霊と幽霊

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憑依妖精悪魔論成仏成仏諸説不成仏諸説不成仏霊成仏と幽霊・・・
亡霊幽霊枯れ尾花幽霊の正体幽霊とお化け幽霊は餓鬼江戸の幽霊坂・・・
怪談 / 本所七不思議皿屋敷四谷怪談四谷怪談諸話小泉八雲の怪談牡丹燈籠真景累ヶ淵化け猫騒動学校の怪談へっつい幽霊幽霊名字幽霊の酒盛り幽霊薬タイの幽霊事情3.11震災の幽霊談幽霊を見る理由中国の亡霊説話西洋の怪談集海の亡霊首を抱えた亡霊若宮大明神の幽霊首相公邸の幽霊・・・・
霊鬼雑話今昔物語の霊鬼子育て幽霊幽霊船お化けの研究お化け考お化け幽霊船幽霊幽霊妻北斎と幽霊近頃の幽霊幽霊と文学幽霊の衣裳幽霊を見る人を見る幽霊の足画工と幽霊幽霊の芝居見幽霊の自筆世界怪談名作[幽霊]足のない男と首のない男女侠伝処女作追懐談沈黙の塔真鬼偽鬼雪女[八雲]雪女[綺堂]
シュタイナー教育亡霊としての芸術真景累ヶ淵[圓朝]
 

雑学の世界・補考   

霊 [靈]

[音]レイ(漢) リョウ(リャウ)(呉) [訓]たま たましい
〈レイ〉
1 不思議な力や働きをもつ存在。万物に宿る精気。「山霊・神霊・精霊(せいれい)」
2 肉体に宿ってその活動をつかさどる精神的実体。たましい。「霊肉・霊魂不滅/心霊・全身全霊」
3 死者のたましい。「霊園・霊前・霊安室/慰霊・英霊・祖霊・亡霊・幽霊」
4 不思議な力をもつ。人知で測り知れない。「霊感・霊気・霊験(れいげん)・霊獣・霊峰・霊妙・霊薬・霊長類」
〈リョウ〉
たましい。死者のたましい。「悪霊・生霊(いきりょう)・怨霊(おんりょう)・死霊・精霊(しょうりょう)」
〈たま(だま)〉
「霊屋(たまや)/言霊(ことだま)」  
【霊】(れい) たましい(魂) 「死者の霊を慰める」 人知ではかり知ることのできない力のあるもの。
【霊】(ち) 神や自然の霊の意で、神秘的な力を表す。「みずち(水霊)」「のずち(野霊)」「おろち(大蛇)」「やふねくくぢのみこと(屋船久久遅命)」など。
【霊・神】(み) 霊。神霊。「わたつみ」「やまつみ」
【霊】(りょう) たたりをなす生霊(いきりょう)・死霊など。怨霊。ろう。
【魂・霊・魄】(たま) (「たま(玉)」と同語源)「たましい(魂)」をいう。多く「みたま(御霊)」「おおみたま(大御霊)」の形で用い、また、「たまじわう(霊)」「たままつる(霊祭)」などの他、「にぎたま(和魂)」「ことだま(言霊)」「ひとだま(人魂)」などと熟して用いる。*古今‐四四八「空蝉のからは木ごとにとどむれどたまのゆくへをみぬぞかなしき」
魂合(あ)う 男と女など、魂がひとつに結ばれる。互いに思う心が一致する。*万葉‐三二七六「天地に思ひ足らはし玉相者(たまあはば)君来ますやと」
魂あり 物事をうまく処理していく技量がある。*十訓抄‐一「かれが小童にてあるを見るに、たまありげなりければ」
霊の夜殿(よどの) =霊殿(たまどの)
霊祭(まつ)る 死者の霊をまつる。魂まつりをする。
【霊】(ろう) 「りょう(霊)」の直音表記。*源氏‐葵「この御生霊、故父大臣の御らうなどといふ者あり」
【新霊】(にいたま) 最近死んだ人の精霊。新盆を迎える霊魂。にいみたま。
【御霊・御魂】(みたま) 神の霊。人が死んで、その魂(たましい)の神となったものを尊んでいう。みすたま。霊威。おかげ。*万葉‐八八二「あが主(ぬし)の美多麻(ミタマ)賜ひて」 盂蘭盆(うらぼん)に先祖の霊に供える供物(くもつ)。
御霊のふゆ (「ふゆ」は「振(ふ)ゆ」、あるいは「殖(ふ)ゆ」の意という)神、または天皇の恩徳、加護、威力を敬っていう語。*日本紀竟宴和歌‐天慶六年「国むけし鋒(ほこ)のさきより伝へ来る美太末農扶由(ミタマノフユ)はけふそうれしき」
御霊の飯(めし) 年の暮か正月に仏壇または恵方棚(えほうだな)に供える飯。
【霊祭】 先祖の霊を迎えてまつるまつり。一般には盂蘭盆をいう。精霊会(しょうりょうえ)。神道で、霊前祭と墓前祭の総称。
【御霊祭】 年の暮から正月にかけて、また、盂蘭盆(うらぼん)に、先祖の霊をまねく祭り。
【新精霊】(にいじょうろ) 新霊(にいたま)のこと。また、特に九州南部で新盆の家をいう。
【魂祭・霊祭】(たままつり) 先祖の霊を招きまつるまつり。中世までは、年の暮にも行ったともいう(「徒然草」一九段)が、一般には盂蘭盆(うらぼん)に行われることとなった。八月中【新精霊】(あらしょうりょう) 死後、はじめての盂蘭盆にまつられる死者の霊。また、それをまつる新盆(にいぼん)。あらぼとけ。
【新霊】(あらみたま) 死んでから、ふつう一年以内の死者の霊。新仏。
【精霊・聖霊】(しょうりょう) (「しょう」「りょう」は「精」「聖」、「霊」の呉音)仏語。死者の霊魂。せいれい。「しょうりょうまつり(精霊祭)」の略。「しょうりょうとんぼ(精霊蜻蛉)」の略。《季・秋》
【精霊会・聖霊会】 陰暦二月二二日、聖徳太子の忌日に、奈良の法隆寺、大阪の四天王寺などで行う法会。《季・春》 =精霊祭(しょうりょうまつり)
【精霊送・聖霊送】 盆の終わりの陰暦七月一六日頃、家に迎えた精霊(先祖の霊)を送り帰す儀式。送り火を焚いたり、わらや木で作った舟に供物などをのせて海や川に流したりする。
【精霊棚・聖霊棚】 盂蘭盆会(うらぼんえ)に、祖先の位牌を安置し、供え物をのせる棚。そこに先祖の霊を迎える。たまだな。《季・秋》
【精霊蜻蛉】(しょうりょうとんぼ) 精霊祭のころ現れるウスバキトンボ、キトンボなどのトンボの俗称。特にウスバキトンボをさすことが多い。しょうりょうえんば。しょうりょうやんま。《季・秋》
【精霊流・聖霊流】 盆の終わりの精霊送りの日に、供物などをわらや木でつくった舟にのせ、海や川に流す行事。灯籠を流す地方もある。《季・秋》
【精霊飛蝗】(しょうりょうばった) バッタ科の昆虫。雄は細形で体長約四センチメートル、雌はやや肥大し体長約八センチメートル。全体に緑色または灰褐色。頭部は円錐形にとがり、短い触角がある。雄はよく飛び、キチキチと音をたてるので俗に「きちきちばった」ともいう。各地の草むらで夏から秋にかけてみられる。
【精霊火・聖霊火】 盂蘭盆会のときにたく火。ふつう、迎え火・送り火をさす。《季・秋》
【精霊舟・聖霊舟】 精霊流しの船。盆舟。送船。《季・秋》
【精霊祭・聖霊祭】 陰暦七月一五日を中心とする先祖祭。盆。精霊会。盂蘭盆会(うらぼんえ)。たままつり。しょうりょう。《季・秋》
【精霊迎・聖霊迎】 盂蘭盆の初日に、迎え火をたいたり、墓参したりして、死者の霊魂を迎えること。普通は陰暦七月一三日に行うが、京都の六道珍皇寺では陰暦七月九、一〇日(現在は八月九、一〇日)に行う。《季・秋》
六道まいり
京都では、8月の13日から始まり16日の五山の送り火に終る盂蘭盆(うらぼん)には、各家に於て先祖の霊を祀る報恩供養が行われるが、その前の8月7日から10日までの4日間に精霊(御魂みたま)を迎えるために当寺に参詣する風習があり、これを「六道まいり」あるいは「お精霊(しょうらい)さん迎え」ともいう。これは、平安時代このあたりが、墓所の鳥辺山の麓で、俗に六道の辻と呼ばれた京の東の葬送の地であったことより、まさに生死の界(冥界への入口)であり、お盆には、冥土から帰ってくる精霊たちは、必ずここを通るものと信じられたからであろう。
参詣にあたっては、境内参道の花屋にて高野槇(こうやまき)を購い、本堂で水塔婆(みずとうば)に戒名を書いてもらい、迎え鐘をつき、多くの石地蔵がある境内、賽の河原(さいのかわら)と称するところにて高野槇の葉にて水塔婆への水むけ(水回向みずえこう)をする。
そして古来より、精霊は槇の葉に乗って冥土より帰ってくるとされることより、購われた高野槇は、"おしょらいさん"とともに、懐かしき我が家へのしばしの里帰りとなる。
こうした美(うるわ)しい、宗派を越えた京のお盆習俗は、都人の厚き信仰のもとに千年の時空を越えて脈々と受け継がれ、今や、京洛の夏の風物詩ともなっている。
【精霊飯・聖霊飯】 盂蘭盆の行事。子どもたちが米や銭をもらい集め、戸外に臨時の竈(かまど)を設けて炊事をして食事をする。盆竈(ぼんがま)。辻飯(つじめし)。餓鬼飯。《季・秋》
【魑魅・霊】(すだま 「すたま」とも) (魑魅)山林、木石などに宿っているとされる精霊。ちみ。人の霊魂。たましい。
【木霊・木魂・谺】(こだま) (近世初めまでは「こたま」。木の霊の意) 樹木にやどる精霊。木精。山の神。(―する)(音声が山に当たって反響するのを山の霊が答えるものと考えたところから)声や音が物に反響して帰ってくること。また、その帰ってくる声や音。山びこ。
【霊鬼】(れいき) 死者の霊。精霊。特に死者の怨霊の悪鬼と化したもの。悪霊。
【霊社】(れいしゃ) 霊験のあらたかな社。先祖の霊をまつる社。みたまや。霊廟。神道卜部(うらべ)家で、生人に授けるおくり名の下に添える語。
【御霊屋】(おたまや) 先祖の霊や貴人の霊をまつっておく殿堂。霊廟(れいびょう)。みたまや。
【霊府】(れいふ) たましいのやどる所。心。
【分霊】(ぶんれい) 一つの神社の祭神の霊を分けて他の神社の祭神とすること。また、その祭神。勧請。
【分霊社】(ぶんれいしゃ) 他の神社の祭神の霊を分けてまつってある神社。分社。
【霊廟・霊L】(れいびょう) 先祖の霊をまつってある宮。みたまや。卒塔婆(そとば)。
【霊堂】(れいどう) 霊験あらたかな神仏をまつった堂。とうとい神仏の堂。貴人の霊をまつる堂。霊舎。霊屋。みたまや。
【霊殿】(れいでん) 神仏や先祖などの霊をまつった建物。霊廟。
【霊地】 神仏の霊験あらたかな地。神仏をまつってある神聖な地。また、神社や寺など。霊域。霊場。霊境。霊区。
【霊台】(れいだい) 天文、雲気、天候などを観測する台。魂のある所。心意の府。霊府。
【霊代】(れいだい) 神や死者の霊のしるしとしてまつるもの。みたましろ。たましろ。
【霊舎】(れいしゃ) 死者の霊をまつるところ。
【御霊】(ごりょう) 霊魂の敬称。みたま。また、たたりをあらわすみたま。高貴な人、あるいは生前功績のあった人をまつる社。
【神】 宗教的・民俗的信仰の対象。世に禍福を降し、人に加護や罰を与える霊威。古代人が、天地万物に宿り、それを支配していると考えた存在。自然物や自然現象に神秘的な力を認めて畏怖(いふ)し、信仰の対象にしたもの。*万葉‐三六八二「天地(あめつち)の可未(カミ)を祈(こ)ひつつ我待たむ」 神話上の人格神。天皇、または天皇の祖先。死後に神社などにまつられた霊。また、その霊のまつられた所。神社。キリスト教で、宇宙と人間の造主であり、すべての生命と知恵と力との源である絶対者。雷。なるかみ。いかずち。人為を越えて、人間に危害を及ぼす恐ろしいもの。特に蛇や猛獣。他人の費用で妓楼に上り遊興する者。とりまき。転じて、素人の太鼓持。江戸がみ。
【仏】 (「ほと」は梵buddha、さらに、それの漢訳「仏」の音の変化。「け」は「気(け)」か。「け」については、霊妙なものの意とするほか、目に見える形の意で、仏の形すなわち仏像の意が原義とする説もある)死者の霊。また、死んだ人。死人。「仏に成る」
【閻魔・魔・焔魔】 (梵Yamaの音訳。「手綱」「抑制」「禁止」などの意。「遮止(しゃし)」「静息」など種々に訳し、また、死者の霊を捕縛する「縛」とも、平等に罪福を判定する意の「平等」とも訳す。また、古代インド神話では、兄妹の双生児であるところから「双」とも。また、Yama-rDjaの音訳、「閻魔羅社」「摩邏闍」などを略して「閻羅」「羅」などともする)仏語。死者の霊魂を支配し、生前の行ないを審判して、それにより賞罰を与えるという地獄の王。閻魔王。閻魔大王。閻魔羅。閻羅。閻羅王。*霊異記‐下・三五「死して魔の国に至る」
【餓鬼仏】(がきぼとけ) まつってくれる子孫をもたない者の霊。また、飢え死にした者の霊が、峠などで人に取りつくといわれるもの。無縁仏。
【水施餓鬼】(みずせがき) 水辺で行う仏事。経木を水に流し、亡霊の成仏を祈るもの。また、特に難産で死んだ女性の霊を成仏させるため、小川のほとりに四本の竹や板塔婆を立て、布を張って道行く人に水をかけてもらうもの。布の色があせるまで亡霊はうかばれないとする。流灌頂(ながれかんじょう)。
【化人】(けにん) 仏語。仏菩薩が、衆生を救うために、仮に人の姿となって現われたもの。化生(けしょう)の人。鬼神、畜生などが形をかえて、人間に変じたもの。ばけもの。死者の霊などが、生前の姿をこの世に現わしたもの。化生。
【蛇神】 蛇の霊力を恐れ、蛇を神とあがめたもの。また、蛇の霊を使う妖術。「へびがみつき(蛇神憑)」の略。
【蛇神遣】(‥つかひ) 蛇の霊による妖術を使うこと。また、その人。蛇持。
【蛇神憑】(へびがみつき) 蛇の霊にとりつかれたとされる一種の精神病。また、それにかかっている人。
【虞ル】(ぐふ) (「虞」は葬礼の後に霊をまつること。「ル」は祖先の霊廟にあわせまつること)埋葬を終えて帰り、その霊をまつること。また、死後の七日目ごとの法要もいう。
【千人供養】 千人の死者の霊を供養すること。
【千人塚】 戦場・刑場・災害地など、多数の死者をだした地に、その霊を弔うために作られた供養塚。万人塚。
【霊媒】(れいばい) 神霊や死者の霊がのりうつり、それらに代わって話などをすること。また、その人。霊界と現世の媒介者。巫女・口寄せの類。霊媒者。
【霊媒術】 霊媒者によって神霊や死者の霊を呼び出す術。神おろし。
【奇霊ぶ】(くしぶ) (形容詞「くし(奇)」の動詞化)霊妙に見える。不思議な様子である。*古語拾遺「是、太玉命、久志備(クシビ)所生(ませる)神」
【祖霊】(それい) 一般に先祖の霊。日本では個々の死者の霊が、三三年目などの弔上げを終わって個性を失い、祖霊一般に融合して霊質となったもの。
【祖先崇拝】 死者の霊が死後も存続するという考えから、家族、部族、民族の祖先の霊をあがめ祭ること。世界諸民族にみられ、日本にも古くからみられるが、近世以後は儒教などの影響のもとで発達した。
【魂極る・玉極る・霊極る】(たまきわる) 「命(いのち)」にかかる。「魂(たま)極る(命)」と解したところから生じたもの)魂がきわまる。命が終わる。*雑俳・広原海‐九「魂極る牲の羊の跡じさり」
【霊じわう】(たまじわう) (「じ」は「ち(霊)」で神霊の意。→ちわう)霊の力で守る、助ける。*万葉‐二六六一「霊治波布(たまヂハフ)神も」
【忠霊】 忠義のために命をおとした人の霊。英霊。
【忠霊塔】 戦死者の霊をまつった塔。
【弔う】(「とぶらう(弔)」の変化) 人の死をいたみ、その喪(も)にある人を慰める。くやみを述べる。弔問する。死者の霊を慰め冥福を祈る。法要をする。「祖先の霊を弔う」
【言霊】(ことだま) 古代、ことばにやどると信じられた霊力。発せられたことばの内容どおりの状態を実現する力があると信じられていた。上代の例には、外国に対して、独自の言語をもった国の自負のようなものがみられ、また、江戸時代末から近代には国粋主義的な発想の「言霊思想」がみられた。*万葉‐三二五四「しき島のやまとの国は事霊(ことだま)のたすくる国ぞ」 予祝の霊力を持った神の託宣。*堀河百首‐冬「こと玉のおぼつかなきに岡見すと梢ながらも年をこす哉」
言霊の幸(さき)わう国 ことばの霊の霊妙なはたらきにより、幸福の生ずる国。*万葉‐八九四「言霊能(ことだまノ)佐吉播布国(サキハフくに)と語り継ぎ言ひ継がひけり」
【言霊指南】(ことだまのしるべ) 江戸末期の語学書。二編三冊。黒沢翁満著。嘉永五〜安政三年刊。本居宣長・春庭の説を補訂しつつ、国語の活用、てにをは、係り結び、仮名遣いなどについて解説する。
【言霊派】 音義派の一つ。人の発する声に霊があり、その声を合わせて、種々の言語が作られると説くもの。中村孝道、高橋残夢などが、これに属する。
【直毘霊】(なおびのみたま) 江戸中期の国学書。一巻。本居宣長著。明和八年成立。宣長の神道説・国体観などの要旨を述べたもの。
【肉】 (霊に対して)肉体。生身のからだ。また、衣服や装飾をつけない裸の肉体や、性欲の対象としての肉体。キリスト教で、人間そのものをさす。霊に対していう。
【産石】(うぶいし) 出産直後の産飯(うぶめし)にそえる小石。川原、軒下の雨だれ跡や氏神の境内などで拾い、産神の霊をかたどったものと考え、赤子にあてがって霊を補強しようとする呪術信仰に基づく。のちには、赤子の歯や頭を丈夫にするためなどという。
【招魂】(しょうこん) 死者の霊魂を招き呼び、肉体に鎮めること。転じて、死者の霊を招いてまつること。死者をとむらうこと。生者の魂を招くこと。
【招魂祭】 死者の霊魂を招き寄せてとむらう式典。招魂社で行われた、祭祀された人々の霊をとむらった祭典。各地の護国神社で行われた。ふつう東京の靖国神社で行われた春季大祭(四月二一日〜二三日)、秋季大祭(一〇月一七日〜一九日)をいった。《季・春》
【招魂式】 死者の霊魂を鎮祭する時に行う神道の儀式。靖国神社、護国神社で新しく英霊を合祀する場合に臨時に行った儀式。
【招魂社】 靖国神社および護国神社の旧称。江戸末期から明治維新前後にかけて、国事に殉難した人士の霊魂をまつった各地の招魂場を改称したもの。靖国神社は、明治元年に京都の東山に殉難の諸士を合祀したのが前身で、翌年六月、東京九段坂上に仮神殿を造建して東京招魂社と改称、同一二年に現在名となった。また地方のものは、昭和一四年護国神社に改称された。
【山祇】(やまつみ) (後世は「やまづみ」とも。「つ」は「の」の意の格助詞。「山の霊(み)」の意)山の霊。山の神。山をつかさどる神霊。
【霊鷲山】(りょうじゅせん) (梵GィdhrakYォaparvataの訳。禿鷲の頂という山の意)古代インドのマガダ国の首都、王舎城の東北にあった山。釈迦が法華経や無量寿経などを説いた所として著名。山中に鷲が多いからとも、山形が鷲の頭に似るからともいわれる。耆闍崛山(ぎじゃくっせん)。鷲山(じゅせん)。鷲嶺。わしの山。
【喪祭】 喪に服することと祭祀をとり行うこと。葬礼の儀式。また、死者を葬ったあと、その霊をまつる祭。
【霊囿】(れいゆう) (「霊」は、神聖の意、「囿」は園内に一定の区域を定めて禽獣を養うところ)周の文王が禽獣を放し飼いにした園。
【釈奠・舎典】(せきてん) (「釈」も「奠」も置く意で、供物を神前にささげてまつること)中国で古代、先聖先師の霊をまつること。後漢以後は孔子およびその門人をまつることの専称。牛羊などのいけにえを供えず蔬菜(そさい)の類だけを供えてまつる場合は釈菜(せきさい)という。しゃくてん。さくてん。わが国で、二月および八月の上の丁(ひのと)に大学寮で孔子並びに十哲の像を掛けてまつった儀式。もし上の丁が日食・国忌・新年祭などに当たれば中の丁を用いた。廟拝ののち、饗宴があり、博士が出題・講論・賦詩などを行った。応仁の頃に廃絶したが、寛永一〇年林羅山が再興し、その後昌平黌や藩校でさかんに行われた。おきまつり。しゃくてん。さくてん。《季・春》
【聖霊】(せいれい) (英Holy Spiritの訳語)キリスト教で、父なる神、子なるキリストとともに三位(さんみ)一体をなし、その第三位を占めるもの。人間に宿り、神意の啓示を感じさせて精神活動を起こさせるもの。いにしえの聖人の霊。
【霊前】 死者の霊をまつった所の前。霊柩の前。「霊前にたむける」 神の御前。
【奇霊】(くしび) (動詞「くしぶ(奇霊)」の名詞化か)霊妙不思議なさま。*書紀‐大化二年八月(北野本訓)「万物の内に人是最も霊(クシヒなり)」
【霊祀】(れいし) 神霊または死者の霊をまつること。
【霊魂】 人だま。死者の霊が、夜などに、光を発して飛んだりころがったりするといわれるもの。
【霊魂信仰】 霊魂の存在を信じ、肉体を離れても存続し、生きている人間や事物に影響をおよぼすものとしてこれを崇拝すること。
【霊魂不滅】 人間の肉体は死滅しても、霊魂は肉体を離れて存続するということ。
【霊雲】(れいうん) 霊妙不可思議な雲。めでたいしるしの雲。瑞雲。
【霊位】 死者の霊につける名。また、それを書いた位牌。
【所変】(しょへん) 神仏または鬼、霊などが、この世に存在するものの形をかりて、人々の前に現れること。また、その姿。化現(けげん)。
【両墓制】 一人の死者に関して、死体を埋める埋め墓と、その霊をまつる詣り墓とをもつ墓制。
【植物崇拝】 特殊な樹木、森、草、草原に霊性が宿るとして、それを信仰崇拝すること。また、その祭儀。
【寄人】(よりびと) 生霊や死霊が降って寄りつく人。また、霊を寄りつかせるための小童。
【寄子】(よりこ) (「憑子」とも)物の怪(け)にとりつかれた人。また、修験者や、梓巫(あずさみこ)が生霊や死霊を招き寄せるとき、霊を一時的に宿らせるためにそばにいさせる人。よりまし。ものつき。
【山彦】 山の神。山の霊。また、山の妖怪。やまこ。
【木主】(もくしゅ) 神または人を霊にかえてまつる木製のもの。みたましろ。位牌(いはい)。木でつくった像。木像。
【貴】(むち) (「む(身)ち(霊)」の意かという。また「むつ(睦)」の変化とも)神や人を敬っていう語。多くは「大日貴(おおひるめのむち)」「道主貴(みちぬしのむち)」のように、固有名詞の下に付けて用いられる。
【向ける】 神、霊などに供えものをささげて祈る。たむける。
【御影】(みかげ) (「み」は接頭語)神や貴人を敬い、その霊魂をいう語。神霊。みたま。*書紀‐敏達一〇年閏二月(前田本訓)「天地の諸の神及び天皇の霊(ミカケ別訓みたま)」
【守・護】 神仏などの加護があること。神仏などがわざわいを取り除き、幸運をもたらしてくれること。また、そのような神仏。守り神。守護神。「神の守り」 神仏の霊がこもり、人を加護するという札。また、それを入れる袋。守り札。おまもり。護符。守り袋。
【守札】 神仏の霊がこもり、人を加護すると信じられる札。社寺から授かり受け、身につけたり、門戸などに張ったりする。まもり。おふだ。
【歩障】(ほしょう) あからさまに内部をのぞかせないための移動用の屏障具。幔(まん)や几帳で周囲をかこい、柱を持たせて移動する大形のものと、外出者自身で持つ小形のものがある。大形のものは遷宮のとき、霊の移徙(わたまし)や葬礼の渡御具であり、小形のものは女子の物忌の外出用。
【憑依・馮依】(ひょうい) 霊などが乗り移ること。憑(つ)くこと。
【百日曾我】(ひゃくにちそが) 浄瑠璃。時代物。五段。近松門左衛門作。元禄一〇年大坂竹本座初演。先に上演された「団扇曾我(だんせんそが)」が、一〇〇日以上続演したための改題。曾我兄弟の討入り、虎・少将がうちわ売りに扮しての道行があり、兄弟の霊が裾野にまつられるまでを脚色。
【冤鬼】(えんき) 無実の罪で死んだ人の、恨みのこもった霊。
【亡魂】(ぼうこん) 死んだ人の霊。死人の魂。また、成仏できないで迷っている霊魂。幽霊。
【人魂】 遊離魂。死者の霊。ふつう青白く尾を引いて空中を飛ぶという。飛魄(ひはく)。火の玉。
【悪霊】(あくりょう) 人にたたりをする霊魂。死者の霊のほか、生者の魂、人間以外の霊的存在についてもいう。もののけ。怨霊(おんりょう)。
【怨霊】(おんりょう) うらみをもって、生きている者にわざわいを与える死霊、または生霊。
【彼岸会】(ひがんえ) 仏語。春分・秋分の日を中日として、その前後七日間にわたって行う法会。大同元年、崇道天皇(早良親王)の霊を慰めるために初めて行われた。《季・春》
【麓山祇・羽山津見】(はやまつみ) (「つ」は「の」の意、「み」は「み(霊)」)山のふもとをつかさどる神。〔古事記‐上〕
【八神】 天皇の身を守護するため、古くは八神殿に祭られ、現在も宮中三殿の一つである神殿に祭られている八柱の神の総称。神皇産霊(かみむすひ)・高皇産霊(たかみむすひ)・玉留魂(たまるむすひ)・生魂(いくむすひ)・足魂(たるむすひ)・大宮之売・御饌都(みけつ)・事代主の八神の称。
【白蔵主・伯蔵主】(はくぞうす) (「はくぞうず」とも)狂言「釣狐(つりぎつね)」の登場人物の名。猟師の殺生をやめさせるため、老狐が猟師の伯父の僧に化けたもの。一説に、永徳年間の頃、和泉国(大阪府南部)大鳥郡小林寺耕雲庵に住み、霊性をそなえる三匹の野狐を愛育して、常に身辺に飼っていたと伝えられる僧を素材にしたといわれる。
【拈華微笑】(ねんげみしょう) 仏語。釈迦が霊鷲山で弟子に説法しようとしたとき、梵王が金波羅華を献じた。釈迦は一言もいわず、ただその花をひねっただけなので、弟子たちはその意が解せなかったが、迦葉だけが、にっこりと笑った。それを見て釈迦は、仏法のすべてを迦葉に授けたという故事をいう。
【根国】(ねのくに) 日本古代の他界観の一つ。死者の霊が行くと考えた地下の世界、また海上彼方の世界。底の国。黄泉(よみ)。黄泉の国。ねのかたすくに。
【入魂】 神仏や霊を呼び入れること。また、あるものに魂(たましい)を入れること。
【日精】(にっせい) 太陽の精。太陽の霊。
【蚕霊揚】(こだまあげ) 長野県などで、その年の養蚕の終わったときの祝い。蚕の霊を送る意。棚揚げ。
【弔う】(とぶらう) (「とぶらう(訪)」からで、死者の霊をたずね慰める意)「とむらう(弔)」の古形。*伊勢‐一〇一「やんごとなき女のもとに、なくなりにけるをとぶらふやうにていひやりける」
【弔合戦】 死者の復讐をしてその霊を慰めるために、敵と戦うこと。また、その戦い。仇討ちの戦い。弔戦。
【追善合戦】 死者に代わってその恨みをはらし復讐(ふくしゅう)をして霊を慰めるために戦うこと。弔合戦(とむらいがっせん)。
【天国】 キリスト教で、信者の死後の霊を迎えると信じられる世界。神の国。「天国に召される」
【付物・憑物】(つきもの) (憑物)人にとりついてその人に災いをなすと信じられている動物などの霊。「憑物が落ちる」
【鎮魂】(ちんこん) 魂を落ち着かせ鎮めること。肉体から遊離しようとする魂や、肉体から遊離した魂を肉体に鎮めること。また、その術。広義には、活力を失った魂に活力を与えて再生する魂振(たまふり)をも含めていう。たましずめ。「ちんこんさい(鎮魂祭)」の略。死者の霊を慰め鎮めること。
【弔祭】(ちょうさい) 死者の霊をとむらいまつること。また、その儀式。
【合祭】(ごうさい) 二柱以上の神や霊などを一つの神社にまつること。合座。合祀。
【手向水】(たむけみず) 手向けとする水。神仏や死者の霊などに供える水。墓前に供える水。
【手向花】 手向けとする花。神仏や死者の霊などに供える花。
【手向草】(たむけぐさ) (「たむけくさ」とも)(「くさ」は種、料の意)手向けにする品物。神仏や死者の霊などに供える品。幣帛(へいはく)。ぬさ。「さくら(桜)」の異名。「まつ(松)」の異名。「すみれ(菫)」の異名。
【霊代】(たましろ) 人の霊の代わりとしてまつるもの。れいだい。
【退凡下乗】(たいぼんげじょう) 仏語。釈迦が霊鷲山(りょうじゅせん)で説法したとき、摩訶陀(マガダ)国王頻婆沙羅(びんばしゃら)がこれを聞くために道を開いて、中間に建てたという二つの卒都婆。一つは下乗と記し、王はここから歩き、一つは退凡と記し、凡人をこれより内に入れなかったというもの。
【結草】(けっそう) (中国春秋時代、晋の魏顆(ぎか)が、父の死に際して、その妾を殉死させず、他に嫁がせたところ、秦との戦に、妾の父の霊が現われて、草を結び、敵将をつまずかせ、魏顆に手柄を立てさせたという「春秋左伝‐宣公一五年」の故事から)恩にむくいること。
【位】(い・ヰ) 死者の霊を数えるのに用いる。「英霊百位」
【血食】(けっしょく) (「血」は祭祀に供する犠牲(いけにえ)の血の意)いけにえの動物を供えて祖先の霊をまつること。子孫が続いて先祖の祭を絶やさないこと。*中華若木詩抄‐中「霊神の祠あり。いつも血食するぞ」
【造仏供養】 三宝や死者の霊などを供養するために仏像を造り、供物としてささげること。また、新しく仏像が造られたときにする法会。
【葬祭・喪祭】 葬式と祭祀。死者を葬ったあと、その霊をまつる祭。「冠婚葬祭」
【引導】(いんどう) 仏語。迷っている人々や霊を教えて仏道にはいらせること。死人を葬る前に、僧が、棺の前で、迷わずに悟りが開けるように、経文や法語をとなえること。また、その経文や法語。
【グノーシス】 (ギリシアgnRsis)知識の意。特に古代ギリシアの末期では、神秘的、直観的にとらえられた神の霊性の認識をいう。
【口寄】 神仙や死霊の言葉を霊媒に語らせること。行者や巫女が、第三者を霊媒に仕立てて、それに神仙や死者の霊を乗り移らせる場合と、行者や巫女が自ら霊媒となる場合がある。
【口寄巫女】 口寄せを職業とする巫女。かみおろし。いちこ。あずさみこ。みこ。
【靖献】(せいけん) (「書経‐微子」の「自靖、人自献二于先王一」から)臣下が義に安んじて、先王の霊に誠意をささげること。
【靖献遺言】 江戸前期の思想書。八巻。浅見絅斎著。貞享四年成立。寛延元年刊。楚の屈原ら、節義を失わなかった八人の中国人の遺文に略伝などを付し、日本の忠臣、義士の行状を付載する。尊皇思想の展開に影響を与えた。
【遺物崇拝】 祖先、死者、聖人の霊との交わりを求めて、その遺体や所持品を崇拝すること。
【神主】(しんしゅ) (古くは「じんしゅ」とも)ものの霊。ぬし。儒葬で死者の官位・姓名を書き祠堂に安置する霊牌。仏教の位牌にあたるもの。木主。神につかえる人。神官。神職。かんぬし。
【食初】(くいぞめ) 生後120日目の小児に、食事を作って食べさせる祝いの儀式。小さな椀に、30cm以上の箸で、実際には食べさせるまねだけをし、神棚や祖先の霊にその旨を報告し礼拝する。はしぞめ。はしたて。
【諸聖徒日】(しょせいとび) イエス‐キリストを信じて世を去ったすべての人を記念し、その霊のために平安を祈る日。一一月一日。万聖節。
【客神】 主祭神に対して他から迎えた神。外来神に新しい威力があるという信仰から、蕃神、流人、旅人などの霊をまつった例が多い。
【英霊】 (「英華秀霊」の気の集まっている人の意)すぐれた人。また、その魂。英才。*万葉‐三九七三「英霊星気、逸調過人」 死者の霊魂を尊敬していう語。明治以後は戦死者の霊をいうことが多い。英魂。
【春季皇霊祭】 毎年春分の日に、宮中の皇霊殿で、天皇が歴代の天皇・皇后などの霊を祀る祭儀。もと国家の祭日。今は「春分の日」として国民の祝日。《季・春》
【英魂】 すぐれた人のたましい。また、死者の霊をたたえていう語。英霊。
【秋季皇霊祭】 毎年秋分の日に、皇霊殿で、歴代の天皇、皇后、皇親などの霊をまつる祭儀。もと国家の祭日であった。
【神懸・神憑】(かみがかり) 神の霊が人に乗りうつること。また、その状態やそういう人。
【コリント書】 新約聖書中のコリント前書とコリント後書の総称。コリント前書は五四年頃、パウロがエペソからコリントに送ったもの。結婚、処女、霊の賜物、献金など具体的な問題に解決を与える。コリント後書は前書に対する反論に応じたもので、使徒の権威を強調し、反対者に反撃を加え、コリント人に対する強い愛を語る。
【御霊会】(ごりょうえ) 昔、死者の怨霊のたたりを恐れ、これをなだめるために行った祭。祇園会はその一つ。陰暦六月一四日、京都の八坂神社で行われた、疫病・災厄をはらうことをつかさどる祇園の神(素戔嗚尊)をまつる斎会(さいえ)。祇園御霊会。祇園祭。祇園会。
【御霊祭】 京都市上京区の御霊神社で神霊を和らげるために陰暦八月一八日に行った祭。現在では、五月一日から二〇日までに行われる。《季・秋》
【米福粟福】(こめぶくあわぶく) 昔話の一つ。米福・粟福の姉妹のうち、継子(ままこ)の姉娘は継母から事ごとに意地悪されるが、死んだ実母の霊や異腹の妹に助けられ幸福になるという話。
【告別式】 死者の霊に対して、親族、知人などの縁故者が別れを告げる儀式。
【皇霊】 歴代の天皇の霊。
【尊霊】 (「りょう」は「霊」の呉音)霊魂または亡霊を敬っていう語。みたま。そんれい。
【合祀・合祠】 二柱以上の神や霊をいっしょにして一つの神社にまつること。また、一神社の祭神を他の神社に合わせまつること。
【合祀祭】 合祀の時にとり行なわれる祭典。靖国神社で、戦死者、殉難者の霊を祭神として合祀する時に行なわれる臨時の大祭。
【梓巫・梓巫女】(あずさみこ) 梓の木で作った弓のつるをたたきながら、死者の霊を呼び寄せる口寄せ巫女。吉凶や失せ物判断をすることもある。みこ。いちこ。くちよせ。
【客】 霊(たま)祭などで、祭の場に来る死霊・霊魂。
【狐憑】(きつねつき) 狐の霊がとりついたといわれる一種の精神病。また、その人。きつね。
【義士祭】 四月一日から一か月間、東京芝高輪の泉岳寺で行なわれる、赤穂義士の霊をまつる催し。寺宝の展観などがある。ぎしまつり。《季・春》
【息衝竹】(いきつきだけ) 埋葬した時、土饅頭に突き立てる節を抜いた竹。蘇生したときの用意のためとか、死者と話をするためなどの説があり、供養として水をそそぎ入れたりする。霊の通路。息つき穴。
【雷】(いかずち) (「いか(厳)つ(=の)ち(霊)」の意)たけだけしく恐ろしいもの。魔物。*書紀‐神代上(水戸本訓)「上に八色(やくさ)の雷公(イカツチ)有り」 かみなり。なるかみ。かむとけ。*仏足石歌「伊加豆知(イカヅチ)の光の如き」
【影・景】 (「かげ(陰)」と同語源)死者の霊。魂。*源氏‐若菜上「亡き親のおもてを伏せ、かげをはづかしむるたぐひ」
【岳神】 山の神。特に、富士山の霊。富士山頂にまつられている浅間神社の神。
【仕上・仕揚】 (「仕」は当て字)(死後の作法のしめくくりの意とも、また、死者の霊を天にあげる意ともいう)死後三日目、七日目、四九日目などの忌日にいとなむ法事。忌中払。葬礼の後、手伝いの人々に饗応すること。
【取っ付く】 (「とりつく(取付)」の変化)身に病や霊などがつきまとう。不浄なものが身についてはなれない。「狐がとっつく」*滑・浮世床‐初「悪い病ひにとっつかれた」
【千早ぶ】(ちはやぶ) (「いちはやぶ」の変化。また、「ち」は「霊(ち)」で、「霊威あるさまである」の意とも)たけだけしく行う。勢い激しくふるまう。→ちはやぶる。*万葉‐一九九「千磐破(ちはやぶる)人を和(やは)せと」
【浮かぶ・泛かぶ】 (現在では、多く可能を表わす「うかばれる」の形でいう)死者の霊が迷いから抜け出てやすらかになる。成仏する。*山家集‐下「うかばん末をなほ思はなん」
【浮かばれる】 (「れる」は、もと可能の助動詞)死者の霊が迷いからぬけ出てやすらかになれる。成仏できる。
【孝】(きょう) (「孝」の呉音)親の追善供養をすること。また、死者の霊をとむらい喪に服すること。孝養。*宇津保‐俊蔭「三年のけうを送る」
【誄】(しのびごと) (「偲び言」の意。上代は「しのひこと」)死者を慕い、その霊に生前の功徳などを述べることば。死者に対する哀悼の辞。るい。るいし。*書紀‐敏達一四年八月(前田本訓)「馬子宿禰大臣刀(たち)を佩いて誄(シノヒコト)たてまつる」
【おりはやす】 「はやす」は「栄やす」で、良いものにする、効果あらしめるの意から、植物などを折って料理するの意か。一説に、「折って栄えあらしめる」で、すなわち植物を折って植物霊を分け、翌年の豊作を祈る意。*万葉‐三四〇六「上毛野(かみつけの)佐野の茎立(くくたち)乎里波夜志(ヲリハヤシ)吾は待たむゑ今年来ずとも」
【下ろす・降ろす・卸す】 神の霊を天から下界に呼びよせる。*米沢本沙石集‐一・四「大明神をおろしまゐらせて御託宣を仰ぐべし」
【浮かべる・泛かべる】 死者の霊が迷いから抜け出て安らかになるようにする。成仏させる。浮かばせる。
【後】(あと) (「跡(あと)」の意義が拡大したものという)人の死後。死後の霊。追善供養などもいう。*源氏‐明石「更にのちのあとの名をはぶくとても、たけき事もあらじ」
跡を弔(とむら・とぶら)う 死者の霊を慰める。追善のために法事を行なう。
【志す】 (「心指す」で、心がその方向へ向かうの意)死者の霊をとむらう。法要を行なう。多く「こころざす日」の形となる。*咄・醒睡笑‐一「けふは心ざす先祖の頼朝の日なり」
【現ずる】 神仏、霊魂やその霊験が現われる。示現する。*宇津保‐楼上上「石造りてうの薬師仏げむじ給ふとて、多くの人まうでたまふ」 神仏、霊などが霊験を現わす。*浜松中納言‐一「菩提寺といふ寺におはします仏、いみじうけんし給ふといふに、詣で給ひて」
食の御魂(みたま) 稲の穀霊を神格化したもの。のちに米、粟、麦、稷(きび)、豆などの五穀の神、主食をつかさどる神霊となる。伊勢の外宮の祭神豊宇気姫命の霊、また、稲荷の神の祭神ともいう。*書紀‐神代上「倉稲魂、此をは宇介能美埀磨(ウカノミタマ)と云ふ」
家の主(ぬし) その家に古くからすんでいて、霊があるといわれる、蛇、狐、狸などの動物。ぬし。
在天の霊(れい) 死者をまつる時などに、その霊魂をさしていう語。
わたつみ  (「つ」は「の」の意の格助詞。「海つ霊(み)」の意。後世は「わたづみ」「わだづみ」「わだつみ」とも) (海神)海の神。その地方地方の海、雨、水をつかさどるといわれる。海神。わたつみのかみ。海(わた)の神。*書紀‐神代上「少童、此れをば和多都美(ワタツミ)と云ふ」
酒の神(かみ) 酒の霊であり、また、酒をつかさどると信じられている神。日本の少彦名神、ギリシアのディオニソス(バッカス)、エジプトのオシリスなど。
亡き影(かげ) 死んだ人の面影。死者の霊。*源氏‐松風「親の御なきかげを恥づかしめむ事」 亡くなったあと。死んで霊魂となってしまっていること。*源氏‐浮舟「なきかげにうき名流さんことをこそ思へ」
暮れの魂祭(たままつり) 一二月末日に行なう先祖の霊をまつる行事。《季・冬》
七瀬の祓(はら)え[=禊(みそぎ)] 中古、朝廷で毎月または臨時に行われた行事。吉日を選んで、天皇のさまざまなわざわいを負わせた人形(ひとがた)を、七人の勅使に命じて、七か所の河海の岸に持たせて祓えをした。難波・農太・河俣・大島・佐久那・谷・辛崎でするのを大七瀬または七瀬といい、耳敏(みみと)川・川合・東滝・松崎・石影・西滝・大井川で行うのを霊所七瀬、川合(糺川)・一条通・土御門通・近衛通・中御門通・大炊御門通・二条末通でするのを加茂七瀬という。当時の公卿たちも朝廷にならって行い、鎌倉幕府も由比浜・金洗沢・固瀬川・六連・柚河・杜戸・江島で行った。《季・夏》
 
転生1 (てんせい, てんしょう)

 

1 生まれ変わること。輪廻。
2 環境や生活そのものを一変させること。
転生とは、主に仏教において用いられる思想で、死後に別の存在として生まれ変わること。特に輪廻と区別はされていない。一部の宗教では再生とも言われる。キリスト教における復活や新生とは異なる概念である。
転生する前の生のことを前世または前生、現在の生を現世または今生、転生後の次の生のことを来世または後生と言い、これらをまとめて三世(さんぜ)と言う。輪廻のように人間は動物を含めた広い範囲で転生すると主張する説と、人間は人間にしか転生しないという説がある。
一般には仏教を語る上でのみ触れられるが、仏教に固有の思想ではなく、釈迦以前の思想家にも見られ、インドのみならずギリシア古代の宗教思想にも認められる。インドでは六道輪廻にみられるような生まれ変わり(→輪廻)による苦から解脱することが目的とされた。現代の日本では、仏教における転生を、単に民衆を道徳へ導くための建前として語られたにすぎないとする者も多くいるが、過去の日本では、輪廻思想は仏教において前提とされる一般的な考え方であり、浄土教の源信などのように、転生を信じながら真摯な布教活動をした宗教家が多くいた。
研究例
イアン・スティーヴンソンによる調査
転生を扱った学術的研究の代表的な例としては、イアン・スティーヴンソンによる面接調査がある。スティーヴンソンは1961年から生まれ変わり事例の調査を始め,最終的に2000 例を超える「生まれ変わりを強く示唆する事例」を収集した。そして考察の結果、スティーヴンソンは最終的に,ある種の「生まれ変わり説」を受け入れている。
前世療法研究
前世療法で用いられる退行催眠については、虚偽記憶を生み出すという批判もあるが、検証の結果「前世の記憶」である可能性が高い記憶が想起されたケースもある。
生まれ変わりの村
著作家の森田健が、中国に存在する「生まれ変わりの村」を取材した記録がある。村民の記憶によれば、彼らのうち多くの者が肉体の死後、同じ村に生まれ変わるという。前世の記憶を持っているために、生まれながらにして複雑な大工仕事が出来たという男性の例や、性同一性障害に悩まされたという女性の例などが存在する。また、前世と今世では「私」というアイデンティティーは同一のまま保たれるが、温和さや残忍さといった性格は生まれる肉体により変化する、と複数の村人は語っている。
法的取扱い
宗教思想上の概念の問題であるため、一般的には法規制の対象となるものではない。
2007年9月に発行された条例により、中国では、転生を行う際に事前に政府への申請を行い、許可を得ることが必要となった。この条例は、高僧が転生を繰り返すとされるチベット仏教の管理を目的としていると見られている。
フィクションの中での転生
過去に生きていた人物が別人となって現代に現れたり、本人自身の記憶を持ったまま別人として生まれる、というのは魅力的なテーマであり、転生という概念を取り入れたフィクション作品は数多く創作されている。ただし、宗教的な思想とは無関係に、単なる現象や何らかの存在(作品内で設定された架空の神など)による操作の結果として扱われていることも多い。

転生2

 

転生は霊的進化のためにある
シュタイナーにとって転生の原理であるカルマの問題は最大のテーマの一つでした。彼の述べることはすべて、この問題と関わってきます。前生なんてあるわけがないと考えるのは自由ですが、イマギナチオーンという超感覚的な手段で見ると、人間は必ず前生をもっていますし、死んだあとの次の生もあります。問題は、こうした前生や生まれ変わりを事実として受け入れても、なぜそんなことがありうるか、そのわけが分からないと、過去のことばかりにとらわれて今の人生がうわの空になってしまうことです。シュタイナーが転生の意味について述べていることを要約すると「人間は精神的・霊的進化のために転生を繰り返すのだ」と言えます。
人間は地上でいろいろな経験を積んで死んだあと、その経験の結実をたずさえて霊的世界に出ます。そこで一定の期間、霊化の時を過ごし、ふつうはもうそれ以上同じ環境では進歩できなくなった時点で、再び新たな経験を積むために物質界へ降りてくるということを繰り返すのが転生ということです。転生を貫いて存在するものを超越人格と呼ぶことにしますと、一つの超越人格が、地上の生と霊的世界の生の経験を繰り返しながら霊的進化をしていくのだというふうに言えます。以下、シュタイナーの精神科学(霊学)に基づいて、この辺をもう少し詳しく見てみましょう。
死後の世界の詳細
まず人間が死ぬと〈自我十アストラル体十エーテル体〉が物質体(肉体)を残して物質界を去ります。人生の記憶はエーテル体に刻み込まれているので、エーテル体がある間はその一生の様子が、夢も含めてすべて、死後のこの時期にヴィジョンとして見えています。この期間が三、四日続いたあと、エーテル体が離れていく時が来ます(この時が仏教でいう初七日です)。その人の一生を刻み込んだエーテル体は分離して、霊的大宇宙に溶け込んでその一部となります。自分の一生が大宇宙に広がっていくのです。これは大変に壮厳な光景で、その光景を見ている自我の厳粛な思いの中から、一段階高次の自我である〈霊我〉が生まれてきます。この霊我は遠い将来、木星進化期といわれる時期に人類が備えることになる高次の構成要素です。人類は過去に動物と同じレベルの時期を過ごしましたが、霊的進化を遂げて自我をもつまでになりました。今後さらに霊我を発達させていく道のりが続いているわけです。霊我がどんなものかを思い浮かべるのは難しいですが、感情の波がすっかりおさまった澄んだ意識が、さらに徹頭徹尾、善なる意志に貫かれているような状態を思い描くと少し近くなるでしょう。その霊我が、死後の世界ではこの時点で、映像的なものとして現れてくるのです。
エーテル体が分離する時、自我はエーテル体の結実(エッセンス)を受けとります。エーテル体が分離したあと、人間は〈自我十アストラル体〉の構成でアストラル界を進んでいきますが、この時人生の逆行が起こります。死の時点から誕生の時点までを人生が逆向きに展開していくのです。それも生前、他人に苦痛を与えるようなことをしたり言ったりしたことがあると、その時点にさかのぼった時、今度は自分がその苦痛を感じるというふうに感ずる主体も逆になっています。こうして生前、感情の担い手であるアストラル体で体験した事柄のすべてが、逆向きに、逆の立場から再体験され、自分がどんなことを他人にしたかを痛感することになります。いわばこの時期はアストラル体の浄化の時です。この時期は地上にいた時のおよそ3分の1の年月で通過します。
人生を逆向きにすべてたどりきると、アストラル体は役目を終えエッセンスだけを残して分離していきます。こうして初めて〈自我〉は地上的なものから解放されて、純粋な霊となります。感情を担うアストラル体を分離したことによって、霊性にひたされます。初めて真の霊的世界が現れてきます。宇宙の中に織り込まれる自分のエーテル体を見た時には、真の霊的世界は外に現れていましたが、今や自らの内にそれが現れるのです。そして、霊我よりもさらに一段高次の自我である〈生命霊〉が、この時、模範像として現れてきます。この生命霊は人類が金星進化期という木星進化期の次の時期にようやく身につけるものですが、この要素が今、霊的世界の自我の前に聖なる模範像として現れるのです。
今、自我が到達しているのは他の霊たちも存在する世界ですが、この世界を地上的な想像力で物質的な装いをもたせて思い描くのは間違いです。この霊的世界での時期は長く続きます。
カルマの決定
そしてある時点で、宇宙の真夜中と呼ばれる段階がやってきます。この時、自我は自分の内に息づく生命霊と、先に大宇宙に溶け込んでいったエーテル体とを比較します。高次の霊的な模範像と、自分の過去の人生とを比べるわけです。その比較から、次回の人間像が作り出されます。これは最高次の天使存在の仕事ですが、そこに人間自身も参加するのです。いわば神々が人間を世界の中にはめ込む時の、目的の設定に自らも参加することが許されているわけです。このプロセスは物質界での四季の移り変わりや、太陽の上り下りに働く摂理の力よりも、ずっと高次のものだといいます。
こうして、前の人生で生じたゆがみを直すため、次の人生ではどの時代の、どういう親のもとに生まれ、どういう肉体と性格を持つかが決定されます。これが力ルマ(業)となるわけです。しかし、シュタイナーの言う「カルマ」には、ふつうこの言葉に含まれる暗い響きはありません。自分がおかれている不満足な環境や境遇、すぐには変えようのない性格、つらい体験などがあって、それが前生からの因縁だ、などということになると、恨めしさを込めてカルマを考えてしまいがちです。しかし、そのすべては自分の精神的・霊的進化のために、自分が決めたことだということになれば、受け取り方が違ってくるはずです。
前生の能力はどうなるか
極端に厳しい試練でなくとも、それぞれの生には、さまざまな課題が与えられているものです。それでは、前生の課題と今生の課題は、どのように関わりあっているのでしょうか。たとえば前生に花開いた能力は、今生にも受けつがれているのでしょうか。前生がドイツ人でドイツ語を母国語としてしゃべっていた場合、今生では日本人として生まれても、ドイツ語の修得が楽であるというようなことがあるのでしょうか。シュタイナーによれば、残念ながら、そういうことはないそうです。前生でもっていた能力が今生にも受けつがれるということは、まずないことです。例外としては、音楽家としての才能があったのにその才能を花開かせる前に死んでしまったような場合、次の生でその才能を再びもって生まれてくるようなことはあるそうです。しかしふつうは前生の能力は今生にもっている能力から推測できません。音楽家が次の生で数学者になることもあるし、前生では数学者だった人が、今生では数学が全く苦手という場合があるといいます。むしろ、今生で、できたらいいのにと思っても、どうにもだめだということが、前生の能力である可能性が強いそうです。同じことを繰り返していても進歩はないので、今生は前生とまるっきり違う方面に進むわけです。今生で最も抜け落ちている能力が、前生の能力であった可能性が大なのです。内向的で思索的な人の前生を探ると、外向的な行動家だったりするのです。
それでは前生の能力は消えてしまうのかというと、そうではないようです。シュタイナーによると、前生の能力は今生では必ず変容して現れてくるのでして、たとえば、前生の数学的な能力が、今生では視力の良さという肉体面に現れたりもします。
転生へ向かう
さて、自我は霊的世界から物質界へ下降し始めます。まずアストラル界で新たなアストラル体を身につけます。アストラル界を構成している素材を集めて体にするわけです。生まれる前の、つり鐘型をした人間のアストラル体がアストラル界を飛び回ります。生まれる直前にエーテル界から素材を集めてエーテル体を作りますが、そのエーテル体は、その時の、月や太陽や惑星を含めた天球を写しとっています。それぞれの天体の位置を写真のように写しとっているのです。
こうして受胎後十日か二週間の受精卵に〈自我十アストラル体十エーテル体〉が宿ります。物質体としての受精卵に宿る直前、死の直後のフラッシュバックと丁度逆のことが起こり、これからの人生を一瞬、垣間見ます。そのあと、前生を忘れ去った新たな人生が始まるのです。霊的世界での計画に従って選びとった環境で人生が始まります。
誰もが一度の人生で目指すべき進歩をとげるわけではありませんが、転生を繰り返し、経験を積みながら、一進一退しつつ、霊的進化の長い道のりを進むのです。
転生しながら、何度も出会う人たち
一人の人生は別の人の人生と交わり、影響し合います。その影響はたがいの心の成長に跡を残します。すると、次の人生を決める時にたがいに、その跡をつけた同じ相手との関わりを選ぶことが多くなります。つまり人間は、一定の人たちと一緒に、同じ時代、近い場所に転生することが多いのです。
しかし、出会う人がすべて前もって決まっているわけではありません。今生で新たな関わりを結ぶ人もいるのです。また、出来事も、あらかじめ全て決まってはいません。たとえば道を歩いていて工事現場にさしかかった時、上から物が落ちてきて怪我をするようなことも、あらかじめ決まっているわけではないとシュタイナーは言います。その人の意志によって選ばれた行動が結果を生むというパターンもあるのです。つまり危ない近道を選ばなかったら、その事故は起こらなかったのです。前生からの因果ではなく、今生のうちに一つの行動が結果を生んだのです。こうしたことはその人の意志しだいなわけです。
地球の前生〈月進化期〉
シュタイナーがアーカーシャから読み取った宇宙と人類の過去の記録は『アーカーシャ年代記より』という本になっていますがそれは『神秘学概論』の「宇宙進化と人間」の中でさらに具体的に述べられています。これらの本を読めば、霊的世界と地上との間を行き来する転生の始まりは大変古いことが分かるでしょう。
話は少し飛躍しますが、地球にも月進化期と呼ばれる、一種の前生がありました。この時期、現在の物質状態は存在しておらず、すべてが一段階繊細な素材でできていました。この月進化期に人間の先祖は〈アストラル体十エーテル体十物質体(といっても、今の物質の素材とは違う)〉という動物レベルで存在していました。転生を、一つの物質体から分離し、別の物質体と結合することというふうに捉えると、この月進化期の時代にも、その原型はあったといえます。すなわち、〈アストラル体十エーテル体〉が、霊的活動の高まりとともに物質体から解放され、宇宙の調和に陶酔しながら浮かんでいる向太陽期と、物質体に宿って意識作用が高まる惑星期とがあったのです。物質体はその二つの時期が交替する度ごとに、分離と新生を繰り返しました。しかしこれは現在の死と再生のパターンとも違うし、睡眠状態と覚醒状態とも違うものでした。しかし、それぞれの原型とは言えると思います。
この月進化期の痕跡は、彗星に残っているていどで、その他にはほとんどありません。シュタイナーによれば、月進化期の生物は、現在の地球進化期の生物が酸素を必要とするのと同じように、窒素やある種の窒素化合物、シアンや青酸化合物を必要としたそうですが、その青酸化合物が彗星にもあるということを彼は1906年に述べています。この事実は1910年のハレー彗星接近の時に確かめられ、同年三月以降の講演でシュタイナーはこの「予言」を精神科学(霊学)の正しさの証拠に挙げています(もっとも、彗星のスペクトル分析ではすでに1881・82年の彗星で、イギリスのハギンズがシアン化合物を発見していますが、シュタイナーはこの事実を知らなかったようです)。
また、月進化期の名残りは、霊的世界にも僅かながら残っています。精神科学(霊学)の探究のために霊的世界に出た者は、二つの厳密に区別できる時期を体験するといいます。それは二週間おきに交替し、一つの時期には、探究者は自分の能力が高まっているように感じ、八方から霊的世界に起こる出来事が押し寄せ、それを観察できる時期です。次の二週間は、前の時期にえたインスピラチオーンとイントゥイチオーンの内容を思考力によって徹底的に考察できる時期です。このサイクルがあるので精神科学(霊学)は厳密な科学の姿勢をとれるのです。このサイクルは月進化期の向太陽期と惑星期のサイクルの名残りです。
人間の転生の始まり
月進化期のあと、休閑期(プララヤ)があって、すべては霊視も届かない高次の世界へ行ってしまい、そのあと現在につながる地球進化期がやってきます。地球進化期になってようやく、密度の高い物質が現れてきます。この地球進化期の始まりとともに、今までの進化を初めから反復する時期が、しばらく続きます。その時期の初めの人間は一種の「熱」のようなものだけで構成されていて、心臓や血管の原型の中をパワーの流れとしての「熱」流が流れている存在でした。「熱」流は頭頂に相当する部分から下へ流れました。その後、地球がすべてまだエーテル化していた時代、人間のその頭頂の箇所に、「熱」を感知するランタン状の器官ができてきましたが、まだ眼はありませんでした。
地球のエーテル化が終わったころから、転生の原型が再び現れてきます。これはレムリア期に移る以前のことです。このころ、人間の魂は物質体に宿って自意識がある時期と、物質体から離れ、霊的世界に棲む高次霊に包まれて過ごす時期とを周期的に繰り返すようになります。地球が太陽に向かっている間、魂は物質界にある人間の「芽」のようなものに宿り、それが成長して、植物に近い状態になります。しかしその内部は活発に動いています。そして「夜」がやってくると、その物質体は崩壊し、地上にはまた「芽」だけが残ります。その後、レムリア期がやってきます。彼らの頭頂には脚のついた杯のような「熱」を感じる器官がついており、そのつけ根には触手がいくつも生えていて、全体、花のような様子をしていました。これはまだ眼ではありませんでしたが、ギリシャ神話の一つ目の巨人キュープロスの伝説はこのレムリア人の姿に由来します。このレムリア期の半ばごろに、地球全体をおおっていたアストラル的な力が離れていく時期があります。この頃、人間は初めて自我を獲得しますが、アストラル体に悪の可能性が植えつけられます。初めて物質体の崩壊を死と感ずるようになってきます。その後、アトランティス時代になって、死後も個別の存在であると感じられ始めます。ですから、超越人格の転生の始まりは、自我を獲得したレムリア後期からアトランティス期ごろと考えることもできるでしょう。
さて、一つの生と次の生の間は、シュタイナーが述べている例を見ると、数百年単位です。そのくらい年月がたつと、地上の様子も変化していて、新しい体験ができるからです。しかし、こうした転生はいつまで続くのでしょうか。
転生の終わり
人類の転生が終わるのは、木星進化期がやってきた時です。この時すべては再び一段階高次の段階に上るので、物質界は消えてしまいます。この時期を迎えられる人間は霊我を完成していなくてはなりません。現在の自我のままで木星進化期を迎えた人間は一種の自然霊のような存在になる他ないといいます。人類はレムリア期やアトランティス期をへて、現在の人類になっているわけですが、このあと同様の根源的な変化が二度人類に訪れたあと木星進化期が来ます。ですから、まだ遠い将来の話ではありますが、堕落した生を繰り返していれば、進歩はありません。霊的世界で定めた目標に気づかずに人生を過ごすことも大いにありえるのです。
行による自己変革の落とし穴
古代のペルシャのツァラトゥストラのように木星進化期が来るはるか前に、アストラル体を霊我へ、エーテル体を生命霊に変えてしまった者もいます。そうした者の完全に変化し高められたアストラル体やエーテル体は、永遠に運ばれていき、次の転生に持ちこされます。このような者は地上に戻った時、再び完全に高められたアストラル体やエーテル体を作り出すことができるので、以前のアストラル体やエーテル体は、それを必要としている人に与えることができます。ツァラトゥストラはヘルメスにそれを与えたといいます。ツァラトゥストラの自我は後にまた、人類の進化の重要な時点で、ある役割を果たします。しかし、このような特別な存在は極めてまれです。現代によく見られる現象ですが、名誉欲や物欲をもったまま超能力を身につけようと、現代にふさわしくない仕方で修行するような者の場合は、逆に人格の片寄りを増すことがあるでしょう。転生の繰り返しでゆっくりバランスよく歩んでいった方が、ずっとましという場合も多いと思います。
それではいったい、どうしたらいいのか
大事なのは、やたらに前生にこだわるのではなく、今生で正しい意志の力をもち、意志したことを実践することです。そのことは未来の転生に光を投げかけることでしょう。謙虚さ、寛容さ、平静さといった感情を培うことはアストラル体の変化の必要条件です。気まぐれな脱線をしないで徹底的に一つの道筋を追って考えることができないようでは、エーテル体は正しく変化しません。また、善い考えがあっても行動がなければ何も起こりません。考えと行動を常に一致させることができて初めて、物質体の変化が可能になります。物質体の変化は金星進化期のさらに一つあとの時期に完成するものですが。これらは行の基礎ですが、これができなくては、今生で行を積んでもゆがみが出てくるばかりです。ですから、謙虚さ、寛容さ、平静さを養い、落ち着いてものごとを考え、考えと行動を一致させるということは、今生でどうふるまったらいいか分からなくなった場合の良き指針になると思います。 
 
天界の悩み

 

天界は、六欲界、色界、無色界の3つの構造世界になっていて、そのうちの六欲界は六層になっています。六欲界は、天界で一番下ですが、一番下といっても、人間が感じる幸せとは桁違いの幸福感に包まれる世界です。
人間が感じる幸福感が「水滴」とするなら、六欲界の幸福感は「大海」といいますので、想像を絶する幸福感を享受し続けるわけですね。しかもその時間も900万年〜92億1600万年です。気が遠くなるような長期間、幸福感にひたっておられるわけですね。
苦あれば楽ある人間の世界と比較すれば、格段に幸せな世界ですね。浄土宗の極楽に近いところもあります。ちなみに浄土宗の極楽は、六欲界の天界ではなく、色界の最高位にある浄居天(じょうごてん)を言っていると思います。色界の天界については、またいずれ説明いたします。
六欲界の天界は、人間界の幸福感とは比較にならないほど幸せ一杯の気持ちなわけですね。しかも、なんと、この幸福感がほとんど途切れること無く、永続するわけです。朝起きてから、夜、床につくまで、ずーっと幸せな気持ちで一杯で、これが900万年以上も続くわけですね。
天界はどこにある?
ところで天界はどこにあるかといえば、地上から約50m高さから存在するようです。こちらではこの世界がどうなっているのかをご説明しましたが、須弥山という目に見えない高山があるようです。
この地球の地表には、人間、畜生(動物・虫)、餓鬼の3つの生命が存在しています。餓鬼は、通常、人間の目には見えませんが、幽霊や浮遊霊、地縛霊などといった名称で呼ばれていて、時々、人間にも目撃されたり、写真に写ったりしてテレビでも紹介されてお茶の間を賑わすことがあります。
神々が住んでいらっしゃる天界は、地表50m以上からあるようです。古い神社や自然の神を祀る場所に、高山がありますが、これは単なる偶然ではないかもしれません。古代の人々が直感で感じ取ったとか、神々とコンタクトをしたのかもしれませんね。
ですが、神々の中には、地表にテリトリーを作る方々もいらっしゃいます。このことは、実は、「ブッダ最後の旅」としても有名な「大パリニッバーナ経」に出てきます。神々が地上に降り立って、そこに集っている姿をお釈迦さまはご覧になります。神々が降り立つ場所は、力のある人間の王が統治して繁栄する国を作るといったことをお釈迦さまは述べています。
関係ありませんが、日本はイザナギ・イザナミが作ったとされていますね。古事記でもおなじみの国作りの神話ですが、この神話はあながち嘘ではないかもしれません。神々が降り立ったこの日本という国が、このように繁栄しているのも、「ブッダ最後の旅」を読みますと、なんとなく納得してしまいます。
天界の悩み
話しがそれましたが、天界とは、意外と身近にも存在していますが、素晴らしい世界ですね。六道輪廻で生命が輪廻転生するなら、天界だけを巡っていたいものです。そうすれば輪廻も怖いことはないでしょうしね。永久に天界を輪廻し続けることができれば、「勝ち組輪廻」かもしれません。
※しかし天界だけを輪廻することは無理です。「勝ち組輪廻」は理屈の上からもできません。このことは近いうちにお話しいたします。
しかし、この素晴らしい天界にも問題があります。神々の悩みといってもよいかもしれません。それは何かといいますと、なんと「善行がしにくい」ということなんです。
「え!?」と思うかもしれませんが、そうなのです。
神々は、幸せモードの心に固定されていて、その心が人間のようにダイナミックに動くことはないようです。ですので、人間のように自発性を発揮して、善行に励んだり、取り組むことが大変難しいようです。ひたすら幸福感を受けるだけであって、自分から善行をすることが難しいようなのです。神々は素晴らしい方々ですが、反面、心を自在に変化させて自発性を発揮し、善行をするのが困難といった側面があるようなのです。
このとは、人間の体は固く、伸ばしたりすることは人体の構造上、容易ではないことに似ているといいます。人間の体はヨガなどをすれば間接も柔軟になりますが、一般的には身体は固く、簡単に変化させることはできません。
神々は、身体は自由自在に伸ばしたりすることができるようですが、心がプラス思考で固まっていて動かすことが難しいようなのです。人間と正反対ですね。人間は心を自在に変化できますが、身体は自由が効きません。神々は身体は自由に変化できても、心が自由に変化しないようです。
それと黙っていても極上の幸福感に満たされますので、あえて善行しようとする気持ちもわきにくいのではないかと推察します。
天界での生活は受け身が多くなり、単調で同じことを繰り返す退屈な生活と評する方もいるようです。定時に出勤して定刻に帰って日々同じ生活をするパターンに、どことなく似ていると言われる方もいます。
天界は素晴らしい世界ですが、このように心の自由が利かない側面もあるようです。
こういう特徴がありますし、寿命が来ればいずれまた別の生命に転生するわけですが、その時、天界に再び転生できる保証はないようです。
天界の生活では善業エネルギーを蓄積する(善行をする)ことはやりにくく、善業エネルギーを消費することだけになりがちですので、よほどの善業エネルギーが無い限り、天界への再生は困難な印象です。現実は、人間以下の生命に転生することになることが多くなると思います。 
 
前世と転生

 

全ての人間は前世(過去世)を有し、死後に霊魂が霊界で一定の期間を経た後に再びこの世に生まれてくる──これが前世と転生の考え方です。死んだ者の魂が何度も地上に生まれ変わってくるという輪廻転生の思想は、古代エジプトや古代ギリシャの宗教を初め、ヒンドゥー教や仏教などに散見することができます。
また現代においても前世の記憶を持つ人々に関する報告は多く、とくに退行催眠によって誕生以前まで人間の記憶を遡らせると、前世での生活記憶が甦ることがあると言われています。こうした事象は退行催眠の技術が確立された当初から見られていたものでしたが、1986年に出版された『前世治療』という本によって広く世に知られるようになりました。この本の著者であるアメリカの精神科医ブライアン・L・ワイス博士(1944〜)は、退行催眠による治療中に偶然、患者が前世の記憶を甦らせたことを発見し、多くの事例を報告しています。
ワイス博士の著書がベストセラーになって以降、アメリカだけではなく日本においても、退行催眠やヒプノセラピー(催眠治療)により、相談者の前世を明らかにして心的外傷を癒やしたり、現世での生きる目的を明らかにしたりいるというセラピーサロンが流行しており、その意志があれば誰でも自分の前世についての記憶情報を得られるようになりました。
前世と転生の問題については心霊研究家や霊能者の間でも色々と意見の分かれるところです。つまり、全ての人間には前世があり、何度も転生してこの物質世界に生まれ直してくるとすれば、その転生する本体とは霊界にいる霊魂そのものなのか、それとも幽界に残存する様々な霊の記憶や思念のみが新たに誕生する子供の魂に付着してくるだけなのかという点が非常に曖昧で、この部分に関してはじつに様々な見解が存在します。
ちなみに筆者が信頼するある実力派の霊能者によれば、「人間の霊魂というものは霊界の上位次元にあっては複数の個体が集まった塊(クラスター)の群れとして存在しており、そのエネルギー体の一部分が分裂する形で再び物質の衣を纏ってこの世界へ誕生してくる。その際、幽界に残された同じクラスター内の誰かの生前の記憶と思念がまるで磁石のように霊魂の核の周囲にピタリと吸着する。これが過去世や前世の記憶の正体である」とのことでした。この霊能者の見解が果たして正しいのかどうかは現在のところは確かめる術がありませんが、考え方としては非常に興味深いものだと思います。 
 
輪廻転生譚

 

勝五郎の前世記憶
人間は死後どこへ行くのであろうか。その疑問はいまだに解明されていないが、世の中には死んだにもかかわらず再び蘇生したという事例――いわゆる臨死体験が少なからずある。その状態においては類型化したヴィジョンをかいま見ることが知られている。また、一度死んだ人間が同一の肉体に戻るのではなく、時空を超えて別の人間(ないしは動物)として再生するといった輪廻転生の記録も様の東西を問わず記録されている。
有名なところでは小泉八雲の『勝五郎の転生』がある。武蔵多摩郡中村谷津入で起こった「転生」事件に関する貴重な記録である。 勝五郎は文化12年(1815)、父・小矢田源蔵、母・せいの次男として同地に生まれた。文政5年(1822)、勝五郎が7歳のときのことである。彼は姉と遊んでいるときに、姉の前世を聞いたという。姉は「生まれる前のことはわかるわけはない」といったが、勝五郎は逆に不思議がり、自ら生まれ変わったことを始めて告白した。しかし、姉は作り話であるとして、まともにうけとろうとはしなかった。その後、勝五郎の転生の話を両親が知るところとなり、父の源蔵が質したところ、勝五郎は次のように話し始めたのである。 それによると、勝五郎の前世は武蔵野国多摩郡の小宮の領内・程窪村の百姓久平(久兵衛)の子として生まれ、名前を藤蔵といったが、5歳のときに父の久平が死に、その代わりに伴四郎が婿として入り、可愛がってくれたという。だが、藤蔵は翌年の文化9年に6歳で疱瘡に罹って死に、それから3年後、源蔵の家に勝五郎として生まれ変わったというのである。父はにわかには信じられなかったが、噂を聞きつけた村の庄屋・多聞伝八郎が調べてお上に報告した。それにより並々ならぬ関心を抱いた大名の松平観山がじかに調査したところ、藤蔵なる人物の歴史的な実在が確認されたばかりでなく、その生涯なども勝五郎ののべたことと一致していたという。 それにしても、勝五郎はどのようにして再生したのであろうか。彼はその状態を覚えていた。死ぬと、自分(藤蔵)の死体がつぼに入れられ、近くの丘に埋葬されるのが見えた。それから再び家に戻り、自分の枕のところにいたが、しばらくすると、祖父らしい老人がやって来て、藤蔵を連れ出し、一緒に虚空を飛ぶようにして突っ走ったという。周囲の明るさは黄昏時のような感じで、また寒くも暑くもなく、空腹感もなかったという。
老人と一緒に言った場所は、かなり家からは離れたところのように感じたが、奇妙なことに、家族の話し声がかすかではあったが、いつも聞こえていたという。とりわけ、藤蔵のために唱えられた念仏は大きく聞こえ、また仏壇に餅が上げられると、その匂いを嗅ぐことも出来たのであった。 そのように過ごしているうちに、老人は藤蔵を見知らぬ家の前に連れ出していた。「お前は死んでから3年たったので、この家で生まれ変わることになった」そういうと、老人は消えてしまったのである。そこで藤蔵は、その家の戸口の前にある柿の木の下でしばらく佇んでいた。貧乏そうな家だったので、入るのにためらったまま、3日が過ぎた。3日目の夜、雨戸の節穴から家の中に入り、竈のところでとどまっていたが、やっと母の腹の中に入る決心をし、やがて勝五郎として生まれることになったというのである。
勝五郎は祖母のつやとともに、転生前に住んでいたという程窪村に行くことになった。村に近づくつれて、勝五郎は勝手知った者のようにつやを案内した。つやが藤蔵の家を訪ねると、「ここがそうだよ」と答えた。つやは半信半疑ながらも確かめてみると、まさにその通りだった。さらに勝五郎は、藤蔵在世の頃に比べて変化した家の周囲の景観を的確に指摘したという。
ちなみに、国学者の平田胤篤も勝五郎に直接面会して『勝五郎再生奇聞』と題した調査書を残しているが、それによれば勝五郎の再生は、冥界を司る大国主命と、その意を受けた産土の神の熊野権現の計らいであると述べている。
人間以外の動物への転生
ともあれ勝五郎の再生譚は輪廻転生の可能性を証拠づけるものであろうが、生まれ変わりは人間だけでなく、動物にもあることを『法華経験記』は伝えている。 近江国金勝寺の僧頼真は、ものいう時の口元が牛そっくりであることを恥じ、比叡山の根本中堂に籠もって前世の果報を知らせて欲しいと祈った。すると、6日目の夜にお告げがあった。「お前の前世は牛であり、飼い主の近江国愛智郡の役人がお前の背中に法華経をつけて寺まで運んだ。その功徳でお前は人間に生まれ変わることが出来たが、前世の習慣がまだ残っているので、口の動かし方が牛のようになる」ということであった。 『古事談』にも、仁海僧正の父が牛に転生した話が記されている。それによれば、父の死後、夢の中で父が牛になったことを知った仁海は、その牛を買い取って大切に飼っていた。ところが、その後、牛に仕事をさせないため父の罪が軽くならないという夢告があり、そのために、仁海はその牛を田舎へ遣わして時々仕事に使った。その牛の死後、父が畜生道を脱したという夢告を得たという。
いかにも仏教説話的エピソードに見えるかもしれない、だが、仏教とは直接関係のない天理教の教祖・中山みきもまた、人間の命は1回切りではなく、何回も出直すものであると述べている。ミキによれば、人間は死ぬと神の懐に抱かれ、その後出直してくるわけだから、いたずらに死を恐れる必要はないという。
だが、同時に現世で神の意に沿わない行いをすると、その結果として来世においては牛や馬、さらに鼠などの動物に生まれ変わることもあるといっている。みきはある時、知人が馬に生まれ変わっていることを見抜いて声を掛けたところ、その馬が涙を流したという話も伝わっている。また、動物でも人間を見て羨ましく思うものは、来世には人間になって生まれてくる可能性が高いということも述べている。 驚くべきことに。コオロギが人間に生まれ変わったという記録もある。越中国海蓮法師は法華経のうち、最後の3品をどうしても暗記できなかった。そこで何故覚えられないのか祈念したところ夢の中に菩薩が現れてこういった。「お前の前世はコオロギだった。僧坊の壁で僧の唱える法華経を聞いていたが残り3品のところでその僧が頭を壁にもたせかけたので、つぶされて死んでしまったのである。そのため、お前は法華経の3品を覚えることはできないのだ」これは法華経がいかに尊い経典かを強調する仏教説話に、輪廻転生を融合させたものといえるが、輪廻転生は仏教の専売特許ではなく、仏教以前のインドのヒンドゥー教の宇宙観の中にすでに存在していた。
異形の再生譚
輪廻転生説はさらにインドのジャナ教や、古代ギリシャのオルフェウス教など、さまざまな宗教に見られる。また現在の境遇や病気の原因が前世にあるとする考え方もある。
『古事談』によれば、陰陽師の阿倍清明が、花山天皇の前世を占ったという話が収録されている。花山天皇は頭痛持ちで、とりわけ雨の日は激しく痛み、ありとあらゆる医療を尽くしたものの、まったく効果はなかった。
そこで、清明がめされてその原因を占うことになった。すると花山天皇の前世は行者で大峯山で入滅したが、その髑髏が岩の間に落ちて挟まり、雨が降ると岩が水気を吸ってふくらみ髑髏を圧迫するので痛みが酷くなるということが判明した。清明は、その痛みを解決するにはどんな医療をほどこそうとも無駄で、唯一の解決法は前世の髑髏を岩の間から取り出すほかないとし、その髑髏がある場所も具体的に予言した。さっそく使者を遣わしたところ、清明の予言の通り髑髏が見つかり、それを取り出したところ、さしもの頭痛も快癒したという。
また、再生に関する日本の俗信として明治のころまで子供が死ぬとその親は、その子の足の裏や掌などの体の一部に名前や文字を書いて埋葬した場合もあった。もしその名前や文字を持った赤ん坊が生まれると、埋葬したところの土で擦れば、その文字はきれいに消えると信じられていたのである。
実際、次のような記録が伝えられている。岐阜県羽島郡の国島兵助なるもの妻が、明治43年に男子を出産した。その男子の足の裏には「文」という文字の形の痣がくっきりと現れていた。それを知った新聞記者が『岐阜日日新聞』で紹介したところ、富山県西砺波郡福光町在住の佐々木玉枝という婦人が国島宅を訪ねてきたのであった。玉枝には文子という娘がいたが、高等女学校に在学中に病死、両親は娘が再び生まれ変わってほしいと願いつつ、死んだ娘の足の裏に筆で「文」と書き記してから埋葬したという。
また石川県で多田某という人物が死んだとき、密かにその名前を書いて埋めたところ、程なくして能登半島の輪島の家にその名前が刻印された赤ん坊が生まれ、その家の人が墓の土をもらいにきたという話がある。
その真偽はともかく、文字や痣などによって転生の印とする習俗があったことが窺われるが、それ以外にも異形の再生譚がある。
珂磧和尚は延宝6年(1678)に武蔵国奥沢村に浄真寺を造営した。この寺は3仏堂にそれぞれ3体ずつの阿弥陀仏を安置するところから、九品仏と呼ばれたが、その九品仏に金箔で荘厳をすれば、ついに完成というところで、珂磧和尚は急死した。
その後、会津候の夫人が男子を生んだ。だが、この子は乳を飲もうともせず、両手を硬く握りしめたまま泣いてばかりいる。そこである占い師に占わせると、「屋敷じゅうの人に抱かせると泣き止むであろう」と出た。その言葉にしたがって、次々と抱かせてあやしてみたが、泣き止む気配は全くない。最後に残った粥炊きの老人に抱かせてみると、やっと泣き止んで、握っていた掌を開いた。何とその掌には「珂磧」と書かれた紙が入っていたという。
ちなみに、この老人は元は珂磧和尚に仕えていたが、和尚が臨終の間際に「仏の造立を果たさずに死ぬのは無念だ。もう一度生まれて事業を完成してから極楽浄土を願うことにする。転生の際はきっとお前に会えるだろう」といい残して死んだ当の相手だった。
死後の世界への科学的アプローチ
なんとも筆舌しがたい再生譚というほかないが、この種の話は、実は日本の古典を繙けば、少なからず散見されるのである。それらは民族的かつ宗教的要素が渾然1体となっている場合が多いため、純然たるデーターのみの抽出とそれにともなう分析作業はきわめて困難でもある。だが、近年にいたって、輪廻転生や臨死体験を科学的なアプローチで研究しようとする動きが西洋を中心に高まっているのも事実である。
その先駆者がアメリカ・ヴァージニア大学医学精神科のイアン・スティーヴンソン教授で、彼は1960年代から東南アジアで輪廻転生に関するフィールドワークを行い、『前世を記憶する子供たち』を発表し、各方面の注目を集めた。またレイモント・ムーディもその著『かいまみた死後の世界』で臨死体験者の事例を分析し、臨死状態ておいては次のような共通性が見られることを指摘している。
それは、で臨死体験者は医師による死の宣告を受けたあと、やがて不快で耳障りな大きな雑音が聞こえ、それにともない、薄暗くて長いトンネルの中をすべり落ちていくような感じになるということである。その後、自分自身が肉体から分離している状態に気づく。それは横たわっている自分の肉体を空中からながめることができるからわかるという。したがって医師が自分の蘇生術を行っている場面や、その周りで嘆き悲しむ親族の姿が見えることもある。とはいえ、意識はひじょうにはっきりしており、平安と歓喜に満たされたような気分になる。そして往々にして以前死んだ肉親や友人などが自分の前に現れたり、あるいは自分の生涯の光景が走馬灯のように脳裏を駆けめぐる。また強い光に包まれることも多いが、そうした状態は生と死の境界であり、自分の肉体に再び戻って蘇生するか、あの世へ行ってしまうかの境目であるという。
ここで思い出されるのが、チベットに伝わる密教経典『死者の書』である。同書によれば、人間は死ぬと、49日間「中有」(バルドゥ)にさまようことになるという。「中有」とは、いわば死から再生への中間的存在で、臨死体験者はその「中有」をかいま見たということができよう。普通の人間はこの「中有」で49日間さまよい、その間に自分が死んだことを悟るとともに魂の浄化が行われ、しかるべき霊界へ、すなわち天上界や地獄界や人間界などといわれているところへ行くことになるという。中にはその人の業に応じてづっと「中有」にとどまる人もいる。「中有」では、親族などが霊界の案内役として現れることもある。前述の勝五郎の老人にともなわれ、「中有」さながらの状態に3年間とどまったのち、人間界に再生したわけである。 
いずれにせよ、人は原則的に死後「中有」へ行き、そこからさらに異次元の霊界へ行き、それぞれの霊界での自分の寿命が尽きると、再び人間界などに転生するという。人間はそのようにして生死を繰り返しながら、霊的進化の道をたどるというのである。現在「前世療法」という催眠を応用した心理療法がトロント大学医学部の教授ジョエル・ホイットン博士などによって行われているが、興味深いのは、そのほとんどがチベットの『死者の書』に記されている臨死体験などとの内容に酷似していることなのである。これは一体どういうことであろうか。結論的には、死後の世界は、人種、宗教、文化、時代などの枠組みの違いを超えてある種の普遍的な共通性をもっているといってもいいのではあるまいか。そして科学的な研究はやっと端緒についたばかりなのである。 
 
輪廻転生 1

 

1.輪廻のこと。 / 2.転生のこと。 / 3.1と2をあわせた言い方。
転生輪廻(てんしょうりんね)とも言い、死んであの世に還った霊魂(魂)が、この世に何度も生まれ変わってくることを言う。ヒンドゥー教や仏教などインド哲学・東洋思想において顕著だが、古代のエジプトやギリシャ(オルペウス教、ピタゴラス教団、プラトン)など世界の各地に見られる。輪廻転生観が存在しないイスラム教においても、アラウィー派やドゥルーズ派等は輪廻転生の考え方を持つ。
「輪廻」と「転生」の二つの概念は重なるところも多く、「輪廻転生」の一語で語られる場合も多い。この世に帰ってくる形態の範囲の違いによって使い分けられることが多く、輪廻は動物などの形で転生する場合も含み(六道など)、転生の一語のみの用法は人間の形に限った輪廻転生(チベット仏教の化身ラマなど)を指すニュアンスで使われることが多いといえる。また、キリスト教などにおける「復活」の概念は「一度限りの転生」と見なすことも出来よう。ただし、復活の場合はより狭く、生前と同じ人格を保ったままの転生である。 
 
輪廻転生 2

 

六道輪廻
六道輪廻(ろくどう-りんね)は聞いたことがあると思います。実は六道輪廻はお釈迦さまが発見したことです。厳密にいえば、五道輪廻を発見され、後に阿修羅界が組み込まれて六道輪廻になっています。
お釈迦さま以前のインドでは、もちろん輪廻思想はありましたが、もっとシンプルな輪廻転生の思想です。天界と人間界と地獄の3つの世界を行き来する素朴な輪廻思想でした。
しかしお釈迦さまは「五(六)道輪廻」を言います。五(六)道輪廻とは、地獄、畜生、餓鬼、人間、天界の5つです。これに阿修羅を加えて六道です。
生命は、この6つの境界をグルグルと移り変わっていくといいます。
お釈迦さまは、宿命通と天眼通という超能力を持っておられました。現代でも「前世を知る」とかありますが、お釈迦さまの前世を見通す能力は、そんなレベルではありません。自分の過去世を何億回もさかのぼり、しかも自分自身の前世だけでなく、天眼通という能力であらゆる生命の前世をも数多くさかのぼり見通していかれました。このことは仏伝ほか、パーリ経典にはいくつも記録として残っています。
お釈迦さまものすごく数の多い生まれ変わりの様を見ていましたので、輪廻転生のパターンも読み切っていたのでしょう。ですので、お釈迦さまの言葉とは、こういう生命の輪廻の様を踏まえて言われた金言と受け止めた方が無難ではないかと思います。私は仏教をもっとも信頼するのも、お釈迦さまの透徹した洞察力があるからです。
ところで生命が輪廻する数は一体どれくらいなのでしょうか?よく輪廻転生の話しが出ますよね。過去世の記憶にさかのぼるワークとかセミナーもありますし、そういう療法もあります。大抵、「前世のあなたはどこどこで○○をしていましたあ」、といった感じですね。
相応部経典の中に、輪廻に関して言及したお経がいくつかあります。それを読みますと、お釈迦さまはこう言っておられます。
「人が死んで生まれ変わる間に流した涙の量は、海の量よりも多い」「指先につまんだ土を現世とするならば、人の輪廻は、この地上にある全ての土よりも多い」

途方もない数の生まれ変わりです。まさに無限に近い輪廻を、生命は続けていることをお釈迦さまは言っておられます。
さらに、宇宙が生じて崩壊した後、最初の生命が誕生する話しも述べておられます。この辺りは、旧約聖書の創世記よりも詳細な描写になっています。
生命は、宇宙の生成崩壊も数え切れないほど体験していて、お釈迦さまは、宿命通と天眼通という神通力で見通されていました。
仏教(原始仏教)での教えとは、お釈迦さまのこういった非凡な能力を踏まえておっしゃっているところがあります。
仏教が説く輪廻はおそろしい
六道輪廻はお釈迦さまが最初に言われた輪廻の様ですが、お釈迦さまが説かれる輪廻は、世間一般に信じれらているのとは違うところがあります。
まず、生命は、何か目的を持って転生しているのではないということです。これを聞いただけでもショックを受ける方もいらっしゃるかもしれません。ですが仏教では、このように説きます。魂の成長をはかるため、とか、何か使命を帯びているため、というのは原則的にありません。
生命は、ただ「執着と無明の煩悩によって輪廻しているだけ」と喝破します。はっきりいって夢も希望もありません。メルヘンちっくな話しは、お釈迦さまの輪廻転生にはほとんどありません。
もっとも輪廻の中にも、変易生死(へんにゃく-しょうじ)というのがあります。変易生死とは、悟りの門に入った預流果以上の生命(聖者)が、悟りを得るために輪廻を続けることをいいます。変易生死は特殊なケースです。
一般的には分断生死(ぶんだん-しょうじ)といいます。ほぼすべての生命は執着や無明に基づいて、オートに輪廻転生を繰り返しています。分断生死の輪廻がほとんどすべてです。
この部分を書いただけでも、読んだ方は、暗い気持ちになるのではないかと思います。すので、この仏教的な輪廻の思想を生理的に拒絶すか方が多くなります。また言及されない方もいらっしゃいます。
ですが仏教は、一面、まずこの真実を受け止めた上で、修行しましょうと説きます。とはいいましても、輪廻の思想に耐えられない場合も出てくると思います。もしも不安や恐怖を感じる場合は、スルーしてください。前にも書きましたが、自分で確かめられないことは鵜呑みしない、という姿勢です。
真実とは鋭い刃のようであり、時として人を恐怖と不安に叩き落とします。仏教で説く輪廻転生には、実に、ブログでは書けないほどの恐ろしい話しもあります。書けば、ショックを受けてトラウマを抱える方も出てくると思います。ですので輪廻転生については慎重に書かざるをえなくなります。
しかし、お釈迦さまは、良き処に生まれ変わり続けるための、アドバイスを説かれています。しかもその気になれば、誰にでもできる人生上の注意点と処世術です。
お釈迦さまは、仏教徒以外でも誰でも幸せになれる方法を説かれています。ただ単に不安をかき立てるだけでなく、良き生命であるようにと、そのための生き方・処世術をしっかりとおっしゃっているのですね。
五戒・布施〜誰でもできる幸せになれる方法
仏教が説く輪廻転生は大変峻厳で、恐怖すら感じるときがあります。ですが、お釈迦さまは救われる方法もしっかりと説いておられます。しかも仏教を信じない人でも、誰でもできる幸せになれる方法です。
それが戒(五戒あるいは十善戒)と施(ほどこし)です。
そして、この「戒(五戒・十善戒)」と「施」に「修」というう瞑想修行を加えたものが「在家の仏教」になります。
戒(五戒・十善戒)
まず戒(五戒・十善戒)です。
お釈迦さまは、在家には五戒、十善戒という戒律を守ること、人への施しをして心を清らかにすることを基本的な実践行として説かれています。
五戒とは、
1.むやみに生き物を殺さない
2.他人の物や心・与えられていない物・心を取らない
3.不倫をしない
4.嘘をつかない
5.酒を飲まない。
べからず集ではなく、肯定的な表現をすれば以下のような言い方もできると思います。
1.命を大切にする (生き物を殺さない)
2.必要なものだけで満足する (盗まない)
3.TPOを踏まえて本当のことを言う (嘘を言わない)
4.倫理道徳に根ざした恋愛をする (不倫をしない)
5.正常な判断力を保つようにする (酒を飲まない)
十善戒とは、
1.むやみに生き物を殺さない
2.他人の物や心・与えられていない物・心を取らない
3.不倫をしない
4.嘘をつかない
5.つまらない話しや、調子の良いことやお世辞が過ぎることを言わない
6.粗野であったり乱暴な言葉を使わない
7.仲違いさせることを言わない
8.異常な欲を持たない
9.異常な怒りを持たない
10.因果を否定したり道徳を否定する、妄想的な誤った見解を持たない。
になります。十善戒は五戒のうち四戒を含んでいます。
施(せ)
「施」は文字通り、施しを行うことです。布施(ふせ)といいます。施しには、
1.財物をほどこす
2.精神的・心をほどこす
3.法施
この3種類があります。財物とは文字通り、物質になります。お金であったり、物であったりします。
精神や心も施すことができます。これは「無財の七施」といったのが有名です。無財の七施とは、
1.眼施(がんせ)・・・やさしいまなざし。ガンを付けたり睨むような目つきをしない。
2.和顔施(わげんせ)・・・にこやかな顔。微笑んだやさしい顔つき。上目使いの三白眼はナンセンスです。
3.愛語施(あいごせ)・・・やさしく、思いやりのある言葉使い。
4.身施(しんせ)・・・自分の体を使って他人のために動くこと。奉仕。
5.心施(しんせ)・・・他人のために気配りをしたり、喜びを共有する(随喜)こと。
6.床座施(しょうざせ)・・・席を譲ること。または自分の地位ですら後進や相手に譲ってしまう心。
7.房舎施(ぼうしゃせ)・・・雨風をしのげる施しをすること。
※房舎施は、昔は現代のように立派な建物は雨具は無かったため、列挙されているものと思います。現代のニュアンスで解釈しますと、「他人の苦痛を和らげるための配慮」ということになると思います。
これら7つは、昔から言われているお金のかからない心や体を使った施しとされています。そしてよく見ると、五戒や十善戒と似ているところがありますね。
最後の法施(ほうせ)とは、実はこれは仏教特有の施しになります。正しい仏法を施す行為をいいます。
生天の教え
ところで五戒にしても十善戒にしても現代では、なかなか守ることができない所もあります。そこで頑張り過ぎて守ってしまおうとすることもでてくるかもしれません。
しかし教条主義的になったり、頑張り過ぎるのはよろしくないようです。戒律は、リラックスする心を養うことと、悪に対する恐れの心(「慚愧」といいます)を培うことで、自然にできるようになります。
これらのことは念頭に置いて、できるだけ犯さないように注意したいですね。五戒と十善戒については、いずれの機会で説明もしたいと思います。
五戒と施(ほどこし)は、お釈迦さまが在家に説く、基本中の基本の教えです。「生天の教え」とも言われます。これらを守れば、仏教を信じていない者でも誰でも、死後、必ず善処(良い所)へ生まれ変わると、お釈迦さまは断言されています。
大変シンプルですが、この教えは、無限に続く輪廻の様を鋭く見抜いた上でのアドバイスなのでしょう。
在家の仏道とは
そうして、これらの五戒・十善戒と施に加えて仏教の瞑想を行えば、「仏道」になります。
在家の仏道とは、
・戒(かい)・・・五戒・十善戒を行うこと
・施(せ)・・・布施の行為。仏教寺院や社会や人々にあまねく施しをすること。
・修(しゅう)・・・瞑想を行うこと
この3つを行うことになります。このうち、戒と施は、仏教でなくても言われていますし、誰でもできます。そして幸福になれます。仏教では、「仏教の瞑想」を行うことで悟りに至り、究極の幸せになれると説きます。
しかしそうはいっても、最初の「戒律」が「堅苦しい」「強制される・・・と思われて、毛嫌いされることがあります。
しかし、今の言葉で言えば、大霊能者といってもよいお釈迦さまが言われたことです。一応は耳を傾けたほうが良いように思います。
ご自分の前世を何億回もさかのぼって見通され、他の生命の無限の輪廻転生も見通された方です。お釈迦さまは輪廻転生のパターンを完全に読み切られています。ですので、そのアドバイスには耳を傾けるほうが賢明だと思います。
気が遠くなるような生まれ変わりをしているなら、できるだけ良い生命であり続けたいものですしね。
とはいいましても原始仏教では、近世の宗教団体のように教祖を絶対視することはしませんので、耳を傾ける傾けないは、各人の自由になります。ですが、無限に続く輪廻の旅の仕組みと、ここからの脱出方法を残されたお釈迦さまは、やはり偉大であり、その言葉には耳を傾ける価値があると思います。
「五戒・十善戒」と「施」は、宗教や宗派に関係なく、誰でも幸福になれる実践行です。
両親・親孝行を大切にする理由
家族とは人間関係の最小単位であって、誰もが最初に体験する人間関係のひな形ですね。
両親が仲良く、喧嘩の少ない関係であるなら、その子供も同じようなバランス感覚を培っていき、そして大人になって結婚し、両親と同じように喧嘩の少ない関係になりやすいものです。絶対にそうなるわけではありませんが、なりやすいですね。数多くの親子を長年にわたってみていきますと、上記のことは該当します。
親子とは大変、絆が深い関係です。良くも悪くも、子供は両親の影響を受けます。
両親について原始仏教では、どう説いているのでしょうか。今回は人間関係のひな形ともなる両親について説明したいと思います。
1.両親は梵天のように接せよ
原始仏教では、両親を非常に大切にする教えが数多くあります。両親に対しては、梵天に接するが如く敬いなさい、両親は大切に、親孝行はせよ、といった両親を大事にする教えが数多くなります。
その理由は明快です。親は子供を育てるために、自分の身を削ってまでも必死となって尽くすからだ、といいます。明快ですね。今の私たちがこうして生きていられるのも親の「お陰」である。だから大切にしないといけないのです。と明快にお釈迦さまは説かれます。
2.もしも両親を粗末にすると・・・
反対に、両親を粗末にする場合、特に親を殺害した場合、大変な罪になるようです。その罪は極めて大きく、死後、最悪の地獄(無間地獄)へ行くとあります。これは相当怖いです。
「五逆罪」という罪があります。五逆罪とは、
1.母親を殺害する
2.父親を殺害する
3.ブッダを殺害する
4.ブッダに怪我を負わせる
5.正しい仏教教団を破壊(分裂)させる
という罪です。これらを犯すと、悟りを得ることができなくなり、死後、必ず無間地獄へ行くと経典には書いてあります。両親、殊に、母親を殺害することは大変な罪のようです。ブッダを殺害するよりも罪が重たいともいいます。
ちなみに無間地獄(むけんじごく)は、1劫(ごう)という時間の間、存在しつづけるようです。1劫とは43億2000万年 といいます。43億2000万年の間、地獄にいることになるそうです。
・・・・悪いことはしたくないですね。
3.両親との絆
怖い話しになりましたので、ちょっとここでファンタジーのようなお話を。
両親とは絆が強いわけですが、パーリ経典にとてもジーンと来る両親に関するお経があります。それは、あなたが今の両親の元に子供として生まれてくる回数はどれくらいでしょうか?という問いかけです。
今の両親の元に生まれてくる回数です。
この問いを聞くと、「え?」と思いませんか?今の両親の元に生まれてくる回数です。
そもそも、今の両親と同じ両親の前世ってあるの?と思いますよね。
ところがお釈迦さまは腰を抜かすようなことをおっしゃいます。
今の両親と同じ両親の元に生まれてきた回数は、大地の土の数よりも多い、というのです。
茫然自失・・・
開いた口がふさがらなくなります。
なんという膨大な数なのでしょうか。確率からいっても、同じ両親の元に生まれてくるのは極めて少ないはずです。その少ない確率ですら、膨大な回数だと言うのです。
一体、人間の輪廻転生の数はどれくらいなのでしょうか。無限に近い回数ということはなんとなく分かるでしょう。
仏教の輪廻転生とは、このようにスケールが途方も無く大きなものです。
そうして、同じ両親の元に生まれてくる回数、この話し、どこかで聞いたことがありますよね。輪廻する回数の例えです。
輪廻の数もさることながら、「同じ両親の元に生まれてくる回数」も膨大だというこの教え。本当に、人の輪廻の回数は、気が遠くなるほど膨大なことが分かりますよね。なぜなら、同じ両親の元に生まれてくる回数すら、膨大なのですから。
ですが、このお釈迦さまのお話から、両親との絆はいかに深いかが分かると思います。両親との縁とは、信じられないくらい深く、いわば自分の一部のような存在なのでしょう。
ですので両親を殺害する罪が重たくもなるのかもしれません。
今のあなたの両親、過去世でも数え切れないくらい「両親」だったわけです。今と同じ職業や性格でなかったでしょうが、この絆は、来世においても再び結晶化していきます。いつかどこかで、再び、同じ両親の元に生まれてきます。
そう考えますと、両親とは「多生の縁」ではなく、「自分の一部」のような存在だと思います。
先祖や親が霊障になっている?
世間には、先祖が霊障を起こして子孫を苦しめている、運を悪くしている、問題の原因とといった教えを説くところもあります。しかし、お釈迦さまの言葉を鑑みますと、こういう考え方はいただけません。両親のそのまた両親である先祖が祟っているとか、霊障になっているというのがはちょっと酷い考え方です。先祖や両親を粗末(悪者扱い)しかねない考え方です。
確かに霊障といわれる似たケースが起きることもあるようです。しかしそれは稀です。本当が霊障ではなく餓鬼の関与です。
先祖や親はありがたい存在です。自分と絆の深い存在です。大事にしましょう。大切にしましょう。
いつか再び、また親子として巡り会います。またお世話になる方です。今度巡りあったとき、今生以上に大切に育てていただき、健全に育っていきたいものです。両親は本当に大切にする必要がありますね。大切にしましょう。
原始仏教で説かれる両親についてを知ったとき、感謝する気持ちで一杯になりました。この教えをもっと早くから知りたかったとも思いましたが、気付くに遅すぎることはないですね。精一杯の親孝行はしたいものです。
あなたの前世は何?
よく「あなたの前世は、どこどこで○○をしていた」と聞きますよね。そして大抵は「人間」の生活を述べます。
しかし本当の前世には、必ず「六道輪廻」の生命形態が出てくるものです。
生命は六道を輪廻しています。六道輪廻とは、
神、人間、阿修羅、餓鬼、動物、地獄
この6つをいいます。六道輪廻とは、「生命の形態」でもあります。実は全て、リアルに存在する生命なのです。
心の状態とか、境涯とかではなく、実在している生命なのです。本当に存在しているのですね。
ですので六道輪廻とは、この6つの生命の形態をグルグルと輪廻しているわけです。
人間は死後、人間に生まれ変わるという保証はなく、生前の行い(業)によって、六道のいずれかに必ず行きます。ノンストップです。死後、すぐに別の生命に転生します。
幽霊のようにさまよっていることはありません。すぐに別の生命に転生していきます。輪廻とは決して止まることの無い生命の循環になります。
ですから、あなたの前世は、神、人間、阿修羅、餓鬼、動物、地獄のいずれかの可能性があるのですね。決して「人間」だけではないのです。
したがって前世を透視する話しを聞いた場合、必ず六道輪廻の形態が出てくるのが本当です。もしも人間の時代の話ししか出ていない場合は不正確です。あるいは妄想や空想の可能性があります。
仏教の修行には「宿命通」と言って、前世を見通せるようになる修行があります。これを実際に体得した方の話しを聞きますと、前世は人間の時代だけでなく、動物(虫)、地獄、餓鬼、神、人間、といった生命であった時代をも見ることがあるようです。
前世が、海岸にうごめくフナムシだったという方もいます。これは妄想ではなく、実際に修行をして前世を見ている僧侶の話です。地獄に墜ちて40億年以上もただ「熱い熱い」と苦しみ続けた前世を見た方もいます。
リアルな前世とは、こういうものです。必ず六道輪廻を回っていることを発見し気付くようです。
仏教は体験主義であり、お釈迦さまだけでなく、その弟子達も追体験したものであることは、すでに述べています。
前世もそうです。
そうして本当に前世を見れば、過去世において人間だけでなく、動物や虫であったり、餓鬼であったり、時には梵天という神であったり、様々な生命の形態であったことが分かるようです。
ですから、よく「前世を見た」という話しなどもありますが、この体験が全て人間であるなら、眉唾の可能性が高くなります。
また先述の通り「霊」と言われる存在はありません。霊とは、六道輪廻にある生命を通俗的にとらえた表現になります。
生命はゴールの無い輪廻転生RPG(ロールプレイングゲーム)
このように生命が輪廻する六道輪廻の世界を垣間見てきました。地獄から餓鬼、畜生、阿修羅そして人間、天界(六欲界・色界・無色界)。
この六道をグルグルと回り続けているのが生命です。生命はゴールの無い輪廻転生RPG(ロールプレイングゲーム)のようです。
ゲームのRPGでは、主人公の勇者ロトは、モンスターを倒して経験値やMPをアップさせて、最後にはラスボスを倒してハッピーエンドで終わります。最後にファンファーレが流れてゲーム終了。主人公のHPを999までマックスに高めたりしてラスボスを倒して万感の思いにふけったりもします。
しかし人生は、終わりの無い、ゴールの無い輪廻転生です。善行を重ねて天界へと人間界を往復し、色界梵天や、無色界梵天の最高位に達しても、善業パワー(HP)はだんだんと減っていって、やがて人間以下に再び転生していきます。
善業(HP)は減っていますので、再び主人公は善業(HP)の経験値を積んでレベルアップしていきます。仮にレベル99のHP999になって、再び梵天になっても、善業が無くなればエネルギー切れで、また人間以下に戻って経験値を積んで・・・
この繰り返しです。隠し部屋的な「浄居天(じょうこてん)」に行けば、死後、涅槃に入れます。しかし浄居天に入る方法は仏法によるしかありません。普通に輪廻をしていれば、浄居天を発見しても、その部屋に入るカギが無いため入れません。
天界の幸運、幸福は人間の何千倍という大幸福感なわけですが、いつか天界での寿命も尽きて、善業も減って人間へ逆戻り。人間となって苦楽を味わいながら善行ができればいいのですが、実際は、悪心を起こして天界どころが地獄へ行ってしまうことも出てくるでしょう。
不確実性な輪廻。予想外、想定外の出来事に遭遇して輪廻を続けます。しかも厄介なことに、業(カルマ)は七分割されて、七世にわたって影響も及ぼします。
どこにトラップがあって、どんなカルマの結果を受けるか分からない人生。こうした輪廻をグルグルと無限に近い数、続けていると、ブッダを指摘します。
ため息の出そうな輪廻の旅です。
ですから仏教では、輪廻の鎖を断ち切り、涅槃へ赴くことを提唱します。輪廻の話しは、仏教圏でも説かないところもあります。また説かない比丘・僧侶もいます。タイは国家的に仏教が定められている影響もあって、生まれ変わり(輪廻転生)を説かないところもあります。輪廻を別の意味に置き換えて説明することもあります(転生を遠回しに否定もします)。一方、ミャンマーでは輪廻転生が前提です。生まれ変わりは当たり前として説いていく傾向です。
このように国のよっても輪廻転生の扱いは違ってきます。
しかし生まれ変わりは実在していると思います。転生が無いとするなら、この人間、生命の個性や違いをどう説明するのでしょうか。人間に生まれて、自己に気付いたとき、「自分はどこから来たのだろうか」という素朴な感慨を抱く人は多いでしょう。
生命は連続し続ける存在であり、死後もまた別の生命に瞬時に転生し、存続しつづけていきます。輪廻は存在します。転生は存在します。
そして不確実性過ぎる輪廻転生から脱出するために仏教があると言っても過言ではないでしょう。 
 
輪廻転生 3

 

人間は死んで肉体を失っても、再び生まれ変わります。
胎児の心臓が動き出せる状態になると魂が入り、それによって心臓が動き出します。
生まれ変わると、前世の行いが反対になる事が多いです。
例として、前世で男性を大勢泣かせてきた女性は、幽界で、30〜40人もの、女性に対して恨み骨髄の男性に50〜60年間も攻められて辟易していますから、生まれ変わっへきえきた時に、男性に対し異常に潔癖になります。(前世で女性を大勢泣かせてきた男性は、幽界で女性に攻められることになります。)
生まれ変わると、立場が逆になる事が多いです。
奥さんを蔑ろにしていると、次には自分が妻になり、前の妻が夫になって、その夫から同じ様な目に遭わされて苦しむことになります。
つまり、今、連れ合いから苦しめられている方は、前世は立場が逆で、同じように苦しめたということです。
前世が夫婦だった人たちが、再度、夫婦になる確率は80%くらいです。
その内の30%は、夫だった方が妻に、妻だった方が夫になります。
その他の例としては、、前世の加害者が、生まれ変わった時に被害者になります。
前世で人に冷たくしていると、生まれ変わった時に人に冷たくされます。
生まれ変わると、男性が女性になり、女性が男性になることも多いです。(三分の一くらいの方が、性別が変わります。)
そうなると、男っぽい女性、女っぽい男性になります。
前世と同じ性別のときは、男なら“より男らしい”男性に、女なら“より女らしい”女性になります。
人間の魂の人間は、平均400年くらいで転生しますが、神の魂を持った人間は、希にしか人間界には降りて来ないので、人間に生まれたとしても、霊格の高い方は数千年単位で生まれ変わります。
希に前世の記憶を持った人間もいます。
生前の行いが悪いと、動物や害虫などに転生させられる事もあります。
例として、人の秘密を嗅ぎ回ったりしている人は、犬に転生し、他人に甘えてばかりの人は、猫に転生します。
人の陰口や心に突き刺さる発言をする人、主に女性は、血をいっぱい吸ってから叩き潰される蚊に転生して、次には虻に転生して、という具合に段階を経て大きな肉食動物に転生していくのです。
他人が近寄り難い立ち居振る舞いをする人、主に男性は、ゴキブリなど、人間に嫌われる昆虫に転生します。
この様に、人間として生きていた時の行いによって、転生する行き先が変わります。  
 
輪廻転生と死後の世界 4

 

輪廻転生とは、また死後の世界は本当に存在するのか
「人は死んだ後にどうなるのか」これまで多くの人がこのなぞを解くことを試みてきました。「死」によって人間の存在は終わってしまうのか。それとも「死」は永遠という旅路への出発点なのか。あるいは、つぎの人生への中間点となるものなのか。ある人たちは輪廻転生というものを信じています。つまり死んだ後、何か他のものに生まれ変わるという思想です。統計によるとアメリカ人の25%がこの輪廻転生を信じているのだそうです。ではなぜ人々はこの輪廻転生という考えに魅了されるのでしょうか。
輪廻転生とは「更正」ためのの機会なのでしょうか
輪廻転生説は多くの人に希望をもたらすようです。もしもこの世でうまくいかなかったとしても、次の世界ではチャンスがめぐってくると信じるからです。しかし、この輪廻転生を信じる人たちもほとんどの人が生前、自分が何であったかという記憶がないことを認めざるを得ません。もし生前の記憶がないとしたら、一体どうやって過去の過ちから学ぶことができるのでしょうか。何度人生を繰り返してもただ同じ間違いを繰り返すことになってしまうはずです。過去の歴史を振り返ってみても、将来人類が「完全」に近づくという希望が果たしてあるのでしょうか。
また輪廻転生説は公正をもたらすものだと主張する人たちがいます。カーマの法則(変わることのない普遍的な法則)によると、私たちは自分のむくいをその人生に体験するのだといいます。つまり良い行いをしたり、悪を行なうとそれが次の人生に影響を及ぼすというものなのです。カーマの考えでは、全ての人が自分のした悪の報いを受けているというのです。足がないまま生まれてきた子ども、また暴行を受けた女性はそれぞれその報いを受けているということになります。そこには「恵み」とか「赦し」、また「あわれみ」という概念は存在しません。
このことは困難な試練を体験している人たちにとって何の希望も与えないばかりか、苦しみの多くがその本人に由来していないと信じ、その苦しみから救い出そうと努力している人たちとの間に大きな葛藤をもたらします。
輪廻転生説の限界
ほんとうに輪廻転生説はこの病める現代社会に希望と公正をもたらすことができるのでしょうか。またこの考えは「死」という問題に対して一体どんな答えを提供してくれるのでしょうか。しかしイエス・キリストは、全く異なったメッセージを語られたのです。キリストは、不当な苦しみがあることを否定されませんでした。イエス・キリストはその苦しみを起こした人たちにゆるしを与え、また苦しみを経験している人には癒しを提供したのです。キリストは完全なものは一人もいないと教えられました。人の心は汚れで満ちていて、そのため完全で愛の方である神を悲しませる行動や態度を取ったりするのです。キリストは自らの犠牲をもって支払われた償いのゆえ私達の罪を赦すことがおできになると言われました。キリストは、わたし達はこの地上でのたった一度の生涯の中で、キリストの罪のゆるしを受けたかどうかによって永遠の命を得るか、それとも永遠の裁きを受けるかのどちらかであることを話されました。(マタイ25:31-46、ヘブル9:27)キリストはまた「失われている人を探し、また救うため」にこの世に来られたと語られました(ルカ19:10)。またキリストは「仕えられるためではなく、仕えるために、そして多くの人の身代わりとして」来られたと言われました(マルコ10:45)
キリストは十字架にかかられているその時にも私たちに対する愛を示されました。イエス・キリストの隣に十字架に掛けられた強盗はそのとき自分の罪を告白し、イエス・キリストに自分のことを死後に思い出してくださるようにと願ったのです。そのときキリストはこう答えられました。「まことにあなたに告げます。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)この強盗が天国に行くためにたった一つ求められたことはイエス・キリストに対する信仰でした。この世で何度も何度も人生を繰り返しながら良いカーマを得ようと努力する必要などないのです。キリストはこうも言われました。「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。」(ヨハネ3:16)
これこそわたしたちにとって、この世においてもまた後の世においても、本当の良い知らせ(Good News)といえるのではないでしょうか。 
 
輪廻転生はあり得るか 5

 

心は存在するか?
自然科学の立場からすると、「心」とは、脳細胞などの働きのうえに名づけられたものにすぎないかもしれません。つまり、心の実体を科学的に追求してゆくと、脳細胞や神経などの存在が見いだされるのみであり、それらと別に心が存在するとは認められない・・・ということです。こうした考え方を仏教哲学の文脈に当てはめれば、「心とは、脳細胞の働きのうえに仮設されたものだ。つまり、脳細胞などは実有であり、心は仮有である」と表現できるかもしれません。これはちょうど、説一切有部などが「人(補特伽羅)は、五蘊のうえに仮設されたものだ。五蘊は実有であり、人は仮有である」と主張しているところの、「人と五蘊の関係」に似ていると思いませんか?
これに対して、仏教自身の側では、心というものを次のように考えます。心は、脳に依存し、脳を利用していますが、脳そのものではありません。脳は物質的なものですから、物質的な原因(精子と卵子、遺伝子、細胞分裂など)によって生み出されます。しかし、心は精神的なものであり、物質(色蘊)としては存在しません。ですから、心の生じる近取因 (それ自体が変化して結果たる心になってゆくところの、主な原因) を、物質的なものの中に見いだすことは不可能です。心と身体は、相互に依存しつつも、主な因果関係としては別々の流れを辿る・・・と仏教では考えています。
そのようなわけで、仏教哲学の枠組みの中で、「心は脳の働きのうえに仮設されたもの」と主張する学派はありません。しかし、インド哲学の伝統では、ローカーヤタ(順世派)という学派が、ほぼそのような見解を主張していたようです。大昔に、随分と科学的な考え方をする思想家たちがいたものです。
このローカーヤタと正反対の見解を擁しているのが、仏教の唯識派です。唯識派は、「脳や身体を含め、あらゆる物質的なものは、心の反映にすぎない。物質的なもの(色)を追求してゆくと、心と別にその存在を認められない。つまり、心だけが真実として成立(諦成就)しており、物質的なものが外側の対象(外境)として認識されるのは虚妄である」と主張しています。
自然科学に慣れ親しんだ現代人からすると、これはとても極端な見方のように思えます。でも、よくよく考えてみると、唯識派の主張も一理あります。なぜなら、いかなる物質的なものも、心によってそれを認識することがなければ、その存在を知り得ないからです。例えば、精密な機械によって測定された実験結果も、もし誰かの心によって認識されなければ、一体どうやってそれを証明できるでしょうか? 機器に表示された数値を見るだけであっても、それは眼識という心によって知覚され、意識という心によって分別されているのです。こう考えると、「心のみが真実として成立しており、物質的なものはその反映だ」という主張も、私たちの経験や常識を根拠にするだけでは、それを簡単に否定できません。
このように、一方ではローカーヤタの見解も説得力がありそうだし、他方ではそれと正反対の唯識派の見解も正しそうに思えてくるのは、一体なぜでしょうか? もし、物質的なものを鍵としてあらゆる存在(一切法)を見渡せば、ローカーヤタのような見解へ帰着することになります。逆に、精神的なものを鍵としてあらゆる存在を見渡せば、唯識派のような見解へ帰着することになるわけです。
どちらを鍵とするかによって、全く正反対の結論が導き出されるという、そのことの意味をよくよく考えてみましょう。そうすると、「何かを鍵とすること自体が、実はあらゆる存在を理解しやすくするための手段にすぎず、究極的には無意味なのではないか」という疑問が湧いてきます。こうした疑問から、仏教哲学の最終結論、すなわち中観派の見解へ辿り着くことができるのです。
中観派は、ローカーヤタと唯識派の双方を否定して止揚する形で(註)「心も物質も、他のものごと(原因や条件、部分、分別による名称の付与)に依存して成立(縁起)しているので、全て仮設(仮説)されたものである」と主張しています。
「仮設されたもの」であれば、勝義という絶対的な次元に於て、何一つ成立しません。それが、「空」という意味です。しかしその一方、世俗という相対的な次元に於ては、「単なる存在」として成立しているのです。この「勝義無、世俗有」という存在感の設定を、心にも物質にも等しく適用する点が、中観派(特に帰謬論証派)の見解の特色です。これを、仏教用語で「外境内心有無平等」といいます。
心にしろ物質にしろ、いかなる存在にも「実有」とか「諦成就」といった実体性を認めないこと。それが、中観派の見解を理解する第一のポイントです。そして第二のポイントは、「私たちの日常世界の全てが、そのような実体性を欠いた程度の存在感をもって成立している」という、この点を本当に納得し、その程度の存在感に満足すべきことです(ちなみに唯識派以下の学派では、心にしろ物質にしろ、鍵となる何らかの存在に実体性を付与しなければ、日常世界が成立していることを合理的に説明できない・・・と考えています)。
以上の論議を前提に、冒頭の問題に戻ってみましょう。「心は存在するのか」。 中観帰派の立場から見ても、心は存在します。なぜなら、日常の正しい認識によって、その存在が知られるからです。それと全く同様に、物質も存在します。ですが、心の実体を追求すれば、どこにも見いだせません。物質についても、全く同様です。脳は、身体は、瓶は、柱は、全て存在するけれど、実体を追求したら何も得られないのです。
『般若心経』は、「色即是空」という経文で、物質には実体性が全く無いことを説いています。続いて、「空即是色」という経文で、実体性を欠いた物質が単に存在することを説いています。さらに、「受想行識亦復如是」という経文で、心もそれと全く同様である点を明確に示しているのです。
輪廻転生はあり得るか?
前の「心は存在するか?」という問題は、輪廻転生を認めるか否かにも関連してきます。その論議の前に、まず次の点を確認しておきましょう。南伝の上座部仏教にしろ、北伝の漢訳大乗仏教にしろ、チベット仏教にしろ、凡そ今日存在している伝統仏教の全てが、輪廻転生の存在を認めています。二十世紀のインドでアンベードカル博士が提唱した新仏教、及び近代仏教学の影響で明治以降に変質した日本仏教の一部のみが、輪廻転生の存在を否定しているようです。しかし、だからといって、多数決のようにして輪廻転生の存在を証明することはできません。私たちは、この問題を、可能な限り論理的に考えてみましょう。
まず、前述のローカーヤタのような見解を奉じていれば、必然的に輪廻転生を否定することになるはずです。事実、ローカーヤタは、前世の存在を認めていません。その理由として、彼らは「誰も見たことがないゆえに」と述べています。一般論として、ローカーヤタの立場は自然科学に近いと思いますが、この「見たことがなければ存在しない」という論理は、ちょっと非科学的で稚拙だと思いませんか?
輪廻転生の存在を自然科学で証明することはできませんが、だからといってその非存在が証明されたことにはなりません。けれども、「心は脳のうえに仮設されたものにすぎず、脳や身体は実有であり、心は仮有である」という見解を本当に証明できれば、輪廻転生の非存在も論証できるはずです。なぜなら、仮設基体である脳が身体の死の時点で機能しなくなったら、その後まで心が存続することはあり得ないからです。そうはいっても、こうした見解は、仏教哲学の全学派によって否定されています。その点は、前に述べたとおりです。
次に、唯識派のような見解を奉じていれば、必然的に輪廻転生を主張することになるでしょう。なぜなら、虚妄な外側の物質である身体が死を迎えたからといって、真実として成立している心まで消滅することはあり得ないからです。そして唯識派は、脳などに依存しなくても存在し得る根源的な心として「阿頼耶識(第八識)」というものを想定し、それが輪廻転生の主体だと主張しています。しかし何といっても、この唯識派の見解は、考え過ぎの観を否めません。特に、阿頼耶識の設定は、空や無我を逸脱する「勇み足」として、中観派から論難されることになります。
では、その中観派の見解による場合、輪廻転生はどなるでしょうか? 心は、実体として成立していなくても、世俗の次元で存在しています。そのような心の生じる主たる原因は、物質的なものではなく、精神的なものに求めなければなりません。心でいくら思っても、現実に物質が生じることはありません。それと同様、物質にいくら働きかけても、心を発生させることは不可能です。中観派では、「前刹那の心から、次刹那の心が生じる」という精神的な因果関係を世俗の次元に設定し、それによって輪廻転生を説明しています。
阿頼耶識のような実体的性を否定しつつ、あくまで世俗の次元に心の連続性を見いだそうというのが、中観派の死生観の特色です。前世から来世へ連続してゆく心とは、意識(第六識)の因果関係の流れです。私たちの生存中の意識は、脳細胞や神経に依存していますが、臨終の過程で微細化され、そうした粗い物質に頼ることなく存在し得るようになるといいます。このような内容は、密教の無上瑜伽タントラの理論を導入することで、より一層明確に説明できるでしょう。
中観帰謬論証派では、世俗の次元に於ける意識の因果関係の流れを承認しつつも、それ自体を輪廻転生の主体だとは位置づけません。輪廻転生の主体は、そうした意識の流れに依存し、それを享受し、利用しているところの「単なる私」です。こう表現すると難解そうですが、生存中のことを考えれば簡単です。今の「私」は、私の意識の持ち主であり、私の意識は、私によって利用されています。持ち主と所有物は同一であり得ないので、私は、私の意識そのものではありません。そのような「私」は、実体を追求すれば何一つ見いだせませんが、世俗の次元では存在しているので、「単なる私」と表現されるのです。
よく、「仏教は無我説だから、輪廻転生を認めていない」などという解説を目にしますが、それが正しくないことは、もうお分かりだと思います。「無我」や「空」によって否定されるのは、実体としての「我」です。しかし、輪廻転生の主体となる「単なる私」は、実体性を全く欠いた世俗の次元の存在にすぎません。もし、そのような「単なる私」も存在しないというならば、いま生きているときの私も存在しないし、私の心も、私の身体も、またそのように「“単なる私”は存在しない」と語っている人自身も、全く存在しないことになるでしょう。
つまり、輪廻転生が成立するか否かは、勝義の次元で実体的な我が成立するか否かに関係するのではなく、世俗の次元で意識の因果関係の流れが連続するか否かにかかっているのです。それもつき詰めてゆけば、「実有である脳の働きのうえに仮設されたもの」ではない心が、世俗の次元で存在するか否かという点に、結局帰着すると思います。
聖教量への信頼
以上のような論理に立脚して、私は輪廻転生があると信じています・・・と言ったら、「しかし、それは理屈のうえでのことだろう。君自身の心に正直に聞いてみたら、やはりローカーヤタのように“前世の存在など見たこともないのだから、信じられない”というのが本音じゃないのか?」という反論が返って来そうですね。事実、自分の前世など見たこともない(否、覚えていない)のは、確かにそのとおりです。だから、まるで見てきたかのように「前世がある」などと語ることは、今の私にはできません。
しかし、見ていない、体験していない、覚えていないことを、人は全く信じられないのでしょうか? 例えば、本物の阿弥陀仏など「見たこともない」のに、深く信心している人は、実に多勢いるはずです。熱心な阿弥陀仏の信者に向かって、「阿弥陀様なんて、本当は存在しないんだよ」などと不謹慎なことをいう人は、ほとんどいないでしょう。ところが、信じている対象が輪廻転生となると、これを批判する人が後を絶ちません。なぜかというと、阿弥陀仏は素晴らしい存在であるのに対し、輪廻は苦しみの連鎖する汚れた世界でしかないからです。
けれども、苦しみに関すること、望ましくないことだからといって、真実から目を背けるわけにはゆきません。なぜなら、たとえ輪廻転生を認めなくても、その一断片であるこの一生に於ける「煩悩→悪業→苦」という連鎖は、厳然として存在するからです。もし、それを心底から厭い、完全に断ち切る方法を求めるならば、仏教の中に答えを見いだすしかありません。そして仏教は、この問題を解決するやり方として、輪廻という大きな枠組みを丸ごと捉えたうえで、苦しみの連鎖を根こそぎ断ち切るという方法を採用しているのです。
それゆえ私は、論理的には前に述べてきたような展開から、また教証としては輪廻転生を説いた諸経典(聖教量)に対する信頼から、輪廻転生を信じているのです。
このように述べると、また次のような反論が返って来そうです。「君は“真実から目を背けるわけにはゆかない”などと格好のよいことをいっているけれど、本音はどうかな? チベット仏教は、輪廻転生を前提とした教理体系になっているわけだから、輪廻転生説を受け入れない限り、一歩も先へ進めないだろう。それを、先へ進みたいから、君は無理して輪廻転生を信じようとしているのではないか?」と。
ならば、開き直って答えますが、私はそれでもよいと思うのです。例えば、阿弥陀仏に対する信仰も、もちろん最初から無条件の感謝や信心を確立できれば理想的かもしれません。しかし、「極楽浄土へ往生したい」という願望から、「そのためには阿弥陀様を信仰しなければいけない」と考え、少しづつ信心を固めてゆく・・・といった信仰形態も、現実には尊重すべきではないでしょうか?
輪廻転生の件に話を戻すと、私個人としては、ツォンカパ大師に対する全面的な信頼が、全ての根本にあります。チベット仏教を自らの信仰とする動機は人それぞれですが、私の場合、ツォンカパ大師への憧れからこの道に入ったといえます。
ツォンカパ大師の教えは、それを深く学べば学ぶほど、素晴らしさが身にしみて感じられます。大師の御著書は、少し努力すれば誰でも理解できるように、明解な論理構成をもって説かれています。遥か後世の堕落した時代に、私のような愚かな凡夫が学ぶであろうことまで御配慮なさり、二重三重の教導で鈍根の者にまで救済の網をかぶせる・・。大師の広大無辺な御慈悲のお蔭で、釈尊の教えに連なる一筋の光明を見いだしたとき、無知の暗闇を漂うばかりの私がどれほど感銘を受けたか、それは筆舌に尽くし難いものがあります。
ツォンカパ大師の伝記を垣間見るならば、本当は文殊の化身でありながら、現われとしては一介の僧侶から身を起こし、学問と修行に精進努力を積み重ね、求道者としてあるべき姿を示してくださった偉大な御生涯が、誠実なお人柄とともに浮かび上がってきます。昔の聖者伝にありがちなウサン臭さなど微塵も感じられず、実直に教えを説き続けてくださったそのお姿に、私は長年追い求めてきたラマの理想像を見いだしたのです。
ツォンカパ大師の教えを、金の真贋を調べるが如くによく吟味するならば、表面に現われている事象に関しては、世俗の正しい五感と矛盾しません。多少隠れている事象に関しては、世俗の正しい論理と矛盾しません。そして、甚だしく隠れている事象に関しては、経典を適切に引用し、自らの言葉の前後に矛盾がありません。
以上の点から私自身は、心情的にも論理的にも、ツォンカパ大師の教説を百パーセント信頼できると考えています。そのツォンカパ大師が、仏教教理の集大成、仏道修行の指針として、満を持して説き明かした教え・・。それが「ラムリム」です。そして、この「ラムリム」が輪廻転生を大前提とした体系である点は、全く疑いの余地がありません。それゆえに、私は、「輪廻転生が存在する」と自信をもって言うことができるのです。
こうしたツォンカパ大師に対する信心は、今まで述べてきた輪廻転生の論証と、決して矛盾する話ではありません。そうではなく、今までの論理的説明を私個人のレベルで根底から支えているものは何かという、その点に関わる話です。

(註)チベット仏教の伝統では、ローカーヤタの見解を、外道の中でも最も低いレベルのものと位置づけている。それゆえ、中観派の見解を解説するとき、直接の相手方としてローカーヤタを持ち出すことはない。実際には、三世実有の法体を是認して外境を実体視する説一切有部の見解と、外境の実在を否認する唯識派の見解とを止揚し、それらの中道という形で中観派の見解を設定することになる。ただ本稿では、近代の自然科学的な発想を考慮に入れ、それと近似するローカーヤタの見解を敢えて持ち出して論議した。  
 
輪廻転生 6

 

仏教の死後観
仏教の死後の世界観は古代インド人が考えたものです。インド人は現世を基本的には苦しみの多い世界と考え、以下の6つの世界(天界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界)に分類し、死後はこの六道(ろくどう)を輪廻・転生すると考えたのです。お釈迦様は六道輪廻では永遠に苦しみから逃れることができないと考え、極楽世界(輪廻を超越した世界)である浄土を考えたのです。地獄の恐怖が浄土を生み出したと言っても過言ではないでしょう。故人は浄土に往生し阿弥陀仏のもとで仏に成るべく修行をし続けておられるのです。仏教の真の目的は浄土においても仏に成ることです。
神道の死後観
次に、古代日本人(仏教伝来以前)の死後の世界観はと言いますと、神道のそれであります。神道では、死後は他界(たかい)へ行くのですが、そこは不老不死の世界であり、神々の世界であります。いわゆる黄泉(よみ)の国・常世(とこよ)の国であり、今尚大きな影響のある山中他界という考えを以下に記しておきます。神道では、我々は死後に死霊になり、穢れ(けがれ)を持ち、その穢れを浄化する為に祭祀を行い、次第に浄化され、祖霊を経て祖先神になると考えます。この間、約33年から50年と言われます。弔いあげの年数は山中他界観が根拠です。
1.この世を輪廻する
「人は死んだら、中有(四十九日)と呼ばれる期間内に必ず何かに生まれ変わる」
輪廻転生の考え方から言えば、必ずこの世の何らかの生き物として、生まれていることになっています。六道(ろくどう)と呼ばれる六つの世界(天界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界)を生まれ変わっている訳です。
ここで、注意しておくべきことは、あくまでも「この世」での出来事であるということなのです。つまり、「死後の世界」というようなものが、この世とは別に存在しているとは考えていないということです。
2.何が輪廻するのか?
輪廻転生は、この世での出来事ですから、幽霊に関する話ではありません。
念のため、霊魂と幽霊を辞書で調べてみます。新仏教辞典によれば、霊魂とは「肉体から区別された、精神的統一体」とあります。そして、幽霊は「死んだ人の霊魂が、この世に姿を現したもの」とあります。
この説明では、輪廻転生した霊魂と幽霊の差がなくなってしまいます。そこのところをはっきりするために、幽霊とは「死んだ人の霊魂が、死んだ人と同じ肉体を持った状態のまま、この世に姿を現したもの」ということと理解して構わないのではないでしょうか。
さて、本題に戻って輪廻転生ですが、再度何物かに生まれ変わると言うからには、生まれ変わっているものは何かという疑問が湧いてきます。
通常の認識で考えれば、人間は、身体と、身体を司る精神とから成り立っているように思われます。身体とは、肉体のことですから、いわゆる死を以って火葬してしまいますから、「身体が生まれ変わる主体」とは考えにくいと思われます。
次に、精神についてはどうでしょうか。精神とは、心と言っても差し支えないでしょう。もしも、輪廻する主体があるとすれば、心の部分に関わっているのではないかと考えることにしてみます。
3.輪廻する主体
ミリンダ王は問う。「尊者ナーガセーナよ、次の世に生まれ変わるものは何なのですか?」
ナーガセーナ長老は答える。「大王よ、実に名称・形態が次の世に生まれ変わるのです」
ミリンダ王「この<現在の>名称・形態が次の世に生まれ変わるのですか?」
ナーガセーナ長老「大王よ、この<現在の>名称・形態が次の世に生まれ変わるのではありません。大王よ、この<現在の>名称・形態によって、善あるいは悪の行為(業)をなし、その行為によって他の<新しい>名称・形態が次の世に生まれ変わるのです。」

「心のような言葉でしか表せない抽象的なもの」を「名称」とし、「身体のような具象的なもの」を「形態」と考えて良い、と続きます。
つまり、輪廻転生とは、新しい心と身体を持つ「新しい存在」に変わることであると言えます。
そして、「現在の存在」が行なった行為(業)は、「新しい存在」に影響を及ぼすと考える部分は、極めて仏教的ではあります。 
4.死んだらどうなるのか?
死んだらどうなるのか、あるいは死んだら何処にいくのか、という疑問は実に素朴な疑問として、常に我々の関心のあるところです。
ところが、残念なことに、我々には「自分自身の死」を経験することができません。生きている時点で想像している「自分自身の死」は、想像している自分自身からの視点である以上、どんなに考えても表現できることではありません。あるいは、自分自身の死後においても、肝心の経験するはずの自分がどうなっているのか、想像の範囲を越えることができません。
結局、人間にとって、認識の限界を超えていることであり、認識できないものは、存在していないのと同じことであるようにも思えてきます。
「死後のことは経験を超えているから、それがあるともないとも断定できかねる。芋虫は、さなぎとして死を迎える時、自分がその後、美しい蝶となって空を舞うようになるとは夢にも思っていない。われわれも、その芋虫のようなものかもしれない」
芋虫が本当にさなぎの時、蝶になることを夢にも思っていないかどうかは定かではないのですが、たとえ話としてはなるほどと思わせるものはあります。
そして、確かにこの世を生きる我々は芋虫のようである、と思えなくはないのですが、だからと言って、死後に美しい蝶となれる夢ばかりを信じる気にもなれません。しかも、その美しい蝶ですら、死を免れる存在ではないはずです。
5.死を考えることに意味がある。
死んだらどうなるのかを考えることと、自分の死を主観的に知ることとを混同してしまえば、結局、自分の死を主観的に知ることはできないから、死んだらどうなるのかという問題自体ナンセンスに思えてしまいます。ところが、死を考えることは、生を考えることと同じくらい、意味を持つはずです。我々は、あるものごとを見て何かを考えるとすると、その対象に対して、まず心の中に勝手な想像を膨らませます。例えば、死に関しても、一言で言うならば、「全てを失ってしまう出来事である」というようにです。
つまり、たいていの場合、自分の死を考えることとは、自分だけが消えてしまった世界のことを考えることです。これは、過去に自分以外の人々の死を経験し、その際に何事も変わらずに存在し続ける世界を見てきているために他ならないからです。
しかし、自分の死を考えることとは、自分だけが消えてしまった世界のことを考えることなのか、もう一度考えてみて下さい。
それは、むしろ遺された家族の視点に近いものがあります。おそらく、自分自身の死を、無意識に愛する家族に成り代わって想像しているのかも知れません。
死を「全てを失ってしまう出来事」であると想像してしまうのは、死後にも自分自身を認識している何者かを存続させたいという欲望が作り出している思い込みではないか、そのように考えることがあります。
つまり、死後にも存続するもの(霊魂)があると信じる人にとっては、「死とは、全てを失ってしまう出来事である」と言えるのかもしれないのですが、死後には存続するもの(霊魂)はないと信じる人にとっては、「死とは、決して自分だけが消えてしまった世界のことではなくなる」のではないでしょうか。 
 
輪廻転生 7

 

仏教の教えでは、生と死を永遠に繰り返すことを流転、あるいは輪廻といい、その流れから抜け出すことを解脱という。
輪廻転生とは、車の車輪のように人の魂は死んだ後も、永遠に形を変えて生き続けるということである。
車輪のようにまた形を変えてというのは、この世と死の世界を行ったり来たりそのたびに違う肉体で生きるということである。
生まれ変わりに関することは、今までにもいろいろな方面でたくさんのことが言われてきている。今回私は違った角度から、アダムとイブは誰もが知っているので、このことから輪廻転生の話を進めてみる。
これから述べることは、単なる思いつきではなく深い意味で私自身確信していることでもある。その全部をここで詳しく説明できるものではないが、少しでも参考になるようにまとめてみたい。
アダムとイブの話は、旧約聖書の「創世記」に載っている。この内容は、比喩や象徴で書かれてあるので、その解釈も難しい。
あくまで自分の知っていることを基盤にした、霊的推測になる。まず、「創世記」からポイントとなるところをまとめて見る。
「最初の人間アダムとイブが生きる場所として神から与えられた『エデンの園』には、園の中央に『命の木』と、取ってはならないといわれた『善悪を知る木』があった。
神はアダムに園のどの木からでも好きなように取って食べていいが『善悪を知る木』からは取って食べてはならない『それを取って食べると、きっと死ぬであろう』と言った。
ところが、イブがヘビにそそのかされてしまった。ヘビは、『善悪を知る木の実を食べても死ぬことはない。それどころかそれを食べると目が開け神のようになる』とイブに言った。
イブはその木の実を見ると『それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましい』と思い、その実を食べた。そしてそれを側にいたアダムにも与えた。
すると、二人の目が開け、自分たちが裸であることに気づき、慌てていちじくの葉を腰に巻いた。食べてはいけない木の実を食べたことを神に知られた二人は、その責任逃れをいい始めた。
アダムは、イブが木からとってくれたから食べたと言い、イブはヘビが自分をだましたからだと、それぞれ他の者のせいにした。
神は、神の言葉を無視した(罪)アダムとイブをエデンの園から追放した。そして罰として、アダムには一生イバラを耕して食を得る苦しみ(食を得るための労働)を、イブには生み(出産)の苦しみを与えた」
以上のことは、「創世記」の第2、3章に載っていることである。旧約聖書では、アダムとイブの楽園追放があり、新約聖書ではキリストの再臨、そして神の国や地上天国の確立がいずれ来るとされている。
今回は聖書をもとにした輪廻転生の話であるから、地上天国である神の国がいつの日か確立するという前提で話を進めていきたい。ただし、キリスト教には、生まれ変わりの教えはない。
ここで心を拡大してイメージしてもらいたい。
いつとも知れぬアダムとイブのいた頃から、これもいつとも分からない地上天国が確立する間のとほうもない時間的空間を想像的な観点から眺めてみよう。
そしてその時間的空間を頭の中で固定しやすいように、今度は適当に縮小してみよう。今、頭の中に見えるのは、地上天国であるエデンの園と来るべき神の国であり、そしてその間には楽園を追放された時間的空間のひずみがある。
楽園を追放されたアダムとイブは、現在の我々人間である。その追放された楽園と来るべき楽園の間が、輪廻転生の場となる。
では、どのようなことで輪廻転生が始まったのかを推測してみよう。
アダムとイブの二人は、神によって神の楽園に置かれていた。しかし、食べてはいけないと言われていた「善悪を知る木の実」を食べてしまった。
善悪は相対である。木の実を食べてすぐにお互いの裸に気が付いたということが相対を知ったということである。
そのようなことから、二人はそれまで真の相対を知らなかったということになる。神は一、相対は神ではない。
善悪を知るということは、裏を返せばネガティブを知るということでもある。ヘビの誘惑はネガティブの象徴であり、神に木の実を食べたことを知られた二人は、早速その責任を相手になすりつけるというネガティブ意識を現している。
一応食べてはいけないと神に言われていたが、食べるかどうかは自由で、神の世界は絶対自由平等の世界であるため、自己意志による自己責任といった法則が働いている。
この法則は、今の我々人間にも同様に働いている。これが神的世界につながる自由と平等の基本となる。
二人は、神の言葉よりヘビの言葉を信用したために、取り返しのつかないことになってしまった。このようなことから考えると、エデンの園には、善悪を知る木があったり、誘惑するヘビがいたりすることから、完全な神の世界ではないということがわかる。
本来、神の世界は完全であるから、完全以外のものは存在できないのである。エデンの園や地上天国にしても、人間が進化した姿である究極の平和意識の世界ということかもしれない。
意識の進化状態が、その意識の存在できる次元を創造し、さらに進化は延長していくということか。
楽園いたときは、食べるための労働はなかったが、そこを追放されてからは労働の苦痛を課せられた。
また生みの苦しみも女に与えられた。楽園にいたときは、これらの苦痛はなかったということになる。
相対の世界において、生み(誕生)があればその対極には死がある。こうして、人類に自分たちのやった行為に対する結果として誕生と死の輪が回り始めた。
この世はアダムとイブの二人から始まったというのは人類の象徴ととらえていいだろう。「木の実を食べると死ぬ」というのは、相対に生きるということで楽園追放であり、分かりやすく言えば天国から地獄に落ちるということである。
楽園が神と同じく永遠の生命の場とすれば、この世は生きていても死がある以上、死の世界だということになる。
永遠の生命とすべてそうでないものとの違いと言う意味にも取れる。
楽園を追放された我々人間は、本質的な面に関しては同等であり平等である。この世においては、すべて輪廻転生に翻弄されている見かけ上のことになる。
真の違いは、自分自身で自覚できる深い意識の中にある。我々はいつまでも人生という流れのままに自己を失っている必要はないのである。
生まれ変わりにストップをかけたり、この人生で次の行き場所を決めることができるのである。このことは何も特別なことではなく今までの過去世の中でも、我々は、無意識のうちに次に行く場所(来世)を決めていたということである。
もちろん、すべては神が決めることであるが、その条件を満たすことは我々の意志でもできることである。
ここまでは、ひずみとしての輪廻転生の場だけを見つめてきたが、「全」が神である以上楽園はいつでも存在していることになる。
我々は、同じ繰り返しの生まれ変わりから脱出して、元のところに帰らなければならない。楽園を追放された理由を考えてみれば、食べた木の実の成分が残ったままでは戻れないということになる。
その成分を消すことが、相対意識やネガティブ意識の浄化であり、それが人生の主たる目的なのである。
これは、神の秩序であり、人間の通る意識の道であるから、それ以外の方法で楽園に至ることはない。
人間の本性を問うのに、「性善説」と「性悪説」がある。
これは、孟子と荀子が首唱したことであるが、楽園にいた時の意識であれば人の本性は善、追放された時のネガティブ意識が人の始まりであれば、人の本性は悪ということになる。
しかし元々人間は神と共にいたのであるから、とりあえずは善ということになる。何故、とりあえずかといえば、これは相対の世界の見方であって、神の中ではこのどちらも無いからである。
我々が聖書や他の宗教のことに関しても、なかなかすんなり理解できないのは、その書かれてある内容をすべてこの世の意味で捉えるからである。
この世で理解できる意味と、潜在意識的な意味、それに完全霊的にある意味の三通りの意識で全体的に把握できれば、霊的な本に書いてある神秘的なことも大体理解できるようになるのである。
生まれ変わりのことは、潜在意識的からもっと先の意識に関することであるから、なかなかピンとこないかもしれないが、それでも自分自身のことなのである。
この内容を意識的な感じとして捉えることができれば、我々が生まれ変わらなければならないのはどうしてか、また生まれてくる目的は何か、本当の人生の目的は何か、などいろいろなことが見えてくるはずである。
それとも人間は、何の目的もない、ただ誕生と死の間で生きるだけの存在なのであろうか。小さな観点でああでもないこうでもないと考えていては、いつまでたっても本当のことが分からない。
輪廻転生の真の意味が分かってくると、自分の前世が何であったかなどは、それほど大きな問題ではない。
前世やその前の過去世のことが役に立つのは、その時の自分の意識のあり方がわかることなのである。
人類としての我々がいつ神と共にあったかは分からないが、それにしても長い間輪廻転生を繰り返しているのであろう。
また来世も同じく生まれ、学校に行って、社会に出て働いて死んでいく。そしてまた再来世も。
本来、真の意識の存在にはないことを、楽園から出されたことでわざわざいやな思いと苦しみに生きていかなければならない。
我々は神の場からやってきたのであるから、動物肉体意識とは別に生命意識(魂)がある以上、動物と同じ意識に下がることはない。
神から離れた理由がわかれば、その逆をたどっていけばいいことになる。「楽園」という言葉自体も分かりやすくするための象徴であって、真に意味することはそれ以上のことであろう。
本来の我々の魂意識、生命意識、神と共にある意識という意味なのであろう。圧倒的大多数の中の仲間意識である安心というひずみの中か、その外かの違いになる。
これを完全理解すれば、誰からもそして何に対しても自分の心が傷付けられるということはない。 我々は本当に長い間、大多数が正しいと信じていたことを、それが本物のように数多くの過去世の中で信じ込まされてきた。また今も。
そして、自分自身も知らないため、そのように教えてきた。結果、まだこのようなネガティブの中で自己も知らずに、この世というものの中で翻弄されている状態が続く。
簡単にまとめてみたが、輪廻転生については今の話とは全く違う内容でもいくつか話すことはできるのである。
輪廻転生自体は証明できないが、それがなければおかしいということは、いくらでもある。
結局、自己の意識の中で深く理解していくことが、一番納得できることである。 
 
龍樹と輪廻転生 8

 

大乗仏教中観派の開祖龍樹は、仏教史の中の巨星である。彼はゴータマ・ブッダに次いで多くの人々に人気がある。その鋭い論法と自由奔放な論理展開、さらには、彼を特徴づける空(くう)の思想は、わたしたちを魅了してやまない。
これらは、龍樹の独自の思想として語られたりするが、しかし、一つ、忘れてはならないことがある。
わたしの見たところ、龍樹はブッダの忠実な注釈者である。彼ほどブッダの言葉のすみずみまで熟知した人はなく、彼ほどブッダの心のひだの奥底まで知っていた人はいない。
独自に見える論法や空の思想も、元をたどるとみなブッダの経典の中に見いだされる。ブッダの説く法にしたがって、その法をさらに龍樹の時代に合わせて展開したのが、彼の著作群であると言ってよいだろう。
そう言える証拠として、わたしはみなさんに自分自身を差し出したい。龍樹作『方便心論』を読んで、わたしが理解したのは、じつはブッダの法だった。それは、『ブッダ論理学五つの難問』(講談社選書メチエ)にまとめた通りである。
輪廻思想についても、先に「ブッダは輪廻を説かなかったか」(上)(下)と題して、本誌『春秋』に寄稿させていただいたが、その内容はブッダの説く思想であると同時に、じつは種明かしをすると、龍樹の説く思想でもあったのである。龍樹の作品『中論』の偈頌、『方便心論』、『宝行王正論』、『因縁心論』、後は、おそらく龍樹作である『大智度論』を註釈として、阿含経典にあるブッダの輪廻転生の哲学説を検討し確かめたうえでまとめたからである。
龍樹で有名なのは、空の思想なので、龍樹の輪廻思想はどこにあるのだろうと思われる人もあるかもしれない。龍樹の説く輪廻説と空との関係を少しお話ししよう。
善悪と空
これまでの龍樹思想研究は『中論』を主体としている。そのためかどうか、龍樹の思想解釈には、誤解や混乱があると思う。ここは、まず『方便心論』を取り上げてみよう。
『方便心論』には、「善悪」と「空」という二つの言葉が出てくる。善悪の特徴と空の特徴をよく知るならば、みな悩みも障害もなくなるだろうと説かれるが、さらにそれについて、『方便心論』は重要な提言をするのである。それは、ものごとを語る順序についてである。
もし、最初に「あらゆるものは空であって、幻の如くであり、真実ではない」と「空」を説くと、智者はわかるが、愚者は混乱してしまう。だから、愚者には、まず、行為とそれには結果があること、煩悩の束縛と解脱のあること、行為する者とその結果を受ける者のことなど、つまり、「善悪」を語らねばならない。そうすれば、愚者でもすぐにわかって疑うことがない。この後に、ようやく空の説明に入るべきであると説くのである。
「善悪」とは、すなわち、輪廻の境涯を指している。善い行為をすればよい境涯に生まれ、悪しきことを行うと悪しき境涯に生ずるというあり方である。これは、『中論』では「世俗諦」と言われる。
一方、「空」とは、この場合、輪廻を脱した者のあり方を指している。こちらは、「勝義諦」と言われている。
さて、そこで、愚者とは誰だろうか? 『方便心論』は内科医チャラカを対象に書かれた批判の書である。だから、この書は、非仏教徒にあてたものと見ることができる。この場合、愚者とは非仏教徒なのである。  しかし、一方、『中論』は、部派など仏教徒に向かって説かれた批判の書である。彼らは、既に輪廻の行程は熟知しているはずである。この行程は、ブッダが十二支縁起説の順観によって示していたのである。だから、『中論』はそこから脱する道の方に力点が置かれることになる。こちらの道は、十二支縁起説の逆観にあてはまる。このため、縁起のもつ「空」という性格が重視して説かれているのである。
善悪を説き、次に、空を説く。これが、龍樹の主張する順序である。  同じことが、『宝行王正論』にも説かれる。ここでは、「まず法による安楽があるならば、その後、至福(解脱)の達成がある。安楽を獲得したあと、それから後、至福へと向かうのである」と説かれ、「善悪」と「空」は、それらの実践によっていたる境地、すなわち、「安楽(アビウダヤ)」と「至福(解脱)」に置き換わっている。そして、第一章では、実際に「安楽」それから「至福」という順序で、内容的には、善悪とその報い(一・七〜一・二四)が、次に、空観(一・二五〜一・三四)が説かれている。
縁起と空
善悪を説き、その後、空を説くのは、これらだけではない。『中論』によっても、それは、はっきりと知られる。第二六章の十二支縁起の説明で、無明に始まり老死に終わる十二の行程が説かれ、苦しみが集まり起こるさまが述べられる。ここに「善悪」のあり方が示される。そして、次に、無明が滅することにより、次々と後のものも滅していき最後に苦が滅すると、「空」のあり方が示される。
先に拙稿「ブッダは輪廻を説かなかったか」(上)(下)では、ブッダの哲学は、弁証法の哲学であると述べた。苦しみにいたる輪廻の道筋をまず説き、次にそれを脱する道筋を示すという順序で語られると強調したのである。この根拠におかれるのが、縁起(因果関係)である。このように、縁起は、時間に縛られた関係である。ブッダの説く縁起が因果関係であるなら、龍樹の説く縁起も、また、因果関係である。
従来、龍樹の説く縁起は、相依相関の関係であるとよく言われる。それは、『中論』のみを考察対象とし、「空」を先に取り上げたことに起因する誤解ではなかろうか。つまり、「善悪」の思想を意識しなかったために、最終的に「縁起」が時間を説く関係であることを見落としたのではないかと思う。この問題については、いずれ機会を見て詳しく論じたい。
龍樹の輪廻思想
さて、具体的な輪廻転生については、『中論』第二六章を見ていこう。ここで、龍樹は十二支の縁起説を説明しているが、ブッダの十二支縁起の定型的な説明とは少し異なっている。龍樹の説明は、生死流転の因縁(ニダーナ)をとくに意識して、『大縁経』や『サンユッタ・ニカーヤ』一二・六五にあるような、九支縁起や十支縁起の行程をここに重ね合わせて解釈しているように思う。
ブッダは、『大縁経』で、意識が母胎に流れ込むことによって、そして、そこで身心(名称と形態)が増大することによって、この世に転生するありさまを説明した。
龍樹も、同じように、十二支縁起を、識(意識)を中心とするこの世からかの世への生死の流転として説明するのである。具体的には、第二六章の最初に「無知(無明)に覆われたものは、形成力(行)によって再生に向かう三通りの行為をなすが、それらによって、趣(来世に住するところ)に赴くのである」と述べて、次に「形成力(行)を縁として、意識(識)は、趣に入る」と説明している。
また、拙稿「ブッダは輪廻を説かなかったか」では、わたしは、遺伝子DNAの過去から未来への伝達が現代科学における輪廻転生であると述べ、それに対比させて、意識(識)の過去から未来への伝達が、ブッダの輪廻転生であると説明した。そう言えるのは、現代科学もブッダの教説も、因果関係を主としているからである。だから、現代のわたしたちにとっては、このDNAの喩えもそんなに悪くはないと自分では思っている。
しかし、龍樹の説明はもっとよい。彼は、「過去から未来への識の伝達」という輪廻のメカニズムを、縁起を基盤としながら上手に説明してくれる。  『因縁心論』の註釈で、彼は、師が口に唱えるものを弟子がまた唱え、というように師資相承の教えの伝達を喩えとして持ち出すのである。師の唱えるものが、臨終の意識にあたるとすれば、弟子の唱えるものは、その次に続いて生ずる意識になる。そうして、口伝の教えが代々伝わるように、識もこの世からかの世へ伝達され輪廻していくのである。
龍樹の喩えは、現代のわたしたちに、輪廻転生の仕組みとともに、口伝による仏法のありさまについても如実に教えてくれている。巧みな喩えと思う。 
 
仏教と輪廻 9 / ブッダは輪廻を説かなかったか

 

ブッダと輪廻転生の思想とのかかわりを問われるならば、わたしは、右の表題の「ブッダは輪廻を説かなかったか」という問いには、はっきりと「否」と答えることができる。ブッダは、輪廻の思想をみずからの教説の中にもっていて人々にそれを説いたのである。
だが、また一方で、「それならば、ブッダは輪廻を説いたのか」と言われると、いささか困惑しながら「いや、そういうわけでもない」と答えざるをえない。彼は、輪廻を脱する道を自ら求め、解脱の方法を人々に積極的に説いているからである。
ブッダの哲学は、弁証法の哲学である。ここは、まずおさえておきたい。
「ブッダの論理学体系とは」という問い
わたくしごとで恐縮だが、拙著『ブッダ論理学五つの難問』(講談社選書メチエ)は、題名どおりブッダの論理学について述べた書である。この「ブ ッダ論理学」という言葉を入り口として輪廻説へと向かいたい。
龍樹造『方便心論(ほうべんしんろん)』は、古い論理学書である。その研究の中で、わたしは、この書がブッダの言行録である『阿含経典』にもとづく論理学を展開していることに気づいた。
ブッダの哲学体系を明らかにするためには、重大な発見であると思い、わたしは『方便心論』を土台に『阿含経典』から論理学を抽出して、それを「ブッダ論理学」と名づけて公開したのである。
これによって、ブッダの「論理学」については、ある程度明らかになったのだが、しかし、論理学の「体系」という点ではまだ語らねばならないことがある。この点を、少しお話ししたい。
さて、ブッダの論理学体系の最大の特徴であり、また、彼の非凡さを示す点は、彼の体系が「閉じている」ということである。これは、体系の中で問われたこと一切に、答えが出せるという意味である。
これによって、ブッダが「一切を知る者」であり、さらに、十二因縁(十二支縁起)説が弁証法の哲学であると説明しうるのである。このあたりを中心に説明していこう。
ブッダの体系は、大きく二つの部分から成っている。まず、中心に置かれるのが、縁起(因果関係)の論理学である。彼はこれを第一義とし、縁起を「これに縁ること」と具体的に呼んで、「如来が出現しても、如来が出現しなくても、これ(=「これに縁ること」)は確立している」と述べたのである。これは、わたしたちの住む自然界、つまり、現象世界を直接表現するための論理学である。
この一方、ブッダは、思考の世界、つまり、言語世界についても論理学を打ち立てた。これは、演繹論理学の体系であって、彼の教説の中に非常に目立たない形で示されている。ここを明らかにしたのが、龍樹の『方便心論』なのである。
一切のことがらは、この二つの論理学によって語られうる。ブッダの体系は、一切を語りうる巨大な体系である。ちょっと、現代の学問体系と比べてみよう。縁起の論理学が扱うのは現象世界であると述べたが、ここを扱うのは現代では科学の分野である。また、一方、思考の世界、とくに最近では言語分析を主体にするのが、現代論理学・分析哲学の分野である。現代においては、科学と論理学の二つの分野は互いに論理学的には接点をもたない。
一方は「発見にかんすることがら」を扱う論理学にもとづくが、もう一方は、「根拠づけにかんすることがら」を扱う論理学にもとづくからである。基本的には、それぞれ異なる論理の上に成り立ちながら、独自に発展している。
さて、「閉じている」ブッダの哲学体系は、自己完結した世界である。したがって、体系内のこと一切についてブッダは知りうる。これに対し、現代科学も現代論理学も、どちらも「開いている」体系であると言えるだろう。「開いている」体系は、未知なる部分を含む。しかし、それゆえに、発展する分野である。それでは、ブッダの体系が「閉じている」といいうる根拠は何だろうか。
「縁起(因果関係)とは」という問い
ブッダの体系を「閉じている」体系としたのは、縁起の論理学である。ブッダの因果関係は、「ブッダの公式」とわたしが名づけた、次の二つの公式によって表される。(1)「これがあるとき、かれがある」と(2)「これがないとき、かれがない」である。この二つのうち、(2)の形式を導入したことによって、縁起(因果関係)は「完全に確立した関係」となった。この(2)の公式は、現代論理学では取り上げられたことがないため、わたしたちには見慣れないものである。ブッダは、これを因果関係を確定するための「決め手」に用いた。論理的な考察は、拙著『ブッダ論理学五つの難問』【難問1】で、確かめていただけると幸いである。
そして、それ故に、ブッダの体系は「閉じている」体系になったのである。「こんな簡単な公式一つでそんなことが言えるのか」と驚く人もいるだろう。明言したい。言えるのである。現代科学と比べてみるとわかるのではないだろうか。
現代科学は、一応帰納論理学にもとづくと言ってよいだろう。これによって、因果関係は確定的な関係にはならない。形式的には、ブッダの二つの公式のうち、(1)のタイプにもとづいて因果関係を規定するからである。例えば、たくさんの人が生まれそして死んでいくのを観察して、それによって、「すべての人は生まれたならば死ぬ」という関係を導くのである。過去と現在の事実(=部分)から、「すべての人」(=全体)について導くわけである。この関係を導く根拠はそれしかない。将来のことはわたしたちには未知であるから、永遠にこの関係が成り立つかどうか確信できない。だから、因果関係は蓋然的(=確からしい)関係にとどまるのである。つまり、未知なる部分を含むがゆえに、「開いている」のである。
ブッダに話しを戻すと、例えば、「老いること・死ぬこと」の原因は「生まれること」であると確定される。それを確定づけるのは、(2)の形式である。すなわち、「生まれること」がないときには、けっして「老いること、死ぬこと」もないと、現に見るからである。「生まれること」→「老いること・死ぬこと」という因果関係は、ブッダの体系にとっては現象世界の中で確定した関係である。
このように、ブッダは、(1)の公式を用いて、苦しみの生ずる道を因果関係の鎖を十二つないで構築し、こんどは、(2)の形式を用いて、苦しみの滅である涅槃を目標として、因果関係を収束したのであった。こうして、ブッダの十二因縁哲学体系は「閉じている」ものとなった。また、これは苦しみの生ずる道から涅槃への道という順序で必ず語られる。したがって、弁証法の哲学となるのである。ここで、ようやく輪廻説を語る準備ができた。
「輪廻するとは」という問い
さて、現代科学は蓋然的な因果関係に基づいているとお話ししたが、蓋然的であれ、このような現代科学に信頼をおくわたしたちは、意外に思うかも知れないが、実はある意味「輪廻」を信じていると言いうる。ちょっと変わった「輪廻」である。それは、遺伝子DNAの親から子への伝達だからである。たしかにわたしたちは、遠い過去からの祖先の遺伝子DNAを受け継いで、今日のわたしたちが作られたと教えられている。これもまた、因果の連鎖によって生死をくり返すという意味で、「輪廻」ではなかろうか。
いや、それはちがう。親から子への遺伝子の伝達は、物質的な世界の話しで、わたしたちが話題にする輪廻転生の姿ではない。わたしたちは、自己自身が過去から未来へ生と死をくりかえすという、そういう輪廻の話しをしているのだ。ブッダの輪廻説と現代人の遺伝物質の輪廻の話しとは、全然ちがう話しである。こうあなたは言うかもしれない。しかし、何も問題はない。ブッダの説明は、まったく同じ方法によっているのだから。
ブッダは、現代風にいえば、遺伝するものを「識(意識)」であると説明したのである。つまり、母胎に流れ込むのは、意識(識別作用)なのである。彼は、輪廻転生のメカニズムを語る経典『大縁経』の中でこう述べている。
「アーナンダよ、意識が母胎に入らないならば、いったい名称と形態(身心)は増大するだろうか」と問い、さらに「意識が、アーナンダよ、母胎に入ったのち、脱落してしまうなら、いったい名称と形態は、ここ(輪廻)の状態に転生するだろうか」とたたみかけるのである。また、「意識が、アーナンダよ、名称と形態において依所を得なかったならば、いったい、未来の、生まれること、老いること、死ぬこと、苦しみの集まりが生ずることが知られるだろうか」と尋ねるのである。他にも、これとは別の経典で、ブッダは、意識について「将来再生が起こるための縁である」と断定している。
意識が母胎に入ったのち、月満ちて生まれ落ちて、あらたな境涯が始まる。物心がついてくると、自我意識が芽生える。そうなると、「わたし」と言い始める。「わたし」という意識をもつ人は、自己の存在を疑うことはない。そのような自己の意識をもつ人が輪廻について考えるとすれば、「自己(アートマン)」には触れない十二因縁説にもとづくブッダの説明より、次のような現代科学を語ったときに用いた表現を好むだろう。「意識を伝達していく因果関係の鎖が輪廻なのである、だから、意識とともにある自己自身は輪廻していくのだ」と。
ブッダの「縁起(因果関係)」を知る者は、必然的に輪廻転生を知るのである。それは、現代科学を知る者が、遺伝を認めるのと同じことである。
さて、意外な感をもたれたであろうか。うまくいくのだろうか、こんな説明で? その点は、次回、ブッダの説明をもっと聞いてみることにしよう。

縁起については、ブッダ自身ですら「深遠である」と述べているほどである。それだから「縁起」を説明するのも、さらには、これと密接に結びつく「輪廻転生」をお話しするのも、相当に困難を伴う。正直なところ、エッセーとはいえ、わたしもかなり必死である。やっと至りついた前回の結論をまとめておこう。
「ブッダは輪廻を説かなかったか――仏教と輪廻(上)」では、縁起(因果関係)の理論構造をブッダの哲学体系を視野に入れてお話ししながら、輪廻転生説はブッダの縁起説から必然的に導き出されてくるということを明らかにした。
現代では、縁起説にもっとも近い因果関係の理論をもつのが現代科学であるから、現代科学の遺伝の話しと類比させて、ブッダの説く輪廻転生の仕組みを説明してみた。ブッダの輪廻説を現代風に簡単に説明すれば、世代から世代へ「意識(識)」を伝達していくことであると、説明できるだろう。
たぶんこの表現が、現代人にとっては、一番理解しやすいのではないだろうか。現代においては、わたしたち人間も遺伝子を世代から世代へ伝達して種を保存してきたという言い方をするからである。
しかし、自分自身が過去から未来へと生と死をくり返すことが「輪廻」なのだとする立場に立つと、上の説明で満足できるだろうか。答えとしては満足できると言っておこう。「意識」は必ず自我意識を生ずる。
だから「自分」という意識をもつならば、必然的に自分自身が過去から未来へと輪廻していくという考えに結びついていくとお話できるからである。ここまではよい。それでは、次に、輪廻転生説をめぐる問題点を探ってみよう。
「因果関係を表すには」という問い
因果関係は、決まった言語形式でのみ説かれうる。特筆すべき特徴は「行為の主体を主語にしてこの関係を書くことはできない」ということである。詳しい説明は、拙著『ブッダ論理学五つの難問』(講談社選書メチエ)の【難問4】【難問5】のあたりを参照してもらいたい。
ここでは、なぜそうなるのかなどの問題は省略しよう。先ほど述べた「輪廻とは、世代から世代へ意識(識)を伝達していくことである」という表現を見てもわかるとおり、輪廻の主体については言及されていない。これが因果関係を示す表現形式である。
『大縁経』には、ブッダとアーナンダとの次のような会話がある。アーナンダは、「縁起」の法が不可思議であると言われるのをあやしんで、「これは、わたしには明らかな上にも明らかであるように見えます」と述べるのである。
これに対し、ブッダは「そういってはいけない」と戒めつつ、「アーナンダよ、深遠であるこの縁起は、深遠に見えるのだ。アーナンダよ、この法を悟らず理解しない、このような人々は、糸のもつれから生まれ、腫れ物に覆われた中から生まれ、ムンジャ草やバッバジャ草の中で生存し、苦界や悪趣や地獄や輪廻を超えでることがないのである」と説明するのである。
この文は、「糸のもつれのように、腫れ物に覆われたように、ムンジャ草やバッバジャ草のように」と比喩として読まれたりもするが、文字通りに読んで解釈できる。つまり、縁起を理解しない人は、来世に、虫けらや小動物など、さまざまな生類としてこのようなところに生まれるとすると輪廻の境涯がよく実感されると思う。
さて、実際、理屈だけなら、縁起(因果関係)の法はきわめて簡単な公式で示される。
前回お話ししたとおり、(1)「これがあるときかれがある」と(2)「これがないときかれがない」という二つの公式である。これらは、アーナンダならずとも、それほど難解にも見えないし疑うまでもないように思える。  しかし、実際に現実の世界に適用するならば、この理法は、ブッダの述べるとおり、きわめて複雑で多様な様相を示すのである。それは、現代に至るまで、ブッダの縁起の理法や輪廻説がきれいに論理的に解釈されていないことを見てもわかるだろう。その混乱の根元にあるのが、一つには「因果関係は、主体を主語にして表すことはできない」ということである。
「輪廻を脱するためには」という問い
さて、不可思議なのは、縁起だけではない。ブッダの言葉もそうである。アーナンダを戒めつつ、「縁起を知らないと輪廻を脱することができない」と述べるが、どうしてそのようなことが言えるのだろうか。どうして縁起を知るならば、輪廻を脱しうるのだろうか。
こんどは『サンユッタ・ニカーヤ』の「アチェーラ」と題されている経典を見てみよう。
アチェーラ・カッサパは、ブッダに、「自ら作るものが苦なのですか」と尋ねる。これは、どういうことかというと、自分の行為の結果として自分が苦を受け取るのか、ということを尋ねているのである。また、彼は、「自らが作るのではなく、他によって作られたものを自分が受け取るのが苦なのですか」とも尋ねる。これは、他人の行為の結果を自分が受け取ることになるのかという意味である。
これに対して、ブッダは次のように答えている。「行う者と感受する者とは同じである」という考えは、常住論に到達してしまうし、「行う者と感受する者が違う」という考えは、断滅論に到達してしまうと述べるのである。
これは、少し補って説明すると、まず、「アチェーラの質問は、(輪廻の)主体を認める考え方に立っての質問である」と、ブッダは解釈しているのである。
すなわち、もし輪廻の主体を認めて「自ら作るものが苦である」なら、自らの行為の結果は常に必ず自らが受け取ることになり、輪廻の主体は常住であるということになってしまう。また、「他が作るものが苦である」とすれば、他人の行為の結果を受け取り、自分の行為の結果を自ら受け取ることがないことになる。
ならば、行為が尽きれば、そこで主体は断滅してしまうことになろう。常住であれば、輪廻をどうやって脱するのか。また、断滅してしまうなら、いったい何が輪廻というのか、輪廻など存在しないだろう。このように、行為主体を立てる表現形式では、「ブッダの」輪廻転生説は説明できない。そこで、ブッダは次のようにいう。
「カッサパよ、これら二つの極端に近づくことなく、中道によって如来は法を説くのである。無明によって行がある。行によって意識がある。意識によって名称と形態がある。名称と形態によって六つのよりどころがある。六つのよりどころによって接触がある。接触によって感受がある。感受によって渇愛がある。渇愛によって執着がある。執着によって生存がある。生存によって老いること・死ぬこと・愁・悲・苦・憂・悩がある。このように、これらすべての苦のあつまりが集まり起こる。
無明が残りなく離れ滅することによって、行の滅がある。行の滅から意識の滅がある。……このようにこれらすべての苦の集まりが滅する。」  主体を立てないからこそ、つまり、このような縁起のメカニズムによって因果の鎖をつないでいくからこそ、苦しみが生じてくる道筋が得られるのである。これが、即ち輪廻に向かう道筋である。
そして、また、縁起の理法によるからこそ、逆に、苦を滅ぼす道が見つかるのである。これが解脱への道筋である。前回で、ブッダの哲学を弁証法の哲学であると述べた所以である。常住論によるかぎり、つまり、「主体」を立てる立場では、輪廻を脱する道を説くことができない。縁起によってはじめて解脱への道が開かれるのである。
後に、仏教の中には、「自己(アートマン)はない」とする無我説が出てくるが、この場合も同じことが言える。否定とはいえ、このように「自己はない」と「自己」を主語とするなら、この表現形式では輪廻は説けない。自己がなければ、行為が尽き身体が滅ぶと主体はなく断滅するほかはない。  一方、「自己はある」とする立場では、輪廻は説けるが、主体である「自己」は永遠だから常住論に陥るのである。「自己」を立てないブッダの中道の教えのみが、輪廻の境涯とそれからの解脱を説きうるのである。
「ではブッダは『自業自得』を説かなかったか」という問い
それでは、ブッダは、解脱を目指すわけではない一般の人々にどのように説明したのだろう。『サンユッタ・ニカーヤ』の中で、信心深い在家の信者マハーナーマは、次のようにブッダに尋ねている。
「カピラヴァットゥの都市の雑踏の中で、荒れ狂う象や馬や車の往来に気をとられ、つい尊師を念ずることを忘れ、教えを念ずることを忘れ、教団を念ずることをわすれてしまいます。このようなときに、わたしの命が終わるようなことがあれば、わたしはいずれの処に生をうけるでしょうか」と。  これに対して、ブッダは、彼を慰め、信心深く戒を守り教えをよく聞いて布施をし智恵に満ちている心は必ず上昇して最高の処に至るだろうと告げるのである。
信などによって満たされた心は、善い境涯に赴くということは、言い換えれば、信心深く善い行いをしているならば、善き境涯が待っているという教えである。また、逆に言えば、悪しき行為に身を染めると悪しき境涯が待っているのである。
ブッダの巧みな説き方をとくとご覧あれ。けっして、行為の主体を主語とはしない。しかし、善い行為は善い境涯を保証することを告げている。このようにして、ブッダの輪廻説は、実質的には一般の人々を、倫理的な責任を自覚させる「自業自得」の教えに導いていくことになるのである。
ブッダの輪廻転生の教えは、当時巷で言われていたような輪廻思想を安易に受け継いだものでは全くない。彼の哲学体系の中に理論としてがっちりと組み込まれているのである。 
 
輪廻転生 10

 

第1章 輪廻転生の思想 
六道輪廻
輪廻転生の思想は、仏教以前からインドにおいて存在していました。仏教においても輪廻思想は説かれ、より明確に六道輪廻という形 で説かれました。六道輪廻とは、私たち人間を含めたすべての生き物は六つの世界を生まれ変わり、死に変わりしているということです。六つの世界とは、地獄・餓鬼・畜生(動物)・人間・阿修羅・天と言われる世界です。
ですから、前の生においては、犬であったということもありえることになります。また、今の世で人間であるからといって、来世もまた人間として生まれ変わるという保障もありません。
輪廻転生の原動力「カルマ」
では、六道のどの世界に生まれ変わるかは、何によってきまるのでしょう?仏教では、生前での生き方、為してきたことの結果によって生まれ変わる世界が決まると説いています。それは「自分の為したことが返る」というカルマの法則に基づいています。カルマとは日本においては業という言葉で知られています。
カルマとは、心の深い層に蓄えられたデータです。自分の為した行為、行ったこと(身体)、しゃべったこと(口)、思ったこと(心)の印象が痕跡として深い意識に残ります。そして、その残存した痕跡を原因として、条件が整うことで現象・結果を生じさせます。
種という原因があって、光・水・養分などの条件が整うことで発芽という現象が結果として生じるということです。
カルマには、身体の行為である身業(身のカルマ)、言葉にかかわる業である口業(口のカルマ)、心にかかわる業である意業(意〔心〕のカルマ)があります。単純な例でいいますと、怒りやすい人というのは、心に怒りの痕跡をたくさん残しているので、それが刺激されやすくなっており、ちょっとした条件(きっかけ)で怒りが生じます。怒れば怒るほど、痕跡は深くなり、より怒りやすくなるという悪循環になっていきます。習慣や癖、傾向、パターンと一般的に言われているものです。これは、記憶ということとも関連しています。習慣ということを考えると、私たちの行為が何らかの痕跡を残すというのは納得しやすいと思います。
また、自分の潜在意識に蓄積されているデータ(痕跡)は、周囲の人や自分に起こる出来事、現象に反映されます。善いものが蓄積されれば、その反映で善い現象が生じます。悪いものが蓄積されれば、悪い現象が起きます。これは、善いことをすれば善いことが返ってきて、悪いことをすれば悪いことが返ってくるという現象です。善因善果、悪因悪果。因果応報ということです。他を傷つけた者は、そのカルマの返りによって自分が痛みを味わうことになります。人に親切にすれば、親切にされます。為したことは返ってくる、あるいは、為したことしか返ってこないということです。今現在、自分に生じている出来事はすべて過去に自分が為したことの結果だということです。
あなたが今、幸福であるなら、過去において自分が今幸福になる原因を作ったということです。また、逆に今が苦しみ多く不幸であるならば、過去において自分が今苦しむ原因を作ったということなのです。善いことを何度も心の深層に刻印することはいいのですが、悪い行為を何度も刻印することは、そのカルマが返ってきたとき(その刻印されたデータが外界に反映されたとき)、私達に大きな苦しみを与えることになります。
まとめますと、自分の為した行為(身・口・意の行為)は、心の深層に痕跡を残し、それは条件が整うと現象化します。その現象化の仕方は、「同じことを何度も繰り返す」、「為したことが返る」といった形で生じます。
そして、このカルマの力が六道輪廻の原動力なのです。
では、どのようなカルマがどの世界に転生する要件になるのでしょう。
地獄界は、憎しみ、怒り、嫌悪の心を持ち、他の生き物を傷つけたり、殺したりした結果として転生します。
餓鬼界には、欲が深く、必要以上に物を欲しがり蓄える、また、他の物を盗む、奪うことによって転生します。
動物界は、無智、愚かさ、怠惰さによって転生します。
人間界は、情、執着です。
阿修羅界は、他に対して優位に立とうとして嫉妬、闘争の心を持ち競うことによって転生します。
天界は、自己満足にひたり、心地よさに満足しているという状態によるカルマによって転生します。
六道のありさま
それでは、六つの世界がどういう世界なのか簡単に見ていくことにしましょう。
【地獄】
地獄は苦しみだけの世界です。その種類はおおまかに言って、熱により苦しむ地獄(例えば、焼けただれた鉄の中に突き落とされるなど)、寒さ冷たさにより苦しむ地獄(例えば、雪と氷の世界で全身凍傷で皮膚も肉もさけてしまう等)、身体が潰されることにより苦しむ地獄(何度も何度も肉体を臼ですり潰されるなど)、身体が切り刻まれることにより苦しむ地獄(繰り返し繰り返し獄卒に体を細々と切り刻まれる等)があります。激しい怒りを生じさせること、熱で他の生命を苦しめるなどの結果として熱の苦しみを味わう地獄、心の冷たさにより寒さ冷たさの地獄、心を突き刺す言葉や他の身体を切り刻んだことの結果として切り刻まれる苦しみを味わう地獄があるということです。
【餓鬼】
餓鬼は餓えと渇きに苦しんでいます。餓えて与えられない苦しみを極度に味わう欲求不満の極限の世界です。食べ物や飲み物を見つけるのも難しく、また、仮に食べたとしても、胃袋に入って火を発して内臓が焼け爛れてしまったりするといいます。他に分け与えることなく、それだけでなく他から奪い、貪欲、強欲に駆られたものたち行く世界です。
【動物】
動物は食物連鎖からのがれることができず、恐怖と緊張の中で生を過ごしています。他の動物の餌食になったり、人に使役されたり、食用や毛皮を得るために飼われ殺されるという自由を奪われた状況でも、智慧によりそれを回避することはできません。無智や愚かさ、怠惰によって動物界に転生します。
【人間】
人間は、四苦八苦、三苦と言われる苦しみにより日々苦しみを味わっています。もちろん、常に苦しみを味わっているわけではありませんが、楽しいこと、喜びはかならず、変化して滅してしまうので苦しみに転じてしまうのです。無常なるものに、とらわれているのが人間で、とらわれているがゆえに苦しみが生じます。人間は、執着、とらわれによって人間として生まれ、とらわれによる苦しみを味わうことになります。四苦とは、生(産まれること)・老(老いること)・病(病気になること)・死(死ぬこと)は苦しみであるということです。四苦に加え、怨憎会苦(憎しみの対象に会うことの苦しみ)、愛別離苦(愛するものと別れることの苦しみ)、求不得苦(求めても得られないことの苦しみ)、五蘊盛苦(とらわれの五つの集まりを持つことは苦しみ)の四つを加えて八苦と言います。三苦とは、肉体的痛みや精神的悩みや憂えなどの直接的苦しみ。楽しいこと喜びが壊れ去ることの苦しみ。一切のものは無常で生滅変化することによる苦しみの三つです。
【阿修羅】
嫉妬、闘争心により阿修羅に生まれ変わります。嫉妬、闘争の心は、閉ざされた心です。競争の虜になり、嫉妬に駆られて生きています。他を凌ぐことを求め常に闘いを望んでいます。徳を積むことで天界の神々を超えるのではなく、闘争によって超えようとします。阿修羅の生は、戦いと殺戮と死の繰り返しであり、怒りに駆られている苦しみの世界です。
【神々】
輪廻にあるものの中で、神々は最高の幸福に恵まれている。生活は快適で、あまりにも何もかも申し分ないために、神々はかえって究極の心の解放をもたらす修行に励もうという気をおこさない。確かに、神々は長寿を楽しむけれども、いつかそれも尽きて死を迎えることになります。神は死が近づくと、今までの喜びがなくなり、色あせてくる。そして、神通力でひどく恵まれない自分の再生の姿をあらかじめ見てしまい、深い失望を味わいます。神々とて六つの世界の輪廻から脱してはいません。ですから、神々から落下してまた、より苦しみの多い世界に転生し続けることになるのです。神々へ転生する要素は自己満足という要素です。

このような六つの世界はそれぞれカルマによって成立しています。その人のもっている傾向によって世界が形成されているということです。六つの世界の存在を考えるには、「類は友を呼ぶ」という言葉を思うと信憑性が増すのではないかと思います。同様の要素(カルマ)を持ったものは同様の経験をするわけで、そういう存在が集まった世界があったとしても不思議ではありません。
こういう話があります。
ご馳走がたくさんお皿に盛られています。そして、それを食べるためのとても長いお箸があります。そこに二つのグループの人たちがいます。一つのグループの人たちは、箸を使って一生懸命食べようとしますが、あまりに箸が長いため、自分の口に食べ物を運ぶことができず、目の前にご馳走があっても空いたお腹を満たすことがでず、ひもじい思いをしています。一方、もう一つのグループの人たちはどうかというと、長い箸をうまく使ってご馳走を食べています。どのようにしてこの人たちは食べているかというと、自分が長い箸で摘んだ料理を人に食べさせてあげているのです。そして、自分も人に食べさせてもらっています。お互いがお互いに他に食べさせてあげているのです。これなら長い箸でも食べることができます。同じ条件・環境でも一方のグループは餓鬼の苦しみを味わい、もう一つのグループは餓えの苦しみを味わうことなく、料理を味わい満足を得ています。
いかがですか?
この話と「類は友を呼ぶ」「似た者同士は集まる」という言葉から考えると、カルマに応じて六つの世界が存在することも納得できるのではないでしょうか。
また、人間界にも六つの世界に類似した様相はあります。病気や怪我による激しい肉体の苦しみは地獄を反映しているでしょうし、アフリカやアジア地域での餓えに苦しんでいる人たちは餓鬼の世界の投影と捉えることができるのではないでしょうか。
この六つの世界は苦しみの世界であり、この苦しみの六つの世界の輪から脱却することを仏教では目指します。そして、それを解脱と言います。
「チベット死者の書」に見る転生のプロセス
チベットには「バルド・トドゥル」という死から次の生への再生までのプロセスが記された経典があります。「チベット死者の書」として知られています。
バルドとは、死から次の生に再生するまでの間の中間状態のことをいいます。仏教用語では、中有または中陰と言います。「バルド・トドゥル」とは「バルドにおいて聴くことによって解脱する」という意味です。聴覚は、死の後にも機能しつづけて、死後の身体の中で働いている意識がイメージを構成するのに大きな役割を果たしているといいます。ですから、死者にこの経典を読み聞かせることによって、迷いの世界に転生しないで、解脱するように導くというものです。そこには、死の瞬間から次の再生までのバルドのありさまが描写されており、死者が解脱していくためのガイドブックの役割をはたします。チベットにおいては、死は解脱の絶好のチャンスであるととらえているのです。この中間状態(バルド)は死者の意識が再びこの世に輪廻転生するか、それとも輪廻から脱していくかの分かれ道を意味しています。
「バルド・トドゥル」は、アメリカの人類学者エヴァンス・ヴェンツが1927年「チベット死者の書」という題名で英訳本を刊行したのが西欧世界に紹介された最初です。1935年ドイツ語版発行のとき、ヴェンツの依頼を受けて、心理学者のユングは心理学的注解を書きました。「その出版の年以来、何年もの間、私の変わらぬ同伴者であり、私はこの書から多くの刺激や知識を与えられただけでなく、多くの根本的洞察を与えられた」とユングは語っています。
それでは、「バルド・トドゥル」の教えに則って、死から次の生への再生までのプロセスを見ていきましょう。 バルドの期間は最長49日間で、解脱して再生を繰り返さない限りは、49日の間にどこかの世界に転生していきます。
・死のプロセス
五感の衰えと四大元素の溶解
地元素の溶解・・・固体成分(肉・骨など)の溶解
水元素の溶解・・・液体成分(血液・体液など)の溶解
火元素の溶解・・・熱成分(体温)の溶解
風元素の溶解・・・呼吸の溶解 最後に長い息を吐き出して呼吸が停止
・「死の瞬間のバルド」(チカイ・バルド)
・「存在本来のバルド」(チョエニ・バルド)
・「再生に向かう迷いのバルド」(シパ・バルド)
死のプロセス
【外なる溶解】
五感の感覚が弱まってきて、その後、体に変化が起こってきます。身体を構成していた地・水・火・風という四つの元素が溶解していきます。
【地元素の溶解】
この段階では、体から力がぬけ、体を動かすことができなくなります。体が地面の中に沈みこむか、落ち込むような、あるいは重たいものの下敷きになったような感じがします。この時、死にゆく人は、身体を起こしてもらったり、枕を高くしてもらったり、掛け布団をとってくれと頼むようになります。血の気が引き、肌の色は蒼ざめはじめます。肉体の物質的要素が溶解していくと、死に行く人は脆弱になります。心は散漫になり、妄念がわき、心は重く沈みこんでゆき、視覚は衰え、何もかもがぼんやりしてきて、陽炎や蜃気楼のように見えてきます。これらはすべて地の元素が水の元素に溶解していくしるしです。
【水元素の溶解】
続いて、水の元素が火の元素に溶解していきます。鼻水やよだれ、目やにが出、失禁します。体液が乾ききっていくように感じ、唇は血の気を失い、まくれ上がります。口と喉はねとつき、ひどく喉が渇きます。身体が震え、痙攣がおこります。感覚が麻痺し、心はいらだち、神経過敏になり、欲求不満になると同時に、雲がかかったように薄ぼんやりした状態に落ち込みます。人によっては「大海に溺れたかのよう」「大河に押し流されたかのよう」といった表現をする人もいます。 煙が立ち上るような顕れを見るといいます。
【火元素の溶解】
この段階までくると、口も鼻も完全に乾ききってしまいます。息を吸う力が弱まり、寒さを感じます。想念がぼんやりしてきて、家族や友人の名前も思い出せなくなり、相手を認識することもできなくなります。蛍に似た赤い火花を見るといいます。
【風元素の溶解】
この段階では、呼吸することがかなり難しくなってきます。息が喉からもれだしているようで、ぜいぜいと喘ぐようになります。吸気は短く、困難をともないます。逆に呼気は長くなります。ここで幻覚やヴィジョンが現われはじめます。生きている間、悪行を積み重ねて きた者は、恐るべき姿形を目にすることになります。今生で経験した忘れることのできない恐怖の瞬間が再現されます。逆に慈悲深い、思いやりのある人生を送ってきた人は、至福のヴィジョンを目にし、仲のよかった友人たちや仏陀や神々に出会うのです。風の元素が意識に溶解するのはこのときです。死に行く人は、灯明か松明の赤い煌々たる炎のような顕われを見るといいます。最後に死に行く人は三回長く息を吐き出し、呼吸が止まります。この段階で通常、現代医学的の知見では死と宣告されます。
【内なる溶解】
しかし、息が絶えてもチベット仏教においては終りではなく、内なるプロセスが残っていると主張します。呼吸が絶えてから、<内なる息>が絶えるまでには「食事をとれるくらいの時間」がある、つまり、およそ二十 分〜三十分くらいの差があるとされています。呼吸が停止しても体を流れる気のエネルギーは活動を続けます。エネルギーはまず、体の中央にあるエネルギーの通り道である中央管に集まってきます。そうすると死者は自分の頭頂から「白い滴」(男性性の生体エネルギー)が降りてくるのを体験します。すると頭上の空間が澄みわたってきて、月の光のような白い道がこちらに向かってきます。このとき、怒りから生じる思考が滅するといわれています。次に、へそのあたりから「赤い滴」(女性性の生体エネルギー)が昇ってきます。すると頭上には、太陽の光を思わせる赤い光の道が開かれてきます。死者はこのとき、貪りから生じる思考が滅し、自分の意識がきれいに澄みわたってくることを認識します。この「白い滴」と「赤い滴」が心臓の位置で出会うと、その瞬間あたりは黒い闇で覆われていきます。このとき、無智に起因する思考が滅します。
「死の瞬間のバルド」(チカイ・バルド)
【第一の光明体験】
黒い闇で覆われた後、その黒闇は消え、次第に意識は晴れてきて、まるで雲がきれて青空が現れるように、死者の意識には、まばゆいばかりに透明な光が現われてきます。この光こそ、生命の大本をつくる原初の光、根源の光であり、私たちの「心の本性」であり、純粋な本質であるといいます。その光は、実体も、色も形もなく、まったく汚れがなく、空であり、輝きに満ちているといいます。
ダライ・ラマは、「この心はもっとも奥深い微細な心である。私たちはこれを仏性と、一切の意識の真の源と呼んでいる。この心の連続体は悟りの心へと続いていく」と述べています。
そして、「バルド・トドゥル」では、その光に飛び込むこと、溶け合うことを死者に呼びかけるのです。
この光こそが私たちの心の本当の姿なのですが、肉体を持って生きているときには、様々な欲望によって心の本当の働きは覆い隠されています。ゆえに本質を知ることができず、苦しみの転生を繰り返しているのです。その状態を仏教では無智により苦しんでいると言います。つまり、わたしたちが肉体を持って生存しているという状態は、魂の本来の姿ではなく、あくまでも無常の世界をさまよう仮の姿にすぎないと仏教ではとらえているのです。ですから、この心の本性である光に融けこむこと、心の本性である根源の光に立ち返ることこそが苦しみからの脱却、解脱であり、仏教の最終目標とされているのです。わかりやすく言い換えると、仏教の目的 「解脱」とは、魂のふるさとへと帰還することにほかならないといえます。
このように、生きているときはさまざまな条件に縛られている心が、死の体験の中ではそのもともとの姿である純粋な光に立ち返っていくので、死は解脱の(苦しみから脱却する)またとないチャンスと言えるのです。ですから、「バルド・トドゥル」という経典を死者に読み聞かせ、六道輪廻からの解脱の手助けをするのです。
しかし、一般の人は、この「解脱」の絶好のチャンスを生かすことができません。なぜなら、大半の人々は生存中に光明を認識する方法(修行)に馴染んでこなかったため、それを認識するための手段を有しておらず、たとえ光明がたちのぼっても、過去の怖れや習慣や条件づけ、つまり古い条件反射にしたがって本能的に反応するしかないからです。また、光明があらわれている時間の問題もあります。人を解脱に導くこの純粋な光があらわれている時間は、生前に修行を積んだかどうかで大きく異なるといいます。生きているうちに、瞑想の訓練をして、気のエネルギーが通る管を清めておいた人には、いつまでもこの光は見えるということです。しかし、管(ナーディ)を清めてない大部分の人々にとって、これは指を鳴らす瞬間に終わってしまうといいます。また、ある者には、「食事を摂るほどの時間」続くと言われています。しかし、ほとんどの人々は根源の光明を認識できず、気絶するといいます。この状態は三日半続き、最後に肉体から意識が離れます。
【第二の光明の体験】
第一の光明である根源の光に溶け込めなかったものの前には、第二の光明が現われます。死者は自分が死んでいるのか、死んでいないのかわかりません。でも、家族のことは見えるし、彼らが悲しんでいる声も聞こえます。ここでも死者に対する導きの呼びかけをしますが、ここで光に溶け込めるものも少ないということです。また、気絶していてこの状態を認識できない死者も多いといいます。
「存在本来のバルド」(チョエニ・バルド)
三日半の気絶状態から意識を戻した死者に、チョエニ・バルドがあらわれます。ここは、光と波動、イメージの世界であり、光がさまざまな大きさ、色、形の仏や菩薩の形をとって現われます。四十八の寂静尊と五十二の憤怒尊がたち現われます。これは、心の本性に蓄えられていたいろいろなもののうち、もっとも純粋で、輪廻の世界の力に染まっていないイメージが出現したものです。それらに溶け込めば六道から脱却できるといいます。
「バルド・トドゥル」では、このバルドのはじめにおいて「バルドにおけるヴィジョンは自分の心(意識)の現われである」ということが重要なポイントであるとして、以下の呼びかけを行います。これは、バルド全体の重要なポイントです。
「ああ、善い人よ、チョエニ・バルドの状態において、どんなに畏怖させ恐怖におののかすような現出があっても、汝は次の言葉を忘れてはならない。そしてこの言葉の意味を心に思いつづけていくがよい。それがお導きの大切な要点である。
チョエニ・バルドが現われてきている今この時に
すべての怖れと怯えを捨て、なにが現われようと、
それが自分自身の意識の投影であることを認識し
これがバルドの現出であると見破らなくてはならない
決定的な瞬間にたどりついたこの時に
自分自身の心の本質からたちのぼった寂静尊と憤怒尊を怖れることはやめよう
と、このようにはっきりと何遍も繰り返し唱えることによって、その意味内容を心に思いつづけ、刻みつけるようにすべきである。そして、恐ろしく脅かす幻影がどんなに現われてきても、自身の心の本質の投影であると確実に認識することが大切な要点である。それを忘れてはならない」
はじめの一週間は、穏やかな波動をたたえた光とともに静寂の神々が現われます。その主なものは以下の五仏です。このとき、仏とともに六つの世界に転生させる光も同時に現われます。死者はその光に引きつけられないよう仏の光に溶け込むように呼びかけられます。
・ヴァイローチャナ
・アクショーブヤ(ヴァジラサットヴァ)
・ラトナサンバヴァ
・アミターバ
・アモーガシディ
続く一週間は、五仏が恐ろしい憤怒の相をとって現われます。
寂静尊、憤怒尊の登場によっても解脱を逃したものは、六道輪廻の世界に引きずられていきます。次の再生に向かうバルドが始まるのです。
「再生に向かう迷いのバルド」(シパ・バルド)
シパ・バルドにおいては、生前におけるカルマがイメージやヴィジョンとしてはっきりと表面化してくるようになります。生前、善い行ないが多ければ、バルドでのさまざまな体験は至福と幸福感が入り混じったものになります。生前、他人を害したり傷つけたりする行為が多ければ、バルドでの体験は恐怖や苦渋に満ちたものになります。これも自己の心の投影です。私たちはカルマの風に追い立てられ、よりどころにすべき基盤を何ももちません。「チベット死者の書」では「この時、恐るべき耐え難いまでのカルマの大嵐があなたを後ろから追い立てる」と表現しています。恐怖に呑みつくされ、タンポポの綿毛が風に翻弄されるように、カルマに翻弄されバルドの薄暗がりのなかで為すすべもなくさまようといいます。
ここでは、閻魔様として知られるヤマ天が、生前の行為の良し悪しを判断して、その人が次の生でどの世界に生まれるべきかどうかを、決定することもあります。閻魔様(ヤマ天)は、死者の生前の行いを全て映し出すという鏡を手に持っているといいますが、これは、臨死体験者の「全生涯のパノラマ的回顧」と似ています。この回顧の体験をした人々は、一生の出来事を細部にいたるまできわめて鮮明に思い出します。それだけでなく、自分の行為がもたらしたあらゆる結果をも見ることになります。自分の行為が他者におよぼした影響と、他者のなかに引き起こした感情それ──がどんなに不快であれ、衝撃的であれ──をつぶさに体験するといいます。自分の行為が他人に与えた影響を自分が体験したり、自分の行為が他人に引き起こした感情を自らが感じたりすることもあるといいます。
【臨死体験者の体験】
「私の一生のすべてが次々と浮かんでは消えていったのです。──それは恥ずかしいことばかりでした。というのも、かつての私の考え方は間違っていたようなのです。・・・・私がしてきたことだけでなく、私のしてきたことが他の人々におよぼした影響も見えるのです。・・・・人が考えていることも、ひとつとして見落とすことはないのです。
一生が私の前を通り過ぎてゆきました。・・・・そこで私は、一生のうちに感じたすべての感情をもう一度感じたのです。そして、その感情が私の人生をどのように左右していたかという基本的なことを、私の目に見せてくれました。私が人生でしてきたことが、他の人々の人生をも左右して・・・・。
わたしは自分が傷つけている相手でもあり、自分が喜ばせている 相手でもあったのです。
それは、わたしが思ったり考えたりした思考のすべてを、今一度完全に生きなおすことだったのです。口にしたすべての言葉、行ったすべての行為をです。さらには、ひとつひとつの思い、言葉、行いがおよぼした影響をです。すべての人への影響です。わたしが気づいていたかどうかに関係なく、わたしの影響がとどく範囲にいたすべての人への・・・・。さらには、ひとつひとつの思い、言葉、行いがおよぼした天候や植物や動物たちへの、土や木々や水や大気への影響です。」
究極的には、審判はすべからく自分の心の中でおこなわれるものなのです。裁かれるのが自分なら、裁くのも自分自身です。レイモンド・ムーディー博士は「続・かいまみた死後の世界」において、「興味深いことに、わたしが調査したケースでは、審判はいずれにせよ人々を愛し、受け入れてくれる神によってなされるのではなく、個々人の内部で行われるということだ」と述べています。また、臨死体験をしたある女性はケネス・リング博士に、「(そのときは)あなたの人生を見せ付けられるのです。そして裁くのはあなた自身なのです。・・・・あなたがあなた自身を裁くのです。これまであなたは自分が犯したすべての罪を許してきました。でも、すべきことをしなかったという罪、生前に行なったに違いないごく些細な不正行為をすべて許すことができますか?あなたは自分の罪を許せますか?これが審判です」と告げています。
このことは、「そのヤマ天も自分の思いが化したものである。」と「死者の書」に書かれていることと同様のことを語っています。
この審判(裁き)の場は、最終的には個々の行為の裏にある動機にいたるまで問われること、過去の行為、言葉、考えとそれらが刻み込んだ潜在力や習癖の力(カルマ)から逃れるすべはないことを示しています。これは私たちが今生だけでなく来世や来来世にまでも逃れ得ない責任を有していることを意味しています。・・・・自業自得、他の誰の責任でもない。自分自身の責任なのだということです。
【再生のヴィジョン】
カルマの風に翻弄され、為すすべもなくバルドのなかを彷徨い続けた後、私たちは、自分のカルマに合ったイメージやヴィジョンに感応し、無意識のうちにそこへ飛び込んでいきます。そして、六道のうちのいずれかの世界へと生まれ変わってしまうのです。
そして、またその生が終わりバルドを経験し、また再生し・・・・とこのように六つの世界を輪が廻るように生まれ変わるのです。
「チベット死者の書」ではこのように死から再生へと向かう輪廻転生の仕組みを説いています。 
第2章 輪廻転生は実証できるか? 
1.臨死体験 / 死後の世界はあるか?
臨死体験というのは、死に非常に近い状態、心臓が停止した、あるいは死を宣告された人が息を吹き返したり、瀕死の状態を抜け出したあとに、その時その人がした体験をいいます。臨死体験が、死後の世界ひいては輪廻転生があることの実証の一躍をになうのは、肉体から離れた意識の存在とそれを含んだ「チベット死者の書」との類似性があげられます。
臨死体験での共通する体験
臨死の体験は、個人差がありますが多くの人に共通した体験があります。
その共通の体験は
1 平和、幸福な感じ、痛みの消失。
2 自分の体から離れる体外離脱体験。
3 暗闇に入る。トンネルを抜ける。
4 自分の人生をパノラマ的に見る。
5 明るく、慈愛に満ちた、暖かく、魅力的な光の体験。
ここでいくつかの具体例をあげてみましょう。ワシントン大学小児科助教授のメルヴィン・モース博士は、薬物の副作用で意識を失った女性の、次のような体験を報告しています。
「見おろすと、病院のベッドに横たわっている自分の姿が見えたんです。まわりでは、お医者さんや看護婦さんが忙しく働いていました。機械が運ばれてきて、 ベッドの足元に置かれるのが見えました。箱みたいな形で、ハンドルが二つ突き出していました。牧師さんが入ってきて臨終の祈りを唱え始めました。私はベッドの足元に降りていって、劇の観客のように一部始終を見ていました。ベッドの足元の壁に、時計がかかっていました。私にはベッドに寝ている自分の姿も、時計もよく見えました。午前11時11分でした。その後、私は自分の身体に戻りました。目が覚めた時、ベッドの足元に自分が立っているんじゃないかと捜したのを覚えています。」
また、ダラス市民病院の医長を勤めたラリー・ドッシー博士の確認によると、手術中の緊急事態で1分間ほど心臓が停止したサラという女性患者は、全身麻酔で意識を失っていたにもかかわらず、手術室の光景を確かに見ていたうえ、手術室から抜け出て他の部屋までさまよったといいます。心臓が停止したときの外科医と看護婦の緊迫したやりとり、手術台にかかっていたシーツの色、主任看護婦のヘアスタイル、各部屋の配置といった手術室内部のことのみならず、手術室外の廊下の手術予定表に書いてあった走り書きや、廊下の端にある医師控え室で手術が終わるのを待っていた外科医の名前、麻酔医が左右別々の靴下を履いていたというような些細なことまで、サラの証言はどれも正確なものでした。なお、サラは、生まれつき視力がなかったということです。この点も考えると肉体の目とは違う別の知覚能力によって状況を認識していたことになり、肉体とは別の意識の存在を認め得る有力な事例ではないか思われます。
なお、エリザベス・キューブラー=ロス博士の研究によると、過去10年以上も視力がなく目の見えない患者たちが、臨死体験中に自分を見舞いに来た人々の洋服や宝石の色、セーターやネクタイの色や形までを確かに「見」て、正確に描写することが証明されています。さらに、エモリー大学心臓学教室助教授のマイケル・B・セイボム博士は、臨死状態で自分の身体の上空に浮かんで様々なものを見た患者たちについて調査し、「肉体から抜け出している間、本人の意識は、肉体ではなく『分離した自分』の中にあるのだが、完全に覚醒しており意識水準も高く、驚くほど思考が明晰になる。」と報告しています。
肉体から離れた意識が、親族が死者を思い嘆き悲しんでいる姿を見るという「チベット死者の書」の記述と、上記の臨死体験の体外離脱体験の間には、明らかに類似性があります。どうやら、私たちの意識というものは肉体と常に一体のものではないということは真実ではないかと思われます。そして、肉体の死といわれる状態でも意識は継続していることも可能性としては高そうです。
続いて、光との遭遇についての体験例をあげてみます。
27歳のイギリス女性が心臓停止した状態での体験です。
「私はしだいに見ることも感じることもできなくなりました。長く暗いトンネルを下っていきましたが、その先にはすばらしく明るい光が輝いていました。私はトンネルを抜けて光の中に出たのです」
「この光には全く闇がありませんでした。おかしな言い方になりましたが、それというのも、もし光が私たちのまわりに満ちているのでなければ、光のあるところ影がある、というのが普通でしょう。でも、この光はすべてを包み込むような完全なものなので、その光を見たのではなく、光のなかにいたのです。」 (マイケル・セイボム著『「あの世」からの帰還』より)
上記の体験は、「チベット死者の書」の感覚の衰弱から暗闇という死のプロセスそして原初の光の体験と類似性があります。
次は、第一部の閻魔様の審判のところでもみましたが、生前の人生のパノラマ的回顧の体験についてみていきましょう。
アメリカのアイオア大学精神科のラッセル・ノイエス博士が報告したボーフォート提督の例です。提督は1795年ポーツマス港で溺死寸前に助かったのでした。
「私の感覚はなかったが、心は死んではいなかった。心の活動はいままでのどのときよりも活発であった。考えが次から次に浮かんでは消えた。自分の家庭のことと結びついた何千という事件が思い出された。次に、思い出はもっとひろがった。この前の航海、さらに前の航海、難破、それから学校時代、子どものころの冒険。このように過去にさかのぼり、いままでの人生のすべてが逆行的に出てきた。しかし、この思い出は、単に事実だけが羅列されるのではなく、そのまわりの光景などがはっきり見えていた。つまり、自分の全人生がパノラマ的に自分の前に展開したのだ。そのすべての行為が善悪の判断をともない、原因と結果も明らかだった。実際、もうとっくの昔に忘れていたささいな出来事が頭を満たし、しかも、それらがつい先ごろ起こったかのような新鮮さをもっていた」
このように人生のパノラマ・ビジョンを見ることは臨死体験において通常あることですが、ある女性は「人間関係の波及効果」とも言うべき仕組みに関する貴重な教訓を見せられたといいます。
「そこには、人を傷つけてばかりいた私の姿がありました。そして、私が傷つけた人たちが、今度は別の人を同じように傷つけている姿がありました。この被害者の連鎖は、ドミノ倒しのように続いていって、また振り出しに戻ってきます。最後のドミノは、加害者である私だったのです。ドミノの波は、向こうへ行ったかと思うと、また戻ってきます。思わぬところで、思わぬ人を私は苦しめていました。心の痛みが、耐えられないほど大きくなっていきました。」
臨死体験の一つの体験だけでなく、共通して「意識の鮮明さ」を報告しています。「肉体から抜け出している間、本人の意識は、肉体ではなく『分離した自分』の中にあるのだが、完全に覚醒しており意識水準も高く、驚くほど思考が明晰になる。」あるいは、「心の活動はいままでのどのときよりも活発であった。」など。このことは、「チベット死者の書」において死後の意識が生前より鮮明であるということと共通しています。
さて、ここで臨死体験は体験している人の夢や幻影であると批判的にみる人がいますが、すでにみた体外離脱体験の内容からみても単純に夢や幻影であると片付けることは難しいと思われます。さらに、以下の報告によっても夢や幻影であるいは願望の投影と見ることは難しいのではないかと思われます。
末期の病を患っている子供たちに「誰に一番会いたいか」「誰に一緒にいて欲しいか」と尋ねてみたところ、99%の子供が両親を選んだにもかかわらず、その後に生死の境をさまよって臨死体験をした子供うち、実際に親のヴィジョンを見たのは、親がすでに亡くなっている子供のみであったといいます。もしも、否定論者が言うように、臨死体験が単に本人の願望の投影である(子供たちには臨死体験の知識はないため実際には願望も生じないだろうが)とすれば、99%の子供は死に際して親のヴィジョンを見る可能性は高いはずです。
この結果を受けて、キューブラー=ロス博士は、自信を持って断言します。
「何年も研究してきたが、(親が先立っている子供を除いて、臨死体験の時に)誰一人として親を見た子供はいない。なぜなら、両親はまだこの世に存在するからだ。誰に会えるかを決める要因と言うには、例え一分でも先に亡くなっている人で、死にゆく人が心から愛していた相手だと言うことなのである。」したがって、「臨死体験は幻想であり、死にゆく者の願望が表出したものにすぎない」という否定論者の見解は、成立しないことになると言えるのではないでしょうか。
2.前世療法 / 過去生への退行催眠
アレクサンダー・キャノン博士によって、生まれ変わりの科学的研究が始められました。催眠を用いて、1300人以上の被験者を紀元前何千年という昔の記憶にまで退行させることに成功したキャノン博士は、1950年にこう結論づけました。
「何年もの間、生まれ変わり仮説は私にとって悪夢であり、それを否定しようと、できる限りのことを行った。トランス状態で語られる光景はたわごとではないかと、被験者たちとの議論さえした。あれから年月を経たが、どの被験者も信じていることがまちまちなのにもかかわらず、次から次へと私に同じような話をするのである。現在までに1000件をはるかに越える事例を調査して、私は生まれ変わりの存在を認めざるを得なかった。」
キャノン博士は、過去生への退行催眠によって、被験者たちの精神症状(原因不明の恐怖症など)が治癒されることに着目し、1970年代から80年代にかけて、何千人もの恐怖症患者を治癒しました。この事実が「過去世療法」として知られるようになり、臨床心理学者のイーディス・フィオレ博士によって「もしも誰かの恐怖症が、過去の出来事を思い出すことで即座かつ永久的に治癒されたら、その出来事が実際に起きたに違いないと考えるのが理にかなっている。」と支持されたように、生まれ変わり仮説の信憑性が徐々に研究者たちからも認められていったのです。
臨床心理学者のヘレン・ウォムバック博士は、何百人もの被験者に退行催眠を行い、被験者たちが報告する、当時の人生で使用していた衣服、履物、食器などは、どの時代のものについても、みな歴史的事実と一致していたと報告しています。この統計的研究の結果、ウォムバック博士は、「道路の脇のテントにいるあなたに、1000人の通行人が『ペンシルバニア州の橋を渡った』という話をしたならば、あなたはペンシルバニア州には橋があるという事を納得せざるを得ないでしょう」という例え話を用いて、生まれ変わり仮説の客観的実証性を認めたのです。
ジョエル・L・ホイットン博士(トロント大学医学部精神科主任教授)は、ハロルドという被験者が、退行催眠によって過去にヴァイキングであった人生を想い出しながら口にした、その当時の言葉を書き留めておきました。ハロルドは、自分が思いだした22の語句について、どれも理解できませんでした。そこで、専門家に 鑑定を依頼してみたところ、アイスランド語とノルウェー語に詳しい言語学の権威が、それらのうち10の語句について、ヴァイキングが当時使用した言語で現代アイスランド語の先駆となった古い北欧語であることを確認しました。他の語句については、ロシア語、セルビア語、スラヴ語から派生したものであり、ほとんどはヴァイキングが使用した海に関する語句であることが確認されました。これらの語句はすでに現存しておらず、一般人であるハロルドが今回の人生で知り得たはずもないため、退行催眠によって導き出された過去生の信憑性を証明する強力な証拠となります。退行催眠で過去生を思い出しながら、今回の人生では知り得ない言語を喋り始める被験者は数多いですが、その言葉は世界中の広範囲に広がっており、古代中国語やジャングルで使われる方言までもが含まれているといいます。
退行催眠による「中間世」バルドの検証
また過去世だけでなく、ホイットン博士は、多くの被験者たちが肉体を持たず意識として覚醒している「中間世」、いわゆる生と生の狭間の記憶を残していることを認識しました。そして、臨死体験及び「チベット死者の書」のバルドの記述との間に類似性を見出しました。
中間世への旅はたいてい死の場面からはじまります。ホイットン博士は催眠状態に入った被験者をまず前世へと連れもどし、その人生の最後の場面をざっと見てから、ソファに横たわっているその人をバルドの境界へと到達させます。ときどき「今どこにいますか」「何が見えますか」と質問しながら進み具合をチェックしていきます。典型的な例では、被験者はその前世の体とおぼしきものの中で息をひきとり、それから徐々に臨死体験の対象研究を行ってきたレイモンド・ムーディー博士やケネス・リング博士、マイケル・セイボム博士らの医師の集めた体験談とそっくりな話をしはじめるということです。
被験者たちは、繰り返しこう述べるということです。身体から抜け出した後、下に横たわる自分の身体を「見」てから、トンネルのような円筒状のものを急速で通過していくというのです。そして、時間と空間のない光の領域の体験をします。その体験は筆舌につくしがたい強烈なもので、はじめてそこを訪れる者は言葉を失い、畏れおののきのあまり顔をひきつらせ、あたりのすばらしさを表現しようとしてもただ唇を震わすばかりだということです。ある被験者の話はこうです。
「あんなに良い気分になったのは初めてです。この世のものとは思えないような恍惚感。ものすごくまぶしい光。私にはこの世で持っているような身体はなく、かわりに影の身体、アストラル体があって、宙に浮いていました。地面も空もなく、境界のたぐいはありません。何もかも見通せます・・・」
また、ホイットン博士の被験者たちの証言は、みな「裁判官」の存在を裏づけており、ほぼ全員が、3人や5人、まれに7人の、年老いた賢人(のイメージでヴィジョン化された魂)の集団の前に出て、一種の裁きを受けたといいます。まさに、閻魔様の裁き、審判です。
彼らは姿が不明瞭な場合もあれば、神話に出てくる神や、宗教上のマスターの姿として見える場合もあるといいます。これらの指導役の魂たちは、目の前の人物に関して知るべきことは何でも直感的に知り、その人物が終えてきたばかりの人生を評価するのを助けてくれます。被験者たちは、「彼らと一緒にいるとわが身の未熟さを痛感する」と証言します。
指導役の魂たちは、今終えてきたばかりの人生を回顧するよう促し、目前でパノラマのように、その一生のヴィジョンを見せてくれます。そのヴィジョンを見ながら、終えてきた人生における後悔や罪悪感、自責の念が心の底から吐露され、被験者たちは、見るも無惨なほど苦悶し、悲痛の涙にくれるといいます。他人に与えた苦しみは、あたかも自分がその苦しみを受けるかのように身に沁みるということです。ある被験者は、「まるで、人生を描いた映画の内部に入り込んでしまったかのようです。人生の一瞬一瞬が、実感を伴って再演されるのです。何もかも、あっという間に」と表現します。
この人生を再現する ビデオテープのようなヴィジョンから、魂は細大漏らさず意味をくみ取り、厳しく自己分析を進めていきます。魂は初めて、自分が幸福を棒に振った時のこと、他人を傷つけてしまった時のこと、命にかかわる危険の間際にあった時のことなどを理解します。私たちの誰もが、終えてきた人生における言動の説明を求められますが、その際に問題とされるのは、我々一人一人の誠実さ、道徳性のみであるといいます。恋人ののどを切った被験者は自分ものどを切られたように感じ、不注意で子供を死なせてしまった被験者は、鎖につながれた自分のヴィジョンを見せられました。生前に裏切り行為をしたある女性は、「あまりの恥ずかしさに、その3人を見上げることもできませんでした」と回想しています。このように退行催眠では、過去世を思い出すだけでなく、生と生の中間・バルドの体験もしているようです。
このように、退行催眠によって「中間生」を思い出した被験者たちと、臨死体験によって「あの世」を垣間見た患者たちとの証言に、極めて共通性があることは注目に値します。被験者たちが思い出した「中間生」と、患者たちが見た「死後の世界」とが同じものを指していることを示唆すると同時に、双方の証言内容が、互いの信憑性を高め合うことになるためです。そして、さらに「チベット死者の書」の記述との共通性も考え合わせるとその信憑性はかなり高くなります。
3.過去生を記憶する子どもたち
ヴァージニア大学医学部精神科主任教授のイアン・スティーブンソン博士は、過去世の記憶を偶発的に語った幼児の事例を世界中から収集していました。例えば、身体のどこかに「あざ」を持つ200人以上の子供が過去生の記憶を持っており、彼らは一つ前の過去生(前世)において、あざと同じ箇所に弾丸や刀剣などの武器が貫通して殺されたのだと証言したのです。そのうち17の事例について、子供たちが「前世ではこの人物だった」と主張する実在の人物が、実際に証言通りの死に方をしたことを証明するカルテを入手することができたのです。
また、スティーブンソン博士は、 今の人生では知り得ないはずの外国語(真性異言)を話す奇妙な子供たちの存在に着目し、世界中から集めた事例を極めて詳細に調査分析した後、少なくとも 3つの事例が十分に信頼できる科学的事例であることを検証して、1994年に次のように結論づけました。「通常の手段で習ったことのない、母国語以外の言葉を話す人たちは、実際の練習によって、どこか別の場所でその言葉を習ったに違いない。それは、前世の時代なのではないだろうか。それゆえ、信憑性のある応答型真性異言の事例は、人間が死後にも生存を続けることを裏づける最有力の証拠の一端になると、私は信じている」と。
また、サトワント・パスリチャ博士(インド国立精神衛生神経科学研究所助教授)も、過去生の記憶を持ち「前の両親を覚えている」と主張する人物の事例を45例も収集し、綿密な科学的調査分析を行いました。その結果、生まれ変わりを自覚する人物は、自らが記憶するという過去生について具体的な事柄を語って おり、45例中38例では、前世(一つ前の過去生)における名前を突き止めることができ、生存する関係者によって、その発言内容の正確さが確認されました。
ちなみに、前世を記憶する人物のほとんどが、食べ物、衣服、人物、遊びなどに関する好き嫌いや、刃物、井戸、銃などに対する恐怖症など、異常な行動的特徴を持っていたという。その行動は、今回の人生における家族から見ると奇妙な行動であるが、前世に関する本人の発言とは一致しており、大半は、前世において死亡したときの状況に関していたといいます。例えば、刃物に対する恐怖感を抱いている場合は、前世で刃物によって殺されていたことが判明しました。
このように、臨死体験、前世療法、過去世を記憶している子どもたちの研究をみてくると、やはり、私たちは単に肉体だけの存在でなく、肉体の死によってすべてがなくなってしまうということはなさそうだという結論が導きだせるのではないだろうか。そして、それらの研究が古い宗教的伝統との類似性が多く、私たちが生きていくうえで、あらためて仏教の説く輪廻転生の仕組みに学ぶところは多いのではないでしょうか。それによって、幸福の道を歩んでいけるものと思います。  
 
輪廻転生 11

 

死後の世界はないという意見について
人間が霊的な魂をもっていない、つまり人間は肉体だけであるという考えを持つ人は、必然的に人間は死ねば無に帰する、つまり死後の世界なんてないと言います。でも、それでは逆に霊魂の存在を認めたら、必ず来世の存在を認めるか、というとそうではない。たとえば、アリストテレスは人間が霊的な魂を持つと考えましたが、死後もその魂が生き続けるかどうかは、あえて結論を出しませんでした。また、次の二つの考えも、魂は認めるが結局来世を否定する考えです。
その一つは輪廻思想です。これはご存じの通り、生物の魂は現世の行いに従って、死後別のものに生まれ変わるという考えですよね。この考えを信奉するのは、インド古代のバラモン教(カ−スト制度を生んだ宗教)とそれから発展したヒンズ−教、そして仏教です。と言っても、仏教の創始者、ゴッタマ・シッダ−ルタ(紀元前 565~485)はあの世については何も話さなかったが、弟子達が来世についての教えを作っていったようです。
7、8世紀ごろチベット人がラマ教という自分たちの仏教を作りました。ラマ教は後でフビライ汗の時にモンゴルにも伝わりモンゴル人の間にも広がります。このラマ教の指導者がダライ・ラマと呼ばれますが、ダライ・ラマが没するとその日に生まれた神童を探して、次のダライ・ラマするのです。というのは前のダライ・ラマの魂がその子に移り住んだと信じているからです。
私にはこの輪廻思想はおかしいと思われるのですが、その理由は、もしそれが本当なら、私達が生まれてくる前に何であったか(犬か猫かあるいは人か)を覚えているはずだが、何も覚えていないということです。しかし、そう言うと、「輪廻思想では、生物が死ぬときその魂は記憶をみんな消されるのだ」と言い返されます。でも、もしそうならですよ、例えば、あなたの友人のA君が死んだとしましょう(変な例ですみません)。そして、その人は記憶を全部失って、全然別の人(B君)に生まれ変わり、あなたの前に現れたとしましょう。そのB君はかつてあなたと一緒に遊び勉強したA君とは別人でしょう。B君は、あなたと一緒に遊び勉強し駄じゃれを言い合って笑ったという経験をまったく記憶していないのです。B君とはもう一度始めからつきあいをし直さないと友達にはなれないわけ。以前A君に言った駄じゃれをもう一度言う必要がある。だから、もし輪廻思想が正しいなら、結局人間は死んだら終わりで、その後にまったく別のものが存在し始めるということになる。
輪廻が正しいと言う人のもう一つの論拠は、ときどき初めて見たことなのになぜか以前どこかで見たことがあるという経験です(デジャビュ;deja vu;already seenの意味のフランス語)。これは、私たちが今の人生を始める以前に別の人生を持っていた証拠だと言うわけです。上で言ったように、もし生まれ変わるときにそれ以前の記憶が全部消されるのなら、どうしてデジャビュなんてことがあるのか理解できませんが、ともかくこの前世の記憶は非常にあいまいでしょ。それから、もう一つ不思議なことは、もしある時に見たことを思い出すくらいなら、どうして自分が誰であったかというもっと大切なことは全然思い出さないのでしょうか。何かを見るという経験に比べれば、自分が誰であることを自覚する経験はずっと重いはず。だから、軽い経験を思い出すなら、より重い経験は絶対に思い出すはずだということです。では、なぜ「デジャビュ」なんてことがあるのでしょうか。私の個人的な考えでは、この今の人生で経験したことが無意識に連結して何か以前経験したことのように錯覚するのではないかと思います。
インドに何度も滞在した経験のある学者の意見では、インドでも輪廻をまじめに信じている人は少ないそうです。輪廻が正しいなら、人生は何度でもやり直しがきくことになる。けれどもし間違っていれば大変です。まじめに考えてみる必要があるでしょう。
もう一つの考え方は、死後人間の魂は宇宙の魂と合体する、とか何とか言う考えです。この考え方は、いくらかの近代の哲学者によって主張されているようですが、どうもまじめに主張されているわけではないようです。いずれにしても、万一これが本当なら、これも結局人間の魂は死後になくなるということになるのはお分かりでしょうか。というのは、私の魂が死後に宇宙の魂と合体したら、もう私の魂は存在しないのですから。
前回、来世がないと考えたら、人生は出来る限り楽しんで過ごすことが人間の幸せだという考えになる、とか、来世での罰も報酬もないのだから好きなことして過ごすべきだという結論になると言いましたが、覚えていますか。もし、そうなら、来世を信じない人はみな快楽主義者で不道徳な人になってしまうのですが、現実は必ずしもそうではあません。例外は一杯ある。それはなぜかと言うと、一つは、人間には、いくら本人が否定しても、良心というものがあって、心の奥底で「善を働き、悪を避けよ」という声を聞くからでしょう。もう一つは、そしてこれが多くのケ−スに当てはまると思うのですが、人間は口では「あの世なんてなか」と言っていても、心底そう考えていないか、あるいはまじめに考えずに口ではそのようなことを言っている場合があるからです。 また逆に天国と地獄を信じていても、目の前の楽しいこと引かれたり、辛いことを恐れたりして、途方もない悪事をすることもある。その理由の一つは、人間がみんな持っている弱さにあるでしょう。むかしむかしのコマ−シャル(何のコマ−シャルか忘れましたが)で、「わかっちゃいるけどやめられない」というのがありましたが、それです。でも、もう一つの理由は、この場合も死後のことをまじめに考えていない、あるいは理解していないことにある。人間って複雑なものですね。 
 
輪廻転生と解脱 12

 

解脱とは、<悟り>とも同義であり、生の真実を理解して、人間を束縛する輪廻転生から解放されることを言います。人間は迷いの中にあって誕生と死を繰り返しており、迷妄にある意識状態から覚醒しなければならないのです。この世に生きることは万人にとって大変なことであり、人間の生の全体を俯瞰してみれば、現象の物理界に生きることは容易ならざることに、すべての人が首肯するはずです。と言うのは、人生の折々に幸福や歓喜を少しばかり味わったとしても、そうした喜びの感情が長く続くことは決してあり得ず、悲哀や苦悩によって苛(さいな)まれ、人生の苦渋を味わって心ひそかに涙を流すときが誰にとっても必ず起こることであり、そしてまた、そうした困難な状況が人生では多々生じることだからです。この現象界は人間にとっての霊的進化の<修行の場>ですから、すべての人にとって苦の娑婆であり、この世で生涯を通して安楽な生を送ることなど決して望めないのです。年若い人々は、人生は希望に満ち溢れて前途洋々たるもののように思うかもしれませんが、いかに冨貴の家、由緒正しき家に生まれようとも、すべての人間がこの現象界では霊的進化を果たすために、人生における困難や苦悩や悲しみを経験して、生の意義を学ばなければならないように定められているのです。
人間が生の本質に目覚めず、迷妄の中にある間は、人間は数多の転生を繰り返して意識進化を果たしていくことになります。そして、最終的に輪廻転生という束縛を離脱して、永遠の生に至ることが可能になるのです。仏教でいうニルヴァーナ、涅槃とは、人間の本性意識である高次の自我が寂滅(消滅)することではなく、絶対的な平安の内に自己を確立して永遠なる進化の道に入ることなのです。涅槃に自己を確立すれば、そのときにはもはや輪廻転生の束縛を受けることがなく、自由解放を達成したことになります。ですから、仏教では、煩悩という迷いを断ちきり、悟りを得て解脱し、涅槃寂静の境地に至ることを衆生に説くのです。生の真理を悟得して、涅槃という絶対平安の境地に至っても、高次の自我である霊は決して消滅することなく、輪廻転生という束縛を離れて至福の内に住しながら、永遠なる意識進化の道程をただひたすら上昇していくのでしょう。
現世に生きる私たち人間の深奥に存在するものが本性意識という霊であり、表層の低次の自我がこの世に顕れ出ている私たち自身です。本性である高次の自我と表層の低次の自我との間で厳然たる区別があるわけではありませんが、自分自身であると思い込んでいる低次の自我は現世に生きている間だけ自己表明する束の間の存在です。低次の自我と高次の自我は別個のものであると誤解してはならないでしょう。それらはあくまで同一体なのですが、換言して、低次の自我とは霊の表層の意識、あるいは霊が持つ個性の一断面と言えるかもしれません。沢木興道禅師がその著書の中で、現世の人間とは瘡蓋(かさぶた)のようなものと述べておられたと思いますが、それは人間の在りようを言いえて妙です。もう少し解りやすく例をあげて言えば、今生で私はAという女性として生まれてきましたが、私の本体はXという高次の自我である霊としましょう。本来の私であるXは、過去生においてBという女性で人生を過ごし、その前の過去生においてはCという男性で人生を送ったかもしれません。ですから、Aという個性も、Bという個性も、Cという個性も、それぞれの人生を生き抜いたり、生き抜いていく人間としての各個人ですが、Aも、Bも、Cも、現世に一回かぎり現れ出た個性であって、霊であるXが表層の低次の自我を介して意識進化を果たしている実体なのです。AはBそのものが生まれ変わったものではなく、過去生においてXがBとして生きたのであり、現在はXがAとして現世に生まれ出ているのです。従って、人間各個人の奥底に存在する高次の自我が過去、現在、未来という次元を超えて連綿と生き通す霊という実体であり、霊は現象の生死に対して些かも影響を受けることはありません。けれども、この現象世界に生まれ出てくるかぎりにおいては、その意識が迷妄の内にあって覚醒していませんから、高次の自我である霊も輪廻転生の束縛を受けているのです。
物理現象界で人間生を生きることは、基本的には誰にとっても苛酷なものですが、しかし世の中には、この現世の生が楽しいと感じている人たちも存外に多く存在していることでしょう。また、この世に生きることは大変であり、現世で生きること自体がうとましいと感じたりしている人々も多く存在することでしょう。人間は誰しも若いうちは外向的であり、世の中の仕組みもまた、興味深く面白いものであって、生きていること自体が楽しいと感じるものでしょうが、年齢を重ねるごとに人生について深く考えるようになり、生の意義や生きることの目的を知りたいと願ったり、あるいは生の空しさを感じたりして、明確な答えが得られそうもない心の問いかけにとまどうものです。しかし、概して生きることに飽き飽きした感情を抱いている人や生の真実を求めて宗教にその答えを見出そうとしている人ほど、輪廻転生から解脱する機縁に近づいていると言えそうです。さりとて、そのような人々にとって輪廻転生の輪が自動的にほどけるというわけではなく、解脱を達成するためには、真理を求めて相当な意識進化を図らなければ、自己の心の奥底から湧き起こる解脱の願望を成就することは決して可能なことではないでしょう。
輪廻転生という、人がこの世に生まれ出るために誕生と死を幾度も経巡ることは大変に辛いことであろうと思われます。親愛なる人々と育んだ友情や親密な関係を断ち切られてしまう死はもちろんのこと、因業や宿世の縁によってこの世における両親となる人たちのもとに生を享けて誕生し、無心なる赤子から頑是ない幼少期を経て健やかな児童期に至るまでの間、親や周囲の大人たちの庇護を受けないと無事に成長することさえままならない子供時代の生そのものが脆(もろ)く危なげであり、また、誕生と死そのものに付きまとうネガティヴな思いはすべての人間の心の中に深く根づいているものでしょう。特に、死については人々が忌み嫌うものであり、すべての人が健やかな長命を望むものです。できるものならば、若々しいままで千年も万年も生き続けたいと思うのがすべての人間の本心でしょう。けれど、この現象世界に人間として生きるかぎり、それは全く不可能なことです。それ以上に、死はいつ何時とも人に訪れるか解らず、実際には人間は常に死と対峙しているのであり、死によって生は捕捉されているのです。いつ如何なるときであっても、死によって一切の関係が瞬時に断ち切られてしまう現世の人間の生とは、それほどまでに不確かなものなのです。ですから、人は現象界という現世に生きることの空しさを感じて、宗教に救いを求めるのでしょう。宗教とは、人間の霊性という意識そのものに関わりますので、物質から精神という霊性に目を転じた人々にとっては、現世から脱却する大いなる方便であり、そしてまた、意識という霊性に目を開けば開くほどに幽玄なる霊の真理に目覚めて、不可思議な生というものの中で真実の自己を見出して、恐怖も不安も消滅した安心立命の境地に達するのです。
この世で物質や快楽を追求して、現世の生が楽しいと思っている物欲的な人間たちにとっては、輪廻転生から解脱するということなどは夢のまた夢でしょう。そのような人々にとっては、生きることも迷妄という夢の中、死もまた夢、現象の生死を超えた永遠の生などは、無明の眠りの中にある、仏法に縁なき衆生には決して到達しえない億劫隔たる彼岸であることでしょう。けれど、この世に生きることは大変なことであると心から思い、輪廻転生から解脱を渇望する人は、それゆえ、今後は瞬時もおろそかにすることなく日々を大切に生きて、霊性において向上する生を導いていくように心がけるべきでしょう。 
 
輪廻転生、カルマの法則 13

 

前世の因縁、因果応報。自分の成した行為は自分に返ってくる。これがカルマの法則である。
しかし、ほんとうを言えば、「カルマの法則」は存在しない。現実として「カルマの法則」はありますが、それを信じている人に当てはまる法則です。それを信じない人には、効力が及ばないでしょう。もし、カルマを信じることを選ぶなら、その信念に力を与えることになり、自分が信じた法に支配されることになる。その考え方を受け入れたとき、カルマを背負ってしまうことになる。その結果、現実の中で効力として力を発揮し、それに支配されることになる。
「カルマ」というものを、こんなふうに考えたら分かると思います。もし、ほんとうに「カルマの法則」があるなら、何かの行いをすれば、必ず何かのカルマが付きまとうことになる。たとえ、それが良い行いであれ、悪い行いであれ、それによって別のカルマが生まれることになる。一つのカルマを解消するために、たとえ「良い行い」をしても、それは同時に新たなカルマを作る。カルマがカルマを生み、そんなふうになって、人間はその輪から永遠に抜け出ることができなくなる。
カルマの法則・・・前世での行為の清算のために、あるときは義務を負う側に、あるときはそれを受け取る側に身を置き、何度も何度も繰り返す。そうであれば、私たち人間は、この際限のない繰り返しの中に生きていくことになる。なんと悲しいことだろう。。
「過去の償いによってこうなった」、「前世のカルマによってこうなった」、そのような捉え方が長い長い間、私たちの意識を支配し、それが心の奥底に記憶されて固定観念となり、それが「カルマという現象」を作り上げてしまったのである。私たちの意識が作り上げてしまった「現象世界」である。そのような記憶があれば、魂は輪廻するという法則を思い出す。それが「輪廻転生」という現象なのだ。 魂にくっついた「残留想念」である。そしてこの世に何度も戻ってきてしまう。実際、そうなったのが私たちであり、人間が「輪廻する人々」と呼ばれる理由なのだ。
カルマを信じている人は大勢いる。ひとつの人生でしたことは、どんなことでも次の生に戻ってきて、その代償を払わなければならないと信じている。そして自分の人生で起きることは前世の因縁、「カルマを償うため」になってしまう。ああ何と悲しい、無益なことよ。

カルマは存在しないが、「魂の欲求」は存在する。「あれをしておくべきだった」。「あのとき、こう言うべきだった、こうすべきだった・・・」。「あの人と結婚すべきだった、あの人に愛を告げるべきだった・・・」。こうした後悔、満たされない思いが、この世に舞い戻させるのである。

もし、ある人が何かの出来事で人の命を奪ってしまったら、その後には、同情を覚えるほどの辛い状況が待っているでしょう。自分の犯したことに向き合うことになり、強烈な罪悪感に見舞われ、辛苦の苦しみを覚えるだろう。だからといって、来世では、「命を奪われる側」に身を置くとは限らない。そのような法は存在しない。
もしかしたら、来世では医者になって、人の命を助ける仕事について、全身全霊で人(生命)を愛し、その生涯を捧げるかもしれない。すべては魂の選択である。運命として定められたものではない。
たとえ、自分が侵した大きな過ちであっても、自分の行為を心から反省し、悔い改めれば因果は解消する。悔い改めた者を、なんで再度罰する必要があろうか!カルマの法則は「神の法」ではない。それは人間が作り上げたものであり、それを信じる人たちの法である。
輪廻転生を繰り返す必要はない。真実はこうである。魂はより多くの経験を渇望する。自分の知らないことを、もっともっと体験し、成長し進化したいと願う。その結果、さまざまな事柄を体験する。そして、ときには苦難の道も選ぶかもしれない。どのような人生であれ、たとえそれが苦難の人生であっても、それは自分の魂の選択である。
そして、一つの人生で、自分ができなかったことがあったり、もう一度やり直したい事があれば、魂はそれを選ぶ。魂の欲求である。
カルマの債務はない、あなたには償いをしなければならないものは何もない。すべては自分の選択であり、魂の決定である。
大事なことは、どのような人生であれ、それがあらかじめ決められたとか、強制されたというのではなく、この人生はより成長を願うために、自分の意思によって選ばれたということである。何度も何度もこの世に生れ、輪廻転生を繰り返し、自分を進化させていく、それも成長のための「一つの選択、方法」にすぎない。自分で選ぶだけだ。前世の因縁である必要はない。前世の行為の帳尻を合わせるために、この世に戻ってくるのではない。

知人に、自分の前世を、昨日の事のように覚えている看護婦がいる。その人は、戦国時代に「山賊」であったという。戦いで傷を負って落ち延びた武士を襲い、金品を奪い、手を切り落としたり、足を切り落としたり、時には、命まで奪っていたという。そんなことを全部覚えているという。
そして今、勤めている病院に、その人たちが診察を受けに来ることがあると言う。前世で足が切られた人が、足の不自由で入院したり、自分が「刀」で切りつけた人が背中に傷跡が残っていたりするという。「今は姿・顔形は違うけど、魂が同じなので、すぐ分かる」という。
そんな人を見るたびに、「すみません、すみません」という思いでいっぱいで、ただひたすら心の中で詫びるという。
他の看護婦さんが、あの患者さんは我がままで、扱いにくいと言う人もいるけど、自分のやったことを考えたら、とてもじゃないけど、そんな事はいえない」という。今は出会うすべての人にありったけの愛を注ぎ、全身全霊で人に奉仕をしたいと願う。そして休みの日には、ボランティア活動に励んでいる。

だから、前世を知る、前世を思い出すということは、きれい事ばかりではなく、時として、罪悪感にさいなまれるような、辛い出来事にも直面しなければならないのだ。過去世をさか登れば、誰でも「極悪残忍な自分」に出会う。
過去世を振り返れば、人を殺(あや)めたことがない人はいないだろう。人の命を奪ったことのない人はいないだろう。人は誰でも”善人”であったし、”悪人”でもあった。争いで人を傷つけ、命を奪い、その犠牲者にもなった。遠い過去に、そのすべてを体験し、そのような経験をして今の自分になったのである。
「悪」を見て、あなたが責める他人は、「かつての自分」なのだ。『人を憎まず罪を憎む』、なんと意味深い言葉だろうか。そして、来世で何をするかは、自分の選択、「魂の選択」である。カルマではない。

人生の目的、生れてきた目的とは何でしょうか? それは何か特定の使命があるとか、運命を生きるというのでなく、この「生」をまっとうすること。「生きることを体験」して、そこから「学ぶ」ということである。死が近づいたとき、それが分かる。この世に別れを告げるとき、それが分かる。やりたいことを悔いなくやり、この生を精一杯生きることである。
あえて言えば、生れてきた目的とは「体験の蓄積」である。魂が強く求めることを体験し、その体験を通じて「未知」だったものを「既知」(きち)にしていくことである。魂は自分の知らない事を、もっともっと体験し、成長・進化したいと願う。自分の理解できないこと、明確に理解できない想念については、それを体験するよう 魂の叫びとなって あなたをつき動かす。
それは新たな冒険であり、時として、辛い体験であるかもしれないが。
体験によって得られものは、叡智となって魂に記憶される。「叡智」とは体験によって得られる感情の蓄積であり、私たちがこの世を去るとき持っていける”ただ一つのもの”である。そして魂がここでの体験を終えると、次の体験に向けて進んでいく。それが私たちの成長進化であり、生まれてきた目的でもある。
幸せであること・・・
人が幸せを感じるとき、感じるようになったとき、あらゆるカルマの法則、トラウマも越えていく。幸せであるという”至福感”によって、カルマもトラウマもすべてが消えていく。消え去る。幸せになること、喜びに溢れること。それこそ人生の目的、生れてきた目的である。  
 
14世ダライ・ラマ法王発見の経緯と輪廻転生制度

 

ガンデン・ポタン
2002年6月5日からの2日間にわたり、ダラムサラにおいて、「ガンデン・ポタン(Gaden Phodrangチベット政府)」の創立360周年記念行事が催された。これは、ダライ・ラマ法王が宗教と政治両方の指導者になってから360年目を迎えたことも意味している。
現在のダライ・ラマ法王は14世である。ダライ・ラマ法王の登場は1世ゲンドゥン・ドゥプから始まり、4世まではその地位は宗教的主柱のみであった。5世ンガワン・ロサン・ギャツォ(1617年〜1682年)の時代に、宗教的・政治的最高指導者となり、その地位は、現在まで受け継がれている。
ガンデン・ポタンが樹立されたのは、1642年のことであった。ダライ・ラマ法王5世は、彼を崇拝していたモンゴルのグシ汗の協力を得てチベット全土を統一し、チベットにおける宗教と政治両面の指導者になり、ガンデン・ポタン政府を築きあげた。全転生者の中でチベットの宗教と政治両方の指導者となった者は、ダライ・ラマ法王ただ一人であり、他のどの転生者もこの地位を得たものはいない。
ガンデン・ポタンという名前は、デプン僧院(三大僧院の一つで、1959年迄、8千人以上の僧侶の修行場となっていた)内にある一室を、タシ・タクパ・ギャルツェンが、ダライ・ラマ法王2世の宮殿として献上したことに由来している。2世は、歓喜の宮殿という意味の「ガンデン・ポタン」と命名し、その後、4世と5世もこの宮殿を利用した。
ダライ・ラマ法王5世は、ポタラ宮殿を建築した後、ポタラ宮殿に政府を移動してガンデン・ポタン・チョクレー・ナムギャル(Gaden Phodrang Chokley Namgyal)と政府名を改名し、現在に至っている。チベット人は、ガンデン・ポタン政府を築き上げた5世のことをンガパ・チェンポ(大いなる5世)と呼んでいる。そのような意味で、現在のチベット(亡命)政府の名前は、ダライ・ラマ法王と切っても切り離せないほど深い関係を持っている。
輪廻転生制度
ダライ・ラマ法王は、チベットの精神的指導者であるだけでなく、政治の指導者でもある。チベットはもちろんのこと、チベット仏教を信仰しているモンゴル、ネパール、シッキム、ブータン、ロシアなどの各地域からも仏教の最高指導者として崇拝されている。世界中のチベット仏教徒は法王の祝福を受けるために、かつてはチベットの首都ラサを、現在はインドのダラムサラを巡礼している。1959年迄はチベット仏教を信仰する者にとって、チベットの首都ラサ(チベット語で「神の土地」)は、チベット仏教の聖地であった。
チベット仏教の教えによれば、すべての生きとし生けるものは輪廻転生すると考えられている。輪廻転生とは、一時的に肉体は滅びても、魂は滅びることなく永遠に継続することである。我々のような一般人は、今度死んだら次も今と同じように人間に生まれ変わるとは限らない。我々が行ってきた行為の良し悪しによって、六道輪廻(神・人間・非神・地獄・餓鬼・畜生)のいずれかの世界に生まれ変わらなければならないのである。例えば現在、人間に生まれていても、次の生は昆虫・動物・鳥などの形に生まれ変わるかもしれない。しかし、悟りを開いた一部の菩薩は、次も人間に生まれ変わり、すべての生きとし生けるものの為に働き続けると信じられている。ダライ・ラマ法王もその一人である。ダライ・ラマ法王は観音菩薩の化身であり、チベットの人々を救済するために生まれ変わったとチベットの人々は信じている。
ダライ・ラマ法王制度は世襲制でもなければ、選挙で選ばれるわけでもない。先代の没後、次の生まれ変わり(化身)を探す「輪廻転生制度」である。新しく認定されたダライ・ラマ法王は、先代が用いたすべての地位や財産を所有することができる。現在のダライ・ラマ法王14世は、チベットの人々を救済するという菩薩行を実現するために、繰り返し生き変わり死に変わりして転生しているとチベット人は信じている。つまり、ダライ・ラマ法王という名前をもった存在が、14回にわたって輪廻を繰り返しきたということである。しかし、それは1世が最初の存在であったことを意味するものではない。ダライ・ラマ法王の輪廻転生は、その化身の起原に関して6百年の歴史をもっており、仏陀の時代にまで辿ることが出来ると14世は述べている。
チベット人は、このようにして自由に自分の力で人間に生まれ変わることのできる者のことをトゥルク「化身」、又は輪廻転生者「ヤンシー」と呼ぶ。ダライ・ラマ法王は、チベットの人々を救済するため、永遠に人間に生まれ変わって、人々を浄土へ導くと信じられている。チベットではたくさんの輪廻転生者が存在するが、その中でダライ・ラマ法王は、最も尊敬されている存在である。
ダライとは、モンゴル語で「大海」である。元来ダライ・ラマは、3世のダライ・ラマ ソナム・ギャツォの略称であり、ギャツォとはチベット語で大海の意味であり、モンゴル語に置き換えたわけである。ラマはチベット語で教師を指し、つまりインド語のグルに相当する。法王(チュウキ・ギャルポ)という呼称は、ダライ・ラマ法王がチベット仏教の最高指導者であることに由来する。また、中国人やその他の外国人の中には、活仏という言葉を使用する者もいるが、この言葉を英語に直訳すれば(Living Buddha又はGod king)という意味になり、正しい呼び方とは言えない。
チベットの人々は、ダライ・ラマと呼ばず、イシェ・ノルブ(如意珠)、ギャルワ・リンポチェ(仏のような宝者)、クンドゥン(御前様)、チェンレーシ(慈悲の観音菩薩)、キャプゴン・リンポチェ(救世主)などの名で呼んでいる。
新しいダライ・ラマの選定に関しては、チベット仏教の伝統に従ったいくつかの方法がある。この方法はダライ・ラマ法王に限らず、どの転生者を認定する時もやり方は同じである。先代の遺言、遺体の状況、神降ろしによる託宣、聖なる湖の観察、さらに転生者の候補が先代の遺品を認識できるかどうかなどである。
聖なる湖のお告げ
1933年、13世は他界し、国民は一日も早く新しい転生者が見つかるようにと祈った。チベット人の精神的主柱であり、国家的指導者であった13世の死は、チベット人にとって「失明したような」大きな悲しみであった。直ちに、チベット政府によって転生者を探す捜索が始まった。チベット仏教の理論上、転生者が亡くなると、49日間以内に地上のどこかに転生者として生まれ変わると信じられている。しかし、それは限定ではなく時と場合によっては2、3年後に生まれ変わるケースもまれにある。
チベット議会(ツォンドゥ)は、ダライ・ラマ法王のいない間の国を治めるための摂政を選任する。この摂政は、ダライ・ラマ捜索の総責任者でもある。13世亡き後、ガンデン座主イシェ・ワンデン、レティン・リンポチェ、プルチョク・ジャムパ・トゥプテンの3人の候補者の中からレティン・リンポチェが摂政に選ばれた。ダライ・ラマ法王不在の時に代わりを勤める人物のことをギャルツァプと呼び、これは摂政を意味する。この人物は、13世の生まれ変わりを発見し、その子が成人に達するまで最高責任者として国を治める。レティン摂政とチベットの内閣(カシャク)をはじめとし、各寺院の最高僧(ケンポ)らは、13世の転生者捜索に力をいれた。
チベットでは人が亡くなると、火葬、鳥葬、水葬、土葬にするのが主だが、偉い化身が亡くなった場合、遺体を薬草などで処理し、ドゥンテン(ミイラ)にして仏塔(チョルテン)の中に供え奉り、信者が遺体を参拝するという風習がある。ポタラの赤い宮殿内(ポタン・マルポ)におさめてある歴代ダライ・ラマの霊廟もその一例である。13世が亡くなった後も、チベット仏教の伝統に従いドゥンテンにするため、いつものように準備に取り掛かった。その時、ダライ・ラマ法王13世が次にどこに生まれ変わるのかを示す兆候が、亡くなって間もなく、遺体の方向となって現れた。
13世の遺体は、仏教の伝統儀式に従ってミイラにする前に、一般信者参拝のため、まずノルブリンカ宮殿(ダライ・ラマ法王の夏の宮殿)の宝坐に南向きに安置された。(チベット仏教では、遺体は南向きにすることが良いとされている)しかし数日後、南向きに安置してあったはずの顔が、東向きに変っているのが二度も発見された。この事実を参拝に行った多くの信者が目撃している。続いてラサの東北側の柱に、星の形をした大きなキノコが突然出現した。13世の転生者が、ポタラ宮殿の東側から生まれ変わるしるしだという噂がラサの町中に流れた。
1935年、レティン摂政一行はまず、ラサから約145キロの地点のチョコル・ギャルにあるラモイ・ラツォという聖なる湖へ行った。ラモイ・ラツォ湖は、パルデン・ハモ(吉祥天母)の魂が宿る湖(Blatso)とされている。チベットの人々は、ラモイ・ラツォ湖の水面に将来の様々な状況を見ることができると信じている。チベットには、このような聖湖はいくつもあるが、その中でも、チョコル・ギャル・ラモイ・ラツォが最も有名である。ラモイ・ラツォ湖の水面に、ある時は文字や形を、ある時は風景を通じてメッセージが現れると言われている。13世の転生者を探す時もこの聖湖から幻影が現れた。現在のダライ・ラマ法王や多くの転生者が、ラモイ・ラツォ湖の予言により見つかっていることは、多数の自伝や仏典に書き記されている。
捜索隊のレティン摂政一行は聖湖へ行く前に、チョコル・ギャル僧院で吉祥天母への特別大供養をした後、ラモイ・ラツォ湖の水辺で祈りと瞑想を行いながら何日間も過ごした。そしてある日、水面から5色の虹のような美しい色が現れた後、ア(Ah)・カ(Ka)・マ(Ma)というチベット語の三文字が浮かぶのを見た。さらに続いて、中心がトルコ石のような青緑色の瓦と金色の屋根の三階建ての寺院の風景を見た。これらの状況の描写は、詳細に書きとめられ極秘にされた。
レティン摂政は、聖湖で見た幻影を神託官に詳しく説明した。チベット政府のネチュン神託、ガトン神託、サムイェ僧院のツェウマルポ神託の三人の神託官は、カタ(チベットの儀礼に用いられる白い布)を東方へ投げ五体投地をし、ダライ・ラマ法王14世が生まれ変わる方角についての託宣を待った。そして、それらのどの託宣も同じ方角を指し示していたのである。
ラモ・トゥンドゥプ少年の発見
当時、チベットの交通手段は、馬、ロバ、ヤクに頼るのが普通だった。捜索隊一行がラサから東チベットのクンブム僧院に着くまで4カ月以上が経過していた。クンブム僧院に向かう途中、ケグドーに立ち寄り、レティン摂政からの手紙と贈り物をパンチェン・ラマに贈り、祝福を受けた。そしてこの時一行は、パンチェン・ラマから僧院近辺の3人の転生候補者の名前と特徴を告げられる。そして、クンブム僧院の周辺の環境は聖湖で見たのと酷似していたため、探していた場所はこの付近に間違いないと思うのであった。
当時、国民党政府はその一帯を中国人省長の馬歩青という人物に任せていた。一行は馬歩青のもとへ伺い、新しいダライ・ラマ法王の転生者を探すためにチベット各地域に代表団を派遣していること、自分達がアムドへ派遣された一行であることなどを伝え、援助と協力を頼んだ。
パンチェン・ラマから告げられた三人の候補者の一人に現ダライ・ラマ、ラモ・トゥンドゥプ少年がいた。タクツェル村のラモ少年宅を初めて訪れた様子は以下の通りである。
高僧のケゥツァン・リンポチェは、ロックパという羊の毛皮で作った着物を着用して召使の格好、秘書のロサン・ツェワンは隊長の格好である。一行はラモ少年の母親に自分たちが旅の途中で今夜泊めて欲しい旨を伝えた。母親は身なりのいいロサン・ツェワンを丁寧に応接間へ案内、みすぼらしい格好のケゥツァン・リンポチェを台所へ案内した。この時、3歳にも満たないラモ少年は、台所に来て一行をじっと見つめていた。ケゥツァン・リンポチェが首に巻いていた数珠を触ってマントラの「マニ、マニ」を唱え、さらに欲しいとせがんだ。その数珠はダライ・ラマ13世のものだった・・・。ケゥツァン・リンポチェはラモ少年に「私が誰か解ればあげよう」と言ったところ、ラモ少年は「セラのアカ(この地方の方言では僧侶のことをアカという)」と答えた。そしてさらに「中にいるのは誰だ」と聞くと、「ロサン」と答えたのである。ケゥツァン・リンポチェは、嬉しさのあまり目一杯涙ぐみ、自分の首にかけてあった数珠を取ってラモ少年の首にかけた。ラモ少年は嬉しそうな笑顔を見せながら再び「マニ、マニ」と唱えた。ケゥツァン・リンポチェは、言葉では表せないほど感無量な気持ちになり、ラモ少年を見つめた。翌朝、一行が出発する時、 ラモ少年も一緒に行きたいと泣き出した。ケゥツァン・リンポチェは、ラモ少年に近いうち戻ってくると約束した。
少年との再会、そして14世の即位へ
ケゥツァン・リンポチェは、チベット仏教の暦を参考に再訪の日を選んだ。チベットでは何もかも仏教中心に考える風習があるため、このような場合、大安や吉日の縁日を優先する。ケゥツァン・リンポチェ一行は、早朝から吉祥天母(パルデン・ハモ)の前で特別供養をして出発した。クンブム僧院では、朝の勤行を呼び出す法螺貝が鳴っていた。チベットでは、牛乳、ヨーグルトや水を器いっぱいに持っている人たちに道で出会うのは吉兆とされる。近道をして山に登ると真下にタクツェル村の全景が見え、ラモ少年の家もあった。その風景を見た瞬間、ケゥツァン・リンポチェは、聖湖で見た幻影と酷似していることに改めて驚きを禁じ得なかった。
ケゥツァン・リンポチェは、今回は自分の僧衣をまとい、随行員の方々もそれぞれの地位の服装に着替えていた。ラモ少年の母親は一行を暖かく迎えバター茶を注いだ。そして、ケゥツァン・リンポチェは、「お宅のお子さんは特別な徴があるようなので、少し質問してよろしいか」と訪ねた。母親は、誰かの転生者の認定に来たのだろうと思い、「どうぞご自由に」と答えた。
一行は、ダライ・ラマ13世の遺品をテーブルの上に並べた。まず、非常に似た黒い数珠を二つ並べたところ、ラモ少年は13世の数珠を迷い無く手に取った。その後も13世の黄色数珠、付き添いを呼ぶ時に使った太鼓などを当てた。本物でないほうが魅力的な飾りがあって子供心をくすぶるものであったにもかかわらず、ラモ少年は次々と本物を言い当てた。最後に二本の杖を見せたところ、ラモ少年は初め間違った杖を手に取り、杖をついて歩く真似をしたが、しばらくその杖を眺めた後、本物を手に取った。それはなぜか。最初、手に取った杖も一時期、ダライ・ラマ13世が使ったもので他の高僧にあげたものだったからである。一行は結果に驚愕しながら互いに顔を見合わせ、ラモ少年こそダライ・ラマ13世の転生者に間違いないと確信したのであった。
さらにラモ少年の両親に、ラモ少年の誕生前後に何か特別な兆候はなかったかを尋ねた。誕生前、タクツェル村では家畜が原因不明で死んだり不作が続いたが、これは何か偉い化身が生まれる徴に違いないという噂が村民の間で流れたという。誕生後、寝たきりのラモ少年の父親が急に元気になったという。ケゥツァン・リンポチェは、ダライ・ラマ13世が中国からの帰りの途中に立ち寄ったタクツェル村を美しい場所だと言ったことを思い出した。
こうして一行は、1935年7月6日生まれのラモ少年をダライ・ラマ13世の生まれ変わりと確認するに至る詳しい内容を電報で報告した。一行は一日も早く14世がラサへ出発することを望んだが、中国人省長馬歩青は出発に関して中国銀貨十万枚の身代金を要求、さらに中国銀貨三十万枚を要求してきた。一行にそのような大金はなく、チベット政府に緊急連絡し金額を用意してもらうしかなかった。しかもどこで秘密が漏れたのか、事態を聞きつけた人々がラモ少年を一目見ようとやって来たりして、一行の焦りはさらに募った。これ以上出発を長引かせてはならないと判断、一行は不足金をラサで返済することにし、一行の高官一人が人質として残った。
ラモ少年と一行は、アムドを出発して四カ月近くかけてチベットの首都ラサに到着した。仏教占星術に基づき、1940年1月14日、ポタラ宮殿で即位式が執り行われた。
ダライ・ラマが語る「ダライ・ラマ制度の未来」
(2015年4月現在)79歳のダライ・ラマ法王は、現在北インドのダラムサラに住んでいる。次のダライ・ラマの転生者探しについて、法王自ら次のように述べている。
「チベット仏教文化の伝統に従えば、ダライ・ラマや高僧の転生者探しは、宗教関係の行事であり、政治とは何の関係もない。特に仏教の教えを否定している者にとっては、転生者探しに何の関係もなければ、それについて議論する権利もない。転生者探しは、職員や委員を選出したりすることと異なる。高僧の化身は、常に全ての生きとし生けるもののためになるように考えて生まれくるので、生まれる場所、父母と家系などが重要となる。これはチベット仏教文化の特徴である。もし、チベットの人々がダライ・ラマの転生者が必要であるなら、私の転生者は、中国支配下のチベット国内ではなく、平和な世界のどこかの国に生まれると断言する。それは、前生がやり残した仕事を引継ぎ成就するために転生者は生まれ変わるとチベット人が信じているからである。前生がやり残した仕事を邪魔したり破壊したりするために生まれ変わる転生者はいない。もし、転生者がやり残した仕事を継承できない国に生まれたら、転生者として生まれ変わる意味がない。つまり、私の転生者を必要とするかどうかを最終判断する権利は、チベット国民にある」
ダライ・ラマは観音菩薩の生まれ変わり
チベット仏教文化の特徴である転生制度は他のどの国にも見られない。特定の子供を輪廻転生者として認定する制度はチベット仏教圏にだけ認められているものであり、すべての儀式や法要はチベット仏教文化の伝統に従って行われている。
現世に自分がこうして存在するのは前世の行いの結果(デープ)であり、現世で善い行い(レーヤクポ)をすれば、その結果は来世に必ずつながるとチベット人は因果応報(レンデー)を信じている。レンデーとはつまり業(カルマ)のことであり、身口意(身は体、口は言葉、意は意識の行い)によって生じる様々な因果関係を指す。全ての生きとし生けるものは、それぞれの行いによって 六道輪廻の世界で輪廻し、生まれては死に、死んでは生まれる。徳を積み善行を行えば罪業がなくなり、最後には輪廻の苦しみから離脱して 涅槃の境地(サンギェ・ゴパン)に到達することができるという。
私たちが自分の業によってこの世に生まれて来ることに対し、転生者 (トゥルク)の多くは世のために自分の意思によって生まれ変って来るとされる。ダライ・ラマ法王やパンチェン・ラマなどの多くの転生者は、人々を救うために人間に生まれ変った者であると考えられている。特にダライ・ラマ法王は観音菩薩の生まれ変りであり、すべての仏の願いを一つにしてチベットの人々を救うため、「雪国」(万年雪に囲まれたチベット)に生まれ変わった化身であるとチベット人は信じている。 
 
業 (カルマ)

 

業(カルマ)の本当の意味とは?
輪廻転生と関連するのが「業」。カルマです。業(カルマ)はご存じでしょう。ですが、最初にお断りしておきたいのは、近年使用されている意味と、本来の意味は違うということです。 「え?」と思うかもしれませんが、通常使われている「業」の意味は、本来の意味ではありません。最近はスピ系でも業といえば、何やら「運命を支配しているエネルギーのようなもの」として受け止められていますが、これは全くの誤りです。少なくとも、本来の業(カルマ)の意味とは違います。
お釈迦さまが在世当時に言われていた「業」とは、
・行為
・結果をともなう行為
こういった意味になります。
一言でいえば、「行為」となります。「行い」です。運命を支配するパワーのようなものではありません。結果がともなう「行い」「行為」を「業」と言っていました。
考えてみてください。何でもそうですが、何か行いをすれば、その結果はともなってきますよね。一生懸命に働けばお金が手に入ります。健康に注意をしていれば病気をしなくなります。「当たり前」のことですよね。因果関係のある「行為」を「業」と言っていたわけです。
ところが近世では、元々の業の意味ではなく、もっと不可思議で運命的な拘束力を伴ったパワーのようなものとして受け止められています。当時、インドで言われていた業、または仏教でも使用していた業の意味は、こういうオカルトめいたものではありません。
どうして別の意味になったのでしょうか。一つは、インドの宗教の一つ、ジャイナ教の影響があると思われます。ジャイナ教では、カルマを断つ教えと実践を提唱しています(※ジャイナ教についてはこちらで書いています)。それと、日本に仏教が伝来し、業の考え方が変容していったと考えられます。
しかし業とは、結果をともなう行いをいいます。
今、非常に厳密に表記しています。なぜなら、結果をともなわない(結晶しない)業もあるからです。結果がほとんど生じない業(行い)もあるのですね。分かりやすくいえば、特別に心が動かずに何気なく行っている行為です。こういったのは結晶化しないか、しにくいものです。
しかし心が反応した行為は業となって結果を必ず生じます。たとえば、募金、慈善事業、寄付、こういった行為は、自分自身、または相手の心を良い方向へ動かし、良い業となり結果をもたらします。反対に、五戒や十善戒を破るような悪行為は、心が汚れるため悪い結果をもたらします。
大事なことは、これらの業がもたらす結果は、現世だけでなく、来世、次の来世・・・に引き継がれていく点です。
近年の業(カルマ)の概念は、こういった来世にまで引き継がれる現象(来世に結果を生じる現象)を拡大解釈し、オカルトめいた思想にまで発展していったことも考えられます。ですが、元々は、運命をガチガチに拘束するような意味では無い、ということですね。業とは、「結果をもたらす行為」ということです。
異熟という業(カルマ)
さて話しは続きますが、輪廻転生のことは原始仏教でも出てきますが、その直後のアビダルマ仏教で精密に分析され洞察も深まっていきました。
業については、アビダルマ仏教の精密な分析が参考になるところがあります。そこでここ数日、アビダルマ仏教の業の分析に基づく見解を書いています。
アビダルマ仏教では「異熟(いじゅく)」という聞き慣れない業(カルマ)の結果を指摘しています。
異熟。これは、一言でいえば「宿命」のような結果(業による結果)です。異熟はスピ系や新興宗教で言われている業の概念に近いものです。
とはいっても、それほど因業めいたものではなく、言ってみれば、その人の「個性」となる核をいいます。人それぞれ特徴や個性がありますよね。陽気な人、冷静な人、軽率な人、思慮深い人、社交的な人、研究好きな人、それぞれ気質があります。こういったその人の核となる傾向を「異熟」といいます。
これを聞けば「なあんだ」と思いますよね。それぞれの個性になるわけです。
もっとも中にはこの異熟が、厄介な場合があります。たとえば人を騙す癖のある人、嘘を言いやすい人、欲望が異常に強い人、落ち着きがなさすぎる人、こういったトラブルを引き起こしやすい異熟として生まれてくる方もいらっしゃいます。
実は、こういった特殊なケースの異熟が、近年のスピ系や新興宗教で言われている「業」の概念に近くなります。
異熟は、人それぞれ違います。中には大変優秀な異熟を持ち、「三因」という生まれの方もいらっしゃいます。
異熟のことを考えれば、人間は決して平等ではないことが分かります。機会は平等であっても、人間はスタートラインから全然不平等な生命です。このことは人間に限らず、全ての生命が該当し、あらゆる生命は異なっています。不平等ととらえるか、個性ととらえるかで、その後の人生観も異なりましょう。
そうして大切なことは、「何故、こういう異熟を持って生まれてくるか」です。
この答えが、前世での行い(業)です。前世の業(行い)の際だった傾向、継続されてきた傾向が、現世での「異熟」として形成されてくることですね。
日頃の自分の行動、思考、感情の出し方を見ていれば、来世、どういった異熟を持った人間になるのか分かります。最近はテレビの影響が強いですので、吉本興業のようなノリの人生を送っていれば、掉挙(じょうこ)という煩悩が異熟となって、落ち着きが無く、思考力の弱い生命として誕生してくるでしょう。テレビに出てくる人の真似をするのは大変危険です。
反対にリラックスを心がけ、家族や友人を大切にして人にも親切にし、言葉にも気をつけて思慮深く生活をしていれば、来世は、天界か、人間であるなら大変優秀な生命として誕生するでしょう。
業は、来世において異熟となって形成もされます。そしてもっと重大なことがあります。このことは、ほとんどと知られていない、輪廻転生に関する重大な秘密です。
業は7つに分裂する
さて今回は前回の続きです。輪廻転生に関する知られざる重大な秘密です。初めて知ることになる人がほとんどでしょう。仏教を知っている人でも知らない人が多い業報に関する仕組みです。
仏教では輪廻転生を瞑想の禅定力で詳しく調べたのでしょう、後世のアビダルマ仏教では、業について大変詳しく調査し分析もしています。
その中でも重要なのが「業が七分割される(七倍になる)」という発見です。あるいは、一つの行為は、7回にわたって報いが訪れるということです。
「なに?」って思うでしょう。
原始仏教の次に出てきたアビダルマ仏教では、業について精密に分析し調査していきました。そうして分かってきたことは、業は7つに分裂(7倍になる)ということなのですね。どのようにして7分割するかといえば、
現世 ⇒ 来世 ⇒ 2番目の来世 ⇒ 3番目の来世 ⇒ 4番目の来世 ⇒ 5番目の来世 ⇒ 6番目の来世
といった具合に、現世を含めて6度の転生にわたって結果が出てくるようになります。一つの行為をした場合、心は7回生まれるといいます。その7つの心がそれぞれ結果を招来するというのですね。
しかも業の結果の出方に強弱がでてきます。
これは相当な衝撃的な業の事実ではないかと思います。どういう形で出てくるかといえば、
・現世 ・・・弱い
・来世・・・強い
・2番目の来世・・・非常に強い
・3番目の来世・・・非常に強い
・4番目の来世・・・非常に強い
・5番目の来世・・・弱い
・6番目の来世・・・微弱
というように出て来るといいます。2番目、3番目、4番目の生涯において大変強く出てくるようなのです。
この事実はショッキングかもしれません。
業の結果は、悪いことだけでなく、良いことも、この法則通りに結果を招来します。
現世において良いことをしても、それが強く出てくるのは2番目の来世以降ということですね。
ですので、現世において非常に悪いことをしても、上手く逃げてしまったり逮捕されなかったりして、報いを受けない人も出てくるわけです。しかしその代わり、来世のどこかで必ず出てきます。
ただし上記の法則は原則です。
一般的に「悪」は速やかに結晶化していくようです。その事実はパーリ経典を読んでいくと散見されます。パーリ経典のダンマパダには「悪は凝固しやすいが、善は固まりにくい」という記述があります。悪のほうが結果が出やすいのですね。
こういったことと関係しているのかどうか分かりませんが、仏教でも懺悔や反省を奨めています。実は、懺悔・反省して、その時点で罪を認めて受け入れることをすれば、業の結果を先送りにしないで、現世において早めに精算させることができるようです。7回の生涯にわたって苦悩を招くよりも、今、精算してしまうやり方ですね。ですが、微弱であっても業の結果は、7回の生涯で出てくるのかもしれません。
このようにアビダルマ仏教では、業を精密に調査し分析し、上記のように述べています。
業の考察
このように業は、7度の転生(生涯)にわたって影響(結果)をもたらすといいます。怖いと感じるかもしれませんよね。ですので、お釈迦さまは「五戒を守りましょう」とおっしゃるわけです。五戒または十善戒を守っていれば、基本的に大変な不幸に遭うことはありません。
良いことを行う(良い心でいる)ことも大切ですが、悪いこと(悪い心でいる)をしないように奨めるのも、業のこういった7分裂(7倍)になる性質を知っていると、腑に落ちるはずです。何故、仏教は「悪いことするな、悪いことするな」と口酸っぱく言うかといえば、業の性質を見切っているからなのでしょう。
業は、原則的に帳消しになりません。悪いことをしても、良いことをすれば帳消しになる、と思われる向きもあります。しかし実際には帳消しにはなるとは限らないようです。悪いことは悪いことで報いと出て、良いことは良いこととして報いとなって出てくると、仏教では説きます。このこともショッキングかもしれません。ですが現実的なことをいえば、代替として善行をすることは良いことです。これもまた機会があれば説明したいと思います。
時々、宗教や、オカルト的な思想の中に、先祖からの因縁や前世からの因縁を切ることができると説くところがありますが、原則的にこれは不可能です。少なくとも仏教では、このようなことは言いません。なぜなら、業の性質上、これはできないからです。原則的には。
業の話しは怖いところがあります。この恐怖心や不安感を逆手にとって利用し、積徳だ、先祖の霊を成仏させるといって、多額の金銭を求めるところもあります。おかしげな新興宗教や思想にかぶれて妄想を強くし、変な業を作らないように注意しなくてはなりません。
業は、このように7倍になるといっても、良いこと(心)も7倍(7分割)されて結果をもたらします。人に施しをしたり、丁寧な言葉を心がけたり、良い心でいますと、それが最低でも7倍(7分割)され良い結果をもたらします。
ですのでお釈迦さまは「施(ほどこし)をしましょう」とも言われるわけですね。施しをすれば豊かさとなって返ってきます。最低でも7倍です。
ただし、施しも、清らかな心で行ったほうがいいのです。この理屈は、もうお分かりですよね。
そうして施しは、清らかな心で、できるだけ清らかな対象に行えば行うほど、その結果は大きくなると、経典には書いてあります。何百倍、何千倍となって戻ってくるとあります。
もっとも、こういう見返りを求めて何かをする、というのもさもしいです。善行をするときは、見返りを求めないで、考えないで行うのが理想的になります。
このことは心も同じです。清らかで落ち着いた心でいるなら、その心は何百倍、何千倍となって返ってくる、つまり来世では、穏やかで楽しい日々を過ごすことができるようになる、ということです。
原始仏教(アビダルマ仏教)では、業をこのように分析しています。悪いことも、良いことも、最低、7倍となって戻ってきます。自分自身が清らかであればあるほど、また施しをする相手や関わる相手が、清らかであればあるほど、結果がよくなるということですね。
原始仏教(アビダルマ仏教)における業報の考え方とは、このようになります。
業への考察が深まりますと、心をよくし、言葉を丁寧にし、行動も上品に、そして落ち着いた生活を心がけるようになります。必然的にそうなっていくでしょう。だから仏教では業の真実を語るのでしょう。
メディアが垂れ流す情報や流行に乗じて、洗脳されて、心を汚し、言葉を乱暴に使い、行動も粗野で、落ち着きを失い、道徳を破壊するような生活にならないように注意しましょう。こういった生活を続けていれば100%、悪業となっていきます。
業ではなく明確な因果関係が多い
業への考察が深まっていくと、いろいろなことに気がついてきます。人生とは、悲喜こもごもで、誰もがつらい目にあったり、喜びにあったりします。しかし、多くは、明確な因果関係で物事が起きていることが分かってきます。確かに、前世の業が関与するケースもありますが、人生上のほとんどのことは、因果関係の連続です。
人生上で理不尽過ぎる大変な目に遭う場合もあります。一生懸命にやっても報われない場合です。必死になって勉強したけれども、希望の学校へ行けなかった。一生懸命に相手に尽くしたけれども離婚することになった。一生懸命に事業に頑張ったが、倒産した。こういう理不尽さが、人生上で起きる場合もあります。
こういった理不尽な場合は、過去世において、何か悪心を起こして悪業を犯した可能性があります。それが現世で結晶化しているのでしょう。しかしもしかすると、本人が気付いていない明確な因果関係があるのかもしれません。
いえ、実は、明白な因果関係がある場合が多のです。案外、気がついていません。仏教で気付きの瞑想を推奨するにも、こういう気付きの力を高めることも関係しているのでしょう。
注意して欲しいのは、人生上で理不尽さに遭った場合、それが先祖の霊的な影響とか、何かの霊の影響と考える方もいらっしゃいますが、実はそのようなことは無いということです。こういったことはほとんどありません。全く無いとは言えませんが、ほとんどないようです。このこともいずれ詳しく説明いたしましょう。※こちら少し記述しました
そうして、因果関係を超越した僥倖(大変な幸運)に遭遇するなら、過去世において良いことをした可能性があります。それが現世で結晶化して幸せとなって享受しているのでしょう。
僥倖と言えるような、因果関係を超越したラッキーに遭遇するのは、過去世の善行の可能性が高くなります。しかし、天使とか守護霊とかに守られているという人もいますが、こういったことも滅多にありません。
過去世の行いが、現世に影響を及ぼすことは確かにあります。しかし全てがそうでは無いということです。人生上の幸・不幸の全てが、過去世の報いとは限りません。このことは増支部経典の何カ所かにも書かれています。
乱暴な言葉を使えば、上品な人は近づきません。嘘を付けば、人は離れていきます。暴力的であれば、温厚な人は去っていきます。
全部当たり前のことです。人生は、当たり前の因果関係が多くあります。
最近はやたらと前世や先祖の因縁めいたものと絡めて説明する風潮が多い様子です。原因と結果が明白な因果関係までも「前世のお〜」とかおっしゃる方がしますが、これはあまりにもナンセンス過ぎます。よく考えてください。
不摂生な生活をすれば、健康を害します。勉強しなければ、成績は上がりません。人に嫌がらせをすれば、疎まれます。
しかし世の中が悪ければ、なかなか成果が出ないときもあります。「これも前世のお〜」「地球のカルマがあ〜」とか言われる方もいますが、冷静になりましょう。
世の中の事象は、個人的な前世とは関係がありません。大地震もそうです。地球には天変地異は数多く起きています。
地球のカルマとか言い出すケースもありますが、業の本質が分かれば、「地球のカルマ」と言ったって、「なんですかそれ?」となることはお分かりでしょう。「業」は「結果をともなう行い」です。地球が、結果をともなう行いをしていますか?自然現象です。
「いや、集合的無意識があ〜」とか言う人もいるかもしれませんが、いい加減にしなさい。そういう妄想はほどほどに。
こういった考え方を完全否定はしませんが、あまりこういう考えて方をしていると「癡(ち)」を強めてしまいます。煩悩で言うところの「痴(ち)」を増していきます。癡とは、頭脳が明晰に働かなくなる煩悩です。鋭い判断や洞察はできなくなっていきます。
何かにつけて「前世のお〜」とか結びつけるようになると、努力し精進する気持ちも弱くなっていきます。無意識のうちに前世に責任転嫁し、自分の罪を覆い隠してしまうこともありがちです。しかも努力をしないで楽な方法ややり方を求め、何かとよろしくありません。
人生の大抵は、因果関係で説明がつきます。中には、因果関係では説明できないことがおきます。そういうとき、初めて「前世の業が関係しているかもしれない」と考えるくらいが丁度良いのです。
前世の業の正しい理解
ですから、当たり前の因果関係までをも「過去世の報い」とするのは考えすぎになります。過去世の報いとは、一生懸命やっても報われないといった理不尽な因果関係において見られることが多くなります。
通常は、因果関係の通りに作用します。やればやっただけ、成果が出てきます。成果が出ず、その原因を精密に分析し精査しても分からない場合、その時初めて「前世の業かもしれなんなあ」と考えるので丁度よいのです。
もっともスタートラインそのものに違いがあるのは事実です。これらには、過去世における業が関与しています(異熟)。
過去施の業が関与しているのは「理不尽さ」が目立つ場合です。明確な因果関係の原則を超越しているケースに限定されると考えていいでしょう。
正しいやり方でいくら一生懸命にやっても全く報われないとき、それは過去施の行いの結果が関与していると思われます。反対にほとんど努力しなくても願いがかなってしまうのも、過去施の良い行いが関与しています。
ですが、努力がムダという意味ではありません。また努力が虚しいということではありません。業による影響はいずれ消えていきます。そういう性質のものです。
何かにすがったり拝んだりしなくても、業は必ず費えて消えていくものです。ですから、原則的に、人生は前向きに、努力を心がけて生きていく方が正解になります。またそういう生き様が新しい業となって、来世にも良いかたちで影響してきます。
あまり業を恐ろしがる必要は無いのですが、業を正しく理解することに慣れないうちは恐怖や不安のほうが強くなるかもしれません。
正しいことをすれば、必ず、正しい結果が訪れます。良い心で行えば、必ず、良い心の状態になります。
当たり前のことですが、この当たり前のことの重みが分かると、人生観や価値観、世界観が変わっていきます。
カルマ・悪因縁を切る教えはジャイナ教がルーツ
無闇に前世に原因を求める姿勢が何故よろしくないかといいますと、お釈迦さまが実はそうおっしゃっているからです。
仏教が誕生する少し前に、インドにはジャイナ教という宗教が誕生しました。ジャイナ教は、マハーヴィラという人がはじめた宗教です。苦行を推奨する宗教です。
ジャイナ教では、生命は業(カルマ)が原動力となって輪廻転生をしているとみなして、カルマを断ちきることで解脱できると説きます。そしてカルマを断つために苦行を行います。苦行と瞑想修行によって、カルマを構成している物質を滅ぼして、カルマから解放されて解脱するという教えです。
ジャイナ教では、業(カルマ)を掘りさげて、運命を拘束するエネルギー(物質)としてとらえました。このジャイナ教が提唱するカルマの概念は、近年、日本の宗教等でも提唱されるカルマの概念に大変よく似ています。
ジャイナ教では、魂にカルマが物質として付着しているため、魂が不自由となり、カルマの拘束を受けて輪廻転生すると考えます。しかし苦行を行い、あわせて苦行に耐えられる心身となるためにチャクラやクンダリーニを開発し、カルマを魂から取り除こうとします。
ジャイナ教は苦行を推奨し、中でも餓死を最高に尊びます。餓死こそ名誉ある生き方であるとします。大変ストイックといいますか、異様な宗教観があるのですが、熱心に苦行に励む修行者もいました。現在でもジャイナ教はインドでも信仰者の多い宗教です。
ですがお釈迦さまは、ジャイナ教の実践法に欠陥があると指摘します。お釈迦さまは人達にこう言います。
「あなた方は、苦の原因をカルマといいますが、そのカルマを見たことがあるのですか?」「いいえ」「全く見たことが無いのに、どうして苦の原因(カルマ)を無くすことができるのですか?」「(一同沈黙)」
見たことも無ければ確かめたことも無い前世のカルマを。どうして滅ぼすことができるのですか?と素朴に疑問を投げかけています。当時、宗教は全て「体験主義」でありました。当時の宗教は、現代の宗教とは違って、全て「瞑想体験」が根底にあり、直接体験しているものでした。
しかし、その体験が中途半端であったり、錯覚・勘違いであったりもします。お釈迦さまが当時、批判した宗教も、瞑想体験の稚拙さ、体験から得られたことへの解釈の誤りに対してでした。
このことは案外知られていないことですが、当時の宗教界は、ほぼ全てが「体験」に基づくものでした。
こちらにも書きましたが、仏教は哲学ではありません。体験や結果が先にあって、それを言語化したものになります。
ですので、体験を伴わない概念や思想というものは、「妄想」「想像」の類として扱われます。さしずめ現代の宗教の多くは「妄想」として一刀両断され、お釈迦さまが現代にいらっしゃたなら、まったく相手にもしないでしょう。
小説という虚構の世界で、リアルな真理を探していることと似ています。滑稽な姿にも映るのでしょう。
お釈迦さまの上記の発言の背景には、体験を伴わない取り組みへのいかがわしさへの指摘があります。想像で前世のカルマを想定し、想像の産物を取り除こうとしているのではありませんか?と指摘しています。ごもっともだと思います。
ジャイナ教と仏教と前世の業・カルマ
さらにお釈迦さまはジャイナ教の修行者らに疑問を投げかけます。
「あなた方は、苦の原因をカルマといいますが、どの苦がどのカルマと対応しているのか分かっているのですか」「いいえ分かりません」「自分が受ける苦と、その原因のカルマが分からなくて、どうして断ち切ることができるのですか?」「(一同沈黙)」
前世のカルマが、現世の苦の原因となっているとしても、どのカルマが、現在の苦悩と因果関係になるのか。それすらも分からないで本当に前世のカルマを滅ぼすことができるのですか?と指摘します。
よく新興宗教で「前世のカルマを切る」とかいうところがありますが、お釈迦さまからすれば「それは妄想ですね」と一刀両断されます。明確な因果関係が得られない場合、それは単なる空想や妄想になります。
このジャイナ教への指摘も同じです。冷静になって考察すれば分かることです。実際に確かめることができなくて、どうして処理や対応ができるのでしょうか。
医療はそうでしょう。病気の原因が分かって、初めて適切な治療ができます。原因を誤れば医療ミスです。大変なことになります。医療の世界ではしっかりと病根となる原因を調べるのも、正しい治療をするためです。
この姿勢は仏教でも同じです。仏教の応病与薬の姿勢は、原則的に明確な因果関係を踏まえた指導になります。
何事も原因が分かって、適切かつ正しく対応ができるものです。中には長年の経験で治療できるケースもありますが、それとて原因が分かるからです。
原因が分かって初めて対処ができるものです。この姿勢は合理的であり科学的でもあります。
お釈迦さまも同じでして、明確な因果関係を考慮されていました。
実際、お釈迦さまは、苦悩の原因が前世にあると喝破したとき、具体的にその前世の業を指摘しています。漠然とではなく、具体的にビシっと指摘するのがお釈迦さまの特徴です。
お釈迦さまの場合は、漠然と「前世の業・カルマ」とひとくくりにすることは無かったということです。具体的に前世の業と現世の現象を結びつけて説明されています。
お釈迦さまはジャイナ教の修行者に、またこうも問いかけます。
「あなたが方は、カルマを断つために、苦行をしていますよね」「はい」「では、そういう苦行に励むのも、あなた方のカルマなのではありませんか?。過去世において、そういう苦行をすべきカルマを積んでいるのではありませんか?」「(一同沈黙)」
これは痛烈な皮肉です。苦行、苦行と盛んに行うのは、前世において苦しむ原因を作っているのでしょうとズパっと切り込みます。言われたほうは閉口してしまいますね。
ジャイナ教の苦行に励む姿勢は、いわゆる「カルマ落とし」です。苦行をすることで罪を償う姿勢に似ています。心情的には理解もできますが、これは実はあまり意味の無い行為だったりします。
結局、お釈迦さまは、「自分で確かめられもしないことを信じて、そこに原因を求めるなら、それは単なる妄想にしか過ぎません」とおっしゃいたいのです。
仏教が現在形であること、確かめられないことは安易に信じないといった姿勢は、妄想を廃して、リアルで地に足の付いた歩みこそ誤りなく心が成長していくからなのでしょう。
妄想や想像をベースにした思想や宗教に基づくアプローチは必ずしも有益ではないということです。
こちらでは前世などに原因を求めて対処する姿勢を手厳しくも注意しましたが、このように申し上げるのも妄想や空想に基づく見解が必ずしも有益ではないからです。
仏教の体験主義とは、実に正しく成長していくための基本となる姿勢だったりします。
業の報いは心が受ける
さて、ここ数日、輪廻転生・業・中庸といったことについて言及しています。
読まれている方は、どういった所感を抱いているか分かりませんが、人によっては衝撃を受けたり、今までの価値観をひっくり返されたりした感想を持った方もいるかもしれません。
お釈迦さまは、ダンマは微細で理解し難いのでダンマを説くことにためらったと言われています。お釈迦さまとは違いますが、私もブログを開始することに躊躇したくらいです。やはり一般的に信じられている価値や信条と正反対なことや、非常にデリケートで繊細な部分がありますので、人によっては苦痛を感じたり生理的に受け付けなくなることが懸念されたからです。
読者の中には、私の知り合いも数人いますし、それこそ人間関係が悪くなりはしないかと思うところはありますが、しかし、こうして原始仏教の世界を説明することで、普段、私が考えていることや世界観が分かっていただけるでのはないかとも期待しています。
今日もおそらく驚くような記事になるかもしれません。業の性質は数日前に書きましたが、今日はより重要なことを紹介したいと思います。それは「業の報い」に関することです。
業は報いとなって返ってくることはご存じでしょう。ですが、仏教が説く業報は、通常思われている仕組みとは違います。
仏教では、業による結果は「心が受ける」としています。業報は、心が受けるのです。
心が受ける?
はて、どういう意味ですか?と答えが返ってきそうです。
文字通り、業の報いは必ず心が受けます。
業の報いと言いますと、病気だとかお金が無いとか、仕事が無いとか、そういう「形」として返ってくると思われがちです。大抵、そう述べていますし、そう受け止められています。しかし実はこれは違います。違うというよりも不正確です。
業の報いは現象で受けるよりも、「心が感受するかたち」で返ってきます。そして、心が感受するように、形をともなってくることがある、ということです。分かりますか?この微妙なニュアンスが。
分かりやすい例でいいましょう。
たとえば過去世において、Aさんは心を込めてXさんを助けました。Aさんは心から助け、また助けられたXさんは心底感謝し、一生、Xさんはその恩義を心にとどめるほどでした。
Aさんは死後、人間として誕生しました。過去世においてXさんを助け、その報いとして友人に恵まれ、人間関係で助けられて「楽」を長期間にわたって感受し続けます。一生は、特に苦労らしいことはなく、努力することなく、穏やかな人生を過ごします。
これは分かりやすい例ですね。業の報いとはこういうものです。行いの結果は、心が受けます。この例では、心が「楽」を受けるのです。しかも人間関係を通じて「楽」を得るのです。
この状態を「福」ともいいます。しかし「福」というのが「外見」的なことを意味することが多くなります。外見的な「福」よりも、心が感受する「楽」に、業報のポイントがあるわけですね。
業の報いは、心が感受するのです。大金持ちになるとか、贅沢な生活ができるとかは、二の次です。心が業の結果を感受するわけです。
分かりますでしょうか。
業報のメカニズム〜心の有様が重要な理由
もう一つ例をあげましょう。
過去世において、Bさんは「しょうがねえな」という気持ちで多額のお金を寄付続けていました。仕方ないという理由からでした。
来世でBさんは、過去世において行った寄付の報いで、物質的には大変恵まれるようになりました。けれども豊かを実感できません。物に恵まれてはいるのですが、どこか虚しさがあります。潤いの無い生活。Bさんは、そういう人生を過ごします。
施しは尊いことなのですが、Bさんは心を汚しながら行ったため、その心が報いとして返ってきているわけです。世間には、意外とこういうケースはありますよね。物に恵まれても心が満たされない。案外多いかもしれません。こういった現象を引き起こす一つの理由が、偽善から施しを行った場合があります。
さらにもう一つ例をあげましょう。過去世においてCさんは、自分を虐げながら、我慢しながら施しをしました。内心、我慢しながらやっていたので、不平や不満に満ちていました。「これだけ必死にやっているんだから、いつか自分に良い報いがくるだろう。」とメラメラと復讐心に似た思いを燃えたぎらせながら善行を行っていました。
Cさんは、死後、転生して人間にまれ変わりました。大変裕福な生活を送ります。しかし心が満たされません。同時に、常にムシャクシャした気持ちになり、横暴な態度を取ることも多くなります。やがて権力に物を言わせて独裁的な体勢まで築いてしまいます。その姿は暴君ネロのようでもあり、独裁者として君臨します。
Cさんのようなケースも意外と起きています。独裁的な企業家、自己愛性人格障害者と言われるタイプです。こういった屈折したケースの背景には、前世において怒りに満ちた心で布施や事業を行った場合があると推測できます。施しの見返りとして形(物質)はは恵まれても、汚れた心の見返りとして汚れた心が異熟として結晶化するわけでです。我慢し過ぎたりストレスを抱え込みすぎることも良くないことがお分かりでしょう。ちなみにこういったケースは過激な企業や新興宗教で時々見られます。
人生劇場における矛盾したケースを2例紹介しました。こういった矛盾は何故起きるのか。その一つが、「心の有様」と「施しの有様」のアンバランスにあるわけです。
だからお釈迦さまは心を浄める「戒」と施しとしての「施」の両方をバランス良く行うこと、特に、心を浄めることを力説もされたわけです。また、感情を激しくさせることよりも「中庸」をおっしゃったわけです。悟りに至る以前に、良い輪廻をするために、「戒・施」を基本として、中庸の教えを説かれています。
なお過去世の業は複雑に絡んで結晶化しますので、人生劇場における矛盾は、複数の過去世の業が絡んでいるとも見ることができます(業は7つに分割)。ですが、「心の有様」と「施しの有様」の矛盾は、来世において矛盾した事象を引き起こす可能性が出てくるということです。
おわかりでしょうか。
輪廻転生における心の働きです。行った心にふさわしい環境なりが作られていきます。そして心が感受するのですね。ちなみにパーリ仏典の「天宮事」というお経には、天界へ往生したケースが数多く掲載されています。反対に「餓鬼事」という経典には、餓鬼界へ墜ちた人間の話が数多く掲載されています。これらの話しのポイントは「心の状態です」。どんなに布施をしても、心が汚れていたために餓鬼の墜ちたケースもあるくらいです。
物や人に恵まれつつも「つまんねえなあ」とか「もうこんな裕福なのは結構」とか常々思っていると、その心が来世で結晶化します。来世は「つまらない」「貧乏がいい」という感受を心が受けるようになっていくということです。
いくつか仏教が述べる業のメカニズムを紹介しましたが、普通に思われている業の仕組みとはかなり異なると思います。
心の状態が重要なのです。そして心が業を受けるのですね。行いもさることながら、心が業を形作り、心が受けるようになるのです。これがお釈迦さまが喝破した業のメカニズムなのです。
仏教では、業は心が受けるとしています。だから、仏教の善悪論も心の状態になるわけです。また中庸という姿勢も重要にもなってくるわけです。
善悪も心が清らかか、汚れているか、となるわけです。全部、関連しているのですね。一つの真理に基づき、すべて説明・解釈ができるようになっているのです。これが仏教の教えなのです。非常に深淵かつ密接に関連していることがお分かりいただけたのではないかと思います。
業報のパターン
結局、業の報いは、
・心
・物質
の両方が報いとなって返ってきますが、ここでパターンを整理しますと、
・心・・・清らか
・物質・・・施しをする
⇒物質的にも恵まれ、快楽が多い人生・・・幸せの多い人生
・心・・・清らか
・物質・・・施しをしない
⇒物質的には恵まれないが、快楽の多い人生(普通の人、清貧を楽しむ)・・・幸せの多い人生
・心・・・汚れている
・物質・・・施しをする
⇒物質的には恵まれているが、心が貧弱(常に欲求不満、暴君、権力にあぐらをかいて人々を苦しめる)・・・物に恵まれても不遇感の多い人生
・心・・・汚れている
・物質・・・施しをしない
⇒物質的に恵まれず、心も貧弱・・・不遇の多い人生
このようになります。ザックリと説明していますが、おおよその傾向は分かると思います。これらのパターンでおわかりの通り、「心の状態」が幸不幸の決めてになります。
だからお釈迦さまは「心を浄めましょう」とおっしゃるわけです。布施(施し)も大切ですが、それ以上に、戒(心を浄める)が重要なのですね。
そうして、業報は、心が感受(心が受ける)わけです。いくら物に恵まれていても、心が汚れているなら、苦痛を感じます。仮に物に恵まれていなくても、心が清らかなら、快楽を感じます。
善行といえば「何かをほどこすこと」と考えられています。道徳な善行も社会に貢献する、人助けをするという「外見的」なことが重視されがちです。宗教団体も数多くありますが、そこで推奨されている善行の多くは「お布施」です。お布施をすることであなた方は幸せになれると説きます。
しかしこれらが不正確なことがおわかりいただけると思います。もちろん、外見的な善行も大切です。施しは大切な善行為です。ですがそれ以上に大切なのが「心の有様」なのです。
仏教での善悪の基準も「心」になるのも、果てしない輪廻転生を見届け尽くしたお釈迦さまの卓越した見解なのでしょう。
世に多い成功哲学や成功法則も見直しが必要でしょう。本質的に「成功」の意味が異なるのです。本当の「成功」とは、心が綺麗になることです。
このことは人間誰しも、本能的に直観していることです。実に「心の有様」こそ、最も重要なことだったのです。
善行は、お金も何もかけずに、気持ちさせあれば誰でも今すぐ、今ここでできる実践行なのです。 
 
前世 1 (ぜんせ)

 

ある人生を起点として、それより前の人生のことを指す。転生を認める世界観ならば、必然的に内包する概念である。人の転生が何度も繰り返されているということを認めるならば、全ての人は皆、ひとつではなく多数の前世を持っているということになる。
インドでは、ヒンドゥー教でも前世が認められている。仏教では、三世のうちの過去世にあたる。インド起源の宗教に限らず、前世の記憶を持って生まれ変わったと主張する人は、古今東西に多い。
また、現代の先進国に暮らし、物理科学と合理性を信奉し、転生や前世の存在を全く信じない人でも、退行催眠を受けている時に、本人としても思いがけず、前世を思い出すということが起きるとの報告がある。近年では、医学博士のブライアン・ワイス(英語版)の著作『前世療法』により、世界中で広く再認識されるようになった。ブライアン・ワイスが、患者の治療中に前世を半ば偶然に発見した経緯、発見をありのまま公表するのか、あるいは科学者としての保身のために発見を隠すか、悩んだ経緯などについては、彼の著書『前世療法』に詳しい。  
 
前世 2

 

前世とは
インドのヒンドゥー教や仏教では、命は生まれ変わるものと考えられています。命は限りあるものですが、現世で終わりではありません。前世があり、現世があり、さらに来世があります。このように命は繰り返されるとする考え方を「転生」と呼びます。そして、前世でどんな生き方をしていたかによって、現世の人生が変わってくると言う考え方もあります。現世で徳を積めば、来世にも良い影響が出てくると言うのです。
前世診断とは
自分自身の性格に悩みを抱えていたり、生き方に迷いを感じたりした時に、救いや解決方法を過去に求める人たちもいます。専門家のもとで、自分の前世を占ってもらうのです。前世診断と呼ばれています。自分自身がどんな人や生き物の生まれ変わりなのかの判断には、化学的な根拠はありません。でも、過去を知ることで多くの人達が救われ、また新しく歩み出す力を得ていることも事実なのです。
前世診断の方法
前世診断は、現世に生まれて来た生年月日をもとに占いで行われます。生年月日だけでは情報が十分ではありませんので、合わせていくつかの質問に答えることになります。質問の内容は、自分の姿屋体型に関するもの、自分自身の考え方や行動など、様々です。親から受けたしつけや子ども時代の記憶に関して聞かれることもあります。
前世の姿とは
現世では人間として生まれてきたからと言って、前世でも人間だったとは限りません。むしろ、2回続けて人間に生まれ変われる可能性の方が稀だとする考え方もあります。小動物など、人以外の生き物だった可能性が高いです。もしも前世が人間だったのなら、どんな職業や身分だったかのかによって現世の生き方に影響があるようです。貴族として生きていたのか、農民だったのか、あるいは違う国籍をもっていたかもしれません。  
 
前世の記憶を思い出す 3 

 

自分の前世は動物ではなく人間である
人間の前世はずっと人間のままです。よく「私の前世は犬だった」とか動物に例えることがありますが、何度生まれ変わっても人間の魂が動物になってしまうことはありません。
人間と動物は、魂の重さが違います。人間の方が高等生物なので魂が軽くできています。動物は動物霊という存在があるように、非常に重い魂です。
人間が動物霊に憑りつかれたまま亡くなってしまうと、動物霊の重さで自分の身体も重くなってしまい、天界まで上がれないといわれています。
生まれ持って前世の記憶を持っている人は多い
前世の記憶を持つ人は意外に多いです。とくに3歳ごろになってよくしゃべるようになると、ぽつぽつと昔の話をし始めます。
この記憶は7、8歳くらいまで続き、それ以降は次第になくなってくるといわれています。もしかしたらあなたも前世の記憶を持っていたかもしれません。
前世の時代はいつか?
前世の時代設定は人によって様々です。何百年も前の記憶を持っている人もいますし、ヨーロッパなどの異国の記憶を持つ人もいます。一方で、最近亡くなった国内の他人の記憶を持っている人もいます。(実はこちらの方が多いようです)
実際にあった話
Aさん(女性)が子供のとき、Bさんというボーイフレンドとよく一緒に遊んでいました。Bさんは病気で若くして亡くなりました。
Aさんが大人になり、男の子を産みました。その男の子が3歳くらいになると、いきなりBさんの記憶を話し始めました。「よく○○で遊んだよね」などといって、友達のような口ぶりで、Aさんしか知らない幼い頃の記憶を話し始めるのです。
言葉使いや立ち振る舞いも、まさにBさんそのもので、まったく子供らしくないときもあります。Aさんは怖くなって、子供に「もうその話をするな」などと怒鳴ってしまうこともあったそうです。この男の子は年齢があがるとともにその話をしなくなったそうですが、記憶をなくしたのか、それとも母親に気を使って話さなくなったのかは定かではありません。
実際にこうした自分の子供が他人の前世の記憶を持っているケースは珍しくありません。
大人になってから前世を思い出す方法
大人になるにつれて前世の記憶を忘れてしまう人が多いですが、どうしても自分の前世を知りたいという方は、退行催眠(前世療法)が有効です。
退行催眠はスピリチュアルカウンセラーに催眠をかけてもらう方法が主流です。中にはスピリチュアルパワーを身体に込めるところもあり、より記憶を思い出しやすくしてくれるところもあります。
ですが、この治療法は自分自身の自己暗示能力も問われるため、結局前世が見られなかったという悲劇も起こりやすいです。料金も高額なことが多いため、まずは自分で催眠をかけてみることをおすすめします。
恐怖症やこだわりが前世を読み解くヒント
いまの自分に、なにか恐怖症はありませんか?もしくは何か譲れないこだわりや癖、習慣、いつも考えてしまうことなど。もしこうした内容があるようなら、それは前世での体験が原因かもしれません。
たとえば前世で裁縫職人をしていたのなら、現在も裁縫や家庭科に興味を持つかもしれません。また前世で火あぶりになった人は、いまも何となく火が怖いと思うこともあります。
これ以外にも「○○へ行きたい」という旅行願望にも注目してみてください。この国がどうしても気になる、この情景が気になる、という場所があればぜひそこへ行ってみることをおすすめします。
わかりやすいのは、海外や国内の旅行風景写真を画像検索してみて、気になる風景、気に入った風景などをピックアップします。その後、それぞれの写真がどこで撮影されたものなのか調べます。すると、恐ろしいほどに一つの国や場所を指していることがあります。その場所は前世での自分と関わりのある場所である可能性が高いので、ぜひ行ってみましょう。
 
前世を語る幼児 

 

1993年の大火災で命を落とした女性の生まれ変わりか。
「前世」というものの概念すらないであろう幼い子が、突然それを語り始めて親を驚かせたという話がたまにある。米国では今、オハイオ州の幼い男の子が自分の前世を語り、それが1993年に起きた大火災とオーバーラップしていることから人々の大きな関心を集めているもようだ。
この男児はオハイオ州シンシナティ市郊外に暮らすニック&エリカ・ルールマンさん夫妻の息子ルーク君。スティーヴィー・ワンダーの大ファンで好きなおもちゃはピアノ。ゆっくりとした足取りで横断歩道を渡る用心深い子だ。そんなルーク君は2歳の時、買ってもらった大きなテントウ虫型のクッションに“パム”と名付け、こんな言葉を口にしたという。
「いい名前でしょう? 僕、前はパムっていう名前だったの。イヤリングが好きな黒い髪、黒い肌色の女の子だったんだよ。」
夢見がちで、想像を膨らませては何でも口にする幼い子にはよくある話だとして、最初は軽く笑い飛ばしていた両親。しかしある言葉が2人を驚かせる。
「でも死んじゃったんだ。電車に乗って大都会の背の高いビルに遊びに行ったら、すごい火事が起きて、高い所から飛び降りたの。うーん、シカゴだったかな。」
「それで天国に行ったんだよ。でも神様がまた戻りなさいと言って僕は突き落とされちゃった。目が覚めたら僕はママのところにいて、ルークっていう名前の赤ちゃんになっていたんだ。」
夫妻は背筋が寒くなり、エリカさんの母リサ・トランプさんに相談。彼女からは「昔、生まれ変わりについての本を読んだことがある。私はルークの言うことを信じるわ」という返答であった。インターネットでそうした情報がないかを調べてみると、出て来たのは1993年3月にシカゴで39名の死傷者を出したニアー・ノース・サイドの「パクストン・ホテル大火災」という事件であった。そこは利用客のほとんどがアフリカ系で、夫妻は飛び降りて命を落とした犠牲者の中に“パム”と呼ばれていたであろうパメラ・ロビンソンさんという名の30代の女性の名を見つけた。
現在5歳になったルーク君だが、今もその主張はブレることがない。両親は専門家による分析を求めたいとして、この話を米Lifetimeチャンネルのリアリティ番組『ザ・ゴースト・インサイド・マイ・チャイルド』に持ち込み、ついにその撮影が始まった。ただし祖母のリサさんは、「性別や肌の色を超えたこうした不思議な輪廻が存在することを明らかにしたいだけで、出演料が欲しいわけではありません」と話している。
テストではルーク君の前に偽物の写真を含めた何枚もの写真を広げ、「パムは?」と尋ねている。ルーク君は的確に彼女を指さして「この写真が撮られた時のこと、覚えているよ」と言うのであった。パメラ・ロビンソンさんの遺族もルーク君については「話を聞けば聞くほどパムにそっくり。彼女も小さい時にはおもちゃのピアノが大好きで、スティーヴィー・ワンダーが大好きでしたよ」と語っているそうだ。 
 
現世 (げんせ、げんせい、うつしよ)

 

現在の世のこと。古くは「げんぜ」とも読む。
我々人間が現在暮らしていると思っている(認識している)世界、または、その認識。日本語では「顕世(けんせ)」とも読み書きし、「この世」とも言い換えられる。
仏教用語としての「現世」は「げんぜ」と(も)読む。自身が輪廻転生していくなかで今生きて属している(生を受けた)この世界のことを指す。彼岸に対する此岸。
現世に対置される世界としては、仏教では、前世、来世(それに加えて地獄が語られることも)。神道では常世・常夜(とこよ)、幽世・隠世(かくりよ)などがある。キリスト教では、天国、地獄(陰府)などがある。
神道
神道では「現世」と書いて古語としては「うつしよ」と読み、この世や人の生きる現実世界を意味する。それに対峙して、常世(とこよ)いわゆる天国や桃源郷や理想郷としての神の国があり、常夜(とこよ)と言われるいわゆる地獄としての死者の国や黄泉の国と捉えている世界観がある。
ただし、常世と現世として二律背反や二律双生の世界観が基本であり、常世・神の国には2つの様相があり、このことは常世(常夜と常世は夜と昼とも表される)が神の国としての二面性を持つことと、荒ぶる神と和ぎる神という日本の神の2つのあり方にも通じるものである。
古神道の始まりといわれる神籬(ひもろぎ)・磐座(いわくら)信仰の森林や山・岩などの巨木や巨石は、神の依り代と同時に、籬は垣(かき)の意味で磐座は磐境(いわさかい)ともいい、常世と現世の端境を表す神域でもある。神社神道においても鎮守の森や植栽された広葉常緑樹は、神域を表すと同時に結界でもあり、常世(神域)と現世の各々の事象が簡単に行き来できないようにするための物であり、禁足地になっている場所も多い。
また、集落につながる道の辻に置かれる石造の祠や道祖神や地蔵なども、厄除けや祈願祈念の信仰の対象だけでなく、現世と常世の端境にある結界を意味するといわれる。現世における昼と夜の端境である夕刻も常夜との端境であるとも考えられ、この時分を「逢魔時(おうまがとき)」といって、現世に存在しないものと出遭う時刻であると考えられている。
仏教
仏教における「三世」の一つであり、前世、今世、来世 のうちの今世に該当する。また、時間的な前後は別として、浄土教では「厭離穢土、欣求浄土」の概念がある。「穢土」とは「穢(けが)れた世」という意味で、現世にあたる。
『金剛般若経』では「一切の有為の法は、夢幻泡影の如し」とあり、現世を夢幻、泡のように儚いものとして把握していたことが窺える。このように仏教では現世を否定的に捉えていた。
プロテスタンティズム
近代プロテスタンティズムでは被造物を重視することが徹底して否定され、それによって現世の否定がなされ、来世指向のみになったが、やがて現代化するにつれて来世指向は失われ現世指向に傾斜した、と池田昭は解説した。
現世利益
神仏の恵みが現世で与えられるとする信仰。 日本では、一般的に、多種多様な神仏は、それぞれの特色に応じた恵みを、生活の様々な局面のなかで授けてくれるという世界観が根付いている。 一般的に、宗教における現世利益の位置づけは軽視されがちであるが、日本においては、神仏と切っては切れないものとして認識されている。
神教
古来より、地域共同体の守護神である氏神や鎮守へ、村落などの氏子の共同体成因の集団的意志として、雨乞い、日乞い、虫送り、疫病送りなどの現世利益を得ることを目的とした祈願行為が行われていた。現代でも、「祭」のなかに、その伝統文化が根付いている。 現在では、個人の心願に応えるために、神前にて、加持祈祷に長じた神主や巫女により祝詞奏上や舞の奉納がされ、祈願者の玉串奉奠により得られるとする。 個人としての心願の種類としては、病気直し(自分とその家人)、家内安全、商売繁盛、生活苦からの離脱に分類され、そのうち、病気なおしを祈願する場合がもっとも多いという。
仏教
教典を読経したり、念仏・真言を唱えたり、祈祷を行うことにより得られるとする。 日本では、仏教伝来以降、国策として仏像の建設をするなど、現世利益を得る政策がとられた。そして、災厄が訪れ、生活が挫折した際、回復するためにご利益を願うという民衆の心意に対応し、古代末期から中世にかけてさかんとなった真言・天台密教による加持祈祷により、民衆に広まった。 現在でも、真言僧侶による護摩修行などが盛んに行われている。 
 
来世

 

来世(らいせ、らいしょう)、あるいは後世(ごせ、ごしょう)とは、今世(今回の人生)を終えた後に、魂が経験する次の人生、あるいは世界のこと。また、動物におけるそれのことを指す場合もある。神道においては常世(黄泉)のことを指す。仏教では「三世」のひとつ (「前世・現世・来世」のこと。仏教以外においては人生に焦点を当てた「過去生・現在生・未来生」という表現もある)。
転生を前提とした考え方
仏教
仏教では、前世・現世・来世の捉え方はさまざまで、宗派の教義によって異なることに注意を要する。
下記は転生を前提とした考え方である。現世を中心に考える宗派では、六道を自分の心の状態として捉える。たとえば、心の状態が天道のような状態にあれば天道界に、地獄のような状態であれば地獄界に趣いていると解釈する。その場合の六道は来世の事象ではない。
浄土教では、一切の迷いが無くなる境地に達した魂は浄土に行き、そうでない魂は生前の行いにより六道にそれぞれ行くと説く宗派がある。
日蓮の教えでは、(転生があるにしても)、今の自分(小我)に執着するあまり、いたずらに死を恐れ、死後の世界ばかりを意識し期待するより、むしろ自分の小我を越えた正しい事(大我)のために今の自分の生命を精一杯活かし切ることで最高の幸福が得られるのだ、とされている(『一生成仏抄』)。
また真言宗などの密教でも、大我を重要視して即身成仏を説き、天台宗も本覚思想から、「ここがこの世のお浄土」と捉え、来世について日蓮と同様の捉え方がなされる場合がある。
スピリチュアリズム
人間の魂は人間にだけ生まれ変わっており、動物には生まれ変わることは無い、とされる。肉体の死後、魂は、一旦霊的な世界に戻り、数年〜数百年後に、またこの世の肉体に宿る、とされる。この世は魂にとってのある種の"学校"のようなものであり、魂は転生を多数繰り返し、人間の肉体を通して様々な立場に伴う苦しみ・喜びなどを学び、次第に智慧を得て大きな慈愛にも目覚めると、この世で肉体を持つ必要はなくなり、霊的な階層世界の上層へと登ってゆく(言わば"卒業"する)とされる。
"行ったきり"の死後の世界
「今の人生→死後の世界」という一方通行的な世界観。自分が今の自分のまま別の世界に行くという考え方(この考え方は、厳密に言えば「来世」という転生を前提とした項には属さないかも知れない。が、便宜上この項で扱う)。この意味では、「来世」の類義語として、あの世(あのよ)、死後の世界(しごのせかい)が挙げられる。
天国と地獄
様々な宗教で「天国」と「地獄」((あるいは極楽と地獄)があるとする考え方も多い。 この場合、天国は生前に良い行いをして過ごした人が行き、地獄は生前に悪い事をしてきた人が行くとされることが多い。
キリスト教においては、ヨーロッパの中世期ころなどに、(元々のイエスの教えの意図から離れてしまい) 洗礼の有無等によって死後に魂の行く世界が異なる、などと強調されたことがあったが、現代のカトリック教会では、過去の反省も踏まえ、そのようなことに力点を置いた説明は控えられている。
古代日本における死後の世界
日本では、古代において、死後に行く世界は、黄泉(よみ)と呼ばれていた。だが、発想の原点がそもそも現世利益重視や小我重視の視点であるため、あの世は「けがれ」の場 ( 否定されるもの、あるいはある種のタブー) としてとらえられる傾向があった。また同様の理由から、黄泉の概念は善悪とは結び付けられることもなく、人間の生き様を高めるためのきっかけとはならなかった。 後に、仏教が流入すると、日本古来の黄泉の観念と、仏教概念の中でも通俗化した"極楽・地獄"の観念とが混交することとなった。
日本での通俗
「天国・地獄」という図式を前提とした上で、"地獄には閻魔がいて生前の罪を裁く"とする考え方も民衆の間にはある。これは、インドで生まれ、中国の民衆によって脚色され、後に日本の民衆にも広まった考え方であるが、あくまで通俗的なものであり、真面目な仏教の概念ではない。
日本において支配的な宗教である神道及び仏教には本来「天国」という用語は無い。しかしながら日本人が故人について語る時、「天国の誰々」と呼ぶことはあっても「極楽の誰々」「黄泉の誰々」とは滅多に言わない。改まった語法として「泉下の誰々」があるが、これは黄泉から来た言い回しである。
来世への「旅」
人の肉体が生死の境をさまよっているときに、魂(意識)は川岸にたどり着き(三途の川)、それを渡ることで魂は次の世界に行く、という話は、広く知られている。臨死体験をした者にこのような報告をする者も多いらしい。が、自ら転生をしていると認める者でも、その川は便宜的に視覚化されたある種の心象風景ともいうべきものであって、この世とあの世の間に川があるわけではない、と説明する者もおり、もとより物理的に検証できる性質のものでもなく、真偽のほどは定かではない。 
 
来世についてのキリスト教の考え

 

キリスト教の教えはイエス・キリストの教えであって、カトリック教会はそれを忠実に伝えていると自負しているわけですが、その教えの中でも信じなければならない部分(これを教義{ドグマ}と言う)と、各自が勝手に解釈してよい部分があります。そして、教義の部分は普通とても限られていて、大きな部分がそれぞれの解釈に委ねられています。この「あの世」に関しての教えでも教義の部分は少ないので、神学者たちが残りの部分について様々な意見を言っていますが、それも紹介したいと思います。
何年か前にテレビで臨死体験についてのドキュメンタリ−がありました。臨死体験というのは、事故などでほとんど死にかけたときの体験です。その状態から回復した人たちの証言を集めた番組でした。それによると、多くの人が死にかけたとき向こうのほうに明るい光を見たと言っているそうです。「そんなことは何にも見なかった」という臨死体験者もいることも言っておきますが、面白いことですね。でも誰もそこまで行って帰ってきた人はない。そこには何があるのでしょう。
あの世についてのキリスト教の教え
キリスト教は人間は霊魂と体からできていて、肉体が死んでも霊魂は永遠に生きると教えます。霊魂がいつ体から離れるのか、脳が死ぬときか心臓が止まるときか、は科学の問題で教会は何も言っていません。
しかし、はっきり教えていることは、霊魂が体から離れた瞬間に審判があるということです。これは個人と神様の個人的な審判なので「私審判」と呼ばれます。好奇心を引かれることは、私審判とはどのように行なわれるのかということですが、これについては聖書には何も書いていません。イエス様は、世の終わりにある「公審判」(最後の審判と同じ)についてははっきり教えましたが(マテオの25章)、私審判については話してれませんでした。そこで、以下に書くことは、神学者たちの言っている意見です。つまり、これと違う考えを言うのもまったく自由てわけ。でも、一様聞いて考えてみてください。
霊魂が体から離れると、瞬間的に自分の人生をまるで映画を見るように見るらしい。そうすると、自分のした良いこと悪いことさぼってしなかった良いことなど一つ残らずはっきり見える。私審判のことを「真実の時」と言うのですが、それはその時には嘘ごまかしができないからです。この世では私たちはよく嘘をついて人をだましますが、神様はだませません。自分の一生の本当のありさまを見て、判決が下るとき、「それはおかしい」と反論する気持ちさえ起こらないと考えられる、ってわけ。
もう一つの注意は、審判とは、古代エジプトの絵にあるように天使が天秤をもって、「あんたがした良いことは120、悪いことは140。差し引きするとマイナス20。残念だけど地獄に行きなさい」と言うようなものではないらしい。善業と罪を比べるのではなく、私たちがどのような態度で人生を過ごしてきたか、つまり根本的に、自分のためだけを考えて生きてきたのか、それとも神と隣人のことを考えて生きてきたのか(結局人の生き方とはこの二つのどちらかになる)が、判定の対象になる、とうわけです。イエス様の公審判についての教えによると、人は生きているときに困っている隣人のことを考えて助けてあげたか、それとも無視したかで裁かれています。つまり、自分のことだけ考えた利己主義者か、隣人に気を配ることができる人であったか。(もちろん、殺人や強盗などは隣人愛を全く否定することですからダメに決まっている)。このようなことを考えると少し恐くなのが普通。でも神様は私たちの父である、というイエス様の根本的な教えがあります。だから、この父の良い子として生きようとしていれば、恐れることは何もない。もし、今から神様と親しい生活を送っていれば、審判のときに神様は優しい父として接してくださるでしょうから。また家族、友達の中で困っている人はないでしょうか、という気配りにも心がけた方がいい、という結論です。 
 
常世(とこよ)、かくりよ(隠世、幽世)

 

永久に変わらない神域。死後の世界でもあり、黄泉もそこにあるとされる。「永久」を意味し、古くは「常夜」とも表記した。日本神話や古神道や神道の重要な二律する世界観の一方であり、対峙して「現世(うつしよ)」がある。
「常夜」と記した場合は、常に夜である、夜の状態でしかない世界であり、常夜という表記の意味から、死者の国や黄泉の国とも同一視される場合もあるが、折口信夫の論文『妣が国へ・常世へ』(1920年に発表)以降、特に「常世」と言った場合、海の彼方・または海中にあるとされる理想郷であり、マレビトの来訪によって富や知識、命や長寿や不老不死がもたらされる『異郷』であると定義されている。
古神道などでは、神籬(ひもろぎ)・磐座(いわくら)などの「場の様相」の変わる山海や森林や河川や大木・巨岩の先にある現実世界と異なる世界や神域をいう。
日本神話
『古事記』や『日本書紀』1書第6によると、大国主命とともに国造りを行なった少彦名神は国造りを終えた後に海の彼方にある常世の国に行ったという記述がある。
『万葉集』では、浦島太郎が行った竜宮城も常世と記され、現実の世界とは時間の流れが著しく違う。このことから不老不死の楽園を表すとされる。
『日本書紀』の天照大神から倭姫命への神託では、伊勢を常世の浪の重浪の帰する国(「常世之浪重浪歸國」)とある。
古神道・結界と禁足地
古神道の依り代とされる巨石・霊石や神木や鎮守の森などは、神の依り代であると同時に、神籬の「籬」は「垣」であり磐座は「磐境」ともいい、それぞれ「端境」を示している。
その境界の先は神域と考えられ、常世のことであり、沖ノ島などは社(やしろ)や鎮守の森だけでなく、島全体が神域となっていて禁足地である。鎮守の森や神社の広葉常緑樹の垣は、その常世との端境であると同時に結界でもあり、現世と常世の様々なものが簡単に行き来し、禍や厄災を招かないようにしていて、禁足地になっている場所も多い。
集落に繋がる道の辻に、石造の道祖神や祠や地蔵があるのは、道すがらや旅の安全の祈願祈念だけでなく、常世との端境にある結界の意味を持つ。
常夜という意味から、夕刻などの夜と昼の端境も常世と繋がると考えられ、「逢う魔時」といわれ、深夜なども深い静寂な夜は、常世と重なることから、現実には存在しない怪異のものが現れる時刻を、「丑三つ時」と呼び恐れた。 
 
霊魂 1

 

(れいこん、英 / Soul、Spirit) 肉体とは別に精神的実体として存在すると考えられるもの。肉体から離れたり、死後も存続することが可能と考えられている、体とは別にそれだけで一つの実体をもつとされる、非物質的な存在のこと。
人間が生きている間はその体内にあって、生命や精神の原動力となっている存在、人格的・非物質的な存在。個人の肉体や精神をつかさどる人格的存在で、感覚による認識を超えた永遠の存在。
「霊魂」とは、体とは別に実体として存在すると考えられているものであったり、人間の生命や精神の源とされ非肉体的・人格的な存在とされるもののことである。
霊魂という表現は「霊」と「魂」という言葉の組み合わせであり、両方を合わせて指している。一般には、個人の肉体および精神活動をつかさどる人格的な実在で、五感的感覚による認識を超えた永遠不滅の存在を意味している。
宗教や文化圏ごとに様々な理解の仕方がある。
古代エジプトの時代から、人が死ぬと肉体から離れるが、肉体に再び戻って来る、という考えがあった。 古代インドでは、霊魂は何度もこの世に生まれ変わるという考え方が一般的であった。輪廻転生(転生輪廻)の思想である。  「あの世」(霊界)へ行ったり、「この世」(生者の世界、現世)に影響を及ぼしたりすると考える文化・思想も存在している。人間だけでなく、命あるもの全般、動物や植物に宿ると考えられたり、さらには鉱物にも霊魂が宿る、とされることもある。霊魂を心と同一視することもある。「心は霊体、魂は神魂」とする、霊魂と心を同一視しない考え方もある。また他方、すでにサンジャヤ・ベーラティプッタが来世に関する問いへの確答を避け、不可知論の立場をとった。
霊魂は、生きること、死生観の根源的な解釈のための概念の一つともされる。現代では、霊魂を肯定的にとらえることが、生きがいや健康といったものと深く関係があることが、様々な学者の研究によって明らかにされている。
「霊魂」という表現
「霊魂」という表現は、「霊」という言葉と「魂」という言葉が組み合わされている。「霊」(れい、たま)は、すぐれて神妙なもの、神、こころ、いのちなど、多様な意味を持っている。 また、そこに何かいると五感を超越した感覚(第六感)で感じられるが、物質的な実体としては捉えられない現象や存在(聖霊など)のことを指すこともある。
「魂」(こん、たましい)の方は精神を司る精気を指し、肉体を司る「魄」と対比されている。
よって、「霊魂」という言葉は「霊」と「魂魄」両方を含む概念を指すために用いられている。ただし、通常は、個人の肉体および精神活動を司る人格的な実在で、五感的感覚による認識を超えた永遠不滅の存在を意味している。そして人間だけでなく、動物や植物、鉱物にまで拡大して用いられることがある。
起源
人類誕生以来、いつ頃から「霊魂」という概念を持つようになったかははっきりわかっていない。ホモ・エレクトス以前の古人類には死者を埋葬した証拠が発見されていない。ネアンデルタール人については、(一部に否定説はあるが)死者を埋葬し花を供えるなどの宗教行為を思わせる遺跡が幾つか知られており、これらの行動や文化の原動力として原初的な死生観を持ちえていた可能性があるとする解釈も主張されている。
クロマニヨン人などホモ・サピエンス段階になると、より手の込んだ埋葬方法や墓制の存在がはっきりしており、食料や道具などの供物、墓の上に大石を置いたり死体の手足を縛って埋葬するといった風習もあって、原始的な宗教観念と霊魂への慕情や恐れの観念も、より明確であったと思われる。
宗教などにおける説明
多くの宗教においては、人は死んでも意識あるいはそれに近いものは霊魂となって残ると説く。霊魂は生前暮らしていた土地に鎮まるとも、黄泉のような霊魂の住まう世界に旅立つともいう。霊魂の存在は、しばしば道徳・倫理などと結びつけて語られる。キリスト教などが説くように、生前の行いに応じて天国や地獄などに送られるともいわれる。あるいはヒンドゥー教のように霊魂は生前の行いに応じて転生すると説く宗教も有る。仏教の一部(大乗仏教)でも、六道の間を輪廻すると説く。
古代エジプト
古代エジプトでは、霊魂は不滅とされ、死者は復活するとされていた。オシリスが死と再生を司る神として尊崇された。 自然界のあらゆるものに霊が宿るとされ、霊にも人間と同様に感情や弱点、欠点があると考えられていた。
定められた呪文を唱えたり定まった儀式を行うことによって願望を神に伝えたり、動植物の霊と交流したり、病人から苦痛の原因である悪霊を追い出すことや、死者に再び魂を入れる役割の神官、祭司(魔術師)などがいた。
人の魂は五つの部分から成っているとされた(アルファベット表記なら、Ren、Ba、Ka、Sheut、Ibの五つ)。死者のBa(バー)のよりどころとして死者の体をミイラにして保存した。
死者のバーが無事冥界に渡り、将来死者が甦るようにと、ミイラ作成期間の70日ほどの間、祭司は何度も大量の呪文を唱えた。『死者の書』(死者の霊が肉体を離れて冥府に至るまでの過程を描いた書)が死者とともに埋葬されることもあった。
ピラミッド・テキストと呼ばれる初期の死者埋葬のテキストでは、死者が行くのは天の北にある暗黒の部分であり、そこで北極星のまわりの星とともに、アク(霊)として永遠の命を生きる、とされた。
古代ギリシャの哲学
プラトンは対話篇において霊魂の働きに着目しつつ探求した。『パイドン』および『メノン』においては、永遠の真理(イデア)を認識する方式として想起論を提示し、その前提として霊魂不滅説を唱えた。
キリスト教など
旧約聖書では、ネフェシュ(ヘブライ語で「咽喉」の意)と表現される。これに聖なる霊(ルーアッハ。風、息の意)が入って預言がなされるという思想があった。
欧州においては人間を構成する要素は霊魂(アニマ、ANIMA)、精神 (SPIRITVS) 及び肉体 (CORPVS) であり、錬金術ではこれらは三原質と結び付けられて考えられていた。また、3という数からキリスト教では三位一体に比せられることも多かった。霊魂と精神は肉体に宿り、肉体が滅びると精神と霊魂は分かれると考えられており、霊魂と精神は肉体という泉を泳ぐ二匹の魚に擬せられたこともあった。
ここにおける霊魂は人間の本能のようなものであり、成長することはないと考えられていたのに対し、精神は理性のようなものであって成長するものであるとされていた。
古代インド
ヴェーダやウパニシャッド / 『リグ・ヴェーダ』などのヴェーダ聖典では、人間の肉体は死とともに滅しはするものの、人間の霊魂は不滅である、とされていた。同聖典では、人間の死後に肉体を離れた霊魂は、火神アグニなどの翼に乗って、最高天ヤマの王国にたどり着き、そこで完全な身体を得る、とされた。後のウパニシャッドにおいては、死者の魂は、解脱する人の場合は"神道"を通ってブラフマンに至り、善人の場合は祖道を通って地上に再生する、と説かれた(「二道説」と呼ばれる)。そして解脱することがウパニシャッドの目標となった。霊魂を示す言葉としては「アス」「マナス」「プラーナ」「アートマン」といった言葉が使われた。その中でも「アートマン」はウパニシャッドの中心概念となっている。
サンジャヤ・ベーラティプッタ / 仏教興隆期のインドのサンジャヤ・ベーラティプッタは来世に関する4つの問いを設け「来世は存在するか?」「来世は存在しないか?」「来世は存在しかつ存在しないか?」「来世は存在するわけでもなく、存在しないわけでもないか?」それぞれすべてに対して「私はその通りだとも考えないし、別だとも考えない、そうでないとも考えないし、そうでないのではないとも考えない」として確答を避け、不可知論の立場をとった。このような態度はゴータマ・ブッダの「無記」の立場と通じあう点がある、とされる。
初期仏教
ブッダが説いた初期仏教での「無我」は「霊魂がない」と解するのではなく「非我」の訳語が示すように、「真実の我ではない」と解すべきもの(自他平等の境地を目指した思想)である、ともされている。 俗に言われる霊魂とは全く異なる。
中国の宗教(道教など)
中国の道教では魂と魄(はく)という二つの異なる存在があると考えられていた。魂は精神を支える気、魄は肉体を支える気を指した。合わせて魂魄(こんぱく)ともいう。魂と魄は易の思想と結びつき、魂は陽に属して天に帰し、魄は陰に属して地に帰すと考えられていた。
民間では、三魂七魄の数があるとされる。三魂は天魂(死後、天に向かう)、地魂(死後、地に向かう)、人魂(死後、墓場に残る)であり、七魄は喜び、怒り、哀しみ、懼れ、愛、惡しみ、欲望からなる。また、殭屍(キョンシー)は、魂が天に帰り魄のみの存在とされる。(三魂は「胎光・爽霊・幽精」「主魂、覺魂、生魂」「元神、陽神、陰神」「天魂、識魂、人魂」、七魄は「尸狗、伏矢、雀阴(陰)、容贼(吝賊)、非毒、除秽(陰穢)、臭肺」とされることもある。)
日本
日本での仏教 / 上記の初期仏教に関する上記の解説とは異なり、ブッダは「無我」を説いて霊魂を否定した、ともされる。近年の日本の僧侶や仏教関係者によって執筆された仏教入門書等ではそのような図式で説明されていることが多い。仏教では、六道の輪廻からの解脱を目的としている。 死後、成仏(解脱)する事ができた者は、諸仏の持つ浄国(浄土)へ生まれ変わる。出来なかった者は、生前の行いにより六道のいずれかに生まれ変わる。 その生まれ変わるまでの期間を中陰と呼ぶが、中陰時の立場を、民間信仰では霊魂と混同されることがある。
日本の古神道(民間信仰)や神道 / 古神道では、森羅万象にマナが宿るとする。南洋の諸民族、中国などに共通した思想があった。 折口信夫『霊魂の話』によれば、肉体から容易に遊離し、付着すると考えられた。優れた事績を残した人物の霊魂は、尊と同等の人格神、あるいはこれに相当する存在となるとされる。 国家神道で明治以降、戦死者の魂のことを敬っていう場合は特に「英霊」(えいれい)と呼んでいる。その区別や概念も曖昧であり、それを分類や定義付けることなく享受してきた。 ただし、強弱や主客といえるような区別は存在し、大きいもの(巨石・山河)や古いもの長く生きたものが、その力が大きいと考えると同時に尊ばれた。日本神話にある、人格神などの人としての偶像を持つ神々も信仰の対象とし、「それらの神がその他の森羅万象の神々を統べる」という考え方に時代とともに移っていった。また神(霊魂)には荒御魂や和御魂という魂の様相があるとし、それぞれ「荒ぶり禍をもたらす魂」と、「和ぎり福をもたらす魂」とされる。  
神霊
尊(みこと) / 日本神話にある人格神(人と同じ姿かたちと人と同じ心を持つ神)。
霊(チ) / 霊魂の基本となる言葉。血や乳(チ)に通ずるという。
魂(タマシヒ) / 強い付着性、遊離性を持つマナ 荒御魂(アラミタマ)柳田國男『先祖の話』によれば、新たな御霊(ミタマ)つまり最近死んだものの魂。
霊(ヒ) / 全ての活力の元であり、優れて威力のあるもの。白川静『字訓』によれば、中国で生命の原動力が雨に求められたのに対し(なので雨の字がつく)、日本では太陽光から来ると考えられたので、日と同じヒと呼ばれる。 
 
霊と霊魂 2

 

動物の肉体に宿っているとされる謎な存在でありながら、死後は天に昇ってゲーム三昧マンガ三昧のNEETになったり、奈落へ堕ちてひたすら閻魔様にエクストリーム・謝罪したり、稀に現世に残って、生前なし得なかったことを試みたり恨めしい者に嫌がらせしたりする、なんとも自由で気ままな存在である。夏には欠かせない存在。暑い夏を涼しく演出してくれる、重要な存在である。いまでは一家に一人の幽霊の時代である。                                    
一般に霊と言えば本体の死後、現世に残っている霊を言い、中でも心霊現象を引き起こすと考えられるものを悪霊と呼ぶ。本項では面倒くさいので、悪霊の解説は心霊現象の項に任せるとする。
動物、特に人間の肉体に宿っている状態の霊は、上記の霊と区別して霊魂や魂とも呼ばれる。この霊魂こそが「自分」の正体であるという説もあるが、自分自身なのに、自分自身が自分自身を見ることも触ることもできないという、なんとも理不尽な説である。
霊は数学の0(零)に近いが、そのあり方は大きく異なる。0が無そのものであるのに対し、霊は無のようなものであり、早い話がまるで空気のように存在感の薄いもの、という事である。
霊の分類
地縛霊 / 死んだあともその場から動こうとしないひきこもり思考の霊。とにかくひきこもりな為、自分のテリトリーに入ってくる人間に対して攻撃する傾向がある。近づかなければ何もしないので放っておいてあげてください。自宅警備員の方々はこれになって死後も自宅を警備する。
浮遊霊 / いつまで経っても定職につかず遊び歩いているあんちゃんのごとくプラプラしている霊。遊び歩けるので、一番楽しい。一番人気の霊である。
背後霊 / 人の背中にぴったりとついて回るストーカー思考の霊。その相手に恨みを持って付きまとっている場合と、その人を守ろうとして付きまとっている場合がある。自分の意思で自由に動かせた場合、それはスタンドであり、霊ではない。
生霊 / なんか知らないけど生きてるのに出る奴。しかも恨んだ奴には恐ろしい仕打ちをする。 なまいきかつフリーダムのうえに勝手な奴だ。
綾波霊 / オタクの目の前に現れる 私が死んでも代わりはいるものと言いつつオタクをディラックの海でさらう ちなみに笑えばいいと思うよで回避できる もちろんたくさんいる とあるオタク怒り臣事氏の証言によると限りなくファーストチルドレンだったそうだ
その他 / 霊はとにかくフリーダムであるから、分類できない霊も数多く存在する。
霊の特徴
肉体から離れた霊は、マナーや法律・倫理観などのあらゆる束縛から完全に自由であるが、同時に知識や思考・判断などからも離れた存在となるため、馬鹿である。そのため大抵は神または閻魔様に引き寄せられるがまま、バカ正直に天や奈落へ逝ってしまう。
だが一部の根強い執念をもつ霊は、神や閻魔様が引くよりも更に強い力で現世に執着し、生前なし得なかった事を為し遂げようとする。
当然、霊には脳が無いので「記憶」は存在せず、生前の未練や恨み辛みを覚えているわけではないらしい。にも拘らずなぜ霊が後述のような行動をとるのかという疑問には、以下のような説明が妄想狂たちによって付けられている。
脳裏に焼き付いた強い記憶や感情などがプラスやマイナスのエネルギーとなり、霊をイオン化して善か悪に染めてしまう。
霊=0であり、よって無限の可能性を秘めている。
そんな常識は通用しない。
そもそも霊が人間の妄想
と、変に科学的・数学的・非常識的な説明であるが、ともかく霊は馬鹿なので、エネルギーが導くままに動いてしまうのだと説明し、これでも更に詳しい説明を求めるような者は、霊と同じくらい馬鹿であると言って議論を終了するのが妄想狂の常套手段である。
死後、負のエネルギーを断ち切れればいいのだが、現代ではそういった死んだ時のための予備知識が手に入らないため、あっさりとマイナスエネルギーに染まって邪悪になってしまう霊も多い。非常に無念である。
霊の行動
行動は非常に多様であり、家族や恋人の元へ向かう霊や、憎い人物に復讐しようとする霊など、強い思い入れのある人や物に執着するのが普通だが、中には自宅を警備してみたり、ジャパネットたかたでお得な商品を探したり、偉大なる将軍様のご尊顔を拝見したり、Hydeの身長は156cmだったりするものもいる。
孤独死した老人の霊などは、しばしば自分の死亡届を自分で提出しようとする。残念ながら、成功した例は今のところ無いと思われる。
霊の能力
死霊、特に悪霊はしばしば呪いや祟りなどの強い力を持っているといわれるが、それは何も死者の霊に限った話ではなく、生きている人間の魂にも、そういった能力は一応申し訳程度には備わっているものである。それもよほど強い想念がない限り、直接的に大きな被害を与えるものではなく、せいぜい人をイライラさせてストレス社会を促進したり、眠気を増して仕事効率を低下させたり、食欲や疲れを増してデブを増やして地球温暖化を促進したりするとかいう、ねちねちした嫌がらせレベルである。
ただし、肉体を持つ生きた人間が呪いを成就させるのは非常に困難ではある。肉体があるということは脳があり、耳があるために、聞きたくない音も聞こえてしまう。特に日本の集合住宅では、隣人の話し声や、足音や、あんなことやこんなことをしている声や、夫婦喧嘩や、子供が走る音や、あんなことやこんなことをしている声や、断末魔の呻き声や、あんなことやこんなことをしている声や、駆けつけた警察のサイレン音や、名探偵が現れて華麗に事件を解決する声や、Hydeの身長は156cmである音や、あんなことやこんなことをしている声や、あんなことやこんなことをしている声などの様々な騒音があり、とても心を無にできる環境ではない。
そのため俗に超能力者と呼ばれる人々は、自然豊かで雑音の無い地域(=科学技術が未発達な地域)に多く、頭の固い科学教の信者達はこれを理由に彼らをイカサマ師であると主張するが、大抵はその通りである。
霊に関する誤解
霊というと心霊現象を引き起こす悪霊を連想する人も多いが、前述の通り実際にそれほど大きな心霊現象を起こす霊は極めて稀である。悪霊は閻魔様の持つ掃除機に必死で抵抗して現世に残ろうとするが、普通は大事をなす前に力尽きて、奈落の底へすってんころりんひょいころころりんと転がるのである。
また、善人の魂は天国で極楽に、悪人の魂は地獄で苦痛に過ごすという思想は世界的に見ても非常に多いが、今ではこれは生きている人間のエゴの表れであり、世界の真理ではないというのが主な妄想狂達の見解である。善人に限って多く降りかかる苦しみや悲しみなどの試練が、悪人には少ないことを「不条理」とか「不公平」だとマイナスに考え、「せめて死後は報われてほしいな〜☆」となる思考順序は想像に難くない。
単純に、人間という一生物にとってのみの善悪感がそのまま世界・神にとっての善悪に当たると盲信している人間たちは、自己矛盾と言えそうである。もはや人間は神を崇めているのか、それとも人間が全てなのかもはっきりせず、霊魂や超常現象なんかより、人間という生物のほうがよっぽど謎である。 
 
