日光

 

日光と沙門勝道二荒山日光修験と偽書の成立勝道上人「日光登山記」
 
補陀洛山(ふだらくさん)と男体山1 
男体山は二荒山とも呼ばれ、その「ふたら」とは観音浄土の補陀洛(梵語)から出ている。二荒山神社お参りしても、男体山のことを二荒山という人はいないが、もともと二荒山は別名を補陀洛山といわれていた。 
勝道上人が日光を開山し、男体山の登頂に成功したのち、西ノ湖で千手観音の尊像を拝したと伝えられている。つまり、男体山を中心とする山と湖の霊域を、観音の浄土と感得していた 。観音浄土は、南の海上にあるポタラカ(梵語)という山とされている。ポタラカを漢字にあてると「補陀洛」と書く。弘法大師撰による勝道上人男体山登頂の記録が「補陀洛山に上るの碑文」ともいわれているのは、この理由から だ。 
この補陀洛から、日光という地名が生まれたとの説が有力だ。補陀洛から「ふたら」となり、「ふたら」が「ふたあら(二荒)」にあてられ、二荒山の語が生まれた。この「二荒」を音読みして「ニッコウ」となり「日光」の好字が与えられたという。  
補陀洛山(ふだらくさん)と男体山2 
日光という地名の由来について諸説がある。観音菩薩の浄土を補陀洛山(ふだらくさん)というが、その補陀洛山からフタラ山(二荒山)の名がついたという説、日光の山には熊笹が多いので、アイヌ語のフトラ=熊笹がフタラになりフタラが二荒になったという説、男体山、女峰山に男女の二神が現れたのでフタアラワレの山になったとか、いろは坂の入口付近に屏風岩がある。そこに大きな洞穴があり「風穴」とか「雷神窟」などと呼ばれ、この穴に風の神と雷獣が住んでいて、カミナリをおこし豪雨を降らせ、春と秋に暴風が吹いて土地を荒したので二荒山という名ができたとか、二荒が日光になったのは、弘法大師空海が二荒山(男体山)に登られたとき、二荒の文字が感心しないといって、フタラをニコウと音読し、良い字をあてて日光にしたと伝えられている。 
男体山は御神体で、大己貴命(おおなむちのみこと)であり、千手観音(せんじゅかんのん)であり、男体権現でもある。女峰山も御神体で、田心姫命(たごりひめのみこと)であり、阿弥陀如来(あみだにょらい)であり、女体権現でもある。太郎山も御神体であり、味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)であり、馬頭観音(ばとうかんのん)であり、太郎権現でもある。山と仏と神が一体で、しかも男体山は父、女峰山は母、太郎山は子の家族として崇められた。勝道上人が開いた神仏習合(しんぶつしゅうごう)の宗教観が関東の一大霊山「日光山」を栄えさせた。
中禅寺湖 
周囲約25Km最大水深163mの中禅寺湖は、日光を代表する湖。水面の海抜高度1269mは日本一の高さを誇る(人工湖を除く面積4Km2以上の湖のなかで)。約2万年の昔、男体山の噴火による溶岩で渓谷がせき止められ原形ができた。 
発見されたのは天応2年(782)日光開山の祖、勝道上人が男体山の登頂に成功したとき、山の上から湖の存在を見つけた。2年後には勝道上人一行が、湖畔に堂を造り神宮寺を建立した。以来、山岳信仰の修験者たちが訪れ、船禅頂(湖に船を浮かべて読誦し湖畔の社堂を巡る)もおこなわれるようになった。 
大きな変革が訪れるのは明治5年(1872)に女人牛馬禁制が解かれてからである。明治に入るまで女性がいなかったため、中禅寺で出産が初めて記録されるのは明治17年だった。この間、明治9年に明治天皇が来晃され、中禅寺湖を「幸の湖(さちのうみ)」と名づけている。中禅寺湖周辺をリゾート地として育てていったのは外国人である。欧米各国の外交官たちが避暑に訪れるようになり、湖畔に別荘を建てていった。現在でもフランスやベルギーなど4か国の大使館別荘が湖畔にたたずんでいる。
輪王寺 
お寺やお堂、15の支院の総称で勝道上人が天平神護(てんぴょうじんご)2年(766)神橋のそばに四本竜寺(しほんりゅうじ)を建立したのが始まり。平安時代の弘仁元年(810)朝廷から一山の総号として満願寺の名をもらい、後に円仁(えんにん)が来山して天台宗となって現在に至る。鎌倉時代には弁覚(べんがく)が光明院(こうみょういん)を創設して一山の本院とし、天皇家から門跡を招く皇族座主の制度が始まった。安土桃山時代には小田原の北条氏に加担したため、豊臣秀吉に寺領を没収されて一時衰退した。江戸時代、慶長18年(1613)将軍の相談役・天海が貫主(かんす)となり、東照宮を創建してから日光は一大聖地に躍進した。明暦元年(1655)に守澄法親王(しゅちょうほうしんのう)が輪王寺宮を称し、寺名の輪王寺はこれによる。  
二荒山神社 
大昔の先祖は、天高くそびえ雲、雨、雪、雷などさまざまな自然現象を展開し、命のもとである水を恵む高い山々に、恐れと尊敬の心を抱いた。そこに神がいると信じる、自然に生まれた山岳信仰である。関東平野の北方にそびえる霊峰二荒山(ふたらさん)/男体山も、古くから神の山として敬われてきた。 
今から約1200年前の奈良時代の末、二荒山に神霊を感じた勝道上人が、大谷川(だいやがわ)の北岸に四本竜寺を建て、延暦9年(790)に本宮神社を建てた。二荒山神社の始まりである。勝道上人はさまざまな難行苦行を積み、二荒山初登頂の大願を果たし、山頂に小さな祠(ほこら)をまつった。天応2年(782)のことであった。これが奥宮である。延暦3年(784)二荒山中腹の中禅寺湖北岸に日光山権現(中宮祠・ちゅうぐうし)をまつり、ほぼ現在の形となった。 
二荒山神社は早くから下野国一の宮としてうやまわれ、鎌倉時代以後は、関東の守り神として幕府、豪族の信仰をあつめた。江戸時代の元和3年(1617)東照宮がまつられたとき、幕府は神領を寄進し社殿を造営して崇めた。
日光山中禅寺 
日光山の開祖、勝道上人(しょうどう)は、男体山山頂をきわめた後、延暦3年(784)に中禅寺を建立、修行の場とした。当時は男体山の登拝口のほうにあったが、明治35年の大山津波をきっかけに、中禅寺湖歌ガ浜に移転した。坂東観音霊場33か所の18番目にあたり、立木観音や波之利大黒天(はしりだいこくてん)など、特徴的な仏像がまつられている。
立木観音 
門を入って正面左手にある本堂には、重要文化財の十一面千手観音菩薩がまつられている。これは日光山開祖、勝道上人の作とされ、上人が西ノ湖に船出したとき水の中から金色の千手観音が出現、その姿を彫ったと伝えられている。千手観音は男体山の本地仏(本来の姿)にあたる。観音像は、胴体部分が根がついたままの立木の状態で彫られたことから、立木観音と呼ばれている。左右の手は寄木造りで、素材はカツラ。大幅な修理はなく、造られた当時そのままの姿を現在に伝える。全高6mに及ぶが、下の部分が隠れているため、お姿を間近に感じられる。延暦初期の作品とされるが、平安時代の仏像とは違う面立ちに注目。明治35年の大山津波で中禅寺湖に沈んだが、奇跡的に浮き上がり引き上げられた。立木観音は、それまでの地を離れ、中禅寺の移転とともに移された。脇侍(わきじ)の四天王像は源頼朝が戦勝祈願に寄進したものといわれる。
波之利大黒天堂(はしりだいこくてんどう) 
勝道上人開山のとき、中禅寺湖に姿を現した大黒天をまつるお堂。波の上に現れたので「なみのり」と書き「はしり」と読む。お札は開運や安産、足止め(家出人の帰還や浮気防止)の御利益がある。 
愛染堂 
中禅寺湖を背景に建てられた小さめのお堂は、人間に近い仏様とされる愛染明王がまつられている。ご本尊は男女の愛情をつかさどるとされ、縁結びに大きな御利益があるといわれる。映画「愛染かつら」のロケ地としても有名。
五大堂 
中禅寺の本堂裏のがけを背に建っている。開山1200年記念事業として建てられ、昭和44年(1969)に完成。降三世明王(ごうざんぜみょうおう)軍茶利明王(ぐんだりみょうおう)大威徳明王(だいいとくみょうおう)金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)不動明王(ふどうみょうおう)の五大明王が安置されている。五大明王像は江戸時代の作で、もとは東照宮境内護摩堂に安置されていた尊像。五大堂の天井には、文化勲章受章者の日本画家で芸術院会員の堅山南風(かたやまなんぷう)画伯が描いた大雲竜(14m×6m)がある。前後の格天井には、堅山南風画伯の弟子34名の画家による日光の四季の植物148点が描かれている。
戦場ガ原 
名前は、ここが神話の世界に登場する「戦場」だったことに由来する。 
「戦場ガ原神戦譚」によれば「事の起こりは中禅寺湖だった。これがどこの領土に属するか下野の二荒山の神と、上野の赤城山の神の間で争いが起こった。そこで両神による神戦で雌雄を決することになったが、どうも二荒山の旗色がよくない。二荒山が鹿島大明神に相談すると、奥州にいる小野の猿丸という弓矢の名人を教えてくれた。猿丸は二荒山の神の孫にあたった。二荒山の神は見事な白鹿に化身して奥州の阿津加志山に現れ、この鹿を追う猿丸を二荒山まで誘い出した。事情を知って助勢を承知した猿丸は、戦地となっている戦場ガ原に赴いた。赤城山の化身ムカデの大群と、二荒山の化身ヘビの大群が、刺したりかんだり、絡み合って戦っていた。ムカデ軍に目をこらすと、2本の角を持つ大ムカデが戦の指揮をとっていた。これぞ敵の大将とばかり、猿丸はその左の目を狙って矢を放つと、見事に的中。敵は見る間に撤退を始め、二荒山の勝利に終わった。」 
魅力的な伝説に彩られた戦場ガ原は、標高1400mの高地に広がる400haの湿原である。周囲は東の男体山をはじめ、太郎山、山王帽子山、三岳などに囲まれている。2万年前の戦場ガ原は、日光火山群の噴火でせき止められた湖だったといわれる。しかし、乾燥化や土砂の流入、さらには男体山の噴火による軽石流が流れ込んで、いまの湿原の姿に変わっていったという。
湿原は、オオアゼスゲ、ヌマガヤ、ワタスゲなどが生育する中間湿原がほとんどで、中央部の糠塚あたりにヒメミズゴケが多い高層湿原がわずかに分布している。そして湿原を囲むように、湯川と国道120号沿いには、カラマツ、ミズナラ、ハルニレ、ズミ、シラカンバなどの樹木が茂っている。春が遅く高山植物の花を楽しめるのは、6〜8月。クロミノウグイスカグラから始まって、ワタスゲ、ズミ、レ ンゲツツジ、イブキトラノオ、カラマツソウ、ノハナショウブ、ホザキシモツケと続く。
竜頭ノ滝 
湯ノ湖から流れ出た湯川が中禅寺湖に注ぐ手前にある。奥日光三名瀑のひとつで、男体山噴火による溶岩の上を210mにわたって流れ落ちている。滝壷近くが大きな岩によって二分され、その様子が竜の頭に似ていることからこの名がついたといわれる。春と秋には、周辺のツツジ、紅葉が美しい。
東照宮 
徳川家康は慶長8年(1603、征夷大将軍になり任ぜられ江戸に幕府を開く。秀忠に2代将軍の座を譲ってからも大御所として天下ににらみをきかせ、重要な遺言を残した。「遺体は久能山におさめ・・・一周忌が過ぎたなら日光山に小さな堂を建て勧請し、神としてまつること。そして八州の鎮守となろう・・・」 
元和2年4月17日(1616)家康は駿府で75歳の生涯を閉じる。翌年、日光に社殿が造営され、朝廷から東照大権現の神号が贈られ、遺言どおり神としてまつられた。 
「八州の鎮守」とは現代風にいえば「日本全土の平和の守り神」である。日光は江戸のほぼ真北にあり、不動の北極星の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたのである。 
家康が望んだ「小さな堂」は、やがて家康を敬愛する3代将軍家光によって、いま見るような絢爛豪華なものに生まれ変った。現存建物のほとんどは「寛永の大造替」で建替えられたもの。

 


   
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日光開山・沙門勝道の人物像

 

一 はじめに 
勝道は、奈良末・平安初期に下野国補陀洛山(現・栃木県日光男体山。日光山と略す)を開いたとして名高い僧侶である。同国芳賀郡に生まれた勝道は、日光山への登頂を試み、三度目にしてようやく成功、さらに山麓の南湖(現・中禅寺湖)の畔に神宮寺を建てて修行したとされる。その後、上野国の講師に任命されるとともに、下野国都賀郡には精舎を建立して利他弘道し、また旱魃に際しては日光山に登って祈雨したことなどが伝えられている。
勝道に関する史料は少ない。自身の著作は現存せず、また何らかの著作をなしたとの伝えもない。同時代の史料としては、『遍照発揮性霊集』に収録の「沙門勝道山水を歴て玄珠を瑩く碑并びに序」(以下、『勝道碑文』と略す)がある。これは弘仁五年(814)、弘法大師空海(774-835)の作で、日光山の勝境と勝道の事績を誌した碑文および序である。また後世の史料としては、藤原敦光(1062-1144)の『中禅寺私記』、勝道の弟子とされる仁朝・道珍・教旻・道欽の『補陀洛山建立修行日記』(『修行日記』と略す)、道珍の『日光山滝尾建立草創日記』(『草創日記』と略す)等があり、僧伝としては虎関師錬(1278-1346)の『元亨釈書』、高泉性潡(1633-1695)の『東国高僧伝』、卍元師蛮(1626- 1710 )の『本朝高僧伝』にそれぞれ略伝が記されている。
勝道に関する先行研究は、すでに蓄積がある。それらに依ると、勝道の人物像は、およそ次の三つの観点より説明されている。一つには、星野理一郎氏や福井康順氏に代表されるように、日光開山者としての勝道に対する慶讃・信仰を前面に出した視点である。『勝道碑文』に加え、中世の成立とされる『修行日記』『草創日記』を基本とし、さらには各地に残る勝道伝承や日光修験の言説などをも取り込み、そのほとんどを史実として、勝道の生涯を描いている。およそ千二百年にわたる日光山と勝道に関する信仰の集大成という意味では、実に素晴らしい成果と言えよう。ただし、史実と後世の脚色との判別は全くなされてはおらず、これらをそのまま勝道の実像と見ることはできない。
二つには、先とは全く逆の視点で、疑わしきは、すべて採用しないというものである。下出積與氏などは12、『修行日記』『草創日記』は言うに及ばず、『勝道碑文』でさえ、全く信ずるに足らないとする。結局のところ勝道については、「民間の仏教的宗教者、いわば私度僧的なもの」ということ以外は何も言い得ず、「日光山は勝道によって初めて開かれたと、東国ではすでに平安初期から信じられていた」ということのみ信じて良いとされる。確かに『勝道碑文』は空海の作であり、日光山と勝道を慶讃する意図があった筈であるから、厳密に言えば、すでに当初より脚色があったことは確かであろう。ただし、当時の仏教者の動向からして、勝道を単純に私度僧と見て良いのだろうか。時代状況との整合性を確かめながら、『勝道碑文』に記される勝道像や諸問題を問うことは、当時の宗教・仏教のあり方を考察する足がかりともなるであろう。
三つには、勝道による日光山開山を、当時の東国の時代的・地理的背景と結びつける視点である。つまり大和久震平氏や橋本澄朗氏は、勝道の日光山開山を、蝦夷問題の終結という国家的使命を背負った公人としての事業と位置づけている。しかし、勝道や日光山と、蝦夷問題を結びつける直接的な史料は示されてはおらず、結論を急いている感が否めない。果たして勝道の日光山開山は、特に蝦夷問題と結びつけて理解すべきものであろうか。その生涯・目的意識の全体を踏まえつつ、登頂の意義を考える必要もあるだろう。
以上のように勝道は、論者の視点によって、偉大な日光修験の祖師とも、無名の民間宗教者とも、蝦夷問題の終結を祈る官僧とも述べられており、その見解に大きな差がある。そして、そのいずれもが、再考の余地を残したものであると思う。
勝道には、その生涯を記した同時代の史料が伝えられ、またそれを裏付ける山頂遺跡が発掘されている。当時の山林修行者の中で、文献と物証の両面から、その動向を考察できる事例は極めてまれであり、その意味でも勝道は十分に検討すべき人物である。筆者は本論攷において、考古学の成果も参照しつつ、最も基本とすべき『勝道碑文』を再度検討し、関連する諸問題について若干の考察を加えながら、勝道の人物像を改めて考えてみたい。 
二 その生涯 

 

