日光

補陀洛山(ふだらくさん)と男体山1 
男体山は二荒山とも呼ばれ、その「ふたら」とは観音浄土の補陀洛(梵語)から出ている。二荒山神社お参りしても、男体山のことを二荒山という人はいないが、もともと二荒山は別名を補陀洛山といわれていた。 
勝道上人が日光を開山し、男体山の登頂に成功したのち、西ノ湖で千手観音の尊像を拝したと伝えられている。つまり、男体山を中心とする山と湖の霊域を、観音の浄土と感得していた 。観音浄土は、南の海上にあるポタラカ(梵語)という山とされている。ポタラカを漢字にあてると「補陀洛」と書く。弘法大師撰による勝道上人男体山登頂の記録が「補陀洛山に上るの碑文」ともいわれているのは、この理由から だ。 
この補陀洛から、日光という地名が生まれたとの説が有力だ。補陀洛から「ふたら」となり、「ふたら」が「ふたあら(二荒)」にあてられ、二荒山の語が生まれた。この「二荒」を音読みして「ニッコウ」となり「日光」の好字が与えられたという。  
補陀洛山(ふだらくさん)と男体山2 
日光という地名の由来について諸説がある。観音菩薩の浄土を補陀洛山(ふだらくさん)というが、その補陀洛山からフタラ山(二荒山)の名がついたという説、日光の山には熊笹が多いので、アイヌ語のフトラ=熊笹がフタラになりフタラが二荒になったという説、男体山、女峰山に男女の二神が現れたのでフタアラワレの山になったとか、いろは坂の入口付近に屏風岩がある。そこに大きな洞穴があり「風穴」とか「雷神窟」などと呼ばれ、この穴に風の神と雷獣が住んでいて、カミナリをおこし豪雨を降らせ、春と秋に暴風が吹いて土地を荒したので二荒山という名ができたとか、二荒が日光になったのは、弘法大師空海が二荒山(男体山)に登られたとき、二荒の文字が感心しないといって、フタラをニコウと音読し、良い字をあてて日光にしたと伝えられている。 
男体山は御神体で、大己貴命(おおなむちのみこと)であり、千手観音(せんじゅかんのん)であり、男体権現でもある。女峰山も御神体で、田心姫命(たごりひめのみこと)であり、阿弥陀如来(あみだにょらい)であり、女体権現でもある。太郎山も御神体であり、味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)であり、馬頭観音(ばとうかんのん)であり、太郎権現でもある。山と仏と神が一体で、しかも男体山は父、女峰山は母、太郎山は子の家族として崇められた。勝道上人が開いた神仏習合(しんぶつしゅうごう)の宗教観が関東の一大霊山「日光山」を栄えさせた。
   
中禅寺湖 
周囲約25Km最大水深163mの中禅寺湖は、日光を代表する湖。水面の海抜高度1269mは日本一の高さを誇る(人工湖を除く面積4Km2以上の湖のなかで)。約2万年の昔、男体山の噴火による溶岩で渓谷がせき止められ原形ができた。 
発見されたのは天応2年(782)日光開山の祖、勝道上人が男体山の登頂に成功したとき、山の上から湖の存在を見つけた。2年後には勝道上人一行が、湖畔に堂を造り神宮寺を建立した。以来、山岳信仰の修験者たちが訪れ、船禅頂(湖に船を浮かべて読誦し湖畔の社堂を巡る)もおこなわれるようになった。 
大きな変革が訪れるのは明治5年(1872)に女人牛馬禁制が解かれてからである。明治に入るまで女性がいなかったため、中禅寺で出産が初めて記録されるのは明治17年だった。この間、明治9年に明治天皇が来晃され、中禅寺湖を「幸の湖(さちのうみ)」と名づけている。中禅寺湖周辺をリゾート地として育てていったのは外国人である。欧米各国の外交官たちが避暑に訪れるようになり、湖畔に別荘を建てていった。現在でもフランスやベルギーなど4か国の大使館別荘が湖畔にたたずんでいる。
   
