神国

 

神国神国日本(神話と神宮)目覚めよ日本人天皇中心とした神の国神国 の意味天の力の貫通神皇正統記神道の史的価値天満宮と八幡宮
諸話 / 現人神現人神の創作者現人神と八紘一宇神道とキリスト教神と天皇天皇神格化滝沢克己氏の天皇観現人神と国家神道という幻現人神諸説日本の正統三教合一仏教と日本人の思想形成神道の思想形成貞永式目日本的発想と政治文化

【神国】神が開き、神によって守護されている国。日本の美称。皇室の祖先神を祭祀するという伊勢神宮のある伊勢国。 
【神州・神洲】神国。わが国で自国を誇っていう。「神州日本(男児)」 中国で自国の美称。神仙のいる所。仙洞。 
【神民】神社に付属している民。神人(じにん)。(日本国は神国であるという考えから)日本国民。 
【神の国】神がその基を開き守護する国。神国。ユダヤ教で終末時に現われる神の支配する国。イエス‐キリストの教えで神の力と生命とがすべてを支配する国。

  
【神風】(かみかぜ、しんぷう)神の威徳によって吹き起こる風。第二次世界大戦中の日本海軍の特別攻撃隊の名、正しくは神風(しんぷう)隊。向こう見ずで人命を粗末にすることのたとえ。「神風タクシー」「神風運転」 
【神】宗教的・民俗的信仰の対象。世に禍福を降し人に加護や罰を与える霊威。古代人が天地万物に宿りそれを支配していると考えた存在。自然物や自然現象に神秘的な力を認めて畏怖し信仰の対象にしたもの。神話上の人格神。天皇。死後に神社などにまつられた霊。キリスト教で宇宙と人間の造主であり全ての生命と知恵と力との源である絶対者。雷。人為を越えて人間に危害を及ぼす恐ろしいもの。
   
【御霊】霊魂の敬称。みたま。たたりをあらわすみたま。高貴な人をまつる社。 
【御霊・御魂】神の霊。人が死んで、その魂(たましい)の神となったものを尊んでいう。 
【御霊代】神霊に代えてまつるもの。 
【御輿・神輿】祭礼のときなど、神体・御霊代(みたましろ)が乗るとされる輿。形は四角形・六角形・八角形などで、屋根の中央に鳳凰(ほうおう)などを飾り、台に二本の棒を貫いて大勢でかつぐ。おみこし。古くは天皇の乗物の総称。 
【魂・霊・魄】(「たま(玉)」と同語源)「たましい(魂)」をいう。多く「みたま(御霊)」「おおみたま(大御霊)」の形で用いる。 
【祇園会】京都の祇園社(現在の八坂神社)の祭礼。天禄元年、一説に貞観一八年に始まるといい、陰暦六月七日から一四日まで(現在は七月一七日から二四日まで)行なわれる。山鉾が巡行し盛大で疫病よけの祈祷の御利益があると言われる。
  
【神泉】神がいるという泉。霊妙不思議な泉。 
【神泉苑】平安京造都の時、大内裏の南に接して営まれた禁苑。南北四町、東西二町の地を占めて造り、自然の景観を取りこみ、乾臨閣などの楼閣を配した。平安初期しばしば行幸があり、遊宴、遊猟などが行われた。天長元年、空海が請雨法を修したとの伝承もあり、善女竜王がまつられて、祈雨または止雨の霊場となった。また、御霊会(ごりょうえ)も行われた。平安末期から次第に荒廃し、現在は中京区御池通大宮西入に苑池の一部を存し、真言宗教王護国寺(東寺)に属する寺院となっている。京都の訛(なま)りで、「ひぜんさん」ともいう。神泉。 
【迎火】盂蘭盆(うらぼん)の最初の日に祖先の御霊や死者の霊を迎えるために門前や近くの川のほとりなどでたく火。
   
【神道】(しんとう)天地自然の道理。日本固有の多神教の宗教で、「古事記」「日本書紀」などに見える神代の故事に基づいて、神を敬い、祖先を尊び、祭祀を行うもの。かんながらの道。中世以降、儒仏二教や陰陽道の影響によって唱えられた神道諸流派。両部、卜部(うらべ=吉田)、垂加、吉川、橘家等の神道の総称。 
【神武天皇】第一代の天皇。父は彦波瀲武Wニ草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)、母は玉依姫。名は神日本磐余彦尊(かんやまといわれびこのみこと)。「古事記」「日本書紀」にみえる事蹟によれば、日向国(宮崎県)から東征して瀬戸内海を通り、難波に上陸、熊野から吉野を経て大和を平定し、橿原宮で西暦紀元前六六〇年に即位したという。明治以後この年を皇紀元年とした。墓は奈良県の橿原市畝傍山東北陵。 
【神武このかた[以来]】 (神武天皇がわが国の第一代の天皇とされるところから)開闢(かいびゃく)以来。わが国がはじまってこのかた。 
【神武】神武天皇のこと。
   
【神言】(かんごと)神の告げることば。神託(しんたく)。託宣(たくせん)。(神のことばに起源すると信ぜられた)神聖なことば。 
【神占】(しんせん)神に祈って神意をうかがい吉凶を予知する。亀卜(きぼく)、神籤(みくじ)など。 
【神楽月】陰暦11月の異称。 
【神帰月】 「神帰り」の行なわれる月。陰暦11月の異称。かみきづき。 
【神無月・神去月】(かみなづき。俗説には全国の神々が出雲大社に集まり諸国が「神無しになる月」の意)陰暦10月。 
【神有月・神在月】(神無月に日本中の神々が出雲大社に集まるという俗信から)出雲国での陰暦10月の異称。かみあり。 
【神送りの空】陰暦10月頃の空模様。諸国の神々が出雲に集まるために時ならぬ風が起こる。 
【神吉日】(かみよしび)陰陽道で神社に参拝したり、神事を行なったりするのによい日。
 
神国

 

「神の国」を意味する語で、日本では「神である天皇が治める国」あるいは「神々の宿る国」という意味合いの語である。神州(しんしゅう)ともいう。  
神国とは、天照大神の末裔である天皇が現人神として君臨し、万世一系と天照大神の神勅のもとに永久に統治を行い、これを支え続けてきた皇室、更にこれに臣属した諸神の末裔である国民との緊密な結合と全ての政治は神事をもって第一とする理念によって、神の加護が永遠に約束される、そういう国家を指している。  
かつて、日本の国家と国土はこの神国思想(しんこくしそう)に基づいて神々によって作られて守られてきたものであるとされてきた。本来は農業国が持つ農耕儀礼に基づく信仰に由来するものであったが、後に選民意識と結びつき、更には国粋主義・排外主義・覇権主義・軍国主義的な思想へと転化していった。特に太平洋戦争敗北までは、対外戦争毎に強調され、国家神道を支えた。 
 
時代的変遷 
平安時代以前  
「神国」という言葉の初出は神功皇后のいわゆる「三韓征伐」の際、新羅王が皇后の軍勢を見て「神国の兵である」として戦わずに降伏したという、『日本書紀』の記事である(但し、新羅側が何故にそう判断したのかは、正史の常で記述がない)。これが後に対外的危機の際には必ず引用されて神国思想を高揚させる一因となったと言われている。仏教伝来直後は、物部氏など神道を崇拝する人々によって唱えられた事もあったが、神仏習合の普及以後は一時的に対立は緩和していった。平安時代以後、律令政治の発展による儀礼の深化とともに『日本三代実録』などの文献などに見られるようになり、源義経の「腰越状」にもその行が見える。  
大和政権は、本来、各々の有力豪族の連合政権であり、大王は豪族の頂点に過ぎなかった。一説に、各々の豪族は、独自の神話をもち、独自の神を祭っていたとされ。大和政権が豪族連合政権から、大化の改新をへて、天皇を中心とした中央集権国家へと移行すると、天皇家の神格化を図るために、天皇家の祖先神である太陽神・天照大神と天皇家の神社である伊勢神宮を頂点とした、神々及び神社のヒエラルキーが確立したとされる。このような体系を基にしたのが古代の神国思想であるという意見がある。  
新羅と日本との外交関係において、「神国」思想が形成されたとする見方もある。  
弘仁2年(811年)12月の新羅賊徒、また貞観11年(869年)の貞観の入寇を契機に、日本政府は国防体制を強化する。日本政府は、囚人を要所に防人として配備することを計画したり、沿海諸郡の警備を固めたほか、内応の新羅商人潤清ら30人を逮捕し放逐することに決め、賊徒を射た「海辺の百姓五、六人」を賞した。その後、新羅に捕縛されていた対馬の猟師・卜部乙屎麻呂が現地の被害状況を伝えたため、結局大宰府管内のすべての在留新羅人をすべて陸奥などに移し口分田を与えて帰化させることに定めた。このとき新羅は大船を建造しラッパを吹き鳴らして軍事演習に励んでおり、問えば「対馬島を伐ち取らんが為なり(870年2月12日条)」と答えたという。また現地の史生が「新羅国の牒」を入手し、大宰少弐藤原元利万侶の内応を告発した。  
貞観12年(870年)2月15日、朝廷は弩師や防人の選士50人を対馬に配備する。また、在地から徴発した兵が役に立たないとみた政府は、俘囚すなわち律令国家に服属した蝦夷を配備した。これらの国防法令は『延喜格(えんぎきゃく)』に収められ、以後の外交の先例となった。  
同時に、伊勢神宮、石清水八幡宮、香椎、神功陵などに奉幣および告文をささげ、  
わが日本の朝は所謂神明の国也。神明の護り賜わば何の兵寇が近く来るべきや  
(日本は神の国であり、神の守護によって敵国の船は攻め寄せない)  
と訴えた。こうして新羅を敵視する考えは神国思想の発展へとつながっていった。また、神功皇后による三韓征伐説話もたびたび参照されるようになる。  
貞観12年(870年)9月、新羅人20人の内、清倍、鳥昌、南卷、安長、全連の5人を武蔵国に、僧香嵩、沙弥傳僧、關解、元昌、卷才の5人を上総国に、潤清、果才、甘參、長焉、才長、眞平、長清、大存、倍陳、連哀の10人を陸奧国に配する。  
また貞観14年から19年にかけて編纂された『貞観儀式』追儺儀(ついなのぎ)では、陸奥国以東、五島列島以西、土佐国以南、佐渡国以北は、穢れた疫鬼の住処と明記されている。こうして対新羅関係が悪化すると、天皇の支配する領域の外はケガレの場所とする王土王民思想も神国思想とともに形成された。  
なお貞観の入寇の三年前の貞観8年(866年)には応天門の変が起こっており、こうした日本国内の政権抗争と同時期に起こった貞観の入寇などの対外的緊張の中で、新羅排斥傾向が生み出されたとされる。  
王朝国家体制以降  
10世紀以降、律令体制から王朝国家体制に移行すると、貴族や寺社が荘園を拡大し始めた。有力な寺社は、自分たちが祭る神々を日本の神の中の頂点であることを宣言し、不輸・不入の権を行使し、自分たちの荘園を「神領」や「仏領」としていった。その結果、天皇家を中心とした神々及び神社のヒエラルキーは衰退していった。また、平安時代前期からこの時期には、神仏習合思想が普及し、仏が日本の国土において、人々を救うために神々の姿をとった、という本地垂迹説が説かれた。このような社会・思想の変動によって、天皇の権威を頂点にした古代的神国思想は、本地垂迹説を基にした中世的神国思想へと移行・変化していった。  
鎌倉時代  
ところが、平安時代末期より鎌倉時代にかけて末法思想や鎌倉新仏教の広がりによって現世を否定する思想が広がり、実社会と乖離した儀礼中心の政治が打ち続く戦乱によって存亡の危機に立たされると貴族社会を中心に皇室とそれを支える貴族社会の由来を神国思想に求める考え方が出現した。  
更にこれに一大変革を与えた事件は、元による2度にわたる元寇である。この時の嵐が伊勢神宮をはじめとする諸神社によって盛んに行われた異敵調伏の祈祷と成果と喧伝され、日本を神国とする認識を国内各層に浸透させる事となった。このため、浄土思想・鎌倉新仏教側もこれを取り入れていく方向に変化して行き、神々は仏に従属するとした「仏教の超越性」を唱えていた法華宗を含めて、日本の仏教は神々の加護によって初めて成立しており末法の世を救う教えも日本が神国であるからこそ成立したという主張に転換していく事になる。虎関師錬の『元亨釈書』の「大乗仏教は日本において完成した」という主張はその典型である。  
南北朝・室町時代  
更に、これを「大日本は神国である」という一つのフレーズで言い切った者が『神皇正統記』の著者・北畠親房である。親房は天照大神の正統な末裔である天皇によって日本という国家が維持されているという主張を簡潔に述べて、後世に影響を与えた。  
戦国・安土桃山時代  
中世以降の紛争の激化や社会の流動化の中、法の下での平和を実現する統一権力が求められた。こうした情勢において、本地垂迹説・神仏習合に基づいた中世的神国思想は、人々に正しい道を教える道徳的・超越的権威としての天道を説いた、儒教的な天道思想の影響を受けたものへと変化していった。  
戦国時代においては、このような考えに基づき地上に平和をもたらす者が、「国主」の資格を持つ者であるとみなされるようになった。戦国大名は、自らを神仏になぞらえるなど、神国思想を領国統治のイデオロギーとしたのである。  
豊臣秀吉が発布した1587年のバテレン追放令の第1条「日本ハ神国たる処きりしたん国より邪法を授候儀 太以不可然候事(日本は神国である。それなのに、キリシタンの国より邪法を広めたことは、おおいに許されることではない)。」におけるように、日本が「神国」である、と強調されたことが、キリシタン禁教・弾圧の理論的根拠となった。  
江戸時代  
江戸時代には儒教や仏教などの外来思想に批判的な立場から古典や神道を研究する国学が盛んになり、復古神道が主張されると、従来の神仏習合的な神国思想から仏教・儒教的要素を廃し、古代へ回帰した神国思想が広く受け入れられるようになった。しかし、それが幕末の黒船来航などの外的圧力の増大とともに攘夷論へと発展し、尊王攘夷運動が展開されて、やがて江戸幕府滅亡へと繋がった。  
戦前  
明治維新により天皇が政権を奪還すると、神道が国教とされ(国家神道)、国家神道を支える理念的思想となるとともに、欧化・近代化路線に対抗する国粋主義と結びついた。日本の帝国主義・軍国主義路線の膨張、覇権主義による植民地の拡大とともに、国内外の民衆を抑圧する思想へと転化して行った。  
日露戦争勝利以後、日中戦争・太平洋戦争でその動きは最高潮に達し、ミッドウェー海戦で大敗してからも「神州不滅」の主張の元に玉砕・神風特攻隊・本土決戦論などの、“臣民全て滅びようとも天皇一族だけは厳然と残らねば・残されねばならない、そして最後には日本が勝つのだ”という思想が横行し、多くの生命が失われた。大戦末期、例え敗北が目に見えても、民衆の中には“いずれ神風が吹いて、敵艦隊をまとめて沈めてくれる”と本気で考えていた者が多くいたという。  
戦後  
戦前の「神国思想」が多くの生命を奪った経緯から、ポツダム宣言(第4・6・10条)と日本の降伏文書に基づき、戦後に日本国憲法が制定され、政治の場から神国思想を排除するために、政教分離原則の厳格化と信教の自由の導入が行われ、日本社会の表舞台から神国思想は衰微した。  
しかし建国記念日を架空の日とされる神武天皇の即位の日と制定した点や、そういった「虚構」を無視したまま国旗・国歌法が成立された点を、戦前の日の丸と君が代と異なるものではないと批判する意見もある。また2000年5月15日、森喜朗首相による「日本は天皇を中心とした神の国」発言が報道され問題となった(神の国発言)。 
「神国」の用例  
豊臣秀吉『伴天連追放令』1587年6月19日  
「日本ハ神国たる処きりしたん国より邪法を授候儀 太以不可然候事。」  
夏目漱石『思い出す事など』1910年10月 - 1911年4月  
「無気味な黒船が来て日本だけが神国でないという事を覚った」  
海野十三『空襲葬送曲』1932年5月 - 9月  
「兎に角、それは、三千年の昔より、神国日本に、しばしば現れたる天佑の一つであった。」  
島崎藤村『夜明け前(第二部下)』1935年11月  
「仏徒たりとも神国の神民である以上、神孫の義務を尽くして根本を保全しなければならぬ。」  
宮本百合子『今日の日本の文化問題』1949年1月  
「保守的な日本官僚はあらゆる形であらゆる機会に伝統的神国精神を保守しようとしている。」 
神国令(神国由来)  
我が国「日本」の事を、「神国」や「神州」とも呼びます。文字通り、日本は神の国です。言わずもがな、基督教の神などではなく、我が国古来の「八百万の神」です。なぜ我が国が「神の国」と呼ばれるのか。それは、日本は神々が開いた国ということです。これは思想ですから、少なからず宗教観が含まれてきます。我が国古来の宗教は仏教でも基督教でもなく間違いなく“神道”ですが、こう申すのは決して他の宗教が嫌いだからではありません。神道に正統性があるからです。神国といえど、世の家庭には仏教は広く浸透していますから、仏を否定する事などは余計なお世話でしょうから致しません。神道そのものも、他の宗教批判などは一切せず、共存共栄を旨としているようですから、そこも併せてご理解ください。ただ、神の国に生まれた以上、何を尊ぶべきかは明白ですよね。また、それを知ることは“日本人らしさを学ぶ事です。どう解釈するかは個人の勝手ですが、日本人であれば必ず目を通すべきものです。  
 
神國令(神國由来)しんこくれい(しんこくゆらい)  
玉田永教(たまたながのり)  
恭(うやうやしく)以(おもんみれ)は日本は神の國なり、  
神の國と申(もうす)は、  
天地開闢(ひらくる)の時神(かみ)顯(あら)われまします、  
是(これ)を國常立尊(くにつねたつのみこと)と申(もうし)奉(たてまつ)る、  
祭る所(ところ)伊勢外宮(いせげくう)是(これ)なり、  
是神(このかみ)より七代(しちだい)を過(すぎ)て、  
伊弉諾(いざなぎ)伊弉册尊(いざなみのみこと)淡路(あわじ)の國磤馭盧嶋(おのころしま)にて、  
天照太御神(あまてらすおおみかみ)を御誕生(おたんじょう)あれまし給(たま)ふ、  
天照太御神、高天原(たかまがはら)にて三種の神器を持(じ)せ玉(たま)ひ、  
天津彦火瓊々杵尊(あまつひこほのににきのみこと)に御授(おんさずけ)当今(とうぎん)天子(てんし)まて一百貮十六代(ひゃくにじゅうろくだい)の間(かん)連続(つづ)かせたまふ、  
誠に萬世無窮(ばんせいむきゅう)の神の國なり、  
士農工商皆(みな)是(これ)神の血脈にあらさるなし、  
神武天皇より廿九代(にじゅうきゅうだい)宣化天皇(せんかてんのう)まて、  
一千一百九十三年(せんひゃくきゅうじゅうさんねん)、  
吾が神國いまた外國(とつくに)の方便(ほうべん)を知らす、  
神以(もっ)て神に伝えへ、  
皇(おう)以(もっ)て皇(おう)伝(つた)ふ、  
萬民(ばんみん)正直(ますぐ)の外(ほか)他叓(たじ)なし、  
今日(いま)神の國に生(うま)れ、  
神の衣服(いふく)を着(ちゃく)し、  
神の吾(わが)穀(こく)を喰(くら)ひ、  
神の家に居(い)て、  
神の恩を報(ほう)し奉(たてまつ)る叓(こと)を不知(しらざる)ものは、  
實(じつ)に人面獣心(じんめんじゅうしん)なり、  
儒道(じゅどう)は人皇(じんおう)十六代(じゅうろくだい)應神天皇(おうじんてんのう)の時、  
始(はじめ)て渡り来る(きたる)、  
佛法(ぶっぽう)は人王(じんおう)三十代(さんじゅうだい)欽明天皇(きんめいてんのう)十三年冬十月、  
百済(くだら)國の聖明王(しょうみょうおう)怒利斯致(どりしち)と云者(いふもの)を使(つかい)として、  
始(はじめ)て佛法経巻(ぶつぽうきょうかん)憧(はた)天蓋(てんがい)を奉(たてまつ)る、  
此時(このじ)に及んて蘇我稲目(そがのいなめ)蘇我馬子(そがのうまこ)是(これ)を信仰(しんこう)して、  
吾(わが)別荘(しもやしき)を寺と営(いとなみ)、  
此(この)佛像(ぶつぞう)を安置す、  
是(これ)日本佛法(ぶっぽう)の始(はじめ)みて、  
其(その)古跡(こせき)倭(やまと)の國橘寺(きつじ)是(これ)也、  
是(これ)より弘(ひろま)るは、  
華厳宗(けごんしゅう)法宋宗(ほっそうしゅう)倶舎宗(くしゃしゅう)常實宗(じょうじつしゅう)三論宗(さんろんしゅう)等なり、  
併(しか)し是等(これら)神國の掟(おきて)にかなわす、  
遂(つい)に断滅(だんめつ)す、  
夫(それ)より年数(ねんすう)立(たち)て、  
天台宗(てんだいしゅう)真言宗(しんごんしゅう)浄土宗(じょうどしゅう)一向宗(いっこうしゅう)禅宗(ぜんしゅう)日蓮宗(にちれんしゅう)追々(おいおい)弘(ひろ)まる、  
然(しか)れとも、  
祖師(そし)の掟(おきて)を背く邪欲(じゃよく)の出家(しゅっけ)は、  
神の國に住居(じゅうきょ)する叓(こと)を弁(わきま)へす、  
剰(あまつ)さへ、  
己(おの)か神脈(しんみゃく)の血脈(けつみゃく)たる叓(こと)をしらす、  
利欲(りよく)を貪(むさぼ)らんかため、  
世間(せけん)の人(ひと)を誑惑(きょうわく)す、  
哀哉(かなしいかな)、  
時の人の謀計(こと)をしらす、  
抑(ただ)唯一(ゆいいつ)宗源(しゅうげん)は神の正道(せいどう)にして、  
五十鈴(いすず)の霊音(れいおん)を以(もっ)て、  
神國の言語を明(あき)らかにす、  
萬物(ばんぶつ)幽顕(ゆうけん)の理(り)通(とお)らさる叓(こと)なし、  
正直(ますぐ)を以(もっ)て心(こころ)とし、  
明鏡(めいきょう)を以(もっ)て體(すがた)とす、  
生(うまれ)ては則(すなは)チ神明(しんめい)の恩澤(おんたく)を蒙(こうむ)り奉(たてまつ)り、  
死しては則(すなは)チ魂(みたま)を上天(じょうてん)の御舎(みあらか)に歸(き)す、  
希(こいねがわく)は又々(またまた)神明の冥助(みょうじょ)に依(より)て、  
生(せい)を神國の得んもの也、  
豈(あに)外國(とつくに)に生(うまれ)し叓(こと)を願(ねがわ)んや、  
胡(かるがゆえ)に太諄辭(ふとのつと)に日、  
一ツ心(ひとつこころ)の源(みなもと)ヲ清(きよ)らかにして、  
神代の法を崇(あがめ)、  
正直(ますぐ)の根元(もと)に歸(きし)て、  
邪曲(よこしま)の末法(のり)を捨(すて)、  
今宗源(そうげん)なる行(ぎょう)を願ふ者也(ものなり)と、  
敬白(うやまってもう)す  
文政四年辛巳五月五日了 
 
神国日本 ( 神話と神宮 ) 

 

「かんじんなこと」  
神話について学ぶときに、大切なことが一つあります。それは、触れることも見ることもできないものを感じる、ということです。  
現代人にとっては、とても苦手なことですね。なぜ苦手になったのか?というと、それは、たぶん戦後教育のせいでしょう。  
戦後教育の本質とは「唯物思想」である、と私は思っています。人はその思想に染まると、「触れることのできるもの」「みることのできるもの」しか信じないようになります。  
こんな教育が、日本では、もう六十年以上もつづいてきたのです。一世代を三十年とすれば、「唯物思想」による教育は、来年から、ついに三世代目に入るわけです。  
ですから、「神話」といふ言葉も、現在では、あまり良い意味では使はれなくなっていますね。たとえば、「それは神話にすぎない」などと、よく言いませんか?  
つまり、「神話」という言葉は、現代日本では「錯覚」、「幻想」、あるいは「つくり話」、「思い込み」などの別名になってしまってゐます。私が学生さんたちに、「神話って、そんなものじゃないよ」と言うと、みんなあまりに驚くので、その驚きようを見て、私の方が驚いているくらいです。  
そういう「神話」に対する心の中の“呪縛”、まづは、これを解かなければなりません。解きながら話をすすめなければ、いくら神話や神宮の話をしても、たぶん無意味か、あるいは、かえって害になるかもしれません。  
サン・テグジュペリ著『星の王子様』という児童文学に、かういう一節があります。「きつね」が、「王子さま」に、「ひとつ秘密を贈物にする」といって、こんなことを言うのです。  
「なに、なんでもないことだよ。心で見なくちゃ、ものごとは見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」。「心」で見る、皆さんできますか?  
戦後教育では、その逆を教えてきました。「心で見ない」やうにしてきたのです。  
だから「かんじんなこと」が、見えなくなったのでしょう。「かんじんなこと」というのは、具体的に言へば、神様・仏様などです。  
いはゆる宗教系の学校が、日本にはたくさんありますが、では、そこの生徒や学生たちは、神様・仏様を信じているでしょうか?私には、ほとんど信じていないやうに見えます。  
それでは、さういふ学校の先生たちはどうですか?これも私には、ほとんど信じていないように見えます。  
むろん、そういふ生徒や学生や先生たちには、信仰に関する知識は、他の人々よりはあるでしょう。それは、むろん良いことですが、それだけだと、どこまでいっても「信仰について知っている」といふにすぎません。  
「信仰について知ってゐる」ことと、「信仰そのものを知ってゐる」こととは、天地ほどの開きがあります。  
音楽にたとえれば、譜面と演奏くらいの開きはあります。 
唯物思想の呪縛  
どれほど日本の宗教史に精通していようと、どれほど伝統文化を学んでいようと、さらには、どれほど、さういふ分野の本を書いていようと、結局のところは古い戦後思想の「枠」を一歩も出ていない、思想の基本は「唯物思想」のまま、という人が、私の見るかぎり、たくさんいます。  
皆さんのなかには、いろいろと難しい日本文化の本を読んでも、「ピンとくるものがない」と嘆いている人はいませんか。  
しかし、それは、皆さんがダメなんじゃなくて、書いているひとが、ダメなのかもしれませんよ。そもそも書いている人が、内心では神様を信じていない、という人が多い。  
むしろ、神話をバカにするため、神話を粗末にするため、まるでそのために本を書いているような学者さえいる。そんな学者の書いたものを、いくら読んだところで、「ピンとくるものがない」のは、当然なんです。  
しかし近ごろは、さすがに日本人の心の復元力といふか、そんな力が動き出して、神話学や心理学の分野から、新しい時代のおとずれを予感させる本が、ようやく少し出てきました。  
ユング派の心理学者・河合隼雄さんが、一昨年、『神話と日本人の心』という本を出版されました。その本の書評が新聞に載っていましたが、そこには、この本の要点がまとめられていますので、次にあげてきましょう。  
「本書(河合隼雄著『神話と日本人の心』)は、古代の日本神話の中に現代人の心の深層を探り、神話から私たちがこの現代社会を生き抜いてゆくためのヒントを得ようと意図されている。  
私たちが『いま』を生き抜いてゆくには、ものを分析し、分離する『化学の知』だけではだめなのだ。  
ものや人をつなぎ、はぐくむ『物語の力』や『神話の知』が必要なのである。」(池田雅之「神話と日本人の心−現代社会を生き抜くヒント−」・『産経新聞』平成十五年十月十二日)  
「科学の知」、それが近代文明、ひいては現代文明を築いてきたこと、それを認めることに、私は何の異議もありません。「科学の知」は、分析し、比較し、数値化し、法則化し、そして、それを応用してきました。  
しかし近代科学は、そもそもの出発点では、「自分たちは、あくまで“目に見えるもの”の範囲内のことをやってゐる」という、謙虚な認識をもっていたように思ひます。  
つまり、ある限定された世界のことしか自分たちは知りえないという前提で、近代科学は始まったはずなのですが、やがて、その謙虚さを失ひ、「科学の知」が万能であるかのような錯覚が生じ、いわゆる文科系の学問にも、怪しげな「科学の知」を持ち込む人々があらわれます。 
“物”が“物語”になるとき   
その一例が、歴史に「法則」がある、とするマルクス主義の歴史学ですが、結局のところ、それが破綻したことは、ご承知の通りです。つまり、世の中を知るための方法として、「科学の知」は大切だが、「知」はそれだけではない。  
もう一つある。それが「神話の知」なのです。  
たとえば、皆さんの子どものときのアルバムがあるでしょう。それは、他人から見たら“ただの物”です。けれど、皆さんが見たら、一枚の写真からさえ、さまざまな「思い出」が「語られる」でしょう。御両親からも、さまざまな「思い出」が「語られる」かもしれない。  
「物」は、それだけでは決して「物語」にはなりませんが、ある個人的な体験が「物」を通して「語られる」ことによって、「物語」になるのです。「物」として見れば、九十九人にとっては、古くて汚い写真の一枚でも、あなたという一人にとっては、かけがえのない宝物になるわけです。  
その価値は「物」自体にあるわけではない。それに関する、あなたの「心」のありようによって、「価値あるもの」ともなり、「価値なきもの」ともなるのです。とすれば、その価値が“高い”とか“低い”とか、それはもう「科学の知」だけでは、測定不可能なことですよね。  
さて、そういう「物語」が昇華して、「物語」の域を超えるときがあります。それは、個別的でありながら、普遍的なものになるのです。個人の心が、民族の過去と現在をつらぬく普遍性をもったなにかと共鳴するのです。こうして「神話」が誕生します。  
ですから、一つの民族が生み育てた「神話」は、その民族にとってのみならず、世界の宝なのです。ギリシア、ローマ、ユダヤ、北欧、ケルトなど、その他の世界各地の「神話」は、その民族の「心のかたち」を、さらには、人の「心のかたち」をあらわしたものとして、二十世紀にはいってから、あらためて大切にされるようになっています。  
たとえば、映画の「スターウォーズ」は、神話を素材にして作られています。あれは、神話学でいう「英雄体験」の物語でしょう。  
今も昔も、特に男性は「英雄体験」を経て、一人前の男になる、といわれていますが、少年が男になるというのは、じつに大変なことなのです。そこでは、何よりも「知恵」と「勇気」が試されるのですから・・・・・・。  
わが国のスサノヲの命の話も、少年が男になるという「英雄体験」を語ったものとして読むことができます。泣いてばかりいた少年が、「死と再生」を経て、ヤマタノオロチを退治し、クシナダ姫を救う英雄をなる・・・・・・。  
まさに「英雄体験」の神話ですね。  
古くて汚い一枚の写真でも、それがその人を支えている・・・。  
そんなことがあるように、じつは人間は今も「神話」によって、かろうじて、人間らしい世界を維持しているのかもしれません。 
“生きている”日本の神話  
世界の神話は、世界の宝ですが、ここで大切なことは、日本の神話は、そのなかでも、きわめて特殊なものである、といことです。世界で一つだけという特徴があります。  
それは何か?つまり、まだ死んでいない、生きているということです。  
渡辺昇一さんといえば、皆さん御存じでしょうが、昭和40年ごろ、きわめて象徴的な体験をされています。ギリシアでポセイドンの神殿の廃墟を見たあと、日本に戻り、石巻市のマンションに滞在されていた。  
これは、その時の話です。  
「マンションの後ろには崖があり、登ると塩竃神社があった。(略)ちょうど塩竃神社のお祭りで、ワッショイワッショイと大変な賑わいだった。  
そのとき私は、ふとギリシアにいたときに見た有名な壺のことを思い出した。それは古代ギリシアのお祭りが描かれた壺であった。  
古代ギリシアのお祭りは壺の中に残っているだけで、再び繰り返されることはない。(略)  
しかし、この塩竃神社の祭りはどうだろう。ワッショイワッショイと町をあげて祝っているのである。(略)  
塩竃神社の神様はオオワタツミの神だから、海の神様でポセイドンなのである。(略)金華山には、鬱蒼たる森林と木造茅葺きでありながらそっくり残っている神社と、お祭りをする人々がいる。  
日本は全部生きている」(渡辺昇一著『国民の教育』  
古代には、世界のどこにでも神話が生きていたんでしょう。  
しかし、ほとんどの地域が排他的宗教に支配され、やがて神話も祭祀も、それを生んだ王朝も民族も、組織的な構造をもった統一感は、すべて消滅し、わずかに民間伝承、民間儀礼など、断片的な「神話の跡」を残すのみとなってしまいます。 
あらゆる宗教の根底にあるもの・・・  
しかし、日本は違います。『古事記』『日本書紀』の時代から、現代に至るまで、神話も神祭りも、その王朝も民族も、すべたが組織的な構造をもった統一体としてつづいている。  
途絶えることなく「全部生きている」わけです。  
サヨクの学者たちは、それが癪らしい。いろいろと細かい難癖、ケチをつけて、それを否定しようとやっきです。  
それに惑わされる読書人も多くいますが、このところ、どうにも彼らは分が悪い。結局のところ、この日本は「全部生きている」という事実を否定することなど、できはしません。  
『古事記』『日本書紀』があり、目の前に第一二五代の天皇陛下がおられ、全国では八万もの神社があり、古代と同じ民族によって、今も祭りがつづいています。  
だから、どうあがいてみても勝負はついています。  
日本は「神話と現代が連続している国」です。  
その意味で現代では、“世界で一つだけ”の国なのですが、その連続性を象徴する、いわば「神社の中の神社」というべき存在が、この伊勢の神宮です。  
ですから、感じることのできる人は、神宮に来ると、何か感じるようです。  
イギリスの歴史家・アーノルド・トインビーは、昭和四十二年、伊勢神宮を訪れたとき、一筆求められ、こう書いています。  
「この聖地において、私は、あらゆる宗教の根底的な統一性を感得する」。  
また、フランスのアンドレ・マルローという著名な文化人も、昭和四十九年、七十三歳のとき、神宮に詣でて、神秘的な「啓示」を受けたといいます。  
要するに「心で見る」人は、外国人でも“かんじんなこと”が見える。そうでない人は、日本人でも見えない・・・・・。  
そういうことでしょう。 
「三大神勅」  
さて、その伊勢神宮とは、どのようにして成立したのか?  
伝えられているところを、ザッと申し上げましょう。  
日本神話の、いわばクライマックスというべきものの一つに、「天孫降臨」の場面があります。そのとき、天上の支配者であるアマテラス大神は、地上に降臨されるお孫様のニニギの命に対して、三つの大事な命令を与えられますが、これがいわゆる「三大神勅」といわれるものです。要するに、神様からの三つの命令です。  
それを一つずつ見ておきましょう。  
「吾が児(みこ)、 この宝鏡(たからのかがみ)を視まさんこと、 吾(あれ)を視るがごとくすべし 。ともに床を同じくして、殿(おおとの)を共にして、斎鏡(いわいのかがみ)となすべし。」(『日本書紀』)  
これは、アマテラス大神が、鏡を渡されて、「わが孫よ、この鏡を見るときは、それを私を見ることだと思い、この鏡と、同じところにすんで祭りなさい」とおっしゃったという意味です。  
「吾(あ)が高天原にきこしめす、斎庭(ゆには)の稲穂を以ちて、また吾が児に御(まか)せまつるべし。」(『日本書紀』)  
これは、アマテラス大神が、「私の世界・高天原で食べている神聖な稲穂を、私の孫である、あなたに授けよう」とおっしゃったという意味です。  
「葦原千五百秋瑞穂(あしはらのちいほあきのみずほ)の国は、これ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(つち)なり。よろしくなむじ皇孫、就(ゆ)きて治(しら)せ。行(さき)くませ。宝祚(あまつひつぎ)の隆えまさむこと、まさに天壌(あめつち)と無窮(きわまりな)けむ。」(『日本書紀』)  
これは、アマテラス大神が、「日本の国は、私の子孫が君主となりつづける国である。さあ、私の孫よ、行って治めなさい。幸いを祈る。天皇の位が栄えつづけることは、天のように、また地のように永遠であるのだから」とおっしゃったと意味で、「天壌無窮の神勅」として有名なものです。  
さて、この「三大神勅」は、何を意味しているのでしょう?  
私なりに解釈してみます。  
最初の「神勅」は、「国民の信仰」を意味しています。しかし、この「信仰」、なんと寛容なものでしょうか。「この鏡を祭りなさい、それだけなのです。理念でも戒律でもなく、「鏡」という物、それを祭りつづければ、それでいいのです。  
このような寛容な「信仰」の基盤があるからこそ、わが国は、古代から現代にいたるまで、全世界の人類が古今東西、苦しみつづけている「宗教戦争」という大変な悲劇を、ほとんど経験することなく、歴史をきざんでこれたように思います。  
その次の「神勅」は「国民の経済」を意味しています。米というものが、きわめて生産性と滋養に富んだもので、穀物の中の王様であるということは、周知のところです。  
最近では遺伝子工学の世界的権威・村上一雄氏が、「世界のあらゆる食品の中でも最も理想的な作物」である、と述べています。日本人は米を主食にすることにより、近代以前の社会では、もっとも効率的に、人口を高く維持することが可能だったわけです。  
最後の「神勅」は「国民の政治」を意味しています。政治には必ず中心点が必要です。それが日本では皇室なのですが、この天皇というご存在の大切さについては、戦後教育では、まったく教えられておりません。  
一言でいえば、天皇は日本の命です。日本を日本たらしめるのは、天皇しかない。  
皇統が絶えれば、何もかもなくなるのです。日本の守るべきものの優先順位をつけるとすれば、何はさておいても皇統であると、私は思っています。 
天照大神、伊勢に鎮まる  
ところで皆さん、そもそも天皇の最も大切なお仕事とは、何か、御存じですか?それは「祈ること」です。  
今も毎日、陛下は人々の幸福を祈ってらっしゃいます。日本民族の祈りの代表者、つまり「祭り主」、それが天皇なのです。ただし、「祈り」といっても、これも唯物思想に染め上げられた現代人には、よく意味がわからないかもしれません。  
私は「祈り」とは、一言でいえば「愛」である、と思っています。天皇は、日々、神と民への愛を示していらっしゃる。そこに天皇の「祈り」の意味がある、と考えたらいいでしょう。  
さて、先の三大神勅のうち、伊勢神宮に直接関係するのは、むろん「宝鏡」の神勅です。同じ家に祭れ、ということでしたから、最初は宮中に祭られていました。  
ところが、第十代の崇神天皇のとき、異変が起こります。疫病が流行し、民族が動揺したのです。  
何か自分の政治に誤りがあり、神がお怒りなのではないか、と考えられた崇神天皇は、「鏡」を皇居の外の一番神聖なところ・笠縫村に移し、最愛の娘・豊鍬入姫命を奉仕者として、お祭りされます。  
豊鍬入姫命のお仕事を受け継がれたのが、倭姫命でときに垂仁天皇のころでした。  
このあと、倭姫命の、鏡を祭る最適の地を探す、長い旅がはじまります。その長い旅は、現在の奈良県から三重県、滋賀県を通り、また三重県へとつづきます。  
その結果、アマテラス大神は、現在の場所に鎮座されます。この時のアマテラス大神の御言葉は、こういうものでした。  
「時に天照大神、倭姫命におしえてのたまはく、  
『この神風の伊勢の国は、すなわち常世(とこよ)の浪の重波(しきなみ)よする国なり。傍国(かたくに)の可怜(うまし)国なり。この国に居らむと欲(おも)ふ』  
とのたまふ。  
故(かれ)大神の教えのまにまに、その祠(やしろ)を伊勢国に立て、より斎宮(いつきのみや)を五十鈴川の上(へ)へ興(た)てたまふ。」(『日本書紀』)  
アマテラス大神は倭姫命に、「この伊勢の国は『常世』(永遠の国)からの波が、しきりに打ち寄せる国であり、大和の側の美しい国である。だから、この国にいたいと思う」とおっしゃったわけです。  
なんとも荘厳で、しかも美しい表現ですね。  
こうして、伊勢神宮がはじまりました。それはいつごろのことなのか、ということについては、田中卓氏の説にもとずいて、「三世紀の後半から四世紀の初頭」としておきましょう。  
以来、千数百年の歳月が流れます。しかし、神宮は原型を保持しつづけ、今でも古代さながらの「祭り」がつづいています。 
永遠の今  
神宮には、それほど古い歴史があるのですが、むろん3〜4世紀のころの神社がそのまま残っているのではありません。現在の社殿は、平成5年に出来たものですから、まだ出来てから、12年の神社にすぎない、ともいえるわけです。  
これは、どういうことか?それには、式年遷宮という、世界史上でも、きわめてユニークな、神殿のリメイク・システムを理解しておかなければなりません。  
そもそも、神宮の建物は、ほぼ弥生時代の倉庫のかたち、そのままです。こういう建物は、2,30年で、古びて朽ち果てる運命にあります。  
むろん、日本には、すでに奈良時代、法隆寺のように一千年以上の耐久年数をもつ建物を建てる、高度な技術がありました。ならば、その高度な技術で、伊勢神宮を建てたらよさそうなものですが、古代人は、わざとそうしなかったのです。  
わざと2,30年で、古びて朽ち果てる建物を、古びたら壊し、まったく同じものを建てる、ということを繰り返してきたわけです。ですから、神宮では、最古の建物が、そのまま最新の建物なのです。  
「永遠の今」と言いますか・・・・・・。千年の長い時間の流れも、神宮においては、まるで昨日のことのようです。このシステムには、古代人の、なみなみならぬ知恵と、神道の信仰の奥深い姿が象徴的にあらわされています。  
このシステムは7世紀の持統天皇のころにスタートし、戦国時代などに、若干の断絶はありましたが、千三百年の歳月を経ても、なお現在進行形でつづいています。なぜ、それが可能なのでしょうか。  
その理由は、日本の国の本質に由来するものでしょうから、話しだしたらきりがありません。ここでは私の考える、きわめて具体的な理由を、二つだけあげておきたいと思います。 
日毎朝夕大見御饌(ひごとあさゆうのおおみけ)  
一つは、神宮で最も古い祭り、「日毎朝夕大見御饌祭」にまつわるものです。この祭りは、毎日毎日、一日もとぎれることなく、朝と夕の二度、神々にお食事を差し上げる、というもので、これが神宮の祭りの基本です。ちなみに、古代の人は、一日に二度しか食事をしませんでしたから、二度でいいのでしょう。  
「食べること」、これは「生きること」と同じです。その生命の基本が、じつにシンプルに神宮の祭りに表現されています。むろん、人は、一度食べても、すぐに空腹になります。だから、毎日毎日、朝と晩、食べつづける。  
服もそうです。季節ごとに古い物は捨て、あたらしいものに着替えなければならない。だから神宮には、神様の着物をととのえる神社も、二つあります。食べる物、着る者、ときたら、こんどは住むところ、それを二十年に一度、まったく新しく作り替えるのが、式年遷宮です。  
さて、毎日、神様にお食事を差し上げなくてはならないので、休む暇などありません。「日毎朝夕大見御饌祭」をつづけているかぎり、一瞬の断絶も許されないのです。  
ところで皆さん、皆さんが新しいアパートに引っ越すとき、一瞬も途絶えることなく、まったく同じ生活をつづけるためには、どうしたらいいですか?それは、今住んでいるところと、まったく同じ間取りの部屋を用意して、まったく同じか家具を、同じように配置しておけばいいでしょうね。  
伊勢神宮には、その隣に、まったく同じスペースがとってありますが、遷宮のときは、そこに全く同じ建物を建てて、一晩で移動するわけです。これで「日毎朝夕大見御饌祭」と式年遷宮の関係がおわかりでしょう。つまり、毎日、まったく同じ祭りを、一瞬も途絶えることなくつづけるために、このような知恵が生まれたのではないか、と私は思います。それに、隣に同じ建物があるわけですから、同じものをつくることは容易でしょう。  
時は移り、人は変わりますが、二十年に一度ですから、必ず技術は継承される。そのため、弥生時代の建物と、まったく同じ建物を、今も造ることができるわけです。 
伊勢信仰は国民の信仰  
次に、もう一つ、式年遷宮を継続させたものとして、ぜひ言っておきたいことがあります。それは民衆の信仰です。  
そもそも外国なら、古代国家の権力機構が崩壊したら、それとともに、その信仰の中心施設も崩壊するのが、ふつうでしょう。ところが、なぜ日本では朝廷が力を失っても、神宮は滅びていない。  
武士の世が来ても、また武士の世が滅んでも、神宮は滅んでいない。  
それは、なぜか?  
それは神宮への信仰が、政治権力によって強制されたものではなく、また、宗教戦争の結果、勝ち取ったものでもないからです。それは古代から、日本人一人ひとりの、心の中に、直接根付いていたものなのです。  
「私幣禁断」であったにもかかわらず、すでに平安時代の中ごろには、民衆の参拝がはじまっています。古代国家から与えられた神宮の領地が、武士の世になって横取りされても、こんどは武士が寄付しましたから、神宮は困らない。  
鎌倉時代になると、ますます神宮への信仰がさかんになります。南北朝のころになると全国各地に、伊勢信仰をもつ人々の組織・・・・・・「講」というものが広まって、その経済を支えるシステムも確立していきます。  
伊勢神宮の信仰を全国に広めるために歩き回った神職たちを「御師(おんし)」と呼び、そのお札をもらっていた家を「檀家」といいますが、江戸時代の、田沼意次の政治が行われていたころ、安永六(1777)年の数字が残っています。御師は463人、檀家は438万9549軒にのぼります(『大神宮古事類纂』)。  
かりに一軒に五人として計算すると、だいたい二千万人です。当時の人口が、約三千万人ですから、外宮の「檀家」だけで、全国民の七割はおさえていたことになります。  
神宮のお札を「大麻」といいますが、どんな離れ島でも、どんな僻地にでも、「大麻」は配布されていました。御存じの集団参拝、「おかげ参り」という現象がピークのころは、国民の数人に一人が、一度に伊勢へ参拝したといわれています。   
世間では「日本人ほど信仰心のない民族はない」などという人もいますが、私は、そうは思いません。信仰心がないのは、日本史上、大正以後の知識人たちくらいではないでしょうか。  
ある意味では、日本人ほど信仰の厚い民族も少ない、とさえ言えるように思います。  
ただし、その信仰は、いわゆる一神教ではないので、外国人の目からすると、信仰ではないように見えるかもしれませんが・・・ 
永遠なれ、伊勢神宮  
このような民衆の信仰、その具体的な思いが、「御神宝」・・・・・・、要するに遷宮のたびにつくり直される神宮の宝物(神様の御道具)にあらわされています。二千数百人の職人が、何年も、全身全霊をかけて約八百種、二千五百点の宝物をつくるのです。  
いづれも文化財級のものばかりです。いったい職人さんたちは、どんな気持ちでつくっているのか?  
ある宮大工の棟梁は、こう言っています。  
「御神殿は神さんに住んでもらうところやから、何もかもお見通しやで、どんな屋根裏も絶対ごまかしがきかん。しかし、誰が褒めてくれんでも、神様が喜んでくださりゃ、本望ですわ」(藤岡信一談)  
この棟梁は、明らかに神の実在を信じているようですね。  
おそらくそれゆえに、すぐれた職人たちは、その作品に名前を刻もうなどとは思いません。  
“自分が、自分が”という次元の話ではないのです。これは深い信仰がなければ、できることではないでしょう。  
また、式年遷宮の根底には、神道の「祓い」の思想があります。  
一度死に、生まれ変わって、また生きるのです。  
式年遷宮は、その意味で、二十年に一度の国家的な「祓い」であるともいえます。この「もっとも古いものこそ、もっとも新しい」という思想、「復古」イコール「維新」という思想こそ、神道ならではのものでしょう。  
それは、明治維新が王政復古であることと、軌を一つにしています。  
ともあれ、「食べる」「着る」「住む」という、これほど世俗的な行為を、これほど神聖なものとして洗練しあげた文化は他にはないでしょう。  
私は、これは世界に発信できる、また、しなければならない、きわめて高い文化であると考えていますが、その価値を、当の日本人のなかで自覚している人が少ないのは、なんとも残念なことです。  
しかし、現状は、世界に発信するどころではない、かもしれません。現在の神宮には、しだいに“危機”が迫っているのではないか、ということも考えておく必要があるでしょう。  
「神宮大麻」の頒布数の減少が、その“危機”を象徴しています。平成十六年度の「神宮大麻」の頒布数は九00万六四二七体、全国世帯数に占める「神宮大麻」の頒布世帯率は19.15%です(『神社新報』平成17年3月15日)。  
一世帯平均・二人とすれば、この約九00万世帯というのは、約一千八百万ほどで、人口の十八%ほどになります。江戸時代、外宮だけで、人口の七割を押さえていたところからすれば、その比率は、三分の一以下になっている、と推測してよいでしょう。  
これからの人口は、減少していきますから、この減り方は、もしかしたら、まだ「序の口」なのかもしれません。修学旅行で伊勢を訪れる学校の数も激減しており、「神宮」にとっては、すでに厳しい時代が、はじまっています。  
これらのすべての原因も、私には、やはり「戦後教育」にあると思われます。神道、神話、神宮、天皇・・・・・・、それらすべてに対する否定的なメッセージが、日教組教育によって社会全体で拡大再生産されつづけ、もはや国民の思想状況は、取り返しのつかない地点に達しつつあるように思われてなりません。  
いわば「失われた六十年」です。しかし、それを悔やんでばかりいても、しかたがないでしょう。ならば、どうするか?  
私たちが、これから取り戻すしかありません。  
「自分は国のために何ができるのか」。そのことを若く志のある皆さんには、今から深く考えておいてもらいたいと思います。  
『論語』に、「子曰く、人能く道を弘む。道、人を弘むるに非ず」とあります。  
思想があって人間があるのではなく、人間があって思想があるのです。  
いくら立派なことを知っていても、それだけでは意味がありません。  
一人ひとりの人が、勇気をもって正しいことを言い、正しいことを行うこと、そこから「道」が広まる、これはそういう意味だと思います。  
ですから、まずは自分が正しいことを言い、正しいことを行う、そこから、はじめましょう。  
皆さんが、本気で日本を愛しているのならば、その思いは、必ず回りの人に伝わります。  
そういう若者が、一人でも二人でもあらわれること、日本を復活させるには、そこからはじめるしかないと思います。 
 
