると山姥が現れる。猟師が「山姥は恐ろしい」と心の中で思うと、山姥は「お前は山姥が恐ろしいと思っているな」と言い当てる。「山姥に食われるのではないか」と思うと、「お前は山姥に食われるのではないかと恐れているな」と言い当てる。「どうしたら逃げられるだろうか」と思うと、「お前はどうしたら逃げられるかと考えているな」と言い当てる。
ここですっかり絶望した猟師がそのまま食われてしまうこともあるが、焚き火のそばにあったワッカをはじかせて火の粉を山姥に浴びせ、山姥が「人間というものは何を考えるかわからぬ」といって退散する話もある。
この山姥が童子の形に転化すると、「さとりのわっぱ」の話になる。
牛方山姥といい、山姥問答といい、山姥をテーマにしながら話の内容は次第に趣向を変えて、鯖大師に見られる施餓鬼の行事と結びついて交通安全の祈願を盛り込んだり、頓智話のような体裁にも発展している。その辺は、もともと民族の深層意識の中にあった祖霊への信仰が、昔話という形の中で、想像力という翼をともなって自由に飛翔していった証だととれないこともない。 
食わず女房 
食わず女房の昔話は、物を食わないと偽って嫁にしてもらった女が実は人食い鬼だったという話で、亭主はあやうく食われそうになるが、菖蒲の林に逃げ込んで助かったという内容のものである。菖蒲の季節を舞台にしているので、かつて全国各地でみられた菖蒲を吊るして厄除けをする民俗や、その背景にある女のふきごもり(女の家)の行事との関連が指摘されている。
典型的な話の筋は次のようなものである。
欲の深い男が飯を食わない女を女房にしたいと思っていると、一人の女が現れて「飯を食わないから女房にしてくれ」という。男は喜んで女房にするが、女は男のいないすきに一升飯を炊いて、頭髪を掻き分けて頭の中から大きな口を出すと、次々に握り飯を作っては、頭の上の口へも顔の中の口へも放り込む。話によっては、頭ではなく股の間の口へ放り込むというものもある。
怪しんだ男が「もうお前に用はないから出て行け」というと、女は手切れに何かくれという。男はそこにある桶をやるから持っていけという。すると鬼の正体を現した女は男を桶に入れて担いでいく。
女が山の中に入っていくと、男は桶から身を乗り出し、木の枝に手をかけて逃れ出る。そうとは知らず、女鬼は山奥にたどり着くと鬼の子を集めて男を食おうとする。しかし男の姿は跡形もない。
女鬼が男を追いかけて戻ってくると、男は菖蒲の陰に隠れて難を逃れようとする。女鬼はそこに男が隠れていることに気づくが、「菖蒲は鬼には毒で、触ると体がとける」といって帰ってしまう。
この話の眼目は二つある。人を食う恐ろしい鬼というイメージと、菖蒲が魔よけになるという観念である。
人を食う恐ろしい鬼は、安達が原の鬼婆を始め陰惨なイメージで描かれることが多いが、この話では「食わず女房」という反語的な表現がなされているとおり、ややひねった内容となっている。鬼としての恐ろしさは、頭の中から大きな口を出し、そこに飲み込むというイメージで表されているが、この話では男は機転を利かせて逃げ延びることになっている。
女鬼が桶を担いで山の中へ入っていくというイメージは、死者を棺桶に入れて、山中の墓場に葬りにゆくという、古代の葬送の儀式を反映しているのかもしれない。鬼は山にひそむ死霊としてイメージされていたものだから、そこに連れ込まれることは、死の隠喩でもあっただろう。
菖蒲は端午の節句が別名を菖蒲の節句ともいうように、昔から五月の節句に縁が深いものであった。菖蒲湯はいまでは夏至の日に入るものだが、陰暦では端午の節句は六月の半ば頃にあたっていたので、おそらく新暦に移り変わるに際して、端午の節句から夏至の行事へと変わったのかもしれない。いづれにしても、菖蒲には厄除けの意味が持たされていたのだろう。それが「食わず女房」の話の中では、鬼を追っ払う効用へとつながっている。
菖蒲はまた、それでもって屋根を葺いた小屋をつくり、端午の節句の前夜に女たちがその小屋に集まってこもるという風習が、かつての日本にはあちこちで見られた。女の家と呼ばれるものである。
宗教民俗学者の五来重は、この女の家を厄除けと関連させて考察している。旧暦の五月は陰湿で厄病が流行りやすい時期であるとともに、また田植えの時期でもあった。そこでこれから田植えをしようとするときに、大事な働き手である女たちを厄払いして、清浄な体にしよう、そういった思惑がこの行事には秘められているのではないかと考えたのである。
五月は「さつき」というが、それは「さ」つまり田の神を祭る月を意味する。そして女は「さおとめ」として田の神に仕える身でもある。女の家に集まって女たちがイミゴモリをするのは、田植えに先立って身を清浄にするための儀式だった。そのイミゴモリのための小屋に、菖蒲が用いられたのには、中国からの影響があったのかもしれない。
こうしてみると、「食わず女房」のような他愛ない昔話のうちにも、日本人の民族的な想像力が潜んでいることが察せられるのである。 
産女、南山科に行きて鬼に値ひて逃げし語 
[今昔物語集巻二七第十五]
今は昔、ある貴族の家に仕えていた女があった。父母類親もなく、知り合いもいなかったので、訪ねる場所もなく、ただ局にいて、「病気になったらどうしよう」と心細く思っていたが、そのうち決まった夫もいないのに、妊娠してしまった。いよいよ身の不運が嘆かれるのであったが、出産の準備をしようにも、相談できる人もなく、主人にも恥ずかしくて話せないでいた。
ところがこの女は、賢こくもこう思った。「産気づいてきたら、召使の童をつれて、どこへでも奥深い山の中に入って行き、木の下ででも産もう、もし死んでも、人に知られることもないし、生き残ったら、さりげない様子をして帰ろう。」こう思いつつ、産月近くなると、さすがに悲しく覚えたが、さりげない様子を装って、ひそかに身構え、食べ物を少々準備して、童によくいい聞かせて過ごすうちに、いよいよ産月になった。
そのうち、明け方になって産気づいたので、夜が明けぬ前にと思って、童に荷物を持たせて急いで出た。「東のほうが近いだろう」と、京を出て東の方角にいくうち、川原のあたりで夜が明けた。心細い限りではあったが、休み休みしつつ、粟田山のあたりまで行ってから、山深く入っていった。然るべきところを求めて歩くうち、北山科というところについた。見れば、山の斜面にそって、壊れがかった山荘が建っている、人が住んでいる気配はない、「ここで子を産んで、自分ひとりだけ出て行こう」女はこう思って、垣根を越えて中に入っていった。
放出の間(別棟)に上ると板敷きがところどころ腐っている。そこに横になって休んでいると、遠くより人が来る音がする。「ああ、人が住んでいたのか」と思っていると、遣り戸があいて、白髪頭の老婆が現れた。罵られるかと心配したが、やさしげに微笑んで、「どなた様がおいでですか」という。女はありのままに泣く泣く語ったところ、老婆は気の毒がって、「ここで産みなさい」といって、中に入れてくれたので、女はうれしくなり、「仏様が助けてくれるのだ」と思いながら中に入ると、程もなく子供が生まれた。
老婆は「めでたいことです、わたしは年老いてこんな田舎に住んでいますので物忌みもしません。七日ばかりゆっくりしていきなさい。」といって、お湯を沸かして子どもに湯浴みさせてくれたので、女はうれしくなり、捨てようと思った子がかわいくなって、乳を飲ませて寝かせつけたりした。
こうして二三日がたったあるとき、女が昼寝をしていると、老婆が現れ、寝ている子どもをみて、「ああうまそうだ」といった。驚いて老婆を見ると、たいそう恐ろしげな様子、「これは鬼に違いない、わたしも食われてしまう」そう思った女は、ひそかに身構えて逃げようと思ったのだった。
あるとき老婆が昼寝をしているすきに、女は子どもを童に背負わせ、自分は身軽ないでたちで、「仏様、おたすけ」と念じながら、その家を抜け出し、かつて来た道を走りに走って、程もなく粟田口まで戻った。そこからは川原沿いに行き、人家に立ち寄って着替えをし、夕刻主人の家に帰った。
利口な女ゆえ、このようなことをもしたのである。子どもは養子に出したそうだ。その後、この女は、老婆がどうなったか知らず、その老婆との間であったことを人に話すこともなかった。随分と年をとった後に、始めて語ったということだ。
これを思うに、旧いところには必ず物の怪が住んでいるものだ。だからあの老婆も、子どもをうまそうだなどといったのは、恐らく鬼であった証拠といえる。こんな場所に、一人で立ち寄るべきではないと、人びとは語り伝えたということだ。
この物語は、山に住む鬼である山姥に関連があるものだろう。山姥は一方では人を取って食う恐ろしい鬼であると考えられたが、他方では慈愛に満ちた山の神であるという側面を持っている。この物語は、そうした山姥の両義的な性格を、身寄りのない哀れな女の出産と関連付けながら述べていると考えられる。
女は誰ともわからぬ男の子を宿してしまったが、身寄りもなく、里に帰って出産することもかなわない、素性がわからぬ子なので、主人にも恥ずかしくて相談できぬ。そこで山の中に入っていって、そこで産み捨てようと思う。
産気づいてきたところで、童女とともに山中をさまよい歩き、一軒の小屋を見つけそこに入っていく。誰もいないと思っていると、老婆が現れて親切にしてくれる。そこで女は安心して子を産むのだが、その子とともに転寝をしているときに、老婆が子の寝顔をのぞきこんで「ああ、うまそう」とつぶやく。
ここで初めて女は老婆がおそろしい山姥であると気づくのだが、別に山姥によって危害を加えられるわけでもない。童女に子を負ぶわせて無事逃げることができるのだ。
この物語は、人食いの側面が強まる以前の山姥の姿を反映しているといえよう。中世以降の昔話の世界では、山姥はもっと恐ろしい姿で描かれることが多いのである。
今は昔、或る所に宮仕しける若き女有りけり。父母類親も無く、聊かに知りたる人も無かりければ、立ち寄る所も無くて、只局にのみ居て、「若し病などせむ時にいかがせむ」と心細く思ひけるに、指せる夫も無くて懐妊しにけり。然ればいよいよ身の宿世押量られて、心一つに歎きけるに、先づ産まむ所を思ふに、爲べき方無く、云ひ合はすべき人も無し。主に申さむと思ふも、恥かしくて申し出でず。
而るに、此の女、心賢しき者にて、思ひ得たりけるやう、「只我其の氣色有らむ時に、只獨り仕ふ女の童を具して、何方とも無く深き山の有らむ方に行きて、いかならむ木の下にても産まむ」と、「若し死なば、人にも知られで止みなむ。若し生きたらば、さりげ無き樣にて返り參らむ」と思ひて、月漸く近く成るままには、悲しき事云はむ方無く思ひけれども、さりげ無く持て成して、密かに構へて、食ふべき物など少し儲けて、此の女の童に此の由を云ひ含めて過ぐしけるに、既に月滿ちぬ。
而る間、暁方に其の氣色思えければ、夜の明けぬ前と思ひて、女の童に物どもしたため持たせて急ぎ出でぬ。「東こそ山は近かめれ」と思ひて、京を出でて東ざまに行かむとするに、川原の程にて夜明けぬ。哀れ、いづち行かむと心細けれども、念じて打休み打休み、粟田山の方ざまに行きて、山深く入りぬ。さるべき所々を見行きけるに、北山科と云ふ所に行きぬ。見れば、山の片沿ひに山荘のやうに造りたる所有り。旧く壞れ損じたる屋有り。見るに、人住みたる氣色無し。「ここにて産して我が身獨りは出でなむ」と思ひて、構へて垣の有りけるを超えて入りぬ。
放出の間に板敷所々に朽ち殘れるに上りて、突居て休む程に、奥の方より人來たる音す。「あな侘し、人の有りける所を」と思ふに、遣戸の有るを開くるを見れば、老いたる女の白髪生ひたる、出で來たり。「定めてはしたなく云はむずらむ」と思ふに、にくからず打ちゑみて、「何人のかくは思ひ懸けずおはしたるぞ」と云へば、女、有りのままに泣く泣く語りければ、嫗、「いと哀れなる事かな。只ここにて産し給へ」と云ひて、内に呼び入るれば、女、嬉しき事限り無し。「佛の助け給ふなりけり」と思ひて、入りぬれば、あやしの畳など敷きて取らせたれば、程も無く平らかに産みつ。嫗來て、「嬉しき事なり。己は年老いてかかる片田舎に侍る身なれば、物忌もし侍らず。七日ばかりはかくておはして返り給へ」と云ひて、湯などこの女の童に涌かさせて浴しなどすれば、女嬉しく思ひて、棄てむと思ひつる子もいといつくしげなる男子にて有れば、え棄てずして、乳打呑ませて臥せたり。
かくて二三日ばかり有る程に、女晝寢をして有りけるに、この子を臥せたるをかの嫗打見て、云ひける樣、「あな甘げ、只一口」と云ふと、ほのかに聞きて後、驚きてこの嫗を見るに、いみじく氣怖しく思ゆ。されば、「これは鬼にこそ有りけれ。我れは必ず食はれなむ」と思ひて、密かに構へて逃げなむと思ふ心付きぬ。
而る間、或る時に嫗の晝寢久しくしたりける程に、密かに子をば女の童に負はせて、我は輕びやかにして、「佛、助け給へ」と念じて、そこを出でて、來し道のままに、走りに走りて逃げければ、程も無く粟田口に出でにけり。そこより川原ざまに行きて、人の小家に立ち入りて、そこにて衣など着直してなむ、日暮して主の許には行きたりける。
心賢しき者なりければ、かくもするぞかし。子をば人に取らせて養はせてけり。 其の後、其の女、嫗の有樣を知らず。亦人にかかる事なむ有りしと語る事も無かりけり。さて、其の女の年など老いて後に語りけるなり。 此れを思ふに、さる旧き所には必ず物の住むにぞ有りける。されば、あの嫗も、子を「あな甘げ、只一口」と云ひけるは、定めて鬼などにてこそは有りけめ。これに依りて、さやうならむ所には、獨りなどは立ち入るまじき事なりとなむ、語り傳へたるとや。 
玄象の琵琶、鬼の爲に取らるる語 
[今昔物語集巻二十四第廿四]
今は昔、村上天皇の御世に、玄象という琵琶が突然なくなったことがあった。これは天皇家に代々伝わる大事な宝物であったので、天皇はたいそうお嘆きになり、「こんな大切な宝物を自分の代になくしてしまった」と悲しまれたのも、もっともなことであった。これは盗んだからといって、持っていられるようなものではなかったので、天皇に恨みがあるものが、持ち去って壊したのではないかと、思われたのであった。
この玄象を引く音が聞こえてきた。意外なことに思えたので、空耳かとその頃、源博雅という殿上人がいた。管弦の道を究めた人で、この玄象がなくなったことを人一倍嘆いていた。その博雅がある静かな夜、清涼殿にいると、南の方角から、も思ったが、よく聞けばやはり玄象の音である。
博雅はこの音を聞き誤ることもなかったので、怪しいとは思いながら、宿直姿のまま、靴だけを履き小舎人童一人を連れて、衞門の陣を出て南の方ほうへ歩いていった。音のするところはすぐ近くだろうと思いつつ歩き続けるうち、朱雀門に到った。だが音は更にさらに南の方角から聞こえてくる。
そこで朱雀門より更に南のほうへ歩いていきながら、「これは玄象を盗み出したものが、楼觀でひそかに弾いてひいているのであろう」とも思ったりした。だが楼觀についてみると、音は更に南の方ほうから聞こえてくる。そうこうするうち、羅城門にたどり着いた。
門の下にたって耳を傾けると、門の上で誰かが玄象を弾いている。博雅はその様子から、これは人ではなく鬼が弾いているに違いないと思った。音はいったん止んだかと思うと、また鳴りはじめた。
「これは誰が弾いておられるのだか、玄象が消えてしまって天皇は嘆いておられる、今夜清涼殿にいると、南の方角から音が聞こえてきたので、ここまで訪ねてきたのじゃ」
博雅がこういうと、音が止んで、天井から何かが降りてくるのが見えた。恐ろしくて立ち退いてみれば、玄象に縄をつけて下ろしているのだった。博雅は恐る恐るそれを手に取り、宮殿に持ち帰って、天皇に事情を話して献上した。天皇はたいそう関心なされ、「やはり鬼がとったのか」とおっしゃられた。他の人々はみな、博雅の行為を誉めそやした。
この玄象は公の宝として、今いまも尚なお伝えられている。まるで生きているかのようで、弾き方がまずいと、腹をたてて鳴らず、また手入れを怠っても、腹をたてて鳴らないのである。
あるとき内裏が火事で消失したことがあるが、その際誰が運ばずといえども、自分で庭に非難したということだ。まことに怪しいあやしいものだと、語り伝えられている。
源博雅は醍醐天皇の孫であるが、琵琶の名手として知られていた。その伝説上の人間が、玄象という、これもまた伝説上の琵琶の名器を、鬼の手から取り戻すという話である。
この物語の一つ手前に、博雅が琵琶の名人蝉丸から流泉、啄木という曲を習う話が出てくる。三年の間蝉丸の小屋に通って、やっとその曲を聴くことができたという気の長い話で、名人芸の伝承がたやすくないことが、語られている。
能では、蝉丸は延喜の帝つまり醍醐天皇の孫ということになっているが、それは蝉丸伝説が琵琶の名手博雅の伝説と混合した結果かも結果化もしれない。
この説話では、鬼から取り戻したといっておきながら、肝心の鬼の姿は現れない。玄象は何者かの手によって、下へ卸されるのだが、それが鬼の仕業であることが暗黙の了解事項になっている。
今は昔、村上天皇の御代に、玄象と云ふ琵琶俄かに失せにけり。此れは世の傳はり物にて、いみじき公の財にて有るを、此く失せぬれば、天皇極めて歎かせ給ひて、「かかるやんごと無き傳はり物の、我が代にして失せぬる事」と思ひ歎かせ給ふも理なり。此れは人の盗みたるにや有らむ。但し、人盗み取らば持つべきやう無き事なれば、天皇をよからず思ひ奉る者世に有りて、取りて損じ失ひたるなめりとぞ疑はれける。
而る間、源博雅と云ふ人、殿上人にて有り。此の人、管絃の道極めたる人にて、此の玄象の失せたる事を思ひ歎きける程に、人皆靜かなる後に、博雅、清涼殿にして聞きけるに、南の方に當りて彼の玄象を彈く音有り。極めて恠しく思へば、若し僻耳かと思ひて吉く聞くに、正しく玄象の音なり。博雅此れを聞き誤るべき事に非ねば、返す返す驚き恠しんで、人にも告げずして、宿直姿にて只一人、沓ばかりを履きて、小舎人童一人を具して、衞門の陣を出でて南樣に行くに、尚南に此の音有り。近きにこそ有りけれと思ひて行くに、朱雀門に至りぬ。尚同じ樣に南に聞ゆ。然れば朱雀の大路を南に向ひて行く。心に思はく、「此れは玄象を人の盗みて、□楼觀にして蜜かに彈くにこそ有りぬれ」と思ひて、急ぎ行きて楼觀に至り着きて、聞くに、尚南にいと近く聞ゆ。然れば尚南に行くに、既に羅城門に至りぬ。
門の下に立ちて聞くに、門の上の層に玄象を彈くなりけり。博雅此れを聞くにあさましく思ひて、「此れは人の彈くには非ず。定めて鬼などの彈くにこそは有らめ」と思ふ程に、彈き止みぬ。暫く有りて亦彈く。其の時に博雅の云はく、「此れは誰が彈き給ふぞ。玄象日來失せて、天皇求め尋ねさせ給ふ間、今夜清涼殿にして聞くに、南の方に此の音有り。仍つて尋ね來たれるなり」と。其の時に、彈き止みて、天井より下るる物有り。怖しくて立ち去きて見れば、玄象に繩を付けて下したり。然れば博雅、恐れ乍ら此れを取りて、内に返り參りて此の由を奏して、玄象を奉りたりければ、天皇いみじく感ぜさせ給ひて、「鬼の取りたりけるなり」となむ仰せられける。此れを聞く人、皆博雅をなむ讃めける。其の玄象、今に公の財として、世の傳はり物にて内に有り。此の玄象は、生きたる者のやうにぞ有る。つたなく彈きて彈きおほせざれば、腹立ちて鳴らぬなり。亦、塵すゑて拭はざる時にも、腹立ちて鳴らぬなり。其の氣色現はにぞ見ゆなる。或る時には、内裏に燒亡有るにも、人取り出ださずと云へども、玄象おのづから出でて庭に有り。此れ奇異の事共なりとなむ、語り傳へたるとや  
歌物語と鬼 
能「野守」は、大和国春日野に伝わる伝承をもとに、世阿弥が書いたものと思われている。鬼の能であるが、和歌をテーマにして上品な体裁になっている。
平安末期の歌論書「奥儀抄」(藤原清輔撰)によれば、雄略天皇が春日野に狩をした際、鷹が逃げたので、その行方を野守に追わせたところ、鷹の姿が池の水に映っているのを見て探し当てた。それ以来、この池は野守の鏡と呼ばれるようになった。新古今集に読み人知らずとある歌「箸鷹の野守の鏡得てしがな思ひ思はずよそながら見ん」は、この池を詠んだのであると。