死後の世界はあるか

 

11月になりました。カトリック教会はこの月を死者の月としてなくなった人々のために祈り、同時に死について考えるように勧めています。世の中には「タブ−(大っぴらに話さないこと)」ということがありますが、宗教を抹殺しようとする近代社会では「死」もタブ−になりました。しかしこれは非常に大切なテ−マで、しかも誰でも本当は興味を抱いているテ−マなのです。上智大学でデ−ケン神父という人が「死の哲学」という授業をしていますが、学生の多くが年末の試験の答案に「今までは死を学ぶなどということは暗い考えだとばかり思っていましたが、生きていく上で実に大切だということが判りました」と感謝するそうです(『死とどう向き合うか』、NHK出版)。
孔子は「死とはどのようなものでしょうか」と聞かれて、「まだ人生の途中で、生ということを満足にわかっていないものには、死は考えても理解できない」と言って答えなかったそうです。孔子にとっての最大の関心は「人がいかに生きるべきか」でしたので、このような答えが出てきたことはある程度理解できます。けど、生きることはよく旅に例えられますが、それなら死ぬことは目的地になりますよね。目的地がどこかを知らなければ、よい旅をすることはできないのと同じように、死が何かを考えなければよい生き方もわからないのではないでしょうか。
とは言っても、死はそんなに明るい話題ではないことは確かです。毎日友達と死について話す人がいたら、ちょっと気味が悪いですよね。また、この受験の大切なときに死について考えて恐くなって夜中におねしょしたりして不眠症におちいり勉強ができなくなって、業務上過失致死かなんかで長崎地方裁判所に訴えられたりでもしたらいやですから言っておきますが、これはおばけの話しのように人を恐がらすためではまったくなく、逆にこのテ−マについて話すことで余計な恐れを取り除くことにあります。
さて、死後の世界については、いろいろな意見があります。どうしてかと言うと、あの世はだれも見たことがないし、見ることができない代物だからです。ヨ−ロッパでは近代になって、見ることも触れることもできない問題に対しては、「それはわからへんから、考えんことにしよう」という考え(これは不可知論とか懐疑論と呼ばれる)が広がり、現在の日本でもこの考えの人は多い。しかし、以前に何度か言ったように、見えない問題についても人間は考えられるし、普段から無意識に考えている。では、どのように考えられるかを、これから何回かにわたってお話したい。
話しの進め方ですが、以下のようにしたいと思います。つまり、まず死後の世界についてどんな意見があるかを見て、それぞれについて考えてみる。次にもしあるならば、それはどのような所かを考える。その後で、キリスト教はどのように教えているかを説明したい。というわけで、まず死後の世界があるかないかについて見てみましょう。
死後の世界はないという意見について
死ぬとは体の働きが止まることだと言えるでしょう。体の機能が止まると、体は腐敗していって最後にはなくなる。問題は人間はこの腐敗する体だけか、それとも霊魂を持つのかということです。そして、当然、霊魂がないという人は死後の世界なんかないと言います。だから唯物論者は死後を否定する。すでにヘレニズム時代エピキュロス(紀元前341〜270年)という人もそう考えていました。彼は「死は我々とは関係ないものや。せやかて、今生きてるときは死はないし、死んでしもたらわしがおらんようになってしまっとんやさかい」と言って弟子たちを勇気づけていました。
皆さんはこのエピキュロスの考えについてどう思いますか。もしこれで満足なら、この先は読む必要はありません。でも、これで満足する人は少ないのです。人は普通死を恐れ、できれば考えないでおこう、とします。そのために今現在目の前にあることに集中しようとする。目の前にあることに集中することは大切ですが、同時に遠くにある目標もしっかり見つめておく必要があるのではないか、と思うのですが。
もし、死後の世界がないから、人間の人生はこの世で終わりです。ということは、人間の幸福とは、この世でできるだけ楽しむということになりませんか。でも少し考えたら、どんなに楽しんでも結局終わりが来て無に帰するなら、それもむなしいことですね。また、もし人生がこの世だけなら、良心に従って善い行ないをしてもあまり意味がない、ということにはならないでしょうか。
唯物論が18世紀に西洋の知識人の間に広がり始め、それ以後自然科学が驚くべき発展を遂げた20世紀の末期の今、世界の大部分の人は来世を信じないのでしょうか。いやその逆なのです。世間には科学が発達すれば、宇宙が自然(神の手を借りずに)に発生したこと、人の精神的な働きは結局脳味噌の働きであること、だから人間も自然の(神の介入なしの)進化の結果猿のような動物から生まれてきたことが証明できる。そうすれば人間の謎もすべて説明できる、と考えている人が結構います。『長崎の歌』(永井隆博士の伝記)という本に、博士が島根の山奥から長大の医学部に入学したとき、まさにそのように考えていたとあります。霊魂とか神とかはまったく非科学的なもので、科学の発達によっていずれ忘れ去れらてしまうものだ、と。しかし、ある日「家に帰れ」との電報を受け取り、急いで帰省します。家に帰るとお母さんが危篤でした。その時の模様を博士は次のように書いています。「私が枕元に駆けつけたときにはまだ息があって、じいっと私の顔を見つめたまま事切れた。その母の最後の目は私の思想をすっかちひっくり返してしまった。私を生み、私を育て、私を愛し続けた母が、別れにのぞんで無言で私を見つめたその目は、お母さんは死んでも霊魂は隆ちゃんおそばにいついつまでもついているよ、と確かに言った。霊魂を否定していた私がその目を見たとき、何の疑いもなく母の霊魂はある、その霊魂は肉体を離れ去るが、永遠に滅びないのだと直感した」(42ぺ−ジ)。
人はなくなった人をお墓に埋葬する。そして、親しい人だったら、しばしばお墓に行って故人に祈るでしょう。それは、この永井博士が直感したことをおぼろげながら認めているからではないでしょうか。来世がないと言った人はいるけど、来世がないと証明した人はいまだいません。 
 
魂 (キリスト教)

 

ほぼすべてのキリスト教徒は、魂(たましい)は人間の不滅の本質であり、魂は死後に報酬か懲罰を受けると信じている。死後の賞罰は、善行あるいは主なる神とイエスへの信仰によって左右されるが、この基準に対して、キリスト教徒の各宗派間で激しい論争が行われている。
なお、魂の復活や、死後について触れられるのは新約聖書であり、旧約聖書での記述は皆無である。
多くのキリスト教学者は、アリストテレスと同じく、「魂についてのいかなる確実な知識に到達することも、世界で最も困難な事柄の一つである」との見解を持っている。初期のキリスト教思想への最も大きな影響者の一人とされているアウグスティヌスは、魂は「肉体を支配するために適用され、理性を付与された、特別な実体」であると書いた。またイギリスの哲学者、アンソニー・クイントンによれば、彼が「性格と記憶の連続性によって接続された一連の精神状態」と規定したところの魂とは「人格性の本質的な構成要素」であり、「したがって、魂に関連付けられるいかなる個々の人間身体からも論理的に区別されるばかりでなく、まさに人格そのものである」とされる(cf. Anthony Quinton, "The Soul," Journal of Philosophy 59, 15 (1962): 393-409)。
オックスフォード大学のキリスト教宗教哲学者リチャード・スウィンバーンは以下のように書いた。「実体二元論者が――精神性の霊的な主体としての――魂の存在を説明できないことは、実体二元論へ頻繁に行われている批判である。魂は感覚と思考、願望、信仰、意図した行為を実行する能力を備えている。魂は人間の本質的な部分である」。
魂の発生源は、しばしばキリスト教徒を悩ませる疑問である。主な理論として、創造説(訳注:“Creationism”誕生の際に、魂が神によって創造されるとする説)、伝移説(訳注:“Traducianism”誕生の際に、両親から魂が遺伝されるとする説)、先在説(訳注:“Pre-existence”誕生の前に、前世での魂の存在があるとする説)が提唱されている。
その他のキリスト教徒は、それぞれ次のように信じている。
少数のキリスト教徒の集団は、魂の存在を信じず、死の際に人間は精神と肉体の両面で存在を停止するとしている。しかしながら彼らは、いつか将来の「世の終わり」に臨んで、主なる神がイエスを信じる者の精神と肉体を再生すると主張している。
他の少数派キリスト教徒は、魂の存在は信じるが、魂が本質的に不滅であるとは信じていない。この少数派もまた、イエスを信じる者の生命にのみ、キリストが不滅の魂を授けるのだと信じている。
中世のキリスト教思想家は、信仰や愛情と同じように、思考や創造力のような属性をしばしば魂に割当てていた(これは「魂」と「精神」の境界が、別個に解釈できる事を意味する)。
エホバの証人は、魂とは霊ではなく生命それ自身であり、すべての魂は死ぬと信じている(欽定訳聖書 - 創世記2章7節、エゼキエル書18章4節)。
「魂の眠り」説では、魂は臨終において「眠り」に入り、最後の審判まで休眠状態に留まると述べている。
「肉体からの離脱と主なる神への帰一」説では、魂は死の瞬間に、その後のいかなる出来事も経験することなく、直ちに世の終わりに至ると述べている。
「煉獄」説では、世の終わりを迎える準備が完了する前に、不完全な魂が贖罪と浄罪の期間を過ごすと述べている。
ウァレンティヌスによるキリスト教グノーシス主義
キリスト教の初期、グノーシス派キリスト教徒のウァレンティヌスは、その他多数の「永遠の知恵」との調和という、神秘主義的な異説を提唱した。ヴァレンティヌスは、人間を体(ソーマ)、魂(プシュケー)、霊(プネウマ)の三重からなる実体と想定した。同様の区分は聖パウロのテサロニケの信徒への手紙一にも見られるが、ウァレンティヌスはこれをより強化させ、すべての人間は半ば休眠中にある「霊的種子(スペルマ・プネウマティケー)」を所有しており、キリスト教徒としての霊的発展の中で、霊によりすべての種子は結合され、キリストの天使と等しい存在となる事が可能であると考えた。
ウァレンティヌスの述べる霊的種子は、ヴェーダーンタ哲学の「ジーヴァ」、イスラム教スーフィズムの「ルー」、その他の伝統宗教における魂の閃きと同一の物であることは明白である。そしてキリストの天使は、現代のトランスパーソナル心理学における「より高度な自己(ハイヤー・セルフ)」や、ヴェーダーンタ哲学の「アートマン」、と同一である。ウァレンティヌスによれば、キリストの天使よりの光線である霊的種子は、その淵源に回帰する。この回帰が真の復活である(ウァレンティヌス自身は、著書『真理の福音』でこう述べている。「最初に死に次に復活すると言う人々は間違っている。生きている間に復活を受けない者は、一度死んだならば何も受けないだろう」)。
ウァレンティヌスの生命観では、我々の肉体は塵に帰り、魂の閃きすなわちグノーシス主義の言うところの霊的種子は、より高度な自己/キリストの天使と正しき魂に結合され、心理的機能や個性を担持する存在(感情、記憶、合理的な才能、想像力等)は残存するだろうが、プレローマすなわち充足(キリストの天使としての復活を果たしたすべての種子が回帰する源)には至らないであろう。魂はプシュケーの世界である「中位の場所」に留まる。
やがて無数の浄罪の後に、魂は「霊的な肉」すなわち復活後の体を与えられる。この区分はやや当惑させられるが、ネシャマ(精神)がその不変不滅の淵源に向かうが、果たされることなく下位の世界に追いやられるという点で、カバラ思想と似ていないこともない。同様にウァレンティヌスによれば、完全なる復活はキリスト教世界観での世の終わりの後にのみ達成され、霊的な肉を獲得し変容した魂が、最終的に 個々のキリストの天使への完全な結合を果たす時に、魂はプレローマに存在する。これが、ウァレンティヌスの言う最後の救済である。
特定教義に縛られないキリスト教徒
多くの特定宗派に縛られないキリスト教徒と、魂の概念についての明確な教義を持つ宗派へ表向きは賛同している多数のキリスト教徒は、魂への信仰に対して「ア・ラ・カルト」な態度を取る。
これらのキリスト教徒は、各々の問題は、その利益と、他のキリスト教分派や他の伝統宗教や科学的理解などの異なる信条と、並置して判断を下す。 
 
聖霊

 

(せいれい、希: Άγιο Πνεύμα、羅: Spiritus Sanctus、英: Holy Spirit、日本正教会では聖神:せいしん)は、キリスト教において、三位一体の神の位格の一つ。聖霊について論じる神学を聖霊論という。
広く「第三の位格」とも説明される一方で、「第三の」といった数え方をせずに「ペルソナ(位格)の一者」「個位(のひとつ)」「神格(のひとつ)」とだけ説明される場合もある。4世紀に聖霊論を展開した聖大バシレイオス(聖大ワシリイ)は、聖霊に限らず、三位一体の各位格に言及する際に、数を伴わせることに批判的である。
本項で扱う聖霊に漢字「精霊」を当てるのは誤字(もしくは誤変換)である。
前提:共通点と相違点の存在
キリスト教内の各教派において、聖霊についての捉え方・考え方には、共通する部分と異なる部分がある。
東方教会と西方教会の間には、聖霊が「父(父なる神)からのみ発出する」とするか、それとも「父(父なる神)と子(子なる神)から発出する」とするかを相違点とするフィリオクェ問題がある。正教会の神学者ウラジーミル・ロースキイは、フィリオクェ問題を東西教会の分裂の根源的かつ唯一の教義上の原因であるとしている(なお、20世紀末以降、西方教会側で「フィリオクェ」を削除ないし再考する動きが散見される、詳細後述)。
カトリック教会とプロテスタントの間においては、聖霊に関する教理が16世紀の宗教改革において聖書を優先していくプロテスタントの中心にあったとされることがある。当時カトリック教会側においては、枢機卿ロベルト・ベラルミーノから、プロテスタントにおいて聖霊論と関係する教理である救いの確信を、プロテスタントが異端であることの最たるものとする批判があり、またカトリック司祭エドマンド・キャンピオンは、聖霊論にプロテスタントとカトリック教会との根本的な相違があると捉えていた。
このように教派ごとの相違点があり、論者によっては重要な争点と位置付けられる一方で、論者によっては、伝統的な神学では聖霊論は非常に軽視されてきた分野であると評される事もある。
本項では各節において、できる限り幅広い教派に共通する内容を先に述べ、次に各教派ごと(東方教会:正教会、西方教会:カトリック教会・聖公会・プロテスタントの順)の内容を簡潔に述べる。
神(位格・個位)
整理された教義(教理・定理)
正教会、非カルケドン派、カトリック教会、聖公会、プロテスタントにおいて、聖霊は三位一体の一つの位格(個位、神格、希: υπόστασις, 羅: persona)であると位置付けられる。
第1ニカイア公会議(第一全地公会、325年)の頃から第1コンスタンティノポリス公会議(第二全地公会、381年)の頃にかけて、こうした三位一体論の定式が(論争はこの二つの公会議が終わった後もなお続いていたが)整理されていった。
「異端」とされた考え
本節では、いわゆる正統派から否定される諸説を概観する。「三位一体そのものを説明するよりも、三位一体でないもの(異端の教え)を説明し、それを否定する方がより正確」とされることがある。
三神論(聖霊は「三つの神のうちの一つ」) / いわゆる正統派によれば、聖霊は神であるが、父なる神・子なる神・聖霊は、三つの神ではないとされ、三位格は三神ではないとされる(なお、こうした「異端」が歴史上まとまった形で出現したことはないともされるが、幾つかの事例につき「三重の神性」への傾斜として批判的に指摘されることはある)。
聖霊は一様式(mode)もしくは「一つの『役』」 / 「子なる神、聖霊は、時代によって神が自分を表す様式(mode)を変えていったもの」「一つの『役』のようなもの」と主張する考えは、様態論的モナルキア主義(英語: modalistic monarchianism)と呼ばれ、いわゆる正統派から否定される。
聖霊の神性は比較的劣っている / 聖霊の神性は認めるものの、父なる神(神父:かみちち)、子なる神(神子:かみこ、イエス・キリスト)よりも劣った存在であるとする主張である。この主張を聖霊について採るアリウス派は、子なる神も父なる神より劣ったものとした。アリウス派は第1コンスタンティノポリス公会議でいわゆる正統派から異端とされたが、聖霊の神性が比較的劣っているという教説も併せて否定されている。
聖霊は神ではない / 聖霊の神性を否定した人々は「反聖霊論者(英語版)」(ギリシア語: Πνευματομάχοι)、もしくは主唱者であったコンスタンディヌーポリ総主教の名から「マケドニオス主義者」と呼ばれる、第1コンスタンティノポリス公会議でいわゆる正統派から異端とされた。 
 
御霊 (みたま,ごりょう)

 

本来、荒魂・和魂などの魂の様相を指す神道用語である。
御霊(みたま,ごりょう) / 魂の尊敬語。
御霊(みたま) / 神道における概念で、荒魂・和魂などの魂の様相のこと。
御霊(ごりょう) / 祟る怨霊を祭って平穏を願う日本の信仰。御霊会、御霊祭とも言う。
また、キリスト教においてプシュケー(命,魂)と対比されるギリシア語プネウマの訳語として、1970年に発行された新改訳聖書などで使われている。ただし、「プネウマ」は多くの場合「聖霊」と訳される。 
御霊信仰

 

人々を脅かすような天災や疫病の発生を、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする日本の信仰のことである。
霊とは
人が死ぬと、魂が霊として肉体を離れるという考え方は、日本において、例えば縄文期に見られる屈葬に対する考え方の一つのように、原始からその考え方は存在していた。こうしたことから、「みたま」なり「魂」といった霊が、人々に様々な災いを起こすと考えられたことも、その頃から考えられていた。古代になると、政治的に失脚した者や、戦乱での敗北者などの霊が、その相手や敵に災いをもたらすという考え方から、平安期に御霊信仰というものが現れるようになる。
怨霊から御霊へ
政争や戦乱の頻発した古代期を通して、怨霊の存在はよりいっそう強力なものに考えられた。怨霊とは、政争での失脚者や戦乱での敗北者の霊、つまり恨みを残して非業の死をとげた者の霊である。怨霊は、その相手や敵などに災いをもたらす他、社会全体に対する災い(主に疫病の流行)をもたらす。古い例から見ていくと、藤原広嗣、井上内親王、他戸親王、早良親王などは亡霊になったとされる。こうした亡霊を復位させたり、諡号・官位を贈り、その霊を鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」として霊は鎮護の神として平穏を与えるという考え方が平安期を通しておこった。これが御霊信仰である。また、その鎮魂のための儀式として御霊会(ごりょうえ)が宮中行事として行われた。記録上、最初に確認できる御霊会は、863年(貞観5年)5月20日に行われた神泉苑で行われたもの(日本三代実録)である。
この最初の御霊会で、崇道天皇(早良親王。光仁天皇の皇子)、伊予親王、藤原大夫人(藤原吉子、伊予親王の母)、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文屋宮田麻呂)、観察使(藤原仲成もしくは藤原広嗣) の六人が祭られた。後に、井上皇后(井上内親王。光仁天皇の皇后)、他戸親王(光仁天皇の皇子)、火雷天神(下御霊神社では6つの霊の荒魂であると解釈している。一般には菅原道真であるともいわれるが、道真が祀られるようになったのは御霊神社創設以降)、吉備聖霊(下御霊神社では6つの霊の和魂であると解釈している。吉備大臣吉備真備、もしくは吉備内親王、とも言われる)をくわえ、観察使と伊予親王が省かれた「八所御霊」として御霊神社(上御霊神社、下御霊神社)に祀られている。
御霊信仰が明確化するのは平安時代以降であるが、その上限がどこまでさかのぼれるかどうかは、ひとによって理解が一定していない。史料的に確実な例としてあげられるのは、『続日本紀』の玄ムの卒伝にみえる藤原広継の怨霊であるが、それ以前については意見がわかれている。聖徳太子が怨霊であったとする梅原猛(『隠された十字架』)の説は証拠にとぼしいが、蘇我宗家(蘇我蝦夷・蘇我入鹿)の滅亡にその兆候がみとめられるとする八重樫直比古のような理解や、大津皇子にその発端をみる多田一臣らの説は、『扶桑略記』『薬師寺縁起』のように後世にくだる史料に拠らざるを得ない欠点はあるものの、一定の論拠を有している。また長屋王については寺崎保広(『人物叢書 長屋王』)が、天平7年(735)以降に大流行し、藤原四子らを死に追いやった天然痘と王の怨霊とが関連づけている。この長屋王に関しては藤原広嗣と時代も近い点からみて、ほぼ疑いないと思われる。ただし、本郷真紹のように、長屋王や広嗣の怨霊の記事は、『続日本紀』が平安時代の編纂までくだることから、この時代の潤色であるとみて、早良親王以前の怨霊の存在は認めがたいという見方もある。現状では、奈良以前の例については確証を得難いということになろう。
なお、小説家の井沢元彦は『逆説の日本史』において、古代の日本は中国文明の影響によって、子孫の祭祀の絶えた者が怨霊となるとして、これを「プレ怨霊信仰」と呼び、それが長屋王と藤原四子の事件により「冤罪で死んだ者が怨霊となる」という「日本的怨霊信仰」へと変化したと提唱している。ただし井沢の説は、定説として確定していない梅原の説をほぼ全面的に承認しての論である。
この古代の怨霊について論述したものはあまり多くはないが、『愚管抄』に「アラタニコノ怨霊モ何(いかに)モタダ道理ヲウル方ノコタウル事ニテ侍ナリ」とあり、また怨霊が現れるのは「意趣ヲムスビテ仇ニトリ」という形式を踏むとしている。すくなくとも慈円は怨霊というものは、現れるだけの理由があって現れるものであり、それは「意趣」を返すためであると論じている。慈円の認識が古代から中世の一般的な認識であったのかはわからないが、この叙述によれば、やはり怨霊というものは非業の死、恨みによって生まれるものと考えられていたということになる。平安時代から鎌倉時代にかけては崇徳上皇・藤原頼長(宇治の悪左府)、安徳天皇、後鳥羽上皇・順徳上皇、後醍醐天皇などが怨霊となったと怖れられ、朝廷や幕府は慰撫や慰霊のために寺社を建立している。
南北朝期を通して、こうした怨霊鎮魂は仏教的要素が強くなるが、それでも近世期の山家清兵衛(和霊神社)や佐倉宗吾(宗吾霊堂)などの祭神に見られるように、御霊信仰は衰退してはいなかった。それをもっとも端的に示すのが『太平記』であって、仏教的な影響を受けつつも、南北朝の動乱を怨霊の仕業とする立場を見せ、社会を変動させる原動力であるとみなしている。これは源平合戦などの世の乱れの一因に崇徳院の怨霊の影響があったとみる『保元物語』『平家物語』のありかたを一層、進展させたものと認められよう。
また、一般に御霊信仰の代表例として鎌倉権五郎(鎌倉景政)が語られることが多いが、彼は怨霊というよりは、超人的な英雄としての生嗣や祖霊信仰に基づく面が強いように考えられる。鎌倉権五郎に関しての話題は、民俗学的な面(一つ目小僧)からも見る必要がある。
祇園信仰
御霊信仰に関連するものとして、疫神信仰がある。これは、いわゆる疫病神の疱瘡神やかぜの神を祭ることによって、これを防ぐもので御霊信仰に類似するものがある。有名で全国的なものとしては、牛頭天王を祀る祇園信仰がある。牛頭天王は、疫病や災いをもたらすものとして、京都の八坂神社に祀られ、祇園信仰がおこった。全国で八坂神社、祇園神社、八雲神社を称する神社には、かつて牛頭天王が祀られた例が多い(それらは大抵、「○○天王」という別称をもつことが多い)。ただし、明治の宗教政策により、現在は素盞嗚尊を祭神としている場合がある。
現在の祇園祭もこの牛頭天王に対する信仰から起こったものである。
その他
御霊の音が似ているために「五郎(ごろう)」の名を冠したものも多く見られ、鎌倉権五郎神社や鹿児島県大隅半島から宮崎県南部にみられるやごろうどん祭りなどの例が挙げられる。
全国にある五郎塚などと称する塚(五輪塔や石などで塚が築いてある場合)は、御霊塚の転訛であるとされている。これも御霊信仰の一つである。
柳田國男は、曾我兄弟の墓が各地に散在している点について「御霊の墓が曾我物語の伝播によって曾我五郎の墓になったのではないか」という説を出している。
天皇は中世には祇園の御輿御所近くを通る際にはその怨霊を恐れて方違を行う慣例があった 。これは「祇園会方違」、「御霊会御方違行幸」、「方違行幸」などと言われ、特定の呼称はなかった 。ただし、この方違は単に激しい雑踏を避けるためのものであったとの異説もある 。
谷川健一著『祭りとしての安保』によれば、60年のデモは祝祭であり樺美智子の死は祭りの際の生贄で(但し、儀式としての葬式はデモ主催者によって却下されている)、その後の岸内閣の総辞職は時の為政者が御霊を恐れたためという。
 
荒魂・和魂

 

荒魂(あらたま、あらみたま)・和魂(にきたま(にぎたま)、にきみたま(にぎみたま))とは、神道における概念で、神の霊魂が持つ2つの側面のことである。
荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂である。天変地異を引き起こし、病を流行らせ、人の心を荒廃させて争いへ駆り立てる神の働きである。神の祟りは荒魂の表れである。それに対し和魂は、雨や日光の恵みなど、神の優しく平和的な側面である。神の加護は和魂の表れである。
荒魂と和魂は、同一の神であっても別の神に見えるほどの強い個性の表れであり、実際別の神名が与えられたり、皇大神宮の正宮と荒祭宮といったように、別に祀られていたりすることもある。人々は神の怒りを鎮め、荒魂を和魂に変えるために、神に供物を捧げ、儀式や祭を行ってきた。この神の御魂の極端な二面性が、神道の信仰の源となっている。また、荒魂はその荒々しさから新しい事象や物体を生み出すエネルギーを内包している魂とされ、同音異義語である新魂(あらたま、あらみたま)とも通じるとされている。
和魂はさらに幸魂(さきたま、さちみたま、さきみたま)と奇魂(くしたま、くしみたま)に分けられる(しかしこの四つは並列の存在であるといわれる)。幸魂は運によって人に幸を与える働き、収穫をもたらす働きである。奇魂は奇跡によって直接人に幸を与える働きである。幸魂は「豊」、奇魂は「櫛」と表され、神名や神社名に用いられる。
江戸時代以降、復古神道がさかんとなり、古神道の霊魂観として、神や人の心は天と繋がる一霊「直霊」(なおひ)と4つの魂(荒魂・和魂・幸魂・奇魂)から成り立つという一霊四魂説が唱えられるようになる。 
 
祖霊

 

先祖の霊のこと。祖霊とは死者の霊のうち、死霊とはならず、死後の世界へ旅立った精霊(しょうりょう・しょうろう)のうち、直系の子孫が居るもの。
柳田國男は、傍系の子孫や縁故者が弔いをされるものなどが祖霊と呼ばれているとした。
柳田國男は、神道の死生観では、人は死後、インドの仏教のように転生したり、日本の仏教のように地獄や極楽へ行ったり、キリスト教のような遠い死者の世界に行ったりするのではなく、生者の世界のすぐ近く(山中や海上の他界)にいて、お盆や正月に子孫の元に帰ってくると考える、と解釈した。
家系と祖霊
祖先の霊から共同体の神へ / 精霊は祖霊にさらに神に昇化するとする考え方もあり、そのような祖霊は祖神(そじん)や氏神(うじがみ)として氏族や集落などの共同体で祀られることになる。沖縄地方では7代で神になるとされていた。
弔うことによりすべての霊は御霊となる / 柳田國男は、日本の民間信仰(古神道)では、死んでから一定年数以内の供養の対象となる霊は「死霊」と呼び、祖霊と区別する。死霊は供養を重ねるごとに個性を失い、死後一定年数(50年、33年、30年など地域により異なる)後に行われる「祀り上げ」によって、完全に個性を失って祖霊の一部となる、とする。
家系による祖霊崇拝の在り方 / 祖先の霊を祀るために墓所や縁故の場所に小祠を設けたものを霊社、祖先の代々を合せた霊社を祖霊社と言った。その崇祀は子孫に限られ、他者を排する傾向があった。伊勢神宮の古代の私幣禁断には天皇家の祖霊を祀る場所としての排他の論理があるという。
 
精霊 (しょうりょう、しょうらい、しょうろう、せいれい)

 

万物の根源をなしている、とされる不思議な気のこと。精気。
草木、動物、人、無生物などひとつひとつに宿っている、とされる超自然的な存在。
肉体から開放された自由な霊。
なお、キリスト教における三位一体の位格の一つである聖霊(日本正教会では聖神:せいしん)を「精霊」とするのは誤字(誤変換)である。
一言で「精霊」と言っても、漢語として用いている場合、大和言葉に漢字を当てている場合、西洋語のspirit や elementalの翻訳語として用いられている場合などがあり、それぞれ意味内容が異なっている。
漢語
精霊(精怪という漢字も同意でつかわれる)という漢語本来の意味では(漢字文化圏での意味では)、妖怪や妖精や死者の霊や鬼神や鬼をあらわす。
「精(せい)」ではどんな物でも数100年、数1000年生きると宇宙の気が集まって精となる。代表的な例として、付喪神や、妖狐、蛇の精等がある。
しょうりょう、しょうらい、しょうろう
日本の古神道的なものを指す場合は「しょうりょう」「しょうらい」「しょうろう」などと読み、これは「故人の霊や魂」を指し、あくまで「とこよ」(常世・常夜。死者の世界、黄泉の国や三途川の向こう)に旅立った霊魂を指す。それに対して「うつしよ」(現世)に残こったものは「幽霊」「亡霊」「人魂」などと呼ぶ。
せいれい
日本以外の、世界各地の伝承に登場する「spirit スピリット」(spiritの中でも、「魂」と訳すのに不適切な文脈で、例えば「泉の精」や「ランプの精」など「〜の精」と訳すほうがしっくりくるような場合のそれ)の訳語として「精霊(せいれい)」が用いられることもある。
英語で元素を意味する「エレメント」 (element) の形容詞形「エレメンタル」 (elemental) は「四大元素の霊」という意味の名詞としても使われ、その訳語として「精霊」が使われることがある。
四精霊(エレメンタル)
16世紀の錬金術師パラケルススにより、地・水・火・風の四大元素が実体化したものとして、精霊が以下のように関連づけられた。
水の精:ウンディーネ / 火の精:サラマンダー / 風の精:シルフ / 地の精:ノーム
これらのエレメンタルは、ファンタジー作品においては擬人化した姿で描かれることも多い。
四精霊
(しせいれい)は、地・水・風・火の四大元素の中に住まう目に見えない自然の生きもの、あるいは四大元素のそれぞれを司る四種の霊である。四大の精、元素霊(英語:elementalspirits、ドイツ語:Elementargeister)、エレメンタル(英語:elementals)ともいう。エーテルのみで構成された身体を有する擬人的な自然霊で、パラケルススの論じるところでは、霊でも人間でもなく、そのどちらにも似た生きた存在である。パラケルススはこうした存在をドイツ語でding(もの)と呼んだ。
スイス出身の16世紀の医師・錬金術師パラケルススが、古典的四元素説を下敷きにして、著書『ニンフ、シルフ、ピグミー、サラマンダー、その他の精霊についての書』、いわゆる『妖精の書』の中で提唱した。同書はパラケルススの死後、1566年に初めて出版され、パラケルススの小著を集めた『大哲学』(1567年、ラテン語訳1569年)に収録された。
その1世紀後にパリで出版されたモンフォーコン・ド・ヴィラール(フランス語版)の隠秘学小説『ガバリス伯爵』(1670年)は、作中人物のガバリス伯爵をして「四大の民」との婚姻について語らしめた。
元素/パラケルススによるクリーチャーの呼称/ヴィラールによるクリーチャーの呼称
水/水の民(Wasserleute)、ニンフまたはウンディーネ/オンディーヌまたはニンフ
地/山の民(Bergleute)、ピグミーまたはグノーム/グノーム
火/火の民(Feuerleute)、ザラマンデルまたはヴルカン/サラマンダー
風/風の民(Windleute)、ジルフまたはシルヴェストル/シルフ
サラマンダー / 火の精
ラテン語のsalamandra(サンショウウオ)が語源とされるが、これは一部のサンショウウオが焚き火や野火などに遭遇すると湿った地面に潜り表面の粘液で火傷を防ぐ性質があるため、まるで火の中から這い出たように見えることに由来する。プリニウスの『博物誌』10巻には、サラマンドラは斑点を持つ小さなトカゲで、雨が降ると現れるが晴れると姿を消し、体が冷たく火に遭うと溶けると記録されているが、これはサンショウウオに関する記述と考えられている。また、『博物誌』11巻にはピュラリスというキプロスの炉の炎の中でしか生きられない動物が登場しており、精霊のサラマンダーはこちらに近い。上記の通り、炎を操る特徴からファイヤー・ドレイクと同一視され、ドラゴンとして扱われることもある。
フレッド・ゲティングズによれば、火中に住むトカゲの姿に描かれ、別名はウルカヌス(ローマの鍛冶の神)、アエトニキ、ロラマンドリなどである。
容姿には諸説あるが、一般的にはプリニウスにならって小型のトカゲのそれである。火蜥蜴、火竜(かりゅう)とも呼ばれ、ファイヤー・ドレイクと同一視されることもある。
錬金術において、鉛のような病める金属が金に転換されるまさにその温度に至る時に炉に現れるとされ、錬金術の書物の挿絵には炉の温度のヒントとしてサラマンダーが暗号のように描かれる例が多い。また、爬虫類や両生類ではなく蚕のように繭を作る虫という考えもあり、中世には石綿の布をサラマンダーの糸で織った布と偽って販売していた事例も確認されている。サラマンダーの布は洗濯を必要とせず、どれほど汚れても火中に投じるだけで白々と輝くような新品同様の姿に戻るとされる。また、トカゲに似たはサラマンダーは火山地帯に住んでおり、その皮は決して燃えないため高価であるが、危険な火山地帯で火傷をせずサラマンダーを捕らえるにはサラマンダーの皮の手袋と長靴が必要である。
ポープの『髪盗人』では、情熱的な女は死後サラマンダーになるとされており、美しい女性の姿で登場している。
ウンディーネ / 水の精
パラケルススの『妖精の書』によればニンフともいう。名はラテン語のunda(波)と女性形の形容詞語尾-ineから来ており、「波の乙女」「波の娘」というほどの意味。
フレッド・ゲティングスによれば、別名はニンフであり、目に見えないアストラル界の住民で、霊視者には虹色に輝く体に見えるという。
基本的に人間と変わらない容姿であるとされ、人間と結婚して子をなしたという伝説も多く残されている。『妖精の書』によれば、形は人間に似るが魂がなく人間の愛を得てようやく人間と同じく不滅の魂を得るとされる。しかし、水の近くで男に罵倒されれば水中に帰らねばならず、夫が別の女性に愛を抱くと夫を必ず殺さねばならないなど、その恋には制約が多い。シュタウフェンベルクの男が水の精と婚約したが、次第に婚約者を疎ましく思うようになり別人と結婚式を挙げたせいで水の精の呪いで死んだという話が『妖精の書』に紹介されている。この伝説が元になった創作物で騎士フルトブラントとウンディーネの悲恋を描いたフーケの小説『ウンディーネ』が有名で、ウンディーネを題材にした作品にはこの小説をもとに書かれたものが多い。派生作品のうち主なものだけでも、ジャン・ジロドゥの戯曲『オンディーヌ』、ホフマンの歌劇『ウンディーネ』、チャイコフスキーの歌劇『ウンディーナ』、ボードレールに絶賛されたベルトラン(フランス語版)の詩集『夜のガスパール』のうちの一篇の散文詩「オンディーヌ」、前記の詩集をイメージしたラヴェルのピアノ曲『夜のガスパール』第1曲「オンディーヌ」、ドビュッシーのピアノ曲『プレリュード』第2集第8曲「オンディーヌ」、ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ作曲、フレデリック・アシュトン振り付けのバレエ『オンディーヌ』などがある。
主題として扱われてはいないが、その他の文学作品にもしばしば登場している。ゲーテの『ファウスト』では、ファウストの呪文に登場。ポープの『髪盗人』では、心優しい女性が死ぬとウンディーネになるとされ、ヒロインである少女ベリンダの守護精霊として登場している。
シルフ / 風の精
名はラテン語のsylva(森)とギリシア語のnymphe(ニュンペー)の合成語から来ており、「森の妖精」というほどの意味。
フレッド・ゲティングズによれば、別名をネヌファ、シルウェストレという。
『妖精の書』によれば、形は人間に似るが魂がなく、人間の愛を得てようやく人間と同じく不滅の魂を得る。ただし、その姿は普通の人間の目には見えない。女性形でシルフィードとも呼ばれる。ただし、シルフィードとは人間とシルフの間にできた子供だとする説もある。
20世紀前半に活動したオカルティスト、ディオン・フォーチュンは、高所恐怖症であるにもかかわらず友人らとともに高山の頂上に登って風の霊を呼び出した時の体験について語っている。
文学における風の精霊としてはエアリエル(Ariel)のほうが有名である。シェイクスピアの『テンペスト』でプロスペローの使い魔として大活躍するほか、ポープの『髪盗人』ではシルフとエアリエルを同一視してシルフの一体の個体名をエアリエルとし、虚栄心の強い女が死ぬとシルフになると説いた。ミルトンの『失楽園』ではエアリエルは堕天使とされた。シルフは伝承では明確な性別を持たず中性的な容姿で描かれることが多い。ヘルマン・フォン・ロヴィンショルド作曲オーギュスト・ブルノンヴィル振り付けのバレエ『ラ・シルフィード』、ショパン作曲ミハイル・フォーキン振り付けのバレエ『レ・シルフィード』のなどの影響で、現在はほっそりした少女のイメージが強い。
ノーム / 地の精
名はギリシア語のゲーノモスgenomos(地に住まう者)に由来する。ノームとは正確には男性形であり、女性はノーミードやノーミーデスと呼ぶ。
フレッド・ゲティングスによれば、別名をピグミー(小人族)といって老人の姿をしている。石のノームと樹木のノームの二種がいるとされる。
一般的に侏儒(ドワーフ)は鍛冶が得意であるとされている。ヨーロッパでは北欧から黒海周辺までノームに似た小人の目撃報告がなされており、だいたい身長は15cmぐらいだと言われている。こうした小人は北米大陸でもまれに目撃されたことがある。カナダでは地方新聞にアイスランド移民が故郷からついてきたノームの近縁である北欧の小人ニスの恋人を募集する記事を載せたことがあり、カナダに多いアイスランド移民やアメリカに多いアイルランド移民など小人伝説にゆかりの深い国からの移民から伝承が伝わったと思われる。
また、アメリカで広く用いられる庭飾りの小人もノームと呼ばれる。
ポープの『髪盗人』では、真面目ぶって淑女ぶりたがる女は死後に醜い女の姿をしたノームへ落ちるとされる。
文学作品(特に児童文学によく扱われる)では数多くある土の精霊の総称ではなく、一種族として扱われることが多い。ヴィル・ヒュイゲン(英語版)の『ノーム』では、北欧のニスという妖精の近縁として、赤い円錐形の帽子を被って手仕事に励んで生活する、グノームとも呼ばれる一族が登場する。寿命は400歳を超えると言われ、女性でも250歳を超えると髭が生えてくるという。マンリー・P・ホール(英語版)の『秘密の博物誌』では土の服を身に着けて働く勤勉な一族とされる。J・K・ローリングのハリー・ポッター・シリーズでは魔法使いの子供たちが親の言いつけで庭のノーム(庭小人)を捕らえては捨てる姿が描かれている。 
 
生霊 (いきりょう、しょうりょう、せいれい、いきすだま)

 

生きている人間の霊魂が体外に出て自由に動き回るといわれているもの。対語として死霊がある。
人間の霊(魂)は自由に体から抜け出すという事象は古来より人々の間で信じられており、多くの生霊の話が文学作品や伝承資料に残されている。広辞苑によれば、生霊は生きている人の怨霊で祟りをするものとされているが、実際には怨み以外の理由で他者に憑く話もあり(後述)、死の間際の人間の霊が生霊となって動き回ったり、親しい者に逢いに行ったりするといった事例も見られる。
古典文学
古典文学では、『源氏物語』(平安時代中期成立)において、源氏の愛人である六条御息所が生霊〔いきすだま〕となって源氏の子を身籠った葵の上を呪い殺す話が「あまりにも有名である」が、能楽の『葵上』もその題材の翻案である。
また、『今昔物語集』(平安末期成立)の「近江国の生霊が京に来りて人を殺す話」では、ある身分の低い(下臈の)者が、四つ辻で女に会い、某民部大夫の邸までの道案内を頼まれるが、じつは、その女がその大夫に捨てられた妻の生霊だったと後になって判明する。邸につくと、門が閉ざされているのに女は消えてしまい、しばらくすると中で泣き騒ぐ音が聞こえた。翌朝尋ねると、家の主人が自分を病にさせていた近江の妻の生霊がとうとう現れた、とわめきたて、まもなく死んだという。下臈が、近江までその婦人を尋ねると、御簾越しに謁見をゆるし、確かにそういうことがあったと認め、礼の品などでもてなしたという。
憎らしい相手や殺したい相手に生霊が憑く話と比べると数が少ないが、相手に恋する相手にり憑く話もある。江戸中期の随筆集『翁草』56巻「松任屋幽霊」によれば、享保14か15年(1729-30年)、京都に松任屋徳兵衛の14、5歳の息子、松之助に近所の二人の少女が恋をし、その霊が取りついた。松之助は、呵責にさいなむ様子で、宙に浮くなど体は激しく動き、霊の姿は見えないが、それらと会話する様子もくりかえされた(ただし霊の言葉は男の口から発せられていた)。家ではついに高名な象海慧湛(1682-1733)にすがり折伏を試みて、松之助の病も回復したが、巷に噂が広まり好奇の見物人がたかるようになってしまった。
また、寛文時代の怪談集『曾呂利物語』にある一篇では、女の生霊が抜け首となってさまよい歩く。ある夜、上方への道中の男が、越前国北の庄(現福井市)の沢谷というところで、石塔の元から鶏が道に舞い降りたのを見る、と思いきや、それは女の生首であった。男が斬りつけて、その首を府中「かみひぢ」(武生市上市か?)の家まで追いつめると、中で女房が悪夢から目覚めて夫を起こし、「外で男に斬りつけられて逃げまどう夢を見た」と語る。このことから、かつては夢とは生霊が遊び歩いている間に見ている光景という一解釈が存在したことが窺える。
民間信仰
死に瀕した人間の魂が生霊となる伝承が、日本全国に見られる。青森県西津軽郡では、死の直前の魂が出歩いたり物音を立てるのを「アマビト(あま人)」といい、逢いたい人のもとを訪ねるという。柳田國男によれば、「あま人」と同様、秋田県仙北郡の伝承ではこのように自分の魂を遊離させてその光景を夢見できる能力を「飛びだまし」と称していた。同じく秋田県の鹿角地方では、知人を訪ねる死際の生霊が「オモカゲ(面影)」と呼ばれていたが、生前の人間の姿をして足が生えており、足音を立てたりもする。
また柳田の著書『遠野物語拾遺』によれば、岩手県遠野地方では、「生者や死者の思いが凝って出歩く姿が、幻になって人の目に見える」ことを「オマク」と称し、その一例として傷寒(急性熱性疾患)で重体なはずの娘の姿が死の前日に、土淵村光岸寺の工事現場に現れた話を挙げている。『遠野物語』に関して柳田の主要情報源だった佐々木喜善は、このときまだ幼少で、柳田は目撃現場にいた別の人物からこの例話を収録したとしており、佐々木当人は「オマク」という言葉は知らず、ただ「オモイオマク」(おそらく「思い思はく」)と言う表現には覚えがあることを鈴木棠三が尋ね出している。
能登半島では「シニンボウ(死人坊)」といって、数日後に死を控えた者の魂が檀那寺へお礼参りに行くという。こうした怪異はほかの地域にも見られ、特に戦時中、はるか日本国外の戦地にいるはずの人が、肉親や知人のもとへ挨拶に訪れ、当人は戦地で戦死していたという伝承が多くみられる。
また昭和15年(1940年)の三重県梅戸井村(現・いなべ市)の民俗資料には前述の『曾呂利物語』と同様の話があり、深夜に男たちが火の玉を見つけて追いかけたところ、その火の玉は酒蔵に入り、中で眠っていた女中が目覚めて「大勢の男たちに追いかけられて逃げて来た」と語ったことから、あの火の玉は女の魂とわかったという。
病とされた生霊
江戸時代には生霊が現れることは病気の一種として「離魂病」(りこんびょう)、「影の病」(かげのやまい)、「カゲワズライ」の名で恐れられた。自分自身と寸分違わない生霊を目撃したという、超常現象のドッペルゲンガーを髣髴させる話や、生霊に自分の意識が乗り移り、自分自身を外側から見たと言う体験談もある。また平安時代には生霊が歩く回ることを「あくがる」と呼んでおり、これが「あこがれる」という言葉の由来とされているが、あたかも体から霊だけが抜け出して意中の人のもとへ行ったかのように、想いを寄せるあまり心ここにあらずといった状態を「あこがれる」というためと見られている。
生霊と類似する行為・現象
「丑の刻参り」は、丑の刻にご神木に釘を打ちつけ、自身が生きながら鬼となり、怨めしい相手にその鬼の力で、祟りや禍をもたらすというものである。一般にいわれる生霊は、人間の霊が無意識のうちに体外に出て動き回るのに対し、生霊の多くは、無意識のうちに霊が動き回るものだが、こうした呪詛の行為は生霊を儀式として意識的に相手を苦しめるものと解釈することもできる。同様に沖縄県では、自分の生霊を意図的に他者や動物に憑依させて危害を加える呪詛を「イチジャマ」という。
また、似ていることがらとしては、臨死体験をしたとされる人々の中の証言で、肉体と意識が離れたと思われる体験が語られることがある。あるいは「幽体離脱」(霊魂として意識が肉体から離脱し、客観的に対峙した形で、己の肉体を見るという現象)も挙げられよう。 
 
守護霊

 

人などに付きその対象を保護しようとする霊のことである。西洋の心霊主義における「Guardian Spirit」の訳語として、心霊研究家浅野和三郎が提唱して定着したものとされる。
守護霊は、人などを守ろうとする意思を持っている霊的な存在のことで、スピリチュアリズム、心霊主義、ヨーロッパなどキリスト教圏、あるいは民間信仰でしばしば言及されているものである。 生まれつき何らかの要因(生まれた時期や季節など)によって所定の霊が付くと考える人や、先祖など当人に縁のある故人であると考える人、また当人の行いによって良い行い(徳)を積むことで良い霊が集まるという人もある。いずれにせよ当人が災難にあわないよう守ってくれている、と考えられている。
守られ方に関する説明については、信仰ごとに考え方がそれなりに異なっており、様々な類型がある。運命に影響して不運を遠ざけ幸運を招くとされるもの、当人の選択が間違っていて悪い結果を招く場合などに夢枕に立って諭すとされるもの、あるいは危機に際して身を挺して災難が降りかかるのを防ぐとされるもの、または呪いなど霊的な災いに際してその効果を打ち消すとされるもの、などがあるのである。
日本では物に取り憑いて、その繁栄や安全に寄与する妖怪や神霊などが、守護霊とされる場合もある。 例えば家に取りついて家を繁栄させる座敷わらし、船に憑いて安全を守る船霊なども、守護霊とされている。
ドイツでは、守護霊を物理的に隔離できると考え、ウイーンの宝物殿において、ある男の守護霊をガラス箱に入れて展示していた。
特に祖霊信仰など、先祖が子孫を守護していると考える信仰では、先祖を祭ることで守護霊の力を強め、現世における子孫の生活をより強く守ってもらおうとすることもある。その一方で、トーテムのように自らの部族や一族に所定の動物の霊的な力が作用していて、これの力を得ようという考え方もあり、生きている側の働き掛けによって守護する側の霊にも何らかの影響が現れるという考え方もある。
キリスト教の信仰では、守護天使という存在にも言及されることがある。天使はそれ自体が神の延長にある存在だが、この守護天使は各々の個人に付き添っていると考えられており、人間を導くとされている。なおこの守護天使は記録天使として、各々の個人の良しに付け悪しきに付け記録をとっていて、死後の行く先決定に関与しているとも考えられている。
人は守護霊という不可視の存在によって常に見守られている、とし、自身のありようを良きにつけ悪しきにつけ見ているのだから、自らの価値観で判断するだけではなく、こういった存在から客観的に見られても正しいと判断されるように行動しよう、と考える人もいる。
なお、こういった霊的な力を呪術的な手法で意図的に自らに「取り憑かせ」て、本願を成就しようという考えも見出せる。いわゆる犬神では、極限状態に置いた犬の生存に対する執念とも怨念ともいえるものを霊的な装置とみなして、その極限にある犬の首を刎ねて祭るという風習が見出せる。ただしこちらは忌み物としての側面もあり、この犬神を祭る一族を穢れとして扱う風習も見られる。
ただし、いわゆる霊感商法の類では、実際には何ら霊的な能力が無い人が、「付き添っている霊の力を強める」と言いつつ、高価な物品を売り付けるような事例も多いので注意が必要である。
スピリチュアリズムにおける守護霊
スピリチュアリズムにおいては、守護霊は生者をサポートする守護霊団(浅野和三郎の言うところの背後霊)の中心となる霊で、すべての生者には必ず担当の守護霊がつく。一人の人間につく守護霊は一人とされ、原則として人が生きている間は交替しない(交代があるという説も存在する)。スピリチュアリズムにおける守護霊の役割は人を守る(護霊的役割)というよりも、生を受けた人の霊的目的を達成するための手助けをすることとされ、目的を達するために必要と判断されれば、生者にとって一見不幸・不運とされる出来事や不遇な環境を用意することさえあるという。
また、守護霊は霊格が高く現世とは離れた所(霊界)にいるために直接現世に干渉することが難しいとされ、より現世の近くで活動できる指導霊や補助霊などの助けを借りることで守護霊自身の役目を果たすという。また守護霊は高次元の霊視で視られるとも言われる為、一般の霊能者には本物の守護霊を霊視する事はほとんどないとされ、この説に則るならスピリチュアリズムの知識のない霊能者が指導霊や補助霊、若しくは憑依霊を守護霊と視誤るケースが少なくないと考えられる。
さらに、守護霊はどの霊がなるかについては、「約400年前から500年前(或いは700年前)に他界した古い祖先霊が守護霊となる」という説のほかに、類魂説(生者の魂は霊界に存在する固有の霊団グループソウルに属していて、その一部が分霊となって肉体に宿っているとする説)においては本人の所属する類魂の霊、ないしはその類魂に関係の深い高級霊がなると考えられている。
ただし、イギリスの降霊会ハンネン・スワッファー・ホームサークルによれば、守護霊の決定は、霊的な成長レベルや、カルマの清算という純粋な霊的要因によって決められるため、血縁者が守護霊になるケースは稀であると言われている。
指導霊 / spirit guideの訳語。守護霊団のうち生者の才能をつかさどる霊で、芸術、音楽、技術、学業、研究、スポーツなど専門分野・特定分野において生者の能力をサポートする役目を持つ。複数の霊が指導に当たることもあり、人生の場面ごとに必要な能力に応じて交代もする。生者が努力するごとに指導霊との関係は深くなり、多くのインスピレーションを与えることが可能となる。逆に著しく怠けていたりすると影響を及ぼすことが困難になり、指導霊がいなくなる場合もあると考えられている。潜在的には守護霊の下に多数の霊が指導霊候補として控えているとされる。
広義には、人類や国、集団などを指導する高級霊を指す場合もある。
支配霊 / control spirit。生者の運命を制御する霊。生者はあらかじめ大まかな運命を決めて生まれてくるが、その運命の成り行きをコントロールするのが支配霊の役目とされている。結婚や就職など人生の大きな転機や、配偶者や親友との出会いなどに強く働く。
補助霊 / spirit helpers。守護霊や指導霊、支配霊を補佐し、地上(現世)との間を取り持つ役目を持つ霊。守護霊や指導霊ほどには霊格は高くなく、地上への影響力に長けている。先祖など血縁者の霊がその任に当たる場合も少なくない。 
 
死霊 (しりょう、しれい)

 

死者の霊魂。生霊の対語としても使われる。
死霊の話は古典文学や民俗資料などに数多く残されており、その振る舞いも様々である。『広辞苑』によれば、死霊とは人にとりついて祟りをする怨霊のこととされているが、生霊のように人に憑いて苦しめる以外にも、自分を殺した者を追い回したり、死んだ場所をさまよったり、死の直後に親しい者のもとに挨拶に現れたり、さらに親しい者を殺して一緒にあの世へ連れて行こうとする話もある。
『遠野物語』には、娘と2人暮しだった父親が死んだ後、娘の前に父の死霊が現れ、娘を連れ去ろうとした話がある。娘は怖がり、親類や友人に来てもらったが、それでも父親の死霊は娘を連れ去ろうと現れ、1ヶ月ほど経ってようやく現れなくなったという。  
 
言霊 (ことだま)

 

一般的には日本において言葉に宿ると信じられた霊的な力のこと。言魂とも書く。清音の言霊(ことたま)は、森羅万象がそれによって成り立っているとされる五十音のコトタマの法則のこと。その法則についての学問を言霊学という。
声に出した言葉が、現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられ、良い言葉を発すると良い事が起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされた。そのため、祝詞を奏上する時には絶対に誤読がないように注意された。今日にも残る結婚式などでの忌み言葉も言霊の思想に基づくものである。
日本は言魂の力によって幸せがもたらされる国「言霊の幸ふ国」とされた。『万葉集』(『萬葉集』)に「志貴島の日本(やまと)の国は事靈の佑(さき)はふ國ぞ福(さき)くありとぞ」(「志貴嶋 倭國者 事霊之 所佐國叙 真福在与具」 - 柿本人麻呂 3254)「…そらみつ大和の國は 皇神(すめかみ)の嚴くしき國 言靈の幸ふ國と 語り繼ぎ言ひ繼がひけり…」(「…虚見通 倭國者 皇神能 伊都久志吉國 言霊能 佐吉播布國等 加多利継 伊比都賀比計理…」 - 山上憶良 894)との歌がある。これは、古代において「言」と「事」が同一の概念だったことによるものである。漢字が導入された当初も言と事は区別せずに用いられており、例えば事代主神が『古事記』では「言代主神」と書かれている箇所がある。
自分の意志をはっきりと声に出して言うことを「言挙げ」と言い、それが自分の慢心によるものであった場合には悪い結果がもたらされると信じられた。例えば『古事記』において倭建命が伊吹山に登ったとき山の神の化身に出会ったが、倭建命は「これは神の使いだから帰りに退治しよう」と言挙げした。それが命の慢心によるものであったため、命は神の祟りに遭い亡くなってしまった。すなわち、言霊思想は、万物に神が宿るとする単なるアニミズム的な思想というだけではなく、心の存り様をも示すものであった。
他の文化圏の言霊
他の文化圏でも、言霊と共通する思想が見られる。『旧約聖書』の「ヘブライ語:רוח הקודש」(ルーアハ)、『新約聖書』では「希: Πνεύμα」(プネウマ。動詞「吹く」(希: πνεω)を語源とし、息、大いなるものの息、といった意が込められる)というものがある。「風はいずこより来たりいずこに行くかを知らず。風の吹くところいのちが生まれる。」この「風」と表記されているものが「プネウマ」である。
一般に、音や言葉は、禍々しき魂や霊を追い払い、場を清める働きがあるとされる(例:拍手 (神道))。これは洋の東西を問わず、祭礼や祝い、悪霊払いで行われる。神事での太鼓、カーニバルでの笛や鐘、太鼓、中華圏での春節の時の爆竹などはその一例である。
言葉も、呪文や詔としてその霊的な力が利用される。ただし、その大本になる「こと」(事)が何であるかということには、さまざまな見解がある。たとえば「真理とは巌(いわお)のようなものであり、その上に教会を築くことができる」と考えたり、あるいは「真実を知りたければ鏡に汝自身を映してみよ、それですべてが明らかになる」といい、それは知りうるものであり、また実感として捉えられるものであるとみる意見や、「こと」自体はわれわれでは知りえないものであるという主張もある。これらはさまざまな文化により、時代により、また個人により大きく異なっている。  
 
人魂 (ひとだま)

 

主に夜間に空中を浮遊する火の玉(光り物)である。古来「死人のからだから離れた魂」と言われており、この名がある。
古くは古代の文献にも現われており、現代でも目撃報告がある。また同様の現象は外国にもあり、写真も取られている。
万葉集の第16巻には次の歌が掲載されている。
人魂のさ青なる君がただひとり逢へりし雨夜の葉非左し思ほゆ
鬼火(おにび)、狐火などとも言われ混同されることがあるが、人魂は「人の体から抜け出た魂が飛ぶ姿」とされるものであるので、厳密には別の概念である。
形や性質について語られる内容は、全国に共通する部分もあるが地域差も見られる。余り高くないところを這うように飛ぶ。色は青白・橙・赤などで、尾を引くが、長さにも長短がある。昼間に見た例も少数ある。
沖縄県では人魂を「タマガイ」と呼び、今帰仁村では子供が生まれる前に現れるといい、土地によっては人を死に追いやる怪火ともいう。
千葉県印旛郡川上村(現・八街市)では人魂を「タマセ」と呼び、人間が死ぬ2,3日前から体内から抜け出て、寺や縁の深い人のもとへ行き、雨戸や庭で大きな音を立てるというが、この音は縁の深い人にしか聞こえないという。また、28歳になるまでタマセを見なかった者には、夜道でタマセが「会いましょう、会いましょう」と言いながらやって来るので、28歳まで見たことがなくても見たふりをするという。
諸説
19世紀末イギリスの民俗学者セイバイン・ベアリング=グールドは、腐敗した燐化水素の発散が墓の上をただよう青い光を生むということはありそうなことだと考えていた。一説によると,「戦前の葬儀は土葬であったため、遺体から抜け出したリンが雨の日の夜に雨水と反応して光る現象は一般的であり、庶民に科学的知識が乏しかったことが人魂説を生み出した」と言われる、が人や動物の骨に含まれるリンは発光しないので該当しない。
昔から、蛍などの発光昆虫や流星の誤認、光るコケ類を体に付けた小動物、沼地などから出た引火性のガス、球電、さらには目の錯覚などがその正体と考えられた。例えば寺田寅彦は1933年(昭和8年)に帝国大学新聞に寄稿した随筆の中で、自分の二人の子供が火の玉を目撃した状況や、高圧放電の火花を拡大投影した像を注視する実験、伊豆地震の時の各地での「地震の光」の目撃談に基づき、物理的現象と錯覚とが相俟って生じた可能性を述べている。実際に可燃性ガスで人工の人魂を作った例もある(山名正夫・明治大学教授のメタンガスによる実験、1976年ほか)。
1980年代には、大槻義彦が「空中に生じたプラズマである」と唱えた。
だが、上記の説明群では説明できないものもあり、様々な原因・現象により生じると考えられる。 
 
木霊 (こだま、木魂)

 

樹木に宿る精霊である。また、それが宿った樹木を木霊と呼ぶ。また山や谷で音が反射して遅れて聞こえる現象である山彦(やまびこ)は、この精霊のしわざであるともされ、木霊とも呼ばれる。
精霊は山中を敏捷に、自在に駆け回るとされる。木霊は外見はごく普通の樹木であるが、切り倒そうとすると祟られるとか、神通力に似た不思議な力を有するとされる。これらの木霊が宿る木というのはその土地の古老が代々語り継ぎ、守るものであり、また、木霊の宿る木には決まった種類があるともいわれる。古木を切ると木から血が出るという説もある。
木霊は山神信仰に通じるものとも見られており、古くは『古事記』にある木の神・ククノチノカミが木霊と解釈されており、平安時代の辞書『和名類聚抄』には木の神の和名として「古多万(コダマ)」の記述がある。『源氏物語』に「鬼か神か狐か木魂(こだま)か」「木魂の鬼や」などの記述があることから、当時にはすでに木霊を妖怪に近いものと見なす考えがあったと見られている。怪火、獣、人の姿になるともいい、人間に恋をした木霊が人の姿をとって会いに行ったという話もある。
伊豆諸島の青ヶ島では、山中のスギの大木の根元に祠を設けて「キダマサマ」「コダマサマ」と呼んで祀っており、樹霊信仰の名残と見られている。また八丈島の三根村では、木を刈る際には必ず、木の霊であるキダマサマに祭を捧げる風習があった。
沖縄島では木の精を「キーヌシー」といい、木を伐るときにはキーヌシーに祈願してから伐るという。また、夜中に倒木などないのに倒木のような音が響くことがあるが、これはキーヌシーの苦しむ声だといい、このようなときには数日後にその木が枯死するという。沖縄の妖怪として知られるキジムナーはこのキーヌシーの一種とも、キーヌシーを擬人化したものがキジムナーだともいう。
鳥山石燕の妖怪画集『画図百鬼夜行』では「木魅(こだま)」と題し、木々のそばに老いた男女が立つ姿で描かれており、百年を経た木には神霊がこもり、姿形を現すとされている。
これらの樹木崇拝は、北欧諸国をはじめとする他の国々にも多くみられる。 
 
魂魄 (こんぱく)

 

中国の道教や伝統中国医学における霊についての概念である。以下記述する。
道教の魂魄
中国の道教では魂と魄(はく)という二つの異なる存在があると考えられていた。魂は精神を支える気、魄は肉体を支える気を指した。合わせて魂魄(こんぱく)とも言う。魂と魄は易の思想と結びつき、魂は陽に属して天に帰し(魂銷)、魄は陰に属して地に帰すと考えられていた。民間では、三魂七魄の数があるとされる。三魂は天魂(死後、天に向かう)、地魂(死後、地に向かう)、人魂(死後、墓場に残る)であり、七魄は喜び、怒り、哀しみ、懼れ、愛、惡しみ、欲望からなる。また、殭屍(キョンシー)は、魂が天に帰り魄のみの存在とされる。(三魂は「胎光・爽霊・幽精」「主魂、覺魂、生魂」「元神、陽神、陰神」「天魂、識魂、人魂」、七魄は「尸狗、伏矢、雀阴(陰)、容贼(吝賊)、非毒、除秽(陰穢)、臭肺」とされる事もある。)
儒学における魂魄現象の解釈
儒学(すなわち公式な学問)の解釈では、張載(11世紀)の鬼神論を読んだ朱子の考察として、世界の物事の材料は気であり、この気が集まることで、「生」の状態が形成され、気が散じると「死」に至るとした上で、人間は気の内でも、精(すぐ)れた気、すなわち「精気」の集まった存在であり、気が散じて死ぬことで生じる、「魂は天へ昇り、魄は地へ帰る」といった現象は、気が散じてゆく姿であるとした。この時、魂は「神」に、魄は「鬼」と名を変える(三浦国雄『朱子集』朝日新聞社)。この「魂・魄」から「神・鬼」への名称変更は、気の離合集散の原理の解釈によるもので、気がやって来るのは「伸」の状態であり、気が去っていくのは「屈」の状態であるとして、気の集散=気の伸屈・往来と定義したことから、「神」は「伸」(シン)に通じ、「鬼」は「帰」(キ)に通じ、元へ戻る=「住」(向こうへ行く)となる。ここに、鬼神=気の集散の状態=魂魄と至る。
「気は必ず散るものであり、二度と集まることはない」と儒学では定義しているが、これは仏教における輪廻転生という再生産を否定するためのものである。ただし、子孫が真心を尽くして祀る時、子孫(生者)の気と通じ感応することで、この世に「招魂」されるとする。一度、散じた気=魂魄は集まらないとしつつも、招魂の時は特別とする、この一見して矛盾した解釈こそ重要であり、この説明がなければ、祭祀の一事を説明できなくなるためである。この現象に関して、後藤俊瑞は「散じた気が大気中に残存し、再び集まり来ることを許容するものである」としたが、この矛盾した解釈をめぐっては、日本の朱子学者を悩ませる種となり、林羅山に至っては、「聖人が祭祀を設けたために、鬼神(=魂魄)の有無を半信半疑(中立的な立場)にならざるをえない」としている(『林羅山文集』巻三十五・祭祀鬼神)。これが因となって、日本近世では、無鬼論者(伊藤仁斎)と有鬼論者(荻生徂徠)に分かれた。
伝統中国医学における魂と魄
魂 / 伝統中国医学において、魂とは、肝に宿り、人間を成長させて行くものであり、また、心を統制する働きだとされている。漢字の部首は「鬼」であるが、この「鬼」が現在の「霊」とほぼ同じ意味で、頭にまだ少し毛が残っている白骨死体の象形文字である。左の云は、「雲」と同じで、形のないもの、掴み所の無いものの意味である。魂が強くなると、怒りっぽくなるとされる。
魄 / 「魄」のほうは、文字通り白骨死体を意味する文字で、人間の外観、骨組み、また、生まれながらに持っている身体の設計図という意味がある。五官の働きを促進させ、成長させる作用があるとされる。肺に宿り、強すぎると物思いにふけるとされる。外観という意味では、「落魄(らくはく、落ちぶれて見てくれまでひどく悪くなる)の語がよくそれを表している。  
 
スピリチュアリティ、スピリチャリティ

 

(英: spirituality)とは、人間に特有な心理的あるいは精神的活動の総体または任意の部分を指す用語であり、多様な意味を持つ。個人の内面における奥深く、しばしば宗教的な感情および信念と関連があるという認識が広く持たれている。スピリチュアリティの意味や、用語として使用する際の理論的および実践的文脈は、分野やテーマによっても相当に異なる。英語のspiritualityに当てはまる日本語はないため、文脈によって霊性、霊的、精神世界、精神性、精神主義、宗教的など様々に訳されるが、意味の限定や誤解を避けるために、カタカナ書きまたは英語で表記されることも多い。宗教学、社会学、文化人類学、心理学、人の幸せや生活の質(QQL)、医療、ターミナルケア(終末医療)などにおける重要な概念として研究されているが、日本人にはなじみのない概念であり、日本語で明確に説明できないこともあり、日本では一般における認知度はあまり高くない。
霊性や精神世界に関わる意味では、日本ではスピリチュアルともよばれる。自然界の法則を超えた神秘的・超常的なものごとである「超自然」(スーパーナチュラル)もスピリチュアルと呼ばれることがあるが、スピリチュアリティは個人の内面あるいは個人を通して見出されるものであり、スピリチュアリティと超自然は異なる概念である。
また、人間の肉体が消滅しても霊魂は存在するとする思想・信仰「心霊主義」(スピリチュアリズム)とも異なる。
概要
スピリチュアリティとは、人間に特有な心理的あるいは精神的活動の総体または任意の部分を指す用語である。合意された特定の意味・定義はなく、日本語訳も一定ではない。様々なスピリチュアリティの意味や定義は、場合によっては互いに矛盾している。文化的運動を指す場合には「霊性」という訳語が当てられることが多いが、生活の質(QOL)や健康について語る際にこの訳語を採用すると、特定の側面(特に宗教的意味)が強調されすぎてしまい、誤解を招きかねない。哲学者・教育学者の西平直は、スピリチュアリティには4つの位相を区別することができると述べている。宗教的生活としてのスピリチュアリティ(→第一の位相)、価値観としてのスピリチュアリティ(→第二の位相)、実存性としてのスピリチュアリティ(→第三の位相)、「大いなる受動性」としてのスピリチュアリティ(→第四の位相)である。鳥取大学の安藤泰至は、スピリチュアリティは「宗教」と「世俗(非宗教)」、「宗教」と他の「宗教」の間の媒介概念となることで、現代社会の宗教状況におけるの様々な局面を同時に照らし出す「時代のことば」になっていると指摘している。
スピリチュアリティは、個人の内面における奥深く、しばしば宗教的な感情および信念と関連があるという認識が広く持たれている。必ずしも特定の宗教に根ざすものではないが、宗教とスピリチュアリティが深い関係で結ばれていることは否定できない。従来の宗教に替わるような新しい自己=霊性探究の運動における一種のスローガンとしても用いられ、近年の欧米では、Spiritual but not religious(SBNR、信仰を持たないが霊性は信じている)という人々も増加している。
「霊性」は、三省堂大辞林では、宗教、特にカトリック教会における宗教心のあり方やその伝統を指す用語として紹介されている。元々spiritualityは、religiousness(信心深さによる敬虔な行為)などと同じ意味で使われていた。霊性、霊的といった、宗教性と重なり合いつつも異なる意味での使用は、1960年代に米国で始まった対抗文化・ニューエイジ運動に起源があるとされ、内面探求への欲求の広がりを受け、欧米ではおおむね1980年代以降に意識的・意図的に用いられるようになった。外来語として入ってきた日本では1990年代に「精神世界」への関心がブームとなり、スピリチュアリティという言葉も使われるようになった。
主流文化における広がりは、1998年に世界保健機関(WHO)が新しく提案した健康定義に、spiritualという言葉が含まれていたことに始まる。スピリチュアリティはこれを契機に主流文化においてもある種の市民権を獲得し、アカデミズムの世界でも注目されるようになった。現在でも、宗教学、社会学、文化人類学、心理学、人の幸せや生活の質(QQL)、医療、人の終末期における重要な概念として研究されている。
語源・背景
スピリチュアリティ(英語:spirituality)の語源はラテン語のスピリトゥス(spiritus)に由来する。このラテン語は、呼吸する・生きている、霊感を得る、風が吹くなどの意味を持つ動詞スピロー(spiro)に基づく。スピリトゥスは、呼吸や息、いのち、意識、霊感、風、香り、霊や魂を意味する。このスピリトゥスは聖書の歴史のなかで、主にギリシャ語のプネウマの訳語となっており、プネウマはヘブライ語におけるルーアハおよびネシャマーに対応している。旧約聖書において、ルーアハは始原のエネルギーであり、神との関わりのなかで、神に従って、新世界を創造するダイナミズムを有するものであり、ネシャマーは神の命の息であり、物質で造られた体にネシャマーが入れられたことで、人は命ある存在となった。聖書における風、息、人間の霊、神の霊といった表現は、一つの存在の中にある本質的なもの、その存在を生かすもの、自ずと発散してくるものを意味している。哲学では、「物質に依存せず、時間と空間に左右されず、合成されたものではない、真・善・美にかかわる行動原理」と考えられてきた。現代英語のspiritは、精神、心、霊魂、聖霊、生気・活気などと訳される。「life and consciousness not associated with a body」(肉体に関連付けられない命や意識)と解説され、肉体との二元論的な意味合いとなっている。また、ラテン語のスピリトゥスは、ギリシャ語のプネウマ同様、もとは呼吸、血液等と同一視され、「生命の原理」と考えられていた。
医療において「スピリチュアル・ペイン」という言葉が知られるが、病や死の接近によって生きる意味や目的が脅かされて経験する苦痛のことで、生きる上での原理に関わる傷み、実存的苦痛、自己存在への苦悩、全存在的苦痛を意味する。心霊現象による苦痛を指すわけではない。
「霊性」は宗教や文化によって異なるため、スピリチュアリティという言葉の背景も一様ではない。日本語の「霊」は、自然物の威力・霊力(「ち」と読むもので、おろち(蛇)、いかずち(雷)等)、祟りなすたましい(「りょう」と読むもので、いきりょう(生霊)、おんりょう(怨霊)等)、たましい(「たま」といわれるもの)といった意味がある。日本の 「霊」には自然界を含めてあらゆる「霊」が含まれるアニミズム的なものであり、一神教におけ二元論的な霊(spiritus)とは意味が異なる。
日本におけるスピリチュアルの訳語の変遷
医療においては、1980年代までは「spiritual needs」を「死について話すことの必要性」と捉え、「spiritual」を「宗教的」と訳すことが場合が多かった。これは当時、キリスト教を想定して「spiritual」を理解し、患者の「spiritual needs」に応えるのはキリスト教の聖職者の役目だと見なされていたためである。その後1980年代後半になると、仏教の立場からの意見も聞かれるようになり、日本人にとっての「spiritual」な側面について注目され、「宗教的」に加えて「霊的」という言葉が用いられるようになった。1990年代になると、あえて訳さずそのままの英語表記または「スピリチュアル」とカタカナ表記されるようになった。
定義・理解
スピリチュアリティという言葉には、共通に認められる定義や意味はない。それぞれが関心に従って機能的な定義を与え、あいまいな部分を切り落とそうと試みるが、各分野における用法は独立したものではなく、相互に影響を与え合っており、それ故に曖昧さが残り続ける。
最も根本的なものとして、宗教との関係のあいまいさが挙げられる。両者の関係として、安藤泰至は次の4つをあげている。
1.「スピリチュアリティ」を「宗教」を含んだ広い概念としてとらえる。
2.重なる部分はあるが、とりあえず区別できるとする。
3.「宗教」のひとつの本質的な要素として「スピリチュアリティ」をとらえる。
4.ふたつは別のものとする。
ある特定の立場からのスピリチュアリティの理解やその概念には、1〜4に見方が複数混在している場合がある。「宗教」をある箇所では「人間の宗教性」とし、別の個所では制度的・文化的な意味での「宗教」と捉えるなど、異なった次元において「スピリチュアリティ」と対比されるためである。安藤泰至は、医療においては2の捉え方が多いが、その重なりをどの程度とするかは、日本とキリスト教圏(特に英語圏)では大きな差があり、キリスト教圏においては重なりは大きいと述べている。日本では伝統宗教の影響が小さいため、「スピリチュアリティ」と「宗教」との重なりを小さいものとし、意識的に宗教と距離を置いた形で専門職によってスピリチュアリティ概念が提唱されている。この場合、「生(や死)の意味の目的の追求」といった側面が強調され、「超越的次元の存在、自覚」のような宗教に近い側面は面に出さない傾向が強い。これは、オウム真理教事件以降の宗教のイメージの低下が影響している。
4つの位相
哲学者・教育学者の西平直は、スピリチュアリティには4つの位相を区別することができるとしている。この4分類に含まれないさらに詳細な位相もあるとしているが、煩雑になるため本記事では触れない。第三と第四の位相は、経験の内奥に潜在する実存性や個人を超越した存在を仮定するもので、トランスパーソナル心理学などでしばしば採用される。この二つの位相には、何かしら実証ないし反証不可能な命題が含まれている。
第一の位相
第一の位相は、世界保健機関(WHO)の健康定義に代表される、身体的、心理的、社会的領域と同一地平にあって、それらとは区別される第4の領域としてのスピリチュアリティである。Carroll, M. M. が、「合体的アプローチ」(integrated approach)として言及したモデルでもある。
1998年に世界保健機関(WHO)で新しい健康定義が提案された。以下が提案された健康定義である。
Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well being and not merely the absence of disease or infirmity.
「健康とは,完全な身体的、心理的、スピリチュアル及び社会的福祉の動的な状態(静的に固定されていない状態)であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。」
提案された定義では、dynamicとspiritualという部分が新たに追加されている(この提案は現在まで保留されている)。spiritualの追加は、人間の尊厳の確保や生活の質(QQL)を考えるために、必要かつ本質的なものだという観点から提案されたと言われている。
世界保健機関(WHO)は、スピリチュアリティを、人間として生きることに関連した経験的一側面であり、身体感覚な現象を超越して得た体験を表す言葉であると捉えている。
世界保健機関では健康定義の改正に備え、スピリチュアリティの領域を測定するための尺度SRPB(Spiritual, Religion, and Personal Beliefs スピリチュアル、信仰、個人的信念)を作成した。この尺度は世界保健機関が開発した生活の質(QOL)の尺度であるWHOQOL-100に準拠して構成され、SRPB領域として8つの側面を新たに設定した。
1.絶対的存在との連帯感(Connectedness to a spiritual being or force)
2.人生の意味(Meaning of life)
3.畏怖の念(Awe)
4.統合性と一体感(Wholeness & integration)
5.内的な強さ(Spiritual strength)
6.心の平穏/安寧/和(Inner peace/ serenity/harmony)
7.希望と楽観主義(Hope & optimism)
8.信仰(Faith)
名古屋女子大学の真鍋らは、8つの側面からも心理的領域の側面を除くと、残された側面には魂(soul)、内的な(霊的な)強さ、信仰という一定のキーワードが含まれており、これらが経験される生活領域は宗教である指摘している。ここで述べられる宗教生活は、伝統的な宗教における祈りや儀式への参加だけでなく、絶対的存在を自覚し、それとの結びつきや交流により人生の意味を確認できるような経験を目的とした諸活動がなされる生活領域をすべて含んでいる。文化現象として現れた様々な運動の中でも、オカルト、霊感、神秘体験、瞑想、チャネリングといった、絶対的存在との接触や交流を目的とする活動もここに含まれる。スピリチュアリティが宗教的生活であるとすれば、地域や宗教によって大きな差があると考えられるが、実際WHOの健康定義の改正に積極的だったのは宗教活動が生活に根付いているイスラム圏やアフリカ諸国の代表だった。
西平は、第一の位相におけるスピリチュアリティを宗教性の位相であるとしている。
第二の位相
全人格性としてのスピリチュアリティであり、身体的、心理的、社会的の領域に分けられてしまった人格に統一性を与えるものとして位置づけられる。これはCarroll, M. M.の統一的アプローチ(unifying approach)に当たるものである。現象学派心理学(phenomenological psychology)のDavid N. Elkinsらの視点からの定義がその特徴をよく表している。彼らは定義を行うにあたって、次の仮定を示している。
仮定1. 人間の経験の中にはスピリチュアリティとしか呼びようのない次元がある。
仮定2. スピリチュアリティは人間的現象であり、潜在的には誰にでも起こりうる。
仮定3. スピリチュアリティは宗教と同じではない。
仮定4. スピリチュアリティを定義し、それを評価する方法を開発できる。
この仮定では、スピリチュアリティは人間の経験であり,人間現象であるとされている。この仮定に基づき、文献調査と宗教関係者へのインタビューを行い、スピリチュアリティとしか呼びようのない経験の次元をリスト化し整理し、次のような定義にたどり着いた。スピリチュアリティとは「超越的次元の存在の自覚によって生じる存在・経験様式のひとつであり、それは自己、他者、自然、生命,至高の存在と考える何かに関する一定の判別可能な価値観によって特徴づけられる」。
さらに彼らは,スピリチュアリティを9つの要素から成る多元的構成体として再定義し、それぞれの要素を測定するための尺度を開発している。
1. 超越的次元の存在: 超越的次元、すなわち何かしら「見えない世界」の存在を信じ、それと繋がることで力を得ていると感じる。
2. 人生の意味と目的: 人生には意味があり、存在には目的があると確信している。
3. 人生における使命: 生への責任、天命、果たすべき使命があると感じる。
4. 生命の神聖さ: 生命は神聖であると感じ、畏怖の念を抱く。
5. 物質的価値: 金銭や財産を最大の満足とは考えない。
6. 愛他主義: 誰もが同じ人間であると思い、他人に対する愛他的感情を持つ。
7. 理想主義: 高い理想を持ち、その実現のために努力する。
8. 悲劇の自覚: 人間存在の悲劇的現実(苦痛、災害、病気、死など)を自覚している。そのことが逆に生きる喜び、感謝、価値を高める。
9. スピリチュアリティの効果: スピリチュアリティは生活の中に結実するもので、自己、他者、自然、生命、何かしら至高なる存在等とその個人との関係に影響を与える。
Elkinsらの定義は、スピリチュアリティは宗教的活動として顕在化するのではなく、幅広い領域での生活経験に潜在的な影響を与えるもの、すなわち価値観(value)として捉えている。
第三の位相
人間の根源にある「生きる意味」の自覚に関わる実存性としてのスピリチュアリティ。
第四の位相
「聖なるもの」や「大いなるもの」との出会いやつながり(あるいは一体感)によって、自分が「生かされている」ことを実感する、「大いなる受動性」と呼ばれるもの。
各人の定義
臨床心理学 D.N. エルキンス / 魂を養い、霊的側面を発達させるプロセスおよびその結果。
看護学科 長山正義 / 人間に特有な心理的あるいは精神的活動の総体。
神学 スピリチュアルケア研究・実践 窪寺俊之 / 人生の危機に直面して「人間らしく」「自分らしく」生きるための「存在の枠組み」「自己同一性」が失われたときに、それらのものを自分の外の超越的なものに求めたり,あるいは自分の内面の究極的なものに求める機能。
トランスパーソナル心理学 中村雅彦 / 市井の人々の日常生活における体験、信念、態度および価値観の反映された多様な心理的変数であり、それは人々にとって必ずしも自覚され意識されているとは限らない「潜在因子」である。
死生学研究 藤井美和 / どんな状態でも自分をよしとでき、生きることに根拠を与えるもので、人間存在の根源を支える領域である。これには宗教性が含まれている。
社会福祉研究 木原活信 / 人間の核となるものであり、精神と身体とを結合させるものである。精神とは区別して用いられ、精神、物質、あるいは肉体を包括するもの。
スピリチュアルケア研究 三澤久恵 / 個人の生きる根元的エネルギーとなるものであり、存在の意味に関わるものであり、ゆえにその有り様は、個人の全人的状態、すなわち、個人の身体的、心理的、社会的領域の基盤として各側面の表現形に影響をおよぼす。
学術的研究
スピリチュアリティは宗教学、文化人類学、心理学、代替医療などが相互に関連しあう分野である。
宗教学や宗教社会学の分野では、島薗進などの宗教学者の研究も古くから注目を集めてきた。近年では、「宗教と社会」学会スピリチュアリティ研究プロジェクトの代表研究者である弓山達也や樫尾直樹などとスピリチュアルデザイン研究所を中心とした研究グループをスピリチュアリティ学派と呼ぶことがある。また、非宗教分野での擬似宗教的な実践としてのスピリチュアリティへの関心は、非宗教分野での研究者からも広く注目されるようになっている。
さらに、磯村健太郎の著書『〈スピリチュアル〉はなぜ流行るのか』がある。心理学の面からの取り組みとして、ユング心理学の河合隼雄、トランスパーソナル心理学の諸富祥彦らがいる。 
 
悪霊 (あくりょう、あくれい)

 

悪しき霊。ただし、宗教によって異なる。
キリスト教
聖書には、イエス・キリストが悪霊を追い出し、やまいをいやし、また弟子たちに悪霊を追い出す権威を授けたと書かれてある。教父のテルトゥリアヌス、アウグスティヌスは、異教の神々は堕落した御使いである悪霊だと説明している。カトリック教会には、エクソシスム、エクソシストがあり、プロテスタントでは悪霊追い出しと呼ばれる。サタンと悪霊は堕落した御使いという共通点があるが、サタンと悪霊は区別されている。この場合サタンは堕落した御使いの階級的頂点にある存在であり、悪霊はその手下を指している。ウェストミンスター信仰基準は全人類の始祖がサタンの悪巧みと誘惑にそそのかされて罪を犯し、堕落したために、人間は生まれながらにして怒りの子、サタンの奴隷であると告白する。福音派はノンクリスチャンがすべて悪魔の支配下にあり、宣教の働きは彼らを悪魔の支配下から神の支配下に移すことであると定義する。
比較宗教学
たたりをする死霊を指す宗教もある。悪霊は、祟りや呪いによってわざわい(病気、不運など)の原因となると考えられているものである。
英語の「evil spirit」、ドイツ語の「böser Geist」など、あるいは悪魔、(善神に対立する)悪神などにあたる概念が「悪霊」と翻訳される。
呪術師、祈祷師などに、悪霊ばらい、禊(みそぎ)、祓い(はらい)を依頼するという習慣やしきたりは、東南アジア、インド、スリランカ、日本などのアジア、あるいはアフリカ、中南米など、世界各地に見られる。
キリスト教圏においても、植民地であった地域では、しばしば見られる。たとえば南米各地のインディオの風俗習慣の強く残る地域や、フィリピンなどにおいては、カトリックは各地域に古くからあった信仰(民間信仰)と習合している場合も多く、キリスト教の悪魔ではなく、その地域の信仰の悪霊がとり憑いたとされるときは、人々によってその伝統にそった儀式が行われている。
エホバの証人では、悪霊(あくれい)とは、神に反逆したみ使いで、悪魔サタンとともにエホバの崇拝に反対する霊者である。 
 
怨霊 (おんりょう)

 

自分が受けた仕打ちに恨みを持ち、たたりをしたりする、死霊または生霊のことである。悪霊に分類される。
生きている人に災いを与えるとして恐れられた。
憎しみや怨みをもった人の生霊や、非業の死を遂げた人の霊。これが生きている人に災いを与えるとして恐れられている。
霊魂信仰の考え方では、霊魂が肉体の中に安定しているときその人は生きていられる、と考える。怨みや憎しみなどの感情があまりに激しいと、霊魂が肉体から遊離して生霊となり災いを与える、と考える。
戦死、事故死、自殺などの非業の死をとげた人の場合は、霊肉がともにそろった状態から、突然、肉体だけが滅びた状態になる、とされる。したがって、その人の霊魂は行き所を失い、空中をさまよっていると考えた。これらの霊が浮遊霊である。平安時代の書物にさかんに現れる物の怪(もののけ)、中世の怨霊や御霊、近世の無縁仏や幽霊などは、いずれもこうした浮遊霊の一種とみることができる。
怨霊を主題とした講談や物語などがあり、こういったフィクションなどでは様々な設定で描写されることもある。
怨念
神霊においての怨念(おんねん)とは、祟りなどを及ぼすとされる「思念」を指す。
著名な伝承
日本においては、古くは平安時代の菅原道真や平将門、崇徳上皇などの歴史上の政争や争乱にまつわる祟りの伝承、時代が下った近世では江戸時代に「田宮家で実際に起こったとされる妻のお岩にまつわる一連の事件」としてまとめられた『四谷雑談集』を鶴屋南北(四世)が怪談として脚色した「東海道四谷怪談」などが挙げられる。
また、近代に入っても、明治時代から第二次世界大戦終戦直後に東京で起きたとされる、「大蔵省庁舎内およびその跡地における『首塚』移転などにまつわる数々の祟り」など、伝承されてきた怨霊に関する風聞が広まったこともあった。
民俗学的背景
「江戸時代に至ってもなお、庶民は一般的に怨霊に対する畏怖感、恐怖感を抱いていた」という民俗学上の分析もある。上に挙げた死者の霊は両義的側面を持っていることが分かるが、怨霊と反対に祝い祀られているのが祖霊である。また民俗学と全く関係ないわけでもないが哲学者の梅原猛は日本史を怨霊鎮めの観点から捉えた「怨霊史観」で著名である。
インドの仏教では人は7日に1度ずつ7回の転生の機会があり、例外なく49日以内に全員が転生すると考えられているために霊魂と言う特定の概念がちがうが、日本では神仏習合のため、日本の仏教では霊を認める宗派もある。
怨霊信仰
怨霊の神格化をいい、平安時代以前の怨霊とみられるものとしては、大和政権が征服を進める際に敵方の霊を弔ったという隼人塚がある。いくつかの神社などにおいて、実在した歴史上の人物が、神として祀られている。
日本三大怨霊とされる、菅原道真は、太宰府天満宮(福岡県太宰府市)や北野天満宮(京都市上京区) / 平将門は、築土神社(東京都千代田区)や神田明神(東京都千代田区) / 崇徳天皇は、白峰宮(香川県坂出市)や白峯神宮(京都市上京区)にそれぞれ祀られている。 
 
除霊

 

除霊とは
除霊とは、ある人が長い間心や体のトラブルから抜け出せなかったり、家族に次々と災難が降りかかったりする時に、霊能者にお願いしてお祓いをしてもらうことです。成仏していない霊が取り付いているからトラブルが起きていると考えるのです。霊能者は、その人や土地、家族に取り付いている霊を見付けられます。普通の人には見えない霊が見えるのです。そして、特別な方法で除霊することができるのです。
どんな時に除霊が必要か
どんな時に除霊が必要になるかと言うと、心や体の状態がすぐれない状態が続く時です。次々と病気にかかったり、原因不明の熱が続いたりする時には、良くない霊が取り付いているのかもしれません。うつ状態や幻聴幻覚、自殺願望が消えない時にも霊能者にお祓いをお願いすることで解決することがあります。
土地に関する除霊
ある土地に引越しをしてから家族にトラブルが続く時には、土地の除霊が必要かもしれません。以前住んでいた人に不幸な亡くなり方をしたり、その土地で事故が起きたりしたことがないか、確認してみると良いでしょう。土地の除霊は、霊能者に現場に来てもらってお祓いを行う必要があります。玄関の方角や寝室の位置など、建物の方位を変更したほうが良いこともあります。
動物に関する除霊
鏡を見た時に自分の人相が変わっていたり、動物のような仕草が止められなかったりした時には、動物の霊が取り付いている可能性があります。除霊を考えて見ると良いでしょう。それから、他の人とうまく人間関係が築けない場合や、赤面症のため人前で話ができない場合も動物の霊が原因である可能性があります。片付けができない人や狭い場所が好きな人も、霊能者に頼んで動物の除霊を行うと改善することがあるそうです。  
 
船霊様

 

板子一枚下は地獄だと云われる漁師や船乗りは水神様や厳島神社を観請して信仰し、航行中や漁撈活動中の安全を祈願した。また船には必ず船霊様を祀った。水神様や厳島神社はその土地の産土神として篤い信仰は継がれて居るが、海が工業地帯となって約半世紀を経た今日船霊様に関しては海で生きて来た人達からも忘れられつつある。
船霊は船玉・船魂とも書き、船中に祀られた船の守護神である。この船霊信仰は奈良・平安時代には信仰されていた事が「続日本記」第二十四巻天平宝字七年(763)八月の条に「壬午。初遣高麗国船名日能登 帰朝之日 風波暴急漂蕩海中祈日 幸頼船霊平安到国可必請朝廷」とある。「能登」という船名の船が朝鮮の高麗から帰国の途中暴風に遭い海中を漂流沈没寸前船霊に無事平安を祈願したところ、さしもの荒波は静まり無事帰国できたと記している。
船霊様は中型船以上の木造船には必ず祀ったが、船大工が深夜ひそかに祀り込んだので船頭や漁師たちは船霊の実態を知る人は少ない。安房郡和田町の例では檜の角材に穴を掘り檜の板屋根と基壇をつけお宮を造り、男女の人形、サイコロ、銭12枚(十二銭)五穀(米、麦、大豆、小豆、ささげ)を半紙に包み女の髪毛と麻、サイコロを添えて祀る。サイコロは目が天1地6にする。1を天、2を地として祀ることは船の重心が下部にある方が安定するからである。賽の目には、2はオモガジ・にっこり。3はオモテ・みあわせ。4はトモ(艫)しあわせ。5はトリカジ・ぐっぴり。という語呂合わせがあるという。
市原では江戸中期頃より五大力船が物資の輸送に重要な役割を果たしたが、昭和初期にはその船影を見ることがなくなった。昭和48年、筆者と大室晃氏とで姉崎川崎の船頭・小高綱次翁等より五大力船に関する調査を行った。その際の船霊様の説明によると、女の髪の毛、櫛、簪、紅(化粧品)穴空き銭数枚、船大工の造ったサイコロ二個をセットとして帆柱の基部に穴を開けて其処に祀った。二個のサイコロは三を表に四を裏側にしておいた。三と四に語呂合わせがあって三は「オモテ・しあわせ。四はともしらが。と言い船霊を収納するところを「ツツ」と呼んだという。今津地区にも同様の語呂合わせが伝承されていた。
小型漁船には船霊を祀る例は少ないが今津朝山では胴の間(船の中央部)の帆柱の基部に小穴を穿ち、そこにサイコロを一個だけ船の守り神(船霊様)として祀ったという。やはり賽の目一を上に六を下にする一天六地の決まりを守っていたようだ。また漁師は船の船霊とは別にサイコロ一個を身の安全を守る為に懐中に所持していたという。
(付記)
1.安房地方では船主の妻や娘の髪の毛を賽子(サイコロ)や人形や五穀等と共に祀ったという。女の髪の毛を編むと強靭な綱となり災難から守るということから一緒に収納したと云う。また、出漁した船が無事に帰港できることを願って干からびた蛙も一緒に祀る例もあると云う。
2.今津地区の小型漁船には帆柱の下部の「エチゴジリ」に縦・横10センチ程の船霊祭祀の穴を穿ち、神官より戴いた木製の守り札と賽子をお祀りしたと云う。
3.サイコロの賽の目を一を上に六を下にして祀るのは、船の安定を守ることを祈願することであるが、新造船の船卸の際に船大工の機嫌を損じると賽の目を一を下に六を上に祀るようなことをされると云う。船は上荷が勝つと安定性が悪く強風に遇うと横転することがある。船霊様の祭祀物の中でも賽子は船の安全と安全を祈願する最も重要なものであると云える。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
憑依(ひょうい)

 

霊などが乗り移ること。憑(つ)くこと。憑霊、神降ろし・神懸り・神宿り・憑き物ともいう。とりつく霊の種類によっては、悪魔憑き、狐憑きなどと呼ぶ場合もある。
「憑依」という表現は、ドイツ語の Besessenheit や英語の (spirit) possession などの学術語を翻訳するために、昭和ごろから、特に第二次世界大戦後から用いられるようになった、と池上良正によって推定されている(#訳語の歴史を参照)。ファース(Firth, R)によれば、「(シャーマニズムにおける)憑依(憑霊)はトランスの一形態であり、通常ある人物に外在する霊がかれの行動を支配している証拠」と位置づけられる。脱魂(英: ecstassy もしくは soul loss)や憑依(英: possession)はトランス状態における接触・交通の型である。
宗教学では「つきもの」を「ある種の霊力が憑依して人間の精神状態や運命に劇的な影響を与えるという信念」とする。
訳語の歴史
人類学、宗教学、民俗学などの学術用語として用いられるようになった「憑依」あるいは「憑霊」という表現は、明らかにドイツ語の Besessenheit や英語の(spirit) possession などの翻訳語であり、欧米の学者らが使用する学術用語が日本の学界に輸入されたものである、と池上良正は指摘した。1941年(昭和25年)のある学術文献には「憑依」の語が登場した。一般化したのは第二次世界大戦後だろうと、池上良正は推定した。
「憑依」という学術用語が用いられるようになって後は、この用語に関して、様々な理論化や類型化が行われてきた。例えば、憑依という用語にとらわれすぎず、「つく」という言葉の幅広い含意も踏まえつつ憑霊現象をとらえなおした小松和彦の研究などがある。
「憑依」という用語と分類の恣意性
ただし、学術的な研究が進むにつれて、当初は明確な輪郭をもっているように思われた「憑依」という概念が、実は何が「憑依」で何が「憑依」でないか線引き自体が困難な問題であり、評価する側の価値判断や政治的判断が色濃く反映され、バイアスがかかってしまっている、やっかいな概念である、ということが次第に認識されるようになってきた。
というのは、大和言葉の「つく」という言葉ならば、「今日はツイている」のように幸運などの良い意味で用いることができる。ところが「憑依」は否定的な表現である。英語の be obsessed や be possessed などは否定的な表現であり、「憑依」も否定的に用いられてしまっているのである。現実に起きていることはほぼ類似の現象であっても、書き手の側の価値判断や政治的判断によってそれを呼ぶ表現が恣意的に選ばれてしまい、別の表現になってしまっているのであるといったことを池上などは指摘する。
例えば聖書には次のようなくだりがある。
イエスはバプテスマを受けると、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように自分の上に下ってくるのをご覧になった。また天から声があって言った。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である(マタイによる福音書、3.16)
祈りが終わると、彼らが集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。(使徒行伝 4.31)
このような箇所が翻訳される場合は肯定的に表現され、「憑依」を暗示するような訳語は使われず、このような箇所は「憑依」に分類されてこなかったのである。一方、同じく聖書には次のようなくだりがある。
イエスが向こう岸のガダラ人の地に着かれると、悪霊に取りつかれた者がふたり、墓場から出てきてイエスのところにやって来た。二人は非常に凶暴で(中略)、突然叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ時ではないのに、ここにきて、我々を苦しめるのか」。はるか離れたところで多くの豚の群れがえさをあさっていた。そこで悪霊たちはイエスに願って言った。「もし我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」。イエスが「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると豚の群れは崖から海へなだれこみ、水の中で死んだ。豚飼いたちは逃げ出し、町に行き、悪霊に取りつかれた者のことなど一切を知らせた。(マタイによる福音書8.28-33)
これなどは「取りつかれた」などの「憑依」を暗示する用語・訳語が選ばれ、そういう位置づけになっている。
一方、沖縄のユタと呼ばれる人がカミダーリィの時期を回想した体験談に次のようなものがある。
そして神様に歩かされて、夜中の3時になるといつもウタキまで歩かされて、そうすると、天が開いたように光がさして、昔の(琉球王朝の)お役人のような立派な着物を着たおじいさんが降りて来られて「わたしの可愛いクァンマガ(子孫)」とお話をされる。
この体験談を聖書の引用と比較してみると、明らかにイエス自身の事跡を示したマタイ伝3.16以下のくだりと酷似している。まともに判断すれば、マタイ伝3.16のくだりと同じ位置づけで研究されてもようさそうなはずのものなのだが、ところが学術の世界では「ユタと言えばカミダーリィ(神がかり)。だからシャーマン。巫者。だから”憑依”される人物だ」といったような、冷静に検討すれば、あまり正しいとは言えない理屈で分類されるようなことが行われてきたのである。
キリスト教徒のなかには、「キリスト教徒以外の異教徒はすべてサタンによって欺かれている」などと言う人もおり、キリスト教の外にあるイタコやユタなどは”悪霊に憑かれた者”に分類し、それに対して、キリスト教の中にある聖霊に関しては「憑かれる」とは表現しない、と池上は指摘した。こうした表現や用語の選定段階には、聖書の編者たちやキリスト教徒たちの価値判断や解釈が埋め込まれてしまっているのである、と池上は述べた。学者らがこうしたキリスト教徒の「信仰」自体を批判する筋合いにはないが、問題なのは、こうしたキリスト教信仰による分類法が、「学術研究」とされてきたものの中にまでも実は深く入り込み、研究領域が恣意的に分けられてしまうようなことが行われてきたことにある、と池上良正は指摘した。つまり、「ついた」「神がかった」などという表現があると「憑依」や「シャーマニズム」に分類して、宗教人類学や宗教民俗学の守備範囲だとし研究されたのに、「(イエス・キリストが)天が開け神の御霊が鳩のように自分の上に下ってくるのをご覧になった」という記述や「高僧に仏の示現があった」「見仏の体験を得た」という記述は、別扱いになってしまい、キリスト教研究や仏教研究の領域で行われる、ということが平然と行われてきたしまったといった内容のことを池上は指摘した。
古代ギリシャ
哲学 / プラトンはその著作『パイドロス』の中で「神に憑かれて得られる予言の力を用いて、まさに来ようとしている運命に備えるための、正しい道を教えた人たち」と、前4世紀当時のギリシャの憑依現象について紹介している。『ティマイオス』では、憑依された人が口にする予言や詩の内容を、客観的な視点から理性を用いて的確に判断し解釈する人が傍らに必要であることを述べている。
アブラハムの宗教
アブラハムの宗教であるユダヤ教もキリスト教もイスラム教にも、預言者が登場する。これは神が宿ったものともいえる。(預言、福音、啓示)
キリスト教
新約聖書の福音書で「つかれた」と訳される δαιμονίζομαι の語は、パウロ書簡にはでてこない。
ルーダンの憑依事件(英語版)について、神学者のミッシェル・セルトーが、神学、精神分析学、社会学、文化人類学をクロスオーバーさせつつ分析している。
カトリック教会の神学では、夢遊病的なもの(the somnambulic)の型のつきものに possession の名を与え、正気のもの(the lucid)の型のつきものに obsession の名を与えている。
神道・古神道
相撲 / 皇室に奉納される神事であり、横綱はそのときの「戦いの神」の宿る御霊代である。
祓い / 昔の巫女は1週間程度水垢離をとりながら祈祷を行うことで、自分に憑いた霊を祓い浄める「サバキ」の行をおこなうこともあった。
日本語における憑依の別名
神宿り - 和御魂の状態の神霊が宿っている時に使われる。
神降ろし - 神を宿すための儀式をさす場合が多い。「神降ろしを行って神を宿した」などと使われる。降ろす神によって、夷下ろし、稲荷下ろしと称される
神懸り - 主に「人」に対し、和御魂の状態の神霊が宿った時に使われる。
憑き物 - 人や動物や器物(道具)に、荒御魂の状態の神霊や、位の低い神である妖怪や九十九神や貧乏神や疫病神が宿った時や、悪霊といわれる怨霊や生霊がこれらのものに宿った時など、相対的に良くない状態の神霊の憑依をさす。
ヨリマシ -尸童と書かれる。祭礼に関する語で、稚児など神霊を降ろし託宣を垂れる資格のある少年少女がそう称された。尚柳田國男は『先祖の話』中で憑依に「ヨリマシ」のふりがなを当てている 。
民俗学における憑依観
民俗学者の小松和彦は、憑き物がファースの定義による「個人が忘我状態になる」を伴わないことや、社会学者I・M・ルイスの「憑依された者に意識がある場合もある」という指摘以外も含まれることから、憑依を、フェティシズムという観念からなる宗教や民間信仰において、マナによる物体への過剰な付着を指すとした。そのため、「ゲームの最中に回ってくる幸運を指すツキ」の範疇まで含まれると定義する。さらに、そのような観点から鑑みるに、日本のいわゆる憑きもの筋は「possession ではなく、過剰さを表す印である stigma」であるとする。また、谷川健一は、「狐憑き」が「スイカツラ」や「トウビョウ」など、蛇を連想させる植物でも言われることから、「蛇信仰の名残」とし、「狐が憑いた」という説明を「後に説明しなおされたもの」と解説している。
医学と憑依
医学においては森田正馬(森田療法で有名)は祈祷性精神病を研究した。医学領域では、憑依とされているものの一部は、精神疾患の一種と解釈したほうがよいと判断することがある。
ただし、沖縄では「ターリ」あるいは「フリ」「カカイ」などと呼ばれる憑依現象は、その一部が「聖なる狂気」として人々から神聖視された。そのおかげで憑依者は、治療される対象として病院に隔離・監禁すべきとする近代西洋的思考に絡め取られることは免れた、ともされる。
沖縄の本土復帰以降には、同地に精神病院が設立されたものの、同じころ(西洋的思考の)精神医学でも「カミダーリ」なども、人間の示す積極的な営為の一つであるというように肯定的な見方もなされるようになったおかげで、沖縄は憑依(の一部)を肯定する社会、として現在まで存続しているともされている。
超常現象研究からの所見
職業霊媒のように、人間が意図的に霊を乗り移らせる場合もある。だが、霊が一方的に人間に憑くものも多く、しかも本人がそれに気がつかない場合が多い。
とりつく霊とされているのは、本人やその家族に恨みなどを持つ人の霊であったり、動物霊であったりする。
何らかのメッセージを伝えるために憑くとされている場合もあり、あるいは本人の人格を抑えて霊の人格のほうが前面に出て別人になったり、動物霊が憑依した場合は行動や容貌がその動物に似てくる場合もある。
こうした憑依霊が様々な害悪を起こすと考えられる場合は、それは霊障と呼ばれている。
ピクネットによる説明
超常現象専門の研究者であるピクネットは、種々の文献や、証言を調査して以下のように紹介している。
歴史 / 憑依は太古の昔から現代まで、また洋の東西を問わず見られる。すでに人類の歴史の初期段階から、トランス状態に入り、有意義な情報を得ることができるらしい人がわずかながらいることほ知られていた。部族社会が出現しはじめた頃、憑依状態になった人たちはいつもとは違う声で発語し、周囲の人々は霊が一時的に乗り移った気配を感じていたようである。初期文明では憑依は「神の介入」と見なされていたが、古代ギリシャのヒポクラテスは「憑依は、他の身体的疾患と同様、神の行為ではない」と異議を唱えている。西洋のキリスト教では、憑依に対する見解は時代とともに変化が見られ、聖霊がとりつくことが好意的に評価されたり、中世には魔法使いや異端と見なされ迫害されたり、近代でも悪魔祓いの対象とされたりした。現在でも憑依についての解釈は宗派によって、見解の相違が存在する。(→#キリスト教)近年でも憑依の典型的な例は起きている。例えばイヴリン・ウォーは『ギルバート・ピンフォードの苦行』という本を書いたが、これは小説の形で提示されてはいるものの、ウォー自身は、これは自分に実際に起きたこと、とテレビで述べている。(ただしこの事例では、酒と治療薬の組み合わせが原因とも言われている)。最近では「良い憑依」というのを信じる人々もいる。肉体を備えていない霊が、肉体の「主人」の許可を得てウォークイン状態で入り込み、祝福のうちに主人にとってかわることもあり得る、と信じる人たちがいる。
古代イスラエル / ヘブライ語聖書(旧約聖書)にも憑依の記述は存在する。古代イスラエルでは、その状態は霊に乗っ取られた状態であり、乗っ取る霊は悪い霊のこともあり、サタンの代理として登場する記述がある。
キリスト教 / 初期のキリスト教徒は憑依を次のように好意的に見なしている。「聖パウロにおいて、病気の治癒、予言、その他の奇跡を約束して下さった聖霊が憑くような現象は、きわめて望ましい。」その一方で、憑依に関連する能力として「霊の見分け」(つまり悪霊を見破る能力)が認められていた。時代が下ると憑依を悪霊のしわざとする考え方が一般的になり、憑依状態の人が語る内容がキリスト教の正統教義に一致しない場合は目の敵にされ、そこまでいかない場合でも、憑依は悪魔祓いの対象とされている。憑依状態になる人が、魔法使い、あるいは異端者として迫害される事例が多くなっていった。ピクネットは、憑依の歴史的記録で、証拠文献が豊富な例として、1630年代のフランスのルーダンで起きた「尼僧集団憑依」事件をとりあげている。この事件では、尼僧たちの悪魔祓いを行うために修道士シュランが派遣されたのだが、そのシュラン自身も憑依されてしまった。尼僧ジャンヌも修道士シュランも、後に口を揃えてこう言った。 「卑猥な言葉や神をあざける言葉を口にしながら、それを眺め耳を傾けているもうひとりの自分がいた。しかも口から出る言葉を止めることができない。奇怪な体験だった。」A.K.エステルライヒが1921年の著書『憑依』で示した、憑依の中には、悪魔が発語するような語り口、性格が異なる悪霊が五つも六つも詰めかけているような様子、乗り移られるたびに別人になったかのように見えるものも含まれていた。カトリック教徒の中の実践的な人々の間では、「憑依は悪魔のしわざ」説は次第に説得力を失ったが、英国国教会は今でも悪魔祓いを専門とする牧師団は存在している。
医学分野 / 医学領域や心理学の領域で、憑依を二重人格あるいは多重人格の表れとみなす考え方は多い。 「『自分』というのは単一ではない。複数の自分の寄せ集めで普段はそれが一致して動いている。あるいは、日々の管理を筆頭格のそれに委ねている。」ただし、この説明の例では、霊媒行為について当てはまらない、霊媒行為の場合、「筆頭格」のそれは、明らかに何か異なる実在のように見えることが多く、また霊媒はトランス状態になると、その人が通常の状態ならば絶対に知っているはずのない情報を提供している。
矢作直樹のスピリチュアル的見解
救急救命医として大勢の生死の狭間にある患者を診てきた矢作氏は、「人には­見える部分と見えない部分がある」と言う。実際にわれわれが見たり触れたりすることが­できる肉体と、目には見えないが恐らく肉体よりも大きな存在である霊体のことだ。物質的神経の仕組みを解明しても根本的因果関係を説明しているとは言えずその背後に霊的エネルギー体があるのだろうと述べている。
人間の霊性の理解なくして人間を­正しく理解することはできないと言う。われわれはとても限られているものだけを見ている可能性がある。目に見える現象部分に­働きかける西洋医学や科学には一定の意味はあるが、それだけでは根本的な治癒には至ら­ない場合多いのではないかと述べている。
矢作氏は救急救命医として勤務する中で、実際に別人の霊に乗り移られた患者を何人も診­てきたという。搬送されてきた患者に、医学的な疾患だけではない何かが憑いた状態にな­っていることが多いと言うのだ。「憑依かどうかは見れば大体分かる」と言う矢作氏は、­霊魂や霊性というものは一種の波動のようなものであり、目に見えないけれども、確実に­そこに在るものだと解説する。そして憑依は、他者の霊と別の人間の波動が一致した時に­起こるものだという。 
 
妖精

 

初めに
妖精に興味をもっている人たちは沢山いると思います。でも、どんなに興味をもっていても、妖精は童話と空想の世界の存在だと思っている人がほとんどではないでしょうか。私の場合も、童話の登場人物としてのイメージがあまりに強かったため、初めて妖精の存在をシュタイナーによって知らされた時、えっ、ウソだろ?と信じられない思いでした。それまでは、天使存在や悪魔存在なら、善や悪の権化として意味があり、存在してもおかしくないと思えましたが、いたずら好きな妖精とか、可憐な姿をした妖精となると、どうもフィクション臭く感じられていたのです。妖精は、物語を面白くするための登場人物くらいにしか思えなかったのです。そんなものがいるとしても、いったい何のためにいるかと考えると、天使や悪魔のようには明確な答えが出てこなかったのです。
でもシュタイナーの説明を読むうちに、宇宙の万物がたがいに関連し合う緊密なネットワークの中に、妖精存在も組み込まれていることを知って、段々とその存在にも納得がいくようになりました。以下の説明は全集102番の、『霊的諸存在が人間に及ぼす影響』の第10,11講演、212番『地球進化との関連における人間の霊的努力』の第8講演、230番の『創造し、形象を生み、造形する宇宙言語に共鳴する人間』の第8講演などに基づいています。
妖精はエーテル界に棲んでいる
前回までの話で、物質界とはレベルの違う、肉眼に見えない世界がいくつか存在することを紹介しました。アストラル界や、それより高次の霊的世界(この世界にもレベルの違う領域があります)などがそうです。ここで人間の存在の構成要素をもう一度振り返り、それと対応する世界を並べてみましょう。
人間の構成要素界
物質体(肉体)物質界
エーテル体?
アストラル体アストラル界
自我霊的世界
(霊我)高次の霊的世界
(生命霊)より高次の霊的世界
(霊人)さらに高次の霊的世界
すると、エーテル体に対応する界が抜けていることが分かるでしょう。その世界こそが、いわゆる妖精と呼ばれる自然霊(エレメンタル・ガイスト)の棲むエーテル界(エレメンタル界)なのです。エーテル界は物質界とほとんど重なって存在しています。
アストラル界
エーテル界との違いをはっきりさせるために、アストラル界の特徴について少し述べておきます。アストラル界は物質界の一種のネガの世界です。アストラル界では、すべてが物質界と逆になっていて、たとえば数字の641は146となります。アストラル界を死後訪れた時、欲望が起こったりすると、その欲望の感情は見える姿をとって、自分を襲ってきます。感情と同じ素材でできているアストラル界では、感情が実体化するわけです。物質界では自分の内にある感情が、アストラル界では外から自分に向かって来るという、逆さまの現象が起こります。
エーテル界
しかしエ-テル界は、生物のエーテル体が物質体の鋳型であるのと同じように、物質界の鋳型でもあって、緊密な対応関係があります。草木のエーテル体、動物や人間のエーテル体などは、それぞれの物質体に近い形でエーテル界にあるわけです。このエーテル界に物質体のない存在もいて、そういう存在は、物質界に対応する姿がありません。これらの存在の中には、前回話したような天使存在(物質体がなく、エーテル体から霊我までを備えている)もいますが、このような高次の霊的存在は地球領域を突き抜けていますので、ひとまずおいておきます。物質界に姿を現すような物質体をもっていない、低次の存在に注目してみましょう。それが妖精存在であるわけです。
エ-テル界をイメージする
なお、妖精の話に入る前に、エーテル界がどのようなものかをもう少し考えておきます。その一つの考え方は、地球を一つの大きな生き物と考えて、物質のかたまりとしての地球をその物質体とみなし、エーテル界をそのエーテル体とする考え方です。地球のエーテル体がエーテル界というわけです。そのエーテルのオーラの中に、人間のエーテル体や天使存在のエーテル体に混じって、エーテル界の住人たちが浮遊していることになります。シュタイナーは全集117番『霊的世界の境域』の「人間のエーテル体とエレメンタル界について」などの中で、この考え方を紹介しています。
もう一つの考え方は、エーテル界を単なる物質界の鋳型にすぎないと考えてしまう誤りを避けるために必要なものです。先ほど、物質界とエーテル界は緊密な対応関係にあると言いましたが、だからといって、エーテル界を思い浮かべる時、輪郭のはっきりした物質界と同じようなパラレルワールドを想像するのは間違いです。エーテル体が実はリズムをもって還流する流体であるのと同じように、エーテル界も、無数のイメージ、無数の形象が波打ち流動する大海のような世界なのです。そこは前回述べたイマギナチオーンという霊的能力で覗くことのできる世界です。夢の世界の背後に存在する広大な世界です。このエーテル界の素材は、人間が思い浮かべるイメージと同じ性質のものです。もっとも、人間がふつう想像できるイメージは、エーテル界に波打つイメージの影のようなものですが。物質界の物質が実在のものであるのと同じように、エーテル界のイメージは、実体をもった存在なのです。
妖精はどのような要素でできているか
これまでの話で、鉱物・植物・動物・人間・各種天使存在の「体」の霊的要素を明かしてきました。それでは、妖精はいったいどのような要素で構成されているのでしょうか。妖精については、古くはルネッサンス期の神秘主義的な医学者パラケルスス(1493ー1541年)が自然の四つの霊的元素、火、風、水、土に合わせて、火の精(サラマンダー)、風の精(ジルフ)、水の精(ウンディーネ)、地の精一グノ(グノーム)を分類しています。(詳しく知りたい人は大橋博司著、思索社刊の『パラケルススの生涯と思想』の「妖精の書」の章を参照できます。)この火、風、水、土(地)が、シュタイナーの言う自我、アストラル体、エーテル体、物質体の要素と対応しています。
なお、地水風火で霊的元素を表現するやり方は、古くから広く行われていて、私たちがお寺で見かける五輪塔も、火の上に声を表す空を加えて、上から空火風水地というふうに、自我の働き、自我、アストラル体、エーテル体、物質体を表しています。
パラケルススが述べている分類は、シュタイナーの分類とも一致しています。というよりは、エーテル界に存在する妖精は、霊的能力さえあれば、大体同じように見えるということです。霊的世界を科学的に捉えようとしたシュタイナーの場合は、その表現が分析的になります。シュタイナーによれば、各種妖精を構成する要素は次のようになっています。
地の精:物質体十物質体より一次元下の体十二次元下の体十三次元下の体
水の精:エーテル体十物質体十物質体より一次元下の体十二次元下の体
風の精:アストラル体十エーテル体十物質体十物質体より一次元下の体
火の精:自我(不完全なもの)十アストラル体十エーテル体十物質体
以下、シュタイナーの説明に沿って、それぞれの妖精の由来、現れる条件、性質、役割について述べてみます。
地の精(グノーム、コーボルト)
まず地の精がどうやって生まれたかですが、思い出してもらいたいのは、「睡眠を霊的に見る」Tの最後で紹介した分霊の発生という現象のことです。高次の自我が睡眠中の人間の〔物質体十エーテル体〕に入り込み、そこで分裂を起こして、ちぎれた霊的存在=分霊が生じるという現象です。地の精も、自然界で特定の役目を果たすため、かつて高次霊から分裂してできた分霊なのです。その高次霊は全集136『天体と自然界の霊的存在』の第3講演によれば、権天使です。
現れるのは、鉱物とふつうの岩石が接するところ。つまり、金属と他の岩石が接している境界です。妖精はつねに二つの世界の境界に現れます。地の精の場合は、生物が一度も入ったことのないような鉱山の地底などにいるのです。鉱夫はそのような鉱山を掘り進んでいくので、地の精に一番出会いやすい人間です。鉱石や岩石を持ち上げた時に、何ものかがサッと飛散したような気配で、その存在が感じとられることがあるといいます。土を掘ると、そこに固まっていた地の精たちは、パッと破裂してばらばらに分かれてしまいます。彼らは自由に体を大きくすることもできますが、人間より大きくなることはありません。
彼らの体を構成する一番高次の成分は物質体ですから、本来、肉眼で見えてもよさそうですが、物質界以下の力の作用で、見えなくなっています。ふつうの物質体に近い状態は、高圧下でのみ可能です。しかし、圧力を除くと、一瞬のうちに飛散します。土の中で高圧下にある時、彼らの体は圧縮されて、大勢でうずくまっていたり、時には不気味に伸びたりします。圧力を除いて飛散するプロセスは、人間の物質体が、自我、アストラル体、エーテル体を失って崩壊する死のプロセスと同じものです。
霊視力のある人は地中の彼らが見えます。彼らが小さな物質体を持っているのが見えます。その物質体の構造の中には、人間の脳に似た器官があります。人間の場合、物質脳には、自我やアストラル体、エーテル体などの高次の要素が浸透していますが、彼らの「脳」はそうした高次の要素を欠いており、代わりに物質界以下の力の原理の下にあります。妖精はいわば霊的進化の道からはずれた存在でして、地の精の「脳」も、高次の進化の意図に沿っては働きません。むしろそれを阻むように働くといいます。しかし彼らはその知能において、ある意味では人間よりすぐれています。彼らは知能のかたまりともいえます。直観的理解力をもっています。ですから地の精は人間の理解力を不完全なものとして見下し、人間がもたもた推論しながら考えている様子を見てはおかしがっているとシュタイナーは言っています。
彼らには自我がないのですから、倫理的責任感などは期待できません。しかし最高度の「機知」(ウイット)をもっていて、彼らに接する人間はいろいろないたずらや、からかいを仕かけられます。鉱夫の中で、健やかな自然感覚をもっている人は、この存在に気づいているはずだとシュタイナーは言っています。一般に、他の自然霊も含めて、彼らは目に見えないけれど、我々の世界に作用しているのです。
妖精の構成要素
霊視能力者が地の精を見つけたとします。しかしその数を数えることは非常に難しいといいます。たとえば三つまで数えたところでハッと気がつくと、もう三つではなく、ずっと多くなってしまっている。物質界でやるような数え方が通用しないのです。物質界でやり慣れている数え方をしようとすると、彼らはそのすぐれた知能を使って、さっと邪魔をするのだそうです。彼らの知能は、人間の計算の先まわりをすることぐらい簡単にやってのけるのです。
さて、地中に棲む地の精は、大地が好きなのでしょうか。この点についてシュタイナーは全集230番、第9講演の中で、興味深いことを述べています(以下に挙げる地の精は、鉱山の奥深くにいるものでなく、地表近くにいるものらしく、同じ地の精であっても種類が違うことが考えられます)。彼によると、地の精の姿は月の満ち欠けに応じて変化しているそうです。満月の時は物理的な月光を嫌う彼らの肌は、防御のために鎧のようなもので覆われます。そのため、地の精はこの時、小さな騎士のような姿になります。反対に新月の時は、透明になって、霊視すると中身が透けて見え、そこにさまざまな綺麗な色がちらちら輝いているのが見えるそうです。まるで人間の脳の中を覗いたみたいです。しかしそこに見えるのは、宇宙世界の思いです。彼ら地の精は、地上を越えた宇宙世界のことに思いを向けています。本来、地上的なものは憎んでいるのだそうです。なぜなら、大地は地の精をつねに両棲類(ひきがえるなど)の姿になる危険にさらしているからだというのです。地の精は次のように感じているといいます。「あんまり大地に染まると、かえるになってしまう」。ですから彼らはいつも、大地に慣れすぎることを避けようとしています。そこで彼らは、超地上的な理念に没頭するのです。地の精は、本来、大宇宙の理念の担い手なのです。
私はこの話をシュタイナーの講演で読んだ時、蝦墓の妖術を使う児雷也の姿を思い出しました。大きな蝦纂の上に乗って印を結んでいる姿です。歌舞伎や初期の映画で上演された児雷也の物語は中国の説話に由来していますが、妖術は中国が本場です。ヨーロッパの魔法に相当します。妖術や魔法が自然霊の力をコントロールしているのだという話は知っている人も多いでしょう。ゲーテの『ファウスト』の中でも、ファウストが地霊を呼び出す場面があります。自然霊は高次霊の指導の下におけば善用できますが、こうしたコントロールはつねに危険を伴います。一歩間違えれば黒魔術になります。かつてアトランティス人たちは、ある種の自然霊を悪用して自滅しました。現在の人間の系譜が始まった古代インド文化期の前に、アトランティス時代があったのですが、彼らには自然霊も「見え」ていたのです。このアトランティス人のあり方については、次回述べる予定です。
水の精(ウンデイーネ、ニンフ)
水の精は大天使から分霊して生まれました。現れる場所は、岩と植物が接していて、そこにさらに水があるようなところです。たとえば、岩の上を苔がヴェールのようにおおっていて、そこに上から水がしたたり落ちているような泉に、霊視能力のある人の目には、はっきりと姿を現します。
彼らは人間の感受性をうんと繊細・敏感にしたような性質をもっています。たとえば、人間が赤いバラの花を見てきれいだと思ったり、木立が風にざわめいているのを聞いて胸を騒がすような時、彼らは樹液の中に入り込んでバラの花の中にまで昇り、その「赤」を実際に体験したり、木立の枝の中で、風のそよぎを感じたりしているのです。彼らは現象の中にまで入り込んで体験するのです。
植物の成長に手を貸すことも水の精の大きな仕事です。地の精は植物の根に群らがり、大地に対する反感をこめて、植物を上へ上へと押し上げます。植物が重力に逆らって垂直に伸びていくのは、地の精の、大地に対する反感の力のせいなのだとシュタイナーは言うのです。水の精は、地面の近くに群らがって、地の精が草木を上へ押し上げるのを満足そうに見つめるのだそうです。水の精はたえず夢想しているような存在です。そもそもその夢想のエーテル的素材が、彼らの姿を作っているのです。水の精は水のエーテル的要素の中に生き、その中を漂っています。彼らは地の精のようには大地を憎んでいませんが、それでも物質界のある存在に対して大変敏感です。
水の精が敏感なのは、魚に対してです。というのも、水の精は時々、魚の姿になってしまうからです。彼らは油断していると魚になってしまうのです。しかし、じきに魚の姿から、別のメタモルフォーゼに移るといいます。彼らは自分の姿をつねに夢想によって生み出しているのです。
植物の生育に果たす水の精の役割をもう少し追ってみます。実は水の精は自分の姿を夢想することによって、風の要素を作り出しては、またそれを分離させるというような作業を行っています。これは神秘的なプロセスであって、通常の化学的なプロセスではありません。ここに水の要素と風の要素の接触が起こっています。この霊的で繊細なプロセスが植物の成長に必要なのです。植物はいわば、水の精が織りなす夢想の中へと枝葉を伸ばしていくのです。水の精が繰り広げるエーテル的な夢想を鋳型として、その中へ物質体を満たしていくのです。水の精は神秘的な化学者といえます。この働きがなく、垂直に押し上げる地の精の働きだけがあったら、植物は枯れてしまうでしょう。
水の精は水の要素の中に生きています。しかし彼らは、水の表面にいる方を好みます。たとえそれが滴(しずく)であっても、表面の方を好みます。なぜなら彼らは常に、魚の姿になってしまうことを警戒しているからです。
風の精
風の精は太古、天使から分霊して生じました。彼らが現れるのも、やはり二つの界が接するところです。それは、動物界と植物界が接する境界です。といっても、この二つの界が接していればどこでもいいというのではありません。たとえば、牛が草を食べているような形で動物と植物が接していても、これはごく当たり前の接触であり、風の精を呼ぶことはありません。このような接触は通常の進化の歩みに沿ったものです。風の精を呼ぶのは、蜂と花の接触のような場合です。蜂と花は、作りが非常に違うし、全く別の進化段階にあるのに、後になってから共生関係を結びました。蜜を吸う蜂と、吸われる花との間には、親密な味覚のやりとりが行われていて、その奇妙な行為から、エーテルのオーラのようなものが生じます。このエーテルのオーラを求めて、風の精が近づいてくるのです。よく木に沢山の蜂が群らがっていることがありますが、その蜂の群全体が、今述べた味覚のやりとりをしていることもあります。その群が味覚の余韻を味わいながら一斉に飛び立つと、飛んでいる群全体がエーテルのオーラに包まれていて、そのオーラの中に風の精が入り込んでいるといったことも起こるそうです。風の精はエーテルのオーラをいわば養分として摂取するわけです。彼らは虫と花の接触を漫然と待っているのではなく、虫を花の所へ導くこともします。彼らは、ある意味では虫の指導者であるといえます。
風の精は人間の「意志」に似たものを発達させた存在で、風と光の要素の中に生きています。彼らは春や秋につばめが軒先をかすめたり、海の上をかもめが渡る時、その羽音の空気の流れを妙なる調べとして聞きます。そして、その空気の振動の、風と光の要素の中に入り込み、そこを棲み家とするのです。風の精は鳥がいない空を横切る時は、自分自身がいないような寂しさを感じ、空の一画に鳥の姿を見つけると、自分と出会ったような気持ちが湧き起こります。これは一種の自我感情です。風の精は外界に自分の自我を見つけ出すのです。自分の外部の空間に向けて、このような思いを寄せる風の精は、そのことで、宇宙に内在する愛の意志を運んでいるのだとシュタイナーは言います。
地の精や水の精には両棲類や魚類という苦手がありますが、風の精には鳥類という相性のよい存在があるわけです。鳥の側でも風の精に歌い方を教わるそうです。こんなに相性がよければ、風の精は鳥になってしまえばよさそうなものですが、そうならなかったのは、別の使命を担っているからです。それは植物に光を運ぶ使命です。愛の思いにのせて光を運ぶのです。植物が光の恵みを受けられるのは、風の精の仲介によるのだとシュタイナーは言うのです。そして、風の精は、水の精が寄こした素材を元に、光の力を用いて植物の原型をこしらえます。秋の終わりに草木が枯れると、この霊的な原型も地面に滴となって落ち、今度はそれを土の精が受けとめます。土の精は冬中、その原型を感じ続けて、植物の形態の中に含まれる宇宙の理念を手に入れるのです。(つづく)
次回は火の精の話、太古の人間はみな、妖精が見えた話、今後再びエーテル界や妖精の見える人間がふえてくる話などをする予定です。
火の精(サラマンダ−)
まず断っておかなければならないのですが、火の精についてシュタイナーが1908年に述べたことと、1923年に述べたことの間に、矛盾があるのです。前号で風の精は群を成す蜂のオーラの中に入り込んでいると述べましたが、これは全集102番『霊的諸存在が人間に及ぼす影響』第11章1908年6月1日講演)によるものです。しかし、全集230番『創造し、形象を生み、造形する宇宙言語に共鳴する人間』第8章)1923年11月3日講演)では、それが火の精になっています。シュタイナーは36年間に5965回の講演を行いましたが、私が調べた限りでは、このような明白な矛盾は他にありません。ですから、本当はむしろ6000回近い講演をこなしながら、ほとんど矛盾した話がないことの方に注目すべきなのでしょう。
しかし私は、シュタイナーの考えを始めから疑ってかかっている人の、その疑いを増す恐れをおかしても、この事実を明かしておこうと思います。なぜなら、霊的世界観を拒否している人は、シュタイナーを読みませんから、この事実に気づくことはないでしょうし、シュタイナーを「導師」として崇めたり、シュタイナーの考えに基づく人智学運動にのめり込んでいる人たちは、たとえ気づいたにしても、こうした「都合の悪い」事実をことさらとり上げることはしないと思われるからです。このような事実の存在を伝えるのは、シュタイナーの世界観にひかれ、彼の述べることを信頼し、その内容を人に紹介しながらも、彼の著作・講演集をテキスト(文献)として批判的に読むことを心がけている私のような者の役目だと思われるからです。
それでは、読者が自分で判断できるように蜜蜂と妖精の関わりについてシュタイナーが述べていることを二つの講演から抜き出して並べてみましょう。
「たとえば教育を受けた人が、こう言ったとします。『シルフとかいう名の自然霊のことが話題になっているが、そんなものは存在するわけがない!』こういうことを言う人に対しては、次のような逆説的な響きをもった返答をするほかないでしよう。『君に自然霊が見えないのは、その存在を分からせてくれる器官の開発に対して君が心を閉ざしているからだ。ちょっと蜜蜂自身に聞いてごらん。それでなければ蜂の巣の魂にでも聞いてみるといい。蜜蜂なら、シルフの存在に対して心を閉ざすことはしないから(中略)』。花の蜜を吸っている蜜蜂は小さなオーラを出しています。そこに霊的存在が近づいてきます。特に木に群がり、ぶらさがっていた蜂の群が、体内に蜜の味わいのようなものを秘めて飛び立つような時がそうです。そんな時、蜂の群全体が、このエーテルのオーラに包まれていますが、この群には、シルフと呼ばれる霊的存在が入り込んでいるのです。」
「風の精(シルフ)は鳥たちが飛ぶのを見ると、自己を、自分の自我を感じます。火の精はこの自我感情をもっと強い形で、蝶の世界、そして昆虫界全体に対して感じます。植物の雌しべに熱を伝達するために、昆虫が飛ぶ跡を追うことが大好きなのは、この火の精なのです(中略)。花から花へ飛びまわる昆虫はたいてい彼らの追跡をうけています。花から花へと飛びまわる昆虫をよく見ると、その昆虫のどれも、昆虫自体がもっているものとしては説明のつかない特別なオーラを発しているような感じがします。特に花の間を飛び回わる蜜蜂は、明るくきらめく、素晴らしい輝きをもった綺麗なオーラをもっていますが、このオーラを説明するのは大変難しいことです。なぜなら、その蜜蜂はいつも火の精と一緒にいるからです。火の精はいつも蜜蜂を身近に感じていたいほど、蜜蜂と親しく感じているからです。霊視すると蜜蜂は一種のオーラの中に、本来は火の精であるこのオーラの中に包まれているからです。蜜蜂は大気の中を花から花へ、枝から枝へと飛びまわっている時、元々火の精によって与えられたオーラを伴って飛んでいるのです。火の精は昆虫の存在に自分の自我を感ずるだけでなくて、その昆虫とすっかり結合してしまおうとするのです。」
なお、1908年の講演は第一次世界大戦前と大戦中にシュタイナーの講演の多くを速記したヴァルター・ヴェグェラーンが記録しました。1923年のものは専属の速記者ヘレーネ・フィンクによります。
講演集の記録は、ほとんどのものがシュタイナー自身の校閲を受けていません。ですから誤りがあることも考えられ、シュタイナーも自伝の中でその可能ム性について触れていて、各講演集の冒頭にその部分が引用されているほどです。しかし、妖精が境界に現れるという1908年の講演の説明では、地の精はふつうの岩石と鉱物の境界、水の精は植物と岩石プラス水、風の精が動物(昆虫も含む)と植物、火の精が人間と動物がそれぞれ接触する境界に現れることになっていて、蜂と花が接触するさい現れるのが風の精であると、この時シュタイナーが考えていたことは間違いなさそうにも思えます。また、二つめの1923年の説明では、地の精はかえるになるのを恐れ、水の精は魚の姿になるのを厭がり、風の精は鳥に親しいというふうに話が進んだ後に、火の精は蝶の世界・昆虫の世界と親しいといっているわけで、話がしっかり有機的になっていて、速記者が間違いをおかす可能性は少ないように思われます。
繰り返しますが、このような著しい矛盾はシュタイナーには極めて珍しいことです。しかし矛盾は矛盾です。はっきりここで指摘しておこうと思います。私は科学者の冷静さで霊視するシュタイナーの言うことは、他のどんな霊能者よりも信頼していますが、しかしそのシュタイナーのいうことでも無批判にうのみにしようとは思いません。さまざまな予言・霊言のたぐいが押し寄せる世紀末にあっては、こうした姿勢を心のどこかで堅持しておくことも大切ではないかと思います。
さて、それではシュタイナーは火の精の現れ方や役割について他にどのようなことを述べているのでしょうか。以下、まず1908年の講演に基づいて紹介します。
火の精の構成要素は前回述べたように、未完成な自我十アストラル体十エーテル体十物質体です。彼らは進化の歩みが違うため人間の姿はとれませんでした。火の精は他の妖精と比べて、一番後に生まれたものでして、実に多くの種類があります。その大部分は、あとで述べる動物のグループ魂から分霊しました。
人間界と動物界の境界に現れる火の精
火の精は人間界と動物界が、ある意味で普通でない関係にある時に現れます。たとえば騎手と馬の間の、家族的な関わりにひかれて現れます。これは善い種類の火の精です。火の精は人間と動物の心の通い合いによって生まれる感情や気持ちを養分としているのです。とくに羊飼いと羊の群れが一緒に暮らしているような場合、近づいてきて、その場にとどまります。この妖精は非常に賢い存在でして、自然の知恵をもっています。羊飼いが羊たちと一緒にいる所で、この火の精が自分のもっている知恵を羊飼いにそっと教えるようなこともあるそうです。このような妖精に取り囲まれている人間は、小利口な現代人たちが夢にも思いつかないようなことを知ることができるというわけなのです。
植物の受精に力を貸す火の精
1923年の講演では、植物が実を結ぶ時、火の精がどのように働くかが述べられています。まず火の精は熱エーテルを集めて、それを花の中に運び入れます。そのさい花粉は火の精に与えられた超小型の飛行船のような役目を果たします。シュタイナーによれば真の受精は、花粉が雌しべにつく時ではなく、火の精が花粉に乗せて雌しべに運んだ宇宙の熱エーテルを、地の精が地中で受け取る時に生ずるのだそうです。ここで前回から述べている植物の成長をまとめると次のようになります。
まず火の精から受け取った宇宙の熱エーテルを用いて、地の精が地中で植物に活力を与えます。地の精はその時、自分がその中で生きている生命エーテルを植物の根に与えるのです。こうして植物は成長し出しますが、地の精の大地に対する反感から上へ上へと伸びることになります。次に水の精が化学エーテルで枝葉を成長させ、風の精が光エーテルを用いて植物の原型をこしらえます。この原型(母性的なもの)が滴となって地面に落ち、地の精がそれを受けとめます。一方、火の精は熱エーテルを宇宙から集めて雌しべに運び入れます。その力が種子に移り、その種子(男性的なもの)が地中に落ち、これまた地の精が受けとめ、ここに受精が生じます。真の受精は、冬の間、地中で生ずるのだとシュタイナーは言います。
火の精はどうやって生まれるか
大部分の火の精はアストラル界にある動物のグループ魂が分霊することによって生まれたと、先ほど述べましたが、これを詳しく説明することにします。
これまでの話しで、動物には自我がないと言ってきましたが、実はアストラル界にはあるのです。動物の自我はアストラル界にとどまっていて、物質界まで降りてきていないといえます。たとえばその動物をライオンとすると、物質界に存在するすべてのライオンの共通の自我(グループ魂)がアストラル界にあるのです。人間の場合との違いを図で示すと次のようになります(なおシュタイナーはグループ魂のあり方については、多くの講演で繰り返し矛盾なく述べています)。
人間一人一人の違いは、種類の異なる動物の違いと同じようなものです。
人間につくグループ魂
なお人間にも様々なグループ魂が関わってくることがあります。祖霊とみなされるグループ魂などはその一種ですが、これらは一つの家系が呼び寄せた高次の存在です。祖霊に限らず、一つのグループが共通の傾向をもつことで、ある種の存在がグループ魂として引き寄せられます。このような人間以上の高次のグループ魂もいるわけです。これらは、正規の霊的進化の歩みのうちにある天使や大天使などの高次存在とは別のものです。
古代の人間は、部族や家系や血縁関係の共同体に従属していて、その共同体の中で助け合って暮らしていたわけですが、こうした共同体も、ある種のグループ魂をもっていました。祖先霊は古代人が夢うつつの意識状態になった時現れ、忠告を与えてくれたりしました。しかし、こうした関係の中では、個人は強制的に共同体に従属していて、個人の自由は拘束されていたわけです。自我の発達とともに、精神の自由が求められていきますが、シュタイナーは、これからは個人の自由を互いに尊重し合い、自由な意志のもとで集まる共同体が作られていくことが望ましいと考えています。そうした共同体には古代のグループ魂とは別のグループ魂が引き寄せられ、人類の霊的進化を早めてくれるそうです(全集102番、11章)。
アストラル界に出るとライオンの自我に会える
霊能者がアストラル界に出ると、物質界で自我をもった人間に出会うのと同じように、ライオンの自我に会うことができるとシュタイナーは言います。他の動物や昆虫の自我にも会えるわけです。こうした自我がグループ魂として、物質界にいる個々の動物や昆虫の上位にいるのです。動物や昆虫の信じられないような本能的な知恵の源は、アストラル界にいるグループ魂にあるのです。スズメバチが紙と同じ成分の巣を巧みに作るのも、グループ魂の知恵のおかげです。スズメバチの自我は、人間よりも遥か以前に紙を発明したといえます。ニューサイエンスのリーダーの一人、ライアル・ワトソンは『スーパー・ネイチュァ』(訳本289ページ)で、グループ魂に似た考えに行き着いています。彼はある種のアリが、通り道に障害物を置かれると、そのことをテレパシーのようにすぐ直感して迂回路を作りに来るという報告に基づいて、そう考えました。そのようなテレパシーの交信が、同じ種に属するすべての固体に行きわたるのではなかろうかと考え、さらに、それぞれの種が一種の霊的な源をもっているようだとしているのです。
猿のグループ魂が分霊して火の精となる
さて、一匹の昆虫が死んだとします。でも、それはその昆虫のグループ魂にとっては、人間の場合にたとえると髪が抜け落ちたり、ツメを切ったりするのと同じようなことです。昆虫の一匹一匹はグループ魂から魂を分け与えられ、交代で物質界に降りては、また死んでいっているわけです。昆虫の場合、グループ魂から与えられたものは死後、すべてグループ魂に戻ります。しかし、これが高等な動物になると事情は違ってきます。猿の場合は、その知恵を見れば分かるように、昆虫よりも多くのものを、自分のグループ魂から分け与えられています。それがあまりに多すぎるため、死後、そのすべてがグループ魂に戻ることはできないのです。一部は物質界に残ってしまいます。これはグループ魂から分離した自我状の分霊存在です。自然霊の中では最高の種です。これが火の精と呼ばれる妖精なのです。火の精は今でも生まれつつあります。猿の魂が死後、グループ魂に戻れなくなって物質界にとどまり、火の精となっているといえます。
人間の死と猿の死には大きな違いがあります。人間の場合は、物質界にある自我が死後、霊的世界を訪れ、それが再び物質界に戻ってくるという形で輪廻がありますが、猿には輪廻がありません。猿の魂は、死後グループ魂に戻れませんが、かといって新たに受肉することもできずに、物質界に火の精としてとどまるのです。
グループ魂は何から生まれたか
火の精はそのほとんどが猿のグループ魂から生まれたわけですが、それではグループ魂自体はどうやって生まれたのでしょうか。全集136番『天体と自然界の霊的存在』第4章によると、動物や植物のグループ魂は、能天使、力天使、主天使という高次存在が分霊して生まれたものだといいます。分霊して生じた動物のグループ魂の間でも、高次なものと、それほど高次でないものがあるそうです。全集110番『霊的ヒエラルキーと物質界におけるその反映』巻末の質疑応答によると、蜜蜂のグループ魂は、人間が金星進化期(今の地球進化期の次の次)にようやく達するレベルに既にあるそうです(ということは、生命霊まで備えた大天使級の霊ということです)。これは宇宙的に早熟だということです。また、珊瑚のグループ魂は牛のグループ魂より高次だそうですが、こうした話はシュタイナーの霊能力をどこまで信ずるかで受けとめ方が異なってくるでしょう。
古代人はみな自然霊が見えた
自然霊(エレメンタルガイスト)は古代人にとっては日常的な存在でした。古代人は、自然界の住人として動物や植物以外に、自然霊の存在も知っていたのです。アトランティス時代の2/3の時点までは、すべての人間はエーテル界が見えていましたから、自然霊の存在は自明のものでした。アトランティス人のエーテル体は額の所で物質体から著しく突出していて、直接霊的世界に接していました。そのエーテル体は物質体に拘束されていないわけです。そのため、記憶の担い手としてのエーテル体の力も超人的に働いて、無限の記憶力を可能にしていました。そして何の修行もすることなしにイマギナチオーンを用いてエーテル界を霊視できたのです。しかし、この分離したエーテル部分を用いて、高次霊と交信できたのはアトランティス人の中でも秘儀参入者だけでした。このあたりの話は『神秘学概論』第四章「宇宙進化と人間」に詳しいです。
アマゾン川流域の住人は自然霊を見ている?
ワトソンによると、アマゾン川流域のヤノマモ族が現在も用いている薬草の作り方は非常に複雑で、12、3の手順があると言います。アマゾンに人間が住みついてから1万年から1万5千年がたっていると思われますが、試行錯誤だけの方法では何十万種もある植物から特定のものだけを選び出して、しかもそれを一つ抜かしてもだめになる複雑な手順で調合するやり方を発見できたとはとても思えないそうです。彼らにたずねると「森が私たちになすべきことを教えてくれた」と答えるそうですが、私はこうした話を読むと、火の精に囲まれて、素晴らしい知恵を授けられる素朴な羊飼いのことをどうしても思い浮かべてしまいます。
また、アマゾンのコニボ族と生活した人類学者のマイケル・ハーナーはコニボ族が「魂の蔓」と呼ぶ神聖な飲物を飲んでみました。するとワニの姿をした悪魔や、魂の舟や、鳥頭人などが現れる「幻覚」が見えました。彼はこれらの幻はアメリカ人である自分が潜在的にもっていたイメージだと思いましたが、なんと土地の呪術師はその怪物たちを全部知っていて、言い当てたのです。つまり、あらかじめ何も知らない人でも、その土地では土地の人が見る幻と同じものを見てしまうわけです。私はこの現象は、薬の助けを借りてエーテル体が分離した時に、土地に棲みつく自然霊が見えるのではないかと思います(以上『スーパーネイチャーU』318ー319ページ)。シュタイナーによれば、昔の秘儀参入の儀式は、司祭が参入者を三日三晩昏睡状態にする間に、エーテル体を一部分離して、霊的世界の有様を見せるのだそうです。
今後、自然霊を見る人がふえてくる
アトランティス人は、そのような方法をとらなくとも、エーテル体が初めから一部分離していて、エーテル界とその住人を見ていたわけです。このようなエーテル体と物質体の分離はその後はなくなり、古代ギリシャ・ローマの時代にいたって、肉体と魂はすっかり一致します。その後ルネッサンス以降、再びこの結合がゆるみ出してきました。エーテル体が物質体から分離し出したのです。そのため、その隙間に他の存在が入り込む危険もあります。しかし一方で、エーテル界が見える人がふえてきます。自然霊が見える人も多くなるでしょうが、見えている本人や、周囲の人も、それを幻覚と思ってしまうかもしれません。
シュタイナーに言わせると、エーテル界に見えてくるもので、もっと重要なものはキリストの姿だそうです(全集118『エーテル界におけるキリスト出現の事象』)。シュタイナー思想の一つの柱であるキリスト観についてはまた別の機会に述べようと思います。
なお異星人=妖精説を唱える人が一部にいますが、この考えには混同があると思います。妖精は地球のエーテル界に住んでいる存在で、最高の種でも、不完全な自我までしかもっていません。異星人は、私の考えでは地球以外の惑星で、霊我以上の要素を発達させつつある存在だと思います。異星人についてもいつか述べるつもりです。 
 
悪魔論

 

はじめに
もし神が万物を作ったのなら、なぜ悪がこの世にあるのだろうという疑問が湧いてこないでしょうか。もし悪魔がいるとしたら、その悪魔だって神が作ったことになるわけで、一体どうして神はそんなものを作ったのだろうと。これは当然の疑問です。今回はこの疑問をとりあげようと思います。
まず、悪い心、悪い行いの存在を疑う人はいないでしょう。人間の生活のいたるところに悪はあります。しかし、ただ「悪」というと、すべてを悪と善とに分ける単純で硬直した図式が思い浮かんできます。人間は単純に悪とも善とも分けられないことをやっているのだと考える人もいるでしょう。そして悪魔というと、尻尾を生やした何やらやけに人間っぽい存在を想像して、お話の中の存在と思う人が多いかもしれません。
しかしシュタイナーが悪について語る時、悪は肉体的姿をもたない霊的存在として現れてきます。それを悪魔と呼べば呼べますが、それは正常な進化の道から外れてしまった高次の霊的存在であり、霊的世界と人間世界で特定の役割を与えられているものなのです。シュタイナーがとりあげる、このような霊的存在は、大きく分けて二つあります。
二つの悪しき霊的存在
人は何かに夢中になって血を湧き立たせる時があります。その時には、血が湧き立つから価値があるのであり、正しいのだと感じます。それは肉体を若返らせるような充実感を呼び起こします。しかし人はその夢中になっている何かを客観的に、距離をとって見ることができません。こういう時、その人はルツィファー(英語ではルシファー)という霊的存在の力のもとにあるとシュタイナーは言います。この場合、人は行動的で同時に夢想的です。ルツィファーの影響は人を夢想的にするのです。たとえば、人は現実に向かおうという意欲が薄れて空想にふけったり、神秘的なことばかりに目を奪われて、現実がおろそかになる時もあります。現実の世界から離れ、自分が作り出した架空の世界で、何でも自由にできる万能感にひたるのです。このような時も、人はルツィファーの力に捉えられているのです。
また、社会には生きた人間の能力とか関係とかを、冷酷な数字で表し、その数字に基づいて人間を区別するような仕組みがあります。そして、初めは抵抗していても段々に、自分もそういう仕組みにはまり込み、血の通った人間とは思えない機械のような反応をし出す人もいます。そうした仕組みそのものや、心の暖かみを失った人は、アーリマンという霊的存在の力のもとにあるとシュタイナーは言います。アーリマンの影響は人の考え方から生命を奪い取り、物質的なことばかりに向かわせる働きをするのです。ですから、お金や物に対して執着し、この世以外の世界などにかかわることを馬鹿にする人も、この力のもとにあるのです。こうした二つの正反対の傾向があることは、別に霊的なものと結びつけなくても理解できるかもしれませんが、シュタイナーはこの傾向の背景に二つの霊的存在を、はっきりと霊視しているのです。
ルツィファー霊の実体
ルツィファー霊とは全集136番『天体と自然界の内の霊的諸存在』第6講演の話をまとめると、次のようになります。天使・大天使・権天使レベルの霊が、自分よりも高次の位階にある霊に隷属するのではなしに、独自の働きをしようとして高次霊から独立し、仲間の霊に逆らいだしたのがルツィファー霊であると。ですから高次霊に完全に従う天使、大天使、権天使がいる一方で、ルツィファー的天使、ルツィファー的大天使、ルツィファー的権天使がいるわけです。権天使より上の形態霊(能天使)にも正規の進化をしている形態霊と、ルツィファー的形態霊がいて、この異なる形態霊同士が力をぶつけ合うことから太陽系の諸惑星の物質的形態が生じたとシュタイナーは言います。形態霊よりさらに二つ上位の叡知の霊(主天使)にもルツィファー霊がいて、そのルツィファーが太陽から地上にエーテル流を注いだ結果、鉱物の金が生まれたといいます。
このようにルツィファー霊は人間のレベルをはるかに超えた高次の位階に属する存在であり、宇宙を構成する重要な要素になっています。彼らは宇宙の摂理によって生まれたのです。上位や仲間の善霊に逆らう結果、悪の可能性が彼らに宿りました。全集110番『霊的ヒエラルキーとその物質界への反映』の中でシュタイナーは力天使のルツィファー霊をとりあげ、正規の力天使とルツィファー的力天使の闘いから火星と木星の間の小惑星が生まれたと述べています。ルツィファー的力天使の反逆はいわば神意によるものであり、力天使白身が選びとった行為とはいえません。それに比べるとルツィファー的天使は、正規の進化の道を歩むか、停滞してルツィファーの道を歩むかを自分で選択する機会をもっていたといいます。
ルツィファー、アーリマンはいつ生まれたか
ルツィファー霊の発生は、現在の地球進化期の一つ前の、月進化期と呼ばれる期間に起こりました。アーリマンはさらに一つ前の太陽進化期に生まれました。
ここで、シュタイナーの霊的進化論について少し触れる必要があるでしょう。図を用いて説明します。こうした進化論は、神智学文献とは無関係に、シュタイナー自身が一九〇〇年ごろにイマギナチオーンを用いて霊視したものです。
進化期小周期人間の進化
1.土星進化期鉱物的存在
2.太陽進化期   1.土星反復期のあとさらに進化植物的存在
3.月進化期     1.土星反復期動物的存在
            2.太陽反復期のあとさらに進化
4.地球進化期   1.土星反復期    1.極地人種
            2.太陽反復期    2.極北人種
            3.月反復期をへて 3.レムリア人
             からさらに進化   4.アトランティス人
                       5.現生人類
                         1.古代インド
                         2.古代ペルシャ
                         3.古代エジプト・カルデア
                         4.古代ギリシャ・ローマ
                         5.現代
                       6.文化期
                       7.根源人種
5.木星進化期天使レベルの存在
6.金星進化期大天使レベルの存在
7.ヴァルカン進化期権天使レベルの存在
人類は大きな尺度で見ると、土星進化期、太陽進化期、月進化期をへて、現在四つめの地球進化期にいます。ここで土星とか太陽とか月とか言っているのは太陽系の物質としての天体のことではなく、地球の霊的前身が存在した時期の名称として用いています。初めの土星進化期に人間は物質体だけの存在でした。といっても、まだ物質界は全然存在しないころなので、物質体といっても影のようなものでした。このころの人間の意識は、今の鉱物がもっているような意識で、現在の人間が夢を見ない深い眠りの時にもつ意識よりさらに昏いものでした。この土星進化期が終わったあと、すべては霊視も届かない非常に高次の世界に上り、休閑期(プララヤ)が訪れます。
次の太陽進化期の初め、土星進化期を反復する土星反復期があります。その反復期のあとようやく人間のエーテル体が生まれます。これは叡知霊(主天使)の働きによります。エーテル体をもったことによって、人間は初めて本来の意味での生命をもったことになります。人間は〈エーテル体十物質体〉の植物状の存在に進化しました。物質界はまだありません。このころの人間の意識は、いわば植物がもつ意識で、人間が夢を見ない深い眠りの時にもつ意識に似たものでした(『神秘学概論』、『アーカーシャ年代記より』)。
ところで、人間以上の霊的存在も、進化期ごとに進化していました。たとえば、初めの土星進化期にすでに自我をもっていた人性霊(権天使)*は、太陽進化期で自我の上に霊我をもちます。そして次の月進化期には生命霊を、さらに現在の地球進化期には霊人をそなえた存在として登場してくるわけです。
*参考)1:高次霊の名をキリスト教と人智学で比較
キリスト教の呼び名  人智学の呼び名
人間            自由の霊・愛の霊
天使            薄明の子の霊
大天使           火の霊
権天使           人性の霊
能天使           形態の霊
力天使           運動の霊
主天使           叡智の霊
座天使           意志の霊
智天使(ケルビム)     調和の霊
熾天使(セラフィム)    愛の霊
*参考2:地球進化期における各高次霊の構成要素(主天使まで。座天使以上も類推可能だろう)
*参考3:権天使の進化期ごとの構成要素の進化
太陽進化期のあと再び休閑期があり、すべてが超高次世界へ上ったあと、再び下りてきて、月進化期が始まります。初めに土星反復期、太陽反復期をへてから、さらなる進化が続きます。この進化期中に人間はアストラル体を身につけます。こうして人間はくアストラル体十エーテル体十物質体〉の動物的存在となりますが、まだ物質界はないので、今の動物とは違います。このころの人間の意識は夢を見ている時の意識に似たものです。ルツィファーはこの月進化期中に進化に異常をきたしたのです。天使はこの時期、自我までしか備えていない存在でした。ですから現在の人間のレベルにあったわけです。天使たちの中にはルツィファー的力天使の影響のもとに、もう何も新しいことは起こらないと思い込み、進化を停滞させてルツィファーの刻印を帯びました。もちろん、善なる天使として進化を続けるものもいました。どちらを選ぶかは天使の自由だったとシュタイナーは言います。
人間のアストラル体に働きかけるルツィファー
形態霊(能天使)は月進化期中に、最低次の構成要素として自我をもっていました。そして、その進化期中に一段階進化して、次の地球進化期には自我が不要となりました。自分のためには不要となった自我を、形態霊は別のことに用いることができるようになりました。こうして形態霊は、地球進化期のレムリア時代半ばに、人間の内に自我の火をともしたのです。それまでの人間は月反復期の内にあって、〈アストラル体十エーテル体十物質体〉という構成だったのです。人間は地球進化期に自我をもつ段階に達したわけですが、地球進化期の初めにある土星反復期、太陽反復期、月反復期の間はまだ自我を備えていなかったのです。自我の火をともされて初めて、本当の意味で人間が誕生したといえます。このころの人間のことを聖書ではアダムと呼んでいます。また、人間に自我を与えた高次霊のことをイエホバと呼びました。
ところで、月進化期中にルツィファー化した形態霊は、地球進化になっても人間に自我を与えるどころか、停滞した自我状の霊の影響で人間のアストラル体に低次の力を注ぎ込んだのです(以上、全集102番『霊的諸存在の人間への作用」第4章)。これにはルツィファー的天使も参加しています。こうして人間は過ちと悪の可能性を身につけたのです。同時に人間は自由な意識も手に入れました。このルツィファーを聖書では蛇として表現しています。ルツィファーが人間のアストラル体に影響し出すと、それまで周囲に現れていた霊的世界が段々に見えなくなり始めます。また、善霊の支配下にあったころにはありえなかった病気も起こすようになります。人間は自分本位の観念をいだくようになったことで、それまでは高次霊の叡知で自然に避けられていたことが、できなくなったのです。また、霊的世界にいる時と、地上にいる時とを連続した過程として感じられなくなり、物質体の崩壊を死と見なすようになります。過ちに染まったレムリア人たちはルツィファーの影響のもとに、自我の火の力をもてあそぶようになりだし、恐ろしい火の嵐が起こりました。その結果、地球に大規模な破局が訪れ、レムリアの時代は終わります。過ちが最も少ない者たちが大西洋のアトランティスに移り住み、次の時代が始まります。
アトランティス人たちは、ルツィファーの影響で霊的世界を見る力がせばめられていますが、それでもまだ直接、神々と接していたといえます。彼らの額のあたりのエーテル体は物質体から著しく突出していて、その部分はルツィファーの力が及びませんでした。彼らは夜間の睡眠中、物質体から離れた状態で、このエーテル部分を通して高次の霊的存在を見ることができたのです。現代人はこれに近い状態で、夢を見ることしかできません。アトランティス人は夜間、〈自我十アストラル体〉の構成で権天使の領域まで出ていました。しかし、ルツィファーの影響がここに現れて、エーテル部分を通しても天使と大天使までしか見えませんでした。
アトランティスの破局
ルツィファーは常にマイナスの働きばかりするわけではありません。ルツィファーの力によって人間の進化が早まることもありました。たとえばアトランティスの秘儀参入者の一部は、ルツィファーの力を借りて自分を感覚世界から解放し、霊的存在の意図を探ることができました。彼らも突出しているエーテル部分を用いて霊的世界を知覚するのですが、ルツィファーの働きによってこの能力を意識化し、形態霊(能天使)と接触することができたのです。その接触から彼らは太陽霊の秘儀を知りました。そして太陽神託場を創りました。彼らはアストラル体の欲望に捉われることもありませんでした。この神託場は後世のキリスト降臨を待ち望む秘教につながっていきます。アトランティス時代には他の神託場もいろいろありました。地球周辺に限定された領域をもつアーリマンを崇めるヴァルカン神託場もありました。この神託場の帰依者が後の学問の基礎を初めて築いたのです。
しかしアトランティス中期以降、段々と人間に災いが降りかかってきます。アストラル体が悪に染まったままの人間たちが、秘義を探り出し、悪用し始めたのです。特にヴァルカンの秘儀が漏れたことで危険はさし迫ったものになります。人類の進化に逆行することが次々に行われ出します。彼らは、ある種の自然霊の力を借りて成長力や生殖力を悪用し始めました。これはアトランティスの第四期のことです。彼らは地上的なことだけに関心を向けていました。こうした彼らを捉えていた霊的存在はアーリマンだったのです。しかしアトランティス人の多くはアトランティス以後に生き残ることはできませんでした。成長力や生殖力は空気や水の霊的諸力と関係があったため、その力の乱用から、アトランティス全域に破壊的な自然力が吹き荒れ、ここにアトランティスの破局が生じたのです。
この大洪水は聖書の中や、各地の洪水伝説となって残っていますが、アトランティスの痕跡はほとんどかき消えてしまいました(以上『神秘学概論』)。
アーリマンの実体
アーリマンは先ほど述べたように、太陽進化期に正常な進化の道を踏みはずした霊的存在です。ゾロアスター教をおこした古代ペルシャのツァラトゥストラ(伝承に残るツァラトゥストラは後代の人でして、記録に残っていない先代のツァラトゥストラのこと)は、この霊をアーリマンと呼んで善霊アフラ=マツダと対置させました。シュタイナーはこの名を用いています。ですからシュタイナーがアーリマンという時は、たんにゾロアスター教の悪霊というわけではないのです。なおツァラトゥストラが太陽の内に見た太陽霊アフラ=マツダは後にキリストとなってイエスの体に宿る太陽霊と同じものでした。
アーリマンの霊的位階についてはシュタイナーの詳しい説明がほとんどなく、全集110番の質疑応答(1909年4月)で、それを大天使から力天使までと述べているのが目にとまるていどです。やはりルツィファーと同じように、いろいろな位階の霊が加わっているようです。アーリマンは前章で述べたアトランティス時代のヴァルカンの秘義が漏れた時から、地上に特別の支配力を獲得しました。もっとも全集147番『境域の秘儀』第2章によれば、アーリマンも悪霊としてでなく、定まった法則をになっている時があります。アーリマンは植物や動物、人間など自然界に属しているものが死を迎えるプロセスを支配していますが、これは別に悪霊としての仕事ではないのです。物質体が鉱物界に戻るプロセスは正常なものでして、アーリマンはその法則を体現しているのです。
しかしアーリマンもルツィファーと同じように、摂理として働く以外に、足を踏み外して邪悪な影響を及ぼすことがあるわけです。アーリマンは人々の眼を地上の物質世界にだけ向け、霊的世界の存在を信じさせないようにする働きもします。ルツィファーはアストラル体にとりつきましたが、アーリマンは人間の思考に影響するのです。全集193番『社会の謎を内側から見る』第9章の説明によると、アーリマンは「人間を味気なく散文的かつ通俗的なものにし、血肉を失わしめ、唯物主義の迷信に導く力のことである」となります。それに対してルツイファーは「人間の内にあらゆる熱狂的な興奮、誤った神秘主義的傾向、自分を超えて上昇するような人間に働きかけるものを呼び起こす力のこと」でして、「生理学的に人間の血を湧き立たせ、人間に我を忘れさせる」力です。アーリマンは人間社会の中に、分裂や争いをひき起こす力としても働きます。現代の生命のないテクノロジーに象徴される唯物的世界観や、非人間的なノルマを考え出す思考法などもすべてアーリマンとの関わりがあります。機械で装備した軍隊がひき起こす戦争の悲惨さと冷酷さは、アーリマンに支配された場合に人類が落ち入る不幸をはっきりと示しているでしょう。
対立する二つのカ
人間は常にアーリマンとルツィファーの間で揺れ動いている存在です。冷たい計算と熱狂の間を揺れ動き、無味乾燥な思考と、陶酔した感情の間を揺れ動いています。この二つの間のバランスが大切で、『境域の秘儀』の中では、秘儀参入者も、物質体から抜け出た場合にすぐ出会うことになるルツィファー霊とアーリマン霊のどちらにも傾かないでバランスをとることが要求されています。この二つの霊が向かい合って対立している足もとに人間がいるようなものです。
人間の肉体の構造にもこの二つの霊の対立は反映しています。全集158番『人間とエレメンタル界の関連』第五章では、人間の体が高次の善霊(形態霊)の管理のもとで、この二つの霊によって作り出されていることが述べられています。人間の体は左からルツィファーが、右からアーリマンがやってきて、真中で押し合い、左右にそれぞれとりでを作った結果だといいます。また前後では、前からルツィファー、後ろからアーリマンが迫り、間に胸郭の部分を残して対時しているそうです。上下では、下からアーリマン、上からルツィファーとなっています。私たち人間の体はこのような力関係で出来あがっているのですが、このバランスを保っているのは、高次の善霊の力によります。善なる神々の意図によってルツィファーとアーリマンの力の均衡する面が作られ、私たちはそこに身をおいているわけです。肉体における二つの力のバランスは高次の善霊にまかして、私たちは意識する必要がありません。
ルツィファーとアーリマンの二つの力は肉体の構成ばかりでなく、その働きにも関わっています。全集210番『古今の秘儀参入法』第1章によると、ルツィファーは人間の肉体を若くする力として働き、アーリマンは老いさせる力として働いています。そういえば、恋愛の情熱でいつまでも若々しくしている人がいるかと思えば、苛酷な受験勉強の果てに白髪が目立つ若者もいます。知識の詰め込みや、過重な思考はアーリマン的です。ごく小さな子供の内にはルツィファー的な力が優勢ですが肉体を硬化させるアーリマンの力もすでに内在しています。7歳の歯が抜け替わるころになると頭部においてアーリマンが活動し出し、13ー14歳の性的成熟のころにはルツィファーが活動し始めます。
肉体ばかりでなく、心への働きかけもあります。人間の心が知的な理解だけに向かっている時、その心にはアーリマン的なものが働いています。本来は感動や驚異と共に理解すべきものを、たんに分類したり型にはめて整理するような理解の仕方にはアーリマン的な働きが加わっています。知識を並べたてるだけのペダンティックな傾向、俗物的な傾向としてもそれは現われます。
また逆に、物質的なものを軽蔑し、高次なものにだけ関わろうとしたり、暗い神秘主義に向かう心にはルツィファーが働いているのです。
その他、睡眠に入る時、すなわち自我などが物質体から離れる時はルツィファーが働き、目覚める時、すなわち自我が地上に戻る時、アーリマンが働くといいます。私たちがふつうの状態で意識的にバランスをとれるのは心の場合だけです。そのバランスをとる目安となるもの、つまりルツィファーとアーリマンの均衡の中心点におくべきものが問題となりますが、シュタイナーはそれをキリストと考えています。これについては次回述べることにします。 
 
成仏

 

仏教用語で、悟りを開いて仏陀になることを指す。成仏への捉え方は宗派によって異なる。
1 修行者が種々の修行を実践して、仏教の究極の目的である悟りに到達すること。仏陀となること。その修行の期間、方法、また成仏しうる可能性、条件などに関しては、種々の説がある。たとえば、成仏しえない一闡提 (いちせんだい) と呼ばれる人々も成仏しうるとする説や、草木のような生物すら成仏するなどの諸説がある。
2 仏(ほとけ)になること、〈さとり〉を開くこと。仏教の開祖釈迦(しやか)は、ブッダガヤーの菩提樹の下の金剛宝座で明の明星を見て仏陀(ぶつだ)Buddha、すなわち覚(さと)れるものとなった。〈さとり〉をさまたげる煩悩(ぼんのう)から解き放たれる意味で解脱(げだつ)といい、仏(覚れるもの)と成るという意味で成仏という。釈迦が入滅した後、仏弟子たちは成仏を求めて禅定(ぜんじよう)や止観(しかん)とよぶ宗教的瞑想につとめた。
3 「成仏」とは仏教用語で、まさに読んで字の如しで「仏に成る」ということである。この「仏」とは本来、「仏=仏教の開祖釈迦、仏陀」を意味し、さらに「仏のような境地に成れよ=煩悩を捨て悟りを得よ」という教えである。現在の日本においては、「仏様=死者」というイメージが定着し、一般的に成仏というと主に以下の二つのことだと思う人が多いようである。ひとつは「死ぬこと」の別表現で「成仏した」等といった表現。もうひとつは、死後において「霊界で安らかに暮らすこと」を意味し、「これでやっと成仏できる」などと表現される。これら二つの使い方は、もはや日本においては改変できるものではないかもしれないが、本来の意味合いとは大きくかけ離れてしまっている。日本では人の死後、仏教による葬送をする人が多い。この際に僧はお経を読むが、これはたしかに「死者を成仏させるため」の行為である。しかしその意味合いは、「死者の意識に智慧を授けて悟らせ、仏の境地へと導く」のが目的である。密教の究極目標は「即身成仏」と呼ばれる。これは「生きているうちに悟りを得て、仏の心で生きること」を意味する。ところが多くの日本人は、成仏=死というイメージが強すぎるため、「即身成仏」を「即身仏(修行者が瞑想を続けて絶命し、そのままミイラになること)」と混同してしまうのである。「成仏」=仏陀の悟りの境地、仏の心になる、であり、生死とは関係なく人間が到達すべき心の状態を意味するのである。
4 成仏とは、「仏陀に成る」という意味です。したがって「成仏した」といえば、すなわち「仏陀になった」という意味なのです。仏陀に成るというのは難しいことです。簡単にできることではありません。しかも、仏陀に成ることができるのは、生きている人間だけなのです。死者は仏陀にはなれません。仏陀になろうと思えば、もう一度人間に生まれ変わってこなければならないのです。
地獄・餓鬼・畜生の世界は三悪道ともいわれ、生きているときの罪を清算する世界です。修羅の世界は戦いに明け暮れる世界です。修行どころではありません。 
天界は快楽の世界です。修行もできますが、苦が少ない世界ですから修行する必要がありません。人間界は苦しみや安楽・快楽が混在する世界です。修行すれば苦から解放され安楽を得られます。その究極的姿が仏陀なのです。成仏できるのは、人として生きている人間だけなのです。亡くなってからでは遅いのです。死後に望むのは、成仏ではなく、安楽な場所への生まれ変わりだけです。生きているうちに成仏を目指して下さい。心の安楽を得て下さい。成仏は死後に願うものではないのですから。
5 皆さんは「成仏」という言葉の意味を知っていますか。これは文字通りに読めば「仏に成る」ということです。けれども、この意味を正しく理解している人は少ないのです。中には、人間は死ねば必ず仏に成れると考える人や、はたまた金ピカの仏像のような姿になるなどと思っている人がいるかもしれません。しかし、そうではないのです。
法華講員の心得には、「仏教では、人間として真実の幸せは成仏するところにあると説いています。成仏とは、死後の成仏のみを願ったり、人間とかけ離れた存在になることではなく、現実の生活のなかで私たち自身が、仏のような理想的な人格を形成し、安穏な境地にいたることをいうのです」と説明されています。つまり大聖人様の説かれる成仏の意味は、私たちが実際に幸せな生活をしていくことをいうのです。
大聖人様の教えは即身成仏 / およそ私たちは、悩みや苦しみ、欲望などを持ち合わせる人間です。それらの煩悩を断つことなく、凡夫の姿そのままで成仏していく、幸福になることが成仏の意味なのです。このことを大聖人様は「即身成仏」と仰せられています。この即身成仏は、決して何か特別な状況をもたらすとか、姿や形を変えて仏に成るということではありません。判りやすく言えば、御本尊様を信じて手を合わせ、南無妙法蓮華経と唱えれば、今の自分のままの姿で成仏する、幸福になれるということです。ここが大聖人様の教えの尊いところです。
生活の中における成仏の姿 / 皆さんは日頃の生活の中で、どのようなときに自分は幸福だと感じますか。「私は学校の試験で満点を取ったときが幸せだ」とか、「この病気が治るならそれが一番の幸せだ」という人もいるでしょう。たしかに、真剣に信心をしていけば勉強もできるようになるし、病気も治るでしょう。しかし、それだけが信心の目的ではないのです。それでは大聖人様の仏法を信仰していることにはならないのです。成仏とは、正しい信心によって自分自身に正しい智慧を具え、心豊かな人間性を育み、人生における四苦八苦などの、どのような壁にぶつかっても乗り越えられる力を持つことです。この力が具われば、私たちは自由自在に生活を送ることができるようになるのです。ただし、自由自在に生活を送るといっても、これはわがまま勝手に好きなことをするということではありません。私たちが迷いの中で転々することを留めて自由自在な慈悲の命へと変わり、法界を永劫に亘って活動できる姿をいうのです。
御本尊様の功徳に浴した生活を / 私たちは、大聖人様が顕された御本尊様の光に照らされてこそ、自由自在な力強い生命の境界が得られるのです。ですから、毎日の朝夕の勤行と唱題を欠かさず実践し、多くの人々に大聖人様の教えを弘めていくことが大切です。それらを実行できたとき、私たち凡夫が計り知ることのできないほどの成仏という大きな功徳を御本尊様より戴くことができるのです。
6 人が成仏する、とはどういうことか? 成仏する、成仏したい、といいますが、それは一体どうすれば成仏できるのだろうか? 又、巷でよくいうポックリさんとは、どういうことか?死ぬときはなるだけ苦しまずポックリいきたい、と人は言い、ポックリ寺に参る。そうだろうか?
ポックリさんの原理とは?
ある女性が若い男性に、結婚資金や老後の資金に貯めたお金を騙し取られてしまったのです。そして運命のなかで、乳ガンになり手術をして、女性の機能も失いました。さらに阪神大震災で家がなくなり、独りいる姉さんの家に寄留した。その後、母親も亡くなった。
母親は生前、その娘を見て死ぬにも死ねんといった。「お前には何にもようしたげんと、むごい人生を送らせて、こんな目に遭わすのやったら産んでやるんやなかった。お前だけは心配じゃ」というて泣いた。しばらくして定年退職した。全てを失い、この世への執着するものが全部とられていたのです。お母さんが死んで三回忌の頃でした。その彼女に向かって「今こそチャンスだから、本気で禅定してみなさい」と僕は勧めたのです。
そしたら家で禅をする彼女のまわりにつむじ風が起こって、その中心に自分が吸い上げられそうになった。その通り道のことをいわゆるワームホールといい。我々はドライパイプと呼ぶ。身体が浮き上がってきた。安定が悪い。こわいよぉ〜と思ったら、ドスンと落とされた。びっくりして目を開けたら、部屋の中は今までのつむじ風もなく紙一枚飛んでいない。何もない普通でした。
後日、そのことの報告を受けました。「あれは何ですか?」「それはあの世に招待をうけたんや」「えっ、あの世に招待をうけたんですか?そしたら死んで帰ってこないということですか?」「帰りたいか?この世に何の未練があるの?お金はない、家はない、女子でない、母は死んでしまう、定年で仕事もない。あなたにとって、この世に戻って何がいいの?何の未練があるの?あなたをこの地上に打ち付けていた、執着というクギが全部抜けた。だから軽くすっと行けた。実はあなたに対して神仏が、悔いて死んでいった母親に会わせてやろうという計らいが、あなたを引っ張ったのや。何でそのまま行かなかったのや」と私は言いました。これが本当のポックリさんです。
よく老人が「ポックリ寺で祈願してもらった」といわれるが、そんなことでポックリと死ねるのではなく、その老人がこの世に何の未練も執着も、心残りもなくなって、この世につなぎ留めるている、煩悩や執着のクギが全部抜けたら、期せずして、魂が肉体から抜けるのが、ポックリさんの原理なのです。
子供が独り立ちし親離れしていく。自分の主人が死んでいく。兄弟も死んでいく。友だちも死んでいく。とうとう独りぼっちになった。正にあの世に往生、成仏できる条件が整ったということです。自分の人生が済んでしまうのです。そのときは、あの世にもっとも近いのです。どっちでもいいわ。と思ったときにスーと上がっていくのです。ひとつでも思いが残っているときは死ねません。そういうふうに成仏するということです。
前にもこんなこと言ったことがあります。「今やったら苦しまんと、すっと引き取ったげる。あるいは10年長生きする、その代わりにのた打ち回って苦しんで死ぬ、どっちにする?」って言うと、「今、死にたい」と言われる。人間はみな、苦しまずにポックリ死にたいと思っています。ポックリさんの原理を持っておられるのです。
初期仏教
仏教の開祖釈迦は、仏陀すなわち「覚(さと)れる者」となった。このことを指して、悟りをさまたげる煩悩を断って輪廻の苦から解き放たれる意味で解脱といい、仏陀(覚れる者)に成るという意味で成仏という。
釈迦の弟子たちは、釈迦と同様の解脱を得るため釈迦より指導を受け、あるいは釈迦の死後はその教えに随い、釈迦の説いた教義を学び、教団の戒律を守り、三昧や禅定とよばれる瞑想を行なう、いわゆる戒・定・慧(三学)の修行に勤めた。その結果として釈迦と同様に輪廻から解脱できる境地(=涅槃)に達した人物を阿羅漢と呼ぶ。これも広い意味では成仏であるが、教祖である釈迦に対する尊崇の念から阿羅漢に成ることを成仏するとは通常言わず、あくまで仏陀は無師独悟した偉大なる釈迦ただ一人であるとする。つまり、オリジナルな悟りに達したのは釈迦のみで、阿羅漢に達した弟子はそのコピーにすぎないと考えるのである。
上座部仏教
スリランカ・ミャンマー・タイなどに伝わる南方の上座部仏教では、涅槃(般涅槃)を求め、阿羅漢として解脱することを最終目標とする。しかし、釈迦の教えは仏教徒にとっては普遍的な宇宙の真理でもあるとされる。
大乗仏教
初期大乗仏教が成立すると、現世で直接に阿羅漢果を得ることが難しい在家信者であっても、輪廻を繰り返す中でいつかは釈迦と同様にオリジナルなさとりに到達できる(=成仏できる)のではないかと考えられ始めた。
成仏をめざして修行する者を菩薩とよぶが、釈迦が前世に菩薩であった時のようにたゆまぬ利他行に努めることで、自分もはるかに遠い未来に必ず成仏できる。そう信じて菩薩の修行である六波羅蜜を日々行じていくのが、初期の大乗仏教の教えであった。
さらに後期大乗仏教になると、それらの修行の階程をふむことすら歴劫修行と考えられるようになり、一切衆生は本来成仏していると考える思想(如来蔵・本覚)や、信によって本尊に加持することで煩悩に結縛された状態から、ただちに涅槃に到達できるとする密教の即身成仏などの思想も生まれた。
日本文化の「成仏」
日本語の日常会話や文学作品などでしばしば用いられている「成仏」という表現は、「さとりを開いて仏陀になること」ではなく、死後に極楽あるいは天国といった安楽な世界に生まれ変わることを指し、「成仏」ができない、ということは、死後もその人の霊魂が現世をさまよっていることを指していることがある。
こうした表現は、日本古来の死生観が仏教に入り込みできあがった、仏教者が死を迎えてのちに仏のいのちに帰ると考えられた信仰を背景として、この国土である娑婆世界から阿弥陀如来が在す西方国土の極楽浄土へ転生する浄土信仰とも相まって生まれたものである。日本の仏教が、本来の仏教から変化・変形している事は、知られている。
太平洋戦争当時のアメリカの著名な文化人類学者ルース・ベネディクトは、彼女の有名な日本文化についての著作「菊と刀」の中で、「〜彼ら(日本人)は、死後に生前の行いに従って、極楽と地獄に行き先が分けられる、という(本来の)仏教のアイデア(因果応報)を拒絶したのだ。どんな人間でも、死んだらブッダに成る、というのだ。〜他の仏教の国で、そんな事を言う所はない。〜」と述べている。
女性が成仏することができるのは法華経だけなのですか?
弘安元年(一二七八)日蓮大聖人が阿仏房の妻、千日尼御前にあてられた手紙で、 「漢土の天台智者大師法華経の正義を読み始め給わいしには、他教は但だ男に記して女に記せず。乃至今教は皆記す等云云。此れは一代聖教の中には法華経第一。法華経の中には女人成仏第一なりと断らせ給うにや。されば日本一切の女人は、法華経より外の一切経には女人成仏せずと嫌うとも、法華経にだにも女人成仏許されなば、何か苦しかるべき。(中略)・・・其の中に悲母の大恩殊に報じ難し。此を報ぜんとおもうに、外典の三墳(さんぷん)・五典(ごてん)・孝経(こうきょう)等によって報ぜんとおもえば、現在を養いて後生を助け難し。身を養い魂を助けず。内典の仏法に入って五千七千余巻の小乗・大乗は、女人成仏難(かた)ければ悲母の恩報じ難し。小乗は女人成仏一向に許されず。大乗経は或いは成仏、或いは往生を許したるようなれども、仏の仮言(けごん)にて実事(じつじ)なし、但だ法華経計(ばか)りこそ女人成仏、悲母の恩を報ずる実の報恩経にては候えと見候いしかば、悲母の恩を報ぜんために、此の経の題目を一切、女人に唱えさせんと願す」
訳しますと、 「中国の天台智者大師が法華経の意義を正しく始めて理解されたとありますが、その著述では『他教(法華経以外の経)は、ただ男にだけ成仏を許して保証したが女には許していない。法華経では男女共に成仏の保証が与えられた』と述べられました。これからのことは仏さまご一代の全経典の中で法華経が第一の経典であり、その法華経の中で説かれた法門の中で女人成仏が第一であると判断されたのでしょう。   このようであるから、日本のすべての女性は法華経以外の一切経で女人は成仏を果し得ないと嫌われても、法華経にさえ女人成仏が許されているのですから、どうして心配することがありましょうか。(中略)・・・ そのなかでも悲母の大恩はとくに重いものであるので、ご恩を報ずることはとてもできません、母の大恩に報いることを考えると、仏教以外の書物などで報じようと思っても、現世で養うことができても後生まで助けることはできません。これでは肉体を養っても魂を救済することができません。内典(仏教経典)の仏教典籍では、五千とか七千巻といわれる小乗経・大乗教は、女人成仏は困難であると説かれてますので、悲母の恩を報ずることはできません。ことに小乗経典は女人の成仏が全く許されていません。大乗経典では、あるいは成仏とかあるいは往生を許されているようであるが、仮の言葉であり真実の成仏・往生を許したものではありません。ただ法華経にのみ女人成仏が許されているのです。悲母の恩を報ずる実の報恩経が法華経なのであると見ましたから悲母の恩を報ずるためにこの経の題目(南無妙法蓮華経)を一切の女性に唱えていただきたいと願ったのです。  
と述べられています。法華経の提婆達多品第十二に一切の女性の救済が説かれています。
「女人と仏教」「女人成仏」
岩波仏教辞典
女人禁制【にょにんきんぜい】信仰上、女性をけがれ多く、また僧の修行を妨げる者として、特定の寺院・霊場で女性の立入りを禁止したこと。区域を定める結界石を立ててこれを標示したことから〈女人結界〉ともいう。禁止の事実は、比叡山・高野山・金峯山(きんぶせん)その他にみられ、平安時代の記録や文学作品に徴し得るが、この用語の見えるのは、室町時代のころからのようである。女性に本堂の内陣に入るのを許さないのも禁制の一種といえよう。道元・法然・存覚らは女人禁制を強く批判否定した。「此の島は女人禁制とこそ承りて候ふに、あれなる女人は何とて参られ候ふぞ」〔謡・竹生島〕「若君様あれ御覧候へや、一枚は女人禁制、また一枚は産病者禁制、今一枚は細工禁制と書きてあり」〔説経・宝永版あいごの若5〕 
女人成仏【にょにんじょうぶつ】女性が仏に成ること。古来より女性は地位が低く見られ、仏になれない、浄土に女性はいないなどといわれ、法華経(提婆達多品)にも梵天王・帝釈天・魔王・転輪聖王(てんりんじょうおう)・仏の五種にはなれない五つの障(さわ)り(五障)があると説かれている。このほか多くの経論や世間の法などでも、女性は地獄の使い、仏の種子(しゅうじ)を断つ者、亡国の根源、不信を体とする者、五障三従の者などといわれ、不成仏の者と見なされ仏の救いから排斥されてきた。こうした見方と大乗仏教のすべての者は仏に成れると説く教えとは矛盾するものであり、そこで無量寿経には阿弥陀仏の女人往生の誓いを説き(第三十五願)、法華経(提婆達多品)には8歳の竜女(りゅうにょ)の成仏を説いている。この竜女成仏は女人成仏の根拠として重要な意義を持ち、諸経における否定的女性観を打破して、すべての女性の成仏が可能となる法華経の女性観を示したものである。この両経説をタイアップさせて女人成仏を強調し、中古・中世文学の女人往生のモチーフにも大きな影響を与えたのが、天台系浄土門流の所説である。
女性の成仏、往生を説くことは鎌倉仏教の一つの特色である。日蓮は、法華経の竜女の即身成仏を女人成仏の現証を示すものとして重視し、『開目鈔』に「一念三千の成仏にあらざれば有名無実の成仏往生なり。挙一例諸(こいちれいしょ)と申して竜女が成仏は末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし」と述べ、女人成仏は一念三千の教えによらなければならないことを強調している。女人成仏は、法華経が一切衆生すべてが仏に成れる経であることを示す特色ある教えの一つである。
日本仏教語辞典
女人【にょにん】婦女子のこと。「女性(にょしょう)」ともいう。『源氏』(夕霧)「女人のあしき身を受け、長夜の闇に惑(まど)ふ」。[補説]『涅槃経』九(大正蔵12―422上)に「一切の女人は皆是れ衆悪の所住の処なり」と記され、『妙法華』(12)「提婆達多品」(大正蔵9―35下)に「女人の身、猶、五障あり」と記されるように、佛教の女性観の一部には女性蔑視の思想が見られる。さきの引用文も、このような女性観の反映である。同じ観念に基づいて、「女人禁制」とか「女人結界」などの語が生じた。
女人成佛【にょにんじょうぶつ】女性が女の身体のままで佛になりうること。女人の即身成佛。謡曲『梅枝』「法華はこれ最第一。三世の諸佛の出世の本懐。衆生成佛の直道なし中んづく女人成佛疑ひあるべからず」。[補説]『妙法華』(12)「提婆達多品」に説かれる竜女の成佛は変成男子(へんじょうなんし)説の物語で、女人の即身成仏説ではない。日蓮は『女人成佛抄』の中で、法華経以前の経典には女人不成佛が説かれ、法華経に至ってはじめて女人の成仏が説かれたとし、事の本質をかくしたことが知られる。
広説仏教語大辞典
女人往生【にょにんおうじょう】女人が極楽往生に往生して、男子に生まれかわること。〈『平等覚経』1巻[大正蔵]一二巻二八三上〉
女人往生願【にょにんおうじょうのがん】阿弥陀仏四十八願のうちの第三十五.女性が浄土に往生して男子の身に変わるように、ということを誓う。法然が名づけた。変成男子願ともいう。〈『無量寿経』上[大正蔵]一二巻二六八下参照〉
女人禁制【にょにんきんぜい】女性は修行僧にとっては修行のさまたげとなることが多いので、修行の道場に入ることが禁止されていたこと。わが国では、昔、比叡山・高野山などにこの制があった。この制は明治政府の布告で廃止されたが、廃止の通達はすぐには実行されず、多くのいざこざがあったとされる。大和の大峰山では今日でもこれを守っている。〈謡曲『道成寺』『竹生島』〉
女人地獄使【にょにんじごくし】「にょにんはじごくのつかいなり」とよむ。女は地獄からよこされた使者である、という意。『華厳経』の文であると伝えられているが『華厳経』には見当たらないという。内心如夜叉に同じ。〈『宝物集』4巻、『大日本佛教全書本』85上〉
女人成佛【にょにんじょうぶつ】インドでは、古く女性の地位を非常に低くみて、女には梵天王・帝釈・魔王・転輪王・仏の五種のものにはなれない障害(五障)があるとし、また浄土には女性はいないという考えが生じた〔ただし、天女はいる〕。しかし、すべての者が仏のさとりの実現ができるという大乗仏教の教えと矛盾するので、身を男性に変えてこれを解決しようとしたことをいう。これを変成男子という。女人往生は『無量寿経』に説く、阿弥陀仏四十八願の第三十五願によると、女性も浄土に往生して男子の身となるという。『法華経』提婆品には、竜王の八歳の娘が文殊菩薩の導きによって男身となり、南方世界で成仏したと説かれる。これを竜女成仏という。この問題は『須摩提菩提経』『大宝積経』『無所有菩薩経』などにも論議されている。〈『玉かがみ』〉
女人非器【にょにんひき】女人は仏法を受けるに十分な資格がないということ。[解釈例]仏法の水入るべきに堪へずとなり。〈『拾遺古徳伝』〉
女人不浄【にょにんふじょう】女人の身体が不浄であると観想すること。〈『菩提行経』4巻[大正蔵]32巻557上〉
日蓮聖人遺文辞典教学篇
女人往生【にょにんおうじょう】女人が仏の世界に往き、生まれ変ること。「女人成仏」と類義語であるが、厳密には往生と成仏は意義が異なる。往生は諸仏の浄土に化生して仏となるが、成仏は自ら悟りを開いて仏となることをいう。女人往生の思想は、『無量寿経』巻上(『正蔵』12巻)では阿弥陀仏の第三五願に説かれるが、いずれも男子に変じて往生を遂げるとする。『女人往生鈔』にみえ、また『月水御書』に「女人の成仏往生」の語が、『薬王品得意鈔』や『法華題目鈔』に「女人の往生成仏」の語がみえる。
女人成仏【にょにんじょうぶつ】(高森大乗氏執筆) 女性が仏に成ること。インドでは古来より女性の地位は低くみられ、仏になれない、浄土に女性はいない(天女は除く)などといわれ、爾前の諸経でも二乗・闡提等とともに、成仏を認められなかった。日蓮は『法華題目鈔』に、「女人をば内外典に是をそしり、三皇五帝の三墳五典にも諂曲者と定む。されば災は三女より起ると云へり。国の亡び人の損ずる源は女人を本とす。内典の中には初成道の大法たる華厳経には、女人は地獄の使なり、能く仏の種子を断つ、外面は菩薩に似て、内心は夜叉の如しと文。双林最後の大涅槃経には、一切の江河は必ず回曲(えこく)有り、一切の女人必ず諂曲有りと文。又云く、所有(あらゆる)三千界の男子の諸の煩悩合集して一人の女人の業障となる等云云」と述べている。法華経提婆品にも女性は梵天王・帝釈天・魔王・転輪聖王・仏の五種の者にはなれない五障(五つの障害)があると説かれている(『開結』)。しかし提婆品は八歳の竜女の成仏を説いて、五障を持つが故に社会的に低くみられ、一切の諸経において成仏を許されなかった女性の成仏が可能となる根拠を示したのである。智ギは『法華文句』巻七上(『正蔵』34巻)に「他経は(略)但だ男に記して女に記せず」といって、爾前経に女人の授記は説かれず、女人成仏は法華経のみが説くことを指摘し、最澄は『法華秀句』巻下(『伝全』3巻)において、法華の十勝の第八に即身成仏化導勝を挙げ、竜女成仏(女人成仏)は法華経の力用による即身成仏であるとする。日蓮は『開目抄』に「竜女が成仏此れ一人にはあらず。一切の女人の成仏をあらわす」、「挙一例諸(こいちれいしょ)と申して竜女が成仏は末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし」と述べて、法華経の竜女成仏が女人成仏の現証を示すものとして重視し、「二箇の諌暁」の一つに数えている。また「法華経已前の諸の小乗経には女人の成仏をゆるさず。諸の大乗経には成仏往生をゆるすやうなれども、或は改転の成仏にして、一念三千の成仏にあらざれば有名無実の成仏往生なり」と述べて、たとえ爾前の経に成仏を許すような説があっても、それは真の即身成仏ではなく、女人成仏は法華経の一念三千の法門によらなければならないことを強調している。女人成仏は、二乗作仏・悪人成仏等とともに、法華経が一切衆生すべてが仏に成れる経であることを示す特色ある法門の一つである。『女人成仏鈔』、『善無畏鈔』、『祈躊妙』、『妙法尼御前御返事』、『千日尼御前御返事』、『法衣書』)等、女性信徒宛消息に多る。
女人之業障【にょにんのごうしょう】業障は業のさわり。成仏のさまたげとなる業のこと。女人の持つ成仏のさまたげとなる業のこと。『主師親御書』に、法華経以外の諸経に女人の罪障深く成仏の困難なことを説いた経文を挙げる中に、「有る経に云く、所為(あらゆる)三千界の男子の諸の煩悩を合せ集めて、一人の女人の業障と為す」とみえる。「有る経」が何をさすかは不詳。
竜女成仏【りゅうにょじょうぶつ】(高森大乗氏執筆) 竜王の娘が仏になること。法華経提婆品に説かれ、「竜女作仏」ともいう。提婆品に「娑竭羅(しゃから)竜王の女(むすめ)、年始めて八歳なり。智慧利根にして、善く衆生の諸根の行業を知り、陀羅尼を得、諸仏の所説甚深の秘蔵悉く能く受持し、深く禅定に入って諸法を了達し、刹那の頃(あいだ)に於て菩提心を発(おこ)して不退転を得たり」(『開結』)とある。すなわち娑竭羅竜王の八歳の娘が、文殊師利菩薩の竜宮で法華経を宣説するを聞いて、菩提心を起こし、速やかに悟りを開き、その後、霊鷲山へ詣で仏前において即身成仏の現証を示したことが説かれている。竜女の成仏は女人成仏の根拠として重要な意義を持つ。爾前の諸経では女人の成仏を認めず、また往生・成仏を許しても改転の成仏か歴劫修行を必要とした。法華経では畜身の八歳の童女が現身のままに速疾に成仏したと説いて、すべての女性の成仏が可能となることを示したのである。すなわち人間に限らず生きとし生きる者はすべて、老若男女を問うことなく、一念の信を生じることによって、法華経の力用により即身に成仏することができると説くのである。竜女成仏は二乗作仏・悪人成仏とともに、法華経が一切衆生すべてを成仏させる経であることを示す特色ある法門の一つである。智は『法華文句』巻七上(『正蔵』34巻)に「他経は(略)但だ男に記して女に記せず、但だ人天に記して畜に記せず。今経は皆記す」と述べて、竜女の成仏が法華経の特色であることを指摘する。最澄も『法華秀句』巻下(『伝全』3巻)に法華の十勝の一つに挙げ、竜女成仏は法華経の勝れた力用を顕すものと述べている。日蓮も『開目抄』に「竜女が成仏此れ一人にはあらず、一切の女人の成仏をあらはす」、「挙一例諸(こいちれいしょ)と申して竜女が成仏は末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし」と述べ、一切の女人の成仏への道を切り開いたものとし、悪人成仏とともに「二箇の諌暁」という。日蓮は『観心本尊抄』に提婆品の「竜女乃至成等正覚」の文を、畜生界に十界(仏界)を具する証文とするが、竜女成仏は一念三千十界互具の法門によるのである。畜身であっても、女人であっても、八歳の幼稚の竜女であっても、信ずる力さえあれば男子と同様に成仏できることを教えるのが竜女成仏の法門である。なお竜女成仏を経文に「忽然(こつねん)の間に変じて男子と成って」とあることから、男子に身を変えての改転の成仏であるかに見る者もあるが、それは誤りで、変成男子以前にすでに竜宮で悟りを開いていたことは経文に明らかである。変成男子の相を示したのは、爾前・小乗の見解に執われている智積菩薩や舎利弗、さらには一会の大衆の疑いを破るための現証である。『女人成仏抄』、『祈祷抄』、『上野殿御消息』、『秀句十勝抄』等。 
 
成仏・諸説

 

「成仏」して生きることを目指す / 日蓮宗
病気や死への恐れ、人間関係から起こる悩みなど、人の一生にはさまざまな苦しみがつきまとうものです。ときには、自分の思い通りにならないことに対して憤り、その苦しみに振り回されてしまうこともあるでしょう。でも、できることなら苦しみに振り回されず、安らかに生きたいものです。
お釈迦さまの教えには、「人々を苦しめている根本的な原因は何か」、「苦しみから解放されるにはどうすればよいのか」という一貫したテーマがあります。
全ての人が避けることのできない様々な悩みに対し、お釈迦さまは「生きることは苦に満ちている。それは、あらがいようのない真理である。だから、生きることが苦しいのは当たり前ともいえるのだ」と説かれています。これだけを聞くと、なんだか救いのない話のようですね。ですが、お釈迦さまが伝えたかったのはむしろ、その解決方法。苦しみから解放され、安らかに生きるための方法を、仏教の教えとして私たちに残してくださったのです。
仏教が目指す境地は「成仏」、つまり文字どおり仏に成る≠アとです。"仏"とは世の中の真理に目覚め(=さとり)心は何にも乱されず、その智慧を活かして人々の苦しみや悩みを解決しようとする人を指しています。仏教や成仏というと、お葬式や死後の世界などを連想される方もいるかと思います。しかし、お釈迦さまが繰り返し説いていた教えは、私たちがいのちを授かっているこの"現世"で、いかに悩みや苦しみから開放され、イキイキと生きるかということに尽きます。つまり、"今"をイキイキと生きるための智慧、それが仏教なのです。
お経を読んで、なぜ成仏するのですか?
仏教は今から約二千五百年前、インドでお釈迦さまが創始された宗教です。お釈迦さま(仏さま)が説かれた教え、これが「仏教」ということです。お釈迦さまは、教えを文字で書き残すことはしなかったと言われています。お釈迦さまがお亡くなりになってしばらくの間は、お弟子の方々が口伝えで教えをひろめていかれました。やがて教えがまとめられ、経典ができあがっていきます。この経典はインド、またはその周辺の言語によって記されました。経典は漢訳されて中国に伝えられ、やがて日本にも伝わることとなります。これがいわゆる「お経」です。お経には「般若経」、「阿弥陀経」、「大日経」等々さまざまな経典があり、古来より「八万四千の法門」と言われるほど、数多くの経典(お経)があります。
この数多くのお経の中で「妙法蓮華経(=法華経)」というお経こそが、お釈迦さまの真意を伝え、宇宙全体の真理(お釈迦さまの悟り)を明らかにした教えであると見出されたのが「日蓮聖人」です。日蓮聖人は「法華経」こそ仏教の正統の教えであると示されました。そしてその教えを信じてひろめることが、世界の幸福につながると標榜しているのが「日蓮宗」です。
日蓮宗の教えで「お経を読む」ということは、「法華経を読む」ということです。そしてこれ以外のお経を読んでも、「成仏」することはかなわないと教えます。
ところで「成仏」とは何でしょうか。簡単に言えば「成仏する=幸福になる」ということです。お釈迦さまは「人間には苦悩がある」と示されました。この苦悩をすべて解決することが幸福であり、「成仏」なのです。
それでは「法華経」を読むことによって、本当に苦悩が解決され、幸福(成仏)が得られるのでしょうか。
日蓮聖人は声に出してお経を読むということだけが「読む」ということではない、「法華経を信じて、行う」ということを含めたもの、それが「読む」ということだと示されました。これは「法華経」を鏡として世の中を見、そして考え、それに基づき行うということです。
ここで「法華経」というお経に、何が説かれているのか見ていきましょう。「法華経」の中でお釈迦さまは、「私(お釈迦さま)と、あなたは同じ存在である」と説かれました。仏であるお釈迦さまと、すべての人々が同じ存在になれることを明らかにしたのです。すべての苦悩を解決し、本当の幸福者となったお釈迦さまと同じく、私たちも仏となることができるということです。そして「法華経」の教えの肝要は「すべてを否定しない」ということです。日蓮聖人は「この世界で唯一の悪い行いは、法華経を否定すること」と示されています。それはすべてを否定しない教えを否定することは、すべてを否定してしまうことになるからです。すべてを受け入れ、認めることが本当の幸福なのです。これは自分の苦悩をも受け入れるということであり、苦悩こそが自分をより高い境地(仏)へと導くものだということでもあります。
お経を読むということのはじめであり、究極のものは「南無妙法蓮華経」とお唱えすることです。「南無」とは「信じて行う、修行する」ということ。「南無妙法蓮華経」と唱え、そして「法華経」の教えを他の人々にひろめることが「信じて行う」ということなのです。これはすべての人々がお釈迦さまと同じ存在であるということを受け入れるだけでなく、積極的にお釈迦さまと同じ存在となるようにはたらきかけなければならないということです。ここに仏教の厳しさがあります。
ここでもう一度、質問を振り返りましょう。「お経を読んで、なぜ成仏するのですか?」。この質問には、二通りの意味があると思います。自分がお経を読んで、自分自身が仏となれるのかということと、僧侶にお経を読んでもらって、亡くなった方が成仏できるのかということです。前者については、これまでのところでおおよそ説明させていただきました。後者はお経を読んだ本人以外に、その効果が及ぶのかどうかという大きな問題が関わってきます。結論から言えば、「仏教は自分以外の他者が、自分をどうにかしてくれるという教えではない」ということです。つまり亡くなった方が成仏するかどうかは、亡くなった方次第ということです。
こうなると法事を営み、僧侶にお経を読んでもらう必要はないということになってしまいます。ですがここで「法華経」の教えを思い出してください。「私(お釈迦さま)と、あなたは同じ存在である」。これは突き詰めていくと、「すべての人、そして存在はみな同じである」ということに他なりません。
お経を読むということが、「法華経」をひろめるということでもあるのですが、一般の信仰者(檀家)は専門的に、そして日常的に教えをひろめる行為をすることは難しいことです。そこで僧侶という仏教の専門家・専従者が教えをひろめる行為を、「布施」というかたちで支える修行を信仰者はするのです。布施という修行をすることは、教えをひろめることと同義の行為であり、布施を行った人の修行の効果が亡くなった人を含めた他者に及ぶのです。それは「すべての人、そして存在はみな同じである」からです。基本は「仏教は自分以外の他者が、自分をどうにかしてくれるという教えではない」のですが、「法華経」という仏教の最重要の教えだけがお経を読んだ本人以外に、その効果が及ぶことが保証されているのです。「法華経」以外のお経では、これは不可能です。となれば「法華経」以外での供養(葬儀・年回法要など)では、誰も成仏することはできないということになります。
ただしここで注意していただきたいのは、一般の信仰者は金銭的な布施をしているだけで良い、ということではなく、折にふれ少しでも仏教を自分以外の人に伝えていかなくてはならないということです。
ここまで見てきたように、お経を読んだからといって単純に成仏がかなうわけではありません。「法華経」を読む、つまり口に唱え、心で現実と教えを照らし合わせ、身体を用いて現実世界に教えをひろめるという行いをして、はじめて「成仏」に近づくことができるのです。そしてこれが「南無妙法蓮華経」と、身で、口で、心で唱えることだと、日蓮聖人は教えてくださっているのです。 
水子供養
8年ほど前に水子供養をしました。学生で生めなかった為です。先日、霊視が出来る方から水子が成仏できていないと言われ今大変不安な気持ちです。以前供養をしていただいたお寺の名前も既に分からない状態です。別の寺院でもう一度水子供養をした方が良いのでしょうか?

水子の霊を抱えている方は、宗教家や霊能者から何か言われるとそのほとんどを鵜呑みにしてしまします。「成仏していない」などと言われると大変な不安に陥ります。それが「宗教」の怖さです。なぜそのようなことが起こるかと言えば、それは、自分が行った「供養」に自信が持てないからです。多分あなたの場合もそうかもしれません。
ところで、あなたはあなたの水子が今どのようにしているかわかりますか? 多分分らないでしょう。そこがいい加減なことをいわれる隙になっているのです。残念ながら私もあなたの水子は成仏していないと思います。でも、これから私の言うその「成仏していない」というほんとうの意味をしっかり理解してくだされば大丈夫です。
まず、あなたは、「水子の供養」をどのように捉えているのでしょうか。「早く成仏させて葬りたい」「水子とは早く縁を切りたい」「早く忘れて出直したい」「身を清めたい」などと、もし思っていたらそれは大きな間違いです。水子はあなたに縁を切られて喜ぶと思いますか。そうだとしたら水子は汚らわしいイヤな存在になります。もしそのような気持ちがちょっとでもあったらその水子は浮ばれないでしょう。永遠に成仏しないでしょう。
ではどうすれば良いのでしょうか。それにはどうすれば水子が喜ぶかを考えることです。水子の本当の供養とは、縁を切るのではなく、新たに縁を結ぶのです。
どういうことかといいますと、水子を自分自身の中に完全に取り込むことなのです。 切り離すのではなく水子と自分が一体になることです。「あなたとこれから一生共にします。決して離しません。だからわたしも護ってくださいね。」という新たな契りを結び、新たな気持ちを持つことです。新たな縁が始まります。
水子はあなたの分身です。他人ではありません。その関係は切っても切れない永遠の関係なのですから。あなた自身がしっかり水子の霊をあなた自身の中に取り込んでしまうことでその水子は完全に安心(あんじん)の世界、すなわち仏の世界に入るのです。これをもって「成仏」というのです。私が言う「成仏」とはそうゆうことです。
「霊」に形や重さはありません。何の邪魔にもなりません。これかは一人ぼっちではない、いつでも一緒という気持ちから「しっかり供養している」という自信が生まれるのです。そしたら「その水子が今どうしているか」がわかるはずです。
もうどんな人から何を言われても不安になったり迷ったりすることはなくなります。 「ほんとうの供養」とはそうゆうことです。水子供養も基本的には先祖供養と変わりません。先祖は切り離せませんものね。それとまったく同じことです。「仏教は心の科学」です。迷信や妄信にだまされないためにもしっかりした「信仰心」を持つことです。 
一生成仏抄 (別名『与富木書』)
一、御述作の由来
本抄は、大聖人様が立教開宗された二年後の建長七(一二五五)年、三十四歳の御時、鎌倉・松葉まつばケ谷やつの草庵にて認したためられ、下総(千葉県北西部)の富木常忍殿に与えられた御手紙と伝えられています。
建長五(一二五三)年四月二十八日、安房・清澄山嵩かさが森もりにて立教開宗を宣せられた大聖人様は、故郷を後に、末法万年の一切衆生を救済すべく、当時の政治の中心地鎌倉へと向かわれました。そして、まもなく法華弘教の拠点として鎌倉・松葉ケ谷に草庵を結ばれると、その後弘教に努められる中で、後に入道して常忍と称した富木五郎胤継たねつぐ殿が入信したのです。
富木殿は、信行学の錬磨に努め、後に入信した曽谷教信殿、太田乗明殿、四条金吾殿らの中にあって中心的な役割を果たしました。特に『観心本尊抄』『法華取要抄』『四信五品抄』など四十余篇にわたる御書を賜っていることは、下総・若宮の領主として地域社会に堅固な基盤を有する富木殿に対し、後世への御書の格護保存を託されたものといえるでしょう。
二、本抄の大意
一心に御題目を唱え、一生の中で成仏の境界を得るよう勧誡された御書で、はじめに、我ら凡夫の成仏は衆生本有ほんぬの妙理(衆生が本来具備している妙法)を観ずるところにある。この衆生本有の妙理こそ妙法蓮華経であり、妙法蓮華経と唱えることが衆生本有の妙理を観ずることである。なぜなら、法界のすべてが一念の生命に包含されることを説き顕しているのが妙法だからである、と御教示されます。
次に、いかに妙法を持つとも、自己の心の外に妙法蓮華経があると捉えるのは間違いであると示されます。つまり、幾度となく生死を累かさね、長い期間の厳しい修行を経て、はじめて悟りを得ると説く歴劫りゃっこう修行や、念仏を唱えることによって、死後、娑婆世界を捨てて他に極楽浄土の別世界を求めるなど、仏と凡夫、浄土と穢土えどとを隔てるような爾前権教の考え方を誡められています。そして、迷いも悟りも、本来その体は一つであり、衆生の一念を浄化することにより、現に住する娑婆世界において、凡夫がその身を改めずに即身成仏することを教えられたのです。
次いで、妙法蓮華経こそ、その成仏の直道と御教示あそばされ、さらに法華経を引かれ、滅後末法、娑婆世界における妙法受持の唱題に励むならば、必ず一生成仏することを明かされて締め括られます。
三、拝読のポイント
「衆生本有の妙理」・「己心」の真意
私たちが御書を拝するとき、『三沢抄』の、「又法門の事はさど佐渡の国へながされ候ひし已前の法門は、たゞ仏の爾前の経とをぼしめせ」(御書)との仰せに則り、御化導の時期により、御法門の内容に浅深の次第があることを心得るべきです。
佐渡以降、明確に本迹相対、種脱相対と従浅至深して御本意の法門を示され、特に出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊を顕発された、御本仏の境界を基準に御書を拝するとき、はじめてその真意に至ることができるのです。
本抄では、冒頭、私たちの一生成仏のためには「衆生本有の妙理」、すなわち私たち凡夫の己心に本来具そなわる妙法を観ずべきで、それは妙法を唱えることと規定されています。さらにまた、いかに妙法を唱え持ったとしても、妙法が私たちの「己心」の外にあると思えば、それは全く妙法ではないとも御教示されています。
ただし、本抄は大聖人様が御本尊を顕発される遙はるか以前、宗旨建立のわずか二年後という、極めて早期の御書であり、未だ大聖人様の本懐たる妙法の本義を顕されてはいません。つまり、妙法弘通のはじめに当たり、権実相対の上から迹門・諸法実相の理に約した妙法の意義を、私たちの「己心」に具わる「衆生本有の妙理」として示された、一往の御教示なのです。したがって、その理の法門のままでは、私たちに妙法の活現はありません。
しかし、再往「己心」の真意を、大聖人様の仏法の本義から拝すると、『経王殿御返事』に、「日蓮がたまし魂ひをすみ墨にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意みこころは法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(同)と仰せのように、それは直ちに御本仏日蓮大聖人様の「己心」であり、「南無妙法蓮華経 日蓮」と認められた、人法一箇の本門戒壇の大御本尊にこそ存するのです。
されば、私たちが、御本仏の「己心」の当体たる本門戒壇の大御本尊を信じ奉り、南無妙法蓮華経と唱えることにより、はじめて私たちの「己心」に具わる「衆生本有の妙理」も活現し、自らの生命を潤していくことを知るべきです。
これに反して、かの池田大作は、法門の次第浅深をわきまえず、本抄等の文だけを取って、「仏とは、人間(凡夫)である」「人間(凡夫)こそ、仏である」と放言し、衆生の迷心に妙法の当体があるごとく主張しす憚はばかりません。このような憍慢きょうまんの邪義が、大聖人直結という誤った指導となり、『ニセ本尊』という大謗法の所業となって、多くの人を惑わしているのです。
私たちは、真の妙法蓮華経とは、寿量文底下種の御本仏日蓮大聖人の己心の当体たる、本門戒壇の大御本尊に存するとの正義に基き、創価学会をはじめとする推尊入卑さいそんにゅうひの邪義謗法を、徹底して破折していこうではありませんか。
成仏の直道を確信しよう
先の「己心」の真意に基づきながら、私たちの成仏の直道を再確認してみましょう。
大聖人様は、本抄で、一生成仏の要諦につき、私たち凡夫の生命の奥底に妙法蓮華経の生命を具えていることを示され、一心に信心修行に励むことによつて、煩悩即菩提・生死即涅槃の悟りの境界を得ると教えられています。
『譬喩品第三』に、「仏常に教化して言のたまわく、我が法は、能よく生老病死を離れて、涅槃を究竟くきょうす」とあります。生とは、仮に和合した色しき・受じゅ・想そう・行ぎょう・識しきの五陰ごおんが身を成すことをいい、この身の和合が解けるのを死といいます。過去の因縁により現世に出現し、出現しては死に、生死を繰り返すから、生死輪廻りんねとも六道輪廻ともいうのです。この生死の迷いを明らかにし、苦しみから出離することを、涅槃とも、菩提とも、悟りともいい、煩悩・罪障の苦に常に沈む境界を、生死とも、迷いともいうのです。
もし、この迷いからの出離を願うならば、ありのままの私たちの姿を観ずることが肝要です。ありのままの私たちの姿こそ妙法蓮華経の当体なのです。したがって、十界三千の依正・色心・有情非情、一塵も残さず妙法の当体にして、私たちの一念におさまるのです。これを一心法界といい、一念の心が法界に遍満する相を万法というのです。
ただし『四信五品抄』に、「問ふ、何が故ぞ題目に万法を含むるや。答ふ(中略)妙法蓮華経の五字は経文に非ず、其の義に非ず、唯一部の意ならくのみ。初心の行者は其の心を知らざれども、而も之を行ずるに自然に意に当たるなり」(御書)と仰せのように、妙法蓮華経の五字は経文でも義でもありません。先に述べた通り、御本仏の悟りの意であり、それは人法一箇の御本尊なのです。
私たちは、妙法の心を知らなくとも、この本門の御本尊を信じ行ずることにより、自ずと御本仏の悟りの境界に適かなうのです。
したがって、本門の御本尊を信ずる心を離れて、別に妙法が存するなどと捉えては、生死の迷いから離れることはできません。故に『法華初心成仏抄』に、  「我が己心中の仏性、南無妙法蓮華経とよびよばれて顕はれ給ふ処を仏とは云ふなり」(同)と御教示されているのです。
私たち日蓮正宗僧俗、法華講員は、御本仏日蓮大聖人様の御当体たる本門戒壇の大御本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱え奉る唱題の一行こそが、一生成仏の直道であると、深い確信を持つことが大切です。御題目を唱えることこそ、最高の楽しみ、最高の悦びであり、充実した妙法の功徳が、自然と我が生命に涌き上がって、一切の道が開かれていくのです。
四、結び
本抄で御教示あそばされる妙法唱題の大事について、大聖人様は後の『御義口伝』において、「日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉るは捨是身已しゃぜしんいなり。不惜身命の故なり」と仰せです。これについて御法主日顕上人猊下は、平成十二年夏期講習会第五期の砌、「この身を捨てるということを日蓮大聖人は、南無妙法蓮華経と唱えることだと仰せです(中略)本門下種仏法では、妙法を唱え折伏弘通することがそのまま即身成仏であり、その理由は、迷いの凡身そのものをもって、直ちに肉身のまま仏と成るからです」と御指南あそばされています。
私たちは、日々の唱題と折伏弘教こそが即身成仏の直道であることを深く確信し、いよいよ明年に迫った宗旨建立七百五十年の大佳節をめざし、誓願貫徹に向かって「日々の唱題行」と「一人が一人以上の折伏」に命がけで励んでまいりましょう。 
草木成仏
草木成仏とは、草木や国土などの心を有しないもの(非情といいます)が成仏の相を顕すことをいい、非情成仏、無情成仏とも言われます。
天台大師は法華円教に基づいて草木成仏の法理を説いています。すなわち、国土衆生に三千世間が具ぐすという依え正しょう不二ふにの法門を説き、さらに『摩訶止まかし観かん』において、三千の諸法の一々が即空即仮即中の円融の三諦であるという一念三千の法門を説きました。そして、『摩訶止観』に「一色一香無非中道」とあるように、非情である草木国土が悉ことごとく中道実相の妙体であることを明かしました。
また妙楽大師は『金剛錍論こんごうぺいろん』に、「乃ち是一草・一木・一礫りゃく・一塵じん・各一仏性・各一因果あり縁了を具足す」とあるように、草木にも三因仏性が具有ぐゆうすることを述べて、天台の草木成仏の法理を扶ふ釈しゃくしました。
日蓮大聖人は、『四条金吾釈迦仏供養事』に、「第三の国土世間と申すは草木世間なり。草木世間と申すは五色のゑのぐ絵具は草木なり。画像これより起こる。木と申すは木像是より出来す。此の画木えもくに魂魄こんぱくと申す神たましいを入いるゝ事は法華経の力なり。天台大師のさとりなり。此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり」と仰せられ、天台の法理を依用して一念三千による草木成仏を明かされました。
そして、『草木成仏口決』に、「一念三千の法門をふ振りすす濯ぎたてたるは大曼荼羅なり」とあり、『経王殿御返事』に、「日蓮がたまし魂ひをすみ墨にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御み意こころは法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」等と仰せられているように、草木成仏の法理によって人法一箇の大曼荼羅御本尊を御建立されたのです。
また、総本山第二十六世日寛上人は『観心本尊抄文段』で、草木成仏の法理について一に不改本位の成仏、二に木画二像の成仏を釈し、この二義の上から大聖人の御建立された御本尊の御当体を明かされています。不改本位の成仏とは草木の当体そのままを改めずに、本有無作の三身如来と拝することであり、木画二像の成仏とは木画の二像に一念三千の仏種をもって開眼かいげんするとき、木画の二像も生身しょうしんの仏であるということです。そして、この草木成仏の二義は『同文段』に、「若し草木成仏の両義を暁さとれば、則すなわち今安置し奉る処の御本尊の全体、本ほん有無作ぬむさの一念三千の生身の御仏なり。謹つつしんで文字もんじ及び木画と謂おもうことなかれ」とあるように、御本尊の全体がそのまま本有無作、事の一念三千の御当体日蓮大聖人と拝するところにその極理があるのです。
つまり、日蓮大聖人の草木成仏義は、天台妙楽等の観念上の草木成仏ではなく、久遠元初の御本仏として事の法体を事の上に開顕あそばされた仏法の極理なのです。 
『草木国土悉皆成仏』の意義
日本には「草木国土悉皆成仏」の句がある。それは、単なる自然への情緒的な感性を表現したに過ぎず、自然を尊重することにつながるかもしれないが、それ以 上には意味がないといわれたりする。むしろ、そうした感覚があったにもかかわらず、日本の近代化の過程において、ひどい自然破壊を阻止することはできな かった。したがって、そのような言葉ないし思想は無力だといわれる。本稿は、この「草木国土悉皆成仏」は、単なる「感性」の表現にとどまるのか、それとも 何らか「知」を含んでいて、しかも環境問題に有効であるのか、有効であるとすればそれはどのような意味においてであるか、を考えてみたい。
この句は、お能にもしばしば引かれていることは有名である。およそ20ほどの謡曲に、この句ないし思想を見ることができるという。おそら くはそれらを通じて、この見方は民衆にも相当程度、広まったものと思われる。この句は、道邃(1106〜1157?)の『摩訶止観論弘決纂義』巻一に出る 「一仏成道、観見法界、草木国土、皆悉成仏」がもっとも古いものと見られている。のちの宝地房証真(〜1156〜1207〜)の『止観私記』には、「中陰 経云、一仏成道、観見法界、草木国土、悉皆成仏、身長丈六、光明遍照、其仏皆名、妙覚如来」と出ており、この頃にはすでに完成していたことになる。今の句 においても、上述の謡曲においても、しばしばこの句は『中陰経』に出ると指摘されるのであるが、実際には『中陰経』には存在しない。したがって、この句は 日本で作られたと考えられ、その思想は日本的な思想と考えられるわけである。(ただし日本のみに固有かどうかは、さらに別途検討すべきである。)
また、以上から、この思想は、主に天台宗において議論されてきたものであることも、知られる。もちろん真言宗等でもではこのことが論じられているが、本稿では主として天台宗における議論に焦点を合わせることとしたい。
この思想の淵源は、天台智(538〜597)の『摩訶止観』に出る、「一色一香無非中道」(一色一香中道に非ざる無し)にある。のちの荊渓湛然 (711〜782)は、『止観輔行伝弘決』において、この句の解釈をめぐり、中道に仏性を読み込み、非情にも仏性があるということを強調した。こうした中 国天台教学を背景に、日本においては最澄(767〜822)ののちに、この問題が大きく扱われていくことになる。円仁、円珍、五台院安然、良源、源信らが この問題を論じ、多くは草木が自ら発心・修行・成仏するということさえ認めようとしたのである。
そうした中、忠尋(1065〜1138)作と伝える『漢光類聚』(これも忠尋の真作か疑問視される場合もある)は、その思想の論点について、まと まった形で示している。そこには、ともかく「草木国土、悉皆成仏」の句の思想的背景が七種の理由に整理されていて、なかなか参考になるものである。その意 趣を私なりにまとめてみると、以下のようである。
一、仏智の相分としての草木は、仏そのものである。(諸仏観見)
二、草木も、理智不二の真如本覚を有しているところに、仏を見る。(具法性理)
三、身心の個体と国土は不二一体であり、仏身を成ずれば仏国土も成じて、そこに草木も成仏する。(依正不二)
四、草木はそのままで、本来清浄・当体常住であり、そこが成仏である。(当体自性)
五、法身は草木を貫いており、その法身は報身・化身と別でない。故に草木はもとより三身を具している。(本具三身)
六、草木の自性は不可説であり、その勝義の真諦を仏という。(法性不思議)
七、一念三千の道理により、心に色を具すと同様、色に心を具す。故に草木にも三千があり、したがって成仏する。(具中道)
ここに見られるのは、自己と世界の関係の論理的・哲学的な把握である。決して、単なる湿潤な自然に生きる日本人の感性の表現にとどまるものではないことが理解されよう。たとえば、忠尋の説には、自己と自然の関係に関して、簡略にいえば、
1自己と自然は、不二であり、切り離せない(依正不二)。2自己の完成と自然の完成は連動している(諸仏観見)。3自然の一つ一つが、自己と自然 を超える究極のいのちに貫かれている(具法性理)。4自然の一つ一つは、他のあらゆる存在と関係し、他を自己としている(具中道)。5自然の一つ一つは、 もとより霊性的内実を有している(本具三身)。6自然の一つ一つは、それ自体において絶対的な価値を有している(当体自性)。7本当の自然および自己は、 言葉を離れている(法性不思議)。 といった了解が含まれている。ここには、必ずしも天台の本門という特異な説に傾きすぎていない、自己と自然のいのちの深い自覚をここに見ることができるで あろう。
こうした自己了解は、それに沿ったライフスタイルを生み出すのではなかろうか。興味深いことに、ディープ・エコロジーを提唱したアルネ・ネスは、 環境へのはたらきかけのみを主張するのではなく、自己意識の変革をその思想の根本においている。すなわち、自己の拡大がおのずからの愛他の実践につながる のであり、このことがもっとも根本的に重要なことだと説くのである。次のようである。
「生物と風土とは二つの事物なのではない。……同様に一個の人間は、人間が全体の場のなかでの関係的な接合点である、という意味では、自然の一部 になっている。一体化の過程とは、この接合点を定めている諸関係が拡大して、ますます多くのものを含む過程である。自己(self)が自己(Self)に 向かって成長する。」
「私たちと他の存在者との連帯について私たちがもっと理解するにつれ、一体化は進み、私たちはもっと配慮するようになる。これにより、他の存在の 幸福を喜び、彼らに危害がふりかかった場合に悲しむようになる道が開かれる。私たちは私たち自身にとって最善であるものを求める。しかし自己の拡張を通じ て、私自身にとっての最善がまた他の存在にとっての最善にもなっている。〈自分自身のものである―自分自身のものではない〉の区別は、文法上残るだけで、 感情の面ではなくなる。」
このように、アルネ・ネスは、自我(ego)・自己(self)・自己(Self:深遠にして包括的なエコロジー的自己)と自己了解が拡大し、そ の自然と一体である自己の了解は、おのずからあらゆる存在の自己実現を喜ぶ生き方を実現していくという。仏教の立場からいえば、自然と不二一体である自己 とは、空性の原理において成り立つことであり、無我である自己において成立することである。これに対し、ネスの自己拡大は、大我の思想ではないのか、それ は仏教と相容れないのではないか、といった問題は検討してみなければならない。そういう問題はあるものの、今は自己を身心のみと思うのではなく、環境も含 めて自己であると見る視点の意義を汲んでおきたい。その視点を得たとしても悟りを開いていない以上はいまだ抽象的であり、また人間は無明・煩悩もかかえて いるがゆえに、そうした自己了解が直ちに愛他の十全な実践をもたらすとも言えないであろうが、私は、基本的には、このようなまず自己了解の転換を推しすす める立場を支持したい。それは、具体的・数値的な行動の基準、指針をただちにもたらすものではないとしても、我々が実践していくライフスタイルのもっとも 根本にあるべきものであろう。
問題は、日本にも、こうした哲学があったにもかかわらず、それが近代化の過程において十分に機能しなかったことであり、その理由を掘り下 げて検討し対処していかなければならない。そのほか、さまざまな問題を検討しなければならないとしても、ともあれ、「草木国土悉皆成仏」の思想が、まった く意味がないとは思えない。それは、単なる「自然感」なのではなく、「自然観」なのであり、実は人間観・自己観であるからである。環境問題、サステイナビ リティの問題に対処していくためには、多角的・総合的に対策を考え、実践していくことが求められていようが、その根底には、自己と世界に関する深い了解が あるべきである。その了解への一つの道として、この「草木国土悉皆成仏」の句ないしその思想は、もう一度検討されるべきものを豊かに蔵していると思うのである。 
山川草木悉皆成仏
もったいない
ここ数年の間に「もったいない」精神が日本で復活しつつあります。これは初のノーベル平和賞を受賞したケニアの前副環境相、ワンガリ・マータイさんが始めて来日した際に、日本には「もったいない」という文化があることを知って感動し、「もったいない運動」のネットワークを作りたいと呼びかけたことがきっかけでした。外国人から、これこそは日本のすばらしい文化だとほめられて、恥かしさを感じた日本人も多かったのではないでしょうか。現在の日本では、「もったいない」は久しく忘れられてしまっていました。
「もったいない」は、存在するどんなものに対しても、いのちを感じて、いとおしく思い、そのもののいのちを活かしきろうとする日本の良き精神文化から発していると思われます。
山川草木悉皆成仏 
<生きとし生けるものは、みな美しき仏の種を宿す>
「もったいない」と同じように、「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもく しっかいじょうぶつ)」も、日本が誇るべき精神文化ではないでしょうか。 [「悉皆(しっかい)」は「ことごとくすべて」という意味 ]
これは「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょう しつうぶっしょう)」や「草木国土悉皆成仏(そうもくこくど しっかいじょうぶつ)」とも表わされています。その意味は、「一切の生きとし生けるもの、植物や動物だけでなく、山や川や草木も、国土という環境世界も、皆ことごとく仏になる本質をもっている」ということです。私たちが日常目に触れるどんなものでも、すべて本質的に仏でないものはないというのです。
「環境イーハトーブの会」では、この精神を現代生活に具体的に活かそうとしていますので、これについて少し説明したいと思います。
「山川草木悉皆成仏」という思想は、日本の中世の鎌倉時代からの文芸に顕著に表われています。室町時代の「能」の謡曲では、柳の木や芭蕉の葉が、虫や石が、成仏することが描かれています。また、茶道や華道の精神にも大きな影響を与えています。
「山川草木悉皆成仏」は仏教思想ですが、その歴史をみますと、この思想は3〜4世紀にインドで成立した大乗仏教経典の『涅槃経(ねはんぎょう)』にある「一切衆生悉有仏性」が出発点であるといわれています。ただその中で、「一切衆生(生きとし生けるもの)」の範囲はどこまでかということは、インドの仏教では輪廻転生するとされる動物までであり、植物は入りませんでした。それが中国へ入ると、動物に加えて植物にも仏性があると説かれるようになりました。ただ、植物についてはあくまでも仏教理論からすれば、というところにとどまっていたようです。
ところが日本に入ると、動物も植物も共に成仏し、さらには岩などの無機物までも仏性をもつとまで拡大されて説かれるようになりました。日本におけるこのような捉え方の変化は、仏教理論からというよりも、目前にある具体的な個々の事物や現象そのものが、そのまま仏の悟りを実現している世界であるという感覚的な面からの捉え方が強く出たことによるといわれています。
日本人の心情にかなう「山川草木悉皆成仏」
このようなインド、中国、日本という国による受けとめ方の違いは、国による自然風土の違いからきていると考えられます。日本列島はモンスーン地帯に属する温暖湿潤な自然風土であり、年間降雨量も多く、森が豊かに生育しました。森では木の実や山菜など豊かな食料が供給されたため、縄文文化を発展させた原始の狩猟・採集経済の時代から”森の文化”が形成され、これが日本文化の原型になったと言われています。このような自然風土の下で、人々は山や風や火や水に神を感じて、日本人の神信仰を形成してきました。そこでは、天地自然を形成する森羅万象のあらゆる要素が神であったのです。これは巨樹に惹かれる現代人の心情にも通じているようです。
日本の神は元来がその土地土地に坐(いま)す存在でした。それは人々に豊穣を与えてくれると同時に、災害や疫病をもたらす恐るべき存在でもありました。だから人々はその地の神を丁重に祭ったのです。
「日本在来の"神"」と「仏教の"仏"」との融合
古来の神々が坐す日本に、外国から入ってきた仏教は、日本の古来の神々を大切に扱いました。寺院を建立する際には、在地の神を祭る神社も建立して篤く祭り、在地の神との融合をはかっています。東大寺の大仏造営の時には、手向山(たむけやま)に八幡宮が建てられました。また、最澄は比叡山を開くに当って山王社を建て、空海は高野山を開くに当って丹生(みう)神社を建てています。
「山川草木悉皆成仏」思想は、平安時代の中期以降に顕著になってきたものですが、これが多くの人々の心を捉えたのは、6世紀後半に日本に公伝された仏教という外来宗教が持つ思想が、日本人元来の自然神信仰という宗教意識と融合して、消化されて説かれたからだと思われます。日本人の心情や感性にあうように形成されてきたので、今日の日本文化につながる多様な伝統文化を生み出し得たのだと言えます。
「山川草木悉皆成仏」は「生物多様性」と同じ
現在、地球上の生物は、開発や気候変動の影響で、毎年4万種が絶滅していると推測されています。国際的な「生物多様性条約」もできていますが、生物種の絶滅に歯止めをかけることはできていません。日本でも「生物多様性基本法」が2008年5月に成立し、多様な生き物を守り自然と共生する社会を目指すとしています。生物多様性の保全は待ったなしの状況です。私たちも失われていく生物多様性を守ることができないでしょうか。
「生物多様性の保全」は分かりにくい言葉ですが、簡単に言えば、その土地土地に固有な植物や動物や自然環境を維持していくことに高い価値があり、元来その土地土地にみられるごく普通の自然こそが、かけがえのない自然だということです。同じ日本にあっても、気候や地形などの風土の違いによって、地域の自然は異なりますので、そこを住み場とする野生の動植物も地域によって異なります。また、そのことが地域固有の文化が生まれた源泉でもあります。何か特別な自然に価値があるのではありません。それは人間も同じことではないでしょうか。
今はそれぞれの地方がその特色を出すことに価値が置かれる時代です。そういう意味でも、地域本来の自然を回復し、地域固有の動植物を守っていくことが、長い目でみれば文化や産業の発展につながり、地域が活性化し、人々が生きていける何よりの保障なると思われます。そういうことでは、身近にある自然をこれ以上失わせないようにすることが、私たちにできる「生物多様性の保全」ではないでしょうか。
偏見を取り除いて、地球を救う思想の普及を
現代の日本人は、歴史的視点からものを考えることが不十分になったといわれています。刹那刹那で生きているからでしょうか。今の日本人は明治時代前の自国の歴史を捨て去ってしまったようにさえ見えます。これは、明治以降は近代化による西洋化が進められたために、日本人は西洋に憧れ、さらには、戦後はアメリカ文化が横溢したことで、自国の歴史的文化的伝統は封建的で劣ったものに見えてしまい、自国の良き文化的伝統まで否定する風潮が強まってしまったことにあるのではないでしょうか。私たちの先人たちが築き上げてきた日本の誇るべき伝統的精神や自然観までも、古臭いものとして捨て去ってしまったので、日本は根無し草となってしまい、その結果もたらされたのは、カネやモノしか信じるものが無くなってしまった今の社会です。現在の日本社会の深刻な犯罪の続出は、こういうところに源があるのではないかと思われます。
私たちはこれまでの偏見を取り除いて、自国の文化的伝統の中から、現代においても誇りうるもの、高い価値を失っていないものを引き出して、受け継いで発展させていく努力が求められているのではないでしょうか。そのひとつとして、「山川草木悉皆成仏」という思想は、人々の心を救う思想ともなり、また地球環境の危機の時代において日本から世界へと発信していける思想ではないかと思われます。 
弥陀成仏
弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり
法身の光輪きはもなく 世の盲冥をてらすなり  (浄土和讃)

阿弥陀如来が法蔵菩薩の昔、一切衆生を救いたいという願いをおこし、永い永い修行の結果、さとりを開き仏をなられてから、釈尊が説法されたその時までに、すでに十劫という長い時間が経っている。阿弥陀仏の成仏以来、その仏の御身より放たれる光は、限りなく、十方のいずこをも、また過去、現在、未来を通して、どこでも、いつでも照らし続け、智慧のない私たちに信心の智慧を与え続けていてくださるのである。
十劫 / 劫とはサンズクリットのカルパの音写で、インドの時間の単位の中で最も長い時間。次のような例によって表現される。一つは、一返が四十里の磐石を百年に一度づつ天女が羽衣で払拭して、この磐石がなくなる時間が一劫。二つは、四十里四方の大城に芥子の実を満たし、百年に一度一粒ずつ取り去ってなくなってしまう時間を一劫という。三つには、塵点劫という言い方もある。
法身 / 普通、法身というのは、阿弥陀如来の報身、釈迦如来の応身に対して、宇宙の真如法性の理を法身というが、今はそれと異なる。今は法性法身から顕れ出た方便法身の弥陀の御身ということ。
光輪 / 仏の光明を転輪王の持つ輪宝にたとえたもの。転輪王の持つ輪宝にたとえたもの。転輪宝が行幸するとき、その車が山を砕き谷を埋めて平地となし、王の進む道を作るという。このように如来の光明に照らされた人生を歩むものは、もろもろの人生の苦難にあっても浄土への人生を導かれる、如来の光明のはたらきを転輪王の輪宝にたとえたもの。

親鸞聖人は、曇鸞大師の作られた『讃阿弥陀仏偈』を『大経』と同等に見られ、これによって四十八首の和讃を作られ、『讃阿弥陀仏偈和讃』と名づけられました。
曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』というのは、阿弥陀を讃嘆した偈文ということですが、親鸞聖人はそこに説かれている阿弥陀仏の御身も、浄土の七宝樹林・八功徳水みなことごとく、われら罪業深重の衆生を救うためのものであると味わわれたものです。
そして浄土真宗の教えは、この阿弥陀如来のおさとりから流れ出てきたものであることを顕すために、「三部経和讃」の前に『讃阿弥陀仏偈和讃』をおかれました。ですから『浄土和讃』も『高僧和讃』も『正像末和讃』も、すべてその源は、阿弥陀如来のおさとりから流れ出たものであるということができるわけです。
さて、「讃阿弥陀仏偈和讃」の最初の一首が先にあげた和讃です。阿弥陀如来が仏となられてから今までに、すでに十劫という永い永い時間が経っている。その間も如来の御身からは、際限のないお光りを十方に放って、世の迷いの衆生を照らしていてくださっている。
何ともったいないことであろうかと、如来の光明の中にご自身を見出された親鸞聖人のよろこびをうたわれたものです。
親鸞聖人が命がけで求道されたことは『恵信尼消息』からも分かります。
「聖人が比叡山を出て、六角堂に百日お籠もりになって、九十五日目の暁に、聖徳太子の示現にあずかり、やがて法然上人にお会いになり、また百か日、降るにも、照にも、どんな大事なことがあってもお訪ねになった」とあります。
このことからも、聖人の命がけの求道の姿が目に浮かんできます。
けれども、いかに厳しい求道をしても、いや厳しく自己を見つめれば見つめるほど、煩悩のなくならないわが身が見えてくるばかりでした。
「まことに知らぬ、悲しきかな愚禿親鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数には入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべし 」と悲しまれています。
如来の大悲の中になりながら、かわいい、欲しい、大事にされたいの心がなくならないばかりか、さとりに近づくことさえも喜ばない煩悩の姿を悲しまれています。
この煩悩の根深さは、五十年、百年前からのものでなく、深い深い十劫もの歴史をもっており、この煩悩の歴史にそって大悲がかけられたことを讃嘆されたのがこの和讃です。 
「成仏」とは何か?
成仏とは何か?新・仏教辞典(誠信書房)によれば、成仏とは「覚(さと)りをひらいて、仏陀(Buddha・覚者)に成ることをいう。死者を成仏したというのは、浄土真宗で死後阿弥陀仏の浄土に生まれると同時に成仏すると説くのに由来する。」 ということだそうです。逆に「成仏しない」とは「仏陀になれない」ことになります。そもそも仏陀になろうと修行を積んでいる一般人は少ないと思うのですが。
そこで「恐れ多くも、わたしは仏陀になるような人間ではございません。さとりを開くなど無理です。修行も無理です。成仏など願いませんので」と断っても、そう簡単に問屋がおろしてくれません。
修行しなくても、成仏できる?
成仏をとく親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、日本で信者の数が一番多いといわれる「浄土真宗」の開祖です。
若い親鸞は、苦しくて辛いこの世で庶民が修行を積み、覚りをひらくのはむずかしい。しかし、そのような哀れな庶民を救うのが、仏ではないのかと自問自答します。すると仏は、そのために浄土門があるとすすめます。
親鸞は、一切衆生を救済すると誓った阿弥陀仏の本願を信じ、南無阿弥陀仏(なむ・あみだぶつ)と念仏すれば、あの世では浄土に生まれ変わり、仏陀になれると易行を学びます。易行とは、誰でもたやすくできる修行という意味です。しかし、親鸞は、その修行も必要ないといいます。
成仏の行き先「浄土」とは?
成仏に、修行も必要ないと聞くと、つい誘われるのですが、成仏の行き先が気になります。
「ところで、その『ジョウド』って、どんなところ?そこでお金とか、財産とか渡さなくちゃいけないとか?危なくない?」と心配になるむきも、いえいえ「譲渡(じょうと)」ではありません。「浄土」です。
浄土とは、さとりを開いた仏または将来さとりをひらくべき菩薩の住むところです。阿弥陀仏の浄土を「西方極楽浄土」といいます。「極楽?いいねッ、きれいな姉ちゃんもいるのかね」などと妄想してはいけません。そんな煩悩を消し去った覚者の国土が、浄土ですので。
成仏は、極楽浄土へ往生すること
しかし「極楽浄土」の言葉が醸しだすイメージは、庶民にはきらびやかで豊潤な世界を夢想させます。
しかも念仏し、信心すれば、そこに行けると聞けば、「極楽浄土」は叶わぬ夢ではありません。
かくして浄土門の教えは、庶民の仏教として、その勢力を伸ばします。そして、戦国時代には大名を恐れさせる一向一揆をおこすほどの組織力を誇るようになります。
いつしか「成仏」は、死者が「極楽浄土」へ往生することを意味する言葉として、宗派をこえて庶民の通念となりました。「成仏」は、家族を亡くした遺族にとっては、その悲しみを癒す言葉となりました。
江戸時代以降、死者を「成仏」させる儀式として仏式葬儀は定着していきます。
成仏は、信者でなくてもできるのか?
ところで、信者でなくても「成仏」はできるのでしょうか?
成仏を説く親鸞が学んだ浄土教では、仏教を自力の聖道門(しょうどうもん)と他力の浄土門に分けます。
聖道門は、さまざまな修行をとおして、自力で成仏することを説くグループです。当時では、天台宗や真言宗をさし、のちの禅宗もこのグループに入ります。
親鸞は、聖道門の道は、実現がむずかしく庶民の救済にはむかないと一線を画します。煩悩に苦しむ衆生は、阿弥陀仏に帰依(きえ)し、その本願力(他力本願)にすがる以外に浄土へ往生できる道はないと浄土門を説きます。
親鸞は、浄土教以外の仏教を批判し、敵にまわすことになります。そのうえ、自力の修行も必要ないと断じれば、お釈迦さまもビックリです。
成仏を説く親鸞は、エロ坊主だった?
成仏へ導く親鸞の行動は、さらにエスカレートしていきます。
理屈だけなら、まだしも、さらに親鸞は、当時仏教界では御法度だった「肉食妻帯」の禁を公然とやぶり、奥さんをめとり、魚や獣の肉を食べる行動にでたのです。
これは、悟りをひらくための出家や戒律をことごとく否定したことになります。当然ながら、「破戒僧」「堕落坊主」「仏敵」「エロ坊主?」などと罵詈雑言(ばりぞうごん)が嵐のように浴びせられ、世間中からバッシングを受けることになります。ブログがあれば炎上です。
しかし、これは奇をてらったパフォーマンスではなく、阿弥陀仏の他力本願にすがる親鸞の徹底した信仰心のあらわれではないかと思います。
浄土真宗は、キリスト教か?
余談ですが、浄土真宗は仏教というより、キリスト教に通じるところがあります。
「煩悩」を「原罪」と読みかえるならば、救済物語として、人々を煩悩から救おうと本願を発揮する阿弥陀仏は、人類の原罪を背負い贖罪(しょくざい)したイエス・キリストの話ににています。とくに信仰心のあり方が酷似(こくじ)しています。
キリスト教も自力のはからいを否定します。ひたすら神を信じなさいといいます。イエス・キリストが神の子であると信じなさい。疑いを許しません。浄土真宗もひたすら阿弥陀仏の本願を信じなさいといいます。そして、二つの教えも、因果応報を否定し、過去の善悪を問いません。改心し、神を阿弥陀仏を信じれば救われます。
現世においても、信者はキリストの”愛”につつまれ、阿弥陀仏の”慈悲”に生きます。両者とも、信者には難しい規律や戒律を求めず、ただただ深い信仰をもとめます。
「親鸞は、欧米か!」とつっこみを入れたくなるところですが、浄土真宗は仏教とは次元を異にする「親鸞教」かもしれません。ともかく信仰の深さは、世界宗教並みです。
地獄に堕ちても、後悔しない!
親鸞の考える信仰はとてつもなく深いようです。『歎異抄』にその凄みを感じさせる一節があります。一部を引用し要約します。
「たとえ法然上人(浄土門の師匠)にだまされて、念仏して地獄におちたとしても、わたしは決して後悔はいたしません。・・・それというのも、どんな修行にもたえられないこの私ですから、結局、地獄こそ定まれる住み家であるといわねばなりません」と。
この絶対服従の信仰こそが、宗教の信仰心なのです。ユダヤ教やキリスト教、イスラム教にも勝るとも劣らない信仰心です。宗教の信仰心は、人の精神を強固なものにします。宗教の力はあなどれません。宗教は強く、そして怖いのです。
信仰心なくば、成仏なし!
仏教のなかでも、出家や修行をもとめない易行といわれる浄土真宗を題材に信仰心と成仏の関係をみてきましたが、やはり「信仰心なくば、成仏なし!」です。
ましてや、お金で信仰心を買うことなどできません。信仰心がなくても、お金を払えば成仏できるわよといえば、それは「霊感商法」です。
もし「成仏」を望むなら、せめて信者になるしか方法はありません。だから、本来の宗教家は、信者になるように熱心に「布教」します。
ところが、日本の仏式葬儀は、信者でなくても、死後に信者名として戒名を授け、にわか信者にしたてて葬儀をおこなうという世界的にみても珍しいシステムを広く採用しています。
信仰なき仏式葬儀は、マジックショー
信者であるかどうかを求めない日本の仏式葬儀は、「信仰心なき宗教儀式」といえます。
これは、明らかに論理矛盾です。阿弥陀仏も信じていない人を浄土に送ると聞けば、親鸞もビックリです。霊感商法とはいいませんが、「マジックショー」を見せられているようです。
しかし、江戸時代より今日21世紀まで400年ちかく、この「マジックショー」が続いてきたのです。ギネス登録間違いなしです。
「死後に戒名(法名)をつけたから、信者になりました」という簡単なトリックを見破れなかったというのでしょうか。日本人を馬鹿にしないでほしい。きっと、信仰や宗教とは違った力が働いていたとしか考えられません。
信仰心なき仏式葬儀を采配する仏教を「葬式仏教」と揶揄されます。その日本独特の「葬式仏教」に迫ります。 
葬式仏教の由来
日本の仏教のことを「葬式仏教」と揶揄(やゆ)されます。
仏教の開祖、釈尊「ゴータマ・ブッダ」は、人々を苦しみから解放するために修行にはげみ、苦しみのもとである「煩悩」の先に「無明」があることを発見します。そして、苦しみの輪廻から解脱する方法をみいだし、悟りを得ます。
日本仏教の先達もまた、庶民を苦しみから解放するために仏教にまなび、修行にはげみました。
修行僧に葬儀について聞かれたブッダは、「そんなことを考える暇があるなら、修行しろ」と応え、「葬儀にはかかわるな」ともいわれたそうです。
仏教の経典は膨大にありますが、葬儀に関する教典はありません。仏教は、いかに煩悩から解放され、いかにこの苦しみの人生を生き抜くのかを問うだけです。
このため、葬儀に奔走する日本仏教のことを「葬式仏教」と揶揄されるのです。この「葬式仏教」はいつから、日本ではじまったのでしょう。
「葬式仏教」は、江戸時代から始まる。
「葬式仏教」は、江戸時代に徳川幕府が宗教統制の一貫として、キリスト教などを排除する「寺請制度」を発令したことに端を発します。
寺請制度(てらうけせいど)は、お寺が仏教の信者であることを証明する証文を発行し、それを庶民が請ける制度です。この証文を請けられなければ、キリスト教などの「邪宗門」の嫌疑がかけられ、厳しい拷問がまっています。
この証文を請けるためには、庶民は村のお寺を「菩提寺(ぼだいじ)」と定め、その檀家となることを義務づけられました。檀家制度(だんかせいど)のはじまりです。
檀家となった庶民のお葬式や供養・法事は、自動的に菩提寺が独占的にとりおこなうようになります。
「葬式仏教」は、死者をにわか出家者にしたてる。
ところが、お坊さんは庶民のお葬式をあまり経験したことがありません。
おなじお坊さんが他界したときに、その僧侶の戒名で葬儀をあげる経験しかありません。そこで妙案を思いつきます。
庶民が亡くなったときは、死者の頭の毛をそる(剃髪)など得度式(とくどしき/出家の儀式)を葬儀で再現し、出家した証しに戒名をさずけ、出家者の心得を読経する。こうして死者を「にわか出家者」と見なして葬儀をおこなう、そう「信仰心なき仏式葬儀」のシステムを編みだしたのです。
このシステムは、室町時代ごろから、修行僧が道半ばに他界したときに考えられた方法を土台にしたようです。
「葬式仏教」は、権力の片棒をかつぐ。
さらに寺請制度では、現在の戸籍にあたる「宗門人別帳(しゅうもんにんべつちょう)」をお寺の住職に作成させ、庶民の生活全般を管理させました。
庶民にとっては、寺請証文がなければ、結婚、就職、旅行などもままなりません。万が一、住職に睨(にら)まれれば、社会的な地位も生活基盤も失いかねません。
こうして寺院は、幕府の統治体制の一翼を担うようになり、各地のお寺は幕府の出先機関と化し、権力の片棒をかつぐことになります。
また寺請制度は、汚職の温床にもなり、俗化と腐敗の坂道を転がり落ちる僧侶もあらわれてきます。権力は、煩悩の炎を燃えたぎらせます。
「葬式仏教」は、信仰心より、忠誠心を植えつける!
寺請制度は、庶民を管理・統制するシステムです。
菩提寺の住職は、現場で庶民を統制する管理官です。住職(管理官)から寺請証文を発行してもらえなければ、庶民にとっては命取りです。庶民には、信仰心ではなく、住職(管理官)に対する忠誠心が求められたのです。
この忠誠心が、信仰心なき仏式葬儀「葬式仏教」を支えてきた原動力だったのです。
「葬式仏教」は、集団管理を助長する。
しかし、村にある菩提寺の住職さんだけで、村民を管理するのは骨が折れたことでしょう。
村人のなかには住職に付け届けをしながら、忠誠心の証しとして、あるいはお目こぼしを期待して、密告する輩もいたことでしょう。それが村内の相互監視につながり、集団管理を可能にします。村落共同体の集団管理は、村落共同体として菩提寺に忠誠心を誓うことで、より強固なシステムとなります。
武士は、殿様や藩に忠誠心を誓い、村民は村落共同体として藩と菩提寺に忠誠心を誓います。このような状態が明治維新まで約260年間つづきました。明治維新によって藩への忠誠心は解放されますが、村落共同体にこびりついた菩提寺への忠誠心は、共同体のしきたりや習慣として根づいていきます。
「葬式仏教」は、お墓で生きのびる?
時代が変わり明治になると、明治元年に政府は、仏教の特権をうばう「神仏分離令」を発令します。
この「神仏分離令」をきっかけに、仏教界に反発を抱いていた民衆が、全国の仏教施設を破壊するという「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」運動が高まり、多くの寺院仏閣、仏像、教典などが被害にあいました。
国家神道による宗教統制をめざす明治政府は、「神前結婚式」をヒットさせ、国民の間に定着させました。葬儀も神道バージョンの「神葬祭」を普及させようとしましたが、長年にわたって先祖のお墓を所有する寺院墓地の存在にその野望はくだかれます。
祖先崇拝という庶民の素朴な信仰は、仏教供養に組み込まれ、お墓参りなどに普及してきました。日本仏教は、そのお墓で生きのびてきたといえるかもしれません。 
葬祭ビジネスに活路
戦後になるとGHQの統制化で、「農地改革」がすすめられ、お寺が持っていた「寺社領」も没収されました。
それまで寺社領の農地では、小作人が働き、お寺の生活を支えていました。生活基盤を絶たれた戦後第一世代の住職は、ほかの仕事をさがして兼業するか、葬祭ビジネスに活路を見出すしか方法がありませんでした。
墓地は没収されなかったので、生き残った檀家を頼りに、悪戦苦闘をくり返しながら、高度成長期をむかえます。農村も都会も派手な葬儀を営み、戒名料もうなぎ登り。院居士で100万、200万。院殿居士で300万、500万円などの話もでます。さすがに高すぎるといった批判記事が新聞を賑わせたのもこのころです。
また、やり手の住職は、宗教法人の免税措置を活用し、幼稚園を開いたり、墓地経営を拡大したり、あるいは観光寺として寺院経営を立て直していきました。
こうして各お寺の住職は、りっぱな「寺院経営者」として再出発したのです。
戦後2世、3世は資産管理・運用者
やがて住職の後継者になる大卒の戦後2世、3世の時代が訪れます。先代の築いた財産を受けつぐ番になります。
もちろん、お寺の財産は宗教法人のものですが、住職は世襲制ですので、親の作った財産、お寺、墓地、土地、預金などは後継者の長男が譲り受けます。そこで長男坊は、この資産をどのように守るか、増やすか、何に使おうかと頭をめぐらせ、修行は二の次になります。
出家し、財産や資産などから縁を絶ち、俗世界の執着から離れ、悟りのために修行にうちこむ、そんな仏陀の姿はそこにありません。
資産管理者としての僧侶の姿が、檀家の前にあらわれます。「最近、老朽化が激しくて、ご本尊様に申し訳なくて、そろそろお寺も建て替え時かね」などと愚痴りながら、建て替え資金の協力を請います。
赤いスポーツカーのお坊さんも、転売価格の高い高級車に投資した正当な資産運用者なのかもしれません。「おやじ、いい買い物だろう」と自慢げに話す姿が想像できます。
もはや、寺院の後継者に最も求められるのは、仏心ではなく、経営能力に変わったのかもしれません。 
 
不成仏・諸説

 

両親が成仏していない…?
【相談】
亡き両親のことで、以前からどうしても気になって仕方がないことがあり、ご相談させていただきます。母は13年前、父は2年ほど前に亡くなりましたが、父も母もしょっちゅう夢に出てくるのです。夢に出てくるのは成仏していないからだ、と聞いたことがありますが、それは本当でしょうか?
私は両親に対して、十分な親孝行をしきれなかったという思いが強く、2人が亡くなった直後は、その思いに苦しみました。自分が悪いから亡くなった、とさえ思い詰めました。理由は明かせないのですが、自分にいたらないところがあり、両親も心配事を残して亡くなっている気もします。
供養の仕方は、ぼだい寺が遠方で親戚もないため、家族で仏壇に手を合わせる感じです。手を合わせるのは毎日です。私はどうして両親の夢をよく見るのでしょうか? 供養の仕方がおかしいのでしょうか?
【回答】
死者に心残りがあった場合、彼らは死後、残された者の夢枕に立つ…、そんな能力が彼らにあるのかどうかは、あいにく私には分かりかねます。
けれども、確かに分かることは、残された私たちの側に心残りがあるのなら、夢の中への死者を呼び出すであろう、ということです。
なぜなら、夢を見ている最中には、私たちが気にしているけれども普段は封印している感情が、登場人物たちを通じて上演されている、という側面があるからです。
亡くなられたご両親に対して、「心残りがあったろうなあ」と心配されたり、「自分のせいで亡くなったのではないか…、これじゃ両親も浮かばれないのでは…」と悔やまれたりする強い感情が夢の成分となっているのだろうと思われるところです。
ご両親のために供養をされようとするお心は、決して間違ってはいません。少し気になるのは、祟(たた)られないようにお払(はら)いをするような気持ちになってしまってはおられないか、ということです。それゆえ、「やり方が間違っているのでは…」と心配にもなるのではないでしょうか。
「自分に害を及ぼさないように、どうにか静まってくれ」というような発想がもしも隠れているなら、そこには相手への温かい優しさが欠けています。
そうした、恐れたりおびえたりした心でいる限り、その負の感情ゆえに皮肉なことに、ご両親を夢の中への召喚し続けることでしょう。
ですから、心配したり悔いたり恐れたりする、ネガティブな思考は停止して、「両親が安らかであるように。穏やかであるように」と、ただ優しく、慈悲の気持ちで祈ることへと切り替えてみてください。強い感情がやがて、淡いものへと置き換わっていくに連れて、似た夢は見なくなると思いますよ。 
成仏できるわけない
「おやじは成仏しただろうか」。須賀川市の農業樽川和也さん(39)が虚空に問う。無理だと思った。「布団の上で死ねなかったんだから」東京電力福島第1原発事故から約2週間後の朝、父久志さん=当時(64)=は自宅の裏で自ら命を絶った。遺書はなかった。放射性物質が拡散する中、将来を悲観したとみられる。着ていた上着のポケットに携帯電話があった。内蔵された歩数計はその日、680歩近くを示していた。「丹精込めて育てたキャベツを最後に見て回ったんだろう」。和也さんは推し量る。
久志さんは原発の危うさを前々から口にしてきた。そして2011年3月12日。原発で起きた水素爆発のニュースを見てつぶやいた。「もう福島の百姓は終わり。何も売れなくなる」。口数が減り、朝になると吐き気を訴えた。農業を継いでくれた和也さんに「おまえを間違った道に進ませた」とわびた。土作りに力を入れ、自慢の野菜を学校給食に提供してきた。キャベツ7500個の出荷を控えていた。23日、自宅にファクスが届いた。キャベツを含む結球野菜の出荷停止を伝える文書だった。夕食後、久志さんは珍しく自ら食器を洗った。亡くなったのは翌朝だった。目に見えぬ放射能の汚染が、出口の見えない困難を突き付けた。生きる力を奪い去った−。原発事故に起因するとしか思えない死なのに、当初は震災関連死には該当しないとされた。
そうした中で和也さんは12年6月、東京電力に慰謝料を求め、裁判外紛争解決手続き(ADR)を申し立てた。「原発事故さえなければおやじは死なずに済んだ」と訴え、謝罪を求めるためだった。1年後に和解が成立したものの、東電は謝ることは拒んだ。今に至るまでおわびはない。和也さんは憤怒の表情を浮かべる。修羅のように。「線香一本上げに来ないのは人として間違っている。おやじが浮かばれない」妻美津代さん(65)は和也さんと農作業をした後、久志さんが残した携帯電話を握りしめる。待ち受け画面のキャベツを見ながら「父ちゃん、一緒に闘ってほしかったよ」と残念がる。
久志さんの死は昨年5月、震災関連死としてようやく須賀川市から認められた。
「父ちゃんは成仏しただろうか」。美津代さんは自問し、すぐに首を振る。「できるわけがない。元のきれいな福島が戻ってこない限りは」理不尽に追い詰められた命。さまよっているに違いない魂。夫の無念をかみしめ、怒りに震える。果たせぬ成仏を思う家族の心もさまよっている。 
成仏できない悲しい霊たち
成仏していない仏(死霊)のことを不成仏霊といいます。成仏したくてもなかなか成仏できないで、霊界でもがきあがいている仏です。不成仏霊は現世に生きている人を頼って成仏させてほしいと助けを求めてくることがしばしばあります。供養してあげること以外に方法はありません。霊魂を信じる人は、仏を大切にし、供養を怠りません。また、そうすることにより先祖は安心して成仏しますから、不成仏霊になるケースはまったくみられず、したがって不成仏霊に悩まされることもないのです。死者に対してまったく無知、無関心で、葬儀もせず、遺骨をどこかに放置したまま忘れ去り、お墓などとんでもないと、つくろうとい気さえ起きない、供養などには目もくれず、現世での自分の損得にだけ目を向けている人がいますが、あれやこれやの霊障、すなわちたたりがあり、不孝が不幸を呼ぶ結果になります。原因不明の病気、交通事故、離婚騒動、自殺者の続出、商売の不調、などなど。思い当たる方はぜひ仏さまの供養に努めて下さい。祈りや供養が不成仏霊を出さない最良の方法です。
不成仏霊のなかでも、もっとも成仏しにくいのが自殺霊です。現世に絶望して苦悩から逃れたいと自殺する人が後を絶ちません。しかし、霊界はちっとも楽しくなくひどく後悔する羽目になる。この世にとどまっている方がどれだけ幸せか、はかり知れないのです。自殺した場所には霊が残ります。そして霊を自殺に追いやった相手に復讐を企てることが多く、相手が懺悔するまで責め立てることがあります。自殺霊を放置すると悲劇が悲劇を呼んで収拾がつかなくなります。霊障が出る前にすみやかに霊を供養することが大切です。
死んだ場所に居着く自縛霊――土地、建物、住居、部屋などに住みついたまま、それらに関わった人間に霊障を及ぼす霊があります。これを自縛霊といいます。もちろん供養すれば霊障はなくなります。ここには自縛霊が出るという噂のある場所には無闇に近づかないようにすべきでしょう。
さて、突然ですが、有名なあの人は果して自殺だったのでしょうか。われわれは彼女の命日が近づいていることを鑑み、女の死について少しばかり考察を与えることができるのではなかろうか。勝手ながら、手元にある少しばかりの証言や物証推理によってできうる限り事実に近づくことができれば幸いである。それでなくともあの現場にでかけてゆき心からの供養を捧げたいと考える次第である。それには彼女は自殺霊かそうでないのか見極める必要がある。なぜなら供養の仕方がいくらか違うからである。とりあえず不孝であり、不幸でもあった女に合掌。まずは彼女が辿ったおおざっぱな人生からみてみたい。余談ながら、いつものこと蒸暑い夏場は霊魂が活発にあの世とこの世を行き来するに最適なむんむんする霊の歩みやすい空気が漂い流れていると宜保は強調する。われわれはどの霊に遭遇することができるのでしょう。ぞっとするこわさがあるが、いくらか大人にはたのしみもある。ドロドロドロドロ、ドロドロドロドロ…
藤圭子(享年62) 東京・西新宿のタワーマンションから飛び降りて死亡したのは去年2013年8月22日の午前七時前だった。警察は事件性なしと判断し自殺と断定した。はたしてどうだろう。
しかし、発作的な自殺というには釈然としない謎がある。その一つ目が「自殺の理由」だ。子供ほど年の差がある38歳の男と同居していたのは13階2LDKの部屋だった。遺書はない。同居していた男の証言があるのみだ。それによると、二人の間にトラブルはなかった。自殺の理由もまったく分からない。別々の部屋で寝ていて男女関係はない。マネージャー的存在だと伝えられたが、同じ屋根の下に棲む歌手とマネージャーとは聞いたことがないと業界人はいう。
金の問題。1年で一億使ったと豪語するほどの浪費家の藤圭子。都内の一流ホテルを転々として暮らしていた。宇多田照實氏と離婚したのはヒカルが23歳のころで、巨額の財産分与を手にしたという。カジノでのギャンブルや高級ホテル暮らしでそのうちに貯蓄も底をつく。
貧しく不幸な幼少期は事実だった。「ドスッ」という鈍い衝撃音があたりに轟いた。黒っぽいTシャツにハーフパンツ。遺書はなかった。
浪曲師の父と、目の不自由な三味線弾きの母の間に生まれた。旅回りをしながら極貧の幼少期を送った。宇多田照實氏と再婚しヒカルが生まれるころ母澄子さんと絶縁。父親とはその前に縁が切れていた。葬儀にも参列しないくらいの不仲だった。ヒカルがトップシンガーになり大金が入ってくるようになる。事務所の副社長として藤には2億円入った。夫・照實氏がヒカルの付き人(女)に手を出し夫婦の仲は破綻、まもなく離婚。米国のカジノ回りで大金を浪費するようになる。
ニューヨークの空港で現金を持ち込もうとして差し押さえられる。5年間で5億円使ったと語った。ひとりになった藤さん約6000万円の高級マンションでM氏と同居をはじめる。M氏はキャッシュで購入していた。藤が離婚した年である。この男は警察の取調をうけているが、警察は口が固く、「M氏は38歳の男性です」とだけだ。24歳下の男との奇妙な同居。M氏は新宿に勤めるホストらしいとい話だ。歌舞伎町に勤めるホストが簡単に高級マンションが買えるはずがないという。「寝室は別々で男女関係はない。彼女がなぜ自殺したのかわからない。」と話している。自殺した朝、「別の部屋で眠っていた。」という。 
 
不成仏霊

 

さまよう心霊
あなたが言葉の通じない外国に旅行中に病気になったらどうするでしょうか。とりあえずは、誰かに助けを求めようとされると思います。しかし、必死に訴えていても誰も振り向いてくれない。誰も自分に関心を持ってくれない状態が続いたとしたら、どんな気持ちになるでしょうか。苦しい状態が一ヶ月・二ヶ月と続いたならば、どんな気持ちになるでしょうか。その状態が二年・三年と続いたら、二十年・三十年と続いたらどうされますか。苦しみが百年・二百年と続いたとしたならば、どれほど苦しいかを想像できるでしょうか。それが成仏されていない方々の心霊の気持です。
霊障と言いますと大半の方は、怨霊や悪霊が生きている人間を苦しめることを連想されるのではないかと思いますが、実際には亡くなられたご先祖が自分たちの苦しみを子孫に伝えようと障りを起こしていることが大半です。ご先祖の方々に悪意はなくても、子孫に自分たちの苦悩を伝える手段がないことから災いを起こすことで、自分たちの苦しみを伝えることが少なくありません。また、ご先祖の方々が積極的に災いを起こそうとの意志がない場合でも、成仏されていない心霊が多数集るならば、そこに住んでいる人間に良い影響はありません。
先祖が成仏されていないことをお話しますと、多くの方はどんなご先祖が迷っているのかを気にされます。しかし、私の経験ではあまりに数が多過ぎてわからないことが大半です。迷っている先祖の方々を霊視したとしても、卒業写真状態では、判別などできるはずもありません。それも整然と整列された状態でなく、雑然とした状態ですので、単なる群集を霊視するだけのことです。しかも、その群集が迷っている先祖の一部でしかない可能性が高いと言えます。
更に兄弟や従兄弟の家に迷っている先祖の方々が分散している可能性もあります。迷われているご先祖の方々が、自分たちを供養してくれる家を求めて、さまよっている可能性が高いことから霊視することにあまり意味はないと考えます。
不成仏霊の悪影響
世の中に存在する不幸の原因は、すべて悪霊や怨霊が原因であるかのように主張される霊能者もあれば、逆に霊障ではないかとの相談の中で本当に霊障である確率は一割程度であると主張される霊能者もいます。個人的には悪霊や怨霊が直接の原因で引き起こされる災いの確率は低いと考えますが、間接的な原因として考えるならば、霊的な影響は無視できないと考えています。
心霊とはエネルギー体であると考えるならば、分かりやすいのではないかと思われます。心霊をエネルギー体と考えるならば、不成仏霊は負のエネルギー体であり、神仏は正のエネルギー体であると考えることができます。不成仏霊を負のエネルギー体であるとするならば、負のエネルギー体に取り囲まれると運気の低下を招くことになります。冬でも暖房が整った環境の中で暮らしますと風邪をひく確率は低くても、暖房設備が全くない環境で暮らしていますと風邪をひく確率が高くなるのと同じことです。逆に神仏のご加護を受け易い環境で暮らすことは、冷暖房の調った快適な環境で暮らすのと同じことになります。
過去の経験では、不成仏霊に取り囲まれた環境で暮らした場合の悪影響は、感情が不安定となり、焦燥感や閉塞感が強くなります。健康面では、原因不明の慢性的な疲労感や倦怠感に悩まされることが多くなる傾向があります。このような状況に陥りますと家にいても気持ちの安らぎが得られなくなり、漠然と家が楽しくない、面白くないと言った気持ちになります。
憩いの場のあるはずの家にいることが何となく苦痛に感じるようになりますと、ご主人ならば仕事に逃げ道を求めて仕事人間になったり、心の安らぐ場所を求める気持ちが浮気へと発展したりすることがあります。またお子様の場合には、感情が不安定となり、勉強にも身が入らずに学力の低下、両親への反発、夜遊びの原因となります。そのため、不成仏霊の影響は、家にいても面白くないと感じることだけで終らず、家族の絆を断ち切り、家庭が崩壊する原因となります。
これに対して 不成仏霊が成仏されて霊的な環境が大きく改善されると、感情が安定して焦燥感や閉塞感がいつのまにか消えてしまったと言われる方が少なくありません。これは開運の方法を実践されている方だけでなく、一緒に生活されている家族も同じような効果が及びますので、家にいると気持ちが落ち着くようになります。家にいると気持ちが落ち着くようになりますと家庭が明るい雰囲気となり、ご主人は家族との対話を大切にされるようになります。子供も気持ちが落ち着くことから勉強にも取り組むようになるなど良い循環が始まります。そして喧嘩もなくなり、笑い声が増える生活となります。
勿論、不成仏霊の悪影響がなくなるだけですべての問題が解消するとは限りませんが、不成仏霊の悪影響が解消されることで家庭の雰囲気が大きく改善することは多いようです。
先祖霊の影響
過去の経験では、全く無縁な心霊の影響を受ける可能性は非常に低く、大半の場合には何らかの縁がある心霊でした。そのため、霊障の原因は、何らかの縁のある不成仏霊がある可能性が高いと言えますが、縁と言っても千差万別であり、深い縁もあれば、浅い縁もあると言えます。
深い縁の代表がご先祖であり、霊障の原因の大半は迷われているご先祖が原因でした。過去の経験では、霊障にの原因の大半は、ご先祖が成仏できずに子孫を頼られていることが原因でした。ご先祖の方々には子孫を苦しめようとの意識がないとしても、迷われているご先祖が集まりますと、活力の低下や焦燥感など様々な悪影響があります。また、子孫に障りを起こすことで自分たちの苦悩を伝えようしたり、子孫が先祖供養をしなければならないとの気持ちにさせようとしたりすることがあります。
しかし、過去にはご先祖が子孫を苦しめるはずなどないと頑なに否定される方も少なくありませんでした。ご先祖が障りを起こすはずないと考えられるのは自由であり、ご先祖が子孫に障りを起こしていることを証明することもできませんが、借金を返せなくなり、困り果てて相談するのは、親兄弟でしょうか、それとも他人でしょうか。
大半の方は、借金を返せなくなり、困り果てるならば、親兄弟に頼み、それでも足りなければ親類縁者に頼むのではないでしょうか。当然のことながら親兄弟であるならば、迷惑を掛けても良いと考えているのではなく、他に頼れる人がいないから親兄弟に頭を下げるのが普通ではないでしょうか。
迷っている心霊も同じことなのです。残された子孫を頼ることなく、成仏できるのであるならば、子孫に障りを起こす必要もありません。子孫に障りを起こしているご先祖は、子孫を苦しめたいのではなく、子孫がご先祖の苦しみに気付かないことから障りを起こすことで気付かすしかない状況にあります。
そのため、子孫がご先祖供養を始めますとご先祖が障りを起こすことがなくなるのが大半でした。しかし、長年先祖供養に無関心であった場合には、ご先祖が本当に供養を継続してくれるのかと、疑心暗鬼になられていることが多いことから、一年二年と供養を継続された後にご先祖が落ち着かれる傾向があります。
尚、ご先祖と言っても父方と母方のご先祖がありますが、縁が深いのは父方のご先祖ですが、お父様が婿養子に入られている場合やお母様のご実家の姓を名乗られている場合には、お母様のご実家のご先祖となります。これは何を意味しているかと言えば、先祖が成仏できないで苦しんでいる場合に誰を頼るかの優先順位です。つまり子孫の方々が自分の親は、養子だから肉体としての先祖ではないと考えたとしても、先祖霊は自分と家の姓を名乗っている子孫を頼る傾向があります。
勿論、これは管理人の過去の経験則ですが、成仏されていない先祖霊は、血のつながっていない子孫でなくても、名前を受け継いだ子孫を頼ることが多いようです。そのため、親やお祖父さんが養子であるとしても、この法則に変わりはありません。
家系の因縁1
因縁の本来の意味は、原因と条件を表す仏教用語であり、実体的な物は存在せず、すべての物は相互依存で成り立っていることを表しますが、家系の因縁と言った言葉を聞くことがあります。本来の仏教の教えでは、家系の因縁と言った使い方がされることはありません。しかし、実際には先祖が代々積み重ねてきた罪の報いから引き起こされる災いと言った意味で使われています。
個人的な経験則ではありますが、一般的に言われている家系の因縁とは、霊障の負のスパイラルが原因ではないかと思うようになりました。勿論、家系の因縁と言われる負の連鎖の原因を霊障だけに原因を求める気持ちもなく、心の問題や親子関係の問題が大きいことを否定する気持ちもありません。現実的な問題として考えるならば、問題のある親子関係を単純再生産していると感じる場合が少なくありません。
例えば、虐待を繰り返す親に育てられた子供が親になった場合に、自分は子供に対して愛情豊かに育てようと決意することが多いようですが、そのことが精神的な重圧となり、結果として育児放棄となってしまう場合や過度な愛情の押し付けとなったりする場合があります。また神経質な親に育てられた子供が神経質な子供になる場合や反発心から子供が無軌道な生き方をする場合があります。
育児や心理学の専門家でもない人間が断定的なことを書くことはできませんが、親から充分な愛情を与えられることなく育てられた子供が、親と同じことを繰り返さないようにしようとしながらも、親は子供にどのように接して良いのかが分からず、子供は親の愛情を与えられることなく育ったとの話を聞きます。また、神経質な親に育てられた子供は、自分が親になった場合に子供に対してどのように接すれば良いのかが分からないことから、親と同じように神経質になったり、逆に過度な放任主義になったりするようです。
子供に対して、どのような態度で接すれば良いのか分からない親に育てられた子供は、自分の親と同じように子供に、どのような態度で接すれば、良いのか分からない。その結果として親の愛情を知らない親に育てられた子供は、親の愛情を知らずに育つことになります。これが、家系の因縁と言われる不幸の連鎖の原因ではないかと思うことがあります。また、結婚相手を選ぶ場合に、自分とは正反対の性格の持ち主を結婚相手に選んでいるつもりでも、同じような考え方の持ち主を結婚相手に選ぶことも問題の解決を困難にしている理由ではないかと思われます。
しかし、この不幸の連鎖を心の問題であるとだけ考えるのは早計となります。例えば、虐待を繰り返す親に育てられた子供が、その心の闇を解消できぬままに他界されるならば、死後もその闇を解消できずに迷われる可能性が高くなります。これは何も虐待に限られた話ではなく、同じような心の闇を抱えた親子関係が繰り返されるならば、同じ心の闇を抱えたご先祖が迷われることになります。そして死後の世界に帰られた後にも心の闇を解消できずに迷われ、迷いから抜け出せない心霊は、子孫を頼る可能性が高くなります。
先祖に子孫を苦しめようとする意識はないとしても、子孫は迷っている先祖の影響を受けます。特に子孫が同じ悩みを持っている場合には、迷っている先祖と意識が同通しやすいことから、その影響は非常に大きくなります。つまり、生きている人間は自分だけの悩みだけでなく、迷っている先祖の不安感や苦悩も背負うことになり、生きている人間は、理由の分からない閉塞感や不安感に悩まされることになります。
これが家系の因縁と言われる不幸の連鎖の正体ではないかと考えています。勿論、霊障が解決したとしてもすべての問題が解決するわけではなく、心の問題は残りますが、霊障が解決しますと、それまで悩まされていた焦燥感や閉塞感が解消されて気持ちが落ち着き、家庭内の雰囲気が大きく改善したとの話を数多く聞いています。そのため、霊障が解決することで心の問題も解決が容易となります。
また、迷っている心霊が成仏されますと先祖の影響がなくなるだけでなく、神仏のご加護を受け易くなる傾向があります。そのため、単純に心の問題と考えるだけでなく、霊障として考えるべきではないかと考えます。
家系の因縁2
霊障を自覚されているか、自覚されていないかとは無関係に、霊障のある方が結婚相手に選ばれる方は、不思議と自分と同じような霊障に悩まされている相手を選ばれる傾向があります。本人が意識されているか、意識されていないかを別にして、霊障のある同士が結婚されますと霊障が深刻化する可能性が高くなります。そして深刻な霊障が数代続くならば、家系の因縁と言えるような現象が起きることがあります。
その理由として一般的に霊障に悩まされている方の多くは、ご両親が宗教に無関心であることやあの世の存在を否定されることがあります。どちらのご両親も宗教に無関心なことから神仏との縁が薄いだけでなく、作法や供養もご存じないことが多く、ご自宅の宗旨も分からないことも少なくありません。
このような状況になりますと、ご主人の家系の成仏されていないご先祖の他に、奥様のご実家の成仏されていないご先祖を受けることになります。それでも、ご夫婦のどちらかに神仏に帰依される気持ちが強く、神仏とのご縁があれば良い方向に向かうこともありますが、神仏とは無縁な両親に育てられたは、霊障と言われるようなことが起きても偶然や不運と考えることが多いようです。
そして霊障に悩まされている両親に育てられた子供は、親の霊障をそのまま引継ぐことになることから、親と同じように自分と同じような霊障を持つ相手を選ぶ可能性が高くなります。自分と同じような霊障を持つ相手を選ぶことで更に霊障が悪化します。この繰り返しが数代繰り返されますと霊障の負のスパイラルに陥ります。霊障の負のスパイラルに陥りますと努力しても報われない事が多くなり、不幸の影がいつもつきまとうような人生を歩まれる方が多くなります。また、霊感のない方が自分は霊障ではないかと漠然と感じ始めるのがこの段階となります。
しかし、本当の負のスパイラルは、この段階から始ります。霊障が深刻となりますと家の中が負の想念に包まれるようになります。このような状況になりますと、友人関係や知り合いも霊障に悩まされている方や霊障の予備軍とも言うべき方など、負の想念を溜め込んでいる方の比率が高くなります。
この段階になりますと低級霊の影響を非常に受け易くなるだけでなく、簡単に低級霊を呼び込むようになります。簡単に低級霊を呼び込むような状態にまで環境が悪化した家で育った子供は、低級霊の影響を受け続けることになります。更に不幸にして子供が生まれつき感受性の強い場合には、強度の霊媒体質になりやすくなります。また、霊障ではないかと霊能者を頼る方が増えるのもこの段階であり、新興宗教などの入信や脱会を繰り返す方も多くなります。
この次の段階が宗教カルトへの入信となります。宗教カルトに入信されても、その教えに疑問を持ち、脱会されるならば、良いのですが、熱心な信者となり、教団の教えを盲信されるようになりますと、一種の洗脳状態となり、専門家の力を借りないと脱会させることは難しくなります。
勿論、ここで紹介した霊障の負のスパイラルですべてが説明できるとも考えていませんし、また画一的に説明することには無理があるとも言えます。
家系の因縁3
家系の因縁と言われる現象の原因として、霊障の負のスパイラルがあることを書きましたが、霊障の負のスパイラルは、先祖が成仏されていないことだけが原因ではなく、強い怨みの念を抱く不成仏霊が原因の場合があります。過去の事例を紹介しますと、明治時代に田舎の村で未婚の女性を妊娠させておきながら、他の女性と結婚したことから、相手の男性を怨みながら亡くなられた女性が、相手の男性だけでなく、相手の男性の子孫に災いを起こし続けていた事例、先祖が高利貸しをして多くの人を苦しめていたことから子孫が難病に苦しめられていた事例などがありました。
子孫からするならば、自分に無関係な理由で苦しまなければならないことから、何とも理不尽であると言いたくなりますが、怨みを抱いている不成仏霊からするならば、怨みを抱く相手の子孫であると言うことだけで、憎しみの対象ですので霊障の負のスパイラルに陥る危険性が非常に高くなります。
また、このような場合には深い怨みを抱く不成仏霊がいるだけでなく、生前に他人を不幸に陥れるような生き方をされていたご先祖が迷われている可能性が高くなります。他人を不幸に陥れたご先祖は、当然の事ながら罪深いことから供養をされたとしても成仏が難しくなります。更に厄介なことに、怨みを抱く不成仏霊は、子孫がご先祖を供養することを妨害します。
これは、怨みを抱く不成仏霊からするならば、自分を苦しめた先祖が地獄で苦しむことを願うとしても、成仏することを願うはずもありません。また、怨みを抱く不成仏霊を供養しても深い怨みを抱く不成仏霊が求めているのは、子孫を苦しめることであり、自分が成仏することではないことではありません。
そのため、子孫がご先祖や怨みを抱く不成仏霊を供養しようとされますと妨害することや神仏に帰依することを妨害することが少なくないことから、霊障の負のスパイラルに陥る危険性が非常に高くなります。
このような話を書いていると気が重くなりますが、霊障の負のスパイラルの恐ろしさは、これで終らないことです。深い怨みを抱く不成仏霊に怨まれている家系の子孫は、自殺や破産などが多くなる傾向がありますが、家系が途絶えることはほとんどありません。つまり家系が途絶えない程度に子孫を苦しめるのが、深い怨みを抱く不成仏霊と言えます。また更に厄介なことは、直系の子孫だけでなく、他家に嫁入りや婿入りされてご実家の戸籍から抜けても、怨みを抱いている心霊には関係なく障りを起こす可能性があることです。
子孫からするならば、顔をしらないどころか、名前さえ知らない遠い先祖の犯した罪で苦しめられることは、何とも不条理極まりないと腹立たしい気持ちになりますが、霊障の負のスパイラルから抜け出すことが大切となります。個人的にも、この霊障の負のスパイラルから抜け出すことができずに悩んでいました。どうして、自分がそんなことをしなければならないのかと腹も立ちましたが、自分の代でこの霊障の負のスパイラルを終らせたいと考えるようになりました。しかし、その方法を見つけたのは、人生の半ばを過ぎた頃でした。
世の中には、家系の因縁を解消する方法を紹介されている方や独自の先祖供養を提唱されている方、除霊や浄霊の方法を紹介されている方などがおられますが、過去の経験では神社仏閣で供養するのが一番効果的な解決策でした。
平穏無事
修験道の行者の方が色々な祈願を依頼される方は多くても、お礼の電話がないと嘆かれていました。祈願する人間としては、祈願が成就した場合には、神仏にお礼を申しあげなければならないことから、その後の経過を聞いても、大半の方は祈願されたことすら忘れられているとのお話でした。
祈願されて悩みが解決しても祈願をされたことを忘れてしまう方が多いのは、それだけ平穏無事に暮らせることをご利益であると考える方が少ないと言うことではないかと思われます。神仏のご利益と言えば、多くの方が奇跡を連想されると思いますが、最大のご利益とは、平穏無事な暮らしではないかと考えます。過去の事例でも開運の方法を継続して実践されていますと家庭の雰囲気が好転します。それまで何かと揉め事が多かった家庭から揉め事が減った、病気や怪我が絶えなかった子供が健康に暮らせるようになったとお聞きしております。
不幸の原因をすべて不成仏霊であると考えてはいませんが、騒音に悩まされる生活が続くならば、落ち着きを失うように、不成仏霊に取り囲まれた環境の中で暮らしていますと、霊感のない方であっても苛立ちや焦燥感に悩まされます。これは常にストレスを感じ続ける状態であることから揉め事や病気の要因となり、揉め事や病気が絶えなくなります。
更にこの状態が継続しますと、家の中が暗い雰囲気となり、ご主人や子供は家にいることが苦痛に感じるようになります。その結果、ご主人や子供は家族と一緒に過すことよりも外で過す時間を求めるようになり、浮気や素行不良などの潜在的な要因となります。
逆に、霊的な悪影響が遮断され、常に神仏のご加護がある状態が続くようになりますと穏やかな気持ちで暮らすことができるようになり、家庭内の雰囲気が自然によくなります。家庭内の雰囲気が良くなれば、ストレスを感じることもなくなり、家庭から揉め事や病気が減ります。家で過す時間が快適であると感じるようになれば、ご主人や子供も外で過す時間よりも家で過す時間を大切にされるようになり、浮気や素行不良の要因もなくなります。
そのため、奇跡の連続と言ったご利益を実感できなくても、平穏無事に過すことてができる日々が続くことが最大のご利益であると思います。 
 
成仏と幽霊

 

成仏と幽霊
平成四年五月二十二日、日本で初めての爆破によるビル解体が行なわれました。そして翌日の新聞には「幽霊ホテル六秒で成仏」という見出しで、このことが報道されていました。
このビルは大阪万博をあて込んだ業者が、昭和四十三年に観光ホテルとして琵琶湖畔に着工したのですが、資金難で工事を中断し、以後二十三年間放置されたままだったということです。地元の人はこれを「幽霊ビル」と呼んできたんだそうですね。なんにも使われないうちに老旧化して解体とは、可愛そうな話です。それにしても幽霊ホテルが成仏とは、新聞社も考えた見出しをつけたものですね。
ところで幽霊とは何で、成仏とは何なのでしょう。私たちが死後に行く世界を幽界といいます。そして、そこへ行く魂が霊です。だから死んで幽界をさまよっている霊が幽霊となりましょうか。一方、成仏とは文字通り仏に成ることで、言いかえれば迷いを脱して覚ることです。
大乗仏教では「生前、仏教に帰依していたものが死ぬと、只の霊ではなく、仏の命に帰一して一体となるから、仏に成る」として、これを成仏と解してきました。ということは、仏教に帰依していない人が死んでも成仏にはならないのですが、いまでは一般に、死ぬことを成仏と言い習わしているようですね。成仏は仏教徒の理想であるばかりでなく、一般の幽霊の理想にもなったのでしょうか。まあ、仏教では「すべての人に仏性がある」いや「山川草木しつ有仏性」ともいうのですから、すべてのものが成仏しても不思議はないということです。このビル 「木の岡レイクサイドビル」もフラフラした幽霊生活を終えて成仏したのかも知れません。ところで私たちは、せっかく生きているのですから、何事かを成し就げてから成仏したいものです。私たちの心が資金難にならぬ様、心を豊かにしてかかりたいものですね。 
成仏できる霊と成仏できない霊
霊の記事を書いて言うのもなんなんですが、私は元々幽霊とかって信じるタイプでは無いんです。不可思議な体験をしたとしても、半信半疑です。でも、それで良いと思ってます。下手に、幽霊は存在する、なんて思い込むと、霊が寄って来てしまうと思うので。私は普段、「幽霊なんて、所詮幻覚や幻聴だ!」と思っています。普段の生活に、幽霊なんて迷惑以外の何者でもないので、それで良いと思ってます。
さて、前置きが長くなりました。この世で一番怖いのは、生きている人間だ!って意見をたまに聞くけれど、私はそれは違う!と、声を大にして言いたい。この世で一番怖いのは、悪霊による憑依だ!悪い霊に憑依されて操られてしまう事が、一番危険な事だと思っています。
この世に霊が存在するならば、それは死んだ人間だ。生きている人に良い人と悪い人がいるように、幽霊にも良い霊と悪い霊がいるのだ。
素直で純粋で、心優しく、親切で真面目な人は、死んだらすぐに成仏するだろう。(良い霊)
執着心が強く、自己中で我がまま、欲が深く、僻みっぽい人間は、死んでも成仏できない。(悪い霊)
一言で言うと、性格が悪い人間は、成仏できない。私はそう思っている。そもそも、優しくて親切な幽霊に出会った体験談なんて聞いた事が無い。それだと、成仏した高級霊の類で、守護霊やご先祖様の話だ。
優しくて親切で思いやりがある素敵な人は、死んだらいつまでもこの世に留まったりしない。すぐに成仏できるし、成仏するのだ。
という訳で、この世にいつまでも留まっている末成仏霊は、性格が悪いのだ。全てと言っても過言では無い。だから低級霊であり、悪霊とも呼ばれる。同類の色情霊なんてもっと最低だ。変態そのものなのだ。変態が死んで、幽霊になっても痴漢をし放題とか、キモ過ぎる。最低すぎるだろ。
死んだ後まで、他人に迷惑をかけるなんて最低だ。私は幽霊が大嫌いだ。
この世に未練があるから成仏できないとか言うが、誰だってこの世に未練ぐらい残して死んでいる。それでも普通はちゃんと成仏して、あの世へ行くのだから。
私は思う。死んで幽霊になったからといって、この世で何をやっても罪にならないはずが無い。死んだ後も、この世に留まり悪さをすれば、それは因果応報として、いずれ自分に返るのだ。死んでも魂は永遠なのだろうから。罪は罪として、地獄の底で苦しむ事になるだろう。もしくは、成仏できないという永遠の苦しみを味わう事になるのだろう・・・。 
幽霊概念の変遷
「・死んだ者が成仏できず姿をあらわしたもの・死者の霊が現れたもの」
「この世に怨恨や執念を残して死んだ者の霊が成仏できずに、この世に現す姿のこと。幽霊とは元来死霊を意味する言葉であるが、まれには生者の生霊が遊離して幽霊となることもある。この点は、物の怪と類似する。現今では、幽霊とおばけ(化け物)は混同されているが、幽霊は生前の姿または見覚えのある姿で出現してすぐにだれとわかるし、また特定の相手を選んでどこにでも出現するのに対し、化物は出現の場所や時間がほぼ一定しだれ彼れかまわず出現する」
どちらの解説にも「成仏できず」という語が入っているのが理解の鍵になると考えます。「成仏」は仏教用語ですから、幽霊は仏教的な要素を多分に含む概念なのではないでしょうか。また江戸時代頃の幽霊は、ほとんどが因果物として描かれています。『四谷怪談』『番町皿屋敷』『小幡小平次』など、まず恨みがあってその結果が祟りとなって表れます。
『牡丹灯籠』の元話はちょっと異質ですが、これは元来が中国ネタだからでしょう。この当時の幽霊の条件として、
・はっきり身元が特定されている(どこの誰の幽霊かわかる)
・幽霊になってもしかたのない(と周囲が納得する)恨みを持っている
この二つのことが重要であると思います。
江戸時代は檀家制度というものがあり(現在もあります・・)これは寺請制度ともいい(厳密にはやや異なる)江戸幕府が宗教統制の一環として設け、寺請証文を受けることを民衆に義務付けたものです。キリシタン対策として始まったのだと思いますが、これにより檀家は檀那時の統制下に入り、縛り付けられることになりました。
当時の江戸や大坂など雑多な町人が暮らす地域以外、農村などはきわめて閉鎖的な社会であり、その中で幽霊が簡単に出てしまうのは非常に困った事態でした。なぜなら、その地域の寺に死者を成仏させる力がなかったことになってしまうし、家の中のすったもんだも明らかになってしまうからです。ですから幽霊が出る場合というのは、「あああの人なら成仏せず迷って出てもしかたがない」と周囲を納得させるだけの強い恨みの存在が必要であったのです。勧善懲悪の観点からも幽霊の祟りを受けるのは悪党でなければなりませんでした。
むろん江戸時代にもちょっとした怪異、不可思議事はないわけではありませんでしたが、そういうのは妖怪、狐狸のしわざとして語られることが多かったのです。実際、狐狸の話というのは多く、しかも明治時代になっても語られていました。『明治妖怪新聞』という本がありますが、これは明治時代に新聞に載った怪異譚を集めたもので、狐狸の話は実に多種多様に採録されています。
例えば、現代では夜道を歩いていて、目の前を人型の白い煙(霧)が漂い去った場合、「幽霊を見た」という人も多いと思います。しかし歴史的には、このような正体不明のものは、「妖怪が現れた」「狐狸(ムジナ)に化かされた」となることが多かったでしょう。ところが現代では、妖怪や狐狸というのはすっかり廃れてしまって、その分幽霊の概念が広がってきているのだと思います。
なぜこのようになったか、原因はいろいろあると思います。科学的な教育が浸透して、狐狸をただの動物と考えるようになったこと。幻覚や錯覚、あるいは記憶の改変のメカニズムが解明されてきたこと。寺に力がなくなり、成仏するとかしないとかを真面目に考える人が少なくなったこと。それからメディアの力があるでしょう。テレビの『あなたの知らない世界』それから心霊写真を特集した番組などでは、とりあえず人の姿をしていれば、それが生前がどこの誰とは知られていなくても幽霊として扱っています。この頃には、江戸時代にあった概念がだいぶん崩れてきているのだと思います。
またこれにはテレビ番組制作側の事情もあったのではないかと思うのです。昔のテレビはあまりやらせなどにうるさくなかったので、『川口探検隊』wなど何でもありの状況でしたが、それでもさすがに「〇月〇日に亡くなった、住所□□の〇△さんの幽霊が出ました」と放送するにはいろいろさしさわりがあったと思うのです。ちなみに『あなたの知らない世界』の最恐エピソードといわれる『恐山の怪』では、日本三大霊場の一つ恐山で白い着物のお歯黒の女を目撃した主人公一家が何の因縁もないのに一家全滅させられるという話です。
また水子の霊、守護霊、地縛霊、浮遊霊など、本来の仏教にはないさまざまな霊の形も考え出され、「生首が飛んでいた」という目撃に対して、「それは妖怪〇〇だ」「狐が化かしたんだろう」ではなく「幽霊だね」「地縛霊じゃないか」というような状況になってきているのだと思います。 
浄霊と除霊
浄霊(じょうれい)も除霊(じょれい)も一般的には霊を払うという意味で同じように使われていることが多いようですが、私はまったく違うものと認識をしています。
浄霊
浄霊は亡くなった方が成仏できていない場合、この世に残ってしまった魂(これが霊です)を天へと送り出す事と私は考えています。
成仏とは「死んでこの世に未練を残さず仏となること」と言われますが、実際に、未練がある方・突然の事で自分の死を知らない方はこの世に肉体を持たない状態でとどまっています。
私はその霊の方とコンタクトを取り、無念な事、心残りの事を聞いたり、遺族に伝えたい事をお伝えしたり、またすでに亡くなっているという事を本人に伝えたりします。自分の思いを聞いてもらった霊は、すぐに天へと旅立たれる方もいれば、家族としばらく一緒に過ごしたいと数日経って旅立たれる方もいらっしゃいます。
亡くなった方にとっても、ご家族にとっても、一緒に過ごされる時間は本当に感動の時となります。その間、不思議なことが 起きることもあります。
旅立たれる時には必ず、私のところへ「今から行きます!」と一声があるので(大概が晴れた日の朝ですね)、ご依頼人の方にすぐに連絡をして、心の中でお別れをしていただきます。青空に一条の光が輝き、天に召されていきます。
ですので、私の浄霊は1件という扱い(数日から数週間の場合も)で、何時間でできるというお約束はできません。亡くなられた方にとってそんな無理な方法は行いません。いつ旅立たれるかは亡くなられた方しだいです。私の浄霊は「愛を持って送り出す」ひとつのセレモニー(儀式)です。
除霊
除霊は、一人の霊・一つの魂というよりも、想念・思いなどが集まって人に付いてしまった場合にそれらを取り除く作業です。私はそれらを雑霊と呼んでいるのですが、今まで亡くなった人たちが残していった様々なマイナスな感情や思い、未成仏霊などが集まってしまったものです。
それらが付くと、頭が重い・痛い、吐き気がする、体が重い・だるい、肩や首の周りが重い・痛む、悲観的になる、顔の中心がドス黒く感じる、目の焦点が合わなくなる、耳鳴りがする、人から「ねぇ、大丈夫?」と声をかけられハッとする などがあります。
雑霊は私の浄化力を使って一切合切きれいにしてしまいます。雑霊は同じ波動にまた寄り付いてくるので心のあり方が変わらないと、また同じことが起こるのですが、私の除霊は憑かれにくい体質に導くので、同じ状況にはなりにくいです。
心霊相談・家宅浄化
家の中で物音がする、誰かが居るような気がする、子供が何かにしゃべりかけることがある、犬が何かに向かって吠えるなど 生活の中で不気味な現象が起こり怖い思いをすることがあります。心霊現象といわれるものですが、 霊が元からそこに居るケース、たまたま入ってきてしまったケースなどありますが、いずれにしても それらが家に居て良い事はありません。早めに浄霊・除霊をすることをお奨めします。
家の中が片付いていない、汚い、暗い、風通しが悪い、こういった家は霊が住み着きやすいので注意してください。常に奇麗で、明るく、風通しの良い家にはまず、住み着くことはありません。
部屋の片付けの指導や部屋の浄化のための盛り塩や水晶を置く事をお奨めする事があります。
憑依について
1人の魂(霊)という意味では 霊が憑くという憑依(ひょうい)があります。自分の思いを果たしたくて、霊が生きている人に乗り移ることです。憑依されやすい人、されにくい人がいます。霊感の強い人は憑依されやすいと言われています。霊もわかってくれる人に憑きます。また、同じ波動の人に憑くと言われているのでネガティブになっている時やそういう性格の人なども憑かれやすいです。
私にも経験がありますが(超ネガティブな時があった)、自分が乗っ取られてしまい、車で事故にあいそうになるほど危険な状態でした。
憑依されると、体の具合が悪くなる、時々自分じゃない誰かの感情が自分の中にわき起こる、突然悲しくなったり怒りが出て来る、鏡に映る自分の人相が怖く自分ではないように見える、思うようにしゃべれない、顔や手足がこわばる・・・などが起こります。
身の危険があったり、周りの人を攻撃したり、自分自身が破滅の道へと進むこともあるので、ご自身が憑依されていると感じたら、人が憑依されているかも、と思ったら浄霊することが必要です。
しかし、テレビなどで霊を払う、と言って「ここから出て行け!!」などと怒鳴り声を上げている除霊師がいますが私には理解ができません。
例えそれがどんな霊であろうとも、何か理由があってその人に憑いたのだから、 また、憑かれる人には同じ波動があったのだから、むやみに霊を悪者扱いをするのは失礼です。私はそういった霊に対しても愛を持って天に送り出すよう努めます。
危険な場所へは絶対に行かない
心霊スポットと呼ばれる所へ興味本位ででかける人がいますが、絶対にやめてください。面白半分に踏み入る事は大変危険です。そこにいる霊は恨みや怒りや殺意(そもそもは人が残したものなのですが)などで満ちています。自分の思いを果たしたくて近づく人間に憑依しようと待ち構えています。
テレビで放映されるものを見るのもよくありません。テレビも電波(波動)ですから、憑依されることもありえます。WEBでオカルト小説を読み過ぎて正気を失ってしまい私のところへ相談にいらした方も実際にいらっしゃいます。  
 

 

 
亡霊 (ぼうれい)

 

亡き者の霊。死者の魂。
死者の魂がこの世に現れたもの(幽霊)。亡魂とも。
(比喩的に)今は亡びた過去の存在のはずだが、それがよみがえってきたのではないかと恐れられているもの。亡霊という語は、今は亡びた過去のものごとのはずだがそれがよみがえってきたのではないかと恐れられているもの、の比喩として用いられることがある。例えば、「ファシズムの亡霊」「ナチスの亡霊」 「軍国主義の亡霊」といった表現である。 
【亡霊】
1 この世に現れた死者の魂。亡魂。
2 その復活かと恐れられる、今は亡びた過去のもの。「ファシズムの―」
3 そこにいないものの霊。 
【幽霊】
1 死んだ人の魂。亡魂。
2 死者が成仏し得ないで、この世に姿を現したもの。亡者。
3 比ゆ的に、実際には無いのにあるように見せかけたもの。「―会員」
 
幽霊

 

死んだ者が成仏できず姿をあらわしたもの。または、死者の霊が現れたもの。
幽霊というのは、小学館『日本大百科全書』でも、平凡社『世界大百科事典』でも【幽霊】の項目に、日本の幽霊と西洋の幽霊が並置する形で扱われている 。このように、洋の東西を問わず世界に広く、類似の記載はあり、中世のヨーロッパにも、日本の隣の国、中国にも、また陸上だけでなく、世界の海にもいるとする記載がある 。 西洋でも、(日本同様に)人間の肉体が死んでも魂のほうが死なずに現世でうろついたり、家宝を守ったり、現世への未練から現世にとどまったりする話は多くあり、霊が他人や動物にのりうつることもあるといわれる。
日本
古くは、何かを告知したり要求するために出現するとされていた。
だが、その後次第に怨恨にもとづく復讐や執着のために出現しているとされ、凄惨なものとされるようになった。
「いくさ死には化けて出ない」との言い伝えもあるが、平家の落ち武者や大戦での戦死者のように、死んだときの姿のまま現れると言われる幽霊も多い。
幽霊の多くは、非業の死を遂げたり、この世のことがらに思いを残したまま死んだ者の霊であるのだから、その望みや思いを聞いてやり、執着を解消し安心させてやれば、姿を消す(成仏する)という。
日本で葬式の際に願戻し、死後の口寄せ、あるいは施餓鬼供養などを行うのは、ある意味で死者たちが成仏しやすくしてやり、幽霊化するのを防ぐことだといえる。
歴史
昔話には「子育て幽霊」や「幽霊女房」、「幽霊松」(切られると血を流す松)などの話がある。
日本は島国であるためなのか、海の幽霊の話も多い。船幽霊とも言う。その内容とは例えば、幽霊船が現れて、幽霊が「柄杓(ひしゃく)を貸してくれ」というが、それを渡すとその柄杓で水を汲んで水船(水没してゆく船)にされてしまうといい、幽霊には柄杓の底を抜いてから渡さなければならない、とする。紀州に伝わる話では、幽霊船が出たら、かまわずぶつかってゆけば消えてしまうとされる。
津村淙庵の話(1795)では相州(神奈川)にある灯明台に7月13日にかならず、遭難した船の乗員の幽霊が集まったという。
出会った時点では幽霊であるとは気づかず、後になってから、すでに亡くなった人物(=幽霊)であったと気づく話は、古代から現代にかけて語られている。
『日本書紀』雄略天皇9年(465年)条の記述。『耳嚢』 寛政7年(1795年)に亡くなった小侍の話。映画『学校の怪談2』(現代の例)
伝承される文化・芸術として
江戸時代以前から怪談という形で伝承され、江戸時代には幽霊話が大流行し、雨月物語、牡丹燈籠、四谷怪談などの名作が作られ、また講談・落語や草双紙・浮世絵で描かれ花開き、現在も題材として新作から古典の笑話・小説・劇などに用いられ、その他の様々な媒体で登場し紹介される。
1825年7月26日に江戸の中村座という芝居小屋で「東海道四谷怪談」が初公演された事に因んで、7月26日は「幽霊の日」となっている。
幽霊の姿かたち、現れる場所、時刻
日本では幽霊は古くは生前の姿で現れることになっていた。歌謡などの中でそうされていた。
江戸時代ごろになると、納棺時の死人の姿で出現したことにされ、額には三角の白紙の額烏帽子(ぬかえぼし)をつけ白衣を着ているとされることが多くなった。
元禄年間(1688-1704)刊行の『お伽はなし』では、幽霊はみな二本足があることになっていた。だが、『太平百物語』(1732年)では、幽霊の腰から下が細く描かれた。
享保年間(1716-36)ころになると、下半身がもうろうとした姿で、さらに時代を経るとひじを曲げ手先を垂れる姿で描かれるようになり、定型化した像(ステレオタイプ)がかたちづくられていった。
1785-87に書かれた横井也有の『鶉衣(うずらごろも)』には、腰から下のあるものもないものもある、と書かれている。
墓地や川べりの柳の下などの場所に現れるとすることが多く、丑三つ時(午前2時ごろ)といった特定の時刻に出現するともいわれている。古くは物の怪の類は真夜中ではなく、日暮れ時(逢魔時、昼と夜の境界)によく現れ、場所も町はずれの辻(町と荒野の境界)など「境界」を意味する領域で現れるとされていたが、江戸期を通じて現代にまで及ぶステレオタイプが形成されたと思われる。
定型化した"死装束の幽霊"、"足のない幽霊"
『乱れ髪に天冠(三角頭巾)、死装束の足がない女性』という、芝居やお化け屋敷などでもおなじみの定型化した姿は(いわば「日本型幽霊」)は、演劇や文芸の影響が大きいと言われている。河出書房から出版された『渡る世間は「間違い」だらけ』によると、歌舞伎の舞台「四谷怪談」の演出で幽霊の足を隠して登場したものがルーツだとしている。江戸期に浮世絵の題材として描かれてから定着したものである、とも言う。『番町皿屋敷』の影響もあるともいう。円山応挙(1733-1795)の幽霊画の影響もあった、とされる。応挙の幽霊画は江戸時代から有名であったらしく、その後多くの画家に影響を与えたといわれている。
ただし、「足のない幽霊を最初に書いたのは円山応挙」とまで言ってしまう説については、俗説あるいは不正確な説、と指摘されており、実際には、応挙誕生以前の1673年に描かれた「花山院きさきあらそひ」という浄瑠璃本の挿絵に、足のない幽霊の絵が描かれている。この時代にはすでに「幽霊=足がない」という概念があったようである。
この定型と対比する形で「海外の幽霊は足があるものが多い」と言うこともある。 幽霊の中でも「牡丹灯篭」のお露のように、下駄の音を響かせて現れる者もいるが、これは明治期になって中国の怪異譚を参考に創作されたものである。近年も死者の霊が登場する都市伝説が多く語られているが、外見上生きている人間と区別がつかない幽霊も多く、「死装束を着た足のない幽霊」が「出現」することはほとんどない。
西洋
西洋の原語では、英語ではghost ゴーストあるいはphantom ファントム、フランス語ではfantôme ファントーム などと言う。
やはり死者の魂が現世に未練や遺恨があり、現世に残り、生前の姿で可視化したもの、と考えているのであり、希望を実現しないまま死んだ人、責任を果たしきれないままに死んだ人などが幽霊になって出ると考えられる。婚約したまま死んでしまった女性は幽霊になって花婿のもとを訪れ、出産時に死んでしまった女性の幽霊は乳児のベッドの横に立つ。生前自分が行った行為が良心に咎めて死にきれない者も生者のもとに現れるとされる。
殺された人、処刑された人、望みを果たさないまま無念に死んだ人たちの幽霊は、生者が慰め、その願いを代わりに叶えてやることで消え去るものともされている。
幽霊の姿、現れる場所、時刻
幽霊の現れる時の姿は、生前の姿のままや、殺された時の姿、あるいは骸骨、首なし、透明な幻、あるいは白い服を着た姿で現れる。また火の玉や動物の姿でも現れるとされる。
現れる場所としては、墓場、殺された場所、刑場、城館の跡、教会堂、街の四つ辻、橋などが多い。
現れる時刻は、基本的には真夜中の0時から1時あたりが多く、この時間帯が幽霊時などと呼ばれるくらいであり、夜明けを告げる鶏が鳴くと姿を消すとされる。
ただし、日中に現れるという記述もある。例えば、降霊術師や霊媒によって呼び出された霊である。
ドイツでは11月2日の万霊節には、幽霊たちが列をなして現れ、Frau Holle(ホレばあさん)に引率され、さびしい教会堂や寺院の供養に参加する。その夜になると墓場に鬼火が見えるのは、彼らが来ているしるしなのだと言われている。
村上計二郎は著書「幽霊の実在と冥土通信」日本書院出版部1927年11月18日の19頁にて、幽霊が夜現れ、昼間に現れないのは、彼らが光線を受けて溶解するためだという。 また、32頁では、幽霊が赤子や犬など特定の生き物に見えることや、心霊現象として、幽霊固体が勝手に移動すること、固体重量が変化すること、固体が浮揚すること、楽器の弾奏が行われることが紹介されている。
歴史
古代ローマでは、街の地下に死者の霊が住んでいると信じられ、地下にその住居をつくったり住居の出入り口をふさぐ幽霊石を祭りの日にだけあけて自由に出入りさせる、ということが行われていた。人々は生者を守る霊の力は借りようとし、反対に危害を加えるような霊については警戒したり、祈祷文によって遠ざけようとした。
18世紀後半には幽霊物語が発達し、その草分けとしてホレス・ウォルポールの『オトラントの城』(1764)が知られている。その後、ホフマンやティークや、エドガー・アラン・ポーの作品が多くの人々に読まれた。これらの作品は、単なる架空の話として読まれたわけではなく、人々は幽霊が実在していると見なして読んでいたものである。
西洋の心霊主義では、降霊術も行われていた。
20世紀においても、交霊術は都会においても行われている。
心霊主義では、ポルターガイスト事件も(個々の事件によりはするが)心霊のしわざだと見なしている例も多々ある。(それに対して、超心理学者たちは、ポルターガイストは若者の偶発的な超能力によるのだと説明していることがある)
今日でも、イギリスなどでは幽霊が現れる住宅も存在している。ただ日本と異なるのは、イギリス人たちは無類の幽霊好きで自分の家に幽霊が出ることを自慢しあう。 「幽霊ファン」のような層がいて、幽霊見学ツアーなどが行われている。 イギリスの歴史的に由緒がある住宅などでは、歴史上の人物が幽霊として現れる建物も知られている。
近代の心霊研究はイギリスを中心に発展したが、その理由は、ひとつにはイギリス人の気質が知的な探究心が旺盛なため、幽霊が現れるとされればそれを怖がったりせず積極的に知的に調べてみたがるためとも言われている。
幽霊が出没することを英語では「haunted ホーンテッド」と言い、幽霊が出没する建物は「ホーンテッド・マンション」「ホーンテッド・ハウス」などと言う(日本語では幽霊屋敷)。幽霊を自分の目で見てみたいと思っているイギリス人も多いので、イギリスでは幽霊が出るとの評判が高い住宅・物件は、通常の物件よりもむしろ高価で取引されていることもある日本では、幽霊が出る建物となると、悪い噂になるなどと考えて、ひた隠しにしようとしてしまう傾向があるのとは、対照的である。 
 
幽霊の正体見たり枯れ尾花

 

横井也有
(よこい やゆう、元禄15年-天明3年 / 1702-1783 ) 江戸時代の武士、国学者、俳人。
元禄15年(1702年)、尾張藩で御用人や大番頭を務めた横井時衡の長男として生まれ、幼名は辰之丞、通称は孫右衛門と言った。本名は時般(ときつら)、別号に永言斎・知雨亭など。横井氏は北条時行の流れを組む家柄と称する。
26歳にして家督を継いだ後は用人、大番頭、寺社奉行など藩の要職を歴任。武芸に優れ、儒学を深く修めるとともに、俳諧は各務支考の一門である武藤巴雀、太田巴静らに師事、若い頃から俳人としても知られ、俳諧では、句よりもむしろ俳文のほうが優れ、俳文の大成者といわれる。多芸多才の人物であったという。
宝暦4年(1754年)、53歳にして病を理由に隠居した後は、前津(現在の中区前津1丁目)の草庵・知雨亭に移り住み、天明3年(1783年)に82歳で没するまで、俳文、漢詩、和歌、狂歌、茶道などに親しむ風流人として暮らした。
横井也有と大田南畝
也有の『鶉衣』は大田南畝により刊行されているが、その経緯について南畝は鶉衣の序文に記している。安永の初め頃、たまたま長楽寺に立ち寄った南畝はそこで也有の「借物の弁」を目にし、「余りに面白ければ写し帰」ったという。それ以降、尾張出身者に会う度に也有のことを尋ね、漸くその著作を目にする機会が訪れたが、その時すでに也有は亡くなっていた。南畝は也有の作品がこのまま埋もれてしまうのは惜しいと思い、自らの手で刊行することとした。こうして『鶉衣』が世に出ることになったのである。 
幽霊の正体見たり枯れ尾花とは、恐怖心や疑いの気持ちがあると、何でもないものまで恐ろしいものに見えることのたとえ。また、恐ろしいと思っていたものも、正体を知ると何でもなくなるということのたとえ。
「尾花」はススキの穂のことで、幽霊だと思って恐れていたものが、よく見たら枯れたススキの穂だったという意味から。疑心暗鬼で物事を見ると、悪いほうに想像が膨らんで、ありもしないことに恐れるようになるということ。横井也有の俳文集『鶉衣』にある「化物の正体見たり枯れ尾花」が変化した句といわれる。  
1
薄気味悪く思ったものも、その正体を知れば怖くも何ともないということ。枯れたすすきの穂が「枯れ尾花」。疑心暗鬼の目には、風になびく枯れ尾花も恐ろしい幽霊と映る。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」とある俳人が詠む。それを聞いた人々は「嗚呼、なんと素晴らしい句であろうか」「なんという鋭い洞察力であろう」と感嘆する。そして、人々はどこぞの誰かが幽霊の噂を口にするたびに「あれは枯れ尾花であったのだ」と吹聴するであろう。ただし、自らその場に足を運んで確かめる者などいない。
だが、なかには「その話は本当であろうか」と訝しく思う者もいた。その者は俳人がどうやって枯れ尾花であると見抜いたのか、そのことを詳しく尋ねてみることにした。その求めに応じて、俳人は「その正体を見破ったのは実はずっと昔からであった」と事細やかに説明した。なるほど、ずいぶんと前からそれが枯れ尾花と気付いていたらしい。尋ねた者が「さすがご慧眼でございますな。」と褒めそやすと俳人は気をよくしてこう付け加えた。「週に一度か二度はその場所を訪れておりますので、間違うことはないでしょう。」
はて。このとき、聞いた者は何やら心のうちに引っかかりを感じた。『面妖であるかな。俳人はそれを枯れ尾花と知りつつも、長きに渡り見続けていたのか。何とも酔狂な御仁であることよ。』
無論、そのようなことは口に出さず、丁寧に礼を述べてその者は俳人のところを後にした。帰りの道すがら、その者はあれこれと思案を巡らせてみる。
寒風吹きすさぶ冬の夜道であれば、すすきを見て幽霊と見間違えるのも無理はないが、秋の名月に照らされるすすきであれば、それは季節の風物詩でもあろう。かの俳人は長きに渡りすすきを見ていたというが、秋にはどのような感慨を持ったのであろうか。そうこうしているうちに家へと着いた。 
2
「幽霊だと思ってみていた物を、よく見てみると、それは、ただの枯れたススキの穂であった。」と言うことから生まれたようです。その物の正体が分かってしまえば、そんなにたいしたことではなかったという例えにも使われています。先入観の怖さを言っている諺です。
ところで、ギリシャの財政破綻に端を発したユーロ危機は、対応を一歩間違えるとリーマン・ショック以上の世界大恐慌が起こると言われ、効果的な対応策が打ち出せず、折からのデフレが更に拍車をかけ、何をどうしたら良いのか日夜悩んでいる経営者が多数存在しています。
さて、「経営は全て逆算である」と以前から提言しておりますが、デフレ不況の今日、その重要性が益々高まっています。
一般的に事業再生計画を作る場合、先ず最初にやることは「経営理念」の策定と、それを実行する「経営方針書」を作成し、次にこれを資金的に裏付ける「経営計画書」の作成が基本となります。
しかし、基本どおりに行うと「経営理念」と「経営方針書」の作成につまずいたり、多大な時間を犠牲にしてしまう事例が存在します。これでは所期の目的を達成することは不可能です。中小・零細企業経営の実態は時間的余裕を与えてもらえないからです。
そこで事務所の蓄積されたノウハウを駆使して作成した使い勝手の良いシュミレーションソフトの活用を提案する次第です。今後5年間の損益を入力するだけで、最低限必要な5年間の貸借対照表、返済計画書、投資計画書、要員計画書、キャッシュフロー計算書、各種分析表等が有機的に作成され、一目で我が社の将来像が理解出来るようになっています。 
開発思想は「経営は全て逆算である」からきており、「逆もまた真なり」の例え通り、逆からスタートし数字を中心とした「経営計画」を先ず作成して、我が社が生き延びていくためには最低限何をどうするかの「解」を経営者に求めるように作っていきます。
この最低限の条件をクリアーするために、不退転の決意で「経営理念」の確立とこれを実現するための「経営方針書」を作成し、社員一丸となって行動する事が事態解決の基本である事を理解してもらいたいものです。予想外の厳しい金額が危機意識を高め、トップ自らが背水の陣を敷くことによって初めて目標が達成出来るのです。
目標が定まった頭脳は24時間フルタイムで再点火し、実現に向かって行動を自然に起こす事が出来ます。こうなればしめたものです、全てが好回転に向かって動き出します。これが脳のシステムなのです。脳は目標を与えることによってフル回転する力を秘めているのです。
そうなると、デフレ不況で先が見えない不安がいつの間にか解消され、幽霊の正体が分かってくるのです。
今の政府は不況下の増税路線一本槍で、実現すれば更に景気は悪化します。しかし、政府が悪いと批判してみても我が社にとって何の意味もありません。
今は、自助努力で何をどうするか、シュミレーションを活用しながら我が社の設計図を再構築する事が不可欠と考えております。 
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「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という諺を情報処理心理学的に解釈・説明する
認知心理学の視覚研究の特徴として、外界から眼球を通して得られた情報を脳において処理・統合する一連の仕組みを「情報処理」として扱い、コンピューターのアナロジーにおいて明らかにしてきた点があげられる。このような観点を情報処理心理学的な観点から課題の諺を解釈・説明していきたい。
説明に先立ってこの諺の意味と、情報処理心理学との関係を明らかにする。
文意は「幽霊(という気味が悪いもの)の正体を見た。それは枯れ尾花(という取るに足らないもの)だった」であり、諺としての本旨は、よく確かめないで迷信や思い込みに基づいた早合点をすると事の本質を見誤るよ、という戒めにある。したがってこの諺で言われるような状況が成立するにあたっては、
1幽霊的なものを認識する
2幽霊的なものが、実は枯れ尾花的なものであったと認識する
という2段階の認識が想定されていると言える。
つまり人間がある認識を持つに至る過程を理解することで、この諺を情報処理心理学的に理解することができる。
人間があるパターン(ここでは幽霊的なものや枯れ尾花的なもの)を認識する過程は、脳内に構成されたパターンの内部表現と、入力情報とのマッチングをとる過程として捉えることができる。このパターン認識が進行する過程の説明には2通りの考え方がある。ひとつは入力された情報の特徴を分析・抽出し、それと認識候補との一致度を評価して最終認識結果を得るボトムアップ型の処理である。もうひとつは、これとは逆方向のトップダウン型の処理であり、脳内の構造化された知識や、認識対象に関するモデル(スキーマ)に基づいて認識が進められる。この2つの処理は相補的に働くとされ、ナイサーによると両者は「知覚循環」とよばれる過程の中で交互にあらわれる。
では、実際にこの処理がどのように行なわれるか、科学的見地から妖怪を研究した哲学者、井上円了の文章を元に考えていきたい。井上は「迷信解」と題した一文において、課題の諺を用いながら妖怪(幽霊を含む)を見るという現象を以下のように説明している。
「このような怪談(筆者注:天狗の目撃談)が世間に伝わるや、ひとたびこれを耳にしたるものは、山中に入るごとに、己の心よりあらかじめ天狗に遇うであろうと待ち設けておるようになるから、一層迷いやすく、かつ妄想を起こしやすい。諺に「幽霊の正体見たり枯れ尾花」とあるごとく、つまらぬものを見てただちに天狗なりと思うものである。」(「妖怪学全集」1904)
ここでは人間がトップダウン型の処理を行なって「1幽霊的なものを認識する」過程が描かれている。つまり、天狗という概念がスキーマとして働くと、「つまらぬもの」例えば風に揺れる木の葉、狐や狸が動く影、駆けてゆく修験者の姿などは、そのスキーマに基づいて天狗の特徴として脳内で処理され、その結果「ただちに」天狗というパターンが認識されるのである。
続いて「2幽霊的なものが、実は枯れ尾花的なものであったと認識する」過程についてはどうだろうか。これは課題の諺が当事者の念頭にあるか否かで、異なった処理が行なわれているものと考えられる。
課題の諺が当事者の念頭にある場合、人間が枯れ尾花的なものを見て幽霊的なものだと認識しやすいという「認知についての認知」つまりメタ認知的な視点を持っていることを意味する。この場合、天狗を見たと認識した瞬間にこのメタ認知が発動し、ただちに枯れ尾花なりという結論が導かれることになる。これは「幽霊の正体見たり枯れ尾花」スキーマが、枯れ尾花というパターン認識を導くという点でトップダウン型処理と考えられる。井上の文章に即して考えると、天狗の目撃談が『天狗パターン認識』の要因であるのと同様に、この諺が『つまらぬものパターン認識』の要因となっているのである。
では、この諺が念頭に無い場合はどうだろうか。「ノイズが多く含まれたダルメシアン犬の図」を、一旦「犬である」と認識した後にはそれ以前の状態に戻れない、という例をふまえると、天狗というパターン認識が行なわれた状況から何らかの変化が起こらなければ、新たなパターン認識にいたることはないと考えられる。したがって、空間的な変化や時間的な変化による当初のトップダウン処理の文脈からの離脱が、枯れ尾花的なパターン認識に至る前提である。
この場合の情報処理はどのようなものか。これはボトムアップ処理の一例である特徴分析モデルに則って考えることが出来る。特徴分析モデルとは、パターンを下位要素(特徴)に分け、その特徴の有無・類似度によってパターンが決定されるとする考え方である。天狗であれば、木の葉の団扇、高下駄、長い鼻、などの特徴という脳内情報と、実際の山中の光景とがマッチングされながら、当初天狗であるとされた対象が何なのか決定されることになる。また、この処理が行われている際に、天狗なのか単なるつまらないものなのか、迷いが生じるとすると、それは知覚循環の過程であると考えることが出来る。しかし、当初の文脈から離れた対象について「枯れ尾花」と認識されたとして、それが諺で言うところの「幽霊の正体」とまで言えるかどうかには疑問の余地が残る。
以上が、人間のパターン認識の処理過程を中心にみた、諺「幽霊の正体見たり枯れ尾花」の解釈・説明である。 
4
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という言葉がある。幽霊を怖がっていると、何でもないものが怪異なものに見えてしまうという事だが、もし、幽霊が実在していたらどうだろう?精神的に弱い人間は、幽霊の正体を枯れ尾花に無理矢理してしまう必要が生じるかもしれない。
大学に入学し、下宿として安い一軒家を見つけた主人公。高名な建築家が仕事場として建てたという、まるで綾辻行人の館シリーズを思わせる変わった山荘風の建物はミステリーホラーの舞台としてぴったりだ。
そこで生じた主人公を追いつめる怪奇現象、彼はしばしば出入りしているインターネットのオカルト板の住人に助けを求めるが、彼の前に現れた二人の少女によって、幽霊か、それとも枯れ尾花かという岐路に立たされる。
ただ、枯れ尾花説にはかなり無理があるように思われる、果たして家の作りが人の精神をあれだけ追い込む事が可能だろうか?このまま枯れ尾花で終わるのかと危惧したが、そうはならなかったものの、枯れ尾花説にもう少し説得力があれば、最期のどんでん返しがもっと生きたのにと思う。この点は少々残念である。
ただし、二人の少女ともうひとり(彼女は少女とは言えないか)の個性というか奇矯な様は結構ですね。これから先が実に楽しみです。
リアルでは心霊現象なんて、私は信じていませんが、幽霊かそれとも枯れ尾花かという選択に近い事はあります。自分は職業柄、山の中を一人で歩く事が結構あるのですが、結構出くわすのです、色々な死体や骨に。
もっとも、大半は野生動物のものですが、首都圏からさほど離れていない天狗伝説のある、観光地としても有名な某山は自殺の名所でもあり、数年歩いていると一度は生の遺体を拝めると言います。幸いにして、自分はまだ経験はありませんが、暗い沢で花や線香が置かれているのを観るのは気持ちの良いものではありません。
私は生物学もかじったので、時々、ちょっと考え込んだりする事もあるのですが、これは人の骨じゃ無い!鹿だ!と自分に言い聞かせます。枯れ尾花であると自分に言い聞かせるのです。まあ、真実は意識の下です。
枯れ尾花で満足ぜずに一歩踏み出してしまった主人公は果たして、どうなるのでしょうか?まあ、これは先を読むしか無いですね。 
5
幽霊の正体見たり枯れ尾花心理学の話 [仕事の方法]
このことばを認知心理学なんかでは、このような解釈をしています。
怖い怖いとおもっていたものが、冷静に見たらつまらぬものだったというような事実がある。つまらないものを恐ろしいものに認知したのは間違いであるが、それを間違いであるかもしれないというのはメタ認知的な視点である。認知自体を認知したのである。このメタ認知は、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という言葉を知っているために発動するのである。
これはこれでいいのですが、幽霊の実体が別のものであるという推論をする仕組みの話です。
私は別のことをいおうと思います。幽霊を見たい心理学、です。本当は枯れ尾花を見ているのに、幽霊だと思いたい心理学です。
不幸と出会いたい、不運とかちあいたい内心の話です。自分が不幸だとか、未熟者だとか言い捨てる本心です。何を言うんだ、と思われるでしょうね。
誰だって不幸にであいたくないだろう。幸せがいいだろう、が一応正論です。
しかし、幸せになるには努力・緊張が必要です。努力も注意も何もしないで過ごしたら間違いがおこるでしょう。不運の方向にいきます。しかしながら、それは何もしない結果ですから疲労しないでしょう。
なんておれは不運なんだろう、とか、降ってきた不幸とたたかっていると言いたがるのは、何もしていない言い訳です。言い訳しながら逃げていたら楽です。本来ならもっといい暮らしになっているはずなのに、あれのせいこれのせいで苦労していると言ってたら自分に酔います。何もしていないのに、何かと戦っているという幻想に酔えるのです。こんなおいしいことはないです。
自分は天才ではない、若輩である、未熟である、といっていればどんな結果が出ても言い訳になります。未熟であることが犯罪であるとは思おうとしないのです。
これに気付いている人と全くその視点のない人の2種類に人間は分けられると思いませんか。その比率は2:8ぐらいかなと思っています。
店をやっている人間でも、サラリーマンでも、幽霊を見たい人間が8割いるのではないでしょうか。 
6
我々の想像力のちからは凄い。ただの枯れ草を一端幽霊だと信じたら、風に揺れるのを死者の国への手招きと思いこみ、柳の葉がなびくのも、幽霊女の長い髪と思いこむ。
しかしオチは枯れ草だ。物語の、オチ直前の殆どの部分は、これなのだ。
物語の殆どは、はじまりでもなく終わりでもなく、「途中」である。
ある焦点(今、これについて話していて、可及的速やかに、○○しなければならない。何故なら、△△だからだ)があり、人々はその為に話したり行動する。
全ての人がその時点で、その情報を均等には知らず、全ての人がその時点で、それぞれの意志や事情を把握しているわけではない。ある問題が今投げ込まれていて、人々はそれぞれの立場や都合でそれに反応する。全ての人がひとつのことに合意できる訳ではない(コンフリクト)。そのことが、今後事態が変容していく可能性を秘めている。
よく出来た物語は、これから動くことを期待させることが上手く、また、今進行している事態を、我々の頭のなかに構築するのが上手い。事態や人々の都合が分かったら、我々は頭のなかで自然に予測をしはじめる。
きっと真相はこうに違いない、きっと○○は△△するつもりだろう、だが△△が黙っちゃいないだろう、××だからだ、だから◎◎になるかもしれない、などだ。こんなことが自分の人生に起こったらどうしよう、というのもそのひとつだ。
我々には想像力がある。上手いストーリーテリングは、想像させるのが上手い。我々に想像させるように、誘導するのだ。枯れ草だったとしても、我々は自分の想像で、幽霊に見えてしまうのだ。
下手なやり方は、我々の想像が物語の中身より上回ってしまうものだ。ハッタリが上手くて、そのハッタリに我々が騙されている、というパターンだ。エヴァがその典型だ。ロンギヌスの槍、世界樹、使徒、地下の巨人、人類補完計画、アスカの発狂、綾波の正体。最初にふられた謎めきで我々が想像した幽霊より、中身がなかった気がする。それを人はハッタリだったという。看板が豪華で期待したら中身は犬の肉だった故事だ。
マルホランドドライブも同じタイプだ。物凄く何かが進行している期待感だけがある。分かりそうで分からない所で場面が変わり、謎が残されたまま更に謎が増えていく。我々は幽霊をそこに見てしまう。実体より大きなものを見て、恐れおののくのだ。この物語は解決しない。ハッタリ以上のものが作れなかったのだ。幽霊だけ見せて、その正体が枯れ草だと知られるのが怖くて、正体を見せないまま終えたのだ。
園子温もそのタイプの作家だ。なんだか猥雑で派手でえげつない題材を扱いながら、物語性は皆無だ。ストーリー自体がたいしたことないから、うわべだけ派手にしている。我々は幽霊を見てうわっと思うが、正体は枯れ草だ。彼の特徴は、キリスト教や詩などで、表面上何か大事なことを言っているのではないか、と思わせることだ。「冷たい熱帯魚」のマリア像、「愛のむきだし」の聖書の朗読、「愛の罪」の詩、「ヒミズ」の震災。物語のプロット上なくてはならないものではなく、幽霊をそこに見させるためだけに存在するハッタリだ。
芸術とはハッタリである、中身は枯れ草だとしても、それが幽霊に見える幻術こそが物語だ、という主張があるかも知れない。
が、幽霊の正体見たり枯れ尾花の意味するところは、なんだ、俺が馬鹿だったのか、でしかない。
我々書き手は、幽霊を書くのが仕事だ。期待させたり、想像させたりをするのが仕事だ。そして、物語が核心に迫り、解決したときに真に満足するものをつくるのが仕事だ。枯れ草でガッカリされるものをつくってどうするのだ。幽霊を見せ、その正体がわかったときに、それ以上の驚きや感動や笑いが生まれなくて、何が物語か。それこそ、中身のある物語なのだ。
あなたの物語は、枯れ草を幽霊に見せるレベルだろうか。枯れ草でないオチが来る、太い話か。そのオチへ向けて、ちゃんと幽霊を見せているだろうか。 
7
例年、この季節になるとテレビなどでも怪奇モノの特集が組まれるが、そんな本格的な”心霊シーズン”を前にして、先日、あるユーザーのツイキャス映像に映りこんだ「白い少女の影」が注目を集めている。
この映像を撮影した男性ユーザーは、夜中の3時頃、夜食の購入と公共料金の支払いをするために、中継を継続したまま、原付バイクで近所のコンビニまで向かった。しかし、コンビニに到着すると、財布を所持していないことが判明。家に忘れたのか、はたまた、道中で落としてしまったのかがわからず、不安に思った彼は、今来たばかりの道を引き返すことに。
すると、自宅近くの中学校の正門前に、白い帽子をかぶり、白いワンピースのようなものを着た姿で佇む少女を発見。不審に感じはしたものの、ひとまずそのまま家に帰った彼は、財布を取って、再びコンビニへ。すると、先程の少女はまだ校門付近に立っており、彼のバイクが近づくと、それを待っていたかのようにゆっくりと歩き出した…彼が最初に少女を見かけてから、”再会”を果たすまでの時間は、およそ2分強。映像を確認すると、往路と復路では、少女は棒立ちのまま、その場から動いた様子はなかった。
このことから、ネット上ではこの”白い少女”について「幽霊ではないか?」と指摘する声や、それを否定する声、さらには、「こんな時間に白いワンピ+帽子姿の女の子が立ちつくしていることが、幽霊でなくても充分怖い」といった声など、実に様々な声があがっている。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」。しばしば「幽霊だ」と話題になるものの多くは、目の錯覚によるものとするのが一般的だが、果たして、このユーザーが目撃した少女、その正体が明かされる日は訪れるのだろうか。 
 
幽霊の正体

 

幽霊の正体。私が幽霊を見ていた理由そして見えなくなった理由!子供の思い込みの背景には心理的虐待の隠蔽、心理操作をする虐待者が隠れている場合もあるでしょう。
一部の幽霊の正体を結論から言いますと「変性意識状態での幻覚」です。
幽霊は幻覚だ
自己催眠と他者催眠による幻覚が幽霊の正体です。催眠とは暗示を受けやすい変性意識状態のひとつのことを言います。その変性意識状態(トランス状態)の時に暗示が無意識に入ることで見えないものが見えたりするのです。私は小さい頃、特に小学生〜中学2年頃まで幽霊らしきものや心霊現象のようなことを何度も体験したことがあります。子どもの頃は無意識が強く変性意識状態になりやすいので、子どものほうが幽霊を見ることが多い傾向にあります。今になって分かってきたことがありますので個人的意見になりますが書いておきたいと思います。
まず、幽霊とは催眠状態(変性意識状態)で、幽霊がいると思い込むことで見えてしまう幻覚です。深い変性意識状態になると催眠では幻覚を見せることが可能です。薬物使用の人が深い変性意識になった状態の時に幽霊がいると暗示を入れると、その変性意識状態の人は幻覚を自由自在に見ることも可能です。変性意識状態にし強く思い込ませると幽霊を見せることは可能なのです。
過去に見た幽霊
私が見てきた幽霊
中2の頃、朝方3時半頃に止まっている車の中にある生首を一人で目撃
秋の寒い夜中の2時頃に雨なのに傘もささずに道路の真ん中に立ち私を睨むように微動だにせず、じーっと見つめる白いTシャツとジーパン姿の男を姉と目撃
知り合いの死んだ母親が自分の家の玄関を横切り、着ているものや髪の長さ等、特徴が聞く前からぴったり
漫画ドラゴンボールの筋斗雲のような雲の様な煙の塊のようなものを複数人で見て犬も吠えた
夕方に公園でブランコで揺れている女の子が『お母さんがいないの…』と言っていて振り返った瞬間、女の子が消えブランコだけ揺れていたのを兄弟全員で目撃
私が体験した心霊現象
小学生のころ姉が馬の写真を撮った時に馬の顔にゴリラの様な男の顔がはっきりとうつっていた。
家出して空き家生活をしていたころ、階段を靴でコツン…コツン…と誰かが歩くが見ても誰もいない。その場にいた全員が同じ音を聞いている。
部屋で姉と二人で親がいない時に、階段を靴でコツン…コツン…と上ってきてドアノブをガチャガチャ!ものすごいスピードで回しているがドアは開かないことが、いつも決まって親がいない夜だった。
自分の部屋でベランダを誰かがあるいて窓をコンコンとしてきたが見ても誰もいない。
このように他にも思い出すとたくさんあり、姉は金縛りにあったり色々あります。
幽霊を見ていた時のキーワード
私が子どもの時に幽霊を見ていた理由ですが、答えのキーワードは『洗脳』 『思い込み』 『無意識』 『暗示』 『変性意識状態』がキーワードです。つまり幽霊は脳、無意識内の情報や思い込みのようなものにすぎないと言うことです。
私は幼少期に地獄に落ちるとか幽霊がいるとか、死後はあるとか、怖いことがいっぱいある、罰が当たる、白黒はっきりしろというようなことを嫌というほど繰り返し繰り返し洗脳かのように刷り込まれる環境で育ちました。特に子どもの内は鵜呑みにして信じてしまうものです。その信じた思い込みの結果、幽霊など存在しないけど幽霊がいるという理由づけを行っていたことに気が付きました。
強い思い込み
生まれて1年くらいから小学生入学前を幼児期といいます。その幼児期には空想世界と現実世界を上手に認識できるようになります。つまり想像することが可能になるので、当然、実在しない地獄や幽霊や悪霊を想像することができる時期なのです。ここに隠ぺいされた心理操作を含んだ児童虐待との関連性があると私は考えています。
この時期に親や環境などから『地獄に落ちる、幽霊がいる、死後はある、怖いことがいっぱいある、罰が当たる、白黒はっきりしろ』と言われ続けると子どもは親を信じるものですからストレートに思い込んでしまいます。
当然私も思い込んでいました。
思い込んでいた間 = 幽霊を見たり心霊現象があった
思い込みが改善されると = 幽霊や心霊現象はなくなった
このような変化が思い込みが改善されるだけで消えるのです。
想像することが可能となった子どもに思い込ませ、『地獄に落ちる、幽霊がいる、死後はある、怖いことがいっぱいある、罰が当たる、白黒はっきりしろ』に関連した想像をふくらますような環境の場合、どんどん思い込みが強化されていきます。
認知の歪み
そして三つ子の魂百までというように、まるで洗脳されたかのように刷り込まれた想像世界を信じていることで、認知の歪みである結論の飛躍も関係しながら幽霊がいた!見えた!という『幽霊を見たい!信じたい!心理』に動かされ理由づけを行っているのです。
認知の歪みがある事で、幽霊がいると信じていたい現実逃避的な強い思いが関係し、根拠を無視して、あらゆる物事を幽霊がいたという結論に飛躍して結論までのリンク付けのための理由をでっちあげていると本人も気が付かずに思い込んでいるのです。
心霊現象は思い込み
それでは前途した私の見てきた幽霊や心霊現象の説明をします。
私が見てきた幽霊
中2の頃、朝方3時半頃に止まっている車の中にある生首を一人で目撃 / 心の中に不安や恐怖があることで親への依存心から親を否定したくない為に親が言う『幽霊がいる』思い込みを強めたことで車の中の物が人の顔に見えた
秋の寒い夜中の2時頃に雨なのに傘もささずに道路の真ん中に立ち私を睨むように微動だにせず、じーっと見つめる白いTシャツとジーパン姿の男を姉と目撃 / もしかしたら具合がわるく動けなかったのか、彼女に振られ放心状態になっていたなど、何か理由があった人間だった。
知り合いの死んだ母親が自分の家の玄関を横切り、着ているものや髪の長さ等、特徴が聞く前からぴったり / 特徴を聞く前だと言ったけど、以前に写真で少しだけ見た気がするので、写真での特徴と思い込みや疲れがたまっていて見えた気がしただけ
漫画ドラゴンボールの筋斗雲のような雲の様な煙の塊のようなものを複数人で見て犬も吠えた / これは変性意識状態が次々うつったことで全員がそこに煙があると思い込んだ可能性。兵庫県上郡町大持の県立上郡高校で、1年の女子生徒が休み時間中に「気持ち悪い」と体調不良を訴え、集団で過呼吸を起こしたような感じ。
夕方に公園でブランコで揺れている女の子が『お母さんがいないの…』と言っていて振り返った瞬間、女の子が消えブランコだけ揺れていたのを兄弟全員で目撃 / これも振り返った瞬間いないと言っているが、正確に時間をはかっていたわけではないので30秒ほど開いたのかもしれない。30秒あれば後ろの木の陰から道路に出れる
私が体験した心霊現象
小学生のころ姉が馬の写真を撮った時に馬の顔の上にゴリラの様な男の顔がはっきりとうつっていた。 / 不明
家出して空き家生活をしていたころ、階段を靴でコツン…コツン…と誰かが歩くが見ても誰もいない。その場にいた全員が同じ音を聞いている。 / 恐怖による思い込み。変性意識状態で自己暗示など。
部屋で姉と二人で親がいない時に、階段を靴でコツン…コツン…と上ってきてドアノブをガチャガチャ!ものすごいスピードで回しているがドアは開かないことが、いつも決まって親がいない夜だった。 / 恐怖による思い込みと変性意識状態で相手と思い込みの共有
自分の部屋でベランダを誰かがあるいて窓をコンコンとしてきたが見ても誰もいない。 / 恐怖による思い込み
このように、自分が幽霊を見たいと思い込んでいたことで、あらゆる可能性を無視して幽霊がいるという思考フレームでしか物事を考えないようにしていたのです。幽霊が見えなくなった時の心の変化は『別に幽霊なんか見たくもない』という思いです。
理由づけ
つまり幽霊が見たい願望、心理が先で、それが目的となり、幽霊がいると思えるように理由づけをおこなうのです。では何故、子供が幽霊を見たがるか?一つは親が幽霊がいると思い込ませることもあります。
音が鳴って、音の出所が不明な場合、ハイ幽霊♪
何か見えたような気がしたら、ハイ幽霊♪
それも幽霊♪ これも幽霊♪
これが認知の歪みなのです。
現実をみるのが怖いから、現実以外に可能性を見出そうとすることで、自我の安定を保っているのです。現実以外に価値を生む為には根拠は邪魔になるので、現実逃避をしたい人は根拠を嫌うのです。怖い幽霊がいるぞ〜という思い込みから自分を解放しましょう!そして、その幽霊がいるという思い込みが何故出来たのかも特定しましょう。恐怖とは支配する時に使うものです。普通じゃないことや不思議なことなどに、自分の価値を作るのはやめ現実を生きることが大事なことですね。

幽霊とお化けの違い 

 

大雄寺には有名な「枕返しの幽霊」の掛軸が保存されています。この絵は、足がなく八方睨みの老女で江戸時代から残される珍しい掛軸である。この絵を掛けてその前で床につき寝ていると、翌朝には反対向きになってしまう、枕が返されると言う不思議な怖い幽霊の絵です。
私たちが今生きているということは、両親からご先祖からしっかりと受け継ぎ受け継がれてきた大切な尊い生命をいただいて生きているのです。ちょうど、駅伝マラソンと同様に生命というタスキをずーと前からバトンタッチされてきた生命、この生命を未練なく、とことん生きぬいてご先祖の代表者として生きているのです。しかし、この生命を不幸にも無念さと未練を残し死を迎えてしまったならば、幽霊としてこの世に出現する。これが幽霊である。
一方、お化けは、人間が生きていくのゆえに作られた物や製品がとことん使い果たされ、私たち人間の心の中に報恩感謝をもって処理されるならば、化けて出てくることはないという。物を粗末に使い、捨てることによって後で化けて出てくる。これがお化けである。  
 
「怖い」と「恐い」の違いを「幽霊」と「お化け」の違いで覚える

 

お墓にお化けの出ない理由 / 幽霊とお化けの違いってご存知ですか?
幽霊は亡くなった人の霊魂
お化けは人以外の物や物質が怪しい姿になったもの
つまり、ゲゲゲの鬼太郎で出てくるような妖怪たちは、幽霊ではなくお化けの類ということになります。生き霊という言葉がありますが、あれは、生身の肉体から霊魂が離れて現れるものなので幽霊と考えていいでしょう(出てきてほしくはありませんが)。人の形をしていたら幽霊、人以外の形をしている怪しいものはお化け。夜中に墓地に行って「お化けが出るぞー」というのは、言葉の正確な使い方としてはおかしいということになりますね。
幽霊は誰にだって恐いもの 〜恐いと怖いの違いについて
「恐い」と「怖い」は、現代ではほとんど区別はされていないようです。漢字の使い分けで困ったときは熟語にしてみると区別出来ることがあるのですが、「恐怖」という熟語もあるので、今回はなかなかの難敵であるといえます。では、簡単にまとめてみましょう。
誰でも恐いと感じるものは「恐い」
自分だけが怖いと思うものは「怖い」
幽霊やお化けのように、一般的に誰にとっても「こわいなぁ」と思えるものについては「恐い」という書き方をします。そして、「うちの父親は厳しいのでこわい」というふうに、自分だけがその対象に対してこわいという感情を抱く場合は「怖い」が正解。ルール的なことでいえば「恐い」という読み方は常用外とされていますので、厳密にいえば『怖い』と『恐ろしい』と区別するほうが好ましいとされています。
怖と恐の区別については面倒で、いま、こうして整理してみても、やっぱり時間が経つと忘れてしまうかもしれませんね。上手にまとめきれなかったこんな日は、お化けだけに、ドロンと消えてしまいたいと思います。 
 
妖怪が幽霊になる時 / 妖怪と幽霊の違い

 

先日、ガチで幽霊を見てしまったかも知れない、という事を書きました。その件以来、完全に拘るべき箇所が人とズレている僕は、「僕が見たのは妖怪なのか、それとも幽霊なのか?」を考え、調べまくりました。見たのは錯覚ではなかったのか? などの疑問は最早どうでもよくなってるのです(笑)
これを考えるのは実にややこしく、ネット上を検索すると「妖怪はこうだ、幽霊はこうだ」という話はいくらでもあるのですが、どれもなんだか無理やりな解釈な気がして、ピンとくるのは少ないものです。
実際、僕自身も幽霊と妖怪の区別はハッキリと出来ていませんから、今後の為にもここは調べて少なくとも自分なりの答えは見つけておくいい機会だとも思ったわけです。
さてさて、幽霊は、過去にも紹介した鳥山石燕の「幽霊」のように、妖怪画の中で描かれていることも少なくありません。

石燕の幽霊を紹介した時の僕の記事を読み返しても、やっぱり漠然としたものとしか解っておらず、なんで妖怪画に幽霊があるのか混乱しているようにも見れます。
それもそのはず、「妖怪」を一つのジャンルとして考えると、やっぱり「幽霊」も妖怪とは異なる一つのジャンルとして確立している気がするからですね。というか、世間一般では幽霊は間違いなく一つのジャンルでしょう。
で、なぜ僕がアノ記事を書いた時に「幽霊を見た」としたかというと、「妖怪を見た」と書くのとはニュアンスが違うだろうし、何よりも僕自身が「あれは妖怪ではないだろ」と思っていたからです。
それらを踏まえると、幽霊というのが僕の中にも、しっかりとしたジャンルとして無意識のうちに出来上がっていたことが解ります。どういう定義なのかはサッパリですが。

尚、「どっちでもいいじゃん」という意見はどうかここはグッと飲み込んで下さい。それを言っちゃったら身も蓋もありませんので。
そこをあえて考える企画ですので。
幽霊は幽霊なんですが、妖怪の枠内の幽霊なのか、幽霊という枠内の幽霊なのかは妖怪図鑑管理人としてハッキリさせておかねばならんのです。たぶん。

さてさて、ではでは、一体幽霊というのがこうも前に出てきやがったのはいつなのか? を突破口に話を進めます。
どうやら幽霊は、江戸時代までは妖怪として扱われていたようです。
故に石燕も妖怪画集で幽霊を扱っているわけで。
その時点での幽霊というのは、人が死んだ後になる漠然としたものであり、名前なんてありません。幽霊、という名前の妖怪ですね。
ご存知江戸時代というのは、現代に通ずる社会の基礎を作った時代でもあり、同時に現代には無い自然との共存、自然を敬う心、他人ごとでは無く確かに存在する死、というのがバランス良く存在していた最後の時代である気がします。
その時代に多くの妖怪がキャラクターとして育っていったのも、そういったバランスありきなのです。
妖怪の多くが、自然現象や神、その時点で理解できない現象などを説明する為に産みだされたわけですが、幽霊もまた、日常的に誰かに訪れる「死」と「その後」を説明するために産みだされたと考えるのは自然なことです。

――しかし、時代が移って行くに従い、日本人は自然をコントロールする術を身に着け、次第に自然への畏怖は薄れていきます。死もまた、良くも悪くも非日常的な事へと推移していき、自然への畏怖が薄れるのに伴い、人は自らの存在を強く主張するようになります。
さらに、それまでは幽霊(怨霊)というのはビッグネームのお偉いさんだけに限定されてました。道真だの将門だの崇徳だの、です。それが次第に民衆も「ならばオレだって」と言い始め、幽霊は遂に個人の名前を持つことになります。面白いのが、これはまさに民衆が権力を持ち始めるのと同時期に起きていること。
江戸時代、参勤交代などで力を削がれていった大名達の陰で、町民は力を付け始め、発言権も増していきます。歌舞伎などでも民衆内で起きた怪異や幽霊譚が増え、その影響もあったのかも知れません。
とにかく、幽霊は個々の名前を持ち、死して尚その自我を主張するようになっちゃったんですね。

ここです! 妖怪と幽霊との境界線は、ここだと、僕は思うのです。
小難しく長々と書いちゃいましたが、簡単に言えば「山田さんの幽霊、って言うんならもうそれ妖怪じゃなくて人じゃん」ってことですかね。
これまた上手く言えなくて歯がゆいのですが、山田さんの幽霊って分かってるなら化け物でも妖怪でもなくそれは山田さんですから、漠然としていた妖怪の中の幽霊とは違い、山田さんの好きな物、嫌いな物、恨み、妬み等も考えなくちゃなりませんし、もうそんなの妖怪じゃなくて山田さんという人そのものだと思うのです。
だから!
幽霊というジャンルが妖怪から派生して確立したのでしょう。
一括りにするには無理がある。かと言って元には戻れない。
人が死後にまで自我を主張するのは当然のことですし、遅かれ早かれ起きたことのはずです。
そして幽霊が妖怪を差し置いてここまでビッグジャンルとなったのは、他でも無い「人が最も恐れるのは人だから」でしょう。
現代においては、大雨よりも、洪水よりも、雷よりも、人は人の恨みや妬みを恐れるのです。
僕だって正直なところ、雷の轟音よりもアパートの上の住人の床ドンの方が恐いです。
ただ同時にこれは人が奢っている確たる証拠でもあり、自然への畏敬の念が薄れている証拠でもあります。
幽霊というジャンルの確立は、そういった意味では喜ばしいことでは無いのかも知れません。そういえば京極夏彦大先生も「妖怪は平和のバロメーター」なんて書いてた気がしますが、妖怪を追い抜く勢いで幽霊がのし上がって来たのはつまりそういうことなんでしょう。

――話を冒頭に戻しまして、僕が見たのは妖怪か、幽霊か、決断の時です。
もうすんげぇ考えました。
あくまでもそれは名前も無いただの姿であったわけだから妖怪のような気もするしでもそこに具体性を持たせようと僕もあれこれ考えちゃったから幽霊な気もするしお盆だったから人の霊だし幽霊っていうべきな気もするしでもそれが偶然ならやっぱりよくわかんない妖怪ってことになる気もするしとなると答えは結局……わかりませんごめんなさい! 
 