輪王寺 
お寺やお堂、15の支院の総称で勝道上人が天平神護(てんぴょうじんご)2年(766)神橋のそばに四本竜寺(しほんりゅうじ)を建立したのが始まり。平安時代の弘仁元年(810)朝廷から一山の総号として満願寺の名をもらい、後に円仁(えんにん)が来山して天台宗となって現在に至る。鎌倉時代には弁覚(べんがく)が光明院(こうみょういん)を創設して一山の本院とし、天皇家から門跡を招く皇族座主の制度が始まった。安土桃山時代には小田原の北条氏に加担したため、豊臣秀吉に寺領を没収されて一時衰退した。江戸時代、慶長18年(1613)将軍の相談役・天海が貫主(かんす)となり、東照宮を創建してから日光は一大聖地に躍進した。明暦元年(1655)に守澄法親王(しゅちょうほうしんのう)が輪王寺宮を称し、寺名の輪王寺はこれによる。  
   
二荒山神社 
大昔の先祖は、天高くそびえ雲、雨、雪、雷などさまざまな自然現象を展開し、命のもとである水を恵む高い山々に、恐れと尊敬の心を抱いた。そこに神がいると信じる、自然に生まれた山岳信仰である。関東平野の北方にそびえる霊峰二荒山(ふたらさん)/男体山も、古くから神の山として敬われてきた。 
今から約1200年前の奈良時代の末、二荒山に神霊を感じた勝道上人が、大谷川(だいやがわ)の北岸に四本竜寺を建て、延暦9年(790)に本宮神社を建てた。二荒山神社の始まりである。勝道上人はさまざまな難行苦行を積み、二荒山初登頂の大願を果たし、山頂に小さな祠(ほこら)をまつった。天応2年(782)のことであった。これが奥宮である。延暦3年(784)二荒山中腹の中禅寺湖北岸に日光山権現(中宮祠・ちゅうぐうし)をまつり、ほぼ現在の形となった。 
二荒山神社は早くから下野国一の宮としてうやまわれ、鎌倉時代以後は、関東の守り神として幕府、豪族の信仰をあつめた。江戸時代の元和3年(1617)東照宮がまつられたとき、幕府は神領を寄進し社殿を造営して崇めた。
   
日光山中禅寺 
日光山の開祖、勝道上人(しょうどう)は、男体山山頂をきわめた後、延暦3年(784)に中禅寺を建立、修行の場とした。当時は男体山の登拝口のほうにあったが、明治35年の大山津波をきっかけに、中禅寺湖歌ガ浜に移転した。坂東観音霊場33か所の18番目にあたり、立木観音や波之利大黒天(はしりだいこくてん)など、特徴的な仏像がまつられている。
 
立木観音 
門を入って正面左手にある本堂には、重要文化財の十一面千手観音菩薩がまつられている。これは日光山開祖、勝道上人の作とされ、上人が西ノ湖に船出したとき水の中から金色の千手観音が出現、その姿を彫ったと伝えられている。千手観音は男体山の本地仏(本来の姿)にあたる。観音像は、胴体部分が根がついたままの立木の状態で彫られたことから、立木観音と呼ばれている。左右の手は寄木造りで、素材はカツラ。大幅な修理はなく、造られた当時そのままの姿を現在に伝える。全高6mに及ぶが、下の部分が隠れているため、お姿を間近に感じられる。延暦初期の作品とされるが、平安時代の仏像とは違う面立ちに注目。明治35年の大山津波で中禅寺湖に沈んだが、奇跡的に浮き上がり引き上げられた。立木観音は、それまでの地を離れ、中禅寺の移転とともに移された。脇侍(わきじ)の四天王像は源頼朝が戦勝祈願に寄進したものといわれる。
   
波之利大黒天堂(はしりだいこくてんどう) 
勝道上人開山のとき、中禅寺湖に姿を現した大黒天をまつるお堂。波の上に現れたので「なみのり」と書き「はしり」と読む。お札は開運や安産、足止め(家出人の帰還や浮気防止)の御利益がある。 
愛染堂 
中禅寺湖を背景に建てられた小さめのお堂は、人間に近い仏様とされる愛染明王がまつられている。ご本尊は男女の愛情をつかさどるとされ、縁結びに大きな御利益があるといわれる。映画「愛染かつら」のロケ地としても有名。
   