目覚めよ日本人 神国日本の使命

 

私達は今、明るい未来を想像する事が大変困難な時代を迎えております。日本のみならず、世界の至る所で不安定な状況が次々と起こり、その衝撃が日本にも押し寄せてきています。さらに猟奇殺人など心神喪失した人々が引き起こす痛ましい事件が頻発し、いつ事件に遭遇してもおかしくない状況が日常にあります。戦後の欧米列強から持ち込まれた民主主義・個人主義の蔓延により、家族制度が解体されて核家族化が進み、家族関係を含めた人間関係が次々と崩壊し、日本人の互助の精神が失われた結果、精神的に病んでいる人々が増加してきています。  
本来、社会を安定させる役目を持っているはずの立法、行政、司法に携わる人々や子供たちの未来を育成する教育に携わる教師に求められる高邁な精神の著しい堕落、意識的に極端な反日・左翼的な方向へと誘導するマスコミの報道によって無抵抗に翻弄される国民、改革、グローバルなどの目新しい言葉に誤魔化されて次々と破壊される伝統や慣習、どこを見ても「輝かしい希望に満ちた明日」を想像できる情報はほとんどと言っていいほどありません。  
何故我が国に於いて、これほどまでに社会不安が広がってきたのでしょうか。  
これらの異常事態は、占領統治下で行われた日本の國體と云う観念の破壊と教育勅語や修身教育の廃止による精神性の著しい劣化から起きている現象であると考えます。  
我が国の國體を支えていたのは古(いにしえ)から受け継がれてきた「敬神崇祖」の神まつりですが、戦後の核家族化や新興宗教あるいは唯物論の跋扈により、伝統的な神まつりが次第に失われ、神まつりを通して皇室を中心とした総合的な一大家族制度を形成していた我が国の国柄が破壊されつつあります。  
更には明治政府によって確立された世界でも規範となった「修身教育」については、GHQが国史・地理と並んで軍国主義教育とみなして授業を停止する覚書きを出し、代わりに個人主義・自由主義思想の普及と共に極端な個人主義・利己主義が正当化される教育が為されてきたことで、日本人の高い道徳的な精神性を失わせてきました。 
國體を支えてきた敬神崇祖  
我が国は古来より「神国」あるいは「神州」とされています。  
古事記にも記されているように我が日本国(豊葦原瑞穂国)は造化の神々によって造られた国であり、神々の後裔(子孫)である日の御子即ち歴代天皇によって、万世一系の連綿と続いてきた皇統によって統治されてきた国柄です。  
その天皇によって統治される日本国民も、同じ祖神を持つと云う一体感によって、皇室を中心とした総合的な一大家族制度を形成した国家が我が日本国です。  
つまり天孫降臨によって神々と日本国民は固く結びついており、我が日本国民が「神裔」であると云う認識も生じて来たのです。  
この様に我が国に在っては国の統治者である天皇もその臣民である国民に至るまで、一様に神の子孫であるという観念があることから、子孫としてその祖先の神々を祀ることも古来より当然の如く行われてきました。  
古(いにしえ)から我が国の国風(くにぶり)として「敬神崇祖」、つまり神々を敬い、祖先を崇めることを受け継いできたのです。  
宮中に範を求めるならば、日本国民はこの神祇尊重の心構えを決して忘れてはなりません。  
日本人は古来から各家庭にに於いて神棚をご奉斎して天照大御神をはじめ氏神様を敬い、祖霊舎(みたまや)や仏壇によって祖先を崇め、季節の年中行事を通してそれぞれの祭儀を執り行い、鄭重にお祭りしてきました。  
これは長い間の我が国民の伝統的な精神であります。  
また人間の一生を節々に分け、母親のお腹に生命が宿った時の安産祈願に始まり誕生後の初宮など、幼い頃から敬神崇祖、共存共栄の精神を養うべく様々な人生儀礼を定めて其の都度神社にお参りし、健やかなる成長と感謝の念を氏神様に奉告してきました。  
この敬神崇祖と云う神国の風儀の最大の実践者、厳修者こそが歴代の天皇ご自身であり、天皇のご日常は宮中祭祀を厳修すると云う敬神生活そのものの毎日であらせられるのです。  
わが国は神のすゑなり神祀る 昔の手振り忘るなよゆめ  
これは「神祇」と題してお詠みになられた明治天皇さまの御製です。  
大意は「神々を祀る昔からの手振りを決して忘れてはならないし、神々の祭祀(まつり)は必ず斎み慎んで臨み、またそのことを怠ってはいけない」と言う事です。  
手振りとは、風俗や習慣など外見的に視ることの出来る事柄(外に現れた形式)のことですが、神道に於ける祭祀と云うものはこの「形式」が大事な要素であり、その形式を誤ることなく違(たご)うことなく繰り返すことによって、その祭祀の内側に存在する最も大切な事柄である祭祀の根本的精神が次々に受け継がれ伝えられていくことになるのです。  
皇室をはじめ日本国民が敬神崇祖の念をもって祭祀を欠くことなく務める事によって、過去から連綿と受け継がれてきた伝統を子孫へと間違いなく引き継いでいき、また折々の祭儀を奉仕する事でそこに新たな生命力をも加えて行く事によって、日本民族の益々の繁栄が約束されているのです。  
この敬神崇祖の念がこれまでの日本人の心に絶えることなく存在してきたからこそ、幾多の国難に遭遇した際にもその場を見事に乗り越えてきたのであり、日本の歴史上最大の危機であった大東亜戦争後の我が国が、今日のような経済的に繁栄した社会を迎える事が出来たのです。  
しかしながら昨今、この伝統的美風である我が国の敬神崇祖の観念が消滅しかけ、日本は国家存亡の危機に晒されています。  
このような我が国の根幹に関わる日本人の精神面の未曽有の危機に際して、この国難を乗り越える為には、今一度原点に立ち返る以外に道は残されていません。  
つまり私達日本民族は、民族の祖神である天照大御神が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に発せられた国造りの理想を再認識し、その理想に基づく国造りをするの外ないと云う事です。  
その理想とは、高天原で天照大御神を中心とした神々が協調する世界を地上で再現すると云う事であり、それは即ち、天照大御神と高御産巣日神(たかみむすびのかみ)の二柱の神によって下された「三大神勅」あるいは「五大神勅」を踏襲すると云う事です。  
これらのご神勅は宮中祭祀、神道、また日本国の根幹を為しているものです。  
そして天皇と国民の双方が敬神崇祖を怠るべからず、ということが示されているのが三大神勅の一つである「宝鏡奉斎(ほうきょうほうさい)・同床共殿(どうしょうきょうでん)の神勅」と五大神勅の一つである「神籬磐境(ひもろぎいわさか)の神勅」です。
宝鏡奉斎(ほうきょうほうさい)・同床共殿(どうしょうきょうでん)の神勅  
吾が児、この宝鏡を視まさむこと、(あがみこ、このたからのかがみをみまさんこと)  
まさに吾を視るがごとくすべし。(まさにあれをみるがごとくすべし)  
ともに床を同じくし、殿を共にして、(ともにみゆかをおなじくし、みあらかをひとつにして、)  
斎鏡と為すべし。(いはひのかがみとすべし。)  
意味:御神鏡は天照大神の崇高な御霊代(みたましろ)として皇孫に授けられました。  
天皇は御鏡を斎祭(いつきまつ)り、常に大神と御一体となられることで、天照大神は御鏡と共に今に御座(おわ)されるのです。  
このご神勅は天照大御神をお祀りする天皇による宮中祭祀の在り方をお示しになられています。  
神籬磐境(ひもろぎいわさか)の神勅  
吾は即ち天津神籠及(あれはすなはちあまつひもろぎまた)  
天津磐境を起樹て(あまついはさかをたてて)  
当に吾孫の為に斎い奉らん、(まさにすめみまのみためにいはひまつらむ)  
汝天児屋根、布刀玉命、(いましあめのこやねのみこと【忌部氏氏神】、ふとたまのみこと【中臣氏氏神】)  
宜しく天津神籠をもちて、(よろしくあまつひもろぎをもちて)  
葦原中国に降りて亦吾孫の為に斎い奉れ。(あしはらのなかつくににくだりてまたあれみまのためにいわひまつれ)  
意味:神籠(ひもろぎ)とは神々に降臨していただく依代(よりしろ)であり、磐境(いはさか)とは神域あるいは祭壇のことを云います。  
瓊瓊杵尊が天降られるにあたって天照大神より天津神籬(あまつひもろぎ)・天津磐境(あまついわさか)を賜り、天児屋根命と布刀玉命は葦原中国に天津神籬を起こし樹てて、皇孫が天地共に極まりなく繁栄する様にお祀りしなさいと云うご神勅です。国民は敬神崇祖の神まつりを怠ることの無い様にということをお示しになりました。
この二つのご神勅の通り、天皇は宮中祭祀によって国と国民の為に安寧と弥栄を祈られ、国民は家庭祭祀によって天皇の安寧、国家の安泰を祈るという、天皇と国民が双方で祈り呼応し合う事で、日本と云う国、日本民族は天壌無窮(永遠)に栄え行くと言う事が示されているのです。  
天皇陛下は宮中三殿にて宮中祭祀を執り行っておられます。  
宮中三殿とは賢所(かしこどころ)・皇霊殿(こうれいでん)・神殿(しんでん)の総称です。  
賢所に於いては皇祖天照大御神が、皇霊殿に於いては歴代天皇・皇族の御霊が祀られており、崩御・薨去の一年後に合祀され、神殿に於いては天神地祇(てんじんちぎ・国中の神々)が祀られています。  
この形は国民が一般的にお祭りする三社宮と形を同じくしています。  
三社宮の中心の扉の内には天照皇大神宮(神宮大麻)の御札、 向かって右に産土神(氏神様)の御札、左に崇敬する神社の御札をお祀りします。  
つまり宮中三殿の内の賢所が家庭の三社宮の天照皇大神宮の御札に、皇霊殿が産土神(祖霊)の御札に、神殿が崇敬する神社の御札にそれぞれ呼応しているのです。  
ご神勅にある通り、天皇と国民がそれぞれ呼応して天照大御神、祖先、天神地祇あるいは尊崇する神々をお祀りする事で、日本の国と国民は天壌無窮に栄え行くことをお示しになられているのです。  
ところが近年、政教分離政策の下、宮内庁によって宮中祭祀は次々と簡略化、廃止されていき、国民の側にも敬神崇祖の観念が廃れてきたことから神棚を奉斎する家庭が次々と無くなってきています。  
我が国の国難突破の為には、今一度原点に帰り、敬神崇祖をお示しになられたこの二つのご神勅を踏襲しなければなりません。  
つまり天皇と国民が呼応する国柄であることから、宮中祭祀が次々と簡略化、廃止される状況にあるならば、国民の側が家庭祭祀を復活させ、しっかりと神まつりを行えば、自ずと宮中祭祀も復活の兆しを見せることでありましょうし、天皇陛下がしっかりと宮中祭祀を執り行って下さるならば、国民の神まつりも一層盛んになっていくことでしょう。  
天皇、国民の双方が呼応した神まつりが為されることで、我が国は繁栄し続け、天孫降臨の時の高天原で天照大御神を中心とした神々が協調する世界を地上で再現するという国造りの理想が実現するのです。  
以上のように天照大御神の御神勅によって我が国は神々の後裔(すゑ)である日の御子である天皇を戴き、このご神勅を踏襲し続けるならば、皇室と共に国家が繁栄し続ける事を約束されました。  
このご神勅を守るために、神話時代から国民を代表する歴代天皇によって、二千年以上毎日連綿と行われ続けているのが宮中祭祀です。  
その祭祀を支える精神を国民生活にまで広げ、日本人の生活規範の基盤となったのが「神道」なのです。  
皇居に於いては多くの「祭祀」「祈念祭」が執り行われています。主な年中行事の祭祀だけでも、元日の「四方拝」から始まり、収穫期の「神嘗祭」「新嘗祭」を含め、大晦日の除夜祭まで二十以上はあります。  
それらは、「天照大御神」をはじめとする天神地祇(てんじんちぎ、天津神・国津神)や、歴代の天皇の御霊をお祀りするものですが、その度に必ず祈願されるのが、「皇室と日本国の繁栄、世界の平和」「国家・国民への加護」「神恩・祖先の恩への感謝」の三事です。  
この三つの事柄を、天皇・皇室は、過去から現在に至るまで、平均して「少なくとも二週間ごと」に欠かさず祈願され続けているのです。  
この他にも、中小の同様の祭祀があり、国民の健康と幸福を祈られる祈願を毎日なさっておられます。これは、侍従長が代参という形で、皇居内の「神殿」「賢所」「皇霊殿」(宮中三殿)に毎朝お参りするものです。  
つまり天皇・皇室は、一年を通じて「国家と国民の繁栄と幸せ」を神々に祈られ、休みなく祭祀を行われ、祭儀を欠かしてはおられません。それを、二千年以上に亘って継続してこられました。  
また以前は多くの家庭にも当たり前の事として神棚や祖霊舎・仏壇があり、それぞれが天照大御神をはじめ氏神様などをご奉斎し、祖先をお祀りするなどして、今日のように只神々に御利益を求めるばかりではなく、日々の生活を神々や祖先に感謝すると云う神まつりを行っていました。  
この間断ない天皇と国民による「神々と祖先への祈り」つまり敬神崇祖の神まつりこそが「神道」の根源であり、日本が幾多の国難から守られてきた無形の「力」なのです。 
日本人の精神性を養う修身教育(教育勅語)  
明治維新のさなか、明治天皇さまは「五箇条の御誓文」を発布され、年号を慶応から明治と改め、新生日本の進むべき目標を示されました。  
明治天皇さまは教育に非常にご熱心で、また国家の基盤となるものとのお考えから、明治二十三年十月三十日に「教育勅語」を下賜されました。  
これによって、わが国の道徳の基盤、教育の理念が明確にされましたが、大東亜戦争終結後、日本人の精神的武装解除を目的とする欧米列強は、国会で教育勅語を廃止するよう強行に申し入れ、政府は昭和二十二年三月三十一日の教育基本法の制定をして教育勅語を否定し、続いて昭和二十三年六月十九日には国会(衆参両議院)が、「根本的理念が主権在君並びに神話的国体観に基づいている事実は、基本的人権を損ない、国際信義に対して疑点を残すものとなる」として、「軍人勅諭」、「戊申詔書」、「青年学徒に賜わりたる勅語」とともに、教育勅語の「失効確認・排除の決議案」を可決しました。
教育勅語等排除に関する決議(昭和二十三年六月十九日衆議院決議)  
民主平和国家として世界史的建設途上にあるわが国の現実は、その精神内容において未だ決定的な民主化を確認するを得ないのは遺憾である。これが徹底に最も緊要なことは教育基本法に則り、教育の革新と振興とをはかることにある。しかるに既に過去の文書となっている教育勅語並びに陸海軍軍人に賜わりたる勅諭その他の教育に関する諸詔勅が、今日もなお国民道徳の指導原理としての性格を持続しているかの如く誤解されるのは、従来の行政上の措置が不十分であったがためである。  
思うに、これらの詔勅の根本的理念が主権在君並びに神話的国体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ国際信義に対して疑点を残すもととなる。よって憲法第九十八条の本旨に従い、ここに衆議院は院議を以て、これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する。政府は直ちにこれらの謄本を回収し、排除の措置を完了すべきである。  
右決議する。  
教育勅語等の失効確認に関する決議(昭和二十三年六月十九日参議院決議)  
われらは、さきに日本国憲法の人類普遍の原理に則り、教育基本法を制定して、わが国家及びわが民族を中心とする教育の誤りを徹底的に払拭し、真理と平和とを希求する人間を育成する民主主義的教育理念をおごそかに宣明した。その結果として、教育勅語は、軍人に賜はりたる勅諭、戊申詔書、青少年学徒に賜はりたる勅語その他の諸詔勅とともに、既に廃止せられその効力を失っている。  
しかし教育勅語等が、あるいは従来の如き効力を今日なお保有するかの疑いを懐く者あるをおもんばかり、われらはとくに、それらが既に効力を失っている事実を明確にするとともに、政府をして教育勅語その他の諸詔書の謄本をもれなく回収せしめる。  
われらはここに、教育の真の権威の確立と国民道徳の振興のために、全国民が一致して教育基本法の明示する新教育理念の普及徹底に努力を致すべきことを期する。  
右決議する。
歴史学者のアーノルド・トインビーは古代ローマ帝国の興亡を研究して、明解に次のように言いました。「一つの国が滅びるのは、戦争によってではない。天変地異でもなければ、経済破綻によってでもない。国民の道徳心が失われた時にその国は滅びる」と。  
日本の修身教育の素晴らしさを知っていた欧米列強はこれを狙ったのです。手強い日本を精神的に骨抜きにするために、修身や国史の授業停止を指令し、教育勅語を退けて、教育基本法を制定しました。  
そして戦後、教育勅語を否定した我が国の精神性はまさに危機的状況に陥っているのです。  
教育勅語を否定したという事は勅語にある「父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ、恭倹己れを持し、博愛衆に及ぼし、学を修め、業を習い」という部分をすべて否定したことになります。つまり親不孝になり、兄弟喧嘩をし、夫婦は共に罵り合って離婚し、友達を裏切り、傲慢になり、すべてを自分の為だけに行ない、勉強をせず、仕事に就かず遊ぶ事ばかりして暮らしましょう、と国民に仕向けたのです。その結果が今我々が見ている多くの日本人の姿なのです。  
日本人を精神的に骨抜きにするという占領政策は大成功し、今や愛国心=軍国主義となるまでに成功しました。愛国心を持つことが非常識というのはこの国だけの常識であることを私達は知るべきです。国を愛し、祖先を敬うことは万国共通のものであり、日本人が日本の歴史を誇りに思うことも同様なのです。  
戦争を善悪だけでとらえ、負けた戦争=悪かった戦争として教えてきた現在の戦後教育がもたらしたものの結果は、六十年を経て、確実に社会の表面に表れてきています。日本の美しい神話と世界に類を見ない修身教育を否定した欧米列強と反日・左翼勢力による洗脳教育がもたらしたものは、私達日本人が自分自身や我が国の歴史を誇りに思うことすら罪と思うように刷り込み、日本人が自らの手で日本国を滅亡へと導くことだったのです。  
以上のことから、わが国の現在の惨状は、まさに「敬神崇祖」と「修身教育(教育勅語)」を疎かにした事から生じてきた結果であります。  
この国難を打破し、日本を「神州不滅」、「天壌無窮(永遠)に栄える」国にする為には、「敬神崇祖」と「修身教育(教育勅語)」を復活させることなのです。  
第百十九代、光格天皇【明和八年(一七七一)〜天保十一年(一八四〇)】は次のような御製を詠まれています。  
神様の国に生れて神様の みちがいやなら外(と)つ国へ行け   
日本の伝統文化・民族の根源である天皇が祈りや祭りを通して、この国が成り立ってきたことは言うまでもありません。  
日本独自の惟神(かむながら)・神道の道を歩む事が、日本人の人生そのものと言えます。神道を通して、日本らしさとは何かを発見し、それを心の柱とし、目に見えない恵、神に感謝することができるならば、真に生きる意味を見出せるのではないでしょうか。 
「穢(けが)れを祓ふ」ことこそ惟神の道  
「敬神崇祖」を日常としていた昔は、生活の規範は「かみまつり」にありました。  
その「祭(祀)り」とは「祓ひ」であり、「祓ひ」とは「神道」「惟神(かむながら)の道」です。  
神道の重んずるところは、「常に心身共に清浄を保つ」ことであり、常に穢れを祓う事によって、心身を清浄に保つことを心掛けることです。  
神道は「祓ひに始まり、祓ひに終る」と言います。  
「穢れ」とは、さまざまな物事が不浄・悪い状態であり、生命力が枯れてしまうこと、つまり「死」を表す概念であり、「気枯れ」とも言えます。  
穢れとは「悪」と云う概念ではありませんが忌むべきものです。  
国産み神話で伊弉冉尊(いざなみのみこと)が数多くの神を産んだ後、最後に火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)という火の神を産んだ際に、陰部を火傷しそれが原因で亡くなってしまいます。その後、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は妻恋しさに、黄泉の国まで伊弉冉尊に会いに行きますが、変わり果てた妻の姿を見て、恐ろしさのあまり、黄泉の国より逃げ帰ります。その時、黄泉の国での死の穢れを日向の橘の小門(おど)の阿波岐原(あわぎはら)で禊ぎをして黄泉の国の穢れを祓いました。  
穢れはウィルスのように次々と伝染し、穢れによって禍が生じ、生命力が枯れると云う観点から、最も穢れを遠ざけねばならない天皇には、常日頃から様々な祭儀によって穢れを祓う事を重要視しています。  
毎年六月と十二月の晦日には、天皇、皇后、皇太子の身長を竹の枝で測り祓ひを行う節折(よおり)と云う大祓の祭儀が行われます。  
国民は現在各地の神社で、六月晦日の名越の大祓、十二月晦日の大祓を受ける事ができます。  
日本の伝統文化として今でも受け継がれている様々な行事は、そのほとんどが陰陽道による穢れを祓う祭儀が基になっています。安産祈願に始まり初宮、七五三などの人生儀礼や一月七日の人日の節供、三月三日の上巳の節供などの五節句は、すべて穢れを祓う祭儀です。日本人が常に心身ともに清浄でありたいと本能的に思っているのは、穢れを常に遠ざける宮中祭祀が我が国の伝統文化として民間にまで広まったことに由来していると考えられます。  
宮中にあっては天皇の治世がより長く続く様に絶え間ない宮中祭祀を行うことによって、庶民にあっては生命力に満ちて禍を生じることが無い人生を送れる様に、季節の折々の行事や人生儀礼によって、常に穢れを祓い、清浄を保つことを心掛けてきたのです。 
神政(テオクラシィ)復古  
我が国は大東亜戦争終結後、GHQによる占領政策によって自虐史観を洗脳され、日本は悪い国であり、日本人は悪人であるとされてきました。  
しかしながら我が国を真の姿に戻し、名実ともに神国と為すためには、神政の復古(原点に帰る)以外ありえません。  
神政の復古とは「神代(かみよ)に帰る」ことを指し、つまり天照大御神と高御産巣日神がお示しになられたご神勅に基づいて政(まつりごと)を行っていく事に外なりません。  
先ず為すべき事は、我が国の國體を明徴にすることです。  
そもそも日本と云う国が本来どの様な国であるのかと云うことを明らかにしなければなりません。  
その為には肇国神話を取り戻し、我が国のあるべき政の姿は天皇による神政であることを想起せしめる必要があります。  
近年、我が国の肇国神話について語られる時、往々にして神武天皇の建国神話が肇国神話と混同されていて、肇国神話と建国神話の区別が曖昧になってしまっています。  
つまり神武天皇による建国神話を主にしており、天照大御神が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)にご神勅を授けられて天孫降臨されたと云う肇国神話についてはあまり言及されることがありません。  
しかしながら天照大御神のご神勅と瓊瓊杵尊の天孫降臨こそが我が国の肇国神話なのであり、神武天皇による建国神話はあくまでも我が国建国の御創業なのであります。  
そして肇国神話の根幹は三大神勅あるいは五大神勅です。  
『日本書紀』の天孫降臨の段で、天照大神は瓊瓊杵尊らに三つのご神勅(三大神勅)を授けられました。
一、天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅  
豊葦原の千五百秋の瑞穂の国は、(とよあしはらのちいほあきのみずほのくには)  
是れ吾が子孫の王たるべき地なり。(これあがうみのこのきみたるべきくになり)  
宜しく爾皇孫就きて治せ。(よろしくいましすめみまゆきてしらせ)  
行矣、宝祚の隆へまさむこと(さきくませ、あまつひつぎのさかへまさむこと)  
まさに天壌と窮無かるべし。(まさにあめつちときはまりなかるべし)  
この日本の国は天照大神の直系の御子孫たる代々の天皇が統治されるべき国であり、この皇統を維持することで未来永劫の恒久的な発展することをお示しになっています。  
天皇の御位が万世一系の皇統であることは肇国の大本であり、この天壌無窮の神勅に明示されています。  
二、宝鏡奉斎(ほうきょうほうさい)・同床共殿(どうしょうきょうでん)の神勅  
吾が児、この宝鏡を視まさむこと、(あがみこ、このたからのかがみをみまさんこと)  
まさに吾を視るがごとくすべし。(まさにあれをみるがごとくすべし)  
ともに床を同じくし、殿を共にして、(ともにみゆかをおなじくし、みあらかをひとつにして、)  
斎鏡と為すべし。(いはひのかがみとすべし。)  
御神鏡は天照大神の崇高な御霊代(みたましろ)として皇孫に授けられました。  
天皇は御鏡を斎祭(いつきまつ)り、常に大神と御一体となられることで、天照大神は御鏡と共に今に御座(おわ)されるのです。そしてこれが我が国の敬神崇祖の根本となります。  
三、斎庭(ゆには)の稲穂の神勅  
吾が高天原に所御す斎庭の穂を以て、(あがたかまのはらにきこしめすゆにはのいなほをもて)  
また吾が児に御せまつるべし。(またあがみこにまかせまつるべし)  
高天原の聖地に植えた神聖な稲の種を持たせるので、それを地上にまいて育て、食糧としなさい、日本民族は、米を神々から戴いた食糧として大切に耕作し続けなさい、つまり天皇は国民が、一人の飢える者もないように私心邪心のない大御心をもって神に祈りなさい、とお示しになりました。その精神をもって行われる祭祀が大嘗祭であり、新嘗祭です。  
そして日本人の主食は米であることをお示しになっています。  
さらに臣下の天児屋命・布刀玉命に下した「神籬磐境の神勅」「侍殿防護の神勅」を併せて「五大神勅」といいます。  
四、神籬磐境(ひもろぎいはさか)の神勅  
吾は即ち天津神籠及天津磐境を起樹て(あれはしなはちあまつひもろぎまたあまついはさかをたてて)  
当に吾孫の為に斎い奉らん、(まさにすめみまのためにいはいまつらん)  
汝天児屋根、布刀玉命、(いましあめのこやねのみこと、ふとたまのみこと)  
宜しく天津神籠をもちて、(よろしくあまつひもろぎをもちて)  
葦原中国に降りて亦吾孫の為に斎い奉れ(あしはらのなかつくににくだりてまたあれみまのためにいはいまつれ)  
神籠(ひもろぎ)とは神々に降臨していただく依代(よりしろ)であり、磐境(いはさか)とは神域あるいは祭壇のことを云います。  
瓊瓊杵尊が天降られるにあたって天照大神より天津神籬・天津磐境を賜り、天児屋根と布刀玉命は葦原中国に天津神籬を起こし樹てて、皇孫が天地共に極まりなく繁栄する様にお祭りしなさいと云う神勅です。  
戦前までは多くの家庭に神棚が設けられ、天照大神や氏神様をお祀りし、また祖霊崇拝を行うなどの敬神崇祖が定着していました。敬神崇祖の神祭りを怠ることの無い様にということをお示しになりました。  
五、侍殿防護(じでんぼうご)の神勅  
惟はくは爾二神、(ねがはくはいましふたはしらのかみ)  
亦同じく殿の内に侍ひて、(またおなじくみあらかのうちにさぶらひて)  
善く防ぎ護ることを為せ(よくほせぎまもることをなせ)  
お前たち二神は、瓊瓊杵尊と同じ建物の中にいて侍って、よく御守りの役をせよと云う事であり、つまり国民は皇室への忠誠を怠ってはならないと云う事です。  
我が国の肇国とは、皇祖天照大神が五つの神勅を皇孫瓊瓊杵尊に授けられて、豊葦原の瑞穂の国に降臨された時にあります。また我が国は五大神勅を奉じて天照大御神の皇孫であられる天皇が永遠に統治することこそが、我が国の永遠に変わらない國體であります。
我が国の國體を明徴にしてこそ、自ずと為すべき事が見えてくるのであり、また我が国が進むべき道も必ず拓けていくのであります。そして天照大御神が瓊瓊杵尊に授けられた五大神勅の通りに従うならば、間違いなく天壌無窮に平和な国となり、また世界をも変える原動力となって行くことでしょう。  
しかしながら現在、この国の行く末を担うべき天皇の臣であるはずの政治家は、ポピュリズムに陥り、國體を無視して、己の利益ばかりを追求し、遂には国家の滅亡も招きかねない状況を作り出しています。  
明治天皇さまの聖旨によると、「政治の大本は神祇の崇敬にあり」とありますが、大衆迎合政治家は「政治は経済なり」と言い放ち、金儲けに狂奔しています。  
本来、大臣の使命は、五大神勅が間違いなく行われるべく、天皇を補佐して政務を統轄する役職であるはずです。国民の事を考えるのは天皇の職務であり、大臣や政を司る者はその天皇の補佐に過ぎないのです。  
抑々大臣という職務は世襲で行われるべきものであり、国民の代表であるとか、選挙で選ばれるなどと言うような職務ではありません。皇室に対する尊厳も国家観も持たず、神祇を疎かにし、己の権利を主張するばかりの人間が、GHQによってもたらされた大衆迎合の不完全な民主主義による選挙で選ばれたと言うだけで、天皇を輔弼する大臣と言う職務に就くシステムは我が国柄には全く合わないのです。  
二千年前にアテネの哲人アリストテレスによって、「愚民政治・堕落政治・数による暴力政治」と酷評されていた政治システムである民主主義は、当然我が国に於いても行き詰まりの様相を呈しており、我が国の本来あるべき政の在り方、つまり神政復古の必要に迫られている事は確かです。  
最早欧米列強から学ぶものは何も無く、我が国が一刻も早く神政を復古し、世界に向けて発信すべき秋(とき)が来たのです。その為には戦後レジームからの脱却を図り、五大神勅を踏襲して神代に帰る事で、世界に範を示す国家へと変革する必要があります。  
古来、顧みれば、我が民族は天照大御神より賜りたる五つのご神勅を有するものであり、また万世一系の天皇を戴いている比類なき民族であります。我が皇室は神話にその起源を持ち、その系譜は神々の世界に遡るという諸外国に類例の無い特色を持っています。様々な伝統行事の儀式を通して、我が国の歴史、伝統、文化の連続性を実感し、同じ日本人としての一体感を育んできました。また歴代天皇は、国安かれ、民安かれと国民の安寧と世界平和を願い、常に神々に深い祈りを捧げてこられました。  
日本の使命は有史以来変わる事なく、天皇を中心とした神政政治のもと、神と人とがともに歩む「神人合一」の顕現であり、つまりこの神人合一の世界を地球上に示すことで、世界人類の幸運を司ると言うことなのです。 
 