まずは、『勝道碑文』に記される勝道の生涯を概説したい。その際、より詳しい事績等は、〈括弧〉として『修行日記』の記述を参考として付記する。
勝道は、〈天平七年(735)〉、下野国芳賀郡に生まれ、俗姓は若田氏とされる。若くして非凡さを現した勝道は、生業を煩って仏道を志し、集落の喧騒を厭い林泉の静寂を仰いだという。〈家を出た勝道は、伊豆留や大剣峰にて修行し、設置されたばかりの下野薬師寺戒壇にて沙弥戒・具足戒を受けたとされる。〉
神護景雲元年(767)四月上旬、同州の日光山へ最初の登頂を試みるも失敗し、中腹に還って三七日間住して帰った。
〈その後、四本龍寺(現・日光山輪王寺)を拠点に、弊衣粗食にて坐禅読経に精進し、〉十四年後の天応元年(781)四月上旬に再び登るも失敗、翌年天応二年(782)三月、三度目の試みにしてようやくその頂に到ったという。この三度目の登頂に際しては、まず山麓において一七日間、読経礼仏し、「我が図写する所の経及び像等、当に山頂に至りて、神の為に供養し、以て神威を崇め、群生の福を饒にすべし」との誓願を発てて登頂を決行し、三日間かけて遂にその頂に達した。頂上の西南の隅に庵を結び、三七日間住して礼懺し、故居に帰ったとされる。
二年後の延暦三年(784)三月下旬に再び登り、五日間を要して南湖の辺に到るという。二、三人の弟子と共に南湖・西湖・北湖を遊覧し、南湖の勝地に伽藍を建てて神宮寺と名付けた。ここに数年間止住し修行したとされる。
その後、延暦年中(782-805)には、上野国講師に任ぜられ、また都賀郡城山には華厳精舎を建立して、諸処にて利他・弘道したという。大同二年(807)の旱魃に際しては、国司の要請により日光山に登り祈祷し、効験があったとされる。勝道は晩年、日光山の勝景が記されていないことを歎き、下野国に下向していた伊博士を通じて、空海にその文章を依頼した。これを受けて空海は弘仁五年(814)に『勝道碑文』を作成している。この時すでに勝道は七十歳に至り、体調を崩して能事を終えたとされる。〈あるいは弘仁八年(817)、四本龍寺北の岩窟にて入滅、行年八十三歳であったという。〉
その生涯を性格の違いから分類するならば、T日光山登頂を試みるまでの青少年期、U日光山山頂をめざした登頂期、V南湖畔に神宮寺を建てて住した修行期、Wその後の利他弘道期、の四つに分けられよう。以下、この四つの時期に従って、いくつかの問題点を考察しながら、勝道の事跡・人物像を詳しく見ていきたい。  
三 勝道の人物像と諸問題 

 

T日光山登頂を試みるまでの青少年期 
(1)勝道の出自
勝道の出自について、『勝道碑文』は、有沙門勝道者、下野芳賀人也。俗姓若田氏。と伝える。「下野芳賀」は現在の栃木県南東部の芳賀地方にあたる。また「若田氏」について、『修行日記』は、垂仁天皇の第九皇子で、東国に赴き下毛野国室の八島に止住した巻向尊の子孫とし、『日光市史』は、上野国片岡郡若田郷から出て、のち東へ移った一族とする。なお『修行日記』に依れば、父は下野介の若田高藤、母は吉田氏の女で、二人は子宝に恵まれずにいたが、伊豆留(現・栃木市出流町)の千手観音に祈ったところ懐妊し、天平七年(735)乙亥四月廿一日に勝道(童名・藤糸)を授かったとされる。また、今に伝わる伝承では、父の家は若田氏本貫の下野国都賀郡城山にあったが、母方の実家である芳賀郡にて出生したという。諸説あるものの、現時点で勝道の出自の実際を詮索することは難しい。
幼少期の勝道について、『勝道碑文』は何も語らないが、『修行日記』は具体的なエピソードを伝える。一つは石塔や砂堂を造って神仏を拝んだこと、一つは仏菩薩明王らと出会い、三帰依や四弘誓願を授かったことである。こうした部分は、高僧の伝にありがちな後世の付会としてほとんど注目されないが、例えば同時代の仏教説話集『日本霊異記』には、秦里(現・和歌山県海南市下津町小畑)の子供たちが戯れて、木を刻んで仏像とし、石を積んで仏塔とし、供養のまねごとをして遊ぶ場面が記されている。これと同様に、勝道も仏教的な習俗の土壌に育った可能性はあるだろう。 
(2)沙弥・比丘としての勝道
勝道の青年期については、『勝道碑文』に、神邈救蟻之齡、意清惜囊之齒。桎枷四民之生事、調飢三諦之滅業。厭聚落之轟轟、仰林泉之皓然。とある。修辞に満ちてはいるが、大意としては、若くして非凡・清浄であり、世俗を厭い仏道を志したということである。すなわち、「救蟻の齢」つまり沙弥(通常、七歳から二十歳まで)であった時から、すでに非凡な精神を現し、「惜嚢の歯」つまり比丘(通常、二十歳以上)となった後には、清浄なる心意に達したという。また「四民の生事」つまり士農工商という世俗の生業を煩わしい足枷と感じて、「三諦の滅業」つまり空仮中の三諦による仏道修行を志し、集落の喧騒を厭い、山水や林泉を仰いだことが知られる。
なお、「救蟻」と「惜嚢」について、従来の研究では、これを単なる年齢の比喩と見て、「(沙弥となる)十五、六歳の頃」「(比丘となる)二十歳の頃」とするが、智積院第七世運敞(1614- 1693)の『性霊集便蒙』は、端的に「沙弥であった時」「比丘となった後」と解している。近年の研究が、これを単に年齢の比喩と見て、実際に勝道が出家得度して沙弥となり、具足戒を受けて比丘(僧侶・沙門)となったと読まないのは、勝道は地方民間の宗教者・私度僧であったという暗黙の前提に依るからである。例えば下出積與氏は、「(勝道は)中央に繋がりのある官僧界に属したことのない民間の仏教的宗教者、〈中略〉後代になるにしたがって官僧社会の密教僧的な行者像として、より濃厚に修飾されていったものと思う。つまり、こうした部分の勝道像は、後世の作為として良いということである」として、勝道が青年期に沙弥・比丘となっていたことはもとより、それ以降の事績のほとんどを認めない。ただ、その論拠は何ら示されてはおらず、無条件にそう結論づけられているにすぎない。
この時期の勝道について、『修行日記』は次のように伝える。勝道は天平勝宝六年(754)、二十歳にして住所を離れ、伊豆留や大剣峰などの山々に入り、千手観音を億念して三帰四弘を誦したという。さらに天平宝字五年(761)には、下野薬師寺に戒壇が設けられたとの知らせを受け、勝道はこれを悦んで薬師寺に赴き、鑑真の弟子の如意や恵雲に随い、二十七歳にして沙弥戒を、翌六年(762)には具足戒を受け、五年間止住して求聞持法を修し、『華厳経』『法華経』『金光明最勝王経』『成唯識論』など数部の経論を読誦したとされる。
こうした伝承は、まさに下出氏が後世の作為とするところで、全くの修飾であるとして採用されない。しかし例えば、得度を求める優婆塞・優婆夷(在家仏教者)を政府に進める時の文書、いわゆる『優婆塞貢進解』に依れば、『修行日記』の記載は必ずしも不合理とは言えない。つまり『優婆塞貢進解』には、優婆塞・優婆夷の俗名、読誦できる経呪、浄行年数、師主僧名などが記載されているが、記録の残る天平四年(732)から十七年(745)までの四十三人に関すれば、その読経経典としては勅によって規定されていた『法華経』『金光明最勝王経』が主であり、誦経経典として『観音経』と共に『薬師経』『理趣経』が多い。そして誦呪陀羅尼としては「千手陀羅尼」が最も多く、「仏頂陀羅尼」「十一面陀羅尼」「不空羂索陀羅尼」と続き、約四分の三の優婆塞が二、三種の陀羅尼を呪していることが知られる。また『日本霊異記』には、神護景雲三年(769)以前に、京の小野朝臣庭麿なる者が優婆塞となり、千手観音の呪を誦持して加賀郡の山を展転して修行したとの説話がある。こうした状況を踏まえれば、勝道が集落の喧騒を避け、まずは優婆塞となって山林に入り、千手観音呪を億念して諸山を転々とした可能性は十分にあり得るだろう。
また天平宝字二年(758)に朝廷は、諸国の山林に隠れて十年以上の清行を積んだ逸士(優婆塞)に、得度を認めている。さらに時代は下るが、承和十五年(848 )には、持経や持呪に優れた者の試験をしたところ、笈を背負い錫を杖するもの数百人が方々より集まり、うち七十人あまりに官度が認められた。こうした諸国の優婆塞と同様に、伊豆留などの山林で修行していた勝道が、下野薬師寺の戒壇設置を悦んで馳せ参じ、得度・受戒が許された可能性も考えられる。
さらに先行研究にて示されるように、奈良期の仏教は山林修行と密接に関わっていた。出家を志す優婆塞はもちろんのこと、得度・受戒後の沙弥や比丘であっても、積極的に山林に踏み入り、修行を積んだ事例が指摘されている。また諸国の国分寺や有力な私寺では、近接する山地に山寺が営まれる場合があり、僧侶たちの修行の場となっていたとされる。
これら当時の状況と照らし合わせれば、伊豆留での山林修行、下野薬師寺での受戒・修行など、『修行日記』が伝える勝道の青年期の事績は、大筋としてこれを認めても良いのではなかろうか。後述するように、日光山山頂からは奈良から平安初期とされる鏡鑑や法具が多数出土しているが、これは勝道が無名の民間宗教者というより、有力な支援者を得た仏教者であったことを示唆している。また空海は『勝道碑文』にて、勝道を「沙門」と称しているが、「沙門」とは当時の日本において、比丘・僧侶と同じ意味で使われている。さらに勝道が晩年に「講師」に任命され、「法師位」にあって国司の要請により雨を祈っていることから、勝道が公的に認められた僧侶であったことは疑いえない。ではいったい何時、勝道は受戒したかと言えば、空海が青年期の勝道について、「救蟻」「惜嚢」という沙弥・比丘を指し示す語を使用している以上、日光山登頂以前には得度・受戒して、すでに沙弥・比丘となっていたと考えた方が妥当であろう。 
(3)勝道の宗風:天台と華厳の可能性
なお、伝承の通りに勝道が下野薬師寺にて受戒し、同寺に止住した僧侶であったとすれば、その宗風を如何に考えることができるだろうか。それは先の『勝道碑文』に言う「三諦の滅業」が参考となろう。従来の研究では特に注目されないが、これが空仮中の三諦を説く隋の智者大師智(538-597)の門流、すなわち「天台」の比喩であることは想像に難くない。すでに田村晃祐氏が指摘しているように、東国の仏教、特に下野・上野両国の仏教は、天台との関わりが深いという。つまり伝教大師最澄(767-822)の一切経写経や東国巡化といった活動に積極的に援助をし、また東国より多くの者が最澄に弟子入りして、円澄(771-836)、円仁(794- 864)、安慧(795-868)が天台座主に昇るなど、初期の日本天台宗の発展に、東国仏教は重要な役割を果たしたとされる。田村氏は、その母体として「東国天台教団=道忠教団」の存在を推測している。つまり日本に律を伝えた鑑真大和上(688- 763)は、律とともに天台に精通していたが、天平宝字五年(761)に下野薬師寺の戒壇が設置された当時、持戒第一と称賛された弟子の道忠(生没年未詳)が派遣され、東国に鑑真の門流が広まったとしている。
このように下野薬師寺を拠点に鑑真の門流が隆盛していたとするならば、「三諦の滅業に調飢たり」とは、まさに「天台」の教えを志求したと解釈できるのではなかろうか。後世になって、日光山にて天台宗が盛んとなる遠因は、すでに勝道にあった可能性もある。なお『修行日記』にて勝道の師とされる「如意」「恵雲」とは、鑑真門下の渡来僧・如宝(?-815)と慧雲(?-810)のことと思われる。両者はともに鑑真に隨順して来日し、律の宣揚に励み、晩年は僧綱にも任ぜられた人物である。少なくとも後世には、勝道が如宝や慧雲を通じて、鑑真の門流に連なっていたとの伝承があったことは確かである。
もっとも『勝道碑文』には、勝道が晩年に「華厳精舎を都賀郡城山に建立し」たとする。また『修行日記』も、勝道が読誦した経典として、優婆塞が度牒を得る条件として課せられていた『法華経』『金光明最勝王経』に加え、『華厳経』を読誦したと伝えている。勝道は「華厳」にも通じていたか、あるいは善財童子の補陀洛山遊行を説く『華厳経』に信仰を寄せていたのかもしれない。当時の東国における華厳の弘通状況については、すでに朝鮮半島からの帰化人が多く東国に移り住んでいることから、朝鮮半島にて盛んであった華厳が、帰化人を通じて東国に将されたとの見解もある。
いずれにせよ、勝道の宗風を推測するならば、「天台」「華厳」などの一仏乗が、ひとつの可能性として指摘し得るだろう。また、勝道が示寂した後ではあるが、弘仁八年(817)に最澄が東国を訪れて以降、常陸・陸奥を拠点とした法相の徳一(750頃-840頃)と、上野・下野を拠点とした道忠教団さらには叡山の最澄との間で、いわゆる「三一権実論争」が展開された。あくまで推測の域は出ないが、朝鮮半島からの帰化人、あるいは鑑真の弟子の道忠を通じて、東国、特に下野・上野には、教義の上で南都の仏教とは一線を画す一仏乗の宗風が根付いていたのであろう。
『勝道碑文』に記された僅かな痕跡は、勝道にもその傾向があったことを示唆するものである。 
U日光山山頂をめざした登頂期 

 