五大堂 
中禅寺の本堂裏のがけを背に建っている。開山1200年記念事業として建てられ、昭和44年(1969)に完成。降三世明王(ごうざんぜみょうおう)軍茶利明王(ぐんだりみょうおう)大威徳明王(だいいとくみょうおう)金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)不動明王(ふどうみょうおう)の五大明王が安置されている。五大明王像は江戸時代の作で、もとは東照宮境内護摩堂に安置されていた尊像。五大堂の天井には、文化勲章受章者の日本画家で芸術院会員の堅山南風(かたやまなんぷう)画伯が描いた大雲竜(14m×6m)がある。前後の格天井には、堅山南風画伯の弟子34名の画家による日光の四季の植物148点が描かれている。
   
戦場ガ原 
名前は、ここが神話の世界に登場する「戦場」だったことに由来する。 
「戦場ガ原神戦譚」によれば「事の起こりは中禅寺湖だった。これがどこの領土に属するか下野の二荒山の神と、上野の赤城山の神の間で争いが起こった。そこで両神による神戦で雌雄を決することになったが、どうも二荒山の旗色がよくない。二荒山が鹿島大明神に相談すると、奥州にいる小野の猿丸という弓矢の名人を教えてくれた。猿丸は二荒山の神の孫にあたった。二荒山の神は見事な白鹿に化身して奥州の阿津加志山に現れ、この鹿を追う猿丸を二荒山まで誘い出した。事情を知って助勢を承知した猿丸は、戦地となっている戦場ガ原に赴いた。赤城山の化身ムカデの大群と、二荒山の化身ヘビの大群が、刺したりかんだり、絡み合って戦っていた。ムカデ軍に目をこらすと、2本の角を持つ大ムカデが戦の指揮をとっていた。これぞ敵の大将とばかり、猿丸はその左の目を狙って矢を放つと、見事に的中。敵は見る間に撤退を始め、二荒山の勝利に終わった。」 
魅力的な伝説に彩られた戦場ガ原は、標高1400mの高地に広がる400haの湿原である。周囲は東の男体山をはじめ、太郎山、山王帽子山、三岳などに囲まれている。2万年前の戦場ガ原は、日光火山群の噴火でせき止められた湖だったといわれる。しかし、乾燥化や土砂の流入、さらには男体山の噴火による軽石流が流れ込んで、いまの湿原の姿に変わっていったという。
   
湿原は、オオアゼスゲ、ヌマガヤ、ワタスゲなどが生育する中間湿原がほとんどで、中央部の糠塚あたりにヒメミズゴケが多い高層湿原がわずかに分布している。そして湿原を囲むように、湯川と国道120号沿いには、カラマツ、ミズナラ、ハルニレ、ズミ、シラカンバなどの樹木が茂っている。春が遅く高山植物の花を楽しめるのは、6〜8月。クロミノウグイスカグラから始まって、ワタスゲ、ズミ、レ ンゲツツジ、イブキトラノオ、カラマツソウ、ノハナショウブ、ホザキシモツケと続く。
  
竜頭ノ滝 
湯ノ湖から流れ出た湯川が中禅寺湖に注ぐ手前にある。奥日光三名瀑のひとつで、男体山噴火による溶岩の上を210mにわたって流れ落ちている。滝壷近くが大きな岩によって二分され、その様子が竜の頭に似ていることからこの名がついたといわれる。春と秋には、周辺のツツジ、紅葉が美しい。
   
東照宮 
徳川家康は慶長8年(1603、征夷大将軍になり任ぜられ江戸に幕府を開く。秀忠に2代将軍の座を譲ってからも大御所として天下ににらみをきかせ、重要な遺言を残した。「遺体は久能山におさめ・・・一周忌が過ぎたなら日光山に小さな堂を建て勧請し、神としてまつること。そして八州の鎮守となろう・・・」 
元和2年4月17日(1616)家康は駿府で75歳の生涯を閉じる。翌年、日光に社殿が造営され、朝廷から東照大権現の神号が贈られ、遺言どおり神としてまつられた。 
「八州の鎮守」とは現代風にいえば「日本全土の平和の守り神」である。日光は江戸のほぼ真北にあり、不動の北極星の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたのである。 
家康が望んだ「小さな堂」は、やがて家康を敬愛する3代将軍家光によって、いま見るような絢爛豪華なものに生まれ変った。現存建物のほとんどは「寛永の大造替」で建替えられたもの。

   
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