世阿弥はこの野守を鬼に見立てた。古来日本人にとって鬼とは、死者の怨念が亡霊となった者をさしたが、世阿弥はそれを仏教的な荒ぶる鬼とした。ただその鬼は人間に危害を加える者としてではなく、池を守る精霊のような者として解釈し直されている。
曲の前半では、野守の翁が池にまつわる伝承を語り、後半では塚から鬼が現れて勇壮に舞うというもので、構成は単純であるが、小気味よいテンポで演じられれば、なかなか見所に富んだ作品である。
舞台にはまず、羽黒山の山伏を名乗るワキが現れる。舞台後方には塚の作り物が据えられている。(以下、テクストは「半魚文庫」を活用)
ワキ次第「苔に露けき袂にや。苔に露けき袂にや。衣の玉を含むらん。
ワキ詞「これは出羽の羽黒山より出でたる山伏にて候。われ大峰葛城に参らず候ふ程に。この度和州へと急ぎ候。
道行「この程の。宿鹿島野の草枕。宿鹿島野の草枕。子に臥し寅に起き馴れし床の眠も今さらに。仮寝の月の影ともに。西へ行方か足曳の。大和の国に着きにけり。大和の国に着きにけり。
詞「急ぎ候ふ程に。和州春日の里に着きて候。人を待ちてこのあたりの名所をも尋ねばやと存じ候。
そこへシテの翁が現れ、額田王の春日野の歌をもじって、自分が野守であることを紹介する。シテのいでたちは、笑尉の面に水衣である。
シテ一声「春日野の。飛火の野守出でて見れば。今幾程ぞ若菜摘む。
サシ「これに出でたる老人は。この春日野に年を経て。山にも通ひ里にも行く。野守の翁にて候ふなり。有難や慈悲万行の春の色。三笠の山に長閑にて。五重唯識の秋の風。春日の里に音づれて。真に誓も直なるや。神のまに/\行きかへり。運ぶ歩もつもる老の。栄行く御影仰ぐなり。
下歌「唐土までも聞えある。この宮寺の名ぞ高き。
上歌「昔仲麿が。昔仲麿が。我が日の本を思ひやり。天の原。ふりさけ見ると詠めける。三笠の山陰の月かも。それは明州の月なれや。こゝは奈良の都の。春日長閑けき気色かな。春日長閑けき気色かな。
ワキが、そこにある池のいわれを尋ねると、翁は野守の鏡だと答える。
ワキ詞「いかにこれなる老人に尋ぬべき事の候。
シテ詞「何事を御尋ね候ふぞ。
ワキ「御身は此処の人か。
シテ「さん候是は此春日野の野守にて候。
ワキ「野守にてましまさば。これに由ありげなる水の候ふは名のある水にて候ふか。
シテ「これこそ野守の鏡と申す水にて候へ。
ワキ「あら面白や野守の鏡とは。何と申したる事にて候ふぞ。
シテ「われら如きの野守。朝夕影を映し申すにより。野守の鏡と申し候。又真の野守の鏡とは。昔鬼神の持ちたる鏡とこそ承り及びて候へ 
ワキ「何とて鬼神の持ちたる鏡をば。野守の鏡とは申し候ふぞ。
シテ「昔此野に住みける鬼のありしが。昼は人となりてこの野を守り。夜は鬼となつてこれなる塚に住みけるとなり。されば野を守りける鬼の持ちし鏡なればとて。野守の鏡とは申し候。
ワキ「謂を聞けば面白や。さてはこの野に住みける鬼の。持ちしを野守の鏡とも云ひ。
シテ「又は野守が影を映せば。水をも野守の鏡と云ふ事。
ワキ「両説いづれも謂あり。
シテ「野守がその名は昔も今も。
ワキ「変らざりけり。
シテ「御覧ぜよ。
地上歌「立ち寄れば。げにも野守の水鏡。げにも野守の水鏡。影を映していとゞなほ。老の波は真清水の。あはれげに見しまゝの。昔のわれぞ恋しき。実にや慕ひても。かひあらばこそ古の。野守の鏡得し事も年古き世の例かや。年古き世の例かや。
ワキはなおも池のいわれについて訪ね、歌に歌われた野守の鏡とは、この池のことを言うのかと聞く。
シテはこれがあの野守の鏡の池であり、自分こそはここに住む鬼なのだと身分を明かす。そうして、鏡を見せてやるから待っていろと言い捨てて、塚の中に消える。
ワキ詞「いかに申すべき事の候。箸鷹の野守の鏡と詠まれたるも。この水につきての事にて候ふか。
シテ「さん候ふ此水につきての謂にて候。語つて聞かせ申し候ふべし。
ワキ「さらば御物語り候へ。
シテ詞「昔この野に御狩のありしに。御鷹を失ひ給ひ。彼方此方を御尋ありしに。一人の野守参りあふ。翁は御鷹の行方や知りてありけるぞと問はせ給へば。かの翁申すやう。さん候これなる水の底にこそ御鷹の候へと申せば。何しに御鷹の水の底にあるべきぞと。狩人ばつと寄り見れば。げにも正しく水底に。
地「あるよと見えて白斑の鷹。/\。よく見れば木の下の水に映れる影なりけるぞや。鷹は木居に在りけるぞ。さてこそ箸鷹の。/\。野守の鏡得てしがな。思ひ思はず。よそながら見んと詠みしも。木の鷹を映す故なり。真に畏き時代とて。御狩も繁き春日野の。飛火の野守出であひて。叡慮にかゝる身ながら老の思出の世語を。申せばすゝむ涙かな/\。
ロンギ「げにや昔の物語。聞くにつけても真の野守の鏡見せ給へ。
シテ「思ひよらずの御事や。それは鬼神の鏡なれば。いかにして見すべき。
地「さてや鏡のあり所。聞かまほしき春日野の。
シテ「野守といふもわれなれば。
地「鏡はなどか。
シテ「持たざらんと。
地「疑はせ給ふかや。鬼の持ちたる鏡ならば。見ては恐れやし給はん。真の鏡を見ん事は。かなふまじろの鷹を見し。水鏡を見給へとて。塚の内に入りにけり。塚の内にぞ入りにける。
中入では、春日野の里人に扮した間狂言が池のいわれや野守の鏡について説明する。するとワキの山伏は、法力を以て鬼の奇特を見んと、塚に向かって数珠をすりつづける。
ワキ「かゝる奇特にあふ事も。これ行徳の故なりと。思ふ心を便にて。鬼神の住みける塚の前にて。肝胆を砕き祈りけり。われ年行の功を積める。その法力の真あらば。鬼神の明鏡現して。われに奇特を見せ給へや。南無帰依仏。
後シテは塚の中から鬼の姿で現れる。手に持つ鏡の作り物は大きなもので、この作品にのみ使われる特別なものである。
後シテ出端「有難や天地を動かし鬼神を感ぜしめ。
地「土砂山河草木も。
シテ「一仏成道の法味に引かれて。
地「鬼神に横道曇なく。野守の鏡は現れたり。
ワキ「恐ろしや打火輝く鏡の面に。映る鬼神の眼の光。面を向くべきやうぞなき。
シテ「恐れ給はゞ帰らんと。鬼神は塚に入らんとす。
ワキ「暫く鬼神待ち給へ。夜はまだ深き後夜の鐘。
シテ「時はとら臥す野守の鏡。
ワキ「法味にうつり給へとて。
シテ「重ねて数珠を。
ワキ「押しもんで。
地「台嶺の雲を凌ぎ。台嶺の雲を凌ぎ年行の功を積む事。一千余箇日。屡々身命を惜まず採果。汲水にひまを得ず。一矜伽羅二制多伽。三に倶利伽羅七大八大金剛童子。
ワキ「東方。
(舞働)勇壮な仕草をして舞ったのち、舞働があって、キリの部分へと高まりながら進んでいく。
シテ「東方。降三世明王もこの鏡に映り。
地「又は南西北方を映せば。
シテ「八面玲瓏と明かに。
地「天を映せば。
シテ「非想非々想天まで隈なく。
地「さて又大地をかがみ見れば。
シテ「まづ地獄道。
地「まづは地獄の有様を現す。一面八丈の浄玻璃の鏡となつて。罪の軽重罪人の呵責。打つや鉄杖の数々。悉く見えたりさてこそ鬼神に横道を正す。明鏡の宝なれ。すはや地獄に帰るぞとて。大地をかつぱと蹈みならし。大地をかつぱと蹈破つて。奈落の底にぞ入りにける。
春日野は、いまでも春日大社周辺に広がる公園として存在しているが、この作品が取り上げたような池は残っていない。だだっ広い公園のあちこちに、鹿の姿を見るのみである。 
鬼退治 (京丹後の伝説・民話)  
推古天皇のころ、丹後の国三上ヶ嶽(現在の大江山)では英胡・軽足・土熊(土車)の3匹の鬼が首領となり、人々を苦しめていました。朝廷は用明天皇第三皇子(聖徳太子の異母弟)の麻呂子親王を大将軍に任命し、鬼の討伐に向かわせました。その道中、戦勝祈願のため大社に立ち寄ると、伊勢の神の化身である老人がどこからともなく現れて、「この犬が道案内をいたします」と白い犬を差し出しました。
やがて鬼との合戦が始まりました。『齋宮大明神縁起絵巻』【いつきのみやだいみょうじんえんぎえまき】には鬼に斬りかかる親王の姿や、鬼に噛みつく犬の姿が描かれています。山の奥深くに逃げ込む鬼。しかし、白い犬が持っていた鏡が鬼たちを照らし見つけ出し、英胡と軽足は官軍に討ち取られ、土熊は現在の竹野で生け捕りにされ、未代の証拠として、丹後の岩に封じ込められました。その岩が現在の立岩だと伝えられています。
親王は、鬼の平定は神仏のご加護によるものだと深く感謝し、7体の薬師如来像を彫刻し、7つの寺に納めたということです。 
仏と鬼が同居 
節分は毎年お話しています様に、心の中には鬼が住んでおり、同時に仏も鬼と同居しています。その力関係は、例えば男女が結婚して日々生活していくうちに、どちらかが主導権を握ります。ほとんど同じ力という事は少なく、どちらかに片寄るものです。心の中の鬼と仏、どちらの力が強いかにより皆様の幸せの度合いも変わってきます。しかし、この力の差を決めるのは自分自身の日常の行為に掛かっています。どの様にすれば仏の力の方が強くなるのか?皆様は先祖の供養を先祖や水子等、死者の霊魂を成仏に向かわせたいから行っていると思います。これに対し、御神仏は死人に対してだけではなく、今現世で生きている私達も、自分自身で成仏出来る様に日々行動する事が大切である、とおっしゃいます。子孫がいない人や、将来絶家になるであろう事を想定し、他人を頼りにするのではなく、自分自身で成仏に向かう為に手をあわせる心を持つ事が大切です。例えば自分を省みず、他人ばかりを見て人を罵倒したり、他人の責任を追及したりしますが、自分自身の心中に住むみ仏に礼拝する心を持ちだすと、自分の行為が正しくない時、自分自身を拝む事が恥ずかしくなります。毎日、自分自身の心を見つめ、反省し懺悔し、自分を正していかないと、なかなか自分自身を拝むという事は出来ないものです。この様に成仏とは死人に対しての言葉だけでなく、本来の人間の姿を考えると、生きているうちに成仏に近づく事が出来る様に努力をする事が大切です。
例えばおじいさんが亡くなりました。「成仏していますか?」と聞くのは少し違います。成仏とは仏に成る事であり、人が死んだら仏になるのではなく、ただの霊魂になるだけです。仏とは真に解脱された方であり、お釈迦様やお大師様のような方が仏様なのです。残された子孫が一生懸命供養して御神仏のお力をお借りして成仏に導きます。しかし全然信仰心のない方は、あの世へ行って成仏するのに相当の年月が掛かります。従って生きている今の行為が大切であり、この一瞬一瞬の積み重ねがあの世へ行った時、成仏に導いて頂けるのです。あの世を信じない人がいきなりあの世に行っても成仏出来ません。御神仏等いないと思っているのでうろたえ、存在を認めるところから始まります。今生きている元気な時に、御神仏の存在を信じ、霊界を信じて正しい信仰を続け、魂の向上の為に修行し、努力する事が大切です。その結果として心の中の鬼を退治する事が出来るのです。本当の意味での「鬼は外」を心がけて下さい。 合掌 
「般若」って、鬼の面? 
「“般若”ってなんですか?」と質問すると、きっと「鬼」とか「鬼の面」という答えが返ってくることでしょう。ところが、本来は仏教語で、「仏の智慧」のことなのです。
昔、いつの時代かは分かりませんが、ある所に能面作りの男がいたそうです。その能面師は優秀な人でしたが、あるとき自分の力の限界に達し、行き詰まったそうです。
「いくら頑張ってももうこれ以上の能面は作ることができない。何とか神仏に願をかけてもすばらしい能面を作り上げたいものだ。」
そう思った能面師は、自分の名を「般若」…つまり「仏の智慧」と名乗って、更に能面作りに励んだそうです。そうしたところ、努力の甲斐合ってか、あれほど苦しんでいたスランプを脱出し、すばらしい能面を完成させるようになったそうです。その中でも、とくに鬼の能面は、彼の右に出るものはいないほどの最高の傑作だったということです。そして、何時の間にか「般若坊の能面はすばらしい。」との評判になりました。
「般若坊の作る鬼の面はすばらしい。」「般若の鬼の面はすばらしい。」「般若の面(=鬼の面)はすばらしい。」ということで、般若の面=鬼の面と、同じ意味の言葉になったようです。
ですから、「般若」は「仏の智慧」のことであって、本来の意味は「鬼の面」ではないのです。 (今はもう「鬼の面」で定着してしまっておりますが…。)
このように、本来の重要な仏教語の意味が、何時の間にか別の意味に捉えられていることが多いのです。
たとえば、別項の「お布施」などもそうですね。 …「坊主」等は、あまり良い捉え方はされておりません。
ちなみに、「挨拶」「我慢」「四苦八苦」「大衆」「愛嬌」「有難い」「安心」「覚悟」「行儀」「工夫」「玄関」「現在」「差別」「邪魔」「出世」「正直」「実際」「食堂」「人事」「絶対」「醍醐味」「知識」「道具」「道理」「秘密」「愚痴」「平等」「非道い」「不思議」「蒲団」「分別」「迷惑」「律儀」「悪口」「融通」「不覚」「道場」「堂々」…等等。
全て仏教語です。私達日本人は、以前から仏教の言葉や生活に自然に馴染んで育ってきていたのです。
でも、言葉だけならまだしも、仏教自体も今では「葬式仏教」と陰口をたたかれる始末。よほどあくどい坊主や寺が、本来のイメージ? いや意味を変えてきてしまったのかもしれませんね。
でもでも、本来の坊主や仏教や寺は、元々そういう幻滅をもたらすものではありません。是非この機会に、多少臭いを嗅いだり、かじったり、足を踏み入れたりしていただきたいと思います。哲学、宗教、科学、色々な教えを勉強するのもいいものです。色々味わってみてはいかがでしょうか。 
前鬼山の伝説 
前鬼山は役行者の弟子だった前鬼・後鬼夫婦に「後世の大峯修行者のために、この地にとどまりて子孫の計を建て、峰中を守護し、修行者を誘導せよ」と言い残したと伝えられ、その子孫が住み継いできたのだそうです。五鬼継、五鬼上、五鬼童、五鬼熊、五鬼助の五家が連綿として山中に住み継いだとか。明治に神仏分離令と共に修験道廃止令が出てからはただ五鬼助家だけが小仲坊を守って残っているのです。 
人食い鬼と十団子
伝承によれば、天安年間(八五七−八五九)の頃、宇津ノ谷峠の奥に梅林院という寺があった。そこの住職に腫れ物ができ、時々小僧に血膿を吸わせていたところ、人の血肉の味を覚えた小僧は人を食う鬼になり、峠に住み着いて往来の人々を悩ますようになった。そのため、峠道を通る人も絶えてしまった。
その後、貞観年間(八五九−八七七)に在原業平が東国下向の勅命を受けて、この峠道を通ることになった。そこで、業平は下野国(栃木県)の素麺谷の地蔵に祈願して、この鬼を退治してくれることを願った。すると、地蔵は旅の僧となって宇津ノ谷峠にやって来た。そして、人間の姿に化けた鬼に向かって「正体を現せ」と言うと、鬼は六メートル位の姿を現した。そこで、僧が「お前の神通力は大したものだ。では、小さくなることができるか」と言うと、鬼は小さな玉になって僧の手のひらに乗った。僧はそれを杖でたたき、「今、お前は成仏した」と言いながら、十粒に砕けた鬼を飲み干した。以後、街道に鬼は出なくなったという。
一方、この地蔵は宇津ノ谷峠に移り、旅人の安全を見守ることになった。また、人々は昔の難事を忘れないために十団子を作り、それを食べたり、災難除けのお守りにしたりするようになったという。大永二年(一五二二)に連歌師の宗長が「むかしよりの名物十団子」と記していることからも、十団子の伝説と結び付いた峠の地蔵が、かなり古くから祀られていたことがうかがわれる。
現在、十団子は縁起物として、縁日の八月二三日と二四日に慶竜寺で売られている。また、この日には初盆供養のために遠近から多くの人々が参詣に訪れる。かつては地元の青年団が念仏供養を行ったというが、今は僧侶による供養である。だが、子供たちが花や線香を売る風習は、昔から変わることなく続いている。
ご詠歌 極楽の道をとうげの蔦の道 わけて尊き御堂なりけり 
病妻 鬼と化す 
江戸の中橋に住まいする庄右衛門という者の妻が、夫への嫉妬が積もり積もって、いつしか病みついた。日数を経るうちいよいよ衰えはて、もはや死も間近い容態となったので、夫もそばを離れず看病した。
そんなある夜、突然、妻ががばと起き上がり、「ええい、腹立たしい」と叫んで、両手の指をわが口に入れるや横に引いた。口は一気に耳の付け根まで裂け、髪が逆立ち棕櫚の葉のようなのを振り乱して、夫に襲いかかった。夫はとっさに前にある布団を投げかけて防ぎ、むんずと組み付くと、「みんな、来てくれ」と助けを呼んだ。下人どもも、隣家の者も駆けつけた。そこらの布団をかぶせ、五六人折り重なって、「えいや、えいや」と声を合わせ、ついに押し殺した。
殺しはしたものの、布団を取り除けるのが恐ろしい。布団ごと古い長櫃に詰め込み、寺に送った。寺の僧が髪を剃ろうと取り出してみると、死骸は眼をくわっと見開き、口は耳まで裂け、髪は絵に描いた悪鬼のようだ。怖れ慄いて蓋を閉め、長櫃のまま焼場へ送って火葬にした。
その後、夫も患って、百日ばかり後に死んだ。 
鬼面山 
いつの頃のことか、鬼面山という巨漢の相撲取りがいた。身の丈は二メートルを超え、体重百五十キロあまり、もちろん力も人並外れて強かった。この鬼面山が、江戸での相撲興行を終えて、どこかの国へ向けて旅立った。
旅には大勢の弟子も同道したが、道の途中、所用のことがあるからと言って、鬼面山は独りで立ち寄り先に向かった。行くのは山越えの道で、日暮れになると狼が出て旅人を悩ますという話だったけれども、少し酒に酔った勢いも手伝って、土地の人が止めるのも聞かないで出かけた。もとより大変な大男で、普通の人の十人や二十人よりは強かろうと思われたから、人々も無理に押しとどめなかった。ところが明くる朝になっても、鬼面山は戻ってこなかった。皆が心配して捜しに行くと、山からさらに山に分け入る道筋に小高いところがあって、そのあたりに狼が一頭、切り殺されて転がっていた。やはり狼に襲われたかと思って、さらに進むと、また打ち殺した狼の死骸があった。引き裂いたのもあった。そんな死骸が五つ六つもあっただろうか。そこらに草履や竹笠も落ちていた。しかし、鬼面山の姿はどこにもなかった。周辺を走り回って捜しても、血の滴りなどが少しずつ見つかるばかりで、その人の行方は知れない。「さては狼に食われてしまったのだ」と人々は言い合った。
これほどの猛者がむざむざ命を落としたからには、きっと数知れぬ狼が集まってきたのだろう。五頭や六頭は切ったり引き裂いたりもできようが、次々に襲いかかられ、しだいに弱り疲れ果てて、ついに食い殺されたにちがいない。その凄まじく無惨な場面を思い描くと、心が痛む。じつは私も、鬼面山という相撲取りを見たことがある。体重百五十キロと言われ、四谷に住んでいた。この話の鬼面山は、四谷の力士の師匠だろうか、あるいは師匠の師匠に当たるのだろうか。 
縊鬼 
麹町に屋敷をもつ組頭某の組内に、よく酒を飲み、落とし話や物真似などを得意とする同心がいた。春の日永の時分、組頭宅では同役の寄合があって、夕刻からは酒宴が予定され、その同心にも『接待の手伝いに来るように』と言って約束してあったのに、なかなか姿を見せなかった。皆がその芸を見るのを楽しみにして待っているのに来ないので、宴席がたいそう興ざめしてきたころ、やっと慌しく門をくぐって入ってきた。
「やむをえない用事が出来ました。今夜の手伝いは辞退させてください。門前に人を待たせておりますゆえ、これにて……」そう言ってすぐに立ち帰ろうとするのを、屋敷の家来が引き止めた。「まず主人および客人がたにお伝えするので、その間、待たれよ。」同心は、大変困った顔をしながらも、従うしかないと思った様子だった。
主人は家来の知らせを聞くと、「お頭衆が集まって、先刻来ずっと待っていたのだ。たとえ断れない急用であっても、顔も出さずに帰るということがあるか。」と怒って、無理に宴席へ呼び出し、何の用かを尋ねた。すると同心は、「それというのが、ほかでもありません。食違御門内にて首を吊る約束をいたしましたので、やむをえず……」と答えて、ひたすら退出したいと懇願した。
主人も客も怪しんだ。「どうやら乱心と見た。こういうときは、無理にでも酒を飲ますのがよい。」そこで座の中央へ引き出し、まず大杯で続けざまに七八杯飲ませた。「これにてお許しください。」と言うのを、さらに七八杯飲ませたところで、主人が声をかけ、「例の声色をやってくれ。」と所望すると、やむをえず一つ二つの芸を披露して、また退出しようとするところに、主人も客もそれぞれ盃を与えたから、見るからに酩酊してきた。