(1)葱嶺に譬えられた日光山
勝道が始めて日光山への登頂を試みたのは、神護景雲元年(767)、およそ二十から三十代の頃であった。栃木県の北西に位置する日光男体山は、標高二四八六メートル、関東地方屈指の名山である。成層火山による円錐形の山容が美しい。この山について『勝道碑文』は次のように記す。粤有同州補陀洛山。賺 嶺挿銀漢、白峯衝碧落。磤雷腹而鼉吼、翔鳳足而羊角。魑魅罕通、人蹊也絶。借問振古、未有攀躋者。
従来の研究と同様に、運敞の『性霊集便蒙』に従えば、この箇所は日光山の「高さ」を比喩的に述べていると解釈できる。つまり、その高く聳える山容は、夏には青い嶺が天の川を突き刺す程、冬には白い峯が青空に突き当たる程であり、さらには雷鳴であっても山腹で轟く程、鳳凰でさえ山麓で飛翔する程である。それ故、魑魅も通ることはまれで、まして人間では以前に登った者など誰もいないとする。
ただ、そうした解釈に加えて、別の暗喩を読み取ることができよう。まず「葱嶺」とは、具体的な山名としては、現在の中国新疆の西南部に位置するパミール山地を意味する。『漢書』「西域伝」に「西は則ち限るに葱嶺を以てす」とあるように、当時の地理認識からすれば、「葱嶺」とは西域の最西端を意味していた。その認識は後世の日本にも伝承され、『平家物語』にも「天竺、震旦の境に、流沙、葱嶺といふ嶮難あり。渡り難くして越え難き道なり」と記される程である。
また「葱嶺」は、遠境の山であると同時に、天竺へと通ずる求法の山でもあった。例えば、陸路にて西域を進み天竺へと入った劉宋の黄龍国沙門曇無竭(-420頃-)の僧伝に、「葱嶺を登りて雪山を度る」と記されるように、かつて多くの求法者たちは、「葱嶺」を越えて入竺を試みている。そして東晋の平陽沙門法顕(337頃-422 頃)の伝に「葱嶺に至る。嶺、冬夏に積雪し、悪龍有りて毒風を吐き、沙礫を雨ふらす」とあるように、その山路はまさに命懸けの困難なものであった。事実、求法者の多くが、ここで命を落としたとされる。おそらく「葱嶺」とは、仏教者にとって特別な感慨を抱かせる山名であったのではなかろうか。空海は、日光山を「葱嶺」に譬えることで、日光山が大和から遠く離れた山であり、かつ踏み入ることが困難な山であるとの認識を暗に表していると考えられる。
それは「鼉吼」と「羊角」の比喩からも読み取れる。これらは「雷鳴」と「旋つむじかぜ風」を意味しており、従来のように山の高さを表すと解釈するには疑問がある。むしろこの山の自然状況の厳しさ、さらには踏み入ることの危険さを表現しているのであろう。大きな雷が起こり、山腹では鼉が吼える如く時折り雷鳴が響いている。鳳凰が飛翔することで、山麓では強い旋風が羊の角の如くに渦巻いている。勝道が第一回目の登頂に失敗した理由も、深雪、岩壁、雲霧、雷鳴など、自然的な障難であった。それらはあたかも近寄る者を威嚇するかのように立ちはだかる。おそらく空海は、日光山に攀じ登った勝道を、西域の険しい山々を越えた求法僧に重ね合わせているのではなかろうか。 
(2)日光山山頂遺跡の解釈
なお、ここで問題とすべきは、日光山の山頂遺跡のことである。この遺跡は山頂部の巨岩を中心に営まれ、古墳期から江戸期にかけての遺物、約六千点が出土している。時代ごとに遺物の変遷はあるが、大きな転機は平安末・鎌倉初期であり、この時期を境に前半の主要な遺物であった鏡鑑類が姿を消し、埋経品・武具・馬具・修験道関係品が出土するようになるという。質・量ともに、これほどの遺物が山頂から出土するのは全国的に見てもまれで、類例としては奈良県山上ヶ岳、福岡県宝満山があるのみとされる。
古墳期の遺物としては、勾玉・切子玉・手捏土器・二神二獣鏡があり、奈良期かそれ以前とされる遺物に鉄製錫杖頭、奈良期とされる遺物に波文帯鳥獣鏡、海獣蒲萄鏡、花枝飛鳥鏡、素文角入方鏡、蔓草鳳馬鏡などの唐鏡、唐式鏡・忿怒型三鈷杵・土器・鉄製馬形品などがある。平安前期の遺物としては、奈良期を引き継ぎつつ、密教法具・古印・塔形合子などが見られるという。
このうち特に纏まった遺跡が構成されるのは、奈良期から平安初期にかけてであり、山頂の西側の断崖に接する付近、現在の太郎山神社祠殿の西側にある露岩に挟まれた凹地から、鏡鑑・錫杖頭・法具などが出土している。これにより、考古学的な視点からも、この時期の仏教者による登頂は否定する余地がないという。
なお、この遺構の場所が「山頂の西側の岩の窪地」であったことは、特に注目すべきである。後述するように『華厳経』は、観音菩薩の住処を補陀洛山山上の「西阿」「西面巌谷」とする。また『勝道碑文』は、勝道が登頂して三七日の礼懺を修したのは、山頂の「坤角(南西の角)」であったとする。経典の記述と、修行者の動向、そして遺構の場所がおよそ合致している。日光山山頂遺跡の一つの解釈として、勝道はこの場所を観音菩薩がおわす「西の岩の窪地」と見なし、そこで三七日の礼懺を行ったと考えることもできるだろう。もしそれが正しいとすれば、この山頂遺跡は、勝道の実在性、『勝道碑文』の正確性を裏付ける物証と見ることもできよう。
もう一点、問題となるのは、勝道以前と目される遺物が、僅かながらも出土していることである。これは先に挙げた「魑魅、通ふこと罕にして、人蹊、絶えたり。振古を借問するに、未だ攀ぢ躋る者あらず」という空海の認識と異なる事実である。大方の見解では、古墳期の遺物は製作年代より後に、偶然の発見品や伝世品が仏教者により山頂へ納められたとし、また奈良期かそれ以前とされる仏具に関しては、すでに勝道以前に仏教者が登頂したためとされている。
これに対して大和久氏は、近年全国各地の山頂からも、古墳期とされる遺物が発見されていることから、すでに古墳期には登頂が行われていたとする。また、鏡を祭祀の具に用いるのは、我が国の中に自生した祭りの方法であるとし、その習俗に従って古墳期に山頂でも祭祀が行われ、後に仏教者がこれを引き継いだとの見解を示している。もっとも、鏡は道教でも重視され、道士が入山する際は、悪鬼や魑魅を除ける意味で、鏡を携帯することを常としていた。多数の鏡鑑の出土も、道教的信仰の影響を視野に入れる必要があるだろう。鏡の報賽を日本に自生した信仰とすることには疑問があるとしても、例えば道教など何らかの信仰を持った者が、仏教者以前に登頂した可能性は考慮しておく必要があるだろう。
ただし、勝道は日光山への登頂を二度失敗し、足かけ十五年かけて三度目の試行によって遂に成功している。おそらく登山道などは未だ確立しておらず、極めて困難な状況であったと思われる。また、日光山山頂遺跡の最初の形成期が奈良期から平安初期であることを考慮すれば、それ以前から頻繁に登頂がなされていたとは考えにくい。若干の先駆者がいた可能性はあるが、本格的な開山は、奈良期の仏教者に依るものとして良いだろう。また、その中心人物を挙げるとすれば、やはり勝道と見るのが妥当であろう。 
(3)蝦夷問題をめぐって
ところで、日光山山頂遺跡の遺物が、量・質ともに優れていることから、大和久氏などは、国家レベルでの支援を想定している。さらにその背景として、蝦夷の反乱による国家的危機を挙げ、勝道の日光山登頂が、単なる宗教的情熱による行為ではなく、鎮護国家的・国境祭祀的な性格を多分に帯びたものとしている。つまり宝亀五年(774)の桃生城侵入から、同十一年(780)の多賀城陥落までの、いわゆる蝦夷の反乱期に呼応して、勝道は国家的使命を背負って登頂を試みたという。
確かにこの時期から、延暦二十年(801)征夷大将軍坂上田村麻呂(758- 811)の征討により大勢が決し、陸奥出羽按察使征夷将軍文室綿麻呂(765-823)の鎮圧によって組織的な征伐が停止される弘仁二年(811)までは、いわゆる三十八年戦争と呼ばれ、蝦夷問題は国家にとって大きな課題であった。また大和久氏が指摘するように、下野国は筑紫国と相似して、国境という位置づけがなされていたと言えるだろう。両国における戒壇院の設置、最澄による六所宝塔の造立、男体山と宝満山の山頂遺跡などは、その推測を裏付ける。ただし、それらをもって、勝道あるいは日光山と、蝦夷問題を安易に結びつけるのは、結論を急いている感がある。確たる根拠は何も提示されてはいない。そもそも勝道が初めて登頂を試みたのは神護景雲元年(767)、蝦夷の反乱以前のことである。大和久氏はこれについて、第一回目は山林仏徒としての個人的な修行、二回目以降は鎮護国家の使命を負った公人としての行動と、全く峻別しているが、結論ありきの考察ではなかろうか。
勝道の二回目以降の登頂試行は、まさに桓武期にあたるが、桓武天皇が支援した山寺として、大和の子嶋山寺と近江の梵釈寺が知られる。前者は延暦四年(785)に山林修行僧・報恩( 718頃-795)が桓武天皇の御病平癒を祈った功績によるもの、後者は国家の安寧を願い山林修行の道場として同五年(786)以降に造営されたものである。もし日光山への登頂・山寺の造営が、蝦夷問題と関連した国家的事業であればなおさら、日光山の寺社に関する創建や経営、あるいは山上での修法等について、同時代の史料に僅かな痕跡でも残されて良さそうであるが、それは今のところ全く見あたらない。
また、日光山に関係するであろう「二荒山神社」は、下野国の式内社としては唯一の名神大社であるが、その所在地は『延喜式』に「河内郡」(現・宇都宮市)とあり、地理的に合致せず不明な点も多い。「二荒山神社」の所在が日光山上か、あるいは河内郡か定かではないが、いずれにせよ、その初出は『続日本後紀』「承和三年(836)十二月丁巳条」の「下野国従五位下勲四等二荒神に正五位下を授け奉る」との記事である。少なくともこの時には、「従五位下勲四等」に叙されているとはいえ、蝦夷問題が一応の終結を見た弘仁二年(811)からは大分隔たりがある。なお同時期に東国では、下総国香取郡の従三位伊波比主命が正二位に、常陸国鹿島郡の従二位勳一等建御賀豆智命が正二位に昇進しており、国家的には「二荒神」の地位は香取・鹿島の両神に比べると、必ずしも高くはない。
そもそも日本古代において、戦勝を神仏に祈願する例はそう多く見受けられない。天皇の不豫や天候の不順に際して、あれほど頻繁に神事・仏事が執行されたことに比べて対照的と言える。蝦夷問題に関連したところでは、宝亀十一年(780)に陸奥鎮守副将軍百済王俊哲(?-795)より「蝦夷軍に包囲されたが、(陸奥国)桃生・白河両郡の神十一社に祈ったところ囲いを破った。この十一社を幣社に列することを請う」との奏上があり、これを許したとの記録と、延暦元年(782)に陸奥国より「(陸奥国所在の)鹿島神に蝦夷討伐を祈ったところ、神験があった。位封を賽せんことを」との奏上があり、勲五等と封二戸を奉授したとの記録が見える。これにより、蝦夷討伐の前線にあった将軍や国司が、在地の神に戦勝を祈願した例については、僅かに知ることができる。ただ、果たして国家主導にて「二荒神」への祈願が行われたであろうか。上記の様々な状況を踏まえると、勝道の日光山登頂の背景として、蝦夷問題による国家の支援を想定するには根拠に乏しく、その可能性を積極的に論ずるには難があるだろう。
ただし、日光山山頂から優品が出土していることからして、勝道らの日光山開山を支持した有力者があったことは想定し得る。勝道が初めて日光山山頂に到ったのが天応二年(782)、翌々年の延暦三年(784)には湖畔に神宮寺を建てて修行している。当時の山寺に関する政策を見ると、翌年延暦四年(785)には、僧・尼・優婆塞・優婆夷が勅語に依らずして、山林寺院にて陀羅尼を読み、壇法を行ずることが禁ぜられている。また延暦十八年(799)には、本寺を去って山林に隠住し、人の嘱託を受けて邪法を行う沙門が往々にしてあるため、山林の精舎とそこに住む僧・尼・優婆塞・優婆夷を報告せよとの勅語が出されている。これらが共通して禁じているのは、修行者が私的な檀越を得て山寺に住み、檀越に有利な(国家に不利な)修法を行うことであった。奈良期を通じて、長屋王の変(729)、恵美押勝の乱(764)、藤原種継射殺事件(785)などの陰謀事件の直後には、山林寺院での活動を制限する勅語が出されていることからして、勢力争いに関わる不穏な動きを取り締まる意味もあって、山林における無許可の活動が禁ぜられていたと考えられる。朝廷は、山林修行者の験力を常に意識しており、それを外護するのは基本的には天皇であるとの見解を有していた。ただ、そうした朝廷の思惑とは裏腹に、人々は私的に山林修行者を支援し、修行者はその依頼に応じて種々なる儀礼を行っていた。度重なる山林修法の禁制がそれを裏付けている。
もっとも、勝道の場合、そうした支援者がいったい誰で、そこにどのような意図があったかのかを断定することは難しい。唯一、『勝道碑文』に挙げられるのは、大同二年(807)の旱魃に際して、国司の要請により、雨を祈ったという事例だけである。あるいは明記されなくとも、蝦夷討伐の使命を帯びて下向した将軍や国司、出兵した在地の豪族などの依頼により、勝道が蝦夷問題の終結を祈ったことがあったかもしれない。ただし、その可能性を積極的に支持する根拠は乏しい。
また、たとえ勝道が蝦夷問題の終結を祈ったとしても、それは後述するような、自利利他円満をめざした勝道の生涯・目的意識からすると、その一部、つまり利他行の一環と理解すべき行為であり、必ずしもそれが全てという訳ではない。勝道の日光山登頂の理由として、蝦夷問題のみを強調するのは、適当ではないと思われる。 
(4)補陀落山と二荒山
そもそも勝道が登頂を試みた日光山は、『勝道碑文』では「補陀洛山」と呼ばれていた。「補陀落」とは、梵語Potalaka の音写で、観音菩薩が住むとされる山のことである。東晋の天竺三蔵仏駄跋陀羅(359-429)の旧訳『華厳経』「入法界品」では、「光明山」と漢訳され、善財童子が遊行して山上に到り、西阿にて観世音菩薩に見まみえたと伝える。その情景は「処処に皆な流泉浴池有り。林木欝茂し、地草柔軟なり」と描写される。また唐の于闐国三蔵実叉難陀(652- 710)の新訳
『華厳経』では、同じ場面で「補怛洛迦」と音写され、善財童子はその山の西面の巌谷の中で、観自在菩薩に見まみえたとする。その情景を「泉流縈映し、樹林蓊欝し、香草柔軟なり」とするのも同様である。
観音菩薩は山上の西の巌谷に坐し、その情景としては、泉・樹・草を特徴としている。
さらに唐の三蔵法師玄奘(602-664)の『大唐西域記』では、南インド達羅毘荼国の南、秣刺耶山(マラヤ山)の東に位置するとされ、「布呾洛迦山」と音写される。山径は危険で、巌谷は傾き、山頂に池が有る。その水は鏡のように澄み、大河を流出するという。観自在菩薩に見まみえることを願う者は、身命を顧みず、水を渡り山を登るも、ここに到達できる者は極めて少ないと伝える。
観音信仰の隆盛とともに、補陀落は観音の浄土として、インド以外でも見られるようになる。中国浙江省の普陀山、あるいはチベットのポタラ宮などは有名である。日本でも、熊野那智山や下野日光山が補陀落と見なされてきた。
さて問題は、なぜ日光山が観音浄土・補陀落と見なされ、そう呼称されるようになったのかである。諸説あるが、およそ次の二説に集約できる。一つは日光山の山容が補陀落のイメージに合致していたから、というものである。つまり勝道などの仏教者が初めてこの山に登り、山水相映する勝景を目の当たりにして、まさしく補陀落であると感得したからという理由である。そしてこの山の呼称も、補陀落(フダラク)から二荒(フタラまたはフタアラ)、そして二荒(ニコウ)、さらに日光(ニッコウ)へと変化したと言われている。
一方の説では、もともとこの山は二荒(フタラまたはフタアラ)と呼ばれる古来からの信仰の山であり、呼称が通ずることから、仏教者によって後に補陀落とも呼ばれるようになったとする。この場合、本来の山名とされる「二荒」の解釈も、男体・女峰の二つの荒山、あるいは男体・女峰の二神が現れるという説など様々であるが、いずれにせよ、仏教信仰以前からの呼称に由来するとの説である。
いったい日光山は、奈良期の仏教者によって「補陀洛山」と呼ばれるようになったのか、あるいはそれ以前から「二荒山」と呼ばれる信仰の山であったのだろうか。文献上で言えば、「補陀洛山」の初見は弘仁五年(814)、空海の『勝道碑文』であり、「二荒」の初見は先に挙げた『続日本後紀』「承和三年(836)十二月丁巳条」である。ただその「二荒神」とは、『延喜式』に記載の河内郡(現・宇都宮市)二荒山神社のこととも考えられ、地理的に合致せず不明な点も多い。また、例えば同じく東国の霊山である常陸国の筑波山が、『万葉集』『風土記』『続日本紀』などに頻繁に登場するのと比べると、「二荒山」については全く記載がなく、承和三年(836)以降、「二荒神」に位階が授けられたとする記事が国史に見られるのみである。このように文献的な視点からすれば、奈良期以前の二荒山信仰について、積極的に論ずることは慎重にならざるを得ない。
ただし、山頂の遺跡から、古墳期のものとされる遺物が僅かに出土していることをどう見るか。これも論者によって解釈に差があり、古墳期からの信仰の山であったことの証拠と見るか、あるいは仏教者の開山以降に奉納された賽品の一部と見るか、見解は様々である。いずれにせよ、この山の古来の名称や信仰のあり方については、どれも決定的な根拠は乏しく、端的に言えば、論者の重視する観点によって結論が異なる感がある。ここでは、どちらも可能性があるとの認識に留めておきたい。それよりも重要なことは、奈良期になって仏教者がこの山に入り、これを「補陀落」と見なしたという事実である。 
(5)山神への畏怖と入山の作法
さて、『勝道碑文』に依れば、勝道が始めて登頂を試みたのは、神護景雲元年(767)四月上旬、そして二度目が 天応元年(781)四月上旬であった。第一回目には深雪と岩壁、雲霧と雷鳴により途中で引き返し、中腹に三七日(二十一日)間住して帰ったという。第二回目も同様に登頂できなかったとされる。そして翌天応二年(782)、三度目の試みで初めて登頂に成功したと伝える。その時の様子を詳しく見てみよう。
二年三月中、奉爲諸神祇、寫經圖佛、裂裳裹足、弃命殉道。繦負經像、至于山麓。讀經礼佛、一七日夜。「三月」の中旬、まずは諸々の「神祇」のために、経典を書写し、仏像を図画した上で、それらを背負って山麓に到り、「七日」の間、読経・礼仏したという。
登頂以前のこうした作法から連想されるのは、道教の入山方法である。多少長くなるが、東晋の道家・葛洪(284- 363)の著とされる『抱朴子』内篇一七「登渉」を引用したい。「山、大小と無く、皆、神霊有り。山、大なれば、則ち神も大、山、小なれば、即ち神も小なり。山に入りて術無くんば、必ず患害あり。〈中略〉軽じて山に入るべからず。当に三月・九月を以てすべし。此は山開の月なり。また当に其の月の中、吉日・佳時を択ぶべし。もし事久しうして、徐徐に此の月を待つこと得ざれば、ただ日時のみ選ぶべし。凡そ人、山に入るには、皆、当に先ず齋潔すること七日にして、汚穢を経して、昇山符を帯びて門を出で、周身三五法を作すべし」とある。山は大小に関わらず、神霊が存する。入山の方法に則さなければ、その怒りに触れて患害を蒙るとし、最も基本的な方法として、三月・九月の択日、七日間の潔斎、そして護符と修法が紹介されている。
勝道が登頂に失敗した一回目、二回目は四月であり、成功した三回目は三月のことであった。また一・二回目は入峰にあたっての作法は何も記されていないが、三回目は入峰する前に七日間読経礼仏し、さらには後に述べるように神明に対して堅く誓願を立てている。これらは単なる偶然であろうか。あるいは何かしらの入峰の作法に則したものであったか。あるいは空海の脚色であろうか。いずれも可能性としてはあるだろう。ただ、おそらく古くは道教に見られるような「山の神霊に対する畏怖」と「入峰にあたっての作法」という要件は、いつしか入峰修行を志す中国の仏教徒にも取り入れられ、その意識と方法は、日本の山林修行者にも受け継がれていったのではなかろうか。山林に踏み入って修行する者にとって、その山におわす神霊の存在は、無視できなかった筈である。現在においても、仏教者や修験者による入峰修行の前には、身を浄めることを常としている。まして当時の日光山は、魑魅さえ憚るとされる危険な深山と見なされ、実際に勝道は幾度も登頂に失敗していた。その前途に立ちはだかる深雪や雷鳴などの障難を、勝道が日光山の神霊の仕業と考えたとしてもおかしくはない。
三度目の試行で、勝道は山麓にて一七日間の読経礼仏ののち、次のように誓願を立てるが、そこには日光山の神霊に対する切なる想いを読み取ることができる。堅發誓曰、若使神明有知、願察我心。我所圖寫經及像等、當至山頂爲神供養、以崇神威、饒群生福。仰願善神加威、毒龍巻霧、山魅前導、助果我願。我若不到山頂、亦不至菩提。
勝道は、この入峰が決して無意味なものではなく、まずは神祇のための行為であることを強調する。勝道が書写した経典、図画した仏像、そして勝道自身、言うなれば仏法僧の三宝を山頂に捧げることで、神祇を供養したいというのである。つまり、三宝の功徳によって、神祇の威力を一層高め、ひいては人々への幸福を将して欲しいとの願いであった。それが成就するためにも、善神・毒龍・山魅など、日光山の諸々の神霊の加護が必要であり、その登頂が成功しなければ、自身の菩提もあり得ないとの決意を表明しているのだ。これにより、勝道の日光山入峰にとって、神祇への供養は欠かすことのできない要件であったことが知られる。それは同時に、衆生の幸福を願うものであり、かつ勝道自身の菩提にとっても不可欠な宗教的行為であったと見るべきだろう。 