日本は天皇を中心とした神の国である

 

日本は神国か  
我々は「国家が」という主語に対して極端に敏感だ。国家の意思によって発動される物事に対して、意味がわからなくなるほど拒絶反応を示す。例えば「国家による強制」という言葉はどうであろうか。諸外国のなかには、国家による強制連行、つまり徴兵制が当たり前の国家は世界にいくつもある。国家による強制に対して嫌悪感を抱き、それを拒否するとすれば極端な話し赤信号による停止も拒否しなければならない。そして納税を拒否しつづけたりすると、犯罪者にだってなってしまうのだ。国家による強制は当たり前であり、反撥するべきことではない。ただ、その内容が理不尽なときは改めて、理論的に反駁するべきなのであって、とりあえず「国家の強制」という言葉に惑わされて反撥心を抱くのはまちがったことなのである。ましてや、聞き慣れたことのない「神国日本」という単語を聞けば、その反発心は大きいであろう。しかし、その反発心に根拠は何もなく、日本は神国であり、納得できないということは、なんらかの作為的な悪意をもつ教育をうけてきたからなのである。  
天皇は現人神である  
「天皇は神では無い」という一番の理由として。「天皇は人間ではないか」というものがある。しかし、そういう事を言う人に限って、大學受験の時に湯島天神に合格祈願を祈りにいっていたりする。湯島天神の祭神は学神とされ、大宰府に左遷されて憤死したとされる、かの有名な菅原道真であり、彼は誰がなんといおうと人間である。果たして人間に祈って効くとでも思っているのだろうか。菅原道真は神様で天皇はダメ。こんな論理は通用しないのである。  
若者の町で有名な原宿には、日露戦争中における日本海海戦にて劇的な勝利を納めた東郷平八郎を軍神としてまつる「東郷神社」がある。若者の町だけあってか、そこには多くの若者が様々な「勝利」を願って軍神のもとを訪れる。「××大学に受かりたい!」なんて絵馬をみつけると、思えば合格祈願も恋愛成就もすべて「勝利」で片付けられるだなんて、なんともオールマイティな神様にされたものだと感じるが、そんな軍神を信じ頼って祈願をするのも、よくよく考えれば日本人としてなんら不思議の無い当然の行為であって、そこに「軍神に祈るだなんて馬鹿だよ! 東郷は人間なんだ!」と異論を唱える若者の姿は皆無である。しかし、どうも「天皇は神だ」というとやっぱり違和感を覚えて反論してくる日本人が大変多い。  
我が国の方針においては、偉大な功績のある人間は死後「神」になれるのだ。日露戦争の勝利の要となった旅順要塞攻略の指揮官、乃木希典。彼は明治天皇の崩御後に腹を十字に割腹しており、伝説的な死を遂げ人々に大いなる感動を与えて乃木神社の御祭神となった。既に紹介したもう片方の英雄である東郷平八郎将軍は帝政ロシアのバルチック艦隊を日本海にて撃滅させ、これまた日本を勝利に導いた。彼は軍人退役後、普通の図書館の館長としてその人生を終えたが、やはり死後に乃木大将同様に神社が建立され、東郷神社の御祭神となった。また、海水浴場で有名な江ノ島には同じく日露戦争の名将であり、第4代目台湾総督の児玉源太郎を神とした神社が存在し、その児玉神社は台湾人民から集まった募金で建立され、台湾統治の功績を慕われて彼はそこの神社の祭神となった。国士舘大学の近くには尊皇攘夷思想のもと、安政の大獄で亡くなった吉田松陰先生の神社もある。「人間は神であってはいけない」というコンプレックスは、戦後に進駐してきた一神教信徒による精神の押し付けから発生したものであり、歪曲された自国文化を破壊しかねない恐ろしくまちがった認識であるのは最早明白なことではないだろうか。  
そして、東郷神社から、ほんの歩いて10分という距離に明治大帝を神とした大規模な神社がそこに何十年も前から存在し、なおかつ毎年60万人以上の人達が訪れ、それぞれの祈りを明治大帝に捧げているというのにである。社会民主党という革新系の党首ですら、年のはじめにお参りする伊勢神宮も、三種の神器の「八咫鏡」が御神体の第15代天皇の応神天皇をまつるとされる神社である。このように、天皇が神であるかどうかなどという論議がはじまる以前の問題で、すでに多くの日本人を歴史の中の天皇を神と認め、それを崇拝しているのだ。アメリカ占領軍GHQは「現人神」だった昭和天皇に人間宣言をさせて、「人間」に降格させることはできても、明治天皇に同様の「人間宣言」をさせることはできなかったのだ。  
そういった点を踏まえて考え、天皇は現人神である。別に生きてる人間が神になることはおかしいことでもなんでもない。全世界に人々にその神格性を認められ、神々しさを保ちつつ世界人民の信仰の対象となっているイエスキリストも、ゾンビのごとく復活したりといささか人間離れしている一面もあるがやはり元は「人間」であり、それに神格性を見出して教徒たちは信仰している。シッタルダの名で王族として生まれた後の仏陀も、やはり同様に人間である。最初の天皇とされる神武天皇は存在自体に議論の余地が分かれるが、それなら処女から生まれるキリストも同レベルである。我々は諸外国の宗教概念を我々は理解しているのに対して、何故建国神話の神々の血を引き継ぐと共に、天照大神の末裔とされる天皇に神格性を見出す認識を持った人物がいると、それを敵視したり異常者扱いしたりするのか。それは、天皇を神と思えない無知な頭が、そうさせているのである。  
日本は神国である  
平成12年の初夏に森内閣総理大臣が神道連盟にて発言した「日本は天皇を中心とした神の国」というとても有名なものがある。例によってマスコミ各社は騒ぎ立てわけであるが、これもひとえに知識が無いのと、洗脳的の成果でもあろう。これに対して「近代国家においてそんなはずはない!!」とニュース番組で断乎と否定していたあるテレビ局は、そのニュース番組が終わった翌日の旅番組において、ギリシャを「オリュンポスの神々の国」の文句で紹介していた。ひきつけを起こしそうなくらいに自分は笑ってしまったのだが、実際のところギリシャはよくて日本はダメというあまりにもデカ過ぎる矛盾を平然とやってしまっていたりするのが現実だ。  
ギリシャ神話の12主神が宿るといわれるギリシャ北東部にそびえるOlympos山。そこにはゼウスを筆頭にアテナ・ポセイドン・アルテミス・アポロン等々聞き覚えの有る名前の十二の神々達が宿るといわれる。だからこそ、ギリシャは「神々の国」と表記できるのであって、単純に省略すれば「神の国」なのである。他にも欧州にはケルト神話・北欧神話など、神話とそして大神オーディンなどの神々の存在が言い伝えられる地域は数多く有る。外国を神国と呼称することはできても、自国を自ら神国と呼称することのできないこのヒステリーは、「洗脳」以外になんと表現できようか。  
確かに日本の神国というのは鎌倉時代の二回の蒙古襲来の時に、二回とも奇跡的ともいえる暴風雨で撃退できたところと、一回目襲来時の「台風がくるはずのない季節」にも暴風雨がきた偶然から「神国」といわれているところもあるが、神話のうんぬんで神国が決定されるのならば、日本も立派な神話をもっていることを忘れてはならない。今の天皇の祖先、すなわち皇祖とされる日本神話の神々によってこの列島が形成されたという神話は、日本人なら誰もが認知しておかなければならない物語なのだ。最も、今の例え総トップレベルの学生でも、大抵「三韓征討」は知らない。何故ならば、現在の日本の歴史は26代目の継体天皇が突然登場するところからどの教科書も始まっており、日本神話どころか神功皇后の存在さえ知る余地がないのだ。こういった欠陥教育が、根拠のない反発の温床となっているのだ。 
日本は天皇を中心としているか  
次に「天皇を中心としているか?」という部分の問題があるが、行政的な観点からみれば、これを「問題」と思う心こそが大きな問題であり、仮に中学2年生以下のまだ公民科目を学習したことのない少年少女達がそれを問題と思う発言ならば仕方の無いことでは有るが、すでに学習を終えた立場の人間がそう思うということは、遺憾を通り越して今まで一体なにを学んで生きてきたのかと憤慨する領域にまで到達してしまう。  
現在、日本国において「国家元首」はまだ議論の余地のある議題で未定の部分ではあるが、誰が一番偉いかなんていうことは、憲法を見れば一目瞭然である。主権の有る国民達の意思によって選出された国会議員によって選ばれた内閣総理大臣を任命するのは天皇の立場なのだ。勘違いしていけないのは「中心」と「主権」を混同した認識で混ぜてはいけないということだ。例えばアメリカ合衆国は、国民主権であり大統領中心の政治である。日本国内ではそこら辺はまだごちゃついてはいるが、諸外国の視点に立てば天皇は国家元首であり、天皇は日本の中心として位置していることは明白なのである。  
森内閣総理大臣が就任したとき、日本の新聞各紙は森喜朗総理の顔写真のアップをトップ面で使用したが、米国主流紙ワシントン・ポストの使用した写真は違っていた。森総理が天皇陛下の前でお辞宜をし、直立不動にて任命の勅を受けている写真を掲載していたのであった。写真を見れば、誰が一番偉いかなんて誰にでもわかる構図となっている。  
また諸外国への認識といえば、パスポートのこともおなじである。ご存知の方も多いかと思うが、パスポートの表紙に金色にて印刷されている菊花門こそ、天皇家の紋章である。日本国民が諸外国に旅立つとき、本人達に自覚はないにしても、「天皇の国からきましたよ」とアピールして赴く外国の民に納得してもらい、入国を許可されるのである。  
また、憲法表記にも大きな矛盾が存在する。憲法には「内閣総理大臣」と大きく書かれている。「大臣」である。君主の無い状態であれば、当然のことながら臣が存在するわけがない。米国は君主が存在しないので、「長官」であり、それらを統率する「統領」が存在する。立憲君主国家であるタイ王国やイギリス王国にはやはり「大臣」が存在する。変な話である。民のことを国民と表記しているくせして、首相は総理大臣である。普通、臣において一番偉いものが大臣となるのに、我が国においては臣民は存在しなく、一定の地位についた途端に臣となるのか。我々は果たして「国の民」なのだろうか? それとも、本来「大臣」は存在してはいけないのか? 日本は天皇国であるという事を証明するのは、憲法を見るのが一番だ。日本国憲法は。民定憲法ではなく欽定憲法であるという所にも注目されたい。「発布セシメタル」とあるが、では発布するのは一体誰なのか? 論点はそこではないだろうか。 
 
日本を神国という意味

 

岩手県神社庁参事の高野司氏の新聞(5/26夕刊)に掲載された記事を紹介します。  
森総理大臣が15日の神政連国会議員懇談会の会合で「日本は天皇を中心にした神の国」と、挨拶の中の一部で話した。連日、マスコミは報じているが、一体批判している側は、この言葉の意味を知った上でのことであろうか。単に戦前イコール悪という史観による拒絶反応ではないだろうか。  
神国という言葉が古典に出てくる初めは、神功皇后紀で新羅王の言葉として「東に神国あり、日本という」とある。この神国とは、不思議な国というような意味で使われたが、これは外国人が我が国を表現したものである。  
日本人自身が自国のことを神国と言ったのは、推古憲法(聖徳太子十七条憲法)で「我が国は神国にして仏の本の神あり」。次いで二百七十年後の「三代実録」の貞観八年の條に「日本朝は、いわゆる神明の国なり」とある。  
また源義経の「腰越状」にも「我が国は神国なり」と見え、平安・鎌倉の不安定な時において神国という文字が様々な記録に残っている。これは神の助けたもう国という意味で使っている。さらに今から六百年前、北畠親房は「神皇正統記」で「大日本は神国なり。天祖始めて基を開き」と説いている。これは天照大神をはじめとして、そのご子孫がおられる国であるから、神国であるのだという意味に用いている。  
このように、時代によっていろいろの意味で使われているが、日本最初の歴史書である「古事記」や「日本書紀」の古典に出てくるように日本は神のつくった国である、というのが根本ではあるまいか。  
人間ではない、宇宙の力によって、その法則のまにまに生成された。国土、人々、一木一草。その力、働きを目に見えないものとして「神」と表現したのであろう。  
戦前を上代までさかのぼって先祖を一切否定し、自分の先祖は下等であった、他人に迷惑をかける悪人であったとする歴史観を有するならいざ知らず、自国に誇りを持ち、名誉ある国際社会における地位を目指す国であるなら、森総理の発言は、当然すぎるほど当然で批判される筋合いのものではないと思う。  
まして、その発言を取り消せば、国際社会におけるわが国の自己存在を否定し、アイデンティティーを失う。  
ここで思わなければならないのは憲法観である。”ポツダム宣言執行法”とも称される現憲法は、人類共通の理想を高らかに前文にうたい上げ、平和で民主的な社会をつくり上げるのだという。スターリンは言った「綱領とは、まだ達成できないもの、将来獲得し闘い取らなければならないことについて述べるもの。憲法とは、既にあるもの、現在獲得され、闘い取られているものについて、述べるのだ」と。  
この立場に立つ限り憲法の精神に反するのであろう。しかし、二千年のわが国の歴史と文化と伝統は、すべてなかったものとして地上世界から抹殺できるのであろうか。終戦によって今の日本人は空から降ってきたか、人工的につくられたと、それが日本の始まりである、と極論すれば良いのであろうか。成文憲法主義に対する挑戦であろう。総選挙も近い、大いに議論すべきである。 
森首相挨拶全文  
( 平成12年5月15日 神道政治連盟国会議員懇談会 / 結成三十周年記念祝賀会 )  
神道政治連盟国会議員懇談会の三十年ということで、おそらく話があったんだろうと思いますが、この綿貫先生は、綿貫先生はまさしく神の子でありますから、しかも、きわめて位の高い神官でありますから、綿貫さんと私たちは同期生、同じ昭和四十四年の暮れに当選をした。綿貫先生はその纏め役をされておるわけでありますけれども、同じ同期には、当時二十七歳であった小沢一郎さん、その次に若かったのは私、その次に若かったのは私より二つ上の羽田孜さんでした。その次は大阪の中山正暉さん、梶山静六さんもおられましたし、江藤隆美さん、松永光さん、浜田幸一さんと多士済済、いろいろな方がおられた。本当に小沢さんをはじめとして、世間をお騒がせするものが私も含めて、たくさんおったのが、昭和四十四年組でございまして、その中で私どもが、綿貫さんの指導を仰ぎながら、神様を大事にしようという、最も大事なことであり、世の中忘れておるではないかということで、いわゆる神社本庁の神道政治連盟、国会義員懇談会を設立したわけでございますから、まさに私達が中心になって設立し、この活動をさせて戴いたものと自負しておるわけでございます。  
村上幹事長その他多大なる御努力のもと、「昭和の日」などの制定を致しましたり、今の天皇のご在位のお祝いを致しましたり、陛下御即位五十年、六十年のお祝いを致しましたり、ま、ややもすると政府側、いま私は政府側におるわけでございますが、若干及び腰になることをしっかりと前面に出して、日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知をして戴く、その思いでですね、私達が活動して三十年になったわけでございます。比較的私達の同期というのはしぶとくて、結構国会に残っておりますのは、神様を大事にしているから、ちゃんと当選させてもらえるんだなあと思っているわけでございます。  
とりわけ、今日は梅原先生もいらしておりますが、やはり私は、有難いことに「森」という苗字を戴いておりまして、いまや日本だけでなく、世界中が環境の問題を語るには「森」を大事にしなくてはいけないでしょう。ということになるわけで、小渕さんまで私を大事にして下さったんではないかと思うぐらい、今の立場は本当に、小渕さんの残された仕事、思いをですね、しっかりと私が実行できるように努力せねばならぬ立場にあるわけです。それには、我々の子どもの社会から考えてみますと、やはり鎮守の森というものがあって、お宮を中心とした地域社会というものを構成していきたい。このように思うわけです。  
私が今、小渕総理の後を受けて、こういう立場になって、教育改革をすすめようという教育改革国民会議というものをこうして致しておりますが、少年犯罪がこうしておる状況にアピールをしようと、テーマを造ったわけですが、はっきりいって役所側で作ったもので、みんな大変ご批判がでました。まるで文部省が各教育委員会に通達した文書だったんですが、審議会そのものに対しては文部省の私的諮問機関なので、私がそのものに口を出してはいかん立場なんです。たしかに難しい立場で難しいことなんだけど、要は私は、人の命というものは私はお父さん、お母さんから戴いたもの、もっと端的にいえば、神様から戴いたもの、神様から戴いた命はまず自分の命として大切にしなければならないし、人様の命もあやめてはいけない。そのことがまずもって基本にないといけない。その基本のことが、何故子ども達が理解していないんだろうか。いや子どもたちに教えていない親達、学校、社会の方が悪いんだといえば、私はその通りだと思う。  
しかし、昨日沖縄に参りまして、四十七都道府県から子ども達が集まりまして、小中学校の生徒さんが集まるサミットというものをやりまして、そして七月に集まるサミットに提言をしてくれた。その提言を私が戴いたわけでございます。その文章を見ていますと、自然環境を大事にしなければならないとか、そして地球、とかいろいろ書いてあるわけですが、どこにも命を大事にしろとは書いていない。  
ちょうど不思議なことで、その式典に出ようとした時にですね、小渕首相の訃報が入ったわけでございます。沖縄の私のもとに入ったわけでございます。もう胸がいっぱいになりました。もう最後の閉会式のセレモニーでしたから、よっぽどその話をしようかと思いました。しかし、みんな喜んでいやー終ったぞ、という式典でしたから、私は申し上げなかったんです。  
申し上げなかったけれども、みんな自然を大事にしよう、水を大事にしよう、とっても良いことだと思います。思いますが、地球社会、共生の社会というなら、人の命というのは、どこからきたのか考えよう、この人間の体というものほど、神秘的なものはない、これはやはり神様から戴いたものということしかない、みんなでそう信じようじゃないか。神様であれ、仏様であれ、天照大神であれ、神武天皇であれ、親鸞聖人であれ、日蓮さんであれ、誰でもいい、宗教というのは自分の心に宿る文化なんですから、そのことをもっとみんな大事にしようよということをもっとなんで教育現場でいわないのかな、信教の自由だから触れてはならんのかな、そうじゃない信教の自由だから、どの信ずる神、仏も大事にしようということを、学校の現場でも、家庭でも、社会でもいわなければならないよということをもっと、私は、もっともっと、日本の国のこの精神論からいえば一番大事なことではないかとこう思うんです。  
私はあまり信心深い方ではないんですがそれでも、朝は、必ず、神棚に水をあげて、そして出て参ります。家にいる限りは。そうすると私の三歳になりましたが、孫が、一歳半から、必ず、一緒にならんでお参りしてくれるんです。今朝も、孫が私のことを先生先生といってくれるんですが、幼稚園に行く前にタッタタと私の寝室にきて、私は、昨日小渕さんのこともあって、大変つかれておったんですが、それでも、孫が起こしにきまして「せんせい」というから、「どうしたの?」というと、「お参りしよう、神様に」というんです。  
これは寝てるときではないなと思って、神棚にお参りした。この子が将来どうなるかは分かりませんが、日曜日には、教会に行っているとのことですので・・・。神棚にお参りしたり、教会に行ったり、いずれ石川県に行けば、また仏壇にお参りするんだろうと思いますが、要はお参りしようということを、小さな子どもが、お祖父さんがやることによって、覚えてくれる、私は息子や嫁にいうんです。「お前ら一番悪いじやないか、中間は何にもしない。お前達が何にもしないから、おじいちゃんがやる。そのことによって、ちゃんと孫ができるようになる。」一番大事な家庭のこと、家庭の基本のこと、地域社会のこと、やはり神社を中心にして、地域社会っていうのは栄えて行くんだよということを、みんなでもういっぺん、みんなで、もういっぺん、そんなに難しい話じゃない、であって、そのことを勇気をもってやることが、二十一世紀がまた輝ける時代になるのではないかなということを私は思うんです。こうして全国の皆さん方がお越しの前で、私みたいなこんな余計なことを申すまでもないんですが、立場上、こうしてお話をさせて戴いておるんですが、多くの皆さんに影響力をもたらしてくれる方ばかりでありますので、皆さん方で勇気をもって今の子ども達の社会にもっと神様とか仏様とかということを、そうしたことをしっかりですね、体で覚えてゆく、そうした地域社会を作り出す、秩序ある地域社会を作り出す、そのためにますます皆様方がご活躍をして下さいますよう、またわれわれ国会議員の会も神社本庁のご指導を戴きながら、ほんとに人間の社会に何が一番大事なのかという原点をしっかり皆さんに把握して戴く、そうした政治活動をしていかなければならない。それが私の使命だとこのように思っておるわけでございます。  
たまたま小渕さんが、ご他界になられました。四十三日前にそうしたお立場の中で、私が支え役をしておりました。その中で私はすぐ言ったんです。その小渕さんの跡を戴こうとかそんな事を私は一つも考えておらなかった。私は小渕さんがしっかりやって戴くということを幹事長という立場で、しっかり支えることが私の滅私奉公の立場であっておるんだ、ということを、思っておりましたが、小渕さんがああいうことになって私が後継になった。そのことが、私は天命と思った。天命ということは神様から戴いた、まさに天の配剤ということであろうかと思いますが、小渕先生が亡くなって、その棺が官邸の前を通って、まわりを回って、そして自宅に帰られた、私はそのことを写真で見ましたが、一点にわかに掻き曇って、そしてにわかに官邸の前を通ったときに、雷鳴があって、私はそのとき思った、何かあったかもしれません。まさに小渕さんはこのとき、天に上られたのか、また天も共に嘆いたのか分かりませんが、いずれにしてもこのとき天命が下ったのかなと思いました。総理大臣になりました時、まさにこう申し上げました。まさに天の配剤だろうと。だからこそ、恥ずかしいことをしてはならない、まさにお天とう様が見てござる、神様が見ていらっしゃるんだということを一つだけ、大事にしながら政治があやまちにならないよう、しっかりと頑張っていきたいと思います。  
ご参集の皆さま、こうして三十年をお祝い下さって、また我が国の行く末を、そして世界の将来をみんなで案じながら、また念じながら、ご指導を賜ることをお願い致しまして、少し長くなりましたが、私の御挨拶とし、御礼を申し上げる次第であります。どうも本日は有難うございました。 
 
日本の神は、欧米の神のような人工的な強さがない。神というより、神々、多神教。自然の諸々の現象を言うのであり、欧米的一神教のような強さはない。この意見に大賛成。日本も自然との調和や自然と人間の共存があれば、昔の神々を否定しなければ、17才の少年たちの空虚さは、その多くを埋められるのであろうと思う。日本の神々を誇りにもできるのです。日本の縄文時代から続く神々なのであるから。  
また、マスコミが、一部を取って、全然違う意味にしたようですね。森さんの挨拶には、神様は出てくるが、宗教の大事を訴えているだけ。 
 
「神国日本」天の力の貫通

 

「明治」の日本がそれなりに「近代国家」であり、その政治の根幹をかたちづくった「明治憲法」―「大日本帝国憲法」が「近代国家」のカナメの立法、行政、司法の「三権分立」を明確に定立し、言論の自由、集会、結社の自由なども制限つきのものながら保証され、天皇もこの「近代国家」の法秩序のもとにおかれて、「明治日本=近代国家」説の強力な主張者の司馬遼太郎のある対談のなかでの発言を借りて言えば、「天皇はほとんど象徴的で、国務大臣が輔弼する。そして最終責任は国務大臣にある。天皇は無答責、つまりエンプティの場所に置いてある」(「日本という国家」、「世界」1995年6月号)―というたぐいの言説が最近はやって来ているようだ。  
こうした言説を強力、強引に形成して来たのが、たとえば今発言を引用した司馬だが、問題は「昭和」に入って、軍人たちが政治の中心に躍り出て、よってたかってこの「近代国家」を叩きつぶしたことだ。この叩きつぶしの武器としてあったのが彼らを「三権」の外に置く天皇の「統帥権」だった。「統帥権」をしたい放題に彼らは使い、この「統帥権」の「干犯」が「近代国家」を叩きつぶして日本を破滅に追いやった―というのが、今をはやりの「司馬史観」の基本の歴史認識だ。  
しかし、私がふしぎに思うのは司馬のみならず「明治日本=近代国家」を主張する論者が、天皇にかかわってのかんじんカナメの問題をまったく無視し去っているように見てとれることだ。  
なるほど天皇はこの「近代国家」の法秩序のなかで、政治にはもっぱら「輔弼」によってかかわる「象徴的」存在であったかも知れない。いや、司馬によれば、この象徴性は「明治憲法」が範としたプロシア憲法より徹底していて、日本の天皇、プロシア皇帝はともに政治の「大権」をもっていたが、日本の天皇の「大権」はプロシア皇帝とちがって「実行権」ではなかった。「ドイツのカイゼル―皇帝です―は政治においてきわめて能動的な権力をもっていましたが、明治憲法における日本の天皇は、皇帝(カイゼル)ではなかったのです。日本の伝統のとおり、立法・行政・司法においていかなるアクションもしませんでした(「明治という国家」)。なるほど、これでは天皇はまさに「象徴的」存在だったということになる。  
しかし、「明治憲法」にあっては、「大日本帝国ハ万世一系の天皇之ヲ統治ス」るのだが、その「天皇ハ神聖ニシテ犯スヘカラス」の存在―「現人神(あらひとがみ)」であった。この事実は、奇妙なことに、故意にか無意識にか、司馬たち、「明治日本=近代国家」の主張者たちによって問題にされていない。  
天皇は「神聖ニシテ犯スヘカラス」によって、「現人神」天皇のもつ「統帥権」は神性をおび、「統帥権」自体が「神聖ニシテ犯スヘカラス」ものになる。なるほどドイツ皇帝は日本の天皇にくらべてはるかに強力な権力の行使者としてあったかも知れない。しかし、彼は「現人神」ではなかった。彼も「三権」の外に立つ「統帥権」をもち、まさにその強力な行使によって第一次世界大戦を起こし、自らの破滅をふくめて帝政ドイツの破滅を招くに至ったのだが、その「統帥権」は神性をおびていなかった。  
「昭和」の軍人たちが、武器とした「統帥権」がなぜあのように強大無比のものになったかは、この「統帥権」が神性をおびた事実を抜きにしては論じられないにちがいない。神性をおびていたからこそ、上官は兵士を天皇陛下の名の下に安心してひっぱたくことができたのだ。  
「天皇ハ神聖ニシテ犯スヘカラス」の論理的、倫理的根拠は何か。それは天皇が「天孫降臨」によって天上の高天原(たかまがはら)の神の世界から地上に降りた天照大神の後裔であるからだ。だからこそ、彼は「現人神」であり、彼が「万世一系ノ天皇」として「統治」する日本は「神国」だったのだが、そこから考えれば「明治日本」は「近代国家」であるとともに当然「神国日本」であったことになる。その当然の事実を「明治日本=近代国家」説の主張者たちは故意にか、無意識にか、軽視、あるいは無視し去っているように見える。  
世界のたいていの民族は自らの出目にかかわって「創世信仰」をもつ。ただ日本の歴史のように「宇宙発生神話を含む民族信仰が」「一貫した『歴史的』構成のなかに組み込まれているのは、国際的にみてもきわめて特異である」と丸山真男は指摘する(論文=歴史意識の「古層」)のだが、たしかに神話が歴史とそのままつながり、そのつながりがそのままつづいて、現代に至るという民族、国家のありようはまず例がないにちがいない。  
もちろん、世界には、天をその起源とする民族信仰も多くある。しかし、その起源はそのまま歴史と直結はしない。歴史は天の神の世界から切れたものとしてある。中江兆民は、天皇の権力のおそろしさを無限の力をもつ、「天」に諷して「天の説」を書いたが、まさに天の力は「明治日本=近代国家」を貫通していた。そしてその貫通は「昭和」まで伸びて、「近代国家」を叩きつぶした。  
しかし、そうしたことは完全に過ぎ去った過去の事態なのか。かっての事態は天皇が「象徴的」存在だった、そのはずだった時代において起こったことだが、天の力はまぎれもない「近代国家」としてある、天皇が明確に「象徴」として存在する戦後の日本の歴史を貫通しつづけて来ているのではないか。森首相の「神国日本」の発言はその事実を今強力に示唆しているように見える。 
 
神皇正統記 / 北畠親房

 