主客とも面白がって、さらに代わる代わる酒をすすめながら様子をうかがっていると、二時間ばかりたった頃には、退出を請うことは忘れたようで、乱心のふうも見えなくなった。
そのとき、家来がやってきて報告した。「ただ今、食違御門内で首吊り自殺があったとのこと。人を出すべきでしょうか。」聞いて主人は、「さては、人に取り憑いて首を吊らせる縊鬼というものが、この者を殺すことができなくて、ほかの者の命を取ったとみえる。もはやこの者の縊鬼は離れた。さあ、聞かせてくれ。おぬし、ここへ来る前、何があったのだ。」
問われて同心は、「はあ、まるで夢のようではっきりしませんが、食違門まで来たのは夕刻前でした。見知らぬ人がいて、『ここで首を吊って死ね』と言います。なぜか拒めない気がして、『わかりました。吊りましょう。しかし、今日は組頭のところで手伝いをする約束になっています。そちらをお断りしたうえで吊ります』と言うと、その人はこちらの門まで付いてきて、『早く断ってこい』と言いました。その言葉は、背きがたい義理があるもののように聞こえたのです。なぜそうだったのかは全くわかりません。」などと話した。
「今も首吊りする気があるか。」と尋ねると、首に縄をかける真似をしながら、「恐ろしや、恐ろしや。」と首を振った。皆、『先約を重んじたことと、酒を飲んだこととの徳によって命を助かったのだ』と言い合ったそうだが、こんなことも時にはあるものだろうか。 
勝鬼坊 
豊前ノ国 彦山の山伏に、勝鬼坊という者がいた。天正年間のこととかいう。勝鬼坊は罪に問われ、山伏の掟によって石子詰(いしこづめ)の刑に処せられた。
その生き埋めの塚は、道の傍らにある。通りかかった人が憐れんで一遍の念仏を唱え、回向をなすと、勝鬼坊は地中で法螺貝を吹き鳴らし、「ありがとう、ありがとう」と礼を言う。処刑が行われたのは随分な昔なのに、今も律儀に答礼するとのことだ。 
古墳女鬼 
江戸松前町家主吉兵衛のせがれ、五郎吉こと幸次郎、二十歳。この者は十年前の文化元年春、日本橋通り二丁目善兵衛の店(たな)、忠兵衛方に年季奉公に来て、今日まで勤めております。
一昨年の春のことかと思われます。幸次郎が堺町に勘三郎の芝居を見物にまいりましたところ、神田あたりに住まいするという十六七歳くらいの娘みよと同じ桟敷になりました。このときは、見知らぬ者どうしでもあり、芝居が終わるとともに別れただけでございます。その後、同じ年の秋と思われますが、幸次郎がまた勘三郎の芝居を見物に出かけました。すると、みよもまた芝居に来ており、やはり同じ桟敷に入り合わせました。しかしながら、このときも前回同様にして別れ、以後、まったく出会うこともなかったのでございます。
さて、幸次郎は今年八月ごろより疱疹を患い、気分悪く臥せっておりましたところ、同月二十六日の深夜、みよが幸次郎の寝ている枕元に来てあれこれ話などいたし、そのときは、夢でも見ているかのようだったそうにございます。ところが、翌二十七日から二十九日まで、毎晩みよが通って来ます。その不思議さに、住処を確かめようという気になり、幸次郎はあらかじめ支度をして待っておりました。みよが帰るとき、小用を装って店を出ると、みよに同道してどこまでも行きました。やがて浅草今戸町の某寺の垣を越え、墓場にまいりました。みよはそこで、石塔に水を手向けるとともに、ふとかき消えてしまいました。しかたがないので、ここまで来た証拠にと、寺が垣根にしていた卒塔婆を一本引き抜き、それを担いで帰ることにいたしました。途中、浅草田町にて夜が明けました。煮売酒屋に立ち寄って酒膾を買い、さらに堺町三味線屋の隣の蒲鉾屋で蒲鉾二枚を買い求め、主人方に帰り着きました。なお、同道する途次、幸次郎がいろいろ話しかけましたが、みよは受け答えしなかったそうにございます。
何かと取り沙汰されている件につき、当人を呼んで問いただしましたところ、このように申しました。以上、ご報告申し上げます。文化十年九月  
長善寺の霊鬼 
牧山(まぎやま)は陸奥の牡鹿郡に属し、山頂には長善寺という寺があった。長善寺の住職の永存は長州の生まれで、姪が孤児になったのを憐れみ、良縁を得て嫁に行くまでのつもりで、寺で養育していた。牧山の麓には、湊という村があった。笹町新左衛門という人の知行所で、笹町自身その村に住んでいた。
天文年間、永存は笹町と、山林の境界をめぐって争った。久しく決着を見ず、ついに訴訟沙汰となると、笹町は、村人に連署させた『山はもともと村に属する』との文書を提出した。さらに笹町は、永存は姪と姦淫していると訴え出た。これによって郡役所は永存を厳しく糾弾し、国家老の裁きで、藩の流刑地である江島(えのしま)に配流と決した。永存が悲憤慷慨したのは言うまでもない。
「山林の争いの件はともかく、姪を犯したなどというのは甚だしい誣告だ。嘘で人は騙せても、天は真実を知っている。この怨恨を晴らさずにおくものか。笹町を呪詛して、必ずや滅ぼしてみせる。もし姪を犯したのがまことなら、呪ってもなんの験もないだろう。無実であるからこそ、偽りで陥れた敵を呪い殺すことができるのだ」
それからは毎日、江島の海岸へ出て荒波に入り、呪詛することを止めなかった。みずから手指を打ち砕いて火を灯したので、やがて十指は全て燃え尽きた。
何年もの時が経った。石巻から江島に渡ってきた人があったので、永存が笹町の安否を尋ねると、その人は何気ないふうで言った。
「笹町どのなら、いたってご健勝で」「えっ、ほんとに?」「はい、ご家族もみなご無事でおられます」永存は激怒した。
「うぅ、くやしい。生きて笹町を苦しめ殺すことができないなら、死んで鬼となって恨みを報いてやる」これより後、常に自らの死を祈り、心も身体も徐々に衰弱して、いよいよ死のうというとき、島民にこう告げた。「死んだら、我が骸を逆さまに埋めてくれ。もしそうしなかったら、きっと祟ってやる」島民の長はこの遺命に従わず、ふつうに埋葬したが、家に帰るやいなや急病を発して倒れた。それで驚き恐れて、言われたとおりに埋め直した。二、三十日たつと、笹町の屋敷の裏山に、夜ごと光り輝くものが出現した。近くからよく見ると、それは逆さまになって浮遊する僧だった。
まもなく笹町新左衛門が病死した。新左衛門の子の彦三郎があとを継ぐも、これまた不治の病にかかって死んだ。ほかに男子はなかったので、中嶋氏の弟の九左衛門を婿養子として家を継がせた。その九左衛門は委細あって他国へ逃亡をはかり、藩主の命で捕縛されて、兄の中嶋氏方に拘禁された。これ以前に、彦三郎の母、祖母、幼い女子など、みな相次いで死んでおり、ここにいたって笹町の家は滅亡したのである。九左衛門もまた死んだ。湊村は遠山帯刀が賜ったが、やがて遠山も罪を得て、ついに湊村自体が消滅した。 
羽州の鬼 
出羽の国の小佐川というところに近づいたのは、もう午後四時をまわるころで山の色も暮れ、さらに昨日からしとしと雨が降っているので、日影もさだかでない。次の宿場までは十二キロもあるので、とても日のあるうちには着けそうになかった。
しかし、雨が降っているので暗いが、意外に時刻はまだ早いのではと思えたから、行き会った土地の老人に、「次の宿場まで行く間に、日は暮れないだろうか」と問うと、老人は眉をひそめ、「道を急げば着けるでしょうが、見れば遠国の人のようだ。最近このあたりには鬼が出て、人馬の区別なく取って喰う。ここまでの道にも鬼が出る場所があったのに、喰われなかったのは運がよかったのだ。ここから先はもっと鬼が多い。旅ができるのも命あってのこと。何をお急ぎか知らないが、日暮れに道を行くのは危ないことだ」と言う。
私も道連れの養軒も、これを聞くなり笑ってしまった。
「いくら僻地へ来たからといって、人を脅かすにもほどがある。鬼が人を取って喰うなんて、昔話の本にはあるが、今の時代、三歳の幼児でも信じない。その鬼は青鬼か赤鬼か、虎の皮のフンドシは古いのか新しいのか」
などと冗談を言い合いながら歩いたが、やっぱり時刻がはっきりしないのが気になったから、みすぼらしい藁葺の家があったので、「日のあるうちにむこうの宿場に行きつけますか」と尋ねた。すると主は驚いた様子で、「旅の人は大胆なことを言う。この先はやたらに鬼が多くて、無事に行き過ぎることはできない。昨日もこの里の八太郎が喰われた。今日も隣村の九郎助が取られた。ああ恐ろしい」と、時刻のことなど答えもしない。
「同じように人を驚かすものだな」と笑ってその家を出て、また人に問うと、これまた鬼のことを言う。不審に思いつつも、やっぱり可笑しかったが、三人まで同じように恐れるのは、どこかに本当のことがあるような気がして、「養軒、どう思う。話に不審の点がある。日も暮れかかっているようだ。雨がぼそぼそ降って景色も心細い。この先急ぐわけでもない旅だ。人里から離れて夜になってはまずいから、さらに尋ねても鬼のことを言うのだったら、今夜はこの里に泊まろう」養軒も同意して、それから家ごとに入って尋ねるに、口々に鬼のことを言って、舌を震わせて恐れるのであった。「さては、嘘ではないぞ。故郷を出て三百里にも及べば、こんな奇怪なことにも遭うのだ。それならここで宿をさがそう」と、あちこち宿を頼んで、やっと六十歳過ぎの老婆と二十四五の男の住む家に泊まることができた。
足をすすぎ、囲炉裏で木賃の飯を炊きながら、老婆に鬼のことを尋ねると、老婆は恐れおののいて、何事かを懸命に言う。僻地の女の言葉は容易に聞き取りがたく、何を言っているのかわからない。
「では、その鬼はどんな形ですか。額に角があって、腰に虎の皮のフンドシをしていますか」と聞くと、若い男のほうが首を振って、「そんなものではないよ」と言う。
「では、どんなものですか」「犬のようなものだ。ちょっと大きいが」「背が高くて口が大きいですか」「そう」「それは、狼ではありませんか」「狼ともいうらしいね」養軒と私は顔を見合わせ、「そいつは恐ろしい……」と叫んだが、先程来のいろんな人の話がにわかに真実味を帯びて、今さらながらに恐ろしいこと限りない。
だんだん詳しく聞くに、この小佐川の人も六七人喰い殺され、昨日もこの向こうのなんとかの関の者に飛びかかったが、豪勇の男だったので狼に組みつき、力の限り戦ってとうとう狼を組み伏せた。武器は何ももっていなかったが、やっと傍らの石を拾い、狼の頭を叩き砕いて殺した。しかしわが身にも重症を負っていて、家に帰りついた後死んだなど、最近の恐ろしい出来事を次々に語るのであった。
狼が狂犬病にかかって、そのせいで白昼に数十頭の群れで出没し、人を害するのであろうか。こんな辺境まで来て獣にやられて命を落とすのは、なんとも残念だと思うにつけても、その夜は目もあわない。
ここから引き返すのも危ないし、進むのもなお危ない。かといって、この里に住み着くわけにもいかない。盗賊相手なら衣服でも与えればすむ。仇討ちなら知恵をめぐらせて対抗しよう。ところが相手は獣である。そんなものに勇気をふるって立ち向かうのは、虎を手打ちにしようとするに似て、思慮分別ある者のすることではない。
そうはいっても、当面の問題をどうしよう。明日だけのことではなく、行く先は山また山の道であり、越えていく途中にどんな猛獣が出るかしれないと、そんなことまで心配するうち、やがて夜が明けた。
なかなか出立の決断ができない。
宿の男を呼んで、「この里に馬がいたら、二頭借りてください。賃銭は十分払います」とひたすら頼むと、「駄賃馬は、このあたりにはないが」などとぶつぶつ言いながら、それでも出かけて、まもなく馬二頭を次の宿場までということで借りてきてくれた。
その上、この近隣に泊まっていた秋田へ向かう商人二人が、やはり鬼を恐れて馬二頭借りていたので、私たちの話をすると、『よい道連れだ。同道してもらえないものか』と依頼してきたという。
「これはよい味方を得た。こっちから頼みたいくらいだ」と私たちも言って、それから商人たちと申し合わせ、二人ずつの四人に馬四頭、馬子四人、手に手に長い棒を携え、鹿狩りにでも出かけるようないでたちで出立した。
小唄を歌いながら多人数の勢いで賑やかに進んだので多少は安心しながら、『昨夜心配したほどでもない。しかしもし出てきたらどうしよう』と四方に目を配る。幸い無事に向こうの宿場に着いた。
話に聞いた場所では、昨日石で叩き殺されたという狼が、顎だけになって転がっていた。残りの体はどうなったのだろう。見るからに恐ろしいことである。
この道筋十二キロほどには人家もなく、背の高い芝の野原で、その中に細い道筋がたくさんある。狂犬病がはやっていなくても狼が出る土地と思われる。その先の宿場宿場も二人の商人と組になり、みな馬に乗って用心して進んだが、二十キロ以上行くと鬼の話も出なくなった。
まったく、人を取って喰うものなので、そのあたりでは狼を鬼というのだ。古風な呼び方である。時がたった今、思い出せば滑稽な話だが、その時の不安は、とても言葉に尽くせないものであった。 
島原殺鬼 
去年のことだ。肥前島原の北有村に住む二十七歳の農夫は、幼いときから癲癇で苦しんできた。ある人が『死人が火葬になる時、飯を握ってその火中に入れて焼き、それを食べれば病気が治る』と教えたので、両親が作って与えたけれども、最初は『厭な臭いがする』と言って食べようとしなかった。しかし、何度も無理にすすめて食べさせるうち、かえってひどく好むようになった。やがて、村に死人があれば掘り出して喰うようになった。また、三四歳の幼児を見ると、取って喰おうとするのであった。
あるとき、祭か何かで人が大勢集まることがあって、その中にひとり裸の人がいた。農夫はそれを両手で抱えて喰おうとした。周りの者が引き離そうとしたが、大変な怪力で、数人がかりでもかなわない。やっとのことで手をはずし、シュロで編んだ縄で縛り上げて家まで連れ帰った。父親は、斧で息子の喉を打ち破って殺した。その断末魔の声は天に響いて、まことに恐ろしいものであった。
国主から役人が派遣され、事情聴取をして帰ったが、その後の処分はなかったという。
このとき、人々は皆、「島原の人が鬼になった」と噂した。角が出て、牙が生えたとも言った。聞く者は、丹波の大江山の鬼のように思った者も多い。私がその村の人に尋ねたところ、「姿かたちは人でしたが、心が鬼と化したのは疑いありませんでした」とのことであった。仏法の鬼の図は、そんな心を形に現したものである。人々がかの農夫を鬼と言った事実が、それを証明している。 
山中の鬼女 
かつて、安威久太夫という武士がいた。野山で猟をするのが好きで、あるとき因幡ノ国多気郡鹿野辺りへ出かけ、犬を連れて深山に入った。
月の暗い夜がいつしか更けたころ、久太夫がふと見ると、木立の生い茂った崖の岩陰から、何ものかが駆け出したようだ。そいつは久太夫の犬を脅して追いかけ、深い谷の方へ追い落とすと、そのまま傍らの岩穴へ駆け込んだ。「今のはなんだろう?」久太夫は犬を呼び戻し、岩穴へ入るよう促したが、恐れて竦んでいるばかりだ。仕方がないので、供の若党に命じて、穴の中を探らせた。やがて若党は、人の女とも猿ともつかないものを引きずり出してきた。長く尖った爪で掻きむしってさんざん抵抗され、若党の手足はひどいことになっていた。「捕まえはしたものの、この暗さでは正体がよく分かりません。暴れる力が尋常でないのはたしかです」若党の言うのを聞いて、葛(かずら)で縛り上げ、村里まで連れて行くことにした。
里に着いて、あらためて火をともして見た。髪が長く伸びて膝にかかっている。よくよく見れば女だった。顔かたちはあくまで荒々しく、まるで夜叉のようだ。何を問い尋ねてもものを言うことはなく、ただニタニタと笑っている。食物を与えたが食わず、水を呑むだけだった。辺りの里人に尋ねても、知る者はなかった。集まった人々は、女を不思議そうに眺めるばかりだったが、そのうちの齢七十有余の老人が、こんなことを言った。
「その昔、近くの村で、産後まもない女がにわかに狂気して、鷲峰山へ駈け入ったと言い伝えている。その後数日、皆で捜索したけれども、とうとう見つからなかったそうだ。ざっと計算して百余年も前のことだが、おおかたその女ではないか」
結局、久太夫は里人に命じて、女を再び山へ追い入れさせた。縛めを解かれて逃げ走る速さは、驚くべきものだったという。以来、この女の姿を見た人はいない。 
人肉食って何が悪い 
享保のはじめ、三河の国の保飯郡舞木村でのこと。
新七という者の女房で、いわという歳二十五になる女がいた。新七が京都から連れ帰ったのだが、いつもヒステリックで狂人のようになる性質で、とうとう新七は耐えかねて出奔した。女はあとを慕って遠州の新井まで追いかけたけれども、関所を通ることができなかった。むなしく村に引き返して独りで暮らすうち、恨みつらみがいよいよまさり、ほとんど乱心の態となった。
そのころ、隣家に死人があって、田舎の風習どおり近辺の林で火葬にした。女はそこへ行って、半焼けの死人を火から引っぱり出した。腹を裂いて腸をつかみ出すと、持参のどんぶりに入れて、うどんなどを喰うようにずるずると喰った。施主が火の様子を見に来て、びっくり仰天。村じゅうの者が棒を手にして追い払おうとすると、女は大いに怒って、「こんなうまい物を喰わずにおられるか。くやしかったらおまえらも喰え!」と叫びつつ踊り狂い、蝶か鳥のように飛び駆けて行方知れずとなった。
その夜には、女は近くの山寺に入って、例の器から肉を出して喰っていた。寺の僧侶が驚き騒ぎ、早鐘をついて里へ知らせたので、村人が駆け集まってきた。女はそれを見て、「ここもまた、騒がしいことよ」と言って、裏の山の道もない崖を、平地を行くように駆け登って姿を消した。
このように生きながら鬼女となった次第、村より代官に届け出たので、代官所より他村に触れ知らせたということだ。  
奥の部屋から鬼が出た 
その昔、加賀中納言前田利長の死去のときのことだ。
加賀、越中、能登の三ヵ国の武士が残らず詰めている広間に、暮れ方、身の丈六メートルに及ぶ青鬼が、奥の間からぬっと現れた。鬼は、のさのさ歩いて広間から玄関に行き、表門をさして出ていった。
三ヵ国の武士は歴戦の勇士ばかりであったが、ただ、「あっ!」と言うばかりで、鬼が玄関を出るとき、やっと腰の刀に手をかけたのである。  
鬼の妙薬 
道中扇で朝風をあおぎながら、六月の初めに江戸伝馬町より乗掛馬を仕立て、斎藤徳元という人が京の都へ旅立った。夏のことゆえ玉の汗を流しながら多摩川を渡れば、さらし布が富士の雪かと思える涼しい風情だ。美保の松原にかかる夕虹は、伝説のとおり天女の帯かと眺められる。宇津の山蔦は青葉であるが、秋の紅葉より先に見るのも趣深い。このように旅の日を重ねて、逢坂の関を前にした大津の泊まり。もう京都が間近なのが嬉しく、翌朝は鶏の鳴く頃に急いで食事を済ますと、まだ人の顔もはっきり見えないほど薄暗いうちに出立した。大津馬を曳く馬子が、旅人の眠気覚ましにと小唄をうたうのも、酒機嫌らしくておもしろい。
ようやく京都に入る粟田口の蹴揚の水に至ると、そこには大勢の鬼がいた。鬼どもは曳いていた火の車をうちやり、胸が燃える苦しみに悶えあうようにして、懸命に清水をすくって呑んでいる。水を呑み終わると、次々に鉄棒を枕に横たわって、「ああ、苦しい」と、虎の皮のふんどしをした腰をよじりはじめた。「もはや命の終わりだ。昔から人が喩えに言うように、鬼は死んだら行くところがない。おお、どうなるんだ俺たちは」恐ろしい眼から涙を流し、青息吐息に角をうなだれている鬼どもの姿は、いかにも哀れであった。その中で頭が少し禿げて地獄の詐欺師みたいな風貌の、世慣れて分別ありげな鬼が、徳元が薬箱を持っているのに気づいて、馬の前に来てかしこまると、こう言った。
「ご覧のとおり、われらは罪人を苛む地獄の役人でござる。このたび大悪人の人殺しめが成敗になったのを見かけ、皆で火の車を飛ばして粟田口まで迎えに参って、さて試みにと、死骸を一口ずつ食べもうした。ところが思いもよらず死骸は塩漬け。食べ過ごしてひどく咽喉を渇かし、夢中でここの水を飲んだところ、今度は腹をこわしてこの難儀。地獄には懇意の医者もござるが、旅先ではいかんともしがたい。どうかお情けで療治を願いたい」