(6)山頂における三七日の礼懺
さて、その誓願の甲斐あってか、言わば勝道は神祇の加護を得て、遂に登頂に成功する。『勝道碑文』はその状況を次のように記す。
如是發願訖、跨白雪之皚皚、攀緑葉之璀璨。脚踏一半、身疲力竭。憩息信宿、終見其頂。怳惚怳惚、似夢似寤。不因乘査、忽入雲漢、不甞妙藥、得見神窟。一喜一悲、心魂難持。山之爲状也。東西龍卧、弥望無極、南北虎踞、棲息有興。指妙高以爲儔、引輪是而作帯。笑衡岱猶卑、哂崐香之又劣。日出先明、月来晩入。不假天眼、萬里目前。何更乗鵠、白雲足下。千般錦花、無機常織。百種霊物、誰人陶冶。北望則有湖。約計一百頃。東西狹、南北長。西顧亦有一小湖。合有二十餘頃。眄坤更有一大湖。羃計一千餘町。東西不闊、南北長遠。四面高岑、倒影水中。百種異荘、木石自有。銀雪敷地、金花發枝。池鏡無私、万色誰逃。山水相映、乍看絶腸。瞻佇未飽、風雪趂人。我結蝸菴于其坤角、住之礼懺勤經三七日。已遂斯願、便歸故居。
白雪が積もり、樹木が茂る急峻を攀じ登り、「信宿」つまり二泊の行程にて、遂にその頂に到達した。まさに「怳惚として」「心魂持ち難く」、あたかも天にも昇ったような、あるいは仙境に入ったような心境であったという。
また山頂から見る日光山の情景は、「妙高」(須弥山)が高く聳え立ち、外縁に「輪鉄」(鉄囲山)が連なるが如きの、素晴らしい興趣であり、唐の名山である「衡岱」(南岳衡山・東岳泰山)や西域の「崑香」(崑崙山・香酔山)ですら、到底及ばないと賞賛されている。そして山頂の北・西・西南側には、大小の湖があり、鏡の如く湖面には四方の高峰の影が映り、さらに湖面に反射した日光に照らされて山の雪や枝が一層輝きを増している。勝道は、山と湖が織りなす「山水相映」の情景に、「山径危険にして、巌谷敧傾す。山頂に池有りて、その水の澄めること鏡の如し」とされる「補陀落」を想起したのではなかろうか。
勝道は暫くはその絶景に佇んでいたが、直ぐさま山頂の南西の隅に草庵を結び、本来の願を遂げてから下山することとなる。その願とはつまり神祇供養のことであり、それは三七日(二十一日)の礼懺に依るものであった。
以下、この「三七日の礼懺」の内容について推測してみたい。そもそも礼懺とは、三宝を礼拝し、所造の罪を懺悔することである。それに呪術的な意味も加わり、特に中国の南北朝後期以降、隋唐宋代に亘って、種々の利益を願う儀礼としての懺法・悔過法が作製された。それらは日本へも伝えられ、奈良期には吉祥悔過・薬師悔過・十一面悔過・千手悔過・阿弥陀悔過などが盛んに行われ、また平安期以後は法華三昧を中心に様々な懺法が行われるようになったとされる。
日本の古代において、悔過会は大寺院のみでなく、山林でも行われていた。天平十七年(745)には聖武天皇の不豫に際し、京師畿内の諸寺及び諸名山の浄処にて薬師悔過が行われた。また天平宝字八年(764)には、反逆の徒が山林寺院に僧を集めて読経・悔過することが禁じられ、さらに延暦四年(785)には、桓武天皇と皇后の寄進により、大和高市郡の子嶋山寺に仏殿が建立され十一面悔過が行われている。おそらく勝道の頃には、国家の主導、あるいは私的な企てにより、種々の利益を願って山林にて様々な悔過会が修されていたと考えられる。山林における呪術や修行というと、密教的要素を連想しがちであるが、悔過会・懺法についても考慮する必要があるだろう。
勝道が日光山山頂にて行った礼懺として、まず可能性が高いのは、当時頻繁に行われていた悔過会である。日光山が観音浄土・補陀落と見なされたことからすれば、十一面悔過・千手悔過など、変化観音系統の悔過会が挙げられる。佐藤道子氏に依れば、悔過法要はその本尊に関わらず、基本構成は唐の西崇福寺沙門智昇(-730-)撰『集諸経礼懺儀』を範とし、導入部の供養文等、展開部の呪願、主部の称名悔過・諸願、後置部の大懺悔・発願等、そして終結部の行道・廻向等からなるという。本尊の相違は、本尊を讃嘆しながら礼拝行によって罪障懺悔の心意を表す「称名悔過」に見られ、十一面悔過は唐の三蔵法師玄奘(602-664)訳『十一面神呪心経』、千手悔過は唐の西天竺沙門伽梵達摩(生没年未詳)訳『千手千眼観自在菩薩広大円満無碍大悲心陀羅尼呪経』に依るとされる。
また日光山山頂遺跡からは、奈良末から平安前期の作製とされる鉄製三鈷鐃一口、銅製三鈷鐃五口が出土している。「鐃」は奈良期の法会に使用したとされる楽器である。平安期以降、密教では通常「鈴」を用いる。「鈴」は鈴身が開いて内に舌が下がるのに対し、「鐃」は鈴身が閉じられ内に丸が入っている。東大寺二月堂の修二会(お水取り・十一面悔過)では、現在でも三鈷鐃が使用されていることから、奈良期の悔過会でも三鈷鐃が使用されていた可能性は高い。日光山山頂遺跡出土の三鈷鐃は、勝道が山頂にて修した三七日の礼懺が、悔過会であったことを示唆する。
ただ悔過会は、通常「一七日」を期限として修される場合が多い。もっとも現在の東大寺修二会(十一面悔過)は「二七日」であるから、勝道が山頂にて「三七日」の間、悔過会を修したとしても不合理ではない。しかし日数が「三七日」と明示され、さらに第一回目の登頂失敗の際も、中腹にて「三七日」住して帰ったとされることから、「三七日」という日数には、何か意味がありそうである。
この日数に着目して、懺悔の法を考えてみると、隋の智者大師智(538-597)による「法華三昧懺儀」や「請観世音懺法」などが想起される。まず「法華三昧懺儀」は『法華経』と『観普賢経』に基づく懺法で、『摩訶止観』に説く四種三昧のうち、第三の半行半坐三昧に配当される。最澄はこの行法を天台学生の止観業の科目に加え、さらに円仁が弘めたことで、以後天台宗にて盛行し、現在でも最も一般的な常用法儀とされる。この懺法は「三七日」を期限として、仏像の周囲を歩く行道と坐禅とを兼ねて修し、その間に礼仏・懺悔・誦経などを行ずる。また前方便として、初行者が正修に先だって行うべき一七日の行法も説かれている。先に見たように、勝道が入峰の前に、山麓にて一七日の読経・礼仏を行い、誓願を発したのは、山頂での礼懺の前方便との位置づけであろうか。ただ、「法華三昧懺儀」は本尊を普賢菩薩としており、補陀洛山の観音菩薩とは一致していない。
とすれば、同じく智による「請観世音懺法」が妥当であろうか。これは東晋の天竺居士竺難提(419-?)訳『請観世音菩薩消伏毒害陀羅尼呪経』に基づき、智が作製したもので、智の弟子の潅頂(561-632)が編纂した『国清百録』に収録される。『摩訶止観』に説く四種三昧では、第四の非行非坐三昧に相当する。この懺法は、観音菩薩を本尊とし、行者十人にて、礼仏・坐禅・誦呪・懺悔・行道・読経などを行い、「三七日」あるいは「七七日」を期限として修される。その次第を略述すれば、まず道場を荘厳し、仏像を南向き、観音像を東向きに置く。行者は西に向かって坐し、五体投地し、釈迦仏・無量寿仏はじめ仏菩薩等を頂礼、焼香・散花して諸尊を供養する。さらに坐禅・念仏した後、釈迦仏を奉請し、楊枝・浄水にて供養する。そして三宝及び観音の名を称し、『請観音経』に説かれる消伏毒害呪・破悪業障陀羅尼呪・六字章句呪を誦す。悉く悪業を懺悔した後に行道し、一人が高座に登って『請観音経』を読誦するのである。『勝道碑文』の銘文にも、勝道は「観音に帰依し釈迦を礼拝す」とあるから、勝道が山頂にて修行した「三七日の礼懺」を想定するとすれば、もう一つの可能性として「請観世音懺法」が挙げられる。
しかし、「請観世音懺法」は最澄の請来目録『台州録』に「請観音三昧行法一巻、入止観并天台国清百録部」とあるのを初見とし、それ以前に修されたとの記録は見られない。ただ「法華三昧懺儀」については、『唐大和上東征伝』に鑑真の将来として「行法華懺法一巻」が挙げられ、さらに弟子の渡来僧法進(709- 778)はこれを書写している。とすれば、すでに鑑真門下にて「法華三昧懺儀」が修されていたとしても不合理ではない。先にも確認したように、勝道は下野薬師寺の僧であったと考えられ、また『修行日記』にて勝道の師匠とされる慧雲は、法進の弟子であった。勝道が東国に弘まった鑑真の門流、つまり「天台」に触れていた可能性を考慮すれば、山頂での礼懺が、天台にて修される何かしらの懺法に依っていた可能性もあるのではなかろうか。最澄以前の東国における天台の弘通状況という視点にとっても、興味深い問題である。
一方、『修行日記』が伝えるには、天平勝宝六年(754)二十歳の勝道は、家を出て「千手観音を億念す」という。当時の優婆塞や僧が陀羅尼を持誦していたことは明らかで、特に「千手陀羅尼」は広く流布していた。さらにその典拠である唐の西天竺沙門伽梵達摩(生没年未詳)訳『千手千眼観世音菩薩広大円満無碍大悲心陀羅尼経』は、奈良期に最も写経された雑密経典とされる。特に天平七年(735)に帰朝した玄ム(?-746)は、天平十七年(745)の盂蘭盆会の日に、天武天皇・元正太上天皇・光明皇后の聖寿無窮、三悪道に堕ちた衆生の救済を祈り、本経一千巻の写経を発願している。伝承通り、勝道が千手観音を億念したとすれば、山頂での礼懺についても、千手観音系の雑密経典に説かれる儀礼を詮索する必要があるだろう。
まず『千手千眼観世音菩薩広大円満無碍大悲心陀羅尼経』は、釈迦牟尼仏が「補陀落伽山」の観世音の道場にいた時、観世音菩薩が仏の許しを得て、「広大円満無礙大悲心陀羅尼(千手陀羅尼)」を説くとの内容である。その功徳として、病気や悪業重罪の滅除など様々な利益が説かれ、さらにそのための作法・壇法が示されている。その一節に、「若し諸の衆生、現世に願を求めん者は、三七日に於て浄く斎戒を持ちて、この陀羅尼を誦すれば、必ず所願を果たさん。生死の際より生死の際に至るまでの一切の悪業、並びに皆な滅尽せん」とあるのが注目される。三七日間の斎戒と、陀羅尼の誦呪により、一切の悪業が滅せられ、諸願が果たされるという。これは陀羅尼による滅罪であり、広い意味で懺悔の法に含まれるものだろう。
また、別系統の千手観音経として、唐の総持寺沙門智通(-653-)訳『千眼千臂観世音菩薩陀羅尼神呪経』 、及びその異訳である唐の天竺三蔵菩提流志(572-727)訳『千手千眼観世音菩薩姥陀羅尼身経』に触れたい。本経もすでに奈良期には書写されており、初写年代が確認できるところでは、智通訳が天平九年(737)、菩提流志訳は天平七年(735)である。本経は、観世音菩薩が仏に姥陀羅尼を説くことを許され、陀羅尼とその功徳が明かされる。さらに二十五種の印呪とその功徳が説かれ、加えて第十二印の後には「曼拏羅壇法(智通訳)」「画壇法(菩提流志訳)」が説かれる。ここでは、千手千眼観音を本尊とする曼拏羅の画壇作法が示され、「当に日別三時に像の前に罪過を懺悔して三七日夜を満ずべし。その千手千眼の像の上に乃し大光明を放つ。〈中略〉その呪法の師と画匠の人等と及び諸の衆生、この光に遇う者は、極大なる重罪にても一時に消滅して咸く清浄なることを得ん(菩提流志訳)」とする。曼拏羅を画き、種々の供物を捧げて千手観音を供養し、三七日の間、懺悔することで、修行者・画師・衆生、すべての罪業が消滅するという。またこれを修す場所も、「第一は山の閑静の処に居す。山の頂上に在りて、形勢ある処(智通訳)」「寺内、或いは山間に向い、或いは湫泉、林辺(菩提流志訳)」とされる。勝道も日光山登頂の直前に仏像を画いているが、あるいはこの壇法に基づくものであろうか。もっとも、この壇法は二十五印との関わりが乏しく、唐突に説かれることから、後代の挿入と見られている。ただし、これは菩提流志訳・智通訳ともに収録され、内容・表現共に若干の相違が見られることから、挿入としても日本伝来以前と考えられ、すでに奈良期の仏教者がこの壇法を知り得た可能性は十分にある。
先にも挙げたが、延暦四年(785)には、僧・尼・優婆塞・優婆夷が勅語に依らずして、山林寺院にて陀羅尼を読み、壇法を行ずることが禁じられている。ここに「陀羅尼」「壇法」とあることに注目すれば、勝道の三七日の礼懺として、先に挙げた千手観音陀羅尼の誦呪、あるいは千手観音画壇法など、千手観音系統の雑密経典に説かれる儀礼であった可能性も、あながち否定できない。
以上、勝道が山頂にて修した三七日の礼懺を想定してみた。もっとも、仏教の儀礼に「礼仏」「懺悔」の要素が入ることはむしろ当然であり、また儀礼の期限も経軌の記載と、その実修の場面では、一致しない場合もあるだろう。従って「三七日の礼懺」を特定することは困難ではあるが、当時の仏教の弘通状況・勝道の事績・山頂遺跡の遺物等より、敢えて推測すれば、奈良期に頻繁に行われていた「十一面悔過」「千手悔過」等の悔過会、天台にて修される「法華三昧懺儀」「請観音懺法」などの懺法、そして千手観音系統の雑密経典に基づく陀羅尼法や壇法などが候補として挙げられる。これらを視野に、当時の他の山林修行者の事例も考慮し、詳細については今後の課題としたい。 
(7)礼懺による神祇供養
勝道は神祇を供養するために、経像を背負って山頂へ登った。そして山頂にて、三七日の間、何かしらの礼懺を行じた訳である。とすれば、その礼仏・懺悔の儀礼とは、まさに神祇のために修されたとも言えるだろう。ここで想起されるのが、奈良期に各地に建立された神宮寺の問題、特には「神身離脱の神」のことである。
かつて辻善之助氏は、奈良前期より、神祇は仏法を悦び擁護し、また仏法により苦悩を脱すという思想の現れとして、神宮寺建立・神前読経・為神得度などが行われ、平安後期の延喜年間(901- 923)前後に本地垂迹説が芽生え、鎌倉期に到りその教理的組織が大成されたとした。辻氏は必ずしも、「仏法を悦ぶ神祇」から「仏法により苦悩を脱せんとする神祇」へという神格の展開を主張したのではないが、のちに田村圓澄氏はこの両者を系列・性格を異にする別々の神格と捉えた。前者にあたる中央の神は、古代国家と密接な関係にあり、必ずしも神であることの苦悩を表明せず、仏法を悦び守護する神であるのに対し、後者にあたる地方の神は、苦悩する衆生のひとつと見なされ、当時の農村に頻発した疫病や災異を免れるため、神身を離脱して三宝に帰依し霊力の回復を願う神であったとした。いわゆる「護法善神」と「神身離脱の神」を分け、国家と地方の違いとして理解したのであった。
さらに「神身離脱の神」の背景について先行研究を纏めると、@苦悩する地方社会(苦悩する神祇)を仏教的呪術により救済しようとする仏教者と富豪層の意図、A旧来の神祇信仰を新来の仏教に取り込もうとする仏教者の意図という二点に要約できる。総じて地方の神仏習合に関わった仏教者は、苦悩する社会(神祇)を救う利他行者として、もしくは仏教を広める布教者として捉えられ、その利他的な意図が神宮寺出現の原動力とされている。
ただ、『勝道碑文』に記される勝道の事例からすると、その神祇観は上記の解釈には收まらない感がある。先にも挙げたように、勝道は入峰に際して、堅發誓曰、若使神明有知、願察我心。我所圖寫經及像等、當至山頂爲神供養、以崇神威、饒群生福。仰願善神加威、毒龍巻霧、山魅前導、助果我願。我若不到山頂、亦不至菩提。との誓願を立てた。その要点は、@三宝を山頂に捧げ、神祇を供養し、神威を高め、衆生の幸福を願う、A善神・毒龍・山魅に、登頂する勝道の援助を願う、B勝道自身の菩提を願う、との三点に纏められるだろう。
このうち@について、日光山の神祇は直接的には「神身離脱」を表明してはいないものの、三宝によって供養されることで、神威が高まり、衆生への幸福が期待されている。田村氏の分類からすれば、「農村に頻発した疫病や災異を免れるため、神身を離脱して三宝に帰依し霊力の回復を願う神」と構造的には一致している。山頂での三七日の礼懺には、衆生としての日光山の神祇の罪を懺悔するという意味合いもあったものと推測される。ここに、苦悩する地方社会(苦悩する神祇)を仏教的呪術により救済しようとする仏教者と富豪層の意図を想定することも不可能ではない。ただ、Aの修行者を援助する善神・毒龍・山魅といった概念、あるいはBの修行者の菩提・自利行といった要点は、いままで初期の神仏習合を論ずる際、見過ごされてきた感がある。
まずAでは、善神は威力を増して修行者を加護し、毒龍は霧を払い、山魅は先導して、勝道の登頂が果たされるよう援助を願っている。ここで善神に加えて、毒龍や山魅に対しても、修行者の支援を願っていることに注目すべきである。これら必ずしも善神ではない存在について、如何に理解したら良いだろうか。これには『勝道碑文』の冒頭の比喩が参考となろう。蘇巓鷲嶽、異人所都。達水龍坎、霊物斯在。所以異人卜宅、所以霊物化産。豈徒然乎。請試論之。
「蘇巓」(須弥山)や「鷲嶽」(霊鷲山)には、「異人」が都し、「達水」(阿那婆達多池)や「龍坎」(文龍池)には、「霊物」が在る。ここではインドの霊山や霊水を挙げて、そこに「異人」が住み、「霊物」が宿っていることを示している。通常、仏教的な解釈であれば、「異人」とは仏菩薩を、「霊物」とは護法の龍王などを指す。ただ、この一文は山水相映する勝地である日光山を比喩的に説明していると考えられ、通常の意味に加えて、「異人」とは日光山の神明を、「霊物」とは毒龍や山魅など日光山に住む怪物や精霊を暗喩しているのではなかろうか。日光山には、山の神明や諸々の霊物が住んでいる。勝道は登頂に際し、それらが危害を加えることなく、逆に護り導いて欲しいと願っているのだろう。
毒龍や山魅が、なぜ修行者を支援し得るかと言えば、おそらく誓願の@に挙げた、神祇供養と関わりがあるだろう。勝道は、仏法による神祇の供養を表明しているが、その神祇には、日光山の神明はもとより、毒龍や山魅などの霊物も含まれるのではないだろうか。つまり神霊は苦悩する衆生のひとつと見なされ、修行者が懺悔の法によってその罪を滅し、神道からの出離と神威の増長を願うことで、神霊はこれを悦び、修行者を加護する存在となり得ると考えられたのだろう。勝道が供養する神と、勝道を護り導く神とは、同じの神を言うのであって、神は修行者の供養を受けるともに、修行者を加護するものと理解される。
そうであれば、田村氏のように「護法善神」と「神身離脱の神」を相容れない神格とする見解には疑問が生ずる。これらは必ずしも国家と地方という視点で二分される神格ではなく、神の両側面と考えた方が妥当ではないだろうか。神(毒龍や山魅も含まれるだろう)は神道(六道のうちの天道)に陥った衆生であるから、これを仏法によって救うという考え方と、たとえ神道にあったとしても、人道よりは勝れた威力を有しているから、仏法によってその威力を増して加護を願うという考え方は、両立し得る神観念であろう。現在でも、例えば真言密教の修法のうち、神祇に法味を分与する「神分」などでは、神祇の「離業得道」と「威光倍増」を祈ることを要点としており、この二面の神観念は、現在まで継承されているものと言えよう。
またBでは、「我れ若し山頂に到らずば、亦た菩提には至るまじ」として、登頂は勝道の菩提にとって、必要不可欠な修行であったことが知られる。この一文により、勝道の登頂は、究極的には自身の菩提をめざした行為であったと理解できる。少なくとも、空海は勝道の日光山登頂をそう理解していた。空海は『勝道碑文』の碑文にて、勝道の日光山入峰を評して、殉道斗藪、直入嵯峨。龍跳絶巘、鳳舉經過。神明威護、歴覧山河。と述べている。「斗薮して直ちに嵯峨に入る」とは、日光山に踏み入って、その山頂に到ることを言う。空海は同じく『性霊集』所収の「山に入る興」にて、「斗薮して早く法身の里に入れ」と諭しており、山林に踏み入ることは、菩提に通ずるものと考えていたようだ。しかもその入峰は、「神明の威護」によるとの認識である。
奈良期の神宮寺出現の原動力として、仏教者の利他的な意図のみが指摘されているが、そこには当然、山林に踏み入った修行者の自利的な意図も看過すべきではないだろう。修行者が山林に踏み入った大きな理由の一つは、仏道修行のためであった。例えば智の『天台小止観』に、禅定を修すのに適する場所として「一には深山にして、人を絶するの処なり」とあるように、深山は「閑居浄処」の第一とされ、仏教者は修行の場所を深山に求めた。あるいは勝道の場合、『華厳経』「入法界品」に説かれる善財童子の遊行遍歴に模し、補陀落山上の観音菩薩に見まみえんとの念願もあったのかもしれない。ではなぜ敢えて危険を冒してまで、深山で修行したり、山上の菩薩へ謁見しようとするのかと言えば、究極的には仏道修行のめざすところ、すなわち菩提を求めていたからであろう。
菩提を求めて山に踏み入る修行者は、古くは道教にも見られるように、山の神霊に対する畏怖の念を抱いていた筈である。山の神霊が修行者に危害を加えることなく、逆に支援する存在となるためにも、神祇供養は不可欠であった。勝道は日光山登頂に際し、まずは山麓にて一七日の読経礼仏を行い、山頂に到って三七日の礼懺を修し、日光山の神祇を供養している。その意図は、神道に陥っている神の罪を懺悔し、神道からの出離と、神威の増長を願い、広くは衆生の幸福を、特には山林に踏み入る修行者への加護を期待していたものと考えられる。 
V南湖畔に神宮寺を建て住した修行期 