北畠親房が『神皇正統記』を書いたのは、常陸の筑波山麓にたつ小田城の板の間でのことだった。同じころ吉田兼好が『徒然草』を書いていた。二人の執筆の姿勢はまことに対極的で、親房は日の本を背負い、兼好は草の庵を背負っていた。14世紀になってしばらくのこと、内乱の時代の只中である。  
しかし、親房と兼好とがまったく逆の世界を見ているのかといえば、そんなことはない。二人とも同じ社会の流れを凝視した。同じ日本人の気の振舞を凝視した。二人とも日本の将来を憂い、二人とも無常をぞんぶんに知っていた。  
ただ、二人には大きな違いもあった。親房は動きまわった人であり、兼好はじっとした人だった。親房は権力の側にいて、兼好は権門に背を向けた。  
親房が『神皇正統記』を筑波くんだりで書いたというのも、このとき親房が小田城を拠点にして、南朝のための東国工作に従事していたからだ。そのころ南朝の勢力はそうとうに逼迫しつつあって、なんとか常陸や下野を傘下におさめようとしていたのだが、北朝は足利氏を軸に高師冬をさしむけて、南朝切り崩しにかかっていた。関東での戦端もしばしば開かれ、親房はその合い間をぬって『正統記』を書いたのである。  
鎌倉南北朝時代の200年(150年+50年)は、日本を知るうえでわれわれが想像する以上に重要な時期になる。まことに異様な構造変化のおこった時代だった。  
また、われわれはついつい「倒幕」(討幕)というと江戸の幕末だけを思ってしまうけれど、実は最初の倒幕運動は鎌倉末期にこそおこったのである。ただ、江戸幕末を勤皇佐幕とか公武合体というのに対して、この鎌倉幕末は「公武水火の世」というふうにいう。  
そもそも源氏将軍の支配力がわずか三代で終わったことが、あまりに早すぎる挫折であった。すぐさま北条執権政治による得宗体制が引き継いで、幕府の体制は強化されるけれど、それで安定したかとおもうまもなく在地名主層が急成長し、社会構造が大きく変質していった。幕府はしきりに御家人を保護しようとしたにもかかわらず、御家人たちは所領を失い、多くが食えなくなりつつあった。  
そこへ二度にわたる元朝モンゴル軍の襲来である。北条幕府はこれを機会に国土防衛政策を打ち出し、本所一円地を中心にそれぞれの兵糧徴収を試みるが、残った有力御家人は得宗政策とは対立しはじめる。  
そういうなかで、突如として立ち上がってきたのが江戸幕末同様の京都の朝廷勢力なのである。後醍醐天皇を中心におこったこと、その最初の事件を正中の変というのだが、それこそが日本史上最初の倒幕運動の烽火であった。  
つづいて元弘の変では、いったん隠岐に流された後醍醐が、名和長年を頼って伯耆の船上山に移ってみると、各地の武将が次々に起ち、そこへ足利尊氏・新田義貞らの有力層がこれに呼応することになった。これはさしずめ公武合体の先駆というものだった。こうなっては鎌倉幕府はあっけなく瓦解する。  
このとき北畠親房は41歳になっていた。  
翌年、後醍醐は建武と改元し、かつての院・摂政・関白をおかない天皇親政政治、いわゆる「建武の中興」を開始する。王政復古の断行である。  
解決しなければならない問題が山積していた。とくに問題は論功行賞と土地にある。後醍醐政府はさっそく記録所、恩賞方、雑訴決断所、武者所などを次々に設置して、明治の維新政府さながらの処置にあたっていく。諸国には国司・守護をパラレルに置き、奥州には義良親王(のちの後村上天皇)と北畠顕家(親房の子)を、関東には成良親王と足利直義をそれぞれ派遣して、東国経営にあたらせもした。  
あとは敗退した北条与党の連中以外の所領の安堵をどうするかということになるのだが、そこでしだいに現実社会との適合を見失った。とくに武家階層の不満を抑えるにはいたらない。後醍醐は理想を求めすぎたのである。準備も足りなかった。岩倉具視や西郷隆盛や大久保利通もいなかった。政治というもの、プラトンのイデアだけではやはり途中から進まなくなっていく。  
新政権は行き詰まる。親房もこの新政権に参加したのだが、すぐに息子の顕家の後見として奥州に派遣されていた。  
この弱体化した新政権を見て、すばやく反旗を翻したのが関東武士の足利尊氏である。1335年(建武2)、後醍醐政権はたった2年あまりで崩壊した。尊氏が最初にしたことは、光明天皇を擁立して京都に凱旋することで、それが1336年の8月だった。  
これを見て後醍醐が怒る。11月には吉野に遁れて、ただちに皇位の正統を主張し、ここに南北朝50年の互いに譲らぬ前代未聞の両統対立の時代が始まった。  
ここまでが、親房の『神皇正統記』という書名に「正統」の二文字が入っている理由の背景になる。  
南北朝の皇統対立がどうしておこったかということについて、少し付け加えておくが、実は天皇の血統については、日本はここまでの歴史ですっきり落ち着いたことはない。  
継体天皇の就任をはじめ、兄弟ながら天智系と天武系の皇統が長らく別々に進行していたことなど、その血脈にはさまざまに複雑な輻湊関係がある。  
それゆえ両統(大覚寺統・持明院統)迭立の気運も、後嵯峨天皇のあとに二人の兄弟皇子が即位したことにすでに始まっていた。兄の後深草天皇(持明院統)が即位し、ついで弟の亀山天皇(大覚寺統)が即位するのだが、亀山が後宇多天皇に譲位したときに、両派の対立が剥き出しになっていた。  
かくていったんは、後宇多(大)→伏見(持)→後伏見(持)→後二条(大)というふうに交替が進んだ。けれども、これは単線的な交替による就任であって、複線的な両立平行交替まではいたっていない。しかもこの交替劇には公家貴族のほとんどが巻き込まれたとはいっても、まだ朝廷公家内の対立である。  
しかしそこに、尊氏の光明擁立の挙動が出た。尊氏は朝廷とも公家ともまったく関係のない武家である。後二条のあとを継いだ後醍醐としては、ここで引き下がるわけにはいかなかったのだ。  
二項対立としての南北朝が勃発し、それが長引くことになったについては、もうひとつ原因がある。  
南北朝の対立は皇統からみれば両統の抗争なのだが、そこには武家勢力における主導権争いとトラタヌ(とらぬタヌキ)の目論みが絡まっていた。当時は乱世がまだ続いているなかで、のちに足利将軍による室町幕府が確立するというような見通しなど、誰も予想するだにできなかった状況である。武家たちも、ただただ必死に有利な情勢につこうとしていただけだった。  
そのため武家勢力の一方が北朝につけば、他方は南朝についた。南北朝が長引いたのは、こうしてつねに南朝側にもくっつく勢力が絶えなかったからでもあった。  
それでやっと親房のことになるが、親房の家は村上源氏の血を引いていた。親房は父の源師重が後宇多天皇出家に従って剃髪し、そのとき北畠の家督を継いだ。15歳である。  
このとき親房は自分が大覚寺統に属することを強く意識する。親房の生涯にはずっと村上源氏と大覚寺統のシンボルを背負っているという矜持があった。  
親房はそうとうの才能の持ち主でもあった。もともと北畠家そのものが「代々和漢の稽古をわざとして」というような家であったけれど、親房はそれだけでなく、学問・和歌・管弦・神仏・宋学のいずれにも通じ、のみならず記憶力が群を抜いていた。冒頭にもふれたように『神皇正統記』は陣中で書かれたもので、きっと参考書などほとんどなかったにちがいないにもかかわらず(簡潔な『皇統記』が一冊あっただけと本人は記している)、それなのに『神皇正統記』には夥しい知識が披瀝されている。記憶力が抜群だったとしかおもえない。  
また親房は行く先々でかなり深い学習をしたふしがある。なかで最も有名なのは、宗良親王を奉じて伊勢に下ってこの方面の工作にあたったときに、外宮の禰宜の度会家行について徹底して度会神道の精髄を学びとったことである。   
こうした親房が『神皇正統記』をなぜ陣中で急いで書いたのかというと、これは東国武士に南朝への参加を説得するための分厚い政治パンフレットだったのだ。かつては後村上天皇のために書いたとされていたのだが、いまでは関東の“童蒙”(かんぜない君主)、すなわち結城親朝の説得のために書いたというのが定説になっている。  
けれどもその効果は出ずに、説得工作は失敗をする。しかもその直後に後醍醐の崩御を聞いた。親房は傷心のまま吉野まで帰ってくることになる。まだ十代の後村上天皇はさすがに親房の労をねぎらい、准大臣として迎えるのだが、親房は静かに黙考して、動かない人になっていた。つまり『神皇正統記』は後醍醐存命中にこそ流布されるべきレジティマシーのための一書パンフレットだったのである。  
それゆえ、あそこまで書き尽くしたものなら、その後も書写され配布されてもよかったのに、親房はいっこうにこの一書に継続的な関心をもたくなっていた。一度手を入れただけである。  
そこであえて言っておきたいのだが、こうした事情を看過して、親房の著作をいたずらに神国思想の吹聴のために議論するのは無理があるということだ。のちのち『神皇正統記』はさかんに大日本帝国の宣伝パンフレットのごとく利用されるのであるが、実は親房にはその用途は東国工作の失敗とともに終わっていたのだった。  
このまま親房の最後まで見取ることにする。正平2年(1347)、楠木正行が河内で高師直の大軍とぶつかった。親房はここでふたたび動いて河内に赴いた。  
けれども翌年には正行は四條畷で戦死、高師直は吉野にまで進んで行宮を焼き払うにいたる。後村上は大和の賀名生(あのう)に退き、親房を頼ったため、ここに親房の果たすべき役割が久々に大きなってきた。  
歴史の舞台では、このあと南朝と北朝は尊氏と直義の対立と宥和の度重なる入れ替わりを反映して、めまぐるしいシーソーゲームを演じていくことになる。親房がそこで動いたことも、もはや有効なものとはならなくなっていた。政治的には過剰になったり臆病にもなっていた。なかで16年ぶりに京都に入ったことが、唯一の親房の宿願とも思想の実践ともいえるもので、このときばかりは胸中さぞかし、なにものかが漲ったのではないかとおもう。  
が、そのあとまもなく親房は死ぬ。それもふたたび退却を余儀なくされての、賀名生あたりでの客死だったと伝えられている。62歳であった。  
さて『神皇正統記』天地人であるが、これは神話的神代から後村上天皇までの事績を天皇中心に順番簡潔に述べたもので、要約すればただそれだけである。  
ぼくなどは「天」では『古事記』の焼き直しかと思い、ついで欽明天皇にはじまる「地」は日本古代史のトレースかと思い、やっと鳥羽天皇からの「人」で、親房の意図が少し見えてきたかというのが、最初の印象だった。しかし、これはまだ20代のころの読書のことで、それ以前に頼山陽の『日本外史』を齧っていたのがかえってアダとなったふしがある。  
あらためて日本について多少とも深く考えるようになってから読み直したときは、まったく別の感想をもちながら読めた。  
いろいろ感想はあるが、第一には上記にも述べたように、北畠親房を歴史に生きた姿ととして捉らえながら読めた。  
第二には、明治以降のナショナリストたちの『神皇正統記』の読み方を知ってのうえでこれを読むと、いかに八紘一宇型にこれを読むのがまちがっているかということが、よく見えた。  
親房は良くも悪くもナショナリズムを把握していないし、それを日本を超えたウルトラナショナリズムにするような思想も、まったく持ち合わせていなかった。近代日本がうっかり北畠親房を読み違えたことは、かなり決定的な過誤であったろう。  
第三に、『神皇正統記』は文化論としても読めた。文章が簡潔であることも手伝っているが、どこか花伝書の趣きがある。むしろ世阿弥がこれを読んで花伝書を綴ったのではないかと思わせた。  
それに関連して気がついたことは、おそらく日本の文化論はときどきこのように、神話を説き起こし、天皇の聖断と失政を問い、神仏の加護に配慮しているうちに、突如として新たな構想に達するのではないかということだ。『正統記』はそのような文脈的な「たどり」のすえに、新たな日本の創発の日を願う「方法の提示」であったようにもおもう。  
第四に、『神皇正統記』はむろん天皇の正統を議論するためのものであったわけではあるが、同時に初めて神道の立場を入れながら天皇を論じた最初の試みでもあったということである。  
親房の皇統正統の証しは三種の神器にあった。それゆえ、神器をもたないものには「偽主」の烙印を押している。しかしそれだけで帝王としての正統が完熟しているかといえば、親房はそうは考えなかった。たとえば後醍醐天皇にはその政治に対して批判した。親房には摂関政治のほうがよかったと考えていた傾向もあったのだ。  
では、そんな親房がわざわざ“神皇正統”を執拗に持ち出したのはなぜだったかといえば、ひとつはすでに述べたように東国の説得のためであったのだが、もうひとつは日本の皇統の奥にひそむ「何がしか」ということを、慌ただしい「公武水火の世」のなかで考えたかった。それが神道とは何かという問題だったのである。  
それを親房は伊勢の度会家行から学んだ度会神道(伊勢神道)に求め、さらに独自に外宮信仰の特色にふれようとした。残念ながら『神皇正統記』ではその神道思想は開花にまではいたっていないけれど、この神道に着目した親房を考えることが、今後は日本の歴史思想の問題を解くうえでのひとつの課題になってくるのではないかとおもわれた。  
第五に、いったいわれわれは『神皇正統記』のような著作を、これからどんなふうに書けばいいのだろうか、もし書き直すとすればどのように書けばいいのかという気分をもちながら読んだことが、いまは思い出される。  
おそらく、いまぼくが述べたような感想を、近現代史に立つわれわれは正直に問題にしてこなかったのではないかとおもう。われわれはどこかで『神皇正統記』の余韻のすべてを隠している者ではあるまいかということだ。 
「北畠」大日本は神国、600年後の神皇批判
天神の森を南にくだり、なにげなく左手を見ると、阪堺電車の踏切のむこう側の道の両脇に、高さ4〜5メートルもあるコンクリートの柱が2本立っていた。右側には、「大日本は」つづいて左側には、「神国なり」と、それぞれ刻まれていた。柱と柱とのあいだには、住宅やマンションなどが建っている。ちょっとミスマッチな石碑である。知らない人が見たら、何代かまえの太った首相で、昨年、リタイアした政治家のセリフと勘違いするかもしれない。読み方も「だいにっぽんはしんこくなり」ではない。  
南北朝時代の南朝方の公家で、後醍醐天皇につかえた北畠親房(ちかふさ)の『神皇正統記』の書き出しの部分である。原文は、  
「大日本者神國也(おほやまとはかみのくになり)」  
である。以下、こうつづく。「天祖(あまつみおや)はじめて基(もとゐ)をひらき、日神(ひのかみ)ながく統(とう)を傅(つたへ)給ふ。我國のみ此事あり」  
親房が南朝方の勢力拡大のために、常陸国の小田城(現・茨城県つくば市)の陣中にあったときに書いた。南朝の正統性(レジティマシー)をうちだすために、神代から南朝の後村上天皇までの各天皇の事跡をまとめた、いわば政治パンフレットである。  
血走った武士たちがこもっている陣中だから、満足な史料もなかったはずである。おそるべき記憶力と強固な信念と筆力の持ち主であった。  
住宅街の正面の石段をのぼったところに、阿部野神社があった。わきに「北畠親房公をしのぶ詩歌の道」という細道があり、親房の和歌がずらりと掲げられていた。  
あたりの地名も「北畠」である。だがこの地は、親房とは直接的には縁がない。縁があるのは、親房の長子、顕家(あきいえ)である。  
顕家は延元3(1338)年5月、この付近で北朝方の高師直(こうのもろなお)軍と奮戦した。劣勢の顕家側はわずか二十余騎となって、討ち死にした。『太平記』は、  
「哀哉(あわれなるかな)、顕家卿ハ武略智謀其(その)家ニアラズトイヘドモ、無雙(ぶそう)ノ勇将ニシテ……」  
とたたえている。21歳の若さであった。もちろん神社には、顕家とともに親房も祀られている。  
境内を入ってすぐ左手に、「北畠顕家公像」が立っていた。烏帽子をかぶり、扇を持った正装姿である。おっとりとした顔つきで、まだ幼さがのこっていた。  
境内を出て、高級そうな住宅街を東にむかった。500メートルほど歩いた、地名はずっと「北畠」である。ようやくあべの筋をはさんで王子町という区画に入った。道路に沿って、かなり年季の入った公団住宅が何棟か建っていた。阪南団地である。老朽化のためか、建て替え工事が行われた。  
団地内の裏手に小さな公園があり、かつて高い台座の上に、高い下駄をはき、よれよれの学生服にマントをかけた若者像が立っていた。右指を前方にキッとさししめしている。顕家像にくらべると、同世代ながらバンカラふうで、表情も鋭く、きつい。  
台座の下には「大阪高等学校のあと」とあり、像をかこむ石製の柵には校歌が楽譜付きで刻まれていた。「五千百五十の若人がうたった」とあるから、卒業生は5150人いたのであろう。  
改修工事にともない、像は阪大豊中キャンパスに移設されたという。  
団地一帯にあった旧制大阪高校は大正期に設立、昭和25(1950)年、大阪大学に包括されて廃止となった。わずか28年間の短い高校だったが、文学や科学、官界、財界などに優秀な人材を多く輩出した。  
ざっとあげれば、中国文学者の竹内好、小説家の藤沢桓夫と開高健、漫才作家の秋田実、ノーベル化学賞の福井謙一、哲学者の野田又夫などなどである。このなかに「日本浪曼派」のリーダーであった保田與重郎(やすだ・よじゅうろう)もいた。  
奈良・桜井出身の保田は戦前、小林秀雄とならんで、多くの若者たちをひきつけた文芸評論家であった。戦後は戦争協力者のレッテルを貼られ、公職を追放された。  
昭和3(1928)年に入学、1年上級の野田は「色白の長身の美少年であつて、はにかみやで口下手」と評しているが、一時はマルクス主義にものめりこんだ。  
日本の古典も好んで読んだ。おそらく休みの日など、阿部野神社あたりまで散歩し、親房の偉業も知っていたはずである。だが昭和14年刊の代表作『後鳥羽院』では、『神皇正統記』のなかにある承久の変についての記載を「いくらか浅薄」と難じた。  
親房は変について、「時のいたらず、天のゆるさぬことはうたがひなし」と書いた。ようするに時期尚早論である。だが保田の論は正反対である。こう書いている。  
「(承久の変の)成敗の結果を云々することは、順逆の至高倫理の批判から除外すべきことである。(略)この事は統治者としての天皇の自覚の当然の発露であり、これは絶対である」  
こういうくだりが、戦地のおもむく当時の学徒たちをひきつけた。保田と同じく、天皇を崇拝した親房も600年後、自らを祀る神社ちかくで、『神皇正統記』を批判する若者が学びはじめるとは思いもよらなかったであろう。 
 
神道の史的価値 / 折口信夫

 

長い旅から戻つて顧ると、随分、色んな人に逢うた。殊に為事の係りあひから、神職の方々の助勢を、煩すことが多かつた。中にはまだ、昔懐しい長袖らしい気持ちを革めぬ向きもあつたが、概して、世間の事情に通暁した人々の数の方が、ど ちらかと言へば沢山であつたのには、実際思ひがけぬ驚きをした。此ならば「神職が世事に疎い。頑冥固陋で困る」など言ひたがる教訓嗜きの人々の、やいた世話以上の効果が生じて居る。而も、生じ過ぎて居たのは、案外であつた。社地の杉山の立ち木何本。此価格何百円乃至何千円。そろばん量りの目をせゝる事を卑しんで、高楊枝で居た手は、新聞の相場表をとりあげる癖がつきかけて居る。所謂「官(クワン)の人(ヒト)」である為には、自分の奉仕する神社の経済状態を知らない様では、実際曠職と言はねばならぬ。 
併しながら此方面の才能ばかりを、神職の人物判定の標準に限りたくはない。又其筋すぢの人たちにしても、其辺の考へは十二分に持つてかゝつて居るはずである。だが、此調子では、やがて神職の事務員化の甚しさを、歎かねばならぬ時が来る。きつと来る。収斂の臣を忌んだのは、一面、教化を度外視する事務員簇出の弊に堪へないからと言はれよう。政治の理想とする所が、今と昔とで変つて来て居るのであるから、思想方面にはなまじひの参与は、ない方がよいかも知れぬ。 
唯、一郷の精神生活を預つて居る神職に、引き宛てゝ考へて見ると、単なる事務員では困るのである。社有財産を殖し、明細な報告書を作る事の外に、氏子信者の数へきれぬ程の魂を托せられて居ると言ふ自覚が、持ち続けられねばならぬ。思へば、神職は割りのわるい為事である。酬いは薄い。而も、求むる所は愈加へられようとして居る。せめて、一代二代前の父や祖父が受けたゞけの尊敬を、郷人から得る事が出来れば、まだしもであるが、其氏子・信者の心持ちの方が、既に変つて了うて居る。田圃路を案内しながら、信仰の今昔を説かれた、ある村のある社官の、寂し笑みには、心の底からの同感を示さないでは居られなかつた。 
其神職諸君に、此上の註文は、心ない業と、気のひける感じもする。けれども、お互に道の為、寂しい一本道を辿り続けて居る身であつて見れば、渋面つくつてゞも此相談は聴き入れて貰はねばならぬ。世間通になる前に、まづ学者となつて頂きたい。父、祖父が、一郷の知識人であつた時代を再現するのである。私ども町方で育つた者は、よく耳にした事である。今度、見えた神主は、どう言ふ人か。かうした問ひに対して、思ふつぼに這入る答へは、いつも「腰の低いお人だ」と言ふのであつた。明治も、二・三十年代以後の氏子は、神職の価値判断の標準を、腰が低いと言ふ処に据ゑて居た。かう言ふ地方も、随分ある。一郷を指導する知識の代りに、氏子も、総代の頤の通りに動く宮守りを望んで居たのである。 
かうした転変のにがりを啜らされて来た神職の方々にとつては、「宮守りから官員へ」のお据ゑ膳は、実際百日旱(ひで)りに虹の橋であつた。われひと共に有頂天になり相な気がする。併し、ぢつと目を据ゑて見廻すと、一向世間は変つて居ない。氏子の気ぐみだつて、旧態を更めたとは見えぬ。いや其どころか、ある点では却つて、悪くなつて来た。世の末々まで見とほして、国家百年の計を立てる人々には、其が案ぜられてならなくなつた。閑却せられて居た神人の力を、借りなければならぬ世になつたと言ふ事に気のついたのは、せめてもの事である。だが、そこに人為のまだこなれきらぬ痕がある。自然にせり上つて来たものでないだけ、どうしても無理が目に立つ。我々は、かうした世間から据ゑられた不自然な膳部に、のんきらしく向ふ事が出来ようか。何時、だしぬけに気まぐれなお膳を撒かれても、うろたへぬだけの用意がいる。其用意を持つて、此潮流に乗つて、年頃の枉屈を伸べるのが、当を得たものではあるまいか。当を得た策に、更に当を得た結果を収めようには、懐手を出して、書物の頁を繰らねばならぬ。 
「神社が一郷生活の中心となる」のは、理想である。だが、中心になり方に問題がある。社殿・社務所・境内を、利用出来るだけ、町村の公共事業に開放する事、放課・休日に於ける小学校の運動場の如くするだけなら、存外つまらない発案である。結婚式場となつて居る例は、最早津々浦々に行き亘つて居る。品評会場・人事相談所・嬰児委托所などには、どうやら使はれ相な気運に向いて来た。世間は飽きつぽい癖に、いろんな善事を後から後からと計画して行く。やつとの事で、そろそろ見え出した成績が、骨折りにつり合はぬ事に気がつくと、一挙にがらりと投げ出して、新手の善事に移つて行く。一等情ないめを見るのは、方便善の一時の榜示杭になつて居たものである。神社及び神職が、さうしたみじめを見る事がなければ、幸福である。 
抑亦、当世の人たちは、神慮を易く見積り過ぎる嫌ひがある。人間社会に善い事ならば、神様も、一も二もなく肩をお袒(ぬ)ぎになる、と勝手ぎめをして居る。信仰の代りに合理の頭で、万事を結着させてゆかうとする為である。信仰の盛んであつた時分程、神の意志を、人間のあて推量できめてかゝる様な事はしなかつた。必神慮を問ふ。我善しと思ふ故に、神も善しと許させ給ふ、とするのは、おしつけわざである。あまりに自分を妄信して、神までも己が思惟の所産ときめるからだ。信仰の上の道徳を、人間の道徳と極めて安易に握手させようとするのである。神々の奇蹟は、信ずる信ぜないはともかくも、神の道徳と人の道徳とを常識一遍で律しようとするのは、神を持たぬ者の自力の所産である。空想である。さうした処から、利用も、方便も生れて来る。二代三代前の神主の方々ならば、恐らく穢れを聞いた耳を祓はれた事であらう。県庁以下村役場の椅子にかゝつて居る人々が、信念なく、理会なく、伝承のない、当世向きの頭から、考へ出した計画に、一体どこまで、権威を感ずる義務があるのであらうか。当座--に適する事を念とした提案に、反省を促すだけの余裕は、是非神職諸君の権利として保留しておかねばならぬ。其には前に言うた信念と学殖とが、どうしても土台になければ、お話にはならない。信念なくして、神人に備つて居るのは、宮守りに過ぎない。事務の才能ばかりを、神職の人物判断の目安に置く事を心配するのは、此為である。府県の社寺係の方々ばかりでなく、大きな処、小さな処で、苟も神事に与るお役人たちに望まねばならぬ。信念堅固な人でこそ、社域を公開してあらゆる施設を試みても、弊害なしに済されよう。これのない人々が、どうして神徳を落さない訣にゆくだらう。 
信念の地盤には、どうしても学殖が横たはつて居なければならぬ。揺ぎ易い信念の氏子にすら気をかねて、諸事遠慮勝ちに、卑屈になつて行くのは、学殖といふ後楯がないからである。神に関した知識の有無は、一つ事をしても、信仰・迷信と岐れて現れる。学術的地盤に立たねばこそ、当季限りの流行風の施設の当否の判断も出来ない。よい加減に神慮を忖度するに止めねばならぬのである。人間は極めて無力なものである。無力なる身ながら、神慮を窺ひ知る道がないでもない。現在信仰の上の形式の本義を掴む事の出来る土台を、築き上げる深い歴史的の理会である。其から又、神の意志に自分を接近させる事の出来る信念である。此境地は、単純な常識や、合理風な態度では達する事が望まれない。 
神道は包括力が強い。どんな新しい、危険性を帯びた思想でも、細部に訂正を施して、易々とゝり込む事の出来る大きな腹袋を持つて居る様に見える。処が世間には間々、其手段を逆に考へて、神道にさうした色々な要素を固有して居た、と主張もし賛成もする人が、段々に殖えて来た。此は平田翁あたりの弁証法の高飛車な態度が、意味を変へて現れて来たのである。さうした人々が、自分の肩書や、後押しの力を負うて、宣伝又宣伝で、どしどしと羽をのして行く。常識から見ての善であれば、皆神道の本質と考へ込む人々の頭に、さうした宣伝が、こだはりなしにとり込まれ、純神道の、古神道の、と連判を押される事になる。元々、常識と断篇の学説とを、空想の汁で捏ね合せた代物を、ちよつと見は善事であり、其宣伝の肩に負うた目を昏ますやうな毫光にうたれて、判断より先に迷信して了ふ。源光ににらみ落されたと言ふ、如来に化けた糞鳶を礼拝して居るのだつたら、どうだらう。 
此道に関しては、均しく一票を投ずる権利を持つた神職で居て、学殖が浅く、信念の動き易い処から、こんな連判のなかま入りをしたとあつては、父祖は固より、第一「神」に対して申し訣が立たない次第である。大本教ばかりも嗤はれまい。なまなかな宗教の形式を採つたが為に、袋叩きの様なめを見た右の宗旨も、皆さん方の居廻りにある合理風な新式神道と、変つた処はあまりないのである。「合理」は竟に知識の遊びである。我々の国の古代と現代との生活を規定する力を許すのは、其が、どの程度まで、歴史的の地盤に立つて居るかと言ふ批判がすんでからの事である。廉々の批判は、部分に拘泥して、全体の相の捉へられないはめに陥れる事がある。学者の迂愚は、常にこゝから出発して居る。我々の望む所は、批判に馴された直観である、糞鳶の来迎を見て、とつさに真偽の判断の出来る直観力の大切さが、今こそ、しみじみと感ぜられる。 
合理といふ語(ことば)が、此頃、好ましい用語例を持つて来た様に思ひます。私は、理窟に合せる、と言ふ若干の不自然を、根本的に持つた語として使つて居る。此にも、今後も其意味のほか、用ゐない考へである。念の為に一言を添へました。
 
天満宮と八幡宮

 

天満宮と八幡宮の違いは、祀っている人物の違である。天満宮は、菅原道真を祀った神社であり、八幡神を祀る神社が八幡宮なのである。 
菅原道真は平安時代の学者である。宇多天皇に重用され、家格以上に出世した。ところが、これを嫌った藤原家の陰謀で九州大宰府へ左遷され、その地で没したのだ。 
菅原道真の死後、平安京では災害・疫病が続いた。殿舎が落雷にあい、藤原家の有力者が死亡した。人々はこの一連の災難を菅原道真のたたりだと解釈した。そこで、たたりを鎮めるために、北野天満宮を建立してした。また、大宰府にも大宰府天満宮が建立された。 
天満宮は災害封じの意味が強かったが、菅原道真が学問に優れていたことから、天満宮は「学問の神様」「受験の神様」となった。 
一方の八幡宮は、稲荷神社に次いで日本で2番目に多い神社である。八幡神は第15代天皇の応神天皇である。 鎌倉幕府になると、源頼朝が八幡神を鶴岡八幡宮へ迎えた。ここから八幡神を武神とする信仰も生まれた。 
宇佐八幡宮・石清水八幡宮・鶴岡八幡宮を「三大八幡」という。日本に2万社程度ある八幡宮の中のビッグ3でもある。 鶴岡八幡宮ではなく、筥崎八幡宮を入れて「三大八幡」とする考えもあるようだ。  

 


  
出典「マルチメディア統合辞典」マイクロソフト社 / 引用を最小限にするための割愛等による文責はすべて当HPにあります。  
出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。 
 
 
現人神

 

「この世に人間の姿で現れた神」を意味する言葉。現御神、現神、明神とも言う(読みは全て「あきつみかみ」)。荒人神とも書く。「人間でありながら、同時に神である」という語義でも用い、主に第二次世界大戦終結まで天皇を指す語として用いられた。後述する「人間宣言」では「現御神」の語を使用している。  
その成立にあたって王政復古の形式をとった明治新政府は、大日本帝国憲法第3条において「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と定めるように、神格化された天皇を国民統合の精神的中核とする国家体制を形成した。  
第二次世界大戦敗戦後、天皇のいわゆる「人間宣言」によってその神格性が「架空のもの」であると念押し的な意味合いで言及されたため、公の場で「現人神」と言う呼称を用いられる事は無くなった。  
ただし、このような詔書解釈に右翼・保守派・宗教者の一部は疑義を抱き、現在でも天皇を「現人神」として神聖視している者もいる。  
また、神道の教義上では現在も天皇は皇祖神と一体化した存在として認識されており、天皇が神社に拝礼することは「参拝」ではなく「親拝」と呼んでいる。  
なお、本来現人神とは必ずしも天皇に限られるものではない。古くは生き神信仰は全国各地にあったと考えられ、たとえば、祭祀を通して神霊と一体となった神官が現人神として敬われることもある。  
民俗学的側面  
古代国家においては、王の権力の由来は神話によって説明されることが多く、結果として「王こそが神である」とする思想が生まれた。特に国家の規模が拡大する上で、王が神聖であれば、それを打ち倒して権力を収奪する行為は、神罰が当たる物として恐れられる事により、また人を使役する場合に於いては、理不尽な命令であっても、やはり逆らえば神罰が下るとしておけば、それに逆らう者が無くなるといった効果が期待できる。  
特にこのような成立は国家という規模の発生に於いては普遍的なものであり、洋の東西を問わず似たような事例には事欠かない。よく知られた所では古代エジプトや古代ギリシア・インカ文明・西欧の王侯や貴族の制度・古代から近代までの日本に到るまで文化的な連続性が無いにもかかわらず、似たような経路による発展が見られる。ただし時代や地域によってその形態には差異があり、王は神の代理として擬似的な神性を帯びるというヨーロッパやイスラーム世界の神権政治や、日本の現人神としての天皇、古代国家における神の子としての王、皇帝などさまざまである。  
これらの文明系では、王は死後に神に戻るとされ、その遺骸は恭しく埋葬され、また肉体は滅んでも精神(霊)は続くと考えられたため大規模な墳墓が残され盛大に祀られる傾向が見られる。  
用例と概念の変遷  
『万葉集』には柿本人麻呂の歌として「皇(すめろぎ)は神にしませば天雲(あまくも)の雷(いかづち)の上に廬(いほり)せすかも」とある。奈良朝頃の詔(宣命)では「現御神と……しろしめす」のように「と」が付いて「しろしめす」を修飾する用例が多い。近代では例えば「国体の本義」(1935年)において次のように用いられている。  
天皇は、皇祖皇宗の御心のまにまに我が国を統治し給ふ現御神であらせられる。この現御神(明神)或は現人神と申し奉るのは、所謂(いわゆる)絶対神とか、全知全能の神とかいふが如き意味の神とは異なり、皇祖皇宗がその神裔であらせられる天皇に現れまし、天皇は皇祖皇宗と御一体であらせられ、永久に臣民・国土の生成発展の本源にましまし、限りなく尊く畏(かしこ)き御方であることを示すのである。  
1941年に文部省が発行した修身の教科書(小学校二年生用)には、「日本ヨイ国、キヨイ国。世界ニ一ツノ神ノ国」「日本ヨイ国、強イ国。世界ニカガヤクエライ国」と書かれ、陸軍中将であった石原莞爾の『戦争史大観』(1941年)には「人類が心から現人神の信仰に悟入したところに、王道文明は初めてその真価を発揮する。」「現人神たる天皇の御存在が世界統一の霊力である。しかも世界人類をしてこの信仰に達せしむる」とある。本書は用紙統制・出版統制が行われている中、公許の物として出版された著作である。  
日本国外での現人神信仰  
代表的な例として、ネパールのカトマンズでは特定の条件下で生まれた幼女を現人神(クマリ)として崇め神輿に乗せて練り歩くが、彼女が初潮を迎えると神としての力を失うと信じられている。1950年代のジャマイカで発祥したラスタファリ運動においてはエチオピア帝国皇帝ハイレ・セラシエ1世をその存命中からジャーと一体の存在とみなし、信仰の対象としている。 
 
現人神の創作者たち / 山本七平

 

山本七平をどのように評価するかという作業が黙過されている。これはよくない。  
山本七平はイザヤ・ベンダサンの筆名で『日本人とユダヤ人』を世に問うて以来、一貫して問題作を書きつづけてきた。その論旨には山本七平学ともいうべきものがあったにもかかわらず、ほとんど軽視されている。在野の研究者だからといって、これはよくない。論旨の内容の検討を含めて議論されるべきだ。  
ぼくは二度ばかり山本さんと会って、これは話しにくい相手だと感じた。屈折しているのではないだろうが、世間や世情というものをほとんど信用していない。そのくせ、山本七平の主題は日本社会のなかで世間や世情がどのように用意され、どのように形成されてきたのかということなのである。  
こういうところが山本七平を議論させにくくさせているのかもしれないが、だからといって放っておかないほうがよい。丸山真男・橋川文三・松本健一とともに、そのホリゾントの中で評価されたほうがいい。  
ここでは『現人神(あらひとがみ)の創作者たち』を採り上げることにした。  
最初は日本通史を試みた『日本人とは何か』や、貞永式目が打ち出した道理の背景を探った『日本的革命の哲学』、最も“山七”らしいともいうべき『空気の研究』などにしようかと思ったのだが、本書のほうがより鮮明に日本人が抱える問題を提出していると思われるので、選んだ。山本の著書のなかでは最も難解で、論旨も不均衡な一書でもあるのだが、あえてそうした。  
本書の意図はいったい尊皇思想はどのように形成され、われわれにどのような影を落としているのかを研究することにある。議論の視点は次の点にある。徳川幕府が開かれたのである。これは一言でいえば戦後社会だった。北条執権政治このかた300年ほど続いた内戦と秀吉の朝鮮征討という無謀な計画の挫折に終止符を打ったという意味での、戦後社会である。  
このとき幕府は藤原惺窩や林羅山らを擁して儒教儒学を政治思想に採り入れようとしたのだが、要約していえば中国思想あるいは中国との“3つの交差”をなんとかして乗り切る必要があった。慕夏主義、水土論、中朝論、だ。いずれも正当性(レジティマシー)とは何かということをめぐっている。  
慕夏主義というのは、日本の歴史や特色がどうだったかなどということと関係なく、ある国にモデルを求めてそれに近づくことを方針とする。  
ある国をそのモデルの体現者とみなすのだ。徳川幕府にとってはそれは中国である。戦後の日本がアメリカに追随しつづけているのも一種の慕夏主義(いわば慕米主義)だ。“その国”というモデルに対して「あこがれ」をもつこと、それが慕夏である。かつては東欧諸国ではソ連が慕夏だった。  
なぜこんな方針を「慕夏主義」などというかというと、金忠善の『慕夏堂文集』に由来する。金忠善は加藤清正の部下で朝鮮征討軍にも加わった武将だが、中国に憧れて、日本は中国になるべきだと確信した。第1段階で朝鮮になり、ついで中国になるべきだと考えた。それを慕夏というのは、中国の理想国を「夏」に求める儒学の習いにしたがったまでのこと、それ以上の意味はない。  
この慕夏主義のために、幕府は林家に儒教や儒学をマスターさせた。林家の任務は中国思想や中国体制を国家の普遍原理であることを強調することにある。  
しかし、慕夏主義を体制ができあがってから実施しようというのには、いささか無理がある。徳川幕府の体制の根幹は、勝手に家康が覇権を継承して武家諸法度や公家諸法度を決めたということにはなくて、天皇に征夷大将軍に任ぜられたということを前提にしている。そこに”筋”がある。  
けれども、その徳川家の出自は三河岡崎の小さな城主にすぎず、それをそのまま普遍原理にしてしまうと、天草四郎も由井正雪も誰だってクーデターをおこして将軍になれることになって、これはまずい。それになにより、中国をモデルにするには日本の天皇を中国の皇帝と比肩させるか、連ねるかしなければならない。そしてそれを正統化しなければならない。  
どうすれば正統化できるかというと、たとえば強引ではあってもたとえば「天皇は中国人のルーツから分家した」というような理屈が通ればよい。  
これは奇怪至極な理屈だが、こういう論議は昔からあった。たとえば五山僧の中厳円月は「神武天皇は呉の太伯の子孫だ」という説をとなえたが容れられず、その書を焼いたと言われる。林家はそのような議論がかつてもあったことを持ち出して、この「天皇正統化」を根拠づけたのである。  
こうして「慕夏主義=慕天皇主義」になるような定式が、幕府としては“見せかけ”でもいいから重要になっていた。林家の儒学はそれをまことしやかにするためのロジックだった。  
一方、日本の水土(風土)には儒教儒学は適用しにくいのではないかというのが、「水土論」である。熊沢蕃山が主唱した。  
蕃山は寛永11年に16歳で備前の池田光政に仕え、はじめは軍学に夢中になっていたのだが、「四書集注」に出会って目からウロコが落ちて、武人よりも日本的儒者となることを選んだ。そして中国儒学(朱子学)では日本の応用は適わないと見た。また、参勤交代などによって幕府が諸藩諸侯に浪費を強要しているバカバカしさを指摘して、士農工商が身分分離するのではなく、一緒になって生産にあたるべきだと考えた。いわば「兵農分離以前の社会」をつくるべきだと言ったのだ。  
これでわかるように、水土論は儒学を利用し、身分社会を堅めようとしている幕府からすると、警戒すべきものとなる。  
ただ、蕃山の晩年に明朝の崩壊と清朝の台頭がおこった。これで中国の将来がまったく読めなくなった。加えてそこに大きな懸念も出てきた。ひとつは中国(清)が日本にまで攻めてこないかという恐れである。元寇の再来の危険だ。これは幸いおこらなかった。鎖国の効用である。  
もうひとつは明朝帝室の滅亡によって、本家の中国にも「正統」がなくなったことをどう解釈すべきかという問題が降ってわいた。これは慕夏主義の対象となる「夏のモデル」が地上から消失したようなもので、面食らわざるをえなかった。ソ連が消滅したので、突然に東欧諸国や社会党・共産党の路線に変更が出てくるようなものなのだが、徳川時代ではそこに新たな理屈が出てきた。  
これをきっかけに登場してくるのが「中朝論」なのである。山鹿素行の『中朝事実』の書名から採っている。  
中朝論は、一言でいえば「日本こそが真の中国になればいいじゃないか」というものだ。  
もはや中国にモデルがないのなら、日本自身をモデルにすればよい。つまり「中華思想」(華夷思想)の軸を日本にしてしまえばいいという考え方だ。これなら日本の天皇は中国皇帝から分かれたとか、古代神話をなんとか解釈しなおして中国皇帝と日本の天皇を比肩させるという変な理屈でなくてもいい、ということになる。  
これはよさそうだった。そのころは林道春の“天皇=中国人説”なども苦肉の策として提案されていたほどだったのだが、日本こそが中華の軸だということになれば、それを幕府がサポートして実現していると見ればよいからだ。  
それには中国発信の国づくりの思想の日本化だけではなく、中国発信の産業や物産の”日本化”も必要になる。そこで幕府はこのあと国産の物産の奨励に走り、これに応えて稲生若水の国産物調査や貝原益軒の『大和本草』がその主要プロジェクトになるのだが、中国の本草学(物産学)のデータに頼らない国内生産のしくみの特徴検出やその増進の組み立てに向かうことになったのである。  
これが「実学」だ(吉宗の政治はここにあった)。とくに物産面や経済施策面では、これこそが幕府が求めていた政策だったと思われた。  
けれども、そのような引き金を引いたもともとの中朝論をちゃんと組み立ててみようとすると、実は奇妙なことがおこるのである。 それは、「中華=日本」だとすると、日本の天皇が“真の皇帝”だということなのだから、もともと中国を中心に広がっていた中華思想の範囲も日本を中心に描きなおさなければならなくなってくるという点にあらわれる。つまり、話は日本列島にとどまらなくなってしまうのだ。  
それでどうなるかというと、日本の歴史的発展が、かつての中華文化圏全体の本来の発展を促進するという考え方をつくらなければならなくなってくる。まことに奇妙な理屈だ。  
しかしながら、これでおよその見当がついただろうが、実はのちのちの「八紘一宇」や「大東亜共栄圏」や「五族協和」の考え方のルーツは、この中朝論の拡張の意図にこそ出来(しゅったい)したというべきなのである。日本が中心になって頑張ればアジアも発展するはずだ、日本にはそのようなアジアの繁栄の責任も権利もあるはずだというような、そういう考え方である。  
もっとも、幕藩体制を固めている時期には、まだそこまでの“構想”は出ていなかった。ともかくも中国軸に頼らない日本軸が設定されるべきだという議論が確立されてきたというだけだった。「中国離れ」はおこったのだが、それは政治面と経済面では、まったく別々に分断されてしまったのだ。  
以上のように、これら慕夏主義・水土論・中朝論という3つの交差が徳川社会の背景で進行していたのである。  
これらのどこかから、あるいはこれらの組み合わせから、きっと尊皇思想があらわれたにちがいない。山本七平の議論はそのように進む。  
当面、徳川幕府としては「幕府に刃向かえなくなること」と「幕府に正統性があること」を同時に成立させてくれるロジックがあれば、それでよかった。まだ黒船は来ていないからである。いや、この時期、危険の惧れはもうひとつあった。個人のほうが反抗をどうするかということだ。実際にはこちらの危惧のほうが頻繁だった。服部半蔵やらお庭番やらの時代劇で周知のとおり、幕府はこの取締りに躍起になる。  
幕府のような強大なパワーにとって、ちっぽけな個人の反抗などがなぜ怖いのか。  
山本七平が適確な説明をしている。「その体制の外にある何かを人が絶対視し、それに基づく倫理的規範を自己の規範とし、それ以外の一切を認めず、その規範を捨てよと言われれば死をもって抵抗し、逆に、その規範が実施できる体制を求めて、それへの変革へと動き出したら危険なはずである」。  
いま、アメリカがイスラム過激派のテロリズムに躍起になっていることからも、この山本の指摘が当を得ているものであったことは合点できるであろう。  
しかも日本では、この死を賭した反抗や叛乱が意外に多いのだ。歴史の多くがこの反抗の意志によって曲折をくりかえして進んできたようなところがあった。たとえば平将門から由井正雪まで、2・26事件から三島由紀夫まで。  
日本にこのような言動が次々にあらわれる原因ははっきりしている。日本は「神国」であるという発想がいつでも持ち出せたからである。実際には神話的記録を別にすれば、日本が神国であったことはない。聖徳太子以降は仏教が鎮護国家のイデオロギーであったのだし、神道だけで日本の王法を説明することも確立しなかった。  
しかしだからこそ、いつでもヴァーチャルな「神国」を持ち出しやすかったのである。それは体制側が一番手をつけにくいカードだったのである。  
ところが、ここに一人の怪僧があらわれて山王一実神道というものを言い出した。家康の師の天海だ。これは、すでに中世以来くすぶっていた山王神道を変形させたものだったが、幕閣のイデオロギーを言い出したところに面倒なところがあった。  
天海は結果としては、家康を“神君”にした。これでとりあえずは事なきをえたのだが(後水尾天皇の紫衣事件などはあったが)、しかしそのぶん、この“神君”を天皇に置き換えたり、また民衆宗教(いまでいう新興宗教)の多くがそうであるのだが、勝手にさまざまな“神君”を持ち出されては困るのだ。のちに出口王仁三郎の大本教が政府によって弾圧されたのは、このせいである。  
考えてみれば妙なことであるけれど、こうして徳川幕府は「神のカード」をあえて温存するかのようにして、しだいに自身の命運がそのカードによって覆るかもしれない自縄自縛のイデオロギーを作り出していたのであった。  
幕府の懸念とうらはらに、新たな一歩を踏み出したのは山崎闇斎だった。  
闇斎は仏教から出発して南村梅軒に始まる「南学」を学んだ。林家の「官学」に対抗する南学は、闇斎のころには谷時中や野中兼山らによって影響力をもっていたが、闇斎はそこから脱自して、のちに崎門派とよばれる独得の学派をなした。これは一言でいえば、儒学に民族主義を入れ、そこにさらに神道を混合するというものだった。  
闇斎が民族主義的儒者であったことは、「豊葦原中ツ国」の中ツ国を中国と読んで「彼も中国、我も中国」としたりするようなところにあらわれている。また闇斎がその儒学精神に神道を混合させたことは、みずから「垂加神道」(すいかしんとう)を提唱したことに如実にあらわれている。闇斎は仏教を出発点にしていながら、仏教を排除して神儒習合ともいうべき地平をつくりだしたのだ。闇斎は天皇をこそ真の正統性をもつ支配者だという考え方をほぼ確立しつつあったのだ。  
闇斎が仏教から神道に乗り換えるにあたって儒学を媒介にしたということは、このあとの神仏観や神仏儒の関係に微妙な影響をもたらしていく。そこで山本七平はさらに踏みこんで、この闇斎の思想こそが明治維新の「廃仏毀釈」の原型イデオロギーだったのではないかとも指摘した。実際にも闇斎の弟子でもあった保科正之は、幕閣の国老(元老)という立場にいながら、たえず仏教をコントロールしつづけたものである。  
闇斎の弟子に佐藤直方(なおかた)と浅見絅斎(けいさい)がいた。直方は師の神道主義に関心を見せない純粋な朱子学派であったが、絅斎は表面的には幕府に反旗をひるがえすようなことをしないものの、その『靖献遺言』において一種の“政治的な神”がありうることを説いた。  
内容から見ると、『靖献遺言』は中国の殉教者的な8人、屈原・諸葛孔明・陶淵明・顔真卿・文天祥・謝枋得・劉因・方孝孺らについての歴史的論評である。書いてあることは中国の志士の話にすぎない。  
が、この1冊こそが幕末の志士のバイブルとなったのである。どうしてか。  
山本はそこに注目して『靖献遺言』を読みこみ、絅斎が中国における“政治的な神”を摘出しながらも、そこに中国にはなかった「現人神」(あらひとがみ)のイメージをすでにつくりだしていたことを突き止めた。  
いったい絅斎は何をしたのだろうか。本当に、現人神の可能性を説いたのか。そうではない。慕夏主義や中朝論や、闇斎の神儒論はそれぞれ正当性(レジティマシー)を求めて議論したものではあったが、絅斎は『靖献遺言』を通して、その原則通りの正統性が実は中国の歴史にはないのではないかということを説き、それがありうるのは日本の天皇家だけであろうことを示唆してみせたのだ。  
では、仮に絅斎の示唆するようなことがありうるとして、なぜこれまでは日本の天皇家による歴史はそのような“正統な日本史”をつくってこなかったのか。それが説明できなければ、絅斎の説はただの空語のままになる。  
で、ここからが重要な“転換”になっていく。  
絅斎は、こう考えたのだ。たしかに日本には天皇による正統な政治はなかったのである。だから、この歴史はどこか大きく誤っていたのだ。だからこそ、この「誤りを糺す」ということが日本のこれからの命運を決することになるのではないか。こういう理屈がここから出てきたわけなのだ。  
これは巧妙な理屈だろうか。そうともいえる。不可解なものだとも見える。  
が、その一方でこれは、「漢倭奴国王」このかた切々と中国をモデルにしてきた日本人が、ついにその軛(くびき)を断って、ここに初めて新たな歴史観を自国に据えようとしているナマの光景が立ち現れているとも見るべきなのだろう。  
むろん事は歴史観に関することなので、ここには精査な検証がなければならない。日本の歴史を中国の歴史に照らして検証し、それによって説明しきれないところは新たな歴史観によって書き直す必要も出てきた。  
この要請に応えたのが、水戸光圀の彰考館による『大日本史』の執筆編集である。明暦3年(1657)に発心し、寛文12年(1672)に彰考館を主宰した。編集長は安積(あさか)澹泊、チーフエディターは栗山潜鋒と三宅観瀾。この顔ぶれで何かが見えるとしたらそうとうなものであるが、安積澹泊はかの明朝帝室から亡命した日本乞師・朱舜水の直接の弟子で、新井白石や室鳩巣の親友だったし、栗山潜鋒は山崎闇斎の孫弟子で、三宅観瀾はまさに浅見絅斎の弟子で、また木下順庵の弟子だった。  
しかも、この顔ぶれこそは「誤りを糺す」ための特別歴史編集チームの精鋭であるとともに、その後の幕末思想と国体思想の決定的なトリガーを引いた「水戸学」のイデオロギーの母型となったのでもあった。  
もっともこの段階では、水戸学とはいえ、これはまだ崎門学総出のスタートだった。  
安積澹泊の記述に特色されることは、ひとつには天皇の政治責任に言及していることである。「天皇、あなたに申し上げたいことがある」という言い方は、ここに端緒していた。  
この視点は、栗山潜鋒の『保建大記』では武家政権の誕生が天皇の「失徳」ではないかというところへ進む。「保建」とは保元と建久をさす。つづく三宅観瀾の『中興鑑言』もまた後醍醐天皇をふくむ天皇批判を徹底して、その「失徳」を諌めた。これでおよその見当がつくだろうが、“天皇を諌める天皇主義者の思想”というものは、この潜鋒と観瀾に先駆していた。  
しかしでは、天皇が徳を積んでいけば、武家政権はふたたび天皇に政権を戻すのか。つまり「大政奉還」は天皇の徳でおこるのかということになる。  
話はここから幕末の尊皇思想の作られ方になっていくので、ここからの話はいっさい省略するが、ここでどうしても注意しておかなければならないのは、このあたりから「ありうべき天皇」という見方が急速に浮上していることだ。  
天皇そのものではない。天皇の歴史でもない。徳川の歴史家たちは、もはや“神君”を将軍にではなく、天皇の明日に期待を移行させていったのである。  
こうして、山本七平は「歴史の誤ちを糺す歴史観」と「ありうべき天皇像を求める歴史観」とが重なって尊皇思想が準備され、そこから現人神の原像が出てきたというふうに、本書を結論づけたようだった。  
「ようだった」と書いたのは、本書は後半になって組み立てが崩れ、江戸の歴史家たちによる赤穂浪士論をめぐったままに閉じられてしまうからである。  
徳川時代の後半、朱子学や儒学の思想は伊藤仁斎と荻生徂徠の登場をもって大きく一新されていく。陽明学の登場もある。また、他方では荷田春滿や賀茂眞淵や本居宣長の登場によって「国学」が深化する。本書はこのような動向にはまったくふれず、あえて江戸前期の「尊皇思想の遺伝子」を探索してみたものになっている。  
このあとをどのように議論していくかといえば、いまのべた徂徠学や陽明学や国学を、以上の「正統性を探ってきた試み」の系譜のなかで捉えなおし、さらに幕末の会沢正志斎らの「国体」の提案とも結びつけて見直さなければならないところであろう。  
山本七平はそこまでの面倒を見なかったのだが、それがいまもって丸山真男と山本七平を両目で議論できるホリゾントを失わさせることになったのである。  
が、ぼくとしては冒頭で書いたように、そこをつなぐ研究が出てこないかぎり、われわれはいまもって何か全身で「日本の問題」を語り尽くした気になれないままになってしまうのではないか、と思うのだ。 
 