徳元は『これは普通の療治では駄目だろう』と考えて、塩漬けの死骸を食べ慣れている刑場周辺のカラスを捕らえさせ、それを煎じて呑ませた。薬が効いて危ない命を助かった鬼どもは、車を飛ばせ、鉄火を降らせ、「さらばさらば。このお礼は、あの世にお越しなされた時に」と声を掛けて去っていった。 
鬼を思え 
ある人が医者に、夜ごと淫夢を見て夢精するため、ことのほか疲れるのだが、どうしたらよいかと相談した。医者は、「女のことや若衆のことばかり考えながら寝るから、そんな夢を見るのです。これからは何か勇ましいことを考えたり、鬼のことなどを思って寝るようにしなさい」と助言した。
その後、医者がまたその人を診察したところ、以前よりいっそう疲れ果てている。どうしたのかと尋ねると、「おっしゃるとおり鬼のことを思って寝るようにしたところ、夜どおし夢で鬼に尻を犯られて、ものすごく疲れます。こんなことなら、前のように夢精していたほうがましですよ」と応えた。 
獅子谷の鬼子 
京都の東山 獅子谷の里で、明応七年ごろ、土地の者の妻が奇異なるものを産むこと、三度に及んだ。
最初の出産では、通常の男子を産んだ。これが嫡子である。二度目の出産で、異形のものを産んだ。ただし如何なるものだったか、さだかでない。三度目の出産では、ツチノコを産んだ。目・鼻・口のないもので、これはすぐに殺してしまった。
四度目の出産で、鬼子を産んだ。生まれ落ちたとき既に三歳児の大きさで、元気にあたりを走り歩いた。父親が追いかけて捕らえ、膝の下に押さえつけて見ると、全身が朱のごとく赤く、両目のほかに額にも目があった。耳までおよぶ大口で、上下に歯が二つずつ生えていた。父親は嫡子を呼んだ。「おい、横槌を持って来い」鬼子は父親に手に噛みついたが、槌でもって繰り返し殴打して、叩き殺した。その後は、大勢の人が入れかわり立ちかわり見物にやって来た。
鬼子の死骸は、西大路 真如堂の南の山ぎわ、岸ノ下に深く埋めた。翌日、農夫が三人、おのおの担い棒をかついで道を行くと、岸ノ下の土がむくむく蠢いている。モグラだと思って棒の先で突いたら、鬼子が現れた。三人は大いに驚いて、「これは噂に聞く獅子谷の鬼子だぞ。早々に打ち殺せ」と棒をふるった。しかし容易なことでは死なない。激しく打ちのめして、ついに殺した。縄をつけて京の町まで引きずっていったが、途中で多くの石に当たっても、皮膚が頑強で少しも破れない。これを見た京中の人は、寄ってたかって死骸をさんざん打ちひしぎ、ぼろぼろにして捨てたのだった。
このこと、常楽寺の栖安軒琳公が、まだ喝食(かっしき)のころに岸ノ下で打ち殺すのをまのあたりに見た、と話したとか。 
あまりな死に方 
江州日野谷の石原村に、道節という金持ちがいた。無類のけちで欲深く、慈悲の心など持ち合わせない者であった。道節は七十歳にして生きながら餓鬼となり、大食すること限りなかった。一日に飯を四五升食らいながら、ついにあがき死にした。死後六十日目、道節の霊が嫁にとり憑いた。嫁はまる十日間、「飯が食いたい。飯を食わせろ」と叫び続けたけれども、いろいろ供養したので、やがて本復することができた。道節の兄もまた、飢えの止まらない病に罹って、限りなく大食した。大桶に飯を入れ、昼夜を問わず食いたいだけ食わせたが、百日ほど際限なく食ったあげく死んだ。近隣の大塚村で確かに聞いた話である。
江州の綺田村に、孫右衛門という者がいた。剃髪して西源と名乗った。ある夜 大入道が現れて、西源を大いに折檻した。その後も毎夜 縛られて吊され、荒くれ男が火に入れ水に入れ、さんざん責め苛んだ。西源はたまらず、便所に隠れるなどしたが、探し出されて責められた。結局、五十日ほどで責め殺されたのであった。土地の代官の治右衛門から平右衛門という者が聞いて、語ったことである。
越前の敦賀に、名の知られた金持ちがいた。ことのほか貪欲な者であった。寛永二十年六月の末に難病に罹り、苦痛のあまり眼を皿ほどに大きく剥きながら、金銀を取り出して積ませ、「この金で療治してくれ。命を助けてくれ」と言って、さらに苦悶した。「今日死ぬ。今死ぬ」と騒いで、十日ほど猛烈にもがき苦しんだ末、恐ろしい有様で死んだ。死骸を棺に押し籠めておいたところ、生き返ってそこらを這い回った。打ち叩いても死なないので、やむをえず切り殺した。その死骸をどう捨てたのか、知っている者はいない。 
お婆さんは鬼になった 
丹波の国の野々口という所に住む与次という者の祖母は、したい放題のわがままで罪深い生き方をしてきて、いまや百六十歳を超えていた。与次も八十歳を過ぎ、子が多数、孫はさらに大勢いる身なのだが、この老婆は、与次はわが孫だからと、気に食わぬことがあると叱り飛ばすこと、小児に対するのと変わりない。それでも一家は、当主の祖母として孝養を尽くしていた。
たいへんな高齢でありながら、目はしっかり見えて、なんなく針の穴に糸を通す。耳もさとくて、内緒話をたやすく聞きつける。九十歳くらいのときに歯がみんな抜け落ちたが、百歳を超えるとまた元どおり生えてきた。世間の人は不思議がり、赤子に『この婆さんにあやかれ』とばかり名前をつけてもらって、ありがたがったりしていた。
老婆は、昼は家にいて麻をつむぐなどしている。ところが、夜になるとどこへともなく出かけていく。そういうことが続いたので、さすがに家族が怪しんで跡をつけたところ、老婆は気づいて振り返り、物凄い声で威嚇すると、杖をつきながらも飛ぶような足早で、どこへとも知れず歩み去った。このころになると、体から肉は消え落ちて骨ごつごつと太く現れ、両眼の白い部分が碧く変じていた。朝夕の食事はわずかに摂るだけなのに、気性はいちだんと激しく、若い者もとうてい及ばない。そのうち、昼にも出ていくようになった。孫、曽孫、その嫁などに向かって、「わしの留守に部屋の戸を開けるなよ。窓から覗き込むなよ。もし戸を開けたら呪ってやるぞぉ」と言って出かけるので、家人は、どんなわけがあるのかと怪しんだ。
ある日、昼に出かけて夜更けまで帰ってこなかったので、与次の末の子が酒に酔った勢いで部屋に入ってみたら、そこには、犬の頭、鶏の羽根、幼児の手首、人の髑髏や手足の骨など、数知れず積み重なっていた。愕然として酔いもたちまち醒め、走り出て父親の与次に告げた。一族が集まってどうしたものかと相談しているところに、老婆が帰ってきて、部屋の戸が開いているのを見て怒り狂った。裂けるほど見開かれた両眼がぎらぎら光る。大きくあいた口、罵り呪う声があたりをわななかせる。恐ろしさは言いようもない。そのまま走り出て、行方知れずとなった。
後に、大江山のあたりで、薪をとっていた者が出会ったらしい。白い帷子の裾を帯に挟んだ姿で、杖をついて山頂に向かっていく。飛ぶように速い。猪を捕まえてねじ伏せたのを見て、ぞっと身の毛がよだち、逃げ帰ったという。かの老婆、生きながら鬼になったに相違ない。 
鬼一管 
陸奥国宮城郡の本川内に、勝又弥左衛門という狐獲りの天才がいた。若いころから多くの狐を獲るうち、いよいよ腕を上げて、弥左衛門のために命を失った狐は数百をくだらない。獲られることを憂い嘆いたある狐が、老僧に化けて弥左衛門の前に現れ、「生き物の命をとることなかれ」と諌めたが、まるで耳を貸さずに、その狐を獲った。
また、何とかの明神と崇められていた白狐も獲ったという。弥左衛門のもとに浄衣を着けた者が来て、「明神のお告げなり。狐を獲ることをやめよ」と諭したが、それも聞かず罠を仕掛けたところ、白狐がかかったそうだ。このように並外れた名人だったので、世の人は「狐獲り弥左衛門」と呼びならわしていた。その狐の獲り方は、次のようなものである。
まず鼠を油で揚げて味付けする。同じ油鍋で粉に挽いた小豆を炒る。これらを袋に入れて持ち、狐の棲む野原へ行くと、揚げ鼠の匂いをひとしきり振りまく。戻りの道々では炒り小豆粉を一つまみずつ撒き、細流のあるところではちょっとした橋のようなものをかけたりする。家に帰ると、屋敷内に罠を仕掛ける。これで必ず、狐が来て罠にかかってくれる。
ある人が、「目に見えない狐の居所を、どのようにして知るのか」と問うと、弥左衛門いわく、「狐というものは、目に見えなくても、そのあたりに近寄れば必ず身の毛がよだつ。野を分けめぐって何となく身の毛がよだてば、狐がいると知れるのだ」なにしろ名人なので、狐除けには『勝又弥左衛門』と本人自筆の札を貼ればよいとも言われていた。
同じころ同国に、鯰江六大夫という笛の名手がいた。
国主の宝物に『鬼一管』という名笛があって、これはむかし鬼一という人が吹いた笛だが、余人には吹くことができなかったのを、六大夫は見事に吹きこなした。以来、『鬼一管』は六大夫が、我が笛のごとく預かっていた。ところが六大夫は、故あって罪に問われ、『網地二わたし』という遠島に流されることになった。ただし預かりの笛については特に沙汰がなかったので、流罪の島まで携えて行った。島での無聊の日々、笛だけを慰めとして吹いていた。するといつの頃からか、夕方になると、十四五歳くらいの少年が垣根の外に立って聴くようになった。
風が吹き、雨の降る折にもそうしていたので、「入って聴くがよい」と呼んでやると、それからはいつも家に入って聴いた。何日かが経った夜、少年は笛を聴き終わってから、悲しげに言った。「すばらしい笛を聴くのも、今宵が最後となりました」六大夫が不審に思って問うた。「何があったのだ。わけを話してごらん」「はい。じつは私は人間ではなく、千年を経た狐なのです。勝又弥左衛門が、この島に年を経た狐がいると知って、獲りに来ます。もはや命は助かりません」六大夫は思案した。
「危難が迫るのを知らずに命を失うのは、世の常のことで是非もない。しかしおまえは、勝又弥左衛門が来ると知っているではないか。知りながらなぜ命を諦めるのか。この島に弥左衛門がいる間、わしがおまえをかくまおう。この家にじっと隠れて、危難を逃れるがよい」
「いや、それがだめなのです。家に籠もって助かるようなら、自分の穴に籠もってでも凌ぐことができますが、弥左衛門の術の前では狐の神通を失うので、行けば命がないと承知しながら、自分で罠に近寄ってしまいます。どうにもなりません。さあ、今まで心を慰めてもらったお礼に、何でもお望みの珍しいものをお見せしましょう。なんなりとおっしゃってください」
「では、一の谷の逆落としから始めて、源平の合戦の様子を見たいものだな」
「たやすいことです」
少年が答えるやいなや、座敷の中はたちまち険しい山谷と変じ、いかめしくもきらびやかに装った将と兵馬が打ち合い駆け巡り、無数の矢が飛びちがい、大海に軍船が走り、追いついた船から次々乗り移るさまなど、面白さは言いようもないほどだった。やがて座敷は何事もなかったように元に戻り、少年はこんなことを言い残して去った。
「きたる某月某日、松が浜に国主がおいでになります。その折に『鬼一管』をお吹きなさい。きっと吉事があるでしょう。私の死後のことになりますが、今日までのお情けの礼に、お教えします」
弥左衛門が島に来て罠をかけると、くだんの狐は七度まで外して逃げたが、八度めにかかって獲られた。六大夫は、それを聞いて哀れさに涙しつつ、教えられたとおりの日に笛を吹いた。松が浜では、空晴れてのどかな海を眺めながら国主が昼の休みをとっていた。そこへ何処からともなく笛の音が、浦風に乗って聴こえてきた。
「誰だろう。今日、あのように笛を吹くのは」傍近くの者に尋ねても、誰も知らないので、浜の住人を呼んで問うと、「あれは『網地二わたし』の流人、鯰江六大夫が吹くのです。いつも風のまにまに聴こえてまいりますよ」と言う。
国主は、「ああ、見事なものだ。島からここまで、およそ三百里の海路を吹きとおす。六大夫こそ、まことの笛の名手というものだ」としきりに感動し、それゆえか、ほどなく六大夫は召し返された。 
餓鬼が憑く 
伊勢から伊賀へ越える道でのこと。一人の男が私に追いすがって、こんなことを言った。
「わたしは大阪の者です。途中の道で餓鬼に憑かれたものか、ひもじくて一歩も歩けないほどです。まことに難渋しておりますので、何か食い物をお持ち合わせなら、少しでも分けていただきたく……」変なことを言う人だと思いながら、旅の途中でこれといって食糧の持ち合わせもなかったが、刻み昆布を少々持っていたので、「こんなものでもよろしいか」と言って渡すと、大変喜んで、すぐさま食べてしまった。「餓鬼が憑くとは、どんなことなんですか」と尋ねると、男は応えた。「目には見えませんが、このあたりに限らず、あちこちであることです。路傍で餓死した乞食などの怨念が残って餓鬼となったものなのか、通行の者に取り憑くのです。これに憑かれると、とにかくむやみに腹が減って体の力も気力も抜けて、歩くこともできなくなります。わたしなどは、たびたびそんな目に遭っていますよ」
この者は薬種商で、注文をとって諸国をめぐり、旅から旅の暮らしなのだという。世の中には、この者の言うようなこともあるのだろうか。後日、播州の国分寺の僧に尋ねたところ、「拙僧も、まだ若輩のころ、伊予で餓鬼に憑かれたことがあります。以来、諸国を行脚するおりには、食事のたびに飯を少しずつ取り置き、紙などに包んで袂に入れております。餓鬼に憑かれたときの用心です」とのことだった。なかなかに理解しがたいことである。 
伊勢の国から鬼が来た 
応長年間のころ、伊勢の国から都に、女の鬼になったのを連れてきたということがあった。二十日ばかりのあいだ毎日、京都や近郊の人が鬼を見ようとしてやたらに出歩いたものである。
「昨日は西園寺に行ったらしい」「今日は上皇の御所へ行くらしいぞ」「今、どこそこにいるぞ」などと言い合ってはいるものの、実際に見たという人はいない。でも、嘘っぱちだと言い切る人もいなくて、身分の上下を問わず皆、ただ鬼のことばかり噂している。
ちょうどそのころ、私が東山から安居院のあたりへ出かけたとき、四条から北にいる人が皆、北の方角をさして走っていくのに出会った。「一条室町に鬼がいる」とわめいている。今出川のあたりから見ると、上皇が賀茂祭りを見物する桟敷の辺は、もう通行できないほど混み合っている。これほどの騒ぎなのだから、まったく根も葉もないことではあるまいと思って、人を遣って様子をたずねさせたところ、鬼に遭った人などいないのであった。日が暮れるまで空騒ぎし、しまいには喧嘩が始まるなど、どうにも呆れはてた話だったのである。
その後、たくさんの人が病気に罹って二三日寝込んでしまうようなことがあって、「あの鬼の流言は、この前兆だったのだ」などと言う人もいた。 
奥島に来た鬼 
承安元年の七月八日、伊豆の国奥島の浜に一艘の船が漂着した。
暴風に遭ったのだろうと、島民たちが様子を見に行くと、陸地から百メートルほどのところで、船を縄で海底の石につなぎ、鬼が八人、泳いで岸にやってきた。粟酒や食べ物を与えると、飲み食いすること、馬のようであった。鬼どもはものを言わない。身長二メートル半前後、髪は夜叉のごとく、目はまるくて猿の目のようだ。みな裸で、わすかに蒲を編んだものを腰に巻いているだけ。赤黒い肌に、いろいろな模様をくっきりと入墨している。それぞれ二メートルばかりの杖を持っていた。
そのうち、島民の一人の持っている弓矢を欲しがった。断ると、鬼どもは豹変し、にわかに鬨の声をあげて襲撃してきた。杖をふるって、まず弓矢を持った者を一撃に打ち殺した。そのほか打たれた者九人のうち、五人までが即死した。さらに鬼は、体から火を発して暴れ回った。このままでは島じゅう皆殺しかと思われたが、神物の弓矢を持ちだして立ち向かったところ、退却して海に入り、船は風に向かって走り去った。
その年の十月十四日、この事件を報告書に記し、鬼の落とした帯とともに国司に届け出た。帯は、蓮花王院の宝蔵に収められたということだ。 
水餓鬼 
仁和寺の第五世門跡 覚性法親王が、ある静かな夕べ、手水で身を清めた後ただ一人端座していると、怪しいものが御簾を上げて入り込んで、目の前にかしこまった。背丈は二尺に足りず、足は一本。いちおう顔や姿は人間のように見えるが、ひどく蝙蝠(こうもり)に似た面相だ。
「おまえは、いったい何者か」「はい、わっしは餓鬼でございます。いつも水に飢えて堪えがたく苦しみおる水餓鬼でございます。世間の病で、瘧(おこり)と申しますのは、わっしのすることでして、それというのも、わっしが水を求めましてもじかには得がたいので、人に憑いて、その人に飲ませるのでございます。ところが世の人々は、門跡様に願って御手跡やら御念珠やらを賜るようになりました。それが身に触れた者は、もうわっしに冒されることがありません。まして祈祷をいただいた者など、近くにも寄りつけません。これでは、わっしの渇えは耐え忍びようがないのです。どうかお助けください」
聞いて、いかにも可哀想だと思い、「それがまことなら、不憫なことだ。今後は心に留めておこう」と言って、たらいに水を入れて渡してやると、頭を突っ込むようにして、実にうまそうにごくこくと、全部飲み干した。
「もっと欲しいか」「はい、いくら飲んでも飽くことがありません」そこで水生の印を結んで、水の生じる指を口に差し当ててやると、嬉しそうに吸いついてきた。だが、しばらくそうするうちに、その指先から厭な痛みが生じ、しだいに全身に及ぼうとした。はっとして餓鬼を振り払い、火印を結ぶと、苦痛は去ってもとの静穏な心地に戻った。 
鬼の足跡 
延長七年四月二十五日の夜、宮中に鬼の足跡が発見された。玄輝門内外、桂芳坊のほとり、中宮庁・常寧殿のうちなどにあった。大きな牛の足跡に似ていた。ひづめのあとは青く、さらに赤い色が混じっていた。一二日たつうちに、次第に薄れていった。兵衛府の詰所にいた兵士の話では、当夜、大きな熊が入ってきたように見えて、そのまま失せたそうだ。
鬼の足跡に混じって、小児の足跡もあったという。不気味なことだ。 
吉野の山の変な鬼 
昔、吉野山の日蔵上人が奥山で修行していたとき、風変わりな鬼に出会った。身長二メートルを超える青鬼で、髪は火のごとくに赤いが、首はか細く、肋骨が浮いている一方で腹が出ており、足が細くてひょろひょろしている。そいつが、上人の姿を見ると、腕で顔をおおって激しく泣いたのである。
「うわあ、ぶさいくな鬼が出てきたなあ」と、 上人もさすがに唖然としながら、「おいおい、鬼よ。いったいどうしたのだ」と尋ねると、鬼は泣きながら、こんなことを語った。
「私は、もう四五百年も昔に恨みを残して死に、鬼となった者です。鬼となってから、まず仇敵を恨みにまかせて殺し、その子、孫、曽孫、曽孫の子と、ことごとく殺しました。それで今はもう、殺す相手がなくなってしまいました。殺されて生まれ変わった奴らを、また殺してやろうと思うのですが、生まれ変わり先がわからないので、どうしようもありません。憎しみと恨みは相変わらず胸を焦がすばかりなのに、仇の子孫は絶えてしまい、私ひとり、晴らしようのない怒りに悶々としているのです。あんな心を抱いて死んだのでなかったら、極楽や天上に生まれたかもしれないのに、恨みを残したばっかりに、果てしなく苦しまねばならない身となったのが、悲しくてなりません。他人に恨みを残せば、結局、我が身を苦しめるばかりなのです。仇の子孫は絶え、わが命は果てしない。ああ、こうと知っていたならば、……」
鬼は際限なく涙を流して泣き続ける。泣いているうち、頭から炎がちろちろ出てきて、しだいに大きくなった。やがて鬼は、燃えさかる頭のままよろよろと、山の奥へ立ち去っていった。上人は可哀想に思い、この鬼のために、さまざまの罪滅ぼしのための回向をしたということである。 
鬼の棲む島 
昔、インドに僧伽多(そうかた)という人がいた。五百人の商人を船に乗せて、財宝豊かな海外の港を目指して出帆したが、にわかに激しい嵐に遭遇した。船は南へ南へと矢のような速さで吹き流された。やがて見知らぬ陸地に寄りついたので、乗り組みの人々は『やれ、助かった』と、われがちに船を下りた。