 

(1)修行の勝地としての山中浄土
勝道は、初の登頂から二年後の延暦三年(784)、再び日光山へと登った。前回は、山頂にて三七日間のみ礼懺してすぐに下山したのに対し、四度目の入峰は長期に及んでいる。『勝道碑文』には、去延暦三年三月下旬、更上經五箇日、至彼南湖邊。四月上旬造得一小船。長二丈廣三尺。即与二三子、棹湖遊覧。遍眺四壁、神麗夥多。東看西看、汎濫自逸。日暮興餘、強託南洲。其洲則去陸三十丈餘、方圓三十丈餘。諸洲之中、美花富焉。復更游西湖。去東湖十五許里。又覧北湖去南湖三十許里。並雖盡美、揔不如南。〈中略〉託此勝地、聊建伽藍、名曰神宮寺。住此修道、荏苒四祀。とある。勝道は三月下旬に入峰し、五日間かけて南湖の畔に到った。四月上旬には一艘の小船を造り、二・三人の弟子と共に湖上を遊覧している。さらに西湖、東湖、北湖を見て回った後、最も勝れた南湖(現・中禅寺湖)畔の勝地に神宮寺を建立し、ここに四年間止住して修行したという。
前回の登頂が、まずは入峰を願って山の神祇を供養するとともに、山の情景や状況を概観するのが主たる目的と見られるのに対し、今回の登頂は、より本格的に修行するのに適切な場所を調査して選定し、長期にわたり修行することを目的としていたと言えよう。
ここでまず問題としたいのは、修行するのに適切な勝地の条件である。その情景について『勝道碑文』は、其南湖則碧水澄鏡、深不可測。千年松栢、臨水而傾緑蓋。百圍檜杉、竦巖而搆紺樓。五彩之花、一株而雑色。六時之鳥、同響而異觜。白鶴舞汀、紺鳬戯水、振翼如鈴、吐音玉響。松風懸琴、坻浪調鼓、五音争奏天韻、八徳澹澹自貯。霧帳雲幕、時時難陀之羃歴。星燈電炬、數數普香之把束。見池中圓月、知普賢之鏡智。仰空裏慧日、覺遍智之在我。託此勝地、聊建伽藍、名曰神宮寺。住此修道、荏苒四祀。と伝える。この箇所は四六駢儷体による修辞や対句が多い。これらは、南湖畔の勝景を強調するための技巧であるとの解釈が一般的である。確かに誇張された表現は多いであろうが、単に「自然の風光明媚さ」を強調しているだけではなさそうである。
つまり、ある自然物に〈何か〉を観じていくような、あるいは自然物から〈何か〉が立ち現れてくるような、そうした表現がなされている。例えば、「千年の松柏」→「緑蓋」、「百囲の檜杉」→「紺楼」、「白鶴・紺鳬」→「鈴の音・玉の響」、「松風・砥浪」→「琴・鼓」→「五音・八徳」などは、自然物を介して、そこに「浄土の諸相」を表しているものと考えられる。例えば姚秦の亀茲三蔵鳩摩羅什(350-409頃)訳『阿弥陀経』に説く浄土の諸相を要約すると次の如くである。「七宝から成る行樹や羅網がめぐり、八功徳水をたたえた宝池が広がる。そこには七宝に荘厳された楼閣が建ち、昼夜の六時に曼陀羅華が降りそそぐ。そして種々の奇しい鳥が雅な声でさえずり、行樹や羅網の七宝の玉は風に揺れて妙なる音を奏でる。」勝道は、南湖畔に「浄土」を観じていたのではあるまいか。おそらく空海はそのように理解した筈である。
特に日光山は、入峰するのに極めて困難で、山と湖が織りなす情景に勝れた「山水相映」の地であった。勝道など日光山に登った仏教者は、その状況をつぶさに観察し、まさにこの山が「山径危険にして、巌谷敧傾す。山頂に池有りて、その水の澄めること鏡の如し」「華果樹林、皆な遍満し、泉流池沼、悉く具足せり」などとされる「観音浄土・補陀落」そのものと感得したのであろう。
また「霧・雲」→「張・幕」→「難陀」(難陀龍王)、「星・電」→「灯・炬」→「普香」(虚空蔵菩薩の応化・明星天子)などは、自然物を介して人知を越えた「諸尊」が立ち現れるかの如くである。なお「難陀龍王」は室生山などに見られる龍穴信仰を、また「明星天子」は空海も修した虚空蔵菩薩求聞持法を想起させる。あるいは勝道にも、こうした南都の山林修行者と同様、「龍穴」や「求聞持法」の信仰があったのかもしれない。また後世の『修行日記』や『草創日記』になると、それぞれ「龍穴・四本龍寺・深沙大王」「求聞持法・明星天子」など、「水」と「星」をめぐる具体的な物語へと展開し、勝道は弟子たちに「汝等、最もこの両神(深沙大王・明星天子)に帰依すべし」とさえ言わしめている。その萌芽はすでに、空海の『勝道碑文』に示され、あるいは勝道までさかのぼる可能性さえあり、中世における開山伝承や人格神の顕現説話を、後世の荒唐無稽な付会とだけ解する訳にはいかないのである。
さらに「池中の円月」→「普賢の鏡智」、「空裏の慧日」→「遍智の在我」などは、自然物の中に「仏道の教説」を表しているようである。先に挙げた『阿弥陀経』では、浄土の鳥はその雅な鳴き声によって、五根・五力・七菩提分・八聖道分などの法を演暢し、七宝は風に揺れて、その妙なる音を聞く者は自然に念仏・念法・念僧の心を生ずるとされる。それと同様の構図をここに見ることができよう。
もっとも、最後の教説などは、普賢菩薩の浄菩提心や大日如来の一切智智といった空海が主張する密教教理に引き寄せており、そのまま勝道の心象とすることは難しいだろう。ただ、これらの表現は、勝道が勝地とした南湖の畔が、単に風光明媚な景境であるというだけではなく、そうした情景から宗教的な観念を想起させるに相応しい場所、言うなれば「山中の浄土」であったことを強調しているものと思われる。
さらに付け加えるならば、その勝地は単に仏教的な表現のみによって記述されているのではない。例えば、「妙薬を甞めずして神窟を見ることを得たり」「霊仙知らず何にか去る。神人髣髴として存するが如し」などは、山頂や勝地の様子を、道教でいう神仙境に見立ているし、あるいは、「仁は山に依り、智は水に託く」「菜を喫い水を喫って楽しみ中に存り」などは、『論語』に説く聖人のあり方を引用して説明している。これらは中国に由来する「神仙思想」や「山水思想」からの影響を多分に受けたものであろう。当時の仏教者は、積極的に山中に修行の場を求めていったが、それに適する場所とは、単に風光明媚な景境というだけでなく、仏教的な浄土を想起させる場所、さらには中国思想に説かれる理想郷をも含んだ、広い意味での勝地であったと見るべきだろう。 
(2)神宮寺の機能
さて、勝道はこうした勝地に伽藍を建てて修行に励んだ。前回は短期間の登頂であったのに対し、二年後の今回の入峰は長期間に及んだ。山容を調査し、勝地に伽藍を建立し、数年間そこに止住して修行している。おそらくは支援者を得て、道俗を含めた人員、あるいは資財等、それなりの準備をした上での事業であったのだろう。その伽藍が「神宮寺」と名付けられたことは、奈良期に多く建立された各地の神宮寺との関連で、興味深い問題である。
「神宮寺」というと、神祇(地方社会)の苦悩を仏法によって救うための寺院、神祇に仕えるための寺院など、言わば利他的な意味合いで理解される場合が多い。ただ勝道の場合、それ加えて、深山の勝地にて修行するための寺院という自利的な意味合いも顕著である。先述したように、勝道は日光山に登頂し、仏法によって山の神祇を供養することで、神道に陥った神の罪を懺悔し、神道からの出離と、神威の増長を願っていた。それにより、衆生の幸福と入峰する修行者への加護を期待していたのである。こうした勝道の誓願から見ても、勝道は山中に「神宮寺」を建て、山の神祇を供養しつつ、神祇の加護のもとに修行に励んだと考えられるのではなかろうか。
これを踏まえると、勝道が建てた「神宮寺」には、少なくとも二面の機能が想定される。一つには神祇を供養し、神祇の得道と衆生の幸福を祈願するという利他的な側面、一つには神祇の加護のもと、自身の菩提を求めて修行するという自利的な側面である。大乗仏教にあっては、自利利他円満を旨としており、神宮寺の機能として、両側面はどちらも不可欠であり、互いに結びついているだろう。そこで行われた修行の内容については、具体的には未詳であるが、『勝道碑文』に「蘊羅・蔭葉」にて寒暑を避け、「菜・水」を食し、「花蔵・実相」を観念するとあることから、おそらくは草堂・弊衣・粗食にて、修禅・修学に励んだものと思われる。その意図は、神祇の得道のため、衆生の幸福のため、ひいては自身の菩提のための、自利利他円満をめざす仏道修行であったと言えるだろう。 
右記の推測は、ひとり勝道だけでなく、同時代の各地の神祇供養の事例にも当てはまるだろう。ここでは、伊勢大神のために大般若経の書写を行った沙弥道行(生没年未詳)と、『日本霊異記』に登場する大安寺沙門恵勝(生没年未詳)の事例を挙げたい。まず沙弥道行は、天平勝宝九年(757)、仏教に帰依して世俗を捨て、山岳に入って閑居していたところ雷電に打たれる。これを天罰と見て、神のために大般若経を写すことを誓うと、雷電が静まり正気を取り戻したという。知識を勧誘して書写された大般若経の奥書には、「仰ぎ願わくは、神社安隠、雷電無駭、朝廷無事、人民寧定の為に、敬って大般若経六百巻を写し奉らんと欲す。〈中略〉伏して願わくは、諸大神社、波若の威光を被り、早く大聖の品に登らん」とある。
また沙門恵勝は、宝亀年中(770-780)、近江国野州郡の御上嶽の神社(現・滋賀県野洲市三上山)の側の堂にて修行していた時、罪業によって猿の身を受けて御上神社の神となった陀我神より、「この身を脱れんが為に、この堂に居住して我が為に法華経を読め」との神託を得る。その言葉を山階寺の檀越・満預大法師に告げたが、猿の言葉として信受しなかった。すると満預大法師の知識が六巻抄を読む斎設に猿が現れ、大堂や仏像・僧坊がことごとく破壊された。満預と恵勝は神託を信じ、陀我神のために堂を造って六巻抄を読むと、神願は成就され、障難は無くなったという。
彼らはいずれも、神域にて修行をしていた際、雷や猿の障難に遇う。これを神の怒りと受けとめ、写経・造堂・読経など仏法による神祇への供養を行っているのだ。その意図は、「神身を脱れ」「大聖の品(仏位)に登る」こと、すなわち神祇の離業得道にあり、ひいては「朝廷無事」「人民寧定」など、朝廷や衆生の幸福が期されていた。これにより、神の怒りは鎮まり、神域での修行が引き続き可能となっている。言うなれば、神域での仏道修行に神の承認を得た訳である。右記の二例は、写経・造堂・読経であって、神宮寺の建立と言う訳ではないが、仏法による神祇への供養により、神祇の得道・衆生の幸福が期され、ひいては仏教者の修行が保障されており、構図としては共通したものであろう。
他にも当時は各地にて、神宮寺建立・神前読経・為神得度など、様々な方法で、仏法による神祇への供養が行われていた。その一々の検討は他日を期したいが、勝道の建てた神宮寺に見られる機能は、その際に少なからず示唆を与えるものと思われる。 
Wその後の利他弘道期 