現人神と八紘一宇の出現過程

 

明治初期からいきなり天皇神格化がなされていたのではなくて、だんだんと過激(?)になってくる様子が伺える。 
修身・日本史小学校教科書の変化  
第〇段階  
 明治26-27年の歴史教科書は、神話を省いて神武天皇から記述。  
 明治32年頃から、神武天皇の前に「天照大神」「三種の神器」「天孫降臨」が加わる。  
第一段階(明治36年〜)  *教科書国定化が明治37年  
 天皇「神孫」論。  
 君臣「徳義」論。(天皇の徳と臣民の忠義)   
このときから「神武天皇が橿原宮で即位」と記述、元寇を滅ぼしたのは「大風」。  
第二段階(大正10年〜)  
 「家族国家」論が加わる。(天皇は宗家で臣民は分家。天皇は父で臣民は子)   
昭和9年に「神風」と改められる。  
第三段階(昭和14年〜)  
 「現人神」論が加わる。  
 「八紘一宇」論が加わる。(昭和18年に初登場)  
「神の国」は昭和15年に歴史に、16年に修身に登場。昭和15年に北畠親房『神皇正統記』の「わが国は神国」を紹介。昭和15年に冒頭に「天壌無窮の神勅」が掲げられる。 
日本社会の中で「現人神」がでてくる過程  
明治5年 「三条教則」(すなわち「敬神愛国ノ旨ヲ体スヘキ事」「天理人道ヲ明ニスヘキ事」「皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムヘキ事」)に基づき、神職・僧侶が「教導職」として大教院にて国民を教化。  
明治8年頃 造化三神の礼拝拒否で真宗の離脱。(大教院分離運動) 数多くの「三条教則」解説書のうちで、「神孫だから現人神と称し奉る」とする例がいくつか見られる。  
明治14年 大国主神の祭祀を求める出雲派と伊勢派との「祭神論争」により、明治15年に上級神主の布教・葬式禁止。  
明治21年 国家の祝祭日における学校行事を導入。  
明治22年 明治憲法の公布。(明治23年から施行)  
明治23年 教育勅語の発布。  
明治23年 内村鑑三不敬事件  
明治25年 久米邦武糾弾事件(以上二つの事件は学生・教員・神道家・国学者によるもので、国家弾圧ではない。)  
明治26年 「陛下の御真影への最敬礼」「両陛下の万歳奉祝」「教育勅語の奉読」「校長の訓話」「式歌斉唱」という学校行事の基本形式が整う。  
明治30年頃 「家族国家」論が巷に出てくる。  
明治43年 社会主義者・無政府主義者が明治天皇の暗殺を企てたとされる「大逆事件」  
明治45年 井上哲次郎『国民道徳概論』で「天壌無窮の神勅」論  
明治45年 加藤玄智(浄土真宗の信仰をもち東京帝国大学で宗教学を教えていた)が『我が国体思想の本義』で現人神を創始。「代々の天皇陛下は、一方から申しますれば天神の神胤(しんいん)、即ち神の子と申すことが出来ますけれども、亦他方からは、陛下のことを明神(あきつかみ)とも亦現人神とも申し上げてをるのでありまして、神より一段低い神の子ではなくして、神それ自身であるといふことであります」「明らかにバイブルにおける神の位置を日本では天皇陛下が取り給ふて居つた」  
大正2年 上杉慎吉(東京帝国大学教授で憲法学者)の天皇絶対論。彼の学説が陸軍の正統憲法学説の位置を占め、「天皇機関説事件」を理論的に準備した。「カミと云ふ者種々雑多なれど、所謂(いわゆ)る古神道を一の宗教なりとして、概念上神とすべきは唯一天皇、祖宗以来、一代には唯だ一人在ます、カミ御一人(ごいちにん)、絶対至尊の御方の外にはなしと申さねばならぬ。……神代の人は皆神、功績徳望ありし人は皆神では、皇道は成り立たぬ」(「皇道概説=古神道大義ヲ読ム」『国家学会雑誌』大正2年1月)  
大正2年3月 田中智学(在家の日蓮主義者)が「神武天皇の建国」(『国柱新聞』)の中で、神武天皇“橿原宮造営の詔”の中にある「掩八紘而為宇」という言葉を「八紘一宇」という四文字熟語に置き換える。  
大正8年1月 「教育ノ効果ヲ完(まったか)ラシムヘキ一般施設ニ関スル建議」の中で「敬神崇祖ノ美風」が強調されたこともあって、神社参拝や神社奉仕といった神社とリンクされた学校行事が目立つようになった。  
大正10年 『国体論史』が出される。これは内務省神社局が「我国体の淵源を明らかにし、国民をして国体に関する理解を徹底せしむる」ために刊行。江戸時代から大正10年までのさまざまな国体論の要旨をまとめた「参考資料」であり、当時はまだ国体論が一つに定まってはいなかった。編者の清原貞雄は「神話は其国民の理想、精神として最も尊重すべし。それは尊重すべきのみ、之を根拠として我国体の尊厳を説かんと欲するは危し」といって、科学的知識に抵触しない国体論にすべきと考えていた。  
昭和3年 共産党員に対する全国一斉の摘発(三・一五事件)で、多くの学生が検挙され、国家の将来を担うべきエリート層に対する共産主義思想の浸透が政府指導者に大きな衝撃を与える。  
昭和初期 田中義一が総力戦思想の国民への普及に奔走した。この思想の普及によって、軍人は政治・思想・教育の面に無関心ではいられなくなった。  
昭和10年 天皇機関説事件  
昭和12年3月 『国体の本義』において公文書の中に「現人神」が登場する。  
昭和15年 「基本国策要綱」において政府の公式文書として初めて「八紘一宇」が登場する。 
 
現人神にされた天皇とキリスト / 神道とキリスト教

 

1 
題名の二人は生きた時代も場所も、そして何より社会的身分が全く違います。そんな二人の人物が並べ立てられる場合として中高年の人が思い当たるのは、戦時中に牧師が特高警察に引っ張られて取り調べを受けた時、「天皇陛下とキリストと、どちらが偉いか」といった尋問を受けた話くらいでしょうか。否、そういう話を聞いたことがない人も少なくないでしょう。  
皇室とキリスト教との関係となれば話題は多く、明仁天皇の家庭教師がクエーカー派のクリスチャンだったとか皇室関係者にも信者がいるとか、さらには日猶同祖論や景教伝説にかこつけて天皇家とキリスト教とを結びつける右翼的福音派牧師の荒唐無稽な説もあります。  
しかし私がこのエッセイで述べるのはそういうことではありません。私自身の問題としての昭和天皇とキリストとの関係です。それは私が十代の終わりに、作家の遠藤周作氏と同様の疑問を抱いたことがきっかけになって生じたものです。その疑問とは、「イエスはいかにしてキリスト(救い主)になり、神になったのか」という神格化の問題です。このような疑問が生じたのは、私が牧師の家庭環境に生まれ育ちキリスト教の影響を受けながらも、聖書を歴史的・批判的に学ぶ機会を得て、歴史上のイエスという人物と教会が教える神の子の「主イエス・キリスト」とを区別するようになったからです。  
そして日本の天皇が過去に「現御神・現人神」(以下、引用を除いて「現人神」に統一)であるといわれたことは、キリスト教と何か関係があるのではないかと思うようになりました。なぜならキリスト教ではイエスこそまさに(そうは言われていませんが)「現人神」であり、神と人の両方の性質を併せ持つ人格だからです。信徒神学者の小田切信男氏も、現人神はキリスト教の「神人二性一人格」の正統的キリスト論に対応すると見ています。  
裕仁天皇は戦後すぐに「人間宣言」されましたが、それで完全に非神話化されたわけではなく、神格化された事実が消えるわけでもありません。私の中では天皇とイエス・キリストが「現人神」とされた人間として、しかも歴史的には両者とも帝国の宗教を成立するために神格化された点で共通するのです。すなわち天皇は大日本帝国の国家神道において、、イエス・キリストは古代ローマ帝国の正統的キリスト教においてです。  
国学者の中にはキリスト教の知識を得た人がいたので、国家神道の天皇現人神論にキリスト教が教理的影響を及ぼしている可能性はあります。一説には平田篤胤系統の国学者は古事記の「造化三神」の天之御中主神をキリスト教の「ゴッド」の同体異名であると主張したそうです。これについてはキリスト教の疑似神学者の中にも似たようなことを言う人がいます。キリストは「高御産巣日神」に該当するというわけですが、私はそのような教理的類似があるからといって安易に結び付けません。  
私の場合は、国家神道に対するキリスト教の影響について、ほぼ定説になっていることを踏まえて「神格化」という共通項に視点を置き、天皇とキリストとの関連性について考えています。これがこのエッセイの主旨です。 
 
2 

 

私は親から、天皇は国家神道に於いて「現人神」として神格化され、おもに軍部により戦争に利用された傀儡的存在であると教えられて育ちました。しかし制度と個人とは区別し一国民として敬意を持ってきました。  
天皇が、記紀や万葉集に用例がある「現人神」と呼ばれたことについてはしばしば語源的説明から「生き神」とキリスト教の「ゴッド」との違いが指摘されますが、明治憲法においても天皇が絶対化されてはいなかったことが主張されます。すなわち第一条の「統治」は独裁とか私的支配の意味ではなく、第三条の「神聖不可侵」は君主の法的無答責を定めたものであり、天皇を絶対君主とか神格化された存在だとみるのは誤解であるといった主張です。  
その「君主無答責」こそ神格性だという庶民感覚的意見もありますがそれはともかく、憲法の文言の釈義と現実とは必ずしも一致せず、奉安殿の拝礼に象徴される皇民化政策に現れているとおり昭和天皇はまさに「絶対神」化された存在であったとみるのが客観的認識でしょう。天皇制ファシズムのデモーニッシュな恐ろしさはその絶対化にこそあったのです。  
社会学者の岡本雅享氏は、村上重良著『日本史の中の天皇』などを参照し、「前近代の天皇は、神を祭ることで神と一体化し、その霊力が毎年の新嘗祭で再び復活する特別な人と捉えられていた。(中略)これに対し、学校で『天皇陛下は、人間の姿をした神様』だと教えた明治以降の現人神は、絶対化された神―キリスト教でいうGodの観念に近いものとして創出された新しい観念である。」(論文「二人の現津神――出雲からみた天皇制」)と述べています。  
今、出ました村上氏はこの分野のオーソリティーとも言えますが、ここでは、天皇観へのキリスト教の影響に関して「ゴッド」の訳語の問題も含めてわかりやすく書かれた『神と日本人 日本宗教史探訪』(東海大学出版会)より引用します。  
<明治初年には、キリスト教の神がさかんに説かれるようになったが、日本のカミと混同しないように、「天」「上帝」「真神」「天翁(てんとうさま)」等の訳語が用いられた。神奈川にいた医師のヘップバーンは、はやくから「神」の訳語を用いていたといわれる。明治初年、聖書の翻訳に当って「ゴッド」の訳語がきまらず、委員の票決によって、一票差で「神」が採用され、こののちは、「神」と訳すことが一般化した。しかしカトリックでは、ながく「天主」を用い、一九五九年にいたって「神」を採用した。この経過が示すように、キリスト教の神とカミを同じことばでよんだのは、プロテスタントに始まるが、プロテスタントが一八七〇年代後半から全国的に進出し、とくに知識層を獲得して文化、思想の領域で大きな影響力をもつようになると、在来のカミ観念に、キリスト教の神観念が複合する成り行きとなった。キリスト教は、普遍的価値の根源である唯一絶対の神をかかげるが、日本人のカミ観念は、もともと多神教であり、カミは超絶的存在ではなく、人間と連続した存在であった。このカミ観念は、キリスト教の影響で、一神教的な絶対者、普遍的価値の体現者としてのカミ観念に展開した。近代天皇制国家は、天皇を神聖不可侵なアラヒトガミとしたが、このアラヒトガミの属性と機能は、キリスト教の神観念をとりいれて形成されたもので、伝統的なカミ観念とは隔っていた。日本人のカミ観念は、歴史とともに多彩な展開をつづけ、こんにちに及んでいる。現代の日本社会では、原始社会以来の土地神の観念をはじめ、たがいに異質なさまざまのカミガミが併存し複合して、全体として多元的な日本人の神観念を形成しているということができる。>  
また、聖書学者の深津容伸氏は、「明治憲法もキリスト教の神を、天皇に置き換えて制定されたため、以後天皇は絶対神(古来から日本の神々に絶対神は存在しなかったのであるが)として信仰されるようになったのである。」(論文「日本人とキリスト教」)と、あえて「絶対神」という言葉を用いて述べておられます。  
これは「國体の本義」などで、「現人神」は「絶対神」ではないと主張されていることに対するアンチテーゼとも読めます。念のために言うと、ここで言われている「絶対神」は無論、実体ではなくイメージです。  
天皇に置き換えられたと言われている「キリスト教の神」というのはイエス・キリストだけではなく、父なる神と聖霊なる神との三位一体の神を意味しますが、類比としては、天皇に置き換えられたのは第二位格の子なるキリストということになります。それは前の岡本論文の引用で「新嘗祭」に関して「復活」と言われていることともつながります。  
前述の「國体の本義」は国体明徴運動を受け文部省から出されたものですが、次のように記されています。  
「かくて天皇は、皇祖皇宗の御心のまにまに我が国を統治し給ふ現人神であらせられる。この現御神(明神)或いは現人神と申し奉るのは、所謂絶対神とか、全知全能の神とかいふが如き意味の神とは異なり、皇祖皇宗がその神裔であらせられる天皇に現れまし、天皇は皇祖皇宗と御一体であらせられ、永久に臣民・国土の生成発展の本源にましまし、限りなく尊く畏き御方であることを示すのである。」(「第一 大日本國体」の「二、聖徳」)  
「所謂絶対神とか、全知全能の神とかいふが如き意味の神とは異なり」云々というのは、明らかにキリスト教的神観との混同を想定してのことわり文句です。  
聖書が示す創造主・絶対者の訳語はいくつかあったものの、結果的に「神」で統一されてしまったことはキリスト教側の過失とも言うべき問題ですが、右にあげた文言は当時の日本社会の中で「神」という言葉にキリスト教的意味が浸透していたことを示しているとも読めます。仮にそうであるなら、昭和天皇が「(現人)神」という言葉に感じておられたのは、日本古来の相対的神イメージに限らず、キリスト教的「ゴッド」の絶対的神イメージも含まれていたのではないかと思われます。  
その理由の一つは昭和天皇の発言に、「現神〔現人神と同意味〕の問題であるが、本庄だつたか、宇佐美〔興屋〕だつたか、私を神だと云ふから、私は普通の人間と人体の構造が同じだから神ではない。そういふ事を云はれては迷惑だと云った事がある。」(『昭和天皇独白録』〔文藝春秋〕〜松本健一著『畏るべき昭和天皇』)とあり、昭和天皇が「迷惑」と感じられたのは、その「神」がご自身にとって馴染めないもの、つまり日本古来の意味とは違う絶対者として感じられたからだと考えるのが自然であること。  
二つめは昭和天皇が生物学者であり、戦前は批判が多かった美濃部達吉氏の「天皇機関説」に同意する合理的思考の持ち主であり親英米的リベラリストであって、決して神話の世界を生きておられたとか世間離れした雲の上の人だったわけではないことはよく知られており、そのような昭和天皇であれば関心の程度は別にしてキリスト教的神観の知識も持っておられたと思われるからです。  
もっとも昭和天皇は、日本神話における神々の子孫であることを認めておられたそうですが、それは天皇という伝統的地位を継承する者としての最低限度必要な自覚でありアイデンティティーだと受けとめることができるでしょう。いかにリベラルとは言ってもそこは一般の国民とは異なる制約があり限界があるからです。  
そもそも、昭和天皇にとっても好ましいとは言えなかった国家神道が誕生することになったのは、伊藤博文が欧州視察後に西洋列強のキリスト教に対抗し得る日本の精神的機軸として皇室に目をつけたからです。彼は日本の既存の宗教である仏教も儒教も神道も西洋のキリスト教に対抗し得るもの足り得ないと考えました。そこで皇室に目をつけた、それは幕府の民心支配の手段とされた仏教に優越する宗教的対象の最有力候補だったからです。幕末まで民衆は天皇を崇拝するとまではいかなかったにしても、その存在さえ知らなかったというのは俗説にせよ言い過ぎのようです。  
宗教弾圧などによって強引に構築された急造の国家宗教は、多くの国民にとって精神の機軸ではなく精神の桎梏となりました。注意すべきは、国家神道は非宗教と言われていても実態は宗教だったということです。興味深いのは明治時代の前半、まだ天皇制ファシズムが台頭する前は、日本にキリスト教の異端とされているユニテリアンが伝えられ、その普遍主義が福沢諭吉や矢野文雄(龍渓)に高く評価されて一時は日本の国教にすることも考えられていたということです。  
しかしその実態は、欧化主義の波にのって発展しつつある国内のキリスト教諸教派に対して、同じキリスト教でも比較的合理性の高いユニテリアンを採用することによって抑制する狙いがあったようです。言わば毒をもって毒を制するというわけです。ちなみに聖書的ユニテリアンは私自身の立場でもあります。  
国家神道に対するキリスト教の教理的影響としては、おもに一神教的性格ということが強調されますが、聖書には一般に言われるような排他的一神教はみられません。つまり単一の神以外の神を否定する客観的意味の唯一神教ではなく、他の人々は何を拝もうが、自分たちは神と契約を結んだ選民としてヤハウェのみを神として拝するという「拝一神教」が聖書的一神教なのです。ユダヤ教に狭義の「唯一神教」が生じたのは、紀元後二世紀にイエスの神格化の問題をめぐってキリスト教と対立する状況に於いてでした。  
私は造化三神より、天照大神と天皇と祖霊の三者関係がキリスト教の三位一体論における父と子と聖霊との関係に似ていると思います。代々の天皇は霊を介して最高神である天照大神と一体となり、その意志を体現する媒介者としての「現人神」になるからです。その神格化の祭儀が大嘗祭です。  
昭和天皇は、天照大神との関係では子なる神・キリストに擬せられ、大正期以降の、植民地政策に対応するために混合民族論を取り込んで再構築された家族国家的国体論に基づく「皇国臣民」との関係では、民族の違いを越えて「赤子」を養う父なる神に擬せられています。  
イエス・キリストも同様であり、ヨハネによる福音書では「私を見た者は父(なる神)を見た」とか(一四章九節)、「私と父(なる神)とは一つである」(十章三〇節)と言われています。ただし、新約聖書学者で宗教哲学者でもある八木誠一氏に従えば、同じ「一」でも「実体的一」と「作用的一」とに区別され、イエスと神とが「一」という場合は後者ですが、正統的キリスト教はこれを実体的一として解釈し、人間イエスと神ヤハウェとを同一視したのです。従って聖書的三位一体論は、三位格の関係を「実体的一」から「作用的一」へと再解釈することによって聖書本来のリアリティーを指示するのです。すなわち、父なる神とイエスとが「一」であるという意味は意志と業・働きの一致を意味し、本質とか本体の一致を意味するわけではありません。  
たとえば「私を見た者は父を見たのである」と言われているすぐ後で、「私が父の内におり、父が私の内にいるのだということを信じなさい。それができなければ、業そのものによって信じなさい」(一四章一一節)とあるとおりです。  
それはともかく、このように天皇とキリストを三位一体論的に比較してみると、識者の中に国家神道を疑似キリスト教だという人がいることも不思議ではないと感じられます。むしろ言い得て妙だとさえ思います。  
また、天皇自身の中にも三位格がみられ、明治憲法に於いて天皇には現人神として宗教的な面、制限的立憲君主としての政治的な面、さらに大元帥としての軍事的な面がありました。軍人や政治家はこれらのペルソナを使い分け、天皇の戦争責任論では制限的性格を前面に出し強調したと思われます。 
 
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カトリックのキリスト教徒であった遠藤周作氏は次のように述べています。  
「キリスト教の問題の一つは、イエスが信徒たちに神格化されたからキリストになったのか、それともポーロの考えるように、人間が彼を神格化したのではなく、彼自身がこの地上にイエスという仮の名で生れる前から、より高い存在だったのか、のいずれかを問うことである」(『キリストの誕生』〔新潮社〕第十三章より)  
そしてその結末は、「人間が彼を聖なるものとしただけでなく、彼にも聖なるものとされるに価した何かがあったのだ」と、「何か」とか「X」と記しながらも結局、遠藤氏はイエスの神格・神性を認める結果にとどまりました。  
『私にとっての神』(光文社)というエッセーによると、遠藤氏は近代聖書学を学んでそれまで信じていたことが崩れそうになり、そのショックを乗り越えるのに三年くらいかかったそうですが(「U 神への疑いから希望へ」の「神を疑う」)、そのような実存的危機に瀕しながらもイエスを文学的に探求した点では他のクリスチャン作家と区別されます。しかしその遠藤氏にとってもイエスは「ただの人」ではなく神の領域に入る存在だったのです。  
今日一般にキリスト教といわれている宗教の初代は、新約聖書に収められている諸文書が書かれた後、キリスト教が迫害の波を抜けて古代ローマ帝国で公認され公会議で異端を排除する信条を制定し、そして国教となった四世紀頃の正統的キリスト教会であり「古カトリック」ともいいます。これは帝国の領域に応じて東方の教会と西方の教会とに分かれ、後に前者がギリシャ正教系、後者がローマ・カトリックおよびプロテスタントの諸教派となって現在に至っています。  
その「正統」性の基準が前述の、イエス・キリストを「神」であると認める教義です。原始キリスト教の時代は、イエスはせいぜい天使のような超人的存在とみられるにとどまっていたのですが、キリスト教が統一される過程でイエスは、旧約聖書に示されている創造主ヤハウェと同じ本質を持つ神へと昇格したのです。  
キリスト教を迫害し信者を殺戮してきたローマ帝国が打って変って受容に転じた理由については諸説ありますが、一般的には、キリスト教を帝国統一の維持といった政治的目的の手段として考えていたと云われています。  
もっとも皇帝コンスタンティヌス一世においては改宗した母親ヘレナの影響や幻視などによりキリスト教に対する親近感ないしは信仰心らしきものさえあったとも云われますが、それ以上に「権力闘争によって弱体化し風俗の退廃によって不安定になった帝国を建て直す」ために「キリスト教がもっている道徳的基盤」が有用だったのです(フレデリック・ルノワール著、谷口きみ子訳『イエスはいかにして神となったか』)。  
皇帝コンスタンティヌス一世はキリスト教の教義はよく理解していなかったらしく、晩年は皮肉にも自分が召集し主宰した公会議で異端として斥けられたアリウス派の司祭から洗礼を受けています。おもに道徳的政策にキリスト教を用いるため、とにかく教会組織の統一を重点課題としていたのです。  
では、イエスを神とみなすことに聖書的根拠は全く無いのでしょうか? もちろん、そんなことはありません。聖書は教会の正典であり、その正典に根拠がない教義など公認されるはずはありません。ではなぜ、イエスを神格化した正統的教義は誤っているのでしょうか?  
そのおもな理由は、イスラエルの宗教的伝統である唯一神信仰に反するからです。信仰対象である「(唯)一(エハード)」の神は、創造主にしてヘブライの民をエジプトから導き出して律法を授けたたヤハウェを指し、キリスト教の「三位一体の神」のように三人格ではなく、あくまでも一人格です。ただし、イスラエルの宗教は厳格な「唯一神教」ではなく、「十戒」などは「拝一神教」を前提としています。それでも「一神教」に変わりはありません。  
なお、この「一」を意味する「エハード(または「エハド」)というヘブライ語についても、三位一体の教義に結びつけたい牧師による牽強付会的説明がインターネットで公開されたりしていますが、旧約聖書の専門家に尋ねると全く根拠を欠く解釈だそうなので無視すべきです。  
たしかに新約聖書にはイエスを「神(セオス)」とする箇所もありますが、その文書全体の主旨ないしは聖書全体の主旨からすれば修辞的意味で解釈されて然りです。  
そしてそのようなイエスに対する観方は、あくまでも古代人の神話的世界観なり思考枠の中で生れたものであり、「処女降誕」や数々の「奇跡」、そして「復活(顕現)」の出来事も、現代人がこれらの記事を通して示されているリアリティーを把握するためには文字通り史実であると考えるべきではなく、時代的差異を考慮して「非神話化」を必要とするのです。 
 
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以上のように、簡単ではありますが裕仁天皇とイエス・キリストの両者が、同じ普通の人間でありながらその時代の要請によって現人神として祭り上げられることになった、その数奇な運命に想いをめぐらしてみました。  
一方は皇室に生まれた人間であり、もう一方は貧しい夫婦のもと家畜小屋で生まれた人間です。社会的身分は対照的な二人ですが、古代ローマ帝国におけるイエスの神格化がなければ、大日本帝国における天皇の神格化もなかったはずです。キリスト者が国家神道を批判するのは大いに結構なのですが、自戒も含めて言えば、まずは自分の足元を見よです。私たちが神の子キリストと信じ告白するイエスこそ、世界の中でも絶対的意味での現人神にされた人間の典型だと言えるからです。  
最後に日本でイエスが神ではないことを聖書学的根拠に基づいて主張した一人のクリスチャン医師のことにふれて終わります。  
小田切信男氏は一九〇九(明治四二)年生まれで一九八二(昭和五七)年、七二歳で天に召されました。戦時中は陸軍の軍医でした。若い時は牧師を志したこともあったそうですが、仕事をしながら一信徒として聖書研究と独立伝道に従事する道を選びました。  
一九四九(昭和二四)年、所属していた日本YMCA同盟の目的条文(パリ基準)に、「YMCAは聖書にもとづいてイエス・キリストを神とし、救主と仰ぎ」云々と書かれていることに疑問を抱いたことがきっかけで、後に神学者や牧師との論争に入ってゆきました。  
単にキリスト教の正統的教義を批判することなら、他にも不十分ながらやっている個人や団体はあり、たとえば家々を婦人たちが印刷物を持って廻ってくる「エホバの証人」のように、キリスト教会が「異端」と呼んでいる団体もその一つです。  
しかし小田切氏はそのようなカルト宗教などとは違って、内村鑑三が創始した無教会的福音主義の伝統に立ち聖書学の裏付けによる議論を展開したので、日本のキリスト教界で著名な学者たちが小田切氏のもとに集まり、研究会を開き人格的交流を深めたのです。  
特に私自身が小田切氏の思想に関心を抱いた理由は、日本の多神教的宗教性が、キリスト教の正統的教義の異教的性格と関連付けられ批判されているからです。たとえば次のとおりです。  
「私は日本においては一人の平信徒・伝道者として折々伝道上の証詞を致しますが、たまたま、YMCA目的条文の中に、あたかも、キリスト教というのは、イエス・キリストを神とする宗教であるといったような意味の条文を発見し、非常に問題を感じたのであります。日本の古い習慣から致しますと、優れた天皇とか英雄、将軍、あるいは聖人らは、死んだ後には、しばしば『神』として尊敬され、神社に祭られるものであります。それゆえ、もし歴史の人イエス・キリストを、あるいは甦ったのちのイエス・キリストを、『神』であると申しますと、日本的習慣からは、『活き神様』の思想に近いものと考えられたり、また、外国にも聖人が死ねばこれを『神』として祭るという、日本にも似た習慣があるのかと考え、外国の聖人を神として祭る位なら、日本人としては、むしろ、日本の聖人を神として祭る方がより正しいのではないかと考える人も出てくるのは当然のことだと存じます。このようなことは日本の宣教上からは大変問題であると存じます。しかし、ここに率直に申し上げますなら、キリスト教とは、果して、イエス・キリストを『真の神』となす宗教なのでしょうか。そしてキリスト教的神観とは、このようなものでよいのでしょうかということであります。聖書には、歴史の『人』を神とよぶ思想(活き神様)のないように、神が肉体をとって『歴史の人』となるという思想もまたないのであります。なぜなら『肉体を持つ神』というような神観は、ユダヤ的、キリスト教的神観にはないからであります。もし、そのような『神』があれば、その神は当然死に終る運命を持つわけであり、かかる『死ぬ神』といった『神』は異教の神ではあっても、決してキリスト教の『神』ではないのであります。」(『キリスト論・ドイツの旅』 ※文中の「活き神様」の「活き」は左記の引用文のように「生き」と表記する方がよいだろう。)  
さらに、キリスト教の正統教義である「真に人・真に神」というキリスト論に関して、日本の宗教性との関係から次のように述べています。  
「初代のキリスト者が対決した皇帝礼拝における皇帝は、真に人でありながら真に神と呼ばれたものでありまして、日本の新興宗教におけるいわゆる生神様の如きも、真に人で真に神なる存在と信じられているのであります。それで聖書には見出されない『真に人・真に神』という言葉は、その内容自体が非キリスト教的でありまして、この言葉をもってイエス・キリストを表わすことは、危険極まりない誤りであります。」(『キリストは神か』)  
このような小田切氏の見解は聖書学の歴史的・批判的研究成果を踏まえており、ユダヤ教から完全に分離独立していなかった原始キリスト教の段階では、イエスは「キリスト論化」はされても決して絶対者的意味での「神」とはみなされなかったことが多くの学者の見解として一致しています。  
そして小田切氏は問題の天皇現人神の教説について次のように述べています。  
「日本が明治の新しい時代を迎えたとき、日本は、天皇中心に国家的団結を強化して、新興国家を建設したのであります。そして、それ以来、ある右翼の思想家は天皇を『あらひと神』(現人神)――まことの人にして、まことの神――と表現し、民族主義精神を鼓吹して、人心の統一に役立たしめ、西欧の東漸勢力に対決してきたのであります。それは、決して、天皇が自らを『神』として宣言したということではないのであります。(中略)戦時中、最も天皇と関わりのあった軍人でさえ、天皇を、天皇として崇めても、決して『神』として礼拝するというようなことはなかったのであります。ただ、一部の右翼の思想家達、あるいは、右翼の人々が天皇に『現人神』というような表現をしましたが、それをもって、日本人全部の確固たる思想であるかのように考えますと、それは、確かに迷惑至極なことだと言わなければなりません。」  
(『キリスト論・ドイツの旅』 ※二つめの『神』には「ゴッド」とルビがふられている。)  
「当時、現人神(いわば真の神にして真の人)という表現を用いて天皇を敬うということは、必ずしも宗教的に拝する、神として拝するといったことを意味しなかったのであります。神は上で、おかみと呼び、国の至上者を意味しておりました。」(『福音論争とキリスト論』 ※「上」には「かみ」とルビあり。)  
このように小田切氏にとって「現人神」は、キリスト教のカルケドン信条における「真に神にして真に人」という教理に対応するものでありますが、「現人神」の「神」は「ゴッド」としての絶対的意味はないと言うのです。   
そして天皇ご自身そのような「絶対神」であることを認めてはいないし、国民全体にとっても「天皇現人神」の教説は「確固たる思想」ではなかったということです。  
小田切氏が反論すべく引用している村上重良著『天皇の祭祀』の文言を私は逆に賛同の立場から孫引きします。  
「『明治維新にはじまる天皇絶対化は、帝国憲法の制定によって、ついに神聖不可侵な神としての天皇に到達した。天皇の新たな属性として設定された神観念は、日本人の宗教を貫くシャマニズムに発する人神、生き神の観念とはかけはなれた、一神教的な神観念であり、ほとんどキリスト教の神観念に近いものであった。天皇を絶対化して神とするという、近代天皇制国家の指導層の発想は、つよくキリスト教の影響を受けており、現人神となった天皇は、人間から隔絶した絶対の真理と至高の道徳の体現者に仕立てあげられた。このことは、天皇の宗教的権威が、それぞれ普遍的価値をかかげる教派神道、仏教、キリスト教等の全宗教の上に君臨する国家神道体制の当然の帰結でもあった。天皇は、皇祖神、皇霊と一体であり、そのまま普遍的価値を体現する神であるとされた点に、近代天皇制と、近代の諸外国の君主制との決定的な差異があった』」  
これに対して小田切氏は、「『天皇崇拝と軍国主義を結合した国家神道』はまさに日本の生きる知恵でもあった」と述べています(『キリスト者と天皇制』)。  
私個人としてはここに小田切氏の思想的限界を感じます。日本の宗教性とキリスト教の異教性を関連付けて論じるという点では、国家神道について考える上で貴重な問題提起ですが、天皇現人神の教説が一部の「右翼」に帰せられているのは歴史認識として偏っています。  
このような限界は、小田切氏の生育環境が皇室を非常に尊重していたということと無関係ではないでしょう。しかしそれだけが原因ではなく、小田切氏の聖書解釈と信仰のあり方にも関係があると思われます。  
前述のとおり小田切氏は、イエス・キリストが神であることは否定しましたが神の子であることを強調しました。神格・神性を有する者としては両者は共通しており、さらに聖書では天使のような超人的存在だけでなく、アブラハムやモーセやエリヤといった歴史上の人物、そして終末に救われる信徒も神性者であると指摘しています。   
確かに聖書の解釈として誤りではないでしょう。しかし、そのようなところに重きを置くことは、カトリックの聖人崇拝が天皇崇拝と矛盾しないような心性と重なるおそれがあります。それは聖書の非神話化と逆行するということであり、聖書の神話だけではなく他の神話に対しても寛容になりやすくなると言えるでしょう。実際、小田切氏は日本的神観とキリスト教的神観との違いを執拗に説き、現人神天皇論を、言わば弁護する形につながっています。  
すなわち天皇は「絶対神」という意味では否定しても日本民族の一番「上」にいます方、至上者という意味では「神」たることを認めています。すなわち、相対的神としての神格・神性者であるなら、異教のそれであっても認め得るのです。  
そのような小田切氏にあっては、日本の神観においては天皇のみならず全国民および天地万有が神格を有することを認め、それを根拠に天皇の「人間宣言・神格否定」は不要とし、前述のとおり、「『天皇崇拝と軍国主義を結合した国家神道』はまさに日本の生きる知恵でもあった」と言えたのです。  
私は小田切信男氏の神学的思想から多くを学びながらも、あくまでもイエスを歴史上の一人物、古代ユダヤ人の一人として捉えてゆきます。私の聖書的ユニテリアンとしての思想的エッセイはテーマを変えて今後も続きます。御関心ある方はどうぞ、よろしくお願い致します。(終)  
 