上陸してしばらく休んでいると、たいそう美しい女たちが十人ばかり、歌をうたいながら通りかかった。知らぬ世界に漂着して心細いかぎりだったのが、こんな大勢の美女を見てすっかり嬉しくなり、口々に声をかけて呼んだ。呼ばれて女たちは寄ってきた。近くで見るといちだんと美しく、その愛らしさは比類ない。五百人すべてが女を見つめて、賛嘆すること限りなかった。商人たちは女に話しかけた。「我らは財宝を求めて船出した者ですが、嵐にあって見知らぬところへ流れ着き、途方に暮れていました。しかし、あなた方の様子を見たら、辛い気持ちは吹っ飛んでしまいました。どうか今すぐ我らを、あなた方の家に連れていってください。船が大破して、帰りようがないのです」
女たちは、「それなら、ついておいでなさい」と言って、先に立って歩きだした。女たちの家は、白く高い土塀を大きくめぐらし、厳めしい門をそなえていた。商人たちを中に入れると、すぐさま門が閉ざされた。敷地の中にはたくさんの家が建ち並んでいた。男の姿は一人も見かけない。女ばかりだったので、商人たちは思い思いに女を妻にして、そこにある家に住んだ。夫婦の情愛はすべて、限りなく深いものとなった。
僧伽多は、妻を片時も離れたくないほどいとおしんだ。しかし、そうして睦まじく暮らす中にも、変に思うところがあった。妻は毎日、長いこと昼寝をする。寝入っているときも美しい顔なのだが、なにか少し気味悪く、怖ろしげに変貌しているのだ。僧伽多は、これは何かわけがあるぞと思って、ある時そっと起きてあたりを調べて回ると、壁で隔てられたところが幾つもあった。うち一つの箇所は、高い土壁で囲まれたうえに、戸にも堅く錠がさされていた。壁の角をよじ登って中を覗くと、そこには多くの人の姿があった。ある者は既に死んでおり、ある者は生きてうめき声を洩らしていた。白骨死体や、血に染まった死体がたくさん転がっていた。
僧伽多は、まだ生きている一人を手招きして尋ねた。「あなたがたは何者ですか。なぜ、こんな目に遭っているのですか」その人の答えは、恐ろしいものだった。「私は南インドの者だ。貿易のために航海しているとき、暴風にあってこの島に吹き寄せられ、絶世の美女どもに騙されて、故郷に帰ることも忘れて暮らしていた。だが、あの女どもが産む子供は女ばかりだ。そして、男が自分たちをただただ可愛がって暮らしているうちに、別の商船が島に寄りつくと、その船の男を新たにたぶらかし、元の男をこのように捕らえて、毎日の食糧にするのだ。おまえたちも、また船が来たら、こんな目に遭うだろう。なんとかして早く逃げるがよい。鬼の女は昼、六時間ばかり昼寝をする。その間に、逃げられるなら逃げよ。私はもう駄目なのだ。ここは四方が鉄で固められているし、その上、膝の裏の筋を切られているから」このように泣く泣く言うのを聞いて、僧伽多は『おかしいとは思っていたが、そうだったのか』と急ぎ戻った。
他の商人たちに話すと、みな驚き慌てた。とにかく、こうしてはいられない。女の寝ている隙に浜まで逃げた。浜で全員が声をあげて、はるかな浄土に向かい観音の助けを祈願した。すると沖の方から巨大な白馬が、波を泳いで商人たちの前まで来て、うつぶせに伏した。ありがたい、願いが届いたのだと思って、みな白馬に取りついて乗った。
女どもが昼寝から起きてみると、男が一人もいない。「しまった、逃げたぞ!」みんなして浜まで出てみると、男たちが葦毛の馬に乗って海を渡っていくところだ。女どもはたちまち背丈三メートルあまりの鬼の姿になり、何十メートルも躍り上がって叫び罵った。商人たちの中に一人、相手の女がこの世にまたとないほど素晴らしかったことを思い出した者がいたが、その未練のせいだろうか、ふと馬の背から滑り落ちた。鬼はその男を奪い合い、引きちぎって喰らった。馬は商人たちを乗せて海を行き、やがて南インドの西の浜に上陸すると、身を伏せた。人々が喜び合いながら降りると、馬はかき消すようにいなくなった。
僧伽多はこうして辛くも助かったものの、あまりにも怖ろしい体験だったので、それを人には語らなかった。ところが二年後、かつて妻であった鬼の女が、僧伽多の家に訪ねてきた。以前よりもいっそう魅力的になっていて、言いようがないほど美しい。
女は語りかけた。「前世からの契りなのでしょうか、あなたを限りなくお慕いしておりましたのに、そんな私を捨ててお逃げになったのは、どうしてなのですか。私たちの国では、ときどき怪しい鬼が出て人を喰うことがあります。ですから門に厳重に錠をさし、塀を高く築いているのです。あのときも、大勢の人が浜に出て騒いでいる声を聞いて現れた鬼どもが、怒って暴れていたのです。決して私たちの仕業ではありません。あなたがお帰りになって後、あまりに恋しく悲しく思えて……。あなたも、同じ気持ちではないのですか」こう言ってさめざめと泣くのを聞けば、普通の人の心なら、言うとおり信じてしまうだろう。しかし僧伽多は激しく憤って、太刀を抜いて女を殺そうとした。
女はこの仕打ちを限りなく恨んだ。僧伽多の家を出ると、その足で宮廷に参上して、「僧伽多は、私の年来の夫であります。それなのに私を捨てて、夫婦として暮らそうとしません。この不正を、誰に訴えたらいいのでしょうか。どうか陛下、この是非を裁いてくださいませ」と申し出た。宮廷にいた公家や殿上人は一人残らず、女の美しさに心を奪われてしまった。皇帝もそれを聞いて物陰から覗いたが、なるほど、言葉で表せぬほど素晴らしい。玉のように美しいこの女に比べれば、大勢いる女御・后はすべて土くれのようなものに思えた。
皇帝は『これほどの女を拒む心が分からない。どういうわけか』と思って、僧伽多を呼んで尋ねさせた。
僧伽多は、「あれを宮廷にお入れになるなど、とんでもない。なんとも恐ろしい者なのです。必ず忌まわしい事件が起こるに違いありません」と言上したが、皇帝は意に介さなかった。「僧伽多は馬鹿なやつだな。もうよいわ。後ろの門から連れて来い」と蔵人を通して命じたので、女は夕暮れ方に参上した。
皇帝が女を近くに呼び寄せて見ると、容貌といい姿形といい物腰といい、すべて限りなく心惹かれるありさまである。皇帝は女と床に入って後、次の朝もその次の朝も起きて来ず、全く政務を怠ってしまった。
僧伽多が心配してやって来た。「忌まわしいことが起こりますぞ。ああ情けない。皇帝はもうすぐ殺されてしまう」しかし、誰も気に留める者はいなかった。そうして三日目の朝、まだ御格子も上がらぬ時刻に、女が皇帝の寝所から出てきた。女は目つきが一変して、世にも恐ろしげな顔で立っていた。口には血がついている。しばし周囲を見回してから、軒より高く飛び上がり、雲に入って消え失せた。驚いた人々が、この変事を報告しようと寝所に参上したところ、御帳の中から血が流れ出ていた。不審に思って内を見ると、血まみれの皇帝の頭が一つ転がっていた。ほかには何も残っていなかった。宮廷は目も当てられない大騒ぎとなった。臣下の男も女も、泣き悲しむことかぎりなかった。
亡帝の子であった皇太子が、やがて帝位につくと、僧伽多を呼んで、事の次第を問うた。「こんなことが起こると思って、恐ろしい者ですからただちに追い出されるようにと申し上げたのですが……。どうか陛下のご命令を下さいませ。あの者どもを討ち滅ぼしに参りたく存じます」と言上すると、「申すとおりに命ずる」とのことだった。
「それでは、帯刀の兵士百人と弓矢の兵士百人を早船に乗せて出発させるようはからってください」僧伽多は、この軍を率いて鬼の国に漕ぎ寄せた。まず商人のように装った者を十人ばかり浜におろすと、前と同様に玉のごとく美しい女どもが歌を歌いながら近づき、彼らを誘って女の城に連れて行った。その後をつけていった二百人の兵士が、城に乱入した。斬りかかり矢を射かけると、女どもは、しばし何か訴えるような哀れげな様子を見せていたが、僧伽多が大声を上げ、走りまわって兵に下知しつづけたので、ついに鬼の姿を現した。大口を開けて反撃してくる鬼の頭を太刀で叩き割り、手足を打ち斬り、空を飛んで逃げる鬼は弓で射落とし、一人も討ち洩らさなかった。その後、家に火をかけて焼き払い、まるで廃墟の国にしてしまった。
帰国して、朝廷に首尾を報告すると、かつての鬼の国は僧伽多に与えられた。僧伽多は、二百人の軍兵とともにその国に住み、たいそう豊かに暮らした。今はその子孫が主となっているということだ。 
鬼の手 
その昔、兄弟の猟師がいて、いつも連れ立って山へ行き、鹿や猪を射ていた。その猟のやり方は、「待(まち)」といって、高い木のまたに横木を取りつけ、そこに腰を据えて、鹿が木の下に来るのを待って射るのであった。
ある夜、兄弟は五十メートルばかり隔てて、向かい合って木の上にいた。陰暦九月、月末の闇夜できわめて暗く、何ひとつ見えるものはない。ただ鹿の来る音を聞き取ろうと待つうち、しだいに夜は更けたが、鹿はやって来ない。
そうするうち、兄のいる木の上から何者かが手を下ろして、髻をとって上に引っ張り上げようとする。驚いて、髻を掴んでいる手をさぐると、たいそう痩せ枯れて骨ばった人の手であった。
兄は、『鬼がおれを喰おうとして、引っ張り上げているのだな』と察して、弟に知らせようと呼びかけた。「おーい、聞こえるか」
闇の向こうから弟が応える。
「どうした、あにき」「なあ、もし今、おれの髻を引っ張る怪しいやつがいたとしたら、おまえ、どうするか」「それなら、見当をつけて射てやろう」「実はな、今、ほんとに髻を掴んで引っ張っているやつがいるんだ」「わかった。声を頼りに射よう」「よし、射ろ!」
弟がただちに雁股の矢を射放つと、兄の頭上をかすめて何者かに射当てた手応えが、確かにあった。
「当たったはずだ」そう弟が言ったとき、兄が手でさぐると、射切られた手首が髻を掴んだままぶら下がっていた。「うん、化け物の手を射切ったぞ。今、ここに持っている。やれやれだ。さあ、今夜はもう帰ろう」「そうだな。そうしよう」二人は木から下りて、連れ立って家へ向かった。家に帰りついたのは、夜半過ぎである。
さて、この兄弟には、年老いて立居もままならない母親がいて、その母親の部屋をまん中にし、両側に兄弟それぞれが住んでいた。帰ってみると、母親が部屋でひどく呻くのが聞こえた。「何をそんなに唸っているんだ」と声をかけたが、返事もない。
兄弟が火をともして、射切った手を見ると、母親の手によく似ている。たいそう怪しく思って、よくよく見るのだが、見れば見るほど母親の手である。そこで兄弟が、母親の部屋の戸を引き開けると、母親はやにわに起き上がり、「おのれら、よくも!」と叫んで飛びかかってきた。兄弟は、「おふくろ、あんたの手なのか!」と言いざま、手を部屋に投げ入れて、戸を引き閉じてしまった。
その後まもなく、母親は死んだ。亡骸の片手は、手首から射切られてなくなっていた。母親は、ひどく老いぼれたあげく鬼となり、子を喰おうとして、あとをつけて山へ行ったのである。
親が年をとってはなはだしく老いてしまうと、きっと鬼になって、このように我が子をも喰おうとするのである。兄弟は、母親を手厚く葬ったという。 
上人 淫鬼と化す 
むかし、文徳天皇の御母にあたる染殿后(そめどののきさき)という方がいた。太政大臣藤原良房公の娘で、その容姿は言いようがないほど際立って美しかった。しかし困ったことに、この后は常に物の怪に悩まされていた。霊験あらたかと評判の僧たちが呼ばれて様々の祈祷を行ったが、まったく効果がなかった。
その頃、大和葛城山系の金剛山というところに、一人の尊い上人が住んでいた。長い年月この山で修行を積み、鉢を飛ばして食べ物を得たり、甕を水汲みに遣ったりしていた。たゆまぬ修行の結果、上人は比類のない験力を得て、評判は次第に高まった。天皇と父親の大臣もそれを耳にして、『その僧を呼んで、后の病の祈祷をさせよう』と思い、参内させよとの命が下った。使者が何度となく赴いたが、上人はその都度辞退した。しかし結局、勅命には背きがたく、ついに参上することとなった。御前に召して祈祷を行わせると、たちまちしるしが現れた。后の侍女の一人が、にわかに錯乱したのだ。何かが乗り移って泣き喚きながら走り回るのを、上人がさらに力を込めると、女は縛られたように動けない。そこをさらに激しく祈祷で責めつけた。すると女のふところから、一匹の老狐が転げ出た。くるくる回ってその場に倒れ伏し、もう逃げ去ることもできない。上人は狐を縛り上げさせ、悪道を去るよう教えを垂れた。父親の大臣は、これを見て限りなく喜んだ。それから一両日のうちに、后の病はすっかり癒えたのである。
大臣が、 「当分の間、ここに居てくれ」と言ったので、上人はしばらく帰らずにいた。夏のことで、后は単衣物だけを着て几帳の内にいたが、そこに風がさっと吹いて、ひるがえった垂れ布の隙から、たまたま上人は后の姿を垣間見た。『なんということだろう。こんな美しい人を、いまだかつて見たことがない』。上人はたちどころに目がくらんで心乱れ、胸が張り裂けそうになって、深い愛欲の情の虜となった。しかし、相手が后ではどうしようもないから、ただ思い悩むばかりだ。胸は火に焼かれるがごとく苦しく、ちらりと見たばかりの面影が片時も瞼を去らない。ついに思慮も分別もなくして、人のいない隙をうかがって几帳の内に忍び込んだ。横になっている后の腰にやにわに抱きつくと、后はびっくりして、汗みずくになって逃れようとするが、女の力では抗しきれない。上人はありったけの力で抱き伏せる。だが女房たちが異変に気づいて、大声で騒ぎはじめた。まもなく、侍医の当麻鴨継(たいまのかもつぐ)がやって来た。この者は勅命で后の病の治療のため宮中に詰めていたのだが、后の御殿の方から大声がするので、驚いて駆けつけたのだ。鴨継が見ると、几帳の内から上人が出てきた。ただちに上人を捕らえ、天皇に事の次第を報告すると、天皇は激怒した。上人は縛り上げられ、牢獄に放り込まれた。
獄につながれた上人は、ひと言の弁明もせず黙していたが、あるとき天を仰いで泣く泣く誓いを立てた。「我は今ただちに死んで鬼となり、后が存命のうちに、必ずや思いを遂げてみせる」獄吏が聞き留めて父親の大臣に知らせたので、大臣は驚き、天皇に申し上げたうえで、上人を赦免して金剛山へ帰した。しかし、もとの山に帰っても、后への情欲は我慢できるものではなかった。なんとか再び近づきたいと、日ごろ頼みとしている三宝に願いを立てたが、結局現世では叶わぬと悟ったか、『やっぱり死んで鬼となろう。鬼となって思いを遂げよう』と決めて、一切の食を断った。十日あまり経って餓死すると、たちまち鬼になった。身の丈八尺ばかり、禿髪(かぶろ)にして裸体であった。赤いふんどしをして、小槌を腰に差している。膚は漆を塗ったように黒い。眼は金鉄の碗を入れたようにぎらぎら輝く。剣のような歯が生え並んだ口から、上下の牙を剥き出していた。
鬼は、后の几帳の傍らに忽然と現れた。これを見た人は、みな動転して逃げまどった。女房などは、ある者は気絶し、ある者は衣を頭からかぶってうずくまった。もっとも、后に近しい人しか入れない場所なので、多くの人が見たわけではない。人々が恐れる一方で、后はこの鬼に魅入られてしまった。すっかり正気を失って、綺麗に身づくろいした姿でにっこり笑うと、扇で顔を差し隠して几帳の内に入り、鬼と二人 抱き合って寝た。外で聞いていると、「いつもいつも恋しく思っていた。逢えなくてつらかった」などと鬼が睦言し、后は嬉しげに嬌声をあげている。あまりのことに、女房らはみな逃げ去った。しばらく時を経て日暮れになると、鬼が几帳から出て去って行ったので、女房らは『后はどうなさったのだろう』と思って急ぎ戻り、様子を伺った。后は一見いつもと全く同じで、『何か変なことがあったかも』と不審がる気配すらなく坐っていた。ただ、眼のあたりが少し恐ろしげになったように感じられた。この事件の報告を受けて天皇は、奇怪さに怖じ恐れるより先に、『后はこれから、どうなってしまうのか』と案じて深く嘆いた。じっさい鬼は、以後毎日同じように現れた。后はそのたびに心を奪われ、ひたすら鬼をいとしく思って交接した。宮中の人々はそれを見て、どうしようもなく悲しく、いたずらに嘆くばかりだった。
やがて、鬼はある人に憑いて、「鴨継には恨みがある。きっと思い知らせてやる」と言った。鴨継はそれを聞いて恐れおののいていたが、まもなく急死してしまった。三四人いた鴨継の息子たちも、みな気が狂って死んだ。天皇も父親の大臣も、この事態を見て甚だ恐怖し、鬼を取り鎮めるべく、大勢の高僧に懸命の祈祷を行わせた。祈祷の効果があったのか、鬼は三月ばかり来ず、后の心持も少し治って以前のようになった。天皇はそれを聞いて喜び、「一度、様子を見に行こう」とのことで、后の御殿に行幸の運びとなった。常よりも心のこもった行幸で、文武の百官が残らずお供した。
天皇は御殿に入り、后に対面して涙ながらにしみじみと語りかけた。后も深く感動した様子だった。天皇の目にはそんな后の姿が、かつてと少しも違って見えなかった。と、その時……。あの鬼が、部屋の隅から躍り出た。そのまま后の几帳に入っていく。天皇が驚いて見ているうちに、后は例によって正気を失い、鬼を追っていそいそと几帳に入った。しばらく間があって、鬼は今度は南面に躍り出た。大臣・公卿をはじめ百官の者が、真正面に鬼を見て恐れおののき、『とんでもないやつだ』と思っているところへ、后が続いて出てきて、多くの人々の目の前で鬼と一緒に横になった。后と鬼はその場で、言いようもなく見苦しい痴態を、誰はばかることなく繰り広げた。やがて終わって、鬼が起き上がると、后もまた起きて几帳に入った。天皇は、どうすることもできないと思い、嘆き悲しみながら帰っていった。
こういうことがあるから、高貴な女性は、怪しい僧に近づかないよう気をつけなければならない。この話は極めて不都合で、言えば何かと差し障るような内容であるが、後世の人にみだりに僧に近づくのを戒めるため、語り伝えているのである。 
早口沢 
秋田の早口沢は、二十七里にわたる渓流である。寛政九年七月、この沢の六里ほど入ったところに、一夜のうちに長大な堤が出来た。両方から山を崩して流れを堰き止めているのだが、見れば径十数メートルを超える大石で築かれていた。いったい何ものの仕業だろうか。この辺の山には錦織木(にしごり)という木があるので、山童(やまわろ)、鬼童などが群がり集まるともいう。鬼童とは、山中で時おり見かける、童子のような姿の怪物である。先年にある人が見た大きな鬼童は、十人がかりでも抱えられな い大石を背負ったまま、うつ伏して谷水を呑んでいたそうだ。
木こりが山中で退屈したときは、必ず錦織木を焼いて、いろいろな怪物を集めて遊ぶ。南部領との境の山奥で焼いたときには、怪しい女が出てきた。苔の衣を身に纏い、茨のように乱れた長髪は白い針金のようだったが、齢はまだ四十前に見えた。毛女郎とか雪女などの仲間なのかもしれない。にんまり笑って擦り寄ってきたので、木こりも変な気になって女を犯した。その後は、時々この怪女と逢って交わったという。いかがわしい話であるが、けっして偽りではないらしい。木こりなどというものは、ひとたび淫欲を起こせば、牛馬の類までも犯すのである。
また、こんな話を聞いた。「寛政七年の四月末のことだ。小阿仁の仏社村というところに沼があって、むかしから怪獣が棲むといわれていたが、ジュンサイ採りの農夫がその怪獣に殺された。農夫の弟は激しく怒って、阿仁の小沢鉱山の鉱石を運んできて火に燃やし、真っ赤に溶解した大量の鉱石を沼に打ち込んだ。怪獣はこらえきれなかったか、岸からだいぶ離れた場所に一夜にして大堤を造り上げ、その中へ移った」早口沢の堤もこれと似たようなことではないかと、人々は噂しているそうだ。 
農夫の妻が人を食う 
安房の国の農夫の妻が鬼になって、夫を喰い殺して出奔した。海を渡って相模の国、鎌倉の光明寺付近に現れたので、周辺は大恐慌をきたした。
墓地に赴いた鬼は、墓をあばいて死者を三人喰らい、そこから雪の下方面に駆けてゆく。大蔵、大町、小町、荏柄(えがら)、二階堂、宅間、小袋谷、建長寺前の十二坊も残らず門戸を閉ざし、太鼓を叩くわ鐘を鳴らすわ、拍子木の音響き渡って、いまにも鬼は由比ヶ浜にいたるかと、騒ぎ恐れること並たいていではない。
だれ一人退治に出る者などおらぬまま、夕方から夜を過ごして暁となり、鬼はどこへ行ったのだろう、行方はまるで知れなくなった。
これは七月初旬に、富士山に参詣する者が、当地において聞いた話である。 
 
「天狗」の伝承・民話

 

天狗のたたり 