 

(1)仏教の指導者・布教者・験者としての勝道
勝道は、日光山南湖畔の神宮寺にて、少なくとも四年以上(あるいは十一年以上)修行した後、山を降りて利他弘道に励んだとされる。『勝道碑文』には、九皐鶴聲、易達于天。去延暦年中、柏原皇帝聞之、便任上野國講師。利他有時、虚心逐物。又建立花嚴精舎、於都賀郡城山。就此往彼、利物弘道。去大同二年、國有陽九。州司令法師祈雨、師則上補陀洛山祈禱。應時甘雨霶霈、百穀豊登。所有佛業、不能縷説。とあり、上野国講師に任命されたこと、都賀郡城山に精舎を建立して利他・弘道したこと、旱魃に際して国司の要請により日光山にて雨を祈ったことが伝えられている。
「講師」とは、はじめは国師と呼ばれ、経論の講説、寺内の庶務、諸寺の監督などにあたった僧である 。文武期(697-707)以降、国毎に国師が置かれたが、延暦二年(783)には定員が改正され、大・上国は大国師一人と小国師一人、中・小国は国師一人となり、同三年(784)には年限を六年と定めた。さらに同十四年(795)には呼称を講師と改め、講説の才ある者を起用し、毎国一人の終身の任となった。同十六年(797)には講師が寺内の庶務も兼ね、同二十年(804)には、「智行称す可く、人の師為るに堪えたる者」が選ばれ、修行者への教導がより重視された。さらに同二十四年(805)には再び任期を六年とし、四十五歳以上の「心行已に定まった」者を補して、部内の諸寺も国司と共に検校することとなった。光仁期以降、特に桓武期には、仏法や僧尼の呪術性への期待と畏怖を背景として、僧尼の才徳を高めつつ、寺家の勢力を押さえる施策がとられた。この時期に年分度者や講師の制度が試行錯誤して整えられてゆくのも、その一環である。山林修行に励んだ勝道の名声は朝廷まで達し、上野国講師に補命されたという。それが正しいとすれば、勝道は山林修行のみならず、経論の講説にも勝れた「智行」合一の僧であったことが推測される。そしてその任命の時期は、延暦十四年(795)以降、止住したのは上野国分寺ということになる。なお、上野国分寺の北東に聳える赤城山は、勝道が開山したとの伝承が残る。赤城山は上野国の象徴とも言うべき山で、この山麓を中心に政治や文化が展開し、巨大な古墳や官衙、寺院が造立された。山麓周辺には勝道ゆかりの寺院等も点在しており、勝道には上野国との関係もあった可能性を示唆している。
また、都賀郡城山に華厳精舎を建立し、これを拠点に利他・弘道に務めたとされる。その具体的な活動は定かではないが、かつて都賀郡であった栃木県西部足尾山地の東麓には、勝道開基とされる寺院が点在している。中でも都賀郡都賀町木の町史跡「華厳寺」は、『勝道碑文』の伝える「華厳精舎」に比定される。確証は得られないが、勝道は日光山での修行を終えたのち、足尾山地東麓の鹿沼市、西方町、都賀町など、旧都賀郡を中心に、檀越の支援を得て諸処にて活動したものと予測される。さらに、大同二年(807)には下野国に旱魃があり、勝道は国司の要請によって日光山にて祈祷し、効験があったとされる。これにより、勝道も何らかの方法で雨を祈ったことが推測される。『勝道碑文』には「霧の帳、雲の幕、時時難陀が羃歴するなり」という一節があるが 、難陀とは水神である難陀龍王を意味する。同時代に南都僧は大和国の室生山中にて、雨を祈っており、東国にあった勝道もまた同様に、日光山にて雨を祈った可能性は十分にある。また日光山の山頂遺跡からは、白銅製忿怒型三鈷杵など奈良期の密教法具と見られる仏具が出土しており、何かしらの密教系の修法が行われたことも推測されうる。なお、ここで勝道は「法師」と表現されていることから、遅くともこの時までには「法師位」に昇っていたと考えられる。
さて、これら日光山を下った後の、仏教の指導者、布教者、そして験者としての諸活動について、下出氏などは「官僧社会の密教僧的な行者像として、より濃厚に修飾されて描かれている」として、全く取り扱おうとしない。ただしそれは、当時の仏教について、中央・律令・官僧・大寺院・学問というあり方と、地方・反律令・私度僧・山林寺院・呪術というあり方が、二項対立的な流れとして交わることなく、並行して展開していたという既成概念を前提とするからである。勝道は無条件に後者と見なされ、前者に関わる事績は後世の付会と理解されたのである。
しかし、当時の仏教については、実際には先の二項対立的な見方で把握できない事例も多く、すでに疑問視されて久しい。僧侶の山林修行に関すれば、興福寺賢m(705-793)や修円(771-835)らによる室生山寺建立と修行や修法、元興寺護命(750-834)や大安寺勤操(754-827)による比蘇山での求聞持法修法などは良く知られる。あるいは宝亀三年(772)の十禅師設置、桓武天皇による報恩(718頃-795)への援助、嵯峨天皇による玄賓(738頃-818 )や聴福(生没年未詳)への殊遇などは、山林修行者の名声が朝廷に達し、賞賛・支援を得た例である。
このように、当時の僧侶には、積極的に山林に踏み入り、道場を建てて修行や修法を行う者もいた。特に持戒堅固にして勝れた山林修行者には、その自利的な「出世間性」と利他的な「呪術性」に敬意と期待が寄せられ、為政者から殊遇を蒙り、人々より「菩薩」と称されたのである。
勝道の場合も、そもそも下野薬師寺にて受戒した僧であった可能性は高く、さらなる修行の場を日光山に求めて、神宮寺を建てたと考えられる。「九皐の鶴声、天に達し易し」とあるように、その徳行が認められて、朝廷より講師に任命され、あるいは檀越を得て寺院を建立し、さらには要請を受けて祈祷を行ったとしても、何ら不合理なところはない。長年にわたる山林修行が実を結び、朝廷や有力者による一層の賞賛・支援を背景として、講師・寺院建立・布教・修法といった利他の活動が展開された可能性は十分に考えられる。勝道を単純に反律令的な私度僧と見なすことは妥当ではないだろう。日光山山頂遺跡より出土した遺物は、勝道が有力な支持者を得た仏教者であったことを示唆している。
また延暦十一年(792)、伝灯大法師位施暁(?-804)が朝廷に山林修行者への支援を願い出た奏上には、山林修行とは単なる自利行ではなく、護国利人という利他行を見据えたものであるとの見解が示されていた。空海の「斗薮して道に殉い、兀然として独座せば、水菜能く命を支え、薜蘿これ吾が衣なり。修するところの功徳、以て国徳に酬う」との認識も同様である。勝道自身の心象は定かではないにしても、「利他に時有り」とされるように、日光山での修行は、結果として利他行に通ずるものであった。世俗を厭い山林に踏み入った勝道は、長年の山林修行の功徳を得て、再び世俗へと立ち返ったと解釈することもできよう。 
(2)勝道の示寂
なお最晩年の勝道について、『勝道碑文』は、咨、日車難駐、人間易變。從心忽至、四蛇虚羸。攝誘是務、能事畢矣。前下野伊博士公、與法師善。秩滿入京。于時法師、歎勝境之無記、要属文於余筆。伊公与余故、固辞不免。課虚抽毫。と伝える。ここに勝道の交友関係の一端が見受けられる。つまり前の下野国の博士であった伊公との交流である。宝亀十年(779)の改定により、諸国の博士は、基本的に国毎に一人置かれ、任期は六年とされた。伊博士については未詳であるが、博士として下野国に下向していた時、勝道との親しい交流があったことが知られる。勝道は日光山の勝景を記した文章が無いことを歎いていた。伊博士を通じ、空海が詩文に勝れていることを知ったのであろうか。任期満了して帰京する伊博士を介して、空海にその執筆を依頼している。伊博士と空海も、旧知の間柄であったという。空海はそれを固辞するも免れず、『勝道碑文』を作製した。地方の僧侶、諸国に赴任する官人、そして中央の僧侶との、人的交流の一端を垣間見ることができる。
月日は巡り、勝道も遂に「従心」つまり七十歳に至り、「四蛇」つまり四大からなる身体も虚しく衰えた。衆生を摂取誘引する私利行を務め、なすべき事はすべて果たし終わったとされる。空海がこれを記したのは「弘仁之敦祥之歳」、つまり弘仁五年(814)であった。「能事畢んぬ」とあるから、おそらくこれより少し前に、勝道はその生涯を閉じたものと思われる。仮に示寂を弘仁五年(814)七十歳とすれば、その生年は遅くとも天平十七年(745)となり、示寂がそれより早く、七十歳を越えていたとすれば、生年は十年ほどさかのぼることもありうる。なお『修行日記』は、勝道の示寂を弘仁八年(817)八十三歳と伝え、これに従えば生年は天平七年(735 )となる。
勝道の生没年を断定することはできないまでも、およそ天平七(735)から十七年(745)の生れで、弘仁五年(814)頃に、七・八十歳の長寿を全うしたと見て良いだろう。これより逆算すると、初めて日光山への登頂を試みたのが二・三十代の頃、登頂に成功したのが三十代後半から四十代後半、山林修行の機が熟して講師に任命されたのが五・六十歳の頃、日光山で雨を祈ったのは六・七十歳の頃となる。 
四 おわりに 

 

下野国芳賀郡に生まれた勝道は、若くして世俗を厭離し仏道を志求した。おそらくは同国出流山などの山林に身を寄せ、優婆塞として修行に励んだものと推察される。やがて新設された下野薬師寺の戒壇にて受戒し、沙弥・比丘となった可能性は高い。当時の東国には鑑真の門流である道忠の天台教団があり、さらには朝鮮半島からの帰化人を通じて華厳が将されたとの見解もあり、勝道が「天台」「華厳」などの一仏乗に触れていた可能性も考えられる。
下野国に聳える日光山の山頂からは、大量の遺物が出土している。特に奈良から平安初期には「山頂の西側の岩の窪地」に纏まった遺構が形成される。これは『華厳経』に説く観音菩薩の住処、『勝道碑文』に記す勝道の修行地と合致する場所であり、勝道の実在性、『勝道碑文』の正確性を裏付ける物証と見ることもできる。また古墳期に比定される遺物も僅かに出土しており、勝道以前に若干の先駆者がいた可能性も考えられる。ただし勝道の登頂は困難を極めることから、本格的な開山は奈良期以降の勝道を中心とした仏教者に依るものと見て良いだろう。また山頂遺跡が量質ともに勝れていることから、勝道の日光山登頂の背景として、蝦夷問題による国家の支援を想定する見解もある。ただし根拠に乏しく、その可能性のみを強調するのは、適当ではないと思われる。
ところで、日光山の呼称について、奈良期の仏教者によって初めて「補陀洛山」と称されたとする説と、古来より「二荒山」と呼ばれる信仰の山であったとする説がある。これも両説とも決定的な根拠は乏しく、どちらも可能性があるとの認識に留めておきたい。いずれにせよ、日光山が「補陀洛」と称されたことは意義深い。「補陀落」とは、梵語Potalaka の音写で、観音菩薩が住むとされる山である。『大唐西域記』には、観自在菩薩に見まみえることを願う者は、身命を顧みず踏み入るも、ここに到達できる者は極めて少ないと伝える。勝道の日光山登頂の意図として、深山での修行に加え、山上の観音菩薩への謁見との念願があったのかもしれない。
しかしその登頂は、困難を極めた。空海は、危険を冒して日光山に攀じ登った勝道を、西域の険しい山々を越えた求法僧に重ね合わせている。勝道の前途には、深雪や岩壁、雲霧や雷鳴といった自然的障難が立ちはだかった。おそらく勝道はそれらを、日光山の神祇の仕業と見たのではあるまいか。それは古くは道教にも見られる、山の神霊に対する畏怖の念に依るものと思われる。菩提を求めて山に踏み入る修行者は、その山に住み宿る神霊のことを気に掛けていた筈である。
そのことは、勝道が三度目の試行に際し、日光山の諸々の神祇に向けて発した誓願にも窺える。それは日光山への入峰が、決して無意味な行為ではなく、神祇を供養するためのものであるとの表明であった。つまり三宝の功徳によって、神道に陥っている神の罪を懺悔し、神道からの出離と、神威の増長を願い、広くは衆生の幸福を、特には山林修行者への加護を期待したものであった。
言うなれば神祇の加護を得て、勝道は遂に山頂に到る。山と湖の織りなす絶景にしばし心を奪われるも、山頂にて「三七日の礼懺」のみを行じて故居に帰った。その礼懺を敢えて推測するならば、奈良期に行われていた悔過会、天台にて修される懺法、雑密経典に説かれる陀羅尼法・壇法などが、候補として挙げられるだろう。
その二年後、勝道は再び日光山へと登った。前回は短期間の登頂であったが、今回の入峰では、山容の調査、伽藍の建立がなされ、山居しての修行は、少なくとも四年、あるいは十一年以上という長期間に及んだ。おそらくは支援者を得て、道俗を含めた人員、あるいは資財等、それなりの準備をした上での事業であったのだろう。勝道が修行のために選んだ勝地とは、単に風光明媚な景境というだけでなく、仏教的な浄土を想起させる場所、さらには中国思想に説かれる理想郷をも含んだ、広い意味での勝地であったと見るべきだろう。「山水相映」するその勝地を、勝道はまさに観音浄土・補陀落と感得したのではなかろうか。
勝道は、言わば山中浄土に伽藍を建て、これを「神宮寺」と名付けた。その機能として考えられるのは、一つには神祇を供養し、神祇の得道と衆生の幸福を祈願するという利他的な側面、一つには神祇の加護のもとに、自身の菩提を求めて修行するという自利的な側面である。そこで行われた修行の内容は未詳であるが、意図としては、神祇の得道のため、衆生の幸福のため、ひいては自身の菩提のための、自利利他円満をめざす仏道修行であったものと推測される。
山林修行の機が熟し、勝道は山を下りた。朝廷や有力者による賞賛・支援を背景として、下野・上野国にて、講師・寺院建立・布教・修法といった利他の活動が展開された可能性は高い。特に講師に任命されていることから、勝道は山林修行のみならず、経論の講説にも勝れた智行合一の僧であったことが推測される。仏教の指導者、布教者、そして験者としての活動は、言うなれば山林修行の功徳を得ての利他行であったと解釈できるだろう。