幽霊の正体は餓鬼

 

よく巷で「霊」「幽霊」とか言われていますが、この正体は「餓鬼」です。餓鬼が幽霊、霊と言われている存在になります。そして、リアルに存在しています。波動が違いますので、通常の人間の目には移りませんが、意外と身近に多く存在しているようです。
餓鬼は、一つの生命形態です。前世において、強い執着、後悔、怨念を残した場合、餓鬼へ転生するようです。自殺して悔恨の念を持った方も餓鬼になる場合があるようです。
餓鬼は、大変不安定な心を持ち、常に穏やかではありません。イライラ、不安、悲しみ、愚痴、落ち着きが無い、そういったネガティブなメンタリティになっているのが特徴で不安定な精神をしています。
餓鬼は、前世のことを覚えていますので、何故、自分が餓鬼になったのか理解しているといいます。それもあって、いつも後悔の念に捕らわれて、悲しい・悔しい・無念といった気持ちのまま、決して明るい気持ちになることはないといいます。寿命も長く数百年から1000年くらい生き続けるようです。
姿形は奇異で、異様な姿態をしています。ですが、動物や人間に似た姿など多種多彩のようです。稀に人間が見たりすると、その異様な姿にびっくりするわけです。姿形は、人間以上に個性的で、同じ姿をした餓鬼は存在しないとまで言われています。大きさも小さいものから、大きなものまで、手足の長さも胴体の作りも様々です。
餓鬼は、様々な名称で呼ばれています。幽霊、浮遊霊、不成仏霊、魑魅魍魎、動物霊など様々な呼ばれ方をしています。全てリアルに存在し、人間の身近に多く存在しています。特に暗いところや人気の無い所を好んでいるようです。
人間も生前、恨み、嫉妬、欲求不満、イライラ、落ち着きが無いといったネガティブな感情や考え方が多く、占められていると、死後、餓鬼に転生する可能性が高くなるといいます。餓鬼に転生すると長期間、苦悩の心に固定され、業が尽きるまで餓鬼のままになります。業が尽きると、再び別の生命に転生していきます。
餓鬼は、地獄・動物と並んで、三悪趣(さんあくしゅ)という悪処になります。お釈迦さまも「悪趣には転生しないように」と忠告もされています。ですからできるだけ偏りが無く、穏やかで安定し、慈愛に満ちた生活で日々過ごしたいものです。
霊障の本当の話し
よく「霊障」と言いますが、実は霊障は餓鬼が関与してきた稀なケースになります。何か浮かばれていない、得たいのしれない物の怪が取り憑く、というオカルトではなく、リアルな餓鬼という生命が関与する特殊なケースになります。
餓鬼は稀に人間に関わってくることがあるようです。餓鬼は、人間のネガティブな感情が大好きで、人間がイライラしたり、怒ったり、嫉妬したり、恨んだり、落ち着きがない姿を見ると、それをエネルギーとして、餓鬼の生命力を高めていくようです。そうして、そういった人間に近づいて、取り憑いたようになるようです。
こういったことはそれほど多く起きることはないようですが、このような現象が「霊障」になります。祟り話や怨霊は、苦悩に満ちた餓鬼が、生前、自分をとがめた者への復讐にもなります。しかし餓鬼に対して回向(えこう)をしてあげたり、謝罪したり、人間の気持ちを陽気にしたり、慰めたりすることで離れていくようです。
気持ちをいつも前向きで明るく、朗らかな生活をしていれば、餓鬼が近づくことはないようです。餓鬼は身近の至る所にいるようですが、ネガティブな感情を出すことがなければ別に悪さをすることはないようです。
餓鬼といえども、一つの生命です。動物は目に見えますが、餓鬼は目に見えないだけであっても生命です。人間は動物は大切にしてペットにもしますが、餓鬼が異様な姿だからといって邪険にすることなく、可哀相だなという慈しみの心を向けて、餓鬼の幸せを願ってあげることが大事なようです。
そうして、餓鬼に対するこの心が、「回向」のルーツであり、またお盆での供養のルーツでもあります。
回向とは餓鬼の転生を願う人間の心遣い
死後、浮かばれていない先祖というのは、実は餓鬼に墜ちた方々で、その方々へ心を込めて回向差し上げれば、中には餓鬼から別の生命へ転生していくことがあるようです。これが49日の話しの元にもなっています。
回向やお盆の話しは、実は後世に整理されたパーリ仏典「餓鬼事」経に載っています。決して迷信ではなく、また幽霊のように忌み嫌ったりするのではなく、一つの生命として、その存在へ慈しみの心を向けてあげることが大事といいます。
お盆の季節になりますと、年中行事として先祖供養もさかんになりますが、一年に一度は、餓鬼さん達の幸せを願い、別の生命への転生(いわゆる成仏)を願って差し上げることも善行になるでしょう。
決して迷信ではありませんので、見えなくても、そのようにしてあげるとよろしいかと思います。
餓鬼や回向、お盆のことは下記の本にも詳しく載っています。興味のあります方はお読みになってください。 
 
江戸の幽霊坂

 

都心に点在する「幽霊坂」。江戸の頃はこの名が示すとおり寺院・墓地、あるいは昼なお暗く鬱蒼と樹木が覆い茂っていた場所であったのでしょう。当時は坂はランドマークとしての機能を持っていましたから、この名を付ける他に、さして目立ったものがなかったわけで、それだけに江戸の市街がどのように広がっていたかが想像できるでしょう。
江戸時代に既に名づけられていた「幽霊坂」は千代田区では駿河台・富士見台、また新宿区では牛込台で、このあたりは武家屋敷が立ち並んではいたものの、人馬の往来も未だ少ない寂しい場所であったと推察されます。その他は鎌倉時代からある旧道や三田の寛永12年(1635)幕府によって開かれた寺町にありました。他は未だ武家屋敷や寺院の中に取り込まれており、交通路としての機能は持っていませんでした。
市街化が進み、辺りの景観が変わるにつれてそれぞれの「幽霊坂」は出世するようにその名前を変え定着していきます。宝龍寺の脇の坂なので宝龍寺坂、紅梅町の名から紅梅坂、湯立坂は「氷川の明神へ参るのに、ここで湯花(湯が沸騰したときにたつ泡。巫女や神官がこの泡を笹の葉につけて参詣人にかけ清めたり、神託を仰いだりする)を奉った坂」という謂れからきています。庾嶺坂は将軍秀忠が中国の梅の名所、"大庾嶺"にちなんで命名したというもので、6つの別名を有しており、かなり古くからあった道であることが伺えます。(「幽霊坂」は庾嶺坂が転訛したものとの説もある。)
とりわけ乃木坂の名前は乃木大将の殉死を悼み、大正9年に区議会の決議によって改名されたという特筆すべき背景を持っています。以上のように名前を変えずに今もって幽霊坂の名を有している坂は現在もその名のとおりの雰囲気を保っているからなのでしょう。
しかし、そこに住む人々にとってはイメージが悪いので変えてほしいということもあり、勇励坂、有礼坂(明治時代 文部大臣の森有礼の屋敷があったとのこと)などの別名を後から付けられたものの、浸透はしていないようです。変わった別名、ニコニコ坂というのは怖い坂なので、せめて顔だけでもにこにこして通り過ぎようということでしょうか。  いずれの坂も今は都心にあって、闇とは無縁の場所となっています。今回は代表的な3つの地区の幽霊坂を実際に夜に歩いて、灯りの無い、舗装もしていない道であったことを想像しながら平成の今の姿を検証してみることにしました。
幽霊坂
  区 坂名 (別名) 所在地 江戸時代(*切絵図*)1850頃
1 北 幽霊坂 () 田端11-25と30の間を北東に上る 坂下与楽寺 明治 与楽寺内
2 新宿 宝龍寺坂 (幽霊坂) 市谷柳町と弁天町の間を東に上る ***
3 新宿 庾嶺坂 (幽霊坂 行人坂 庾嶺坂 若宮坂 祐玄坂 唯念坂) 外堀通りの家の会館脇を北西に若宮八幡神社に上る ***
4 千代田 紅梅坂 (幽霊坂 光感寺坂) 神田駿河台4丁目、ニコライ堂の北を西に上る 名は大正時代
5 千代田 幽霊坂 (甲賀坂 芥坂 塵坂) 神田淡路町2−9と11の間を西に上る 名は大正時代
6 千代田 幽霊坂 () 早稲田通りから富士見町1-11と12の間を西南に上る 明治20年以後に開かれた
7 千代田 幽霊坂 (勇励坂) 早稲田通りから富士見1-8と2-11の間を西南に上る ***
8 千代田 幽霊坂 () 富士見2-13と14の間を東南に上る ***
9 文京 湯立坂 (幽霊坂 湯坂 暗闇坂) 小石川5丁目と大塚3丁目の境 ***
10 文京 幽霊坂 () 目白台1丁目,新江戸川公園西側を北に上る 細川家屋敷内
11 文京 幽霊坂 (遊霊坂) 目白台2丁目、日本女子大西側を東に上る ***
12 港 乃木坂 (幽霊坂 行合坂 なだれ坂 膝折坂) 赤坂8丁目と9丁目の間 赤坂通り 名は大正時代
13 港 幽霊坂 (有礼坂) 三田4−11と12の間を南東に上る ***
14 品川 幽霊坂 (ニコニコ坂) 南品川5−10と11の間を西に上る 明治 畑地内
神田・駿河台の幽霊坂
幽霊坂と紅梅坂(ニコライ堂北側)はもともとひとつに繋がっていた坂道であった。大正13年(1924)の区画整理で本郷通りができたため分断され、このあたりを紅梅町と称していたので紅梅坂と名付けられた。別名としての幽霊坂は分断前の名前がそうであったからである。
切絵図(1850頃)では坂上に定火消役屋敷があって、当時は坂上に火の見櫓がそびえていたという。維新後は官収されて空き地になっていた所に、後にニコライ堂が建てられた。
幽霊坂は「新撰東京名所図会」によると『往時樹木陰鬱にして昼尚ほ凄寂たりしを以って俗に幽霊坂を唱へたりしを・・・』とある。別名の 芥坂 塵坂は崖上から芥を棄てていたからであろう。
現在は病院 学校などが立ち並ぶ文教地域である。神田駿河台4の元・日立ビルのあった石垣で囲まれた場所は以前は三菱財閥岩崎家の屋敷があったところで 軍艦山とも称されていたとか。坂下は電飾の不夜城「アキバ」のITビル群が光を放っている。「幽霊坂」とはなんとも対照的な光景である。
僅かに石垣上の深い大樹の陰影が往時を偲ばせている。風格のあるニコライ堂が異国情緒を漂わせていて、今や「幽霊」よりも「ゴースト」が似合いそうな一画である。
三田の幽霊坂
この辺りは寛永12年(1635)に江戸城の拡張により八丁堀にあった寺院群20余りが一挙に移されたという いわゆる寺町で、今もその多くが現存している地域である。墓地の横を通る坂なのでこの名が付いたのも当然であろう。
忍願寺と南台寺の間の魚籃坂に抜ける道は 片側の崖下に墓地があり、墓石が整然と並んでいるのが見下ろせ、夜はひとりで通るには足が竦むが、その向こうはビル群が重なるように立ち並び 六本木ヒルズもその間からその姿を灯りの塔のように見せている。ライトアップされた東京タワーも巨大な蝋燭のようで、この寺町全体を見守っているようだ。
しかし、ここは「幽霊坂」と標柱も立てられていてその背後に続く坂上は街灯も寂しげで、ひょっとして・・・・と思わせ、今もって名前にふさわしい一画と言えよう。それでもここに住む人々には普通の生活通りとなっていて、夜でも臆することなく行き来している坂である。
富士見台の幽霊坂
富士見台の幽霊坂については、文献によっていろいろの記述がなされている。今回は一番多く記載のある「今昔 東京の坂」(岡崎清記・日本交通公社)を元にその3ヶ所を検証してみた。
この辺りは寺町ではなく武家地であった。富士見町の名が示すとおり高台となっているため、ほぼ平行してある三本の道がみな幽霊坂と称されている。広い武家屋敷の淋しい鬱蒼とした道であることからそう名付けたのであろう。切絵図や明治時代の地図を見てみると、時代によってかなり変遷が見られる。
絵図で分かるように江戸時代に称されたであろう坂は おそらく富士見町1丁目8と9の間の一ヶ所のみで、あとは屋敷内に取り込まれていたものであり、明治以後に道が開けて幽霊坂と呼ぶに至ったようだ。また宅地化が進むにつれ、近隣の住民から「幽霊坂」ではイメージが悪いということで「勇励坂」とするようになった坂(1丁目12と2丁目13の間)もある。
尚現在「幽霊坂」と呼ぶにふさわしい崖下の道(1丁目11と12)は私道となっているので、この名の消滅もそう遠くないことになろう。坂上は宿舎、寮、会館といった大きな施設が建ち、角川書店の瀟洒な建物が眼を引く。三本の幽霊坂の坂下の通りは早稲田通りで、今や赤提灯のともる店や飲食店が飯田橋駅まで建ち並んで庶民の町の様相を呈している。およそ幽霊とは全く縁のなさそうな世界となっている。  
 
怪談

 

怖さや怪しさを感じさせる物語の総称。日本古来のものを限定して呼ぶ場合もある。中でも、四谷怪談・皿屋敷・牡丹燈籠の三話は「日本三大怪談」に数えられることが多い。怪談は日本国内では通常「夏の風物詩」にあげられる。
元来、死に関する物語、幽霊、妖怪、怪物、あるいは怪奇現象に関する物語は民話伝説、あるいは神話の中にも多数存在する。
『今昔物語集』(「霊鬼」)など、平安時代末期(1120年頃)の古典文学にも多数の怪談が収録されているが、それらを題材にしてまとまった形で残っている物では『雨月物語』(1776年)が有名である。また、四谷怪談(1727年)や番町皿屋敷(1700年代末)のように歌舞伎の題材にも取り上げられ、ひとつのジャンルを構成していた。現在の感覚における古典的な怪談はこれらに基づく物である。また、落語にも怪談物があり怪談噺(怪談咄)と言われ、初代林屋正蔵はじめとする累代林屋、三遊亭円朝、立川三五郎などが創作・演出に工夫を凝らし、伝承に力を尽くした。演目には『牡丹灯籠』『怪談乳房榎』『お菊の皿』『質屋蔵』『真景累ヶ淵』『反魂香』『もう半分』『子育て幽霊』『菊江の仏壇』などがある。
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン、Lafcadio Hearn)は古くから伝わる日本各地の怪談や奇談を収集し、自らの解釈にしたがって情緒豊かな物語に仕立て上げ、『怪談 (kwaidan)』(1904年)として一冊にまとめた。
また、明治末期には、当時欧米で流行していたスピリチュアリズムの影響を受け、日本でも「怪談ブーム」が到来し、文学者たちが「百物語」を催したり、盛んに怪談の執筆を行っている。また、現在では「民俗学の原点」とされている『遠野物語』についても、話者の佐々木喜善・著者柳田國男ともに「怪談愛好者」であり、「怪談ブーム」の副産物として登場したものともいえる。民話としての怪談は松谷みよ子の研究の対象ともなっている。
戦後は、新倉イワオが1968年に日本初の心霊番組を企画制作。後に日本テレビ「お昼のワイドショー」内で放映された『あなたの知らない世界』などによって1970年代の怪談ブームをリードした。新倉はその後も番組企画本など合わせて50冊余りの怪異譚を蒐集した著作を世に送り、大人が怪談を嗜むことを許容する社会環境と後年の素地を築いた。また、1970〜1980年代に活躍した中岡俊哉による児童向け怪談、1970年代にブームとなったつのだじろうの『うしろの百太郎』『恐怖新聞』などの恐怖漫画によって子供時代に恐怖・オカルトの洗礼を受けた世代が成長して、現在の怪談需要を支えている。
木原浩勝と中山市朗は、自らが体験者より収集した怪異譚の人名や地名を意図的にぼかすことによって取材ソースを秘匿し、「実話怪談集」というスタイルにまとめ、江戸奉行・根岸鎮衛による随筆「耳袋」になぞらえて『新・耳・袋〜あなたの隣の怖い話』(扶桑社、1990年)として出版した。この仕事は長く忘れられていたが、1998年に復活刊行され、2005年までの7年間に刊行され続けた『新耳袋』全十巻(メディアファクトリー)により「怪談」という日本古来のエンターテイメントの復権がなされることとなった。
『新耳袋』の休眠期に当たる1991年〜1997年には実話怪談集『「超」怖い話』(勁文社)が安藤薫平、樋口明雄の手によって編まれた。これは1998年の新耳袋復活と勁文社倒産の後も平山夢明、加藤一に引き継がれ、竹書房から刊行されている続刊は、新耳袋と並んで近代実話怪談のひとつの潮流となっている。
落語の他に古典的な怪談の題材を扱う講談師にかつては、7代目一龍斎貞山、近年には一龍斎貞水がいるが、現代の怪談需要にそぐわず、講談形式の演目・演者は減少している。代わりに怪談話者として有名なタレントの稲川淳二による(1993年頃から始まった)現代の生活様式に合わせた怪談が語られている。また前述の新耳袋の著者である木原・中山は、新宿ロフトプラスワンにおいて定期的な怪談のトークライブを続けており、11年目を迎えた2007年には通算50回を超えた。現代的な題材の怪談話者としては、浜村淳、桜金造、つまみ枝豆、北野誠、みぶ真也、白石加代子などがタレント活動の中で展開している。
また伝統的な怪談の会のスタイルとして、百物語が挙げられる。
怪談と都市伝説が混同されていることもあるが、現状では明確な公的な定義は共有されていない。
本所七不思議 

 

本所(東京都墨田区)に江戸時代ころから伝承される奇談・怪談。江戸時代の典型的な都市伝説の一つであり、古くから落語など噺のネタとして庶民の好奇心をくすぐり親しまれてきた。いわゆる「七不思議」の一種であるが、伝承によって登場する物語が一部異なっていることから8種類以上のエピソードが存在する。
置行堀(おいてけぼり)
本所(東京都墨田区)を舞台とした本所七不思議と呼ばれる奇談・怪談の1つで、全エピソードの中でも落語などに多用されて有名になった。置き去りを意味する「置いてけぼり」の語源とされる。
江戸時代の頃の本所付近は水路が多く、魚がよく釣れた。ある日仲の良い町人たちが錦糸町あたりの堀で釣り糸を垂れたところ、非常によく釣れた。夕暮れになり気を良くして帰ろうとすると、堀の中から「置いていけ」という恐ろしい声がしたので、恐怖に駆られて逃げ帰った。家に着いて恐る恐る魚籠を覗くと、あれほど釣れた魚が一匹も入っていなかった。
この噺には他にも
「現場に魚籠を捨てて逃げ帰り、暫くして仲間と一緒に現場に戻ったら魚籠の中は空だった」
「自分はすぐに魚籠を堀に投げて逃げたが、友人は魚籠を持ったまま逃げようとしたところ、水の中から手が伸びてきて友人を堀に引きずり込んで殺してしまった」
「釣り人以外にも、魚を持って堀を通りかかった人が魚を奪われた」
「声を無視していると金縛りに遭った」
などの派生した物語が存在する。
東京の堀切駅近くの地にもかつて置いてけ堀と呼ばれる池があり、ここで魚を釣った際には3匹逃がすと無事に帰ることができるが、魚を逃がさないと道に迷って帰れなくなったり、釣った魚をすべて取り返されたりするといい、千住七不思議の一つとされた。
また埼玉県の川越地方にも「置いてけ堀」という場所があり、やはり魚が多く釣れるにもかかわらず、帰ろうとすると「置いてけ、置いてけ」との声が魚を返すまで続いたという。
正体
墨田区江東橋・錦糸堀公園の河童像。河童の背後には置行堀の伝承を記した看板がある。本所の置行堀の怪異の正体は諸説あるが、根強いのは河童の仕業という説、タヌキの仕業という説である。
河童説においては、付近の隅田川、源森橋、錦糸堀、仙台堀に河童の伝承があることが根拠とされており、実際にその伝承にちなみ、墨田区江東橋の錦糸堀公園には河童像が建てられている。
タヌキ説においては、隅田川の七福神めぐりの中の多聞寺に狸塚が存在することから、タヌキには存在感があることが根拠とされる。置行堀以外にも本所七不思議にはタヌキの怪異である狸囃子があり、絵双紙にはタヌキが燈無蕎麦、足洗邸に化ける姿を描いたものがある。置行堀のタヌキが、足洗邸と同様に屋敷から大足を突き出す怪異を起こしたとの話もある(足洗邸#類話を参照)。
「お魚博士」として知られる水産学者の末広恭雄は置行堀を科学的な面から考察し、淡水魚のギバチが体表のトゲで大きな音を出し、実際にその音を化物と思って驚いた人がいたことから、置行堀の怪異があった時代にはそうした堀にもギバチがいたものと推測し、魚が盗まれるのは野良猫の仕業の可能性が強いと述べている。
他にもカワウソ、ムジナ、スッポンによる仕業などと様々にいわれており、追いはぎによるものという説もある。
送り提灯(おくりちょうちん)
提灯を持たずに夜道を歩く者の前に、提灯のように揺れる明かりが、あたかも人を送って行くように現れ、あの明かりを目当てに行けば夜道も迷わないと思って近づくと、不意に明かりが消え、やがて明かりがつくので近づくとまた消え、これの繰り返しでいつまで経っても追いつけない。
石原割下水では「提灯小僧」といって、夜道を歩いている者のそばに小田原提灯が現れ、振り返ると後ろに回りこみ、追いかけると姿を消すといった具合に前後左右に自在に動き回るという伝承があり、本項と同一の怪異と見られている。
同じく本所七不思議のひとつ「送り拍子木」は、提灯が拍子木になったのみで、本項と同様の怪異である。
また、江戸時代には向島(現・東京都墨田区向島)で「送り提灯火(おくりちょうちんび)」と呼ばれる、送り提灯と似た怪異の伝承もあった。ある者が提灯も持たずに夜道を歩いていると、提灯のような灯火が足元を照らしてくれる。誰の灯火かと思って周りを見ても、人影はなく、ただ灯火だけがある。男は牛島明神(現・墨田区)の加護と思い、提灯を奉納したという。もしも提灯を奉納しないと、この提灯火に会うことはないといわれた。
送り拍子木(おくりひょうしぎ)
江戸時代の割下水付近を、「火の用心」と唱えながら拍子木を打って夜回りすると、打ち終えたはずの拍子木の音が同じような調子で繰り返して聞こえ、あたかも自分を送っているようだが、背後を振り向いても誰もいないという話である。実際には、静まり返った町中に拍子木の音が反響したに過ぎないとの指摘もあるが、雨の日、拍子木を打っていないのに拍子木の音が聞こえたという話もある。
同じく本所七不思議のひとつ「送り提灯」は、拍子木が提灯になったのみで、本項と同様の怪異である。
燈無蕎麦(あかりなしそば)別名「消えずの行灯」
江戸時代、本所南割下水付近には夜になると二八蕎麦の屋台が出たが、そのうちの1軒はいつ行っても店の主人がおらず、夜明けまで待っても遂に現れず、その間、店先に出している行灯の火が常に消えているというもの。この行灯にうかつに火をつけると、家へ帰ってから必ず不幸が起るという。やがて、この店に立ち寄っただけでも不幸に見舞われてしまうという噂すら立つようになった。
逆に「消えずの行灯(きえずのあんどん)」といって、誰も給油していないのに行灯の油が一向に尽きず、一晩たっても燃え続けているという伝承もあり、この店に立ち寄ると不幸に見舞われてしまうともいわれた。
正体はタヌキの仕業ともいわれており、歌川国輝による浮世絵『本所七不思議之内 無灯蕎麦』にはこの説に基づき、燈無蕎麦の店先にタヌキが描かれている。
足洗邸(あしあらいやしき)
江戸時代の本所三笠町(現・墨田区亀沢)に所在した味野岌之助という旗本の上屋敷でのこと。屋敷では毎晩、天井裏からもの凄い音がした挙げ句、「足を洗え」という声が響き、同時に天井をバリバリと突き破って剛毛に覆われた巨大な足が降りてくる。家人が言われたとおりに洗ってやると天井裏に消えていくが、それは毎晩繰り返され、洗わないでいると足の主は怒って家中の天井を踏み抜いて暴れる。あまりの怪奇現象にたまりかねた味野が同僚の旗本にことを話すと、同僚は大変興味を持ち、上意の許を得て上屋敷を交換した。ところが同僚が移り住んだところ、足は二度と現れなかったという。
なお怪談中にある大足の怪物の台詞が「あらえ」、怪談の名称が「あらい」であるのは、江戸言葉特有の「え」「い」の混同によるものと指摘されている。
類話
本所七不思議の一つ・置行堀の正体がタヌキであり、そのタヌキが足洗邸に類似した怪異を起こしたという話がある。1765年(明和2年)、置行堀のタヌキが人に捕えられて懲らしめられ、瀕死の重傷を負っていた。偶然通りかかった小宮山左善という者が哀れに思い、彼らに金を与えてタヌキに逃がした。その夜、タヌキが女の姿に化けて左善の枕元に現れ、左善の下女が悪事を企んでいると忠告して姿を消した。しばらく後、左善は下女の恋人の浪人者に殺害されてしまった。数日後、左善の一人息子の膳一のもとにタヌキが現れ、真相を教えた。膳一は仇討ちを挑むが、敵は強く、逆に追いつめられてしまった。そこへ、タヌキが左善の姿に化けて助太刀し、膳一は仇を討つことができた。以来、家に凶事が起る際には前触れとして、天井から足が突き出すようになったという。
また、嘉永年間に六番町に住んでいた御手洗主計という旗本の家でも「蔵の大足」または「御手洗氏の足洗い」といって同様の怪異が起きたといわれる。雑物庫の戸がひとりでに開いて巨大な右足が現れ、これを洗ってやると今度は左足が現れる。両足とも洗い終えると足が引っ込んで戸が閉まるというものだった。大足を退治するべく刀で斬りつけても煙を斬るように効果がなく、祈祷で追い払おうものなら大足が暴れ回って祈祷者を踏みにじり、雑物庫の中を滅茶苦茶に暴れ回って中の品物を壊す有様だった。しかしこの大足は迷惑がられるどころか、以前に雑物庫に忍び込んだ泥棒を踏みつけて捕まえたことがあり、御手洗家ではこの足を家宝の守護者として「ご隠居」と呼び、家の大事なものはすべてその雑物庫にしまっていた。いつしか、女性が洗わないと足は引っ込まないようになったが、主計がこの仕事のために女を雇っても、すぐに嫌がって仕事を辞めてしまった。この怪異は明治時代前期まで言い伝えられ、やまと新聞の1887年(明治20年)4月29日付の記事でも報じられた。
片葉の葦(かたはのあし)
江戸時代の頃、本所にお駒という美しい娘が住んでいたが、近所に住む留蔵という男が恋心を抱き幾度も迫ったものの、お駒は一向になびかず、遂に爆発した留蔵は、所用で外出したお駒を追った。そして隅田川からの入り堀にかかる駒止橋付近(現在の両国橋付近の脇堀にかかっていた橋)でお駒を襲い、片手片足を切り落とし殺した挙げ句に堀に投げ込んでしまった。それ以降、駒止橋付近の堀の周囲に生い茂る葦は、何故か片方だけの葉しか付けなくなったという。
落葉なき椎(おちばなきしい)
江戸時代の本所に所在した平戸新田藩松浦家の上屋敷には見事な椎の銘木があったが、なぜかこの木は一枚も葉を落としたことがない。松浦家も次第に気味が悪くなり、屋敷を使わなくなってしまった。因みに、その話のモデルとなったと言われる木がある。
狸囃子(たぬきばやし)別名「馬鹿囃子(ばかばやし)」
江戸時代の本所(東京都墨田区)では馬鹿囃子(ばかばやし)とも言い、本所を舞台とした本所七不思議と呼ばれる奇談・怪談の1つに数えられている。囃子の音がどこから聞こえてくるのかと思って音の方向へ散策に出ても、音は逃げるように遠ざかっていき、音の主は絶対に分からない。音を追っているうちに夜が明けると、見たこともない場所にいることに気付くという。平戸藩主・松浦清もこの怪異に遭い、人に命じて音の所在を捜させたが、割下水付近で音は消え、所在を捜すことはできなかったという。その名の通りタヌキの仕業ともいわれ、音の聞こえたあたりでタヌキの捜索が行われたこともあったが、タヌキのいた形跡は発見できなかったという。
千葉県木更津市の證誠寺にも狸囃子の伝説があり、『分福茶釜』『八百八狸物語』と並んで「日本三大狸伝説」の1つに数えられ、童謡「証城寺の狸囃子」の題材となったことでも知られる。詳細は證誠寺 (木更津市)#證誠寺の狸伝説を参照。
東京都墨田区の小梅や寺島付近は、当時は農村地帯であったことから、実際には収穫祝いの秋祭りの囃子の稽古の音が風に乗り、いくつも重複して奇妙なリズムや音色になったもの、または柳橋付近の三味線や太鼓の音が風の加減で遠くまで聞こえたものなどと考えられている。
津軽の太鼓(つがるのたいこ)
江戸時代の頃の本所に所在した津軽越中守の屋敷には火の見櫓があった。しかし通常火の見櫓で火災を知らせるときは板木を鳴らすのだが、なぜかこの屋敷の櫓には板木の代わりに太鼓がぶら下がっており、火事の際には太鼓を鳴らした。なぜこの屋敷の櫓だけが太鼓だったのかは誰も知らない。他には越中守屋敷の火の見櫓の板木を鳴らすと太鼓の音がするという物語も存在する。  
皿屋敷(播州皿屋敷、番町皿屋敷など) 

 

皿屋敷(さらやしき)は、お菊の亡霊が井戸で夜な夜な「イチマーイ、ニマーイ..」と皿を数える情景が周知となっている怪談話の総称。播州姫路が舞台の『播州皿屋敷』(ばんしゅう-)、江戸番町が舞台の『番町皿屋敷』(ばんちょう-、ばんまち-)が広く知られる。日本各地にその#類話がみられ、出雲国松江の皿屋敷、土佐国幡多郡の皿屋敷、さらに尼崎を舞台とした(皿ではなく針にまつわる)異聞が江戸時代に記録される。江戸時代、歌舞伎、浄瑠璃、講談等の題材となった。明治には、数々の手によって怪談として発表されている。大正、岡本綺堂の#戯曲『番町皿屋敷』は、恋愛悲劇として仕立て直したものである。
古い原型に、播州を舞台とする話が室町末期の『竹叟夜話』にあるが、皿ではなく盃の話であり、一般通念の皿屋敷とは様々な点で異なる。皿や井戸が関わる怨み話としては、18世紀の初頭ころから、江戸の牛込御門あたりを背景にした話が散見される。1720年、大阪で歌舞伎の演目とされたことが知られ、そして1741年に浄瑠璃『播州皿屋敷』が上演され、お菊と云う名、皿にまつわる処罰、井筒の関わりなど、一般に知られる皿屋敷の要素を備えた物語が成立する。1758年に講釈師の馬場文耕が『弁疑録』において、江戸の牛込御門内の番町を舞台に書き換え、これが講談ものの「番町皿屋敷」の礎石となっている。
江戸の番町皿屋敷は、天樹院(千姫)の屋敷跡に住居を構えた火付盗賊改青山主膳(架空の人物)の話として定番化される。よって時代は17世紀中葉以降の設定である。
一方、播州ものでは、戦国時代の事件としている。姫路市の十二所神社内のお菊神社は、江戸中期の浄瑠璃に言及があって、その頃までには祀られているが、戦国時代までは遡れないと考察される。お菊虫については、播州1795年におこった虫(アゲハチョウの蛹)の大発生がお菊の祟りであるという巷間の俗説で、これもお菊伝説に継ぎ足された部分である。
播州皿屋敷
播州皿屋敷の題材は、早くは歌舞伎として演じられた。1720年6月 (享保5年) 、京都の榊山四郎十郎座が、歌舞伎『播州錦皿九枚館』を上演している。台本は現存しないが、その役割番付(天理図書館所蔵)から人物・背景がうかがえ、この歌舞伎がすでに「皿屋敷伝説を完全なかたちで劇化した」ものだと考察される。また、同年に金子吉左衛門座が題名も内容不詳の皿屋敷を上演している。
浄瑠璃・播州皿屋敷
浄瑠璃『播州皿屋敷』は、寛保元年(1741年)大阪の豊竹座で初演がおこなわれた。室町時代、細川家のお家騒動を背景としており、一般に知られる皿屋敷伝説に相当する部分は、この劇の下の巻「鉄山館」に仕込まれている、次のようなあらすじである:
細川家の国家老、青山鉄山は、叛意をつのらせ姫路の城主にとってかわろうと好機をうかがっていた。そんなおり、細川家の当主、巴之介が家宝の唐絵の皿を盗まれ、足利将軍の不興を買って、流浪の憂き目にあう。鉄山は、細川家の宿敵、山名宗全と結託して、細川の若殿を毒殺しようと談義中に、委細をお菊に聞かれてしまい、お菊を抹殺にかかる。お菊が管理する唐絵の皿の一枚を隠し、その紛失の咎で攻め立てて切り捨てて井戸に投じた。とたんに、井筒の元からお菊の死霊が現れ、鉄山を悩ます。現場に駆けつけたお菊の夫、舟瀬三平に亡霊は入れ知恵をし、皿を取り戻す。
浄瑠璃では、家宝の皿が以前にも盗難などに遭う話や、その因縁がもりこまれた経歴が、上の巻の前半「冷光院館」、および上の巻の後半「壬生村、楽焼家弥五兵衛住家」に収録される。
西播怪談実記
播州佐用郡の春名忠成による宝暦4年(1754年)の『西播怪談実記』に「姫路皿屋敷の事」の一篇が所収される。
お菊虫
お菊虫の元になったのは1795年に大量発生したジャコウアゲハのサナギではないかと考えられている。 暁鐘成『雲錦随筆』では、お菊虫が、「まさしく女が後手にくくりつけられたる形態なり」と形容し、その正体は「蛹(よう)」であるとし、さらには精緻な挿絵もされている。十二所神社では戦前に「お菊虫」と称してジャコウアゲハのサナギを箱に収めて土産物として売っていたことがあり、中山太郎も姫路で売られていた種をジャコウアゲハと特定する。ただ、江戸期の随筆などには蛹以外の虫の説明も存在する。菊虫の件と最初の姫路藩主池田氏の家紋が平家由来の揚羽蝶であることとにちなんで、姫路市では1989年にジャコウアゲハを市蝶として定めた。
お菊井戸
姫路城の本丸下、「上山里」と呼ばれる一角に「お菊井戸」と呼ばれる井戸が現存する。
播州皿屋敷実録
『播州皿屋敷実録』は、成立時は明らかではないが、江戸後期に書かれた、いわば好事家の「戯作(げさく)」であり、脚色部分が多く加わっている。
姫路城第9代城主小寺則職の代(永正16年1519年以降)、家臣青山鉄山が主家乗っ取りを企てていたが、これを衣笠元信なる忠臣が察知、自分の妾だったお菊という女性を鉄山の家の女中にし鉄山の計略を探らせた。そして、元信は、青山が増位山の花見の席で則職を毒殺しようとしていることを突き止め、その花見の席に切り込み、則職を救出、家島に隠れさせ再起を図る。乗っ取りに失敗した鉄山は家中に密告者がいたとにらみ、家来の町坪弾四郎に調査するように命令した。程なく弾四郎は密告者がお菊であったことを突き止めた。そこで、以前からお菊のことが好きだった弾四郎は妾になれと言い寄った。しかし、お菊は拒否した。その態度に立腹した弾四郎は、お菊が管理を委任されていた10枚揃えないと意味のない家宝の毒消しの皿「こもがえの具足皿」のうちの一枚をわざと隠してお菊にその因縁を付け、とうとう責め殺して古井戸に死体を捨てた。以来その井戸から夜な夜なお菊が皿を数える声が聞こえたという。やがて衣笠元信達小寺の家臣によって鉄山一味は討たれ、姫路城は無事、則職の元に返った。その後、則職はお菊の事を聞き、その死を哀れみ、十二所神社の中にお菊を「お菊大明神」として祀ったと言い伝えられている。その後300年程経って城下に奇妙な形をした虫が大量発生し、人々はお菊が虫になって帰ってきたと言っていたといわれる。
このほか、幕末に姫路同心町に在住の福本勇次(村翁)編纂の『村翁夜話集』(安政年間)などに同様の話が記されている。
番町皿屋敷
江戸の「皿屋敷」ものとして最も人口に膾炙しているのは、1758年(宝暦8年)の講釈士・馬場文耕の『皿屋敷弁疑録』が元となった怪談芝居の『番町皿屋敷』である。
牛込御門内五番町にかつて「吉田屋敷」と呼ばれる屋敷があり、これが赤坂に移転して空き地になった跡に千姫の御殿が造られたという。それも空き地になった後、その一角に火付盗賊改・青山播磨守主膳の屋敷があった。ここに菊という下女が奉公していた。承応二年(1653年)正月二日、菊は主膳が大事にしていた皿十枚のうち1枚を割ってしまった。怒った奥方は菊を責めるが、主膳はそれでは手ぬるいと皿一枚の代わりにと菊の中指を切り落とし、手打ちにするといって一室に監禁してしまう。菊は縄付きのまま部屋を抜け出して裏の古井戸に身を投げた。まもなく夜ごとに井戸の底から「一つ……二つ……」と皿を数える女の声が屋敷中に響き渡り、身の毛もよだつ恐ろしさであった。やがて奥方の産んだ子供には右の中指が無かった。やがてこの事件は公儀の耳にも入り、主膳は所領を没収された。その後もなお屋敷内で皿数えの声が続くというので、公儀は小石川伝通院の了誉上人に鎮魂の読経を依頼した。ある夜、上人が読経しているところに皿を数える声が「八つ……九つ……」、そこですかさず上人は「十」と付け加えると、菊の亡霊は「あらうれしや」と言って消え失せたという。
この時代考証にあたっては、青山主膳という火附盗賊改は存在せず(『定役加役代々記』による)、火付盗賊改の役職が創設されたのは1662年(寛文2年)と指摘されている。その他の時代錯誤としては、向坂甚内が盗賊として処刑されたのは1613年であり、了誉上人にいたっては250年前の1420年(応永27年)に没した人物である。また千姫が姫路城主・本多忠刻と死別した後に移り住んだのは五番町から北東に離れた竹橋御殿であった。
東京都内にはお菊の墓というものがいくつか見られる。現在東海道本線平塚駅近くにもお菊塚と刻まれた自然石の石碑がある。元々ここに彼女の墓が有ったが、戦後近隣の晴雲寺内に移動したという。これは「元文6年(1741年)、平塚宿の宿役人眞壁源右衛門の娘・菊が、奉公先の旗本青山主膳の屋敷で家宝の皿の紛失事件から手打ちにされ、長持に詰められて平塚に返されたのを弔ったもの」だという。
市ヶ谷駅近辺、千代田区九段南四丁目と五番町の境界の靖国通りから番町方面へ上る坂は、帯坂と呼称されるが、お菊が、髪をふり乱し、帯をひきずりながらここを通ったという伝説に付会されている。
皿屋敷伝説の発生
皿屋敷の伝説がいつ、どこで発生したのか、「いずれが原拠であるかは近世(江戸時代より)の随筆類でもしかとはわからぬし、また簡単に決定できるものでもあるまい」とされる。三田村鳶魚は、本来、皿の要素がないため播州や尼崎伝説の由来を排すが、播州を推す者もあり、橋本政次は『姫路城史』において太田垣家に起こった事件が原点ではないかとしている。
竹叟夜話
大田垣にまつわる事件については、播磨国永良荘(現兵庫県市川町)の永良竹叟が天正5年(1577年)に著した『竹叟夜話』に記述があり、執筆より更に130年前の事件を語っている。
嘉吉の乱(1441年)の後、小田垣主馬助という山名家の家老が播磨国青山(現・姫路市青山)の館代をしていた頃、花野という脇妾を寵愛していた。ここに出入りしていた笠寺新右衛門という若い郷士が花野に恋文を送り続けていたが拒絶され続けていた。ある時、小田垣が山名家から拝領していた鮑貝の五つ杯の一つが見あたらないことに気づき、花野に問いただしてもただ不思議なことと答えるだけ、怒った彼は杯を返せと彼女を責め立てた。実は笠寺がその一個を密かに隠していたのだが、彼は意趣返しに「杯が見つからなければ小田垣家も滅びる」と脅しながら花野を折檻し、ついには松の木にくくり上げて殺してしまった。その後、花野の怨念が毎夜仇をなしたという。やがてこの松は「首くくりの松」と呼ばれるようになった。
『竹叟夜話』の挿話は、室町末と成立年代が古いが、皿ではなく盃用のアワビだったり、女性がお菊ではなく花野であり、青山氏の名もない等、後の『皿屋敷』と符合しない点も多々みられる。同じく播磨を舞台に、近世の形態にちかい物語は「播州皿屋敷実録」に書きとどめられるが、これは成立年代不詳(あるいは江戸後期)のものである。
牛込の皿屋敷
皿屋敷伝説の、重要要素である10枚の皿のうちの1枚を損じて命を落とす部分は、江戸に起こったという逸話にみつかる。
早い例は、正徳2年 (1712年) の宍戸円喜『当世智恵鑑』という書物に収録される。要約すると、次のような話である:
江戸牛込の服部氏の妻は、きわめて妬み深く、夫が在番中に、妾が南京の皿の十枚のうち一枚を取り落として割ってしまったことにつけ、それでは接客用に使い物にならないので、買換えろと要求するが、古い品なので、もとより無理難題であった。更に罪を追及して、その女を幽閉して餓死させようとしたが、5日たっても死なない。ついに手ずから絞め殺して、中間に金を渡して骸を棺に入れて運ばせたが、途中で女は蘇生した。女は隠し持った200両があると明かして命乞いするが、4人の男たちはいったん金を懐にしたものの、後で事が知れたらまずいと、女を縊りなおして殺し野葬にする。後日、その妻は喉が腫れて塞がり、咀嚼ができずに危険な状態に陥り、その医者のところについに怨霊が出現し、自分に手をかけた男たち既に呪い殺したこと、どう治療しようと服部の妻は死ぬことを言い伝えた。
三田村鳶魚は、この例「井戸へ陥ったことが足りないだけで、宛然皿屋敷の怪談である」としている。また、「牛込の御門内、むかし物語に云[う]、下女あやまって皿を一ツ井戸におとす、その科により殺害せられたり、その念ここの井戸に残りて夜ごとに彼女の声して、一ツより九ツまで、十を[言わずに]泣けさけぶ、声のみありてかたちなしとなり、よって皿屋敷と呼び伝えたり..」と享保17年(1732年)の「皿屋敷」の項に見当たる。牛込御門台の付近の稲荷神社に皿明神を祀ると、怪奇現象はとだえたと伝わる。
皿屋舗弁疑録
江戸を舞台とした皿屋敷の各要素のまとまった物語は、宝暦8年(1758年)、馬場文耕が表した『皿屋舗辨疑録』(皿屋敷弁疑録とも表記)を嚆矢とする。
牛込で起きた事件については、その皿屋敷にまつわる前歴が綿密と語られ、その後は一般に知られる皿屋敷の内容である。その前歴とは概要すると、
将軍家光の代に、小姓組番頭の吉田大膳亮の屋敷を召し上げ、将軍の姉である天樹院(千姫)に住まわせた。この「吉田御殿」の天樹院のふるまいは、酒色に耽溺するなど悪い風聞が立つほどで、そのうち愛人の花井壱岐と女中の竹尾を恋仲と疑って虐殺し、井戸に捨てた。他にも犠牲者は累々とで、「小路町の井戸」と恐れられた。天樹院の死後、この吉田屋敷は荒廃し妖怪屋敷と呼ばれた。
「弁疑録」では、この屋敷は、吉田屋敷からいったん空屋敷となったので、そもそも「更屋敷(サラ屋敷)」という名で、皿事件とは関係なしにそう呼ばれる所以があったのだとしているが、その語呂合わせについては「西鶴の『懐硯』に"荒屋敷"、『西播怪談実記』にも"明屋敷"」とあると考察されている。
その他の発生論
中山太郎は播州ではないと断ずるものの、江戸説に肯定的であるわけではなく、独自の「紅皿缺皿」の民話を起源とする説を展開している。そうした民話の痕跡として、佐々木喜善が記憶からたどって中山に口述した宮城県亘理郡の言い伝えを引いている。
幕末の喜多村信節『嬉遊笑覧』では、土佐の子供の鬼遊び「手々甲(セセガコウ)」の皿数えに由来をもとめている。
類話
日本各地に類似の話が残っている。北は岩手県滝沢市や江刺市、南は鹿児島県南さつま市までと、分布は広い。
そのほか、群馬県甘楽郡の2町1村、滋賀県彦根市、島根県松江市、兵庫県尼崎市、高知県幡多郡の2町1村、福岡県嘉麻市、宮城県亘理郡、長崎県五島列島の福江島などに例がある。
正保の頃、出雲国松江の武士が秘蔵していた十枚皿の一枚を下女が取り落として砕き、怒った武士は下女を井戸に押し込んで殺す。だが「此ノ女死シテ亡魂消へズ」夜毎に一から九まで数え、ワッと泣き叫ぶ。そこで知恵者の僧が、合いの手で「十」と云うと、亡霊はそれ以来消滅した(元禄二年『本朝故事因縁集』) 。
幡多郡に元・伊予松山藩士山瀬新次郎が移り住んだが、妻の瀧が名主に奉公しているうち、名主の縁者の青山鉄三郎が、名主の妾と通ずるだけではあきたらず、瀧にも横恋慕したがみのらず、瀧が管理する秘蔵の皿の一枚を隠した。名主は青山に取調べさせたが、青山の折檻に耐えられずに、滝のなかに投身自殺した。その怨念が皿の数を数える(土佐国幡多郡の「播多郡誌」)
宮城県亘理郡。亘理駅の近くに九枚筵という地名がある。その昔、継母が「缺皿」という名の娘をいじめ、ある時、搗き麦を十枚の筵で干せと言いつけておいて、その一枚を隠した。娘は井戸の身を投げた。(佐々木喜善談)
尼崎のお菊伝説
以下にあげる「お菊」の物語は、「皿屋敷異聞」に分類されてもいるが、皿ではなく食事にまぎれた針が悶着のもとである。蜀山人こと太田南畝『石楠堂随筆』上 1800年(寛政12年)にあるが元禄9年(1696年)、尼崎の城主青山氏の老臣、木田玄蕃(喜多玄蕃)の屋敷に奉公していたお菊が食事を進めたとき、飯の中に針がまぎれており、殺意ととがめたてて菊を井戸に投げ込んだ。謝りにかけつけた母は、時遅しと知って後を追って井戸に飛び込んだ。その後、木田家では怪異や祟りが連発したが、一件が不祥事として尼崎侯の耳に入り、木田は改易、屋敷は祟りがあると恐れられ廃屋となった。のちに青山氏にかわり尼崎侯となった松平遠州侯が、木田宅の跡地に建てたのが尼崎の源正院であり、おかげで浄霊はかなって怪奇はおさまったが、菊を植えても花が咲かなかったという。
ほぼ同様の内容で、根岸鎮衛『耳嚢』にも書かれてるが、旧木田邸の古井戸の場所が「播州岸和田」と記されている。いずれの史料も寛政7年(1795年)の#お菊虫の大量出現を、お菊の100年忌に定めている。尼崎の伝説は、津村淙庵『譚海』にも詳しく書かれている。元禄の頃は、青山播磨守幸督が尼崎の城主であった。
戯曲『番町皿屋敷』
岡本綺堂による1916年(大正5年)作の戯曲。怪談ではなく悲恋物語の形を取る。
旗本青山播磨と腰元は相思相愛の仲であったが身分の違いから叶わない。やがて播磨に縁談が持ち込まれる。彼の愛情を試そうとしたお菊は青山家の家宝の皿を一枚割るが、播磨はお菊を不問に付す。ところが周りの者が、お菊がわざと皿を割った瞬間を目撃していた。これを知った播磨は、自分がそんなに信じられないのかと激怒、お菊を斬ってしまう。そして播磨の心が荒れるのに合わせるかのように、青山家もまた荒れ果ててゆくのだった。
1963年(昭和38年)に大映で市川雷蔵、藤由紀子主演で『手討』が製作された。ただしすぐお菊の後を追う形で、青山播磨も切腹に向かう所で終わる、より悲恋物語の性格が強い作品である。
落語の『皿屋敷』
落語の中に皿屋敷を題材にした話がある。題名は『お菊の皿』、またはそのままの『皿屋敷』。
町内の若者達が番町皿屋敷へお菊の幽霊見物に出かける。出かける前に隠居からお菊の皿を数える声を九枚まで聞くと死んでしまうから六枚ぐらいで逃げ出せと教えられる。若者達は隠居の教えを守り、六枚まで聞いたところで皿屋敷から逃げ出してきたが、お菊があまりにもいい女だったので若者達は翌日も懲りずに皿屋敷へ出かけていく。数日もすると人々に噂が伝わり、見物人は百人にまで膨れ上がった。 それだけ人が増えると六枚目で逃げるにも逃げられず、九枚まで数える声をまで聞いてしまう。しかし聞いた者は死なず、よく聞くとお菊が九枚以降も皿を数え続けている。お菊は十八枚まで数えると「これでおしまい」と言って井戸の中に入ろうとするので見物人の一人が「お菊の皿は九枚と決まっているだろう。何故十八枚も数えるんだ」と訊くと、お菊は「明日は休むので二日分数えました」と答えた。
より古典的なところでは、旅の僧がお菊の霊を慰めようとして「なんまいだー」(=何枚だ)と念仏を唱えると、お菊が「どう勘定しても、九枚でございます」と返す、という駄洒落(だじゃれ)落ちのものもある。 
四谷怪談(東海道四谷怪談など) 

 

四谷怪談(よつやかいだん)とは、元禄時代に起きたとされる事件を基に創作された日本の怪談。江戸の雑司ヶ谷四谷町(現・豊島区雑司が谷)が舞台となっている。基本的なストーリーは「貞女・岩が夫・伊右衛門に惨殺され、幽霊となって復讐を果たす」というもので、鶴屋南北の歌舞伎や三遊亭圓朝の落語が有名である。怪談の定番とされ、折に触れて舞台化・映画化されているため、さまざまなバリエーションが存在する。
お岩稲荷
四谷(東京都新宿区左門町)に実在する「お岩稲荷」(於岩稲荷田宮神社)は、もともとは田宮家の屋敷社で、岩という女性が江戸時代初期に稲荷神社を勧請したことが由来といわれる。
岩の父、田宮又左衛門は徳川家康の入府とともに駿府から江戸に来た御家人であった。岩と、婿養子となった伊右衛門は仲のよい夫婦で、収入の乏しい生活を岩が奉公に出て支えていたという。岩が田宮神社を勧請したのち生活が上向いたと言われており、土地の住民の信仰の対象となった。
現在、四谷左門町には於岩稲荷田宮神社と於岩稲荷陽運寺が、道を挟んで両側にある。また、中央区新川にも於岩稲荷田宮神社がある。
四谷の於岩稲荷田宮神社(田宮家跡地)は明治12年(1879年)の火災によって焼失して中央区新川に移った。新川の於岩稲荷田宮神社は戦災で焼失したが戦後再建され、また四谷の旧地にも再興された。また、陽運寺は昭和初期に創建された日蓮宗の寺院であるが、境内に「お岩さま縁の井戸」がある。
四谷のお岩稲荷には、文政10年(1827年)に記録された文書が残されている。それによれば、四谷に住む武士・田宮又左右衛門の娘、お岩が浪人の伊右衛門を婿にとったが、伊右衛門が心変わりして一方的にお岩を離縁したため、お岩が狂乱して行方不明となり、その後田宮家で変異が相次いだため、田宮邸の跡地にお岩稲荷を建てたというものである。
なお、お岩の「お墓」が、巣鴨の妙行寺(明治時代に四谷から移転)にある。
四谷雑談集
『四谷雑談集』(享保12年(1727年)の奥付)に、元禄時代に起きた事件として記され、鶴屋南北の『東海道四谷怪談』の原典とされた話。
江戸時代初期に勧請された稲荷神社の由来とは年代があわず、また田宮家は現在まで続いており、田宮家に伝わる話としてはお岩は貞女で夫婦仲も睦まじかったとある。このことから、田宮家ゆかりの女性の失踪事件が、怪談として改変されたのではないかという考察がある。
また、岡本綺堂は、お岩稲荷について、下町の町人の語るところは怪談であり、山の手の武家の語るところは美談と分かれているので、事件が武家に関わることゆえに、都合の良い美談を武家がこしらえたのではないか、という考察をしている。
南北の『東海道四谷怪談』以前に、この話を下敷きにした作品としては、曲亭馬琴『勧善常世物語』(文化3年(1806年))や柳亭種彦『近世怪談霜夜星』(文化5年(1808年))がある。
あらすじ / 四谷在住の御先手鉄砲組同心の田宮又左衛門のひとり娘である岩は、容姿性格共に難があり中々婿を得ることができなかった。浪人の伊右衛門は、仲介人に半ば騙された形で田宮家に婿養子として岩を妻にする。田宮家に入った伊右衛門は、上司である与力の伊東喜兵衛の妾に惹かれ、また喜兵衛は妊娠した妾を伊右衛門に押し付けたいと思い、望みの一致したふたりは結託して、岩を騙すと田宮家から追う。騙されたことを知った岩は狂乱して失踪する。岩の失踪後、田宮家には不幸が続き断絶。その跡地では怪異が発生したことから於岩稲荷がたてられた。
『東海道四谷怪談』
『東海道四谷怪談』(とうかいどう よつやかいだん)は、鶴屋南北作の歌舞伎狂言。全5幕。文政8年(1825年)、江戸中村座で初演された。
南北の代表的な生世話狂言であり、怪談狂言(夏狂言)。『仮名手本忠臣蔵』の世界を用いた外伝という体裁で書かれ、前述のお岩伝説に、不倫の男女が戸板に釘付けされ神田川に流されたという当時の話題や、砂村隠亡堀に心中者の死体が流れ着いたという話などが取り入れられた。
岩が毒薬のために顔半分が醜く腫れ上がったまま髪を梳き悶え死ぬところ(二幕目・伊右衛門内の場)、岩と小平の死体を戸板1枚の表裏に釘付けにしたのが漂着し、伊右衛門がその両面を反転して見て執念に驚くところ(三幕目・砂村隠亡堀の場の戸板返し)、蛇山の庵室で伊右衛門がおびただしい数の鼠と怨霊に苦しめられるところ(大詰・蛇山庵室の場)などが有名な場面となっている。
初演時の趣向
中村座における初演時は、時代物の『仮名手本忠臣蔵』と合わせて2日にわたって上演された。
1日目:『忠臣蔵』の六段目(勘平の腹切)まで →『四谷怪談』の三幕目(隠亡堀の場)まで
2日目:『忠臣蔵』の七段目(祇園一力の場)以降 →『四谷怪談』の三幕以降 →『忠臣蔵』の討入り
『忠臣蔵』と続けて演じると、塩冶義士・佐藤与茂七が伊右衛門を討ったあとに吉良邸の討ち入りに参加することになる。再演以降は『四谷怪談』の部分が単独で上演されている。その場合、与茂七らの登場シーンは省略されたり書替えられたりすることが多い。
あらすじ(東海道四谷怪談)
元塩冶藩士、四谷左門の娘・岩は夫である伊右衛門の不行状を理由に実家に連れ戻されていた。伊右衛門は左門に岩との復縁を迫るが、過去の悪事(公金横領)を指摘され、辻斬りの仕業に見せかけ左門を殺害。同じ場所で、岩の妹・袖に横恋慕していた薬売り・直助は、袖の夫・佐藤与茂七(実は入れ替った別人)を殺害していた。ちょうどそこへ岩と袖がやってきて、左門と与茂七の死体を見つける。嘆く2人に伊右衛門と直助は仇を討ってやると言いくるめる。そして、伊右衛門と岩は復縁し、直助と袖は同居することになる。
田宮家に戻った岩は産後の肥立ちが悪く、病がちになったため、伊右衛門は岩を厭うようになる。高師直の家臣伊藤喜兵衛の孫・梅は伊右衛門に恋をし、喜兵衛も伊右衛門を婿に望む。高家への仕官を条件に承諾した伊右衛門は、按摩の宅悦を脅して岩と不義密通をはたらかせ、それを口実に離縁しようと画策する。喜兵衛から贈られた薬のために容貌が崩れた岩を見て脅えた宅悦は伊右衛門の計画を暴露する。岩は悶え苦しみ、置いてあった刀が首に刺さって死ぬ。伊右衛門は家宝の薬を盗んだとがで捕らえていた小仏小平を惨殺。伊右衛門の手下は岩と小平の死体を戸板にくくりつけ、川に流す。
伊右衛門は伊藤家の婿に入るが、婚礼の晩に幽霊を見て錯乱し、梅と喜兵衛を殺害、逃亡する。
袖は宅悦に姉の死を知らされ、仇討ちを条件に直助に身を許すが、そこへ死んだはずの与茂七が帰ってくる。結果として不貞を働いた袖はあえて与茂七、直助二人の手にかかり死ぬ。袖の最後の言葉から、直助は袖が実の妹だったことを知り、自害する。
蛇山の庵室で伊右衛門は岩の幽霊と鼠に苦しめられて狂乱する。そこへ真相を知った与茂七が来て、舅と義姉の敵である伊右衛門を討つ。 
四谷怪談諸話 

 

伊右衛門の色悪的性格
「歌舞伎の大悪人」というと頭に浮かぶのはまずは仁木弾正、それから蘇我入鹿といったところでしょうか。それに「四谷怪談」の民谷伊右衛門も五指に入るであろう人気の悪人です。特に伊右衛門は「色悪」とも呼ばれる役どころです。伊右衛門は、その父を殺してまでして一緒になったお岩を仕官のために見限り死に至らしめ、伊藤家の者も次々に殺害します。さらに「隠亡堀の場」においては、伊右衛門は伊藤家の乳母お槇を何の苦もなく殺害し、それを見ていた直助権兵衛に「おまえもよっぽど強悪だねえ」と言わせています。
「四谷怪談」は繰り返し上演されていくなかで「お岩の怪談劇、復讐劇」としての性格を強めてきたように思われます。お岩の怨念を凄まじいものにしようと考えれば、当然その怨念の対象になる伊右衛門の存在がクローズアップされることになります。伊右衛門が容色を武器にして世を渡ろうとするしたたかな悪人、いわゆる「色悪」として演じられるのも、ともすれば肥大し勝ちなお岩の存在に対して敵役として相応の位置を確保しようという意図から出てくるものに違いありません。
近年の鶴屋南北ブームのなかで、伊右衛門の「近代人的性格」が論じられるようになっています。周知のとおり「四谷怪談」は「忠臣蔵」の裏の世界として設定されています。伊右衛門を忠義の名のもとに討ち入りを強制しようとする封建社会の非人間的論理に敢然として反逆をいどんだ自由人と見ようというわけです。
ここではお岩は伊右衛門に討ち入りを強制しそれを拒否した彼を恨んで苦しめようとする体制的存在とみなされます。これに反抗する伊右衛門の気概を示す科白として挙げられるのが有名な「首が飛んでも動いてみせるわ」です。しかしこの科白は実は文政八年(1825)江戸中村座での初演にはないもので、翌年大坂で改作された「いろは仮名四谷怪談」で初めて登場する科白です。したがってこの科白で南北の作意を論じることはできないと思います。
しかしよく考えてみると、本当に伊右衛門はそんなたいそうな悪人なのだろうかという疑問がついつい湧いてしまうのです。
お岩を殺したのは伊右衛門ではない
うっかりすると錯覚してしまうのですが実は伊右衛門はお岩を自ら手を下して殺したわけではありません。お岩の面相が変わってしまったのは、彼が知らないうちに伊藤家の乳母の渡した毒薬のせいです。またお岩が死ぬのも、彼女がもののはずみで柱に刺さっていた刀にあたったからです。したがっていずれの場合にも伊右衛門は直接の当事者ではなく、伊右衛門の意思にかかわらず事が進んでいきます。もちろん結果的には女房を裏切っていてその死の責任を負うべき男ではありますが、しかし容色にかけて世を渡ろうとするしたたかさが本当に伊右衛門にあるのかはどうも疑問に思えるのです。
伊右衛門は事の成り行きからついふらふらと女房を捨てたけれども、心のどこかでは「これは俺のせいじゃない」と思っていて、どうして自分がお岩に追いまわされなければならないかを根本的に分かっていない人物なのです。どうしてこのような人物が、「体制への反逆者、あくなき自由を求める自由人」なのでしょうか。伊右衛門がお岩を捨てたのは、ただ若くて金のある女の方が寄生の対象として好都合だからに過ぎなかったのではないでしょうか。
例えば「蛇山庵室」での伊右衛門がお岩の幽霊に対して言う科白には、「喜兵衛が娘を嫁にとったも高野の家へ入り込む心。義士のめんめん手引きしようと不義士とみせても心は忠義。夫をあざとひ女の恨み。」とあり、最後に及んで見苦しく言い訳をしているのです。
この最後の科白が伊右衛門の「真の心」を吐露するものだという説もあります。いわば伊右衛門の「隠れ義士説」ですが、これはどうも疑わしいように思います。それならばお岩は最後に伊右衛門の誠を認めて彼を許さねばならないし、芝居としては権太ばりの「モドリ」の結末をつけねば納まらないように思います。
伊右衛門はその軟弱な行き当たりばったりの無定見な生き方ゆえに、自らの意思とかかわりなく復讐の対象に仕立て上げられ破滅していくのです。
お岩には伊右衛門を殺せない
このような伊右衛門を討つのに忠義の論理が役に立たないのは言うまでもありません。「隠亡堀」において「薬下せい」と言って出てくる小仏小平の幽霊はご主人大事の論理だけの幽霊ですが、伊右衛門に斬り付けられると骨に変わってバラバラと崩れ去ってしまうのです。
そこへいくとお岩の幽霊はしたたかです。お岩だと思って斬り付けてみれば、それは新妻お梅であったり喜兵衛であったりするのです。ここでも伊右衛門はそのつもりもないのに大量殺人者に仕立て上げられていくのです。
しかしお岩も「忠義の論理」を振りかざしている以上は、伊右衛門を脅し恐れさせても殺す事はできないのです。最終的にこの芝居で伊右衛門を殺し罰するのはお岩ではなく、佐藤与茂七なのです。(このことは別稿「与茂七と三角屋敷の意味」をご参照下さい。)
「夢の場」の意味
「夢の場」は美しいお岩の姿を見せるという意味でも必要なのですが、この場が暗転しそのまま「蛇山庵室」に続いていることを考えれば、伊右衛門という男の本質的な甘え症をロマンティックに描いてみせていると見るべきでしょう。お岩に追いまわされ散々苦労をしながらも、まだ伊右衛門は「あいつも昔はいい女だったんだがなあ」みたいなことを考えているのです。
一方のお岩の幽霊も「恨めしい」などと言いながら実は伊右衛門が好きなのじゃないかと言う人がいますが、「幽霊は恨みを晴らそうという一念で出る」ものでしょうから、お岩の幽霊が「恨めしいけどホントは好き」というような複雑な思考を持っている存在とは思えません。
しかしなにやらそう思わせるような、男と女の腐れ縁のような不思議な面白さを感じさせるのが「夢の場」での南北の作劇術の妙味なのでしょう。
理想の伊右衛門役者は?
そう考えると伊右衛門が単純に色悪の役どころだと決め付ける訳にはいかないことが理解されると思います。さてこうなると理想の伊右衛門役者はどういう仁の役者でしょうか。
従来イメージの色悪の役どころならば、ぴったりはまるのはやはり十二代目市川団十郎ではないでしょうか。昭和五十四年九月歌舞伎座での歌右衛門との舞台(当時海老蔵)は、線の太い豪気な雰囲気で妖しい光を放つような魅力がありました。
それでは本稿で述べた甘え症、無定見な軟弱な小悪人伊右衛門には誰がはまるでしょうか。私は案外十五代目片岡仁左衛門がいいのじゃないかと思います。昭和五十八年六月歌舞伎座での玉三郎との共演(当時孝夫)では、もちろん従来の色悪の線で演じていた訳ですが、どこかに甘えん坊的な感じがありたいした覚悟もないのに成り行きで悪ぶっている伊右衛門の薄っぺらさがよく出ているように感じられました。仁左衛門は「吉田屋」の伊左衛門を得意としていますが、一字違いの「伊右衛門」に必要なのはもしかしたら和事のじゃらじゃらした雰囲気であるのかも知れません。
そう言えば、武智鉄二演出(昭和五十一年六月岩波ホール)では三代目中村鴈治郎(当時扇雀)が伊右衛門を演じていますが、さすが武智の脚本読みの鋭さを感じさせる配役です。伊右衛門の凄みより和事の色気を重視したということではないでしょうか。
なぜ与茂七に伊右衛門が討てるのか
民谷伊右衛門を討つのはお岩ではなく、お岩の妹お袖の夫である佐藤与茂七なのです。伊右衛門が「何で身どもをいらざる事を」と言っているように大詰めでの与茂七の登場は観客にとっても意外です。誰もがお岩が伊右衛門に直接手を下して決着をつけることを心中期待しているに違いないからです。
お岩の幽霊は伊右衛門の母親や仲間たちをとり殺しているのだから、その霊力からして伊右衛門をとり殺す力はあるはずです。しかしお岩の幽霊は伊右衛門をとり殺すことはしません。いやお岩の背負っている「忠義の論理」では伊右衛門は殺すことはできないのです。
与茂七の登場について、これは四十七士の一人である与茂七が伊右衛門を塩冶浪士の裏切り者として討つことで、自由人伊右衛門が封建社会の論理で罰せられるのだと解釈する人が多いようです。確かにこの結末によって「四谷怪談」は表の世界である「忠臣蔵の世界」に収束されていくのですが、別の見方もできるのではないでしょうか。なぜなら民衆にとって塩 冶(赤穂)浪士は「腐ってない武士」ではあるが、忠義などという封建主義の論理を振りかざしていることでは他の武士と大同小異であるからです。
もし与茂七が単に塩冶浪士としての位置付けだけで「忠義の論理」を振りかざして登場するのであれば、小仏小平の幽霊が伊右衛門の刀に追い払われたように、与茂七に伊右衛門を討つ事はかなわぬはずではないでしょうか。したがって与茂七が伊右衛門を討ち得たからには、彼が封建社会の建前である「忠義の論理」ではなく、真の人間だけが持つ「誠の論理」が備わっているはずだと見なければならないと思います。
そのためには表の「忠臣蔵」は建前の世界で、裏の「四谷怪談」は本音の世界であるという従来の「並列の図式」を捨て去って「四谷怪談」の意味を読もうとしなければならないでしょう。
与茂七と「三角屋敷」の意味
「四谷怪談」では忠義という武士社会の論理のもとで、敵討ちを強制されて苦しむ人間の姿が描かれています。主君の無念を晴らすために家来たちが命も財産も投げ出すというような行為が誰にでも可能であったわけではありません。多くの人々が家族のため、あるいは生活のために心ならずも不忠者の名を着せられて脱落していきました。それを誰が非難できるでしょうか。
佐藤与茂七もまた一歩間違えれば伊右衛門の立場になったかも知れない人物です。与茂七も弱い人間で女房お袖を夜鷹に出させるような苦労をさせておきながら、一方で自分はこっそり夜鷹を買いにいくようなずるさを持っています。だから与茂七の塩 冶浪士としての栄光も、お袖の犠牲によって成り立っていることを考えれば討ち入りもきれい事では済まされなくなるのです。
「仮名手本忠臣蔵」七段目において由良之助が「女房に日々傾城の勤めをさするも皆、亡君の仇を討たんがため・・」と言っていますが、これを南北は「地獄宿」でもっと具体的に生々しく見せているのです。
だから与茂七がお岩の代わりに伊右衛門を討つ資格があるとすれば、それは「三角屋敷」の場において、女房お袖とその兄直助の死をまのあたりにして、生の無情と武家社会の論理の愚かしさを痛いほど感じながらも、それでも武士の誠の道として討ち入りをせざるを得ないという、人間としてのギリギリの生き方を与茂七が選び取ったからに他ならないのです。まさにその意味において赤穂義士は、武士階級のみならず町人階級においても手本となってきたはずなのでした。
表の世界である「忠臣蔵」が忠義の論理を押し付ける建前の世界だと割り切る限り決してこのことは見えてはこないでしょう。武士としての誇りも人間としての誇りも捨て去ってしまった伊右衛門を罰することができる人間は与茂七以外にはあり得ないのです。与茂七は塩 冶浪士としてではなく、「誠の人間」として伊右衛門を討つのです。
そう考えて初めてお岩と伊右衛門の筋からまったくはずれてしまう「三角屋敷」の存在の意味が理解されると思います。「三角屋敷」は与茂七を「伊右衛門の刑執行人」として承認するための手続きの場なのです。
怪談芝居としてみると「三角屋敷」は本筋から離れているように見えます。この場は「四谷怪談」のなかでは最も芝居らしい面白さのある場ではありますが、伊右衛門もお岩も登場しないのです。まさか洗濯桶からお岩の手がニュッと伸びてくるのをみせるためだけにこの場がある訳ではないでしょう。「三角屋敷」は最近あまり上演されないようですが、この場がカットされてしまうのも本筋から離れるように見えるせいでしょう。
しかし「四谷怪談」において伊右衛門を与茂七が討つ以上は「三角屋敷」なしで鶴屋南北の作意を理解することは不可能だと思います。このことは文政八年江戸中村座での初演時に三代目尾上菊五郎がお岩、小仏小平とともに与茂七を兼ねたという事実が証明しています。
南北作品のように歌舞伎オリジナルの場合には作者は役者にはめて台本を書くのですから、番附けが作品解釈の有力な手掛かりになるのです。言うまでもなくこの事実は、お岩と与茂七を同一役者が演じることにより役の並列的構造を観客に印象付けようとした南北の作意を反映したものだと思います。
南北の作劇術
考えれば考えるほど「四谷怪談」はラジカルな作品だと感じ入ってしまいます。世界の設定という歌舞伎の作劇術は「現代劇を作ってはならない」という幕府の弾圧に対する苦肉の策であったといいます。ところが南北は「忠臣蔵」と「四谷怪談」をテレコで上演することによって、「忠臣蔵」が本来秘めている封建社会批判の意図をより鮮明に浮き出させ、さらには「四谷怪談」は室町時代の架空の話ですと高らかに宣言して逃げを打ってしまうのですから、そのしたたかさには驚かざるを得ません。
南北の作劇術はよく言われるように退廃的、趣向的なものではなく、むしろはるかに健康な批判的精神を備えているのではないでしょうか。南北の生世話に、当時の社会風俗を描写しているという三面記事的な興味だけを見るのではなく、その底に潜む民衆のエネルギー、変革への意欲こそを見るべきだと思います。
「四谷怪談」の東海道
ある時にフッと思ったのですが、どうして「四谷怪談」は「東海道四谷怪談」というのでしょうか。ご存知の通り、「四谷怪談」は「忠臣蔵の世界」に仕組まれており、それ自体が忠臣蔵外伝といった形に作られています。それならば、翌年(文政9年)に大坂で上演された外題「いろは仮名四谷怪談」の方がピッタリする感じです。どうして「東海道」なのでしょうか。
一説によれば、今の神奈川県藤沢市あたりに四谷という地名があったそうで、南北は「四谷怪談」を忠臣蔵の世界・つまり江戸を鎌倉に置き換えるために、藤沢が「四谷」だという便法で「東海道」とつけたのだろうとも言われています。しかし、南北がはっきり「雑司ヶ谷四谷町」と書いていることですし、隠亡堀とか蛇山など実際にある地名も含めて、南北は「四谷」を江戸の地名であるとして書いているとしか思えません。
南北がこの芝居の外題を「東海道四谷怪談」としたのは、その名の通り江戸と上方を結ぶ大動脈である街道「東海道」を指しているのだろうと思います。上方は赤穂(つまり、ここでは表狂言である「仮名手本忠臣蔵」の世界)、そして江戸(つまりここでは裏狂言である「四谷怪談」の世界)とをつなぐ線こそが、この芝居を読む鍵であろうと思います。
「東海道四谷怪談」は文政8年(1825)7月江戸中村座での初演。鶴屋南北71歳の作品です。初演時にはこの作品は「仮名手本忠臣蔵」と交互に上演し、二日掛かりで完了する興行形式を取りました。
第1日:「忠臣蔵」大序から六段目までを上演し、次に二番目狂言として「四谷怪談」序幕から三幕目の「隠亡堀」までを上演。
第2日:まず「隠亡堀」を上演し、「忠臣蔵」七段目から十段目まで、次に「四谷怪談」四幕目から大詰めまで、最後に「忠臣蔵」の十一段目(討ち入り)を上演。
「隠亡堀」が重複して演じられているのが興味あるところです。また「四谷怪談」大詰めで伊右衛門が討たれる場面で雪が降っており・与茂七が火事装束で現れるのは、この場面が「忠臣蔵」のまさに討ち入り 前夜であるということ、つまり与茂七は伊右衛門を討った後に討ち入り現場(高師直館)へ駆けつけるということを示しています。
こうした上演形式をとったのは初演時だけのことで、再演以降は「四谷怪談」は単独で上演されてきました。怪談芝居としての「四谷怪談」の要素の方が主体になってしまって、仕掛け物・ケレン物としての工夫がされてきました。だから「四谷怪談」が「忠臣蔵」の世界であることは予備知識として持ってはいても、討ち入り物(「忠臣蔵」の世界)としての「四谷怪談」の意識はいまでは薄れてしまっていると思います。
「忠臣蔵」の世界は武士の建前の世界で、忠義・仇討ちの論理を伊右衛門に強制し、伊右衛門はこうした論理に反発し自由に生きようとようとして結局は建前の世界に殺されるという風に「四谷怪談」を読む見方があります。この場合には、お岩の幽霊は忠義の論理を夫に強制する対立存在として見ることができるでしょう。怪談芝居として恐ぁ〜いお岩さまを作り上げるためには、その怨念の対象である伊右衛門もそれなりの存在に仕立て上げなければなりません。伊右衛門が「色悪」という役柄で磨き上げられていくのも、そうした考え方によるものでしょう。
しかし南北の作意を読むには「四谷怪談」をもう一度「忠臣蔵の世界」に戻して同時代化の発想で読み直してみる必要があるかも知れません。
義士物の同時代化の発想
南北は本作を書くにあたり、お岩稲荷の由来を記した小説「四谷雑談集」を参考にしたと言われています。この小説は享保12年(1727)の成立ですから、お岩の怪談はかなり以前から江戸の街に流布していたことが分かります。「四谷雑談集」によれば、寛永の頃までは江戸の街は空き地だらけで、特に江戸城西の麹町あたりは草むらばかりでありました。そのなかに四つほど民家があってその所を「四つ屋」と称しましたが、やがて家が立ち並び「四つ谷」とも言うようになったのだそうです。また、この地には御先手組諏訪左門組が拝領して住んでいました。左門がここを拓いたというので「四谷左門町」と呼んだそうです。(注:「東海道四谷怪談」では実在の田宮家の抗議をはばかり雑司ヶ谷四谷町に変えられています。)
お岩は御先手組同心田宮又左衛門の娘で疱瘡を患って面相が醜かったのですが、摂州浪人伊右衛門という夫がおりました。この伊右衛門に、与力伊東喜兵衛が自分の妾お花を押し付けようとします。伊右衛門は喜兵衛らと策謀してお岩をさんざんにいじめ、離縁し、家から追い出します。その後の気が狂ったお岩の行方は知れませんが、やがて伊右衛門の周囲に次々と不思議な事が起こり、関係者はすべて死んでしまったと言います。ここではお岩は幽霊としてその姿を現してはきません。しかしその事件がお岩の怨念のせいだということは誰の目にも明らかなのでした。これが「四谷雑談集」の伝える話です。
ここで大事なことは、「お岩」とは先祖の拓いた土地を守っている一種の在地霊と見ることができるということです。お岩の怪談は同心の娘が与力の謀略で土地を奪われてその怨みで祟るという物語です。江戸中期からの急速な土地開発・それにともなう先住者と新参者の軋轢のなかでお岩の霊は江戸という土地と結びついて江戸の民衆に畏れられたということだろうと想像します。
「お岩は江戸の土着のイメージと結びついている」ということがまずキーポイントです。
江戸が「東海道」の東の端なら、西の端は上方(京大坂)です。鶴屋南北はもちろん江戸に生まれ・江戸歌舞伎のなかで生きてきた人間です。江戸の民衆から見た「上方」とはどんなイメージであったのでしょうか。
江戸には徳川幕府がありましたから政治的には上方より優位に立っていたと言えましょうが、経済的には江戸は常に上方に対し従属的位置にありました。近江屋とか伊勢屋とかいう屋号で分かりますが、江戸の商店というのは大部分が上方資本で、その背後には両替という上方の大資本家がいて、江戸の資金を植民地的に食い荒らしていたのです。当時の江戸の大店の番頭というのは大抵は上方出身者でした。例えば「お染の七役」に見られるように、南北作品になかにあるお店者(たなもの)への揶揄・嘲笑というのは、こうした上方の経済的搾取に対する江戸町人の怨みからくるものなのです。
こうした上方に対する江戸の位置が経済的にも文化的にも逆転し始めるのは寛政期ごろからのことです。それまでの江戸歌舞伎は初代菊五郎・初代富十郎らの上方役者を呼び寄せることでその技術水準を保っていたわけで、上方歌舞伎の方がつねに優位であったと言えましょう。それがはっきりと江戸の歌舞伎が優位に立つようになったことを示した事件は、寛政6年(1794)に当時最高の劇作家であった並木五瓶が上方から江戸に移籍したことでした。この時に南北は40歳。「五大力恋緘(ごだいりきこいのふうじめ)」(寛政7年・都座)は江戸に移籍した五瓶の傑作ですが、この初演には南北もスタッフとして参加しています。鶴屋南北は、この並木五瓶が江戸歌舞伎に伝授した作劇術の影響下に生まれた劇作家なのです。(南北が立作者となるのは通例よりかなり遅く、享和3年(1803)、南北49歳のことでした。)
このような東(江戸)と西(上方)の関係によって「忠臣蔵」を同時代化の発想で読み直したのが、「東海道四谷怪談」だと言えます。ここでは江戸は裏狂言の「四谷怪談」での在地霊としてのお岩に象徴されます。一方の上方は表狂言である「忠臣蔵」の世界です。これは塩 冶(=赤穂)浪士によって代表されています。注意いただきたいのは、東と西・あるいは裏と表は「対立関係」であるという風に単純に読まないということです。東と西の関係は複雑によじれながら絡み合っていると読んでいただきたいと思います。
この芝居に登場する人物は、お岩・お袖以外はすべて「忠臣蔵」の世界から来ています。つまり、すべて上方から流れてきた人々であったということです。判官の刃傷により塩 冶家は断絶し、家来たちは散りじりになって・ある者は商人に身をやつし・ある者は物乞い・夜鷹になって江戸で生活しています。ある者は密かに敵討ちの意志を持ちながら・またある者は生きるために志に背を向けて江戸の街に生きています。高師直討ち取りをめぐる男たちの思惑と欲望のなかで翻弄されつづけるのがお岩・お袖の姉妹なのです。
江戸の在地霊お岩の怨念は、勝手放題に経済的搾取をしてきた上方に対する怨念であったと見ることもできましょう。しかし一方で、まだまだ上方なしで江戸が成り立っていけないことも事実であったのです。そのことが伊右衛門・あるいは直助に頼らざるをえない姉妹の境遇に象徴されています。
さらに見ていけば「四谷怪談」に見られる風俗は南北の生活する文政期の江戸そのままです。当時の江戸には禄を失って路頭に迷う浪人がごろごろしていました。彼らのすべてが武士としてのプライドを捨てた人たちであったでしょうか。うらぶれた生活のなかでも志をもって清く生きた浪人たちもいたことでありましょう。南北はそうしたうらぶれた武士の姿に「忠臣蔵」のなかで江戸の街に身を潜めた義士・あるいは不義士たちのことを想ったに違いありません。伊右衛門の姿はそのまま仲蔵の演じた「忠臣蔵」の定九郎の姿なのではありませんか。南北のなかでは、善と悪、義と不義の明確な区分はなく、混沌のままにまかされているのです。
こうした同時代化の発想から見ますと、「四谷怪談は忠臣蔵批判である」と単純に読めないことがお分かりいただけると思います。むしろ、「忠臣蔵」を東と西の構図で読みながら、対立構図ではなくお互いを補強し合っているようにも思われるのです。南北の上方への想いも愛憎半ばしていると見ることはできないでしょうか。
「四谷怪談」の伏線の謎
「東海道四谷怪談」は文政8年(1825)7月江戸中村座での初演。鶴屋南北71歳の作品です。初演時にはこの作品は「仮名手本忠臣蔵」と交互に上演し、二日掛かりで完了する興行形式を取りました。
第1日:「忠臣蔵」大序から六段目までを上演し、次に二番目狂言として「四谷怪談」序幕から三幕目の「隠亡堀」までを上演。
第2日:まず「隠亡堀」を上演し、「忠臣蔵」七段目から十段目まで、次に「四谷怪談」四幕目から大詰めまで、最後に「忠臣蔵」の十一段目(討ち入り)を上演。
配役は、三代目菊五郎が「忠臣蔵」の由良助・勘平・戸無瀬の三役、「四谷怪談」のお岩・小仏小平・与茂七の三役の合わせて六役。共演の七代目団十郎は「忠臣蔵」の若狭助・千崎・石堂・大鷲文吾の四役に「四谷怪談」の伊右衛門。五代目幸四郎は「忠臣蔵」の師直・定九郎・郷右衛門・本蔵の四役に「忠臣蔵」の直助権兵衛。五代目半四郎は「忠臣蔵」のお軽・お石・お園の三役に「四谷怪談」のお袖でありました。
このように「四谷怪談」と「忠臣蔵」をテレコ上演するやり方は初演の時だけのことで、それ以後は「四谷怪談」は単独で上演されてお化け狂言として人気狂言になっています。ところで「四谷怪談」の人物関係は複雑で混乱しそうですが、ここでまず「四谷怪談」における 脇役の人物背景をご覧ください。
進藤源四郎:実説の赤穂藩士で不義士とされている人物ですが、芝居では伊右衛門の父親ということになっています。息子の伊右衛門は国元に居る時に塩冶家の御用金を横領した犯人でありました。芝居の終りの方で伊右衛門の不実を責めますが、自らは首をつって自害してしまいます。この源四郎は芝居のなかでは大きな位置を与えられていませんが、伊右衛門に「昔気質の偏屈親父」と言われて不義士の苦悩の心中を察せられる役と言えましょう。
お熊:伊右衛門の母親です。元高野家の娘ですが、源四郎と別れた後に師直に奉公して、塩冶家の顔世御前を師直に取り持とうとして判官刃傷の遠因を作る ことになっています。(このことは「隠亡堀」でのお熊の科白に出てます。)つまり、お熊が判官刃傷と塩冶家断絶の遠因を作ったということなのです。さらにお熊は「高師直のお直筆」を使って息子の伊右衛門を高野家に士官させようと画策 します。後に仏孫兵衛(小仏小平の父親)と再婚しますが、最後に蛇山庵室の場でお岩によってとり殺されます。このお熊は「忠臣蔵」との関連を考える時に非常に重要な存在です。
四谷左門:元塩治藩士。お岩・お袖の姉妹の父親ですが、零落して浅草観音周辺で物貰いをしてその日をしのいでいます。伊右衛門の御用金横領 の事実を知っており、伊右衛門をお岩と別れさせようとして、伊右衛門に殺されます。 父親を殺した犯人を知らないお岩は、伊右衛門に父親の敵探索と仇討ちを頼むのですが、これがまた伊右衛門の重荷になってきて、ついにはお岩に嫌気がさしてくることになるわけです。
このように「四谷怪談」の登場人物は「忠臣蔵」の世界と深く係っていることは明らかですが、いくつか気になる点が出てきます。例えば、伊右衛門の公金横領の話、お熊が師直に顔世への恋の取り持ちをするという話、あるいは「隠亡堀」でお熊が伊右衛門に手渡す「高師直のお直筆」なるものの存在などです。
これらの伏線は「四谷怪談」の台本だけ見てみるとあんまり効いているように思えません。お化け芝居として「四谷怪談」を見ている分には、あってもなくてもいい伏線のように思えます。初演の時にはテレコ上演したようだから・それで「忠臣蔵」に無理に関連付けるためにこういう設定をしたのだろうなどと、 吉之助も最初は軽く考えておりました。ところが「四谷怪談」と「忠臣蔵」との関連は見れば見るほど緊密なのです。南北がいい加減にこんな設定を書いたとは思えません。
だとすれば、「四谷怪談」の台本だけで見ると何やら詰まらない設定がテレコで上演した「忠臣蔵」の方に生かされているのではないか・もしかしたら「忠臣蔵」の方に「四谷怪談」の人物が活躍するような入れ事がされているのではないか・そうして両者がさらに緊密に関連するような形になっているのではないか 。つまり、「四谷怪談」に沿う形に筋の改変がされた南北版の「忠臣蔵」が上演されたのではないか。このような妄想がふと浮かんできたわけです。
ところが 残念ながら初演の時の「忠臣蔵」がどのような形で上演されたかということは、初演の時の「忠臣蔵」の台本が失われているので文献的にまったく分からないのです。数多い「四谷怪談」関連のほとんどすべての研究は、いつもの「忠臣蔵」がいつものように並べて演じれたのだろうという前提(あるいは思い込み)で成り立ってい ます 。 しかし、本当にどうだったのかは想像をするしかないわけで、吉之助にはまったくお手上げ 状態であったのですが、評論家・犬丸治氏がサイト「歌舞伎のちから」での記事「穂を摘んだ鷹たち〜失われた台帳」において、この問題に果敢に挑戦していらっしゃいます。
以下は犬丸氏の論文「穂を摘んだ鷹たち」の助けをもらいながら、「四谷怪談」初演時にテレコ上演された「忠臣蔵」がどんなものだったかを素人が無責任に気ままに想像してみようという試みであります。
御用金横領の件
まず伊右衛門の御用金横領の話ですが、これは「仮名手本忠臣蔵」にはまったく無い話です。これはじつは明和3年(1766)に書かれた近松半二の「太平記忠臣講釈」に源流があるそうです。「忠臣講釈」は数ある「忠臣蔵」の書替物のひとつで、昨今はあまり上演されませんが、四段目が俗に「石切りの勘平」として有名です。このなかに御用金紛失の件が出てくるのです。ここでの紛失は斧九太夫の仕業ということになっているのですが、この事件の責任を取って勘定役の早野三左衛門が切腹することになっています。三左衛門は、勘平の父親なのです。
話を「四谷怪談」に戻して、この御用金紛失の件に伊右衛門が絡んでいるとすれば、伊右衛門は「忠臣蔵」のドラマに予想以上に深く係わってくることになるでしょう。これを想像してみると、まず「忠臣蔵・四段目」判官切腹の後の城明け渡しの評定の場において こんな場面があったかも知れません。御用金の紛失が発覚して、九太夫(じつは伊右衛門に横領を指示したのが九太夫であった)がこの責を三左衛門に負わせて、申し訳に三左衛門は切腹します。この時点で、息子の勘平は殿の大事の場面にいなかった不忠に加えて、御用金紛失に絡む父親の責も負うことになるわけです。これでは勘平はとても義士の仲間に入れてはもらえません。
こうなると 「六段目」での勘平切腹までの事情も込み入って来るわけですが、勘平は紛失した御用金を穴埋めしなければならないから金が必要であったということになります。さらに勘平の殺したのが定九郎(九太夫の息子)であるわけですから、勘平は義父・与市兵衛の仇だけでなくて父・三左衛門の仇も半ば討ったことになるかも知れません。また「七段目」幕切れで由良助がお軽に手を添えさせて九太夫を刺させるのも、お軽に夫の仇・義父の仇である九太夫を討たせるという強い理由が出来ることにもなりましょうか。
さらに初演の三代目菊五郎がお岩と勘平を兼ねていることにもご注目ください。「六段目」の勘平はもしかしたら「御用金を盗んで父を切腹に追い込んだ犯人が憎い」と言って死んだかも知れません。紛失した御用金の工面のために女房・お軽は身を売ることになり、自分もまたここに死なねばならぬ羽目に陥ったわけです。だとすれば勘平の怨念の対象は伊右衛門ということになり、「四谷怪談」浪宅において同じく伊右衛門を恨んで死ぬお岩と完全に照応することになります。
「六段目」は第1日の一番目の最後に上演されるのですが、二番目の「四谷怪談」序幕・浅草境内の場において四谷左門が次のように言って伊右衛門の御用金横領を指摘しています。
「(左門が伊右衛門が許さない)申し訳は、いまだ御主人繁盛のみぎり、お国元にて御用金紛失、その預かり主は早野勘平が親三太夫、落ち度と相なり切腹して相果てた。その盗人もこの左門、よつく存じて罷りあれど、この詮議中お家の騒動。・・・何もかも言わずに居るは身が情け。それゆえ娘は添わされぬ」
この台詞で観客は「ああ、こいつが勘平を切腹に追い込んだ犯人なのか」ということはすぐ分かるでしょう。この冒頭で、伊右衛門が罰せられるべき人物であるのは誰の目にも明らかになり、「四谷怪談」と「忠臣蔵」は最初から深く結びつくのです。
師直の恋の取り持ち、さらに驚愕の事実が
伊右衛門の母親・お熊は、師直が顔世御前に横恋慕するのを取り持ちすることになっています。このことは「隠亡堀」の場でのお熊の台詞に出てきます。
「知りやる通り、昔のつれあい新藤源四郎殿と離別してより、師直さまへお末奉公。そのみぎり塩冶の奥方顔世どのを御前さまへ取り持とうとかかってみたが、しぶとい顔世のご不自由ゆえ塩 冶の騒動。その時、師直さまのおっしゃったは、その方もしか後々に難儀の身分となったなら、これを証拠に願うてこいと、これこれ、これはアノ、御前さまの御判のすわりし御書き物、御直筆にて、いわばわしへのお墨付き・・・」
つまりお熊は、判官刃傷とお家断絶の原因に深く係わっているわけです。想像してみると、「忠臣蔵・大序」冒頭において師直がお熊を伴って登場 して、兜改めの前にお熊が師直に恋の手引きのアレコレを伝授するなんて場面が浮かんできます。恋の取り持ちの場面が「忠臣蔵・大序」の方にあれば、「隠亡堀」の場を見ている観客は「ああ、あの大序の時の女がこの婆か、まったくトンデモナイ親子だな」とすぐ分かることになりますから、ますます「四谷怪談」と「忠臣蔵」は結びついていくのです。
さらにお熊の台詞では、お熊が息子・伊右衛門に渡す「師直のお墨付き」のことが気になります。これが一体何を証明するお墨付きなのかは「四谷怪談」だけを見ていると結局分かりません。どこにも書いてないのです。昔奉公したご主人が書いてくれた就職紹介状くらいの価値があるようにしか見えません。しかし、お家物の場合の「お墨付き」というのは、たいてい非常に価値があるものでドラマの展開のなかで行ったり来りするものです。もしそうならば「四谷怪談」での「師直のお墨付き」にはどの程度の価値があるものなのでしょうか。
犬丸氏はここで「高師直のお直筆」は、実は伊右衛門が高師直のご落胤であることを証明するものではないかと推測しています。その源流は、文政4年(1821)に初演された南北作の「菊宴月白浪」に登場する雇い婆・お虎の台詞です。ここでお虎は古骨買与五郎に対して、あなたこそ師直さまのご落胤だと言って次のように物語るのです。
「もともと私は高野の御家に腰元奉公、その頃親御師直さま、手廻りの女にお手を付けられ、ほどなく懐妊。奥方のご嫉妬強く、是非に及ばずお暇下され、月日重なりお前を産み落とすと、七夜のうちに母御は病死。私もそののちお暇もらひ、月日送るそのうちに、師直さまには去年の騒動・・・」
ここでは師直の書付けの入った守り袋が登場するのですが、この設定が「四谷怪談」では「師直のお墨付き」に変化しているのではないかと推測するのです。「四谷怪談」には伊右衛門が師直のご落胤だとはどこにも書いてありませんが、伊右衛門が新藤源四郎の実子でないことは「蛇山庵室」で源四郎が「離縁した女房の実子」と言っていることで分かります。もし伊右衛門が師直のご落胤ならば、高野家臣・伊藤喜兵衛が伊右衛門と娘を結婚させようとしたのは、お梅が伊右衛門に恋したからというのだけが理由なのではなくて、主家との絆を強固にしたいとの目的 があったに違いありません。そうでなければ、判官刃傷のことで主人師直に印象の良いはずがない塩冶浪人をわざわざ婿に迎えようとするのも不思議なことに思えます。また伊右衛門が師直のご落胤であれば、「忠臣蔵」の世界から見た時に伊右衛門が誅すべき存在( 単にお岩の敵であったからだけではない・まさに義士にとっては憎っくき敵・師直の一族ということなのです)である理由がますます強化されるということになります。
こう考えますと、「大序」冒頭には、師直がお熊に恋の手引きをしてもらう場面だけではなくて、我が子・伊右衛門が難儀ある時はこれを持って来いと言って師直が「お墨付き」をお熊に手渡す場面もあったのではないかと想像できるわけです。
さらに「隠亡堀」において直助が伊右衛門に向かって「なるほどお前は強悪だなあ」と言い、伊右衛門が「強悪にやあ誰がしたえ」と返す有名な場面も、これは七代目団十郎が実悪の大先輩・五代目幸四郎に対する敬意を込めたものだと言われますが、父・師直(幸四郎)に対して息子・伊右衛門(団十郎)がそう言っていると考えれば、これはなかなか意味深な場面だということになります。まさに伊右衛門は師直の悪を継いでいるわけですから。
なお、絵番付けでは「隠亡堀」が第1日目最後と第2日目の最初と二回上演されているようになっていますが、本当にそうなのかは疑問も提出されていて様々な論争がされているそうです。しかし、「大序」に師直がお熊にお墨付きを手渡す場面があるならば「隠亡堀」でそれが伊右衛門の手に渡っていることを観客に見せるのは意味があると思いますから、初日最後の「隠亡堀」上演は間違いない ように吉之助には思えます。また2日目冒頭に「隠亡堀」を上演して「お墨付き」の存在を印象付けておけば、最後の「蛇山庵室」で大事なお墨付きはネズミ(ネズミはお岩の怨霊の化身と考えてよい)に食い散らされてしまうのですが、2日目だけの観客にもその意味がよく分かる から親切というものでしょう。もし伊右衛門が師直のご落胤であるならば、このことは非常に重要です。これは伊右衛門の逃げ路がお岩の怨霊によって完全に断たれたということを意味するからです。だから 吉之助は「隠亡堀」は絵番付け通りに2日とも上演されただろうと想像するわけです。
さらに犬丸氏は「夢の場」に在原業平の「東下り」のイメージが託されているのではないかと推測しています。「夢の場」は幻想的で美しく「四谷怪談」のなかでも特異な位置を占めます。そこに見られる若殿姿の伊右衛門と田舎娘のお岩が出会うシーンが「伊勢物語」の「昔、おとこありける・・」というのを連想させるというわけです。これも非常に興味深いご指摘です。「四谷怪談」の登場人物のほとんどは「忠臣蔵」の世界からやって来た・つまり上方から流れてきた人たちであるからです。さらに伊右衛門が師直のご落胤であるとすれば、伊右衛門の 流転する数奇な運命は「貴種流離譚」の趣を呈してくるわけです。この幻想的な「夢の場」が一転して陰惨な「蛇山庵室」になってしまう という・発想の飛んだところが何と言っても「南北の妙味」でありましょう。
初演の三代目菊五郎が、お岩とともに与茂七、さらに「忠臣蔵」の由良助も兼ねていることも興味深いところです。与茂七がお岩の刑執行代理人であるということは別稿「与茂七と三角屋敷の意味」において考えたことがありますが、由良助もまた「四段目」において主人判官に「我が無念を晴らせよ」と復讐を託された人物なのです。(別稿「由良助は正成の生まれ変わりである」をご参照ください。)終幕において与茂七は伊右衛門を討ち・由良助は師直を討つことで、ふたつの「世界」は照応されて、同じ形に落ち着きます。伊右衛門が師直のご落胤ならば、まさにふたつの結末はぴったりと符合するのです。
「四谷怪談」から見た「忠臣蔵」
長々と書きましたが、以上は吉之助の想像に過ぎません。しかし、この想像が違ったとしても「四谷怪談」での伏線はそのまま原作にあるものですから「忠臣蔵」との基本的関係が変化するわけではありません。ただこ んな風に初演のテレコ上演のありさまを想像してみると、「四谷怪談」と「忠臣蔵」の関係がよりクリアに・より強固に見えてくるような気がしてくるではありませんか。
こう想像して見ますと「四谷怪談」と「忠臣蔵」というのは単純にふたつ並べて上演されて並列的・対立的に見比べられるものなのではなくて、二つの芝居が渾然一体となって・複雑に絡み合ってお互いの世界の響きが共鳴し合う形になっているように思われ ます。そのために南北は、初演の「四谷怪談」を「忠臣蔵」とのテレコ上演という特異な形態を意図的に上演したと想像できます。
ここでは「忠臣蔵」のドラマも、市井にある「四谷怪談」のドラマもまったく等価に置かれています。由良助の一力茶屋での遊びも、与茂七の地獄宿での遊びも同じ次元に並べられます。お軽は夫のために身を売り、お袖も夫のために身を売ります。これも同じ次元なのです。しかし、誤解しないで欲しいと思いますが、これは「忠臣蔵」の聖性を引きずり下ろして笑い飛ばそうというような南北の意図があるとは 吉之助はまったく考えていません。(このことは別稿「今日もまたそのようになりしかな」において考察しました。)
「忠臣蔵」は表の世界(建前の世界)・「四谷怪談」は裏の世界(本音の世界)というような対立構図に見るのではなくて、もっと大きく全体を「忠臣蔵」の世界で包み込む構図 を想像してみたいと思います。こうして、市井の世界に迷い込んだ伊右衛門もお岩も・すべての人間世界のドロドロが最後には「忠臣蔵」のあるべき世界に収攬されていく形になっていると思うわけです。
このように 「四谷怪談」での南北の仕掛けが成り立つためには「仮名手本忠臣蔵」が提示する完璧な義士像が観客の観念のなかにあるということが前提にあるのです。南北はこのような二つの世界が絡み合う構造を用意して、「忠臣蔵」の世界をよりリアルに生々しく再生させたのだと思っています。 吉之助には「四谷怪談」終幕にふる雪はやっぱりキレイに見えます。降る雪がすべてを静かに清めてゆきます。「今日もまたそのようになりしかな・・・」
夏狂言としての「四谷怪談」
「東海道四谷怪談」は文政8年(1825)江戸中村座で7月に初演されていますから・典型的な夏狂言です。「四谷怪談」は永くお岩さまの怪談芝居として上演されてきて、江戸での菊五郎家・上方では右団次(斎入)の洗練された演出が歌舞伎に伝わっています。
ところで、「四谷怪談」はお岩/伊右衛門が関連する場面だけ抜き出してみると・どの場面も何となく夏の雰囲気らしく思えます。お岩が醜い姿になって死ぬ「浪宅」は蚊帳が重要な小道具になっていることから分るように・もちろん夏の場面です。お岩/伊右衛門が美しい姿で登場する幻想的な「夢の場」は七夕祭りですから・これも夏です。一方、「隠亡掘」も「蛇山庵室」も盂蘭盆らしい雰囲気に思えます。百万遍の唱えられるなかで・提灯がパッと燃え上がって・そこからお岩の幽霊が現われるのも・いかにも夏らしい雰囲気です。
これは夏狂言の怪談芝居だからそのように思い込んでしまうせいもあります。しかし、脚本を読むとこれが実はそうではないのです。「隠亡掘」の場面は伊右衛門の行方を尋ねる伊藤の妻お弓の質問に対する直助の返事から・事件から四十九日以上経っていることは明白でして・つまり初秋のことになります。「夢の場」の舞台が廻ると「蛇山庵室」になりますが、「蛇山庵室」は外が真っ白な雪景色ですから・これは冬なのです。もしかしたら「蛇山庵室」の雪景色に観客は清涼感を感じるという効果があるかも知れませんが・それは副次的なもので、この場面の雪景色にはむしろかなり違和感があります。「えっ、この場面は夏じゃないのか?なんで雪なんだ?」という感じがします。この違和感を大事にしたいと思います。そこに「四谷怪談」を考える鍵があると思います。
お岩さまの怪談芝居としてだけ考えると・「四谷怪談」は夏の季節感で通してしまった方がずっとスッキリ来るのです。怪談芝居としての「四谷怪談」がひとり歩きしていくなかで、「三角屋敷」や「小平住居」があまり上演されなくなったのは・時間的制約だけがその理由ではなくて、ごく自然な流れであるのかも知れません。怪談芝居として「四谷怪談」を見る分には「忠臣蔵」の件は余計です。お袖の夫が与茂七である必然も・小仏小平の主人が潮田又之丞(これも四十七士)である必然もないわけです。
「四谷怪談」を現代的な視点で解釈することは興味深い試みです。男(伊右衛門)と女(お岩)の暗い情念の物語と読むことも、飽くなき自由を追い求める近代的性格の人物(伊右衛門)と解して・これを縛り絡め取ろうとする世間あるいは体制(お岩)の物語として読むことも出来るかも知れません。それならばいっそのことお岩/伊右衛門の件を中心に・思い切って「忠臣蔵」から離してしまった方が芝居の自由な解釈が可能になるかも知れません。
しかし、「四谷怪談」での与茂七の件の比重を重くしようとするのであれば、それは必然的に「四谷怪談」を「忠臣蔵」に結びつけることになります。そう考えると・この「四谷怪談」に季節のサイクルを与えているのは、「四谷怪談」のもうひとつの筋・すなわち佐藤与茂七に関連する「忠臣蔵」のサイクルから来るわけなのです。
大詰「蛇山庵室」がどうして雪景色であるかと言うと、ここで与茂七が白装束で現われるからです。ここに来て観客には日付刻限までが明確に分ります。それは大星由良助以下四十七士が高家討ち入りをする直前・つまり12月14日の前夜ということになります。与茂七はこの場で伊右衛門を討ち果たした後に高師直屋敷に駆け付けて、討ち入りに参加するのです。
つまり、与茂七の役割は「四谷怪談」を「忠臣蔵」の世界に結びつけることです。このことは「四谷怪談」の完全通しがもはや不可能で・場面の取捨選択をせねばならない現代においては大事なことです。お岩も伊右衛門も・直助も「忠臣蔵」から離れたところで生きていたとしてもおかしくない人物たちです。しかし、与茂七は四十七士の一員であり・「忠臣蔵」の世界から来ているのが誰の眼にも明白な人物です。与茂七が登場すると観客は「討ち入り」のことを思い出さざるを得ません。と言うよりも・観客の脳裏に「忠臣蔵」の世界を呼び覚ますのが与茂七の役割 なのです。
「歌舞伎素人講釈」では「三角屋敷」はお岩の代理として伊右衛門を討つ役割を与茂七に与える場であると解釈しています。(別稿「与茂七と三角屋敷の意味」をご参照ください。) 「四谷怪談」を見れば与茂七の件はお岩の件に対して脇筋のように思えます。しかし、それまではあってもなくても良いように思える与茂七の件が「三角屋敷」の場によって・お岩/伊右衛門の件にはっきりと絡んで来るのです。これが「三角屋敷」が「四谷怪談」のなかで背負っている役割です。つまり、与茂七を考えることは「四谷怪談」における「忠臣蔵の世界」の枠組みをどう捉えるかということになります。
お岩のプレッシャーの正体
ご存知の通り、文政8年(1825)7月江戸中村座での初演では「東海道四谷怪談」は「忠臣蔵」とテレコで上演されました。(これについては別稿「四谷怪談から見た忠臣蔵」をご参照ください。)何のために「四谷怪談」は「忠臣蔵」の世界に絡められているのでしょうか。
一般的な「四谷怪談」のイメージは上方で再演された「いろは仮名四谷怪談」など・その後に上演されてきた怪談芝居の「四谷怪談」によって作り上げられてきたイメージです。例えば 「首が飛んでも動いてみせるわ」という台詞は伊右衛門の性格を現す象徴的な台詞としてしばしば挙げられますが、これは実は「いろは仮名四谷怪談」で初めて登場する台詞で・南北の初演本には出てこない台詞です。とすれば・この台詞を以って南北の意図を議論するのはどうかと思います。これらをごっちゃにした形で・怪談芝居の「四谷怪談」がひとり歩きして・論じられることが多いのです。
しかし、正真正銘オリジナルの南北の「東海道四谷怪談」の場合は「忠臣蔵」 を切り離すことはできません。一般的に言われるような・「四谷怪談」を「忠臣蔵」のパロディーであるとか、「忠臣蔵」は表(建前)の世界・「四谷怪談」は裏(本音)の世界であると言う見方では「四谷怪談」は十分に読み解けないと吉之助は思っています。
伊右衛門は自分を縛ろうとする社会(あるいは世間)の「しがらみ」の疎ましさから逃避しようとしていることは確かです。「しがらみ」のひとつは公の問題・つまり赤穂浪士の高家討ち入りの問題ですが、一方、伊右衛門は私(プライヴェート)の場面においても「しがらみ」に追われています。それはお岩の父 四谷左門を殺した犯人を捜して仇を討つということです。(実はその犯人は伊右衛門なのですが、このことをお岩は知りません。)仇討ちの件で・伊右衛門はお岩からプレッシャー(圧迫)を受けています。それが伊右衛門がお岩を疎ましく思う遠因になっているわけです。
ところで、幽霊と化したお岩は伊右衛門に「恨めしい」とは言いますが・伊右衛門に「仇討ちをしてくだされ」とは言いません。生前のお岩は・愛する男伊右衛門が父の仇をとってくれるのが「その愛の証」であると思っていたはずです。「常から邪険な伊右衛門どの・・・ひょんな男に添いとげて、辛抱するも父さんの、敵を討ってもらいたさ」とお岩は言っています。「そうでなければ私はあなたとはとっくの昔に分かれていますよ」と言ってはいませんが、そうやって伊右衛門に無言のプレッシャーを掛けています。そういうところが伊右衛門には疎ましく感じられます。
恐らくお岩は伊右衛門が信用できない人間であることは薄々感じてはいるのですが、お岩はそうした内心の疑いより・世間体の方を大事にしているのです。伊右衛門に邪険されればされるほど・お岩はますます大義にしがみついていきます。しかし、伊右衛門が自分を裏切って他の女に走ったと知った時点で仇討ちの大義は消し飛んでしまいました。幽霊になったお岩は「仇討ちをしてくだされ」などと今さら言っても仕方ないのです。だから伊右衛門がますます「恨めしい」わけです。
ここでお岩が伊右衛門に与えていたプレッシャーの正体が明らかになります。それは「私を愛しているなら・私が望む通りのことをして」というプレッシャーなのです。これは間違いなく「かぶき的心情」です。別稿「その心情の強さ」をご参照ください。これは「私があなたを愛しているのと同じくらい私を愛して」の変形だと言えます。
だからお岩の怨念というのは私的なレベルだと言えますが、これが大詰「蛇山庵室」において一気に公的な意味を持つものに転化していきます。これは夫婦間のドロドロした喧嘩の果てに・夫が妻を殺してしまったという事件が法廷という公の場で裁かれるというのにちょっと似ています。「あの人は私を殺した悪い人だから・あの人を罰して」とお岩の幽霊は世間に訴えているのです。夫婦の間で起こった犬も喰わない諍いを公平に裁くのは厄介なものです。しかし、表沙汰になってしまったものは公の法律で裁かねばなりません。「妻を殺した」という事実だけで夫は裁かれます。「殺された」と言う事実だけで世間はお岩の味方です。伊右衛門が事情をいくら説明しても誰も理解してくれません。そんなものは犬も喰わないのです。だからお岩が刑執行人に与茂七を選ぶのは社会的な意味があるわけです。
お岩が刑執行人に与茂七を選ぶのは、それにふさわしいと誰もが認める資質を与茂七が持っているからだと考えられます。それは与茂七が塩冶義士であるということです。このことは未来(つまり芝居の結末)から逆転して考える必要があります。お岩が与茂七を選ぶのは与茂七がお岩の妹お袖の夫であるということとか・あるいはお岩の櫛にまつわる怨念の糸で与茂七が伊右衛門を討つのだと考えるのは、原因から結果への流れで芝居を見ようとしているわけですが、そうではなくて・芝居全体から構図を読んでいく必要があります。
お岩の怨念を公的な意味に結びつけるために塩冶義士である与茂七がお岩の妹お袖の夫でなければならないのです。伊右衛門が不義士であることも・結局はそのために設定されていることです。そのように芝居は設計されているのです。
社会とは鏡である
「夢の場」は綺麗なお岩と伊右衛門の姿を見せることが出来ますから・役者にとっても嬉しい場面のはずですし、この舞台が廻って・陰惨な蛇山庵室に転換するのも・南北 劇独特の妙味があって面白いのに、舞台にあまり掛からないのは実に不思議なことですね。この美しく幻想的な場面は蛇山庵室で半狂乱になっている伊右衛門がうなされながら見る夢です。「夢の場」はお岩と伊右衛門の不思議な関係を象徴的に表しています。
もともとお岩の父四谷左門が引き離そうとしたのを無理に一緒になっているくらいですから、伊右衛門はホントはお岩が好きであったのです。「夢の場」では伊右衛門がお岩を無惨に死なせたことをちょっぴり後悔しているらしいことさえ伺えます。ところが、そのような好きな女を相手にしていても(好きだからこそと言うべきか)・伊右衛門の心は酔い切れない。伊右衛門はどこか醒めています。そして、女の心のなかにどこか 恐ろしいものを感じています。そういう伊右衛門の心理が「夢の場」に表れています。
「そういうそなたの面差しが、どうやらお岩に・・・」/「似たと思うてござんすか。但し面影は冴えわたる、あの月影の移るがごとく、月は1ツ、影は二ツも三ツ汐(満汐)の、岩に堰かるるあの世の苦患を・・」/「ヤヤ、なんと」/「うらめしいぞえ、伊右衛門どの」
これは美しい娘の面差しが次第にお岩に変化したとも考えられますが、伊右衛門の心が娘の顔を醜く変えたとも言えます。あるいは物理的に娘の顔が変化したわけではなくて・伊右衛門の眼に変化したように見えただけと考えても良いかも知れません。つまりそこに伊右衛門の心の本質的な冷たさがあるのです。格好は良くて・女性にはモテるけれども、その生き方は虚無的で・周囲を不幸に巻き込んでいく冷たい性(さが)です。
結局、「四谷怪談」の陰惨な物語はすべて伊右衛門の虚無的で・自己中心的な性格が引き起こしたものであることがここで分ります。すべての事件(現象)が伊右衛門の性格に対する社会(世間)の反応として起こったものだと言うことになります。つまり、社会(世間)とは伊右衛門の性格を映している鏡なのです。
ここでは幽霊のお岩の姿がいつの間にやら社会(世間)の見方を代表しています。私的な怨念がいつの間にか公的な怨念に変化しているのです。ほんの出来心の・私的なレベルのつもりでやった悪事がいつの間にやら大事(おおごと)になってしまいます。考えようによっては、これは幽霊よりずっと恐ろしいことです。伊右衛門自身の行為とそれが引き起こした事件との因果関係の糸から、伊右衛門は決して逃れることはできません。こうして伊右衛門は最後には自らの因果の糸に絡め取られていきます。
幽霊の背負う真実
伊右衛門の置かれた状況を・個人と社会(あるいは世間)の対立構図で読むこと自体は必ずしも間違いとは言えないと思います。しかし、社会(世間)を個人の自由を束縛する「悪」という固定観念だけで見ようとするならば・やはり「四谷怪談」を読み間違えることになると思います。なぜなら人間は個人ひとりで生きているのではなく・共同体のなかで生きているのですから、「しがらみ」が人間を人間らしくさせるという場面も・それは確かにあるからです。「しがらみ」を拒否してしまうのは、人間であることを拒否するのと変らないのかも知れません。
確かに「世間のしがらみ」を呪いたくなる場面は現代においてもいろいろあるでしょう。現代芸術でもそれは大きいテーマになるものです。しかし、社会(世間)は人間性と敵対し・ 自由を求める個人の生き方を抑圧するものだと呪うだけでは、やはりちょっと底が浅くなると思います。
このことは「四谷怪談」だけでなく・南北作品によく出てくる幽霊に対する乾いた「笑い」を見ても分ります。幽霊はそれがなおも固執し・それ故に成仏できない・何かの「しがらみ」を背負っています。幽霊は嘘をつきません。そして、ただひたすらに訴えるだけです。そこに幽霊が引きずっている何がしかの真実があるのです。
「桜姫東文章」において・清玄が生きていた時にはあれほど逃げ回っていた桜姫が、驚いたことに「山の宿」では幽霊になった清玄の言うこと(桜姫の父・弟を殺したのは権助であることなど)を実に素直に聞くのです。どうして桜姫は「そんなことは嘘だ・信じられない」と幽霊に言い返さないのでしょうか。それは桜姫には幽霊の言うことが真実であることが分っているからです。
「三角屋敷」では・殺したはずの与茂七が現われて直助は驚いて「幽霊が来た、幽霊が来た」と大騒ぎをします。幽霊の存在を信じていない現代人が「幽霊なんて馬鹿なことで騒いでる」という目で芝居を見るならば、その騒動は南北が幽霊を戯画化して笑いのめしていると見えるでしょう。しかし、江戸の昔の人々は霊魂の存在を信じていたわけですから ・これはまったく逆に考えるべきでして、南北は騒ぐ人間たちの方を茶化しているのです。南北作品の幽霊の笑いのなかに庶民の健康な批判精神を見たいと思います。
シーニュとしての与茂七
与茂七がお岩の刑執行人であるという劇構造をシーニュ(記号・意味あるもの・象形文字)として観客に印象付けるためには、お岩と与茂七をひとりの役者が兼ねると言う方法が最も効果的な方法です。文政8年(1825)中村座での初演では三代目菊五郎がお岩と与茂七(さらに小仏小平)を兼ねて演じました。この配役なら南北の意図が観客にはっきりと実感されると思います。大詰では菊五郎は与茂七で舞台に出ていますから ・当然お岩は登場できないので、その代わりにお岩の化身である鼠が登場して伊右衛門を責めます。
お岩と与茂七を別々の役者が演じるのであれば、原作にはないけれど・大詰でこんな演出も考えられるかも知れません。大詰で討入装束姿の与茂七が現われて・伊右衛門に打ち掛かりますが・伊右衛門も必死で反撃をします。与茂七の形勢が不利になると・ドロドロが掛かってお岩が現われて与茂七の加勢をするのです。伊右衛門の動きがお岩によって止められます。そこで与茂七が反撃に出ます。これが何回か繰り返されて、ついに与茂七が伊右衛門を仕留めます。これならばお岩と与茂七との関係が観客に明確に理解できるかも知れません。
お岩の幽霊は伊右衛門の周辺の人々を圧倒的な力で殺していきます。最後ひとり残った伊右衛門をお岩はどんな形でとり殺すのでしょうか。お岩が伊右衛門にどんな形で対するのか。観客は固唾を呑んで見守ることになります。ここが怪談芝居のクライマックスです。ところが、お岩は伊右衛門を自らの手で殺すことをしないで・最後にこれを与茂七に任せてしまうのです。だから、大詰で 白装束の与茂七が現われて伊右衛門を討つのは、その一面真っ白の雪景色ともども観客にとって意外なことです。伊右衛門さえ与茂七に対して「なんで身どもを、いらざることを」と叫んでいます。その驚きこそが大事です。観客は「四谷怪談」が忠臣蔵の世界の大きな枠組みのなかに取り込まれて・まさに納まった瞬間を見るのです。これこそが時代物の醍醐味です。
ここで「四谷怪談」を時代物と書きましたけれども、ご承知の通り・一般的な歌舞伎の解説書では「四谷怪談」は生世話物に分類されています。しかし、本稿をここまで読まれた方はお分かりの通り・「四谷怪談」の骨格は忠臣蔵にあるわけで、「四谷怪談」は正しくは時代物と呼ぶべきなのです。登場人物の多くは上方から流れてきた者たちであり・武士言葉を使うことから、演技様式的にも時代物であることが言えます。(「四谷怪談」の姉妹編とも言うべき「盟三五大切」についても同じことが言えます。)「四谷怪談」は初演では「忠臣蔵」の二番目の位置に置かれていたわけですから、まあ、その点で純然たる時代物より世話物の方に傾いていることも事実ですが、しかし、「四谷怪談」を「忠臣蔵」のアンチテーゼであると考える限り「四谷怪談」の本質には迫れないと思っています。
時代物としての「四谷怪談」
「四谷怪談」大詰は与茂七が伊右衛門を斬りつけたところで・ドロドロになって・両人キッと見合って・そこで幕になります。伊右衛門がトドメを刺されるところまでは舞台では見せません。そうなると「果たして伊右衛門は死んだのであろうか」、このような疑問が出て来るかも知れません。しかし、その答えは明確です。もし伊右衛門が死なずに・生きているなら、与茂七は高師直屋敷討ち入りの現場に駆けつけることができなくなります。四十七士の討ち入りが成功したことは厳然たる観客の常識(歴史的事実)としてあります。だから、伊右衛門が与茂七に討たれないなんてことはあり得ません。このことは疑う余地もないことです。
伊右衛門が討たれるところを舞台で見せないで・「まず本日はこれ切り」とやることは、その芝居の結末(方向)が明確に定まったという事実があって・はじめて出来ることです。伊右衛門は死なないまま・宙に浮いた状態に置かれるのではなく、むしろこれは伊右衛門が生きたまま死刑台に乗せられ・ 首に縄を掛けられたことを意味するのです。そうすることでお岩の怨念のエネルギーが最大に高められるのです。
「デタント」という言葉をご存知でしょうか。東西冷戦状態(1960年後半から70年代にかけて)の米国と旧ソビエト連邦の政治対話の試みを指したもので、一般的には「緊張緩和」と訳されています。デタントは東西両陣営の軍事力が均衡し、「全面核戦争か平和共存か」という危機認識のなかで生まれたものでした。実は「デタント」は仏語のDétenteに発した語句で、弓をつがえて・引き絞り・相手に狙いを定めた形で互いに向き合った状態を表す言葉です。つまり、「緊張緩和」というのは正しい訳ではないのでして、デタントとは緊張が最高に高まって凍りついた状態を指しているのです 。
「曽我の対面」は曽我兄弟がその場で工藤祐経に襲い掛かって討ってしまわないのも、このデタント状態です。これは「引き分け・再試合」ということではありません。兄弟は仇敵に後日に再会を約してその時に必ず討つことが定まっているのですから、怨念のエネルギーはその時に向けて・より高められたのです。「今のところは生かしておいてやる」というように。そして兄弟は来るべき宿願の成就を確信します。そこに予祝性があるわけです。
「四谷怪談」の大詰も同様に考えられます。文政8年江戸中村座での初演では与茂七が伊右衛門を斬りつけ・両人キッと見合って・そこで幕になった後、舞台は転換して「忠臣蔵・十一段目・討ち入りの場」に続きます。お岩の怨念のエネルギーは最大に高められて「討ち入り」の歓喜のフィナーレへ爆発的に流れ込むのです。このためにお岩の刑執行人として ・四十七士の一員である与茂七が伊右衛門を確かに討たねばならぬのです。そのように南北の「四谷怪談」は設計されています。
こうしたことは「忠臣蔵」とのテレコではなく・「四谷怪談」だけが単独に上演される現代においてはどうでもいいこと なのでしょうか。そうではなくて、「四谷怪談」だけの上演でも・テレコ上演と同じ効果が引き出せるのではないでしょうか。もしそれが可能であるならば、それこそは 白装束の与茂七と降り続ける白い雪の効果なのです。
古い歌
別稿「時代物としての四谷怪談」の冒頭に、モーツアルトの歌劇「ドン・ジョヴァン二」第2幕フィナーレの六重唱の歌詞を掲げておきました。これは石像の訪問者の「悔い改めよ」と言う要求をドン・ ジョヴァン二が拒否して地獄に落ちた後に、ドンナ・アンナほかの登場人物たちが歌うフィナーレです。本稿はこのことについて考えてみたいと思います。
『そんなら、あの悪党は、プロセルピーナ(冥府の女王)やプルトーネ(冥府の王)と暮らせばいい。そして私たち、ああ、善人たちよ、私たちは楽しく繰り返そう、とっても古い歌を。これが悪人の最後だ!そして非道な者たちの死は、いつでも生と同じものなのだ!』
歌劇「ドン・ジョヴァン二」(1787年・プラハ初演)はロレンツォ・ダ・ポンテの台本ですが、ドン・ジョヴァン二(ドン・ファン)は中世期のスペインに伝わる伝説に出てくる人物です。女性を次々と誘惑する男が・その罪深い放蕩な人生のために罰を受け・地獄に落とされると言う・ファウストと同じ中世的な人物です。この作品には先行作がいろいろありまして、ダ・ポンテはそれらを参照しながら・台本を巧みにまとめています。このフィナーレの部分について言えば、1738年に ヴェネチアの劇作家ゴルドー二が書いた5幕仕立ての悲喜劇「ドン・ジョヴァンニ・テノーリオ」の幕切れに典拠があるとされています。その幕切れは次のようなものです。
『なぜなら、人はその生にふさわしく死に、天はすべて堕落する者を憎んで、罪人を罰することを欲する』
この幕切れは当時のバロック演劇の形式に則ったものです。「この世は神によって完全に支配されており、神さまは「善は善・悪は悪」と正しく判断をしてくださる、神の栄光がそこに示されている」というのが、この時代の芸能(演劇でも音楽においても)の主題でありました。ダ・ポンテは「私たちは楽しく繰り返そう、とっても古い歌を」と書いていますが、ここでダ・ポンテは古い時代の演劇のテーマをリフレイン(繰り返し)しようとしているのです。(このリフレインがどういう意味を持つかは後ほど考えます。)
吉之助が「四谷怪談」の論考冒頭に「ドン・ジョヴァン二」の歌詞を掲げた意図はこれでお分かりでしょう。「私たちは楽しく繰り返そう、とっても古い歌を」という言葉を「四谷怪談」の場合に当てはめるならば、それは「仮名手本忠臣蔵」を指すということになります。そのように吉之助は見て論考を進めておりますので、以下をそのようにお読みください。
同時代劇ということ
歌劇「ドン・ジョヴァン二」の時代設定は一見すると明確ではないですが、実は「ドン・ファン」伝説が誕生した17世紀のスペインではありません。それがはっきり分るのは第2幕第13場でレポレッロが晩餐の準備をしているところで・舞台上の楽師たちが奏でる音楽からです。それはその年(1787)にプラハで上演されて人気のヴィンセンテ・マルティン・イ・ソレルの歌劇「ウナ・コサ・ラーラ(珍事)」からの旋律、次に 前年(1786)にウイーンで初演され・当時やはりプラハで流行していたモーツアルトの歌劇「フィガロの結婚」のアリア「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」の旋律です。「ウナ・コサ・ラーラ」には大喜びのレポレッロは、「もう飛ぶまいぞ」には「そいつはあいにくご存知さ」とそっけない態度です。これは楽屋オチということもありますが、歌劇の時代設定が1787年であること・つまりこれが同時代劇であるということを示しているわけです。
パリのバスティーユ監獄が襲撃されて・フランス革命が勃発するのは1789年のことです。(ちなみにモーツアルトが死去するのは1791年です。)つまり、歌劇「ドン・ジョヴァン二」は旧体制(アンシャンレジーム)期の作品ですが・すでに内面に沸々とたぎる革命への息吹きが時代のなかに漂い始めた時期の作品だと言うことです。実際、歌劇「ドン・ジョヴァン二」を読むためにはこれが同時代劇であるという認識が必要です。
一方、「四谷怪談」は文政8年(1825)江戸中村座での初演で「忠臣蔵」とテレコで上演されていることから分るように、世界を太平記に取っています。ということは室町時代ということなのですが、しかし、誰だって赤穂義士の討ち入りは元禄時代の事件であったこと・それを室町時代に当てはめて劇化していることくらいはご存知なのですから、「四谷怪談」もやはり間違いなく同時代劇なのです。 (ここでは元禄と文政のタイムラグは同じ江戸時代のこととして無視できます。)「四谷怪談」には浅草寺雷門・隠亡掘・蛇山などまさに同時代の江戸であることを示す地名と風俗がたくさん出てきます。無理に「忠臣蔵」に関連付けようと言うなら・江戸を鎌倉に・浅草寺を極楽寺にでも移すことをしたのでしょうが、南北はそんな矛盾などへっちゃらで・同時代劇を堂々と主張しています。
したがって、歌劇「ドン・ジョヴァン二」も・「四谷怪談」も同時代劇なわけですが、その時代設定には二重構造があるのです。ひとつは主人公がアイデンティティーを発するところの古い時代です。もうひとつは、そこから発展変革して・新たなものを生み出していこうという新しい時代がすぐそこに来ているということです。大事な点は新しい時代が必ずしも旧時代のものを全否定しているわけでないということです。もちろん否定の要素もありますが・反発あり・ひねくれあり・愛情あり・郷愁あり、なかなかその思いは複雑なものです。旧時代は故郷であり・父親であることは間違いないからです。しかし、息子が成長するためには一度は父親と対決せねばならないということもあるようですね。
ピーター・シェーファーの戯曲「アマデウス」(映画化もされました)冒頭では、「ドン・ジョヴァン二」序曲冒頭の和音が父レオポルドとの確執のなかでの・息子ヴォルフガングの想いとして印象的に扱われました。ドン・ジェヴァン二を地獄に落とす石像の訪問客に父レオポルドのイメージが重なります。したがって「私たちは楽しく繰り返そう、とっても古い歌を」という古い歌は、機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキーナ)のように・劇の最後に取ってつけて歌われる形式的な歌ではあり得ないのです。 しかし、リフレインされる古い歌は、 同じ歌であっても・もはや昔と同じようには歌えません。「四谷怪談」における「忠臣蔵」もそのように考える必要があると思います。
引き裂かれたドン・ジョヴァン二
歌劇「ドン・ジョヴァン二」は1787年にプラハで初演され・成功を納めましたが、その後ただちに人気作というわけではなかったのです。モーツアルトの音楽の素晴らしさを認めつつも、不道徳で怪しからぬ内容のオペラであるとされた時代が長く続きました。19世紀には「ドン・ジョヴァン二」は「光と闇のドラマ」として上演されることが普通でした。主人公ドン・ジョヴァン二は黒い衣装を身にまとい、悪魔に魂を売ったデモーニッシュな人物として描かれました。そして、女性から女性へと永遠に彷徨えるドン・ジョヴァン二を救い出すのが、彼を憎みつつも・抗いがたく愛しているドンナ・アンナです。ハッピーエンド的なフィナーレの六重唱はカットされて、オペラは石像の訪問客によってドン・ジョヴァン二が地獄に落とされる場面で悲劇的に締められたものでした。19世紀的な感性は予定調和的なフィナーレを拒否したのです。この六重唱についてカーマンは次のように書いています。
『このエピローグは、問題に対する答えをいっさい与えてくれない。それはただ、ドンのいない人生がいかに退屈なものかということを示すだけである。』
つまり、ハッピーエンドの六重唱は取るに足らないと言うわけです。ドン・ジョヴァン二は飽くなき理想を求めて既成道徳に反抗した人物である・そのような不道徳な人間 は地獄に落とされなければならない・・・そう言いながら、逆に言えばそれほどに19世紀的感性はドン・ジョヴァン二の悪魔的な魅力に抗し難く捕われていたと言うことです。
歌手で言うならば、チェーザレ・シエピあるいはティト・ゴッビの歌うドン・ジョヴァン二の重厚かつ悪魔的なイメージでしょうか。幸い1954年ザルツブルク音楽祭でのシエピのドン・ジョヴァン二(指揮はフルトヴェングラー、演出:グラーフ)の映像がDVDで見られますが、その舞台は19世紀のドン・ジョヴァン二観の影響を濃厚に引きずっています。(注:この舞台ではフィナーレの六重唱は演奏されています。)
黒い衣装に身を包み・虚無的かつ悪魔的な魅力を持つドン・ジョヴァン二のイメージ、これは歌舞伎の「色悪」のイメージにどことなく通じます。色悪の魅力とは何でありましょうか。 彼らはまったくどうしようもない奴で、やっていることはとんでもない事なのです。しかし、彼らは自分を取り巻く閉塞した状況を自らの行動で打開しようとする意志は持っている人間と言えるかも知れません。状況に不満を感じながら何も変えようとしない善人たちより、もしかしたらその点においてのみ・ちょっとは見所がある奴なのかも知れません。多分そのことが(そのことだけが)歌舞伎の色悪を魅力的にしているのです。
行き過ぎた急進性
中世以来、ドン・ジョヴァン二が不道徳であるとされてきた背景は、彼が単に女たらしであるということだけではありませんでした。(女にモテるということはある意味でいつの世でも男の願望なのですから 。)彼が無神論者あるいは無政府主義者に見えたということにあります。ドン・ジェヴァン二の従者であるレポレッロの歌う有名な「カタログの歌」の歌詞を見てみます。
『可愛い奥様、これが目録です。私の旦那が愛した女たちの、この私が作った目録なんですよ。御覧なさい、私と一緒にお読みください。イタリアでは640人、ドイツじゃ231人、フランスで100人、トルコで91人、だがスペインじゃもう1003人。そのなかにゃ田舎娘もいれば、下女もいるし、都会の女もいる。伯爵夫人、男爵夫人もいれば、侯爵令嬢、王女さまもいるし、あらゆる身分のご婦人、あらゆる姿かたち、あらゆる年齢のご婦人がおりますよ。(略)お金持ちの女だろうが、醜くかろうが、美人だろうが我は張らぬ。ぺティコートさえつけてりゃ、あの方が何をするかはご存知でしょ。』(第1幕第5場:「カタログの歌」)
ドン・ジョヴァン二は、身分も金も・年齢も美醜も関係なく・女たちを分け隔てなく愛します。その意味でドン・ジョヴァン二は、当時は既に形骸化していた封建領主の特権である初夜権を振りかざし・使用人のスザンナを追い駆け回す歌劇「フィガロの結婚」(1786年ウイーン初演)のアルマヴィーヴァ伯爵の願望の延長線上にある存在です。アルマヴィーヴァ伯爵はひと夜を要求し、ドン・ジョヴァン二はすべての夜を要求するというわけです。 ドン・ジョヴァン二は飽くことを知りません。決して妥協をしないのです。だから、女たらしの貴族ドン・ジョヴァン二は中世に生まれた人間像であり、旧体制(アンシャン・レジーム)の落とし子なのです。まずこの点を押さえて置く必要があります。
さらにもうひとつ、女たらしのドン・ジョヴァン二はもちろん「女の敵」ですが、実はそれ以上に「男の敵」なのです。ドン・ジョヴァン二が 男にとって危険なのは・その男から妻あるいは恋人を奪い取るという意味ももちろんありますが、それだけではありません。ありとあらゆる階級の女を誘惑し・その魅力の虜とすることで、男たちが作り上げ・女たちもそこに組み込まれているところの社会構造・そして社会道徳を根底から揺さぶる ということです。女たちはドン・ジョヴァン二の魅力に取りつかれ、ドン・ジョヴァン二によって彼女たちが囲われていたところの社会的拘束から自由になれると感じるのです。それは一時的な幻想であり・後には破滅が待ち受けているのですが、しかし、女が一度は夢見るだけの価値がある幻想でありました。
これはあらゆる階級の男たちが阻止したいことでありました。だから男たちの抵抗が強ければ強いほど、ドン・ジョヴァン二の意欲は高まるのです。障壁が多いことがドン・ジョヴァン二をそそるのです。それが証拠に・カタログの歌の歌詞を見れば、ドン・ジョヴァン二の誘惑した女の数は一夫多妻のトルコで91人と一番少なく、宗教的 規制の強い保守的なスペインにおいて1003人と圧倒的に多くなります。
ドン・ジョヴァン二は女たちのみならず・男たちとも対立し、あらゆる階級と折り合いません。旧体制の出身でありながら旧体制と対立し、旧体制を否定しながら・旧体制のみならず・次の時代に台頭していく新体制とも折り合わないのです。そこにドン・ジョヴァン二の 行き過ぎた急進性・革新性があります。それゆえドン・ジョヴァン二は不道徳であるとされたのです。
19世紀の伊右衛門
文政8年(1825)江戸中村座初演では「四谷怪談」は「仮名手本忠臣蔵」とテレコで上演されました。しかし、その後の「四谷怪談」はお岩の怪談芝居として人気になり・単独で の上演が繰り返されてきました。お化け芝居として上演されるにつれて・「忠臣蔵」との関連が次第に弱くなっていきます。お岩をさらに怖くしようとするならば、その怨念の対象である伊右衛門もそれにふさわしい残忍な悪人でなければなりません。こうしてお化け芝居としてのお岩の肥大化につれ て、伊右衛門は極悪人に次第に仕立て上げられていきます。
幕末期に上演されていた南北作品は「四谷怪談」と「馬盥の光秀」くらいになって南北は影が薄くなりますが、明治になると西洋の近代劇のセンスで再評価されて、南北は再び脚光を浴びるようになります。伊右衛門は封建社会に敢然と反抗し、あくなき自由を求めるニヒルな近代人的性格を持つ人物であると解釈されました。「首が飛んでも動いてみせるわ」という台詞 (実はこれは初演の台本にはなく、大坂での再演で付け加えられた台詞です)が、伊右衛門のふてぶてしい反抗精神を示すものだとされました。現代の伊右衛門のイメージはこうした過程で出来上がったものです。
こうした伊右衛門の「色悪」の印象は、19世紀における「引き裂かれたドン・ジョヴァン二」解釈と似ているところがあります。その背景に19世紀の共通した時代感覚がある のです。ひとつには社会経済が大きく変化し・個人に対して状況が重く圧し掛かってくる世紀末的状況がありました。19世紀は社会倫理の基準が揺らいでいた時代であったのです。
ドン・ジョヴァン二は究極の恋を求めて苦悩する放浪者であると見なされました。ドン・ジョヴァン二ほどの色事師ではないにせよ・伊右衛門の「色悪」のイメージにもこれと似た・「色に掛けて世を渡ろうとする悪人」というイメージが重ねられています。そこでは個人に重く圧し掛かってくる状況の存在・その非人間性が強く意識されています。その非人間的なものは醜く恐ろしい顔をして・伊右衛門に重圧を掛け・どこまでも執拗に追いかけてくるのです。しかし、伊右衛門は決して妥協をしません。あくまでも自由を求めて逃げ回わります。19世紀的な感性は伊右衛門をそのような人間であると見たわけです。
軽やかなドン・ジョヴァン二
19世紀の感性は、ドン・ジョヴァン二の地獄堕ちの場面を重要視しました。地獄堕ちの場面で物語は悲劇的に締められ、予定調和のハッピーエンドの六重唱は省かれました。
騎士長「悔い改めるのだ、生活を変えるのだ、最後の時なのだ。」ドン「いやだ、いやだ、わしは悔い改めはせぬ、わしから離れてくれ。」騎士長「悔い改めるのだ、悪党め」ドン「いやだ、頑固な老いぼれめ。」騎士長「悔い改めるのだ」ドン「いやだ。」騎士長「悔い改めるのだ」ドン「いやだ!」(第2幕第15場)
こうしてドン・ジョヴァン二は地獄に落ちるのですが、19世紀の感性はこのドン・ジョヴァン二の地獄落ちを彼の「選択」の結果であると読みました。ドン・ジョヴァン二は騎士長の石像に「悔い改めよ」と迫られ、これを「いやだ」と拒否します。これはつまり、ドン・ジョヴァン二を悔い改めることを敢然と拒否し、もう片方(地獄行き)を選択したと19世紀の感性は読んだのです。
これは「究極の選択」と言われるものです。例えばリンゴとミカンとどちらが食べたい?と聞かれて、もしあなたがリンゴを取るならば・あなたはミカンを拒否したことにになる。いや、別にミカンを拒否したつもりはないとあなたは言うでしょうが、究極の選択ではそういうことになるわけです。そこに選択の重みがあり、選んだことの責任・ 選ばなかったことの負い目が常につきまといます。ドン・ジョヴァン二の場合はそれは「悔い改めるか・さもなければ地獄落ちか」と言う究極の選択です。永遠の誘惑者は悔い改め・生活を正すくらいならば・あえて死を選んだと、19世紀の感性はそこにドン・ジョヴァン二の悲劇性を見たわけです。
しかし、別の見方ももちろんあり得ます。そもそも「悔い改めるのだ」と言われてドン・ジョヴァン二が「いやだ!」と叫んだのは「選択」したということなのだろうかということです。これがもし「選択」でないならば、ドン・ジョヴァン二はその重さから解き放たれることになります。そのような軽やかなドン・ジョヴァン二があり得るのではないでしょうか。なぜならばドン・ジョヴァン二は女性とあらば片っ端から誘惑するのですから。女性を選ぶなんてことは決してないのですから。ドン・ジョヴァン二は生まれながらの誘惑者 なのですから、選ぶなんてことは絶対しないのです。
実は「ドン・ジョヴァン二」には、黒い衣装を身にまとい・悪魔に魂を売ったデモニッシュなイメージとはまったく異なる・もうひとつの系統の演出が存在します。それは、きらめく純白の衣装に身を包んだ・華やかな伊達男ドン・ジェヴァン二です。その代表的なものは、イタリアの名歌手エツィオ・ピンツァの演じる軽やかな誘惑者としてのドン・ジョヴァン二で しょう。幸い1942年メトロポリタン・オペラでの素晴らしいライヴ録音(ブルーノ・ワルター指揮)が残されています。現代の舞台演出では、このような 「軽やかな」ドン・ジョヴァン二が主流になっています。
同じような役柄解釈の変化の例としてヴェルディの歌劇「オテロ」のイヤーゴが挙げられます。イヤーゴもちょっと昔まではいかにも腹に一物ありそうな・虚無的な暗い人物に描かれたもので した。これもいかにも十九世紀的なイメージです。しかし、現代ではむしろ優男で・明るい感じに描かれることが多くなっています。イヤーゴは優しい顔をしながらオテロに近づき・嘘をささやきます。オテロに対して悪意があるのか・それとも騙すのが楽しい性格なのか・それさえ も分りません。
このようにドン・ジョヴァン二やイヤーゴの性格が「軽やかさ」の方に変化していくことは、そのまま現代の感性のある部分を映し出しています。それは複合的な状況の不条理性を問うものかも知れません。
軽やかな伊右衛門
軽やかなドン・ジョヴァン二の理論的先駆けとなったのがキルケゴールです。キルケゴールは著書「あれかこれか」のなかでドン・ジョヴァン二論を展開し、当時一般的であった「魂の救済を求めて苦悩するドン・ジョヴァン二」の重苦しいイメージを取り払い、絶え間ない浮遊状態にあり・軽やかに誘惑するドン・ジョヴァン二像を作り上げました。
『モーツアルトの「ドン・ファン」は非道徳的だとよく言われる。だが今や正しく理解すると、それは賞賛でこそあれ、非難を意味するものではない。このオペラでは誘惑者について単に語られているだけではない。そこに誘惑者がいるのだ。そして、音楽が個々においてしばしば十分な誘惑的な効果を発揮していることも議論の余地がない。(中略)このオペラが決定づけている方向はすぐれて道徳的であり、このオペラがもたらす印象はと言 えばすぐれて善的なのである。と言うのも、すべてに偉大さが浸透しており、あらゆる情熱、喜びと厳粛、享楽と憤激、これらが作為のない・真のパトスとなってあふれ出ているからである。』(キルケゴール:「あれかこれか」)
本稿をここまで読めば吉之助の意図は大体お分かりかと思いますが、吉之助は伊右衛門の色悪的イメージの解体を試みたいと思うのです。色悪の伊右衛門は明治期の南北解釈から一歩も発展していないように思われます。伊右衛門から色悪の重さを取り払いたいと思うのです。
もちろんドン・ジョヴァン二と伊右衛門はそれぞれ異なった性格を持っています。また作品が描いている状況もまたそれぞれ異なります。しかし、ドン・ジョヴァン二をデモーニッシュな性格に読み込もうとする感性と・伊右衛門を色悪に読み込もうとする感性には共通した19世紀の重苦しい 世紀末的感性が見られます。そう読み込むことに19世紀の感性の必然があるのは当然のことです。しかし、21世紀にはもう少し別の見方をして見たいと思うのです。その共通した重苦しさを取り除くと、恐らく鶴屋南北が初演時に想定したところの・軽くて薄っぺらな伊右衛門が現われてくるであろうという目算が吉之助にはあります。
その取っ掛かりがキルケゴールにあります。「このオペラでは誘惑者について単に語られているだけではない・そこに誘惑者がいるのだ」と言うことです。生まれながらの誘惑者には「選択」する必要などありません。なぜなら誘惑者そのものなのですから。だからドン・ジョヴァン二に「悔い改めろ」などと言っても意味がないことになります。そのことがドン・ジョヴァン二の軽やかさを生みます。ドン・ジョヴァン二は選択の負い目など負うことはないのです。
伊右衛門の場合を考えて見ます。伊右衛門は塩冶浪人ですから・もちろん武士です。しかし、御用金紛失の不祥事に深く関わりのある人間であり・忠義心に欠けた人間なのは明らかです。何かデカいことやってやるという気がないわけでもないのですが、浪人なのに・積極的に職を求めようとせず・フラフラとしており・努力する気がない。たまたま隣家の娘が惚れてくれたおかげで伊藤家の婿になって・高師直に仕官しようとするわけですから、反体制の意識があるようにも思えません。要するに伊右衛門は行き当たりばったりに生きている男です。「四谷怪談」が初演された文化文政期にはこのような禄を失って路頭に迷う浪人武士が多くなっていて・社会問題になりつつあったことを頭に入れておかねばなりません。定職につく気が無くて・働く意欲もなく・ただブラブラと暮らす若者が増えている現代もちょっとこれと似た状況があることに気がつくと思います。
つまり、伊右衛門は本来が軽い・薄っぺらな性格なのです。厳密に言えばこれは「軽やかさ」とは感じがちょっと違いますが、「重苦しさがない」ことでは共通していますし、役としてある種の魅力を帯びなければ面白い芝居にならないわけです。だから、吉之助は ここで「軽やかな伊右衛門」のイメージを提起したいと思います。伊右衛門はお岩に付きまとわれながら「恨めしい、悔い改めよ、生活を変えるのだ」と言われて逃げ回っています。しかし、伊右衛門は「選択」する気などさらさらないのです。なぜならば彼はこうなってしまったのが自分のせいだと思っていない からです。何が悪かったのか・何を反省していいのか、伊右衛門は根本的に分っていないのです。だから、伊右衛門は「選択」する負い目も感じることはないのです。これが伊右衛門の「軽やかさ」の正体です。
「軽やかな伊右衛門」を「無責任な伊右衛門」と言い換えても良いと思います。古い流行語で恐縮ですが植木等的な無責任ということです。 もっとも昭和30年代の無責任男はアッケラカンとしてましたが、平成の無責任男はやや投げやりの風があるかも知れません。無責任男を「いい加 減にしろ」とか「お呼びじゃない」とぶっ飛ばしてコントは終わりになるわけですが、まあ、「四谷怪談」が道徳的だと言うのもあまり大げさに考えずに・その程度に考えておけばよろしいことだと思います。
アイロニーとしてのお岩
「四谷怪談」において伊右衛門を討つのが封建社会の論理であるという見方があります。これは必ずしも間違いとは言えませんが、もう少し分析が必要です。 伊右衛門を討つのは奉行所のお役人のような・お上の権威の直接的な執行者でないのです。伊右衛門を討つのは、四十七士のひとりである佐藤与茂七です。四十七士はもちろん武士ですが、正確には禄を離れた元武士(浪人)です。つまり、四十七士は封建社会の側の執行者ではないのです。しかし、彼らは正義の観念は正しく持っている人間であって・「まともな武士」であるということが言えます。「忠臣蔵」の四十七士は江戸の世にあっては武士の鑑であったということを忘れてはなりません。
つまり、伊右衛門を討つのは「体制」ではなく・「まともな武士」だということです。言い換えれば「真人間・道徳的に正しい人間」と言っても良いと思います。だから、与茂七が伊右衛門を討つ「四谷怪談」の大団円が倫理的な意味合いを帯びるのです。四十七士が守護する「忠臣蔵」の世界が「四谷怪談」を包み込むことになります。これが「四谷怪談」の大団円の意味です。
キルケゴールが「このオペラが決定づけている方向はすぐれて道徳的であり、このオペラがもたらす印象はと言えばすぐれて善的なのである」と言うことは、「四谷怪談」にもそのまま当てはまります。 その幕切れを見れば「四谷怪談」 もまた道徳的であり・善的であると言うことができます。このことは「忠臣蔵」に絡め取られる時代物としての大団円から引き出されてくるものです。そこに南北の健康な批判精神が見えてきます。さらにキルケゴールの「ドン・ジョヴァン二像」を見ていきます。
『オペラの登場人物はキャラクターとして見通されるほど反省されている必要はない。したがって、当然、オペラにおいてはシチュエーションは完全に発展されたり、展開されたりはできないということになる。同じことが行為(ハンドリング)にもあてはまる。厳密な意味で行為(ハンドリング)と言われるものは、意識と結びついてある目的に向かう行動のことであるが、これは音楽の表現能力の手の届かないところのものだ。そしてオペラにあるのは、いわば直接的行為のみである。「ドン・ジォヴァン二」では、この両者が該当する。行為が直接的行為そのものなのである。私はここで、ドン・ファンがいかなる意味で誘惑者であるか、ということを思い出す。また、行為が直接的行為であると言う・そのことが反映して、この作品ではアイロニーが極めて大きい役割を果たすことになる。なぜなら、アイロニーは直接的な生の鞭・懲らしめであり、また常にそうなのだ。一例を挙げてみると、騎士長の登場はすさまじいアイロニーである。ドン・ファンはあらゆる妨害に打ち勝つ。が、人は亡霊を殺すことはできない。シチュエーションは徹底して気分によって運ばれる。』(キルケゴール:「あれかこれか」)
ここでキルケゴールは「ハンドリングHandling」という言葉を使っています。「ハンドリング」については別稿「近松心中論」で引用したように・ワーグナーも同じ言葉を使っています。なお、キルケゴールの「あれかこれか」は1843年の出版で して・ワーグナーが初めてこの言葉を使用した1859年より早いもので、これはワーグナーの影響を受けたものではないことが明らかです。また研究者に拠ればワーグナーがキルケゴール の本を読んだ形跡はないそうです。したがって、ふたりがそれぞれ独自の思索から「ハンドリング」という概念にたどり着いているわけです。
「ハンドリング」について、キルケゴールは「直接的な行動・行為」としており・ワーグナーは「劇(ドラマ)における内的な移行手法」のことを言っています。その共通 したコア・イメージは「たゆまなく浮遊し・揺れる状態」ということです。つまり、存在そのもの・生き方そのものが揺れているということです。キルケゴールはそこにドン・ジョヴァン二の軽やかさを見ているわけです。
伊右衛門のイメージは絶えずユラユラと浮遊しています。ある時は極悪人のようでもあり・ふてぶてしく・虚無的でもあり、ある時は情けない小心者のようでもあります。そしてある時は伊藤家が婿に迎えようとするくらいだから立派な男にも見えたのでありましょう。お岩も一度は惚れた男です。また伊右衛門はある時はお岩を愛し・慕い ・ある時は邪険に毛嫌し、またある時は怖れて逃げ回るのです。伊右衛門の行動は一貫性・持続性がなくて、実に「軽い」のです。恐らく伊右衛門なりにその時々の真情があるのだろうと思います 。しかし、そのことは他人には分かりません。このような分裂した様相がある意味で現代的にも思えます。このような伊右衛門の生き方そのものを懲らしめる存在(アイロニー)としてお岩の怨霊があるのです。
騎士長「悔い改めるのだ、生活を変えるのだ、最後の時なのだ。」ドン「いやだ、いやだ、わしは悔い改めはせぬ、わしから離れてくれ。」騎士長「悔い改めるのだ、悪党め」ドン「いやだ、頑固な老いぼれめ。」騎士長「悔い改めるのだ」ドン「いやだ。」騎士長「悔い改めるのだ」ドン「いやだ!」(第2幕第15場)
お岩の怨霊は伊右衛門の裏切りを責めているのではなく、もっと深いところで・伊右衛門と言う存在に対するアイロニーなのです。 伊右衛門はお岩を裏切ったのではなく・つまり「選択」をしたのではなく・単に放り出して逃げただけなのかも知れません。ここにおいて「四谷怪談」の時代物としての幕切れの意味が見えてきます。
鳴り響く気分
『あらゆる劇的シチュエーションと同じく、音楽的シチュエーションも同時的なものを持つが、力の働きは一種の交響、一種の共鳴であり、調和であり、音楽的シチュエーションの印象は、ともに鳴り響くものを共に聴くということによって生じる統一である。劇が反省しつくされていればいるほど、ますます気分は明白に行動(ハンド リング)として現われる。行動(ハンドリング)が少なければ少ないほど、ますます叙情詩的契機が有力になる。このことはオペラにおいてはまったく当を得ている。オペラは性格描写や行動のなかにはあまりその内在的な目的をおいてはいないが、それはオペラがあまり充分に反省的でないからである。それに反してオペラのなかでは、反省されない実態的な情熱が表現される。音楽的シチュエーションは、分離した声の多数における気分の統一に存する。音楽が声の多数を気分の統一のなかに保ちうるということこそは、まさしく音楽の特異な点である。」(キルケゴール:「あれかこれか」)
ここでキルケゴールは演劇とオペラのシチュエーションの対比を行っています。一般的に西洋近代演劇でのシチュエーションは作品の主人公に集中し・他の登場人物は主人公との関係において相対的な位置を占め るものです。言い換えれば、主題が明確になればなるほど・副人物たちはそのなかで相対的な絶対性を持つようになります。逆に演劇が気分に支配される要素が強い 場合には、そのような劇は主題が明確でないという印象になります。これは近代演劇においては欠点になるのですが、オペラにおいてはそうではないとキルケゴールは言 っています。だからオペラにおける登場人物は徹底的に反省されている必要はないともキルケゴールは言っています。この意味において歌舞伎の劇的シチュエーションはオペラのそれに近いものであることが理解できると思います。 歌舞伎においても登場人物は徹底的に反省される必要はないのです。
オペラの登場人物はそれぞれ勝手に振舞っているように見えますが、実はそれらはすべてひとつの「鳴り響く気分」によって支配されています。それは「一種の交響、一種の共鳴であり、調和であり、音楽的シチュエーションの印象はともに鳴り響くものを共に聴くということによって生じる統一」 なのです。オペラの音楽の内的気分の統一は幕切れ・つまり最後の協和音による終結において果たされます。歌劇「ドン・ジョヴァン二」が古典的な構図を持つのはそれ故 なのです。逆に言いますと、終結を果たすためにオペラは幕切れに古典的な構図を求めるのです。
「ドン・ジョヴァン二」という同時代オペラ(それは非常にラジカルな試みでありました)は無事に終結を迎えるために・もう一度ドン・ジョヴァン二芝居の原型を回顧する必要がありました。ダ・ポンテはゴルドーニの先行作の幕切れを振り返り、リフレイン(繰り返し)をしているのです。そこで繰り返される古い歌はもはや同じ歌ではあり得ないのですが。
『そんなら、あの悪党は、プロセルピーナ(冥府の女王)やプルトーネ(冥府の王)と暮らせばいい。そして私たち、ああ、善人たちよ、私たちは楽しく繰り返そう、とっても古い歌を。これが悪人の最後だ!そして非道な者たちの死は、いつでも生と同じものなのだ!』
「四谷怪談」幕切れにおける佐藤与茂七の討ち入り装束・繰り返される「仮名手本忠臣蔵」の古い歌もまさに同じ意味を持つのです。鶴屋南北は「四谷怪談」の同時代劇に古典的構図を持たせるために・古い歌をリフレインしているのです。「仮名手本忠臣蔵」は赤穂浪士の討ち入りという江戸の同時代の出来事を室町時代の架空の出来事として劇化したものでした。だから「忠臣蔵」は 伊右衛門にとっての古い歌なのです。伊右衛門はそこから発し・そこから逃げ出し・そして再びそれに取り込まれます。
ここで大事なことは、古典的構図を得るために幕切れは協和音で終結しなければならないということです。幕切れの協和音とはすなわち、すべてを「然り」と変えるものです。協和音は根本的に肯定を意味するものです。「四谷怪談」の世界が「忠臣蔵」の世界と対立し・これを否定 しようとするものではないことが、大詰「蛇山庵室」幕切れの古典性において理解できると思います。 「四谷怪談」幕切れはすべてを「然り」と受け入れて・「鳴り響く気分」の統一によって締められるのです。
「東海道四谷怪談」
「東海道四谷怪談」は文政八年七月江戸中村座での初演。初演時の「四谷怪談」は「仮名手本忠臣蔵」と交互に上演されて、二日掛かりで完了する興行形式が取られました。しかし、初演以後は「忠臣蔵」と切り離されて単独での上演となり、もっぱらお岩のお化け芝居として上演されて来たわけです。お化け芝居として観客を怖がらせる為に、お岩の怨念の凄まじさを描 こうと、いろいろな工夫がされました。またそうなると怨念の対象である伊右衛門の悪も、その怨念にふさわしい凄みを利かせなければなりません。こうして現代の「四谷怪談」は、恐らくは初演とかなり違う感触の芝居になってしまいました。
もちろんそのような「四谷怪談」の変遷は、作品自体にそうなる要素が包含されていたからだとも言えます。しかし、現代の「四谷怪談」は確かにお化け芝居であって、お岩の怨念も凄まじさと仕掛けで観客をどのように怖がらせるかが焦点です。また明治以降においては伊右衛門に封建論理に敢然と反抗する自由人的感性を見ようとする傾向が強くなってきました。お岩については、伊右衛門と対立し、これを押さえつけようとする非合理的な存在であると見るわけです。だから逆の意味で、お岩の怨念の凄まじさが重要になって来ます。
したがって現代の「四谷怪談」は、興味はどうしても伊右衛門の方に向き勝ちです。お岩の方はお化けですから、どちらかと云えば、伊右衛門の方から見てお岩がどのように見えるかという視点から論じられることになる。思い返してみれば、これまで「歌舞伎素人講釈」で論じてきた「四谷怪談」もどれも伊右衛門を論じたものなのですねえ。そこで、今回は、お岩の方から「四谷怪談」を論じてみたいと思うわけです。
そのようなことを考えたのも、今回(平成25年7月歌舞伎座)の「四谷怪談」は菊之助が初役でお岩を演じるということであったからです。「四谷怪談」は三代目菊五郎の初演。お化け芝居は音羽屋の家の芸と云われましたが、実は五代目菊五郎以降は、六代目梅幸はお岩を得意としましたが、六代目菊五郎はお岩を一回しか演じませんでした。六代目はどうも気乗りがしなかったようです。七代目梅幸も当代七代目菊五郎 もお岩を演じていません。誰だって役の向き不向きはありますから、向きでないのを・家の芸だからといって無理にやる必要はないわけですが、そういうわけで音羽屋とお岩さまは久しく縁遠かったのです。ですから菊之助がお岩に挑戦するというのは、いろんな意味において嬉しいことです。
そこでお岩について考えてみたいのですが、どうしてお岩は死んで幽霊になって化けて出るのでしょうか。・・「決まってるじゃないか、伊右衛門を恨んでいるからだよ」という声が聞こえてきそうです。自分を裏切った夫への恨み、伊藤家への憎しみ、そして執念の深さ・・・なるほどねえ。確かにその死の直前にお岩は、「ただ恨めしいは伊右衛門どの、喜兵衛一家の者どもも、なに安穏におくべきか。思えば思えば、エエ恨めしい、一念通さで置くべきか」と言っています。
なるほど、凄まじい怨念の台詞です。が、これは、本来、お岩のような、か弱い市井の女性が言う台詞でないのではないか。つまり、世話物で女性が死ぬ時に言う台詞にしては言葉が強過ぎないか・凄まじ過ぎないか。そういうことを感じてもらいたいわけです。歌舞伎で云えば、例えば、荒事の主人公になる人物が、その死の直前に「生き変わり死に変わり、この恨み晴らさで置くべきか」と叫んで、死んで、そして怨霊となって舞台に再び登場します。「なに安穏におくべきか。思えば思えば、恨めしい、一念通さで置くべきか」という台詞も、時代物で男が、しかも身分の高い人物か・あるいは武士が死の直前に言う方が、本来ふさわしい台詞なのです。このギャップを承知のうえで、鶴屋南北は敢てこの台詞をお岩に言わせていると、吉之助は思います。
そこで改めて「なに安穏におくべきか。思えば思えば、恨めしい、一念通さで置くべきか」というお岩の台詞を見れば、この後にお岩は宅悦と揉み合って・柱に刺さった刀に触れてしまって命を落とすのです。だから、生理学的にはこの時点で死ぬわけですが、「四谷怪談・浪宅」のドラマを見れば、お岩の心はそれより以前に死んでいると考えなければなりません。それは、恐らく髪梳きの最中です。「伊藤家にこの礼を言わねばならぬ、その前に女のたしなみ」・・と言って、お岩は髪を梳き始めます。本来ならば美しくなるための女の儀式である髪梳きが、梳けば梳くほど髪がボロボロ抜けて、ますますお岩は凄い形相になっていく・・・まったくやりきれない場面です。こうしてお岩は異界の存在へ転化していく。髪梳きはそのような恐ろしい場面です。だから、この髪梳きの過程でお岩は精神的に死ぬに違いありません。だから、「なに安穏におくべきか。思えば思えば、恨めしい、一念通さで置くべきか」という台詞は、怨霊として異界の存在へ転化した後の、死んだ後のお岩が言っていることになります。
それでは、上記の考察を踏まえて、「どうしてお岩は死んで幽霊になって化けて出るのか。何がお岩を変えるのか。」ということを改めて考えます。吉之助が思うには、その答えは、鏡に映った変わり果てた自分の顔を見る時のお岩の台詞にあります。
『ヤアこりゃコレ、ほんまにわしの面。マア、いつの間にわしの顔が、このような悪女の面になって、マア、こりゃわしかいの、わしかいの。ほんまに私の顔かいのう。こりゃマアどうしよう、どうしよう、どうしたらよかろうぞいのう』
ここに聞こえるのは、お岩の深い悲しみです。何で自分がこんな目に合わなきゃならないのよ、という悲しみです。どうしようもないほどの、それを感じれば感じるほど、自分がはち切れて壊れてしま いそうな、そのような悲しみです。その悲しみこそが、歌舞伎の世話物の、高貴な身分でもない、名もない、か弱い市井の一女性が、幽霊に転化するための、ただひとつの要因なのです。言い換えれば、そのような演劇的な手続きを経て・女が実質的に死んだと同然の状態にならない限りは、本来、時代物で男が言う台詞を、世話物で女が言うわけに行かないということです。そこは南北は手錬の戯作者ですから、踏まえるべき約束事をきっちり守って書いているのです。
南北は同じような芝居をもうひとつ書いています。それは「色彩間苅豆(かさね)」です。累(かさね)には何も罪もないのに、因果の糸のもつれから、面相が変わって、与右衛門に殺され、そして幽霊になって出てきます。その文句を見てみます。
『のう情けなや恨めしや、身は煩悩のきすなにて、恋路に迷い親々の、仇なる人と知らずして、因果はめぐる面影の、変わり果てにし恥ずかしさ・・(中略)・・わが身にまでもこのように、つらき心は前の世の、いかなる恨みかまわしと、くどきつ泣いつ身をかきむしり、人の報いのあるものか、無きものか、思いしれやとすっくと立ち・・』
ここに聞こえるのも、累の深い悲しみです。累の悲しみも、お岩の悲しみも、その悲しみはこの世界そのものに対しています。これは「生きるってどういうことなの・・・」という悲しみなのです。そのような強烈に偏った感情が、お岩や累の意志とまったく関わりのないところで、彼女らを異界の存在(怪物)に変えてしまうのです。ホントは彼女らは、ほんの小さな幸せを願っていただけのはずです。それが、自分の意志と関係ないところで、この世のところのモノと思われない姿とされて、人々に怖がられて・・・それはとても悲しいことなのです。だから心底恐ろしいのではありませんか。
菊之助初役のお岩のことですが、いつものお化け芝居のお岩を期待している方には、淡白すぎるというか・アッサリし過ぎに思えるかも知れません。如何にも化けて出そうなねっとりとした湿ったおどろおどろしい雰囲気(それがどこか執着の深さに通じるのでありましょうか)を期待しまうのでしょう。まあそれも分からないことはないです。その方がお化け芝居らしいですからね。六代目歌右衛門のお岩は確かに怖かった。じっくり時間を掛けて、ねっとりねっとりの髪梳きでした。しかし、あれは長過ぎだったかも知れません。それと比べれば確かに菊之助はアッサリしています。ところが、面相が変わった後のお岩の悲しみが、とてもピュアに見えて来たのです。これは不思議なことです。どういう芸の作用に拠るのでしょうかね。菊之助が若くて美しいからでしょうか、台詞が明晰だからでしょうか。しかし、お岩の悲しみがピュアに伝わってきました。こうしてお岩は幽霊にされてしまうのです。
注を付けておきますが、歌右衛門に悲しみがなかったと言っているのではないのです。歌右衛門の場合でも悲しみは深いのだけれど、歌右衛門のお岩は、お化け芝居で長く培われて来たお岩のイメージのいろいろなものを複合的に引きずっているから、複雑だということです。菊之助は、お岩が幽霊 に転化する要因を、ホントにシンプルにピュアに提示している。どろどろしたところがない。そこがとても新鮮に感じられました。こういうお岩さまもあるのですねえ。
お化け芝居の明晰さ
1
『盆の祭り(仮に祭りと言うておく)は、世間では、死んだ精霊を迎えて祭るものであると言うているが、古代において、死霊・生魂に区別がない日本では、盆の祭りは、いわば魂を切り替える時期であった。すなわち、生魂・死霊の区別なく取り扱うて、魂の入れ替えをしたのであった。(中略)盆は普通、霊魂の遊離する時期だと考えられているが、これは諾はれない事である。日本人の考えでは、魂を招き寄せる時期と言うのが本当で、人間の体のなかへその魂を入れて、不要なものには、帰ってもらうのである。(中略)七夕の祭りと、盆の祭りとは、区別がない。時期から言うても、七夕が済めば、すぐ死霊の来る盆の前の生魂の祭りである。現今の人々は、魂祭りと言えば、すぐさま陰惨な空気を考えるようであるが、われわれの国の古風では、これは陰惨な時ではなくして、非常に明るい時期であった。』(折口信夫:盆踊りの話・折口信夫全集・第2巻)
盆狂言・夏狂言と云えば、お化け芝居(怪談狂言)です。代表的なのはもちろん「東海道四谷怪談」ですが、これは決して陰惨なものではなく、もしかしたらとても明晰な・カラッとしたものかも知れないということを考えます。
先月(平成25年7月)歌舞伎座での菊之助のお岩による「四谷怪談」ですが、おどろおどろしさと云うか・ドロッとした陰惨さが足りないと感じた方は多かったかも知れません。なるほどお化け芝居と云うと、おどろおどろしさとか陰惨さというキーワードがすぐ頭をよぎります。だからお化け芝居の「四谷怪談」にこだわる方には、菊之助のお岩は感触がアッサリした感じで物足りなかったと思います。しかし、そのようなおどろおどろしさとか陰惨さが「四谷怪談」本来の感触であったかどうか、そういうことをちょっと考えてみると面白いと思います。
「四谷怪談」は文政八年の初演以来の盆狂言の定番で、これまでお化け狂言として、いかにしてお岩さまの怨念の凄まじさを描くか、その恐ろしさでどれだけ観客を怖がらせるかということで、型(演出)が練り上げられて来たのです。おどろおどろしく陰惨な「四谷怪談」というのは、初演以来200年の間に培われたイメージで、それは作品から引き出されたものですから、もちろん何がしかの真実を孕んでいるのです。それはそれで正しいことです。しかし、歴史が塗り上げたおどろおどろしさや陰惨さの分厚い絵の具を「四谷怪談」から取り払ったら、何が見えてくるでしょうか。それは「四谷怪談」の明晰さであるかも知れません。その明晰さが菊之助とお岩の感触とまったく同じだというつもりはないけれど、それにやや似たところのサラッとした感触なのです。そこから「四谷怪談」初演時の感触を類推するヒントが 出てくるかも知れません。
『(村上)「あの「源氏物語」の中にある超自然というのは、現実の一部として存在したものなんでしょうかね。」(河合)「どういう超自然ですか?」(村上)「つまり怨霊とか・・・。」(河合)「あんなのはまったく現実だと僕は思います。」(村上)「物語の装置としてではなく、もう完全に現実の一部としてあった?」(河合)「ええ、もう全部あったことだと思いますね。だから、装置として書いたのではないと思います。」(村上)「でも現代の我々 は、そういうの一つの装置として書かざるを得ないのですね。」(河合)「だから、いまはなかなか大変なんですよ。」』(村上春樹x河合隼雄:対談「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」)
河合隼雄先生は平安時代の人々にとって怨霊の存在はまったく現実であっただろうと言います。吉之助はこんなことを考えます。霊魂の不滅とか、怨霊・幽霊の存在というものは昔の人々の世界観の一部としてあったものでした。つまり当然のものとしてあったもので、ですから昔の人々はそのようなものを通じて世界や人生というものを実感として理解しました。ということはそれらは超自然の非合理な存在であったのではなく、当時の人々にとって全く逆にとても明晰で合理的な存在であったということです。
もちろん江戸の民衆にとっても、お岩さまは怖かったはずです。しかし、それはお岩さまが祟るから怖いのであって、幽霊が怖いということではなかったのです。当時の人々にとって、幽霊の存在は疑うことが出来ないことでした。昔の人はお岩さまが出て来る正当な理由があって伊右衛門に祟るという理屈をちゃんと理解していました。伊右衛門が誅されるべき男であることは当然ですから、そのためにその世界が正義と不義の尺度が明確な「忠臣蔵」に仕組まれたのです。南北の「四谷怪談」はそのような明晰な世界観のもとで作られているのです。
2
江戸の三大幽霊はお岩(「四谷怪談」)・お菊(「播州皿屋敷」)・そして累(るい=かさね・「色彩間苅豆」)だと言われます。特に累は江戸の怪異ブームのはしりと言える存在で興味深いものです。累説話は下総国の羽生村という江戸に比較的近いところで実際に起こった事件とされていますが、その実説というのは、実は元禄三年 (1691)に出版された「死霊解脱物語聞書」から来たものです。この「聞書」は、悪霊に祟られて苦しむ病人に悪霊祓いを施した祐天上人や・村人たちから聞いた話を残寿という僧が書き留めたものですが、そのもとになった事件の詳細が明らかでないので、残寿の聞書がどれくらい事実に忠実なのか・創作が入っているのかは、よく分からないそうです。
この累説話について、文化人類学者の小松和彦先生が、「悪霊論〜異界からのメッセージ」のなかで解説くださっているので、詳しくはそちらをお読みいただきたいですが、以下しばらくこの本をなぞる感じになりますが、累説話が怨霊譚に変化していく過程を簡単に まとめてみます。
累説話のもとになった悪霊憑き事件がどんな事件であったか。それがどのような過程で江戸庶民の怨霊譚に変化していくのか。小松先生は、それは原典である「死霊解脱物語聞書」の要約化のプロセスにあると指摘して、それをふたりの研究者の「聞書」の要約を例に 挙げて、解説しています。ひとつは諏訪春雄先生による要約、もうひとつは服部幸雄先生による要約です。この比較がなかなか興味深いのです。
小松先生は、オリジナルの「聞書」の筋の展開に比較的忠実な要約として、まず諏訪先生のものを紹介しています。引用すると長くなるので、端折って記します(詳細は小松先生の本をお読みいただきたい)が、「下総国羽生村に累という醜い女が住んでいた。その入り婿であった与右衛門という男が、累を殺してしまった。その後、与右衛門は後妻を娶り、菊という娘が生まれました。しかし、菊が十三歳の時、菊が煩って苦しみながら、「わたしは菊ではなく、そなたの妻の累だ、その昔、よくもわたしを殺したな」と呻くので、吃驚した与右衛門は寺に逃げ込んだ。その後、村人が怨霊をなだめようと手を尽くすも、死霊は菊からなかなか離れようとしない。しかし、羽生村を訪れた祐天上人が法力を以って遂に累の怨霊を解脱させた。寛文12年のことである・・・」というのがその前半のあらましです。
ここでお分かりの通り、寛文十二年に下総国羽生村で悪霊憑き騒ぎがあって、菊という娘が累という死霊にとりつかれた。祐天上人の死霊祓いによって、その原因は、どうやら与右衛門が前妻の累を殺したということが発端であると判明したというストーリー展開を辿っています。
累説話はまだ続きます。累の死霊が成仏したと村人が安堵したのもつかの間、菊はまたも死霊に悩まされます。祐天上人が駆けつけて、菊にとりついた死霊に正体を問うと、それは助と名乗る子供であった。昔を知っている老人の話しから、61年前に、累の父の先代与右衛門が娶った女の連れ子が助という子供で、この子が醜かったので殺されたこと、その後に夫婦に生まれた娘も醜い子で、それが累であった、ということが分かってきた。祐天上人が助に十念を授けると、助の死霊もついに成仏した。・・以上が「聞書」の物語展開に沿ったところの、諏訪先生の要約の、 概略であります。
ここで分かるのは、「聞書」が伝える事件は、これは幽霊出現事件ではなく、もともとは憑きモノ事件であったということです。これを僧残寿が「聞書」にしたことで分かる通り、「聞書」は祐天上人がその有難い法力で見事死霊を退散させたということを 布教のために広めたという役割もあったわけです。
さらに小松先生は、興味深い指摘をしています。原因不明であった憑きモノ騒動が、祐天上人の死霊祓いによって、その原因が次第に解き明かされていく、そして、その原因が明らかになった 後、人々の脳裡に、すべての発端が先代与右衛門の助殺しにあ ったことが刻み付けられる。そこから累が醜く生まれたことも、累が二代目与右衛門に殺されたことも、さらに菊が病気になったことも、原因は助殺しにあったと、そのすべての事象が原因と結果の一本の糸で結び付けられ、因果の物語とが組み立てられていくということです。
そのような変形の例として、小松先生が次に挙げるのが、服部先生の「聞書」要約です。その要約は、「羽生村に住む百姓与右衛門は他村から妻を娶った。その妻の連れ子が助という男の子だった。その子は目っかちでびっこだった・・・」という感じで始まります。つまり、「聞書」では悪霊祓いによって最後に分かった・ それまで誰も知らなかった事実を、要約の最初に持ってきて、時間的に最も古い出来事から物語を展開させ、「すべてはここから始まった」という風に、その因果関係がよく分かるように整理がされているのです。小松先生は、次のように書いています。
『この服部の要約をさらに変形してみたら、すなわち、累の怨霊が菊に乗り移って恨みごとを述べるのではなく、直接目指す敵与右衛門の前に「恨めしや」と出現するように変形したらどうなるだろうか。そのとき、累の物語は、江戸時代に全盛を究める幽霊譚へと変形することになるわけである。「播州皿屋敷」のお菊や、「東海道四谷怪談」のお岩の物語では、出現するために累が必要とした霊媒という装置などもうなくとも出現しうるとみなされるようになっていた。その意味で、累説話は、悪霊憑き物語と幽霊物語の分岐点・境界に位置する物語といえるはずである。』(小松和彦:「悪霊論」)
3
バートランド・ラッセルは、科学と哲学の違いを問われて、「科学とは私たちに分かっているもの、哲学は分かっていないものを取り上げる・・ですかね。これは単純な区分ですが、知識の進歩によりいくつかの問題が、哲学から科学の方へ移行して行くのです。」というようなことを語っています。
その昔、科学は魔術と同じように考えられていた時代がありました。しかし、例えば旱魃が長く続いて人々が飢餓に喘いでいる時に、呪術師がお呪いをして、 その後すぐに雨が降ったとする。そうすると、これは呪術師がお呪いをしたから雨が降ったわけだから、原因とその結果の間に明らかに相関関係が見えると、人々がそう信じた場合には、それは科学的な行為 だということになるのです。現代人から見れば、迷信に捉われているように見えるでしょうが、このようにお呪いをすれば・それが天に何かの作用をして・それで雨が降る (らしい)という思考は、何かしら科学的 な筋道を踏んでいると言える。そういうところから科学は出発しているのです。
なぜ風が吹くのでしょうか。それは風の神様がふいごを廻して風を送っているのだと古代ギリシア人は考えました。そのような考え方はギリシア人の世界観に裏打ちされたもので、そのなかで成立 したものでした。だから、現代人から見れば馬鹿げた考え方に見えるでしょうが、これは迷信でも何でもなくて、 古代ギリシアの世界のしっかりした科学的思考に基づいたものなのです。そのようなところから、科学的思考が出発しているのです。このようなことが、科学思想史の本を読めば、その最初の方に はいろいろ書いてあります。一応、吉之助は理系の人間でありますので、そのようなことを学んできました。
大事なことは、原因と結果に明らかな相関関係、両者の間に一本の筋道が見い出せるということ、「これがこうなるから、こういう結果になるのか、そうか、分かったぞ」という感覚があるならば、それは何かしら科学的な感覚であるということです。それは、何かしらパッと明るい、すべてが見えたような明晰な感覚なのです。
『(村上)「あの「源氏物語」の中にある超自然というのは、現実の一部として存在したものなんでしょうかね。」(河合)「どういう超自然ですか?」(村上)「つまり怨霊とか・・・。」(河合)「あんなのはまったく現実だと僕は思います。」(村上)「物語の装置としてではなく、もう完全に現実の一部としてあった?」(河合)「ええ、もう全部あったことだと思いますね。だから、装置として書いたのではないと思います。」」』(村上春樹x河合隼雄:対談「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」)
河合先生の言っていることは、六条御息所の生霊にせよ、それは平安の貴族の世界観のなかで成立したものなのだから、それは現実の一部として存在したものだということです。六条御息所 の身体から何らかの念が抜け出して、それが葵の上を苦しめたということは、恐ろしいものだけれども、平安の人々はそれをまったく現実の一部として理解しました。 だから、これは科学的思考に基づいた人間理解なのです。現代人は、生霊というものを非科学的な存在だとして認めませんから、そのような明晰さが分からなくなっています。だから、平安の人々は、 迷信に囲まれて、生霊とか怨霊に日々恐れ慄いて暮らしていたなどいうことになる。しかし、それは間違いです。現代人から見れば、そう思えるだけのことです。
さて、前節で見た通り、小松和彦先生は、服部幸雄先生の「聞書」要約について、「聞書」では悪霊祓いによって最後に分かった・ それまで誰も知らなかった事実を、要約の最初に持ってきて、時間的に最も古い出来事から物語を展開させ、「すべてはここから始まった」という風に、その因果関係がよく分かるように整理がされているとして、より因果律が強まった怨霊譚の方へ変形がなされていると指摘しています。なるほど、憑きモノ事件が幽霊譚に変化して行くプロセスは、小松先生の説明は見事でよく理解できます。吉之助は、この点にまったく異論はありません。
しかし、吉之助がここで明確にしておきたいことは、「聞書」要約において服部先生が累説話の怨霊譚化を意図したのかどうかという点です。但し書きつけますと、小松先生が服部先生にそのような意図 的なものがあったと書いているわけではありません。しかし、この点について曖昧な書き方だと思います。服部先生に、累説話の因果律を強調して怨霊譚へ転化させようとする意図がないことは、明らかなのです。服部先生は、ただ読者に原因と結果がよく分かるように、時系列を整理して、古いところ(原因)から解き明かし、次々と起こる不思議な現象を理解できるようにしただけなのです。つまり、そこに見えるのは、原因と結果を一本の筋道に解き明かした・努めて科学的な態度です。この要約に見えるのは明晰さなのです。
ところが、別の角度から見れば、小松先生の指摘する通り、その要約に見えるのは、因果律を強調して、累の怨霊が敵与右衛門の前に「恨めしや」と出現する怨霊譚の一歩手前の物語 だという風にも読めるわけです。そこに陰惨な非合理の世界が出現することになる。これは小松先生が「怨霊学者」ということですから、まあそのお立場から論旨を展開しているので仕方ないと思います 。しかし、服部先生の要約のなかにある明晰さについて 言及しておくことは、やはり必要なことではないかと思いますね。これは僧残寿の「死霊解脱物語聞書」についても同様です。
例えば(話が飛ぶようですが)横溝正史の推理小説「八つ墓村」とか「悪魔が来たりて笛を吹く」とかを読みます(その昔、吉之助の若い頃にブームになりました)と、次々起こる事件が悪霊の仕業か呪いみたいで、 何が起こっているのだろうと、訳が分からなくて・おぞましく陰惨な感じがしますが、そこに 名探偵(金田一耕助)がひょこり現れて、謎を見事に解き明かしていきます。「はあ、なるほど悪霊の仕業と思いきや、そんなトリックで殺人をしたわけね、これで納得だね」ということになります。そこにある感覚は、正しく科学的な思考で、それは明晰な 感覚なのです。それにしても、呪いやら伝説やらに結び付けてこんな手の込んだ殺し方をするとは酔狂な犯人だねと読後には思いますが 。
僧残寿の「死霊解脱物語聞書」も、また推理小説のようなものです。訳の分からない憑きモノ騒動に、ひょっこり現れた旅の僧(祐天上人)の死霊祓いによって、村の人々が 誰も知らなかった過去の真相が次々に明らかにされていく、これは 江戸の人々にとって推理小説を読むような面白さ です。祐天上人は名探偵です。そこにあるものは、科学的思考です。累説話の根底にも、そのような明晰さがあることを指摘しておきたいと思います。ですから同じ累説話を前にしながら、服部先生や吉之助はそこに明晰さを見ており、小松先生はそこに因果の暗さを見ていることになります。
累説話を基にした歌舞伎といえば、「色彩間苅豆」(かさね)があることはご存知の通りです。「かさね」の舞台は陰惨な物語であるように思うでしょうが、そこにも明晰さが見える場面があります。それは捕り手に絡まれた与右衛門がそこで手紙を見付け、これを広げて月明りに透かして読もうとしてポーズを取る 、その瞬間です。背景の黒幕がバッと切り落とされます。まだ薄暗い下総の田園風景が出現します。それは現代人の目から見れば、行燈の明りのように頼りない「薄暗さ」であるでしょう。しかし、当時の江戸の人々にとって、行燈の明りは十分な明るさであったことを忘れてはなりません。背景の黒幕がバッと切り落とされた瞬間から、与右衛門の旧悪が明かされ・かさねの因果の物語の、その発端からこれまでの筋道が次第に解き明かされ 、すべてが一本の糸につながって、観客に物語が次第に見えてくる。それは江戸の人々にとって、十分なほどの「明るさ」なのです。
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「死霊解脱物語聞書」の物語に明晰さを見るか・因果の暗さを見るか、それはどちらが正しいとか・間違っているということではなく、その眺める視座が異なるから様相が違って見えるということです。しかし、批評の立場から対象を見る場合には、正面から見たり・横から見たり・後ろから見たりして、そうやって出来るだけバランスを取った見方をする姿勢が必要になります。そうすることで批評が客観性を持つものになるか・さらに新たな真実が見出せるかどうかは分かりませんが、批評する場合にはそのような検証が必要になります。累説話のなかに、科学の明晰さと因果の暗さの両面を見ながら、どちらの可能性をも検討せねばなりません。
例えば、次の挿絵をご覧下さい。正徳2年(1712)に出版の「死霊解脱物語聞書」にある「霊界訪問を語る菊」の挿絵です。「聞書」の最初の本が元禄三年(1691)出版とされていますから、それより21年後の本になります。菊が夢うつつの状態(憑依状態)で、悪霊に導かれ霊界を訪れたことを、村人たちに語る姿が描かれています。菊の背後に、累(かさね)の悪霊が描かれています。
この挿絵の示すところは、憑依状態の菊が描かれていて、その菊が語るところを、村人たちが興味深そうに聞き入っているということです。菊の背後に累の悪霊が描かれているけれども、村人たちに累の姿が見えているわけではありません。しかし、村人たちは背後の 霊の存在を確かに感じ取っているのです。そして、正気の菊がこれを語るのではなく、累の悪霊が菊のなかに入り込んで、菊は累に語らされているのだという理屈も、ちゃんと理解しているのです。だから、村人たちは恐れ慄くことがまったくないのです。つまり、当時の科学的感覚において、「それはあり得ることだ、不可解なことではない」と皆が思っているから、怖くないのです。
憑依状態の菊が語ることは、村人たちが知らない・真実を確かめようがない・はるか昔の殺人事件です。このことは疑って掛かれば、祐天上人が何らかの暗示(催眠術)をかけて菊にありもしない事を語らせたということも考えられます。あるいは、 閉塞した村社会のなかの複雑な人間関係が原因で菊のなかにありもしない物語が構築されていったということも考えられないことではないです。これが法廷であるならば、それが真実であったかを検証していく必要がありますし、もしそれが真実でないならば・ないで、その物語がどのように作り上げられたのか・そのプロセスを検証して行くことは、社会学的に面白い研究テーマです。
しかし、「聞書」では、与右衛門および先代与右衛門が殺人を犯したことは事実であると、地の文で語っています。そして、その「事実」を踏まえれば、これまで村のなかで起こってきた奇怪な出来事はすべて明解に説明ができるのです。ですから、「そうか分かったぞ、不可解な出来事だと思ったけれど、そういう事実が発端になって、いろんな事件が起こったわけか、これで一連の事件がひとつの糸につながったぞ」という明晰な科学的な感覚が、累説話にあるということです。
ところが、一連の事件がひとつの糸につながった後、改めて感じさせられるのは、人間の業(ごう)の深さ・やりきれなさということです。これは当時の仏教の世界観によって理解されます。「何と、人生というものは、自分の意志だけではどうにもならないものに、動かされ 、操られているのだなあ」という思いです。そういうものは、何となく重苦しく暗いものです。いったん、原因と結果がひとつの糸で結ばれてしまうと、途端にそれが鬱な気分に変わってしまうことがあるものです。そこから、仏教の因果論の暗さが生まれてきます。
因果律を強調して行けば、累説話は、累の怨霊が敵与右衛門の前に「恨めしや」と出現する怨霊譚の一歩手前の物語ということになります。累説話は本来は 菊の憑き物騒動であるのですが、次第に累の怨霊譚に変化して行くのです。上掲の挿絵でも、累の悪霊が明確に描かれています。見えなかったものの姿が、人々の心のなかに次第に怨霊の像として定着していきます。挿絵は 、累説話の怨霊譚への変遷の途上を見せていると も解釈できます。そこまで約20年の年月が掛かっています。そうすると、これは小松先生の 研究領域になるわけです。
芝居における因果論については、別稿「黙阿弥の因果論・その革命性」で取り上げました。芝居というものは、時間の座標に縛られています。過去と現在・未来を行ったり来たりというような錯綜した展開には、不向きの芸術なのです。基本的に、筋は時間の進行に沿って(伸び縮みはしているけれども)、古い時点から進行していって・それが現在への伏線となるという風に展開して行きます。時に回想の形で過去が挿入される芝居もありますが、巧くやらないと筋がこんがらかって大変なことになります。
だから芝居の場合は、「ひとつの事実が発端になって、次の展開が起こっていく、物語がひとつの糸につながって行く」ということがないと、「分かった」という感覚にはならないわけです。このことは逆に言うならば、演劇というものは因果論に陥りやすい要素を持つ芸術だということですね。
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もともと田舎の憑き物騒動に過ぎなかった累説話が、元禄3年(1691)の「聞書」出版で、江戸の民衆にぱっと広まったわけではありません。累説話が歌舞伎で取り上げられた最初は、享保16年(1731)での江戸市村座での盆狂言であったそうです。その後、累説話はどんどん書き換えられて、筋が変化していきます。現在伝わっている伊達騒動に仕組んだ累物の先駆となるのは、安永7年(1778)での江戸中村座での・初代桜田治助他作による「伊達競阿国戯場(だてくらべおくにかぶき)」です。これは翌年に浄瑠璃化されて、累の筋だけ独立して「薫樹累物語(めいぼくかさねものがたり)」として、現在でもたまに上演されることがあります。その筋を見ると、足利家お抱えの相撲取り絹川は、主君の乱行を憂い殿寵愛の遊女高尾太夫を殺しますが、高尾の妹累と一緒になって故郷である羽生村へ帰って百姓与右衛門となりますが、高尾の霊が祟った累は顔が醜く変わってしまう・・というものです。
まず興味深いのは、「聞書」が伝えるところの菊の憑き物騒動(累の霊が菊に取り憑く)という設定より、怨霊となって出る累の方に焦点が行っていることです。。また、「文書」では先代与右衛門が犯した助殺しの因果により、累は醜い姿で生まれることになっていますが、「薫樹累物語」では、死霊の祟りによって累が美しい顔から醜い顔に変えられてしまうという風に筋が変化します。また与右衛門も「聞書」では先代と二代目がいるわけですが、「薫樹累物語」では与右衛門はひとりに整理されています。そして、自分が関与していない或る事情によって理不尽にも累が祟られて面相が変貌してしまい、それが原因で与右衛門に殺されてお化けになって出るという筋になっています。改めて思うに、時系列を整理した服部先生の「聞書」要約を見ても、これだと先代与右衛門の助殺しに始まって時代が数十年に渡りますから、因果の物語をそのまま芝居にするのは無理があるようです。だから、 累説話が芝居に取り上げられるに当たりプロットが整理されて単純になって行くことには、それなりの必然があるわけです。
もう少し時代が下ったところの舞踊「かさね(「色彩間苅豆」)は、文政6年(1823)江戸森田座での四代目鶴屋南北の「法懸松成田利剣(かさかけまつなりたのりけん)」の二番目・序幕で、歌詞は二代目松井幸三が書いたものです。舞踊「かさね」では書き換えられて「薫樹累物語」から 設定がまた多少変わっていますが、自分が関与していない或る事情によって理不尽に累が祟られて面相が変貌してしまって、それが原因で与右衛門に殺されてお化けになって出るというところは変わっていません。与右衛門の過去の所業がより因果に仕立てられているということは言えそうです。
こうやって、伝言ゲームの如くに、原説である「聞書」から舞踊「かさね」へ筋が変化して行く流れをざっと見ると、演劇というものが、原説のなかのどういう要素を取り・どういう 要素を捨て・そして芝居としてスッキリしたドラマに再構築していくか、その過程を見る気がしてきます。舞踊「かさね」は、美しい腰元が突然醜い姿に変貌してしまう・それは実は恋人与右衛門の過去の所業に原因があった・・ということで、うまくスリラー仕立ての変化物になっています。しかし、この点をもう少し掘り下げたいのです。
累説話が江戸の民衆に流布して行くについては、芝居のイメージに拠るところが多かったと思います。江戸民衆の累(かさね)のお化けのイメージは、歌舞伎が作ったのです。その過程で、何が累説話の核心であると人々が感じたのかということが、大事なポイントだと思います。元禄より時代がずっと下った江戸の民衆は、累説話は因果の物語であると受け取るようになっていました。そのなかで死霊となって菊 に取り憑く累の姿が、人々の心のなかに、どこか悲しく浮かび上がってきたはずです。「聞書」に出てくる累は最初から醜くて性格の悪い女に生まれたことになっています。しかし、それも先代与右衛門の過去の所業のせいであって、累が悪いことは全然なかったのです。ホントは累は美しい姿で生まれるはずだった。それが因果のなせる業(わざ)により醜く生まれてしまったということです。人々は、累のことをそのように理解しました。
ということは、累物の芝居のなかで、舞台で最初に累を美しい姿で登場させることは、累に対する供養の意味が確かにあったのです。それは、累に対して「これが本当のあなたの姿なんだよ」と認めることであるからです。そして、自分がまったく関与していない・恋人与右衛門の悪業によって、理不尽にも自分の面相が変えられてしまうことに因果のなせる業を感じて、人々が「それは是非ないことだなあ、人生は何と悲しいことだなあ」と あわれを感じることに、累に対する供養の意味が確かにあったのです。そこに盆狂言としての累物の意味があったはずです。このことは当時の江戸の民衆の世界観において理解されねばなりません。
ですから別稿「これが私の顔かいの」で書いた通り、変わり果てた姿を鏡で見せられて「これが私の顔かいの」と累が嘆く時に聞こえるものは、「生きるってどういうことなの・・・」という累の悲しみです。ホントは彼女は、ほんの小さな幸せを願っていただけのはずです。それが、自分の意志と関係ないところで、この世のところのモノと思われない姿とされて、人々に怖がられて・・・それはとても悲しいことなのです。だから心底恐ろしいのです。
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お化けと幽霊と妖怪がどう違うのかというのは、よく出る質問だと思います。幽霊というのは死んだ人の魂が成仏できないで・この世に残っているもの、妖怪というのは人間ではない・動物とか物とかが化けたものと、大まかに区別出来ると思いますが、 そのどちらもお化けと呼ぶことがありますから、区分には曖昧なところがあるようです。
泉鏡花といえば無類の「お化け好き」で通っていますが、鏡花のお化けというのは歌舞伎の怪談芝居に出てくるお化けと違って、特定の人を呪ったり・取り憑いたりするために出てくるものではないようです。 鏡花のお化けは、何げなく見るとすぐ横に座って居るという感じのお化けなのです。「変だなあ・こんなものはこの世に居るはずがないのになあ・・でも、そこに確かにそこに居るのだから・いないと思う俺の方が変なのかもなあ・・」などと思いながら一緒に並んで黙って部屋に座っているという感じのお化けです。つまりアッケラカンとしたお化けなのです。(別稿「たそがれの味」をご参照ください。)
そのようなお化けが普通のものだとすると、この点は折口信夫も「近代文学論」のなかで指摘していますが、歌舞伎の怪談芝居のお化けというのは特異だということが分かると思います。歌舞伎に出て来るお化けというのは、大抵恨みを以って成仏できないで・現世に現れますが、その場合、恨みの対象となる人物(あるいはその親族など)が必ずいます。そして、その原因となる人物が誅されると、お化けは恨みを消して、その後は出て来ません。恨みの対象が誅せられれば、お化けが再び登場する必然がないからです。 芝居というものは「ひとつの事実が発端になって、次の展開が起こっていく、物語がひとつの糸につながって行く」ということがないと、観客が「分かった」という感覚にはならないので、芝居というものは因果論に陥りやすい要素を持つ芸能なのです。もちろん因果論は当時の民衆の仏教的世界観が背景にあるものですが、同時に明晰な論理関係を芝居のなかに持ち込んでいます。
「四谷怪談」を見ていて不思議に思うことは、お岩の幽霊は伊右衛門の母親お熊や悪仲間の秋山長兵衛を取り殺しますが、肝心要の恨みの対象である伊右衛門を自分の手で取り殺さないことです。伊右衛門に取り付いて・地獄へ道連れなんてドン・ジョヴァン二の最後のような場面(地獄落ち)を、観客は内心期待しているはずです。しかし、「四谷怪談」では、そうならないのです。伊右衛門を誅するのは四十七士である佐藤与茂七で、彼は伊右衛門を討った後でその足で師直屋敷の討ち入りに駆けつけます。つまり、お岩は与茂七に 処刑を「任せる」のです。これはお岩の怨念の晴らし方という視点から見ると、いまひとつ晴れやかではない。この点を疑問に感じてもらいたいのです。
ここで明らかなことは、お岩の幽霊の件が「四谷怪談」の「装置」であるということ、厳密な意味においてそれが「四谷怪談」の本質ではないらしいということです。もしそれが 「四谷怪談」の本質であるならば、伊右衛門はお岩の幽霊によって葬られなければ、ドラマ的にスカッと来ません。「歌舞伎素人講釈」ではこれについては何度も書きましたので、詳細は別稿「軽やかな伊右衛門」、あるいは「世界とは何か」などをお読みください。「四谷怪談」は「忠臣蔵」 という世界の明晰な論理関係の下にあると言えます。だから吉之助は、お岩の幽霊の件は装置だと言うのです。
「装置」というのは、その1において村上春樹氏が使っている言葉です。つまり、物語の筋を展開させていくための仕掛けということです。歌舞伎のお化け芝居は、そのような特徴を持っています。それは芝居が因果論に陥りやすい要素を持つ芸能であるから、そうなる わけです。例えば黙阿弥の「蔦紅葉宇都谷峠(文弥殺し)」(安政3年・1856・江戸市村座)でも、文弥の幽霊が現れて恨みがましいことを言うけれど、伊丹屋十兵衛に直接手を下すことはありません。そのドラマは、読み様によっては、文弥の幽霊は十兵衛のなかの罪悪感が作り出した幻影であって、十兵衛は罪悪感によって自滅して行くという風に も読めます。それは近代精神分析学的な読み方にも耐えられるものです。つまり、「宇都谷峠」は陰惨で非合理な芝居のように見えますが、文弥の幽霊は完全に装置化しており、実は明晰な論理関係の下に在るのです。
このように歌舞伎を検証して行くと、お化け芝居のなかに「恨みを抱いて死んで・死後に幽霊になってその人物や縁者に祟る」という因果関係の陰惨さ ・非合理な世界のおどろおどろしさを見るということは、作品成立時の(つまり江戸期の)民衆の感覚のなかにオリジナルとして在ったものではないということを考えざるを得ないわけです。
吉之助は、因果論の陰惨さ・おどろおどろしさという感覚は、案外近い時期、すなわち明治期になってから生成してきたものだという風に考えています。その論証のためには、明治期の円朝の怪談噺やら講談やら・周辺のものも検討して行かねばなりませんが、ここで言えることは、そのようなものは否定すべき非合理なものとして、否定されるべき旧弊・否定されるべき江戸というような感覚と複合的に重なり合いながら、陰惨さ・おどろおどろしさという 或る種ネガティヴな感覚で捉えられて行く、そのような複雑な過程を辿っています。泉鏡花を始めとして、明治期の知識人の・こんな人がと思う人が大変なお化け好きで あったりして、怪談会などに嬉々として参加していました。合理主義一辺倒な世の中であるからこそ非合理に憧れるという側面もありますが(西洋の知識階級でも同時期に心霊会のようなことが流行しました)、そこに明治という時代の精神の微妙なところが見えて来 ます。明治という時代には、とても捻じれたところがあります。それは江戸と明治の亀裂から来るものです。
「四谷怪談」は観客を怖がらせるために様々な工夫を凝らしているうちに、お化け芝居として練れて行くわけですが、吉之助は、そこに明治という時代の役割を考えて見たいのです。「四谷怪談」上演史のことで言えば、市川齋入(明治から大正に掛けて上方でケレン芝居で鳴らした 役者)が果たした役割が大きいようです。齋入は上方ですが、ケレン芝居としての「四谷怪談」の影響が東京の方にも及んでいます。ですから、現代の「四谷怪談」から、陰惨さ・おどろおどろしさという分厚い泥絵の具を取り去って見れば、そこから現れるものは、それは案外アッケラカンとして明晰なものであるかも知れません。そういう「四谷怪談」を想像してみたら面白いと思いますね。 
小泉八雲『怪談』  

 

ろくろ首
ろくろ首(ろくろくび、轆轤首、飛頭蛮)は、日本の妖怪の一種。ろくろっ首。大別して、首が伸びるものと、首が抜け頭部が自由に飛行するものの2種が存在する。古典の怪談や随筆によく登場し、妖怪画の題材となることも多いが、ほとんどは日本の怪奇趣味を満足させるために創作されたものとの指摘もある。
語源
ろくろ首の名称の語源は、
ろくろを回して陶器を作る際の感触
長く伸びた首が井戸のろくろ(重量物を引き上げる滑車)に似ている
傘のろくろ(傘の開閉に用いる仕掛け)を上げるに従って傘の柄が長く見える
などの説がある。
2種類のろくろ首
いずれも外見上は普通の人間とほとんど変わらない。首が伸びるタイプ、異常に長く伸び縮みする首を持つ。
首が抜けるろくろ首(抜け首)
こちらの首が抜けるものの方が、ろくろ首の原型とされている。このタイプのろくろ首は、夜間に人間などを襲い、血を吸うなどの悪さをするとされる。首が抜ける系統のろくろ首は、寝ている(首だけが飛び回っている)ときに、本体を移動すると元に戻らなくなることが弱点との説もある。古典における典型的なろくろ首の話は、夜中に首が抜け出た場面を他の誰かに目撃されるものである。
抜け首は魂が肉体から抜けたもの(離魂病)とする説もあり、『曾呂利物語』では「女の妄念迷ひ歩く事」と題し、女の魂が睡眠中に身体から抜け出たものと解釈している。同書によれば、ある男が、鶏や女の首に姿を変えている抜け首に出遭い、刀を抜いて追いかけたところ、その抜け首は家へ逃げ込み、家の中からは「恐い夢を見た。刀を持った男に追われて、家まで逃げ切って目が覚めた」と声がしたという。
『曾呂利物語』からの引き写しが多いと見られている怪談集『諸国百物語』でも「ゑちぜんの国府中ろくろ首の事」と題し、女の魂が体から抜け出た抜け首を男が家まで追いかけたという話があり(画像参照)、この女は罪業を恥じて夫に暇を乞い、髪をおろして往生を遂げたという。
橘春暉による江戸時代の随筆『北窻瑣談』でもやはり、魂が体から抜け出る病気と解釈している。寛政元年に越前国(現・福井県)のある家に務めている下女が、眠っている間に枕元に首だけが枕元を転がって動いていた話を挙げ、実際に首だけが胴を離れるわけはなく、魂が体を離れて首の形を形作っていると説明している。
妖怪譚の解説書の性格を備える怪談本『古今百物語評判』では「絶岸和尚肥後にて轆轤首を見給ふ事」と題し、肥後国(現・熊本県)の宿の女房の首が抜けて宙を舞い、次の日に元に戻った女の首の周りに筋があったという話を取り上げ、同書の著者である山岡元隣は、中国の書物に記されたいくつかの例をあげて「こうしたことは昔から南蛮ではよく見られたことで天地の造化には限りなく、くらげに目がないなど一通りの常識では計り難く、都では聞かぬことであり、すべて怪しいことは遠国にあることである」と解説している。また香川県大川郡長尾町多和村(現・さぬき市)にも同書と同様、首に輪のような痣のある女性はろくろ首だという伝承がある。随筆『中陵漫録』にも、吉野山の奥地にある「轆轤首村」の住人は皆ろくろ首であり、子供の頃から首巻きを付けており、首巻きを取り去ると首の周りに筋があると記述されている。
松浦静山による随筆『甲子夜話』続編によれば、常陸国である女性が難病に冒され、夫が行商人から「白犬の肝が特効薬になる」と聞いて、飼い犬を殺して肝を服用させると、妻は元気になったが、後に生まれた女児はろくろ首となり、あるときに首が抜け出て宙を舞っていたところ、どこからか白い犬が現れ、首は噛み殺されて死んでしまったという。
これらのように、ろくろ首・抜け首は基本的に女性であることが多いが、江戸時代の随筆『蕉斎筆記』には男の抜け首の話がある。ある寺の住職が夜寝ていると、胸の辺りに人の頭がやって来たので、それを手にして投げつけると、どこかへ行ってしまった。翌朝、寺の下男が暇を乞うたので、訳を聞くと「昨晩、首が参りませんでしたか」と言う。来たと答えると「私には抜け首の病気があるのです。これ以上は奉公に差し支えます」と、故郷の下総国へ帰って行った。下総国にはこの抜け首の病気が多かったとされる。
根岸鎮衛による随筆『耳嚢』では、ろくろ首の噂のたてられている女性が結婚したが、結局は噂は噂に過ぎず、後に仲睦まじい夫婦生活を送ったという話がある。本当のろくろ首ではなかったというこの話は例外的なもので、ほとんどのろくろ首の話は上記のように、正体を見られることで不幸な結果を迎えている。
江戸時代の百科事典『和漢三才図会』では後述の中国のものと同様に「飛頭蛮」の表記をあて、耳を翼のように使って空を飛び、虫を食べるものとしているが、中国や日本における飛頭蛮は単なる異人に過ぎないとも述べている。
小泉八雲の作品『ろくろ首』にも、この抜け首が登場する。もとは都人(みやこびと)で今は深山で木こりをしている一族、と見せかけて旅人を食い殺す、という設定で描かれている。
首が伸びるろくろ首
「寝ている間に人間の首が伸びる」と言う話は、江戸時代以降『武野俗談』『閑田耕筆』『夜窓鬼談』などの文献にたびたび登場する。
これはもともと、ろくろ首(抜け首)の胴と頭は霊的な糸のようなもので繋がっているという伝承があり、石燕などがその糸を描いたのが、細長く伸びた首に見間違えられたからだとも言われる。
『甲子夜話』に以下の話がある。ある女中がろくろ首と疑われ、女中の主が彼女の寝ている様子を確かめたところ、胸のあたりから次第に水蒸気のようなものが立ち昇り、それが濃くなるとともに頭部が消え、見る間に首が伸び上がった姿となった。驚いた主の気配に気づいたか、女中が寝返りを打つと、首は元通りになっていた。この女中は普段は顔が青白い以外は、普通の人間と何ら変わりなかったが、主は女中に暇を取らせた。彼女はどこもすぐに暇を出されるので、奉公先に縁がないとのことだった。この『甲子夜話』と、前述の『北窻瑣談』で体外に出た魂が首の形になったという話は、心霊科学でいうところのエクトプラズム(霊が体外に出て視覚化・実体化したもの)に類するものとの解釈もある。
江戸後期の大衆作家・十返舎一九による読本『列国怪談聞書帖』では、ろくろ首は人間の業因によるものとされている。遠州で回信という僧が、およつという女と駆け落ちしたが、およつが病に倒れた上に旅の資金が尽きたために彼女を殺した。後に回信は還俗し、泊まった宿の娘と惹かれ合って枕をともにしたところ、娘の首が伸びて顔がおよつと化し、怨みつらみを述べた。回信は過去を悔い、娘の父にすべてを打ち明けた。すると父が言うには、かつて自分もある女を殺して金を奪い、その金を元手に宿を始めたが、後に産まれた娘は因果により生来のろくろ首となったとのことだった。回信は再び仏門に入っておよつの墓を建て、「ろくろ首の塚」として後に伝えられたという。
ろくろ首を妖怪ではなく一種の異常体質の人間とする説もあり、伴蒿蹊による江戸時代の随筆『閑田耕筆』では、新吉原のある芸者の首が寝ている間に伸びたという話を挙げ、眠ることで心が緩むと首が伸びる体質だろうと述べている。
文献のみならず口承でもろくろ首は語られており、岐阜県の明智町と岩村の間の旧街道に、ヘビが化けたろくろ首が現れたといわれている。長野県飯田市の越久保の口承では、人家にろくろ首が現れるといわれた。
文化時代には、遊女が客と添い寝し、客の寝静まった頃合に、首をするすると伸ばして行燈の油を嘗めるといった怪談が流行し、ろくろ首はこうした女が化けたもの、または奇病として語られた。またこの頃には、ろくろ首は見世物小屋の出し物としても人気を博していた。『諸方見聞録』によれば、1810年(文化7年)に江戸の上野の見世物小屋に、実際に首の長い男性がろくろ首として評判を呼んでいたことが記されている。
明治時代に入ってもろくろ首の話がある。明治初期に大阪府茨木市柴屋町の商家の夫婦が、娘の首が夜な夜な伸びる場面を目撃し、神仏にすがったが効果はなく、やがて町内の人々にも知られることとなり、いたたまれなくなってその地を転出し、消息を絶ったという。
類話
日本国外
首が胴体から離れるタイプのろくろ首は、中国の妖怪「飛頭蛮」(ひとうばん、頭が胴体から離れて浮遊する妖怪)に由来するとも言われている。また、首の回りの筋という前述の特徴も中国の飛頭蛮と共通する。また同様に中国には「落頭」(らくとう)と言う妖怪も伝わっており、首が胴体からスポッと抜けて飛び回り、首が飛び回っている間は布団の中には胴体だけが残っている状態になる。三国時代の呉の将軍・朱桓(しゅかん)が雇った女中がこの落頭だったと言う話が伝わっている。耳を翼にして飛ぶと言う。また秦の頃には南方に「落頭民」(らくとうみん)と言われる部族民がおり、その人々は首だけを飛ばすことができたと言う。
また東南アジアではボルネオ島に「ポンティ・アナ」、マレーシアに「ペナンガラン」という、頭部に臓物がついてくる形で体から抜け出て、浮遊するというものである伝承がある。また、南米のチョンチョンも、人間の頭だけが空を飛び回るという姿をしており、人の魂を吸い取るとされる。
妖怪研究家・多田克己は、日本が室町時代から安土桃山時代にかけて南中国や東南アジアと貿易していた頃、これらの伝承が海外から日本へ伝来し、後に江戸時代に鎖国が行われたことから、日本独自の首の伸びる妖怪「ろくろ首」の伝承が生まれたものとみている。しかし、日本のもののように首が伸縮する事象は錯覚も含めてある程度考えられることなのに対し、海外のように首が胴から離れるということとはかけ離れているため、これら海外の伝承と日本の伝承との関連性を疑問視する声もある。
日本
平将門の首は晒し者にされた後も腐らず毎晩恨み言を語り、自分の体を探し求め宙を飛んだという伝承がある。七尋女房という首の長い(7尋≒13メートル)妖怪が山陰に伝わる。
ろくろ首の「実話」の信憑性
実際に首が伸びるのではなく、「本人が首が伸びたように感じる」、あるいは「他の人がその人の首が飛んでいるような幻覚を見る」という状況であったと考えると、いくつかの疾患の可能性が考えられる。例えば片頭痛発作には稀に体感幻覚という症状を合併することがあるが、これは自分の体やその一部が延びたり縮んだりするように感じるもので、例として良くルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」があげられる(不思議の国のアリス症候群)。この本の初版には、片頭痛持ちでもあったキャロル自らの挿絵で、首だけが異様に伸びたアリスの姿が描かれている(ただし後の版や、ディズニーのアニメでは体全体が大きくなっているように描かれている)。一方、ナルコレプシーに良く合併する入眠時幻覚では、患者は突然眠りに落ちると同時に鮮明な夢を見るが、このときに知人の首が浮遊しているような幻覚をみた人の例の報告がある。
夢野久作の小説『ドグラ・マグラ』においては、登場人物の正木博士が「ロクロ首の怪談は、夢中遊行(睡眠時遊行症)状態の人間が夜間、無意識のうちに喉の渇きを癒すために何らかの液体を飲み、その跡を翌朝見つけた人間がそれをロクロ首の仕業であるとした所から生まれたものである」という説を立てている。
酷使された末に腺病質となって痩せ衰えた遊女が、夜に灯油を嘗めている姿の影が首の長い人間に見え、ろくろ首の話のもとになったとする説もある。
見世物(奇術)としてのろくろ首
内幕と等身大の人形(頭はない)を利用した奇術であり、現代の分類でいえば、人体マジックに当てはまるものである。ネタの内容は、内幕の前に着物を着せた人形を正座させ、作り物の長い首を、内幕の後ろで体を隠し、顔だけを出している女性の本物の首と、ひもで結ぶ。後は内幕の後ろで体を隠している女性が、立ったり、しゃがんだりすることによって、作り物の首を伸ばしたり、縮めたりして、あたかもろくろ首が実在するかのように見せる。明治時代の雑誌で、このネタばらしの解説と絵が描かれており、19世紀の時点で行われていたことが分かる。当時は学者により、怪現象が科学的にあばかれることが盛んだった時期であり、ろくろ首のネタばらしも、そうした時代背景がある。大正時代においても寺社の祭礼や縁日での見世物小屋で同様の興行が行われ、人気を博していた。
海外の人体マジックでも似たものがあり、落ちた自分の頭を自分の両手でキャッチするものがある(こちらはデュラハンの見世物として応用できる)ことから、同様の奇術が各国で応用的にアレンジされ、見世物として利用されたものとみられる。なお、飛頭系の妖怪も幻灯機を用いた奇術で説明がつけられる(暗がりならなおさら悪戯でも可能な話である)。こうした奇術の応用は、現代では特撮に用いられることがある。
耳無し芳一
耳なし芳一(みみなしほういち)は、安徳天皇や平家一門を祀った阿弥陀寺(現在の赤間神宮、山口県下関市)を舞台とした物語、怪談。小泉八雲の『怪談』にも取り上げられ、広く知られるようになる。八雲が典拠としたのは、一夕散人(いっせきさんじん)著『臥遊奇談』第二巻「琵琶秘曲泣幽霊(びわのひきょくゆうれいをなかしむ)」(1782年)であると指摘される。『臥遊奇談』でも琵琶師の名は芳一であり、背景舞台は長州の赤間関、阿弥陀寺とある。これは現今の下関市、赤間神社のことと特定できる。昔話として徳島県より採集された例では「耳切り団一」で、柳田國男が『一つ目小僧その他』等で言及している。
物語
阿弥陀寺に芳一という盲目の琵琶法師が住んでいた。芳一は平家物語の弾き語りが得意で、特に壇ノ浦の段は「鬼神も涙を流す」と言われるほどの名手だった。
ある夜、和尚の留守の時、突然一人の武士が現われる。芳一はその武士に請われて「高貴なお方」の屋敷に琵琶を弾きに行く。盲目の芳一にはよくわからなかったが、そこには多くの貴人が集っているようであった。壇ノ浦の戦いのくだりをと所望され、芳一が演奏を始めると皆熱心に聴き入り、芳一の芸の巧みさを誉めそやす。しかし、語りが佳境になるにしたがって皆声を上げてすすり泣き、激しく感動している様子で、芳一は自分の演奏への反響の大きさに内心驚く。芳一は七日七晩の演奏を頼まれ、夜ごと出かけるようになる。
和尚は目の悪い芳一が夜出かけていく事に気付いて不審に思い、寺男たちに後を付けさせた。すると芳一は一人、平家一門の墓地の中におり、平家が推戴していた安徳天皇の墓前で無数の鬼火に囲まれて琵琶を弾き語っていた。寺の者たちは慌てて芳一を連れ帰り、和尚に問い詰められた芳一はとうとう事情を打ち明けた。和尚は怨霊たちが単に芳一の琵琶を聞くことだけでは満足せずに、芳一に危害を加えることを恐れ、これは危ない、このままでは芳一が平家の怨霊に殺されてしまうと和尚は案じた。和尚は自分がそばにいれば芳一を守ってやれると考えたが、生憎夜は法事で芳一のそばについていてやることが出来ない。かといって寺男や小僧では力不足である。芳一を法事の席に連れていっては大勢の怨霊をもその席に連れて行ってしまうことになりこれでは檀家との間にトラブルを発生させる危険性がある。そこで和尚は芳一を一人にするが怨霊と接触させない方法を採用することで芳一を守ることにした。和尚は怨霊の「お経が書かれている身体部分は透明に映り視認できない」という視覚能力の性質を知っていたので、怨霊が芳一を確認できないように法事寺の小僧と共に芳一の全身に般若心経を写した。ただしこのとき耳の部分に写経し忘れたことに気が付かなかった。また音声によって場所を特定されることを防ぐために芳一に怨霊の武士に声をかけれられても無視するように堅く言い含めた。
その夜、芳一が一人で座っていると、いつものように武士(平家の怨霊)が芳一を迎えに来た。しかし経文の書かれた芳一の体は怨霊である武士には見えない。芳一が呼ばれても返事をしないでいると怨霊は当惑し、「声も聞こえない、姿も見えない。さて芳一はどこへ行ったのか・・・」という独り言が聞こえる。そして怨霊には、耳のみが見え、「芳一がいないなら仕方がない。証拠に耳だけでも持って帰ろう」と考えた。耳だけ持ち帰ることが結果的に芳一にどのような損傷を与えるかに思いをいたせず、結果的に頭部から耳をもぎ取ってそのまま去って行った。 朝になって帰宅した和尚は耳をもぎ取られ血だらけになって意識のない芳一の様子に驚き、一部始終を聞いた後、芳一の身体に般若心経を写経した際、小僧が耳にだけ書き漏らしてしまったことに気づき、芳一に、小僧の見落としについて謝罪した。その後、怪我は手厚く治療されこの不思議な事件が世間に広まって彼は「耳なし芳一」と呼ばれるようになった。琵琶の腕前も評判になり高所得を得ることが出来、何不自由なく暮らしたという。結果的に芳一に降りかかった禍は彼の名声を高めることに寄与したことになる。
解釈
一説に明石覚一検校がモデルとされている。 芳一の受難の物語は純粋な想像の産物だとは考えにくい。突出した能力を持つ人間がその影響力を恐れた既得権益保有者の陰謀により殺されかかったと解釈すべきである。ここにこの奇談の普遍性がある。
類話
上記の話が、一般的に「耳なし芳一」と言われるものであるが、これ以外にも幾つかの類話が存在しており、部分部分で話が違っていたり、結末が異なったりする。
寛文3年(1663年)に刊行された「曽呂利物語」の中では、舞台は信濃、善光寺内の尼寺となっているうえ、主人公は芳一ではなく「うん市」という座頭である。
雪女
雪女(ゆきおんな)は、雪の妖怪。「ユキムスメ」、「ユキオナゴ」、「ユキジョロウ(雪女郎)」、「ユキアネサ」、「雪オンバ」、「雪ンバ」(愛媛)、「雪降り婆」とも呼ばれる。「ツララオンナ」、「カネコリムスメ」「シガマニョウボウ」など、氷柱に結びつけて呼ばれることも多い。
由来
雪女の起源は古く、室町時代末期の連歌師・宗祇法師による『宗祇諸国物語』には、法師が越後国(現・新潟県)に滞在していたときに雪女を見たと記述があることから、室町時代には既に伝承があったことがわかる。
呼び方は違えど、常に「死」を表す白装束を身にまとい男に冷たい息を吹きかけて凍死させたり、男の精を吸いつくして殺すところは共通しており、広く「雪の妖怪」として怖れられていた。
雪女は『宗祇諸国物語』をもとにした小泉八雲の『怪談』「雪女」の様に、恐ろしくも美しい存在として語られることが多く、雪の性質からはかなさを連想させられる。
ちなみに雪男は近代にイエティ、ビッグフットの訳語として付けられただけで、意匠上も「雪女」と生物学的に同種で互いに異性の関係にあるわけではない。
逸話
伝承では、新潟県小千谷地方では、男のところに美しい女が訪ね、女は自ら望んで男の嫁になるが、嫁の嫌がるのを無理に風呂に入れると姿がなくなり、男が切り落とした細い氷柱の欠片だけが浮いていたという。青森県や山形県にも同様の話があり「しがま女房」などと呼ばれる。山形県上山地方の雪女は、雪の夜に老夫婦のもとを訪ね、囲炉裏の火にあたらせてもらうが、夜更けにまた旅に出ようとするので、翁が娘の手をとって押し止めようとすると、ぞっとするほど冷たい。と、見る間に娘は雪煙となって、煙出しから出ていったという。また、姑獲鳥との接点も持っており、吹雪の晩に子供(雪ん子)を抱いて立ち、通る人間に子を抱いてくれと頼む話が伝えられる。その子を抱くと、子がどんどん重くなり、人は雪に埋もれて凍死するという。頼みを断わると、雪の谷に突き落とされるとも伝えられる。弘前では、ある武士が同様に雪女に子供を抱くよう頼まれたが、短刀を口に咥えて子供の頭の近くに刃がくるようにして抱いたところ、この怪異を逃れることができ、武士が子供を雪女に返すと、雪女は子供を抱いてくれたお礼といって数々の宝物をくれたという。次第に増える、雪ん子の重さに耐え抜いた者は怪力を得るともいう。
長野県伊那地方では、雪女を「ユキオンバ」と呼び、雪の降る夜に山姥の姿であらわれると信じられている。同様に、愛媛県吉田では、雪の積もった夜に「ユキンバ」が出ると言って、子供を屋外に出さない様にする。また、岩手県遠野地方では、小正月の1月15日、または谷の満月の夜には、雪女が多くの童子をつれて野に出て遊ぶので、子供の外出を戒めるという。この様に、雪女を山姥と同じものとして扱うところも多く、多くの童子を連れるという多産の性質も、山姥のそれに類似している。和歌山県伊都地方では、雪の降り積む夜には一本足の子どもが飛び歩くので、翌朝に円形の足跡が残っているといい、これを「ユキンボウ」と言うが、1本足の童子は山神の使いとされている。鳥取県東伯郡小鹿村(現・三朝町)の雪女は、淡雪に乗って現れる時に、「氷ごせ湯ごせ」(「ごせ」とは「(物を)くれ、下さい」という意味の方言)と言いながら白幣を振り、水をかけると膨れ、湯をかけると消えるという。奈良県吉野郡十津川の流域でいう「オシロイバアサン」、「オシロイババア」も雪女の一種と思われ、鏡をジャラジャラ引きずってくるという。これらの白幣を振るという動作や、鏡を持つという姿は、生産と豊穣を司る山神に仕える巫女としての性格の名残であると考えられる。実際に青森では、雪女が正月三日に里に降り、最初の卯の日に山に帰ると云われ、卯の日の遅い年は作柄が変わるとされていた。
岩手県や宮城県の伝承では、雪女は人間の精気を奪うとされ、新潟県では子供の生き肝を抜き取る、人間を凍死させるなどといわれる。秋田県西馬音内では、雪女の顔を見たり言葉を交わしたりすると食い殺されるという。逆に茨城県や福島県磐城地方では、雪女の呼びかけに対して返事をしないと谷底へ突き落とされるという。福井県でも越娘(こしむすめ)といって、やはり呼びかけに対して背を向けた者を谷へ落とすという。
岐阜県揖斐郡揖斐川町では、ユキノドウという目に見えない怪物が雪女に姿を変えて現れるという。山小屋に現れて「水をくれ」と言うが、求めに応じて水を与えると殺されてしまうので、熱いお茶を出すべきとされる。またこのユキノドウを追い払うには「先クロモジに後ボーシ、締めつけ履いたら、如何なるものも、かのうまい」と唱えると良いという。
正月元旦に人間界に雪女が来て帰っていく青森県弘前市の伝承や岩手県遠野市の、小正月または冬の満月の日に雪女が多くの子を連れて遊ぶという伝承から見ても、このような人間界を訪れる日から雪女の歳神(としがみ)的性格を窺うことができる。吹雪の晩に雪女を親切にもてなしたところ、翌朝、雪女は黄金と化していたという、「大歳の客」系の昔話の存在も雪女の歳神的性格と無縁ではない。
雪女は子供をつれて出現することも多い。同じような子連れの妖怪、産女(うぶめ)の伝承とも通い合う。山形県最上郡では産女を雪女だと伝えている。
小泉八雲の「雪おんな」のように、山の猟師が泊り客の女と結ばれ子供が生まれ、嫁にうっかり雪女と結んだタブーを口にしたため、女は自分こそ雪女だと明かすが男との間に生まれた子がいたため殺さず、“子に万一の事があったら只では済まさぬ”と告げて姿を消すタイプの昔話のパターンは新潟県、富山県、長野県に伝承があり、その発端は山の禁(タブー)を破ったために山の精霊に殺されるという山人の怪異譚に多い。雪女の伝説は、山人の怪異譚と雪女の怪異譚の複合により生まれたとする説もある。
雪女の昔話はほとんどが哀れな話であり、子のない老夫婦、山里で独り者の男、そういう人生で侘しい者が、吹雪の戸を叩く音から、自分が待ち望む者が来たのではと幻想することから始まったといえる。そして、その待ち望んだものと一緒に暮らす幸せを雪のように儚く幻想した話だという。それと同時に畏怖の感覚もあり、『遠野物語』にもあるように吹雪が外障子を叩く音を「障子さすり」と言い、雪女が障子を撫でていると遅寝の子を早く眠らす習俗もある。障子さすりのようなリアルな物言いにより、待ち望むものの訪れと恐怖とは背中合わせの関係であるといえる。また冬などの季節は神々の訪れであり、讃めなければひどいことになりかねず、待ち望むといってもあまり信用してはならない。なんにせよ季節の去来と関係した話といえる。風の又三郎などとも何処かで繋がるのではないかと、国文学者・古橋信孝は述べている。
雪女の正体は雪の精、雪の中で行き倒れになった女の霊などと様々な伝承がある。山形県小国地方の説話では、雪女郎(雪女)は元は月世界の姫であり、退屈な生活から抜け出すために雪と共に地上に降りてきたが、月へ帰れなくなったため、雪の降る月夜に現れるとされる。
江戸時代の知識人・山岡元隣は雪女は雪から生まれるという。物が多く積もれば必ずその中に生物を生ずるのが道理であり、水が深ければ魚、林が茂れば鳥を生ずる。雪も陰、女も陰であるから、越後などでは深い雪の中に雪女を生ずることもあるかも知れぬといっている。
日本の伝統文化の中で、雪女は幸若の『伏見常磐』などに見られ、近世には確認できる。近松門左衛門の「雪女五枚羽子板」がありだまされ惨殺された女が雪女となり復讐する話である。雪女の妖艶で凄惨な感じがうまく使われている。昔話・伝承では青森、山形、秋田、岩手、福島、新潟、長野、和歌山、愛媛などで確認されている。
小泉八雲の「雪女」
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が『怪談(Kwaidan)』の中で雪女伝説を紹介している。
あらすじ
この話は武蔵の国、西多摩郡調布村の百姓が私に語ってくれたものである。
武蔵の国のある村に、茂作と巳之吉という2人の樵が住んでいた。茂作はすでに老いていたが、巳之吉の方はまだ若く、見習いだった。
ある冬の日のこと、吹雪の中帰れなくなった二人は、近くの小屋で寒さをしのいで寝ることにする。その夜、顔に吹き付ける雪に巳之吉が目を覚ますと、恐ろしい目をした白ずくめ、長い黒髪の美女がいた。巳之吉の隣りに寝ていた茂作に女が白い息を吹きかけると、茂作は凍って死んでしまう。
女は巳之吉にも息を吹きかけようと巳之吉に覆いかぶさるが、しばらく巳之吉を見つめた後、笑みを浮かべてこう囁く。「おまえもあの老人(=茂作)のように殺してやろうと思ったが、おまえは若くきれいだから、助けてやることにした。だが、おまえは今夜のことを誰にも言ってはいけない。誰かに言ったら命はないと思え」そう言い残すと女は戸も閉めず、吹雪の中に去っていった。
それから数年して、巳之吉は「お雪」と名乗る、雪のように白くほっそりとした美女と出会う。二人は恋に落ちて結婚し、10人の子供をもうける。お雪はとてもよくできた妻であったが、不思議なことに、何年経ってもお雪は全く老いることがなかった。
ある夜、子供達を寝かしつけたお雪に、巳之吉がいう。「こうしておまえを見ていると、十八歳の頃にあった不思議な出来事を思い出す。あの日、おまえにそっくりな美しい女に出会ったんだ。恐ろしい出来事だったが、あれは夢だったのか、それとも雪女だったのか……」
巳之吉がそういうと、お雪は突然立ち上り、言った。「そのときおまえが見たのは私だ。私はあのときおまえに、もしこの出来事があったことを人にしゃべったら殺す、と言った。だが、ここで寝ている子供達を見ていると、どうしておまえのことを殺せようか。どうか子供達の面倒をよく見ておくれ……」
次の瞬間、お雪の体はみるみる溶けて白い霧になり、煙だしから消えていった。それきり、お雪の姿を見た者は無かった。
原典
小泉八雲の描く「雪女」の原伝説については、ここ数年研究が進み、東京・大久保の家に奉公していた東京府西多摩郡調布村(現在の青梅市南部多摩川沿い)出身の親子(お花と宗八とされる)から聞いた話がもとになっていることがわかっている(英語版の序文に明記)。この地域で酷似した伝説の記録が発見されていることから、この説は相当な確度を持っていると考えられ、秋川街道が多摩川をまたぐ「調布橋」のたもとには「雪おんな縁の地」の碑が立てられた。100年前は現在とは気候が相当異なり、中野から西は降れば大雪であったことから、気象学的にも矛盾しない。
のっぺらぼう・むじな
のっぺらぼう(野箆坊)は、一般的に外見は普通の人間だが、顔には目も鼻も口もない日本の妖怪である。
のっぺらぼうそのものは存在せず、ムジナ、キツネ、タヌキなどの動物が人を驚かせるために化けたものといわれることが多い。明和4年(1767年)の怪談集『新説百物語』には、京都の二条河原(京都市中京区二条大橋付近)に、顔に目鼻や口のない化け物「ぬっぺりほう」が現れ、これに襲われた者の服には太い毛が何本も付着していたという、何らかの獣が化けていたことを髣髴させる描写がある。しかし正体が不明の場合もあり、寛文3年(1663年)の怪談集『曾呂利物語』では、京の御池町(現・京都市中京区)に身長7尺(約2.1メートル)ののっぺらぼうが現れたとあるが、正体については何も記述がない。民間伝承においては大阪府、香川県の仲多度郡琴南町(現・まんのう町)などに現れたと伝えられている。
また、しばしば本所七不思議の一つ『置行堀』と組み合わされ、魚を置いて逃げた後にのっぺらぼうと出くわすという展開がある(置行堀の怪異もやはり狸などとされている)。
小泉八雲の「むじな」
のっぺらぼうに関しては、小泉八雲の『怪談』の中の『むじな』(Mujina)の話が有名である。多くの伝承と同様に、この話でもムジナがのっぺらぼうに化けている。粗筋は次の通りである。
江戸は赤坂の紀伊国坂は、日が暮れると誰も通る者のない寂しい道であった。ある夜、一人の商人が通りかかると若い女がしゃがみこんで泣いていた。心配して声をかけると、振り向いた女の顔にはなんと目も鼻も口も付いていない。驚いた商人は無我夢中で逃げ出し、屋台の蕎麦屋に駆け込む。蕎麦屋は後ろ姿のまま愛想が無い口調で「どうしましたか」と商人に問い、商人は今見た化け物のことを話そうとするも息が切れ切れで言葉にならない。すると蕎麦屋は「こんな顔ですかい」と商人の方へ振り向いた。彼ものっぺらぼうで驚いた商人は気を失い、その途端に蕎麦屋の明かりが消えうせた。全ては狢(むじな)が変身した姿だった。
再度の怪
「むじな」は、二度にわたって人を驚かせるという筋立ての怪談の典型であるが、これは「再度の怪」と呼ばれ、他にも「朱の盆」や「大坊主」などの話がある。巌谷小波による『大語園』などでは、のっぺらぼうはずんべら坊(ずんべらぼう)の名で記述されており、津軽弘前の怪談として、同様にずんべら坊に遭った者が、知人宅へ駆け込むと、その知人の顔もまたずんべら坊だったという話がある。このような「再度の怪」の怪談は、中国古典の『捜神記』にある「夜道の怪」の影響によるものとされる。
同種の妖怪
尻目(しりめ)
与謝蕪村の『蕪村妖怪絵巻』にあるのっぺらぼう。京都市の帷子辻に現れたとされ、人に会うと服を脱いで全裸になり、尻にある一つ目を雷のように光らせて脅かすという。
白坊主
伝承
静岡県富士郡芝富村長貫(現・富士宮市) / その昔、どんどん焼きをしていると毎年のように、白鳥山から白坊主が「ほーい、ほーい」と呼ぶため、気味悪くなってこの行事をとりやめたという。白鳥山の南にある大鏡山からも白坊主が現れ、この白坊主を見た者には災難が訪れるともいわれる。戦国時代のこの地には狼煙台があり、どんどん焼きは狼煙と見誤るために制限または禁止されたという説もあることから、白坊主とはこの狼煙台の守備兵を指しているとの解釈もある。
大阪府 / 南部では、夜道で人が出遭うといわれるのみで、それ以上の具体的な話は残されていない。タヌキが化けたものという説があるが、定かではない。大阪の和泉では目・鼻・口・手足のはっきりしない、絣の着物を着た全身真っ白な坊主とも、風船のように大きくて丸い妖怪ともいい、いずれも人を脅かすだけで危害を与えることはない。キツネが化けたものともいうが、土地の古老によれば、この地方のキツネは藍染めの縞模様の着物を着て現れるため、キツネではないという。見越入道に類するものとする説もあるが、見越入道のように出遭った人間の前で背が伸びてゆくといった特徴は見られない。のっぺらぼうの一種とする説もある。
広島県安芸郡倉橋町(現・呉市) / カワウソが脚に継ぎ木をして2メートルもの大きさに化けて人を脅かすといい、これに出遭ったときは地上1メートルあたりを殴ると良いという。
熊本県天草郡本渡町(現・天草市) / 本渡町の中央にあるクスノキの中に住み着いている白髪の老婆が白坊主の母親だといい、そのクスノキのそばを夜に通ると、老婆が白坊主の着物のための糸を紡ぐギーギーという音が聞こえたという。この木を切ったところ、真っ赤な血があふれ出したといわれる。
黒坊主
黒坊主(くろぼうず)は、明治時代の東京に現れたという妖怪、または熊野の民話、江戸時代の奇談集『三州奇談』などに登場する妖怪。黒い坊主姿の妖怪とされる。
『郵便報知新聞』第663号の記事によれば、東京都の神田の人家の寝室に毎晩のように現れ、眠っている女性の寝息を吸ったり口を嘗めたりしたとある。その生臭さは病気になるのではと思えるほど到底耐え難いものであったため、我慢できずに親類の家に逃れると、その晩は黒坊主は現れず、もとの家に帰るとやはり黒坊主が現れるという有様だったが、いつしかその話も聞かれなくなったことから、妖怪は消滅してしまったものとみられている。
この東京の黒坊主はの姿は、その名の通り黒い坊主姿とも、人間の目にはおぼろげに映るためにはっきりとはわからないともいう。口だけの妖怪ともいい、そのことからのっぺらぼうの一種とする説もある。
文献によっては東北地方の妖怪とされているが、これは民俗学者・藤沢衛彦の『妖怪画談全集』で、前述の『郵便報知新聞』の挿絵が掲載され、その下に解説文として「夜人の寝息を吸い口を甜る黒坊主・奥州の山地々」と記述されたことによる誤解と指摘されている。
また、熊野の七川(現・和歌山県)では、山中で人間を襲う真っ黒な怪物を黒坊主と呼び、ある者が出遭った際には背丈が3倍ほどに伸び、銃で撃つとそのたび背が伸びて何丈もの怪物と化し、逃げ去るときには飛ぶような速さで逃げ去ったという。同様に背の伸びる妖怪・高坊主の一種とされている。同様に『三州奇談』には、石川県能美郡(現・能美市)の長田川のそばに目鼻や手足の区別のわからない黒坊主が現れて伸び上がり、ある人が杖で突くと、川へ逃げ去ったとあり、正体はカワウソともいわれた。
これらのほか、大入道や海坊主などの妖怪の別名として、黒坊主の名が用いられることもある。
ぬっぺふほふ
ぬっぺふほふまたはぬっぺっぽうは、『画図百鬼夜行』や『百怪図巻』などの江戸時代の妖怪絵巻にある妖怪。顔と体の皺の区別のつかない、一頭身の肉の塊のような姿で描かれている。
絵巻には名前と絵があるに過ぎず、解説文の記述はほとんどないが、その名前や、洒落本『新吾左出放題盲牛』(1781)に「ぬっぺっぽうといふ化けもの有り。目もなく耳も無く」とあることから、のっぺらぼうの一種と見られている。乾猷平は、紫水文庫所蔵の古写絵本(年代不明)に「ぬっべっほう」という妖怪が描かれており、「古いヒキガエルが化けたものとも、狐狸の類ともいう」とあることを紹介している。この「ぬっべっほう」の絵は、「皺の多い琉球芋に短い四肢を配したやうな化物」と表現されている。また先述の『新吾左出放題盲牛』には「死人の脂を吸い、針大こくを喰う。昔は医者に化けて出てきたが、今はそのまま出てくる……」などと書かれている。
また妖怪研究家の多田克己は、のっぺらぼうは現在では顔に目鼻がまったくない妖怪として知られているが、古くはこのぬっぺふほふのように顔と体の区別のつかない形態のものだったとしている。顔に白粉をぬっぺりと塗った様を「白化」というが、この「白化」には「しらばっくれる、とぼける」「明け透けに打ち明けて言うと見せかけて騙す」「露骨になる」「白粉で装う」「白い化物」などの意味がある。その「白化」の意味の体現により、ぬっぺふほふはまず人間に成りすまして(しらばっくれて)通行人に近づき、親しげに会話をし(明け透けに打ち解け)、相手が油断したところで正体を現し(露骨になり)、本来の姿(白粉をべったり塗ったような白い化物)を見せるのだという。
昭和・平成以降の文献によっては、ぬっぺふほふは廃寺などに現れる妖怪などと記述されているが、これは民俗学者・藤沢衛彦の著書『妖怪画談全集 日本篇 上』で「古寺の軒に一塊の辛苦の如くに出現するぬっぺらぱふ」と解説されていることに由来するものであり、藤沢が「寺に現れる」と述べたのは、『画図百鬼夜行』の背景からの連想に過ぎない創作と指摘されている。また文献によっては、死肉が化けて生まれた妖怪で、この妖怪が通った跡には腐肉のような臭いが残るなどと記述されているが、一次出典は不明。
類話
文化時代の随筆『一宵話』に、ぬっぺふほふに似たものが現れた話がある。
1609年(慶長14年)、駿府城の中庭に、肉塊のような者が現れた。形は小児のようで、手はあるが指はなく、肉人とでもいうべきものだった。警戒の厳しい城内に入り込む者は妖怪の類であろうと思われたが、捕まえようにもすばやく動いて捕まえられない。当時の駿府城に住んでいた徳川家康が、その者を外へ追い出すよう命じたため、家来たちは捕獲をあきらめて城から山のほうへと追い出した。
後にこの話を聞いた薬学に詳しい者は、それは中国の古書にある「封(ほう)」というもので、白澤図にも記載があり、この肉を食べれば多力を得る仙薬になったと口惜しがったという。
目も鼻もない女鬼(めおに)
名前については不明だが、『源氏物語』手習の記述に、「昔いたという目も鼻もない女鬼(めおに)〜」といった記述があり、のっぺらぼうの源流と見られる妖怪の存在(顔のない鬼)が古代末から言い伝えられていたことが分かる(少なくとも平安時代中期の近畿圏でそうした怪異が知られていた)。記述の内容からも当時は口があったものとみられる。時代は下って、『遠野物語』内の記述にも、「旅人が目鼻もないのっぺりとした子供に赤頭巾をかぶせたのを背中におぶって通りかかった」とあり、のっぺらぼうの伝承には、口のあるタイプがあり、このことからも西日本から東北地方にかけて、のっぺらぼうの類は、目鼻がないとしか記述されていないことが分かる。
お歯黒べったり
お歯黒べったり(おはぐろべったり)は、歯黒べったりとも言い、日本の妖怪の一種。目も鼻も無い顔に、お歯黒を付けた大きな口だけがある女の妖怪。お歯黒は、江戸時代には既婚女性が行なった化粧の一種で、鉄片を酒・茶・酢で酸化させた液で歯を黒く染めるもの。人を驚かせるだけで、危害を加えることはない。
江戸時代後期の画家竹原春泉作の『絵本百物語(別名『桃山人夜話』)』に姿が描かれている。詞書には、「ある人が古い社の前を通ったとき、美しげな女が伏し拝んでいるので、戯れに声を掛けて過ぎようとしたところ、その女が振り向いた。顔を見ると目も鼻も無く、大きな口でけらけらと笑った。二度と見たくないほど恐ろしかった」という意味のことが記されている。また、「東国では『のっぺらぼう』とも言い、多くは狐狸の化け損なったもの」ともある。
『絵本百物語』のお歯黒べったりは角隠しを着け、美しい着物を着た姿で描かれているので、結婚前に死んだ女性の亡霊とも言われるが、角隠しは、もともと浄土真宗信者の女性が寺参りに際して着用する物であったから、断定はできない。また、のっぺらぼうは小泉八雲の短編『むじな』にあるように、ムジナ・キツネ・タヌキなどが人を驚かせるために化けたものであるとも言い伝えられるので、お歯黒べったりもその類とも考えられる。
ケナシコルウナルペ
アイヌに伝わる妖怪。名称は木原の姥の意味で、胆振地方や沙流郡での呼称。他にも平原の小母を意味するケナシウナラペ、湿地の小母を意味するニタッウナラベなどの名があるほか、天塩地方では山の魔の意味でイワメテイェプとも呼ばれる。
樹木の空洞や川岸の柳原などに棲んでいる怪女。ざんばら髪で、黒い顔には目や口が無く、親指のような鼻が付いているのみである。また川岸の柳原などにも棲むといわれたため、そうした場所では人が泊ることを戒められていた。
クマを操ることができ、山狩りをする者を熊に襲わせたという。そのため、本来善良な動物であるクマが人を襲うのはこの妖怪の仕業とされていた。
沙流郡二風谷部落での話。ある男が山ではぐれた小熊を捕らえ、自宅で檻に入れておいた。夜中になって、檻の前にケナシコルウナルペが現れた。男が見ると、小熊は禿頭の少年に姿を変え、ケナシコルウナルペの手拍子に合わせて踊っていた。そこで男は悪魔払いを行って小熊を殺すと、その死体はリスに姿を変えたという。 
牡丹燈籠(灯篭) 

 

牡丹灯籠(ぼたん どうろう)は、中国明代の小説集『剪灯新話』に収録された小説『牡丹燈記』に着想を得て、三遊亭圓朝によって落語の演目として創作された怪談噺である。『牡丹燈記』は、若い女の幽霊が男と逢瀬を重ねたものの、幽霊であることがばれ、幽霊封じをした男を恨んで殺すという話で、圓朝はこの幽霊話に、仇討や殺人、母子再会など、多くの事件と登場人物を加え、それらが複雑に絡み合う一大ドラマに仕立て上げた。圓朝没後は、四代目橘家圓喬・五代目三遊亭圓生・六代目三遊亭圓生・五代目古今亭志ん生・初代林家彦六など歴代の大真打が得意とした。
明治25年(1892年)7月には、三代目河竹新七により『怪異談牡丹灯籠』(かいだん ぼたん どうろう)として歌舞伎化され、五代目尾上菊五郎主演で歌舞伎座で上演されて大盛況だった。
以後、演劇や映画にも広く脚色され、特に二葉亭四迷は圓朝の速記本から言文一致体を編み出すなど、その後の芸能・文学面に多大な影響を与えた。
『剪灯新話』は、中国から伝えられたのち、江戸中期の怪談集「奇異雑談集」・「伽婢子」に翻案され、そのモチーフは上田秋成の「雨月物語」・山東京伝の「復讐奇談安積沼」などの読本、四代目鶴屋南北の脚本「阿国御前化粧鏡」に採用されるなど、日本でもなじみ深いものであった。現行の「牡丹灯籠」はそれらの先行作を発展させたものである。
『伽婢子』版牡丹灯籠に登場する男の名前は「荻原新之丞」であり、圓朝はこれに着想を得たものと考えられる。
「四谷怪談」や「皿屋敷」と並び、日本三大怪談と称せられる。但し、他の2作が深い怨恨を遺して死んだ亡霊を主人公とし、また「累ヶ淵」では宿世の因縁による何代にもわたる怨恨の連鎖を主たるテーマとしているのと比して、亡霊と人間との恋愛を描くという点で、原作に見られる中国的な趣きを強く残しているものと言える。このモチーフは、映画『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』に取り上げられた『聊斎志異』収録の「聶小倩」などと通じるものがある。
また、日本の幽霊には足が無いのが一般的であるのに対して、牡丹灯籠のお露は、カランコロンと駒下駄の音を響かせて夜道を歩いて来る、という演出にも、中国的な幽霊の名残りが見られる。
あらすじ
旗本飯島平左衛門の娘、お露は浪人の萩原新三郎に恋したあげく焦れ死にをする。お露は後を追って死んだ下女お米とともに、夜な夜な、牡丹灯籠を手にして新三郎のもとに通うようになる。その後、新三郎の下働き、関口屋伴蔵によって、髑髏を抱く新三郎の姿が発見され、お露がこの世の者でないことがわかる。このままでは命がないと教えられた新三郎は、良石和尚から金無垢の海音如来をもらい魔除けの札を張るが、伴蔵の裏切りを受け、露の侵入を許してしまう。以上の主筋に、飯島家のお家騒動。伴蔵と女房お峰の因果噺がからむ。
原作となる「牡丹灯記」(『剪灯新話』所収)では、元朝末期の明州が舞台となっている。主人公は喬某という書生であり、符麗卿と金蓮というのが、亡霊と侍女の名前である。
長編人情噺の形をとっており、多くの部分に分かれているが、六代目三遊亭圓生はお露と新三郎の出会いを「お露新三郎」・お露の亡魂が新三郎に通い祟りをなすくだりを「お札はがし」・伴蔵の悪事の下りを「栗橋宿/お峰殺し」「関口屋のゆすり」にそれぞれ分けて演じていた。 
圓朝の「怪談牡丹灯籠」の速記本は22個の章に分かれている。
1. 飯島平太郎(のちの平左衞門)、刀屋の店先で酒乱の黒川孝藏に絡まれ、斬り殺す。(「発端/刀屋」)
2. 医者の山本志丈の紹介で、飯島平左衞門の娘・お露と美男の浪人・萩原新三郎が出会い、互いにひと目惚れする。(「臥龍梅/お露新三郎」)
3. 黒川孝藏の息子・孝助が、父の仇と知らず、飯島家の奉公人になる。平左衞門は気づいたが、黙って孝助に剣術を教える。
4. 萩原新三郎、お露のことを想い、悶々とする。店子の伴蔵と釣りに出かけ、お露の香箱の蓋を拾う。
5. 飯島平左衞門の妾・お国、平左衞門の留守中に隣家の息子・宮邊源次郎と密通。黒川孝助が見咎め、喧嘩になる。
6. 死んだと聞いたお露が萩原新三郎の前に現れる。
7. 相川新五兵衞が飯島平左衞門宅を訪れ、自分の娘・お徳と黒川孝助との養子縁組を持ちかける。
8. 人相見の白翁堂勇斎が萩原新三郎宅を訪ね、死相が出ていると告げる。お露が幽霊であることがわかり、仏像とお札で幽霊封じをする。
9. 宮邊源次郎とお国、邪魔な黒川孝助を消すため、一計を案じるが、失敗に終わる。
10. 伴蔵と妻のお峰、百両で萩原新三郎の幽霊封じの仏像とお札を取り外してやる、と幽霊のお露に持ちかける。
11. 飯島平左衞門の金百両が何者かに盗まれる。お国はこれを利用し、黒川孝助が疑われるように工作する。
12. 伴蔵と妻のお峰、幽霊から百両を受け取り、萩原新三郎の身辺から仏像とお札を取り去る。(「お札はがし」)
13. 飯島平左衞門の機転と計らいで黒川孝助の濡れ衣は晴れたが、孝助は平左衞門を間男の宮邊源次郎と間違えて刺してしまう。平左衞門は、自分が孝助の父の仇であることを告げ、孝助を相川家へ逃がす。(「孝助の槍」)
14. 萩原新三郎死亡。
15. 飯島平左衞門は深手を負いながらも、宮邊源次郎を殺しに行くが、反対に殺されてしまう。源次郎とお国は飯島家の金品を盗んで逃走する。黒川孝助はお徳と祝言をあげるが、亡き主人・平左衞門の仇を討つため源次郎とお国を追う。
16. 萩原新三郎の葬儀を済ませたのち、伴蔵と妻のお峰は悪事がばれるのを恐れて、伴蔵の故郷・栗橋に引っ越す。
17. 伴蔵は幽霊にもらった百両を元手に荒物屋「関口屋」を開き、成功し、料理屋の酌婦と懇ろになる。酌婦は、飯島平左衞門の元妾のお国だった。伴蔵は。お国との仲を咎めた妻のお峰を騙して殺す。(「栗橋宿/お峰殺し」)
18. 死んだお峰が伴蔵の使用人たちに乗り移り、伴蔵の悪事をうわ言のように喋り出したので、医者を呼んだところ、その医者は山本志丈だった。事の次第を知った山本は伴蔵にお国の身の上を暴露する。お国の情夫宮邊源次郎が金をゆすりに来るが、逆に伴蔵に追い返される。伴蔵は栗橋を引き払い、山本と江戸に帰る。(「関口屋」)
19. 仇が見つからず、孝助はいったん江戸へ戻り、主人が眠る新幡随院を参り、良石和尚に会う。婿入り先の相川家に戻ると、お徳との間に息子・孝太郎が生まれていたことを知る。
20. 伴蔵は悪事の発覚を恐れて山本志丈を殺すが、捕えられる。孝助は良石和尚の予言に従い、人相見の白翁堂勇齋を訪ね、そこで偶然、4歳のときに別れた母親おりえと再会する。すると、孝助が探していたお国が、母親の再婚相手の連れ子であり、源次郎とともに宇都宮に隠れていることを知る。
21. 母おりえがお国と源次郎の隠れ場所に手引きしてくれるというので孝助は宇都宮に出向くが、おりえは、夫に義理立ててお国と源次郎に事の次第を話し、2人を逃す。
22. 母おりえは孝助に事の次第を話し、自害する。孝助は二人を追い、本懐を遂げる。 
真景累ヶ淵 

 

累ヶ淵(かさねがふち)は、茨城県常総市羽生町の法蔵寺裏手辺りの鬼怒川沿岸の地名。江戸時代、この地を舞台とした累(るい、かさね)という女性の怨霊とその除霊をめぐる物語は広く流布した。この物語を題材にとり、四代目鶴屋南北作の『色彩間苅豆』(いろもようちょっとかりまめ)をはじめとした累物(かさねもの)と呼ばれる一群の歌舞伎作品がうまれたほか、三遊亭円朝は怪談噺『真景累ヶ淵』を作り上げた。
累の物語が最初に知られるのは、元禄3年(1690年)に出版された仮名草子本『死霊解脱物語聞書』である。『聞書』によれば、慶長17年(1612年)から寛文12年(1672年)までの60年にわたって繰り広げられた実話に基づくとされている。
下総国岡田郡羽生村に、百姓・与右衛門(よえもん)と、その後妻・お杉の夫婦があった。お杉の連れ子である娘・助(すけ)は生まれつき顔が醜く、足が不自由であったため、与右衛門は助を嫌っていた。そして助が邪魔になった与右衛門は、助を川に投げ捨てて殺してしまう。あくる年に与右衛門とお杉は女児をもうけ、累(るい)と名づけるが、累は助に生き写しであったことから助の祟りと村人は噂し、「助がかさねて生まれてきたのだ」と「るい」ではなく「かさね」と呼ばれた。両親が相次いで亡くなり独りになった累は、病気で苦しんでいた流れ者の谷五郎(やごろう)を看病し、二代目与右衛門として婿に迎える。しかし谷五郎は容姿の醜い累を疎ましく思うようになり、累を殺して別の女と一緒になる計画を立てる。正保4年8月11日(1647年)、谷五郎は家路を急ぐ累の背後に忍び寄ると、川に突き落とし残忍な方法で殺害した。その後、谷五郎は幾人もの後妻を娶ったが、尽く死んでしまう。6人目の後妻・きよとの間にようやく菊(きく)という名の娘が生まれた。寛文12年1月(1672年)、菊に累の怨霊がとり憑き、菊の口を借りて谷五郎の非道を語り、供養を求めて菊の体を苦しめた。近隣の飯沼にある弘経寺(ぐぎょうじ)遊獄庵に所化として滞在していた祐天上人はこのことを聞きつけ、累の解脱に成功するが、再び菊に何者かがとり憑いた。祐天上人が問いただしたところ、助という子供の霊であった。古老の話から累と助の経緯が明らかになり、祐天上人は助にも十念を授け戒名を与えて解脱させた。
法蔵寺には累を弔った墓があり、常総市の指定文化財になっている。また、法蔵寺には祐天上人が解脱に用いたという数珠・累曼陀羅・木像なども保存されている。
江戸時代の作品化
累ヶ淵の物語は江戸時代を通じて流布し、これに触発された作品が多く制作された。「累」という名の女性主人公が、因果の中で「与右衛門」という名の夫に殺害され、怨霊となる筋立てが共通するが、設定は作品によってさまざまに変化している。
怪談として広く知られる契機になったのは四代目鶴屋南北作の「色彩間苅豆」(いろもようちょっとかりまめ)が上演されて以降とされるが、「色彩間苅豆」も、累ヶ淵の説話が広く知られていることを前提として脚色が加えられた作品である。
歌舞伎・文楽『薫樹累物語』(めいぼくかさねものがたり) - 寛政2年(1790年)初演 伊達騒動を題材とした『伊達競阿国戯場』(だてくらべおくにかぶき)の中の一幕に「身売りの累」として組み込まれたもので、のちに独立した演目となった。与右衛門が殺害した傾城高尾の妹が累という設定になっている。
歌舞伎舞踊『色彩間苅豆』(いろもようちょっとかりまめ) - 四代目鶴屋南北作、文政6年(1823年)初演。 通称『かさね』(『累』とも表記される)。歌舞伎『法懸松成田利剣』(けさかけまつなりたのりけん)の一部として制作された。
読本『新累解脱物語』 - 曲亭馬琴作
落語(怪談噺)『真景累ヶ淵』 - 三遊亭圓朝作。安政6年(1859年)初演。 初演時の演目は『累ヶ淵後日の怪談』。明治になって、「神経」をもじった「真景」に改める。 
鍋島藩の化け猫騒動 

 

化け猫(ばけねこ)は、日本の妖怪の一種。その名のとおりネコが妖怪に変化(へんげ)したものであるが、猫又と混同されることが多く、その区別はあいまいである。日本各地に化け猫の伝説が残されているが、佐賀県の鍋島の化け猫騒動が特に有名である(詳細は、#鍋島の化け猫騒動を参照)。
由来
ネコが妖怪視されたのは、ネコは夜行性で眼が光り、時刻によって瞳(虹彩)の形が変わる、暗闇で背中を撫でれば静電気で光る、血を舐めることもある、足音を立てずに歩く、温厚と思えば野性的な面を見せることもあり、犬と違って行動を制御しがたい、爪の鋭さ、身軽さや敏捷性といった性質に由来すると考えられている。
動物の妖怪譚はネコ以外にも、ヘビの執念深さ、キツネが持つ女性への変身能力、民話『かちかち山』などで人を食らうタヌキの凶暴性などがあるが、江戸時代に入って都市や町場が形成され、人間たちが自然から離れて生活することが多くなると、そうした野生動物の妖怪としての特徴が、人間の身近にいながらも神秘性を秘めた動物であるネコのものとして語られることが多くなり、次第に化け猫のイメージが作り上げられていったとの解釈もある。
また、化け猫の俗信として「行灯の油を舐める」というものがあり、江戸時代の百科事典『和漢三才図会』にも、ネコが油を舐めることは怪異の兆候とある。これは、近世では行灯などの灯火用に安価な鰯油などの魚油が用いられ、ネコがそうした魚油を好んで舐めたためと見られている。また、当時の日本人の食生活は穀物や野菜類が中心であり、その残りを餌として与えられるネコは肉食動物ながらタンパク質や脂肪分が欠乏した食生活にあった。それを補うために行灯の油を舐めることがあり、行灯に向かって二本足で立ち上がる姿が妖怪視されたものとの指摘もある。
こうしたネコの神秘性は、江戸時代の遊郭に勤めていた遊女のイメージとも結びつき、当時の草双紙などで人気を博していたキャラクター「化猫遊女」が生まれる元にもなった。
民間伝承
化け猫同様にネコの怪異として知られる猫又が、尻尾が二つに分かれるほど年を経たネコといわれることと同様に、老いたネコが化け猫になるという俗信が日本全国に見られる。茨城県や長野県では12年、沖縄県国頭郡では13年飼われたネコが化け猫になるといい、広島県山県郡では7年以上飼われたネコは飼い主を殺すといわれる。ネコの飼い始めに、あらかじめ飼う年数を定めておいたという地方も多い。また地方によっては、人間に残忍な殺され方をしたネコが怨みを晴らすため、化け猫になってその人間を呪うなど、老いたネコに限らない化け猫の話もある。
化け猫のなす怪異は様々だが、主なものとしては人間に変化する、手拭を頭にかぶって踊る、人間の言葉を喋る、人間を祟る、死人を操る、人間に憑く、山に潜み、オオカミを引き連れて旅人を襲う、などといったことがあげられる。珍しい例では、宮城県牡鹿郡網地島や島根県隠岐諸島で、人間に化けたネコが相撲を取りたがったという話もある。
ただしネコが喋るということについては、人間がネコを見ながら自分の心の中で思った言葉を、あたかもネコが喋ったかのように誤解したものであり、妖怪の類ではないとの指摘もある。1992年(平成4年)の読売新聞には、ネコが人間の言葉を喋ったように聞こえたが、よく聞き直すと、単にネコが口ごもった鳴き声が、人間の言葉によく似て聞こえたに過ぎなかったとの記事が掲載されている。
江戸時代には尾がヘビのように長いネコが化けるという俗信があり、尾の長いネコが嫌われ、尾を切る風習もあった。現在の日本のネコに尾の短いものが多いのは、尾の短い猫が好まれたことによる自然淘汰とする説もある。
なお、老いたネコが怪異を為すという俗信は日本に限ったことではない。たとえば中国浙江省金華地方では、人間に3年飼われたネコは人間を化かすといわれていた。特に白いネコが化けやすいといって白いネコを飼うことを忌む風習もあり、人間を化かす能力を得る際には月から精力を取り込むといわれたことから、月を見上げるネコを見かけた者は、どんなに可愛いネコでもその場で殺したこともあったという。
文献・説話
鍋島の化け猫騒動
肥前国佐賀藩の2代藩主・鍋島光茂の時代。光茂の碁の相手を務めていた臣下の龍造寺又七郎が、光茂の機嫌を損ねたために斬殺され、又七郎の母も飼っていたネコに悲しみの胸中を語って自害。母の血を嘗めたネコが化け猫となり、城内に入り込んで毎晩のように光茂を苦しめるが、光茂の忠臣・小森半佐衛門がネコを退治し、鍋島家を救うという伝説。
史実では、龍造寺氏は鍋島氏以前に肥前を治めていたが、龍造寺隆信の死後は彼の補佐だった鍋島直茂が実権を握った後、隆信の孫の高房が急死、その父の政家も自殺。以来、龍造寺氏の残党が佐賀城下の治安を乱したため、直茂は龍造寺の霊を鎮めるため、天佑寺(現・佐賀市多布施)を建造した。これが騒動の発端とされ、龍造寺の遺恨を想像上のネコの怪異で表現したものが化け猫騒動だと考えられている。また、龍造寺氏から鍋島氏への実権の継承は問題のないものだったが、高房らの死や、佐賀初代藩主・鍋島勝茂の子が早くに亡くなったことなどから、一連の話が脚色され、こうした怪談に発展したとの指摘もある。
この伝説は後に芝居化され、嘉永時代には中村座で『花嵯峨野猫魔碑史』として初上演された。題名の「嵯峨野(さがの)」は京都府の地名だが、実際には「佐賀」をもじったものである。この作品は全国的な大人気を博したものの、鍋島藩から苦情が出たために間もなく上演中止に至った。しかし上演中止申請に携わった町奉行が鍋島氏の鍋島直孝だったため、却って化け猫騒動の巷説が有名になる結果となった。
後年には講談『佐賀の夜桜』、実録本『佐賀怪猫伝』として世間に広く流布された。講談では龍造寺の後室から怨みを伝えられたネコが小森半左衛門の母や妻を食い殺し、彼女らに化けて家を祟る。実録では龍造寺の一件は関係しておらず、鍋島藩士の小森半太夫に虐待された異国種のネコが怨みを抱き、殿の愛妾を食い殺してその姿に成り変わり、御家に仇をなすが、伊藤惣太らに退治されるという筋である。
昭和初期にはこの伝説を原案とした『佐賀怪猫伝』『怪談佐賀屋敷』などの怪談映画が大人気となり、化け猫役を多く演じる入江たか子、鈴木澄子といった女優が「化け猫女優」として知られることとなった。
その他
ネコを妖怪視する記述が文献類に登場するのは、鎌倉時代の頃からである。同時代の説話集『古今著聞集』には、奇妙な行動をとるネコを指して「魔の変化したものではないか」と疑う記述が見られる。この頃の古い化け猫の話には、寺院で飼っていたネコが化けたなど、寺にまつわる話が多いことが特徴だが、これは当時の仏教の伝来にともない、経典をネズミに齧られることを防ぐためにネコが一緒に輸入されたことが理由の一つと考えられている。
江戸時代に入ると、化け猫の話は各種の随筆や怪談集に登場するようになる。民間伝承のようにネコが人間に化ける話や人間の言葉を喋る話は『兎園小説』『耳嚢』『新著聞集』『西播怪談実記』などに、ネコが踊る話は『甲子夜話』『尾張霊異記』などに見られる。『耳嚢』4巻によれば、どのネコも10年も生きれば言葉を話せるようになり、キツネとネコの間に生まれたネコは10年と経たずとも口がきける、と述べられている。化ける話においては、老いたネコが人間の老女に化けることが非常に多い。化け猫の怪談はこの江戸時代が全盛期であり、前述の「鍋島の化け猫騒動」などが芝居で上演されたことでさらに有名なものとなった。
播磨国宍粟郡山崎町牧谷(現・兵庫県宍粟市内)には、辛川某なる人が化け猫を退治した話が伝わっている。同様の話は同国の神西郡福崎村谷口(現・神崎郡福崎町谷口)にも伝わっており、金剛城寺で村人を困らせていた化け猫を寺侍が退治し、化け猫は茶釜の蓋や鉄鍋で矢や鉄砲玉を防いだという。これらはあたかもスサノオのヤマタノオロチ退治のように、土地の旧家が活躍している点が共通している。
明治時代には、1909年(明治42年)に東京の本所の長屋でネコが踊り出したという記事が、『報知新聞』『萬朝報』『やまと新聞』に掲載されている。
史跡
妙多羅天女(みょうたらてんにょ) - 新潟県弥彦神社
由来として、文化時代の随筆『北国奇談巡杖記』にネコにまつわる怪異譚が記述されており、同書では「みょう」に「猫」の字をあてて「猫多羅天女」と表記されている。北陸地方の説話による別説では、老いたネコが老婆を食い殺してその老婆になりかわり、後に改心して妙多羅天として祀られたという「弥三郎婆話」があり、北海道・北奥羽地方の「三左衛門猫」など、類話が全国に伝わっている。
猫の踊り場(ねこのおどりば) - 神奈川県横浜市泉区
かつて東海道五十三次の戸塚宿(現・神奈川県横浜市戸塚区)の醤油屋で、夜になると手拭が1本ずつなくなることがあった。ある夜に醤油屋の主人が仕事に出かけると、人のいないはずの寂しい場所から賑やかな音楽が聞こえた。見ると、そこには何匹ものネコたちが集まり、その中心では主人の飼いネコが手拭をかぶって踊っていた。主人は、手拭がなくなったのはあのネコの仕業かと納得したという。このネコの踊っていた場所は踊場と呼ばれ、後には泉区の踊場交差点や横浜市営地下鉄の踊場駅の駅名などに地名として残されることとなった。踊場交差点には1737年(元文2年)にネコの霊を鎮めるための供養塔が建てられており、踊場駅構内には随所にネコをモチーフとしたデザインが施されている。
お松大権現(おまつだいごんげん) - 徳島県阿南市加茂町
江戸前期、加茂村(現・加茂町)の庄屋が不作にあえぐ村を救うために富豪に金を借りたが、すでに返済したにもかかわらず、富豪の策略で未返済の濡れ衣を着せられ、失意の内に病死。借金の担保になっていた土地は富豪に取り上げられてしまう。庄屋の妻のお松は奉行所に訴え出るも、富豪に買収された奉行は不当な裁きを下す。お松がそれを不服として藩主に直訴した結果、直訴の罪により処刑され、お松の飼っていた三毛猫が化け猫となり、富豪や奉行らの家を滅ぼしたという伝説に由来する。お松大権現は、命をかけて正義を貫いたお松の墓所を祀ったもので、お松の仇を討った三毛猫は猫塚として祀られており、境内には全国的にも珍しいネコの狛犬もある。直訴によって悪人を倒したという伝説から、勝負事にもご利益があるといわれ、受験シーズンには受験生の合格祈願も多い。
猫大明神祠(ねこだいみょうじんし) - 佐賀県杵島郡白石町
「鍋島の化け猫騒動」と同様、鍋島氏にまつわる怪異譚に由来する史跡。化け猫が鍋島勝茂の妾に化けて勝茂の命を狙うが、勝茂の臣下の千布本右衛門がそれを退治する。しかしそれ以来、ネコの祟りのためか千布家に跡継ぎの男子が生まれなくなってしまったため、化け猫を大明神として秀林寺(現・白石町)の祠に祀ったという。この祠には、7本の尾を持つネコが牙を向いた姿で刻まれている。史実では、かつて白石を治めていた秀氏の秀伊勢守が、鍋島氏に尽くしたにもかかわらず、キリシタンの疑いをかけられて滅ぼされ、後に秀氏の残党が鍋島氏を怨んで抗ったことから、秀林寺では秀氏一派の暗躍が化け猫にたとえられたものと見ており、これが「鍋島の化け猫騒動」の原型になったとの説もある。 
学校の怪談 (都市伝説に近い面がある) 

 

高度経済成長時代、学校建設が急務とされ、安価かつ購入容易な土地を探した結果、「安い土地=人気が無い=墓地の側もしくはかつて墓地であった場所」というケースが少なからず発生した。この経緯にその土地固有の伝承や怪奇譚が結びつき、様々な噂を生んだ。これが「学校の怪談」である。
「学校の怪談」は「子供の他愛無い戯言」とされる場合も多いが、昨今のそれは旧来の「怖い話」に、時代性を引用することでリアリティを付加される事例も多く、情報の伝播速度の特進化と相まって、地域を巻き込んだ「社会現象」になる事もある。 
落語「へっつい幽霊」 

 

三代目桂三木助の噺、「へっつい幽霊」(へっついゆうれい)によると。
道具屋にへっついを買いに来た客が、気に入って3円で買って行った。その夜の2時頃、表の大戸を激しく叩く音がする。開けると昼間へっついを買い求めた客で「買ったへっついを取って」という。道具屋の決まりで半値の1円50銭でなら引き取るが、何か事情がありそうなのでその話を聞ければ全額返金するという。
「どういう訳か寝付けず、その内へっついの角からチョロチョロと青白い火が出ると、痩せた青白い男の幽霊が出て『金返せ、金返せ』と言った。ふとんに潜ると枕元で『金返せ、金返せ』という。幽霊の追い剥ぎにあったのは初めてだ。あのへっつい、取って取って取って」。その晩泊めて翌朝へっついを引き取り、店に飾ると3円で売れて、夜中に起こされて1円50銭で引き取り、何日も一つのもので商いが出来た。
良い事は続かず、他の物がパタリと売れなくなった。街の噂になっていてこれでは売れる訳はない。夫婦が裏の台所で「1円付けて誰か貰ってくれないか」と相談をしていた。
それを裏の長屋に住んでいる渡世人の熊五郎が、耳にした。相棒として勘当された若旦那の銀ちゃんを連れて、1円の付いたへっついを貰い受けた。
表通りから路地に入りどぶ板につまずいた銀ちゃんがトントントンとのめり、掃きだめにへっついの角をぶつけると丸い物が銀ちゃんの足元に転げ出た。「幽霊のタマゴが出た!」。縄が切れたので近くの若旦那の家に放り込んで、熊さん家で白い包みを開けると10円金貨で30枚。
ポンと半分に分けて、50銭も分けて、若旦那は吉原に熊さんは博打場に・・・。二人とも一銭も無くして翌日帰ってきた。その晩、若旦那の土間のへっついから幽霊が出て「金返せ、金返せ」。翌日、熊さんは若旦那の実家に行って300円の金を借りてきた。
へっついを若旦那の所から自分の家に運んで夕方から幽霊が出るのを待っていた。あまりの剣幕に正面から出られず、後ろからビクビクしながら現れた。
「私は左官の長五郎で、丁を張るを楽しんでいた。ある時これが大当たり、回りから金を貸してくれの融通してくれの懇願、これでは無くなってしまうとへっついの角に埋め込んだ。当たっている時は恐いもので、その夜フグに当たって死んでしまった。地獄も金次第だと言うから、この金を閻魔に叩き付けて極楽に行きたい。それで出るがみんな目を回すか、逃げ出して用にならない。そこに行くと旦那はエライ」。
「分かったが、全部持っていくんではないだろうな」、「どうするんですか」、「半分分けの150円ずつでどうだ」、「それはヒドいや」、「いやか。それでは出るところに出て、話を付けようじゃないか」、「しょうがないや」。
それではと言うので150円ずつの金に分けたが、お互い中途半端な金だからどちらかに、おっつけっこ、しようじゃないかとサイコロを出した。サイコロの様子を見るのに幽霊の長五郎、下げた手の中で転がす無粋さ。サイコロを壺の中に入れて場に伏せた。どちらでも良いから張れというので「私は丁しか張らないので、丁だ」、「いくら張る」、「150円」、「イイのかい全部で。そうか、良い度胸だな」、「度胸が良いのでなく、モタモタしていたら夜が明けて金もなく帰らなくてはならない」。
「いいかい。開けるよ。勝負。五六の半」、「あぁ〜」、「幽霊がガッカリしたのは初めて見たが、いい格好ではないよ」。「親方もう一度入れてくださいな」、「それは断ろうじゃないか。お前ぇの方に銭がないのが分かっているんだから」、
「へへへ、親方、あっしも幽霊だ。決して足は出さねぇ」。 
1.へっつい
【竈】かまど。広辞苑。薪コンロ。
へっつい横丁 / (台東区雷門1丁目10と11、14と15の間の道)
浅草の雷門前の路地に、俗にこの様に言われた街なみがあった。私が思うに、ここでへっついを壊してお金を見つけたところ、ではなく、へっついを作る職人が多く住んでいたと思われます。
へっつい河岸 / (中央区日本橋人形町2−24)
旧吉原(元和3年〜明暦3年。40年間)の南端に堀がありました。その堀の吉原側の中央の堀岸を「へっつい河岸」と呼ばれていました。今は堀は埋め立てられて、極普通のビルと商店が並ぶ街並です。東にあった堀も埋め立てられて公園になっています。ここ吉原の南端にあった稲荷が「末広神社」と呼ばれています。
本町の店 / 若旦那の親御さんの店があるところ。三木助は場所を明示していませんが、円生さんは大店が多い本町と言っています。三木助は奉公人が14、5人いる立派な店だった。親御さんに話をすると勘当しているのに300円、札で出してくれた。金貨でなくてはいけないというと30枚、金庫から出してくれたという大店です。
2.長屋
普通の長屋(?)は九尺二間(くしゃくにけん。間口が1間半・奥行き2間。四畳半と土間)または九尺二間半(六畳と土間)が多かったのですが、ここの長屋はもう一回り大きい間取りになっています。左中央に井戸と惣後架(トイレ)、掃きだめが設置されています。下水の上にはどぶ板が乗せられています。
どぶ板 / 下水の溝に当てるフタ。普通、路地の中央にU字溝があり、それに被せる木製のフタ。
掃きだめ / ごみため。ゴミを捨てる為の集積箱。トイレに井戸に掃きだめは長屋に一ヶ所、共用です。
3.幽霊
死んだ人の魂。亡魂。 死者が成仏し得ないで、この世に姿を現したもの。亡者(モウジヤ)。
お化け / ばけもの。へんげ。妖怪。また、奇怪なもの、ばかでかいもの。
幽霊は人が死んでこの世に未練を残して居るもの。例えば、落語「阿三の森」のお三さん、「牡丹灯籠」のお露さん、「お菊の皿」のお菊さん、みんな美人です。「応挙の幽霊」の酔っぱらい幽霊は絵そのものが出てくるのもあります。落語「化け物使い」、「お若伊之助」の狸君や、「王子の狐」の女狐など、お化けはそれ以外の奇怪なものと区別が付きそうです。
幽霊とお化けには違いがあると落語家は言います。
美人が死んで、綺麗さが加わって、さも恨めしそうに現れるから恐いのであって、それを幽霊と言います。もともとお化けのような面構えのものが死んで出現したって、それはやはり、お化けだ。と言っています。あらら、お化けが可哀想。
八つ / 今の午前2時頃。幽霊の出る時刻。草木も眠る丑三つ刻、家の棟も三寸下がる、水の流れもピタリと止まる刻限。
4.サイコロ賭博
サイコロで行う博打に、一個でやる「ちょぼいち」、二個でやる「丁半」、三個でやる「チンチロリン」(狐)があります。この噺では「丁半博打」が行われた。
丁半博打 / 2個の賽子を振って出た目の合計が”丁”(偶数)か”半”(奇数)かを当てるもの。この噺では五六の半だと言います。お分かりでしょうが、五と六を足して十一で奇数ですから”半”、幽霊もガッカリするのが目に見えます。足さなくても一見で分かります。それは、偶数同士、奇数同士だと”丁”、どちらかが奇数だと”半”です。
その「猫定」より。私はやったことがないので、三田村鳶魚(えんぎょ)著「江戸生活事典」から引用すると、
八王子の六斎市での賭場の風景。野天博打である。三間盆といって、畳を三間(三枚長く)つなぎ、二枚ずつ合わせてカスガイを打ったものの正面に賽と壺皿(壺)を持った者が立て膝をしている。張る人は両側にいるので、畳の境目ところに子分の目の利いた者が一人ずつ検分している。壺皿は目籠の底を深くした様なもので、紙で張って渋が引いてある。賽は1寸(3.3cm)角もある、鹿の角製の大きなもので、これを二つ打ち込んで壺皿をポンと伏せる。丁方、半方は(置く場所が)決まっているので、丁の人は彼方、半の人は此方に分かれる。丁方も半方も札や銀貨をどんどん張るが、丁方に張ったのが100両有れば、半方に張ったのも100両でなくてはいけない。それを金へ手をつけないで勘定して、両方が合わなければ、何とかして同じようにする。大勢いるので、造作なく平均することができる。
”思うツボ”はサイコロ賭博で丁か半かの壺の中のサイコロの目を思い通りに的中させること。また、”はったり”も「さあ、張った、張った」という呼びかけの言葉からできたといわれる。
張った金をすぐ勘定できる者を盆が明るいと言い、逆にそれができない者を”盆暗野郎”と言った。今言われる”ボンクラ野郎”はこの賭場の盆からきている。
”ピンからキリ”も博打から来ていて、最上等のものから最下等のものまで。最初から最後までの意。
ピン=1、(pintaポルトガル語の点の意) 。カルタ・采の目などの1の数。最上のもの。
キリ=10。クルス(cruzポルトガル)の訛。十字架の意から転じて、十の意。または、それが最後で(キリのないこと)。(花札の桐=12月)から最後の札。
桂三木助は若い時、芸もすさんで博打にのめり込み、当代一流(?)の博打打ちで”ハヤブサの七”と呼ばれ、17年この生活が続いた。落語会の楽屋で、円生がこの噺を終えて戻ったら、そのサイの振り方は違うと言い放ったが、そこまで言うかと円生は思ったという。それを救ったのは25歳年下の仲子への実直な愛で、本物の落語家になったらその時一緒にさせるとの家族の言葉で、「芝浜」でプッツリ酒を止めた勝っつぁんとダブり、精進して名人になった。
芸術祭で賞を取った彼の代表噺「芝浜」、サイの振り方が絶品すぎる、この「へっつい幽霊」、「宿屋の仇討ち」、「ざこ八」、生前最後に演じた噺「三井の大黒」、浪曲の広沢菊春と意気投合し交換した「ねずみ」等は彼の独壇場であった。
四代目は息子が次いだが、惜しくも早死し、現在は空き名跡になっています。
5.言葉
道具屋 / 古画、骨董を扱う古美術屋さんではなく、家財道具一式を扱う古道具屋さんです。
渡世人 / (無職渡世の人の意) 博打(バクチ)打ち。やくざ。
300円(両) / 三木助は明治の初めで時代設定していますから、円と両がごっちゃになって噺の中に出てきます。要約では円で統一してあります。貨幣価値としては3〜5万円位になるでしょうか。だとすると現在では900万〜1500万円。若旦那の家は紙幣または金貨で即座に出せる大店なのです。
左官 / (江戸訛りでしゃかん)(宮中の修理に、仮に木工寮の属(サカン)として出入りさせたからいう) 壁を塗る職人。かべぬり。壁大工。泥工(デイコウ)。 
幽霊名字 

 

幽霊名字をご存じでしょうか。
これは、1998年に刊行した「日本人の名字なるほどオモシロ事典」(日本実業出版社)の中で私が提唱した言葉です。
どういうものかというと、実在しているかのように紹介されていながら、実際にはその存在が怪しいもの、あるいは存在しないと思われるものを指しています。
ある名字が本当に存在する、ということを証明するのは比較的簡単です。実例を1つだけ示せばOKです。ある程度公的に職業についている人がいれば、本名であることを確認した上で、その人を例としてあげればOKです。特に著名人がいない場合は、「○○市に多い」とか、地域を限定して示すこともできます。疑問のある人は、その地域にいくなり、電話帳を調べるなりすれば確認することができます。
しかし、特定の名字が存在しない、ということを証明するはたいへんです。日本人1億2000万人の名字を全部調べたが1つもなかった、ということを示さなければなりませんから。個人情報の保護が急務とされている今、個人(あるいは一企業)が、日本人全員の戸籍を閲覧して確認する、といううことは事実上不可能です。
ですから、誰かが「自分は見た!」と主張すれば、誰もそれを完全に否定することはできません。いろいろと状況証拠を重ねて、「本当は存在しないのでは?」とするのが限度ともいえます。
このあたりが、幽霊の目撃談に似ているため、「幽霊名字」とよんだのです。現在ではいくつかの名字関係のホームページなどでも使われており、名字愛好家?の間ではかなり定着した言葉となってきたような気がします。
では、どうして本当には存在しない名字が堂々と本に掲載されているかのでしょうか?。大きく2つの理由があれますが、両方とも意外に単純な理由です。
一つめの理由は、最近の名字事典の傾向にあります。珍しい名字を多数収録した事典はたくさん出ていますが、最近は収録数の多さを競う傾向が強くなっています。ようするに、「多い方が勝ち」みたいな風潮があるのです。ですから、名字を吟味して収録数を絞るよりは、怪しくても多い方が売れる、と事典の編集者が考えているのです。ユーザーの方も「収録数が多いほど調査が行き届いていていい事典である」と思っているような気がします。(トンデモナイ大誤解なんですが)
もう一つの理由は、苦情処理です。未収録の名字があると本人や関係者から厳しいお叱りがきます。でも、幽霊名字を掲載しても本人からは苦情がきません(だって、いないんですから)。つまり、編集者としては“安心して”掲載することができるのです。
こうした幽霊名字は結構たくさんあります。珍しい名字を紹介している本や雑誌の記事、テレビ番組などでは、よく信じられないような奇妙な名字が紹介されますが、その中には幽霊名字がたくさん混じっていたりします。「こんな名字ホントにあるの?」と思った名字は、本当はなかったりします。
でも、気をつけてください。珍しい名字がすべて幽霊名字ではありません。「六月一日」(うりはり)は幽霊名字ですが、「四月一日」(わたぬき)や「八月一日」(ほづみ)は存在します。
現在、幽霊と実在の間をさまよっているのが「一」(にのまえ)という名字です。「一」という名字については、「いち」「かず」「はじめ」は私も確認していますが、「にのまえ」さんは、タレントの芸名でしか確認できていません。しかし、「実際に見た」という方も結構います。以前テレビの収録をした際、番組内で「にのまえ」さんをクイズの前振りとして使うことになりました。そこで、スタッフに再調査を依頼したところ、かなり昔にテレビ出演したことがあるらしいが、現在では確認がとれない、ということがわかりました。その方が本名であれば、実在することになりますが、なんともはっきりしません。おそらく出演したのはタレントさんで、私は実在しないと思っています。
結局、名字をみただけでは、幽霊名字と実在の名字の差は全くわかりません。もし、実在する名字かどうかは一目みればわかる、という人がいれば、その人は間違いなく超人です。私だって、いまだによくわかりませんから。
名字の調査は幽霊名字との闘いでもあるのです。
※「日本人の名字なるほどオモシロ事典」は、「名字の謎」 と改題して新潮OH!文庫より刊行されています。また、幽霊名字については、 「名字の謎がわかる本」 (幻冬舎文庫)で詳しく紹介しています。 
幽霊の酒盛り 

 

むかし、ある所にいっけんの古道具やさんがありました。古い掛け軸や壷、タヌキの置物から仏像までいろいろなガラクタが店じゅう、所狭しと並んでいました。
ある日、珍しく客があり、あれこれ見回していました。
「掛け軸か、字に勢いがないな。なんだこの刀は、どうせ偽者だろう」
わざと聞こえるように売り物にケチをつけてるのか、いけ好かない客だ。早く帰らないかなあ、主人は番台でぼーとしていました。
すると、「む?この幽霊の絵は!…表情がいい。あやしい色気がただよっている。おい」呼び止められて主人、「へい」と答えます。
「この幽霊の絵はいくらだ」
「はっ…。ええ…はい、この絵ですね」
それはどこかの雑貨市で適当に仕入れてきたものでした。まあひょっとしたら物好きな客が買うかもしれん、くらいの気持ちでしたから、主人にしてみれば二十文にもなれば十分でした。
そこで、「へへ…こんなもんでどうでしょう」と指を二本出します。すると客は、「何!二十両!買った!今手元にはこれだけしか持ち合わせがないのだが、手付けとして渡しておく。すぐに持ってくるから、待っておれ」と言って財布を渡し、店を出ていきました。主人は何が起こったかよくわかりません。受け取った財布を開けてみると、二両入ってます。
どうやら幽霊の絵が本当に二十両で売れたみたいです。ニヤニヤ笑いがこみ上げてきます。
「うっひょーい!二十両!二十両!」
主人は大喜びで店の中を跳ね回ります。半年は遊んで暮らせるお金です。つくづく幽霊の絵に感謝です。
「いやー、あんたよくやってくれたよ。二十両だよ。あらためて見ると、ねえ、そりゃ高値で売れるのももっともだよ。あ、ちょっと待っててくださいな」と、男は台所に行って、酒とおちょこを持ってきます。
「これはお祝いの酒盛りをしないとね。ずっと楽しみに取っておいた酒だけども、こういう時こそ開けなきゃね。ねえ、おねえさんも一つ、絵の中から出てきて一杯やりませんか?ああ、つまみは塩辛と…鰹の叩き、これがまた酒にあうんだよね」
言ってるそばからもう酒をついで、ぐいっぐいっと飲み始めます。
すると、すーーっと空気が冷えてきて、ヒューードロドロとあやしい音がします。
ひょいと見ると、目の前にきれいな女の人が座っています。ところがよく見ると膝から下が見えるような見えないような、半分すけたようになっています。
「まさか」と絵を見ると、女の描いてあった位置には何もない。目の前に女がいる。何度も絵と女を見比べて、主人はやっと理解しました。
「あんた、絵から出てきたの?」
女は目をほそめてにっこり笑ってうなずきます。はらっと前髪が顔にかかる、これがもうメチャクチャ可愛いのです。主人は、幽霊とか絵から出てきたとか、いっしゅんでどうでもよくなりました。
「ま、まま、お姉さん一杯どうぞ」と、酒をすすめます。幽霊の女は両手でちょこんと摘むようにおちょこを持ち、主人が酒をつぐと、すーと口元に運び、背筋をしゃんと伸ばしてお行儀よく座ったまま、くっ、くっ、くくーーっと飲みます。
「いやーーお姉さん、いい飲みっぷりですね。まま、もう一杯」
主人は嬉しくなってジャンジャン酒をすすめます。また幽霊も主人のおちょこにつぎ、二人して飲むのでした。
酒が進むにつれ幽霊の女もだいぶ打ち解けてきて、男が酔った勢いで笑い話をすると、口に手をそえて笑うのでした。最初は正座していた足も崩してます。
腰から下は透明なのでよくわからないですが、確かに崩しているのです。
「お姉さん、あのー、大丈夫ですか?」
女はそばにあったタヌキの置物にもたれかかって、「あんたも飲みなさい」とばかりに酒をすすめます。
そしてタヌキの頭をこずいたり、バシィと背中を叩いては楽しそうに笑うのでした。
「お姉さん、だいぶお酒が回ってるようですけど?」
女はまだまだこれからとで言わんばかりにバンと自分の胸を叩きます。そしてグイグイ飲んでは満足げに長い息を吐くのでした。
そのうちお酒も残り少なくなってきます。女はカラのおちょこをつまんで、ブラブラさせます。
それは悲しそうに目をふせるのです。カラの一升瓶をじいっと見つめます。それから今度は顔を上げて主人を見つめます。この世の終わりかという表情です。
「ああ、わかったわかった、そんな顔しなさんな」
主人がたまりかねてもう一本酒を持ってくると、パァッと笑顔になっておちょこを持った両手を前にさし出して、肩をゆらすのでした。
こうして夜通し酒盛りはつづきました。
朝の光が差し込んできて、主人は目をさまします。飲みすぎで頭がガンガンします。
「うーーん…昨日は変な夢を見たもんじゃ」
部屋の中を見回すと、ヒドイありさまです。嵐が通った後のようです。たぬきの置物がぶっ倒れ、掛け軸は破れ、売り物の古道具がめちゃくちゃに散らばっています。
「あれっ!?」
主人は思わず声を上げます。掛け軸の絵の幽霊が、横になってくてーと寝ているのです。
「ね…寝てる!」
主人はあきれかえって、しばらくその幸せそうな寝顔をみてました。そして、
「売るのは、よそう」とつぶやきました。  
幽霊薬 

 

昔、高草郡布施村(鳥取市布勢)に与一兵衛という百姓がいた。田植えがすむと、日照りの夏になったので、与一兵衛は田に水を引くために、夜更けに嵐ヶ鼻に出かけた。
嵐ヶ鼻は幽霊が出るといううわさがあったのだが、与一兵衛は肝っ玉が据わっていたので、うわさには耳も貸さず、仕事をしていた。
すると、ちょうど草木も眠る丑三つ時をすぎたころ、風と共に、あたりの木々がざわついた。そして若い女が長い乱れ髪をなびかせ、黙ったまま突っ立ている。
与一兵衛は、これがうわさの幽霊だと思ったので、心を落ち着けて、幽霊に声をかけた。「どんな用件で、こんな夜更けの田んぼに来たのかな?」
すると、女は蚊のなくような小さな声で言った。「私は昔、このあたりに住んでいた医者の娘でございます。そのころは度々戦がありました。その戦の最中に、私は3,4年の間わずらっておりました。私を看病していた父の方が先に死んでしまいました。やがて私も死にましたが、戦の世の中でしたので、髪もそれず、葬式もないまま捨てられるようにして、嵐ヶ鼻に埋められました。お願いです。どうか、私の髪をそってくださいませ。」
幽霊の話を聞いてかわいそうに思った与一兵衛は、「それはお安い御用じゃ。だが、今夜は剃刀がない。だから明日の晩必ず剃刀をもってきてそってしんぜよう」と約束した。
それを聞くと、幽霊は大喜びで何度もお礼を述べ、消えていった。幽霊の消えた後、与一兵衛は恐ろしくてひざががくがく震えている自分を知った。
その翌日の夜更け、与一兵衛は約束どおり嵐ヶ鼻に出かけた。すると昨日と同じように薄気味悪い風が吹き、青白い顔をした女があらわれ、与一兵衛の前に立った。
与一兵衛は、幽霊の髪を望みどおりにそってやった。
すると女は、
「これで成仏できます。ありがとうございました。お礼になるほどのものではありませんが、これは父の形見です。」と言って、一冊の本を渡し、スーッと消えてしまった。
幽霊がくれた本には、秘薬の作り方が書いてあった。それからというもの、与一兵衛は、病気の治し方や病気のものがあると、その本を開いては薬を作って与えた。与一兵衛の作る薬は「幽霊薬」といってもてはやされた。
今でも鳥取の西里仁には、与一兵衛の子孫が住んでおり、与一兵衛がよく見た「幽霊薬」の本や道具が残されている。また、女の幽霊には墓も建てられ、ていねいにまつられているという。 
微笑みの国の幽霊事情 / タイの迷信とオカルト文化 

 

家内安全を祈願する厄払いの儀式から、銃弾から身を守るためのお守りまで、タイの文化は迷信に満ちている。そうした迷信への執着が、国が発展しない原因だという主張があるほどだ。
超常現象を毎週取り上げる人気テレビ番組「幽霊に挑む人々」では、母親の遺体のそばで3日間を過ごした2歳の少女が出演し、コメンテーターの1人から質問を浴びた。「誰があなたのミルクを用意したの?」「誰があなたと遊んでくれたの?」「誰がドアを開けてくれたの?」。その質問に対して「ママ」と答えた少女も質問者たちも、辛かった日々に彼女を養い続けたのは母親の幽霊だと純粋に信じていた。
タイでは、このような番組は単なる娯楽を越えた存在だ。「国中の人が来世の存在を信じている」というのは、タイで最も有名な幽霊の専門家であるカポル(Kapol)さんだ。「西洋人は悪魔の存在を信じているのかもしれないが、東南アジアの国々で人々が信じているのは幽霊だ。この種の信心は、人々は悪行を慎む効果をもたらしている。Aという人物が『もしBという人物を殺したら、Bが幽霊となって戻ってきて、自分を苦しめるかもしれない』と考える、といった具合に」と説明する。
精霊信仰(アニミズム)や民間信仰が仏教と深く結びついているタイでは、いたるところに精神世界がある。ほとんどの建築物では、縁起が良いとされる場所に「神棚」を祭り、幽霊たちが悪霊へと変貌しないよう鎮める供え物がささげられる。
悪名高いタイの政争もまた超常現象に頼っている。対立陣営は互いに黒魔術による呪いを公然とかけ合う。抗議デモの参加者たちも、銃弾や危害から逃れる力を持つとされているお守りを身にまとう。
迷信で見失っているもの
だが、こうした素朴な迷信が、タイ人の判断を鈍らせ、搾取される余地を与えてしまう元凶だと批判する声も国内にはある。
インターネット上で「ファックゴースト(FuckGhosts)」というハンドルネームを使い、幽霊の存在を信じることを批判する主張を展開している男性が、匿名を条件にAFPの取材に応じた。この男性は交流サイトのフェイスブック(Facebook)に同名でページを開設し人気を集めているが、最近バンコク市内の交通死亡事故多発地点として有名な交差点に置かれているシマウマの像を足で踏みつける自分の写真を投稿して物議を醸した。
横断歩道を連想させるシマウマは、タイでは事故が多発する場所でよく目にする。不幸にも交通事故で命を落とした霊が次の事故を引き起こすと人々は信じており、シマウマの像がそうした霊をはらうとされているからだ。
この男性は「シマウマを壊そうと考えていたが、監視カメラがあるからね。(この写真も)世間は容赦しないかもしれないね」と語る。男性は、タイの人々が像やお守りばかりを信じ、安全運転を心がけるといったリスク回避の具体的な行動を怠っていると批判しており、フェイスブックでも多くの賛同を集めている。「こうした迷信こそがタイを発展途上国に停滞させている原因だ」と男性は腹立たしげに語った。
世界保健機関(World Health Organization)の統計に基づいた2014年の研究によれば、タイの交通事故による犠牲者は人口10万人当たり44人に上り、世界の国で2番目に死亡率が高い。ドライバーたちは安全祈願のために車を覆ってしまうほどお守りを飾り付けるが、多くは速度違反や飲酒運転を繰り返している。また三輪タクシーもお守りでいっぱいだが、運転手たちはヘルメットを着けずに定員を超える客たちを乗せて走り回っている。
だが「ファックゴースト」による運動は部分的に効果を与えているようだ。1月には、これまで100人の命を奪ってきた交通事故多発地点のカーブで、周辺に置かれた数百もの像を撤去された。ただし、撤去作業は僧侶たちによる悪霊払いの儀式なしには始まらなかった。地元の衛生当局の責任者は「作業員たちが始め、かなり不安を感じてしまっていた。僧侶たちがお経を唱えた後、安心して仕事ができるようになったようだ」と明かした。
迷信は魅力的な商売道具
タイの予言者や占星術師、そして僧侶たちの巨大なネットワークにとって、迷信は間違いなく魅力的な商売道具だ。
悪魔払いや、お守りの呪文や装身具などはすべて、それなりの額を払えば容易に手に入るし、憑依霊を扱った本や映画は絶大な人気を博している。またビジネス界でも毎年、厄払いのために僧侶たちを雇う。
タイの人々は、むごい死や予期せぬ死を迎えた人間の魂が肉体から離れるときに悪霊が生まれやすいと信じられている。なかでも、ナークと呼ばれる女性の霊ほど知られている幽霊はないだろう。19世紀のバンコクで、夫が出征中に出産で命を落とした実在の女性だと信じられている。
この言い伝えには多くのバリエーションが存在するが、どの筋書きも大抵同じで、帰ってきた夫がまるでまだ生きているかのような姿の妻と出会う。ナークは夫に対して非常に献身的だったため、死後も幽霊としてとどまったが、真実を知った夫が逃げ出すと悪霊になったという。
バンコク市内にあるナークが祭られた霊殿には「本殿は宝くじ抽選会の前日には一晩中開いています」と書かれた看板が掲げられ、地元の人々が病気の平癒や幸運、さらには兵役免除を祈願するために供え物を捧げている。
霊殿の外では占い師たちが商売に励み、参拝客たちはご利益を得ようと、魚や亀、カエルといった小動物を近くの用水路に放している。こうした動物たちを商う人々によると、ウナギを逃がすと仕事上の成功が訪れ、カエルの場合は罪滅ぼしになるという。
大僧正はAFPの取材に応じなかったが、参拝客たちは口々に、ナークに供え物を捧げることで報いが得られると信じていると話す。寺を訪れていた若い母親は「ナークも幽霊も存在すると信じている。友だちも皆そうよ」と、さも当然のように話した。 
3.11震災から4年 / 被災地で幽霊目撃談が多い本当の理由 

 

M9.0の巨大地震と、それに伴う大津波によって、15,800人以上の犠牲者を出すという未曾有の大災害からちょうど4年が過ぎた。震災直後から、被災各地で囁かれていたのが「幽霊が出る」という類の噂である。当然、このような幽霊話は多くの犠牲者に対して不謹慎とされ、避難所などではタブーとして扱われてきたようだが、そこに「癒し」を見出す人々も少なくないという。果たして、震災に際して幽霊話が本当に「不謹慎」なのかどうかを考えてみることにしたい。
なお、筆者は超常現象研究家として40年以上にわたって心霊現象などを研究してきたが、今回の記事は3.11にまつわる幽霊話の真偽を確かめるものではなく、そのような話には人々にとってプラスとなる要素があるかどうかを探求するものである。幽霊話の真偽についての考察は、また別の機会に譲ることにしたい。
数々の幽霊話、真剣に報じるマスコミ
さて、3.11から1年ほどが過ぎた頃から、避難所やネット上では様々な幽霊話が語られるようになっていた。多くの死者が出た大震災の後では、このような幽霊話はつきものだが、3.11の場合、いつになく多いようなのだ。以下は、その一例だ。
・ 夜になると大勢の人たちが走る足音が聞こえる
・ 津波で瓦礫となった車の中を、1台ずつ覗いていく子連れの女性がいる
・ 行方不明者の家族の枕元で、「見つけてほしい、埋葬してほしい」と声が聞こえた
・ 仮設住宅で、夜な夜な「寒い」といった呻き声が聞こえる
・ 夜中に停車しているタクシーに近寄ってきて、「自分は生きているのか死んだのかわからない、乗せてもらえないか」と語りかける女性がいる。乗せると、いつの間にか後部座席から消えている
また震災の翌年3月には、AFP通信が「東日本大震災から1年、石巻で語られる『幽霊』の噂」という記事を掲載している。それによると、宮城県石巻市では、さまよう霊たちのせいで修復工事が中断してしまった現場さえあるという。
このような噂を無視できないと思ったのか、なんとNHKまでも、2013年8月23日に「亡き人との"再会"〜被災地 三度目の夏に〜」という番組で、"震災幽霊"の話を真剣に取り上げた。それは、故人と「再会」したという4人の人物の不思議な体験を紹介するというものだった。
津波で3歳の息子と死に別れた母親の場合、子どもが遊ぶ気配を感じると、アンパンマンの乗り物のオモチャのスイッチが勝手に入ったのだという。これまで、超常現象や心霊ものを退けてきたNHKとしては考えられないような番組である。
幽霊話が生まれる本当の意味
このように幽霊話がメディアで取り上げられるようになったのは、大震災から時が経つにつれ、タブー視されていたものを語ってもよいのではないかという雰囲気が少しずつ生まれてきたという背景もあるようだ。さらに、カウンセラーや学者たちによると、大災害や悲劇的事件の後の幽霊話は、日本では一般的なものであって、それが社会的な「癒しのプロセス」にもなるのだという。
前述のAFP通信の記事で、文化人類学者の船曳建夫氏は、人間は本来、突然の死を受け容れられないものだとして、「その社会で納得できなくてたまっているものがどう表現されるかというと、噂話であったり、まつりの中で供養するなどということになります。社会的に共有できるものに変えるということがポイントです」(AFPBB News、2012年3月3日)と語っている。このことは、科学技術が発達した現代の日本でも、そう変わらないようなのだ。この説に合致すると思しき実例を、以下に紹介しよう。
・ にこやかな母の表情に救われ......
仙台市の地方紙・河北新報が、2015年2月26日の記事で紹介している岩手県山田町の公務員・長根勝さんは、大震災で母を亡くした。ある日、その母がニコニコした表情で18歳の娘の夢に現れた。娘が「なぜ津波で逃げなかったの」と聞くと、困ったような顔をしたという。その後、勝さん自身も夢の中で、台所で家事をする母を見た。にこやかな表情だったので救われた思いになったという。勝さんは、その体験を経て「怒りのような感情が薄らいでいった」と語っている。
・ 体験者は幽霊を怖がらない
河北新報の2015年2月27日の記事が紹介しているのは、浄土真宗本願寺派の僧侶・金沢豊さんだ。金沢さんは、毎月のように京都から岩手の被災地へと赴き、これまで200軒の被災者を訪ねているが、超自然的な話や幽霊話を聞くことも多いという。「金縛りになって誰かの顔が見えた」、「津波で亡くなった妹に見られている」といった具合だ。しかし、そのような話をしてくれる人々の顔は、恐怖ではなく慈しむような表情であるという。
・ 見守られている感覚が、生きる希望に
同じく河北新報の2015年1月4日の記事で紹介されているジャーナリストの奥野修司さんは、被災地を回り、犠牲者の霊を見たという家族や知人からの聞き取りを進めている。
そのきっかけは、医師への取材で、死者の「お迎え」の重要性に気づいたからだという。その医師によれば、いまわの際に、亡くなった両親や親類の姿を見る患者の死に方は穏やかだという。最愛の夫を亡くしたある女性は、自暴自棄に陥り、死にたいと思う日々を送っていたが、ある時、夫の霊に会い、見守られている感覚が芽生えて「お父ちゃんと一緒に生きよう」と思い直したそうだ。
確かに、被災地で幽霊を見たという話の中には、単なる興味本位の怪談で終わっているものもある。しかし、こうして見てきたように、特に亡くした肉親や友人との「再会」を果たしたというケースでは、恐怖よりも感動の方が先立つことが非常に多いようだ。「日本人の約2人に1人が幽霊の存在を信じている」という調査報告もあるようだが、震災で大切な人を失った被災者にとって、「たとえこの世にいなくても、あの世で生きている」と考えることが、明日へ一歩を踏み出すための大きな力になっている可能性がある。
多くの死者が出た大災害で、幽霊の話をすることは「不謹慎」に感じられる気持ちも理解できる。しかしそれ以上に、犠牲者の肉親や知人など、残された人々にとっての救いに繋がる面もあることを理解しようとする姿勢が大切ではないだろうか。 
幽霊を見る人、見ない人 / 幽霊を見てしまう理由とは? 

 

寝苦しい日が続きますが、真夏の熱帯夜といえば怪談。コワ〜い幽霊の話を聞くと、背筋がゾクっとしますよね。単に涼しくなるだけではなく、本当に幽霊の気配を感じた…なんて経験がある人もいるのではないでしょうか。「霊感がある」などとよく言いますが、幽霊に出会ってしまう人と、一生出会わない人には、どのような違いがあるのでしょうか?
「幽霊が出そう」という予期が幽霊を呼ぶ
人間は、「なにかが起きそうだ」と予期していると、実際にはなにもなくても、その「なにか」が起こったように感じる性質があります。『超常現象の科学』(文藝春秋)という著書のあるリチャード・ワイズマンがおこなった面白い実験を例に説明しましょう。この実験では、実験参加者に緑色の液体が入った香水瓶を見せ、瓶の蓋を開けるとすぐに強いペパーミントの香りがすると説明しました。そして、瓶の蓋を開けて「ペパーミントの香りがしたら、挙手してほしい」と頼んだところ、実験参加者の半数近くが手を挙げたといいます。しかし香水瓶に入っていたのは、無臭の染料で色をつけただけの水だったのです。「香りがする」と予期することで、存在しない香りを感じてしまったというわけです。
前述の『超常現象の科学』には、幽霊に関する実験も紹介されています。心理学者のジェームズ・フーランは、閉鎖された劇場に実験参加者を集め、ユニークな実験をおこないました。フーランは実験参加者を2つのグループに分け、いっぽうのグループには「この劇場には幽霊が出る」と伝え、もういっぽうのグループには、単に「この劇場は改装中だ」とだけ伝えました。そして劇場のなかを歩き回ってもらったところ、幽霊が出ると聞かされていたグループは、あちらこちらで幽霊の気配を感じ、そうでないグループは、なにも感じませんでした。幽霊が出るかも…とびくびくしていると、単に床がきしんだだけでも、ラップ音(幽霊が立てた音)のように感じてしまうものです。
壁のシミが幽霊に見えるワケ
なかには「気のせいじゃない、実際に幽霊を見たんだ!」という人もいるかもしれません。たとえば心霊スポットで写真を撮ったら、壁に幽霊の顔が浮かび上がっていた…そんな話をよく聞きます。しかし、明るくなってから確かめると、顔のように見える木目だったり、壁のシミだったりと勘違いの場合も少なくありません。・・は単なる記号にしか見えませんが、・_・のように横棒を1本加えるだけで人の顔に見えてしまいます。そして、いったん人の顔に見えてしまうと、もうただの記号として見ることはできません。
この顔文字のように、単に2つの点々を見ているときと、その点々の間に口をイメージさせる直線を加えたときでは、脳の第5次視覚野の働きがずいぶん変わることが明らかになっています。人間が社会で生きていく以上、他人の表情には敏感にならざるを得ません。自分の視界に顔らしきものを見つけると、脳が敏感に反応し、はっきり顔として認識してしまうというわけです。
1976年にNASAのバイキング1号が撮影した「火星の人面岩」という写真をご存知でしょうか。火星の表面に、人間の顔の形をしたモニュメントが映っており、「火星人の建造物か!?」と話題になりました。
この人面岩の写真は作りものではなく、NASAが撮った正真正銘の本物なのですが、後年の調査によって、地形がたまたま顔に見えただけだということがわかりました。このように単なる模様を、人間の顔や人影のようにすり替えて錯覚してしまうことを「パレイドリア」といいます。
日本には幽霊が見える人が多い?
こういった知識があれば、幽霊っぽいものが見えても「気のせい」で済ませることができます。そもそも、幽霊の存在を信じていない人は、幽霊の気配を感じることもありません。逆説的になりますが、幽霊をよく見る人は、少なくとも幽霊の存在を信じている人ともいえます。
インターネット調査のネオマーケティングが実施した調査によると、グラフのように幽霊の存在を信じている人は、過半数以上にのぼります。これはある意味、幽霊に出会いやすい素質を持った人が多いともいえます。幽霊の目撃談が絶えないわけですね。 
中国の亡霊説話 

 

日本人にとって、夏の風物詩と言えば、蝉時雨、朝顔の花、風鈴の音色、金魚すくい、納涼花火大会等、数え上げれば限りがないが、お盆が近づくと映画や舞台で上映(上演)される「怪談」を忘れてはなるまい。
この8月、アンソロジストの東雅夫氏の編集による『文豪てのひら怪談』(ポプラ文庫)が出版された。本書は遠く中国六朝時代(3世紀〜6世紀)の志怪小説や、わが国の『古事記』に始まり、平成日本の幻想文学にいたるまで、1800年余りの長きにわたる和漢の文芸から、800字を目安にして、妖しく不思議な物語を拾い集めたアンソロジーである。
わが国でいう幽霊のことを、中国語では「鬼」(gui、クイ)という。「鬼」という言葉は古くは中国語の意味と同じであった。『日本書紀』にその例が見られる。その後、わが国では「おに」という言葉は中国語の「鬼」とは全く別な
ものをさす言葉に変わっていった。
作家・中国文学者であった故駒田信二氏は自著『中国怪奇物語 幽霊編』(講談社文庫1982)のあとがきの中で、日本の幽霊と中国の亡霊を比較して、次のように述べておられる。「中国では幽魂、幽霊、亡魂、亡霊などが人間としての形をあらわしたものを’鬼’という(中略)わが国の幽霊にもさまざまな形のものがあり、一概にはいえないけれども、大半は、怨みを報いようとしてこの世にあらわれてくる怨霊(おんりょう)であって、身の毛もよだつようなおそろしい形相をしていることになっている。一方、中国の 鬼’は、多くは若い娘の亡霊で、この世の人間を恋い慕って情交を求めてくる。その姿かたちはこの世の人間と少しもかわらないばかりか、情緒纏綿(てんめん)たる絶世の美女であることが多い。従って人間は亡霊をおそれるどころか、そのあらわれるのを待ち望んで契りを結ぶ話(唐『才鬼記』、「州長官の娘」)や、亡霊との別れをかなしむ話(六朝『捜神記』、「赤い上着」)や、再会の約束をはたそうとする話(唐『酉陽雑俎』、「夫人の墓」)なども少なくはない。なかには情交した相手の人間の助けによって人間に生きかえる亡霊(唐『広異記』、「生きかえった娘」)や、子供を生む亡霊(「赤い上着」)、孕(みごも)ったままで死んで墓の中で子を生み育てる亡霊(宋『夷堅志』、「餅を買う女」)、寺僧と密通して子をはらむ亡霊(宋『夷堅志』、「孕った娘」)などもある。だが一般には、人間は亡霊と情交しつづけていると次第に陽の気を吸いとられてついには死ぬ、というのが中国の亡霊説話の主流で、なかには一夜の情交だけで死ぬもの(六朝『捜神記』、「汝陽の宿」)もある。情交を絶ったために死をまぬがれる話もあり、道士の法術によって救われる話(「州長官の娘」)も、法術をまもらずに死ぬ話(宋『夷堅志』、「床下の女」)もある。(以下略)」
本書『中国怪奇物語 幽霊編』には中国の「志怪」系統の「鬼」に関する81篇の説話が集められている。中国では亡霊たちが思いのままこの世に現れ、人間たちもあの世に旅して帰るのである。
さて、中国の怪談(『聊斎志異』)と出会って中国文学に目覚め、ついには独自の翻訳を始めた、話梅子(フアメイズ)さんという人がいる。話梅子とは「話梅」という梅を乾かして砂糖をまぶした中国のお茶漬けにちなんだ名前とか。
話梅子さんの5冊目になる編訳書『棺中の妻』(2009.7.25)が、『中国怪談』に続き角川ホラー文庫から出た。話梅子さんのあとがきによると、本書は唐代伝奇を1篇、明代白話小説を5篇、清代文言小説を6篇選び、原文に忠実な翻訳ではなく、読みやすくするために話の筋を変えない程度に手を加えてあるとのこと。
ともあれ、灼熱の夏の余韻がまだ冷めやらぬ秋の夜長、中国の怪談を手にとって一読されては、いかがだろうか?奇想天外な物語に、きっと夜の更けるのも忘れることだろう。 
西洋の怪談集 

 

夏ともなれば、やはり生ビールを飲んだりスイカを食べたりするように幽霊のお話をしなければ日本人ではない。残念ながらこの手のお話は大変に好きなのであるが、私はまったく霊感というものがなく、個人的な心霊体験を披露することは無理であり、また周囲にも信用するに足る経験者もなく、この点じつに殺風景なものである。
従ってこのコーナーにふさわしく、西洋史がらみの幽霊話で紙面をうめたいと思う。中には伝説じみたものや教訓談じみたものもあるが、日撃者の多さや正式な記録に残っているものも多く、現在「霊的」なものとして表現されている様々な現象は、古代人の自然現象に対する無知が生んだ多くの迷信同様に、近い将来必ずや世間の認める一つの分野となり、大学の一般教養課程の一科目になるかも知れない。今の内に賢明に対応しておかねば後世の笑い者になるかも、だ。

かのナポレオンも幽霊話が大好きで、マルメゾン館の夜話の集いなどのおりには、灯を全部消させて、自分は暖炉のほの明かりに身を置いて、演出効果を盛りあげた上で幽霊話に身を入れた。たまたま誰かがクスリと笑おうものなら、「この種の話を失ってはいけない。学者の本よりもよほど信用できる話なのだから」と本気で叱責したそうてある。

ともかく信憑性の高い心霊現象で有名なのは、やはリロンドン塔の幽霊群で、ことに名高いのが1536年にロンドン塔で斬首刑に処せられたアン・ブーリンの幽霊だろう。あのヘンリー八世の二番目の王妃である。1933年ある冬の夜、立哨中の衛兵が物音もさせずに忽然と現れた白い人影に大して、規則通りに誰何したが返事がない。そこで接近したところ、首のないアン・ブーリン妃の亡霊であることが分かり、噂には聞いていたろうが、実物に出くわしてこの衛兵は腰を抜かして逃げてしまった。
あの観光名物のロンドン塔の衛兵、イギリスの超精鋭部隊の近衛隊員も、さすがに肝を冷やしたらしい。しかし当然、この衛兵は持ち場放棄の罪を問われたわけであるが、「この持ち場に亡霊が出ることは既知の事実だったので、当の衛兵は譴責を受けただけだった」と上官が記録している。
また、別の夜、立哨交代を行おうとしたところ、敷石の上に衛兵が横たわっているのが発見された。とんでもない職務怠慢である。さっそく軍法会議にかけられたわけだが、法廷でその衛兵の証言するところ、白衣の婦人が立ち現れ警備中の自分に黙って接近してきたため、やむなく銃剣で一突きしたが、それが実体のない霊体であったのに驚いて卒倒してしまったという。
またもやロンドン塔名物の亡霊かと軍事裁判官は驚きもせず話を聞いている。証人喚間で法廷に立った二人の将校が、少し前の夜にやはり王妃の亡霊を確認した旨を証言したところ、「確かに例の亡霊だと」立証されて、この衛兵は無罪放免になった。

この年代の幽霊は実に多く、イギリス女王の座をめぐっての争いの犠牲となって17歳の若さで処刑されたジェイン・グレイの亡霊なども、頻繁に出没しており、1970年には観光客の面前に肖像画から抜け出したようなはっきりした姿で現れて、突然消えたらしい。
1957年の2月14日、つまり彼女の403年日の命日、午前3時に11人のロンドン塔衛兵の前に現れた彼女の亡霊のニュースは、海を渡ったフランスの「フランス・ノワール」誌の紙面にも報道された。衛兵たちも大変である。
しかし亡霊とは言え、自分たちが守っているイギリス王室の先祖たちなのであるから、無礼もできまい。エリザべス1世の亡霊と遭遇した近衛騎兵隊長が、この4百年前の女王陛下と会話をしようと試みたらしいが無駄だったという。この隊長、果たして亡霊の女王を何とお呼びしたのであろうか?
女王に一介の隊長ごときが声をかけるなど今も昔も無礼千万、だからエリザベス1世も返事をしなかったのだろう。

先のアン・ブーリンの兄にあたるロシュフォード卿の亡霊も、この一族のブリックリング・ホール城に出没すると言う。日暮れどきに馬に乗って駆け回るというのであるが、この卿も妹アンの二日前に斬首刑に処せられているためか、乗り手も馬も首なしのままの姿らしい。
ここで生まれたアン自身の亡霊も、何も遠くロンドンまで出張しているばかりではなく、ちゃんとこの生家の城にも現れている。しかも兄同様に首なしの四頭の馬に引かれた馬車に乗り、白衣をまとって、その膝の上には切り落とされた自分の首を大事にかかえているという。
この凄絶な四頭立て馬車は城のゲートまで疾走していき、そこで掻き消えるらしい。首を失い命を絶たれた姿で、怨念の塊となり、懐かしい生まれ故郷へと帰っていくのであろうか。

これに比べ、ヘンリー8世との恋が実った舞台であるケント州のヒーヴァ・キャッスルにクリスマスの晩12時の鐘が打ち終えるとすぐ現れるという彼女の亡霊は、イーデン川に架かった橋をゆっくりと楽しい想い出にしたるように渡っていくらしい。
それぞれの場にこめられた生前の思い出が亡霊の態度に反映しているのであろうか。
彼女の父親トマス・ブーリンの亡霊も娘の命日になると故郷の野原を狂ったように駆け回るらしい。まったく哀れな一族である・・・。
ロンドン塔では、このアン・ブーリンと、謀殺された二人の王子、それにウォルター・ローレイ卿の亡霊は実在が保証されているという。観光客の前にも登場するというので、夜中の衛兵のみならず、我々にも「見物」の機会はあるかも知れない。

確実な日撃者の多い幽霊といえば、ホワイト・ハウスに出没するアメリカ大統領リンカーンの幽霊もある。 1978年にAP通信が、 1980年にはUPI通信がそれぞれその事実を報じている。またルーズベルト大統領やアイゼンハワー大統領、イギリスのチャーチル首相やオランダ女王などがホワイト・ハウスでリンカーンの亡霊を目撃している。リンカーンの在任中のそのブレーンなどの幽霊群も一緒に従えて現れるときもあるらしい。これなども保証つきの幽霊話だ。
最近では、2008年10月、ブッシュ米大統領の娘のジェンナさんが、「テキサス・マンスリー」誌11月号のインタビューでこんな経験を明らかにしている。その記事にはこうある。「ジェンナさんはケネディ、ジョンソン、クリントンの歴代大統領の子供たちが使用したホワイトハウス内の部屋で寝ているが、『幽霊たちがオペラを歌うのを聞いた。ある夜はその歌が暖炉から聞こえてきた』と真剣。1950年代のピアノ曲も聞こえてきたといい、『ホワイトハウスにはすごく沢山の幽霊がいると感じる。時々あそこがとても怖くなる』と話した。 ホワイトハウスに幽霊が出没するという噂は昔からあり、暗殺された第16代大統領リンカーンの幽霊話が有名だ」と。

人の執念の有する凄まじいエネルギー。幽霊とは一種のエネルギー現象であるという説もある。人間のある種の激しい感情には、強烈なエネルギーが伴っており、時の経過によってもエネルギーが残留する。サイキックな感知能力を持つ人には、そのエネルギーの実体までが感得できるということだ。怒りや悲しみなどの激しい感情の発露が度を越すと、残留エネルギーとなってその場に残るわけだ。
この考えでいくと納得のいく現象もいくつかある。

たとえば、フランスはアン県シャトラールの城の廃墟とその周囲の牧場を毎晩のように「白衣の婦人」の亡霊がさまようという。
その手には血まみれの衣服が握られており、それを泉で無心に洗い、夜明になると廃墟へ戻っていくという。
このシャトラールの城の歴史を調べると、16世紀の宗教戦争(内乱)の当時、この付近で激戦があり、シャトラールの城主は亡骸も見つからなかったほどの無残な戦死を遂げた。
家来が彼の血まみれの衣服を城で待つ夫人のもとへ届けたまでだった。それ以来、この夫人は気が変になり、白衣を着て戦場跡の野原をさまよい歩くようになったという。
その深い悲しみを伴った行動が、強烈なエネルギーとなって、映像を現場に焼き付け残留させてしまったのだろう。

イギリスのストラットフォード・アポン・エボンの南約6キロのところにある廃墟がある。ここは少し前まで豪華なホテルとして使用されていたが、ある事件から客足が遠のき、結局閉鎖され廃墟となった。
なぜかと言えば、宿泊客たちが相次いで、夜になると不思議な声が聞こえると騒いだためだった。男の残忍な笑い声と女の叫び声・・・。こんな音声が夜毎続いてはたまらない。しまいには評判となり、ある人がこの建物の歴史を調べた。ある実業家がここをホテルとして再建するまでは、200年もの間ここは閉ざされた廃城であった。
城の最後の記録は、17世紀清教徒革命の動乱期、王党派とクロムウェルの軍勢との城の争奪戦で終わっている。
城主は王党派の伯爵で、頑強に城を守ったが力つき開城、革命派軍勢が城を占拠した。クロムウェルは降伏した敵には決して残酷ではなかったが、ここを占拠した軍勢の中にいた二人の将校が、伯爵の美貌の二人娘に日をつけて、強姦して殺してしまうという悲劇が起きる。
この二人の将校は兵士の面前で処刑されたが、不幸な娘たちの無念はす到底慰められるものではない。
以後、彼女たちの最期の絶叫は城の石壁に染みとおり、消えることのない悲鳴として夜な夜な繰り返された。城が閉ざされ200年、ホテルとして賑やかな舞踏会や晩餐会の舞台として再び人々を迎え入れたわけだが、不幸な娘たちの怨念は今だその最後の絶叫をやめることがなかった。彼女らの不幸な人生の最後の場面は強烈な記憶としてその場に滞留し続けており、人々の耳に音声を反響させたのだ。

また、バッキンガム宮殿近くのウェリントン兵営では、何人もの衛兵が、夜中に営庭を首のない女が横切るのを目撃しているという。
ある地点でその幽霊は地面の中へ吸い込まれるように消えていくという。上げ下げ式の窓を開ける音や灯火を求める悲しげな声など、兵営の兵隊たちは散々に恐怖を味わわされている。
その昔、ここの兵営の兵隊だった夫に殺され、首を切断された女がいたらしいが、その首が結局は見つからずじまいのままらしい。この首なし女の亡霊は、その事件の被害者ではないかと推測されている....