ある国の主が、領内の山の木々をたくさん伐らせた。それより毎夜一人づつ、屋敷の女たちの髪の毛が切られる事件が発生し、女たちは集まっておびえるようになった。報告を受けた主は、山中に棲む天狗を怒らせてしまったと知り、樹木の伐採をやめるように指示した。以来、髪切り事件はぱったり止んだ。 
天狗つぶて1
寛永元年、大阪石町辺りのさる家の屋根に毎夜、つぶてが落ちてきていた。
五、六個の時もあれば十四、五個の時もある。音も無く落ちている日もあれば、騒々しく降りかかって来る日もある。しかしひさしより下に落ちていたことは無い。このふしぎな出来事は夏から秋にかけて続いた。
『天狗つぶてのある家は必ず火事に見舞われる』という迷信に隣家の者はおびえ、知人は御祓いをすすめたが、つぶての家の者は一向宗の門徒で祈祷を嫌っていたので、まったく取り合わなかった。
その後その家には特に何も起きず、気にしなければ祟りも効き目が無いのかもしれない。 
天狗つぶて2 
とある侍が日光普請奉行を任じられ、日光へ向かうことになった。
同じく赴任する者たちの中に、他家に婿入りして疎遠になっていた、侍の従弟の名もあった。かつてはとても仲がよかったので、侍は再会をとても楽しみにしていた。
しかし、日光への道中も着いてからも、従弟と話す時間はほとんど無かった。また、家の違う者同士は同じ小屋での寝泊りは禁止されていたため、二人でゆっくり昔話をする機会などほとんど得られず、侍は残念に思っていた。
それは従弟の方も同じ気持ちだったようで、ある日侍に使いを寄越した。数日後の仕事終わり、会ってゆっくり話をしようと誘う内容だった。
さてその日、二人は久しぶりの再会を喜んだ。積もる話は尽きず、日は暮れ、あかりを灯してさらに話し込んで、気が付けば亥の刻、もうすぐ日付も変わる時間になっていた。
まだまだ話し足りない二人だったが、さすがにそろそろ帰ろうと、重い腰をあげることにした。そこへ突然、大きな石が落ちてきた。あたりを見回しても、誰もいなかった。
さらに石はばらばらと降ってきて、敷物の上に置かれた挟み箱や刀になどが次々と壊された。提灯の火も消えてしまったので、荷物は諦め、二人は挨拶もそこそこに、自分の従者を連れてあわただしくその場から去った。小屋までの道すがらも石は降ってきたが、不思議なことに一つとして体には当たらなかった。
さらに不思議なことは、翌朝、置いてきた荷物を従者が取りに行くと、確かに目の前で壊れた物が、すべて元の姿で残っていたことだった。
従弟のほうも、帰るときに石が当たって刀の鞘が壊れてしまったはずなのに、朝になったら元に戻っていたという。 
天狗の石切り 
日光東照宮の修繕のため、筑紫の山で石が切り出されていた。現場で指揮する奉行は三人、それぞれ夜は別の小屋に寝泊りしていた。
ある夜、一人の奉行が小屋から出てみると、山に灯りが見え、石を切る音がした。その日の作業はすでに終了したはずだったので、他の二人が勝手に進めているのでは、と奉行は考えた。
疲れ果てている人足たちを夜も働かせて、そのことを自分には一言も知らせない。翌日には二人を問いただし、返答次第では討ち果たすことになるかも知れぬ。奉行はとても怒り、夜明けを待って、他の二人に使いを送った。
ところが、前夜の作業について、二人とも何も知らなかった。人足たちに確認したところ、夜に作業をした者は一人もいなかった。
その日の晩、三人の奉行が外に出てみると、昨晩のように火がともり、石を切る音がした。明るくなってから石切り場に行ってみると、夜に作業していた様子は無かった。
この夜中の石切りは、十日あまりの間ずっと続いたが、現実の作業には何の差しさわりも無く、やがて、必要な石はすべて切り出された。
山での作業は終わり、石は船に積まれて海に出た。ところが途中で船は遭難し、石は遠江灘に沈んでしまった。例の怪異は、この事故の前触れだったのかも知れない。 
萱野五郎太夫
享保の頃、信州松本藩の物頭に、萱野五郎太夫という二百石取りの侍がいた。武芸の鍛錬を怠らず、博識で勉強家だったが、他人を軽んじる傾向があった。
ある年の正月、五郎太夫は下僕に、大型の半切桶を指定の日までに用意するよう言いつけた。桶が届くと、五郎太夫はむしろを十枚座敷に敷かせ、桶をそこに置いた。さらに命じて、餅米十二斗分の赤飯を炊かせ、出来上がったものを桶に入れた。
そして、日暮れを待って五郎太夫は沐浴し、麻の裃(かみしも)に着替えると、人払いをして座敷にこもってしまった。妻は五郎太夫が乱心してしまったのではないかと心配しながらも、成り行きを見守った。
その夜遅く、三四十人が歩き回る音が座敷より聞こえてきた。しばらく続いたが話し声は無く、日の出前には何の音もしなくなった。
朝になり、家人がおそるおそる座敷をのぞいてみると、桶の中に赤飯は一粒もなく、それどころか五郎太夫の姿もなかった。家中を探したがどこにもおらず、親戚を呼んで相談し、目付けへ届けた。目付け・大目付は検分したがさっぱり分からず、そのまま領主に報告した。
普段まじめに勤めてきた五郎太夫が、みずから失踪したとは考えにくかったが、主人に届けを出さずにいなくなってしまったため、萱野家は家名断絶になった。しかし、代々の忠義をかんがみて、あらためて五郎太夫の息子を取り立て、同じ禄を受けて藩に仕えることを許された。
翌年正月、萱野家の床の間に、誰が置いたのか一通の書状があった。開いてみると、五郎太夫の筆跡で次のようなことがしたためてあった。《私は今愛宕山に住み、宍戸シセンと名乗っている。》追伸には、《二十四日には決して酒を飲んではならぬ》と記されてあった。
京都の愛宕山は愛宕権現を祭っており、また天狗が多く住むという。二十四日は愛宕権現縁日の日で、この日に酒を飲まなければ、火難を避けられるといわれている。それきり五郎太夫からは何の連絡もなかった。
その後、藩主の家も家名断絶となり、萱野家は主家を失った。 
天狗の縄
讃岐国に照本寺という日蓮宗の寺があり、真可(しんが)という小僧がいた。
あるとき、真可は歌津へ使いに出された。その帰り道、ばくち谷という谷に差し掛かると、突風にさらわれて、空に舞い上げられた。
真可は何者かに体をつかまれていると感じたが、勇気を奮って法華経の普門品を高らかに唱えた。すると、続けて唱える声がした。真可は経を終わりからはじめに向かって逆さまに唱えた。なぞの声はそれに続くことが出来なかった。
何者かは腹を立てたらしく、真可の帯をほどくと、でたらめに真可に巻きつけて強く縛った。そのまま照本寺の縁側に真可を投げ捨てた。
真可はそのまま経を唱え続けた。寺の者が出てきて真可を見つけ、住職を呼んだ。住職は真可をじっと見ていたが、静かに声を合わせて経を唱えた。すると、真可の体が帯からするりと抜けた。
帯は様々に結ばれて解けず、帯の端すら見つけられなかった。その帯は“天狗の縄”と呼ばれ、寺に今も伝わっているという。 
天狗僧
近江国の僧・智源のもとに毎日通ってくる若い僧がいた。二十二三歳くらいのこの僧・光党は、ある日いつものようにやってきて、遠くに行くことになったから会いにこれなくなる、と暇乞いをした。
そして、これまでの感謝の気持ちに贈り物をしたいから、何かあれば教えて欲しい、とたずねた。
智源は、老いた身に望むものなどもう無いが、若い頃にいろんな寺社に巡ったものの、行きそびれたところもあるので、何かと問われればそれぐらい、と答えた。
光党はそれなら簡単だと請け負った。今から参りましょうと、智源に自分の背に乗るように促した。
智源が光党の背に乗ると、しっかりつかまって目を閉じるように言った。『移動している間は決して目を開けぬ様に』
智源は目を閉じた。そのうち、さあさあと音が聞こえてきたが、どういう状況かまるで分からない。気になってつい、目を開けてしまった。
智源は光党に負ぶわれて湖の一町ほど上を飛んでいた。怖くなって慌ててまぶたをぎゅっと閉じた。
少しして光党に言われて智源が目を開けると、二人は伯耆の国・大山にいた。その後、言われた通りに目を閉じて、讃岐の金比羅、秋葉山、大峯、富士山を巡った。
ゆっくり見てまわり、途中で食事をし、光党の背で目を閉じればすぐに次の目的地、それはとても自由な旅だった。
出発して二日後、二人は元の寺に戻った。
旅から帰って四五日後、光党がたずねて来た。『いろいろ巡り望みが叶いましたでしょう。 もし他の者でしたら、湖の上で目を開けたときに引き裂いていたところでしたが』
光党の言葉に智源は肝を潰した。
『もし今後火災などが起こる時には、前もってお知らせ致します』光党はそういい残して去って行った。 
秋葉山の火
遠州秋葉山の山頂には、時々、夜に怪火の見えることがある。“天狗の遊火”と呼ばれている。雨の番に現れると、頂から川に移って水面を流れることもある。そんな時は、里の人々は家の戸締りをして、外に出歩くのを慎しむという。 
念仏の僧、魔往生の事
美濃の国伊吹山に、長く修行を続けている聖がいた。阿弥陀如来より他の事は知らず、ただひたすら念仏を唱え続けて年を取ってきた。
ある時、いつものように深夜になるまで念仏を唱えていると、どこからか声がした。『そなたは今までずっと私に祈りを捧げてきた。唱え続けた念仏はもう十分だから、明日の未の刻に必ず迎えに参る。念仏怠らぬように』
聖はいつも以上に丁寧に念仏を唱えると、沐浴をして身を清め、香を焚き散華(さんげ)をして場を清めた。弟子たちと共に西を向いて読経をしながら約束の時間を迎えると、西の空にだんだんと何かがまたたくのが見えた。手をすり合わせ念仏を唱えながら見れば、金色の光を放つ仏の姿であった。
まるで秋の月が雲間から現れ出たように美しい光景で、天からは花が降りそそぎ、仏の額の百毫(びゃくごう)から放たれる光は聖の体を明るく照らし出した。聖は頭を床にこすり付け、手にした数珠の緒が切れそうになるくらいこすり合わせて拝み続けた。
蓮華の台座を捧げ持つように観音菩薩が聖の前に立った。聖は促されるままに台座に乗ると、紫雲に包まれた寺を離れ、仏たちとともに西の彼方に去っていった。
寺に残った弟子たちは、聖の往生を尊びながらも悲しみ、弔いをした。
それから七、八日たった頃、寺の下級の僧たちが、上級の僧たちの湯浴みに使う薪を拾いに山に入った。すると、遠くの杉の梢に坊主が一人、縛り付けられて叫んでいるのが見えた。木登りの得意な僧が登ってみると、極楽へ去ったはずの聖であった。
『どうしてこのような目に』僧が縄を解こうとすると、『迎えに来るまでここで待て、と仏に言われている』と怒り出した。それでも僧が縄に手をかけると、『阿弥陀仏、阿弥陀仏、私を殺そうとする者がいる。をうをう』と叫んだ。
ほかの僧たちも木に登り、皆で聖を下に降ろし寺に運んだ。寺の者たちも驚き悲しんだが、聖は正気に戻らぬまま、数日後になくなった。
道を探求することなくただ念仏を唱えているだけの聖は、天狗に欺かれても仕方がないのである。
( 散華−読経しながら花などを撒いて場を清めること。) 
天狗が子をさらう
会津藩主加藤嘉成の家臣である小嶋伝八郎の子・惣九郎が十一歳の春、行方不明になった。あちこち探し回ったが見つからず、祈祷師も呼んで祈らせたが、何の効き目も無いまま何日も過ぎた。
そんなある日、惣九郎の手がかりを知る者が尋ねて来た。甲賀町で古手屋を営む甚七だった。
二十日ばかり前の日の早朝、甚七たちは都合があって店を早くに開けた。店の者たちと準備をしていると、目の前の通りを山伏が二人通り過ぎた。その間には子供が一人挟まれていて、それが惣九郎だったという。
そのとき、山伏の一人が店の前に引き返してきて、十歳くらいの子供用のわらじはあるかと尋ねたが、甚七は無いと答えた。山伏たちは東の方角へ急いで行ってしまったという。
惣九郎は天狗にさらわれたようだった。伝八郎夫婦は妙法寺の日覚上人を頼った。
五の町車川に護摩壇が用意され、上人と法華僧二十人が読経を始めた。
祈祷が始まって七日目、曇りの無い青空の高くに何かが見えてきた。また、東より大鳶が現れて、この小さい何かをさらおうと近づいた。するとさらに、金色のカラスがやって来て、大鳶と小さいものの間に割って入り、大鳶の邪魔を始めた。
小さいものは次第に地面に近づいて来て、やがて護摩壇の上に落ちた。惣九郎だった。
日覚上人は仏の再来と評判になった。しかし、伝九郎は心を抜かれてしまい、生涯元には戻らなかった。 
猪鼻山天狗 
蒲生秀貞は武将にして歌人であり、新撰莬玖波集にその歌が載せられているほどである。秀貞は後に剃髪し知閑と名乗った。その知閑が、魔所として知られた甲州・猪鼻山に陣を張った時の話である。
この知閑の陣に、天狗の仕業か、山の上から大石がたくさん転がり落ちてきたかと思うと、大勢の笑い声があたりに響いた。
知閑は言った。『山海経に、狸のような形して色白く、蛇を喰う天狗と言う獣あり。また和名抄には、“あまのくつね”と訓読みしてやはり獣の部に入れり。獣に陣を煩わされるのは甚だ心外なり。昔、この山に棲みつき人を喰う大頭(たいず)魔王が、空海により巌窟に封じられ、魔王堂というものあると聞く。訪ねて行って帰ってきた者はいない。誰かいないか。この山分け入り、魔王堂を見届ける者は』
この言葉に蒲生家無双の大力・土岐大四郎元貞が進み出て、『それがしが見届け罷り帰りもうすべし』と、白綾の鉢巻しめ、黒腹の鎧を着て、白柄の大長刀(おおなぎなた)を杖に山中へ向かった。
人の通わぬ山道は険しく、蔦を引き、木の根を伝い、岩を登って、元貞は魔王堂近くまでやってきた。すると、二丈ほどもある大山伏が、柿色の衣に鉄棒携えて、雷のような大いびきをかいて寝ているところに出くわした。
元貞は長刀の石突きで山伏を突いた。『道狭くして歩行不自由なるに、さらに塞ぐとは奇怪なり。早々起きて去れ』山伏はあくびしながら起き上がり、『汝は何者にて我が眠りを妨げるか、まずは名を名乗れ』元貞答えて、『我は蒲生家家臣・土岐大四郎元貞。日本無双の剛の者なり』それを聞いて山伏は、『そんなつわものならば我と勝負せよ』と元貞に挑みかかった。
元貞と山伏は、火花を散らし激しく切り結んだ。しかし山伏ごときに負けるはずはなく、元貞の長刀の切っ先は山伏をとらえ、その体と首を二つに切り離した。
元貞は勝利の証しである山伏の首を取ろうと手を伸ばした。するとたちまち首は一羽の大鳶に変じ、虚空へと飛び去った。
元貞は魔王堂にたどり着いた。堂の軒は崩れ落ち、壁は傾き倒れ、修理された気配は無く、ただ荒れるに任されていた。また、いかにも天狗の住むところと見え、堂のまわりには牛馬人畜の骨やらが投げ散らかされていた。
魔王堂の門前には仁王門があり、その戸が開いて中から二丈ばかりある仁王像が出てきて、元貞の前までやって来た。仁王像は目を見張り足を力強く踏みしめて、『いかに客人、相撲とるべし』と挑んだので、元貞も『望むところ』と応じ、兜の緒を強く締め鎧を揺り合わせると、仁王とがっぷり四つに組んだ。
引き合い、ねじり合い、双方強く組み合ったが、元貞の力が上回り、仁王を小脇に挟むと力強く締め上げ、横様になげ倒した。
もとより年久しく風雨にさらされていた仁王像は、五体ばらばらになってしまった。元貞は『これで懲りなん』と言うと一休みした。
そこへ奥山より、凄まじくわめき叫びながら何者かが駆けて来た。元貞は身を潜め様子を伺った。それは、真っ白な髪を前後に振り乱し、鏡のような眼(まなこ)に耳まで裂けた口の、一丈ほどの鬼婆だった。左の肩にはに毒蛇が十数匹も巻きつけられ、鬼婆は右の手でそれをつまみ切っては口に運んでいた。
鬼婆は散らばった仁王のそばに寄ると言った。『哀れむべし。万里鉄面鉄胴の仁王、人を食わんとして人に砕かれり』仁王の首は答えて、『人侮りてかくの如し。我が五体集めくれよ、今ひと勝負』
婆が仁王の体を集めると、ひとつにまとまってむっくりと起き上がり、残った首を両の手で持ち上げると元のところに押し据えて、力強い足取りで元貞の前にやって来た。
元貞は長刀を取り、振り払った。仁王の首は再び体から別れ、谷底へ転がり落ち、体は婆と共に奥山へ逃げ去った。 
突然堂が震動し、大音声が山河に響いた。
『我ここに留め置かれ、衆生済度をこころざすも、耳に読経の声聞かず、香花手向ける人も無く、大頭(だいず)魔王の勧めに自然と人を喰い習えり。かたちは柔和忍辱の姿、心は悪しき鬼の肝、腹は大蛇の腹となり。幸い今宵の黙心なし、いかがせんと思いけるに客人来給う。天の助け、さらばそれへ参らん』
声の主は、堂の中の丈六(たけろく)の阿弥陀仏だった。台座からゆっくりと降り立つと、元貞に襲い掛かってきた。『仏は人を助けるのが道なるに、その人を喰うとは何事ぞ』元貞はこぶしで仏の胸をついて押し倒した。地に倒れた仏からものすごいにおいが漂ったので、元貞はその横っ腹を思い切り蹴破った。すると、ごろごろと幾十もの骸骨が転がり出た。
仏はよろめきながらも立ち上がり、再び元貞に向かって来た。元貞が長刀(なぎなた)の柄で仏を散々に打ち砕くと、その破片は数百万の蝶となり元貞に群がった。兜や面頬(めんぼお)の隙に入り込もうとするたくさんの蝶は、まるで大雪が吹き付けるようで、目を開けられず、さすがの元貞もその場から逃げ出した。
山を駆け下りる元貞を、岩の上で仁王の首が待ち構えてた。首は飛び掛り、元貞の胸に喰らいついた。元貞は仁王の首を掴んで思い切り岩に叩きつけた。首は鞠のように弾んでまたどこかに行ってしまった。
元貞は陣に帰還した。知閑に事細かに魔王堂での出来事を語っていると、虚空が鳴動し、あの仁王の首が車輪のように光を発しながら、陣中に転がりこんできた。その途端、まるで百のいかづちが落ちたような音が響き、あたりはしばし闇に包まれた。
やがて再び雲が晴れ、月が顔を出した。そこに仁王の首は無く、代わりに金色に輝く美しい天女が一人立っていた。
知閑は刀に手を掛けながら女を睨みつけた。『汝何者ぞ。正体を現せ』
天女は答えた。
『我はこれ、唐の玄宗皇帝の妻・楊貴妃なり。玄宗皇帝とは宿世の契深くして、生まれ変わり死に変わり、その度夫婦の契りを結ぶ。玄宗皇帝、この山の天狗となり給えば我もまた従い来れり。しかるに我ら、大凡不浄の身をもってみだりに我住む山に入り、欲しいままに踏み荒らす。早々ここを立ち去らずんば、一人も生かして帰すまじ。覚悟せよ』
知閑は怒り、その刀が抜かれたと思う間もなく天女の首を刎ねた。頭を失った体はうつぶせに倒れた。一同が駆け寄って見ると、それは天女ではなく、なんと元貞だった。   
山の上から大勢の笑い声がどっとわいた。陣中に大石が雨あられのごとく転がり込み、つむじ風が巻き起こり、山嵐が吹き荒れた。立てかけていた槍に長刀、旗印、馬印、散々に吹き散らされ、さしもの知閑もほうほうの体で陣を引き払い、急ぎ国許へ帰還したという。 
* 新撰莬玖波集−室町時代の連歌集。1495年成立。
* 蒲生秀貞−室町後期〜戦国初期の武将。
* 山海経―中国の地理書。
* 和名抄―平安時代の漢和辞典
* 長刀(なぎなた)―薙刀と同じ。江戸時代には女性の武器になったが、それ以前は僧兵や武士の武器だった。
* 石突き-なぎなたの柄の先の部分。 
* 丈六(たけろく)−一丈六尺の仏像。参考記事「丈六(たけろく)の仏。」
* 面頬(めんぼお)―兜とともにつけるマスクのようなもの。 
牛若丸と大天狗 
能「鞍馬天狗」は、牛若丸が沙那王といった幼年時代を題材にして、大天狗が沙那王に武術を教え、平家を倒し源氏の再興を期するという内容の物語である。桜の季節を背景に、シテ(天狗)と子方(沙那王)がやりとりする光景は、色気を感じさせるものであり、これを男色の能と見る見方もある。
作者の宮増はほかに「接待」「大江山」「夜討曾我」などを作っており、わかりやすく大衆受けする作風である。この曲は、大天狗をシテにしているところから、「車僧」など一連の天狗ものに分類されることもあるが、ほかの作品の天狗たちが、どこかユーモラスで憎めないのに対し、この曲の大天狗は父性あふれる姿に描かれている。
曲の前半では、大勢の子方が花見見物に出てくる。これらの子方は「花見」と呼ばれ、能楽師の子どもが歩けるようになると最初に勤めるものだとされている。また中入では大勢の木葉天狗が出てくるが、これは狂言師の子どもたちである。こんな子どもたちの活躍もあって、全体がにぎにぎしく、楽しさあふれる作品になっている。