以上、『勝道碑文』をもとに、当時の時代状況と照らし合わせながら、勝道の生涯を概観してきた。その要点は、次の四点に纏めることができよう。
@世間(俗事)を厭離して、山林(仏道)を志求する。【出世間】
A山林に入るにあたり、山林の神祇を供養する。【神祇供養】
  →神祇の離業得道・威光倍増、衆生の幸福、修行者への加護を願う。
B山林の神祇の加護を得て、勝地に神宮寺を建てて修行に励む。【神宮寺・山林修行】
C修行の功徳を得て、再び世俗に立ち返り、利他行に励む。【利他行】
これを端的に言えば、世俗を離れて山林へ、そして山林より再び世俗へという生涯である。日光山山頂をめざした前半生は、主に自利的な修行の時期であり、機が熟して下山し仏教の指導者・布教者・験者として活躍した後半生は、主に利他行の時期であった。日光山への入峰修行は、まさにその生涯の転機に位置づけられている。
またその山林修行にも、自利利他の意味合いが込められていた。それは世俗から離れて山中の浄土に到り、自身の菩提を求めるという自利の側面と、山林の神祇を供養して衆生の幸福を願い、再び世俗に立ち返るという利他の側面である。勝道の山林修行は、自利利他円満をめざした宗教的行為であったと理解されうる。その人物像は、まさに「上求菩提」「下化衆生」を実践した求道者・菩薩僧と呼ぶに相応しいものと言えよう。

ところで、右記のような勝道の生涯・山林修行の目的意識・人物像は、文字通り劇的である。そもそも空海の『勝道碑文』は、伊博士の伝聞により、日光山と勝道を慶讃する意図で記されたものであった。本論攷にて確認したように、その内容は当時の時代状況からして、大筋として承認できるとしても、『勝道碑文』に描写された勝道と、その実像とには、ある程度の較差があるものと思われる。つまり厳密に言えば、私たちが知り得る勝道とは、空海を通しての勝道でしかあり得ない。
しかし逆に、空海がイメージした〈沙門勝道〉という人物像は、明確にあるとも言えよう。その事績・人物像は「所有の仏業」「精素の雅致」と称賛されるばかりか、空海と「志を同じくして」「意が通じ」、あたかも旧友の如く親しみを込めて「傾蓋の遇なり」とさえ言われている。つまり、先に挙げた劇的な〈沙門勝道〉の生涯・目的意識・人物像は、まさに〈沙門空海〉の抱いた理想的な沙門(出家者・僧侶)のあり方と、軌を一にすると言えるのではなかろうか。それは当時の沙門たちの時代意識、あるいは古代社会における仏教の意味を考察する際、一つの示唆を与えるものであろう。
なお本論攷では、勝道の事績を通じて、いくつかの問題点を考察した。特に、沙弥・比丘としての勝道、勝道の宗風、山頂での三七日の礼懺、修行の勝地としての山中浄土、神宮寺の機能などは、当時の仏教者による山林修行・神祇信仰に関わる重要な問題であった。勝道以外の事例と合わせて、いずれ改めて考察してみたい。 


 
二荒山

 

二荒山神社の祭神は現在、大己貴命・田心姫・味耜高彦根となっている。これは、平安末期からも鎌倉初期に成立したであろうと云われる「下野国二荒山鉢石星宮御鎮座伝記」によるものらしい。しかしそれは「補陀洛山修行日記」に登場している神らしき存在を筋の通った神に置き換えただけのようである。
「補陀洛山修行日記」に登場する神のその一つは「其姿如夜叉、著青黒衣、左手接腰右手捲二龍蛇」という青黒い衣を来た蛇神のようであった。また別に、白蛇が登場し、そして「一人天女、其姿花麗、其齢三十余」と「一人束帯把笏整衣冠、威儀儼密、其歳五十有余、黒白半髪也」が登場している。それは実際四柱の神でもあるのだが、そのうち白蛇は「立神祠祭白蛇之神、是号中禅寺」と、単に中禅寺に祀ったとされる。つまり最初に登場した蛇体の神が味耜高彦根となって、天女らしきが田心姫、威厳のある神が大己貴命とされたのだろう。
「日光山滝尾建立草創日記」は、鎌倉時代に成立した国指定の重要文化財であるが、それに記されている内容に注目したい。「滝尾籠衆山伏自別所盗出之、出羽国竜赤寺下着及三十余年」途中は略したがつまり、この写本は滝尾別所に伝来したが盗難に遭い、出羽国竜赤寺に持ち去られたが、再び滝尾社に返還されたという内容だ。竜赤寺とは、現在の山形県の立石寺となる。この立石寺は慈覚大師円仁が開祖となっているが、何故に当初は竜赤寺(りうしゃくじ)と号したのかわかっていない。ただ、赤い竜で想起されるのは、「補陀洛山修行日記」の当初に登場した蛇神である。記されている「左手接腰右手捲二龍蛇」という姿を読んで思い出すのが青面金剛である。青面金剛の姿は「日本石仏辞典」によれば「腰に二大赤蛇を纏う。両脚腕上に亦大赤蛇を纏い」とあり、まさに「補陀洛山修行日記」に登場した蛇神に近似している。二荒山に登場した蛇神の姿を学者は一笑に付すが、青面金剛として考えるならば筋が通るのだと思う。当然、山形県の立石寺の当初の竜赤寺とは、青面金剛を意味して号された寺名ではなかろうか。
「青面金剛」は、中世に確立されたようだ。古代においての青は黒と同じであったが、この中世の頃には「青」というものは「水」を意味する色として認識された為、恐らく「青面金剛」の「青面」は水を意味するのだろう。「金剛」は、北斗七星を意味する事から、水と北斗七星を結びつける存在が、この「青面金剛」の本来の意味だろうと考えるのだ。そして当然、それは水神でもある妙見信仰に繋がる。
また、やはり二荒山に伝わる「草創日記」に二荒山を指して「此嶽有女体霊神」とある事と、先の「「補陀洛山修行日記」」においても「我は妙見尊星、大師の請いにより現れた。この峰は女体の神の居られる所だから、その神をお祀り申せ。我の棲家は中禅寺である。」事からも、二荒山の神とは女神であり、妙見神である事がわかる。恐らく「下野国二荒山鉢石星宮御鎮座伝記」では、日光連山の男体山と女峰山を分けて髪を分祀したのも、熊野修験の修法を二荒山に取り入れ日光修験を成立させた辨覺の時代に起因するものと思われる。熊野の三所権現を三光と結び付け、それを日光連山に重ねたものであろう。よって、大己貴命・田心姫・味耜高彦根は後世の祭神であり、本来祀っていた神とは鉄の蛇であるアラハバキ神に他ならないだろう。
二荒山である現在の男体山に祀られる神とは、滝尾神社の神であるのがわかった。その滝尾神社の参道には、無数の男根を象った物が祀られていたという。こういう生殖に関する信仰を持つ神とは山神であり、その男根を象ったモノ、別にコンセイサマ信仰と呼ばれるものは縄文時代まで続くものである。
二荒山の前山とされたいる太平山の三光信仰では、太平山大権現(星)・熊野大権現(日)・日光大権現(月)となっているが、香香背男をも祀る太平山が星なのは理解できる。また、八咫烏の熊野もまた太陽であるのも理解できる。ところが日光大権現が何故月なのかは説明できない。陰陽五行での陰とは女であり月であり、水を意味するからだ。古代の祭祀の基本は、彦神と姫神という陰陽の和合で成り立っている。だが、各風土記における山において、彦神と姫神が水争いで袂を分けているのは、そのまま七夕信仰に結び付けられ、天の川が彦神と姫神を分け隔てたとする古代中国からの伝承がすんなり受け入れられたとも、そういう日本の伝承を考慮に入れたものと思われる。
上つ毛野 安蘇のま麻むら かき抱き 寝れど飽かぬを あどか我がせむ
上記は「万葉集3404」の歌であるが、安蘇は栃木県の安蘇郡をいうのだが、古代では現在の群馬県を含む地であったようだ。その安蘇郡は、麻の名産地で養蚕が盛んであったらしい。養蚕は現在でも群馬県に盛んだが、有名なのは桐生市だ。桐生市には有名な白滝姫の伝説がある。古代においても関東一円に養蚕文化は、かなりの広がりを見せた。その中に倭文氏の進出があったのだろう。それ故に、静神社や大甕倭文神社も、その倭文氏の影響がある。
その倭文神社だが、遠野にも倭文神社があり、祭神は画像の通り、天照大神と下照姫に瀬織津比唐ニなっている。恐らくこれは三光信仰を意味する祭神であり、太陽は天照大神であり、下照姫は「シナテル」と「シタテル」が同義であり「シナテル」は月が仄かに光る意となるので月。そして恐らく瀬織津比唐ヘ、大甕倭文神社や静神社を見ても香香背男そのものが星神であり、それは蛇神である事から、星神としての瀬織津比唐ニいう事だろう。つまり、香香背男=瀬織津比唐ナある事を意味しての祭神であると思われる。
瀬織津比唐ヘ、土渕の琴畑に白滝と呼ばれる滝があり、そこに祀られた神が瀬織津比唐ナあった。それが明治時代となり、土淵五日市の倭文神社に合祀されたのだが、白滝姫と倭文神の関係を考えてみたい。倭文氏は初めて日本に七夕に関する伝承を組み入れた氏族であり、それが以前に紹介した夷振歌に繋がるのだと思えるからだ。 


 
日光修験と偽書の成立

 

観光地として内外に知られる日光は、古代からの信仰の山である男体山の山岳信仰を基盤に発展してきたもので、長い信仰の歴史をもち、一山は盛衰を重ねて今日に至った。男体山は仏教渡来以前から信仰の山であり、奈良時代には補陀洛観音浄土に擬せられて補陀洛山と呼ばれていた。「延喜式」「神祇十・神名下」には二荒山、「廻国雑記」には黒髪山とある。標高2、484.4雨の成層火山で、日光山地の主峰である。古代には下野一国を表象する山であり、この山を神体山として記るこ荒山神社は下野国唯一の式内大社として幾たびの進階叙勲を受けた。男体山は東国有数の霊山として厚く信仰され、関東鎮護の山として鎌倉幕府・江戸幕府から尊崇を受けた。日光の地に徳川家康の霊廟である東照宮が造営されたのも、死後なお東辺を守ろうとした家康の遺言によるものとされる。日光の歴史は男体山に始るといっても決して過言ではない。
日光山の縁起については後世に作られた「日光山並当社縁起」があるが、これは各山各社の縁起文と同じくこのままでは歴史の史料にならない物語りで、別途の研究が必要である。これとは別に多くは縁起と題されていないが、縁起文とみなしてよい幾つかの胃醍がある。大部分が平安時代前期の年記をもち、撰述者の名も明らかである。列挙すると「遍照発揮性霊集」の「沙門勝道歴山水筆玄しゆ珠碑」、「補陀洛山建立修行日記」、「日光Ill慧亀建立草創日記」、「円仁和尚入当山記」、「二荒山千部会縁起」、「満願寺三月会日記」、「中禅寺私記」、「三月会縁起」の8編である。以上のうち「中禅寺私記」は平安時代後期の作、「三月会縁起」は年記がない。8編のなかで真撰は「沙門勝道歴山水筆玄珠碑」と「中禅寺私記」の2編のみで、他の6編は偽撰とされ、偽書の成立は鎌倉時代以後と考えられている。
古代からの山岳信仰の霊山には奈良時代の山林仏徒の系統を引く修行者が住し、彼らはのちに修験道に組織された。修験道は我が国古来の山岳信仰と仏教・道教その他大陸渡来の信仰や思想とが習合した山岳宗教であって、仏教に依拠した形態を備えに日本独自の宗教とされている。各地には霊山が多く、これらは地方修験として次第に組織されてゆく。日光の場合も例外でなく、日光修験は男体山信仰を基盤にして鎌倉時代に教団の組織が完成したものである。
修験は山中修行によって体得された験により民衆を救済する現世利益に本旨があり、教団が成立してからは、山中の修行は集団で実施される1ようになった。これ猟懲.篠洋態Xりなどといい、地方によって異なるが原則的には春夏秋冬の四季の入峰があった。過酷な峰中修行を体得したものでなければ修験者の資格はあたえられず、この為にも、また対外的にも修行の由来を説く必要があった。後世の作であるが「衆鎧識「雛茜秘密伝」「修験秘記略解」耀存著永記」等々修験道の教義書・史伝書には、祖とされる役小角の事蹟が誇張修飾して書かれている。日光修験もまた峰行の祖を男体山開山の勝道に擬し、既述の縁起文のうち「補陀洛山建立修行日記」に依拠して入峰の大法が作られた。
先述の通りこの日記は勝道の同時代史料ではなく、鎌倉時代に書かれた偽書であり、古代史の史料としては価値がない。偽撰であることの論証については先学の業績があり、改めて触れる必要はない。偽書は偽書として、本稿では日光一山で偽撰がなぜ必要であったのか、日記偽撰の時期はおおよそいつごろか、またこれから派生する四季の峰行の成立順序はどうなるか、といった偽書の成立にかかわるいくつかの問題を、真撰の史料との比較と山岳信仰に関係する遺跡・遺物の検討を通じて考察してみようと思う。 
男体山の古代にかかわる文献
観音浄土の聖地と考えられ補陀洛山とよばれた男体山は、垂迩思想によって山神である二荒山神の本地が十一面観音、垂迩は大巳貴命とされた。神社は名神祭に列する大社で「日本三代実録」貞観11年(869)2月28日の条に、正二位勲四等の神階が記されている。勲位は下野国の民の蝦夷征討における苦闘・勲功に対して、一国の神として叙勲されたものと考えられている。男体山開山の沙門勝道が開基したと伝える寺は名称が変転し、時代によって本坊の移動をみたが、日光山輪王寺として今日まで法灯を伝えている。勝道は華厳宗の僧という見解があるが、正確なことは分らない。
南都六宗のいずれかに属していたものであろうが、彼の死後そう間をおかず天台宗に変り、今日まで天台宗の寺院であり続けてきた。
こうした一山の歴史は、下野国芳賀郡の人沙門勝道の男体山開山によって幕が開かれる。真撰偽撰の問題は措いて、まず前記した8編の内容をごくかい摘んで紹介しておきたい。
1.「沙門勝道歴山水筆玄珠碑井序」(以下「二荒山碑」・「山碑」と略す)
山林修行者であった勝道が苦闘の末、天応2年(782)に男体山の登頂に成功し、中腹にある中禅寺湖のほとりに神宮寺を建立して山中の道場とした。功により彼は上野国講師に補任され、弘仁5年(814)頃没した。生前下野国学の師伊博士を通じて空海に開山の碑文の撰文を依頼しており、空海がこれを受諾して碑文を撰述した。四六餅個体のすこぶる難解な詩文で、修辞が多いため未消化のまま後世に誤用された個所がかなりある。弘仁5年8月30日空海撰。
2.「補陀洛山建立修行日記」(以下「補陀洛山日記」・「日記」と略す)
勝道の弟子という仁朝ら4人が、師の伝記をまとめたという形のもので、勝道の一周忌の弘仁9年(818)に完成させたと奥書にある。鎌倉時代に下る偽撰で、仁朝以下4名の弟子の名は「二荒山碑」になく、勝道の没年も違っている。本稿に取り上げるのはこの書で、「二荒山碑」と対比を行う。弘仁9年2月仁朝・道珍・教受・道欽撰。
3.「日光山滝尾建立草創日記」(以下「滝尾日記」と略す)
勝道から碑文撰述の依頼を受けた空海が、弘仁11年(820)に日光へ来山して勝道の事蹟を訪ね、諸方に社殿・堂を建立する話しで、滝尾では妙見の顕現にあい、妙見を記る。「補陀洛山日記」の続編で空海下向の史料とされるが、鎌倉時代以後の偽撰である。天長2年(825)4月3日道珍撰。
4.「二荒山千部会縁起」(以下「千部会縁起」と略す)
日光山の千部会が勝道の弟子昌禅・尊鎮・尊蓮・仁朝らによって始められたことを述べるが、昌禅などの座主言下が不明で、偽撰とされている。時代は後世に下る。天長5年(828)4月。
5.「円仁和尚入当山記」(以下「円仁入山記」と略す)
のちに比叡山の第3代座主となった円仁が日光へ来山して、山内や中禅寺湖畔に仏堂を建立し、諸仏を記ったとする記録である。この書の重点はここにあるのではなく、円仁が勝道・空海の門流を集めて天台の門流に帰せしめたという部分にある。勝道とその弟子達は南都の法流に属していたものと思われるが、平安時代後期には確実に天台宗となっている。勝道は旧派仏教の人、「二荒山碑」撰文の空海は真言宗の開祖であるため、天台宗への帰属を紫説する必要から、下野国出身の円仁に仮託したものと思われる。話しの順序からは「千部会縁起」に後行するが、鎌倉時代以後の偽撰とされている。斉衡2年(855)正月尊鎮撰。
6.「満願寺三月会日記」(以下「三月会日記」と略す)
勝道が建立したと「補陀洛山日記」にある四本竜寺で執行される三月会法会の縁起を述べたもので、文中に「薬子の変」の覆滅祈願に卓効のあった日光権現が正一位勲一等の極位に叙されたこと、日光の勝景を小野箪が撰述したことなど、架空の事蹟が述べてある。後世の偽撰である。天安元年(857)閏6月尊蓮撰。
7.「中禅寺私記」(以下「私記」と略す)
式部大輔藤原敦光の撰文になる日光山の縁起文で、一山の依頼により撰述したものと考えられている。敦光には加賀国白山の衆徒が依頼した開山泰澄の伝「白山上人縁起」があり、両縁起とも両山から送られた資料によって撰丸された。原資料による粉飾はまぬかれがたく、文中には事実と考えられないふしもあるが、この縁起文は「二荒山碑」とともに日光の古代を知る根本史料である。保延7年(1141)7月3日藤原敦光撰。
8.「三月会縁起」
この縁起文は勝道が男体山の初登頂を試みて失敗した神護景雲元年(767)を起点とし、369年余のあと撰文したことになっている。即ち平安時代末の成立ということになるが、確証はない。後世の作品であるかもしれない。勝道の登頂を三月会の淵源とするのであろうが、「三月会日記」では法会の起点を弘仁12年(821)としており、食い違いをみせている。年記・撰者なし。
本稿が取り上げる偽撰の「補陀洛山日記」は、同じく偽撰の「滝尾日記」・「円仁入山記」の2編に継続し関連してゆく縁起文で、ひとつのセットとみればよいであろう。偽撰三部作とよべるかもしれない。「補陀洛山日記」には事実とはとうてい考えられない滑稽な記事が多く、明白な誤りがあって、無学な者の悪筆という酷評もあるが、こうしたことは後世の縁起文に見られる通有の事柄で、それ自体はさまで気にすることではない。
一般に偽書・偽文書というとそれだけで史料価値は無く、歴史の叙述から除外すべき性質のものとされる。しかし考えようによっては、偽書・偽文書を必要とする世界がそこにあり、真撰でないにもかかわらず長い生命を持ち続けていることもまた看過できない。偽撰であろうと無かろうと、これはひとつの歴史事実であり、歴史研究の対象に違いない。 
日光山地の地形
修験は山中修行が根本であり、山中修行を欠く修験はありえない。日光修験が道場とした日光山地はどのような地形であり、山地のどの部分で修行が行われたか、まず山地の様子を大観しておきたい。
日光山地の地形を述べるには種々の仕方があるが、本稿のように山岳信仰史を主眼とする場合には、地誌に従うよりも山地の中心にある中禅寺湖をまん中にして山列の配置を述べるのが適当であり、理解しやすいと思う。
図は中禅寺湖を中心とした山列を示している。日光山地ど総称する山々で、中央にある中禅寺湖は面積が11.49平方鋸、湖面の標高は約1、200だいやがわ向、洪積世末の男体山噴火で大谷川が堰止められて生れた堰止め湖である。東西に細長い不整形で、東岸を除く3方は山が湖岸にせまり、砂浜の部分も狭隙で開発は進んでいない。中宮同・中禅寺が造立され、諸堂が集中したのは湖の東部で、「中禅寺私記」にみる盛況は中宮地域のかっての繁栄を物語っている。
湖の北側に男体山を中心にして東西に並ぶ弧状の山列がある。これが表尾根と通称される日光火山群で、洪積世に噴出し、男体山と赤薙・女峰山が成層火山、他の山々は火口が不明の溶岩円頂丘である。山列の東端は標高2、010.3海の赤薙山、西端は2、577.6海の白根山で、白根山が火山群中の最高峰となっている。山体が最も大きく、火山らしい整美な姿をみせるのが標高2、484.4海の男体山で、山列から南へ突出し、平野部から偉容を望見することができる。同一火山体の赤薙山と女峰山は別として、その他の山々は独立した孤峰の感が強く、2、000鰯を越える難峰が揃っている。中禅寺湖南岸に並ぶ山列は山体の形成が北側の山よりも古く、2、000海を越える山は錫ケ岳だけで、東に向って標高が次第に下る。山列の東端は鳴虫山、西端は白根山の南々西に位置する錫ケ岳で、列の東半分一茶の木平から鳴虫山の間は、日光山地より古い時代に形成された足尾山地の山々である。孤峰とよべるのは錫ケ岳と隣りの宿堂坊山ぐらいで、その他は突出した山でなく尾根通りの高まりに過ぎない。古社の二荒山神社が神体山として記る山は男体山のほか、赤薙山・女峰山。
小真名子山・大真名子山・太郎山・金精山・前白根山・白根山の8峰で、これはみな北側の山列に属し、南側の山列には神体山がない。また三山信仰によって紀られた山は男体山・太郎山・女峰山の3山で、これも北側の山列の山である。
日光山地の主峰は男体山である。山体の規模が他山を圧して大きく、表尾根の前面に位置して低い足尾山地を前山にするため、平野からの眺望に恵まれている。平野の方向からみる山形は、古来からの信仰の山に多い神奈備型を呈し、低い山ではあるが同形の筑波山とともに、関東平野の東西に位置する霊山として、古代から民衆の信仰を集めていた。