矢内原忠雄氏の神と天皇 / 神道とキリスト教

 

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矢内原忠雄氏は天皇制ファシズムの時代を生きるキリスト者として明確なアイデンティティー乃至は召命感を抱いていました。  
「我が存在を神の永遠に連らしめ、我が行動を神の経綸の中に置くことによって、確乎たる我が立ちどころを得るのである」(「歳末雑記」一九四一・一二、全集 〜土肥昭夫著『日本プロテスタント・キリスト教史』)従って矢内原氏が戦後の論文で「天皇の神格化」を批判しているとおり、御自身では天皇を神格化したとの自覚はなかったと思われます。そして実際、矢内原氏は一般的な意味での「天皇神格化」を支持したとは言えません。しかし完全に神格化していなかったかと言えばそうとも言えません。私たちはただ、天皇制ファシズムと戦ったキリスト者といわれる矢内原氏でさえ天皇の神性について語ったという事実を通して、それくらい戦時中の「天皇神格化」のイデオロギーが激しい勢いであったことを示されるのです。  
矢内原氏の思想で第一に注目するのは、本居宣長の神観に対する批判と「絶対神」と「人格神」の主張です。  
「日本精神の根本問題は結局日本人の神観の問題であるとすれば、本居宣長は神を如何に見てをるか。宣長の日本精神を顕揚する其の熱情に私共感服すると同時に、彼の説く神観の内容の低さに我々は驚くのであります。(中略)殊に宣長の神観に於て最も特色をなすものは禍津日神と直毘神との働きでありまして、禍津日神は禍を下す神、悪神であるのです。その禍津日神の働きを正す神が直毘神であるが、時には禍津日神の働きが強くて天照大御神、高産巣日大神さへも之を抑へる事が出来ない。(中略)之を見まして我々が驚くことは、あれ程宣長が大事に思つて、日本精神の根本として宣べてゐる神の観念は、こんなに曖昧でこんなに無秩序であるか。丁度人間の社会を見まして、そこに善人あり悪人あり、能力の優れた人もあるし劣つた人もある。その状態を神の世界に当てはめただけである。人間の社会と神々の世界との間に何等本質的の差別がない。(中略)世界の優れた宗教なり哲学なりを見ると、その民族の神観は次第に洗練せられ深められて来たのであります。遂に如何なる神を発見するかと言へば、神としての必要な特質の一つは絶対といふことである。即ち絶対神といふ考へであります。(中略)宗教の最高発展形態たる一神教に於いては、神といふ以上それは絶対者でなければならない。絶対最高唯一といふことは神の神たるに必要な本質であります。宣長に於てその信仰がありません。絶対者最高者従つて唯一者としての神観がないのであります。といふのは、彼にありては神と人との本質的区別が明かでないからであります。(中略)もう一つ言はなければならないことは、人格者としての神、即ち人格神の観念が宣長にありません。神は単なる自然物若しくは自然力でなく、又世界精神といふやうな理念でもなく、産霊の働きをするところの活きて働く実在であるといふならば、それは人格的存在でなければならない筈である。宣長の見た神は儒家のいふ陰陽の理の如き単なる観念ではなく、生きて働く霊的実在であることを、素朴ながら彼は認めてをるのであります。ただ如何にもそれが素朴である。神が万物を生成し、人心に影響を与へ、人の生涯の吉凶禍福を司どるといふのであるならば、それは人格的な存在でなければならない。人格的存在でなければ、人格者たる人に対して働きを有つ事が出来ない。非人格的なものが人格的な人間の心に働きを有つといふならば、それは人の迷信である、作り事である、そら事である。(中略)霊的な実在として神を認めることに於て、宣長の見た日本精神は正しい方向に向つてゐるが、さういふ神を認めてゐながら、之を人格者として把握する事が出来てをらないが故に、産巣日神は産霊の働きの人格化であり、禍津日神は災禍の働きの人格化である以上に、それ自体としての明確なる人格的実在性を有たないのである。このやうに絶対者としての神、及び人格者としての神を把握してゐない事が、宣長の神観の最大の欠陥でありますが、それは彼が神をば、神代の社会の自然のままの状態に於て見たからである。神々の世界は神代に於ける人間の社会であり、神の生活は人の生活を本質的に超越せざる自然的生活であると見たから、彼自身は神と人との差異を主張しながら、実質に於て彼の神は人の投影たる以上に超越し得なかつたのであります。宣長の神観がこの様に曖昧且つ素朴である事からして、彼の社会観人生観にもそれに適応した結果が現れて来てをる。之を一言に言へば、自然的な安易な現状是認論となるのであります。」(『矢内原忠雄全集』〔以下、「全集」と表記〕一九所収「日本精神への反省」〜「日本精神と平和国家」)  
矢内原氏が、神の「人格」すなわち「人格神」を強調する場合、その神と人との人格的関係は一対一であったと私は思います。少なくとも三対一ではない。しかし正統的キリスト教の場合、神は「三位一体」であり「実体・本質」は「一」でも「人格」は、父,子,聖霊の別個に一ずつの「三」であるとされているので、「我(ら)−汝」関係は、三対一になります。しかし矢内原氏は次のように述べています。  
「person というのは generic name 類的名称であってspecific name 種的名称ではない。父も子も聖霊も person と言っているのは非常に不正確な表現である。(中略) persons 人格が三つあると言わないで one person 一つの人格と言えばよさそうなものであるが、そう言わないのはなぜであるか。それは言い表わしの便宜あるいは推理の便宜から起った言葉であって、言葉にすぎない。三つ別々のものがあるわけでなしに表現および推理の必要から起ったことである。(中略)前々から言っているように three persons という表現は非常に適切であるとは言えない。いかなる人間の言葉をもってしてもこれを適切に言い表わすことはできないのだが。神は single 単一ではない、しかも三つあるわけでもないということを表わすために、一つの神にして三つの persons 人格と言っている。」(『土曜学校講義(三)アウグスチヌス 三位一体論』〔みすず書房〕第十講 第七巻四章 )  
このように、矢内原氏の言われる「人格神」は、「単一神」(=多神の中の一神)ではないが、また、正統的定義の「三位一体の神」の如き「三人格」でもないということです。もっとも「ヨハネ伝講義」では、ユダヤ教やユニテリアンの「神」が「単一神」といわれ、「唯一の神」は「三位一体」だから「単一の神」と区別される旨が述べられています。そして三位一体論の中心問題はキリストの神性を肯定するか否かであるとされています。たとえ矢内原氏が「三位一体」を「三人格」とみなさず「一人格」とみなしたとしても、要は史的人物であるイエスを神格化しての「三位」である以上、トリニテリアンに属することに変わりはありません。ただし注目すべきは、この書で矢内原氏は「ペルソナ」を「人格」ではなく「位体」と訳していることであり、この用語が後で見るとおり、天皇の神性を認めるところでも出てくるということです。  
矢内原氏の宣長批判を続けます。  
「結局宣長の見た信仰心というものは人間的な気持ちに過ぎない。彼の見た神というものは人間的な神、否人間である。彼の見た神の国はありのままの人間の国である、そう言われても仕方がないでありましょう。それは彼の思想には信仰的な善い要素をもっておりながら、彼の神観があまりにも素朴であるからです。神をば人より超越せしめ、絶対者として仰ぐ時、始めて神は真の意味の霊的存在となり、我々のまことの神、まことの祭りの対象となるのです。又まことの学問、まことの政治の根本となるのであります。然るにそうでなくして、宣長の認識した程度の素朴さに止まっておりますと、凡ての事が人間の水準に引き下げられてしまう。現実の人間の状態、現実の社会の状態に引き下げられてしまう。そして名は神ながらと呼ばれようとも、実は人ながらという事になります。」  
ところで、矢内原氏の師に当たる内村鑑三氏は、「神は一なりとは、単に数において一であるということばかりではない。質においても、また理においても一であると言うことである。」(〜「神の単一」〜「聖書之研究」明治42年9月10日号)と述べつつも三位一体神信仰とは矛盾せず、次のような問答もありますが、これは内村氏がヴェルハウゼンの「四資料仮説」を知りながら(ヴェルハウゼンについては「聖書の研究」明治41年9月10日号で高等批評の学者としてふれている)、あるいは複数形を用いた修辞の表現についてもわかっていながら、三位一体は聖域内としていたのか解釈には適用せず無視したものです。一面的には福音派の逐語霊感説的です。  
<「元始(はじめ)に神、天地を創造(つく)り給へり」、ここに神とある名詞は、単数名詞ではありません。ヘブライ語の Elohim であって、El とか Eloah とかいう「神」という語の複数形です。ゆえに字義なりにこの一節を解すれば、元始に一つの神が天地を創造られたのではなくて、一つ以上の神がこれを創造されたということです。即ち宇宙万物の造り主は、 God ではなくて、 Gods であったということです。>などとバカげたことを言っています(〜内村鑑三「三位一体の教義」〔明治37年2月18日〕)。  
ElohimはEloahの複数形であって、「Elとか」は無用であり誤りです。「・・・とかいう」という表現も「聖書研究」という名称に相応しくない、いい加減な言い方です。それはともかく、この問答の後の方で内村氏は「エロヒム」を「一つ以上の神が相一致して、一つの神として天地万物を創造された」と解釈し、一部の聖句を牽強付会的に引用して三位一体の教義と結び付けています。  
三位一体に対する批判は算数的矛盾のレベルでは煙に巻かれるのがおちであり、内村氏も「愛は相互的なものですから、単独の神には実は愛というものは、ないのです」だの、「もし神が単独の者であったならば、・・・神は永遠の昔から愛であると言いますが、・・・何を愛しましたでしょうか・・・自身を愛することは・・・少なくとも愛の最も劣等なものです。」云々といったお決まりの「愛」の不可能性について語り出し、神は「彼の中に三位があって、彼は彼自身の中に、聖なる社会を備えておられた」だのJ・エドワーズの「三位の社会」という用語を持ち出し、神は個人ではなく社会だとか言い出す始末。これに対して内村氏の弟子といえる矢内原氏が、<「エロヒム」といふ複数形は多くの神々を意味するのではなく、最高度の尊崇をささげらるべき神、換言すれば最強度の意味に於ける唯一神を指すのである。従つてその動詞は、単数を以て記される。>(〜「聖書講義D 創世記」〜「全集、第十巻」)と述べているとおり、聖書研究者としては創造主なる神が複数であるという解釈はあまりに幼稚であり、「唯一」である神の中にある「三人格」の間の愛というのであれば、それは自己愛と何ら変わりないのです。「神」に於ける「自己」とは3人称単数形の完了動詞「バーラー」(創造した)に示される働きの主体です。他者への愛と言うなら、その「自己」以外の存在、すなわち創造の働きによって生じた被造物に対する愛と解する方が聖書的妥当性があります。  
とにかく、自分に都合のよいことは合理的に、あるいは擬人的に説明するくせに、都合わるくなると、それは人間の理性や知性を超えているとか、人間と同様に考えてはダメだとか勝手なことを言うのが正統主義的キリスト教徒、すなわちトリニテリアンの常套手段です。無教会主義の内村にしてからがそうなので、教会主義となればなおさらでしょう。神を「社会」に喩えることも「社会」は意志統一されているとは限らないので比喩としては無理。「三位一体」の教義自体が「人格」だの「愛の交わり」だのと比喩によるものですから、その説明に比喩を用いることは比喩に比喩を重ねるだけで却ってわかりづらくなります。  
三位一体論は算数的レベルの議論ではどんどん思弁の深みに陥り、結局、「神は単独であろうが、三位であろうが、私達はこの世に在って、社会人類のために尽くす時に当たっては、何の差異もない」だの「『神は愛なり』、私達の信仰は、これで足りるではありませんか」といった実践レベルに話を霧散解消させるお決まりの手法を使われるだけのこと。これは内村氏としても矛盾するはずであり、彼自身、三位一体を信じるに至った理由として、「三位の神を信じなければ、私の理性も心情も、平穏になることが出来ないので、ついに今日の信仰に至ったのです」と述べているのであり、それなら、「神は単独であろうが、三位であろうが・・・何の差異もない」ということにはなりません。「社会人類のために尽くす」などという大言壮語するのであればまず、その尽くすために「理性も心情も、平穏になること」が重視されて然りです。自分が平穏でない、安定した精神になっていない者がどうして他人の平穏のために尽くせるでしょうか。内村氏の言う「単独の神」を信じる方が、「三位一体」など盲信するよりはるかに理性も心情も平穏になる者がいることを考慮されなければなりません。「社会人類のために尽くす」ためには自分と反対の考え方をする立場への配慮が必要です。いずれにせよ相対性を免れ得ないのですから。  
聖書的神については、「意識/対象/人格とか場とかいう比喩による存在」と「無意識/非対象/比喩不可/もの自体/語り得ぬもの」との「二重性」ということが弁えられていなければ無駄な神論に陥るだけだと思います。「人格神」といい、「場としての神」あるいは「絶対無」だの「働き(としての神)」だの、いろいろ言葉化したものはすべて比喩であり写像ではなく「神」の対象化です。  
「場所論は神と人との関係の一つの相(アスペクト)の叙述であって、人格主義を否定するものではない(中略)神と人の関係は、人格主義的にも場所論的にも語られる。新約聖書がこのような二重の語り方をしている。(中略)神は人格主義的に、また場所論的に、語られる。神自身は場所でも人格でもない。結局のところこれらは比喩である」(八木誠一著『場所論としての宗教哲学――仏教とキリスト教の交点に立って』)  
その「比喩」としての限界を弁えた上での言説であるなら、上記の内村氏の問答の如き説明も必要無いのです。つまり人格神観で信仰を語る者、神学的発言をなす者は、そういう詭弁に踏み入る手前で自主的に止めるべきです。質問に対しては、あくまでも比喩なのだから、理屈で納得できるものではないと答うるならよいが、やれ、「神」のことだから人知では測り知れぬ「神秘」だの「秘義」だのとまことしやかに説くべきではありません。それを言うならそもそも「三位一体」の教義自体、人間には過ぎたことなのです。「ホモウーシオス」なんて聖書に明示されたものではありませんから。正統的教会に都合よい範囲は人知で知り得る「啓示」の範囲だと言い、反論される事柄はすべて「啓示」外の測り知れぬことだと言って済まそうとする、その根性が腐っていると私は思います。そういうドグマティズムが教会の歴史を通して洗脳的効果を果たしてきたのではないかと思います。「三位一体論」の不毛性とは、意識の対象として語り得る類比の次元を、無意識的領域の、直観的にしか把握し得ず語り得ぬ「もの自体」の次元と混同し、信条・教義として絶対化していることに尽きるのです。「事」と「理」の区別が無いとも言えるでしょうか・・・、そもそも問われるのは、前述の「啓示」の一元主義思想です。聖書的宗教は人間の主観などではなく、あくまでも天上から垂直に降ろされた啓示によるものだ・・・などとバルト的に言えば、いかにも説得力がありそうですが、現実生活から遊離した観念論にすぎません。経済も「供給」は「需要」あって成り立つことです。宗教も上からの「啓示」だけではなく、歴史的社会的現実を生きる人間の切実な必要、絶対者の実在とその救いの「要請」があって成り立つものです。だから「啓示」は「要請」との「二重性」にあるのです。言わば、神意と人意、絶対と相対、永遠と歴史・・・・の「二重性」です。その二重性に於ける言わば「啐啄同時」の出来事が「救い」です。その「救い」を実際的・経験的に証言するものが「福音」と呼ばれて然りでしょう。  
ここで注意すべきことは、上記引用文中で「人格主義的」と「場所論的」との「二重」と言われていることと、この場合の「二重」とは別だということです。前者の「語り方」の「二重」は同じ「比喩」のレベルでの話であり、いずれも意識の次元で「神」を対象として把握することに変わりありません。それは「二重」というより「二面」です。実に三位一体神論批判の急所は「1=3」の矛盾といった論理的観念の事柄ではなく、イエスの神格化という歴史的現実の事柄にあるのです。相対の絶対化という歴史的問題にあるのです。これを抜きに「1=3」の矛盾などを論じても何にもならないし、どうでもよいことです。なぜなら、イエスを神格化する、すなわち相対の絶対化を避け得る「三・一」なら聖書に明示されていると言えるからです。要は人間の精神の統一性、自己同一性における「一」に対応する「一」人格の神であなければ信仰対象たり得ないのであり、意志が統一されていて「我−汝」の関係が成立する相手なら、その様態が「三」であろうが「十」であろうが・・・どうであろうが関係ないのです。だからキリスト教の三位一体の問題点はペルソナが「一」ではなく「三」であるということ自体ではなく、「三」が別個に固有の人格を持つ存在であるといわれること、そして何より、その中心が有限かつ相対的なるイエスという史的人物が無限かつ絶対なる「神」と同一の本質・実体とみなされている「子なる神・キリスト」であるということだ。この点を批判し得なかった内村氏はやはり時代の制約を受けた限界ある人物です。その点では無教会主義も植村正久らの教会主義と大した差異はありません。 
 
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矢内原氏も信仰的には内村氏と同じ正統的立場を継承しているに過ぎません。彼もイエスを神格化しています。しかし内村氏と違う点は上記のとおり、三位一体の「三人格」という表現について疑問を呈していることです。しかしそれは、矢内原氏がギリシャ教父にしてニカイア信条の功労者ともいえるアタナシウスよりも評価が高いラテン教父のアウグスティヌスの「人格主義的」神学に起因するのです。まず、三位一体論に関する矢内原氏の言葉を引用します。  
<「三位一体」といふ語は、紀元第二世紀末テルトリアンによつて始めて用ひられたが、第四世紀に至り、キリストの神性を否定するアリウス派の流行に対し、アタナシウスは奮然起つて之を論駁し、遂にニケアの宗教会議に於いてアリウス派は異端と宣告せられ、キリストの神性従つて三位一体の教義が公認せられた。而もアタナシウスは尚ほ「父は子よりも大なり」との主張を把持したのであつた。三位一体論の完成せられたのは、アウグスチヌスの不朽の名著『三位一体論』によるのであり、此書に於いて父と子と御霊との全く相等しき神性が論定せられたのである。 >(ヨハネ伝講義「訣別遺訓に現れたる三位一体論」〜「全集、第九巻」)  
つまり、古代教会史に於いて正統教義を確立した第一人者と目されるアタナシウスではまだ、三位一体論は完全ではなかった・・・それは、父,子,聖霊の三者が対等の関係とはされていないからであり、アウグスティヌスによって三者が対等の関係として論じられたというわけです。そしてそこで使われたのが日本語で「位格=人格」と解される「ペルソナ」という概念でした(これを神学用語に初めて導入したのは「異端」とされた様態論者だったと云う)。これにより三者はそれぞれが意思を持つ主体的人格と教理化されることになります。  
そもそも、ギリシャ語圏とラテン語圏とはパラダイムが異なっており、両者の三・一神論が完全に対応することなどあり得ないことでした。  
「ラテン教会のために三位一体を定義したラテン的神学者はアウグスティヌスであった。彼はまた熱心なプラトン主義者で、プロティノスを信奉していて、それゆえ、彼の西洋の同僚よりもギリシア的教義にもっと共感的な傾向を持っていた。彼が説明しているように、誤解はしばしば単なる用語に由来していた。言語を絶する事物を叙述する代わりに、われわれがいかにしても十分には表現できないものを、何かの仕方で表現できるように、われわれのギリシャの友人らは、一つの本質と三つの実体について語ったが、ラテン人たちは一つの本質あるいは実体と三つのペルソナについて語ったのだ。ギリシア人が、神に近づこうとして、三つのヒュポスタセースを考え、神の唯一の、啓示されていない本質を分析するのを拒んだのに対して、アウグスティヌス自身や彼以後の西洋のキリスト教徒たちは、神の統一から始め、それから神の三つの顕示を論じていった。ギリシア的キリスト教徒はアウグスティヌスを尊敬し、偉大な教会教父の一人と見たが、彼の三位一体の神学には疑いを持っていた。それが神をあまりにも合理的かつ擬人的にさせたと感じたのである。アウグスティヌスの接近方法は、ギリシア人のように形而上学的ではなく、心理学的でひじょうに人格的であった。」(K・アームストロング著『神の歴史』)  
矢内原氏にせよ、内村氏にせよ、彼らが拠っている「三位一体(論)」はアウグスティヌスのそれであり、神学的理解も彼に多くを負う西方神学の諸説です。しかし「三位一体」の教理化は元々、東方のギリシャ教父によって思弁されたものであり「三位一体」ではなく「至聖三者」です。アウグスティヌス的「三位一体(論)」の特徴が「人格主義的」ということでした。西方にせよ東方にせよ、イエスという相対者を絶対者に仕立てた点では変わりありませんが、これも下に引用する八木誠一氏の言葉によれば、東方のギリシャ教父の方が「場所論」的思考を持っていたようです。  
「ギリシア語を語る東方教会を中心として成立した三位一体論・キリスト論は場所論的概念であること、しかし、これを実体論的また人格主義的に表象すると理解できなくなる(中略)人格主義的言語では、三位一体は、父なる神、子なる神、聖霊なる神のそれぞれが人格的存在とされる傾向があるから、三神論に傾き易いのである。>(八木誠一著『イエスの宗教』)。  
現実に意識・対象の思惟において「神」は人格的存在としてであれ、あるいは場所論的にであれ、いずれにせよ「神」は類比の対象として把握され信仰されるのです。特に日本のキリスト教のように欧米から入った西方神学的伝統が強い環境では「人格神(観)」です。しかしその場合に、「人格」そのものが比喩であり、「神」把握として限界があること、トリニテリアンもユニテリアンも同じ相対的かつ限定的立場にすぎないことが了解されていなければなりません。それが上記の内村氏の問答では全く踏まえられていないので、実にくだらない内容になっています。一方では神に人間のことを読み込むな・・・みたいなことを言っておきながら、単独の神では愛の対象がないので「神は愛なり」にはならない・・・みたいな擬人的なことを言う、そんな矛盾さえも気付かずに詭弁が滔々と弄されるだけでくだらないの一言です。神は人を造り、自然界を造って、あらゆる生命体を活かしておられる、そうした被造物を愛しておられるのです。自分の内部の三人格が相互に愛し合っているとかそんな自閉的なことではないのです。そのような話は比喩に比喩を重ねて「神」をどんどん偶像化することになるのです。すなわち内村氏の自作自演の問答は形而上学的思弁に陥っているのです。  
第一に注目することはこのへんで終わりにして本題に移ります。矢内原氏は、天皇を現人神として信仰することについては明確に批判しています。  
「従来信仰の対象としての天皇といふ事が考へられて来ました。即ち天皇は神である、人間ではないといふ一つの信仰を、政治上の専制主義に結びつけまして、それによって国民の思想を統制したのが最近の情勢でありました。天皇は人間であるといふことを申せば、忽ち不敬罪を以て罰せられたのであります。之も亦誤つた信仰でありまして、天皇を天皇として尊び畏む事と、天皇を人間としてでなく神として拝むこととは大いに違ふ。素朴な国民感情として天皇を尊ぶことは美しい事ですけれども、天皇は人でなくて神であるといふ時に、もうその素朴さは許されることの出来ない無知であり、不虔であり、まことの宗教からの脱離であります。此の問題は今年の元旦に陛下自ら「朕は現御神にあらず」と仰せられた、あの当然ではあるけれども、一つの悲愴な気持を御声明になつて、問題は解かれたのであります。」(「全集」一九「国家興亡の岐路」〜「日本の傷を医す者」)  
この後、「さてそれならば」と、神話の評価に叙述が移っています。矢内原氏の日本神話に対する肯定的見方が天皇の「神性」の問題につながります。天皇神格化を否定している矢内原氏ではありますが、一方で「神性」は認めるというわかりにくい態度です。  
そこで、矢内氏の思想で第二に注目すべきことはその、天皇の神性についての発言です。キリスト者でありながら彼はある一定の条件のもとで天皇の神性を認めているのです。それは、次の文言にあるとおり、天皇個人の「人格」についてではなく日本国の天皇制における皇位すなわち「位体」についてです。  
「天皇を現人神なりと為す信念には二つの考慮が加へられねばならない。それの妥当する範囲は国家であつて、国家生活以外の宇宙人生に関するものでないこと、その一である。それの妥当する本質は国家の中心たる位体に於てであつて、現実の天皇の生活及人格に関するものでなきこと、その二である。天皇神性の基礎は人格よりも位体に於て存し、天皇人性の基礎は位体よりも人格に於て存する。現実の天皇は国家的位体に於て神性であるので、人格的に至聖至愛全智全能の神性を持つとの謂では無い。生活及人格に於ては凡ての人間と同様、造物主に相対して人性を有つものである。それは、天皇も亦至尊に適順せざるべからずと言ひ、又現実の天皇が拳々服膺してこの適順の為めに努力せらるるによつても明かである。(中略)而して天皇をその位体に於て国家の至尊とし、その人格に於て至尊の道への適順を輔弼することが、即ち国民の忠誠でなければならない。この輔弼は、宇宙の至尊たる公義を人格に於て表現する位体に拠るにあらざれば、何人も為し能ふ処でない。国家以上に宇宙的秩序の至尊ある如く、宇宙的人格の至尊、換言すれば人格的至尊が存在しなければならない。この宇宙的至尊たる人格によつて、始めて天皇を輔弼することが意味を持つのである。」(「全集」一八所収「日本精神の懐古的と前進的」)  
天皇の神性(神格)化は、「国家的位体に於て」というふうに限定されているとは言え、「国家」と「宇宙」との相似的関係が、「国家の至尊」と「宇宙的至尊」との相似関係に対応しており、それは矢内原氏にとって「絶対」の「人格」的実在であるべき「神=創造主」の相対化にほかなりません。そしてその相対性こそが(八木誠一氏の言うところの)「比喩」としての「人格神」たる所以なのです。だから、そもそも聖書に示された「神」と日本の天皇の如き者とを同次元で語るべきではないのです。  
土肥昭夫氏は『日本プロテスタント・キリスト教史』で上記の矢内原氏の考えを、矢内原氏の立場からわかりやすく言い換えて、次のように述べています。  
「天皇の神性について二つの事が考えられねばならぬ。一つはその神性が妥当する範囲は国家であって、宇宙、人生ではない。もう一つは天皇は国家的位体において現人神であっても、現実の天皇の生活や人格においては人間である。日本国民は国家を重んじる点で道徳性を持ち、天皇を尊敬する点でその神性を尊崇する宗教性を持つ。この二つの性格を再認識し、これを宇宙的道義の認識、神の権威への服従に拡大することが、国民精神作興の道である、というのである。この論文をみるかぎり、矢内原は日本精神とキリスト教を矛盾、対立するものとして排除する立場をとらなかった。まず日本精神を分析し、その領域を限定することによってキリスト教にその活動の余地を提供した。さらに日本精神の中より価値あるものを探り出し、これをキリスト教に結びつけ、キリスト教はそれを完成、成就するものと確信した。これは内村がキリスト教とナショナリズムを考えたとき、たえず唱えた方法である。それにしても、日本精神を限定することによってキリスト教の窮極的価値をとなえたり、天皇の神性と人性をそのカテゴリーによって使いわけたりすることは現実的に不可能なことであった。特に皇道精神によって一元化政策をすすめようとした国家権力はこのような主張をみとめなかった。彼はファシズム体制よりやがて排除されることになるのである。」(p394)※文中の「この論文」とは発禁処分にされたといわれる前掲の「日本精神の懐古的と前進的」(『理想』一九三三・一掲載)  
「矢内原は日本精神とキリスト教を矛盾、対立するものとして排除する立場をとらなかった。まず日本精神を分析し、その領域を限定することによってキリスト教にその活動の余地を提供した。」と言いますが何ら感心するようなことではありません。それは当時の知識人キリスト者のレトリックであり、似たような区別の論理で聖書的神信仰と日本の天皇崇敬とのアポリアを何とかクリアーしようとしていたのです。矢内原氏の、天皇の「人性=人格」と「神性=位体」という「使いわけ」は、小田切信男氏に於ける「日本の『神』=相対者」と「西洋の『God』=絶対者」という「使いわけ」と同様に、天皇制ファシズムの時代に生きる日本人キリスト者でありかつ帝大教授という国家的知識人としての苦肉の論理とも言えるでしょう。そしてこうした詭弁は、次回に取り上げる滝沢克己氏の国体論に於いてもみられるところです。  
ところで、菊川美代子という人の「天皇観と戦争批判の相関関係ー矢内原忠雄を中心にしてー」という論文では、上掲の「天皇は現人神なりと為す信念には二つの考慮が加へられねばならない」云々について、「このように矢内原は、国家において天皇は尊重されねばならないが、天皇は他の人間と同様に人間であるとして、天皇の神性をはっきり否定しているのである」と述べておられます。しかし「天皇神性の基礎は人格よりも位体に於て存し」という文言をみれば、「はっきり否定している」とは言えないのではないかと思われます。菊川さんとしては、その「神性」はあくまでも「人格」についてではなく「位体」について言われているにすぎず、それは「被造物」であることと矛盾しない範囲のことであって、「造物主」の前では相対化されるものだということでしょう。その点は立花隆氏も、「キリスト教信者である矢内原にとって、天皇の神性をキリスト教の神の神性と同列に置くことだけはどうしてもできなかった。天皇に神性ありとしても、それはキリスト教の神の全智全能でかつ宇宙のすべてを造った造物主であるという意味での神性とは別の神性であるということを矢内原は論証しようとした。」と述べているとおりです(『天皇と東大 V』)。しかし聖書的には、創造主なる「神」のみが神性を有するわけではなく、一個のユダヤ人イエスにも「神性」が認められています。それを修辞的意味で解するか、そのまま実体的意味で解するかは解釈の問題ですが、新約聖書にイエスを神性者とみなす面があることは否定できません。そして矢内原氏が言う「位格」は、イエスを神格化した「三位一体論」に於いて「位格=人格」と解される「ペルソナ」であることを思えば、矢内原氏が天皇(の位体)について述べた「神性」が、彼の中で聖書乃至はキリスト教と全く「別の神性」であるとは言えません。そして矢内原氏にとって「天皇神性の研究」は「国家至上価値」と共に「国体研究の中心」として位置付けるほど重大な意味を持っていたのです。  
矢内原氏も一方では天皇を「神」とすることについては否定的発言をしながら、天皇の「神性」については、適用範囲と意味の区別を設けてのことではありますが肯定的発言をしているのです。「人性=人格」と「神性=位体」という区別をどう見るかという問題です。これは、いかにキリスト者とは言え当時の日本国のエリートであった矢内原氏としては、国家神道の全面的否定ということは現実にはあり得なかったということでしょう。そこに内村鑑三氏以来の「二つのJ」のジレンマがあります。その一方の「J」すなわちイエス・キリストが「ただの人」であればまた別の話ですが、そのイエス自身が「神性」を帯びた存在であり、さらには「神」と同一の本質・実体とみなされたことが、その相似的存在の許容につながっていると思われます。その詭弁の根拠とされるのが後述の「経綸」の論理です。これは歴史的現象を救済史という歴史観で都合よく包括するものです。言わば皇国史観を救済史観で包むのです。その媒体が「神話」です。  
土肥昭夫氏は、前掲書の「矢内原忠雄の思想と行動」の終わりのところを引いて、「彼にとって日本は一君万民の天皇を上に仰ぐ国体でなければならなかった。彼はこの天皇制国体において神の正義と公道は貫徹し得ると確信していた。この見解は戦後もかわらなかった(中略)彼は大正デモクラシーの時期に天皇制国家によって最高水準の教育をうけるという恩恵にあずかり、キリスト者であり、東京帝大教授であるというエリート意識をもって、わが道を生きつづけることができた人であった。そういう彼が一君万民の天皇制イデオロギーから解放されることは困難であったのである。」と結んでいます。  
また、菊川さんは、<矢内原は、天皇を人間と言いながらも、神の経綸の中に天皇を位置づけていた。この点については色々と議論のあるところだが、私には、矢内原は、天皇をキリスト教の神の経綸の中に位置付けられた「特別な人間」として見ていたとするのが適切であるように思われる>と指摘しています。  
このお二人の指摘がまさに矢内原氏の限界を表していると思います。その限界は当時の時代状況を勘案すれば限界とは言えないのかも知れません。国家から給料を得て国家のために貢献すべき帝大教授のキリスト者としては、「二つのJ」のジレンマを乗り越えるためのレトリックとも言えるでしょう。そういうのは他の知識人キリスト者にもみられることで現代の民主主義社会の考えで批判することには無理があります。しかし無理はあっても批判すべき問題であることに変わりはありません。  
過去には、この二項の緊張関係を抜きにした妥協的キリスト教もありました。それは明治二〇年代に日本組合・神戸教会の牧師だった海老名弾正などにみられる神道的キリスト教のことであり、矢内原自身、「戦争中日本的基督教などといふことが言はれまして、エホバ神がイークオル天御中主神であるなどと言つた人もありますけれども、私はさうは思はないのであります。」(「全集」一九所収「国家興亡の岐路」〜「日本の傷を医す者」)と、その違いを明らかにしています。ここで矢内原氏が指摘している「日本的基督教」、そして「エホバ神=天御中主神」を言った人というのは、おそらく海老名弾正の弟子の渡瀬常吉ではないかと思われます(笠原芳光氏の論文<「日本的キリスト教」批判>)。  
前述の「経綸」の論理が表されている箇所を引用します。  
「天照大御神は天照大御神であつてエホバの神ではないが、併し天照大御神を意味あらしめるものは唯一つの絶対的な宇宙神である。即ち聖書に啓示せられて居るエホバ神である。エホバ神なくしては天照大御神もなく、日本民族もなく、天孫降臨の神勅もなかつたのである。この意味に於て天孫降臨の神勅の中にエホバの経綸が顕れて居ると私は信ずるのである。之は唯一つの絶対的な真理の神が全世界、全宇宙を経綸し給ふといふ信仰と、その神が己れを顕現し給ふ態様は各民族により時代によつて特殊であるといふ解釈と、二つの原則から出てくることであるのです。イスラエルは神の選民であるといふと同じ意味に於て、日本民族も神の選民である。日本は宇宙の本つ国であつて他の国は日本に附属してをると本居宣長などが言ひましたが、他の国が日本に附属してをるといふことは誤りであります。併し日本は本つ国であるといふのは正しい信仰である。日本も本つ国だ支那も本つ国だし、凡て理想をもつて其の歴史を営んでをる民族は本つ民族であり、其の国は凡て本つ国である。凡て理想に生きる民族はその限りに於て宇宙の絶対的原理を表現してをると言へる。選民といふ思想を其の如く拡張して解釈すべきだと思ふのです。」(「全集」一九所収「国家興亡の岐路」〜「日本の傷を医す者」)  
この「拡張解釈」は矢内原氏が「日本国」を聖書的,キリスト教的世界観と関連付け、その中に位置付ける必要によるものだと思います。矢内原氏のアイデンティティーはキリスト教信仰を抜きにしてはあり得ないと同時に、日本国を抜きにしては成り立ち得なかったのです。矢内原氏に於けるこの二つの要素、キリスト者たることと日本国の指導者的立場にあることとをどう結び付けるかとなれば、考え方として「神の経綸」という枠を設定することは当然だと言えます。日本国民がイスラエルの民に取って換わって「選民」だと主張しているわけではなく、他の国民を日本国民より劣位としているわけでもなく、これには国粋主義的要素はありません。むしろ矢内原氏は自ら「日本的基督教」について論じています。それは笠原氏によって「国家主義への批判に立った日本的キリスト教の主張という数少い良心的な発言である」と評されているもので、「日本的基督教は『日本的』によつて基督教の真理を顕現すること」だと言われています。この「日本的基督教」の中で、加藤弘之という人物のキリスト教批判に対して矢内原氏は、「科学的に証明出来ないものは皆お化だと言はれる博士の科学万能の唯物的議論そのものが決して真理でありません。少くとも、加藤博士以上であらう処の自然科学の大家が基督教を信じて居るといふ事実、又基督信者は慈善事業に於て功績があるといふ事実を認められる以上、その事実自体が基督教の真理についての一の証拠であると見られませんか。爪の垢ほどの証拠もないと博士は言はれますが、証拠があるのにそれを証拠として認識しないのではありませんか。」と抗弁していますが、これにはかなり無理があります。プロテスタントであるはずの矢内原氏が、「自然科学の大家が基督教を信じて居るといふ事実」や「基督信者は慈善事業に於て功績があるといふ事実」を「基督教の真理」の証拠だなどと言うことは全くの矛盾です。むしろそんなものは「爪の垢ほどの証拠」にもならない、基督教の真理はあくまでも神の賜物である信仰によってのみ認められる旨を主張すべきです。信仰を与えられていない者には、いかなる「事実」を認めてもそれを以て聖書が啓示する「神」の存在証明とか「基督教の真理」の証拠とはなり得ないのです。このへんのところは矢内原氏の(社会)科学者としての「客観性」へのこだわりが露呈していると言えます。 
 