舞台にはまずシテが現れる。ほかの天狗もの同様前段では直面である。シテは鞍馬山から花見をするために比叡山までやってきた旨を口上した後、舞台前方右側の床几に腰掛ける。(以下、テクストは「半魚文庫」を活用)
シテ詞「かやうに候ふ者は。鞍馬の奥僧正が谷に住居する客僧にて候。さても当山において。花見の由うけたまはり及び候ふ間。立ち越えよそながら梢をもながめばやと存じ候。
そこへ西谷の能力に扮した間狂言が現れ、東谷まで花見の案内をしにゆくのだと述べる。続いてワキ方と花見の子方が大勢現れる。能力はワキの僧に案内の手紙を差し出す。
狂言「これは鞍馬の御寺に仕へ申す者にて候。さても当山において毎年花見の御座候。殊に当年は一段と見事にて候。さる間東谷へ唯今文を持ちて参り候。いかに案内申し候。西谷より御使にまゐりて候。これに文の御座候御らん候へ。
ワキ詞「何々西谷の花。今を盛と見えて候ふに。など御音信にもあづからざる。一筆啓上せしめ候ふ古歌にいはく。けふ見ずはくやしからまし花ざかり。咲きものこらず散りもはじめず。げにおもしろき歌の心。たとひ音づれなくとても。木蔭にてこそ待つべきに。
地歌「花咲かば。告げんといひし山里の。告げんといひし山里の。使は来たり馬に鞍。鞍馬の山の雲珠桜。たをり枝折をしるべにて。奥も迷はじ咲きつゞく。木蔭に並み居ていざ/\花をながめん。
ここで、花見に興を添えるために小歌を謡えと僧に命じられ、狂言が小謡を謡う。歌いおえた狂言(能力)は客僧の存在に気づき、追い払おうとするが、僧たちは引き上げようと言って、子方一人を残し、みな退場する。
狂言「いかに申し候。あれは客僧の渡り候。これは近頃狼藉なる者にて候ふ。追つ立てうずるにて候。
ワキ詞「しばらく。さすがに此御座敷と申すに。源平両家の童形達各御座候ふに。かやうの外人は然るべからず候。しかれども又かやうに申せば人を選び申すに似て候ふ間。花をば明日こそ御らん候ふべけれ。まづ/\此処をば御立ちあらうずるにて候。
狂言「いやいやそれは御諚にて候へども。あの客僧を追ひ立てうずるにて候。ワキ「いやただ御立あらうずるにて候。
ワキや子方が去って一人舞台に残った沙那王に向かって、シテはやおら立ち上がって近づき、何故一人だけ残ったのかと問いかける。それに対して沙那王は、平家一門のなかにまぎれて、自分だけ肩身の狭いをしているのだと応える。
シテ「遥に人家を見て花あれば即ち入る。論ぜず貴賎と親疎とを弁へぬをこそ。春の習と聞くものを。浮世に遠き鞍馬寺。本尊は大悲多聞天。慈悲に洩れたる人々かな。
子方「げにや花の下の半日の客。月の前の一夜の友。それさへ好みはあるものを。あら痛はしや近うよつて花御らん候へ。
シテ詞「思ひよらずや松虫の。音にだに立てぬ深山桜を。御訪の有難さよ此山に。
子方「ありとも誰かしら雲の。立ち交はらねば知る人なし。
シテ詞「誰をかも知る人にせん高砂の。
子方「松も昔の。
シテ「友烏の。
地「御物笑の種蒔くや。言の葉しげき恋草の。老をな隔てそ垣穂の梅さてこそ花の情なれ。花に三春の約あり。人に一夜を馴れそめて。後いかならんうちつけに心空に楢柴の。馴れは増らで恋のまさらん悔しさよ。
シテ詞「いかに申し候。唯今の児達は皆々御帰り候ふに。何とて御一人是には御座候ふぞ。
子方詞「さん候唯今の児達は平家の一門。中にも安芸の守清盛が子供たるにより。一寺の賞翫他山のおぼえ時の花たり。みづからも同山には候へども。よろづ面目もなき事どもにて。月にも花にも捨てられて候。
シテ「あら痛はしや候。さすがに和上臈は。常磐腹には三男。毘沙門の沙の字をかたどり。御名をも沙那王殿と付け申す。あら痛はしや御身を知れば。所も鞍馬の木蔭の月。
地「見る人もなき山里の桜花。よその散りなん後にこそ。咲かばさくべきにあら痛はしの御事や。
地歌「松嵐花の跡訪ひて。松嵐花の跡訪ひて。雪と降り雨となる。哀猿雲に叫んでは。腸を断つとかや。心凄のけしきや。夕を残す花のあたり。鐘は聞えて夜ぞ遅き。奥は鞍馬の山道の。花ぞしるべなる此方へ入らせ給へや。さても此程御供して見せ申しつる名所の。ある時は。愛宕高雄の初桜。比良や横川の遅桜。吉野初瀬の名所を。見のこす方もあらばこそ。
客僧があまりに親切なので、不思議に思った沙那王がその訳を聞くと、シテは自分こそ大天狗であると本性を明かし、明日改めて参会しようと言い含めて、ともに舞台を去る。
ロンギ子方「さるにても。如何なる人にましませば。我を慰め給ふらん。御名を名のりおはしませ。
シテ「今は何をか包むべき。我此山に年経たる。大天狗は我なり。
地「君兵法の。大事を伝へて平家を亡ぼし給ふべきなり。さも思しめされば。明日参会申すべし。さらばといひて客僧は。大僧正が谷を分けて雲を踏んで飛んでゆく。立つ雲を踏んで飛んでゆく。
(来序中入間)中入では、大勢の木葉天狗たちが現れる。大天狗が沙那王に武術を教えることになったので、自分たちも稽古に励もうと言って、たがいに槍をもってやりあう。
後段では、若武者姿になった子方と、大天狗になったシテが登場する。大天狗は供の天狗たちについて語り、天狗の威力を強調する。
後子方一声「さても沙那王がいでたちには。肌には薄花桜の単に。顕紋紗の直垂の。露を結んで肩にかけ。白糸の腹巻白柄の長刀。
地「たとへば天魔鬼神なりとも。さこそ嵐の山桜。はなやかなりける出立かな。
後シテ「そも/\これは。鞍馬の奥僧正が谷に。年経て住める。大天狗なり。
地「まづ御供の天狗は。誰々ぞ筑紫には。
シテ「彦山の豊前坊。
地「四州には。
シテ「白峯の。相模坊。大山の伯耆坊。
地「飯綱の三郎富士太郎。大峯の前鬼が一党葛城高間。よそまでもあるまじ。邊土においては。
シテ「比良。
地「横川。
シテ「如意が嶽。
地「我慢高雄の峯に住んで。人の為には愛宕山。霞とたなびき雲となつて。月は鞍馬の僧正が。
地「谷に満ち/\峯をうごかし。嵐こがらし滝の音。天狗だふしはおびたたしや。
大天狗は更に、黄石公の故事について語り、沙那王に武術を教える。
シテ詞「いかに沙那王殿。只今小天狗をまゐらせて候ふに。稽古の際をばなんぼう御見せ候ふぞ。
子方詞「さん候只今小天狗共来り候ふ程に。薄手をも切りつけ。稽古の際を見せ申したくは候ひつれども。師匠にや叱られ申さんと思ひ止まりて候。
シテ「あらいとほしの人や。さやうに師匠を大事に思しめすに就いて。さる物語の候語つて聞かせ申し候ふべし。
語「さても漢の高祖の臣下張良といふ者。黄石公にこの一大事を相伝す。ある時馬上にて行きあひたりしに。何とかしたりけん左の履を落し。いかに張良あの履とつてはかせよといふ。安からずは思ひしかども履を取つてはかす。又其後以前の如く馬上にて行きあひたりしに。今度は左右の履を落し。やあ如何に張良あの履取つてはかせよといふ。なほ安からず思ひしかども。よし/\この一大事を相伝する上はと思ひ。落ちたる履をおつとつて。
地「張良履を捧げつゝ。張良履を捧げつゝ。馬の上なる石公に。はかせけるにぞ心とけ兵法の奥儀を伝へける。
シテ「そのごとくに和上臈も。
地「そのごとくに和上臈も。さも花やかなる御有様にて姿も心も荒天狗を。師匠や坊主と御賞翫は。いかにも大事を残さず伝へて平家を討たんと思し召すかややさしの志やな。
地歌「抑武略の誉の道。
(舞働)盛り上がったところで、シテの舞働きがあり、曲はキリの部分へ向かって高まっていく。
地歌「抑武略の誉の道。源平藤橘四家にも取りわきかの家の水上は。清和天皇の後胤として。あらあら時節を考へ来るに。驕れる平家を西海に追つ下し。煙波滄波の浮雲に飛行の自在を受けて。敵を平らげ。会稽を雪がん。御身と守るべし。これまでなりや。御暇申して立ち帰れば。牛若袂に。すがり給へば実に名残あり。西海四海の合戦といふとも。影身を離れず弓矢の力を添へ守るべし。頼めやたのめと夕かげくらき。頼めやたのめと。夕かげくら馬の。梢に翔つて。失せにけり。  
鞍掛山の天狗 
出羽の国というから今の山形県だね。出羽三山といって、高い山が三つあって、その一つに羽黒山と呼ばれる有名な山があるのを知っているかな。
昔はそこにたくさんの天狗が住んでおった。天狗はみんな酒が好きだった。
ある酒盛の時だった。ちょっとしたことから、仲間げんかになり、余り威張ってたので、とうとう出羽の国を追い出されてしもうた天狗がいた。天狗はしかたなしに、山々を歩き回った末、下野国の古峯山(こぶさん)にやってきて 身をひそめていた。
だが、大水が出ると、鬼どもが怒かり狂ったように流れる鬼怒川に近い羽黒村にある羽黒山の方が、おもしろくなって、そこにやってきたんだね。
ある日のこと。人里から、近くの新里村には馬の鞍の形をしたいい山があるという話を聞いた天狗は、その鞍に乗って、空を飛んで見ようと思ったんだろうね。さっそく、鞍掛山にやってきて、ながめていたが、
「なーるほど。いい鞍だわい。それなら、わっしが乗ってもうまく飛るぞ。おもしろい。おもしろい。」 とひとり感心しながら、人里に下り始めた。
「出羽を追い出されてから、すきな酒を切らしているので、力がぬけてしもうた。ぐっと、いっぱい、ほしいもんだ。」
などと考えながら、坂道を歩いていくと、山仕事から帰える喜平という者に出会った。
喜平は一目みるなり、真青になり、驚きのあまり、足がすくんで、その場に座りこんでしもうた。そして、ふるえた声で、「天狗さま。天狗さま。命だけはお助けを・・・・・。おらあ、おらあ、なにも悪いことなんがしてねえだよ。」 手を合わせ拝むばかりだった。
「うっ はっ はっ はっ。」
天狗は大声で笑って言った。
「驚くのも無理がなかろ。でも、天狗さまは決っして、悪いことはいたさぬ。実はな、酒が飲たいのじゃ。酒がな。何の仕度にも及ばぬが、酒だけごちそうしてくれんかのおー。」
喜平は、やっとふるえがとまった。
「ここんところ、あまり飲んでおらんので、力がでなくて困っているでな。わっしは、この山を登る途中に、そら、大きな岩屋があるだろ。あそこに住んでいる天狗じゃよ。里人を苦しめようなどとは、思っておらんから、安心せい。」
喜平はいまさら逃出すこともできず、天狗を連て家に帰った。酒をふるまうと天狗は喜こんで夜道を山に帰っていった。
二日ばかりして、「喜平、酒はまだ残っておらんかの。」 と天狗がやってきた。喜平も酒好者だから 「天狗さまにあげる酒、とっておいたぜ。うーんと飲でおいでな。うんめぇ酒が好でな。天狗さんと酒が飲るなんて、こんないいことはそうあるもんじゃねえですだ。」
喜平は天狗とすっかり仲よしになってしもうて、毎晩、天狗が酒飲にくるのを楽しみに待ようになった。
秋風が吹き始めたある晩のことだった。しばらく姿を見せなかった天狗がやってきた。
「喜平、おるかい。」 ひとり酒を飲んでいた喜平の家の戸を開けて入ってきた。
「天狗さま。ずいぶん、しばらくでごぜえますだ。今夜は、ゆっくりと飲み明しあんしょ。」というと
「いや、喜平どん。その気持はありがたい。だがな、わけがあって夜の明けぬうちに出羽の国へ帰ることになりおったわ。わっしは天狗だから、すごい力を持っておるんだ。世話になったお礼に、喜平どんに何か困ったことができたら、一度だけ、わっしの力をかしてやることにした。
これは小さいけど、わっしが作った梵天だ。岩屋には、鞍掛の山の神を刻んでおいたから、これを持っていって、拝めばいい。ずいぶん、世話になったのう。喜平どん。いつまでも達者でな。」 と、言ったかと思うと天狗の姿は消てしもうたんだ。
喜平は夢でもみているような気がしてならなかったが、小さな梵天だけが、喜平の座っている前に残っていた。
「一度だけ、わっしの力を貸てやる。喜平どんに困ったことがあったら・・・。」喜平は何度か天狗の最後の言葉を、くり返してみた。そして前にある梵天を見ながら、天狗の言葉を信じた。
「一度だけのことだから、本当に困りごとができたときに、天狗さまの力を借ることにしよう。」 喜平はそう心に決めて、毎日仕事に精を出して働いた。やがてこの里で一番の働き者になった。その精か、来年も、来年も、作物がよく実のり、この里で一番のお金持になったそうだ。 
 
「黒塚」安達ヶ原の鬼婆

 

能の演目の一つ。観世流では「安達原(あだちがはら)」。四・五番目物、鬼女物、太鼓物に分類される。いわゆる「安達ヶ原の鬼婆」伝説に取材した曲である。作者については不詳。作者付の記述から、近江猿楽所縁の曲であったと見られる。
廻国巡礼の旅に出た熊野那智の山伏・東光坊祐慶(ワキ)とその一行は、陸奥国安達ヶ原で、老媼(前ジテ)の住む粗末な小屋に一夜の宿を借りる。老媼は自らの苦しい身の上を嘆きつつ、求められるまま枠桛輪で糸を繰りながら糸尽くしの歌を謡う。やがて夜も更け、老媼は「留守中、決して私の寝所を覗かないでください」と頼み、山伏たちのために薪を取りに出る。しかし、山伏に仕える能力(アイ)は、寝所の中が気になって仕方がない。山伏との攻防の末、ついに密かに部屋を脱け出して寝所を覗くが、そこには大量の死体が積み上げられていた。能力からの知らせを受けた山伏は、「黒塚に住むという鬼は彼女であったか」と家から逃げ出すが、正体を知られたと悟った鬼女(後ジテ)が怒りの形相で追ってくる。山伏は数珠を擦って何とか鬼女を調伏し、鬼女は己の姿に恥じ入りながら去っていく。

この曲では『拾遺和歌集』巻九の、陸奥の安達の原の黒塚に鬼こもれりといふはまことか
という平兼盛の歌が構想の核となっている。
同じく鬼女をシテとする「紅葉狩」と異なり、この曲ではシテは般若の面を着け、その本性は人間であるとされている。事実、自己の運命を慨嘆し、その正体を知られることを恐れる姿は弱々しく、また山伏のために薪を用意しようとするなど女性的な優しさも見せるが、その前場の人間的な言動はあくまで、本性を隠すための「演技」とも見ることが出来る。事実、結末も「葵上」のように成仏するのではなく、法力に屈服して退散するのみである。
また、「人の心の二面性を描いた能」という解釈もある。そういった意味では、この曲のシテは、いわば誰もが持つ心の奥の秘密を暴かれたのであり、観客はむしろその鬼女に同情さえしてしまう。人間としての側面と鬼としての側面のどちらを強調するかで、曲の趣は変化する。
作中では語られないシテの女性の前歴については、都の高貴な女性(馬場あき子)、六条御息所に自己同一化する女性(金関猛)、都の白拍子(松岡心平)などの説、またその造形上のモデルを『源氏物語』の六条御息所とし、この曲のシテは過去世の罪科を悔いる六条御息所の後身であるという説などが提示されている。
作者については『能本作者注文』が「近江能」、『自家伝抄』が「江州へ遣す、世阿弥」、また金春家書上およびそれを参照した『二百十番謡目録』が金春禅竹としている。近江猿楽の犬王は同じ般若物の「葵上」を得意曲としていることなどからも、この曲も近江猿楽所縁と見られる。 
安達が原
安達が原の人食い鬼伝説を能にしたものを、観世流では「安達が原」といい、他の流派では「黒塚」という。両者をあわせると「安達が原の黒塚」となり、鬼の住処を表すというわけである。しかし伝説と言っても、古来あったものではなく、能が先にあって、其れが民間に広まったということらしい。
前後の二段からなる。前段は、旅の山伏一行が人里離れたところで夜を迎え、老婆の住むあばら家に一夜の宿を借りる場面で、老女が糸車を繰りながら昔を懐かしみ、その後に、薪を取りに裏の山に消えていく。其の際老女は、自分の留守中に決して閨を覗かぬようにと言い残していく。そこで老女の言葉に関心をそそられた従者の能力が、主人の静止を振り切って覗いてみると、閨の中にはたくさんの死体が積み重なっていて、血を流したり腐乱しているのが見える。驚いて主人に報告すると、主人らは一目散に逃げていく。
後段は、老女が鬼の姿で現れ、約束を破った山伏たちに襲い掛かるところが描かれる。山伏たちは数珠を揉みながら呪文を唱え、その法力によって辛くも逃れるという筋書きである。
道成寺、葵の上とともに三鬼女と称されているが、ほかの二作がシテが脇に直接の恨みを持たないのに対して、この曲は、自分を裏切った脇に向かって、シテの老女が鬼となって襲い掛かるという、いわば復讐劇の形をとっている。
裏切られた老婆の恨みがテーマであるから、鬼は山伏たちをただ食おうというのではなく、懲らしめようという態度を取る。そこが他の鬼の話とは異なるこの曲の独特なところだ。
ここでは先日NHKが放送した喜多流の舞台を紹介する。シテは塩津哲生、ワキは福王茂十郎だった。
舞台には作り物が据えられ、その中にはシテの老婆があらかじめ潜んでいる。そこへワキの山伏とワキツレがやってくる。(以下テクストは「半魚文庫」を活用)
ワキ(那智の東光坊の阿闍梨祐慶)たちは熊野を旅立って諸国巡回(廻国行脚)をするうちに陸奥の安達が原で日が暮れる。
ワキ、ワキツレ二人 次第「旅の衣は篠懸の。旅の衣は篠懸の。露けき袖やしほるらん。
ワキサシ「これ那智の東光坊の阿闍梨。祐慶とは我が事なり。
ワキツレ二人「夫れ捨身抖藪の行体は。山伏修行の便なり。
   *捨身抖藪(しゃしんとそう。捨身行と抖藪行。断崖から身を投ずる行法と入峰修行)
ワキ「熊野の順礼廻国は。皆釈門の習なり。
三人「然るに祐慶此間。心に立つる願あつて。廻国行脚に赴かんと。
歌「我が本山を立ち出でて。我が本山を立ち出でて。分け行く末は紀の路がた塩崎の浦をさし過ぎて。錦の浜の。をり/\は。なほしほりゆく旅衣。日も重れば程もなく。名にのみ聞きし陸奥の。安達が原に着きにけり。安達が原に着きにけり。
脇たちは人里離れたところに立っている一軒家を見つけ、そこで一夜を過ごさんものと案内を乞う。すると作り物の中から老婆が出てきて、最初のうちは断るのだが、そのうちに相手に同情して宿を貸すことにする。
ワキ詞「急ぎ候ふ程に。これははや陸奥の安達が原に着きて候。あら笑止や日の暮れて候。このあたりには人里もなく候。あれに火の光の見え候ふ程に。立ちより宿を借らばやと存じ候。
シテサシ「実にわび人の習ほど。悲しきものはよもあらじ。かゝる憂き世に秋の来て。朝けの風は身にしめども。胸を休むる事もなく。昨日も空しく暮れぬれば。まどろむ夜半ぞ命なる。あら定めなの生涯やな。
ワキ詞「いかにこの屋の内へ案内申し候。
シテ詞「そも如何なる人ぞ。
ワキツレ「いかにや主聞き給へ。我等始めて陸奥の。安達が原に行き暮れて。宿を借るべき便もなし。願はくは我等を憐みて。一夜の宿をかし給へ。
シテ「人里遠き此野辺の。松風はげしく吹きあれて。月影たまらぬ閨の内には。いかでか留め申すべき。
ワキ「よしや旅寐の草枕。今宵ばかりの仮寐せん。ただ/\宿をかし給へ。
シテ「我だにも憂き此庵に。
ワキ「たゞ泊らんと柴の戸を。
シテ「さすが思へば痛はしさに。
地歌「さらばとゞまり給へとて。樞を開き立ち出づる。異草も交る茅莚。うたてや今宵敷きなまし。強ひても宿をかり衣。かたしく袖の露ふかき。草の庵のせはしなき。旅寐の床ぞ物うき。旅寐の床ぞ物うき。
家の中に通されたワキは、そこに置かれている糸車に興味を覚え、それは何の用をするのかと尋ねる。そこで老女は、その糸車を繰りながら、昔語りを始める。この部分がこの能の前半の見どころだ。
ワキ詞「今宵の御宿かへすがへすも有難うこそ候へ。またあれなる物は見馴れ申さぬ物にて候。これは何と申したる物にて候ふぞ。
シテ詞「さん候。これはわくかせわとて。いやしき賎の女のいとなむ業にて候。
ワキ「あらおもしろや。さらば夜もすがら営うでお見せ候へ。
シテ「実に愧かしや旅人の。見る目も恥ぢずいつとなき。賎が業こそものうけれ。
ワキ「今宵とどまる此宿の。主の情深き夜の。
シテ「月もさし入る。
ワキ「閨の内に。
地次第「真麻苧の絲を繰返し。真麻苧の絲を繰返し。昔を今になさばや。
シテ「賎が績苧の夜までも。
地「世わたる業こそものうけれ。
シテ「あさましや人界に生を受けながら。かゝる憂き世に明け暮らし。身を苦しむる悲しさよ。
ワキサシ「はかなの人の言の葉や。まづ生身を助けてこそ。仏身を願ふ便もあれ。
地「かゝる憂き世にながらへて。明暮ひまなき身なりとも。心だに誠の道にかなひなば。祈らずとても終になど。仏果の縁とならざらん。