やはリロンドンのセント・ジェームズ宮殿には見るも惨たらしい幽霊が出る。それはセリスという男のもので、彼はジョージ3世の五男カンバーランド公爵の召使であった。 1810年、彼の娘はこの公爵の手込めにされ、懐妊、衝撃のあまり自殺してしまう。
セリスは召使の身分ではあったが、父親としての怒りを抑えられず、ある夜、宮殿で公爵を後ろから思い切り殴りつけた。そのあまりの力に、公爵の脳は頭の割れ目から飛び出るほどで、大変な重傷となる。セリスの方は、そのまま部屋に戻ると喉を掻き切って白殺してしまった。
その後、その部屋には、今にも首が胴体より転げ落ちそうな無残な姿をベッドの上にさらすセリスの亡霊が現れるようになったという。

またもっとしみじみした幽霊話であるが、ロンドンのバークレー・スクウェア52番地の古い家屋の二階の窓辺には、ときおり17世紀の服装をした老紳士の亡霊が悲しげな表情で広場を眺めているという。
話によれば、昔この紳士が溺愛していた娘が駆け落ち結婚をしてしまったらしい。式を済ませて落ち着いたら会いに戻ると書き置きがあった。
しかしその約束は守られなかった。老人は娘の帰るのを夢に見ながら生涯を終えたのだろう。
許さぬ結婚を強行した娘への腹立ちも忘れ、ただ愛する娘にもう 一度会いたいという親としての素朴な感情だけをいだきながら、ついに時うこともなく寂しく亡くなったのだろう。現在の広場の雑踏をいくら探しても娘が帰ってくるわけがない。しかしその親心の激しい執念が、その窓辺に2百年も彼の姿を焼き付けてしまったのだ。

1779年、サンドウィッチ伯爵の愛人マーサ・レイは、彼女の求婚者である男からロイヤル・オペラ・ハウスの前で至近距離から顔を射撃され即死した。彼女は自分の死をどうやって納得したであろうか。愛人の伯爵と楽しく過ごしたホワイトホールの海軍本部内の一室には、華やかな人生にいまだ執着する彼女の幽霊が漂っているという。

イギリスでは劇場がらみの幽霊話が多いが、俳優のウィリアム・テリスがアデルフィ劇場の楽屋口で彼の名声を妬んだ同僚に刺殺されたのは1879年、前出のマーサ・レイ同様あっと言う間の人生の終わりである。そのためか、彼が劇場とパットニーの自宅を通うのに使っていた地下鉄のコヴェント・ガーデン駅で彼の亡霊が現れるという。あたかも、自分の死を知らぬ彼が今でも劇場への通勤を繰り返しているように.....ともかく、駅員の間ではすでにお馴染みの幽霊だそうだ。

コリシーアム劇場の二階正面の前から二番目の座席に現れる若い少尉の亡霊。彼は休戦のほんの少し前の1918年のある日戦死した。その戦死した当日の夜に早くも当劇場のその座席に彼の亡霊は現れている。
その席は、最後の休暇の夜に観劇を楽しんだところなのだ。
戦場で倒れた時、彼の胸の中にはまだきらびやかな劇場で好きな劇を満喫した記憶が鮮明に残っていたのであろう。もう一度あの楽しかった一夜に帰りたいという執念が、死後の魂を運んだのだろう。

その近くのアルベリー劇場でも、創立者である故チャールズ・ウィンダム卿の亡霊が、上演に先立って入場してくる観客の中に混じっており、そのハンサムで上品な生前の姿をとどめているという。
また夕暮れどきには薄暗く不気味なミドル・テンプル通りには、書類の束を小脇にかかえ、ガウンをなびかせた弁護士風の男の亡霊が出るらしい。大方の見当では、これは文書偽造などで巧妙に稼いでいたある弁護士の霊とのことで、彼は最後には終身の島流しの刑に処せられている。せっせとロンドンで活躍していた頃が懐かしいのだろう。
またグラナディアの古いバブの酒倉から酒場の裏手へ昇る階段にも、昔死んだ守衛の幽霊が決まって9月になると出るという。この男はここを賭博場に使っており、ある年の9月、いかさまポーカーを見抜かれて殴り殺されたらしい。

イングランド銀行でも有名な幽霊話があり、ひとつは黒衣の尼さんの亡霊と、もうひとつはサラ・ホワイトヘッドの亡霊である。後者は、19世紀の始め頃、イングランド銀行のある行員の妹であった。兄妹は大変仲が良かったが、ある事が原因で銀行を解雇された兄は、それを妹に言わず、生活が困ってくると小切手の偽造を始めた。
ついにはそれも露見し逮捕され、絞首刑にされた。何も知らぬ妹はある銀行員からその話を聞かされて以来、気が変になる。そして毎日のように銀行に来ては兄を探すようになった。銀行員たちもそんな哀れな娘を大事にしてやるが、間もなく彼女は死ぬ。しかしそれからもひどく悲しげな表情で銀行の庭をさまよい歩く彼女の亡霊が目撃されているという。

あの17世紀の赤裸な日記を残したサミュエル・ピープスの亡霊は、バッキンガム通りのある古い家に出る。そこは彼が幸福な九年間を過ごした家だ。1953年、この家の住人が玄関広間で、彼が微笑みながら立っているのと出くわす。どことなく輪郭はぼやけていたそうだ。あれ? と思う間もなく彼は消えてしまったらしい。
1893年の6月22日、海軍中将ジョージ・トライアン卿は地中海で艦隊演習を行っていた。1500マイル離れたロンドンの自宅では彼の妻がホーム・パーティーを開いていた。数百人の招待客は間もなくある人物の登場に仰天した。
恐ろしげな顔つきで大股歩きにホールを横切り、くるりと振り向くなり忽然と消えてしまったその人物は、ほかならぬトライアン卿自身だった。地中海にいるはずの、である。
しかし実物の卿は、丁度その頃、自分のミスで巻き起こした事故により乗艦ヴィクトリア号ともども海底に沈んでいたのであった。生きていた頃に執着していた場所に、こうして死後にその魂が飛来し、映像化され、生への執着が高ければ高いはど鮮明な画像となって、より多くの人の確認するところとなる。
最後の最後に発っした何らかのエネルギーが、生前の姿をその場所に再生させるようだ。

ある瀕死の状態の国会議員が、丁度開催されていた国会の自分の座席にぼんやりとした顔付きで現れ、病状を知っている仲間が驚いて見ているうちに消えてしまった。その議員が回復したあとに、生死の境をさまよっていたはずの自分が国会の議席にすわっていたと聞いてびっくりしたという。人が極限の状態で発する力にはそのような現象を引き起こす作用があるのではないか。

イギリスはエセックスにあるボーレー牧師館は世界最高の幽霊屋敷だという。
二百年間に1300回もの心霊現象を記録する凄まじい幽霊屋敷だ。すでに13世紀頃に修道院があり、そこの修道士と尼僧が駆け落ちして捕らえられ、男は首をはねられ、女は虐殺されるという事件があったらしく、その頃からこの二人の首なし幽霊とかの伝説があった不気味な土地だった。
1862年にこの地に赴任したヘンリー・ブル牧師一家が、その修道院の跡地に牧師館を新築して住んだのが始まりで、家族は、白い女の幽霊や真夜中に馬車の音がし、首のない黒い男が馬車に乗っているのを目撃したり、血まみれの少年やらずぶぬれの少女、灰色の修道服の老女、それに加えて様々なポルター・ガイスト現象と、徹底的に脅かされた。
しまいにロンドンのデイリー・ミラー新聞社が取材にきて、調査団の発表により世界的に評判になってしまう。
最初は幽霊に驚いていたブル家の面々も、死んでからは今度は脅かす側になって幽霊として出てくる始末だ。
ブル家は、例のアン・ブーリン王妃の家系につながる家柄だったせいか、あちらこちらに出没するアン・ブーリン王妃の亡霊がここへも特別出演よろしく現れる始末。
ライフ誌やロンドン・タイムス紙のカメラマンも見事に幽霊の写真を撮影し公表され、世間で大騒ぎを巻き起こす。ある博士は8000万円もする電子装置や赤外線カメラや磁力計や録音装置を導入して、なんとBBC放送と協力してこの幽霊屋敷へ調査に入ったそうだ。

ロンドンのバークレー・スクウェア50番地にも、ロンドンーと言われた幽霊屋敷があり、ここ40年ほどは静まっているそうであるが、そこも様々な幽霊が出没するとのことで評判で、心霊的緊迫状態に満ち溢れているそうな。
すでにヴィクトリア朝半ば頃には住人は逃げ去り、空き家になっている。しかし、正体不明の叫び声や呼び鈴の音やうめき声やドサっという物音が周囲に響き、夜中に近くを通る人々を驚かしている。
「イギリスの幽霊屋敷」の著者ローズ・モートン嬢は、ペストで一家全滅をしたボグナー伯爵の屋敷に寝泊まりした結果、黒衣の婦人の亡霊との遭遇を詳しく書いているが、日本でもそうであるように、亡霊登場の際には金縛り状態に陥り、声も出なかったとしている。
夜、目を開けると黒い衣装をまとった婦人がじっと自分を見下ろしている。モートン嬢は、しめたとばかりにその霊との会話を試みるが、悲しいかな声も出ない。という具合だ。
そして屋敷内を捜索した結果、伯爵夫人の古い日記帳を発見し、その秘密の記録(つまり様々な情事などの記録)の中に、彼女が黒衣を愛用し「黒衣の天使」などと呼ばれたと自慢話が綴られているのを見つける。彼女が出会ったと霊は、病死した伯爵夫人に違いないことが分かった。

幽霊屋数の多くは、ポルター・ガイストなとの騒霊現象をともなっており、様々な霊魂のるつぼとなっている。ストーリー性のある幽霊話を求めるにはいささか品位に欠けるというもので、悪魔的なムードに支配されている。霊にも色々な性質があり、その多くは、不吉な存在、つまり出会った人間に害悪を加える類いのものだ。
フランスはドゥー・セーヴル県モンタランベールでは、十字軍時代に、ここの領主ギー・ド・モンタランベールの遠征の戦利品の一つが盗難され、ある娘に容疑がかけられて、中世特有の残虐な刑罰、つまり火あぶりの刑が行われた。後に娘は無実と分かった。五月になると、土手の核に座ってさめざめと泣くブロンドの娘の亡霊が日撃され、嵐の晩に黒い法衣をまとった男とすれちがうと、その者はその年の内に死ぬらしい。
やはリドゥー・セーヴル県のペリニエには、奇跡が起こると言われたフカンベールの泉があり、 1759年まではペリニエの司祭が住民をつれて詣でていた。しかし、月夜の晩に、この泉で、白い服を着た洗濯女たちの霊が喪服を洗っているのに出くわすと、不幸な出来事に見舞われるという。

またイゼール県アルヴァール・レ・バンにも、出会うと不幸になる幽霊の話がある。ここのサッセナージェ殿の娘アンヌは、かねてからアルヴァールのピエール卿と相思相愛の仲であった。しかしピエール卿はある日、父親からの政略結婚の要請を受けて仰天、様々考えた末に、アンヌを失うくらいならば修道院に入ってしまおうと決心する。しかし、なんのことはない、その政略結婚の相手はほかならぬサッセナージュ家のアンヌであり、二人は天にも井る心地で結婚した。
ところが、なんと、数日の後、アンヌは猪に襲われて事故死してしまった。ピエール卿は世捨て人となる。アンヌは悲しみに暮れる亡霊となり、十二月の月のない晩には、サン・ユーグのシャルトル派修道院の辺りをさまようようになった。この悲しみの怨霊を見てしまった者には、思わぬ不幸、つまり幸福を一転させ不幸の奈落へ落とす運命の非情を味わうことになるそうだ。

また、フランスの名門モンモランシー公爵家にも不吉な女の霊の話がある。この女は、 1598年若くして急死したモンモランシー公爵夫人ルイーズ・ド・ビュドで、部屋の中で、何の外傷もなく、ただ首が百八十度ひねられた状態で死んでいた。悪魔の仕業だと当時から騒がれたものだが、宮廷でも若く美しいこの若妻の評判は高かったので、皆は悲嘆に暮れた。それからというもの、この当時の衣装のままの彼女の幽霊が、この家系の者が死ぬ間際になると屋敷の倉庫に現れるようになった。
彼女が怪死して一世紀近くたった1686年、有名な回想録作家サン・シモン公爵も、この一族の忠実な執事である男から、当主夫人と当主自身が急病で亡くなった時、ルイーズの亡霊の日撃談を聞かされている。公爵は、この執事がいかに立派な人物かを説明し、この幽霊話の信憑性の高さを強調している。

また、パリの王宮チュイルリー宮殿にも、有名な不吉な霊の存在があり、それは「チュイルリーの赤い小男」として王家から恐れられていた。カトリーヌ・ド・メデイシス(1519〜89)の時代から記録があり、宮殿に住む主だった人物の不幸の直前に現れる奇妙な小男らしい。アンリ4世は町中で暗殺されたが、その日の朝にこの赤い小男の姿を宮殿で見かけていたという。アンヌ・ドートリッシュ(ルイ13世未亡人)はフロンドの内乱勃発の数日前にやはり出くわしている。マリー・アントワネットも1792年8月10日、つまり民衆がチュイルリー宮を襲撃してくることになる日の朝、廊下でこの小男と出会っている。ナポレオンも退位する直前に会った。

不吉な霊もあれば愉快な霊、それどころか縁起の良い霊もいる。
ロンドンのドルアリー・レイン劇場には、18世紀の服装に剣を吊って乗馬靴をはき、手には三角帽を持った「灰色の服を着た男」の亡霊が出る。一度だけ150人の観客の前に現れたが、多くはリハーサルの最中に出現する。D列のおしまいの席に現れ、そこから後ろの通路を通ってロイヤル・ボックスの壁の中へと消えるパターン。
この男の姿が現れると、そのリハーサル中の興行が大当たりすることが多く、俳優たちはこの亡霊の出現に脅えるどころか喜ぶ始末だ。何人かの俳優は舞台の上で、より効果的な位置に自分を導く手の気配を感じたというし、本番中にも、俳優が自分で決めた位置に立つと「それでよしよし」と優しく背中を叩かれたり......。
前の世紀に、この劇場の修理工事の最中、この灰色の男の亡霊が壁の中に消えていく箇所の裏側で、長く未使用のままだった小部屋が発見された。その小部屋の中から、助骨に短刀の刺さった埃だらけの白骨体が発見された。この白骨体との関係はまだ明らかにはされていない。

セント・ポール寺院内のある記念礼拝堂でも、陽気な亡霊が出る。彼は牧師の姿をした小男で、一人口笛を吹きながらブラブラしており、人に見つかると、あわてていつも決まった壁のある箇所へ消えてしまう。人に見つかって逃げる幽霊も可愛いが、ある改修工事の際、係員が幽霊がいつも消える壁を職人に壊してもらった。すると丸屋根まで通じる通路につながる秘密の扉が発見されたという。それからプツリとその幽霊は出てこなくなった。
まるで口笛を吹いて人の注意をひき、あわてて逃げる仕草をしては、その秘密の扉の存在を伝えようと努めていたかのように。

おかしな幽霊といえば、功利主義哲学者ジェレミー・ベンタムの話がある。彼は人間にとっての最高の記念像は保存された肉体だと主張し、死後、その遺骸に詰物をして服を着させ、防腐処理をして、マホガニーとガラスで作った気密のケースに保存させた。
今も展示されてはいるが、さすがに頭部だけは蝋細工のものに変えられている。
しかし最近、彼は生前の持論を捨てたのか、ケースのガラスを時々鋭く引っ掻くらしい。その不気味な音は、正式な埋葬をしてくれとの意思表示だと理解されている。また、彼愛用のステッキを振り回した姿で彼の幽霊が職員を追いかけ回すようなこともあるらしい。まったく自分の遺言での処置だと言うのに厄介な人物である。

また、人間に協力的な幽霊たちもいる。アーネスト・ドーソンの長編詩「シナラ」はブロードウェイでも長らく公演され、マール・オペロン主演でハリウッドで映画化された。
このドースンが駆け出しの頃、実に奇妙な心霊体験をしているのである。それは裕福な友人に招かれて泊まったラットランドのホワイシャンガー城でのことであった。この城は1870年に城主一族断絶の後、臨時に賃貸されるようになったらしい。
その居室のひとつでベッドに入ったドーソンは、漂う妖気に短銃を枕元に置いたという。案の定、部屋の隅に月明かりで透き通らんばかりの美しい娘の霊体が現れた。
翌日、友人に尋ねると、その幽霊は初めから城に出ると評判だったらしく、18世紀に死んだ城主マウントバッテン伯爵の令嬢イザベラの亡霊だという。
彼女は文学的才能に恵まれていたが、23歳のときに肺病で亡くなった。詩人としての作品も世に発表されているくらいなので、詩人同士で語り合わせてみようと、彼女の私室だった部屋にドーソンを泊まらせたという。
彼は覚悟を決めたが、ある夜、暖炉の取り外しレンガを発見し、ページのボロボロになったイザベラの詩集を発見した。1768年10月7日の日付があった。
その夜、彼女の幽霊はついに彼に語りかけてくる。あなたの肉体を貸して欲しいと。自分はもっと詩作に励みたかったが病で倒れ、その無念さで漂っているのだ、詩人としてのあなたの肉体に宿って生前の夢を叶えてみたい、と。
ドーソンが承知すると、イザベラ姫の霊体が接近してきて、交錯する。それから、彼はロンドンに帰ってそのときの体験を長編詩にまとめ、有名な「シナラ」の原型が完成したわけである。だが彼も、22歳の若さで病死してしまうのである。詩才のみならず病弱なイザベラ姫の体質までのりうつってしまったのであろうか。

のりうつって云々の話となると有名なのが、あのローズマリー・ブラウン夫人の話だろう。1964年10月のある日、ロンドン郊外バルハムに住んでいた彼女は、不思議な霊気に導かれて物置の古ピアノの前にやってきた。声がする。「私は音楽家リストだ。今からあなたにのりうつる」するとピアノなど弾いたこともない彼女の手が自然に鍵盤の上をすべり、素晴らしい作品を演奏し始めたのである。なんとも、怪しい話であるが、彼女のもとにはリストばかりでなく、ベートーヴェンやショパンやブラームスなどなど音楽家たちの霊が次々と訪れ、シューベルトなどはあの未完成交響曲の完成部を彼女に演奏させたり、ベートーヴェンも未発表の第十交響曲を霊界からの通信で彼女に演秦させている。
その腕前は一流ピアニストも太鼓判を押すほどであり、生前のリストやショパンの演奏の違いも現代人に味わわせてくれる。ローズマリー・ブラウンのレコードは日本でも発売されて、絶版になった。
私はFM放送を録音したが、なんとも奇妙なムードで聴いている。
もしも彼女が嘘をついているのであれば、彼女はピアノの技法の達人であり、各音楽家の作曲技法に精通した驚異的才能のペテン師ということになろう。

イギリス人は大変に幽霊が好きで、古い家屋敷には必ず幽霊が住みついている。生前は幽霊好きで、死後は、化けて出るのが好きなのかも知れない。「愉快な幽霊が出ます」などと付記された不動産物件案内があるほどだ。
それにSPR(心霊研究協会) などといった組織があり、かなりきちんとした活動を展開している。この会員たちは、イギリス人らしく、何かの存在を証明しようとする場合、まずそれが存在しないことを証明しようと躍起になり、それが不可能であると結論が出れば、目的は達成されたという方式で研究をする。何かの心霊現象を演壇で披露すれば、やれそれは錯覚だ、幻覚だ、とまるでそれを信じない人々の集会のように批判されるらしい。それほど厳格に審査し、どう考えても霊的現象としか思えないというものだけを取り上げる。
この機関SPRがお墨付きを押した話は、全イギリス人に受け入れられる。それほどの権威あるところらしい。今世紀始めにヴェルサイユ宮殿を訪れた二人のイギリス人女性が、 トリアノンでマリー・アントワネットの幽霊を見たという話はセンセーションを巻き起こし、日本でも‐冊の本になっているくらいだが、その巻末にこのSPRの審査報告が載っている。
「そのすべてが超常現象と言うには、証拠能力が充分とは言えない」と、細々した点を指摘して弱点をついている。
まるで否定論者が皮肉っぼく論評しているかのようだ。
面白い機関である。人をただこわがらせているだけの安っほい幽霊話の氾濫する我が国とは違い、真剣にその手の出来事を愛するイギリス国民だからこそだろう。

1712年イギリスの「スペクテイター」誌に、 「今ほど学問・科学の進んでいなかった頃には、同じ自然を見るにももっと畏敬・恐怖心が強く、魔法・驚異・呪い・呪詛の恐ろしさに縮み上がったものだ・・・」などと書いてある。
これが書かれてから三百年も経とうとしているのに、基本的には当時の人々と同程度の知識しか持ち合わせておらず、当時の人々と同じように怖がっている現代人の我々は、もう少し真面目にこの種の現象を研究した方が良いのではないか。否、早く解決してしまった方が身のためなのではなかろうか。
怪談は夏の間だけかも知れないが、幽霊の出る出ないは夏に限ったことではないのだから。

英国の幽霊伝説 (シャーン・エヴァンズ著・評)
ある調査によると、英国人の4割以上が幽霊や亡霊、その他の超自然的な存在を信じ、スコットランドと北イングランドでは、3分の2近くの人が幽霊を見たり、気配を感じたことがあると答えているという。本書は、歴史的建造物などにまつわる伝説をはじめ、現在の管理人やその家族、ボランティアや訪問者など、さまざまな人が体験した奇妙な体験を紹介する。
英国で最も有名な亡霊が出没するのはノーフォークの「ブリックリング・ホール」。ここは、かつて国王ヘンリー8世の2番目の妻アン・ブーリンが暮らしていた屋敷の跡地で、1536年に待望の男子を流産したためヘンリーの怒りを買い処刑されたアンの幽霊「灰色の貴婦人(グレー・レディー)」がさまよっているとされる。
毎年、処刑された5月19日には、首のない御者が引く馬車に乗った彼女の幽霊が、自分の首を膝にかかえて屋敷への丘を上っていくといった、今も続く目撃譚を紹介する。
12世紀に築かれた「チャーク城」の元子ども部屋で暮らす管理人一家の前に現れる霊たちは、寝ている住人の足を引っ張ったり、髪をなでたりと、害を与えるのではなく愛情を示す。一方で、鍵をかけたはずの部屋で自動警報装置が鳴り、駆け付けると、フォルダーに隠してあったはずのブザーが椅子の上に放り出されていることがたびたび起きるという。
幽霊として現れるのは人間だけではない。1783年に建てられた「ベリントン・ホール」では清掃スタッフがもう何年も前から馬を飼っていない厩舎の中に2頭の馬を見かけている。
その他、強盗に殺された恋人たちの幽霊が命乞いする声が聞こえるという峠「ウィナッツ・パス」など。実に72カ所にも上るスポットとエピソードを、幻想的な写真とともに紹介。
チャーチルやシェークスピアなどの歴史上の人物たちの逸話も盛り込まれたちょっと変わった英国本。 
海の亡霊 (宮古) 

 

海にも亡霊(ぼうれい、もうれい)が出る。
亡霊船といって、多くは船に乗った亡霊だ。
幽霊船とか船幽霊、船亡者、亡者船などともいう。
船も当然この世のものではない。
お盆に泳ぎにいくと、亡者に海へ引きずりこまれる。
あるいは、海の上から、だれかが声をかけてくる。
これも、船に乗ってはいないけれど、亡霊船とおなじだ。
「お盆に漁に出ると亡霊船にあう」
そんな古老の口ぐせを笑って若い漁師がサッパを出した。
サッパは磯漁に使う小舟だ。
雲行きがあやしくなったと思ったら亡霊船があらわれた。
サッパをこいでいたら、ガスといって濃い霧につつまれた。
そんななか、気がつくと、いつのまにか、このへんでは見かけたこともない男の乗ったサッパがそばにいた。
それが亡霊船だったという話もある。
「ヒシャク(柄杓)を貸せ」
たいがいは、そういってせがまれる。
シャクシ(杓子)やエナガ(柄長)ということもある。
どれもおなじで、アカ(淦)という、船にたまった海水をかきだすための、柄のついた桶だ。
亡霊船にいったんこれを渡すと、必ず自分の船に海水を汲みいれられる。
沈没するまでやめない。
そんなときのために底の抜けたヒシャクを用意しておく。
あるいは貸すときには必ずヒシャクの底を抜いて渡す。
また、海の上で助けを求めてくる声に、うっかりこたえてはだめだ。
返事をすると必ず海に引きずりこまれる。
船幽霊にあったら口をつぐんでとりあわない。
反対に、とにかくなにか返事をしないと海に引きずりこまれるという話もある。
これをトモ呼ビという。
海の亡霊は餓鬼だという話もある。
餓鬼は、いつも腹をすかしている。
だから、お握りをやる。
味噌をといて海に流してやってもいい。
そうすれば退散することが多い。 
亡霊船は、海で死んで遺体が沈んだ、文字どおり浮かばれない人の亡魂だ。
海の亡魂は波間をさまよう。
クラゲのすがたをとることが多い。
人に出会うと、さまざまなかたちで祟(たた)る。
江戸時代に菅江真澄という旅の好きな学者がいた。
気仙沼へきて、船の上でこんな亡霊船の話を聞いている。
沖でカツオをとっていたら、おおぜいの乗った船が近づいてきた。
「そっちに乗せてくれ」
そういって、つぎつぎ乗りうつってくる。
これは亡霊船にちがいないと漁師たちは思った。
飛び乗ってくるものの頭を押さえては、ナマというところにどんどん押しこんだ。
夜が明けるのを待ってナマの板子をあけてみた。
すると、いくつもクラゲだけが入っている。
「クラゲは化けるのか」
ひとりがそういうと、ひとりが応じた。
「クラゲは風にさからって走るから、化けるようなこともあるだろう」――
ナマというのは板子の下の空間で、とった魚を入れておく。
ホトケといって水死体をひきあげると、ここに入れることもある。
クラゲが亡霊に化けるのか、亡霊がクラゲになるのかはともかく、
「クラゲの多くなるお盆には、気をつけることだ」
それが古老の口ぐせだ。 
三島由紀夫事件 / 首を抱えた亡霊 

 

1972年4月、一人の男の葬儀が行われていた。故人は川端康成。日本で初めてノーベル文学賞を受賞した川端康成であった。死因はガス自殺とされた。仕事部屋として使っていた逗子のマンションで遺体として発見された。僧侶の読経が始まる。と突然中央の僧侶の身体が大きく揺れた。何かに突き飛ばされたかのようであった。この動きが読経中に何度か続く。参列者の中にはこの動きに気付き不審に思った人もいた。
読経が終わり中央に座した僧侶が故川端康成の夫人、秀子氏を部屋の隅に導き話始めた。「出来るだけのことをしましたが、首を据えるとこまでです。憑いている霊が強過ぎます。私に出来るのはそこまでです。」この葬儀には実は三島由紀夫も列席していた。ただし、亡霊として。
三島由紀夫はいわゆる三島事件で、すでに死亡していた。
1970年11月25日。川端の死の1年半前。三島は自分がスポンサーとなり作った民族派団体の盾の会のメンバー4名と東京新宿区市ケ谷の陸上自衛隊東部方面総監部を訪問する。アポイントはとっていた。そして突然益田総監を人質にとり、総監室のバルコニーから自衛隊にクーデターを呼びかける。しかし同調する自衛隊員は一人もいなかった・・・。三島はヤジと怒号の中総監室に戻る。そして切腹し、果てる。その後すぐに川端康成は現場に駆けつけている。現場は血の海で三島の身体と介錯を受けた首はバラバラに部屋に転がっていた。警察による現場検証の前であった。
川端康成は三島由紀夫の師のような存在であった。文壇へのデビューを手助けし、仲人も引き受けている。こういった訳で三島はたびたび川端の鎌倉の自宅を訪れていた。それがこの後も三島はたびたび川端邸を訪れる。亡霊となり。秀子婦人はこう証言している。「三島さんが訪ねてくるんですよ。それが惨めなお姿で・・・。」前述の僧侶の言葉から察するところ、離れた首を抱えての訪問だったようである。川端家では何度かお払いをした。しかし効果は無かった。それは三島の霊ではなく、三島の霊にさらについている霊が非常に強力であった。どこかの段階で三島由紀夫はもう一人後見人をつけてしまったようである。川端は三島の葬儀に際しても葬儀委員長を務めている。その時の三島由紀夫への弔辞「葬い、即ち生きている者が死んだ者を葬うとはどういうことであるか。この意味は私はよくわかりませんが、死者をして死者を葬らしめよ、という言葉があります。三島君は多くの人の中に、また或いは歴史の中にも生きている、ともいえるとおもいます。」
何を言っているか理解できるだろうか?前半の言葉は枕言葉として、「死者をして死者を葬らしめよ、」とは何だろう・・・?「三島君は多くの人の中に、また或いは歴史の中にも生きている、ともいえるとおもいます。」とは何を意味しているのだろう・・・?
三島事件の起きる1970年の三島家での新年会。そこには大勢の著名人達も訪れていた。三島は酒でかなり御機嫌であった。訪問者の一人に三輪明宏もいた。三輪は天草四郎の生まれ変わりを自称し、霊感が強いといわれていた。その三輪が三島の背後に青い影を見た。三輪は三島に叫ぶ。「三島さん後ろに誰かいる!」三島はおどけて答える。「いったい誰だい。その物好きなヤツは。」三輪は続ける。「軍服を着ている。2.26事件の関係者かしら?・・・」しかし三輪は2.26事件のことにはあまり詳しくなかった。三島が2.26事件関係者の名前を一人一人挙げていった。そして三島がある名前を挙げた時、三輪は叫んだ。「そう!その人!!」三島の顔色は一瞬で真っ青になった。三島がその時挙げた名前は「磯部浅一(あさいち)」。2.26事件の中心的人物だった。この人物がいなかったら2.26事件はおきなかったのではないかともいわれる人物である。実は三島自身にも思い当たるふしもあったのである。
2.26事件は軍部の一部青年将校達が財界、政治家、官僚の腐敗していると考た輩を排除しようとした事件である。1936年2月26日であった。青年将校達は軍事グーデターを起こし、現人神である天皇の基で世直しをしようとした。それがあっさり昭和天皇から否定され賊軍として鎮圧される。失意の内多くの青年将校は銃殺される。それでも皆最期は「天皇陛下バンザイ!」と唱えて死んでいった。一人を除いて。磯部浅一はクーデターを天皇から否定されると、間違っているのは天皇だと開き直った。天皇を否定した右翼は思想のベースを何におくのだろう・・・?磯部の存在は現在に至るまで右翼のタブーとなった。そして磯部は「天皇陛下バンザイ!」を唱えず銃殺された。成仏することも拒否して。磯部の獄中日記より。「 何ヲッ! 殺されてたまるか。死ぬものか。千万発射つとも死せじ、断じて死せじ。死ぬる事は負ける事だ。成仏することは譲歩することだ。死ぬものか、成仏するものか。悪鬼となって所信を貫徹するのだ‥‥。」
三島は2.26事件をおこした青年将校達に共感した。そして「英霊の声」を書いていた。それを書き上げた際三島は原稿を出版社に渡す前に母親にみせている。母親の平岡 倭文重(しずえ)は語る。「一度読んで、これは息子の書いたものではないと思いました。それで息子に問いただすと。息子はこう答えました。」
「夜中書斎で原稿を書いていると、どこかからか声が聞こえてきて、手が自然に動き出してペンが勝手に紙の上をすべったんだ。自分の意思で止めることもできなかった。後で手直ししようかと思ったが、それも出来なかった。」
「英霊の声」より
「‥‥利害は錯綜し、敵味方も相結び、外国(とつくに)の金銭は人を走らせ もはや戦いを欲せざる者は卑劣をも愛し、邪(よこしま)なる戦のみ陰にはびこり 夫婦朋友も信ずる能(あた)わず いつわりの人間主義をたつき(=生計)の糧となし 偽善の団欒は世をおおい ‥‥魂は悉(ことごと)く腐食させられ 年老いたる者は卑しき自己肯定と保全をば、道徳の名の下に天下にひろげ 真実はおおいかくされ、真情は病み、道ゆく人の足は希望に躍ることかつてなく‥‥ ただ金よ金よと思いめぐらせば 人の値打ちは金よりも卑しくなりゆき‥‥ 烈しきもの、雄々しき魂は地を払う‥‥ 天翔るものは翼を折られ 不朽の栄光をば白蟻どもは嘲笑う かかる日に、などてすめろぎは人間(ひと)となりたまいし」
三島は磯部浅一の霊に取り付かれた。いや呼び込んだといった方が正確かも知れない。
これで川端康成の弔辞の意味が分かる。「死者をして死者を葬らしめよ、」とは「今は死者となった三島よ。お前の力で磯部を成仏させよ。」という意味だと思う。また、「三島君は多くの人の中に、また或いは歴史の中にも生きている、ともいえるとおもいます。」とは、「2.26事件という歴史的事件の影響で三島も死んでいった。しかしその三島や青年将校達の純粋な志は皆の心の中に生き続ける。」という意味だと思う。
三島事件から40年以上が経った。川端婦人も三島婦人も故人となられ、今まで遠慮されていた方々も少しづつ事情を明かし始めている。
菊池寛は自らの幽霊体験に対し他の人がとやかく言うのにこう言い返している。「幽霊がいるとかいないとか議論してもしょうがないじゃないか。幽霊は出るだけで充分だ。」 
若宮大明神 数馬の幽霊 (掛川市粟本地区殿谷周辺) 

 

「で、でたぁ〜」
外から帰ったきこりの甚兵衛は、家へつくとヘタヘタと尻もちをつきました。
「なんだねぇ、何がでたんだね。」
おかみさんが亭主のあわてようにたずねると、
「大入道よ。わしが谷の六さまの前を通って松の木の横を通ったらな、ものすげえ大入道が出て、わしをにらみつけたのさ。」
それから3日たった夜、甚兵衛と同じところを通った茂七も青くなってとんで帰ってきました。村中で次々に大入道の幽霊を見たというものが出て大騒ぎです。
その幽霊は、身のたけ1丈あまりもある大男の武士の亡霊でした。刀を差し、片手に草履をもち、目は片方を斜めに切られ無念の形相すさまじく、口をカッと開 いて、
「やれ恨めしやなあ、汝をとり殺すぞ!」といって追いかけてくる。
幽霊に出会った村人はたいそう驚き、寝こんでしまう者まで出て、村人はこの殿谷(とんのや)あたりを通らなくなりました。
あるとき、ひとりの気情な村の男が、亡霊の出る道を夜更けに通りました。やはり亡霊は男の前に出て、その姿は片目で草履を片方しか履いていません。村の男が怖い気持ちをおしころして逃げずにいると、亡霊が話しはじめました。
「われは宗忠の子、河合数馬将忠(かわいかずままさただ)という者である。隣村の城主荒重のもとへ行った帰りに酒に酔って城主の草履を取り違えて履いたことをとがめられ、荒重に手討ちにされた。身内が弔ったが墓石は幾百年の時を経て忘れ去られ、草むらに埋もれているが、大名の子と生まれ土民の足下となることは口惜しい。何卒懇ろに弔ってほしい。」
これを聞いた男は、さっそく石碑を建てて亡霊を弔いました。
さて年月は経て、ある年の9月8日の夜のこと。村の庄屋の太郎左ェ門の枕も とに数馬の亡霊が現われました。その夢の中で亡霊は、 「石碑を建ててもらったが、霊を神として祭ってくれれば、永くこの村の氏神となるべし。」と頼んで消えました。
太郎左ェ門は村人たちにこのことを話して、小さなお宮を建て数馬を氏神として祭り、若い殿様の霊なので「若宮大明神」と名付けまし た。
今でもこの村では、毎年旧暦9月8日(10月7日)のお祭りが続けられていま す。  
首相公邸の幽霊 / 供養の本質とは何か 

 

最近、首相公邸の幽霊が大きな話題になりました。
フジテレビ系(FNN)5月25日(土)の記事には次のように書かれていました。
「首相が任期中に住むための首相公邸。 安倍首相は、第2次安倍内閣発足後5カ月ほどが経過した今でも入居していないが、24日、この公邸をめぐって、長い間ささやかれていた幽霊のうわさについて、政府が閣議決定をした。 静寂に包まれる夜の首相公邸。ここには身の毛もよだつうわさがある。 午後4時半、菅官房長官は『(気配を感じたことは?)言われればそうかなと思いました』と述べた。
『首相公邸に幽霊が出る』とのうわさについて政府は、『承知していない』とする答弁書を閣議決定した。菅官房長官は『いろんなうわさがあるということは事実でありますし、この間、閣僚があそこで懇談会を開いた時も、そういう話題も出たということも事実でありますけれども』と述べた。記者の質問に、苦笑いで答える菅官房長官。実は安倍首相が、就任からおよそ5カ月がすぎても、公邸に引っ越ししていないことをふまえ、民主党の議員が、『幽霊のうわさは事実か』と質問をしていた。2006年、小泉 純一郎元首相は『幽霊に出会ったことないね。一度会いたいと思ったんだけど』と述べていた。
旧首相官邸だった現在の公邸。かつては青年将校によるクーデター『二・二六事件』の舞台となり、今もその時のものといわれる弾痕が残されている。また、この土地はもともと怪談『化け猫騒動』で知られる、佐賀鍋島藩の江戸屋敷があった所で、いわば、『いわくつきの土地』と言われていた。
羽田元首相の綏子夫人も、以前、住んでいた時の体験を著書で、『悪寒が走ったと申しましょうか、何か胸を圧せられるような、異様な雰囲気を感じました』と語っている。その後、綏子夫人は、知り合いの女性におはらいを依頼。女性は『霊がうようよいる』と話したという。真偽不明のうわさ。安倍首相の今後の入居については、諸般の状況を勘案しつつ判断されるという」 このように、幽霊の問題について真剣に民主党議員が質問意見書を提出し、国会の場で答弁がなされ、それを受けた官房長官が「(幽霊の気配を感じたことは)と言われればそうかなと思った。」と記者会見で述べたわけです。
「日本は大丈夫か?」とか「平和ボケにも程がある」と言われても仕方ないかもしれませんね。
個人的には非常に面白いですけど・・・。
まあ、本当に首相公邸に幽霊が出るとしても、こういったスピリチュアルな問題は表沙汰にせず、秘密裡に処理するのが常識だと思いますけどね。だいたい、放射能とか外国人とかに関する事実をいろいろと隠しておきながら、こんな問題だけ国民にオープンにしてどうするよ、民主党?
じつは、東京大学大学院教授で東大病院部長の矢作直樹氏とわたしの対談本である『命には続きがある』(PHP)が6月19日に発売されますが、同書には幽霊の話題もたくさん出てきます。
わたしたちは、自縛霊や浮遊霊に対する対処法も知っています。もし安倍首相が本当にお困りなら、矢作先生とわたしが「ゴーストバスターズ」として首相公邸に参上するのも面白いかもしれません。
その本で、わたしは「供養」の本質について話しました。
「供養」においては、まず死者に、今の現状を理解してもらうことが必要だと思います。それが本当の供養ではないでしょうか。僧侶などの宗教者が「あなたは亡くなりましたよ」と死者に伝え、遺族をはじめとした生者が「わたしは元気ですから、心配しないで下さい。あなたのことは忘れませんよ」と死者に伝えることが供養の本質だと思います。
さらに言えば、供養とはあの世とこの世に橋をかける、死者と生者のコミュニケーションにほかなりません。少し前に、『ジェットパイロットが体験した超科学現象』(青林堂)という興味深い本を読みました。著者は、元自衛隊空将で南西航空混成団司令の佐藤守という方です。
自衛隊内で今も語り継がれる霊的な現象についての本なのですが、その中に「八甲田雪中行軍遭難事件」の後日談が紹介されていました。
この事件は、1902年(明治35年)1月に日本陸軍第八師団の歩兵第五連隊が八甲田山で雪中行軍の訓練中に遭難した事件で、新田次郎の小説『八甲田山 死の彷徨』(新潮文庫)で有名ですね。映画化もされました。訓練への参加者210名中199名が死亡しましたが、日本の冬季軍訓練における最も多くの死傷者だそうです。著者の佐藤氏が八甲田の古老に聞いた話では、遭難後、青森にある第五連隊の営門で当直につく兵士たちの間で、遭難事件と同じような吹雪の夜になると行軍部隊が「亡霊部隊」となって八甲田から行軍して戻ってくる軍靴の音が聞こえたそうです。
そこで、ある将校が連隊の営門前で当直して待ち構えていたら、深夜に200人近くの部隊が行進する軍靴の音が近づいてきたそうです。
彼らが営門前に到着した気配を感じた当直将校は「中隊、止まれ!」と闇に向かって大声で号令をかけました。すると、軍靴の音が止まったばかりか、銃を肩から下ろす音までして部隊が停止した気配がしました。当直将校は「諸君はすでにこの世の者ではない。今から冥土に向かい成仏せよ!」と訓示し、改めて「担えー、銃」と号令しました。すると、銃を担ぐ音がして、「回れー、右」の号令で一斉に向きを変える軍靴の音がし、さらには「前に進め!」の号令で再び部隊が動き出す気配がしました。やがて行進する軍靴の音は八甲田山の彼方に消えていったそうです。その後、亡霊部隊は戻ってきませんでした。
古老は「きっと兵隊さんたちは成仏したのだろう」と佐藤氏に語ってくれたそうです。
わたしは、この当直将校の「諸君はすでにこの世の者ではない。今から冥土に向かい成仏せよ!」という言葉こそ、供養の本質ではないかと思います。
何よりも、死者は現状を知るための情報を欲しているのです。
首相公邸に本当に幽霊が出るのならば、彼らに「あなた方はもうこの世の人ではないのですよ」と教えてあげて、「どうぞ、迷わず成仏されて下さい」と諭してあげることが必要でしょう。 
 

 

 
霊鬼雑話

 

霊鬼
1) 死者の霊。また,霊魂が形を変えた鬼。
  「其魂魄の−と成りたるにてぞ有らん/太平記」
2) 鬼と化した死者の霊。超感覚的な宗教的存在。怪異・悪霊・死神などを指し、広義には精霊・霊魂をも意味する。
元興寺
元興寺(がごぜ、がごじ、ぐわごぜ、がんごう、がんご)または元興寺の鬼(がんごうじのおに)は、飛鳥時代に奈良県の元興寺に現れたといわれる妖怪。平安時代の『日本霊異記』『本朝文粋』などの文献に話がみられ、鳥山石燕の「画図百鬼夜行」などの古典の妖怪画では、僧の姿をした鬼の姿で描かれている。
敏達天皇の頃。尾張国阿育知郡片輪里(現・愛知県名古屋市中区古渡町付近)のある農家に、落雷と共に子供の姿の雷神が落ちてきた。農夫が杖で殺そうとすると雷神は命乞いをし、助けれくれれば恩返しとして、雷神のように力強い子供を授けると言った。農夫は雷神の求めに応じて船を作ると、雷神はそれに乗って雷とともに空へ帰って行った。
やがて農夫の妻が、雷神の申し子とでも言うべき子供を産んだ。それは頭には蛇が巻きつき、頭と尾を後頭部に垂らしているという異様な姿だった。雷神の言う通り生まれついて怪力を持ち、10歳の頃には力自慢で有名な皇族の王(おおきみ)の1人と力比べで勝つほどだった。
後にこの子供は元興寺の童子となった。折りしも元興寺の鐘楼の童子たちが毎晩のように変死する事件が続き、鬼に殺されたものと噂が立っていた。童子は自分が鬼を捕まえて見せると言い、ある夜に鐘楼で待ち構え、未明の頃に鬼が現れるや、その髪の毛を捕えて引きずり回した。夜が明けた頃には鬼はすっかり頭髪を引き剥がされて逃げ去った。血痕を辿って行くと、かつて元興寺で働いていた無頼な下男の墓まで続いていた。この下男の死霊が霊鬼となって現れたのであった。この霊鬼の頭髪は元興寺の宝物となった。この童子は後にも怪力で活躍をした末に得度出家し、道場法師となったという。
江戸時代の古書によれば、お化けを意味する児童語のガゴゼやガゴジはこの元興寺が由来とされ、実際にガゴゼ、ガゴジ、ガンゴジなど、妖怪の総称を意味する児童語が日本各地に分布している。しかし民俗学者・柳田國男はこの説を否定し、化け物が「咬もうぞ」と言いながら現れることが起因するとの説を唱えている。
一眼の霊鬼
400年以上も昔、蒲原に城がありました。その城の城主は北条新三郎(ほうじょうしんざぶろう)といい、蒲原も平和な毎日でした。しかし、平和な毎日もつかの間、武田信玄が城を攻めてきました。その攻城がうまかったことといったらありませんでした。新三郎もあわてふためいて、もう、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり……。そしてこの城は、信玄により火の城となりました。
彼は、火の城となった城を見かねて、少しはなれた草原に待機しようと走り去りました。しかし、戦いのため、疲労が重なり、身体がいうことをきかず、よろよろよろけて草原に入りました。その時、ピューンと矢がとんできました。矢は彼の背中にささり、それが最期となったのです。そして彼の霊は、ゆくあてもなくさまよっていました。
霊鬼が現れてから1週間もたたないうちに、何十人もの里人が寝こんでしまったり、腰を悪くする人でいっぱいになりました。そこで里人たちは、ある坊様に霊鬼が出ないように頼みました。
「ほほう、その方たちは、あの霊魂に困っているのだな。ようし、私の念仏で、あの霊鬼を退治してやろう。」里人たちは、涙を流してよろこびました。
時は、どんどん過ぎていきました。それと共に念仏もだんだん強まっていきました。さすがの霊鬼も酔ってしまい、最後には消えてしまいました。これで、やっと蒲原にも平和の花が咲き、里人は非常によろこびました。お偉い坊様は神様のようにたてまつられ、いつまでもいつまでも末永く幸せに暮らしたとのことであります。
長善寺の霊鬼
牧山(まぎやま)は陸奥の牡鹿郡に属し、山頂には長善寺という寺があった。長善寺の住職の永存は長州の生まれで、姪が孤児になったのを憐れみ、良縁を得て嫁に行くまでのつもりで、寺で養育していた。牧山の麓には、湊という村があった。笹町新左衛門という人の知行所で、笹町自身その村に住んでいた。
天文年間、永存は笹町と、山林の境界をめぐって争った。久しく決着を見ず、ついに訴訟沙汰となると、笹町は、村人に連署させた『山はもともと村に属する』との文書を提出した。さらに笹町は、永存は姪と姦淫していると訴え出た。これによって郡役所は永存を厳しく糾弾し、国家老の裁きで、藩の流刑地である江島(えのしま)に配流と決した。永存が悲憤慷慨したのは言うまでもない。
「山林の争いの件はともかく、姪を犯したなどというのは甚だしい誣告だ。嘘で人は騙せても、天は真実を知っている。この怨恨を晴らさずにおくものか。笹町を呪詛して、必ずや滅ぼしてみせる。もし姪を犯したのがまことなら、呪ってもなんの験もないだろう。無実であるからこそ、偽りで陥れた敵を呪い殺すことができるのだ」
それからは毎日、江島の海岸へ出て荒波に入り、呪詛することを止めなかった。みずから手指を打ち砕いて火を灯したので、やがて十指は全て燃え尽きた。
何年もの時が経った。石巻から江島に渡ってきた人があったので、永存が笹町の安否を尋ねると、その人は何気ないふうで言った。
「笹町どのなら、いたってご健勝で」「えっ、ほんとに?」「はい、ご家族もみなご無事でおられます」永存は激怒した。
「うぅ、くやしい。生きて笹町を苦しめ殺すことができないなら、死んで鬼となって恨みを報いてやる」
これより後、常に自らの死を祈り、心も身体も徐々に衰弱して、いよいよ死のうというとき、島民にこう告げた。
「死んだら、我が骸を逆さまに埋めてくれ。もしそうしなかったら、きっと祟ってやる」
島民の長はこの遺命に従わず、ふつうに埋葬したが、家に帰るやいなや急病を発して倒れた。それで驚き恐れて、言われたとおりに埋め直した。二、三十日たつと、笹町の屋敷の裏山に、夜ごと光り輝くものが出現した。近くからよく見ると、それは逆さまになって浮遊する僧だった。
まもなく笹町新左衛門が病死した。新左衛門の子の彦三郎があとを継ぐも、これまた不治の病にかかって死んだ。ほかに男子はなかったので、中嶋氏の弟の九左衛門を婿養子として家を継がせた。その九左衛門は委細あって他国へ逃亡をはかり、藩主の命で捕縛されて、兄の中嶋氏方に拘禁された。これ以前に、彦三郎の母、祖母、幼い女子など、みな相次いで死んでおり、ここにいたって笹町の家は滅亡したのである。九左衛門もまた死んだ。湊村は遠山帯刀が賜ったが、やがて遠山も罪を得て、ついに湊村自体が消滅した。
霊鬼
生息地 / どこにでも 大抵はその体の近くに出現する
食べ物 / なし
外見 / 鬼は人間の作った武器によって殺されたり自然に死んだりするが、彼らの魂は単純にそのままあの世へ行く事はない。ある鬼はやるべき事や因縁を残していたり、またある鬼は残酷な方法で殺されたために魂が鬼の霊となり現世に留まっているのである。霊鬼は死ぬ前と同じように行動をするが、生前と違うのは彼らの周りにはオーラのような光が湧いている所である。彼らは幽霊のように半分透けており、生前には持っていた力に加えて不思議な妖力を使えるようになっているのだという。
習性 / 霊鬼は復讐することに執着している。彼らは生前の敵や自らを死に追いやった人間の死を望み、何世紀にもわたって標的を追ったり特定の場所(多くは本体のある所)にて誰かが来るのを待つのである。彼らは強力な僧による除霊がない限り、その場所にとり憑くといわれている。
伝説 / 霊鬼にまつわる話は鬼に比べるととても少ないが、生きている鬼よりも恐ろしいものである。霊鬼に関する有名な話の一つに元興寺の伝説がある。これは不思議な力による子供殺しが、毎夜奈良県にある寺で行われた話である。強力な僧侶にも見つけられなかったもだが神の子によって倒された有名な話しである。 
「死者の霊が見える」「霊のたたりが怖い」
「霊魂」というと、すぐに幽霊とか悪霊を連想し、霊媒や心霊現象などが頭に浮かんできます。しかし、ほんとうに「死者の霊」は存在するのか。死後の世界は、いったいどうなのか。私たちには興味のあるところです。
人が亡くなると肉体は滅びますが、目に見えない霊魂が肉体を抜け出してどこかに存在するのではないか、といった考え方から、幽霊や祟りなどが恐怖の対象となる場合があります。
一方では、亡くなった人の霊が神聖視され、信仰の対象とされる例も少なくありません。
※ たとえば平安時代、政争に負けて都から追放された菅原道真が非業の死をとげたことから、その祟りを恐れた人々が道真の魂を鎮めるために設けたのが天満宮という神社のはじまりです。
ところが本来、“生命活動”という計り知れない不思議な現象は、仏法で説く「三世にわたる生命観」によってのみ、はじめて、その真実相を説き明かすことができるのであり、その他の知識では、その本質を正しくとらえることはできません。
仏教、とくに法華経では、三身(さんじん)の常住(じょうじゅう)を説きます。わかりやすくいえば、仏様は亡くなっても、その仏が説いた真理の法や仏の智慧、人々を救う慈悲の力用(りきゆう)は常にこの世界に存在し続け、人々を導いていく、ということです。これからすると、私たちの生命の中にも、境遇の違いはあっても、仏としての命の一部が具わっており(法華経の一念三千の法理から、どんな人の生命の奥底にも、仏界といって仏様のような広く慈悲深い心が具わっていると説かれる)、私たちの命も、死後も永遠に、この世に存在し続けると理解できます。
※ 法華経では、亡くなった人の生命は、天国や極楽浄土のような遠い世界に行ってしまうのではなく、我々と同じこの世界(娑婆世界・しゃばせかい)に永遠に存在し続け、生死を繰り返すと教えています。
死後の生命について
亡くなった人の生命は、大宇宙の生命体とともに存在し、いろいろな縁によって、時がいたると、ふたたび、この世に生まれ出ることになります。そしてその肉体は、過去世における自分自身の行ない(業因・ごういん)をもとに、宇宙の物質によって形成されていくのです。そしてまた、一生が終わり死に至るとき、その肉体は分解され、ふたたび宇宙の物質へと戻っていきます。生命自体もまた、大宇宙の大生命体と渾然一体となって冥伏(みょうぶく)し、その繰り返しが永遠に続いていく 〜 これが、生命の生死の真実の姿であると仏教では明かされているのです。
さて、大宇宙の生命体に溶け込んだ死後の生命は、過去世からの報いによって苦楽を感じていきます。(悪行を繰り返した人は、死後に、“苦しみ”としてその報いを受け続けていく〜自身の体を傷つければ、その痛みがしばらく続くように〜ことになります)そうしたなか、苦しみや強い怨念、または心残りなどは、その想(おも)いが強ければ強いほど、生きている人間にも感応・伝播し、人によっては、まれに死者の言葉が聞こえたり、死者の姿のようなものが見えるといった種々の作用を感ずるのです。
世間の人の多くはこれを、霊魂の働きであり、実際に、霊魂がそこに現われたものと考えるようです。しかしこれは、あくまでも、敏感な人が、そうした死者の生命の作用を感じ(感応〜感じてそれに反応し)ているだけであって、実際に、そこに死者が、生前の姿そのままで現われたり、声が聞こえているわけではありません。(敏感な人の五感(ごかん)に、死者の想いが伝わるということです)
亡くなった後にも、生前の姿がそのまま残っているということはあり得ません
たとえば赤い服を着たまま亡くなったからといって、死後の世界でも、ずっと赤い服を着けているはずはないのです。それが、敏感な人には見えるというのは、たとえば、私たちは、よく知る人物から電話がかかってきたとき、実際に相手の姿を見ているわけではないものの、会話から伝わってくる相手の機嫌や体調の良し悪し、電話をかけている場所の雰囲気などで、あたかも、電話の相手が眼前にいるかのごとく、その様子や姿を如実に想像できる場合があります。
これと同じように、死者の生命に対して敏感な人には、あたかも眼前にその人物がいるかのごとく、実際に見えたように感じているということです。… むしろ、死者の生命に、姿形(五体)という実体がないからこそ、時空を超越して、自由自在に、どこへでも、誰にでも、その想いを伝えることができるとも言えます。
場所についても同様に言えます。つまり、死者が何らかの理由によって、どうしても、その場所への執着心が捨てきれず、あるいはその場所で辛い事があり、その苦しみが忘れられずに、その場にやってくる人のなかで、とくに敏感な人には、その特定の場所に対する死者の想いが伝わる場合もあると考えられます。
この感応は、生きている我々の側からも、亡くなった方々の生命に影響を与えることがあります。つまり、生きている私たちが不幸であったり、悲しみに暮れた生活を送っていれば、おのずと先祖の生命にも、その辛さ、悲しみが伝わってしまうということです。
その逆も言えることであって、我々が行なう妙法による先祖供養、とくに塔婆供養などの追善供養 〜 遺族の強い信仰心と御本尊の偉大な利益(りやく)により、亡くなった方の生命を、成仏の境界(不安や焦燥感、苦悩の無い安らかな状態)へと導くことが追善供養の意義であり、それは南無妙法蓮華経の御本尊による感応妙(かんのうみょう)の功徳力(くどくりき)によるのです。
こうして考えると、世間で言われるような「幽霊」などは具体的に存在するわけではないことがわかります。
所詮、生といい、死といっても、我々人間は、一つの生命活動における、状態の変化の一片を見ているに過ぎないのです。(例:水が氷となったり水蒸気になったり、姿、形や性質は変わっても、本質は変わらないようなもの)
世の中ではかつて、不幸や災害が重なったりすると、それが特別な悪霊によってもたらされたものと信じ、その悪霊を恐れるあまり、神として祀(まつ)り、その祟りを鎮めようと考えました。(さきほどの天満宮の例など)
また、人は、ひとたび悪いことが重なると、「何かよくない力が働いているのではないか」と不安になり、お祓いや祈祷などに頼ってしまうわけです。
たしかに、死後の生命の状態が、ときには生きている人に感応することもあり、また亡くなった人が受けた苦しみが遺族に伝播し、遺族の生活や人格形成に影響を及ぼすこともあります。
しかし、それらはあくまでも、因果応報によるもので、他人に責任をなすりつけるための口実に過ぎない“祟り”や“呪い”などとは、まったく違うものであることを知るべきです。 
そのほかにも、我々の認識では説明のできない不思議な現象は数多くありましょうが、それらの真相をすべてを知り尽くすことは、私たちには到底不可能なことです。しかし、原因や真相がよく分からないからといって、むやみに恐れるあまり、日常生活が制限されたり、苦悩のあまりに病気になってしまうことこそ残念といえます。
また、不安な心理を悪用され、低俗な宗教や思想に騙されて、お祓いなどを繰り返した結果、さらに悪業(あくごう)を積み重ねることにもなりかねません。
仏法では、因果の法則が根底となって、すべての人間生命の救済が説かれています。つまり過去の自分の行ないが原因となって、報い(結果)をもたらすのであり、悪い原因をつくれば必ず悪い結果が出てきますし、良い行ないを繰り返せば、その結果も自然と良いものとなっていく。
どんな状況にあっても、みんな因果応報〜すべては自身の振る舞いの結果、みずからが招いた状況なのです。よってまず、私たちが今、困った状況にあるならば、まず第一に自身の振るまいを正し、最高の仏法である南無妙法蓮華経の御本尊を信じて、人生を正しく充実したものへと変えていくことこそ、根本的な解決方法といえます。
私たちが、南無妙法蓮華経のお題目を唱えながら、元気に明るく過ごしていくところに、私たちに縁の深い先祖の苦しみをも消滅し、先祖の生命を成仏させる最高の道が存することを、よくよく知っていただきたいと思います。
「どうしたら霊を見なく(感じなく)なるか」
あなたが現在、「死者の霊などが見える(感じる)」ことにより、精神的にも肉体的にも悩んでおり、「一日も早く、見えなく(感じなく)なりたい」と願うならば、具体的に、どのようにしたら良いでしょうか。
まず、焦って、「除霊」などを売りにする宗教には、ぜったいに頼ってはいけません。なぜなら、そうした除霊を生業(なりわい)としているような人々は、「宇宙法界に遍満(へんまん)する大生命体の実相を、正しく説き明かした妙法である法華経の原理」を知る術(すべ)を持ちません。ですから、そうした「生命の実相(じっそう)・実義(じつぎ)」を知らない“素人”に、中途半端な祈祷をされれば、あなたの精神状態は良くなるどころか、“頭破作七分(ずはさしちぶん)”といって、最悪の場合、あなた自身「精神異常」を来す恐れがあるからです。ですから、「法華経の極理(ごくり)」を知らない祈祷師には、何かを相談してもいけませんし、近寄ってもいけません。(面白半分に、そうした祈祷師に近寄ることで、謗法(ほうぼう)与同罪(よどうざい)により、それこそ謗法の毒気が感応する恐れがあります)
まずは、落ち着いて!
おそらく、あなたが感ずるその精霊・亡者の生命は、「あなたを、どうこうしてやろう」との悪意をもって、あなたの心に影響を与えているのではなく、何らかの理由、たとえば、「生前、自分が行なった罪障(ざいしょう)によって成仏できずに迷っている」、「謗法(ほうぼう)の害毒による強烈な苦しみから、なんとか逃れたい」「現世に熾烈(しれつ)な心残りがあり、それが忘れられない」等の理由により、何らかの縁のあるあなたに、救いを求めているのかもしれません。
ですから、まず、その精霊をどこか遠くに追い払おうとするのではなく、その生命を南無妙法蓮華経の御本尊の利益(りやく)によって成仏させていけば、以後、あなたに感応することは完全になくなるのです。
それでは、具体的に、その精霊を成仏させていく方法についてですが、
1) あなた自身が読経(法華経方便品・寿量品の読誦)と唱題(しょうだい)→南無妙法蓮華経を唱える)を行ない、「自他(自分と皆)ともに成仏できるよう」、日蓮大聖人の正しい曼荼羅御本尊に祈り、追善(ついぜん)回向(えこう)していく。
2) それを続けても、なかなか嫌な感覚が抜けない場合、あなたとその精霊との間には、よほど、遠い過去世からの深い因縁があるのかもしれません。よって、なかなか抜けないと感じた場合には、日蓮正宗寺院に参詣し、住職に相談したうえで、「妙法蓮華経」との題目が認(したた)められた塔婆を建立(こんりゅう)することで、その精霊を成仏の境界(きょうがい)へと、強力な力で導いていくことができます。そうすれば、その精霊は安心立命(あんじんりゅうみょう)の境界を得て成仏し、以後、あなたの五感(五根〜心に感じたり、眼に見えるような感覚を受ける)には、むやみに働きかけをしてくることはなくなるはずです。
※ ただし、こうした解決方法である「読経・唱題」や「塔婆供養」は、あなた自身が日蓮正宗寺院の檀信徒になることが前提となります。
なぜなら、あなた自身が信じていない曼荼羅御本尊に、いくら形式的に手を合わせたとしても、あなたの願いや志が、仏様に届くことはないからです。ですから、日蓮正宗では、「宗派を問わず、なんでも引き受ける」ことは、絶対に行なってはいないのです。
もしもあなたが、「霊」について悩んでいるなら、すぐに日蓮正宗の寺院を訪問し、僧侶に相談すべきです。
日蓮正宗の僧侶は、悩みを打ち明けてくる人を無理矢理入会させたり、あるいは入会(入信)してもいないのに、塔婆供養やその他の祈念を行なって金銭を要求するようなことは、ぜったいにありません。
ですから、あなたは安心して、日蓮正宗の僧侶に一切を託して相談してみてください。そして、できうるならば自発的に日蓮正宗の信仰を持(たも)ち、「南無妙法蓮華経」の大曼荼羅御本尊に縁を持つことができれば、心から納得できる解決方法を、必ず見つけられるはずです。 
サタンと悪霊 / 死者の霊が存在するか (サムエル第一28章)
「そこで,その女は言った,『だれをあなたのために連れ出しましょうか』。これに対して彼は言った,『わたしのためにサムエルを連れ出してくれ』。・・・すると,“サムエル”はサウルに言いだした,『なぜあなたはわたしを連れ出させて,わたしをかき乱したのか』。」(サムエル第一28:11,15)
世界中で、死者の霊が存在すると信じられています。例えば、日本は、お盆の時期などには、死者の霊が家族のもとに帰って来るとされ、死者の霊に祈ったり崇拝を捧げたりすることが行なわれます。聖書は死者の霊が存在すると述べていますか。
聖書はエホバ神に見放されたサウル王が、女霊媒に頼って、死んだ預言者サムエルを呼び出そうとしたことを述べています。サウル王は、敵から攻撃されており、その結果を知りたいと思ったのです。エン・ドルの女霊媒が呼び出した者は誰だったのでしょうか。聖書はサウル王によって呼び出されたのが、「サムエル」であると簡単に述べています。
しかし、霊媒がサムエルを呼び出すことができたのだとしたら、聖書と矛盾することが出てきます。モーセの律法下では、死者を呼び出して死者に問い尋ねることは禁止されていました。(申命記18:12。レビ19:31)また、モーセの律法下では、霊媒術者は死に処されることになっていました。実際、サウル王はモーセの律法に従って、霊媒や出来事の職業的予告者を地から除いてしまっていました。(サムエル第一28:3)ですから、サウル王はモーセの律法に真っ向から反することを行なっていました。
サウル王は、敵が攻めてきたので、恐れてエホバに伺いましたが、エホバ神はサウル王が不忠実になったので、彼に対して、夢によっても、預言者によっても、どんな方法でも、サウル王に決して答えようとしておられませんでした。(サムエル第一28:6)
それなのに、エホバ神はご自分がモーセの律法の中で禁じておられる霊媒によって、サウル王に答えられるはずがないのではないでしょうか。
サウル王は、女が呼び出した「サムエル」を、サムエル自身であると信じ込みましたが、実のところ、聖書は死者は意識がなくて、何もできなくなっていると述べています。(伝道の書9:5,10)また、聖書の詩編などは、死者が神を賛美したり語ったりすることができないこと、人間は死によって終わりを迎えると述べています。(詩編6:5;90:10;103:14〜16)
聖書は霊媒に相談するといった心霊術を禁じています。(申命記18:11。ガラテア5:20)霊媒に相談して本当に死者と交信できるのでしたら、愛の神がそれを禁じたり、霊媒に相談することによって汚れると述べるはずがありません。(レビ19:31)
ですから、霊媒によって呼び出されてサウルの問いに答えたのは、エホバ神ではなく、また死んだ預言者サムエルでもありませんでした。それは誰でしょうか。
霊媒が呼び出した「サムエル」は、サムエルのふりをしていた誰かということになります。その者はどうしてサムエルのふりをしていたのでしょうか。その者は人間をだまして死んだ者に意識があるということを信じさせたいと望んでいることになります。また、その者はサウル王を惑わして霊媒を禁じる神の律法を破らせたいと思っていた存在でしょう。
聖書によると、悪魔サタンはエデンの園でエバに「あなた方は決して死ぬようなことはありません」と言いました。(創世記3:4)それで悪魔サタンは、人間が死んでも意識が存続して「決して死ぬようなことは」ないことを人間に信じさせたいと願っています。さらに、悪魔サタンは、人間に神の律法を破らせたいと望んでいます。(創世記3:4,5) それで、死んだ預言者サムエルのふりをしていたのは、悪魔サタンか、サタンの配下にある悪霊です。
霊媒の呼び出す死者が正確に状況を述べ、正確に将来を予言する場合があるかもしれません。結局、悪魔サタンや悪霊は人間の状況を良く知っており、ある場合、正確に将来を予告することができます。それは、一見して人間のためになるように見えるかもしれません。
しかし、聖書は悪魔サタンは「光の使い」に変様して光の天使のふりをしていると述べられています。(コリント第二11:14)悪霊の音信が一見して人間のためになるように見えても欺かれるべきではありません。
また、聖書は悪魔サタンは、「人の住む全地を惑わしている」と述べられています。(啓示12:9)それで、世界中の人が死者の霊が存在すると信じているのは、悪魔サタンと悪霊の大掛かりな欺きです。
また、聖書はエホバ神以外の存在に崇拝を捧げることを禁じています。(出エジプト20:3〜5。マタイ4:10)死者の霊に祈りを捧げることは、死者の霊を崇拝していることになります。そして、もっと悪いことには、死者の霊は存在していないのですから、死者の霊に祈ることにより、死者の霊のふりをしている悪魔サタンや悪霊を崇拝することになります。
死者の霊は存在していません。死者の霊のふりをしているのは、悪魔サタンと悪霊です。私たちは悪霊たちと連絡をとろうとしたり、崇拝したりしないようにしましょう。エホバ神だけを崇拝しましょう。 
死者の霊 / 悪霊の攻撃にどうしたら立ち向かえますか (箴言18章)
「エホバのみ名は強固な塔。義なる者はその中に走り込んで保護される。」(箴言18:10)
最近耳にした経験によると、ある若い日本の女性は、悪霊の声が頻繁に聞こえるそうです。
悪霊はその方の亡くなった祖父や祖母、叔母にそっくりの声をして話しかけてくるそうです。叔母にそっくりな声で話しかけてきても、言葉で抵抗すると、声が変わって男の低い声になるそうです。そして、悪霊から、「お前絶対殺してやるからな」とか、「お前に永遠の命は継がせない」というようなひどいことを言われるそうです。
そのような経験をすると精神的、身体的にたいへんなダメージを受けてしまいます。彼女の経験は死んだ愛する家族のふりをしていても、実際はそれらが悪霊であることを如実に示しています。
なぜなら、どうして生きていた時に自然に愛をもってふるまっていた親族が、死んだ後に急に愛する親族に対してそのように残酷でひどいことを言うのでしょうか。また、親族はクリスチャンではなかったので、永遠の命の希望を知らないでしょう。クリスチャンに対して永遠の命の希望が差し伸べられていることを知っているのは悪霊です。ですから、死んだ親族のふりをしていても、実際は、残酷な性質を持つ悪霊だということが分かります。
では、さまざまな心霊現象に悩まされる時、どのように立ち向かえるでしょうか。
私たちは決して悪霊を恐れて悪霊を崇拝するべきではありません。聖書は私たちが崇拝すべき唯一まことの神がエホバ神であることを示しています。悪霊たちはエホバの存在を知って信じていますから、エホバ神におののいています。(ヤコブ2:19)
それで、悪霊の声が聞こえてきたり、悪霊が音を立てたり、物が動いたりというような悪霊の攻撃があったら、まずすべきことは、エホバ神のお名前を使って声に出してエホバ神に助けを祈り求めることです。箴言の聖句はエホバのお名前が保護になることを示しています。
さらに、そのお祈りは、イエス・キリストの立場を認めて、イエス・キリストを通して祈ることができるでしょう。一世紀において、イエスに遣わされた七十人の弟子たちは喜びながら帰って来て,こう言いました。「主よ,あなたの名を使うと,悪霊たちまでがわたしたちに服するのです。」(ルカ10:17)イエス・キリストの名前を使うと、悪霊たちが服したと述べています。それで、エホバ神に祈る際に、イエス・キリストを通してお祈りをすることができます。
では、悪霊からさまざまなことを言われたら、どうしたらいいでしょうか。イエス・キリストは悪魔サタンに誘惑を受け、悪魔の声が聞こえました。神の子であるイエスが悪魔サタンの攻撃を受けたのですから、神の僕であっても、悪霊の攻撃を受けることはありえるでしょう。
その時、イエスはいつも神の言葉を引用して答えられました。イエスは神の子で、聖書に精通しておられました。ですから、悪魔サタンから誘惑されても完全に聖書に調和した答えを述べ、完全に聖書に基づいて行動することができました。上記の女性は記憶している聖書の言葉を語ることによって悪霊に立ち向かいました。それは、イエスの方法にみならって悪霊に立ち向かっており、立派なことです。
しかし、私たちはイエスのようには、霊的に強くなかったり、聖書の言葉を覚えていなかったりするかもしれません。悪霊から信仰を弱まらせることを言われて答えることができないと悪霊につけこまれて間違った方向に説得されるかもしれません。そのことを考えると、悪霊からの攻撃があった時に、ただエホバのみ名を用いて声を出して祈り保護を求める方が勝っているでしょう。
また、悪霊の攻撃を受けないようにするために、悪霊崇拝に関係した物品を処分することが賢明です。一世紀において、エフェソスで信者となった人々がしたことが次のように述べられています。「実際,魔術を行なっていたかなり大勢の者が自分たちの本を持ち寄って,みんなの前で燃やした。そして,それらの値を計算してみると,合わせて銀五万枚になることが分かった。」(使徒19:18)
エフェソスで信仰を受け入れた人々は、高額な魔術の本を燃やして処分したことが述べられています。それで、悪霊崇拝に関係する偶像、お札、祭壇、その他の備品、オカルトや魔術、占い、催眠術の本、CD、DVD、ビデオなどを処分することによって一世紀のクリスチャンの手本に見倣うことができます。
しかし、私たちは家族と共に住んでいて、家族のそうした所有物に対して権限がないかもしれません。その場合は、少なくとも自分の所有物の中のそうした物品を処分できるでしょう。できたら、少なくとも自分の部屋には、そうした物品が置かないように取り計らえるでしょう。
悪霊に立ち向かって悪霊の攻撃から完全に自由になるためには、多くのことが関係しています。エフェソス書には、わたしたちのする格闘は・・・天の場所にある邪悪な勢力に対するもの」と述べられており、神の僕は抵抗できるように「完全にそろった神からの武具」を身に着けなければならないと述べられています。(エフェソス6:11〜13)
そのためには、神の律法を十分に守るようにすることや、聖書の正確な知識を身に着け、十分に祈ることが求められます。それは、短期間ではできないことかもしれません。
けれども、ヤコブ4章7節には次のように勧められています。「したがって,神に服しなさい。しかし,悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば,彼はあなたから逃げ去ります。」
私たちは悪霊を恐れて、悪霊の支配下に入るのではなく、エホバ神に服してエホバ神の保護を得られるようにしたいと思います。それで、引き続きエホバ神に服し、悪魔に立ち向かい霊的に成長していくように努力してしていきたいものです。 
死者の霊に近づく八月のお盆
八月は一年のうちで死者の霊を一番身近に想う月だと思っている。戦前の東京ではお盆になると死者の霊を迎える”迎え火”を焚いた。浅草の裏道を歩くと、そんな風景があちこちでみられた。高層ビルが乱立した今の浅草では、みられない風景である。
お盆の風習は八世紀ごろから、夏の祖先供養として伝えられてきた。旧暦七月十五日の”旧盆”と、新暦七月十五日の”七月お盆”、新暦八月十五日の”月遅れのお盆”とややっこしいのは、明治六年(1873)一月一日から旧暦(天保暦)が廃止されて新暦(グレゴリオ暦・太陽暦)が用いられるようになった影響である。
というと明治維新後の近代化の一環のように思ってしまうが、明治政府が月給制度にした官吏の給与を(旧暦のままでは明治六年は閏六月があるので)年13回支払うのを防ぐためだったといわれている。農業国家だった日本だから、旧暦の風習をそんじょそこらの事で変わるものではない。
結局は八月の月遅れのお盆が主流となった。もっとも「お中元」の風習も東京などでは七月。地方は八月。都内だけのやりとりなら七月のお中元でも構わないが、地方は八月のお中元が主流だから、一ヶ月早過ぎるお中元になってしまう。お中元商戦に明け暮れるデパートにしてみれば、七月と八月にお中元商戦というのは有り難い話だろうが・・・。
迎え火は八月十三日夕刻に焚くのだが、先祖の霊が家に戻ってくるお迎えの行事。仏壇にお供え物をしてお迎えする。八月十六日になると先祖の霊が墓にお帰りになるのだが、それを送るのが”送り火”。十三日から十六日まで墓は空き家になるから先祖がいない墓に行って掃除などをする・・・。これが戦前にみられた日本の風景である。有名な京都の五山送り火は八月十六日。
懸案だった古沢家の墓を菩提寺の墓所にひとつにまとめることを来週から始める。思いがけない白内障の手術を、それも両眼ともやることになったので、この作業が遅れてしまった。私の父と母のために建てた墓は川崎市の霊園にある。先祖たちの墓は西和賀町沢内の共同墓地にある。また一族の古沢理右衛門の墓は雫石町の広養寺にあるので、それを一カ所にまとめるのは大変な作業になる。
古沢元・真喜夫婦作家の文学碑が菩提寺の庭園に建立されて十年以上の歳月が去ったが、菩提寺の和尚から墓をまとめる課題をいわれてから数年経つ。
私の家は十代の私で絶家となるが、血脈は岩手県だけでなく全国的に広く及んでいる。古くは播州・赤松邑からでた赤松一族。頭領の赤松則村は元弘の変で一族を率いて六波羅に攻め入り、鎌倉幕府を打倒して名をあげている。しかし嘉吉の乱で赤松満祐が足利将軍を殺害し、幕府によって滅ぼされた。
常陸国・川尻に赤松山不動院がある。そこに「祐弁墓碑銘」が現存しているが、赤松祐弁の曾祖父が赤松則村だとしている。足利幕府に追われて全国に逃散した赤松一族が常陸国・川尻を本拠とする地方豪族になっていた。しかし赤松祐弁の曾祖父が赤松則村だという確証は得られていない。
赤松山不動院には何度か訪れたが、赤松祐弁を祖とする宗家の墓が並ぶ墓所を囲むようにして分家一族の墓が林立していた。宗家は「九曜」の家紋を用いた。墓所にはこの家紋がついている。茨城県八千代町の「歴史民俗資料館」に行くと、中央の大丸を囲んで八つの丸がつく九曜家紋がの兜が展示されている。
「九曜」は「九星」とも言い、平良文を祖とする関東の武将・千葉氏も用いた。千葉氏は妙見菩薩を守り神としたが、妙見は星の形で表現され、妙見菩薩は天体の運行をつかさどる神とされた。播州・赤松宗家は左巻きの巴紋。一族でも「九曜」家紋は見当たらない。
分家の墓には「上り藤」と「丸に蔦」家紋の二種類が刻まれている。宗家と分家の古い墓には赤松姓と古沢姓が混在している。
赤松一族は下妻大名の多賀谷氏に仕えた。赤松美濃常範の代の時に多賀谷氏の居城・下妻城が小田原の後北条氏の軍勢によって囲まれた。城主・多賀谷政経は赤松美濃常範に命じて、下妻古沢村の湿地帯で後北条軍を迎え討たせた。
多賀谷と盟約を結んでいた佐竹義宣に応援の馬を走らせているから、常範軍は佐竹軍が駆けつけるまでの時間稼ぎの犠牲部隊だったのだろう。しかし常範軍は奮戦して佐竹軍が駆けつける前に後北条勢を壊滅させた。赤松美濃常範の武名はあがり、世人は「赤松が左文字の刀ふりければ、皆くれないに、古沢の水」と囃し立てた。この軍功によって赤松美濃常範は改姓して古沢美濃常範に改めた。元亀二年(1571)のことであった。
しかし多賀谷大名は石田三成方についたので、関ヶ原の戦いの後に徳川家康によって滅ぼされた。古沢武将の多くは土着して農民になっている。これ以降、古沢姓からもとの赤松姓に戻る者も出たている。
九曜家紋を用いた赤松宗家は播州・赤松氏の直系ではないにしても、やはり戦国時代を生きた名門といえる。宗家が伝えてきた諸古文献によって川尻・赤松家の事績がかなり解明されてきたが、その赤松宗家も川尻の赤松光子家の代で絶家となっている。
この十年がかりで「丸に蔦」家紋を使う川尻・古沢家が、秋田県の能代城に流れて土着し、雫石邑から沢内邑に来た足跡を解明したつもりでいる。その足跡を菩提寺に残すのが、絶家となる十代目当主の私の最期の仕事だと思っている。 
中国盆会(チュウゴクボンエ) / 崇福寺 / 長崎市鍛冶屋町
日本とはひと味違う在留する中国人の盆祭り。昔、死者の霊をなぐさめるため、崇福寺、福済寺、興福寺の3寺合同により唐人屋敷で行われていたが、現在は旧暦7月26日からの3日間、崇福寺で行われるようになった。
この盆祭りは、正式には「普度盂蘭盆勝絵(ぼうるうらぼんしょうえ)」といい、有縁仏、無縁仏をも含めて同時に法会を営む。
第1日は、僧侶によりお経があげられ、釈迦その他尊者の霊を慰め、第2日は同じくお経をあげて亡者や霊を呼ぶ。第3日は全世界の霊に対し供物をあげ、迷い出た人にいたずらしないよう金山、銀山、衣山などを燃やして米饅頭を天に向けて投げ、霊を送る。金山、銀山は金銀貨を意味し、また衣山は着物、洋服、履物等を意味している。
境内第一門をくぐり第二門(第一峰門)のところにある人形は、七爺(ちーえ/背が低く黒い丸顔)と八爺(ぺーえ/背が高く長顔で白衣)。この2人は人間の魂を冥途に連れて行く役割の神だ。本堂の前にはパノラマの娯楽室、沐浴室、女室、舞踊場がある。この玉殿は亡者のために設けられたもので、中には精進料理が供えられ、絶えず香煙が揺らいでいる。さらに本堂の横には冥界における亡者の36軒の店があり、ここでは亡者が物を買ったり、遊んだりできるようにしてあるという。
夜の境内にはいくつもの赤いランタンが灯され、唐人鉄砲や鉦、太鼓の音が始終鳴り響く。遠く関西方面からの参詣者も加わり、盛装した中国の老若男女が三跪九拝(中国式の参拝方法)をして手を向ける香煙は全山をおおい、たいへんな賑わいをみせる。 
ハロウィン
ハロウィンとは、キリスト教の諸聖人の日『万聖節』(11月1日)の前夜(10月31日)に行われる祭り。ハロウィーン。
ハロウィンの語源・由来
ハロウィンの語源は、「諸聖人の祝日の前夜」を意味する「All Hallow's Even」が短縮された「Halloween」で、「Hallowe'en」とも表記される。
ハロウィンの由来は、古代ケルト人の秋の収穫感謝祭に起源があるといわれる。
古代ケルト民族の1年の終わりは10月31日と定められ、この夜には死者の霊が親族を訪ねたり、悪霊が降りて作物を荒らすと信じられていた。
そこから、秋の収穫を祝い悪霊を追い出す祭りが行われるようになり、キリスト教に取り入れられて、現在のハロウィンの行事となった。
ハロウィンには、「Jack-o'-lantern(ジャック・オー・ランタン)」と呼ばれる、カボチャをくり抜いて顔を作った中に蝋燭を立てた提灯が飾られるが、これは死者の霊を導いたり、悪霊を追い払ったりするための焚き火に由来するといわれ、お盆の「迎え火」や「送り火」に近いものがある。
ハロウィンでは、仮装した子供たちが「Trick or treat!(お菓子をくれないといたずらするぞ)」と言って、近所の家からお菓子を貰う由来は、農民が祭り用の食料を貰って歩いたさまを真似たものといわれる。 
お盆って「霊の帰省」期間
毎年お盆には、亡くなった人たちがあの世からこの世に戻ってくると言われる。その送り迎えをするために、道案内の火をたいたり、目印となる提灯をともしたりする。キュウリやナスに割り箸を刺して供えるのは、あの世とこの世を往復するための乗り物になるからとか。キュウリは足の速い馬に、ナスは歩みの遅い牛に見立てられ、戻ってくるときはできるだけ早くキュウリの馬で、帰るときはゆっくりとナスの牛で、ということらしい。
でも、亡くなった人たちは、いったいどんなふうに戻ってくるというのだろう? 一般的には、関東では7月15日、関西では8月15日を中心に、ご先祖さまの霊が自宅に帰ってくると思われているようだ。お盆になると実家に帰省する人が多いけれど、霊だって帰省するというわけだ。
仏教でお盆の由来とされているのは、『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』というお経である。お釈迦さま(釈尊、仏陀)の弟子であった目連が、死んで餓鬼道におちた母を、お釈迦さまの教えによって僧侶に食べ物を施し、供養することによって救うことができたという故事にもとづくものらしい。
でも、ちょっと待った。私たち日本人が「あの世」というとき、餓鬼道や地獄といった苦の世界を想定しているのだろうか。いや違う。ほとんどの人が、ご先祖さまたちは極楽にいらっしゃると思っているはずである。
古来わが国には、旧暦7月15日に先祖祀りをする習慣があったらしい。そこにちょうど「盂蘭盆会」(うらぼんえ=古代インド語ウランバナの音訳)という仏教行事が伝わって結びついたようだ。しかもこの「盂蘭盆会」、起源はインドではなく、中国に伝播する間に起こってきたものと考えられている。つまり、日本古来の民俗信仰と中国風にアレンジされた仏教行事が合体して、現在のお盆のカタチになったと言える。
もともと仏教には、仏教以外の土着の要素、古来の習俗や宗教が混ざり合っている。日本仏教は特にその度合いが高く、ゴッタ煮状態というのが大きな特徴でもある。
だから、仏教本来の合理性や浄土教としての整合性を追求すると、「霊の帰省」というストーリーや「先祖供養」の必然性はなくなる。ちなみに、浄土真宗本願寺派(西本願寺)や真宗大谷派(東本願寺)ではこの立場をとっていて、お盆は極楽浄土の阿弥陀仏や祖先への報恩感謝の行事とされているようだ。
私自身はこれまで、人間は死んだら無だ、死んでしまったら私という意識は終わると思ってきた。「あの世」と言われる死後の世界についてイメージしたこともなかったし、ましてや「霊魂」とか「輪廻転生」などといったものはオカルト趣味として敬遠し、理解しようとしなかった。お盆に死者の霊が戻ってくるなんていうのは、ある種のおとぎ話のように思ってきた。それでも墓参りをしたり、仏壇の前で手をあわせたりして、元気で暮らしていますから安心してください、などと報告していた。
日本人にとってお盆は、心の原風景である。仏教の教義や科学的な見方といった理屈は、いまのところとりあえず置いておこう。そして、遠いご先祖さまというより、身近でご縁のあった故人をしのびたいと思う。それは何もお盆に限ったことではない、という考え方もあるだろう。でも、お盆というのは、いまは亡き人を思い出す「よすが」となる期間には違いないはずである。 
 
今昔物語 / 巻第27 本朝付霊鬼

 

第1話 三条東洞院鬼殿霊語
今昔、此の三条よりは北、東の洞院よりは東の角は、鬼殿と云ふ所也。其の所に霊有けり。
其の霊は、昔し未だ此の京に京移も無かりける時、其の三条東の洞院の鬼殿の跡に、大なる松の木有けり。其の辺を男(をのこ)の馬に乗りて、胡録負て行(ある)き過ける程に、俄に雷電霹靂して、雨痛く降ければ、其の男、否(え)過ぎずして、馬より下て、自ら馬を引へて、其の松の木の本に居たりける程に、雷落懸りて、其の男をも馬をも蹴割(けさき)殺してけり。然て、其の男、やがて霊に成にけり。
其の後、京移有て、其の所、人の家に成て住むと云へども、其の霊、其の所を去らずして、于今霊にて有とぞ、人は語伝へたる。極て久く成たる霊也かし。
然れば、其の所には度々吉からぬ事共有けりとなむ語り伝へたるとや。
第2話 川原院融左大臣霊宇陀院見給語
今昔、川原の院1)は融の左大臣の造て住給ける家也。陸奥国の塩竈の形を造て、潮の水を汲入て、池に湛(たた)へたりけり。様々に微妙く可咲き事の限を造て住給けるを、其の大臣失て後は、其の子孫にて有ける人の宇陀の院2)に奉たりける也。
然れば、宇陀の院、其の川原の院に住せ給ける時に、醍醐の天皇は御子に御せば、度々行幸有て微妙かりけり。
然て、院の住せ給ける時に、夜半許に、西の台の塗籠を開て、人のそよめきて参る気色の有ければ、院、見遣せ給けるに、日の装束直(ただ)しくしたる人の、太刀帯(はき)て、笏取り畏りて、二間許去(の)きて居たりけるを、院、「彼(あれ)は何に人ぞ」と問せ給ければ、「此の家の主に候ふ翁也」と申ければ、院、「融の大臣か」と問せ給ければ、「然に候ふ」と申すに、院、「其れは何ぞ」と問はせ給まへば、「家に候へば住候ふに、此く御ませば、忝く所せく思給ふる也。何が仕るべき」と申せば、院、「其れは糸異様の事也。我れは人の家をやは押取て居たる。大臣の子孫の得(えさ)せたればこそ住め。者の霊也と云へども、事の理をも知らず、何で此は云ぞ」と高やかに仰せ給ければ、霊掻消つ様に失にけり。其の後、亦現るる事無かりけり。
其の時の人、此の事を聞て、院をぞ忝く申ける。「猶、只人には似させ給はざりけり。此の大臣の霊に合て、此様に痓(すく)やかに、異人は否答じかし」とぞ云けるとなむ語り伝へたるとや。
* 1) 河原院 / 2) 宇多院
第3話 桃園柱穴指出児手招人語
今昔、桃園と云は、今の世尊寺也。本は寺にも無くて有ける時に、西の宮の左の大臣1)なむ住み給ける。
其の時に、寝殿の辰巳の母屋の柱に、木の節の穴開たりけり。夜に成れば、其の木の節の穴より、小さき児の手を差出て人を招く事なむ有ける。
大臣、此れを聞給て、糸奇異(あさまし)く怪び驚て、其の穴の上に経を結付奉たりけれども、尚招ければ、仏を懸奉たりけれども、招く事尚止まざりけり。此く様々すれども、敢て止まらず。二夜三夜を隔て、夜半許に人の皆寝ぬる程に、必ず招く也けり。
而る間、或る人、亦、「試む」と思て、征箭を一筋、其の穴に指入たりければ、其の征箭の有ける限は招く事無かりければ、其の後、征箭の柄をば抜て、征箭の身の限を穴に深く打入れたりければ、其より後は招く事絶にけり。
此れを思ふに、心得ぬ事也。定めて、者の霊などの為る事にこそは有けめ。其れに、征箭の験、当に仏経に増(まさ)り奉て恐むやは。
然れば、其の時の人、皆此れを聞て、此なむ怪しび疑ひけるとなむ語り伝へたるとや。
* 1) 源高明
第4話 冷泉院東洞院僧都殿霊語
今昔、冷泉院よりは南、東の洞院より東の角は、僧都殿と云ふ極たる悪き所也。然れば、打解て人住む事無かりけり。
而るに、其の冷泉院よりは只北は、左大弁の宰相源の扶義と云ける人の家也。其の左大弁の宰相の舅は、讃岐の守源の是輔と云ける人也。
其れに、其の家にて見ければ、向の僧都殿の戌亥の角には、大きに高き榎の木有けり。彼(あ)れは誰そ時に成れば、寝殿の前より赤き単衣の飛て、彼の戌亥の榎の木の方様に飛て行て、木の末になむ登ける。
然れば、人、此れを見て恐(おぢ)て当りへも寄らざりけるに、彼の讃岐守の家に宿直(とのゐ)しける兵也ける男の、此の単の飛行くを見て、「己はしも、彼の単衣をば射落してむかし」と云ければ、此れを聞く者共、「更に否(え)射じ」と諍をして、彼の男を励まし云ければ、男、「必ず射む」と諍ひて、夕暮方に彼の僧都殿に行て、南面なる簀子に和(やは)ら上て待居たりける程に、東の方に竹の少し生たりける中より、此の赤単、例の様にはへ飛て渡けるを、男、雁胯を弓に番て、強く引て射たりければ、「単衣の中を射貫くと」思けるに、単衣は箭立乍ら、同様に榎の木の末に登りにけり。其の箭の当りぬと見る所の土を見ければ、血多く泛(こぼれ)たりけり。
男は本の讃岐の守の家に返て、諍つる者共に会て、此の由を語ければ、諍ふ者共、極く恐けり。其の兵は、其の夜、寝死になむ死にける。然れば、此の諍ふ者共より始めて此れを聞く人、皆、「益無き態して死ぬる者かな」となむ云ひ謗ける。
実に人は命に増す物は無きに、由無く「猛き心を見えむ」とて死ぬる、極て益無き事也となむ語り伝へたるとや。
第5話 冷泉院水精成人形被捕語
今昔、陽成院の御ましける所は、二条よりは北、西の洞院よりは西、大炊の御門よりは南、油の小路よりは東、二町になむ住せ給けるに、院の御さで後には、其の冷泉院の小路をば開て、北の町は人家共に成て、南の町にぞ池など少し残て有ける。
其れにも人の住ける時に、夏比、西の台の延(えん)に人の寝たりけるを、長三尺許有る翁の来て、寝たる人の顔を捜ければ、「怪し」と思けれども、怖しくて、何かにも否(え)為ずして、虚寝をして臥たりければ、翁、和(やは)ら立ち返て行くを、星月夜に見遣ければ、池の汀に行て、掻消つ様に失にけり。池掃ふ世も無ければ、萍・菖蒲、生繁(おひしげり)て、糸六借気にて怖し気也。
然れば、弥よ「池に住む者にや有らむ」と、怖しく思けるに、其の後、夜々(よなよな)来つつ捜ければ、此れを聞く人、皆恐合(おぢあひ)たる程に、兵立たる者有て、「いで、己れ其の顔捜るらむ者、必ず捕へむ」と云て、其の延に只独り、苧縄を具して、終夜(よもすがら)待けるに、宵の程見えざりけり。「夜半は過やしぬらむ」と思ふ程に、待かねて少し□たりけるに、面に物の氷(ひや)やかに当りければ、心懸て待つ事なれば、寝心にも急(き)と思えて、驚くままに起上て捕へつ。苧縄を以て、只縛りに縛て、高欄に結付つ。
然て、人に告れば、人集て、火を灯(とも)して見ければ、長三尺なる小翁の、浅黄上下着たるが可死気なる、縛り付けられて、目を打叩て有り。人、物問へども、答へも為ず。暫許有て、少し咲て、此彼(とかく)見廻して、細く侘し気なる音にて云く、「盥に水を入れて得(えさせ)むや」と。然れば、大きなる盥に水を入て前に置たれば、翁、頸を延べて盥に向て水影を見て、「我れは水の精ぞ」と云て、水につぶりと落入ぬれば、翁は見えず成ぬ。
然れば、盥に水多く成て、鉉(はた)より泛(こぼ)る。縛たる縄は結はれ乍ら水に有り。翁は水に成て解にければ失ぬ。人皆此れを見て、驚き奇(あやしび)けり。其の盥の水をば、泛さずして掻て池に入てけり。
其より後、翁来て、人を捜る事無かりけり。此れは水の精の人に成て有けるとぞ、人云けるとなむ語り伝へたるとや。 
 

 

第6話 東三条銅精成人形被掘出
今昔、東三条殿に式部卿の宮と申しける人の住給ひける時に、南の山に、長三尺許なる五位の太りたるが、時々行(あるき)けるを、御子見給て、怪び給けるに、五位の行く事既に度々に成にければ、止事無き陰陽師を召して、其の祟を問はれければ、陰陽師、「此れは物の気也。但し、人の為に害を成すべき者には非ず」と、占ひ申ければ、「其の霊は何こに有ぞ。亦、何の精の者にて有ぞ」と問はれければ、陰陽師、「此れは銅の器の精也。辰巳の角に、土の中に有」と占ひ申したりければ、陰陽師の申すに随て、其の辰巳の方の地を破て、亦占はせけるに、占に当たる所の地を、二三尺許掘て求るに無し。
陰陽師、「尚掘るべき也。更に此(ここ)は離れじ」と占ひ申ければ、五六寸許掘る程に、五斗納(なは)許なる銅の提(ひさげ)を掘出たり。其の後よりなむ、此の五位、行く事絶にけり。
然れば、其の銅の提の人に成て行けるにこそは有らめ。糸惜しき事也。
此れを思ふに、「物の精は此く人に成て現ずる也けり」となむ、皆人知にけりとなむ語り伝へたるとや。
第7話 在原業平中将女被噉鬼語
今昔、右近の中将在原の業平と云ふ人有けり。極き世の好色にて、世に有る女の形ち美(うるはし)と聞くをば、宮仕人をも人の娘をも見残す無く、「員を尽して見む」と思けるに、或る人の娘の、形ち・有様世に知らず微妙しと聞けるを、心を尽して極く仮借(けさう)しけれども、「止事無からむ聟取らせむ」と云て、祖(おや)共の微妙く傅(かしづき)ければ、業平の中将、力無くして有ける程に、何にしてか構へけむ、彼の女を密に盗出してけり。
其れに、忽に将隠すべき所の無かりければ、思ひ繚(わづらひ)て、北山科の辺に、旧き山庄の荒て人も住まぬが有けるに、其の家の内に大きなるあぜ倉有けり。片戸は倒れてなむ有ける。屋は板敷の板も無くて、立寄べき様も無かりければ、此の倉の内に畳一枚を具して、此の女を具して将行て臥せたりける程に、俄に雷電霹靂して喤(ののしり)ければ、中将、太刀を抜て、女をば後の方に押遣て、起居てひらめかしける程に、雷も漸く鳴止にければ、夜も曙ぬ。
而る間、女、音為ざりければ、中将、怪むで見返て見るに、女の頭の限と着たりける衣共と許残たり。中将、奇異(あさまし)く怖しくて、着物をも取敢へず、逃て去(い)にけり。
其れより後なむ、此の倉は人取り為る倉とは知ける。然れば、雷電霹靂には非ずして、倉に住ける鬼のしけるにや有けむ。
然れば、案内知らざらむ所には、努々立寄るまじき也。況や宿(やどり)せむ事は思懸くべからずとなむ語り伝へたるとや。
第8話 於内裏松原鬼成人形噉女語
今昔、小松の天皇1)の御世に、武徳殿の松原を、若き女三人打群て、内様へ行(あるき)けり。八月十七日の夜の事なれば、月き極て明し。
而る間、松の木の本に、男一人出来たり。此の過る女の中に、一人を引へて、松の木の景にて、女の手を捕へて物語しけり。今二人の女は、「今や物云畢(いひはて)て来る」と待立てけるに、良(やや)久く見えず。物云ふ音も為ざりければ、「何なる事ぞ」と怪しく思て、二人の女寄て見るに、女も男も無し。「此れは何くへ行にけるぞ」と思て、吉く見れば、只、女の足手離れて有り。
二人の女、此れを見て、驚て走り逃て、衛門の陣に寄て、陣の人に此の由を告ければ、陣の人共、驚て其の所に行て見ければ、凡そ骸(かばね)散たる事無くして、只足手のみ残たり。其の時に、人集り来て、見喤しる事限無し。「此れは、鬼の人の形と成て、此の女を噉(くひ)てける也けり」とぞ、人云ける。
然れば、女、然様に人離れたらむ所にて、知らざらむ男の呼ばむをば、広量(おもひはかり)して、行くまじき也けり。努怖るべき事也となむ語り伝へたるとや。
* 1) 光孝天皇
第9話 参官朝庁弁為鬼被噉語
今昔、官の司に朝庁(あさのまつりごと)と云ふ事行ひけり。其れは、未だ暁にぞ、火灯(とも)して人は参ける。
其の時に、史□□の□□と云ける者、遅参したりけり。弁□□の□□と云ける人は、早参して座に居たりけり。其の史、遅参したる事を怖れて怱ぎ参けるに、中の御門の門に弁の車の立たりけるを見て、弁は参にけりと云ふ事を知て、官に怱ぎ参るに、官の北の門の内の屏の許に弁の雑色・小舎人童など居たり。
然れば、史、弁の早参されにけるに、我れ史にて遅参したる事を怖れ思て、怱ぎて東の庁の東の戸の許に寄て、庁の内を臨(のぞ)けば、火も消にけり。人の気色も無し。
史、極て怪く思て、弁の雑色共の居たる屏の許に寄て、「弁の殿は何こに御ますぞ」と問へば、雑色共、「東の庁に早く着せ給ひにき」と答ふれば、史、主殿寮の下部を召して、火を燃(とも)させて、庁の内に入て見れば、弁の座に赤く血肉(ちみどろ)なる頭の、髪所々付たる有り。史、「此は何に」と驚き怖れて傍を見れば、笏・沓も血付て有り。亦、扇有り。弁の手を以て、其の扇に事の次第共書付られたり。畳に血多く泛(こぼれ)たり。他の物は露見えず。奇異(あさまし)き事限無し。
而る間に、夜曙ぬれば、人多く来りて見喤けり。弁の頭をば、弁の従者共取て去(い)にけり。
其の後、其の東の庁にては、朝庁を行はざりけり。西の庁にてなむ行ひける。
然れば、公事と云ひ乍ら、然様に人離れたらむ所には怖るべき事也。此の事は、水尾の天皇の御時となむ語り伝へたるとや。
第10話 仁寿殿台代御灯油取物来語
今昔、延喜の御世に、仁寿殿の台代の御灯油を、夜半許に、物来て取て、南殿様に去(いぬ)る事、夜毎に有る比有けり。
天皇、此れを目ざましき事に思食して、「何で此れを見顕さむ」と仰せられけるに、其の時に□□弁源の公忠と云ける人、殿上人にて有けるが、奏して云く、「此の御灯油取る物をば、捕ふる事は否(え)仕らじ。少(いささか)の事は仕り顕してむ」と。天皇、此れを聞食して、喜ばせ給て、「必ず見顕はせ」と仰せられければ、夜に入て、三月の霖雨(ながあめ)の比、明き所そら尚し暗し、況や南殿の迫(はざま)は極く暗きに、公忠の弁、中橋より密に抜足に登て、南殿の北の脇に開たる脇戸の許に副立て、音も為ずして伺けるに、「丑の時に成りやしぬらむ」と思ふ程に、物の足音して来る。「此れなめり」と思ふに、御灯油を取る。重き物の足音にては有れども、体は見えず。只、御灯油の限り、南殿の戸様に浮て登けるを、弁の走り懸て、南殿の戸の許にして、足を持上げて強く蹴ければ、足に物痛く当る。御灯油は打泛(うちこぼ)しつ。
物は南様に走り去(い)ぬ。弁は返て、殿上にて火を灯(ともし)て足を見れば、大指の爪欠て血付たり。夜曙て、蹴つる所を行て見ければ、蘇枋色なる血多く泛て、南殿の塗籠の方様に、其の血流れたり。塗籠を開て見ければ、血のみ多く泛て、他の物は無かりけり。
然れば、天皇、極く公忠の弁を感ぜさせ給けり。此の弁は、兵の家なむどには非ねども、心賢く、思量り有て、物恐ぢ為ぬ人にてなむ有ける。然れば、此る物をも恐れずして、伺て蹴るぞかし。異人は極き仰せ有と云ふとも、然許暗きに、其の南殿の迫に只独り立たりなむや。
其の後、此の御灯油取る事、絶て無かりけりとなむ語り伝へたるとや。 
 

 

第11話 或膳部見善雄伴大納言霊語
今昔、□□□の比、天下に咳(しはぶき)病盛りに発て、病まぬ人無く、上中下の人、病臥たる比有けり。
其れに、或る所に膳部(かしはで)しける男、家内の事共皆なし畢(はて)てければ、亥の時許に、人皆静まりて後、家へ出けるに、門に赤き表の衣を着、冠したる人の、極く気高く怖し気なる指合たり。見るに、人の体の気高ければ、「誰とは知らねども、下臈には非ざめり」と思て突居るに、此の人の云く、「汝ぢ、我れをば知たりや」と。膳部、「知り奉らず」と答ふれば、此の人、亦云く、「我れは此れ、古へ此の国に有りし大納言、伴の善雄と云し人也。伊豆の国に配流されて、早く死にき。其れが行疫流行神と成て有る也。我れは、心より外に、公の御為に犯を成して、重き罪を蒙れりきと云へども、公に仕へて有し間、我が国の恩多かりき。此れに依て、今年、天下に疾疫発て、国の人皆病死ぬべかりつるを、我れ咳病に申行つる也。然れば、世に咳病隙無き也。我れ、其の事を云ひ聞かせむとて、此に立たりつる也。汝ぢ、怖るべからず」と云て、掻消つ様に失にけり。
膳部、此れを聞て、恐々(おづおづ)家に返て語り伝へたる也。其の後よりなむ、伴大納言は行疫流行神にて有けりとは、人知ける。
但し、世に人多かれども、何ぞ此の膳部にしも、此の事を告げむ。其れも様こそは有らめ。此なむ語り伝へたるとや。
第12話 於朱雀院被取餌袋菓子語
今昔、六条の院の左大臣と申す人御けり。名をば重信とぞ申しける。
其の大臣、方違に朱雀院へ一夜御けるに、石見の守藤原の頼信と云し者の、其の時に滝口にて有けるが、其の大臣の御許に有ければ、其の頼信を前立て、朱雀院に遣て、「待居たれ」と有ければ、頼信、立て朱雀院に行けるに、大きなる餌袋に、交(まぜ)菓子を鉉(はた)と等しく調へ入れて、緋の組を以て上を強く封結にして、頼信に預けて、「此れ持行て置きたれ」とて、給ひたりければ、頼信、餌袋を取て下部に持せて、朱雀院に行にけり。
東の対の南面を開きて、火など燃(とも)して、頼信、大臣の渡給ふを待ける程に、夜漸く深更(ふけ)て、大臣、遅く御ければ、頼信、待ち兼て、傍に弓・胡録を立て、其の餌袋を抑て居たりけるに、眠(ねぶ)たかりければ、寄臥たりける程に寝入にけり。
然れば、大臣の御するをも知らざりけるに、大臣御して入て、頼信が寝たるを驚かし給ける時に、頼信、驚て手迷(てまどひ)をして、剣を差て弓・胡録を取て、外の方に出ぬ。
其の後、家の子の公達、大臣の前に集り居て、「徒然なるに」とて、其の餌袋を取寄せて開て見るに、餌袋の内に塵許も入たる物無し。然れば、頼信を召して問はるるに、頼信が申す様、「頼信が白地目(あからめ)を仕り、餌袋に目を放ち候はばこそ、人には取られ候はめ。殿を罷つるに1)、餌袋を給はりて、殿の下部に持せて、終道(みちすがら)目放たず候ぬ。此に取入れては、やがて此て抑て候つる物を、何でか失候はむ。然ては、頼信が抑て寝入て候つる程に、鬼なむどの取てけるにや候らむ」と云ければ、皆人、恐ぢ騒けり。
「実に此れ希有の事」とぞ、其の時の人、云ひける。譬ひ持せたりける下部、盗取とも、少などをこそ取らめ。其れに、跡形も無く、物入たる気も無くなむ有ける。
正しく頼信が語しを聞て、此く語り伝へたるとや。
* 1) 底本頭注「罷ノ下一本出字アリ」
第13話 近江国安義橋鬼噉人語
今昔、近江の守□□の□□と云ける人、其の国に有ける間、館に若き男の数(あまた)居て、昔し今の物語などして、碁・双六を打ち、万の遊をして、物食ひ酒飲などしける次でに、「此の国に安義の橋と云橋は、古へは人行けるを、何(いか)に云ひ伝たるにか、今は『行く人過ぎず』と云ひ出て、人行く事無し」など、一人が云ければ、おそはえたる者の口聞き鑭々(きらきら)しく、然る方に思え有けるが者の云く、彼の安義の橋の事、実とも思はずや有けむ、「己しも、其の橋は渡なむかし。極じき鬼也とも、此の御館に有る、一の鹿毛にだに乗たらば渡なむ」と。
其の時に、残の者共、皆有限り心を一にして云く、「此れ糸吉き事也。直く行くべき道を、此る事を云ひ出てより横道するに、実・虚言も知らむ。亦、此の主の心ろの程も見む」と、励ましければ、此の男、弥よ早(はや)されて、諍ひ立にけり。
此く云ひ立にたる事なれば、互に強く諍ふを、守、此の事を聞て、「糸□□く喤(ののしる)は何事を云ぞ」と問ければ、「然々の事を申す也」と、集て答ければ、守、「糸益無き事をも諍ける男かな。馬に於ては早く得(えさせ)よ」と云ければ、此の男、「物狂しき戯事(たはこと)に候ふ。傍痛く候ふ」と云ければ、異者共集て、「弊(つたなし)々し。弱々し」と励ませば、男の云く、「橋を渡らむ事の難きには非ず。御馬を欲(ほし)がる様なるが傍痛き也」と。異者共、「日高く成ぬ。遅々し」と云て、馬に移(うつし)置て、引出て取せたれば、男、胸□るる様には思ゆれども、云ひ立にたる事なれば、此の馬の尻の方に油を多く塗て、腹帯強く結て、鞭手に貫(ぬき)入れて、装束軽びやかにして、馬に乗て行くに、既に橋爪に行懸る程、胸□れて心地違ふ様に怖しけれども、立返るべき事に非ねば、行くに、日も山の葉近く成て、物心細気也。
況や、此る所なれば、人気も無く、里も遠く見遣られて、家も遥に煙1))(けぶり)幽(かすか)にて、破(わり)無く思々行くに、橋の半許に、遠くては然も見えざりつるに、人居たり。「此れや鬼ならむ」と思ふも。静心無くて見れば、薄色の衣の□よかなるに、濃き単、紅の袴長やかにて、口覆して、破無く心苦気なる眼見(まみ)にて、女居たり。打長めたる気色も哀気也。我れにも非ず、人の落し置たる気色にて、橋の高欄に押懸りて居たるが、人を見て、恥かし気なる物から、喜(うれし)と思へる様也。
男、此れを見るに、更に来し方行末も思えず、「掻乗せて行かばや」と、落懸ぬべく哀れに思へども、此に此る者の有るべき様無ければ、「此は鬼なむめり」とて、「過ぎなむ」と、偏に思ひ成して、眼を塞て走り過るを、此の女、「今や物云ひ懸」と待けるに、無音に過れば、「耶(や)、彼(あ)の主、何(な)どか糸情無くては過ぎ給ふ。奇異(あさまし)く、思懸ぬ所に、人の棄て行たる也。人郷まで将御せ」と云ふをも聞畢てず、頭身の毛太る様に思えければ、馬を掻早めて、飛ぶが如くに行くを、此の女、「穴情な無」と云ふ音、地を響かす許也。
立走て来れば、「然ればよ」と思ふに、「観音助け給へ」と念じて、奇異く駿(と)き馬を鞭を打て馳れば、鬼、走り懸て、馬の尻に手を打懸々々引つるに、油を塗たれば、引外し引外して、否(え)捕へず。
男、馳て見返て見れば、面は朱の色にて円座の如く広くして、目一つ有り。長は九尺許にて、手の指三つ有り。爪は五寸許にて刀の様也。色は緑青の色にて、目は琥珀の様也。頭の髪は蓬の如く乱れて、見るに心肝迷(まど)ひ怖しき事限無し。只、観音を念じ奉て馳する気にや、人郷に馳入ぬ。其の時に、鬼、「吉や、然りとも、遂に会はざらむやは」と云て、掻消つ様に失ぬ。
男は、喘(あへぐ)々ぐ、我れにも非で、彼(あ)れは誰そ時に館に着たれば、館の者共、騒て、「何(いかに)々に」と問ふに、只、消に消入て、物云はず。然れば、集て、抑へて心静めて、守も心もと無がりて問ければ、有つる事を落さず語ければ、守、「益無き物諍ひして、徒に死にすらむに」と云て、馬をば取せてけり。男、したり顔にて家に返にけり。妻子眷属に向て、此の事を語て恐(おぢ)けり。
其の後、家に物怪(もののけ)の有ければ、陰陽師に其の祟を問ふに、「其の日、重く慎むべし」と卜たりければ、其の日に成て、門を差籠て、堅く物忌を為るに、此の男の同腹の弟只一人有けるが、陸奥の守に付て行にけるが、其の母をも具して将下りたりけるに、此の物忌の日しも返来て、門を叩けるを、「堅き物忌也。明日を過して対面せむ。其の程は人の家をも借らむ」と云ひ出たれば、弟、「糸破(わり)無き事也。日も暮にたり。己一人こそ外にも罷らめ、若干の物共をば何がせむ。日次の悪く侍れば、今日は態と詣来つる也。彼の老人は早う失給ひにしかば、其の事も自ら申さむ」と云ひ入れたれば、年来不審(おぼつかな)く悲く思ふ祖(おや)の事を思ふに、胸□れて、「此れを聞くべき物忌にこそ有けれ」と云て、「只疾く開よ」とて、泣き悲て入れつ。
然れば、庇の方にて、先づ物食せなどして、後に出向て、泣々く語るに、弟、服黒くして、泣々く云ひ居たり。兄も泣く。妻は簾の内に居て、此の事共を聞く程に、何なる事をか云けむ、此の兄と弟と俄に取組て、からからと上に成り下に成り為るを、妻、「此は何に」と云へば、兄、弟を下に成して、「其の枕なる大刀取て遣(おこ)せよ」と云ふに、妻、「穴極じ。物に狂ふか。此る事は為るぞ」と云て取らせぬを、「尚遣せよ。然は我れ死ねとや」と云ふ程に、下なる弟、押返して、兄を下に押成して、頸をふつと咋切(くひきり)落して、踊下て行くとて、妻の方に見返り向て、「喜く」と云ふ。顔を見れば、彼の橋にて追はれたりと語りし鬼の顔にて有り。掻消つ様に失ぬ。其の時に、妻より始めて、家の内の物共、皆泣き騒ぎ迷へども甲斐無くて止にけり。
然れば、女の賢きは弊(あし)き事也けり。若干く取置ける物共・馬などと見けるは、万の物の骨頭などにてぞ有ける。由無き諍をして遂に命を失ふ、愚なる事とぞ、聞く人、皆此の男を謗ける。
其の後、様々の事共をして、鬼も失にければ、今は無しとなむ語り伝へたるとや。
* 1) 底本異体字、火偏に雲
近江の国の安義の橋の鬼、人を喰らへる語
さる邸の寝殿の柱に節の穴が開いていた。夜になるとその穴から稚児の手が伸び、手招きする。子供の手の後からにんまりと笑った子供の顔でも想像すると、夜眠られなくなりそうな話ではある。
夜になるとすーと顔をなぜていく者がいる。つかまえて縛ってみると、小さな老人である。請われるままに老人の前に水たらいを置いてやると、首をのばし、水の中に溶けて入ってしまい、後には結び目のついた縄だけが浮いているという話も気味悪い。鬼に食べられて手と足だけが残っている話もある。
こんな話が続くが、どれもストーリー性に乏しい。辛うじて、「安義の橋に現れた鬼女の話」がまとまっている。
近江の国の安義の橋は、いつの頃からか、鬼がでるという噂があって、誰も通らなくなっていた。ある屋敷で、腕自慢の男たちが飲み食いをして騒いでおり、その話が出た。男の1人が橋を渡ることをかってでた。
馬の尻に油を塗り、馬の腹帯を強く結び、軽やかな装束を着て出かけた。橋の袂まで来ると、日が西に沈みそうである。はるかかなたに煙がたなびいているだけで、見渡す範囲に誰もいない。
すると、橋の真ん中に人がいる。薄紫色のすずしげな衣に、濃い紫の単衣、紅の長い袴をはき、口を袖で覆って、切なそうな目つきで見つめている。誰かがこんなところに置き去りにしていったのか。彼を見て、ほっとうれしげな顔を見せ、男は恋心を起こしかけるが、鬼ではないかと思い、目をつぶって馬を走らせた。
声をかけてくれると思った男が黙って行き過ぎるのを見て、女は人里まで連れて行ってくれと呼び止めるが、男はかまわず馬に鞭をあてる。後ろから「あら、情けなや」という言葉が、あろうことか地をとどろかすような声で追ってくる。思ったとおり鬼に違いないと馬を走らせる。鬼は馬に手をかけるが、油に滑って捕まえられない。振り返ると、顔一面が朱色で琥珀色に光った目はひとつ、頭髪が蓬のように乱れたなびいている。9尺ほどもあり、緑青色の手の指は三つ、爪は5寸ほどもあって刀のようである。
辛うじて人里にたどりつくが、最後に鬼が次の言葉を吐いて消えた。
「たとえ、今は逃げても、きっと会って見せよう」
その後、男の家に度々怪しげなことが起こるので陰陽師に相談したところ、特に警戒しなければいけない日を占ってくれた。
厳重な物忌をしたその日、旅に出ていた弟が帰ってきた。物忌みの日なので明日に会おうと言ったが、日も暮れたし、共もいるし、亡くなった母のことも話したいというので、中に入れ、食事をして語らいなどしていたが、どうしたことか、突然兄弟が取っ組み合いをしだした。
兄が弟を組み伏せ、「その枕もとの太刀をとってくれ」と妻に言うが、妻が躊躇しているうちに、今度は弟が上になり、と思うと頚をふっとくいきり落として逃げていってしまった。
妻の方を振り返って、「うれしや」といった顔は夫が語ってくれた鬼の顔に間違いないがもはや遅い。外に出てみると、弟が引き連れてきた供の者や馬などは全てよろずのものの骨であった。
ちなみに、この物語の教訓は「女の賢しきはつたなきことなり」と「益無き物争いして、徒に死にすらむ」ことはおろかだということである。 
第14話 従東国上人値鬼語
今昔、東の方より上ける人、勢田の橋を渡て来ける程に、日暮にければ、人の家を借て宿らむと為るに、其の辺に人も住まぬ大きなる家有けり。万の所皆荒て、人住たる気無し。何事に依て人住まぬと云ふ事をば知らねども、馬より下て、皆此に宿ぬ。
従者共は下なる□□□□所に、馬など繋て居ぬ。主は上なる所に皮など敷て、只独り臥たりけるに、旅にて此く人離れたる所なれば、寝ずして有けるに、夜打深更(ふく)る程に、火を髴(ほのか)に灯(とも)したりけるに、見れば、本より傍に大きなる鞍櫃の様なる物の有けるが、人も寄らぬに、こほろと鳴て蓋の開ければ、「怪」と思て、「此れは若し、此に鬼の有ければ人の住まざりけるを、知らずして宿(やどり)にけるにや」と、怖しくて、「逃なむ」と思ふ心付ぬ。
然気無くて見れば、其の蓋、細目に開たりければ、漸く広く開く様に見えければ、「定めて鬼也けり」と思て、「忽に怱ぎ逃て行かば、追て捕らへられなむ。然れば、只然気無くて逃げむ」と思得て云く、「馬共の不審(おぼつかな)き、見む」と云て起ぬ。然れば、密に馬に鞍取て置つれば、這乗て、鞭を打て逃ぐる時に、鞍櫃の蓋をかさと開て出る者有り。極て怖し気なる音を挙て、「己は何こまで罷らむと為るぞ。我れ此に有とは知らざりつるか」と云て追て来たる。馬を馳て逃る程に、見返て見れども、夜なれば其の体は見えず。只、大きやかなる者の、云はむ方無く怖し気也。
此く逃る程に、勢田の橋に懸ぬ。逃得べき様思えざりければ、馬より踊下て、馬をば棄て、橋の下面の柱の許に隠居ぬ。「観音助け給へ」と念じて、曲(かがま)り居たる程に、鬼来ぬ。橋の上にして、極て怖し気なる音を挙て、「何侍(いづこにはべる)、々々」と度々呼ければ、「極く隠得たり」と思て居たる下に、「候ふ」と答へて出来る者有り。其れも闇ければ、何物とも見えず。(下文欠)
第15話 産女行南山科値鬼逃語
今昔、或る所に宮仕しける若き女有けり。父母親類も無く、聊に知たる人も無ければ、立寄る所も無くて、只局にのみ居て、「若し病などせむ時に、何かが為む」と心細思けるに、指(させ)る夫も無くて懐妊しにけり。
然れば、弥よ身の宿世押量られて、心一つに歎けるに、先づ産まむ所を思ふに、為べき方無く、云合はすべき人も無し。「主に申さむ」と思も、恥かしくて申出ず。
而るに、此の女、心賢き者にて、思得たりける様、「只我れ其の気色有らむ時に、只独り仕ふ女の童を具して、何方とも無く深き山の有らむ方に行て、何ならむ木の下にても産まむ」と。「若し死なば、人にも知られで止なむ。若し生たらば、然気無き様にて返り参らむ」と思て、月漸く近く成ままには、悲き事云はむ方無く思けれども、然気無く持成して、密に構て、食ふべき物など少し儲て、此の女の童に此の由を云ひ含て過けるに、既に月満ぬ。
而る間、暁方に其の気色思えければ、「夜の曙ぬ前」と思て、女の童に物共拈(したた)め持せて怱ぎ出ぬ。「東こそ山は近かめれ」と思て、京を出て東様に行かむと為るに、川原の程にて夜曙ぬ。「哀れ、何(いづ)ち行かむ」と、心細けれども、念じて、打息み打息み、粟田山の方様に行て、山深く入ぬ。
然るべき所々を見行(あるき)けるに、北山科と云ふ所に行ぬ。見れば、山の片副(かたそひ)に、山庄の様に造たる所有り。旧く壊れ損じたる屋有り。見るに、人住たる気色無し。「此にて産して、我が身独りは出なむ」と思て、構て垣の有けるを超て入ぬ。
放出(はなちいで)の間に、板敷所々に朽残るに上て、突居て息む程に、奥の方より人来る音(お)とす。「穴侘し。人の有ける所を」と思ふに、遣戸の有るを開くるを見れば、老たる女の白髪生たる出来たり。「定めて半(はした)無く云はむずらむ」と思ふに、悪1)からず打咲て、「何人の此は思懸けず御たるぞ」と云へば、女、有のままに泣々語ければ、嫗、「糸哀なる事かな。只此にて産し給へ」と云て、内に呼入るれば、女、「喜(うれし)き事限無し。仏の助け給ふ也けり」と思て入ぬれば、賤(あやし)の畳など敷て取せたれば、程も無く平かに産つ。
嫗来て、「喜き事也。己は年老て、此る田舎に侍る身なれば、物忌もし侍らず。七日許は此て御して返り給へ」と云て、湯など此女の童に涌させて、浴(ゆあみ)しなど為れば、女、喜く思て、棄てむと思つる子も糸厳気(いつくしげ)なる男子にて有れば、否(え)棄てずして、乳打呑せて臥せたり。
此て二三日許有る程に、女、昼寝をして有けるに、此の子を臥せたるを、此の嫗、打ち見て云ける様、「穴、甘気(うまげ)。只一口」と云と髴(ほのか)に聞て後、驚て此の嫗を見るに、極く気怖しく思ゆ。然れば、「此れは鬼にこそ有けれ。我れは必ず噉(く)はれなむ」と思て、「密に構て逃なむ」と思ふ心付ぬ。
而る間、或る時に、嫗の昼寝久くしたりける程に、密に子をば女の童に負せて、我れは軽びやかにして、「仏助け給へ」と念じて其(そこ)を出て、来し道のままに走て逃ければ、程も無く粟田口に出にけり。其より川原様に行て、人の小家に立入て、其にて衣など着直してなむ日暮して、主の許には行たりける。
心賢き者也ければ、此も為るぞかし。子をば人に取らせて養せてけり。其の後、其の嫗の有様を知らず。亦、人に「此る事なむ有し」と語る事も無かりけり。然て、其の女の年など老て後に語ける也。
此れを思ふに、然る旧き所には、必ず物の住にぞ有ける。然れば、彼の嫗も、子を、「穴、甘気。只一口」と云けるは、定めて鬼などにてこそは有けめ。此れに依て、然様ならむ所には、独りなどは立入るまじき事也となむ語り伝へたるとや。
* 1) 「にく」底本異体字。りっしんべんに惡 
産女南山科に行き、鬼にあひて逃げたる語
ある屋敷にお使えしている女性が誰の子かもわからぬ子をみごもってしまった。 
ふしだらな、と言って、彼女を非難することは出来ない。両親も親類もない、男を頼りにする以外に生活の糧を持たない者が他にとる手立てない。
彼女はまだ若く、賢く美しかった。誠実で甲斐性のある男があらわれるまでこの館の世話にならなければならない。彼女は、身ごもった事を隠し通し、誰に相談する人もなく、こっそりどこかで産み落とすことにした。当時宮使えのたおやかな女性にとって出産は、生死をかけた出来事でもあった。その事で死ぬのなら「定め」、生きて帰ってこれば幸い、再び何事もなかった風を装って、局にもどろう、そう決めた。
ある朝、まだ暗いうちに産気づき、夜の明けぬうちに屋敷を出、南山科のあたりで、今はすっかり古びて誰も住んでいない山荘をみつけ、そこでお産をして子供は捨てることにした。
部屋に入って、休んでいたところ、誰もいないと思ったのに家の奥から足音がする。困ったことになったと思っていると、引き戸が開き、白髪の老女が出てきた。事情を話すと、やさしくしてくれ、お産も手伝ってくれて、おかげで無事出産した。2、3日その家に厄介になっていると、子供の可愛くなって、捨てる気にならず、乳を飲ませながら、あの親切なおばあさんが預かってくれないだろうか、などと夢想をしていると眠くなってきた。
かすかに、誰かがやってくる足音がした。おばあさんだろうか、しかしその割には足音が重々しい。その頃、もう使われなくなった屋敷には鬼が出ると信じられていた。もしや、鬼ではないか、そう思って薄目をあけると、白髪の老女であった。安心して目をつむると、間近にしのびよる気配がして、「かわいい子じゃ」という老女の言葉が聞こえる。
本当にこの子を預かってくれるかもしれないそう思った瞬間の次の言葉は思わぬものであった。
「なんとうまそうな、ただの一口」
女は、老婆が寝ている間に子供連れて逃げ帰った。 
 

 

第16話 正親大夫□□若時値鬼語
今昔、正親(おほき)の大夫□□の□□と云ふ者有き。其れが若かりける時に、宮仕しける女を語ひて、時々物云ひけるに、久く行かざりければ、云ひ伝たりける女の許に行て、「今夜、彼(あ)の人に会はむ」と云ければ、女、「呼奉らむ事は安けれども、今夜此の宿に、年来来たる田舎人の詣来て、宿て候へば、御すべき所の候はぬが、侘しき也」と云へば、「虚言を云ふにや有らむ」と思て、寄て見るに、現に馬・下人など、程も無き小家なれば、数(あまた)有れば、隠し所無く、「実也けり」と思ふに、此の女、暫(しばし)思ひ廻す気色にて、「為べき様候けり」と云へば、「何(いか)に」と問ふに、女、「此の西の方に、人も無き堂候ふ。今夜許、その堂に御ませ」と云て、近き程也ければ、女、走て行ぬ。
暫許待つに、女を掻具して来にたり。「去来(いざ)させ給へ」と云へば、打具して行くに、西様に一町余許行て、旧き堂有り。女、堂の戸を引開て、己が家の畳一帖を取持来、敷て、預けて、「今暁に参らむ」と云て、女返り去(い)ぬ。
然れば、正親の大夫、女と臥して、物語など為る程に、共に具したる従者も無くて、只独にて、人も無き旧堂なれば、気六借(きむづかし)き程に、「夜中許にも成やしぬらむ」と思ふ程に、堂の後の方に、火の光り出来たり。「人の有けるにこそ」と思ふ程に、女の童一人、火を灯(とも)して持来て、仏の御前と思しき所に居へつ。正親の大夫、「此れは極き態かな」と六借く思ふに、後の方より、女房独り出来たり。
怪く此れを見るに、怖しく思ゆれば、「何なる事にか」と怪むで、正親の大夫、起居て見れば、女房、一間許去(のき)て喬(わき)見て居ぬ。暫許有て云く、「此には何なる人の入御したるぞ。糸奇怪なる事也。丸(まろ)は此の主也。何でか、主にも云はずして、此は来れる。此には何なる人の入御したるぞ。糸奇怪なる事也。丸は此の主也。何でか主にも云はずして、此は来れる。此には古より人来り宿る事無し」と。此く云ふ気色、実とに云はむ方無く怖し。正親の大夫が云く、「己れ更に人の御ましましける所と知り給へず。只、人の『今夜許此に有れ』と申つれば詣来たる也。尤も便無く候ふ」と。女房の云く、「速に疾く出給ひね。出給はずば悪かりなむ」と。
然れば、正親の大夫、女を引立てて出むと為るに、女、汗水に成て、否(え)立たぬを、強に引立て出ぬ。男の肩に引懸て行けれども、否歩まぬを、構て主の家の門に将行て、門を叩て、女をば入れつ。正親の大夫は、家に返りぬ。
此の事を思ひ出るに、頭の毛太りて、心地も悪く思えければ、次の日も終日(ひねもす)に臥して、夕方に成て、尚夜前(ようべ)彼の女の否歩まざりしが不審(おぼつかな)さに、彼の云ひ伝ふる女の家に行て聞けば、女の云く、「其の人は、返り給けるより、物も思えず、只死に死ぬる様に見ければ、、『何なる事の有つるぞ』など、人々問はれけれども、物をだに否宣はざりければ、主も驚き騒ぎて、知る人も無き人にて有れば、仮屋を造て出されたりければ、程も無く死給ひにけり」と云ふを聞くに、正親の大夫、奇異くて、「実には、夜前、然々の事の有し也。鬼の住ける所に人を臥せて、奇異かりける者かな」と云ければ、女、更に其(そこ)に然る事有らむと知らぬ由をぞ答へけれども、甲斐無くて止にけり。
正親の大夫が、年老て人に語けるを、聞き伝へたるなるべし。其の堂は、于今有とかや。七条大宮の辺に有とぞ聞く。委く知らず。然れば、人無からむ旧堂などには宿るまじき也となむ語り伝へたるとや。
第17話 東人宿川原院被取吸妻語
今昔、東の方より、「栄爵尋て買はむ」と思て、京に上たる者有けり。
其の妻も、「此る次でに京をも見む」と云て、夫に具して上たりけるに、宿所の違て無かりければ、忽に行宿るべき所も無くて、川原の院1)の人も無かりけるを、事の縁有て、其の預の者に語ひて借ければ、借してければ、隠れの方の放出(はなちいで)の間に、幕など云ふ物を引廻して、主は居ぬ。
従者共は土なる所に居て、食物などをもせさせ、馬共をも繋せて、日来有ける程に、夕暮方に、其の居たる後の方に有ける妻戸を、俄に内より押開ければ、「内に人の有て開るなめり」と思ふ程に、何にとも思えぬ物の急(き)と手を指出て、此の宿たる妻を取て、妻戸の内に引入つれば、夫、驚き騒て、引留めむと為れども、程も無く引入つれば、怱(いそぎ)寄て、妻戸を引開けむと引けども、程無く閉づれば、開かず成ぬ。
然れば、傍なる𥴩子2)(かうし)・遣戸などを、此(と)引き彼(かう)引き為れども、皆内より懸たれば、開かむやは。夫、奇異(あさまし)く□て、此方は走り彼方へ走り、東西南北を引ども開かねば、傍なる人の家に走寄て、「只今、然々の事なむ有る。此れ助けよ」と云へば、人共数(あまた)出来て、廻々る見れども、開たる所無し。
而る間、夜に入て暗く成ぬ。然れば、思ひ繚(わづらひ)て𨨞を持て切開て、火を燃(とも)して、内に入て求めければ、其の妻を何にしたるにか有けむ、疵も無くて、□□として、棹の有けるに打懸てなむ殺して置たりける。
「鬼の吸殺てけるなめり」とぞ、人々、口々に云ひ合たりけれども、甲斐無くて止にけり。妻死にければ、男も怖れて、逃て外に行にけり。
此る希有の事なむ有る。然れば、案内知らざらむ旧き所には宿るべからずとなむ語り伝へたるとや。
* 1) 河原院 / 2) 𥴩は竹冠に隔
東人、川原の院に宿りて妻を取られたる語
栄枯盛衰の激しい平安時代には、人の住まわなくなった屋敷が結構あったらしい。住んでいても落ちぶれて従者などが減って、当時は明かりも少ないから、幾つかの空き部屋は柱の節から子供の手が招くようなおそろしげな屋敷に変わり果ててしまう。
同時にそういうところで密会したり、一夜の宿を借りたりもしたが、そこは昔の主人の霊や鬼の住むところでもあった。
かつての大邸宅、左大臣源融の川原院もそのひとつで、陸奥の国の塩釜の形を造って、潮の水を汲みいれて池にたたへたりしていたが、融の死後、その息子が宇多院に献上し、やがて誰も住まなくなった。
そんな頃、5位の爵位を買うために京見物を兼ねてでてきたある夫婦が手違いで宿がなく、川原院の管理人に手づるがあってそこに泊まることにした。
供の者を土間に寝させ、馬などもつないでやれやれと夫婦で部屋にあがってくつろいでいると、後ろの妻戸が開いて、何者かの手が伸びてきて、妻をとらえる。驚いて妻をとどめようとするが、妻は隣の中に引き入れられ、驚き騒いで妻度を開けようとするが開かない。隣の家の人の力も借りても開かない。
夜もふけて、思い余って斧でたたきこわし、部屋の中に入ってみると、衣装をかけるところに妻が骨を皮だけのぺらぺらになって、着物のようにかけられている。吸い殺されてしまっていた。
鬼はどこからも逃げ出していないが、きっと源の融の霊になって屋敷の中に消えたのであろう。奇妙なのは、妻の様子が全く触れられていないことだ。当然、泣き叫ぶであろうに。あまりのことに気を失ってしまったのだろうか。或いは、西洋のドラキュラのように女をとりこにし、吸い殺してしまったのだろうか。 
第18話 鬼現板来人家殺人語
今昔、或る人の許に、夏比若き侍の兵立たる二人、南面の放出(はなちいで)の間に居て、宿直(とのゐ)しけるに、此の二人、本より心ばせ有、□也ける田舎人にて、大刀など持て、寝で物語などして有けるに、亦、其の家に所得たりける長侍の、諸司の允五位などにて有けるにや、上宿直にて出居(いでゐ)に独り寝たりけるが、然様の□なる方も無かりければ、大刀・刀をも具せざりけるに、此の放出の間に居たる二人の侍、夜打ち深更(ふく)る程に見ければ、東の台の棟の上に、俄に板の指出たりければ、「彼(あ)れは何ぞ。彼(あしこ)に只今板の指出づべき様こそ無けれ。若し、人などの『火付けむ』と思て、『屋の上に登らむ』と為るにや。然らば、下よりこそ板を立て登るべきに、此れは上より板の指出たるは心得ぬ事かな」と、二人して忍やかに云ふ程に、此の板、漸く只指出に指出て、七八尺許指出ぬ。
「奇異(あさまし)」と見る程に、此の板、俄にひらひらと飛て、此の二人の侍の居たる方様に来る。然れば、「此れは鬼也けり」と思て、二人の侍、大刀を抜て、「近く来ば切らむ」と思て、各突跪て、大刀を取直して居たりければ、其(そこ)へは否(え)来ずして、傍なる𥴩子1)(かうし)の迫(はざま)の塵許有けるより、此の板、こそこそとして入ぬ。
此く入りぬと見る程に、其の内は出居の方なれば、彼の寝たりつる五位侍、物に圧(おそ)はれたる人の様に、二三度許うめきて、亦、音も為ざりければ、此の侍共、驚き騒て、走り廻て人を起して、「然々の事なむ有つる」と告ければ、其の時、人々起て、火を燃(とも)して、寄て 見ければ、其の五位侍をこそ真平に□殺して置たりけり。板、外へ出とも見えず。亦、内にも見えざりけり。人々、皆此れを見て、恐ぢ怖るる事限無し。五位をば即ち掻出にけり。
此れを思ふに、此の二人の侍は、大刀を持て切らむとしければ、否寄らで、内に入て、刀も持たず寝入たる五位を□殺してけるにこそは有らめ。其れより後にや、其の家に此る鬼有けりとは知けむ。亦、本より然る所にて有けるにや、委く知らず。
然れば、男と成なむ者は、尚大刀・刀は身に具すべき物也。此れに依て、其の時の人、皆此の事を聞て、大刀・刀を具しけりとなむ語り伝へたるとや。
* 1) 𥴩は竹冠に隔
鬼、板と現じ人の家に来て人を殺せる語
ある屋敷を3人が夜間の警護をしていた。1人は、主人の寝所の近くに丸腰で、その隣の部屋には太刀をもった二人がいた。
二人が寝ないで話などをしていると、棟から板が降りてきた。誰かが火でも付けようと屋根に上るつもりなら下から板をたてるだろうに、板が上からおりてくる。
板が7、8尺ばかりになったところで、ひらひらと飛んで二人の侍に向かってくる。鬼太郎のマンガに出てきそうな板のお化けである。これは鬼に違いないと思って、太刀で切りつけると、敵わぬと見て格子の隙間から隣に逃げ出していってしまった。
隣の侍は無防備に寝ていたと見えて、やがて、うめき声が聞こえ、入ってみるとぺっしゃんこになって、死んでいた。板に圧しつぶされたようだ。
鬼が子供や女を食べる、或いは、恨みや仕返しで殺すというのはわかるが、わけもなく、食べるのでもなく男を殺すのはどうしてだろう。安義の橋の鬼だって、鬼に危害を加えたわけでもなくただ逃げたのをうらみに思って殺しにくるというのも納得できない。
思うに、夜や人の住まなくなった家は鬼や霊の領分であり、そのテリトリーにやってくるものはおどかしたり、時には殺したりしたのではないか。 
第19話 鬼現油瓶形殺人語
今昔、小野の宮の右大臣と申ける人御けり。御名をば実資とぞ申ける。身の才微妙く、心賢く御ければ、世の人、賢人の右の大臣とぞ名付たりし。
其の人、内に参りて、「罷出」とて、大宮を下(くだり)に御けるに、車の前に少(ちひ)さき油瓶の、踊つつ行(あるき)ければ、大臣、是れを見て、「糸怪き事かな。此れは何物にか有らむ。此れは物の気などにこそ有め」と思給て御けるに、大宮よりは西、□よりは□に有ける人の家の、門は閉ざされたりけるに、此の油瓶、其の門の許とに踊り至て、戸は閉たれば、鎰(かぎ)の穴の有より入らむと、度々踊り上りけるに、無期に否(え)踊り上り得で有ける程に、遂に踊り上り付て、鎰の穴より入にけり。
大臣は此く見置て、返り給て後に、人を教へて、「其々(そこそこ)に有つる家に行て、然気無くて、『其の家に何事か有る』と聞きて返れ」とて、遣たりければ、使、行きて即ち返り来て云く、「彼の家には若き娘の候けるが、日来煩て、此の昼つ方に既に失候にけり」と云ければ、大臣、「有つる油瓶は、然ればこそ、物の気にて有つる也けり。其れが鎰の穴より入ぬれば、殺してける也けり」とぞ思給ける。其れを見給ける大臣も、糸只人には御さざりけり。
然れば、此る1)物の気は、様々の物の形と現じて有る也けり。此れを思ふに、怨を恨けるにこそは有らめ。此なむ語り伝へたるとや。
* 1) 底本「る」が空白。脱字か
第20話 近江国生霊来京殺人語
今昔、京より美濃・尾張の程に下らむと為る下臈有けり。
「京をば、暁に出(いでん)」と思けれども、夜深く起て行ける程に、□□と□□との辻にて、大路に青ばみたる衣着たる女房の裾取たるが、只独り立たりければ、男、「何なる女の立てるにか有らむ。只今定めて、よも独りは立たじ。男具したらむ」と思ひて、歩み過ける程に、此の女、男に云く、「彼(あ)の御する人は、何(いづ)ち御する人ぞ」と問へば、男、「美濃・尾張の方へ罷り下る也」と答ふ。女の云く、「然ては、怱ぎ給らむ。然は有れども、大切に申すべき事の侍る也。暫し立ち留まり給へ」と。
男、「何事にか候らむ」と云て、立留たれば、女の云く、「此の辺に民部の大夫の□□と云ふ人の家は、何こに侍るぞ。其(そこ)へ行かむと思ふに、道を迷(まど)ひて、否(え)行かぬを、丸(まろ)を其へは将御なむや」と。男、「其の人の家へ御せむには、何の故に此には御つるぞ。其の家は、此より七八町許罷てこそ有れ。但し、怱て物へ罷るに、其まで送り奉らば、大事にこそは候はめ」と云へば、女、「尚極て大事の事也。只、具して御せ」と云へば、男、憖に具して行くに、女、「糸喜し」と云て、行けるが、怪く、此の女の気怖しき様に思えけれども、「只有る事にこそは」と思て、此く云ふ民部の大夫の家の門まで送り付つれば、男、「此れぞ其の人の家の門」と云へば、女、「此く怱て物へ御する人の、態と返て、此まで送り付け給へる事、返々す喜しくなむ。自は、近江の国□□郡に、其々に有る然々と云ふ人の娘也。東の方へ御せば、其の道近き所也。必ず音づれ給へ。極て不審き事の有つればなむ」と云て、前に立たりと見つる女の、俄に掻消つ様に失ぬ。
男、「奇異(あさまし)き態かな。門の開たらばこそ、門の内に入ぬとも思ふべきに、門は閉ざされたり。此は何に」と、頭の毛太りて怖しければ、痓(すくみ)たる様にて立てる程に、此の家の内に、俄に泣喤る音有り。「何なる事にか」と聞ば、人の死たる気はひ也。「希有の事かな」と思て、暫く徘徊(たちやすら)ふ程に、夜も曙ぬれば、「此の事の不審さ尋ねむ」と思て、曙畢(あけはて)て後に、其家の内に髴知(ほのしり)たる人の有けるに、尋ね会て、有様を問ければ、其の人の云く、「『近江の国に御する女房の、生霊に入給ひたる』とて、此の殿の、日来不例(つねならず)煩ひ給つるが、此の暁方に、『其の生霊、現たる気色有』など云つる程に、俄に失給ぬる也。然は、此く新たに人をば取り殺す物にこそ有けれ」と語るを聞くに、此の男も生頭痛く成て、「女は喜びつれども、其れが気の為るなめり」と思て、其の日は留まりて、家に返りにけり。
其の後、三日許有てぞ下けるに、彼の女の教へし程を過けるに、男、「去来(いざ)、彼の女の云し事、尋て試む」と思て、尋ければ、実に然る家有けり。寄て、人を以て、「然々」と云ひ入させたりければ、「然る事有らむ」とて、呼入れて、簾超しに会て、「有し夜の喜びは、何れの世にか忘れ聞えむ」など云て、物など食はせて、絹布など取せたりければ、男、極く怖しく思けれども、物など得て、出て下にけり。
此れを思ふに、然は生霊と云ふは、只魂の入て為る事かと思つるに、早う現に我れも思ゆる事にて有にこそ。此れは、彼の民部の大夫が妻にしたりけるが、去にければ、恨を成して、生霊に成て、殺てける也。
然れば、女の心は怖しき者也となむ語り伝へたるとや。 
 

 

第21話 美濃国紀遠助値女霊遂死語
今昔、長門の前司藤原の孝範と云ふ者有き。其れが下総の権の守と云ひし時に、関白殿に候し者にて、美濃の国に有る生津の御庄と云ふ所を預かりて知けるに、其の御庄に紀の遠助と云ふ者有き。
人、数(あまた)有ける中に、孝範、此の遠助を仕ひ付て、東三条殿の長宿直に召上たりけるが、其の宿直畢(はて)にければ、暇取らせて返し遣ければ、美濃へ下けるに、勢田の橋を渡るに、橋の上に女の裾取たるが立てりければ、遠助、「怪し」と見て過る程に、女の云く、「彼(あ)れは何(いづ)ち御する人ぞ」と。然れば、遠助、馬より下て、「美濃へ罷る人也」と答ふ。女、「事付申さむと思ふは、聞給ひてむや」と云ければ、遠助、「申し侍りなむ」と答ふ。
女、「糸喜(うれし)く宣ひたり」と云て、懐より小さき箱の絹を以て裹たるを引出して、「此の箱、方県の郡の唐の郷の□の橋の許に持御したらば、橋の西の爪に女房御せむとすらむ。その女房に此れ奉り給へ」と云へば、遠助、気六借(きむづかし)く思えて、「由無き事請をしてける」と思へども、女の様の気怖しく思えければ、辞し難くて、箱を受取て、遠助が云く、「其の橋の許に御すらむ女房をば、誰とか聞る。何くに御する人ぞ。若し御会はずば、何くをか尋奉るべき。亦、此れをば、誰が奉り給ふとか申すべき」と。女の云く、「只其の橋の許に御たらば、此れを受取りに其の女房出来なむ。よに違ふ事侍らじ。待ち給ふらむぞ。但し、穴賢、努々此の箱開て見たまふな」と。
此様に云立りけるを、此の遠助が共なる従者共は、女有とも見えず。只、「我が主は馬より下て由無くて立ける」と見て、怪しび思けるに、遠助、箱を受取つれば、女は返ぬ。
其の後、馬に乗て行くに、美濃に下着て、此の橋の許を忘れて過にければ、此の箱を取らせざりければ、家に行き着て、思出して、「糸不便也ける。此の箱を取らせざりける」と思て、「今故(ことさら)に持行て、尋て取せむ」とて、壺屋立たる所の、物の上に捧て置たりけるを、遠助が妻は嫉妬の心極く深かりける者にて、此の箱を遠助が置けるを、妻然気無くて見て、「此の箱をば女に取せむとて、京より態と買持来て、我れに隠して置たるなめり」と心得て、遠助が出たる間に、妻、密に箱を取下して、開て見ければ、人の目を捿(くじり)て数入れたり。亦、男の𨳯1)(まら)を、毛少し付けつつ、多く切入れたり。
妻、此れを見て、奇異(あさまし)く怖しく成て、遠助が返り来たるに、迷(まど)ひ呼寄せて見すれば、遠助、「哀れ、『見るまじ』と云てし物を。不便なる態かな」と云て、迷ひ覆ひて、本の様に結て、やがて即ち彼の女の教へし橋の許に持行て立てりければ、実に女房出来たり。
遠助、此の箱を渡して、女の云し事を語れば、女房、箱を受取て云く、「此の箱は、開て見られにけり」と。遠助、「更に然る事候はず」と云へども、女の気色糸悪気にて、「糸悪しくし給ふかな」と云ひて、極て気色悪乍ら、箱をば受取つれば、遠助は家に返ぬ。
其の後、遠助、心地不例(つねなら)ずと云て臥しぬ。妻に云く、「然許開くまじと云し箱を、由無く開て見てとて、程無く死にけり。
然れば、人の妻の、嫉妬の心の深く虚(そら)疑ひせむは、夫の為に此く吉からぬ事の有る也。嫉妬の故に、遠助、思懸けず、非分に命をなむ失ひてけり。女の常の習とは云ひ乍ら、此れを聞く人、皆此の妻を悪2)みけりとなむ語り伝へたるとや。
* 1) 門構えに牛 / 2) 「にく」底本異体字。りっしんべんに惡
美濃の国の紀遠助、女の霊びあひて遂に死にたる語
平安時代の貴族の男は家庭というものにほとんど縛られていない。きれいな女と見れば、
忍び入って通い、飽きればそのまま放ってどこかへ行ってしまう。女はただ男が通ってくるのを待つばかりである。毎日毎日悶々として待つ、それは大変なものであろう。現実には女の方からは何の行動も出来ないから、その分強い怨念となっていく。第20話はその怨念がこもって女は精霊になり、捨てた夫を殺しにいく話である。
妻を持っている場合でも、夫は平気で別の女の所に通ったりする。それはそんなに非難されることにはなっていなかったであろうが、当然女の嫉妬はあっただろう。男の世界にとっては、その嫉妬が限度をこえてもらっては困る。それで、こんな物語ができあがる。
ある男が長い警備の仕事が終わって国へ帰る途中に、妖しげな女から「ある女房にこの箱をわたしてくれ」と頼まれる。。「ゆめゆめこの箱を開けて見給うな」とも念を押される。
断ると災いがあると思ったのか、気軽に引き受けたのか、ともかく引き受けたものの、家に帰るまでにその事を忘れてしまった。
仕方なく、いずれ持っていってやろうと家に置いておいたが、嫉妬深い妻が「どこかの女への贈り物に違いない」と思って、箱を開けてしまう。箱には「人の目をくじり」たものや***(とても書けません)が入っていた。驚いて夫に見せるがどうしようもない。
男は、困ったことをしてくれたと思うが、やむなく箱の紐を元のように縛って、指定された女房に渡しに行く。女房は箱を受け取るなり、「見ましたね」と気色ばんで攻める。男は否定するが、すでに見破られており、女房の怒りを解くことが出来ぬまま家に帰ってくる。
その後、男は気分が悪くなって死んでしまうという話である。
何の罪もない男が死んで、嫉妬深い妻が無事であるというのは解せないが、取引はあくまで男と鬼の間だからこうなったのであろう。又、夫を失っては妻は生きていけないから、妻への制裁にもなるのであろう。
物語は嫉妬深い妻をもらった男への同情と嫉妬深い妻を悪し様に言うことで終わっている。 
第22話 猟師母成鬼擬噉子語
今昔、□□の国□□の郡に、鹿・猪を殺すを役と為る者、兄弟二人有けり。常に山に行て鹿を射ければ、兄弟掻列て山に行にけり。待(まち)と云ふ事をなむしける。其れは、高き木の胯に、横様に木を結て、其れに居て、鹿の来て其の下に有るを待て射る也けり。
然れば、四五段許を隔て、兄弟向様に木の上に居たり。九月の下つ暗の比なれば、極て暗くして、何にも物見えず。只、「鹿の来る音を聞かむ」と待つに、漸く夜深更(ふく)るに、鹿来ず。
而る間、兄が居たる木の上より、物の手を指下して、兄が髻を取て、上様に引上れば、兄、「奇異(あさまし)」と思て、髻取たる手を捜れば、吉く枯て曝(さら)ぼひたる人の手にて有り。「此れは鬼の我れを噉はむとて、取て引上るにこそ有めれ」と思て、「向に居たる弟に告げむ」と思て、弟を呼べば、答ふ。
兄が云く、「只今、若し、我が髻を取て上様に引上る者有らむに、何にしてむ」と。弟の云く、「然は、押量て射ぞかし」と。兄が云く、「実には、只今、我が髻を物の取て上へ引上る也」と。弟、「然らば、音に就て射む」と云へば、兄、「然らば射よ」と云ふに随て、弟、雁胯を以て射たりければ、兄が頭の上懸ると思ゆる程に、尻答ふる心地すれば、弟、「当ぬるにこそ有めれ」と云ふ時に、兄、手を以て髻の上を捜れば、腕の頸より取たる手、射切られて下たれば、兄(あ)に、此れを取て弟に云く、「取たりつる手は、既に射切られて有れば、此に取たり。去来(いざ)、今夜は返なむ」と云へば、弟、「然也」と云て、二人乍ら木より下て、掻列て家に返ぬ。夜半打過てぞ、返り着たりける。
而るに、年老て立居も安からぬ母の有けるを、一つの壺屋に置て、子二人は家を衛別(かこみわ)けて居たりけるが、此の子共、山より返来たるに、怪う母の吟(によひ)ければ、子共、「何と吟給ふぞ」と問へども、答へも為ず。其の時に、火を燃(とも)して、此の射切れたる手を二人して見るに、此の母の手に似たり。
極じく怪く思て、吉く見るに、只其の手にて有れば、子共、母の居たる所の遣戸を引開たれば、母、起上て「己等は」と云て、取懸むとすれば、子共、「此れは御手か」と云て投入れて、引き閉て去(い)にけり。
其の後、其の母、幾(いくば)く無くして死にけり。子共、寄て見れば、母の片手、手の頸より射切られて無し。然れば、「早う、母の手也けり」と云ふ事を知ぬ。此れは、母が痛う老ひ耄(ほれ)て、鬼に成て、「子を食む」とて、付て山に行たりける也けり。
然れば、人の祖の年痛う老たるは、必ず鬼に成て、此く子をも食はむと為る也けり。母をば子共葬してけり。
此の事を思ふに、極て怖しき事也となむ語り伝へたるとや。
猟師の母、鬼となりて子を食らわむとせる語
今は昔、鹿や猪の狩猟を業とする兄弟がいた。
ある日、鹿を射止めようと兄弟が向かい合って、互いの木の上で待っているうちに夜更けになってしまった。その時、兄の髻を引っ張るものがいてさぐると干からびた手である。鬼に違いないと思って、弟に髻の上を射てくれと頼む。弟が、先が二股に分かれた弓矢で射ると手ごたえがあって、見ると、鬼の腕が髻にぶらさがっている。
その夜は狩猟をあきらめて鬼の手を持ってそのまま帰ると、家で母がうめいている。呼びかけても返事をしない。明かりをつけ、鬼の手を見ると母の手に似ている。驚いて、部屋の戸を開けると、片手を失った母が「おのれ、よくも」とつかみかかってくる。
あわてて、逃げ、帰ってみると、母は死んでいたという話だ。
どうして母親が鬼になるのかと思ったら、ひどいことが書いてある。
人の親の年痛く老たるは、必ず鬼になりて、かく子も食わむとするなりけり。
これはどういうことか。財もない庶民は老いたら子供の世話になる、それは鬼が子を食べるに等しいということか。姥捨て山伝説と同じで、年よりは厄介者で、ほどほどに死んでもらわないと困るということだったのだろうか。 
第23話 播磨国鬼来人家被射語
今昔、播磨の国□□の郡に住ける人の死にたりけるに、「其の後の拈(したため)など為させむ」とて、陰陽師を呼籠たりけるに、其の陰陽師の云く、「今、某日、此の家に鬼来らむとす。努々慎み給ふべし」と。
家の者共、此の事を聞て、極く恐ぢ怖て、陰陽師に、「其をば何かが為べき」と云へば、陰陽師、「其の日、物忌を吉く為べき也」と云ふに、既に其の日に成ぬれば、極く物忌を固くして、「其の鬼は、何(いづこ)より何(いか)なる体にて来べきぞ」と、陰陽師に問ければ、陰陽師、「門より人の体にて来べし。然様の鬼神は横様の非道の道をば行かぬ也。只、直(ただ)しき道理の道を行く也」と云へば、門に物忌の札を立て、桃の木を切塞ぎて、□法をしたり。
而る間、其の来べしと云ふ時を待て、門を強く閉て、物の迫(はざま)より臨(のぞけ)ば、水干・袴着たる男の、笠を頸に懸たる、門の外に立て臨く。陰陽師有て、「彼(あれ)ぞ鬼」と云へば、家の内の者共、恐ぢ迷(まど)ふ事限無し。
此の鬼の男、暫く臨き立て、何にして入るとも見えで入ぬ。然て、家の内に入来て、竃戸の前に居たり。更に見知たる者に非ず。
然れば、家の内の者共、「今は此にこそは有けれ。何様なる事か有らむとすらむ」と、肝心も失て、思ひ合たる程に、其の家主の子に若き男の有けるが思ふ様、「今は何にすとも此の鬼に噉(く)はれなむとす。同死にを、後に人も聞けかし。此の鬼射む」と思て、物の隠より大なる□雁箭を弓に番て、鬼に指宛てて、強く引て射たりければ、鬼の最中に当にけり。鬼は射られけるままに、立走て出づと思ふ程に、掻消つ様に失にけり。箭は立たずして、踊返にけり。
家の者、皆此れを見て、「奇異(あさまし)き態しつる主かな」など云ければ、男、「『同じ死にを、後に人の聞かむ事も有り』と思て、試つる也」と云ければ、陰陽師も奇異の気色してなむ有ける。其の後、其の家に別の事無かりけり。
然れば、陰陽師の構へたる事にや有らむと思べきに、門より入けむ有様より始めて、箭の踊返て立たざりけむ事を思ふに、只物には非ざりけりと思ゆる也。鬼の現はに此く人と現じて見ゆる事は、有難く怖しき事也かしとなむ語り伝へたるとや。
第24話 人妻死後成本形会旧夫語
今昔、京に有ける生(なま)侍、年来身貧くして、世に有付く方も無かりける程に、思懸ず□□の□□と云ける人、□□の国の守に成にけり。
彼の侍、年来此の守を相知たりければ、守の許に行たりければ、守の云く、「此て京に有付く方も無くて有るよりは、我が任国に将行て、聊かの事をも顧む。年来も糸惜と思つれども、我れも叶はぬ身にて過つるに、此て任国に下れば具むと思ふは何(いか)に」と。侍、「糸喜(うれし)き事に候ふ也」と云て、既に下らむと為る程に、侍、年来棲ける妻の有けるが、不合は堪へ難かりけれども、年も若く、形ち有様も宜く、心様なども労たかりければ、身の貧さをも顧みずして、互に去り難く思ひ渡りけるに、男、遠き国へ下なむと為るに、此の妻を去て、忽に便り有る他の妻を儲てけり。其の妻、万の事を繚(あつかひ)て出ければ、其の妻を具して国に下にけり。国に有ける間、事に触れて便り付にけり。
此て思ふ様にて過しける程に、此の京に棄て下りにし本の妻の、破無く恋しく成て、俄に見ま欲く思えければ、「疾く上て彼れを見ばや。何にしてか有らむ」と、肝身を剥(そ)ぐ如く也ければ、万づ心すごくて過ける程に、墓無く月日も過て、任も畢(はて)ぬれば、守の上ける共に侍も上ぬ。
「我れ由無く本の妻を去けり。京に返り上らむままに、やがて行て棲む」と思ひ取てければ、上るや遅きと、妻をば家に遣て、男は旅装束乍ら、彼の本の妻の許に行ぬ。家の門は開たれば、這入て見れば、有し様にも無く、家も奇異(あさまし)く荒て、人住たる気色も無し。此れを見るに、弥よ哀れにて、心細き事限無し。九月の中の十日許の事なれば、月も極く明し。夜冷(よさむ)にて、哀れに心苦しき程也。
家の内に入て見れば、居たりし所に、妻独り居たり。亦、人無し。妻、男を見て、恨みたる気色も無く、喜気に思へる様にて、「此は何かで御しつるぞ。何(い)つ上り給たるぞ」と云へば、男、国にて年来思つる事共を云て、「今は此て棲む。国より持上たる物共を、今日明日(けふあす)取り寄せむ。従者などをも呼ばむ。今夜は只此の由許を申さむとて、来つる也」と云へば、妻、喜と思たる気色にて、年来の物語などして、夜も深更(ふけ)ぬれば、「今は去来(いざ)寝なむ」とて、南面の方に行て、二人掻抱て臥しぬ。
男、「此には人は無きか」と問へば、女、「破無き有様にて過つれば、仕はるる者も無し」と云て、長き夜に終夜(よもすがら)語ふ程に、例よりは身に染む様に哀れに思ゆ。此る程に、暁に成ぬれば、共に寝入ぬ。
夜の明らむも知らで寝たる程に、夜も明けて日も出にけり。夜前、人も無(なかり)しかば、蔀の本をば立て、上をば下さざりけるに、日の鑭々(きらきら)と指入たるに、男、打驚て見れば、掻抱きて寝たる人は、枯々(かれがれ)として、骨と皮と許なる死人也けり。「此は何に」と思て、奇異く怖しき事云はむ方無ければ、衣を掻抱て、起走て、下に踊下て、「若し僻目か」と見れども、実に死人也。
其の時に怱て水干・袴を着て、走出て、隣なる小家に立入て、今始めて尋ぬる様にて、「此の隣なりし人は、何こに侍るか」と聞給ふ。「其の家には人も無きか」と問ければ。其の家の人の云く、「其の人は、年来の男の去て、遠国に下にしかば、其れを思ひ入て歎きし程に、病付て有しを、繚ふ人も無くて、此の夏失にしを、取て棄つる人も無ければ、未だ然て有るを、恐て寄る人も無くて、家は徒(ただ)にて侍る也」と云ふを聞くに、弥よ怖しき事限無し。然て、云ふ甲斐無くて返にけり。
実に、何に怖しかりけむ。魂の留て「会たりけるにこそは」と思ふに、年来の思ひに堪へずして、必ず嫁(とつぎ)てむかし。此る希有の事なむ有ける。
然れば、然様なる事の有らむをば、尚尋て行くべき也となむ語り伝へたるとや。
人の妻、死にて後旧の夫に会へる語
今は昔、京に身分の低い侍が美しいけなげな妻と暮らしていた。
知りあいがある国の守となったので、それについていくことになった。いろいろ出発の世話をしてくれるお金持ちの女がいたので、妻を捨て、新しい妻を連れてその国へ行った。
月日が過ぎ、任が終わって、京に帰り、急に前の妻が恋しくなって、新しい妻を家に送ってから旅装束のまま前の妻のところへ駆け馳せてみた。
門は開き、家も荒れ果てとても人が住んでいるとは思えないが、家に入ると妻が1人で待っていてくれた。使用人もいない生活だが、うれしげに迎えてくれた。 
明日になったら必要なものや従者などもそろえようと約束し、積もる話などしてかき抱き、夜明け前になって眠りについた。
降り注ぐ朝日で目が覚めてみると、昨夜かき抱いて寝たる人は枯れ枯れと干れて骨と皮とばかりなる死人であった。
ミイラと一夜の契りを交わし、抱いて寝ていたわけである。凄惨な話だ。
雨月物語の中に「浅茅が宿」という同じような説話がある。下総の国葛飾郡の真間の里に、勝四郎という男がいて、田畑を売って京に商いに出るという筋立てで、最後の場面も目覚めると誰もいなくて、ミイラを抱いたというような今昔物語特有の生ぐささはない。
にもかかわらず、岩波文庫の解説はこんな風になっている。
亡霊と契り、翌朝死骸を見る設定は、雨月物語・浅茅が露に通じる。
文脈が不正確で、ちょっと誤解を生じる記述だ。 
第25話 女見死夫来語
今昔、大和の国□□の郡に住む人有けり。一人の娘有。形美麗にして心労たかりければ、父母、此れを傅きけり。
亦、河内の国□□の郡に住む人有けり。一人の男子有けり。年若くして形ち美かりければ、京に上て宮仕して、笛をぞ吉く吹ける。心ばへなども可咲かりければ、父母此れを愛しけり。
而る間、彼の大和の国の人の娘、形ち有様美麗なる由を伝へ聞て、消息を遣て、懃に仮借(けさう)しけれども、暫くは聞入れざりけるを、強に云ければ、遂に父母此れを会せてけり。其の後、限無く相思て棲ける程に、三年許有て、此の夫、思懸ず身に病を受て、日来煩ける程に、遂に失にけり。
女、此れを歎き悲むで、恋ひ迷(まどひ)ける程に、其の国の人、数(あまた)消息を遣て仮借しけれども、聞きも入れずして、尚死たる夫をのみ恋ひ泣て、年来を経るに、三年と云ふ秋、女、常よりも涙に溺れて泣き臥たりけるに、夜半許に笛を吹く音の遠く聞えければ、「哀れ、昔の人に似たる物かな」と弥よ哀れに思けるに、漸く近く来て、其の女の居たりける蔀の許に寄来て、「此れ開けよ」と云ふ音、只昔の夫の音なれば、奇異(あさまし)く哀れなる物から、怖しく和(やは)ら起て、蔀の迫(はざま)より臨ければ、男、現に有て立てり。打泣て、此く云ふ。
しでの山こえぬる人のわびしきはこひしき人にあはぬなりけり
とて、立てる様、有し様なれど、怖しかりけり。
紐をぞ解て有ける。亦、身より煙1)(けぶり)の立ければ、女、怖しくて物も云はざりければ、男、「理也や。極く恋給ふが哀れにあれば、破無き暇を申して参り来たるに、此く恐ぢ給へば、罷り返なむ。日に三度、燃る苦をなむ受たる」と云て、掻消つ様に失にけり。然れば、女、「此れ夢か」と思けれども、夢にも非ざりければ、「奇異」と思て止にけり。
此れを思ふに、人死にたれども、此く現にも見ゆる者也けりとなむ語り伝へたるとや。
* 1) 底本異体字、火偏に雲 
 

 

第26話 河内禅師牛為霊被借語
今昔、播磨の守佐伯の公行と云ふ人有けり。其れが子に、佐大夫□□とて、四条と高倉とに有し者は、近来有る顕宗と云ふが父也。其の佐大夫は、阿波の守(か)み藤原定成の朝臣が共に、阿波に下ける程に、其の船にて、守と共に海に入て死にけり。其の佐大夫は、河内禅師と云ひし者の類にてなむ有ける。
其の時に、其の河内禅師が許に、黄斑(あめまだら)の牛有けり。其の牛を、知たる人の借ければ、淀へ遣けるに、樋集(ひづめ)の橋にて、牛飼の車を悪く遣て、車の片輪を橋より落したりけるに、引かれて車も橋より落けるを、「車の落る也けり」と思けるにや、牛の踏はだかりて、動かで立てりければ、鞅(むながい)の切れて、車は落て損じにけり、牛は橋の上に留てぞ有ける。人も乗らぬ車なれば、人は損ぜざりけり。「弊(つたな)き牛ならましかば、引かれて牛も損じなまし。然れば、極き牛の力かな」とぞ、其の辺の人も讃ける。
其の後、其の牛を労り飼ける程に、何(いかに)し失たりとも無くて、其の牛失にけり。河内禅師、「此は何なる事ぞ」とて、求め騒けれども、無ければ、「離れて出にけるか」と、近くより遠きまで尋ねさせけれども、遂に無ければ、求め繚(わづらひ)て有る程に、河内禅師が夢に、彼の失にし佐大夫が来たりければ、河内禅師、「海に落入て死にきと聞く者は、何かで来るにか有らむ」と、夢心地にも、「怖し」と思々ふ出会たりければ、佐大夫が云く、「己は死て後、此の丑寅の角になむ侍るが、其(そこ)より日に一度、樋集の橋の許に行て、苦を受侍る也。其れに、己が罪の深くて、極て身の重く侍れば、乗物の堪へずして、歩より罷り行(ある)くが極て苦く侍ば、此の黄斑の御車牛の、力の強くて乗り侍るに堪へたれば、暫く借申して、乗て罷行くを、極く求めさせ給へば、今五日有て六日と申さむ巳の時許に、返し申してむとす。強にな求騒がせ給ひそ」と云ふと見る程に、夢覚ぬ。河内禅師、「此る怪き夢をこそ見つれ」と、人に語て止にけり。
其の後、其の夢に見えて六日と云ふ巳の時許に、此の牛、俄に、何こより来りとも無くて、歩び入たり。此の牛、極く大事したる気にてぞ来たりける。
然れば、彼の樋集の橋にて、車は落入り牛は留りけむを、彼の佐大夫が霊の其の時に行会て、「力強き牛かな」と見て、借て乗り行けるにや有けむ。
此れは河内禅師が語りし也。此れ極めて怖しき事也となむ語り伝へたるとや。
第27話 白井君銀提入井被取語
今昔、世に白井の君と云ふ僧有き。此の近くぞ失にし。其れ、本は高辻西の洞院に住しかども、後には、烏丸よりは東、六角よりは北に、烏丸面に六角堂の後合せにぞ住し。
其の房に、井を堀けるに、土を投上たりける音の、石に障て金の様に聞えけるを聞き付て、白井の君、此れを怪むで、寄て見ければ、銀の鋺(かなまり)にて有けるを、取て置てけり。其の後に異銀など加へて、小(ささ)やかなる提(ひさげ)に打せてぞ持たりける。
而る間、備後の守藤原の良貞と云ふ人に、此の白井の君は、事の縁有て親かりし者にて、其の備後の守の娘共、彼の白井が房に行て、髪洗ひ湯浴(あみ)ける日、其の備後の守の半物(はしたもの)の、此の銀の提を持て、彼の鋺掘出したる井に行て、其の提を井の筒に居(す)へて、水汲む女に水を入させける程に、取はづして、此の提を井に落し入れてけり。
其の落し入るをば、やがて白井の君も見ければ、即ち人を呼て、「彼(あ)れ取上よ」と云て、井に下して見せけるに、現に見えざりければ、「沈にけるなめり」と思て、人を数(あまた)井に下して捜せけるに、無かりければ、驚き怪むで、忽に人を集めて、水を汲干して見けれども無し。遂に失畢(うせはて)にけり。此れを人の云ひけるは、「本の鋺の主の、霊にて取返してけるなめり」とぞ云ひける。
然れば、由無き鋺を見付て、異銀さへを加へて取られにける事こそ、損なれ。此れを思ふに、定めて霊の取返したると思ふが、極て怖しき也。此なむ語り伝へたるとや。
第28話 於京極殿有詠古歌音語
今昔、上東門院の京極殿に住ませ給ける時、三月の廿日余の比、花の盛にて、南面の桜艶(えもいは)ず栄(さき)乱れたりけるに、院、寝殿にて聞かせ給ければ、南面の日隠しの間の程に、極じく気高く神さびたる音を以て、「こぼれてにほふ花ざくらかな」と長めければ、其の音を、院、聞かせ給ひて、「此は何なる人の有ぞ」と思し食て、御障子の上げられたりければ、御簾の内より御覧じけるに、何にも人の気色も無かりければ、「此は何かに。誰が云つる事ぞ」とて、数(あまた)の人を召て見せさせ給けるに、「近くも遠くも人候はず」と申ければ、其の時に驚かせ給て、「此は何かに。鬼神などの云ける事か」と恐ぢ怖れさせ給て、関白殿は□□殿に御ましけるに、怱て、「此る事こそ候ひつれ」と申させ給ひたりければ、殿の御返事に、「其れは其の□にて、常に然様に長め候ふ也」とぞ、御返事有ける。
然れば、院、弥よ恐ぢさせ給て、「此れは、『人の花を見て、興じて然様に長めたりけるを、此く密(きびしく)尋ねさすれば、怖れて逃げ去(い)ぬるにこそ有めれ』とこそ思ひつるに、此の□にて有ければ、極く怖しき事也」となむ、仰せられける。
然れば、其の後は、弥よ恐ぢさせ給ひて、近くも御さざりけり。
此れを思ふに、此れは狐などの云たる事には非じ。「物の霊などの、此の歌を、『微妙き歌かな』と思ひ初てけるが、花を見る毎に、常に此く長めけるなめり」とぞ、人、疑ひける。然様の物の霊などは、夜るなどこそ現ずる事にて有れ、真日中に音を挙て長めけむ、実に怖るべき事也かし。
何なる霊と云ふ事、遂に聞こえで止にけりとなむ語り伝へたるとや。
第29話 雅通中将家在同形乳母二人語
今昔、源の雅通の中将と云ふ人有き。丹波中将となむ云ひし。其の家は、四条よりは南、室町よりは西也。
彼の中将、其の家に住ける時に、二歳許の児を乳母抱て、南面也ける所に、只独り離れ居て、児を遊ばせける程に、俄に児の愕(おび)ただしく泣きけるに、乳母も喤る音のしければ、中将は北面に居たりけるが、此れを聞て、何事とも知らで、大刀を提て走り行て見ければ、同形なる乳母二人が、中に此の児を置て、左右の手足を取て引しろふ。
中将、奇異(あさましく)思て、吉く守れば、共に乳母の形にて有り。何れか実の乳母ならむと云ふ事を知らず。
然れば、「一人は定めて狐などにこそは有らめ」と思て、大刀をひらめかして走り懸ける時に、一人の乳母、掻消つ様に失にけり。
其の時に、児も乳母も死たる様にて臥したりければ、中将、人共を呼て、験有る僧など呼ばせて、加持せさせなどしければ、暫許有て、乳母、例心地に成て、起上たりけるに、中将、「何なるつる事ぞ」と問ひければ、乳母の云く、「若君を遊ばかし奉つる程に、奥の方より、知らぬ女房の俄に出来て、『此れは我が子也』と云て、奪取つれば、『奪はれじ』と引しろひつるに、殿の御まして、大刀をひらめかして走り懸らせ給ひつる時になむ、若君も打棄て、其の女房、奥様へ罷つる」と云ければ、中将、極く恐けり。
然れば、「人離れたらむ所には、幼き児共を遊ばすまじき事也」となむ、人云ける。狐の□たりけるにや。亦、物の霊にや有けむ。知る事無くて止にけりとなむ語り伝へたるとや。
第30話 幼児為護枕上蒔米付血語
今昔、或る人、方違へに下京辺也ける所へ行たりけるに、幼き児を具したりけるに、其の家に本より霊有けるを知らで、皆寝にけり。
其の児の枕上に、火を近く燃(とも)して、傍に人二三人許寝たりけるに、乳母、目を悟(さま)して、児に乳を含めて寝たる様にて見ければ、夜半許に、塗籠の戸を細目に開て、其(そこ)より長五六寸許なる、五位共の日の装束したるが、馬に乗て、十人許次(つづ)きて、枕上より渡けるを、此の乳母、「怖し」と思ひ乍ら、打蒔の米を多らかに掻攫1)(かいつかみ)て打投たりければ、此の渡る者共、散(さ)と散て失にけり。
其の後、弥よ怖しく思ける程に、夜曙にければ、其の枕上を見ければ、其の投たる打蒔の米毎に、血なむ付たりける。「日来其の家に有らむ」と思けれども、此の事を恐て返にけり。
然れば、「幼き児共の辺には、必ず打蒔を為べき事也」とぞ、此れを聞く人、皆云ける。亦、「乳母の心の賢くて、打蒔をばしたる也」とぞ、人、乳母を讃ける。
此れを思ふに、知らざらむ所には、広量(おもひはかり)して行宿るべからず。世には此る所も有る也となむ語り伝へたるとや。
* 1) 底本異体字。𤔩【爪+國】 
 

 

第31話 三善清行宰相家渡語
今昔、宰相三善の清行と云ふ人有けり。世に善宰相と云ふ、此れ也。浄蔵大徳の父也。万の事を知て、止事無かりける人也。陰陽の方をさへ極めたりけり。
而る間、五条堀川の辺に、荒たる旧家有けり。「悪き家也」とて、人住まずして、久く成にけり。善宰相、家無かりければ、此の家を買取て、吉き日を以て渡らむとしけるを、親き族(やから)、此の由を聞て、「強に悪き家に渡らむと為る。極て益無き事也」とて、制しけれども、善宰相、聞入れずして、十月の廿日の程に、吉き日を取て渡けるに、例の家渡の様には無くて、酉の時許に、宰相、車に乗て、畳一枚許を持せて、其の家に行にけり。
行着て見れば、五間の寝殿有り。屋の体、立けむ世を知らず。庭に大きなる松・鶏冠木(かへでのき)・桜・ときは木など、生たり。木共も皆久く成て、樹神も住ぬべし。紅葉する絡石(つた)這懸れり。庭は苔地にて、掃けむ世も知らず。
宰相、寝殿に上て、中の橋隠(はしがくし)の間を上させて見れば、障子破懸りて皆損じたり。放出(はなちいで)の方の板敷を拭せて、持せたりつる畳を中の間に敷て、火を燃(とも)させて、其の畳に、宰相、南向に居て、車は車宿(くるまやどり)に引入させて、雑色・牛飼などをば、「明旦(あけのあさ)参れ」と云て、返し遣りつ。
宰相、只一人南向に眠り居たるに、「夜半には成ぬらむ」と思ふ程に、殿上の組入の上に、物のこそめくを見上たれば、組入の子毎に顔有り。其の顔毎に替れり。宰相、其れを見れども、騒がずして居たれば、其の顔皆失せぬ。
亦、暫許有て見れば、南の庇の板敷より、長一尺許なる物共、馬に乗次(のりつづ)きて、西より東様に四五十人許に渡る。宰相、其れを見れども、騒がずして居たり。
亦、暫許有て見れば、塗籠の戸を三尺許引開て、女居ざり出づ。居長三尺許の女の、檜皮色の衣を着たり。髪の肩に懸りたる程、極く気高く清気也。匂たる香、艶(えもいは)ず馥(かう)ばし。麝香の香に染返(そみかへり)たり。赤色の扇を指隠たる上より出たる額つき、白く清気也。額の捻(ひねり)たる程、眼尻長やかに打引たるに、尻目に見遣(おこ)せたる、煩はしく気高し。鼻口など何に微妙からむと思ゆ。宰相、白地目(あからめ)もせず守れば、暫許居て、居ざり返るとて、扇を去(のけ)たる。見れば、鼻鮮にて匂ひ赤し。口脇に四五寸許、銀を作たる牙、咋違(くひちがひ)たり。「奇異(あさまし)き者かな」と見る程に、塗籠に入て戸を閉つ。
宰相、其れにも騒がずして居たるに、有明の月の極て明きに、木暗き庭より、浅黄上下着たる翁の、平に□掻たる文挟に文を指て、目の上に捧て、平みて橋の許に寄来て、跪て居たり。其の時に宰相、音を挙て、「何事申す翁ぞ」と問へば、翁、□き皺枯れ小き音を以て申さく、「年来住み候つる所を、此く居しめ給へば、大きなる歎きと思給て、愁へ申さむが為に参て候也」と。其の時に宰相、仰せて云く、「汝が愁へ頗る当らず。其の故は、人の家を領ずる事は、次第に伝へて得る事也。而るを、汝ぢ、人の伝へて居るべき所を、人を愕(おび)やかして住ませずして、押居て領(りやうじ)つる、極て非道也。実の鬼神と云ふ者は、道理を知て曲げねばこそ怖しけれ。汝は必ず天の責蒙なむとす。此れは他に非ず。老狐の居て、人を愕やかす也。鷹・犬一つだに有らば、皆咋殺させてむ物を。その理、慥に申せ」と。
其の時に翁申さく、「仰せ給ふ事、尤も遁るべき所無し。只、昔より住付て候ふ所なれば、其の由を申す也。人を愕やかし候ふ事は、翁が所為(しわざ)に非ず。一両(ひとりふたり)候ふ小童部の、制し宣へども、制止にも憚らずして、自然ら仕る事にや候ふらむ。今は此て御まさば、何が仕るべき。世間は隙無く候へば、罷るべき所候はず。只、大学の南の門の東の脇なむ、徒なる地候ふ。許されを蒙て、其の所へ罷り渡らむは何かが」と。
宰相、仰せて云く、「此れ極て賢き事也。速に一族(いちぞう)を引き烈(つ)れて、其の所へ渡るべし」と。其の時に翁、音を高くして答へを為るに付きて、四五十人許の音なむ、散(さ)と答へける。
夜曙ぬれば、宰相の家の者共、迎へに来ぬれば、宰相、家に返て、其の後よりぞ、此の家を造らせて、例の様にしては渡ける。然て、住ける間、聊に怖しき事無くて止にけり。
然れば、心賢く智(さとり)有る人の為には、鬼なれども、悪事も否(え)発さぬ事也けり。思量無く愚なる人の、鬼の為にも□らるる也となむ語り伝へたるとや。
三善清行の宰相、家渡りせる語
平安時代は鬼や生霊 が徘徊していた時代で、そんなものを無視しようとした勇気ある人たちは大抵、大変な災難に会うのだが、そうでない例もある。子供の手が出る木の節も弓矢でふさぐことが出来たし、鬼も勇者にはむかわない。その判断の基準がよくわからないが、「三善清行の宰相、家渡りせる語 第31」の話もそんな稀な例だ。
宰相は縁起の悪い家を承知で買取り、日柄のいい日を選んで引越しをした。まずは、畳1枚だけをもって1人で泊まってみることにした。
夜中に天井でこそこそ音がするので目をあけると、天井の格子の枠ごとに様々な子供の顔が現れた。彼が動じないと、やがて顔は消え、長け1尺ほどの者ども4、50人が馬に乗って逃げていった。
しばしばかりありて、今度はいみじく気高く清げなる女が現れた。麝香の香りがむせかえるほどで、扇の上からわずかに見える白い額は髪がかかって、目じりを長く引いて流し目を送ってくる。宰相は惑わされずに睨みつけると、口は裂け、銀の牙をさらして、去っていった。
最後に現れたのは翁。庭にたたずみ、文をさしだしている。
曰く、「私がずっと住んでいたのに貴方が引っ越して来られて困っている」
それに対して、宰相は堂々と行って聞かせる。
「家というものはきちんとした手続きを経て継承するものだ。それを貴方は人を脅して寄せ付けないようにし、不法に住んでいる。実の鬼神なら道理を知っていなければならない」
これに対する翁の返答が面白い。
「おっしゃられるとおりです。人を脅かすことは私の本意ではないのですが、子供たちが言うことをきかないものですから。意見はごもっともですが、最近は空き家も少なく、住む場所がありません。それなら貴方が大学頭をつとめてみえる大学の南に空き地がありますが、あそこに住まわせてもらえないでしょうか」
宰相は翁の申し出を受け入れ、翁は子供たちを引き連れて引越しするのだが、人間と妖怪が互いを認めて住み分けるなんて、日本らしくていい話だ。 
第32話 民部大夫頼清家女子語
今昔、民部大夫□□の頼清と云ふ者有けり。斎院の年預にてなむ有けるに、斎院の勘当を蒙たりければ、其の程、木幡と云ふ所に知る所有ければ、其(そこ)に行てなむ有ける。
而るに、頼清が中間に仕ける女有けり。名をば参川の御許となむ云ける。年来仕けるに、其の女、京に家有ければ、主の頼清も院の勘当にて木幡に入居にければ、其の女、暇有て、久く京に有ける程に、頼清が許より舎人男を遣せて、「怱ぐ事有り。只今参れ。日来御ましつる木幡の殿は、故の事有て、昨日立せ給ひにき。山城なる所にてなむ、人の家を借て渡せ給ひたる。疾々く参れ」と云ければ、女、五つ許なる子をなむ持たりける。其れを掻抱て、怱て行にけり。
行着て見れば、常よりも、頼清が妻、此の女を取饗応(とりもてな)して、物など食せて、怱がし気にて、何にと無き物、染め張り怱ぎければ、女も諸共に怱て、四五日に成にけり。
而る間、主の女に云く、「木幡に我が居たりし所には、木守に雑色一人をなむ置きたる。其に行て、忍びて云ふべき事の有るを、行なむや」と。女、「承はりぬ」と云て、子をば同僚に預けて、出立て行にけり。
木幡に行着て、家の内に入たれば、「定めて人無くて、掻澄てぞ有らむ」と思ふに、糸稔(にぎ)はしくて、有つる所にて只今見つる同僚共も皆有り。奇異(あさまし)くて奥に入たれば、主も有り。夢かと思えて、□て立れば、人々の云く、「穴珍し。参河の御許は坐けるは。何と久くは参り給はざりつるぞ。殿には、院の勘当免され給たれば、我れにも告申しに人遣たりしかば、『此の二三日は殿へとて御はさず』と、隣の人の云けるとて返来たれば、何こに坐つるぞ」など云ひ合たれば、女、糸奇異く怖しく思て、有のままに「然々」と、わななき周(あわて)たる気色にて云ふを、家の内の者共、主より始めて恐合けるに、咲ふ者も有けり。
女は、我が子を置て来ぬるを、「今は無き者ぞ」と思えて、物も思えで、「然は人を遣はして見せさせ給へ1)」と云ければ、人を数(あまた)具して遣たりければ、女、行て、有つる所を見ければ、遥々と有る野に2)、草糸高く生たり。人の形無し。
胸塞がりて、怱て子を求ければ、其の子、只独り荻薄の滋(しげり)たる中に居て哭(なき)ければ、母、喜乍ら子をば抱取て、本の木幡に返て、「然々有つ」と語ければ、主も此れを聞て、「汝が虚言也」とぞ云ける同僚共も、糸々奇(あやしみ)てぞ有ける。然れども、幼き子を野の中に将行て棄置たらむやは。
此れを思ふに、狐などの所為(しわざ)にこそ有めれ。「子を失はざりける事」となむ、万の人挙て問ひ喤ける。此く奇異き事なむ有けるとなむ語り伝へたるとや。
* 1) 底本「給」空白。脱字か / 2) 底本「に」空白。脱字か
第33話 西京人見応天門上光物語
今昔、西の京に住む者有けり。父は失て、年老たる母独なむ有ける。兄は人の侍などにて仕はれけり。弟は比叡の山の僧にてなむ有ける。
而る間、其の母、重き病を受て、日来煩ければ、二人の子皆副て、西の京の家に有て繚(あつかひ)けるに、母少し病減気有ければ、弟の僧、三条京極の辺に、「師の有ける所へ」とて、行にけり。
而る間、其の母の病発て、死ぬべく思えければ、兄の男は副て有けるに、母の云く、「我れ必ず死なむとす。此の僧を見て死なばや」と。兄、此れを聞くと云へども、「既に夜には成ぬ。従者はなし。三条京極の辺は遥也。何がは為べからむ。明旦(あけのあさ)にこそは呼に遣はさめ」と云ければ、母、「我れ、今夜を過ぐべき心地思えず。彼(あ)れを見で死なば、極て口惜かりなむ」と云て、力無く術無気なる気色に哭(なき)ければ、兄、「然許思給にては、糸安き事也。夜中也とも、命を顧みず呼に罷なむ」と云て、箭三筋許を持て、只独り出て、内野通に行けるに、夜打深更(ふけ)て、冬比の事なれば、風打吹て、怖しき事限無し。暗の比にて、何にも見えず。応天門と会昌門との間を通けるに、奇異(あさまし)く怖かりけれども、思ひ念じて過ぬ。
彼の僧の房に行着て、弟の僧を尋ぬるに、其の僧、今朝、山へ登にければ、亦、程も無く走り返るに、初の如く、応天門と会昌門との間を通けるに、前の度よりも増(まさり)て怖かりければ、怱て走り過けるに、応天門の上の層(こし)を見上たれば、真さらに光る物有けり。暗ければ、何物と見えぬ程に、𡁶1)(ねずなき)を頻にしてなむ、かかと咲ける。
頭の毛太りて、死ぬる心地しけれども、「狐にこそは有らめ」と思ひ念じて、過て西様へ行けるに、豊楽院の北の野に、円なる物の光る有けり。其れをなむ、鳴る箭を以て射たりければ、射散すと見ければ、失にけり。
然てなむ、西の京の家に、夜半許に返り着たりける。其の「怖し」と思ける気にや、日来温(あたたかく)てなむ病ける。
思ふに、何かに奇異く怖しかりけむ。然れども、「其れは、定めて狐などの所為(しわざ)にこそは有らめ」とぞ、人々云けるとなむ語り伝へたるとや。
* 1) 口へんに截
第34話 被呼姓名射顕野猪語
今昔、□□の国□□の郡に兄弟二人の男住けり。兄は本国に有て、朝夕に狩為るを役としけり。弟は京に上て宮仕して、時々ぞ本国には来ける。
而る間、其の兄、九月の下つ暗の比、灯(ともし)と云ふ事をして、大きなる林の当りを過けるに、林の中に、辛びたる音の気色異なるを以て、此の灯為る者の姓名を呼ければ、「怪」と思て、馬を押返て、其の呼ぶ音を弓手様に為して、火を㷔串(ほぐし)に懸て行ければ、其の時には呼ばざりけり。
本の如く、女手に成して、火を手に取て行く時には、必らず呼けり。然れば、「構へて此れを射ばや」と思ひけれども、女手なれば、射るべき様も無くて、此様にしつつ夜来を過ける程に、此の事を人にも語らざりけり。
而る間、其の弟、京より下たりけるに、兄、「然々の事なむ有る」と語ければ、弟、「糸希有なる事にこそ侍なれ。己れ罷て試む」と云て、灯しに行にける。彼の林の当りを過けるに、其の弟の名をば呼ばずして、本の兄が名を呼ければ、弟、其の夜は、其の音を聞つる許にて返にけり。
兄、「何かにぞ、聞給つや」と問ければ、弟、「実に候ひけり。但し、えせ者にこそ候めれ。其の故は、実の鬼神ならば、己が名こそ呼ぶべきに、其の御名をこそ、尚呼び候ひつれ。其れを悟ぬ許の者なれば、明日の夜罷て、必ず射顕して見せ奉らむ」と云て、其の夜は明(あかし)ぬ。
亦の夜、夜前の如く行て、火を燃(とも)して、其(そこ)を通けるに、女手なる時には呼び、弓手なる時には呼ばざりければ、馬より下て、鞍を下(おろし)て、馬に逆様に置て、逆様に乗て、呼ぶ者には女手と思はせて、我れは弓手に成て、火を㷔串に懸て、箭を番ひ儲て過ける時に、女手と思けるにや、前の如く兄が名を呼けるを、押量て射たりければ、尻答へつと思えて、其の後、鞍を例の様に置直して、馬に乗て女手にて過けれども、音も為ざりければ、家に返にけり。
兄、「何にか」と問ければ、弟、「音に付て射候つれば、尻答ふる心地しつ。明てこそは、当り当らずは行きて見む」と云て、夜明けるままに、兄弟掻烈(かいつれ)て行て見ければ、林の中に大きなる野猪(くさゐなぎ)、木に射付けられてぞ、死て有ける。
此様の者の、人謀らむと為る程に、由無き命を亡す也。此れは、弟の思量の有て、射顕かしたる也とてぞ、人讃けるとなむ語り伝へたるとや。
第35話 有光来死人傍野猪被殺語
今昔、□□の国□□の郡に、兄弟二人の男有けり。共に心猛くして、思量有ける。
而るに、其の祖(おや)死にければ、棺(ひつぎ)に入れて蓋を覆て、一間有ける離たる所に置て、葬送の日の遠かりければ、日来有ける程に、自然ら髴(ほのか)に人の見て云ける様、「此の死人置たる所の、夜半許に、光る事なむ有る。怪き事也」と告ければ、兄弟、此れを聞て、「此は若し、死人の物などに成て光るにや有らむ。亦、死人の所に物の来るにや有らむ。然らば、此れ構へて見顕かさばや」と云ひ合せて、弟、兄に云く、「我が音せむ時に、火を燃(とも)して、必ず疾く持来れ」と契て、夜に成て、弟、密に彼の棺の許に行て、棺の蓋を仰様(のけざま)に置て、其の上に、裸にて髻を放て、仰様に臥して、刀を身に引副へて、隠して持たりけるに、「夜半には成ぬらむ」と思ふ程に、和(やは)ら細目に見ければ、天井(くみいれ)に光る様にす。
二度許光て後、天井を掻開て、下来る者(も)の有り。目を見開かねば、慥に何物とは見えず。大きやかなる者、板敷にどうと着ぬなり。此る程に、真さをに光たり。
此の者、臥たる棺の蓋を取て、傍に置むと為るを、押量て、ひたと抱付て、音を高く挙て、「得たり。をう」と云て、脇と思しき所に刀を𣠽(つか)口まで突立てつ。其の時に光りも失。
而る間、兄の儲け待つ事なれば、兄、程無く、火を燃て持来たり。抱き付乍ら見れば、大きなる野猪(くさゐなぎ)の毛も無きに抱付きて、脇に刀を突立てられて死て有り。見るに糸奇異(あさまし)き事、限無し。
此れを思ふに、棺の上に臥たる弟の心、糸むくつけし。「死人の所には、必ず鬼有り」と云ふに、然か臥たりけむ心、極て有難し。野猪と思る時にこそ心安けれ。其の前は、只鬼とこそ思ふべけれ。火燃て疾く来る人は有なむ。
亦、野猪は由無き命亡す奴也となむ語り伝へたるとや。 
 

 

第36話 於播磨国印南野殺野猪語
今昔、西の国より脚力にて上ける男有けり。夜を昼に成して、只独り上ける程に、播磨の国の印南野を通けるに、日暮にければ、「立寄るべき所や有る」と見廻しけれども、人気遠き野中なれば、宿るべき所も無し。只、山田守る賤(あやし)の小さき庵の有けるを見付て、「今夜許は此の庵にて夜を明さむ」と思ひて、這入て居にけり。
此の男は心猛く□也ける者にて、糸軽びやかにて、大刀許を帯てぞ有ける。此く人離れたる田居中なれば、夜なれども、服物(きもの)なども脱がず、寝ずして、音も為で居たりける程に、夜打深更(ふく)る程に、髴(ほのか)に聞けば、西の方に金(かね)を扣き念仏をして、数(あまた)の人、遥より来る音有り。男、糸怪く思て、来る方を見遣ば、多の人、多の火共を燃(とも)し烈(つらね)て、僧共など数金を打て念仏を唱へ、只の人共も多くして来る也けり。漸く近く来るを見れば、「早く葬送也けり」と見るに、此の男の居たる庵の傍糸近く、只来に来れば、気六借(きむづかし)き事限無し。
然て、此の庵より二三段許を去(のき)て、死人の棺を持来て葬送す。然れば、此の男、弥よ音も為で、不動(はたらか)で居たり。「若し人など見付て問はば、有のままに、西の国より上る者の、日の暮て庵に宿れる由を云はむ」など思て有るに、亦、葬送為る所は、兼てより皆其の儲して験(しる)き物を、此れは昼る然も見えざりつれば、「極て怪き事かな」など、思ひ居たる程に、多の人集り立並て、皆葬畢(はふりは)てつ。其の後、亦、鋤・鍬など持たる下衆共、員知らず出来て、墓(つか)を只築(つき)に築て、其の上に卒都婆を持来て起つ。程無く拈畢(したためはて)て後に、多の人、皆返ぬ。
此の男、其の後、中々に頭の毛太りて、怖しき事限無し。「夜の疾く明よかし」と、心もと無く思ひ居たるに、怖しきままに此の墓の方を見遣て居たり。見れば、此の墓の上、動く様に見ゆ。「僻目か」と思ひて、吉く見れば、現に動く。「何で動くにか有らむ。奇異(あさまし)き事かな」と思ふ程に、動く所より只出に出づる物有り。見れば、裸なる人の土より出て、肱・身などに火の付たるを吹掃ひつつ、立走て、此の男の居たる庵の方様に、只来に来る也けり。暗ければ何物とは否(え)見えず。器量(いかめし)く大きやかなる物也。
其の時に男の思はく、「葬送の所には必ず鬼有なり。其の鬼の我れを噉はむとて、来にこそ有けれ。何様にても、我が身は今は限り也けり」と思ふに、「同死にを、此の庵は狭ければ、入なば悪かりなむ。入らぬ前に、鬼に走り向て切てむ」と思て、大刀を抜て、庵より踊出て、鬼に走り向て、鬼をふつと切つれば、鬼、切られて逆様に倒れぬ。
其の時に、男、人郷の近き方様へ走り逃る事限無し。遥に遠く走り逃て、人郷の有けるに、走り入ぬ。人の家の有けるに、和(やは)ら寄て、門脇に曲(かが)まり居て、夜の明るを待つ程、心もと無し。
夜明て後に、男、其の郷の人共に会て、然々の事の有つれば、此く逃て来れる由を語れば、郷の人共、此れを聞て、「奇異」と思て、「去来(いざ)行て見む」と云て、若き男共の勇たる、数男を具して行て見ければ、夜前葬送せし所に、墓も卒都婆も無し。火なども散らず。只、大きなる野猪を切殺して置たり。実に奇異き事限無し。
此れを思ふに、野猪の、此の男の庵に入けるを見て、「恐さむ」と思て謀たりける事にこそ有めれ。「益無き態して死ぬる奴かな」などぞ、皆人云ひ喤ける。
然れば、人離れたらむ野中なむどには、人少にては宿るまじき事也けり。然て、男の京に上て語けるを、聞継て此く語り伝へたるとや。
播磨の国印南野にして、野猪を殺したる語
夜昼なく走り続けてきた飛脚が、日暮れてさすがに疲れて粗末な小屋を見つけて、泊まった。
夜になり、夢うつつで金を叩き、念仏を唱える声を聞いた。死人の棺を担いで、多くの人がやってきて、小屋のすぐ近くに穴を掘り、墓を作り、卒塔婆を立てて、帰っていった。
墓などなかったこんな所に葬るなんておかしなこともあると思って、覗いてみると、しばらくして墓の土が動き出して、中から裸の男が出てきて火の粉を払ってこちらにやってくる。当時、葬送の所には必ず鬼がいると言われていたようで、きっとこれは鬼に違いないと思い、食べられる前に機先を制しようと、太刀を抜いて踊り出て、鬼をばっさり切り倒した。
男はそのまま、人家のある方に逃げて、家の前で夜を明かし、明け方昨夜泊まった小屋に出かけてみた。
小屋の前に大きな野猪が倒れているだけで、墓の後も卒塔婆もない。鬼ではなかったわけである。
今昔物語にはこれ以上の説明はなされていないが、おそらく夢でも見たのであろう。猪が木の根っこでも掘り起こしていたのかもしれない。なんとなく、実際によくあった話のような気がする。 
第37話 狐変大椙木被射殺語
今昔、□□の比、春日の宮司にて、中臣の□□と云ふ者有けり。其れが甥に、中大夫□□と云ふ者有けり。其れが、馬の食(くひもの)失たりければ、「其れ求む」とて、其の中大夫、従者一人を具して、我れは胡録負て出にけり。其の住む所の名をば、奈良の京の南に三橋と云ふ所也けり。
中大夫、其の三橋より出て、東の山様に求め入て、二三十町許行ければ、日も暮畢(くれはて)て、夜に成にけり。おぼろ月夜にてぞ有ける。「馬や食立る」と、見行(みあるき)ける程に、本の大きさ、屋二間許は有らむと見ゆる程の椙の木の、長廿丈許有ける、一段許去(の)きて立りければ、中大夫、此れを見付て、其(そこ)へ突居て、此の従者の男を呼寄せて云く、「若し、我が僻目か。亦、物(も)のに迷(まど)はされて、思懸ぬ方に来にたるか。此の立る椙の木は、和尊(わみごと)には見ゆや」と問ければ、男、「己も然か見侍り」と答ふれば、中大夫、「然ては、我が僻目には非で、迷はし神に値て、思懸けぬ所に来にたるにこそ有なれ。此の国に取て、此許の椙の木有とは、何こにてか見たる」と問ければ、従者の男、「更に思え侍らず。其々(そこそこ)にぞ、椙の木一本侍れども、其れは小き木也」と云ければ、中大夫、「然ればよ、既に迷はされにけるぞ。何がせむと為る。極て怖し。去来(いざ)返なむ。家より何町来にたるらむ。六借き態かな」と云て、返なむと為る時に、従者の男の云く、「此許の事に値て、故も無く過してむは、無下の事なるべし。此の椙の木に、箭を射立て置て、夜明てこそ尋て御覧ぜめ」と云ければ、中大夫、「現に然も有事也。去来然は、二人して射む」と云て、主も従者も共に箭を番てけり。
従者の男、「然らば、今少し歩び寄て、射させ給へ」と云ければ、共に歩び寄て、二人乍ら一度に射たりければ、箭の尻答ふと聞けるままに、其の椙の木、俄に失にけり。然れば、中大夫、「然ればよ。物に値にけるにこそ有けれ。怖し。去来、還なむ」と云ひて、逃るが如くにして返けり。
然て、夜明にければ、朝に中大夫、従者を呼て、「去来、夜前の所に行て、尋て見む」と云て、従者と二人、行て見ければ、毛も無く老たりける狐の、椙の枝を一つ咋(くは)へたりけるが、腹に箭を二つ射立られてこそ、死て臥たりけれ。此れを見て、「然ればこそ、夜前は此の奴の迷はしける也けれ」と云て、箭打抜て返にけり。
此の事は、只此の二三年が内の事なるべし。世の末にも、此る希有の事は有けり。然れば、道を踏違へ、知らぬ方に行かむをも、怪むべき事也となむ語り伝へたるとや。
第38話 狐変女形値播磨安高語
今昔、播磨安高と云ふ近衛舎人有けり。右近の将監貞正が子也。
法建院の御随身にてなむ有けるが、未だ若かりける時、殿は内裏に御ましける間だに、安高が家は西の京に有ければ、安高、内に候けるが、従者の見えざりければ、「西の京の家へ行く」とて、只独り内通りに行けるに、九月の中の十日許の程なれば、月極く明きに、夜打深更(ふけ)て、宴の松原の程に、濃き打たる袙に、紫菀(しをに)色の綾に袙重ねて着たる女の童の、前に行く様体・頭つき、云はむ方無く月影に□て微妙し。安高は、長き沓を履(はき)てこそめき行くに、歩び並て見れば、絵書たる扇を指隠して、顔を吉くも見せず。額頬などに、髪捻(ひねり)懸たる、云はむ方無く厳気(いつくしげ)也。
安高、近く寄て触這に、薫(たきもの)の香極く聞ゆ。「此く夜深更たるに、何れの御方の人の何こへ御するぞ」と、安高云へば、女、「西の京に人の呼べば行く也」と答ふ。安高、「人の許へ御せむよりは、安高がり去来(いざ)給へ」と云へば、女、咲たる音にて、「誰と知てかは」と答ふる、極く愛敬付たり。
此く互に語ひ行く程に、近衛の御門の内に歩び入ぬ。安高が思ふ様、「豊楽院の内には、人謀る狐有と聞くぞ。若し此れは、然にもや有らむ。此奴、恐して試む。顔をつぶと見せぬが怪きに」と思て、安高、女の袖を引へて、「此に暫し居給へれ。聞ゆべき事有り」と云へば、女、扇を以て顔に指隠してかがやくを、安高、「実には、我れは引剥ぞ。しや衣剥てむ」と云ふままに、紐を解て、引褊(ひきかたぬ)ぎて、八寸許の刀の凍(こほり)の様なるを抜きて、女に指宛て、「しや吭(のど)掻切てむ」と、「其の衣奉れ」と云て、髪を取て、柱に押付て、刀を頸に指宛つる時に、女、艶(えもいは)ず臭(くさ)き尿を、前に散(さ)と馳懸く。
其の時に、安高、驚て免す際に、女、忽に狐に成て、門より走り出て、こうこうと鳴て、大宮登(のぼり)に逃て去(い)ぬ。安高、此れを見て、「『若し人にや有らむ』と思てこそ、殺さざりつれ。此く知りたらましかば、必ず殺てまし」と、妬く悔しく思えけれども、甲斐無くて止にけり。
其の後、安高、夜中・暁と云はず、内通りに行けれども、狐懲にけるにや、更に値はざりけり。狐、微妙き女と変じて、安高を□さむと為る程に、希有の死を為ずしてなむ有ける。
然れば、人遠からむ野なむどにて、独りの間に、吉き女などの見えむをば、広量(おもひはかり)して触這ふまじき事也。此れも、安高が心ばへの有て、女に強に耽らずして、□られぬ也となむ語り伝へたるとや。
狐、女の形を変じて播磨安高に値ひたる語
「月いみじく明きに、夜打ち深更て、宴の松原の程に、濃き打たる衣に、紫色の綾の衣を重ねて着たる女の童」に化けた狐が安高をだまそうとして、失敗する話だが、第39話は狐が妻に化ける。
用あって外へ出た妻がなかなか帰ってこない。やっと帰ってきたと思ったら、しばらくして又全く同じ顔をした妻が帰ってきた。
これは狐に違いないと切りかかろうとすると、真に迫って泣きすがるので、今度は先の妻に切りかかろうとする。
どちらが本当の妻かわからなくなって、いろいろ思案して先の女を怪しみ、それを捕らえていたら、臭き尿をかけて逃げていった。(38話の狐も臭き尿をかけて逃げていったとある。これは狐の習性ですかねえ)
こういう時はどうしたらいいのでしょうねえ。
まず狐が妻を見る。そして、たまたま用が長引いて、妻がなかなか帰らないことを知って、狐が妻に化けることを思いつく、しかし以外に用が早く片付いて妻も帰ってきてしまった。これが普通の推理だと思う。その点で、男の分別はそんなに間違っていないと思うが、作者はわけもなく切りかかるこの男を思慮分別のない男とののしり、こういう時は二人ともしばってほかって置けば、そのうち尻尾をだすと教えている。なるほどと思った。 
第39話 狐変人妻形来家語
今昔、京に有ける雑色男の妻、夕暮方に暗く成程に、要事有て大路に出たりけるが、良(やや)久く返来ざりければ、夫、「何と遅(おそく)は来ならむ」と、怪く思て居たりける程に、妻、入来たり。
然て、暫許有る程に、亦、同顔にして、有様露許も違たる所も無き妻、入来たり。夫、此れを見るに、奇異(あさまし)き事限無し。「何にまれ、一人は狐などにこそは有らめ」と思へども、何れを実の妻と云ふ事を知らねば、思ひ廻すに、「後に入来たる妻こそ、定めて狐にては有らめ」と思て、男、大刀を抜て、後に入来たりつる妻に、走り懸りて切らむと為れば、其の妻、「此は何かに。我をば此は為るぞ」と云て泣けば、亦、前に入来たりつる妻を切らむとて、走り懸れば、其れも亦、手を摺て泣き迷(まど)ふ。
然れば、男、思ひ繚(わづらひ)て、此彼(とかく)騒ぐ程に、尚、前に入来たりつる妻の怪しく思えければ、其れを捕へて居たる程に、其の妻、奇異く臭き尿を散(さ)と馳懸たりければ、夫、臭さに堪へずして、打免たりける際に、其の妻、狐に成て、戸の開たりけるより、大路に走り出て、こうこうと鳴て逃去(にげい)にけり。其の時に、男、妬く悔しく思けれども、更に甲斐無し。
此れを思ふに、思量も無かりける男也かし。暫く思ひ廻して、二人の妻を捕へて、縛り付て置たらましかば、終には顕れなまし。糸口惜く逃したる也。
郷の人共も、来集て見喤ける。狐も益無き態かな。希有の命を生てぞ逃にける。妻の大路に有けるを見て、狐の其の妻の形と変じて謀たりける也。
然れば、此様の事の有らむには、心を静めて、思ひ廻らすべき也。「希有に実の妻を殺さざりける事こそ賢けれ」とぞ、人云ひけるとなむ、語り伝へたるとや。
第40話 狐託人被取玉乞返報恩語
今昔、物の気病(けやみ)為る所有けり。物託(ものつき)の女に物託て云く、「己は狐也。祟を成て来れるには非ず。只、『此る所には自然ら食物散ぼふ物ぞかし』と思て、指臨(さしのぞき)て侍るを、此く召籠られて侍る也」と云て、懐より白き玉の小柑子などの程なるを取出て、打上て玉に取るを、見る人、「可咲気なる玉かな。此の物託の女の、本より懐に持て、人謀らむと為るなめり」と疑ひ思ける程に、傍に若き侍の男の勇たるが居て、物託の女の玉を打上たるを、俄に手に受て、取て懐に引入れてけり。
然れば、此の女に託たる狐の云く、「極き態かな。其の玉、返し得(えさ)せよと」と切(しきり)に乞けれども、男、聞きも入れずして居たるを、狐、泣々く男に向て云く、「其は其の玉取たりと云ふとも、持つべき様を知らねば、和主の為には益有らじ。我れは、其の玉取られなば、極き損にてなむ有るべき。然れば、其の玉返し得しめずば、我れ、和主(わぬし)の為に、永く讐と成らむ。若し、返し得しめたらば、我れ神の如くにして、和主に副て守らむ」と云ふ時に、此の男、由し無しと思ふ心付て、「然は、必ず我が守と成り給はむや」と云へば、狐、「然ら也。必ず守と成らむ。此る者は、努々虚言為ず。亦、物の恩、思知らずと云ふ事無し」と云へば、此の男、「此の搦させ給へる護法、証せさせ給ふや」と、云へば、狐、「実に護法も聞こし食せ。給を返し得(えさ)せたらば、慥に守と成らむ」と云へば、男、懐より給を取出して、女に与へつ。狐、返々す喜て受取つ。其の後、験者に追はれて、狐去ぬ。
而る間、人々有て、其の物託の女を、やがて引へて立たしめずして、懐を捜けるに、敢て其の玉無かりけり。然れば、「実に託たりける物の持たりける也けり」と、皆人知にけり。
其の後、此の玉取の男、太秦に参て返けるに、暗く成る程に御堂を出て返ければ、夜に入てぞ、内野を通けるに、応天門の程を過むと為るに、極く物怖しく思えければ、「何なるにか」と怪く思ふ程に、「実や、『我れを守らむ』と云し狐有きかし」と思ひ出て、暗きに只独り立て、「狐、々」と呼ければ、こうこうと鳴て出来にけり。見れば、現に有り。「然ればこそ」と思て、男、狐に向て、「和狐、実に虚言為ざりけり。糸哀れ也。此を通らむと思ふに、極て物怖しきを、我れ送れ」と云ければ、狐、聞知顔にて、見返々々行ければ、男、其の後に立て行くに、例の道には非で、異道を経て行々て、狐、立ち留まりて、背を曲(かがめ)て抜足に歩て、見返る所有り。其のままに男も抜足に歩て行けば、人の気色有り。
和(やは)ら見れば、弓箭・兵仗を帯したる者共、数(あまた)立ちて、事の定めを為るを、垣超しに和ら聞けば、早う盗人の、入らむずる所の事定むる也けり。此の盗人共は、道理の道に立る也けり。然れば、其の道をば経で、迫(はざま)より将通る也けり。狐、其れを知て、其の盗人の立てる道をば経たると知ぬ。其の道、出畢(いではて)にければ、狐は失にけり。男は平かに家に返にけり。
狐、此れのみに非ず、此様にしつつ、常に此の男に副て、多く助くる事共ぞ有ける。実に守らむと云けるに、違ふ事無ければ、男、返々す哀れになむ思ける。彼の玉を惜むで与へざらましかば、男、吉き事無からまし。然れば、「賢く渡てけり」とぞ思ける。
此れを思ふに、此様の者は、此く者の恩を知り、虚言を為ぬ也けり。然れば、自然ら便宜有て助くべからむ事有らむ時は、此様の獣をば、必ず助くべき也。但し、人は心有りて、因果を知るべき者にては有れども、中々獣よりは者の恩を知らず、実ならぬ心も有る也となむ語り伝へたるとや。 
 

 

第41話 高陽川狐変女乗馬尻語
今昔、仁和寺の東に高陽川と云ふ川有り。其の川の辺に、夕暮方に成れば、若き女の童の、見目穢気無き、立りけるに、馬に乗て京の方へ過る人有れば、其の女の童、「其の馬の尻に乗て、京へ罷らむ」と云ければ、馬に乗たる人、「乗れ」と云て乗せたりけるに、四五町許馬の尻に乗て行けるが、俄に馬より踊り落て、逃て行けるを、追ければ、狐に成て、こうこうと鳴て走り去(い)にけり。
此の如く為る事、既に度々に成ぬと聞えけるに、滝口の本所に、滝口共数(あまた)居て物語しけるに、彼の高陽川の女の童の、人の馬の尻に乗る事を云ひ出たりけるに、一人の若き滝口の、心猛く思量有けるが云く、「己はしも、彼の女の童をば、必ず搦め候なむかし。人の弊(つたなく)て逃すにこそ有れ」と。□の滝口共の勇たる、此れを聞て、「更に否(え)や搦めざらむ」と云ければ、此の搦むと云ふ滝口、「然らば、明日の夜、必ず搦めて将参らむ」と云ければ、異滝口共は云立にたる事なれば、「否搦めじ」と固く諍て、明日の夜を具1)ずして、只独り、極て賢き馬に乗て、高陽川に行て、川を渡るに、女の童見えず。
即ち、打ち返て、京の方へ来るに、女の童立り。打過るを見て、童、「其の御馬の尻に乗せ給へ」と、打咲て悪2)からず云ふ様、愛敬付たり。滝口、「疾く乗れ。何(いづ)ち行かむずるぞ」と問へば、女の童、「京へ罷るが、日の暮ぬれば、御馬の尻に乗て罷らむと思ふ也」と云へば、即ち乗せつ。
乗するままに、滝口、儲たりける物なれば、指縄を以て、女の童の腰を鞍に結付つ。女の童、「何と此はし給ふぞ」と云ければ、滝口、「夕さり、将行て、抱て寝むずれば、逃もぞ為(する)と思へば也」と云て、将行くに、既に暗く成ぬ。
一条を東様に行ければ、西の大宮打過て見れば、東より多の火を燃(とも)して、烈(つ)れて車共数遣次(やりつづ)けて、前を追ひ喤て来ければ、滝口、「然るべき人の御するなめり」と思て、打返て、西の大宮を下りに二条まで行て、二条より東様に行て、東の大宮より土御門まで行にけり。「土御門の門にて待て」と云ひ置きたりければ、「従者共や有る」と問ければ、「皆候ふ」と云て、十人許出来にけり。
其の時に、女の童を結付たる指縄を解て、引落して、しや肱を捕へて、門より入て、前に火を燃させて、本所に将行たれば、滝口、皆居並て待ければ、音を聞て、「何にぞ」と口々に云へば、「此に搦て候ふ」と答ふ。女の童は泣て、「今は免し給ひてよ。人々の御ますにこそ有けれ」と侘迷(わびまどひ)けれども、免さずして、将行たれば、滝口共、皆出て、立並廻て、火を明く燃て、「此の中に放て」と云へば、此の滝口は、「逃げもこそ為れ、否放たじ」と云ふを、皆、弓に矢を番て、「只放て。興有り。しや腰射居へむ。然りとも、一人こそ射□□3)はづさめ」とて、十人許箭を番て、指宛て有れば、此の滝口、「然は」とて打放ちつ。
其の時に、女の童、狐に成て、こうこうと鳴て逃ぬ。滝口共の立並たりつるも、皆掻消つ様に失ぬ。火も打消つれば、つつ暗に成ぬ。滝口、手迷をして従者共を呼ぶに、従者一人も無し。見廻せば、何くとも思えぬ野中にて有り。心迷ひ肝騒て、怖しき事限無し。生たる心地も為ねども、思ひ念じて、暫く此を見廻せば、山の程・所の様を見るに、鳥部野の中にて有り。「土御門にて馬より下つる」と思ふも、馬も何にしにかは有らむ。「早う、西の大宮より打廻ると思つるは、此に来にける也けり。一条に火燃て値たりつるも、狐の□□4)ける也けり」と思て、然りとも有べき事に非ねば、歩にて漸く返ける程に、夜半許にぞ家に返たりける。
次の日は、心地も乱れて、死たる様にてぞ臥たりける。滝口共は、其の夜待けるに、見えざりければ、「何主の、『高陽川の狐搦めむ』と云しは何に」など、口々に云ひ咲て、使を遣て呼ければ、三日と云ふ夕方、吉く病たる者の気色にて、本所に行たりければ、滝口共、「一夜の狐は何に」など云ければ、此の滝口、「一夜は堪難き病の罷発て候ひしかば、否罷らず候ひき。然は、今夜罷て試候はむ」と云ければ、滝口共、「此の度は二つを搦めよ」とぞ、嘲けれども、此の滝口、言少にて出にけり。
心の内に思ける様、「初め謀られたれば、今夜は、狐、よも出来じ。若し、出来たらば、終夜也とも、身を放たばこそ逃さめ。若し出来ずば、永く本所へ指出ずして籠居なむ」と思て、今夜は強(あながち)なる従者共数を具して、馬に乗て、高陽川に行にけり。「益無き事に依て、身を徒に成さむずるかな」と思へども、云立にたる事なれば、此く為るなるべし。
高陽川を渡るに、女の童見えず。打返ける度、河辺に女の童立てり。前の女の童の顔には非ず。前の如く、「馬の尻に乗らむ」と云ければ、乗せつ。前の様に指縄を以て、強く結付て、京様に一条を返るに、暗く也ぬれば、数の従者共を以て、或は前に火を燃させ、或は馬の喬平(そばひら)に立などして、騒がで、物高く云つつ行けるに、一人値ふ者無し。土御門にて馬より下て、女の童のしや髪を取て、本所様に将行ければ、女の童、泣々く辞けれども、本所に至にけり。
滝口、「何(いかに)々に」と云ければ、「此に有」と云て、此の度は強く縛て引へたりければ、暫こそ人にて有けれ、痛く責めければ、遂に狐に成て有けるを、続松の火を以て、毛も無くせせるせせる焼て、□□を以て、度々射て、「己よ、今より此る態なせそ」と云て、殺さずして放たりければ、否歩ざりけれども、漸く逃て去にけり。然てぞ、此の滝口、前に謀られて鳥部野に行たりし事共、委く語ける。
其の後、十日許有て、此の滝口、「尚試む」と思て、馬に乗て、高陽川に行たりければ、前の女の童、吉く病たる気色にて川辺に立ちたりければ、滝口、前の様に、「此の馬の尻に乗れ、和児(わこ)」と云ければ、女の童、「乗らむとは思へども、焼給ふが堪難ければ」と云て失にけり。
人謀らむと為る程に、糸辛き目見たる狐也かし。此の事は近き事なるべし。奇異の事なれば、語り伝へたる也。
此れを思ふに、狐は人の形と変ずる事は、昔より常の事也。然れども、此れは掲焉(いちじる)く謀て、鳥部野までも将行たる也。然るにては、何と後の度は、車も無く道も違へざりけるにか。「人の心に依て、翔(ふるまふ)なめり」とぞ、人疑ひけるとなむ、語り伝へたるとや。
* 1) 底本「具」に疑問符。 / 2) 「にく」底本異体字。りっしんべんに惡 / 3) 底本頭注「射ノ下一本バ射ノ二字アリ」 / 4) 底本頭注「狐ノ下一本化シノ二字アリ」
高陽川の狐、女に変じて馬の尻に乗りたる語
今は昔、仁和寺の東に高陽川といふ川あり。その川の辺に、夕暮れになると見目麗しき若い女が立って、馬で京へ帰る人を見るとヒッチハイクを申し出る。しかも、その女、途中で馬から飛び降りて狐になって逃げていくという。
滝口の侍の詰所でこの話が話題になり、一人の若者が捕まえてみようと申し出た。
さて、若者がその所へ来て見ると、1人の女が愛嬌たっぷりににっこり笑って、「そこの馬の尻に乗せ給え」と声をかけてきた。
「早く乗りなさい。どこへ行かれます?」
「京へ行きたいのですが、日が暮れてしまったので」
彼は、してやったりと、女を乗せるや馬の鞍と女の腰を結わいつけてしまった。
「何をなさいます?」
「ぜひ一夜をともにしたいと思っていますのに、逃げられてはいけないので」
狐は観念したのか、逃げもしないで京へ入った。
西大宮大路を行くと、前方に高貴な一行に出くわして、それを避けて南に戻り、東大宮大路を北へ向かった。
滝口の詰所では侍たちが彼を待ちうけていた。火をともし、逃げないように10人ほどが弓を屋をつがえて、縄を解き、火の中に女を放った。
にもかかわらず、狐は誰の弓矢にも射られることなく、こうこうと鳴いて逃げていった。おかしいと思って、従者を呼ぶに一人も応答しない。
見渡すと、いつの間にか野中で誰もいない。腰を結わえられて逃げられなくなった狐はシチュエーションそのものを変えたのだ。侍は、西大宮大路に高貴な人々がいた所からだまされていたわけである。
物語はこの後、又出かけて今度は狐を捕まえて狐をひどい痛めつけるのだが、話の整合性がないし、狐のかわいらしいいたずらに過剰反応する人間どもがゆるせないので、人間がだまされたところで終わりにしたい。 
第42話 左京属邦利延値迷神語
今昔、三条の院の天皇の御時に、岩清水の行幸有けるに、左京の属邦の利延と云ふ者、供奉して仕たりけるに、九条にて留まるべかりけるを、何(いか)に思けるにか、長岳の寺戸と云ふ所まで行にけり。
其を行ける程に、人共有て、「此の辺には、迷(まど)はし神有なるぞかし」と云つつ渡ける程に、利延も、「然か聞くぞ」など云て行けるに、日も漸く下れば、「今は山崎の渡には行着ぬべきに、怪く長岳の辺を過て、乙訓の川の辺に行く」と思へば、亦、寺戸の岸を登る。寺戸を過て行き持行く程に、「乙訓の川に来て渡る」と思へば、亦、過にし桂川を渡る。
漸く日も暮方に成ぬ。前後を見れども、人一人も見えず成ぬ。多く次(つづ)き行つる人も、皆見えず。
而る間、夜に成ぬれば、寺戸の西の方なる板屋堂の檐に下居て、夜を明して、朝(つとめて)思へば、「我れは左京の官人也。早う九条にて留るべかりけるに、此まで来つらむ、極まりて由無し。其れに、同所に絡返し廻行けるは、九条の程より迷はし神の託(つき)て、将狂(ゐてくる)はして行かせけるなめり」と思て、其れよりなむ、西の京の家に返り来たりける。
然れば、迷はし神に値ぬるは、希有の事也。此く心をも□□1)かし、道をも違へて謀る也。狐などの為るにや有らむ。此れは利延が語りし也。
希有の事なれば、此く語り伝へたるとや。
* 1) 底本頭注「心ヲモノ下一本迷ハノ二字アリ」
第43話 頼光郎等平季武値産女語
今昔、源の頼光の朝臣の美濃の守にて有ける時に、□□の郡に入て有けるに、夜る侍に数(あまた)の兵共集り居て、万の物語などしけるに、「其の国に渡と云ふ所に、産女有けり。夜に成て、其の渡為る人有れば、産女、児を哭(なか)せて、『此れ抱(いだけ)々』と云ふなる」など云ふ事を云ひ出たりけるに、一人有て、「只今、其の渡に行て、渡りなむや」と云ければ、平の季武と云ふ者(も)の有て云く、「己はしも、只今也とも、行て渡りなむかし」と云ければ、異者共有て、「千人の軍に一人懸合て、射給ふ事は有とも、只今、其の渡をば、否(え)や渡給はざらむ」と云ければ、季武、「糸安く行て渡りなむ」と云ければ、此く云ふ者共、「極き事侍とも、否渡給はじ」と云立にけり。
季武も、然許云立にければ、固く諍ける程に、此の諍ふ者共は十人許有ければ、「只にては否諍はじ」と云て、鎧・甲・弓・胡録、吉き馬に鞍置きて、打出の大刀などを、各取出さむと、懸てけり。亦、季武も、「若し否渡らずば、然許の物を取出さむ」と契て後、季武、「然は一定か」と云ければ、此く云ふ者共、「然ら也。遅し」と励ましければ、季武、鎧・甲を着、弓・胡録を負て、従者も、1)「何でか知るべき」と、季武が云く、「此の負たる胡録の上差の箭を一筋、河より彼方に渡て、土に立て返らむ。朝行て見るべし」と云て行ぬ。
其の後、此の諍ふ者共の中に、若く勇たる、三人許、「季武が渡らむ一定を見む」と思て、窃に走り出て、「季武が馬の尻に送れじ」と走り行けるに、既に季武、其の渡に行着ぬ。
九月の下つ暗の比なれば、つつ暗なるに、季武、河をざぶりざぶりと渡るなり。既に彼方に渡り着ぬ。此れ等は、河より彼方の薄の中に隠れ居て聞けば、季武、彼方に渡り着て、行縢2)走り打て、箭抜て差にや有らむ。
暫許有て、亦取て返して、渡り来なり。其の度聞けば、河の中程にて、女の音にて、季武に現に、「此れ抱々け」と云なり。亦、児の音にて、いがいがと哭なり。其の間、生臭き香、河より此方まで薫じたり。三人有るだにも、頭の毛太りて怖しき事限無し。何に況や、渡らむ人を思ふに、我が身乍らも、半(なから)は死ぬる心地す。
然て、季武が云なる様、「いで抱かむ。己」と。然れば、女、「此(かか)れば、くは」とて、取らすなり。季武、袖の上に子を受てければ、亦、女、追々ふ、「いで其の子返し得しめよ」と云なり。季武、「今は返すまじ。己」と云て、河より此方の陸に打上ぬ。然て、館に返ぬれば、此れ等も尻に走返ぬ。
季武、馬より下て、内に入て、此の諍つる者共に向て、「其達(そこたち)、極く云けれども、此ぞ□□の渡に行て、河を渡て行て、子をさへ取て来る」と云て、右の袖を披たれば、木の葉なむ少し有ける。
其の後、此の窃に行たりつる三人の者共、渡の有様を語けるに、行かぬ者共、半は死ぬる心地なむしける。然て、約束のままに懸たりける者共、皆取出したりけれども、季武、取らずして、「然云ふ許也。然許の事為ぬ者やは有る」と云てなむ、懸物は皆返し取せける。
然れば、此れを聞く人、皆季武をぞ讃ける。此の産女と云ふは、「狐の、『人謀らむ』とて為る」と云ふ人も有り。亦、「女の、子産むとて死たるが、霊に成たる」と云ふ人も有りとなむ語り伝へたるとや。
* 1) このあたり文意が通じない。脱文があるらしい。 / 2) 底本頭注「行縢ノ下脱文アラン」
第44話 通鈴鹿山三人入宿不知堂語
今昔、伊勢の国より近江の国へ超ける若き男三人有けり。下衆なれども、三人乍ら、心猛く思量有けり。
鈴鹿の山を通けるに、其の山中に、昔より、何かに云ひ始けるにか有けむ、「鬼有」とて、人更に宿らぬ旧堂有けり。然許の道中なる堂なれども、此く云ひ伝へて、人更に寄らず。
而る間、此の三人の男、山を通る間に、夏比也ければ、俄に掻暗がりて夕立しければ、「今や止々む」と、木の葉の滋き下に立入て待つに、更に止まねば、日は只暮れに暮ぬれば、一人有て、「去来(いざ)、彼(あ)の堂に宿なむ」と云けるを、今二人有て、「此の堂は昔より、『鬼有』とて、人寄らぬ堂には、何(いか)に」と云ければ、先づ「宿らむ」と云つる男、「此る次でに、実鬼有らば、然も知らむ。亦、噉(く)はれなば、何がは死ぬまじき、徒死せよかし。亦、狐・野猪(くさいなぎ)などの、人謀(たばからん)とてしける事を、此く云ひ始めて、云ひ伝へたるにも有らむ」と云へば、二人の男は憗1)に、「然らば、然も」と云ふに、日も暮れて暗く成ぬれば、此の堂に入て宿ぬ。
此る所なれば、三人乍ら、寝で物語して居たる程に、一人の男の云く、「昼通るに、山中に死たる男有りつ。其れ、只今行て取て来なむや。何に」と。此の前に「宿らむ」と云つる男、「何どか取て来ざらむ」と云けるを、今二人の男、「更に其れ取に、只今否(え)行かじ」と励ましければ、此の男、「いで、然らば取て来らむ」と云て、忽に着物を只脱ぎに脱て、裸に成て、走り出て行ぬ。
雨は止まず降て、つつ暗なるに、今一人の男、亦着物を脱て、裸に成て、前に出でつる男の後に立て出ぬ。前の男よりは、喬(わき)より窃に走り前立て、彼の死人の有つる所に至ぬ。然て、其の死人をば取て、谷に投棄て、其の跡に臥ぬ。
而る間、前の男来て、死人の替に臥たる男を掻き負はむと為るを、此の負はるる男、負ふ男を、肩をひしと食たりければ、負ふ男、「此な食給そ、死人よ」と云て、掻負て、走て行て堂の戸の許に打置て、「彼の主達、此に負て来たり」と云ひて、堂の内に入たる間に、負はれたりつる男は、逃て去(い)にけり。返り出て見れば、死人も無ければ、「早う、逃て行にけり」と云て立てり。其の時に、負はれたりつる男、喬より出来て、咲て有様を語ければ、「物に狂ふ奴かな」と云てなむ、二人乍ら堂の内に入にける。
此の二人の男の魂、何れも劣らじと2)云ひ乍ら、負来つる男は増(まさ)れり。死人に成る者は、有もしなむ。行きて負持来たる者は有難かりなむ。
亦、其の二人の男の出て行たりける間に、堂の天井より、組入の子毎に、様々の希有の顔共を指出たりけり。然れば、此の一人の男、大刀を抜てひらめかしければ、一度に散(さ)と咲て失にけり。其の男、其れにも騒がざりけり。然れば、其の男の魂も劣らずかし。三人乍ら、極(いみじ)かりける者共かな。夜明にければ、出て、近江の方に超にけり。
此れを思ふに、其の天井にて顔指出けむ物は、狐の謀けるにこそ有らめとぞ、思ゆる。其れを人の「鬼有」とは云ひ伝へたりけるにや。其の三人の者共、平かに堂に宿て出にける後、別の恐れ無かりけり。実の鬼ならむには、其の庭にも、後也とも、平かには有なむや。
此なむ語り伝へたるとや。
* 1) なまじひ / 2) 底本「不劣ワロジ」。誤植とみて訂正
第45話 近衛舎人於常陸国山中詠歌死語
今昔、□□の比、□□の□□と云ふ近衛舎人有けり。神楽舎人などにて有るにや、歌をぞ微妙く詠(うたひ)ける。
其れが相撲の使にて、東国に下たりけるに、陸奥国より常陸の国へ超る山をば、焼山の関とて、極じく深き山を通る也。其の山を、彼の□□、通けるに、馬眠をして徒然(さびし)かりけるに、打驚くままに、「此れは常陸の国ぞかし。遥にも来にける者かな」と思けるに、心細くて、泥障を拍子に打て、常陸歌と云ふ歌を詠て、二三返許押返して詠ける時に、極じく深き山の奥に、恐し気なる音を以て、「穴おもしろ1)」と云て、手をはたと打ければ、□□馬を引留めて、「此れは誰が云つるぞ」と、従者共に尋けれども、「誰が云つるぞとも聞かず」と云ければ、頭の毛太りて、「恐し」と思々ふ、其(そこ)を過にけり。
然て、□□、其の後、心地悪くて、病付たる様に思えければ、従者共など怪び思けるに、其の夜の宿にして、寝死に死けり。
然れば、然様ならむ歌などをば、深き山中などにては、詠ふべからず。山神の此れを聞て目出(めづ)る程に、留むる也。
此れを思ふに、其の常陸歌は其の国の歌にて有けるを、其の国の神の聞き目出て、取てけるなめりとぞ思ゆる。然れば、此れも、山神などの感じて留てけるにこそは。由無き事也。従者共、奇異(あさまし)く思ひ、歎きけれども、相構て京に上て語けるを聞継て、此く語り伝へたるとや。
* 1) 底本言偏に慈 
 
子育て幽霊

 

日本の民話、怪談。筋立て、結末などに細かな異同が見られるが伝承地は全国に分布しており、落語の題材にもなっている。「飴買い幽霊」ともいう。
ある夜、店じまいした飴屋の雨戸をたたく音がするので主人が出てみると、青白い顔をして髪をボサボサに乱した若い女が「飴を下さい」と一文銭を差し出した。主人は怪しんだが、女がいかにも悲しそうな小声で頼むので飴を売った。 翌晩、また女がやってきて「飴を下さい」と一文銭を差し出す。主人はまた飴を売るが、女は「どこに住んでいるのか」という主人の問いには答えず消えた。その翌晩も翌々晩も同じように女は飴を買いに来たが、とうとう7日目の晩に「もうお金がないので、これで飴を売ってほしい」と女物の羽織を差し出した。主人は女を気の毒に思ったので、羽織と引き換えに飴を渡した。 翌日、女が置いていった羽織を店先に干しておくと、通りがかりのお大尽が店に入ってきて「この羽織は先日亡くなった自分の娘の棺桶に入れたものだが、どこで手に入れたのか」と聞くので、主人は女が飴を買いにきたいきさつを話した。お大尽は大いに驚いて娘を葬った墓地へ行くと、新しい土饅頭の中から赤ん坊の泣き声が聞こえた。掘り起こしてみると娘の亡骸が生まれたばかりの赤ん坊を抱いており、娘の手に持たせた三途の川渡し代の六文銭は無くなっていて、赤ん坊は主人が売った飴を食べていた。 お大尽は、「娘は墓の中で生まれた子を育てるために幽霊となったのだろう」と「この子はお前のかわりに必ず立派に育てる」と話しかけると、娘の亡骸は頷くように頭をがっくりと落とした。この子供は後に菩提寺に引き取られて高徳の名僧になったという。
中国の怪談「餅を買う女」
日本の「飴を買う女」の怪談は、南宋の洪邁が編纂した『夷堅志』に載せる怪談「餅を買う女」と内容がそっくりであり、もともとは中国の怪談の翻案であったと考えられる。
ある民家で、妻が妊娠中に死亡し、埋葬された。その後、町に近い餅屋へ、赤ちゃんを抱えた女が毎日餅を買いに来るようになった。餅屋の者は怪しく思い、こっそり女の服のすそに赤い糸を縫いつけ、彼女が帰ったあとその糸をたどってゆくと、糸は草むらの墓の上にかかっていた。知らせを聞いた遺族が墓を掘り返してみると、棺のなかで赤ちゃんが生きており、死んだ女は顔色なお生けるがごとくであった。女の死後、お腹の中の胎児が死後出産で生まれたものとわかった。遺族は女の死体をあらためて火葬にし、その赤児を養育した。
仏教説話・神話との関係
「子育て幽霊」の話は、親の恩を説くものとして多くの僧侶に説教の題材として用いられた。おもな例として、江戸時代初期に肥後国(現在の熊本県)の浄土真宗の僧侶月感が記した『分略四恩論』などがあげられる。
死女が子供を生む話はガンダーラの仏教遺跡のレリーフにも見られ、日本で流布している話の原型は『旃陀越国王経』であるとされる。幽霊があらわれて7日目に赤ん坊が発見される件に注目し、釈迦を生んで7日で亡くなった摩耶夫人のエピソードとの関連を指摘する説もある。
また、女に飴を売る飴屋が坂の上にあるとしている伝承が多く、古事記の黄泉比良坂との関連をうかがわせる。
赤ん坊の後身に関する伝承
多くの伝承では赤ん坊は成人して高徳の僧侶になったとするものが多いが、実在の僧侶で、この赤ん坊の後身であるとされている例がある。
通幻寂霊(つうげんじゃくれい、元亨2年(1322年)〜明徳2年(1391年)) − 因幡国岩井郡浦留(現在の鳥取県岩美町浦富)、もしくは豊後国武蔵郷(現在の大分県国東市)に生まれる。曹洞宗の僧侶となり總持寺5世となる。通幻十哲と呼ばれる優れた弟子を輩出し、最盛期には曹洞宗全寺院数16000余寺に対し通幻派9000ヶ寺という宗門最大の門流を育てた。
大厳(だいごん、寛政3年(1791年)〜安政3年(1856年)) − 石見国高津(現在の島根県益田市)の庄屋の子として生まれる。浄土真宗の僧侶となり宗学のほかに易経、儒学を修める。萩城下で教授会を開き、町人、藩士が雲集したため、この間、藩校明倫館は休校せざるを得ないほどの盛況であったという。
茨城県千代田町(現在のかすみがうら市)には、殺された母親から土中で生まれ、母の幽霊によって育てられたという頭白上人(ずはくしょうにん)の伝承がある。生まれながらに髪の毛が真っ白であったため“頭白”と呼ばれたという。出家して天台宗の名僧となり全国行脚を修した後に母の菩提を弔ったとも、母親の敵を討ったともいう。上人が亡き母のために建立したと伝えられる石造五輪塔が茨城県土浦市小高地区に存在する。また千葉県佐原市(現在の香取市)の西蔵院には、村の災厄を鎮めるために上人が入定したという塚がある。
京都東山(松原通大和大路東入二丁目轆轤町)には、幽霊に飴を売ったとする飴屋(「みなとや」)が現存しており、「幽霊子育飴」を販売している。飴に添えられた由来書によれば、幽霊の子供は六道珍皇寺の僧侶になり、寛文6年(1666年)に68歳で入寂したという。これにしたがうなら、幽霊が飴を買いにあらわれたのは慶長4年(1599年)の出来事になる。 
幽霊飴1
慶長四年のある夜のこと。
飴屋の主人が店じまいをしていると、あまり見かけない青白い顔をした女が「飴を1文売って欲しい」と店を訪れます。
夜遅くの来店と女性の雰囲気に妙な胸騒ぎを感じつつも、主人は女に飴を売ります。
次の日、また次の日も女は、夜に飴を買いに来て、主人は飴を売ります。
女性が店を訪れ、7晩がたったあくる日の朝。
主人が売り上げを勘定しようとすると、銭箱の中に1枚の樒(しきみ)の葉が入っていて、不思議に思い、例の女が怪しいと考えます。
その日の夜、また女が飴を買いに来た時に、主人は後をつけることにしました。
後を追ってみると、女は墓場へと歩いて行きくではありませんか。
そして1つの墓の前まで来た所で、女の姿がスッと消えたかと思うと、墓の中から赤ん坊の泣き声が聞こえます。
主人が墓を掘り返すと、生きた赤ん坊が母親と同じ棺の中にいました。
埋葬後に出産した女が幽霊となって、三途の川の渡し賃である六文銭を使って飴を買い、7日目からは、お供えの樒の葉をお金に変えて飴を買っていたという話です。
枝葉末節は、地方により変化しますが、大まかなお話しはこういった感じです。水木しげる原作の『ゲゲゲの鬼太郎』の前身である、『墓場鬼太郎』の元にもなっています。
死してなお我が子を思う、母の悲しくも強い情念が現れた話ですが、お話しの舞台となったお店が実在し、現在も京都で営業しております。 
幽霊飴2 (子育て飴)
その昔、京都の東山に「みなとや」という飴屋がありました。(注1)
「みなとや」は京都の飴の老舗(しにせ)であり、町民からの評判も良いお店でした。
ある日の晩、店主が店じまいしようとしたところ、暗闇から一人の若い女の人が現れました。彼女は一文銭を取り出し、「飴を下さい。」と言いました。そして、店主から飴を受け取ると、夜の暗闇の中に消えて行きました。
その翌日の晩、その次の晩も、同じ女の人が一文銭を持って飴を買いに来て、それは六日間にまで及びました。そして七日目の晩のことです。彼女が飴を買って行った後、店主が飴の代金に受け取った一文銭を見てみました。すると、それは「しきみの葉」だったのでした。
不審に思った店主が、彼女の後をついて行くと、行った先は「立本寺の墓地」でした。そして彼女は墓地に入ると突然、スッ…と消えてしまいました。
驚いた店主が、耳をすませますと、どこからともなく赤ちゃんのオギャーオギャーと泣く声が聞こえました。声のする方へ行ってみると、ひとつのお墓にたどり着きました。声はお墓の下から聞こえたのです。驚いた店主がお寺の住職に伝え、お墓の下を掘ってみることにしました。
土から掘り起こした桶(注2)の中を見てみますと、そこには、毎晩飴を買いに来ていた女性の遺体があり、またその傍(かたわ)らには、飴を食べて丸々太った赤ちゃんがいたのでした。
つまり、この女性はすでに亡くなった方であり、埋葬時に入れられた桶の中で、我が子を産んだのでした。そして、「このままだと可愛い我が子が死んでしまう。」と不憫に思ったお母さんが、夜な夜な幽霊となって飴を買いに行き、我が子に食べさせてあげていたのです(この時に持っていた一文銭は、死者の身に付けた六文銭(注3)を一枚ずつ持ち出したものだったのです。)。
この時の赤ちゃんが、大人になった後に出家し、立本寺第二十世・霊鷲院日審上人となったのです。我が子を想う母のやさしさが描かれた伝説として、現在まで立本寺に伝えられています。
(注1)「みなとや」は今も現存しています。
(注2)当時(江戸時代初期頃)の埋葬方法は、土葬が一般的でした。
(注3)六文銭(ろくもんせん)とは、死者が三途の川を渡る時に必要な渡し銭のこと。糸に通した六文銭を、埋葬時に遺体の首に掛けます。七日目の晩に「しきみの葉」を持ったのは、六文銭が無くなったからでした。 
子育て幽霊3
昔、昔あるところに飴を売るお店がありました。ある日のことです。お腹の大きな顔色の悪い女の人がお店の前を通りすぎました。その晩、お店の戸を叩く音がありました。主人が戸を開けると、そこにはお腹が大きい美しい女の人が立っていました。
「すみませんが、この小銭で飴を一つ売ってくださいませ。」
女の人は小銭を一枚渡し飴を一つ受け取りました。次の日の晩もその女の人は飴を買いに来ました。顔色は前よりも悪くなっていました。
「夜ではなくて昼間来てくれませんか。」
「申し訳ありません。どうかこの小銭で飴を一つ売ってくださいませ。」
女の人は弱々しい声で必死に頼みました。
3日目の晩も、またその女の人がやってきました。顔色はさらに悪くなっていました。
「どこから来たのですか。どこに住んでいるのですか。この辺では見かけない顔ですが。」
「2、3日前に来たばかりです。」と髪を顔になびかせ弱々しい声で答えました。
4日目、5日目、6日目も、女の人はやって来ました。顔色は日に日に悪くなるばかりでした。
7日目のことです。
「すみません。もうお金がありません。でも飴を一つ下さいませ。どうしても飴が必要なのです。」と小声で泣きながら言いました。 「あげられません。」と主人が言うと、女の人は着物の袖を引きちぎって渡しました。主人は驚いて渋々飴を渡しました。 「どうもありがとうございます。」
主人は女の人がどこに行くのか確かめたくなりこっそり後を追いかけることにしました。やがて山寺の石段の所まで来ると、ゆっくりと石段を上がり、寺の門を通り抜け、お寺の脇を歩き、お墓の所に行きました。と突然新しい土が積まれている所で消えてしまいました。するとどこからとなく赤ん坊の泣き声が聞こえてきました。
主人はお坊さんの所に行くといままでのことを話しました。「...というわけで、この振り袖がそうなんです。」お坊さんは振り袖を見て言いました。
「この着物なら覚えている。そうだな、一週間前、若い女の人がわしの所に来て、気分が悪いからここに泊めてくれということだった。宿屋に泊まるお金がないということだった。そこで一晩泊めてやったのだが赤ん坊を生むために親元に帰ってきたということだった。旦那は亡くなったということで、わしにかわいい産着を見せてくれた。ところが驚いたことに次の朝亡くなっていたんだ。どこから来て、誰なのか分からずじまいだった。弔いをして産着と小銭6枚を入れて寺のお墓に埋めてやったわけだ。」
「お坊さん、今何といいました。小銭6枚。その女の人は飴を求めに7回来たのですよ。」と主人は震えながら言いました。
「お墓を掘り起こしてみませんか。」                      
次の日、お坊さんがお経を上げている中お墓が掘り返されました。柩をあけると、皆が驚きました。死んだ女の人の腕のなかにかわいい産着に包まれた赤ん坊がいました。
「お坊さん、飴を買いに来たのはこの女の人です。」 「なるほど、確かに袖が一つ無くなっている。」
その時です。赤ん坊が突然泣きだしました。
「赤ん坊が生きているぞ。」お坊さんは赤ん坊を取り上げて言いました。
「母親はお乳のかわりに飴を毎日あげていたんだな。この子はこの寺で育てよう。」
うわさは遠くまで広まり、飴屋は大変有名になり多くの人が飴を求めにやって来ました。
数年が過ぎ、その子は立派な子供に成長しました。そして都に出て一生懸命勉強し立派なお坊さんになりました。 
飴買い幽霊4 / 福島県伊達市柱田
掛田(伊達市霊山町)の町に毎夜赤ん坊を抱いて飴を買いに来る女がいた。不思議に思った飴屋の主人は、ある日村人と一緒に女の跡を付けてみると、女は隣の柱田村(伊達市保原町)の墓地で姿を消した。しばらくすると、ある墓の中から赤ん坊の泣き声がしたので、掘ってみると、飴を舐めている赤ん坊が出てきたのであった。その墓の主は柱田村の郷士の娘で、身重のまま亡くなったという。赤ん坊が発見された日は亡くなった日からちょうど49日目であったという。

昔、柱田村に遠藤源一郎清治という郷士級の武士がいた。娘の朝日前に瀬上景春の子五左衛門を婿にもらい、清則と名乗らせた。ある日、朝日前は身籠ったまま亡くなった。葬儀の後、清則の夢枕に朝日前の霊が頻繁に現れるので、不思議に思った清則が朝日前の墓へ行くと、そこで赤ん坊が泣いていた。清則はその子を大切に育てたという。やがてその子は成長して清信と名乗り、伊達家に仕え、活躍した。殿様の伊達稙宗公(伊達氏14代)は清信に「四十九院(つるしいん)」の苗字を名乗らせたという。清信の子清元も伊達家へ仕えたが、丸森(宮城県丸森町)の金山城主中島伊勢の家臣となって柱田を去って行った。現在も金山城の東にその子孫が住んでいる。

この二つの伝説ないしは伝承は同じ墓地にまつわるものであり、別々のものではない。特に後者の伝承は歴史的事実性をもっていて、興味深い。瀬上氏は伊達家臣として知られる一族である。遠藤家もまた当時の伊達氏関連古文書に見えている。一方、前者の伝説は「飴買い幽霊」や「子育て幽霊」として全国に広がっている昔話でもある。沖縄地方にまでこの伝説が伝わっている。しかし伊達の柱田の伝説のように具体的歴史的村名と人物名を伴うものは稀である。逆に言うと、柱田の「飴買い幽霊」こそが本家本元なのであろう。
現在、柱田地区の四十九院(しじゅうくいん)部落(この部落を「西沢」ともいう)に地蔵堂が建ち、古碑が並んでいる。ここが遠藤家の墓地だった所で、「田元地蔵」「田元の墓」と通称されて、子育て地蔵信仰が続いている。祭礼は4月13日で、この日は飴買い幽霊の掛け軸が披露される。この場所は、保原から掛田へ抜ける国道の西下にある。 
子育て幽霊5 / 静岡県湖西市
むかしむかし、ある飴屋の主人が夜になったので、店を閉めようとしていました。そこへ一人の女がやって来ました。女の髪はボサボサとしていて、顔は青白く、消えるかのような小さな声で「すみません。飴をひとつくださいな」そう言って、銭を一文差し出しました。
女の様子がなんだか不気味だったので、主人は断ろうとしました。しかし何度も頼むものですから、根負けしてしまいます。主人は飴をひとつ売りました。
次の晩、また同じ時間に女がやって来て、「すみません。飴をひとつくださいな」と言って一文差し出しました。主人は飴をひとつ売りました。 「どこに住んでるのかね」主人は尋ねましたが、女は答えません。
その次の日も、そのまた次の日も、女は飴を買いに来ました。そして7日目の晩、やはり女がやって来て、 「飴を買いたいのだけれど、もうお金がありません。この羽織をお金の代わりに受け取ってくださいな」さすがになんだか女が気の毒に思えてきた主人は、羽織を受け取って飴を売ってあげました。
翌日のことです。女が置いて行った羽織を、飴屋の主人が店先に干していました。そこへたまたま通りかかった年を取った旦那が羽織に気付いて、主人に声を掛けました。
「その羽織を、どこで手に入れたんだね」主人が事情を話すと、旦那はびっくりした顔で、 「娘が先日死んだのだが、そのとき棺桶に一緒に入れた羽織と、この羽織が全く同じなのじゃよ」と答えたので、今度は主人がびっくり。
旦那は大急ぎで娘の墓に足を運びました。するとまだ新しい娘の墓の土の下から、赤ん坊の泣き声がするではありませんか。旦那は急いで墓を掘り起こしました。墓の中で、亡くなった娘が元気に泣く赤ん坊を、大事そうに抱き抱えていました。
そして棺桶に入れてあった三途の川を渡るお駄賃の六文の銭はなくなっており、その代わりに赤ん坊の手には、飴屋の飴がありました。
旦那は赤ん坊を抱き上げ、娘の亡骸に向かって、「赤ん坊のために、よくぞ飴を買いに行ったものだ。この子は大事に育てるから安心していいぞ」そう言い終わると、娘がこくりと頷いたように旦那には見えたのだそうです。この赤ん坊は、のちに寺に引き取られて育ち、立派な坊さんになったのだそうな。
本興寺17代住職の日観(にっかん)聖人の出生の話。 
幽霊飴6 / 三重県桑名市清水町 浄土寺
昔、浄土寺の門前に「飴忠(あめちゅう)」という飴屋がありました。
其の店に毎夜一人の女の人が来て飴を買っていくようになりました。すると、売り上げを勘定するとき必ず木の葉が一枚入っているようになりました。飴忠の主人は、女の人が置いていったお金が木の葉に代わるのだと思い、ある夜女の人の後をつけました。すると、その人は浄土寺の墓地に消えてゆきました。
気味が悪くなった主人は、翌朝寺の住職と共に墓地に行ったところ、ま新しい墓の中から赤ん坊の泣き声が聞こえました。驚いた二人が墓を掘ると、飴を買いに来た女の人に抱かれた赤ん坊がいました。幽霊が飴で赤ん坊を育てていたのです。母親を哀れんだ住職と飴忠の主人は、女の人を手厚く葬りました。
赤ん坊はその後すくすくと育ったということです。
幽霊が買いにきたという噂で飴忠は有名となり、地蔵盆には飴に小麦粉をまぶしたものを売り、人々はこれを「幽霊飴」と呼びました。 
子育て幽霊7 / 福井県
昔々、一軒のあめ屋がありましたと。
ある日のこと、一人のやせこけた女のひとが、夜遅くたずねてきて、「あめを少しわけて下さい。」といって一文銭を出しました。
それから、こんなことが四、五晩続きましたが、ある夜のこと、「これでもう、持っていた六文の銭もなくなった。あめも買えない。」とつぶやいて帰っていきました。
それを聞いたあめ屋は、変なことをいうと思って、見えがくれに後をつけていきました。すると墓場のところで、スウッと消えてしまいました。ふしぎなこともあるものだと、そのままあめ屋は帰って来ました。
翌日、夕べ女のひとが消えた所の墓を掘ってみました。その中に赤ん坊がいて、あめを食べています。横に母親らしい女の死がいがあり、首にさげているはずの六文銭が一つもありません。よく見ると数日前に亡くなった妊婦です。
死んでから墓の中で、子供が生まれたのです。それであめ屋はかわいそうに思って、その赤ちゃんを家へ連れて帰り、だいじに育てました。
その後赤ちゃんは大きくなり、とても幸福な人になりましたと。  
子育て幽霊8 / 兵庫県
三田市(さんだし)の北部、篠山市(ささやまし)との境目近くに、永沢寺(ようたくじ)というお寺があります。このお寺を開いた通幻禅師(つうげんぜんじ)は、お墓から生まれたと伝えられています。ある夜のこと、村にある飴屋(あめや)さんは、コツコツと戸をたたく音に気づきました。
「こんな時間にだれじゃろう。」
と、戸を開けると、青白い顔をした女の人が立っていて、
「夜分にすみません。飴を一つください。」
と、銭を出しました。その銭の冷たいこと冷たいこと。飴屋のおじいさんはぞっとしました。女の人は飴を買うと、夜のやみにとけるように消えていきました。
それからというもの、毎晩毎晩、同じ女の人が飴を買いにくるようになりました。おじいさんとおばあさんは、どうにもうす気味悪くなって、お寺の和尚(おしょう)さんに相談しました。
「おかしな話じゃな。わしが様子を見てみるとしよう。」
和尚さんは飴屋さんにやってきて、女の人がくるのを待つことにしました。
その夜も、やはり女の人は飴を買いにきました。買った飴を大事そうにかかえてまた夜のやみに消えていこうとします。和尚さんがその跡をつけて行くと、女の人は村の墓場へ向かい、新しくうめられたばかりの墓へ、すーっと吸いこまれるように消えていきました。
するとその墓の中から、「おぎゃぁ、おぎゃぁ。」という赤ん坊の泣き声と、それをあやす女の人の声がします。
和尚さんはおどろきましたが、すぐに気をとりなおして、声がするお墓を掘り返しました。すると、このあいだ亡くなったばかりの女の人の遺体のそばで、まるまると太った男の子が泣きながら飴をしっかりとにぎりしめていたのです。
和尚さんはすぐにこの子をだきかかえると、飴屋さんへ急いで帰りました。
「この子は、仏様がさずけてくださった子供じゃ。大事に育ててはもらえないだろうか。」
おじいさんとおばあさんも、和尚さんの言うとおりと思い、大切に赤ん坊を育てることにしました。
赤ん坊は、大きくなってからきびしい修行をつみ、立派なお坊さんになりました。このお坊さんが、永沢寺を開いた通幻禅師だと伝えられています。 
子育て幽霊9 / 島根県
ある日、子どもが腹の中にいる庄屋のお嫁さんが、家の近くのこびらを歩きよったら、運の悪いことに屋根からかわらが落ちてきて、それが頭にあたって死にんさったと。
庄屋さんは、びっくりして悲しゅうてならんだったが、農繁期のことでもあり、みんなに迷惑をかけたらいけんので、三途の川の渡し賃、六文銭を入れて、その日のうちに葬式をすませて墓にとめたんじゃ。
それからしばらくして、庄屋さんが田に水をあてようと飴屋の前を通りかかると、店の前に、自分の家の紋がついた羽織が干してあるのが見えた。
「こりゃあ、うちの紋だ。この羽織は女房が死んだときに着せてやったものじゃ。」
びっくりした庄屋さんが、飴屋の主人に聞いてみるいと、
「外が暗うなる頃になると、一文銭を持った女の人が飴を買いにくるんです。不思議な女の人じゃと思っていたら、ある日、一文銭がなくなったから、この羽織で飴を売ってやんさいと頼まれてね。まあ、どこか病人のようでもあるし、どうでも飴がほしいというから、気の毒になってこの羽織を買ってあげたんです。」
この話を聞いた庄屋さんは、半信半疑で親類や近所の人を集めて墓を掘ってみんさった。そしたらそこには、赤ん坊を抱いた嫁さんがいた。
「そうか、子どもが生まれとったんか。この子はりっぱに育てるけえ、安心せえ。」
庄屋さんが言うと、嫁さんの首が、がくっとうなだれたんよ。
この墓のことを「うぶねの墓」ちゅうんじゃ。
「うぶ」は、産湯の産じゃろうなあ。
こうして墓の中で生まれた子は、お坊さんとして育てた方がよいということになって、高津の教西寺にあずけられてお坊さんになった。
これが後の学僧、大厳和上というお坊さんなんじゃが、十八才頃まで教西寺で育てられた。
それからは、邑智郡市木村にあるお寺で修行したあと、江崎にあるお寺から招かれてそこの住職になりんさった。
吉田松陰先生のお母さんも何度も何度も教えを受けられるほど、世に評判の高いお坊さんになりんさったんじゃ。書かれた本は二十巻もあり、仏教大字典に載せられているんじゃ。高津の教西寺の境内には、「大厳和上生誕の地」という石碑があるんじゃが、今でも本当の話として伝えられているんじゃよ。 
飴買い幽霊10 / 福岡市
毎晩、丑三つ時(午前2時ごろ)になると飴屋の表戸をトントンとたたいて、若い女が飴を買いに来ます。
不審に思った飴屋がある日女の後をつけていくと、安国寺の中に消えていきました。境内には新しい卒塔婆(そとば)が立っていて、地中から赤ん坊の泣き声がします。
寺の住職と墓を掘ってみると、亡くなった母親から生まれた赤ん坊がいました。乳も出ず、死ぬに死にきれぬ母親が幽霊となり、飴で我が子を育てようとしたのでしょうか。
墓から取り出された赤ん坊も、日を経ずして亡くなりました。寺の記録によると延宝7年(1679年)のことです。
今も安国寺の境内には「岩松院殿禅室妙悦大姉」と彫られた女の墓が建っています。その横にしがみつくように立っている墓には「童女」と刻まれています。 
飴買い幽霊11 / 長崎市
その夜も真っ青な顔をした、若い女が長崎の麹屋[こうじや]町という所にある飴屋の戸を、静かに叩きました。
「ごめんやす。 飴を、飴を売ってくれはりますか?」と、か細い声で言って、一文銭を差しだしました。
飴屋は、“もう6日目の晩にもなりよるが、毎晩来よっと。こんな夜更けに、どこの女じゃろうか。とんと元気の無かおなごじゃ。”と、寝巻の衿をかき合わせながら、飴を一つ売りました。白い着物を着た女は、飴を手にするとすっとかき消えました。
翌晩の7晩めも同じように飴を買いにきました。
「すんませんけど、飴を1つ、めぐんでくれはりますか?」と、手を出しました。今日はおかねを持っていません。飴屋は、毎日やってくる女をあわれに思い、気持ちよく分けてあげました。女は、小首をかしげて微笑むと外へ出てゆきました。
飴屋は、いったいどこの女かしらと、そっと後を付けてゆきました。女は大きな寺が八つも並んでいる寺町通りを、その寺院を右にみてどんどん歩きます。寺町筋を抜けて八つめの光源寺の前までやってくると、本堂横の暗がりに消えました。
「うわっ、こ、ここは、墓じゃなかね!」
飴屋は、女の青白い、生気の無い顔付きを思い出すと、「ア、アレにちがいない。ユーレンじゃ!」と、一人決めしてほうほうの態でうちに逃げて帰りました。
翌日、お寺に出かけて和尚さんと一緒に墓にやって来ました。新しく土盛のしている墓の中から、「おぎゃあ、おぎゃあ」という元気な赤ん坊の泣き声が聞こえました。男の子が母親の遺骸の側で飴をしゃぶりながら泣いています。女は棺に入れて貰った、冥土への6文銭を一文ずつ使って、毎日のように赤ん坊に飴を買って与えていたのです。
和尚さんは、この墓を建てた、若い彫刻師の藤原清永を呼びにやりました。清永とこの若い母親とはどういう関係だったのでしょうか?
延享の昔、それは江戸時代のことでした。清永は、京都で仏像の彫刻を習っていました。そのとき知り合ったのが、京都の女性でした。二人は恋人どうしになったのですが、国元から“早く帰って来るように!”と、矢のような催促です。清永は、かならず迎えに来るから、と、恋人に固く約束して長崎に戻ったのです。清永が長崎に戻ると、京都の恋人のことは口に出せないまま、親の決めた婚約者と、結婚してしまいます。
さて、京都の恋人は男の言葉を信じて一日千秋の思いで待っていましたが、疑惑の思いは消しても消しても沸き上がります。江戸時代の女性の一人旅は、命がけです。険しい山や果ての無い野原、たちの悪い胡麻の蝿[はえ]や、安達が原の鬼など、いまでは考えられないほど心細い道行だったに違いありません。そんな中を150里を歩き続けて旅をして、長崎に着いたときに待っていたのは、恋人が自分を裏切ったという事実でした。 
清永に会って、ぎゃあぎゃあ言える人はまだいい、自分はそんなことは出来ない。派手なけんかができるなら、胸がすっとするかしらと、こう思いああも思い、絶望の淵をさまよい続けました。こんな彼女を思いとどまらせたのは、裏切られた惨めな自分を、男を詰問したりしてさらに惨めにしたくない、という自尊心でした。今さらドタバタ劇を演じたところで、自分の元に帰って来ない男の心・・・そんな愚行を京女の誇りが許しませんでした。精魂つきはてて、日ならずしてはかなくなってしまったのでした。
自分を追って長崎に来た恋人が亡くなったのを知って、清永は泣きながら光源寺に葬り、手厚く供養したのです。初七日に当たる日に、墓からわが子を取り上げた彼は、思いました。“彼女が身ごもっていたとは知らなかったとはいえ、自分は何というむごい仕打ちをしたことか。かわいそうなことをした。”
清永は、亡き恋人の絵姿を一心に彫りました。その像が光源寺の寺宝となっている「幽霊さま」の女人像です。ご開帳の時に、顔青ざめて歯を食いしばった、等身大の幽霊さまを初めて見て、木像の前で恐がって泣く子もいるそうです。
さて、一方、飴屋には、それから幾日か経って夜更けに、またあの幽霊女がやってきたのです。同じ白い着物をきてやっと聞き取れる位のかぼそい声でこういうのです。「あんたはんのお蔭で息子は助けて貰えましたエ、お礼に何ぞ差し上げとうおすが(差し上げたいのですが)」遠慮せずに何でも言って欲しい、というのです。飴屋は、しばらく考えて「うーん、このへん、長崎は水が無かけん、みんな困っとります」と、言うと、女は、頭にさした赤い櫛を指さして姿を消しました。
不思議に思った飴屋は、翌朝、「櫛が、櫛が」と呟きながら、町内をきょろきょろ歩き回りました。
「あったっ!」
幽霊女が挿していた櫛が、寺町からちょっと下った坂道の尽きる辺りに落ちているではありませんか。みんなでそこを掘ると、手を切るように冷たい水が湧き出していました。
「水が出たぞお、麹屋町に井戸を掘るぞお」。
この井戸はどんな干ばつの年でも渇れることはなく、町内の人々の喉を潤しました。やがて人々は「幽霊井戸」と呼ぶようになりました。 
飴を買う幽霊12 / 七つ墓(ななちばぁかぁ)
古墓が七つあることから七つ墓と呼ばれたが、十貫瀬の地名由来伝説と連結されて語られることが多い。七つ墓の幽霊として語られるのが沖縄版「飴買い幽霊」「子育て幽霊」である。七つ墓あたりは冊封使録では「七星山」(しちせいざん)としている。李鼎元(りていげん)の『使琉球記』巻三あたりで天使館を出て泉崎、長虹堤、七星山で遊んだことが記述されているがその中で李鼎元は「初四日乙卯、晴。食後、偕介山遊七星山、俗名富盛山。」としている。多分ガーブ川の向こう、緑が丘公園、パラダイス通り、さらに国際通りにかけての富盛山一帯の丘陵と勘違いしているか、一連のひっくるめた呼称としてもちいているかだと思うが、七つ墓・七星山エリアとは峻別する必要がある。富盛山一帯の丘陵には「瓦屋節の碑」があるが、牧志瓦屋、富盛辻瓦屋のあったエリアである。李鼎元の七星山の「みたて」には顔を赤らめざるを得ないが、中国でみた七星山、台北の七星山を知るとその「みたて」は少し重圧ではある。下は中国・桂林の七星山。台北の七星山はよく整備された山。台北市から約1時間、主峰1120M、登山は所要3時間。だが大雨には勝てず見ずじまい、登らずじまいで今日に至っている。

七つ墓(ななちばぁかぁ)の幽霊の話の部分を美栄橋駅前広場に設置された案内板から抜き出すと次のとおりである。
美栄橋駅のすぐ近くに幽霊伝説と地名の由来となった岩山が現存する。
この岩山には七つの墓が並んであったことから「七つ墓」と呼ばれている。昔、この岩山近くのお店に子供のお菓子を買う女性がたびたび現れた。その女性が置いていくお金が翌日には紙(紙銭・カビジン)に変わるので、不思議に思った店の主人が、ある日女性の後をつけていくと、墓の中に入っていった。墓の中を覗いてみると、驚いたことに死んだ母親の側で赤ん坊がアメをしゃぶっていたという。子供を想う母親の気持ちが現れた幽霊話である。

この話をよく沖縄の生活感に即してアレンジしているは上原直彦氏である。ピックアップして引用するとこうである。
那覇市泊村の崇元寺の近くの十貫瀬〈じっくぁんじ〉前に、通称「七つ墓=ななち ばぁかぁ」と呼ばれる墓地があった。その十貫瀬から久茂地村寄りに、雑貨や駄菓子を商うマチヤ小〈商人の小店〉があり、一人暮らしのハンシー〈老婆〉がホソボソと営んでいる。
いつの間に入ってきたのか、ひとりの若い女が店の中にたたずんでいて言った。「ハンシー〈老婆に対する美称〉たい。マチバ小を下さい」マチバ小は麦粉を練り、松葉状にして油で揚げた駄菓子である。何枚かの穴ふがぁ銭〈みーふがぁじん=真中に穴の開いた1厘銭〉を差し出した女の手は細く白い。怪訝を覚えながらも老婆は、マチバ小を出して渡した。
銭入れの木箱から売上げ金を出して広げたことだが、その中に黄茶けた見慣れないモノがいくつか混じっている。銭型は見られるが1厘銭では決してない。古紙としか認められない。打ち紙から銭型だけを丸く切り取ったものとしか思えない。
この1件を調べてみると、ある男が浮かび上がった。女の夫だった。この男、病の床に伏した、しかも臨月の妻の看病もせず、それどころか[どうせ病妻の命は長く持つまい。腹の子も、この世の光を見ることは叶うまい]と、七つ墓の空墓に放置したという。
女が使用した銭代わりの打ち紙は、他の墓前で焚かれた残り物だった。妻子に薄情をした男の悪行は、役人の知るところとなり、重罪を科せられたのは言うまでもない。

上原直彦氏はお店の主をひとり暮らしのハンシー(老婆)とし、お菓子はマチバ小と設定している。幽霊が渡すお金は打ち紙。ハンシーは女の正体をつきとめるため後をつける。女は空き墓へ消える。中から赤児の泣き声がする。そして翌日近所の者たちと空き墓を調べ、死後7日は経っていない若い女の遺体と、生後間もない赤児を助け出す。臨月の病妻を空き墓に放置したいきさつがあきらかになる。
「飴買い幽霊」「子育て幽霊」は全国に分布している。オリジナルは中国・南宋の洪邁(こうまい)が編纂した『夷堅志』(いけんし)のなかの「餅(ピン)を買う女」である。短いので「中国怪奇小説集『夷堅志』・岡本綺堂」より引用しておく。
宣城は兵乱の後、人民は四方へ離散して、郊外の所々に蕭条たる草原が多かった。
その当時のことである。民家の妻が妊娠中に死亡したので、その亡骸なきがらを村内の古廟のうしろに葬った。その後、廟に近い民家の者が草むらのあいだに灯ひの影を見る夜があった。あるときは何処で赤児の啼く声を聞くこともあった。
街に近い餅屋へ毎日餅を買いに来る女があって、彼女は赤児をかかえていた。それが毎日かならず来るので、餅屋の者もすこしく疑って、あるときそっとその跡をつけて行くと、女の姿は廟のあたりで消え失せた。いよいよ不審に思って、その次の日に来た時、なにげなく世間話などをしているうちに、隙をみて彼女の裾に紅い糸を縫いつけて置いて、帰る時に再びそのあとを付けてゆくと、女は追って来る者のあるのを覚ったらしく、いつの間にか姿を消して、糸は草むらの塚の上にかかっていた。
近所で聞きあわせて、塚のぬしの夫へ知らせてやると、夫をはじめ、一家の者が駈け付けて、試みに塚をほり返すと、赤児は棺のなかに生きていた。女の顔色もなお生けるが如くで、妊娠中の胎児が死後に生み出されたものと判った。
夫の家では妻の亡骸なきがらを灰にして、その赤児を養育した。

日本では仏教説教と結びつけた結末、後日譚が多いが『夷堅志』は怪異譚として淡々と叙述している。『夷堅志』では「餅(ピン)」を買うお金については触れていない。日本では三途の川渡し代の六文銭とするのが多い。六文使い果たし7日目に赤子は救われる。上原直彦氏は沖縄らしく打ち紙(ウチカビ)としている。それも他の墓で焚かれた残りものの打ち紙(ウチカビ)としている。やはり7日目の赤子救出となる。釈迦を生んで7日で亡くなった釈迦の生母(摩耶夫人)というのを背景とした仏教説教が結びついているようにも受け取れる。沖縄の打ち紙(ウチカビ)も中国由来だが、話の着想として自然である。下は、平和通りの市場で売られていた打ち紙(ウチカビ)。材料は藁や古い畳の繊維といわれたが今はどうだろう。黄土色のがさついた紙に銭型をあて木槌でうつ。台湾、香港でも目にしたが、地味なものに変わってカラー刷りの紙幣を模したものを使用していたりでびっくりした。沖縄は昔ながらの打ち紙(ウチカビ)である。ただ、台湾製も大半を占めているといわれている。

オリジナルは「餅(ピン)」だが日本では「飴(あめ)」である。餅(ピン)は小麦粉製品を総称していわれている。さしずめ饅頭(マントウ)、餃子(チアオズ)などが思い浮かぶ。生地を寝かすこともなく簡単に捏ねてフライパンで焼くだけで餅(ピン)はできる。上原直彦氏のマチバ小はオリジナルの「餅(ピン)を買う女」の餅(ピン)そのものではないが、類似を認めることはできる。松葉状の形状は赤子の口の大きさにもあいそうである。オリジナルの「餅(ピン)」は饅頭(マントウ)に近いというイメージで読んだ。場所の「宣城」は安徽省にあり、上海市(250KM)とも隣接し、南京市、杭州市(200Km)とも近い。

全国に分布している「飴買い幽霊」「子育て幽霊」は親の恩を説く仏教説話として流布しているのが多い。それと赤子の後日譚が拡張して成人して高徳の僧侶となったとするものが多い。通幻寂霊(曹洞宗)、大厳(浄土真宗)、頭白上人(天台宗)などはよく知られている。高徳の僧侶ではないが、それよりなじみ深いのは「げげげの鬼太郎」だろう。鬼太郎は死んだ母のおなかから這い出て墓場から生まれる。鬼太郎のオリジナルは紙芝居の「墓場奇太郎」(伊藤正美・作)といわれる。それでは、姑にいじめられ身ごもったまま埋められた嫁のお腹から赤子(奇太郎)が生まれる。その赤子(奇太郎)は母親の死肉を食べて墓から出てきて復讐をとげる設定という。水木しげるの「げげげの鬼太郎」は「墓場奇太郎」を題材にした作品を描くよう勧められたことから始まる。「墓場奇太郎」の発想の根っこには「飴買い幽霊」「子育て幽霊」がある。水木しげるの「げげげの鬼太郎」も怪奇色の強かった初期作品から、鬼太郎と妖怪のバトルへと軸足が移されている。七つ墓の幽霊の結末は仏教説教臭いオチではないが、母親の子に対して持つ愛情の妖気さは沖縄芝居で何度か味わった。マカンミチの逆立ち幽霊、真玉橋の幽霊と沖縄芝居夏興行の花形演目だった時期があった。  
飴買い幽霊13
飴買い幽霊の話
飴買い幽霊の話は全国に分布しているようです。その概要は次の通りです。
ある晩、飴屋の戸を叩く者があった。主人が出てみると白い服を着た女が立っていて、飴を1文だけ売ってくれという。飴屋はもう店を閉めたあとだったが快く飴を売ってやった。
ところが翌日の夜もまた女はやってきて1文だけ飴を買っていった。
女の来訪は6日に及んだが、とうとう7日目、女はまたやってきたが「もう一文も銭がございませんが、飴をめぐんでくださいませんでしょうか」という。
飴屋の主人は快諾して飴を与えたが、さすがに怪しんでこっそりと女の後をつけてみた。すると女は寺の墓地の中で消えた。
どこへ消えたのだろうと思ってキョロキョロしていると、近くで赤ん坊の鳴き声が聞こえた。どうも地中からしているようである。その声がしているあたりに真新しい卒塔婆があった。飴屋の主人は寺の者を起こして事を告げる。そしてみんなでその墓を掘ってみると、女の死体のそばで赤ん坊が泣いていた。
恐らくは死んだ後で、墓の中で子供を出産したものの、その子に乳を与えることができず、代わりに飴でも与えようと、三途の川の渡し賃の六文銭で飴を買いに来たのであろう。そして7日目にはその六文銭がなくなってしまったので、めぐんでほしいと言ったのであろう。
人々はそう判断して女を憐れみ、改めて丁重に弔って、赤ん坊は然るべき家で育ててもらうことになった。
各地の飴買い幽霊
この話は落語では京都東山の高台寺になっていて、最後に女の幽霊が「高台寺(子を大事)」と言うという落ちにしています。
実際現在東山の鳥辺野、六道珍皇寺の向かいには「幽霊子育飴」を売っている飴屋さんが現存します。この飴屋さんで売っている飴に添えられた由来によればこの子供は寺で育てられて立派な僧になったとされ、その僧が亡くなったのが寛文6年(1666年)3月15日。68歳であったとのことなので、この事件があったのは逆算して慶長4年(1599)ということになります。
京都では船井郡にも子育て幽霊の話が伝わっていますが、こちらではその子供を産んだ女は両親に殺されたことになっています。また六文銭が尽きてからは葉っぱを1文銭に見せかけて飴を買っていたとなっています。
静岡県の交通の難所・佐夜の中山でも「子育て飴」が売られています。ここでは女はこの峠で盗賊に襲われて殺されたことになっています。その女の墓標になっていた石は現在この地の家康ゆかりの寺・久延寺に納められており「夜泣き石」と呼ばれています。
九州に行って長崎では寺町の光源寺(1631開基)になっています。ここでは毎年旧暦の7月16日に木彫りの幽霊像が開帳されて供養が営まれます。安産の守り神とされているようです。この長崎の物語では女は数日後にお礼に訪れます。そしてその時飴屋の主人が何気なく「最近水不足で」というと、女は「ここを掘ってください」といいます。翌日女が指示した場所を掘るとこんこんと泉が湧きだし、その後そこを「幽霊井戸」と呼んだとのことです。なお、光源寺の幽霊像には延享2年(1745)の箱書きがあります。
この他、私が見つけた範囲でこの伝説の地を挙げておきます。
• 福岡県福岡市では天神の近くの安国寺が舞台になっています。
• 石川県金沢市では寺町の立像寺、及び金石の道入寺が舞台になっています。
• 島根県松江市では中原町の大雄寺が舞台になっています。
• 三重県桑名市では清水町の浄土寺に伝説があり、飴屋の名前は飴忠です。
• 千葉県天津小湊町にも伝説があります。
なお、「ゲゲゲの鬼太郎」の鬼太郎(墓場の鬼太郎)が、元々、この飴買い幽霊で助けられた子供という設定であったことを記憶しておられる方もあるかと思います。 
 
幽霊船

 

怪奇現象の一つ。幽霊が操舵しているとされる船舶のことである。怪談の一種として世界各地で語られている。
たいていの場合、船員の口から「洋上を航行中に見た」として語られる。出現時間帯としては夜に出現することが多いが、昼間に霧が出てその霧の中から出現するというパターンもある。帆船であることが多い。船体の各部が著しく損傷している上に乗組員が全く乗っていないが、見えない何らかの力が働き、沈没せずに航行している。
航行中の船舶と船員に危害を加えることはないが、その姿を見ればいかに豪胆な海の男といえども恐怖に身をすくませ、ただ呆然と見送ることしかできないという。また避けようとして舵を切り座礁する、あるいは幽霊船を見た者がその後不幸に襲われるなどのバリエーションがある。
日本では船幽霊と呼ばれる海上の怪異が知られているが、その中でもその名の通り船の幽霊として船舶の姿で海上に現れるものがあり、これが幽霊船とも呼ばれている。出没する時代に応じて帆船や汽船などが現れるといい、主に夜に現れるが、夜であっても船自体が光を発しているので船体の細部まで見えるという。北陸地方の奇談集『北越奇談』によれば、宝暦年間で新潟沖に来た船が大風を受けて乗員が海に投げ出されたところ、ボロボロの船が死者のように痩せ衰えた者たちを乗せて現れ、一晩中出没を繰り返したという。
ホラー以外のパターンとして実は幽霊船を装った、あるいは幽霊船に勘違いされた海賊の船だったといったものも存在する。
実例として、沿岸から無人の船舶が波でさらわれたり、航行中に乗組員が何らかの理由で船を放棄したり、何らかの理由で乗組員が全員死亡するか行方不明となったりして、長期にわたり船舶が発見されないまま船舶が海上を漂流することがある。集団密航を計った船が漂流し、密航者が行方不明や船内で死亡したまま海上を漂流しているようなケースもある。
「ゆうれい船」
大佛次郎の小説である。1956年に朝日新聞で連載された少年向けの時代小説である。小説の挿絵は画家・田代光が担当した。室町時代後期から戦国時代への混乱期を舞台に、船頭の父と母を亡くした少年・次郎丸の活躍を描く。応仁の乱の後の戦乱で船頭の父と母を亡くした次郎丸は、侍になることを夢見て、叔父・五郎太夫のつてを頼り、飼い犬のシロを連れて京にやって来た。そのころ京は、足利将軍家に代わって松永弾正が実権を握り、悪政により人々は虐げられていた。叔父の館に向かう途中で次郎丸は、弾正の悪政をよしとしない雪姫と左馬之助に出会う。そして叔父が弾正と結託している悪徳商人だという話を聞き、それが事実だと知るのだった。 
幽霊船2
「Lyubov Orlova」元ソビエトのクルーズ船
2013年、「Lyubov Orlova」は国際水域でケーブルが破損し立ち往生した。カナダの海底油田作業船が曳航を試みたが失敗。そのまま漂流しはじめた。乗組員は救出されたが船はそのまま漂流し「幽霊船」となった。
2014年、大西洋を丸一年漂流していた「Lyubov Orlova」号が、いくつかの嵐で英国の港に近づきつつあると考えられている。
大西洋を漂流していた以外に沈没説も出ていたが、強風により港に近づいている可能性が……。
船には今は何も積まれてはいない―生き伸びるために共食いすることを余儀なくされた病気に苦しんでるネズミたち以外は。
沿岸警備隊が船を探し続けているが、Lyubov Orlova号が今、正確にはどこを航海しているのかは定かではない。

共食いネズミの死骸や糞尿(ふんにょう)にまみれた幽霊船が大西洋漂流の果てに、英国かアイルランドに漂着するかもしれない――。英国などのメディア各社の報道で、そんな不安が高まっている。
漂流しているのは1976年にユーゴスラビアで建造された「リュボーフィ・オルロワ号」(4200トン)。ロシアで豪華客船として運行される予定だったが、所有者の負債が膨らんで2010年にカナダ当局に差し押さえられた。
2年後にスクラップとして売却され、解体のためドミニカ共和区国に向けて出発したが、出港翌日に海が荒れて曳航(えいこう)ロープが切れ、大西洋を漂流し始めた。
カナダ当局は別の船で追いかけていったんは捕まえたものの、同船は再び漂流を開始。しかし海上の原油施設から遠ざかったことから当局は「(カナダの)海上原油施設やその人員、海洋環境の安全を脅かす恐れはなくなった」と判断し、追跡を打ち切った。
ところが2013年3月になって、同船に積んであったライフボート2隻が水上に落下して自動警報装置が作動。大西洋の3分の2を横断し、真っすぐ英国とアイルランドに向かっていることが分かった。
カナダのナショナルポスト紙によると、同船はニューファンドランド島で2年間係留されていた間に、大量のネズミがすみ着いていたのは間違いないという。しかし漂流後は餌がなくなり、ネズミ同士の共食いになった公算が大きい。
その病原菌にまみれた船が、天候が荒れればすぐにでも漂着するのではないかとの不安がアイルランドや英国で高まった。
これに対してアイルランドの沿岸警備隊はこのほど、「アイルランドがこれ以上の対応を講じる必要はない。目撃情報もない」と発表。英海洋沿岸警備局も「昨年4月以来、目撃情報は入っていない」と強調した。
英BBCは専門家の話として、リュボーフィ・オルロワ号は恐らく沈没したと思われると伝えた。英キャメロン首相の報道官も、政府が優先課題として対応するような問題ではないとの見方を示している。
「マリー・セレスト号」多くの謎に包まれている船
1872年、イギリスの船が漂う「マリー・セレスト号」を発見。船長以下、数人の乗組員か乗り込んだが、その船の中には人っ子一人いなかった。
甲板は嵐で傷んでおり、甲板下には海水が侵入していたが、全体として大きな損傷は見られず、乗員が船を棄てる理由が見当たらない。
中を調べてみると、船長室のテーブルには食べかけの暖かい朝食、コーヒーはまだ湯気を立てており、船員の部屋には食べかけのチキンとシチューが残っていた。
メアリー・セレスト号に実際に何が降りかかったのかに関しては、現在も不明のままである。
魔のバミューダトライアングル / 船が、航空機が、乗務員が消える
空を飛んでいた飛行機や海上を進んでいた船が “突然消えてしまう” 伝説の三角地帯、それがバミューダ海域にある通称「バミューダトライアングル」である。
1945年、14人を乗せた軍の航空機が突如行方不明になった。その後、遭難機の捜索に向かった13人のクルーも姿を消し、その遺体も発見されなかった。
「白い水が……」と謎めいた無線を最後にアヴェンジャー爆撃機が失踪。救出に向かったマーティン・マリナー飛行艇もまた、同じ海域で謎の失踪を遂げた。
共通していることは、機体の本体はおろか破片もほとんど発見されず、遺体ばかりか、遺品さえ見つかっていないということ。
「フライング・ダッチマン号」世界最古の幽霊船伝説
”さまよえるオランダ人”号のこと。神の警告「引き返せ」を無視して喜望峰付近で遭難し、ガイコツ乗組員一人が残って操縦、幽霊船となって、いまだに海をさまよい続けているのだといいます…。 
幽霊船3
むかしむかし、いく人かの漁師が船にのりこんで、とおくの海へカツオをとりにでかけました。
ところがめざす海へつかないうち、夜になってしまいました。
帰ろうにも向かい風が強くて、船は思うように進めません。
「おや、あれはなんだ?」
見張りの男が、向かい風に逆らいながら近づいてくる船を見つけました。
船べりにも、ほづなにも、青白い火が数え切れないほどともっています。
「ゆ、幽霊船だぞ!」
それは万灯船(まんとうせん)とよばれる幽霊船で、このあたりの海にだけ現れるのです。
「いいか。ぜったいに、口をきいてはいかんぞ」
「それに、『ひしゃくで水をくれ』といわれても、ひしゃくの底を抜いてわたさんと、そのひしゃくで船に水をかけられて、船をしずめられるぞ」
漁師たちはもう、生きた心地がしません。
幽霊船は滑るように近づいてきて、へさきを並べました。
船べりには、ひたいに三角のきれをつけた幽霊たちが、「水をくれ〜」「たのむから、ま水を飲ませてくれ〜」と、かぼそい声をしぼり出して言います。
幽霊は、男だけではありません。女や子どもたちも、まじっています。
これを見た船頭は、漁師たちにいいつけました。
「おい。水のたるを五つ六つ、持ってこい」「なにをいうだ!とんでもねえ!」漁師たちは、反対しましたが、「海の上で飲み水がないくらい、つらいことはない。相手が幽霊船だとしても、ここはなさけをかけてやろうではないか」と、船頭はそういって、幽霊船になわを投げ渡して水のたるを次々とつるし、幽霊たちにたぐらせました。
船べりの幽霊たちは、うれしそうにいくつもの水だるを受け取ると、ゆっくりとその場をはなれていきました。
やがて風もおさまって、朝にはすっかり波のおだやかな海になりました。そして漁を始めたところ、たちまちの大漁です。それからというもの、この船頭の船は漁に出るたびに、必ず大漁だったそうです。 
幽霊船4
映画‘パイレーツオブカリビアン2’は17世紀に沈没した船舶が20世紀始めまであちこちに姿を現わしたという幽霊船‘Flying Dutchman号’の話だ。 このように呪いを受けて永遠に海を飛び交う幽霊船は映画と文学、オペラなどの芸術作品でよく使われる素材で登場する。 そして私たちは簡単に幽霊船を伝説や怪談で片付けてしまう。 だが、多くの人々が幽霊船が実際に存在することを信じていて、どんな所では船員が幽霊船を目撃したという証言も出てきている。 世界随所で目撃されている幽霊船の停滞(正体)は何だろうか? ひょっとしてバミューダ三角地帯のようなボールテックス(vortex)地域を偶然に通過して4次元の迷子になってしまった船ではないか?
プルラインドチメノは1641年オランダのアムステルダム項を出発してバタビアに航海をした。 船長ヘンドゥリク パンデルデケン(Hendrik van der Decken)が指揮したこの船は大きい台風の中心を過ぎ去って失踪になってしまった。 ところで当時明確に沈没したと信じたプルラインドチメノは1680年から1942年まで数十余隻の民間船舶と軍艦に目撃された。 そしてプルラインドチメノは今日世界で最も有名な幽霊船に残ることになった。
1990年9月29日、英国のサウスウェールズ地方にある小さい港町ウィルリプトンには漆黒のような夜に正体が分からない大型旅客船がひそかに停泊して村に大きい騒動が起きた。‘ラストゥレスマリアス’という名前のこの船を調査した英国の役人たちはこの旅客船が1974年スペイン近海で沈没して数百人の人命を奪い取った表れたという事実を知っては驚きに耐えなかった。 当時船内に入った調査団は船には誰もいなかったし、食卓上の食べ物はたった今整えたように湯気が立っていたと伝えた。 問題のこの船はある日霧の中に包まれた後どこかに消えたという。 マリアスホの探査当時取った写真らと動画は今日までも残っているといって、この事件の真偽はまだ解けなくなっている。 
幽霊船5
1899年英国海軍のビクトリア湖が違う軍艦と衝突して海中で沈没する事件が起きた。 358人の乗務員が命を失ったその見解にロンドンのあるパーティ会場にビクトリア湖の艦長が現れて廊下を歩く姿が目撃された。 艦長が事故で死亡したという消息を聞くことになった家族と友達は当時パーティ会場で目撃された人は誰だったのか疑問を持つことになったし、ビクトリア湖はその後にもずっと海で目撃されて幽霊船で有名になった。
スコットランド北側の海上油田の労働者が幽霊船を目撃したといって世間に話題を呼び起こした事件もあった。 姿を表わした幽霊船は第一次世界大戦当時ドイツによって撃沈された英国の戦艦バンガード号であった。 1917年880人の乗務員を乗せたまま撃沈されたところがすぐに海上油田労働者が勤めた海底油田地帯で、当時幽霊船を目撃した労働者は42人だった。 船がボーリング施設前面を速い速度で過ぎ去ったが波どころか声も出なかったし、目撃者は何度も写真を撮ったが現象をしてみればフィルムには何も含まれていなかったという。
一方おかしな船一隻が海の上を航海していた。 どこの国表れたのも分からなかったし、甲板に人の影だと見られなかった。 ‘ひょっとしてどこで遭難に合ったことではないだろうか?’して船員が小さい船に乗って近く近付いて、その時まで早く駆け付けた船が突然止まってしまった。 船員はびっくりしたが気がついて再びその倍に近付いた。 ところでどういうわけかたった今まで航海をしていた船内に人々とは見えなかった。
船長室は誰か清掃をしたように整理整頓がうまくいっていた。 他の所も同じだった。
食堂の器であり酒のビン等も全てのものがきちんと置かれていた。 暴動が起きたとすれば明らかに船内は乱闘場になっていなければならないのにいくら見てもそうしたことではないようだった。 あたかもコンピュータで全てのものが作動するように目的地に向かっていた。 これで終わったらそんなに驚くべき事ではないだろう。 本来驚くことは10日後で起きたが、その船は乱れた姿なしで予定されたところに向かって相変らず航海を継続していた。 すぐに幽霊船メリー・シルレスト号の話だ。 
 
お化けの研究

 

1、お化け・妖怪・幽霊の違いについて
妖怪・幽霊の研究史
平田篤胤・・・・超自然現象や死後の世界とまじめに取り組んだ最初の学者。(江戸時代)
「宇宙は顕と幽の両界から成り立ち、その世界を創造・支配する神が、天御中主神である。人間が死後におもむく国は幽冥界であり、その幽冥界の支配神は、大国主神である。この幽冥界に おいて人間の霊魂は、生前の行為に基づいて審判を受ける。」
井上円了・・・・世間に流布する迷信の打破を目的に妖怪の存在否定のため妖怪研究をし、妖怪博士と呼ばれた。それ以前に普通に使われていた「化け物」という言葉と並んで「妖怪」という言葉を定着させた。現在の東洋大学の創始者。(明治時代)
「世間の妖怪談中には、人の故意に作られるもの多ければ、いかに不思議らしく見えても、ことごとく信ずることはできませぬ。」
柳田国男・・・・人間の過去から現在にいたる精神生活の実態を明らかにするために、幽霊や妖怪の研究に真っ正面から取り組んだ民俗学者。(大正から昭和時代)
お化け(妖怪)と幽霊の区別(「妖怪談義」より)
・第一に、おばけは出現する場所が決まっているのに対し、幽霊はどこへでも現れる。
・第二に、おばけは相手を選ばず、誰にでも現れるのに対し、幽霊の現れる相手は決まっていた。
・第三に、おばけの出現する時刻は宵と暁の薄明かりの時であるのに対し、幽霊は丑満つどきといわれる夜中に出現した。
・おばけとは、前代信仰の零落した末期現象の姿であり、かつては神々のすがたであった。
諏訪春雄・・・・今回の発表で参考資料とした、岩波新書刊『日本の幽霊』の著者。
「もともと人間であったものが死んだ後、人の属性をそなえて出現するのものを幽霊、人以外のもの、または人が、人以外の形をとって現れるものを妖怪というように考えておく」
「現状と前身に、人間以外の存在が関与するのが妖怪、しないのが幽霊。」
「妖怪は、しばしばその異界性ともいうべき超自然性やその他界性を失って現世の秩序に組み込まれてしまうことがある(正体がばれる等)のに対し、幽霊がその他界性を失って現世の秩序に組み込まれてしまうことはない(他界へ去っていく等)。」
結論
今回の研究発表では、お化けと妖怪の差異については、無視することとする。もちろん、多少の差異はあるにしても、その違いを調査研究するには、若干の日数不足が感じられるからである。むしろ、「お化け=妖怪」とみなすことで、妖怪と幽霊の違いを研究した方が、より研究成果が高いと判断したのがその理由である。
そこで、幽霊と妖怪の違いについて、とりあえず結論づけたい。
          幽霊        妖怪
出現する姿かたち  人間的       非人間的
その正体の前身   人間        非人間 又は 人間
出現する時間帯   丑満時(夜中)    宵・暁(薄暗がり)
出現する相手    選ぶことが多い   相手を選ばない
正体がばれた時   他界へ去るので、  前身に戻るので、   
          日常性を持たない  日常性を回復する 
2、幽霊に足がない理由
幽霊には足がないとよく言われる。足のない幽霊を描くもっとも古い資料は、寛文13年(1763)刊行の古浄瑠璃「花山院きさきあらそひ」である。この作に登場する藤壺の怨霊の挿し絵には、明らかに腰から下がない。この時代に描かれた全ての幽霊に足がないわけではないが、17世紀の半ば頃から、幽霊には足がないという俗説が流布したのは間違いないらしい。ではなぜ、江戸時代に入って幽霊は足を失ったのか。俗説には、歌舞伎で幽霊を登場させるのに、漏斗と呼ばれるネズミ色の先の細くなった衣装で足を隠すことから一般化したという説もある。他にも、円山応挙(1733〜1795)筆の足がない幽霊の絵がもとになったという説もある。しかし、前述の「花山院のきさきあらそひ」の挿し絵にすでに足のない幽霊が描かれていることから、これらの俗説は、全て時期的にはさらに下ってしまうので、正しくはないだろう。
元禄時代に「保元平治軍物語」という古浄瑠璃が刊行されたが、その中の崇徳院の亡霊(幽霊)を守る武士たちが挿し絵で描かれているが、その武士たちの足は雲に隠れて消えている。
この雲と幽霊の足が消えることとは、関係があるようだ。雲は、鎌倉時代以降、空間(次元)を分ける役割として用いられている。実際に、絵巻物などでは、各部屋と部屋とのしきりや、各場面と場面との変化に雲が描かれている(すやりがすみ)。これは、まさに空間や次元の変化を雲が抽象的に描いたものであった。雲は、空間の転移・変化を表現する手段であった。また、死者の乗り物としての雲や、神・仏・超自然的な存在の乗り物として雲が描かれているものも多い。さらに、何か不可思議なことが起こる祭には、現在でも、もくもくとわき出る雲でその瞬間を描く。昔話でも、たとえば浦島太郎の玉手箱からは、雲がわき出る。不可思議な力の表現としての雲の役割も見逃せない。
しかし、江戸時代の資料で、幽霊の足が雲に隠れているからと言って、それだけで、幽霊に足がないことの理由とするのは弱い。さらには、不思議な力を持つものの霊力の抽象的表現として雲が描かれていたとした場合、それだけでは、幽霊のみが足を失っていることの説明にはならない。
そこで、仏教の経典である「十王経」が参考となる。当時の民衆は、もちろん「十王経」を直接読む機会はほとんどなかったであろう。しかし、江戸時代ともなると、僧侶たちの説教や地獄絵図は民衆にかなり普及していた。その中では、しばしば「十王経」で書かれている、次の文句がかなりの頻度で引用されていたようである。その内容は、「地獄に落ちた亡者は、罪の報いとして、自分たちの手足をその通行税として鬼に差し出さねばならない。」というものである。この考え方がかなり広まっていたとすれば、幽霊が手足を切られ、両手首をたれて足のない姿で江戸時代に登場することは納得がいく。
つまり、幽霊に足がないのは、地獄の責め苦のイメージの表現であり、それを表すのに、当初は、雲で空間の転移を表現していたと考えられるのである。 
3、日本の代表的幽霊
(1) 皿屋敷のお菊「番町皿屋敷」
盗賊改をつとめる旗本、青山主膳の屋敷は、江戸の五番町にあり、かつて豊臣秀頼未亡人の天樹院が住んで吉田御殿と呼ばれていたこともある。主膳は、江戸を騒がせた盗賊向崎甚内を捕らえて処刑し、甚内の娘の菊十六歳を女奴隷として屋敷に召し使うことにした。
主膳は非道の人物で、その妻も酒好きで道に背いた殺伐な心の持ち主であり、日頃、下女の菊の美しさを憎み、つらくあたっていた。
菊は主人が大切にする南京皿十枚のうちの一枚を誤って割ってしまった。承応二年(1653)正月二日のことである。女奴隷で給金のない菊には弁償の方法もなく、立腹した青山夫妻は菊を責めさいなんだ。主膳は、花一枝を一指を斬りとってつぐなわせた弁慶の故事を引用して、菊の右中指を斬った上に、正月十五日過ぎに殺害することにして、一室に縄をかけて押し込めた。
十五日になって、明日は殺される運命をはかなんだ菊は、縄つきのまま逃げだし、屋敷の裏口の竹やぶの際の古井戸に身を投げて死んだ。青山は幕府に病死と届け出て済ませたが、その年の五月に生まれた青山の男の子には、右の手の中指が一本不足していた。
これよりのち、毎夜、真夜中から明け方まで、この井戸から怪光を発し、井戸の底で、一つ・二つ・三つと九つまで数え、「悲しやのう」と皿の一枚足らないことを嘆く菊の声が聞こえるようになった。そのために奉公人は居つかず、ついに青山の家はとりつぶしとなった。しかし、その後も幽霊は出たため、青山の屋敷は皿屋敷と呼ばれ、寄りつく人間はいなかった。
そこで、幕府は、小石川伝通院の住職了誉上人に、菊の亡霊を鎮めるように命じた。上人は、菊が一つ・二つと皿を数え九つまでとなった時、声を張り上げて「十」と叫んだところ、「あなうれしや」と亡霊は一声呼ばわって成仏した。その後、不思議に亡霊の出現は止んだという。
(2) 四谷怪談のお岩(鶴屋南北著「東海道四谷怪談」より)
浪人の民谷伊右衛門は、かつて主家の御用金を横領して立ち退いた自分の旧悪を知られている妻お岩の父、四谷左門を浅草裏田甫でだまし討ちにした上、そのことを隠して、お岩に敵討ちの約束をする。
お岩の妹お袖は、貧しさから私娼窟に出ていた。お袖に横恋慕している薬売りの直助権兵衛は、お袖の夫佐藤与茂七とまちがって、浅草裏田甫で、昔の主人の息子奥田庄三郎を殺した。直助も、夫が殺されたと思いこんでいるお袖をだまして、敵討ちの助太刀の約束をする。
雑司ヶ谷四谷町にお岩と浪宅をかまえた伊右衛門は、隣家の伊藤喜兵衛の孫娘お梅が、自分に惚れているのを利用し、縁組みして立身出世をはかろうとする。伊右衛門は邪魔になるお岩に姦通の罪をきせて追い出そうとし、伊藤喜兵衛もまた自分の孫かわいさから、顔かたちの崩れる毒薬を偽ってお岩に飲ませた。
お岩は醜く変貌した。恨み死にしたお岩と、無実の罪をきせて惨殺した下男の小仏小兵を戸板の表裏に釘付けにした上で、伊右衛門は、その戸板を川へ流した。
お岩と小兵の怨霊は、伊右衛門にはげしく祟った。伊右衛門は錯乱して、嫁入りしてきたお梅とその祖父喜兵衛を殺害した。その後も、お岩と小兵の怨霊は、伊右衛門に祟り続けた。深川十万坪隠亡堀で釣り糸を垂れていた伊右衛門の前へ、見覚えのある戸板が流れ寄る。伊右衛門が引き上げるとお岩の怨霊があらわれ、裏返すと無念の形相の小兵に変わる。
夫の与茂七が人手にかかって死んだと信じているお袖は、深川三角屋敷で直助権兵衛と所帯を持ったが、まだ体は許していない。しかし、姉のお岩の死を知らされ、身寄りのなくなったお袖は、夫の敵討ちの助太刀の約束を固めるために直助と同衾する。ところがその直後に夫の与茂七が訪ねてくる。自分の過ちに気づいたお袖は、自分から手引きして、二人の夫の手にかかって死ぬ。直助もまた、自分が誤って旧主人の子息を殺してしまったこと、お袖がなんと実の妹であったことを知って自害する。
お岩と小兵の怨霊に追いつめられ、伊右衛門の錯乱はしだいに深くなっていく。本所の蛇山庵室で仏の力にすがって苦しみから逃れようとした伊右衛門であったが、夢の中にもお岩の怨霊が出現し、半狂乱のうちに、佐藤与茂七に討たれて死ぬ。
(3) 累(かさね)と助の亡霊
下総国岡田郡羽生村(茨城県水海道市羽生町)に累(かさね)という、みにくい女が住んでいた。この女の親ゆずりの田畑に目がくらんだ同村の百姓与右衛門が入り婿となった。しかし、累はみにくいだけでなく心のねじまがった女であったので、耐えられなくなった与右衛門は、ひそかに殺そうと決意した。
畑仕事を終えて、暮れ方、絹川までさしかかった時、与右衛門は、累を川の中へ突き落とし、首を絞めて殺した。与右衛門は、累の死体を同村の浄土宗法蔵寺に運び葬った。正保4年(1647)8月11日のことであった。
累の財産を自分のものにした与右衛門は、女房を6人まで迎えた。前の5人は子がなくて死んだが、6人目の女房に娘が一人生まれた。菊と名付けたが、娘が13歳になった年に、その母も死んだ。
その年の暮れに、菊に金五郎という婿をとって与右衛門の老いの助けとした。翌年の正月、菊が煩い、口から泡をふいて苦しみながら、「わたしは菊ではない。そなたの妻の累だ。26年前、絹川でよくもわたしを責め殺したな。地獄から訪れて菊の体に入れ替わり、おのれを絹川で責め殺すのだ。」と与右衛門につかみかかってきた。必死の思いで与右衛門は、法蔵寺に逃げ込んだ。
懸命に怨霊をなだめようとする村人に対し、累の死霊は、後生の弔いのため、石仏一体の建立を求めた。村人がその要求を入れても、死霊は菊から去ろうとしない。
そのころ、飯沼の弘経寺に止宿していた祐天上人が、この累の話を聞き、羽生村におもむき、不思議な法力で十念を授け、累の霊を解脱させた。寛文12年(1672)3月10日のことであった。
累が求めていた石仏が完成し、弘経寺で法要がいとなまれ、羽生村法蔵寺の庭に据えられた。累の死霊も成仏したと人々が安堵していた寛文12年4月19日のこと、菊がまたも死霊に悩まされているという知らせが、祐天上人のもとに届いた。
上人が駆けつけて、菊にとりついた死霊に正体を問うと、助と名のる6、7歳の子供の霊があらわれた。昔を知っている老人の物語から、61年前、累の父の先代与右衛門が、他の村からめとった女の連れ子がこの助で、みにくく不具であったため、与右衛門がこの子を嫌い、やむなく母は助を川の中へ投げ込んで殺したこと、また翌年生まれた女の子が、助と全く同じ不具のみにくい子で、この娘が累であったことなどが明らかになった。
祐天上人が、十念を授けると、助の悪念もついに成仏をとげたという。 
4、黄昏時(誰そ彼時・彼は誰時)
黄昏時というのは、だいたい日が暮れてしばらく経った、人の姿の見分けがつきにくい時間帯を指す。この「黄昏」はヤマト言葉にあった「誰そ彼は」(そちらにいるあなたは一体どなたですか)の音と中国語で同じ時間帯を示す「黄昏」が合わさったものである。
「誰そ彼は」と誰かに問いかけなければ不安でならない時間帯を黄昏時というのであるが、なぜにかつての日本人がそう不安に思ったのか。
かつて小集落による共同体的な生活を行っていた村々では、当然のことながら、その村の住人たちの全てについて、その背格好・容姿・性格等まで、皆がよく知っていた。しかし、木綿の衣服のようにぴったりと身に付く衣服を、当時の人々は着ていなかった。当時通常身に付けていた、麻を素材とした衣服は、誰もが一様に着膨れており、薄暗がりの中、向こうからやってくる人物が誰なのか、今よりも見定めにくかったのである。見ようによっては、どの人も知った人のごとく見え、もしくは、それと反対に、足音の近寄るのを聞きながら、声を掛け合うまでは皆よそ者の人のように考えられるのが、この誰そ彼時の常であった。
向こうからやってくるのが知った人ならばいいが、それが見ず知らずの旅人かもしれない。実際、またこの時間には、多くの見馴れない者が、急いで村々を過ぎていこうとしていたのである。だから、そんな時代の村々では、黄昏時に途を行く者が、互いに声を掛けるのは並の儀礼ではなかった。いわば自分が化け物や見知らぬ者ではないことを、証明する鑑札も同然であった。もちろん村人同士ならば、互いの語音をよく知り合っているわけだから、「今晩は」「どなた」といった声を掛け合うだけで、お互いに安心し合えたのである。
また、当時の村々では、領主や名主などの許しなく、旅人を自分の家に泊めるのは御法度とされ、掟を破ると死罪になるか村八分とされるなど、きびしく処断された。宿場町はその唯一の例外であった。従って、旅人は村人にとってある種危険な存在であり、実際に村内をうろつくよそ者は、盗人か無宿人か何かの、ろくでもない者たちばかりであった。当時の村人たちにとって、旅人は鬼や妖怪とほぼ同じ程度の不安を以て、迎え送っていた存在であった。
そんな大いなる不安を生む黄昏時は、鬼や妖怪を育む絶好の時間帯であったことも、この一事をもってうなずけるであろう。 
5、妖怪5種(柳田国男著「遠野物語」・「妖怪談義」より)
(1) 座敷童子(ざしきわらし)
旧家にはザシキワラシという神の住みたもう少なからず。この神は多くは十二三ばかりの童子なり。おりおりに人に姿見することあり。土淵村大字飯豊の今淵勘十郎という人の家にては、近きころ高等女学校にいる娘の休暇にて帰りてありしが、或る日廊下にてはたとザシキワラシに行き逢い大いに驚きしことあり。これは正しく男の児なりき・・・
ザシキワラシまた女の児なることあり。同じ山口なる旧家にて山口孫左衛門という家には、童女の神二人いませりということを久しく言い伝えたりしが、或る年同じ村の何某という男、町より帰るとて留場の橋のほとりにて見馴れざる二人のよき娘に逢えり。物思わしき様子にて此方へ来たる。お前たちはどこから来たと問えば、おら山口の孫左衛門がところからきたと答う。これから何処へ行くのかと問えば、それの村の何某が家にと答う。その何某はやや離れたる村にて、今も立派に暮らせる豪農なり。さては孫左衛門が世も末だなと思いしが、それより久しからずして、この家の主従二十幾人、茸の毒に中りて一日のうちに絶え、七歳の女の子一人残せしが、その女もまた老いて子なく、近きころ病みて失せたり。
(2) 川童(かっぱ)
川の岸の砂の上には、川童の足跡というもの見ること決して珍しからず。雨の日の翌日などは、ことにこの事あり。猿の足と同じく親指は離れて人間の手の跡に似たり。長さは三寸に足らず。指先のあとは人のように明らかには見えずという。
外の地にては川童の顔は青しというようなれど、遠野の川童は面の色赤きなり。
(3) 塗り壁(ぬりかべ)
筑前遠賀郡の海岸でいう。夜路をあるいていると急に行く先が壁になり、どこへも行けぬことがある。それを塗り壁といって怖れられている。棒を以て下を払うと消えるが、上の方をたたいてもどうにもならぬという。壱岐島でヌリボウという似たものもあるらしい。夜間路側の山から突き出すという。出る場所も定まりいろいろの言い伝えがある。
(4) 置いてけ堀(おいてけぼり)
置いてけ堀という処は、川越地方にもある。魚を釣るとよく釣れるが、帰るとどこからともなく、置いてけという声がする。魚を全部返すまでこの声が止まぬという。本所七不思議の置いてけ堀などは、何を置いて行くのか判らぬようになったが、元はそれも魚の主が物を言った例であろう。
今現在でも、「おいてきぼりを食う」などと言うが、その語源がこの妖怪である。
(5) 子啼き爺(こなきじじ)
阿波の山分の村々で、山奥にいるという怪。形は爺だというが赤児の啼き声をする。あるいは赤児の形に化けて山中で啼いているともいうのはこしらえ話らしい。人が哀れに思って抱き上げると俄かに重く放そうとしてもしがみついて離れず、しまいにはその人の命を取るなどと、ウブブやウバリオンと近い話になっている。
(6) 一つ目小僧(ひとつめこぞう)
左衛門佐殿領分の山にセコ子という者あり。三四尺程にて眼は面の真中に只一つあり。その外は皆人と同じ。身に毛もなく何も着ず。二三十づつ程連立ちありく。人これに逢えども害を為さず。・・・・言葉は聞こえず、声はヒウヒウと高く響く由なり。 
6、私の信じる妖怪説(とても真実とは思えない)
(1) 座敷童子(ざしきわらし)
座敷童子の誕生は、もともとが各時代に起こった飢饉に由来する。飢饉の際、貧しい村人たちは、生まれてくる子がいても、それ以前に生まれた子や自分たちが食うだけで精一杯で、とても育てられないと判断し、その新生児を間引き(殺した)したと言う。その間引きの犠牲者が座敷童子となった。もちろん当時長男が全ての相続をしていたので、最初に生まれた男の子は、間引きされることはなかった、従って、座敷童子に長男はいない。また、女の子は、悲しいことに「人買い」に売られた時代でもあり、間引きされなかったようで、女の子の座敷童子も存在しないらしい。
そんな誕生の経緯をもつ座敷童子は、いつもおしっこに濡れたおむつをかっており、座敷童子のいる付近は、むれたおむつのにおいがするという。また、間引きの犠牲者とはいえ、間引きされた事実に関する怨念を持つことはなく、ただただ母を慕い、子供とともに遊ぶことを喜ぶという。優しい妖怪の座敷童子である。
ところで、座敷童子が移動する際は、たいていの場合、徒歩の移動が考えられているが、長距離の移動を必要とする場合には、その移動手段がものすごい。寺の鐘の音は、空気を振動させて伝わっていくわけだが、その寺の鐘の音の振動波にジャンプしてつかまり、遠い村まで移動するというのである。従って、座敷童子の移動スピードは、マッハ1ということになるようだ。F16か何かで空を飛ぶと、座敷童子に会えるかもしれない。
現在、年齢に関係なく、時折「かなしばり」という現象にみまわれることがあるが、その際に、ほうきで畳を掃く音が聞こえたり、すえた臭いが感じられたりする場合、多くは座敷童子が身近にあらわれた証拠だという。
(2) 山姥(やまんば)
山姥は、身長が2m程度有り、かなり腕力があった。山姥が人を食うというのは本当のようで、山で行方不明になったりした人たちを「神隠し」にあったなどというが、大半は山姥に食われてしまったのかもしれない。
山姥は、脚力が非常に強く、一歩で一山を越えるらしい。ものすごいスピードで移動が可能なため、山姥に目をつけられたら、人間は逃げられないとも言う。
また一説に、山姥はイモや鳥獣を主食とした農耕民族以前の日本列島の先住民族とも言われ、雪男や雪女の原型ともされるという。江戸時代以前の日本人は、鳥獣を口にする習慣があまりなかったため、それを主食とする彼らをおそれたことから、山姥や山人として忌み嫌ったとも考えられる。
(3) ぬりかべ
ぬりかべは、山中に、黄昏時と呼ばれる夕暮れ時までいると現れたという。主に中程度の樹木の近辺に出現し、四体一組となって人を襲うらしい。このぬりかべ四体は、どうやら家族らしく、人間を四方から取り囲み、逃げられない状況にしたところで、山姥を秘密の笛で呼び、捕らえた人間を山姥の食べ物として差し上げるという。ぬりかべは悲しい妖怪で、山姥から授かる食べ物しか口にできないようで、その食べ物を得るために人を捕らえているとのことである。
しかし、ぬりかべには弱点がある。膝のあたりがその弱点らしく、ぬりかべに囲まれてしまった場合には、細い棒で、地上高30cm近辺を地面と水平にすうっと一なですると、たちどころにぬりかべはその場から立ち去るという。このあたりは、前述の柳田国男著「妖怪談義」(講談社学術文庫刊)に詳しい。 
7、昔話の秘密(青春出版社刊「日本昔話『謎』と『暗号』」より)
(1) 「浦島太郎」の玉手箱の正体
浦島物語最大の謎。なぜ開けてはいけない玉手箱を、わざわざ渡す必要があったのだろうか。中身のヒントは、「玉手箱」という名前そのものである。玉手箱の「玉」とは、古代において「魂(タマ)」を表し、玉手箱とは実は「魂の込められた箱」という意味なのだ。一度神々の世界に足を踏み入れた浦島は、俗世の時間を生きられなくなったために、亀姫が浦島の魂を箱に封印して身を守り、それを本人に持たせたのである。
(2) 「カチカチ山」の狸の真の立場
兎が狸をこらしめるためとは言え、その殺し方はかなり念が入っている。火で責め、唐辛子で苦しめ、最後は溺死寸前を櫂でたたき殺すという残酷さだ。兎は、見せしめのように狸をじっくりと料理しているが、それに対する狸はまるで無力である。
実は、この話は、部族間の争いで、最終的に勝利した側の象徴が兎であり、敗者の代表を刑に処すときのやり方が描かれているようだ。つまり、狸はとらわれの身であり、兎という死刑執行人が、劇場で観客を喜ばせばながら殺しているのである。
最後に狸は泥舟に乗せられたまま沈んでしまうのだが、この舟は、柩(ひつぎ)の象徴だろう。というのも、「舟」は柩、墓地などの意味があり、あの世へ誘う乗り物だからだ。「日本書紀」では、貴族を納棺する儀式を「おふね入り」といい、舟と柩が同じ意味であることを示している。したがって、舟に乗せてあの世へ送り出すというのは、敵ながら相当の地位を持つものの処刑だったのだろう。
(3) 「はないちもんめ」の「はな」とは
「はないちもんめ」の「花」というのは植物ではなく、「花代」つまり娼婦に払う代金のことである。「いちもんめ」というのは一匁あるいは一文目、つまりお金の単位である。結局この童謡の話は、不作や飢饉に苦しんだ貧しい農民が、娘を売りに出す歌ということになる。
すると「あの子がほしい」「この子がほしい」というのは人買いたちで、「あの子じゃわからん」「この子じゃわからん」というのは娘の親たち。「勝ってうれしい」は実は「買ってうれしい」、「負けてくやしい」は「まけて(値切られて)くやしい」親たちの嘆きだったと思われる。
今、人買いと聞くと悲惨な話に思えるが、非常に貧しかった時代の農村では、子供を餓死させるくらいなら、都会へ出した方がましだという親たちの思いもあったのである。
(4) 「かごめかごめ」
これは子供の持つ不思議な霊感による遊びと言われているが、古風な神がかりの一つのやり方が、子供の遊びに残ったとも言われている。
座っている子を中心にぐるぐる回ることで、真ん中の子は次第に霊力を増していく。「かごめかごめ」というのは鳥ではなく、もともと「かがめ、かがめ」という意味で、霊魂を体に入れていくための儀式であると言う。それをいつの間にか、真ん中の子を鳥と見立てることで、「籠目=かごめ」という言葉に変化したのだろう。
また、「夜明けの晩」とは明け方の暗いころの意味で、「鶴と亀がすべった」は「つるつるすべった」から転化したと言われる。
真ん中の子供を中心に四方を囲むことは、「辻」をつくることだという。辻とは基本的に二本の道が交差するところを指す。
昔の人々は、辻には良い霊も悪い霊も集まってくると考えた。だから悪い霊は祓わなければならない。そこで霊を慰撫するための歌や踊りなどの芸能が発達したという。つまり「かごめかごめ」も、辻芸能の子供版と言えるわけだ。
(5) 清水の舞台
「清水の舞台から飛び降りる」という言葉は、死んだ気になって決断するという意味だが、昔は、それどころかまさに死を意味していた。
平安末期の日本には、大寒冷期が訪れ、各地で飢饉が発生した。京都も例外ではなく、飢えた庶民が町にあふれ、疫病などの流行が重なって、皆ばたばたと死んでいった。鴨川は川底に積み重なった死体の山で水がせき止められるほどだったそうである。
当時、位のない者は墓を造ることを禁じられていたので、庶民の死体は野山や川に捨てられた。実は清水寺のがけ下の谷間は、こうした庶民の集団墓地だったのだ。清水の舞台とは、谷間に死体を捨てるために便宜上、廊下を張り出して造られたものだったという。そして、町から離れた絶壁の上にわざわざ建立したのは、死体の臭気を防ぐためだったのだ。
「清水の舞台から飛び降りる」とは、飛び降り自殺を意味するのではなく、まさにそれ自体が死を指していたのだ。 
 
お化け考

 

おばけの条件
おばけには、共通する性質がある
ある冬の日、ぼんやりと色々なオバケを思い浮かべていて、全体に共通する性質がいくつかあることに気がついた。書き出してみると、なかなか面白い。我ながらよくできている。私はこれを「おばけの条件」と呼ぶことにした。
どんなオバケでもこれらの性質を必ず全て満たしているというわけではない。しかし伝統的なオバケの多くが、こういう性質を持っている。たったの5項目だが、オバケという存在を解き明かすカギとなる性質だと言えるだろう。
これは私が独自勝手に考えたものなので、民俗学などの専門家の意見とは違っていると思う。でも全然気にせず、ここに、その5条件を発表する。
これが、おばけの条件だ!
条件一 オバケの「出る」シチュエーションは決まっている。
橋のたもと、柳の木の下、古井戸、丑の刻…。伝統的なオバケだけでなく、新しいオバケにも決まったパターンで出るものがとても多い。
条件二 オバケは「出る」相手を選ばない。
たまたま条件の合う場所へ適当な時間に行ってしまった人がオバケに遭遇する。つまり、オバケを避けようと思えば、そういう状況に身をおかなければよい。
条件三 オバケとはコミュニケーションが取れない。
オバケは勝手に出て、勝手に何かをして去って行く。こちらの都合は全くおかまいなしだ。「いそがしいんで後にしてください」と頼んだりはできない。
条件四 オバケは独自の論理で行動する。
なぜ出るのか。なぜおどかすのか。なぜ突然背中に乗るのか。なぜいつまでも皿を数えるのか。オバケの考えは理解しがたい。
条件五 オバケは異形である。
オバケは日常出会う人々や動物と区別できるような、奇妙な形をしている。出会った当初は人の形をしているオバケもいるが、正体をあらわすとやっぱり異形である。
おばけみたいな人間もいる
さて、その後、一般の人間の中にも、オバケの条件をかなり満たしている人がいることに気がついた。一般人におけるオバケ度の高低が一体何を意味するのかは不明である。今後の研究課題とするつもりだ。
しかし、とりあえず、簡単なチェック項目を用意したので、自分や周囲の人たちがどの程度オバケ的か調べてみてほしい。中には本物のオバケが人間に化けている例もあるかもしれない。昔から狸や狐は人に化けていたずらをするというではないか。 
信じる、信じない…
私には、見えないのだ。幼なじみのY子ちゃんは、霊感派である。
ごくたまのことだが、死んだはずの親戚の人が庭先に半透明の姿でうっすらと立っているのを目撃したり、大事件の予知夢を見たりすると言っている。
こういう話をするときの彼女の表情はいつもと変わらない。たとえば新しいお化粧品の情報を教えてくれるときとまるで同じだ。私は彼女が不思議を見ているとい う話を疑ったことは一度もない。でも、同じ物が私に見えるわけではないのだ。そのへんが切ない。決して行くことができない遠い外国の話を聞いているよう だ。
弟は、透視少年だった。
小学生の頃トランプの裏側が透けて見えたのだ。際限なく実験を繰り返そうとする姉の私を疎ましがりつつ、しかし従順に何度もトランプの山を赤と黒とに鮮やかに分けてみせてくれた。
今 それができれば、宝くじ売場へ行って当たりくじだけをよりだしてもらうのだが、こんな不思議ができたのは彼の体の調子が悪くて家にこもりがちだったほんの 短い時期だけである。すっかり図々しい大人になり果てた現在は、もうトランプを色分けして遊ぼうという発想自体、彼の頭の中にはないだろう。
私の記憶が鮮明であればあるほど、本当に赤と黒に分かれたトランプの山を確認したのかどうか、私は実際にあれを体験したのか、わからなくなってくる。だって、そういうことは、普通は起きないことになっているのだ。
お通夜やお葬式などの席で聞くところによれば、臨終の前後、子供が「誰かがいる!」といって火のついたように泣くという。同じ話を何度か聞いたことがある。 生死の境で、子供たちには何かが見えるらしい。でも、私はもう五歳の子供ではない。いくら彼らが泣いても、私には何もわからないのだ。
先日乗ったタクシーの運転手さんも、面白い話をしてくれた。深夜、空車でぼんやりと流していたら車体にドンという衝撃を感じた。あわてて車を寄せ外へ出る。 ところが、確かに人をはねたはずなのに、どこにも怪我をしてうずくまっている人がいない。人ではなく犬か何かかとも思い、周囲を探しても何もない。間違い なく大きい物をはねたはずなのに…。
もちろん最後のはよくある作り話のにおいがプンプンするが、作り話と決めつけては失礼だ。運転手さんたちはだいたい作り話が得意なのだが、本当のことだという可能性がないわけじゃない。
オバケを含む不思議の話は、伝聞だったり少し嘘くさかったりするのがまた魅力なので困ってしまう。決して確かにはつかまえられないことが、もしかしたら不思議の本質かもしれないとも思う。
というわけで、私自身は何も見たことがない。いつまでたっても憧れているだけである。
丑三つ時、薄暗い廊下、自分の足音だけが妙に大きく聞こえるしんとした空間の、明かりの届かない隅っこに何かの気配…。オバケの存在が確認されて、そんな「何か」が本当にいるということになってしまったら、私はどうするのだろう。
あるいは、たとえば三角頭で目が大きい宇宙人が朝のニュース番組に出演して「どうも、グレイです」などと自己紹介をしたら。ネス湖の水を抜いてネッシーがいないことが確認されたら。
そうなったら私は一体どう感じるのだろう。神秘性が減ったとがっかりするんだろうか。それとも、別の不思議をみつけてそれに憧れるんだろうか。
ことは「信じる」「信じない」で二分できるほど単純ではないらしいのだ。たぶん、わからないということ自体にある程度の価値があり、それがよけい事態をやや こしくしているのだと思う。見たいみたいといいながら、私は自分が不思議の存在を信じているのか、いまだによくわからないでいる。 
おばけと幽霊
言語感覚のずれについて
柳田國男先生によれば、オバケと幽霊には断固たる違いがあるらしい。「妖怪談義」という一文の中で、センセイは「誰にも気のつくようなかなり明瞭な差が、オバケと幽霊の間にはあったのである。」と書いている。
この差がわからないのはとても恥ずかしいことらしく、「われわれは怪談と称して、二つの手をぶらさげた白装束のものを喋々するような連中を、よほど前からもうこちらの仲間には入れていないのである。」と言い放っておられる。
このさわやかな自信。柳田センセイは、論理の展開はへたくそだが、こういう風な断定は実に鮮やかで人の気持ちをとらえて離さない魅力がある。
しかし、この一文を読み、私は困ってしまった。私にはオバケと幽霊の明確な差はわからない。柳田センセイに馬鹿にされるのは悲しいので色々考えたのだが、やっぱりわからない。
幽霊は確かに成仏し損ねた死者の霊だろう。そこはセンセイと意見が合う。が、オバケの集合が幽霊の集合を含んでいるような気がする。私の記憶では、手ぶらぶ ら白装束は出てくるときに「うらめしや〜」とも言ったが「オ〜バ〜ケ〜」とか「オバケだぞ〜」とも言ったはずだ。自らオバケだと名乗っているのに、どうし て?
なんだか納得できない。
幽霊が必ず恨んでいるとは、センセイのご本だけでなく辞典の類にも書いてあるほどの常識である。でも、私自身には、そういう感覚もあまりはっきりとはない。
幽霊は柳の下や古井戸のそばを通りかかる人があれば、それが特定の恨みの相手でなくてもとりあえず姿を現して悲しみを訴えるのではないかという気がする。
こう考えるのは、お化け屋敷や夏場の肝試しで無作為にびよーんと出てくる幽霊のイメージを植え付けられてしまったせいかもしれない。あるいはテレビや漫画雑誌、怪談本などの影響だろうか。柳田センセイの時代のオバケは今のオバケととても違っているのだろうか。
一八七五年生まれのセンセイと、二十世紀も終わりの私では言語感覚が違って当然かもしれない。でも、辞書や百科事典の言うことと食い違うのはちょっとまずい。
しかし、こればかりは本物のオバケのいる場所へ出かけて確認してくるわけにいかないのだ。もうどうにも仕方がない。
そういうわけで、私は腹をくくることにした。
この「おばけずかん」の中では、自分の言語感覚に従い、不思議なもの全体をオバケと呼んでしまう。幽霊は成仏しそこねた人の霊。妖怪は幽霊以外のオバケ。た だし幽霊と妖怪以外にも分類不可能な独自の姿をしたオバケがいるので、オバケ全体の集合の中に、それぞれ重なりのない幽霊、妖怪、その他という三つのカテ ゴリーを考えている。 
なぜ、足がないのか
ある意味でオバケの代表選手とも言える「幽霊」には、色々気になることがある。
まず、足なし現象。
最初に足のない幽霊を発明したのは江戸中期の画家円山応挙(1733〜1795)だと聞いた。丸二百年も前の人だ。
円山応挙は花鳥風月から人物まで守備範囲が広く、品格ある画風で知られる立派な芸術家である。「藤図屏風」「雪松図屏風」などが代表作だ。決してオバケばかり描いていた変人ではない。
この画家の幽霊は非常に格調高く、ほとんど美人画のようである。恐ろしげな感じはない。この世とあの世の間に漂う、たよりなげな存在でありながら、現世のアブラっ気を超越した魂の清潔さを感じさせる幽霊である。
一人の名人の表現力がたまたま足のないオバケを描いた。落ち着く先を持たない、つまり、地に足のつかないはかなさ。それがあまりに幽霊のイメージを上手にと らえていたため、後の日本の幽霊の形態が変わったのだろう。名人の技である。それくらいの影響力があっても不思議ではない。
でも、写真を撮ってグラビア印刷するのは無理な時代に、浮世絵師ではない円山応挙の作品がどうやってそれほどたくさんの人の目に触れたのだろうか。今なら写真がふんだんに使われた雑誌はいくらでもあるが、当時は写真ではなく、木版画である。
これが応挙の幽霊。美人画ですね。応挙の絵を見た浮世絵師がそれを真似たのだろうか。それとも円山応挙本人が食い詰めて挿し絵でも描いたのだろうか。それとも弟子がこぞって師の絵を真似たのだろうか。江戸時代だから、アーティストの独自性なんて誰も気にしてなかっただろうし。
このへんは美術史を少し調べれば わかりそうだから、そのうち頭をつっこんでみたいと思っているが、どっちかというと、同じ時期に同じようなことを考えた人はたくさんいて、比較的時期がは やかった人の中で丸山応挙が有名だった、という程度のことのような気がする。流行ってのは、そんなもんでしょう。江戸時代の日本には、流行が生まれる程度 に濃厚な文化ってのがあったんですもんねえ。
オバケには足がないといわれているが、足音のするオバケは、けっこうたくさんある。深夜にオバケが廊下をたたた、と歩く音が聞こえたりするのは、日常茶飯事である。たしか水木しげるの絵と 思うが、いきなり巨大な足だけが座敷にドーンと現れるようなオバケもいた。ことオバケに関する限り、常識は持つだけ無駄、決めつけもまったくできないのであった。
うすどろも気になる。
うすどろも面白い。足なし現象と同じくらい気になる。
ヒュードロドロという芝居じみた効果音と共に出てくるオバケが他にあるだろうか。そんなのは幽霊だけである。
登場するたびにドロドロドロ…これはまるでおなじみのキャラクターの登場をドラマチックに盛り上がる音楽、たとえばゴジラが登場するとき鳴り響く「ゴジラのテーマ」のようなもの、あるいは落語家が登場するときの出囃子のようだ。
うすどろがテーマ音楽だとすれば、「幽霊」というキャラクターが娯楽メディアの産物であることがそこで証明されているも同然だ。
白装束手ぶらぶらの幽霊は、 庶民の心の中にある漠然とした畏怖をとらえて形にし、印象深くなるようデフォルメを加えたエンターテインメント用のキャラクターなのだ。
歌舞伎脚本作者、鶴屋南北の代表作「東海道四谷怪談」には「この時、うすどろたて、障子へタラタラと血かかる途端に」というト書きがある。うすどろを使って 怖い場面を盛り上げているわけだ。四谷怪談の初演は一八二五年。江戸後期にはもうひゅードロドロがト書きに使われるほど市民権を得ているのだ。やはり江戸 時代あたりの庶民文化に今私たちが考える幽霊のルーツがあるのだろうか。
現代の創作オバケのうちで、幽霊のように生き残って百年、二百年後に人々のオバケのイメージの中核を形成する立場になっているものがあるとすればどれだろう。時代を超えた魅力を持つキャラクターを、現代日本は生み出せているだろうか。ゴジラは二十三世紀になっても愛されているだろうか。 
ハイブリッド生物のパワー
みーんな、融合なのだ
色々な動物の部品が混じったハイブリッド生物系統のオバケは龍や麒麟に限らない。不思議なほど多くの種類がある。人魚もユニコーンもそうだし、スフィンクスもミノタウロスも、鬼も狐つきもそうだ。言ってみれば天使だってそうだ。
新しいものだと、仮面ライダーやバットマンの類もある。もっとも仮面ライダー本郷猛は改造人間だという設定だし、バットマンは特殊に高度な技術力を持っているだけで、衣装はコスプレ、中は普通の人間だからオバケとして論じるわけにはいかないが…。
異なる生物を融合させればエネルギーが増す。これがハイブリッド生物系統のオバケが生まれる論理である。素材となる生物の種類が増えるほど強い力が生まれると考えれば、聖獣とされている龍や麒麟ののごたまぜな姿の由来も納得できるというものではないか。
メキシコへ旅行したとき、この種の木彫りの面や置物を大量に置いている不気味な店に偶然遭遇し、眩暈がしそうになった。
小さい店の天井から床までびっしりと、これでもかこれでもかと融合生物の姿が並んでいる。ありとあらゆる動物の組み合わせが試されている。どれを手に取っても土産物にありがちな媚びを含んだ軽さ、あざとさがない。「本物」の力強さに満ちている。
あとで本を読んだところによれば、なんでも、キリスト教以前のメキシコ文化はこんな風だったのだそうだ。私はすっかり感心した。というのも、これはとても安易で便利な発想なのである。
たとえば蛇女の形をした神様をまつった宗教があったとする。蛇女というのは、普遍的に不気味な取り合わせである。神聖かつ強大なイメージにぴったりだ。
たまたまこの蛇女にふさわしい敵として、悪魔役にマングース男みたいなのを想定する人が出たとする。蛇女は負けてはいられないから、「どうだー!」とばかりにワシと融合し、翼と鋭い爪を手に入れ、蛇ワシ女となったりする。
するとマングース男は「なにをこしゃくな!」と言って対抗策として甲虫と融合し、装甲を手に入れる。すると…という具合に際限なくエスカレートしていくことができる。どんどん悪趣味な形が生まれる。特別の才能や技術はいらない。小学生レベルの悪のりで充分だ。
常識はずれの組み合わせは、機能的パワーアップのためばかりではないはずだ。視覚的に不気味な結果を生むので、決まり切った日常のたいくつから感覚をひっぺがしてくれる。つまり、足場が揺らぐ興奮まで味わうことができるというわけだ。
かくてメキシコにハイブリッド生物が大量生産され、ある日、日本人旅行者が迷い込む店一杯にハイブリッドパワーが満ちあふれることになる。
お疲れの旅行者がこんな風にエグく発展した結果を目にすれば、ゆったり感心などしてはいられない。腹の底に大きな衝撃を受け、気持ちが悪くなるのが関の山だ。
だから、その店で呆然と立ちすくんだ私は、何一つ買えなかったばかりでなく、証拠写真すら撮れず、早々に退散してしまった。今思えばもったいないことをしたものだ。はるばるメキシコに行く機会など滅多にあるものではないし、その店に再度たどり着ける確証だってないのに。
ハイブリッド生物という発想の簡単さ、その後の展開の安易さを考えれば、ハイブリッド生物を作ることを思いついた文化の全てがメキシコのような経過をたどらなかったほうが不思議なのだが、ひょっとして、他の地域では、悪趣味すぎて敬遠されたんだろうか。多分そうなんだろうと思う。人間、いつまでも小学生のままではいられないからなあ…。 
 

 