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矢内原氏が、あくまでも聖書的「神」と国家神道の「現人神」とを別の「神」として認識していたことは次の文言からも明らかに見て取れます。ただ、それでも全く切り離して考えることは出来なかった、「神性」という点では天皇を、聖書的「神=エホバ」の経綸の中に特別な意義を認めねばならなかった・・・ということです。そこに当時のキリスト者知識人の限界というか特徴とも言えるものがあります。長い引用になりますが、ここは矢内原氏の天皇観および神観を示す重要な箇所なので写します。そしてここに言わば、キリストの相似的存在としての天皇という、神道的キリスト教に通じる見方がほのかに垣間見られるのです。  
<戦争指導のイデオロギーとしての国体論は、満州事変以前から致しまして事変後を通じ益々強化せられたところの、非常時精神の産物であるのであります。其の国体論の中心は、率直に申せば、天皇陛下は神であるといふ一言に帰するのであります。日本には神社仏閣の数は多い。道端の地蔵尊や馬頭観音に至る迄色々の偶像があります。併し神社や仏像や地蔵尊や、さういふ旧式の偶像崇拝は実際のところ国民の精神生活に対して何らの威力を有たなかつたのである。何らの指導力を有たなかつたのである。ただ、天皇は神であるといふ思想、さういふ信仰、さういふ国体論が非常なる圧力を以て、暴力的に日本国民の精神を圧迫し、指導し、非常時意識の中心的イデオロギーとして押し出されたのであります。事苟くも天皇を神とするといふ思想に聊かでも牴触する言論であるならば、その片言隻句をも捕へて直ちに不敬罪として処罰したのであります。旧約聖書におきましても王を神と申したことはあります。エホバによつて膏注がれたものを神と言つた例はあります。又神は人と違つて私心のないものであるが故に、私心のなき人のことを形容して神の如き人、さういふ使ひ方の言葉はあります。併し天皇を宗教的信仰の対象たる意味に於て人間ではない、神であるといふ思想は、それ自体間違つた神観であるのみならず、日本の歴史に現はれたる国民的意識から見ましても行き過ぎである。昔柿本人麻呂が、持統天皇大和の雷の山に行幸したまうた時にお伴しまして詠んだ歌が万葉集に出てをる。すめろぎは神にしませば天雲の雷の上にいほりせるかもといふ有名な歌でありますが、川田順といふ人がこの歌を註釈したのを読んだ事があります。雷山と申すのは海抜百米位しかない小さい丘であるさうであります。持統天皇は女帝であらせられましたから、さう高い山に登られる筈はないのであります。その雷山にお登りになつたことを斯くも大きく歌ひあげたところが素晴しいのである、と川田氏は申してをりましたが、かういふ「すめろぎは神にしませば云々」といふ思想は万葉時代からありましたけれども、之は敬ひ尊んだ言葉でありまして、天皇を宗教的崇拝の対象たる意味に於て現人神として見たと解釈するのは、行き過ぎであると私は思ふのであります。天皇は私心がないといふ意味に於て神の如き心を有たれる。或は天皇は天照大御神の御子孫として神に膏注がれた特別な地位にあられる方である。さういふ意味ならばいざ知らず、天皇をば人間と違ふところの神であるといふ思想を、彼らは日本国民に強要した。之が国体論者の仕出かしたる最大の罪であるのであります。贔屓の引倒しといふ言葉がありますけれども、彼らはかうして天皇を神とした為めに、今日天皇の地位と其の基礎とが如何にひどい目に遭つてをられるか。之は非常時的な国体論者の責任であるのであります。而も彼らの多くの者は真に天皇を神として崇める信仰を己れ自身有たずして、他人の思想を圧迫する手段として之を用ひた事に於て、彼らの罪は極まるのである。斯の如く国民の信仰心、国民の宗教心、国民の神に対する考を不純なものとし形式的なものとしたことが、即ち近代的な意味に於ける偶像崇拝であつたのであります。〉(「全集」一九所収「日本の傷を医す者」)  
私が気になるのは、上に引用した文中にある、「天皇は天照大御神の御子孫として神に膏注がれた特別な地位にあられる方である」と言われ、「さういふ意味ならば」、「天皇をば人間と違ふところの神である」と言っても許容し得たようなことを述べていることです。それがそうではなく、国体論者がこれを国民に「強要」したからいけないというわけです(「全集」一九所収「日本の傷を医す者」)。逆に言えば、「強要」でなかったならあり得たとも取れる発言です。そこに「膏注がれた特別な地位」すなわち「キリスト」と天皇との共通性を見るのは穿ち過ぎでしょうか?まさに矢内原氏の言う「行き過ぎ」た読み込みかも知れません。しかし同じキリスト者として、「膏注がれた特別な地位」と聞けば「メシア」を連想するのは当然であり、それがここでは天皇にもつなげられていることは軽視できません。無論、キリスト教でも「イエス・キリスト」だけでは、客観的にはイエスを神格者と信じ告白することにはならないので神性を強調したい人は「主」とか「神の子」を付けるわけですが、それは、一神教のイスラエルの歴史的文脈に於いて「膏注がれた者」(「メシア」〜「ハ・マシアハ」〔ha Mashiach〕)は王などの「特別な地位」ではあっても神格化された存在ではないからです。だから、矢内原氏が「神の経綸」の中にイスラエル的メシアと天皇とを関連付けても、それをもってキリスト教信仰からの逸脱とはなりません。しかしキリスト者にとってやはり抵抗は感じるはずです。それは「メシア」と言えば誰よりもまずイエスを想起するのがキリスト者だからです。  
なお、文中の柿本人麻呂の歌の「すめろぎは神」というところは三島由紀夫の『英霊の声』に出てくる「などてすめろぎは人間となりたまひし」という言葉の背景になっていると思われます。  
天皇制ファシズムの視点として重要なことは、アジア・太平洋戦争の遂行責任者たちにとって護持すべきは第一に「国体」であって必ずしも昭和天皇個人ではなかったということです。「『尊王絶対』は抽象的な天皇像に向けられたもので、必ずしもナマ身の昭和天皇を意味しなかった。」(〜立花隆著『天皇と東大 V』)と言われているとおりです。そもそもその戦争前の二・二六事件の時にはすでに、弟の秩父宮との交代も考えた人がいたし、皇道派の柳川平助第一師団長が述べたという「日本の国体というものは皇位が有難いのです。皇位にいらっしゃる方が、もし不適当なら、血統をつがれている誰かと替えてもよいのです」(〜同上)というのは、当時のエリートの多くのホンネでしょう。そして彼らに抵抗した矢内原氏も、論理的には共通していたと言えます。それが、天皇について「人性=人格」と「神性=位体」という使い分けです。「皇位」たる「位体」は神聖化されてもよいという考えです。立花隆氏によると、矢内原氏が昭和12(1937)年12月に東大を追放される形で辞職に追い込まれた(戦後すぐに復職している)原因となった発言は、まさにこの使い分けです。すなわち、本エッセイの(2)で取り上げた「日本精神の懐古的と前進的」の「神性」に関する箇所です。それは現人神天皇教徒から見れば、基督教の創造主の前に天皇の権威が相対化され、人格的には神性を認められないというのですから不敬の極みでしょう。しかし現代の無知識人たる私の如き者からすれば、日本の天皇ないしは皇位・皇統の如きと創造主の経綸とを関連付けるなどは、創造主に対する不敬に近いとさえ感じられるのです。  
最後にもう一度、私の論旨を申しますと、小田切信男氏にせよ、矢内原忠雄氏にせよ、明確にイエスという人間の神格化を否定しきれないキリスト教的立場では、結局、天皇という人間の神格化(「神」と「神性」との区別はあっても・・・)をも否定しきれなかったということ、これは仮説ではなく事実です。仮説と言うなら、明確にイエスという人間の神格化を否定した聖書宗教的立場では、天皇という人間の神格化をも否定し得たということですが、そういう人となると私は、明石順三氏以外の例を知らないのです。しかし彼は一般的には「正統的」キリスト者とみなされませんので、また別の論立てを要します。 
 
天皇神格化の背景 / 神道とキリスト教

 

国家神道の時期区分は、村上重良氏によると(〜『国家神道』〔岩波新書〕、  
(1)形成期(明治維新〔1868年〕〜明治20年代初頭〔1880年代末〕)  
(2)教義的完成期(帝国憲法発布〔1889年〕〜日露戦争〔1905年〕)  
(3)制度的完成期(明治30年代末〔1900年代後半〕〜昭和初期〔1930年代初頭〕)  
(4)ファシズム的国教期(満州事変〔1931年〕〜太平洋戦争敗戦〔1945年〕)  
の4段階である。自分にとって狭義の「国家神道」は(4)を指す。  
古代ローマ帝国の国教となったキリスト教もこれに似た段階を経ている。あえて対応させると、  
(1)は、原始キリスト教会の時代、(2)は、古カトリック教会の時代・・・コンスタンティヌスとリキニウスによるミラノ勅令(313年)〜テオドシウス帝による国教化(392年)。特にその中でニカイア信条制定(325年)とコンスタンティノポリス信条制定(381年)が重要。  
(3)は、その後、カルケドン信条制定(451年)と5つの総主教区の成立まで。  
(4)は、古代から中世にかけての教会会議にもとづく異端追放、さらに12〜13世紀の異端審問制定後、宗教改革の時代のカルヴァンによるセルヴェトゥス火刑を経て、21世紀に入りローマ教皇により公式に懺悔されるまでの、正統教義にもとづく嵐のような「異端者」迫害の歴史(このブログでは、同じ教会の犯罪でも十字軍や魔女裁判には言及しない)。なお、異端の処刑はほとんどローマ・カトリック教会による犯罪であって、正教は追放はしたが殺戮はしていないとのことである。だからと言って正教には何ら責任は無いなどと言えるだろうか?そもそも「異端」を公式に認定する基準としての「正統」教義・信条は、最初に東方で確立されたことを忘れてはならないのである。2世紀に西方で成立した古ローマ信条(のちの使徒信条)は洗礼のための使徒的信仰の要項であって、同じ基本信条の中でもニカイア・コンスタンティノポリス信条やカルケドン信条の如く異端排除のために作られたものではない。  
とにかくキリスト教の正統派はカトリックも正教もプロテスタントもみんな同じ穴のムジナである。  
そもそも何故、天皇は神格化されて宗教的対象として信仰されるに至ったのでしょうか?この件に関しては長くなりますが、立花隆氏の文章を引用します。  
<『本庄日記』の天皇発言のはじめの部分に戻る。そこで天皇がいっていたことは、自分は肉体的には普通の人間と同じなのだから、天皇機関説を排撃しようとするあまり、天皇の神格化をどんどんすすめる形になるのは迷惑だ(人間としてふるまえなくなる)ということだった。終戦の翌昭和二十一年元旦の詔書で、天皇は、自分を現人神とするのは架空の観念だとする、いわゆる「人間宣言」をした。長年の皇国教育で、「天皇は神様」と思い込んでいた国民はそれにびっくり仰天するのだが、内輪では、こういう形で、とっくに「人間宣言」していたわけである。しかし、このような天皇の「人間宣言」に対して強く抵抗していたのが軍部だった。軍隊では、天皇は現人神とするのが、軍人教育の基本だったから、天皇が現人神でないということになると、軍の秩序の基本がくずれてしまうのである。そのあたりがよくわかるのが、『本庄日記』の、天皇機関説に関する三月二十七日の記述である。(中略)「三月二十七日軍事参議官会議に於て機関説に関する論議あり、翌二十八日此概要を申上げ、〔略〕陛下は更に、理論を究むれば結局、天皇主権説も天皇機関説も帰する所同一なるが如きも、労働条約其他債権問題の如き国際関係の事柄は、機関説を以て説くを便利とするが如し云々と仰せらる。之に対し軍に於ては天皇は、現人神と信仰しあり、之を機関説により人間並に扱ふが如きは、軍隊教育及統帥上至難なりと奉答す」  
後述するように、最後の二行がポイントである。また、ここで天皇が、天皇主権説も天皇機関説も、理論の究極までいけば同じようなものだが、国際関係(債権問題など)の事柄は、機関説をもって説くを便利とす、としているところが注目に値する。これは、天皇が機関説問題のポイントをよくつかんでいたことを示している。  
要するに、天皇主権説と天皇機関説の最大のちがいはなにかというと、一国の主権が天皇個人にあるか、国家そのものにあるかのちがいである。天皇主権説では、天皇は専制君主としてふるまうことが許され、何をしてもよく、何を決めてもよい。天皇機関説では、主権は国家そのものにあり、天皇はその代表者(機関)として、憲法の定める範囲で、決定の自由、行動の自由を持つにすぎない。従って、天皇主権説と天皇機関説の対立関係を正しく表現するなら、「専制君主説」対「立憲君主説」とするか、「天皇主権説」対「国家主権説」としたほうがよいのである。どちらにしたところで、天皇個人の日常のふるまいに関しては、そうちがいが出てくるわけではない。ちがいが出てくるのは、天皇の行為の持つ法的意味、それがもたらす法的効果が問われる場合である。(中略)この天皇機関説問題を通じて、天皇の神格化がどんどん進んでいったというのはまぎれもない事実である。それは特に、天皇機関説排撃運動が、機関説は日本の国体とあいいれない学説であることを明らかにせよと政府に迫る、国体明徴運動に変っていく過程で起きたことである。(中略)国体とは法律的には、憲法一条の「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」ということにつきるということが、治安維持法(国体を変革しようとすることに対する処罰規定)の審議過程で確定している。しかし国体明徴運動でいう「国体」には、これにさらに、憲法三条の「天皇は神聖にして侵すべからず」と、憲法四条の「天皇は・・・・統治権を総覧し」、あるいは憲法十一条の「天皇は陸海軍を統治す」などの天皇大権のすべてを含むと考えるべきだろう。つまり、国体明徴運動においては、このうちの「神聖にして侵すべからず」の部分が特に強調されることで、天皇の神格化がどんどん進んでいったのである。同時に、天皇の統治大権が強調されることを通じて、日本の軍国主義化(軍部の独立権力化、軍のかかわることについては、外部からいっさい口を入れさせない)がどんどん進んでいくということも起きていた。(中略)軍部が執拗に美濃部攻撃をつづけた背景には、海軍も陸軍も、このような反軍国主義的イデオローグたる美濃部を相当恨んでいたという事実がある。このような人物を芟除しておかないと、陸軍パンフが夢見ていたような、全国民が挙国一致で国防にいそしむというような完全軍国主義国家を実現できないと考えたのだろう。  
このあたりから、天皇機関説問題は、単なる法的理論解釈の問題ではなくなって、美濃部と軍部(ならびにそれと深く結びついた国本社などの国粋主義勢力)との政治的対決という様相を呈していくのである。その背景にもう一つあったのが、天皇の神格化の問題である。軍が機関説でもう一つ許せなかったのは、それが天皇の聖性を弱めるということだった。軍にとって、天皇は神聖不可侵のものでなければならなかった。軍にとって日本の国体の本質は、天皇の神聖不可侵さにあった。そしてその神聖不可侵さに軍が統帥権で結びついていることにあった。元東部憲兵司令官の大谷敬二郎は、天皇と軍人の間の統帥大権結合によって生まれる特殊な関係についてこう述べている。  
「軍を親卒せられる天皇は神聖不可侵であり、その神聖不可侵は法律上責任を負わざるの憲法の原義をはなれて、事実として神聖に侵すべからざる現人神であった。天皇が神なる座におわすならば、その固有する統率大権もまた神聖不可侵とし、ここに統帥大権は天皇絶対とともに、その(大権の)絶対性にまで高められていった。軍人の精神主義よりの当然の帰結でもあった。ここにわが軍における統帥権の特殊任務があったといえよう」  
天皇の絶対性の延長上で、統帥大権そのものが絶対性を帯びることになったというのである。同じようなことだが、大谷はまた、憲兵指令官であった秦真次の統帥権を引いて、こうもいっている。  
「彼は統帥権を論ずるに〔略〕、国体論より論ずべきものであるという。そこでは、統帥権はわが国体の一側面であり万世一系の天皇の身位とともにあるもの、もはやそこでは統帥権は至高絶対であった」  
天皇が現人神なら、現人神と至高絶対の統帥大権で直結した軍は、神兵なのである。天皇が神聖不可侵なら、それと直結した軍もまた神聖不可侵の存在となる。軍は国民の軍ではなくて、神聖不可侵なる天皇の軍なのである。そういう存在として軍は天皇の神聖さを分有したから、国民は軍を神聖視し、軍を尊崇しなければならなかったわけだ。ここから、日本の軍の、意識の上での特殊性がすべて生まれてくる。軍の神聖さははじめから終りまで、天皇の聖性に依存していた。軍は、自己の価値(神聖さ)をより高めるためにも、天皇の神格化にはげまなければならなかった。こうして、天皇の一層の神格化と日本の一層の軍国主義化は、深いところで結合しあった関係となった。その神聖さを少しでも破るような動きは、絶対に許せなかったのである。これが軍部が天皇機関説つぶしに狂奔した最大の理由である。  
軍にとって、国体は天皇の聖性と結びついたものでなければならなかった。天皇機関説のごとき、国体の聖性を否定するものであっては断じてならなかったのである。(中略)侍従官長、本庄繁の日記にあった奉答のように、天皇の現人神信仰は、軍隊教育の根幹であり、軍隊の存立基盤そのものだった。だから、天皇を神様視せず、天皇も国家の機関にすぎないと機能主義的にとらえる天皇機関説は、軍隊とは根本的に相いれない思想だった。(中略)国体明徴運動も、はじめはもっぱら政治的要路の人々(政府当局者、各大臣)に対する、イデオロギー的見解表明(天皇機関説反対、国体擁護)の慫慂ないし強要でしかなかったのに、やがて、社会のあらゆるセクターでの国体明徴運動に転化していった。それにともなって、機関説排撃の根拠としての現人神信仰が社会全体に押し広げられていった。その行きつく先が、現人神信仰とミリタリズムを社会の基盤に据えた、独特の日本型ファシズム社会だった。(中略)  
このあたりで、もう一人語っておきたいのは、平泉澄という東大文学部国史学科の教授についてである。(中略)あの時代(昭和戦前期〜戦中期)の日本において、平泉は社会的に最も大きな影響力をふるった東京帝大教授だった。どのような影響力かというと、皇国日本最大のイデオローグとしての影響力である。どの方面に影響力を持っていたかというと、軍部(高官ならびに中堅将校)に対してであり、宮中に対してであり、近衛文麿首相、東条英機首相などの政治中枢に対してである。あの戦争時代にこれほど多方面にわたる影響力を持って東奔西走した東京帝大教授は他にいなかったといってよい。なぜ国史学の一教授がそれほどの影響力を持つにいたったのかというと、その歴史学が、天皇中心の歴史学であり、その説くところが、時代にぴったり合っていたからである。(中略)平泉にいわせると、「歴史は即ち復活なり」(同前)で、歴史は基本的に、歴史上の人物に対する現代人の認識、理解、共鳴の上に成り立つ。なかんずく精神的共鳴が大切で、共鳴が成り立つとき、死んだ歴史上の人物が生ける現世の人の中で復活する。歴史上の人物の生きたエピソードはそのような共鳴現象を起す力を持っている。そのような共鳴現象が、歴史上、時代をへだてた様々の人の間に繰り返し起り、その連鎖現象によって歴史は動いてきた。(中略)こういう具合に、人から人へ、魂の感化力が及ぼされていき、それによって歴史は動いていくというのが、平泉史学のエッセンスである。そして、国史における最も大切な連鎖が、天皇に対する忠義の連鎖であり、なかでも重要なのが、建武の中興と明治維新を結ぶ連鎖である。建武の中興を実現させた楠木正成、北畠親房らの天皇への絶対忠誠心が六百年の時を経て幕末の志士たちの心の中で復活し、それが天皇親政の明治維新を実現させた。その精神を我々も受け継いで、昭和の御世の栄光を輝かせなければならないというのが、平泉の基本的歴史観である。  
(中略)大学の講座から天皇機関説を放逐することはいちはやく行われたが、それだけでは足りず、初等教育から高等教育まで、その教育内容を抜本的に刷新する必要があるということで、昭和十年十一月に、文部省に教学刷新評議会が設けられ、各界から集められた約六十名の委員が約一年にわたって審議を重ねた。(中略)出された答申は、次のように書き出されていた。(中略)国体明徴政策の一環として、昭和十二年に、文部省から国体の意味と意義を明らかにする、「国体の本義」なるパンフレットが作られ、これが三十万部も全国の学校にバラまかれるのだが、この文章は、その冒頭部分と、ほとんどそっくりそのまま同じ(仮名づかいなど、ほんの数文字ちがうだけ)である。要するに、これが国家公認の国体観念のエッセンスということだ。答申は、「わが国においては祭祀と政治と教学とは、その根本において一体不可分」だとした。祭祀(宗教)と政治と教学(教育と学問)が一体不可分とは、三者を分離する(それぞれに自由独立とする)ことが憲法上の基本原則とされる現代社会の人間にとっては信じられないことだが、要するに、このときから日本は天皇教を国教とする宗教国家になったということなのである。当然、教育と、学問は、国体観念と日本精神を中心とするものに変えていかなければならないとされ、初等教育も高等教育も皇国教育的な内容に大幅に組み替えられていった。>(立花隆著『天皇と東大 V』)  
立花氏は意図的かどうかはわかりませんが、「国家神道」という言葉を用いていません。それはこの言葉が第二次大戦後にGHQの神道指令で使われ出し一般化したものだからだと思われます。そのかわりと言っては何ですが、ここで「天皇教」と言われています。天皇教という言葉は小室直樹氏で知られていますが、小室氏に於いては国家神道と天皇教とは別物だそうです。また、大江志乃夫氏は国家神道のあり方を「いわば天皇教とでも言うべき宗教」と規定しています。出雲大社紫野教会のHPでは国家神道の実態を「神社非宗教論+天皇教」と表現しています。  
ところで、(二)の終わりに書いた私の論旨を、ここでまた繰り返させて頂きます。私は、アジア・太平洋戦争の時代に生きたキリスト者知識人として三者三様を挙げました。三様という意味は信仰的立場の相違によるものです。小田切信男氏はイエスを(「神」とは区別された)「神の子」とみなします。矢内原忠雄氏は無教会の指導者的伝道者として創始者、内村鑑三氏の信仰と矛盾せず「三位一体」のドグマを受け容れ、イエスを「神」とみなす人です。次回に取り上げる滝沢克己氏は後半生で洗礼を受けて教会員になりましたが晩年には手かざしの新興宗教にもハマるという、宗教的には落ち着きのない人物で、その思想は自ら独断的だと認めているとおり「原事実」などを説く観念論であり、表面的にはイエスを神格化していないかの如くであるが神格化ともおぼしきところがあります。  
私が言わんとするのは、これら三人に見られるように、明確にイエスという人間の神格化を否定しきれないキリスト教的立場では、結局、天皇という人間の神格化をも否定しきれなかったということです。イエスの神格化否定(=「三位一体」ドグマの否定)が天皇の神格化否定と実践的に結び付いた事例は、今のところ「灯台社」(「ものみの塔聖書冊子協会」の日本支部)の明石順三氏だけです(土肥昭夫氏前掲書)。  
しかし彼も「サタン」がどうのこうと言っているように、「非神話化」および「非終末論化」がなされていない信仰形態なので、戦時下だけではなく平和な時代にあっても所謂「カルト宗教」のドグマの如き反社会的危険思想になるおそれがあるので、天皇神性の否定という一点のみをもっては到底、肯定的に評価することは出来ません。  
そして、天皇制ファシズム期の国家神道の実体を捉える上で最も重要なことは、当連載の(二)の矢内原忠雄氏の「神観」と「天皇観」(3)に書いたことの繰り返しになりますが、「『尊王絶対』は抽象的な天皇像に向けられたもので、必ずしもナマ身の昭和天皇を意味しなかった。」(〜立花隆著『天皇と東大 V』と言われているとおり、アジア・太平洋戦争の遂行責任者たちにとって護持すべきは第一に「国体」であって必ずしも昭和天皇個人ではなかったということです。つまり大日本帝国の実質的最高権力者は天皇自身ではなく、むしろ皇室の権威を利用してきた武家政権の伝統を受け継ぐ軍人たちであったということです。国家神道は国粋主義者や一部の軍人たちが国を動かして戦争を遂行するために「教育」という名の洗脳を国民に対して行なった国家レベルの狂信的イデオロギーであり、その点では大規模な「カルト宗教(運動)」であったと言えます。そのイデオローグの一人で、時期的には上記の村上氏の区分では(3)〜(4)に位置する筧克彦氏はベルリン大学の留学を通してキリスト教神学にも造詣が深く、その「神ながらの道」という思想にはギリシャ哲学乃至はヘレニズム・キリスト教神学の影響が感じられ興味深い。たとえば、「大君は総ての本源たる大御神様の御延長に在はしまし、皇族様より臣民に至るまで一人残らず神様に外ならぬ国でございます」などというくだりはプロティノスの流出説を想起させる。 
 
滝沢克己氏の天皇観 / 神道とキリスト教

 

滝沢克己氏は小田切信男氏と同じ時代を生きた人です。小田切氏が1909(明治42)年9月生まれで1982(昭和57)年6月に逝去。滝沢氏は1909(明治42)年3月生まれで1984(昭和59)年6月に逝去です。ちなみに矢内原氏は1893(明治26)年1月生まれで1961(昭和36)年12月に逝去。アジア・太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年12月の時点では、小田切氏と滝沢氏が32歳、矢内原氏は48歳でした。  
その開戦の年、滝沢克己氏は山口高等商業学校の教員であり、『カール・バルト研究』を刊行しています。彼が九州帝大の教授に就任するのは戦後です。彼がドイツに留学してバルトに師事したのは昭和9年のことです。  
また、彼が洗礼を受けてキリスト教会に所属するのは49歳の時であり、八木誠一氏との論争が56歳からです。  
さて、滝沢氏の思想の要点、特に伝統的キリスト教との違いは次のとおりです。  
<滝沢は、インマヌエル=「神我等とともに在す」という原事実、人間の意識や体験や思想や行為ではなくそれらに先行する原関係のことを、神と人との第一義の接触という。それに対して、第一義の接触に基づき、この接触を歴史内に表現する人間がとる形、神に基づき神をあらわす人間の相対的・個性的なあり方を、神と人との第二義の接触という。歴史上の人格としてのイエスは、いかに正しく神の意志を地上にあらわし出したとはいえ、第二義の接触の成就にすぎず、けっして第一義の接触それ自身ではありえない。それはイエス自身もそれを自覚していた通りである。しかるにバルトをはじめ多くの神学者は、イエスによってはじめて神と人の第一義の接触が成り立ったと考える。この意味で歴史上の相対的人格であるイエスを救済の根拠としてしまう。こうしてキリスト教の排他的絶対性が主張されることになり、聖書のキリスト告知を通さずには真実の救いに至ることもありえないことになってしまう。しかし事実は、神と人との第一義の接触はあらゆる人間の根柢にある根本的規定であり、この原事実によって、キリスト教々会の内外を問わず、真実の救いが可能でもあり現実でもあるのだ。実際、滝沢はこの現実を仏教の中に見るのである。>(八木誠一編著『神はどこで見出されるか』)  
つまり滝沢氏はイエスを神格化しないということです。実際、滝沢氏自身が同掲書の中で、聖書記者たちは「イエスその人の神格化もまた不可能であった」と述べています。つまり滝沢氏は、キリスト教の根幹とも言えるイエス・キリストの特別啓示(=特殊啓示)を相対化したわけです。そして、第一義の接触と第二義の接触との区別を欠くと、<人は、無限の実体(=神)と有限の様態(=イエス)とを混同し、一つの「偶像的権威」を創り出すという>のです(〜「神、人間および国家」 〜杉田俊介氏の論文「戦後の滝沢克己におけるキリスト教と国体思想−宗教間対話との関連で−」)。これで明らかに滝沢氏はイエスを相対的存在すなわち普通の「人」としてみていたことがわかります。  
逆に、滝沢氏の師であるカール・バルトは「聖書に証しされたイエス・キリスト」のみに啓示を認めて、一般啓示(=自然啓示)を否定したといわれています。  
さて、その滝沢氏は、<日本の精神風土によってイエスを相対化し、キリスト教を「神社にもお寺にもお参りして一向に怪しまない」日本人的な信仰へと「醇化」することに、二つのJの理想的な関係をみていた>というのです(〜杉田氏の前掲論文)。そして、「天皇を中心とした日本国体は、国家の本質・使命を正しく表現、諸国家にとっての典型である」といわれます(同)。つまり、イエスが第一義の接触(=インマヌエルの原事実)の十全なる生起、他の人々が第二義の接触を生起するための「基準的形象」であるのと同様に、天皇を中心とした日本国体も他の諸国家にとっての「典型」だというのです。  
それなら滝沢氏は矢内原忠雄氏が批判した天皇制ファシズムを肯定したのかと言えばそうではなく、<「神国日本」もまた、「古来の・ことに最近の・歴史」において「最も極端な悪魔の国に転化」したと述べている。滝沢によると、近代日本の「国学者」たちは、宗教的激情にとらわれ、国体に対する一切の批判を封殺し、歴史的な必然に逆行した>といわれ、国学者らに対して<イエスにおける啓示の唯一性を信じるキリスト教徒と同じく、国学者も国体を絶対視する「偶像崇拝」に陥ったと主張した>そうですが(〜杉田氏の前掲論文)、滝沢氏はキリスト教の(イエスを神格化する)正統主義者たちと、国体を絶対視した国学者たちとを類比させているのです。  
そして滝沢氏は戦後に、靖国神社国営化や君が代・国旗掲揚の強制に反対したといいます。この点はまともです。しかし滝沢氏の最大の問題は、アジア・太平洋戦争を「聖戦」として肯定していたことです(〜前田保著『滝沢克己』)。<百年を超ゆる英米の勢力が一朝にして皇軍の武力によって東亜の天地から掃討されつつある」(中略)云々。東亜解放という正義の戦争がおきるのも、そしてそこでわが日本が勝利しうるのも、わが国体の自然にかなっているがゆえである。またそのゆえに「全く領土的野心なくして、天皇の御稜威を世界に輝かすと云うことも出来るのである(中略)聖戦は「世界万民の幸福」(中略)と結びつけられている。>  
このような聖戦思想は、国学者を批判したこととは裏腹に、結果的には天皇の「現人神」崇拝を許容したことを意味します。その天皇絶対主義イデオロギーに抗したならば、決して聖戦思想にはならないはずだからです。そして戦後、滝沢氏は「世界史的使命を担った聖戦」という考えを捨てたのでした。  
滝沢氏は、「天皇制の存立を、神・人間・国家の本質規定からとらえ、天皇の地位そのものと生身の天皇を区別することを強く主張した。前者は国家の永遠の本質を映す神聖な座であるのに対して、その座につく生身の天皇は、あくまでその都度の歴史的形象にすぎない。」  
しかし、やはり滝沢氏の天皇観には曖昧さが残ります。  
<「私たちの遠い祖先は古いインド人のように……省察の労苦を積みはしなかった。また中国古代の人々のように唯一の道を……組織立てて表現することもなかった。しかし、インドの哲学や中国の道徳の芯をなす、真に絶対的なかの一点は、私たちの祖先自身の生活と深いかかわりをもたなかったわけではない。かれらはそれを格別にそれと意識して、はっきりと決まった名で呼ぶというようなことはしなかったとしても、たしかにそのような、名づけがたい何かの在ること、活きていることを、感じていたのだ。だからこそかれらは、この世界の内部に、絶対的に神聖な、唯一の中心を立てようとはしなかった。……天皇さえも、ただそのような仲間の中心であって、けっしてそれの外ではなかった。西洋で『神』というとき、ひとびとがすぐに想像するような、『絶対的』中心ではなかった。その即位の宣命には罪責の告白をともなうのがつねだった。……そこにはどこか、人間の神聖を信じることが、同時にそれだけあきらかに人間の罪を告白することでもあるキリスト教本来の信仰に通じる、不思議な知恵さえ示されていないであろうか」。 滝沢の「なにものか」とは、信仰も行も要せず、つまずきも挫折もなく、素朴に日本人のこころに感じられる「事実そのもの」ではある。それは神・人の区別ではなく、ひととほとけのあわいを尊び、「人間の事実在る座はすなわち神そのものの座である」。天皇制および祖先崇拝にすっぽりとはまりこんでいく、 しかもあらゆる宗教を換骨奪胎して呑み込んでいく宗教性なのだ。一九四一年(昭和一六年)とはいえ「天皇の神聖を信ずる点に於いて古来全国民が一致して来たという類いなき事実」と書いて何の反省もないまま再び一九六九年にこう書き記して、なお歴史性や科学性を自負しつづけた滝沢に、その良き人柄とは 別に日本人の宗数的知の危険を私は感じる。>(〜松岡由香子さんの論文「滝沢克己のインマヌエル論」批判)  
この指摘のとおり、そもそも「天皇の神聖を信ずる」ことを肯定的に語ること自体、やはり非神格化しきれていないと言えます。滝沢氏は明確に、イエスを神格化するキリスト教と同様に、天皇を神格化する国家神道をこそ批判し、そのイデオロギーを否定すべきだったのです。ところが聖戦といった曖昧な態度でそのような立場をとれなかった・・・この点で滝沢氏も矢内原氏らと同様に、時代的制約に抗しきれなかったということでしょう。 
 
「現人神」「国家神道」という幻 / 新田均

 