糸車を座った姿勢で繰っていた老婆は、そのまま居グセに流れていく。地謡とのやりとりをしながら、老婆は昔の若かった頃のことを思い出して感慨にふける。老いの嘆きの一節である。
クセ「唯これ地水火風の仮にしばらくも纏りて。生死に輪廻し五道六道にめぐる事唯一心の迷なり。凡そ人間の。あだなる事を案ずるに人更に若きことなし終には老となるものを。かほどはかなき夢の世をなどや厭はざる我ながら。あだなる心こそ恨みてもかひなかりけれ。
ロンギ地「扨そも五条あたりにて夕顔の宿を尋ねしは。
シテ「日陰の糸の冠着し。それは名高き人やらん。
地「賀茂のみあれにかざりしは。
シテ「糸毛の車とこそ聞け。
地「糸桜。色もさかりに咲く頃は。
シテ「くる人多き春の暮。
地「穂に出づる秋の糸薄。
シテ「月に夜をや待ちぬらん。
地「今はた賎が繰る糸の。
シテ「長き命のつれなさを。
地「長き命のつれなさを思ひ明石の浦千鳥音をのみひとり泣き明かす音をのみひとり鳴き明かす。
クセのあと、老婆は、夜が寒いので裏山まで薪を取りに行こうという。そして立ち上がって橋掛かりの方へ歩いていくが、ふと立ちとまって振り返ると、自分の留守中に決して閨の中を覗いてはならぬと言い残す。
シテ詞「如何に客僧達に申し候。
ツレ詞「承り候。
シテ「あまりに夜寒に候ふ程に。上の山に上り木を取りて。焚火をしてあて申さうずるにて候。暫く御待ち候へ。
ワキ「御志ありがたうこそ候、さらば待ち申さうずるにて候。やがて御帰り候へ。
シテ「さらばやがて帰り候ふべし。や。いかに申し候。妾が帰らんまで此閨の内ばし御覧じ候ふな。
ワキ「心得申し候。見申す事は有るまじく候。御心安く思し召され候へ。
シテ「あらうれしや候。かまへて御覧じ候ふな。此方の客僧も御覧じ候ふな。ワキツレ「心得申し候。
中入では、能力の間狂言が活躍する。能力は、老婆が山伏に言った言葉が気になって仕方がない。人の閨を覗くななどということは、当たり前のことなのに、その当たり前のことを、わざわざ山伏のようなものに向かって云うのは、なにか事情が隠されているに違いないと思うのだ。そこで、どうにかして閨の中を覗こうとするが、そのたびに山伏にたしなめられてなかなかできない。立ち上がって見に行こうとすると、寝ていたはずの山伏が起きて、制止するからだ。
しかしやっと三回目で、能力は閨の中を覗くことができる。するとそこにはすさまじい光景が広がっていた。沢山の死体や骨が積み重ねられていたのである。驚いた能力は山伏に報告する。山伏たちも閨の中の光景を見て仰天する。
ワキ「ふしぎや主の閨の内を。物の隙よりよく見れば。膿血忽ち融滌し。臭穢は満ちて膨脹し。膚膩ことごとく爛壊せり。人の死骸は数しらず。軒とひとしく積み置きたり。いかさまこれは音に聞<。安達が原の黒塚に。籠れる鬼の住所なり。
ワキツレ二人「恐ろしやかゝる憂き目をみちのくの。安達が原の黒塚に。鬼こもれりと詠じけん。歌の心もかくやらんと。
三人歌「心も惑ひ肝を消し。心も惑ひ肝を消し。行くべき方は知らねども。足に任せてにげて行く。足に任せてにげて行く。
山伏たちが逃げようとするところに、老婆が鬼女の姿となって現れる。老婆の面は般若に変っている。
ここで鬼女は山伏たちに襲い掛かろうとするが、山伏たちは数珠を揉み呪文を唱えて難を逃れようとする。両者入り乱れるうちに、法力が効果を現し、鬼女は夜風と共に消え去っていく。
出端又ハ早笛後シテ「如何にあれなる客僧。詞とまれとこそ。さしもかくしゝ閨の内を。あさまになされ参らせし。恨申しに来りたり。胸を焦がす炎。咸陽宮の煙。紛々たり。
地「野風山風吹き落ちて。
シテ「鳴神稲妻天地に満ちて。
地「室かき曇る雨の夜の。
シテ「鬼一口に食はんとて。
地「歩みよる足音。
シテ「ふりあぐる鉄杖のいきほひ。
地「あたりを払って恐ろしや。
イノリ ワキ「東方に降三世明王。
ツレ「南方の軍荼利夜叉明王。
ワキ「西方に大威徳明王。
ツレ「北方に金剛夜叉明王。
ワキ「中央に大日大聖不動明王。
三人「おんころころせんだりまとうぎ(薬師如来に祈る呪文)、おんあびらうんけんそはか(大日如来に祈る呪文)、うんたらたかんまん(不動明王に祈る呪文)
地「見我身者。発菩提心。見我身者。発菩提心。聞我名者。断悪修善。聴我説者。得大智恵。知我心者。即身成仏。即身成仏と明王の。繋縛にかけて。責めかけ/\。祈り伏せにけりさて懲りよ。
シテ「今まではさしも実に。
地「今まではさしも実に。怒をなしつる。鬼女なるが。忽ちによわりはてゝ。天地に身をつゞめ眼くらみて。足もとは。よろ/\と。たゞよひめぐる。安達が原の。黒塚に隠れ住みしもあさまになりぬ。あさましや愧づかしの我が姿やと。云ふ声はなほ。物冷まじく。云ふ声はなほ冷まじき夜嵐の音に。立ちまぎれ。失せにけり夜嵐の音に失せにけり。  
安達ヶ原の鬼婆

 

伝説1 
歌舞伎や謡曲でも有名な黒塚である。ここ安達がヶ原の「鬼婆」は、その名前を岩手と言ったそうです。京都のある公卿屋敷の乳母であったそうな・・・・その姫が重い病気に罹ったので易者に聞 いてみると、「妊婦の生肝を飲ませれば治る」を信じ旅立ち、辿り着いた場所がここ安達がヶ原 の「岩屋」であった。
木枯らしが吹く晩秋の夕暮れ時、岩手が住まいに していた岩屋に、生駒の介・恋衣(こいぎぬ)と名のる若夫婦が宿を求めてきた。その夜更け身ごもっていた恋衣が急に産気づき、生駒の介は産婆を探 しに外に出て行った。岩手は待ちに待った生肝を取るのはこの時とばかり、出刃包丁を振るって苦しむ恋衣の腹を割き生肝を取ったが、苦しい息の下から「私達は小さい時京都で別れた母を探しているのです」と語り息をひきとった。ふと見ると恋衣はお守袋を持っていた。このお守袋を見てびっくり仰天。これこそ昔別れた自分の愛しい娘であることが分かり、気が狂い鬼と化してしまった。以来、宿を求めた旅人を殺して生き血を吸い、いつとはなしに「安達がヶ原の鬼婆」と言われて、全国にその名が知れ渡ったと いう。
数年後、熊野の僧・東光坊がここを訪れて、岩屋の秘密を知り逃げようとしたところ、鬼婆は凄い剣幕で追いかけてくる。東光坊はこれまでと思い如意輪観音が入った笈を下ろし祈願すると、観音像が遥かに舞い上がって大きな光明を放ち、白真弓で鬼婆を射殺してしまったという。その後東光坊の威光は後世に伝わり、「白真弓如意輪観音」 の功徳は、奥州仏法霊場の随一と称する「天台宗」の古刹となった。
鬼婆を埋めた塚を「黒塚」と呼び、今でも 阿武隈川 の畔にあり、その昔を物語っているようであります。また、この「鬼婆」伝説は能の『黒塚』や『安達原』(観世流)、歌舞伎の『黒塚』などの題材となっている。 
伝説2
その昔、奥州安達ヶ原は阿武隈川沿いに拡がる広大な原で、旅人がよく道に迷うところでもあった。
物語は『都のお屋敷で、病弱な姫の乳母「岩手」(後の鬼婆)が、「妊婦の生き肝を飲ませれば治る」という易者の言葉を信じ、姫の病気を治したい一心から遠く陸奥に旅立ち、たどり着いた場所が安達ヶ原の岩屋だった。ある晩、若夫婦が一夜の宿を請い、身ごもっていた若妻が急に産気づいて、夫が薬を求めて外へ出て行った。岩手は、妊婦の生き肝を取るのはこの時とばかりに出刃包丁をふるって襲いかかり、若妻の腹を裂き、生き肝を取り出した。今際の息の下で「私達は都で別れた母を探して旅をしています」と若妻から聞かされ、若妻の持っていたお守袋を見てびっくり。この若妻こそ、昔別れた愛しいわが娘であることが分かって、岩手は気が狂い、鬼と化してしまった。以来、道に迷って宿を求めた旅人を殺し、生き血を吸い、肉を喰らう鬼婆となる。
ある日、安達ケ原を訪れた紀州の僧・東光坊が鬼婆の部屋の秘密を知り、急ぎ逃げると、出刃包丁を持った鬼婆がすさまじい剣幕で追いかけてきた。僧は最早これまでと観念し如意輪観音に祈願するや、尊像が虚空はるかに舞い上がって一大光明を放ち白真弓で鬼婆を射殺してしまった』という、おどろおどろしいお話。この鬼婆を埋めた塚を「黒塚」といい、衝撃的な運命をたどる母と娘の物語は歌舞伎や謡曲などでも知られている。
この物語が、今開催中の二本松城菊人形展の会場で「鬼婆伝説・奥州安達ヶ原(10段返し)」の演目で菊人形により演じられている。 
伝説3
福島県二本松市の阿武隈川東岸に、「安達ヶ原の黒塚」と呼ばれる場所があります。この安達ヶ原には、かつて人を喰らう鬼婆が棲んでいたと伝えられ、「黒塚」とはその鬼婆の墓のことです。真弓山観世寺の境内には、鬼婆が棲んでいたという巨岩が横たわっており、本堂には皺くちゃの乳房を垂れ下げた鬼婆の木像に、人殺しに使ったという出刃包丁や鍬なども飾られています。
名取郡黒塚に重之が妹あまたありと聞きつけていひつかしける
みちのくの安達ヶ原の黒塚に 鬼こもれりと聞くはまことか
という、平兼盛の歌を元に作者今春禅竹が謡曲「黒塚」を創作したと言われますが、この歌は大和物語(第五十八)によると、兼盛が陸奥の国にいたころ、閑院の王の娘で、黒塚に住み、藤原三男恒忠の妻となっていた女性を鬼女と詠んだのだといわれています。兼盛は、この女性の娘に求婚したのですが断られたので、腹いせに詠んだのではないかと考えられてもいます。「安達ヶ原の黒塚」は謡曲ばかりでなく、歌舞伎、文楽でも広く取り上げられている題材です。

安達ヶ原の鬼婆は、その元の名を「岩手の局」といい、京都のある公卿屋敷の乳母でありました。永年手塩にかけて育ててきた姫の唖を治したい一心から、『妊婦の生肝を呑ませれば治る』という易者の言葉を信じ、遠く陸奥に旅立ち、たどり着いた場所が、この安達ヶ原の岩屋だったのでした。
木枯らしの吹く晩秋の夕暮れ時、生駒之助、恋衣と名乗る若夫婦が一夜の宿を請うたが、その夜、妊っていた恋衣が俄に産気付き、生駒之助は薬を求めに出ていったのでした。
老婆岩手は、待ちに待った人間の生肝を取るのはこのときぞとばかり、出刃包丁を振るって、苦しむ恋衣の腹を裂き生肝を取ったのでしたが、苦しい息の下から、『私たちは小さい時京都で別れた母を探し歩いているのです』と語った恋衣の言葉を思い出し、持っていたお守袋を見てびっくり仰天。これこそ昔別れた自分の愛しい娘であることがわかり、気が狂い鬼と化してしまったのでした。
以来、宿を求めた旅人を殺し、生き血を吸い、肉を喰らい、いつとはなしに「安達ヶ原の鬼婆」といわれるようになったのです。
数年後の今から千二百年前の聖武天皇の時代、紀伊の国那智の東光坊の阿闇梨祐慶は、同行の山伏を連れて諸国を巡歴する途中、安達ヶ原にさしかかったのです。すでに日は暮れ、行けども行けども薄原で人家もない。ようやく人里離れた安達太良山の山麓に灯りを見つけ、駆けつけてみると大きな岩窟がありました。宿を求めると、世にも恐ろしげな老婆が出てきたのですが、
僧侶は一夜の宿を願うと、主の老婆は『余りにも見苦しい我が家故、泊められぬ』と断るのですが、強いて泊めてもらうことになって、庵の中に招じ入れられました。ここで祐慶は、日頃見慣れないものを見つけ、不審に思って尋ねると、老婆は、『これは枠かせ輪といって我らのような賤しい女の扱うものである』と教えて、乞われるままに枠かせ輪を回し、糸繰りの業を見せながら、浮き世を渡ることの物憂さを嘆じ、あるいはまた人生の儚きことを、糸に縁のある言葉を連ねて語り、含蓄ある人生の哲理をしっとりと物語りするのでした。
糸櫻の盛りは人の多く出る春の暮れ、秋の糸薄は月夜が殊に美しいであろう。今又、賤女は、繰る糸のように長い命の辛さを思い、明石の浦千鳥の様に独り泣き明かすのみである。
夜も更けたとき老婆が、糸繰る手を止めて、余りに寒くなったので、上の山から薪を採ってきて、火を焚いておもてなしをしようと立ち上がり、『これから山へ薪を採りに行くから、ゆっくりお休みなされ。ただし、……。」
なうなうわらハが帰らんまで、此閨の内ばし御覧じ候な。さやうに人の閨などを見る客僧にてはなく候 此方の客僧も御覧じ候、な。と、しつこく念を押す。ただならぬ気配です。旅僧は、『とんでもない、人の寝室など覗く僧ではない』と約束するのですが、禁止されると覗いてみたくなるのが人の性で、供の山伏は見たくて仕方がない、そっと覗いてみて驚いてひっくり返る。祐慶がよく見ると、老婆の寝室の内は、人の死骸ハ数知らず、軒とひとしく積み置きたり。膿血忽ち融滌し、臭穢はみちて膨張し、膚膩悉く爛壊せり。
部屋の中に人間の手足や首が転がり、あたりは血の海だった。人間を切り刻む出刃包丁や煮炊きする鍋もあった。
という物凄い状態で、これこそ古歌に聞く鬼女の棲家と知り、気も転倒して逃げていくのでした。
そこへ老婆が帰ってきた。本性を知られた老婆は鬼女の姿となって現れ、怒りをあらわし、野山に風吹きあげ、雷鳴轟き、稲妻走り、空はかき曇り、一口に喰わんと、鉄杖を振り上げ迫ってくる。もはやこれまでと思ったとき、祐慶は、最後の望みを託して、行基菩薩の作といわれる如意輪観音菩薩を取り出し、秘密の呪文を唱え一心に祈り責めたてた。
今までハさしもげに。怒りをなしつる鬼女なるが。忽ちに弱り果てて。天地に身をつづめ眼くらみて。足もとハよろよろと。ただよひめぐる安達が原の。黒塚にかくれ住みしもあさまになりぬあさましや 恥ずかしの我が姿やと。いふ声ハ猶物凄まじく。いふ声ハなほすさまじき夜嵐の音に 立ち紛れ失せにけり 音に立ちまぎれ失せにけり
安達ヶ原の黒塚に隠れ住んでいたのに身顕されてしまった。浅ましいことだ。自分の姿が恥ずかしい、という声だけは猶物凄まじい。
ついに祈り伏せられ、流石の鬼女も弱り果てて、よろよろと夜嵐の音に紛れて消えていくのでした。
老婆は、こうして仏縁を得て、黒塚に葬られ、成仏したというのですが、その一方で、老婆に殺された旅人たちは、未だ成仏しきれず、安達ヶ原を幽鬼のようにさまよっているという話が伝わっています。  
伝説4
黒塚は、二本松市にある鬼婆の墓と、その近くに住んでいたといわれる鬼婆の伝説に基づくものです。安達ヶ原に棲み、人を喰らっていたという『安達ヶ原の鬼婆』として伝えられています。黒塚の名は、正確にはこの鬼婆を葬った塚の名を指すのですが、現在では鬼婆自身をも指すようになっています。能の『黒塚』に登場する鬼女も、この黒塚の鬼婆であるとされています。観世流の能の『黒塚』では『安達原』と題するようですが、これは平兼盛の『陸奥の安達ヶ原の黒塚に鬼こもれりといふはまことか』と言う歌と、安達ヶ原の鬼女伝説を基に舞台化されたものと言われます。
安達ヶ原と同様の鬼婆の伝承は、さいたま市にも『黒塚の鬼婆』として伝わっています。江戸時代の武蔵国の地誌『新編武蔵風土記稿』には、祐慶が東国足立ヶ原で黒塚の悪鬼を呪伏して東光坊と号したとあり、前述の平兼盛の短歌もこれを詠んだものだと記述されているそうです。東光寺(さいたま市)の撞鐘の銘文にも、かつて足立郡にあった黒塚という古墳で、人々を悩ませていた妖怪を祐慶が法力で伏したとあるそうです。寛保時代の雑書『諸国里人談』によればこちらが伝説の本家とされ、昭和以前には埼玉のほうが東京に近く知名度が上ということもあり、埼玉を本家とする意見が多かったと言われます。それもあってか、歌舞伎の『黒塚』を上演する際には、俳優がこちらを参詣することもあるそうです。
昭和初期には、二本松の安達ヶ原と埼玉の足立ヶ原の間で、どちらが鬼婆伝説の本家かをめぐる騒動が勃発しています。これに対し埼玉出身の民俗学者・西角井正慶氏が、埼玉側に対して、「自分たちの地を鬼婆発祥の地とすることは、この地を未開の蛮地と宣伝するようなものだから、むしろ譲ったほうが得」と諭して埼玉側を退かせ、騒動は幕を閉じたそうです。埼玉の黒塚があった場所は後の宅地造成により見る影もなくなり、かつて黒塚にあった東光寺も、後にさいたま市大宮区へ移転しています。また、埼玉の鬼婆伝説については、氷川神社の神職が、禁をやぶって魚や鳥を捕えて食べようとした際、鬼の面で素顔を隠したことが誤伝されたとの説もあるそうです。
この黒塚に似た鬼婆伝説は、この他の地にもあります。
用明天皇の時代(585〜587)の頃、(東京都台東区)花川戸周辺に『浅茅ヶ原(あさぢがはら)』と呼ばれる場所があり、そこには奥州や下総を結ぶ唯一の小道があったのですが、そこには宿泊できるような場所がまったくない荒地でした。しかし旅人たちは、唯一あったあばら家を、宿として借りていました。この家には老婆と若く美しい娘が2人で住んでいたのですが、実は老婆は旅人を泊めると見せかけ、寝床を襲って石枕で頭を叩き割って殺害し、亡骸は近くの池に投げ捨てて奪った金品で生計を 立てるという非道な鬼婆だったのです。娘はその行いを諌めていたのですが聞き入れられることはありませんでした。
また、岩手県盛岡市南方の厨川(くりやがわ)にも安達ヶ原の鬼婆伝説があります。ここでは鬼婆の正体は平安中期の武将・安倍貞任の娘とされています。
奈良県の宇陀地方にも同様の伝説があります。安政年間の土佐国(現・高知県)の妖怪絵巻『土佐お化け草紙』にも、「鬼女」と題して「安達が原のばヽこれ也」とあるそうです。
天狗研究家・知切光歳氏の著書『天狗の研究』によれば、東光坊祐慶は、熊野修験の本拠地である熊野湯の峯の東光坊に由来する名であると言われ、この地の山伏が修行で各地を回る際、「那智の東光坊祐慶」と名乗っていたらしいのです。このことから、山伏たちが祐慶を名乗りながら各地で語る鬼婆の伝説が元となって、日本各地に鬼婆伝説や黒塚伝説が生まれたものと見られています。
いずれにしても伝説の生まれる頃は人口も少なく、寂しい場所も多く、怪談めいた話も沢山あったのでしょうが、それ以上に不思議なのは、鬼婆が住んでいた所が安達(あだち)ヶ原や足立(あだち)ヶ原であったということです。 
異説
有名な鬼婆伝説に福島県の「安達ヶ原の鬼婆」がありますが、『諸国里人談』には武蔵国足立郡(現在のさいたま市大宮区)の足立ヶ原における話しが元であるとも記されています。
『埼玉県伝説集成』には、伝説の本所について、文献が紹介されまとめられています。
昔、大宮驛の森の中に鬼婆が棲んでいて、往来の女を誘って家に泊まらせ、その女を殺して血を吸い肉を食っていた。この鬼婆を退治したのが、旅の僧・東光坊阿闍梨祐慶で、武蔵坊弁慶の師匠と言われています。祐慶が法力によって石になった鬼婆を葬った塚は黒塚と呼ばれ、現在の黒塚山大黒院あたりとされており、「安達ヶ原」や「黒塚」の能や歌舞伎,浄瑠璃をされる方々が、上演の成功を祈りにやってくるそうです。祐慶は、鬼婆に殺された人々を葬る為に、鬼婆を呪伏した際の護身仏と伝えられる金銅薬師如来像を本尊とした東光寺を開創しています。
『日本伝説叢書 北武蔵の巻』では、別の話も紹介されています。
武蔵国足立郡箕田郷(現在の鴻巣市)に生まれた渡邉綱(渡辺氏の祖)は、源頼光に仕えた頼光四天王の一人で、剛勇で知られていた。ある時、大宮の森に鬼婆が住んでいて人間を食うと言う話を聞き行ってみると聞きしに勝る大怪事であった。怒った綱はうまく老婆の元に忍び込み、容易に鬼婆を退治してしまった。 
墓場の原風景
能「安達が原」は人食いの鬼婆を題材にした作品である。那智の東光坊の阿闍梨裕慶一行が山伏姿になって東国行脚に出かけ、陸奥の安達が原に差し掛かったとき、老婆の小屋に立寄って一夜の宿を借りる。老婆はもてなしのためにと裏山に薪を採りに出かけるが、そのさい奥の部屋を決してのぞいてはぬらぬと言い残す。裕慶らが好奇心からその部屋をのぞいたところ、そこには食われてしまった人々の残骸が累々と重なっていたというストーリーである。
その陰惨な場面を謡曲は次のように謡っている。
「ふしぎや主の閨の内を、物の隙よりよく見れば、膿血忽ち融滌し、臭穢は満ちて膨脹し、膚膩ことごとく爛壊せり、人の死骸は数しらず、軒とひとしく積み置きたり、いかさまこれは音に聞<、安達が原の黒塚に、籠れる鬼の住所なり。恐ろしやかゝる憂き目をみちのくの、安達が原の黒塚に、鬼こもれりと詠じけん、歌の心もかくやらん」
ここで歌の心と言及されているのは「みちのくの 安達が原の黒塚に 鬼こもれりと 聞くはまことか」という、古歌のことである。この歌の影響はあまりにも強かったとみえ、安達が原は陸奥にあって、そこには人を捕らえて食う女鬼が住むという伝説が広まったようだ。能はそれを取り上げて、鬼に食