聊斎志異を読む
オバケと結婚?
「聊斎志異」という中国の本がある。著者、蒲松齢がぽつぽつと書きためた、幽鬼や狐などに関する奇談を集めた十七世紀の短編集だ。先日久しぶりに岩波文庫の上下二巻を買い求めてみるとこれが結構良いので、寝しなに少しずつ読み進んでいる。
再読していて、この本に出てくるオバケの多くに共通する特徴があるのに気づいた。それは、オバケのくせに、美しく色っぽいことである。「あんな美しい人がいる筈がないと思っていましたが、案の定、狐でした。」というような場面が続々と出てくる。
そして、主人公(ほとんどが男性である)は、狐だとわかっても全然気にせずに、その絶世の美女に恋いこがれ、障害があれば乗り越え、あっという間に床を共にして歓を尽くす。その上、状況がゆるせば正式に結婚し、もちろん子供だってもうけてしまうのだ。
昔の中国の人は、オバケを怖がらなかったのだろうか。オバケと気づいた瞬間に「ギャー!」と腰を抜かさなかったんだろうか。これが不思議でたまらない。その上、オバケと結婚。そんな大胆な!
オバケが怖いのは、恐らくそれが異世界から来た異質なものだと感じられる点にあると思うのだが、中国ではオバケと人間の区別の仕方が日本とは違うのだろうか。
日本の昔話にオバケと結婚するパターンがないわけではない。
まず「鶴の恩返し」が有名だ。しかし、あの話では、妻が鶴だったという事実は、男が約束を破って機織りをしている部屋をのぞくまで明らかにならないのだし、その後鶴は「もうここにいることはできません」などと言ってどこかへ飛び去る。オバケと人間の間で家庭生活を維持しようという考えは「鶴の恩返し」には全くない。
「浦島太郎」では、ごちそうを食べ、タイやヒラメの舞を見て竜宮暮らしを謳歌しているはずの太郎が、なぜか昔をなつかしみ、悲しむ乙姫様を振りきって浜辺へ戻る。
よくできた妻が実は狐だった、などという昔話もいくつかある。だが、それらも幸せに暮らし続けるパターンのものはなく、狐の正体が明らかになった瞬間、それまでの暮らしは破綻する。「見〜た〜な〜」とか「もうここにはいられません」という「鶴の恩返し」に似た形で、狐と人間の仲は引き裂かれる。
落語では「狸賽」というのがある。男に命を助けてもらった子狸がお礼をしにやってきて、自分は化けるのが得意だから「なんならあなたのおかみさんに」と申し出るが、男は「たぬきのおかみさんはいけねえや」とかなんとか言って断る。それではこうしましょう、と狸の提案があり、物語の本筋に入っていくわけだが、ここでもまた、オバケと人間は住む世界が違い、結婚生活は無理だということになっているのだ。
何かのマクラに使われた小噺だったか、、乙な年増が泊まって行けというので、これ幸いと楽しんだ男が、朝になってみるとお地蔵さんにかじりついていた、あれは狐だったのだろうという馬鹿らしい逸話もあった。なんとも気の毒な人だという以外、言うことがないが、これは結婚ではなくて一夜の接近遭遇であるから、今回は計算に入れない。でも、このパターンは、けっこうたくさんある。
色々考えたが、オバケと人間が楽しく暮らしたという話を思いつかない。どうやら日本のオバケは人間とは生活を共にしにくい性質を持っているらしいのだが、「聊斎志異」では違うのだ。
日本人は、心が狭いかも
ある晩、ビールを飲みながら友人にこの話をしたら、そんなのは簡単に説明がつくよ、と言う。友人の説はこうだ。
日本人は、周囲を海に囲まれ、外の世界の異質なものに遭遇する心配は基本的にない。
ところが、大陸の国であり、東アジアの大国である中国の人は、常に辺境の異質なものと接している状態である。基本的なルールを守って生活できるなら、どれほど珍妙な人でもメインストリームの社会の中に受け入れてきた歴史を持っている。それが大国としての中国の懐の深さである。
つまり、物語の中の人とオバケの関係は、社会のありようを反映したものだと言うのだ。島国ぐらしの日本人は狭量で、オバケの豊かさを受け入れて共存する物語が作れない。
ちょっと待て、それではあんまり我が日本に厳しくないかと反論したくなったが、確かに日本の社会のそこここにそういう面が見て取れる。私は説得されてしまった。
そこで私たちは、よーし、それなら二十一世紀は「オバケを怖がらないニッポン」を作ろう! 口裂け女とキスをしよう! 狸の八畳敷にくるまって眠ろう! などと大いに酔っぱらいの気炎を上げ、ビールと水餃子の追加注文をして盛り上がったのである。
というわけで、格調高い古典である「聊斎志異」は、ビールの肴としても結構イケルという報告をさせていただいた。でも、酔っぱらっていないときにも、しみじみ考えてみる価値がありそうな話ではある。
なんか、納得できなかった
どうもまとまりすぎていて、気味が悪い。でき過ぎの説明だから、疑わしい。ほとんど本能的な警戒感。そういうことって、ないだろうか。
実は、私にとっては前回の「中国は懐が深い説」がこのクチだった。
自分で一度「説得された」と決めておきながら、私はやっぱりこの説に全面的には納得できず、おしりの辺がむずむずしていた。理由はうまく説明できないのだが、どうもコトの本質をついていないのではないかと疑いがあったのだ。
すると、新説が登場したのである。
イタリア料理店で中国人の友人と焼きたてのピッツアを頬ばっていたら出てきた話である。中国で一般にどの程度「聊斎志異」が読まれているのか知らないが、最近読んだばかりの私と話が合うほど、彼女は内容をよく覚えていた。映画が共通の話題になることはあっても、書籍、それも古典でこういうことは少ない。私たちは喜び、スプマンテをどんどん飲んだ。そして、ああだこうだとやっているうちに、話は面白い方向へ転がっていった。
オバケたちではなく、物語に登場する主人公たちの性質に注目してみる。主人公は男性が多いが、中でも貧乏で人品卑しからぬ受験生、あるいは学者というのが無闇に多い。これは、作者である蒲松齢と、この物語を回し読みしていた読者たちの身分をそのまま反映している。
一七世紀の中国は受験社会である。歴史の時間を思い出して欲しい。「科挙」という官吏登用制度があり、学問が尊ばれる一方で、試験に通って出世できてナンボの世界でもあった。
そんな時代を生きる彼らのエンターテインメントとして、「聊斎志異」は生まれたのだ。
先のわからない受験生の身分では、もちろんモテない。かといって、大きく羽目をはずすにはプライドが高すぎるし意気地もない。「恋しちゃならない受験生」である。現実にはちっともいいことがなかった彼らにとって、オバケだろうが何だろうが、相手をしてくれる美女の存在を想像させてくれる物語は、血沸き肉踊るものだったのではないか。
そう考えていくと、あっ、道理で男に都合のいいストーリーがやけに多いはずだ! と得心がゆくのだ。
「聊斎志異」の中で、口説きの場面がとても少ない理由もこれで説明できる。そんな場面は、読んでも楽しくないのだ。面倒はすっ飛ばして、さっさとお床入りし、えもいわれぬ香りを体中から漂わせる足の小さな美女と実事に及びたいのである。
だから、オバケの麗人を妻として迎えた場合には、彼女たちは実によく働き、親への気遣いも忘れず、家をもり立てて、その上優秀な子を産む。そういうストーリーばかりなのは、読者の願望を体現しているのである。
つまり、端的に言ってしまえば「聊斎志異」は男性用ハーレクイン・ロマンスである、という解釈になる。
オバケと超常現象は、八方ふさがりの受験生生活にロマンスが成立する必然性を作るために、またそのロマンスの味付けとして、ぜひとも必要だったのだ。
容姿端麗で、出会ったばかりの男に惚れてしまい、結婚すれば模範的な妻になり、男を出世させる。オバケだろうが人間だろうが、そんな都合のいい女がいるわけがない! と「聊斎志異」を批判しても無駄だ。それは、財産家で、ハンサム、教養もある上、背が高い男が、突然平々凡々なヒロインを口説き始めるわけがない! という、ハーレクインロマンスに対する批判と同じくらい不毛なのだ。だって、もともとこれは夢物語なんだもーん。
なあんだ、そうだったのか
さて、そういう前提で、あらためて幾篇か読んでみる。
お下げの少女が…手にした花で差し招く。…いきなり抱きしめると形ばかり抗ってみせただけだったので…  (壁画の天女 画壁)
布団の中が冷えてはいないかと、手を差し入れてみた…すべすべした人の肌に触ったので、ぎょっとして…美しい女である。上品な顔立ちに真っ白な歯がこぼれている。…狂喜して、戯れに下のほうへ手を入れてみた…  (女妖と二人の男  董生)
うとうとしかけたとき、誰かが部屋に入ってきたような…どうしたのかと聞くと、娘がにっと笑った。「あまりいいお月夜なので眠れないんです。かわいがっていただけないかしら。」  (蘇った美女  聶小倩)
なるほど。
というわけで、「聊斎志異」はピッツアとスプマンテにもあうことが判明した。だが、そんなことよりも、私は夢見がちなこの作者に一言、「ええかげんにせいよ!」と言ってやりたい。
消える乗客
シートがぐっしょり・・・
タクシーの運転手さんと話をするか、しないか。私は断然「する」派である。正体不明の男性と密室の中でおし黙っているのが気味悪いからでもあるが、運転手さんたちのおしゃべりが楽しみだからというのも大きい。もっとはっきり言えば、怪談が聞けるからである。
「いえね、お客さん。このあいだ、不思議なことがあったんですよ」そんな風に始まる前置きが出てきた瞬間、私は「このタクシー大当たり!」と心の中で叫んでいる。
四谷のあたりを流してたんですよ。夜中の、そうねえ、二時ごろかなあ。これから新宿へ出て、もう一稼ぎできるかな、って時間ですね。雨の降る冷え込む晩でねえ。こう、角んところに人影があって、手をあげてるから停まってその人を乗せますね。若い女性ですよ。ほそ〜い声で「このあたりに薬局はないでしょうか」って言うんだね。深夜営業の店の見当がついたから、すぐそこに一軒あるはずですから行きましょうって車を走らせる。何買うんですかって声をかけると、赤ちゃんの飲むミルクだって言うんですね。はー、きれいな娘さんだと思ったけど人妻かぁ、って、俺は意味なくがっかりしてね、まあ関係ないんですけどね、その薬局まで行くわけですよ。
そんで「ハイ、つきましたよ」って車を停めて振り返ると、誰もいない。うずくまってるとか、途中で扉開けて出ていったとかじゃないんですよ。そんなんなら、すぐ分かりますよ。いるはずの人がいない。で、シートはぐっしょり濡れている。もう背筋がぞくーっとね。どうしようかと思いましたね。
… お客さん、あなた、今、ああよくある怪談かあ、なんて思ってるでしょ? だけどね、これは本当なんですよ。だって、俺が体験した話なんだから、ウソのわけがない。後で考えると、この女の人を乗せたのは、墓地の裏なんですね。それもまた、よくある怪談みたいでしょ? そりゃあ俺もね、人から聞いたら疑いますよ、当然。でも、体験したのは、この俺なんですよ。いやー、ほんとに。色白の、はかなげな人でしたよ。
乗っていたはずの客が消える。これが、タクシーの怪談の基本であり、定番である。時間、場所、天気などのディテールを少しずつ変えた形で、私はこの「消える乗客」の話を何度も聞いている。運転手さんの話が上手か下手かなんてどうでもいい。結末が分かっていても、怪談で怖がらせようと考えている話し手の意気込みと、ディテールのつけかたににじみ出る人柄で、毎回楽しませてもらえるのである。
ハイウェイの幽霊
ところで、この話には、そっくりの英語版がある。「ハイウェイの幽霊」とでも呼ぶべきアメリカ版は、やはり道路まわりの怪談の基本であり定番であるらしく、細かいバリエーションがたくさん存在している。ひとつ紹介しておく。
夜のハイウェイを長距離トラックが走る。
田舎の街道沿いに、若い女性がパーティドレスを着て立っているのが見える。彼女は親指を立て、乗せて欲しいと意志表示している。夜道に女の子を歩かせておくのはいけないと、運転手は車を寄せる。乗せてみると、とても若い。まだ高校生である。寒いらしく、むき出しの肩がふるえている。運転手は上着を貸してやる。しばらく走って隣町まで行き、どこで降りるのかと訪ねようとすると、彼女は消えている。着せかけてやったはずの上着もない。何が起きたのか分からないまま、運転手はその夜の仕事を続けるためハイウェイをひた走る。
後日、どうしても気になって、彼女を乗せた場所の近辺でたずねると、高校の卒業パーティの夜に事故にあった娘がいたという。墓参をしに教会へ行ってみると、彼女の墓石の上に、あの夜娘に貸したはずの自分の上着がきちんと畳んであった。
くうう。これって、トラック野郎のロマンそのものじゃないですか。
どうです、どちらも無賃乗車だし、うれしくなるくらい骨格が良く似ているでしょう? さすが定番の怪談。夜中に車を運転していると、こういうことを考えたくなるんだろうか。
どこで読んだのか忘れたが、なんでも江戸時代には、タクシーを駕籠にかえて、現代と同じ「消える乗客」の話が流通していたそうだ。もちろん明治の人力車バージョンもあっただろう。ニューヨークのイエローキャブ版、なんてのも、捜したらきっとありそうだ。時代と土地の枠に限定されがちなオバケだが、中にはこういう身軽なタイプがいるのである。
将来、東京湾岸の「ゆりかもめ」みたいな無人運転の新しい交通機関で、個人用のものができたとする。運転手が必要でない交通機関の登場は、「消える乗客」にとって、消えたオバケを目撃して語り伝える役をする人がいなくなるということを意味する。オバケとオバケに遭遇した人の両方が登場して、はじめて怪談が成立するのだから、これは定番の怪談の存続が危うくなるということだ。大丈夫だろうか。
しかし、多分、こんな心配は無用だ。ベーシックな怪談であるだけに、どんな状況でもちゃんと生き残っていける程度の生命力は内包していると考えて「消える乗客」を信頼しておくのが正解だろう。たとえば、運転手が語る今までの形ではなく、誰かほかの人が語るような新しいバリエーションが生まれるに違いない。そのくらいのことができなくて、江戸の昔から延々と残っているわけがないではないか。
今ここで想像する限り、二十一世紀の「消える乗客」のイメージは、なかなか軽やかで、したたかな感じだ。いいぞいいぞ。一生の間に何回ぐらい聞けるかなあ。 
怪談牡丹燈籠
珍しい美人のおばけ
きれいな幽霊を作るには、箱入り娘が死ななければならない。三遊亭円朝作の「怪談 牡丹燈籠」を読むと、そういうことがわかる。
日本の代表的幽霊と言えば、四谷怪談のお岩、番町皿屋敷のお菊、そして牡丹燈籠のお露が御三家だろう。この中で、牡丹燈籠は、定着したイメージが全然恐くないどころか、美しいという点でユニークである。
御三家の残りふたつは、定石通りに髪振り乱したバケモノの形相である。しかし、牡丹燈籠では、女二人が美しく彩色された提灯を持って歩いている。あでやかに着物を着、結い上げた髪には櫛かんざしが飾られている。無論、顔はおだやかに微笑んでいる。バケモノ、というよりは、むしろ幻想的な美しさをたたえた美人画のようだ。
で、なぜ牡丹燈籠は美しいのかというと、このオバケは男に裏切られていないから、である。幽霊というのは、たいてい「うらめしや〜」と言って出てくるものだし、お岩とお菊の場合も、苦労と恨みが積み重なって、あの形相である。が、牡丹燈籠は例外なのだ。
お露は良いお家のお嬢様で、偶然出会ったハンサムに一目ぼれし、恋煩いで死んだ。世間知らずの女の子が片思いをし、何も行動できないままオバケになったものだから、凄みの出しようがないのである。
お露と一緒に歩いているのは、おつきの女中、お米である。この人は、恋煩いでやせ細って行くお嬢様の看病疲れで死んだ。こんな二人の組み合わせでは、どう化けでも、恐くなるわけがない。あまりに純情すぎて、まるで、コメディではないか。
その上、お露の想い人である新三郎は、実はやはり彼女に一目ぼれしていて、本人たちは知らないが、この二人は、片思いではなく両想いなのだ。おいおい。そんなんで死んじゃあ仕方ないだろうに。
現実の江戸から明治にかけての恋愛事情は、いくらなんでもこんなに純情一途というわけではないだろう。だって、奔放な恋愛の話も、いくらでもあるではないか。でも、話を箱入りのお嬢様という人種に限れば、恋煩いをするしかない不自由さは、本当だったかもしれない。
お露を化けさせたのは、彼女本人の想いの深さではなく、好きな人に連絡を取る手段さえなかった当時の社会の不自由さである、と私は思う。なぜって、一目ぼれをして、その後、相手と再度口をきく機会もないうち、つまり、バレンタインのチョコを渡す機会も来ないうちに死んでいるのである。あんまりではないか。しかし、恨む間もなく死んだということで、オバケになったときには、美しい。
これに比較して、最近のお嬢さんたちならば、とりあえず通信手段には恵まれているから、恋煩いのために命を削るなんてことは、あまりしないで済んでいるのではないか。携帯の番号を聞き出したり、グループで遊びに行ったりしているうちに振られるならば、諦めがつきやすく、わざわざ化ける気もしないだろう。
…とすると、このごろは、きれいな幽霊の数は減ってるのかな。幽霊の数自体、減ってるのかな。どうなんでしょうね。
参考までに書いておけば、作者、三遊亭円朝は、今からほぼ一世紀前、1900年に没した落語家である。落語家の作だから、当然、わかりやすく、面白いストーリーである。
読んでみれば、オバケの出る部分はほんのちょっとなので、「怪談」とタイトルについているのはサギだと思うし、なんだか人気が出たので連載回数を突然増やしたマンガみたいな、ご都合主義のストーリー展開でもある。でも、観客の気持ちを引き込むに不都合はない。誰でも胸に覚えがある片思いの苦しさを題材にして、こういう突拍子もないメロドラマも「あり」なのだ。
まあ、文句は、あえて言わないでおこう。それよりも、こんな連続ドラマ的波乱万丈の人情噺を、明治時代の口語で読む幸せの価値のほうを強調しておきたい。発表当時、この速記本は、庶民にも読みやすい口語体で評判になり、雑誌の売上にずいぶん貢献し、言文一致運動の牽引役となって、二葉亭四迷などに影響を与えたりもしたらしい。旧仮名遣いさえ気にならなければ、ルビがふんだんに振ってあるので、現代の私たちにとっても、読みやすい一冊である。 
お化け

 

座敷わらし
座敷わらしという妖怪は、いるようないないような、とらえどころのない存在である。こういうあいまいさが非常に魅力的であると思うのは私だけではないらしく、座敷わらしを題材にした話がいろいろ作られている。
萩尾望都のマンガ「11人いる!」もよかったが、今回は、あえてこの作品のネタ元、宮沢賢治の「ざしき童子のはなし」を材料に話をすすめる。というのも、「ざしき童子のはなし」は、もう決定版! と言っていいほどこの妖怪の特徴をよくとらえているのである。(興味のある人は、岩波文庫の「童話集 風の又三郎」ほかあちこちで読めるので本家を見て欲しい。)
座敷わらしの特徴の第一は、「気配」である。たとえば、誰もいない座敷で、ざわざわと箒の音が聞こえる。のぞいてみても「お日さまの光ばかりそこらいちめ ん、明るく降って」いるだけ。開け放った日本家屋の真骨頂とでも言いたくなる、なんとも美しい場面である。一部に座敷わらしを「そうじをしてくれるオバ ケ」だとする説があるが、それはこの文章があまりに印象深いために派生したのではないかと思う。
次の特徴は、「子供の数が増える」ことである。座敷で遊んでいた十人の子供。いつのまにか、数えてみると十一人いる。「ひとりも知らない顔がなく、ひとり もおんなじ顔がなく」どう数えても十一人いるのである。ここで増えた一人が座敷わらしなのだ。それまでは気づかずにみんなで楽しく遊んでいたのに、おやつ を十人分持ってくるとひとつ足りないので変だな、ということになったりするのだろう。
第三の特徴は「福の神」であることだ。あるとき、紋付を着て袴をはいたきれいな子どもが、「飽きたから他へ行く」といって渡し舟にのる。その子が行く先だ と言った家はその後栄え、飽きたからと言った家はおちぶれたのだそうだ。この行動は貧乏神と同じ、家についてその運命を左右する神様のパターンである。
家につくものには、神様も妖怪もあり、オバケと神様が大変近い関係にあることがうかがわれる。民俗学のほうでは、オバケは神様のおちぶれたものであるということにもなっているから、それも不思議ではないのかもしれない。
少し気になるのは、座敷がなくなってきた最近の日本の家で、座敷わらしは一体どこに登場したらよいのだろうか、という点だ。大きなお世話かもしれないが、 ダイニングキッチンだのウォークインクローゼットだのに出入りするする座敷わらしなんて、まるで格好がつかないと思うのだ。それに、せっかくひとつの家に 居座っても、その家が栄える前に「そろそろ契約更新の時期だから」なんていって引越しされてしまうかもしれない。
さらに言えば、少子化、核家族化も、どうにも都合がわるそうだし、なにより親戚づきあいが薄くなってきたのがまずい。最近は本当に子どもが少ない。ここ十 数年、人が多く集まる冠婚葬祭の場面ですら、子どもの数を数えるような必要はなかったかもしれないと思えるほどだ。またひとつ、日本からオバケが減ってゆく。なげかわしいことである。 
口裂け女
起源
下校中の小学生が街角を曲がる。いきなり、大きなマスクをした大人の女性が目の前に登場する。服装、髪型共にフツーの人である。女性はマスクを取る。そして、耳まで裂けた大きな口をカッと開き、すこし媚びを含んだ目つきで尋ねる。
「あたし、きれい?」これが私のイメージする口裂け女の姿だ。
口裂け女は、必ず「あたし、きれい?」と尋ねると決まっている。相手は小学生だというのに耳まで裂けた口を見せて、一体何と答えてほしいのだろう。「きれいだ」と言ってほしいのか、「そんなことはどうでもいい」と言ってほしいのか、それとも「オバケ〜!」と叫んで逃げてほしいのか。
彼女が友人だったら、小学生を脅かすのはやめて美容院へでも行き、髪型と気分を変えていらっしゃい、と言いたいところだ。いい年して子供を襲ってるなんて、情けないではないか。
1970年代の終わりあたりに登場し、一気に口伝えで全国区へ拡大したと思われる現代のオバケである。最盛期には口裂け女が怖くて一人で行動できなくなった子がたくさんいたと聞いた。
オバケ度は100%。完璧に伝統的なオバケの条件をそろえていることに驚かされる。いくら時代が変わっても、怖さというものの構造は変わっていないのだということが分かる。
ところで、この1970年代終わりという時期は、日本で春先の花粉症が目立つようになった時期と同じである。花粉症→マスクで防御→顔を隠した大人が花粉症特有のうつろな様子で歩いている→怖い→オバケ誕生。私は口裂け女と花粉症にはこういう関連があるとにらんでいる。
研究
なにしろ伝説としてでなく、リアルタイムで出現している妖怪として話を聞いた人が多い現代のオバケなので、口裂け女の話をすると、自分が聞いたのはこうだっ た、という具体性を持った反応が戻ってくることがとても多いのだ。この種の生情報は、自分ではオバケに遭遇したことがない私にとって、何にも勝る宝であ る。ありがたいありがたい。
その中から、今回は義妹からもらったメールに出てきた情報を紹介する。
大学に流言の権威といわれている変わり者の先生が「口さけ女」の研究をライフワークにしていました。そこで私も興味本位でいろいろ調べていたのですが、噂の発生の地は「岐阜」という説が有力なようです。
先生は学生に「いつごろこの噂を聞いたか」というアンケートをよくやっていましたが(それを書くだけで単位をくれるとの噂だった)、どうも「岐阜」のあたりが一番早かったらしいのです。
なぜそんな噂に? という原因ははっきりはしないのですが、その頃岐阜でバスが崖から転落した事故があったそうなのです。どうやらその事故で顔に傷を負った女性がいたのでは…との噂。あくまで噂ですが。
それが気がつくとカマを持っているとか、バイクより早く走るとか(メカか?)、実は3人姉妹だったとかよくわからない尾ヒレがどんどんついていったのですね。
ちなみに茨城県北部にいた私は小学校3年生の3学期(昭和53年?)に知りました。集団下校とかさせられたんですよ、その噂によって。その後テレビなどにも取り上げられるようになり全国区となったんですが、今ならもっと早くメディアにのっかってしまうんでしょうねえ。
とまあ、こんな具合である。
「バス転落事故説」が本当だとすると私の「口裂け女花粉症説」はあっけなく否定されてしまって残念だ。しかし、口裂け女に遭遇しないように集団下校させられる 小学生がいたというのはすごい。いったい茨城県北部の大人たちは何を考えていたのだろうか。そんなことをすれば、子供たちがますます妖怪の存在に確信を持つだけではないか! 
あきれたものである。まさかとは思うが、大人も怖かったのだろうか。 
狐 
狐憑きは、すごそうだ。
狐はよく化ける動物トップの地位を狸と争えるほどの立派なオバケだが、狸と比べて最も違うのは、狐は「憑く」が狸はあまり憑かないという点だろう。
憑きものの話には、とても興味をひかれる。私自身直接身の回りにそんなことが起きた体験はないが、あったらどれほど面白いだろうかと、大都市に生まれ育ってしまったのが悔やまれる。
というのも、狐は都会では滅多に活動しないらしいのである。東京や大阪で狐が憑いたからお払いをしたという話を聞いたことは一度もない。
狐 に憑かれた人は、一時的に気がふれたようになる。奇妙なことを口走る。「コーン」とか「ケーン」などと鳴く。油揚げを欲しがる。油をなめる。突然暴れる。 恨み言を言う場合もある。どこへ入るのかと思うほどの大食である。年寄りがピョンピョン跳ねたりするなど、通常では考えられない行動に出る。予言をするな ど、超人的な能力を発揮する場合もある。大変な変身ぶりだが、狂乱状態から正常に戻ると、自分が何をしていたのかまるで覚えていないという。
田舎へ行くと、狐を代々飼っている家があり、その家は「狐持ち」の筋などと呼ばれる。どの家が狐を飼っているかは、みんな知っているけれども口に出してはならない秘密になっているらしい。この家の人に恨みをかうと、狐が相手のところへ出張して行き、憑くのである。怖い。
無論、狐は悪いことばかりしているわけではない。
山中で子狐をひろって大事に育てた人が、その後は狐に守られて金持ちになったなどという昔話がある。小泉八雲の作品にもそんなのがあったはずだ。
こういうのを全部、精神異常の一形態として精神医学的に、あるいは村落共同体の中の人間関係のなせるわざとして社会人類学的に説明する方法もあるが、それでは全然狐の話にならず、つまらないのでそっちへは行かない。 
化け猫
私たちは、あやつられている。
ものの本によれば、10年以上の年を経た古い猫は、みな尻尾が割れて人語を解す「猫又」というものになるらしい。つまり、化けるのだ。
猫という動物は、どんなにわがまま放題をしても、なぜか容認される。親しく知るほど不思議でたまらない。いや、はっきり言って、うらやましくてたまらない。
「ごはんちょうだい」「はやくちょうだい」と言ったと思えば「やっぱりいらない」「外へ出たいの」「扉を開けて」外へ出る。扉を開けてもらっても礼など言わな い。そのわずか1分後にまた「開けてちょうだい」」「はやく開けてったらあ」とわめき散らし、当然のような顔で入る。そしてまたすぐに「外へ出たいな」 「扉開けてよ」「開けてってば」「開け〜て〜」
よく言われることだが、人間の私たちがこんなことをしたら、あっと言う間に誰からも相手にされなくなってしまう。それが猫だとわがまま放題は許されるばかりでなく、人々はでれでれとした猫なで声を出しながら進んで猫の奴隷になる。
18 歳で死んだ実家の三毛猫の行動を詳しく観察したが、どこに秘密があるのか全然分からなかった。人を自在にあやつる魔性の生き物だとしか思えない。10年モ ノが化ける話に従えば、こいつは18歳だったのだから、もう尻尾は2本ではなく、7本ぐらいに分かれているはずだった。でも、もちろん見た目は1本だし、 注意深く触れてみても尾が枝分かれしている様子はない。
ひとつ言えるのは、猫は自分の要求がかなえられないかもしれないなどという心配を微塵もしないらしいということである。確信を持って要求をし、2秒前のことはさっぱり忘れ、確信を持って次の行動にうつる。この性質は人間にはないものだ。
キーワードは「確信」である。たったそれだけで猫と同じように周囲の人間を全員奴隷にできるとは考えにくいが、見習いたい。
猫の目をのぞいてみる。何を考えているか全くわからない。心が通じる気がしない。この点は犬と違うところだ。犬とは会話が成立する気がする。仲間になれると も思う。しかし、猫は違うのだ。全くこちらの心情に興味がないような顔だ。魚類の無表情とは違う。猫の顔には明らかに表情はあるのだが、それは私たち人間 が正しく理解できるようなものではない。
猫には人間と心を通わせる気がない。猫は人間を問題にしていない。長年の観察から、そう断定できる。彼らが人間のそばに寄ってくるのは、暖をとりたいとか、食べ物が欲しいとか、退屈であるとか、何か実用的な理由があるときだけだ。
なぜ、人間はこんなものを飼って要求されるままに食物を与えているのだろう。
私の考えるに、たぶん、これは私たちの選択したことではなく、猫の考えでこうなっているのだ。私たちは猫にあやつられているのだ。猫のやわらかな姿を見ると、思わず黄色い声で「ねこちゃ〜ん」などと言いたくなるように術をかけられているのだ。
つまり、猫は、若いか、10年モノになって尻尾が分かれているかに関係なく、全て化け猫なのだ。
母は「子供を産んだ記憶はないが、猫はおなかを痛めて産んだような気がする」とまで言っている。新たな三毛猫を家に迎えた今、またもや出かけるたびにせっせと猫の好物を買っている。気づくと私も同じことをしている。つくづく猫の妖力は恐ろしい。 
幽霊 / なんで白装束?
白装束。手を胸元あたりでぶらぶらとぶらさげて「うらめしや〜」と言う。膝あたりから下がすっと消えるようになくなっている。ふわふわと宙に浮く。顔色が悪い。髪はざんばら。目の上に瘤をつくっている。何か訴えようとしていることが多い。登場の際はひゅードロドロとうすどろが鳴る。薄暗い場所を好み周囲に青い火の玉を伴う。陰気である…。
こんなあたりがよく見る幽霊の基本形だろうと思うのだが、なんでまたこう景気の悪い姿になっているのか。生前の姿に近い形で出ればいいものを、何を好きこのんで白装束になるのか。
だれそれの幽霊を「見た」という具体的な目撃談で、こんな姿のオバケが出ることはない。白装束の幽霊はあくまで「幽霊」という名前の架空のキャラクターである。不気味だが、デフォルメされすぎているためどちらかというと馬鹿ばかしく、怖いという感じは薄い。
少し前に叔母が死んだとき、葬儀屋さんは、白い着物に三角を額に巻き杖を持ち脚絆をつける姿、つまり、オバケと同じ衣装を用意した。(あ、もちろん、オバケは手ぶらぶらで脚がないので、杖を持ち脚絆をつけていることは私はこのときまで知らなかった。)
これを見た母は、仲良しだった妹が棺の中でオバケになって横たわっているのが我慢ならず、三角の上からきれいな色のスカーフを巻き、白装束が隠れるように明 るい色の着物を着せ掛けた。そして上手に塗らないと文句を言われるわと気にしながら、顔色が良く見えるように化粧をした。
おしゃれで粋で江戸っ子的にぎやかさが持ち味だった叔母が、辛気くさいオバケの衣装であの世に旅立つとはとても考えられない。彼女を知る人の立場からすれば、白装束が許せないのはごく自然な感情だった。
ここで不思議なのは、白い衣装をつけた死者を見て、オバケしか連想できなくなっている、私を含めた日本人の宗教感覚である。この白装束は巡礼の姿だ。しか し、時代と共に本来の宗教的な意味合いが全て剥奪されて、オバケにしか見えないため、反発を感じてスカーフなど巻きたくなってしまうのだ。それほど、私た ちの宗教的知識、感覚は薄っぺらなのである。
私自身には特定の宗教を擁護したい気持ちは全くない。だからなおさら、冠婚葬祭の時だけ出てくる仰々しい宗教的儀式と、それに参加する人々の宗教心のなさというずれには、どこか居心地の悪いものを感じる。
この際、さっぱりと無宗教にするわけにはいかないのだろうか。
でも、そうしたら、法事のあとでハナモゲラ語(死語?)でお経の節回しの真似をして大笑いする楽しみがなくなってしまう。これもまた、自分の家の宗派のお経ひとつ暗誦 できない現代日本人の宗教心のなさを証明してしまうようなものだが、私の家では、ハナモゲラでの読経が、法事の後の行事として、家族の歴史と習慣に組み込 まれているのだ。ああ、どうしたらいいのだろう…。 
 

 

天使
メスの天使は少ない。
天使は羽の生えた人間の形をしたハイブリッド生物型オバケである。淡い色の光に包まれ、頭の上にドーナツ型の光の輪を乗せていることが多い。何か目的のありそうな表情をしていることは少なく、曖昧に微笑んでいるような感じがする。羽は人間の肩胛骨のところに白色の鳥の翼を取り付けた形である。
あんな身体でどうやって服を着るのかと疑問だが、着衣の天使は上半身裸の天使と割合としては半々だと思うので、まあいざとなればどうにかなるのだろう。
オスの天使はよく見かけるが、メスの天使の数は少ない。これは天使が両性具有、あるいは性を超越したものだというイメージがあるため、上半身を絵にすると、 どうしても男性の形でを描いてしまうことになるからだと思う。下半身は布など巻き付けて曖昧にしておけるが、上半身に胸のふくらみがあってはメスの印象が 強すぎて困るのだ。可愛い女の子や、やさしい女性を「天使のようだ」なんて言ったりするが、「のようだ」は、天使である、ということとは違うのだろう。
キリスト教は、主に男性の神性を強調した宗教で、女性はあんまり問題にされてない、というあたりも、メスの天使の少なさに一役買っているかもしれない。
性別の問題を解決するには、幼児の形で天使を表現する方法がある。幼児ならバストはないし、筋肉や骨格なども性別を意識せずに描けるからだ。腰に布を巻き付けなくても生々しさがないのもいい。弓矢を持った愛の使者キューピッドはだいたい幼児形になっている。
親しみやすく愛らしい形態からか、日本でも森永製菓のエンゼルマークなどで充分定着している。が、このイメージ、もとはキリスト教世界のものである。聖書に は「主の使い」というキャラクターが無数に出てくるので、この感触には一応の根拠がある。しかしもう一歩踏み込んで考えてみると、キリスト教以前から天使 はいる。たとえば、紀元前のギリシア時代から幼児形の天使の絵があるはずだ。
ちょっと調べると、イスラム教、ユダヤ教、ゾロアスター教など、一神教系統の発想法には天使がつきものだということが分かった。神様が一人しかいない場合、部下 をたくさん使わなければ、神様としての仕事ができないということなのかもしれない。古いものでは、人間ではなく、動物に羽の生えた形の天使や、二対も三対 もの翼をつけた形のもいるらしい。こうなってくると、かなり不気味である。
天使の世界には官僚的ランク付けがある。格の上下だけでなく、落第もある。落第した天使が堕天使、つまり悪魔である。悪魔は人間を誘惑するのが仕事だ。イブに知恵の実を食べさせた蛇も悪魔である。悪魔という概念も、一神教世界に広く存在している。
ここまでが伝統的な天使の話。
1987年にヴィム・ヴェンダースが映画「ベルリン・天使の詩」を発表してからというもの、白い翼も頭の輪っかもない変な天使が横行するようになった。この映画の 中の天使たちは、なにもせずに複雑な表情で人間の周りをうろうろするだけだった。そしてビルの屋上や橋の上に座って、ぼんやりと人間界をながめて思考する のである。この天使たちは、神様より人間に強い興味を持っているのだ。似たタイプの天使をその後数カ所で見ている。
これが何かキリスト教社会の質的変化による大きなトレンドなのかどうかは、考えると際限なく面白いのだが、私の手にあまるのでここには書かない。 
ゾンビ 1
ゾンビは気の毒だ。
墓場から魔術によって呼び起こされた魂のない死体、それがゾンビである。
そのイメージの馬鹿ばかしさによってか人気があり、ハリウッド映画でたびたび役をもらっている。しかし、なにしろ魂がなくて、しゃべらないことになっている ため、台詞がつかない。役は、一番強い化け物が出る前の前座である。ストーリーにかかわらず、呆然と前進し、だれかれかまわず噛み付くだけだ。既に死んで いるので、なかなか倒せない不気味さはあるが、あんなかたい演技ではいつまでたっても出世できない。出演料も安いだろう。
日本にいる私たちに思い浮かべることができるゾンビの姿は、まずこのハリウッド版のバリエーションの枠の外へ出ない。どうやっても面白味のあるオバケではない。
だってあなた、前進して、噛み付くだけですよ。
ところが、ゾンビの出身地のハイチへ行くと、少々事情が違う。彼らは農奴として文句もいわず農作業を手伝うと言われているのだそうだ。さすが地元。ゾンビが 生活と密着している様子がある。ゾンビには魂がないのだから、確かに一番つらい作業をさせるには好適かもしれない。うまく考えたものだ。
ボス敵が出る前の前座としてだけの存在より、こういうののほうがずっとオバケらしい。私は感心した。オバケにも、ある程度は土着の感じ、そこに生活している 人々の暮らしのにおいがないと、臨場感が不足して、うそくさくなってしまう。オバケはこの世のものではないのに、決してこの世から自由ではないのだ。
ハイチには、元フランス領であり、現在の住人のほとんどがアフリカから連れてこられた48万人の黒人奴隷の子孫であるという歴史がある。山が多くて農地が少 なく、その上年中ハリケーンが通るので、なかなか作物が安定して作れない場所だという地理的条件もある。ふとゾンビの農奴を土地の人々に重ね合わせると、 もしかしたら魂を捨てなければとても耐えられない労働をさせられていた時代があったのかなあと、なんだか胸が痛む。
ハイチでは、いんちきな肉屋が、牛や豚と称してゾンビの肉を売るという話も読んだことがある。なんでもゾンビの肉は即腐るから(そりゃそうだろう)、肉屋に だまされたということがすぐ分かるのだそうだ。これもなんだか悲しい。鮮度の悪い肉をつかまされて、そうか、安かったのはゾンビの肉だったせいか、と泣き 寝入りするこの納得の仕方が、なんとも言えない無力感にあふれているではないか。
どうも全体にゾンビは気の毒だ。この印象は私の偏見ではないと思うのだが、どうだろうか。 
ゾンビ 2
死体が町へやってきた。
ゾンビの故郷、ニューオリンズへ行ってきた。
アメリカ合衆国南部、ルイジアナ州にある、ミシシッピ川河口の古い町である。ジャズの発祥地として、フランス植民地時代の面影を色濃く残す町として、また米国でのブードゥー教の本拠地としても知られている。(どこだか分からない人は、地図を見るように。)
さて、この町で、私はゾンビのあまりに自然な存在理由を知った。
この地方は、雨が多い。夏は日本の太平洋側など問題にならないほど、ひどく蒸し暑くなる。なにしろワニが出るほどの気候である。ここへ、大きな川の河口とい う海運に便利な場所を魅力に感じ、ヨーロッパから船に乗って、主にフランス人が移住してきた。17世紀半ばの昔のことである。
なれない気候、厳しい生活に加え、衛生観念がまだ発達していなかった時代のことであるから、疫病が流行し、命を落とす人が絶えなかった。フランス人は、カトリック教徒である。誰かが死ねば、本国でそうしているように、棺おけを作って遺体を納め、地面に穴を掘って埋葬する。
ヨーロッパならば、それで問題の出ようもないのだが、ここは気候が違う。夏の長雨で川が増水し、町は年中水浸しになっていた。町の裏側に作った墓地から、埋め たはずの棺おけが、ぷかぷか浮き出してしまう。棺おけの蓋が歪んで開き、先週死んだ横丁のおじさんの腐乱死体が、泳いで挨拶をしにくる。
たまにそういうことがある、という程度ではない。毎年、洪水の時期になると、必ず腐乱死体がいくつも泳いだのだそうだ。水びたしの町の中を、小舟に乗って、散らかった死体を集めて掃除してまわるのを仕事にしている人がいたくらいだ。
人々は、仕方がないので、棺おけを埋めたあと、土饅頭の上からレンガを積み上げ、重石をした。しかし、こんないいかげんな対策で、問題が完全になくなるわけ もない。今度は、土の中の棺おけに水が入り、死体が浮いて棺おけの蓋に当たり、死体が土の中から「出してくれ」と要求しているとしか思えないコツコツ音が 聞こえたりしたらしい。
ひょえー。なんという、ファンキーな場所。
こんな土地がらでは、墓場から起き上がった死体の化け物を想像するのは、想像力が不要なほど簡単である。ブードゥー教の司祭が死体を操る魔法を知っているか どうか、なんてこととは全然関係なく、死体は墓場から勝手にどんどん起き上がって、人々の生活の中へ侵入してきていたのだ。
アメリカに出るオバケの類は、大抵が宗教の存在を抜きにしては語れない。ゾンビに関しては、ブードゥー教の影響が必ず指摘されている。しかし、どうやら、ことゾンビに関しては、もっとあっけらかんとした存在理由があるのだと認めてしまったほうがよさそうだ。
だって、説明もなにもないではないか。死体は、墓場から出て、町へやってきていたのである。本当に。
ゾンビ大量発生の時代から、丸3世紀以上の時が過ぎた。現在、ニューオリンズ近辺では、治水工事が進んだことと、埋葬方法に工夫がこらされたことにより、死体が墓場から出てくることはない。いやはや、実に、めでたいことである。 
コロボックル
コロボックルは、アイヌの伝説に出てくる小さい人たちの名前だ。「ふきの葉の下の人」のような意味だと聞いたことがある。
ふきの葉っぱの下に隠れられるほどの背の高さだから、身長は10センチ足らず。この大きさは、親指と同じくらいの身長の「親指トム」やチューリップの花の中に隠れることができた「親指姫」とほぼ同じである。
「一寸法師」も名前は一寸(ほぼ3センチ)だが、お椀の舟に箸の櫂を使ったというから、5センチ程度の大きさはあったはずだ。
古いところでは農業や酒造、医薬の神様としてまつられていた少彦名命(すくなひこのみこと)がやはりこの大きさだし、東北地方には足から生まれる小さい子供の民話がいくつかあるはずだ。
外国では先の親指姫や親指トムの他、北欧からドイツあたりにかけて小人の伝説が多く、パンを膨らませたり、靴を作ったりと、夜の間に細々したことをしてくれる妖精のような存在として知られている。
アジアの他の地域に小人伝説があるかどうかは知らないが、日本にこれだけあれば、恐らく日本文化のルーツである朝鮮半島にも中国にもあるのだろう。
「いる」と思っている人が多くの地域に広がっているのは、やはり本当に小人が「いた」からなのではないだろうか。
佐藤さとるの「だれも知らない小さな国」という本がある。たっぷりと「やっぱり本当にいるのではないか…」という気にさせてくれる本だ。昭和34年に発表されたこの童話は、「こぼしさま」という小人の住む小さな山を舞台にした見事な作品だ。今読んでも古くさく感じない。
物語の中では、こぼしさまは人の目を避けるためにカエルの皮をかぶることになっている。普段は動きが素早いので、普通の人間の目にはとらえられないのだが、長時間の屋外作業があるときには、念のためカエルを着て身を守るのだそうだ。もっともらしい話である。
私は中学生の時に講談社文庫版で読んだ。すっかり感化されてしまい、しばらくの間、野原の草の間に小さな人影がないかどうか探すくせがついたほどだ。
木陰で思春期特有の物思いにふけっているように見える中学生が、じつは葉っぱのかげの小人を探している。どうもこれでは最近の中学生の皆さんの発展ぶりと比 べてあまりに子供っぽいようだが、当時の中学生なんて、深夜放送のラジオで耳年増になってはいても、実際の行動はたいがいそんな程度だったはずだ。
その後いい年した大人になった今でも、役にたたないことばかりに興味を持つ性質は変わっていない。こうしてこの文を書いていることが、そもそもの証明だし。 
吸血鬼
吸血鬼は、実に魅力的なオバケである。古今東西、吸血鬼をモチーフに使った作品がどれほど作られたか考えるだけでも、その吸引力のほどが知れようというもの だ。そして、面白いことに、吸血鬼ものは、それほどたくさんあるというのに、どの作品も決して悪くないのである。大傑作も数多い。吸血鬼というキャラク ターのすごさである。
まず、ごく基本的な性質をあげておく。
生き血を飲んで命をつないでいる。太陽の光に弱いので、昼間は活動できない。歯を調べると、犬歯が普通の人間より発達し、鋭い牙となっている。鏡に映らない ものがある。肌の色は青白い。しかし、人を襲って血を飲んだ後は、頬にほんのりと紅が差す。ニンニクと十字架と銀に弱い。吸血鬼を避けるには玄関先にニン ニクを吊るし、壁に十字架をかける。倒すには、心臓に銀の杭を打ち込む。木の杭でオーケーという話もある。姿形が非常に美しく、かつ洗練されたものが多 い。一部にコウモリに変身できるものがある。
吸血鬼作品はあまりに多いので、とりあえず1999年に公開された映画「ブレイド」を紹介しよう。
主人公は、吸血鬼に襲われて「感染」した母が、「発症」して吸血鬼に変身する前に帝王切開で生まれた。この微妙なタイミングで、前代未聞の「昼も活動できる半吸血鬼」が誕生する。ここまでで既にそそられる設定である。
彼は人間として育てられたが、思春期になり吸血鬼の性質が強くなってくると、夜の街で人を襲うようになる。その後改心し、血清を打ち続けることで赤い血への飢餓感をおさめ、史上最強の吸血鬼バスターとして知られるようになる。
ウエスリー・スナイプス演じるこのキャラクターは、見栄の切り方がなかなか上手く、黒づくめの衣装がサイボーグを思わせるストイックさ。しかし、どうしたことか日本趣味で、部屋の調度に和風のものが多く、戦うときにもハイテク日本刀を使う。それが不思議に奇妙に見えない。
馬鹿なアクション映画なのだが、けっこう楽しませてもらった。
ひとつ感心させられたディテールがある。敵の吸血鬼が昼日中、人混みの中に出てくる。吸血鬼は太陽の光が何より苦手のはず。一体なぜ! と思うと、すぐに種明かしをしてくれる。なんと、日焼け止めローションを塗っているのだ。
ここ数年、オゾン層の破壊による紫外線の害が注目されているため、市販の日焼け止めの威力がどんどん上がっている。「SPF50、PA+++」なんてまるで生ぬるく思えてしまう時代になった。それに気づく吸血鬼がきっといるだろうという考えである。
なるほど。吸血鬼は、光そのものではなく、紫外線に弱かったのか。
吸血鬼ものの良さのひとつは、こういう細部のおもしろさの発見にある。だから、ひとつひとつの作品の完成度は、それほど重要ではない。吸血鬼ものがどれほど多くても、全然問題ない。数が多ければ多いほど、お楽しみが増えるのである。
一昔前、たいくつを持てあまして、毎日のように違う吸血鬼映画のビデオを見て、次々と吸血鬼本を読んだ時期がある。1ヶ月たっても、2ヶ月たっても、吸血鬼ものはまだまだあった。時間が余っている人のひまつぶしに、オススメのジャンルである。 
 

 

傘のおばけ
古典的なお化けである。破れ傘の軸から取っ手に欠けての部分が脚になり、裸足に下駄を履いている。一本足でぴょーんと跳ねたりする。傘の部分に一つ目がつい ていたり、腕が二本にゅっと突き出ていることもある。口を開き、赤い舌を出していることもある。(ローリング・ストーンズのファンか?)
オバケがたくさん集合しているイラストなどで姿はよく見かけるのだが、跳躍以外に何をするお化けなのかは全然知らない。洋傘ではなく必ず和傘である。蛇の目ではなく番傘が多い。
和傘は色、形ともにとても美しいので洋服の生活でも日常的に使ってみたい。ところが実際蛇の目を購入してしばらく使ってみると、あまりに重すぎる。特に水を含んだときの重さは絶望的だ。イタチでも上に乗っているのではないかと思えるほどだ。
あれでは現代の生活ではとても使えない。素材を変えるなどして工夫できないものだろうか。このままでは和傘が使われなくなると共に傘オバケの登場回数は更に 減り、イメージがますます風化して、そのうち跳躍もしなくなってしまうだろう。だって、どう考えても、このオバケは、洋傘じゃあ、格好がつかないのであ る。
そもそも傘が化けるというのは不思議な感じがする。傘だけでなく、鍋釜からちりとりまで何でも化けるというの は、一昔前なら「ぶんぶく茶釜」をはじめいくらでも例があるから、おなじみの発想なのだろう。丁寧に作られ、大切にされた道具は生命が息づいているような感じがしたりするから、そのあたりからの連想で日用品が化けるのかもしれない。でも、私の感覚では、突然バケツに手足が生えるのを想像するのは、かなり困 難である。
畠中恵の「しゃばけ」では、作られてから百年ぐらいで化けるという設定だった。とすると、最近道具が化けないのは、生活が豊かになったからか。 何でも使い捨てだからか。
傘ではないが、日用品が化けたのに「やかんづる」とい う愛すべきくだらないやつがいる。水木しげるの絵で初めて見て以来あまりの馬鹿らしさに忘れられない。淋しげな林の中などを歩いていると、突然巨大なやかんがバーンと目の前にぶらさがるのだそうだ。たったそれだけのオバケである。一体何を考えているのか。やかんの考えることなど理解しようと思うほうが無理 だろうけれど、それにしてもあんまりだ…。 
人魚
人魚は上半身が人、下半身がサカナの形をしたオバケである。
ヨーロッパでは歌声で船乗りを魅惑し船を沈めるセイレーン(「サイレン」と同源)またはローレライと呼ばれる怪物の伝説がある。日本にも人魚伝説があり、人魚の肉を食べれば不老不死になれると言われている。
人魚の正体については定番の説明がある。インド洋や南西太平洋の沿岸の浅海に生息するジュゴンという生物を見た人々が想像した怪物が,人魚として知られるよ うになったというのだ。後ろ足が退化しているジュゴンが立泳ぎしながら子を抱き授乳する姿が、人魚のように見えるのだそうだ。
子供時代からおなじみの解説だが、こんな話には納得することができない。なぜなら、図鑑で見たジュゴンの形は、申し訳ないがアザラシとモグラをかけあわせて 二、三回鍋でたたいたようなもので、とても船乗りが迷うような色っぽい歌声を出すオバケの原型とは思われないからである。
本気でこういう説明を考え出す人の顔を一度見てみたい。私は、ジュゴンが人魚姫と同じものだと推論できるような乱暴な精神の存在が、どうしても信じられないのだ。いくらなんでも、もう少し「なるほどね」と思えるようなことを言うべきなんじゃないだろうか。
というわけで、ジュゴンの存在を無視して人魚の話を進める。
人魚の性格が悪い理由
どうも人魚は根性が曲がっているのではないかという印象がある。恨みっぽく、ひがみっぽく、自己中心的で、嫉妬深いような気がする。
最もイメージ形成に強い影響があるはずのアンデルセンの人魚姫も、そこから派生したディズニーの人魚姫も、特に性格の悪い姫として描いていないのに、どうしてもそういう印象がある。なぜか。
ここからは、私独自の乱暴な推論である。
まず、人魚にはオスの存在の影がうすい。授乳している母人魚の姿と、娘人魚の姿ばかりが浮かぶ。すると、数少ないオスを奪い合っているか、あるいは人間のオ スを海に引きずり込んでいると想像できる。アンデルセンの人魚姫が人間の王子様に憧れるのは、こういう切実な事情によるものだ。
しかし、せっかく引きずり込んだ人間のオスも、海の生活が身体にあわずにすぐ死んでしまう。年がら年中次のオスの捕獲の心配をしていると、さぞやストレスがたまるだろう。そんな状態で心安らかになるのは無理だ。
もうひとつ重要だと思うのが、生活の場が海だということだ。海は素晴らしいところかもしれないが、人間の私の感覚で言えば、長時間いる場所ではない。水に体温を奪われ、あっという間に唇が紫になり、まもなく腰痛が出る。
女の身体に冷えは禁物である。たき火が不可能な環境で、一体この点をどう克服しているのか。そのうえ、人魚はあのような裸に近い格好である。多少体脂肪率が高いくらいでは補えないだろう。
人間の私ならば、身体が冷えてくると、まず元気がなくなる。全体の調子が下がってくると、エネルギーを温存しようとするので自己中心的になる。他人のために 何かしてやろうなどという考えは全部消え去る。自分は動きたくないくせに、他人がいい目を見ていると腹が立つ。つまり、簡単に言えば、根性が曲がってくる のである。
人魚の性格が悪いという印象は、このような理由から生まれる。当たっているかどうかは、もちろん知らない。 
山姥 
山姥は、深山にいる老女、鬼女である。白髪を振り乱し、ほぼ必ず醜い。怪力であるとか、人を取って食うとかのバケモノ系の特徴のほかに、富や福をもたらす、田畑の作業を手伝うなど、神様精霊系の特徴があることも多い。日本全国に満遍なく分布するとされている、古い妖怪である。
20世紀も終わりになって、山姥に年齢の若い亜種が出た。特に、東京の渋谷周辺に多く出没するとされている。目撃件数は、1999年の夏あたりがピークで、最近はあまり見られないようだが、かなり固体数が多かったので、休日に都会の盛り場へ行けば、ひょっとすると、まだ目撃できるかもしれない。亜種の特徴は、年齢が若いことのほか、山から都市へと住処を移動したこと、容貌と衣装がかなり周到な演出による「おしゃれ」らしいことなどである。
特に、不思議な形態の厚底の履物を常用し、髪を脱色し白髪に近い色に変え、肌色を日焼けサロンで濃くしていること、唇と目の周りを白く塗っていることなどが興味をそそる。手の爪に絵を描いていることも多い。それらの呪術的な意味は不明である。一説には異性をひきつけようとしているのだと言われるが、とても効果があるとは信じられないので、きっと何か別の意味があるのだろう。
一般の人間との接触の機会が少ない点は、伝統的な山姥と同じである。会話は困難だということだが、なんとか機会に恵まれた人たちの証言では、見かけはバケモノじみているが、中身は「けっこうフツー」「でもなんか変」であるらしい。
形態の類似によって、「山姥」と呼ばれているが、本当に伝統的な山姥と何らかの関連があるかどうかも確認されていない。また、突然数が増えたり減ったりした理由もまったく不明である。 
天狗 
天狗は、河童ほどではないにしろ、かなり知名度の高い妖怪だが、最近、活躍の場が減る傾向にある。
バケモノ系統の妖怪ではなく、神や鬼でもなく、どちらかというと、人間の能力の高くなったもの、つまり、超人類という印象だ。姿は魅力的である。はっきり「カッコイイ」と言っていい。赤い顔で、鼻が長く、背が高く、翼を持ち、修験山伏のような服装をして、手に羽根うちわを持っている。一本歯の高下駄を履い ている。びしっと姿勢が良さそうな感じがするし、声はきっと深くて澄んでいるだろう。目は真実を見通す鋭いまなざしである。
鼻の長い顔以外に、カラスのくちばしを持つ「カラス天狗」という系統もあり、こちらは鳥人である。鼻の長い大天狗が格上であり、カラス天狗は彼らの部下として働いているらしい。
怪力、風を起こす、空を飛ぶなど、人間にない神通力がある。現れるのは、街中ではなく、山の中である。草原ではなく、針葉樹林の中だろう。山寺の境内で、ふと樹上を見ると天狗様がいる、という光景も似合う。これは、天狗は仏法者の変化したものだというあたりからの連想によるものだろう。
山中で不思議なことが起きれば、それは「天狗さま」の仕業である。天狗さまは、森の木を倒したり、つぶてを空から降らせたりする。姿が見えないのに笑い声だけ聞こえることもある。鳥類の爪に似た形の天狗の爪が発見され、後生大事にお寺に保管されていたりすることもある。(この「爪」は本当はサメの歯の化石なんだそうだが、そうじゃない可能性もあると思っておきたい。)
牛乳屋さんの娘さん、天狗に遭遇す
さて、天狗の話は色々あるが、その中から、「おばけずかん」の読者が、ひいおばあちゃんの話だといって、しばらく前に教えてくれた「実話」を紹介する。明治時代と思われる富山県の牛乳屋さんの娘さんの体験談である。
ある日、ダム建設のために技術指導に来ていた外国人技師のところへ、牛乳を配達に行きました。車のない時代ですから、山奥へ配達すると、大人の男性でも半日ちかくかかっていたといいます。
日暮れまでに戻れるかしらと帰り道を急いでいたら、上から天狗の声がします。
「心配しなくていい、今日中に帰してやる」
その直後から足が不思議に軽くなり、どんどん歩けるようになりました。風に乗ったようにスピードが出るのです。そして、天狗の言葉通り、わずか1、2時間ほどで家へ戻っていたのでした。
面白いことに、この短い体験談に登場する外国人技師の姿は、私たちのイメージの中にある天狗の姿に、そっくりだ。容貌、性質、住みか。さすがに技師は背中に翼を生やしてはいなかっただろうが、その技師に出会った直後の天狗遭遇。
なあんだ、天狗の正体は、赤ら顔の白人男性のことなのか。そう短絡したいところだが、オバケを単純化して説明するのは、つまらないだけでなく、不正確でもあることが多い。この場合もそうだ。天狗という妖怪は、技術者が欧米から招聘されるようになるはるか以前、平安時代後期から知られている。いくらなんでも、平安時代に白人の技師が日本に住んでいたりはしないだろう。
天狗は、最初は山男みたいな姿だったものが、時代とともに少しずつ変化し、今の形に近くなったのが、室町時代あたりらしい。民俗学者によれば、赤い皮膚は魔力を、長い鼻は男性性器を連想させ、エネルギーをあらわす。天狗はパワーの塊なのである。
だから、オバケの正体は、私たちが共通に持っている「不思議なもの」「怖いもの」の体験やイメージが降り積もり発酵したものなのだと考えたほうがいい。たまたま、それが外国人技師の姿に触発され、ふと、天狗の形を借りて顔を出したとき、牛乳屋さんの娘さんに、不思議が起きる。
オバケ遭遇談には、個人的な体験であっても、多くの人々の歴史が刻まれている。天狗に遭遇した娘さんは、何百年も堆積した日本の風土と精神に遭遇しているのである。ひとりの人の常識では計り知れない深さを持ったオバケたちとの出会いは、やはり、「恐ろしい」以外の何ものでもないのではないか。
こんなことを考えているうちに、私は一層オバケの深みに魅入られている自分を発見するのである。 
ろくろ首
ろくろ首は、夜中に首がぐいーんと伸びることを除けば、昼間の行いは全く普通の人と変わらないという性質の伝統オバケである。多くの場合、楚々とした美人として描かれる。その美人が夜中になると首をのばし、日本の妖怪変化の例に漏れず、型どおりあんどんの油をなめる。
怪しく美しい形態のせいか、人気のあるオバケである。私も大好きだ。首の伸びるオバケには見越し入道という男性形のものもあるが、こちらはなぜか人気があまりない。
落語の「ろくろ首」
何通りもあるろくろ首の話の中でも、五代目柳屋小さん「ろくろ首」は、お気に入りのひとつ。物語を紹介しよう。
毎日のそのそ遊んでばかりいるマツは、そろそろ兄貴のようにお内儀さんをもらいたいと思い、おじさんに相談に行く。おじさんはぼんやりしたお前にぴったりの良い話があると言い、不肖の甥をお屋敷のお嬢さんに紹介することにする。
実はお嬢さんには難がある。夜中になるとするすると首が伸びるのだ。いままで何度か婿養子をとろうとしたが、皆逃げて行ったらしい。マツはよく眠るたちなので夜中に目なんぞ覚めたことがない。問題ないだろうと承知した。
うるさ型のばあやさんの面接もなんとか通過し、目出度く器量よしで財産持ちのお嬢さんと祝いの杯。初夜、昼間うかれすぎた新郎はさすがに環境が変わったせいか眠りが浅く、夜半にふと目を覚ます。すると…
「うわわわわ、伸びた伸びた!」
あらかじめ聞いて承知していたはずなのに、ぼんやりのマツも妖怪と床を共にして平気なほど鈍いわけではなく、逃げ戻ってきてしまう。
もう実家へ帰らせてくれと訴えるマツに、今更どうして戻れるかとおじさんが諭す。
「家ではおまえのお袋が、首を長くして良い知らせを待っているんだぞ」
あらら、それでは家へも帰れない…。
北斎のめずらしいもの見たさ
もうひとつ、杉浦日向子の「百日紅」の中の一話、「離魂病」も紹介しよう。
この話の中でも、ろくろ首は、美人だ。首を伸ばして人を怖がらせておいて「なんぞ悪い夢でも見なんしたか?」というせりふは、やはり美人がしゃあしゃあと言ってこそサマになる。
桔梗屋の小夜衣という花魁の首が抜けるという評判を聞いた葛飾北斎は、珍しい物見たさに吉原へ繰り出す。夏の宵のクチナシが香る中、白くほっそりとした花魁の首ががくがく揺れ、ずるりと抜ける。結界になっているらしく、首は花魁が眠る蚊帳の中からは出られない。ボスッ、ボスッと蚊帳に首が当たるのを連れと二人で眺める北斎。なんとも美しく、不気味な話。
花魁を説得するために北斎がする作り話もすばらしい。あまりすばらしいので、まだ読んだことのない人の楽しみを奪わないようここには書かない。
杉浦日向子は、見てきたとしか思えない絵を描く。その説得力は水木しげると並ぶ。ひょっとすると越えているかもしれない。NHKテレビの「お江戸でござる」などで浮世離れした時代考証家としてゲスト解説者をやっている姿しか知らない人は、ぜひ漫画のほうも見てほしい。ファンとしては、この才能が隠居してしまったのが惜しくて仕方がない。 
 

 

鬼 
鬼とはなんだろう、という問いに答えられる人はいないはずだ。
なにしろ、鬼は古いオバケである。「おに」という言葉には、さまざまなイメージがてんこ盛りに乗っていて、ひとつの像をむすぶのが難しい。鬼とは奇怪な姿をした邪悪な化け物でもあり、成仏できない霊が仮の形をとったものでもあり、「鬼っ子」などの用法に観られるような、メインストリームからはずれた生き方をして、社会を当惑させる存在のことだったりもする。
体が大きく、角を生やして棍棒を持った赤鬼、青鬼は、もっぱら昔話に登場するキャラクターである。このタイプの鬼としては、浜田廣介の童話、「泣いた赤おに」が印象に強く残っていて、おそらくこれが私のこのタイプの鬼のイメージの原点である。昭和8年の名作。「鬼の目にもなみだ」ということわざは、実はこの本を元にしたのではないかと思ってしまうほど、時代に流されない確かな価値をもっている。ファッション用語でいうならば、こういうのは基本中の基本、真っ白い木綿のシャツかなんかに相当し、当然「トラッド」と呼ばれる。
「おかしなものを見てきたよ。」「なんだい。きつねのよめいりか。」「おにが、立てふだ立てたのさ。」
どうです。音読したときのリズムもすばらしいでしょう。私自身は引越しを重ねているあいだに本をなくしてしまったのだが、また買って手元においておきたい一冊である。読んでない人は、いまからでも急いで読むように。
鬼婆のイメージ
一方、般若の面に代表される、鬼婆タイプの鬼も忘れてはならない。イメージとしては、こちらのほうが強烈だ。なにしろ怖い! 
能面というのは、多くは曖昧な表情でどんな風にも感情移入できるように作ってあるのだが、こいつは特別にひたすら恐ろしい。眉間のしわの寄り方、頬骨のごつごつと目立つこと、口は大きく裂けて、牙が並んでいる。当然、頭のてっぺんには長い角が二本生えている。感情の高ぶりの頂点で凍ったような顔である。しかし、能面特有の何考えてんのかわかんない特性は失っていない。これだけ怖いと、文句なしの大傑作だといえるだろう。
般若は、女性の嫉妬と憤怒が濃縮精製されるとこういう表情になるのだという見本になっている。これを見た女性たちは、自分もあんな風になっちゃったら大変だと、嫉妬の感情を抑えようとするわけだ。抑えたくらいでおとなしく収まるのならたいした嫉妬ではないわけだが、それはまた別の話。
嫉妬は女性の属性だということになっているが、男性の嫉妬も、女性に勝るとも劣らずものすごいもんで、当然濃縮精製妖怪化できるはずだが、それもまた別の話。
そして、同じ鬼でも、なんで女性の鬼はたいてい怖いイメージが先行し、男性の鬼にはやさしいイメージがよくみられるのか、それも別の話。
鬼が死ぬ酒
少しお酒をたしなむ人なら、「鬼ころし」「鬼ごろし」という名の日本酒を見たことがあると思う。酒を飲む鬼は、おそらく「泣いた赤おに」と同様の、体が大きくて山に住むタイプと思う。酒を飲んだくらいで殺されてしまう鬼なわけだから、大きくて強いがたいしたことない、恐れるに足らない、という感じなんだろうか。
「鬼ころし」はいい名前だとは思うが、実のところ、鬼が死ぬ酒は日本全国に20種類以上ある。銘柄リストを見て数えたことがあるので本当だ。だれも商標登録しないんだろうか。混乱はないんだろうか。「○○県の××酒造の鬼ころし」といちいち言うのは不便じゃないんだろうか。つまらないことが、どうも気になる。
そうそう。鬼というと、歌人馬場あき子の「鬼の研究」という本が知られている。佳作である。筑摩文庫版は比較的入手しやすいので、お好きな向きには一読をお勧めしたい。「研究」という名前ではあるが、情報が多くて勉強になるというよりも、鬼を題材にして展開される世界の万華鏡のような拡がりに恐れ入る、という感じの本である。
というわけで、鬼については、まだまだいろいろ考えることがありそうだ。 
見越し入道
見越し入道とは、ろくろ首と同系統の首が伸びるオバケで、身体が非常に大きくゴツイ男性である。首が伸びる形態以外に、やたらに背が高い形態も知られている。入道と名につくからには、仏教と何らかの関係があるのかもしれない。
ろくろ首がオバケ界の大スターと言って良い名声を誇るのに比べて、あまり見越し入道の名前を聞く機会がないが、一昔前にはオバケの親玉的存在として広く知られていたらしい。古い本だと、リーダー格の役割でよく出てくる。
伝統オバケで忘れられそうになっているものに、一つ目小僧や傘オバケがいる。これらはまだ名前も姿も見かけるのに対して、見越し入道の登場回数は極端に少ない。絶滅の危機に瀕していると思われる。
理由に関しては、私は仮説を持っている。オバケの集合写真、みたいな絵を描こうとするとしよう。傘オバケ、一つ目などは、だいたい幽霊と同じ大きさなので、絵にしやすい。しかし、見越し入道は、身体が大きくて首が長く、頭の位置が違うので、構図の邪魔なのである。だから絵本にも、オバケ屋敷のポスターにも出ることが少ない。当然、見る機会が減る。知名度が落ちる。ますます見る機会が減る。こんな感じだと思うのだが、どうだろうか。
絶滅しそうなオバケを特別天然(?)記念物か何かに指定したら注目度が上がって復活するだろうに、佐渡島のトキのように保護される可能性がないのがオバケの気の毒なところだ。
もうひとつ、同じ首長族に属するろくろ首が栄えていても見越し入道が忘れられてしまうのは、「色気」の有無がカギかなあ、などと考えたりする。だって、人間は、色気の有無でずいぶん周囲の扱いが変わるではないか。オバケの世界も似たようなものに違いない。 
むじな 
動物園に行ってもムジナという動物はいない。この点が、前々から私を悩ませていた。
ムジナ、と名を聞いてぼんやりと思い浮かべる鼻先が黒っぽいイヌ科の動物のイメージはあるのに、実体がない。ムジナはオバQなどとは違い、自然界に実在の動物ベースのオバケのはずである。一体どうなっているのか・・・と思って調べてみると、実はムジナはタヌキ、またはアナグマの別名で、地方によってどちらをムジナと呼んでいるかには色々あるのだという。むむむ、偽名をつかっているのか。あやしいやつ。道理で動物園にいないわけだ。
とまあ、そういうわけもあって、ムジナのオバケ度はタヌキより少し高くなる。
ムジナに化かされた話の中で、よく聞くのは肥溜めに落とされるというのである。
たとえば、いい気持ちに酔っ払ったお父さんが、帰り道を歩いている。すると、ちょっと寄っていけ、と言われる。相手は誰でもいいが、まあお父さんが「寄っていっちゃおうかな」と思える程度に魅力的な年増かなにかだとしよう。そこで思いがけないご馳走になって、さんざっぱらお酒を飲んで、話もはずんで、すっかり夜もふけたし、ついでにお湯にも入っていきなさい、なんてことになる。そこで手ぬぐいを頭にのっけて「♪いい湯だな〜、ハハン♪」とやっていると、白々と夜が明けてくる。ふと正気にもどったお父さんは、ふくふくと発酵した肥溜めの暖かさのなかにすっぽり肩までつかっている!
最近は肥溜めそのものがほとんどないから、あまり心配はないだろうが、落ちると臭いがなかなか消えなくて難儀するそうだ。そりゃあそうだろう。
お湯が肥溜めなら、ご馳走とお酒は何だったのかが気になってくる。同じくらいのインパクトを持ったものというと、アレとアレ、いやアレとアレかも。それとも…うわああ、気持ち悪い〜。くれぐれもムジナには化かされないように、寄り道する先には、重ねがさね気をつけたいものである。
さてさて、小太りで油断のならない年配の男性をタヌキ親父という。ムジナ親父というのはない。タヌキ婆、タヌキうどん、タヌキ寝入りはよく聞くが、ムジナ婆、ムジナうどん、ムジナ寝入りは存在しない。そして、タヌキはタヌキ汁という料理(味噌で味つけした、タヌキの肉のほかに野菜がごたごた入った田舎料理と思う)になって食べられてしまうことがあるというのに、ムジナの調理法は知られていない。タヌキの腹鼓は、狂言の題材にもなり、江戸では番町七不思議のひとつに数えられていたほどに有名だったのに、ムジナについてそういうのは多分ない。
このあたりの差は、もしかしたら私が東京出身で、東京方言にムジナという生物がないせいかもしれないが、地味すぎてムジナが気の毒に思える。まるで無視されているようではないか。このままでは徐々にオバケとしての元気がなくなってしまうのではないかと心配でもある。
しかし、別角度から見れば、多少知名度は低くても、ある程度神秘性が守られているほうが、オバケとしては上等である。どこかの村がムジナを題材に村おこしをしたり、全国ムジナ振興協議会が突然売名キャンペーンをはじめたりしたら、私はきっと残念に感じるだろう。
バランスが難しい、ということでしょうかね。 
たぬき 
狸は化ける動物の筆頭株だ。数えたわけではないが、他に化ける動物が狐、猫、いたち、ねずみなどいる中で物語への登場回数は狸が一番多いのではなかろうか。
狸の得意技は姿を変えることだ。人間に化けていたずらをする。人間のふりをして宴会に紛れ込みごちそうをちょうだいしてゆく話なんてのが思い浮かぶ。狸は雑食性なので宴会料理は何でもいけるはずだ。こういうのは里へ下りてきた古狸に食べ物を取られた人の話から連想した物語かもしれない。
狸が化けるときには葉っぱを一枚頭の上に載せて、ぴょんと宙返りをする…という図が浮かぶ。きっと子供の頃に何かのアニメーションでそういうのを見せられたのだろう。これでは化け物というより、マンガである。柏かなにかに葉っぱの種類が特定されていたかもしれないが、記憶にない。
そのほかに狸の行動としては、月夜に宴会を開き腹鼓を打つというのが思い浮かぶ。これは
♪ショ、ショ、ショジョジ、ショジョジの庭は つん、つん、月夜でみんな出て来いこいこい♪
の童謡から来るイメージに違いない。ショジョジというのはお寺の名前で、たしか証誠寺みたいな字をあてるのを見たような気がする。でももしかしたら猩猩寺と書くという可能性もなくはない。大酒飲みの集会を「猩猩講」というではないか。
どこにでもある、腹の出た狸が笠をかぶって徳利を下げた置物。あの置物のせいで、狸がみな出腹になってしまったのか、それとも置物以前から狸はあの形で描か れていたのだろうか。本物の狸とは似ても似つかないが、愛嬌のある、よくできた姿だ。しかし、あの置物のせいで日本の狸のイメージがすっかり類型化してし まった罪は重い。
このほか、東京銘菓「ぽんぽこ」のコマーシャルも狸のイメージづくりに一役買っているだろう。
♪ぼくはぽんぽこ人気者、お腹を抱えてぽんぽこぽん♪
小さい頃からテレビ画面で見続けているため、「ぽんぽこ」を売っている場所を通り過ぎるとき必ず頭の中でこのCMソングが鳴ってしまう。ワンコーラス全部 鳴らないと収まらない。CMソングでは文明堂の熊のラインダンスやハトヤの電話番号の印象も強いが、狸とは全然関係ないのでここでは深入りしない。 
河童 
河童は川に住み、川遊びをしている人の尻子玉を抜き溺死させる。キュウリを好む。酒呑みである。大人の河童は色っぽい。相撲を取りたがる。頭はよくないかもしれないが、邪悪なことを考えているかもしれないので、注意が必要である。頭の上にお皿のような毛のない部分があり、そこに水がたまっていないと力が入らない。姿は人間に似ているが、背中に亀のものに似た甲羅を背負っている場合がある。手足の指の間に水掻きがあり、これが河童が水泳の得意な理由である。河童の泳法は平泳ぎだと思う。鼻がなく、穴だけ点々とあいていることもあるし、唇がなく若干カエルに似た顔のこともある。肌は青っぽいが水分豊富ですべすべ だ。さわったら冷たいかもしれない…。
このあたりが私の考える河童の性質だ。私は東京出身で近所に河童の出そうな川はない。子供の頃に大人が河童の話をするのなど聞いたことがないはずだ。だから、上に書いたことは、昔話やテレビに出た河童の印象が一緒くたになったものと思われる。
尻子玉というのは、肛門にあると考えられていた玉で、取られると身体に力が入らなくなるというものだ。そんなものは当然見たことがないし「河童が取る」という以外の場面で名前を聞いたこともない。想像するに、ピンポン玉くらいの大きさで、肌色のつるりとした玉だろうか。
キュウリを好むイメージは、東海漬物の「きゅうりのキューちゃん」の漬け物のコマーシャルが出所に決まっている。酒を好むとか大人の河童が色っぽいというのは、まず間違いなく小島功の絵を使った「黄桜」の宣伝のせいだろう。相撲と頭の皿は昔話からもらったイメージだという気がする。
♪かりぱっぱ、ぽりぽっぽ、きゅうりのキューちゃん♪
にしろ
♪かっぱっぱ、るんぱっぱ、かっぱ黄桜かったった♪
にしろ、何年たっても覚えている。コマーシャルの力はつくづくすごい。 
 

 

雷さま 
ライオンのたてがみのような髪はぼうぼうで、そこから角がのぞいている。角は真ん中に一本のような気がする。虎柄の腰巻か褌かわからないものを巻き付けている。筋肉隆々ボディビルダー的男らしい体格である。肌の色は非常に濃いような印象がある。大きな剣を持っている。小型の太鼓を輪につないだようなものを背負っている。雷の音はこの太鼓の音だと思うが、背中に背負っている太鼓をどうやってたたくのか知らない。稲光は剣が空を切り光るときにおきる。恐ろしい形相をしている。全体に鬼のようでもあり、神のようでもある。雷雲に乗って移動する。下界に降りてきて子供のへそを取る。
夏の夕方、お風呂に入ったあとに雷がなると「ほーら、雷さまにおへそを取られるから早くパジャマを着なさい」と言われていた人はかなり多いのではなかろうか。へそが身体の奥の方の重要な場所とつながっていて、それが生命の根幹に関係ありそうな感じは、子供にだってわかるごく基本的な身体感覚である。大事なへそを取られたら、ゾンビのようなふぬけになってしまうかもしれない。
今でも夏の空が暗くなり、天から降りてきた雷さまにへそを取られた自分の状態を想像するたびに、わけもなく不安になることがある。
雷さまはなぜ子供のへそを取るのだろう。まさか食べるのではないだろう。私は曲玉のようにつないで首飾りにしているのだと勝手に思っていた。雷さまの濃い肌色、堂々とした広い胸、そこに幾重にも下がるつやつやしたピンク色のへそ数珠。このコントラストは悪くない。小さな子供の考えたことにしては上出来である。 
池の主 
古い池や湖などの水辺にはヌシが住んでいる。ヌシの正体は、多くの場合そこに長く住んでいる動物で、霊力がある。そういうものを怒らせるときっと面倒なことが起きるので、人々は池のほとりに神社をつくったり供物を出したりしてご機嫌をとる。
深い水の底はのぞいても何があるのだかよくわからず、気味が悪いのでこんな発想になるのだろうが、深いところに特別な動物が住んでいて怒らせるとマズイとは、ゴジラと同じパターンだ。
つまり、自明のこととは思うが、ゴジラは伝統的な日本のお化けの一種で、核実験に腹を立てた海のヌシなのである。ゴジラが都市へやってきて悲しげな咆哮とともに街を踏み潰すのは「たたり」である。ゴジラは、大自然への畏怖の心を忘れ、供物をささげるどころか、核実験など行って静かな海の底を荒らした人間たちを懲らしめにやってきたのである。わざわざ日本を選んでやってくるあたりが甘ちゃんという気もするが、まあいい。
ゴジラに限らず、水辺のヌシにはいろいろな形態が考えられる。一番一般的なのは大きな魚だろうが、大亀、大蛇というのもよく聞く。ネス湖のネッシーは、出る場所や形態から考えるとヌシなのだが、メッセージがないところが弱い。やっぱりエコロジーの御旗を掲げていなくちゃヌシの貫禄は出てこないのである。
井の頭公園のヌシの正体は?
東京都武蔵野市にある井の頭公園の池にも、ヌシがいると言われていた。私は子供のころこの池のすぐ近くに住んでいたので、うわさをずいぶん気味悪く思ったものである。
池の水は、今もひどいが当時から非常に濁っていた。もっと昔、江戸時代ごろはなんでも名水の誉れ高かったらしいが、おそらく深くもない池を貸ボートのオールでかき回してしまうからだろう、すっかり濁っている。水深15センチから先は、何がなにやらまったく分からない。地元の人たちが水面にばらまくパンの耳などに加えて、よそから訪れた人も売店で買い求めたえさをまくものだから、丸々太った大きな鯉がたくさんいる。
鯉があれほど育つのに何年かかるのだろう。特別大きなやつが濁水の中から突然現れ、洞窟のような口をぱっくり開いて近づいてくると、なんだか鯉がえさを吸い込む勢いで自分も水の中に吸い込まれてしまいそうに思えた。「ああいうのはヌシなんだよ」と誰かが小学生のくせにきいたふうな口をきいた。だから、当時の私は、井の頭池のヌシは鯉なのだと考え、大型の鯉の姿だけを特別に警戒していた。化け物の存在を信じていたわけではないが、こういう話はいやなものだ。
ところが、中学生になると、池のヌシは蛇女なのだという話が出てきた。ヌシはもともと蛇の姿だったわけではなく、ごく普通の若い娘だった。ところが恋人との仲を裂かれて池に投身自殺をし、恨みと悲しみが彼女を大蛇の姿に変えたのである。
うそ臭い話だが、実際、弁天様の鳥居わきの狭い階段を上りきったあたりに彼女の像があるから、多少は根拠があるのだろう。残念ながら、石像はとても芸術的とはいえない代物で、ソフトクリーム型の蛇の上に人間の頭をのせた形である。非常に情けないので、わざわざ見に行くのはおすすめしない。
井の頭公園の弁天さまには、夫婦や恋人が揃ってお参りすると嫉妬されるので良くないなど、いろいろな噂がある。恋人と井の頭公園へ行き、ボートに乗ると必ず別れてしまうという噂もよく聞く。最初に情報を得たころ、私はまだ中学生だったので恋人などあろうはずもなかったが、嫉妬にのたうちまわる蛇女のイメージは強烈で「一応気をつけような」と思ったものである。再び言うが、別に信じていたわけではない。「やだな〜」という程度である。
蛇女の弁天さまというのも無茶苦茶なイメージだ。今考えると少しお恥ずかしい気もする。が、中学生に疑問はわかなかった。私の頭の中では、あそこの弁天さまは、蛇女がまつられている場所だったのだ。本当のところ、正しい井の頭池の伝説がどうなっているのかは、調べたことがないので知らないが、こんなふうに誰かの頭の中に何かの間違いで定着してしまったイメージの集積が伝説というものだろう。一度形成されたイメージは滅多なことでは取り替えがきかないので、何年たっても、なんとなくあそこは蛇女の領地のような感じがしている。
さて、私の知る限り、井の頭公園に出かけてボートに乗った恋人たちは、全て別れている。東京ディズニーランドも縁切りの名所らしい。確かにディズニーランドへ行ったカップルで別れたのをたくさん知っている。この他、鎌倉の通称「縁切り寺」、神戸ポートピアランド、伊勢神宮などもヤバイらしい。
あたりまえだ、馬鹿ばかしい。みなデートの名所ではないか。世の中のカップルの大半は、別れると決まっているのである。つくづく、もっと説得力のある流言に出会いたいものだ。 
だいだらぼっち
だいだらぼっちは、日本各地に広く分布する伝説に登場する巨人である。大太法師と字をあて、だいだぼうしとも読む。怪力を持ち、富士山を一夜にして作ったとか、足跡が湖になったとかのダイナミックな逸話を多く残している。
秋田県の八郎潟を作ったとされる「八郎」という巨人や、九州の「大人弥五郎(おおひとやごろう)」も、名前こそ違うが、同じものだろう。
サイズの差がありすぎるため、だいだらぼっちと普通の人間との会話は、まず、考えられない。群馬県の榛名山に腰掛けて、利根川で脛を洗った(ふんどしを洗ったという説もあり)という話から類推して、どう少なく見ても身長は我々の数千倍、キロメートル単位だ。大きすぎる。これほどの差は、小人の国に旅行したガリバーだって、経験できなかったはずだ。だって、ありんことわれわれの差だって数百倍レベルなんである。もう一桁違ったら、会話はおろか、踏んづけたかどうか気にしてもらえるとは思えない。
私がだいだらぼっちを思うとき、浮かぶのは「孤独」という言葉である。
だいだらぼっちは、いつも一人で登場する。家族があった、という話も聞かない。だから、昼はひとりで山野を歩き回り、夜もひとりで平らな場所をみつけて休む。体力と孤独をもてあました、可愛そうなだいだらぼっち。
彼の叫び声は雷雲を呼び、頬をぬらす涙は、雨と混じって足元に湖を作ったかもしれない。なぜそう思うのかはわからないが、どうしても、だいだらぼっちは、こういう気の毒な巨人のイメージになってしまう。本人が聞いたら、失礼だと言って怒るかもしれない。
この種の巨人は、中国にもいる。天地を開闢したと言われる「盤古」というのが、それである。「万古の昔」という言い方があるが、「盤古」は「万古」と同じものなんだそうだ。詳しくは知らないが、こちらも天地を作ったくらいだから、仲間の存在は考えにくい。巨人は孤独な運命と決まっているのだろうか。
さて、平凡社の百科事典でだいだらぼっちの項を見ると、たった2行ほどしかない説明の半分近い文字数を割いて、何の脈絡もなく突然「東京都世田谷区代田の地名はこの伝説に由来」と書いてある。辞典の類には、時々こういう不思議な記述があって、遭遇するたび楽しませてもらえる。
代田は、駅で言うと京王井の頭線、小田急線の下北沢の付近である。自転車で走ると、アップダウンが多く、変速器ナシで前カゴに荷物を山盛りにしていたりすると、けっこうつらい地域である。でこぼこは、巨人の足跡の名残、いや、ぐいと踏んばったときの、足指の跡だと考えられる。
「ここは小指」「ここは薬指」
なんて思いながら、巨人伝説にふさわしい大きな気持ちでペダルを漕げば、坂道も苦にならない、かもしれない。 
一つ目
老若男女色々な一つ目があっても良さそうなものなのに、不思議なことに一つ目はだいたい男の子の姿をしている。それも、お寺に預けられた小僧さんのようなこざっぱりしたなりで、頭も青く剃ってある。「一つ目小僧」という名前なら、まずこの姿だ。
一つ目の目は普通の人の目よりも大きくて、顔の真ん中にどかんとある。多くの場合、目は普通の人間のようなアーモンド型ではなく、まんまるである。そんなのがついているから、当然顔の中での鼻の存在感はうすい。
一つ目が何を考えているのか私には想像もつかない。彼らが何かを訴えているとか、何かをしたがるとか、そういう図が思い浮かばないのだ。古典的なオバケだという以上の感触がない。人気がなくて情報が少ないせいかもしれない。 
三つ目 
一つ目がオバケなら、三つ目もオバケであっておかしくないのだが、ひとつ余分についた目が知性と洞察力を格段に高めることになっているため、普通の人間よりも知的レベルの高いものとして描かれることが多い。超能力のイメージも強い。
知性の窓としての目がひとつ多くついているからそうなるのだとも、知性が宿る額に目がついているためなのだとも、両方かなとも思える。三つ目の目の場所は額の真ん中でなくても良さそうなものだが、それ以外の場所につくのはほとんどない。指先の目や頭の後ろの目なんて悪くないと思うのだが。不便かな。
私にとっての三つ目の代表は、これはもう断然手塚治虫の「三つ目が通る」である。三つ目の主人公、写楽保介はジキルとハイドのような二面性を持つキャラクターだった。
彼は普通の人間ではなく絶滅した別の種族の子孫である。天才的な頭脳を持ち、祖先の遺志を継いで世界征服をする野望を持っているが、額の目をバンソーコでふさいでしまうと幼児のような無邪気さを持った男の子に変わってしまうのでたちがわるい。危ない魅力のある男の子だ。美人で強い同級生、和都千代子さんが惚れきってしまうのがよく分かる。
写楽と和都という名前は、シャーロック・ホームズとワトソンから来ているのだろうけれど、「三つ目が通る」は探偵ものではない。SF冒険ファンタジーである。いいマンガだったなあ…。 
 

 

のっぺらぼう
のっぺらぼうは、ふと顔を上げる。その顔が、ゆでたまごのようにつるりとしている。まず攻撃してくることはない。ただ顔を上げて「あるべきものがない」ということを示すだけだ。それが恐ろしい。化け物がでたことよりも「あるべきものがない」ということが怖いのである。
(「ないはずのものがある」というのも怖いらしい。昔見た映画に、やっとのことで美人と二人きりになった男が、「ないはずのものがある」ことに気づいてショックを受け、ゲエゲエと嘔吐し、立ち直るのにしばらくかかるシーンがあった。よく見れば、美人には喉仏があったし骨格も大きかったので、注意深い観客はネタがばれるまえから気づいていたらしいが、私はすっかりだまされてしまった。とても色っぽい美人だった。映画のタイトルは見ていない人のために書かないでおく。)
当然あるべき顔がない。そんなものを見てしまえば、持っている常識がすべて危うくなる。それは、今あると信じているこの世の存在そのものが危うくなること、つまり、足場が崩れることである。人間は少しだけの奇妙さには好奇心を持って対することができるが、完全に異質なものに対しては、恐怖と拒絶反応でしか対応できない。のっぺらぼうは、かなり高度な怖さのお化けなのだ。
のっぺらぼうの話でもっとも有名なのは、中学校の英語の教科書で紹介されたこともある小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の「怪談」にある、のっぺらの二段攻撃だろう。
夜道で若い女性がうずくまっている。声をかけると顔がない。恐ろしくて「ぎゃー」と逃げ出し、一心不乱に駆け出して、夜泣きそばの屋台で息をつく。今そこでこんなものを見ました、と報告すると、屋台のおやじが顔のない顔を上げ「こんな顔だったかね」。「ぎゃー」
小泉八雲は妻から聞いた民話を元に創作をしていたので、若干の脚色はあっても、この話は彼の完全な創作ではなく、こういう言い伝えがあったのだろうと思う。
ハワイでのっぺら
さてさて、ハワイに「のっぺらぼう」の目撃証言がたくさんある、と言ったら信じてもらえるだろうか。
ワイキキとはダイアモンド・ヘッドを挟んで反対側少々山寄りのカイムキ地区に、ワイアラエというドライブ・イン・シアターがあった。ここの女子トイレで、1950年代終わりごろからたびたび顔のない女性のお化けが出ているのである。お化けはなに食わぬ顔で鏡に向かって長い髪をとかしていたという。
1982年にラジオ番組でこのお化けが取り上げられたときには、たちまち「わたしも見ました」という体験談でラジオ局の電話が鳴りっぱなしになったそうだ。
ハワイは日系の移民が多い場所なので、日本のお化けも一緒に移動していても別段おかしくはないが、面白いことにこのトイレでのっぺらぼうを見ているのは、日系の人ばかりではない。ある目撃証言では、目撃者だけでなく、お化けのほうも人種が違い、なんと顔のない女性は赤毛の白人だったという。体験者たちは「この体験をする前に、類似の話を聞いたことはありません」と声をそろえて言うそうだ。
ハワイには、このほか河童によく似た「グリーン・レディ」と呼ばれる緑色の皮膚に海草のような髪をして甲羅を背負ったお化けの目撃証言もたくさんあり、興味はつきない。 
狛犬 
狛犬は、神社の入り口付近の台の上に座っている、獅子とも犬ともつかない顔つきをした動物のオバケである。単独でいることはなく、必ず一対である。どこの神社にもいるし、お寺にいることも多いので、日本全国あわせたら、ものすごい数になるだろう。
あるとき、日本を訪問中の外国人に、狛犬を指してこれは何だと尋ねられ、答えに詰まった経験がある。
「いや、こうやって、入口に座っているんだし、けっこう怖い顔だし、まあ、多分、神社を守ってるんだと思うんですが…」
歯切れの悪いことこの上ない。この程度は何の知識がなくても狛犬の姿を見れば分かる。いつものことだが、外国のお客様に自国の伝統文化を説明できない間抜けな日本人、というのをやってしまった。いやはや。ああみっともない。
後日、両親に「狛犬って何?」と聞いてみたが、彼らの答えももたついた。小学校の教科書に
こまゐぬさん あ
こまゐぬさん ん
と書いてあったはずという以上の情報が出ないのだ。昭和生まれは、どの世代も、こういう用事をさせると全く不甲斐ない。
「こま」の部分は高麗の意味だから、狛犬は朝鮮半島の犬ということになるが、沖縄のシーサーやシンガポールのマーライオンを挙げるまでもなく、似たような獣の像をアジア各地で見かけるので、特に朝鮮半島が起源とも思えない。外国なら何でも「高麗」だと思われていた時代の名残だろう。最近外国が全部アメリカになってしまっているのと同じ現象だ。
狛犬は犬だが、シーサー(獅子様)やマーライオン(海のライオン)は一応獅子だろうから、狛犬と唐獅子とは起源が同じだと考えてもそれほど無理はない。すると、魔除けの意味を持つ獅子舞と狛犬がつながり、あらためて狛犬はただ座っているのでなく、番犬をしているのだと納得できる。
口を開いたものと閉じたもののセットで「阿吽」だったり、子を連れたものと珠を抱いたもののセットで「雌雄」「陰陽」だったりする。右側が口を開いている「阿」であることが多いが、そうでないものもよく見るので、どちらがどちらと厳しく決まっているわけでもないらしい。
なじみの深い狛犬だが、どうも情報が少ない。一体これはどういうことだろうか。誰も魔除けだと知らない状態でも、狛犬の魔除けの効力はあるんだろうか。あと二十年ばかり経って、もっと人々の興味が薄くなったとき、突然近所の神社やお寺が魔物の大群に占拠されてしまったらどうしよう。 
魑魅魍魎 
ここ数年の間に魑魅魍魎を見たと思ったことが二回ある。
まず、一回めは、映画「ジュラシック・パーク」で小型の肉食恐竜が集団で徐々に人を追いつめて行く動きを見せられて息をのんだときだ。ぴょんぴょんと飛び跳ねるその恐竜たちは鶏程度の大きさで、通常はそれほど危険なものではない。だが、肉食なので、人間が弱った瞬間がーっと集団で襲ってくる。そうなるともう人間などただ食われる一方である。映画館でこれを見ながら、浮かんだ言葉は「魑魅魍魎」だった。
二回めは、インターネットでショッピングをするというテーマで本を書こうと資料を集めていた一九九五年夏ごろ。まだインターネットショッピングは黎明期で Books.comなどごく一部の店以外は、名前も聞いたことがなく商品も怪しげな小さなショップが多かった。注文を出そうものなら、あっという間に何かひどい目にあいそうで「こりゃあ魑魅魍魎の世界だ」と思った。
もちろん、これらはどちらも本物のオバケがそこにいたわけではなく、魑魅魍魎「的」なものを見たに過ぎない。
魑魅魍魎とは小型の化け物、下等霊の類で、動きは個別だが集団で行動する。条件がそろうとワサワサワサといくらでも出てくる。ひとつひとつは手で簡単にはらいのけられる程度の力しかない弱いものなのに、数が多いのでこちらが消耗しているとやられてしまう。だいたいそんなイメージだ。
このイメージを築くのに最も強い影響があったのが、山岸涼子の大傑作マンガ「日出処の天子」に出てきた魑魅魍魎ではないかと思う。気力が弱って下等霊すら追い払えずにいる厩戸王子のところへ蘇我毛人がやってきて、御簾の中でどたどたと走り回りながら化け物たちを追い払う。こう書くとギャグマンガのようだが、二人の結びつきの強さと深さを示す大切な場面の一つだった。
こうしてあらためて考えてみると、マンガの影響でイメージが決まったオバケが随分多い。私はマンガに育てられたんだなあ…。 
麒麟 
中国産の仁獣、瑞獣で聖人の出現する前に現れるという。形は鹿をベースにして、尾は牛、蹄は馬、頭に角がある。顔はなんだか龍に似ている。羽は生えていないはずだが、空を飛ぶ。殺生をせず、なんと草すら踏まない。
そういうものだということは知識では承知しているのに、麒麟と言ったら断然ビールのラベルの姿が決定的だ。同じめでたい獣でも、龍とは違い、日常接する物語で麒麟の出番は少ないのだ。まあ、キャラクターとしてのインパクトは龍のほうが断然上だから仕方がないのだけれども。
だいたい、動物園のキリンとは違う麒麟があるということをビールのラベルで知った人のほうが多いのではないかと思う。記憶はないが、恐らく私もそのクチだ。なさけないことに、私は麒麟の登場する物語を一つも思い浮かべることができない。一方、キリンビールが登場する思い出はたくさんあるのだ。「麒麟」という単語を聞いただけでもうのどが渇くような気すらする。かわいそうな麒麟。名前ばかり売れてしまって実質が伴っていないなんて。あんなにかっこいいのに。
ラベルの麒麟をじっくり見たことがおありだろうか。
鹿でなく馬寄りの体型。背には鱗があり、炎のような毛も生えている。その毛のなびき方と脚の運びを見ると、どうやら空を飛んでいるようだ。顔には何と特定できないあいまいな表情が浮かんでいる。あいまいな表情は、モナリザの例もあるように、名画の条件だ。
見ればみるほどこの絵はいい。安定感と躍動感とを両方備えた絵だと思う。文字や周りの装飾、色を含むラベル全体のデザインもとてもいい。大きな企業の伝統ある製品には、こういう優れたデザインが時々ある。
キリンラガーが息の長い商品になったのは、瓶の中身の良さや営業力だけでなく、立派なデザインのせいもあるのではないだろうか。時々、とりあえずの一杯を飲んだ後にそんなことを考える。 
龍 
龍は基本的には蛇の格上げされたものだ。この形がよほど魅力的なのか、世界中に龍に類する物を崇拝する信仰がある。
大蛇に角を付け、顔は牛に似て髭なども生えている。足は生えているのもないのもあり、翼もあるのとないのがある。空を飛ぶものも、地中の洞窟に住むものも、海や湖深くに沈んでいるものもある。
日本では聖なる生物、水神のイメージ。うねうねとした海蛇の動作で水中と空中を区別なしに移動する。「まんが日本昔話」のテーマソングと共に画面に現れる龍の動きがまさにそれだ。口に珠をくわえているか、あるいは前足で珠をにぎっている。
この珠がかの有名な「ドラゴンボール」なのだと思うのだが、あのマンガでは珠は五つ(いや、七つだっけか?)あった。龍が何頭もいるとか、珠をいくつもくわえているとか、そういう図が思い浮かばない。そのあたりのつじつまはどうなっているんだろうか。
熱海のバナナワニ園でワニが昼寝してるみたいな感じで、龍がぞろぞろと集まってくつろいでいたらすごい景色だと思うが、やっぱり孤高の姿のほうがかっこいいのは確かだ。
欧米のドラゴンは、水辺の洞穴に住み炎を吹き財宝を守っている感じがする。翼があるのは主に欧米型で、翼は鳥みたいなのではなく、コウモリタイプ。聖なる生き物ではなく、邪悪な感じ。
洋の東西と善悪を問わず龍は光物が好きだ、というのが楽しい。
こういうのとは別に、子供を背に乗せて空を飛んでくれるようなおとなしい龍の系統もあり、これらを全部ひっくるめて同じドラゴンと思っていいかどうかはよく分からない。 
 

 

鳳凰 
あるとき、日本の伝統美術を紹介する立派な美術展へ出掛け、鳳凰がつがいで描かれているのを見て「え?」と強い違和感を覚えた。
私の考えでは、鳳凰は数百年生きた後、火の中へ飛び込んで古くなった身体を捨て、新たな命を得る神秘の鳥である。つがいで仲むつまじく掛け軸に収まっている図は誤りなのである。だって、火の中へ飛び込むんだったら、単性生殖ではないか。それに、鳳凰は神様のような鳥なのだから、一羽でなくてはいけない。何羽もいては価値が減じてしまう。
上野の人ごみの中を歩きながら、しばらくあれこれ考えて、ハタと思い当たった。私の頭の中の鳳凰のイメージは、圧倒的に手塚治虫の長編マンガ「火の鳥」に登場する鳥によって形成されていたのである。
調べてみると、鳳凰は、中国伝来の瑞鳥で、龍や麒麟と同じ想像上の動物である。雄を鳳、雌を凰という。前は麟、後は鹿、頸は蛇、尾は魚、背は亀、あごは燕、嘴は鶏に似、五色絢爛のハイブリッド生物であるらしい。しかし、いくら昔の絵師たちの技術が高くても、麟鹿蛇魚亀燕鶏などという形は描きにくいものらしく、雉を数段派手にしたような姿で登場することが多い。
あらためて気をつけて見ると、鳳凰は、ほとんど常に、つがいで描かれている。私の台所にある塗りのお茶盆も左右対称の鳳凰柄だ。この2羽も、なんということはない、尾が長いだけの、ただの鳥の形をしている。
鳥で神秘的な力をもつものというと、鳳凰のほかにフェニックスがある。こちらはもともとエジプトの伝説的な霊鳥で、アラビアの砂漠にすみ、500年生きると、薬草で作った巣に火をつけて焼け死んだのち、生れ変わる。フェニックスは、ヨーロッパでも不死鳥として広く知られている。
つまり、つがいの鳳凰を見て違和感を覚えた私のイメージは、鳳凰とフェニックスを同一視して物語を作った、手塚治虫のイメージだったのである。
「火の鳥」の中の鳥は、時空を越えて世界を見守る神のような位置付けで、メスだった。雉とも孔雀ともつかない形をしていたが、色は金から赤、つまり太陽の色である。大きな瞳を縁取るまつげが長く、やさしい顔をしていた。フェニックスのように、火の中へ飛び込み、古い身体を燃やして捨て、新しい生命を得るシーンがあった。
本など読むと、エジプト発のフェニックスは、オスであるらしいので、手塚治虫のメスの火の鳥とは違う。また、鳳凰の定義には、火の中に飛び込むという部分は見当たらないので、どうやら鳳凰とフェニックスは違うものと考えなければならないようだ。
ここまで調べてはみたものの、私の頭の中で、<鳳凰=フェニックス=火の鳥>というイメージが絶対であることには変化がなかった。本で勉強して得た知識と、夢中になって読んだマンガの印象では、マンガが勝つのである。こうやって一世代ごとに少しずつ日本の伝統文化と常識が歪んで行くのだ。300年後の未来の世界に出掛けていったら、さぞかし大笑いができるだろう。 
トイレの花子さん
おかっぱで赤い服「トイレの花子さん」は、映画まで作られた超有名キャラクター。現代の学校の怪談の花形スターである。
基本的な話は、こうだ。学校のトイレの、特定のドアを、決まった回数(3回が多い)ノックすると、中から「ハーイ」という可愛らしい女の子の声がする。これは、この個室、または掃除用具入れで殺されたか自殺した女の子の霊である。花子さんの姿は、大概おかっぱ頭で赤い服である。トイレから外に出ようともがいたのか、血塗れた手をしている。
おかっぱで赤い服、というのが、現代の子供オバケの典型らしく、このページの読者が「うちの子がリビングで見たようだ」と報告してくれた座敷わらしにも、おなじ姿かたちのものがいた。
声がするだけで終わりのパターンに加え、そのあと「何して遊ぶ?」ということになって、選んだ遊びによって殺されてしまうパターンや、ノックの回数で占いをしてくれる交霊会みたいなパターンなどもあるようだ。
花子さんの起源には諸説ある。
私の知る限り、最も大仰な説はこうだ。花子さんは、本妻に妬まれ、トイレで殺されたのをうらんでトイレに出る、千三百年ほど前の時代の中国の何媚という女性のオバケであるというのである。どうせ出るなら、トイレじゃなくて、もっといい場所に出たいだろうに、気の毒なことである。
このオバケは、予言能力があるとされ、「紫姑神」「厠姑」「三姑神」という名に変化して、トイレの守り神として信仰を集めたらしい。いまでも、中国の家庭では、何媚の命日である1月15日に行事を行うところがあるそうだ。
日本にも、江戸時代ごろから民間信仰の中に入ってきているというが、私の個人的な体験のなかでは、女性の守り神がトイレにいるという話を聞いた覚えがない。
可愛らしい子供の花子さんと、どろどろした大人の怨念を背負った何媚はずいぶんイメージが違うので、私にはどうも直接の関連があるとは思えない。花子さんほどの知名度はないが、「紫ババア」という、トイレに現れる紫色の服を着た老女のオバケが知られている。こちらを何媚の霊の変形と考えるほうが自然だろう。
しかし、はるばる中国から、千年以上の時を越えて、オバケが移動し、形を変え、定着したのだととしたら、それもまた実に面白いではないか。
オバケはどうやって旅行するのだろう。手ぶらだろうか。荷物を持っているのだろうか。飛行機や船に乗るのだろうか。空を飛べるだろうか。それとも本や人の頭の中のイメージとして、抽象的な形でやってくるんだろうか・・・。
トイレのおばけ、バリエーション
「赤マント青マント」
「赤マント、青マント」は、昭和十年代ごろのオバケ。最近はほとんど出ないので、絶滅したと考えられるが、おもしろいことに、変形版がいくつもある。
基本はこうだ。学校のトイレの個室に入ると「赤マントがほしいか、青マントがいいか」とたずねる声がする。正解は「青」である。間違って「赤」と答えてしまうと、天井からナイフが落ちてきて、そこで殺されてしまう。周囲に飛び散った血しぶきが、赤いマントのように見えるのだそうだ。
「赤い紙、白い紙」
戦後、昭和二十年代ごろのオバケ。赤マント青マントのバリエーション。学校のトイレの個室に入ると「赤い紙やろか、白い紙やろか」とたずねる声がする。正解は「白」である。間違って「赤」と答えてしまうと、殺される。周囲に飛び散った血しぶきが、紙を赤く染める。高度成長期に入り、トイレの紙の形態が、落とし紙から徐々にロールに変化すると、このオバケは出なくなる。
「赤い手、白い手」
いつの時代のものなのか、はっきりしない。これは、赤マント青マントと、河童の尻子玉抜きの混合。個室に入ると、「赤い手がいいか、白い手がいいか」という声が聞こえる。トイレからにゅー、っと手がのびてきて、お尻をなでるという。そこで生気を抜かれ、殺されるというパターンもある。水洗便所では、手が出るのを想像するのはちょっと無理だから、これも、赤い紙白い紙と同じく、高度成長前までのオバケだろう。
暗い穴の開いているところに、無防備なお尻をさらすのだから、子供でなくても昔の汲み取り式トイレを気味悪く思うのは当然である。臭いし暗いし、不気味なことこの上ない。オバケが出て当然の環境である。
便所から手が出てお尻をなでるパターンは歴史が古く、明治ごろから記録されているらしい。 
お化け屋敷の喩え
凡夫と、煩悩障を断じた聖者と、所知障も断じた仏陀の三者が対象をどう認識するかについて、伝統的に「幻術師の喩え」が説かれています。見世物小屋の中で幻術師が呪文をかけると、木や石が馬や牛の姿に見える・・・という手品のようなものです。これを見ている観客は、まんまと騙されてしまうので、凡夫の喩えです。幻術師自身は、観客と同じように見えても、からくりを知っているので騙されません。これは、煩悩障を断じた聖者の喩えです。そして、呪文の後から会場へ入った人は、木や石がありのままの状態で見えるので、仏陀の喩えです。
この比喩をもう少し細かくアレンジして、E.中観の見解を持たぬ凡夫、D.中観の見解を有する凡夫、C.煩悩障を残している聖者、B.煩悩障を断じた聖者、A.所知障も断じた仏陀という五段階を説明する「お化け屋敷の喩え」を、以下に紹介します。
【比喩の設定】
窓にブラインドをして真っ暗な状態にした広い部屋の隅に映写機があり、白い壁に様々なお化けの映像をを次々と映し出しています。
部屋が真っ暗なうえ、このお化けの映像は非常によくできているので、まるで本物のように見えます。
【比喩が一般的に意味するところ】
ここで、お化けの映像が壁に見えることは、瓶の顕色や形色が眼識に顕現することの喩えです。
その映像がまるで本物のように見えることは、瓶が有情の眼識に自相成就(諦成就)として顕現することの喩えです。
本物のお化けは、瓶の自相(諦)の喩えです。
お化けの映像を本物だと思ってしまうことは、瓶を自相成就(諦成就)だと思い込んでしまう法我執(諦執)の喩えです。
特に、理性では本物でないと分かっていても、リアルな映像を実際に見たとき瞬間的に本物だと感じてしまうことは、倶生の諦執の喩えです。
お化けの映像を本物だと感じて恐怖感を生じることは、瓶を自相成就(諦成就)だと思い込んで貪りや執着を生じることの喩えです。
本物のお化けが実在しないことは、瓶に自相(諦)がないということ、つまり瓶の空性の喩えです。
映写機によって壁にお化けの映像が映し出されていることは、瓶は自相がなくても因や縁によって生起し、他に依存する縁起として存在し、その顕色や形色が顕現していることの喩えです。
【比喩によって凡夫から仏陀までの世俗認識を説く】
E.
この部屋の中にお化けが実在しないことを全く知らない子供は、お化けの映像を見て完全に本物だと思い込み、大変な恐怖に陥って部屋から逃げ出し泣き続けます。
これは、中観の見解を持たぬ(空性を比量によっても理解していない)凡夫が、瓶を完全に自相成就だと思い込み、それに強く執着し続けることの喩えです。
D.
この部屋の中にお化けが実在しないとよく知っている大人も、お化けのリアルな映像を見て驚き、瞬間的に本物だと感じて恐怖に陥り、部屋から逃げ出します。しかし外に出てから、「あのお化けは、本物のはずがない」と思い直し、恐怖はおさまります。そして、一目散に逃げ出したことを、少し恥ずかしく思います。
これは、中観の見解を持った(空性を比量によって理解している)凡夫も、実際に瓶をまのあたりにしたときは、自相成就としての顕現に瞞されて倶生の諦執を生じ、瓶に執着を起こすことの喩えです。その場を離れてから、中観の見解を再認識し、先刻の瓶が自相成就でないことを了解し、執着もおさまります。そして、日頃中観哲学を学んでいるにもかかわらず、瓶に執着を起こしてしまったという、その「分かっていても、やめられない」倶生の煩悩を克服すべき必要性を痛感するのです。
C.
お化けが実在しないということを直接確かめる手段として、賢い人は、強力な懐中電灯を持って部屋へ乗り込みます。そして、壁にお化けの像が映し出されたとき、そこに強い光を当てます。すると、お化けの映像は消えて、白い壁しか見えません。
しかし、いつまでも点灯していたら電池が消耗してしまうので、少し後で消灯します。すると、再び同じお化けの映像が見えてきますが、既に本物のお化けが実在しないことを直接確かめた後なので、恐怖感は起こりません。
この前半は、聖者の菩薩が無漏の等引に入ったとき、瓶の顕色や形色など世俗の顕現が全て認識対象から消え、瓶の自相がないこと、つまり瓶の空性だけが瑜伽現量の認識対象となっているという、そうした等引智の状態の喩えです。
しかし、いつまでも三昧に入っているわけにはゆかないので、等引から起きて日常の感覚に戻ります。すると、瓶の空性は現量の認識対象から消え、再び瓶の世俗の顕現が五感の認識対象として現われます。けれども、既に瓶に自相がないことを直接確かめた後なので、瓶に対する執着は起こりません。なぜなら、執着などの煩悩は、瓶のうえに増益した自相に対してのみ指向するからです。従って、後半は後得智の状態の喩えということになります。
C→B
このようにして、例えば人魂に対する恐怖感を克服できても、次にお岩さんのリアルな映像が出て来れば、それに対する恐怖感を生じます。そこで、前と同じように強力な懐中電灯の光を当て、本物のお岩さんが実在しないことを確認すれば、それに対する恐怖感も克服できます。他にも次々と出てくるお化けや幽霊に対する恐怖感を全て克服できるようになるまでには、結構時間が必要です。
これは、聖者の菩薩が等引智と後得智の組み合わせを何度も繰り返して修習し、煩悩を粗大なものから微細なものまで順番に断滅してゆくことの喩えです。見道に入って空性を現量で了解できるようになったからといって、全ての煩悩を一気に断滅できるわけではありません。例えば、他人の所有物である高価な瓶に対する貪りは完全に断てても、自分が長年愛用してきた瓶に対する執着は断ち難い・・・というようなケースはよくあるでしょう。いかなるときに、いかなるものが諦成就として顕現しても、それに対して微細な倶生の諦執を絶対に生じない・・・という段階に至るまでには、長期に渡る修道の実践が必要なのです。
B.
やがて、様々なお化けや幽霊がどんなパターンで出現しても、強力な懐中電灯の光を当てるまでもなく、もはや一瞬たりとも本物だと感じる余地が全くなくなり、恐怖感は完全に克服されます。
これは、菩薩が第八地に入り、いかなる場合にも微細な倶生の諦執を生じる余地が全くなくなり、貪りや執着などの煩悩が完全に断滅されることの喩えです。この段階に至って、倶生の諦執、二我執、染汚の無明、煩悩障など全て根絶され、輪廻という苦しみの世界に束縛されることもなくなるのです。
B→A
お化けの映像が本物だなどと、もはや一瞬たりと感じることはありません。しかし、その映像自体は、相変わらずとてもリアルに見えてしまいます。それは、部屋が真っ暗なせいで、本当の様子が見えないからです。懐中電灯は、光がとても強力だから、照らし出された部分のお化けの映像が完全に消えてしまい、映像が映し出される様子をつぶさに観察することなどできません。しかし、既に恐怖感は全くないので、懐中電灯を頼りに広い部屋を隅々まで調べてみます。そして遂に、窓を見つけ、ブラインドを開けることができました。
清浄三地の菩薩の場合、既に諦執を完全に断滅しているけれど、それでも瓶は自相成就(諦成就)として顕現します。かといって、等引智の状態では、瓶の世俗の顕現が完全に消えています。だから、自相成就でない瓶の顕現を現量に見ることはできません。そうなってしまう原因、つまり所知障を断滅するため、清浄三地の菩薩は、さらに等引に入って修習を続けます。そして第十地の最後有の菩薩は、金剛喩三昧という等引智の状態で、所知障を全て根絶することに成功します。
A.
窓から適度な明るさの光が差し込んだので、広い部屋全体の様子が、今や手に取るように分かります。隅にある映写機から白い壁にお化けの映像が映し出される過程、つまり本物のお化けが実在しないことと、お化けの映像が顕現していることの両方を、同時に直接確認できるようになったのです。それによって、この部屋で起きていることを、全て正しく知り尽くせるわけです。
これは、瓶の空性と、瓶の顕色や形色などの顕現の両方を、仏陀だけが同時に現量で了解できることの喩えです。つまり、自相成就(諦成就)でない瓶の顕現を現量に認識し得るのは、一切智の境地へ至って初めて可能なのです。自相などの実体性が全くないままに、映像の如く存在して効果的作用を及ぼすというのが、世俗の本当の在り方です。それを仏陀は、手に取るように直接御覧になり、完全に知り尽くしているのです。

以上は単なる比喩です。一つの比喩で全ての事象をうまく説明できるわけではありませんから、よく注意してください。 
 
幽霊船 / 小川未明

 

沖(おき)の方(ほう)に、光(ひか)ったものが見(み)えます。海(うみ)の水(みず)は、青黒(あおぐろ)いように、ものすごくありました。そして、このあたりは、北極(ほっきょく)に近(ちか)いので、いつも寒(さむ)かったのであります。
光(ひか)ったものは、だんだん岸(きし)の方(ほう)に近寄(ちかよ)ってきました。そして、だんだんはっきりとそれがわかるようになりました。それは、氷山(ひょうざん)であったのです。
氷山(ひょうざん)はかなり、大(おお)きく、とがった山(やま)のように鋭(するど)く光(ひか)ったところもあれば、また、幾人(いくにん)も乗(の)って、駈(か)けっこをすることができるほどの広々(ひろびろ)とした平面(へいめん)もありました。そして、海(うみ)の水(みず)の中(なか)には、どれほど深(ふか)く根(ね)を張(は)っているかわからないのでした。氷山(ひょうざん)は、すべて、こうした水晶(すいしょう)のような氷(こおり)からできています。それが潮(しお)の加減(かげん)で漂(ただよ)ってくるのです。
このあたりの海(うみ)には、ほとんど、毎日(まいにち)のごとくこうした氷山(ひょうざん)を見(み)ました。あるときは、悠々(ゆうゆう)として、この大(おお)きな氷(こおり)の塊(かたまり)は、あてもなく流(なが)れてゆきました。そして、遠(とお)くにゆくまで、その光(ひか)ったいただきが、望(のぞ)まれたのであります。さびしい、入(い)り日(ひ)が、雲(くも)を破(やぶ)って、その氷山(ひょうざん)に反射(はんしゃ)しています。それは、遠(とお)く、遠(とお)くなるまで、岸(きし)に立(た)って、ながめている人(ひと)たちの目(め)の中(なか)に映(うつ)ったのであります。
また、あるときは、この氷山(ひょうざん)が、まるで蒸気機関(じょうききかん)のついている氷(こおり)の船(ふね)のように、怖(おそ)ろしい速力(そくりょく)で、目(め)の前(まえ)を走(はし)ってゆくこともありました。しかし、この白(しろ)い、光(ひか)る、氷(こおり)の上(うえ)には、生(い)きているものの影(かげ)はまったく見(み)えなかったのです。
ただ、いつのことであったか、こうした氷山(ひょうざん)が、岸(きし)に近(ちか)づいてきましたときに、人々(ひとびと)は、なんだか黒(くろ)い小(ちい)さなものが、氷(こおり)の上(うえ)に落(お)ちているのを見(み)ました。
「黒(くろ)い鳥(とり)だろうか?」
「鳥(とり)なもんか、海馬(かいば)か、オットセイだろう。」
岸(きし)に立(た)って、沖(おき)の方(ほう)を見(み)ている人々(ひとびと)は、いいました。
しかし、それが、近(ちか)づいたときには、大(おお)きなくまであることがわかりました。くまはどうかして、陸(りく)に上(あ)がりたいと、あせっているようでした。きっと、海(うみ)の上(うえ)が真(ま)っ白(しろ)に凍(こお)ったとき、くまは氷山(ひょうざん)の上(うえ)まで遊(あそ)びに出(で)たのです。そのうちに、氷山(ひょうざん)が動(うご)きだして、陸(りく)との間(あいだ)が離(はな)れて、もうふたたび陸(りく)の方(ほう)へ帰(かえ)れなくなってしまったのでしょう。みんなは、くまが、陸(りく)へ上(あ)がってきてはたいへんだと思(おも)いました。どんなに、暴(あば)れまわるかしれないからです。
「おい、みんな気(き)をつけたがいい、くまをこちらに渡(わた)してはたいへんだ。」と、口々(くちぐち)にいいました。
それで、鉄砲(てっぽう)を持(も)ってきたり、槍(やり)などを持(も)ってきたりしました。しかし、それまでに、氷山(ひょうざん)は陸(りく)の方(ほう)へは近(ちか)づかずに、ふたたび沖(おき)の方(ほう)へと流(なが)れていってしまいました。
みんなは、くまが渡(わた)れなかったので、安心(あんしん)をしましたが、そのくまが、それから、どこまで流(なが)れてゆくだろうと思(おも)うと、かわいそうな気(き)がしました。
こんなようなことのある、北(きた)の方(ほう)に起(お)こったできごとであります。いま、それをお話(はなし)いたしましょう。
「もう、氷山(ひょうざん)もこなくなった。海(うみ)の上(うえ)は、穏(おだ)やかだから、漁(りょう)に出(で)かけよう。」というので、三人(にん)の漁師(りょうし)は、ある日(ひ)のこと、船(ふね)に乗(の)って、沖(おき)の方(ほう)へこいでゆきました。
三人(にん)は、沖(おき)にあった、一つの島(しま)に近(ちか)づきました。その島(しま)には、だれも住(す)んでいませんでした。この島(しま)には小(ちい)さな湾(わん)があって、よくこの湾(わん)の中(なか)にたくさん魚(さかな)がはいっていることがあります。それで、漁師(りょうし)は、時分(じぶん)を見(み)はからって、この島(しま)に立(た)ち寄(よ)っては漁(りょう)をします。獲(と)れるときには驚(おどろ)くほど、獲(と)れることもありました。
三人(にん)は、湾(わん)の中(なか)に、船(ふね)を進(すす)めてようすをうかがいますと、たくさん魚(さかな)がはいっているけはいがしました。
「これは、しめたものだ」
「しめたぞ!」
三人(にん)は、勇(いさ)みたちました。そして、網(あみ)を下(お)ろして引(ひ)くと、はたして、こんなに獲(と)れたことがいままでにもなかったほど、たくさん獲(と)れたのであります。これをばみんな船(ふね)の中(なか)にいれたのでは、これから、もっと沖(おき)へ出(で)て仕事(しごと)をするのに邪魔(じゃま)になりましたから、獲(と)れた魚(さかな)を島(しま)の浜辺(はまべ)に上(あ)げておいて、帰(かえ)りに持(も)ってゆこうということにしたのであります。
三人(にん)の中(なか)の一人(ひとり)は、島(しま)に残(のこ)りました。二人(ふたり)が夜(よる)帰(かえ)ってくるときに、島(しま)で火(ひ)を焚(た)いて合図(あいず)をしようとしたからでした。乙(おつ)の男(おとこ)だけは、だれもいない島(しま)に残(のこ)って、甲(こう)と丙(へい)の二人(ふたり)が、勇(いさ)ましい掛(か)け声(ごえ)をしながら、湾(わん)から沖(おき)の方(ほう)へ出(で)てゆくのを見送(みおく)っていたのであります。
「早(はや)く帰(かえ)ってこいよ。」と、乙(おつ)は、仲間(なかま)の二人(ふたり)に向(む)かって、いいました。
「ああ、おまえがさびしがっているから、じきに引(ひ)き揚(あ)げてくるとも……。」と、二人(ふたり)は、笑(わら)いながら、だんだんと遠(とお)ざかったのです。
穏(おだ)やかな夕暮(ゆうぐ)れでした。乙(おつ)は、じっと船(ふね)を見送(みおく)っていますと、いつしか、青黒(あおぐろ)い沖(おき)の間(あいだ)に隠(かく)れて見(み)えなくなってしまいました。子供(こども)のころから、海(うみ)を畳(たたみ)の上(うえ)のように思(おも)っている人(ひと)たちでありましたから、この荒々(あらあら)しい海(うみ)をもおそれてはいませんでした。
日(ひ)が暮(く)れると風(かぜ)が出(で)てきました。それは、思(おも)いがけない突然(とつぜん)のことでした。急(きゅう)に、浪(なみ)が高(たか)くなってほえはじめました。乙(おつ)は、沖(おき)に出(で)ていった二人(ふたり)の友(とも)だちの身(み)の上(うえ)を心配(しんぱい)しました。
「どうか無事(ぶじ)に、早(はや)く、この島(しま)まで帰(かえ)ってきてくれればいい。」と、祈(いの)りながら、火(ひ)を焚(た)いて闇(やみ)の夜(よ)をこいでくる目(め)じるしを造(つく)ろうとしました。そのうちに、風雨(ふうう)と変(か)わって、せっかく燃(も)え上(あ)がった火(ひ)が、幾(いく)たびとなく吹(ふ)き消(け)されたのです。けれど、乙(おつ)は、熱心(ねっしん)に、そのたびに火(ひ)を新(あら)たにつけたのでした。しかし、待(ま)ちに待(ま)った船(ふね)は、帰(かえ)ってきませんでした。
「この暴風(ぼうふう)に、どこへ逃(に)げただろうか? こんな広(ひろ)い、広(ひろ)い、海原(うなばら)をどこへゆくというところもないのに……沈(しず)んでしまったのではないだろうか?」
乙(おつ)は、もはや、気(き)が気(き)ではありませんでした。そのうちに、怖(おそ)ろしい夜(よ)は明(あ)け放(はな)れました。見渡(みわた)すかぎり、大空(おおぞら)は、ものすごく、大(おお)きな浪頭(なみがしら)はうねりうねっています。そして、船(ふね)の影(かげ)すら見(み)えないのでした。
乙(おつ)は、独(ひと)り、小(ちい)さな無人島(むじんとう)に残(のこ)されたのでした。彼(かれ)は、一日(にち)、岸(きし)に立(た)って、船(ふね)の帰(かえ)るのを待(ま)っていました。しかし、昨日(きのう)の暴風(ぼうふう)に難破(なんぱ)したものか、船(ふね)はその日(ひ)も暮(く)れかかったけれど、姿(すがた)が見(み)えぬのでありました。
三日(みっか)めのことです。乙(おつ)は、もうやせ衰(おとろ)えていました。やはり海岸(かいがん)に立(た)って、いっしんに沖(おき)の方(ほう)を見(み)ていますと、なつかしい、見覚(みおぼ)えのある仲間(なかま)の乗(の)っている船(ふね)が、波(なみ)を切(き)って湾(わん)の中(なか)へはいってきました。甲(こう)も丙(へい)も、無事(ぶじ)で船(ふね)の上(うえ)に動(うご)いているのがありありとして見(み)えたのです。
「おうい。」と、乙(おつ)は、両手(りょうて)を高(たか)く挙(あ)げて、沖(おき)に向(む)かって叫(さけ)びました。すると、あちらからも両手(りょうて)を高(たか)く挙(あ)げて、叫(さけ)んでいたようです。けれど、その声(こえ)は、聞(き)こえませんでした。
おりから、入(い)り日(ひ)の影(かげ)が、波(なみ)の上(うえ)を明(あか)るく照(て)らしました。そして、船(ふね)に乗(の)っている二人(ふたり)の顔(かお)を赤(あか)く彩(いろど)って見(み)せたのです。
「ああ、なつかしい、まさしく甲(こう)と丙(へい)だ! よく死(し)なずに帰(かえ)ってくれた。」と、乙(おつ)は、目(め)に、熱(あつ)い涙(なみだ)をいっぱい流(なが)して喜(よろこ)びました。
やがて、その船(ふね)は、すぐ間近(まぢか)にまいりました。
「おうい。」と、乙(おつ)はまた両手(りょうて)を挙(あ)げて叫(さけ)びました。
甲(こう)と丙(へい)の二人(ふたり)は、それに対(たい)して、答(こた)えるであろうと思(おも)ったのに、音(おと)なく、船(ふね)をこいで、前方(ぜんぽう)を横切(よこぎ)ったかと思(おも)うと、その姿(すがた)は、煙(けむり)のごとく消(き)えてしまったのです。
乙(おつ)は、びっくりしてしまいました。
「幽霊船(ゆうれいぶね)だ!」
こういうと、乙(おつ)は、がっかりとして、自分(じぶん)の体(からだ)を砂(すな)の上(うえ)に投(な)げて泣(な)きだしました。彼(かれ)は、疲(つか)れた頭(あたま)に、いろいろの幻影(げんえい)を見(み)ました。夜中(やちゅう)、うなされつづけました。そして、ふたたび、明(あか)るくなったときに、彼(かれ)の目(め)は、血走(ちばし)って、興奮(こうふん)しきっていました。
ちょうど、その日(ひ)の昼過(ひるす)ぎごろでありました。乙(おつ)は、顔(かお)をあげて、沖(おき)の方(ほう)を見(み)ますと、まごう方(かた)なき、なつかしい船(ふね)の姿(すがた)を見(み)ました。しかも、昨日(きのう)見(み)たと同(おな)じい……幽霊船(ゆうれいぶね)の……こちらへこいでくるのを見(み)ました。
一時(じ)は、はっと思(おも)って、うれしさに胸(むね)が躍(おど)りましたけれど、つぎの瞬間(しゅんかん)には、気味悪(きみわる)さで体(からだ)じゅうがおののきました。
「こいつめ、俺(おれ)まで、殺(ころ)す気(き)なのか?」と、乙(おつ)は狂(くる)いはじめました。
その間(あいだ)に、船(ふね)は、ますます近(ちか)く、波(なみ)を切(き)って、島(しま)に近(ちか)づいてきました。乙(おつ)は、腰(こし)にあったピストルを取(と)り出(だ)しました。そして、船(ふね)を目(め)がけて、つづけさまに火(ひ)ぶたを切(き)ったのでした。
しかし、それは、幽霊船(ゆうれいぶね)でなかったのか、消(き)えなかったのです。船(ふね)が岸(きし)に着(つ)くと、二人(ふたり)は、陸(りく)へ踊(おど)り上(あ)がりました。
「おお、おまえは、気(き)が狂(くる)ったのか!」といって、なおも、暴(あば)れ狂(くる)う乙(おつ)をようやくに押(お)さえつけました。
乙(おつ)は、まったく、気(き)が狂(くる)ってしまったのです。あの夜(よ)、二人(ふたり)の乗(の)った船(ふね)は、あちらの陸(りく)に暴風(ぼうふう)のため吹(ふ)きつけられました。そして、波(なみ)の静(しず)まるのを待(ま)って二人(ふたり)は、島(しま)へ仲間(なかま)を迎(むか)えにやってきたのでした。
二人(ふたり)は、気(き)の狂(くる)った友(とも)だちを船(ふね)に乗(の)せて、あちらの陸(りく)へと帰(かえ)ってゆきました。それから、二人(ふたり)は、手(て)あつく、哀(あわ)れな友(とも)だちを介抱(かいほう)しましたので、だんだんと気(き)の狂(くる)ったのが、もとに返(かえ)って、いつしかなおってしまいました。それから、三人(にん)は、永(なが)く仲(なか)のいい友(とも)だちでありました。
いまだに、この話(はなし)は、北(きた)の港(みなと)に残(のこ)っています。無人(むじん)の小島(こじま)は、いまも、青黒(あおぐろ)い波(なみ)の間(あいだ)に頭(あたま)をあらわしています。 
 
幽霊 / 小野佐世男

 

1
残暑がすぎ、凉風がさわやかに落葉をさそう頃になると、きまって思い出すことがある。
私はまだ紅顔の美少年(?)だった。その頃、私達一家は小石川の家から、赤坂の新居へ移った。
庭がとても広かった。麻布の一聯隊の高い丘が、苔むした庭の後にそびえ、雑草やくるみの木が、垂れさがるように見える空の上に生い茂っていた。また、丘の下のせいかじめじめとしていて、いちじくの葉が暗い蔭をところどころに手をひろげ、庭の奥の方は陽も射さぬほどだった。
黒板塀に囲まれた小粋に見えるこの家は、風流気の多い父の好みにぴったりと合っていた。かなり大きな家で、二階は十畳の客間の他に、八畳と六畳の間があり、私の部屋はこの六畳の間で、隣りの八畳は二番目の姉の居間にあてがわれた。父たちの他の者は階下に住むことになった。
台所がばかに広く、子供心に私は、雨の日はここで友達と遊べるなと、秘かに喜こんだものだが、……たたきの所に直径五尺ほどの大井戸があった。ところがこの井戸は、半分は家の中に半分は外にはみ出て、内外いずれからも使用できるようになっているので、打ち水の時などさぞ便利だろうと思われたが、奇妙なことには、部厚い板で蓋がされ、おまけに大きな釘で開かないように釘付けにされていた。釘はすっかり錆付いてほこりを浴びていた。もちろん他に水道の設備もあったので、母などは、
「まあまあ、よい井戸があるのに釘づけになっていておしいわね。でも子供が多いから、落ちでもしたらたいへんだし、当分このままにしておきましょうよ……」
と、笑いながら引越荷物をといたりしていたものだが……。
さて、近所に引越そばを配り終って、夕餉の膳がすんだ時、
「あなた、こんな立派な家なのに、ばかにお家賃が安いじゃありませんか」
と母が父に話しかけたのを聞いた。
庭に黒ずんだ蛙が、湿った土を滑りそうに這いずっている。後が水をふくんだ土手のせいか、どこよりも早く夜が訪れたように辺りは暗い。私は二階の自分の部屋に帰り、障子を開けて物干台に出た。
どこかで馬のいななきが聞える。つづいて遠く聯隊の消燈ラッパの音が、少年の私には物珍らしく又さびしく聞えた。
「坊ちゃま、ばかに淋しくていやですね。お台所にいると、なにかゾクゾクしてくるんですよ」
夜具を敷く女中のかやが私にこう話しかけた。私は本箱を整理してから、夜具にあおむいて足を思いきりのばした。
窓をしめたせいか、部屋の中はいやに蒸し暑い。だが引越の疲れが出たのか、私はいつか深い眠りに陥ちていった。
それからどのくらい時刻がすぎたか分らないが、ふと眼がさめた。――というよりも何者かに突然起こされたように眼があいたのだ。
頭は不思議と冴えていた。天井裏をながめる私の眼には、木目までもがはっきりと見えた。壁に目を移すと、額縁が曲って掛っている。(朝になったら真直ぐにしよう)と私は思った。
私はまた目をつぶった。だがどうしたことか少しも眠くない。と、その時だ、掛布団の足の先の方にものの動く気配を感じたのは……。猫でも迷いこんできたかと、私はふと頭をもちあげたが、とたん、
「アッ――」
と息をのんだ。
首! 水でも浴びたようにぐっしょりぬれた生首が見えた。私は二、三度目をしばたたいたが夢でも幻でもなかった。生きた生首だった。どす黒い口許から白い歯が震え、何か蚊の鳴くような声が洩れている。顔面の皮膚は渋茶で、びっしょり雫を垂れた髪が、一すじ二すじ、横じわの額にはりついて、その垂れた髪の毛の間から、カッと見ひらいた眼が、物凄い光を放ってこちらをねめつけている。
私は大声をだそうとした。飛び起きようとした。だが喉はからからに乾いて、声はおろか身動きもできなかった。妖怪、幽霊というものは、霧のごとくボーッとしているものであると聞いていたが、この老婆の顔は、白眼に浮いた赤糸のような血管まで、はっきりと見えるではないか。躰中に戦慄が走った。必死に目をつぶろうとしたが、どうしたことか瞬き一つ不可能だった。
(アー、恐ろしい)と思った時、老婆の顔がぐらりとゆれた。影でもひくように、首の動きにつれて髪の毛が長く糸を引いた。生首が徐々に浮き上りつつこちらへ迫ってくる。はっとした。だが、次の瞬間、私の目に入ったのは、めくら縞の着物がぴったりとまつわりついた、骨と皮さながらの上半身だった。あばら骨が斜にせりあがっている。私はあまりの恐ろしさに布団を頭から被ろうしたが[#「被ろうしたが」はママ]、はや手足は利かなかった。と、その三尺位のずぶ濡れの体が、四つん這いになり、私の布団の上に這い上ってきた。枯木のように痩せ細った両手が、足から膝へ……。
老婆の重みが、布団を通して感じられた。脚から腰へ、老婆の動きにつれてびっしょり冷たい水が浸み通ってくる。眼は私をみつめたままだ。うらみをふくむのか、うったえるのか、へばりつくように迫ってくる。――腹に乗り上ってきた……。頭のずいからでも流れ出るのであろうか、水の雫は後から後からたらたらと、顔中に流れ、口にあふれる。歯ぐきから吹きだした血は、顎から糸のようにこぼれる。眼玉は生柿色。グラグラの前歯からは地鳴りのようなうめきがもれる。眼を外らそう、せめて頸だけでもねじろうとするが、全くいうことをきかない。やがて、重さが胸にきた。蜘蛛のように細い手が、私の首にからまってきた……。
老婆の顔がすぐ目の前にあった。額のしわが一本々々見える。ぬれ髪が私の顔を覆った。氷のように冷たい息が、血をふくんでふりかかり、むせぶような囁きが耳に入ってきた。目が血ばしっている。と、血のにじんだその眼球が、見る見るうちにふくれあがってぽたり、ぽたりと、私の頬といわず顔といわず、顔中に血が滴り落ちてきた。もう私は息もできなかった。
「あッ!」
いきなり二つの眼球が、ポタリと私の顔の上に落ちてきた――と思うや、まるで崩れるように、音を立てて老婆の顔が、私の上にかぶさってきた。……私は狂気のようにもがいた。と、まるで真空状態からぬけたように、私の体はスポンととびあがった。私は次の瞬間、
「ワアーッ」
と叫んで隣室と境いの襖を蹴破った。
「姉さん!」
「………」
「おばあさんが出た」
「おばあさんだア……」
二人は階段をかけ下りたが、途中で二人共足を踏み外してしまった。そして申し合わせたように気を失い、息をふき返したのは、夜中の二時だった。家中は大騒ぎになった。
「おばあさんの幽霊だって?……そんな馬鹿な」
父は夢でも見たのだろうと言って笑った。しかし、その時は夢中で気付かなかったが、姉も同じ頃同じ目にあっていたのだった。だから私が襖を蹴破った時、姉はすでに起きていて、期せずして「おばあさんがでた」と叫び合ったのだ。姉と私は、女中のかやがいれてくれた熱い茶で、やっと人心地をとりもどした。
「ほんとにおかしいね。夢なら、同じ夢を同時に二人が見るはずはないね――」
母の顔は蒼ざめていた。
「旦那様、なんだか私も胸苦しかったですよ。なにかこの家は、ぶきみでございますよ」
かやは、寝巻の襟をかき合せて、ぞッとしたように言った。すると書生の徳吉さんと父が、
「そんな馬鹿なことがあるものか」
と、二階へ上っていったが、やがて降りてくると、
「布団もぬれてないし、鼠一匹いないじゃないか。二人ともねぼけたんだろう。アハヽヽ……」
と大きな声で笑った。それを聞くと、もうじき夜が明けるから、いっそ起きてしまおうと言って、台所へ行ってゴトゴトと音を立てていた母が、
「でもあなた! 考えてみれば大きな家の割合いに家賃が安いじゃありませんか。すこし安すぎますよ」
と、眉をひそめていった。
「アハヽヽヽ、幽霊などこの世にあるものか、馬鹿な! きっと二人共胸の上に手でものせて寝ていたのだろう。よーし、あしたの夜は、わしが二階へ寝てみよう」
父は又大声で笑ったが、いつのまに夜が明けたのか、コトコトという、牛乳屋の車の音が外に聞こえた。
2
半月型に外に出ている井戸のまわりに、山びるのように太いみみずが、たくさんうごめいていた。土の柔く盛り上っている所を棒でさぐると、南京玉ほどの土蜘蛛が、ガサガサと音を立てて群り散った。こんな遊びに夢中になっている中に、やがて二日目の夜が訪れてきた。
庭の奥や、聯隊の土壁が黒々と深い暗黒にとざされてくると、私も姉も怖しくなって、
「今夜は二階に寝ないよ」
と言って床を敷いてもらうまで、書生の徳吉さんや、母のまわりにまとわりついていた。二階からかやが私たちの夜具をもってきたとき、昨夜の老婆の水のしたたりや、血痕が残ってはいまいかと、あっちこっちとしきりに触ってみたが、綺麗な花模様のフンワリとした布団には、何の変化も見られなかった。
私たちは、母たちと混って寝た。母がいると思うと、不安の気持は少しも起らず、私はいつのまにかぐっすりと気持ちよく寝こんだ。ところが、真夜中に部屋の中が妙に騒がしいので、ふと眼を覚ましてみると、父の青ざめた顔を中心に、家中の者が車座に集り、なにかしきりと喋べり合っていた。
「ばあさんがでた! ほんとだ! ほんとだ! ぬれねずみのばあさんだ!」
父の声だ。私もいつか寝具から脱けだすと、こっそり車座の中に割りこんで聞き耳を立てた。
父の話は、私が昨夜見たものと全く同じだった。
「怪しい、ふしぎな家だ。ウーム」
語り終った父は、腕をくんで考えこんでしまった。私はいつか母の腕にしっかりとすがりついていた。
「幽霊屋敷ですよ。いやですわ。あなたは馬鹿に趣味のこった良い家が見つかったなんておっしゃいましたが、私はこの門に着くなり、いやァな気がしましたよ。かやだって台所に長くいると、なんだか寒気がしてくるといってますよ」
母がかやの顔を見ながら言った。するとかやも、
「ええそうですわよ。旦那様、たしかに幽霊屋敷ですよ」
と、生きた心地が無さそうに、身をふるわせながら言った。
「うん、そういえば、僕も夕方庭のいちじくの木の影に、黒い着物を着た老婆とも老人ともつかぬ人影のたたずんでいたのを感じたですよ。それですぐに見えなくはなってしまったのですが。……どうもふしぎですよ」
と、さすがに書生の徳吉も、気味の悪そうな顔で辺りを見廻した。
3
翌朝は、からりと晴れた、まことに気持のよい秋晴れの天気だった。
赤とんぼが楽しげに飛び交うて、昨夜の恐怖なぞ、かけら一つのこさぬすがすがしさだった。広い台所で私は、出入りの商人達と何かひそひそと話しあっていた。当今とちがって、大正の時代には、立派な貸家も多く、商人は引越してくる家におしかけ、自分のお得意様を作るのに、米屋も酒屋も肉屋も、なんでも競争がはげしかった。「ソレッ!」とばかりに通帳をつくり、おしかけて来たもので、要領の好い商人なぞは、引越の手つだいなぞをするありさまであった。
この日台所にはそのような商人が一ぱい集っていた。
「ヘエ――」
「では又――お出でなさったんですか?」
「しばらく現われないで、よいあんばいだなんて申しておりましたが」
「ばあーさんですか」
これは父の声だ。
「いやですなア――」
「旦那は何もごぞんじなく引越していらっしたんですな?」
「この家は有名な化けもの屋敷ですよ」
私は書生の徳吉さんの傍で、じっと聞耳をたてていた。
広い台所のかまちに腰をおろした、これ等の近所の商人の語るところによると、この家は人殺しの家であったというのである。この家の主人というのは物持ちの老婆であって、風流好みのこの屋敷を建てたが、一人身の淋しさから、一人の甥御と二人暮しをはじめた。ところが、この甥が女のことで金につまり、この老婆の財産に眼をつけた。そしてばあさんさえなき者にしてしまえば、財産はたった一人の甥である自分の懐にころげ込んでくると考え、或る日、とうとうこの老婆を殺害して、その死体をピシピシと小さくへし折って、箱につめこみ、石の重しをつけ、この台所の井戸深く沈めたのである。この犯罪はその六年間発覚しなかったが、丁度七年目に、老婆を殺した甥とこの男といっしょになった女とが、共に物の化におそわれるが如く、発狂状態になり、はては自分達のやったことを口走り、ついに警察の調べとなり、この井戸の中から箱が浮び上り、白骨と化した老婆の変りはてた姿が現われた――というのだった。
今更ながら、家中の者は震えあがり、釘付けになっている、大きな井戸を恐る恐るながめるのであった。私達一家となんの関係も無い老婆の亡霊が、我々を驚ろかしたというのは、考えようによってはしゃくにさわるが、別に考えると霊としては、誰れにでも、自分の気持を知らしたいものであるから、とも思い、同情したくもなってくるのだ。
以上が私の少年時代に見た恐ろしい亡霊の姿であるが、この時から私は霊魂の存在を信じるようになったのである。知友である、徳川夢声老も幽霊を信じ、淡谷のり子氏も恐ろしい幽霊のことを私に話したことがあるし、佐藤垢石老も魚を釣りに行った時、時々妖怪に会うことがあるというし、今年の春、九州博多で火野葦平氏に会った時には、氏は河童に会って親しくしたことがあるといっていた。皆間違いのない話だろう。
当時いっしょに老婆の姿を見た姉は、今では七人の児持ちである。 
 
幽霊妻 / 大阪圭吉

 

――じゃァひとつ、すっかり初めっから申し上げましょう……いや全く、私もこの歳(とし)になるまで、ずいぶん変わった世間も見てきましたが、こんな恐ろしい目に出会ったのは天にも地にも、これが生まれて初めてなんでして……
――ところで、むごい目にお会いになった旦那様のお名前は、御存知でしたね……そうそう新聞に書いてありましたな。平田章次郎(ひらたしょうじろう)様とおっしゃって、当年とって四十六歳。いや新聞も、話の内容はまるで間違ったことを書いてても、あれだけは確かでしたよ。N専門学校の校長様で、真面目(まじめ)すぎるのが、かえってたった一つの欠点に見えるくらいの、立派な厳格な先生様でございました。……ところで、今度のことが起きあがるしばらく前に、御離縁になって、お気の毒な最期をおとげになった、問題の、夏枝(なつえ)様とおっしゃる奥様は、旦那様とは十二違いの三十四におなりでございましたから、この方がまた、全く新聞に書いてあった通りの御器量よしで、そのうえお気立てのやさしい、よくできたお方でした……こう申しては、なんですが、二年前にこの老耄(おいぼれ)が、学校の方の小使を馘(くび)になりました時に、お邸の方の下男にお引き立てくださったのも、後で女中から聞いたことですが、みんな奥様のお口添えがあったからでして、なんでも、旦那様はどちらかというと、口|喧(やかま)しいお方でしたが、奥様は、いかにも大家の娘らしく、寛大で、淑(しと)やかで、そのために御夫婦の間で口争いなぞこれっぽちも、なさったことがございませんでした。
……申し忘れましたが、奥様は、旦那様と違って生粋(きっすい)の江戸ッ子で、御実家は人形町の呉服屋さんで、かなり盛んにお店を張っていらっしゃいます……で、まあ、そんなわけで、御夫婦の間にお子様こそございませんでしたが御家庭は、まずまず穏やかに参っていたわけでございますが、ところが、それがこの頃になって、どうしたことか急に悪いことになり、とうとう奥様は御離縁という、まことに不味(まず)いお話になってしまったんでございます。
――いや全く、なんだって今更(いまさら)御離縁なぞというとんでもないお話になったのか、私共にはトンと知る由もございませんが、御実家のお父様も、二、三度おいでになって、いろいろとお話をなさったようでございましたが、なにぶん頑(かたく)なな旦那様のことでお話はできず、親元へお引き取りということになったんでございます。
――いや、どうも、これがそもそも悪いことの始まりでした。奥様は大変お嘆きになって、お眼を真っ赤に泣きはらしながら、お父様と御一緒にお帰りになるし、旦那様は、なにか大変不機嫌で、ろくに口をお利きにならないという始末。私共もずいぶん気を揉(も)んだんですが、何を申してもこちらはただの傭人(やといにん)、それに、第一なんのための御離縁か、肝心要のところがトンとわかっていないのですから、お話にもなりません。なんでも、女中の澄(すみ)さんのいうところでは、なにか奥様に不行跡があっての御離縁ではあるまいかなぞと申しますが、しかし私は、初めっから、奥様がそんな方でないことは、チャーンと存じ上げておりました。成程(なるほど)奥様は御器量よしで、さすが下町育ちだけあって万事に日本趣味で、髪なぞもしょっちゅう日本髪でお過しになりましたが、それがまたなんともいえない粋な中に気品があって、失礼ながら校長様の奥様としても、申し分ないほどお美しい方でしたし、それに第一また、お子様もないことですので、お一人で気軽に外出なさることもよくございましたけれども、一旦お天道様が沈んでからというものは、一人でお出掛けになったことなど、決してございませんでした……いや全く、私もこの歳になるまでには、ずいぶんいろいろな女も見て参りましたが、奥様のように、大事なところをキチンと弁(わきま)えていられる方は、そうザラにはござんせんですよ……
――いやどうも、とんだ横道にそれてしまいましたが、さて、それから大変なことが、続いて持ち上がったのでございます。……あれは、御離縁になってから確か四日目のことでございましたが、まだお荷物も片付いていないというのに、御離縁を苦になさった奥様は、とうとう御実家で、毒を呑(の)んでお亡くなりになったんでございます。どうも、何となくお気の毒な次第で……なんでも、あとから伺(うかが)ったことでございますが、奥様は簡単な書置きをお残しになって、自分はどこまでも潔白であるが、お疑いの晴れないのが恨めしい、というようなことを、旦那様あてにお残しになったということですが、そのお手紙を持って、人形町からの使いが、奥様の急死を旦那様へお知らせに来ました時にはさすがの旦那様も、急にお顔の色がサッとお変わりになりました。
――いや皆さん。ところが学者というものの偏屈さを私はその時しみじみ感じましたよ。……とにかく、命を投げだしてまで身の潔白を立てようとなさった奥様ではございませんか、よしんばどのような罪がおありなさったとしても、仏様になってからまで、そんなにつらくお当たりになることもないんですのに、ところが旦那様は、一旦離縁したものは妻でも親族でもないとおっしゃって、青い顔をなさりながらも、名誉心が高いと申しますか、意地が悪いと申しますか、お葬式にさえ、お顔をお出しになろうとなさらなかったのでございます。そうして、私共の気を揉(も)むうちに、どうやら御実家のほうだけで御葬儀もすんでしまい、あの取り込みのあとの言いようのない淋しさが、やって来たのでございます。……
――さて、これで、このまま過ぎてしまえば、なんでもなかったのでございますが、実を申しますと、いままでのお話は、ほんの前置きでございまして、話はこれから、いよいよ本筋に入り、とうとう皆様も御存知のような、恐ろしい出来事が持ち上がってしまったのでございます。
――ところで、いちばん初め、旦那様の素振(そぶ)りに変なところの見えだしましたのは奥様の御葬儀がおすみになりましてから、三日目のことでございました。いまも申し上げましたように、旦那様は偏屈をおっしゃって、御葬儀にも御出席になりませんでしたが、旦那様はそれでいいとしましてもお世話になりました私共がそれではすみません。それで、なんとかして、せめてお墓参りなどさしていただきたいものと存じまして、それとなく旦那様にお願いいたしましたところ、それまで表面はかなり頑固にしてみえた旦那様も、さすがに内心お咎(とが)めになるところがあるとみえまして、
「では、わしも、陰ながら一度|詣(もう)でてやろう」
とおっしゃいまして、早速お供を申し上げることになったのでございます。
申し忘れましたが、奥様の御墓所は谷中墓地でございまして、田端のお邸からはさして遠くもございませんので、私共は歩いて参りましたのでございますが、なにぶん旦那様の学校がお退(ひ)けになりましてから、お供したのでございますので、道灌山を越して、谷中の墓地に着きました時には、もうそろそろ日も暮れ落ちようという、淋しい時でございました。
奥様の御実家の、御墓所の位置は、以前にもおいでになったことがございまして、旦那様はよく御存知でございますので、早速お花を持ってそちらへお出掛けになるし、私は、井戸へお水を汲みに参ったのでございます。ところがお水を汲みまして、私が、一足遅れて御墓所のほうへ参ろうといたしますと、たったいまそちらへお出掛けになったばかりの旦那様が、こう、青いお顔をして、あたふたと逃げるように引き返しておいでになり、
「急に気持が悪くなったから、これで帰ろう。自動車を呼んでくれ」
とおっしゃるのでございます……いやどうも、全くびっくりいたしました。私としましては、折角(せっかく)そこまで参ったのでございますから、とてもそのまま引き返したりなぞしたくなかったのでございますが、さりとて、お加減の悪い旦那様を捨てても置かれず、残念ではございましたが、そのまま一旦桜木町の広い通りへ出まして、遠廻りながらそこから自動車を拾って、お宅まで引き返してしまったのでございました。……
あとで考えてみれば、少し無理と思いましても、あの時旦那様だけお返しして、私だけ、直(す)ぐに引っ返してお墓参りをしましたなら、あるいはあの時、人気のない墓地の中で旦那様がご覧になったものを、私も見ることができたかも知れないと、おっかなびっくり考えたものでございますが何分その時は、変だなとは思いながらも、旦那様の御容態の方が心配でしたので、そんな分別(ふんべつ)も出なかったわけでございます。
――さて、御帰宅なさいましてから、旦那様の御加減は間もなくお直りになりましたが、その日から、旦那様の御容子が、少しずつ変わって参ったのでございます。……いつになってもお顔の色は妙に優(すぐ)れず、お眼が血走って、いつもイライラなさっていられるのを見ますと、私共は、まだ本当にお加減はよくなっていられないのだなと、思われたほどでございます。
――そうそう、こんなこともございました。なんでも、いままでは夜分なんぞ、いつもかなり遅くまで御書見なさったり、お書き物をなさったりなされました御習慣が、ふっつりお止まりになりまして、かなり早くから女中にお床をお取らせになって、お睡(やす)みになるのでございます。そして戸締りなぞにつきましても、いままでより一層神経質になり、厳しくおっしゃるのでございます。――気のせいか、そうして日毎に御容子のお変わりになって行く旦那様のお側におりながら、私共は、ただわけもわからず、オドオドいたすばかりでございました。……
――いや、ところが、こうしたまるで『牡丹燈籠(ぼたんどうろう)』の新三郎のような不吉な御容子は、そのまま四日ほども段々高まり続いて、とうとう恐ろしい最期の夜が参ったのでございます。
――いや全く[#「いや全く」は底本では「いま全く」]、今思い出してもゾッとするような恐ろしい出来事でございました。……なんでも、あの日女中の澄さんは、千葉の里から兄さんが訪ねて来まして、一晩お暇をいただいて遊びに出掛け、旦那様のお世話は、この老耄(おいぼれ)が一人でお引き受けいたしていたのでございますが、六時頃に夕飯をおすましになりますと、旦那様は、御書斎から何か書類の束をお持ち出しになって、
「明日から二、三日、学校の方を休みたいと思うから、これを早稲田の上田(うえだ)さんへお届けして、お願いして来てくれ」
とおっしゃるのでございます。上田様とおっしゃるのは、学校で旦那様の代理をなさる先生でございます。まだその時は時間も早うございましたし、二時間もすれば充分帰って来られると思いましたので、早速お引き受けいたしまして、田端駅から早稲田まで出掛けたのでございます。むろん私は平素のお指図通り、戸締りはきちんとし、表門なぞも固く閉して勝手口からこっそりと出掛けたのでございますが、なんと申しましても、旦那様をお一人で残して置くなぞというのは、そもそも了見違いだったのでございます。
――御用をすまして帰って参りましたのが、意外に遅くなって八時半。てっきり旦那様にお小言を受けるに違いないと、舌打ちしながら、急いで廊下を御書斎の前まで参りまして、扉の外から、
「行って参りました」
恐る恐るお声を掛けたのでございます。ところが御返事がございません。もう一度声を掛けながら、扉をあけてお部屋の中へ一歩踏み込んだ私は、その時思わずハッとなって立ち竦(すく)んだのでございます。――どこへお出掛けになったのか、旦那様のお姿が見えません。いやそれどころか、お庭に面した窓のガラス扉が一方へ押し開けられて、その外側の窓枠にはめてあるはずの頑丈な鉄棒が、見ればなんと数本抜きとられて外の闇がそこだけ派手な縞(しま)となって嘘(うそ)のように浮き上がっているではございませんか。私は思わずドキンとなってその方へ進みかけたのでございますが、進みかけて、ふとかたわらの開放された襖(ふすま)越しに、畳敷(たたみじ)きのお居間の中へ目をやった私は、今度はへなへなとそのままその場へ崩れるように屈(かが)んでしまいました。お居間の床柱の前に仰向(あおむ)きに倒れたままこと切れていられる旦那様をみつけたからでございます。――お姿はふためと見られないむごたらしさで、両のお眼を、なにかまるで、ひどく凄いものでもご覧になったらしくカッとお開きになったまま、お眼玉が半分ほども飛び出して、お顔の色が土色に変わっているではございませんか。見渡せば、お部屋の中は大変な有様で、旦那様もかなり抵抗なさったと見え、枕や座布団や火箸なぞがところかまわず投げ出されているのでございます。……
――さアそれからというものは、いったい私は何をどうしたのか、いまから考えても、サッパリその時の自分のとった処置が、思い出せないのでございますが……なんでも私の気持が少しずつ落ち着いて参りました頃には、もう大勢の警官達が駆けつけて、調査がどしどし進められ、世にも奇怪な事実が、みつけられていたので[#「いたので」は底本では「いたの」]ございます。
――なんでも、警察の方のお調べによると、旦那様のところへやって来た恐ろしいものは、明らかに、一人で、庭下駄を履(は)いて来たというのでございます。それは表門の近くの生垣を通り越して、玄関、勝手口を廻って庭に面した書斎の窓に到るまでの所々の湿った地面の上に、同じ一つの庭下駄の跡が残っていたからで、しかもその庭下駄の跡は歯と歯の間に鼻緒の結びの跡がいずれも内側に残っていて、ひどく内側の擦(す)り減った下駄であることが直ぐにわかったというのでございます。
私は、警察同士で語り合っているこの説明を聞いた時には思わずギクンとなりました。それは――前にも申し上げましたように、お亡くなりになりました奥様は、日本趣味で、髪もしょっちゅう日本髪に結(ゆ)っておいでになったような方で歩き方も、いま時の御婦人には珍しい純粋な内股で、いつもお履物が、すぐに内側が擦り減ってかなわない、とおっしゃっておいでになったのを、思い出したからでございます。私は思わずゾッとなって、このことは口に出すまいと決心いたしました。
――さて、庭に面した書斎の窓の、親指ほどの太さの鉄棒は、皆で三本抜かれておりましたが、それは三本ともほとんど人間ばなれした激しい力で押し曲げられて、窓枠の※[#「木+吶のつくり」、第3水準1-85-54](ほぞ)から外されたと見え、それぞれ少しずつ中ほどから曲がったまま軒下に捨ててあるのを見ました時に、私は思わずふるえあがってしまいました。
――ところで、今度は旦那様の御|遺骸(いがい)でございますが、これはまことにむごたらしいお姿で、なんでも頭の骨が砕かれたため、脳震盪(のうしんとう)とかを起こされたのが御死因で、もうひとつひどいことには、お頸(くび)の骨がヘシ折られていたのでございます。この他には別にお傷はございませんでしたが、けれどもその固く握りしめられた右掌の中から、ナンとも奇妙な恐ろしいものがみつけ出されたのでございます。お側にソッと屈(かが)んで見ますと、なんとそれは、右掌の指にからみつくようにして握りしめられた数本の、長い女の髪の毛ではございませんか。そして、おまけにその髪の毛からは、ほのかに、あの懐かしい、日本髪に使う香油の匂いがしているではございませんか……。私はふと無意識で頭をあげました。このお部屋は十畳敷きで、床の間の真向かいの壁よりの所には、なにか取り込み中で、まだ御整理のできていない奥様のお箪笥や鏡台が、遠慮深げに油単(ゆたん)をかけて置かれてあったのでございますが、香油の匂いを嗅いでふと思わず頭をあげた私は、何気なしにその鏡台のほうへ眼をやったのですが、その途端にまたしてもドキンとしたのでございます。――見れば、いままで気づかなかったその鏡台の、燃えるような派手な友禅の鏡台掛けが、艶(つや)めかしくパッと捲(ま)くりあげられたままであり、下の抽斗(ひきだし)が半ば引き出されて、その前に黄楊櫛(つげぐし)が一本投げ出されているではございませんか。思わず立ち上がった私は、鏡台の前へかけよると、屈むようにして、改めてあたりの様子を見廻わしたのでございますが、抽斗の前の畳の上に投げ出された黄楊櫛には、なんと旦那様のお手に握られていたのと全く同じ髪の毛が三、四本、不吉な輪を作って梳(す)き残されておりました……。
――いや全く、その時私は、たった今しがた、その鏡台の前に坐って、澄み切った鏡の中へ姿を写しながら乱れた髪をときつけて消え去って行った恐ろしいものの姿が、アリアリと眼に見えるような気がして、思わず身震いをくりかえしたのでございます。
――ところで、この時私は、またしても忌(い)まわしいものをみつけたのでございます。それは、この鏡台の前に来て初めてみつけることができるような、部屋の隅の畳の上に、落として踏みつぶされたらしい真新しい線香、それも見覚えもない墓前用の線香が、半分バラバラになって散らばっているのでございます。なんという忌まわしい品物でございましょう。私は思わず目をつむって、誰へともなく、心の中で掌を合わせたものでございます。そして私は、もうこれ以上これらの忌まわしい思いを、自分一人の中に包み切れなくなりまして、おりから、私へのお調べの始まったのを幸いに、奥様の御離縁からお亡くなりになった御模様。続いてあの谷中の墓地での旦那様のおかしな御容子から、今日いまここに到るまでの気味の悪い数々の出来事を、逐一(ちくいち)申し上げたのでございます。
――すると、それまで私の話を黙って聞いていた、金筋入りの肩章をつけた警官は、かたわらの同僚のほうへ向き直りながら、
「どうもこのお爺さんは、亡くなられた奥さんが、幽霊になって出て来られた、と思ってるらしいんだね」
そういってニタリと笑いながら、再び私のほうへ向き直っていわれるのです。
「成程(なるほど)、お爺(じい)さん。これだけむごたらしい殺し場は、生きている人間の業(わざ)とは、ちょっと思われないかも知れないね。しかし、これも考えようによっては、ただの女一人にだってできる仕事なんだよ。たとえばね。あの窓の鉄棒を抜きとるにしたって、なにもそんなお化(ば)けじみた力がなくたって、よくある手だが、まず二本の鉄棒に手拭(てぬぐい)かなんかを、輪のように廻してしっかり縛るんだ。そしてこの手拭の輪の中になにか木片でも挿(さ)し込んで、ギリギリ廻しながら手拭の輪を締めあげるんだ。すると二本の鉄棒は、すぐに曲がって窓枠の※[#「木+吶のつくり」、第3水準1-85-54]から外れてしまう。……なんでもないよ。……それから、この死人の傷にしたって、何か重味のある兇器で使いようによっては充分こうなる。……それからまた、内側の減った下駄にしても、なにも内股に歩くのは、こちらの奥さん一人きりというわけでもないだろう……わかったね。じゃァひとつ、これから、その亡くなった奥さんの、人形町の実家というのへ案内してくれ。そこにいる女を、片ッ端から叩きあげるんだ」
警官は、そういって、ガッチリした体をゆすりあげたものでございます。ところが、この時、いままで旦那様の御遺骸を調べられていた、わりに若い、お医者様らしいお方がやって来られまして、不意に、
「警部さん、あなたは、なにか勘違いをしてられますよ」
とテキパキした調子で、始められたんでございます。
「たとえば、あなたの鉄棒を曲げるお説ですね。聞いてみれば、成程ごもっともです。その手でやれば、二本の鉄棒は、人間の力で充分曲がりましょう。しかし、いまあの窓で曲げられているのは、三本ですよ。三本曲げるにはどうするんです。え? いまのあなたのお説では、二本しか同時に曲げることはできないのですから、二本とか四本とか六本とか、つまり偶数なら曲げられるが、一本とか三本とか五本とか、奇数ではどうしても一本きり余りができて、手拭の輪をかけることもできないではありませんか。……だからあれはそんな泥棒じみたからくりで抜いたんではありませんよ。本当に魔物のような力でやったんです。
……それから、例の下駄の件ですがね、あなたは、あの下駄を履いた内股歩きの女が、人形町あたりにいるようなお見込みですが、しかし、こういうことを一応考えてください。つまり、下駄の裏の鼻緒の結び跡が残るほど内側が減るには、一度や二度履いただけではなく、いつも履いていなくちゃアならぬわけでしょう。そうすると、鏡台に向かって、乱れた髪をときつけて帰って行くような、たしなみを知っている普通の女がいつでも庭下駄なんぞを履いて、しかも人形町あたりでゾロゾロしているというのはちょっとおかしかないですか……」
そう言ってお医者さんは、急に部星の隅へ行かれて、畳の上から例の忌(い)まわしい線香の束を拾いあげると、今度はそいつを持ってツカツカと私の前へやって来られていきなり、
「あなたは谷中の墓地にある、亡くなられた奥さんのお墓の位置を知っていますか?」
と訊(き)かれたんでございます。抜き打ちの御質問でびっくりした私が、声も出せずに黙ってうなずきますと、その若い利巧そうなお医者様は、
「では、これから、そのお墓まで連れて行ってくれませんか」
と今度は警官のほうへ向き直って、
「ねえ警部さん。この線香の束は、まだこれから使うつもりの新しいものですよ。ひとつこれから、谷中の墓地へ出掛けて、こいつをここへ忘れて行った、その恐ろしいものにぶつかって見ませんか?」
とまアそんなわけで、それから十分ほど後には、もう私共は警察の自動車に乗って、深夜の谷中墓地へやって来たのでございます。
墓地の入口のずっと手前で自動車を乗り捨てた私共は、お医者様の御注意で、お互いに話をしないように静かに足音を忍んで、墓地の中へはいったのでございますが、ちょうどそのとき雲の切れめを洩れた満月の光が、見渡す限りの墓標を白々と照らし出して、墓地の周囲の深い木立が、おりからの夜風にサワサワと揺れるのさえ、ハッキリと手にとるように見えはじめたのでございます。――いや全くこの時のものすごい景色は、案内人で先へ立たされていた私の頭ン中へ、一生忘れることのできないような、なんて申しますか、印象? とかいうものを、焼きつけられたんでございます。
――ところが、それから間もなく、奥様のお墓の近くまでやって参りました私は、不意にギョッとなって立ち止まったのでございます。――見れば、まだ石塔の立っていないために、心持ち窪んで見える奥様のお墓のところから、夜目にもホノボノと、青白い線香の煙が立っているではありませんか。
「ああ、確かあの、煙の立っているところでございます」
もう私は、案内役ができなくなりましたので、そう言ってふるえる手で向こうを指差しながら、皆様に先に立っていただきました。するとお医者様が真っ先になって、ドシドシお墓のところまでお行きになりましたが、立ち止まって覗(のぞ)き込むようにしながら、
「こんなことだろうと思った」
そういって、私達へ早く来い――と顎をしゃくってお見せになりました。続いてかけつけた私達は、ひとめお墓の前を覗き込むと、その場の異様な有様に打たれて、思わず呆然(ぼうぜん)と立ち竦んだのでございます。
――黒々と湿った土の上に、斜めに突きさされた真新しい奥様の卒塔婆(そとば)の前には、この寒空に派手な浴衣地の寝衣を着て、長い髪の毛を頭の上でチョコンと結んだ、一人の異様な角力(すもう)取りが、我れと己れの舌を噛(か)み切って、仰向きざまにぶっ倒れていたのでございます。
「手遅れでしたよ」
お医者様はそういいながら、無造作(むぞうさ)な手つきで死人の体をまさぐっていられましたが、やがてふと、卒塔婆の前のもう既に燃えつきようとする線香の束の横から、白い手紙のようなものを取りあげると、そいつをひろげて、黙って警部さんのほうへ差し出されました。むろんその手紙は、私もあとから見せていただきましたが……なんでも、余り達筆ではございませんでしたが、それでも一生懸命な筆跡で……
御|贔屓(ひいき)の奥様。
いきさつは御実家の旦那様からお伺いいたしました。私めのためにとんでもない濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)をお着になったお恨みは、必ずお晴らし申します。特別御贔屓にして頂きました私めの、これがせめてもの御恩返しでございます。
――大体、そんなことがその手紙には書いてあったのでございます。
――いや全く、相手がお角力取りと知ってからは、大きな下駄の跡を、庭下駄だなんて騒いでいた連中がおかしいみたいで……それに、これはあとから奥様の御実家の旦那様から伺ったんでございますが、なんでも下駄の内側を擦り減らすのは角力取りに多いので、それは角力取りの一番力のはいるところが、両足の拇指(おやゆび)のつけ根だからだそうでございます。それから、奥様の御実家は、皆様揃って角力好きで、舌を噛み切って死んだその角力取りは、御実家で特に贔屓にしていらっしゃる、茨木部屋の二枚目で、小松山(こまつやま)という将来のある力士だったそうでございます。
――いや、どうも、奥様の幽霊の正体が、お角力取りとは思いも寄りませんでしたが、それでも私は、奥様が不行跡をなさるようなお方でないことは、初めっから固く信じておりましたようなわけで、こうしてことの起こりが贔屓角力とわかってみれば、やっぱり私の考えが正しかったのでございます。学者気質で、少し頑(かたく)なな旦那様には、お可哀そうに、どうしても、贔屓角力の純な気持というものが、おわかりになれなかったのでございましょう……。
――やれやれ、とんだ長話をいたしましたな。では、ここらで御無礼さしていただきます……。 
 
北斎と幽霊 / 国枝史郎

 


文化年中のことであった。
朝鮮の使節が来朝した。
家斉(いえなり)将軍の思(おぼ)し召しによって当代の名家に屏風を描かせ朝鮮王に贈ることになった。
柳営|絵所(えどころ)預りは法眼|狩野融川(かのうゆうせん)であったが、命に応じて屋敷に籠もり近江八景を揮毫(きごう)した。大事の仕事であったので、弟子達にも手伝わせず素描から設色まで融川一人で腕を揮(ふる)った。樹木家屋の遠近濃淡漁舟人馬の往来坐臥、皆狩野の規矩に準(のっと)り、一点の非の打ち所もない。
「ああ我ながらよく出来た」
最後の金砂子(きんすなご)を蒔(ま)きおえた時融川は思わず呟(つぶや)いたが、つまりそれほどその八景は彼には満足に思われたのであった。
老中若年寄りを初めとし林(はやし)大学頭(だいがくのかみ)など列座の上、下見の相談の催おされたのは年も押し詰まった師走(しわす)のことであったが、矜持(きんじ)することのすこぶる高くむしろ傲慢(ごうまん)にさえ思われるほどの狩野融川はその席上で阿部(あべ)豊後守(ぶんごのかみ)と争論をした。
「この八景が融川の作か。……見事ではあるが砂子が淡(うす)いの」
――何気なく洩らした阿部豊後守のこの一言が争論の基で、一大悲劇が持ち上がったのである。
「ははあさようにお見えになりますかな」融川はどことなく苦々(にがにが)しく、「しかしこの作は融川にとりまして上作のつもりにござります」
「だから見事だと申している。ただし少しく砂子が淡(うす)い」
「決して淡くはござりませぬ」
「余の眼からは淡く見ゆるぞ」
「はばかりながらそのお言葉は素人評かと存ぜられまする」
融川は構わずこういい切り横を向いて笑ったものである。
「いかにも余は絵師ではない。しかしそもそも絵と申すものは、絵師が描いて絵師が観る、そういうものではないと思うぞ。絵は万人の観るべきものじゃ。万人の鑑識(めがね)に適(かな)ってこそ天下の名画と申すことが出来る。――この八景砂子が淡い。持ち返って手を入れたらどうじゃな」
満座の前で云い出した以上豊後守も引っ込むことは出来ない。是が非でも押し付けて一旦は自説を貫かねば老中の貫目(かんめ)にも係わるというもの、もっとも先祖|忠秋(ただあき)以来ちと頑固に出来てもいたので、他人なら笑って済ますところも、肩肘張って押し通すという野暮な嫌(きら)いもなくはなかった。
狩野融川に至っては融通の利かぬ骨頂で、今も昔も変わりのない芸術家|気質(かたぎ)というやつであった。これが同時代の文晁ででもあったら洒落(しゃれ)の一つも飛ばせて置いてサッサと屏風を引っ込ませ、気が向いたら砂子も蒔こう厭なら蒔いたような顔をして、数日経ってから何食わぬ態(てい)でまた持ち込むに違いない。いかに豊後守が頑固でも二度とは決してケチもつけまい。
「おおこれでこそ立派な出来。名画でござる、名画でござる」などと褒めないものでもない。
「オホン」とそんな時は大いに気取って空(から)の咳(せき)でもせいて置いてさて引っ込むのが策の上なるものだ。
それの出来ない融川はいわゆる悲劇の主人公なのでもあろう。
持ち返って手入れせよと、素人の豊後守から指図(さしず)をされ融川は颯(さっ)と顔色を変えた。急(せ)き立つ心を抑えようともせず、
「ご諚(じょう)ではござれどさようなこと融川お断わり申し上げます! もはや手前と致しましては加筆の必要認めませぬのみかかえって蛇足と心得まする」
「えい自惚(うぬぼれ)も大抵にせい!」豊後守は嘲笑(あざわら)った。「唐(もろこし)徽宗(きそう)皇帝さえ苦心して描いた牡丹の図を、名もない田舎の百姓によって季節外れと嘲られたため描き改めたと申すではないか。役目をもって申し付ける。持ち返って手入れ致せ!」
老中の役目を真っ向にかざし豊後守はキメ付けた。しかし頑(かたく)なの芸術家はこうなってさえ折れようとはせず、蒼白の顔色に痙攣する唇、畳へ突いた手の爪でガリガリ畳目を掻きながら、
「融川断じてお断わり。……融川断じてお断わり。……」
「老中の命にそむく気か!」
「身|不肖(ふしょう)ながら狩野宗家、もったいなくも絵所預り、日本絵師の総巻軸、しかるにその作入れられずとあっては、家門の恥辱にござります!」
彼は俄然笑い出した。
「ワッハッハッハッこりゃ面白い! 他人(ひと)に刎ねられるまでもない。自身(みずから)出品しないまでよ。……何を苦しんで何を描こうぞ。盲目(めくら)千人の世の中に自身(みずから)出品しないまでよ!」
融川はつと立ち上がったが見据えた眼で座中を睨む……と、スルスルと部屋を出た。
一座寂然と声もない。
ひそかに唾を呑むばかりである。
その時日頃融川と親しい、林大学頭が膝行(にじ)り出たが、
「豊後守様まで申し上げまする」
「…………」
「狩野融川儀この数日来頭痛の気味にござりました」
「ほほうなるほど。……おおそうであったか」
「本日の無礼も恐らくそのため。……なにとぞお許しくだされますよう」
「病気とあれば是非もないのう」
――ちと云い過ぎたと思っていたやさきとりなす者が出て来たので早速豊後守は委せたのであった。――
しかしそれは遅かった。悲劇はその間に起こったのである。

ちょうど同じ日のことであった。
葛飾北斎は江戸の町を柱暦(はしらごよみ)を売り歩いていた。
北斎といえば一世の画家、その雄勁の線描写とその奇抜な取材とは、古今東西に比を見ずといわれ、ピカソ辺(あた)りの表現派絵画と脈絡通ずるとまで持て囃(はや)されているが、それは大正の今日のことで、北斎その人の活きていた時代――わけても彼の壮年時代は、ひどく悲惨(みじめ)なものであった。第一が無名。第二が貧乏。第三が無愛想で人に憎まれた。彼の履歴を見ただけでも彼の不遇振りを知ることが出来よう。
「幕府|用達(ようたし)鏡師(かがみし)の子。中島または木村を姓とし初め時太郎|後(のち)鉄蔵と改め、春朗、群馬亭、菱川宗理、錦袋舎等の号あれども葛飾北斎最も現わる。彫刻を修めてついに成らず、ついで狩野融川につき狩野派を学びて奇才を愛せられまさに大いに用いられんとしたれど、不遜をもって破門せらる。これより勝川春章に従い設色をもって賞せられたれども師に対して礼を欠き、春章怒って放逐す。以後全く師を取らず俵屋宗理の流風を慕いかたわら光琳の骨法を尋(たず)ね、さらに雪舟、土佐に遡(さかのぼ)り、明人(みんじん)の画法を極むるに至れり」
云々というのが大体であるが、勝川春章に追われてから真のご難場(なんば)が来たのであった。要するに師匠と離れると共に米櫃(こめびつ)の方にも離れたのである。
彼はある時には役者絵を描きまたある時には笑絵(わらいえ)をさえ描いた。頼まれては手拭いの模様さらに引き札の図案さえもした。それでも彼は食えなかった。顔を隠して江戸市中を七色唐辛子を売り歩いたものだ。
「辛い辛い七色唐辛子!」
こう呼ばわって売り歩いたのである。彼の眼からは涙がこぼれた。
「絵を断念して葛飾(かつしか)へ帰り土を掘って世を渡ろうかしら」――とうとうこんなことを思うようになった。
やがて師走(しわす)が音信(おとず)れて来た。
暦が家々へ配られる頃になった。問屋(といや)へ頼んで安くおろして貰い、彼はそれを肩に担ぎ、
「暦々、初刷り暦!」
こう呼んで売り歩いた。
「暦を売って儲けた金でともかくも葛飾へ行って見よう。名主の鹿野紋兵衛様は日頃から俺(わし)を可愛がってくださる。あのお方におすがりして田地を貸して頂こう。俺には小作が相応だ」
ひどく心細い心を抱いて、今日も深川の住居から神田の方までやって来たが、ふと気が付いて四辺(あたり)を見ると、鍛冶橋狩野家の門前である。
「南無三宝、これはたまらぬ」
あわてて彼は逃げかけた。しかし一方恋しさもあって逃げ切ってしまうことも出来なかった。向かいの家の軒下へ人目立たぬように身をひそめ、冠った手拭いの結びを締め、ビューッと吹き来る師走の風に煽られて掛かる粉雪を、袖で打ち払い打ち払いじっと門内を隙(す)かして見たが、松の前栽に隠されて玄関さえも見えなかった。
「別にご来客もないかして供待ちらしい人影もない。……お師匠様にはご在宅かそれとも御殿へお上がりか? 久々でお顔を拝したいが破門された身は訪ねもならぬ。……思えば俺もあの頃は毎日お邸へ参上し、親しくご薫陶を受けたものを思わぬことからご機嫌を損じ、宇都宮の旅宿から不意に追われたその時以来、幾年となくお眼にかからぬ。身から出た錆(さび)でこのありさま。思えば恥ずかしいことではある」
述懐めいた心持ちで立ち去り難く佇(たたず)んでいた。
寛政初めのことであったが、日光廟修繕のため幕府の命を承わり狩野融川は北斎を連れて日光さして発足した。途中泊まったのは蔦屋(つたや)という狩野家の従来の定宿であったが、余儀ない亭主の依頼によってほんの席画の心持ちで融川は布へ筆を揮(ふる)った。童子(どうじ)採柿(さいし)の図柄である。雄渾の筆法閑素の構図。意外に上出来なところから融川は得意で北斎にいった。
「中島、お前どう思うな?」
「はい」と云ったが北斎はちと腑に落ちぬ顔色であった。「竿が長過ぎはしますまいか」
「何?」と融川は驚いて訊く。
「童子は爪立っておりませぬ。爪立ち採るよう致しました方が活動致そうかと存ぜられます」憚(はばか)らず所信を述べたものである。
矜持(きんじ)そのもののような融川が弟子に鼻柱を挫かれて嚇怒(かくど)しない筈がない。
彼は焦(いら)ってこう怒鳴った。
「爪立ちするは大人の智恵じゃわい! 何んの童子が爪立とうぞ! 痴者(たわけもの)めが! 愚か者めが!」

しかし北斎にはその言葉が頷き難く思われた。「爪立ち採るというようなことは童子といえども知っている筈だ」――こう思われてならなかった。でいつまでも黙っていた。この執念(しゅうね)い沈黙が融川の心を破裂させ、破門の宣告を下させたのである。
「それもこれも昔のことだ」こう呟いて北斎は尚もじっと佇んでいたが、寒さは寒し人は怪しむ、意を決して歩き出した。
ものの三町と歩かぬうちに行く手から見覚えある駕籠が来た。
「あああれは狩野家の乗り物。今御殿からお帰りと見える。……どれ片寄って蔭ながら、様子をお伺がいすることにしよう」
――北斎は商家の板塀の蔭へ急いで体を隠したがそこから往来を眺めやった。
今日が今年の初雪で、小降りではあるが止む時なくさっきから隙(ひま)なく降り続いたためか、往来(みち)は仄(ほの)かに白み渡り、人足絶えて寂しかったが、その地上の雪を踏んでシトシトと駕籠がやって来た。
今北斎の前を通る。
と、タラタラと駕籠の底から、雪に滴(したた)るものがある。……北斎の見ている眼の前で雪は紅(くれない)と一変した。
「あっ」
と叫んだ声より早く北斎は駕籠先へ飛んで行ったが、
「これ、駕籠止めい駕籠止めい!」
グイと棒鼻を突き返した。
「狼藉者!」
と駕籠|側(わき)にいた、二人の武士、狩野家の弟子は、刀の柄へ手を掛けて、颯(さっ)と前へ躍り出した。
「何を痴(たわけ)! 迂濶者めが! お師匠の一大事心付かぬか! おろせおろせ! えい戸を開けい」
北斎の声の凄じさ。気勢に打たれて駕籠はおりる。冠った手拭いかなぐり捨て、ベッタリと雪へ膝を突き、グイと開けた駕籠の扉。プンと鼻を刺すは血の匂いだ。
「お師匠様。……」
と忍び音に、ズッと駕籠内へ顔を入れる。
融川は俯向き首垂(うなだ)れていた。膝からかけて駕籠一面飛び散った血で紅斑々(こうはんはん)、呼息(いき)を刻む肩の揺れ、腹はたった今切ったと見える。
「無念」
と融川は首を上げた。下唇に鮮やかに五枚の歯形が着いている。喰いしばった歯の跡である。……額にかかる鬢の乱れ。顔は藍(あい)より蒼白である。
「そ、そち誰だ? そち誰だ?」
「は、中島めにござります。は、鉄蔵めにござります……」
「無念であったぞ! ……おのれ豊後!」
「お気を確かに! お気を確かに!」
「……一身の面目、家門の誉れ、腹切って取り止めたわ! ……いずれの世、いかなる代にも、認められぬは名匠の苦心じゃ!」
「ごもっともにござります。ごもっともにござります!」
「ここはどこじゃ? ここはどこじゃ?」
「お屋敷近くの往来中……薬召しましょう。お手当てなさりませ」
「無念!」
と融川はまた呻いた。
「駕籠やれ!」
と云いながらガックリとなる。
はっと気が付いた北斎は駕籠の戸を立てて飛び上がった。それから静かにこう云った。
「狩野法眼様ご病気でござる。駕籠ゆるゆるとおやりなされ」
変死とあっては後がむつかしい。病気の態(てい)にしたのである。
ちらほらと立つ人影を、先に立って追いながら、北斎は悠々と歩いて行く。
この時ばかりは彼の姿もみすぼらしいものには見えなかった。
その夜とうとう融川は死んだ。
この報知(しらせ)を耳にした時、豊後守の驚愕は他(よそ)の見る眼も気の毒なほどで、怏々(おうおう)として楽しまず自然|勤務(つとめ)も怠(おこた)りがちとなった。
これに反して北斎は一時に精神(こころ)が緊張(ひきし)まった。
「やはり師匠は偉かった。威武にも屈せず権力にも恐れず、堂々と所信を披瀝したあげく、身を殺して顧(かえりみ)なかったのは大丈夫でなければ出来ない所業(しわざ)だ。……これに比べては貧乏などは物の数にも入りはしない。荻生徂徠(おぎゅうそらい)は炒豆(いりまめ)を齧って古人を談じたというではないか。豆腐の殻を食ったところで活きようと思えば活きられる。……葛飾へ帰るのは止めにしよう。やはり江戸に止どまって絵筆を握ることにしよう」
――大勇猛心を揮い起こしたのであった。

こういうことがあってからほとんど半歳の日が経った。依然として北斎は貧乏であった。
ある日大店の番頭らしい立派な人物が訪ねて来た。
主人の子供の節句に飾る、幟(のぼ)り絵を頼みに来たのである。
「他に立派な絵師もあろうにこんな俺(わし)のような無能者(やくざもの)に何でお頼みなさるのじゃな?」
例の無愛相な物云い方で北斎は不思議そうにまず訊ねた。
「はい、そのことでございますが、私|所(ところ)の主人と申すは、商人(あきゅうど)に似合わぬ風流人で、日頃から書画を好みますところから、文晁先生にもご贔屓(ひいき)になり、その方面のお話なども様々承わっておりましたそうで、今回節句の五月幟(さつきのぼ)りにつき先生にご意見を承わりましたところ、当今浮世絵の名人と云えば北斎先生であろうとのお言葉。主人大変喜ばれまして早速私にまかり越して是非ともご依頼致せよとのこと、さてこそ本日取急ぎ参りました次第でござります」
「それでは文晁先生が俺(わし)を推薦くだされたので?」
「はいさようにござります」
「むう」
とにわかに北斎は腕を組んで唸り出した。
当時における谷文晁は、田安中納言家のお抱え絵師で、その生活は小大名を凌ぎ、まことに素晴らしいものであった。その屋敷を写山楼(しゃざんろう)と名付け、そこへ集まる人達はいわゆる一流の縉紳(しんしん)ばかりで、浮世絵師などはお百度を踏んでも対面することは困難(むずか)しかった。――その文晁が意外も意外自分を褒めたというのだからいかに固陋(ころう)の北斎といえども感激せざるを得なかった。
「よろしゅうござる」
と北斎は、喜色を現わして云ったものである。
「思うさま腕を揮いましょう。承知しました、きっと描きましょう」
「これはこれは早速のご承引(しょういん)、主人どれほどにか喜びましょう」
こういって使者(つかい)は辞し去った。
北斎はその日から客を辞し家に籠もって外出せず、画材の工夫に神(しん)を凝らした。――あまりに固くなり過ぎたからか、いつもは湧き出る空想が今度に限って湧いて来ない。
思いあぐんである日のこと、日頃信心する柳島(やなぎしま)の妙見堂へ参詣した。その帰路(かえりみち)のことであったがにわかに夕立ちに襲われた。雷嫌いの北斎は青くなって狼狽し、田圃道を一散に飛んだ。
その時眼前の榎(えのき)の木へ火柱がヌッと立ったかと思うと四方一面深紅となった。耳を聾(ろう)する落雷の音! 彼はうんと気絶したがその瞬間に一個の神将、頭(かしら)は高く雲に聳え足はしっかりと土を踏み数十丈の高さに現われたが――荘厳そのもののような姿であった。
近所の農夫に助けられ、駕籠に身を乗せて家へ帰るや、彼は即座に絹に向かった。筆を呵(か)して描き上げたのは燃え立つばかりの鍾馗(しょうき)である。前人未発の赤鍾馗。紅(べに)一色の鍾馗であった。
これが江戸中の評判となり彼は一朝にして有名となった。彼は初めて自信を得た。続々名作を発表した。「富士百景」「狐の嫁入り」「百人一首絵物語」「北斎漫画」「朝鮮征伐」「庭訓往来」「北斎画譜」――いずれも充分芸術的でそうして非常に独創的であった。
彼は有名にはなったけれど決して金持ちにはなれなかった。貨殖(かしょく)の道に疎(うと)かったからで。
彼は度々|住家(いえ)を変えた。彼の移転性は名高いもので一生の間に江戸市中だけで、八十回以上百回近くも転宅(ひっこし)をしたということである。越して行く家越して行く家いずれも穢ないので有名であった。ひとつは物臭い性質から、ひとつはもちろん家賃の点から、貧家を選まざるを得なかったのである。
それは根岸|御行(おぎょう)の松に住んでいた頃の物語であるが、ある日立派な侍が沢山の進物を供に持たせ北斎の陋屋(ろうおく)を訪ずれた。
「主人阿部豊後守儀、先生のご高名を承わり、入念の直筆頂戴いたしたく、旨(むね)を奉じてそれがし事本日参上致しましてござる。この儀ご承引くだされましょうや?」
これが使者の口上であった。
阿部豊後守の名を聞くと、北斎の顔色はにわかに変わった。物も云わず腕を組み冷然と侍を見詰めたものである。
ややあって北斎はこう云った。
「どのような絵をご所望かな?」
「その点は先生のお心次第にお任せせよとのご諚にござります」
「さようか」
と北斎はそれを聞くと不意に凄く笑ったが、
「心得ました。描きましょう」
「おおそれではご承引か」
「いかにも入念に描きましょう。阿部様といえば譜代の名門。かつはお上のご老中。さようなお方にご依頼受けるは絵師冥利にござります。あっとばかりに驚かれるような珍しいものを描きましょう。フフフフ承知でござるよ」

その日以来門を閉じ、一切来客を謝絶して北斎は仕事に取りかかった。弟子はもちろん家人といえども画室へ入ることを許さなかった。
彼の意気込みは物凄く、態度は全然|狂人(きちがい)のようであった。……こうして実に二十日間というもの画面の前へ坐り詰めていた。何をいったい描いているであろう? それは誰にも解らなかった。とにかく彼はその絵を描くに臨本(りんぽん)というものを用いなかった。今日のいわゆるモデルなるものを用いようとはしなかった。彼はそれを想像によって――あるいはむしろ追憶によって、描いているように思われた。
こうして彼は二十日目にとうとうその絵を描き上げた。
彼は深い溜息をした。そうしてじっと画面を見た。彼の顔には疲労があった。疲労(つか)れたその顔を歪めながら会心の笑(えみ)を洩らした時には、かえって寂しく悲しげに見えた。
クルクルと絵絹を巻き納めると用意して置いた白木の箱へ、静かに入れて封をした。
どうやら安心したらしい。
翌日阿部家から使者が来た。
「このまま殿様へお上げくだされ」
北斎は云い云い白木の箱を使者の前へ差し出した。
「かしこまりました」
と一礼して、使者はすぐに引き返して行った。
ここで物語は阿部家へ移る。
阿部家の夜は更けていた。
豊後守は居間にいた。たった今柳営のお勤め先から自宅へ帰ったところであってまだ装束を脱ぎもしない。
「北斎の絵が描けて参ったと? それは大変速かったの」
豊後守は満足そうに、こう云いながら手を延ばし、使者に立った侍臣金弥から、白木の箱を受け取った。
「どれ早速一見しようか。それにしても剛情をもって世に響いた北斎が、よくこう手早く描いてくれたものじゃ。使者の口上がよかったからであろうよ。ハハハハハ」
とご機嫌がよい。
まず箱の紐を解いた。つづいて封じ目を指で切った。それからポンと葢(ふた)をあけた。絵絹が巻かれてはいっている。
「金弥、燈火(あかり)を掻き立てい。……さて何を描いてくれたかな」
呟きながら絵絹を取り出し膝の前へそっと置いた。
「金弥、抑えい」
と命じて置いて、スルスルと絵絹を延べて来たが、延べ終えてじっと眼を付けた。
「これは何んだ?」
「あっ。幽霊!」
豊後守と金弥の声とがこう同時に筒抜けた。
「おのれ融川!」
と次の瞬間に、豊後守の叫び立てる声が、深夜の屋敷を驚かせたが、つづいて「むう」という唸(うな)り声、……どんと物の仆れる音。……豊後守は気絶したらしい。
幽霊といえば応挙を想い、応挙といえば幽霊を想う。それほど応挙の幽霊は有名なものになっているが、しかし北斎が思うところあって豊後守へ描いて送った「駕籠幽霊」という妖怪画はかなり有名なものである。
白皚々(はくがいがい)たる雪の夕暮れ。一丁の駕籠が捨てられてある。駕籠の中には老人がいる。露出した腸(はらわた)。飛び散っている血汐。怨みに燃えている老人の眼! それは人間の幽霊でありまた幽霊の人間である。そうしてそれは狩野融川である。
「そうです私は商売道具で、つまり絵の具と筆と紙とで、師匠の仇を討とうとしました。豊後守様が剛愎でも、あの絵を一眼ごらんになったら気を失うに相違ないと、こう思ってあの絵を描いたのでした。
私の考えはあたりました。思惑(おもわく)以上に当たりました。あれから間もなく豊後守様はお役をお退きになられたのですからね。
私は溜飲を下げましたよ。そうして私は自分の腕を益※[#二の字点、1-2-22]信じるようになりましたよ。しかし私は二度と再び幽霊の絵は描きますまい。何故(なぜ)とおっしゃるのでございますか?理由(わけ)はまことに簡単です、たとえこの後描いたところで到底あのような力強い絵は二度と出来ないと思うからです」
これは後年ある人に向かって北斎の洩らした述懐である。 
 
近頃の幽霊 / 芥川龍之介

 

西洋の幽霊(いうれい)――西洋と云つても英米だけだが、その英米の小説に出て来る、近頃の幽霊の話でも少ししませう。少し古い所から勘定(かんぢやう)すると、英吉利(イギリス)には名高い「オトラントの城」を書いたウオルポオル、ラドクリツフ夫人、マテユリン(この人の「メルモス」は、バルザツクやゲエテにも影響を与へたので有名だが)、「僧(モンク)」を書いて僧(モンク)ルイズの渾名(あだな)をとつたルイズ、スコツト、リツトン、ボツグなどがあるし、亜米利加(アメリカ)にはポオやホウソオンがあるが、幽霊――或は一般に妖怪(えうくわい)を書いた作品は今でも存外(ぞんぐわい)少くない。殊に欧洲の戦役以来、宗教的感情が瀰漫(びまん)すると同時に、いろいろ戦争に関係した幽霊の話も出て来たやうです。戦争文学に怪談が多いなどは、面白い現象に違ひないでせう。何しろ仏蘭西(フランス)のやうな国でさへ、丁度(ちやうど)昔のジアン・ダアクのやうに、クレエル・フエルシヨオと云ふ女が出て、基督(キリスト)や天使を目(ま)のあたりに見る。ポアンカレエやクレマンソオがその女を接見する。フオツシユ将軍が信者になる。――と云ふやうな次第だから、小説の方へも超自然の出来事が盛にはひつて来たのは当然です。この種の小説を読んで見ると、中々|奇抜(きばつ)な怪談がある。これは亜米利加(アメリカ)が欧洲の戦役へ参加した後(のち)に出来た話ですが、ワシントンの幽霊が亜米利加独立軍の幽霊と一しよに大西洋を横断して祖国の出征軍に一臂(いつぴ)の労を貸しに行(ゆ)くと云ふ小説がある。(Harrison Rhodes: Extra Men)ワシントンの幽霊は振(ふる)つてゐませう。さうかと思ふと、仏蘭西(フランス)の女の兵隊と独逸(ドイツ)の兵隊とが対峙(たいぢ)してゐる、独逸の兵隊は虜(とりこ)にした幼児を楯(たて)にして控(ひか)へてゐる。其時戦死した仏蘭西の男の兵隊が、――女の兵隊の御亭主(ごていしゆ)達の幽霊が、霧のやうに殺到(さつたう)して独逸(ドイツ)の兵隊を逐(お)ひ散らしてしまふ、と云つた筋の話もある。(Frances Gilchrist Wood: The White Battalion)兎(と)に角(かく)種類の上から云ふと、近頃の幽霊を書いた小説の中(うち)では、既にこの方面専門の小説家さへ出てゐる位、(Arthur Machen など)戦争物が目立つてゐるやうです。
種類の上の話はこの位にするが、一般に近頃の小説では、幽霊――或は妖怪(えうくわい)の書き方が、余程(よほど)科学的になつてゐる。決してゴシツク式の怪談のやうに、無暗(むやみ)に血だらけな幽霊が出たり骸骨(がいこつ)が踊(をど)りを踊つたりしない。殊に輓近(ばんきん)の心霊学の進歩は、小説の中の幽霊に驚くべき変化を与へたやうです。キツプリング、ブラツクウツド、ビイアスと数へて来ると、どうも皆|其(その)机(つくゑ)の抽斗(ひきだし)には心霊学会の研究報告がはひつてゐさうな心持がする。殊にブラツクウツドなどは(Algernon Blackwood)御当人が既にセオソフイストだから、どの小説も悉(ことごと)く心霊学的に出来上つてゐる。この人の小説に「ジヨン・サイレンス」と云ふのがあるが、そのサイレンス先生なるものは、云はば心霊学のシヤアロツク・ホオムス氏で、化物(ばけもの)屋敷へ探険に行つたり悪霊(あくりやう)に憑(つ)かれたのを癒(なほ)してやつたりする、それを一々書き並べたのが一篇の結構になつてゐる訣(わけ)です。それから又「双子(ふたご)」と云ふ小説がある。これは極(ごく)短い物ですが、双子が一人(ひとり)になつてしまふ。――と云つたのでは通じないでせう、双子が体は二つあつても、魂(たましひ)は一つになつてしまふ。――一人(ひとり)に二人(ふたり)分の性格が出来ると同時に、他の一人は白痴(はくち)になつてしまふ。その径路(けいろ)を書いたものですが、外界には何も起らずに、内界に不思議な変化の起る所が、頗(すこぶ)る巧妙に書いてある。これなどはルイズやマテユリンには、到底(たうてい)見られない離(はな)れ業(わざ)です。序(ついで)にもう一つ例を挙げると、ウエルスが始めて書いたとか云ふ第四の空間があつて、何かの拍子(ひやうし)に其処(そこ)へはひると、当人はちやんと生きてゐても、この世界の人間には姿が見えない。云はば日本の神隠(かみかく)しに、新解釈を加へたやうなものです。これはその後(ご)ビイアスが、第四の空間へはひる刹那(せつな)までも、簡勁(かんけい)に二三書いてゐる。殊(こと)に或少年が行方(ゆくへ)知れずになる。尤(もつと)も或る所までは雪の中に、はつきり足跡(あしあと)が残つてゐる。が、それぎりどうしたか、後(あと)にも先にも行つた容子(ようす)がない。唯、母親が其処(そこ)へ行(ゆ)くと、声だけ聞えたと云ふなどは、一二枚の小品だがあはれな気がする。ビイアスは無気味(ぶきみ)な物を書くと、少くとも英米の文壇では、ポオ以後第一人の観のある男ですが、(Amborose Bierce)御当人も第四の空間へでも飛びこんだのか、メキシコか何処(どこ)かへ行(ゆ)く途中、杳(えう)として行方(ゆくへ)を失つた儘(まま)、わからずしまひになつてゐるさうです。
幽霊――或は妖怪の書き方が変つて来ると同時に、その幽霊――或は妖怪(えうくわい)にも、いろいろ変り種(だね)が殖(ふ)えて来る。一例を挙げるとブラツクウツドなどには、エレメンタルスと云ふやつが、時々小説の中へ飛び出して来る。これは火とか水とか土とか云ふ、古い意味の元素の霊です。エレメンタルスの名は元よりあつたでせうが、その活動が小説に現れ出したのは、近頃(ちかごろ)の事に違ひありますまい。ブラツクウツドの「柳」と云ふ小説を読むと、ダニウブ河へボオト旅行に出かけた二人(ふたり)の青年が、河の中の洲(す)に茂つてゐる柳のエレメンタルスに悩まされる。――エレメンタルスの描写(べうしや)は兎(と)も角(かく)も、夜営(やえい)の所は器用に書いてあります。この柳の霊なるものは、かすかな銅鑼(どら)のやうな声を立てる所までは好(よ)いが、三十三|間堂(げんだう)のお柳(りう)などとは違つて、人間を殺しに来るのださうだから、中々油断はなりません。その外(ほか)にまだ何(なん)とも得体(えたい)の知れない妙な物の出て来る小説がある。妙な物と云ふのは、声も姿もない、その癖|触覚(しよくかく)には触れると云ふ、要するにまあ妙な物です。これはド・モウパツサンのオオラあたりが粉本(ふんぽん)かも知れないが、私の思ひ出す限りでは、英米の小説中、この種の怪物の出て来るのが、まづ二つばかりある。一つはビイアスの小説だが、この怪物が通ることは、唯草が動くので知れる。尤(もつと)も動物には見えると見えて、犬が吠(ほ)えたり、鳥が逃げたりする、しまひに人間が絞(し)め殺される。その時居合せた男が見ると、その怪物と組み合つた人間は、怪物の体に隠れた所だけ、全然形が消えたやうに見えた、――と云つたやうな工合(ぐあひ)です。(The Damned Thing)もう一つはこれも月の光に見ると、顔は皺(しわ)くちやの敷布(シイト)か何かだつたと云ふのだから、新|工夫(くふう)には違ひありません。
この位で御免(ごめん)蒙(かうむ)りますが、西洋の幽霊は一体(いつたい)に、骸骨(がいこつ)でなければ着物を着てゐる。裸の幽霊と云ふのは、近頃になつても一つも類がないやうです。尤(もつと)も怪物には裸も少くない。今のオオブリエンの怪物も、確(たしか)毛むくぢやらな裸でした。その点では幽霊は、人間より余程(よほど)行儀(ぎやうぎ)が好(よ)い。だから誰か今の内に裸の幽霊の小説を書いたら、少くともこの意味では前人未発の新天地を打開した事になる筈です。 
 
幽霊と文学 / 坂口安吾

 

幽霊の凄味の点では日本は他国にひけをとらない。西洋人の生活の中には悪魔が幅をきかしてゐるが、幽霊はあまり顔をださない。悪魔には日本の鬼や狐狸に通ずる一脈の滑稽味と童話的な郷愁的な感情が流れ、今日の知識人の生活の中では、恐怖の対象であるよりも、理知の故郷に住み古した一人の友達の感が深い。
幽霊は悪魔とちがつて、徹頭徹尾凄味あるのみ、甘さやユーモアは微塵もない。ひとつには人間の本能にひそむ死への恐怖が幽霊と必然的に結びついてゐるためもあるが、又ひとつには「死んで恨みを晴らさう」といふ笑ひの要素の微塵もない素朴な思想が、幽霊の本質的な性格を規定してゐるためである。
私は幽霊がきらひである。徹底的にきらひだ。憎んでもゐる。私の理知は幽霊の存在を笑殺し否定することを知つてゐるが、私の素朴な本能は幽霊の素朴な凄味にどうしても負ける。一応の理知の否定をもつてしても、素朴な恐怖をどうすることもできないらしい。
私は日本の怪談がきらひだ。日本の怪談は世の諸々の怪談中でも王座をしめる凄味があるとの定評であるが、本能的な素朴な恐怖を刺戟する原始的な文学興味は余りに思想の低いもので、高い文学になり得る筈はないのだ。怪談の凄味は自慢の種になるよりも、その国の文化生活の低さを物語る恥のひとつと思つてよからう。
私はかやうな素朴な恐怖におびえる自分がたいへん厭だ。然し私のあらゆる理知をもつてしても、とうてい幽霊の存在を本質的に抹殺し去ることができないので、私に残された唯一の途は、幽霊と友達づきあひするよりほかに仕方がないといふことだ。さうして幽霊への本能的な恐怖を柔げるよりほかに方法がないといふことである。
先日「幽霊西へ行く」といふ映画がきた。幽霊を滑稽化し、恋をさせたりして如何にも我々に親密なものとし友達づきあひのできる程度につくつてゐるが、それはただ外形的なことであつて、幽霊の本質的な凄味、「死んで恨みを晴らさう」といふ素朴な思想は生のまま投げだされてゐるにすぎない。幽霊の本質的な性格や戦慄を我々の親しい友達としたものではないのである。
幽霊をさかんに登場させたヂッケンスも、然しその幽霊達は昔ながらの素朴な幽霊の概念であり、「死んで恨みを晴らさう」といふ不逞な思想を我々の親しい友とするために役立つことは全くなかつた。
私の知る限りでは「死んで恨みを晴らさう」といふ不逞な凄味をそつくりそのまゝ人間化し戯画化し、我々の涙ぐましい友達の一人として誕生させてくれた人にニコライ・ゴーゴリあるのみ。その「外套」は幽霊の持つ本質的な戦慄を始めて民衆の味方にかへた。読者は「外套」の幽霊と肩を抱きあつて慰めあひ、憂さ晴らしに腕を組んで居酒屋へ行きたくなる。幽霊を人間の味方にし親友としたゴーゴリは、幽霊に誰より怯えた臆病者でもあつたのであらう。 
 
幽霊の衣裳 / 田中貢太郎

 

三代目|尾上菊五郎(おのえきくごろう)は怪談劇の泰斗として知られていた。其の菊五郎は文化年代に、鶴谷南北(つるやなんぼく)の書きおろした『東海道四谷怪談』を木挽町(こびきちょう)の山村座(やまむらざ)で初めて上演した。其の時菊五郎はお岩(いわ)と田宮(たみや)の若党(わかとう)小平(こへい)、及び塩谷(えんや)浪人|佐藤与茂七(さとうよもしち)の三役を勤めたが、お岩と小平の幽霊は陰惨を極めたもので、当時の人気に投じて七月の中旬から九月まで上演を続けた。
其の後|天保(てんぽう)になって菊五郎は、堺町(さかいまち)の中村座(なかむらざ)の夏演戯(なつしばい)で亦(また)『四谷怪談』をやる事になり、新機軸を出すつもりで、幽霊の衣裳に就いて考案したが、良い考えが浮ばなかった。
ちょうど其の時、中村座に関係していた蔦芳(つたよし)と云う独身者(どくしんもの)がいた。それは、演戯茶房(しばいちゃや)蔦屋(つたや)の主翁(ていしゅ)の芳兵衛(よしべえ)と云う者であったが、放蕩(ほうとう)のために失敗して、吉原角町河岸(よしわらすみちょうがし)の潰(つぶ)れた女郎屋の空店(あきだな)を借りて住んでいた。
蔦芳は中村座の開場が近くなったので、毎日吉原から通っていたが、某日(あるひ)浴衣(ゆかた)が汗になったので、更衣(きがえ)するつもりで二階の昇口(あがりぐち)へ往(い)ったところで、壮(わか)い男が梯子段(はしごだん)へ腰をかけていた。蔦芳は自分にことわらないで、あがりこんでるのは何人(たれ)だろうと思って見たが、夕方で微暗(うすぐら)いのではっきり判らなかった。
「おい、おめえは何人(たれ)だ、其処(そこ)にいちゃ邪魔にならあ」
気の強い蔦芳は、いきなり足で其の男を蹴(け)っておいて二階へあがり、俳優(やくしゃ)のお仕着(しきせ)の浴衣を執(と)って来たが、おりる時にはもう其の男は見えなかった。
それから五六日して蔦芳は、亦(また)彼(か)の壮(わか)い男が便所の口に立っているのを見たので、其の日中村座へ往って其の事を話した。
小屋の者はそれを菊五郎に話した。幽霊の衣裳を考案していた菊五郎は、早速蔦芳を自宅へ呼んで、今度出たら着附を良く見ておいて知らしてくれ、骨折賃を二両出そうと云った。其の時の二両は可成な金であるから、蔦芳は喜んで幽霊の出現を待っていた。
すると中村座の初日の二日前の夜、其の幽霊が蔦芳の臥(ね)ている部屋へぬうと現れた。蔦芳はしめたと思って能(よ)く見た。二十四五の壮い男で、衣服(きもの)は浅黄木綿(あさぎもめん)の三つ柏(かしわ)の単衣(ひとえ)であった。蔦芳は夜の明けるのを待ちかねて、菊五郎の許(もと)へ駆けつけた。菊五郎はそこで小平の衣裳を浅黄木綿|石持(こくもち)の着附にして、其の演戯(しばい)に出たので好評を博(はく)した。
蔦芳の見た幽霊は、蔦芳が後で調べてみると、其処の女郎屋の壮佼(わかいしゅ)であった。其の壮佼の徳蔵(とくぞう)と云うのは、病気の親に送る金に困って客の金を一|歩(ぶ)盗んだ。因業者(いんごうもの)で通っていた主翁(ていしゅ)は、それを突き出したので徳蔵は牢屋に入れられ、其のうちに病死したが、其の徳蔵が曳(ひ)かれて往く時着ていた衣服は、店の妓(おんな)がやった浅黄木綿三つ柏の単衣であった。 
 
幽霊を見る人を見る / 長谷川伸

 


京都の新京極は食べ物屋の飾りつけよりも、小間物や洋品を商う店の京都色の方が強くくる。
その新京極のチャチな家で夜更けてから飯を食べた――といっても連れは酒飲みだから飲まずにはいなかった。外へ出ると星の光が冴えていた。あしたの朝は屹(きっ)と霜が深かろう。
「そ、そんな物が現代にあるもんですか、あなたは見掛けによらない非科学的な方だ」
と、Tが神経質な顔に似合わず断乎とした調子で否定した。さっきからの話しつづきは人の魂のことだった、手軽くいえば幽霊はありや無しや、それだった。Tは絶対否定だ。私は絶対否定をしたいのだが不幸にして霊(?)の働きかと疑える事実に幾つかぶつかっているので、否定する勇気がない。
四条大橋を渡るとき、顔にぶつかった蚊もどきと呼ぶ螫(さ)さぬ蚊(?)が、いかにも力なくなっているのを掌の上にのせて見た。京阪電車の駅に出入りする人の姿が肌寒そうに見える頃だからその筈だった。見慣れたネオンサインに背中を向けて南座に沿って曲ると、女の妓夫が立っている遊女屋が並んでいた。
「現代人がそんなことをいうってことありますか、幽霊なんてあるもんか。ねえそうでしょう?」
彼は、調子外れな声になって否定を繰返していた。思いなしか彼は変に熱心だった。
「ケッタイなこといやはる」
丹色の遊女屋の前で疏水の流れの音を聞き、向う岸の八百政の灯の色を淡く浴びて行く二人に、女の引き子が挑戦するように笑っていった。
遊女相手に遊ぶ気のない私はいつものとおり取合わなかった。女好きで遊び好きで笑談を口から絶やさないといってもいいくらいのTを振返ってみると、通りすがりの遊女屋の灯で彼の顔が恐ろしく謹厳になっているのが目についた。
(おや? この男の顔はこんなだったかしら)
軽く疑ったくらいだ。平常のTの顔ではない。

専栗橋近くなった。貨物列車の汽笛が七条の空から流れてきた。気の故(せい)か京都の秋は東京よりも星がはッきり見える。私は何も考えていないときの癖で星を仰いで歩いた。
ふと気がつくと連れのTがいなかった。立ちどまって彼を待合せたが姿が見えなかった。片側の家並の軒にとぼされている電灯をたよりに、道路の上にTを見出そうとしたが、足音すら聞えなかった。私は引返した。別れるにしても「左様なら」がいいたかったのだ。
あすこは川添いに柳の木が植(うわ)っている、何とかいう旅館の塀の前あたりの柳の根方に、川に面して黒い蹲踞(うずくま)った男の姿があった。何かブツブツいっている――いや、いっているのではない! Tが泣いているのだ。
(こいつ泣き上戸(じょうご)か)
が、そういう話は聞いていなかった。
「済まない――済まない」
泣き声は低かった。「済まない」という声も低かった。初めて聞いたとき、それを言葉だとは思わなかったが、繰返されたので、とうとう彼がだれかに謝罪しているのだと判った、しかし、彼の向っている方は疏水だった、その先は石を川底に敷いた鴨川だった、勿論、秋の夜の十二時という頃、川に人がいる筈もなし、もしいたら溺死した人でなくてはならないのだ。
「おいッ」
肩を叩いてやった。柳の枝の末が頬を撫ぜた。枝に露があってヒヤリとした、パラリという音もした。いい気もちではなかった、がそれよりも、彼だ。
彼は、「ひえッ」とも違う、「うおッ」とも違う、音標記号ではとても現わせられない声を出して、慌(あわただ)しくすッくと起ちあがって、私の顔を暫く凝視していた。
「どうしたンだい、そんな処へ坐って」
「へへへ、何――何でもありません。今夜はひどく酔ってしまって」
ひょろひょろと歩く足どりに作為がありあり見えた。
他家の軒灯の光でそれとなく見るとTの顔は蒼白だった。唇の色は黒ッぽくなっていた。
「ひどく酔いました、こんなに酔いが廻るなんて。げえい」
彼は、流行唄を口にした。そぐわない声で、ぎごちない節廻しで――彼は何のためにか嘘を私に演じて見せているらしかった。

Tに就いて、その後は交渉をもたなかった。行き摺りの人でしかない。あの晩のことも酔ったからのことだと解していたのだ。
知名以上な俳優と或る座談会で落合った、何かと話が入り乱れて交わされているときに、何の必要であったか、Tの名がその有名な俳優の口にのぼった。
(そうだっけ、Tはこの人の門下だと自分でいっていたことがあった)
と思い出したのでその少し後に、京の秋の夜に演じたTの酔態を語った。Tの師は軽く驚いて聞いていたが、話好きな人だけに滑かにやがてこう語り出した。
「そんなことがあったのですか、私は初耳です――ですが、それを伺って私は説き明しが出来るんですよ。お話しましょう。それはね、あなたが木の下に坐っているTをご覧になったときに当のTは、女を疏水の白い泡の中か何かに見出していたんです、屹(きっ)と」
「え!」
「こうなんです。あの男は俳優でしてね。あなたが京都でお逢いのときは? ああそうですか、ではいよいよそうです」
話はこうだった。
Tは大阪の道頓堀のN座に出勤していた、もとより目立つ役を振られる身分ではなかったが、俳優であるが故に――多分そうだったろうと思うのだが、カフエーの女給をいつの間にか手に入れて喜んでいた。女給は広島市から十里ばかりの貧乏寺の僧侶の一人娘で、年は十七だった。美貌ではあったが無智だったという。
大阪から京都それから神戸、Tの出ている一座はその三カ所をぐるぐる興行して歩いた、Tと女給とは共稼ぎの愛の巣と称して南の河原町辺に二階借りをしていた。そのうちに女が妊娠して女給に出られなくなった。そこへもってきてTの一座は突然解散になった。それでも初めのうちは売り食いで繋いでいたが、どうにもならなくなったので、Tは厭がる女に因果を含めて故郷へ帰してやった。女が汽車に乗るのを見送った足でTは放浪を――というのが正しいかしら、行方を晦(くらま)してしまった。
Tの師は未知の僧侶から来た長い手紙を披いてみて初めてこんな事情を知ったのだそうだ。
女は故郷へ帰ったが、父の寺は極端に貧乏だった、食うことすら覚束ないので、男の処へ何十通かの手紙を出して救いを求めた。しかし、その返事は一通もこなかったと書いてあった。その手紙の一節はこうだった。
「不幸娘の分娩は老衲自身、覚束なくも仕り候。一銭の失費も出来かね候貧僧の境界とて是非の議に御座なく候」
そういう手紙は、娘の死、嬰児の死を素朴に書き伝え、そして、
「娘の不行蹟言語道断に候、男の浮薄は鬼畜に劣る、かかる刻薄無残の輩を弟子に持ち知らざる顔にて打過ごす貴殿も冷酷の人に候、無学鈍痴の老僧、今日より仏罰を怖れず呪咀の行を日課と致す可く――」
「Tの奴、そんな手紙が私のところへきたのは知らないでいますよ、今でも?――さあ。あれは今どうしていますか、多分、生きているとは思いますが」
私は、こんな因果物語のもつ内容を別にどう考える訳でもない、ただ、幽霊を現に見ていた男を私が見ていた、ということが心をいつまでも惹くのだ。京都の秋の星の夜更けだったから特に深さが加えられたのかとも思うが。
ああ、書き落しては悪い、Tの師は老僧のところへ長い手紙を書いて、五十円の為替券を巻き込んで送ったそうだ。 
 
幽霊の足 / 相馬御風

 

或小学校に於ける手工の時間に、Fといふ教師の経験した話。
その日Fは生徒一同に同じ分量の粘土を与へて、各自勝手な物を作らせて見ようと企てた。生徒は皆大いに喜んで各自思ひ/\に、馬だの牛だの人形だの茄子だの胡瓜だのを作つた。
ところが、中にたゞ一人時間が過ぎても、ぼんやり何か考へ込んでゐて何も作らない生徒があつた。彼はもと/\其の級第一の劣等児であつた。算術や読方はいふまでもなく、学科といふ学科は悉くゼロに近い点数をとつてゐた。たゞ不思議に彼は自然の風物を愛する点に於て他の児童に見ることが出来ない豊かさを持つてゐた。空だの、草だの、木だのに対する彼の愛着は極めて深かつた。時には授業中をもかまはずに窓の外の鳥の音に誘はれて、ふら/\と教室を出て行かうとするやうな事さへあつた。教師Fはさうした彼の性情をよく理解してゐたので、なるべくそれを傷けないやうに注意してゐたが、時時は他の生徒への手前叱らずに居られぬやうな事もないではなかつた。
その粘土細工の時間にもFはあまりの事に彼のそばに行つて、やゝ語調を荒くしてたづねた。
「おい、お前は何をしてるんだ。一時間たつても何もしないぢやないか。なぜ、さうぼんやりしてるんだ」
教師のさうした詰問に、彼はまるで夢からさめでもしたやうに、きよとんとした顔を上げた。そしていかにも困つたといふ風に訴へた。
「先生、私は幽霊を作りたいんです。作らうと思ふ幽霊はハツキリ目に見えてゐるんです。けれども、いつかうちのお母さんは幽霊といふものは足のないものだといつて聞かせました。でも、足がなくては立てません。私はそれを考へてゐたんです。先生! どうしたら足がなくても立たせることが出来るでせうか。それさへわかれば今すぐ私は幽霊をこしらへます」
それには教師もまいつてしまつた。むしろ一種の驚異さへも感じさせられた。そしてたゞかう答へるより外なかつた。
「よし、よし。それでは今日はそれでやめにして置くがいい。その代りいつでもいゝからお前がその工夫の出来た時に作つて持つて来るがいゝ」
しかし、その生徒は卒業するまでつひにそれを作り得ずにしまつた。或は一生涯彼はそれを考へ続けるのかも知れない。教師は時々その教へ子をおもひ出しては涙ぐまされるのであつた。 
 
画工と幽霊 / 岡本綺堂

 

千八百八十四年、英国|倫敦(ロンドン)発刊の某雑誌に「最も奇なる、実に驚くべき怪談」と題して、頗(すこぶ)る小説的の一種の妖怪談を掲載し、この世界の上には人間の想像すべからざる秘密又は不思議が存在しているに相違ない、これが即ち其(そ)の最も信ずべき有力の証拠であると称して、その妖怪を実地に見届けた本人(画工(がこう)エリック)の談話を其(そ)のまま筆記してある。原文は余(よ)ほど長いものであるから、今その要(よう)を摘(つま)んで左(さ)に紹介する。で、その中に私(わたし)とあるのは、即ち其(そ)の目撃者たる画工自身の事だ。
今年の七月下旬、私は某(ある)友人の紹介で、貴族エル何某(なにがし)の別荘へ避暑かたがた遊びに行った事がある、その別荘は倫敦(ロンドン)の街から九|哩(マイル)ばかり距(はな)れた所にあるが、中々手広い立派な邸宅(やしき)で、何さま由緒ある貴族の別荘らしく見えた。で、私が名刺を出して来意を通じると、別荘の番人が取(とり)あえず私を奥へ案内して、「あなたが御出(おいで)の事は已(すで)に主人(しゅじん)の方から沙汰がございました、就(つき)ましては此(こ)の通りの田舎でございますが、悠々(ゆるゆる)御逗留なすって下さいまし」と、大層|鄭重(ていちょう)に接(あつか)って呉(く)れたので、私も非常に満足して、主人公はお出(いで)になっているのかと尋ねると、「イエまだお出(いで)にはなりませんが、当月|末(すえ)にはお出(いで)なさるに違(ちがい)ありません」との事。それから晩餐の御馳走になって、奥の間(ま)の最上等の座敷へ案内されて、ここを私の居間と定められたが、こんな立派な広いお座敷に寝るのは実に今夜が嚆矢(はじめて)だ、併(しか)し後(あと)で考えるとこのお座敷が一向に有難くない、思い出しても慄然(ぞっ)とするお座敷であったのだ。
神ならぬ身の私は、ただ何が無しに愉快で満足で、十分に手足を伸(のば)して楽々と眠(ねむり)に就いたのが夜の十一時頃、それから一寝入(ひとねいり)して眼が醒めると、何だか頭が重いような、呼吸(いき)苦しいような、何とも云われぬ切ない心持がするので、若(もし)や瓦斯(ガス)の螺旋(ねじ)でも弛(ゆる)んでいるのではあるまいかと、取(とり)あえず寝台(ねだい)を降りて座敷の瓦斯を検査したが、螺旋には更に別条なく、また他(た)から瓦斯の洩(も)れるような様子もない、けれども、何分(なにぶん)にも呼吸(いき)が詰まるような心持で、終局(しまい)には眼が眩(くら)んで来たから、兎(と)にかく一方の硝子(ガラス)窓をあけて、それから半身(はんしん)を外に出して、先(ま)ずほっと一息ついた。今夜は月のない晩であるが、大空には無数の星のかげ冴えて、その星明(ほしあかり)で庭の景色もおぼろに見える、昼は左(さ)のみとも思わなかったが、今見ると実に驚くばかりの広い庭で、植込(うえこみ)の立木は宛(まる)で小さな森のように黒く繁茂(しげ)っているが、今夜はそよとの風も吹かず、庭にあるほどの草も木も静(しずか)に眠って、葉末(はずえ)を飜(こぼ)るる夜露の音も聞(きこ)えるばかり、いかにも閑静(しずか)な夜であった。併(しか)し私はただ閑静(しずか)だと思ったばかりで、別に寂しいとも怖いとも思わず、斯(こ)ういう夜の景色は確(たしか)に一つの画題になると、只管(ひたすら)にわが職業にのみ心を傾けて、余念もなく庭を眺めていたが、やがて気が注(つ)いて窓を鎖(と)じ、再び寝台(ねだい)の上に横になると、柱時計が恰(あたか)も二時を告げた。室外の空気に頭を晒(さら)していた所為(せい)か、重かった頭も大分に軽(かろ)く清(すず)しくなって、胸も余(よ)ほど寛(くつろ)いで来たから、そのまま枕に就いて一霎時(ひとしきり)うとうとと眠ったかと思う間もなく、座敷の中(うち)が俄(にわか)にぱッと明るくなったので、私も驚いて飛び起(お)きる、その途端に何処(どこ)から来たか知らぬが一個(ひとり)の人かげが、この広い座敷の隅の方からふらふらと現われ出た。
これには私で無くとも驚くだろう、不思議の光、怪しの人影、これは抑(そ)も何事であろうと、私は再び床(とこ)の上に俯伏(うつぶ)して、窃(ひそ)かに其(そ)の怪しの者の挙動を窺っていると、光はますます明るくなって、人は次第に窓の方へ歩み寄る、其(そ)の人は女、正(まさ)しく三十前後の女、加之(しか)も眼眩(まばゆ)きばかりに美しく着飾った貴婦人で、するすると窓の側(そば)へ立寄(たちよ)って、何か物を投出(なげだ)すような手真似をしたが、窓は先刻(せんこく)私が確(たしか)に鎖(と)じたのだから、迚(とて)も自然に開(あ)く筈はない。で、其(その)婦人は如何(いか)にも忌々(いまいま)しそうな、悶(じれ)ったそうな、癪(しゃく)に障(さわ)ると云うような風情で、身を斜めにして私の方をジロリと睨んだ顔、取立(とりた)てて美人と賞讃(ほめはや)すほどではないが、確(たしか)に十人並以上の容貌(きりょう)で、誠に品の好(い)い高尚(けだか)い顔。けれども、その眼と眉の間(あいだ)に一種形容の出来ぬ凄味を帯(おび)ていて、所謂(いわゆ)る殺気を含んでいると云うのであろう、その凄い怖い眼でジロリと睨まれた一瞬間の怖さ恐しさ、私は思わず気が遠くなって、寝台の上に顔を押付(おしつ)けた。と思う中(うち)に、光は忽(たちま)ち消えて座敷は再び旧(もと)の闇、彼(か)の恐しい婦人の姿も共に消えて了(しま)った、私は転げるように寝台から飛降(とびお)りて、盲探(めくらさぐ)りに燧木(マッチ)を探り把(と)って、慌てて座敷の瓦斯(ガス)に火を点(とぼ)し、室内昼の如くに照(てら)させて四辺(あたり)隈(くま)なく穿索したが固(もと)より何物を見出そう筈もなく、動悸(どうき)の波うつ胸を抱えて、私は霎時(しばらく)夢のように佇立(たたず)んでいたが、この夜中(やちゅう)に未(ま)だ馴染(なじみ)も薄い番人を呼起(よびおこ)すのも如何(いかが)と、その夜は其(そ)のままにして再び寝台へ登(あが)ったが、彼(か)の怖しい顔がまだ眼の前(さき)に彷彿(ちらつ)いて、迚(とて)も寝られる筈がない、ただ怖い怖いと思いながら一刻千秋の思(おもい)で其(その)夜(よ)を明(あか)した。と、斯(こ)ういうと、諸君は定めて臆病な奴だ、弱虫だと御嘲笑(おわらい)なさるだろうが、私も職業であるから此(こ)れまでに種々(いろいろ)の恐しい図を見た、悪魔の図も見た、鬼の図も見た、併(しか)し今夜のような凄い恐しい女の顔には曾(かつ)て出逢った例(ためし)がない、唯(ただ)見れば尋常一様(じんじょういちよう)の貴婦人で、別に何の不思議もないが、扨(さて)その顔に一種の凄味を帯びていて、迚(とて)も正面から仰(あお)ぎ視(み)るべからざる恐しい顔で、大抵の婦人(おんな)小児(こども)は正気を失うこと保証(うけあい)だ。
扨(さて)その翌朝になると、番人夫婦が甲斐甲斐(かいがい)しく立働(たちはたら)いて、朝飯の卓子(テーブル)にも種々(いろいろ)の御馳走が出る、その際、昨夜(ゆうべ)の一件を噺(はな)し出そうかと、幾たびか口の端(さき)まで出かかったが、フト私の胸に泛(うか)んだのは、若(もし)や夢ではなかったかと云う一種の疑惑(うたがい)で、迂濶(うかつ)に詰(つま)らぬ事を云い出して、飛(とん)だお笑い種(ぐさ)になるのも残念だと、其(そ)の日は何事も云わずに了(しま)ったが、何(ど)う考えても夢ではない、確(たしか)に実際に見届けたに違いない、併(しか)し実際にそんな事のあろう筈がない、恐らくは夢であろう、イヤ事実に相違ないと、半信半疑に長い日を暮して、今日もまた闇(くら)き夜となった、夢か、事実か、その真偽を決するのは今夜にあると、私は宵から寝台(ねだい)に登(あが)ったが、眼は冴えて神経は鋭く、そよとの風にも胸が跳(おど)って迚(とて)も寝入られる筈がない、その中(うち)に段々、夜も更(ふ)けて恰(あたか)も午前二時、即ち昨夜(ゆうべ)とおなじ刻限になったから、汝(おの)れ妖怪変化|御(ご)ざんなれ、今夜こそは其(そ)の正体を見とどけて、あわ好(よ)くば引捉(ひっとら)えて化(ばけ)の皮を剥(は)いで呉(く)れようと、手ぐすね引いて待構(まちかま)えていると、神経の所為(せい)か知らぬが今夜も何だか頭の重いような、胸の切ないような、云うに云われぬ嫌な気持になって、思わず半身(はんしん)を起(おこ)そうとする折こそあれ、闇(くら)い、闇(くら)い、真闇(まっくら)な斯(こ)の一室が俄(にわか)にぱっと薄明るくなって恰(あたか)も朧月夜(おぼろづきよ)のよう、扨(さて)はいよいよ来たりと身構えして眼を瞠(みは)る間(ひま)もなく、室(しつ)の隅から忽(たちま)ち彼(か)の貴婦人の姿が迷うが如くに現われた。ハッと思う中(うち)に、貴婦人は昨夜(ゆうべ)の如く、長い裾(すそ)を曳(ひ)いてするすると窓の口へ立寄(たちよ)って、両肱(りょうひじ)を張って少し屈(かが)むかと見えたが、何でも全身の力を両腕に籠めて、或物(あるもの)を窓の外へ推出(おしだ)し突出(つきだ)すような身のこなし、それが済むと忽(たちま)ち身を捻向(ねじむ)けて私の顔をジロリ、睨まれたが最期、私はおぼえず悚然(ぞっ)として最初(はじめ)の勇気も何処(どこ)へやら、ただ俯向(うつむ)いて呼吸(いき)を呑んでいると、貴婦人は冷(ひやや)かに笑って又|彼方(あなた)へ向直(むきなお)るかと思う間もなく、室内は再び闇(くら)くなって其(そ)の姿も消え失せた、夢でない、幻影(まぼろし)でない、今夜という今夜は確(たしか)に其(そ)の実地を見届けたのだ、あれが俗(よ)にいう魔とか幽霊とか云うものであろう。
もうこの上は我慢も遠慮もない、その翌朝例の如く食事を初めた時に、私は番人夫婦に向(むか)って、「お前さん達は長年この別荘に雇われていなさるのかね」と、何気なく尋ねると、夫の方は白髪頭(しらがあたま)を撫でて、「はい、私(わたく)しは当年五十七になりますが、丁度(ちょうど)四十一の年からここに雇われて居ります」と云う。私も怪談を探り出す端緒(いちぐち)に困ったが、更に左(さ)あらぬ体(てい)で、「併(しか)しお前さん達は夫婦|差向(さしむか)いで、こんな広い別荘に十何年も住んでいて、寂しいとか怖いとか思うような事はありませんかね」と、それとは無しに探りを入れたが、相手は更に張合(はりあい)のない調子で、「別に何とも思いません、斯(こ)うして数年(すねん)住馴(すみな)れて居りますと、別に寂しい事も怖い事もありません」と、笑っている。けれども、怖い事や怪しい事が無い筈はない、現に私が二晩もつづけて彼(か)の妖怪を見届けたのだ。で、更に問(とい)を替(かえ)て、「私の拝借しているアノお座敷は中々立派ですね、お庭もお広いですね、実は昨夜、夜半(よなか)に眼が醒めたのでアノ窓をあけて庭を眺めて居(い)ましたが、夜の景色は又格別ですね」と、そろそろ本題に入(い)りかかると、番人の女房が首肯(うなず)いて、「お庭は随分お広うござんすから、夜の景色は中々|宜(よろ)しゅうございましょう、併(しか)し貴方、アノ窓は普通(なみ)の窓より余(よ)ほど低く出来ていますから、馴れない方がウッカリ凭懸(よりかか)ると、前の方に滑(のめ)る事がありますよ。これまでにも随分ウッカリして転げ墜(お)ちた方が幾人もあります」と聞きもあえず、私は慌てて、「そ、それは不意に墜(お)ちるのですね、シテそれは夜ですか、昼ですか」と尋ねると、女房は打案(うちあん)じて、「サア何時(いつ)と限った事もありませんが、マア闇(くら)い時の方が多いようですね、ツマリ闇(くら)いから其様(そん)な疎匆(そそう)をするのでしょうよ」と澄(すま)している。けれども、それは闇(くら)い為ばかりでない、確(たしか)に他(た)に一種の魔力が手伝うに相違ない。で、私は重ねて、「で、其(そ)の墜(お)ちた人は何(ど)うしました、死んだ人もありましたか」相手は頭(かしら)を振って、「イエ死(しん)だ方はありません、ただ怪我(けが)をする位の事です、併(しか)し今から百年ほど以前(まえ)にこのお邸(やしき)の若様が、アノ窓から真逆様(まっさかさま)に転げ墜(お)ちて、頸(くび)の骨を挫(くじ)いて死んだ事があるさうです[#「さうです」はママ]」と、聞く事々に私はおのずから胸の跳(おど)るを覚えたが、猶(なお)も透(すか)さず、「それで何日(いつ)頃から其様(そん)な事が始(はじま)ったのですね」と問えば、番人は小首をかたげて、「サア何日(いつ)頃からか知りませんが、何でも其(そ)の若様が窓から墜(お)ちて死(しん)だ後(のち)、その阿母(おふくろ)様もブラブラ病(やまい)で、間もなく御死亡(おなくなり)になったのです。で、その後も兎(と)かくに其(そ)の窓から墜(お)ちる人があるので、当時(いま)の殿様も酷(ひど)くそれを気にかけて、近々(ちかぢか)の中(うち)にアノ窓を取毀(とりこわ)して建直(たてなお)すとか云ってお在(いで)なさるそうですよ」と、何か仔細のありさうな[#「ありさうな」はママ]噺(はなし)。そう聞いては猶々(なおなお)聞逃(ききのが)す訳には往(ゆ)かぬ、私は猶(なお)も畳(たたみ)かけて、「それじゃア其(そ)の窓が祟るのだね」相手は笑って、「真逆(まさか)そういう訳でもありますまいよ、併(しか)し其(そ)の若様が変死した事については、いろいろの評判があるのです」
噺(はなし)はいよいよ本題に入(い)って来たから、私もいよいよ熱心に、「え、それは何(ど)ういう理屈だね、何(ど)んな評判があるのだね」と、思わず身を乗出(のりだ)して相手の顔を覗き込むと、番人は顔を皺(しか)めて少しく低声(こごえ)になり、「これは内證(ないしょう)のお噺(はなし)ですがね、勿論(もちろん)百年も以前(まえ)の事ですから、誰も実地を見たという者もなく、ほんの当推量(あてずいりょう)に過ぎないのですが、昔からの伝説(いいつたえ)に依ると、当時(いま)の殿様の曾祖父様(ひいおじいさま)の時代の噺(はなし)で、その奥様が二歳(ふたつ)になる若様を残して御死亡(おなくなり)になりました、ソコで間もなく他(た)から後妻(にどぞい)をお貰いになって、その二度目の奥様のお腹(はら)にも男のお児様が出来たのです。けれども、其(そ)の奥様は大層お優しい方で、わが産(うみ)の児よりも継子(ままこ)の御総領の方を大層可愛がって、俗(よ)にいう継母(ままはは)根性などと云う事は少しもない、誠に気質(きだて)の美しい方でした。ところが、其(そ)の御総領の若様が五歳(いつつ)になった時、ある日アノ窓の側(そば)で遊んでいる中(うち)、どうした機会(はずみ)か其(そ)の窓の口から真逆(まっさか)さまに転げ墜(お)ちて、敷石で頸(くび)の骨を強く撲(う)ったから堪(たま)りません、其(そ)のまま二言(にごん)といわず即死して了(しま)ったのです。サアそこですね、それに就いて種々(いろいろ)の風説がある。と云うのは、彼(か)の継母の奥様が背後(うしろ)から不意に其(そ)の若様を突落(つきおと)したに相違ないと云う評判で、一時は随分面倒でしたが、何をいうにも証拠のない事、とうとうそれなりに済んで了(しま)ったのです」と息も吐(つ)かずに饒舌(しゃべ)るのを、私も固唾(かたづ)を呑んで聞澄(ききすま)していたが、其(そ)の噺(はなし)の了(おわ)るを待兼(まちか)ねて、「併(しか)しそれが可怪(おかし)いじゃアないか、其(そ)の奥様は大層継子を可愛がったと云うのに、どうして其(そ)んな怖しい事を巧(たく)んだのだろう」相手は私の無経験を嘲(あざ)けるように冷笑(あざわら)って「サアそこが女の浅猿(あさまし)さで、表面(うわべ)は優しく見せかけても内心は如夜叉(にょやしゃ)、総領の継子を殺して我が実子(じっし)を相続人に据えようという怖しい巧(たく)みがあったに相違ないのです。それが一般の評判になったので、表向(おもてむき)の罪人にこそならないけれども、御親類御一門も皆その奥様を忌嫌(いみきら)って、誰(たれ)も快く交際する者もなく、果(はて)は本夫(おっと)の殿様さえも碌々(ろくろく)に詞(ことば)を交(かわ)さぬ位(くらい)。で、奥様も人に顔を見られるのを厭(いと)って、年中アノ座敷に閉籠(とじこも)ったままで滅多に外へ出た事も無かったでしたが、ツマリ自分の良心に責められたのでしょう、気病(きやみ)のようにブラブラと寝つ起きつ、凡(およ)そ一年ばかりも経つ中(うち)に、ある日アノ窓の側(そば)まで行くと、急に顔色が変(かわ)ってパッタリ倒れたまま死んで了(しま)ったそうです。心柄(こころがら)とは云いながら誠にお気の毒な事で、それから後(のち)は愈(いよい)よ其(そ)の奥様が若様を殺したに相違ないと決定して、今まで優しい方だ、美しい奥様だと誉めた者までが、継子殺しの鬼よ、悪魔よと皆口々に罵(ののし)ったという事です」と、苦々(にがにが)しげに物語る。以上の噺(はなし)で彼(か)の怪しい貴婦人の正体も大抵推察された。で、そう事が解って見ると、私は猶々(なおなお)怖く恐しく感じて、迚(とて)もここに長居する気がないから、其日(そのひ)の中(うち)に早々(そうそう)ここを引払(ひきはら)って、再び倫敦(ロンドン)へ逃帰(にげかえ)る。その仔細を知らぬ番人夫婦は、余りお早いではありませんか、せめてモウ五六日、せめて殿様がお出(いで)になるまで、と詞(ことば)を尽して抑留(ひきと)めたが、私はモウ気が気でない、無理に振切(ふりき)って逃げて帰った。
で、私の臆病には自分ながら愛想(あいそ)の竭(つ)きる位で、倫敦へ帰った後(のち)も、例の貴婦人の怖い顔が明けても暮れても我眼(わがめ)に彷彿(ちらつ)いて、滅多に忘れる暇(ひま)がない。そこで私も考えた、自分の職業は画工である、斯(かか)る怪異(あやしみ)を見て唯(ただ)怖い怖いと顫(ふる)えているばかりが能でもあるまい、其(そ)の怪しい形の有(あり)のままを筆に上(のぼ)せて、いかに其(そ)れが恐しくあったかと云う事を他人(ひと)にも示し、また自分の紀念(きねん)にも存して置こうと、いしくも思い立ったので、其日(そのひ)から直(ただ)ちに画筆(えふで)を把(と)って下図(したず)に取(とり)かかった。で、わが眼の前に絶えず彷彿(ちらつ)く怪しの影を捉えて、一心不乱に筆を染めた結果、何(ど)うやら斯(こ)うやら其(そ)の真(しん)を写し得て、先(ま)ず大略(あらまし)は出来(しゅったい)した頃、丁度(ちょうど)私と引違(ひきちが)えて彼(か)の別荘へ避暑に出かけた貴族エル何某(なにがし)が、其(そ)の本邸に帰ったという噂を聞いたので、先日の礼かたがた其(そ)の邸(やしき)を初めて訪問した。主人(あるじ)のエルは喜んで私を応接間へ延(ひ)いて、「過日は別荘の方へ御立寄(おたちより)下すったそうでしたが、アノ通りの田舎家で碌々(ろくろく)お構い申しも致さんで、豪(えら)い失礼しました」と鄭寧(ていねい)な挨拶、私は酷(ひど)く痛み入(い)って、「イヤどうも飛んだ御厄介になりました、実はモウ四五日もお邪魔をいたす筈でしたが、宅の方に急用が出来ましたので、早々にお暇(いとま)いたしました」と、口から出任せの口上、何にも知らぬ主人(あるじ)は首肯(うなず)いて、「ハアそうでしたか、私もお跡(あと)から直(すぐ)に別荘へ出かけましたが、貴方はモウお帰りになったと聞いて、甚だ失望しました、併(しか)し幸い今日は何(なん)にも用事もありませんから、ゆるゆるお噺(はなし)でも伺いたいものです」と、誠に如才(じょさい)ない接待振(あつかいぶり)で、私も思わずここに尻を据えて、殆(ほとん)ど三時間ほども世間噺に時を移した。それから、先祖代々の肖像画をお目にかけようと云うので、主人(あるじ)が先に立って奥の一室へ案内する、私も何心(なにごころ)なく其(そ)の跡について行くと、貴族の家の習慣(ならい)として、広い一室の壁に先祖代々の人々の肖像画が順序正しく懸(か)け列(つら)ねてある。で、一々これを仰(あお)ぎ視(み)ている中(うち)に、私は思わずアッと叫んだ。と云うのは他(ほか)でもない、彼(か)の恐しい貴婦人の顔が活けるが如くに睨んでいるのだ。其(そ)の恐しい顔、実に先夜の顔と寸分|違(たが)わず、彼(か)の幽霊が再びここへ迷い出たかと思われる位(くらい)、私は我にもあらで身を顫(ふる)わせた。その挙動が余(よ)ほど不思議に見えたのであろう、主人(あるじ)は私の顔をジロジロ視(み)て、「あなた、どうか為(し)ましたか」私は半(なかば)は夢中で、「ハイあれです、確(たしか)にあれです、私は確(たしか)に見ました」と辻褄(つじつま)のあわぬ返事、主人は愈(いよい)よ不思議そうに眉を顰(ひそ)めたが、やがて俄(にわか)に笑い出して、「あなた、其(そ)の人に逢った事がありますか。それは百年も以前(まえ)の人です、アハハハハ」と、斯(こ)う云われて私も気が付いた、成(なる)ほど其(そ)の仔細を知らぬ主人(あるじ)が不思議に思うも道理(もっとも)と、ここで彼(か)の別荘の怪談を残らず打明(うちあ)けると、主人(あるじ)もおどろいて面色(いろ)を変えて、霎時(しばし)は詞(ことば)もなかったが、やがて大息ついて、「世には不思議な事もあるものですな、実はこの婦人に就(つい)ては一条の噺(はなし)があるので」と、曩(さき)に彼(か)の別荘の番人が語った通りの昔語(むかしかたり)、それを聞けば最早疑うべくもないが、いまは百年も昔の事、其(そ)の以来|曾(かつ)て斯(かか)る怪異(あやしみ)を見た者もなく、現に十五六年来も其(そ)の別荘に住む番人夫婦すらも、曾(かつ)て見もせず聞きもせぬ幽霊の姿を、無関係の私が何(どう)して偶然に見たのであろう、加之(しか)も二晩もつづけて見るというのは実に解(げ)し兼ぬる次第で、思えば思うほど実に不思議な薄気味の悪い噺(はなし)だ。で、主人(あるじ)の驚愕(おどろき)は私よりも又一倍で、そう聞く上は最早一刻も猶予は出来ぬ、早速その窓を取毀(とりこわ)し、時宜(じき)に依(よ)れば其(そ)の室全体を取壊(とりくず)して了(しま)わねばならぬと、直(すぐ)に家令を呼んで其(そ)の趣(おもむき)を命令した。で、今頃は其(そ)の窓も容赦なく取毀(とりこわ)されて、継母(ままはは)の執念も其(そ)の憑(よ)る所を失ったであろうか。
以上が画工エリックの物語で、同雑誌記者の附記する所によれば、彼(か)の画工の筆に成った恐しき婦人の絵姿は此(こ)のほど全く出来(しゅったい)したが、何さま一種云われぬ物凄い恐しい顔である、婦人の如き、其(そ)の図を一目見るや忽(たちま)ちに魘(おび)えて顫(ふる)えて、其後(そのご)一週間ほどは病床に倒れたという。で、普通の日本人の考慮(かんがえ)から云うと、殺した方の人が化けて出るというのは、些(ち)と理屈に合わぬように聞(きこ)えるが、何分にも其処(そこ)が怪談、万事不可思議の所が事実譚(じじつだん)の価値(ねうち)であろう。 
 
幽霊の芝居見 / 薄田泣菫

 

欧洲大戦の時、西部戦線にゐた英軍の塹壕内では、死んだキツチナア元帥が俘虜になつて独逸にゐるといふ噂が頻りにあつた。前線で俘虜になつた独逸兵のなかには、伯林の俘虜収容所で怖しく背の高い元帥の後姿を見かけたといふものが少くなかつた。オウクネエ島附近で溺死した元帥が蘇生つた筈もないが、それでも誰も見た、彼も見たと言ふからには、これもまんざら嘘だとばかしは言はれない。
去年オスカア・ワイルドが巴里の穢い宿屋で窮死した時も、その後二三ヶ月経つてから、あつちこつちで、ワイルドを見かけたといふ人がちよいちよいあつた。
伊勢は寂照寺の画僧月僊は、乞食月僊と言はれて、幾万といふ潤筆料を蓄め込んだ坊さんだが、その弟子に谷口月窓といふ男がゐた。沈黙家(むつつりや)で石のやうに手堅い生れつきであつた。
その月窓に母親が一人あつた。この母親がある時芝居へ行くと、隣桟敷に予て知合の某といふ女が来合せてゐた。その女は大の芝居好きで、亭主に死別れてからは、俳優の顔ばかり夢に見るといふ風な女であつた。
その日も二人は夢中になつて、芝居や俳優の噂をした。翌日になつて、月窓の母親が挨拶かたがたその女を訪ねてゆくと、鼻の尖つた嫁さんが出て来て不思議さうな顔をした。
「お母さんですか、お母さんは貴女、亡くなりましてから、今日で三月あまりにもなりますよ。」
「え、お亡くなりですつて。でも、私は昨夜芝居でお目に懸りましたが……」
「まさか。」
と言つて嫁さんは相手にしなかつた。そしてどうかすると、こちらを狂人扱ひにしさうなので、月窓の母親は黙つて帰つたが、途中|蹠(あしのうら)は地に著かなかつた。 
 
幽霊の自筆 / 田中貢太郎

 

一ぱい張った二十三反帆に北東の風を受けて船は西へ西へ走っていた。初夏の曇った晩であった。暗いたらたらとした海の上には風波の波頭が船の左右にあたって、海蛇のように幾条かの銀鼠の光を走らした。
艫の舵柄の傍では、年老った船頭が一杯機嫌で胡座(あぐら)をかき、大きな煙管(キセル)で煙草を喫(の)みながら舵柄を見て、二人の壮(わか)い舵手(かこ)に冗談口を利いていた。煙草の火の光が暗い中に螢火のように光っていた。
船頭の話は数年前、船頭が品川へ遊びに往った時の話であった。
「そこでさ、その皿鉢じゃ、金襴手の模様と云い、どうしても、和蘭(オランダ)か南京(ナンキン)じゃ、そうなると、女なんかそっち除けじゃ、この皿鉢さえ一枚持ち出せば、今晩の散財は浮いてしまう、と云う、悪いことを考えだしたのじゃ、で、大引けまで、ちびり、ちびりと飲んだあげく、もう鴇母(やりて)も壮佼(わかいしゅ)も座敷のしまつをせずに、そのまま打っちゃらかしておいてさっさと引きさがって往くのを見すますと、しめたと床へ入り、直ぐ寝たふりをして見せると、女は室(へや)を出て往っちまう、で、便所へ往くふりをして、そっと広間へ往って、その皿鉢の中の残り肴を平げてしまい、中を鼻紙で美麗(きれい)に拭いて、出口の障子際へ持ち出し、それから用を達(た)して、座敷へ帰り、また横になって時刻を計っておると、もう二番鶏の声がする、よし、好い時刻が来たぞと、急に寝衣(ねまき)を己(じぶん)の褞袍(どてら)に着かえ、そっと広間の方へ往って、彼(あ)の皿鉢を執って背中に入れ、何くわん顔をして、座敷へ帰って煙草を喫んでおると、そこへ女が見廻って来る、ところで、女は、そんな客には毎晩馴れてるので、何とも思わない。
(さあ、もうおかえり)
と云う奴さ、で鸚鵡返しに、ああかえるよと云って、かえりかけると、女は洒々として送って来る、もうすこしじゃ、門口を一歩出さえすれば大丈夫じゃ、今、見つけられたら、えらい目に会わされる、こいつは大事に歩かんといかんと思って、ゆっさ、ゆっさと廊下を歩いて、やっと出口まで来た、不寝番(ねずのばん)の妓夫(ぎゆう)がいて、下駄を出し、門口の戸を細目に開けて呉れる、下駄を履いて、出ようとすると、女が後から来て、半分出かけた俺の背中を、それもその皿鉢の真上を、三つ続けて、とん、とん、とんと叩いて、
(またお出でよ)
と、云って笑ったが、皿鉢盗人(どろぼう)は承知と見えて、それっきり何も云わない、云わない筈さ、泥絵の絵具を塗ったように、金襴手の上薬がぼろぼろこぼれるという二分もしない皿鉢さ」
船は遠州灘の戸島の側を通っていた。船頭の酔がやや覚めかけて話がきれぎれになりかけた時、鼠色に見える白帆の影になった空中に、ふうわりとしたものの形が何処からともなく見えて来た。雲霧か何かが風のぐあいで吹き飛ばされて来たものだろうと、舵手(かこ)の一人がそれを見て思った。そのうちにその雲霧のようなものの影は、ふわふわと舵柄の傍へ降りて来た。その影の中には蒼白い人の顔があった。船頭が直ぐそれに眼を注(つ)けた。船頭は煙管を逆手にかまえた。
「船幽霊が来やがった」
二人の舵手(かこ)は舵柄にすがったなりで起きあがれなかった。
「船幽霊が来たぞ、船幽霊が来たぞ、壮い奴等、灰を持って来い」
船頭の大きな声がまた響いた。
「いや、俺は船幽霊じゃない、騒いでくれるな」
色の蒼白い背の高い男が船頭の前で穏かに云った。
「船幽霊でなけりゃ、何んじゃ」
「俺は、土州安芸郡(ごおり)崎の浜の孫八と云う船頭じゃ、あと月の廿日の晩、この傍を通っておると、大暴風雨(じけ)になって、海込めに遭い、二十人の乗組といっしょに死んでしまったのじゃ、で、頼みがあってやって来た」
「頼みと云うのはどんなことじゃ、俺にできることなら頼まれてやろう」
「それはありがたい、では、俺が海込めに遭うて、乗組二十人といっしょに、死んだと云うことを、国許へ報らしてやってくれ、頼みたいことは、このことじゃ」
「よし、この船は大阪へ寄るから、大阪の土佐邸まで知らしてやっても好いが、何も証拠が無いに、雲を掴むような知らせでは、知らして往く方も困るし、むこうも本気にしないだろう、何か証拠になるものは無いか」
「では証拠を書く、紙と硯を貸してくれ」
「よし、紙と硯があるから、書け」
船頭は舵柄に執りついて震えている舵手に云いつけた。舵手の一人は直ぐ傍の箱を手探りに執って、それを船頭の方へ出した。船頭はその箱を引き寄せて紐を解き、その蓋を開けて中から一枚の紙と矢立をだした。
「さあ、ここに矢立と紙がある、これへ書くが好かろう」
怪しい男はその紙と矢立を受けて紙に臨んで筆を走らした。
「では、これを土佐邸へ届けてくれ、何分頼む」
船頭の手に矢立と紙が返って来た。
「たしかに頼まれた、大阪へ着き次第、土佐邸へ届けるから安心せよ」
怪しい男の姿はもう見えなかった。
怪しい男から書類(かきつけ)を托された船は薩摩の船であった。薩摩の船は大阪へ着くとともに土佐邸へその書類を届けに往った。土佐邸には孫八を知っているものもあった。で、その書類がほんとうに孫八の書いたものであるかないかを詮議したがはっきり判らない。そこで、孫八と関係のある女が住吉に住んでいると云うのでその女を呼びだした。
女は不審しながら来た。役人は女の前へ彼の書類を差しだした。
「この文字に見覚えがあるか」
女はそれを受取ってずっと読んだ後に泣き仆れてしまった。
「その書類は、薩摩の船が、遠州灘で、孫八の幽霊と云うものに頼まれたと云うて、届けて来たものじゃが、たしかに孫八の手に相違ないか」
「たしかに孫八殿に相違ございません」
女はそう云ってまた泣いた。 
 
世界怪談名作集 [幽霊] / モーパッサン

 

私たちは最近の訴訟事件から談話に枝が咲いて、差押えということについて話し合っていた。それはルー・ド・グレネルの古い別荘で、親しい人たちが一夕(いっせき)を語り明かした末のことで、来客は交るがわるにいろいろの話をして聞かせた。どの人の話もみな実録だというのである。そのうちに、ド・ラ・トール・サミュールの老侯爵が起(た)ちあがって、煖炉(だんろ)の枠によりかかった。侯爵は当年八十二歳の老人である。かれは少し慄(ふる)えるような声で、次の話を語り出した。
わたしも眼(ま)のあたりに不思議なものを見たことがあります。それは私が一生涯の悪夢であったほどに不思議な事件で、今から振り返ると五十六年前の遠い昔のことですが、いまだにその怖ろしい夢に毎月おそわれているのです。そのことのあった日から、わたしは恐怖ということを深く刻みつけられてしまったのです。まったくその十分間は恐怖の餌(えさ)になって、その怖ろしさが絶えず私の心に残っているのです。不意に物音がきこえると、私は心からぞっとします。夕方の薄暗いときに何か怪しい物をみると、わたしは逃げ出したくなります。私は夜を恐れています。
いや、私もこの年になるまでは、こんなことを口外しませんでしたが、今はもう一切をお話し申してもよろしいのです。八十二歳の老人が空想的の危険を恐れることはあっても、実際的の危険に再び遭遇することはありませんでした。奥さんたちもお聴きください。その事件は私がけっして話すことができないほどに、わたしの心を転倒させ、深い不可思議な不安を胸いっぱいに詰め込んでしまったのです。私はわれわれの悲哀や、われわれの恥かしい秘密や、われわれの人生の弱点や、どうも他人にむかって正直に告白することのできないものを、今まで心の奥底に秘めておきました。
私はこれから何の修飾も加えずに、不思議の事件をただありのままに申し上げましょう。その真相はわたし自身にもなんとも説明のしようがない。まずその短時間のあいだ私が発狂したとでも言うよりほかはありますまい。しかし私が発狂したのではないという証拠があります。いや、それらの想像はあなたがたの自由に任せて、わたしは正直にその事実をお話し申すことにしましょう。
それは一八二七年の七月、わたしが自分の連隊を率(ひき)いて、ルーアンに宿営している当時のことでした。ある日、わたしが波止場の近所をぶらついていると、なんだか見覚えのあるような一人の男に出逢ったので、少しく歩みをゆるめて立ち停まりかけると、相手もわたしの様子を見て、じっと眺めていましたが、やがて飛びつくように私の腕に取りすがりました。
よく見ると、それはわたしの若いときに非常な仲よしであった友達で、わずか五年ほど逢わないうちに五十年も年をとったように老(ふ)けて見えました。その髪はもう白くなって、歩くのさえも大儀そうでした。あまりの変わりかたに私も驚いていると、相手もそれを察したらしく、まず自分の身の上話を始めました。聞いてみると、一大事件が彼に打撃を与えたのでした。彼はある日若い娘と恋におちて、気違いのように逆上(のぼせ)あがって、ほとんど夢中でその女と結婚して、それから一年ほどのあいだは無茶苦茶に嬉しく楽しく暮らしていたのですが、女は心臓病で突然に死んでしまいました。もちろん、あまりに仲がよすぎた結果です。
彼は妻の葬式の日に、わが住む土地を立ちのいて、このルーアンへ来て仮住居(かりずまい)をしているのですが、その淋しさと悲しさは言うまでもありません。深い嘆きが身に食い入って、彼はしばしば自殺を企てたほどでした。その話をした後に、彼はこう言いました。
「ここで再び君に出逢ったのはちょうど幸いだ。ぜひ頼みたいことがある。わたしの別荘へ行って、ある書類を取って来てくれたまえ。それは至急に入用なのだからね。その書類はわたしの部屋……いや、われわれの部屋の机の抽斗(ひきだし)にはいっているのだが、何分(なにぶん)にも秘密の使いだから弁護士や雇い人を出してやるわけにいかないのだ。私は部屋を出るときに厳重に錠をおろしてきたから、その鍵を君に渡しておく。机のひきだしの鍵も一緒に渡すから、持っていってくれたまえ。それから君がいったら案内するように、留守番の園丁にもひと筆かいてやる。万事はあすの朝、飯を一緒に食いながら相談することにしよう」
別にむずかしい役目でもないので、わたしは引き受けました。ここからその別荘という家までは二十五マイルに過ぎないのですから、私にとってはちょうどいい遠足で、馬でゆけば一時間ぐらいで到着することが出来るのでした。
明くる朝の十時ごろに、二人は一緒に朝飯を食いました。しかし彼は格別の話もせず、わずかに二十語ほど洩らしたのちに、もう帰ると言い出したのです。ただ、わたしが頼まれてゆく彼の部屋には、彼の幸福が打ちくだかれて残っていて、私がそこへ尋ねてゆくということを考えるだけでも、彼は自分の胸のうちに一種秘密の争闘が起こっているかのように、ひどく不安であるらしく見えましたが、それでも結局わたしに頼むことを正直に打ち明けました。それははなはだ簡単な仕事で、きのうもちょっと話した通り、机の右のひきだしに入れてある手紙のふた包みと書類とを取り出して来てくれろというだけのことでした。そうして、彼は最後にこの一句を付け加えました。
「その書類を見てくれるなとは言わないよ」
はなはだ失礼な言葉に、わたしは感情を害しました。人の重要書類を誰がむやみに見るものかと、やや激しい語気できめつけると、彼も当惑したように口ごもりました。
「まあ堪忍(かんにん)してくれたまえ。私はひどくぼんやりしているのだから」と、こう言って、彼は涙ぐんでいました。
その日の午後一時ごろに、わたしはこの使いを果たすために出発しました。きょうはまぶしいほどに晴れた日で、わたしは雲雀(ひばり)の歌を聴きながら、乗馬靴に調子を取って戞(かつ)かつとあたる帯剣の音を聴きながら、牧場を乗りぬけて行きました。そのうちに森のなかに入り込んだので、わたしは馬を降りて歩きはじめると、木の枝が柔かに私の顔をなでるのです。わたしは時どきに木の葉の一枚をむしり取って、歯のあいだで囓(か)んだりしました。この場合、なんとも説明のできない愉快を感じたのです。
教えられた家に近づいた時に、私は留守番の園丁に渡すはずの手紙を取り出すと、それには封がしてあるので、私は驚きました。これでは困る。いっそこのままに引っ返そうかと、すこぶる不快を感じましたが、また考えると、彼もあの通りぼんやりしているのであるから、つい迂闊(うか)と封をしてしまったのかもしれない。まあ、悪く取らないほうがいいと思い直したのです。そこでよく見ると、この別荘風の建物は最近二十年ぐらいは空家(あきや)になっていたらしく、門は大きくひらいたままで腐っていて、草は路を埋めるように生い茂っていました。
わたしが雨戸を蹴る音を聞きつけて、ひとりの老人が潜(くぐ)り戸をあけて出て来ましたが、彼はここに立っている私の姿を見て非常におどろいた様子でした。私は馬から降りて、かの手紙を差し出すと、老人はそれを一度読み、また読み返して、疑うような眼をしながら私に訊(き)きました。
「そこで、あなたはどういう御用(ごよう)でございますか」
「おまえの主人の手紙に書いてあるはずだ。わたしはここの家(うち)へはいらせてもらわなければならない」
彼はますます転倒した様子で、また言いました。
「さようでございますか。では、あなたがおはいりになるのですか、旦那さまのお部屋へ……」
わたしは焦(じ)れったくなりました。
「ええ、おまえは何でそんなことを詮議するのだ」
彼は言い渋りながら、「いいえ、あなた。ただ、その……。あの部屋は不幸のあったのちにあけたことがないので……。どうぞ五分間お待ちください。わたくしがちょっといって、どうなったか見てまいりますから」
わたしは怒って、彼をさえぎりました。
「冗談をいうな。おまえはどうしてその部屋へいかれると思うのだ。部屋の鍵はおれが持っているのだぞ」
彼ももう詮方(せんかた)が尽きたらしく、「では、あなた。ご案内をいたしましょう」
「階子(はしご)のある所を教えてくれればいい。おれが一人で仕事をするのだ」
「でも、まあ、あなた……」
わたしの癇癪(かんしゃく)は破裂しました。
「もう黙っていろ。さもないと、おまえのためにならないぞ」
わたしは彼を押しのけて、家のなかへつかつかと進んでゆくと、最初は台所、次はかの老人夫婦が住んでいる小さい部屋、それを通りぬけて大きい広間へ出ました。そこから階段を昇ってゆくと、私は友達に教えられた部屋の扉(ドア)を認めました。鍵を持っているので、雑作(ぞうさ)もなしに扉をあけて、私はその部屋の内へはいることが出来ました。
部屋の内はまっ暗で、最初はなんにも見えないほどでした。私はこういう古い空(あ)き間(ま)に付きものの、土臭いような、腐ったような臭いにむせながら、しばらく立ち停まっているうちに、わたしの眼はだんだんに暗いところに馴れてきて、乱雑になっている大きい部屋のなかに寝台の据えてあるのがはっきりと見えるようになりました。寝台にシーツはなく、三つの敷蒲団と二つの枕がならべてあるばかりで、その一つには今まで誰かがそこに寝ていたように、頭や肱(ひじ)の痕がありありと深く残っていました。
椅子はみな取り散らされて、おそらく戸棚であろうと思われる扉も少しあけかけたままになっていました。私はまず窓ぎわへ行って、明かりを入れるために戸をあけたが、外の鎧戸(よろいど)の蝶つがいが錆びているので、それを外すことが出来ない。剣でこじあけようとしたが、どうもうまくゆきませんでした。こんなことをしているうちに、私の眼はいよいよ暗いところに馴れてきたので、窓をあけることはもう思い切って、わたしは机のほうへ進み寄りました。そうして、肱かけ椅子に腰をおろして抽斗(ひきだし)をあけると、そのなかには何かいっぱいに詰まっていましたが、わたしは三包みの書類と手紙を取り出せばいいので、それはすぐに判るように教えられているのですから、早速それを探し始めました。
私はその表書きを読み分けようとして、暗いなかに眼を働かせている時、自分のうしろの方で軽くかさりという音を聴きました。聴いたというよりも、むしろ感じたというのでしょう。しかしそれは隙間(すきま)を洩る風がカーテンを揺すったのだろうぐらいに思って、わたしは別に気にもとめなかった。ですが、そのうちにまた、かさりという、それが今度はよほどはっきりと響いて、わたしの肌になんだかぞっとするような不愉快な感じをあたえましたが、そんな些細(ささい)なことにいちいちびくびくして振り向いているのも馬鹿らしいので、そのままにして探し物をつづけていました。ちょうど第二の紙包みを発見して、さらに第三の包みを見つけた時、私の肩に近いあたりで悲しそうな大きい溜め息がきこえたので、私もびっくりして二ヤードほどもあわてて飛びのいて、剣の柄(つか)に手をかけながら振り返りました。剣を持っていなかったら、私は臆病者になって逃げ出したに相違ありません。
ひとりの背の高い女が白い着物をきて、今まで私が腰をかけていた椅子のうしろに立って、ちょうど私と向かい合っているのです。私はほとんど引っくり返りそうになりました。そのときの物凄(ものすご)さはおそらく誰にもわかりますまい。もしあなたがたがそれを見たらば、魂は消え、息は止まり、総身(そうみ)は海綿のように骨なしになって、からだの奥までぐずぐずに頽(くず)れてしまうことでしょう。
わたしは幽霊などを信じる者ではありません。それでも、死んだ者のなんともいえない怖ろしさの前には降参してしまいました。わたしは実に困りました。しばしは途方に暮れました。その後、一生の間にあの時ほど困ったことはありません。
女がそのままいつまでも黙っていたならば、私は気が遠くなってしまったでしょう。しかも女は口を利(き)きました。私の神経を顫(ふる)わせるような優しい哀れな声で話しかけました。この時、わたしは自分の気を取り鎮めたとはいわれません。実は半分夢中でしたが、それでも私には一種の誇りがあり、軍人としての自尊心もあるので、どうやらこうやら形を整えることが出来たのです。わたしは自分自身に対して、また、かの女に対して――それが人間であろうとも、化け物であろうとも――威儀を正しゅうすることになりました。相手が初めて現われたときには、何も考える余裕はなかったのですが、ここに至って、まずこれだけのことが出来るようになったのです。しかし内心はまだ怖れているのでした。
「あなた、ご迷惑なお願いがあるのでございますが……」
わたしは返事をしようと思っても言葉が出ないで、ただ、あいまいな声が喉(のど)から出るばかりでした。
「肯(き)いてくださいますか」と、女は続けて言った。「あなたは私を救ってくださることが出来るのです。わたしは実に苦しんでいるのです、絶えず苦しんでいるのです。ああ、苦しい」
そう言って、女はしずかに椅子に坐って、わたしの顔を見ました。
「肯いてくださいますか」
私はまだはっきりと口がきけないので、黙ってうなずくと、女は亀の甲でこしらえた櫛をわたしに渡して、小声で言いました。
「わたしの髪を梳(す)いてください。どうぞ私の髪を梳いてください。そうすれば、わたしを癒(なお)すことが出来るでしょう。わたしの頭を見てください。どんなに私は苦しいでしょう。わたしの髪を見てください。どんなに髪が損じているでしょう」
女の乱れた髪ははなはだ長く、はなはだ黒く、彼女が腰をかけている椅子を越えて、ほとんど床に触れるほどに長く垂れているように見えました。
わたしはなぜそれをしたか。私はなぜ顫(ふる)えながらその櫛をうけ取って、まるで蛇をつかんだように冷たく感じられる女の髪に自分の手を触れたか。それは自分にも分からないのですが、そのときの冷たいような感じはいつまでも私の指に残っていて、今でもそれを思い出すと顫えるようです。
どうしていいか知りませんが、わたしは氷のような髪を梳いてやりました。たばねたり解いたりして、馬の鬣毛(たてがみ)のように一つの組糸としてたばねてやると、女はその頭を垂れて溜め息をついて、さも嬉しそうに見えましたが、やがて突然に言いました。
「ありがとうございました」
わたしの手から櫛を引ったくって、半分あいているように思われた扉から逃げるように立ち去ってしまいました。ただひとり取り残されて、私は悪夢から醒めたように数秒間はぼんやりとしていましたが、やがて意識を回復すると、ふたたび窓ぎわへ駈けて行って、めちゃくちゃに鎧戸をたたきこわしました。
外のひかりが流れ込んできたので、私はまず女の出て行った扉口へ駈けよると、扉には錠がおりていて、あけることの出来ないようになっているのです。もうこうなると、逃げるよりほかはありません。わたしは抽斗をあけたままの机から三包みの手紙を早(そう)そうに引っつかんで、その部屋をかけ抜けて、階子段を一度に四段ぐらいも飛び下りて、表へ逃げ出しました。さてどうしていいか分かりませんでしたが、幸いそこに私の馬がつないであるのを見つけたので、すぐにそれへ飛び乗って全速力で走らせました。[#底本では「。」なし]
ルーアンへ到達するまでひと休みもしないで、わたしの家の前へ乗りつけました。そこにいる下士に手綱を投げるように渡して、私は自分の部屋へ飛び込んで、入り口の錠をおろして、さて落ちついて考えてみました。
そこで、自分は幻覚にとらわれたのではないかということを一時間も考えました。たしかにわたしは一種の神経的な衝動から頭脳(あたま)に混乱を生じて、こうした超自然的の奇蹟を現出したのであろうと思いました。ともかくもそれが私の幻覚であるということにまず決めてしまって、私は起(た)って窓のきわへ行きました。そのときふと見ると、私の下衣(したぎ)のボタンに女の長い髪の毛がいっぱいにからみついているではありませんか。わたしはふるえる指さきで、一つ一つにその毛を摘み取って、窓の外へ投げ捨てました。
わたしは下士を呼びました。わたしはあまりに心も乱れている、からだもあまりに疲れているので、今日すぐに友達のところへ尋ねて行くことは出来ないばかりか、友達に逢ってなんと話していいかをも考えなければならなかったからです。
使いにやった下士は、友達の返事を受け取って来ました。友達はかの書類をたしかに受け取ったと言いました。彼はわたしのことを聞いたので、下士は私の快(よ)くないということを話して、たぶん日射病か何かに罹(か)かったのであろうと言うと、彼は悩ましげに見えたそうです。
わたしは事実を打ち明けることに決めて、翌日の早朝に友達をたずねて行くと、彼はきのうの夕(ゆう)に外出したままで帰ってこないというのです。その日にまた出直して行きましたが、彼はやはり戻らないのです。それから一週間待っていましたが、彼はついに戻らないので、私は警察に注意しました。警察でもほうぼうを捜索してくれましたが、彼が往復の踪跡(そうせき)を発見することが出来ませんでした。
かの空家も厳重に捜索されましたが、結局なんの疑うべき手がかりも発見されませんでした。そこに女が隠されていたような形跡もありませんでした。取り調べはみな不成功に終わって、この以上に捜索の歩を進めようがなくなってしまいました。
その後五十六年の間、わたしはそれについてなんにも知ることが出来ません。私はついに事実の真相を発見し得ないのです。 
 
足のない男と首のない男 / 坂口安吾

 

昔々、さるところに奇妙な病院ができた。熱療法と称するので、淋病の患者などが通ふ。すると、タンクの中へ人間を投げこみ、首だけだして全身を蒸すのださうだが、中村地平の弟子の日大の芸術科の生徒がこゝへ駈けつけてタンクの中へねかされて、ものゝ五分も蒸されると悲鳴をあげて、死んでしまふから出してくれ、今でると治らないよ、治らなくとも死ぬよりいゝよ、這々(ほうほう)のていでころがりでゝ帰つてきたといふ話がある。
一日タンクの中で唸つて出てきたときにビールを一本飲ましてくれるさうで、そのうまいこと話の外だといふけれども、ビールのうまさにつられて翌日も出かけやうといふ意志強壮なますらをは少いさうで、このタンクへ日参して無事病魔を退治する人物は他日人生のあらゆる魔物を退治できるに相違ないといふことである。
かういふ変つた病院であるから、そこに働く人物も自らたゞ者ではないので、昔、杉山英樹と郡山千冬といふ二人の事務員がゐたのである。ドクトルでないから何も知らない患者にとつては大へん良かつたやうなものだが、この両名は天下に稀なオッチョコチョイだからドクトルの留守の時などには白衣をつけて尤もらしく患者をタンクへつめこんで首までもぐして面白がつて患者を半殺しにするぐらゐはやりかねないので、この二人がこゝへ務めていたといふのは気違ひが気違ひ病院の院長をつとめてゐるやうに自然であつた。そして二人は非常に仲が悪かつた。犬猿もたゞならずとは二人のことで、なにがさて並の人間の十倍ぐらゐ口先の良く廻転する両名だから、悪口雑言、よくまアこんないやらしい言葉を掃溜(はきだめ)から掻きまはして拾つてきたと思ふやうなことをおたがひに蔭で叩きあつてゐたのである。
御両名が仲が悪いのは尤も千万で、杉山英樹といふ先生は「バルザックの世界」といふ大著述を残したが、ちよつと読むとひどく面白いことが書いてあるやうだが、よく読むと何だかさつぱり分らなくなるので、たぶん杉山自身も、よく考へると分らんけれどもちよつと面白さうなことが三行に一行づゝ書いてあるから人間に読ませるならこれぐらゐでたくさんだと思つて威勢よく書きまくつたのだらうと思ふ。本質的な法螺(ほら)吹であつた。何でも知らないといふことがない。何か人が話をしてゐると、ウム、それは、と云つて横から膝を乗り入れてくる。何でも知つてゐる。そして如何にも尤もらしく真に迫つて時々然るべき文献なども現れて疑ふべからざる論拠を明にしてくれるけれども、これがみんな嘘つぱちの出鱈目なのである。然るべき文献もでたらめだ。本の名前ぐらゐは本当でも、その中に彼の言つてゐるやうなことは決して書いてはないのである。けれども、彼の話は真実よりも真実に迫つて尤もらしく語られる。どこへでも旅行してゐる。誰とでも親友だ。けれどもみんな嘘なのである。彼は知らない親友に就て微細な描写や家庭生活や人となりやエピソードなど彷彿と目のあたり見るが如くに活写するが、これはみんなその時ふいに思ひついた彼の一瞬のイマージュにすぎない。
私が切支丹(キリシタン)の文献が手にはいらなくて困つてゐるとき、彼に会つてその話をすると、その文献ならなんとか教会にあつて、そこのフランス神父は友達で先日も会つて何についてどんな話をしてきたなどゝ清流の流れるごとく語りだすから、それはありがたい、さつそく神父に紹介してくれ、これから行つて本を読ませて貰ふから、と言ふと、ウム、ところが、と彼はちつとも困らず、今はその本は教会にはないね、なぜ、なぜならばネ、目下ある人が借りてゐる、この借りた人が何故に借りてゐるかといふとこれには次のやうな面白い事情があつて……勿論神父などゝ友達ですらないのである。
足のない幽霊みたいなところがあつて、つまり、足のない一ツ目入道みたいな男だ。鉄の棒を持つてゐるが、この棒の先の方も幽霊的に足がなくて、人をポカンとなぐる。良く命中するけれども、鉄の棒の足がないから命中しても風が起るばかりで、先方はポカンとするが、目は廻さない。彼の文学の論法は、あらかたさういふものである。
ところが一方、郡山千冬といふ先生は、足の方はひどく大きな毛脛で年中ゴロ/\うるさく地球をひつかき廻して歩いてゐるが、首から上が消えてしまつて無いのである。大酒飲みだから、首がないと困るけれども、彼は臍から飲む。そしてその臍で年中うるさいほどガヤガヤゴチャ/\喋りまくつてゐるのである。
郡山千冬の声は一種独特のシャガレ声で、テキ屋の声に厚い鉛のメッキをかけて年中フイゴで吹いてゐるやうな声であるが、後楽園球場で一番響きの悪い声で国民学校一年生のやうにうるさく怒鳴つたり拍手したり落付きなく見物してゐるのがこの男だ。ところがこの男は毎日職業野球を見物してゐるだけが能かと思ふと、さうではないので、万歳も見てゐるし、安来節(やすきぶし)の小屋でカケ声をかけてゐることもあるし、浪花節でもレビューでも何でも行儀の悪い見物人ののさばるところはどこでもこの男を見かけることができて、その中で誰よりものさばつて行儀が悪い。小さい男であんまり落付なくハシャイでゐるから国民学校の子供かなと思ふけれども、やつぱり大人で、第一声がジャングルの声だ。ボルネオの子供かなと人が思つたりするので、近頃郡山が鼻ヒゲを生やしたのはそのせゐなのである。
彼は熱療法の病院を退職すると、その次には浅草の安来節の座付作者になつて、まつたくどうも、かういふところにも脚本家などの必要があつたのかネ、私は知らなかつた。威勢のいゝ姐さんのために大いに情熱を傾けて脚本を書いてやつてゐた。
そのうちに戦争が白熱してきて安来節もダメになると、経済何とか研究所、名前はすごいが社長と郡山と二人しかゐないところで、これはつまり闇屋の品物をしかるべく取ついでやる機関なのである。
この先生はつまりまともな仕事が出来ない本性なので、病院へ務めるにも松沢病院などゝいふ当り前のところは気が向かない。座付作者になるにもインチキ・レビュウとくるとまだ少しまともすぎて、安来節とこないと、どうしてもをさまることが出来ない。闇屋なども当り前の商売だあらダメなので、闇屋の上前をはねる経済研究所とこないと務めることができないといふ因果な先生なのである。
愈々空襲が始まる頃になると経済研究所もその筋につぶされてしまひ、私が神田の本屋をひやかしてゐるとブラ/\向ふから歩いてくる郡山にぶつかり、ヤア、どうしてゐる? そこの産報本部につとめてゐるよ、と言ふので、私は日本はもうダメだと思つた。私はそれまで世の中のくはしいことは知らないが、内閣だの、情報局だの、大政翼賛会だの、みんなそれぞれ筋の正しいもので、産報といふところなどもさうだらうと思つてゐた。然し、郡山千冬が務めてゐるやうでは、これはもうマトモなところではない。浅草の裏道と同じ人生の裏道で、インチキな仕事をしてゐる事務所にきまつてゐるのである。日本の堕落こゝに至る、私が暗然として昔の救世軍本部を仰いで祖国のために暗涙を流したのもムベなるかな、今日つひに敗北し、戦争十年の日本の腐敗、官界軍閥の堕落のあとを眺めれば、郡山などは最もマトモな紳士であつたではないか。大将だの大臣だの長官などゝいふのはみんなムジナかナマズか何かであり、郡山はボルネオの国民学校の優等生で全く裏も表もないそれだけの正真正銘の人間だつたのである。
彼はこれだけ忙しい人生の合ひま/\にゲーテだのシラーだの時にはゴッホの絵本などゝいふどこから種本を見つけてくるのやら飜訳といふ仕事をやり、私が小説の本をだしたよりもたくさん飜訳の本をだしてゐるのである。
大観堂が郡山の家へ原稿をとりに行つて呆れて帰つてきて、飜訳の大先生だからたくさんの洋書がギッシリ部屋につまつてゐると思つてゐたのに、カラッポの本箱に三十冊ほどの本がチョボ/\とあつてその大部分が講談倶楽部で洋書は一冊もありませんでした、と言つて溜息をもらした。私もこの本箱のことならよく知つてをり、まつたく講談倶楽部を入れて三十冊、それ以上のいかなる本も所持してゐないのである。かういふシブイ人物であるから杉山英樹の衒学的大風呂敷とはソリが合はないので、由来衒学者は田舎者であり、郡山は最もイキ好みのシブイ男で(産報などゝは最もシブイ)うるさくて騒々しくてしつきりなしの電車みたいで困るけれども当人がイキ好みであるといふ精神に於ては変りがない。マトモな商売はやれないといふ意気好みだから何とも騒々しいのは仕方がない。
足のない大入道の幽霊と首のない毛筋だけの地球をゴロ/\ひつかいて走り廻つてゐるうるさい意気好みの男と、昔の日本では騒々しいのが二人たいへん仲が悪かつたのだが、戦争が終つてみると、気の毒に足のない大入道の幽霊の方が死んでしまつた。杉山が生きてゐれば日本の文壇はもう一とまはりうるさくなり、バルザックだのサント・ブウヴだのボルテールだのと読まない本を何百冊も並べたてゝ、ともかく命中するのは風ばかりにしろ細い鉄棒をふり廻して低気圧の子供ぐらゐは年中まき起した筈であつた。
大将だの大臣の正体がバクロされて檻につながれ、世は変り、こゝに郡山千冬も真人間となる時がきたので××社の編輯記者となり、この雑誌社は裏街道ではないやうで、どうやら人間の表街道へ現れるに及んで、なるほど世の中は根柢的に変つたんだなアと私は彼を眺めて世のたゞならぬ大変転に気付いたのである。
先日××社の座談会で、私は喋る方であり、郡山は喋らせる方で、二本のウヰスキーをとりだしたから、オイ命の方は? と私が大いに慌てると、先生もきまり悪がつて、冗談ぢやないよ、××社が買ふウヰスキーぢやないか。昔は郡山先生が手がける酒は命にかゝはるものにきまつてゐた。然し、世は変り、あに世の変りを信ぜざるべけんや、即ち私は新日本の生誕を信じる故に敢然グラスをとつて強(したた)かあふり、今日も尚生きてをり、世の一大変転を命をかけて実証するに至つた。郡山君、講談倶楽部を焼きたまへ。 
 
女侠伝 / 岡本綺堂

 


I君は語る。
秋の雨のそぼ降る日である。わたしはK君と、シナの杭州、かの西湖(せいこ)のほとりの楼外楼(ろうがいろう)という飯館(はんかん)で、シナのひる飯を食い、シナの酒を飲んだ。のちに芥川龍之介氏の「支那游記」をよむと、同氏もここに画舫(がぼう)をつないで、槐(えんじゅ)の梧桐(ごとう)の下で西湖の水をながめながら、同じ飯館の老酒(ラオチュウ)をすすり、生姜煮(しょうがに)の鯉を食ったとしるされている。芥川氏の来たのは晩春の候で、槐や柳の青々した風景を叙してあるが、わたしがここに立寄ったのは、秋もようやく老いんとする頃で、梧桐はもちろん、槐にも柳にも物悲しい揺落(ようらく)の影を宿していた。
わたし達も好きで雨の日を択(えら)んだわけではなかったが、ゆうべは杭州の旅館に泊って、きょうは西湖を遊覧する予定になっていたのであるから、空模様のすこし怪しいのを覚悟の上で、いわゆる画舫なるものに乗って出ると、果して細かい雨がほろほろと降りかかって来た。水を渡ってくる秋風も薄ら寒い。型のごとくに蘇小(そしょう)小の墳(ふん)、岳王(がくおう)の墓(ぼ)、それからそれへと見物ながらに参詣して、かの楼外楼の下に画舫をつないだ頃には、空はいよいよ陰(くも)って来た。さして強くも降らないが、雨はしとしとと降りしきっている。漢詩人ならば秋雨|蕭々(しょうしょう)とか何とか歌うべきところであろうが、我れわれ俗物は寒い方が身にしみて、早く酒でも飲むか、温かい物でも食うかしなければ凌がれないというので、船を出ると早々にかの飯館に飛込んでしまったのである。
酒をのみ、肉を食って、やや落ちついた時にK君はおもむろに言い出した。
「君は上海で芝居をたびたび観たろうね。」
わたしが芝居好きであることを知っているので、K君はこう言ったのである。私はすぐにうなずいた。
「観たよ。シナの芝居も最初はすこし勝手違いのようだが、たびたび観ていると自然におもしろくなるよ。」
「それは結構だ。僕は退屈しのぎに行ってみようかと思うこともあるが、最初の二、三度で懲りてしまったせいか、どうも足が進まない。」
彼はシナの芝居ばかりでなく、日本の芝居にも趣味をもっていない男であるから、それも無理はないと私は思った。趣味の違った人間を相手にしてシナの芝居を語るのは無益であると思ったので、わたしはその問答を好い加減にして、さらに他の話題に移ろうとすると、きょうのK君は不思議にいつまでも芝居の話を繰(くり)返していた。
「日本でも地方の芝居小屋には怪談が往々伝えられるものだ。どこの小屋ではなんの狂言を上演するのは禁物で、それを上演すると何かの不思議があるとか、どこの小屋の楽屋には誰かの幽霊が出るとか、いろいろの怪しい伝説があるものだが、シナは怪談の本場だけに、田舎の劇場などにはやはりこのたぐいの怪談がたくさんあるらしいよ。」
「そうだろうな。」
「そのなかにこんな話がある。」と、K君は語り始めた。「前清(ぜんしん)の乾隆(けんりゅう)年間のことだそうだ。広東(カントン)の三水県の県署のまえに劇場がある。そこである日、包孝粛(ほうこうしゅく)の芝居を上演した。包孝粛は宋時代の名|判官(はんがん)で、日本でいえば大岡さまというところだ。その包孝粛が大岡|捌(さば)きのような段取りで、今や舞台に登って裁判を始めようとすると、ひとりの男が忽然(こつぜん)と彼の前にあらわれたと思いたまえ。その男は髪をふりみだし、顔に血を染めて、舞台の上にうずくまって、何か訴えるところがあるらしく見えた。しかし狂言の筋からいうと、そんな人物がそこへ登場する筈はないから、包孝粛に扮している俳優は不思議に思ってよく見ると、それは一座の俳優が仮装したのではなくして、どうも本物らしいのだ。」
「本物……幽霊か。」と、わたしは訊いた。
「そうだ。どうも幽霊らしいのだ。それが判ると、包孝粛も何もあったものじゃない。その俳優はあっと驚いて逃げ出してしまった。観客(けんぶつ)の眼には何も見えないのだが、唯ならぬ舞台の様子におどろかされて、これも一緒に騒ぎ出した。その騒動があたりにきこえて、県署から役人が出張して取調べると、右の一件だ。しかしその幽霊らしい者の姿はもう見えない。役人は引っ返してそれから県令(けんれい)に報告すると、県令はその俳優を呼出して更に取調べた上で、お前はもう一度、包孝粛の扮装をして舞台に出てみろ、そうして、その幽霊のようなものが再び現れたらば、ここの役所へ連れて来いと命令した。」
「幽霊を連れて来いは、無理だね。」
「もちろん無理だが、そこがシナのお役人だ。」と、K君は笑った。「俳優も困ったらしい顔をしたが、お役人の命令に背(そむ)くわけにはいかないから、ともかくも承知して帰って、再び包孝粛の芝居をはじめると、幽霊はまた出て来た。そこで俳優は怖(こわ)ごわながら言い聞かせた。おれは包孝粛の姿をしているが、これは芝居で、ほんとうの人物ではない。おまえは何か訴えることがあるなら、役所へ出て申立てるがよかろう。行きたくばおれが案内してやると言うと、その幽霊はうなずいて一緒について来た。そこで、県署へ行って堂に登ると、県令はどうしたと訊く。あの通り召連れてまいりましたと堂下を指さしたが、県令の眼にはなんにも見えない。県令は大きい声で、おまえは何者かと訊いたが、返事もきこえない。眼にもみえず、耳にもきこえないのであるから、県令は疑った。彼は俳優にむかって、貴様は役人をあざむくのか、その幽霊はどこにいるのかと詰問する。いや、そこにおりますと言っても、県令には見えない。俳優もこれには困って、なんとか返事をしてくれと幽霊に催促すると、幽霊はやはり返事をしない。しかし彼は俄かに立上がって、俳優を招きながら門外へ出て行くらしいので、俳優はそれを県令に申立てると、県令は下役ふたりに命じてその跡を追わせた。幽霊のすがたは俳優の眼にみえるばかりで、余人(よじん)には見えないのであるから、俳優は案内者として先に立って行くと、幽霊は町を離れて野道にさしかかる。そうして、およそ数里、日本の約一里も行ったかと思うと、やがて広い野原に行き着いて、ひとつの大きい塚の前で姿は消えた。その塚は村で有名な王家の母の墓所であることを確かめて、三人は引っ返して来た。」
「幽霊は男だね。」と、わたしはまた訊いた。「男の幽霊が女の墓にはいったというわけだね。」
「それだから少しおかしい。県令はすぐに王家の主人を呼出して取調べたが、なんにも心当りはないと答えたので、本人立会いの上でその墓を発掘してみると、土の下から果して一人の男の死体があらわれて、顔色(がんしょく)生けるが如くにみえたので、県令はさてこそという気色(きしょく)でいよいよ厳重に吟味したが、王はなかなか服罪しない。自分は決して他人の死骸などを埋めた覚えはない。自分の家は人に知られた旧家であるから、母の葬式には数百人が会葬している。その大勢のみる前で母の柩(ひつぎ)に土をかけたのであるから、他人の死骸なぞを一緒に埋めれば、誰かの口から世間に洩れる筈である。まだお疑いがあるならば、近所の者をいちいちお調べくださいというのだ。」
「しかしその葬式が済んだあとで、誰かがまたその死骸を埋めたかも知れないじゃないか。」
「そこだ。」と、K君はうなずいた。「シナの役人だって、君の考えるくらいの事は考えるよ。県令もそこに気がついたから、さらに王にむかって、おまえは墓の土盛(つちも)りの全部済むのを見届けて帰ったかと訊問すると、母の柩(ひつぎ)を納めて、その上に土をかけるまでを見届けて帰ったが、塚全体を盛りあげるのは土工(どこう)に任せて、その夜のうちに仕上げたのであると答えた。シナの塚は大きく築き上げるのであるから、柩に土をかけるのを見届けて帰るのがまず普通で、王の仕方に手落ちはなかったが、そうなると更に土工を吟味しなければならない。県令はその当時埋葬に従事した土工らを大勢よび出してみると、いずれも相貌(そうぼう)兇悪の徒(やから)ばかりだ。かれらの顔をいちいち睨みまわして、県令は大きい声で、貴様たちはけしからん奴らだ、人殺しをしてその儘に済むと思うか、証拠は歴然、隠しても隠しおおせる筈はないぞ、さあまっすぐに白状しろと頭から叱り付けると、土工らは蒼くなってふるえ出した。そうして、相手のいう通り、まっすぐに白状に及んだ。その白状によると、かれらは徹夜で王家の塚の土盛りをしていたところへ、ひとりの旅びとが来かかって松明(たいまつ)の火を貸してくれといった。見ると、彼は重そうに銀嚢(かねぶくろ)を背負っているので、土工らは忽ちに悪心を起して、不意に鉄の鋤(すき)をふりあげて、かの旅びとをぶち殺してしまって、その銀を山分けにした。死体は王家の柩の上に埋めて、またその上に土を盛り上げたので、爾来(じらい)数年のあいだ、誰も知らなかったというわけだ。」
「すると、幽霊はその旅びとだね。」と、わたしは言った。「しかし幽霊になって訴えるくらいなら、なぜ早く訴えなかったのだろう。そうしてまた、舞台の上に現れるにも及ぶまいじゃないか。」
「そこにはまた、理屈がある。土工らは旅びとを殺して、その死体の始末をするときに、こうして置けば誰も覚(さと)る気づかいはない。包孝粛のような偉い人が再び世に出たら知らず、さもなければとても裁判は出来まいといって、みんなが大きい声で笑ったそうだ。それを旅びとの幽霊というのか、魂というのか、ともかくも旅びとの死体が聴いていて、今度ここの劇場で包孝粛の芝居を上演したのを機会に、その名判官の前に姿を現したのだろうというのだ。土工らも余計なことをしゃべったばかりに、みごと幽霊に復讐されたわけさ。シナにはこんな怪談は幾らもあるが、包孝粛は遠いむかしの人だからどうすることも出来ない。そこで幽霊がそれに扮する俳優の前に現れたというのはちょっと面白いじゃないか。いや、話はこれからだんだんに面白くなるのだ。」
K君は茶をすすりながらにやにや笑っていた。雨はいよいよ本降りになったらしく、岸の柳が枯れかかった葉を音もなしに振るい落しているのもわびしかった。

わたしは黙って茶をすすっていた。しかし今のK君の最後のことばが少し判らなかった。包孝粛の舞台における怪談はもうそれで解決したらしく思われるのに、彼はこれから面白くなるのだという。それがどうも判らないので、わたしは表をながめていた眼をK君の方へむけて、更にそのあとを催促するように訊いた。
「そうすると、その話は済まないのかね。何かまだ後談(こうだん)があるのかね。」
「大いにあるよ。後談がなければ詰まらないじゃないか。」と、K君は得意らしくまた笑った。「今の話はここへ来たので思い出したのさ。その後談はこの西湖のほとりが舞台になるのだから、そのつもりで聴いてくれたまえ。その包孝粛に扮した俳優は李香とかいうのだそうで、以前は関羽(かんう)の芝居を売物にして各地を巡業していたのだが、近ごろは主として包孝粛の芝居を演じるようになった。そうして広東の三水県へ来て、ここでも包孝粛の芝居を興行していると、前にいったような怪奇の事件が舞台の上に出来(しゅったい)して、王家の塚を発掘することになったのだ。土工の連累(れんるい)者は十八人というのであるが、何分にも数年前のことだから、そのうちの四人はどこかへ流れ渡ってしまって行くえが判らない。残っている十四人はみな逮捕されて重い処刑が行われたのはいうまでもない。たとい幽霊の訴えがあったにもせよ、こうして隠れたる重罪犯を摘発し得たのは、李香の包孝粛によるのだからというので、県令からも幾らかの褒美が出た。王の家でも自分の墓所に他人の死体が合葬されているのを発見することが出来たのは、やはり李香のおかげであるといって、彼に相当の謝礼を贈った。県令の褒美はもちろん形ばかりの物であったが、王家は富豪であるからかなりの贈り物があったらしい。」
「こうなると、幽霊もありがたいね。」
「まったくありがたい。おまけにそれが評判になって、包孝粛の芝居は大入りというのだから、李香は実に大当りさ。李香の包孝粛がその人物を写し得て、いかにも真に迫ればこそ、冤鬼(えんき)も訴えに来たのだろうということになると、彼の技芸にも箔(はく)が付くわけで、万事が好都合、李香にとっては幽霊さまさまと拝み奉ってもよいくらいだ。彼はここで一ヵ月ほども包孝粛を打ちつづけて、懐ろをすっかり膨(ふく)らせて立去った――と、ここまでの事しか土地の者も知らないらしく、今でもその噂が炉畔の夜話に残っているそうだが、さてその後談だ。それから李香はやはり包孝粛を売物にして、各地を巡業してあるくと、広東の一件がそれからそれへと伝わって――もちろん、本人も大いに宣伝したに相違ないが、到るところ大評判で興行成績も頗(すこぶ)るいい。今までは余り名の売れていない一個の旅役者に過ぎなかった彼が、その名声も俄かにあがって、李香が包孝粛を出しさえすれば大入りはきっと受合いということになったのだから偉いものさ。こうして三、四年を送るあいだに、彼は少からぬ財産をこしらえてしまった。なにしろ金はある。人気はある。かれは飛ぶ鳥も落しそうな勢いでこの杭州へ乗込んで来ると、ここの芝居もすばらしい景気だ。しかし、人間はあまりトントン拍子にいくと、とかくに魔がさすもので、李香はこの杭州にいるあいだに不思議な死に方をしてしまった。」
「李香は死んだのか。」
「それがどうも不思議なのだ。李香はこの西湖のほとりの、我れわれがさっき参詣して来た蘇小小の墓の前に倒れて死んでいたのだ。からだには何の傷のあともない。ただ眠るが如く死んでいるのだ。さあ、大騒ぎになったのだが、彼がなぜこんなところへ来て死んでしまったのか、一向に判らない。なにしろ人気役者が不思議な死に方をしたのだから、世間の噂はまちまちで、種々さまざまの想像説も伝えられたが、もとより取留めた証拠がある訳ではない。しかしその前日の夜ふけに、彼が凄いほど美しい女と手をたずさえて、月の明かるい湖畔をさまよっていたのを見た者がある。それはこの西湖の画舫の船頭で、十日ほど前に李香は一座の者五、六人とここへ来て、誰もがするように画舫に乗って、湖水のなかを乗りまわした。人気商売であるから、船頭にも余分の祝儀をくれた。殊にそれが当時評判の高い李香であるというので、船頭もよくその顔をおぼえていたのだ。その李香が美しい女と夜ふけに湖畔を徘徊している――どこでも人気役者には有勝ちのことだから、船頭も深く怪しみもしないで摺れちがってしまったのだが、さて、こういうことになると、それが船頭の口から洩れて、種々のうたがいがその美人の上にかかって来た。」
「それは当りまえだ。そこで、その美人は何者だね。」
「まあ、待ちたまえ。急(せ)いちゃあいけない。話はなかなか入り組んでいるのだから。」と、K君は焦(じ)らすように、わざとらしく落ちつき払っていた。
秋の習いといいながら、雨は強くもならず、小やみにもならない、さっきから殆んど同じような足並でしとしとと降りつづけている。午(ひる)をすぎてまだ間もないのに、湖水の上は暮れかかったように薄暗くけむっていた。
「李の死んだのはいつだね。」と、わたしは表をみながら訊いた。
「むむ。それを言い忘れたが、なんでも春のなかばで、そこらの桃の花が真っ赤に咲いて、おいおい踏青(つみくさ)が始まろうという頃だった。そうだ、シナ人の詩にあるじゃないか――孤憤何関児女事(こふんなんぞかんせんじじょのこと)、踏青争上岳王墳(とうせいあらそってのぼるがくおうのふん)――丁度まあその頃で、場面は西湖、時候は春で月明の夜というのだから、美人と共に逍遥するにはおあつらえむきさ。しかしその美人に殺されたらしいのだから怖ろしい。勿論、殺したという証拠があるわけでもなし、死体に傷のあともないのだから、確かなことはいえた筈ではないのだが、誰がいうともなしに李香はその女に殺されたのだという噂が立った。いや、まだおかしいのは、その女は生きた人間ではない。蘇小小の霊だというのだ。」
「また幽霊か。」
「シナの話には幽霊は付き物だから仕方がない。」と、K君は平気で答えた。「蘇小小というのは君も知っているだろうが、唐代で有名な美妓で、蘇小小といえば芸妓などの代名詞にもなっているくらいだ。その墓は西湖における名所のひとつになっていて、古来の詩人の題詠も頗る多い。その蘇小小の霊が墓のなかから抜け出して、李をここへ誘ってきたというのだ。つまり、蘇小小が李香という俳優に惚れて、その魂が仮りに姿をあらわして、たくみに李を誘惑して、共に冥途へ連れて行ったというわけだ。剪燈新話(せんとうしんわ)や聊斎志異(りょうさいしい)がひろく読まれている国だから、こういう想像説も生れて来そうなことさ。相手がいよいよ幽霊ときまれば、どうにも仕様がない。船頭がいう通りに、果して凄いほどの美人であるとすれば、あるいは蘇小小の霊かも知れない。そこで李が美人の霊魂にみこまれて、その墓へ誘い込まれたとなれば、いかにも詩的であり、小説的であり、西湖佳話に新しい一節を加(くわ)うることになるのだが、さすがに役人たちはそれを詩的にばかり解釈することを好まないので、それぞれに手をわけて詮議をはじめると、李はその夜ばかりでなく、すでに二、三度もその怪しい美人と外出したらしいということが判った。彼は芝居が済んでから旅宿をぬけ出して、夜の更けるまで何処かをさまよい歩いて来る。今から考えれば、その道連れがかの美人であったらしいと、同宿の一座の者から申立てた。そうなると、かの船頭ばかりでなく、李がかの美人と歩いていたのを俺も見たという者が幾人も現れて来た。中には美人が笛を吹いていたなどという者もあって、この怪談はいよいよ詩的になって来たが、どこまで本当だか判らないので、役人はともかくその美人の正体を突き留めようと苦心していた。座頭(ざがしら)の李香がいなくなっては芝居を明けることは出来ない。無理に明けたところで観客の来る筈もない。座頭を突然にうしなったこの一座はほとんど離散の悲境に陥ってしまったが、何分にもこの一件が解決しない間は、むやみにここを立去ることも出来ないので、一座の者は代るがわるに呼出されて、役人の訊問を受けていた。実に飛んだ災難だが、どうも仕方がない。」
「一体、その李というのは幾つぐらいで、どんな男なのだね。」と、わたしは一種の探偵的興味に誘われてまた訊いた。
「年は三十四、五で、まだ独身であったそうだ。たとい田舎廻りにもしろ、ともかくも座頭を勤めているのだから、背もすらりとして男振りも悪くない。舞台以外にはどちらかいうと無口の方で、ただ黙って何か考えているという風だったと伝えられている。しかし相当に親切の気のある男で、座員の面倒も見てやる。現に自分の子ともつかず、奉公人ともつかずに連れ歩いている崔英(さいえい)という十五、六歳の少女は、五、六年前に旅先で拾って来たのだそうで、なんでも李が旅興行をして歩いているうち、その頃は今ほどの人気役者ではなかったので、田舎の小さな宿屋にくすぶっていると、そこに泊り合せた親子づれの旅商人(たびあきんど)があって、その親父の方は四、五日わずらって死んだ。その病中、李は親切に世話をしてやったので、親父も大層よろこんで、死にぎわに自分のあとの事をいろいろ頼んだそうだ。頼まれて引取ったのがその娘の崔英で、まだ十一か二の小娘であったのを、自分の手もとに置いて旅から旅を連れてあるいているというのだ。一事が万事、まずこういった風であるから、彼は一座の者から恨まれているような形跡はちっともなかった。それであるから、彼は蘇小小の霊に誘われて死んだということにして置けば、まことに詩的な美しい最期となるのであったが、意地のわるい役人たちはどうもそれでは気が済まないとみえて、さらに一策を案じ出した。勿論、最初から湖畔の者に注意して、何か怪しい者を見たらばすぐに訴え出ろと申付けてはおいたのだが、別に二人の捕吏(ほり)を派出して、毎晩かの蘇小小の墓のあたりを警戒させることにした。」
「誰でも考えそうなことだね。」と、わたしは思わず笑った。
「誰でも考えそうなことをまず試みるのが本格の探偵だよ。」と、K君は相手を弁護するように言った。「見たまえ。それが果して成功したのだ。」

少しやり込められた形で、わたしはぼんやりとK君の顔をながめていると、彼はやや得意らしく説明した。
「二人の捕吏が蘇小小の墓のあたりに潜伏していると、果してそこへ二つの黒い影があらわれた。宵闇ではあるが、星あかりと水あかりで大抵の見当は付く。その影はふたりの女と判ったが、その話し声は低くてきこえない。やがて二つの影は離れてしまいそうになったので、隠れていた捕吏は不意に飛出して取押えようとすると、ひとりの女はなかなか強い。忽ちに大の男ふたりを投げ倒して、闇のなかへ姿を隠してしまったが[#「しまったが」は底本では「しまつたが」]、逃げおくれた一人の女はその場で押えられた。よく見ると、それは十五、六歳の少女で、前にいった崔英という女であることが判ったので、捕吏はよろこび勇んで役所へ引揚げた。こうなると、少女でも容赦はない。拷問して白状させるという意気込みで厳重に吟味すると、崔英は恐れ入って逐一白状した。まずこの少女の申立てによると、かの広東における舞台の幽霊一件は、まったく李香のお芝居であったそうだ。」
「幽霊の一件は嘘か。」
「李がなぜそんな嘘を考え出したかというと、崔の父の旅商人というのは、さきに旅人をぶち殺してその銀嚢を奪い取った土工の群れの一人であったのだ。彼は分け前の銀(かね)をうけ取ると共に、娘を連れてその郷里を立去って、その銀を元手に旅商人になったが、比較的正直な人間とみえて、昔の罪に悩まされてその後はどうもよい心持がしない。からだもだんだん弱って来て、とうとう旅の空で死ぬようになった。その時かの李香が相宿(あいやど)のよしみで親切に看病してくれたので、彼は死にぎわに自分の秘密を残らず懺悔(ざんげ)して、自分は罪のふかい身の上であるから、こうして穏かに死ぬことが出来れば仕合せである。ただ心がかりは娘のことで、父をうしなって路頭(ろとう)に迷うであろうから、素姓の知れない捨子を拾ったとおもって面倒をみて、成長の後は下女にでも使ってくれと頼んだ。李はこころよく引受けて、孤児(みなしご)の娘をひき取り、父の死体の埋葬も型のごとくに済ませてやったが、ここでふと思い付いたのが舞台の幽霊一件だ。崔の父から詳しくその秘密を聞いたのを種にして、かれは俳優だけにひと狂言書こうと思い立ったらしい。王の家をたずねて、お前の母の塚には他人の死骸が合葬してあると教えてやったところで、幾らかの謝礼を貰うに過ぎない。むしろそれを巧みに利用して、自分の商売の広告にした方がましだと考えたので、今までは関羽を売りものにしていた彼が俄かに包孝粛の狂言を上演することにした。そうして広東の三水県へ来て、その狂言中に幽霊が出たといい、またその幽霊が墓のありかを教えたといい、細工(さいく)は流々(りゅうりゅう)、この狂言は大当りに当って、予想以上の好結果を得たというわけだ。さっきも話した通り、かの幽霊は李香の眼にみえるばかりで、余人の眼にはちっとも見えなかったというのも、あとで考えれば成程とうなずかれるが、その時はみんな見事に一杯食わされたのだ。そこで、彼は県令から御褒美を貰い、王家から謝礼を貰い、それから俄かに人気を得て、万事がおもう壺に嵌(はま)ったのだが、やはり因果(いんが)応報とでもいうか、彼は崔の父によってその運命をひらいたと共に、崔のために身をほろぼすことになってしまったのだ。」
「では、その娘が殺したのか。」と、わたしは少し意外らしく訊いた。「たとい李という奴が大山師(おおやまし)であろうとも、崔にとっては恩人じゃないか。」
「もちろん恩人には相違ないが、李も独身者(ひとりもの)だ。崔の娘がまだ十三、四のころから関係をつけてしまって、妾のようにしていたのだ。崔も自分の恩人ではあり、李に離れては路頭に迷うわけでもあるから、おとなしく彼にもてあそばれていたのだが、その一座に周という少年俳優がある。これも孤児で旅先から拾われて来たものだが、容貌(きりょう)がよいので年の割には重く用いられていた。崔と周とは同じような境遇で、おなじような年頃であるから、自然双方が親密になって、そのあいだに恋愛関係が生じて来ると、眼のさとい李は忽ちにそれを看破(かんぱ)して、揃いも揃った恩知らずめ、義理知らずめと、彼はまず周に対して残虐な仕置(しおき)を加えた。彼は崔の見る前で周を赤裸にして、しかも両手を縛りあげて、ほとんど口にすべからざる暴行をくり返した。それが幾晩もつづいたので、美少年の周は半病人のようにやつれ果ててしまったが、それでも舞台を休むことを許されなかった。それを見せつけられている崔は悲しかった。自分もやがては周とおなじような残虐な仕置を加えられるかと思うと、それも怖ろしかった。」
「なるほど、そこで李を殺す気になったのだね。」
「いや、それでも崔は少女だ。さすがに李を殺そうという気にはなれなかったらしい。さりとてこの儘にしていれば、周は責め殺されてしまうかも知れないので、彼女は思いあまって一通の手紙をかいた。すなわち自分の罪を深く詫びた上で、その申訳に命を捨てるから、どうぞ周さんをゆるしてくれ。周さんが悪いのではない、何事もわたしの罪であるというような、男をかばった書置を残して崔はある夜そっと旅館をぬけ出した。そのゆく先はこの西湖で、彼女は月を仰いで暫く泣いた後に、あわや身を投げ込もうとするところへ、不意にあらわれて来たのが、かの蘇小小の霊といわれる美人だ。美人は崔をひきとめて身投げの子細をきく。それがいかにも優しく親切であるので、年のわかい崔はその女の腕に抱かれながら一切の事情を打明けた。それが今度の問題ばかりでなく、過去の秘密いっさいをも語ってしまったらしい。それを聞いて、女はその美しい眉をあげた。そうして、崔にむかって決して死ぬには及ばない。わたしが必ずおまえさん達を救ってやるから、今夜は無事に宿へ帰ってこの後の成行きを見ていろと誓うように言った。それが嘘らしくも思われないので、崔は死ぬのを思いとどまって素直にそのまま帰ってくると、その翌日、かの女は李の芝居を見物に来て、楽屋へ何かの贈り物をした。それが縁になって、どういう風に話が付いたのか、李はかの女に誘い出されて、二度までも西湖のほとりへ行ったらしい。三度目に行ったときに、おそらく何かの眠り薬でも与えられたのだろう、蘇小小の墓の前に眠ったままで、再び醒めないことになってしまったのだ。そういう訳だから、崔はその下手人を大抵察しているものの、役人たちの調べに対して、なんにも知らない顔をしていると、その日の夕方、誰が送ったとも知れない一通の手紙が崔のところへ届いて、蘇小小の墓の前へ今夜そっと来てくれとあるので、崔はその人を察して出て行くと、果してかの女が待っていた。」
「その女は何者だね。」
「それは判らない。女は崔にむかって、わたしも蔭ながら成行きを窺っていたが、李の一件もこれで一段落で、もうこの上の詮議はあるまい。座頭の李が死んだ以上、おまえの一座も解散のほかはあるまいから、これを機会に周にも俳優をやめさせて、二人が夫婦になって何か新しい職業を求める方がよかろう。わたしもここを立去るつもりだから、もうお前にも逢えまいと言った。崔は名残り惜しく思ったが、今更ひき留めるわけにもいかない。せめてあなたの名を覚えて置きたいといったが、女は教えなかった。わたしは世間で言いふらす通り、蘇小小の霊だと思っていてくれればいいと、女は笑って別れようとする途端に、かの捕吏があらわれて来た……。これで一切の事情は明白になったのだが、崔が果して李香殺しに何の関係もないのか、あるいはかの女と共謀であるのか、本人の片口だけではまだ疑うべき余地があるので、崔はすぐに釈放されなかった。すると、ある朝のことだ。係りの役人が眼をさますと、その枕もとに短い剣と一通の手紙が置いてあって、崔の無罪は明白で、その申立てに一点の詐(いつわ)りもないのであるから、すぐ[#「すぐ」は底本では「すく」]釈放してくれと認(したた)めてあった。何者がいつ忍び込んだのか勿論わからないが、その剣をみて、役人はぞっとした。ぐずぐずしていれば、おまえの寝首を掻くぞという一種の威嚇(いかく)に相違ない。ここまで話せば、その後のことは君にも大抵の想像はつくだろう。李の一座はここで解散した。崔と周とは手に手をとってどこへか立去った。」
「その結末はたいてい想像されるが、その女は何者だか判らないじゃないか。」
「それは女侠というもので、つまり女の侠客だ。」と、K君は最後に説明した。「日本で侠客といえばすぐに幡随院長兵衛のたぐいを連想するが、シナでいう侠客はすこし意味が違う。勿論、弱きを助けて強きを挫(くじ)くという侠気も含まれているには相違ないが、その以外に刺客(しかく)とか、忍びの者とか、剣客とかいうような意味が多量に含まれている。それだけに、相手にとっては幡随院長兵衛などより危険性が多いわけだ。侠客が世に畏(おそ)れられるのはそこにある。崔を救った女も一種の女侠であることは、美人の繊手(せんしゅ)で捕吏ふたりを投げ倒したのや、役人の枕もとへ忍び込んで短剣と手紙を置いて来たのや、それらの活動をみても容易に想像されるではないか。シナの侠客のことはいろいろの書物に出ている。知らないのは君ぐらいのものだ。しかしその侠客すなわち剣侠、僧侠、女侠のたぐいが、今もあるかどうかは僕も知らない。いや、あまり長話をしていては、ここの家も迷惑だろう。そろそろ出かけようか。」
わたし達はふたたび画舫の客となって、雨のなかを帰った。 
 
処女作追懐談 / 夏目漱石

 

私の処女作――と言えば先(ま)ず『猫』だろうが、別に追懐する程のこともないようだ。ただ偶然ああいうものが出来たので、私はそういう時機に達して居たというまでである。
というのが、もともと私には何をしなければならぬということがなかった。勿論(もちろん)生きて居るから何かしなければならぬ。する以上は、自己の存在を確実にし、此処(ここ)に個人があるということを他にも知らせねばならぬ位の了見(りょうけん)は、常人と同じ様に持っていたかも知れぬ。けれども創作の方面で自己を発揮しようとは、創作をやる前迄も別段考えていなかった。
話が自分の経歴見たようなものになるが、丁度(ちょうど)私が大学を出てから間もなくのこと、或日外山正一氏から一寸(ちょっと)来いと言って来たので、行って見ると、教師をやって見てはどうかということである。私は別にやって見たいともやって見たくないとも思って居なかったが、そう言われて見ると、またやって見る気がないでもない。それで兎(と)に角(かく)やって見ようと思ってそういうと、外山さんは私を嘉納さんのところへやった。嘉納さんは高等師範の校長である。其処(そこ)へ行って先(ま)ず話を聴いて見ると、嘉納さんは非常に高いことを言う。教育の事業はどうとか、教育者はどうなければならないとか、迚(とて)も我々にはやれそうにもない。今なら話を三分の一に聴いて仕事も三分の一位で済(す)まして置くが、その時分は馬鹿正直だったので、そうは行かなかった。そこで迚も私には出来ませんと断ると、嘉納さんが旨(うま)い事をいう。あなたの辞退するのを見て益(ますます)依頼し度(た)くなったから、兎に角やれるだけやってくれとのことであった。そう言われて見ると、私の性質として又断り切れず、とうとう高等師範に勤めることになった。それが私のライフのスタートであった。
茲(ここ)で一寸話が大戻りをするが、私も十五六歳の頃は、漢書や小説などを読んで文学というものを面白く感じ、自分もやって見ようという気がしたので、それを亡(な)くなった兄に話して見ると、兄は文学は職業にゃならない、アッコンプリッシメントに過ぎないものだと云って、寧(むし)ろ私を叱った。然(しか)しよく考えて見るに、自分は何か趣味を持った職業に従事して見たい。それと同時にその仕事が何か世間に必要なものでなければならぬ。何故(なぜ)というのに、困ったことには自分はどうも変物である。当時変物の意義はよく知らなかった。然し変物を以て自(みずか)ら任じていたと見えて、迚(とて)も一々|此方(こちら)から世の中に度を合せて行くことは出来ない。何か己(おのれ)を曲げずして趣味を持った、世の中に欠くべからざる仕事がありそうなものだ。――と、その時分私の眼に映ったのは、今も駿河台(するがだい)に病院を持って居る佐々木博士の養父だとかいう、佐々木東洋という人だ。あの人は誰もよく知って居る変人だが、世間はあの人を必要として居る。而(しか)もあの人は己を曲ぐることなくして立派にやって行く。それから井上達也という眼科の医者が矢張(やはり)駿河台に居たが、その人も丁度(ちょうど)東洋さんのような変人で、而も世間から必要とせられて居た。そこで私は自分もどうかあんな風にえらくなってやって行きたいものと思ったのである。ところが私は医者は嫌(きら)いだ。どうか医者でなくて何か好い仕事がありそうなものと考えて日を送って居るうちに、ふと建築のことに思い当った。建築ならば衣食住の一つで世の中になくて叶(かな)わぬのみか、同時に立派な美術である。趣味があると共に必要なものである。で、私はいよいよそれにしようと決めた。
ところが丁度その時分(高等学校)の同級生に、米山保三郎という友人が居た。それこそ真性変物で、常に宇宙がどうの、人生がどうのと、大きなことばかり言って居る。ある日此男が訪(たず)ねて来て、例の如く色々哲学者の名前を聞かされた揚句(あげく)の果(はて)に君は何になると尋ねるから、実はこうこうだと話すと、彼は一も二もなくそれを却(しりぞ)けてしまった。其時かれは日本でどんなに腕を揮(ふる)ったって、セント・ポールズの大寺院のような建築を天下後世に残すことは出来ないじゃないかとか何とか言って、盛んなる大議論を吐いた。そしてそれよりもまだ文学の方が生命があると言った。元来自分の考は此男の説よりも、ずっと実際的である。食べるということを基点として出立した考である。所が米山の説を聞いて見ると、何だか空々漠々(くうくうばくばく)とはしているが、大きい事は大きいに違ない。衣食問題などは丸(まる)で眼中に置いていない。自分はこれに敬服した。そう言われて見ると成程(なるほど)又そうでもあると、其晩即席に自説を撤回して、又文学者になる事に一決した。随分|呑気(のんき)なものである。
然し漢文科や国文科の方はやりたくない。そこで愈(いよいよ)英文科を志望学科と定めた。
然し其時分の志望は実に茫漠(ぼうばく)極(きわ)まったもので、ただ英語英文に通達して、外国語でえらい文学上の述作をやって、西洋人を驚かせようという希望を抱(いだ)いていた。所が愈大学へ這入(はい)って三年を過して居るうちに、段々其希望があやしくなって来て、卒業したときには、是(これ)でも学士かと思う様な馬鹿が出来上った。それでも点数がよかったので、人は存外信用してくれた。自分も世間へ対しては多少得意であった。ただ自分が自分に対すると甚(はなは)だ気の毒であった。そのうち愚図々々(ぐずぐず)しているうちに、この己れに対する気の毒が凝結し始めて、体(てい)のいい往生(レシグネーション)となった。わるく云えば立ち腐れを甘んずる様になった。其癖(そのくせ)世間へ対しては甚(はなは)だ気※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64、306上−19](きえん)が高い。何の高山の林公|抔(など)と思っていた。
その中、洋行しないかということだったので、自分なんぞよりももっとどうかした人があるだろうから、そんな人を遣(や)ったらよかろうと言うと、まアそんなに言わなくても行って見たら可いだろうとのことだったので、そんなら行って見ても可いと思って行った。然し留学中に段々文学がいやになった。西洋の詩などのあるものをよむと、全く感じない。それを無理に嬉(うれ)しがるのは、何だかありもしない翅(つばさ)を生(は)やして飛んでる人のような、金がないのにあるような顔して歩いて居る人のような気がしてならなかった。所へ池田菊苗君が独乙(ドイツ)から来て、自分の下宿へ留った。池田君は理学者だけれども、話して見ると偉い哲学者であったには驚いた。大分議論をやって大分やられた事を今に記憶している。倫敦(ロンドン)で池田君に逢(あ)ったのは、自分には大変な利益であった。御蔭(おかげ)で幽霊の様な文学をやめて、もっと組織だったどっしりした研究をやろうと思い始めた。それから其方針で少しやって、全部の計画は日本でやり上げる積(つもり)で西洋から帰って来ると、大学に教えてはどうかということだったので、そんならそうしようと言って大学に出ることになった。(是(これ)も今云った自分の研究にはならないから、最初は断ったのである。)
さて正岡子規君とは元からの友人であったので、私が倫敦(ロンドン)に居る時、正岡に下宿で閉口した模様を手紙にかいて送ると、正岡はそれを『ホトトギス』に載(の)せた。『ホトトギス』とは元から関係があったが、それが近因で、私が日本に帰った時(正岡はもう死んで居た)編輯者(へんしゅうしゃ)の虚子から何か書いて呉(く)れないかと嘱(たの)まれたので、始めて『吾輩は猫である』というのを書いた。所が虚子がそれを読んで、これは不可(いけ)ませんと云う。訳を聞いて見ると段々ある。今は丸(まる)で忘れて仕舞(しま)ったが、兎(と)に角(かく)尤(もっと)もだと思って書き直した。
今度は虚子が大いに賞(ほ)めてそれを『ホトトギス』に載せたが、実はそれ一回きりのつもりだったのだ。ところが虚子が面白いから続きを書けというので、だんだん書いて居るうちにあんなに長くなって了(しま)った。というような訳だから、私はただ偶然そんなものを書いたというだけで、別に当時の文壇に対してどうこうという考も何もなかった。ただ書きたいから書き、作りたいから作ったまでで、つまり言えば、私がああいう時機に達して居たのである。もっとも書き初めた時と、終る時分とは余程(よほど)考が違って居た。文体なども人を真似(まね)るのがいやだったから、あんな風にやって見たに過ぎない。
何しろそんな風で今日迄やって来たのだが、以上を綜合(そうごう)して考えると、私は何事に対しても積極的でないから、考えて自分でも驚ろいた。文科に入ったのも友人のすすめだし、教師になったのも人がそう言って呉(く)れたからだし、洋行したのも、帰って来て大学に勤めたのも、『朝日新聞』に入ったのも、小説を書いたのも、皆そうだ。だから私という者は、一方から言えば、他(ひと)が造って呉れたようなものである。 
 
沈黙の塔 / 森鴎外

 

高い塔が夕(ゆうべ)の空に聳(そび)えている。
塔の上に集まっている鴉(からす)が、立ちそうにしてはまた止まる。そして啼(な)き騒いでいる。
鴉の群れを離れて、鴉の振舞(ふるまい)を憎んでいるのかと思われるように、鴎(かもめ)が二三羽、きれぎれの啼声をして、塔に近くなったり遠くなったりして飛んでいる。
疲れたような馬が車を重げに挽(ひ)いて、塔の下に来る。何物かが車から卸されて、塔の内に運び入れられる。
一台の車が去れば、次の一台の車が来る。塔の内に運び入れられる品物はなかなか多いのである。
己(おれ)は海岸に立ってこの様子を見ている。汐(しお)は鈍く緩く、ぴたりぴたりと岸の石垣を洗っている。市の方から塔へ来て、塔から市の方へ帰る車が、己の前を通り過ぎる。どの車にも、軟(やわらか)い鼠色(ねずみいろ)の帽の、鍔(つば)を下へ曲げたのを被(かぶ)った男が、馭者台(ぎょしゃだい)に乗って、俯向(うつむ)き加減になっている。
不精らしく歩いて行く馬の蹄(ひづめ)の音と、小石に触れて鈍く軋(きし)る車輪の響とが、単調に聞える。
己は塔が灰色の中に灰色で画(えが)かれたようになるまで、海岸に立ち尽(つく)していた。
電灯の明るく照っている、ホテルの広間に這入ったとき、己は粗い格子の縞羅紗(しまらしゃ)のジャケツとずぼんとを着た男の、長い脚を交叉(こうさ)させて、安楽|椅子(いす)に仰向けに寝たように腰を掛けて新聞を読んでいるのを見た。この、柳敬助という人の画が toile(トアル) を抜け出たかと思うように脚の長い男には、きのうも同じ広間で出合ったことがあるのである。
「何か面白い事がありますか」と、己は声を掛けた。
新聞を広げている両手の位置を換えずに、脚長は不精らしくちょいと横目でこっちを見た。「Nothing at all!」物を言い掛けた己に対してよりは、新聞に対して不平なような調子で言い放ったが、暫(しばら)くして言い足した。「また椰子(やし)の殻に爆弾を詰めたのが二つ三つあったそうですよ。」
「革命党ですね。」
己は大理石の卓の上にあるマッチ立てを引き寄せて、煙草に火を附けて、椅子に腰を掛けた。
暫くしてから、脚長が新聞を卓の上に置いて、退屈らしい顔をしているから、己はまた話し掛けた。「へんな塔のある処へ往って見て来ましたよ。」
「Malabar(マラバア) hill(ヒル) でしょう。」
「あれはなんの塔ですか。」
「沈黙の塔です。」
「車で塔の中へ運ぶのはなんですか。」
「死骸(しがい)です。」
「なんの死骸ですか。」
「Parsi(パアシイ) 族の死骸です。」
「なんであんなに沢山死ぬのでしょう。コレラでも流行(はや)っているのですか。」
「殺すのです。また二三十人殺したと、新聞に出ていましたよ。」
「誰(たれ)が殺しますか。」
「仲間同志で殺すのです。」
「なぜ。」
「危険な書物を読む奴(やつ)を殺すのです。」
「どんな本ですか。」
「自然主義と社会主義との本です。」
「妙な取り合せですなあ。」
「自然主義の本と社会主義の本とは別々ですよ。」
「はあ。どうも好く分かりませんなあ。本の名でも知れていますか。」
「一々書いてありますよ。」脚長は卓の上に置いた新聞を取って、広げて己の前へ出した。
己は新聞を取り上げて読み始めた。脚長は退屈そうな顔をして、安楽椅子に掛けている。
直ぐに己の目に附いた「パアシイ族の血腥(ちなまぐさ)き争闘」という標題の記事は、かなり客観的に書いたものであった。
パアシイ族の少壮者は外国語を教えられているので、段々西洋の書物を読むようになった。英語が最も広く行われている。しかし仏語(ふつご)や独逸(ドイツ)語も少しずつは通じるようになっている。この少壮者の間に新しい文芸が出来た。それは主として小説で、その小説は作者の口からも、作者の友達の口からも、自然主義の名を以て吹聴(ふいちょう)せられた。Zola(ゾラ) が 〔Le(ル) Roman(ロマン) expe'rimental(エクスペリマンタル)〕 で発表したような自然主義と同じだとは云われないが、また同じでないとも云われない。兎(と)に角(かく)因襲を脱して、自然に復(かえ)ろうとする文芸上の運動なのである。
自然主義の小説というものの内容で、人の目に附いたのは、あらゆる因襲が消極的に否定せられて、積極的には何の建設せられる所もない事であった。この思想の方嚮(ほうこう)を一口に言えば、懐疑が修行で、虚無が成道(じょうどう)である。この方嚮から見ると、少しでも積極的な事を言うものは、時代後れの馬鹿ものか、そうでなければ嘘衝(うそつ)きでなくてはならない。
次に人の目に附いたのは、衝動生活、就中(なかんずく)性欲方面の生活を書くことに骨が折ってある事であった。それも西洋の近頃の作品のように色彩の濃いものではない。言わば今まで遠慮し勝ちにしてあった物が、さほど遠慮せずに書いてあるという位に過ぎない。
自然主義の小説は、際立った処を言えば、先ずこの二つの特色を以て世間に現れて来て、自分達の説く所は新思想である、現代思想である、それを説いている自分達は新人である、現代人であると叫んだ。
そのうちにこういう小説がぽつぽつと禁止せられて来た。その趣意は、あんな消極的思想は安寧秩序を紊(みだ)る、あんな衝動生活の叙述は風俗を壊乱するというのであった。
丁度その頃この土地に革命者の運動が起っていて、例の椰子の殻の爆裂弾を持ち廻る人達の中に、パアシイ族の無政府主義者が少し交(まじ)っていたのが発覚した。そしてこの Propagande(プロパガンド) par(パアル) le(ル) fait(フェエ) の連中が縛られると同時に、社会主義、共産主義、無政府主義なんぞに縁のある、ないし縁のありそうな出板物が、社会主義の書籍という符牒(ふちょう)の下に、安寧秩序を紊るものとして禁止せられることになった。
この時禁止せられた出板物の中に、小説が交っていた。それは実際社会主義の思想で書いたものであって、自然主義の作品とは全く違っていたのである。
しかしこの時から小説というものの中には、自然主義と社会主義とが這入(はい)っているということになった。
そういう工合に、自然主義退治の火が偶然社会主義退治の風であおられると同時に、自然主義の側で禁止せられる出板物の範囲が次第に広がって来て、もう小説ばかりではなくなった。脚本も禁止せられる。抒情詩(じょじょうし)も禁止せられる。論文も禁止せられる。外国ものの翻訳も禁止せられる。
そこで文字に書きあらわされてある、あらゆるものの中から、自然主義と社会主義とが捜されるということになった。文士だとか、文芸家だとか云えば、もしや自然主義者ではあるまいか、社会主義者ではあるまいかと、人に顔を覗(のぞ)かれるようになった。
文芸の世界は疑懼(ぎく)の世界となった。
この時パアシイ族のあるものが「危険なる洋書」という語を発明した。
危険なる洋書が自然主義を媒介した。危険なる洋書が社会主義を媒介した。翻訳をするものは、そのまま危険物の受売(うけうり)をするのである。創作をするものは、西洋人の真似をして、舶来品まがいの危険物を製造するのである。
安寧秩序を紊る思想は、危険なる洋書の伝えた思想である。風俗を壊乱する思想も、危険なる洋書の伝えた思想である。
危険なる洋書が海を渡って来たのは Angra(アングラ) Mainyu(マイニュウ) の神の為業(しわざ)である。
危険なる洋書を読むものを殺せ。
こういう趣意で、パアシイ族の間で、Pogrom(ポグロム) の二の舞が演ぜられた。そして沈黙の塔の上で、鴉が宴会をしているのである。
新聞に殺された人達の略伝が出ていて、誰は何を読んだ、誰は何を翻訳したと、一々「危険なる洋書」の名を挙げてある。
己はそれを読んで見て驚いた。
Saint(サン )-|Simon(シモン) のような人の書いた物を耽読(たんどく)しているとか、Marx(マルクス) の資本論を訳したとかいうので社会主義者にせられたり、Bakunin(バクニン), Kropotkin(クロポトキン) を紹介したというので、無政府主義者にせられたとしても、読むもの訳するものが、必ずしもその主義を遵奉(じゅんぽう)するわけではないから、直ぐになるほどとは頷(うなず)かれないが、嫌疑を受ける理由だけはないとも云われまい。
Casanova(カサノワ) や Louvet(ルウェエ) de(ド) Couvray(クウルウェエ) の本を訳して、風俗を壊乱すると云われたのなら、よしやそう云う本に文明史上の価値はあるとしても、遠慮が足りなかったというだけの事はあるだろう。
しかし所謂(いわゆる)危険なる洋書とはそんな物を斥(さ)して言っているのではない。
ロシア文学で Tolstoi(トルストイ) のある文章を嫌うのは、無政府党が「我信仰」や「我懺悔(わがざんげ)」を主義宣伝に応用しているから、一応|尤(もっと)もだとも云われよう。小説や脚本には、世界中どこの国でも、格別けむたがっているような作はない。それを危険だとしてある。「戦争と平和」で、戦争に勝つのはえらい大将やえらい参謀が勝たせるのではなくて、勇猛な兵卒が勝たせるのだとしてあれば、この観察の土台になっている個人主義を危険だとするのである。そんな風に穿鑿(せんさく)をすると同時に、老伯が素食(そしょく)をするのは、土地で好い牛肉が得られないからだと、何十年と継続している伯の原始的生活をも、猜疑(さいぎ)の目を以て視る。
Dostojewski(ドストエウスキイ) は「罪と償」で、社会に何の役にも立たない慾ばり婆々(ばば)あに金を持たせて置くには及ばないと云って殺す主人公を書いたから、所有権を尊重していない。これも危険である。それにあの男の作は癲癇(てんかん)病(や)みの譫語(うわこと)に過ぎない。Gorki(ゴルキイ) は放浪生活にあこがれた作ばかりをしていて、社会の秩序を踏み附けている。これも危険である。それに実生活の上でも、籍を社会党に置いている。Artzibaschew(アルチバシエフ) は個人主義の元祖 Stirner(スチルネル) を崇拝していて、革命家を主人公にした小説を多く出す。これも危険である。それに肺病で体が悪くなって、精神までが変調を来している。
フランスとベルジックとの文学で、Maupassant(モオパッサン) の書いたものには、毒を以て毒を制するトルストイ伯の評のとおりに、なんのために書いたのだという趣意がない。無理想で、amoral(アモラル) である。狙(ねら)わずに鉄砲を打つほど危険な事はない。あの男はとうとう追躡(ついじょう)妄想で自殺してしまった。Maeterlinck(マアテルリンク) は Monna(モンナ) Vanna(ワンナ) のような奸通劇(かんつうげき)を書く。危険極まる。
イタリアの文学で、D'Annunzio(ダヌンチオ) は小説にも脚本にも、色彩の濃い筆を使って、性欲生活を幅広に写している。「死せる市」では兄と妹との間の恋をさえ書いた。これが危険でないなら、世の中に危険なものはあるまい。
スカンジナウィアの文学で、Ibsen(イブセン) は個人主義を作品にあらわしていて、国家は我敵だとさえ云った。Strindberg(ストリンドベルク) は伯爵家の令嬢が父の部屋附の家来に身を任せる処を書いて、平民主義の貴族主義に打ち勝つ意を寓(ぐう)した。これまでもストリンドベルクは本物の気違になりはすまいかと云われたことが度々あるが、頃日(このごろ)また少し怪しくなり掛かっている。いずれも危険である。
英文学で、Wilde(ワイルド) の代表作としてある Dorian(ドリアン) Gray(グレエ) を見たら、どの位人間の根性が恐ろしいものだということが分かるだろう。秘密の罪悪を人に教える教科書だと言っても好い。あれ程危険なものはあるまい。作者が男色事件で刑余の人になってしまったのも尤もである。Shaw(ショオ) は「悪魔の弟子」のような廃(すた)れたものに同情して、脚本の主人公にする。危険ではないか。お負(まけ)に社会主義の議論も書く。
独逸文学で、Hauptmann(ハウプトマン) は「織屋」を書いて、職工に工場主の家を襲撃させた。Wedekind(ウェデキンド) は「春の目ざめ」を書いて、中学生徒に私通をさせた。どれもどれも危険この上もない。
パアシイ族の虐殺者が洋書を危険だとしたのは、ざっとこんな工合である。
パアシイ族の目で見られると、今日の世界中の文芸は、少し価値を認められている限は、平凡極まるものでない限は、一つとして危険でないものはない。
それはそのはずである。
芸術の認める価値は、因襲を破る処にある。因襲の圏内にうろついている作は凡作である。因襲の目で芸術を見れば、あらゆる芸術が危険に見える。
芸術は上辺(うわべ)の思量から底に潜む衝動に這入って行く。絵画で移り行きのない色を塗ったり、音楽が chromatique(クロマチック) の方嚮に変化を求めるように、文芸は印象を文章で現そうとする。衝動生活に這入って行くのが当り前である。衝動生活に這入って行けば性欲の衝動も現れずにはいない。
芸術というものの性質がそうしたものであるから、芸術家、殊に天才と言われるような人には実世間で秩序ある生活を営むことの出来ないのが多い。Goethe(ギョオテ) が小さいながら一国の国務大臣をしていたり、ずっと下って Disraeli(ジスレリイ) が内閣に立って、帝国主義の政治をしたようなのは例外で、多くは過激な言論をしたり、不検束な挙動をしたりする。George(ジョルジ) Sand(サンド) と 〔Euge'ne(ユウジェエヌ) Sue(シュウ)〕 とが Leroux(ルルウ) なんぞと一しょになって、共産主義の宣伝をしても、Freiligrath(フライリヒラアト), Herwegh(ヘルウェク), Gutzkow(グッコフ) の三人が Marx(マルクス) と一しょになって、社会主義の雑誌に物を書いても、文芸史家は作品の価値を害するとは認めない。
学問だって同じ事である。
学問も因襲を破って進んで行く。一国の一時代の風尚に肘(ひじ)を掣(せい)せられていては、学問は死ぬる。
学問の上でも心理学が思量から意志へ、意志から衝動へ、衝動からそれ以下の心的作用へと、次第に深く穿(うが)って行く。そしてそれが倫理を変化させる。形而上学を変化させる。Schopenhauer(ショオペンハウエル) は衝動哲学と云っても好い。系統家の Hartmann(ハルトマン) や Wundt(ヴント) があれから出たように、Aphorismen(アフオリスメン) で書く Nietzsche(ニイチェ) もあれから出た。発展というものを認めないショオペンハウエルの彼岸哲学が超人を説くニイチェの此岸(しがん)哲学をも生んだのである。
学者というものも、あの若い時に廃人同様になって、おとなしく世を送ったハルトマンや、大学教授の職に老いるヴントは別として、ショオペンハウエルは母親と義絶して、政府の信任している大学教授に毒口を利いた偏屈ものである。孝子でもなければ順民でもない。ニイチェが頭のへんな男で、とうとう発狂したのは隠れのない事実である。
芸術を危険だとすれば、学問は一層危険だとすべきである。Hegel(ヘエゲル) 派の極左党で、無政府主義を跡継ぎに持っている Max(マックス) Stirner(スチルネル) の鋭利な論法に、ハルトマンは傾倒して、結論こそ違うが、無意識哲学の迷いの三期を書いた。ニイチェの「神は死んだ」も、スチルネルの「神は幽霊だ」を顧みれば、古いと云わなくてはならない。これも超人という結論が違うのである。
芸術も学問も、パアシイ族の因襲の目からは、危険に見えるはずである。なぜというに、どこの国、いつの世でも、新しい道を歩いて行く人の背後には、必ず反動者の群がいて隙を窺(うかが)っている。そしてある機会に起って迫害を加える。ただ口実だけが国により時代によって変る。危険なる洋書もその口実に過ぎないのであった。
マラバア・ヒルの沈黙の塔の上で、鴉のうたげが酣(たけなわ)である。
 
真鬼偽鬼 / 岡本綺堂

 