 
勝道上人「日光登山記」と空海

 

自然と人間のこころの関わりについて空海は「そもそも、環境はこころにしたがって変わるものである。こころが汚れていれば環境は濁るし、その環境によってまた、こころも移り行くことになる。静かな環境に入り、そこに身を置けばこころも清らかである。そして、こころと環境が合致し、互いが無心にひびき合うことができれば、万物の根源となる"自然の道理"とそのはたらきである"知"が自ずと発揮される。そこに悟りがある」と説く。
空海に先んじて、その静かな環境、奥深い山に分け入り、そこで修行することによって悟りを得た行者が、勝道上人(しょうどうしょうにん)である。下野国芳賀(しもつけのくに、はが:今の栃木県真岡市)の人であった。
上人は少年の頃から蟻のいのちですら殺生しなかった。青年になってからも善悪の戒律を守り、こころは清らかであった。世間の生き方にこだわらず、仏教の空(くう)の教えを学び、街の喧噪を嫌い、自然の清らかさを慕って、山林での修行にひたすら励んだ。
その青年が48歳になって、日光山(男体山)登頂に成功し、開山の祖となった。
上人は、817年に83歳で亡くなられるが、その3年前に、人を介して、名勝の地、日光の記述を空海に依頼した。仲介者と空海は昔からの知り合いだったので、これを引き受けることになる。空海、41歳のときである。
以下は、その空海執筆による「沙門勝道、山水を歴(へ)て玄珠を瑩(みが)く(道を極める)の碑」からの、我が国最初の「登山記」と日光山での上人の悟りの場面を口語訳したものである。
七六七年四月上旬
(上人、)日光男体山の登頂を試みる。しかし、雪は深く、崖はけわしく、行く手を雲と霧に閉ざされ、雷にあい、断念する。中腹まで引き返し、そこに二十一日間滞在したのち、下山する。
七八一年四月上旬
再度、登頂を試みるが失敗する。
七八二年三月中旬
今回は、登頂するまでは絶対にあきらめないとの覚悟を決め、周到に準備をし、山麓に着いた。そこに一週間滞在し、日夜の登頂祈願を行なった。
「わたくしが登頂をめざすのは、すべての生き物の幸せを願うためです。その証として、わたくしが不浄のこころの持ち主でないことを示す経文と仏の絵姿図を自らしたためました。これを、山頂に辿り着くことができれば神々に捧げます。どうか、善き神々よ、そのちからを示し、災いとなる霧を巻き収めさせたまえ、山の精霊たちよ、わたくしを先導するためにその手をお貸しください。この願い、もし聞き入れなければもう二度と登頂を試みません。そして、もはや悟りを得ることはないでしょう」。
このように願いをたておわると、雪の白く続くところを越え、緑のハエマツのきらめく崖をよじ登った。崖の上から頂上までは残り半分の距離であったが、からだは疲れ果て、体力を消耗してしまったので、その場に二泊して、体力を回復し、そして、とうとう頂上に立った。
(今、この場にいることは)夢のようであり、でも現実であることを実感しながらうっとりしていると、天空を飛ぶ筏(いかだ)に乗らなくても、たちまちのうちに銀河の流れに浮かんでいるようだし、妙薬(幻覚剤)を舐めていないのに、自然の神の住むという岩屋を訪れている気がする。ただただ、喜びに涙し、こころは平静ではいられなかった。
この山のかたちは、東西は龍がうつぶせに寝た背骨のようであり、その眺望は限りなく、南北は虎がうずくまったようであり、まるで、巨大な虎が棲息しているようである。
この山は、世界を創る神の住む山、須弥山(しゅみせん)の仲間のようであり、周囲の山々も須弥山を浮かべる外海を取り巻いているという鉄囲山(てつちせん)のようである。
中国五岳に数えられる衡山(こうざん)・泰山(たいざん)もここよりも低く、諸国の伝説の山、仙人の住むという崑崙山(こんろんざん)や、よい香りのただようというインドの香酔山(こうすいざん)にも勝っていると、この山は笑っているようだ。
この頂きは、日が昇るとまっ先に明るくなり、月が昇るともっとも遅く沈む。ここからだと神通力をもつ目がなくても、万里の彼方までが目のまえにあり、一挙に千里を飛ぶという神話の鳥さえいらない。白い雲海はわたくしの足の下にあるのだ。
広がる色とりどりの景色は、機(はた)もないのに美しい錦を織りなし、いろんな高山植物は一体、誰が作ったのだろう。
北方を眺めると湖(今の川俣湖の方向にあたる)があり、その広さはざっと計算すれば一百頃(けい:中国地積の単位。一頃は百畝)。東西は狭く、南北は長い。
西方をふり返ると、やはり一つの湖(湯の湖)があり、二十余頃の広さはありそうだ。
西南方に目を向けると、さらに大きな湖(中禅寺湖)があり、広さは千余町(一町も百畝)もありそうだ。南北は広くないが、東西は長く伸びている。湖面にはまわりをとりまく山々の高い峰がその影を逆さに落とし、その山肌にはいろんな変わった草木や岩が自ら織りなす、奥深い色合いがあり、白銀の残雪のあるところからは早春の花が咲き、金色に輝いている。それらのすべての色が余すところなく鏡のような水面に映し出されている。
山と水は互いにひびき輝き、その絶景がわたしを感涙させる。四方を眺め、たたずみ、見飽きることがない。しかし、突然の雪まじりの風がそれらの景色を打ち消してしまうー
わたくし勝道は小さな庵を西南(中禅寺湖側)の隅に結び、登頂祈願の約束を神々に果たすため、そこに二十一日間滞在し、勤めを行ない、そののち、下山した。
七八四年三月下旬
改めて(今度は中禅寺湖とその周辺を探索するために)日光山に入った。五日間をかけて湖のほとりに着いたときには四月になっていた。
ほとりで一艘の小舟を造り上げた。長さは二丈(一丈は十尺)、巾は三尺(一尺は約三十センチ)。さっそく、わたくしと二、三人が乗り、湖に棹をさし、遊覧した。
湖上より周囲の絶壁を見回すと、神秘的で美しい景色が広がっている。東を眺め、西を眺め、舟の上下の揺れにあわせて気持ちもはずむー
まだまだあちらこちらを遊覧したかったが、日暮れには南の中洲に舟を着けた。その中洲は陸から三百丈足らず離れていて、広さはタテヨコ三十丈余りあり、多くの中洲のうちでも勝れて美しい景観をもっていた。
次の日からは湖の西岸に上がり、西湖(西の湖)に出かける。中禅寺湖からは十五里(平安時代、一里は約五百メートル)ばかり離れたところにある。また、北湖(湯の湖)も見に行った。そこは中禅寺湖から三十里ばかり離れたところにある。いずれも美しい湖であるが、中禅寺湖の美しさにはとうてい及ばない。
その中禅寺湖はみどり色の水が鏡のように澄みわたり、水深は測り知れない。
樹齢千年の松や柏の常緑の枝が水面に垂れ、岩の上には紺色の楼閣のような巨大な檜や杉が突っ立っている。
あじさいの五色の花は同じ幹に混じりあって咲き、朝・昼・夕・晩・深夜・明け方にそれぞれに鳴く鳥は、同じさえずりに聞こえても、それぞれに種類のちがう鳥なのだ。
白い鶴は羽をひろげてなぎさに舞い、青い水鳥は湖面に戯れている。それらの鳥の羽ばたきは風に揺れる鈴のよう。その鳴き声は磨かれた玉の響きのよう。
松風は琴となって音色を奏で、岸に寄せる波は鼓となって調べを打つ。
それらの自然の発する響きが合わさって天の調べとなり、湖水は甘く・冷たく・軟らかく・軽く・清く・臭いなく・のどごしよく・何一つ悪いものを含まず、たおやかにゆったりと貯えられている。
(湧きだす)霧や雲は、水の神があたりをおおうしわざであり、星のまたたきと稲光は、天空の神、明星がしばしばその手を虚空に入れ、それらをつかもうとするからである。
今、"湖水に映る満月を見ては、あるがままに無心に生きるということを知り、空中に輝く日輪を見ては、すべてのいのちが陽光の恵みによって共に生かされていて、その自然のもたらす英知とわたくし勝道が一体のものである"と悟る。
―そののち、この悟りの地にささやかなお堂を建て、神宮寺と名づけた。ここに住んで自然の道理とそのはたらきに身を託し、そのまま四年の歳月が過ぎた。
七八八年四月
さらに北の端に住まいを移す。この地の四方の眺望は限りなく、砂浜は好ましい。さまざまな色の花はその名も分からない不思議なものばかりであり、どこからともなく漂う、嗅いだことのない芳純な香りがわたくしの気持ちを和ましてくれる。
ここに住んでいたにちがいない仙人はどこに去ったのか分からないが、自然の神々が確かにここにはいる。
この美しい地を、中国の文人、東方朔はその著『海内十洲記』の名勝の地の一つとして、どうして記さなかったのだろう。山水を愛でる貴族たちはどうしてここに集い、舟を浮かべて遊ばないのだろう。
(ブッダは苦行の時代、飢えた虎に身を供養し、その餌食となったとの話があるが)その虎に出遭うこともなく、(不老不死の仙人)子喬もすでに立ち去ったあと。そのような聖なる地の澄みきった広い湖水からは鏡のようなこころを学び、日光山からは自然界を創りだしている無垢なる仕組みを知る。
冬は茂るツタに寒さをさえぎり
夏はおおう葉陰に暑さを避ける。
菜食をし、水を飲むだけでの生活でもこころは楽しく
あるときは出かけ、あるときは止まり
俗界を離れて、ひたすら修行しているわたくし勝道がここにいる。
八一四年八月三十日空海記す。

勝道上人が日光男体山に初登頂(782年)したとき、空海は真魚(まお)と呼ばれる、まだ8歳の少年であった。その少年が若くしてあらゆる学問に通じながらも、20歳過ぎには都の大学を去り、山のやぶを家とし、瞑想をこころとして、山林に入り修行した。
その頃のことを、空海は一編の詩に綴っている。
―前文略―
谷川の水一杯で、朝はいのちをつなぎ
山霞を吸い込み、夕には英気を養う。
(山の住まいは)たれさがったツル草と細長い草の葉で充分
イバラの葉や杉の皮が敷いた上が、わたくしの寝床。
(晴れた日は)青空が恵みの天幕となって広がり
(雨の日は)水の精が白いとばりをつらねて自然をやさしくおおう。
(わたくしの住まいには)山鳥が時おりやって来て、歌をさえずり
山猿は(目の前で)軽やかにはねて、その見事な芸を披露する。
(季節が来れば)春の花や秋の菊が微笑みかけ
明け方の月や、朝の風は、わたくしのこころを清々しくさせる。
(この山中で)自分に具わる、からだと言葉と思考のすべてのはたらきが
清らかな"自然の道理"と一体になって存在していると知る。
今、香を焚き、ひとすじのけむりを見つめ
経(真理の言葉)を一口つぶやくと
わたくしのこころは、それだけのことで充たされる。
そこに無垢なる生き方の悟りがある。
―後文略― 空海文集「山中に何の楽(たのしみ)か有る」より
そう、空海もまた、自然と人間のこころの関わりをよく理解し、そこから、悟りを得る修行をしていた。だから、日光山における勝道上人の行状をまるで見ていたかのように記述できたのだ。その記述に目を通し、上人は満足したことと思う。そこには、上人と同じ澄んだ目とこころをもつ、空海という人がいた。