文政四年の江戸には雨が少なかった。記録によると、正月から七月までの半年間にわずかに一度しか降雨をみなかったという事である。七月のたなばたの夜に久しぶりで雨があった。つづいて翌八日の夜にも大雨があった。それを口切りに、だんだん雨が多くなった。
こういう年は、いわゆる片降り片照りで、秋口になって雨が多いであろうという、老人たちの予言がまず当った方で、八月から九月にかけて、とかくに曇った日がつづいた。その九月の末である。京橋八丁堀の玉子屋|新道(じんみち)に住む南町奉行所の与力(よりき)秋山嘉平次が新川(しんかわ)の酒問屋の隠居をたずねた。
隠居は自分の店の裏通りに小さい隠居所をかまえていて、秋山とは年来の碁がたきであった。秋山もきょうは非番であったので、ひる過ぎからその隠居所をたずねて、例のごとく烏鷺(うろ)の勝負を争っているうちに、秋の日もいつか暮れて、細かい雨がしとしとと降り出した。秋山は石を置きながら、表の雨の音に耳をかたむけた。
「また降って来ましたな。」
「秋になってから、とかくに雨が多くなりました。」と、隠居も言った。「しかしこういう時には、少し降った方が気がおちついて好うござります。」
ここで夕飯の馳走になって、二人は好きな勝負に時の移るのを忘れていた。秋山の屋敷ではその出先を知っているので、どうで今夜は遅かろうと予期していたが、やがて四つ(午後十時)に近くなって、雨はいよいよ降りしきって来たので、中間(ちゆうげん)の仙助に雨具を持たせて主人を迎えにやった。
「明日のお勤めもござります。もうそろそろお帰りになりましてはいかが。」
迎えの口上を聞いて、秋山も夜のふけたのに気がついた。今夜のかたき討は又近日と約束して、仙助と一緒にここを出ると、秋の夜の寒さが俄かに身にしみるように覚えた。仙助の話では、さっきよりも小降りになったとの事であったが、それでも雨の音が明らかにきこえて、いくらか西風もまじっているようであった。そこらの町家はみな表の戸を締切って、暗い往来にほとんど灯のかげは見えなかったが、その時代の人は暗い夜道に馴れているので、中間の持っている提灯一つの光りをたよりに、秋山は富島町と川口町とのあいだを通りぬけて、亀島橋にさしかかった。
橋の上は風も強い。秋山は傘を傾けて渡りかかると、うしろから不意に声をかけた者があった。
「旦那の御|吟味(ぎんみ)は違っております。これではわたくしが浮かばれません。」
それは此の世の人とも思われないような、低い、悲しい声であった。秋山は思わずぞっとして振返ると、暗い雨のなかに其の声のぬしのすがたは見えなかった。
「仙助。あかりを見せろ。」
中間に提灯をかざさせて、彼はそこらを見廻したが、橋の上にも、橋の袂にも、人らしい者の影は見いだされなかった。
「おまえは今、なにか聞いたか。」と、秋山は念のために中間に聞いてみた。
「いいえ。」と、仙助はなにも知らないように答えた。
秋山は不思議に思った。極めて細い、微かな声ではあったが、雨の音にまじって確かに自分の耳にひびいたのである。それとも自分の空耳で、あるいは雨か風か水の音を聞きあやまったのかも知れないと、彼は半信半疑で又あるき出した。八丁堀へゆき着いて、玉子屋新道にはいろうとすると、新道の北側の角には玉円寺という寺がある。
その寺の門前で犬の激しく吠える声がきこえた。
「黒め、なにを吠えていやがる。」と、仙助は提灯をさし付けた。
その途端に、秋山のうしろから又もや怪しい声がきこえた。
「旦那の御吟味は違っております。」
「なにが違っている。」と、秋山はすぐ訊きかえした。「貴様はだれだ。」
「伊兵衛でござります。」
「なに、伊兵衛……。貴様は一体どこにいるのだ。おれの前へ出て来い。」
それには何の答えもなかった。ただ聞えるものは雨の音と、寺の塀から往来へ掩いかかっている大きい桐の葉にざわめく風の音のみであった。犬は暗いなかでなお吠えつづけていた。
「仙助、お前は何か聞いたか。」
「いいえ。」と、仙助はやはり何にも知らないように答えた。
「それでも、おれの言う声はきこえたろう。」
「旦那さまの仰しゃったことはよく存じております。初めに誰だといって、それから又、伊兵衛と仰しゃりました。」
「むむ。」
言いかけて、秋山はなにか急に思い付いたことがあるらしく、それぎり黙って足早にあるき出して自分の屋敷の門をくぐった。家内の者をみな寝かせてしまって、秋山は庭にむかった四畳半の小座敷にはいって、小さい机の前に坐った。御用の書類などを調べる時には、いつもこの四畳半に閉じこもるのが例であった。
秋の夜はいよいよ更けて、雨の音はまだ止まない。秋山は御用箱の蓋(ふた)をあけて、ひと束の書類を取出した。彼は吟味与力の一人であるから、自分の係りの裁判が十数件も畳まっている。そのなかで、あしたの白洲(しらす)へ呼出して吟味する筈の事件が二つ三つあるが、秋山はその下調べをあと廻しにして、他の一件書類を机の上に置きならべた。それは本所柳島村の伊兵衛殺しの一件であった。
この月の三日の宵に、柳島の町と村との境を流れる小川のほとりで、村の百姓助蔵のせがれ伊兵衛という者が殺されていた。伊兵衛はことし二十二で、農家の子ではあるが瓦(かわら)焼きの職人となって、中の郷の瓦屋に毎日通っていると、それが何者にか鎌で斬り殺されて、路ばたに倒れていたのである。下手人(げしゅにん)はまだ確かには判らないが、村の百姓甚右衛門のせがれ甚吉というのが先ず第一の嫌疑(けんぎ)者として召捕られた。
甚吉が疑いを受けたのは、こういう事情に拠るのであった。同じ百姓とはいいながら、甚吉と伊兵衛とは家柄も身代もまったく相違して、甚吉の家はここらでも指折りの大百姓であったが、二人は子供のときに同じ手習師匠に通っていたという関係から、生長の後にも心安く附合っていた。伊兵衛は職人だけに道楽をおぼえて、天神橋の近所にある小料理屋などへ入り込むうちに、かの甚吉をも誘い出して、このごろは一緒に飲みにゆくことが多かった。
同年の友達ではあるが、甚吉は比較的に初心(うぶ)である上に双方の身代がまるで違っているので、甚吉は旦那、伊兵衛はお供という形で、料理屋の勘定などはいつも甚吉が払わせられていた。そのうちに伊兵衛の取持ちで、甚吉は亀屋という店に奉公しているお園という女と深い馴染みになって、少なからぬ金をつぎ込んでいると、それを気の毒に思って、ひそかに彼に注意をあたえる者があった。お園と伊兵衛とはその以前から特別の関係が成立っていて、かれらは共謀して甚吉を籠絡(ろうらく)し、その懐ろの銭を搾り取って、蔭では舌を出して笑っているというのである。それが果してほんとうであるかないか、甚吉もまだ確かな証拠を見届けたわけではないが、そんな噂を聞いただけでも彼は内心甚だ面白くなかった。
その以上のことは、吟味がまだ行き届いていないのであるが、これらの事情から推察すると、三日の宵に伊兵衛が瓦屋から帰って来る途中で、偶然甚吉に出逢ったか、あるいは甚吉がそこに待ち受けていたか、ともかくも何かの口論の末に、甚吉が彼を殺して逃げ去ったものであろうと認められたのも、一応は無理もなかった。兇器の鎌はあたかもそこらに有り合わせたのか、あるいは甚吉が持ち出して来たのか、それは判らなかった。
しかし甚吉は亀屋のお園のことや、又それに就いて、このごろかの伊兵衛に悪感情を抱いている事などは、すべて正直に申立てたが、伊兵衛を殺害した事件については、一切なんにも知らないと言い張っているので、その吟味は容易に落着(らくぢゃく)しなかった。彼は入牢(じゅろう)のままで裁判の日を待っているのであった。その係りの吟味方は秋山嘉平次である。
その秋山の耳に、今夜怪しい声が聞えたのである。――旦那の御吟味は違っております。――それを誰が訴えたか。この暗い雨の夜に、しかも往来で誰がそれを訴えたのか。
訴えた者は、伊兵衛でござります。と自分で名乗った。殺された伊兵衛の魂が迷って来て、ほんとうの下手人をさがし出して、自分のかたきを討ってくれと訴えたのであろうか。それならば単に吟味が違っていると言わないで、本当の下手人は誰であるという事をなぜ明らさまに訴えないのか。秋山は机にむかって暫く考えていたが、やがて俄かに笑い出した。
「畜生。今どきそんな古手(ふるて)を食うものか。」
甚吉の家は物持ちである。その独り息子が人殺しの罪に問われるのを恐れて、かれの家族が何者をか買収して、伊兵衛の幽霊をこしらえたのであろう。そうして、自分の外出するのを窺って、怪談めいた狂言を試みたのであろうと秋山は判断した。
「よし、その狂言の裏をかいて、甚吉めを小っぴどく引っぱたいてやろう。」
甚吉の罪業(ざいごう)については、秋山も実はまだ半信半疑であったが、今夜の幽霊に出逢ってから、その疑いがいよいよ深くなった。かれがもし潔白の人間であるならば、その家族どもがこんな狂言を試みる筈がないと思った。

あくる朝、秋山嘉平次は同心(どうしん)の奥野久平を呼んで、柳島の伊兵衛殺しの一件について特別の探索方を命令した。
「人を馬鹿にしていやあがる。眼のさめるように退治つけてやれ。」と、秋山は言った。
奥野も笑いながら出て行った。
その日の町奉行所に甚吉の吟味はなかった。秋山は他の事件の調べを終って、いつもの通りに帰って来ると、夜になって奥野が彼の四畳半に顔をみせた。彼はひとりの手先を連れて、柳島方面へ探索に行って来たのである。秋山は待ちかねたように訊いた。
「やあ、御苦労。どうだ、なにか面白い種が挙がったかな。」
「まず伊兵衛の家へ行って、おやじの助蔵を調べてみました。」と、奥野は答えた。「すると、どうです。助蔵の家(うち)へも幽霊のようなものが出て、――勿論その姿は見えないのですが、やはり伊兵衛の声で、下手人の甚吉は人違いだというような事を言ったそうです。」
「仕様のねえ奴だな。」と、秋山は舌打ちした。「どこまで人を馬鹿にしやがるのだ。それで、助蔵の家の奴らはどうした。」
「あいつらのことですから、勿論ほんとうに思っているようです。いや、助蔵の家ばかりでなく、往来でもその声を聞いた者があるそうです。あの辺の町家の女がひとり、百姓の女が一人、日が暮れてから町境いの川のふち――伊兵衛が殺されていた所です。――そこを通りかかると、暗い中から伊兵衛の声で……。女共はきゃっといって逃げ出したそうです。そんなわけで、あの辺では幽霊の噂が一面にひろがって、誰でも知らない者はないくらいです。」
「そこで、貴公の鑑定はどうだ。そんな芝居をするのは、甚吉の家の奴らか、伊兵衛の家の奴らか。」と、秋山は訊いた。
「そこです。」と、奥野は一と膝すすめた。「あなたの鑑定通り、どうでその幽霊は偽者(にせもの)に相違ありませんが、わたくしも最初は甚吉の家の奴らだろうと思っていました。甚吉の家は物持ちですから、金をやって誰かを抱き込んで、こんな芝居をさせていることと睨んだのですが、だんだん詮議してみると、どうも助蔵の方が怪しいようです。」
「それは少しあべこべのようだが、そんなことが無いともいえねえ。いったいその助蔵というのはどんな奴だ。」
「助蔵は生れ付きの百姓で、薄ぼんやりしたような奴ですが、女房のおきよというのはなかなかのしっかり者で、十八の年に助蔵のところへ嫁に来て、そのあくる年に伊兵衛を生んで、今年ちょうど四十になるそうです。ところで、御承知かも知れませんが、伊兵衛は総領で、その下に伊八という弟があります。伊八は兄貴と二つ違いで、ことし二十歳(はたち)になります。」
「むむ。」
秋山はうなずいた。兄弟であれば、声も似ている。弟の伊八が作り声をして、兄の幽霊に化けているということはもう判り過ぎるほどに判ってしまった。気の短い秋山はすぐに伊八を引挙げて、手ひどく嚇(おど)しつけてやりたいようにも思ったが、彼はもう四十を越している。多年の経験上|急(せ)いては事を仕損じるの実例をもたくさんに知っているので、しばらく黙って奥野の報告を聴いていると、相手はつづけて語り出した。
「おふくろのおきよは、今もいう通りのしたたか者ですから、今さら甚吉を下手人にして見たところで、死んだ伜が生き返るわけでもないので、慾にころんで仇の味方になって、甚吉は人違いであるということを世間へ吹聴(ふいちょう)すれば、それが自然に上(かみ)の耳にもはいると思って、偽幽霊の狂言をかいたらしいのです。無論それには甚吉の親たちから纒まった物を受取ったに相違ありますまい。弟の伊八という奴も、兄貴と同じような道楽者で、小博奕(こばくち)なども打つといいますから、兄貴の死んだのを幸いに、おふくろと一緒になってどんな芝居でもやりかねません。近所の者の話によると、伊兵衛と伊八は兄弟だけに顔付きも声柄もよく似ているということです。」
「それからお園という女も調べたか。」
「天神橋の亀屋へ行って、お園のことを訊いてみると、お園は伊兵衛が殺されても、甚吉が挙げられても、一向平気ではしゃいでいるそうです。もちろん一応は取調べてみましたが、今度の一件に就いてはまったく何にも知らないらしく、甚吉も伊兵衛も座敷だけの顔馴染みで、ほかに係合いはないと澄ましていましたが、それは嘘で、どっちにも係合いのあったことは、亀屋の家も、みんな知っていました。一体だらしのない女で、ほかにもまだ係合いの客があるとかいう噂です。年は二十二だといいますから、甚吉や伊兵衛と同い年で、容貌(きりょう)はまんざらでもない女でした。」
「それだけで伊八とおきよを引挙げては、まだ早いかな。」と、秋山はかんがえながら言った。
「そうですね。」と、奥野も首をかしげた。「もう大抵は判っているようなものですが、何分にも確かな証拠が挙がっていませんから、下手なことをしてしまうと、あとの調べが面倒でしょう。」
こっちに確かな証拠を掴んでいないと、相手が強情者である場合には、その詮議がなかなか面倒であることを秋山もよく知っていた。
「そこで、あとのことは藤次郎にあずけて来ましたが、どうでしょう。」と、奥野は秋山の顔色をうかがいながら言った。
「それでよかろう。」
手先の藤次郎は初めからこの事件に係り合っている上に、平生から相当の腕利きとして役人たちの信用もあるので、秋山も彼にあずけて置けば大丈夫であろうと思った。そこで今後の処置は藤次郎の探索の結果を待つことにして、奥野はひとまず別れて帰った。
ゆうべの雨は暁け方からやんだが、きょうも一日曇り通して薄ら寒い湿っぽい夜であった。奥野が帰ったあとで、秋山は又もや机にむかって、あしたの吟味の調べ物をしていると、屋根の上を五位鷺(ごいさぎ)が鳴いて通った。
かれは自分がいま調べている仕事よりも、伊兵衛殺しの一件の方が気になってならなかった。事件そのものが重大であるというよりも、幽霊の仮装を使って自分をだまそうとした彼らの所業が忌々(いまいま)しくてならないのである。
土地の奴らをだますのはともあれ、自分までも一緒にだまそうというのは、あまりに上(かみ)役人を侮った仕方である。一日も早く彼らの正体を見あらわして、ぐうの音も出ないように退治付けてやらなければ、自分の胸が納まらないのであった。
「おれはひどく燥(あせ)っているな。」
かれは自ら嘲るように笑った。いかなる場合にも冷静である筈の自分が、今度の事件にかぎって燥り過ぎるのはどういうわけであるか。忌々しいからといって無暗にあせるのは、あまりに素人じみているのではないか。こんなことで八丁堀に住んでいられるかと、秋山は努めてかの一件を忘れるようにして、他の調べ物に取掛ったが、やはりどうも気が落ちつかなかった。
そうして、今にも藤次郎が表の門をたたいて、何事をか報告して来るように思われてならないので、今夜も家内の者を先へ寝かして、秋山は夜のふけるまで机の前に坐り込んでいた。寝床にはいったところで、どうで安々と眠られまいと思ったからである。
そのうちに本石町(ほんこくちょう)の九つ(午後十二時)の鐘の音が沈んできこえた。五位鷺がまた鳴いて通った。
秋の夜が長いといっても、もう夜半(よなか)である。少しは寝ておかなければ、あしたの御用に差支えると思って、秋山も無理に寝支度にかかり始めると、表で犬の吠える声がきこえた。つづいて門をたたく者があった。秋山は待ちかねたように飛んで出て、中間や下女を呼び起すまでもなく、自分で門を明けにゆくと、細かい雨がはらはら顔を撲(う)った。暗い門の外には奥野と藤次郎が立っていた。
藤次郎はまず奥野の門をたたいて、それから二人で連れ立って来たものらしい。秋山はすぐに彼らを奥へ通すと、奥野は急いで口を切った。
「どうも案外な事件が起りました。」
「どうした。やっぱり柳島の一件か。」と、秋山もすこしく胸を跳らせながら訊いた。
「そうでございます。」と、藤次郎が入れ代って答えた。「奥野の旦那がお引揚げになってから、わたくしは亀屋のそばの柳屋という家に張込んでいました、伊八の奴はそこへたびたび飲みに行くことを聞いたからです。おとといもきのうも来なかったから、今夜あたりは来るだろうというので、わたくしも客のつもりで小座敷に飲んでいました。亀屋は二階屋ですが、柳屋は平屋(ひらや)ですから、表の見えるところに陣取っていると、もう五つ(午後八時)頃でしたろうか、頬かむりをした一人の男が柳屋の店の方へぶらぶらやって来ました。どうも伊八らしいと思って家の女中にきいて見ると、たしかにそうだと言うので、油断なく見張っていると、伊八は柳屋の前まで来たかと思うと、又ふらふらと引っ返して行きます。こいつおれの張込んでいるのを覚ったのかと、わたくしも直ぐに起(た)ち上がって表をのぞくと、近所の亀屋の店口からも一人の女が出て来ました。その女はお園らしいと見ていると、伊八とその女は黙って歩き出しました。」
言いかけて、彼は頭をかいた。
「旦那方の前ですが、ここでわたくしは飛んだドジを組(く)んでしまって、まことに面目次第もございません。それから私が直ぐに跡をつけて行けばよかったのですが、柳屋は今夜が初めてで、わたくしの顔を識らねえ家ですから、むやみに飛び出して食い逃げだと思われるのも癪にさわるから、急いで勘定を払って出ると、あいにく又、日和下駄(ひよりげた)の鼻緒が切れてしまいました。」
秋山は笑いもしないで聴いていると、藤次郎はいよいよ極りが悪そうに言った。
「さあ、困った。仕方がねえから柳屋へまた引っ返して、草履を貸してくれというと、むこうでは気を利かしたつもりで日和下駄を出してくれる。いや、雨あがりでも草履の方がいいという。そんな押問答に暇をつぶして、いよいよ草履を突っかけて出ると、これがまた鼻緒がゆるんでいて、馬鹿に歩きにくい。それでもまあ我慢して、路の悪いところを飛びとびに……。」
「まったくあの辺は路が悪いな。」と、奥野は彼を取りなすように言った。
「御存じの通りですから、実に歩かれません。」と、藤次郎も言訳らしく言った。「おまけに真っ暗と来ているので、今の二人はどっちの方角へ行ったのか判らなくなってしまいました。それでもいい加減に見当をつけて、川岸づたいに歩いて行くと、あすこに長徳院という寺があります。その寺門前の川端をならんで行くのが、どうも伊八とお園のうしろ姿らしいのです。」
「暗やみで能くそれが判ったな。」と、秋山はなじるように訊いた。
「あとで考えると、それがまったく不思議です。そのときには男と女のうしろ姿が暗いなかにぼんやりと浮き出したように見えたのです。」
「ほんとうに見えたのか。」
「たしかに見えました。」
藤次郎は小声に力をこめて答えたが、その額には不安らしい小皺(こじわ)が見えた。

「それじゃあ仕方がねえ。その暗いなかで二人の人間の姿がみえたとして、それからどうした。」と、秋山は催促するように又訊いた。
「わたくしは占めたと思って、そのあとを付けて行きました。」と、藤次郎は答えた。「伊八とお園は長徳院の前から脇坂の下(しも)屋敷の前を通って柳島橋の方へ行く。川岸づたいの一本道ですから見はぐる気づかいはありません。あいつら一体どこへ行くのか、妙見(みょうけん)さまへ夜詣りでもあるめえと思いながら、まあどこまでも追って行くと……。それがどうも不思議で、いつの間にか二人の姿が消えてしまいました。」
「馬鹿野郎。狐にでも化かされたな。」と、秋山は叱った。
「そういわれると、一言もないのですが、まさかにわたくしが……。」
「貴様は酒に酔っていたので、狐にやられたのだ。江戸っ子が柳島まで行って、狐に化かされりゃあ世話はねえ。あきれ返った間抜け野郎だ。ざまあ見ろ。」
秋山は腹立ちまぎれに、頭からこき下ろした。
その権幕が激しいので、奥野も取りなす術(すべ)もなしに黙っていると、藤次郎はいよいよ恐縮しながら言った。
「まあ、旦那。お聴きください。今もいう通り、よくよく考えてみると、暗いなかで見えたのが不思議で、見えない方が本当なのですから、わたくしも今さら変な心持になりました。ひょっとすると、畜生めらにやられたのじゃあないかと、眉毛を濡らしながらそこらを見まわしても、あたりは唯まっくらで、なんにも見えません。」
「あたりめえよ。」と、秋山は又叱った。
「仕方がなしにすごすご引揚げて、もとの長徳院のあたりまで帰って来ると、なにかそこらがそうぞうしくって、大勢が駈けて行くようですから、ボヤでも出しゃあがったかと思って、通りがかりの者に訊いてみると、いやどうも驚きました。町と村との境いにある小川のふちに、助蔵のせがれの伊八が斬られて死んでいるというのです。わたくしも呆気(あっけ)に取られながら、すぐに其の場へ飛んで行くと、伊八はまったく死んでいました。近所の者が集まってわやわや言っているのを掻き分けて、その死骸をあらためてみると、伊八は鎌のようなもので頸筋を斬られているのです。兄貴も鎌で殺され、弟も同じような刃物で斬られている。しかもその死んでいる場所が、兄貴の殺されたのと同じ所だというので、みんなも不思議がっているのです。その知らせに驚いて、助蔵の夫婦もかけつけて来ましたから、わたくしは其の女房のおきよを取っ捉まえて、本人の家へ引摺って行ってきびしく取調べると、幾らかしっかり者でもさすがに気が顛倒しているとみえて、案外にすらすらと白状してしまいました。
やっぱり旦那方の御鑑定通り、伊兵衛を殺したのは甚吉の仕業と判っているのですが、今さら甚吉を科人(とがにん)にしたところで、死んだ我が子が生き返るわけでもないから、いっそ慾にころんだ方が優(ま)しだと考えて、甚吉の家から三百両の金を貰って、弟の伊八を幽霊に仕立てたのだそうです。それでまず幽霊の正体はわかったが、さて今度は伊八の下手人です。」
「甚吉の家の奴らだろうな。」と、秋山は啄(くち)をいれた。
「誰もそう考えそうなことで、現におきよもそう言っていました。」と、藤次郎は答えた。「おきよはその三百両のうちから五十両だけを伊八に渡して、あとは裏手の空地に埋めてしまったそうです。伊八は又、その五十両を女と博奕でたちまち摺ってしまって、残りの金をわたしてくれと強請(ゆす)っても、おふくろは気が強いからなかなか受付けない。そこで、伊八は甚吉の家の方へねだりに行く。それが二度も三度もつづくので、甚吉の家でもうるさくなって、秘密を知っている伊八を生かして置いては一生涯の累(わずら)いだから、いっそ亡き者にしてしまえと、誰かに頼んで殺させたに相違ないと、おきよは泣いて訴えるのです。わたくしも先ずそうだろうと思いましたが、ただ少し不思議なことは……。
そういうと又叱られるかも知れませんが、伊八とお園は川岸づたいに妙見さまの方へ行ったらしいのに、そのお園はいつの間にか見えなくなって、伊八だけがここへ来て死んでいる。勿論、わたくしが狐に化かされたとすれば仕方もありませんが、そこが何だか腑に落ちないので、念のために亀屋の方を調べてみると、お園は日が暮れてから髪なぞを綺麗にかき上げて、いつもよりも念入りにお化粧をしていたかと思うと、ふらりとどこへか出て行ったままで、いまだに帰って来ないというのです。そうなると、わたくしがお園の姿を見たというのも、まんざら狐でもないようで……。」
彼はやわらかに一種の反駁を試みた。
秋山の権幕があまりに激しいので、彼は一段と恐縮したように見せながら、徐々に備えを立て直して、江戸の手先がむやみに狐なんぞに化かされて堪るものかという意味をほのめかしたのである。
秋山はだまって聴いていた。
あくる朝、奥野は藤次郎をつれて再び柳島へ出張(でば)ると、さらに新しい事実が発見された。お園の死骸が柳島橋の下に浮かんでいたのである。
橋の袂には血に染みた鎌が捨ててあったばかりでなく、お園の袷(あわせ)と襦袢の袖にも血のあとがにじんでいるのを見ると、かれはまず伊八を殺害し、それからここへ来て入水(じゅすい)したものと察せられた。
「こうなると、わたくしの見たのもいよいよ嘘じゃありませんよ。」と、藤次郎は言った。
「それにしても、道連れの男は誰だ、伊八じゃあるめえ。」と、奥野は首をかしげた。
「さあ、それが判りませんね。」
伊八によく似た男といえば、兄の伊兵衛でなければならない。伊兵衛の魂がお園を誘い出して、まず伊八を殺させて、それからかれを水のなかへ導いて行ったのであろうか。藤次郎が伊八と思って尾行したのは、実は伊兵衛の亡霊の影を追っていたのであろうか。それは容易に解き難い謎である。
甚吉の家族はみんな厳重に取調べられて、父の甚右衛門は一切の秘密を白状した。それはおきよの申し口と符合していたが、伊八殺しの一件について彼はあくまでも知らないと主張していた。
伊八を殺したのはお園の仕業と認めるのほかはなかった。
それにしても、お園がなぜ伊八を殺したか。伊八が兄のかたきを討とうともしないで、却って仇の味方になって働いているのを、お園が憎んで殺したとも思われるが、その平生から考えると、お園の胸にそれほどの熱情を忍ばせていようとは思われなかった。藤次郎の眼に映った幻影がもし伊兵衛の姿であるとすれば、その魂が情婦の力をかりて、憎むべき弟をほろぼしたとも見られる。果してそうならば、お園は男のたましいに導かれて、一種の魔術にかかった者のように、ほとんど無意識に伊八を殺したのであろう。同じ場所に於いて、おなじ刃物を以って……。
最初の幽霊が果して偽者であったことは、おきよと甚右衛門の白状によって確かめられたが、後の幽霊が果して真者(ほんもの)であるかないかを、確かめ得るものはなかった。こういうたぐいの怪談を信じまいとする秋山も、それに対して正当の解釈をあたえることが出来ないのを残念に思った。
もう一つ、秋山を沈黙せしめたのは、伝馬町の牢屋につながれている下手人の甚吉が頓死したことである。それはあたかも、かの伊八が殺されたと同時刻であった。 
 
雪女 / 小泉八雲 (田部隆次訳)

 

武蔵の国のある村に茂作、巳之吉と云う二人の木こりがいた。この話のあった時分には、茂作は老人であった。そして、彼の年季奉公人であった巳之吉は、十八の少年であった。毎日、彼等は村から約二里離れた森へ一緒に出かけた。その森へ行く道に、越さねばならない大きな河がある。そして、渡し船がある。渡しのある処にたびたび、橋が架けられたが、その橋は洪水のあるたびごとに流された。河の溢れる時には、普通の橋では、その急流を防ぐ事はできない。
茂作と巳之吉はある大層寒い晩、帰り途で大吹雪に遇った。渡し場に着いた、渡し守は船を河の向う側に残したままで、帰った事が分った。泳がれるような日ではなかった。それで木こりは渡し守の小屋に避難した――避難処の見つかった事を僥倖に思いながら。小屋には火鉢はなかった。火をたくべき場処もなかった。窓のない一方口の、二畳敷の小屋であった。茂作と巳之吉は戸をしめて、蓑をきて、休息するために横になった。初めのうちはさほど寒いとも感じなかった。そして、嵐はじきに止むと思った。
老人はじきに眠りについた。しかし、少年巳之吉は長い間、目をさましていて、恐ろしい風や戸にあたる雪のたえない音を聴いていた。河はゴウゴウと鳴っていた。小屋は海上の和船のようにゆれて、ミシミシ音がした。恐ろしい大吹雪であった。空気は一刻一刻、寒くなって来た、そして、巳之吉は蓑の下でふるえていた。しかし、とうとう寒さにも拘らず、彼もまた寝込んだ。
彼は顔に夕立のように雪がかかるので眼がさめた。小屋の戸は無理押しに開かれていた。そして雪明かりで、部屋のうちに女、――全く白装束の女、――を見た。その女は茂作の上に屈んで、彼に彼女の息をふきかけていた、――そして彼女の息はあかるい白い煙のようであった。ほとんど同時に巳之吉の方へ振り向いて、彼の上に屈んだ。彼は叫ぼうとしたが何の音も発する事ができなかった。白衣の女は、彼の上に段々低く屈んで、しまいに彼女の顔はほとんど彼にふれるようになった、そして彼は――彼女の眼は恐ろしかったが――彼女が大層綺麗である事を見た。しばらく彼女は彼を見続けていた、――それから彼女は微笑した、そしてささやいた、――『私は今ひとりの人のように、あなたをしようかと思った。しかし、あなたを気の毒だと思わずにはいられない、――あなたは若いのだから。……あなたは美少年ね、巳之吉さん、もう私はあなたを害しはしません。しかし、もしあなたが今夜見た事を誰かに――あなたの母さんにでも――云ったら、私に分ります、そして私、あなたを殺します。……覚えていらっしゃい、私の云う事を』
そう云って、向き直って、彼女は戸口から出て行った。その時、彼は自分の動ける事を知って、飛び起きて、外を見た。しかし、女はどこにも見えなかった。そして、雪は小屋の中へ烈しく吹きつけていた。巳之吉は戸をしめて、それに木の棒をいくつか立てかけてそれを支えた。彼は風が戸を吹きとばしたのかと思ってみた、――彼はただ夢を見ていたかもしれないと思った。それで入口の雪あかりの閃きを、白い女の形と思い違いしたのかもしれないと思った。しかもそれもたしかではなかった。彼は茂作を呼んでみた。そして、老人が返事をしなかったので驚いた。彼は暗がりへ手をやって茂作の顔にさわってみた。そして、それが氷である事が分った。茂作は固くなって死んでいた。……
あけ方になって吹雪は止んだ。そして日の出の後少ししてから、渡し守がその小屋に戻って来た時、茂作の凍えた死体の側に、巳之吉が知覚を失うて倒れているのを発見した。巳之吉は直ちに介抱された、そして、すぐに正気に帰った、しかし、彼はその恐ろしい夜の寒さの結果、長い間病んでいた。彼はまた老人の死によってひどく驚かされた。しかし、彼は白衣の女の現れた事については何も云わなかった。再び、達者になるとすぐに、彼の職業に帰った、――毎朝、独りで森へ行き、夕方、木の束をもって帰った。彼の母は彼を助けてそれを売った。
翌年の冬のある晩、家に帰る途中、偶然同じ途を旅している一人の若い女に追いついた。彼女は背の高い、ほっそりした少女で、大層綺麗であった。そして巳之吉の挨拶に答えた彼女の声は歌う鳥の声のように、彼の耳に愉快であった。それから、彼は彼女と並んで歩いた、そして話をし出した。少女は名は「お雪」であると云った。それからこの頃両親共なくなった事、それから江戸へ行くつもりである事、そこに何軒か貧しい親類のある事、その人達は女中としての地位を見つけてくれるだろうと云う事など。巳之吉はすぐにこの知らない少女になつかしさを感じて来た、そして見れば見るほど彼女が一層綺麗に見えた。彼は彼女に約束の夫があるかと聞いた、彼女は笑いながら何の約束もないと答えた。それから、今度は、彼女の方で巳之吉は結婚しているか、あるいは約束があるかと尋ねた、彼は彼女に、養うべき母が一人あるが、お嫁の問題は、まだ自分が若いから、考えに上った事はないと答えた。……こんな打明け話のあとで、彼等は長い間ものを云わないで歩いた、しかし諺にある通り『気があれば眼も口ほどにものを云い』であった。村に着く頃までに、彼等はお互に大層気に入っていた。そして、その時巳之吉はしばらく自分の家で休むようにとお雪に云った。彼女はしばらくはにかんでためらっていたが、彼と共にそこへ行った。そして彼の母は彼女を歓迎して、彼女のために暖かい食事を用意した。お雪の立居振舞は、そんなによかったので、巳之吉の母は急に好きになって、彼女に江戸への旅を延ばすように勧めた。そして自然の成行きとして、お雪は江戸へは遂に行かなかった。彼女は「お嫁」としてその家にとどまった。
お雪は大層よい嫁である事が分った。巳之吉の母が死ぬようになった時――五年ばかりの後――彼女の最後の言葉は、彼女の嫁に対する愛情と賞賛の言葉であった、――そしてお雪は巳之吉に男女十人の子供を生んだ、――皆綺麗な子供で色が非常に白かった。
田舎の人々はお雪を、生れつき自分等と違った不思議な人と考えた。大概の農夫の女は早く年を取る、しかしお雪は十人の子供の母となったあとでも、始めて村へ来た日と同じように若くて、みずみずしく見えた。
ある晩子供等が寝たあとで、お雪は行燈の光で針仕事をしていた。そして巳之吉は彼女を見つめながら云った、――
『お前がそうして顔にあかりを受けて、針仕事をしているのを見ると、わしが十八の少年の時遇った不思議な事が思い出される。わしはその時、今のお前のように綺麗なそして色白な人を見た。全く、その女はお前にそっくりだったよ』……
仕事から眼を上げないで、お雪は答えた、――
『その人の話をしてちょうだい。……どこでおあいになったの』
そこで巳之吉は渡し守の小屋で過ごした恐ろしい夜の事を彼女に話した、――そして、にこにこしてささやきながら、自分の上に屈んだ白い女の事、――それから、茂作老人の物も云わずに死んだ事。そして彼は云った、――
『眠っている時にでも起きている時にでも、お前のように綺麗な人を見たのはその時だけだ。もちろんそれは人間じゃなかった。そしてわしはその女が恐ろしかった、――大変恐ろしかった、――がその女は大変白かった。……実際わしが見たのは夢であったかそれとも雪女であったか、分らないでいる』……
お雪は縫物を投げ捨てて立ち上って巳之吉の坐っている処で、彼の上に屈んで、彼の顔に向って叫んだ、――
『それは私、私、私でした。……それは雪でした。そしてその時あなたが、その事を一言でも云ったら、私はあなたを殺すと云いました。……そこに眠っている子供等がいなかったら、今すぐあなたを殺すのでした。でも今あなたは子供等を大事に大事になさる方がいい、もし子供等があなたに不平を云うべき理由でもあったら、私はそれ相当にあなたを扱うつもりだから』……
彼女が叫んでいる最中、彼女の声は細くなって行った、風の叫びのように、――それから彼女は輝いた白い霞となって屋根の棟木の方へ上って、それから煙出しの穴を通ってふるえながら出て行った。……もう再び彼女は見られなかった。 
 
雪女 / 岡本綺堂

 


O君は語る。
大正の初年から某商会の満洲支店詰を勤めていた堀部君が足かけ十年振りで内地へ帰って来て、彼が満洲で遭遇した雪女の不思議な話を聞かせてくれた。
この出来事の舞台は奉天(ほうてん)に近い芹菜堡子(ぎんさいほし)とかいう所だそうである。わたしもかつて満洲の土地を踏んだことがあるが、その芹菜堡子とかいうのはどんなところか知らない。しかし、それがいわゆる雲朔(うんさく)に近い荒涼たる寒村であることは容易に想像される。堀部君は商会の用向きで、遼陽(りょうよう)の支店を出発して、まず撫順(ぶじゅん)の炭鉱へ行って、それから汽車で蘇家屯へ引っ返して、蘇家屯かち更に渾河(こんが)の方面にむかった。蘇家屯から奉天までは真っ直ぐに汽車で行かれるのであるが、堀部君は商売用の都合から渾河で汽車にわかれて、供に連れたシナ人と二人で奉天街道をたどって行った。
一月の末で、おとといはここでもかなりの雪が降った。きょうは朝から陰って剣(つるぎ)のように尖った北風がひゅうひゅうと吹く。土地に馴れている堀部君は毛皮の帽子を眉深(まぶか)にかぶって、あつい外套の襟に顔をうずめて、十分に防寒の支度を整えていたのであるが、それでも総身(そうみ)の血が凍るように冷えて来た。おまけに途中で日が暮れかかって、灰のような細かい雪が突然に吹きおろして来たので、堀部君はいよいよ遣(や)り切れなくなった。たずねる先は渾河と奉天との丁度まん中で、その土地でも有名な劉(りゅう)という資産家の宅であるが、そこまではまだ十七|清里(しんり)ほどあると聞かされて、堀部君はがっかりした。
日は暮れかかる、雪は降って来る。これから満洲の田舎路を日本の里数で約三里も歩かせられては堪(た)まらないと思ったので、堀部君は途中で供のシナ人に相談した。
「これから劉の家までは大変だ。どこかそこらに泊めてもらうことは出来まいか。」
供のシナ人は堀部君の店に長く奉公して、気心(きごころ)のよく知れている正直な青年であった。彼は李多(リートー)というのが本名であるが、堀部君の店では日本式に李太郎と呼びならわしていた。
「劉家(リューツェー)、遠いあります。」と、李太郎も白い息をふきながら答えた。「しかし、ここらに客桟(コーチェン)ありません。」
「宿屋は勿論あるまいよ。だが、どこかの家で泊めてくれるだろう。どんた穢(きたな)い家でも今夜は我慢するよ。この先の村へはいったら訊(き)いて見てくれ。」
「よろしい、判りました。」
二人はだんだんに烈しくなって来る粉雪のなかを衝いて、俯向(うつむ)きがちにあえぎながら歩いて行くと、葉のない楊(やなぎ)に囲まれた小さい村の入口にたどり着いた。大きい木のかげに堀部君を休ませて置いて、李太郎はその村へ駈け込んで行ったが、やがて引っ返して来て、一軒の家を見つけたと手柄顔に報告した。
「泊めてくれる家(うち)、すぐ見付けました。家の人、たいそう親切あります。家は綺麗、不乾浄(プーカンジン)ありません。」
綺麗でも穢くても大抵のことは我慢する覚悟で、堀部君は彼に誘われて行くと、それは石の井戸を前にした家で、ここらとしてはまず見苦しくない外構えであった。外套の雪を払いながら、堀部君は転(ころ)げるように門のなかへ駈け込むと、これは満洲地方で見る普通の農家で、門の中にはかなり広い空地がある。その左の方には雇人の住家らしい小さい建物があって、南にむかった正面のやや大きい建物が母屋(おもや)であるらしく思われた。
李太郎が先に立って案内すると、母屋からは五十五、六にもなろうかと思われる老人が出て来て、こころよく二人を迎えた。なるほど親切な人物らしいと、堀部君もまず喜んで内へ誘い入れられた。家のうちは土竈(どべっつい)を据えたひと間をまん中にして、右と左とにひと間ずつの部屋が仕切られてあるらしく、堀部君らはその左の方の部屋に通された。そこはむろん土間で、南側と北側とには日本の床よりも少し高い寝床(ねどこ)が設けられて、その上には古びた筵(むしろ)が敷いてあった。土間には四角なテーブルのようなものが据えられて、木の腰掛けが三脚ならんでいた。
老人は自分がこの家の主人であると言った。この頃はここらに悪い感冒がはやって、自分の妻も二人の雇人もみな病床に倒れているので碌々(ろくろく)にお構い申すことも出来ないと、気の毒そうに言訳をしていた。
「それにしても何か食わしてもらいたい。李太郎、お前も手伝ってなにか温かいものを拵(こしら)えてくれないか。」と、堀部君は寒気と疲労と空腹とにがっかりしながら言った。
「よろしい、よろしい。」
李太郎も老人に頼んで、高粱(コーリャン)の粥(かゆ)を炊いてもらうことになった。彼は手伝って土竈の下を焚き始めた。その煙りがこちらの部屋まで流れ込んで来るので、堀部君は慌てて入口の戸を閉めたが、何分にも寒くて仕様がないので、再びその戸をあけて出て、自分も竃(へっつい)の前にかがんでしまった。
老人が堀部君を歓待したのは子細(しさい)のあることで、彼は男女三人の子供をもっているが、長男は営口の方へ出稼ぎに行って、それから更に上海へ移って外国人の店に雇われている。次男は奉天へ行って日本人のホテルに働いている。そういう事情から、彼は外国人に対しても自然に好意をもっている。殊に奉天のホテルでは次男を可愛がってくれるというので、日本人に対しては特別の親しみをもっているのであった。その話をきいて、堀部君はいい家へ泊り合せたと思った。粥は高粱の中へ豚の肉を入れたもので、その煮えるのを待ちかねて四、五椀すすり込むと、堀部君のひたいには汗がにじみ出して来た。
「やれ、ありがたい。これで生き返った。」
ほっと息をついて元の部屋へ戻ると、李太郎は竈の下の燃えさしを持って来て、寝床の煖炉(だんろ)に入れてくれた。老人も枯れた高粱の枝をかかえて来て、惜し気もなしに炉の中へたくさん押込んだ。
「多謝(トーシェー)、多謝。」
堀部君はしきりに礼を言いながら、炉のあたたまる間、テーブルの前に腰をおろすと、老人も来ていろいろの話をはじめた。ここの家は主人夫婦と、ことし十三になる娘と、別棟に住んでいる雇人二人と、現在のところでは一家内あわせて五人暮らしであるのに、その三人が枕に就いているので、働くものは老人と小娘に過ぎない。仕事のない冬の季節であるからいいようなものの、ほかの季節であったらどうすることも出来ないと、老人は顔を陰らせながら話した。それを気の毒そうに聞いているうちに、外の吹雪はいよいよ暴れて来たらしく、窓の戸をゆする風の音がすさまじく聞えた。
ここらの農家では夜も灯をともさないのが習いで、ふだんならば火縄を吊るしておくに過ぎないのであるが、今夜は客への歓待(かんたい)ぶりに一挺の蝋燭(ろうそく)がテーブルの上にともされている。その弱いひかりで堀部君は懐中時計を透かしてみると、午後六時を少し過ぎた頃であった。ここらの人たちはみな早寝であるが、堀部君にとってはまだ宵の口である。いくら疲れていても、今からすぐに寝るわけにもいかないので、幾分か迷惑そうな顔をしている老人を相手に、堀部君はまたいろいろの話をしているうちに、右の方の部屋で何かがたりという音がしたかと思うと、老人は俄(にわ)かに顔色を変えて、あわただしく腰掛けを起(た)って、その部屋へ駈け込んで行った。
その慌て加減があまりに烈しいので、堀部君も少しあっけに取られていると、老人はなにか低い声で口早にいっているらしかったが、それぎり暫くは出て来なかった。
「どうしたんだろう。病人でも悪くなったのか。」と、堀部君は李太郎に言った。「お前そっと覗(のぞ)いてみろ。」
ひとの内房を窺うというのは甚だよろしくないことであるので、李太郎は少し躊躇(ちゅうちょ)しているらしかったが、これも一種の不安を感じたらしく、とうとう抜き足をして真ん中の土間へ忍び出て、右の方の部屋をそっと窺いに行ったが、やがて老人と一緒にこの部屋へ戻って来た。老人の顔の色はまだ蒼ざめていた。
「病人、悪くなったのではありません。」と、李太郎は説明した。
しかし彼の顔色も少し穏かでないのが、堀部君の注意をひいた。
「じゃ、どうしたんだ。」
「雪の姑娘(クーニャン)、来るかも知れません。」
「なんだ、雪の姑娘というのは……。」
雪の姑娘――日本でいえば、雪女とか雪女郎とかいう意味であるらしい。堀部君は不思議そうに相手の顔を見つめていると、李太郎は小声で答えた。
「雪の娘――鬼子(コイツ)であります。」
「幽霊か。」と、堀部君もいよいよ眉(まゆ)を皺(しわ)めた。「そんか化け物が出るのか。」
「化け物、出ることあります。」と、李太郎は又ささやいた。「ここの家、三年前にも娘を取られました。」
「娘を取る……。その化け物が……。おかしいな。ほんとうかい。」
「嘘ありません。」
なるほど嘘でもないらしい。死んだ者のように黙っている老人の蒼い顔には、強い強い恐怖の色が浮かんでいた。堀部君もしばらく黙って考えていた。

雪の娘――幾年か満洲に住んでいる堀部君も、かつてそんな話を聞いたことはなかったが、今夜はじめてその説明を李太郎の口から聞かされた。
今から三百年ほどの昔であろう。清(しん)の太祖が遼東一帯の地を斬り従えて、瀋陽(しんよう)――今の奉天――に都を建てた当時のことである。かずある侍妾(じしょう)のうちに姜氏(きょうし)といううるわしい女があって、特に太祖の恩寵を蒙っていたので、それを妬(ねた)むものが彼女に不貞のおこないがあると言い触らした。その相手は太祖の近臣で楊という美少年であった。それが太祖の耳に入って、姜氏と楊とは残酷な拷問をうけた。妬む者の讒言(ざんげん)か、それとも本当に覚えのあることか、その噂(うわさ)はまちまちでいずれとも決定しなかったが、ともかくも二人は有罪と決められて、楊は死罪に行なわれた。姜氏は大雪のふる夕、赤裸にして手足を縛られて、生きながらに渾河(こんが)の流れへ投げ込まれた。
この悲惨な出来事があって以来、大雪のふる夜には、妖麗な白い女の姿が吹雪の中へまぼろしのように現われて、それに出逢うものは命を亡(うしな)うのである。そればかりでなく、その白い影は折りおりに人家へも忍び込んで来て、若い娘を招き去るのである。招かれた娘のゆくえは判らない。彼女は姜氏の幽魂に導かれて、おなじ渾河の水底へ押し沈められてしまうのであると、土地の者は恐れおののいている。その伝説は長く消えないで、渾河地方の雪の夜には妖麗幽怪な姑娘の物語が今もやはり繰返されているのである。現にここの家でも三年前、ちょうど今夜のような吹雪の夜に、十三になる姉娘を誘い出された怖ろしい経験をもっているので、おとといの晩もゆうべも、一家内は安き心もなかった。幸いにきょうは雪もやんだので、まずほっとしていると、夕方からまたもやこんな烈しい吹雪となったので、風にゆられる戸の音にも、天井を走る鼠の音にも、父の老人は弱い魂をおびやかされているのであった。
「ふうむ、どうも不思議だね。」と、堀部君はその奇怪な説明に耳をかたむけた。「じゃあ、ここの家ではかつて娘を取られたことがあるんだね。」
「そうです。」と、李太郎が怖ろしそうに言った。「姉も十三で取られました。妹もことし十三になります。また取られるかも知れません。」
「だって、その雪女はここの家ばかり狙うわけじゃあるまい。近所にも若い娘はたくさんいるだろう。」
「しかし美しい娘、たくさんありません。ここの家の娘、たいそう美しい。わたくし今、見て来ました。」
「そうすると、美しい娘ばかり狙うのか。」
「美しい娘、雪の姑娘に妬まれます。」
「けしからんね。」と、堀部君は蝋燭の火を見つめながら言った。「美しい娘ばかり狙うというのは、まるで我れわれのような幽霊だ。」
李太郎はにっこりともしなかった。彼もこの奇怪な伝説に対して、すこぶる根強い迷信をもっているらしいので、堀部君はおかしくなって来た。
「で、昔からその白い女の正体をたしかに見届けた者はないんだね。」
「いいえ、見た者たくさんあります。あの雪の中に……。」と、李太郎は見えない表を指さした。「白い影のようなものが迷っています。そばへ近寄ったものはみな死にます。」
「それ以上のことは判らないんだね。で、その影のようなものは、戸が閉めてあっても、すうとはいって来るのか。」
「はいって来るときには、怖ろしい音がして戸がこわれます。戸を閉めて防ぐこと出来ません。」
「そうか。」と、堀部君は思わず声を立てて笑い出した。
日本語の判らない老人は、びっくりしたように客の笑い顔をみあげた。李太郎も眼をみはって堀部君の顔を見つめていた。
「ここらにも馬賊はいるだろう。」と、堀部君は訊いた。
「馬賊(マーツェ)、おります。」と、李太郎はうなずいた。
「それだよ。きっとそれだよ。」と、堀部君はやはり笑いながら言った。「馬賊にも限るまいが、とにかくに泥坊の仕業だよ。むかしからそんな伝説のあるのを利用して、白い女に化けて来るんだよ。つまり幽霊の真似をして方々の若い娘をさらって行くのさ。その行くえの判らないというのは、どこか遠いところへ連れて行って、淫売婦か何かに売り飛ばしてしまうからだろう。美しい娘にかぎってさらわれるというのが論より証拠だ。ねえ、そうじゃないか。」
「そうでありましょうか。」と、李太郎はまだ不得心らしい眼色を見せていた。
「お前からここの主人によく話してやれよ。それは渾河に投げ込まれた女の幽霊でもなんでもない。たしかに人間の仕業に相違ない。たしかに泥坊の仕業で、幽霊のふりをして若い娘をさらって行くのだと……。いや、まったくそれに相違ないよ。昔は本当に幽霊が出たかも知れないが、中華民国の今日にそんなものが出るはずがない。幽霊がはいって来るときに、戸がこわれるというのも一つの証拠だ。何かの道具で叩きこわしてはいって来るのさ、ねえ、そうじゃあないか。ほんとうの幽霊ならば何処かの隙間(すきま)からでも自由にすっとはいって来られそうなものだのに、怖ろしい音をさせてはいって来るなどはどうも怪しいよ。それらを考えたら、幽霊の正体も大抵は判りそうなものだが……。」
あっぱれ相手の蒙(もう)をひらいたつもりで、堀部君はここまでひと息にしゃべり続けたが、それは一向に手ごたえがなかった。李太郎は木偶(でく)の坊のようにただきょろりとして、こっちの口と眼の動くのを眺めているばかりで、なんともはっきりした返事をしないので、堀部君は少し焦(じ)れったくなって来た。今どきこんな迷信にとらわれて、あくまでも雪女の怪を信じているのかと思うと、情けなくもあり、ばかばかしくも感じられてならなかった。堀部君は叱るように彼を催促した。
「おい。そのことをここの主人に話して、早く安心させてやれよ。可哀そうに顔の色を変えて心配しているじゃないか。」
叱られて、李太郎はさからわなかった。彼は主人の老人にむかって小声で話しかけた。堀部君もひと通りのシナ語には通じていたので、彼が正直に自分の意見を取次いでいるらしいのに満足して、黙って聞く人の顔色を窺っていると、老人は苦笑いをしてしずかにその頭(かしら)をふった。
「まだ判らないのか。馬鹿だな。」
堀部君は舌打ちした。今度は直接に自分から懇々と言い聞かせたが、老人は暗い顔をしてただ薄笑いをしているばかりで、どうしても、その意見を素直には受け入れないらしいので、堀部君もいよいよ癇癪(かんしゃく)を起した。
「もう勝手にするがいい。いくら言って聞かせても判らないんだから仕方がない。こんな人間だから大事の娘がさらって行かれるんだ。ばかばかしい。」
こっちの機嫌が悪いらしいので、老人は気の毒そうに黙ってしまった。李太郎も手持ち不沙汰のような形でうつむいていた。
「李太郎。もう寝ようよ。雪女でも出て来るといけないから。」と、堀部君は言いだした。
「寝る、よろしい。」
李太郎もすぐに賛成した。老人は挨拶して、自分の部屋の方へ帰った。寝床のむしろを探ってみると、煖炉は丁度いい加減に暖まっているので、堀部君は靴をぬいで寝床へ上がって毛織りの膝掛けを着てごろ寝をしてしまった。李太郎はもう半分以上も燃えてしまった蝋燭の火を細い火縄に移して、それからその蝋燭を吹き消した。火縄は蓬(よもぎ)の葉を細く縒合(よりあわ)せたもので、天井から長く吊り下げてあった。
疲れている堀部君は暖かい寝床の上でいい心持に寝てしまったが、自分の頭の上にある窓の戸を強くゆするような音におどろかされて眼を醒ました。部屋のうちは真っ暗で、細い火縄の火が秋の蛍のように微かに消え残っているばかりである。むこう側の寝床の上には、李太郎が鼾(いびき)を立てて寝入っているらしかった。耳をすまして窺うと、家のうちはしィんとして鼠の走る音も聞えなかったが、表の吹雪はいよいよ吹き暴れて来たらしく、浪のような音を立ててごうごうと吹き寄せていた。窓の戸の揺れたのはこの雪風であることを堀部君はすぐに覚(さと)った。満洲の雪の夜、その寒さと寂しさとには馴れていながらも、堀部君はなんだか眼がさえて再び寝つかれなくなった。
床の上に起き直って、堀部君はマッチをすって、懐中時計を照らしてみると、今夜はもう十二時に近かった。ついでに巻煙草をすいつけて、その一本をすい終った頃に、烈しい吹雪はまたどっと吹き寄せて来て、窓の戸を吹き破られるかと思うように、がたがたとあおられた。宵の話を思い出して、かの雪女が闖入(ちんにゅう)して来る時には、こんな物音がするかも知れないなどと堀部君は考えた。そうして、またもや横になったが、一旦さえた眼はどうしても合わなかった。
「なぜだろう。」
自分は有名の寝坊で、いつも朋輩(ほうばい)たちに笑われているくらいである。なんどきどんな所でも、枕につけばきっと朝までは正体もなく寝てしまうのが例であるのに、今夜にかぎって眠られないのは不思議である。やはりかの雪女の一件が、頭のなかで何かの邪魔をしているのではあるまいか。俺もだんだんシナ人にかぶれて来たかと、堀部君は自分で自分の臆病をあざけったが、また考えてみると、幽霊よりも馬賊の方が恐ろしい。幽霊などは初めから問題にならないが、馬賊は何をするか判らない。日本人が今夜ここに泊り込んだのを知って、夜なかに襲って来ないとも限らない。堀部君は提げ鞄(かばん)からピストルを探り出して、枕もとにおいた。こうなるといよいよ眠られない。いや、眠られない方が本当であるかも知れないと思い直して、堀部君は寝床の上に起き直ってしまった。
寝しずまった村の上に吹雪は小やみもなしに暴れ狂っていた。夜がふけて煖炉の火もだんだん衰えたらしく、堀部君は何だかぞくぞくして来たので、探りながら寝床を這(は)い降りて、まん中の土間へ焚き物の高粱(コーリャン)を取りに行った。土間の隅にはかの土竈(どべっつい)があって、そのそばには幾束の高粱が積み重ねてあることを知っているので、堀部君は探り足でその方角へ進んで行くと、切株の腰掛けにつまずいて危うく転びそうになったので、あわててマッチをすると、その火は物に掴(つか)まれたようにふっと消えてしまった。
その一|刹那(せつな)である。入口の戸にさらさらと物の触れるような音がきこえた。

暗いなかで耳を澄ますと、それは細かい雪の触れる音らしいので、堀部君は自分の神経過敏を笑った。しかもその音は続けてきこえるので、堀部君はなんだか気になってならなかった。さっきから吹きつけている雪の音は、こんなに静かな柔かいものではない。気のせいか、何者かが戸の外へ忍んで来て内を窺っているらしくも思われるので、堀部君はぬき足をして入口の戸のそばへ忍んで行った。戸に耳を押し付けてじっと聞き澄ますと、それは雪の音ではない。どうも何者かがそこに佇(たたず)んでいるらしいので、堀部君はそっと自分の部屋へ引っ返して、枕もとのピストルを掴んだ。それから小声で李太郎を呼び起した。
「おい、起きろ、起きろ。李太郎。」
「あい、あい。」と、李太郎は寝ぼけ声で答えたが、やはりすぐには起き上がりそうもなかった。
「李太郎、早く起きろよ。」と、堀部君はじれて揺り起した。「雪女が来た。」
「あなた、嘘あります。」
「嘘じゃない、早く起きてくれ。」
「ほんとうありますか。」ど、李太郎はあわてて飛び起きた。
「どうも戸の外に何かいるらしい。僕も一緒に行くから、戸をあけてみろ。」
「いけません、いけません。」と、李太郎は制した。「あなた、見ることよろしくない。隠れている、よろしい。」
暗がりで顔は見えないが、その声がひどくふるえているので、かれが異常の恐怖におそわれているらしいのが知られた。堀部君はその肩のあたりを引っ掴んで、寝床から引きずりおろした。
「弱虫め。僕が一緒に行くから大丈夫だ。早くしろ。」
李太郎は探りながら靴をはいて、堀部君に引っ張られて出た。入口の戸は左右へ開くようになっていて、まん中には鍵がかけてあった。そこへ来て、また躊躇(ちゅうちょ)しているらしい彼を小声で叱り励まして、堀部君はその扉をあけさせた。李太郎はふるえながら鍵をはずして、一方の扉をそっと細目にあけると、その隙間から灰のような細かい雪が眼つぶしのようにさっと吹き込んで来た。片手にはピストル、片手はハンカチーフで眼をぬぐいながら、堀部君は扉のあいだから表を覗くと、外は一面に白かった。
どちらから吹いて来る風か知らないが、空も土もただ真っ白な中で、そこにもここにも白い渦が大きい浪のように巻き上がって狂っている。そのほかにはなんの影も見えないので、堀部君は案に相違した。なんにも居ないらしいのに安心して、李太郎は思い切ってその扉を大きく明けると、氷のように寒い風が吹雪と共に狭い土間へ流れ込んで来たので、ふたりは思わず身をすくめる途端に、李太郎は小声であっと言った。そうして、力いっぱいに堀部君の腕をつかんだ。
「あ、あれ、ごらんなさい。」
彼が指さす方角には、白馬が跳(おど)り狂っているような吹雪の渦が見えた。その渦の中心かと思うところに更に、いつそう白い影がぼんやりと浮いていて、それは女の影であるらしく見えたので、堀部君もぎょっとした。ピストルを固く握りしめながら、息を殺して窺っていると、女のような白い影は吹雪に揉まれて右へ左へただよいながら、門内の空地(あきち)をさまよっているのであった。雪煙りかと思って堀部君は眼を据えてきっと見つめていたが、それが煙りかまぼろしか、その正体をたしかめることが出来なかった。しかし、それが人間でないことだけは確かであるので、馬賊の懸念はまず消え失せて、堀部君もピストルを握った拳(こぶし)がすこしゆるむと、家のなかから又もや影のように迷い出たものがあった。
その影は二人のあいだをするりと摺りぬけて、李太郎のあけた扉の隙間から表へふらふらと出ていった。
「あ、姑娘(クーニャン)。」と、李太郎が小声でまた叫んだ。
「ここの家(うち)の娘か。」
あまりの怖ろしさに李太郎はもう口がきけないらしかった。しかしそれが家の娘であるらしいことは容易に想像されたので、堀部君はピストルを持ったままで雪のなかへ追って出ると、娘の白い影は吹雪の渦に呑まれて忽(たちま)ち見えなくなった。
「早く主人に知らせろ。」
李太郎に言い捨てて、堀部君は強情に雪のなかを追って行くと、門のあたりで娘の白い影がまたあらわれた。と思うと、それは浪にさらわれた人のように、雪けむりに巻き込まれて門の外へ投げやられたらしく見えた。門は幸いに低いので、堀部君は半分夢中でそれを乗り越えて、表の往来まで追って出ると、娘の影は大きい楊(やなぎ)の下にまた浮き出した。
「姑娘、姑娘。」と、堀部君は大きい声で呼んだ。「上那児去(シャンナールチユイ)。」
どこへ行く、などと呼びかけても、娘の影は見返りもしなかった。それは風に吹きやられる木の葉のように、何処(どこ)ともなしに迷って行くらしかった。
それでも姑娘を呼びつづけて七、八|間(けん)ほども追って行くと、又ひとしきり烈しい吹雪がどっと吹きまいて来て、堀部君はあやうく倒されそうになったので、そこらにある楊に取り付いてほっとひと息ついた時に、堀部君はさらに怪しいものを見せられた。それはさっき門内の空地にさまよっていた女のような白い影で、娘よりも二、三歩さきに雪のなかを浮いて行くと、娘の影はそれにおくれまいとするように追って行くのであった。うず巻く雪けむりの中にその二つの白い影が消えてあらわれて、よれてもつれて、浮くかと思えば沈み、たゆとうかと思えばまた走って、やがて堀部君の眼のとどかない所へ隠れてしまった。
もう諦めて引っ返して来ると、内には李太郎が蝋燭をとぼして、恐怖に満ちた眼色をしてぼんやりと突っ立っていた。
「姑娘はどうした。」と、堀部君はからだの雪を払いながら訊いた。
「姑娘、おりません。」
堀部君はさらに右の方の部屋をたずねると、主人の老人は寝床から這い落ちたらしい妻を抱えて、土間の上に泣き倒れていた。娘らしい者の姿は見えなかった。
話はこれぎりである。堀部君はあくる朝そこを発って、雪の晴れたのを幸いに、三里ほどの路をたどって劉の家をたずねると、その一家でもゆうべの話をきいて、みな顔色を変えていたそうである。ここらの者はすべて雪女の伝説を信じているらしいということであった。もし堀部君に探偵趣味があり、時間の余裕があったらば、進んでその秘密を探り究めることが出来たかも知れなかったが、不幸にして彼はそれだけの事実をわたしに報告してくれたに過ぎなかった。 
 

 

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シュタイナー教育の背景

 

1 アントロポゾフィー / 光・認識・想像力
忙しく毎日を過ごしていますと、自分はこんなことをしていていいのだろうか、他にもっとやるべきことがあるのではないかという気持ちで、いたたまれなくなることはないでしょうか。何か生きていることの充実を感じさせてくれるようなものが欠けていると。日々の暮らしの中にも、刹那々々に輝く一瞬は、たしかにあるでしょう。しかし、年月はどんどん流れて行き、待っていてくれません。青年時代の、あの無限に広がっていた未来は、どこにあるのか。人生も大方、先の見当がついてしまったように感じながら、しかし、このままではすませたくない、という、あがきに似た気持ちがある。しかし、こういう時こそあらたな出発が可能な時なのです。青春の真っ只中では、嬉しいことも、悲しいことも、あまりに強烈すぎて、何かを見極めようという心の姿勢は起こりにくいものです。それは、それでいいのです。心が体験に忙しい時には、それに没頭すべきなのです。もちろん早くから、感情の起伏を越えて、物事の深みを捉えようとした人もいることでしょう。しかし遅くとも、結局人は物事をはっきり捉えるべき時を迎えます。その時をあいまいにしたまま、再び物質的な日常に戻って生きていることの意味など問うことを止める人もいるでしょう。しかし、そんな人も、何か、心の底に空洞のようなものがあるのを感じていることでしょう。それは、心の中に芽生え、育っていくべきもののためにあいている空洞なのです。こうお話している私もじき四〇歳でして、この辺の実感は分かっているつもりです。
さて、今日は認識と思考の重要性について述べながら、アントロポゾフィーのアウトラインを示そうと思います。回を追って少しずつ内容にまで入っていきますが今日は簡単な導入部という風にご理解いただければ幸いです。
ルードルフ・シュタイナーは、物事を徹底的に考える人でした。それはヨーロッパの思想家によくみうけられる徹底性であるという側面ももっています。そしてまた、いわゆる思想家とは違って、理屈をこねるばかりでなく、並外れた洞察力をシュタイナーはもっていました。すぐれた直観力とか洞察力をもつ人は私たちの身の回りにも時々いますね。でも、今言っているのは、そうした、普通の意味での直観力ではないのです。むしろ私は、たとえば、あいまいな表現の裏に潜む、心の機微を感じ取るような力は、シュタイナーには不足していたと思います。しかし、そうしたいわば文学的な感性が問題なのではありません。シュタイナーの洞察力は、感性を越えた力です。それがどんなものであるかはまた、回を追っておいおいお話しようと思います。なお、今、文学という言葉を口にしましたが、わたしは本来は文学畑の人間です。以前はリルケをやっていて、その次にひらったくいえば、文学理論のようなことをやり、そうしたまわり道をへてからシュタイナーに関わるようになりました。以前は同人誌などにも加わり、創作の真似事や文芸評論のようなことをやっていました。それで文学的な側面が気になるというわけですが、しかし、シュタイナーの本領はそこにあるのではないのです。
さてシュタイナーは現在ユーゴスラビア領にあるクラリエヴェック(Kraljevec)という町に一八六一年に生まれました。この町は、当時はオーストリア・ハンガリー帝国にありました。父親は鉄道駅に勤めていて少年シュタイナーは、早くから機関車の動きに親しんでいました。しかし、一方では、この地方近辺の風光明媚な自然の息吹を存分に吸いながら育ったことも、忘れるべきではないでしょう。少年シュタイナーは幾何学を得意としました。大人になった彼の理論にも、常に視覚的な思考というか、空間的に明晰な区分けのできる思考がみうけられます。彼自身が書いた図式もいっぱい残っていますが、これらは明確な思考の跡を伺わせます。こういった明晰な思考は、シュタイナーの第一の特性です。明晰な思考をシュタイナーがしている、ということは、いくら強調しても、しすぎることはないと思います。
シュタイナーが扱った分野は、実に多岐に亙っています。教育ばかりでなく、哲学、社会学(これは、社会三層化論です)、農学、建築学、医学、生理学、芸術などです。そしてさらに、それらの根底には、彼の並外れた洞察力から得られた人間観と宇宙観があります。それは彼の著書の『神智学』(一九〇四年)や『神秘学概論』(一九一〇年)で公にされました。なお、神智学はドイツ語で、「Theosophie」と書き表しますが、「Theo」は神を表し、「sophie」は英智を表します。「Theo」にロゴスの意味の「logie」をつけると「Theologie」で神学になります。今日のお話のタイトルにあるアントロポゾフィーは「Anthroposophie」でして、あえて訳せば人智学です。「Anthropo」とは、人間を意味します。これに「logie」がつくと「Anthropologie」で、人類学となります。似たような言葉を取り違えないよう、ご説明したわけです。
なお、他にも、彼の四つの福音書論を中心としたキリスト論は、彼の世界観の集大成でもあります。
こうした彼の精神活動の広がりのすべてに善へ向かおうとする意志と、対象をはっきり見てとろうとする認識の意志が貫いています。シュタイナーは感覚世界を越えた世界を洞察しているのですが、しかしこの、地上の感覚世界も決しておろそかにしません。そしてシュタイナーにとって芸術は、感覚世界と感覚を越えた世界をとりもつものです。芸術は、感覚世界、地上のこの世界で光となるわけです。こうして、シュタイナーの提唱したアントロポゾフィーは善へ向かう意志と、対象を明確に認識し、論理化する思考と、感覚世界に光を投ずる芸術とを綜合するものといえます。
これらは、アントロポゾフィーの重要な三つの柱ですので、ここに書きましょう。
・善へ向かう意志
・明確な認識
・芸術
善へ向かう意志などという言い方は、ちょっと現代的な意識からすると気はずかしいですね。現代は何でも屈折したものでないと、うまく相手にとどかないというさかしまの時代です。まともなものはおめでたいものと感ぜられてしまう。しかし、とは言っても、やはり、善なるものへの志向がアントロポゾフィーの重要な要素であることには変わりないのです。
この三つは、シュタイナーの言葉をかりて、別の表現をすれば、宗教(Religion)と、科学(Wissenschaft)と、芸術(Kunst)の綜合となり、これを、アントロポゾフィーは目指しているのです。しかし、こうしたアントロポゾフィーの全体を見ないで、誤解する向きもあります。たとえば、シュタイナーの扱っているものを単なるオカルトと同一視したりする人たちもいます。実際、シュタイナーの本を探して、怪しげな本のコーナーにあるのを見かけて尻込みされた経験をおもちの方もおありでしょう(聴衆、同感の笑い)。しかし、シュタイナーの本は、特に、いわゆるオカルト的なものとは全く異なるものです。それは明言できます。どこが違うかというと、いわゆるオカルト的なものは、善なる意志を欠いています。そこには神秘的なもの、幻想的なものへの愛好はあっても、深い人間理解に基づいた光の輝きはありません。暗い神秘にばかりひかれる人たちも、シュタイナーが述べる精神世界の認識内容を求めて、その本をひもとくことがあります。しかし、彼らは単なる神秘への好奇心で読むのです。そうした人たちは、たとえば、赤ん坊の無邪気な笑顔には、さしたる興味を示さないでしょう。しかし、先に、善なるものへの意志という風に述べたあり方は、いわば、赤ん坊のほほえみを出発点としているともいえるのです。その笑顔に表れる、太陽的なもの、愛の原型のようなものこそが、アントロポゾフィーの根幹なのです。なお私にも子供が二人おりまして、赤ん坊の笑顔は見てきました。単に抽象的にお話しているわけではないのです。この<太陽的なもの>というものは非常に重要ですので心に銘記していただきたいと思います。太陽というと、窓の外で今輝いている太陽を思い浮かべられるかもしれませんが、ここでいう太陽はそれだけではないのです。目には見えないものをも述べています。それは、太陽精神というべきものと関係があります。しかし、植物がその下で育っていく恵みの光、人々がその下で健全に暮らす暖かい日射しを思い浮かべるだけでも、その背後にあるものは、十分捉えられているといえます。
さて、しかしながら、赤ん坊というものは、そのままのあり方では無防備です。純真さの極致のあり方で光輝いていますが、自らはそれを意識していません。そこに、もう一つの柱、認識が加わることによって、大人の自我が、その愛を目指して参加できることになります。
さし出される愛に向かって、すっかり自己をあずけてしまうのが、ふつうにいう宗教であるとすれば、自我を失うことなく対象をはっきり捉えようとするアントロポゾフィーは宗教ではありません。アントロポゾフィーが、精神世界に関して示す認識は、宗教を真に理解する手段となることは確かです。このことはシュタイナー自身が述べています。シュタイナーは、その認識の道を、精神科学と呼んでいます。精神科学とはGeisteswissenschaftと書きます。Geistの科学というわけですが、Geistは「精神」と「霊」の両方を含んでいて、どちらにも訳しきれません。いちおう精神科学と呼ぶことにしておきますが、Geistの部分は、片仮名でガイストとして、新しく日本語にしていくしかないかもしれません。
この精神科学は、精神世界を、科学がもつ厳密さで認識しようとする道です。
この認識の道と並んで、先の、太陽的なものへ向かう意志の存在も実に決定的な意味をもっています。太陽的な育む力を求めるところから教育への関わりも出てきます。暗い神秘主義は、人間の成長を見守り促進しようとする教育とは無縁でしょう。シュタイナーは先に述べた洞察力で人間の成長過程も直観し、そしてそれを理解可能な形で論理化してくれています。詳しくは、五月十四日にお話する予定です。
シュタイナーが教育関係の著作として、最初に書いたのは『精神科学の立場から見た子供の教育』でして、これは、一九〇七年に『ルチファー・グノーシス』という雑誌にのりました。訳も二通りありますね。このタイトルは、新田義之さん監修のものです。高橋さんなら、霊学から見た、というところでしょうか。教育関係の講演は、ヴァルドルフ学校ができた一九一九年以降に集中します。そして、二〇年代にも講演はつづけられます。しかし、その萌芽は、一九〇七年には、出来上がっていたわけです。そして、その頃のシュタイナーには、大きな変化が訪れていたのです。
シュタイナーは、一九〇〇年に壮大な宇宙進化の認識を獲得しました。先に述べた『神秘学概論』に、その宇宙進化論がのっています。この本が出た一九一〇年までの間、この認識は表現しうるまでに熟していったわけです。一九〇〇年にこの認識が獲得されたわけですが、その後、特に一九〇二年以降、次々と重要な認識に至り、一九〇七年には、主要な認識が出揃いました。この一九〇七年に一つの出発点があったわけです。
一方でこの頃、シュタイナーは神智学協会のアニー・ベサントが行なっていた「秘教講座」に出席するのをやめています。やはりこの時に一つの区切りがあったのです。ここで、シュタイナーと神智学協会との関係を明確にしておくことも大切です。思考と認識を重視するシュタイナーの立場がそれによって明らかになるはずです。今日のお話の残りの時間をそのための機会に使いたいと思います。
まず、簡単に言うならば、シュタイナーは初め、神智学協会に加わり、後にそこを出て人智学協会を作りました。神智学協会は特に一九〇六年以降、先に述べた悪しき神秘主義の傾向が強くなりすぎ、一九一三年に、あるきっかけで、シュタイナーは神智学協会から除名されるのです。太陽的なものを志向するシュタイナーが、心霊的な暗い道へ堕落していった神智学協会から離れるのは全く自然でした。しかし、シュタイナーには『神智学』という著作があります。一九〇四年の作です。これは一体どういうことだろうと不思議に思われませんか?実際この著作のタイトルは二通りの誤解を招く恐れをもっています。一つは、シュタイナーが考える真の神智学と他の、神智学を名乗るものとを同一のものと考えてしまう誤解です。一般に手にとられる神智学関係の本は、善なるものへ向かう意志と無縁のものが多いです。それで、シュタイナーも、そんな風なものを書いているのか、という誤解が生じえます。
もう一つは、『神智学』というからには、当時シュタイナーが加盟していた神智学協会の考えや思想が、その中に入り込んでいるだろうと思ってしまう誤解です。そのどちらも間違いです。シュタイナーは、神智学協会系の集会で、ニーチェ論の講演をしたのを皮切りに、神智学協会で定期的に講演を始めました。しかし、これは自伝からも分かるように、秘教的(esoterisch)な言葉で人々に語りうるのには、さし当たって、神智学協会しかなかったからです。神智学の文献は、その方法や姿勢の点で、共感できないことが多かったと、シュタイナーは、自伝で述べています。自分の見解と、神智学とを結びつける可能性を、どこにも見出すことができないでいた、とさえ述べています。ここでいっている神智学は、シュタイナーが、真の神智学として著作に書き、後に人智学、アントロポゾフィーに発展していったものではありません。いわゆる善なる姿勢を欠きがちな神智学であるわけです。
シュタイナーは、一九〇二年、神智学協会ドイツ支部設立の折、その事務長に選出されました。しかし彼はこの支部を設立する会議の席を中座して、神智学協会の会員ではない聴衆を前に、連続講演の一つをしに行きました。その講演のタイトルには、「ひとつの人智学(アントロポゾフィー)」というサブタイトルがついていました。シュタイナーは、アントロポゾフーの考えをそもそも初めからもっていながら、最初の活動の場を当面、神智学協会に求めたというのが正しい理解の仕方でしょう。
一九〇四年に書き、出版した著作『神智学』はそれまでの神智学文献をまとめたものではなく、すべて、シュタイナー自身が体験し、認識したものだと、シュタイナーは述べています。そして、この言葉は、シュタイナーの誠実さを彼の他の著作から感じとっている人なら、信ずることができるでしょう。特にシュタイナーの、厳密な論理性を展開した『自由の哲学』や、ゲーテ論などを読めば、彼の誠実さは分かるでしょう。もっとも、ゲーテ論は訳されていませんし(注一)、『自由の哲学』の訳はちょっと難しくなりすぎました(注二)。しかしその難しい本を手にとって、ごらんになれば、少なくとも、これだけの論理を厳密に展開する人なら、幻想的なことをいうはずがない、うそはないだろうと思う、そういう感じをもたせる役には立つでしょう。シュタイナーが手堅い文献学的業績を残していることも忘れるべきではないでしょう。今、どんどん出版されているシュタイナーの本は秘教的なものが多いです。これは順序が逆ではないかと、私には思われます。神智学協会は、先に述べましたように、段々と誤った道にはまり込んでいったのですが、決定的だったのは、キリストの生まれ変わりだと称して一人のヒンズー教の少年をかつぎ出したことでした。シュタイナーはそれをガンとして認めませんでした。こうして彼は神智学協会を除名されたのです。そうしたひどい錯誤に陥る前からも、会の本質として神智学協会には、アントロポゾフィーにあるような、善なる志向も、明確な認識の意志も足りなかったのです。そもそも、神智学協会は一八七五年、ブラバツキー夫人(HelenaPetrovnaBlavatsky一八三一〜九一)が、オルコットと共にニューヨークで設立したのが始まりですが、そのブラバツキー夫人の著作の書き方が実に、シュタイナーの著作や講演と正反対の性質をもっているのです。シュタイナーはブラバツキーの著作である「シークレット・ドクトリン」などの内容に関しては、大変な直観力を認めながらも、全く思考の形になっていないことを批判しています。玉石混交となっていて、夢想的なものがまじり込んでいるのです。そこには、精神世界を明確な論理に転換する努力が全く欠けているのです。そして、これは決定的なことです。シュタイナーはブラバツキーとの方法の違いを、いくつかの講演で述べています。それも実に、はっきりと、具体的に指摘しているのですが、きょうは、それを詳しく紹介する時ではないでしょう。とにかく、シュタイナーの考えでは、単なる直観力でものを見通そうとするのは太古の人間のあり方であって、現代から未来へ向かう人間は、必ず、十全な論理力を通過しなければならないのです。その論理力と直観力が兼ね合わさって初めて、人間の認識できる領域は確かな形で広がっていくというのです。
シュタイナーの唱えるアントロポゾフィーは、決して、足が地につかない幻想的なものではありません。農業に、医学に、社会学にそして教育にと、その考えは現実世界に英知を還元しようとする姿勢に貫かれています。アントロポゾフィーが生み出した運動芸術、オイリュトミーでも、地についた歩き方の練習が課題になっています。オイリュトミーで目をつぶることが禁ぜられるのは、目覚めた意識を常に保つことが大事だからです。決して盲目的な夢想状態に陥ってはいけないのです。もちろん、芸術的なファンタジーはここでいう夢想とは別のものです。これについては次回お話する予定です。
なお時間がまだ少しありますので、余談に費やそうと思います。
シュタイナーの著作・講演集というものがあるわけですが−つまり、実際に書いたものと、講演記録です。−これは三五〇巻以上あります(聴衆、驚きの声)。このうち、著作は二八巻でして、その他は、ほとんど講演です。もちろん、いくつかの原稿をまとめたものもありますが。彼は生涯−というか、主に一九〇〇年以降、死ぬ一九二五年までの間におよそ六〇〇〇回の講演をしました。正確には五九六五回です。このうち記録に残っているのは、四三〇〇回。活字になっているのは、三八〇〇回分です。ですから、三五〇余巻といっても、まだ五〇〇回分の講演は、出版されていないわけです。これだけの回数の講演でしたから、一日に午前と午後、二度の講演など、ざらでした。これだけでも忙しいのですが、他にも、特に晩年にかけて、シュタイナーは、個人的な相談も沢山受けていたのです。人々が長蛇の列をなして来るのです。フランツ・カフカなども、その一人でした。こうした話は、私に宮沢賢治を思い起こさせます。死ぬ直前まで、農民の施肥の相談を受けつけた賢治をほうふつとさせます。
これだけの量の全集ですから、ドイツ人でも全部読破した人は、いないのではないでしょうか。内容的にも難しいことが多いのです。ステップを踏まないと分からないことも多くて、読んだからといって、すぐ分かるわけではないこともあるのです。ミヒャエル・エンデも、シュタイナーの本を三〇年以上読んできたそうです。もっとも彼の場合、その読み方というのは、一気に集中して読み続けたかと思うと、ある時、ポイと部屋の隅へ投げ出し、何週間かしてから、また読み出す、というものだそうです。そして、社会彫刻家のヨーゼフ・ボイスも四〇年以上読んでいました。このボイスの場合は、シュタイナーの自然科学関係の話に魅力を感じて、その側面から入っていったそうです。
なお、この三五〇余巻の全集が、昨年の末、早稲田大学の図書館に入りました。これも、シュタイナーが、世間に広く認められてきた一つの証しではないかと思います。
私が大学で授業を終えたあと、シュタイナーに興味のあるという学生が近づいてくることが、時々あるのですが、四、五年前には、それが早稲田大学の神秘哲学研究会の会員だったりしました。最近は、シュタイナーに対する興味は、全般に、もう少しまともになってきていると思います。
今日は導入ということで、アウトラインを示したわけですが、これは大切な事柄でもあります。今後の話の時も、常に今日の話を心の底においてお聞き頂ければ、幸いです。
(注一)その後、『ゲーテ的世界観の認識論要綱』が筑摩書房から出た。(一九九一年)
(注二)後に出たイザラ書房の訳は比較するとずっと分かり易い。 
2 アントロポゾフィーにおけるファンタジー
皆さんは、今日、直線や曲線、角張った動き、同心円の動きなどのフォルメンを、子安さんと共に体験して下さったと思います。そうした動きが、精神世界の法則に沿おうとしたものであるというお話も、あったことと思います。今日私は、そのフォルメンとも関連のある、「アントロポゾフィーにおけるファンタジー」のテーマで、お話いたします。
もっとも、フォルメンの実際や、その説明は、子安さんにすっかりお任せしまして、私は、その原理となっているアントロポゾフィーのファンタジーについて、その特質を述べさせていただきます。
それも、どちらかというと、ややアントロポゾフィーの外側から、その輪郭を見ていく、という方法をとろうと思います。
前回は、アントロポゾフィーに、三つの柱があると申し上げました。一つの柱は、<善なるものへ向かう意志>でした。前回も申し上げましたように、こうしたストレートな表現に、なにか抵抗を感ずる方もおられるかもしれませんね。しかし<太陽的なもの>へ向かうその意志の背後には、深い英知が秘められています。その英知は、太古においては日常的な事実だったのですが、ある時を境にして、一般の人からは見失われてしまったものです。その後、それは宗教の中で一種のあこがれに転化して続いてきました。シュタイナーは、その見失われた英知、あこがれの形でぼんやり望まれるしかないものを、再び精神世界の中に、明確な事実として発見したと主張するのです。その詳細が精神科学となったわけです。その再発見の手段は、厳密な方法に基づいた認識の道ですが、これについては、最終回にお話するつもりです。シュタイナーは、善なるもの、<太陽的なもの>の本質を、超感覚的に認識したのです。
アントロポゾフィーの二つめの柱は、<明確な認識>でしたね。それは、今述べました超感覚的な認識の際にも当てはまります。しかし、その実際は、最終日にお話することにいたします。今は、<明確な認識>を、感覚世界に限ってみましょう。日常的な感覚世界においても、明確な思考と認識が求められるのです。
前回は、この柱を、学問、あるいは科学と訳せるWissenschaftに置き換えてみましたね。しかし、科学というなら、自然科学も、明確な認識を目指しています。自然科学は、物質世界の仕組みを、どこまでも追求していく学問ですね。
ところが、明確な認識といっても、たとえば、原爆を落とされた惨状を前に爆弾の威力を数式で計算するような、魂を欠いた認識もありえるわけです。明確な認識に、もし善なる方向づけがなかったら、冷酷な非人間的なものになることだって、ありえるわけです。私は一時期、といってもほんの一ヶ月間ですが、理科系の大学の物理学科に籍をおいたこともありまして、自然科学の成果には、今も強い関心があります。シュタイナーが、ウィーン工科大学に籍をおいた後も、同時代の自然科学の流れとその成果を、常に視野にいれていたことなども、私には違和感なく受けとめられる気がします。
この自然科学がもっている欠陥は、シュタイナーも言うように、物質がすべてであるという考え方に固執していることです。この科学の中には、魂も愛も、構造的に入り込めません。魂や愛は、哲学とか宗教の立場から、外から働きかけるしかありませんね。あるいは、自然科学者が専門の科学とは別に、自らの良心に基づいて、たとえば、核兵器保持に反対を唱える、という風になります。遺伝子工学や臓器移植にまつわる問題でも、同じことです。人間を物質的にしか捉えられない医学自体、自然科学自体が、深い愛の問題や、善なるものを扱うことは、本来無理があるし、矛盾していることなのです。
自然科学が、宗教や、哲学、そして芸術などと、全く別個のものになってしまった時代の流れをシュタイナーは指摘しています。こうした状況は、その時代の流れに起因しているわけです。
精神科学の場合、アントロポゾフィーの場合は、これとは様相を異にします。
二つめの柱<明確な認識>は、一つめの柱<善なるものへ向かう意志>によって貫かれています。それは善なる方向づけを身におびています。そして、<善なるものへ向かう意志>も、冒頭に述べましたように、シュタイナーによって、超感覚的に認識された英知であるわけです。それは、単なる情緒に基づくものではなく、明確な認識から生まれているのです。
このように、一つめの柱と、二つめの柱は、別々に立っているのではなく、互いが互いを生み出しているわけです。
三つめの柱は、<芸術>でした。この芸術も、やはり<善なるものへ向かう意志>、<太陽的なもの>に貫かれた芸術です。つまり、アントロポゾフィーの第三の柱<芸術>は、第一の柱<善なるものへ向かう意志>に貫かれています。そしてまた、シュタイナーは、芸術の本質も、超感覚的に認識するわけです。話がやや抽象的になってきましたから、その内容まで申し上げましょうか。彼によれば、芸術作品は、感覚世界を越えた精神の光を宿らせているものなのです。それは、精神世界から来る光を帯びています。もっと具体的に申し上げましょうか。芸術は、シュタイナーによれば、人間のエーテル体という、微妙な、目には見えないけれども実在する生命力の担い手に、働きかけてくるものなのです。芸術は、人間のエーテル体に働きかけるというわけです。彼は、芸術の本質を、そのように認識したのです。ですから、第三の柱<芸術>は、このような超感覚的な形ではありますが、第二の柱<明確な認識>によって照らし出されている、ということになります。
このように、アントロポゾフィーの三つの柱は互いに有機的に関連し合っています。
ファンタジーの話に入る前に、このように長々と前置きに時間を費やしましたのも、ファンタジーや芸術が、アントロポゾフィーでは、それだけで独立したものではないことを、知っていただきたかったからです。現代は、箇条書き的に並べるだけの教え方、そして覚え方が蔓延していますので、注意を促そうと思ったまでです。
さて、今、善なる意志に貫かれた芸術と申し上げましたが、現代芸術の多くは、必ずしもこの要件を満たしません。シュタイナーが芸術作品という時、これまでの、伝統の中で、模範となるものが念頭にあるのは、当然ですね。それは、古代ギリシャ・ローマの芸術や、ルネッサンスの巨匠時代のもの、あるいは古典主義のもの、などです。もちろんシュタイナーの視点は、単に古いものはいいものだとか、昔はよかった、というところにあるのではありません。彼はいつも未来に向かっている人です。ただ、人類の文化遺産は、長大な時間と英知を注がれて出来たものでして、そこにとり上げるべきものが多いということなのです。
たとえば、ホメロスの詩に、シュタイナーは精神世界の秘密を見いだします。ミケランジェロの彫刻にも、精神世界を直観しえる者だけが刻み込める英知をみいだします。巨匠時代の画家が描く天使は、空間の秘密の力を知る者だけがなしうる配置で、宙に浮かんでいます。これが後代の画家の手にかかると、天使は今にも落ちてしまいそうに見えると、シュタイナーは言います。もちろん偉大な芸術家たちが、超感覚的な認識を行うための修業の道を歩んだというのではなく、当時の芸術家たちの精神には、自然にそのような直観、ひらめきの訪れがあったということです。当時の芸術作品は、精神世界の光を、特に明確な形で地上へもたらしていたと、シュタイナーは考えるのです。
そして、シュタイナーによれば、現代、「芸術」として通用しているものの多くは、芸術の価値をもたないことになります。一九〇〇年以降、つまり二〇世紀に入ってから、芸術家は、自分のファンタジーが作品を生み出しているのだという自意識をもつだけになってしまった。精神世界のことは念頭になくなってしまったと、シュタイナーは言います。たとえば、目に映る事物の表面だけを描こうとする自然主義は、彼によって、唯物的であるとの烙印を捺されています。奥深い精神の秘密を作品に込めることのできた芸術家のみが、模範となるわけです。その観点で、音楽ではワーグナーが、後代のものではありますが、高く評価されています。
それは、言葉の芸術家であるゲーテについても言えることです。シュタイナーは、ゲーテから多くのものを吸収しました。といっても、ふつうの意味で、ゲーテから影響を受けた、という風には言えないと思います。たとえば、ニーチェが、初期にショーペンハウエルから影響を受けたとか、そのショーペンハウエルが、東洋的な思想の影響を受けているとかいうのと、同じようには言えないと思います。
影響を受けるという場合には、ものの感じ方に近しいものがあり、その上、自分がぼんやり感じていた方向性をはっきり示されたような時のことをいうのでしょう。しかし、シュタイナーの場合は、単純に、そうは言えないのです。それは、シュタイナーが、超感覚的にゲーテ自身や、ゲーテの作品を洞察し、認識したという点で、違うのです。いわば、感情的なものを介した影響関係だけではなく、事実認識がそれに加味されている、ということなのです。ゲーテの素質が、一体どのような過去に由来しているのか、といったことをシュタイナーは知ってしまうのです。それは再生とか、秘儀参入とかいう言葉と関連のあることなのですが、これはまた、別の機会にお話しましょう。とにかくシュタイナーはゲーテの作品の内には、宇宙の摂理や秘密の多くを見てとるのです。たとえば、『メールヒェン、「緑の蛇と百合姫のメールヒェン」に開示されたゲーテの精神』(R・シュタイナー著、人智学出版社刊)などに、その一端が示されています。
さて、しかし、ドイツ文学の世界では、アンチ・ゲーテというか、ゲーテ嫌いの流れがあります。これは別に、一つの文学的な流派になっているわけではなく、漠然としたものです。一番簡単に言えば、権威に対する反発です(聴衆、笑い)。しかし、権威と言ってしまうと、ゲーテに対するマイナスのイメージも加わりますが、そのイメージを取って言えば、偉大な光に対する反発、という風に言えましょう。偉大な太陽の、明るい健全さを厭う屈折です。こうした感じ方というものは、ドイツ文学に限らず、現代の世界には、いろいろな形で存在していますね。実は、私にも、かつてはそのような感じ方に染まっていた一時期がありました。
この辺の話になりますと、アントロポゾフィーを外側から見る立場も導入することになります。一つの考えの中に埋没していては見えない輪郭が、これではっきりするかもしれませんので、敢えて述べることにします。
シュタイナーも、若い頃、アンチ・ゲーテの芸術グループに加わってみて、彼らの感じ方をつかもうとした時代がありました。そのような柔軟な時代がありました。デレ・グラツィエ家で行われた反ゲーテ主義者たちの集まりが、それです。デレ・グラツィエを評して、シュタイナーは自伝の中で、次のように言っています。なお、デレ・グラツィエは女性です。「彼女は自作を朗読し、確固たる言葉使いで彼女の人生観を語り、この世界観によって人間生活を照らし出した。」−いいですか、この後に注意して下さい−「それは太陽の光による照明ではなかった。そこにあったのは、陰欝な月光であり、不穏な曇天であった。しかし、その下に生きる人間たちの住処からは、人間を焼き尽くす情熱と幻想の炎が、闇に向かって高く燃え上がっていた。」
これは、翻訳で出ている『シュタイナー自伝』の上巻の一二四ページにあります。
私の知っている、日本人のドイツ文学研究者や、詩人や、芸術家の中にも、ゲーテ嫌いの人はいます。どんな人たちかと言いますと、カフカやムシルが好きだったり、神秘思想に密かな興味を抱き続けるような人たちです。あるいは、強い自我意識をもっていて、神のような存在が自分の上にあることに我慢ができない人たちです。ニヒリズムの感覚に親しい人たちです。こうした人たちの、ゲーテに対する反発は、単に権威に対する反発というよりは、<太陽的なもの>に対する反発と言えましょう。それは、シュタイナー自身が、いみじくもグラツィエを評して述べたように、「陰欝な月光」で象徴されうるあり方です。月の光なんですね。ここに、太陽と月という対立が出てきているわけです。「人間を焼き尽くす情念と幻想の炎」という形容と合わせ考えれば、ここでシュタイナーが、ルツィファー的な力を思い浮かべていたことは確かです。ルツィファーというのは、ルシファーとか、ルシフェルとか言うこともあります。このルツィファーについては、今日、またあとで述べようと思います。ここでは比喩的に、<太陽的なもの>に対するアナーキーな反発、というにとどめておきます。比喩を用いるなら、人間の上に位置する神は、天にあって、人間の上から光を注ぐ太陽にたとえられますね。
さて、アンチ・ゲーテの彼らは、いわば人間自我を、一つの秩序の拘束の下におこうとする力に対し反発する、精神的アナーキストであるとも言えます。彼らはアントロポゾフィーの<太陽的>な性質にも反発することでしょう。太陽に反発する月、という風に比喩できる対立です。こうした感覚が、特に現代の芸術運動の中に存在していることを、はっきり捉えておかないと、アントロポゾフィーの芸術の輪郭は分からないと思います。<太陽的なもの>の外側には闇の力や、屈折や、ニヒリズムや、幻想や夢想の世界が、あるのです。アントロポゾフィーの芸術は、少なくとも、それらを、肯定する形では含んでいないのです。先ほど申し上げました、善なる意志に貫かれた芸術とは、こういうことを意味しているのです。
さて、芸術活動にはファンタジーが必要とされます。このファンタジーも、シュタイナー、そしてアントロポゾフィーにあっては、幻想的なものは排除されています。特に最近フアンタジーという言葉が氾濫していますね。現代にファンタジーと言うとSFファンタジーのような、幻想的なものも含めて考えられていますが、アントロポゾフィーで言うファンタジーは、勝手気ままに現実を逸脱する夢想の力とは、全く違うのです。特に、認識との関連で言うなら、アントロポゾフィーのファンタジーは、まずは、この地上の感覚世界を十全に感じとり、認識することを目指します。まずは、です。もちろん、フォルメンの練習や、オイリュトミーでは、感覚世界を越えた精神世界との結びつきが考えられています。しかし、その結びつきが、幻想的なものとならないためにも、感覚世界をはっきり認識する必要があるわけです。
その感覚は、ふつう五感、すなわち、眼で見る視覚、耳で聞く聴覚、鼻でかぐ嗅覚、舌で味わう味覚、肌で触れる触覚の五つに区分されていますね。しかし、シュタイナーは、彼の洞察力によって、感覚を十二に分けました。今ここに挙げました五感の他に、温度感覚、自我感知感覚、思想感知感覚、言語感覚、平衡感覚、運動感覚、生命感覚の七つで、計十二です。なお、この訳語は新田義之さんに従いました。これらは、『教育の基礎としての一般人間学』に出ています。これらの感覚のうち、一見して分からないもの、あるいは分かりにくいものもありますね。触覚と温度感覚の区別は分かりますね。温度感覚は熱を感ずるのであって、触るのとは違います。自我感知感覚というのが、分かりにくいですね。これは、自分の自我を感ずるのではありません。目の前に人間が立ったとき、その相手の自我を感ずる感覚です。こういう感覚が特別にあるわけです。相手に対して、意識はされませんが、好感―反感―好感、という風に目まぐるしく反応しつつ、その自我を感知しているのです。これは『一般人間学』にある通りです。思想感知感覚は、考えが、身振りでも捉えられることに表れています。言葉がなくとも、身振りでも考えが通じますね。それを捉えているのが、思想感知感覚です。言語感覚というのが、言葉を捉える感覚です。運動感覚は、自分の体が静止しているのか、動いているのかを感知します。生命感覚は、自分の肉体の状態を感知する感覚です。十二の感覚の、十二という数にも、実は意味があります。人は、これらの感覚を用いて、夢想的な逸脱をせずに、現実のあり方を十全に感じとっていくべきなのです。
さて私たちは、現代にあって、様々な幻想的なファンタジーに取り巻かれています。特に子供を取り巻く環境には、すさまじいものがあります。子供が、ファミコン、テレビゲームの類の展開する、擬似的な現実にすっかり捉われてしまうような事態は、ぜひ避けたいところです。特に、周囲の現実を模倣によって写しとっている第一・七年期の子供の場合には、ぜひとも避けるべきです。以前、新聞で読んだのですが、赤坊の時から子守り代わりにテレビを見せ続けていたために、テレビの世界と、現実の世界の区別がつかなくなるという障害が、外国で報告されていたことがありました。
もっとも、大人の場合は、またちょっと異なります。大人は、別に考えなくてはなりません。自我がすっかり一人歩きし始めた大人の場合は、自分で選択すべきです。そしてまた、ある種の大人たちは、現実と非現実の混淆を目指すことまでします。現実逃避に暗い喜びを感じ、幻想的なものを愛好する、その種の人達にとっては、現実と非現実の混淆は、一種の理想郷でしょう。私もかつては、破滅型の人間だったことがあるので、その辺の機微は分かっているつもりです。彼らの価値観からすれば、それも世界の拡大なのかもしれません。しかし、それは、アントロポゾフィーの第一の柱である、<善なるものへ向かう意志>と抵触します。この第一の柱は、シュタイナーにとっては、宇宙の進化と結びついた、大きな展望、大きなパースペクティブのもとに捉らえられています。それは初めにお話した、英知でもあります。その展望は、『神秘学概論』の「宇宙と人間の進化」で述べられています。これについても、また日を改めて述べるつもりです。その展望の下で、非現実的な力、幻想的な力は、<太陽的なもの>に対抗する、一種の影の力として捉えられています。ここで、やはり単純な善と悪の二元論を思い浮かべるべきではないでしょう。シュタイナーにあっては、<影の力>も、宇宙進化に必要な力なのです。それは元々、<太陽的なもの>の根源から生まれ出たものでして、絶対的な対立を作っているのではないのです。影の力は、乗り越こえられるために存在しているのです。そうした力を、シュタイナーはルツィファー(Luzifer)と、アーリマン(Ahriman)という名で呼んでいます。これらの名は、教育関係の訳書にも出て来るので、ちょっと触れるべきでしょう。しかしごく簡単に説明します。ルツィファーとは、人を陶酔させる力、何事かに夢中にさせる力、夢想的にさせる力のことです。アーリマンとは、人の心を冷たくさせる力、唯物主義やテクノロジーをめぐって働く、非生命的な力のことです。この問題は、秘教的な内容にまで入り込むことになってしまいますので、ちょっとこのくらいにしておきます。
さて、ファンタジーの問題に戻ります。先程、現代ではファンタジーの名の下に、現実を逸脱する幻想的なファンタジーも混じり込んでいると申し上げました。そして、現実をしっかり捉えるファンタジーの存在を、アントロポゾフィーのファンタジーとの関わりで、紹介しました。この二つのファンタジーは、一人の芸術家の中で、はっきり分けられないこともあります。しかし、ファンタジーの動き方を注意深くみていると、二つの方向が、見えてきます。それを、私流に図示すると、こんな風になるでしょう。これはシュタイナーのではなくて、私の考えです。物質的現実を白で書きます。ファンタジーの力を黄色で表します(このページでは人と地面が現実、その他がファンタジーの力)。すると、二つのファンタジーは、このように画き分けられます。
2つの想像力の働き方の違いを図示
上の図の凹凸は現実を表します。存在するのだけれど、目には見えていない現実が凹の空洞の部分です。右端に立っている人は、ファンタジーを働かして、その見えない部分を補っています。
下の図では、中心になっている人から、ファンタジーが渦状に湧き起こっています。現実の記憶などの断片が、その渦の所々に散在しています。土台となる現実を失って、このような端切れとなったものを、勝手気ままなファンタジーの渦からひょいと口に出せば、それは突飛な思い付きとなります。ファンシイ、ドイツ語ならファンタステライです。右下の所で固まっているものがありますね。記憶の断片、現実の断片が、再構成されて、第二の現実となったものです。ファンタジーの渦の中で、遊びのルールに基づいて、再構成されたものです。トールキンなどは、こうした第二の現実を、高く評価しますね。彼は、こういった意味でのファンタジーを、強く推奨しています。
現実を写実しようとするリアリズムが、この上の方で、人間の内から湧き出てくるものを重視するロマンティシズムが、下の方のファンタジーだ、という風にも言えるかもしれませんね。リアリズムの後に来るシュールリアリズムは、デフォルメやシンボルを通じて、再び、こちらの下の、混沌の中へ入り込んだと考えられます。また、ちょっと異なる対比ですが、推理小説は上の方ですね。事実の間を想像力で埋めていくのが、推理小説の読み方ですから。SF小説は、ホジソンあたりのは、下の方ですね。しかし、上の図が、こうなる場合もあります。
つまり、現実をファンタジーが豊かにしているケースです。現実を豊かに捉えるポエジーが呼び起こされれば、そのファンタジーは、現実に生命を吹き込んでいることにならないでしょうか。それは、現実を本来の姿で捉えているのかもしれません。たとえば、たわわに実った稲の穂に風が吹き付けて、稲田が波状にうねっているとします。その金色のうねりをながら、夕焼けに輝きつつ、うねっている金色の海を想像するとします。
そして、その壮大なイメージの中で、この世を存在せしめているものに対する驚異の念が湧き起こると同時に、豊かな実りの実感が迫ってくるような時、このファンタジーが働いているといえましょう。私は、こういうファンタジーを<想像力>と呼ぶことにしています。一方、現実を逸脱する渦の方は、<空想力>という風に区別しています。
そして私は、アントロポゾフィーのファンタジーは、<想像力>であると考えます。その<想像力>は、今述べたような、感覚世界を十全に感じとることだけに用いられるのではありません。それは、感覚の背後にある、超感覚的な世界とも、健全な関わりをもつことになります。健全に関わるというのは、精神世界に存在する法則に沿って、体や思いを働かせるということです。その働きも<想像力>です。なぜなら、目には見えなくとも実在すると考えられている現実を、その働きは目指しているのですから。
最終回にお話する行の場合とは違って、はっきり意識に昇らないのですが、ファンタジーを働かす時、芸術活動をする時、フォルメンやオイリュトミーをする時、精神世界との健やかな、太陽的なつながりが出来ているという風にアントロポゾフィーでは考えているのです。
具体的に言うなら、オイリュトミストの上松恵津子さんは、オイリュトミーで皆がフォルメンを描いたあと、こう言ってました。今の皆さんの動きは宇宙のエーテルに永遠に刻み込まれましたと。エーテル界というものが物質界と重なって考えられているのですが、これについては、五月二一日に、人間の構成要素、エーテル体やアストラル体についてお話する時に、説明しようと思います。
しかし、ここまでは一方的に超感覚的な認識とか、認識事実とか申し上げてきましたが、これらは感覚には捉えられないものです。目に見えないものを扱っているというなら、それは<空想>と、どう区別できるのかとお考えになる方もおられるでしょう。それも、ひょっとしたら、下の図の渦の中にある事柄なのではないかと。これは、今後のお話とも関連する重大な問題です。その問題は、今後繰り返し吟味しなくてはならないと思います。とりあえず今、申し上げられることは、空想の渦の中で作られるものの中には、太陽の輝きではなく、おぼろ月の光が込められている、ということです。それは特に精神世界に対しては、怪奇的なイメージ、あるいは逆にことさら美的なイメージをこしらえ上げるでしょう。アントロポゾフィーが精神世界についてもっている認識を今後展開して行く中で、皆さん御自身が、その辺を吟味していっていただきたいと思います。それはやはり、こうである、と押し付けられるのではなく、御自身で判断していただきたいことなのです。
これで今日の主要な話は、おしまいです。これは余談としてお話しますが、ミヒャエル・エンデのファンタジーは、<想像力>、<空想力>のどちらだと思いますか。彼のファンタジーは、はっきりどちらともいえない包括的なものですね。しかし作品を見ると『はてしない物語』は、第二の現実、ファンタージェン国が主な舞台になっているという意味で<空想>的ですね。しかし『モモ』はどうでしょうか。『モモ』は上の図の方、<想像>的な要素が強いのではないでしょうか(聴衆の中に、うなずく顔あり)。我々があまりに忙しく、いらいらして人間性を失っているという現実を、ハッと気付かせてくれるという意味で、<想像>的だと思います。彼は<空想力>、<想像力>、ともに兼ね備えた作家だと思います。しかし、彼のインタビュー記事を読んだり、実際に会って話を聞いてみると、どうも<空想力>の方が、<想像力>よりも優勢のような気がしますね。この辺から、エンデが正統なアントロポゾフィーから外れていると言う向きも出てくるのですが、そういうことは、あまり杓子定規に考えなくでもいいことでしょう。
なお、次回はいよいよ、「子供の発達―人の一生」のテーマでお話いたします。その後に続く話のテーマをざっと申し上げますと、五月二一日は「人間の構成要素」です。子供の発達の話で出てくるエーテル体とかアストラル体の説明を致します。五月二八日は「覚醒と睡眠、そして夢」、六月四日は「生と死」です。このあたりからは『テオゾフィー』の内容が加わってきます。十一日は「再生」、十八日は「第五文化期の課題(歴史的展望)」、二五日の最終日は「認識の小道」の予定です。 
3 子供の発達 / 人の一生
前にも申し上げました通り、シュタイナーは、およそ六千回近い講演をしています。正確には五九六五回です。これがもし、五九六三でしたら、〈たくさん話して五九六三(ごくろうさん)〉となったところですが(聴衆、笑い)、まあ、〈五九六三(ごくろうさん)、あと二回〉というところでしょうか。
これらの講演の中でシュタイナーは、実にさまざまなことをテーマにしています。しかし、農学と並んで、教育関係の話は、その効果が比較的目につきやすい点で、他のテーマと異なっています。
日本は世界的にも屈指の教育国でありまして、文盲率が極めて低く、計算力も高いという面では、すぐれているように見えるのですが、反面、皆さんご存じのように、いろいろな問題が起こっています。しかし、どこに問題があるのか、ということを見通すことは、普通の手段では、とても難しい。見通そうと思う私たち自身、同じような教育を受けた結果を背負っているからです。個別の体験から、あれは厭な思いをしたから良くなかった、とは言えますが、自分では気がつきにくい影響に関しては、お手上げです。
厭な思いといえば、テストがあります。私事になりますが、たとえば八〇才になる私の父は、いまだに時折、試験の夢を見てうなされるといいます。六、七〇年前の教育の悪夢が、いまだに蘇ってくるのです。私も試験の夢を時折見ますが、教壇に立つようになってからは、試験をする立場の夢に変わりました。しかし、それもやはり悪夢でして、もう試験が始まっている時間なのに、試験場の教室が見つからないのです。右往左往して焦っている夢です。時計の針の歩みに苦しめられているわけですね。
自分が受けた教育の結果の中に埋まってしまって、影響が自分では分らないほど根深い場合は、さらに深刻かもしれません。しかし、分る範囲で、たとえば、テストは良くないな、自分の子はテストで苦しまない教育をうけさせたいな、と思うことはできます。もっとも、周囲には、受験競争がすっかり身にしみ込んでしまっている人も多く見うけられます。年配の人にもそういう人がいますね。戦前にも似たようなことはあったわけでして、飛び級する秀才へのあこがれや、知能指数が高いことを無条件に肯定する人たちがいます。私の場合も、娘には知育の重圧を体験させまいと思っていますのに、遊びに行った家内の実家の義父は、五才の娘の頭を撫でながら言うのです。
「お前はお利口だ。学校へ行ったらな、試験というのがあって、頑張らなくちゃいかんのだぞ。点数が悪いと怒られるんだぞ」。
そばで、ひやひやしながら聞いていた私は、「試験なんか受けなくてもいいんだよ」というのが精一杯でした。
しかし知育偏重は、日本に限らず、世界の教育全体の問題です。そして歴史的には、ヨーロッパでは、ドクター(博士)の養成が教育の終着点となった頃に、始まります。中世に始まり、変化しながらも現代まで続いています。日本にも、その流れが入ってきているわけです。多くの子供が教育を受ける機会を得るようになった現代、そうした教育の弊害がクローズ・アップされてきたのです。一九二三年のシュタイナーの講演に、『現代の精神生活と教育』というテーマのものがあります。これは翻訳が『現代の教育はどうあるべきか』というタイトルで人智学出版社から出ています。訳には問題もありますが。その講演の中で、すでにシュタイナーは、こう述べています。
「こんにち一般に、文明の諸状況が急激に変化している様子が感ぜられますし、社会生活を過ごすための設備として、新奇さや、さらなる潤沢さを考える必要に迫られている風にも感ぜられます」。つまり、文明の状況の変化を指摘しているわけですね。シュタイナーは、さらにこう述べています。「ちょっと前まではまだなかったことですが、こんにちでは、すでに子供が、これまでとは異なる存在になってしまったことが感ぜられます。こんにち老人たちは、若者が以前よりも、ずっと、付き合いづらくなっていると感じています」(第二講演)。
こうシュタイナーは、一九二三年の時点で述べているのですが、現在は、この時からまた六〇年以上たっており、その間、「文明の諸状況」は著しく変化しました。ドイツでは、この講演のあった一九二三年に、ラジオの正式放送が始まったばかりでした。日本では一九二五年です。ちなみに、日本のテレビ放送は一九五三年です。事情はそれぞれ異なりますが、現在、世界の約八割の国でテレビ放送が行なわれています。子供の心の中から、ゆっくりとイメージを起こさせるような環境は、ますます消えていってます。その場だけの刹那的な反応が、ますます蔓延していってます。
機械文明の進歩自体は、文明の流れの必然のうちにあるので、否定すべきではありません。シュタイナーも否定していません。しかし、一方で、その流れに流されるままでなく、守り築いていくべき人間の内面の領域も、あるのです。この機械文明には、人間の本性に対する破壊的な力が潜んでいるのです。その取り扱いを誤ると、あらゆる教育機関、とりわけ子供の教育の中へ、この破壊的な力が混じり込むだろうと、シュタイナーは一九一七年の、ある講演の中で警告しています。これは翻訳はありません。全集番号177の講演集です(72〜73ページ)。同じ箇所で、その破壊力が、商業主義や、人間の衝動を介して、とりわけ人間関係を破壊していくことが、述べられています。この発言は、実に七〇年後の日本の現実を、よく言い当ててはいないでしょうか。全く、人間関係の破壊は現実となっています。他人が何をしていても気にしない、とがめない。人が殴られていても、知らん顔という都会の人間関係に、それは顕著ですね。外から見ても、心の動きがよく分らない若者たちが社会に出て、年配の人を戸惑わせています。私が毎年四月に迎える大学の新入生たちは、すでに六年、三年、三年の計十二年もの学校教育、現代の知育を受けてきた、その結果でありまして、毎年、日本の教育が作り出した言わば「作品」を、見せつけられているわけです。音楽とか文学方面の学生はまだしもですが、それ以外の分野の学生に授業で接した時に、その教育の傷跡を強く感じます。授業と直接関係ない話で内容をふくらませようとしても、聞いていてくれません。脇道に逸れたとたん、横をむいておしゃべりを始めます。彼らは一体、どうして、そんな風になってしまったのでしょうか。彼らは、独立した意志が生まれてもよい年代なのに、卒業して社会に出る時も、世間が認知しているような道に自分の選択を合わせてしまいます。しかし、商社などに実例を知っていますが、社内で試験をひんぱんに行い、昇進と関連づけている企業も多いです。テスト教育を受けた者たちが、社会に出てからも、テストを受け続けるのです。すっかり、それに適応してしまっている人も、私は見知っています。しかし、そうした人の日常には、生きていることの本当の意味を問うたり、生きていることの感動を感ずる時が見うけられません。極めて優秀な営業マンで、競争原理だけを人生観にするような人もいるかもしれませんが、それでは退職後の人生には、何の意味もなくなってしまいますね。そのような、いわばツッパった生き方が一方にあるとすると、他方では、逆に、どうせ人間、みんな結局死んでしまうんだ、という厭世観をもつ人々も、現代は生んでいます。たしかに人間には、どんな風に考えることも許される精神の自由が与えられています。しかし、自己の存在が、この世に灯った一つの明かり、一つの燃えている明かりであるとするなら、その自由を、競争や諦めを選択する自由に用いることは、なんとも、もったいない不完全燃焼と言えましょう。
シュタイナーは、人間の本質や、世界のありようを洞察することによって、人生の意味を考える手がかりを提供しています。その意味の根底には、これまでも申し上げてきましたように、太陽の日射しに象徴されるような、暖かさがあります。それは、心を傷つけるものから人を守るというような消極的な面だけでなく、心の動きの揺れを鎮めていく方向で、ものに動じないで障害を乗り越えていくといった、積極的な面ももっています。その手段の一つが、人間存在の、冷静な認識であるわけです。もちろん冷静といっても、冷たいのではありません。それは、暖かい人間関係や、暖かい社会、そして軋轢のない家庭の団欒につながりうる認識であるわけです。
さて、シュタイナーは、人間の体に起こる目には見えない変化に注目するのですが、その変化は、劇的に起こる時は、目にも見えてきます。その一つが歯の抜け替わりです。歯牙交替という風にも言います。乳歯が抜け、永久歯が生え出す時期です。それは、個人差はありますが、およそ七才の頃です。それからもう一つは、男の子なら、声変わりで示されるような、第二次性徴が現われてくる時期です。いわば思春期の時期でして、これも個人差はありますが、十四才を中心にして前後十二才、十五才くらいです。私の場合は、十二才半でした。中学に入る前の春休み中でした。この声変わりは、はっきりした形では、男の子しか体験しないことですが、これは男の子にとって、とても大きな出来事なんです。自分が違う人間になったような気がするんですね。友達でも、急に別人になったように感ずる。同じ顔をしているのに、突然といっていいくらいに急に子供の声から、大人の太い声になってしまうのですから。思い出しますと、二五年ほど前、中学三年の五〇名あまりの、男子ばかりのクラスで、その一年間、最後まで声変わりをしなかったのは、たった一人でした。名前も覚えています。後藤という生徒でした(聴衆、笑い)。一人、キンキン声のままでした。中三ですから、十四、五才です。その頃は、ほとんど声変わりが済んでいるわけです。
この歯の抜け替わり、歯牙交替と、思春期の二つの時期が、感覚にも捉えられる形で大きな変化がある時です。その後、この二つみたいに、はっきり外から分るのではありませんが、二一才の頃に、もう一つ大切な変化の時があります。七才、十四才、二一才と、およそ七年おきのこの変化を、シュタイナーは重視するわけです。二一才のあと、特にまた、あり方がはっきり違ってくるのは、四二才ごろであると、シュタイナーは言っています。これはやはり翻訳がないのですが、全集番号で243の第六講演です。二一才から四二才までは、もちろん七年おきの刻みはあるのですが、かなり一体化して見える。四二才以降、四九才、五六才、六三才と、また刻まれていって六三才は、人生の、ある種の大きな節目であるということです。その歳にならないと、人生を見通す力が完成しないということです。もっとも、これは、普通の意味の洞察力のことではありません。シュタイナーは、満六四才で亡くなりましたから、彼にしても、真に見通す力が完成したのは、最晩年であったわけです。ですから、何事もあわてることはありません。教育も、あわててはいけません。早期教育はすべて、時が満ちてから生まれて来るべきものを、早産させるばかりです。
今申し上げました変化のうち、学校教育と関係のある、七才、十四才、二一才の変化を見てみましょう。今日は、何もかも話すわけにはいきませんから、ごく基本的な考え方を紹介するにとどめます。しかし、その最初の一歩は、実に大切ですし、現代の考え方からすれば、大変大きな一歩であり、飛躍です。今日は、その一歩を踏んでみるわけです。すでにシュタイナー教育の本で、このあたりの知識をおもちの方でも、確認することは、意味のあることですので、お聞きになりながら、ご検討ください。
人間は、この世に生まれてから、およそ三才までは、大きな力の働きかけを受けています。その力のお陰で、幼児の肉体は急速な成長が可能になっています。実は、地上に生まれてから三年間という、この長さにも、ある意味があります。イエスが洗礼を受けて死ぬまでの期間が、三年間でした。洗礼の時、イエスはキリスト存在を宿したと考えます。キリストのような高次の存在は、地上に三年間しかいれないわけでして、大きな力に働きかけられている時期が三年間であることと、それは関連があるのです。記憶がほとんど残らないこの時期には、想起のような知的な力が及ばない、大きな力が働いていたわけです。精神分析では逆行催眠をかけて、その頃の記憶も呼び出せると聞いていますが、低い意識状態ではなくて、普通の覚醒状態で思い出せない、というところが肝腎なのです。言葉を覚える以前の幼児は、太陽的な力のさなかにあるのです。いわば、比喩的に言うなら、アダムとイブが知恵の木の実を食べて、追放される前の、楽園の中にいる存在形態です。天使のような赤ん坊の笑顔を見ると、そのへんが実感されませんか。もっとも、言葉をしゃべらない幼児でも、大人から見る限りでは、いたずらと思えることもするわけですから、天使というより、半ば妖精に近い存在でしょうか。私たちが何事かを行為すれば、そのツケは後で回ってきます。報いがきます。しかし、この時期に幼児が何か行為をしても、それは、いわば人生の行為の収支帳簿に記録されません。それほど純真なのです。言葉を話し始めた当初も、一生懸命言いたいことを話そうとする、その様子は、可愛らしいばかりですね。しかし、そのうち、悪い言葉を覚え、わざと反抗したりして、天使の段階を卒業して、人間の道を歩みだすわけです。それでも、歯が抜け替わり始める時までは、まだまだ、ナイーブな状態が続きますね。
この時期の子供は、肉体も、心も、精神も、一体となっていると考えられます。たとえば、幼児が周囲の世界へ向かおうとして、何かにぶつかるとします。肉体を動かしていって、ごつんと机にぶつかるとしますと、痛い、という感情が起こり、次に、机にぶつかると痛い、という考えに至ります。意志→感情→思考の順であるわけですね。大人は逆に、考えが思い浮かんでから、こうしようと思って行動するのでして、順序が逆になります。この時期の子供に、何か失敗した時、「よく考えて行動しなさい!」とお説教しても、始まらないのです。歯が抜け替わる時期までの子供を育てていくのは、聞かされる言葉や、お説教や、理屈ではなく、まわりの大人たちの行動です。大人のすることを模倣して育つのです。子供の肉体そのものも、大人が見せる態度を感じとって、それに即した形に成長していくのです。「不安の模倣」ということもあります。心配性の大人が近くにいれば、大人の不安を、表情や身振りで写し取り、その知覚に基づいて、自分を形成していってしまうこともあるのです。不安の感情自体は分らなくとも、不安を感じとる肉体を作っていってしまうのです。この頃の子供は、その存在全体が、感覚器官であるという風にもいえます。その感覚に写しとったことを、どんどんとりいれていってしまうのです。ですから、周囲の大人は、言葉で何のかんの言うのではなく、態度で模範を示す、それも心底から行なわなければならないわけです。偽りがあれば、ちょっとした表情から、それが伝わりかねないのです。しかし、これは大人にとって、難しい課題ですね。大変難しい。
たとえば、私の上の娘が三才の頃、お人形さん遊びをしている。見ると、人形の手を引っ張って歩きながら、「さあ早く、早く歩くのよ!」と言っている。家内が買物に連れていって、ぐずる娘を時間に追われて急きたてる時の様子を、そのまま真似して遊んでいるのです。早く、と言われたからといって、子供は、早くしようなどとは思わないわけです。急きたてる態度の方を吸収するのです。シュタイナーは、この時期の子供の環境には、十分な愛が必要だと言っています。そして、倫理的な行為や、倫理的な雰囲気が周囲にあるのもいい。この時期に、模倣し習得するには、ふさわしくない事柄は、その環境の中においてはいけないと言っています。
七才くらいになると、歯が抜け替わることで示されるような変化が起こります。もちろんこの変化は、徐々にそれまでも進行していたわけです。それまでは、内側にだけ向かって働いていたある種の力が、外側に向かって働きだします。その転換が、歯が抜け替わることに表されているのです。それまでは母親から受け継いだものが、いわば覆いのように、その力を包んでいました。赤ん坊は半年間は大きな病気にかかりませんね。その間は母親の免疫を受け継いでいるからです。でも生後半年以降は、自力で外界の細菌と戦わなくてはなりません。全く同じとはいえませんが、比喩的に言えばそれと同じような保護が、その成長力に与えられているのです。その力は、発育する力、記憶する力の源泉です。その力は、母親から受け継いだものに覆われていた時には、もっぱら内側にのみ向かって働き、外界の印象を記憶することには、まだ十分熟していないのです。三才ぐらいで盛んにおしゃべりする子供からお菓子を取り上げて、じゃ、これはあしたネと約束しても、まず翌日までは子供は覚えていません。他のことにすっかり夢中になっています。
その後、記憶力は徐々に定着していきますが、本来、歯の抜け替わりまでのこの時期には、先に述べた力は、内側に向かって働く、つまり肉体を急速に発達させることに専念すべきなのです。
その力を人間の中で担っているものは、エーテル体、もしくは生命体と呼ばれています。AetherleibあるいはLebensleibです。それは目には見えないものですが、物質である肉体に生命を与えている、もう一つの体です。人間の肉体は、そこらにころがっている石や土などと同じ物質で出来ているわけですが、その肉体に生命を与えているものを、エーテル体と呼ぶのです。詳しくは来週お話しますが、このエーテル体は植物ももっています。やはり植物も、物質としての組織にエーテル体が加わることによって、生き、成長し、重力に抗って上へ伸びていくのです。
人間の場合、歯の抜け替わりの時期に、このエーテル体が、母親から受け継いだ覆いの中から誕生するのだといえます。このエーテル体が、エーテル包被から生まれ出るわけです。母親の胎内から生まれることを、肉体の誕生と言うなら、これはエーテル体の誕生と言えます。この時以降、初めてエーテル体は、外に向かって十全に働けるようになります。この時期以前に、記憶力を訓練するようなかたちでエーテル体に働きかけてしまうことは、肉体を早産させてしまうことに等しいのです。お腹の中にいる子に働きかける、いわゆる胎教もよくないことですが、赤ん坊の肉体が母胎の中で守られつつ、十分育つのを待てないで、月が満ちていないのに無理に生んでしまうのが良くないことはお分りですよね。それと同じことが、エーテル体の誕生の際に起こりうるのです。母親から譲り受けた覆いの中にあって、エーテル体が内側に向かって働きかけながら、エーテル体自体をも成長させなければならないような時期に、記憶力を強化するような働きかけをすることは絶対に良くないのです。
そうして、歯が抜け替わった後、おおよそ七才から十四才くらいまでが、二つめの時期になります。大体、小学校に上がってから、中学一、二年くらいまでに当たりますね。この時期には、すでにエーテル体が生まれています。ですから、エーテル体に働きかけてもいいのです。記憶させるようなことをしてもいい。しかし、こうだから、こうなっているのだ、という理屈による納得ずくで理解させようという姿勢は、この時期の子供にはまだ早すぎます。悟性を通じてではなく、シュタイナーが<芸術的>という言葉で表現しているような方法をとるべきなのです。つまり、イメージで働きかけるのです。豊かなファンタジーの中に織り込んで与えるべきなのです。大人は頭で理解したことしか「分かった」とは思いませんが、この時期の子供には、イメージで包み込まれたものをさしだされることこそが、大切なのです。イメージだけでも「分かる」ことは沢山あるのです、生まれて間もない新鮮なエーテル体の時期は、そのご二度とないのです。この時期に適した働きかけをしておかないと、ある意味では取り返しがきかないとさえ、言えるのです。
さきほどからエーテル体の話をしていますが、実はエーテル体の他にもう一つ、目には見えない体が与えられています。それはアストラル体といいます。私たちの活動は、肉体が成長したり、記憶力を使ったりするだけではありませんね。感情の働きがあります。悲しかったり、嬉しかったり、怒ったりします。こうした感情の担い手として、アストラル体が考えられているのです。これも目には見えないのですが、肉体、エーテル体の他に、私たちが所有している、もう一つの体であるとシュタイナーは考えるのです。「アストラル」とは聞き慣れない言葉かもしれませんが、「星の」という意味です。その由来は、またいつかお話しいたしましょう。このアストラル体は、歯牙交替から第二次性徴発現の時期までの間、やはり包被をかぶっているのです。つまり、おおおそ7才から十四才までの間、アストラル体は、まだ生まれていないのです。エーテル体はすでに生まれているのですが、アストラル体はまだ生まれていないのです。そして一つ前の時期のおおよそ7才までは、エーテル体も、アストラル体も包被に包まれて、ともに生まれていないわけです。先走りして申し上げますと、第二次性徴が現われる十四才ごろには、そのアストラル体が、包被から出て、新たに誕生します。ですから、母胎から生まれ出た時に肉体が誕生し、歯の抜け替わりの時にエーテル体が誕生し、第二次性徴が現われた時にアストラル体が誕生するというふうに、三つの誕生があるわけです。そして第二次性徴が現われる十四才ぐらいから、その後の二十一才くらいまでの間には、アストラル体はすでに生まれているけれど、自我はまだ、すっかり独立した形では誕生していません。自我が本当に自由な意志をもって独立するのは、およそ二十一才ごろであるわけです(この辺、黒板を示しながら話す)。しかし、これもおおよそであって、この時期がずっと遅れることもあります。初めに申し上げましたように、最近はとくにそのような傾向が見受けられると思います。
さて、七才から十四才までの時期のことに戻ります。この時期に何事かを理解させるには、イメージを用いた働きかけが必要だと申し上げました。教え方のもう一つの側面として、この時期には教師がいわば権威である必要があります。もちろん「権威主義」のような意味の大人の語感の「権威」ではなく、十分信用できて、揺るぎない信頼感を与えてくれるという意味での「権威」です。これは、外に向かって働き始めているエーテル体の性質に即した働きかけです。正しいものが絶対的な揺るぎなさで働きかけることが、とくに生まれたてのエーテル体に必要なのです。教師は、こうしたことを十分意識すべきです。もちろん同じことは、この時期の後では通用しません。十四才以降の子供に、理屈抜きで権威的に振る舞おうとすることは間違いですし、そうしようとしても反抗されるだけです。七才から十四才までの間も、実は変化は密かに進行しています。そして九才ごろに一つの危機を迎えます。「九才の危機」といわれる現象です。この頃、包被に包まれていたアストラル体が、自らの解放を目指して始動しだすのです。感情の担い手であるアストラル体が、包被の中でいわば胎動を起こすのです。この時子供は初めて、権威を疑いだします。信頼しきっていた先生を疑い始めるのです。
そして第二次性徴が現われる、およそ十四才くらいに、このアストラル体が誕生するわけです。この時期に入ると、理屈で知的に教えることが可能となります。しかし灰色の理論を頭ごなしに押しつけるのではなく、その前の時期に豊かなイメージで記憶させたことを知的に把握し直させるのです。ですから、その意味では、七才から十四才までの時期にイメージ豊かに生き生きと記憶できた事柄が、多ければ多いほどいいということになります。イメージや体験の裏打ちのない事柄を、いくら抽象的な言葉で説明されても、人は腑に落ちませんし、真に了解できません。歴史なども、七才から十四才までの時期に、劇的な場面場面を中心に、イメージ豊かに覚えさせておくことが大切です。歴史や地理をそうやって覚えておくと、第二次性徴が現われるおよそ十四才以降に、今度は分析や綜合をまじえて把握し直させるのです。そうして徐々に二十一才ごろの自我の自立へ向けて、歩みが進められていくのですが、この時期の扱い方には難しい面もあります。残念ながら、時間が残り少なになってしまいました。言い尽せないことは、沢山あります。今後の話でも時折、今日のテーマを振り返るつもりですので、その時々で補っていこうと思います。しかし、教育のテーマで話すのは、今日だけということにします。また、具体的な話になると、松田仁さんや、子安美智子さんのように経験豊かな方でないと分からないことも多いです。私は主にシュタイナー教育の背景として、アントロポゾフィーの考え方を紹介することに力を注ぐつもりです。たとえば、今日述べた分は、誕生と死の間のことだけですが(黒板を示しながら)、シュタイナーは、こちら側の誕生以前のことや、こっちの死んだ後のことも述べているのです。地上の期間を扱った部分を取り出すだけでも、役に立つことはあるでしょう。しかし、全体の視野の広がりの中でシュタイナー教育を考えることを怠っていいわけがありません。真の理解のために、それはぜひとも必要だと思います。
補足
この講演では第3・7年期について全く触れなかったので、この期間については論文「シュタイナー教育とは何か」第二部の第二章「シュタイナー教育の実際」の「思春期の始まりから自我が確立するまでの第3・7年期」と第三章理論編の第3・7年期を参照のこと。
なお、文中で指摘した全集177番の当該個所(子供の教育の中に破壊的な力が入り込むことを警告)の翻訳がこのHPのサイバーアントロポスの中で紹介されています。秘儀的内容なので、「シュタイナーの世界から」を読んでからの方がいいかもしれません。 
4 人間の構成要素
人間が、いくつかの目に見えない体をもっているということを、前回お話ししました。シュタイナーのその考えを、今日はもう少し深く探って見ることにします。「人間の構成要素」という題で、お話しします。「構成要素」という言葉は、ちょっと固いですがこれはWesensgliederというドイツ語に対応する訳語です。
人間が肉体の他に、目に見えない体として、アストラル体、エーテル体をもっていることは、先週お話ししました。アストラル体は感情の担い手であり、エーテル体は成長力の担い手であり、人間の場合は記憶の担い手でもありました。しかし人間の営みは、感情が最高のものではありませんね。人間は思考します。その思考の主な担い手は、自我です。この自我、ドイツ語でIchというものを思い浮べるのはなかなか難しいところです。私たちは、すべて物質と関連づけることに慣れていますので、思考の担い手と言えば、脳しか思い浮べないでしょう。物質としての脳の中で起こる反応から自意識が生ずる、つまり自我意識が生ずるという風にしか考えないのです。ですから、自我を一つの実体のように考えるアントロポゾフィーの考え方は、始めは唐突な感じがするかもしれません。しかし、アストラル体やエーテル体が、肉眼には見えませんが一つの境界で他と区別された、実体として考えられているように、自我にも輪郭をもった体があるとされているのです。この自我体が頭部に宿っている時に、物質としての脳が、目覚めた状態で活動するのです。以上、図で示すと、こんな風になります。なお、これは、成人の場合です。
一番外側がアストラル体、肉体にほぼ重なる形がエーテル体、頭部にあるのが自我体の、それぞれ境界線です。
エーテル体は、ほとんど肉体とそっくりの形をしています。もっとも、全く同じではありません。このエーテル体は、植物も所有していると前回申し上げましたね。
しかし、人間のエーテル体と、植物のそれとは、全く同じ性質のものではありません。人間のエーテル体は、自我の影響によって、質の変化が起こっているのです。生命力の担い手であるだけでなく、他の働きもしています。人間のエーテル体の頭部は、記憶の力と関連しているのです。頭部以外の部分は、良心と関連します。人間のエーテル体は、その他、その人の性格の担い手でもあります。つまり、そう簡単には変わらない性癖、傾向といった性格的なもののことです。また、足が痺れたりすると、なにかその部分が、モノのような感じがしますね。自分の体じゃないような、変な感じです。痺れが治る時の、あの居ても立ってもいられない感じではなく、無感覚の方です。その状態は、シュタイナーによれば、エーテル体がその部分だけ肉体の外に出ているそうです。
これは手先が痺れた状態です。エーテル体は物質に生命を与えている体です。ですから、いわば、部分的に仮死状態になっているわけですね。
また、催眠術にかけられている人の頭部のエーテル体は、左や右にずれて、垂れてしまっているそうで
次にアストラル体です。アストラル体は、エーテル体ほど肉体の形に似ていません。それは、肉体より大きいです。
ここで確認しておかなくてはいけませんのは、肉体もエーテル体もアストラル体も、そして自我体も、重なり合って存在しているということです。それぞれ素材が全く異なるので、そういうことが可能なのです。肉体を構成する物質が、最も粗い素材で出来ていまして、エーテル体になると、物質のレベルより、ずっと繊細な素材になります。素材といっても、エーテル体の場合は、もう物質ではないのです。ここのところを、はっきり区別しておいていただきたいのです。決して、密度が薄くなるといった意味での、量の問題でなく、存在のあり方が、一段階精妙になってしまう。質の次元が違ってしまうのです。
アストラル体は、このエーテル体より、また一段階精妙な素材で構成されており、自我体は、またそれより一段階精妙なわけです。それぞれ「体」がついているのは、肉体の皮膚に対応する境界があって、外と内とを区別することができるような形態をもっている、ということです。もちろん、物質がもつ境界とは異なる性質をもっているわけですが。
アストラル体は、動物ももっています。動物も痛がるし、快感は分かるしで、感情をもっていますね。それを担うのが、アストラル体です。もちろん、動物は肉体とエーテル体も、もっています。生物はみな、エーテル体によって生命を与えられているのですから。
動物のアストラル体と、人間のアストラル体も、同じ質をもっていません。人間のアストラル体は、自我の働きを受けて、質が変化しています。実は、このように、人間の場合、アストラル体や、エーテル体に質の変化が起こっていることが大切でして、それが人間を人間たらしめていることでもあるのです。
そして、人間以外の生物がもっていないものとして、人間には自我があります。人間はものを考えますし、判断を下しますが、それらは自我の働きです。記憶はエーテル脳に刻まれていますが、それを想起するのは、自我の働きです。
このように、物質だけの存在である石ころから、物質体(肉体)、エーテル体、アストラル体、自我の四つが揃った人間までを並べてみると、存在のあり方の違いが、一目瞭然となるでしょう。
現代の自然科学では、物質のレベルだけで全部を区別しようとするわけです。しかし、精神科学では、物質の上の三つも、実在の構成要素として考えているのです。いわゆる行を積むことにより、それぞれ、実在のものとして見えてくるといいます。たとえばエーテル体は、イマギナツィオーンというレベルの認識力、アストラル体は、インスピラツィオーンというレベルの認識力に達すると見えてきます。これらは特殊な認識状態のことでして、イマギナツィオーン(Imagination)を「想像力」と訳したり、インスピラツィオーン(Inspiration)を「霊感」と訳したりするのは、間違いのもとです。教育関係の翻訳でも、そうした訳を見かけますが、それでは何が何だかわからなくなる恐れがあります。これらの認識状態については、最終日にお話しいたしましょう。しかし、別に行を積んで自ら確かめなくとも、述べられていることを論理的に追っていくだけでも、十分了解できるはずだ、自分はそのような述べ方をしていると、シュタイナーは繰り返し強調します。
さあ、皆さん、どう思われますか。これらは、空想の産物に思われますか。説明としては、うまく理屈が合っているようにも思えますか。目には見えない事柄を扱っているわけですが、こうした説明は、それが見えている人が指摘した確かさのようなものを、もっていると思われますか。まだどちらとも決めかねておられるのが、実情に近いでしょうか。保留にしておかれるのも、いいと思います。さらに進まれてから、問い直す時が、必ず出てくると思います。その際、重要なのは、考えを強制したり、強制されたりするようなことは、絶対よくないということです。御自分の自由な御判断で、決めていただきたいのです。
さて、次に自我を、もう少し詳しく見てみます。自我の働きには、外界からの印象を受け取って、それに応じる働きと、物事を理解する働きと、自己を内的に知覚する働きとがあります。外界からの刺激に、ただ機械的に反応するだけなら、それはアストラル体の営みです。もっと言うなら、動物のもっているアストラル体です。しかし、人間は、外界の印象を受けとめる際にも、動物とは違った受けとめ方をしています。動物は夕焼けをみて、美しいとは感じないでしょう。人間は、心で受けとめます。そうした働きをする自我の部分を、感覚魂、または感受魂といいます。元は一つのドイツ語、Empfindungsseeleを違った風に訳しているだけです。この感覚魂は、太古の大昔、人間がもっと低い意識状態にあった頃から、アストラル体に働きかけてきた結果、そのアストラル体の質を変化させて生み出した心、魂です。この感覚魂が生じたことによって、人間は、現在の動物のレベルを、はっきり越え、今の人間に一歩近づいたのです。
次に、物事を理解する働き、考える力、悟性の力が、生まれてきました。これは、エーテル体の質が変わって生まれたものでして、悟性魂、もしくは情緒魂といいます。VerstandesseeleもしくはGemuetsseeleです。悟性と情緒という、相反する名前がついているのは、おかしいと思われるでしょうが、ここでいう「悟性」は、ドイツ・ロマン派が批判するような、冷たい知力を意味しているのではないからです。血の通わぬ冷たいものになるのは、また別の力が働いたからでして、ここで言う、エーテル体から生まれた悟性魂というものは、熱のこもったものなのです。認識する際に、喜びや、驚きのようなものが付随しているのです。それで、情緒魂とも言うのです。
最後に生まれたのが、自己を内的に知覚する意識魂でした。Bewusstseinsseeleです。これは、肉体の質が変化して生じた心、魂です。肉体は物質ですが、それが変じて、目には見えない意識魂という心が生まれたわけです。この時初めて、肉体に魂が入り込んだともいえます。そして、この時初めて、肉体の諸器官が、外界をはっきり知覚し始めました。これは太古のことです。それ以前は、いわば、「仏造って魂入れず」の状態でして、未だ、物質界を見る眼や、聞く耳は開いてなかったのです。この時、いわば開眼した、つまり、目が開いたわけです。ですから、厳密に言うと、外界の刺激を感じとる感覚魂も、これ以降、現在の働きと同じレベルの働きをし始めたのです。それ以前は、物質の世界とは異なる世界の刺激を、感じ取っていたのです。
さあ、こうして、ようやく進化が現在の人間に達したわけですが、ここまでの変化を確認しましょう。
アストラル体→感覚魂
エーテル体→悟性魂(情緒魂)
物質体(肉体)→意識魂
また、人間を構成する要素を、まとめてみましょう。
物質体(肉体)石
エーテル体植物
アストラル体動物
自我
ところで、先ほど、「進化」という言葉を用いましたが、精神科学の重要な考え方の一つに、精神(ガイスト)の進化論があります。さまざまな力の働きによって、万物が、より精妙なものへと進化していくという認識です。ただし、その進化に逆らう存在も、途中で生じてきます。進化が停滞する存在が、出てくるのです。そうした存在も、またずっと遅れてですが、別の時に再び進化の流れに加わることになります。
さて、人間の構成要素は、実は、これだけではありません。ここまでは、ようやく人間のレベルに達したところです。今度は、未来の進化に向かった変化を、とり上げてみましょう。
自我は、今、三つに分けて考えました。しかし、もちろん、それらは一つの有機的な働きをしているわけです。この三つはSeele、つまり魂という名がついていることで分かるように、心の働きをしています。ところが、人間には、心の働きを越えた力も宿っていますね。それは精神、ガイストの働きです。シュタイナーは、ガイストという言葉を場合によって使い分けています。ある時には、石などにもガイストが宿っている、という言い方をしますが、その場合は、物質的な考え方に対して、すべては進化の途上にある霊妙な存在なのだという意味合いで、ガイストと言っているのです。単なる物質的存在なのではなくて、もっと大きな広がりをもつ精神世界の存在なのだ、というぐらいの意味合いで、石も植物もガイストであると言うことがあります。しかし、今ここで言うガイストは、体、魂、霊(ガイスト)という風に、構成要素のレベルとして述べているのです。つまり、物質に対する霊(ガイスト)という広い意味で言う場合ではなく、もっと限定的に言っている場合です。
さて、私たちは、何かにびっくりしたり、驚いた時に、一方で、その原因を見極め、その心の動揺を鎮めようとします。心の動揺を鎮めるように働きかけるたびに、私たちの中に育っていくものがあります。それは、アストラル体から変化して生じる霊我というものです。Geistselbstといいます。先ほど、アストラル体から変化した感覚魂のことを述べましたが、それはもう完結した変化です。今述べていますのは、現在進行中の変化でして、未来に向かったものです。私たちは、多かれ少なかれ、霊我の兆しを必ずもっています。その霊我の働きで、私たちは、精神の高みに立てるのです。これは、通常の自我より一段階高い自我といえます。高次の自我です。人間の今後の進化は、大きな流れでみると、通常の自我の段階を克服して、霊我が意識の中心になるような、そうした歩みであるといえます。しかし、これはまだまだ、実に遠い道のりでして、何にでもすぐ動揺してしまう自身を振り返ると、その辺が実感されます。すっかり精神的な存在となってしまうには、長い道のりがあるようです。精神的な進化なんて自分とは関係ない事柄だ、と考えるのは自由なのですが、少なくともシュタイナーは、人間がその進化の途上にあると見ているのです。
心の動揺を抑えることに比べて、一段と困難なのは、自分のもって生まれた性格や性癖などを変えることです(聴衆に、うなづく顔あり)。つまり、エーテル体の性質を、根本から変えてしまうことです。そうした変化から徐々に生まれてくる精神的な要素を、生命霊、Lebensgeistと言います。これも、人間はほぼ原初の時から、その萌芽をもっていたのですが、二〇〇〇年近く前から特に発達し出した要素です。いわば、自分の生命力をコントロールするような精神力です。
次に、さらに困難なのは、肉体の中で起こっているプロセスをコントロールすることです。最高度の精神力を獲得することによって、脈拍や、血液の流れを意識的にコントロールできるようになります。肉体から変化して生まれるその要素を、霊人、Geistmenschと言います。これも、人間は誰でも、ごくわずかながらでも、所有している要素です。
こうした変化を、行によって促進することもあるわけです。古代から、そのための行があり、一時期、文化の中心であった古代インドなどでは、呼吸のコントロールから入っていく、ヨガの道などがあったわけです。また、東洋の英智では、霊我のことをマナス、生命霊のことをブッディー、霊人のことをアートマンと称していました。結局、私たち人間の進化は、遠大な時の流れで考えるなら、中心の意識が霊人の段階まで達することであるのです。それを行によって早めようとした行者たちがいるわけでして、霊我、生命霊、霊人の発達に伴って、それぞれ、イマギナツィオーン、インスピラツィオーン、イントゥイツィオーンという認識状態を獲得でき、認識できる精神世界が広がっていったのです。ただし、シュタイナーが勧める行は、古代のものとは違って、現代に即したものです。それは、論理の力と共存しうるものです。詳しくは、「認識の小道」のテーマの時、お話しします。
さて、こうして人間の構成要素が出揃いました。
霊人、生命霊、霊我、自我、アストラル体、エーテル体、物質体(肉体)
自我のうち、意識魂を霊我と一つのグループに入れ、感覚魂をアストラル体と一つのグループに入れて考えることもあります。
<霊我・意識魂>、<悟性魂>、<感覚魂・アストラル体>
私たちの意識の中心は、現在、4の自我にあります。人間は自我まで完成された存在であるわけです。遠い将来、これが次第に4から5、5から6、6から7へと移っていく進化が予想されているのです。しかし、それぞれ一つの段階を上ることは、ちょうど、植物から動物、動物から人間へ上るのと同じていどの、大きな変化なのです。
さて、先週の教育の話でも、エーテル体、アストラル体、自我の話が出てまいりました。それらの言葉の背景には、人間の進化と結びついて、以上のような事柄があるわけです。本当なら、宇宙の進化と結びつけて、物質体や、エーテル体、アストラル体が、いかに発生してきたかも、歴史的に述べるべきところでしょう。しかし、それを今述べる時間はありません。六月十八日に、第五文化期の課題と関連して、歴史的展望を行ないますので、その時、お話できたら、と思います。
今日は、残りの時間で、人間の気質についてお話ししたいところでしたが、中途になりそうなので来週に回します。人間の構成要素との関連で、今日全部お話ししたかったのですが。来週は私が二時間通して、お話しすることになりました。「覚醒と睡眠、そして夢」というテーマです。時間が余れば、ミヒャエル・エンデの話を、『暗闇の考古学』をめぐって、しようと思っています。
(文中のドイツ語で、ウムラウトがついているものは表示できないため、ウムラウトの変わりにeを後につけてある。またエスツェットとは全てssに変えてある) 
5-1 人間の気質
シュタイナー教育では、子供の気質を、教育の一つの目安にしています。シュタイナーは、人間の気質を、次の四つに分けています。
胆汁質、多血質、粘液質、憂欝質
なお、この分類自体は、古代ギリシャのヒポクラテスや、ガレーノスの主張するものに沿っています。ただし、シュタイナーは、それぞれに、精神科学からの知見を加えて説明しているのです。以下は、全集五七番の中の、「人間の気質の秘密」の章に基づいて、お話します。これらの気質は、先にお話しした、人間の構成要素から説明されています。なお、以下は大人の場合です。
胆汁質ー自我
胆汁質は、自我、アストラル体、エーテル体、物質体の四つの構成要素のうち、自我が強いとされています。その性質は自分を押し通そうとし、攻撃的です。カッとしやすい。そして、肉体では、血液循環系統が優勢です。自我の肉体的な表現は、血液循環組織であるわけです。自我は感覚的存在ではないのですが、肉体の中に対応するものはあるのです。その循環組織が強いということです。そして、アストラル体の肉体的な表現は、神経組織なのですが、その神経組織が自我による抑制が効きにくく、興奮に波があります。たとえばシュタイナーは、胆汁質の人間として、ナポレオンを挙げています。そして面白いことに、ナポレオンは自我が強すぎたため、他の要素、特に肉体が小さくなっている、と言っています。ちょっと出来すぎの説明にも聞こえますが。この気質の人の歩き方の特徴は、地面の中へ踏み込むようにして歩く。顔つきは、深く刻み込まれた、輪郭のはっきりした顔ということです。
多血質ーアストラル体
次に多血質です。これはアストラル体が強い。肉体的には神経組織が優勢です。その性質は、感情や想念が揺れ動いていて、一つの印象にとどまってはいません。とても明るい気質でして、その表情はよく変化します。姿、体形は、細長いと言われています。そして、跳ぶような歩き方をする。
粘液質ーエーテル体
これは、エーテル体が強い。「粘液」は外から力を加えても、なかなか振動が伝わりません。しかし一旦、振動し始めると、今度はなかなか収まらない。そういう粘液の性質で象徴されるような気質です。外に向かっては不活発で、無関心な表情をもっています。この気質が、生命力の担い手であるエーテル体が強いというのは、なんとなく納得がいかないのですが、シュタイナーの説明によれば、こうなります。つまり、エーテル体の中で満足して生きるほどに、自分自身にかかりっきりとなって、他のことに関心がなくなる。内的な快感が見てとれると。その歩き方の特徴は、がくがくした歩き方をしているということです。
憂欝質ー物質体
憂欝質は物質体が優勢です。この気質も、名前からある程度、想像がつきますね。メランコリーがあるのです。でも、どうしてメランコリーが、肉体の強さと関係があるのか、これもちょっと腑に落ちませんね。シュタイナーの説明はこうです。この気質では、物質体が強すぎて扱いきれないように感じ、それを痛み、不快、悲しみとして感じていると。つまり、物質体がエーテル体の快適さを阻み、アストラル体の運動性を阻み、自我の目的志向性を阻んでいると感じているところから、そうした気分が生ずると。この気質の人は、頭を垂れている。首筋を自力でしゃんとすることが、できない。目はぼんやりしている(聴衆、笑い)。歩き方は、しっかりしているが、引きずるようであると、シュタイナーは言います。
もちろん、この類型通りに人間を区分できるわけではありません。混合型の無数のヴァリエーションが、ありえるわけです。たとえば、ナポレオンにも、粘液質が、かなりまじっていると、シュタイナーは言います。ただ人間を型にはめて理解するのではなく、各要素の強弱によって、気質にこのような色合いの違いが生じえるのだ、ということを知ることは、一般に、人間を知る上で手がかりとなるでしょう。子供の教育でも、どの要素が強いかを見分けることは、教育の仕方に反映してくるので、重要です。
・一例を挙げますと、胆汁質の子には、教師は弱みを見せてはいけません。胆汁質の子は、先生は何でもできるもんだと思い込んでいるので、できないと騒ぎ立てます。個人の権威への信頼感、尊敬を呼び起こすようにすべきであると、シュタイナーは言います。つまり教師に対する個人的な尊敬の念が、胆汁質の子に必要なわけです。個人の価値に対する尊敬の気持ちが、この気質の子に魔法のように効き目があるといいます。
・多血質というのは、とても明るいのだけれど、興味があれこれ分散してしまいます。そういう子には、逆に、教師に対する個人的な愛情をもてるようにしてやる必要があります。多血質の子に魔法のように作用するものは、愛である、とシュタイナーは言います。周囲にその子の関心のあるものを置いてやるのがいいです。その子は、いろいろなことに興味をもちますから。そして、後に、それをまた取り去ってみる。その子がほしがったら、また与えてやるのもいい、もちろん、これは、ほんの一例です。
・粘液質の子は、外からの働きかけでは、なかなか、情動が起こりません。しかし一旦、起こると、なかなか収まらないわけです。こういう子に対しては、いろんな関心をもつ遊び友達を、近くにおいてやる必要がある。一人にさせておいてはだめです。その遊び友達の関心が反映するように、させるのです。その子の近くに出来事を近づけるというか、事柄を近づけてやる必要が、あるのです。
・憂欝質は、さきほど申し上げましたように、首を垂らした姿が特徴的でして、性格的には、メランコリーに陥りがちです。この気質の子供の扱いは難しいと、シュタイナーは言っています。この気質の子供の場合、教師自信が、痛みを経験してきたことを感じさせる必要があります。教師が、人生で試練をへてきたということを、感じさせるのです。周囲の人の運命を共体験することが、教育効果となります。
でも、当人に対して、君は粘液質だからとか、憂欝質だからとか、面と向かって言うのは、もちろん良くありません。教師は、その気質のあり方をよく把握して、その気質の中へ入り込んで教育すべきなのです。
同じ気質の子を一箇所に集めて座らせることもしますね(聴衆の中に、うなづく顔あり)。そんなことをすると。なんだか相乗作用を起こしそうですが、逆に、その気質の強さは緩和されるのです。憂欝質の子は、まわりの悲しげな顔を見ているうちに、次第に朗らかとなります。胆汁質の子はカッとしやすいのですが、お互い喧嘩をするうちに、狂暴性が鎮静化するといった風に。
ただ、どんな類型化の場合にもいえることですが、要は、類型の意味をどのように理解しているかに、かかってきます。ただの区分をするような考え方では、だめなのです。大きな枠を脳裏に描きながら、一人ひとりの個性と、細かな違いを尊重するというような、きめの細かさが必要なのです。要するに、目の前にいる一箇の人間は、世界には他に存在しないのだという認識が、要求されるのです。
なお、先々週、紹介した七年ごとの刻みの、〇〜七才を第一・七年期、七〜十四才を第二・七年期、十四〜二十一才を第三・七年期ということがあります。補足しておきます。 
5-2 覚醒と睡眠、そして夢
さて、今日は次に、「覚醒と睡眠、そして夢」のテーマでお話しします。シュタイナー教育と直接関係なさそうなテーマに思われるかもしれませんが、これもアントロポゾフィーでとり上げている事柄でして、知っておく方がいいと思います。睡眠は、私たちが毎晩行なっていることですから、皆さんも興味がおありになると思います。睡眠は、ごく日常的なことであると同時に、睡眠研究者でも頭をひねる難しい現象です。人間は一生の3分の1を眠ってすごしています。この睡眠という現象は、人生の謎の一つですね。忙しい現代人は、睡眠時間をけずってまで働こうとしています。睡眠を研究している人の中には、人間が眠らずに済む可能性を探っている人さえいます。しかし、そうした考えは睡眠を時間の無駄としか思わないような発想から生まれているような気がします。睡眠は単に疲れを癒す休息の時なのでしょうか。疲れが別の手段で取り除かれれば、不必要になるようなものなのでしょうか。たとえば、薬で取り除かれたりすればもう不要なものでしょうか。ヨーロッパ睡眠学会副会長であり、チューリヒ大学教授のアレクサンダー・A・ボルベイは一九八四年、睡眠に関して次のように述べています。
「睡眠はわれわれ皆にあまりにもあたりまえのことなのですが、いまだにたいへん不可解な現象のひとつで、何のために存在するのか、ほとんどわかっておらず、ちょうど生命とは何かを理解し定義することができないのと同じです」。(『眠りの謎』、井上昌次郎訳、どうぶつ社、序文)
これは、第一級の自然科学者の、とても謙虚な言葉です。しかし、睡眠の自然科学的な研究が、近年目覚ましい成果を挙げていることも、また事実です。その成果には、胸おどるような驚くべきものさえあります。
一方、シュタイナーの精神科学は、睡眠に関しては、一つの明確な答えを用意しています。しかし私は、精神科学も、同じように、謙虚さが必要だと思います。もちろん、精神科学の根底には、謙虚さの本質のようなものが潜んでいるのですが、ともすると、これが真実なのですという、気負いが見えてしまうこともあると思います。精神科学や、アントロポゾフィーを論ずる人に、そのような面が見えるとしたら、それはまだ本当の精神科学者ではないし、本当のアントロポゾーフではないことを現わしているのだと思います。この点は、自戒をこめて申し上げておこうと思います。なお、アントロポゾーフという言葉の意味は、アントロポゾフィーを受け入れている者、ということです。人智学者、人智学徒と訳す場合もあります。
さて、精神科学は決して自然科学を否定していません。これは同時代の自然科学の歩みをいつも追っていたシュタイナー自身が、何度も強調していることです。感覚的な事柄を研究する自然科学は、その感覚的な世界の中での真実を捉えているのです。しかし、それは感覚世界に限られた真実でもあります。たとえばシュタイナーは例を挙げて、自然科学は、家の造りを細かに調べ上げることにたとえられると言っています。レンガの一つ一つや、その組み合わせにいたるまで調べ上げることだと。なお、ヨーロッパですから、家の比喩を用いれば、レンガが出てくるわけです。その調べ上げた結果は、正しいものです。でも、レンガだけを見ていては、つまり物質だけを見ていては、その家を建てた建築家の思想は捉えられないと、シュタイナーは言うのです。精神の働きが捉えられていないということですね。同じことは、家を人間におきかえても言えるでしょう。人間を物質の集まった有機体としか考えず、精神の働きも、その有機体の作用が醸し出すものだというような観点からは、精神の独自の働きは、捉えにくいでしょう。睡眠という現象の場合には、さらにその辺が、鋭く現われてくるかもしれません。精神の働きが秩序を失ったり、消滅したりするような場合、つまり夢見や、夢のない睡眠の場合です。この睡眠という現象を、肉体の変化だけを見て研究することは、目隠しして象の足や、鼻を撫でながら、未だ見たことのない象という生き物を、再構成しようとする営みに似ているとも言えましょう。
しかし、先ほども申し上げましたように、自然科学の睡眠研究も、たいへん興味深い段階に達しています。何と言っても、シュタイナーの死後、六〇年以上がたっていまして、その間、睡眠研究は飛躍的に進歩しました。このことについては、今日、あとでお話しします。そうした科学の成果を謙虚に受け入れる姿勢も、アントロポゾフィーには大切です。感覚世界に関しては、自然科学は正しい分析をしているのですから。そして、シュタイナーが述べていたことと矛盾するような結果が出された時には、シュタイナーの考えを疑ってもいいと思います。疑いや批判というものが破壊的な作用をもつことも、もちろんありますが、無批判や、盲目的な追従といったものは、さらに危険です。シュタイナー自身、何かしらの権威に盲従することを戒め、自立した精神の営みを常に求めているのですから。ミヒャエル・エンデは、シュタイナーも時代に制約された限界をもっているという意見を述べていますが、私も、ある面で賛成です。ただ私は、シュタイナーが今も生きていたら、生物の遺伝を司っているDNAとか、最近新聞紙面を賑わせている超新星の爆発と、それに伴うニュートリノのシャワーについても、説明してくれただろうとは思います。実は、アインシュタインが相対性原理を発表した時は、シュタイナーは存命中でして、彼は、この原理についても発言しているのです。いつも同時代の科学には、目を配っていたのです。ただ、そのDNAのらせん構造とか、質量のあるなしが大問題となっている究極の粒子ニュートリノは、後の時代にしかテーマになりえなかったわけです。DNAのらせん構造の提唱や、ニュートリノの存在の証明は、一九五三年まで待たなければなりませんでした。シュタイナーは一九二五年に他界しています。シュタイナーが、それらを自分の問題意識の中に入れられなかったという意味で、時代に制約されていたと、私は考えるのです。特有の考え方をする一部の人たちは、シュタイナーは、そうしたことを「予知」できなかったのか?と考えるかもしれません(聴衆、笑い)。彼は予知はしなかったのです。ある意味では、時代を生きた人でした。睡眠に関する矛盾した結果も、シュタイナーが生きていたら、何か説明してくれたろうと思う程度には、私はシュタイナーを信頼しています。しかし、盲信するわけではありません。矛盾は矛盾として、ちゃんと指摘するつもりです。その限りにおいて、シュタイナーに距離をおくわけです。
さて、それでは、まず、シュタイナーの睡眠の考え方から紹介してみましょう。
人間の構成要素として、自我、アストラル体、エーテル体、肉体があることは、前回お話ししました。なお、その上の霊我、生命霊、霊人は、まだ兆しでしかないので、今は省きます。人間は、自我までが完成している存在であるわけです。肉体以外の、自我、アストラル体、エーテル体は、感覚に捉えられない要素であるとも申し上げました。四重の存在である人間を図にすると、こうなります。
覚醒状態
今日は睡眠の話ですから、寝かして書きました。この状態は、まだ眠っていない時です。私たちは、目覚めている時は、四つの要素が重なり合った、一つの存在です。一箇の人間存在となっています。自我も肉体の中に入り込んでいて、外界を知覚し、そして、思考しています。
ところが、そうした覚醒状態がずっと続くわけではなく、夜になると私たちは眠り、意識を失います。あるいは、夢を見ます。その状態をシュタイナーは、次のように説明します。私たちが睡眠状態に入って、夢を見始めた時は、自我とアストラル体が、物質体(肉体)から離れてしまっているけれど、まだエーテル体とはつながっている状態であると。図にすると、こうなります。
夢見の状態
エーテル体は肉体と重なったままです。エーテル体まで肉体の外に出てしまう時は、死の時です。この夢見の時、肉体の外にある自我+アストラル体が、エーテル体に刻み込まれた日常生活の記憶と、つながりをもっています。しかし、外界を知覚する肉体の感覚器官とは、直接つながっていませんから、その記憶像は、外界の秩序とは無関係に浮かび上がります。それが夢です。自我も、この状態では、正しい認識や、判断は全くできません。空想的な夢の展開の中に、すっかり埋没しています。
しかし一方で、自我+アストラル体は、肉体から離れているため、ある程度、物質世界から抜け出ているといえます。そのため、わずかですが、夢の内容には、日常の記憶の端片だけではなくて、精神世界の様子が、反映しています。しかし、それは、ほんの影のような反映です。現在の進化段階にある人間の夢は、そのようなレベルにあるのです。太古の人間の夢は、また違ったものだったと、シュタイナーは言います。もっとも、太古の人間の場合、覚醒状態のあり方も今とは違いますから、その存在のあり方全体からして、全然別に考えなくてはなりませんが。
さて、次に、夢見のない睡眠状態の場合です。夢見のない睡眠の存在については、現代の睡眠研究は、否定的な見解に傾きつつあります。そうした睡眠は存在しない、という考えに傾いています。しかし、今、シュタイナーの考えを紹介するに当っては、夢も見ないですっかり意識を失った、昏睡状態といったものが存在するものとして、話を進めます。ちょっと前までは、自然科学的な睡眠研究でも、夢見のある睡眠と、夢見のない睡眠とを、分けていました。むしろ、ここでは、夢見のない眠りというよりは、深い眠りという言い方をしたほうが、いいかもしれません。
シュタイナーは、深い睡眠状態を、次のように説明しました。それは、自我+アストラル体が、肉体+エーテル体から、すっかり離れてしまった状態であると。図にすると、こうなります。
夢見のない眠り
先ほど述べました夢見の状態は、日常生活における思考に相当すると、シュタイナーは言っています。もちろん、夢と思考は、全く違ったレベルにありますが、思考と比べられる、ということです。その状態の時、人間は宇宙の思考の力の中を漂っています。わずかに垣間見られる精神世界は、宇宙の形象の力、イメージの力の営まれる世界です。これは、イマギナツィオーンの意識が開発されると、はっきり見えてくる世界です。Imaginationというスペルから見るとイマジネイションと同じものと誤解されかねない、イマギナツィオーンです。これについては、「認識の小道」の話の時に、とり挙げます。
人は、夢を見たあと、何かを体験したという感じが、わずかながら残ります。日常生活の中にも、その世界の幾分かを、もち込めます。しかし、もっと深い眠りの世界は、インスピラツィオーンの意識が開発されていないと、覗き見ることのできない世界です。日常生活において、目覚めている時の人間の営みの、二番目のものとして、思考の次に感情がありますが、この深い眠りの世界と、夢見の眠りの世界とは、感情と思考くらいの差があります。この深い眠りの世界が、感情と同じものだというのではなくて、ポイントは、世界の質の差の表現にあります。この世界にも像が現われているのですが、その像の背後には、実在の存在があり、光輝いていると、シュタイナーは言います。その像は、一旦徐々に消えては、また再び現われたりします。現われている間、天球の調和と呼ばれるもの
−これは、ちょっと神秘的でわかりにくい言葉かもしれませんね−、一種の宇宙の楽の音、音楽が、立ち昇るといいます。自我とアストラル体は、その原音楽の中に浸りきります。いわば、この世界は、アストラル体の故郷といえます。アストラル体は、星の体という意味ですが、宇宙の楽の音が立ち昇るこの世界は、いわば、星々の世界であるわけです。アストラル体は、エーテル体が肉体を形成するのに必用な、形象の力を、この世界からもち帰ります。エーテル体は、肉体に生命を与えているだけでなく、肉体が形を保っていられるように、形象の力を注いでいるのです。その力を、アストラル体が、精神世界からもち帰って、エーテル体に与えるというわけです。
さらに深い眠りがあります。
目覚めた時、何かとても重苦しい感じが残るような時が、ありませんか。午後遅くの昼寝のあとでもいいのですが。起きてから、普通の状態になるまで、暫らく回復に時間がかかるような、そんな眠りです。この睡眠の内容は、イントゥイチオーンの意識が開発されないと、把握できないものです。この三つめの眠りは、本来、人間にとって大きな意味があると、シュタイナーは言っています。
一つめの、夢見の眠りの時、人間は−ここで人間というのは、自我+アストラル体のことですが−、外側から肉体に働きかけています。目覚めている時は、内側から働きかけるわけです。夢見の時は、外から、肉体の血液循環系統などに働きかけています。二つめの眠りの時には、もはや人間は、直接肉体に関わりをもちません。しかし、この時、人間はアストラル体の郷里の世界にあり、この世界は魂だけでなく、肉体ともまだ関わりがある世界です。それで、この場合は、肉体から魂へ、何ものかが、光のように伝わることがあります。
しかし、三つめの眠りの場合には、もはや肉体との関わりは、すっかりなくなります。この眠りの際、自我+アストラル体は、肉体との関わりを失うのです。この時、自我+アストラル体は、精神世界のさなかにいるのです。いわば、精神的存在の内部に入り込んでいるのです。さて、難しくて、わかりにくいことなのですが、この時、残された肉体には、塩分−塩類ということでしょうか−が堆積すると、シュタイナーは言います。これが寝起きの悪さにつながるということなのかもしれません。この第三の世界と、第二の世界とは、意志と感情の違いくらいの差があります。第二の睡眠の世界を感情と対比すれば、第三の睡眠の世界は、意志と対比できるというわけです。ですから、睡眠の第一の世界、第二の世界、第三の世界の違いは、思考、感情、意志の違いに比べられるのです。さて、以上はシュタイナー全集の211番や、『神秘学概論』その他をもとに、お話ししました。『神秘学概論』は一九一〇年、全集211番は一九二二年のものです。
次に、現在の睡眠研究の成果を見てみましょう。
シュタイナーが一九二五年に他界する前、一九二四年から、ドイツの精神科医ハンス・ベルガーは、脳波の研究を始めていました。彼は一九二七年ごろ、脳波は、人間の脳から生ずるという説を学会で発表しましたが、認められなかったそうです。しかし、一九三四年に権威のある学者が、これを確認して初めて、彼の発見は評価されました。生理学者のアドリアンとマシューズという人がその権威のある学者でしたが、こういうことは、よくあるんですね。こうして、今日の睡眠研究に欠かせない脳波の検出の歴史が始まったのです。
次に重要な発見は、夢と大きな関わりをもつ、レム睡眠の発見でした。レム睡眠のREMとは、RapidEyeMovementの頭文字をとったものでして、ふつうの眠りとは全く異質のこの睡眠に、「急速眼球運動」が特徴的なところから、このような名前がついています。逆説睡眠ともいいます。全く異質の眠りということです。この発見は、ロシアに生まれ、シカゴに移住して睡眠研究を行なったナタニエル・クライトマンという人が、一九五三年に、論文にして発表しました。レム睡眠は、脳波は眠ったばかりの浅い睡眠に似ていますが、少々の刺激では目覚めない眠りです。筋肉がすっかり弛緩しています。この状態で万一、同時に意識が目覚めていると、いわゆる金しばりの状態になります。筋肉が弛緩していて、動かそうとしても動かないからです。しかし、それはナルコレプシーのような病気の場合以外は、めったにないことです。さて、レム睡眠の時、筋肉が弛緩しているといっても、眼球だけは、よく動きます。それが、この睡眠の発見の糸口だったくらいです。このレム睡眠の時、実験的に起こして覚醒させると、夢を見ていたということが、たいへん多かったのです。レム睡眠から起こしてしまうのですから、金しばりは関係ありません。こうして、レム睡眠が夢見の睡眠であると思われた時期が、ありました。実は、レム睡眠ではない、ノンレム睡眠の時にも、ちょっと種類は違うのですが夢を見ていることが、後にわかります。深い眠りの時にも、夢を見ていることがあったのです。しかし、レム睡眠の時、まず大てい夢を見ていることは、間違いありません。しかも、このレム睡眠と、ノンレム睡眠とは夜間、交互に現われて、それが約九〇分間のサイクルになっていることもわかりました。こうしたことは、人を実験室に寝かせて、終夜脳波を記録することで、わかってきたのです。このサイクルを、鳥居鎮夫−この人は東邦大学医学部教授ですがの−図を借りて表現すると、こうなります。
覚醒とレム睡眠の脳波
これは、青土社から出ている『行動としての睡眠』という本に載っています。この本は、なかなか面白いです。この図を見るとおわかりのように、眠りは、眠った直後が一番深いです。縦の1234という数字は、眠りの深さを表し、4が一番深いです。対応する脳波は左の通りです。時間的には第2段階が一番長いです。目覚めが近づくにつれ、眠りは浅くなっていってます。また、一晩に大体、四、五回、レム睡眠が起こっています。それも、初めは短く、目覚めに近づくにつれ、長くなっていきます。この時、活発な夢を見ています。この時起こすと、いわゆる夢らしい不条理な夢を見ています。レム睡眠以外の、ノンレム睡眠の時に起こすと、研究者によりけりですが、0%から74%までの巾で、夢を思い出しています。これがレム睡眠になりますと、ほとんど80%以上です。ノンレム睡眠の時の夢は、あまり夢らしい夢ではなくて、何か考えているような夢だそうです。それで、その夢を思考型の夢といい、レム睡眠の活発な夢を夢想型の夢といって区別しています。これは、講談社から出ているBlueBacksの『眠りとはなにか』(松本淳治)にあります。ですから、夢らしい夢、エピソードに満ちたドラマチックな夢を見るレム睡眠は、一晩に四、五回訪れているわけです。初めは短く、せいぜい10分くらい。目覚めの近くになると30分から50分くらいの長さになります。そんなに長い夢を見ているのです。毎晩、これだけ夢を見ているのに、ほとんど忘れてしまうのです。夜中に起きて、直前に見ていた夢を思い出して覚えていたり、朝方、目が覚めた時、最後の方の夢をかろうじて思い出すくらいなものです。脳波をとりながら調べていても、レム睡眠が終わり、ノンレム睡眠に入ってから5分後に起こすと、80%以上、夢を思い出しますが、これが10分後になると、4%ぐらいになってしまうそうです。ですから、眠っている最中にも、どんどん忘れていっているわけです。
ちなみに、シュタイナーは、自我+アストラル体が、肉体+エーテル体から離れる入眠の時と、また戻ってくる目覚めの時の夢については述べていますが、こんなに規則的に活発な夢見があることについては、何も述べていません。深い眠りの時にも起こすと、思考型ではあっても、とにかく夢を見ているということを、どう説明してくれるでしょうか。シュタイナーが生きていたら、聞いてみたいところです。シュタイナーは、深い眠りの時に、自我+アストラル体は、意識を失っていると言っているのですから。もっとも、シュタイナーが述べる三つめの深い睡眠の時は、本当に夢を見ていないのかもしれません。脳波で、一番深い眠りを示す時が、その眠りなのかどうかは分かりません。実験中の深い眠りの際、起こしても夢を思い出さない時が、シュタイナーの言う三つめの深い眠りである可能性もあると思います。
また、起こし方にも問題があるかもしれません。深い眠りでは夢を見ていなかったのに、起こしている最中、自我+アストラル体が戻ってきて、エーテル体と重なる時に、夢を見てしまうのかもしれません。起こし方によってデータが違ってくることは、睡眠の研究者も認めているところです。肉体からすっかり離れ、精神世界にひたった後に見る夢は、どろどろしたものがない思考型の夢であるという説明は、こじつけにすぎるでしょうか。そんな説明もできるように思いますが。
最後に、現代科学の枠であるコンピュータを使った研究を紹介しておきましょう。夢は、視覚的なイメージや形象が見えているわけですが、その状態を何とか、外から探れないものか、という研究があります。夢を外から覗こうというわけです。レム睡眠が発見された頃、その目の動きが、夢の像を見ている目の動きと関係があるのではないか、という思いつきがなされました。実際、連続的に左右に目が動いている時に起こしたら、ピンポンのラリーを夢で見ていたということもあったそうです(聴衆、笑い)。あるいは、踏み切りで電車が通過するのを見ている夢だったことも、あったそうです。しかし、全盲の人でも眼球が動くことで、これは必ずしも正しくない、ということになりました。生れながらの全盲の人の場合、その夢は視覚的なイメージがないとされていますので。
しかし、最近、この眼球の動きを、夢の像を見ている動きと関連づける人も、また出てきました。先に紹介した鳥居鎮夫氏です。ふつう、人は目を閉じると、眼球は上へあがります。上へ、くるっと反転してしまうのです。この時、目をあければ、白眼になっています。気味の悪い話になりますが。ところが、レム睡眠に入ると、これが、見る位置に戻ります。すーっと、見る時の位置に黒眼が戻るのです。そして、鈍い単発性の動きのあと、複雑な群発性の動きが起こり、それがひとしきり続くと、眼球の動きは急に止まって、また黒眼が上へあがってしまうのです。レム睡眠が終わった時です。そして、ノンレム睡眠に入ります。
こうした目の動きが、夢の像を見る営みと関係があると鳥居氏は考えているのです。そして彼は、一九八五年に、夢の信号を捉えたと言っています。まず、目覚めている状態で目をつぶっていて、その後、パッと目を開けるとします。つまり、視覚的映像が、パッと目に飛び込んでくる。その時、後頭葉の脳波に、ある特別なパターンが出るそうです。それは、視覚的イメージと関連づけられます。その同じパターンが、レム睡眠時の眼球が動く時に見つかったのです。つまり、夢の中で、視覚像を見始めた証拠を、外から捉えたというわけです。夢を見始めた時を、外から観測できたのです。眼球の動きは、やはり夢の像を見ていることと関係があったのです。こうして、夢の信号を捉えたということで鳥居氏は興奮したのです。この話が載っている青土社の本は、雑誌「現代思想」に連載していたものが一冊の本になっているのですが、この夢の信号の発見は、連載後だったそうです。それを、発見の興奮の中で、本にする時、つけ加えたのです。私も、こういう話には、興奮します。
さて、脳波をコンピュータで処理した、脳波トポグラフィーを用いると、これに劣らず驚くべきことが分かりました。脳波トポグラフィーというのは、いくつもの情報を重ねて、違いをはっきり浮き上がらせる手段をとります。これは鳥居氏の実験ではないのですが、この手段で調べると、夢を見ている時、脳内のどこが興奮しているかが、分かったのです。たとえば、夢を見ている時、視覚イメージを起こす頭頂葉が興奮していることが分かりました。
脳の部位
また、記憶を司る箇所後頭葉から側頭葉にかけても興奮しています。つまり、過去の記憶が呼び起こされていると、考えられるのです。また、聴覚のところも興奮している。つまり、何か聞こえているというわけです。
こうした状況を考えますと、そのうち、どんな夢を見ているのか、大よそコンピュータの画像から分かってしまうような日も、来るかもしれません。その時、また、シュタイナーの睡眠や夢の理論は、試練を受けるでしょう。
以上、シュタイナーの睡眠の考えと、現代の自然科学のそれとを並べて述べましたが、かみ合う所もあるし、そうでない所もあったと思います。
なお、シュタイナーは、夢や睡眠に関しては、実は、それほど多くのことは述べていません(聴衆に、うなづく顔あり)。彼にとって睡眠は、一つの段階にすぎないのでして、次の段階の、死の方にウェイトがおかれるのです。それでは、睡眠の話は、このくらいにしておこうと思います。 
5-3 ミヒャエル・エンデと『闇の考古学』
さて、時間が大分余っていますので、先週予告した、ミヒャエル・エンデの話をしましょう。エンデをめぐって、自由な意識とは何か、を考えてみたいと思います。
彼の名前の字義の説明からいきますと、Michaelは、「ミカエル」でして、天使の名と同じです。Endeは「終り」を意味しています。ドイツ人とのインタビューなどでは、よく、その意味と引っかけた駄洒落を言われています。
このミヒャエル・エンデも、アントロポゾフィーと関わりがあります。エンデがアントロポゾフィーと関わりがあるところから、彼を、アントロポゾフィーが生んだ世界的な作家として見る向きもあります。
さて、ところで少し遠まわりになりますが、エンデの話を続ける前に、雑談的な話を先にしましょう。私の大学に、筑波大学の教育学の大学院を出た人が、専任になって来まして、私は、この間、話をしました。その人が言うには、シュタイナーに接する時には、ちょっと違和感があるそうです。彼もシュタイナーを少し知っているというか、大学院時代には原文で読んだそうなのですが、シュタイナーを読むと、これこれが正しいのだ、こうすべきだ、という述べ方がしてあって、それが、分析的、学術的な文章に慣れている者にとっては、違和感があるというのです。たしかに、それは、あると思います。特に講演だと、聴衆に訴えかけるために、そうした述べ方が顕著になるかもしれません。著作の場合は、少し違うと思いますが。とにかく、学問的な述べ方というものは、こういうこともある、ああいうこともあると並べて、判断は読者ができるようになっているのですが、シュタイナーの場合は、たしかに、そういう述べ方ではなくて、正しいものとして、パッと提示するようなことが、よくあると思います。非論理的な飛躍をするような人ではないし、まわりくどいほど用心深い述べ方をするシュタイナーではありますが、決定的なところでは、やはり断定的だと思います。彼はそういう所に違和感を感ずるというのです。シュタイナーの世界観には、入りにくい面が、たしかにありますね。やはりある程度、彼の言うことを信じるところまでいっていないと、その先の受容の仕方が違ってくると思います。あるところまで入り込んでいると、その先の方で展開されていることに感動したり、衝撃を受けることができますが、そうでないと、ただ、ウッと思って後ずさりしたり、空想的なものとして取り合わなかったりしてしまいがちです(聴衆に、うなづく顔あり)。私の場合は、シュタイナーを信頼できる人と踏んでいますので、そうした信頼から、入り込める入口ができているわけですが。教育学を専攻している彼の話に戻りますと、彼は、シュタイナー教育の場合も、少しは批判的に考えてみる姿勢が必要ではないか、と言っていました。入り込むためには、シュタイナーに対する信頼感が前提となりますが、かといって、すっかり自分の判断力を失って、100%信じ込んで受け入れようとする姿勢がはらむものは、シュタイナー教育の価値そのものとは、別物です。そういった意味で、批判が必要だという考えには、私も賛成です。本当の創造性は、自分で考え出すところにあります。さて、この話を前置きにして、エンデの話に入ります。エンデは、まさに自分の中から、考えをつむぎ出す人です。エンデのシュタイナーの読み方はというと、前にもちょっと言いましたが、三〇年以上読んではいるのですが、研究する、といったような感じではありません。興味のあることを集中して読み進めるけれど、ある時、読みさして投げ出してしまう。そして、二週間後になって、また手にとって読む、といった風だそうです。
彼は第二次世界大戦後、二年間シュトゥットガルトのシュタイナー学校に通ったのですが、その経験が直接、自分を形成するような影響力をもったとは、述べていません。彼はシュタイナー学校で、ただ物珍しく、とまどいを感じたようです。彼の場合は、そうだったわけです。彼は、何事にも捉われずに発言する人です。彼は何事にも捉われない自由な人です。アントロポゾフィーに関わる人が、時として固い考え方をしてしまうとすれば、それは、シュタイナーが、あまりに多くのすぐれた知見を述べているからだとも言えます。すべて相談するというか、参照するようなことになってしまう。そのため、シュタイナーはこう述べているとか、シュタイナーはそれについて何も述べていないとか、いちいちシュタイナーの言葉を探す姿勢が身につく恐れが、あるのです。シュタイナーが述べていることの内容よりもか、それを用いる人の姿勢が問題になりえるわけです。そして、獲得した知識を背景として、これが正しい、これが絶対なのです、と主張する気負いが生まれることも、ありえると思います。この辺は、意識のもち方次第ですから、とても微妙なところです。シュタイナーと関連づけた話で、あまりに脱線してしまい、本来のものと違ったものになってしまったら、それは、シュタイナーの紹介としては正しくないでしょう。といって、ゴリゴリにシュタイナーにぴったりくっついていては、本来、自我に必要な自由さえ欠いてしまうでしょう。要するに、想像力を働かすことが大切なのだと思います。シュタイナーのテキストであれ、何であれ自分を硬直させるほどに盲従するならば、その時に働いている力は、正常な力ではないと思います。正しくは、見えている現実の間を想像力で埋めることですし、テキストの行間を想像力で補うことであるわけです。アントロポゾフィーが要求するファンタジーは、本来、こうした想像力だと思います。しかし現実の間を埋めるといっても、元のラインを全く外れた、勝手な起伏をこしらえてしまえば、話は別です。そのような恣意的な働きや、脱線は、過剰なセンチメンタリズムや、空想の働きです。空想力の働きについては、以前お話ししましたね。自分を中心として、ファンタジーが渦巻いて出ていく。その渦の中に、さまざまな記憶の断片が、現実世界から切り離されて浮遊していますが、時として、それらが寄り集まって、第二の現実世界を築くこともある。この空想力というものは、場合によっては、非生命的な力ともなります。空想にふけりながら道路を横断すれば、車にはねられてしまいます。自分がスーパーマンになったと空想した少年…今はパーマンですか?(聴衆、笑い)パーマンになったとして、ふろしきをマントにして窓から飛び降りれば、死んでしまいます。自分を中心とした、こうした想念の営みは、現実世界と接触することがない場合が多いです。現実世界と接触しても、現実の起伏の上に、全く別なものをかぶせていくというか、現実世界のある断面をきっかけとして、想念がどんどん異常にふくらんでいったり、別の方向に脱線していったりするわけです。
エンデにも、この空想力があると思います。エンデは、一方で、貨幣論やシュタイナーの社会三層化論など、現実的な面にも関わっていますが、他方で、やはり自分の内面をかばうような面も、もっていると思います。その両面があることは、作品にも反映していますね。私が去年、エンデと会った時の印象では、彼が、なにか現実に入り込みにくい人であるような感じが、やはりしました。握手しても、なにか目がこちらの存在を捉えていないような気がしました(注)。
(注)二度目に会った時、エンデはリラックスしていたせいか、少年のような若々しい心をもった人という印象だった。
彼はその時『天使たちの答え』という本の話もしていました。天使とコンタクトをとった人たちの記録です。またカバラの話もしていました。タロットというカード占いの話とのつながりで、カバラの話も出てきたのです。そして旧約聖書の初めの文句は、現代の訳は全部間違っている、とも言っていました。話の中で、あ、これはシュタイナーが、あの本の中で言っていることだと分かることもありました。とにかく彼は、そういう傾向のものにも興味があるのです。エンデは、オイリュトミーもやっていませんね。彼の体は、こう、ボテッとした感じで、運動をしていない体だなという感じがしました。
エンデの内にある空想力は、アントロポゾフィーが要求する想像力と、食い違うことがあります。それは、インタビュー記事などでも感じます。私は、別にそれは構わないと思うのです。エンデは、シュタイナーを正確に紹介しようというような立場にあるわけではないのですから。シュタイナーから、空想的に脱線したっていいと思います。エンデは別に、シュタイナーだけに関わっているわけではないのです。エンデは非常に自由な立場にあると思います。
エンデがシュタイナーから学んだことがあるとすれば、実は、その自由≠ニいうことなのです。我道を行く、その自由さを、エンデはシュタイナーから学んだと言っています。ただ、その自由は、シュタイナーの言う場合は、想像力の広がりの中での自由なのですが、エンデの場合は、時折、それを空想的な自由にはきかえることもあると思います。でもエンデの言葉は、力強いですね。失敗や間違いを恐れずに進め、という言葉は、先回りした考えで、がんじがらめになっている現代人には、力強く響くことでしょう。
エンデは『闇の考古学』の中で、初めて彼の精神的世界観というか、霊的世界観を述べています。この本のことは、子安さんが以前、朝日新聞にも書きましたね。これは、ミヒャエル・エンデが、ある画家のインタビューを受けて、お父さんのエドガー・エンデのことを話したものです。初期のシュールレアリストの画家だったお父さんの絵も、沢山載っています。とても興味深い絵です。その中に、一頭の馬が、池か沼の中へ入り込んでいて、その馬のくびを一人の青年が抱いている絵がありました。これを見て、アッと思ったのは、『はてしない物語』の中で、アトレイユが馬と一緒に沼の中に入り込んでいる場面を思い出したからです。映画「ネバー・エンディング・ストーリー」の、その場面のイメージの方に近いかもしれません。お父さんの絵を、息子のミヒャエルが、物語の場面に使っているわけですね。この親子は互いに感化し合った面白い仲です。ミヒャエル・エンデは14才くらいから創作を始めたのですが、息子ミヒャエルが書いた小説をテーマに、お父さんのエドガーが絵を書いたりしています。その逆もやっています。
このインタビューの中で、エンデは、自分の霊的世界観を述べているのです。私は、この本を読むまでは、エンデが、霊的世界観を、これほどまでに信じているとは思っていませんでした。作品にその方面の知識を利用している程度に思っていました。彼のその世界観の中には、たしかにシュタイナーの考えも入っていますが、シュタイナーばかりではありません。フィンドホーン(Findhorn)も出てきます。フィンドホーンのことをエンデは、いろんな機会に、口にしています。フィンドホーン以外にも、あります。ですから、彼はアントロポゾフィーに限らず、非常に広い立場で、自由にものを述べている観があります。
フィンドホーンというのは、御存知ない方も多いでしょうが、スコットランドにある共同体の名前です。一九六〇年代に発足し、一九七〇年代に急成長したコミュニティです。彼らは、野菜の成育に適さない砂地の土地で、考えられないほど大きな収穫をあげているのです。これは、眉につばをつけて聞いて頂いた方がいいのですが、彼らは、その栽培に、妖精の手を借りているというのです。妖精は植物と近しい関係にあって、ある植物が、今何を欲しているか、どうすれば最適な状態になるかを、教えてくれるというのです。また、ある植物の高次の自我と、特別な方法で連絡をとって、やはり知恵を貸してもらっているといいます。事実としては、栽培に不向きな不毛の土地で、考えられないほど大きな野菜を作っているということがあるわけです。見学者が続々と行ってみるのですが、その道の専門家が、驚いてしまうといいます。
実は、私の知り合いの先生の奥さんがイギリス人で、そういうことに興味をもっていて、フィンドホーンにも行ってみたことがあるそうです。その奥さんに直接聞いたのではありませんが、その先生の話によると、こうでした。彼女の感じでは、彼らは特別な力をもっているというのではなくて、植物が今何を必要としているかを直感的に分るような、とても繊細な感覚をもっているようだったと。つまり、その個人個人が、とぎ澄まされた感覚をもっているだけのようだったと。
ところで、これもまたフィンドホーンのことなのですが、実はこのフィンドホーンでも、シュタイナー学校が行なわれているのです。アントロポゾフィーに関する様々な情報を載せた月刊新聞がありまして、それにフィンドホーンのことが近頃、何度か載ったのですが、最新号では、その地でシュタイナー学校を実践している女性が、報告記を載せていました。もちろん、フィンドホーンと、アントロポゾフィーは、何ら直接の関係はありません。そのフィンドホーンの共同体に三年前に加わった彼女が、共同体の子供たちと接する中で、エマーソン・カレッジの教師養成ゼミナールに通っている人の感化を受けて、シュタイナーの教育論に強い関心をもったのが始まりだったそうです。あるヴァルドルフ教師の指導を受け、現在は自らエマーソン・カレッジに通っているのですが、一九八五年の九月に、彼女たちは、シュタイナー学校を始めたのです。シュタイナー学校の性質上、フィンドホーンの共同体とは別個の独立した組織になっています。しかし、子供たちは、ほとんどが、その共同体の子供たちです。エジンバラのシュタイナー学校の協力も得ているようです。この報告記を読むと、以前、私が教文社の本で、フィンドホーンについて読んだ時の印象よりもか、まともになっている感じがしました(聴衆、笑い)。『フィンドホーンの奇跡』という訳本が、教文社から出ているのです。でも、今度の記事でも、彼女たちが、一緒に瞑想状態に入り、自分たちが崇める天使存在に呼びかけ、お互い同士の考えが同時に分る、というような箇所があって、やはり「正統派」のアントロポゾーフだと、こうしたことには抵抗感があるのではないか、と思いました。
さて、ミヒャエル・エンデのことに戻りますが、エンデは、流行作家という面をもっていることも、私は否めないと思っています。時代の要求に適った作品を書いたという意味で、流行作家だと思うのです。『モモ』と『はてしない物語』は、時代をよく反映しています。日本では『モモ』の方が読まれていますが、ドイツでは、『はてしない物語』の方が、はるかに読まれています。せかせかした日本人は、『モモ』が一番、感動的だったのかもしれません。かなり年配の大人が、『モモ』に感動して、生き方を変えたという話も聞いたことがあります。私の母も、読みたいといって、私から訳本を借りています。『はてしない物語』を好きだという人には、空想力のある人が多いと思います。私の知っている人でも、そうです。私の家内などは、『はてしない物語』には、ちょっと入りにくかったようでしたが、『モモ』の方は、とても買っていました。私は、どちらも好きですが。エンデは、自分の内面の欲求に合わせて、次々とスタイルを変えた作品を書いています。自己模倣を嫌うその姿勢は、見上げた芸術家気質だと思います。彼は、成功した『モモ』や『はてしない物語』と同じような作品は、決して書くまいと決めているようです。でも、この二作は、どうしてこれほどまで多くの読者を獲得したのでしょうか。それは、この二作が、時代の本質を見事に表現しきったからだと思います。この二作は、多くの人を動かす力をもっていました。ですから、表現の仕方をも含めて、この二作に本質的なものがあったと思うのです。私は、この二作がもっている本質と、その表現の仕方を、エンデがある程度、自己模倣した方がいいのではないかという意見をもっています。人類が今にも滅びそうな現代にあって、様々な矛盾の周囲には、不易のものが現われているはずです。先ほど、流行作家という言葉を使いましたが、私は、現代の問題が、歴史上、最もシリアスなのだという意味で、彼に、現代のあり方を鋭く突く作家であり続けてほしいという気持ちをもっているのです。『モモ』と『はてしない物語』級の作品を、もっと沢山残してほしいと、彼に望みたいです。とりとめのない話になってしまいましたが、これで終わります。 
6 生・死・再生
以前、シュタイナーの述べていることが正しいことなのだろうか、すべて正しいことなのだろうかと問い直す時が必ずくるだろうと、申し上げたことがありました。今日の話は、まさにその時だろうと思います。これは、大変に大きなテーマです。
私は、この「シュタイナー教育の実際」という講座の中で、アントロポゾフィーというシュタイナーの思想を紹介する立場にあります。そして今日のテーマは、アントロポゾフィー思想の基本であるといえます。それは、精神世界の問題を扱っています。
私は、最初にした話で、アントロポゾフィーの三つの柱を挙げました。それは、善へ向かう意志、明確な認識、芸術の三つでした。その三つの柱の基礎には、この精神世界という考え方があるのです。精神世界といっても、何か言葉の意味が曖昧かもしれません。精神世界の原語は何でしょうか。ドイツ語ではGeistigeWeltあるいはGeistweltといいます。ガイストの世界ということです。Weltは世界の意味です。ガイストを「精神」と訳した場合、「精神世界」となるのです。
今日これから私が紹介します精神世界の話を受け容れるかどうかは、全く皆さんの御判断におまかせします。考えを強制するようなことは、絶対にいけないことです。
さて、子供の発達の話をしました時、アントロポゾフィーでは、子供が生まれ出てくる前の世界も考えるのだ、と申し上げました。それが、精神世界です。また、人が一生を終えた後の世界も考えると申し上げました。それも、精神世界です。ですから、人間は精神世界からやってきて、この地上世界に暫くいた後、再び精神世界へ旅立つ存在であるという風に考えられているのです。
しかし、この地上にあって、精神世界、つまり彼岸の世界ばかりに目を向け続けることは、シュタイナーの勧めるところではありません。このことは、はっきり申し上げておくべきだと思います。物質的なことばかりに目を向けることが片寄った態度であるのと同様、精神世界ばかりに目を奪われることも、間違っているわけです。人間が地上で過ごすことは、大変重要なことなのです。地上ですごす時は大切な時なのです。ただ、それが、いかに重要であるかは、精神世界にも目を配らないと、十分には分らないとシュタイナーは考えるのです。
さて、睡眠中の人間のあり方をシュタイナーがどのように考えているかは、前回紹介いたしましたね。それをごく抽象的に図示し直すと、こうなります。
夢見の眠りと夢見のない眠りの比較
ところが、死は、シュタイナーによれば、エーテル体までが肉体から離れてしまう現象です。同じように描くと、こうなります。
死の状態
昨今、死の定義の問題が、医学で盛んにとり上げられていますね。物質である肉体だけを見ている現代医学は、死の定義を「脳死」というところまで詰めています。しかし、感覚には捉えられない三重の存在が肉体の外に出た時が死である、というシュタイナーの考えは、それなりに明解ではないでしょうか。脳死状態で、脳が崩壊し始めれば、もう自我が戻れない、という風にも言えますし。
シュタイナーの考える死の状態を、前回のような描き方をすると、こうなります。夢見のない眠りの状態も、並べてみましょう。
死の状態夢見のない眠り
エーテル体は肉体に生命を与え、形を与えていた体でした。人が死ぬと、このエーテル体が離脱するため、肉体は単なる物質として、物質の世界の法則にゆだねられます。もはやそれは、崩壊するしかありません。しかし、意識の主体は、図のように、肉体から抜け出ているわけです。自我は消え去ってはいない、と考えられているのです。昔から、睡眠と死は、似たようなものだという考えがありました。ギリシャ神話でも、眠りの神ヒプノスと、死神タナトスは、兄弟です。シュタイナーの考えに沿って、こうして図で見ると、確かに大変似ていると言えますね。
シュタイナーのような考え方をしなくても、私たちは、死というものは要するに、夢を見ないで眠っている状態がずっと続く、という風に理解することもありますね(聴衆にうなづく顔あり)。しかし、もし意識が消えたまま、永遠の闇の中に入り込んでいるのが死だとしたら、生きている者にとって、死は大変忌まわしい、考えたくもない事柄となります。私も少年時代、自分が無くなってしまう死のことを、とても恐ろしく思ったものでした。自分の意識が無くなってしまえば、意識を通して存在しているこの世界も、無くなってしまうと。その永遠の無、永遠の闇のイメージは、大変怖いものでした。たしかに私以外の人は、私が死んだら、その私の死を見届けます。その人にとっての世界は、私の死後も続くことでしょう。図にすると、こういうことです。なお、今から描く図は、写さなくて結構です。
でも、その人の世界に、私はいないわけです。ですから、私にとっては、その世界はもう無縁であります。消えてしまった私にとって、その世界は、もう無いに等しいということになります。
素朴に考えると、自分の死後も、地球はそのままあるし、その地球の上には、生き残った人たちがいて、その人たちが世界をあらしめているわけです。あらしめている、ということは、その人たちの意識を介して、世界が現われているということです。しかし、このことを厳密に考えてみますと、私と共に消えてしまった私の意識の方は、何も映していない。つまり、死んだ私にとっては、世界は無くなってしまうということになります。順番に考えてみましょう。私が夢もなく眠っている間、世界は消えています。あるいは、麻酔をされた場合も、世界は消えている。朝、目覚めたり、麻酔が切れて意識が戻ると、まわりの世界も現われてくる。
しかし、そのまま意識が戻らなかったら?ふつう考える死は、その状態です。そうすると、世界は闇のまま永劫に続きます。これは少年時代の私には、とても耐えることのできない恐ろしいイメージでした。そして現代の唯物的な世界観のもとでは、事情は全く変わりません。ただ、大人の場合は、生きている間は、つとめて厳密に考えないようにしているだけです。唯物的な世界観のもとで、「私」という存在を厳密につき詰めて考えると、必ずこうした結論になるはずです。「私」というものが存在しなかった、生まれる前の世界も、考えてみれば、逆方向に、過去に向かって永遠の闇があったことになります。そのような闇が、死後も続くことになります。生まれる前の永遠の闇と、死後の永遠の闇の間に、ぽっかりと浮かんだ小さな明かりのようなものが、生きている期間だということになります。その明かりが、死と共に消えてしまう。死の恐怖が人間の最大の恐怖であり続けるのも、この考え方が根底に潜んでいるからです。日中は忘れていても、夜中そのような考えが少年の私を襲います。あるいは、大人になってから、ずーっと忘れていても、本当の死の直前に、その考えが襲ってきたら?全く耐え難いことです。本当に耐えられないことです。
しかしこの考え方は、どこかおかしくはないでしょうか。恐怖を呼び起こすしかないこの考え方は。私が生まれる前に、父や母の生きている世界が、ちゃんと存在していたことは、疑いえないのではないでしょうか。そう考える方が、自然な考えです。私が生まれる前からこの世にいた人が、今、私と一緒の時空にいます。私が死んだあとは、今私と一緒にいる子供たちの世界が続いていくでしょう。こう考えるのが自然ですね。
すると、問題は、死と共に私の意識が消えてしまうというあたりに、あるのではないでしょうか。意識が消滅し、存在が消滅した「私」に視点をおいてみる、なんてことをするから、世界までが消えてしまうのではないでしょうか。
ここで、シュタイナーの考え方に移ってみましょう。夢もなく眠っている時に、肉体の外に出ている自我+アストラル体は、意識を失っています。しかし、自我+アストラル体+エーテル体が肉体の外に出た死の状態では、自我は意識を持ち続けているとシュタイナーは考えます。睡眠と死の二つは、似ているようでいて、やはり決定的な違いがあると考えるわけです。睡眠の状態では、再び肉体にもどってこれますが、死の状態では、もはや肉体には戻りません。後に、死の状態も変化が起こって、人間はエーテル体をぬぎ捨てて、自我+アストラル体だけになる時期があります。その状態と、睡眠中の自我+アストラル体の状態も、違うのです。
さて、シュタイナーの考えを、もう少し追ってみましょう。死の直後、人間は自我+アストラル体+エーテル体の状態にあります。図を見て下さい。シュタイナーによれば、人間はこの時、意識をもっています。ところでエーテル体は、記憶を刻み込んだ体でしたね。そして、この、人生の記憶を刻んだエーテル体がまだ重なって存在している間、ある特別なことが起こるといいます。それは、生前の人生の一コマ一コマを、細大洩らさず回顧する時期であるといいます。まるでパノラマのように、一度に人生を見渡すのです。そして、その精神的な意味を同時に洞察します。この時期は、どのくらいの長さ続くのでしょうか。それは『神秘学概論』によると、こうです。ちょっと複雑に聞こえますが、それは、生前、その人が眠らないで頑張っていられる期間に相当すると。つまり、これはどういうことかと言いますと、眠ってしまうということは、肉体+エーテル体から、自我+アストラルが離れることです。
肉体を別にして考えれば、エーテル体から自我+アストラル体が離れることです(右図)。これは、死後、自我+アストラル体が、エーテル体をぬぎ捨てることと、ある意味では同じプロセスなわけですね(左図)。今考えている期間は、左図で、自我+アストラル体が、エーテル体と、重なっていられる期間です。ですから、それは、右図で、自我+アストラル体がエーテル体+肉体と重なっていられる期間に相当します。つまり、眠たくて、自我+アストラル体が離れよう離れようとしているのに、眠らないで頑張っていられる期間に相当します。ですから、これは数日続きますが、個人差もあるわけです。不眠症の人は長いでしょうね(聴衆、笑い)。私などは、いつもすぐ、布団に入ると、ことっと眠ってしまうので、短いかもしれません。しかし、これは、本質的なことではありません。要は、この時期に人生のおさらいをし、大切な洞察を得るということです。
しかし、この日々は、過去の回想だけではなく、地上ではなかった新しい経験の時だといいます。常に死の瞬間を振り返り、その時を最も崇高な時として思い出すといいます。そのことによって、ある種の、高次の意味での自我意識が継続するのだといいます。もし、それをしないと、地上において眠っているのと同じ状態に陥るといいます(全集168番)。そして、この時期の後、人間は、エーテル体をぬぎ捨て、自我+アストラル体だけとなって、さらに別の体験を始めます。
しかし、ここでちょっと、一息ついてみましょう。死後も意識が続くということや、人生のパノラマを見るというような話に、ウッと、たじろがれた人もおられるのではないかと思います。私も、この考えを無理矢理押しつけようとは、決して思いません。物理学が好きだった高校生の頃の私だったら、まず、受けつけなかったでしょう。また、大学時代の私は、現実の世界に生きていることが苦痛で、小説の世界にひたって、かろうじて生きながらえていたのですが、その頃の私も、こんなことを言われたって、受けつけなかったでしょう。その頃の私にとって、死は何もかも消し去ってくれる、オールマイティでした。ですから、こういうことを言われても、虚無としての死という考え方のほうが、魅力的だったと思います。ですから、シュタイナーのこのような考えに入り込めない方がおられるとしても、ちっとも不思議に思いません。
ただ、ここでひとつ、つけ加えたいことがあります。ここまでの人間の状態、それからこれより少し先の事柄まで含みますが、ここまでの状態は、ほとんど死にかかって、心臓も止まったけれど生き返ったという人たちから、似たような証言を得ている、ということです。ただし、その種のものは、実にけばけばしい表紙の本であることも多くて(聴衆、笑い)、良識のある人は、手を出すのをためらうでしょう。私も、そんなに沢山目を通したわけではありませんが、ちゃんとした医者や科学者が、病院を中心にデータを集めて記録し、考察した本としては、次の二冊が挙げられます。これも邦訳の題は、人目をひくようなものになっていますが。
「かいまみた死後の世界」、レイモンド・A・ムーディ・Jr著、評論社刊。「いまわのきわに見る死の世界」、ケネス・リング著、講談社刊。
ともに原題は、LIFEAFTERLIFEと、LIFEATDEATHでして、この邦訳の題ほど、けばけばしいものではありません。前者が一九七五年、後者が一九八〇年の刊行でして翻訳も、それからさして時をへずに出ました。
ムーディは、バージニア大学で哲学博士と医学博士をとった人です。多くの死にかかった人と面接して、記録をとっています。死にかかった体験を、ニア・デス体験といいます。ニア・デスとは、死の近く、臨死、という意味ですね。アメリカでは、医学者たちの一つの研究分野になっています。ムーディは、この体験に現われる要素を次の11挙げています。
1、表現のしようがないこと。面接しても、とても言葉では言い表わせないと、多くの人が言うのです。2、(自分の死の)知らせを聞いていること。医者などが、自分の死を他の人に告げているのを、自分が聞いている、ということです。3、安らぎと静けさ。4、騒音。これは3と矛盾しているみたいですが、次の5の場合に付随して、風のような音が聞こえることがあるということです。5、暗いトンネル。狭いトンネルをすり抜けていくような体験です。6、身体からの脱出。肉体から離脱しているという体験です。7、他者との出会い。他者がその世界にいて、その他者と出会う体験ということです。8、光の精。光が見える。9、生涯の回顧。これが先ほど述べたことと一致してますね。10、生と死の境界。それ以上いくと死の領域だという、境界が現われることがあります。11、生還。最後の「生還」を除けば、あとは、順序通りに起こるというわけではありません。このムーディの本は科学的なものですが、読み物としても、うまく書けています。
それに比べると、ケネス・リングのほうは、厳密な統計的手続きをとっている分だけ、やや堅い感じがするでしょう。しかし、信頼度は、さらに増します。ムーディの本を意識していて、厳密にしているのです。ケネス・リングは、ニアデス体験の中で、頻度の順番で、次の五つを挙げています。
安らぎ(60%)、身体の分離(37%)、暗闇に入る(23%)、光を見る(16%)、光の世界に入る(10%)。
彼の集めた証言のうち、先ほどシュタイナーが述べた人生の回顧に相当するものを、一つ挙げてみましょう。ボートの事故で溺死しそうになった若者の体験です。(訳書の150ページから引用。()内は質問者の言葉)
「…それは驚きでした。ぼくの頭のうしろにずらりと並んで見えたんです。数え切れないほどものすごい数の、考えや思い出やぼくが夢見たことがです。だいたいは、そう、いろんな考えや過去の記憶です。それが、三〇秒たらずのうちに、どんどんぼくの前に走ってきたんです。ぼくの母のことや祖母のことや兄弟のことやぼくが夢見たことなんかも全部です。それは一コマ一コマになっている感じでした。だから、何百万ていうコマです。それが、ほんとにひらめくように通っていったんです。(それは、どういう感じですか?)いろんな人についての考えや映像だったんです。ものすごい数の考えが、一瞬のうちに走り過ぎていったんです。(彼は指を何回も鳴らす)ぼくは、水の中で目を閉じていたんです。でも、そういうものは見えていたんです。(そういう映像や考えが見えていたとき、あなたは幸せな感じでしたか?)全くそうです。全くです。(それらの記憶をどう感じたか説明してもらえませんか?)いろんなことが、すごく感動的でした。(彼は、二年前に母が死んだときの記憶や母と一緒にしたいろいろなことの記憶を話す。彼は、母とまた会うかもしれないと思ったという。彼はまた、祖母のことも考えた。この祖母はまだ生きていて、彼は非常になついていた)ぼくは、彼女(祖母)が死なないようにっていってるのを見たんです。ぼくは、ぼくが溺れ死んだら、彼女がどう思うか、わかったんです。全く‥‥馬鹿々々しいことです−ぼくが忘れてしまったと思っていた全くつまんないあら探しみたいなことです。ほんとに(指を鳴らす)サーッと通り過ぎていったんです。ぼくのほうがそういう記憶の間を通り過ぎているみたいでした。ああ、そうです。ぼくの一生の記憶をテープで再生してるみたいだったんです。ただし、逆にです。すべて、同じ道を引き返していたんです。だから、ぼくはテープ・レコーダーのように繰り返した感じがしたんです。でも、これは連続してはいませんでした。(よせ集めみたいだったんですか?)そうです。そうです。」
こういう事例は、他にもいくつか載っています。こういう時、シュタイナーの考えでいくと、ショックでエーテル体が、一時的に肉体の外へ飛び出して、あの自我+アストラル体+エーテル体の状態になったといえます。
さて、それでは、シュタイナーの考え方に戻りまして、自我+アストラル体が、エーテル体をぬぎ捨てた後の世界の話に、移りましょう。ぬぎ捨てたといっても、エーテル体のエッセンスはもっていきます。地上体験は無駄ではないわけです。アストラル体は、どういう体でしたでしょうか。感情や欲望の担い手でしたね(聴衆に、うなづく顔あり)。しかし、欲望を満たしてくれる肉体は、すでにありません。感覚的な満足を得たいという欲求が起こっても、それを満たす手段がないわけです。ですから欲望を抑制できない人は、この時期に、その欲望と戦わなくてはならないといいます。この時期は、アストラル体に付属した様々な欲求を、いわば浄化する時です。また、これはもし、受容できれば驚くべきことですが、この時期は、人生で体験したことをすべて、時間を逆に再体験するといいます。先ほどのパノラマ的に見る再体験とは、また違います。この時期には、すべてが逆になっているといいます。人に苦しみを与えたところにさしかかると、自分が、その人の苦しみを体験するという風に。人生をさかのぼっているのですから、そうした場面も、逐一のがさないわけです。この世界は、アストラル界(魂界)といいます。アストラル界は、物質界をすべて裏返したような世界です。
アストラル界というのがあるならエーテル界もありそうですね。実際、エーテル界というものも考えられています。これは、物質世界と重なって存在していて、物質界よりも一次元繊細な世界です。いわば、人間のエーテル体の故郷です。そして、エーテル界は、地球のエーテル体のようなものです。地球を一つの生命と見なした場合、人間がエーテル体をもつように、地球はエーテル界をもっているという風に考えられるのです。この世界を、地上にあって垣間見るためには、イマギナツィオーンという認識状態になる必要があります。一方、アルトラル界を認識するためには、イマギナツィオーンの他に、インスピラツィオーンも必要になってくるといいます。
さて、このアストラル界を抜け出る時、自我はアストラル体も、ぬぎすてます。この時も、アストラル体のエッセンスはもっていきます。そして、いわば高次の精神世界に入っていきます。この世界は、アストラル界より、さらに高次の世界です。ここが、いわば本当の精神世界、ガイストの世界です。この世界でも、ガイストの側面から、人生をもう一度体験し直すといいます。こうした再体験は、すべて、より完全な人間を目指して行なわれるのだ、ということが大切です。この世界も、様々な段階があります。段階といっても、物質界の空間的な上下の関係にあるのではありませんが。
その、ある段階に達しますと、人間は、物質界やアストラル界での反省に基づいて、今度の生涯はこうあるべきだという意図を成熟させていくといいます。そして、もし欠けているものがあれば、次の生涯にそれを獲得するための試練を課すことも、この時に決めるのだといいます。つまり、次の生涯というものが考えられているわけです。シュタイナーによれば、次の生涯のあり方の決定には、自分の意志も関与しているということなのです。今の人生に何か障害となるものがあるとすれば、それは自分が、それを克服するために置いたのかもしれないわけです。人間は、こうして何度も生まれ変わりをして、より完全な人間に向かっていくと考えられています。
このガイストの世界を垣間見るには、インスピラツィオーンの認識を必要とするのですが、反復される地上の生に関するある種の事柄は、イントゥイツィオーンの認識にまで達していないと、捉えられないといいます。人間は、このガイスト界で長いこと善なる意志に貫かれ、浄らかな時期をすごした後、再び地上にやってきます。より完全な人間となるために、地上での体験が必要になるのです。こうして再び新しいアストラル体やエーテル体を身につけると、受胎後の母親の胎内に降りてきます。かくして、前の人生のことをすっかり忘れた、新しい人生が始まるのです。
さて、ここまで一気に話してしまいましたが、どうでしょうか。こうした考え方は、いわばふつうの知識のように、情報として提供することはできないものです。シュタイナーが特別な認識状態、つまりイマギナツィオーン、インスピラツィオーン、イントゥイツィオーンの状態になって確かめたことだということを信じ、それをいわば足がかりとして耳を傾けたとしても、その内容を受け容れるには、ものの考え方の大転換を迫られますね。そして私は、その転換を要求することは、いたしません。真実というものは、自分で見出すものです。人から強制されたものは、決して真実にはなりません。真実はどこにでもころがっているのかもしれません。しかし、自分が拾い上げない限り、その真実は、ただの路傍の石です。そして誰もそれを拾えとは言えないのです。強いられてとり上げたものなどは、そのことだけで、もう真実ではなくなっています。ただ、人間存在をシュタイナーが、以上のように考えているのだということは、お伝えできたと思います。
シュタイナーは、精神世界には、人間以上の存在がいることも述べています。人間の高次の構成要素として、霊我や、生命霊や、霊人の兆しを挙げましたね。精神世界には、すでに現在、霊我を完成し、肉体をもっていない存在とか、生命霊を完成していて、エーテル体も肉体もない存在とかも、考えられているのです。こう申し上げると、大変な世界が開かれてしまったとお思いになるかもしれませんが、そういった高次の存在も、シュタイナーが真剣に考えているものです。
こうした世界観は、仏教やキリスト教などなどの、宗教の世界と重なる部分もあります。再生の考えも、仏教の輪廻の考えと重なっていますね。しかし、シュタイナーに言わせると、彼は仏教やキリスト教の文献から、こうした考えを取り出したのではないのです。太古の時代−うんと大昔のことですが−、その時代には、人間が当たり前の実在の世界として精神世界と接していたと、シュタイナーは言います。宗教は、その精神世界を一般の人間が見失ってしまったために、生まれたものだそうです。いわば失った精神世界に対する憧れとして、宗教が興ったのだと。シュタイナーは、その源泉の精神世界を、直接自分で洞察して、以上のような認識を得たと言っているのです。また、シュタイナーの考えでは、地上の生活は決して無意味ではないのです。次の生涯とのつながりからいっても、そうですが、この地上世界にも、精神世界の光が反映しているということからも、そういえます。我々が他人と向かい合い、その目を覗き込み、その人の眼差しが我々に返ってくる時、実はその眼差しの中に、高次の存在の力も働いているのだといいます。この地上でのプロセスには、全宇宙の高次存在が作用しているのだと。こうした考え方は、もし受容できたら、大変に崇高なことですね。
今日のテーマでの話は、これぐらいにしますが、最後に、私自身の経験を述べようと思います。輪廻のような考えを、怪奇的なものに歪めてしまう夢想家たちもいますね。また、常識の世界から見れば、夢想家でなくても、生まれ変わりは、何か尋常ならざる事柄に思えるかもしれません。私自身は、この事柄を受容していますが、そのあとで、自分に子供が生まれました。自分の子供が生まれた時には、やはり、ふつうの子供をもつ父親とは違った感慨をもったことは、事実です。しかしそれは、ふつう親となった者がもつ責任の感情を、特に強くしたようなものだともいえます。自分の子供であることは確かですが、精神は別ものであると。子供の精神をいたずらに親に従属させずに、一個の独立した人格として考えることは、再生の考えをもっていなくても、必要なことですね(聴衆にうなづく顔あり)。その考えが、強められました。子供を自分の所有物のように見なす考えは、捨てる他ありません。ただ、子供の存在形態は、大人のものとは違いますから、それぞれの時期に合ったやり方で接しなくてはなりません。そのあたりが、シュタイナー教育であるわけです。
しかし、実をいえば、特別な感慨をもったのは、子供が生まれた直後ぐらいのものでして、生後二週間ぐらいに、子供の目がしっかりしてきて、自分の視線と、子供の視線とがぴったり合った時から、もう、ただの子煩悩な父親と区別がつかない状態となった(聴衆、爆笑)ことを、白状しておきます。精神の問題とは別に、魂の、つまり心のレベルの結びつきは、一緒にすごす日常生活から育っていくものですね。それは地上の事柄にしかすぎない面もあるのかもしれませんが、そのあたりを欠いたまま、高次の精神世界へ目を向けっ放しにするようなことは、おかしいと思います。可愛がるだけでなく、怒ることも、しょっちゅうです。揺れ動く心の世界から得るべきものまだまだ沢山あるというのが、私の現状です。 
7 第五文化期の課題 (歴史的展望)
第五文化期という言葉は、一般には聞き慣れない言葉ですね。初めて耳にした方もおられますか?これはシュタイナーの『一般人間学』のもくじに真先に現われてくる言葉です(聴衆にうなづく顔あり)。なお、『一般人間学』はシュタイナーの教育関係の主要講演の一つです。これは、一九一九年にシュタイナーが自由ヴァルドルフ学校を初めて開校する前に、教師たちを前に行なった連続講演です。その時の講演は三つの本になっています。『一般人間学』はその一つです。この一番上のが『一般人間学』でして、今、手に入る訳本は人智学出版社刊のものです。二番目が『教育術』というタイトルで、みすず書房から出ています。この三部作は、創林社から訳が全部出ていたのですが、今では店頭では手に入りません(注)。図書館などには入っているかもしれませんが。
シュタイナー教育を文献の方面から勉強する場合には、こうした教育関係の基本文献を読む必要があります。しかし、これが一般には、なかなか難しいわけです。ところどころアントロポゾフィーの考え方や、用語が出てきて、それが理解不十分だと、どうしても消化不良を起こしがちなわけです。私がこれまでお話ししてきましたアントロポゾフィーの考え方や用語の説明が、間接的にではあっても、その理解のお役に立てれば幸いです。
ところで、この三番目の本の、最初の講演で、子供の気質と構成要素の関係が出てきます。それによると、こうなります。
これは、人間の気質をお話しした時と、一つずつ、ずれてますね。これは子供の場合です。この本を読まれる時、不審に思われるかもしれませんので補足しておきます。この本も、図書館にあるかもしれませんので。
さて、話を戻して、『一般人間学』のもくじの初めに出てくる言葉、「第五文化期」の背景にある考え方を、これから紹介いたしましょう。正確には「アトランティス期後第五文化期」です。原語はこうです。
「アトランティス」という言葉で、もう何らかの先入観が湧いてくるかもしれませんね。この講座は、シュタイナー教育の入門のような意味合いもありますので、あまりこうした内容にまで立ち入らない方がいいという考え方もあるでしょう。実際、シュタイナー学校は、アントロポゾフィー、人智学を教える学校では断じてないわけです。シュタイナーも、そこを強調しています。しかし、教える側の教師は、アントロポゾフィーの展望は、しっかりもっているものです。そして、これはシュタイナー教育を紹介する講座なのですから、自我を完成している大人に対して、ご自分の判断力に任せる形で、できるだけアントロポゾフィーの全体像を示すべきだと、私は思います。その意味で、「アトランティス」というような言葉が、今、ここで出てきても、おかしくないと思います。誰もが書店で手にとることのできる、シュタイナー教育の主要文献たる『一般人間学』のもくじの冒頭に出てくるのですから。それを見て、奇異な感じを抱く人も多いはずです。そのまま、関わるのを止める人もいるかもしれません。それをそのまま放っておくよりも、できる限り説明した上で、ご判断を仰ぐという道の方が、大人の自我を前にした対し方だと、私は思います。これは、はっきり覚醒した意識で判断すべき事柄です。
まず、「アトランティス」という言葉に含まれる夢想的な語感を取り払いましょう。これは、シュタイナーが考えている人間進化の、ある段階につけられた名称なのだという風に、認識的に捉えてみるのです。空想的なものが群がって寄ってきそうな名称であるので、難しいことかもしれませんが。それは、現代人のように論理的にものを考えられない段階です。思考をちゃんと行なえない時代が太古にあったということは、人類学的な見地からも、見当がつきますね。ただ、アントロポゾフィーでは、精神的な見方も加わってくるのです。その段階の次に、現代の人間の系譜が始まります。アトランティス期後nachatlantischというのは、その段階が終った後、ということです。現代の人間の系譜は、その後に始まるのです。その系譜は、大きく分けて次のように考えられています。
この第五文化期が、私たちのいる時代でして、およそ十五世紀半ばから始まっています。古代ギリシャ・ローマ文化期は、紀元前八世紀頃から始まっています。ですから、それは、およそ二千二百年近く続きました。どの文化期も、およそそのくらい続くと考えられています。第五文化期が始まったという十五世紀半ばは、ルネッサンスの頃ですね。グーテンベルクの印刷技術も発明されます。近代が始まります。そして、唯物的な考え方が次第に支配的になっていきます。しかし一方で、唯物的ではない、精神的な流れもあります。ところが一般には、その二つの流れは、お互い分離してしまっています。現代に近づくほどに、その乖離はひどくなる傾向にあります。人間に関して言えば、精神と肉体が一致していない。私たちは知識で頭を一杯にしますが、それが体の動きと直結しなくなっています。精神が、ちゃんと肉体に収まっていないようなところが、あります。精神的なことと、肉体的、物質的なことが、全然融和しなくなっています。一方では、物質的なことを過度に重視して、物を早く沢山作る立場から、人の心を痛めつけ、精神に重圧を加えることがあります。心が痛むうちはまだしもなのですが、そうした環境の中から、感動も情緒の動きも少なくなった人間が育っていく恐れさえ出てきています。また、その逆に、そうしたテクノロジー的で非人間的な世界に対抗するかのように、新興宗教や、オカルトへの熱狂があります。こうした状態を、シュタイナーは、本来の第五文化期のあり方から外れた状態であると考えていました。与えられている課題、与えられている機会を、本来の形で全うしていないと。
では、一つ前の第四文化期の、古代ギリシャ・ローマの時代はどうでしたでしょうか。フリードリヒ・シラーは、ソフォクレス、ホメロスなどの古代ギリシャの詩人を<素朴詩人>という風に捉えています。近代の詩人が、自然と分離して、失われた自然を求めるしかないのに比べ、彼らは自然の中に溶け込むことができる詩人だったと見なしているのです。シラーは、古代ギリシャの人間は、自然と合一することが未だ可能だったと考えているのです。
シュタイナーも、同じような考えをもっています。当時、人間の肉体も自然の一部であって、その肉体と精神は、他の時代にみられないほど、よく一致していたと考えているのです。古代ギリシャで肉体を鍛えることは、すなわち精神を高めることだったのです。彼らの彫刻芸術も、肉体の表現に精神を込めているわけです。このような、精神と肉体の一致は、第四文化期のみの特徴です。
さらに一つ前の第三文化期、古代エジプト・カルデアの時代になると、また精神と肉体の不一致が見られます。精神世界への傾斜の強い時代だったのですが、物質的な表現や、肉体へのこだわりもありました。ミイラなどがそうですね。占星術や測量などの数学的な方向が、精神的なものと交錯していた時代です。ある意味では、現代の第五文化期に似た面があります。
この第三文化期をさらに、第二文化期(古代ペルシャ)、第一文化期(古代インド)とさかのぼるほどに、精神的なものへの傾斜が強くなっていきます。
第一文化期の古代インドの時代に至っては、肉体や物質の世界は、一種の幻、マーヤのような世界であるという意識が強かったといいます。そして、精神世界への強い憧れが、人々の魂を貫いていたそうです。それは、失われた世界への憧れでした。彼らには見えなくなってしまった世界への憧れです。彼らはそのため、再び精神世界を覗こうと、ヨガなどを始めたのです。ヨガは現代の第五文化期にも、続いていますね。一般に行なわれている健康法としてのヨガではなく、精神世界にまで入り込もうとするものです。しかしこれは、シュタイナーによれば、時代に即していない方法ということになります。
この第一文化期の古代インド期以前の世界、すなわちアトランティスの時代には、人間は精神世界を日常的に見ていたといいます。論理力もなく、自我が完成していない太古の人間でしたが、別の能力はあったと考えられているわけです。物質世界は見えなかったけれど、ある種の精神世界と、直接に接することができたというのです。「人間の構成要素」のお話の時に、意識魂がまだ出来ていない太古の時代について、少し言及しましたね。意識魂というのは、肉体の質が変化して生じた心、魂です。その変化が生じて初めて、物質世界を知覚できるようになったわけです。このアトランティスの時代は、その意識魂が生まれる前の時代です。
さて、アトランティス期後の文化期全体の流れを、ここで通して見てみましょう。
第一、第二文化期のころは精神世界への傾斜の強かった時代です。それが第四文化期になると、人間は物質世界へ、ぴたっと収まります。そして、現代は、それがまた、分離し始めている。そして将来、第六、第七文化期には、またどんどん精神世界への傾きが強くなると考えられています。そして、第一は第七と、第二は第六と、第三は第五と、ある種の類似性をもっています。第三文化期の古代エジプト・カルデア期は、第五文化期の現代と似た面があるわけです。
しかし、これは大変重要なことですが、こうした対応は決して単なる繰り返しを意味しているのではないのです。第一から第三までは、まだ物質的な世界を十分経験する前の状態です。第五以降、人類はすでに、物質世界にひたりきった経験を済ませています。ですから、第三文化期と第五文化期は、本質的に違うわけです。人間は、第四文化期の、古代ギリシャ・ローマの時代に、すっかり物質世界にはまり込んだあと、第五文化期に入ったのです。第五文化期に、精神と肉体が乖離し始めた状態は、未だ物質世界への傾斜が足りない第三文化期のその状態とは違うのです。第五文化期は、物質的な体験をいしずえに、その上に精神的なものが求められていく時代であると、シュタイナーは考えています。それが第五文化期の課題であるわけです。精神と肉体の不一致は、そうした時代が到来している兆しであるのですが、人間はその不一致に戸惑い、迷っているということになります。科学は物質世界にだけ限定されてしまっており、精神世界の事柄は、宗教の扱う問題になってしまっている。科学と宗教という形で、物質・肉体と、精神の不一致が表現されています。しかし、これから高まっていく精神世界への傾斜は、科学的な思考によって支えられたものでなければならないというのが、シュタイナーの考えです。それが彼の唱える精神科学Geisteswissenschaftであるわけです。
来たるべき第六文化期は、第二文化期の状態が、第七文化期は第一文化期の状態が、一次元高いあり方で実現されると考えられています。
しかし、こうしたことが、何もしなくても自然に進展していくというのではありません。あらゆる妨害がありうるわけです。精神と肉体の不一致も、先ほど述べたようなわけで、ただの歪みとして、人間を苦しめるだけの場合もあるのです。そしてまた、単なる精神世界への熱狂に駆り立てられたり、逆に、生命を欠いた機械的な世界へ埋没したりすることもあるのです。両方とも、ある種の退行した力が妨害的に働きかけているのです。シュタイナーは、そうした事実を明確に認識しないと、人間は誤った方向へ行くと言っています。
文化期毎に、違った課題があることは、以上の説明でお分りいただけたと思います。ですから、第四文化期の教育は、そのまま第五文化期には通用しないのです。
『一般人間学』の第一講で述べられていることは、そういったことです。これはシュタイナー理解の基本的な事柄なのですが、長年シュタイナーをやっていても、この辺を取り違える人があります。精神世界への熱狂が存在すると、第五文化期も第三文化期も区別がなくなります。むしろ、古代への憧れが表面に出てきます。また、第四文化期の教育と、第五文化期の教育とを同じレベルで考えるようなことも起こります。
さて、次に、もう少し大きな展望をもってみましょう。シュタイナーの『教育芸術』−二つあるうち、みすず書房から『教育術』というタイトルで訳が出ている方ですが−の第二講に、土星、太陽、月、地球‥‥‥バルカンという進化期のことが出てきます。これも、今、ここで理解の糸口をつけることは可能だと思います。これまでの話のスケールを大きくしただけという面もあります。詳しくは『神秘学概論』や、『アーカーシャ年代記より』をお読みいただく他ないのですが、いきなり、こういう本は難しいかもしれません。
さて、進化期は七つあります。
ここで言う土星とか太陽とか月は、空に出ている土星や太陽とか月のことではありません。たとえば、月進化期とは、今の物質としての地球の一つ前のあり方を、進化の一段階と見なして、つけられた名前です。その月と、空にかかる月とは、直接には何の関係もありません。これは大変大きなスケールで考えています。月進化期は、現在、全く痕跡が残っていません。ある種の事柄を除けば、完全に消え去ったと考えられるのです。そして、現在の宇宙は、地球進化期から始まったと考えます。今の、物質的な太陽系は、この時に始まったということです。
現代天文学の考え方にも、ちょっと似たようなものがありますね。宇宙が膨張と収縮を繰り返すという考え方です。それはいくつか考えられるケースの一つです。膨張・収縮を繰り返すケースですと、前の世界は収縮の果てに、すっかり崩壊し、痕跡がなくなります。そして、膨張とともに、また新たな宇宙が始まるわけです。しかしそれは、物質宇宙の膨張・収縮の考えです。シュタイナーの場合は、精神世界も考えますから、これとはやはり違います。
地球進化期の地球は、いわば物質世界にありますが、一つ前の月進化期の地球≠ヘ、物質より一次元精妙な素材で出来ているのです。太陽進化期の地球は、さらに一次元、土星進化期は、そのまたさらに一次元精妙な素材で出来ていると考えます。これが、今の地球進化期以降、また逆の形で、精妙になっていきますが、同じことの繰り返しではないわけです。木星進化期の地球≠ヘ、地球進化期の、物質世界の経験をたずさえていますし、その後も同様です。
この図は、先の文化期の時と全く同じ意味ではありません。物質化が起こっているのは、この地球進化期のみです。あとはみんな、次元が違うのです。ですから縦線を入れておきました。文化期の場合は、人間の自我は古代インド文化期にすでに物質界に降りています。○印は、その自我が、どこまで物質界に収まっているかという、程度の違いを表していました。
人間は、土星進化期に初めて物質体だけの存在として生じました。いわば鉱物的人間ですが、今の物質としての鉱物のような存在ではなく、影のような素材でできているのです。人間が初めてエーテル体を身にまとったのは、二番目の、太陽進化期のことです。この時の人間は、物質体とエーテル体だけの存在でして、いわば植物のようなあり方をしていたといいます。これも、もちろん、現在の物質体とエーテル体をもった植物とは、レベルが違います。そしてアストラル体は、三番目の月進化期になって初めて、人間のものとなりました。この時は、物質体とエーテル体とアストラル体の、いわば動物的なあり方をもっていたとされます。これも、今、物質としての肉体をもった動物とは違いますが。
そしてまた、ややこしくなるかもしれませんが、進化期を一つ進み、新しい進化期に入ると、初めのうちは、地球≠ヘその前のあり方を反復します。つまり、たとえば、太陽進化期には、土星進化期のあり方を一度反復してから、先に進みます。それを反復期と呼びましょう。月進化期は、土星反復期と、太陽反復期を繰り返した後、先へ進みます。同様、地球進化期は、土星反復期、太陽反復期、月反復期を繰り返した後、さらに進みます。ですから、地球進化期といっても、本来の地球の進化は、月反復期の後で起こります。そして、実際、人間が自我をもつようになるのは、月反復期の後です。整理すると、次のようになります。
地球進化期は七つに分けられて、土星反復期、太陽反復期となっていき、この四番目が、本当は少しずれるのですが、アトランティス期に当ります。そして、次の五番目が、第一文化期から第七文化期までを含んでいるわけです(聴衆、驚きの顔あり)。アトランティス期も、実は文化期に当るものを七つもっているのです。
この図の一番左の、最も大きなスケールの所を見て下さい。木星進化期、金星進化期、バルカン進化期は、それぞれ、人間の霊我、生命霊、霊人が完成する時期に当ります。もちろん、この木星や金星も、現在空に出ている惑星とは関係ありません。
さて、以上がシュタイナーの宇宙論の概略です。第五文化期の位置も、宇宙進化の中においてみると、こんな風になるわけです。
今日の話は、これでおしまいにしますが、どのように受けとめられたでしょうか。受容するしないとは別に、シュタイナーの考え方の骨子は、お伝えできたのではないかと思います。構造があるということがお分りになりましたか(聴衆にうなづく顔あり)。これは芸術的な形で伝える事柄というよりは、認識の性質の方が強いと思います。シュタイナーは、この宇宙進化の認識を一九〇〇年に得ました。いわば地球の転生といえるこの宇宙絵巻は、イマギナツィオーンという認識状態で得たものです。 
8-1 認識の小道
今日はこじんまりとしていますね(聴衆、笑い。初め三人しかいなかった。あとで大分遅れて四、五人くる)。前回お話ししたのは、この本です(図書館から借り出した、創林社刊の『教育芸術1、2』の二冊を見せる)。みすずの『教育術』は、こちらの『教育芸術1』に当ります。
さて、それでは、まだ集まりが悪いので、前回の地球の進化の話の補足から始めようと思います。
高橋さんは「進化期」を「紀」としていますね。
この四番目の地球進化期が、今の物質化した地球の時代であると、前回申し上げました。その前の月進化期には、地球はまだ、物質より一段階精妙な素材で出来ていたのです。月進化期の痕跡は、これも前回申し上げましたように、何も残っていません。この月進化期と、地球進化期の間には、一種の休閑期があるのです。
その休閑期の間、地球は全く別のレベルにあります。植物でたとえれば、種の時代に当りますね。いわば、こんな風になります。
ですから、いってみれば地球自体の生まれ変わりであるわけです。ただし、月進化期は、地球進化期と同じレベルではありません。物質化しているのは、地球進化期だけでして、前回こういう図を書きましたね。
それぞれの進化期の間に休閑期がはさまります。
補足はこのくらいにしておきましょう(この時で出席者、まだ四人、先の話に進めない)。
さて、話は変わりますが、みすずの『教育術』と、創林者の『教育芸術』を原書に当って比べてみたのですが、まるで違いますね。みすずの方は、教育学の人がやっているのですが、訳す前にシュタイナーのアントロポゾフィーをちゃんと勉強していないような所が多々見うけられます。月進化期Mondenentwickelungや木星進化期Jupiterentwickelungにしたところで、「月が進化する間」とか「木星が進化する間」となっています。これでは何だかさっぱり分かりませんね(聴衆にうなづく顔あり)。現在の月や木星のことであるように誤解します。問題になるのは、そういった宇宙進化の部分だけではありません(聴衆から、「綺麗な本なのにね」の声)。創林社の方は、その点、ちゃんと訳されてあります。でも、この本は今では店頭で手に入らないわけです。(聴衆の人数が、ややふえる)。
それでは、今日の本題にはいります。
今日で最後ですね。この講座が、初めチラシでうたってあった順序通りではなかったことを、まずお詫びしなければならないと思います。また、途中でも、こちらの都合で何度か予定の変更があったのも申しわけありませんでした。
さて、今日はこれから「認識の小道」というテーマでお話ししたあと、「ミヒャエル・エンデと月」について、私の考えていることを述べようと思います。時間が余れば、最後の日ですので、皆さんの側からのお声もお聞かせ願いたいと思います。
これまでお話ししてきた私の側の反省としまして、あまり細々と立ち入った話をしても、皆さんの側で、かえって分からなくなるかもしれないという心配があります。前回は、その上、急ぎすぎたと思います。子安さんに15分ほど時間泥棒されたこともありますが(聴衆、笑い)。もちろん、締めくくりとして必要だったことでして、私の方が臨機応変に、今日に少し回せばよかったのです。これまで時折、これは最後の「認識の小道」でお話しします、という風に予告してきたことがあったので、最終日は、何か凄い話になりそうだとお思いだったかもしれませんが、そんなわけで、ざっと核心をお話しするような風にしたいと思います。
「認識の小道」は、シュタイナーの著作『Theosophie(神智学)』の最後の章のタイトルです。この部分を詳しくしたものが、この『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』です(イザラ書房の訳本を見せる)。
日本でシュタイナーの社会的な方面が紹介されたり、有機農法の元祖のような扱いで、その農学方面が見直されたりし始めて、そうした方面に興味を起こす人でも、シュタイナーの高次世界の認識とか、精神世界の叙述に対しては拒絶反応を示す場合があるようです。しかし、本来、アントロポゾフィーは、すべてが有機的に関連し合っていますので、教育の場合もそうですが、関わりを一つの分野に限定し、他の部分を切り捨ててしまうというのは、おかしいのです。農学方面にしたって、黄道十二宮の星座や、月の動きなどと切り離せないのです。『いかにして』は、ちょっと難しいところがあるでしょう。前半だったら、かなり分かるかもしれません。でも、読むのなら、『神智学』が先ですね。これは、基礎的な入門編となっています。
さて、これまでの講座でお話ししてきた事柄は、シュタイナー自身が自分で認識したものであると申し上げてきました。それはどうやって認識したかというと、イマギナツィオーンImagination、インスピラツィオーンInspiration、イントゥィツィオーンIntuitionという、特別な認識状態になって行なったのです。たとえば、地球の進化、いわば地球の転生は、イマギナツィオーンで認識しました。そうした認識状態には、誰でもが、ある定められた行を積めば、なれるというのが、シュタイナーの主張です。たとえば、その行のことを概説した『神智学』の「認識の小道」は、こんな言葉で始まっています。
「本書に述べられている精神科学の認識内容は、誰でもが自力で獲得することができる」。
ですから、今まで述べてきたことの確証は、こういう形で、すべての人の手にゆだねられているわけです。それでは、一体その行とは、どんなことをするのでしょうか。
まずは、感情の波に揺れ動かされる状態を、段々と静めていくことをします。具体的なことは省きますが、肝腎な点は、そういうことです。私たちは、カッとなってものが見えなくなる状態に陥りやすいですね。たとえば、子供を寝かしつけているけど、なかなか眠ってくれない。一時間くらいトントン体を叩いて、ようやく寝入ったかな、と思って立ちかけると、子供がこっちを向いて目を開け、「へへ」と言う。ああ、今までの苦労は一体何だったのか(聴衆、笑い)と、ガックリくると同時に、「こら、寝なさい」と叱ってしまいますが、これは、やはりよくないことですね。早く寝かせたい親の都合を、押しつけてはいけません。叱られた状態で寝入ることのマイナスを洞察して、自分の感情の波を、なるべく短時間に静めるべきです。とかく私たちは、感情の波間に漂いながら生活しているわけです。そうした感情の動きで我を忘れるようなことがないようにしていくことが、やはり、目指す方向としてあるのです。日常生活でそういう方向に向かおうと努力するうち、イマギナツィオーンの認識状態が、いつしか訪れるのです。その瞑想では、植物が種から芽生え、成長し、枯れるプロセスを思い浮かべることから入っていくやり方があります。このイマギナツィオーンに達するには、いわば感情を本当にコントロールできることが前提になります。
次のレベルに達するには、思考のコントロールが必要です。私たちは物を考える時、次々といろんな連想から脱線していきますね。勝手にいろんな横道に外れて考えたり、ぷっつり思考の連鎖がとぎれたりします。そのような勝手気侭な思考に秩序をもたらし、首尾一貫した論理のもとで、思考できるようにしていくのです。その道が瞑想の助けを借りて、インスピラツィオーンへ通じるのです。
そして、さらにその上のレベルでは、意志を行動にしっかり連動させることが前提になります。行動のすべてが、はっきりした善なる意志に貫かれ、意志したことが即、行動に移されることが必要です。行動のすべてが、真・善・美の法則にかなったものであるということです。その努力と、瞑想の助けから、イントゥイツィオーンが訪れます。
イマギナツィオーンの認識状態になれると、エーテル界が認識でき、また、アストラル界も見えてきます。インスピラツィオーンでは、精神世界の存在同士の関連が分ってきます。イントゥイツィオーンでは、精神世界の存在の内部まで認識することができるといいます。
以前ちょっと紹介しました人間の構成要素との対応からいうなら、イマギナツィォーンはアストラル体、インスピラツィオーンはエーテル体、イントゥイツィオーンは肉体と関連します。それぞれの体が変化することで、各レベルの認識状態が、訪れるのです。
行や瞑想というものは、アントロポゾフィー以外にもあります。しかし、アントロポゾフィーの行の特徴は、まず必ず、思考を通過することにあります。シュタイナーは、それが現代人に適した道であると主張します。思考を捨て、一定の感情に染まることから入るような道もあるのですが、それは現代の進化段階にある人間がとるべき道ではないと、シュタイナーは考えるのです。これは大切なことです。人間の思考力を邪悪なものであると考えるような道は、場合によっては、正邪を見分ける力を失わせるかもしれません。シュタイナーが唱える行の、もう一つの特徴は、師弟関係が不要なことです。師から口伝される道しかないというのは、古い時代のものだというのです。また、行のために山にこもったり、仙人のような特別の生活環境を求めることも不要とされています。瞑想の時間を除いて、社会生活は、ちゃんと営まれているのが、現代にかなったやり方であるわけです。「認識の小道」のテーマでの話は、これくらいにしておこうと思いますが、精神世界を実際に覗くためでなくとも、『神智学』や、『いかにして…』をお手にとって読んでみることは、きっと人生に何がしかのものを与えてくれるだろうと私は思います。 
8-2 ミヒャエル・エンデと月
エンデが月と縁が深いことに関しては、いくつかの暗示があります。エンデの絵本に『森の賢者ヒダエモン』がありますね。その中で、主人公の象ヒダエモンは、心の中で「月!」と叫びます。常に月のことを考えます。
「‥‥憑かれたように考えつづけるのだった。<月!>と。ほかのことは何も考えない。<月!>ただそれだけだ。それはそれは、壮大な思いだったよ。」(矢川澄子訳)
それから、『モモ』の第五章で、ジジがメールヒェンを話しますね。その中でモモ姫が下界に送り出した魔法の鏡が出てきます。あとでモモ姫も、不死の状態を自ら捨て、下界に降ります。その下界のモモ姫が見上げると、空に浮んでいる銀色の鏡、あれはやはり、月のイメージですね。過去のイメージともいえます。そして、子安さんの『エンデと語る』の中で、エンデはこう述べています。
「月は、私という人間にとって重要なのです。私が月の影響をとても強く受けていると感じるからです。たとえば満月の夜、私は眠れないことが多い。けれども新月のころは、だいたいにおいて調子がくずれません」。
この本の中では、エンデが月の満ち欠けを表示する時計をもっているエピソードも出てきます。エンデが月と縁が深いことに関して例を挙げるのはこれで十分でしょう。
ところで、アントロポゾフィーは前申し上げましたように、<太陽的なもの>をその本質としています。これに対するものとして、<月的なもの>を考えることができます。以下申し上げることは、シュタイナーや、アントロポゾフィーが述べていることではなく、私自身の洞察に基づいていることをお断わりしておきます。
エンデにはもちろん、<太陽的>な要素があるのですが、他方で<月的>な要素も強いことを申し上げておきたいと思うのです。なお、ここで、<太陽的なもの>とか<月的なもの>といっているものは、空に出る実際の太陽や月とも関連させて考えています。もちろん、物質的な天体としての太陽や月ではなく、それらがイメージや象徴として表わしている精神的な特徴全体を広がりとして、もっています。たとえば、<太陽的なもの>の特性には、大別すると二つあります。一つは明るさ、温かさ、そして太陽の規範の力に身をゆだねる素直さ、素朴さといったものです。二つめは、何もかもはっきり照らし出して、じめじめした湿気や暗い神秘を排する照明力です。明確な認識は、この力と関連します。アントロポゾフィーは、この二つの面を<太陽的なもの>として備えています。アントロポゾフィーは、明るさをもっています。また、<月的なもの>は、太陽的な素朴さにはない屈折をもっています。一筋なわではいかないのです。こうした力の影響下にある人は、太陽的な規範からも自由になろうとする衝動をもちます。その行く先には、太陽の明るさ、温かさはない。それで、場合によっては、自己の力だけに頼る倨傲さが生まれたり、逆に虚無に落ち入ったりするわけです。
<月的なもの>。−闇、曖昧さ、夢幻的形象、屈折、倨傲、虚無
この<月的なもの>と、<太陽的なもの>の二つの要素を文学の世界ももっています。漫画の世界ですら、そうです。(ちばてつやは太陽的、あずまひでおは月的と言おうとするが、止める)しかし、漫画は、皆さん御存知なさそうですね。リルケやブランショやアルトーなど、現代文学には<月的なもの>が多いです。マラルメのようなシンボリズムの詩を読まれたことは、おありですか。象徴詩といわれるものです。あゝいうものは分りにくいですか?これが分る感覚は、<月的>なものです。<月的>感覚の持ち主は、おぼろ月のように、自分のまわりにいわば、ある種の大気をもっています。象徴的な詩句は、その彼に向かって飛び込んで来ると、大気に身をもやす流れ星のように、その大気を通過する一瞬、音色や色彩を発します。その主観的な音色や色彩が、彼にとって価値となるのです。
月的感覚
これが、<太陽的>な感覚の持ち主だと、こうです。
太陽的感覚
彼は底意もなく、すっきりした人ですが、大気がない。シンボリックな詩句は、モノのように、ポンとぶつかってはね返り、意味不明となります。もちろん<太陽的>な世界にも、ファンタジーはありますが、こちらは、生命的・自然的なファンタジーです。以前申し上げた<想像力>です。<想像力>の広がりにはひっかからない文学も、あるのです。アントナン・アルトーなどの、病的なものをわざと嗜好するような退廃的な文学も、<想像力>の外にある<月的>な文学です。
エンデの場合は、この、<月的>な感覚と<太陽的>な感覚の両方があると思います。彼の作品の中に見うけられる文明批判的な眼差しは、現実世界から目をそむけまいとする、<太陽的>な認識の方向性を帯びています。また、社会三層化や、貨幣論への関心も、社会や経済という現実世界の広がりを視野に収めようとする点で<太陽的>な方向をもっています。しかし一方でエンデは、『はてしない物語』に出てくる<ファンタージェン国>のような別世界、虚構世界に強い愛着をもっています。エンデの絵本『リルム・ラルム・バルム』の話は、風が吹けば桶屋がもうかる式に展開していきます。そのファンタジーの働き方は、現実のあり方に沿おうとする<想像力>的なものとはいえません。それはやはり、<空想力的>な脱線が主となっています。<空想力>は、太陽的な規範から逸脱しようとする力でもあります。それは<月的>な力の下にあります。エンデには<月的>な要素が強くあるのです。しかし、『はてしない物語』で、主人公のバスチアンは現実世界へ戻ってきます。エンデは、自己の内に、<月的・空想的>なものをもちながら、しかし、現実世界へ回帰せんとする健全な感覚、<太陽的>な感覚をも、合わせもっているわけです。
さて、エンデは満月が自分に影響すると述べていますが、一体、月が人間に影響を与えるなどということが、ありえるでしょうか。満月の時を特別に感ずるというと、体から毛が生えてくる狼男などを連想しますね(聴衆、笑い)。それは冗談ですが、実は最近の科学でも、月の満ち欠けが人間の脳に影響を与えていることが証明されたのです。
これからいたしますお話は、『続・日本人の脳』、角田忠信著、大修館書店刊に出ているものです。角田氏は、東京医科歯科大学の難治疾患研究所、聴覚機能疾患部門教授で、医学博士です。
さて、人間の脳は、ほとんどの人が右脳で非言語音を聞き、左脳で言語音を聞いています。
右脳と左脳の機能分け
たとえば、音楽は右脳、言葉は左脳で聞いているわけです。逆の人もいますが、その場合は、これからの話を左右逆に考えればいいだけです。言語音と非言語音を、脳の別々の半球で聞き分けるという事柄自体には、変わりありません。以下の話では、右脳で非言語音、左脳で言語音を聞くという、最も一般的な場合として考えましょう。
この脳の役割分担の機能を利用して、次々と凄いことが分かってきたのです。かなり最近のことです。この本自体、一九八五年十二月刊です。
まず、日本語を母国語とする人に限られる反応ですが、たとえば左脳を暖めると、非言語音を聞く領域が右から左へ移ります。
右脳から左脳へ移動
タバコを喫っても、そうなります。要するに、何らかの刺激で、その変化が起こるわけです。ところが、そのような刺激を一切断って実験しても、規則的に同じ変化の起こる時期が見つかりました。それがなんと、満月、新月、上弦、下弦の月の時だったのです。この現象は、日本語を母国語としない人でも同じでした。こうして、月の満ち欠けが、脳に何らかの刺激を与えていることが分かったのです。この発見は一九八四年のことです。持続時間は、満月で六・五〜十一時間強。新月で三・五〜四・七時間。上弦の月で二〜三・三時間、下弦の月で一・三〜二・六時間であったそうです。エンデが満月の時特別な感じがするといっているのも、あながち荒唐無稽ではないことになります。
シュタイナーは、月の満ち欠けの影響に関しては、どう言っているでしょうか。彼は、月の満ち欠けの影響は、直接的な形ではもはや、現代にはないと述べています。この点、また食い違いますね(聴衆の中に、苦笑あり)。でも、ふつうの人の場合、特別な調べ方をしないと影響が分からないわけですし、意識に上らないのですから、シュタイナーの述べていることは、その限りで正しいのかもしれません。検出精度が、シュタイナーの想定していたものよりずっと進んでしまった、ということでしょうか。
月との関連はないですが、先ほど申し上げました、日本語を母国語とする人の特殊性にも、興味深い点が多々見うけられます。これはもう、十年ほど前、同じ著者の『日本人の脳』(一九七八年刊)で著書の形になっていますし、新聞などでも紹介されましたので、御存知の方もいるでしょうが、有名なのは、コオロギの鳴き声をどう聞くかです。日本語が母国語の人は、コオロギのリーリーリーという鳴き声を、非言語音として右脳で聞くのではなしに、言語音として左脳で聞いているという事実ですね。たとえば、欧米人は同じコオロギの鳴き声を、音楽や雑音と同じように、右脳で聞いているのです。風の音、波の音、鐘の音も、コオロギの鳴き声と同じように聞いていることが分かりました。ですから、自然の音が、日本語を母国語とする人にとっては、そうでない人たち、たとえば欧米人たちとは、違った感触を与えていることになるのです。いわば人の言葉を聞くように聞いているわけですから、誰もいない孤独の中で、虫の声や、波の音を聞ければ、その感触というか気配は、日本語を母国語とする人と、しない人とでは、大きく違ってくるでしょう。
また、邦楽器も同じ働きをします。たとえば、琴や、三味線や、尺八の音を聞くと、言語を聞く左脳で聞いてしまう。フルートなら右脳なのですが、尺八だと左脳になってしまいます。欧米人だと、これら全部、右脳で聞くわけです。楽器が問題なのです。琴で演奏したヴィヴァルディの「四季」は、やはり左脳で聞いてしまうのです。また、外国語学習者にとってはショッキングなことですが、外国語を読んだり、聞いたり、話したり、書いたりしたあと、非言語音を左脳で聞いてしまう逆転現象が数時間、残ってしまうそうです。外国で長期間過ごしてきた後などは、数日続くといいます。大学の教官や受験生など、一日に何度も外国語に接する人は、ほとんどずっと逆転しっ放しなわけです。ところが、外国語と接しながら、洋楽を聞くと、この逆転が起こらない。邦楽だと、だめだそうです。邦楽は言語音の側で聞いてしまうため、逆転現象を強めるばかりなのでしょう。
しかし、日本語を母国語とするといっても、どういう場合、日本語が母国語となっているといえるのでしょうか。日本に生まれて日本語をしゃべっていたのが、少年時代、アメリカに行って、英語も完全にしゃべられるようになったら、どうでしょうか。あるいは逆に、アメリカに生まれて、日本に来て、英語も日本語も完ぺきにしゃべれたら、どうでしょうか。角田氏は、そういうバイリンガルを、徹底的に調べました。すると、バイリンガルの場合、人によって、日本語型、非日本語型に分かれてしまいました。そこで各人の生活歴を調べてみました。その結果、その人が日本語の環境にあった年令が、決定的要因であることが分かったのです。すなわち、六才頃から八才代の間に、日本語の環境にあった場合に、先の、日本語を母国語とする人特有の反応を起こすようになることが分かったのです。外国に生まれ育っても、その期間だけ日本に来ていれば、先の反応を起こすようになるわけです。逆に、その期間だけ外国に行っていれば、そうならないで、外国人型になるわけです。シュタイナー教育を少しでも知っている人は、この六才頃から八才代までの期間が、重要な歯牙交替期であることに気付きますね。エーテル体が、エーテル包被から生まれ出る時です。エーテル体が生まれ出てきた時の言語環境が、ある面で決定的なものになるということは、何か説得力をもってくるのですが、ここでシュタイナーの説との比較に深入りすることは止めましょう。
さて、この音の聞き取りから、他にも驚くべきことが分かってきました。今度の話は、『続・日本人の脳』の方です。
まず、私たちの会話の声は100ヘルツ以上の振動数をもっているというところから始めましょう。ヘルツというのは、一秒間の振動数です。100ヘルツは、一秒間に100回振動している音です。ヘルツ数が多くなると、高い音になっていきます。人間の会話音の100ヘルツ以上では、言語は左脳、非言語は右脳と、一般的な聞き方をしています。ところが、99ヘルツ以下の非言語音は、逆に、言語を司る左脳で聞いていることが、まず分かりました。この現象は、日本人に限りません。ところが40ヘルツ、60ヘルツ、80ヘルツのところで、左脳から右脳へ逆転することが発見されたのです。たとえば、40へルツの場合、39でも41でもだめで、ちょうど40ヘルツで、そうなるのです。100ヘルツ以上でも、40と60の倍数のところで、右脳から左脳へ逆転しました。
特定のヘルツで反応
ここまでは、ふーん、そうかね、というところでしょうが、このあとが不思議なのです。実は、40、60という数、そしてその倍数は、空間的にも意味があったのです。たとえば、40コの碁石を見ながら、音を聞くと、反応してしまう。40コとか、60コとかの碁石を見ながら、1010ヘルツの実験音を聞くと、右から左へ、聞いている脳が移ってしまうのです。
碁盤
特定の数に反応
これは驚くべきことです。39コでも41コでもだめで、ちょうど40コで反応してしまうのです。一瞬見るだけですから、数えられっこないのです。しかし、40という数を認識し、脳に特別な刺激を受けているのです。
ここで想像をたくましくしますと、たとえば碁石の対局で、盤上に40の碁石を見ながら、41手目を考えている人の頭の中は、いくぶん正常ではないことになります。61手目もそうです。奇数ですから、先手ですね。先手はもともと有利ですから、これでお合いこでしょうか。また、たとえば私が40人のクラスで試験をしているとします。試験用紙を配り、一斉に机の上にかがみこんで、黒い頭が教壇の上にいる私の視野に40ならぶと−私の頭の中では反応が起こってしまう。今日は39人だと安心していたら、教室の奥の壁に鏡なんかがたまたまあって、ひょいと見た拍子に自分が映ってしまい、39+1で40となり、ワワッとなったり(聴衆、笑い)。まあ、それは半分冗談ですが、半分は本当のことでもあるのです。
そして、さらにいうと、もうこれは信じられないくらいのことなのですが、分子量40や、60の物質を少量、口に含んで、音を聞く実験をすると、やはり反応してしまうのです。その物質の化学的性質には関係ありません。その物質の一分子中の陽子と中性子の総和である分子量が、40や60の時に反応するのです(聴衆、驚きの声)。通常の感覚では、分子中の陽子+中性子の数の認識なんてことは、絶対不可能ですから、これはほんとうに不思議で生理的直覚で認識しているとしか言いようがありません。このように40や60という数は、何か人間の物質的存在のあり方と深く関連している基本的な数らしいのです。
さて、しかしながらここまではいわば前置きの話なのです。この、何ヘルツだとどうなるという音の実験から、大変なことが分かったのです。先の、月の満ち欠けの影響の発見にすぐるとも劣らない発見です。
ちょうど40、60、80ヘルツの音を聞く時、聞いている脳が、通常の場合とは逆転しているということは、申し上げましたね。ところが、それ以外にも反応するヘルツが見つかったのです。しかも、それが一定のヘルツではなく、個人によってまちまちでした。この例外的な反応に規則性を見出すのには二年かかったそうです。そして、一九八三年の秋、その例外的なヘルツ数が、正確にその人の満年令の倍数になっていることに気付いたのです。たとえば21才の人は、21ヘルツ、42ヘルツ、63ヘルツ、84ヘルツで反応します。それでは、同じ人が21才から22才に変わると、どうなるかと、調べていったら、ちょうど誕生日に、反応するヘルツ数が21から22、42から44、63から66へと変わったのです(聴衆、驚きの声)。暦の誤差を入れても、誕生日当日から半日以内に収まるといいます。さらに誕生日を一時間刻みで集中的に調べた結果、その変化が、数十分間のうちに起こっているらしいことまで分かりました。
さあ、これはどういうことかといいますと、人間の脳は、地球が太陽のまわりをぐるりと一周する公転を正確に感知している、ということなのです。それも、ただの一周ではなく、生まれた時の太陽の位置を正確に覚えていて、その位置に太陽が戻ってくると、ヘルツの刻みが変わるわけです。太陽の位置と一口に言いますが、詳しくは、太陽の黄道上の位置ということです。これは地学の知識が必要になってきますね。しかし、そんなに難しいことではありません。太陽が天球上を動く道を黄道というのですが、黄道十二宮という昔の天文学の表示の仕方を用いれば、具体的で分かりやすくなります。ケプラーやハレーなどの時代には、天文学で星の経度を表す時は、黄道十二宮の何座の何度でいったものです。たとえば、この図を見て下さい。
太陽の黄道上の位置を刻印
地球は太陽のまわりをぐるぐるまわっていますが、太陽と恒星や星座は、ほとんど動かないものと見なすことができます。地球がAの位置にある時、私が生まれたとします。その時、太陽はAの地球から見ると、たとえば乙女座を背景にしています。太陽が通る黄道にある星座を12に等分した、その一つが乙女座ですから、それは30度まであります。360割る12で30ですね。その乙女座の29度としましょう。私の脳は、その黄道十二宮の一つ、乙女座の29度を生誕と同時に、太陽の位置として刻み込んでいるのです。そして毎年、太陽がその位置に来る誕生日に、反応するヘルツ数の変化を起こすわけです。いわば脳は、写真のように、生誕時の太陽の天球上での位置を写しとっているのです。これは私の考えですが、その写真≠ノは、太陽の他にも、太陽系の諸惑星が写っていても、おかしくないと思います。太陽の場合のように検出する手段が開発されていないだけで。
実際、シュタイナーも、全集第15巻の中で、次のように言っています。
「脳の構造全体を、半球の姿で写真に撮ることができ、そこにすべての細部が見えるとすると、その写真は、人によってすべて異なったものになります。そして、ある人間が生まれた瞬間に、その脳を写真に撮り、次にその人間の生誕地の真上にある天球をも撮影したとすると、その天球の写真は、当の人間の脳と全く同じものとなります」。
これは、まさに占星学のホロスコープの考え方みたいですね。でも、はっきり言っておくべきことは、シュタイナーは、占星学のような決定論的な考えを絶対にしないということです。シュタイナーは、人間の行為がこの世に刻み込むことの方を重視します。独立した意志による行為があるからこそ、人間は進化することが可能なのです。
以上のべたことで重要なのは、宇宙と人間存在とが相呼応しているという点です。考えてみれば、人間は何十億年もの進化を常に、この太陽系の中で行なってきたわけですから、宇宙のリズムが体の組織の中に組み込まれていても、何の不思議もありませんね。人間は宇宙と無関係に存在しているのではないのです。人間は宇宙全体の営みから孤立した存在ではないのです。
現代人の生活は、人工の明かりの下で夜遅くまで起きていて、昼と夜が逆転してしまっており、太陽のリズムや地球のリズムからはずれてしまっていますね。環境や、他の存在へ依存することを止め、独立していくこと自体は、シュタイナーが人間の進化のプロセスと見なしているものです。しかし、もし、その現代の生活から、不健全なものが生まれているなら、今一度、人間存在と宇宙との対応関係に目を向け直すことにも、意味が出てくることになるでしょう。
さて、これで私の話は終わりにしようと思います。 
質疑応答
A:ドイツでシュタイナー学校の教員になるには、「認識の小道」のようなことも修めるのですか。
答:行をして、精神世界を見るという意味だったら、やらないです。ただ、シュタイナーが述べている事柄の勉強は、するはずです。
A:「認識の小道」のような行を積んで、実際に精神世界を見た人がいるんでしょうか。答:それは難しい問題です。そういう人は、傍からは分からないのです。実際に見た人がいるにしても、こんなことが見えたと触れまわったりしないことも行のうちですので(聴衆、笑い)。ヨーゼフ・ボイスも、あるインタビューで、同じことを聞かれ、今のように答えました。
B:ルネッサンスをへて、現代のような文明社会になったわけですが、アントロポゾフィーの考え方を現代に、どのように広めることができるでしょうか。
答:それが、なかなかに難しいのです。まず、人に考えを押しつけてはいけない。各自の自我の内部から共鳴が起こってくるのを待つことが必要です。現代は、自己の世界が環境から切り離されてしまっているように感じられる時代ですが、アントロポゾフィーでは、人間と宇宙の対応関係を見ているのです。人間を小宇宙、つまりミクロコスモスとした場合、それは、大宇宙、マクロコスモスと、相互に関係をもっていると考えるのです。
A:自然とは、どうですか。
答:自然とも対応しています。しかし、かつてのように、自我をしっかりもたずに自然に溶け込んでしまうのではなく、独立した自我を保ちつつ自然と共生するのです。調和の考え方がありますね。
B:フォルメンなどは、とても興味深くて、世界の広がりを感じたように思いましたが、こうした方面からアントロポゾフィーを広げていくのは、どうなんでしょうか。
答:それは理想的ですね。それで入っていけるなら、そこからの広がりが一番いいと思います。私は、初めは『アーカーシャ年代記より』からシュタイナーに入っていきました。次に『神秘学概論』等にという風に読み進めていったわけでして、私にとっては、神秘的な内容も抵抗なかったのですが。
C:教育のことがいつ出てくるか、いつ出てくるかと待っていたのですが、その神智学と、シュタイナー教育は、どうつながるのですか。
答:人智学ですね。
C:ええ、人智学。
答:シュタイナー教育を施す人は、このアントロポゾフィー、人智学の考えをもっているわけです。
C:すると、シュタイナー教育は、アントロポゾフィーの考えに導くということですか。答:いえ、それは全く違います。学校は、アントロポゾフィーを教える所ではないのです。それをしてはいけないと、シュタイナーも言っています。シュタイナー学校は、子供の心身の健全な発育を目指しているのです。教育そのものの話は一回だけにしましたが、それは、教育の実際は松田さんや、子安さんにすっかりお任せして、私は背景のアントロポゾフイーの紹介につとめたからです。シュタイナー教育の実際的な内容や指針は、『教育芸術』のような本に出ているわけです。しかし、それをそのまま、情報のように伝えるのは考えものです。歴史や、人間の構成要素のような、認識的側面の強いものは、大人の自我になら、かなり直接的に訴えていいと思いますが、子供を前提にした教育内容の場合は芸術的側面が強く、講義のような形式でお伝えしていいものか、どうか疑問です。教わった「情報」を、使えそうだと考えて、すぐ採り入れるというようなものではないと思います。自分が変わらなければならない場合もある、と思います。
D:気質のことですが、大人の場合、たとえば胆汁質は自我が強いけれど、子供だとアストラル体が強いという風になっていますが、その辺がよく分からないのですが。
答:ええ、その理由はシュタイナーも述べてくれてないのです。大人の場合は、この前の説明で一応分かりますよね(Dさん、うなづく)。子供の場合は、こう理解した方がいい、としか言ってくれない。シュタイナーの説明がないと分からないこともあるのです。子供の場合は、『教育芸術』の演習の方にそれが出てくるので、とり違えないよう付け足したまでです。
B:太古の時代には、物があっても見えなくて、別の世界が見えていて、また今後、次第にその精神世界が見えてくるような時代がやってくる。しかし一方で、堕落していく道もあるということですが、人間のアストラル体や自我の発達にも個人差があると思えます。その辺は、今後の展開の中で、どうなのでしょうか。
答:ええ、人類全体の進化の流れに乗るのにも、自我の発達度合いで個人差があるんです。そして、思考力を堅持していないと、実際のイメージと幻想の区別がつかなくなるともシュタイナーは言っています。あくまで思考力を介すべきなのです。将来の進化は自然にやってくるわけではないのです。それは現在の私たちにかかっているのだと言えます。私たち一人一人が背負っているのです。私たちの間で、人を傷つけて平気でいるような状態が支配的であれば、将来の進化は起こらないのかもしれません。シュタイナーはその危険も強調しています。
A:シュタイナーが見たものは、スウェーデンボルクが見たというものと同じようなものなんですか。
答:それには少し難しい問題もありまして、主観がどこまで取り払われているかがポイントとなります。精神世界では、「見る」人に主観的なものが残っている場合には、「見」ているものが変化してしまうのです。スウェーデンボルクの報告は、彼の主観がまざったものです。シュタイナーがスウェーデンボルクについて述べている講演もあります。シュタイナーの場合は、その著作などをお読みになれば分かるように、つとめて感傷や修飾を抑えた、数学的な透明さをもつ文体や語り口をつかう人です。場合によっては味気ないと感ぜられる時さえあるほどです。その客観的な姿勢から生まれた観察は、極めて正確に対象を見ているという信頼感をよこします。
B:自我の上にある霊我や、生命霊、霊人というものが今ひとつ、よく分かりません。こういうことは、他の誰も言っていないように思いますが。
答:東洋では古代からの英智が、同じものをマナス、ブッディー、アートマンという呼び名で捉えていますが、その実体をイメージするのは、たしかに難しいですね。自我のすぐ上の霊我でしたら、何とか分かるでしょうか。それは感情の波がすっかりおさまった時に現われてくるもの、といえましょう。ふだんでも私たちは、何かを判断する時に、個人的な感情や、好感・反感を越えた高い見地の存在を垣間見ることがありますが、それをうんと純粋にして、しかも徹底的に善なるものに貫かれたものをイメージなさると、近いかもしれません。 
 
亡霊としての芸術

 

一章 形象石 / イコン・シーニュ・無意識
ロジェ・カイヨワは、彼がかつて二十歳を過ぎたばかりの頃に「跳ね豆」の原理をめぐって訣別したアンドレ・ブルトンが、まさにパリの病院で息をひきとるのと前後して、イメージをめぐる二冊の論集を上梓した。そのなかに「ピュロス王のめのう」という小文がある。
ここで彼はガマエ(不思議なイメージを持つ石)について思いを巡らせている。俗に形象石と呼ばれるそれは、古来より超自然的な物語が付され、あるときには図像を描き加えられながら、その一部は名家のヴンダー・カマー(驚異の部屋)を飾るコレクションとしても珍重されてきた。なるほどガマエの多くは瑪瑙(めのう)や大理石などを割ることで現れるのだ。先の「跳ね豆」が割られない(内部調査をされない)ことで神秘を保っているのに対して、形象石はその内部が白日に曝されることで或る奇跡をもたらすのだ。カイヨワは、東洋に遅れてヨーロッパでも鉱物を〈美〉として鑑賞するようになったのが最近のことであり、そのような知覚の変化をもたらしたのは近代の美術(が提示した事物性)であろうと推測する。だが、この歴史的知覚は彼にとっては導入にすぎない。ここで問題とされるのは「跳ね豆」のごとき隠匿された神秘ではなく、白日のもとにありながら、そこ(ガマエ)にさまざまな象徴的なイコノグラフィーを見いだしてしまう人類の、知覚の神秘である。
類似のものを見つけ出すこの誘惑は、実在するもっとも普遍的なものである。この愛石家(ルコント) の脱線ぶりは、偏執狂的で漫画的な状態にまで熱中が高じた状態である。この素質は精神の機能の一部に 組み込まれている。自分は誘惑に乗せられないと公言できる人はいない。[…] 詩はまさにこの機能から生 まれる。詩はそれに支えられ、最も確実で独特な効果をそこから引き出している。詩においてもまた、あらゆる比喩は事物の隠れた関係を啓示するものであるように見える。
だが、この何らかの類似を探さずにはいられない人間精神の性において読み取られたイメージは、多くの場合、芸術とは線引きをされるものだとカイヨワは述べる。その理由は「石のイメージにおける幻想的なものは生命のあるものとないもの、企図と偶然という両立しない二つの領分の交りあい、あるいは重なりあいの中にまさに存在することになる」からであり、そのイメージが人間に関わる人為性を持つとされながらも、その人為性を消し去らなければ不安となる(魅力とならない)ような性質を持っているからだ、というのだ。
ここにはカイヨワを通じて露呈された鑑賞者という立場を保障する距離や、芸術作品を意味内容(企図)のための記号とみなしてしまう近代型のアート観が表れているように思われる。確かに偶然の造形であることが形象石に面白みを与えていることは理解できる。しかしながら、ここで示される線引きとは芸術行為が「人為性」の側に位置付けられることを暗黙の前提とすることによってのみ成り立つものなのだ。ならば、仮にここで「企図と偶然」を「意識と無意識」に言い換えてみてもよいだろう。「類似のものを見つけ出す」アナロジー的思考は、人類の思考基盤をなす無意識的な働きであり、そこからメタファー(詩)も生まれ、あるいは卑近なありあわせの事物や情報を組み合わせて新たな意味・機能を与えたり、見立てたりするブリコラ―ジュという働きが生まれた。その無意識的な思考については、それが遠大な神話世界から分譲(賃貸)マンションのインテリアまでを無意識裡に具現化しているさまを思い起こしてみるだけでも十分に推察できるものであろう。また、生理学者ベンジャミン・リベットは自らの行為が意識されるまでに0.5秒以上の遅延が生じていることを明らかにし、芸術活動における無意識の働きの重要性について力説している。実際に、デクーニングにしても棟方志功にしても、画家たちは一様に自らの作品にまず驚くものであり、リベットが述べるように企図はつねに後付けでしかないものである。同様のことは、ちょうどカイヨワがこの考察を行なっていた当時、幻覚誘発剤であるメスカリンを服用しながらその引き伸ばされた微細な知覚のありようについての報告を次々に出版していたアンリ・ミショーも確たる実感として述べている。詩人である彼は、この実験以前から言語表現がもつ遅延に苛立ちを覚えながら、〈生〉の表現である絵画制作を詩作と並行して行なってきた。そしてメスカリンによってもたらされた〈生〉の、速度をもつ流動的な知覚を体験することで、ミショーにおける絵画の重要性は決定的なものとなる。もっとも、これは極端な例であるにちがいない。とはいえ、ミショーが述べているような、世界に否応なく貫かれ、その距離を失い、どこまでも無意識が先行している感覚は、事物が客観的に静態として在るのではなく、事物から眼差され、融合するような画家の知覚とさほど無関係とは言えないものなのである。この点については後ほど詳しく触れることにして、いま再びカイヨワに戻ることにしよう。
詩が探り当てて危険を冒して持ち出す、感動させ教え豊かにするあのイメージの壊れやすい結びつきも またすべて、隠された原理を何としても読み取ろうとする同じ偏執から生まれたものである。この片意地 な性向は人間に普遍的に存在する基本的なものであるので、最も厳密な科学でさえもその支配に服し、最 初はその手引きを受ける。[…] 夢想もこの厳密な研究と同じ呼び掛けに答え、よろめきながらだが同じ道 を指向しているのである。本当らしさに従ってあるいはそれに逆らって、何でも手当たり次第に解釈しよ うとするこの永久的な奇癖がなかったら、知識の歩みも可能であったかどうか疑わしい。
ここで彼が述べる「詩・夢想」と「厳密な科学・研究」とに共通する「偏執・奇癖」にかんして私が想起するのは、かつてカルロ・ギンズブルグが注目した徴候知(推論的パラダイム)である。この徴候知とは、カイヨワの言うところの「隠された原理」をいま見えている現象のなかから、その徴候(痕跡)を読み取っていくことにおいて推論していく知覚作用のことで、有史以前の狩猟生活から現代の日常生活まで、ことに恋愛や技芸、医学的症候学などに顕著にみられる知性なのである。ところがこの非言語的な認知技術は19世紀末に至るまで長らく学問においては度外視されてきたとギンズブルグは述べる。彼はまずその知性が学術に認知されていく先鞭を担ったものとして、ジョバンニ・モレッリの絵画鑑定法を挙げている。モレッリは絵画の真贋を見定める方法として、描写における個性的な努力のもっとも弱い部分にこそ動かし得ない無意識的な個性が現れてしまうことを見いだした。この「些細な点の特色的意義」を読み取るモレッリの鑑定方法にインスパイアされたジークムント・フロイトは、「精神分析もまた普通たいして重要視されていないような、あるいはあまり注意されていないような諸特徴から、観察の残り滓から、秘密を、隠されたものを判じあてるのが常である」と述べている。このような、一見したところ不必要に見えるものや副次的とされる与件が、隠れた真実を示すという認識論的モデルについて、ギンズブルグはまず「重要なのは、意識の支配外にある要素を芸術家の個性の中核と見る態度であった」とコメントしつつ、この当時、無意識的な行動のうちに個人的特徴を推論した人物として、モレッリ/《ホームズ》/フロイトを並置してみせる。曰く「この三者はいずれもごくささいな手がかりにより、さもなければ到達しえないより深い現実を捕えている。この場合の手がかりとは、正確に言えば兆候、きざし、絵画的記号である」。そしてギンズブルグは、彼らモレッリ/コナン・ドイル/フロイトに共通している点として、三者ともに医学に関与しており、医学的症候学を手本にしていることを推論している。
精神医学者の中井久夫もまた、徴候知(微分回路的認知)を重視する人物の一人である。彼は「〈徴候〉は、何か全貌がわからないが無視しえない重大な何かを暗示する。ある時には、現前世界自体がほとんど徴候で埋めつくされ、あるいは世界自体が徴候化する」と述べている。また中井は、拙稿「再魔術化するアート」でも述べたように、この微分回路的認知に近接しながら失調してしまった例として統合失調症を位置付けている。すなわちそれは「人間にとって現在もなお有用、おそらく不可欠でさえあり、人類の生存と歴史を支えているもの」として内在化されているものでありながら「失調すれば究極的には分裂病になって現象するもの」であり、そもそも人類全体をひとしなみに1%前後の割合で冒しているスキゾフレニアとは「人類に非常に基本的に有用不可欠なものの少しのズレではないか」と言うのである。神話的思考や芸術的思考が、この微分回路的認知(徴候的認知)に近接していることをかねてより感じ続けてきた私にとって、中井のこの直観は、はたして人類の何%が芸術に〈失調〉するものなのだろうかという疑問をさえ抱かせるものだ。とはいえ、じつは表現こそ異なるものの、この感覚は私自身、画学生の時代から長らく抱き続けてきたものなのである。二十歳当時の私の表現は「なぜ免疫を持った〈健常者〉が圧倒的ななかで、美術に感染してしまう人が一部いるのだろう」というものだった。それは「アート」にたいする空疎な美化とブランド化が、いつなんどき逆転しても可笑しくはない逆しまの差別のごとく私の目に映っていたからである。その後、旅をすれば出会ってしまうシャーマンやアルチザンたちとの感覚的相同性が気になり…とここで冥々たる半生を記述するつもりはないので省くが、くだんの徴候知にかかわる事項としては数年前に「非作品」による展覧会を企画したことがある。そこには、彼らの作品(および非作品)がシニフィエ―シニフィアンの関係内部で読み解かれ得るものではなく、つまりそれは〈記号としてのシーニュ〉でできているのではなく、〈痕跡・徴候としてのシーニュ〉に他ならないのだという趣意があった。作家たちはまさにアトリエのみならず、居間で、居酒屋で、誰も居ない空き地で、ふと足を止めた店先で、ふっと「世界自体が徴候化する」のだ。そして、それが何なのかを把握するまえに否応なく貫かれてしまうものだ。その働きが何なのかを探ろうと思えば、必然的にミショーのように無意識へのダイビングを試みざるを得なくなるのであろう。だが、無意識なるものはすでに徴候として、日常世界にあまねく、その片鱗を覗かせているものなのである。それはカイヨワが「人間に普遍的に存在する基本的なものである」と言うように、またギンズブルグが「実際には広汎に用いられているパラダイム」と言うように、そして中井が「人類に非常に基本的に有用不可欠なもの」と言うようにである。こうしたイメージやシーニュ、そして無意識と呼ばれる働きは、あらゆるところに認められるものだ。ただしそれが極めて活性化する、龍穴のような場所が存在していることも事実だ。ここでは先述したガマエ、そして芸術もその一つなのである。 
二章 心霊写真 / ポストモダン・死・表象
美術史家ジョン・ハーヴェイは次のように述べている。
写真は一方では可視的世界を科学的に探求するための器具であり、と同時にそれは、全く逆に、亡霊た ちの姿を、超自然の世界を浮かび上がらせる不気味で魔術的なプロセスである。[ … ] すなわち写真と霊 は水と油のような対立物ではない。両者は奇妙なほど近しい。
ヨーロッパの労働者階級にとって写真は一つの幻想空間であったと彼は言う。それ以前は、肖像は富裕層が独占する芸術様式であったが、写真が普及してくると、彼らは写真スタジオのなかで彼らの憧れる背景(舞台)と小道具を配することができた。そうした調度品に「エクストラ」の顔が侵入したのだと言うのである。しかしながらこれはつつましやかな撮影の情景であって、写真そのものの霊性についての説明にはなっていない。もちろん、異なる生活や人生へと変身させる肖像写真に、すでに現実のコピーに収まらない幻想性が宿っていたということは言えるだろう。だがそこでの写真そのものが持つ霊的な効果とは、「科学的に探求するための器具」としての写真について言えば、それが二重露光や合成による創作写真でない限り、そこに「何かに見えるもの」が現れたさい、写真が持っている事実性(客観性)という神話が生み出してしまう亡霊(というコンテクストの問題)について考えなければならないのではないだろうか。そしてこの神話こそが、写真スタジオにおける束の間の「変身」にも、一つの心理的な保障を与えているものではないだろうか。というのは、人間の心理において「客観的真実」がないことは言うまでもないことだが、科学(光学)的な写真においても、そこで捕え得るものはじつは「客観的偶然」に他ならないだろうと私には思われるからだ。また、ハーヴェイの言う「亡霊たちの姿を浮かび上がらせる魔術的なプロセス」としての写真については、おそらく記憶とその想起、あるいは失われたもの、かつて在ったものとその再現、すなわち〈表象〉という亡霊に深くかかわる問題だろうと思われる。
このように考えてみると、心霊写真にたいして素直にときめくことができる人々にとって、この「科学的」であることと「魔術的」であることとは相補的に働いているものではないかと思われる。それは心霊写真がこれまでに多くのオカルティストたちによって、亡霊の存在を示す動かぬ〈証拠写真〉として語られてきた歴史をみれば明らかであろう。彼らは心霊現象は科学的に証明され得るし、証明されなければならないと考えているわけだ。つまり心霊写真は、霊の存在を証明するというよりも、むしろ心霊現象を客観的実在として把握/共有したいと望む心性の〈証拠写真〉として捉えることができるものである。あるいは明治43年に、念写という方法を通じて精神作用の霊妙さを証そうと試み、その実験成果の上梓をきっかけに東京帝国大学辞職に追い込まれた福来友吉も、そんな一人に数えてよいのであろう。ではなぜ〈写真〉なのか。おそらく心霊の媒体として写真が選ばれた理由は、X線という見えない光の発見とそれを可視化したレントゲン写真の技術が生まれたこととは直接には関係がない。それは科学的でも魔術的でもあり得るような驚くべき事件ではあったであろうが、決定的な要因ではないと思われる。ハーヴェイは次のように述べている。
写真はその媒体的特性・技術的特徴に従って、亡霊の表現に関する一般に受け容れられたモデルを改訂 した。同時にそれは過去の記号を融合し、外部の視覚的資料を取り込み、その一方で写真それ自体を、本 質的に、精神/霊(スピリット)の媒体としたのである。
もちろん文化史的には、写真が持つ特性と亡霊の表象とが互いに相手を取り込みながら「心霊写真」を成り立たせていったことは事実に違いない。だが、ここでもなぜ写真なのかという問いは宙に浮いたままである。とはいえそれに答えるのはそう簡単なことではない。なぜなら、ことは半ば無意識的な、写真がもたらした知覚とそれによって写真そのものが帯びた霊性とにあると思われるからだ。
小池壮彦は、心霊写真についての詳細な研究において、心霊写真にもモダニズムとポストモダンがあることを明らかにした。要約して言えば、モダニズムのそれは主にトリックを用いて創作された写真であり、ポストモダンのそれは偶然性の写真ということになる。この偶然性とは、ちょうどゲシュタルト心理学でいうところのプレグナンツの法則、あるいはロールシャッハテストにおいてインクの滲みに〈像〉を投影してしまう精神作用のような、先述のガマエやアンリ・ミショーのドローイングにも密接にかかわるものである。こうした壁の滲みや天井の木目、煙や滝の模様、岩肌の陰影や茂みのグラデーションなどに、何らかの〈イメージ〉を読み取ってしまう知覚の働きは、それが投影法検査においても一定の効果を認められてきたことからもわかるように、無意識的なものとして認知されている。しかもそれはすでに文化的なものでもある。とはいえ、ここで注意しておかなければならないのは、イスラームやブッディズム、あるいはシャーマニズムにおいて、汎人類的に古来より探求されてきた無意識的なものには、幾重もの階層が認められており、決して意識/無意識の二項対立構造ではないということだ。そのような観点からみれば、無意識は言語のように構造化されているというよりも、そのような位層もあるといった表現にとどめておく方が正確なのだろうと思われる。つまり意識と無意識の関係は、意識活動を基準にすえた意識と意識以外ではないということだ。このことは、心霊にかんするイメージにも当てはまる。スピノザはある神秘主義者からの手紙に答えて「物を、実際あるようにではなくそうあってほしいと思うように語ろうとする人間通有の癖は、亡魂や幽霊に関する物語に際して最も著しく現われるということです」と警句を記しているが、そのように見えてしまうレベルとそうあって欲しいように見ようとするレベルとの間にもいくつかの階層があるように思われる。言葉でいえば、覚知や認知や認識、観想や観念などで識別されているのだろうが、ここでも意味するものとされるものとの対応は、それを語る主体によって少なからずブレているものだ。もっとも、文化的無意識についてしか言分けというものはできないのだとすれば、私たちは言述においてそう割り切る以外にはないのだろう。そこでとりあえずここで文化的無意識や心霊写真についてざっくりと述べてみるならば、それらはおそらく、文化の特質なるものがサブ/ローカルチャーに現れやすいという事実と関係があるのではないかということだ。この文化の特質なるものは、ギンズブルグたちが述べたような無意識的個性と類似している。それは異文化・他者から見てもっとも理解しがたいもの(の部分)として表れる。言い換えれば、それは民俗的なのだ。心霊写真および心霊現象は、まかりまちがってハイカルチャーとみなされてしまったアートとは異なり、いまだ歴としたサブカルチャーである。とすれば、そこには制度的なレベル(例えば創作写真において幽霊のジェンダーが女性であること等)から生物学的レベル(心霊写真に文化を超えて認められる特色として〈顔〉が見いだされること等のアーケタイプ)まで、さまざまな知覚の階層が含まれているに違いない。そしてそこには写真のフォークロアを映し出すようなイメージも含まれているのではないだろうか。
では再び小池の言説に戻ろう。彼は「ポスト・モダンの「心霊写真」とは、要するに、誰でも撮れる普通の写真である」と言う。これは明らかに幽霊の〈像〉であるものよりも幽霊のようなものにリアリティが移行したということだ。しかしこうなってくると、それが幽霊なのかどうなのかにわかに見定めがたいという事態が生じてくる。そこで登場してくるのが心霊写真鑑定士や評論家たちである。つまり、こうした専門家たちは、その写真が何かを語っているのか語っていないのかが不分明となった様相において、それを文化的現象として言分ける霊媒として現れたのだ。それはカメラの普及によって人々が写真に抱いたある違和感、すなわち新たなリアリティ(知覚)と出会った戸惑いのようなものが、心霊というコンテクストで現れたということなのかもしれない。ともあれ、かくしてここに心霊写真の投稿と鑑定というシステム(サロン)が確立されることとなった。
もう少し詳しく時代を追ってみておこう。戦前の心霊写真の特色は、幽霊が幽霊として写っていることである。そして「1960年代後半の心霊写真ブームは、ほとんど戦前の規範を崩壊させることで成り立った」と彼は言う。戦前の心霊写真に現れるのはほとんどの場合、身内の霊であったが、戦後から今日にかけては多くの場合、見知らぬ他人の顔に変わる。この予定外の写真は人々に不安を抱かせるものだ。そこでにわかに写真を供養するという需要が生じた。小池は、1920年に学術性をもって提唱された「心霊写真」という概念が70年代には通俗化すると述べている。そしてこの頃に「見る側の視線が勝手に幽霊を作りだすタイプ」としてのポストモダン心霊写真が主流をしめていくことになる。小池はこれを「失敗写真と心霊写真の区別が完全になくなった時代」と評し、さらに90年代以降については「幽霊が明瞭に写る写真が増えた今日の状況は、戦前への回帰といえなくもない」と述べている。そしてパソコンが普及した現在、心霊写真は投稿誌面よりもパソコン画面で見られることが多くなった。にもかかわらず、興味深いことに、そこで心霊はパソコン画面というメディアに棲み処を移したのではなく、相変わらず「パソコンのなかの心霊写真」のなかにいるのである。その理由について小池は〈写真〉というものが「現実を再現する装置」であり「幽霊は現実のなかにしか存在しない」からだと考えるが、このことはむしろ〈幽霊〉が再現=表象であるような側面を物語っているのではないかと私には思われる。その側面を主張したいがために、幽霊たちは〈写真〉がもつ「現実を再現する装置」という一般的なイメージに寄り添っているのだと。そしてこの、幽霊が再現=表象でなければならないと欲することは、ポストモダン心霊写真において鑑定士たちがしばしば言述する「死者たちが私たちにメッセージを伝えている」というロジックともどうやら無関係ではないようだ。
レジス・ドブレは、〈記号〉の語源が墓石であり、〈表象〉の語源が死者の肖像であることから、死とイメージの起源や、墓と美術館の起源について考察を行っている。
おそらくヒト類にとって真の鏡像段階とは次のようなものだったのだ。すなわち化身、分身においてお のれを瞑想すること、そしてまた、すぐ傍らにある可視のものに、可視のものとは別の何かを見ることで
ある。それはまた、無そのもの、「いかなる言葉でも名称を与えることのできない、この不可思議なもの」 を見ることでもある。この心的外傷はきわめて衝撃的であり、すぐさま対抗措置が必要となる。すなわち、 その名づけえぬもののイメージを作ること、死者を生かし続けるためにその生き写しを作ることである。
表象と死の関係についてはギンズブルグのほうが詳しい。彼によると表象とは、葬儀のときに「棺台に乗せられる蠟、木材、皮革製の人形」のことであり、亡くなった個人を表現する「死者用のシーツに覆われた空の葬儀用寝台」のことであった。つまりそれは、不在のものの代理、形代として、もしくは死を直視しないために飾られたもののことである。ここまでくれば幽霊が再現=表象でなければならない理由が明らかとなってくるだろう。クロード・レヴィ=ストロースは「霊魂の概念は、他のあらゆる知的な操作を条件づけているのと同じ原初的な論理操作の直接的な結果として生じるものである」と述べ、霊魂の世界とは私たちが経験する世界の「複製化」なのだと言う。つまりそれは人類が何がしかを体系化していく操作のなかで、要素を交換可能な状態へと「複製化」することに由来すると彼は考えるのである。この複製化とは一種の〈記号化〉である。要するに、霊魂(幽霊)というのは、言語や貨幣と同じように交換もしくは消費されるべきものとして、あらかじめその命運を担った概念として流通しているのである。あらゆる記号操作はすでに亡霊的なのだ。そしてこの〈墓sema〉と不可分な〈送葬の呪具〉としての、代理=表象が指向しているものとは何か。それは言うまでもなく、死に抗するための表象作用である。そこで試みられているのは、死を〈他者の死〉に限定しながら葬ることである。死はつねに〈他者の死〉でなければならないというわけだ。そのためには幽霊としての表象をつねに捏造していかなければならないのである。このように考えてくると、オカルティズムもまた、じつは脱魔術化プロセスなのではないかとさえ思えてくる。ドブレも、こう述べている。すなわち「美とは常に、飼い慣らされた恐怖なのだ」と。 
三章 写真 / 不在・リテラシー・プンクトゥム
ヴァルター・ベンヤミンは『写真小史』のなかで次のように述べている。
精密きわまる技術は、その産物に魔術的な価値を与えうるのだ。[…]こうした写真を眺めるものはそ こに、現実がこの写真の映像としての性格に、いわば焦げ穴をあけているのに利用したほんのひとかけら
の偶然を、〈いま‐ここ〉的なものを、どうしても探さずにはいられない。画面の目立たない箇所には、 やがて来ることになるものが、とうに過ぎ去ってしまったあの撮影のときの一分間のありようのなかに、 今日でもなお、まことに雄弁に宿っている。
前述の心霊写真研究のなかで小池壮彦も「幽霊は過去の残像である。常にノスタルジーと関係がある。写真の中に幽霊を見つけたとき、私たちは無意識のうちに歴史家になっているのだ」といみじくも述べているが、ここではイメージとともにある不在は、過去であると同時に、過去においてやがて来ることになる未来のことでもある。この意味において写真はそれを眺める人を歴史家に変えてしまうのだし、写真はそれ自体で〈心霊写真〉となる。この点は了解したうえで、ここでどうしても気になるがアウラとかかわる「ほんのひとかけらの偶然」のことなのだ。これは時制でいえば現在の、表象ではなく知覚にかかわる問題として抽出されるべきものであろう。すなわちそれは写真を眼差す、眼差しそのものの問題である。ベンヤミンはこのことについて、写真を眺める者は「目立たない箇所を発見せずにはいられない」と言い換え、さらに「視覚における無意識的なものは、写真によってはじめて知られる」と述べている。だがおそらく、それが写真的知覚と呼べることや、映画(動画)にたいする写真の先行性という前後関係があるにしても、その効果は現在、ビデオ映像においても認められるものなのである。私はこのことを実感している。昨年(2009)の春、私は都市公共圏における非目的行動を、デジタルビデオを用いて調査する「フラヌール調査」を始めた。調査地域は東京および横浜の〈任意の場所〉、対象は遊歩者もしくは遊歩状態にある人々である。ここでなぜ調査地域が〈任意の場所〉にならざるを得なかったのかというと、この調査では撮影者自身がフラヌール(遊歩者)とならざるを得なかったからである。パリのフラヌールについては、すでにベンヤミンが「遊歩者は周知のように「研究」しているのである。[…]芸術家や詩人が一番仕事に没頭しているのは、彼らが一番仕事が暇そうに見えるときのことが多い」と述べているが、実際彼らはきわめて微分的な知覚をもった注視者であると同時に、ある種の陶酔者でもある。そこにはまさに「ほんのひとかけらの偶然」を見いだしてしまう知覚作用が現れるのだ。それを映像はキャッチしている。だが、そこに映し出されたフラヌールの実態は、目的行動として、もしくは日常的(慣習的)な意識でもって、世界を記号的に把握している〈眼〉からはこぼれ落ちてしまうものなのである。いみじくもベンヤミンが言うように、カメラによって「意識を織りこまれた空間の代わりに、無意識が織りこまれた空間が立ち現れる」わけなのだが、この芸術家たちが生きているような知覚は、等倍速のビデオ映像では伝わりにくいということがある。よって、その知覚効果を伝えるには、スローモーションやコマ落ちに処理する必要も生じてくる。もちろん静止画にしてしまえば、ベンヤミンの言うところの写真的知覚に等しくはなるものの、これでは細かな所作などが織りなす動態としての「無意識が織りこまれた空間」は消えてしまうのである。ではフラヌール状態にないビデオ鑑賞者に、つまり「意識を織りこまれた空間」を彼(彼女)が見たいように見ている〈眼〉に、無意識的な知覚をもたらすためには、遅速化などの映像処理がどうしても不可欠なのであろうか。いや、そうではない。要は「リテラシー」の問題なのである。
長谷正人は、このリテラシー(読み書き能力)にかかわる一つの興味深い事例を紹介している。それは小林秀雄がそのむかし小笠原諸島を訪ねたさいに目撃した、当時まだ映画を見慣れていなかった島民たちが、役者の演技などそっちのけにして「煙草の煙」に興奮していたというエピソードである。
人々は、何やら合点のいかぬ様子であったが、一人の男が画面に現れ、煙草に火を付けて、煙を吹きだ すと、俄に場内が、ざわめき出し、笑声となり、拍手となった。唖然としていたのは、恐らく私一人だっ たであろう。煙が写し出されたという事に、見物一同驚嘆しているのだ、という事に気が附くのに、しば らくの時間が要ったのである。
この、映画初期にはあちこちで見られたであろう鑑賞者たちの反応について、長谷正人は次のように解説する。
人間は肉眼で世界を見るとき、自らの文化的な関心によって何かの対象に焦点を当て、背景の事物をノ イズとして切り落として自分に都合のいいように世界を見る。そのようなホメオスタティクな生理学的な メカニズムを人間は身体のなかに備えている。ところが機械としてのカメラは、眼の前の赤ん坊も背景の 木々も平等に捉えてしまう。むろん映画を見慣れた小林秀雄のような観客であれば、役者の演技に焦点を 当てて、煙草の煙はただの背景的な光景として視覚的意識から排除して見るだろう。しかし世界最初の観 客たちは、そのような映像のリテラシーを身につけていなかったため、「背景」で風に揺れる木々や煙の 動きをも、画面の中心にある被写体の光景と同じような真剣さで受容してしまった。
映像は図も地も並列に映し出す。だが映像のそのような視覚特性は、映像を「見慣れた」人々にはもはや体験されることがほとんどない。映像が映し出すイメージもすでに慣習化されてしまうからである。そしてその慣習化にいくつかの枠組みと方向性を与えているのが、ここで言われる「映像のリテラシー」なのである。つまり、この「リテラシー」はある種の洗脳的な思考誘導とも言えるものだが、一般に行なわれているリテラシーにおいてもこうした性格をもつものが少なくはない。それは隠れた情報を推察していく能力であるよりも、情報を合理的に処理していく能力として推奨されることが多いからだ。このとき映像は、再び「意識を織りこまれた空間」と化すのである。小林が見た小笠原の人々は、まだそうした「リテラシー」には染まっていなかった。それゆえに彼らは映画のなかにカール・ブロースフェルトのような「物質の観相学」を見いだしたのである。
事象を象徴界へと馴化させる表象的な知覚は、その反復可能性と、類同性への置換(複製化)によって、アウラを崩壊させる。そんな飼い慣らされた知覚にとって、ウジェーヌ・アジェの「行方知れずになったもの、漂流物のようなものを探し」、その場所を象徴する建築物や景観を素通りした写真は、新しい視野をもたらすだろうとベンヤミンは言う。そのためには、「生活環境や風景にしても、それらが真の姿を明らかにするのは、写真家がそうした対象を、それらの顔貌に現れている名をもたない現象において把握することを心得ている場合だけである」とも言うのである。慣習化された知覚は、写真家たちのアノニマスに宙吊りにされながら世界を注視する知覚のありように導かれて、新たな視野に開かれる。これは写真論というよりも、フラヌール論であり作家論であろう。「私たちの住む都市のどの一角も犯行現場なのではないか。都市のなかの通行人はみな犯人なのではないか。写真家——鳥占い師や腸卜師の末裔 は、彼の撮った写真の上に罪を発見し、誰に罪があるかを示す使命をもつのではないか」。ここで「罪」と表現されているものや「行方知れずになったもの」を感じさせる写真家の一人に山本真人がいる。彼は実際に殺人現場の写真集も出版しているのだけれど、美術画廊でインスタレーションを撮影しても同様に、そこに写された事物やイメージ以上に、それらを支えている不在なるものの強度を感じさせるのだ。それらの明白な事象のまえで、それを眺める者はホームズと化し、次いでその犯人の群像のまえで迷子になってしまうのである。
さて話を戻そう。ベンヤミンの経験した「ひとかけらの偶然」に深くかかわる主題を考察した重要な人物として、ここでロラン・バルトに触れておかなくてはならない。彼もまた、あるコンテクストから写真を捉えていくのではなく、まず「野生の状態で、教養文化を抜きにして、向かい合いたい」と述べ、そのうえで「視線の歴史」を提唱したいと述べている。またバルトは、画家が自作品を眺めているときに起きているような、主体(自己同一性)のよじれや分裂が、写真においても、自ら被写体となることによって、自らが「他者」として出現する写真を眺めたさいに起きてしまうことについて触れ、その原因については「所有こそ存在の基礎であるとする社会」において写真がその所有権を混乱させるからではないかと考える。こうした体験を社会的な原因に帰すことの是非はともかくとして、ここで興味深いのは、その主体の分裂を契機として彼が「幽霊」となり「完全なイメージ」であるところの「死」の化身としての自らを見いだしていることだ。
結局のところ私が、私を写した写真を通して狙うもの(その写真を眺める際に《志向するもの》)は、「死」 である。「死」がそうした「写真」のエイドス(本性)なのだ。
〈死の表象〉と化した「私」が、写真によって導かれ、志向するものとしての「死」。あるいは、写真による複製化が亡霊を立ち現わせ、その亡霊がほかでもない「私」であることを暴いてしまう効果。ここにはすでに死に抗するものとしての代理=表象(死の他者転嫁)は不可能となる。こうした写真にたいする考察は、あるいは家庭用カメラの普及とともにまたたくまに全国に広まった、私たちがよく知っているあの民間伝承、すなわち「写真を撮られると魂が取られる」という思考とシンクロしているものなのだろうか。そこでも写真のエイドスは「死」なのだ。荒金直人は、写真経験とは意味の経験である以上に存在の経験であって「存在という〈経験の臨界点〉に向かう経験であり、意味の秩序に回収されまいとする経験である」と述べているが、そこで名差される「存在」とは、同時に「非在(不在)」でもあるエイドスとして捉えることのできるものだろう。写真は、バルトによれば「何も語りかけない」非意味的で反経験的な状態を通して、その向こうから、「不意にやって来るもの」によって存在するのである。そしてその存在は、主体の生成(変性)とも不可分なものなのであろう。それはベンヤミンが述べた、写真によってもたらされる「無意識的なもの」や世界の顔貌に現れている「名を持たない現象」とも無関係ではないように思われる。バルトにとっても、写真とは「パトス的なもの」であり、それはつねに、どこまでも、「任意のある何ものか」なのである。だがこのあたりの抽象的(にしか言説不可能)な議論はひとまず先送りにすることにして、ここでいったん先の「リテラシー」に冒されていない野生の知覚にかかわる話題に戻ることにしたい。
バルトは『明るい部屋』のなかで、ストゥディウムとプンクトゥムという概念を提示した。ストゥディウム(studium・一般的関心)とは、慣習的(類型的)な情報、もしくは「教養(文化)という合理的な仲介物」を仲立ちとした、「平均的な感情」をもたらす写真イメージのことで、そこには「それが文化的なものであるという教示的意味(コノテーション)が含まれている」と言う。そしてもう一方のプンクトゥム(punctum)とは、ストゥディウムを破壊(もしくは分断)しにやってくるもので、主体が見たいように見ていく働きのことではなく、逆に写真のほうから「矢のように発し、私を刺し貫きにやって来る」もののことである。バルトの説明を引用しておこう。
ストゥディウムの場をかき乱しにやって来るこの第二の要素を、私はプンクトゥム(punctum)と呼 ぶことにしたい。というのも、プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のこと でもあり——しかもまた、骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真 のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。
ここで、私が本稿で述べてきた一連の無意識的な知覚作用に、このバルトが仮設した名前を与えておくことにしよう。すなわちプンクトゥムとは、バルトが写真のなかに見いだしたような、その写真を「表象=再現」から「愛する(to love)」の次元に引きだす、歯並びの悪い歯や足元の轍や指の包帯や短い首飾りといった〈細部〉に現れる名指し得ない偶発性だけでなく、詩人を慣習的メタファーから逸脱させる働きや、幻覚誘発物質によって引き伸ばされた微細な知覚が捉えるものや、古美術鑑定家がチューニングしていく意識的な表現の周辺にちらつく無意識的なものや、医学的症候学において鍵となる副次的与件のなかに現れるものや、狩人やシャーマンが拡散された注意によって受け取るものや、人が恋に落ちる瞬間や、心霊写真になり損ねた膨大な捨てられない失敗写真や、ひどく体調の悪い日に座り込んだ道端から見た街や、フラヌールがそのゆっくりとした足取りのなかで見ている事物や、スローモーションにした映像のなかで発見される同時多発的な状況や、リテラシーに冒されていない眼が捉えるものや、行方知れずになったものを追う写真家自身の眼や、画家の宙吊りにされた知覚など、そのそれぞれのなかに認めることのできるものなのである。それらは否応なく「私を貫きにやって来」て、私のうちに裂け目を徴すのだ。 
四章 知覚 / 欲望・身体・憑依
教養や文化をこえた愛する次元にあり、主体に分裂を生じさせてしまうプンクトゥムは、もはやその情報の所在を特定することのできないものである。そこでは受け取ることと付与することは不可分であって、その前コード的(非言語的)で他者的(無意識的)なインタラクションは、主体を欲望模倣から引きずりだし、変形させる。もっとも、こうした精神過程は写真によって再発見されるものではあるが、写真に限定されるものではない。ロジャー・シルバーストーンは、プンクトゥムとは、言説するすべを持たないエロティックなものであり、「経験の隠された意味における無意識の領域」へのバルト流の試みなのだと述べている。確かにそれは、「私が名指すことができるものは、事実上、私を突き刺すことができない」とバルト自身も述べているように、意識される以前に貫かれてしまうものであり、ちょうど画家が表象作用のコンセントを抜くことで世界の余剰に貫かれているような、野生の資質、もしくは非文化的な知覚にかかわる問題でもあるのだ。
ジョナサン・クレーリーはこう述べている。
セザンヌは晩年、みずからのことをよく「感光板」になぞらえ、「受信装置」や「ばか正直な機械」に なることを熱望していた。[…]つまり彼は、確立された状態にある人間の知覚から解放されることを、 また図/地、中心/周辺あるいは近/遠という関係の外で、容赦なく世界を感知できる装置になることを 追求したのである。また、もしセザンヌがそのような機械的な知覚の新しさを提示するために、融解から の世界の誕生という原始的なイメージを喚起したとすれば、それは、ひとえに以下の目的のためだっただ ろう。すなわち、還元しえない不定形状態、つまり地平線も地形もない変化の過程にある世界、蒸気が立 ちこめ、ゆっくりと打ち震える色彩のみが支配する世界を、もっとも有効なかたちで表現するということ である。
クレーリーは、バルトが写真を通して世界の偶有性を眼差したのと照応するように、画家がその没入する知覚によって捉えている偶有性について読み解いていくことを試みる。それは意味/無意味ではなく、注意/散漫のもつ相関性と、その歴史的な現れについてである。だが彼が近代における注意のさまざまな局面のなかで、画家の知覚に見るものは〈視覚〉に特化されるものではない。すなわち「注意に対応する形式は、けっしてもっぱら視覚的なわけでも、本質的に視覚的なわけでもない。そうではなくてむしろ、トランスや夢想におけるように、別の一時的性格や認識状態としても組織されるのである」。あるいは、その没入とは視覚の否認でもあり、反経験性でもあるところの溶解体験なのである。それはややもすれば美術家たちが生きる神秘を擁護するだけの言い古されたレトリックにみえてしまうかもしれない。だがそれはバルトがプンクトゥムと名差したものや、ギンズブルグが徴候認知型パラダイムと呼んだもの、あるいはベンヤミンがフラヌールを通して述べた陶酔的な注意とも陸続き(身体続き)のものなのである。こうした注意力が散漫さとも同一であるような知覚モデルについては、すでにフロイトも「均等に宙吊りにされた注意」として述べているところのものだ。また同様に、中井久夫もカウンセリング治療中に「自分が透明になり、ほとんど自分がなくなっている感覚があり、ただ恐怖を伴わないのが不思議に思われるが、フロイトの「自由に漂う注意」とはこういうものであろうか」と述べている。すなわち、そこでは主体が後天的なものとして産出される位相に還されることで、意識的で自己投影的な解釈におちいることから逃れつつ、〈他者〉に開かれるのである。クレーリーも、注意する主体とは「浮遊した存在状態」でもあるのだという。そして彼は「私の一貫した関心は、没入と同時に不在や遅延でもありうる知覚観念にある」と述べ、その関心においてマネ、スーラ、セザンヌという三人の画家を採り上げる理由については次々のように述べている。
彼らの各々は、知覚の領域における互解、空隙、そして裂け目に独自のやり方で対峙した。そして、注 意する知覚の非決定性について先例のない発見をしたばかりでなく、そうした非決定性こそが、知覚の経 験や表象の実践を再構築するうえで、いかに基礎となるかを見いだしたのである。
とりわけ晩年のセザンヌについて彼は、そこに歴史的な知覚からの離脱を見、その脱歴史化においてセザンヌが「世界の根源的な構造を新たにつくり上げようとしていた」のではなく、「みずからに影響を与え、認識可能な世界への足場を揺るがすような、不整合な外部世界と取り組むことを率直に受け入れていったのである」と述べている。ここでセザンヌたちが行なっている注視とは、世界に構造を付与していくような観察とは一線を画すものだ。むしろ注視によって、事物の包括的な把握や認識そのものが分裂を余儀なくされてしまうものであり、その結果、「知覚はその形成過程以外のいかなる形態もとりえない」ということを暴きださずにはいられないというわけである。このような知覚作用のことを人類学では〈憑依〉と呼んできた。しかしここではそれを、知覚が知覚そのものを成り立たせていく運動としての〈代謝〉という側面からみていくことにしよう。それはクレーリーがセザンヌ作品を詳細に追求していくなかで露わにしようとしている視覚の無意識であると同時に、注視によって裏腹に宙吊りとなる注意が、必然的に自己言及性を帯びざるを得ないような地平、すなわち〈身体への注意〉としても現れてくるものだ。
そこで想起されるのが、死に至る病を患った人類学者ロバート・F・マーフィーによる、麻痺していく自らの身体をめぐるフィールドワークである。それは躍動する身体ではなく、徐々に停止していくことで、「私」に注意を喚起させ、「私」を鷲掴みにしてしまう身体である。その闘病生活のなかで明らかにされたのは、〈死〉に抗するものとしての社会的・文化的なコンテクストがその影のなかに放置してきた〈生〉への欲動であった。それは今日のイデオロギーにおいては旧弊な概念とみなされてしまいがちな、至高性のことでもある。「私は次のことを見いだした。すなわち、社会における個人のあり方の最も崇高な形が、傷ついた生による果敢な戦いの中に凝縮されているということ」。もっとも、すでに人類学者たちが証してきたように、すべての意味と価値は恣意的かつ相対的なものだ。しかしマーフィーは、その例外として「普遍的な価値」をもつものがあると言う。それが「生、それ自体」なのだと。このあまりにも直截にすぎるかに見える言説は、例えば生きる意味などを思い悩むことが〈生〉を何かの手段におとしめてしまうことに気付かないほど、人々が身体麻痺者以上に物象化された「文化」に囚われていることを暴くものなのである。換言すればそれは自らを、マーシャル・マクルーハン的な〈それ自体〉がメッセージであるところのメディアとしてではなく、意味内容を運ぶ手段としてのメディウムにしてしまうことだ。少なくともこの手の、道具や手段や容器としてのメタファーが、身体(および芸術作品等)にたいして慣習的に用いられることは、今日でもいまだに多々みられる。ではそのメッセージとは何か。もちろんこのような設問に容易に答えられるものではないし、〈生〉そのものがモナド的に存在しているわけでもない。
そこで長らく認知的無意識がもつメッセージを探求してきたジョージ・レイコフらの言説を借りてみるとするならば、身体への注意や「生、それ自体」と連接するであろうところの身体化されたリアリズムについては、「少なくとも我々の生存に大きく関わるレヴェル」での環境世界とのリンクを提供するものだということになる。この身体と世界のリンク、運動相互作用の起きる場のことをレイコフらは「ベーシックレヴェル」と呼び、ここにはマインドの非身体化からマインドの身体化への移行プロセスが見られるとも言う。だがここにきて当然浮上してくるはずの芸術的知覚にかんする言及はなく、代わりに、身体化されたマインドから生じる霊的経験について以下のように述べられるのみである。
イマジナティヴな共感的投射は、スピリチュアルな経験と常々呼ばれてきたものの主要な部分である。 瞑想の伝統は数千年にわたって、これを錬磨する技術を発達させてきた。注意の焦点と共感的投射は、そ れを練習することによって我々が世界の中に現存しているという感覚を強化することが出来る、我々に親 しんだ認知的能力である。
この身体化された霊性としての技術(アート)については、レイコフらも、世界中のシャーマンたちが自然界とのあいだに恍惚を伴った溶解体験を実現することを例示しているのだが、この点については拙著ですでに触れているので割愛しておきたいと思う。しかし、ここでも身体にたいする注意としての知覚そのものの〈代謝〉や、メッセージとしての〈生、それ自体〉について言説化すること、つまりそもそも言語知の外部にある働きについて言分けを試みること自体が無謀なことなのであろう。私たちが語り得るのは構造水準以降であって、その原因水準ではなく、また顕在化している一角からであって、潜勢力の側からではない。とはいえ、顕在化している記号をただ集積しただけでは何も見えてはこないし、それをただたんに交換するだけでも虚しいことは確かである。ここでレイコフらが芸術という問題の手前にとどまった理由も、グレゴリー・ベイトソンがその問題に踏み込もうと試みた遺稿のタイトルを「天使がおそれて立ち入らざるところ」と記したのと同属なものとして捉えておくことができるのかもしれない。では、いま再びクレーリーの知覚論をみていくことにしよう。
1900年以降のセザンヌに特に突出してみられる知覚の特色について、クレーリーは、遠近の距離感、すなわち対象と主体、事物とその表象といった関係性がそこで無化していることを指摘する。この知覚がもたらす効果については、すでに哲学者アンリ・マルディネが、眩暈を感じるときに最初におとずれる経験というレトリックを用いて特徴づけているものだが、さらにクレーリーにおいては「セザンヌの作品と映画とが、そのあらゆる違いを超えて提示していたのは、たがいに作用、反作用をおこなう変数要素の中心なき総体、とドゥルーズが描写したものの可能性」ということになる。これはセザンヌの溶解体験に対する一つの、きわめて構造主義的な説明と言えるものであろう。すなわち、そこでは、世界(事物連鎖)のうちにあって、一つの要素が(それが選択されることによって選択されなかった諸要素のうちの)別の要素を「変数」として導き出し、その召喚された「変数」はまた、反作用としてその背後に潜在している事物連鎖を存在として顕在化させる。つまり、大局的には〈選ばれなかったもの〉に導かれる働きこそが、創造の原理にほかならないということになる。こうした「中心なき総体」は、確かに溶解体験のなかで生じているものの一つと言えるであろう。またクレーリーは、セザンヌの作品には非人間的な知覚モデルが構成されているとする認識が、すでにフリッツ・ノヴォトニーやクルト・バッハ、ハンス・ゼドルマイヤー、そしてモーリス・メルロ=ポンティらによって語られてはきたものの、その非人間性には「新たな知覚技術」の発明と、その「隠喩的可能性」とが共時的に働いているのではないかと推察している。その「新たな知覚技術」とは写真であり、とりわけセザンヌの晩年の時期にはすでに定着していた初期映画のことである。この知覚についてクレーリーは、テオドール・アドルノを引きつつ、なかば無意識的に「生の領域」に浸潤していくような自然との融合であると説き、映画もまた「知覚するもの(percipiens)や知覚されるもの(percipi)」という関係を無効化することでそれ以前の西洋型の再現=表象をリセットしたと述べるのだが、すでに述べたように、その「新たな知覚技術」はレイコフらがいう練磨された知覚(身体化された霊性)を理解するための端緒として位置づけられるべきものであって、その「隠喩的可能性」を開くための新たなテクネーとして再評価することができるものなのである。
ところでクレーリーは、このセザンヌの知覚と共通性をもつ「新たな知覚技術」、すなわち映像によってもたらされた知覚経験について、それは絶えず変調する生環境とのダイナミックで感覚運動的な相互作用によって、その事物からの眼差しによって、主体が再構成されることであり、もとよりその知覚はつねに身体的行動と不可分なものだと述べている。では、このセザンヌらにみられる事物から眼差されるような知覚経験と、バルトが写真から得た「私を刺し貫きにやって来る」経験とが一つの相似性を持つものであるとするならば、そのような経験にたいしてあらかじめ親和力が認められる映像メディアから創作活動をはじめた作家たちは、シャーマンや画家においてみられるような幾つかの知覚階梯をほとんど自動的に踏み越えてしまうのであろうか。あるいはそうかもしれない。ただその場合、知覚と切り離せないものである身体については、その一部を機械(カメラ)が肩代わりするものなのだろうか。あるいは、ながらく技芸の系譜にのみその湧出を許されてきたような知覚変容を、撮影設定や画像処理などの機構的操作によって一気に形象化していくような、その身代わりゆえに、クリエイティヴィティにとって不可欠な〈知覚の宙吊り〉が保障されているのであろうか。写真家の中平卓馬は次のように述べている。
見ること、それは身体と切り離したところでは成立しない。身体をもってこの世界に生きてあること、 それはまた見るということをぬきにしては成立しない。こうして世界をよぎっていく、その身体にひろが る、あるいは身体化された空間、そのすべてが世界を構成し、その〈記憶〉、そのすべてが見ることの内 実である。
おそらく、映像作家たちは踏み越えるのだ。身体はそのとき、知覚と同期しながら、そのようなものへとトランスフォームしていくことだろう。だが、バルトが、たいていの写真はストゥディウム(一般的関心)しか呼び起こさないと告白しているように、「新たな知覚技術」がそのような知覚経験をもたらすものとなるか否かについての一つの分岐点は、ここにもあるのだろうと思われる。 
五章 裂け目 / 贈与・ポテンシャル・創造
実体は影とともにあるばかりでなく、影はそれが存在することの証しでもある。影によって存在が明か されることさえある。この場合、影と実体は「伴にある」。そのような影の代表が写真である。
亡霊は、ヴァ―ルブルグあるいはデリダがいうようにアナクロニスムとして、予期できない場所に、予測できないかたち(変形)をもって現れる。それは合理主義のもとにはぐらかされ黙殺されてきた、ある能力の再生であり、意味作用とは異なる側面において〈死〉から眼差された〈生、それ自体〉のことでもある。そしてそれは芸術と呼ばれる贈与作用や、その知覚のオートノミ―とも無関係ではいられない。
写真家の港千尋は、影とは人類が永い時間をすごした洞窟のなかで「無意識の段階からの伴侶」として、イメージを育んできたものであり、またそれ自体が「いまだ表象とは呼ばれない、むしろ現象に限りなく近いイメージ」なのだと言う。そしてそこでは影は実体の属性というよりも存在のレベルにあるものとして、洞窟から写真にいたる、前‐表象的な亡霊(perception)の系譜が示唆されている。また港は、今日のコンピュータの普及によるイメージ技術の加速度的な発達がもたらしたものは、影そのものが実体であるようなイメージの一般化であることを指摘している。ここにはさまざまな側面があるだろうが、その一つとして太古の人類がその思考空間を育んだ洞窟的体験との近接性(もしくは残存)が認められるものなのであろうか。いずれにせよ、ここにも一つの分岐点がある。すなわち、それが実体を欺く影(表象としての影)であるケースと、予兆をもたらす影(徴候としての影)であるケースとに分かれるだろうということだ。
また、これらの二つのケースは、ジョルジュ・ディディ=ユベルマンによる言い換えでは〈ヴェールとしてのイメージ〉と〈裂け目としてのイメージ〉ということになる。
私の考えでは、ジョルジュ・バタイユが身近なイメージ群の慰撫的な利用に対して、イメージが引き起 こしうる慰めようのないもの——「哀願」、本質的な「暴力」——を明るみに出そうと試みたとき、彼はこの 二重の体制を確かに想定していた。そしてモーリス・ブランショは、「無を否定する」ものとしてイメー ジを語ることは、正統であるがきわめて不完全であると述べた。イメージが逆に、「われわれに対する無 の眼差し」となる瞬間をも認めなければならないのである。そこから想像的なものの「二重のヴァージョ ン」という深遠な理念が生まれた。この教訓——現象学的な——は他方でラカンがちょうど同じ時代に、「想 像的なものの機能は非現実的なものの機能と同じではない」と述べたときにも、かすかに聞き取ることの できたものである。それからまた彼が、バタイユを髣髴させる文体の驚異的な数ページで、もっとも重要 なフロイトの初期の夢のなかの「恐ろしいイメージの出現」を分析するときもそうである。
イルマの注射の夢をめぐる現象学によってわれわれは […] 正真正銘のメドゥーサの首という、恐ろ しい、不安を掻き立てるイメージの出現を浮かび上がらせるに至りました。[…] 文字通り名づけがたい
何かの顕現です […]。つまりそこには不安を掻き立てるイメージの出現があります。そのイメージが結局のところ示しているのは、現実界の露呈です。いかなる媒介も不可能な現実界、究極の現実界、もは や対象ではない本質的な対象、しかもその前ではすべての言葉が止まり、すべてのカテゴリーが座礁す るもの、極めつきの不安の対象です。[…] 問題となるのは本質的な似ていないものであり、それは似た ものを補填したり補完したりするものなどではなく、主体の本質的な解体、破壊のイメージそのもので す。 [ジャック・ラカン『フロイト理論と精神分析技法における自我』]
つまり「あらゆる言葉が身動きを止め、あらゆるカテゴリーが頓挫する」ところ——反駁可能であれ不 可能であれ、諸々の命題が文字通り不意をつかれるところ——においてこそ、ひとつのイメージが出現し うるのだ。フェティッシュのイメージ=ヴェールではなく、現実の内光を噴出するがままにさせるイメー ジ=裂け目である。
以上、長々と引用したのは、私の実感している名付けがたいもう一つの亡霊について、これよりも正確に言述してみせることは困難だと感じているからだ。ここでディディ=ユベルマンが述べている「イメージ=ヴェール」とは、すでに心霊写真を題材にしてみてきたような「無を否定する」ものとしてのイメージのことである。それはまさに「イメージ群の慰撫的な利用」のことであるが、このことはたんに偶像崇拝者たちだけにみられることではない。ディディ=ユベルマンが「亡霊たちを激しく払いのける者こそが、自分がそれに取り憑かれていることの明らかな徴候を示してはいないだろうか」と述べるように、それは偶像破壊者たちによる、偶像(イメージ)に看取された権力(イメージに付与された権力)としても現れるものなのだ。すなわち、それは無を否定し、世界を象徴界へと取り込むことでなされた権力を同じ方法で奪還しようとすることに等しい。これが表象としてのイメージを支えているものなのである。ではこれと分別されるものとしてディディ=ユベルマンが示す「イメージ=裂け目」とは何か。それは表象不可能な死をフェティッシュなベール(イメージ)で代理するような亡霊ではなく、まさに「われわれに対する無の眼差し」としてのイメージである。そこにはセザンヌの知覚を通してみてきたような、事物から眼差され、貫かれ、分裂‐生成する主体がある。すなわち、それはどこから湧いたのか、その所在の探索を無効とするようなイメージであり、その源泉としての知覚作用それ自体であり、あるいはそのイメージが帯びる超個人的な症候/残存である。
ところで、ディディ=ユベルマンにとって、パウル・クレーの『新しい天使』は「不可能な接触というドラマトゥルギー」である。彼はそこでベンヤミンがその天使について述べた「[彼は]自分の眼差しが釘づけになっている何かから、遠ざかろうとしているように見える」という言葉を引用しているわけだが、ここでの「不可能な接近」と、ディディ=ユベルマンが先述の〈裂け目としてのイメージ〉にたいして「我有化しないままの接近」もしくは「〈他者〉のイメージ」と言い換えていることが重なり合ってみえてくる。だとするならば、これは知覚作用(作法)とかかわるテーマとして捉えることが可能であろうし、もしかすると私の名差す〈もう一つの亡霊〉も〈新しい天使〉の別名として考えることができるものかもしれない。ディディ=ユベルマンは次のように述べている。
『失われた時を求めて』の語り手が、突如として見知らぬ「亡霊」の視覚から祖母を見出すとき、彼は そのことを興味深くも、「写真を撮りに来たカメラマン」になって見ることだと名づける。そこではいっ たい何が起きているのだろうか。一方で、身近なものが変質する。眼差しの対象が、馴染み深いものであ りながら、「それまで一度も見たことがない」ような容姿を呈する(これはお好みでフェティッシュを作 り上げることとは正反対である)。他方で、同一性が変質する。眼差しの主体が、観察の実践に没頭する あまり、空間的、時間的確信を一瞬すべて失う。プルーストがこれを指して残した表現は忘れがたいもの だ。「帰ってきたばかりの短い時間のあいだは、とつぜん自分自身の不在に居合わせるという能力を手に する、長続きしない特権」。
すでに既知であるはずのものが未知へと変質をみせ、没入する眼差しにおいて自らの主体の不在に居合わせる。このような「亡霊」の視覚(知覚)については美術研究者でさえますます回避するむきが増えているように思われる。しかし、その「自身の不在に居合わせるという能力」はいまなお失われてはいないのだ。では、そうした能力はどこから来るのだろうか。
古代ギリシアでは、感覚能力や意志や知性は、主体の「能力」として構想されてはいなかった。ジョルジョ・アガンベンは「だとすれば、これこれの感覚作用はどのようにして感覚作用の不在において存在できるのか?」という問いを立て、そこからアリストテレスが「潜勢力(dynamis)」と呼んだ問題へと導かれていく。アリストテレスの『霊魂論』によれば、潜勢力には二種類ある。一つは習得を通じて主体が変質する、類的な潜勢力であり、もう一つはすでに技術や能力を習得している者がそれを行使しない限りにおいて、その欠如において実現している「もちよう(hexis)」の潜勢力である。だが、これらは現勢力に規定された潜勢力にすぎない。なるほど画家も絵を描かないときでさえつねに眼は描いているものだ。しかし、それはたんに技術という惰性が起こしている幻覚でもなければ、タブローという現勢すべきフィグラ(figura)を目的化した運動でもない。つまり、その潜勢力は現勢力の亡霊(simulacurm)として位置づけられるものだけではなく、むしろそうした規定こそがつねに恣意的で文化的かつ後天的な要素にすぎないものなのである。げんに私自身、アジア、アフリカ、ヨーロッパ各所においてその各文化フレームによって恣意的に規定される自らの作品形態の変化にはつねに驚かされてきた。このことは作品というものが、作家自身がそう認める前から(ましてや鑑賞者を持つ前から)その現勢力においてすでに社会的なものであることを示しているのである。ともあれ、ここで私が問題にしているのは、潜勢力のほうだ。潜勢力のほうはと言えば、その一部が現勢したさいにも、あるいは現勢しないままであっても、潜勢力どうしがめまぐるしい転移をやめないでいる「ありよう」にあって、それが例の知覚そのもののオートノミ―ともかかわる能力として捉えられる気がしてならないのである。この点についてはアリストテレスもまた、もし感覚作用が現勢力という状態のみにあるものならば、人間は闇を見ることも沈黙を聞くこともできなくなり、思考も形式なきものを認識できなくなるはずであり、ゆえに感覚作用は潜勢力に支えられているものなのだと述べている。
これを受けてアガンベンはこう述べる。
人間の潜勢力の偉大さは——それは悲惨さでもあるが——、それが何よりもまず、現勢力に移行しないこ とができるという潜勢力、暗闇のための潜勢力でもあるということである。[…]じつのところ、潜勢力 がただ見ることができるという潜勢力、なすことができるという潜勢力でしかないなら、つまり潜勢力が、 それを現実のものとする現勢力においてのみ潜勢力として存在するなら(そのような潜勢力をアリストテ レスは自然的な潜勢力と呼び、これを非論理的な要素や動物に割り当てている)、私たちはけっして闇や 麻痺の経験をすることができず、「欠如(stresis)」を認識することも、したがって支配することもできない。
しかし、その「欠如」は認識にとってのそれであって、おそらく欠如ではないのだ。またそれを「支配すること」もほとんど不可能なのだ。つまり、ある行動や認識を、しないでいられることは、主体のわずかな自由であるどころか、主体と現勢力とが等価であるようなレベルにおいて主体を捉えることにすぎないからである。とりわけプンクトゥムを敷衍しながらその相互作用をみてきた本稿のコンテクストにおいては、じつは潜勢力こそがより主体であり、同時に主体を生成・変成するものである。つまりアリストテレス―アガンべン的なレトリックを用いて言えば、欠如を〈支配しないでいる〉こともできるということなのだ。このとき闇や麻痺、あるいは非思考的なものは「欠如」としてではなく、一種のカオス(もしくは荘子的な混沌)として、「過剰」として立ち現われるものとなる。ところが実際はアガンベンも語彙や経路は異なれど、アリストテレスの『形而上学』に迂回しながら同様の考えに至っている。すなわち、「潜勢力をもつものは非存在を迎え入れ、非存在が到来するがままにするのであって、非存在をこのように迎え容れるということが、受動性としての、根本的情念としての潜勢力を定義づける」と。この根本的情念への眼差しは、ヴァ―ルブルグがその名付けえない学において試みてきたものともリンクし得るものであろうし、それはつねにすでにアーティストたちの拡張化された潜勢力においては「生、それ自体」として生きられてきた無意識的な主体なのである。ではここで、いったん潜勢力にかんする議論を中断して、一人の写真家に触れておくことにしよう。
中平卓馬は彼の映像論集において、芸術写真にまつわるポエジーやイメージと称されるもの、その情緒性は「私による世界の潤色」であり「世界の私物化」にすぎないのではないかと考えた。「そうではなく世界は常に私のイメージの向う側に、世界は世界として立ち現れる、その無限の〈出会い〉のプロセスが従来のわれわれの芸術行為にとって代わらなければならない」と。もちろん、このような言説もまた人間化にすぎないと反論することはできるだろう。しかしそのようないたずらなロジックそのものも人間の信仰にすぎないものであり…と、まったく不毛な議論に陥らざるを得ない。ここで重要なことは人間がどの位相で語られているのかという点である。中平が疑いの眼差しを向けているのは、意識的な主体としての「私」なのだ。そしてその近代的な強い主体(個人主義的な個人)による世界へのイメージ(表象)の逆投影、それによって現出される作者の理念の道具として外化された作品群、そしてそのイメージ(表象)を作品から解読(絵解き)すればよいだけとみなされる観賞作法といった近代芸術にまつわる誤謬から出るということなのだ。だが、確かにこのような芸術家イメージはマスメディア等で戯画化されてきたものではあっても、すでに述べてきたように実際の芸術家たちが生きてきた知覚とは異なるものである。とはいえ、戯画化されてきた芸術家像においては、社会的(慣習的)な類としての知覚から逸脱していく芸術家の孤独にたいして、それを強靭な個人の確立プロセスと混同しながら言説化されてしまうような構図はけっして少なくなかった。中平はこう述べている。
いかにも私は世界を見る、だが同時に世界は、事物は私に向ってまた物の視線を投げ返してくるのだ。 […] こうしているいま、私の前には(むろん後にも)世界は身体化された空間として拡がっている。
ここではバルトやクレーリーが述べてきたような事物からの眼差しは、アガンベンの言う潜勢力として世界に散種されている。中平は、写真を撮ることとは、既知の叙述可能な象徴を求めることではなく、「未知の世界が偶然にも発してくる象徴」を引き受けようとする構えなのだという。そしてこのような、情緒を排することで立ち現れてくる亡霊は、「事物の極細の一片一片」を事物からの視線として受け取り、また「主体を超えたものが主体を認めてしまう」ことにおいて成就するのだ。さらに中平は、現代の情報化社会においては、その切れ切れとなった物質や情報が氾濫する環境のさなかで「世界は解体した断片として、まさしく裸形でわれわれを襲う」と述べている。これは高度情報化による〈イメージ=ヴェール〉の解体と微分化であり、プンクトゥムとしての世界であるところの〈イメージ=裂け目〉化であり、あるいはそのように否応なく貫かれてしまう知覚作用についての歴史的な説明であろう。もとより、このような経験もただちに「潤色」され「私物化」され、表象としての亡霊によって収斂されてしまう(もしくはその表象不能性を憂慮する)むきもなくなるわけではない。よってこうした裸形の断片が襲ってくるような歴史的経験も、写真家などが生きている知覚作用と陸続きなものとして捉えておくことが適当なのであろう。かくして中平は「植物図鑑」という一つのヴィジョンを得ることになる。
あらゆる陰影、またそこにしのび込む情緒を斥けてなりたつのが図鑑である。“悲しそうな” 猫の図鑑 というものは存在しない。[…] あらゆるものの羅列、並置がまた図鑑の性格である。図鑑はけっしてある ものを特権化し、それを中心に組み立てられる全体ではない。つまりそこにある部分は全体に浸透された 部分ではなく、部分はつねに部分にとどまり、その向う側にはなにもない。
要するに、プンクトゥムは意味作用に奉仕することはなく、それ自体にも意味はない。それらは情緒主体を超えて並置している。だが、それらは執拗に視線を投げかけてくるのだ。ロラン・バルトがプンクトゥムについて記述したのは中平の「植物図鑑」から数えて約七年後(1980)のことであった。とはいえ、この感覚はすでにベンヤミンにも認められるものであり、そこに共通して媒介されているのが写真であるとしても、この光学技術とかかわりなくすでにつねにあったと考えるべきものだろうと私には思われる。つまり、写真はそれを認知/共有するための一つの現勢力として機能したのである。そしてそれゆえに写真がもたらした歴史的経験は偉大なのだ。
ところで中平は、なぜ植物なのか? の答えとして、なまぐさくもなく彼岸でもない、「中間にいて、ふとしたはずみで、私の中へのめり込んでくるもの、それが植物だ」と述べている。それは対象に主体があって働きかけてくるわけでも、こちらからの働きかけに応えるのでもない、クレーリーの言う「我有化しないままの接近」やディディ=ユベルマンの言う「不可能な接触」という天使的なものとどこか似ている気がしてくる。それは知覚の事物化と喩えることのできる溶解体験/断絶体験なのだ。かくして「アレ・ブレ・ボケ」と呼ばれる写真スタイルで知覚の宙吊りそれ自体を目的化していたかにみえる中平は、「あまりにもよく見えるものは、見えないものよりもなおいっそう敵意を含んでいる」(ル・クレジオ)という〈白昼〉の知覚へと歩を進めていくことになった。だが、この中平の一見したところ素人のスナップとみまごうばかりに朴訥で、私有化を排し、情緒を排した作品展開は、複数の批評家たちによって「写真家を辞めざるを得ない方向」と誤解されたことも事実だ。しかし、そのような知覚の脱権力化や脱表象化が、写真家(芸術家)であることを揺るがすものであると考えることは、先述の戯画的な認識にとどまっていることの証左にほかならないものなのである。
再びアガンベンを召還しよう。彼はアリストテレスの『霊魂論』に立ち返りながらこう述べている。
自らを自らに与え、自らを救済し、現勢力において増大するというこの潜勢力の形象から生じてくる帰 結のすべてを、私たちはさらに計り知る必要がある。この形象が私たちに強いてくるのは、潜勢力と現勢 力のあいだ、可能なものと現実的なもののあいだの関係をはじめから考えなおすということだけではない。 この形象はまた、美学においては創造行為や作品のありかたを、政治学においては構成された権力におい て構成する権力が保存されるという問題を、新たなしかたで考察することを私たちに強いてくる。だが、 生が、自らの形式と実現をたえず超過する潜勢力として考えられるべきものであるというのが真であるな ら、生きものに関する理解のすべてが問われ、撤回されるのでなければならない。
さまざまな形式において実現されたものの本質を定義するのは、つねにすでに潜勢力である。それは現勢力へと移行することで潜勢力であることをやめるのではなく、むしろそのことによって潜勢力をさらに増大させるのだ。それはちょうど教科書的な知識体系が知と無知との関係を反比例するものと見なしてしまうのとは異質な、智恵のありようにも似ていなくはない。そこでは知の形成は未知を加乗しながら増大させていくものだ。このことは結果的に、アガンベンが述べるように「潜勢力が潜勢力自体に対しておこなう極端な贈与」となるものであり、この「贈与」のプロセスにおいて明滅しているものが主体や、あるいは作品なのである。もとより、このことは作家であれば誰しもが知っている基本的なことであり、中平が作品を撮りつづけなければならない理由もここにある。つまり、それは「生」、もしくは知覚作用そのものの問題なのである。もしかりに潜勢力という亡霊が自らを増大させるすべを失ってしまえば、ブリコラージュやアートと呼ばれる活動もアルカイックな人類の知が湧出する場ではなくなってしまうであろう。そうなってしまったとき私たちは、現勢力こそが「生、それ自体」であり、その価値を〈代表〉するものだとみなしてしまうような、閉塞した〈他者〉のない、表象としての亡霊に取り込まれてしまわざるを得なくなるのである。 
 
真景累ヶ淵 / 三遊亭圓朝

 


今日(こんにち)より怪談のお話を申上げまするが、怪談ばなしと申すは近来大きに廃(すた)りまして、余り寄席(せき)で致す者もございません、と申すものは、幽霊と云うものは無い、全く神経病だと云うことになりましたから、怪談は開化先生方はお嫌いなさる事でございます。それ故に久しく廃って居りましたが、今日になって見ると、却(かえ)って古めかしい方が、耳新しい様に思われます。これはもとより信じてお聞き遊ばす事ではございませんから、或(あるい)は流(りゅう)違いの怪談ばなしがよかろうと云うお勧めにつきまして、名題を真景累ヶ淵と申し、下総国(しもふさのくに)羽生村(はにゅうむら)と申す処の、累(かさね)の後日のお話でございまするが、これは幽霊が引続いて出まする、気味のわるいお話でございます。なれども是はその昔、幽霊というものが有ると私共(わたくしども)も存じておりましたから、何か不意に怪しい物を見ると、おゝ怖い、変な物、ありゃア幽霊じゃアないかと驚きましたが、只今では幽霊がないものと諦めましたから、頓(とん)と怖い事はございません。狐にばかされるという事は有る訳のものでないから、神経病、又天狗に攫(さら)われるという事も無いからやっぱり神経病と申して、何(なん)でも怖いものは皆神経病におっつけてしまいますが、現在|開(ひら)けたえらい方で、幽霊は必ず無いものと定めても、鼻の先へ怪しいものが出ればアッと云って臀餅(しりもち)をつくのは、やっぱり神経が些(ち)と怪しいのでございましょう。ところが或る物識(ものしり)の方は、「イヤ/\西洋にも幽霊がある、決して無いとは云われぬ、必ず有るに違いない」と仰しゃるから、私共は「ヘエ然(そ)うでございますか、幽霊は矢張(やっぱり)有りますかな」と云うと、又外の物識の方は、「ナニ決して無い、幽霊なんというは有る訳のものではない」と仰しゃるから、「ヘエ左様でございますか、無いという方が本当でげしょう」と何方(どちら)へも寄らず障らず、只云うなり次第に、無いといえば無い、有るといえば有る、と云って居れば済みまするが、極(ごく)大昔に断見(だんけん)の論というが有って、是は今申す哲学という様なもので、此の派の論師の論には、眼に見え無い物は無いに違いない、何(ど)んな物でも眼の前に有る物で無ければ有るとは云わせぬ、仮令(たとえ)何んな理論が有っても、眼に見えぬ物は無いに違いないという事を説きました。すると其処(そこ)へ釈迦が出て、お前の云うのは間違っている、それに一体無いという方が迷っているのだ、と云い出したから、益々分らなくなりまして、「ヘエ、それでは有るのが無いので、無いのが有るのですか」と云うと、「イヤ然(そ)うでも無い」と云うので、詰り何方(どちら)か慥(たし)かに分りません。釈迦と云ういたずら者が世に出(いで)て多くの人を迷わする哉(かな)、と申す狂歌も有りまする事で、私共は何方へでも智慧のある方(かた)が仰しゃる方(ほう)へ附いて参りまするが、詰り悪い事をせぬ方(かた)には幽霊という物は決してございませんが、人を殺して物を取るというような悪事をする者には必ず幽霊が有りまする。是が即ち神経病と云って、自分の幽霊を脊負(しょ)って居(い)るような事を致します。例えば彼奴(あいつ)を殺した時に斯(こ)ういう顔付をして睨(にら)んだが、若(も)しや己(おれ)を怨(うら)んで居やアしないか、と云う事が一つ胸に有って胸に幽霊をこしらえたら、何を見ても絶えず怪しい姿に見えます。又その執念の深い人は、生きて居ながら幽霊になる事がございます。勿論死んでから出ると定(き)まっているが、私(わたくし)は見た事もございませんが、随分生きながら出る幽霊がございます。彼(か)の執念深いと申すのは恐しいもので、よく婦人が、嫉妬のために、散(ちら)し髪で仲人の処へ駈けて行(ゆ)く途中で、巡査(おまわり)に出会(でっくわ)しても、少しも巡査が目に入りませんから、突当るはずみに、巡査の顔にかぶり付くような事もございます。又金を溜めて大事にすると念が残るという事もあり、金を取る者へ念が取付いたなんという事も、よくある話でございます。
只今の事ではありませんが、昔|根津(ねづ)の七軒町(しちけんちょう)に皆川宗悦(みながわそうえつ)と申す針医がございまして、この皆川宗悦が、ポツ/\と鼠が巣を造るように蓄めた金で、高利貸を初めたのが病みつきで、段々少しずつ溜るに従っていよ/\面白くなりますから、大(たい)した金ではありませんが、諸方へ高い利息で貸し付けてございます。ところが宗悦は五十の坂を越してから女房に別れ、娘が二人有って、姉は志賀と申して十九歳、妹は園と申して十七歳でございますから、其の二人を楽(たのし)みに、夜中(やちゅう)の寒いのも厭(いと)わず療治をしては僅(わず)かの金を取って参り、其の中から半分は除(の)けて置いて、少し溜ると是を五両一分で貸そうというのが楽みでございます。安永(あんえい)二年十二月二十日の事で、空は雪催しで一体に曇り、日光おろしの風は身に染(し)みて寒い日、すると宗悦は何か考えて居りましたが、
宗「姉(あんね)えや、姉えや」
志「あい……もっと火を入れて上げようかえ」
宗「ナニ火はもういゝが、追々押詰るから、小日向(こびなた)の方へ催促に行こうと思うのだが、又出て行(ゆ)くのはおっくうだから、牛込(うしごめ)の方へ行って由兵衞(よしべえ)さんの処(とこ)へも顔を出したいし、それから小日向のお屋敷へ行ったり四ツ谷へも廻ったりするから、泊り掛(がけ)で五六軒|遣(や)って来ようと思う、牛込は少し面倒で、今から行っちゃア遅いから明日(あした)行く事にしようと思うが、小日向のはずるいから早く行かないとなあ」
志「でもお父(とっ)さん本当に寒いよ、若(も)し降って来るといけないから明日早くお出でなさいな」
宗「いや然(そ)うでない、雪は催して居てもなか/\降らぬから、雪催しで些(ちっ)と寒いが、降らぬ中(うち)に早く行って来よう、何を出してくんな、綿の沢山はいった半纒(はんてん)を、あれを引掛(ひっか)けて然うして奴(やっこ)蛇の目の傘を持って、傘は紐を付けて斜(はす)に脊負(しょ)って行くようにしてくんな、ひょっと降ると困るから、なに頭巾をかぶれば寒くないよ」
志「だけれども今日は大層遅いから」
宗「いゝえそうでは無い」
と云うと妹のお園が、
園「お父(とっ)さん早く帰っておくれ、本当に寒いから、遅いと心配だから」
宗「なに心配はない、お土産(みや)を買って来る」
と云って出ますると、所謂(いわゆる)虫が知らせると云うのか、宗悦の後影(うしろかげ)を見送ります。宗悦は前鼻緒(まえばなお)のゆるんだ下駄を穿(は)いてガラ/\出て参りまして、牛込の懇意の家(うち)へ一二軒寄って、すこし遅くはなりましたが、小日向|服部坂上(はっとりさかうえ)の深見新左衞門(ふかみしんざえもん)と申すお屋敷へ廻って参ります。この深見新左衞門というのは、小普請組(こぶしんぐみ)で、奉公人も少ない、至って貧乏なお屋敷で、殿様は毎日御酒ばかりあがって居るから、畳などは縁(へり)がズタ/\になって居(お)り、畳はたゞみばかりでたたは無いような訳でございます。
宗「お頼み申します/\」
新「おい誰(たれ)か取次が有りますぜ、奥方、取次がありますよ」
奥「どうれ」
と云うので、奉公人が少ないから奥様が取次をなさる。 

奥「おや、よくお出でだ、さア上(あが)んな、久しくお出でゞなかったねえ」
宗「ヘエこれは奥様お出向いで恐れ入ります」
奥「さアお上り、丁度殿様もお在宅(いで)で、今御酒をあがってる、さア通りな、燈光(あかり)を出しても無駄だから手を取ろう、さア」
宗「これは恐入ります、何か足に引掛(ひっかゝ)りましたから一寸(ちょっと)」
奥「なにね畳がズタ/\になってるから足に引掛るのだよ……殿様宗悦が」
新「いや是は何(ど)うも珍らしい、よく来た、誠に久しく逢わなかったな、この寒いのによく尋ねてくれた」
宗「ヘエ殿様御機嫌|好(よ)う、誠に其の後(のち)は御無沙汰を致しましてございます、何うも追々|月迫(げっぱく)致しまして、お寒さが強うございますが何もお変りもございませんで、宗悦身に取りまして恐悦に存じます」
新「先頃は折角尋ねてくれた処が生憎(あいにく)不在で逢わなかったが何うも遠いからのう、なか/\尋ねるたって容易でない、よくそれでも心に掛けて尋ねてくれた、余り寒いから今一人で一杯始めて相手欲しやと思って居た処、遠慮は入らぬ、別懇(べっこん)の間ださア」
宗「ヘエ有難い事で、家内のお兼(かね)が御奉公を致した縁合(えんあい)で、盲人が上りましても、直々(じき/\)殿様がお逢い遊ばして下さると云うのは、誠に有難いことでございますが、ヘエ、なに何う致しまして」
奥「宗悦やお茶を此処(こゝ)に置くよ」
宗「ヘエ是は何うも恐れ入ります」
新「奥方宗悦が久振(ひさしぶり)で来たから何(なん)でも有合(ありあい)で一つ、随分飲めるから飲まして遣(や)りましょう、エヽ奥方|勘藏(かんぞう)は居らぬかえ、エ、ナニ何か一寸、少しは有ろう、まア/\宗悦|此方(こちら)へ来な、却(かえ)って鯣(するめ)ぐらいの方が好(よ)い、随分酔うものだよ、さアずっと側へ来な、奥方頼みます」
奥「宗悦ゆるりと」
と云うので、別に奉公人が有りませんから、奥様が台所で拵(こしら)えるのでございます。
新「宗悦よく来た、さア一つ」
宗「ヘエ是は恐れ入ります、頂戴致します、ヘエもう…おッと溢(こぼ)れます」
新「これは感心、何うもその猪口(ちょく)の中へ指を突込んで加減をはかると云うのは其処(そこ)は盲人でも感服なもの、まア宗悦よく来たな、何(なん)と心得て来た」
宗「ヘエ何と云って殿様申し上げるのはお気の毒でげすが、先年|御用達(ごようだ)って置いたあの金子の事でございます、外(ほか)とは違いまして、兼が御奉公を致しましたお屋敷の事でございますから、外よりは利分(りぶん)をお廉(やす)く致しまして、十五両一分で御用達ったのは僅(わず)か三十金でございますが、あれ切(ぎ)り何とも御沙汰がございませんから、再度参りました所が、何分(なにぶん)御不都合の御様子でございますから遠慮致して居(お)るうちに、もう丁度足掛け三年になります、エ誠に今年は不手廻(ふてまわ)りで融通が悪うございます、ヘエ余り延引になりますから、ヘエ何(ど)うか今日(こんにち)は御返金を願いたく出ましてございます、ヘエ何うか今日は是非半金でも戴きませんでは誠に困りますから」
新「そりゃア何うもいかん、誠に不都合だがのう、当家も続いて不如意でのう、何うも返したくは心得て居(い)るが、種々(いろ/\)その何うも入用が有って何分差支えるからもうちっと待てえ」
宗「殿様え、貴方(あなた)はいつ上(あが)っても都合が悪いから待てと仰しゃいますがね、何時(いつ)上れば御返金になるという事を確(しっ)かり伺いませんでは困ります、ヘエ慥(たし)かに何時(いつ)幾日(いっか)と仰しゃいませんでは、私(わたくし)は斯(こ)ういう不自由な身体で根津から小日向まで、杖を引張って山坂を越して来るのでげすから、只出来ぬとばかり仰しゃっては困ります。三年越しになってもまだ出来ぬと云うのは、余(あんま)り馬鹿々々しい、今日(きょう)は是非半分でも頂戴して帰らんければ帰られません、何(なん)ぼ何でも余(あんま)り我儘でげすからなア」
新「我儘と云っても返せぬから致し方がない、エヽいくら振ろうとしても無い袖は振れぬという譬(たとえ)の通りで、返せぬというものを無理に取ろうという道理はあるまい、返せなければ如何(いかゞ)いたした」
宗「返せぬと仰しゃるが、人の物を借りて返さぬという事はありません、天下の直参(じきさん)の方が盲人の金を借りて居て出来ないから返せぬと仰しゃっては甚(はなは)だ迷惑を致します、そのうえ義理が重なって居りますから遠慮して催促も致しませんが、大抵|四月縛(よつきしばり)か長くても五月(いつゝき)という所を、べん/″\と廉(やす)い利で御用達(ごようだて)申して置いたのでげすから、ヘエ何うか今日(こんにち)御返金を願います、馬鹿々々しい、幾度来たって果(はて)しが附きませんからなア」
新「これ、何(なん)だ大声を致すな、何だ、痩せても枯れても天下の直参が、長らく奉公をした縁合を以(もっ)て、此の通り直々に目通りを許して、盃(さかずき)でも取らすわけだから、少しは遠慮という事が無ければならぬ、然(しか)るを何だ、余(あま)り馬鹿々々しいとは何(ど)ういう主意を以て斯(かく)の如く悪口(あっこう)を申すか、この呆漢(たわけ)め、何だ、無礼の事を申さば切捨てたってもよい訳だ」
宗「やア是は篦棒(べらぼう)らしゅうございます、こりゃアきっと承りましょう、余(あんま)りと云えば馬鹿々々しい、何(なん)でげすか、金を借りて置きながら催促に来ると、切捨てゝもよいと仰しゃるか、又金が返せぬから斬って仕舞うとは、余り理不尽じゃアありませんか、いくら旗下(はたもと)でも素町人(すちょうにん)でも、理に二つは有りません、さア切るなら斬って見ろ、旗下も犬の糞(くそ)もあるものか」
と宗悦が猛(たけ)り立って突っかゝると、此方(こちら)は元来御酒の上が悪いから、
新「ナニ不埓(ふらち)な事を」
と立上ろうとして、よろける途端に刀掛(かたなかけ)の刀に手がかゝると、切る気ではありませんが、無我夢中でスラリと引抜き、
新「この糞たわけめが」
と浴せかけましたから、肩先深く切込みました。 

新左衞門は少しもそれが目に入らぬと見えて、
新「何(なん)だこのたわけめ、これ此処(こゝ)を何処(どこ)と心得て居(お)る、天下の直参の宅へ参って何だ此の馬鹿者め、奥方、宗悦が飲(たべ)酔って参って兎(と)や角(こ)う申して困るから帰して下さい、よう奥方」
と云われて奥方は少しも御存じございませんから手燭(てしょく)を点(つ)けて殿様の処へ行って見ると、腕は冴(さ)え刃物は利(よ)し、サッという機(はずみ)に肩から乳の辺(あたり)まで斬込まれて居(い)る死骸を見て、奥方は只べた/″\/″\と畳の上にすわって、
奥「殿様、貴方何を遊ばしたのでございます、仮令(たとえ)宗悦が何(ど)の様な悪い事がありましても別懇な間でございますのに、何(なん)でお手打に遊ばした、えゝ殿様」
新「ナニたゞ背打(むねうち)に」
と云って、見ると、持って居(い)る一刀が真赤に鮮血(のり)に染(そ)みて居るので、ハッとお驚きになると酔(えい)が少し醒(さ)めまして、
新「奥方心配せんでも宜(よろ)しい、何も驚く事はありません、宗悦(これ)が無礼を云い悪口たら/\申して捨置き難(がた)いから、一打(ひとうち)に致したのであるから、其の趣を一寸|頭(かしら)へ届ければ宜しい」
ナニ人を殺してよい事があるものか、とは云うものゝ、此の事が表向になれば家にも障ると思いますから、自身に宗悦の死骸を油紙(あぶらかみ)に包んで、すっぽり封印を附けて居りますると、何(なん)にも知りませんから田舎者の下男が、
男「ヘエ葛籠(つゞら)を買って参りました」
新「何(なん)だ」
男「ヘエ只今帰りました」
新「ウム三右衞門(さんえもん)か、さア此処(こゝ)へ這入れ」
三「ヘエ、お申付の葛籠を買(と)って参りましたが何方(どちら)へ持って参ります」
新「あゝこれ三右衞門、幸い貴様に頼むがな実は貴様も存じて居る通り、宗悦から少しばかり借りて居(お)る、所が其の金の催促に来て、今日は出来ぬと云ったら不埓な悪口を云うから、捨置き難いによって一刀両断に斬ったのだ」
三「ヘエ、それは何(ど)うも驚きました」
新「叱(し)っ、何も仔細はない、頭へ届けさえすれば仔細はない事だが、段々物入りが続いて居る上に又物入りでは実に迷惑を致す、殊(こと)には一時面倒と云うのは、もう追々月迫致して居(お)ると云う訳で、手前は長く正当に勤めてくれたから誠に暇を出すのも厭だけれども、何うか此の死骸を、人知れず、丁度宜しい其の葛籠へ入れて何処(どこ)かへ棄てゝ、然(そ)うして貴様は在処の下総(しもふさ)へ帰ってくれよ」
三「ヘエ、誠に、それはまあ困ります」
新「困るったって、多分に手当を遣(や)りたいが、何うも多分にはないから十金遣ろうが、決して口外をしてはならぬぞ、若(も)し口外すると、己(おれ)の懐から十両貰った廉(かど)が有るから、貴様も同罪になるから然う思って居ろ、万一この事が漏れたら貴様の口から漏れたものと思うから、何処までも草を分けて尋ね出しても手打にせんければならぬ」
三「ヘエ棄てまするのはそれは棄ても致しましょうし、又人に知れぬ様にも致しますが、私(わたくし)は臆病で、仏の入った葛籠を、一人で脊負(しょ)って行くのは気味が悪うございますから、誰(たれ)かと差担(さしにな)いで」
新「万一にも此の事が世間へ流布してはならぬから貴様に頼むのだ、若し脊負えぬと云えばよんどころない貴様も斬らんければならぬ」
三「エヽ脊負います/\」
と云うので十両貰いました。只今では何(なん)でもございませんが、其の頃十両と申すと中々|大(たい)した金でございますから、死人を脊負って三右衞門がこの屋敷を出るは出ましたが、何(ど)うしても是を棄てる事が出来ません、と申すは、臆病でございますから少し淋しい処を歩くと云うと、死人が脊中に有る事を思い出して身の毛が立つ程こわいから、なるたけ賑(にぎ)やかな処ばかり歩いて居るから、何うしても棄てる事が出来ません、其の中(うち)に何処(どこ)へ棄てたか葛籠を棄てゝ三右衞門は下総の在所へ帰って仕舞うと、根津七軒町の喜連川(きつれがわ)様のお屋敷の手前に、秋葉(あきは)の原があって、その原の側(わき)に自身番がござります。それから附いて廻って四五間参りますると、幅広の路次(ろじ)がありまして、その裏に住(すま)って居りまするのは上方(かみがた)の人でござりますが、此の人は長屋中でも狡猾者(こうかつもの)の大慾張(だいよくばり)と云うくらいの人、此の上方者が家主(いえぬし)の処へ参りまして、
上「ヘイ今日は、お早うござります」
家主女房「おや、お出(いで)なさい何か御用かえ」
上「ヘエ今日は、旦那はんはお留守でござりますか、ヘエ、それは何方(どちら)へ、左様でござりますか、実はなア私(わたくし)は昨夜盗賊に出逢いましたによって、お届(とゞけ)をしようと思いましたが、何分(なにぶん)届をするのは心配でナア、世間へ知れてはよくあるまいから、どうもナア、その荷物が出さえすればよいと思うて居りました、実は私の嬶(かゝ)の妹(いもと)がお屋敷奉公をしたところが、奥さんの気に入られて、お暇を戴く時に途方もない結構な物を品々戴いて、葛籠に一杯あるを、何処(どこ)か行く処の定まるまで預かってくれえというのを預けられて、家(うち)に置くと、盗賊に出逢うて、その葛籠が無くなったによって、私はえらい心配を致しまして、もし、これからその義理ある妹へ何(ど)うしようと、実は嬶に相談して居りますると、秋葉の傍(わき)に葛籠を捨てゝ有りますから、あれを引取って参りとうござりますが、旦那はんが居やはらんければ、引取られぬでござりましょうか」
女房「おや/\然(そ)うかえ、それじゃアね、亭主(うち)は居りませんが、總助(そうすけ)さんに頼んで引取ってお出(いで)なさい」
上「ヘイ有難うござります、それでは總助はんに頼んで引取りを入れまして」
と横着者で、これから總助と云う町代(ちょうだい)を頼んで、引取りを入れて、とう/\脊負って帰って来ました。 

上「ヘエ只今總助はんにお頼み申して此の通り脊負(せお)うて参りました」
家主女房「おや大層立派な葛籠ですねえ」
上「ヘエ、これが無(の)うなってはならんと大層心配して居りました、ヘエ有難うござります」
女房「何(ど)うして其処(そこ)に棄てゝ行ったのでしょう」
上「それは私が不動の鉄縛(かなしばり)と云うのを遣りましたによって、身体が痺れて動かれないので、置いて行ったのでござりましょ、エヽ、ヘイ誠に有難いもので、旦那がお帰りになったら宜しゅうお礼の処を願います、ヘエ左様なら」
とこれから路次の角から四軒目(しけんめ)に住んで居りますから、水口(みずぐち)の処を明けて、
上「おい一寸手を掛けてくれえ」
妻「あい、おや立派な葛籠じゃアないか」
上「どうじゃ、ちゃんと引取りを入れて脊負(せお)うて来たのじゃから、何処(どこ)からも尻も宮も来(き)やへん、ヤ何(なん)でもこれは屋敷から盗んで来た物に違いないが、屋敷で取られたと云うては、家事不取締になるによって容易に届けまへん、又置いていった泥坊は私の葛籠だと云って訴える事は出来まへん、して見ればどこからも尻宮の来る気遣(きづかい)はないによって、私が引取りを入れて引取ったのじゃ、中にはえらい金目の縫模様(ぬいもよう)や紋付もあるか知れんから、何様(どのよう)にも売捌(うりさばき)が付いたら、多分の金を持って、ずっと上方へ二人で走ってしまえば決して知れる気遣はなしじゃ」
妻「そうかえ、まあ一寸明けて御覧な」
上「それでも葛籠を明けて中から出る品物がえらい紋付や熨斗目(のしめ)や縫(ぬい)の裲襠(うちかけ)でもあると、斯(こ)う云う貧乏長屋に有る物でないと云う処から、偶然(ひょっと)して足を附けられてはならんから、夜(よ)さり夜中に窃(そっ)と明けて汝(わぬし)と二人で代物(しろもの)を分けるが宜(えゝ)ワ」
妻「然(そ)うだねえ嬉しいこと、お屋敷から出た物じゃア其様(そん)な物はないか知らぬが、若(も)し花色裏の着物が有ったら一つ取って置いてお呉れよ」
上「それは取って置くとも」
妻「若しちょいと私に※[「插」でつくりの縦棒が下に突き抜ける](さ)せそうな櫛(くし)笄(こうがい)があったら」
上「それも承知や」
妻「漸々(よう/\)運が向いて来たねえ」
上「まあ酒を買(こ)うて」
と云うので是から楽酒(たのしみざけ)を飲んで喜んで寝まする。すると一番奥の長屋に一人者があって其処(そこ)に一人の食客(いそうろう)が居りましたが、これは其の頃|遊人(あそびにん)と云って天下禁制の裸で燻(くすぶ)って居る奴、
○「おい甚太(じんた)/\」
甚「ア、ア、ア、ハアー、ン、アーもう食えねえ」
○「おい寝惚けちゃアいけねえ、おい、起きねえか、エヽ静かにしろ、もう時刻は好(い)いぜ」
甚「何を」
○「何をじゃアねえ忘れちゃア仕様がねえなア、だから獣肉(もゝんじい)を奢(おご)ったじゃアねえか」
甚「彼(あ)の肉を食うと綿衣(どてら)一枚(いちめえ)違うというから半纒(はんてん)を質に置いてしまったが、オウ、滅法寒くなったから当てにゃアならねえぜ、本当に冗談じゃアねえ」
○「おい上方者の葛籠を盗むんだぜ」
甚「ウン、違(ちげ)えねえ、そうだっけ、忘れてしまった、コウ彼奴(あいつ)ア太(ふて)え奴だなア、畜生誰も引取人(ひきとりて)が無(ね)えと思ってずう/\しく引取りやアがって、中の代物を捌(さば)いて好(い)い正月をしようと云う了簡だが、本当に何処(どこ)まで太えか知れねえなア」
○「ウン、彼奴(あいつ)は今丁度|食(くら)い酔って寝て居やアがる中(うち)に窃(そっ)と持って来て中を発(あば)いて遣(や)ろうじゃアねえか、後で気が附いて騒いだってもと/\彼奴の物でねえから、自分の身が剣呑(けんのん)で大きく云う事(こた)ア出来ねえのさ」
甚「だがひょっと目を覚(さま)してキャアバアと云った時にゃア一つ長屋の者で面(つら)を知ってるぜ」
○「ナニそりゃア真黒(まっくろ)に面を塗って頬冠(ほっかぶり)をしてナ、丹波の国から生獲(いけど)りましたと云う荒熊(あらくま)の様な妙な面になって往(い)きゃア仮令(たとえ)面を見られたって分りゃアしねえから、手前(てめえ)と二人で面を塗って行って取って遣ろう」
甚「こりゃア宜(い)いや、サア遣ろう、墨を塗るかえ」
○「墨の欠(かけ)ぐれえは有るけれども墨を摺(す)ってちゃア遅いから鍋煤(なべずみ)か何か塗って行こう」
甚「そりゃア宜(よ)かろう、何(なん)だって分りゃアしねえ」
○「釜の下へ手を突込んで釜の煤(すゝ)を塗ろう、ナニ知れやアしねえ」
と云うので釜の煤を真黒に塗って、すっとこ冠(かぶ)りを致しまして、
○「何(ど)うだ是じゃア分るめえ」
甚「ウン」
○「ハ、ハヽ、妙な面だぜ」
甚「オイ/\笑いなさんな、気味が悪(わり)いや、目がピカ/\光って歯が白くって何(なん)とも云えねえ面だぜ」
○「ナニ手前(てめえ)だって然(そ)うだあナ」
とこれから窃(そっ)と出掛けて上方者の家(うち)の水口の戸を明けてとう/\盗んで来ました。人が取ったのを又盗み出すと云う太い奴でございます。
甚「コウ、グウ/\/\/\寝て居やアがったなア、可笑(おか)しいじゃアねえか、寝て居る面は余(あんま)り慾張った面でも無(ね)えぜ」
○「オイ、表を締めねえ、人が見るとばつがわりいからよ、ソレ行燈(あんどん)を其方(そっち)へ遣っちまっちゃア見る事が出来やあしねえ、本当にこんな金目の物を一時(いちどき)に取った程|楽(たのし)みな事(こた)アねえぜ、コウ余(あんま)り明る過ぎらア、行燈へ何か掛けねえ」
甚「何を掛けよう」
○「着物でも何(なん)でも宜(い)いから早く掛けやナ」
甚「着物だって着る物がありゃア何も心配しやアしねえ」
○「何(なん)でも薄ッ暗くなるようにその襤褸(ぼろ)を引掛(ひっか)けろ、何でも暗くせえなれば宜いや、オ、封印が附いてらア、エヽ面を出すな、手前(てめえ)は食客(いそうろう)だから主人(あるじ)が見てそれから後で見やアがれ」
甚「ウン、ナニ食客でも主人でも露顕(ろけん)をして縛られるのは同罪だよ」
○「そりゃア云わなくっても定(きま)ってるわ」
と云うので是から封印を切って、
○「何だか暗くって知れねえ」
甚「どれ見せや」
○「しッしッ」 

甚「兄い何を考(かんげ)えてるんだ」
○「何(ど)うも妙だなア、中に油紙(あぶらッかみ)があるぜ」
甚「ナニ、油紙がある、そりゃア模様物や友禅(ゆうぜん)の染物が入(へえ)ってるから雨が掛ってもいゝ様に手当がして有(ある)んだ」
○「敷紙が二重になってるぜ」
と云いながら、四方が油紙の掛って居る此方(こちら)の片隅を明けて楽みそうに手を入れると、グニャリ、
○「おや」
甚「何(なん)だ/\」
○「変だなア」
甚「何だえ」
○「ふん、どうも変だ」
甚「然(そ)う一人でぐず/\楽まずに些(ちっ)と見せやな」
○「エヽ黙ってろ、何だか坊主の天窓(あたま)みた様な物があるぞ」
甚「ウン、ナニ些とも驚く事(こた)アねえ、結構じゃアねえか」
○「何が結構だ」
甚「そりゃアおめえ踊(おどり)の衣裳だろう、御殿の狂言の衣裳の上に坊主の髢(かつら)が載ってるんだ、それをお前(めえ)が押えたんだアナ」
○「でも芝居で遣う坊主の髢はすべ/\してるが、此の坊主の髢はざら/\してるぜ」
甚「ナニざら/\してるならもじがふらと云うのがある、きっとそれだろう」
○「ウン然(そ)うか」
甚「だから己(おれ)に見せやと云うんだ」
○「でも坊主の天窓の有る道理はねえからなア、まア/\待ちねえ己が見るから」
とまた二度目に手を入れると今度はヒヤリ、
○「ウワ、ウワ、ウワ」
甚「おい何(な)んだ」
○「何(ど)うも変だよ冷てえ人間の面アみた様な物がある」
甚「ナニ些とも驚くこたアねえやア、二十五座の衣裳で面(めん)が這入(へえ)ってるんだ、そりゃア大変に価値(ねうち)のある物で、一個(ひとつ)でもって二百両ぐれえのがあるよ」
○「ウン、二十五座の面か」
甚「兄い、だから己に見せやと云うんだ」
と云われたから、今度は思い切って手を突込むとグシャリ、
○「ウワア」
と云うなり土間へ飛下りて無茶苦茶にしんばりを外して戸外(おもて)へ逃出しますから、
甚「オイ兄い、何処(どこ)へ行(ゆ)く、人に相談もしねえで、無暗(むやみ)に驚いて逃出しやアがる、此の金目(かねめ)のある物を知らずに」
と手を入れて見ると驚いたの驚かないの、
甚「ウアヽヽ」
と此奴(こいつ)も同じく戸外へ逃出しました。すると其の途端に上方者が目を覚して、
上「さアお鶴(つる)起(おき)んかえ時刻は宜(え)いがナ、起んか」
と云うとお鶴と云う女房が、
鶴「お止しよ眠いよ」
上「おい、これ、起んかえ」
鶴「お止しよ、酒を飲むと本当にひちっくどい、気色(きしょく)が悪いから厭(いや)だよ、些(ちっ)とお慎しみ」
上「何をいうのじゃ葛籠を」
鶴「葛籠、おや然(そ)う」
と慾張って居りますから直(す)ぐに目を覚して、
鶴「おや無いよ、葛籠が無いじゃアないか」
上「アヽ彼(あ)の水口が明いとるのは泥坊が這入ったのじゃ、お長屋の衆/\」
と呶鳴(どな)りますから、長屋の者は何事か分りませんが吊提燈(ぶらぢょうちん)を点(つ)けて出て参りますと、
上「貴方御存じか知りまへんが最前總助はんを頼んで引取りました葛籠を盗まれました、あの葛籠は妹(いもと)から預かって置いた大事の物で、盗賊に取られたのを漸(ようよ)う取り遂(おお)せたら又泥坊が這入って持って行(ゆ)きましたによって、同じお長屋の衆は掛(かゝ)り合(あい)で御座りますナア」
△「ナニ掛り合の訳は有りません、路次の締りは固いのだがねえ、でも源八(げんぱち)さん葛籠を取られたと云うのだがどうしましょう」
源「どうしましょうって彼奴(あいつ)は長屋の交際(つきあい)が悪くって、此方(こっち)から物を遣っても向(むこう)から返したこたア無いくらいだから、其様(そんな)に気を揉むこたア無いけれども、仕方がねえから大屋さんを起すが宜(い)い」
「アノ奥の一人者の内に食客が居るから、彼処(あすこ)へ行って彼(あ)の人に行って貰うが宜(よ)うございましょう」
△「じゃア連れて来ましょう」
と吊提燈を提げて奥へ行(ゆ)くと、戸袋の脇から真黒な面で目ばかりピカ/\光る奴が二人這出したから、
△「ウワアヽヽ何(なん)だこれおどかしちゃアいけない」
と云う中(うち)に、二人とも一生懸命で路次の戸を打砕(ぶちこわ)して逃出しました。
△「アヽ何(なん)だ、本当にモウ何(ど)うも胸を痛くした、こりゃア彼奴(あいつ)が泥坊だ、私は大きな犬が出たと思って恟(びっく)りした、あゝこれだ/\これだから一人者を置いてはならないと云うのだが、家主(いえぬし)が人が善(い)いから、追出すと意趣返しをすると云うので怖がって置くのだが宜(よ)くない、此処(こゝ)にちゃんと葛籠があるわ、上方者だと思って馬鹿にして図々しい奴だ、一つ長屋に居て斯(こ)んな事をするのは頭隠して尻隠さず、葛籠を置いて行くから直ぐに知れて仕舞うんだ、何か代物(しろもの)が残って居るかも知れねえから見てやろう、ウワアお長屋の衆」
と云うから驚いて外(ほか)の者が来て見ると、葛籠が有るから、
「おゝ彼処(あすこ)に葛籠がある、好(い)い塩梅(あんばい)だ、おや、中に、ウワア、お長屋の衆」
と来る奴も/\皆お長屋の衆と云う大騒ぎ。すると二つ長屋の事でございますから義理合(ぎりあい)に宗悦の娘お園が来て見ると恟(びっく)りして、
園「是は私のお父(とっ)さんの死骸|何(ど)うしたのでございましょう、昨日(きのう)家(うち)を出て帰りませんから心配して居りましたが」
△「イヤそれは何(ど)うもとんだ事」
というので是から訴えになりましたが、葛籠に記号(しるし)も無い事でございますから頓(とん)と何者の仕業(しわざ)とも知れず、大屋さんが親切に世話を致しまして、谷中(やなか)日暮里(にっぽり)の青雲寺(せいうんじ)へ野辺送りを致しました。これが怪談の発端でござります。 

引続きまして申上げまする。深見新左衞門が宗悦を殺しました事は誰(たれ)有って知る者はござりません。葛籠に記号(しるし)もござりませんから、只つまらないのは盲人宗悦で、娘二人はいかにも愁傷致しまして泣いて居る様子が憫然(ふびん)だと云って、長屋の者が親切に世話を致します混雑の紛れに逃げました賭博打(ばくちうち)二人は、遂に足が付きまして直(すぐ)に縄に掛って引かれまして御町(おまち)の調べになり、賭博兇状(ばくちきょうじょう)と強迫兇状(ゆすりきょうじょう)がありました故其の者は二人とも佃島(つくだじま)へ徒刑になりました。上方者は自分の物だと言って他人の物を引入れました廉(かど)は重罪でございますけれども格別のお慈悲を以て所払いを仰せ付けられまして其の一件(こと)は相済みましたが、深見新左衞門の奥方は、あゝ宗悦は憫然(かわいそう)な事をした、何(ど)うも実に情ないお殿様がお手打に遊ばさないでも宜(よ)いものを、別に怨(うらみ)がある訳でもないに、御酒の上とは云いながら気の毒な事をしたと絶えず奥方が思います処から、所謂(いわゆる)只今申す神経病で、何となく塞いで少しも気が機(はず)みません事でございます。翌年になりまして安永三年二月あたりから奥方がぶら/\塩梅が悪くなり、乳が出なくなりましたから、門番の勘藏(かんぞう)がとって二歳(ふたつ)になる新吉(しんきち)様と云う御次男を自分の懐へ入れて前町(まえまち)へ乳を貰いに往(ゆ)きます。と云うものは乳母を置く程の手当がない程に窮して居るお屋敷、手が足りないからと云うので、市ヶ谷に一刀流の剣術の先生がありまして、後(のち)に仙台侯の御抱(おかゝ)えになりました黒坂一齋(くろさかいっさい)と云う先生の処に、内弟子に参って居(お)る惣領(そうりょう)の新五郎(しんごろう)と云う者を家(うち)へ呼寄せて、病人の撫擦(なでさす)りをさせたり、或(あるい)は薬其の外(ほか)の手当もさせまする。其の頃新五郎は年は十九歳でございますが、よく母の枕辺(まくらべ)に附添って親切に看病を致しますなれども、小児(こども)はあり手が足りません。殿様はやっぱり相変らず寝酒を飲んで、奥方が呻(うな)ると、
新「そうヒイ/\呻ってはいけません」
などと酔った紛れにわからんことを仰しゃる。手少なで困ると云って、中働(なかばたらき)の女を置きました。是は深川(ふかゞわ)網打場(あみうちば)の者でお熊(くま)と云う、年二十九歳で、美女(よいおんな)ではないが、色の白いぽっちゃりした少し丸形(まるがたち)のまことに気の利いた、苦労人の果(はて)と見え、万事届きます。殿様の御酒の相手をすれば、
新「熊が酌をすれば旨い」
などと酔った紛れに冗談を仰しゃると、此方(こちら)はなか/\それ者(しゃ)の果と見えてとう/\殿様にしなだれ寄りましてお手が付く。表向(おもてむき)届けは出来ませんがお妾と成って居る。するともと/\狡猾な女でございますから、奥方の纔訴(ざんそ)を致し、又若様の纔訴を致すので、何となく斯(こ)う家がもめます。いくら言っても殿様はお熊にまかれて、煩(わずら)って居る奥様を非道な事をしてぶち打擲(ちょうちゃく)を致します。もう十九にもなる若様をも煙管(きせる)を持って打(ぶ)つ様な事でございますから、
新五郎「あゝ親父(おやじ)は愚(ぐ)な者である、こんな処にいては迚(とて)も出世は出来ぬ」
と若気の至りで新五郎と云う惣領の若様はふいと家出を致しますると、お熊はもう此の上は奥様さえ死ねば自分が十分|此処(こゝ)の奥様になれると思い、
熊「わたしは何(ど)うも懐妊した様でございます、四月から見るものを見ませぬ酸(す)ッぱい物が食べたい」
何(なん)のと云うから殿様は猶更(なおさら)でれすけにおなり遊ばします。追々其の年も冬になりまして、十一月十二月となりますと、奥様の御病気が漸々(だん/\)悪くなり、その上寒さになりましてからキヤ/\さしこみが起り、またお熊は、漸々お腹が大きくなって身体が思う様にきゝませんと云って、勝手に寝てばかり居るので、殿様は奥方に薬一服も煎(せん)じて飲ませません。只勘藏ばかりあてにして、
新「これ/\勘藏」
勘「ヘエ、殿様貴方御酒ばかり召上って居て何(ど)うも困りますなア奥様は御不快で余程御様子が悪いし、殊(こと)には又お熊|様(さん)はあゝやって懐妊だからごろ/″\して居り、折々(おり/\)奥様は差込むと仰しゃるから、少しは手伝って頂きませんじゃア、手が足りません、私(わたくし)は若様のお乳を貰いに往(い)くにも困ります」
新「困っても仕方がない、何か、さしこみには近辺の鍼医(はりい)を呼べ、鍼医を」
と云うと、丁度|戸外(おもて)にピー、と按摩(あんま)の笛、
新「おゝ/\丁度按摩が通るようだ、素人(しろうと)療治ではいかんから彼(あ)れを呼べ/\」
勘「ヘエ」
と按摩を呼入れて見ると、怪し気(げ)なる黒の羽織を着て、
按摩「宜(よろ)しゅう私(わたくし)が鍼をいたしましょう、鍼はお癪気(しゃくき)には宜しゅうございます」
というので鍼を致しますと、
奥方「誠に好(よ)い心持に治まりがついたから何卒(どうぞ)明日(あす)の晩も来て呉れ」
と戸外を通る揉療治ではありますが、一時凌(いっときしの)ぎに其の後(のち)五日ばかり続いて参ります。すると一番しまいの日に一本打ちました鍼が、何(ど)う云うことかひどく痛いことでございましたが、是は鍼に動ずると云うので、
奥方「あゝ痛(いた)、アいたタ」
按摩「大層お痛みでございますか」
奥方「はいあゝ甚(ひど)く痛い、今迄|斯(こ)んなに痛いと思った事は無かったが、誠に此の鳩尾(みずおち)の所に打たれたのが立割られたようで」
按摩「ナニそれはお動じでございます、鍼が験(きゝ)ましたのでございますから御心配はございません、イエまア又明晩も参りましょうか」
奥方「はい、もう二三日鍼は止(や)めましょう、鍼はひどく痛いから」
按摩「直(じ)き癒(なお)ります、鍼が折れ込んだ訳でもないので、少しお動じですからナ、左様なら御機嫌よろしゅう」
と僅(わずか)の療治代を貰って帰りました。すると奥方は鍼を致した鳩尾の所が段々痛み出し、遂には爛(ただ)れて鍼を打った口からジク/\と水が出るようで、猶更(なおさら)苦しみが増します。 

新左衞門様は立腹して、
新「どうも怪(け)しからん鍼医だ、鍼を打ってその穴から水が出るなんという事は無い訳で、堀抜井戸(ほりぬきいど)じゃア有るまいし、痴呆(たわけ)た話だ、全体|何(ど)う云うものかあれ限(ぎ)り来ませんナ」
勘「奥方がもう来ないで宜(よ)いと仰しゃいましたから」
新「間(ま)が悪いから来ないに違いない、不埓至極な奴だ、今夜でも見たら呼べ」
と云われたから待って居りましたが、それぎり鍼医は参りません。すると十二月の二十日の夜(よ)に、ピイー/\、と戸外(おもて)を通ります。
新「アヽあれ/\笛が聞える、あれを呼べ、勘藏呼んで来い」
勘「ハイ」
と駈出して按摩の手を取って連れて来て見ると、前の按摩とは違い、年をとって痩(やせ)こけた按摩。
新「何(なん)だこれじゃア有るまい、勘藏違って居(お)るぞ」
按摩「ヘエお療治を致しますか」
新「何だ汝(てまえ)ではなかった、違った」
按摩「左様で、それはお生憎(あいにく)様でございますが何卒(どうぞ)お療治を」
新「これ/\貴様鍼をいたすか」
按摩「私(わたくし)は俄盲人(にわかめくら)でございまして鍼は出来ません」
新「じゃア致方(いたしかた)が無い、按腹(あんぷく)は」
按摩「療治も馴れません事で中々上手に揉みます事は出来ませんが、丈夫な方ならば少しは揉めます」
新「何の事だ病人を揉む事はいかぬか、それは何にもならぬナ、でも呼んだものだから、勘藏、これ、何処(どこ)へ行って居るかナ、じゃア、まア折角呼んだものだからおれの肩を少し揉め」
按摩「ヘエ誠に馴れませんから、何処が悪いと仰しゃって下さい、経絡(けいらく)が分りませんから、こゝを揉めと仰しゃれば揉みます」
と後(うしろ)へ廻って探り療治を致しまするうち、奥方が側に居て、
奥方「アヽ痛(いた)、アヽ痛」
新「そう何(ど)うもヒイ/\云っては困りますね、お前我慢が出来ませんか、武士の家に生れた者にも似合わぬ、痛い/\と云って我慢が出来ませんか、ウン/\然(そ)う悶えては却(かえ)って病に負けるから我慢して居なさい、アヽ痛、これ/\按摩待て、少し待て、アヽ痛い、成程|此奴(こいつ)は何うもひどい下手だナ、汝(てまえ)は、エヽ骨の上などを揉む奴が有るものか、少しは考えて遣(や)れ、酷(ひど)く痛いワ、アヽ痛い堪(たま)らなく痛かった」
按摩「ヘエお痛みでござりますか、痛いと仰しゃるがまだ/\中々|斯(こ)んな事ではございませんからナ」
新「何を、こんな事でないとは、是より痛くっては堪らん、筋骨に響く程痛かった」
按摩「どうして貴方、まだ手の先で揉むのでございますから、痛いと云ってもたかが知れておりますが、貴方のお脇差でこの左の肩から乳の処まで斯(こ)う斬下げられました時の苦しみはこんな事では有りませんからナ」
新「エ、ナニ」
と振返って見ると、先年手打にした盲人(もうじん)宗悦が、骨と皮|許(ばか)りに痩せた手を膝にして、恨めしそうに見えぬ眼を斑(まだら)に開いて、斯う乗出した時は、深見新左衞門は酒の酔(えい)も醒(さ)め、ゾッと総毛だって、怖い紛れに側にあった一刀をとって、
新「己(おの)れ参ったか」
と力に任(まか)して斬りつけると、
按摩「アッ」
と云うその声に驚きまして、門番の勘藏が駈出して来て見ると、宗悦と思いの外(ほか)奥方の肩先深く斬りつけましたから、奥方は七転八倒の苦しみ、
新「ア、彼(あ)の按摩は」
と見るともう按摩の影はありません。
新「宗悦め執(しゅう)ねくもこれへ化けて参ったなと思って、思わず知らず斬りましたが、奥方だったか」
奥「あゝ誰(たれ)を怨(うら)みましょう、私(わたくし)は宗悦に殺されるだろうと思って居りましたが、貴方御酒をお廃(や)めなさいませんと遂には家が潰れます」
と一二度虚空をつかんで苦しみましたが、奥方はそのまゝ息は絶えましたから如何(いかん)とも致し方がございませんが、この事は表向にも出来ません。殊(こと)には年末(くれ)の事でございますから、これから頭(かしら)の宅へ内々参ってだん/″\歎願をいたしまして、極(ごく)内分(ないぶん)の沙汰にして病死のつもりにいたしました。昔は能(よ)く変死が有っても屏風(びょうぶ)を立てゝ置いて、お頭が来て屏風の外(そと)で「遺言を」なんどゝ申しますが、もう当人は夙(とっく)に死んでいるから遺言も何も有りようはずはございません。この伝で病気にして置くことも徃々(おうおう)有りましたから、病死の体(てい)にいたして漸(ようや)くの事で野辺送りをいたしました。流石(さすが)の新左衞門も此の一事には大(おお)きに閉口いたして居りました。すると其の年も明けまして、一陽来復(いちようらいふく)、春を迎えましても、まことに屋敷は陰々(いん/\)といたして居りますが、別にお話もなく、夏も行(ゆ)き秋も過ぎて、冬のとりつきになりました。すると本所(ほんじょ)北割下水(きたわりげすい)に、座光寺源三郎(ざこうじげんざぶろう)と云う旗下が有って、これが女太夫(おんなだゆう)のおこよと云う者を見初(みそ)め、浅草|竜泉寺(りゅうせんじ)前の梶井主膳(かじいしゅぜん)と云う売卜者(うらないしゃ)を頼み、其の家を里方にいたして奥方に入れた事が露見して、御不審がかゝり、家来共も召捕(めしとり)吟味中、深見新左衞門、諏訪部三十郎(すわべさんじゅうろう)と云う旗下の両家は宅番を仰せつけられたから、隔番(かくばん)の勤めでございます。すると十一月の二十日の晩には、深見新左衞門は自分は出ぬ事になりましたから、
新「熊や今晩は一杯飲んでらく/\休める」
と云うので御酒を召上ったが、少し飲過ぎて心持がわるいと小用場(こようば)へ徃(い)ってから、
新「水を持て、嗽(うがい)をしなければならん」
と云うので手水鉢(ちょうずばち)のそばで手を洗って居りますると、庭の植込(うえごみ)の処に、はっきりとは見えませんが、頬骨の尖(とが)った小鼻の落ちました、眼の所がポコンと凹(くぼ)んだ頬(これ)から頤(これ)へ胡麻塩交(ごましおまじり)の髯(ひげ)が生えて、頭はまだらに禿(は)げている痩せかれた坊主が、
坊「殿様/\」
と云う。
新「エヽ」
と見るやいなや其の儘トン/\/\/\と奥へ駈込んで来て、刀掛に有った一刀を引抜いて、
新「狸の所為(しわざ)か」
と斬りつけますと、パッと立ちます一団の陰火が、髣髴(ほうふつ)として生垣(いけがき)を越えて隣の諏訪部三十郎様のお屋敷へ落ちました。 

新左衞門はハテ狐狸(こり)の所為かと思いました。すると其の翌日から諏訪部三十郎様が御病気で、何をしてもお勤(つとめ)が出来ませんから、二人して勤めべき所、お一方(ひとかた)が病気故、新左衞門お一方で座光寺源三郎の屋敷へ宅番に附いて居ると、或夜(あるよ)彼(か)の梶井主膳と云う者が同類を集めて駕籠を釣らせ、抜身(ぬきみ)の鎗(やり)で押寄せて、おこよ、源三郎を連れて行(ゆ)こうと致しますから深見新左衞門は役柄で捨置かれず、直(すぐ)に一刀を取って斬掛けましたが、多勢に無勢(むぜい)で、とう/\深見を突殺し、おこよ源三郎を引(ひき)さらって遠く逃げられました故、深見新左衞門は情(なさけ)なくも売卜者の為に殺されてお屋敷は改易(かいえき)でございます。諏訪部三十郎は病気で御出役が無かったのだが公辺(こうへん)のお首尾が悪く、百日の間閉門|仰付(おおせつ)けられますると云う騒ぎ、座光寺源三郎は勿論深見の家も改易に相成りまして、致し方がないから産落(うみおと)した女の児(こ)を連れて、お熊は深川の網打場へ引込(ひきこ)み、門番の勘藏は新左衞門の若様新吉と云うのを抱いて、自分の知己(しるべ)の者が大門町(だいもんちょう)にございますから、それへ参って若様に貰い乳をして育てゝ居るという情ない成行(なりゆき)、此の通り無茶苦茶に屋敷の潰れた跡へ、帰って来たのは新五郎と云う惣領でございますが、是は下総の三右衞門の処へ参って少しの間厄介に成って居りましたが、素(もと)より若気の余りに家を飛出したので淋しい田舎には中々居られないから、故郷|忘(ぼう)じがたく詫言(わびごと)をして帰ろうと江戸へ参って自分の屋敷へ来て見ると、改易と聞いて途方に暮れ、爰(こゝ)と云う縁類(えんるい)も無いから何(ど)うしたらよかろうと菩提所(ぼだいしょ)へ行って聞くと、親父は突殺され、母親は親父が斬殺(きりころ)したと聞きまして少しのぼせたものか、
新五「これは怪(け)しからん事、何たる因果因縁か屋敷は改易になり、両親は非業の死を遂げ、今更世間の人に顔を見られるも恥かしい、もう迚(とて)も武家奉公も出来ぬから寧(いっ)そ切腹致そう」
と、青松院(せいしょういん)の墓所(はかしょ)で腹を切ろうとする処へ、墓参りに来たのは、谷中(やなか)七面前(しちめんまえ)の下總屋惣兵衞(しもふさやそうべえ)と云う質屋の主人(あるじ)で、これを見ると驚いて刄物をもぎとって何(ど)う云う次第と聞くと、
新五「これ/\の訳」
というから、
惣「それなら何も心配なさるな、若い者が死ぬなんと云う心得違いをしてはいけぬ、無分別な事、独身(ひとりみ)なれば何(ど)うでもなりますから私の家(うち)へ入らっしゃい」
と親切に労(いた)わって家(うち)へ連れて来て見ると、人柄もよし、年二十一歳で手も書け算盤(そろばん)も出来るから質店(しちみせ)へ置いて使って見るとじつめいで応対が本当なり、苦労した果(はて)で柔和で人交際(ひとづきあい)がよいから、
甲「あなたの処(とこ)では良い若い者を置当てなすった」
惣「いゝえ彼(あれ)は少し訳があって」
と云って、内の奉公人にもその実(じつ)を言わず、
惣「少し身寄から頼まれたのだと云ってあるから、あなたも本名を明してはなりません」
と云うので、誠に親切な人だから、新五郎もこゝに厄介になって居ると、この家(うち)にお園という中働(なかばたらき)の女中が居ります。これは宗悦の妹娘で、三年あとから奉公して、誠に真実に能く働きますから、主人の気に入られて居る。併(しか)し新五郎とは、敵(かたき)同士が此処(こゝ)へ寄合ったので有りますが、互にそういう事とは知りません。
園「新どん」
新「お園どん」
と呼合いまする。新五郎は二十一歳で、誠に何(ど)うも水の出端(でばな)でございます。又お園は柔和な好(よ)い女、
新「あゝいう女を女房に持ちたい」
と思うと何(ど)ういう因果因縁か、新五郎がお園に死ぬほど惚れたので、お園の事というと、能く気を付けて手伝って親切にするから、男振(おとこぶり)は好(よ)し応対も上手、其の上柔和で主人に気に入られて居るから、お園はあゝ優しい人だと、新どんに惚れそうなものだが、敵同士とはいいながら虫が知らせるか、お園は新五郎に側へ来られると身毛立(みのけだ)つほど厭に思うが、それを知らずに、新五郎は無暗(むやみ)に親切を尽しても、片方(かた/\)は碌(ろく)に口もききません。主人もその様子を見て、
惣「お園はまことに希代(きたい)だ、あれは感心な堅い娘だ、あれは女中のうちでも違って居る、姉は何だか、稽古の師匠で豐志賀(とよしが)というが、姉妹(きょうだい)とも堅い気象で、あの新五郎は頻(しき)りとお園に優しくするようだが」
と気は附いたけれども、なに両人(ふたり)とも堅いから大丈夫と思って居りまするくらいで、なか/\新五郎はお園の側へ寄付(よりつ)く事も出来ませんが、ふとお園が感冐(ひきかぜ)の様子で寝ました。すると新五郎は寝ずにお園の看病をいたします。薬を取りに行ったついでに氷砂糖を買って来たり、葛湯(くずゆ)をしてくれたり、蜜柑(みかん)を買って来る、九年母(くねんぼ)を買って来たりしてやります。主人も心配いたして、
惣「おきわ」
きわ「はい」
惣「お園は何も大した病気でもないから宿へ下げる程でもなし、あれも長く勤めておることだから、少しの病気なれば、医者は此方(こっち)で、山田さんが不都合なら、幸庵(こうあん)さんを頼んでもいゝが、何(なん)だね、誠にその、看病人が無くって困るね」 

きわ「私(わたくし)が折(おり)に園の部屋へ見舞に参りますと、直ぐ布団の上へ起きなおりまして、もうなに大(おお)きに宜しゅうございますなどゝ云って、まことに快(よ)い振(ふり)をして居るから、お前無理をしてはいけないから寝ておいでと申しましても、心配家(しんぱいか)でございますから私も誠に案じられます」
惣「そりゃア誠に困ったものだ、誰(たれ)か看病人が無ければならん、成程|己(おれ)も時に行って見ると、ひょいと跳起(はねお)きるが、あれでは却(かえ)ってぶり返すといかんから看病人に姉でも呼ぼうか」
きわ「でも仕合せに新五郎が参っては寝ずに感心に看病致します、あれは誠に感心な男で、店がひけると薬を煎じたり何か買いに行ったり、何も彼(か)も一人で致します」
惣「なに新五郎がお園の部屋へ這入ると、それはいかん、それは女部屋のことはお前が気を附けて小言を云わなければなりません、それは何事も有りはしまいが」
きわ「有りはしまいたって新五郎はあの通りの堅人(かたじん)ですし、お園も変人ですから、変人同士で大丈夫何事もありはしません」
惣「それはいかん、猫に鰹節で、何事がなくっても、店の者や出入(でいり)の者がおかしく噂でも立てると店の為にならぬから、きっと小言を云わんければならぬ」
きわ「それじゃア女中部屋へ出入を止(と)めます」
と云って居る所へ、何事も存じません新五郎が帰って来て、
新「ヘエ只今帰りました」
惣「何処(どこ)へ往った」
新「番頭さんがそう仰しゃいますから、上野町(うえのまち)の越後屋(えちごや)さんの久七(きゅうしち)どんに流れの相談を致しまして、帰りにお薬を取って参りましたが、山田さんがそう仰しゃるには、お園さんは大分|好(よ)い塩梅だが、まだ中々大事にしなければならん、どうも少し傷寒(しょうかん)の性(たち)だから大事にするようにと仰しゃって、今日はお加減が違いましたからこれから煎じます」
惣「お前が看病致しますか」
新「ヘエ」
惣「お前の事だから何事もありますまいがネけれどもその、お前もそれ廿一、ね、お園は十九だ、お互に堅いから何事も無かろうが、一体|男女(なんにょ)の道はそういうものでない、私の家(うち)は極(ご)く堅い家であったけれども、やっぱりこれにナ許嫁(いいなずけ)が有ったが、私がつい何して、貰うような事で」
きわ「何を仰しゃる」
惣「だから堅いが堅いに立たぬのは男女の間柄、何事もありはしまいが、店の若い者がおかしく嫉妬(やきもち)をいうとか、出入の者がいやに難癖を附けるとか、却って店の示しにならぬからよろしくないいかにも取締りが悪い様だからそれだけはナ」
新「ヘエ薩張(さっぱり)心付きませんかったが、店の者が女部屋へ這入っては悪うございますか、もうこれからは決して構いませんように心づけます、決して構いません」
惣「決して構わんでは困ります、看病人が無いから決して構わんと云ってはお園が憫然(かわいそう)だから、それはね、ま構ってもいゝがね、少しそこを何(ど)うか構わぬ様に」
何だか一向分りませんが少しは構ってもよいという題が出ましたから、新五郎は悦びながら女部屋へ往って、
新「お園どん山田様へいってお薬を戴いてきたが、今日はお加減が違ったから、生姜(しょうが)を買ってくるのを忘れたが今|直(じき)に買って来て煎じますが、水も只では悪いから氷砂糖を煎じて水で冷して上げよう、蜜柑も二つ買って来たが雲州(うんしゅう)のいゝのだからむいて上げよう、袋をたべてはいけないから只|露(つゆ)を吸って吐出(はきだ)しておしまい、筋をとって食べられるようにするから」
園「有難う、新どん後生(ごしょう)だから女部屋へ来ないようにしておくんなさい、今もおかみさんと旦那様とのお話もよく聞えましたが、店の者が女部屋へ這入ってきては世間体が悪いと云っておいでだから、誠に思召(おぼしめし)は有難いが、後生だから来ないようにして下さい」
新「だから私が来ないようにしよう構わぬと云ったら、旦那が来なくっちゃア困る、お前さんが憫然(かわいそう)だから構ってやってくれと仰しゃったくらい、人は何といっても訝(おか)しい事がなければ宜しいから、今薬を煎じて上(あげ)るから心配しないで、心配すると病気に障るからね」
園「あゝだもの新どんには本当に困るよ、厭だと思うのにつか/\這入って来てやれこれ彼様(あんな)に親切にしてくれるが、どういう訳かぞっとするほど厭だが、何(ど)うしてあの人が厭なのか、気の毒な様だ」
と種々(いろ/\)心に思って居ると、杉戸(すぎど)を明けて、
新「お園どんお薬が出来たからお飲みなさい、余(あんま)り冷(さま)すときかないから、丁度飲加減を持って来たが、後(あと)は二番を」
園「新どん、お願いだから彼方(あっち)へ行って下さいな、病気に障りますから」
新「ヘエ左様でげすか」
と締めて立って行(ゆ)く。
園「どうも、来てはいけないと云うのに態(わざ)と来るように思われる、何だか訝(おか)しい変な人だ」
と思って居ると、がらり、
新「お園どんお粥が出来たからね、是は大変に好(い)いでんぶを買って来たから食べてごらん、一寸(ちょっと)いゝよ」
園「まア新どんお粥は私一人で煮られますから彼方(あっち)へ行って下さいよ、却って心配で病気に障るから」
新「じゃア用があったらお呼びよ」
園「あゝ」
というので拠(よんどころ)なく出て行くかと思うと又来て、
新「お園どん/\」
とのべつに這入って来る。すると俗に申す一に看病二に薬で、新五郎の丹精が届きましたか、追々お園の病気も全快して、もう行燈(あんどん)の影で夜なべ仕事が出来るようになりました。丁度十一月十五日のことで、常にないこと、新五郎が何処(どこ)で御馳走になったか真赤に酔って帰りますると、もう店は退(ひ)けてしまった後(あと)で、何となく極りが悪いからそっと台所へ来て、大きい茶碗で瓶(かめ)の水を汲んで二三杯飲んで酔(えい)をさまし、見ると、奥もしんとして退けた様子、女部屋へ来て明けて見ると、お園が一人行燈の下(もと)で仕事をしているから、
新「お園どん」
園「あらまア、新どん、何か御用」 

新「ナニ、今日はね、あの伊勢茂(いせも)さんへ、番頭さんに言付けられてお使にいったら、伊勢茂の番頭さんは誠に親切な人で、お前は酒を飲まないから味淋(みりん)がいゝ、丁度|流山(ながれやま)ので甘いからお飲(あが)りでないかと云われて、つい口当りがいゝから飲過ぎて、大層酔って間(ま)がわるいから、店へ知れては困りますが、真赤になって居るかえ」
園「大変赤くなって居ます。アノお店も退け奥も退けましたから、女部屋へお店の者が這入っては、悪うございますから早くお店へ行ってお寝(やす)みなさい」
新「エヽ寝ますが、まア一服呑みましょう」
園「早くお店へ行って下さいよ」
新「今行きますが一服やります」
と真鍮(しんちゅう)の潰れた煙管(きせる)を出して行燈の戸を上げて火をつけようと思うが、酔って居て手が慄(ふる)えておりますから灯(ひ)が消えそう、
園「消してはいけませんよ、彼方(あっち)へ行ってお呉んなさい」
新「ハイ行きますよ、なに火が附きました、時にお園どん、お前の病気は大変に案じたが、本当にこう早く癒(なお)ろうとは思わなかった、山田さんも丹精なすったし私も心配致しましたが、実に有難い、私は一生懸命に池(いけ)の端(はた)の弁天様へ願掛(がんが)けをしました」
園「有難うございます、お前さんのお蔭で助かりました、もうお店が退けましたから早くお出でよ、新どん」
新「行きますよ、此の間ね、お前さんの姉様(あねさん)豊志賀さんが来てね、たった一人の妹でございますから大事に思うが、こんな稼業(しょうばい)をして居り、家(うち)も離れているから看病も届きませんでしたが、お前さんが丹精して下すって本当に有難い、その御親切は忘れません、お前さんの様な優しい人を園の亭主に持(もた)し度(た)いと思いますとこう云ってね、お前の姉(あね)さんが、流石(さすが)は芸人だけあって様子のいゝ事を云うと思ったが、余程(よっぽど)嬉しかったよ」
園「いけませんネ、奥も先刻(さっき)お退けになりましたからお店へお出でなさいよ」
新「行きますよ、お園どん誠に私は本当に案じたがね」
園「有難うござますよ」
新「弁天様へ一生懸命に二十一日の間私が精進して山田様も本当に親切にしてくれたがね、私は真赤に酔っていますか」
園「真赤でございますよ、彼方(あっち)へお出でなさいよ」
新「そんなに追出さんでもいゝやね、お園どん、伊勢茂の番頭さんが、流山の滅法よい味淋をお前にと云うので私は口当りがいゝから恐ろしく酔った、私はこんなに酔った事は初めてゞ私の顔は真赤でしょう」
園「真赤ですよ、先刻(さっき)お店も退けましたから早くお出でなさいよ」
新「そんなに追出さなくてもいゝやね、お園どん/\」
園「何(なん)ですよ」
新「だがお園どん、本当にお前さんは大病で、随分私は大変案じて一時(ひとっきり)は六ヶ(むずか)しかったから、私は夜も寝なかったよ」
園「有難うございますが、そんなに恩にかけると折角の御親切も水の泡になりますから、余(あんま)り諄(くど)く仰しゃると、その位なら世話をして下さらんければいゝにと済まないが思いますよ」
新「そう思っても私の方で勝手にしたのだからいゝが、ねえお園どん/\」
園「何ですよ」
新「私の心持はお前さん些(ちっ)とも分らぬのだね、お園どん、本当に私は間が悪いけれどもね、お前さんに私は本当に惚れて居ますよ」
園「アラ、嫌(いや)な、あんな事をいうのだもの、お内儀(かみさん)に言告(いッつけ)ますよ」
新「言告るたって……そんなことを云うもんじゃアない、お前は私が来ると出て行け/\と、泥坊猫みた様に追出すから、迚(とて)もどう想ってもむだだとは思うが、寝ても覚めてもお前の事は忘れられないが、もう是からは因果と思ってふッつり女部屋へは来ませんが、けれども私を憫然(かわいそう)と思って、一晩お前の床の中へ寝かしておくんなさいよ、エお園どん」
園「アラ厭(いや)なネ、私とお前さんと寝れば、人が色だと申します」
新「イヽエ私もそれが知れゝば失敗(しくじ)って此家(こゝ)には居られないから、唯|一寸(ちょっと)並んで寝るだけ、肌を一寸|触(ふれ)てすうっと出ればそれで断念(あきら)める、唯ごろッと寝て直ぐに出て行(ゆ)くから」
園「そんな事を云ってごろりと寝て直ぐに出て行(い)くったって、仕様がないねえ、行って下さいよ」
新「そんな事を云わずに」
園「いやだよ、新どん」
新「お願いだから」
園「お願いだって」
新「ごろり一寸寝るばかりだ、永らく寝る目も寝ずに看病したろうじゃアないか、其の義理にも一寸枕を並べて、直ぐに出て行(ゆ)くから」
園「仕様がございませんね」
と云うが、永らく看病してくれた義理があってみれば無下(むげ)に振払う事も出来ず、
園「新どん唯一寸寝る許(ばか)りにしておくんなさいよ」
新「アヽ一寸一度寝るばかりでも結構、半分でもよろしい」
と云うのでお園の床へ這入りますると、お園は厭だからぐるりと脊中を向けて固くなっているから、此方(こっち)も床へ這入りは這入ったが、ぎこちなくって布団の外へはみ出す様、お園はウンともスンとも云わないから、何(なん)だか極りが悪いので酔(えい)も醒(さめ)て来て、
新「お園どん、誠に有難う、お前がそんなに厭がるものを無理無体に私がこんな事をして済まないが、其の代り人には決して云わない、私は是程惚れたからお前の肌に触れ一寸でも並んで寝れば私の想いも届いたのだから宜しいが、此家(こゝ)に居ては面目(めんぼく)なくて顔が合せられず、又顔を合せては猶更(なおさら)忘れられないし、こんな心では御恩を受けた旦那様にも済まないから、私は此家を今夜にも明日(あす)にも出てしまって、私の行方(ゆくえ)が知れなくなったら、私の出た日を命日と思って下され、もう私は思い遺(のこ)す事もないから死(しん)でしまいます」
とすうッと出に掛る。口説(くどき)上手のどんづまりは大抵死ぬと云うから、今新五郎は死ぬと云ったら、まア新どんお待ちと来るかと思うと、お園は死ぬ程新五郎が厭だから何とも申しませんで、猶|小衾(かいまき)を額の上までずうッと揺(ゆす)り上げて被(かぶ)ったなり口もきゝませんから、新五郎は手持無沙汰にお園の部屋を出ましたが、是が因果の始(はじま)りで、猶更お園に念がかゝり、敵(かたき)同士とは知らずして、遂に又お園に恋慕(れんぼ)を云いかけまするという怪談のお話、一寸|一息(ひといき)吐(つ)きまして、 
 

 

十一
深見新五郎がお園に惚れまするは物の因果で、敵同士の因縁という事は仏教の方では御出家様が御説教をなさるが、どういう訳か因縁と云うと大概の事は諦めがつきます。
甲「どうしてあの人はあんな死様(しにざま)をしただろうか」
乙「因縁でげすね」
甲「あの人はどうしてあア夫婦中がいゝか知らん、あの不器量だが」
乙「あれはナニ因縁だね」
甲「なぜかあの人はあアいう酷(ひど)い事をしても仕出したねえ」
乙「因縁が善(い)いのだ」
と大概は皆因縁に押附(おっつ)けて、善いも悪いも因縁として諦めをつけますが、其の因縁が有るので幽霊というものが出て来ます。その眼に見えない処を仏教では説尽(ときつく)してございまするそうで、外国には幽霊は無いかと存じて居りました処が、先達(せんだっ)て私(わたくし)の宅へさる外国人が婦人と通弁が附いて三人でお出(いで)になりまして、それは粋(いき)な外国人で、靴を穿いて来ましたが、其の靴をぬいで隠(かくし)から帛紗(ふくさ)を取出しましたから何(なん)の風呂敷包かと思いますと、其の中から上靴を出してはきまして、畳の上へ其の上靴で坐布団の上へ横ッ倒しに坐りまして、
外「お前の家(うち)に百|幅(ぷく)幽霊の掛物があるという事で疾(とく)より見たいと思って居たが、何卒(どうぞ)見せて下さい」
という事。是は私(わたくし)がふと怪談会と云う事を致した時に、諸先生方が画(か)いて下すった百幅の幽霊の軸がございますから、是を御覧に入れますと、外国人の事でございますから、一々是は何(なん)という名で何という人が画いたのかと云う事を、通弁に聞いて手帖に写し、是(こ)れは巧(うま)い、彼(あ)れは拙(まず)いと評します所を見ると、中々眼の利いたもので、丁度其の中で眼に着きましたのは菊池容齋(きくちようさい)先生と柴田是眞(しばたぜしん)先生の画いたので、是は別して賞(ほ)められました。そのあとで茶を点(い)れて四方八方(よもやま)の話から、幽霊の有無(ありなし)の話をしましたが、
外「私は日本の語にうといから通弁から聞いて呉れ」
と云う。私(わたくし)も洋語は知りませんから通弁さんに聞くと、通弁さんの云うに、
通「お前の宅(うち)にこれだけの幽霊の掛物を聚(あつ)めるには、幽霊というものが有るか無いかを確(しか)と知っての上でかように聚めたのでございましょう」
と云う問(とい)でございました。所が有るか無いかと外国人に尋ねられて、私(わたくし)も当惑して、早速に答も出来ませんから、
圓「日本の国には昔から有るとのみ存じていますから、日本人には有るようで、貴方のお国には無いと云うことが学問上決して居るそうですから無いので、詰り無い人には無い有る人には有るのでございましょう」
と、仕方なしに答えましたが、此の答は固(もと)よりよろしくない様でございますが、何分無いとも有るとも定めはつきません。先達(せんだって)ある博識(ものしり)先生に聞きますと
「幽霊は有るに違い無い、現在僕は蛇の幽霊を見たよ」
と仰しゃるから、
圓「どういう訳か」
と聞くと、蛇を壜(びん)の中へ入れてアルコールをつぎ込むと、蛇は苦しがって、出よう/\と思って口の所へ頭を上げて来るところを、グッとコロップを詰めると、出ようと云う念をぴったりおさえてしまう。アルコール漬だから形は残って居ても息は絶えて死んで居るのだが、それを二年|許(ばか)り経って壜の口をポンと抜いたら、中から蛇がずうッと飛出して、栓を抜いた方の手頸(てくび)へ喰付いたから、ハッと思うと蛇の形は水になって、ダラ/\と落(おち)て消えたが、是は蛇の幽霊と云うものじゃ。と仰しゃりました。併(しか)し博識(ものしり)の仰しゃる事には、随分|拵事(こしらえごと)も有って、尽(こと/″\)く当(あて)にはなりませんが、出よう/\と云う気を止めて置きますと、其の気というものが早晩(いつか)屹度(きっと)出るというお話、又お寺様で聞いて見ますると気息(いき)が絶えて後(のち)形は無いが、霊魂と云うものは何処(どこ)へ行(ゆ)くか分らぬと申すこと、天国へ行(ゆ)くとか地獄極楽とか云う説はあっても、まだ地獄から郵便の届いた試しもなし、又極楽の写真を見た事もございませんから当にはなりませんが、併し悪い事をすると怨念(おんねん)が取付くから悪事はするな、死んで地獄へ行(ゆ)くと画(え)の如く牛頭(ごず)馬頭(めず)の鬼に責められて実にどうも苦(くるし)みをする、此の有様(ありさま)は如何(どう)じゃ、何と怖い事じゃアないか、と云うので、盆の十六日はお閻魔様(えんまさま)へ参詣致しますると、地獄の画が掛けてあるから、此の画を見て子供はおゝ怖い、悪い事はしまいと思う。昔は私共(わたくしども)も彼(あ)の画を見ると、もう決して悪い事はしまいと思いまして、女は子が出来ないと血の池地獄へ落ちて燈心で竹の根を掘らせられ、男は子が出来ないと提灯(ちょうちん)で餅を搗(つ)かせられると云う、皆恐ろしい話で、実に悪い事は出来ませんものでございます。又因縁で性(しょう)を引きますというは仏説でございますが、深見新左衞門が斬殺(きりころ)した宗悦の娘お園に、新左衞門の悴(せがれ)新五郎が惚れると云うはどういう訳でございましょうか、寝ても覚めても夢にも現(うつゝ)にも忘れる事が出来ませんで、其の時は諦めますと云って出にかゝったが、お園が何とも云わぬから仕方がない、杉戸(すぎど)を閉(た)てゝ店へ往って寝てしまいましたが翌日になって見ると、まさか死ぬにも死なれず、矢張(やっぱり)顔を見合せて居ります。其の中(うち)に土蔵(くら)の塗直しが始まり、質屋さんでは土蔵を大事にあそばすので、土蔵の塗直しには冬が一番|持(もち)がいゝと云うので、職人が這入ってどし/\日の暮れるまで仕事をして、早出(はやで)居残りと云うのでございます。職人方が帰り際には台所で夕飯時(ゆうめしどき)には主人が飯を喫(た)べさせ、寒い時分の事だから葱鮪(ねぎま)などは上等で、或(あるい)は油揚に昆布などを入れたのがお商人(あきんど)衆の惣菜でございます。よく気をつけてくれまするから、台所で職人がどん/\這入って御膳を食べ、香の物がないといって、襷(たすき)を掛けて日の暮々(くれ/″\)にお園が物置へ香の物を出しにゆきました。此の奥に土蔵が有ってその土蔵の脇は物置があり、其の此方(こちら)には職人が這入って居るから荒木田(あらきだ)があり、其の脇には藁(わら)が切ってあり、藁などが散(ちら)ばっている間をうねって物置へ往って、今香の物を出そうとすると、新五郎が追っかけて来たから、見ると少し顔色も変って何だか気違(きちがい)じみて居る。もっとも惚れると云うと、馬鹿気(ばかげ)て見えるものでございますが、
新「お園どん/\」
園「アラ、びっくりした、新どん、何(なん)でございます」 
十二
新「アノお園さん、私はね、此の間お前と枕を並べて一度でも寝れば、死んでも宜(い)い、諦めますと云いました」
園「そんなことは存じませんよ」
新「存じませんと云ったって覚えてお居(い)でだろう、だがネ私はきっと諦めようと思って無理に頼んでお前の床へ這入って酔った紛れに一寸枕を並べたばかりだが、私はお前と一つ床の中へ這入ったから、猶(なお)諦めが付かなく成ったがね、お園どん、是程思って居るのだから唯(たった)一度ぐらいは云う事を聴いてもいゝじゃアないか」
園「何(なん)だネ新どん、気違じみて、お前さんも私も奉公して居る身の上でそんな事をして御主人に済みますか、其の事が知れたらお前さんは此の家(うち)を出ても行処(ゆきどころ)が無いじゃアありませんか、若(も)し間違があったならば、私は身寄も親類も無い行処の無いという事は何時(いつ)でも然(そ)う云っておいでだのに、大恩のある御主人に済みませんよ」
新「済まないのは知って居るが、唯(たった)一度で諦めて是ッ切り猥(いや)らしい事は云う気遣(きづかい)ないから」
園「アラおよしよ」
新「お前こんなに思って居るのに」
と夢中になりお園の手を取ってグッと引寄せる。
園「アレお止し」
と云ううち帯を取って後(うしろ)へ引倒しますから、
園「アレ新どんが」
と高声(たかごえ)を出して人を呼ぼうと思ったが、そこは病気の時に看病を受けました事があるから、其の親切に羈(ほだ)されて、若(も)し私が呶鳴(どな)れば御主人に知れて、此の人が追出されたら何処(どこ)へも行(ゆ)く処も無し気の毒と思いますから、唯小声で、
園「新どんお止しよ/\」
と声を出すようで出さぬが、声を立てられてはならんと、袂(たもと)を口に当てがって、
新「此方(こっち)へお出で」
と藁の上へ押倒して上へ乗掛(のりかゝ)るから、
園「アレ新どん、お前気違じみた、お前も私もしくじったら何(ど)うなさる、新どん、新どん」
ともがくのを、無理無体に口を押え、夢中になって上へ乗掛ろうとすると、
園「アレ新どん/\」
ともがいているうちに、お園がウーンと身を慄(ふる)わして苦しみ、パッと息が止ったから恟(びっく)りして新五郎が見ると、今はどっぷり日が暮れた時で、定かには分りませんが、側にある※[くさかんむり/切](すさ)が真赤に血だらけ、
新「何うしたのか」
と思って起上ろうとすると、苦し紛れに新五郎の袖に手をかけ、しがみ付いたなりに、新五郎と共にずうッと起(おき)たのを見ると真赤、
新「お園どん何うしたのだえ」
と襟(えり)に手をかけて抱起(だきおこ)すと、情(なさけ)ないかな下にあったのは※[くさかんむり/切](すさ)を切る押切(おしきり)と云うもの、是は畳屋さんの庖丁を仰向(あおむけ)にした様な実に能(よ)く切れるものでございますが、此の上へお園の乗った事を知らずに、男の力で、大声を立てさせまいと思い、口を押えてグックと押すから、お園はお止しよ/\と身体を※[足へん+宛](もが)くので、着物の上からゾク/\肋(あばら)へかけて切り込みましたから、お園は七転八倒の苦しみ、其の儘息の絶えたのを見て、新五郎は、
新「アヽ南無阿弥陀仏/\/\、お園どん堪忍しておくれ、全くお前と私は何たる悪縁か、お前が厭がるのを知りながら私が無理無体な事を云いかけて、怖ろしい刃物のあるを知らずにお前を此所(こゝ)へ押倒して殺してしまったから、もう私は生きてはいられない、お園どん確(しっ)かりしておくれ、私が死んでもお前を助けるから」
と無理に抱起(だきおこ)して見ましたが、もう事が切れて居る。
新「ハア、もう是は迚(とて)もいかぬな」
と夢の覚めた様な心持で只茫然として居りましたが、もう迚も此処(こゝ)の家(うち)には居られぬ、といって今更|何処(どこ)といって行(ゆ)く処も無い新五郎、エヽ毒喰わば皿まで舐(ねぶ)れ、もう是までというので、屎(くそ)やけになる。若い中(うち)にはあることで、新五郎は暗(やみ)に紛れてこっそり店へ這入って、此の家(うち)へ来る時差して来た大小を取出し、店に有合(ありあわせ)の百金を盗み取って逐電いたしましたが、さて行(ゆ)く処がないから、遥々(はる/″\)奥州(おうしゅう)の仙台へ参り、仙台様のお抱(かゝえ)になって居る、剣客者(けんかくしゃ)黒坂一齋と云う、元剣術の指南を受けた師匠の処へ参って塾に這入り、剣術の修業(しゅうぎょう)をして身を潜めて居りましたが、城中に居りましたから、頓(とん)と跡が付きません。なれども故郷忘じ難く、黒坂一齋の相果てゝからは、何(ど)うも朋輩(ほうばい)の交際(つきあい)が悪うございますから、もう二三年も経ったから知れやしまいと思って、又奥州仙台から、江戸表へ出て来たのは、十一月の丁度二十日でございます。先(ま)ず浅草の観音様へ参って礼拝(らいはい)を致し、是から何処(どこ)へ行(ゆこ)うか、何(ど)うしたらよかろうと考える中(うち)に、ふと胸に浮んだのは勇治(ゆうじ)と云う元屋敷の下男で、我が十二歳ぐらいの頃まで居たが、其の者は本所辺に居ると云う事で、慥(たし)か松倉町と聞いたから、兎も角も此の者を尋ねて見ようと思い、吾妻橋(あづまばし)を渡って、松倉町へ行(ゆ)きます。菅(すげ)の深い三度笠を冠(かぶ)りまして、半合羽(はんがっぱ)に柄袋(つかぶくろ)のかゝった大小を帯(たい)し、脚半甲(きゃはんこう)がけ草鞋穿(わらじばき)で、いかにも旅馴れて居りまする扮装(いでたち)、行李(こうり)を肩にかけ急いで松倉町から、斯(こ)う細い横町へ曲りに掛ると、跡からバラ/\/\と五六人の人が駈けて来るから、是は手が廻ったか、しくじったと思い、振返って見ると、案の如く小田原提灯が見えて、紺足袋(こんたび)に雪駄穿(せったばき)で捕者(とりもの)の様子だから、あわてゝ其処(そこ)にある荒物屋の店の障子をがらりと明けて、飛上ったから、荒物屋さんでは驚きました。
女房「何ですねえ、恟(びっく)りしますね」
と云うと、
新「ハイ/\/\」
と云ってブル/\慄(ふる)えながら、ぴったり後(うしろ)を締めて障子の破れから戸外(そと)を覗(のぞ)いて居ります。 
十三
女「まア何処(どこ)の方です、突然(いきなり)人の家(うち)へ這入って、草鞋をはいたなりで坐ってサ、何(ど)うしたんだえ」
新「是は/\何うも誠に相済まぬが、今間違で詰らぬ奴に喧嘩を仕掛けられ、私は田舎|武士(ざむらい)で様子が知れぬから、面倒と思って、逃ると追掛(おっか)けたから、是は堪(たま)らんと思って当家へ駈込みお店を荒して済みませんが、今覗いて見れば追掛けたのではない酒屋の御用が犬を嗾(けし)かけたのだ、私は只怖いと思ったものだから追掛けられたと心得たので、誠に相済みません」
女「困りますね、草鞋を脱いで下さい、泥だらけになって仕様がございませんね、アレ塩煎餅(しおせんべい)の壺へ足を踏みかけて、まアお前さん大変|樽柿(たるがき)を潰したよ」
新「誠に済まないが、ツイ踏んで二つ潰したから、是は私が買って、あとは元の様に積んで置きます、あの出刃庖丁は何(なん)でげすな」
女「あれは柿の皮を剥(む)くのでございますよ、何(ど)うも困りますね、だが買って下さればそれで宜(よ)うございますが、けれども貴方草鞋をおとんなさいナ」
新「何(ど)うか、樽柿は幾個(いくつ)でも買いますが、何うかお茶でも水でも下さい」
女「お茶は冷(つめと)うございますが、ナニ沢山買って下さらないでも、潰れただけの代を下さればようございます」
新「えゝ御家内|此処(こゝ)は何(なん)と云う処でございますえ」
女「此処は本所松倉町でございます」
新「あゝ左様かえ、少しお聞き申すが、前々(ぜん/″\)小日向|服部坂(はっとりざか)の屋敷に奉公を致して居った勇治と云う者が此の近処(きんじょ)に居りませんか、年は今年で五十八九になりましょうか、慥(たし)か娘が一人あって其の娘の夫は*※[操のつくり]掻(こまいかき)と聞きましたが」
*「壁下地の小竹をとりつける職人」
女「貴方は、なんでございますか、深見新左衞門様の若様でございますか」
新「えゝ何あのお前は勇治を御存知かえ」
女「ハイ私は勇治の娘でございますよ、春と申しまして」
新「はあ然(そ)う」
春「私はね、もうねお屋敷へ一度参った事がございますがね、其の時分は幼少の時で、まアお見違(みそれ)申しました、まだ貴方のお小さい時分でございましたからさっぱり存じませんで、大層お立派におなり遊ばしたこと、お幾才(いくつ)におなり遊ばした」
新「今年二十三になります」
春「まアお屋敷もね、何だか不祥(いや)な事になりまして、昨年私の親父も亡なりましたが、お屋敷はあゝなったが、若様は何(ど)うなされたかお行方が知れぬが、ひょっとして尋ねていらっしゃったら、永々(なが/\)御恩を受けたお屋敷の若様だから何(ど)んなにもして上げなければならん、と死際(しにぎわ)に遺言して亡なりましたが、貴方が若様なれば何うか此方(こちら)へ一晩でもお泊め申さんでは済(すみ)ませんから」
新「やれ/\是は/\左様かね、図らず勇治の処へ来たのは何より幸(さいわい)で、拙者は深見新五郎であるが、仔細あって暫く遠方へ参って居たが、今度此方へ出て参っても何処(どこ)と云って頼る処も無し、何処か知れぬ処へ奉公住(ほうこうずみ)を致したいが、請人(うけにん)がなければならんから当家で世話をして請人になってくれんか」
春「お世話どころじゃアございません、是非ともお世話を為(し)なければ済みません、まア能く入らっしゃいました、貴方それじゃアまア脚半や草鞋をお取りなすって、なに御心配はございません、今水を汲んで来ます、ナニその汚れた処は雑巾で拭きますから、まア合羽などはお取りなさいまし」
と云うから新五郎はホット息を吐(つ)きます。すると、
春「まア此方(こちら)へ」
と云うので何か親切に手当を致し、大小は風呂敷に包み箪笥(たんす)の抽斗(ひきだし)へ入れてピンと錠を卸(おろ)し、
春「貴方これとお着かえなさいましな」
新「イヤ着換は持って居るから」
と包の中から出して着物を着かえ、
新「何うか空腹であるから御飯を」
春「ハイ宜しゅうございます、貴方御酒を召上るならば取って参りましょう、此の辺は田舎同様場末でございますから何(なん)にもよいものはありませんが、貴方鰻を召上りますなら鰻でも」
新「鰻は結構、私が代を出すから何(どう)か買って貰いたい」
春「そんなら跡を願いますよ」
と是からガラリ障子を明けて戸外(そと)へ出ました。すると此の女房は、実は深見新五郎が来たら是々と、亭主に言付けられているから、亭主の行って居る処へ行って話をする。此の亭主は石河伴作(いしかわばんさく)と云う旦那|衆(しゅ)の手先で、森田の金太郎と云う捕者の上手、かねて網を張って待っていた処だから、それは丁度|好(い)いと、それ/″\手配(てくばり)をしたが、併(しか)し剣客者(てしゃ)と聞いているから刃物を取上げなければならんが、何(ど)うしたものだろうと云うと女房が聞いて、刃物は是々してちゃんと箪笥の抽斗へ入れて錠を卸して仕舞って、鰻を誂(あつら)えに行(ゆ)くつもりにして来たと云う。
金「そんなら宜しい」
と云って直(すぐ)に鰻屋の半纏(はんてん)を引掛(ひっか)けて若者の姿で金太郎が遣(や)って来て、
金「エヽ鰻屋でございます」
と云うと、此方(こちら)は気が附きませんから、
新「ハイ大きに御苦労」
金「お誂えが出来ました、あゝ山椒(さんしょ)の袋を忘れた」
と云いながら新五郎の受取(うけとり)に来る処を飛上って、
金「御用だ神妙にしろ」
と手を取って逆に捻伏(ねじふ)せられたから起(おき)る事が出来ません。 
十四
金「手前(てめえ)は深見新五郎だろう、谷中の下總屋でお園を殺し、主人の金を百両盗んで逐電した大泥坊め」
新「イヤ手前は左様なものではござらん」
とは云ったが、あゝ残念なことをした、それでは此処(こゝ)の女房もぐるであったと見える、刃物を仕舞われたから是はもう迚(とて)も遁(のが)れぬ。と思いました。いゝ悪党なれば、斯(こ)う云う時の為に懐にどすといって一本|匕首(あいくち)をのんで居るが、それ程商売人の泥的(どろてき)ではありませんから、用意をいたしておりません。もう天命|究(きわ)まったと思うと、一寸指の先へ障りましたのは、先刻(さっき)ふと女房に聞いた柿の皮を剥く庖丁と云う鯵切(あじきり)の様な物が、これが手に障ったのを幸(さいわい)と、
新「左様な覚(おぼえ)はない、人違(ひとちがい)でござる」
と云って、起上(おきあが)りながらズンと金太郎の額へ突掛(つっか)けたから、
金「アッ」
と後(あと)へ下(さが)って傷口を押えると、額から血がダラ/\流れて真赤になり、真実(ほんとう)の金太郎の様になります。続いて逃(にげ)たらと隠れていた捕者の上手な富藏(とみぞう)と云う者が、
富「神妙にしろ、御用だ」
と十手を振上げて打って掛るやつを取って抉(えぐ)ったから、ヒョロ/\とひょろついて台所の竈(へっつい)でボッカリ膝を打って、裏口へ蹌踉(よろけ)出したから、しめたと裏口の戸をしめ、辛張(しんばり)をかって置いて表を覗(のぞ)くと人が居る様子だから、確(しっか)り鑰(かきがね)を掛けて燈光(あかり)を消し、庖丁の先で箪笥の錠をガチ/\やって漸(ようや)く錠を明け、取出した衣類を身に纒(まと)い、大小を差して、サア出ようと思ったが、迚(とて)も表からは出られませんから、屋根伝いにして逃げようと、階子(はしご)を上(あが)って裏手の小窓を開けて見ると、ずうっと棟割(むねわり)長屋になって物干が繋(つな)がって居て、一軒|毎(ごと)に一間ばかりの丸太がありそれへ小割(こわり)が打って物干竿(ものほしざお)の掛る様になっているから、此の物干伝いに伝わって行(ゆ)けば、何処(どこ)へか逃げられるとは思ったが、なか/\油断は出来ませんから、長物(ながもの)を抜いて新五郎が度胸をすえ、小窓から物干へ這出して来ます。すると捕手(とりて)の方も手当は十分に附いているから、もし此の窓から逃出したら頭脳(あたま)を打破(うちわ)ろうと、勝藏(かつぞう)と云う者が木太刀(きだち)を振上げて待って居る所へ、新五郎は斯(こ)う腹這(はらばい)になって頸(くび)をそうッと出した。すると、
勝「御用だ」
ピューッと来るやつを、身を退(ひ)き身体を逆に反(かえ)して、肋(あばら)の所へ斬込んだから、勝藏は捕者は上手だが物干から致してガラ/\/\どうと転がり落ちる。其の間に飛下りようとする。所が下には十分手当が届いているから下りる事が出来ません。すると丁度隣の土蔵が塗直しで足場が掛けてあって笘(とま)が掛っているから、それを潜(くゞ)って段々参ると、下の方ではワア/\と云う人声(ひとごえ)、もう然(そ)うなると、人が十人居ても五十人も居る様に思われますから、新五郎は窃(そっ)と音のしない様に笘を潜り抜けて、段々横へ廻って参り、此の空地(あきち)へ飛下り、彼方(あちら)の板塀を毀(こわ)して、向(むこう)の寺へ出れば逃(のが)れられようと思い、足場を段々に下りまして、もう宜(よ)かろう、と下を見ると藁(わら)がある。しめたと思ってドンと其処(そこ)へ飛下りると、
新「ア痛タ……」
と臀餅(しりもち)をつく筈(はず)です、其の下にあったのは押切(おしぎり)と云う物で、土踏まずの処を深く切込みましたから、新五郎ももう是までと覚悟しました。跛(びっこ)になっては、迚(とて)も遁(のが)れる事も出来ませんから、到頭(とうとう)縄に掛って引かれます。
新「あゝ因縁は恐しいもの、三年|跡(あと)にお園を殺したも押切、今又押切へ踏掛けてそのために己(おれ)が縄に掛って引かれるとは、お園の怨(うらみ)が身に纒(まと)って斯(かく)の如くになること」
と実に新五郎も夢の覚めた様になりましたが、是が丁度三年目の十一月二十日、お園の三回忌の祥月命日(しょうつきめいにち)に、遂に新五郎が縄目に掛って南の御役宅へ引かれると云う、是より追々怪談のお話に相成ります。 
十五
引続きまして真景累が淵、前回よりは十九年経ちましてのお話に相成りますが、根津七軒町の富本(とみもと)の師匠|豐志賀(とよしが)は、年卅九歳で、誠に堅い師匠でございまして、先年妹お園を谷中七面前の下總屋と云う質屋へ奉公に遣(や)って置きました処、図らぬ災難で押切の上へ押倒され、新五郎の為に非業の死を遂げましたが、それからは稽古をする気もなく、同胞(きょうだい)思いの豊志賀は懇(ねんごろ)に妹お園の追福を営み、追々月日も経ちまするので気を取直し、又|矢張(やっぱり)稽古をする方が気が紛れていゝから、と世間の人も勧めまするので、押っ張って富本の稽古を致す様になりましたが、女の師匠と云う者は、堅くないとお弟子がつきません。彼処(あすこ)の師匠は娘を遣って置いても行儀もよし、言葉遣いもよし、真(まこと)に堅いから、あの師匠なら遣るが宜(い)い、実に堅い人だ、と云うので大家(たいけ)の娘も稽古に参ります。すると、男嫌いで堅いと云うから、男は来そうもないものでございますが、堅い師匠だと云うと、妙に男が稽古に参ります。
「師匠是は妙な手桶で、台所で遣(つか)うのには手で持つ処が小さくって軽くって、師匠などが水を汲むにいゝから、私が一つ桶屋に拵(こしら)えさして持って来た」
とか、又朝早く行って、瓶(かめ)へ水を汲んで流しを掃除しようなどと手伝いに参ります。中には内々(ない/\)張子連(はりこれん)などと申しまして、師匠が何(どう)かしてお世辞の一言(ひとこと)も云うと、それに附込んで口説落(くどきおと)そうなどと云う連中(れんじゅう)、経師屋(きょうじや)連だの、或(あるい)は狼連などと云う、転んだら喰おうと云う連中が来るのでありますから、種々(いろ/\)親切に世話を致します。時々|浚(さら)いや何か致しますと、皆(みんな)此の男の弟子が手伝いに参りますが、ふと手伝いに来た男は、下谷(したや)大門町(だいもんちょう)に烟草屋(たばこや)を致して居(お)る勘藏と云う人の甥(おい)、新吉と云うのでございますが、ぶら/\遊んで居るから本石町(ほんこくちょう)四丁目の松田と云う貸本屋へ奉公に遣(や)りましたが、松田が微禄いたして、伯父の処へ帰って遊んでいるから、少し烟草を売るがいゝと云うので、掴(つかみ)煙草を風呂敷に包み、処々(ところ/″\)売って歩きますが、素(もと)より稽古が好きで、閑(ひま)の時は、水を汲みましょうお湯を沸(わか)しましょうなどと、ヘエ/\云ってまめに働きます。年二十一でございますが、一寸|子※[てへん+丙](こがら)の好(よ)い愛敬のあると云うので、大層師匠の気に入り、其の中(うち)に手少なだから私の家(うち)に居て手伝ってと云うと、新吉も伯父の処に居るよりは、芸人の家(うち)に居るのは粋(いき)で面白いから楽(たのし)みも楽みだし、芸を覚えるにも都合がいゝから、豊志賀の処へ来て手伝いをして居ります。其の年十一月二十日の晩には、霙(みぞれ)がバラ/\降って参りまして、極(ごく)寒いから、新吉は食客(いそうろう)の悲しさで二階へ上(あが)って寝ますが、五布蒲団(いつのぶとん)の柏餅(かしわもち)でもまだ寒いと、肩の処へ股引などを引摺込(ひきずりこ)んで寝まするが、霙はざあ/\と窓へ当ります。其の内に少し寒さが緩(ゆる)みましたかして、夜(よ)が更けてから雨になりまして、どっとと降って参ります。師匠は堅いから下に一人で寝て居りますが、何(なん)だか此の晩は鼠がガタ/\して豐志賀は寝られません。
豐「新吉さん/\」
新「ヘエ何(なん)でげすね」
豐「お前まだ眼が覚めていますかえ」
新「ヘエ、私はまだ覚めて居ります」
豐「そうかえ私も今夜は何だか雨の音が気になって少しも寝られないよ」
新「私も気になって些(ちっ)とも寝られません」
豐「何だか誠に訝(おか)しく淋しい晩だね」
新「ヘエー訝しく淋しい晩でげすね」
豐「寒いじゃアないか」
新「何だかひどく寒うございますね」
豐「なんだね同じ様なことばかり云って、誠に淋しくっていけない、お前さん下へ下りて寝ておくれな、どうも気になっていけないから」
新「そうですか、私も淋しいから下へ下りましょう」
と五布蒲団と枕を抱えて、危い階子(はしご)を下りて来ました。
豐「お前、新吉さん其方(そっち)へ行って柏餅では寒かないかえ」
新「ヘエ、柏餅が一番|宜(い)いんです、布団の両端(りょうはじ)を取って巻付けて両足を束(そく)に立って向(むこう)の方に枕を据(す)えて、これなりにドンと寝ると、好(い)い塩梅に枕の処へ参りますが、そのかわり寝像(ねぞう)が悪いと餡(あん)がはみ出します」
豐「お前寒くっていけまい、斯(こ)うしておくれな、私も淋しくっていけないから、私のネこの上掛(うわがけ)の四布蒲団(よのぶとん)を下に敷いて、私の掻巻(かいまき)の中へお前一緒に這入って、其の上へ五布蒲団を掛けると温(あった)かいから、一緒にお寝な」
新「それはいけません、どうして勿体ない、お師匠さんの中へ這入って、お師匠さんの身体から御光(ごこう)が射すと大変ですからな」
豐「御光だって、寒いからサ」
新「寒うございますがね、明日(あした)の朝お弟子が早く来ましょう、然(そ)うするとお師匠さんの中へ這入って寝てえれば、新吉はお師匠さんと色だなどと云いますからねえ」
豐「宜(い)いわね、私の堅い気象は皆(みんな)が知って居るし、私とお前と年を比べると、私は阿母(おっか)さんみた様で、お前の様な若い子みたいな者と何(ど)う斯(こ)う云う訳は有りませんから一緒にお寝よ」
新「そうでげすか、でも極りが悪いから、中に仕切を入れて寝ましょうか」
豐「仕切を入れたって痛くっていけませんよ、お前|間(ま)がわるければ脊中合(せなかあわせ)にして寝ましょう」
と到頭|同衾(ひとつね)をしましたが、決して男女(なんにょ)同衾はするものでございません。 
十六
日頃堅いと云う評判の豐志賀が、どう云う悪縁か新吉と同衾をしてから、不図(ふと)深い中になりましたが、三十九歳になる者が、二十一歳になる若い男と訳があって見ると、息子のような、亭主のような、情夫(いろおとこ)の様な、弟の様な情が合併して、さあ新吉が段々かわいゝから、無茶苦茶新吉へ自分の着物を直して着せたり何か致します、もと食客(いそうろう)だから新吉が先へ起きて飯拵(めしごしら)えをしましたが、此の頃は豐志賀が先へ起きてお飯(まんま)を炊くようになり、枕元で一服つけて
豐「さア一服お上(あが)りよ」
新「ヘエ有難う」
豐「何(なん)だよヘエなんて、もうお起きよ」
新「あいよ」
などと追々増長して、師匠の布子(どてら)を着て大胡坐(おおあぐら)をかいて、師匠が楊枝箱(ようじばこ)をあてがうと坐ってゝ楊枝を遣(つか)い嗽(うがい)をするなどと、どんな紙屑買が見ても情夫(いゝひと)としか見えません。誠に中よく致し、新吉も別に行(ゆ)く処も無い事でございますから、少し年をとった女房を持った心持でいましたが、此家(こゝ)へ稽古に参りまする娘が一人ありまして、名をお久(ひさ)と云って、総門口(そうもんぐち)の小間物屋の娘でございます。羽生屋三五郎(はにゅうやさんごろう)と云う田舎|堅気(かたぎ)の家(うち)でございまするが、母親が死んで、継母(まゝはゝ)に育てられているから、娘は家(うち)に居るより師匠の処に居る方がいゝと云うので、能(よ)く精出して稽古に参ります。すると隠す事程|結句(けっく)は自然と人に知れるもので、何(ど)うも訝(おか)しい様子だが、新吉と師匠と訳がありゃアしないかと云う噂が立つと、堅気の家(うち)では、其の様な師匠では娘の為にならんと云って、好(い)い弟子はばら/\下(さが)ってしまい、追々お座敷も無くなります。そうすると、張子連は憤(おこ)り出して、
「分らねえじゃアねえか、師匠は何(なん)の事だ、新吉などと云う青二歳を、了簡違いな、また新吉の野郎もいやに亭主ぶりやアがって、銜煙管(くわえぎせる)でもってハイお出で、なんと云ってやがる、本当に呆れけえらア、下(さが)れ/\」
と。ばら/\張子連は下ります。其の他(た)の弟子も追々其の事を聞いて下りますと、詰(つま)って来るのは師匠に新吉。けれどもお久ばかりは相変らず稽古に来る、と云うものは家(うち)に居ると、継母に苛(いじ)められるからで、此のお久は愛嬌のある娘で、年は十八でございますが、一寸笑うと口の脇へ靨(えくぼ)と云って穴があきます。何もずぬけて美女(いゝおんな)ではないが、一寸|男惚(おとこぼれ)のする愛らしい娘。新吉の顔を見てはにこ/\笑うから、新吉も嬉しいからニヤリと笑う。其の互(たがい)に笑うのを師匠が見ると外面(うわべ)へは顕(あら)わさないが、何か訳が有るかと思って心では妬(や)きます。この心で妬くのは一番毒で、むや/\修羅(しゅら)を燃(もや)して胸に燃火(たくひ)の絶える間(ま)がございませんから、逆上(のぼ)せて頭痛がするとか、血の道が起(おこ)るとか云う事のみでございます。と云って外(ほか)に意趣返しの仕様がないから稽古の時にお久を苛めます。
豐「本当に此の娘(こ)は何てえ物覚(ものおぼえ)が悪い娘だろう、其処(そこ)がいけないよ、此様(こん)なじれったい娘はないよ」
と無暗(むやみ)に捻(つね)るけれども、お久は何も知らぬから、芸が上(あが)ると思いまして、幾ら捻られてもせっせと来ます。それは来る訳で、家(うち)に居ると継母に捻られるから、お母(っか)さんよりはお師匠さんの方が数が少いと思って近く来ると、猶(なお)師匠は修羅を燃(もや)して、わく/\悋気(りんき)の焔(ほむら)は絶える間は無く、益々逆上して、眼の下へポツリと訝(おか)しな腫物(できもの)が出来て、其の腫物が段々|腫上(はれあが)って来ると、紫色に少し赤味がかって、爛(たゞ)れて膿(うみ)がジク/″\出ます、眼は一方|腫塞(はれふさ)がって、其の顔の醜(いや)な事と云うものは何(なん)とも云いようが無い。一体少し師匠は額の処が抜上(ぬけあが)って居る性(たち)で、毛が薄い上に鬢(びん)が腫上っているのだから、実に芝居で致す累(かさね)とかお岩とか云うような顔付でございます。医者が来て脈を取って見る。豊志賀が、是は気の凝(こり)でございましょうか、と云うと、イヤ然(そ)うでない是は面疔(めんちょう)に相違ないなどゝ云うが、それは全く見立違(みたてちが)いで、只今の様に上手なお医者はございません時分で、只今なら佐藤先生の処へ行(ゆ)けば、切断して毒を取って跡は他人の肉で継合(つぎあ)わせると云う、飴細工の様な事も出来るから造作はないが、其の頃は医術が開けませんから、十分に療治も届きません。それ故段々|痛(いたみ)が烈(はげ)しくなり、随(したが)って気分も悪くなり、終(つい)にはどっと寝ました。ところが食(しょく)は固(もと)より咽喉(のど)へ通りませんし、湯水も通らぬ様になりましたから、師匠は益々|痩(やせ)るばかり、けれども顔の腫物(できもの)は段々に腫上って来まするが、新吉はもと師匠の世話になった事を思って、能(よ)く親切に看病致します。
新「師匠/\、あのね、薬の二番が出来たから飲んで、それから少し腫物の先へ布薬(ひきぐすり)を為(し)よう、えゝおい、寝て居るのかえ」
豐「あい」
と膝に手を突いて起上りますると、鼠小紋(ねずみこもん)の常着(ふだんぎ)を寝着(ねまき)におろして居るのが、汚れッ気(け)が来ており、お納戸色(なんどいろ)の下〆(したじめ)を乳の下に堅く〆(し)め、溢(くび)れたように痩せて居ります。骨と皮ばかりの手を膝に突いて漸(ようや)くの事で薬を服(の)み、
豐「ほッ、ほッ」
と息を吐(つ)く処を、新吉は横眼でじろりと見ると、もう/\二眼(ふため)と見られない醜(いや)な顔。
新「些(ちっ)とは快(いゝ)かえ」
豐「あい、新吉さん、私はね何(ど)うも死度(しにた)いよ、私のような斯(こ)んなお婆さんを、お前が能く看病をしておくれで、私はお前の様な若い奇麗(きれい)な人に看病されるのは気の毒だ/\と思うと、猶(なお)病気が重(おも)って来る、ね、私が死んだら嘸(さぞ)お前が楽々(らく/\)すると思うから、本当に私は一時(いちじ)も早く楽に死度いと思うが、何うも死切(しにき)れないね」
新「詰らない事を云うもんじゃアない、お前が死んだら私が楽をしようなどゝそんなことで看病が出来るものでは無い、わく/\そんな事を思うから上(のぼ)せるんだ、腫物(できもの)さえ癒(なお)って仕舞やア宜(い)いのだ」
豐「でもお前が厭(いや)だろうと思って、私はお前|唯(たゞ)の病人なら仕方もないけれども、私は斯(こ)んな顔になって居るのだもの」
新「斯んな顔だって腫物だから癒(なお)れば元の通りになるから」
豐「癒ればあとが引釣(ひっつり)になると思ってね」
新「そんなに気を揉(も)んではいけない、少しは腫(はれ)が退(ひ)いたようだよ」
豐「嘘をお吐(つ)きよ、私は鏡で毎日見て居るよ、お前は口と心と違って居るよ」
新「なに違うものか、私は心配して居るのだ」
豐「あゝもう私は早く死度い」
新「お廃(よ)しよ、死(しに)たい/\って気がひけるじゃアないか、些(ちっ)とは看病する身になって御覧、何(なん)だってそんなに死度いのだえ」
豐「私が早く死んだら、お前の真底(しんそこ)から惚れているお久さんとも逢われるだろうと思うからサ」 
十七
新「あゝいう事を云う、お前は何(なん)ぞと云うとお久さんを疑(うたぐ)って、ばんごと云うがね、私とお久さんと何か訳があると思って居るのかえ」
豐「それはないわね」
新「ないものを兎や角云わなくっても宜(い)いじゃアないか」
豐「ないからったっても、私と云うものがあるから、お前が惚れているという事を、口にも出さず、情夫(いろ)にもなれぬと思うと、私は本当に気の毒だから私は早く死んで上げて、そうして二人を夫婦にして上げたいよ」
新「およしな、そんな詰らぬ事を、仕様がないな、本当にお前も分らないね、お久さんだって一人娘で、婿を取ろうと云う大事な娘だのに、そんな訳もない事を云って疵(きず)を附けては、向(むこう)の親父さんの耳にでも入ると悪いやね、あの娘のお母(っか)さんは継母で喧(やかま)しいから可愛(かわい)そうだわね」
豐「可愛そうでございましょう、お前はお久さんの事ばかりかわいそうで案じられるだろうが、私が死んでもお前は可愛そうだと思う気遣(きづかい)はないよ」
新「あ、あゝいう事を、お前仕様がないね、よく考えて御覧な、全体私は家(うち)の者じゃアないか、仮令(たとえ)訳があっても隠すが当然だろう、それを訳のない者を疑って、ある/\と云うと、世間の人まで有ると思って私が困るよ」
豐「御尤(ごもっとも)でございますよ、でも何(ど)うせあるのはあるのだね、私が死ねば添われるから、何卒(どうぞ)添わして上げたいから云うのだよ、新吉さん本当に私は因果だよ、私は何うも死切れないよ」
新「あゝ云う事を云う、何を証拠に…えゝそれはね……彼様(あん)な事を…又あゝいう事を……お前そう疑るからいけない、此の頃来たお弟子ではなし、家(うち)の為になるからそれはお前、お天気がいゝとか、寒うございますとか、芝居へおいでなすったか位のお世辞は云わなければならないやね、それも家の為だと思うから云おうじゃアないか、あれサ仕様がないね、別に何も……此の間も見舞物を持って来たから台所へ行って葢物(ふたもの)を明けて返す、あれサそれを、あゝいう分らぬ事を云う仕様がねえなア」
とこぼして居る所へ這入って来たのは何も知らないお久でございます。何か三組(みつぐみ)の葢物へおいしいものを入れて、
久「新吉さん、今日(こんにち)は」
新「ヘエ、お出(いで)なさい、此方(こちら)へお這入りなすって、ヘエ有難う、まア大きに落付(おちつき)ました様で」
久「あのお母(っか)さんが上(あが)るのですが、つい店が明けられませんで御無沙汰を致しますが、慥(たし)かお師匠さんがお好(すき)でございますから、よくは出来ませんが何卒(どうぞ)召上って」
新「有難うございます、毎度お前さんの処から心にかけて持って来て下すって有難う、錦手(にしきで)の佳(い)い葢物ですね、是は師匠が大好(だいすき)でげす、煎豆腐(いりどうふ)の中へ鶏卵(たまご)が入って黄色くなったの、誠に有難う、師匠が大好、おい師匠/\あのねお久さんの処からお前の好な物を煮て持って来ておくんなすったよ、お久さんが来たよ」
豐「あい」
とお久と云う声を聞くと、こくり起上って手を膝について、お久の顔を見詰めて居ります。
久「お師匠さんいけませんね、お母(っか)さんがお見舞に上るのですが、つい店が明けられませんで、些(ちっ)とはお快(よろし)ゅうございますか」
豐「はい、お久さん度々(たび/″\)御親切に有難うございます。お久さん、お前と私とは何(な)んだえ」
新「何を詰らない事を云うのだよ」
豐「黙っておいでなさい、お前の知った事じゃアない、お久さんに云いたい事があるのだよ、お久さん私とお前とは弟子師匠の間じゃアないか、何故お見舞にお出でゞない」
新「何を云うのだよ、お久さんは毎日お見舞に来たり、何(ど)うかすると日に二度ぐらいも来るのに」
豐「黙っておいで、其様(そんな)にお久さんの贔屓(ひいき)ばかりおしでない、それは私が斯(こ)うしているから案じられて来るのじゃア無い、お久さんはお前の顔を見たいから度々来るので」
新「仕様がないナ詰らぬ事を云って、お久さん堪忍してね、師匠は逆上して居るのだから」
久「誠にいけませんね」
とお久は少し怖くなりましたから、こそ/\と台所から帰ってしまいました。
新「困るね、えゝ、おい師匠|何うしたんだ、冗談じゃアねえ、顔から火が出たぜ、生娘(きむすめ)のうぶな娘(こ)に彼様(あん)な事を云って、面目無(めんぼくなく)って居られやアしない」
豐「居られますまいよ、顔が見たけりゃア早く追駈(おっか)けてお出で」
新「あゝいう事を云うのだもの」
豐「私の顔は斯んな顔になったからって、お前がそういう不人情な心とは私は知りませんだったよ」
新「何を云うのだね、誠に仕様がねえな、些(ちっ)と落付いてお寝よ」
豐「はい寝ましょうよ」
新吉は仕方がないから足を摩(さす)って居りますと、すや/\疲れて寝た様子だから、いゝ塩梅だ、此の間に御飯でも喫(た)べようと膳立(ぜんだて)をしていると這出して、
豐「新吉さん」
新「何(なん)だい、肝(きも)を潰(つぶ)したねえ」
豐「私が斯んな顔で」
新「仕様がねえな冷(ひえ)るといけないからお這入りよ」
と云う塩梅、よる夜中(よなか)でも、いゝ塩梅に寝附いたから疲れを休めようと思って、ごろりと寝ようとすると、
豐「新吉さん/\」
と揺(ゆ)り起すから新吉が眼を覚(さま)すと、ヒョイと起上って胸倉(むなぐら)を取って、
豐「新吉さん、お前は私が死ぬとねえ」
と云うから、新吉は二十一二で何を見ても怖がって尻餅をつくと云う臆病な性(たち)でございますから、是は不人情のようだが迚(とて)も此処(こゝ)には居られない、大門町へ行って伯父と相談をして、いっその事下総の羽生村に知って居る者があるから、其処(そこ)へ行ってしまおうかと、種々(いろ/\)考えて居る中(うち)に、師匠は寝付いた様子だから、その間(ま)に新吉はふらりと戸外(そと)へ出ましたが、若い時分には気の変りやすいもので、茅町(かやちょう)へ出て片側町(かたかわまち)までかゝると、向(むこう)から提灯を点(つ)けて来たのは羽生屋の娘お久と云う別嬪(べっぴん)、
久「おや新吉さん」 
十八
新「これはお久さん何処(どこ)へ」
久「あの日野屋へ買物に」
新「思いがけない処でお目にかゝりましたね」
久「新吉さん何方(どちら)へ」
新「私は一寸大門町まで」
久「お師匠さんは」
新「誠にいけません、此の間はお気の毒でね、あんな事を云って何(ど)うもお前さんにはお気の毒様で」
久「何う致しまして、丁度|好(よい)処でお目に掛って嬉しいこと」
新「お久さん何処へ」
久「日野屋へ買物に」
新「本当にあんな事を云われると厭(いや)なものでね、私は男だから構いませんが、お前さんは嘸(さぞ)腹が立ったろうが、お母(っか)さんには黙って」
久「何ういたしまして、私の方ではあゝ云われると、冥加(みょうが)に余って嬉しいと思いますが、お前さんの方で、外聞がわるかろうと思って、誠にお気の毒様」
新「うまく云って、お久さん何処へ」
久「日野屋へ買物に」
新「あの師匠の枕元でお飯(まんま)を喫(たべ)ると、おち/\咽喉(のど)へ通りませんから、何処かへ徃(い)ってお飯を喫べようと思うが、一人では極りが悪いから一緒に往っておくんなさいませんか」
久「私の様な者をおつれなさると外聞が悪うございますよ」
新「まア宜(い)いからお出でなさい、蓮見鮨(はすみずし)へ参りましょう」
久「ようございますか」
新「宜いからお出でなさい」
と下心があると見え、お久の手を取って五目鮨(ごもくずし)へ引張(ひっぱ)り込むと、鮨屋でもさしで来たから訝(おか)しいと思って、
鮨「いらっしゃい、お二階へ/\、あの四畳半がいゝよ」
と云うのでとん/\/\/\と上(あが)って見ると、天井が低くって立っては歩かれません。
新「何(なん)だか極りが悪うございますね」
久「私は何(ど)うも思いません、お前さんと差向いでお茶を一つ頂く事も出来ぬと思って居ましたが、今夜は嬉しゅうございますよ」
新「調子のいゝことを」
女「誠に今日(こんにち)はお生憎(あいにく)様、握鮓(にぎり)ばかりで何(なん)にも出来ません、お吸物も、なんでございます、詰らない種でございますから、海苔(のり)でも焼いて上げましょうか」
新「あゝ海苔で、吸物は何か一寸|見計(みはから)って、あとは握鮓がいゝ、おい/\、お酒は、お前いけないねえ、しかし極りが悪いから、沢山は飲みませんが、五勺(ごしゃく)ばかり味醂(みりん)でも何でも」
女「畏(かしこ)まりました、御用がありましたらお呼びなすって、此処(こゝ)は誠に暗うございますが」
新「何ようございます、其処(そこ)をぴったり〆(し)めて」
女「ハイ御用があったらお手を、此の開きは内から鎖鑰(かきがね)が掛りますから」
新「お前さんとさしで来たから、女がおかしいと思って内から鎖鑰が掛るなんて、一寸*たかいね、お久さん何処へ」
*「たかい目が高いの略」
久「日野屋へ来たの」
新「あ然(そ)う/\、此の間はお気の毒様で、お母(っか)さんのお耳へ這入ったら嘸(さぞ)怒りなさりやアしないかと思って大変心配しましたが、師匠は彼(あ)の通り仕様がないので」
久「何(ど)うも私共の母なども然(そ)う云っておりますよ、お師匠さんがあんな御病気になるのも、やっぱり新吉さん故だから、新吉さんも仕方がない、何様(どんな)にも看病しなければならないが、若いから嘸お厭(いや)だろうけれども、まアお年に比(あわ)しては能(よ)く看病なさるってお母(っか)さんも誉めて居ますよ」
新「此方(こっち)も一生懸命ですがね、只煩って看病するばかりならいゝけれども、何うも夜中に胸倉を取って、醜(いや)な顔で変な事を云うには困ります、私は寝惚(ねぼけ)て度々(たび/\)恟(びっく)りしますから、誠に済まないがね、思い切って斯(こ)うふいと何処(どこ)かへ行って仕舞(しまお)うかと思って、それには下総に些(すこし)の知己(しるべ)が有りますから其処(そこ)へ行(ゆ)こうかと思うので」
久「おやお前さんの田舎はあの下総なの」
新「下総と云う訳じゃアないが些(ちっ)と知って居る……伯母さんがあるので」
久「おやまあ。私の田舎も下総ですよ」
新「ヘエお前さんの田舎は下総ですか、世には似た事があるものですね、然(そ)う云えば成程お前さんの処の屋号(いえな)は羽生屋と云うが、それじゃア羽生村ですか」
久「私の伯父さんは三藏(さんぞう)と云うので、親父は三九郎と云いますが、伯父さんが下総に行って居るの、私は意気地(いくじ)なしだから迚(とて)も継母の気に入る事は出来ないけれども、余(あんま)りぶち打擲(ちょうちゃく)されると腹が立つから、私が伯父さんの処(とこ)へ手紙を出したら、そんな処に居らんでも下総へ来てしまえと云うから、私は事によったら下総へ参りたいと思います」
新「ヘエ然(そ)うでございますか、本当に二人が情夫(いろ)か何かなれば、ずうっと行くが、何(なん)でもなくっては然(そ)うはいきませんが、下総と云えば、何(な)んですね、累(かさね)の出た処を羽生村と云うが、家(うち)の師匠などはまるで累も同様で、私をこづいたり腕を持って引張(ひっぱ)ったりして余程変ですよ、それに二人の中は色でも何(なん)でもないのに、色の様に云うのだから困ります、何(ど)うせ云われるくらいなれば色になって、然(そ)うしてずうっと、二人で下総へ逃(にげ)ると云うような粋(いき)な世界なら、何(なん)と云われても云われ甲斐がありますが」
久「うまく仰しゃる、新吉さんは実(じつ)があるから、お師匠さんを可愛いと思うからこそ辛い看病も出来るが、私のような意気地なしの者をつれて下総へ行(ゆ)きたいなんと、冗談にも然(そ)う仰しゃってはお師匠さんに済みませんよ」
新「済まないのは知ってるが、迚(とて)も家(うち)には居られませんもの」
久「居られなくっても貴方が下総へ行ってしまうとお師匠さんの看病人がありません、家(うち)のお母(っか)さんでも近所でも然(そ)う云って居りますよ、あの新吉さんが逃出して、看病人が無ければ、お師匠さんは野倒死(のたれじに)になると云って居ります、それを知ってお師匠さんを置いて行っては義理が済みません」
新「そりゃア義理は済みませんがね、お前さんが逃げると云えば、義理にも何(なん)にも構わず無茶苦茶に逃げるね」
久「えゝ、新吉さん、お前さんほんとうに然(そ)う云って下さるの」
新「ほんとうとも」
久「じゃアほんとうにお師匠さんが野倒死をしても私を連れて逃げて下さいますか」
新「お前が行(ゆ)くと云えば野倒死は平気だから」
久「本当に豊志賀さんが野倒死になってもお前さん私を連れて行(い)きますか」
新「本当に連れて行きます」
久「えゝ、お前さんと云う方は不実な方ですねえ」
と胸倉を取られたから、フト見詰めて居ると、綺麗な此の娘の眼の下にポツリと一つ腫物(できもの)が出来たかと思うと、見る間(ま)に紫立って膨(は)れ上り、斯(こ)う新吉の胸倉を取った時には、新吉が怖いとも怖くないともグッと息が止(とま)るようで、唯(た)だ無茶苦茶に三尺の開戸(ひらきど)を打毀(うちこわ)して駈出したが、階子段(はしごだん)を下りたのか転がり落(おち)たのか些(ちっ)とも分りません。夢中で鮨屋を駈出し、トットと大門町の伯父の処へ来て見ると、ぴったり閉(しま)って居るからトン/\/\/\、
新「伯父さん/\/\」 
十九
勘「オイ騒々しいなア、新吉か」
新「えゝ一寸早く明けて、早く明けておくんなさい」
勘「今明ける、戸が毀(こわ)れるワ、篦棒(べらぼう)な、少し待ちな、えゝ仕様がねえ、さあ這入んな」
新「跡をピッタリ締めて、南無阿弥陀仏/\」
勘「何(なん)だって己(おれ)を拝む」
新「お前さんを拝むのではない、ハア何(ど)うも驚きましたネ」
勘「お前のように子供みたいにあどけなくっちゃア困るね、えゝ、オイ何故師匠が彼程(あれほど)の大病で居るのを一人置いて、ヒョコ/\看病人が外へ出て歩くよ、済まねえじゃアないか」
新「済まねえが迚(とて)も家(うち)には居られねえ、お前さんは知らぬからだが其の様子を見せたいや」
勘「様子だって、何(ど)んな事があっても、己(おれ)が貧乏して居るのに、汝(てめえ)は師匠の家(うち)へ手伝いに往(い)ってから、羽織でも着る様になって、新吉さん/\と云われるのは皆(みんな)豊志賀さんのお蔭だ、その恩義を忘れて、看病をするお前がヒョコ/\出歩いては師匠に気の毒で仕様がねえ、全体師匠の云う事はよく筋がわかっているよ、伯父さん誠に面目ないが、打明けてお話を致しまするが、新吉さんと去年から訝(おか)しなわけになって、何(なん)だか私も何(ど)う云う縁だか新吉さんが可愛いから、それで詰らん事に気を揉みまして、斯(こ)んな煩(わずら)いになりました、就(つい)ては段々弟子も無くなり、座敷も無くなって、実(ほんと)にこんな貧乏になりましたも皆(みんな)私の心柄で、新吉さんも嘸(さぞ)こんな姿で悋気(りんき)らしい事を云われたら厭(いや)でございましょう、それで新吉さんが駈出してしまったのでございますから、私はもうプッヽリ新吉さんの事は思い切りまして、元の通り、尼になった心持で堅気の師匠を遣(や)りさえすれば、お弟子も捩(より)を戻して来てくれましょうから、新吉さんには何(ど)んな処へでも世帯(しょたい)を持たせて、自分の好(す)いた女房を持たせ、それには沢山のことも出来ませんが、病気が癒(なお)れば世帯を持つだけは手伝いをする積り、又新吉さんが煙草屋をして居ては足りなかろうから、月々二両や三両位はすけるから、何卒(どうぞ)伯父さん立会(たちあい)の上、話合(はなしあい)で、表向(おもてむき)プッヽリと縁を切る様にしたいから何卒(どうか)願います、と云うのだが、気の毒でならねえ、あの利かねえ身体で、*四つ手校注に乗って広袖(どてら)を着て、きっとお前が此家(こゝ)に居ると思って、奥に先刻(さっき)から師匠は来て待って居るから、行って逢いな、気の毒だあナ」
*「四つ手かごの略。戸はまれに引戸ものあれど多くは垂れなり。」
新「冗談云っちゃアいけない、伯父さんからかっちゃアいけません」
勘「からかいも何もしねえ、師匠、今新吉が来ましたよ」
豐「おやマア大層遅く何処(どこ)へ行っておいでだった」
勘「新吉、此方(こっち)へ来なよ」
新「ヘエ、逢っちゃアいけねえ」
と怖々(こわ/″\)奥の障子を明けると、寝衣(ねまき)の上へ広袖を羽織ったなり、片手を突いて坐って居て、
豐「新吉さんお出(いで)なすったの」
新「エヽド何(ど)うして来た」
豐「何うして来たってね、私が眼を覚(さま)して見るとお前がいないから、是は新吉さんは愛想が尽きて、私が種々(いろ/\)な事を云って困らせるから、お前が逃げたのだと思って気が付くと、ホッと夢の覚めたようであゝ悪い事をして嘸(さぞ)新吉さんも困ったろう、厭(いや)だったろうと思って、それから伯父さんにね、打明けて話をして、私も今迄の心得違いは伯父さんに種々|詫言(わびこと)をしたが、お前とは年も違うし、お弟子は下(さが)り、世間の評判になってお座敷もなくなり、仮令(たとえ)二人で中よくして居ても食方(くいかた)に困るから、お前はお前で年頃の女房を持てば、私は妹だと思って月々|沢山(たんと)は出来ないが、元の様に二両や三両ずつはすける積り、伯父さんの前でフッヽリ縁を切るつもりで私が来たんだよ、利かない身体で漸(やっ)と来たのでございます、何卒(どうぞ)私が今まで了簡違いをした事は、お前腹も立つだろうが堪忍して、元の通りあかの他人とも、又|姉弟(きょうだい)とも思って、末長くねえ、私も別に血縁(たより)がないから、塩梅の悪い時はお前と、お前のお内儀(かみ)さんが出来たら、夫婦で看病でもしておくれ、死水(しにみず)だけは取って貰いたいと思って」
勘「師匠、此の通り誠に子供同様で、私も誠に心配して居る、またお前さんに恩になった事は私が知って居る、おい新吉冗談じゃアねえ、お師匠さんに義理が悪いよ、本当にお前(めえ)には困るナ」
新「なアニ師匠お前が種々な事を云いさえしなければいゝけれども…お前|先刻(さっき)何処(どこ)かの二階へ来やアしないかえ」
豐「何処へ」
新「鮨屋の二階へ」
豐「いゝえ」
新「なんだ、そうすると矢張(やっぱ)りあれは気のせえかしらん」
勘「何をぐず/\云うのだ、お前(めえ)附いて早く送って行きな、ね、師匠そこはお前さんの病気が癒(なお)ってからの話合だ、今其の塩梅の悪い中で別れると云ったって仕様がねえ、私も見舞に行きたいが、一人の身体で、つまらねえ店でも斯(こ)うして張ってるから、店を明ける事も出来ねえから、病気の癒る間新吉を上げて置くから、ゆっくり養生して、全快の上で何(ど)うとも話合をする事にね、師匠……ナニお前(めえ)送って行きねえ、師匠、お前さん四つ手でお出(いで)なすったが、彼(あれ)じゃア乗りにくいと思って今*あんぽつをそう言ったから、あんぽつでお帰りなさいよ、エ、何(なん)だい」
*「町人の用うるかごの一種四つ手より上等にして戸は引戸」
駕籠屋「此方(こっち)から這入りますか駕籠屋でげすが」
勘「ア駕籠屋さんか、アノ裏へ廻って、二軒目だよ、其の材木が立掛けて有る処から漬物屋の裏へ這入って、右へ附いて井戸端を廻ってネ、少し…二|間(けん)ばかり真直(まっすぐ)に這入ると、己(おれ)の家(うち)の裏口へ出るから、エ、なに、知れるよ、あんぽつぐらいは這入るよ」
駕「ヘエ」
勘「じゃア師匠、私が送りたいが今云う通り明ける事が出来ないから、新吉が附いて帰るから、ね、師匠、新吉の届かねえ処は、年もいかねえから勘弁して、ね、私が附いてるからもう不実な事はさせません、今迄の事は私が詫(わ)びるから……冗談じゃアねえ……新吉、お送り申しな、オイ今|明(あけ)るよ、裏口へ駕籠屋が来たから明けて遣(や)りな、おい御苦労、さア師匠、広袖を羽織っていゝかえ」
豐「ハイ伯父さんとんだ事をお耳に入れて誠に」
勘「宜(い)いからさア掴(つか)まって、いゝかえ、おい若衆(わかいしゅ)お頼申すよ、病人だから静かに上げておくれ、いゝかえ緩(ゆっ)くりと、此の引戸を立てるからね、いいかえ」
と云うので引戸を〆(し)めてしまうと、
新「じゃア伯父さん提灯を一つ貸して下さいな、弓張でもぶらでも何(なん)でも宜(い)いから、え、蝋燭(ろうそく)が無けりゃア三ツばかりつないで、え、箸を入れてはいけませんよ、焙(あぶ)ればようございます」
男「御免なさい」
トン/\。
勘「ヘエ、何方(どなた)でげす」
男「新吉さんは此方(こちら)ですか、新吉さんの声の様ですね、え、新吉さんかえ」
勘「ヘエ何方でげすえ、ヘエ…ねえ新吉、誰かお前の名を云って逢いたいと云ってるから明けねえ」
新「おやお出でなさい」
男「おやお出でじゃアねえ、新吉さん困りますね、病人を置いて出て歩いては困りますね、本当に何様(どんな)に捜したか知れない、時にお気の毒様なこと、お前さんの留守に師匠はおめでたくなってしまったが、何(ど)うも質(すじ)の悪い腫物(できもの)だねえ」 
二十
新「何を詰らない事を、善六さん極(きま)りを云ってらア」
善「極りじゃアねえ」
新「そんな冗談云って、いやに気味が悪いなア」
善「冗談じゃアねえ、家内がお見舞に徃った処が、お師匠さんが寝てえると思って呼んで見ても答がねえので、驚いて知らせて来たから私も行(ゆ)き彦六さんも皆(みんな)来て、何(ど)う斯(こ)うと云った処が何うしても仕ようがねえ、新吉さん、お前(めえ)が肝腎の当人だから漸(ようや)く捜して来たんだが、あのくらいな大病人(たいびょうにん)を置いて出歩いちゃアいけませんぜ」
新「ウー、ナン、伯父さん/\」
勘「何(なん)だよお前(めえ)、御挨拶もしねえで、お茶でも上げな」
新「お茶どころじゃアねえ、師匠が死んだって長屋の善六さんが知らせに来てくれたんだ」
勘「何を馬鹿な事を云うのだ、師匠は来て居るじゃアねえか」
新「あのね、御冗談仰しゃっちゃアいけません、師匠は先刻(さっき)から此方(こっち)へ来て居て、是から私が送って帰ろうとする処、何(なん)の間違いでげしょう」
善「冗談を云っちゃアいけません」
彦「是は何(なん)だぜ、善六さんの前だが、師匠が新吉さんの跡を慕って来たかも知れないよ、南無阿弥陀仏/\」
新「そんな念仏などを云っちゃアいけないやねえ」
善「じゃアね新吉さん、彦六さんの云う通りお前(めえ)の跡を慕って師匠が来たかも知れねえ」
新「伯父さん/\」
勘「うるさいな、ナニ稀代(きたい)だって、師匠は来てえるに違(ちげ)えねえ、今連れて行くんじゃアねえか」
と云いながらも、なんだか訝(おか)しいと思うから裏へ廻って、
勘「若衆(わかいしゅ)少し待っておくんなさい」
新「長屋の彦六さんがからかうのだから」
勘「師匠/\」
新「伯父さん/\」
勘「えゝよく呼ぶな、何(なん)だえ」
新「若衆少し待っておくれ、師匠/\」
と云いながら駕籠の引戸を明けて見ると、今乗ったばかりの豊志賀の姿が見えないので、新吉はゾッと肩から水を掛けられる様な心持で、ブル/\慄(ふる)えながら引戸をバタリと立てゝ台所へ這上(はいあが)りました。
勘「何(な)んて真似をして居るのだ、ぐず/\して何(なん)だ」
新「伯父さん、駕籠の中に師匠は居ないよ」
勘「エヽ居ねえか本当か」
新「今明けて見たら居ねえ、南無阿弥陀仏/\」
勘「厭(いや)だな、本当に涙をこぼして師匠が己(おれ)に頼んだが、お前(めえ)が家(うち)を出なければ斯(こ)んな事にはならねえ、お前(めえ)が出て歩くから斯んな事に、オイ表に人が待って居るじゃアねいか己(お)れが出よう」
と云うので店へ出て参りまして、
勘「お長屋の衆、大きに御苦労様で、実は新吉は、私に拠(よんどころ)ない用事があって、此方(こちら)へ参って居る留守中に師匠が亡なりまして、皆さん方が態々(わざ/\)知らして下すって有難うございます、生憎(あいにく)死目(しにめ)に逢いませんで、貴方がたも誠にお困(こまり)でございましょう、実に新吉も残惜(のこりお)しく思います、何(いず)れ只今私も新吉と同道で参りますから、ヘエ有難う、誠に御苦労様で」
長屋の者「左様で、じゃアお早くお出(い)でなすって」
勘「只今私が連れて参ります、誠に御苦労様、馬鹿」
新「其様(そんな)に叱っちゃアいけません、怖い中で叱られて堪(たま)るものか」
勘「己(おれ)だって怖いや、若衆大きに御苦労だったが、待賃(まちちん)は上げるがもう宜しいから帰っておくんなさい」
駕籠屋「ヘエ、何方(どなた)かお乗りなすったが、駕籠は何処(どこ)へ参ります」
勘「駕籠はもう宜しいからお帰りよ」
駕「でも何方かお女中が一人お召しなすったが」
勘「エヽナニ乗ったと見せてそれで乗らぬのだ、種々(いろ/\)訳があるから帰っておくれ」
駕「左様でげすか、ナ、オイ駕籠はもう宜(い)いと仰しゃるぜ」
駕「いゝったって今明けてお這入んなすった様だった、女中がネ、然(そ)うでないのですか、何(なん)だか訝(おか)しいな、じゃア行(ゆ)こうよ」
と駕籠を上げに掛ると、
駕「若(も)し/\、お女中が中に這入って居るに違いございません、駕籠が重うございますから」
新「エヽ、南無阿弥陀仏/\」
勘「オイ駕籠屋さん、戸を明けて見な」
駕「左様(そう)でげすか、オヤ/\/\成程居ない、気の故(せえ)で重(おも)てえと思ったと見える、成程|何方(どなた)も入らっしゃいません、左様(さよう)なら」
勘「これ新吉、表を締めなよ手前(てめえ)のお蔭で本当に此の年になって初めて斯(こ)んな怖い目に遇(あ)った、家(うち)は閉めて行(ゆ)くから一緒に行(い)きな」
新「伯父さん/\」
勘「何(なん)だよ、いやに続けて呼ぶな、跡の始末を附けなければならねえ」
と云うので是から家(うち)の戸締りをして弓張を点(つ)けて隣へ頼んで置いて大門町から出かけて行(ゆ)きます。新吉は小さくなって慄(ふる)えながら仕方なしに提灯を持って行(ゆ)く、
勘「さア新吉、然(そ)う後(あと)へ退(さが)っては暗くって仕様がねえ、提灯持は先へ出なよ」
新「伯父さん/\」
勘「なぜ然う続けて呼ぶよ」
新「伯父さん、師匠は全く私を怨んで来たのに違いございませんね」
勘「怨んで出るとも、手前(てめえ)考えて見ろ、彼(あれ)までお前(めえ)が世話になって、表向(おもてむき)亭主ではねえが、大事にしてくれたから、どんな無理な事があっても看病しなければならねえ、それをお前が置いて出りゃア、口惜(くやし)いと思って死んだから、其の念が来たのだ、死んで念の来る事は昔から幾らも聞いている」
新「伯父さん私は師匠が死んだとは思いません、先刻(さっき)逢ったら、矢張(やっぱり)平常(ふだん)着て居る小紋の寝衣(ねまき)を着て、涙をボロ/\翻(こぼ)して、私が悪いのだから元の様に綺麗さっぱりとあかの他人になって交際(つきあ)います、又月々幾ら送りますから姉だと思ってくれと、師匠が膝へ手を突いて云ったぜ、ワア」
勘「ア、何(なん)だ/\、エヽ胆(きも)を潰した」
新「ナニ白犬が飛出しました」
勘「アヽ胆を潰した、其の声は何だ、本当に魂消(たまげ)るね、胸が痛くなる」
と慄(ふる)えながら新吉は伯父と同道で七軒町へ帰りまして、是(こ)れから先(ま)ず早桶を誂(あつら)え湯灌(ゆかん)をする事になって、蒲団を上げ様とすると、蒲団の間に※[「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている](はさ)んであったのは豊志賀の書置(かきおき)で、此の書置を見て新吉は身の毛もよだつ程驚きましたが、此の書置は事細かに書遺(かきのこ)しました一通で是には何(なん)と書いてございますか、此の次に申し上げます。 
 

 

二十一
ちと模様違いの怪談話を筆記致しまする事になりまして、怪談話には取わけ小相(こあい)さんがよかろうと云うのでございますが、傍聴筆記でも、怪談のお話は早く致しますと大きに不都合でもあり、又怪談はネンバリ/\と、静かにお話をすると、却(かえ)って怖いものでございますが、話を早く致しますと、怖みを消すと云う事を仰しゃる方がございます。処が私(わたくし)は至って不弁で、ネト/\話を致す所から、怪談話がよかろうと云う社中のお思い付でございます。只今では大抵の事は神経病と云ってしまって少しも怪しい事はござりません。明(あきら)かな世の中でございますが、昔は幽霊が出るのは祟(たゝ)りがあるからだ怨(うらみ)の一念|三世(さんぜ)に伝わると申す因縁話を度々(たび/″\)承まわりました事がございます。豊志賀は実に執念深い女で、前(まえ)申上げた通り皆川宗悦の惣領娘でございます。此処(こゝ)に食客(いそうろう)に参っていて夫婦同様になって居た新吉と云うのは、深見新左衞門の二男、是も敵(かたき)同士の因縁で斯様(かよう)なる事に相成ります。豊志賀は深く新吉を怨んで相果てましたから、其の書遺(かきのこ)した一通を新吉が一人で開いて見ますると、病人のことで筆も思う様には廻りませんから、慄(ふる)える手で漸々(よう/\)書きましたと見え、その文には『心得違いにも、弟か息子の様な年下の男と深い中になり、是まで親切を尽したが、其の男に実意が有ればの事、私が大病で看病人も無いものを振捨てゝ出る様なる不実意な新吉と知らずに、是まで亭主と思い真実を尽したのは、実に口惜しいから、仮令(たとえ)此の儘死ねばとて、この怨は新吉の身体に纒(まつわ)って、此の後(ご)女房を持てば七人まではきっと取殺すから然(そ)う思え』と云う書置で、新吉は是を見てゾッとする程驚きましたが、斯様(かよう)な書置を他人に見せる事も出来ません、さればと申して、懐へ入れて居ても何(なん)だか怖くって気味が悪いし、何(ど)うする事も出来ませんから、湯灌の時に窃(そっ)とごまかして棺桶の中へ入れて、小石川|戸崎町(とさきまち)清松院(せいしょういん)と云う寺へ葬りました。伯父は、何(なん)でも法事供養をよく為(し)なければいかないから、墓参りに往(い)けよ/\と云うけれども、新吉は墓所(はかしょ)へ行(ゆ)くのは怖いから、成(なる)たけ昼間|往(ゆ)こうと思って、昼ばかり墓参りに往(ゆ)きます。八月二十六日が丁度|三七日(みなのか)で、其の日には都合が悪く墓参りが遅くなり、申刻(なゝつ)下(さが)りに墓参りをするものでないと其の頃申しましたが、其の日は空が少し曇って居るから、急ぎ足で参ったのは、只今の三時少し廻った時刻、寺の前でお花を買って、あの辺は井戸が深いから、漸(ようや)くの事で二つの手桶へ水を汲んで、両方の手に提(さ)げ、お花を抱えて石坂を上(あが)って、豊志賀の墓場へ来ると、誰(たれ)か先に一人拝んで居る者が在(あ)るから誰(たれ)かと思ってヒョイと見ると、羽生屋の娘お久、
久「おや/\新吉さん」
新「おや/\お久さん、誠に何(ど)うも、何うしてお出でなすった、恟(びっく)りしました」
久「私はね、アノお師匠さんのお墓参りをして上げたいと心に掛けて、間(ま)さえあれば七日/\には屹度(きっと)参ります」
新「そうですか、それは御親切に有難う」
久「お師匠さんは可哀相な事でして、其の後(のち)お目に掛りませんが、貴方は嘸(さぞ)お力落しでございましょう」
新「ヘエ、もう何(ど)うも落胆(がっかり)しました、是は大層結構なお花を有難う、何うも弱りましたよお久さん」
久「アノお前さん此の間蓮見鮨の二階で、私を置放(おきっぱな)しにして帰ってお仕まいなすって」
新「えゝナニ急に用が出来ましてそれから私が慌(あわ)てゝ帰ったので、つい御挨拶もしないで」
久「何(なん)だか私は恟りしましたよ、私をポンと突飛ばして二階からドン/\駈下(かけお)りて、私はまア何(ど)うなすったかと思って居りましたら、それ切(ぎ)りでお帰りも無し、私は本当に鮨屋へ間(ま)が悪うございますから、急に御用が出来て帰ったと云いましたが、それから一人ですから、お鮨が出来て来たのを折(おり)へ入れて提げて帰りました」
新「それは誠にお気の毒様で、然(そ)う見えたので……気の故(せい)で見えたのだね……眼に付いて居て眼の前に見えたのだナ彼(あれ)は……斯(こ)んな綺麗な顔を」
久「何を」
新「エヽ何サ宜(よ)うございます」
久「新吉さんいゝ処でお目に掛りました、私は疾(とう)からお前さんにお話をしようと思って居りましたが、私の処のお母(っか)さんは継母(まゝはゝ)でございますから、お前さんと私と、何(なん)でも訳があるように云って責折檻(せめせっかん)をします、何でも屹度(きっと)新吉さんと訳が有るだろう、何(なん)にも訳がなくって、お師匠さんが彼様(あんな)に悋気(りんき)らしい事を云って死ぬ気遣いは無い、屹度訳があるのだろうから云えと云うから、いゝえお母さんそんな事があっては済みませんから、決して然(そ)う云う事はありませんと云うのも聴かずに、此の頃はぶち打擲(ちょうちゃく)するので、私は誠に辛いから、いっそ家を駈出して、淵川(ふちかわ)へでも身を沈めて、死のうと思う事が度々(たび/″\)ございますが、それも余(あんま)り無分別だから、下総の伯父さんの処へ逃げて行きたいが、まさかに女一人で行かれもしませんからね」 
二十二
新「それじゃア下総へ一緒に行きましょうか」
と又怖いのも忘れて行(ゆ)く気になると、
久「新吉さん本当に私を連れて行って下さるなら、私は何様(どのよう)にも致します、屹度、お前さん末(すえ)始終|然(そ)う云う心なら、彼方(あっち)へ行けば、伯父さんに頼んで、お前さん一人位|何(ど)うにでも致しますから、何卒(どうぞ)連れて行って」
と若い同士とは云いながら、そんなら逃げよう、と直(すぐ)に墓場から駈落(かけおち)をして、其の晩は遅いから松戸(まつど)へ泊り、翌日宿屋を立って、あれから古賀崎(こがざき)の堤(どて)へかゝり、流山から花輪村(はなわむら)鰭ヶ崎(ひれがさき)へ出て、鰭ヶ崎の渡(わたし)を越えて水街道(みずかいどう)へかゝり、少し遅くはなりましたが、もう直(じき)に羽生村だと云う事だから、行(ゆ)くことにしよう、併(しか)し彼方(あちら)で直(すぐ)に御飯をたべるも極りが悪いから、此方(こゝ)で夜食をして行(い)こうと云うので、麹屋(こうじや)と云う家で夜食をして道を聞くと、これ/\で渡しを渡れば羽生村だ、土手に付いて行(ゆ)くと近いと云うので親切に教えてくれたから、お久の手を引いて此処(こゝ)を出ましたのが八月二十七日の晩で、鼻を撮(つま)まれるのも知れませんと云う真の闇、殊(こと)に風が吹いて、顔へポツリと雨がかゝります。あの辺は筑波山(つくばやま)から雲が出ますので、是からダラ/\と河原へ下(お)りまして、渡しを渡って横曾根村(よこぞねむら)へ着き、土手伝いに廻って行(ゆ)くと羽生村へ出ますが、其所(そこ)は只今|以(もっ)て累ヶ淵と申します。何(ど)う云う訳かと彼方(あちら)で聞きましたら、累が殺された所で、與右衞門(よえもん)が鎌で殺したのだと申しますが、それはうそだと云う事、全くは麁朶(そだ)を沢山(どっさり)脊負(しょ)わして置いて、累を突飛ばし、砂の中へ顔の滅込(めりこ)むようにして、上から與右衞門が乗掛って、砂で息を窒(と)めて殺したと云うが本説だと申す事、また祐天和尚(ゆうてんおしょう)が其の頃|脩行中(しゅぎょうちゅう)の事でございますから、頼まれて、累が淵へ莚(むしろ)を敷いて鉦(かね)を叩いて念仏供養を致した、其の功力(くりき)に依(よ)って累が成仏|得脱(とくだつ)したと云う、累が死んで後(のち)絶えず絹川の辺(ほとり)には鉦の音が聞えたと云う事でございますが、これは祐天和尚がカン/\/\/\叩いて居たのでございましょう。それから土手伝いで参ると、左りへ下りるダラ/\下り口があって、此処(こゝ)に用水があり、其の用水|辺(べり)にボサッカと云うものがあります。是は何(ど)う云う訳か、田舎ではボサッカと云って、樹(き)か草か分りません物が生えて何(なん)だかボサッカ/\致して居る。其所(そこ)は入合(いりあい)になって居る。丁度土手伝いにダラ/\下(お)りに掛ると、雨はポツリ/\降って来て、少したつとハラ/\/\と烈しく降出しそうな気色(けしき)でございます。すると遠くでゴロ/\と云う雷鳴で、ピカリ/\と時々|電光(いなびかり)が致します。
久「新吉さん/\」
新「えゝ」
久「怖いじゃアないか、雷様が鳴ってね」
新「ナニ先刻(さっき)聞いたには、土手を廻って下りさえすれば直(すぐ)に羽生村だと云うから、早く行って伯父さんに能(よ)く話をしてね」
久「行きさえすれば大丈夫、伯父さんに話をするから宜(い)いが、暗くって怖くって些(ちっ)とも歩けやしません」
新「サ此方(こっち)だよ」
久「はい」
と下りようとすると、土手の上からツル/\と滑って、お久が膝を突くと、
久「ア痛タヽヽ」
新「何(ど)うした」
久「新吉さん、今石の上か何かへ膝を突いて痛いから早く見ておくんなさいよ」
新「どう/″\、おゝ/\大層血が出る、何(ど)うしたんだ、何(なん)の上へ転んだ、石かえ」
と手を遣(や)ると草苅鎌。田舎では、草苅に小さい子や何かゞ秣(まぐさ)を苅りに出て、帰り掛(がけ)に草の中へ標(しるし)に鎌を突込(つっこ)んで置いて帰り、翌日来て、其処(そこ)から其の鎌を出して草を苅る事があるもので、大かた草苅が置いて行った鎌でございましょう。お久は其の上へ転んで、ズブリ膝の下へ鎌の先が這入ったから、夥(おびたゞ)しく血が流れる。 
二十三
新「こりゃア、困ったものですね、今お待ち手拭で縛るから」
久「何(ど)うも痛くって耐(たま)らないこと」
新「痛いたって真暗(まっくら)で些(ちっ)とも分らない、まアお待ち、此の手拭で縛って上げるから又一つ斯(こ)う縛るから」
久「あゝ大きに痛みも去った様でございますよ」
新「我慢してお出でよ、私が負(おぶ)い度(た)いが、包を脊負(しょ)ってるから負(おぶ)う事が出来ないが、私の肩へ確(しっか)り攫(つか)まってお出でな」
と、びっこ引きながら、
久「あい有難う、新吉さん、私はまア本当に願いが届いて、お前さんと二人で斯(こ)う遣(や)って斯んな田舎へ逃げて来ましたが、是から世帯(しょたい)を持って夫婦|中能(なかよ)く暮せれば、是程嬉しい事はないけれども、お前さんは男振(おとこぶり)は好(よ)し、浮気者と云う事も知って居るから、ひょっとして外(ほか)の女と浮気をして、お前さんが私に愛想が尽きて見捨てられたら其の時は何(ど)うしようと思うと、今から苦労でなりませんわ」
新「何(なん)だね、見捨てるの見捨てないのと、昨夜(ゆうべ)初めて松戸へ泊ったばかりで、見捨てるも何も無いじゃアないか、訝(おか)しく疑るね」
久「いゝえ貴方は見捨てるよ、見捨てるような人だもの」
新「何(なん)でそんな、お前の伯父さんを便(たよ)って厄介になろうと云うのだから、決して見捨てる気遣(きづかい)はないわね、見捨てれば此方(こっち)が困るからね」
久「旨く云って、見捨てるよ」
新「何故そう思うんだね」
久「何故だって、新吉さん私は斯(こ)んな顔になったよ」
新「えゝ」
と新吉が見ると、お久の綺麗な顔の、眼の下にポツリと一つの腫物(しゅもつ)が出来たかと思うと、忽(たちま)ち腫れ上ってまるで死んだ豊志賀の通りの顔になり、膝に手を突いて居る所が、鼻を撮(つま)まれるも知れない真の闇に、顔ばかりあり/\と見えた時は、新吉は怖い三眛(ざんまい)、一生懸命無茶苦茶に鎌で打(ぶ)ちましたが、はずみとは云いながら、逃げに掛りましたお久の咽喉(のどぶえ)へ掛りましたから、
久「あっ」
と前へのめる途端に、研澄(とぎす)ました鎌で咽喉を斬られたことでございますから、お久は前へのめって、草を掴んで七転八倒の苦しみ、
久「うゝン恨めしい」
と云う一声(ひとこえ)で息は絶えました。新吉は鎌を持ったなり
新「南無阿弥陀仏/\/\」
と一生懸命に口の中(うち)で念仏を唱えまする途端に、ドウ/\と云う車軸を流すような大雨、ガラ/\/\/\/\と云う雷鳴|頻(しき)りに轟(とゞろ)き渡るから、知らぬ土地で人を殺し、殊(こと)に大雨に雷鳴(かみなり)ゆえ、新吉は怖い一三眛(いっさんまい)、早く逃げようと包を脊負(しょ)って、ひょっと人に見られてはならぬと慄(ふる)える足を踏締めながらあせります。すると雨で粘土(ねばつち)が滑るから、ズルリ滑って落ちると、ボサッカの脇の処へズデンドウと臀餅(しりもち)を搗きまする、とボサッカの中から頬冠(ほゝかぶり)をした奴がニョコリと立った。此の時は新吉が驚きましたの驚きませんのではない。
新「ア」
と息が止るようで、後(あと)へ退(さが)って向(むこう)を見透(みすか)すと、向の奴も怖かったと見えて此方(こっち)を覗(のぞ)く、互(たがい)に見合いましたが、何様(なにさま)真の闇で、互に睨(にら)みあった処が何方(どっち)も顔を見る事が出来ません。新吉は電光(いなびかり)の時に顔を見られないようにすると、其の野郎も雷(らい)が嫌いだと見えて能(よ)く見る事も致しません。電光の後で闇(くら)くなると、
男「この泥坊」
と云うので新吉の襟を掴みましたが、是は土手下の甚藏(じんぞう)と云う悪漢(わるもの)、只今|小博奕(こばくち)をして居る処へ突然(いきなり)手が這入り、其処(そこ)を潜(くゞ)り抜けたが、烈しく追手(おって)が掛りますから、用水の中を潜り抜けてボサッカの中へ小さくなって居る処へ、新吉が落ちたから、驚いてニョコリと此の野郎が立ったから、新吉は又|怪物(ばけもの)が出たかと思って驚きましたが、新吉は襟がみを取られた時は、もう天命|極(きわ)まったとは思ったが、死物狂いで無茶苦茶に掻毟(かきむし)るから、此の土手の甚藏が手を放すと、新吉は逃げに掛る途端、腹這に倒れました。すると甚藏は是を追駈(おっか)けようとして新吉に躓(つま)づき向(むこう)の方へコロ/\と転がって、甚藏はボサッカの用水の中へ転がり落ちたから、此の間に逃げようとする。又|後(うしろ)から、
甚「此の野郎」
と足を取ってすくわれたから仰向に倒れる処へ、甚藏が乗掛って掴まえようとする処を、新吉が足を挙げて股を蹴(けっ)たのが睾丸(きんたま)に当ったから、
甚「ア痛タ」
と倒れる処を新吉が掴み付こうと思ったが、イヤ/\荷物を脇へ落したからと荷物を探す途端に、甚藏の面(つら)へ毟(むし)り付いたから、
甚「此の野郎」
と組付いた処を其の手を取って逆に捻(ねじ)ると、ズル/\ズデンと滑って転げると云う騒ぎで、二人とも泥ぼっけになると、三町ばかり先へ落雷でガラ/\/\/\/\ビューと火の棒の様なる物が下(さが)ると、丁度|浄禅寺(じょうぜんじ)ヶ淵辺りへピシーリと落雷、其の響(ひゞき)に驚いて、土手の甚藏は、体(なり)は大兵(だいひょう)で度胸も好(い)い男だが、虫が嫌うと見え、落雷に驚いてボサッカの中へ倒れました。すると新吉は雷よりも甚藏が怖いから、此の間(ま)に包を抱えて土手へ這上(はいあが)り、無茶苦茶に何処(どこ)を何(ど)う逃げたか覚え無しに、畑の中や堤(どて)を越して無法に逃げて行(ゆ)く、と一軒|茅葺(かやぶき)の家の中で焚物(たきもの)をすると見え、戸外(おもて)へ火光(あかり)が映(さ)すから、何卒(どうぞ)助けて呉れと叩き起しましたが、其の家(うち)は土手の甚藏の家(うち)、間抜な奴で、新吉再び土手の甚藏に取って押えられると云う。是から追々(おい/\)怪談になりますが、一寸一息つきまして。 
二十四
一席引続きましてお聞(きゝ)に入れますは、累が淵のお話でございます。新吉は土手の甚藏に引留められ、既に危(あやう)い処へ、浄禅寺ヶ淵へ落雷した音に驚き、甚藏が手を放したのを幸い、其の紛れに逃延びましたが、何分(なにぶん)にも初めて参った田舎道、勝手を心得ませんから、たゞ畑の中でも田の中でも、無茶苦茶に泥だらけになって逃げ出しまして、土手伝いでなだれを下(お)り、鼻を撮(つま)まれるも知れません二十七日の晩でございますが、透(すか)して見ると一軒茅葺屋根の棟(むね)が見えましたから、是は好(い)い塩梅だ、此処(こゝ)に人家があったと云うので、駈下りて覗くと、チラ/\焚火(たきび)の明(あかり)が見えます。
新「ヘエ、御免なさい/\、少し御免なさい、お願いでございます」
男「誰だか」
新「ヘイ、私(わたくし)は江戸の者でございますが、御当地へ参りまして、此の大雨に雷鳴(かみなり)で、誠に道も分りませんで難儀を致しますが、少しの間お置きなすって下さる訳には参りますまいか、雨の晴れます間でげすがナ」
男「ハア大雨に雷鳴で困るてえ、それだら明けて這入りなせい、明(あけ)る戸だに」
新「ヘエ左様でげすか、御免なさい、慌(あわ)てゝ居りますから戸が隙(す)いて居りますのも夢中でね、ヘイ何(ど)うも初めて参りましたが、泊(とまり)で聞き/\参りました者で、勝手を知りませんから難儀致しまして、もう川へ落ちたり田の中へ落ちましたりして、漸々(よう/\)の事で此方(こちら)まで参りましたが、何うか一晩お泊めなすって下されますれば有難い事で」
男「泊めるたって泊めねえたって己(おれ)の家(うち)じゃアねえ、己も通り掛って雷鳴が嫌いで、大雨は降るし、仕様が無(な)えが、此処(こゝ)ナ家(いえ)へ駈込んで、主(あるじ)は留守だが雨止(あまや)みをする間、火の気が無(な)えから些(ちっ)とばかり麁朶(そだ)を突燻(つっくべ)て燃(もや)して居るだが、己が家(うち)でなえから泊める訳にはいきませんが、今|主(あるじ)が帰(けえ)るかも知んねえ、困るなれば、此処(こゝ)へ来て、囲炉裡(いろり)の傍(はた)で濡れた着物を炙(あぶ)って、煙草でも呑んで緩(ゆっく)り休みなさえ」
新「ヘエ貴方の家(うち)でないので」
男「私(わし)が家では無(な)えが、同村(どうそん)の者だが雨で仕様がねえから来ただ」
新「左様で、此方(こちら)の御主人様は御用でも有ってお出掛になったので」
男「なアに主(あるじ)は十日も廿日(はつか)も帰らぬ事もある、まア上りなさえ」
新「有難うございますが泥だらけになりまして」
男「泥だらけだって己も泥足で駈込んだ、此方(こっち)へ上りなさえ、江戸の者が在郷へ来ては泊る処に困る、宿を取るには水街道へ行がねえば無(ね)えからよ」
新「はい水街道の方から参ったので、有難うございます、実に驚きました、酷(ひど)い雨で、此様(こんな)に降ろうとは思いませんでした、実に雨は一番困りますな」
男「今雨が降らんでは作(さく)の為によく無(な)えから、私(わし)の方じゃア降(ふる)も些(ちっ)とはよいちゃア」
新「成程そうでしょうねえ、雷鳴(かみなり)には実に驚きまして、此地(こっち)は筑波(つくば)近(ぢか)いので雷鳴は酷(ひど)うございますね」
男「雷も鳴る時に鳴らぬと作の為によく無(な)えから鳴るもえゝだよ」
新「ヘエー、然(そ)うでげすか、此方(こちら)の旦那様は何時頃(いつごろ)帰りましょうか」
男「何時(いつ)帰(けえ)るか知れぬが、まア、何時帰ると私等(わしら)に断って出た訳で無(ね)えから受合えねえが、明けると大概|七(なゝ)八日(ようか)ぐれえ帰らぬ男で」
新「ヘエ、困りますな、何(ど)う云う御商売で」
男「何うだって遊人(あそびにん)だ、彼方(あっち)此方(こっち)二晩三晩と何処(どこ)から何処へ行くか知れねえ男で、やくざ野郎サ」
新「左様で、道楽なお方でございますので」
男「道楽だって村じゃア蝮(まむし)と云う男だけれども、又用に立つ男さ」
と悪口(わるくち)をきいて居る処へ、ガラリと戸を明けて帰って来たが、ずぶ濡(ぬれ)で、
甚「あゝ酷(ひど)かった」
男「帰(けえ)ったか」
甚「ムヽ今|帰(けえ)った、誰だ清(せい)さんか、今帰ったが、松(まつ)が賀(か)で詰らねえ小博奕(こばくち)へ手を出して打って居ると、突然(だしぬけ)に手が這入(へえ)って、一生懸命に逃げたが、仕様がねえから用水の中へ這入って、ボサッカの中へ隠れて居た」
清「己(おれ)は今通り掛(がゝ)って雨に遇(あ)って逃げる処がねえのに、雷様(らいさま)が鳴って来たから魂消(たまげ)てお前(めえ)らが家(うち)へ駈込んで、今囲炉裡へ麁朶ア一燻(ひとくべ)したゞ」
甚「いゝや何(ど)うせ開(あけ)ッ放(ぱな)しの家(うち)だアから、是は何処(どこ)の者だ、何(なん)だいお前(めえ)は」
清「此家(ここ)な主人(あるじ)で、挨拶さっせえ、是は江戸の者だが雨が降って雷鳴(かみなり)に驚き泊めてくれと云うが、己(おれ)が家(うち)でねえからと話して居る処だ、是が主人だ」
新「左様で、初めまして、私(わたくし)は江戸の者で、小商(こあきない)を致します新吉と申す不調法者、此地(こちら)へ参りましたが、雷鳴(かみなり)が嫌いで此方様(こちらさま)へ駈込んだ処が、お留守様でございますから泊(とめ)る訳にはいかぬと仰しゃって、お話をして居る処で、よくお帰りで、何卒(どうぞ)今晩一晩お泊め下されば有難い事で、追々夜が更けますから、何卒一晩|何様(どん)な処でも寝かして下されば宜しいので」
甚「好(い)い若(わけ)え者(もん)だ、いゝや、まア泊って行きねえ、何(ど)うせ着て寝る物はねえ、留守勝(るすがち)だから食物(くいもの)もねえ、鍋は脇へ預けてしまったしするから、コロリと寝て明日(あした)行きねえ、己と一緒に寝ねえ」
新「ヘエ、有難う存じます」
清「己(おら)ア帰(けえ)るよ」
甚「まア/\宜(い)いやな」
清「己ア帰るべい、何か、手が這入(へえ)ったか」
甚「困ったからボサッカの中へ隠れて居たので、お前(めえ)帰(けえ)るならうっかり往(い)っちゃアいけねえ、今夜ボサッカの脇に人殺しが有った」
清「何処(どこ)に」
甚「己がボサッカの中に隠れて居ると、暗くって分らぬが、きゃアと云う声がノウ女の殺される声だねえ、まア本当に殺される声は今迄知らねえが、劇場(しばい)で女が切殺される時、きゃアとかあれイとか云うが、そんな事を云ったってお前(めえ)には分らねえが、凄(すご)いものだ、己も怖かった」
清「怖(おっ)かねえ、女をまア、何(なん)てエ、人を殺すったって村方(むらかた)の土手じゃアねえか、ウーン怖かなかんべえ、ウーン何(ど)うした」
甚「何うしたって凄いやア、うっかり通って怪我(けが)でもするといけねえから、其の野郎は刀や何かで殺す程の者でもねえ奴で、鎌で殺しゃアがったのよ、女の死骸は川へ投(ほう)り込んだ様子、忌々(いめえま)しい畜生(ちきしょう)だ、此の村へも盗人(ぬすっと)に這入(へえ)りやアがるだろうと思うから、其の野郎の襟首(えりくび)を取って引摺(ひきず)り倒した、すると雷が落ちて、己はどんな事にも驚きゃアしねえが雷には驚く、きゃアと云って田の畔(くろ)へ転げると、其の機(はずみ)に逃げられたが、忌々しい事をした」 
二十五
清「怖(おっ)かねえナ、然(そ)うか怖かなくて通れねえ」
甚「気を付けて行きねえ」
清「まだ居るかなア」
甚「もう居やアしめえ、大丈夫(でえじょうぶ)だ、美人(いゝおんな)なら殺すだろうが、お前(めえ)のような爺さんを殺す気遣いはねえ」
清「じゃア己(おれ)帰(けえ)る、エヽ、じゃア又|些(ちっ)とべえ畑の物が出来たらくれべえ」
甚「何か持って来て呉れても煮て食う間(ま)がねえから、左様なら、ピッタリ締めて行ってくれ、若者(わけえの)もっと此方(こっち)へ来(き)ねえ」
新「ヘエ」
甚「お前(めえ)江戸から来るにゃア水街道から来たか、船でか」
新「ヘエ渡(わたし)を越して、弘教寺(くぎょうじ)と云うお寺の脇から土手へ掛って参りました」
甚「此方(こっち)へ来る土手で能(よ)く人殺しに出会(でっくわ)さなかったな」
新「私(わたくし)は運よく出会しませんでした」
甚「まア斯(こ)う、見ねえ、是はノ、其の女を殺した奴が投(ほう)り出した鎌を拾って来たが、見ねえ」
と鎌の刄(は)に巻付けてあった手拭をぐる/\と取って、
甚「此の鎌で殺しゃアがった、酷(ひど)い雨で段々|血(のり)は無くなったが、見ねえ、血(ち)が滅多に落(おち)ねえ物とみえて染込(しみこ)んで居らア、磨澄(とぎすま)した鎌で殺しゃアがった、是で遣(や)りゃアがった」
新「ヘエー誠に何(ど)うも怖(おっか)ない事でげすナ」
甚「ナニ」
新「ヘエ怖(こわ)い事ですねえ」
甚「怖いたって、此の鎌で是れで遣りゃアがった」
新「ヘエ」
と鎌と甚藏を見ると、先刻(さっき)襟首を取って引摺り倒した奴は此奴(こいつ)だな、と思うと、身体が慄(ふる)えて顔色(がんしょく)が違うから、甚藏は物をも言わず新吉の顔を見詰めて居りましたが、鎌をだしぬけに前へ投(ほう)り付けたから、新吉は恟(びっく)りした。
甚「おい/\余(あんま)り薄気味(うすっきみ)がよくねえ、今夜は泊って行きねえ」
新「ヘイ大きに雨が小降(こぶり)になりました様子で、是で私(わたくし)はお暇(いとま)を致そうと存じます」
甚「是から行ったって泊める処(とこ)もねえ小村(こむら)だから、水街道へ行かなけりゃア泊る旅籠屋(はたごや)はねえ、まア宜(い)いやナ、江戸子(えどっこ)なれば懐かしいや、己も本郷菊坂生れで、無懶(やくざ)でぐずッかして居るが、小博奕が出来るから此処(こゝ)に居るのだが、お前(めえ)も子柄(こがら)はよし、今の若気(わかぎ)でこんな片田舎へ来て、儲かる処(どころ)か苦労するな、些(ちっ)とは訳があって来たろうが、お前が此処で小商(こあきない)でも仕ようと云うなら己(おら)が家(うち)に居て貰いてえ、江戸子てエ者は、田舎へ来て江戸子に遇(あ)うと、親類にでも逢った心持がして懐かしいから、江戸と云うと、肩書ばかりで、身寄でも親類でもねえが其処(そこ)ア情合(じょうあい)だ、己は遊んで歩くから、家はまるで留守じゃアあるし、お前此処に居て留守居をして荒物や駄菓子でも并(なら)べて居りゃア、此処は花売や野菜物(せんざいもの)を売る者が来て休む処で、何(なん)でもポカ/\捌(はけ)るが、おいお前留守居をしながら商売(あきねえ)して居てくれゝば己も安心して家をお前に預けて明(あけ)るが、何も盗まれる物はねえが、一軒の主(あるじ)だから、おいお前此処でそうして留守居をしてくれゝば、己が帰(けえ)って来ても火は有るし、茶は沸いて居るし、帰って来ても心持がいゝ、己ア土手の甚藏と云う者だが、村の者に憎まれて居るのよ、それがノ口をきくのが江戸子同士でなけりゃア何(ど)うしても話が合わねえ、己は兄弟も身寄もねえし、江戸を喰詰めて帰れる訳でもねえから、己と兄弟分になってくんねえ」
新「有難う存じますな、私(わたくし)も身寄兄弟も無い者で、少し訳があって参りました者でございますが、少し頼る処が有って参りました者で、此方(こちら)へ参ってから、だしぬけに亡(なく)なりましたので」
甚「死んだのかえ」
新「ヘエ其処(そこ)が、ヘエ何(なん)で、変になりましたので、ヘエ、何処(どこ)へも参る処は無いのでございますから、お宅を貸して下すって商いでもさして下されば有難い事で、私(わたくし)は新吉と申す者で、何分(なにぶん)親分|御贔屓(ごひいき)にお引立を願います」
甚「話は早いがいゝが、其処(そこ)は江戸子(えどこ)だからのう、兄弟分の固めを仕なければならねえが、おいお前(めえ)田舎は堅えから、己の弟分だと云えば、何様(どんな)間違(まちげえ)が有ったってもお前他人にけじめを食う気遣(きづけえ)ねえ、己の事を云やア他人(ひと)が嫌がって居るくれえだからナ、其方(そっち)の強身(つよみ)よ、さア兄弟分(きょうでいぶん)の固めをして、お互(たげえ)にのう」
新「ヘイ有難うございます、何分どうか、其の替り身体で働きます事は厭(いと)いませんから、どんな事でも仰しゃり付けて下さればお役には立ちませんでも骨を折ります」
甚「お前(めえ)幾才(いくつ)だ」
新「ヘエ二十二でございます」
甚「色の白(しれ)え好男(いゝおとこ)だね、女が惚れるたちだね、酒が無(ね)えから兄弟分(きょうでえぶん)の固めには、先刻(さっき)一燻(ひとくべ)したばかりだから、微温(ぬるま)になって居るが、此の番茶を替りに、己が先へ飲むから是を半分飲みな」
新「ヘエー有難うございます、恰(ちょう)ど咽喉(のど)も乾いて居りますから、エヽ有難うございます、誠に私(わたくし)も力を得ました」
甚「おい兄弟分(きょうでえぶん)だよ、いゝかえ」
新「ヘエ」
甚「兄弟分に成ったから兄に物を隠しちゃアいけねえぜ」
新「ヘエ/\」
甚「お互(たげえ)に悪い事も善(い)い事も打明けて話し合うのが兄弟分だ、いゝか」
新「ヘエ/\」
甚「今夜土手で女を殺したのはお前(めえ)だのう」
新「イヽエ」
甚「とぼけやアがるなエ此畜生(こんちきしょう)、云いねえ、云えよ」
新「な、何を被仰(おっしゃる)ので」
甚「とぼけやアがって此畜生め、先刻(さっき)鎌を出したら手前(てめえ)の面付(つらつき)は変ったぜ、殺したら殺したと云えよ」
新「何(ど)うもトヽ飛んでもない事を仰しゃる、私(わたくし)は何うもそんな、外(ほか)の事と違い人を殺すなぞと、苟(かり)にも私は、どうも此方様(こちらさま)には居(お)られません、ヘエ」
甚「居られなければ出て行け、さア居られなければ出て行きや、無理に置こうとは云わねえ、兄弟分(きょうだいぶん)になれば善(い)い悪いを明(あか)しあうのが兄弟分だ、兄分(あにぶん)の己の口から縛らせる気遣(きづけえ)ねえ、殺したから殺したと云えと云うに」
新「何うもそれは困りますね、何(なに)もそんな事を、何うも是は、何うも外の事と違いますからねエ、何うもヘエ、人を殺すなぞと、そんな私(わたくし)ども、ヘエ何うも」
甚「此畜生分らねえ才槌(さいづち)だな、間抜め、殺したに相違ねえ、そんな奴を置くと村の難儀になるから、手前(てめえ)を追出す代りに、己の口から訴人して、踏縛(ふんじば)って代官所へでも役所へでも引くから然(そ)う思え」 
二十六
新「何うも私(わたくし)はもうお暇(いとま)致します」
甚「行きねえ、己が踏縛(ふんじば)るからいゝか」
新「そんな、何うも、無理を仰しゃって、私(わたくし)が何(な)んで、何うも」
甚「分らねえ畜生だナ、手前(てめえ)殺したと打明けて云えよ、手前の悪事を、己は兄分(あにぶん)だから云う気遣(きづけえ)はねえ、お互(たげえ)に、悪事を云ってくれるなと隠し合うのが兄弟分(きょうだいぶん)のよしみだから、是っぱかりも云わねえから云えよ、云わなければ代官所へ引張(ひっぱ)って行くぞ、さア云え」
新「ヘエ、何うも、ち…些(ちっ)とばかり、こ…殺しました」
甚「些とばかり殺す奴があるものかえ、女を殺して手前(てめえ)金を幾ら取った」
新「幾らにも何も取りは致しません」
甚「分らねえ事を云うな、金を取らねえで何(な)んで殺した、金があるから殺して取ったろう、懐(ふところ)に有ったろう」
新「金も何も無いので」
甚「有ると思ったのが無(ね)えのか」
新「ナニ然(そ)うじゃアございません、あれは私(わたくし)の女房でございます」
甚「分らねえ事を云う、ナニ此畜生(こんちきしょう)、女房(かゝあ)を何(な)んで殺した、外(ほか)に浮気な事でもして邪魔になるから殺したのか」
新「ナニ然(そ)うじゃア無いので」
甚「何(ど)う云う訳だ」
新「困りますナ、じゃア私(わたくし)が打明けてお話致しますが、貴方決して口外して下さるな」
甚「なに、口外しねえから云えよ」
新「本当でげすか」
甚「為(し)ないよ」
新「じゃア申しますが実は私(わたくし)はその、殺す気も何もなく彼処(あすこ)へ参りますと、あれがその、お化(ばけ)でな」
甚「何がお化だ」
新「私(わたくし)の身体へ附纒(つきまと)うので」
甚「薄気味の悪い事を云うな、何が附纒うのだ」
新「詳しい事を申しますが、私(わたくし)は根津七軒町の富本豊志賀と申す師匠の処へ食客(いそうろう)に居りますと、豊志賀が年は三十を越した女でげすが、堅い師匠で、評判もよかったが、私が食客になりまして、豊志賀が私の様な者に一寸(ちょっと)岡惚(おかぼれ)をしたのでな」
甚「いやな畜生だ惚気(のろけ)を聞くんじゃアねえ、女を殺した訳を云えよ」
新「それから私(わたくし)も心得違いをして、表向(おもてむき)は師匠と食客ですが、内所(ないしょ)は夫婦同様で只ぶら/\と一緒に居りました、そうすると此処(こゝ)へ稽古に参ります根津の総門内の羽生屋と申す小間物屋の娘がその、私に何(なん)だか惚れた様に師匠に見えますので」
甚「うん、それから」
新「それを師匠が嫉妬(やきもち)をやきまして、何も怪しい事も無いのにワク/\して、眼の縁(ふち)へポツリと腫物(できもの)が出来まして、それが斯(こ)う膨(は)れまして、こんな顔になり其の顔で私の胸倉を取って悋気(りんき)をしますから居(い)られませんので、私が豊志賀の家(うち)を駈出した跡で師匠が狂い死(じに)に死にましたので、死ぬ時の書置(かきおき)に、新吉と夫婦になる女は七人まで取殺すと云う書置がありましたので」
甚「ふうん執念深(しゅうねんぶけ)え女だな、成程ふうん」
新「それで、師匠が亡(なく)なりましたから、お久と云う土手で殺した娘が、連れて逃げてくれと云い、伯父が羽生村に居るから伯父を尋ねて世帯(しょたい)を持とうと云うので、それなら田舎へ行って、倶(とも)に夫婦になろうと云う約束で出て参ったので」
甚「出て来てそれから」
新「先刻(さっき)彼処(あすこ)へ掛ると雨は降出します、土手を下りるにも、鼻を撮(つま)まれるも知れません真の闇で、すると、お久の眼の下へポツリと腫物(できもの)みたような物が出来たかと思うと、見て居るうちに急に腫れ上りましてねえ、ヘエ、貴方死んだ師匠の通りの顔になりまして、膝に手を付きまして私(わたくし)の顔をじいッと見詰めて居ました時は私は慄(ぞ)っと致しましたので、ヘエ怖い一生懸命に私が斯(こ)う鎌で殺す気も何(なんに)もなく殺してしまって見ると、其様(そん)な顔でも何(なん)でもないので、私がしょっちゅう師匠の事ばかり夢に見るくらいでございますから、顔が眼に付いて居るので、殺す気もなくお久と云う娘を殺しましたが、綺麗な顔の娘が然(そ)う云うように見えたので、見えたから師匠が化けたと思って、鎌でやったので、ヘエ、やっぱり死んだ豊志賀が祟(たゝ)って居りますので、七人まで取殺すと云うのだから私の手をもって殺さしたと思うと、実に身の毛がよだちまして、怖かったの何(なん)のと、其の時お前さんが来て泥坊、と襟首を掴んだから一生懸命に身を振払って逃げ、まア宜(い)いと思うと、一軒家(いっけんや)が有ったから来たら、やっぱり貴方の家(うち)へ来たから、泡をくったのでねえ」
甚「ふうんそれじゃア其の師匠は手前(てめえ)に惚れて、狂死(くるいじに)に死んで、外(ほか)の女を女房にすれば取殺すと云う書置の通り祟って居るのだな」
新「祟って居るったって私(わたくし)の身体は幽霊が離れないのでヘエ」
甚「気味(きび)の悪い奴が飛込んで来たな、薄気味(うすきび)の悪い、鎌を手前(てめえ)が持って居るから悪(わり)いのだ」
新「鎌も其処(そこ)に落ちて有ったので、其処へお久が転んだので、膝の処へ少し疵(きず)が付き、介抱して居るうち然(そ)う見えたので、それで無茶苦茶にやったので、拾った鎌です」
甚「そうか、此の鎌は村の者の鎌だ、そんならそれで宜(い)いや、宜いが、おい幾ら金を取ったよう」
新「金は取りは致しません」
甚「女を連れて逃げる時、お前(めえ)の云うにア小間物屋の娘だお嬢さんだと云うのだ、連れて逃げるにゃア、路銀(ろぎん)がなければいかねえから幾らか持出せと智慧を付けて盗ましたろう」
新「金も何も、私(わたくし)は卵塔場(らんとうば)から逃げたので」
甚「気味(きび)の悪い事ばかり云やアがって、何(な)んで」
新「私(わたくし)は師匠の墓詣(はかまい)りに参りますと、お久も墓詣りに参って居りまして、墓場でおやお久さんおや新吉さんかと云う訳で」
甚「そんな事は何(ど)うでもいゝやア」
新「それから逃げて私(わたくし)は一|分(ぶ)三|朱(しゅ)と二百五十六文、女は三朱と四十八文ばかり有ったので、其の外(ほか)にはお花と線香を持って居るばかり、それから松戸で一晩泊りましたから、些(ちっ)とばかり残って居ります」
甚「一文なしか」
新「ヘエー」 
二十七
甚「詰らねえ奴が飛込みやアがったな、仕方がねえ、じゃアまア居ろ」
新「ヘエ何(ど)うぞ置いておくんなすって、其の事は何うか仰しゃってはいけませんから」
甚「厄介な奴だ、畜生(ちきしょう)め、銭(ぜに)が無くて幽霊を脊負(しょ)って来やアがって仕様がねえ、其処(そこ)へ寝ろ」
と仕方が無いから其の夜(よ)は寝ましたが、翌朝(よくあさ)から土鍋で飯は焚(た)きまして、お菜(かず)は外(そと)から買って来まして喰いますような事で、此処(こゝ)に居(おり)ます。甚藏はぶら/\遊び歩きます。すると、此処から村までは彼是(かれこ)れ四五丁程もある土手下で、花や野菜物(せんざいもの)を担(かつ)いで来たり、肥桶(こいおけ)なぞをおろして百姓衆の休所(やすみどこ)で、
農夫「太左衞門(たざえもん)何処(どこ)へ行くだ」
太「今帰りよ」
農「そうか」
太「此間(こねえだ)勘右衞門(かんえもん)の所(とけ)へ頼んで置いた、些(ちっ)とベエ午房種(ごぼうだね)を貰うベエと思ってノウ」
農「然(そ)うか、何(なん)とハア此の村でも段々|人気(にんき)が悪くなって、人の心も変ったが、徳野郎あれはあのくれえ太(ふて)え奴はねえノ」
太「あの野郎|何(なん)でも口の先で他人(ひと)を瞞(だま)して銭を借(かり)る事は上手だが、大(で)けえ声では云えねえが、此処(こゝ)な甚藏は蝮野郎(まむしやろう)でよくねえ怖(おっ)かねえ野郎でのう」
太「今日は大分(だいぶ)婆(ば)ア様が通るが何処(どこ)へ行くだ」
農夫「三藏どんの処(とこ)で法事があるで、此間(こねえだ)此処(こゝ)に女が殺されて川へ投(ほう)り込まれて有って、引揚げて見たら、守(まもり)の中に名前書(なめえがき)が這入(へえ)って居たので、段々調べたら三藏どんが家(うち)の姪(めい)に当る女子(おんなこ)で、母様(かゝさま)が継母(まゝはゝ)で、苛(いじ)められて居られなくって尋ねて来ただが、些(ちっ)とは小遣(こづかい)も持って居ただが、泥坊が附いて来て突落(つきおと)して逃げたと云う訳で、三藏どんは親切な人で、引揚げて届ける所へ届けて、漸(ようや)く事済んで、葬りも済んで、今日は七日(なぬか)でお寺様へ婆ア様達を聘(ほじ)って御馳走するてえので、久し振で米の飯が食えると云って悦んで往(い)きやしッけ、法蔵寺(ほうぞうじ)様へ葬りに成っただ」
太「然(そ)うか、それで婆ア様ア悦んで行くのだ、久しく尋ねねえだが秋口は用が多えで此の間買った馬は二両五粒だが、高(たけ)え馬だ、見毛(みけ)は宜(い)いが、何(ど)うも膝頭(ひざっこ)突く馬で下り坂は危ねえの、嚏(くしゃみ)ばかりして屁(へ)ベエたれ通しで肉おっぴり出す程だによ、婆ア様に宜しく云って下せえ、左様だら」
新吉は内で此の話を聞いて居りましたが、お久を葬むったと云うから参詣(さんけい)しなければ悪いと思い、
新「もし/\」
農「あゝ魂消(たまげ)た、何処(どこ)から出ただ」
新「私(わたし)は此処(こゝ)に居(い)るので」
農「誰(たれ)も居ねえと思ったが何(なん)だか」
新「只今お聞き申しましたが土手の脇で殺されました女の死骸は、何(なん)と云うお寺へ葬りになりました、三藏さんてえお方が追福(ついふく)なさると聞きましたが、何と云うお寺へ葬りましたか」
農「法蔵寺様てえ寺で、累(かさね)の葬ってある寺と聞けば直(じき)に知れます」
新「ヘエー成程」
農「何(なん)だね、なに其様(そん)な事を聞くのか」
新「私は無尽(むじん)のまじないに、なにそう云う仏様に線香を上げると無尽が当ると云うので、ヘエ有難う存じます」
と、是から段々尋ねて、花と線香を持って墓場へ参りました。寺で聞けば宜しいに、己(おのれ)が殺した女の墓所(はかしょ)、事によったら、咎(とが)められはしないか、と脚疵(すねきず)で、手桶を提(さ)げて墓場でまご/\して居る。
新「これだろう、これに違いない、是だ/\、花を※[「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている](さ)して置きさえすれば宜しい、何処(どこ)へ葬っても同(おんな)じだが、因縁とか何(なん)とか云うので、お久の伯父さんを便(たよ)って二人で逃げて来て、師匠の祟りで殺したくもねえ可愛い女房を殺したのだが、お久は此処(こゝ)へ葬りになり、己(おれ)は、逃げれば甚藏が訴人するから、やっぱり羽生村に足を止めて墓詣(はかまいり)に来られる。是もやっぱり因縁の深いのだ。南無阿弥陀仏/\、エヽと法月童女(ほうげつどうにょ)と、何(なん)だ是は子供の戒名だ」
と、頻(しき)りにまご/\して居る処へ、這入って来ました娘は、二十才(はたち)を一つも越したかと云う年頃、まだ元服前の大島田、色の白い鼻筋の通った二重瞼(ふたえまぶち)の、大柄ではございますが人柄の好(い)い、衣装(なり)は常着(ふだんぎ)だから好(よ)くはございませんが、なれども村方でも大尽(だいじん)の娘と思う拵(こしら)え、一人付添って来たのは肩の張ったお臀(しり)の大きな下婢(おんな)、肥(ふと)っちょうで赤ら顔、手織(ており)の単衣(ひとえ)に紫中形(むらさきちゅうがた)の腹合(はらあわせ)の帯、手桶を提げてヒョコ/\遣(や)って来て、
下女「お嬢様|此方(こちら)へお出でなさえまし、此処(こゝ)だよ、貴方(あんた)ヨ待ちなさえヨ、私(わし)能(よ)く洗うだからねえ、本当に可哀想だって、己(おら)ア旦那様泣いた事はないけれども、お久様が尋ねて来て、顔も見ねえでおッ死(ち)んでしまって憫然(ふびん)だって泣いただ、本当に可哀想に、南無阿弥陀仏/\/\」
新「これだ、えゝ少々物が承りとうございます」
下女「何(なん)だかい」
新「ヘエ」
下女「何だかい」
新「真中(まんなか)ですとえ」
下女「イヽヤ何(なん)だか聞くのは何だかというのよ」
新「ヘエと成程、この何(なん)ですかお墓は慥(たし)か川端で殺されて此の間お検死が済んで葬りになりました娘子様(むすめごさん)の御墓所(ごぼしょ)でございますか」
下女「御墓所てえ何(なん)だか」
新「このお墓は」
下女「ヘエ此の間川端で殺されたお久さんと云うのを葬った墓場で」
新「ヘエ左様で、私にお花を上げさして拝まして下さいませんか」
下女「お前様(まえさま)知って居る人か」
新「イヽエ無尽の呪咀(まじない)に樒(しきみ)の葉を三枚盗むと当るので」
下女「そう云う鬮引(くじびき)が当るのか、沢山花ア上げて下さえ」
新「ヘエ/\有難う、戒名は分りませんが、あとでお寺様で承りましょう、大きに有難う」
と、ヒョイと後(あと)へ下(さが)りそうにすると、娘が側に立って居りまして、ジロリと横目で見ると、新吉は二十二でも小造(こづく)りの性(たち)で、色白の可愛気のある何処(どこ)となく好(い)い男、悪縁とは云いながら、此の娘も、何(ど)うしてこんな片田舎にこんな好い男が来たろうと思うと、恥かしくなりましたから、顔を横にしながら横眼で見る。新吉も美(い)い女だと思って立止って見て居りました。 
二十八
新「もしお嬢さん、このお墓へお葬りになりました仏様の貴方はお身内でございますかえ」
娘「はい私(わたくし)の身寄でございます」
新「ヘエ道理でよく似ていらっしゃると思いました、イエ何、あのよく似たこともあるもので、江戸にも此様(こんな)事が有りましたから」
下女「あんた、何処(どこ)に居るお方だい」
新「私はあの直(じ)き近処(きんじょ)の者でげす、ヘエ土手の少し変な処(とこ)に一寸(ちょっと)這入って居ります」
下女「土手の変な処(とこ)てえ蒲鉾小屋(かまぼこごや)かえ」
新「乞食ではございません、其処(そこ)に懇意な者が有って厄介になって居るので」
下女「そうかネ、それだら些(ちっ)と遊びにお出でなさえ、直(じ)き此の先の三藏と云うと知れますよ、質屋の三藏てえば直き知れやす」
娘は頻(しき)りに新吉の顔を横眼で見惚(みと)れて居ると、何(ど)う云う事でございますか、お久の墓場の樒の※[「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている]して有る間から一匹出ました蛇の、長さ彼(か)れ是(こ)れ三尺(さんじゃく)ばかりもあるくちなわが、鎌首を立てゝズーッと娘の足元まで這って来た時は、田舎に馴れません娘で、
娘「あッ」
と飛び退(の)いて新吉の手へすがりつくと、新吉も恟(びっく)りしたが、蛇はまた元の様に、墓の周囲(まわり)を廻って草の茂りし間へ這入りました。娘は怖いと思いましたから、思わず知らず飛退(とびの)く機(はず)みで、新吉の手へ縋(すが)りましたが、蛇が居なくなりましたから手を放せばよいのだが、其の手が何時迄(いつまで)も放れません。思い内に有れば色外に顕(あら)われて、ジロリ、と互(たがい)に横眼で見合いながら、ニヤリと笑う情(じょう)と云うものは、何(なん)とも申されません。女中は何も知りませんから、
下女「お前さん、在郷の人には珍らしい人だ、些(ちっ)とまた遊びに来て、何処(どこ)に居るだえ、エヽ甚藏が処(とこ)に、彼(あ)の野郎評判の悪(わり)い奴で、彼処(あすこ)に、そうかえ些と遊びにお出でなさえ、嬢様お屋敷奉公に江戸へ行ってゝ、此の頃|帰(けえ)っても友達がねえで、話(はなし)しても言葉が分んねえてエ、食物(くいもの)が違って淋しくってなんねえテ、長く屋敷奉公したから種々(いろ/\)な芸事がある、三味(さみ)イおっ引(ぴい)たり、それに本や錦絵があるから見にお出でなさえ、此の間見たが、本の間に役者の人相書の絵が有るからね…雨が降って来た」
新「其処(そこ)まで御一緒に」
娘「何(ど)うせお帰り遊ばすなれば私(わたくし)の屋敷の横をお通りになりますから御一緒に、あの傘を一本お寺様で借りてお出でよ」
下女「ハイ」
と下女がお寺で番傘を借りて、是から相合傘(あい/\がさ)で帰りましたが、娘は新吉の顔が眼先を離れず、くよ/\して、兄に悟られまいと思って部屋へ這入って居ります。新吉の居場処(いばしょ)も聞いたがうっかり逢う訳に参りません、段々(だん/\)日数(ひかず)も重(かさな)ると娘はくよ/\欝(ふさ)ぎ始めました。すると或夜日暮から降出した雨に、少し風が荒く降っかけましたが、門口(かどぐち)から、
甚「御免なさい/\」
三「誰だい」
甚「ヘエ旦那御無沙汰致しました」
三「おゝ甚藏か」
甚「ヘエ、からもう酷(ひど)く降出しまして」
三「傘なしか」
甚「ヘエ傘の無いのでびしょ濡(ぬれ)になりました、何(ど)うも悪い日和(ひより)で、日和癖で時々だしぬけに降出して困ります…エヽお母様(っかさん)御機嫌よう」
三「コウ甚藏、お前もう能(い)い加減に馬鹿も廃(や)めてナ、大分(だいぶ)評判が悪いぜ、何(なん)とかにも釣方(つりかた)で、お前の事も案じるよ、大勢に悪(にく)まれちゃア仕方がねえ、名主様も睨(にら)んで居るよ」
甚「怖(おっ)かねえ、からもう憎まれ口(ぐち)を利くから村の者は誰(たれ)も私(わっし)をかまって呉れません、ヘエ、御免なすって、えゝ此の間|一寸(ちょっと)嬢(ねえ)さんを見ましたが、えゝ彼(あれ)はあのお妹御様(いもうとごさま)で、いゝ器量で大柄で人柄の好(い)いお嬢(こ)でげすね、お前さんが時々|異見(いけん)を云って下さるから、何(ど)うか止してえと思うが、資本(もとで)は無し借金は有るし何うする事も出来ねえ、此の二三日(にさんち)は何うにも斯(こ)うにも仕様がねえから、些(ちっ)と許(ばか)り質を取って貰いてえと思って、此方様(こちらさま)は質屋さんで、価値(ねうち)だけの物を借りるのは当然(あたりまえ)だが、些とくどいから上手を遣わなければならねえが、質を取ってお貰(もれ)え申してえので」
三「取っても宜(よ)い何(なん)だイ」
甚「詰らねえ此様(こん)な物で」
と三尺(さんじゃく)の間へ※[「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている](はさ)んで来た物に巻いて有る手拭をくる/\と取り、前へ突付けたのは百姓の持つ利鎌(とがま)の錆(さび)の付いたのでございます。
三「是か、是か」
甚「へえ是で」
三「此様(こん)な物を持って来たって仕様がねえ、買ったって百か二百で買える物を持って来て、是で幾許(いくら)ばかり欲しいのだ」
甚「二十両なくっては追附(おっつ)かねえので、何(ど)うか二十両にね」
三「極(きま)りを云って居るぜ、戯(ふざ)けるナ、お前(めえ)はそれだからいけねえ、評判が悪い、五十か百で買える物を持って来て二十両貸せなんてエ強迫(ゆすり)騙(かた)りみた様な事を云っては困る、此様(こん)な鎌は幾許(いくら)もある、冗談じゃアねえ、だから村にも居られなくなるのだよ」
甚「旦那、只の鎌と思ってはいけねえ、只の鎌ではねえ、百姓の使うただの鎌とお前(めえ)さん見てはいけねえ」
三「誰が見たって百姓の使う鎌だ、錆だらけだア」
甚「錆びた処が価値(ねうち)で、能(よ)っく見て、錆びたところに価値が有るので」
三「何(ど)う」
と手に把(と)って見ると、鎌の柄に丸の中に三の字の焼印(やきいん)が捺(お)してあるのを見て、
三「甚藏、是は己(おれ)の家(うち)の鎌だ、此の間|與吉(よきち)に持たして遣(や)った、是は與吉の鎌だ」
甚「だから與吉が持ってればお前(まえ)さんの処(とこ)の鎌でしょう」
三「左様」
甚「それだから」
三「何が」
甚「何がって、旦那此の鎌はね、奥に誰(たれ)も居やアしませんか」
三「誰(たれ)も居やアせん」
甚「此の鎌に就(つ)いて何(ど)うしてもお前さんが二十両|私(わっち)にくれて宜(い)い、私の親切をネ、鎌は詰らねえが私の親切を買って」
二十両何うしてもくれても宜い訳を話を致しますが、一寸一息吐きまして。 
二十九
引続きまして申上げました羽生村で三藏と申すは、質屋をして居りまして、田地(でんじ)の七八十石も持って居ります可(か)なりの暮しで、斯様(かよう)に良い暮しを致しますのは、三右衞門と云う親父(おやじ)が屋敷奉公致して居るうち、深見新左衞門に二拾両の金を貰って、死骸の這入りました葛籠(つゞら)を捨てまして国へ帰り、是が資本(もとで)で只今は可なりに暮して居る。一体三藏と云う人は信実(しんじつ)な人で、江戸の谷中七面前の下總屋と云う質屋の番頭奉公致して、事柄の解(わか)った男でございますから、
三「コウお前(まえ)そう極(きま)りで其様(そん)な分らねえ事を云うが、己だから云うが、いゝか、何が親切で何(ど)う云う訳が有ったって草苅鎌を持って来て二十両金を貸せなどと云って、村の者もお前(めえ)を置いては為にならねえと云う、此の間|何(なん)と云った、私は此の村を離れましては何処(どこ)でも鼻撮(はなッつま)みで居処(いどころ)もございませんから、元の如く此の村に居られる様にして呉れと云うから、名主へ行って話をして、彼(あ)れは外面(うわべ)は瓦落(がら)/\して、鼻先ばかり悪徒(あくとう)じみて居りますが、腹の中はそれほど巧(たくみ)のある奴では無いと、斯(こ)う己が執成(とりな)して置いたから居(い)られる、云はゞ恩人だ、それを背くかお前(めえ)、何(なん)で鎌を、何(ど)う云う訳で親切などと下らぬ事を云うんだえ」
甚「それなら打明けてお話申しますが此の間松村で一寸(ちょっと)小博奕(こばくち)へ手を出して居るとだしぬけに御用と云うのでバラ/\逃げて入江の用水の中へ這入って、水の中を潜(くゞ)り込んで土手下のボサッカの中へ隠れて居ると、其処(そこ)で人殺しがあり、キアッと云う女の声で、私(わっち)も薄気味(うすきび)が悪いから首を上げて見たが暗くって訳が分らず、土砂降だが、稲光がピカ/\する度(たび)時々|斯(こ)う様子が見えると、女を殺して金を盗んだ奴がある、宜(よ)うがすか、判然(はっきり)分りませんが、其の跡へ私が来て見ると、此の鎌が落ちて居る、此の鎌で殺したか、柄(え)にベッタリ黒いものが付いて有るのは血(のり)じみサ、取上げて見ると丸に三の字の焼印が捺して有る、宜うがすか、旦那の家(うち)の鎌、ひょっとして他(ほか)の奴が、此の鎌が女を殺した処(とこ)に落ちて有るからにゃア此の鎌で殺したと、もしやお前(まえ)さんが何様(どん)な係り合になるめえ物でもねえと思い、幸い旦那の御恩返(ごおんげえ)しと思って、私が拾って家(うち)へ帰(けえ)って今迄隠して居た、宜うがすか、お前(めえ)さんの処(ところ)で死骸(しげえ)を引取って己の家(うち)の姪(めえ)と云うので法事も有ったのだから、お前(めえ)さんの処で女を殺して物を取った訳はねえが、悪(わり)い奴が拾いでもすると、お前(めえ)さんは善(い)い人と思っては居るが、そう村中みんなお前(めえ)さんを誉(ほめ)る者ばかりじゃアねえ、其の中(うち)には五人や八人は彼様(あんな)になれる訳はねえと、工面が良(い)いと憎まれる事も有りましょう、それから中には悪く云う奴もある私と斯(こ)う中好(なかよ)く、お前(まえ)さんは江戸に奉公して江戸子(えどっこ)同様と云うので、甚藏や悪(わり)い事はするナ、と番毎(ばんごと)に斯(こ)う云ってお呉(く)んなさるは有難(ありがて)えと思って居るが、私がお前(めえ)さんに平生(ふだん)お世話に成って居りますから、娘を殺して金を取るような人でねえ事は知って居りますが、宜うがすか、お前(めえ)さんと若(も)し私が中が悪くって、忌々(いめえま)しい奴だ、何(ど)うかしてと思って居(い)れば、私が鎌を持って、斯(こ)うだ此の鎌が落ちて有った是は三藏の処(とこ)の鎌だと振廻して役所へでも持出せば、お前(めえ)さんの腰へ否(いや)でも縄が付く、然(そ)うでないまでも、十日でも二十日でも身動きが出来ねえ、然うすりゃア年をとったお母様(ふくろさま)はじめ妹御(いもうとご)も心配だ、其の心配を掛けさせ度(た)くねえからねえ、然う云う馬鹿があるめえものでもねえのサ、私などは随分|遣(や)り兼(かね)ねえ性質(たち)だ、忌々(いめえま)しいと思えば遣る性質だけれども、御恩になって居るから、旦那が殺したと思う気遣(きづけえ)もねえけれども、理屈を付ければまア何(ど)うでもなるのサ、彼様(あんな)に身代(くめん)のよくなるのも、些(ちっ)とは悪い事をして居るだろうぐらいの話をして居る奴もあるから、殺した跡で世間体が悪(わり)いから、死骸でも引取って、姪(めえ)とか何(なん)とか名を付けて、とい弔いをしなければ成るめえと、さ、訝(おか)しく勘繰(かんぐ)るといかねえから、他人に拾われねえ様に持って来たのだから、十日でも二十日でも留められて、引出されゝば入費(にゅうひ)が掛ると思って、只私の親切を二十両に買っておくんなさりゃア、是で博奕は止(やめ)るから、ねえモシ旦那え」
三「コレ/\甚藏、然(そ)う汝(きさま)が云うと己が殺して死骸を引取って、葬りでもした様に疑(うたぐ)って、訝(おか)しくそんな事を云うのか」
甚「お前(めえ)さん私(わっち)が然う思うくれえなら、鎌は振廻して仕舞わア、大きな声じゃア云えねえが、是は旦那世間の人に知れねえように、私が黙って持って居るその親切を買って二十両、ね、もし、鎌は詰らねえが宜うがすか、お前(めえ)さんと中が悪ければ、酷(ひど)い畜生(ちきしょう)だなんて遣(や)り兼ねえ性質(たち)だが、旦那にゃア時々|小遣(こづけえ)を貰ってる私だから、何(なん)とも思やアしねえがネ、厭(いや)に世間の人が思うから鎌を拾って持って来た、其の親切を買って、えゝ旦那、お前(めえ)さん否(いや)と云えば無理にゃア頼まねえが、私は草苅鎌を二十両に売ろうと云う訳ではねえのサ、親切ずくだからネ、達(たっ)てとは云わねえ、そうじゃアねえか、此の村に居てお前(めえ)の呼吸(いき)が掛らなけりゃア村にも居られねえ、其の時はいやに悪(わり)い仕事をして逃げる、そうなりゃア何(ど)うでも宜(い)いやア、ねえ、否(いや)でげすか、え、もし」
と厭に絡(から)んで云いがゝりますも、蝮(まむし)と綽名(あだな)をされる甚藏でございますから、うっかりすれば喰付かれますゆえ、仕方なく、
三「詰らぬ口を利かぬが宜(い)いぜ、金は遣(や)るから辛抱をしねえよ」
とただ取られると知りながら、二十両の金を遣りまして甚藏を帰しますと、其の夜(よ)三藏の妹お累(るい)が寝て居ります座敷へ、二尺余りもある蛇が出ました。九月|中旬(なかば)になりましては田舎でも余り蛇は出ぬものでございますが、二度程出ましたので、墓場で驚きましたから何が出ても蛇と思い只今申す神経病、
累「アレー」
と駈出して逃(にげ)る途端|母親(おふくろ)が止め様とした機(はずみ)、田舎では大きな囲炉裏が切ってあります、上からは自在が掛って薬鑵(やかん)の湯が沸(たぎ)って居た処へ双(もろ)に反(かえ)りまして、片面(これ)から肩(これ)へ熱湯を浴びました。 
三十
お累が熱湯を浴びましたので、家中(うちじゅう)大騒ぎで、医者を呼びまして種々(いろ/\)と手当を致しましたが何(ど)うしてもいかんもので、火傷(やけど)の痕(あと)が出来ました。追々全快も致しましょうが、二十一二になる色盛(いろざかり)の娘、顔にポツリと腫物(できもの)が出来ましても、何うしたら宜(よ)かろうなどと大騒ぎを致すものでございますのに、お累は半面紫色に黒み掛りました上、片鬢(かたびん)兀(はげ)るようになりましたから、当人は素(もと)より母親(おふくろ)も心配して居ります。
累「あゝ情(なさけ)ない、この顔では此の間法蔵寺で逢った新吉さんにもう再び逢う事も出来ぬ」
と思いますと是が気病(きやみ)になり、食も進まず、奥へ引籠(ひきこも)ったきり出ません、母親(おふくろ)は心配するが、兄三藏は中々分った人でございますから、
三「お母様(っかさん)、えーお累は何様(どん)な塩梅でございますねえ」
母「はアただ胸が支(つか)えて飯が喰えねえって幾ら勧めても喰えねえ/\と云う、疲れるといかねえから些(ちっ)と食ったら宜(よ)かんべえと勧めるが、涙ア翻(こぼ)して己(おら)ア此様(こん)な顔に成ったから駄目だ、何(ど)うせ此様な顔になった位(くれ)えなら、おッ死(ち)んだ方が宜(え)え。と其様(そん)な事べえ云ってハア手におえねえのサ、もっと大(でけ)え負傷(けが)アして片輪になる者さえあるだに、左様(そう)心配(しんぺえ)しねえが宜(え)えと云うが、彼(あれ)は幼(ち)っけえ時から内気だから、ハア、泣(なく)ことばかりで何(ど)うしべえと思ってよ」
三「困りますね私も心配するなと云い聞(きか)せて置きますが、何(ど)う云うものか彼処(あすこ)へ引籠った切(ぎ)りで、気が霽(は)れぬから庭でも見たら宜(よ)かろうと云うと、彼処は薄暗くって病気に宜うございますからと云いますが詰らん事を気に病むから何うも困ります」
と話をして居ります。折から、お累は次の間の処へ参りましたから、
母「おゝ此方(こっち)へ出ろとよう、出な」
三「あ、漸(やっ)と出て来た」
母「此方へ来てナ、畑の花でも見て居たら些(ちっ)たア気が霽(は)れようと、今|兄(あにき)どんと相談して居たゞ、えゝ、さア此処(こゝ)へ坐ってヨウ、よく出て来(き)いッけナ、心配(しんぺえ)してはいけぬ、気を晴らさなければいかねえヨウ、兄どんの云うのにも、火傷しても火の中へ坐燻(つっくば)ったではねえ、湯気だから段々|癒(なお)るとよ、少しぐれえ薄く痕(あと)が付くべえけれども、平常(いつも)の白粉(おしろい)を着ければ知れねえ様になり段々薄くなるから心配(しんぺえ)しねえがえゝよ」
三「お前お母(っか)さんに斯(こ)う心配(しんぱい)を掛けて、お母様(っかさん)がお食を勧めるのにお前は何故|喫(た)べない、段々疲れるよ、詰らん事をくよ/\してはいけませんよ、お前と私と是れから只(たっ)た一人のお母様だから孝行を尽さなければならないのに、お前がお母様に心配を掛けちゃア孝行に成りません、顔は何様(どん)なに成ったって構わぬ、それならば片輪女には亭主がないと云うものでも有るまい、何様な跛(びっこ)でもてんぼうでも皆(みん)な亭主を持って居ります、えゝ火傷したくらいで気落(きおち)して、お飯(まんま)も喫べられないなんて、気落してはなりません、お母様が勧めるからお食(あが)りなさい、喫べられないなんて其様(そん)な事はありませんよ」
母「喫べなせえヨウ、久右衞門(きゅうえもん)どんが、是なれば宜(よ)かろうって水街道へ行って生魚(なまうお)を買って来たゞ、随分旨い物(もん)だ常(ふだん)なら食べるだけれど、やア食えよウ」
三「お喫(あが)りなさい何(ど)う云う様子だ、容体(ようだい)を云いなさい、えゝ、何か云うとお前は下を向いてホロ/\泣いてばかり居て、お母様に御心配かけて仕様がないじゃアありませんか、え、十二三の小娘じゃアあるまいし、よウ、えゝ、何う云うものだ」
母「そんなに小言云わねえが宜(え)えってに、其処(そこ)が病(やめ)えだからハア手におえねえだよ、兄(あにき)どんの側に居ると小言を云われるから己(おれ)が側へ来い、さア此方(こっち)へ来い、/\」
と手を引いて病間(びょうま)へ参ります。三藏も是は一通りの病気ではないと思いますから。
三「おせな」
下女せな「ヒえー」
三「何(なん)の事(こっ)た、立って居て返辞をする奴が有るものか」
せな「何(なん)だか」
三「坐りな」
せな「何だか、呼(よば)るのは何だかてえに」
三「コレ家(うち)のお累の病気は何(ど)うも火傷をした許(ばか)りでねえ、心に思う処が有るのでそれが気になってからの煩(わずら)いと思って居るが、汝(てめえ)お久の寺詣(てらまいり)に行った帰りは遅かったが、年頃で無理じゃアねえから他処(わき)へ寄ったか、隠さずと云いな」
せな「ナアニ寄りは為(し)ません、お寺様へ行ってお花上げて拝んで、雨降って来たからお寺様で借(かり)べえって法蔵寺様で傘借りて帰(けえ)って来ただ」
三「汝(てめえ)なぜ隠す」
せな「隠すにも隠さねえにも知んねえノ」
三「主人に物を隠すような者は奉公さしては置きません、なぜ隠す、云いなよ」
せな「隠しも何(ど)うもしねえ、知んねえのに無理な事を云って、知って居れば知って居るって云うが、知んねえから知んねえと云うんだ」
三「コレ段々お累を責めて聞くに、実は兄様(にいさん)済まないが是々と云うから、なぜ早く云わんのだ、年頃で当然(あたりまえ)の事だ、と云って残らず打明けて己に話した、其の時はおせなが一緒に行って斯(こ)う/\と残らず話した、お累が云うのに汝(てめえ)は隠して居る、汝はなぜ然(そ)うだ、幼(ちいさ)い中(うち)から面倒を見て遣(や)ったのに」
せな「アレまア、何(なん)て云うたろうか、よウお累様ア云ったか」
三「皆(みん)な云った」
せな「アレまア、汝(われ)せえ云わなければ知れる気遣(きづけ)えねえから云うじゃアねえよと、己(おら)を口止(くちどめ)して、自分からおッ饒舌(ちゃべ)るって、何(なん)てえこった」
三「皆(みん)ないいな、有体(ありてい)に云いナ」
せな「有体ッたって別に無(ね)えだ、墓参りに行って年頃二十二三になる好(い)い男が来て居て、お前(めえ)さん何処(どこ)の者だと云ったら江戸の者だと云って、近処(きんじょ)に居る者だがお墓参りして無尽|鬮引(くじびき)の呪(まじね)えにするって、エー、雨降って来たから傘借りてお累さんと二人手え引きながら帰(けえ)って来て、お累さんが云うにゃア、おせな彼様(あん)な好(い)い男は無(ね)いやア、彼様な柔(やさ)しげな人はねえ、己(おれ)がに亭主(ていし)を持たせるなれば彼(あ)ア云う人を亭主に持度(もちた)いと云って、内所で云う事が有ったけえ、其の中(うち)に火傷してからもう駄目だ彼(あ)の人に逢いたくもこんな顔になっては駄目だって、それから飯も喰えねえだ」
三「然(そ)うか何(ど)うも訝(おか)しいと思った、様子がナ、汝(てめえ)に云われて漸(ようや)く分った」
せな「あれ、横着者め、お累様云わねえのか」
三「なにお累が云うものか」
せな「彼(あれ)だアもの、累も云ったから汝(てめえ)も云えってえ、己に云わして己云ったで事が分ったてえ、そんな事があるもんだ」
三「騒々しい、早く彼方(あっち)へ往けよ」
とこれから村方に作右衞門と云う口利(くちきゝ)が有ります、これを頼んで土手の甚藏の処へ掛合いに遣(や)りました。 
 

 

三十一
作「御免なせえ」
甚「イヤお出でなせえ」
作「ハイ少し相談ぶちに参(めえ)りましたがなア」
甚「能(よ)くお出(いで)なせえました」
作「私(わし)イ頼まれて少し相談ぶちに参(めえ)ったが、お前等(めえら)の家(うち)に此の頃|年齢(としごろ)二十二三の若(わけ)え色の白(しれ)え江戸者が来て居ると云う話、それに就(つ)いて少し訳あって参(めえ)った」
甚「左様で、出ちゃアいけねえ引込(ひっこ)んで居ねえ」
新吉は薄気味が悪いから蒲団の積んで有る蔭へ潜り込んで仕舞いました。
甚「ヘエ、な、何(なん)です」
作「エヽ、今日少しな、訳が有って三藏どんが己(おら)が処(とけ)え頭を下げて来て、偖(さて)作右衞門どん、何(ど)うも他(た)の者に話をしては迚(とて)も埓(らち)が明かねえ、人一人は大事な者なれども、何うも是非がねえから無理にも始末を着けなければなんねえから、お前等(めえら)をば頼むと云うまアーづ訳になって見れば、己(おれ)も頼まれゝば後(あと)へも退(ひ)けねえ訳だから、己(おれ)が五十石の田地(でんじ)をぶち放っても此の話を着けねばなんねえ訳に成ったが其の男の事に付いて参(めえ)っただ」
甚「ヘエーそうで、其の男と云うなア身寄でも親類でもねえ奴ですが、困るてえから私(わっち)の処に食客(いそうろう)だけれども、何を不調法しましたか、旦那堪忍しておくんなえ、田舎珍らしいから、柿なんぞをピョコ/\取って喰いかねゝえ奴だが、何(なん)でしょうか生埋(いきうめ)にするなどというと、私(わっち)も人情として誠に困りますがねえ、何を悪い事をしたか、何(どう)云う訳ですえ」
作「誰(だり)が柿イ取ったて」
甚「食客が柿を盗んだんでしょう」
作「柿など盗んだ何(なん)のと云う訳でねえ、そうでねえ、それ、お前(めえ)知って居るが、三藏どんの妹娘(いもとむすめ)は屋敷奉公して帰(けえ)って来て居た処、お前等(めえら)ア家(うち)のノウ、其の若(わけ)え男を見て、何処(どこ)かで一緒になったで口でもきゝ合った訳だんべえ、それでまア娘が気に、彼(あ)ア云う人を何卒(どうか)亭主(ていし)に為(し)たいとか内儀(かみさん)になりてえとか云う訳で、心に思っても兄(あに)さまが堅(かて)えから八釜(やかま)しい事云うので、処から段々胸へ詰って、飯(まゝ)も食べずに泣いてばかり居るから、医者どんも見放し、大切(だいじ)の一人娘だから金えぶっ積んでも好いた男なら貰って遣(や)りてえが、他(ほか)の者では頼まれねえが、作右衞門どん行ってくれと云う訳で、己(おれ)が媒妁人役(なこうどやく)しなければなんねえてえ訳で来ただ」
甚「そんなら早くそう云ってくれゝば宜(い)いに、胆(きも)を潰(つぶ)した、私(わっち)は柿でも盗んだかと思って、そうか、それは有難(ありがて)え、じゃア何(なん)だね、妹娘が思い染めて恋煩(こいわずら)いで、医者も見放すくれえで、何(ど)うでも聟(むこ)に貰おうと云うのかね、是は有難え、新吉出や、ア此処(こゝ)へ出ろ、ごうぎな事をしやアがった、此処へ来や、旦那是は私の弟分(おとゝぶん)で新吉てえます、是は作右衞門さんと云うお方でな、名主様から三番目に坐る方だ、此の方に頭を押えられちゃア村に居憎(いにく)いやア、旦那に親眤(ちかづき)になって置きねえ」
新「ヘエ初めまして、私(わたくし)は新吉と申す不調法者で、お見知り置かれまして御贔屓(ごひいき)に願います」
作「是はまず/\お手をお上げなすって、まず/\、それでは何(ど)うも、エヽ石田作右衞門と申して至って不調法者で、お見知り置かれやして、此の後(のち)も御別懇(ごべっこん)に願(ねげ)えます」
甚「旦那、其様(そん)な叮嚀(ていねい)な事を云っちゃアいけねえ、マア早い話が宜(い)い、新吉、三藏さんと云ってな、小質(こしち)を取って居る家(うち)の一人娘、江戸で屋敷奉公して十一二年も勤めたから、江戸子(えどっこ)も同(おんな)し事で、器量は滅法|好(い)い娘だ、宜(い)いか、其のお嬢さんが手前(てめえ)を見てからくよ/\と恋煩いだ、冗談じゃアねえ、此畜生(こんちきしょう)め、えゝ、こう、其の娘が塩梅が悪(わり)いんで、手前に逢わねえじゃア病に障るから貰(もれ)えてえと云う訳だ、有難(ありがて)え、好い女房(かゝあ)を持つのだ、手前運が向いて来たのだ」
新「成程、三藏さんの妹娘で、成程、存じて居ります、一度お目に掛りました、然(そ)う云って来るだろうと思って居た」
甚「此畜生、生意気な事を云やアがる、増長して居やアがる、旦那腹ア立っちゃアいけねえ、若(わけ)えからうっかり云うので、大層を云って居やアがらア、手前(てめえ)己惚(うぬぼれ)るな、男が好(い)いたって田舎だから目に立つのだ、江戸へ行けば手前の様な面はいけえ事有らア、此様(こん)な田舎だから少し色が白いと目に立つのだ、田舎には此様な色の黒い人ばかりだから、イヤサお前(めえ)さんは年をとって居るから色は黒いがね、此様な有難(ありがて)え事はねえ、冗談じゃアねえ」
新「誠に有難い事でございます」
作「私(わし)もヤアぶち出し悪(にく)かったが、お前様(めえさま)が承知なら頼まれげえが有って有難(ありがて)えだ、然(そ)うなれば私(わし)イ及ばずながら媒妁(なこうど)する了簡だ、それじゃア大丈夫だろうネ、仔細(しせえ)無(ね)えね」
甚「ヘエ仔細(しせえ)有りません、有りませんが困る事には此の野郎の身体に少し借金が有るね」
作「なに借財が」
甚「ヘエ誠に何(ど)うもね、これが向(むこう)が堅気(かたぎ)でなければ宜(い)いが、彼(あ)ア云う三藏さん、此の野郎が行(ゆ)きそう/\方々から借金取が来て、新吉に/\と居催促(いざいそく)でもされちゃア、此の野郎も行った当坐(とうざ)極りが悪く、居たたまらねえで駈出す風な奴だから、行かねえ前に綺麗|薩張(さっぱり)借金を片付ければ私(わっち)も宜(よ)し、宜うがすか、私が請人(うけにん)になって居るからね、其の借金だけは向(むこう)で払ってくれましょうか」
作「でかく有れば困るが何(ど)のくれえ」
甚「何(ど)のくれえたって、なア新吉、彼方(あっち)へ縁付(かたづ)いてから借金取が方々から来られちゃア極りが悪(わり)いやア、其の極りを付けて貰うのだから借金の高を云いねえよ、さ、借金をよう」
新「ヘエ借金は有りません」
甚「何を云うのだ」
新「ヘエ」
甚「隠すな、え借金をよう」
新「借金はありません」
甚「分らねえ事を云うな、此の間もゴタ/\来るじゃアねえか」 
三十二
甚「手前(てめえ)此処(こゝ)に居るのたア違わア、三藏さんの親類になるのだ、それに可愛いお嬢さんが塩梅が悪くって可哀想だから貰うと云うのだ、手前を貰わなければ命に障る大事(でえじ)な娘の貰うのだから、借金が有るなれば有ると云って、借金を片付けて貰えるからよ、然(そ)うして仕度(したく)して行かなければならねえ、借金が有ると云え、エヽおい」
新「ヘエ、成程、ヘエ/\成程、それは気が付きませんでした、成程是は、随分借金は有るので、是で中々有るので」
甚「有るなれば有ると云え、よう幾らある」
新「左様五両ばかり」
甚「カラ何(ど)うも云う事は子供でげすねえ、幾らア五拾両、けれども、エヽと、二拾両ばかり私(わっち)が目の出た時|返(けえ)して、三拾両あります」
作「ほう、三拾両、巨(でけ)えなア、まア相談ぶって見ましょう」
とこれから帰って話をすると、
三「相手が甚藏だから其の位の事は云うに違いない、宜(よろ)しい、其の代り、土手の甚藏が親類のような気になって出這入(ではいり)されては困るから、甚藏とは縁切(えんきり)で貰おう」
と云い、甚藏は縁切でも何(なん)でも金さえ取ればいゝ、と話が付き、先(ま)ず作右衞門が媒妁人(なこうど)で、十一月三日に婚礼致しました。田舎では妙なもので、婚礼の時は餅を搗(つ)く、村方の者は皆来て手伝をいたします。媒妁人が三々九度の盃をさして、それから、村で年重(としかさ)な婆(ば)アさんが二人来て麦搗唄(むぎつきうた)を唄います。「目出度(めでた)いものは芋(いも)の種」と申す文句でございます。「目出度いものは芋の種葉広く茎長く子供|夥多(あまた)にエヽ」と詰らん唄で、それを婆アさんが二人並んで大きな声で唄い、目出度(めでたく)祝(しゅく)して帰る。これから新吉が花婿の床入(とこいり)になる。ところが何時(いつ)までたっても嫁お累が出て来ませんので、極りが悪いから嫌われたかと思いまして、
新「もう来そうなもの」
と見ると屏風(びょうぶ)の外に行燈(あんどう)が有ります。その行燈の側に、欝(ふさ)いで向(むこう)を向いて居るから、
新「何(なん)だね、其処(そこ)に居るのかえ、冗談じゃアない、極りが悪いねえ、何(ど)うしたのだえ、間が悪いね、其処に引込(ひっこ)んで居ては極りが悪い、此方(こっち)へ来て、よう、私は来たばかりで極りが悪い、お前ばかり便(たよ)りに思うのに、初めてじゃアなし、法蔵寺で逢って知って居るから、先刻(さっき)お前さんが白い綿帽子を冠(かぶ)って居たが、田舎は堅いと思って、顔を見度(みた)いと思っても、綿を冠って居るから顔も見られず、間違じゃアねえかと思い、心配して居た、早く来て顔を見せて、よう、此方へ来ておくれな」
累「こんな処(とこ)へ来て下すって、誠に私はお気の毒様で先刻(さっき)から種々(いろ/\)考えて居りました」
新「気の毒も何もない、土手の甚藏の云うのだから、訳も分らねえ借金まで払って、お兄(あに)いさんが私の様な者を貰って下すって有難いと思って、私はこれから辛抱して身を堅める了簡で居るからね、よう、傍(そば)へ来てお寝な」
累「作右衞門さんを頼んで、お嫌(いや)ながらいらしって下すっても、私の様な者だから、もう三日もいらっしゃると、愛想(あいそ)が尽きて直(じ)きお見捨なさろうと思って、そればっかり私は心に掛って、悲しくって先刻(さっき)から泣いてばかり居りました」
新「見捨てるにも見捨てないにも、今来たばかりで、其様(そん)な詰らんことを云って、私は身寄|便(たより)もないから、お前の方で可愛がってくれゝば何処(どこ)へも行(ゆ)きません、見捨てるなどと此方(こっち)が云う事で」
累「だって私はね、貴方、斯(こ)んな顔になりましたもの」
新「エ、あの私はね、此様(こん)な顔と云う口上は大嫌いなので、ド、何(ど)んな顔に」
累「はい此の間火傷を致しましてね」
と恥かしそうに行燈(あんどう)の処へ顔を出すのを、新吉が熟々(つく/″\)見ると、此の間法蔵寺で見たとは大違い、半面火傷の傷、額(ひたえ)から頬へ片鬢(かたびん)抜上(ぬけあが)りまして相が変ったのだから、あっと新吉は身の毛立ちました。
新「何(ど)うして、お前まア恐ろしい怪我をして、エヽ、なに何(なん)だか判然(はっきり)と云わなければ、もっと傍へ来て、え、囲炉裡(いろり)へ落ちて、何うも火傷するたって、何うも恐ろしい怪我じゃアないか、まアえゝ」
と云いながら新吉は熟々と考えて見れば、累が淵で殺したお久の為には、伯母に当るお累の処へ私が、養子に来る事になり、此の間まで美くしい娘が、急に私と縁組をする時になり、此様(こん)な顔形(かおかたち)になると云うのも、やっぱり豐志賀が祟(たゝ)り性(しょう)を引いて、飽くまでも己(おれ)を怨(うら)む事か、アヽ飛んだ処へ縁付いて来た、と新吉が思いますると、途端に、ざら/\と云う、屋根裏で厭(いや)な音が致しますから、ヒョイと見ると、縁側の障子が明いて居ります、と其の外は縁側で、茅葺(かやぶき)屋根の裏に弁慶と云うものが釣ってある。それへずぶりと斜(はす)に※[「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている](さ)して有るは草苅鎌、甚藏が二十両に売付けた鎌を與助と云う下男が磨澄(とぎすま)して、弁慶へ※[「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている]して置いたので、其の鎌の処へ、屋根裏を伝わって来た蛇が纏(まと)い付き、二三度|搦(から)まりました、すると不思議なのは蛇がポツリと二つに切れて、縁側へ落ると、蛇の頭は胴から切れたなりに、床(とこ)の処へ這入って来た時は、お累は驚きまして、
累「アレ蛇が」
と云う。新吉もぞっとする程身の毛立ったから、煙管(きせる)を持って蛇の頭(かしら)を無暗(むやみ)に撲(う)つと、蛇の形は見えずなりました。怖い紛(まぎ)れにお累は新吉に縋(すが)り付く、その手を取って新枕(にいまくら)、悪縁とは云いながら、たった一晩でお累が身重になります。これが怪談の始(はじめ)でございます。 
三十三
新吉とお累は悪縁でございますが、夫婦になりましてからは、新吉が改心致しました、と申すのは、熟々(つく/″\)考えれば唯(たゞ)不思議な事で、十月からは蛇が穴に入(い)ると云うに、十一月に成って大きな蛇が出たり、又先頃墓場で見た時、身の毛立つ程驚いたのも、是は皆心の迷(まよい)で有ったか、あゝ見えたのは怖い/\と思う私が気から引出したのか、お累も見たと云い殊(こと)に此の家(うち)は累が淵で手に掛けたお久の縁合(えんあい)、其の家へ養子に来ると云うは、如何(いか)なる深き因縁の、今まで数々罪を作った此の新吉、是からは改心して、此家(こゝ)を出れば外(ほか)に身寄|便(たより)も無い身の上、お累が彼様(あん)な怪我をすると云うのも皆(みんな)私故、これは女房お累を可愛がり、三藏親子に孝行を尽したならば、是までの罪も消えるであろうと云うので、新吉は薩張(さっぱり)と改心致しました。それからは誠に親切に致すから、三藏も、
三「新吉は感心な男だ、年のいかんに似合わぬ、何(なん)にしろ夫婦中さえ宜(よ)ければ何より安心、殊に片輪のお累を能(よ)く目を掛けて愛してくれる」
と、家内は睦(むつま)しく、翌年になりますと、八月が産月(うみづき)と云うのでございますから、先(まず)高い処へ手を上げてはいかぬ、井戸端へ出てはならぬとか、食物(しょくもつ)を大事に為(し)なければならんと、初子(ういご)だから母も心配致しまする。と江戸から早飛脚(はやびきゃく)で、下谷大門町の伯父勘藏が九死一生で是非新吉に逢いたいと云うのでございますが、只今の郵便の様には早く参りませんから、新吉も心配して、兄三藏と相談致しますと、たった一人の伯父さん、年が年だから死水(しにみず)を取るが宜(い)いと、三藏は気の付く人だから、多分の手当をくれましたから、暇(いとま)を告げ出立(しゅったつ)を致しまして、江戸へ着いたのは丁度八月の十六日の事でございます。長屋の人が皆寄り集って看病致します。身寄便もない、女房はなし、歳は六十六になります爺(おやじ)で、一人で寝て居りますが、長屋に久しく居る者で有りますから、近所の者の丹精で、漸々(よう/\)に生延びて居ります処、
男「オヤ新吉さんか、さア/\何卒(どうぞ)お上(あが)りなすって、おかね、盥(たらい)へ水を汲んで、足をお洗わし申して、荷や何かは此方(こっち)へ置いて、能(よ)くお出(いで)なすった、お待申しておりました、さア此方(こちら)へ」
新「ヘエ何(ど)うも誠に久しく御無沙汰致しました、御機嫌宜しゅう、田舎へ引込(ひきこ)みましてからは手紙ばかりが頼りで、頓(とん)と出る事も出来ません、養子の身の上でございますからな、此の度(たび)は伯父が大病でございまして、さぞお長屋の衆の御厄介だろうと思い実は彼方(あちら)の兄とも申し暮しておりました、急いで参る積(つもり)でございますが何分にも道路(みち)が悪うございまして、捗取(はかど)りませんで遅う成りました」
男「何(ど)う致しまして、大層お見違え申す様に立派にお成りなすって、お噂ばかりでね、伯父さんも悦んでね、彼(あれ)も身が定まり、田舎だけれども良い処へ縁付(かたづ)き、子供も出来たってお噂ばかりして、実に何うも一番古くお長屋にお住いなさるから、看病だって届かぬながら、お長屋の者が替り/\来て見ても、あゝ云う気性だから、お前さんばかり案じて、能(よ)くマア早くお出(いで)なすった、さア此方(こっち)へ」
新「ヘエ、是はお婆さん、其の後(ご)は御無沙汰致しました」
婆「おやまア誠に暫(しばら)く、まア、めっきり尤(もっとも)らしくおなりなすったね、勘藏さんも然(そ)う云って居なすった、彼(あれ)も女房を持ちまして、児(こ)が出来て、何月が産月だって、指を折って楽(たのし)みにして、病気中もお前さんの事ばかり云って、外(ほか)に身寄親類はなし、手許(てもと)へ置いて育てたから、新吉はたった一人の甥(おい)だし、子も同じだと云って、今もお前さんの噂をして、楽みにしておいでなさるからね、此度(こんど)ばかりはもう年が年だから、大した事はない様だが、長屋の者も相談してね、だけども養子では有るし、お呼び申して出て来て、何(なん)だ是っぱかりの病気に、遠い処から呼んでくれなくも宜(よ)さそうなもんだなどと云って、長屋の者も余(あんま)りだと、新吉さんに思われても、何(なん)だと云って、長屋の者、行事の衆と種々(いろ/\)相談してね、私の夫(うち)の云うには、然(そ)うでない、年が年だからもしもの事が有った日にゃア、長屋の者も付いて居ながら知らして呉れそうなものと、又新吉さんに思われても成らんとか何(なん)とか云って、長屋の者も心配して居て、能(よ)くねえ、何(ど)うも、然うだって、大層だってね、勘藏さんがねえ、彼(あれ)もマア田舎へ行って結構な暮しをして、然うだって、前の川へ往(い)けば顔も洗え鍋釜も洗えるってねえ、噂を聞いて何うか見度(みた)いと思って、あの畑へ何か蒔(ま)いて置けば出来るってねえ、然うだって、まアお前さんの気性で鍬(くわ)を把(と)って、と云ったら、なアに鍬は把らない、向(むこう)は質屋で其処(そこ)の旦那様に成ったってね、と云うからおやそう田舎にもそう云う処が有るのかねえなんてね、お噂をして居ましたよそれにね」
男「コレサお前一人で喋(しゃべ)って居ちゃアいけねえ、病人に逢わせねえな」
婆「さア此方(こちら)へ」
新「ヘエ有難う」
と寝て居る病間へ通って見ると、木綿の薄ッぺらな五布布団(いつのぶとん)が二つに折って敷いて有ります上に、勘藏は横になり、枕に坐布団をぐる/\巻いて、胴中(どうなか)から独楽(こま)の紐で縛って、括(くゝ)り枕の代りにして、寝衣(ねまき)の単物(ひとえもの)にぼろ袷(あわせ)を重ね、三尺帯を締めまして、少し頭痛がする事もあると見えて鉢巻もしては居るが、禿頭で時々|辷(すべ)っては輪の形(なり)で抜けますから手で嵌(は)めて置(おき)ますが、箝(たが)の様でございます。
新「伯父さん/\」
勘「あい」
新「私だよ」
男「勘藏さん、新吉さんが来たよ」
勘「有難(ありがて)え/\、あゝ待って居た、能(よ)く来た」
新「伯父さんもう大丈夫だよ、大きに遅くなったがお長屋の方が親切に手紙を遣(よこ)して下すったから取敢(とりあえ)ず来たがねえ、もう私が来たから案じずに、お前気丈夫にしなければならねえ、もう一遍丈夫に成ってお前に楽をさせなければ済まないよ」
勘「能く来た、病気はそう呼びに遣(や)る程悪いんじゃアねえが、年が年だから何卒(どうぞ)呼んでおくんなせえと云うと、呼んじゃア悪かろうの何(なん)だの彼(か)だのと云って、評議の方が長(なげ)えのよ、長屋の奴等ア気が利かねえ」
新「これサ、其様(そん)な事を云うもんじゃアねえ、お長屋の衆も親切にして下すって、遠くの親類より近くの他人だ、お長屋の衆で助かったに、其様な事を云うもんじゃアねえ」 
三十四
勘「お前はそう云うが、ただ枕元で喋るばかりで些(ちっ)とも手が届かねえ、奥の肥(ふと)ったお金(きん)さんと云うかみさんは、己(おれ)を引立(ひった)って、虎子(おまる)へしなせえってコウ引立(ひきた)って居てズンと下(おろ)すから、虎子で臀(しり)を打(ぶ)つので痛(いて)えやな、あゝ人情がねえからな」
新「其様な事を云うもんじゃアねえ、何(なん)でもお前の好きな物を食べるが宜(い)い」
勘「有難(ありがて)え、もうねえ、新吉が来たから長屋の衆は帰(けえ)ってくれ」
新「其様な事を云うもんじゃアねえ」
長屋の者「じゃア、マア新吉さんが来たからお暇致します、左様なら」
新「左様ですか、何(ど)うも有難うございます、お金さん有難うお婆さん有難う、ヘエ大丈夫で、又何うか願います、ヘエ、なにお締めなさらんでも宜(よろ)しゅう、伯父さん長屋の人がねエ、親切にしてくれるのに、彼様(あん)な事を云うと心持を悪くするといかねえよ」
勘「ナアニ心持を悪くしたって構うものか、己(おら)の頑固(いっこく)は知って居るしなあ、能(よ)く来た、一昨日(おとゝい)から逢いたくって/\堪(たま)らねえ、何卒(どうぞ)して逢いてえと思って、もう逢えば死んでも宜(い)いやア、もう死んでも宜い」
新「其様な事を云わずに確(しっ)かりして、よう、もう一遍丈夫になって駕籠にでも乗せて田舎へ連れて行って、暢気(のんき)な処へ隠居さしてえと思うのだ、随分寿命も延々(のび/″\)するから彼方(あっち)へお引込(ひっこ)みよう」
勘「独身(ひとりみ)で煙草を刻(きざ)んで居るも、骨が折れてもう出来ねえ、アヽ、お前(めえ)嫁に子供(あかんぼう)が出来たてえが、男か女か」
新「何(なん)だか知れねえ是から生れるのだ」
勘「初めては女の児(こ)が宜い、お前(めえ)の顔を見たら形見(かたみ)を遣(や)ろうと思ってねえ、己(おれ)は枕元へ出したり引込(ひっこ)ましたりして、他人(ひと)に見られねえ様に布団の間へ※[「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている]込(さしこ)んだり、種々(いろ/\)な事をして見付からねえように、懐で手拭で包(くる)んだりして居た」
新「まだ/\大丈夫だよ伯父さん、だけれども形見は生きているうち貰って置く方が宜い、形見だって何をお前がくれるのだか知れねえが、何(なん)だい、大事にして持つよ」
勘「是を見てくんねえ」
と布団の間から漸(ようや)く引摺出(ひきずりだ)したは汚れた風呂敷包。
勘「これだ」
新「何(なん)だい」
と新吉は僅少(わずか)の金でも溜めて置いて呉れるのかと思いまして、手に取上げて見ると迷子札(まいごふだ)。
新「何(なん)だ是は迷子札だ」
勘「迷子札を今迄肌身離さず持って居たよ、是が形見だ」
新「是はいゝやア、今度生れる子が男だと丁度いゝ、若(も)し女の子か知らないが、今度生れる坊のに仕よう」
勘「坊なぞと云わねえでお前(めえ)着けねえ」
新「少し※[「箍」の「てへん」に代えて「木」](たが)がゆるんだね、大きな形(なり)をしてお守を下げて歩けやアしねえ」
勘「まア読んで見ねえ」
新「エヽ読んで」
と手に取上げて熟々(よく/\)見ると、唐真鍮(とうしんちゅう)の金色(かねいろ)は錆(さ)びて見えまする。が、深彫(ふかぼり)で、小日向服部坂深見新左衞門二男新吉、と彫付けてある故、
新「伯父さん是は何(なん)だねえ私の名だね」
勘「アイ、そのねえ、汚れたね其の布団の上へ坐っておくれ」
新「いゝよう」
勘「イヽエ坐ってお呉れ、お願いだから」
新「はい/\さア私が坐りました」
勘「それから私は布団から下(おり)るよ」
新「アヽ、下りないでも宜いよ、冷(ひえ)るといけねえよ」
勘「何卒(どうか)お前に逢ってねえ、一言(ひとこと)此の事を云って死にてえと思って心に掛けて居たがねえ、お前様(まえさん)は、小日向服部坂上で三百五十石取った、深見新左衞門様と云う、天下のお旗下のお前は若様だよ」
新「ヘエ、私がかえ」
勘「ウムお前の兄様(あにさま)は新五郎様と云ってね、親父様(おとっさま)はもうお酒好でねえ、お前が生れると間もなく、奥様は深い訳が有ってお逝去(かくれ)になり、其の以前から、お熊と云う中働(なかばたらき)の下婢(おんな)にお手が付いて、此の女が悪い奴で、それで揉めて十八九の時兄様は行方知れず、するとねえ、本所北割下水に、座光寺源三郎と云う、矢張(やっぱり)旗下が有って、其の旗下が女太夫(おんなだゆう)を奥方にした事が露(あら)われて、お宅番が付き、そのお宅番が諏訪部三十郎様にお前の親父様(おとっさん)の深見新左衞門様だ、すると梶井主膳と云う竜泉寺前の売卜者(うらないしゃ)がねえ、諏訪部様が病気で退(ひ)いて居て、親父様が一人で宅番して居るを附込んで、駕籠を釣らして来て源三郎とおこよと云う女太夫を引攫(ひっさら)って逃げようとする、遣(や)るめえとする、争って鎗で突かれて親父様はお逝去(かくれ)だから、お家は改易になり、座光寺の家も潰(つぶ)れたがね、其の時にお熊は何(なん)でもお胤(たね)を孕(はら)んで居たがね、屋敷は潰れたから、仕方がねえので深川へ引取(ひきとり)、跡は御家督(ごかとく)もねえお前さんばかり、ちょうどお前が三歳(みっつ)の時だが、私が下谷大門町へ連れて来て貰い乳して丹精して育てたのさ、手前(てめえ)の親父(おやじ)や母親(おふくろ)は小さいうち死んで、己(おれ)が育てたと云って、刻煙草(きざみたばこ)をする中で丹精して、本石町四丁目の松田と云う貸本屋へ奉公に遣りましたが実は、己はお前の処に居た門番の勘藏と申す、旧来御恩を頂いた者で、家来で居ながら、お前さんはお旗下の若様だと※[救/心](なまじ)い若い人に知らせると、己は世が世なら殿様だが、と自暴(やけ)になって道楽をされると困るから、新吉々々と使い廻して、馬鹿野郎、間抜野郎と、御主人様の若様に悪たい吐(つ)いて、実の伯父甥の様にしてお前さんを育てたから、心安立(こゝろやすだて)が過ぎてお前さんを打(ぶ)った事も有りましたが、誠に済まない事を致しました、私はもう死にますから此の事だけお知らせ申して死度(しにた)いと思い、殊(こと)にお前さんは親類(みより)縁者(たより)は無いけれども、たゞ新五郎様と云う御惣領(ごそうりょう)の若様が有ったが、今居れば三十八九になったろうけれども行方知れず覚えて居て下さい、鼻の高い色の白い好(い)い男子(おとこ)だ、目の下に大きな黒痣(ほくろ)が有ったよ、其の方に逢うにも、お前さんがこの迷子札を証拠に云えば知れます、アヽもう何も云う事は有りませんが、唯(たゞ)馬鹿野郎などと悪態を吐(つ)きました事は何卒(どうぞ)真平(まっぴら)御免なすって、仏壇(ほとけさま)にお前様(まえさん)の親父様(おとッつぁま)の位牌(いはい)を小さくして飾って有ります、新光院(しんこういん)様と云って其の戒名だけ覚えて居ります、其の位牌を持って往って下さい」 
三十五
新「然(そ)うかい、私は初めて伯父さん聞いたがねえ、だがねえ、私が旗下の二男でも、家が潰れて三歳(みっつ)の時から育てゝくれゝば親よりは大事な伯父さんだから、もう一度(ひとたび)快(よ)くなって恩報(おんがえ)しに、お前を親の様に、尚更(なおさら)私が楽(たのし)みをさしてから見送り度(た)いから、もう一二年達者になってねえ、決して家来とは思わない、我儘(わがまゝ)をすれば殴打擲(ぶちたゝき)は当然(あたりまえ)で、貰い乳をして能(よ)く育てゝくれた、有難い、其の恩は忘れませんよ、決して家来とは思いません、真実の伯父さんよりは大事でございます」
勘「はい/\有難(ありがて)え/\、それを聞けば直(すぐ)に死んでも宜(い)い、ヤア、有難えねえ、サア死にましょうか、唯|死度(しにた)くもねえが、松魚(かつお)の刺身で暖(あった)けえ炊立(たきたて)の飯(まんま)を喫(た)べてえ」
新「さア/\何(なん)でも」
と云う。当人も安心したか間もなく眠る様にして臨終致しました。それからはまず小石川の菩提所へ野辺送りをして、長く居たいが養子の身の上|殊(こと)には女房は懐妊、早く帰ろうと、長屋の者に引留められましたが、初七日までも居りませんで、精進物で馳走をして初七日を取越して供養をいたし、伯父が住(すま)いました其の家は他人に譲りましたから、早々(そう/\)立ちまして、せめて今夜は遅くも亀有まで行きたいと出かけまする。折悪しく降出して来ました雨は、どう降(ぶり)で、車軸を流す様で、菊屋橋の際(きわ)まで来て蕎麦屋で雨止(あまやみ)をしておりましたが、更に止(や)む気色(けしき)がございませんから、仕方がなしに其の頃だから駕籠を一挺(いっちょう)雇い、四ツ手駕籠に桐油(とうゆ)をかけて、
新「何卒(どうか)亀有まで遣(や)って、亀有の渡(わたし)を越して新宿(にいじゅく)泊りとしますから、四ツ木通りへ出る方が近いから、吾妻橋を渡って小梅へ遣ってくんねえ」
駕籠屋「畏(かしこ)まりました」
と駕籠屋はビショ/\出かける。雨は横降りでどう/\と云う。往来が止りまするくらい。其の降る中をビショ/\担(かつ)がれて行(ゆ)くうち、新吉は看病疲れか、トロ/\眠気ざし、遂には大鼾(おおいびき)になり、駕籠の中でグウ/\と眠(ね)て居る。
駕籠屋「押ちゃアいけねえ、歩けやアしねえ」
新「アヽ、若衆(わかいしゅ)もう来たのか」
駕「ヘエ」
新吉「もう来たのか」
駕「ヘエ、まだ参りません」
新「あゝ、トロ/\と中で寝た様だ、何処(どこ)だか薩張(さっぱり)分らねえが何処だい」
駕「何処だか些(ちっ)とも分りませんが、鼻を撮(つま)まれるも知れません、たゞ妙な事には、なア棒組、妙だなア、此方(こっち)の左(ひだ)り手に見える燈火(あかり)は何(ど)うしてもあれは吉原土手の何(なん)だ、茶屋の燈火に違(ちげ)えねえ、そうして見れば此方にこの森が見えるのは橋場の総泉寺馬場(そうせんじばゞ)の森だろう、して見ると此処(こゝ)は小塚ッ原かしらん」
新「若衆/\妙な方へ担いで来たナ、吾妻橋を渡ってと話したじゃアねえか」
駕「それは然(そ)う云うつもりで参(めえ)りましたが、ひとりでに此処へ来たので」
新「吾妻橋を渡ったか何(なん)だか分りそうなものだ」
駕「渡ったつもりでございますがね、今夜は何だか変な晩で、何(ど)うも、変で、なア棒組、変だなア」
駕「些(ち)ッとも足が運べねえ様だな」
駕「妙ですねえ旦那」
新「妙だってお前達(めえたち)は訝(おか)しいぜ、何(ど)うかして居るぜ急いで遣(や)ってくんねえ、小塚ッ原などへ来て仕様がねえ、千住へでも泊るから本宿(ほんじゅく)まで遣っておくれ」
駕「ヘエ/\」
と又ビショ/\担ぎ出した。新吉はまた中でトロ/\と眠気ざします。
駕「アヽ恟(びっく)りすらア、棒組そう急いだって先が一寸(ちょっと)も見えねえ」
新「あゝ大きな声だナア、もう来たのか若衆」
駕「それが、些(ちっ)とも何処(どこ)だか分りませんので」
新「何処だ」
駕「何処だか少しも見当(みあて)が付きませんが、おい/\、先刻(さっき)左に見えた土手の燈火(あかり)が、此度(こんど)ア右手(こっち)に見える様になった、おや/\右の方の森が左になったが、そうすると突当りが山谷の燈火か」
新「若衆、何(ど)うも変だぜ、跡へ帰って来たな」
駕「帰(けえ)る気も何もねえが、何うも変でございます」
新「戯(ふざ)けちゃア困るぜ冗談じゃアねえ、お前達(めえたち)は訝(おか)しいぜ」
駕「旦那、お前さん何か腥(なまぐさ)い物を持っておいでなさりゃアしませんか、此処(こか)ア狐が出ますからねえ」
新「腥い物|処(どころ)か仏の精進日だよ、しっかりしねえな、もう雨は上ったな」
駕「ヘエ、上りました」
新「下(おろ)しておくれよ」
駕「何うもお気の毒で」
新「冗談じゃアねえ、お前達(めえたち)は変だぜ」
駕「ヘエ何うも、此様(こん)な事は、今迄長く渡世(しょうべえ)しますが、今夜のような変な駕籠を担いだ事がねえ、行くと思って歩いても後(あと)へ帰(けえ)る様な心持がするがねえ」
新「戯けなさんな、包を出して」
と駕籠から出て包を脊負(しょ)い、
新「好(い)い塩梅に星が出たな」
駕「ヘエ奴蛇の目の傘はこゝにございます」
新「いゝやア、まア路(みち)を拾いながら跣足(はだし)でも何(なん)でも構わねえ行こう」
駕「低い下駄なれば飛々(とび/\)行(ゆ)かれましょう」
新「まアいゝや、さっ/\と行(い)きねえ」
駕「ヘエ左様なら」
新「仕様がねえな、何処だか些とも分りゃアしねえ」
と云いながら出かけて見ると、更(ふ)けましたから人の往来はございません。路を拾い/\参りますと、此方(こっち)の藪垣(やぶがき)の側に一人人が立って居りまして、新吉が行(ゆ)き過(すぎ)ると、
男「おい若(わけ)えの、其処(そこ)へ行(い)く若(わけ)えの」
新「ソリャ、此処(こゝ)は何(なん)でも何か出るに違(ちげ)えねえと思った、畜生(ちきしょう)/\彼方(あっち)へ行(い)け畜生/\」
男「おい若(わけ)えの/\コレ若えの」
新「ヘエ、ヘエ」
と怖々(こわ/″\)其の人を透(すか)して見ると、藪の処に立って居るは年の頃三十八九の、色の白い鼻筋の通って眉毛の濃い、月代(さかやき)が斯(こ)う森のように生えて、左右へつや/\しく割り、今御牢内から出たろうと云うお仕着せの姿(なり)で、跛(びっこ)を引きながらヒョコ/\遣って来たから、新吉は驚きまして、
新「ヘエ/\御免なさい」
男「何を仰しゃる、これは貴公が駕籠から出る時落したのだ、是は貴公様のか」
新「ヘエ/\、恟(びっく)り致しました何(なん)だかと思いました、ヘエ」
と見ると迷子札。
新「おや是は迷子札、是は有難う存じます、駕籠の中でトロ/\と寝まして落しましたか、御親切に有難う存じます、是は私(わたくし)の大事な物で、伯父の形見で、伯父が丹精してくれたので、何(ど)うも有難うございます」
男「其の迷子札に深見新吉と有るが、貴公様のお名前は何(なん)と申します」
新「手前が新吉と申します」
男「貴公様が新吉か、深見新左衞門の二男新吉はお前だの」
新「ヘエ私(わたくし)で」
男「イヤ何(ど)うも図らざる処で懐かしい、何うも是は」
と新吉の手を取った時は驚きまして、
新「真平(まっぴら)何うか、私(わたくし)は金も何もございません」
男「コレ、私をお前は知らぬは尤(もっと)も、お前が生れると間もなく別れた、私はお前の兄の新五郎だ、何卒(どうか)して其方(そち)に逢い度(た)いと思い居りしが、これも逢われる時節兄弟縁の尽きぬので、斯様(かよう)な処で逢うのは実に不思議な事で有った、私は深見の惣領新五郎と申す者でな」 
三十六
新「ヘエ、成程鼻の高い好(い)い男子(おとこ)だ、眼の下に黒痣(ほくろ)が有りますか、おゝ成程、だが新五郎様と云う証拠が何か有りますか」
新五郎「証拠と云って別にないが、此の迷子札はお前伯父に貰ったと云うが、それは伯父ではない勘藏と云う門番で、それが私(わし)の弟を抱いて散り散(ぢ)りになったと云う事を仄(ほの)かに聞きました、其の門番の勘藏を伯父と云うが、それを知って居るより外(ほか)に証拠はない、尤も外に証拠物もあったが、永らく牢屋の住居(すまい)にして、実に斯様(かよう)な身の上に成ったから」
新「それじゃアお兄様(あにいさま)、顔は知りませんが、勘藏が亡(なく)なります前、枕元へ呼んで遺言して、是を形見として貴方の物語り、此処(こゝ)でお目に掛れましたのは勘藏が草葉の影で守って居たのでしょう、それに付いても貴方のお身形(みなり)は何(ど)う云う訳で」
新五郎「イヤ面目ないが、若気の至り、実は一人の女を殺(あや)めて駈落したれど露顕して追手(おって)がかゝり、片足|斯(か)くのごとく怪我をした故逃げ遂(おお)せず、遂々(とう/\)お縄にかゝって、永い間牢に居て、いかなる責(せめ)に逢うと云えど飽くまでも白状せずに居たれど、迚(とて)も免(のが)るゝ道はないが、一度|娑婆(しゃば)を見度(みた)いと思って、牢を破って、隠れ遂せて丁度二年越し、実は手前に逢うとは図らざる事で有った、手前は只今|何処(いずこ)に居(お)るぞ」
新「私(わたくし)はねえ、只今は百姓の家(うち)へ養子に往(い)きました、先は下総の羽生村で、三藏と云う者の妹娘(いもとむすめ)を女房にして居ります、三藏と申すのは百姓もしますが質屋もし、中々の身代、殊(こと)に江戸に奉公をした者で気の利いた者ですが、貴方は牢を破ったなどゝとんだ悪事をなさいました、知れたら大事で、早く改心なすって頭を剃(す)って衣に着替え、姿を変えて私と一緒に国へお連れ申しましょう、貴方|何様(どん)なにもお世話を致しましょうから、悪い心を止(や)めてください、えゝ」
新五郎「下総の羽生村で三藏と云うは、何かえ、それは前に谷中七面前の下總屋へ番頭奉公した三藏ではないか」
新「えゝ能(よ)く貴方は御存知で」
新五郎「飛んだ処(とこ)へ手前|縁付(かたづ)いたな、其の三藏と言うは前々(まえ/\)朋輩(ほうばい)で、私(わし)が下總屋に居(い)るうち、お園という女を若気の至りで殺し、それを訴人したは三藏、それから斯様な身の上に成ったるも三藏故、白洲でも幾度(いくたび)も争った憎い奴で其の憎い念は今だに忘れん、始終憎い奴と眼を付けて居るが、そういう処へ其の方が縁付(かたづ)くとは如何(いか)にも残念、其の方もそういう処へは拙者が遣らぬ、決して行くな、是から一緒に逃去って、永(なげ)え浮世に短(みじ)けえ命、己と一緒に賊を働き、栄耀栄華(えようえいが)の仕放題(しほうだい)を致すがよい、心を広く持って盗賊になれ」
新「これは驚きました/\、兄上考えて御覧なさい、世が世なれば旗下の家督相続もする貴方が、盗賊をしろなぞと弟に勧めるという事が有りましょうか、マア其様(そん)な事を言ったって、貴方が悪いから訴人されたので、三藏は中々其様な者ではございませぬ」
新五郎「手前女房の縁に引かされて三藏の贔屓(ひいき)をするが、其の家を相続して己を仇(あだ)に思うか、サア然(そ)うなれば免(ゆる)さぬぞ」
新「免さぬってえ、お前さんそれは無理で、それだから一遍牢へ這入ると人間が猶々(なお/\)悪くなるというのはこれだな、手前の居る処は田舎ではありますが不自由はさせませんから一緒に来て下さい」
新五郎「手前は兄の言葉を背き居るな、よし/\有って甲斐なき弟故殺してしまう覚悟しろ」
新「其様(そん)な理不尽な事を云って」
新五郎「なに」
と懐に隠し持ったる短刀(どす)を引抜きましたから、新吉は「アレー」と逃げましたが、雨降(あめふり)揚句(あげく)で、ビショ/\頭まではねの上りますのに、後(うしろ)から新五郎は跛(びっこ)を引きながら、ピョコ/\追駈(おっか)けまするが、足が悪いだけに駈(かけ)るのも遅いから、新吉は逃げようとするが、何分(なにぶん)にも道路(みち)がぬかって歩けません。滑ってズーンと横に転がると、後(あと)から新五郎は跛で駈けて来て、新吉の前の処へポンと転がりましたはずみに新吉を取って押え付ける。
新五郎「不埓至極(ふらちしごく)の奴殺してしまう」
と云うに、新吉は一生懸命、無理に跳ね起きようとして足を抄(すく)うと、新五郎は仰向に倒れる、新吉は其の間(ま)に逃げようとする、新五郎は新吉の帯を取って引くと、仰向に倒れる、新吉も死物狂いで組付く、ベッタリ泥田の中へ転がり込む、なれども新五郎は柔術(やわら)も習った腕前、力に任して引倒し、
新五郎「不埓至極な、女房の縁に引かれて真実の兄が言葉を背く奴」
と押伏せて咽喉笛(のどぶえ)をズブリッと刺した。
新「情ない兄(あに)さん…」
駕籠屋「モシ/\旦那/\大そう魘(うな)されて居なさるが、雨はもう上りましたから桐油を上げましょう」
新「エ、アヽ危うい処だ、アヽ、ハアヽ、此処(こゝ)は何処(どこ)だえ」
駕「ちょうど小塚ッ原の土手でごぜえやす」
新「えい、じゃア夢ではねえか、吾妻橋を渡って四ツ木通りと頼んだじゃアねえか」
駕「ヘエ、然(そ)う仰しゃったが、乗出してちょうど門跡前へ来たら、雨が降るから千住へ行って泊るからと仰しゃるので、それから此方(こっち)へ参(めえ)りました」
新「なんだ、エヽ長(なげ)え夢を見るもんだ、迷子札は、お、有る/\、何(なん)だなア、え、おい若衆(わかいしゅ)/\、咽喉は何(なん)ともねえか」
駕「ヘエ、何(ど)うか夢でも御覧でごぜえましたか、魘されておいでなせえました」
新「小用(こよう)がたしてえが」
駕「ヘエ」
新「星が出たな」
駕「ヘエ、好(い)い塩梅(あんべえ)星が出ました」
新「じゃア下駄を出しねえ」
駕「是で天気は定(さだ)まりますねえ」
新「好い塩梅だねえ、おや此処(こゝ)はお仕置場だな」
と見ると二ツ足の捨札に獄門の次第が書いて有りますが、始めに当時無宿新五郎と書いて有るを見て、恟(びっく)りして、新吉が、段々|怖々(こわ/″\)ながら細かに読下すと、今夢に見た通り、谷中七面前、下總屋の中働お園に懸想(けそう)して、無理無体に殺害(せつがい)して、百両を盗んで逃げ、後(のち)お捕方(とりかた)に手向いして、重々不届至極に付獄門に行うものなりとあり。新吉はこれぞ正夢なり、妙な事も有るものだと、兄新五郎の顔が眼に残りしは不思議なれど、勘藏の話で想ったから然(そ)う見えたか、何(なん)にしても稀有(けう)な事が有れば有るものだ、と身の毛だちて、気味悪く思いますから、是より千住へ参って一晩泊り、翌日早々下総へ帰る。新吉の顔を見ると女房お累が虫気付(むしけづ)きまして、オギャア/\と産落したは男の子でございます。此の子が不思議な事には、新吉が夢に見た兄新五郎の顔に生写(いきうつ)しで、鼻の高い眼の細い、気味の悪い小児(こども)が生れると云う怪談の始めでございます。 
三十七
引続きまして真景累が淵と外題(げだい)を附しまして怪談話でございます。新吉は旅駕籠に揺(ゆら)れて帰りましたが、駕籠の中で怪しい夢を見まして、何彼(なにか)と心に掛る事のみ、取急いで宅(うち)へ帰りますると、新吉の顔を見ると女房お累は虫気付き、産落したは玉のような男の児(こ)とはいかない、小児(こども)の癖に鼻がいやにツンと高く、眼は細いくせにいやに斯(こ)う大きな眼で、頬肉が落ちまして瘠衰(やせおとろ)えた骨と皮ばかりの男の児が生れました。其の顔を新吉が熟々(つく/″\)見ると夢に見ました兄新五郎の顔に生写(いきうつ)しで、新吉はぞっとする程身の毛立って、
新「然(そ)うなれば此の家(うち)は敵同士(かたきどうし)と、夢にも兄貴が怨みたら/\云ったが、兄貴がお仕置に成りながらも、三藏に怨みを懸けたと見えて、その仇(あだ)の家(いえ)へ私が養子に来たと夢で其の事を知らせ、早く縁を切らなければ三藏の家(うち)へ祟(たゝ)ると云ったが、扨(さて)は兄貴が生れ変って来たのか、但(たゞ)しは又祟りで斯(こ)う云う小児(こども)が生れた事か、何(ど)うも不思議な事だ」
と其の頃は怨み祟りと云う事があるの或(あるい)は生れ変ると云う事も有るなどと、人が迷いを生じまして、種々(いろ/\)に心配を致したり、除(よけ)を致すような事が有りました時分の事で、所謂(いわゆる)只今申す神経病でございますから、新吉は唯(た)だ其の事がくよ/\心に掛りまして、
新「あゝもう悪い事は出来ぬ、ふッつり今迄の念を断って、改心致して正道(しょうどう)に稼ぐより外(ほか)に致し方はない、始終女房の身の上|小児(こども)の上まで、斯(こ)う云う祟りのあるのは、皆是も己の因果が報う事で有るか」
と様々の事を思うから猶更(なおさら)気分が悪うございまして、宅(うち)に居りましても食も進みません。女房お累は心配して、
累「御酒(ごしゅ)でもお飲みなすったらお気晴しになりましょう」
と云うが、何(ど)うも宅に居(い)れば居る程気分が悪いから、寺参りにでも行(ゆ)く方が宜(よ)かろうというので、寺参りに出掛けます。三藏も心配して、
三「一緒に居ると気が晴れぬ、姑(しゅうと)などと云う者は誠に気詰りな者だと云うから、一軒|家(うち)を別にしたら宜かろう」
と羽生村の北坂(きたざか)と云う処へ一軒新たに建てまして、三藏方で何も不足なく仕送ってくれまする。新吉は別に稼(かせぎ)もなく、殊(こと)には塩梅が悪いので、少しずつ酒でも飲んではぶら/\土手でも歩いたり、また大宝(たいほう)の八幡様へ参詣に行(ゆ)くとか、今日は水街道、或は大生郷(おおなごう)の天神様へ行くなどと、諸方を歩いて居りますが、まア寺まいりの方へ自然行く気になります。翌年寛政八年|恰(ちょう)ど二月三日の事でございましたが、法蔵寺へ参詣に来ると、和尚が熟々(つく/″\)新吉を見まして、
和尚「お前は死霊の祟りのある人で、病気は癒(なお)らぬ」
新「ヘエ何(ど)うしたら癒りましょう」
和尚「無縁墓の掃除をして香花(こうはな)を手向(たむ)けるのは大功徳(だいくどく)なもので、これを行ったら宜かろう」
新「癒りますれば何様(どん)な事でも致しますが、無縁の墓が有りましょうか」
和尚「無縁の墓は幾らも有るから、能(よ)く掃除をして水を上げ、香花を手向けるのはよい功徳になると仏の教えにもある、昔から譬(たと)えにも、千本の石塔を磨くと忍術が行えるとも云うから、其様(そん)な事も有るまいが功徳になるから参詣なさい」
と和尚さんが有難く説きつけるから、新吉は是から願(がん)に掛けて、法蔵寺へ行っては無縁の墓を掃除して水を上げ香花を手向けまする。と其処(そこ)が気の故(せい)か、神経病だから段々数を掃除するに従って気分も快くなって参ります。三月の二十七日に新吉が例の通り墓参りをして出に掛ると、這入って来ました婦人は年の頃二十一二にもなりましょうか、達摩返しと云う結髪(むすびがみ)で、一寸(ちょっと)いたした藍(あい)の万筋(まんすじ)の小袖に黒の唐繻子(とうじゅす)の帯で、上に葡萄鼠(ぶどうねずみ)に小さい一紋(ひとつもん)を付けました縮緬(ちりめん)の半纏羽織(はんてんばおり)を着まして、其の頃|流行(はや)った吾妻下駄を穿いて這入って来る。跡からついて参るのが馬方の作藏と申す男で、
作「お賤(しず)さん是が累(かさね)の墓だ」
賤「おやまア累の墓と云うと、名高いからもっと大きいと思ったら大層小さいね」
作「小さいって、是が何(ど)うも何(なん)と二十六年祟ったからねえ、執念深(しゅうねんぶけ)え阿魔(あま)も有るもので、此の前(めえ)に助(すけ)と書いてあるが、是は何う云う訳か累の子だと云うが、子でねえてねえ、助と云うのは先代の與右衞門の子で、是が継母(まゝはゝ)に虐(いじ)められ川の中へ打流(ぶちなが)されたんだと云う、それが祟って累が出来たと云うが、何(なん)だか判然(はっきり)しねえが、村の者も墓参りに来れば、是が累の墓だと云って皆(みんな)線香の一本も上げるだ、それに願掛(がんがけ)が利くだねえ、亭主が道楽ぶって他の女に耽(はま)って家(うち)へ帰(けえ)らぬ時は、女房が心配(しんぺえ)して、何うか手の切れる様に願(ねげ)えますと願掛すると利くてえ、妙なもので」
賤「そうかね、私はまア斯(こ)うやって羽生村へ来て、旦那の女房(おかみ)さんに、私の手が切れる様に願掛をされて、旦那に見捨てられては困るねえ」
作「なに心配(しんぺえ)しねえが宜(い)いだ、大丈夫(でえじょうぶ)、内儀(おかみ)さんは分った者(もん)で、それに若旦那が彼(あ)ア遣(や)って堅くするし、それに小さいけれども惣吉様も居るから其様(そん)な事はねえ、旦那は年い取ってるから、たゞ気に入ったで連れて来て、別に夢中になるてえ訳でもねえから、それに己連れて来たゞと云って話して、本家でも知ってるから心配(しんぺえ)ねえ、家(うち)も旦那どんの何(なん)で、貴方(あんた)が斯(こ)うしてと云って、旦那の誂(あつら)えだから家も立派に出来たゞのう」
賤「何(なん)だか茅葺(かやぶき)で、妙な尖(とが)った屋根なぞ、其様(そん)な広い事はいらないといったんだが、一寸(ちょっと)離れて寝る座敷がないといけないからってねえ、土手から川の見える処は景色が好(い)いよ」
作「好(よ)うがすね。ヤア新吉さん」
新「おや作さん久しくお目に掛りませんで」
作「塩梅(あんべい)が悪(わり)いてえが何(ど)うかえ」
新「何うも快(よ)くなくって困ります」
作「はア然(そ)うかえ能(よ)くまア心に掛けて寺参りするてえ、お前(めえ)の様な若(わけ)え人に似合わねえて、然う云って居る、えゝなアに彼(あれ)は名主様の妾よ」
新「ウン、アヽ江戸者か」 
三十八
作「深川の櫓下(やぐらした)に居たって、名前(なめえ)はおしずさんと云って如才(じょさい)ねえ女子(あまっこ)よ、年は二十二だと云うが、口の利き様は旨(うめ)えもんだ、旦那様が連れて来たゞが、家(うち)にも置かれねえから若旦那や御新造様と話合で別に土手下へ小さく一軒|家(いえ)え造って江戸風に出来ただ、まア旦那が行かない晩は淋しくっていけねえから遊びに来(こ)うと云うから、己が詰らねえ馬子唄アやったり麦搗唄(むぎつきうた)は斯(こ)う云うもんだって唄って相手をすると、面白がって、それえ己がに教えてくれろなどと云ってなア、妙に馬士唄(まごうた)を覚えるだ、三味線(さみせん)弾いて踊りを踊るなア、食物(くいもの)ア江戸口で、お前(めえ)塩の甘たっけえのを、江戸では斯う云う旨(うめ)え物(もん)喰って居るからって、食物(くいもな)ア大変|八釜(やかま)しい、鰹節(かつぶし)などを山の様に掻いて、煮汁(にしる)を取って、後(あと)は勿体ないと云うのに打棄(うっちゃ)って仕まうだ、己淋しくねえように、行って三味線弾いては踊りを踊ったり何かするのだがね彼処(あすこ)は淋しい土手下で、余(あんま)り三味線弾いて騒ぐから、狸が浮れて腹太鼓を敲(たゝ)きやアがって夜が明けて戸を明けて見ると、三匹|位(ぐれ)え腹ア敲き破ってひっくり返(けえ)って居る」
新「嘘ばっかり」
作「本当だよ」
賤「一寸(ちょいと)/\作さん、何(なん)にも見る処(とこ)が無いから、もう行こう」
作「えゝ参(めえ)りましょう」
賤「一寸(ちょいと)作さん今話をして居た人は何所(どこ)の人」
作「彼(あ)れは村の新吉さんてえので」
賤「私は見たような人だよ」
作「見たかも知んねえ江戸者だよ」
賤「おや然(そ)うかい、一寸(ちょっと)気の利いたおつな人だね」
作「えゝ極(ごく)柔和(おとな)しい人で、墓参(はかめえ)りばかりして居てね、身体が悪(わり)いから墓参りして、何(なん)でも無縁様の墓ア磨けば幻術が使えるとか何とか云ってね、願掛(がんがけ)えして」
賤「おや気味の悪い、幻術使いかえ」
作「今是から幻術使いになるべえと云うのだろう」
賤「然うかえ妙な事が田舎には有るものだねえ、何かえ江戸の者で此方(こっち)へ来たのかえ」
作「ヘエ上(かみ)の三藏さんてえ人の妹娘(いもとむすめ)お累てえが、お前(めえ)さん、新吉が此方へ来たので娘心に惚れたゞ、何(ど)うか聟に貰えてえって恋煩いして塩梅が悪くなって、兄様も母親様(おっかさま)も見兼ねて金出した恋聟よ」
賤「然うかえ、新吉|様(さん)と、おや新吉さんというので思い出したが、見た訳だよ私がね櫓下に下地子(したじっこ)に成って紅葉屋(もみじや)に居る時分、彼(あ)の人は本石町の松田とか桝田とか云う貸本屋の家(うち)に奉公して居て、貸本を脊負(しょ)って来たから、私は年のいかない頃だけども、度々(たび/″\)見て知って居るよ、大層芸者|衆(しゅ)もヤレコレ云って可愛がって、そう/\中々愛敬者で、知って居るよ」
作「アヽマア新吉さん/\、おい此方(こっち)へ来なせえ、アノ御新造様がお前(めえ)を知って居るてねえ」
新「何方様(どなたさま)でげすえ」
賤「ちょいと新吉さんですか、私は誠にお見違(みそ)れ申しましたよ、慥(たし)か深川櫓下の紅葉屋へ貸本を脊負ってお出でなすった新吉さんでは有りませんか」
新「ヘエ、私もねえ先刻(さっき)からお見掛け申したような方と思ったが、若(もし)も間違ってはいけねえと思って言葉を掛けませんでしたが、慥かお賤さんで」
作「それだから知って居るだ何処(どこ)で何様(どん)な人に逢うか知んねえ、嘘は吐(つ)けねえもんだ」
賤「私は此の頃|此方(こっち)へ来て、斯(こ)ういう処にいるけれども、馴染はなし、洒落を云ったって向(むこう)に通じもしないし、些(ちっ)とも面白くないから、作藏さんが毎晩来て遊んでくれるので、些とは気晴しになるんだが、新吉さん本当に好(い)い処で、些とお出でなさいな、ちょうど旦那が遊びに来て居るから、変な淋しい処だけれども、閑静(しずか)で好いから一寸(ちょいと)お寄りな」
新「ヘエ有難うございます、私はね此方(こっち)へ参りまして未(ま)だ名主様へ染々(しみ/″\)お近付にもなりませんで、兄貴が連れてお近付に参ると云って居りますが、何(なん)だか気が詰ると思ってツイ御無沙汰をして参りませんので」
賤「なに気が詰る所(どころ)じゃア無い、さっくり能(よ)く解(わか)った人だよ、私を娘の様に可愛がって呉れるから一寸(ちょいと)お寄りな、ねえ作さん」
作「それが好(い)い、新吉さんお出でよ、何(なん)でもお出で」
と勧められるから新吉は、幸い名主に逢おうと行(ゆ)きましたが、少し田甫(たんぼ)を離れて庭があって、囲(かこい)は生垣になって、一寸(ちょいと)した門の形が有る中に花壇などがある。
賤「さア新吉さん此方(こっち)へ」
惣「大層遅かったな」
賤「遅いったって見る処がないから累(かさね)の墓を見て来ましたが、気味が悪くて面白くないから帰って来たの」
作「只今」
惣「大きに作藏御苦労、誰か一緒か」
賤「彼(あ)の人は新吉さんと云って私が櫓下に居る時分、貸本屋の小僧さんで居て、その時分に本を脊負って来て馴染なので、思い掛けなく逢いましたら、まだ旦那様にお目に掛らないから、何卒(どうか)お目通りがしたいと云うから、それは丁度|好(よ)い、旦那様は家(うち)に来て居らっしゃるからと云って、無理に連れて来たので」
惣「おや/\そうか、さア此方(こちら)へ」
新「ヘエ初めまして、私(わたくし)はえゝ三藏の家(うち)へ養子に参りました新吉と申す不調法者で、何卒(どうぞ)一遍は旦那様にお目通りしたいと思いましたが、掛違いましてお目通りを致しません、今日(こんにち)は好(よ)い折柄(おりがら)お賤さんにお目に掛って出ましたが、ついお土産も持参致しませんで」
惣「いゝえ、話には聞いたが、大層心掛の善い人だって、お前さん墓参りに能(よ)く行くってね」
新「ヘエ身体が悪いので法蔵寺の和尚様が、無縁の墓へ香花を上げると、身体が丈夫になると云うから、初めは貶(けな)しましたが、それでも親切な勧めだと思って参りますが、妙なもので此の頃は其の功徳かして大きに丈夫に成りました」
惣「うん成程|然(そ)うかえ、能く墓参(はかめえ)りをする、中々|温順(おとなし)やかな実銘(じつめい)な男だと云って、村でも評判が好(い)い」
賤「本当に極くおとなしい人で、貸本屋に居て本を脊負ってくる時分にも、一寸(ちょっと)来ても、新吉さん手伝っておくれなんて云うと、冬などは障子を張替えたり、水を汲んだり、外を掃除したり、誠に一寸人柄は好(よ)しねえ、若い芸者衆は大騒ぎやったので、新吉さん遠慮しないで、窮屈になると却(かえ)って旦那は困るから、ねえ旦那、初めてゞすからお土産などと云ったんだけれども止(と)めましたが、初めてですからお金を一寸少しばかり遣(や)って下さいな」
惣「お金を、幾ら」
賤「幾らだって少しばかりは見っともないし、貴方は名主だからヘエ/\あやまってるし、初めてですから三両もお遣んなさいよ」
惣「三両、余(あんま)り多いや一両で宜(よ)かろう」
賤「お遣りなさいよ、向(むこう)は目下だから、それに、旦那あの博多の帯はお前さんに似合いませんから彼(あ)の帯もお遣りなさいよう」
惣「帯を、種々(いろ/\)な物を取られるなア」
と是が始(はじま)りで新吉は近しく来ます。 
三十九
お賤は調子が宜し、酒が出ると一寸小声で一中節(いっちゅうぶし)でもやるから、新吉は面白いから猶(なお)近しく来る。其の中(うち)に悪縁とは申しながら、新吉とお賤と深い中に成りましたのは、誰(た)れ有って知る者はございませんけれども、自然と様子がおかしいので村の者も勘付いて来ました。新吉は家(うち)へ帰ると女房が、火傷の痕(あと)で片鬢(かたびん)兀(はげ)ちょろになって居り、真黒な痣(あざ)の中からピカリと眼が光るお化(ばけ)の様な顔に、赤ん坊は獄門の首に似て居るから、新吉は家へ帰り度(た)い事はない。又それに打って代って、お賤の処へ来ると弁天様か乙姫の様な別嬪(べっぴん)がチヤホヤ云うから、新吉はこそ/\抜けては旦那の来ない晩には近くしけ込んで、作藏に少し銭を遣れば自由に媾曳(あいびき)が出来まするが、偖(さて)悪い事は出来ぬもので、兄貴は心配しても、新吉に意見を云う事は出来ませんから、お累に内々(ない/\)意見を云わせます、意見を云わないと為にならぬ向(むこう)が名主様だから知れてはならぬという、それを思うから、女房お累が少し意見がましい事をいうと、新吉は腹を立てゝ打ち打擲(ちょうちゃく)致しまするので、今迄と違って実に荒々しい事を致しては家を出て行(ゆ)きまするような事なれども、人が善(よ)いから、お累は心配する所から段々病気に成りまして、遂には頭(かしら)が破(わ)られる様に痛いとか、胸が裂ける様だとか、癪(しゃく)という事を覚えて、只おろ/\泣いてばかりおります。兄貴は改って枕元へ来て、
三「段々村方の者の耳に這入り、今日は老母(としより)の耳にも這入って、捨てゝは置かれず、私(わし)が附いて居て名主様に済まない、殊(こと)に家(うち)の物を洗いざらい持出して質に置き、水街道の方で遊んで、家(うち)へ帰らずに、夜になればお賤の処へしけ込んでおり、お前が塩梅が悪くっても、子供が虫が発(おこ)っても薬一服呑ませる了簡(りょうけん)もない不人情な新吉、金を遣(や)れば手が切れるから手を切ってしまえ」
と兄が申しまする。所がお累は
「何(ど)うも相済みませんが、仮令(たとえ)親や兄弟に見捨てられても夫に附くが女の道、殊には子供も有りますから、お母様(っかさん)やお兄様(あにいさま)には不孝で有りますが、私は何うも新吉さんの事は思い断(き)られません」
と、ぴったり云い切ったから、
三「然(そ)うなれば兄妹(あにいもと)の縁を切るぞ」
と云渡して、纏(まと)めて三十両の金を出すと、新吉は幸い金が欲(ほし)いから、兄と縁を切って仕舞って、行通(ゆきかよ)いなし。新吉は此の金を持って遊び歩いて家(うち)へ帰らぬから、自分は却(かえ)って面白いが、只|憫然(かわいそう)なのは女房お累、次第/\に胸の焔(ほむら)は沸(に)え返る様になります。殊に子供は虫が出て、ピイ/\泣立てられ、糸の様に痩せても薬一服呑ませません。なれども三藏の手が切れたから村方の者も見舞に来る人もござりません。新吉は能(い)い気になりまして、種々(いろ/\)な物を持出しては売払い、布団どころではない、遂(つい)には根太板(ねだいた)まで剥(はが)して持出すような事でございますから、お累は泣入っておりますが、三藏は兄妹の情(じょう)で、縁を切っても片時も忘れる暇(ひま)は有りません故、或日|用達(ようたし)に参って帰りがけ、旧来居ります與助(よすけ)と云う奉公人を連れて、窃(そう)っと忍んで参り、お累の家(うち)の軒下に立って、
三「與助や」
與「ヘエ」
三「新吉が居る様なれば寄らねえが、新吉が居なければ一寸(ちょっと)逢って行(ゆ)きたいから窃(そっ)と覗(のぞ)いて様子を見て、新吉が居ては迚(とて)も顔出しは出来ぬ」
與「マア大概(てえげえ)留守勝だと云うから、寄って上げておくんなさえ、ねえ、憫然(かわいそう)で、貴方(あんた)の手が切れてから誰(たれ)も見舞(みめえ)にも行(い)かぬ、仮令(たとえ)貴方(あなた)の手が切れても、塩梅(あんべえ)が悪(わり)いから村の者は見舞(みめえ)に行ったっても宜(え)えが、それを行かぬてえから大概(てえげえ)人の不人情も分っていまさア、何(ど)うか寄って顔を見て遣(や)っておくんなさえ、私(わし)もお累さんが小せえうちから居りやすから、訪ねてえと思うが、訪ねる事が出来ねえが、表で逢っても、新吉さんお累さんの塩梅(あんべえ)は何うで、と云うと、何(なん)だ汝(われ)は縁の切れた所(とこ)の奉公人だ、くたばろうと何うしようと世話にはならねえ、と斯(こ)う云うので、彼(あ)の野郎|彼様(あん)な奴ではなかったが、魔がさしたのか、始終はハア碌(ろく)な事はねえ、お累さんに咎(とが)はねえけれどもそれえ聞くと遂(つい)足遠くなる訳で」
三「何(なん)たる因果でお累は彼様な悪党の不人情な奴を思い断(き)れないというのは何かの業(ごう)だ、よ、覗いて見なよ」
與「覗けませんよ」
三「なぜ」
與「何(ど)うも檐先(のきさき)へ顔を出すと蚊が舞って来て、鼻孔(はなめど)から這入(へえ)って口から飛出しそうな蚊で、アヽ何うもえれえ蚊だ、誰も居ねえようで」
三「然(そ)うか、じゃア這入って見よう」
と日暮方で薄暗いから土間の所から探り/\上って参ると、煎餅(せんべい)の様な薄っぺらの布団を一枚敷いて、其の上へ赤ん坊を抱いてゴロリと寝ております。蚊の多いに蚊帳(かや)もなし、蚊燻(かいぶ)しもなし、暗くって薩張(さっぱ)り分りません。
三「ハイ御免よ、おッ、此処(こゝ)に寝て居る、えゝお累/\私だよ兄だよ…三藏だよ」
累「は……はい」 
四十
三「アヽ危ない、起きなくってもいゝよ、そうしていなよ、然(そ)うしてね、お前とは縁切(えんきり)に成って仕舞ったから、私が出這入りをする訳じゃアないが、縁は断(き)れても血筋は断れぬと云う譬(たと)えで何(なん)となく、お前の迷(まよい)から此様(こん)な難儀をする、何(ど)うかしてお前の迷が晴れて新吉と手が切れて家(うち)へ帰る様にしたいと思って居るから、もう一応お前の胸を聞きに来たので、新吉も居ない様子だから話に来た、エヽちょうど與助が供でね、あれもお前が小さい時分からの馴染だから、何(ど)うぞ一目逢って来度(きた)いと云って、與助|此方(こっち)へ這入りな」
與「ヘエ有難う、お累さん與助でござえますよ、お訪ね申してえけれども、旦那にも云う通り、新吉さんが憎まれ口(ぐち)イきくので、つい足イ遠くなって訪ねませんで、長(なげ)え間|塩梅(あんべえ)が悪くってお困りだろう、何様(どん)な塩梅(あんべえ)で、エヽ暗くって薩張分りませんが、些(ちっ)とお擦(さす)り申しましょう、おゝおゝ其様(そん)なに痩(やせ)もしねえ」
三「それは己だよ」
與「然(そ)うかえお前(めえ)さんか、暗くって分らねえから」
三「何しろ暗くって仕様がない、灯(あかり)を点(つ)けなければならん、新吉は何処(どこ)へ行ったえ」
累「はい有難う、兄(あに)さん能(よ)く入らしって下さいました、お目に掛られた義理ではありませんが、何卒(どうか)もう私も長い事はございますまいから、一眼(ひとめ)お目に掛って死にたいと存じましても、心がらでお招(よ)び申す事も出来ない身の上に成りましたも、皆お兄様(あにいさま)やお母様(っかさま)の罰(ばち)でございますが、心に掛けておりました願いが届きまして、能く入らしって下さいました、與助能く来てお呉れだね」
與「ヘエ、来てえけれどもねえ、何(ど)うも来られねえだ、新吉が憎まれ口きくでなア、実にはア仕様がねえだ、蚊が多いなア、まア」
三「新吉は何処へ行った、なに友達に誘われて遊びに行ったと、作藏と云う馬方と一緒に遊んで居やアがる、忌々(いめえま)しい奴だ、蚊帳は何処にある、蚊帳を釣りましょう、なに無いのかえ」
累「はい蚊帳どころではございません、着ております物を引剥(ひんむ)いて持出しまして、売りますか質に入れますか、もう蚊帳も持出して売りました様子で」
三「呆(あき)れますな何(ど)うも、蚊帳を持出して売って仕舞ったと、この蚊の多いのによ」
與「だから鬼だって、自分は勝手三眛(かってざんまい)して居るから痒(かい)くもねえが、それはお累様ア憎いたって、現在赤ん坊が蚊に喰殺されても構わねえて云うなア心が鬼だねえ」
三「與助や家(うち)へ行って蚊帳を取って来て呉んな、家の六畳で釣る蚊帳が丁度|宜(い)い、あれは六七(ろくしち)の蚊帳だから、あれで丁度よかろう、若(も)しあれでなければ七八(しちはち)の大きいので宜い病人の中へ這入って擦(さす)る者も広い方が宜いから」
與「直(じ)き往って来ましょう」
三「早く往って」
與「ヘエ、お累様|直(じき)往って参(めえ)りますよ」
と親切な男で、飛ぶようにして蚊帳を取りに行(ゆ)きました。
三「暗くっていかぬから灯(あかり)を点(つ)けましょう、何処(どこ)に火打箱はあるのだえ、何所(どこ)に、え、竈(かまど)を持出して売ったア、呆れます何(ど)うも、家(うち)ではお飯(まんま)も喰わねえ了簡、左様(そう)云う悪(にく)い奴だ」
と段々手探りで台所の隅へ行って、
三「アヽ茲(こゝ)に在(あ)った/\」
と漸(ようや)く火打箱を取出しましてカチ/\打ちまするが、石は丸くなって火が出ない、漸くの事で火を附木(つけぎ)に移し、破れ行燈(あんどう)を引出して灯(あかり)を点(つ)け、善々(よく/\)お累の顔を見ると、実に今にも死のうかと思うほど痩衰えて、見る影はありませんから、兄三藏は驚きまして、
三「あゝお累、お前是は一通りの病気ではない余程の大病だよ、此の前に来た時は此様(こん)なに瘠(やせ)てはいなかったが、何も食べさせはせず、薬一服|煎(せん)じて呑ませる了簡もなく、出歩いてばっかり居る奴だから、自分には煮炊(にたき)も出来ずお前が此様な病気でも見舞に来る人もないから知らせる人もなし、物を食べなけりゃア力が附かないから、是では仮令(たとえ)病気でなくとも死にます、見れば畳も持出して売りやアがったと見えて、根太(ねだ)が処々(ところ/″\)剥(は)がれて、まア縁の下から草が出ているぜ、実に何(ど)うも酷(ひど)いじゃアないか、えゝおい、彼(あ)の非道な新吉を何処(どこ)までもお前亭主と思って慕う了簡かえ、お前は罰(ばち)があたって居るのだよ、私がお母様(っかさん)にお気の毒だと思って種々(いろ/\)云うと、お母様は私への義理だから、何(なん)の親|同胞(きょうだい)を捨てゝ出る様な者は娘とは思わぬ、敵(かたき)同士だ、病気見舞にも行ってくれるな、彼様(あん)な奴は早く死ねばいゝ、と口では仰しゃるけれども、朝晩如来様に向って看経(かんきん)の末には、お累は大病でございます、何卒(どうか)お累の病気全快を願います、新吉と手を切りまして、一つ処へ親子三人寄って笑顔(わらいがお)を見て私も死度(しにと)うございます、何卒お護(まも)りなすって下さいまし、と神様や仏様に無理な願掛(がんがけ)をなさるも、お前が可愛いからで、親の心子知らずと云うのはお前の事で、さア今日は新吉とフッヽリ縁を切ります諦めますとお前が云えば、彼様な奴だから三十両か四十両の端金(はしたがね)で手を切って、お前を家(うち)へ連れて行って、身体さえ丈夫になれば立派な処へ縁附ける、左(さ)も無ければ別家(べっけ)をしても宜(い)い、彼奴(あいつ)に面当(つらあて)だからな、えゝ、今日は諦めますと云わなければなりませんよ、さア諦めたと云いなさい、えゝ、おい、云えないかえ、今日諦めなければ私はもう二度と再び顔は見ません、もう決して足踏(あしぶみ)は致しません、もう兄妹の是が別れだ、外(ほか)に兄弟があるじゃアなし、お前と私ばかり、お前亭主を持たないうち何(なん)と云った、私が他(わき)へ縁付きましても、子というは兄(あに)さんと私ぎりだから、二人でお母様に孝行しようと云ったじゃアないか、して見れば親の有難い事も知っているだろう、さア、お前の身が大事だからいうのだよ、返答が出来ませんかよ、えゝお累、返答しなければ私は二度と再び来ませんよ」 
 

 

四十一
累「はい/\」
と利かない手を漸(やっ)と突いてガックリ起上り、兄三藏の膝の上へ手を載せて兄の顔を見る眼に溜(たま)る涙の雨はら/\と膝に翻(こぼ)れるのを、
三「これ/\たゞ泣いていては却(かえ)って病(やまい)に障るよ」
累「はいお兄様(あにいさま)どうも重々(じゅう/\)の不孝でございました、まア是迄御丹精を受けました私(わたくし)が、お兄様のお言葉を背きましては、お母様(っかさま)へ猶々(なお/\)不孝を重ねまする因果者、此の節のように新吉が打って変って邪慳では、迚(とて)も側には居られません、少しばかり意見がましい事を申せば、手にあたる物でぶち打擲致しますから、小児(あか)が可愛(かわゆ)くないかと膝の上へ此の坊を載せますと、エヽうるせえ、とこんな病身の小児を畳の上へ放り出します、それほど気に入らぬ女房なれば離縁して下さい、兄の方へ帰りましょうと申しますと、男の子は男に付くものだから、此の與之助は置いて行(ゆ)けと申します、彼様(あん)な鬼の様な人の側へ此の坊を置きましては、見す/\見殺しに致しまするようなものと、つい此の小僧に心が引かされて、お兄様やお母様に不孝を致します、せめて此の與之助が四歳(よっつ)か五歳(いつゝ)に成ります迄|何卒(どうぞ)お待ち遊ばして」
三「其様(そん)な分らぬ事を云っては困りますよ、お前|何(ど)うも、四歳か五歳になる迄お前の身体が保(も)ちゃアしませんよ、能く考えて御覧、子を捨てる藪はあるが身を捨てる藪はないと云う譬(たとえ)の通りだ、置いて行(い)けと云うなら置いて行って御覧、乳はなし、困るからやっぱりお前の方へ帰って来るよ、エヽ、私の云う事を聴かれませんか、是程に訳を云ってもお前は聴かれませんかえ、悪魔が魅入ったのだ、お前そんな心ではなかったが情(なさけ)ない了簡だ、私はもう二度と再び来ません、思えばお前は馬鹿になって了(しま)ったのだ、呆れます」
と腹が立つのでは有りませんが、妹(いもと)が可愛い紛れに荒い意見をいうと、お累は取詰めて来まして癪(しゃく)を起し、
累「ウーン」
と虚空を掴んで横にぱったり倒れましたから、三藏は驚きまして、
三「エヽ困ったなア、少し小言を云うと癪を起すような小さい心でありながら、何(ど)う云うもので、此様(こん)なに強情を張るのだろう、新吉の野郎め、困ったな、水はねえかな、何卒(どうか)これ、お累|確(しっ)かりしてくれよ、心を慥(たし)かに持たなければならんよ、此の大病の中で差込が来ては堪(たま)らん、確かりして」
と一人で手に余る処へ、帰って来たは與助、風呂敷包に蚊帳の大きなのを持って、
與「旦那取って来ました」
三「蚊帳を取って来たか、今お累が癪を起して気絶してしまった」
與「えゝまア、そりゃ、お累さん/\何(ど)うしただ、これお累さん、あゝまア歯ア喰いしばって、えらい顔になって、是はまア死んだに違(ちげ)えねえ、骨と皮ばかりで」
三「死んだのじゃアねえ今|塞(と)じて来たのだが、アヽこれっ切りに成るかしら、あゝもうとても助かるまい」
與「助からねえッてえ可哀そうに、これマア迚(とて)も駄目だねえ、お累さん私(わし)イ小せえうちから馴染ではござえませんか、私イ今ア蚊帳(かやア)取りに行く間待っても宜(よ)かんべえがそれにマア死んでしまうとは情ねえ、彼様(あん)な悪徒(あくと)野郎が側に附いて居るから、近所の者も見舞にも来ず、薬一服煎じて飲ませる看病人も無い、此様(こん)なになって死ぬのは誠に情ねえ訳で、何(ど)うして死んだかなア」
三「其様(そんな)に泣いたって仕様があるものか、命数が尽きれば仕方がねえ、其様に女々しく泣くな、男らしくもねえ、腹一杯親|同胞(きょうだい)に不孝をして苦労を掛けて是で先立つたア此様(こん)な憎い奴はねえ、憫然(かわいそう)とは思わない、悪(にく)いと思え、泣く事はねえ、泣くな」
與「泣くなって、泣いたって宜(よ)かんべえ、死んだ時でも泣かなきゃア泣く時はねえ、私(わし)い憫然でなんねえだよ、斯(こ)んな立派な兄(あに)さんがあっても、薬一服煎じて飲ませねえで憫然だと思うから泣くのだ、お前さんも我慢しずに泣くが宜(え)え」
三「まア水でも飲まして見ようか」
與「まだ水も何も飲ませねえのかえ」
三「オイ己(おれ)が水を飲ませるから其処(そこ)を押えて、首を斯(こ)うやって、固く成って居るからの、力一ぱい、なに腕が折れると、死んで居るから構やアしねえ、宜(い)いか、今水を飲ませるから、ウグ/\/\/\」
與「何だか云う事が分んねえ」
三「いけねえ、己が飲んでしまった」
與「仕様がねえな、含(くゝ)んでゝ喋れば飲込むだ、喋らずに」
と漸(ようや)く三藏が口移しにすると、水が通ったと見えて、
累「ウム」
という。
三「アヽ與助、漸く水が通った」
與「通ったか、通れば助かります、お累様ア、確(しっ)かりして、水が通ったから確かりして、お累さん/\」
三「お累確かりしろ、兄(あに)さんが此処(こゝ)に附いて居るから確かりしろよ」
與「お累様確かりおしなさえよ、與助が此処へ参(めえ)って居りますから、お累様、確かりおしなさえよ」
累「ア…………」
三「其方(そっち)へ退(ど)きなさい、頭を出すから、アヽ痛い」
與「大丈夫(でえじょうぶ)己来たからよう、アヽ好(い)い塩梅(あんべえ)だ気が付いた、アヽ……」
三「何(なん)だ手前(てめえ)気が付きゃアそれで好いや、気が付いて泣く奴があるものか」
與「嬉し涙で、もう大丈夫(でえじょうぶ)だ」
三「もう一杯飲むかえ、さア/\水を飲みなさい」 
四十二
累「ハイ……気が付きました、何卒(どうぞ)御免なされて下さい」
三「私が余(あんま)り小言を云ったのは悪うございました、ついお前の身の上を思うばっかりに愚痴が出て、病人に小言を云って、病に障る様な事をして、兄(あに)さんが思い切りが悪いのだから、皆定まる約束と思って、もう何(なん)にも云いますまい、小言を云ったのは悪かった、堪忍して」
與「誰エ小言云った、能くねえ事(こっ)た、貴方(あんた)正直だから悪(わり)い、此の大病人(たいびょうにん)に小言を云うってえ、此の馬鹿野郎め」
三「何(なん)だ馬鹿野郎とは」
與「けれども小言を云ったって、旦那様もお前様(めえさま)の身を案じてねえ、新吉さんと手が切れて家(うち)へ帰(けえ)れるようにしたいと思うから意見を云うので、悪く思わねえ様に、よう/\」
三「蚊帳を持って来たから釣りましょう、恐ろしく蚊に喰われた、釣手があるかえ」
累「釣手は売られないから掛って居ります」
三「そうか」
と漸(ようや)く二人で蚊帳を釣って病人の枕元を広くして、
三「あのね、今帰り掛けで持合せが少ないが、三両|許(ばか)りあるから是を小遣に置いて行(ゆ)きましょう、私も諦らめてもう何も云いません、若(も)し小遣が無くなったら誰(たれ)か頼んで取りによこしなよう、大事にしなよう、蚊帳を釣ったから、もういゝ、何も、もう其様(そん)な事を云うなえ、サ、行(ゆ)きましょう/\」
與「ヘエ参(めえ)りましょう、じゃアねえ、お累さん行(い)きますよ、旦那様が帰(けえ)るというから私(わし)も帰(けえ)るが、大事にしてお呉んなさえよ、よう、くよ/\思わなえが宜(え)え、エヽ何(ど)うも仕様がねえ、帰(けえ)りますよ」
三「ぐず/\云わずに先へ出なよ、出なったら出なよ、先へ出なてえに」
と兄が立ちに掛ると、利かない手を突いて漸(ようや)くに這出して、蚊帳を斯(こ)う捲(まく)ってお累が出まして、行(ゆ)きに掛る兄の裾(すそ)を押えたなり、声を振わして泣倒れまする。
三「其様(そんな)にお前泣いたり何かすると毒だよ、さア蚊帳の中へ這入りな、坊が泣くよ、さア泣いているから這入んな」
累「お兄様(あにいさま)只今まで重々の不孝を致しました、先立って済みませんが、迚(とて)も私は助かりません、何卒(どうぞ)御立腹でもございましょうがお母様(っかさま)に只(たっ)た一目お目に掛って、お詫をして死にとう存じますが、お母様にお出(いで)下さる様に貴方からお詫をなすって下さいませんか」
三「もうそんな事をおいいでないよ、お母様もまた是非来たがって居るのだからお連れ申す様にしましょう、其様(そん)な事をいわずにくよ/\せずに、さア/\蚊帳の中へ這入って居なよ」
與「大丈夫(でえじょうぶ)だよ、お母様ア己が連れて来るよ、其様な事を云うと悲しくって帰(けえ)れねえから這入ってお呉んなさえよ、ア、赤ん坊が泣くよ、憫然(かわいそう)に本当に泣けねえ」
三「アヽ鼻血が出た、與助、男の鼻血だから仔細はあるまいけれども、盆凹(ぼんのくぼ)の毛を一本抜いて、ちり毛を抜くのは呪(まじねえ)だから、アヽ痛(いて)え、其様(そんな)に沢山抜く奴があるか、一掴(ひとつかみ)抜いて」
與「沢山(たんと)抜けば沢山|験(き)くと思って」
三「えゝ痛いワ、さあ/\行きますよ」
と名残(なごり)惜(おし)いが、二人とも外へ出ると生憎(あいにく)気になる事ばかり。
三「アヽ痛」
與「何(ど)うかしましたかえ」
三「下駄の鼻緒が切れた」
與「横鼻緒が切れましたか、ヘエ」
三「與助何うも気になるなア、お累の病気はとても助かるまいよ」
與「ヘエ助かりませんか、憫然(かわいそう)にねえ、早くお母様アおよこし申す様にしましょうか」
三「何しろ早く帰ろう」
と三藏が帰ると、入違えて帰って来たのは深見新吉。酒の機嫌で作藏を連れてヒョロ/\踉(よろ)けながら帰って来て、
新「オイ作藏、今夜行かなければ悪かろうなア」
作「悪(わり)いって悪くねえって行かねば己叱られるだ、行って遣って下せえ、出掛(でがけ)に己(おら)ア肩|叩(たて)えてなア、作さん今夜新吉さんを連れて来ないと打敲(ぶったゝ)くよ、と云って斯(こ)う脊中ア打(ぶ)ったから、なに大丈夫(でえじょうぶ)だ、一杯(いっぺえ)飲んで日が暮れると来るから大丈夫だと云って、声掛けて来ただ」
新「いつも行(ゆ)く度(たび)に向(むこう)で散財して、酒肴(さけさかな)を取って貰って、余(あんま)り気が利かねえ、些(ちっ)とは旨(うめ)え物でも買って行(い)こうと思うが、金がねえから仕方がねえ」
作「金エなくったって、向でもって小遣も己(おれ)に呉れて、何うもハア新吉さんなら命までも入れ上げる積りだよ、と姉御(あねご)が云ってるから、行って逢ってお遣(や)りなせえよ」
新「明日(あした)はまた大生郷辺で一杯(いっぺえ)遣って日を暮さなければ成らねえ、仕方がねえから今日は家(うち)に寝ようと思って」
作「家に寝るって、己(おら)が困るから行ってよう」
新「コウ/\見ねえ/\」
作「何(なん)だか」
新「妙な事がある、己(おれ)の家に蚊帳が釣ってある」
作「ハテ是は珍らしいなア、是は評判すべえ」 
四十三
新「其様(そん)な余計な憎まれ口をきくなえ、今|行違(ゆきちが)ったなア三藏だ、己が留守に来やアがって蚊帳ア釣って行(い)きやアがったのだな、斯(こ)んな大きな蚊帳が入(い)るもんじゃアねえ、蚊帳を窃(そっ)と畳んで、離れた処(とけ)え持って行って質に入れゝば、二両や三両は貸すから、病人に知れねえ様に持出そう」
作「だから金と云うものは何処(どこ)から来るか知れねえなア、取るべえ」
新「手前(てめえ)ひょろ/\していていけねえ、病人が眼を覚(さま)すといけねえから」
と云うが、酔っておりますから階子(はしご)に打突(ぶっつか)って、ドタリバタリ。是では誰にでも知れますが、新吉が病人の頭の上からソックリ蚊帳を取って持出そうとすると、お累は存じて居りますから、
累「旦那様お帰り遊ばせ」
新「アヽ眼が覚めたか」
累「はい、貴方此の蚊帳を何(ど)うなさいます」
新「何うするたって暑ッ苦しいよ、今友達を連れて来たが、狭い家(うち)にだゞっ広(ぴろ)い大きな蚊帳を引摺り引廻(ひんまア)して、風が這入らねえのか、暑くって仕様がねえから取るのだ」
累「坊が蚊に螫(く)われて憫然(かわいそう)でございますから、何卒(どうか)それだけはお釣り遊ばして」
新「少し金が入用(いりよう)だからよ、これを持って行って金を借りるんだ、友達の交際(つきあい)で仕様がねえから持って行くよ」
累「はい、それをお持遊ばしては困りますから何卒(どうぞ)お願いで」
新「お願いだって誰がこんな狭い家(うち)へ大きな蚊帳を引摺り引廻(ひんまわ)せと云った、茲(こゝ)は己の家(うち)だ、誰が蚊帳を釣った」
累「はい今日(こんにち)兄が通り掛りまして、手前は憎い奴だが如何にも坊が憫然だ、蚊ッ喰(くい)だらけになるから釣って遣ろうと申して家から取寄せて釣ってくれましたので」
新「それが己の気に入らねえのだ、よ、兄と己は縁が切れて居る、手前(てめえ)は己の女房だ、親|同胞(きょうだい)を捨てゝも亭主に附くと手前云った廉(かど)があるだろう、然(そ)うじゃアねえか、え、おい、縁の切れた兄を何故(なぜ)敷居を跨(また)がせて入れた、それが己の気に入らねえ、兄の釣った蚊帳なれば猶(なお)気に入らねえ、気色が悪(わり)いから是を売って他の蚊帳にするのだ」
累「何卒(どうぞ)お金子(かね)がお入用(いりよう)なれば兄が金を三両程置いて参りましたから、是をお持ち遊ばして、蚊帳だけは何卒(どうか)」
新「金を置いて行った、そうか、どれ見せろ」
作「だから金は何処(どこ)から出るか知んねえ、富貴(ふうき)天にあり牡丹餅(ぼたもち)棚にありと神道者(しんどうしゃ)が云う通りだ、おいサア行くべえ」
新「行くったって三両|許(ばか)りじゃア、塩噌(えんそ)に足りねえといけねえ、蚊帳も序(ついで)に持って行って質に入れ様じゃアねえか」
作「マア蚊帳は止せよ、子供が蚊に喰われるからと姉御が云うから、三両取ったら堪忍して遣って、子供が憫然だから蚊帳は止せよ」
新「何(なん)だ弱(よえ)え事を云うな」
作「弱えたって人間だから、お内儀(かみ)さんが塩梅(あんべえ)の悪(わり)いのに憫然ぐれえ知って居らア、止せよ」
新「憫然も何も有るもんか、何を云やアがるのだ此ン畜生(ちきしょう)、蚊帳を放さねえか」
累「それは旦那様お情のうございます、金をお持ち遊ばして其の上蚊帳までも持って行っては私(わたくし)は構いませんが坊が憫然で」
新「何(なん)だ坊は己の餓鬼だ、何だ放さねえかよう、此畜生(こんちきしょう)め」
と拳(こぶし)を固めて病人の頬をポカリ/\撲(ぶ)つから、是を見て居る作藏も身の毛|立(だ)つようで、
作「止せよ兄貴、己酒の酔(えい)も何も醒(さ)めて仕舞った、兄貴止せよ、姉御、見込んだら放さねえ男だから、なア、仕方がねえから放しなさえ、だが、敲くのは止せよ」
新「なに、此畜生め、オイ頭の兀(はげ)てる所(とこ)を打(ぶ)つと、手が粘って変な心持がするから、棒か何か無(ね)えか、其処(そこ)に麁朶(そだ)があらア、其の麁朶を取ってくんな」
作「止せよ/\、麁朶はお願いだから止せよ」
新「なに此畜生|撲(なぐ)るぞ」
作「姉御麁朶を取って出さねえと己(おら)を撲るから、放すが宜(え)え、見込まれたら蚊帳は助からねえからよ」
新「サア出せ、出さねえと撲るぞ、厭でも撲るぞ、此度(こんだ)ア手じゃアねえ薪(まき)だぞ、放さねえか」
累「アヽお情ない、新吉さん此の蚊帳は私が死んでも放しません」
と縋(すが)りつくのを五つ六つ続け打(うち)にする。泣転(なきころ)がる処を無理に取ろうとするから、ピリ/\と蚊帳が裂ける生爪が剥(は)がれる。作藏は、
作「南無阿弥陀仏/\、酷(ひど)い事をするなア、顔は綺麗だが、怖(おっ)かねえ事をする、怖(こえ)えなア」
新「サア此の蚊帳(かやア)持って行(ゆ)こう」
作「アレ/\」
新「なに」
作「爪がよう」
新「どう、違(ちげ)えねえ縋り付きやアがるから生爪が剥がれた、厭な色だな、血が付いて居らア、作藏|舐(な)めろ」
作「厭だ、よせ、虫持(むしもち)じゃア有るめえし、爪え喰う奴があるもんか」
新「此の蚊帳(かやア)持って往ったら三両か五両も貸すか」
作「貸(つ)くもんか」
新「爪を込んで借りよう」
作「琴の爪じゃアあるめえし」
とずう/\しい奴で、其の蚊帳を肩に引掛(ひっか)けて出て行(ゆ)きます。お累は出口へ斯(こ)う這出したが、口惜(くや)しいと見えて、
累「エヽ新吉さん」
と云うと、
新「何をいやアがる」
とツカ/\と立ち戻って来て、脇に掛って有った薬鑵(やかん)を取って沸湯(にえゆ)を口から掛けると、現在我が子與之助の顔へ掛ったから、子供は、
子供「ヒー」
と二声(ふたこえ)三声(みこえ)泣入ったのが此の世のなごり。
累「鬼の様なるお前さん」
新「何をいやアがるのだ」
と持って居た薬鑵を投げると、双(もろ)に頭から肩へ沸湯を浴(あび)せたからお累は泣倒れる。新吉は構わずに作藏を連れて出て参りましたが、斯う憎くなると云うのは、仏説でいう悪因縁で、心から鬼は有りませんが、憎い/\と思って居る処から自然と斯様(かよう)な事になります。 
四十四
新吉は蚊帳を持って出まして、是を金にして作藏と二人でお賤の宅へしけ込み、こっそり酒宴(さかもり)を致して居ります、其の内に段々と作藏が酔って来ると、馬方でございますから、野良で話を為(し)つけて居りますから、つい声が大きくなる。
新「おい作、手前(てめえ)酔うと大きな声を出して困る、些(ちっ)と静かにしろ」
作「静かにたって、大丈夫(でえじょうぶ)だ人子(ひとっこ)一人通らねえ土手下の一軒家田や畑で懸隔(かけへだ)って誰も通りゃアしねえから心配(しんぺえ)ねえよ」
賤「いゝよ、私はまた作さんの酔ったのは可笑しいよ余念が無くって、お前さん慾の無い人だよ」
作「慾が無(ね)い事(こた)アねえ、是で慾張って居るだが、何方(どっち)かというと足癖の悪(わり)い馬ア曳張(ひっぱ)って、下り坂を歩くより、兄いと二人で此処(こけ)え来て、斯う遣って酔って居れば好(い)いからね、先刻(さっき)は己(おら)ア酔(えい)が醒めたね」
新「止せえ、先刻の話は止せよ」
作「止せたってお賤さん、お前(めえ)マア新吉さんは可愛いゝ人だと思って居るから、首尾して、他人(ひと)にも知んねえように白(しら)ばっくれて寄せるけれども、新吉さんが此処(こけ)え来るってえ心配(しんぺえ)は是(こ)りア己(おれ)が魂消(たまげ)た事がある、今日ね」
新「そんな詰らねえ事をいうな手前(てめえ)は酔うとお喋(しゃべ)りをしていけねえ」
作「お喋りったって、一杯(いっぺえ)飲んで図に乗っていうのだ、エヽ、おい、それでねえ、マア一杯飲んで帰(けえ)った処が、銭イなえと云うから、無くったって好(い)いや、何(なん)でもお賤さんの処(とこ)へ行ってお呉んなせえというと、いつも行って馳走になって小遣(こづけえ)貰って帰(けえ)るべえ能でもねえじゃアねえか、何卒(どうか)己も偶(たま)にア旨(うめ)え物でも買って行って、お賤に食わしてえって、其処(そこ)はソレ情合(じょうあい)だからそんな事を云ったゞが、いゝや旨え物持って行くたって無(ね)えものはハア駄目だ、お賤さんの方が、旨え物|拵(こし)れえて待って居るから今夜呼んで来てくんなせえよと、己が頼まれたから構わねえじゃアねえかと云っても、金が無ければてえので家(うち)へ帰(けえ)ると、家に蚊帳が釣って有るだ」
新「よせ/\、そんな話は止せよ」
作「話したって宜(よ)かんべえ、それで其の蚊帳(かやア)質屋へ持って行こうって取りに掛ると、女房(かみさん)は塩梅(あんべえ)が悪(わり)いし赤ん坊は寝て居るし」
新「コレよせ、よさねえか」
作「云ったって宜(え)え、そんなに小言云わねえが宜え、蚊帳へ縋(すが)り付いて、己(おら)ア宜えが子供が蚊に喰われて憫然(かわいそう)だから何卒(どうか)よう、と云ってハア蚊帳に縋り付くだ、それを無理に引張ったから、お前(めえ)生爪エ剥したゞ」
新「おい冗談じゃアねえ、折角の興が醒めらア、止せ、擽(くす)ぐるぞ」
作「擽ぐッちゃアいけねえ」
新「お喋りはよせ」
作「宜えやな」
新「冗談云うな、喋ると口を押(おせ)えるぞ」
作「よせ、口を押(おせ)えちゃアいけねえ、エ、おいお賤さん、其の爪を己(おれ)がに喰えって、誰が爪エ食う奴が有るもんかてえと、己が口へおッぺし込んだゞ、そりゃアまア宜えが、お前(めえ)薬鑵を」
新「冗談はよせ」
作「いゝや、よせよ擽ぐってえ」
新「寝ッちまいな/\」
と無理に欺(だま)して部屋へ連れて行って寝かしてしまいました。それから二人も寝る仕度になりますと、何(ど)う云う事か其の晩は酒の機嫌でお賤がすや/\能く寝ます。雨はどうどと車軸を流す様に降って来ました。彼是八ツ時でもあろうと云う時刻に、表の戸をトン/\。
「御免なさい/\」
新「お賤/\誰か表を叩くよ、能く寝るなア、お賤/\」
賤「あいよ、あゝ眠い、何(ど)うしたのか今夜の様に眠いと思った事はないよ」
新「誰か表を叩いて居る」
賤「はい、何方(どなた)」
「一寸(ちょっと)御免なすって、私(わたくし)でございます」
新「何(なん)だ庭の方から来たようだぜ」
賤「今明けますよ、何方でございますか名を云って下さらないでは困りますが」
「ヘイ新吉の家内、累でございます」
賤「え、お内儀(かみさん)が来たとさア、はい只今」
新「よしねえ、来る訳はねえ、病人で居るのだもの」
賤「お前逢って」
新「来る気遣(きづけえ)ねえよ」
賤「気遣(きづかえ)がないったって、お内儀が迎いに来たのだから嬉しそうな顔付をしてさ」
新「冗談じゃアねえ、嬉しい事も何もあるもんか、来る気遣(きづけえ)ねえよ」
賤「只今開けますよ、大事な御亭主を引留めて済みませんねえ」
と仇口(あだぐち)をきゝながら、がらりと明けますと、どん/\降る中をびしょ濡になって、利かない身体で赤ん坊を抱いて漸々(よう/\)と縁側から、
累「御免なさい」
と這入ったから、
新「何(なん)だって此の降る中を来たのだなア何(ど)うしたのだ」
累「貴方がお賤さんでございますか、駈違(かけちが)ってお目に掛りませんが、毎度新吉が上りまして、御厄介様になりますから、何卒(どうか)一度はお目に掛ってお礼を申し度(た)いと存じておりましても、何分にも子供はございますし、私(わたくし)も疾(と)うより不快でおりました故、御無沙汰を致しました」
賤「誠にまア何うも降る中を夜中(やちゅう)にお出(いで)なすって、そんな事を仰しゃっては困りますねえ、新吉さんも江戸からのお馴染でございますから、私は此方(こっち)へ参っても馴染も無いもんでございますから、遊びにお出なすって下さいと、私が申しました、それから旦那も誠に贔屓(ひいき)にして、斯(こ)うやってお出なさるが、御亭主を引留めて遊ばしたと云えば、お前さんも心持が快(よ)くは有りますまいけれども、是に付いては種々(いろ/\)深い訳がある事でございますが、それは只今何も云いません、新吉さん折角迎いにお出でなすったからお帰りよ」
新「帰(けえ)ることはねえ、おい、お前(めえ)冗談じゃアねえ、そんな形(なり)をして来て見っとも無い、亭主の恥を晒(さら)しに来る様なものだ、エ何(なん)だなア、おい、此の降る中を、お前なんだ逆上(のぼ)せて居るぜ、*たじれて居るなア」
*「のぼせて気が変になる。むちゅうになって気ちがいじみる」 
四十五
累「はい、たじれたか知りません、私は何(ど)うなっても宜しゅうございますが、貴方の児(こ)だから殺すとも何共(どうとも)勝手になさいだが、表向には出来ませんから、此の坊やアだけは今晩|夜(よ)が明けないうち法蔵寺様へでも願って埋葬(ともらい)を致したいと存じます、誰も宅(うち)へ参り人(て)はなし、私が此の病人では何う致す事も出来ませんから、何卒(どうぞ)一寸お帰りなすって、お埋葬(とむらい)だけをなすって、然(そ)うして又|此方(こちら)へ遊びに入らしって下さい、お賤さん、私が申しますと宅(やど)が立腹致しますから、何卒(どうか)あなたから、今夜だけ帰って子供の始末を付けてやれと仰しゃって」
賤「はい、お帰りよ新吉さんよう」
新「帰(けえ)れたって夜中に仕様がねえ」
賤「夜中だって用があって迎いに来たのだからお帰りよ、旨く云って居ても本木(もとき)に優(まさ)る梢木(うらき)は無いという事だからねえ、お内儀(かみさん)に迎いに来られゝば心持が宜(い)いねえ、旨く云ったってにこ/\顔付に見えるよ」
新「何がにこ/\、冗談じゃアねえ、帰(けえ)らねえ、おい」
累「はい、何卒(どうか)お前さん坊の始末を」
新「始末も何もねえ、行(ゆ)かねえか」
賤「其様(そんな)に云わずにお前お帰りよ、折角お迎いにお出(いで)なすったに誠にお気の毒様、大事な御亭主を引留めてね、さアお帰りよ、手を引かれてよ」
新「何を云うのだ、帰(けえ)らねえか」
と、さア癇癪に障ったから新吉は、突然(いきなり)利かない身体の女房お累の胸倉を取るが早いか、どんと突くと縁側から赤ん坊を抱いたなりコロ/\と転がり落ち、
累「あゝ情ない、新吉さん、今夜帰って下さらんと此の児(こ)の始末が出来ません」
と泥だらけの姿で這上るところを突飛ばすと仰向に倒れる、と構わずピタリと戸を閉(た)てゝ、下(おろ)し桟(ざん)をして仕舞ったから、表ではお累がワッと泣き倒れまする。此の時雨は愈々(いよ/\)烈(はげ)しくドウドッと降出します。
新「エヽ気色が悪(わり)い、酒を出しねえ」
賤「酒をったって私は困るよ、彼様(あん)な酷(ひど)いことをして、一寸帰ってお遣(や)りよ」
新「うまく云ってやアがる、酒を出しねえ、冷たくっても宜(い)いや」
と燗冷(かんざま)しの酒を湯呑に八分目ばかりも酌(つ)いで飲み、
新「お前(めえ)も飲みねえ」
と互に飲んで床につくと、何(ど)ういう訳か其の晩は、お賤が枕を付けると、常になくすや/\能く寝ます。小川から雨の落込んで来る音がどう/\といいます。夜は深(ふ)けて一際(ひときわ)しんと致しますと、新吉は何うも寝付かれません。もう小一時(こいっとき)も経(た)ったかと思うと、二畳の部屋に寝て居りました馬方の作藏が魘(うなさ)れる声が、
作「ウーン、アア……」
新「忌(いめ)えましい奴だな、此畜生(こんちきしょう)、作藏/\おい作や、魘れて居るぜ、作藏、眼を覚まさねえかよ、作藏、夢を見て居るのだ」
作「エ、ウウ、ウンア」
新「忌えましい畜生だ、やい」
作「ヘエ、あゝ」
新「胆(きも)を潰さア、冗談じゃアねえ寝惚けるな、お賤が眼を覚さア」
作「寝惚けたのじゃアねえよ」
新「何うした」
作「己(おれ)が彼処(あすこ)に寝て居るとお前(めえ)、裏の方の竹を打付(ぶっつ)けた窓がある、彼処のお前雨戸を明けて、何うして這入(へえ)ったかと見ると、お前の処の姉御、お累さんが赤ん坊を抱いて、ずぶ濡れで、痩せた手を己の胸の上へ載せて、よう新吉さんを帰(けえ)しておくんなさいよ、新吉さんを帰しておくんなさいよと云って、己が胸を押圧(おっぺしょ)れる時の、怖(こえ)えの怖くねえのって、己はせつなくって口イ利けなかった」
新「夢を見たのだよ、種々(いろん)な事で気を揉むから然(そ)う云う夢を見るのだ、夢だよ」
作「夢で無(ね)えよ、あゝ彼処の二畳の隅に樽があるだろう」
新「ウン」
作「樽の上に簑(みの)が掛けてある」
新「ウン、ある」
作「簑の掛けてある処に赤ん坊を抱いて立って居るよう」
新「よせ畜生、気の故(せい)だ」
作「気の故じゃア無え、あゝ怖(おっ)かねえ、あれ/\」
新「おい潜り込んで己の処へ這入(へえ)って来ちゃアいけねえ、仕様がねえなア」
とん/\、
「御免なさい/\」
新「誰だい」
作「また来た、あゝ怖っかねえ/\」
新「誰だい」
男「えゝ新吉さんは此方(こちら)にお出(いで)なさいますか、ちょっくら帰(けえ)って、家(うち)は騒ぎが出来ました、お累さんが飛んだ事になりましたから方々(ほう/″\)捜して居たんだ、直(すぐ)に帰(けえ)って下せえ」
作「誰だか」
新「誰だか見な」
作「怖くって外へは出られねえ、皆(みんな)此処(こゝ)に居るだけれども、中々歩く訳にいかねえ、足イすくんで歩かれねえ」 
四十六
新「何方(どなた)でございます」
とガラリと明けて見ると村の者。
男「やア新吉さん、居たか、あゝ好(よ)かった、さア帰(けえ)って、気の毒とも何(なん)とも姉御の始末が付かねえ、何(ど)うも捜したの捜さねえのって直ぐ帰(けえ)らないではいけねえ、届ける所へ届けて、名主様へも話イしてね、困るから、さア帰(けえ)って」
と云われ、新吉は何(なん)の事だかとんと分りませんが、致し方なく夜明け方に帰りますると、情ないかな、女房お累は、草苅鎌の研澄(とぎすま)したので咽喉笛(のどぶえ)を掻(かき)切って、片手に子供を抱いたなり死んで居るから、ぞっとする程凄かったが、仕方がないから気が狂(ちが)ってなどと云立て、先(ま)ず名主へも届けて野辺送りをする事になりました。それからは懲りて三藏も中々容易に寄り付きません。新吉もお累が死んで仕舞った後(あと)は、三藏から内所で金を送る事もなし、別に見当(みあて)がないから宿替(やどがえ)をしようと、欲しがる人に悉皆(そっくり)家を譲って、時々お賤の処へしけ込みます。其の間は仕方がないから、水街道へ参って宿屋へ泊り、大生郷の宇治の里へ参って泊りなどして、惣右衞門が留守だと近々(ちか/″\)しけ込みます。世間でもかんづいて居るから新吉は憎まれ者で、誰(たれ)も付合う人がない。横曾根|辺(あたり)の者は新吉に逢っても挨拶もせぬようになりました。新吉はどん/\降る中を潜(そ)っと忍んでお賤の処(とこ)へ来ました。
新「おい/\お賤さん」
賤「あい新吉さんかえ」
新「あゝ明けておくれな」
賤「あい能くお出(いで)だね、傘なしかえ」
新「傘は有ったが借傘(かりがさ)で、柄漏(えもり)がして、差しても差さねえでも同じ事でずぶ濡だ、旦那の病気は何(ど)うだえ」
賤「お前がちょい/\見舞に来てくれるので、新吉は親切な者だ心に掛けてちょく/\来て呉れるが感心だって、悦んで居るが、年が年だからねえ、何(なん)だって五十五だもの、病気疲れですっかり寝付いて居るからお上(あが)りよ」
新「そうかえ夜来るのも極りが悪い様だが、実は少し小遣(こづけえ)が無くなって、外(ほか)へ泊る訳にいかねえから、看病かた/″\来たのだが、能く御新造さんが承知で旦那を此方(こっち)へよこして置くね」
賤「なに碌(ろく)な看病もしないけれども、お宅(うち)では気に入らないと云ってね、気に入った処で看病をして貰う方がよいと人が来ると憎まれ口を利くから、お内儀(かみ)さんも若旦那も此の二三日来ないから、私一人で看病するのだから実は困るよ、困るけれども其の代りには首尾がよくって、種々(いろ/\)旦那に話して置いた事もあるのだからね、遺言状まで私は頼んで書いて貰って置いたから、今能く寝付いて居るし、遊んでおいでな、揺(ゆさ)ぶっても病気疲れで能く寝て居るから、茲(こゝ)で何を云っても旦那に聞える気遣(きづかい)は無し、他に誰も居ないから、真に差向いで話しするがね、私は旦那に受出されて此処(こゝ)へ来て、お前とは江戸に居る時分から、まア心易(こゝろやす)いが、私の方で彼様(あんな)事を云出してから、お前も厭々ながらお内儀(かみさん)まであゝ云う訳になって苦労さした事も忘れやアしないから、私は何処(どこ)迄もお前に厭がられても縋(すが)りつく了簡だが、若(も)しお前に厭がられ、見捨てられると困るが、見捨てないというお前の証拠が見度(みた)いわ」
新「見捨てるも見捨てないも実はお前己だって身寄頼りもない身体、今は斯(こ)うなって誰も鼻撮(はなッつま)みで新吉と云うと他人は恐気(おぞけ)を振(ふる)って居るのだ、長く此処(こゝ)に居る気もないから、寧(いっ)そ土地を変えて常陸(ひたち)の方へでも行(ゆ)こうか、上州の方へ行こうか、それとも江戸へ帰(けえ)ろうかと思う事も有るが、お前が此処に居る中(うち)は何(ど)うしても離れる事は出来ないが、村中(むらじゅう)で憎まれてるから土手に待伏でもして居て向臑(むこうずね)でも引払(ひっぱら)われやアしねえかと心配でのう」
賤「私も一緒に行って仕舞い度(た)いが、今旦那が死掛って居るから、旦那が死んで仕舞えば行(い)かれるが、今|直(すぐ)には行けない、大きな声では云えないけれども、私は形見分(かたみわけ)の事も遺言状に書かして置いたし、お前の事も書かしてね、其処(そこ)は旨く行って居るけれども、旦那が癒(なお)ればまだ五十五だもの、其様(そんな)にお爺さんでもないから、達者になりゃア何時(いつ)迄も一緒に居て、ベン/\とおん爺(じい)の機嫌を取らなければならないが、新吉さん無理な事を頼む様だが、お前私を見捨てないと云う証拠を見せるならば今夜見せてお呉れ」
新「何(ど)うしよう」
賤「うちの旦那を殺してお呉れな」 
四十七
新「殺せって其様(そん)な事は出来ねえ」
賤「なぜ/\なぜ出来ないの」
新「人情として出来ねえ、お前の執成(とりなし)が宜(い)いから、旦那は己が来ると、新吉|手前(てめえ)の様に親切な者はねえ、小遣(こづけえ)を持って行け、独身(ひとりみ)では困るだろう、此の帯は手前に遣(や)る着物も遣ると、仮令(たとえ)着古した物でも真に親切にして呉れて、旦那の顔を見ては何(ど)うしても殺せないよ」
賤「殺せます、だから新吉さん、私はお前が可愛いと云う情(じょう)のない事を知って居るよ」
新「情がないとは」
賤「情が有るなら殺してお呉れよ」
新「情が有るから殺せないのだ」
賤「何を云うのだね、じれったいよ、お出でったらお出でよ」
然(そ)うなると婦人の方が度胸の能(よ)いもので、新吉の手を引いて病間へ窃(そう)っと忍んで参りますと、惣右衞門は病気疲れでグッスリと寝入端(ねいりばな)でございます。ブル/\慄(ふる)えて居る新吉に構わず、細引(ほそびき)を取って向(むこう)の柱へ結び付け、惣右衞門の側へ来て寝息を窺(うか)がって、起るか起きぬか試(ためし)に小声で、
賤「旦那/\」
と二声(ふたこえ)三声(みこえ)呼んでみたが、グウ/″\と鼾(いびき)が途断(とぎ)れませんから、窃(そっ)と襟の間へ細引を挟み、また此方(こちら)へ綾(あや)に取って、お賤は新吉に眼くばせをするから、新吉ももう仕方がないと度胸を据(す)えて、細引を手に捲(ま)き付けて足を踏張(ふんば)る。お賤は枕を押えて、
賤「旦那え/\」
と云いながら、枕を引く途端、新吉は力に任(まか)して、
新「うーム」
と引くと仰向に寝たなり虚空を掴んで、
惣「ウーン」
賤「じれったいね新吉さん、グッと斯(こ)うお引きよ、もう一つお引きよ」
新「うむ」
と又引く途端新吉は滑って後(うしろ)の柱で頭をコツン。
新「アイタ」
賤「アヽじれったいね」
と有合(ありあわ)せた小杉紙(こすぎがみ)を台処(だいどころ)で三帖(さんじょう)ばかり濡して来て、ピッタリと惣右衞門の顔へ当てがって暫く置いた。新吉はそれ程の悪党でもないからブル/\慄(ふる)えて居りまする。濡紙を取って呼吸を見るとパッタリ息は絶えた様子細引を取って見ると、咽喉頸(のどくび)に細引で縊(くゝ)りました痕(きず)が二本付いて居りますから、手の掌(ひら)で水を付けては頻(しき)りに揉療治を始めました。すると此の痕は少し消えた様な塩梅。
賤「さアもう大丈夫だ、新吉さんお前は今夜帰って、そうしてこれ/\にするのだから、明日(あした)お前悟られない様に度胸を据(す)えて来てお呉れよ」
といって新吉を帰して、すっぱり跡方の始末を付けて、直(すぐ)に自分は本家へ跣足(はだし)で駈込んで行(ゆ)きまして
賤「旦那様がむずかしくなりましたからお出(いで)なすって、まだ息は有りますが御様子が変ったから」
というと驚きまして、本家では悴(せがれ)惣二郎(そうじろう)から弟息子の惣吉(そうきち)にお内儀(かみ)さん村の年寄が駈けて来て見ると間に合いません間に合わない訳で、殺した奴が知らしたのでございますから。是非なく是から遺言状をというので出して見ると、其の書置(かきおき)に、私は老年の病気だから明日(あす)が日も知れん、若(も)し私が亡(な)い後(のち)は家督相続は惣二郎、又弟惣吉は相当の処へ惣二郎の眼識(めがね)を以て養子に遣って呉れ、形見分(かたみわけ)は是々、何事も年寄作右衞門と相談の上事を謀(はか)る様、お賤は身寄頼りもない者、無理無体に身請をして連れて来た者であるから、私が死ねば皆(みんな)に憎まれて此の土地にいられまいから、元々の通り江戸へ帰して遣ってくれ、帰る時は必ず金を五十両付けて帰してくれ、形見分はお賤に是々、新吉は折々見舞に来る親切な男なれども、お賤と中がよいから、村方の者は密通でもしている様に思うが、彼(あれ)は江戸からの親(ちか)しい男で、左様な訳はない、親切な者で有る事は見抜いているから、己が葬式は、本葬は後(あと)でしても、遺骸を埋(うず)めるのは内葬にして、湯灌(ゆかん)は新吉一人に申し付ける、外(ほか)の者は親類でも手を付ける事は相成らぬ。という妙な書置でございますが、田舎は堅いから、其の通りに先(ま)ずお寺様へ知らせに遣り、夜(よ)に入(い)り内葬だから湯灌に成りましても新吉一人、湯灌は一人では出来ぬもので、早桶を湯灌場に置いて、誰(たれ)も手を付けては成らぬというのだから、
新「皆さん入らしっては困りますよ、遺言に背きますから」
「実にお前は仕合(しやわ)せだ」
と年寄から親類の者も本堂に控えて居る。是から早桶の蓋を取ると合掌を組んだなり、惣右衞門の仏様は斯(こ)う首を垂れて居るのを見ると、新吉は現在自分が殺したと思うとおど/\して手が附けられません。殊(こと)に一人では出来ないがと思って居る処へ、土手の甚藏という男、是は新吉と一旦兄弟分に成りました悪漢(わる)。
甚「新吉/\」
新「兄いか」
甚「一寸(ちょっと)顔出しをしたのだが、本家へ行ったらお内儀(かみ)さんが泣いているし、誠にお愁傷でのう、惜しい旦那を殺した、えゝ此の位(くれ)え物の解(わか)ったあんな名主は近村(きんそん)にねえ善(い)い人だが、新吉、手前(てめえ)仕合(しやわ)せだな、一人で湯灌を言付けられて、形見分もたんまりと、エおい、おつう遣っているぜ」
新「却(かえ)って有難迷惑で一人で困ってるのだ」
甚「困るたって新吉、一人で湯灌は馴れなくっては出来ねえ、おい、それじゃアいかねえ、内所で己が手伝って遣ろうか」
新「じゃア内所で遣ってくんねえ」 
四十八
甚「弓張(ゆみはり)なざア其方(そっち)の羽目へ指しねえな、提灯(ちょうちん)をよ、盥(たれえ)を伏せて置いて、仏様の腋(わき)の下へ手を入れて、ずうッと遣って、盥の際(きわ)で早桶を横にするとずうッと足が出る、足を盥の上へ載せて、胡坐(あぐら)をかゝせて膝で押(おせ)えるのだ、自分の胸の処へ仏様の頭を押付(おっつ)けて、肋骨(あばらぼね)まで洗うのだ」
新「一人じゃア出来ねえ」
甚「己は馴れていらア、手伝って遣ろう」
新「何(ど)う」
甚「何うだって盥(たれえ)を伏せるのだよ、提灯(ちょうちん)を其方(そっち)へ、えゝ暗(くれ)え心(しん)を切りねえ、えゝ出しねえ、出た/\オヽ冷てえなア、お手伝いでござえ、早桶をグッと引くのだ」
新「何う」
甚「何うたってグッと力に任して、えゝ気味を悪がるな」
新「あゝ出た/\」
甚「出たって出したのだ、さア胡座(あぐら)をかゝせな、盥(たれえ)の上へ、宜(よ)し/\そりゃ来た水を、水だよ、湯灌をするのに水が汲んでねえのか、仕様がねえなア、早く水を持って来(き)ねえ」
と云うから新吉はブル/\慄(ふる)えながら二つの手桶を提(さ)げて井戸端へ行(ゆ)く。
甚「旦那お手伝でげすよ」
と抱上げて見ると、仏様の首がガックリ垂れると、何(ど)う云うものか惣右衞門の鼻からタラ/\と鼻血が流れました。
甚「おや血が出た、身寄か親類が来ると血が出るというが己は身寄親類でもねえが、何うして血が出るか、おゝ恐ろしく片方(かたっぽ)から出るなア」
と仰向にして仏様の首を見ると、時|過(た)ったから前よりは判然(はっきり)と黒ずんだ紫色に細引の痕(あと)が二本有るから、甚藏はジーッと暫く見て居る処へ手桶を提げて新吉がヒョロ/\遣って来て、
新「兄い水を持って来たよ」
甚「水を持って来たか此方(こっち)へ入れて戸を締めなよ」
新「な何(なん)だ」
甚「此処(こけ)へ来て見やア、仏様の顔を見やア」
新「見たって仕様がねえ」
甚「見やア此の鼻血をよ」
新「いけねえなア、其様(そん)なものを見たって仕様がねえ、悪(わり)い悪戯(いたずら)アするなア」
甚「悪(わり)いたって己がしたのじゃアねえ、自然(ひとりで)に出たのだ新吉|咽喉頸(のどっくび)に筋が出て居るな、此の筋を見や」
新「エ、筋が有ったっても構わねえ、水を掛けて早く埋めよう、おい早く納めよう」
甚「納められるもんかえ、やい、是(こ)りゃア旦那は病気で死んだのじゃアねえ変死だ、咽喉頸に筋があり、鼻血が出れば何奴(どいつ)か縊(くび)り殺した奴が有るに違(ちげ)えねえ」
新「何(なん)だ人聴(ひとぎき)が悪(わり)いや、大きな声をしなさんな、仏様の為にならねえ」
甚「手前(てめえ)も己も旦那には御恩があらア、其の旦那の変死を此の儘に埋めちゃア済まねえ、誰(たれ)か此の村に居る奴が殺したに違(ちげ)えねえから、敵(かたき)を捜して、手前も己も旦那の敵を取って恩返(おんげえ)しを仕なけりゃア済まねえ、代官へでも何処(どこ)へでも引張(ひっぱ)って行くのだ、本堂に若旦那が居るから若旦那に一寸(ちょいと)と云って呼んで……」
新「何(なん)だな其様(そん)な事をして兄い困るよ、藪を突付(つっつ)いて蛇を出す様な事をいっちゃア困らアな、今お経を誦(あ)げてるから、エーおい兄い、それはそれにして埋めて仕舞おう」
甚「埋められるもんかえ、それとも新吉、実は兄い私(わっち)が殺したんだと一言(ひとこと)云やア黙って埋めて遣ろう」
新「何を詰らねえ事を、な何を、思い掛けねえ事をいうじゃアねえか何(なん)だって旦那を」
甚「手前(てめえ)が殺したんでなけりゃア外(ほか)に敵が有るのだから敵討をしようじゃアねえか、手前お賤と疾(と)うから深(ふけ)え中で逢引するなア種が上って居るが、手前は度胸がなくっても彼(あ)の女(あま)ア度胸が宜(いい)から殺してくれエといい兼ねゝえ、キュウと遣ったな」
新「何(ど)うも、な何(なん)だってそれは、何うも、エおい兄(あんに)い外の事と違って大恩人だもの、何ういう訳で思い違(ちげ)えて其様(そん)な事を、え、おい兄(あんに)い」
甚「何をいやアがるのだ、手前(てめえ)が殺さなけりゃア殺さねえで宜(い)いやア、手前と己は兄弟分の誼(よしみ)が有るから打明けて殺したと云やア黙って口を拭(ふ)いて埋めるが、外に敵が有れば敵討だ、マア仏様を本堂へ持って行こう」
新「これドヽ何(ど)うも困るナアおい兄(あんに)い、え、兄い表向にすれば大変な事に成るよ」
甚「え、成ったって宜いや、不人情な事をいうな、手前(てめえ)が殺したなら黙って埋(うめ)るてえのだ、殺したら殺したと云いねえ、殺したか」
新「仕様がねえな、何(ど)うも己が殺したという訳じゃアねえが、それは、困って仕舞ったなア、唯(た)だ一寸(ちょいと)手伝ったのだ」
甚「なに手伝った、じゃアお賤が遣ったか」
新「それには種々(いろ/\)訳が有るので、唯縄を引張ったばかりで」
甚「それで宜しい、引張ったばかりで沢山だ、お賤が引くなア女の力じゃア足りねえから、新吉さん此の縄を締めてなざア能く有る形だ、宜しい、よし/\早く水を掛けやア」
とザブリ水を打掛(ぶっか)けて其の儘(なり)にお香剃(こうずり)の真似をして、暗いうちに葬りに成りましたから、誰有って知る者はございませんが、此の種を知っている者は土手の甚藏ばかり、七日が過(すぎ)ると土手の甚藏が賭博(ばくち)に負けて素(す)っ裸体(ぱだか)になり、寒いから犢鼻褌(ふんどし)の上に馬の腹掛を引掛(ひっか)けて妙な形(なり)に成りまして、お賤の処へ参り、
甚「え、御免なせえ」
と是から強請(ゆすり)になる処、一寸一息吐きまして。 
四十九
土手の甚藏がお賤の宅へ参りましたのは、七日も過ぎましてから、ほとぼりの冷めた時分|行(ゆ)くのは巧(たくみ)の深い奴でございます。丁度九月十一日で、余程寒いから素肌へ馬の腹掛を巻付けましたから、太輪(ふとわ)に抱茗荷(だきみょうが)の紋が肩の処へ出て居ります、妙な姿(なり)を致して、
甚「ヘエ御免なせえ、ヘエ今日(こんにち)は」
賤「ハイ何方(どなた)え」
甚「ヘエお賤さん御免なさえ、今日は」
賤「おや、新吉さん土手の甚藏さんが来たよ」
新「えゝ土手の甚藏」
新吉は他人(ひと)が来ると火鉢の側に食客(いそうろう)の様な風をして居るが、人が帰って仕舞えば亭主振(ていしぶ)って居りますが、甚藏と聞くと慄(ぞ)っとする程で、心の中(うち)で驚きましたが、眼をパチ/\して火鉢の側に小さく成って居りますと、
甚「誠に続いて好(い)い塩梅にお天気で」
賤「はい、さア、まア一服お喫(あが)りなさいよ」
甚「ヘエ御免なさえ、斯(こ)ういう始末でねえお賤さん、御本家へもお悔(くやみ)に上(あが)りましたが、旦那がお亡(なく)なりで嘸(さぞ)もう御愁傷でございましょう、ヘエ私(わっち)も世話に成った旦那で、平常(ふだん)優しくして甚藏や悪い事をすると村へ置かねえぞと、親切に意見をいって、喧(やかま)しい事は喧しいけれども、時々|小遣(こづけえ)もおくんなすってね、善(い)い人で、惜まれる人は早く死ぬと云うが、五十五じゃア定命(じょうみょう)とは云われねえ位(くれえ)で嘸お前さんもお力落しで、新吉|此処(こゝ)に居るのか手前(てめえ)、え、おい」
新「兄い此方(こちら)へお上りなさい」
甚「お賤さん、新吉がお前さんの処へ来て御厄介で、家(うち)は彼様(あん)な塩梅に成って此方(こちら)より外(ほか)に居る処が無(ね)えから、宜(い)い事にして、新吉が寝泊りをして居るというのだが、私(わっち)も新吉もお賤さんもお互に江戸子(えどっこ)で、妙なもので、村の者じゃア話しが合わねえから新吉と私は兄弟分(きょうでえぶん)になり、兄弟分の誼(よしみ)で、互(たげえ)に銭がねえといやア、ソレ持ってけというように腹の中をサックリ割った間柄、新吉の事を悪くいう奴が有ると、何(なん)でえといって喧嘩もする様な訳で、ヘエ有難う、カラもう何(ど)うも仕様がねえ、新吉、物がヘマに行ってな、此の通り人間が馬の腹掛を借りて着て居る様に成っちゃア意気地(いくじ)はねえ、馬の腹掛で寒さを凌(しの)ぐので、ヘエ有がとう、好(い)いお宅でげすねえ、私は初めて来たので」
賤「然(そ)うですか、なに好い家(うち)を拵(こしら)えて下すっても仕方がござりませんよ、斯(こ)う急に、旦那様がお逝去(かくれ)に成ろうとは思いませんでねえ、何時(いつ)までも此処(こゝ)に住んで居る了簡で居りましたが、旦那が亡なられては仕方が有りません。他(ほか)に行(ゆ)く処はなし、まア生れ故郷の江戸へ帰る様な事に成りますが、本当に夢の様な心持で、あゝ詰らないものだと考え出すと悲しく成ってね」
甚「そうでしょう、是は何(ど)うも実になア、新吉お賤さんは何(ど)の位(くれ)え力落だか知れやアしねえ、ナア、ヘエ有難う良(い)いお茶だねえ、此様(こん)な良い茶を村の奴に飲(のま)したって分らねえ、ヘエ有難う、お賤さん誠に申し兼ねた訳でげすがねえ、旦那が達者でいらっしゃれば黙って御無心申すのだが、此の通りの始末で、からモウ仕様がねえ、何うかお願いでございますが些(ちっ)と許(ばか)り小遣(こづけえ)をお貰(もれ)え申し度(てえ)が、何うか些と許り借金を返(けえ)して江戸へでも帰(けえ)りてえ了簡も有るのですが、何うか新吉誠に無理だがお賤さんに願ってねえ、姉さんお願いでげすが些とばかり小遣(こづけえ)をねえ」
賤「はい困りますねえ、旦那が亡なりまして私は小遣(こづかい)も何もないのですが、沢山の事は出来ませんが、真(ほん)の志(こゝろ)ばかりで誠に少しばかりでございますが」
甚「イヽエもう」
賤「真の少しばかりでお足(た)しには成りますまいが、一杯召上って」
甚「ヘエ有難う、ヘエ」
と開けて見ると二朱金で二個(ふたつ)。
甚「是はお賤さんたった一分(いちぶ)で」
賤「はい」
甚「一分や二分じゃア借りたって私(わっち)の身の行立(ゆきた)つ訳は有りませんねえ、借金だらけだから些と眼鼻(めはな)を付けて私も何うか堅気(かたき)に成りてえと思ってお願い申すのだが、それを一分ばかり貰っても法が付かねえから、少し眼鼻の付く様にモウ些とばかり何うかね」
賤「おや一分では少ないと仰しゃるの、そう、お気の毒様出来ません、私どもは深川に居ります時にも随分|銭貰(ぜにもら)いは来ましたが、一分遣れば大概帰りました、一分より余計(たんと)は上(あげ)る訳にゃア参りません、はい女の身の上で有りますからねハイ、一分で少ないと仰しゃれば、身寄親類ではなし上げる訳は有りませんが、そうして幾ら欲(ほし)いと仰しゃるのでございますえ」
甚「幾らカクラてえお強請(ねだり)申すのでげすから貰う方で限りはねえ、幾ら多くっても宜(い)いが、お賤さんの方は沢山(たんと)遣りたくねえというのが当然(あたりめえ)の話だが、借金の眼鼻を付けて身の立つ様にして貰うにゃア、何様(どん)な事をしても三拾両貰わなけりゃア追付(おっつ)かねえから、三拾両お借り申してえのさ、ねえ何うか」
賤「何(なん)だえ三拾両呆れ返って仕舞うよ、女と思って馬鹿にしてお呉れでないよ、何だエお前さんは、お前さんと私は何だエ、碌にお目に掛った事も有りませんよ、女一人と思って馬鹿にして三拾両、ハイ、そうですかと誰が貸しますえ、訝(おか)しな事をいって、なん、なん、なん何をお前さんに三拾両お金を貸す縁がないでは有りませんか」 
五十
甚「それは縁はない、縁はないがね、縁を付けりゃア付かねえ事も有りますめえ、ねえ新吉と私(わっち)は兄弟分、ねえ其の新吉が此方様(こちらさま)へ御厄介に成って居るもの其の縁で来た私さ」
賤「新吉さんは兄弟分か知りませんが、私はお前さんを知りません、新吉さん帰ってお呉んなさいヨウ、呆れらア馬鹿/\しい、人を馬鹿にして三拾両なんて誰(たれ)が貸す奴が有るものか、三拾両貸す様な私はお前さんに弱い尻尾(しっぽ)を見られて居れば仕方がないが、私の家(うち)で情交(いろ)の仲宿(なかやど)をしたとか博奕(ばくち)の堂敷(どうじき)でも為(し)たなら、怖いから貸す事も有るが、何もお前さん方に三拾両の大金を強請(いたぶ)られる因縁は有りません、帰ってお呉れ、出来ませんよ、ハイ三文も出来ませんよ」
甚「然(そ)う腹を立っちゃア仕様がねえ、え、おい、だがねえお賤さん、人間が馬の腹掛を着て来る位(くれ)えの恥を明かしてお前さんに頼むのだ、私(わっち)も此の大(だい)の野郎が両手を突いて斯(こ)んな様(ざま)アしてお頼み申すのだから能々(よく/\)の事、宜(い)いかね、それにたった一分じゃア法が付かねえ、私の様な大きな野郎が手を突いてのお頼みだね、此の身体を打毀(ぶっこわ)して薪(まき)にしても一分や二分のものはあらアね、馬の腹掛を着て頼むのだから、お前さん三拾両貸して呉れても宜(よ)かろうと思う」
賤「何が宜(い)いのだえ、何が宜いのだよ、何もお前さん方に三拾両の四拾両のと借りられる縁が有りません、悪い事をした覚えは有りません、博奕の宿や地獄の宿はしませんから貸されませんよ」
甚「じゃア何(ど)う有ってもいけねえのかえ」
賤「帰ってお呉んなさい」
甚「そうか無理にお借り申そうという訳じゃアねえ、じゃア帰(けえ)りましょう、新吉黙って引込(ひっこ)んで居るなえ此処(こゝ)へ出ろ、借りて呉れ、ヤイ」
新「其様(そん)な大きな声をしてはいけねえやな兄(あんに)い仕方がねえな、お賤さん仕方がねえ貸しねえ」
賤「何(なん)だえ、お前さんは心易(こゝろやす)いか知りませんが、私は存じません、何様(どん)な事が有っても出来ませんよ、帰ってお呉んなさい」
甚「何(ど)う有っても貸せねえってものア無理にゃア借りねえ、じゃア云って聞かせるが、コレ女だと思うから優しく出りゃア宜(い)い気に成りやアがって、太(ふて)え事をしやアがって、色の仲宿や博奕の堂敷が何程の罪だ、世の中に悪(わり)い事と云うなア人殺しに間男と盗賊(ぬすっと)だ」
賤「何をいうのだ」
甚「なに、何(ど)うしたも斯(こ)うしたもねえ、新吉|此処(こゝ)へ出ろ、エヽおい、咽喉頸(のどっくび)の筋が一本拾両にしても二十両が物アあらア」
新「マア黙って兄(あんに)い」
甚「何(なん)でえ篦棒(べらぼう)め、己が柔和(おとな)しくして居るのだから文句なしに出すが当然(あたりめえ)だ、手前等(てめえら)が此の村に居ると村が穢(けが)れらア、手前等を此処(こけ)え置くもんか篦棒め、今に逆磔刑(さかばりつけ)にしようと簀巻(すまき)にして絹川へ投(ほう)り込(こも)うと己が口一つだから然(そ)う思ってろえ」
新「おい、其様(そん)な事を人に」
甚「人に知れたって構うもんかえ」
新「マア/\待ちねえ、知らねえのだお賤さんは、一件の事を知らねえのだよ、だから己が何(ど)うか才覚して持って行(い)こう、今夜|屹度(きっと)三拾両持って行(ゆ)くよ」
甚「間抜め、黙って引込(ひっこ)んで居る奴が有るもんか、そんなら直(すぐ)に出せ」
新「今は無いから晩方までに持って行(ゆ)くよ」
甚「じゃア屹度持って来い」
新「今に持って行(ゆ)くから、ギャア/\騒がねえで、実は、己がまだお賤に喋らねえからだよ、当人が知らねえのだからよ」
甚「コレ、博奕の仲宿とは何(なん)だ、太(ふて)え女(あま)っちょだ」
新「そんな大きな声を」
甚「屹度持って来い、来ねえと了簡が有るぞ」
新「何ごと置いても屹度金は持って行(ゆ)くよ、驚いたねえ」
賤「おい新吉さん、何(な)んだって彼奴(あいつ)にへえつくもうつくするのだよ、お前がヘラ/\すると猶(なお)増長すらアね」
新「何(ど)うしてもいけないよ、貸さなけりゃア成らねえ」
賤「何(なん)で彼奴(あいつ)に貸すのだえ」
新「何(なん)だって、いけねえ事に成って仕舞った、旦那の湯灌の時|彼奴(あいつ)が来やアがって、一人じゃア出来ねえから手伝うといって、仏様を見ると、咽喉頸(のどっくび)に筋が有るのを見付けやがって、ア屹度(きっと)殺したろう、殺したといやア黙ってるが云わなけりゃア仏様を本堂へ持って行って詮議方(あらいかた)するというから、驚いて否応(いやおう)なしに種を明(あか)した」
賤「アレ/\あれだもの、新吉さん、それだもの、本当に仕方がないよ、彼(あれ)までにするにゃア、旦那の達者の時分から丹精したに、彼(あ)の悪党に種を明して仕舞って何(ど)うするのだよ、幾ら貸したって役に立つものかね、側から借りに来るよ彼奴(あいつ)がさ」
新「だけれども隠すにも何も仕様がない、本堂へ持って行かれりゃア直(すぐ)に悪事(ぼく)が露(わ)れるじゃアねえか、黙って埋めて遣るから云えというので」
賤「本当に仕様がないよ、何処(どこ)へでも持って行けと云えばいゝじゃアないか」
新「然(そ)ういうと直(すぐ)に彼奴(あいつ)が持って行(ゆ)くよ」
賤「持って行ったっていゝじゃアないか、何処(どこ)までも覚えは有りませんと私も云い張ろうじゃアないか」
新「云い張れないよ、彼奴(あいつ)ア中々の奴でそれに彼(あ)アいう時は口が利けないからねえ、脛疵(すねきず)だからお前のいう様な訳にゃアいかねえ、金で口止めするより外(ほか)に仕方はないよ」
賤「でも三拾両貸すと、ばんごと/\来ては大きな声で呶鳴ると、何(なん)で甚藏が呶鳴るかと他人(ひと)の耳にも這入り、目明(めあかし)が居るから、おかしく勘付かれて、あいつが縛られて叩かれると喋るから、何(ど)の道新吉さん仕方がない、土手の甚藏を何うかして殺してお仕舞いよう」 
 

 

五十一
新「何(ど)うして/\中々|彼奴(あいつ)ア己より強い奴で、滅法力が有るから、彼奴は撲(ぶ)たれても痛くねえってえので、五人位掛らねえじゃアおっ付かねえ」
賤「何(ど)うか工夫が有るだろうじゃアないか」
新「工夫が中々いかないよ」
賤「ちょいと/\新吉さん耳をお貸し」
新「エ、うんうん成程是は旨(うめ)え」
賤「だからさア、それより外に仕方がないよ、悟られるといけない、悪党だから悟られない様に確(しっ)かり男らしくよ」
と何か囁(さゝ)やき、新吉が得心して、旦那の短い脇差をさして、新吉が日が暮れて少したって土手の甚藏の家(うち)へ来て、土間口から、
新「はい御免」
甚「サア上(あが)りゃア、マア下駄を穿いたなりで上りゃア、草履(ぞうり)か、構わねえ、畳がねえから掃除も何もしねえから其の儘上りゃ」
新「兄(あんに)い、先刻(さっき)の様に高声(たかごえ)であんな事を云ってくれちゃア困るじゃアねえか、己はどうしようかと思った、表に人でも立って居たら」
甚「何故、いゝじゃアねえか、己が面(つら)を出したら黙って金を出すかと思ったら、まご/\して居やアがって、手前(てめえ)お賤に惚れていやアがる、馬鹿、彼女(あいつ)めいゝ気に成りやアがって、呶鳴り付けるから仕方なしに云ったんだ、此畜生(こんちきしょう)金え持って来たか」
新「彼(あ)れから後(あと)でお賤に話をして実は是々で明(あか)したと云ったら、それは済まない事を云った、知らなかったから誠に悪い事を云ったが、甚藏さんに悪く思わねえ様に然(そ)ういってくれというのだ」
甚「手前(てめえ)湯灌場の事を云ったか」
新「云ったよ、云ったら驚いてお賤は甚藏さんに済まなかった、然ういう訳なら何故早く私に然う云わないで、だが土手の甚藏さんに茲(こゝ)で三拾や四拾や上げても焼石に水で駄目だから、纏(まと)まった金を上げようから、何(ど)うかそれで堅気になり、此方(こっち)も江戸へ行って小世帯(こじょたい)を持つから、お互に此の事は云わねえという証拠の書付(かきつけ)でも貰って、たんとは上げられないが百両上げるから、百両で堅気に成ったら宜かろうと云うので、長く彼様(あん)な事をしていても甚藏さんも詰らねえじゃアないか、兄弟分の友誼(よしみ)で此の事はいわないと達引(たてひ)いて呉れるなら、生涯食える様に百両遣ろうというのだ、百両貰って堅気に成りねえ」
甚「然うか、有難(ありがて)え、百両呉れゝば生涯お互(たげ)えに堅気に成りてえ、己も馬鹿は廃(や)めてえや」
新「然う極(き)めてくんねえ」
甚「じゃアまア金さえ持って来りゃア」
新「今|茲(こゝ)にはねえ」
甚「何をいうんだ馬鹿」
新「マア人のいう事を聞きねえ、旦那が達者のうちお賤に己が死んだら食方(くいかた)に困るだろうから、死んでも食方の付く様にといって、実は根本(ねもと)の聖天山(しょうでんやま)の手水鉢(ちょうずばち)の根に金が埋めて有るから、それを以(もっ)てと言付けて有るのだ、えゝ二百両あると思いねえ、聖天山の左の手水鉢の側に二百両埋めて有るのだから、それを百両ずつ分けて江戸へ持って行って、お互に悪事は云わねえ云いますめえと約束して、堅気になって、親類になろうじゃアねえか」
甚「然うか、新吉、旦那もお賤にゃア惚れて居たなア、二百両という金を埋めて置いて是で食えよとなア、若旦那にもいわねえで金を埋めて置くてえのは金持は違わア」
新「早く堀らねえと彼処(あすこ)の山は自然薯(じねんじょう)を堀りに行(ゆ)く奴が有るから、無暗(むやみ)に遣(や)られるといけねえ」
甚「じゃア早く」
新「鋤(すき)か鍬(くわ)はねえか」
甚「丁度鋤が有るから」
と有合(ありあい)の鋤を担(かつ)いで是から二十丁もある根本の聖天山へ上(あが)って見ると、四辺(あたり)は森々(しん/\)と樹木が茂って居り、裏手は絹川の流(ながれ)はどう/\と、此の頃(ごろ)の雨気(あまけ)に水増して急に落(おと)す河水の音高く、月は皎々(こう/\)と隈(くま)なく冴(さ)えて流へ映る、誠に好(よ)い景色だが、高い処は寒うございますので、
甚「新吉|此処(こゝ)は滅法寒いナア」
新「なに穴を堀ると暖(あった)かくなって汗が出るよ、穴を堀りねえ」
甚「余計な事をいうな」
新「此処だ/\」
と差図(さしず)を致しますから、
甚「よし/\」
といいながら新吉と土手の甚藏がポカ/\堀りまする、所が金は出ません、幾ら堀っても金は出ない訳で固(もと)より無い金、びっしょり汗をかいて、
甚「新吉金は無(ね)えぜ」
新「無(ね)いね」
甚「何をいうんだ、無駄っ骨(ぽね)を折(おら)しやアがって金は有りゃアしねえ」 
五十二
新「左と云ったが、ひょっとしたら向って左かしら」
甚「何を云うんだ仕様がねえな此畜生|咽喉(のど)が渇いて仕様がねえ、斯(こ)んなにびっしょりに成った」
新「己も咽喉が渇くから水を飲みてえと思っても、手水鉢は殻(から)で柄杓(ひしゃく)はから/\だが、誰もお参りに来ないと見えるな、うんそう/\、此方(こっち)へ来な、聖天山の裏手に清水の湧(わ)く処がある、社(やしろ)の裏手で崖の中段にちょろ/\煙管(きせる)の羅宇(らう)から出る様な清水が溜って、月が映っている、兄(あに)い彼処(あすこ)の水は旨(うめ)えな」
甚「旨えが怖くって下(お)りられねえ」
新「下りられねえって何(ど)うかして下りられるだろう、待ちねえあの杉だか松だか柏(かしわ)だかの根方に成って居る処(とこ)に藤蔓(ふじつる)に蔦(つた)や何か縄の様になってあるから、兄い此奴(こいつ)に吊下(ぶらさが)って行けば大丈夫(でえじょうぶ)だが己は行った事がねえからお前(めえ)行ってくんねえな」
甚「此奴ア旨え事を考えやアがった、新吉の智慧(ちえ)じゃアねえ様だ、此奴ア旨え、柄杓は有るか」
と手水鉢の柄杓を口に啣(くわ)えて、土手の甚藏が蔦蔓(つたかつら)に掴まって段々下りて行くと、ちょうど松柏の根方(ねがた)の匍(は)っている処に足掛りを拵(こしら)えて、段々と谷間(たにあい)へ下りまして、
甚「アヽ斯(こ)うやって見ると高いナア、新吉ヤイ/\水は充分あらア」
新「早くお前(めえ)飲んだら一杯持って来て呉んねえ」
甚「手前(てめえ)下りやアな、持って行く訳にアいかねえ、ポタ/\柄杓が漏らア、カラ/\になっていたからナア、アヽ旨(うめ)え/\甘露だ、いゝ水だ、アヽ旨え、なに持って行くのは騒ぎだよ」
新「後生だから、お願いだから少しでも手拭に浸(ひた)して持って来て呉んねえ咽喉が干(ひ)っ付きそうだから」
甚「忌(いめ)えましい奴だな、待ちャア」
と一杯|掬(すく)い上げて澪(こぼ)れない様に、平(たいら)に柄杓の柄(え)を啣(くわ)えて蔦蔓(つたかづら)に縋(すが)り、松柏の根方を足掛りにして、揺れても澪れない様にして段々登って来る処を、足掛りの無い処を狙いすまして新吉が腰に帯(さ)したる小刀(しょうとう)を引抜き、力一ぱいにプツリと藤蔓(ふじづる)蔦蔓(つたかつら)を切ると、ズル/\ズーッと真逆(まっさか)さまに落ちましたが、何(ど)うして松柏の根方は張っているし、山石の角(かど)が出張(でっぱ)っておりますから、頭を打破(うちやぶ)って、落ちまするととても助かり様はございませんが、新吉は側にある石をごろ/\谷間(たにあい)へ転がし落(おと)しました、其のうちむら/\と雲が出て月が暗く成りましたから、それを幸いに新吉は脇差を鞘に納めて、さっさと帰って来て、
新「おゝ/\お賤さん/\明けてお呉れ/\」
賤「誰(たれ)だえ」
新「己(おい)らだよ」
賤「ア新吉さんかえ、能く帰って来てお呉れだねえ、案じていたよさアお這入り」
新「アヽびしょ濡だ、何か斯(こ)う単物(ひとえもの)か何か着てえもんだ」
賤「袷(あわせ)と単物と重ねて置いたよ、さア是をお着、旨く行ったかえ」
新「すっぱり行った」
賤「私の云った通り後(あと)から石を投(や)ったのかえ」
新「投った/\、気が付いたから後から石を二つばかり投った、あれが頭へ当りゃア直(すぐ)に阿陀仏(おだぶつ)だ」
賤「いゝね、今脊中を拭くから一服おしよ、熱い湯で拭く方が好(い)いから」
と銅盥(かなだらい)へ湯を汲んで新吉の脊中を拭いてやり、
賤「袷におなり」
新「大きにさば/\した」
と其のうち此方(こっち)へ膳を持って来て酒の燗を付け、月を見ながら一猪口(ひとちょく)始めて、
賤「もう是で二人とも怖い者はないよ」
新「何(ど)うも実に旨(うめ)え事を考えて、一寸|彼奴(あいつ)も気が付かねえが、藤蔓に伝わって下りろといった時に、手前(てめえ)の智慧じゃアねえ様だといった時、胸がどきりとしたが、真逆(まっさか)さまになって落(おち)る上から側に在(あ)った石をごろ/\、あの石で頭を打破(ぶちわ)ったに違(ちげ)えねえが、彼奴は悪党の罰(ばち)だ。己(うぬ)が悪党の癖に」
是から二人で中好(なかよ)く酒盛をしているうち空は段々雲が出て来て薄暗くなり、
賤「もう寝ようじゃアないか」
というので戸締りをしに掛りましたが、
新「また曇って来たぜ、早く仕ねえ」
賤「今お待ち」
と床を敷く間新吉は煙草を喫(の)んでいると、戸外(おもて)の処は細い土手に成って下に生垣(いけがき)が有り、土手下の葮(よし)蘆(あし)が茂っております小溝(こみぞ)の処をバリ/\/\という音。
新「何(なん)だか音がするぜ」
賤「お前様(まえさん)は臆病だよ、少し音がすると」
新「デモ何だかバリ/\」
賤「なアに犬だよ」
新「何だか大変にバリ付くよ、何だろう」
と怖々(こわ/″\)庭を見る途端に、叢雲(むらくも)が断(き)れて月があり/\と照り渡り、映(さ)す月影で見ると、生垣を割って出ましたのは、頭髪(かみ)は乱れて肩に掛り、頭蓋(あたま)は打裂(ぶっさ)けて面部(これ)から肩(これ)へ血だらけになり、素肌へ馬の腹掛を巻付けた形(なり)で、何処(どこ)を何(ど)う助かったか土手の甚藏が庭に出た時は、驚きましたの驚きませんのではござりませぬ、是から悪事露見という処、一寸一息吐きまして。 
五十三
引続きお聴きに入れました新吉お賤は、我(わが)罪を隠そうが為に、土手の甚藏を欺(あざむ)いて根本の聖天山の谷へ突落(つきおと)し、上から大石(たいせき)を突転がしましたから、もう甚藏の助かる気遣(きづかい)は無いと安心して、二人差向いで、堤下(どてした)の新家(しんや)で一口飲んで、是(こ)れから寝ようと思って雨戸を締めようという所へ、土手の生垣を破って出たのは土手の甚藏、頭脳は破れて眉間(これ)から頤(これ)へ掛けて血は流れ、素肌に馬の腹掛を巻付けた姿(なり)で庭口の所へ斯(こ)う片足踏出して、小座敷の方を睨(にら)みました其の顔色(がんしょく)は実に二(ふ)タ眼とは見られぬ恐しい怖い姿(すがた)でござりますから、新吉お賤は驚いたの驚かないの、ゾッと致しました。座敷へ上(あが)ってキャア/\騒がれては大変と思いましたが、新吉はもとよりそれ程|悪徒(わるもの)という程でも有りませんから、たゞ甚藏の見相(けんそう)に驚きぶる/\慄(ふる)えているから、
賤「新吉さんお前|爰(こゝ)にいてはいけないよ、どんな事が有っても詮方(しかた)がないから土手へ連れて行って彼奴(あいつ)を斬払(ぶっぱら)っておしまいよ」
新「斬払えたって出れば殺される」
賤「大丈夫だよ、戸外(おもて)へ連れて行って堤(どて)の上で」
とぐず/″\云っているうちずか/″\と飛込んで縁側へ片足踏かけました甚藏は、出ようとする新吉の胸ぐらを把(と)って
甚「己(うぬ)、いけッ太(ぷて)え奴、能くも彼(あ)の谷へ突落しやアがったな、お賤も助けちゃア置かねえ能くも己(おれ)を騙(だま)しやアがったな、サア出ろ、いけッ太え奴だ、お賤の女(あま)も今見ていろ」
と堤の上へ引摺(ひきず)って行(ゆ)こうとする、此方(こちら)は出ようとする、向(むこう)は引くから、ずる/\と土手下へ落ちたから、
新「ウム、後生だから助けて、兄い苦しい、己の持っている金は皆(みんな)お前(めえ)に、これさ兄い、何も彼(か)もみんなお前にやるから何(ど)うか堪忍して、然(そ)ういう訳じゃアねえ、行間違(ゆきまちが)いだから」
甚「糞でも喰(くら)え、なに痛(いて)えと、ふざけやアがるな」
と力を入れて新吉の手を逆に把(と)って捻(ねじ)り、拳固(げんこ)を振り上げてコツ/\撲(ぶ)ったから痛いの痛くないのって、眼から火の出るようでございます。
新「兄い助けて呉れ/\」
と喚(わめ)きますのを、
甚「うぬ助けるものか、お賤のあまッちょも今|後(あと)からだ」
と腰から出刄庖丁を取出して新吉の胸下(むなもと)を目懸けて突こうとすると、新吉は仰向に成って、
新「己が悪かった堪忍して、兄い後生だから助けてよう」
というも大きな声を出しては事が露顕しようと思いますから、小声で助けて呉んねえと呼ぶばかりでございます。すると何処(どこ)から飛んで来ましたかズドンと一発鉄砲の流丸(それだま)が、甚藏が今新吉を殺そうと出刃庖丁を振り翳(かざ)している胸元へ中(あた)りましたから、ばったり前へのめりましたが、片手に出刃庖丁を持ち、片手は土手の草に取つき、ずーと立上ったが爪立(つまだ)ってブル/\っと反身(そりみ)に成る途端にがら/\/\/\と口から血反吐(ちへど)を吐きながらドンと前へ倒れた時は、新吉も鉄砲の音に驚き呆気(あっけ)に取られて一向訳が分らないから、自分が殺された心がしましてたゞ南無阿弥陀仏/\と申しましたが、暫くして漸(ようや)くに気が付き起上りまして四辺(あたり)を見廻し、
新「アヽ何処から飛んで来たか鉄砲の流丸(それだま)、お蔭で己は助かったが猟師が兎でも打とうと思って弾丸(たま)が反(そ)れたか、アヽ僥倖(さいわい)命強(いのちづよ)かった、危ない処を遁(のが)れた、誰(たれ)が鉄砲を打ったか有難いことだ」
併(しか)し猟夫(かりゅうど)が此の様子を見て居りはせぬかと絹川の方を眺めますれど、只水音のみでございまして往来は絶えた真の夜中でございます。此方(こちら)の庭の生垣の方からちらり/\と火縄の火が見える様だから、油断をせず透(すか)して見ますると、寝衣帯(ねまきおび)の姿(なり)で小鳥を打ちまする種が島を持って漸くに草に縋(すが)って登って来たのはお賤、
賤「新吉さんお前に怪我は無かったかえ」
新「お賤、手前(てめえ)はマア何(ど)うした」
賤「私はモウ途方に暮れて仕舞って、お前に怪我をさしてはならないから何うしようかと思っても、女が刃物|三昧(ざんまい)しても彼奴(あいつ)には敵(かな)わないし、何うしようかと考えたら、ふいと気がついたんだよ、此の間ね旦那が鉄砲を出して小鳥をうつ時|手前(てまえ)もやって見ろッてんでね、やっと引金に指を当(あて)る事だけネ教わって覚えたので、時々やって見た事がある、今も丸(たま)が込めて有る事を思い出したから、直(すぐ)に旦那の手箱の中(うち)から取出してね、思い切って遣(や)って見たんだけれども、好(い)い塩梅に近くで発(はな)しただけに狙いも狂わず行(や)って、お前に怪我さえ無ければ私はマア有難い斯(こ)んな嬉しい事は無いよ」
新「何しろ何(ど)うせ此の事が露顕せずにはいねえ、甚藏を撲殺(ぶっころ)して仕舞ってお前(めえ)と己と一緒に成っていられる訳のものじゃアねえから、今のうち身を隠してえものだ」
賤「アヽ私もね茲(こゝ)にいる気はさら/\無いから、形見分(かたみわけ)のお金も有るのだけれども、四十九日まで待ってはいられないから、少しは私の貯(たくわ)えも有るから、それを持って二人で直(すぐ)に逃げようじゃアないか」
新「ウム、少しも早く今宵(こよい)の内に」
というので、是から衣類や櫛(くし)笄(こうがい)貯えの金子までも一(ひ)ト風呂敷として跡を暗(くら)まし、明(あけ)近い頃に逐電して仕舞いました。また甚藏の死骸は絹川べりにありましたが、夜(よ)が明けて百姓が通り掛って騒ぎ、名主へも届けたが、甚藏は平素(ふだん)悪(にく)まれもの、何うか死んで呉れゝばいゝと思っていた処、甚藏が絹川べりで鉄砲で撃殺(うちころ)されているというのを村の人達が聞込んで、アヽ是からは安心だ、甚藏が死ねば村の者が助かるまでよと歓び、其の儘名主様へ届けて法蔵寺に葬ったが、投込み同様、生きている中(うち)の悪事の罰で、勿論|悪徒(わるもの)ですから誰の所業(しわざ)と詮議して呉れる者も有りません。新吉お賤の逃去りましたのは固(もと)より不義|淫奔(いたずら)をしていて名主様が没(なくな)ると、自分達は衣類や手廻りの小道具何や彼(か)やを盗んでいなく成ったに相違ない。彼(あれ)は素(もと)より浮気をしていた者の駈落だから左(さ)もあるべしと、是も尋ねる者もないので何事も有りませんが、名主惣右衞門の変死は誰(たれ)有って知る者は無い。肝腎の知っている甚藏が殺されましたから、惣右衞門は全く病死したのだと心得て居りますが、中には疑がっている者も有りまして、様々いうが、マア名主の跡目は忰(せがれ)惣次郎、誠に柔和温順の人でお父(とっ)さんは道楽のみを致しましたが、それには引きかえ惣次郎は堅くって内気ですから他(た)に出たことも無い人でございますが、或時村の友達に誘われまして水街道へ参って、麹屋(こうじや)という家(うち)で一猪口(ひとちょこ)やりました、其の時、酌に出た婦人が名をお隅(すみ)と申しまして、齢(とし)は廿歳(はたち)ですが誠に人柄の好(よ)い大人しやかの婦人でございます。 
五十四
水街道あたりでは皆|枕附(まくらつき)といいまして、働き女がお客に身を任せるが多く有りますが、此のお隅は唯無事に勤めを致し、余程人柄の好(よ)い立振舞から物の言い様、裾捌(すそさばき)まで一点の申分のない女ですから、惣次郎は麹屋の亭主を呼んで、是は定めし出の宜しい者だろうと聞合せますと、元は谷出羽守(たにでわのかみ)様の御家来で、神崎定右衞門(かんざきさだえもん)という人の子で、お父様(とっさま)と一緒に浪人して此の水街道を通り、此の家に泊り合せると定右衞門が生憎(あいにく)病気で長く煩らって没(なく)なり、後(あと)で薬代(くすりしろ)や葬式料に困って居ります故、宿の主人(あるじ)が金を出して世話を致しましたから恩報じかた/″\此の家に奉公致し、外(ほか)に身寄親類もない心細い身の上でございますから、何分願います、外の女とは違いまして真面目に奉公を致して居りますもの、贔屓(ひいき)にして下さいというので、惣次郎の気に入りまして、度々(たび/\)遊びに来る、其の頃の名主と申しては中々幅の利いた者ですから、名主様の座敷へ出る時は、働き女でも芸妓(げいしゃ)でも、まア名主様に出たよなどと申して見得(みえ)にしたものでございます。惣次郎もお隅には多分の祝義を遣わし折節は反物(たんもの)などを持って来て遣る事も有るから、男振といい気立(きだて)といい柔和温順で親切な名主様と、お隅も大切に致し、何(ど)うも有難いと思い、或日の事、
隅「私は外に参る処もない身の上でございますから、何分御贔屓なすって下さい」
というので、惣次郎も近々(ちか/″\)来る中(うち)に、不図した縁で此のお隅と深くなりました事で、今迄堅い人が急に浮(うか)れ出すと是は又格別でございまして、此の頃は家を外(そと)に致す様な事が度々でございますから、お母様(っかさん)も心配する、弟御(おとうとご)もございますが、是はまだ九歳で、何も役にたつ訳でもございませぬから、お母様も種々(いろ/\)心配なさるが、常に堅い人だから、うっかり意見がましい事もいわれませんので控えている。すると其の翌年|寛政(かんせい)十年となり、大生郷村の天神様から左(ひだ)りに曲ると法恩寺(ほうおんじ)村という、其の法恩寺の境内に相撲が有ります。此の相撲場は細川越中守(ほそかわえっちゅうのかみ)様御免の相撲場ということで、木村權六(きむらごんろく)という人が只今|以(もっ)て住んで居ります、縮緬(ちりめん)の幕張(まくば)りを致して、田舎相撲でも立派な者で近郷からも随分見物が参ります、此処(こゝ)に参っている関取は花車重吉(はなぐるまじゅうきち)という、先達(せんだって)私(わたくし)古い番附を見ましたが、成程西の二段目の末から二番目に居ります。是は信州|飯山(いいやま)の人で十一の時初めて羽生村へ来て、名主方に二年ばかり奉公している其の中(うち)に、力もあり体格もいゝので、自分も好きの処から、法恩寺村の場所へ飛入りに這入ると、若いにしては強い、此の間は三段目の角力(すもう)を投げたなどゝ賞(ほ)められましたから、自分も一層相撲に成ろうと、其の頃の源氏山(げんじやま)という年寄の弟子となったが、是より花車が来たといえば土地の者が贔屓にして見物に来る。惣次郎も何時(いつ)も多分の祝義を遣わしましたが、今度もお隅を伴(つ)れて見物しようと思い、相撲は附けたり、お隅に逢いたいからそこ/\支度を致しますと、母が心配して
母「アノ帰るなら今夜は些(ち)と早く帰って貰(もれ)え度(て)え、明日(あす)は少し用が有るからのう」
惣次郎「少しは遅く成るかも知れません、若(も)し遅くなれば喜右衞門(きえもん)どんに何彼(なにか)と頼んで置いたから御心配は無いが、万一(ひょっと)して花車も一杯やり度(た)いなどゝ云うと、些(ちっ)とは私も遣り度い物も有りますから、又帰る迄に着物でも持たして遣りとうございますし、そんな事で種々(いろ/\)又相談も致しますから、若し遅く成りましたら、何(ど)うかお先にお寝(やす)みなすって下さいまし」
母「ハイ遅くならば先(さ)きに寝てもいゝだけれど、まア此の頃は他(ほか)へ出ると泊って来る事もあり、今迄旦那様が達者の時分にはお前が家(うち)を明けた事はねえ、あんな堅(かて)え若旦那様はねえ、今の世は逆(さか)さまだ、親が女郎を買って子が後生を願うと云う唄の通りだ、惣次郎様の様なあんな若旦那ア持ちながら、惣右衞門どんはいゝ年いして道楽するなどと村の者がいうから、鼻が高(たけ)えと思ったが、旦那殿が死んで仕舞って見ると、今ではお前(めえ)の身代だから、まア家(うち)の為え思ってお前も今迄骨折って呉れただが、去年あたりから大分(でえぶ)泊りがけに出かけるものだから、村の者も今迄は堅(かて)え人だったが、何(ど)う言う訳だがな泊り歩くが、役柄もしながらハアよくねえ事(こッ)たア年老(としと)った親を置いて、なんて悪口(わるくち)を利(き)く者もあるで、成(なる)だけ他人(ひと)には能く云わしたいが、是は親の慾だからお前の事だから間違(まちげ)えはなかんべえが、成たけまア帰(けえ)れるだら帰(けえ)って貰(もれ)えてえだ心配(しんぺい)だからのう」
惣次郎「イエなに、然(そ)う御心配なれば参らんでも宜しゅう、是非参り度(た)い訳ではありません、花車も来た事だから聊(いさゝ)かでも祝義も遣り度いと思いましたが、そういう訳なら参らんでも宜しいので、新右衞門(しんえもん)も同道する積りでしたが、左様なれば往(い)かないでも先方(むこう)で咎(とが)めるでもなし、怒(おこ)りもしますまい、それでは止(や)めましょう」
母「そういえばハア困るべえじゃアねえか、行くなアとはいわねえが、出れば泊りがけの事も有るし、帰(けえ)らねえ事も有るから、それで私(わし)が案じるからいうので、行くなアとはいわねえ、行っても能(いゝ)から早く帰(けえ)って来(こ)うというのだ、お前(めえ)は今迄親に暴(あれ)え言(こと)をいい掛けた事はねえが、此の頃は様子が異(ちが)って意見らしい事をいえば顔色(かおいろ)が違うからいうだ、私は段々年を取り惣吉はまだ子供なり、役には立たねえから、お前も堅くって今まで人に云われる事もなかっただから、間違(まちげ)えはなかろうけれども、若(わけ)え者の噂にあんなハア美(うつ)くしい女子(おなご)があるから家(うち)へ帰(けえ)るは厭(いや)だんべえ、婆様(ばあさま)の顔見るも太儀(たいぎ)だろうなどという者もあるから、そんな事を聞くと心配(しんぺい)で成んねえもんだから、少しも能く思わせてえのが親の慾でござらア、行くなという訳ではねえ往ってもいゝから帰(けえ)れたら早く帰(けえ)って来(こ)うというと胆(きも)いれてそんたら往くめえなどと、年寄ればハア然(そ)うお前(めえ)にまでいわれて邪魔になるかと思って早くおっ死度(ちにて)えなどと愚痴も出るものでのう」 
五十五
惣次郎「イエ左様なれば早く帰って参ります、思わず言過ぎて何(ど)うも悪いことを申しまして今夜は早く帰って参ります、大(おお)きに余計な御心配を懸けまして誠に済みません」
母「然(そ)うなれば宜しい、機嫌を直して往(い)くがいいよ、これ/\多助(たすけ)や」
多「ハイ」
母「汝(われ)行くか」
多「ヘエ、関取が出るてえから行って見ようと思って」
母「汝口が苛(えら)いから人中へ入って詰らねえ口利いては旦那様の顔に障るから気イ付けて能く柔和(おとな)しく慎しんで往(い)てこうよ」
多「ヘエ、畏(かしこま)りました、私(わし)が行けば大丈夫(でいじょうぶ)だ、そんなら往って参(めえ)ります、左様なら」
と、惣次郎は是から水街道の麹屋に行って彼(か)のお隅を連れて、法恩寺村の場所に行こうと思ったが、今日は大(たい)した入りだというから、それよりは花車を他(ほか)へ招(よ)んで酒を飲ました方が宜しい、それに女連(おんなづれ)で雑沓(ざっとう)の中で間違でも有っては成らぬ、殊(こと)にお隅を連れて行くは心配でもあり役柄をも考えたから、大生郷の天神前の宇治の里という料理屋へ上(あが)り、此処(こゝ)の奥で一猪口(ひとちょこ)遣(や)っていると、間が悪い時は仕方のないもので、彼(か)のお隅にぞっこん惚れて口説いて弾(はじ)かれた、安田一角(やすだいっかく)という横曾根村の剣術家、自(みず)から道場を建てゝ近村(きんそん)の人達が稽古に参る、腕前は鈍くも田舎者を嚇(おど)かしている、見た処は強そうな、散髪を撫付(なでつ)けて、肩の幅が三尺もあり、腕などに毛が生えて筋骨|逞(たくま)しい男で、一寸(ちょっと)見れば名人らしく見える先生でございます。無反(むぞり)の小長(こなが)いのを帯(さ)し、襠高(まちだか)の袴(はかま)をだゞッ広(ぴろ)く穿き、大先生の様に思われますが、賭博打(ばくちうち)のお手伝でもしようという浪人者を二人連れて、宇治の里の下座敷で一口遣っていると、奥に惣次郎がお隅を連れて来ている事を聞くと、ぐッぐッと癪に障り、何か有ったら関係(かゝりあい)を付けようと思っている。此方(こちら)では御飯が済んだから帰り掛(がけ)に花車の家(いえ)に往(ゆ)こうというので急いで出る、お隅も安田が来ているのを認めましたから気味が悪く早く帰ろうと思うので、奥から出て廊下へ来ると、何(ど)うしても其処(そこ)を通らなければ出られないから、安田はわざと三人の刀の鐺(こじり)を出して置きますと、長い刀の柄前(つかまえ)にお隅が躓(つま)づきましたのを見ると、
安「コレ/\待て、コレ其処へ行(ゆ)く者待て」
惣「ヘエ/\私(わたくし)でございますか」
安「手前|何処(どこ)の者か知らんけれども、人の前を通る時に挨拶して通れ、殊(こと)にコレ武士の腰に帯(たい)して歩く腰の物の柄前に足をかけて、麁忽(そこつ)でござると一言(ひとこと)の謝言(わびごと)も致さず、無暗(むやみ)に参ることが有るか、必定心有ってのことだろう」
惣「ヘイ頓(とん)と心得ませんで…お前|疎忽(そこつ)だからいけない、お武家様のお腰の物に足をかけて何(なん)のことだね、ヘイ何(ど)うも相済みませんでございました、つい取急ぎまして飛んだ不調法を致しました、当人に成代りましてお詫(わび)を申上げます、何分御勘弁を願います」
安「なに詫を申すなら何処の者か姓名も云わず、人に物を詫びるには姓名を申せ、白痴(たわけ)め」
惣「ヘエ、手前は羽生村の惣次郎と申す何も弁(わき)まえませぬ百姓でございます」
安「なに、羽生村の惣次郎、うむ名主だな、イヽヤ名主だ、羽生村にて外(ほか)に惣次郎と云う名前の者は無い様だ、名主役をも勤むる者が人の前を通る時には御免なさいとかお先(さ)きに参るとか何(なん)とか聊(いさゝ)か礼儀会釈を知らぬ事も有るまい、小前(こまえ)の分らぬ者などには理解をも云い聞けべき名主役では無いか、それが殊(こと)に武士(さむらい)の腰の物を足下(そっか)にかけて黙って行(い)くと云う法が有るか、咎(とが)めたらこそ詫もするが、咎めずば此の儘(まゝ)行(ゆ)き過ぎるであろう、無礼至極の奴、左様ではござらんか仁村(にむら)氏(うじ)」
仁「是はお腹立の処|御尤(ごもっと)も是は何も横合から指出(さしで)て兎や角いうではないが、けれども斯(こ)ういう席だから、何も先生だって大したお咎をなさる訳でもあるまいが、今仰せの如く名主役をも勤むる者が、少しは其の辺の心得がなくては勤まらぬ、小前の者が分らん事でもいう時は、呼寄せて理解をも云い聞けべきの役柄だ、然(しか)るにずん/\行(ゆ)くという法はない、是は、イヤ先生御立腹御尤もだ是は幾ら被仰(おっしゃ)っても宜しい、お腹立御尤もの次第で」
惣「重々御尤もで相済みません、御尤至極でござります、どうか御勘弁を願います」
安「只勘弁だけでは済むまい、苟(かり)にも武士の魂とも云う大切の物、手前達は何か武士が腰に帯(たい)して居る物は人斬庖丁(ひときりぼうちょう)などゝ悪口(あっこう)をいうのは手前の様な者だろうが、人を無暗(むやみ)に斬る刀でないわ、えゝ戦場の折には敵を断切(たちき)るから太刀(たち)とも云い、片手|撲(なぐ)りにするから片刀(かたな)ともいい、又短いのを鎧通しとも云う、武士たるものが功名(こうみょう)手柄を致す処の道具、太平の御代に、一事一点間違を致せば直(すぐ)にも切腹しなければならぬ大切の腰の物じゃ、それを人斬庖丁など悪口をいいおるから挨拶もせずに行ったのだ、それに違いなかろう、ナア」
連の男「是は先生至極御尤も、怪(け)しからんこと、何(なん)だ、え、何(ど)うもその、武士たるべき者の腰に帯(たい)するものを人斬庖丁などゝは以(もっ)ての外(ほか)だ、太平なればこそよいが、若し戦場往来の時是をエヽ、太刀とも唱える、片刀ともいう、今一つ短いのは何(なん)でしたッけ、うむ鎧通しともいう、一事一点間違があれば切腹致すべき尊(とうと)い処の腰の物、それを何(なん)だ無礼至極、どの様に仰しゃっても宜しい」
惣「重々恐入りましたが何分御勘弁になります事なれば、どの様にお詫を致して宜しいか頓と心得ませんが」
安「刀を浄(きよ)めて返せ、浄まれば許して遣(つか)わす」
惣「どの様に致せば浄まります事か、百姓|風情(ふぜい)で何も存じませんで」
安「知らんという事が有るか、浄めて返さんうちは勘弁|罷(まか)り相成らぬ」
惣次郎もつく/″\困りましたが、お隅は平素(ふだん)から一角は酒の上が悪く我儘(わがまゝ)なのを知っております、また女が出ると柔(やわら)かになる事も存じているから、却(かえ)って斯(こ)う云う時は女の方が宜(よ)かろうと思って、後(あと)の方からつか/\と進み出まして、
隅「先生誠に暫く」
安「何(な)んだ」 
五十六
隅「麹屋の隅でございますが、只今|私(わたくし)が旦那様のお供をして来て、つい例(いつも)の麁忽者(そこつもの)で駈出して躓(つまづ)きまして、足で蹴(け)たの踏んだのという訳ではありませんが、一寸(ちょっと)足が触りましたので、貴方と知っていれば宜しいのに、うっかり足が出ましたので、それ故先生様の御立腹で誠に私(わたし)がお供に来て済みませんから、不調法でございますが何卒(どうぞ)御勘弁なすって下さいな決して蹴たの踏んだのという訳でもなし、お供をして来て不調法が有っては、羽生村の旦那様に済みませんし、あの私(わたくし)の麁忽者(そゝッかしや)の事は先生も御存じで入らっしゃいますから、お馴染(なじみ)甲斐に不調法の処は重々お詫を致しますから御勘弁を」
安「黙れ、なに馴染がどうした、馴染なら如何(いか)に無礼致しても済むと思うか、手前には聊(いさゝ)か祝義を遣わした事も有るが、どれ程の馴染だ、又拙者は料理屋の働女(はたらきおんな)に馴染は持たん、無礼を働いても馴染なら許して貰えると思うか、鼻を殺(そ)ぎ耳を斬って馴染だから御免とそれで済むか無礼至極な奴、女の足に刀を踏まれては猶更(なおさら)汚(けが)れた、浄めて返せ」
仁「是は先生至極御尤、御尤もだが酒も何もまずくなったなア、是はどう云う身分柄か知らんが馴染だから勘弁という詫の仕様はないが、誰かあゝお隅か妙な処で出会(でくわ)したなア、先生/\麹屋の隅でございます、能く来たなア、え隅か、是は何(ど)うも詫(あや)まれ/\、重々何うも済まぬ、先生/\お隅でございます、貴公知らなんだ、あはゝゝゝどうも麁相(そそう)はねえ詫びるより外に仕方がない、詫びて勘弁ならんという事は無い、重々恐入ったと詫びろ、能く来た、あの先生、先生/\勘弁してお遣りなさいお隅でござる」
安「な何を戯言(たわこと)、勘弁相ならん」
と猶更額に筋を出して中々承知しませんから、惣次郎もまさか其の儘に逃出す訳には往(ゆ)かず、困り果てゝおりますと、奥の離座敷の方に客人に連れられて参って居たは花車重吉、客人は至急の用が出来て帰りましたから、花車は遥(はるか)に此の様子を聞いて、惣次郎とは固(もと)より馴染なり兄弟分の契約(かため)を致した花車でございますから心配しておりまする。
多「もし旦那様/\」
惣「何(なん)だ」
多「関取がねえ奥に来ているだ、大きに心配しているだが、ちょっくら旦那にお目に掛りてえというが」
惣「なに花車が、それは宜(よ)かった関取に詫をして貰おう、一寸」
安「これ/\逃出す事はならぬ」
惣「いえ逃げは致しませんが、主意を立てましてお詫を申上げます暫く御免を」
というのでこそ/\と後(あと)にさがる。此の隙(ひま)に宇治の里の亭主手代なども交(かわ)る/\詫びますけれども一向に聞入れがありません。
惣「関取は此方(こちら)かえ」
花車「はい」
惣「誠にどうも此処(こゝ)で逢うとは思わなかった」
花「えゝ今皆聞きました、何しろ相手が悪いがねえ、何か是には仔細があってだアと鑑定しているが、何しろ筋の悪い奴で、是は私(わし)がねエなり代って詫びて見ましょう」
惣「何卒(どうぞ)、関取なら愛敬を売るお前だから厭(いや)でもあろうが、先の機嫌を直す様に」
花「案じねえでもいゝよ」
多「私(わし)イ宿を出る時に間違えでも出かすとなんねえから、名前(なめえ)に掛るからってお内儀(かみさん)に言付かって汝(われ)行って詰らねえ口い利いて間違え出かしてはなんねえと、気い付けられたんだが、こうなっては私や出先で済まねえ事だから関取頼むぞえ」
花「心配しねえでもいゝよ、私(わし)が請合った宜しい」
と落着払って花車、齢(とし)は二十八でありますが至って賢い男、大形(おおがた)の縮緬(ちりめん)の単衣(ひとえもの)の上に黒縮緬の羽織を着て大きな鎖付の烟草入(たばこいれ)を握り、頭は櫓落(やぐらおと)しという髪(あたま)、一体|角力取(すもうとり)の愛敬というものは大きい形(なり)で怖(こわ)らしい姿で太い声の中に、何(なん)となく一寸(ちょっと)愛敬のあるものでのさり/\と歩いて参りまして、
花「はい御免なさい、先生(しぇんしぇい)今日は」
安「何(なん)だ、誰だい」
花「はい法恩寺の場所に来ております花車重吉という弱い角力取で、何卒(どうぞ)お見知り置(おか)れて皆様御贔屓に願います」
安「はい左様か、私(わし)は相撲は元来嫌いで遂(つい)ぞ見に往った事も無いが、関取|何(なん)ぞ用でござるかい」
花「はい只今承りますれば、羽生村の旦那が、貴君方(あなたがた)に対して飛んだ不調法をしたと申す事だが、何分にもお聞済みがないので、私(わし)は馴染の事でもあるに由(よ)って、重吉手前は顔売る商売じゃ、なり代って詫びてくれいって頼まれまして、見兼て中に這入りましたがねえ、重々御立腹でもございましょうが、斯(こ)ういう料理屋で商売柄の処でごた/\すれば、此家(こちら)も迷惑なり、お互に一杯ずつも飲もうと思うに酒も旨うない、先生(しぇんしぇい)も旨うない訳だから、成り代ってお詫しますから、花車に花を持たせて御勘弁を願います」
安「誠にお気の毒だが勘弁は致されんて、勘弁致し難(がた)い訳があるからで、勘弁しないというは武士の腰物(こしのもの)を女の足下(そっか)に掛けられては此の儘に所持もされぬから浄めて返せと先刻(さっき)から申して居(お)るのだ」
花「それは然(そ)うでありましょう、併(しか)し出来(でけ)ない処を無理に頼むので、出来難(でけにく)い処をするが勘弁だア、然(そ)うじゃアありませんか」
安「無理な事は聴かれませんよ、お前が仲に這入っては尚更(なおさら)勘弁は出来ぬではないか」
花「はア私(わし)が這入って、なぜね」
安「花車重吉という有名(なうて)の角力取が這入っては勘弁ならん、是が七十八十になる水鼻(みずっぱな)を半分クッ垂(たら)して腰の曲った水呑百姓が、年に免じて何卒(どうぞ)堪忍(かんにん)して下されと頭を下げれば堪忍する事も出来ようが、立派な角力取、天下に顔を売る者に安田一角が勘弁したとあれば力士に恐れて勘弁したと云われては、今井田流の表札に関わるから猶更勘弁は出来んからなあ」
花「それは困りますねえ、それじゃア物に角が立ちます、先生(しぇんしぇい)私(わし)は天下の力士でも何(なん)でもないわ、まア長袖の身の上で、皆さんの贔屓を受けなければならん、裸体(はだか)で、お前さん取まわし一つでもってから大勢様の前に出て、まア勝つも負(まけ)るも時の運次第でごろ/\砂の中へ転がって着物を投(ほう)って貰い勝ったとか負けたとかいう処が愛敬じゃア、然(そ)うして見れば皆様(みなさん)の御贔屓を受けなければならん、貴方が勘弁して下されば、それ花車|彼奴(あいつ)は愛敬者じゃア、先生が勘弁|出来(でけ)ない処を花車を贔屓なればこそ勘弁したといえば、それで私は先生のお蔭で又売出します、然うじゃアございませんか、勘弁しておくんなさい」
安「堪忍は出来ぬ」
花「出来ぬでは困ります」
安「イヤ勘弁出来ぬ、武士に二言はないわ」 
五十七
花車「そんな事云うて対手(あいて)が武士か剣術遣なれば兎も角も、高が女の事だからよ、大概にしろよ」
安田「大概にしろよとは何(なん)だ」
花「これは言損(いいそこ)なった、これは角力取はこういう口の利きようでうっかり云った、勘弁しろよう」
安「勘弁しろよとは何だ」
花「ほいまた言損なった」
安「勘弁しろよとは何だ、手前も大名|高家(こうけ)の前に出てお盃(さかずき)を頂く力士では無いか、挨拶の仕様を存ぜぬ事はない、大概にしろの勘弁しろよのという云い様があるか、猶更勘弁ならん、無礼至極不埓な奴だ」
と側にある飲冷(のみざま)しの大盃(おおさかずき)を把(と)ってぽんと放ると、花車の顔から肩へ掛けてぴっしり埃だらけの酒を浴(あび)せました。
花「先生(しぇんしぇい)お前さん酒を打掛(ぶっか)けたね、じゃアどうあっても勘弁|出来(でけ)ないと極めたか、それでは仕方がないが、先生|私(わし)も花車とか何(なん)とか肩書のある力士の端くれ、人に頼まれ、中に這入って勘弁ならん、はアそうでございますかと指をくわえて引込(ひっこ)む事は出来(でけ)ぬ、私は馬鹿だ智慧が足りねえから挨拶の仕様を知らぬ、何卒(どうか)こうせいと教えて下せえ、お前のいう通り行(や)りましょう、ねえ、どうなとお顔を立てようから斯(こ)うしろと教えて下せえ」
安「これは面白い、予の顔を立てる、主意を立てるなれば勘弁致す、無礼を働いたお隅と云う女は不届至極だから、彼(あ)の婦人を惣次郎から貰い切って予に引渡して下さい、道場に連れて参って存じ寄り通りにする」
花「それは出来(でけ)ない、彼(あれ)は御存知の水街道の麹屋の女中で、高い給金で抱えて置く女だ、今日一日羽生村の名主様が借(かり)て来たんだ、それを無礼した勘弁|出来(でけ)ないといって道場へ連れて行(ゆ)く、はいと云って遣られぬ、私(わし)にしても然(そ)うです、道場へ引かれゝば煮て喰うか焼いて喰うか頭から塩をつけて喰われるか知れねえものを、それは出来(でけ)ぬ、出来(でけ)ない相談、それじゃア仕様がねえわ」
安「それじゃアなぜ主意を立てるといった、お前は力士、たゞの男とは違う、一旦云った事を反故(ほご)にする事はない、武士に二言はない、刀に掛けても女を貰いましょう」
花「是は仕様がねえ、じゃア、まアお前さんが剣術遣だから刀に掛けても貰おうというだら私(わし)は角力取だから力に掛けても遣る事は出来(でけ)ぬと極めた、それより外(ほか)は出来(でけ)ませんわ」
というと一角も額に青筋を張って中々聴きません。此の家(うち)へお飯(まんま)を喫(た)べに這入った人達も驚きましたが中には角力|好(ずき)で江戸の勇み肌の人も居りまして、
客「どうだもう帰(けえ)ろうじゃアねえか、因業(いんごう)な武士(さむれえ)だ彼(あ)の畜生(ちきしょう)」
客「ウム己達(おらっち)が彌平(やへい)どんの処へ来るたって深(ふか)しい親類でもねえが、場所中(ばしょちゅう)関取が出るから来ているのだが、本当に好(い)い関取だなア、体格(からだ)が出来て愛敬相撲だ一寸(ちょっと)手取(てとり)で、大概(てえげえ)角力取が出れば勘弁するものだが、彼奴(あいつ)め酒を打掛(ぶっか)けやアがって酷(ひど)い事しやアがる」
客「相手の武士(さむれえ)は三人だ、関取がどっと起(た)って暴れると根太(ねだ)が抜けるよ」
客「斯(こ)うしようじゃアねえか、折(おり)を然(そ)ういっても間に合うめえし残して往っても無駄だから、此の生鮭(なまじゃけ)と玉子焼とア持って行こう」
などゝ横着な奴は手拭の上に紙を布(し)いて徐々(そろ/\)肴(さかな)を包み始めた。
花「じゃア先生(しぇんしぇい)こうしましょう、此処(こゝ)の家(うち)でごたすたいった処が此の家へ迷惑かけて、外(ほか)に客があるから怪我でもさしてはなりません、戸外(おもて)に出て広々とした天神前の田甫(たんぼ)中でやりましょう、私(わし)も男だ逃げ隠れはしません」
安「面白い出ろ」
というので三人づんと起(た)った。
客「喧嘩だア/\」
と他(ほか)の客はバラ/\逃げ出したが、代を払って行(ゆ)く者は一人もない、横着者は刺身皿を懐に隠して持って行(ゆ)く者もあり、中には料理番の処へ駈込んで、生鮭を三本も持って逃出す者もあり、宇治の里では驚きましたが、安田一角は二人の助けを頼みとして袴の股立ちを取って、長いのを引抜き振翳(ふりかざ)したから、二人の武士も義理で長いのを引抜き三人の武士(さむらい)が長い閃(きら)つくのを持って立並んでいるから、近辺の者は驚きました。惣次郎は猶更心配でございますから、
惣「関取お前に怪我をさせては親方に済まぬから」
花「いゝよ、親方も何もない、お前さん彼方(あっち)へ行って下せえよ、己が引受けたからは世間へ顔出しが出来ませんから退(ひ)く事は出来ない、何卒(どうか)事なく遣る積(つも)りで、お前さんは心配をしねえでいゝよお隅さんを連れて構わず往って下さい、多助さんも行って下さい、旦那様が茲(こゝ)にいては悪いから帰って下さえ」
惣次郎は帰れたッて帰られませんし、此の儘にはされず、怖さは怖しどうしようかとおど/\して居ると、花車はスッと羽織と単物(ひとえもの)を脱ぎましたが、角力取の喧嘩は大抵|裸体(はだか)のもので、花車は衣服を脱ぐと下には取り廻しをしめている、ウーンと腹を揺(ゆ)り上(あげ)ると腹の大きさは斯様(こんな)になります、飴細工の狸みた様で、取廻しの処へ銀拵(ぎんごしら)えの銅金(どうがね)の刀を帯(さ)し白地の手拭で向鉢巻(むこうはちまき)をして飛下(とびお)りると、ズーンと地響きがする、腕なぞは松の樹(き)の様で腹を立ったから力は満ちて居る、スーと飛出すと見物人は「ワアー関取しっかりしろ」という。安田一角は袴の股立を取って、
安「サア来い」
と長いのを振上げている、此の中へ素裸(すはだ)で、花車重吉が飛込むというところ、一寸一ト息吐きまして。 
五十八
引続きまして角力と剣術遣の喧嘩で、角力という者は愛敬を持ちました者でございまして、只今では開けた世の中でございますから、見識を取りませんで、関取|衆(しゅ)が芸者の中へ這入って甚句(じんく)を踊り、或(あるい)は錆声(さびごえ)で端唄(はうた)をやるなどと開けましたが、前から天下の力士という名があり、お大名の抱えでありますから、だん/\承って見ますると、菅原|家(け)から系図を引いて正しいもので、幕の内と称(とな)えるは、お大名がお軍(いくさ)の時、角力取を連れて入らしって旗持(はたもち)にしたという事でございます、旗持には力が要りますので力士が出まする者で、お見附(みつけ)などの幕の内には角力取が五人ぐらいずつ勤めて居ります。其の幕の内に居たから幕の内という、お弁当を喫(つか)って居るのが小結という、然(そ)ういう訳でもありますまいが、見た処は見上げる様で、胸毛があって膏薬(こうやく)の痕(あと)なぞがあって怖(こわ)らしい様でありますが、愛敬のあるものでございます。一寸|起(た)って踊りますと、重い身体(からだ)で軽く甚句などを踊りますと姉さん達は、綺麗じゃアないか可愛いじゃアないか、踊る姿が好(い)い事、あれで角力を取らないと宜(い)い事などと、それでは角力でも何(なん)でもありません。芝居でも稻川(いながわ)秋津島(あきつしま)などゝいうといゝ俳優(やくしゃ)が致します、極(ごく)むかし二段目三段目ぐらいに立派な角力がありましたが、花車などは西の方二段目の慥(たし)か末(すえ)から二三枚目におりました、其の頃愛敬角力で贔屓もあります角力上手でございますから評判が宜(よ)い、今に幕の内に登るという噂がありまして、花車重吉は誠に固い男、殊(こと)には羽生村の名主の家(うち)に三年も奉公して、角力になりましてからは大(たい)して惣次郎も贔屓にして小さい時分からの馴染で、兄弟分の約束をして酒を飲み合った事もありますから恩返しというので割って中へ這入りましたが、剣術遣は重ね厚(あつ)の新刀を引抜いて三人が大生郷の鳥居前の所へびらつくのを提(さ)げて出ましたから、大概な者は驚いて逃げるくらいでありますが、逃げなどは致しません、ズッと出て太い手をついて斯(こ)う拳を握り詰めますると、力瘤(ちからこぶ)というのが腕一ぱいに満ちます、見物(けんぶつ)は今角力と剣術遣との喧嘩が有るというので近村の者まで喧嘩を見に参る、田甫(たんぼ)の処|畦道(あぜみち)に立って伸上って見ている。
花「先生(しぇんしぇい)此処(こゝ)は天神前で、私(わし)はお前(めえ)さんと喧嘩する事は、斯(こ)うなったからは私は引(ひく)に引かれぬから、お前さん方三人に掛(かゝ)られた其の時は是非が無(ね)え事じゃが、御朱印付の天神様境内で喧嘩してもお前さんも立派な先生、私も角力の端くれ、事訳(ことわけ)知らぬ奴じゃ、天神様の社内を穢(けが)した物を知らぬといわれてはお互に恥じゃ、ねエ死恥(しにはじ)かきたくねえから鳥居の外へ出なせえ」
是は理の当然で、
安「うん宜しい、よく覚悟して…鳥居外へ参ろう」
と三人出たから見物は段々|後(あと)へ退(さが)る、抜刀(ぬきみ)ではどんな人でも退る、豆蔵が水を撒(ま)くのとは違う、怖(おっ)かないからはら/\と人が退(の)きます。
見物「何(ど)うだ本当に力士てえ者は感心じゃアねえか、たった一人に三人掛りやアがって、大概(てえげえ)に彼奴(あいつ)勘弁しやアがるが宜(い)い、何(なん)だしと詫言(わびごと)したら恥じゃアあるめえし畜生(ちきしょう)、関取|確(しっ)かりやって、己(おら)アお前(めえ)の角力を見に来たので、お前が喧嘩に負けると江戸へ帰(けえ)れねえ、冗談じゃアねえ剣術遣を踏殺(ふみころ)せ」
安「何(なん)だ」
見物「危険(けんのん)だ、確かりやって呉れ」
花「逃げも隠れもしねえ、長崎へ逃げようと仙台へ逃げようと花車重吉駈落は出来ぬから卑怯な事はしねえが、茲(こゝ)でお前(めえ)さんに切られて死ねばもう湯も茶も飲めません、喧嘩は緩(ゆっ)くら出来ますから一服やる間暫らく待って」
安「なに、これ喧嘩する端(はな)に一服やるなどと、何(なん)だ愚弄(ぐろう)するな」
花「心配(しんぺえ)ありません末期(まつご)の煙草だ、死んだら呑めませんワ、一服やりましょう、誰(たれ)か火を貸しておくんなせえ」
見物の中から煙草の火をあてがう奴がある。パクリ/\脂下(やにさが)りに呑んで居る。
花「まア緩くり行(や)りましょう、エ先生(しぇんしぇい)逃げ隠れはせぬぜ」
とパクリ/\と吸(や)って居る。見物は、
見物「気が長(なげ)えじゃアねえか、喧嘩の中で煙草を呑んで沈着(おちつ)いて居る豪(えれ)えじゃアねえか」
見物「豪えばかりでねえ、己(おれ)が考えじゃア関取は怜悧(りこう)だから、対手(あいて)は剣術者遣(けんじゅつつかい)で危ねえから怪我アしても詰らねえ、関取が手間取っているうち、法恩寺村場所へ人を遣ったろうと思う、若(も)し然(そ)うだと二拾人も角力取が押(おし)て来れば踏潰(ふみつぶ)して了(しま)う、然うだろうよ」
花「サア先生(しぇんしぇい)喧嘩致しますが、私(わし)も一本|帯(さ)しているから剣術は知らぬながらも切合(きりあい)を致すが、私が鞘(さや)を払ってからお前様方(めえさんがた)斬ってお出(い)でなせえ」
安「尤(もっと)も左様だ、卑怯はしない、サア出ろ」
花「ヘエ出ます、まア私(わし)も此の近辺で生立(おいた)った者じゃアが、此の大生郷の天神様の鳥居といったら大きな者じゃア」
と見上げ
花「これまア私(わし)が抱えても一抱えある鳥居、此の鳥居も今日が見納めじゃア」
と鳥居を抱えて、
花「大きな鳥居じゃアないか」
と金剛力を出して一振(ひとふり)すると恐ろしい力、鳥居は笠木(かさぎ)と一文字(いちもんじ)が諸(もろ)にドンと落ちた。剣術遣が一刀を振上げて居る頭の処へ真一文字に倒れ落ちたから、驚きましたの驚きませんのと、胆(きも)を挫(ひし)がれてパッと後(あと)へ退(さが)る。見物はわい/\いう。其の勢いに驚き何(ど)のくらいの力かと安田は迚(とて)も敵(かな)わぬと思って抜刀(ぬきみ)を持ってばら/\逃(にげ)ると、弥次馬に、農業を仕掛けて居た百姓衆が各々(おの/\)鋤(すき)鍬(くわ)を持って、
百姓「撲殺(ぶちころ)してしまえ」
とわい/\騒ぐから、三人の剣客者は雲|霞(かすみ)と林を潜(くぐ)って逃げました。 
五十九
花車「ハ、逃げやアがった弱(よわ)え奴だ、サア案じはねえ、私(わし)が送って行(ゆ)きましょう」
と脱いだ衣服を着て煙草入を提げ、惣次郎を送って自分は法恩寺村の場所へ帰った。角力は五日間首尾能く打って帰る時に、
花「鳥居の笠木を落(おと)したから、旦那様鳥居を上げて下さらんでは困る」
と云うので惣次郎が金を出して鳥居を以前の通りにしました、其の鳥居は只今では木なれども花車の納めました石の鳥居は天神山に今にあります。場所をしまって花車は江戸へ帰らんければならんから、帰ってしまった後(あと)は惣次郎は怖くって他(た)へは出られません、安田一角は喧嘩の遺恨(いこん)、衆人の中で恥を掻いたから惣次郎は助けて置かぬ、などと嚇(おど)しに人に逢うと喋るから怖くって惣次郎は頓(とん)と外出(そとで)を致しません、力に思う花車がいないから村の者も心配しております。余り家(うち)に許(ばか)り蟄(ちっ)しておりますから、母も心配して、惣次郎が深く言交(いいかわ)した女故間違も出来、其の女の身の上はどうかと聞くに、元|武士(さむらい)の娘で親父(おやじ)もろ共浪人して水街道へ来て、親の石塔料の為奉公していると聞き、其の頃は武士を尊(たっと)ぶから母は感心して、然(そ)ういう者なれば金を出して、当人が気に適(い)ったならどうせ嫁を貰わんではならんから貰い度(た)いと、水街道の麹屋へ話してお隅を金で身受(みうけ)して家(うち)へ連れて来てまず様子を見るとしとやかで、器量といい、誠に母へもよく事(つか)えます故、母の気にも適(い)って村方のものを聘(よ)んで取極(とりきめ)をして、内祝言(ないしゅうげん)だけを済まして内儀(おかみさん)になり、翌年になりますと、丁度この真桑瓜(まくわうり)時分|下総瓜(しもふさうり)といって彼方(あちら)は早く出来ます。惣次郎の瓜畑を通り掛った人は山倉富五郎(やまくらとみごろう)という座光寺源三郎の用人役であって、放蕩無頼にして親には勘当され、其の中(うち)座光寺源三郎の家は潰れ、常陸(ひたち)の国に知己(しるべ)があるから金の無心に行ったが当(あて)は外れ、少しでも金があれば素(もと)より女郎でも買おうという質(たち)、一文なしで腹が空(へ)って怪しい物を着て、小短いのを帯(さ)して、心(しん)の出た二重廻(ふたえまわ)りの帯をしめて暑くて照り付くから頭へ置手拭をして時々流れ川の冷たい水で冷(ひや)して載せ、日除(ひよけ)に手を出せば手が熱くなり、腕組みをすれば腕が熱し、仕様がなくぶらり/\と参りました。
富「あゝ、進退|茲(こゝ)に谷(きわ)まったなア、どうも世の中に何がせつないといって腹の空るくらいせつない事はないが、どうも鳥目(ちょうもく)がなくって食えないと猶更空るねえ、天草の戦(いくさ)でも、兵糧責では敵(かな)わぬから、高松の水責と雖(いえど)も彼も兵糧責、天草でも駒木根八兵衞(こまきねはちべえ)、鷲塚忠右衞門(わしづかちゅうえもん)、天草玄札(あまくさげんさつ)などという勇士がいても兵糧責には叶(かな)わぬあゝ大きな声をすると腹へ響ける、大層真桑瓜がなっているなあ、真桑瓜は腹の空(す)いた時の凌(しの)ぎになる腹に溜(たま)る物だが、うっかり取る処を人に見られゝば、野暴(のあらし)の刑で生埋(いきうめ)にするか川に簀巻(すまき)にして投(ほう)り込まれるか知れんから、一個(ひとつ)揉(も)ぎって食う事も出来ぬが、大層なって熟しているけれども、真桑瓜を黙って持って行くはよろしくないというが、一寸|此処(こゝ)で食う位(ぐらい)の事は何も野暴(のあら)しでもないからよかろう、一つ揉ぎって食おうか」
と怖々(こわ/″\)四辺(あたり)を見ると、瓜番小屋に人もいない様だから、まア好(い)い塩梅と腹が空(へ)って堪(たま)らぬから真桑瓜を食しましたが、庖丁がないから皮ごと喫(かじ)り、空腹だから続けて五個(いつつ)ばかり喫(た)べ、それで往(い)けば宜しいのに、先へ行って腹が空ってはならんから二つ三つ用意に持って行こうと、右袂(こちら)へ二つ左袂(こちら)へ三つ懐から背中へ突込(つっこ)んだり何かして、盗んだなりこう起(た)つと、向(むこう)の畑の間から百姓がにょこりと出た時は驚きました。
百姓「何(な)んだか、われは何んだか」
富「ヘエ、誠にどうも厳しい暑さでお暑い事で」
百「此の野郎め、まア生空(なまぞら)遣(つか)やアがって、此処(こゝ)を瓜の皮だらけにしやアがった、汝(われ)瓜食ったな」
富「どう致しまして、腹痛でございますから押えて少し屈(こゞ)んでおりましたが、暑気(しょき)に中(あた)っておりますので、先(せん)から瓜の皮はありますが、取りは致しませぬて」
百「此の野郎懐へ入れやアがって、生空つかやアがって、瓜盗んでお暑うございますなどと此の野郎」
ポカリ撲倒(はりたお)しますと、
富「あ痛(いた)たゝ」
と蹌(よろ)ける途端に袂(たもと)や懐から瓜が出る。其の内に又二三人百姓が出て来て、忽(たちま)ち山倉は名主へ引かれ、間が悪い事に名主の瓜畑だから八釜(やかま)しく、庭へ引かれ、麻縄で縛られますと、廃(よ)せばよいに名主惣次郎は情深い人だから縁側へ煙草盆を持ち出して参って、
惣「此奴(こいつ)かノ真桑瓜を食ったのは」
男「ヘエ此の野郎で、草むしりに出ておりますと、瓜畑の中からにょこりと起(た)ちアがったから、何するといったら厳しいお暑さなんてこきアがって、誰(たれ)もいやすめえと思って、瓜の皮があるから盗んだんべえと撲(ぶ)つと懐からも袂からも瓜が出たゞ何処(どこ)の者か江戸らしい言葉だ」
惣「お前が真桑瓜を盗んだか」 
六十
富「ヘエ/\恥入りました事で、手前|主名(しゅめい)は明(あか)し兼ねまするが、胡乱(うろん)と思召(おぼしめ)すなれば主名も申し上げまするが、手前事は元千百五十石を取った天下の旗下(はたもと)の用人役をした山倉富右衞門の忰(せがれ)富五郎と申す者|主家(しゅか)改易になり、常陸に知己(しるべ)がある為是へ金才覚に参って見るに、先方は行方知れず、余儀なく、旅費を遣い果してより、実は食事も致しませんで、空腹の余り悪い事とは知りながら二つ三つ瓜を盗みたべました処をお咎(とが)めで、何(なん)とも恥入りました事で、武士たる者が縄に掛り、此の上もない恥で、どうか憫然(ふびん)と思召してお許し下されば、此の後(ご)は慎みまする、どうかお情をもってお許しを願いたく存じます」
惣「真桑瓜を盗んだからといって何も殺しはしない、真桑瓜と人間とは一つにはならん、殺しはせんが、茲(こゝ)で助けても、是から何処(どこ)へ行(ゆ)きなさる、当所(あてど)がありますかえ」
富「ヘエ/\、何処といって当も何もないので、といってすご/\江戸表へ立帰る了簡もございません、空腹の余り悪いと知りながら斯様(かよう)なる悪事をして恐れ入ります」
惣「じゃア茲で許して上げても他(わき)へ行って腹が空ると、また盗まなければならん、私(わし)の村で許しても外(ほか)では許さぬ、今度は簀巻にして川へ投り込むか、生埋にするか知れぬから、私が茲で助けても親切が届かんでは詰らん、お前さんの言葉の様子では武家に相違ない様だが、私の処は秋口で書物(かきもの)などが忙がしいが、どうだね、許して上げますが、私の家(うち)に恩報(おんがえ)しと思って半年ばかり書物の手伝いをしていて貰い度(た)いがどうだね」
富「ヘエどうも恐入りました事で、斯様なるどうも罪を犯した者をお助け下さるのみならず、半年も置いてお養い下さるとは、何(なん)ともどうも恐れ入りました、此の御恩は死んでも忘却は致しません、何(ど)の様なる事でも実に寝る眼も寝ずに致しますから、何卒(どうか)お助けを願います」
惣「よろしい、縄を解け」
と解かしまして、
惣「お腹(なか)が空(す)いたろう、サア御膳をお喫(あが)り」
とサア是から富五郎が食ったの食わないのって山盛にして八杯ばかり食置(くいおき)をする気でもありますまいが沢山食べました。書物を遣らして見ると帳面ぐらいはつけ、算盤(そろばん)も遣り調法でべんちゃらの男で、百姓を武家言葉で嚇(おど)しますから用が足りる、黒の羽織なぞを貰い、一本|帯(さ)して居る、其のうち
富「古い袴(はかま)が欲しい、小前(こまえ)の者を制しますには是でなければ」
などとべんちゃらをいう。惣次郎の顔があるから富さん/\と大事にする。段々|臀(しり)が暖まると増長して、素(もと)より好きな酒だから幾ら止(や)めろといっても外(そと)で飲みます。すると或日(あるひ)の事で、ずぶろくに酔って帰ると、惣次郎はおりません。母は寺参りに往ってお隅が一人奥で裁縫(しごと)をしている。
富「只今帰りました」
隅「おやまア早くお帰りで、今日は大層酔って何処へ」
富「ヘエ、水街道から戸頭(とがしら)まで、早朝から出まして一寸帰りに水街道の麹屋へ寄りましたら能く来たというので、彼(あ)の麹屋の亭主が一杯というので有物(ありもの)で馳走になりまして大(おお)きに遅くなりました」
隅「大層真赤に酔って、旦那様はまだお帰りはありますまい、お母様(っかさま)は寺参りに」
富「左様で、御老体になりますとどうもお墓参りより外|楽(たのし)みはないと見えて毎日いらっしゃいますが恐入ります、また旦那様の御様子てえなねえ、誠にド、どうも恐入りますねえ、あんたはお家(うち)で柔和(おとな)しやかに裁縫(しごと)をなすっていらっしゃるは、どうも恐入りますねえ、ド、どうも富五郎どうも頂きました」
隅「大層真赤になって些(ちっ)とお寝(やす)みな」
富「中々|寝度(ねた)くない、一服頂戴、お母様はお寺参り、また和尚さんと長話し、和尚様はべら/\有難そうにいいますね、だが貴方(あんた)がお裁縫(しごと)姿の柔和(おとな)しやかなるは実に恐れ入りますねえ」
隅「少しお寝みよ、富さん」
富「ヘエ/\寝度(ねた)くないので、貴方は段々承ると、然(しか)るべき処の、お高も沢山お取り遊ばしたお武家の嬢様だが、御運悪く水街道へいらっしゃいまして、御親父様(ごしんぷさま)がお歿(かく)れになって、余儀なく斯(こ)ういう処へ入らしって、其の内|彼(あゝ)いう杜漏(ずろう)な商売の中にいて貴方(あんた)が正しく私は武士(さむらい)の娘だがという行いを、当家の主人がちゃんと見上げて、是こそ女房という訳で、此方(こちら)へいらしったのだが、貴方(あなた)だってもまア、私(わたくし)の考えが間違ったか知れんが、武士たる者の娘が何も生涯という訳ではなし、此の家(うち)は真(ほん)の腰掛で、詰らんといっては済みませんが、けれども貴方生涯|此家(こゝ)にいる思召(おぼしめし)はありますまい、手前それを心得て居るが、拙者も止むを得ず此処(こゝ)にいる、致し方がないから、半年(はんねん)も助(すけ)ろ、来年迄いろよ、有難うと御主命でね、長く居る気はありません、貴方も真(ほん)の当座の腰掛でいらっしゃるが口に出せんでも心中に在(あ)るね、内祝言(ないしゅうげん)は済んでも別に貴方の披露(ひろめ)もなし披露をなさる訳もない、貴方も故郷(こきょう)懐しゅうございましょう、故郷忘じ難し、御府内で生れた者はねえ、然(そ)うではございませんかね」
隅「それはお前江戸で生れた者は江戸の結構は知っているから、江戸は見度(みた)いし懐かしいわね」
富「有難い、其のお言葉で私(わたくし)はすっかり安心してしまった、それがなければ詰らんで、ねえ武士(さむらい)の娘、それそこが武士の娘、手前ども少禄者(しょうろくもの)だけれども、此処(こゝ)にへえつくしているが世が世なればという訳だが…お母様はまだ…法蔵寺様へお参りに入(いら)しったので…ですがねえ貴方、此家(こゝ)にこう遣って腰掛けで居るは富五郎心得ております、故郷は忘じ難し、江戸は懐かしゅうございましょう」
隅「あいよ、懐かしいは当然(あたりまえ)だわね」 
 

 

六十一
富「ド何(ど)うも有難い、それさえ聞けば私(わたくし)は安心致すが、誰でも然(そ)うで私も早く江戸へ行(ゆ)き度(た)いが、マアお隅さん私が少し道楽をして出まして、親類もあるけれども、私が道楽を行(や)ったから私の身の上が定まらんでは世話は出来ぬというので、女房でも持って、斯(こ)ういう女と夫婦になったと身の上が定まれば、御家人(ごけにん)の株位は買ってくれる親類もあるが、詰らん女を連れて行っては親類では得心しませんが、是はこう/\いう武士(さむらい)の娘、こういう身柄で今は零落(おちぶれ)て斯う、心底(しんてい)も是々というので、私が貴方の様なる方と一緒に行って何(なん)すれば親類でも得心致します、お前さんの御心底から器量は好(よ)し、こういう人を見立てゝ来る様になったら富五郎も心底は定まった、然うなれば力になって遣(や)ろうというので、名主株位買ってくれますよ、構わずズーッと」
隅「何処(どこ)へ」
富「何処って、だが、貴方ア腰掛で居る、故郷は何(ど)うしても懐かしゅうございましょう」
隅「何(なん)だか分りません、一つ言(こと)をいって故郷の懐かしい事は知れて居ります」
富「まア、宜しい、それを聞けば宜しい一寸/\」
隅「何(なん)だよ」
富「いゝじゃアありませんか二人でズーッと」
隅「いけないよ、其様(そん)な事をして」
富「それ、然(そ)ういうお堅いから二人で夫婦養子にどんな処へでも可(か)なり高(たか)のある処へ行けます、お隅さん」
と何(なん)と心得違いしたか富五郎、無闇にお隅の手を取って髯(ひげ)だらけの顔を押付ける処へ、母が帰って来て、此の体(てい)を見て驚きましたから、傍(そば)にある麁朶(そだ)を取って突然(いきなり)ポンと撲(ぶ)った。
富「これは痛い」
母「呆れかえった奴だ」
隅「よくお帰りでございまして」
母「今|帰(けえ)って来たゞが、彼(あ)の野郎ふざけ廻りやアがって、富五郎|茲(こゝ)へ出ろ」
富「ヘエ、これは恐入りました、どうも些(ちっ)ともお帰りを知らんで、前後忘却致し、どうも何(なん)とも誠にどうも、何(なん)で御打擲(ごちょうちゃく)ですか薩張(さっぱり)分りません」
母「今見ていれば何(なん)だお隅にあの挙動(まね)は何だ、えゝ、厭がる者を無理にかじり付いて、髯だらけの面(つら)を擦(こす)り付けて、お隅をどうしようというだ、お隅は何(なん)だえ、惣次郎の女房という事を知らずにいるか、汝(われ)知っているか、返答ぶて」
富「どうも、私(わたくし)前後忘却致し、酔っておりまして、はっというとお隅さんで、恐入りました、無暗(むやみ)に御打擲で血が出ます」
母「頭ア打砕(ぶっくだ)いても構わねえだ、汝(われ)恩を忘れたか、此の夏の取付(とりつけ)に瓜畑へ這入(へえ)って瓜イ盗んで、生埋にされる処を、家(うち)の惣次郎が情け深(ぶけ)えから助けて、行(ゆ)く処もねえ者に羽織イ着せたり、袴(はかま)ア穿かして、脇へ出ても富さん/\といわれるは誰がお蔭か、皆(みんな)惣次郎が情深(なさけぶけ)えからだ、それを惣次郎の女房に対して調戯(からか)って縋付(すがりつ)いて、まア何(なん)とも呆れて物ういわれねえ、義理も恩も知らねえ、幾ら酔(よっ)ぱらったって親の腹へ乗る者ア無(ね)えぞ呆れた、酒は飲むなよ好(よ)くねえ酒癖だから廃(よ)せというに聴かねえで酔ぱらっては帰(けえ)って来(き)やアがって、只(たっ)た今|逐出(おいだ)すから出ろえ、怖(おっか)ねえ、お前の様な者ア間違(まちげえ)を出かします、こんな奴は只た今出て行(ゆ)け」
富「お腹立様では何(なん)ですが、お隅|様(さん)に只今の様な事をしたは富五郎本心でしたと思召しての御立腹なれば御尤もでございます」
母「尤もと思うなら出て行(い)け」
富「私(わたくし)は大変酔ってはおりますが富五郎も武士(ぶし)でげす、御当家の旦那様に助けられた事は忘却致しません、あゝ有難い事であゝ簀巻にして川へ投り込まれる処を助けられ、斯(かく)の如く面倒を見て下すって、江戸へ帰る時は是々すると仰しゃって、実に有難い事で、江戸へ行っても御当家の御恩報じお家(いえ)の為になる様心得ております」
母「そう心得ておるなればなぜお隅にあゝいう挙動(まね)エする」
富「其処(そこ)を申します、其処が旦那様のお為を思う処、旦那様は世間見ずの方、江戸へも余り入らしった事もない、殊(こと)にはあなた様は其の通り田舎|気質(かたぎ)の結構な方、惣吉様は子供衆で仔細ないが、お隅様も結構な方でございますが、前々(まえ/\)承れば、水街道の麹屋で客の相手に出た方、縁あって御当家へいらっしゃったが、お隅様のまえで申しては済みませんが、若(も)しお隅様が不実意な浮気心でもあっては惣次郎様のお為にもならぬと思って、どういう御心底か一寸只今気を引いた処、どうもお隅様の御心底是には実に恐れ入りました、富五郎安心しましたが、処をどうも薪(まき)でもってポンと頭をどうも情(なさけ)ない思召しと思う」
母「あゝ云う言抜(いいぬけ)を吐(こ)きゃアがる、気い引(ひい)て見たなどゝ猶更置く事は出来ねえから出て行け」
隅「お母様お腹立でございましょう、御気性だから、富さん、お前は酒が悪いよ、お酒さえ慎めば宜しい、旦那様のお耳に入れない様にするから」
富「エ、もう飲みませんとも」
母「まアお前|彼方(そっち)へ引込(ひきこ)んで、私(わし)が勘弁出来ぬ、本当なればお隅が先へ立って追出すというが当然(あたりまい)だが、こういう優しげな気性だから勘弁というお隅の心根エ聞けば、一度は許すが、今度|彼様(あんな)挙動(まね)エすれば直(す)ぐ追出すからそう思え」
富「恐入りました」
と是からこそ/\部屋へ這入って、と見ると頭に血が染(にじ)みました。
富「お隅は万更(まんざら)でもねえ了簡であるのに、あゝ太(ふて)え婆アだ」
なに自分が太い癖に何卒(どうか)してお隅を手に入れ様と思ううち、ふと思い出して胸へ浮んだのは、噂に聞けば去年の秋大生郷の天神前で、安田一角と花車重吉の喧嘩の起因(もと)はお隅から、よし彼奴(あいつ)を力に頼んでと是(こ)れからべら/\の怪しい羽織を着て、ちょこ/\横曾根村へ来て安田一角の玄関へ掛り、
富「お頼み申す/\」 
六十二
門弟「どうーれ、何方(どちら)から」
富「手前は隣村(りんそん)に居(お)る山倉富五郎と申す浪人で、先生御在宅なれば面会致し度(たく)態々(わざ/\)参りました、是は此方様(こなたさま)へほんのお土産で」
門「少々お控えなさい、先生」
安田「はい」
門「近村の山倉富五郎と申す者が面会致し度(た)いと、是は土産で」
安「山倉とは知らぬが、此方(こちら)へお通し申せ」
門「此方へお通りなすって」
富「成程是は結構なお住居(すまい)で、成程是は御道場でげすな…ようがすな御道場の向うが…丁度是から畑の見える処が…是はどうもまた違いますな」
安「さア/\是へ、何卒(どうぞ)、是は/\」
富「えゝ、山倉富五郎と申す疎忽者(そこつもの)此の後(ご)とも御別懇に」
安「拙者が安田一角と申す至って武骨者此の後とも、えー只今はお土産を有難う」
富「いゝえ詰らん物で、ほんのしるしで御笑納下さい、大きに冷気になりましたが日中(にっちゅう)は余程お暑い様で」
安「左様で、今日(こんにち)はまた些(ちっ)とお暑い様で、よくお出(い)でゝ、えー何か御用で」
富「はい少々|内々(ない/\)で申し上げ度(た)い事が有って、彼(あ)の方は御門弟で」
安「はい」
富「少々お遠ざけを願います」
安「はい、慶治(けいじ)御内談があって他聞(たぶん)を憚(はゞか)ると仰しゃる事だから、彼方(あちら)へ行っておれ、えー用があれば呼ぶから」
慶「へえ左様で」
富「え、もうお構いなく、先生お幾歳(いくつ)でげす」
安「手前ですか、もういけません、何(なん)で、四十一歳で」
富「へえお若(わこ)うげすね、御気力がお慥(たし)かだからお若く見える、頭髪(おぐし)の光沢(つや)も好(よ)し、立派な惜しい先生だ、此方(こちら)に置くのは惜しい、江戸へ入らっしゃれば諸侯方が抱えます立派なお身の上」
安「何(なん)の御用か承り度(た)い」
富「手前打明けたお話を致しますが、只今では羽生村の名主惣次郎方の厄介になっておる者でござるが、惣次郎の只今女房という訳でない、まア妾同様のお隅と申す婦人、彼(あれ)は御案内の水街道の麹屋に奉公致した酌取女(しゃくとりおんな)、彼(あ)の隅なるものに先生|思召(おぼしめし)があったのでげすな、前に惚れていらしったのでげすな貴方」
安「これは初めてお出でゞ、他人の女房に惚れているなどといや挨拶の仕様がない、麹屋にいた時分には贔屓にした女だから祝儀も遣って随分|引張(ひっぱ)って見た事もあるのさ」
富「恐れ入ったね、それが然(そ)う云えぬもので恐入りました、其処(そこ)が大先生で、えーえらい」
安「何しにお出でなすった、安田一角を嘲哢(ちょうろう)なさりにお出でなすったか、初めてお出でゞ左様なる事を仰しゃる事がありますか」
富「御立腹ではどうも、中々左様な訳ではない、手前剣道の師とお頼み申し、師弟の契約をしたい心得で罷(まか)り出ましたので、実は彼(あ)のお隅と申すは同家(どうけ)にいるから、段々それまア江戸子(えどっこ)同士で、打明けた話をするとお前さん此処(こゝ)に長くいる気はあるまい、此処は腰掛だろう、故郷忘じ難かろう、私と一緒に江戸へ、というと、私も実は江戸へ行き度(た)い、殊(こと)に江戸には可(か)なりの親類もあり、仮令(たとえ)名主でも百姓の家(うち)へ縁付いたといわれては親類の聞(きこ)えも悪い、然(そ)うなればといって御新造(ごしんぞ)という訳ではなし、へえ/\云って姑(しゅうと)の機嫌も取らなければならんから実は江戸へ行(ゆ)き度いというから、然うなれば何故一角先生の処へいかぬ、向(むこう)は何(なん)でも大先生、弟子|衆(こ)も出這入り、名主などは皆弟子だから、彼処(あすこ)へ行って御新造になれば江戸へ行っても今井田流の大先生、彼処の御新造になれば結構だになぜ行かぬというと、夫(それ)には種々(いろ/\)義理もあって、親父の借金も名主惣次郎が金を出してくれた恩もあるから、先生の処へ行かれもしないというから、それなら先生が斯(こ)うと云ったらお前行く気があるかと云ったら、私は行き度いが、先生には色々綾があるから行(ゆ)かれないというから、然(そ)うなれば私(わし)が行って話し、私も江戸へ帰る土産に剣道を覚えて帰り度い、よい師匠を頼もうと思っていた処だというので、然うなればと頼まれて参ったので、先生|彼(あれ)を御新造になさい、どうでげす」
安「お帰んなさい、何(なん)だお前は、これ汝(てまえ)は何だ、惣次郎方の厄介になっている者なれば、惣次郎がどうかして安田を馬鹿にして遣(や)れというので来たな、初めて逢って他人の女房を貰えなどと、はい願いますと誰(たれ)がいう、殊(こと)に惣次郎には、去年の秋|聊(いさゝ)かの間違で互(たがい)に遺恨もあり、私(わし)も恨みに思っている、其の敵(かたき)同士の処へ来て女房に世話をしましょうなどと、はい願いますと誰(たれ)がいう、白痴(たわけ)め、帰れ/\」
富「成程是は至極御尤も、どうもお気分に障るべき事を申したが、まア」
安「騒々しい、帰れったら帰れ」
富「まア/\重々御尤も、是には一つの訳がある、ようがすか、手前が打明けた話を致しましょう、手前も武士で二言はない手前は本所北割下水で千百五十石を取った座光寺源三郎の用人山倉富右衞門の忰富五郎、主人は女太夫を奥方にした馬鹿ですから家は改易、仕方なし、手前は常陸に知己(しるべ)があるから参ったが、ふとした縁で惣次郎方の厄介、処が惣次郎人遣いを知らず、名主というを権(けん)にかって酷(ひど)い取扱いをするは如何(いか)にも心外で、手前は浪人でも土民(どみん)なぞにへえつくする事はない、残念に心得ているが、打明話を致すが、江戸に親類どもゝある身の上、江戸へ帰るにも何か土産がないが、実は今まで道楽をして親類でも採上(とりあ)げませんから、貴方の内弟子になってお側で剣道を教えて頂いて、免許目録を貰って帰ると、親類でも今まで放蕩をしても田舎へ行って、是々いう先生の弟子になってと書付(かきつけ)を持って帰れば、それが価値(ねうち)になって何処(どこ)へでも養子に行かれる、処が、御門人にといっても、月々の物を差上げる事も出来ません身の上でございますが、それを承知で貴方の弟子に取って下さるなれば、私(わたくし)は弟子入の目録代りに、御意(ぎょい)に適(かな)ったお隅を、御新造に、長熨斗(ながのし)を付けて持って来ましょう」 
六十三
安田「是は面白いぞ、惣次郎という主(ぬし)のある者をどうして持って来られます」
富「惣次郎が有ってはいけませんが、惣次郎を一(ひ)ト刀(かたな)に斬って下さい」
安「黙れ、馬鹿をいうな、帰れ、帰れ、汝(われ)は惣次郎と同意して手前の気を引きに来たな、うゝん帰れ/\」
富「これは成程、至極御尤もですが、まア」
安「騒々しい行け/\」
富「じゃア有体(ありてい)に申します、正直なお話を致しますが、貴方の遺恨ある角力取の花車重吉が来て、法恩寺村の場所が始まるので、去年の礼というので、明晩になりますと、惣次郎が金(かね)三十両遣ると、ようがすか、用をしまうのは日の暮方まで掛りましょう、帳合(ちょうあい)などを致しますからな、用が終って飯を食ってはどうしても夜(よ)の六つ過(すぎ)になります、其処(そこ)で三拾両持って出掛ける、富五郎がお供でげす、ずうっと河原へ出て、それから弘行寺(ぐぎょうじ)の松の林の処へ出て黒門の処までは長い道でございますから其処へ出て来ましたら、貴方は顔を包んで芒畳(すゝきだゝみ)の影に隠れていて、手前が合図に提灯(ちょうちん)を消すと、途端に貴方が出てずぷりと遣り、惣次郎を殺すと金が三十両あるから持って宅(うち)へ帰り、構わず寝て入らっしゃい、まアさお聞きなさい、手前は面部へ疵(きず)を付けて帰って、今|狼藉者(ろうぜきもの)が十四五人出て、旦那も切合って私も切合ったが、多勢に無勢(ぶぜい)敵(かな)わぬ、早く百姓をというので大勢来て見ると、貴方は宅へ帰って寝て居る時分だから分らぬてえ、気の毒なといって死骸を引取り、野辺送りをしてしまってから、ようがすか、其の後(ご)は旦那様が入らっしゃりませんでは私がいても済みません、殊(こと)には彼(あ)アいう処へお供をして、旦那が彼アなれば猶更どうも思い出して泣く許(ばか)りでございますから、江戸表へという、惣次郎が死ねばお隅さんも旦那様がいなければ此の家(うち)にいても余計者だから私(わたくし)も江戸へ帰るという、江戸へ行(ゆ)くなれば一緒にというので、お隅を連れて来てずうっと貴方の処へ長熨斗を付けて差上げる工風(くふう)、富五郎の才覚、惚れた女を御新造にして金を三拾両只取れるという、是迄種を明(あか)してこれでも疑念に思召(おぼしめ)すか、えゝどうでげす」
安「成程是は面白い、それに相違ないか」
富「相違あるもないも身の上を明してかくお話をして、是をどうも疑念てえ事はない、宜しい手前も武士(さむらい)で金打(きんちょう)致します…今日はいけません…木刀を帯(さ)して来たから今日は金打は出来ませんが、外(ほか)に何(ど)の様なる証拠でも致します」
安「じゃア明晩|酉刻(むつ)というのか」
富「手前供を致します、彼処(あすこ)は日中(にっちゅう)も人は通りませんから、酉刻を打って参り、ふッと提灯を消すのが合図」
安「よろしい、相違なければ」
と約束して帰りました。安田一角は馬鹿でもない奴なれども、お隅にぞっこん惚れているから、全く然(そ)ういう了簡で連れて来るのではないかと思い、是から胸に包んで翌日|仕度(したく)をして早くから家を出て、諸方を廻って、夜(よ)に入(い)って弘行寺の裏手林芒畳へ蹲(しゃが)んで待っている事とは知りません、此方(こちら)は富五郎が、お隅を手に入れるに惣次郎が邪魔になりますが、惣次郎は剣術も心得ておりますから、自分に殺す事が出来ぬから、一角を欺(だま)して惣次郎を殺させて後(のち)、お隅を連出して女房にしようという企(たくみ)でございます、実に悪い奴もあるものでございます。富五郎は書物(かきもの)が分りませんから眼を通してと、惣次郎へ帳面を見せ、態(わざ)と手間取るから遅くなります。是から夜食を食べて支度をして提灯を点(つ)けて出かけようとする、何か虫が知らせるかして母親もお隅も遣(や)りたくない、
隅「何(なん)だか遅いから、明日(あした)先方(むこう)から参りますから今日はお止(や)めなさいな」
惣「なアに直ぐ帰るから」
隅「そうでございますか、富五郎お前一緒にどうか気を付けておくれよ」
富「ヘエ大丈夫、どんな事があっても旦那様にお怪我をさせる様な事はございません、手前も剣道を心得ておりますから」
と空(そら)を遣(つか)って惣次郎の供をして出掛けましたが、笠阿弥陀を横に見て、林の処へ出て参りますと、左右は芒畳で見えませんが、左の方の土手向うは絹川の流れドウ/\とする、ぽつり/\と雨が顔にかゝって来る。
惣「富五郎降って来たようだ」
富「大した事もありません、恐れ入りましたが一寸|小用(こよう)を致しますから」
惣「小便(ちょうず)をするなれば提灯は持ていて遣る、これ/\何処(どこ)へ行(ゆ)く提灯を持って行っては困る」
という中(うち)富五郎はふっと提灯を吹消しました。
惣「提灯が消えては真暗(まっくら)でいかぬのう」
富「今小用致しますから」
という折から安田一角は大松(おおまつ)の蔭に忍んでおりましたが提灯が消えるを合図にスックと立って透(すか)し見るに、真暗ではございますが、晃(きら)つく長いのを引抜いてこう透して居ります。
惣「富や、おい富/\、何(な)んだかこそ/\して後(うしろ)にいるのは、富や/\」
という声を当(あて)にして安田一角が振被(ふりかぶ)る折から、向(むこう)の方から来る者がありますが、大きな傘を引担(ひっかつ)いで、下駄も途中で借りたと見えて、降る中を此処(こゝ)に来合わせましたは、花車重吉という角力取(すもうとり)でござります。是からは芝居なればだんまり場でございます。 
六十四
引き続きお聞(きゝ)に入れまするは、羽生村の名主惣次郎を山倉富五郎が手引をして、安田一角と申す者に殺させます。是は富五郎が惣次郎の女房お隅に心底(ぞっこん)惚れておりましても、惣次郎があるので邪魔になりますから、寧(いっ)そかたづけて自分の手に入れようという悪心でござりますが、田舎にいて名主を勤めるくらいであるから惣次郎も剣術の免許ぐらい取って居ります。富五郎は放蕩無頼で屋敷を出る位で、少しも剣術を知りませんから、自分で殺す事は出来ません、茲(こゝ)で下手でも安田一角という者は、剣術の先生で弟子も持っているから、丁度お隅に惚れているのを幸い、一角を*おいやって惣次郎を殺し、惣次郎の歿(な)い後(のち)にお隅を無理に口説いて江戸へ連れて行って女房にしようという企(たくみ)を考え、やまで嚇(おど)して上手に見えるが田舎廻りの剣術遣だから、安田一角が惣次郎より腕が鈍くて、若(も)し惣次郎が一角を殺すような事になれば、此の企は空しくなるというので、惣次郎が常に帯(さ)して出ます脇差の鞘を払って、其の中へ松脂(まつやに)を詰めて止めを致して置きました、実に悪い奴でございます。惣次郎は神ならぬ身の、左様な企を存じませんから富五郎を連れて、彼(か)の脇差を帯して家を出て、丁度弘行寺の裏林へ掛りますと、富五郎がこそ/\匐(は)って行(ゆ)くようですから、なぜかと思って後(うしろ)を振り返える、とたんに出たのは安田一角、面部を深く包み、端折(はしょり)を高く取って重ね厚(あつ)の新刀を引き抜き、力に任せてプスーリ一刀(いっとう)あびせ掛けましたから、惣次郎もひらりと身を転じて、脇差の柄に手を掛け抜こうとすると、松脂をつぎ込んでから一日たって居るので粘って抜けない、脇差の抜けませんのにいら立つ処を又(ま)た一刀(ひとかたな)バッサリと骨を切れるくらいに切り込まれて、向(むこう)へ倒れる処を、又|一刀(ひとかたな)あびせたから惣次郎は残念と心得て、脇差の鞘ごと投げ付けました、一角がツと身を交(かわ)すと肩の処をすれて、薄(すゝき)の根方(ねがた)へずぽんと刀が突立(つった)ったから、一角は血(のり)を拭いて鞘に収め、懐中へ手を入れて三十両の金を胴巻ぐるみ盗んで逃げようとすると、向の方から蛇の目の傘を指(さ)し、高足駄(たかあしだ)を穿いて、花車重吉という角力が参りました時には、一筋道(ひとすじみち)で何処(どこ)へも避(さ)けることが出来ません、一角は狽(うろた)えて後(あと)へ帰ろうとすれば村が近い、仕方がないからさっさっと側の薄畳の蔭の処へ身を潜め、小さくなって隠れて居ります。此方(こちら)は富五郎はバッサリ切った音を聞いて、直(すぐ)に家(うち)へ駈けて行(ゆ)く、其の道すがら茨(いばら)か何かで態(わざ)と蚯蚓腫(みみずば)れの傷を拵(こしら)えましてせッ/\と息を切って家(うち)へ帰り
*「けしかけるおだてるそゝのかす」
富「只今帰りました」
という。処が富五郎ばかり帰ったから恟(びっく)りして、
隅「おや富さんお帰りかい何(ど)うかおしかえ」
富「ヘエもう騒動が出来ました、あの弘行寺の裏林へ掛ったら悪漢(わるもの)が十四五人ででで出まして、二人とも懐中の金を出せ身ぐるみ脱いで置いて行(ゆ)けと申しましたから、驚いて旦那に怪我をさせまいと思いまして、松の木を小楯(こだて)に取りまして、不埓至極な奴だ、旦那を何(なん)と心得る、羽生村の名主様であるぞ、粗相をすると許さんぞというと、大勢で得物(えもの)/\を持って切って掛るから、手前も大勢を相手に切り結び、旦那も刀を抜いて切り結びまして、二人で大勢を相手にチョン/\切結んでおりましたが、何分多勢に無勢旦那に怪我があってはならぬと思って、やっと一方を切り抜けて参りました、此の通り顔を傷だらけにして…早くお若衆(わかいしゅ)早く/\」
と誠しやかにせえ/\息を切っていいますから、お隅は驚いて、それ早く/\というので、村の百姓を頼んで手分(てわけ)をして、どろ/\押して参りましたが、もう間に合いは致しません、斬った奴は疾(とう)に家(うち)へ帰って寝ている時分、百姓|衆(しゅ)が大勢行って見ると、情ない哉(かな)惣次郎は血に染って倒れておりますから、百姓衆も気の毒に思い、死骸を戸板に載せて引き取り、此の事を代官へ訴え、先(ま)ず検視も済み、仕方なく野辺送りも内葬の沙汰で法蔵寺へ葬りました。是程の騒ぎで村の者は出掛けて追剥(おいはぎ)の行方を詮議致し、又四方八方八州の手が廻ったが、殺した一角は横曾根村に枕を高く寝ておりまするので容易に知れません。惣次郎と兄弟分になった花車重吉という角力は法恩寺村にいて、場所を開こうという処へ此の騒ぎがあるのに、とんと悔(くや)みにも参りませんから、母も愚痴が出て
母「あゝ家(うち)の心棒(しんぼう)がなくなれば然(そ)うしたもんか、情ないもの」
と愚痴たら/″\。そうこうすると九月八日は三七日(みなのか)でござります、花車重吉が細長い風呂敷に包んだ物を提げて土間の処から這入って参りまして、
花「はい御免なせい」
多「いやお出でなさえまし」
花「誠に大分(だいぶ)御無沙汰致しました」
多「家(うち)でもまア何(ど)うしたかってえねえ、一寸知らせるだったが、家がまア忙(せわ)しくって手が廻らないだで、まア一人で歩いてることも出来なえから誠に無沙汰アしましたが、旦那様ア殺された事は貴方(あんた)知って居るだね」
花「誠にまア何(なん)とも申そう様(よう)はございません、知って居りましたが旦那と私(わし)とは別懇の間柄だから、私が行って顔を見ればお母様(っかさま)やお隅さんに尚更|歎(なげ)きを増させるような者だから、夫故(それゆえ)まア知っていながら遅くなりました、多助さん、飛んだ事になりましたね」
多「飛んだにも何(なん)にも魂消(たまげ)てしまってね、お内儀様(かみさん)はハア年い取ってるだから愚痴イいうだ、花車は内に奉公をした者で、殊に角力になる時前の旦那様の御丹精もあるとねえ、惣次郎とは兄弟じゃアねえか、それで此の騒ぎが法恩寺村迄知んねえ訳ア無(ね)え、知って来ないは不実だが、それとも知んねえか、江戸へでも帰(けえ)った事かとお内儀(かみ)さんあんたの事をば云って、ただ騒いでいるだ、どうか行って心が落ち着くように気やすめを云って下さえ、泣いてばいいるだからねえ」
花「はい、来たいとは思いながら少し訳があって遅く参りました、まア御免なせえ」
多「さア此方(こっち)へお這入り」
というので風呂敷包を提げたなり奥へ参ります。来てみると香花(こうはな)は始終絶えませぬから其処(そこ)らが線香|臭(くそ)うございます。
多「お内儀さん法恩寺の関取が参りましたよ」
母「やア花車が来たかい、さア此方(こっち)へ這入っておくんなせえ」
花「はい、お内儀さん何(なん)とも此の度(たび)は申そう様もございません、さぞ御愁傷様でございましょう」 
六十五
母「はい只どうもね魂消(たまげ)てばいいます、お前も知っている通り小(ちい)せえ時分から親孝行で父様(とっさま)アとは違って道楽もぶたなえ、こんな堅い人はなえ、小前(こまえ)の者にも情(なさけ)を掛けて親切にする、あゝいう人がこんなハア殺され様をするというは神も仏もないかと村の者が泣いて騒ぐ、私(わし)もハア此の年になって跡目相続をする大事な忰にはア死別(しにわか)れ、それも畳の上で長煩(ながわずら)いして看病をした上の臨終でないだから、何(なん)たる因果かと思えましてね、愚痴い出て泣いてばいいます、それにお隅は自分の部屋にばい這入って泣いて居るから、此間(こねえだ)もお寺へ行ったら法蔵寺の和尚様ア因果経というお経を読んで聴かせて、因果という者アあるだから諦めねばなんねえて意見をいわれましたが、はアどうも諦めが付かなえで、只どうも魂消てしまって、どうかまアこういう事なら父(とッつ)アんの死んだ時一緒に死なれりゃア死にたかったと思えますくらいで」
花「はい、私(わし)もねえお寺詣りには度々(たび/\)参ります、それも一人で、実は人に知れない様に参りました、是には深い訳のあることで、私が不実で来ないと思って定めて腹を立てゝお出でなさるとは知っていますが、少し来ては都合の悪い事があって来ませぬ、お前さん私は今まで泣いたことはありません、又大きな身体(なり)をして泣くのは見っともねえから、めろ/\泣きはしませんけれども、外(ほか)に身寄兄弟もなし、重吉手前とは兄弟分となって、何(な)んでもお互に胸にある事を打ち明けて話をしよう、力になり合おうといっておくんなさいました、其のお前さん力に思う方に別れて、実に今度ばかりは力が落ちました、墓場へ行って花を上げて水を手向(たむ)けるときにも、どうも愚痴の様だけれども諦めが付かないでついはア泣きます、まア何んともいい様がありません、嘸(さぞ)お前さんには一(ひ)と通りではありますまい、お察し申しております、お隅さんも嘸御愁傷でしょう」
母「はい私(わし)の泣くのは当り前のことだが、あのお隅は人にも逢わなえで泣いてばいおるから、そう泣いてばいいると身体に障るから、些(ちっ)と気い紛(まぎ)らすが宜(え)え、幾ら泣いても生返(いきけえ)る訳でなえというけれども、只|彼処(あすこ)へ蹲(つくな)んで線香を上げ、水を上げちゃア泣いてるだ、誠にハア困ります」
花「はいお隅さんを一寸|茲(こゝ)へお呼びなすって下さい」
母「お隅やちょっくり此処(こゝ)へ来(こ)うや、関取が来たから来うや」
隅「はい/\」
母「さア此処(こけ)へ来(き)や、待ってるだ」
隅「関取おいでなさい」
花「はいお隅さんまア何(な)んとも申そう様はありません、とんだことになりました、嘸(さ)ぞお力落しでございましょう」
隅「はい、もうね毎日お母(っか)さんと貴方の噂ばかり致しまして、どうしておいでなさいませんか、何かお心持でも悪いことがありはしまいか、よもや知れない事もあるまいが、何か訳のある事だろうと、お噂を致しておりましたが実に夢の様な心持でございましてねえ、それは貴方とは別段に中が好(よ)くってねえ、旦那が毎(いつ)も疳癪(かんしゃく)を起しておいでなさる時にも、関取がおいでなさいますと、直(すぐ)に御機嫌が直って笑い顔をなさる、こうやって関取が来ても旦那様がお達者でいらしったら嘸お喜びだと存じまして、私は旦那の笑顔が目に付きます」
母「これ泣かないが宜(え)え、そう泣かば病に障るからというのに聞かなえで、彼(あ)の様に泣いてばいいるから、汝(われ)が泣くから己(おら)がも共に悲しくなる、泣いたって生返(いきけえ)る訳エなえから諦めろというだ、ねえ関取」
花「ヘエ、御愁傷の処は御尤でございますが、お隅さん、旦那をば何者が殺したという処の手掛(てがゝり)は些(ちっ)とはございますか」
隅「もう関取の処へ早く行(ゆ)き度(た)いというのが、御用があって二日ばかり遅くなりましたから、是から富五郎を供に連れて関取にお目に掛りに参ると仰しゃるから、今日は大分(だいぶ)遅いから明日(あす)になすったら好(よ)かろうといっても、是非今日はといって、何(ど)ういう事か大層|急(せ)いてお出でになりました、処が丁度弘行寺の裏林へ通り掛りますと、十四五人の狼藉者(ろうぜきもの)が出まして、得物/\を持って切り付けましたから、旦那はお手利(てきゝ)でございますから直(すぐ)に脇差を抜いて向うと、富五郎も元は武士で剣術も存じておりますから、二人で十四五人を相手に切り結んだけれども、幾ら旦那が御手練(ごしゅれん)でも向(むこう)は大勢(たいぜい)でございますから、仕方なく、富五郎が旦那にお怪我をさしてはならぬとやっと切り抜け駈け付けて来ました、直(すぐ)に村の若い衆(しゅ)も大勢(おおぜい)参りましたけれども、其の甲斐もなくもう間に合いませんで、誠に情ないことでございます」
花「じゃア富五郎さんが一緒に附いて行って弘行寺の裏林へ掛った処が十四五人狼藉者が出て取巻いたから、旦那も切結び、富五郎も切り合ったという処を誰も見た者はないので、富五郎が帰って其の事を話したのですね」
隅「左様でございます」
花「うん、富五郎という人は内におりますか」
隅「お母(っか)さん、今日は富五郎は何処(どこ)かへ使いに参りましたか」
母「今何まで使(つかい)に遣(や)ったゞ、何処まで行ったかのう、又水街道の方へ廻ったか知んなえ、じき横曾根まで遣ったがね」
花「御新造さん、留守かえ、そんなら話をしますが、あの富五郎という奴は、べちゃくちゃ世辞をいう口前(くちまえ)の好(い)い人だね、実は私(わし)はね、人には云わないが旦那の殺されたばかりの処へ通り掛った処が、丁度廿五日で真暗(まっくら)だ、私がずん/\行(ゆ)くと、向(むこう)から頭巾を被(かぶ)った奴が来やアがる様子だから、はて斯(こ)んな林に胡散(うさん)な奴がおる、ことに依(よ)ったら盗賊かと思うたから、油断せずに透(すか)して見ると、其奴(そいつ)が脇道へ曲って、向(むこう)へこそ/\這入って行(ゆ)くから、何(なん)でもこれは怪しいと思うて、急いで来ると、私の下駄で蹴付(けつ)けたのは脇差じゃ、はて是は脇差じゃが何(ど)うして此処(こゝ)に在(あ)るかと思うて、見ると向からワイ/\とお百姓が来まして、高声(たかごえ)上げて、あゝ情ないもう少し早かったらこんな事にはならぬ、無惨なことをした、情ないことをしたというから、こいつしまった、そんなら頭巾を被った奴が旦那を殺したと思って、其の事を皆の中で話をしようかと思ったが、旦那と私と深い中のことは知って居るし、若(も)し角力が加勢をすると思って、遠く逃げてしまわれたら手掛りはないから、是は知らぬ積りで家(うち)へ帰ったが好いと思うて、其の脇差を提(さ)げて帰ってからは何処(どこ)へも出ず、外(ほか)の者にも黙ってろ知らぬ積りでいろといい付けて来ずにいましたが、今日は斯(こ)うして脇差を持って来ました」
母「あれやまア、どうも不思議なこんだ、殺された処へ通り掛って脇差い拾ったって、其の斬った奴は何様(どんな)奴だかね」
花「お隅さん、それはね此の脇差はどうしたのか知れないが、ちょっくり抜けない、私(わし)の力でもちょっくり抜けない、何(なん)でも松脂(まつやに)か何か附いてると見えて粘(ね)ば/\してるから、ひっついて抜けないが、これは旦那の不断差す脇差で私も能く知っております」
母「あれやまアどうも、お前が知ってるのが手に這入るのは不思議だねえ」 
六十六
隅「お母様(っかさん)、もう少し関取が早かったら助かりましたものを」
花車「此の通り抜けない、抜けないから脇差を投(ほう)り付けたのを盗賊(どろぼう)が置いて行ったか、其処(そこ)は分らんが、今富五郎が私(わし)も切り合い旦那も切合ったが、相手が大勢で敵(かな)わんというので駈付けて来て知らしたというのは、それはどうも私は胡散なことと思う、仮令(たとえ)相手が多かろうが少なかろうが、旦那|様(さん)が危(あぶな)いのを一人|措(お)いて逃げて来るという訳はないねえ、然(そ)うじゃないか、大切な主人と思えばどこ迄も助けるには側にいなければならぬ、それを措いて来るとは、怖いから逃げたとしか思えない、旦那が脇差を抜いて切合ったというが抜けやしない、ねえ、どうしても抜けない刀を抜いて切合ったという道理がないから、どうも富五郎という奴が怪しい、という訳は、お隅さん、去年の秋大生郷の天神前で喧嘩を仕掛けた奴がお隅さんが麹屋に居た時分お前さんに惚れて居て冗談をいった奴がある、処がお隅さんは堅いから、いう事を聞かんで撥付(はねつ)けたのを遺恨に思うているということを知っている、事に依(よ)ったら安田一角が旦那を切って逃げやアしないかと考えた、就(つい)ては山倉富五郎という野郎は、口前は好(い)い奴だが心に情(なさけ)のない慾張った奴だから、事に依ったら一角にお出で/\をされて鼻薬を貰うて、一角の方に付いて、彼奴(あいつ)が手引をして殺させやアせんかと思う、それ此の通り抜けぬのに抜いて切合ったというのが第一おかしいじゃないか」
母「あれやまア其処(そこ)らには気が付かんで、只まア魂消てばいいました、ほんにそうかもしんねえよ、其の頭巾|冠(かぶ)ったのはどんな恰好だっきゃア」
花「それは暗(やみ)だから確(しっか)り分らんが、一角じゃないかと私(わし)の心に浮(うか)んだ、斯(こ)うしておくんなさい、私は黙って帰るが、富五郎が帰ったら、今日花車が悔(くや)みに来て種々(いろ/\)取(とり)こんだ事があって遅くなった、就(つい)ては他(わき)へ二百両ばかり貸したが、どう掛合っても取れないから、どうかして取ろうと中へ人を入れたが、何分(なにぶん)取れないが、若(も)し富五郎さんが間へ這入ったら向(むこう)の奴も怖いから返すだろう、若しお前の腕から二百両取れたら半分は礼に遣るが、どうか催促の掛合に往ってくれまいかと、花車が頼んだが行って遣らんかといえば、慾張(よくばっ)ているから屹度(きっと)遣って来るに違いない、法恩寺村の私の処へ来たら富五郎さん/\というて富五郎を側に寄せ、腕を押えてさア白状しろ、一角に頼まれて鼻薬を貰って、惣次郎さんを殺したと云え、どうだ/\いわなけりゃア土性骨(どしょうぼね)を殴(どや)して飯を吐かせるぞ、白状すれば、命は助けて遣るというたら、痛いから白状するに違いない、実は是れ/\/\/\であると喋ったら旨いもんで然(そ)うしたら富五郎はくり/\坊主にして助けても好(よ)し、物置へ投(ほう)り込んでも好(い)いが、愈々(いよ/\)一角と決ったらお隅|様(さん)は繊細(かぼそ)い女、お母様(っかさん)は年を取って居り、惣吉|様(さん)はまだ子供だから私が先へ行きます、一角の処へ行って、偖(さて)先生大生郷の天神前で、飛んだ不調法を致しましたが何卒(どうか)堪忍しておくんなさいと只管(ひたすら)詫びる、然(そ)うすれば斬ることは出来ぬからうっかり近寄る近寄ったら両方の腕を押えて動かさぬ、さア手前(てめえ)が惣次郎を殺した事は富五郎が白状した、敵(かたき)を取るから覚悟をしろと腕を押えた処へ、お前|様(さん)が来て小刀(こがたな)でも錐(きり)でも構わぬからずぶ/\突(つッ)ついて一角を殺すが好(い)いどうじゃ」
隅「本当に有難いこと、嘸(さぞ)旦那様が草葉の蔭でお喜びでございましょう、関取私は殺されてもいゝから旦那様の敵(かたき)を取って」
母「何分にもよろしくねがえます」
花「余り敵/\と云わないがいゝ、私(わし)は先へ帰りますから」
と脇差を元の如く包んで帰りました。後(あと)へ入(い)り替って帰りましたのは山倉富五郎、
富「ヘエ只今帰りました」
母「富や、大層|帰(けえ)りが遅かったね」
富「なに帰り掛けに法蔵寺様へ廻りまして、幸い好(い)い花がありましたからお花を手向(たむ)けましたが、お墓に向いましてなア、実に残念でございまして、何(なん)だか此間(こないだ)まで富/\と仰しゃったお方がまアどうも、石の下へお這入りなすったかと存じましたら胸が痛くなりまして、嫌な心持で、又|家(うち)へ帰って貴方がたのお顔を見ると、胸が裂(さ)ける様な心持、仏間に向って御回向(ごえこう)致しますると落涙(らくるい)するばかりで、誠にはや何(な)んとも申そう様はありません」
母「まア能く心に掛けて汝(われ)が墓参(はかめえ)りするって、嘸(さぞ)草葉の蔭で喜んでいるベエ」
富「どうも別に御恩返しの仕方がありませんから、お墓参りでもするより外(ほか)仕方がありません、仏様にはお念仏や花を手向けるくらいで、御恩返しにはなりませんが、それより外に仕方がありません、ヘエ」
隅「あの富さん先刻(さっき)花車関が悔みに参りましたよ」
富「おや/\/\左様でござりましたか、ヘエ成程|何(ど)うなすったか、御存じないのかと思いましたが」
母「ナニ知ってたてや、知ってたけれども早く来て顔を見せたら、深(ふけ)え馴染の中だで思出(おめえだ)して歎(なげ)きが増して母様(かゝさま)が泣くべえ、それに種々(いろ/\)用があって来(き)ねえでいたが悪く思ってくれるなって、大(でか)い身体アして泣いただ」
富「そうでげしょう、兄弟の義を約束した方でございますから嘸(さぞ)御愁傷でげしょうお察し申します」
母「就(つい)てねえ、あの関取が他(わき)へ金え二百両貸した処が、向(むこう)の奴がずりい奴で、返さなえで誠に困るから、どうか富さんを頼んで掛合って貰(もれ)えてえ、富さんの口前で二百両取れたら百両礼をするてえいうだ、どうだい、帰(けえ)ったばかりで草臥(くたびれ)て居るだろうが、行って遣(や)ってくんろよ」
富「ヘエ成程関取が用立った処が向の奴が返さんのですか、なに直(す)ぐ取って上げましょう、造作もありません、百両……百両……なアに金なんぞお礼に戴かぬでも御懇意の間でげすから直ぐに行って参ります」
と止せばよいのに黒い羽織を着て、一本|帯(さ)して、ひょこ/\遣って来ましたのが天命。
富「はい御免なさい、関取のお宅(うち)は此方(こちら)でげすか、頼みます/\」
弟子「おーい此処(こゝ)だい」
花「これ/\一寸此処へ来い、富五郎という人が来たら奥へ通して己が段々掛合いになるのだで、切迫(せっぱ)詰って彼奴(あいつ)が逃げ出すかも知れないから、逃げたらば表に二人も待ってゝ、逃(にげ)やがったら生捕(いけど)って逃がしてはならぬぞ、えゝ、初めは柔和な顔をして掛合うから」
弟子「逃げたら襟首を押えて」
花「こう/\そんな大きな声を、此方(こちら)へお這入りなさいといえ」 
六十七
弟子「此方(こっち)へお這入んなせい」
富「御免を蒙(こうむ)ります」
花「さア富さん此方(こっち)へ、取次も何もなしにずか/\上(あが)って好(い)いじゃないか、さア此方へ来て下さい」
富「えー其の後(ご)は存外御無沙汰を、えー毎(いつ)も御壮健で益々|御出精(ごしゅっせい)で蔭ながら大悦(たいえつ)致します、関取は大層評判が好(よ)うげすから場所が始まりましたら、是非一度は見物致そうと心得ていましたが、御案内の通りさん/″\の取込で、つい一寸の見物も出来ません、併(しか)し御評判は高いものでござります、昨年から見ると大した事で、お羨(うらやま)しゅう、実に関取は身体も出来て入(いら)っしゃるし、殊(こと)には角力が巧手(じょうず)で、愛敬があり、実に自力のある処の関取だから、今に日の下|開山(かいざん)横綱の許しを取るのはあの関取ばかりだといって居ます」
花「余計な世辞は止して下せい、私(わし)は余計な世辞は大嫌いだから」
富「いや世辞は申しません、これは譬(たと)えの通り人情で、好きなものは一遍顔を見た者には、知らぬ人でも勝たせたいと思うのが人間の情(じょう)でげしょう、況(ま)して旦那とは兄弟分でこうやって近々(ちか/″\)拝顔を得ますから、場所中は、どうか関取がお勝になる様にと神信心をしていますよ」
花「それは有り難い、仮令(たとえ)虚言(うそ)でも日の下開山横綱と云って貰えば何(なん)となく心嬉しい、やア、お茶を上げろよ、さア此方(こっち)へ」
富「関取、さぞ御愁傷で」
花「やアお互のことで、嘸(さぞ)お前さんもお力落しでございましょう」
富「イヤ此度(こんど)は実に弱りまして、只もうどうも富五郎は両親(ふたおや)に別れたような心持が致しますなア」
花「然(そ)うでございましょう、私(わし)も実は片腕もがれた様だといいましょうか」
富「然うでげしょう、私も実に弱りましたね」
花「就(つ)いて富さん、お前さんが供に行ったのだとねえ」
富「左様」
花「どんな奴でございますえ、切った奴は」
富「それはもう何(な)んとも残念千万、弘行寺の裏林へ掛ると、面部を包んで長い物をぶち込んだ奴が十四五人でずっと取り巻いて、旦那が金を三十両持っているのを知って、出せ身ぐるみ脱いで置いてけというから、旦那に怪我をさせまいと思って、旦那を何(なん)と心得る、旦那は羽生村の名主様だぞ、若(も)し無礼をすれば引縛(ひっくゝ)って引くから左様(そう)心得ろというと、なに、と突然(いきなり)竹槍をもって突いて来るから、私も刀を抜いて竹槍を切って落し、杉の木を小楯に取ってちょん/\/\/\暫く大勢(たいぜい)を相手に切合いました、すると旦那も黙っている気性でないから、すらり引抜いて一生懸命に大勢(おおぜい)を相手にちゃん/\切合いましたから、刀の尖先(とっさき)から火が出ました、真に火花を散(ちら)すとはこの事でしょう、けれども多勢に無勢と云う譬えの通りで、迚(とて)も敵(かな)わぬから、旦那に怪我があってはならぬと、危うい処を切抜けて駈込んで知らせたから、そら早くというので大勢の若い衆(しゅ)がどっと来て見ましたが、間に合いません、実に残念で、どうも」
花「お前さん供をしたから、嘸(さぞ)残念だったろうねえ」
富「実にどうも此の上ない残念で」
花「そこで、何(な)んですかい、向は十四五人で、其の内一人か二人|捕(つか)まえるとよかったね」
富「処が向が大勢(おおぜい)でげすから、此方(こっち)が剣術を知っていても、大勢で刃物を持って切付けるから敵(かな)いません」
花「じゃア旦那が刀を抜いて切合った処をお前さんは見ただろうねえ」
富「そりゃア見ましたとも、旦那はお手利(てきゝ)でげすからちょん/\/\/\切合いました」
花「それに相違ないねえ」
富「相違も何もありません、現在|私(わし)が見ておったから」
花「うん然(そ)うかえ、富さん、もっと側へお出でなさい、今日は一杯飲みましょう」
富「それは誠に有難いことで、時に何かお頼みがあるという事でげすが早速取立てましょう、なに造作もないことで」
花「それに付いて種々(いろ/\)話があるのだがもっと側へ」
富「じゃア御免を蒙(こうむ)って」
花「さて富さん、人と長く付合うには嘘を吐(つ)いてはいかないねえ」
富「それは誠に其の通り信がなくてはいけませぬねえ」
花「今お前のいったのは皆嘘と考えて居る、旦那様が脇差を抜いてちょん/\切合い、お前も切結んだと、そんな出鱈目(でたらめ)の事をいわずに正直なことをいってしまいねえ」
富「な何(な)んだ、これは恐入ったね、どうも怪(け)しからん事を、ど、どういう訳でな何んで」
花「やい、それよりも正直に、慾に目が眩(くら)んで一角に頼まれて恩人の惣次郎を私(わし)が手引で殺させましたといっちまいねえ」
富「これは怪しからん、怪しからん事があるものだね、関取外の事とは違います、私(わし)は一角という者は存じませぬ、知りもしない奴に仮令(たとえ)どの様な慾があっても、頼まれて旦那様を殺させたろうという御疑念は何等(なんら)の廉(かど)を取って左様なことを仰しゃる、と関取で無ければ捨置けぬ一言(いちごん)、手前も元は武士でござる、何を証拠に左様な事を仰せられるか、関取承りたいな」
花「嘘(そら)つくない、正直にいってしまいな、手前(てめえ)が鼻薬を貰って、一角に頼まれて旦那を引き出したといってしまえば、命|許(ばか)りは助けてやる、相手は一角だから敵(かたき)を打たせる積りだが、何処迄(どこまで)も隠せば、拠(よんどころ)なくお前(めえ)の脊骨を殴(どや)して飯を吐かしても云わせにゃならん」
富「これはどうも怪しからん、関取の力で打たれりゃア飯も吐きましょうが、ど、どういう訳で、怪しからん、なな何を証拠に」
花「そんなら見せてやろう、是は其の時旦那の帯(さ)して行った脇差だろう、これを帯して出た事は聞いて来たのだ、さどうだ」
富「左様どうして是を」
花「是は手前(てまえ)が刀を抜いてちょん/\切合ったという後(あと)で丁度其の側を通り掛って此の刀を拾うたが、些(ちっ)とも抜けない、此の抜けない脇差をどうして抜いて切合ったかそれを聴こう」
富「それア、それア私(わし)が転倒(てんどう)致した」
花「何が転倒した」
富「それは私(わし)は大勢を相手に切結んでおり、夜分でげすから能く分りませぬが、全く鞘の光を見て抜身と心得ましたかも知れませぬが、私が手引をして…是は怪(けし)からん事でげす、どうも左様な御疑念を蒙りましては残念に心得ます」
花「そら/\手前(てめえ)のいうことは皆(みんな)間違っていらア、鞘の光を見て抜身で切合ったと思ったというが、鞘ごと切れば鞘に疵がなけれアならねえ、芒尖(きっさき)から火花を散(ちら)したというが鞘ごと切合ってどうして火花が出るい」
富「じゃア全く転倒致したのでげす、全く向(むこう)同士ちょん/\切合って火花が出たのでげしょう、大勢の暗撃(やみうち)で向同士…どうも左様な手引をして殺したという御疑念は手前少しも覚(おぼえ)がございません」
花「なに云わなけりゃア脊骨を殴(どや)して飯を吐(はか)せても云わせるぞ」
富「アヽ痛い/\痛うござります、アヽ痛い、腕が折れます、ア痛い」
花「さ、云って了(しま)え、云わなければ殴すぞ」
富「アヽ痛うござります」
花「やい能く考えて見ろ、実は大恩があるのに済みませぬが、旦那は私(わし)が手引をして殺させました、其の申訳(もうしわけ)の為に私は坊主になって旦那の追善供養を致しますといえば、お内儀様(かみさん)に命乞(いのちごい)をして命だけは助けて遣るから、一角が殺したと云ってしまえよ」
富「云って了(しま)えと仰しゃっても、あゝ痛い痛うございます、だから私(わし)は申しますがね、あ痛い是はどうも恐入ったね、あゝ痛い、腕が折れます、あゝ申します/\、申しますからお放し下さい然(そ)う手をぐっと関取の力で押えられると骨が折れてしまいますから、アヽ痛いどうも情ないとんだ災難でげす、無実の罪という事は致し方がないなア、関取能くお考えください、私(わたし)は恥をお話し致しますよ、昨年夏の取付(とッつ)きでげしたが、瓜畑を通り掛りまして、真桑瓜を盗んで食いまして、既(すで)に縛られて生埋になる処を、旦那様が通り掛って助けて家(うち)に置いて下さるお蔭で以(もっ)て、黒い羽織を着て、村でも富さん/\といわれるのは全く旦那の御恩でげす、其の御恩のある旦那を、悪心ある者の為に手引をして殺させるという様な事は、どの様なことがあっても覚えはござりませぬが、アヽ痛(いた)たゝゝアヽ痛うござります、腕が折れてしまいます」
花「なに痛いと、腕を折ろうと脊骨を折ろうと己の了簡だ、己が兄弟分になった旦那を、殺した奴を捜して敵(かたき)を討たにゃならぬ、手前(てまえ)一人に換えられないから云わなけれア殺してしまう、それとも殺させたといえば助けて遣るが、云わないか此の野郎」
と松の木の様な拳(こぶし)を振上げて打とうと致しました時には、実に鷲(わし)に捕(つか)まった小鳥の様なもので、逃げるも退(ひ)くも出来ません、此の時に富五郎がどう言訳を致しますか、一寸一息つきまして。 
六十八
富五郎が花車に取って押えられましたは天命で、己(おのれ)が企(たく)みで、惣次郎の差料(さしりょう)の脇差へ松脂を注(つ)ぎ込んで置きながら、其の脇差を抜いて惣次郎がちょん/\切合ったという処から事が顕(あら)われて、富五郎は何(なん)といっても遁(のが)れ難(がと)うございます。殊(こと)に相手は角力取り、富五郎の片手を取って逆に押えて拳を振上げられた時には、どうにもこうにも遁途(にげど)がありませぬ、表の玄関には二人の弟子(とりてき)が張番をしていて、若(も)し逃げ出せば頸(くび)を取って押えようと待っておりますから、此の時は富五郎が真青(まっさお)になって、寧(いっ)そ白状しようかと胸に思いましたが、其処(そこ)は素(もと)より悪才に長(た)けた奴。
富「関取、御疑念の程重々御尤も、もうこうなれば包まず申します、申しますからお放し下さい」
花「申しますと、云ってしまえばそれでよい」
富「云ってしまいます、是迄の事を残らずお話し致します、致しますが関取、そう手を押えていては痛くって/\喋ることが出来ません、こうなった以上は遁(に)げも隠れも致しませぬ、有体(ありてい)に申すから其の手を放して下さい、あゝ痛い」
花「云ってしまえばよい、さア残らず云ってしまえ」
と押えた手を放しますと、側に大きな火鉢がありまして、かん/\と火が起(おこ)っております。それに掛っている大薬鑵(おおやかん)を取って、
富「申上げまする」
といいながら顛覆(ひっくりかえ)しましたから、ばっと灰神楽(はいかぐら)が上(あが)りまして、真暗(まっくら)になりました。なれども角力取|等(ら)は大様(おおよう)なもので、胡坐(あぐら)をかいたなり立上りも致しません。
花「何をするぞ」
という内に富五郎は遁出(にげだ)しましたが、悪運の強い奴で、表へ遁げれば弟子(でし)が頑張っているから直(すぐ)に取って押えられるのでございますが、裏口の方から駈出し、畑を踏んで逃げたの逃げないの、一生懸命になってドン/\/\/\遁げましたが、羽生村へは逃げて行かれませぬから、直に安田一角の処へ駈込んで行って、
富「ハ、ハ、先生/\」
安「なんだ、サア此方(こちら)へ」
富「は…ア水を一杯|頂戴(ちょうだい)」
安「なんだ、ナニ水をくれと、どうしたんだ、喧嘩でもしたか」
富「いいえ、どうも喧嘩どこではございませぬ、脊骨をどやして飯を吐かせるて、実にどうも驚きました」
安「誰(だ)れが飯を吐いたか」
富「なに私(わし)が吐くので、先生運|好(よ)く此処(こゝ)まで逃げたが、もう此処にもおられぬので、直に私は逃げますから、路銀を二三十金拝借致し度(た)い」
安「どうしたか、そう騒いではいかない」
富「どうも先生、これ/\でげす」
と一部始終の話をしますると、相手は角力取ですから一角も不気味(ぶきび)でございますが、
安「然(そ)うか、驚くことはない、私(わし)が殺したという事を云いはしまい」
富「何(なん)で…それはいいませぬ、足下(そっか)とちゃんとお約束を致した廉(かど)がありますから、仮令(たとえ)脊骨をどやされて骨が折れてもそれは云わん、云わぬに依(よ)ってこんな苦しい目を致したから、可哀そうと思って二三十金ください、直に私(わし)は逃げますから」
安「何(な)んだ、何んにも怖いことはない」
富「怖いことはないと仰しゃるが、足下知らないからだ、何(ど)うも彼奴(あいつ)の力は無法な力で、只握られたばかりでもこんなに痣(あざ)になるのだもの」
安「じゃア貴公に路銀を遣るから逃げるがよい」
富「足下も早く、直に跡から遣って来ますよ」
安「遣って来ても云いさえせんければ宜しい」
富「理不尽に…」
安「幾ら理不尽でも白状せぬのに踏込(ふんご)んでどうこうという訳にはいかぬ」
富「無法に打(ぶ)ちますよ」
安「なに打たれはせぬ、仔細ない」
富「仔細ないと仰しゃるが、私(わし)の跡を追掛(おっか)けて来て富五郎はいるか、慝(かく)まったろう、イエ慝まわぬ、居ないといえばじゃア戸棚に居ましょうというので捜しましょう、そうで無いにしても表で暴れて家を揺(ゆすぶ)ると家が潰れるでしょう、奴の力は大した者だから、やアというと家(うち)に地震が揺(い)って打潰(ぶっつぶ)されて了(しま)います、何(なん)にしても家(うち)にいると面倒だから迯(に)げて下さい、え、先生」
安「じゃア路銀を遣るから先へ逃げな」
富「迯げるなら一緒に迯げたいものです」
安「一緒に迯げては人の目に立ってよくない、己が手紙を一本付けるから之(これ)を持って、常陸の大方村(おおかたむら)という処に私(わし)の弟子があるから、其処(そこ)へ行って隠れておれば知れる訳は無いから、ほとぼりが冷めたら又出て来い、私は一足|後(あと)から、ナニ暴れても仔細ない、逢い度(た)いといえば余義ない用事が出来て上総(かずさ)へ行ったとか、江戸へ行ったとか、出鱈目を云っておれば取り附く島が無いから仕方が無い、貴公は先へ行きな」
富「じゃア路銀を頂戴、私(わし)はすぐ行(ゆ)きます」
安「そう急がずに」
と落着いて手紙一本書いて、路銀を附けて遣ると、富五郎は其の手紙を持って人に知れぬ様に姿を隠し、間道(かんどう)/\と到頭(とうとう)逃げ遂(おお)せて常陸へ参りました。安田一角も引続いて迯げる、花車重吉は、
花「おのれ迯げやアがったか」
と直(すぐ)に後(あと)を追掛けましたけれども、羽生村では此方(こっち)へは来ないというから、サテ怪しいと諸方を尋ねたが何分手掛りがありません。一角の様子を聞くと是は私用があって上総まで出たというので、頓(とん)と手掛りが無い、風を食(くら)って二人とも迯げてしまったから、もう帰る気遣いはないが、安田一角の家(うち)は其の儘になって弟子が一人留守番に残っている。どういう訳か分らぬが何(なん)でも怪しいから取(とっ)て押えんければならぬが、それには先(まず)第一富五郎をどうかして押えなければならぬと心得、
花「残念な事をしました、これ/\これ/\で押えた奴を迯げられました」
というと、お隅も母も残念がって歎きますけれども致方(いたしかた)がない。翌月(よくげつ)の十月の声を聞くと、花車は江戸へ参らなければならぬから、花車重吉が暇乞(いとまごい)に来て、
花「私(わし)はこれ/\で江戸へ参りますが、何事があっても手紙さえ下されば直に出て来て力に成って上げますから、心丈夫に思ってお出でなさい」
と二人にいい聞かして、花車重吉は江戸へ帰りました。跡方は惣吉という取って十歳の子供とお隅に母親と、多助という旧来此の家にいる番頭|様(よう)の者ばかりで、何(なん)と無く心細い。十一月の三日の事で、空は雪催しで、曇りまして、筑波|下(おろ)しの大風が吹き立てゝ、身を裂(さか)れるほど寒うございます。
母「あゝ寒いてえ、年イ取ると風が身に泌(し)みるだ、そこを閉(た)ってくんろよ、何(な)んだか今年に成って一時(いちじ)に年イ取った様な心持がするだ、酷(ひど)く寒いのう、多助やぴったり其処(そこ)を閉ってくんろよ」
多「なにあんた、そんなに年イ取った/\といわなえがいゝ、若(わけ)え者(もん)でも寒いだ、何(なん)だかハア雪イ降るばいと思う様に空ア雲って参(めえ)りました」
母「其処(そこ)を閉って呉んろよ、お隅は何処(どこ)へか行ったか」
隅「はい」
と部屋から着物を着換え、乱れた髪を撫付けて小包を持って参りましたから、
母「このまア寒いのに何処へか行(ゆ)くかイ」
隅「はい、改めてお願いがござります」 
六十九
隅「不思議な御縁で、水街道から此方(こちら)へ縁付いて参りました処が、旦那様もあゝいう訳でおかくれになりました、旦那がおいでならお側で御用を達(た)して、仮令(たとえ)表向の披露(ひろめ)はなくとも、私も今迄は女房の心持で働いておりましたけれども、斯様(こう)なって旦那のない後(のち)は余計者で、却(かえ)って御厄介になる許(ばか)りでございますし、江戸には大小を帯(さ)す者も親類でもございますから、何卒(どうか)江戸へ参り度(た)いと思いまして、私もべん/\と斯(こ)うやっても居(お)られません今の内なら、何(ど)うか親類が里になって縁付(かたづ)く口も出来ましょうと思いまして、私は江戸へ帰りますから、どうか親子の縁を切って、旦那はいなくっても貴方の手で離縁に成ったという証拠を戴きませぬと、親類へも話が出来ませぬから、御面倒でも一寸お書きなすって、誠に永々(なが/\)お世話さまになりまして」
母「それアはア困りますな、今お前(めえ)に行かれてしまうと心細(こゝろぼせ)えばかりでなく、跡が仕様が無(ね)えだ、惣吉は年イ行かなえで、惣次郎のなえ後(のち)はお前(めえ)が何も彼(か)もしてくれたから任して置いて、己(おら)アまア家内(うち)の勝手も知んなくなったくれえだね、何(ど)うかまアそんなことを云わずに、どうかお前(めえ)がいてくれねえば困りますから」
隅「有難う存じますけれども、どうも居(い)られませぬ、居たって仕方がありませんもの、ほんの余計者になりましたから、どうか御面倒でも…今日直ぐと帰ります、水街道の麹屋に話をして帰りますから」
母「そりゃアハア間違った訳じゃアねえか、お前(めえ)は今迄まア外(ほか)の女と違って信実な者(もん)で、己(おら)ア家(うち)へ縁付(かたづ)いても惣次郎を大切(でえじ)にして、姑(しゅうと)へは孝行尽し、小前(こめえ)の者(もん)にも思われる位(くれ)えで、流石(さすが)お武家(さむれえ)さんの娘だけ違ったもんだ、婆様(ばアさま)ア家(うち)は好(い)い嫁え貰ったって村の者(もん)が誰も褒めねえ者(もん)はなえ、惣次郎が無(な)え後(のち)も僅(わず)かハア夫婦になった許(ばか)りでも、亭主と思えば敵(かたき)イ打(ぶ)たねえばなんなえて、流石|侍(さむれえ)の娘は違った者(もん)だと村の者(もん)も魂消(たまげ)て、なんとまア感心な心掛けだって涙ア溢(こぼ)して噂アするだ、今に富五郎や安田一角の行方は関取が探してどんな事をしても草ア分けて探し出して、敵(かたき)イ打(ぶ)たせるって是迄丹精したものを、お前(めえ)がフッと行ってしめえば、跡は老人(としより)と子供で仕様がなえだ、ねえ困るから何(ど)うか居てくんなよ」
隅「嫌(いや)ですねえ、江戸で生れた者がこんな処に這入って、実に夫婦の情でいましたけれども、斯(こ)うなって見ると寂しくっていられませぬもの、田舎といっても宿場と違って本当に寂しくって居(い)られませんからねえ、何卒(どうか)直(すぐ)に遣って下さいな、此処(こゝ)に居たって仕方が有りません、江戸へ行(ゆ)けば親類は武士でございますから、相当な処へ縁付(えんづ)けて貰います、私も未(ま)だそう取る年でもございませぬから、何時(いつ)までもべん/\としてはいられませぬ、お前さんはどうせ先へ行(ゆ)く人、惣吉さんは兄弟といった処が元をいえば赤の他人でございますからねえ、考えて見ると行末(ゆくすえ)の身が案じられますから」
母「じゃアどうあっても子供や年寄が難儀イぶっても構わなえで置いて行(ゆ)くというかい、今迄|敵(かたき)イ討(ぶ)つといったじゃアなえか、今それに敵イ討たなえで縁切になって行くとア訝(おか)しかんべい、敵イ討つといった廉(かど)がなえというもんじゃア無(な)えか」
隅「初(はじま)りは敵(かたき)を討(う)とうと思いましたけれども、誰が敵だか分らぬじゃアありませんか、善々(よく/\)考えて見ますと、富五郎を押えて白状さして、愈々(いよ/\)一角が殺したと決ったら討とうというのだが、屹度(きっと)富五郎、一角ということも分らず、それも関取が附いていればようございますが、関取もいず、して見れば敵が分っても女の細腕では敵に返討(かえりうち)になりますからねえ、又それ程|何方(どなた)にも此方様(こちらさま)に義理はありません、漸(ようや)く嫁(かたづ)いて半年位のことで、命を捨てゝ敵を討つという程の深い夫婦の間柄でもありませんから、返討にでもなっては馬鹿/\しゅうございますから、敵討(かたきうち)はお止(やめ)にして江戸へ帰ります」
母「魂消(たまげ)たなアまア、それじゃア何(なん)だア今迄敵イ討(ぶ)つと云ったことア水街道の麹屋でお客に世辞をいう様に、心にもなえ出鱈(でたら)まえをいったのだな、世辞だな」
隅「いゝえ世辞ではない、関取を頼みにして大丈夫と思っていましたが、関取もいなければ私は厭(いや)だもの、そんな返討になるのは詰りませぬからねえ」
母「呆れたよまア、何(なん)と魂消たなア、汝(われ)がそんな心と知んなえで惣次郎が大(でか)い金え使って、家(うち)い連れて来て、真実な女と思って魅(ばか)されたのが悔しいだ、そういう畜生(ちきしょう)の様な心なら只(たっ)た今出て行(ゆ)けやい、縁切状を書(きゃ)えてくれるから」
隅「出て行かなくって、当り前だアね」
多「お隅さんまア待っておくんなさえ、お内儀(かみ)さん貴方(あんた)人が善(い)いから直(じ)き腹ア立つがお隅さんはそんな人でなえ、私(わし)が知っているから、さてお隅さん、此処(こゝ)なア母様(はゝさま)ア江戸を見たこともなし、大生の八幡(はちまん)へも行ったことアなえという田舎|気質(かたぎ)の母様だから、一々気に障る事(こた)アあるだろうが、実はこういう事があって気色が悪いとか、あゝいう事をいわれてはならぬという事があるなら、私がに話いしておくんなさえ、まア旦那が彼(あ)アなってからは力に思うのはお前|様(さん)の外に誰もないのだ、惣吉|様(さん)だって彼(あ)の通り真実(ほんとう)の姉|様(さん)か母様(かゝさま)アの様に思って縋(すが)っているし、敵の行方は八州へも頼んでえたから、今に関取が出て来れば手分(てわけ)えして富五郎を押えて敲(たゝ)いたら、大概(たいがい)敵は一角に違(ちげ)えねえと思ってるくらいだから、機嫌の悪い事が有るなら私にそういって、どうか機嫌直してくださえ、ねえお隅さん」
隅「何をいうのだね、お前は何も気を揉むことはないやね、お母(っか)さんも呆れて出て行(ゆ)けというから離縁状を貰っておくんなさい、私は仇打(あだうち)は出来ません、仕方なしに仇を打つと云ったので実は義理があるからさ、よく/\考えて見れば馬鹿げている、それ程深い夫婦でもありませぬからねえ」
多「それじゃアお隅さん、本当に旦那の敵い打(ぶ)つてえ考(かんげ)えもなえ、惣吉さんもお母様(っかさま)も置いて行(ゆ)くというのかア」
隅「左様さ」
多「魂消たね本当(ほんと)かア」
隅「嘘にこんなことがいえるものか、今日出て行(ゆ)こうというのだよ」
多「呆れたなア、そんだら己えいうが」
隅「何をいうの」 
七十
多「旦那が麹屋へ遊びに行った時酌に出て、器量は好(えゝ)し、人柄に見えるが、何処(どこ)の者(もん)だというと、元は由(よし)ある武士(さむれえ)の娘で、これ/\で奉公しております、外の女ア皆(みんな)枕付(まくらつき)でいる中に私(わし)は堅気で奉公をしようというんだが、どうも辛くってならねえて涙ア澪(こぼ)して云うだから、旦那が憫然(かわいそう)だというので、金えくれたのが初まり、それから旦那が貰(もれ)え切ってくれべいといった時、手を合せて、誠に然(そ)うなれア浮びます助かりますと悦(よろこ)んだじゃアなえか、それに又旦那様ア斬殺(きりころ)されたというのも、早(はえ)え話が一角という奴がお前(めえ)に惚れていたのを此方(こっち)へ嫁付(かたづ)いたから、それを遺恨に思って旦那ア殺したんだ、して見れアお前(めえ)が殺したも同し事じゃアなえか、それを弁(わきま)えなえでお母様(っかさま)や惣吉さんを置いて出れば、義理も何も知んねえだ、狸阿魔(たぬきあま)め」
隅「何(なん)だい狸阿魔とは、失礼な事をお云いで無い、そりゃア頼みもしましたから恩も義理もあるには違いないけれども、それだけの勤めをして御祝義を戴いたので当然(あたりまえ)の事だアね、それから私を貰い切って遣るから来い、諾(はい)といって来ただけの事だから、旦那が殺されたって、敵を討つ程の義理もないじゃアないか、表向|披露(ひろめ)をした女房というでもなし、いわば妾も同様だから、旦那がいなけりゃア帰りますよ」
多「此の阿魔どうも助けられなえ阿魔だ、打(ぶ)つぞ、出るなら出ろ」
隅「なんだい手を振上げてどうする積りだい、怖い人だね、さ打(ぶ)つなら打って御覧、是程の傷が出来ても水街道の麹屋が打捨(うっちゃ)っては置かないよ」
多「ナニ麹屋……金をくれた事アあるけど麹屋がどうした」
隅「此の間お寺へ行(ゆ)くといって、路銀を借りようと思って麹屋へ行って話をして、江戸へ行けば親類もありますから、江戸へ行きたいと思いますが、行くには少し身装(みなり)も拵(こしら)えて行きたいから、まア此処(こゝ)で、三年も奉公して行きますからお願い申しますといって、証文の取極めをして、前金(ぜんきん)も借りて来てあるのだから、是から行って麹屋で稼ぎ取りをして行こうと思うのだ、もう私の身体は麹屋の奉公人になっているのだから、少しでも傷が附けば麹屋で打捨っておかないよ、願って出たら済むまい、さ、打(ぶ)つなら打って御覧」
多「呆れたア、此奴(こいつ)何(ど)うも、お内儀様(かみさん)此間(こねえだ)お寺へ墓参(はかめえ)りに行(ゆ)く振(ふり)いして麹屋へ行って証文ぶって来たてえ、此の阿魔こりゃア打(ぶ)てねえ、えゝ内儀様(かみさま)、義理も人情も、あゝこれエ本当に何うも打てねえ阿魔だ」
母「やア、もう宜(い)いワイ、恩も義理も知んなえ様な畜生と知らずに、惣次郎が騙(だま)されて命まで捨(すて)る事になったなア何(なん)ぞの約束だんばい、そんな心なら居て貰っても駄目だから、さア此処(こけ)え来(こ)う、離縁状書えたから持たしてやれ」
多「さア持ってけ、此の阿魔ア、これエ打てねえ奴だ」
隅「持ってかなくってどうするものか」
とお隅は離縁状を開(ひら)いて見まして、苦笑(にがわら)いをして懐へ入れ、
隅「有難い、アヽこれでさっぱりした」
多「ア、さっぱりしたと云やアがる、どうも悪(にく)い口い敲きやアがるなア此の阿魔」
隅「なんだねえ、ぎゃア/\おいいでない、長々御厄介様になりました、お寒さの時分ですから随分御機嫌よう」
多「えゝぐず/\云わずにサッサと早く行かなえかい」
隅「行かなくって何(ど)うするものか、縁の切れた処にいろっても居やアしない」
と悪口(あっこう)をいいながらつか/\と台所へ出て来ますと、惣吉は取って十歳、田舎育ちでも名主の息子でございますから、何処(どこ)か人品(じんぴん)が違います、可愛がってくれたから真実の姉の様に思っておりますから、前へ廻ってピッタリ袂(たもと)に縋(すが)って、
惣「姉様ア、お母(っか)アが悪ければ己があやまるから居てくんなよ、多助があんなこと云っても、あれは誰がにもいう男だから、己があやまるから、姉(あね)さん居てくんなえ、困るからヨウ」
隅「何(な)んだい、其方(そっち)へお出でよ、うるさいからお出でよ、袂へ取ッつかまって仕ようが無いヨウ、其方へお出でッたらお出でよ」
多「惣吉さん、此方(こっち)へお出でなさえ、今迄|坊(ぼう)ちゃんを可愛がったなア、世辞で可愛がった狸阿魔だから、側へ行かないが好(え)え」
母「惣吉や、此処(こけ)え来(こ)う、幾ら縋っても皆(みんな)世辞で可愛がったでえ、心にもない世辞イいって汝(われ)がを可愛がる振(ふり)いしたゞ、それでも子供心に優しくされりゃア、真実姉と思って己があやまるから居てくんろというだ、其処(そけ)えらを考えたって中々出て行かれる訳のものでアなえ、呆れた阿魔だ、惣吉|此処(こけ)え来い」
多「此方(こっち)いお出でなさえ、坊(ぼう)ちゃん駄目だから」
隅「来いというから彼方(あっち)へお出でよ、今までお前を可愛がったのもね、お母(っか)さんのいう通り拠(よんどころ)なく兄弟の義理を結んだからお世辞に可愛がったので、皆(みんな)本当に可愛がったのじゃアないよ、彼方へお出で、行っておくれ、行かないか」
多「あれ坊(ぼ)っちゃんを突き飛(とば)しやアがる、惣吉さんお出でなさえ…此奴(こいつ)ア…又打てねえ…さっ/\と行けい」
隅「行かなくってどうするものか」
とお隅は土間へ下(お)り、庭へ出まして門(かど)の榎(えのき)の下に立つと、ピューピューという筑波|颪(おろし)が身に染みます。
隅「あゝもう覚悟をして思い切って愛想づかしを云わなけりゃア為にならんと思って彼迄(あれまで)にいって見たけれども、何も知らない惣吉が、私の片袖に縋って、どうぞ姉(あね)さん私があやまるから居ておくれ、坊が困るといわれた時には、実はこれ/\と打ち明けて云おうかと思ったが、※[救/心](なま)じい云えばお母(っか)さんや惣吉の為にならんと思って思い切って、心にもない悪体(あくたい)を云って出て来たが、是まで真実に親子の様に私に目を掛けておくんなすった姑(しゅうと)に対して実に済まない、お母さん、其のかわり屹度(きっと)、旦那様の仇(あだ)を今年の中(うち)に捜し出して、本望(ほんもう)を遂(と)げた上でお詫びいたします、あゝ勿体ない、口が曲ります、御免なすってください」
と手を合せ、耐(こら)え兼てお隅がわっと声の出るまでに泣いております。
多「まだ立ってやアがる、彼処(あすこ)に立って悪体口をきいていやアがる、早く行け」
隅「大きな声をするない、手前の様な土百姓(どびゃくしょう)に用はないのだ、漸(や)っとサバ/\した」
と故意(わざ)と口穢(くちぎたな)いことを云って、是から麹屋へ来て亭主に此の話をすると、
亭「能く思い切って云った、よし、己がどこ迄も心得たから、心配するな、先(ま)ず手拭でも染めて、すぐ披露(ひろめ)をするが好(よ)い、これ/\これ/\拵(こしら)えて」
というので、手拭|等(とう)を染めて、残らず雲助や馬方に配りました。
亭「今までとは違ってお隅は拠(よんどころ)ない訳が有って客を取らなくっちゃアならん、皆(みんな)と同じに、枕付で出るから方々へ触れてくれ」
というと、此の評判がぱっとして、今までは堅い奉公人で、殊(こと)に名主の女房にもなった者が枕付で出る、金さえ出せば自由になるというので大層客がありまして、近在の名主や大尽(だいじん)が、せっせとお隅の処へ遊びに来ますけれども、中々お隅は枕を交(かわ)しません。お隅の評判が大変になりますると、常陸にいる富五郎が、此の事を聞きまして、
富「しめた、金で自由になる枕附きで出れば、望みは十分だ」
と天命とはいいながら、富五郎が浮々(うか/\)とお隅の処へ遊びに参るという、これから仇打(あだうち)になりまするが、一寸一息。 
 

 

七十一
お隅は霜月の八日から披露(ひろめ)を致しまして、客を取る様になりました。なれどもお隅は貞心(ていしん)な者でございますから、能(い)いように切り脱(ぬ)けては客と一つ寝をする様なことは致しません、素(もと)より器量は好(よ)し、様子は好し、其の上世辞がありまするので、大して客がござります。丁度十二月十六日ちら/\雪の降る日に山倉富五郎が遣(や)って参りましたが、客が多いので何時(いつ)まで待ってもお隅が来ません、其の内に追々と夜(よ)が更けて来ますが、お隅は外の客で来ることが出来ませぬから、代りの女が時々来ては酌をして参り、其の間には手酌で飲みましたから、余程酒の廻っている処へ、隔(へだて)の襖(ふすま)を明けて這入った人の扮装(なり)はじゃがらっぽい縞(しま)の小袖にて、まア其の頃は御召縮緬(おめしちりめん)が相場で、頭髪(あたま)は達磨返しに、一寸した玉の附いた簪(かんざし)を※[「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている](さ)し散斑(ばらふ)の斑(ふ)のきれた櫛(くし)を横の方へよけて※[「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている]しており、襟には濃(こっ)くり白粉(おしろい)を附け、顔は薄化粧の処へ、酒の相手でほんのりと桜色になっております、帯がじだらくになりましたから白縮緬の湯巻がちら/\見えるという、前(ぜん)とはすっぱり違った拵(こしら)えで、
隅「富さん」
富「イヤこれはどうも、どうも是は」
隅「私ゃアね富さんじゃないかと思って、内々(ない/\)見世で斯(こ)う/\いう人じゃアないかというと然(そ)うだというから、早く来度(きた)いと思うけれども、長ッ尻(ちり)のお客でねえ、今やっと脱(ぬ)けて来たの、本当に能く来たね」
富「これはどうも、甚(はなは)だ何(ど)うも御無沙汰を、実は其の不慮の災難で御疑念を蒙むりました、それ故お宅へ参ることも出来ない、こんな詰らぬ事はないと存じて、存じながら御無沙汰を、只今まで重々御恩になりました貴方が、御離縁になって、此方(こちら)へ入らっしゃった事を聞いて尋ねて参りました、どうも妙でげすねえ、御様子がずうッと違いましたね」
隅「お前さんも知ってる通りべん/\とあゝやっていたっても、先の見当(みあて)がないし、そんならばといって生涯楽に暮せるといった処が、あんな百姓|家(や)で何(なん)にも見る処も聞く事もなし、只一生楽に暮すというばかりじゃア仕様がないから、江戸へ行こうと思って、江戸には親類が有って大小を帯(さ)す身の上だから、些(ちっ)とも早く頼んで身を固め度(た)いと思って離縁を頼むと、不人情者だって腹を立って、狐阿魔だの狸阿魔だのというから、忌々(いま/\)しいから強情に無理無体に縁切状を取って出て来ましたの、江戸へ行くにも、小遣がないもんだから、こんな真似をして身装(みなり)も拵(こしら)えたり、金の少しも持って行き度いと思って、遂(つい)に斯(こ)んな処へ落ちたから笑っておくんなさい」
富「笑う処か誠にどうも、なに必ず私は買いに来たという訳ではありませんから、決して御立腹下さるな、そんな失敬の次第ではないが、何(ど)ういう訳で羽生村をお出(で)遊ばしたかと存じて御様子を伺おうと思って参った処が、数献(すうこん)傾けて大酩酊(おおめいてい)」
隅「まア是から二人で楽々と一杯飲もうじゃアないか、早く来て久振りで、昔話をしたいと思っても、長ッ尻のお客で滅多に帰らぬからいろ/\心配して、やっとお客を外して来たの、まア嬉しいこと、大層お前若くなったことね」
富「恐入ります、あなたの御様子が変ったには驚きましたねえどうも、前とはすっかり違いましたねえ」
隅「さお酌致しましょう」
富「これはどうも、まア一寸一杯、左様ですか」
隅「私は大きな物でなくっちゃア酔わないから、大きな物でほっと酔って胸を晴したいの、いやな客の機嫌|気褄(きづま)を取って、いやな気分だからねえ、富さん今夜は世話をやかせますよ」
富「大きな物で、え湯呑で上りますか、御酒は些(ちっ)とも飲(あが)らなかったんですが、血に交われば赤くなるとか、妙でげすなア、お酌を致しましょう、これは妙だ、どうも大きな物でぐうと上れるのは妙でげすな、是は恐入りましたな」
隅「私は酔って富さんに我儘な事をいうけれども、富さんや聞いておくれな」
富「うゝんお隅さん必ず御疑念はお晴しなすって、惣次郎さんを私が手引して殺させたというので花車の関取が私の背中をどやして、飯を吐(はか)せるというから、私は驚いて、あの腕前では迚(とて)も叶(かな)わぬから一生懸命逃げたんだが、あのくらい苦しいことはありませぬ、それ故御無沙汰になって、あなたが枕附で客をお取りになるという事を聞いて、今日口を掛けたのは相済みませぬが、実はどういう訳かと存じて只御様子を伺いたいというので参っただけで」
隅「まアそんな事は好(い)いじゃアないか、今夜私は酔うよ」
富「お相手をいたしましょう」
隅「お相手も何もいるものか」
と大きな湯呑に一杯受けて息も吐(つ)かずにぐっと飲んで、
隅「さア富さん」
富「私はもう数献(すこん)…えお酌でげすか、置注(おきつ)ぎには驚きましたね…それだけは…妙なものでげすな、貴方はお酒はもとから上りましたか」
隅「なに旦那の側にいる時分には謹んで飲まなかったんだが、此家(こゝ)へ来てから戴く様になりました」
富「へえ有難う、もう……お隅さんどうか御疑念をね…これだけはどうか…私は詰らん災難で、私が何(なん)ぼ何(なん)でも、一角は知らない奴、逢った事もない奴に何(なん)で此(かく)の如く、な、御疑念が掛るか、私も元は大小を帯(たい)した者、此の儘には捨置けぬと、余程(よっぽど)争いましたが、関取が無暗(むやみ)に打(ぶ)つというから、あの力で打たれては堪らぬから逃げると云う訳で、実に手前詰らぬ災難でげして……」
隅「好(い)いじゃ無いか、私に何も心配はありゃアしないやね、羽生に居る時分には、悔しい、敵打(かたきうち)をするというから私も連れて然(そ)ういったけれども、もう彼処(あすこ)を出てしまやア、何(なん)にも義理はないから私に心配はいらないが、只聞きたいのは富さん忘れもしない羽生にいる時、お前が酔って帰ったことがあったろう、其の時お前が旦那のいない所で私の手を掴まえて、江戸へ連れて行って女房にして遣ろう、うんといえば私が身の立つようにするが、江戸へ一緒に行って呉れぬかと云っておくれの事があったねえ、あれは本当の心から出て云ったのか、私が名主の女房になってたから、お世辞に云ったのか聞きたいねえ」 
七十二
富「これは恐れ入りました、こりゃア何(ど)うも御返答に差支(さしつか)える……こりゃア恐入ったね、富五郎困りましたね…………おや/\またいっぱいになった、貴方そばから置き注ぎはいけません………余程(よほど)酔って居るからもう御免なさい……あれはお隅さん、貴方が恩人の内宝(ないほう)になっているから、食客(いそうろう)の身として、酔ったまぎれで、女房になれ……江戸へ連れて行こうといったのは実に済まない……済まないが、心にないことは云われん様な者で、富五郎深く貴方を胸に思っているから酔った紛れに口に出たので、どうも実に御無礼を致しました、どうか平(ひら)に御免を……」
隅「あやまらなくっても宜(い)いじゃアないか、本当にお前が心に思ってくれるといえば嘘にも嬉しいよ、富さん、私もね、何時(いつ)までもこんな姿(なり)をしていたくない……江戸へ知れては外聞が悪いからねえ……江戸へ行くったって親類は絶えて音信(いんしん)がないし、真実(ほんとう)の兄弟もないから何(なん)だか心細くって、それには男でなければ力にならぬが、こういう汚(けが)れた身体になったから、今更いけない、いけないけれどもお前がねえ、私の様な者でも連れて行って女房にすると云っておくれなら、私も親類へ行って、この人も元はこれ/\のお侍でございましたが、運が悪くってこういう訳になったからといって頼むにも、二人ながら武士の家に生れた者だから、親類へも話が仕好(しい)い、よう富さん、本当にお前、私がこういう処へ這入ったからいけないかえ……前にいったことは嘘かえ」
富「こりゃアなんとも恐れ入ったね……旨いことを仰しゃるなア……又一ぱいになった、そう注いじゃあいけない……えゝ…本当にそんな事をする気遣いは無いて…どうか御疑念の処は…私は困るよ……どうも理不尽に私を疑(うたぐ)って、脊骨をどやすというから、驚いて、言訳する間(ま)は無いから逃げたのだが、神かけて富五郎そんな事はないので……」
隅「そんな心配は無いじゃアないか、何(なん)だねえ、お前、私がこんな身の上になっていても、敵とか何(なん)とか云って騒ぐと思ってるのかえ、私は表向き披露(ひろめ)をした訳でもなし、敵を討つという程な深い夫婦でもない、それ程何も義理はないと思うから、悪体を吐(つ)いて出たのだもの」
富「そりゃア義理はありましょうが、私はあなたが、あんな愚痴|婆(ばゝあ)の機嫌を、よく取ってお在(い)でなさると思っていました。あなたがこれを出るのは本当でげす、御尤もでげすねえ」
隅「だからさ、お前がいやなら仕方がないけれども、本当なら、お前の為にどんな苦労をしても、いやな客を取っても、張合があると思っているのさ、それには、判人(はんにん)がないといけないから、お前が判人になって、そうして私が稼いだのをお前に預けるから、私を江戸へ連れて行っておくれな」
富「本当ですか」
隅「あら本当かって、私が嘘をいうものかね、悪(にく)らしいよ」
富「あゝ痛い、捻(つね)ってはいけない、そういう……又|充溢(いっぱい)になってしまった……いけないねえ……だが、お隅さん、本当に御疑念はお晴らしください、富五郎迷惑至極だてねえ」
隅「どうも、うるさいよ、未(ま)だ何処(どこ)まで疑(うたぐ)るのだね、そんなに疑るなら証拠を出して見せようじゃないか、そら、是が羽生村から取って来た離縁状と、是はお客に貰った三十両あるのだよ、お前が真実女房に持ってくれる気なら、此のお金と離縁状を預けるがお前も確(たしか)な証拠を見せておくれよ、富さん」
富「本当ですか、本当なら私だって、親類もあるから、お前さんと二人で行って、話しをすればすぐだね、そりゃア、小さくも御家人の株ぐらいは買ってくれるだろう、お隅さん本当なら、生涯嘘はつかないねえ」
隅「まア嬉しいじゃアないか、富さん本当かい」
富「そりゃア本当」
隅「有難いねえ、じゃア証拠を見せておくれな」
富「別に証拠はない」
隅「だから悪(にく)らしいよ」
富「悪らしいってあれば出すけどもないもの、じゃア外に仕方がないから斯(こ)うしよう、そう話がきまれば、此処(こゝ)に永く奉公さして置きたくないからね、どこまでも金の才覚をして早く江戸へ行こう、富五郎浪人はしていても、百や二百の金は直(すぐ)に出来るから」
隅「そう、そんなに入らないが、路銀と土産ぐらい買って行きたいねえ」
富「こう仕よう」
隅「だって急にお前に苦労させては済まないから、此処で私が二年も稼いでから」
富「なに宜(い)い、いゝから、斯(こ)うしよう、一角を騙(だま)して百両取ろう」
隅「おや一角さんは何処(どこ)にいるの」
富「うん、まあいゝや、お隅さん本当に御疑念の処は」
隅「又そんなことを、本当にお前は悪らしいよ、じゃアお前は一角となれあって殺したことがあるから、私がどこまでも仇(かたき)を狙っていると疑るのだろう、そんな疑りがあって、私を女房にしようというのは余程(よっぽど)分らない、恐い人だね、もう止しましょう、書付(かきつけ)まで見せて、生涯身を任して力になろうと思う人がそう疑ってはお金も書付も渡されないから。止しにしましょう」
富「そういう訳ではない、決して疑る訳ではない、決して疑る訳では無いがね」
隅「だからさ疑る心が無ければ、一角さんは何処(どこ)にいると云ったって好(い)いじゃないか、どうして騙(だま)して金を取るのか、それをお云いよ」
富「うーん、それは一角がお前に惚れているのだから」
隅「そうかい」
富「前から惚れてる、それだから一角の処へ行って、お前がこう/\でございますから貴方御新造にしてお遣りなさい、就(つい)ては内証(ないしょう)に百両借金がありますから、之を払って遣れば直(すぐ)に此処(こゝ)へ来られる訳だ、出して下さいといえば是非金を出す…いゝえ出るに極っているのだから、出したら借金を払ってお前と二人で、ねえ、江戸へ行こう、こいつが宜(い)いじゃないか」
隅「どうも嬉しいことねえ、一角さんは何処にいるの」
富「うーン、それ」
隅「おかしいねえ、もう夫婦になってお前は亭主だよ、添ってしまって、今夜一晩でも枕を交せば大事な生涯身を任せる亭主だもの、前の亭主の敵(かたき)といって、刄(やいば)が向けられますか、私も武士の娘、決して嘘はつきませぬよ」 
七十三
富「こりゃア驚いた、流石(さすが)は武士の御息女、嬉しいな…又|充溢(いっぱい)になってしまった……こりゃア有難い、それじゃア云おうねえ、実は私は、お前にぞっこん惚れていたが、惣次郎があっては仕様がない、邪魔になるといっても、富五郎の手に負いない、所が幸い安田一角がお前に惚れているから、一角をおいやって弘行寺の裏林で殺させて置いて、顔に傷を拵(こさ)えて家(うち)へ駈込んだが、あの通り花車が感付きやアがって、打(ぶ)つというから、此方(こっち)は殺されては堪(たま)らぬから、逃げてしまった、全く一角が殺しは殺したんだが、実は私がおいやって遣らしたのだ」
隅「私もそう思ってたけれどもね、羽生にいる時は義理だから敵といっていたけれども、こう出てしまえば義理も糸瓜(へちま)もない他人だアね、あんな窮屈な処にいるのはいやだと思って出たんだが、富さんこうなるのは深い縁だねえ、どうしても夫婦になる深い約束だよ」
富「是は妙なもんだね、不思議なもので、羽生村にいる時から私が真に惚れゝばこそ色々な策をして、惣次郎を討(うた)せたのも皆(みんな)お前故だねえ」
隅「一角さんは何処(どこ)にいるの」
富「一昨日(おととい)の晩三人で来て前の家(うち)は策で売らしてしまったから、笠阿弥陀堂(かさあみだどう)の横手に交遊庵(こうゆうあん)という庵室(あんしつ)がありましょう、二間(ふたま)室(ま)があって、庭も些(ちっ)とあり、林の中で人に知れないからというので其処(そこ)を借りていて、今夜私に様子を見て来いというので、私が来たのだから、こう/\といえば、えゝというので百両出す、なに大丈夫だ、其れで借金を片付けて行って了(しま)やア彼奴(あいつ)は何(なん)ともいえない、人を殺した事を知って居るから何ともいえやアしないから、烟(けぶ)に巻かれてしまわア、追掛(おっか)けようといっても彼奴江戸へ出られる奴でないから大丈夫」
隅「そう、本当に嬉しいねえ、真底お前の了簡が知れたよ」
富「これ程お前を思ってるのに其れを疑ぐるということはない、誠に詰らぬこと…」
隅「此処(こゝ)で寝るといけないから彼方(あっち)へおいでよ、彼方に床が取ってあるから、さ此のお金と書付を」
富「やアそんなもの」
隅「落(おっ)ことすといけないからお出し」
と、金と書付を引(ひっ)たくって、無暗(むやみ)に手を引いて、細廊下の処を連れて行(ゆ)くと、六畳ばかりの小間(こま)がありまして、其処(そこ)に床がちゃんと敷いてある。
隅「さ、お寝と云ったらお寝、あら俯伏(つっぷ)しちゃいけないから仰向けにお成り」
と仰向に寝かし、枕をさして、
隅「さ、寒いから夜具(これ)を」
富「あゝ有難い、こっちイ這入って寝なよ」
隅「今寝るが、寒いから掻巻(かいまき)を」
富「好(い)いよ、雪は何(ど)うしたえ」
隅「なに雪は降っているよ、夫婦の固めに雪が降るのは縁が深いとかいう事があるねえ」
富「うーん、そりゃア深雪(みゆき)というのだ」
隅「富さん、私はいう事があるよ」
富「どう」
隅「あら顔を見られると恥かしいから被(かぶ)っておいでよ」
とお隅は掻巻を富五郎の目の上まで被せて其の上へ乗りました。
隅「私は馬乗りに乗るわ」
富「何をするのだ、息が出なくって苦しい、何をする、切ないよ」
隅「本当に富さん不思議な縁だね」
といいながら隠してあった匕首(あいくち)を抜いて、
隅「惣次郎を殺したとは感付いていたけども、お前が手引で…一角の隠れ家まで…こういう事になるというのは神仏のお引合せだね」
富「実に神の結ぶ縁だねえ」
隅「斯(こ)ういう事があろうと思って、私は此の上ない辛い思いをして、恩ある姑(しゅうと)や義理ある弟に愛想尽(あいそづか)しを云って出たのも全くお前を引寄せる為、亭主の敵(かたき)罰当(ばちあた)りの富五郎覚悟しろ、亭主の敵」
と富五郎の咽喉(のど)へ突込(つッこ)む。
富「うーん」
というのを突込んだなり呑口を明ける様にぐッぐッと抉(えぐ)ると、天命とはいいながら富五郎はばた/\苦しみまして、其の儘うーんと呼吸(いき)は絶えました様子。お隅はほっと息を吐(つ)き、匕首の血(のり)を拭(ぬぐ)って鞘に納め、
隅「南無阿弥陀仏/\」
と念仏を唱え、惣次郎の戒名を唱えて回向(えこう)を致します。お隅は沈着(おちつ)いた女で、直(すぐ)に硯箱(すゞりばこ)を取出し、事細かに二通の書置を認(したゝ)めて、一通は花車へ、一通は羽生村の惣吉親子の者へ、実は旦那の仇(あだ)を討ち度(た)い許(ばか)りで、心にもない愛想尽しを申して家(うち)を出て、麹屋へ参って恥かしい身の上になりましたが、幸いに富五郎が来て、これ/\の訳と残らず自分の口から申して、一角の隠家(かくれが)もこれ/\と知れましたから、女ながらも富五郎は首尾能く打留(うちと)めたから、今夜直ぐに一角の隠家へ踏込んで恨みを晴し、本望(ほんもう)を遂(と)げる積り、なれども女の細腕、若(も)し返り討になる様な事があったならば、惣吉が成人の上、関取に助太刀を頼んで旦那と私の恨(うらみ)を晴らして下さい、敵(かたき)は一角に相違ない事は富五郎の白状で定(きま)りましたという、関取と母親の方へ二通の書置を残して傍(そば)に掛っている湯沸しの湯を呑み、懐へ匕首を隠して庭の方の雨戸を明けると、雪は小降になった様でもふッ/\と吹っかける中を跣足(はだし)で駈出して、交遊庵という一角の隠家へ踏込みまするというお隅|仇打(あだうち)のお話を次回に。 
七十四
申し続きまする累ヶ淵のお話で、お隅が交遊庵という庵室に隠れている一角の処へ斬り込みまするという、女ながらもお隅は一生懸命でござりまして、雪の降る中を傘もなしに手拭を冠(かぶ)りまして跣足(はだし)で駈けて参って、笠阿弥陀堂から右に切れると左右は雑木山でござります、此の山の間を段々と爪先|上(あが)りに登って参りますると、裏手は杉檜などの樹木がこう/\と生い茂って居りまする処へ、門の入口の処に交遊庵の三字を題しました額が掛っております。門の締りは厳重になっておりまするなれども、家へは近(ちこ)うござります、何処(どこ)か外(ほか)から這入口(はいりぐち)はなかろうかと横手に廻って見ても外に入口(いりくち)はない様子、暫(しばら)く門の処に立って内の様子を窺(うかゞ)っていると、丁度一角が寝酒を始めて、貞藏(ていぞう)という内弟子を相手にぐび/\と遣(や)りましたから、門弟も大分酩酊致しておりまする様子。
隅「御免なさいまし、御免なさいまし、一寸|此所(こゝ)を明けて下さいまし、あの、先生は此方(こちら)にいらっしゃいますか」
というと戸締りは厳重にしてあり、近いといっても門から家までは余程|隔(へだ)って居りますが、雪の夜(よ)で粛然(しん)としているから、遥(はるか)に聞える女の声。
安「貞藏/\誰(たれ)か門を叩いている様子じゃ」
貞「いや大分雪が降って参りました、私(わたくし)先程台所を明けたらぷっと吹込みました、どうして中々余程の雪になりましたから、此の夜中(やちゅう)殊(こと)に雪中(せっちゅう)に誰(たれ)も参る筈はございませぬ」
安「でも、それ門を叩く様子じゃ」
貞「いゝえ大丈夫」
安「いや左様でない…それそれ見ろ…あの通り…それ叩くだろう」
貞「へえ成程えゝ見て参りましょう、えゝ少々御免遊ばして、大層酩酊致しました、ひょろ/\致して歩けませぬ、えゝ少々…なに誰(だれ)だい、誰(たれ)か門を叩くかい…誰(だれ)だい」
隅「はい、あの安田一角先生は此方(こちら)にいらっしゃいますか」
貞「安田と、安田先生ということを知って来たのは誰だい」
隅「はい私は麹屋の隅でございますが、一寸先生にお目に掛り度(た)いと存じまして、わざ/\雪の降る中を参りましたが、一寸|此処(こゝ)をお明け遊ばして下さいませんか」
貞「あ、少々控えていな」
とよろよろしながら一角の前へ来て、
貞「へえ先生」
安「来たのは誰だ」
貞「麹屋のお隅が、先生にお目に掛ってお話し申し度い事があって、雪の降る中を態々(わざ/\)参ったといいます」
安「隅が来たか、はて、うっかり明けるな、えゝ彼(かれ)は此の一角を予(かね)て敵(かたき)と附狙(つけねら)うことは風説にも聞いていたが、全く左様と見える、うっかり明けて、角力取(すもうとり)などを連れてずか/\這入られては困るから能く気を附けろ、えゝ全く一人か、一人なら入れたっても好(い)いが」
貞「これ、お隅、何かえ、お前誰か同伴(つれ)がありますかい、大勢連れてお出でかい、角力取は来ましたのかい」
隅「いゝえ私一人でございます、一寸(ちょいと)此処(こゝ)を明けて下さいませんか、お前さん貞藏さんじゃアありませんか」
貞「なに貞藏、己の名を知ってるな、うん成程知ってる訳だ、私(わし)が水街道へ先生のお供にいった事があるから、今明けるよ、妙なもんだなア、おう好(よ)い塩梅にこれ雪が上って来た、大層積ったなア、おゝおゝ、ふッ、足の甲までずか/\踏み込む様だ、待ちな今明けるぞ、待ちな、閂(かんぬき)がかって締りが厳重にしてあるから、や、そら、おや一人で傘なしかい」
隅「はい少しは降っておりましたが、気が急(せ)きましたから、跣足(はだし)で参りました」
貞「おゝ/\私(わし)はやっと此処(こゝ)まで雪を渉(わた)って来たのだが、能く夜中(やちゅう)に渡しの船が出たねえ」
隅「はい、あの、船頭は馴染でございますから、頼んで渡して貰って、漸(やっ)とのことで参りました」
貞「それはえらい、さア此方(こっち)へ、先生たった一人で渡を渡って跣足で参ったと云うので」
安「それは思い掛けない、なに傘なしで、それはそれは、雪中といい、どうも夜中といい、一人でえらいのう、誠にどうも、さア此方(こっち)へ」
隅「先生誠に暫くお目に掛りませんで」
安「いや誠にこれは、うーん己は無沙汰をしております、暫く常陸へ参った処が、彼方(あちら)で些(ちっ)と門弟も出来たから、近郷の名主庄屋などへ出稽古を致して、久しく彼方にいて、今度又|此方(こちら)へ来た処が、先(せん)に住(すま)った家は人に譲ったから、まア家の出来るまで、当期此の庵室におる積りで、だが手前能く尋ねて来たねえ」
隅「誠にどうも御無沙汰を致しまして」
安「此の夜中雪の降る中を踏分けて何(ど)うして来た」 
七十五
隅「あの今日富五郎が来ましてね、何か先生に頼まれた事があると云って、私の処へ客になって来まして、お酒に酔って何(なん)だか種々(いろ/\)な事を云いますの、けれども其の様子がさっぱり分りませんから、其の事に付いて先生にお目に掛らなければ様子が分りませんから」
安「それはどうも、富五郎が行ったかい、貞藏、富五郎が往ったって」
貞「だから私が先生に申上げて置きました、彼奴(あいつ)は誠にあゝいう処ばかり遊びに参るのが好きでげす、全体道楽者でげすからなア、彼奴|余程(よっぽど)婦人|好(ずき)でげすよ」
安「で、富五郎が往って何(ど)ういう話し振の、まア一杯飲め」
隅「有難うございます、まアお酌を」
安「イヤ一杯飲め」
隅「左様でございますか、貞藏さん、お酌を、恐れ入ります」
貞「いや久し振りでお酌をする、私(わし)の名を心得ているから妙でげすな、久しい前に一度先生のお供を致しましたが、其の時逢った一度で私の名まで覚えているというのは、商売柄は又別なものでげす、お隅さん相変らず美しゅうございますな」
安「これお隅、手前名主の手を切って麹屋の稼ぎ女になったとか、枕附で出るとかいう噂があったが嘘だろうな」
隅「いゝえ嘘ではございません、誠にお恥かしゅうございますけれどもべん/\とあゝ遣ってもいられませんから、種々(いろ/\)考えました処が、江戸には親類もありますから、何卒(どうぞ)江戸へ参り度(た)いと思いまして、故郷(こきょう)が懐かしいまゝ無理に離縁を取って出ましたが、手振り編笠(あみがさ)、姑(しゅうと)が腹を立って追出すくらいでございますから、何一つもくれませぬ、それ故少しは身形(みなり)も拵(こさ)えたり、江戸へ行(ゆ)くには土産でも持って行(ゆ)かなければなりませぬ、それには普通(たゞ)の奉公では埓(らち)が明きませんから、いや/\ながら先生お恥かしい事になりました」
安「オヽ左様か、じゃア自(みずか)ら稼いで苦しみ、金を貯めてなにかい身形を拵えて江戸へ行(い)こうと云う訳か、どうも能く離縁が出たのう」
隅「それが向(むこう)で出さないのを此方(こっち)から強情に取りましたので、先生誠に久し振でございますねえ」
安「ウンそれは妙だなア」
貞「これは先生妙でげすな、貴方の方でお呼び遊ばさぬのにお隅さんが此の雪の降る中を尋ねて来るなんて、自然にどうも貴方の…実に感服でげすなア」
安「なにそう云う訳でもなかろう、何か是には訳があって来たんだろう、なにかい富五郎がどういう事を云ったい」
隅「はい、富さんの云うには、べん/\とこんなア卑(いや)しい奉公をするよりも、一角先生の御新造にならないかといいますから、馬鹿なことをお云いでない、一旦名主の家(うち)へ縁付(かたづ)いたのだから、披露(ひろめ)はしないでも、今度|行(ゆ)けば再縁をする訳じゃアないか、それだから先生は決して御新造になさる訳はない、妾にすると仰しゃればまだしもの事だけれども、御新造にというのは訝(おか)しいじゃアないかというと、いゝえ全くお前さえよければ先生は御新造になさる思召(おぼしめ)しがあるのだから、お前がたって…頼みたいと思うなら、骨を折って宜(よ)いように執成(とりな)すから了簡を決めろといいますから、それは誠に思掛(おもいがけ)ない有難いこと、私の様な者を先生が仮令(たとえ)妾にでもなすって下さるなら、私は本当に浮ぶ訳で、べん/\とこんな処にいたくないから、屹度(きっと)執成(とりな)しておくれかというと、お酒が始まって、すると彼(あ)の人の癖で直(すぐ)に酔ってしまって、まア馬鹿らしいじゃアありませんか、先生に取持つ代りにおれの云う事を聞けといって口説き始めたんでございますよ」
安「こりア怪(けし)からん奴だ、どうだい貞藏」
貞「でげすから彼(あれ)は先生いけませぬ、先生は彼奴(あいつ)を御贔屓になさいますが、全体よくない奴で、そういう了簡違いな奴でげすからなア、一体先生が余り贔屓になさり過ぎると思っていましたが、どうも御新造に取持とうという者、いわば仲人(なこうど)が一旦自分のいう事をきかして、それから縁付(かたづ)けると、そんな事がありましょうか、だから彼(あ)れはもう、お置きなさらん方が宜(よ)い、お為になりませぬからなア、彼奴が来てから私は彼奴に使われるような訳で、先生もう彼奴はお止し遊ばした方がようございますよ」
安「お隅、それからどうしたい」
隅「それで、私が馬鹿な事をおいいでないと云うと、そんな詰らんことを云わんでも宜(い)いじゃアないかといいますから、宜いじゃアないかって、お前さんのいう事を聞いた上で先生の処へ妾に行(ゆ)けるか行けないか考えて御覧、富さん酔うにも程がある、冗談は大概におしよと云って居りましたら、終(しまい)には甚(ひど)く酔って来まして、短かいのを抜いて、いう事を聞かなければ是だと嚇(おど)し始めましたから、私も勃然(むっ)として、大概におしなさい、お前は腕ずくで強淫(ごういん)をする積りか、馬鹿な事をする怖い人だ、いやだよと云って行(ゆ)こうとすると、そうはやらぬと私の裾(すそ)を押えて離さない処へ、お兼(かね)さんやお力(りき)さんが出て参りまして取押える拍子に、お兼さんが指に怪我をするやら、金どんも親指に怪我をしまして、漸(ようや)くの事で宥(なだ)めて刄物を抉取(もぎと)ったんでございますが、全く先生の処から来たのなら、明日(あす)の朝先生が入らっしゃるであろう、其の上当人も酒が醒(さ)めるだろうから、まア縛って置くが好(い)いというので縛って置きました」 
七十六
安「こりゃアどうも怪(け)しからん、白刃(はくじん)を振(ふる)っておどすなぞとは、えゝ貞藏」
貞「どうも怪しからん、彼奴(あいつ)はいけません、彼奴一体そういう質(たち)の奴でげす、何(ど)うも怪しからん、抜刀(ぬきみ)で口説くなんて、実に詰らん訳でげすなア、だから先生もう彼奴はお止しなすって家(うち)に置かぬ方が宜しい、何うもそういう……」
安「お隅、貴様はなにか主人に話をして来たか」
隅「はい何(なん)ともいいませんけれども、お力さんに頼んで置きまして、何しろ先生の御様子を聞かなければ分らない、誠に恥かしいことでございますけれども、先生の処へ行って御様子を聞いて、そうして先生に宥(なだ)めて戴き度(た)いと思って出て参りました」
安「左様か、雪の夜(よ)ではあるし、是から行(ゆ)くといっても大変だがあんな馬鹿にからかわないが宜(い)いよ」
隅「なにもう明日(あした)でも宜(よ)うございますけれども、私は是から一人で帰るのは辛くって、参る時は一生懸命で来ましたが、帰るとなると怖くっていけませんが、どうかお邪魔様でも今夜一晩泊めて下さる訳にはいきますまいか」
安「うん、それは宜(よ)い、泊って往(い)くなら、なア貞藏」
貞「是は先生御恐悦でげすなア、お隅さんの方から泊って宜(い)いかと云うのは、こりゃア自然のお授かりでげすな」
安「なにお授かりな事があるものか、のうお隅、だが貴様には何(ど)うも分らぬことが一つある、というのは惣次郎の女房になって何ういう間違いかは知らんけれども、安田一角が惣次郎を殺害(せつがい)致したというので、私(わし)を夫の敵(かたき)と狙って、花車重吉を頼んで何処(どこ)までも討たんければならぬと云って、一頻(ひとしき)り私を狙って居るという事を慥(たしか)に人を以(もっ)て聞いたそう云う手前が心で居たものが、又(ま)た此処(こゝ)に来て、一角の女房になろうとは些(ちっ)と受取れぬじゃないか、のう貞藏」
隅「いゝえ、ねえ貞藏さん考えて御覧、羽生村に居るうちは義理だから敵を討つとか何(なん)とか云いましたけれども、なにもねえ元々私が麹屋に奉公をして居て、あの時分枕付ではありませんが、彼(あ)の名主に受出(うけだ)されて行って、妾同様表向の披露(ひろめ)をした訳でもなし、ほんの半年か一年亭主にしただけでございますから、母親(おふくろ)の前や村の人や角力取の前で義理を立って、敵を討つといいは云いましたが、よく/\考えてみた処が、貴方が屹度(きっと)殺したということが分りもしない、こんな的(あて)もないのに敵を討つといったっても仕方がない訳だから、寧(いっ)そ敵討(かたきうち)という事は止(や)めてしまおう、それにしては何時(いつ)までもべん/\としてもいられませんから、思い切って暇を貰って出たのでございますから、もう今になれば些(ちっ)ともそんな心は有りゃアしません、ねえ、貞藏さん」
貞「成程|是(こ)りゃア本当でげしょう、先生は人を殺す様な方でないし、只お前さんへ執心が有った処から角力取と喧嘩、ありゃア一体角力の方がいけないよ、変に力が有ってねえ、あれだけは先生|甚(ひど)く野暮(やぼ)になりますな」
安「詰らん疑念を受けて飛んだ災難と思ったが、此方(こっち)に居ては面倒だから暫く常陸へ行って居たんだが、手前全くか」
隅「本当でございますから疑りを晴(はら)して一献(ひとつ)戴きましょう」
安「手前飲めるか」
隅「はい、何(なん)だか寒くっていけません、跣足(はだし)で雪の中を駈けて来たもんですから、足が氷の様になっていますもの」
安「うーん中々飲める様になったのう」
隅「勤(つとめ)をして居て仕方なしに相手をするので上りましたよ」
安「ふん妙だのう貞藏」
貞「是は/\お隅さん貴方御酒を飲(あが)りますか、お酌を致しましょう」
隅「はい有難うございます」
と大杯(たいはい)に受けたのをグイと飲んで、
隅「貴方|何(なん)だか真面目でいけないから、私がお酌を致しましょう」
と横目でじっと一角の顔を見ながら酌をする。一角は素(もと)より惚れている女が酌をしてくれるから快く大杯で二三杯傾けると、下地の有った処でござりますからグッスリ酔(えい)が廻って来ます、貞藏も大変酩酊致しまして、
貞「私(わたくし)もう大層戴きました、お隅さん私(わたし)は御免を蒙(こうむ)りまして、長く斯(こ)ういう処にいるべきものでありませんから、左様なら先生御機嫌よう」
隅「まアお待ちなさいよ、先生がお酔いなすったから、おや/\次の方に床が取ってありますねえ」
貞「いゝえ私(わたくし)床を取って置いて、先生がぐっと召上ってしまうと直(すぐ)にお寝(やすみ)という都合にして置きました、えゝ誠に有難う」
隅「じゃア先生一寸貞藏さんを寝かして来ますからお床の中に居てねえ、寝てしまってはいけませんよ」
安「なに貞藏などは棄てゝ置けよ」
隅「いゝえ、そうで有りません、ひょっとして貴方が私の様な者でも娶(よ)んで下さいますと、禍(わざわ)いは下(しも)からといって、あゝいう人に胡麻を摺られると堪(たま)りませんからねえ」
安「なに心配せんでも宜(よ)い、じゃア己|此処(こゝ)に、なに寝やあせんよ、おゝ酔った、貞藏隅が送って遣るとよ」
貞「いや是は恐れ入ります、じゃア先生御機嫌よう、お隅さんようございます」
隅「いゝえ、よくないよ、そら/\危ない、何処(どこ)へ、彼方(あっち)がお台所(だいどこ)かえ」
と蹌(よろけ)る貞藏の手を取って台所(だいどころ)の折廻(おりまわ)った処の杉戸を明けると、三畳の部屋がござります。
隅「さ、貞藏さん此処(こゝ)かえ、おや/\お床が展(の)べてあるの」
貞「いゝえ私の床は参ってから敷(しき)っぱなしで、いつも上げたことはないから、ずっと遣るとこう潜り込むので、へえ有難う」
隅「恐ろしい堅そうな夜具ですねえ」
貞「えゝなに薄っぺらでげすが、此の上へ布団を掛けます、寒けりゃア富五郎のが有りますから其れを掛けてもいゝので、へえ有難う」
隅「さア仰向におなり、よく掛けて上げるから」
貞「是は恐れ入ります、へえ恐れ入ります、御新造に掛けて戴いて勿体至極もない」
隅「さ、掛けますよ、寒いから額まですっかり掛けますよ、そう見たり何かすると間が悪いわね、さ、襟の処(とこ)を」
貞「あゝ有難う」
隅「どうも重たいねえ」
貞「へえ有難う暖(あった)かでげす」
隅「何(なん)だか寒そうだこと、何か重い物を裾(すそ)の方に押付(おっつ)けると暖(あった)かいから」
というので台所を捜すと醤油樽がある、丁度|昨日(さくじつ)取ったばかりの重いやつを提(さ)げて来て裾の方に載せ、沢庵石と石の七輪を掻巻(かいまき)の袖に載せると、
貞「アヽ有難う、大層|暖(あった)かで、些(ちっ)と重たいくらいでげす」
といったが是は成程重たい訳、石の七輪や沢庵石や醤油樽が載っておりますから、当人は押付(おしつ)けられる様な心持。
貞「へえ有難う、暖(あった)かでげす」
といったぎりぐう/\と好(よ)い心持に寝付きました。 
七十七
お隅はそっと奥の様子を見ると、一角が蹌(よろ)けながら、四畳半の床の上に横になった様子でございますから、そっと中仕切(なかじきり)の襖(ふすま)を閉(た)って、台所の杉戸を締め、男部屋の杉戸を静(しずか)に閉って懐中から出して抜いたのは富五郎を殺害(せつがい)して血に染まった儘(なり)の匕首(あいくち)、此の貞藏があっては敵討の妨げをする一人だから、先(ま)ず貞藏(これ)から片付けようというので、仰向に寝て居る貞藏の口の処へどんと腰を掛けながら、力任せに咽喉(のど)を突きましたから、
貞「ワーッ」
といったが掻巻と布団が掛って居りますから、苦(くるし)む声が口籠(くちごも)って外(そと)へ漏れませぬ。一抉(ひとえぐ)り抉ると足をばた/\/\とやったきり貞藏は呼吸(いき)が絶えました。お隅はほっと息を吐(つ)いて掻巻の袖で匕首の血を拭(ぬぐ)って鞘に納め、そっと杉戸を明けて台所へ来て、柄杓(ひしゃく)で水をぐっと呑み、はッはッという息づかい、もう是(こ)れで二人の人を殺しましたなれども、夫の仇(あだ)を討とうという一心でござりますから、顔色(かおいろ)の変ったのを見せまいと、一角の寝床へそっと来て、顔を横に致しまして、
隅「先生/\もうお寝(やす)みなすったか」
安「うーん貞藏は寝たか」
隅「はい能く寝ました、大層酔いましてねえ」
安「酔っても宜(い)いから、あんな奴に構うな、寝ろよ」
隅「寝ろって夜具がありません、私は食客(いそうろう)でございますから此処(こゝ)に坐っています」
安「そんな詰らぬ遠慮にはおよばぬ、全く疑念が晴れて、己の女房になる気なら真実可愛いと思うから、手前に楽をさして真実|尽(つく)すぞ」
隅「誠に有難いこと、勿体ないけれども、そんなら此の掻巻の袖の方から少し許(ばか)り這入りまして」
安「いや少し許りでなくって、たんと這入れ」
隅「それじゃア御免なさいまし」
と夜着(よぎ)の袖をはねて、懐中から出した匕首を布団の下に※[「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている](はさ)んで、足で踏んで鞘を払いながら、
隅「じゃア御免遊ばせ、横になりますから」
安「さア這入れ」
と一角が夜着の袖を自ら揚げる処を、
隅「亭主の敵」
と死物狂いに突掛(つっかゝ)るという。お話二つに別れまして麹屋では更に斯様(かよう)な事は存じません。暁方(あけがた)になってお隅がいない処から家中(うちじゅう)捜しても居ない、六畳の小間が血だらけになっているから掻巻を撥(はね)ると、富五郎が非業な死に様(よう)、傍(わき)の処に書置が二通あって、これにお隅の名が書いてあるから、亭主は驚きまして、直(すぐ)に是を開いて読んで見ると、富五郎の白状に依(よ)って夫の敵は一角と定まり、女ながらも富五郎は容易(たやす)く仕止めたから、直に一角の隠れ家交遊庵へ踏込(ふんご)んで、首尾よく往(い)けば立帰って参りますが、女の細腕、若(も)し返り討になりました時は、羽生村へ話をして此の書置を遣り、又関取へもお便りなすって、惣吉成人の後(のち)関取を頼んで旦那と私の敵を討たして下さい、証拠は富五郎の白状に依って手引をした者は富五郎、斬った者は一角と定まりました、夫故(それゆえ)に今晩交遊庵に忍び入ります、永々(なが/\)お世話様になりました、有難い。という重ね/″\の礼まで書残してあるから、それッというので、麹屋の亭主は大勢の人を頼んで恐々(こわ/″\)ながら交遊庵に参ったのは丁度|夜(よ)の暁方(あけがた)、参って見ると戸が半ば明いて居ります、何事か分りません、小座敷には酒(さけ)肴(さかな)が散(ちら)かって居り、四畳半の部屋に来て見ると情ない哉(かな)お隅は返り討に逢って非業な死に様(よう)。
主「あゝ気の毒なこと、可哀そうに、でも女一人で往(ゆ)くのは実に不覚であった」
もう今更どうも仕方が無いが一角はというと、一角は此処(こゝ)を遁(のが)れて行方知れず二畳の部屋を明けて見ると沢庵石だの、醤油樽だの七輪の載せてある夜具の下に死んで居る者が一人ござりますから、是から直(すぐ)に麹屋から慥(たしか)に証拠があって敵討をしようと思って返討に成ったという事を訴えになり、直にお隅の書置を羽生村へ持たせて遣りました時には、母も惣吉も多助も
「アヽ左様(そう)とは知らずに犬畜生(いぬちきしょう)の様な恩知らずの女と悪(にく)んだのは悪かった、あゝいう愛想尽(あいそづか)しをいったのも、全く敵が討ちたいばっかりでお隅が家(うち)を出たのであったか、憫然(かわいそう)なことをしたが、お隅が心配して命を棄てたばかりに敵は一角と定まり先(ま)ず富五郎は討止めたが、一角の為に返り討になって死んだといえば悪(にく)いは一角、早く討ち度(た)い」
と思いまするが、何しろ年を取った母と子供の惣吉|許(ばか)りでございますから、関取を頼んでと、もう名主役も勤まりませんから、作右衞門という人に名主役を預けて置き、花車重吉が上総の東金(とうがね)の角力に往ったということを聞きましたから、直(すぐ)に其所(そこ)に行(ゆ)こうというので旅立の支度を致し、永く羽生村の名主を致して居りましたから金は随分ござります、これを胴巻に入れたり、襦袢(じゅばん)の襟に縫附けたり、種々(いろ/\)に致して旅の用意を致します、其の内に荷拵(にごしら)えが出来ると、これを作右衞門の蔵へ運んで預けると云う訳で、只今まで名主を勤めて盛んであったのが、ぱったり火の消えた様でござります。 
七十八
母「多助や」
多「ヘエ」
母「作右衞門が処(とけ)え行って来たかい」
多「ヘエ行って参(めえ)りました、蔵の方にゃ預かる者があるから心配(しんぺい)しなえが好(え)え、何時(いつ)でも帰(けえ)ったら直ぐに出すばいて、蔵の下は湿(しけ)るから湿なえ高(たけ)え処(とこ)に上げて置くばいといってね、作右衞門どんも旧来(きゅうれえ)の馴染ではア何(ど)うか止め度(た)いと思うが、敵を討ちに行くてえのだから止められねえッて名残(なごり)イ惜(おし)がってるでがんす、村の者もねえ皆(みんな)御恩になったゞから渡口(わたしぐち)まで送り度(て)えといってますが、あなたそういうから年い取った者ア来ないで好(え)えといって置きましたが、私(わし)だけは戸頭(とがしら)まで送り度(て)えと思って支度ウしました」
母「汝(われ)も送らなえで好(え)いから若(わけ)え者(もん)を止めて呉んろよ、汝が送ると若え者も義理だから戸頭まで送りばいと云って来るだ、そうすりゃア送られると送られる程名残い惜いから、汝も送らなえでも好(え)いよ」
多「だけンどもはア村の者(もん)は兎も角も私(わし)はこれ十四歳の時から御厄介(ごやっけえ)になって居りまして、お前様(めえさん)のお蔭でこれ種々(いろ/\)覚えたり、此の頃じゃアハア手紙の一本|位(ぐれえ)書ける様になったのア前(めえ)の旦那の御厄介(ごやっけえ)でがんすから、お家(うち)がこうなって遠い処(とけ)え行くてえ事(こっ)たら私(わし)も附いて行かないばなんねえが、婆様(ばあさまア)塩梅(あんべい)が悪うござえまして、見棄てちゃアなんねえというから、あなたのお心へ任して送りはしねえが、切(せ)めて戸頭まで送りてえと思って居ります、塚前(つかさき)の彌右衞門(やえもん)どんは死んだかどうか知んねえが、通り道から少し這入(へい)るばかりだから、ちょっくり塚前へも寄ったが宜(え)い」
母「それもどうするかも知んなえが、汝(われ)は送らなえが好(え)いよ」
多「でも戸頭まで送るばいと思って居ります」
母「送らんで宜(え)いというに何故そうだかなア、汝(われ)ア死んだ爺様(とっさま)の時分から随分世話も焼かしたが家(うち)の用も能く働いたから、何(なん)ぞ呉れ度(て)えと思うけれども何も無(な)えだ、是ア惣次郎が居る時分に祝儀不祝儀に着た紋附(もんつき)だ、汝も是(こ)れから己(おら)ア家(うち)が無くなれば一人前の百姓に成るだから、祝儀不祝儀にゃアこういう物も入(い)るから、此の紋附一つくればいと云う訳だよ、それから金も沢山呉れ度(て)えが、茲(こゝ)に金が七両あるだ、是ア少し訳があって己(おら)が手許(てもと)にあるだから是を汝がにくればい、此の紬縞(つむぎじま)ア余(あんま)り良くなえが丹精して捻(より)をかけて織らした紬縞で、ちょく/\阿弥陀様へお参(めえ)りに往ったり寺参(てらめえ)りに着て往った着物だから、是を汝がに呉れるから仕立直して時々出して着るが好(え)え、三日でも旅という譬(たと)えがあるが、子供を連れて年寄が敵討(かたきぶち)に行くだから、一角の行方が知んなえば何時(いつ)帰(けえ)って来るか知んなえ、長(なげ)え旅で死ななえともいわれなえ、是ア己が形見だから、己が無(な)え後(のち)も時々これを着て己がに逢う心持で永く着てくんろ、よ」
多「はい、私(わし)戸頭まで送るばいと思ったに…どうも是(こ)れいりません…形見……形見なんて心細(こゝろぼせ)えこといわずにの、あんたも惣吉さんも達者で帰(けえ)って、もう一度名主役を惣吉さんが勤めなえば私の顔が立ちませんから、どうか達者で帰(けえ)っておくんなさえよ、惣吉さん今迄とア違うから、母様(かゝさま)に世話ア焼(やか)せねえ様に、母様ア大事(でえじ)にしなえばなんねえよ、惣吉さん、好(い)いかえ、今迄の様なだだいっちゃアなりませんよ、いゝかえ、どうか私は戸頭まで」
母「送らんで好(え)えというに汝(われ)が送るてえば皆(みんな)若(わけ)え者(もん)も送りたがるから、誰か来たじゃなえか」
作「ヘエ御免」
多「やア作右衞門どんが」
母「さア此方(こっち)へお這入りなさえ」
作「誠にどうも、魂消(たまげ)て、どういう訳で急に立つことになったか、村の者もどうか止め度(て)えというから、馬鹿アいうな、止められるもんか、今度ア物見遊山でなえ、敵討(かたきぶち)に行くだというと、成程それじゃア止められねえが、まア名残い惜(おし)いってね、若(わけ)え者(もん)ば皆|恩(おん)になってるだから心配(しんぺえ)ぶっております、留守中は役にア立たないがお帰(けえ)りまでア慥(たしか)に荷物は皆(みんな)蔵へ入れて置きましたが、何卒(どうか)まア早く帰(けえ)ってお出でなさる様に願(ねげ)え度(て)えもんで」
母「はい、お前方も旧(ふり)い馴染でがんしたけんども、今度が別れになります、はい有難うござえます、多助や誰か若(わけ)え者(もん)が大勢来たよ」
多「やア兼(かね)か、さア此方(こっち)へ這入(へえ)れ、お、太七郎(たしちろう)此方へ」
太「はい有難う、誠にまアどうも明日(あした)立つだって、魂消て来たでがんす、どうもこれ名残い惜くって渡口まで送るという者(もん)が沢山ござえます」
母「ありゃまア、送らねえでも好(え)えよ、用がえれえに」
太「なに用はなえだから皆(みな)送り度(て)えと思(おめ)えまして、名残い惜いが寒(さみ)い時分だから大事にしてねえ」
母「はい有難う、又祝いの餅い呉れたって気の毒なのう、どうか婆様(ばあさま)ア大事にして」
太「ヘエ婆(ばゝ)アもどうかお目に掛り度(て)えといっております」
母「おゝ誰だい、さア此方(こっち)へ這入りな」
甲「ヘエ、誠にはア、魂消まして、どうかまア止め度(て)えといったら止めてはなんねえって叱られた、随分道中を大事に」
九「ヘエ御免」
母「誰だい」
九「九八郎で、誠にどうもさっぱり心得ませんで、急にお立だと云うこッて、お名残い惜(おし)ゅうござえます」
母「おや/\上(かみ)の婆様(ばゞさま)、あんた出(で)で来(き)なえで好(え)えによ」
婆「はい御免なさえ、誠にまアどうも只お名残い惜いから、どうぞ碌に見えない眼だが、ちょっくりお顔を見てえと思ってお暇乞(いとまごえ)に参(めえ)りました、明日(あした)立つだッて、なんだかあっけなえこったって、私(わし)の嫁なんざア泣(ね)えてばいいるだ、随分|大事(でえじ)になえ」
母「はい有難うござえます、お前(めえ)も随分|大事(でいじ)にして、毎(いつ)も丈夫で能くねえ」
乙「ヘエ誠にどうもお力落しでがんす」
丙「おい/\何(なん)だってお力落しなんていうんだ」
乙「でも飛んだ事だと云うじゃアなえか」
丙「馬鹿いえ、敵討(かたきぶち)にお出でなさるのに力落しという奴があるか」
乙「ヘエ誠にそれはアお目出度(めでて)えこって」
丙「これ/\お目出度えでなえ」
乙「なんでも好(い)いじゃアなえか」
という騒ぎで、村中餅を搗きましたり、蕎麦を打ったり致して一同出立を祝するという、惣吉|仇討(あだうち)に出立の処は一寸一息。 
七十九
さて時は寛政十一年十二月十四日の朝早く起きまして、旅仕度を致しますなれども、三代も続きました名主役、仮令(たとえ)小村(こむら)でも村方を離れて知らぬ他国へ参りますものは快くないもので、殊(こと)には年を取りました惣右衞門の未亡人(びぼうじん)が、十歳になる惣吉という子供の手を曳いて敵討(かたきうち)の旅立でありますから、村方一同も止める事も出来ず、名残を惜んでおります、皆小前の者がぞろ/\と大勢川端まで送って参ります。
母「さア作右衞門さんこれで別れましょうよ、何処(どこ)まで送っても同じ事(こッ)たからこれで」
作「だけんども船へ乗るまで送り申し度(て)いと皆こういっている」
母「だけんども却(けえ)って船に私(わし)乗っかって、皆(みんな)が土手の処にいかい事皆が立っていると、私快くねえ、名残惜くって皆が昨宵(ゆうべ)から止められるのでね、誠に立度(たちた)くござえませんよ、何卒(どうぞ)お前が差図(さしず)して帰しておくんなさいましよ」
作「はい、それじゃア皆(みん)な是(こ)れにてお別れとしましょうよ、えゝ送れば送られる程御新造は心持い悪いてえからよう」
村方の者「左様ならまア随分お大事に」
村方の者「左様ならハアお大事(でえじ)に」
村方の者「左様ならお大事(でえじ)に、早くお帰りなさいましよ」
作「何卒(どうぞ)早くお帰(けえ)りをお待ち申しますよ」
母「さアよ多助どうしたもんだ、汝(われ)其所(こゝ)に立っているから皆(みんな)立っていべえじゃアねえか、汝から先(さ)き帰(けえ)ろというに」
多「おれだけは戸頭まで送る」
母「送らねえでも宜(え)えてえに」
多「送らねえでも宜えたって、村の者(もん)と己とは違う、己はあんた十四の時から側にいるので、何所(どこ)まで送っても村の者(もの)は兎や角云う気遣(きづけえ)ねえから送り申しますよ」
母「あゝいう馬鹿野郎だもの、汝(われ)が送ると云えば皆(みんな)が送ると云うから汝|帰(けえ)れてえに、昨宵(ゆうべ)いったこと分らなえか」
多「ヘエ、じゃア御機嫌よく行っておいでなせえ、惣吉様道中でお母様(っかさま)に世話やかしてはいけませんよ、今までは草臥(くたび)れゝば多助が負(おぶ)って上げたが、もう負って上げる者(もん)はねえよ、エヽ気の毒でもあんた歩いてまいらなえばならんだ、永旅だから我儘してお母様に心配(しんぺえ)かけてはなりませんよ、大事(でえじ)に行っておいでなさえましよ」
惣「うーん、大丈夫だよ、多助も丈夫で」
多「こんな別れの辛い事(こた)ア今迄ねえね」
母「別れエ辛(つれ)えたッておっ死(ち)ぬじゃアなし、関取がに逢って敵い討(ぶ)って目出度く帰(けえ)って来たら宜(え)えじゃアねえか」
多「それまア楽(たのし)みにするだが、あんた昨宵(ゆうべ)も人間は老少不定(ろうしょうふじょう)だなんていわれると心持よくねえからね」
母「これで別れましょうよ」
多「左様なら気い付けてね、初めから余(あんま)りたんと歩かねえようにしてねえ、早く泊る様にしなければなんねえ、寒い時分だから遅く立って早く宿へ着かなけんばいけませんぞ…アヽ押(おさ)ねえでも宜(え)え危(あぶね)えだ、前(めえ)は川じゃアねえか、此処(こゝ)へ打箝(ぶちはま)ったらどうする…何卒(どうぞ)大事(でえじ)に行って来てお呉んなせえましよ…なに笑うだ、名残い惜いから声かけるになんだ馬鹿野郎、情合(じょうええ)のねえ奴だ、笑やアがって……あれまア肥料桶(こいたご)担(かた)げ出しやアがった、桶(たご)をかたせ、アヽ桶を下(おろ)して挨拶しているが……あゝ兼だ新田(しんでん)の兼だ、御厄介(ごやっけい)になった男だからなア、あの男も……惣吉様|小(ちっ)せえだけんども怜悧(りこう)だから矢張(やっぱり)名残い惜がって、昨宵(ゆうべ)も己(おい)らは行くのは厭(いや)だけんども母様(かゝさま)が行くから仕方がねえ行くだって得心したが、後(うしろ)を振返(ふりけえ)り/\行く………見ろよ…………あゝ誰か大(でけ)え馬ア引出しやアがって、馬の蔭で見えなくなった、馬を田の畦(くろ)へ押付(おッつ)けろや…あれまア大え庚申塚(こうしんづか)が建ったな、彼(あ)れア昔からある石だが、あんなもの建てなけりゃアいゝに、庚申塚が有って見えやアしねえ、庚申塚|取除(かた)せ」
村方の者「そんなことが出来よかえ」
と伸上(のびあが)り/\見送って暇(いとま)を告げる者はどろ/\に傍点]帰る。此方(こちら)は後(あと)に心が引かされるから振返り/\、漸々(よう/\)のことで渡を越して水街道から戸頭へさして行(ゆ)きます。すると其の翌年になりまして花車重吉という関取は行違(ゆきちが)いになりましたことで、毎年(まいねん)春になると年始に参りますが、惣次郎の墓詣(はかまいり)をしたいと出て来ましたが、取急ぎ水街道の麹屋へも寄らず、直(すぐ)に菩提所へ参りまして和尚様に逢うと、是(こ)れ/\といい、つい話も長くなりましたが、墓場に香花を沢山あげて、
花車「あゝお隅様情ない事になった、敵(かたき)を打つなれば私(わし)に一言(ひとこと)話をして呉れゝばお前|様(さん)にこんな難儀もさせまいに、今いうは愚痴だが、だが能くお前が死んで呉れた許(ばか)りで敵は安田一角という事が分りましたから、惣吉様に助太刀して屹度(きっと)花車がお前|様(さん)の恨(うらみ)を晴します、アヽ入違いになり上総の東金へ行(ゆ)きなすったか、嘸(さぞ)情ない事だと思いなすったろうが、私はこれから跡追掛てお目に掛り、何処(どこ)に隠れ住(すま)うとも草を分けても引摺り出して屹度敵を討たせますから」
と活(いき)ている者に物をいう様に分らぬ事を繰返し大きに遅れたと帰ろうとすると、ばら/\降出して来て、他(ほか)に行(ゆ)く処もないから水街道の麹屋へ行(ゆ)こうとすると、和尚様は
「少し破れてはいるがこれをさして、穿きにくかろうがこの下駄を」
というので下駄と傘を借りて、これから近道を杉山の間の処からなだれを通って、田を廻ってこう東の方へ付いて行(ゆ)くと、大きな庚申塚が建てゝ在(あ)って、うしろには赤松がこう四五本ありまして、前には沼があり其の辺(ほとり)に枯れ蘆(あし)が生えております、ずうッと見渡すばかりの田畑、淋しい処へばら/\降っかけて来る中をのそり/\やって来ると、突然(だしぬけ)に茂みからばら/\と出た武士(さむらい)が、皆面部を包み、端折(はしおり)を高くして小長(こなが)い大小を落し差しにしてつか/\と来て物をもいわず花車の片方(かた/\)の手を一人が押える、一人は前から胸倉を押えた、一人は背後(うしろ)から羽交責(はがいぜめ)に組付こうとしたが、関取は下駄を穿いており、大きな形(なり)で下駄穿(げたばき)だから羽交責|処(どころ)ではない、漸(ようや)く腰の処へ小さい武士(ぶし)が組付きました。 
八十
花車は恟(びっく)りしたが、左の手に傘を持って居り、右の手は明いて居りましたが、おさえ付けられ困りました。
花車「なんだい、何をなさる」
武士「我々は浪人者で食方(くいかた)に困る、天下の力士と見かけてお頼み申すが、路銀を拝借したい」
花「路銀だって、あんた、私(わし)はお前さん角力取で金も何もありはしないが、困りますよ、そんなことして金持と見たは眼違いで、金も何もない、角力取だよ」
武「金がなければ気の毒だが帯(さ)して居る胴金(どうがね)から煙草入から身ぐるみ脱いで行って貰い度(た)い」
花「そんなこといって困りますよ、身幅(みはゞ)の広いこんな着物を持って行ったって役に立ちはしません、煙草入だって、こんな大きな物持って行ったって提げられやあせん、売ったって銭にもならぬに困りますよ、然(そ)う胴突(どうづ)いては困るよ/\」
といいながら段々花車は後(あと)へ下(さが)ると、後(うしろ)の見上げる様な庚申塚の処へこう寄り掛りました。前の奴は二人で、一人は右の腕を押(おさ)え、一人は胸倉を取って押える、後(うしろ)の奴はせつない、庚申塚と関取の間にはさまれ、
「もっと前に」
といっても同類の名をいうことが出来ない。此の三人は安田一角の廻し者、花車を素っぱだかにしてなぶり殺しに致すようにすれば、是(こ)れだけの手当を遣るということに疾(と)うより頼まれて居る処、出会って丁度幸い、いゝ正月をしようという強慾非道の武士三人、漸(やっ)と捕(とら)まいたが、花車は怜悧(りこう)ものだから、此奴(こやつ)らは悪くしたら廻し者だろうと思い、
花「まアそんなに押えられては困りますね、待ちなさい上げますよ、達(た)ってと云えば上げますよ/\」
武「呉れぬといえば許さぬ、浪人の身の上|切取(きりとり)強盗は武士の習い、云い出しては後(あと)へ引かぬからお気の毒ながら切り刻んでもお前の物は残らず剥(は)ぐぜ、遁(のが)れぬ事と諦めて出しな、裸体(はだか)はお前の商売だ、裸体で行(ゆ)くのは何(なん)でもないわ」
花「だから上げるけれども、待ちなさいよ」
と左の手に持って居た傘をぽんと投出し前から胸倉を取って押えて居る一人の帯を押えて、
花「お前さん、そう胸倉を押していては私(わし)は着物を脱ぐことが出来ぬから、胸倉を緩(ゆる)めて、裸体(はだか)になりますよ、私も災難じゃア、寒くはないから、私に裸体になれてえばなりますから、胸倉を押えていては脱げませんから緩めて」
前の奴のうっかり緩める処を見て、
花「なにをなさる」
といいながら一人の奴の帯を取ってぽんと投げると、庚申塚を飛越して、後(うしろ)の沼の中へ、ぽかんと薄氷(うすごおり)の張った泥の中へ這入った。すると右の手を押えた奴は驚きバラ/\逃げ出した。
花「悪い奴じゃ、こんな村境(むらざかい)の処へ出やアがって追剥(おいはぎ)をしやアがって悪い奴じゃ、今度(こんだ)此辺(こゝら)アうろ/\しやアがると打殺(ぶちころ)すぞ、いや後(うしろ)に誰(た)れか居やアがるな、此奴(こいつ)組付(くみつい)て居やアがったか」
武「誠にどうも恐入った」
花「誠にも糞もいらん、これ汝(てまえ)の様な奴が出ると村の者が難儀するから此の後(のち)為(し)ないか」
武「為(す)る処(どころ)ではござらぬ、誠にどうも」
花「悪いことするな、是からは為ないかどうだ此の野郎」
と押付けると、
武「うーん」
と息が止った。
花「野郎死にやアがったか、くたばったか、野郎|死(しん)だか、アヽ死にやアがった、馬鹿な奴だ」
と捻(ひね)り倒すと、尾籠(びろう)のお話だが鼻血が出ました。
花「みっともねえ面(つら)だなア、此奴(こいつ)も投込んで遣れ」
と襟髪(えりがみ)を取って沼へ投(ほう)り込み、傘を持ってのそり/\水街道の麹屋へ帰るという、角力取という者はおおまかなもので。扨(さて)お話は二つに分れて此方(こちら)は惣吉の手を引き、漸々(よう/\)のことで宿屋へ着きましたなれども、心配を致しました揚句(あげく)で、母親がきり/\癪(しゃく)が起りまして、寸白(すばく)の様で、宿屋を頼んでも近辺に良い医者もございませんから、思う様に癒(なお)りません、マア癒るまではというので、逗留(とうりゅう)致して居りました。其の内に追々と病気も癒る様子なれども、時々きや/\痛み、固い物は食われませんから、お粥(かゆ)を拵(こしら)えてこれを食い、其のうち年も果て正月となり、丁度元日で、元日に寝ていては年の始め縁起が悪いと、田舎の人は縁起を祝ったもので、身体が悪いくせに我慢して惣吉の手を引いて出立致し、小金ヶ原(こがねがはら)へ掛り、塚前村の知己(しるべ)の処へ寄って病気の間厄介になろうと、小金の原から三里|許(ばか)り参ると、大きな観音堂がございますが、霙(みぞれ)がぱら/\降出して来て、子供に婆様(ばあさま)で道は捗取(はかど)りません、とっぷり日は暮れる、すると頻(しきり)に痛くなりました。
惣吉「母様(かゝさま)また痛いかえ」
母「アヽ痛い、あゝあのお医者様から貰ったお薬は小さえ手包の中へ入れて置いたが、彼処(あすけ)え上げて置いたが、あれ汝(われ)持って来たか」
惣「あれ己(おれ)置いて来た」
母「困るなア、子供だア、母様|塩梅(あんべえ)悪(わり)いだから、薬|大事(でいじ)だからてえ考(かんげ)えもなえで」
惣「だって、己もう宜(い)いてえから、よかんべえと思って何も持って来(き)なかった」
母「困ったなア、あゝ痛い/\」
惣「母様雪降って来た様だから、此処(こゝ)に居ると冷てえから、此の観音様の御堂に這入って些(ちっ)と己おっぺそう」
母「そうだなア、押してくれ」
惣「あい」
母「おゝ、大(でけ)え観音様のお堂だ、南無大慈大悲の観世音菩薩様少々|此処(こゝ)を拝借しまして、此処で少し養生致します。さア惣吉力一ぺえ押せよ」
惣「母様此処な処かえ」
母「もっとこっち」
惣「もっと塩梅(あんべえ)が悪くなると困るよう、しっかりしてよう、多助|爺(じい)やアを連れて来ると宜(よ)かった」
と可愛らしい紅葉(もみじ)の様な手を出して母の看病をして、此処を押せと云われて押しても力が足りません。
母「あゝ痛い/\、そう撫(なで)ても駄目だから拳骨で力一ぺえおっぺせよ、拳骨でよ、あゝ痛い/\」 
 

 

八十一
女「何(なん)だか大層|呻(うな)る声が聞えるが……貴方かえ」
母「へえ、旅の者(もん)でござえますが、道中で塩梅(あんべえ)が悪くなりましてね、快くなえうち歩いて来ましたから、原|中(なけ)え掛って寸白が起って痛(いと)うごぜえますから、観音様のお堂をお借り申しました」
女「それはお困りだろう、お待ち、どれ/\此方(こっち)へ這入りなさい」
と観音堂の木連格子(きつれごうし)を明けると、畳が四畳敷いてございます。其の奥は板の間になって居ります、年の頃五十八九にもなりましょう、色白のでっぷりした尼様、鼠木綿の無地の衣を着て、
尼「さア此方(こちら)へお這入りさア/\擦(さす)って上げましょう憫然(かわいそう)に、此の子が小さい手で押しても、擦っても利きはしない、おゝ酷(ひど)く差込んで来る様だ」
母「有難うごぜえます、痛くって堪(たま)らねえでね、宿屋へ一寸泊りましたが癒らねえで」
尼「こう苦(くるし)むに子供を連れて何処(どこ)まで……なに塚前まで、是から三里ばかりで近くはない、薬はお持ちかえ」
母「はい、薬は有ったが惣吉(これ)がにいい付けて置いたら、慌(あわ)てゝ、包の中へ入れて置いたのを置いて参(めえ)りまして」
尼「薬がなくっては困ったもの、斯(こ)ういう時は苦い物でなければいけない、だらすけが宜(い)いが、今此の先にねえ、あの榎(えのき)の出て居る家(うち)が有る、あれから左の方へ構わず曲って行(ゆ)くと、家が五六軒ある、其処(そこ)の前に丸太が立って、家根(やね)の上に葮簀(よしず)が掛って居て、其処に看板が出てあったよ、癪だの寸白|疝気(せんき)なぞに利く何(なん)とか云う丸薬で、*黒丸子(くろがんじ)の様なもので苦い薬で、だらすけみたいなもので、癪には能く利くよ、お前ねえ、知れまいかねえ、行って買って来ないか、安い薬だが利く薬だが、先刻(さっき)通った時榎があって、一寸休む処(とこ)が有って、掛茶屋(かけぢゃや)ではないが、あれから曲って一町ばかり行(い)くと四五軒|家(うち)があるが、何(ど)うか行って買って来て、私が行って上げたいが手が放されないから」
*「漢方医の調剤する腹痛の丸薬。こくがんし」
惣「有難う」
尼「茲(こゝ)にお銭(あし)があるから是を持って行っておいで、心配せずに」
惣「じゃア母様(かゝさま)私(わし)が薬買って来るから」
母「よくお聞き申して早く行って来(こ)うよ」
惣「はい、御出家様お願(ねげ)え申しますよ」
尼「あいよ心配せずに行っておいで、憫然(かわいそう)に年もいかぬに旅だからおろ/\して涙ぐんで、いゝかえ知れたかえ、先刻(さっき)通った四五町先の榎から左に曲るのだよ」
惣「あい」
とおろ/\しながら、惣吉は年は十(とお)だが親孝心で発明な性質(うまれつき)、急いで降る中を四五町先を見当(みあて)にして参りました。先刻通りました処は覚えて居りまして、榎の所から曲ると成程四五軒|家(うち)がある、其処(そこ)へ来て、
惣「此辺(こゝら)に癪に利く薬でだらすけという様な薬は何処(どこ)で売って居(おり)ますか」
と聞くと、
男「此辺に薬を売る処はない、小金(こがね)まで行かなければない」
惣「小金と云うのは」
男「小金までは子供で是からは迚(とて)も行かれない、其の中(うち)には暗くなって原中で犬でも出れば何(ど)うする、早くお帰り」
と云われ心細いから惣吉は帰って観音堂へ駈上(かけあが)って見ると情ないかな母親は、咽喉(のど)を二巻(ふたまき)程丸ぐけで括(くゝ)られて、虚空を掴んで死んで居る。脊負(せお)った物も亦(また)母が持って居た多分の金も引浚(ひきさら)って彼(か)の尼が逃げました。
惣「アヽお母様(っかさま)、何(ど)うして絞殺(しめころ)されたかねえ」
と頸(くび)に縛り付けてある丸ぐけを慄(ふる)えながら解いて居る処へ、通り掛った者は、藤心村(ふじごゝろむら)の観音寺の和尚|道恩(どうおん)と申しまして年とって居りますが、村方では用いられる和尚様、隣村に法事があって男を一人連れて帰りがけ、
和尚「急がんじゃアいかん」
男「何(なん)だかヒイ/\という声が聞える様に思うだ」
和「ヒイ/\と」
男「怖(おっ)かねえと思って、此処(こゝ)はね化物が出る処(とこ)だからねえ」
和「化物なぞは出やせん」
男「けれども原中でヒイ/\という声が訝(おか)しかんべえ」
和「何も出やアしない」
男「あれ冗談じゃアねえ、だん/\、あれ/\」
和「彼(あ)れは観音様のお堂だ、彼処(あすこ)に人が居るのではないか、暗くって見えはせん提灯(ちょうちん)出しな」
と提灯を引ったくって和尚様が来て見ると、縊(くび)り殺された母に縋(すが)り付いて泣いて居る。
和「どういう訳か」
と聞くと泣いてばかり居て頓(とん)と分りません。漸(ようや)くだまして聞くと是れ/\という。
和「飛んだ事だ」
と直(すぐ)に供の男を走らして村方へ知らせますと、百姓が二三人来て死骸と共に惣吉を藤心村の観音寺へ連れて来て、段々聞くと、便(たよ)る処もない実に哀れの身の上でありますから、
和「誠に因縁の悪いので、親の菩提の為、私(わし)が丹精して遣るから、仇(かたき)を討つなぞということは思わぬが宜(い)い、私の弟子になって、母親や兄(あに)さんの為に追善供養を吊うが宜い」
と此の和尚が丹精して漸(ようや)く弟子となり、頭を剃(そ)りこぼち、惣吉が宗觀(そうかん)と名を替えて観音寺に居る処から、はからずも敵(かたき)の様子が知れると云うお長いお話。一寸一息吐きまして。 
八十二
扨(さて)一席申上げます、久しく休み居りました累ヶ淵のお話は、私(わたくし)も昨冬(さくふゆ)より咽喉加答児(いんこうかたる)でさっぱり音声が出ませんから、寄席(せき)を休む様な訳で、なれども此の程は大分咽喉加答児の方は宜(よ)うございますが、また風を引き風声(かざごえ)になりまして、風声と咽喉加答児とが掛持(かけもち)を致して居りますると云う訳でもござりませんが、何時(いつ)までもお話を致さずにも居(お)られませんから、此の程は漸(ようや)く少々よろしゅうございますから、申し残りの処を一席お聞きに入れます。さてお話が二つに分れまして、ちょうど時は享和(きょうわ)の二年七月廿一日の事でございまする。下総の松戸(まつど)の傍(わき)に、戸ヶ崎(とがさき)村と申す処がございまして、其処(そこ)に小僧弁天というのがありまするが、何(ど)ういう訳で小僧弁天と申しますか、敢(あえ)て弁天様が小さいという訳でもなし、弁天様が使いに往(い)く訳でもないが、小僧弁天と申します。境内は樹木が繁茂致しまして、頓(とん)と掃除などを致したことはなく、破(や)れ切れた弁天堂の縁(えん)は朽ちて、間から草が生えて居り、堂の傍(わき)には落葉(おちば)で埋(うず)もれた古井があり、手水鉢(ちょうずばち)の屋根は打(ぶ)っ壊れて、向うの方に飛んで居ります。石塚は苔の花が咲いて横倒(よこッたお)しになって居りまする程の処、其の少し手前に葮簀張(よしずッぱり)があって、住(すま)いではありません、店の端には駄菓子の箱があります、中にはお市(いち)、微塵棒(みじんぼう)、達磨(だるま)に玉兎(たまうさぎ)に狸の糞(くそ)などという汚(きた)ない菓子に塩煎餅がありまするが、田舎のは塩を入れまするから、見た処では色が白くて旨そうだが、矢張(やはり)こっくり黒い焼方の方が旨いようです。田舎の塩煎餅は薄っぺらで軽くてべら/\して居りまする、大きな煎餅壺に一杯這入って居りまする、それから鳥でも追う為か、渋団扇(しぶうちわ)が吊下(ぶらさが)り、風を受けてフラ/\煽(あお)って居りまする、これは蠅除(はえよけ)であると申す事で。袖無(そでなし)を着た婆(ば)アさまが塵埃除(ほこりよけ)の為に頭へ手拭を巻き附け、土竈(どぺッつい)の下を焚(た)き附けて居りまする。破れた葮簀の衝立(ついたて)が立ってあり、看板を見ると御休所(おんやすみどころ)煮染(にしめ)酒と書いてありまするのは、いかさま一膳飯ぐらいは売るのでござりまする。丁度其の日の申刻(なゝつ)下(さが)り、日はもう西へ傾いた頃、此の茶見世へ来て休んでいる武士(さむらい)は、廻し合羽(がっぱ)を着て、柄袋の掛った大小を差し、半股引の少し破(や)れたのを穿いて、盲縞(めくらじま)の山なしの脚半(きゃはん)に丁寧に刺した紺足袋、切緒(きれお)の草鞋(わらじ)を穿き、傍(かたわら)に振り分け荷を置き、菅(すげ)の雪下(ゆきおろ)しの三度笠を深く冠(かぶ)り、煙草をパクリ/\呑んで居りますると、門口から這入って参りました馬方は馬を軒の傍へ繋(つな)いで這入って来ながら、
馬「婆(ばア)さま、お茶ア一杯(いっぺえ)くんねえ、今の、お客を一人|新高野(しんこうや)まで乗(のっ)けて来た」
婆「おめえさまは何時(いつ)もよい機嫌だのう」
馬「いゝ機嫌だって、機嫌悪くしたって銭の儲かる訳でもねえから仕ようがねえのよ」
といいながら彼(か)の縁台に腰を掛けていたる客人を見て、
馬「お客さん御免なせえ、あんた何方(どちら)へおいでゝごぜえやすねえ、もうハア日イ暮れ掛って来やしたから、お泊(とまり)は流山か松戸|泊(どまり)が近くってようごぜえましょう、川を越してのお泊は御難渋(でけえ)ようだが、今夜は何処(どこ)へお泊りか知りやせんが、廉(やす)くやんべえかな」
士「馬は欲しくない」
馬「どうせ帰(けえ)り馬でごぜえやす、今ね新高野までお客ウ二人案内してね、また是から向(むこう)へ往(い)くのでごぜえやすが、手間がとれるから、鰭ヶ崎の東福寺(とうふくじ)泊(どま)りと云うのだが、幾らでもいゝから廉く遣るべえじゃアねえか」
士「馬は欲しくないよ」
馬「欲しくねえたって廉かったら宜(え)えじゃアねえか」
士「廉くっても乗り度(た)くないというのに」
馬「そんな事を云わずに我慢して乗ってッて下せえな」
士「うるさい、乗り度くないから乗らんというのだ」
馬「乗り度くねえたって乗ってお呉んなせえな、馬にも旨(うめ)え物を喰わして遣りてえさ、立派な旦那様、や、貴方(あんた)ア安田さまじゃありやせんか」
士「誰だ」
馬「おゝ先生かえ、誠に久しく会わねえ、まア本当に思えがけねえ、横曾根村にいた安田先生だね」
士「大きな声をするな、己は少々仔細有って隠れている身の上だが、突然(だしぬけ)に姓名をいわれては困る、貴様は誰だ」
馬「誰だって先生、一つ処(とこ)にいた作藏でごぜえやすわね」
士「なに作藏だと、おゝ然(そ)う/\」
作「えゝ誠にお久しくお目に懸りやせんが、何時(いつ)もお達者で若(わけ)えねえ、最早(もう)慥(たし)か四十五六になったかえ」
士「汝(てめえ)も何時も若いな」
作「己(おら)アもう仕様がねえ、貴方(あんた)実はね私(わし)も先刻(さっき)から見た様な人だと思ってたが、安田一角先生とは気が附かなかったよ」
士「己の名を云ってくれるなというに」
作「だッて、知んねえだから気イ附かずに云ったのさ、併(しか)し何(ど)うも一角先生に似て居ると思ったよ」
安「これ名を云うなよ」
作「成程|善々(よく/\)視(み)れば先生だ、何(なん)でも隠し事は出来ねえねえ、笠ア冠(かぶ)っているから知れなかったが安田先生だった」
安「これ/\困るな、名を云うなと云うに」
作「つい惘然(うっかり)いうだが、もう云わねえ様にしやしょう、実に思え掛けねえ、貴方(あんた)今|何処(どこ)にいるだ」
安「少し仔細あって此の近辺に身を隠しているが、汝(てめえ)何(ど)うして彼方(あっち)を出て来た」
作「仕様がねえだ、己(おら)アこんなむかっ腹を立てる気象だが、詰らねえ事で人に難癖え附けられたから、此所(こゝ)ばかり日は照らねえと思って出て来たのさ」
安「汝(てめえ)は慥(たし)か森藏(もりぞう)の宅(うち)に厄介になっていたじゃアねえか」
作「はい、森藏といっちゃア彼処(あすこ)では少しは賭博打(ばくちうち)の仲間じゃア好(い)い親分だが、何(なん)てってももう年い取ってしまって、親分は耄碌(もうろく)していやすから、若(わけ)え奴等もいけえこといやすから、私(わし)も厄介(やっけえ)になってると、金松(かねまつ)と云う奴がいて、其奴(そいつ)か毀(こわ)れた碌でもねえ行李(こり)を持っていて、自分の物は犢鼻褌(ふんどし)でも古手拭でも皆(みんな)其ん中(なけ)え置くだ、或時|己(おれ)が其の行李を棚から下(おろ)してね、明けて見ると、財布(せえふ)が這入(へえ)ってゝ金が一分二朱と六百あったから出して使ってしまうと、其奴がいうには、此の行李の中へ入れて置いた財布の金が無(ね)え、手前(てめえ)取ったろうというから、己ア取りゃアしねえが只黙って使ったのだというと、此の泥坊野郎と云うから私が合点(がってん)しねえ、泥坊とは何(な)んだ、何(ど)ういう理窟で人の事を泥坊と云うのだ、只|汝(われ)が金え出して使ったばかりで、黙って人の物を出して使ったって泥坊と云う理合(りあい)が何処(どこ)に在(あ)るかと、喧嘩をおっ始(ぱじ)めたというわけさ」
安「矢張(やはり)泥坊の様だな」 
八十三
馬「親分のいうには、泥坊に違(ちげ)えねえとッて己の頭ア打擲(ぶんなぐ)って、汝(われ)の様な解らねえものアねえと、親分まで共に己に泥坊の名を附けただが、盗んだじゃアねえ只無断で使ったものを泥坊なんぞという様な気の利かねえ親分じゃ仕様がねえと思って、おッ奔(ぱし)って了(しま)ったが仕様がねえから今じゃア馬小屋見てえな家(うち)を持って、こう遣って、馬子になって僅(わずか)な飲代(のみしろ)を取って歩いてるんだが、ほんの命を繋(つな)いでるばかりで仕様がねえのさ、賭博打の仲間へ這入る事も出来ねえから、只もう馬と首引(くびっぴ)きだ、馬ばかり引いてるから脊骨へないらが起(おこ)るかと思ってるよ、昔馴染に、小遣(こづけえ)を少しばかりおくんなさえな」
安「そんなら汝(てまえ)は風来で遊んでるのか」
作「遊人(あそびにん)という訳でもねえが、馬を引いてるから、賭博を打(ぶ)って歩く事も出来ねえのさ」
安「少し汝(てまえ)に話があるから婆アを烟草でも買いに遣ってくれねえか」
作「はア宜(よ)うごぜえやす、婆(ばア)さま、旦那さま烟草買ってくんろと仰しゃるから買って来て上げなよ、此の旦那は好(いゝ)んでなけりゃア気に入るめえ、唯の方ではねえ安田一角先生てえ」
安「これ/\」
作「はア宜うござえやす、立派な先生だから悪(わり)い烟草なんぞア呑まねえから、大急ぎで好(いゝ)のを買って来(き)なせえ……あんた銭有りますかえ」
安「さ、これを」
作「サ婆さま是で買って来て上げな」
安「使い賃は遣るよ」
婆「はい畏(かしこま)りました、直(じき)にいって参(まえ)りまする」
と婆(ばあ)さんは使賃という事を聞いて悦んで、烟草を買いに出て参りました。後(あと)は両人|差向(さしむかい)で、
安「汝(てまえ)馬を引いてるのが幸いだ、己は木卸(きおろし)へ上(あが)る五助街道の間道に、藤ヶ谷(ふじがや)という処の明神山(みょうじんやま)に当時隠れているんだ」
作「へー、あの巨大(でっけ)え森のある明神さまの、彼処(あすこ)に隠れているのかえ、人の往来(おうれえ)もねえ位(くれえ)の処(とこ)だから定めて不自由だんべえ、彼処は生街道(なまかいどう)てえので、松戸へ通(つ)ン抜けるに余程|近(ちけ)えから、夏になると魚ア車に打積(ぶッつ)んで少しは人も通るが何(なん)だってあんな処に居るんだえ」
安「それには少し訳があるのだ、己も横曾根にいられんで当地へ出たのだ」
馬「何(なん)だか名主の惣次郎を先生が打斬(ぶっきっ)たてえ噂があるが、えゝ先生の事(こっ)たから随分やり兼(かね)ねえ、殺(や)ったんべえ此の横着もの奴(め)、そんな噂がたって居難(いづら)くなったもんだからおっ走(ぱし)って来たんだろう」
安「そんな事はねえが武士(さむらい)の果は外に致方(いたしかた)もなく、旨い酒も飲めないから、どうせ永い浮世に短い命、斬り取(ど)り強盗は武士(ぶし)の習(ならい)だ、今じゃア十四五人も手下が出来て、生街道に隠れていて追剥(おいはぎ)をしているのだ」
作「えゝ追剥を、えれえウーン怖(おっか)ねえウーン、おれ剥ぐなよ」
安「汝(てまえ)なぞを剥いでも仕様がないが、汝は馬を引いてるんだから、偶(たま)には随分多分の金を持ってるよい旅人(りょじん)が、佐原(さはら)や潮来(いたこ)辺(あたり)から出て来るから、汝其の金のありそうな客を見たら、なりたけ駄賃を廉(やす)くして馬に乗せ、此処(こゝ)は近道でございますと旨く騙(だま)かして生街道へ引張り込み、藤ヶ谷の明神山の処まで連れて来てくれ、併(しか)し薄暗くならなくっちゃア仕事が出来ねえから、宜(い)い加減に何処(どこ)かで時を移すか、のさ/\歩けば自然と時が遅れるから、そうして連れて来て呉れゝば、多勢(おおぜい)で取巻いて金を出せといえば驚いてしまう、汝は馬を置(おき)っ放(ぱな)してなり引張ってなり逃げてしまいねえ、そうして百両金があったら其の内一割とか二割とか汝に礼をしようから、おれの仲間にならねえか」
作「そんなら礼が二割といえば百両ありゃア二十両己にくれるのか」
安「そうよ」
作「うめえなア、只馬を引張って百五十文ばかりの駄賃を取って、酒が二合に鰊(にしん)の二本も喰えば、後(あと)に銭が残らねえ様な事をするより宜(い)いが、同類になって、若(も)し知れた時は首を打斬(ぶっきら)れるのかよ」
安「そうよ」
作「ウーン、それだけだな、己はもうこれで五十を越してるんだから百両で二十両になるのなら、こんな首は打斬られても惜くもねえから行(や)るべえか」
安「汝(てまえ)馬を引いておれの隠家(かくれが)まで来い、あの明神山の五本杉の中に一本大きな楠(くすのき)がある、其の裏の小山がある処に、少しばかり同類を集めているんだ」
馬「じゃア彼(あ)のもと三峰山(みつみねさん)のお堂のあった処だね、よくまア彼様(あん)な処にいるねえ、彼処(あすこ)は狼や蟒(うわばみ)が出た処(とこ)なんだから、尤(もっと)も泥坊になれば狼や蟒を怖がっていちゃア出来ねえが、そうかえ」
一角は懐から金を取出し作藏に渡しながら、
安「これは汝(てまえ)が同類になった証拠の為、少しだが小遣銭に遣るから取って置け」
作「え、有難(ありがて)え、これは五両だね、今日は本当に思え掛けねえで五両二分になった」
安「なぜ」
作「不思議な事もあるものだ、今日はね、あのもさの三藏に逢ったよ、羽生村の質屋で金かした婆(ば)ア様が死んだって、其の白骨を高野へ納めるてえ来たが、今日は廿一日だから新高野山へお参(めえ)りをするてえので、與助を供に伴(つ)れて、己が先刻(さっき)東福寺まで送ってッたが、昔馴染だから二分くれるッて云ったが、有難うござえやす、実に今日は思え掛けねえ金儲けが出来た」
安「其の五両を取って見ると、もう同類だから是切り藤ヶ谷へ来ずにいて、若(も)し汝(てまえ)の口から己の悪事を訴人しても汝は矢張(やっぱ)り同罪だ、仮令(たとえ)五両でも貰って見れば同類だから然(そ)う思え」
作「己も覚悟を極めて行(や)るからには屹度(きっと)遣りやすよ、それは宜(い)いが、あんた直(すぐ)に独りで往(い)くか、馬に乗って往かないか、歩いて往く、そうか、左様なら……あゝ其方(そっち)へ往ってア損だから、其の土橋(どばし)を渡って真直(まっすぐ)においでなせえ、道い悪いから気い付けて往きなさえ、なア安田先生も剣術遣いだから、どうして剣術遣いじゃア飯(まんま)ア喰えねえ、あの人は旧時(もと)から随分|盗賊(どろぼう)ぐれえ遣(や)ったかも知んねえ、今己がに五両呉れたは宜いが、是を取って見れば同類に落すといったが、困ったな、あゝもう往ってしまったか、立派な男だ、婆アさまは何処(どこ)まで烟草を買(け)えに往ったんだろう尤も要(い)らないのだ、人払(ひとばれ)えの為に買えに遣ったんだが余(あんま)り長(なげ)えなア」
と独言(ひとりごと)をいっている後(うしろ)から、
男「おい作」
作「え、誰だえ己を呼ばるのア誰だ」
男「お、己だ、久しく逢わねえのう」 
八十四
作「誰だ、人が何処(どこ)にいるのだ」
と云いながら、方々見廻し、振返って見ると、二枚折(にまいおり)の葮(よし)の屏風の蔭に、蛇形(じゃがた)の単物(ひとえもの)に紺献上の帯を神田に結び、結城平(ゆうきひら)の半合羽を着、傍(わき)の方に振分(ふりわけ)の小包を置き、年頃三十ばかりの男で、色はくっきりと白く眼のぱっちりとした、鼻筋の通った、口元の締った美(い)い男で、其の側に居るのは女房と見え、二十七八の女で、頭髪(あたま)は達磨返しに結び、鳴海(なるみ)の単衣(ひとえ)に黒繻子の帯をひっかけに締め、一杯飲んで居る夫婦|連(づれ)の旅人(りょじん)で、
男「作や、此方(こっち)へ這入(へえ)んねえ」
といいながら、葭屏風(よしびょうぶ)を明けて出て来た男の顔を見て、
作「イヤア兄いか、何(ど)うした新吉さん珍らしいなア、久し振りだ、これは何うも珍らしい、実に思え掛けねえ」
新「汝(てめえ)、大きな声で呶鳴(どな)って居たが相変らずだなア」
作「おやお賤さん、誠にお久し振でござえやした」
賤「おや作藏さんお前の噂は時々していたが、相変らず宜(い)い機嫌だね」
作「本当にお賤さん、見違える様になった、少しふけたね、旅をしたもんだから色が黒くなったが、思え思った新吉さんととう/\夫婦になって彼処(あすこ)をおッ走(ぱし)ったのかえ、今まア何処(どこ)にいるだえ」
新「彼方此方(あちこち)と身の置き処(どころ)のねえ風来人間で仕方がねえが、是も皆(みんな)人に難儀を掛け、悪い事をした報(むくい)と思って諦めているが、何商売を仕度(した)くも資本(もとで)がないのだ、汝(てめえ)まぶな仕事を安田と相談していたが、己も半口載せねえか」
作「お前(めえ)あの事を聞いたか、是ハア困ったなア、実は銭がねえで困るから這入(へえ)る真似しただア、だが余り這入(へえ)り度(たく)はねえんだ」
新「旨くいってるぜ、併(しか)し三藏は何処(どこ)へ往ったんだ」
作「三藏かえ、彼(あれ)はね婆(ばア)さまが死んだから其の白骨を本当の紀州の高野へ納めに往くって、祠堂金(しどうきん)も沢山持ってる様子だ、お累さんもあゝいう死様(しによう)をしたのも矢張(やっぱり)お前(めえ)ら二人でした様なものだぜ」
新「汝(てめえ)是から新高野へ馬を引いて往くのなら矢張(やっぱり)帰(けえ)りは此処(こゝ)を通るだろう」
作「鰭ヶ崎の方へ廻るのだが此方(こっち)へ来ても宜(い)い」
新「そうか、おい作」
作「え何(な)んだ」
新「一寸耳を貸せ」
作「ふーん、怖い事だな」
新「汝(てめえ)馬を引いて先方(むこう)へ往って、三藏を此処(こゝ)迄乗せて連れて来たら、何か急に用が出来たと云って、馬を置(おき)っ放(ぱな)して逃げてしまってくれねえか、併(しか)し馬を置いて往かれちゃア三藏に逢って仕事をする邪魔になるから、引いてってくれ、其の代り金を三十両やらア」
作「え、三十両本当に己ア金運(かねうん)が向いて来た、じゃア金をくんろえ、してどういう理窟だ」
新「三藏とは一旦兄弟とまでなったが、お累が死んでからは、互(たげ)えに敵(かたき)同志の様になったのだ」
作「敵同志だって汝(おめえ)が三藏を怨むのアそりゃア兄い些(ち)と無理だんべえ、成程お賤さんの前(めえ)もあるから、そういうか知んねえが、三藏を敵と思(おめ)えば無理だぞ、お前(めえ)が養子に往っても男振が宜(い)いもんだから、お賤さんに見染められ、互(たげ)えに死ぬの生(いき)るのと騒ぎ合い、お累さんを振捨てゝお賤さんとこういう事になったから、お累さんも上(のぼ)せて顔が彼様(あんな)に腫れ出して死んで了(しま)ったのだから、却(かえ)って三藏の方でお前を怨んでいるだろうが、何もお前の方で三藏を悪(にく)み返すという理合(りあい)はあんめえぜ」
新「汝(てめえ)は深い事を知らねえからそんな事をいうんだが、何(なん)でも構わねえ、己が三藏に逢って、百両でも二百両でも無心をいって見ようと思うのだ」
作「三藏|殿(どん)がお前(めえ)に金を貸す縁があるかえ」
新「貸しても宜(い)い訳があるのだよ」
作「三十両|呉(くれ)るなら遣附(やっつ)けやしょう」
新「若(も)し與助の野郎が邪魔でもしたら、汝(てめえ)打擲(ぶんなぐ)ってくれなくっちゃアいけねえぜ」
作「與助|爺(おやじ)なんざアヒョロ/\してるから川の中へ投(ほっ)ぽり込んで了(しま)うがそれも矢張(やっぱり)金づくだがね」
新「強請事(ねだりごと)をいわずに遣って呉れ、其の代り首尾よく遣って利を見た上で汝(おめえ)に又礼をしよう」
作「それじゃア三藏に貸してくれといっても貸さねえといえば礼はねえか、困ったな、じゃア後(あと)の礼の処は当(あて)にはならねえな」
新「まア其様(そん)なものだが、多分旨く往(ゆ)くに違(ちげ)えねえ、若(も)しぐず/\して貸さねえなんどゝいったら、三藏與助の二人を殴(たゝ)っ殺して川の中へ投(ほう)り込んでしまう積りだ、己も安田の提灯持|位(ぐれ)えは遣る了簡だ」
作「お賤さん新吉さんが彼様(あん)な事を云うぜ」
賤「お前度胸をお据(す)え仕方がないよ、私も板の間稼ぎぐらいは遣るよ」
作「アレマア彼様(あん)な綺麗な顔をしていながら、あんな事をいうのも皆(みんな)新吉さんが教えたんだろう、己はどうせ安田の同類にされたから、知れゝば首は打斬(ぶっきら)れる様になってるんだから仕方がねえ、やるべえ/\、おゝ婆(ばゞ)アが帰(けえ)って来やアがった」
新「それじゃア手前(てめえ)馬を引いて早く往(い)け」
作「ハイ、そんなら直(すぐ)に馬ア引いて新高野へ三藏を迎(むけ)えに参(めえ)りやしょう」
と出て行(ゆ)きました。これから新吉お賤も茶代を払って其処(そこ)を立出(たちい)でました。其の内もう日はとっぷりと暮れましたが、葮簀張(よしずッぱり)もしまい川端の葦(よし)の繁った中へ新吉お賤は身を隠して待って居ると、向(むこう)から三藏が作藏の馬に乗って参りました。
作「與助さん貴方(あんた)もう何歳(いくつ)になるねえ、まだ若(わけ)えのう、長く奉公してるが五十を一つ二つも越したかえ」
與「そうでねえ、もう六十に近くなったから滅切(めっきり)年を取って仕舞った」
作「羽生村の旦那ちょっくら下りてお呉んなせえ」
三「なんだ」
作「なんでも宜(い)いから」
三「坂を上(あが)ったり下りたりするので己も余程|草臥(くたび)れたが、馬へ乗って少し息を吐(つ)いたが、馬へ乗ると又|矢張(やっぱり)腰が痛いのう」
作「旦那誠に御無心だが、私(わし)はね、少し用があるのを忘れて居たが、実は此の先へ往って炭俵を六俵積んで来て呉れと頼まれてるんだが、どうしても積んで往(い)かねばなんねえ事があるだ、誠にお気の毒だが此処(こゝ)で下りて下せえな、もう此処から先は平(たいら)な道だから歩いても造作ねえんですが」
三「それじゃア何(どう)でもいゝ汝(てめえ)が困るなら下りて歩いて往こう」
と云いながら馬から下りる。
作「私(わし)は少し急ぎますから御免なせえ」
と大急ぎで横道の林の蔭へ馬を引込(ひきこ)みました。 
八十五
日はどっぷりと暮れ、往来も止(とま)りますと、戸ヶ崎の小僧弁天堂の裏手の草の茂みからごそ/\と葦(あし)を分けながら出て来た新吉は、ものをもいわず突然(いきなり)與助の腰を突きましたから堪(たま)りません、與助は翻筋斗(もんどり)を打って、利根の枝川へどぶんと水音高く逆(さか)とんぼうを打って投げ込まれましたから、アッといって三藏が驚いている後(うしろ)から、新吉が胴金を引抜いて突然(だしぬけ)に三藏の脇腹へ突込(つきこ)みました、アッといって倒れる処へ乗掛り、胸先を抉(えぐ)りましたが、一刀(いっぽん)や二刀(にほん)では容易に死ねません、死物狂い一生懸命に三藏は起上り、新吉の髻(たぶさ)をとって引き倒す、其の内與助は年こそ取って居りまするが、田舎漢(いなかもの)で小力(こぢから)もあるものでございますから、川中から這い上(あが)って参りながら、短いのを引き抜き、
與「此の野郎なにをしやアがる」
と斬って掛る様子を見るよりお賤は驚き、新吉に怪我をさせまいと思い、窃(そっ)と後(うしろ)から出て参り、與助の髻を取って後の方へ引倒すと、何をしやアがるといいながら、手に障った石だか土の塊(かたま)りだか分りません、それを取って突然(いきなり)お賤の顔を打ちました。お賤は顔から火が出た様に思い「アッ」といって倒れると、乗(の)し掛り斬ろうとする処へ、馬子の作藏が與助の傍(わき)から飛び出して、突然(いきなり)足を上げて與助を蹴りましたから堪(たま)りません、與助はウンといって倒れました。新吉は刀を取直して又(ま)た一刀(いっとう)三藏の脇腹をこじりましたから、三藏も遂(つい)に其の儘息が絶えました。すると手早く三藏の懐へ手を入れ、胴巻の金を抜き取って死骸を川の中へ投げ込んで仕舞い、
新「お賤/\」
賤「アイ、アヽ痛い、どうも酷(ひど)い事をしやアがった、石か何か取って、いやという程私の顔を打(ぶ)ちやアがった」
新「手出しをするからだ、黙って見ていればいゝに」
賤「見て居(い)ればお前が殺されて仕舞ったのだよ、與助の野郎がお前の後(うしろ)から斬りに掛ったから、私が一生懸命に手伝ったのだが、もう少しでお前斬られる処だったよ」
新「そうか、夢中でいたから、ちっとも知らなかった」
賤「與助をよく蹴倒したのう」
作「え、なに己だ、林の蔭に隠れていたが、危ねえ様子だから飛び出して来て、與助野郎の肋骨(あばら)を蹴折って仕舞った、兄い無心|処(どころ)じゃねえ突然(いきなり)に行(や)ったんだな」
新「汝(てめえ)はもう帰(けえ)ったのかと思った」
作「林の蔭に隠れていて、何(ど)うだかと様子を見ていたのよ」
新「誰か人は来やアしねえか、汝(てめえ)気を附けて呉れ」
作「大丈夫(でえじょうぶ)だ、誰も来る気遣(きづけえ)はねえが、割合(わりえゝ)を貰(もれ)え度(て)えなア」
新「汝(てめえ)はよく嘘を吐(つ)く奴だな、三藏が高野へ納める祠堂金を持ってるというから、懐を探して見たが、金なんぞ持っていやアしねえ、漸(ようや)く紙入の中に二両か三両しかありゃアしねえ」
作「冗談じゃアねえぜ、そんな事があるもんか」
新「だって汝(てめえ)嘘を吐いたんだ」
作「なに己が嘘なんぞ吐くものか、此の野郎殺して置いて其の金を取って仕舞ったに違(ちげ)えねえ、そんな事をいっても駄目だ」
新「なに本当だよ」
作「死骸(しげえ)はどうした」
新「川の中へ投(ほう)り込んでしまった」
作「嘘をいえ、戯(ふざ)けずに早くよこせよ、戯けるなよ」
新「なに戯けやアしねえ」
といわれ、作藏は少し怒気(どき)を含み、訛声(だみごえ)を張上げ、
作「手前(てめえ)の懐を改めて見よう、己だって手伝って、姐(あね)さんを斬ろうとする與助を己が蹴殺して、罪を造っているんだ、裸体(はだか)になって見せろやい、出せってばやい」
といいながら新吉に取縋(とりすが)る。
新「遣るよ、遣るから待てというに、戯けるな、放せ」
作「なんだ、人を欺(だま)して、金え出せよう」
新「遣るから待てよ、遣るというに、お賤、その柳行李(やなぎごり)の中に少し許(ばか)り金が這入(へえ)ってるから出して作藏に遣んな、三藏の懐には無(ね)えんだから沢山(たんと)は遣れねえ、十両ばかり遣ろう」
と気休めをいいながら隙(すき)を覘(ねら)ってどんと作藏の腰を突くと、どぶりと用水へ落ちましたが、がば/″\と直(すぐ)に上(あが)って参りまする処を見て、ずーんと脳を割附(わりつ)けると、アッ、といってがば/″\と沈みましたが、又這上りながら、
作「斬りやアがったなア此の野郎」
と云う声がりーんと谺(こだま)がして川に響きました。尚(なお)も這上ろうとする処を、また一つ突きましたから、仰むけにひっくりかえりましたが、又這上って来るのを無暗(むやみ)に斬り附けましたから、馬方の作藏は是迄の悪事の報いにや遂(つい)に息が止ったと見え、其の儘土手の草を攫(つか)んだなり川の中へのめり込んで仕舞いました。
賤「お前まア恐ろしい酷(ひど)い事をするねえ」
新「此の野郎はお饒舌(しゃべり)をする奴だから、罪な様だが五両でも八両でも金を遣るのは費(ついえ)だから切殺して仕舞ったが、もう此処(こゝ)にぐず/\してはいられねえ」
賤「私はどうも殴(ぶた)れた処(とこ)が痛くって堪(たま)らないよ」
新「何(な)んだか暗くって判然(はっきり)分らねえ」
といいながら透(すか)して見ると、石だか土塊(どろ)だか分りませんが、機(はず)みとはいいながら打(ぶ)たれた痣(あざ)は半面紫色に黒み掛り、腫(は)れ上っていましたから、新吉がぞっとしたと申すは、丁度七年|後(あと)の七月廿一日の夜(よ)、お累が己を怨(うら)み、鎌で自殺をした彼(あ)の時に、蚊帳の傍(そば)へ坐って己の顔を怨めしそうに睨(にら)めた貌(かお)が、実に此の通りの貌だが、今お賤が思い掛ない怪我をして、半面|変相(へんそう)になるというのも、飽(あく)までお累が己の身体に附纒(つきまつわ)って祟(たゝり)をなす事ではないかと、流石(さすが)の悪党も怖気立(こわげた)ち、ものをも言わず暫くは茫然(ぼんやり)と立って居りましたが、お賤は気が附きませんから、
賤「お前早く人の来ない中(うち)に何処(どこ)かへ往って泊らなくっちゃアいけない」
といわれ、漸々(よう/\)心附き、これからお賤の手を取って松戸へ出まして、松新(まつしん)という宿屋へ泊り、翌日雨の降る中を立出(たちい)でて本郷山(ほんごうやま)を越し、塚前村にかゝり、観音堂に参詣を致し、図(はか)らずお賤が、実の母に出逢いまするお話は一息つきまして。 
八十六
申続きました新吉お賤は、実に仏説で申しまする因縁で、それ程の悪人でもございませんでしたが、為(す)る事|為(な)す事に皆悪念が起り、人を害す様な事も度々(たび/\)になりまする。扨(さて)二人は松戸へ泊り、翌廿二日の朝立とうと致しますると、秋の空の変り易(やす)く、朝からどんどと抜ける程降りますから立つ事が出来ませんで、ぐず/″\して晴れ間を待っている中(うち)に丁度|午刻過(ひるすぎ)になって雨が上りましたから、昼飯(ひるはん)を食べて其処を立ちましたなれども、本街道を通るのも疵(きず)持つ脛(すね)でございまするから、却(かえ)って人通りのない処がよいというので、是から本郷山を抜け、塚前村へ掛りました時分は、もう日が暮れかゝり、又|吹掛(ふっか)け降(ぶり)に雨がざア/\と降って来ましたから、
新「アヽ困ったもんだ」
と云いつゝ二三町参りますと傍(かたわら)の林の処に小さい門構(もんがまえ)の家(うち)に、ちらりと燈火(あかり)が見えましたから、
新「兎も角も彼処(あすこ)へ往って雨止(あまや)みをしよう」
といいながら門の中へ這入って見ると、木連格子(きつれごうし)に成っている庵室で、村方の者が奉納したものか、丹(たん)で塗った提灯が幾つも掛けてあります。正面には正観世音(しょうかんぜおん)と書いた額が掛けてあります。
新「お賤」
賤「あい」
新「こんな処に宿屋はなし、仕方がないから此の御堂(おどう)で少し休んで往こう、お賽銭(さいせん)を上げたらよかろう、坊さんがいるだろう」
といいながら格子の間から覘(のぞ)いて見ると、向(むこう)に本尊が飾って有りまする。正観世音の像を小さいお厨子(ずし)の中へ入れてあるのですが、余り良い作ではありません、田舎仏師の拵(こしら)えたものでございましょう、なれ共金箔を置き直したと見え、ぴか/″\と光って居りまする、其の前に供えた三(み)つ具足は此の頃納まったものか、まだ新しく村名(むらな)が鏤(ほ)り附けてあり、坊さんが畠から切って来たものか黄菊(きぎく)に草花が上(あが)って居ります、すると鼠の単物(ひとえもの)を着、腰衣(こしごろも)を着けた六十近い尼が御燈明(おとうみょう)を点(つ)けに参りましたから、
新「少々お願いがございますが、私共(わたくしども)は旅のもので此の通りの雨で難渋致しますが、どうか少々の間|雨止(あまやみ)を仕度(した)いと存じますが、お邪魔でも此の軒下を拝借願い度(た)いものでございまする」
尼「はい、御参詣のお方でございますかえ」
新「いえ通り掛りの者ですが、此の雨に降りこめられました、尤(もっと)も有験(あらたか)な観音様だと聞いておりますからお参りもする積りでございまする」
尼「吹掛(ふっか)け降(ぶ)りですから其処(そこ)に立ってお出でゞは嘸(さぞ)お困りでございましょう、すぐ前に井戸もありまするから足を洗って此方(こちら)へ上(あが)って、お茶でも飲みながら雨止をなすっていらっしゃいまし」
新「有難う存じます、えお賤、金か何か遣れば宜(い)いから上(あが)んねえ、じゃア御免なさい、誠に有難う存じます」
尼「其処(そこ)に盥(たらい)もありますから、小さい方を持って往って足を洗ってお出でなさい」
新「へえ」
と是(こ)れから足を洗い、
新「誠にお蔭様で有難うございます」
と上りましたが、新吉もお賤もあつかましいから、囲炉裡(いろり)の側へ参り、
新「お蔭様で助かりました」
賤「誠にどうもとんだ御厄介さまでございました」
尼「おや/\御夫婦|連(づれ)で旅をなさいますの、藤心村まで出るとお茶漬屋ぐらいはありますが、此の辺には宿屋がございませんから定めてお困りでしょう、遠慮なしにもっと囲炉裡の側へお寄んなさい」
新吉は何程か金子を紙に包んで尼の前へ差出し、
新「是は誠に少し許(ばか)りでございますが、お蔭で助かりましたから、お茶代ではありませんが、どうかこれで観音様へお経でもお上げなすって下さいまし」
尼「いえ/\それは決して戴きません、先刻(さっき)貴方(あんた)は本堂へお賽銭をお上げなすったから、それでもう沢山でございます、御参詣の方は皆(みんな)お馴染になって、他村(たそん)のお方が来ても上(あが)り込んで、私の様な婆(ばゞあ)でも久しく話をして入らっしゃいますのですから御心配なく寛(ゆっく)りとお休みなすって入らっしゃいまし」
と云われ、新吉はお賤の顔を見ながら小声にて、
新「だって、きまりが悪(わ)りいな、これはほんの私の心許りでございますから、貴方|後(あと)でお茶請(ちゃうけ)でも買って下さいまし」
尼「いえ私は喰物(たべもの)は少しも欲しくはありませんお賽銭を上(あげ)たからもうお金などは宜(よ)うございますよ」
新「そんな事をいわずに何卒(どうか)取って置いて下さいまし」
尼「そうでございますか、又気になすっては悪いし、折角の思召(おぼしめし)ですから戴いて置きましょう、日が暮れると雨の降る時は寒うございます、直(じき)に本郷山が側ですから山冷(やまびえ)がしますから、もっと其の麁朶(そだ)をお焚(く)べなさいまし」
新「へい有難う存じます」
といいながら松葉や麁朶を焚べ、ちょろ/\と火が移り、燃え上りました光で、お賤が尼の顔を熟々(つく/″\)見ていましたが、
賤「おやお前はお母(っか)アじゃないか」 
八十七
尼「はい、どなたえ」
賤「あれまア何(ど)うもお母アだよ、まア何うしてお前尼におなりだか知らないが、本当に見違えて仕舞ったよ、十三年|後(あと)に深川の櫓下の花屋へ置去(おきざり)にして往(い)かれた娘のお賤だよ」
と云われて尼は恟(びっく)りし、
尼「えゝ、まアどうも、誠に面目次第もない、私も先刻(さっき)から見た様な人だと思ってたが、顔貌(かおかたち)が違ったから黙ってたが、どうも実に私は親子と名乗ってお前に逢われた義理じゃアありませんが、頭髪(あたま)を剃(す)って斯(こ)んな身の上になったから逢われますものゝ、定めて不実の親だと腹も立ちましょうが、どうぞ堪忍して下さいあやまります」
賤「それでも能く後悔してね」
尼「此の通りの姿になって、まア此の庵室に這入って、今では毎日お経を上げた後(あと)では観音様へ向って、若い時分の悪事を懺悔してお詫び申していますけれども、中々罪は消えませんが、頭髪(あたま)を剃(す)って衣を着たお蔭で、村の衆(しゅ)がお比丘(びく)様とか尼様とか云って、種々(いろ/\)喰物(たべもの)を持って来て呉れるので、何(ど)うやら斯(こ)うやら命を繋(つな)いでいるというだけのことで、此の頃は漸々(よう/\)心附いて、十六の時置去にしたお賤はどうしたかと案じていても、親子で有(あり)ながら訪ねる事も出来ないというのは皆(みんな)罰(ばち)と思って後悔しているのだよ」
賤「どうもね本当に、それでも能くまア法衣(ころも)を着る了簡になったね」
といいながら、新吉に向い、
賤「お前さんにも話をした深川櫓下の花屋の、それね……お前さんの様な親子の情合(じょうあい)のない人はないけれ共能くまア後悔してお比丘におなりだね」
尼「比丘なんぞになり度(た)い事はないが、是も皆(みんな)私の作った悪事の罰(ばち)で、世話のして呉れ人(て)もなくなり、段々|老(と)る年で病み煩いでもした時に看病人もない始末、あゝ何(ど)うしたら宜(よ)かろう、あゝ是も皆(みんな)罰ではないかと身体のきかない時には、真(ほん)に其の後悔というものが出て来るものでのうお賤、して此のお方はお前の良人(おつれあい)かえ」
賤「あゝ」
新「いつでも此女(これ)から話は聞いていました、一人お母様(っかさん)があるけれ共|生死(いきしに)が分らない、併(しか)し丈夫な人で、若い気象だったから達者でいるかとお噂は能くしますが、私は新吉と云う不調法ものでございますが、今から何分幾久しゅう願います」
尼「此のお賤は私の方では娘とも云えません、又親とは思いますまい、憎くってねえ、あゝ実にお前に会うのも皆(みんな)神仏(かみほとけ)のお叱りだと思うと、身を切られる程つらいと云う事を此の頃始めて覚えました、云わない事は解りますまいが、私は此の頃は誰が来ても身の懺悔をして若い時の悪事の話を致しますと、遊びに来る老爺(おじい)さんや老婆(おばあ)さんも、おゝ/\そうだのう、悪い事は出来ないものだと云って、又其の人達が若い時分の罪を懺悔して後悔なさる事があるから、私が懺悔をしますと人さまもそれに就(つい)て後悔して下されば私の身の為にもなろうと思って、逢う人|毎(ごと)に私の若い時分の悪事を懺悔してお話を致します、私も若い時分の放蕩と云うものは、お賤は知りませんが中々一通りじゃアありませんでしたよ」
新「お母(っか)さん、なんですか、お前さんは元(も)と何処(どこ)の出のお方でございます、多分|江戸子(えどっこ)でしょう」
尼「いえ私の産れは下総の古河(こが)の土井さまの藩中の娘で、親父(おやじ)は百二十石の高(たか)を戴いた柴田勘六(しばたかんろく)と申して、少々ばかりは宜(よ)い役を勤めた事もある身分でございましたからお嬢様育ちで居たのですが、身性(みじょう)が悪うございまして、私が十六の時家来の宇田金五郎(うだきんごろう)という者と若気の至りで私通(いたずら)をし、金五郎に連れられて実家を逃出し江戸へ参り、本郷菊坂に世帯(しょたい)を持って居りましたが丁度あの午年(うまどし)の大火事のあった時、宝暦(ほうれき)十二年でございましたかね、其の時私は十七で子供を産んだのですが、十七や十八で児(こ)を拵(こしら)える位だから碌なものではありません、其の翌年金五郎は傷寒(しょうかん)を煩(わず)らって遂(つい)に亡(なく)なりましたが、年端(としは)もゆかぬに亭主には死別(しにわか)れ、子持ではどうする事も出来ませんのさ、其の子供には名を甚藏と附けましたが、何(なん)に肖(あや)かったのか肩の処に黒い毛が生えて、気味の悪い痣(あざ)があって、私も若い時分の事だから気色が悪く、殊(こと)に亭主に死なれて喰い方にも困るから、菊坂下の豆腐屋の水船(みずぶね)の上へ捨児(すてご)にして、私は直(す)ぐ上総の東金へ往って料理茶屋の働き女に雇われて居る内に、船頭の長八(ちょうはち)という者といゝ交情(なか)となって、また其処(そこ)をかけ出して出るような事に成って、深川|相川町(あいかわちょう)の島屋(しまや)と云う船宿を頼み、亭主は船頭をし、私は客の相手をして僅(わず)かな御祝儀を貰って何(ど)うやら斯(こ)うやらやって居る中(うち)に、私は亭主運がないと見え、長八がまた不図(ふと)煩いついたのが原因(もと)で、是も又死別れ、どうする事も出来ないから心配して居ると、島屋の姐(ねえ)さんのいうには、迚(とて)もお前には辛抱は出来まいが、思い切って堅気にならないかと云われ、小日向の方のお旗下の奥様がお塩梅が悪いので、中働(なかばたらき)に住み込んだ処が、これでも若い時分は此様(こん)な汚ない婆(ばゞ)アでもなかったから、殿様のお手が附いて、僅(わずか)な中(うち)に出来たのは此のお賤」 
八十八
尼「此娘(これ)も世が世ならばお旗下のお嬢さまといわれる身の上だが、運の悪いというものは仕方がないもので、此のお賤が二歳(ふたつ)の時、其のお屋敷が直(じき)に改易に成ってしまい、仕様がないから深川櫓下の花屋へ此の娘(こ)を頼んで芸妓(げいしゃ)に出して、私の喰い物にしようと云う了簡でしたが、又私が網打場の船頭の喜太郎(きたろう)という者と私通(いたずら)をして、船で房州(ぼうしゅう)の天津(あまつ)へ逃げましたがね、それからというものは悪い事だらけさ、手こそ下(おろ)して殺さないでも口先で人を殺すような事が度々(たび/\)で、私の為に身を投げたり首を縊(くゝ)って死んだ男も二三人あるから、皆(みんな)其の罰(ばち)で今|斯(こ)う遣って居るのも、彼(あ)の時に斯ういう事をしたから其の報いだと諦め、漸々(よう/\)改心をしましたのさ、仕方がないから頭髪(あたま)を剃(そり)こかし破れ衣を古着屋で買ってね、方々托鉢して歩いて居る中(うち)、此の観音様のお堂には留守居がないからお比丘さん這入って居ないかと村の衆に頼まれるから、仮名附のお経を買って心経(しんぎょう)から始め、どうやら斯うやら今では観音経ぐらいは読めるように成ったが、此の節は若い時分の罪滅(つみほろぼ)しと思い、自分に余計な物でもあると困る人にやって仕舞うくらいだから、何も物は欲しくありません、村の衆が時々畠の物なぞを提げて来てくれるから、もう別にうまい物を喰度(たべた)いという気もなし、只観音様へ向ってお詫事をして居るせえか、胸の中(うち)の雲霧(くもきり)が晴れて善に赴(おもむ)いたものだから、皆さんがお比丘様/\と云って呉れ、此の観音様も段々繁昌して参り、お比丘さんにお灸(きゅう)を据(す)えて貰えのお呪(まじない)をして貰い度(たい)のといって頼みに来るから、私も何も知らないが、若い時分から疝気(せんき)なら何処(どこ)が能(い)いとか歯の痛いのには此処(こゝ)が能(よ)いとか聞いてるから据えて遣ると、向(むこう)から名を附けて観音様の御夢想(ごむそう)だなぞと云って、今ではお前さん何不足なく斯(こ)う遣って居ますが今日|図(はか)らずお前達に逢って、私は尚(な)お、観音様の持って入らっしゃる蓮(はす)の蕾(つぼみ)で脊中を打たれる様に思いますよ、まだ二人とも若い身の上だから、是から先(さ)き悪い事はなさらないように何卒(どうぞ)気をお附けなさい、年を老(と)ると屹度(きっと)報(むく)って参ります、輪回応報(りんねおうほう)という事はないではありませんよ」
と云われ新吉は打萎(うちしお)れ溜息を吐(つ)きながらお賤に向い、
新「何(ど)うだえお賤」
賤「私も始めて聞いたよ、そんならお母(っか)さんお前がお屋敷へ奉公に上(あが)ったら、殿様のお手が附いて私が出来たといえば、其のお屋敷が改易にさえならなければ私はお嬢様、お前は愛妾(めかけ)とか何(な)んとか云われて居るのだね」
尼「お前はお嬢様に違いないが、私は追出されてでも仕舞う位の訝(おか)しな訳でね」
新「へい其の小日向の旗下とは何処(どこ)だえ」
尼「はい、服部坂上の深見新左衞門様というお旗下でございます」
といわれて新吉は恟(びっく)りし、
新「エヽ、そんなら此のお賤は其の新左衞門と云う人の胤(たね)だね」
尼「左様」
新「そうか」
と口ではいえど慄(ぞっ)と身の毛がよだつ程恐ろしく思いましたは、八年|前(ぜん)門番の勘藏が死際(いまわ)に、我が身の上の物語を聞けば、己は深見新左衞門の次男にて、深見家改易の前(まえ)に妾が這入り、間もなく、其の妾のお熊というものゝ腹へ孕(やど)したは女の子それを産落すとまもなく家が改易に成ったと聞いて居たが、して見ればお賤は腹違いの兄弟であったか、今迄知らずに夫婦に成って、もう今年で足掛七年、あゝ飛んだ事をしたと身体に油の如き汗を流し、殊(こと)には又其の本郷菊坂下へ捨児(すてご)にしたというのは、七年以前、お賤が鉄砲にて殺した土手の甚藏に違いない、右の二の腕に痣(あざ)があり、それにべったり黒い毛が生えて居たるを問いし時、我は本郷菊坂へ捨児にされたものである、と私への話し、さては聖天山へ連れ出して殺した甚藏は矢張(やっぱり)お賤の為には血統(ちすじ)の兄であったか、実に因縁の深い事、アヽお累が自害の後(のち)此のお賤が又|斯(こ)う云う変相になるというのも、九ヶ年|前(ぜん)狂死なしたる豊志賀の祟(たゝり)なるか、成程悪い事は出来ぬもの、己は畜生(ちくしょう)同様兄弟同志で夫婦に成り、此の年月(としつき)互に連れ添って居たは、あさましい事だと思うと総毛立ちましたから、新吉は物をも云わず小さくかたまって坐り、只ポロ/\涙を落して居りました。 
八十九
尼「とんだ面白くもない話をお聞かせ申したが、まア緩(ゆっ)くりお休みなさい」
新「実に貴方の話を聞いて、私(わっち)も若い時分にした悪事を考えますと身の毛がよだちますよ」
尼「お前さん何をいうのです、若い時分などと云ってまだ若い盛りじゃアないか、是から罪を作らん様にするのだ」
新「お母様(っかさん)、私(わたし)は真(しん)以(もっ)て改心して見ると生きては居られない程辛いから、私を貴方の弟子にして下さいな、外(ほか)に往き処(どこ)もないから、お前|様(さん)の側へ置いて下されば、本堂や墓場の掃除でもして罪滅しをして一生を送り度(た)いので、段々のお話で私は悉皆(すっかり)精神(たましい)を洗い、誠の人になりましたから、どうか私をお弟子にして下さいまし」
尼「よくね、私の懴悔話を聞いて、一図(いちず)にアヽ悪い事をしたと云って、お前さんのような事を仰しゃるお方も有りますが、其の心持が永く続かないものですから、そんな事を云わなくっても、只アヽ悪い事をしたと思えば、其所(そこ)が善いので」
新「お賤、お前とは不思義の悪縁と知らず、是まで夫婦になって居たけれ共、表向盃をしたという訳でもないから、夫婦の縁も今日限りとし、己は頭髪(あたま)を剃(す)って、お前のお母(っか)さんだが、己はお母さんとは思わない、己を改心させてくれた導きの師匠と思い、此のお比丘さんに事(つか)えて、生涯出家を遂(と)げる心に成ったから、もう己を亭主と思って呉れるな、己もまたお前を女房とは思わねえから、何卒(どうか)そう思って呉れ」
賤「おい何をいうんだ、極りを云ってるよ、話を聞いた時には一図に悪い事をしたと思うが、少し経(た)つと直(じき)に忘れて仕舞うもの、一寸精進をしても、七日仕ようと思っても三日も経つともう宜かろうと喰(た)べるのが当前(あたりまえ)じゃアないか」
新「今迄の魂の汚(よご)れたのを悉皆(すっかり)洗って本心になったのだから、もう己の傍(そば)へ寄って呉れるな」
賤「おや新吉さん何をいうのだよお前どうしたんだえ」
新「お前(めえ)はまア本当に………どうして羽生村なんぞへ来たんだなア」
賤「新吉さん、お前(まえ)何をいうのだ、来たって、あゝいう訳で来たんじゃアないか、それが何(ど)うしたんだえ」
新「お前(めえ)は何も解らねえのだ、アヽ厭(いや)だ、ふつ/\厭だ、どうぞ後生だから己の側へ寄ってくんなさんな」
といわれてお賤は少しムッとした顔付になり、
賤「あゝ厭ならおよしなさい、だが私もね、お前と二人で悪い事を仕度(した)くもないが、喰い方に困るものだから一緒にしたが、昨日(きのう)私が斯(こ)んな怪我をして、恐ろしい顔になったもんだから、他(ほか)の女と乗り替える了簡で、旨くごまかして、私を此寺(こゝ)へ押附(おっつ)け、お前はそんな事をいって逃げる心だろう」
新「決してそういう訳じゃアないが、お前(まえ)どうして女に生れたんだなア」
賤「何を無理な事をいうの、女に生れたって、気違じみ切って居るよ」
新「お前に口を利かれても総毛立つよ」
尼「喧嘩をしてはいけません、私もお賤の為には親だから死水(しにみず)を取って貰い度(た)いが親子でありながらそうも云われず、又お賤も私の死水を取る気はありますまい」
新「まだ此のお賤は色気がある、此畜生奴(こんちきしょうめ)、本当にお前や己は、尻尾(しっぽ)が生えて四つん這になって椀(わん)の中へ面ア突込(つっこ)んで、肴(さかな)の骨でもかじる様な因果に二人とも生れたのだから、お賤|手前(てめえ)も本当にお経でも覚えて、観音さまへ其の身の罪を詫る為に尼に成り、衣を着て、一文ずつ貰って歩く気になんな、今更外に仕方がないからよ」
賤「なんだね厭だよ、そんな事が出来るものか」
新「そう側へ寄って呉れるなよ、どうか私の頭髪(あたま)を剃(す)って下さい」
尼「まア/\三四日|此寺(こゝ)に泊っておいでなさい、又心の変るものだから、互に喧嘩をしないで、私はお経をあげに往ってくるから、少し待っておいでなさい」
新「私も一緒に参りましょう」
賤「おい新吉さんお前本当にどうしたんだえ、私は何(ど)うしてもお前の傍(そば)は離れないよ」
新吉はもう誠に仏心(ぶっしん)と成りまして、
新「お前はまだ色気の有る人間だ、己は真(しん)に改心する気に成った」
賤「本当にお前どうしたんだよ」
と云いながら取り縋(すが)るのを、新吉は突放(つきはな)し、
新「此ん畜生奴、己の側へ来ると蹴飛すぞ」
といわれお賤は腹の中にて、私の顔貌(かおかたち)が斯(こ)んなに成ったものだから捨てゝ逃げるのだと思うから油断を致しませんで、此寺(こゝ)に四五日居りまする中(うち)に、因果のむくいは恐ろしいもので、惣右衞門の忰惣吉が此の庵室を尋ねて参るという処から、新吉はもう耐(こら)え兼ねて、草苅鎌を以て自殺致しますという、新吉改心の端緒(いとぐち)でございます。 
九十
偖(さ)て申し続きました深見新吉は、お賤を連れて足かけ五年間の旅中(たびちゅう)の悪行(あくぎょう)でございまする、不図(ふと)下総の塚前村と申しまする処の、観音堂の庵室に足を留(とめ)る事に成りました。是は藤心村の観音寺という真言寺(しんごんでら)持(もち)でございまして、一切の事は観音寺で引受けて致しまする。村の取附(とりつき)にある観音堂で、霊験(れいげん)顕著(あらたか)というので信心を致しまする者があって種々(いろ/\)の物を納めまするが、堂守(どうもり)を置くと種々の悪い事をしていなくなり、村方のものも困って居る処で、通り掛った尼は身性(みじょう)も善いという処から、これを堂守に頼んで置きました。是へ新吉お賤が泊りましたので、比丘尼(びくに)は前名(ぜんみょう)を熊と申す女に似気(にげ)ない放蕩無頼を致しました悪婆(あくば)でございまするが、今はもう改心致しまして、頭髪(あたま)を剃(そ)り落し、鼠の着物に腰衣を着け、観音様のお堂守をして居る程の善心に成りまして、新吉お賤に向って、昔の懴悔話をして聴かせると、新吉が身の毛のよだつ程驚きましたは、門番の勘藏の遺言に、お前は小日向服部坂上の深見新左衞門という御旗下の次男だが、生れると間もなくお家改易になったから、私が抱いて下谷大門町へ立退(たちの)いて育てたのだが、お家改易の時お熊という妾があって、其の腹へ出来たは女という事を物語ったが、そんなら七ヶ年|以来(このかた)夫婦の如く暮して来たお賤は、我が為には異腹(はらちがい)の妹(いもと)であったかと、総身(そうしん)から冷(つめた)い汗を流して、新吉が、あゝ悪い事をしたと真(しん)以(もっ)て改心致しました。人は三十歳位に成りませんければ、身の立たないものでございまする。お賤は二十八、新吉は三十になり、悪い事は悉(こと/″\)く仕尽した奴だけあって、善にも早く立帰りまして、出家を遂(と)げ、尼さまの弟子と思って下さい、夫婦の縁は是限りと思って呉れお賤|汝(てめえ)も能く考えて見ろ、今までの悪業(あくごう)の罪障消滅(つみほろぼ)しの為に頭を剃りこぼって、何(ど)の様な辛苦修行でもし、カン/\坊主に成って今迄の罪を滅(ほろぼ)さなくっちゃア往(い)く処へも往かれねえから、己の事は諦めて呉れとはいいましたが、汝は己の真実の妹だとはいい兼て居り、尼が本堂へ往けば、お熊比丘尼の後(あと)に附いて参り、墓場へ往けば墓場へ附いて往く、斎(とき)が有ればお供を致しましょうと出て参り、兎角にお賤の傍(そば)へ寄るを嫌いますから、お賤は腹の中にて、思いがけない怪我をして半面変相になり、斯(こ)んな恐ろしい貌(かお)に成ったから、新吉さんは私を嫌い、大方|母親(おふくろ)が此の庵主に成っているから、私を此処(こゝ)へ置去りにして逃げる心ではないかと、まだ色気がありますから愚痴|許(ばか)りいって苦情が絶えません。新吉の能く働きまする事というものは、朝は暗い内から起きて、墓場の掃除をしたり、門前を掃いたり、畠へ往って花を切って参って供えたり、遠い処まで餅菓子を買いに往って本堂へ供えたり、お斎が有るとお比丘さんの供をして参り、仮名振の心経や観音経を買って来て覚えようとして居りますのを見て、
尼「誠に新吉さんは感心な事では有るが、一時(いちじ)に思い詰めた心はまた解(ほご)れるもの、まア/\気永にしているが宜(よ)い、只悪い事をしたと思えばまだお前なんぞは若いから罪滅しは幾らも出来ましょう」
と優しくいわれるだけ身に応えまする。ちょうど七月二十一日の事でございまする、新吉は表の草を刈って居り、お賤は台所で働いて居りまする処へ這入って参りましたのは、十二三になる可愛らしい白色(いろじろ)なお小僧さんで、名を宗觀と申して観音寺に居りまする、此の小坊主を案内して来ましたは音助(おとすけ)という寺男で、二人|連(づれ)で這入って参り、
音「御免なせえ」
新「おいでなさい、観音寺様でございまするか」
音「上(かみ)の繁右衞門(しげえもん)殿(どん)の宅で二十三回忌の法事があるんで、己(おら)ア旦那様も往くんだが、何(ど)うか尼さんにもというので迎(むけ)えに参(めえ)ったのだ」
新「今尼さんは他(わき)のお斎に招(よ)ばれて往ったから、帰ったらそう云いましょう」
音「能く掃除仕やすねえ、墓の間の草ア取って、跨(まて)えで向うへ出ようとする時にゃアよく向脛(むこうずね)を打(ぶ)ッつけ、飛(とび)っ返(けえ)るように痛(いて)えもんだが、若(わけ)えに能く掃除しなさるのう」
新「お小僧さんはお小さいに能く出家を成さいましたね、お幾歳(いくつ)でございまする」
宗「はい十二に成ります」 
 

 

九十一
新「十二に、善いお小僧さんだね、十一二位から頭髪(あたま)を剃(す)って出家になるのも仏の結縁(けちえん)が深いので、誠に善い御因縁で、通常(なみ)の人間で居ると悪い事|許(ばか)りするのだが、斯(こ)う遣って小さい内から寺へ這入ってれば、悪い事をしても高が知れてるが、お父様(とっさん)やお母(っか)さんも御承知で出家なすったのですか」
宗「そうじゃアありません、拠(よんどころ)なく坊さんに成りました」
新「拠なく、それじゃアお父(とっ)さんもお母さんも、お前さんの小さい中(うち)に死んで仕舞って、身寄頼りもなく、世話の仕手もないのでお寺へ這入ったという事もありまするが、そうですか」
音「なにそういう訳じゃアなえが、此のまア宗觀様ぐらえ憫然(かわえそう)な人はねえだ」
新「じゃアお父さんやお母さんは無いのでございますか」
宗「はい、親父(おやじ)は七年前に死にました」
といいながらメソ/\泣出しました。
音「泣かねえが宜(え)えと云うに、いつでも父様(とっさま)や母様(かゝさま)の事を聞かれると宗觀|様(さん)は直(すぐ)に泣き出すだ、親孝行な事だが、出家になるのは其処(そこ)を諦める為だから泣くなと和尚様がよくいわっしゃるが、矢張(やっぱ)り直(じき)に泣くだが、併(しか)し泣くも無理はねえだ」
新「へえ、それは何(ど)ういう因縁に成って居りますのです」
音「ねえ宗觀|様(さん)、お前の父様は早く死んだっけ」
宗「七年前の八月死にました」
音「それから此の人の兄様(あにさん)が跡をとって村の名主役を勤めて居ると、其処(そこ)へ嫁子(よめっこ)が這入(へえ)って何(な)んともハヤ云い様のなえ程心も器量も善(い)い嫁子だったそうだが、其所(そこ)に安田八角か、え、一角とか云う剣術|遣(つけえ)が居て其の嫁子に惚れた処が、思う様にならねえもんだから、剣術遣の一角が恋の遺恨でもってからに此の人の兄さんをぶっ斬って逃げたとよ、其奴(そいつ)に同類が一人有って、何(な)んとか云ったのう、ウン富五郎か、其の野郎が共謀(ぐる)になって、殺したのだ、すると此の人の宅(うち)の嫁子が仮令(たとえ)何(な)んでも亭主の敵(かたき)い討(ぶ)たねえでは置かねえって、お武家(さむれえ)さんの娘だけにきかねえ、なんでも仇討(かたきぶ)ちをするって心にもねえ愛想づかしをして、羽生村から離縁状を取り、縁切に成って出て、敵の富五郎を欺(だま)して同類の様子を聴いたら、一角は横堀の阿弥陀堂の後(うしろ)の林の中へ来ているというから、亭主の仇(かたき)を討(う)ちぶっ切るべえと思って林の中へ這入(へえ)ったが、先方(むこう)は何(な)んてッても剣術の先生だ女ぐれえに切られる事はねえから、憫然(かわいそう)に其の剣術遣えが、此の人の姉様(あねさま)をひどくぶっ切って逃げたとよ、だから口惜しくってなんねえ、子心にも兄さんや姉(あね)さんの敵が討(ぶ)ちてえッて心易い相撲取が有るんだ…風車か…え…花車、そうかそれが、力量(ちから)アえれえから其の相撲取をたのむより仕様がねえと、母親(おふくろ)は年い老(と)ってるが、此の人をつれて江戸へ往(い)くべえと出て来る途(みち)で、小金原(こがねっぱら)の観音堂で以てからに塩梅(あんべえ)が悪くなったから、種々(いろ/\)介抱(けえほう)して、此の人が薬い買(け)えに往った後(あと)で母親さんを泥坊が縊(くび)り殺し、路銀を奪(と)って逃げた跡へ、此の人が帰(けえ)ってみると、母様(かゝさま)は喉(のど)を締められておっ死(ち)んでいたもんだから、ワア/\泣(なえ)てる処へ己(おら)ア旦那が通り掛り、飛んだことだが、皆(みんな)因縁だ、泣くなと、兄(あに)さんと云い姉(あね)さんと云い母(かゝ)さままでもそういう死(しに)ざまをするというのは約束事だから、敵討(かたきうち)なぞを仕様といわねえで兎も角も己(おら)ア弟子に成って父(とっ)さまや母さまや兄さん姉さまの追善供養を弔(ともら)ったが宜(よ)かろうと勧めて、坊主になれといってもならねえだから、和尚様も段々可愛がって、気永に遣ったもんだから、遂(つい)には坊様になるべえとッて漸(ようや)く去年の二月頭をおっ剃(つ)ったのさ」
新「ヘエ、そうでございますか、何(な)んですか、此のお小僧さんのお宅(うち)は何方(どちら)でございますと」
音「え岡田|郡(ごおり)か……岡田郡羽生村という処だ」
新「え、羽生村、へえ其の羽生村で父(とっ)さんは何(なん)というお方でございます」
音「羽生村の名主役をした惣右衞門と云う人の子の、惣吉さまというのだ」
と云われ新吉は大きに驚いた様子にて、
新「えゝ、そうでございますか、是はどうも思い掛けねえ事で」
音「なんだ、お前(めえ)さん知ってるのか」 
九十二
新「なに知って居やア仕ませんがね、私も方々旅をしたものだから、何処(どこ)の村方には何(なん)という名主があるかぐらいは知って居ます、惣右衞門さんには、水街道辺で一二度お目に掛った事がございますが、それはまアおいとしい事でございましたな」
というものゝ、音助の話を聞く度(たび)に新吉が身の毛のよだつ程辛いのは、丁度今年で七年前、忘れもしねえ八月廿一日の雨の夜(よ)に、お賤が此の人の親惣右衞門の妾に成って居たのを、己と密通し、剰(あまつさ)え病中に縊(くび)り殺し、病死の体(てい)で葬りはしたなれ共、様子をけどった甚藏|奴(め)は捨てゝは置かれねえとお賤が鉄砲で打殺(うちころ)したのだが土手の甚藏は三十四年以前にお熊が捨児にした総領の甚藏でお賤が為には胤違(たねちが)いの現在の兄を、女の身として鉄砲で打殺すとは、敵同士の寄合、これも皆因縁だ、此の惣吉殿のいう事を聞けば聞く程脊筋へ白刄(しらは)を当てられるより尚(なお)辛い、アヽ悪い事は出来ないものだと、再び油の様な汗を流して、暫くは草刈鎌を手に持ったなり黙然(もくねん)として居りました。
音「あんた、どうしたアだ、塩梅(あんべえ)でも悪(わり)いか、酷(ひど)く顔色が善(よ)くねえぜ」
新「ヘエ、なアに私はまだ種々(いろ/\)罪があって出家を遂(と)げ度(た)いと思って、此の庵室に参って居りまするが、此のお小僧さんの様に年もいかないで出家をなさるお方を見ると、本当に羨ましくなって成りませんから、私も早く出家になろうと思って、尼さんに頼んでも、まだ罪障(つみ)が有ると見えて出家にさせて呉れませんから、斯(こ)う遣って毎日無縁の墓を掃除すると功徳になると思って居りまするが、今日は陽気の為か苦患(くげん)でございまして、酷く気色が悪いようで」
音「お前さんの鎌は甚(えら)く錆びて居やすね、研(と)げねえのかえ」
新「まだ研ぎようを本当に知りませんが、此間(こないだ)お百姓が来た時聞いて教わったばかりでまだ研がないので」
音「己(おら)ア一つ鎌をもうけたが、是を見な、古い鎌だが鍛(きてえ)が宜(い)いと見えて、研げば研ぐ程よく切れるだ、全体(ぜんてえ)此の鎌はね惣吉どんの村に三藏という質屋があるとよ、其家(そこ)が死絶えて仕舞ったから、家は取毀(とりこわ)して仕舞ったのだ、すると己(おら)ア友達が羽生村に居て、此方(こっち)へ来たときに貰っただアが、汝(われ)使って見ねえか宜(よ)く切れるだが」
と云いながら差出す。
新「成程是は宜(い)い、切れそうだが大層古い鎌ですね」
と云いながら取り上げて見ると、柄(え)の処に山形に三の字の焼印がありまするから驚いて、
新「これは羽生村から出たのですと」
音「そうさ羽生村の三藏と云う人が持って居た鎌だ」
と云われた時、新吉は肝(きも)に応えて恟(びっく)り致し、草刈鎌を握り詰め、あゝ丁度今年で九ヶ年以前、累ヶ淵でおひさを此の鎌で殺し、続(つゞい)てお累は此の鎌で自殺し、廻り廻って今また我手へ此の鎌が来るとは、あゝ神仏(かみほとけ)が私(わし)の様な悪人をなに助けて置こうぞ、此の鎌で自殺しろと云わぬばかりの懲(こらし)めかあゝ恐ろしい事だと思い詰めて居りましたが、
新「お賤一寸|来(き)ねえ、お賤一寸来ねえ」
賤「あい、何(な)んだよ、今往くよ」
と此の頃|疎々(うと/\)しくされて居た新吉に呼ばれた事でございますから、心嬉しくずか/\と出て来ました。
新「お賤、此処(こゝ)においでなさるお小僧さんの顔を汝(てめえ)見覚えて居るか」
と云われお賤はけゞんな顔をしながら、
賤「そう云われて見ると此のお小僧さんは見た様だが何(な)んだか薩張(さっぱり)解らない」
新「羽生村の惣右衞門|様(さん)のお子で、惣吉|様(さん)といって七歳(なゝつ)か八歳(やッつ)だったろう」
賤「おやあの惣吉|様(さま)」
新「此の鎌は三藏どんから出たのだが、汝(てめえ)のめ/\と知らずに居やアがる」
と云いながら突然(いきなり)お賤の髻(たぶさ)を捉(と)って引倒す。
賤「あれー、お前何をするんだ」
というも構わず手元へ引寄せ、お賤の咽喉(のどぶえ)へ鎌を当てプツリと刺し貫きましたから堪(たま)りません、お賤は悲鳴を揚げて七顛八倒の苦しみ、宗觀と音助は恟(びっく)りし、
音「お前(めえ)気でも違ったのか、怖(おっ)かねえ人だ、誰か来て呉れやー」
と騒いで居る処へお熊比丘尼が帰って参り、此の体(てい)を見て同じく驚きまして、
尼「お前は此間(こないだ)から様子が訝(おか)しいと思ってた、変な事ばかりいって、少したじれた様子だが、何(な)んだって科(とが)もないお賤を此の鎌で殺すと云う了簡になったのだねえ、確(しっ)かりしないじゃいけないよ」 
九十三
新「いえ/\決して気は違いません、正気でございますが、お比丘さん、お賤も私(わっち)も斯(こ)う遣って居られない訳があるのでございます、お賤|汝(てめえ)は己を本当の亭主と思ってるが、汝は定めて口惜しいと思うだろうが、汝一人は殺さねえ、汝を殺して置き、己も死なねばならぬ訳があるんだ、汝は知るめえが、あゝ悪い事は出来ねえものだ、此の庵室へ来た時にはお前さんの懴悔話を聞くと若(わけ)え時に小日向服部坂上の深見という旗下へ奉公して、殿の手がついて出来たのがお賤だと仰しゃったが、私(わたし)も其の深見新左衞門の次男に生れ、小さい時に家は改易と成ったので町家(ちょうか)で育ったもの、腹は違えど胤(たね)は一つ、自分の妹とも知らないで七年跡から互に深く成った畜生同様の両人(ふたり)、此の宗觀|様(さん)のお父様(とっさん)は羽生村の名主役で惣右衞門というお方でしたが、お賤を深川から見受けして別に家(うち)を持たせ楽に暮させてお置きなすったものを私は悪い事をするのみならず、申すも恐ろしい事だが、惣右衞門|様(さん)をお賤と私とで縊(くび)り殺したのでございます、さ、斯(こ)う申したら嘸(さぞ)お驚きでございましょう、誰も知った者はありません、病死の積りで葬って仕舞ったが、人は知らずとも此の新吉とお賤の心には能(よう)く知って居りまする、畜生のような兄弟が斯(こ)うやって罪滅しの為夫婦の縁を切って、出家を遂げようと思いました処へ宗觀|様(さん)がおいでなすって、これ/\と話を聞いて見れば迚(とて)も生きては居(お)られません、此の鎌は女房のお累が自害をし、私(わっち)が人を殺(あや)めた草苅鎌だが、廻り廻って私(わっち)の手へ来たのは此の鎌で死ねという神仏(かみほとけ)の懲(こらし)めでございまするから、其のいましめを背かないで自害致しまする、私共(わたくしども)夫婦のものは、あなたの親の敵でございます、嘸(さぞ)悪(にく)い奴と思召(おぼしめし)ましょうから何卒(どうぞ)此の鎌でズタ/\に斬って下さいまし、お詫びの為(た)め一(ひ)と言(こと)申し上げますが、お前(まい)さんの兄(あに)さん姉(あね)さんの敵と尋ねる剣術遣の安田一角は、五助街道の藤ヶ谷の明神山に隠れて居るという事は、妙な訳で戸ヶ崎の葮簀張(よしずッぱり)で聞いたのですが、敵を討ちたければ、其の相撲取を頼み、其処(そこ)へ往って敵をお討ちなさい、安田一角が他の者へ話しているのを私(わっち)が傍(そば)で聴いて居たから事実(たね)を知ってるのでございます、お賤、汝(てまえ)と己が兄弟ということを知らないで畜生同様夫婦に成って、永い間悪い事をしたが、もう命の納め時だ、己も今|直(すぐ)に後(あと)から往くよ、お賤宗觀|様(さん)にお詫を申し上げな」
賤「あい/\」
と血に染ったお賤は聴く毎(ごと)にそうであったかと善に帰って、よう/\と血だらけの手を合せ、苦しき息の下から、
賤「惣吉|様(さん)誠に済まない事をしました、堪忍して下さいまし、新吉さん早く惣吉さんの手に掛って死度(しにた)い、あゝ、お母(っか)さん堪忍して下さい」
と苦しいから早く自殺しようと鎌の柄に取り縋(すが)るを新吉は振り払って、鎌を取直し、我(わが)左の腹へグッと突き立て、柄(つか)を引いて腹を掻切(かきき)り、夫婦とも息は絶々(たえ/″\)に成りました時に、宗觀は、
宗「あゝ、お父(とっ)さんを殺したのはお前たち二人とは知らなかったが、思い掛けなくお父さんの敵が知れると云うのは不思議な事、また兄(あに)さんや姉(あね)さんを殺した安田一角の隠れ家を知らせて下され、斯(こ)んな嬉しい事はありませんから決して悪(にく)いとは思いません、早く苦痛のないようにして上げ度(た)い」
と云いながら後(うしろ)をふりかえると、音助はブル/\して腰も立たないように成って居ました。
宗「お父(とっ)さんや兄さん姉さんの敵は知れたが、小金原の観音堂でお母(っか)さんを殺した敵はいまだに分らないが、悪い事をする奴の末始終は皆|斯(こ)ういう事に成りましょう」
というのを最前から聞いていましたお熊比丘は、袖もて涙を拭(ぬぐ)いながら宗觀の前へ来て、
尼「誠に思い掛けない、宗觀|様(さん)お前(まい)さんかえ」
宗「へえ」
尼「忘れもしない三年跡の七月小金原の観音堂でお前(まい)さんのお母さんを縊(くび)り殺し、百二十両と云う金を取ったは此のお熊比丘尼でございますよ」
宗「エヽこれは」
と宗觀も音助も恟(びっ)くり致しました。絶え/″\に成っていました新吉は血(のり)に染った手を突き、耳を欹(たっ)て聞いております。
尼「私も種々(いろ/\)悪い事をした揚句、一度出家はしたが路銀に困っている処へ通り合せた親子連の旅人(りょじん)小金原の観音堂で病に苦しんで居る様子だから、此の宗觀|様(さん)をだまして薬を買いに遣った跡で、お母様(ふくろさん)を縊殺(くびりころ)したは此のお熊、私はお前|様(さん)のお母様(っかさん)の敵だから私の首を斬って下さい」
と新吉が持っていました鎌を取って、お熊比丘尼は喉を掻切って相果てました。其の内村の者も参り、観音寺の和尚様も来て、何しろ捨(すて)ては置かれないと早速此の由(よし)を名主から代官へ訴え検死済の上、三人の死骸は観音堂の傍(わき)へ穴を掘って埋め、大きな墓標(はかじるし)を立てました。是が今世に残っておりまする因果塚で、此の血に染った鎌は藤心村の観音寺に納まりました。扨(さて)宗觀は敵の行方が知れた処から、還俗(げんぞく)して花車を頼み、敵討が仕度(した)いと和尚に無理頼みをして観音寺を出立するという、是から敵討に成ります。 
九十四
塚前村観音堂へ因果塚を建立致し、観音寺の和尚|道恩(どうおん)が尽(ことごと)く此の因縁を説いて回向を致しましたから、村方の者が寄集まって餅を搗き、大した施餓鬼(せがき)が納まりました。斯(か)くて八月十八日施餓鬼|祭(まつり)を致しますと、観音寺の弟子宗觀が方丈の前へ参りまして、
宗「旦那様」
道「いや宗觀か、なんじゃ」
宗「私はお願いがありますが、旦那さまには永々(なが/\)御厄介に相成りましたが、私は羽生村へ帰り度(と)うございます」
道「ウン、どうも貴様は剃髪(ていはつ)する時も厭がったが、出家になる因縁が無いと見える、何故羽生村へ帰り度(た)いか、帰った処が親も兄弟もないし、別に知るものもない哀れな身の上じゃないか、よし帰った処が農夫(ひゃくしょう)になるだけの事、実(じつ)何(ど)うしても出家は遂(と)げられんか」
宗「はい私は兄と姉の敵が討ちとうございます」
道「これ、此間(こないだ)もちらりと其の事も聞いたから、音助にも宜(よ)う宗觀にいうてくれと言附けて置いたが、敵討という心は悪い心じゃ、其の念を断(き)らんければいかん、執念して飽くまでも向(むこう)を怨むには及ばん、貴様の親父を殺した新吉夫婦と母親(おふくろ)を殺したお熊比丘尼は永らく出家を遂げて改心したが、人を殺した悪事の報いは自滅するから討つがものは無い、己(おのれ)と死ぬものじゃから其の念を断つ処が出家の修行で、飽く迄も怨む執念を断(き)らんければいかん、それに貴様は幾歳(いくつ)じゃ、十二や十三の小坊主が、敵手(あいて)は剣術遣じゃないか、みす/\返り討になるは知れてある、出家を遂げれば其の返り討になる因縁を免(のが)れて、亡なられた両親やまた兄|嫂(あによめ)の菩提を吊うが死なれた人の為じゃ、え」
宗「ハイ毎度方丈|様(さん)から御意見を伺っておりまするが、此の頃は毎晩/\兄(あに)さんや姉(あね)さんの夢ばかり見ております、昨夜(ゆうべ)も兄さんと姉さんが私の枕元へ来まして、新吉が敵の隠家(かくれが)を教えて知っているに、お前が斯(こ)う遣ってべん/″\と寺にいてはならん、兄さん姉さんも草葉の蔭で成仏する事が出来ないから敵を討って浮ばして呉れろと、あり/\と枕元へ来て申しました、実に夢とは思われません、してみると兄様(あにさん)や姉様(あねさん)も迷っていると思いますから、敵を討って罪作りを致しますようでございますけれども、どうか両人(ふたり)の怨みを晴して遣り度(と)うございます」
道「それがいかん、それは貴様の念が断(き)れんからじゃ、平常(ふだん)敵を討ち度(た)い、兄さんは怨んではせんか、姉さんも怨んではせんか、と思う念が重なるに依って夢に見るのじゃ、それを仏書に睡眠と説いて有る、睡は現(うつゝ)眠はねむる汝(てまい)は睡(ねむ)ってばかり居るから夢に見るのじゃ、敵討の事ばかり思うているから、迷いの眠りじゃ、それを避ける処が仏の説かれた予(かね)ていう教えじゃ、元は何も有りはせんものじゃ、真言の阿字を考えたら宜(よ)かろう、此の寺に居て其の位な事を知らん筈は無いから諦めえ」
宗「ハイ、何(ど)うしても諦められません、永らく御厄介に成りまして誠に相済みません、敵討を致した上は出家に成りませんでも屹度(きっと)御恩報じを致しますから、どうかお遣んなすって下さいまし、強(た)って遣って下さいませんければお寺を逃出し黙って羽生村へ帰ります」
道「いや/\そんならば無理に止めやせん、皆因縁じゃからそれも宜かろう、やるが宜かろうが、確(しっ)かりした助太刀を頼むが宜い、先方(さき)は立派な剣術遣い、殊(こと)に同類も有ろうから」
宗「はい親父の時に奉公をしたもので、今江戸で花車という強いお相撲さんが有りますから。其の人を頼みます積りで」
道「若(も)し其の花車が死んでいたら何(ど)うする、人間は老少不定(ろうしょうふじょう)じゃから、昨日(きのう)死にましたといわれたら何うする、人間の命は果敢(はか)ないものじゃが、あゝ仕方がない、往(い)くなら往けじゃが、首尾好く本懐を遂げて念が断(き)れたらまた会いに来てくれ」
と実子のような心持で親切に申しまする。
宗「これがお別れとなるかも知れません、誠にお言葉を背きまして相済みません」
道「いや/\念が断(き)れんと却(かえ)って罪障(つみ)になる、これは小遣に遣るから持って往(ゆ)け」
と、三年此の方世話をしたものゆえ実子のように思いまして、和尚は遣りともながるのを、強(た)ってというので、音助に言付け万事出立の用意が整いましたから立たせて遣り、漸(ようや)く五日目に羽生村へ着(ちゃく)致しましたが、聞けば家宅(うち)は空屋(あきや)に成ってしまい、作右衞門という老人(としより)が名主役を勤めており、多助は北阪(きたさか)の村はずれの堤下(どてした)に独身活計(ひとりぐらし)をしているというから遣って参り、
宗「多助さん/\、多助|爺(じい)やア」
多「あい、なんだ坊様か、今日は些(ち)とべえ志が有るから、銭い呉れるから此方(こっち)へ這入(へえ)んな」
宗「修行に来たんじゃアない、お前は何時(いつ)も達者で誠に嬉しいね」
多「誰だ/\」
宗「はいお前忘れたかえ、私(わし)は惣吉だアね、お前の世話に成った惣右衞門の忰の惣吉だよ」 
九十五
多「おい成程えかくなったねえ、まア、坊様に成ったアもんだから些(ちっ)とも知んねえだ、能くまア来たあねえ」
と嬉し涙に泣き沈み漸々(よう/\)涙を拭いながら、
多「あゝ三年前にお前さまが宅(うち)を出て往(い)く時はせつなかったが、敵討だというから仕方がねえと思って出して上げたが後(あと)で思え出しては泣いてばかりいたが、作右衞門様の世話でもって、何(ど)うやら斯(こ)うやら取附いて此処(こゝ)にいやすが、お前様を訪ねてえっても訪ねられねえだが、お母様(ふくろさん)は小金原で殺されてからお前様が坊様に成ったという事ア聞いたから、チョックラ往きてえと思っても出られねえので無沙汰アしやしたが、能くまア来て下せえやした、本当に見違えるような大(でか)く成ったね」
惣「爺(じい)やア、私は和尚様に願い無理に暇(ひま)を戴いて、兄さんや姉さんの敵が討ちたくって来たが、お父様(とっさん)お母様(っかさん)の敵は知れました」
とお熊比丘尼の懺悔をば新吉夫婦が細(こま)やかに聞き、遂に三人共自殺した処から、村方の者が寄集まって因果塚を建立した事までを話すと、多助も不思議の思いをなして、是から作右衞門にも相談の上敵討に出ましたが、そういう処に隠れて泥坊をしているからには同類も有ろうから、私とお前さんと江戸へ往って、花車関を頼もうと頓(やが)て多助と惣吉は江戸へ遣って参り、花車を便(たよ)りて此の話を致して頼みました。此の花車という人は追々(おい/\)出世をして今では二段目の中央(なかば)まで来ているから、師匠の源氏山も出したがりませんのを、義に依(よっ)てお暇(いとま)を下さいまし、前に私が奉公をした主人の惣右衞門様の敵討をするのでございますからと、義に依っての頼みに、源氏山も得心して芽出度(めでたく)出立いたし、日を経て彼(か)の五助街道へ掛りましたのが十月|中旬(なかば)過ぎた頃もう日暮れ近く空合(そらあい)はドンヨリと曇っておりまする。三人はトットと急いで藤ヶ谷の明神山を段々なだれに登って参りますると、樹木生茂(おいしげ)り、昼でさえ薄暗い処|殊(こと)には曇っておりまするから漸々(よう/\)足元が見えるくらい、落葉(おちば)の堆(うずも)れている上をザク/\踏みながら花車が先へ立って向(むこう)を見ると、破(や)れ果てたる社殿が有ってズーッと石の玉垣が見え、五六本の高い樹(き)の有る処でポッポと焚火(たきび)をしている様子ゆえ、彼処(あすこ)らが隠れ家ではないかと思いながら傍(わき)の方を見ると、白いものが動いておりまするが、なんだか遠くで確(しか)と解りません。
花「多助さん確(しっ)かりしなせえ」
多「もう参(めえ)ったかねえ、私(わし)はね剣術も何(なん)にも知んねえが此の坊様に怪我アさせ度(た)くねえと思うから一生懸命に遣るが、あんたア確かり遣って下せえ」
花「私(わし)イ神明様(しんめいさん)や明神|様(さん)に誓(ちかい)を立てゝるから、私が殺されても構わねえが、坊様に怪我アさせ度(たく)ねえ心持だから、お前度胸を据(す)えなければいかんぜ」
多「度胸据えてる心持だアけんども、ひとりでに足がブル/\顫(ふる)えるよ」
花「気を沈着(おちつ)けたが好(え)え」
多「気イ沈着ける心持で力ア入れて踏張(ふんば)れば踏張る程足イ顫えるが、何(ど)ういうもんだろう、私(わし)イ斯(こ)んなに身体顫った事アねえ、四年前に瘧(おこり)イふるった事が有ったがね、其の時は幾ら上から布団をかけても顫ったが、丁度其の時のように身体が動くだ」
花「ハテナ、白い物が此方(こっち)へころがって来るようだが何(なん)だろう、多助さん先へ立って往きなよ」
多「冗談いっちゃアいけねえ、あの林の処(とこ)に悪漢(わるもの)が隠れているかも知れねえから、お前(めえ)さん先へ往ってくんねえ」
と云いながら、やがて三人が彼(か)の白い物の処(とこ)へ近附いて見ると、大杉の根元の処(ところ)に一人の僧が素裸体(すっぱだか)にされて縛られていまして、傍(わき)の方に笠が投げ出して有ります。 
九十六
花「おい多助さん」
多「え」
花「憫然(かわいそう)に、坊様だが泥坊に縛られて災難に逢(あわ)しゃッたと見え素裸体だ」
多「なにしても足がふるえて困る」
花「そう顫えてはいけねえ」
と云いながら彼(か)の僧に近づき、
花「お前さん/\泥坊のために素裸体にされたのですか」
僧「はい、災難に逢いました、木颪(きおろし)まで参りまする途中でもって馬方が此道(こゝ)が近いからと云うて此処(こゝ)を抜けて参りますと、悪漢(わるもの)が出ましたものじゃから、馬方は馬を放り出した儘逃げて了(しま)うと、私は大勢に取巻かれて衣服(きもの)を剥(は)がれ、直(す)ぐ逃がして遣ると此方(こっち)の勝手が悪い、己(おい)ら達が逃げる間此処に辛抱していろと申して、私は此の木の根方へ縛り附けられ、何(ど)うも斯(こ)うも寒くって成りません、お前さんたちも先へ往くと大勢で剥がれるから、後(あと)へお返りなさい」
花「なにしろ縄を解いて上げましょう、貴僧(あなた)は何処(どこ)の人だえ」
僧「有難うございます、私は藤心村の観音寺の道恩というものです」
と聞くより惣吉は打驚き駈けて参り、
惣「え、旦那様か、飛んだ目にお逢いなされました」
道「おゝ/\宗觀か、お前此の山へ敵討に来たか」
惣「はいお言葉に背いて参りました、多助や、私が御恩に成った観音寺の方丈様だよ」
多「え、それはマア飛んだ目にお逢いなせえやしたね」
道「酷(ひど)い事をする、人の手は折れようと儘、酷く縛って、あゝ痛い」
と両腕を摩(さす)りながら、
道「中々同類が多勢(おおぜい)居(い)る様子じゃから帰るが宜(よ)い」
花「なにしても風を引くといけないから、それじゃア斯(こ)うと、私の合羽に多助|様(さん)お前の羽織を和尚|様(さま)にお貸し申そう、さア和尚様、これをお着なさい、それから多助|様(さん)此処(こゝ)を下(お)りて人家のある処まで和尚|様(さん)を送ってお上げなさい」
多「己此処まで惣吉|様(さん)の供をして、今坊|様(さま)を連れて山を下りては四年五年|心配(しんぺえ)打(ぶ)った甲斐(けえ)がねえ」
花「惣吉|様(さま)が永らく御厄介に成った方丈様だから連れてって上げなさいな」
多「敵も討(ぶ)たねえで、己山を下りるという理合(りえゝ)はねえから己(おら)ア往かねえ、坊様に怪我アさせてはなんねえから」
花「そんな事をいわずに往っておくんなせえ」
惣「爺(じい)やア、どうか和尚様をお送り申してお呉れ、お前が往かなけりゃア私が送り申さなければならないのだから、往っておくれな」
多「じゃア何(ど)うしても往くか、己此処まで来て敵も討(ぶ)たずに後(あと)へ引返すのか、なんだッて此の坊様はおっ縛(ちば)られて居たんだナア」
とブツ/\いいながら道恩和尚の手を引いて段々山を下り、影が見えなくなると樹立(こだち)の間から二人の悪漢(わるもの)が出て参り、
甲「手前(てめえ)たちは何(なん)だ」
花「はい私共は安田一角|先生(しぇんしぇい)が此方(こちら)にお出(いで)なさると聞きまして、お目にかゝり度(た)く出ましたもので」
乙「一角先生などという方はおいでではないワ」
花「私共はおいでの事を知って参りましたものですが、一寸お目にかゝり度(と)うございます」
乙「少し控えて居ろ」
と二人の悪漢は、互に顔を見合せ耳こすりして、林の中へ這入って、一角に此の由を告げると、一角は心の中(うち)にて、己の名を知っているのは何奴(なにやつ)か、事に依ったら、花車が来たかも知れないと思うから、油断は致しませんで、大刀(だいとう)の目釘を霑(しめ)し、遠くに様子を伺って居りますと、子分がそれへ出て、
甲「やい手前(てめえ)は何者だ」 
九十七
花「いえ私(わし)は花車重吉という相撲取でございますが、先生(しぇんしぇい)は立派なお侍さんだから、逃げ隠れはなさるまい、慥(たし)かに此処(こゝ)にいなさる事を聞いて来たんだから、尋常に此の惣吉様の兄(あに)さんの敵と名のって下せい、討つ人は十二三の小坊主|様(さん)だ、私は義に依って助太刀をしに参ったものだから、何十人でも相手になるから出てお呉んなせい」
といわれ、悪漢(わるもの)どもは、あゝ予(かね)て先生から話のあった相撲取は此奴(こいつ)だなと思いましたから、直(すぐ)に一角の前へ行きまして此の事を告げました。一角も最早観念いたしておりまするから、
安「そうか、よい/\、手前達先へ出て腕前を見せてやれ」
といわれ、悪漢どもも相撲取だから力は強かろうが、剣術は知るめえから引包(ひっつゝ)んで餓鬼諸共打ってしまえ、とまず四人ばかり其処(そこ)へ出ましたが、怖いと見えまして、
甲「尊公(そんこう)先へ出ろ」
乙「尊公から先へ」
丙「相撲取だから無闇にそういう訳にもいかない、中々油断がならない、尊公から先へ」
丁「じゃア四人一緒に出よう」
と四人|均(ひと)しく刀を抜きつれ切ってかゝる、花車は傍(かたわら)に在(あ)った手頃の杉の樹(き)を抱えて、総身(そうしん)に力を入れ、ウーンと揺(ゆす)りました、人間が一生懸命になる時は鉄門でも破ると申すことがございます。花車は手頃の杉の樹をモリ/\/\と拗(ねじ)り切って取直し、満面朱を灌(そゝ)ぎ、掴み殺さんず勢いにて、
花「此の野郎ども」
といいながら杉の幹を振上げた勇気に恐れ、皆近寄る事が出来ません。花車は力にまかせ杉の幹をビュウ/\振廻し、二人を叩き倒す、一人が逃げにかゝる処を飛込んで打倒(ぶちたお)し、一人が急いで林の中へ逃げ込みますから、跡を追って参ると、安田一角が野袴(のばかま)を穿き、長い大小を差し、長髪に撫で附け、片手に種ヶ島の短銃(たんづゝ)に火縄を巻き附けたのを持って、
安「近寄れば撃ってしまうぞ、速(すみや)かに刀を投出して恐れ入るか、手前(てめえ)は力が強くても此れでは仕方があるめえ」
と鼻の先へ飛道具を突き附けられ、花車はギョッとしたが、惣吉を後(うしろ)へ囲んで前へ彼(か)の杉の幹を立てたなりで、
花「卑怯だ/\」
と相撲取が一生懸命に呶鳴る声だから木霊(こだま)致してピーンと山間(やまあい)に響きました。
花「手前(てめえ)も立派な侍じゃアねえか、斬り合うとも打合うともせえ、飛道具を持つとは卑怯だ、飛道具を置いて斬合うとも打合うともせえ」
一角もうっかり引金を引く事が出来ませんから威(おど)しの為に花車の鼻の先へ覘(ねら)いを附けておりますから、何程力があっても仕様がありません、進むも退(ひ)くも出来ず、進退|谷(きわ)まって花車は只ウーン/\と呻(うな)っておりまする。多助は彼(か)の道恩を送っていきせき帰って来ましたが、此の体(てい)を見て驚きましてブル/\顫えております。すると天の助(たすけ)でございますか、時雨空(しぐれぞら)の癖として、今まで霽(は)れていたのが俄(にわ)かにドットと車軸を流すばかりの雨に成りました。そう致しますと生茂(おいしげ)った木葉(このは)に溜った雨水が固まってダラ/\と落(おち)て参って、一角の持っていた火縄に当って火が消えたから、一角は驚いて逃げにかゝる処を、花車は火が消えればもう百人力と、飛び込んで無茶苦茶に安田一角を打据(うちす)えました、これを見た悪漢(わるもの)どもは「それ先生が」と駈出して来ましたが側へ進みません、花車は傍(かたえ)を見向き、
花「此の野郎共|傍(そば)へ来やアがると捻(ひね)り潰すぞ」
という勢いに驚いて樹立(こだち)の間へ逃げ込んで仕舞いました。
花「サア惣吉|様(さん)遣ってお仕舞いなせえ、多助|様(さん)、お前助太刀じゃアねえか確(しっか)りしなせえ」
惣吉は走り寄り、
惣「関取誠に有難う、此の安田一角め兄(あに)さん姉(あね)さんの敵思い知ったか」
多「此の野郎助太刀だぞ」
と惣吉と両人(ふたり)で無茶苦茶に突くばかり、其のうち一角の息が止ると、二人共がっかりしてペタ/\と坐って暫らくは口が利けません。花車は安田一角の髻(たぶさ)を取り、拳を固めてポカ/\打ち、
花「よくも汝(われ)は恩人の旦那様を斬りやアがった、お隅|様(さん)を返討(かえりうち)にしやアがったな此の野郎」
といいながら鬢(びん)の毛を引抜きました。同類は皆ちり/″\に逃げてしまったから、其の村方の名主へ訴え、名主からまたそれ/″\へ訴え、だん/\取調べになると、全く兄(あに)姉(あね)の仇討(かたきうち)に相違ないことが分り、花車は再び江戸へ引返し、惣吉は十六歳の時に名主役となり、惣右衞門の名を相続いたし、多助を後見といたしました。花車が手玉にいたしました石へ花車と彫り附け、之を花車石と申しまして今に下総の法恩寺|中(ちゅう)に残りおりまする。是で先(ま)ずお芽出度(めでたく)累ヶ淵のお話は終りました。