もしや、トンデモ本?と思ったけど、思っているほどではなくて、主要な議論としては、「現人神」「国家神道」というイデオロギーは明治維新後に作られ流布したのではなく、昭和の10年代から顕著なワードである、ということ。最後の方は、現在流布している(著者によると悪意のある)誤解は、どうやら浄土真宗のせいらしいです。そのあたりは流し読みしてしまったけれど、天皇観や国体観の変遷を見たかった私にはコンパクトで読みやすい本。  
筑波大学の副田義也(そえだ・よしや)の『教育勅語の社会史ーナショナリズムの創出と挫折』の276ページを引用して「『国体の本義』(昭和十二年、文部省刊)では天皇は現人神であるという。『教育勅語』(明治二十三年)では天皇は神ではない。少なくとも『大日本帝国憲法』に示される立憲君主制において、天皇は、当初は、政府と議会に権限を制約されることがある君主であって、神ではなかった。井上毅は、『教育勅語』が特定の宗教、宗派の信者たちの信仰と矛盾しないようにすることを、起草のさいの原則としていた。」  
「要するに、天皇の現人神化・絶対化は昭和に入ってからのことだったおいうのである。」  
著者はこうした明治以降の変化を3段階に区分し「『現御神(あきつみかみ)』や『八紘一宇』という単語が登場するのは、なんと最後の第三段階、それも昭和十六年以降のことであることが判明した。」(22)と言う。「まず、第一段階の明治三十七年以降における説明は、天皇は天照大神の子孫であるという天皇『神孫』論と、天皇の徳と臣民の忠義とによってこの国の歴史は続いてきたのだという君臣『徳義』論とからなっている。」(23)「次に、第二段階になると、天皇『神孫』論と君臣「徳義』論の他に、皇室はいわば本家で臣民は分家のようなものである、天皇は親で臣民は子のようなものであるといった『家族国家』論がつけ加わってくる。それは大正十年以降のことである。」(24)「さらに、最後の第三段階になると、天皇『神孫』論、君臣『徳義』論、『家族国家』論の他に、さらに天皇『現人神』論と『八紘一宇』論とが付け加えられた。それは、昭和十四年以降のことである。  
教科書でも、この変遷はたどれて、「日本史教科書について言うと、明治三十六年の教科書では、元寇のときに吹いた風は『大風』と記述され、北畠親房は南朝に尽くした忠臣として記述されていたにすぎない。ところが、昭和九年の教科書になると、『大風』が『神風』と改められ、さらに昭(29)和十五年の教科書では、親房は『神皇正統記』を書いて『わが国が神国であること』を説いた人物であるとされるようになった。ここではじめて、『神国』という言葉が教科書に登場したのである。(中略)昭和十八年の教科書では、冒頭の第一章が『神国』と銘打たれ、元寇についての記述の見出しが『神風』となり、『かうした大難を、よく乗り越えることのできたのは、ひとへに、神国の然らしめたところであります』となどと<ママ>記されるようになった。」  
それでは、より詳しく第一段階を。この頃は「『国民意識』形成運動とでも呼ぶべき教化運動が政府主導で展開されたのだが、それは神道を主とし、仏教・儒教を従とする形をとった。」  
「三条教則」によると「天皇を天照大神の子孫、すなわち『神孫』『神胤(しんいん)』『神裔』とする説明が数多く登場している。そしてその中に、『神孫』であるから『現人神』と『称し奉る』としている例がいくつか見られる。」  
天皇主権を唱えた穂積八束の『国体論史』は分かるとして、「高山樗牛も同年に雑誌『太陽』に発表した『我国体と新版図』の中で...」そういうことを言っているそうです。  
明治四十年代に『大逆事件』や社会主義者、無政府主義者の台頭により、道徳教育の強化を迫られた文部省は、井上哲次郎の論。天皇の権威は「日本人の民族精神の中に潜在している『理想の表現』として捉えるべきだと主張し、その理想が『万世一系の皇統』という歴史事実となって現れていると解釈すべきだ、というのである。」  
美濃部達吉などが出てきて、天皇機関説などが出てきた一方、「キリスト教式の天皇『神孫』論とでも言うべき議論も唱えられた。日本プロテスタントの指導的な立場にあった人物で、第二代同志社社長<ママ>も務めた小崎弘道は、大正二年に出版した『国家と宗教』という書物の中で」天孫という言葉で説明している。  
そして第二段階の説明として、筒井清忠(彼の論旨は丸山真男の『明治―大正―昭和連続説』を否定している観点から)を引用して「個人主義の流行とそこから派生した煩悶とを抜きにして、昭和の『超国家主義』は語れないというのである。」(73)この大正時代というのは、面白くて「大正十年代は『軍人は到るところで道行く人々の軽蔑の的となり、軍服姿では電車に乗るのも肩身が狭いといふやうな状態であった』」(78)という重光葵(まもる)の証言を『昭和の動乱・上巻』からとっている。  
さらに昭和初期にはこの「現人神」伝説(伝統、というべきか)が作られることになります。そこで、著者が注目したのが、江戸時代末期の生きた佐藤信淵と幕末の国学者、大国隆正を取り上げます。両者はともに、昭和初期にRe-introducedされて、そこでは枕詞のように、「こんな偉大な人が忘れられていたのは遺憾である」といったような文言がある、とのこと。つまり、明治、大正時には、知られていなかった人達、ということです。  
さて、いよいよ昭和。著者によると、「現人神」も「国家神道」も加藤玄智のせいだ!と言います。「あまり知られていないことだが、『国家神道』という用語は”戦後に人口に膾炙する”とうになったもので、戦前にはそんなに使われる言葉ではなかった。たまに用いられる場合でも、”国家管理された神社神道”を指す、言い換えれば”神社神道が国家管理されている状態”のことをいう、範囲の狭い用語にすぎなかった。この『国家神道』観を転換して”巨大なイデオロギー装置たる国家神道”という見方を提唱したのが加藤だった。」  
加藤によると、「現人神教育が行われなかった一因は、神道もしくは神社の宗教方面を無視して道徳的側面のみを強調してきた『神社非宗教』論にあると見て、それでは『祖先崇拝ではなくてし、先祖追慕先祖記念である』、『此意味での祖先崇拝はならば、唯物論者でも実行出来る祖先崇拝である』と批判し(『神道の宗教学的新研究』))、その抛棄を繰り返し訴えている。」  
著者は大江志乃夫氏の『兵士たちの日露戦争』にある「日露戦争の兵士たちは国定教科書以前の世代に属し、その意識のなかには天皇も靖国神社もまったくといってよいほどにない」を引用して、村上重良の「明治―大正―昭和連続論」を看破する。「村上がいうように、帝国憲法・教育勅語によって『国家神道の教義』が完成し、それが教育を通じて国民に徹底されたのなら年齢的に見て、日露戦争時の兵士たちこそ、そのイデオロギー教育の第一世代であったはずだ。ならば、その兵士たちの意識の中に『天皇も靖国神社もまったくといってよいほどにない』というのはどう考えてもおかしい。」  
村上氏への反論が続きます。「村上重良は、帝国憲法や教育勅語が定められた時代を国家神道の『教義的完成期』と呼んだが、この時期の政府は”『国家の祭祀』は伊勢の神宮だけでよい、つまり、祭政一致は皇室祭祀だけで十分で、神社の存立は人民の信仰に委ねてかまわない”という立場だった(例外は、陸海軍省が管轄していた靖国神社だけだった)。」  
それから、ちょっと本題からはずれますが、面白い情報なので。「ちなみに、フィリピンを占領した日本軍は、米英の反日宣伝を意識したのだろうか、ここがカトリック地域であることを考慮して、日本カトリックの神父たちを送って宣撫活動に当たらせている(志村辰弥『教会秘話ー太平洋戦争をめぐって』) 
 
山本七平の『現人神』諸説

 

 
『現人神の創作者たち』
あとがき    
戦後24余年、私は沈黙していた。もちろん一生沈黙していても、私は一向にかまわぬ。ただ、その間、何をしていたかと問われれば「現人神の創作者」を探索していたといってもよい。私は別にその「創作者」を”戦犯”とは思わないが、もし本当に”戦犯”なるものがあり得るとすれば、その人のはずである。その捜索は難航を極めた。様々な試行錯誤があったが、その間に、多くのことを発見することができた。だが、いわば世の人が「そこに居るらしい」と思っているところを探してもそこにはいなかった。みんなアリバイがあった。・・・また、「なぜそのように現人神の捜索者にこだわり、二十余年もそれを探し、『命が持たないよ』までそれを続けようとするのか」と問われれば、私が三代目のキリスト教徒として、戦前・戦中と、もの心がついて以来、内心においても、また外面的にも、常に『現人神』を意識し、これと対決せざるを得なかったという単純な事実に基づく。従って、私は「創作者」を発見して、自分で「現人神とは何か」を解明して納得できればそれでよかったまでで、著作として世に問う気があったわけではない。 
この言葉は、山本七平の主著とされる『現人神の創作者たち』のあとがきに記されたものです。これで「山本日本学」の根本動機が何であったかがわかります。氏がもう少し長生きをされていれば、続いて、現人神の「育成者」そして「完成者」が書かれるはずでした。その痕跡は氏の『派閥』などに散見されますが・・・。  
「序章」    
読者はあるいは奇異に感じられるかも知れない、一体何で今ごろ尊皇思想の発端から成立、さらにその系譜などが問題になるのかと。そんなものはすでに過ぎ去った悪夢であり、現代には何の作用もしておらず、その主題は騒々しい宣伝カーで街頭をかけまわる戦後職業右翼の空疎なスローガンにすぎないではないか、と。  
問題はそこにあるであろう。戦時中のさまざまな手記、また戦没学生の手紙などを読むと、その背後にあるものは、自分ではどうにもできないある種の「呪縛」である。その呪縛に、それを呪縛と感じないほどに拘束され切っている者はむしろ少なく、それに抵抗を感じ、何やら強い矛盾を感じつつもそれをどうすることもできず、肯定もしきれず否定もしきれず、抵抗しつつそれを脱し得ないという姿である。もしこのとき、その人びとが、これは朱舜水という一中国人がもたらし、また徳川幕府が官学とした儒学的正統主義と日本の伝統とが習合して出来た一思想、日本思想史の数多い思想の中の一思想で朱子学の亜種ともいえる思想にすぎないと把握できたら、その瞬間にこの呪縛は消え、一思想としてこれを検討し得たはずである。そして検討した上で、あくまでも自分はこの思想を選択すると言うのなら、それはそれでよいし、それを脱却してこれに反対する思想的根拠を自らの内に形成し保持し得るなら、それもそれでよい。それならば討論が可能である。しかし、そのいずれかが明確にできたという証拠は、上記の記録の中に見出すことはできず、そのためそこに生ずるのは諦念と詠嘆である。(中略)  
戦前、人は何に呪縛されているかを知らなかった。そして出発点に於てそれを明確にせず、それをあやふやに消すという「まやかし」によって転換をとげたことは、その呪縛を裏返しの呪縛にかえ、その上に別の呪縛を加えるという結果になった。そのため、少なくとも良心のある者は、自己の態度にまことに矛盾を感じながら、それを如何ともなし得ないという、戦前にきわめてよく似た状態に落ち込んでおり、何か突発的な事件があればそれが露呈してくる。  
そこにあるのは一体何であろうか。それは自己の伝統とそれに基づく自己の思想形成への無知である。そして戦後の”進歩的人士”は、これに無知であることがそれから脱して、自らを「戦前の日本人でなくし」新しい「民主日本」なるものへと転換する道であると信じていた。だが不思議なことに、明治の”進歩的人士”も同じように考え、自らの歴史を抹殺し、それを恥ずべきものと見ることが、進歩への道と考えていた。ベルツはその『日記』に次のように記している。「しかし乍ら──これはきわめて奇妙なことだが──今日の日本人は、自己の歴史をもはや相手にしようとしないのである。いや、教養ある連中は自国の歴史を恥じてさえいる。”とんでもない。一切が野蛮きわまりないのです”とあるものは私に言った。またあるものは、私が日本史について質問すると、きっぱりと言った。”我々には歴史はありません。我々の歴史はいまやっと始ったばかりです”」。この抹殺は無知を生ずる。そして無知は呪縛を決定的にするだけで、これから脱却する道ではない。明治は徳川時代を消した。と同時に明治を招来した徳川時代の尊皇思想の形成の歴史も消した。そのため、尊皇思想は思想として清算されず、正体不明の呪縛として残った。そして戦後は、戦前の日本人が「尊皇思想史」を正確に把握していれば、その呪縛から脱して自らを自由な位置に置き得たのに、それができなかったことが悲劇であったという把握はなく、さらにこれをも「恥ずべき歴史」として消し、一握りの軍国主義者が云々」といった「まやかし」を押し通したことは逆に、裏返しの呪縛を決定的にしてしまった。しかし問題はそれだけではない。  
というのは尊皇思想は日本史に於てはむしろ特異なイデオロギーであり、それだけがわれわれの文化的・伝統的な拘束すなわち呪縛ではない。その背後には十三世紀以来の、一つの伝統がある。(中略)  
この状態(伝統)は、できてしまった状態をそのまま固定して秩序化しても、基本的な名目的な体制の変革は行わない、しかし実質的には情況に即応して変化しつつ対応して行くという行き方である。そしてこの基本は貞永元年(一二三二年)から明治まで、そしてある意味では現代まで変っていない。徳川幕府もまた出来てしまったのであり、その出来たという事実に基づいて戦国時代を凍結し固定化しただけであって、新しい原則に基づく新しい体制をつくったわけではない。従ってその政策は「戦国凍結」であり、諸大名はまるで敵国に準ずるかのように、人質をとって統御している。それでいながら、中央政府の機能も果している。  
その体制は、正統主義者から見ればまことに奇妙であった。だがその奇妙さは長い伝統をもってそれなりに機能している。もちろんその機能の仕方は中国とは全く違ったものであったろう。もし日本が当時の中国に対してごく自然な対等感をもっていれば、比較文化論的に両国を対比し、自己の伝統の中に中国とは違う正統性を確立することが可能であったかも知れない。それが念頭にあったと思われる新井白石のような人もいたが、一般的に言って幕府自身にその発想はなく、便宜主義的に朱子学を援用していればよいというのが基本的態度であった。だが便宜的援用は逆に権威化を要請する。その権威化は相手を絶対化すること、いわば中国を絶対化することによって、それを絶対化している自己を絶対化するという形にならざるを得ない。  
こうなると、自由なる討論などというものはあり得ず、権威化した自己に反対する者はすべて、何らかのレッテルをはって沈黙させねばならない。それが「アカ」と表現されようと「保守反動・右翼」と表現されようと実質的に差はないように、権威化された官学の代表林羅山にとってはすべて「耶蘇」であった。彼の手にかかると、後述するように熊沢蕃山も山崎闇斎も「耶蘇」になってしまうのである。  
だがまことに奇妙なことに、否むしろ当然のことかも知れぬが、こうなると、この異端視されたものもこれと対抗して自己を権威化せざるを得ない。そしてそれが、さまざまな曲折を経つつ、次の時代へと社会を移行させる思想を形成していく。そして最終的に勝利を得、明治なるものを招来させた原動力となったのがこの思想であった。だが前記のベルツの『日記』にあるように、明治は自らの手で、明治型天皇制の”生みの親”を抹殺する。それは簡単にいえば、「現人神」という概念の創作者がだれかを、またこの概念を育てた者、完成させた者がだれかを、消してしまった。消してしまったがゆえに呪縛化し、戦後はまたそれを消したがゆえに二重の呪縛となった。  
それを解いて自由を回復するには、まず「現人神の創作者たち」からはじめねばなるまい。 
この「序章」の言葉で山本七平の「現人神」についての着眼点がいかなるものであったかがわかります。  
この「尊皇思想」について、司馬遼太郎は次のように言っています。  
宋学(=朱子によって大成されたもの)の亡霊のようななものが、古爆弾でも爆発するように封建制の壁を打ちこわす明治維新の思想となり、それによって開かれたものが滑稽なことに近代であった。しかし、そこでは近代思想(ルソーなど)は危険思想扱いされ、教育面では、この宋学(水戸)イデオロギーが生き続け、左翼の間でさえ、水戸イデオロギー的な名文論のやかましい歴史がつづいた。  
そして、昭和七、八年頃から、本卦がえりという以上に、十二世紀の中国の朱子の尊王論が国民教育の上で濃縮され、「楠木正成」(尊皇思想の殉教者)という固有名詞は思想語に近くなった、と。  
こうした思想的熱狂を背景に「統帥権」を盾に取った昭和の軍部の専横が始まるのですが、司馬遼太郎はこの昭和前期の国家が何であったか、40年考えてもよくわからないといい、「─あんな時代は日本ではない。と、理不尽なことを、灰皿でも叩きつけるようにして叫びたい衝動が私にある」それは、日本史のいかなる時代とも違う”異胎の時代”だといっています。そして氏はついに、「昭和」を書くことはありませんでした。  
これに対して山本七平は、「昭和」を、司馬遼太郎がいうような日本史における”異胎の時代”とは見ず、それを日本史の思想的連続性の内に捉えようとしたのです。  
そして昭和の悲劇は、明治が徳川時代を消したたために、自らを生んだ尊皇思想(=「現人神」思想)の思想的系譜がわからなくなり、そのため、それが西南戦争以降、一種の情念と化して地下に潜り、昭和の恐慌に端を発する政治の行き詰まりを発火点として地上に噴出したもの、と見ているのです  
このように、山本七平は、日本人を無意識裡に支配しているものの考え方(=日本教)の思想系譜を明らかにすることによって、その問題点を克服しようとしたのです。それは、三代目クリスチャンとしての自分を苦しめ続けた「現人神」思想との対決でもありました。  
司馬遼太郎の歴史観との違いはここにあります。 
   
 
日本の正統と理想主義

 

日本人と慕夏思想  
理想主義は、多くの国において、昔は復古主義の形をとりました。たとえば、中国においては堯・舜の治を再現することが理想であるとされたわけです。西欧のことはよく存じませんが、たしかペリクレスの時代が理想化された時代です。これは聖書でも同じで、エデンの園は別としても、ダビデ・ソロモン時代、また別の意味では申命記の時代(ヨシヤ王の時代)がある程度理想化されています。  
ですから理想主義というのは、過去においては復古主義と一体化しているわけです。現代はおそらくそうではないと思いますが・・・。  
では、日本においてはどういうふうにして理想主義が出て来たかと申しますと、必ずしも中国や西欧と同じタイプではありません。神代の理想化が皆無ではありませんが、むしろ中国を理想化するという形があったと思います。こういう中国文化を慕う思想を「慕夏思想」と申します。  
なぜ、慕夏思想などという妙な言葉が出て来たかと申しますと、韓国人の金忠善という人が『慕夏道文集』という本を書いたと言われているのですが、本の内容も著者もよくわかりません。伝説によれば、加藤清正の部下で、韓国に憧れて向うに定住してしまった人間だということになっております。こういった人が相当にいたらしく、その子孫と言われる村が今でも韓国にあるそうですから、あるいは事実かもしれません。                                    ^  
単純な慕夏思想ですと、中国を理想化し絶対化し、中国のようになればよろしいということですから、これが理想主義と言えるかどうかわからないのですが、ある意味では変形的な理想主義と言えるのではないかと思います。  
これが極めて単純に、そのままの形で出てまいりますと、「天皇は中国人である」という説になってまいります。南北朝時代にこういう説を唱えた円月という坊さんがあるそうですが、一番はっきり書いておりますのは、林羅山の『本朝通鑑』の初稿です。彼はなかなかの政治的人間ですから、後からまずいと思う部分を消してしまうのですが、徳川時代の初めには、これは少しも不思議な考え方ではなかったのです。――「天皇がなぜ尊くて絶対なのか。それは中国人であるからであって、われわれは夷狄であるから、この中国が絶対である以上、当然に中国人の天皇は絶対である」という形で慕夏思想と天皇の正統性が結びつきます。『本朝通鑑』は一度焼けてしまったのですが、草稿が残っておりましたので、子の林春斎が公刊し、それが大正時代に活字になりました。国会図書館にあると思います。  
これが天皇中国人論ですが、大変面白い考え方であると同時に、日本の正統論の嚆矢になるわけです。今では、これに対して『古事記』『日本書紀』を持ち出しての反論があるのですが、これらの本が正統論と関係づけられるのは林羅山よりはるかに後です。  
この天皇中国人論によると、天皇は呉の太伯の子孫であるとされています。呉の太伯と申しますと、これは『史記』に出てくる伝説ですが、周の時に帝位の譲り合いをして、彼は自分が弟を押しのけて帝位に就くのはよろしくないと言って、呉に逃れて文身断髪をしたと言われております。入墨をして髪を切ってしまうと、もはや中国人ではないということになって、帝位の継承権を失います。  
当時、呉はまだ中国の中に入っておりません。その太伯の子孫が、海を越えて日本へ来たのが天皇家の先祖であるというわけで、これは極めて素朴な説でありますが、これは一説とされ、「晋書に載す、日本はけだし夏后少康の裔なり」とも言っています。  
その次に出てくるのが中朝論です。中朝というのは元来は中国と同じという意味なのですが、中朝論の主張はそうではなくて、日本が中国なんだという話で、山鹿素行が『中朝事実』という本の中で主張しております。  
明が滅亡して清になる時に、亡命者がたくさん日本にまいります。この人たちは、「清は中国の正統な政府ではない。あれは畜類の国である」と言います。この「畜類の国」という言葉は、林春斎が訳した鄭成功の援助要請の手紙にも「大明の国々畜類の国となる」とあり、中国は「もう中国ではない」ということになるわけです。  
こういう考え方が出てまいりますと、それでは本当の中国は何なのかということになります。これに対して、それは日本であると主張したのが山鹿素行の『中朝事実』です。日本が中国なのであって、日本が正統なのだという考え方で、『中朝事実』の中の「中華」「中国」はすべて(=日本)と読まないと意味が通じません。 
正統論と理想主義  
その次に登場するのが山崎闇斎です。彼は羅山その他を俗儒と言って退け、朱子の正統論に適合するものが正統であって、その正統の下に秩序をつくるのが理想であると言います。つまり、正統論と理想主義が一体化しているわけです。  
朱子の正統論というのは『通鑑綱目』にあるのですが、これは言わば『資治通鑑』を書いた司馬光への論評のような形で出てくるわけです。  
司馬光は、「自分は正統論などを論じようとは思わない。現実に権力を持って中国を治めた人間、それを正統とすればよい」という考え方に立っています。これは極めて現実主義的な考え方です。  
ところが、これに対して朱子は徹頭徹尾反対をしまして、これは浅見絅斎の表現ですが、「九州(中国のこと)を丸めても正統に非ざれば正統に非ず」という発想をいたします。  
つまり、南宋末期というのは北からの圧迫に大変苦しむ時代で、北の一部はもう夷状に占領されているのですが、元来は北が中国の中心地です。ですから、朱子のこの発想は、そこにある政権が何であれ、これは認めない、というところから出たものであろうと思います。  
正統三原則というのを現実に作用するイデオロギーにするのは、山崎闇斎よりも弟子の浅見絅斎で、彼によりますと「朱子は簒臣、賊后、夷狄を正統とせず」と言っている。だから夷狄が中国を占領しても、それは正統な政府ではない。また、賊后というのは則天武后のことで、女性の皇帝は認めない、これも正統でない。簒臣というのは、臣下が皇帝を殺して帝位を簒奪することで、これも正統な王朝ではないということです。絅斎はこれにつぎのようにつけ加えます。  
「(以上の)正学の云い足らぬ処がある。是なれば此の三の外は、天下を丸めて、穏かに治めさえすれば、正統とする合点か。漢唐宋の類是なり。是等とて根を推せば、大義皆欠けて居る」。言わば、その王朝を開いた者は簒臣だというわけです。  
簒臣政権は何百年続こうと正統ではない。このことは『靖献遺言』という本の中の「劉因」の所に出てくるのですが、「劉因は保定に住んでいる。三百年間夷狄に支配されているけれども、その政権を正統と認めない。それと同じことであって、幕府が始まって三百年間九州(日本全土)を丸めていても、正統でないものは正統でない」と。  
闇斎はその点ちょっとはっきりいたしませんで、彼は幕府の閣老の保科正之の師ですから、幕府を非合法政権だというようなことは言っておりません。しかし絅斎になると、はっきり幕府は非合法政権であって、それがたとえ権力を持って三百年だとうと四百年だとうと、正統の原則に外れている以上、正統ではないと言います。  
こうなると、正統論というのは朱子の言った原則に当てはまるか当てはまらないか、ということだけになってまいりますが、日本が中国ならこれは当然に日本に適用されます。  
ところが、この点で、絅斎はある意味で朱子の批判をしておりまして、「そんなことを言えば中国には正統な王朝は一つもない」「綱目は何の事はない、あれなりに就て極めたものぞ」という言い方をします。王朝の開祖というのはみんな簒臣だから、綱目の正統論からいうと正統な王朝は皆無に等しいと言うわけですが、これはちょっと言い過ぎです。たとえば明などは夷狄を追い払ったのだから、これは簒臣とは言えない。その前の宋でも、最初の太祖は軍隊から擁立されて帝位に就くのですが、そういう状態を(彼は)好まないために、彼は形式的ではありますが、前帝から禅譲されたという形式をとります。  
このようなことはしばしば行われているわけで、中国においても簒臣は認めがたいわけです。ここに政治の矛盾があり、中国でも簒臣を正統だと言い出すと、いつでも天子を殺して位を奪ってもよろしいということになって非常に困るという考え方がある。同時に、それは絶対に正統ではないと言うと、これまた問題がありまして、いかなる暴君であっても従わねばならんということになります。  
ここに、朱子の言っていることの矛盾かあるわけで、それを明確に指摘したのが絅斎です。彼は、この矛盾が一番強く現われた周の文王と武王を例にとります。  
文王は、どんな虐待を受けても殷の紂王に絶対に抵抗しません。天命を受けている者には、その臣下は抵抗してはならないという姿勢を最後まで貫くわけです。ところが息子の武王になりますと、禅譲のほかに放伐があるとして、殷の紂王を殺して帝位に就きます。  
一体どちらが正しいのか。禅譲と放伐のいずれが正しいのかということが、徳川時代に絶えず問題になります。しかし、絅斎の議論はそこからもう一歩進みまして、「朱子というのは中国にはなかった理想を述べただけであって、現実の中国には朱子の正統論の定義にかなうものはない。それがあるのは日本だけである」という言い方をしています。  
よく調べてみると、日本に放伐がないわけではないのですが、一応ないということです。  
万世一系というのはしばしば誤解される言葉ですが、中国人がこれを言う場合には、一系統であり、二系統は認めないということです。「一系は一姓に非ず」です。ですから、絅斎の同僚の佐藤直方などは、絅斎の説に非常に強く反対するわけで、その際、決して日本の天皇を「万世一系」とは呼んでおらず、「百王一姓」という言い方をいたします。つまり、代々一ファミリーであった。「百王一姓、何の誇ることあらんや(そんなことは何の自慢にもならない)」というわけです。  
朱子学から言いますと、佐藤直方のほうが私は正しいと思うのです。というのは、百王一姓であっても、三原則に違反していれば、正統ではありません。佐藤直方は、弟が兄を殺して帝位に就く(たとえば安康天皇)なんていうのは、同じ家族内の出来事であって、他人である臣下が簒奪するよりももっとよろしくないことだ、と言って厳しく批判をしております。  
不思議なことに、佐藤直方はその時代には大変大きな影響を与えるのですが、後になるときれいに消えてしまいます。これは何か、日本人の心情に合わない面があったのでしょう。むしろ絅斎のほうが絶対的になってまいります。 
「逆臣」の位置づけ  
このような正統論が出てまいりますと、正統に服するのが理想である、という一つの理想主義が現われてまいります。そして、それがあらゆる面で問題になってきます。なかでも否応なしに問題とせざるをえなかったのが、水戸の彰考館の『大日本史』の編纂です。この編纂基準を「修史義例」と申しますが、実はこの編纂基準の議論で徳川時代が終ってしまったような感じになるのです。  
そこでの一番の問題点は北朝五帝の取り扱いです。というのは、この『大日本史』は司馬遷の『史記』にならって紀伝体という形式をとり、「本紀」(帝紀)に天皇だけをずっと記していきます(中国なら皇帝だけを記していきます)。臣下のほうは列伝に入れ、名臣、叛臣、逆臣という形できちんと分けます。そういうふうに、大変はっきりした基準を立てております。  
ところが、中国の場合は非常にはっきり分けられますが、日本の場合は何度やってもうまくいきません。人見伝という人が初代彰考館館長ですが、彼は極めて朱子学的に北朝五帝を列伝に入れ、尊氏を逆臣にします。つまり、南朝正統論に立つと、彼らは臣下(列伝)に入れざるを得ないというわけです。  
しかし、こうなると政治的に大変困った問題になります。では、今の天皇は臣下の子孫かということになり、北朝偽帝という言い方になりますが、こうしないと足利尊氏は逆臣に入らないわけです。  
ところが、これではいけないというので、「重修修史義例」というのがまた出るのですが、これは光圀の意見だったようです。そして、南北朝の争いの前で一度打ち切ろうとするのですが、それもうまくない、と。北朝を入れると、「本紀」(帝紀)のほかにもう一つ本紀をつくらなければいけない。中国の場合は王朝交代という形で非常にすっきりするのですが、当時の日本ではそれは言えませんので、そこのところが非常に難しくなります。これが第一の問題です。  
第二の問題は、幕府に忠誠であった人間をどう評価するかということで、これは非常に困った問題になります。というのは、『史記』と『資流通鑑』の両方を参考にしましたので、それぞれの後に「論賛」という論評を書くことになります。この論評を担当したのが安積澹泊で、彼が一番困ったのが、天皇に抵抗して幕府に忠誠であった人間をどういう位置に置くかということです。  
中国には幕府はありませんから、片一方を偽帝としてしまえばそれで済むのですが、現に日本には幕府があるのに、それを偽ものとするわけにはいかない。ですから、「論賛」というのは読んでいくと矛盾だらけになり、しまいには叛臣、逆臣はいなくなって、蘇我馬子ただ一人になるわけです。結局、藤田幽谷の意見で「論賛」があってはかえって格好が悪いというので、これは削除されてしまいます。しかし、削除される前にこれが民間に流れていまして、幸いに残っております。たとえば三宅観瀾と安積澹泊との間の手紙があるのですが、「どう書いていいかわからん」と言っております。  
正統論からいくとこれは非常に面白い問題で、外国の理想主義ないしは外国の正統論を日本に当てはめ、それで日本の歴史を再構成しようと思うと七転八倒する、その最初の例だと私は考えております。 
王政復古と「天下の公論」  
そういう形で一つの正統論が確立し、その正統論に基づく理想的な(と彼らが信じた)社会をつくろうとしますと、当然、その前に、中国朱子学と国学とが習合をいたします。この習合というのは山鹿素行の中朝論ですでに起っているのですが、国学が盛んになると、これと朱子学とがくっつくという形になります。  
もっとも、本居宣長自身にはそういう意識はなかったと思いますが、平田篤胤になるとそれがあったと見ていいと思う点が出てまいります。  
たとえば、日本という国が開国以来、朱子の正統論どおりに正統を維持してきた国だという前提に立つと、幕府というのは非合法政権であるから、これを倒さねばならない、となります。そこに尊皇攘夷という問題が出てまいりますが、これも日本人がつくった言葉ではなく『春秋』にある言葉で、中国が滅亡にひんした宋末とか明末に出て来ます。つまり、中国の皇帝を絶対化して、外部から侵入してくる夷狄を追い払え、というスローガンなのです。  
当時の日本人のスローガンは「尊皇攘夷・王政復古」であり、そのための維新という発想になっていたはずです。ですから、明治になってから、国民をだましたという意見が出てくるわけです。これを比較的正直に書いているのが岩倉具視です。  
彼の「議事院に対する意見書」というのを読みますと、まず「そもそも大政維新の鴻業は何によりて成就したるかといへば、即ち天下の公論に出でて成就すと言はざるを得ず」とあります。この「天下の公論」が一種の理想だったわけです。続けて、「多年、有志の人が大義を明らかにし、名分を正すことを論じ、然して幕府の失政を責めて遂に今日の世運を致したに非ずや。臣下の分としてこれを言ふに憚ると雖も、主上天皇、聡明英智に当らせられるとも、尚御若年に在らせられ、御自ら中興を計らせ給ひしと言ふに非ず、天下の公論を聞こし召されて、その帰着する所を宸断を以てこれを定め給ふものにして、実に公明正大の御聖業なり」と言っております。――天皇をほめているようですが、彼の言わんとするところは「なにも維新の鴻業は天皇の意思で自らやったのではない」ということです。「天下の公論がやったことだ」とはっきり言っているわけです。  
この「天下の公論」というのは、申すまでもなく慕夏思想以来、浅見絅斎や三宅観瀾といった人たちに至るまでの間につくられたもので、それが外国からの刺戟で攘夷という形になりました。そして、それに対する幕府の態度はよろしくないという形で爆発するわけです。  
では、明治というのは「天下の公論」のとおりにやったのかというと、決してそのとおりにはやらなかった。このことも岩倉具視は相当はっきり、「これ朝廷の罪なり」という形で記しております。そこをちょっと読んでみましょう。  
「外国に対するの事は皇国の安危にかかるところにして、最も深謀遠慮せざるに非ず。それ発意以降、和戦の議紛々として起こり、天下まさに麻の如く乱れんとするの形勢を現す。その開に生ずるところの事件につき大なるものを挙げてこれを数ふれば、天皇尊位の章を下すや、水戸の司直や親王の蟄居、諸侯の落飾や朝野志士の酷刑、大老の横死や伏見寺田屋の乱・・・」  
言うまでもなく、これらのことは尊皇攘夷を実行する過程で起ったのである。そして、いまそれが成就した。それならば攘夷を行うかというとそうではない。  
「然して大勢の朝廷に服するに、天下の人秘かに思へらく、必ず断然攘夷の令下るべし、と。あにはからんや、外国と交際を開くの令を発し、次いで英、仏、蘭、米等諸国公使参朝す。ここにおいて天下の人大いに疑惑を抱きていはく、旧幕府の時にありては、洋服を着する者は禁門に入るを禁ず。かくのごとき朝旨なりしも、大勢の朝廷に服するに及んでは、かへって旧幕府よりも甚だし。されば朝廷先に攘夷を主張し給ひしは、畢竟幕府を倒さんがための謀略なり。むしろ幕府の時に於いて勝れりとす。議論轟然として起こり、天下の人また方向に迷う。ああこれ朝廷の罪なり」と。  
ですから、一体王政復古とは何なのか、何を理想としたのか、と問うわけです。この場合の答は、形式的には過去における理想主義とはなはだ似た形をとりまして、いわゆる幕府が現われる前の律令時代に帰ることになります。復古と言う以上それが当然であり、そうでなければ復古とは言えません。  
同時に、「班田収授法」が一種理想化されます。理想化されると、一方においてそういう形の平等主義をつくるのが当然だという考え方が出て来ても不思議ではありません。 
朱子学的理想主義の敗退  
面白いのは西郷隆盛で、ある程度それを実行しようとします。彼は、明治維新後に東京にいた期間は非常に短く、すぐ故郷に帰ってしまいます。  
最初が明治二年二月で、彼は薩摩の参政となって改革を行いますが、この改革が非常に面白い。かつて島津というのは非常に複雑な機構になっていたのですが、その全部に統一的に地頭を置き、この地頭が軍事、警察、司法、行政の一切を行う。また、村の役場は軍務方といい、すべてを戦時状態に置きます。一切が軍隊のようになるわけですが、その下に共同体的な一種の体制を樹立しようと試みたのではないか、と思われる点が彼にはあります。  
論理的に、つまり徳川時代からの延長で考えますと、天皇親政で、その下に一種の班田制のようなものをつくるというのは、一番正直なやり方です。西郷がそのように考えた理由の一つは、彼は西欧へ行ったことがなかったので、その影響を受けなかったということではないでしょうか。彼にとって維新というのは、あくまでも全国で行うことだったはずですが、それは実行されなかった。『西郷南洲遺訓』を読みますと、自分はそれを非常に後悔しているという言葉が出てまいりまして、彼は、「そのために死んだ人に対して面目がない。こんな欧化主義の政府をつくるというようなことは、自分は全然考えてなかった」と言っております。  
「維新の功業は遂げられ間敷也。今と成りでは、戊辰の義戦も偏へに私を営みたる姿に成り行き、天下に対し戦死者に対して面目無きぞとて、瀕りに涙を催されける」(『南洲遺訓』より)  
彼にしてみると、明治維新によって徳川時代から続いてきた理想主義が実行に移されたはずなのに、移されたと思った瞬間、今度は欧化主義に転じてしまった。これは岩倉具視が言うように「朝廷の罪なり」であり、大衆を欺くものであるわけです。維新を機に実質的に一つの体制をつくろうとした隆盛のような人にとっては、これはまたとんでもない方向違いであり、「死んだ人には誠に相済まぬ」という形になるのです。  
このような考え方は徳川時代からずっと形成されてきた理想主義、すなわち日本独特の一種の理想主義と正統論とが重なったものですが、明治になると同時にこれが消えてしまいました(消える時にはまことに早く消えてしまうのですが)。そして今度は慕夏思想ではなく、ヨーロッパを慕う慕欧思想に転換いたします。  
この転換が比較的簡単であったのは、昨日まで中国を絶対としてその方向を向いていたのが、今度は方向を変えてヨーロッパのほうを見ればよいだけだったからではないか、という気がいたします。  
しかし、明治の初めに過去を清算しておかなかったことが、実は昭和に大きな問題を提起しているわけであります。つまり、天皇機関説というのが、なぜあれほど非難されたのかということですが、朱子学から見れば、これはもってのほかなんです。ただ、非難している人間がはたしてこれを「朱子学から見れば・・・」というふうに意識していたかどうか、それはわかりません。ヨーロッパの発想からすれば、天皇機関説は当然であるわけです。  
実は明治の初めにおいて岩倉具視が、「これ朝廷の罪なり」と言った問題、あるいは西郷隆盛が、「維新の戦死者というのはむだ死にをした」という意味に等しいことを言った問題が、戦前までずっと糸を引いていたのです。ある意味で、それは朱子学的理想主義の敗退と言えるのではないかと思います。  
このように、昭和になると理想主義と正統論とがいろんなふうに形を変えて出てまいります。北一輝などの言っていることも、日本の思想史という点から見ると関連があります。  
さて、それが戦後にどういうふうな影響を与えているのか。これが一番難しい問題ではないかと思います。 
『現人神の創作者たち』は、『諸君』の昭和55年1月号から57年の3月号まで連載され、翌昭和58年8月に文藝春秋から単行本として発売されました。  
その「あとがき」にあるように、この本は  
「戦後24余年間の『現人神』の探索の結果生み出されたもの」であり、文字通り氏の畢生の主著ということができます。この間、時計も電話も置かない沈黙の生活だったといいますから、その様が偲ばれますね。  
それだけに随所に相当長い古典の引用があって、読むのに骨が折れます。  
その点、この「日本の正統と理想主義」は、昭和61年1月号の「文化会議」に掲載されたもので、『現人神の創作者たち』の内容をわかりやすく簡潔に要約したものになっています。  
従って、これを読んでから『現人神・・・』に挑戦されると、より分かりやすいのではないかと思い、あえて全文を掲載させていただきました。  
ところで、山本七平は、これに続いて、「現人神の育成者たち」及び「現人神の完成者たち」を書くつもりだったようですが、残念ながらそれはなされませんでした。  
このことについて松岡正剛氏は次のように「千夜千冊」796号で指摘しています。  
「徳川時代の後半、朱子学や儒学の思想は伊藤仁斎と荻生徂徠の登場をもって大きく一新されていく。陽明学の登場もある。また、他方では荷田春滿や賀茂眞淵や本居宣長の登場によって「国学」が深化する。本書はこのような動向にはまったくふれず、あえて江戸前期の「尊皇思想の遺伝子」を探索してみたものになっている。  
このあとをどのように議論していくかといえば、いまのべた徂徠学や陽明学や国学を、以上の「正統性を探ってきた試み」の系譜のなかで捉えなおし、さらに幕末の会沢正志斎らの「国体」の提案とも結びつけて見直さなければならないところであろう。  
山本七平はそこまでの面倒を見なかったのだが、それがいまもって丸山真男と山本七平を両目で議論できるホリゾントを失わさせることになったのである。  
が、ぼくとしては冒頭で書いたように、そこをつなぐ研究が出てこないかぎり、われわれはいまもって何か全身で「日本の問題」を語り尽くした気になれないままになってしまうのではないか、と思うのだ。」  
山本七平と丸山真男の関係については、残念ながら対談等の記録は私は見ていません。しかし、山本自身は丸山真男を高く評価していました。当然のことながら、丸山が戦前に書いた論文(『日本政治思想史研究』に収められている論文等)から多くを学んだものと思われます。  
ピアニストの中村紘子氏は、丸山真男と山本七平が対談した時の様子を感動的に話していました。 
   
 
『日本人とは何か』
 
 / 神道はなぜ儒教や仏教と「三教合一」したか

 

(弥生時代中期以降、「ゆるやかな文化的統合体としての日本が形成され、それがそのまま統治体制となった」のが『骨の代』=氏族制度の時代である。)  
「骨の代」の日本は、「氏族が土地・人民を所有して半独立国のようになっており、時にはそれらが相争って『倭国の内乱』となるわけだが、その中の最大の氏族が天皇であり、他の氏族と違う点はおそらく祭儀権を持っていたことであろう。・・・そして、大氏族は天皇の下で何らかの職務を行うことで、氏族連合政権のようなものを構成していたらしい。」  
「では氏族体制の内部はどのようになっていたのか。これは明確にはわからないが、天皇も一氏族だからほぼこれと同じような形で、ただ全体を統一する祭儀権はなかったものと考えればよいであろう。それは一族による土地・人民の支配組織と、職業集団である『部曲』(かきべ)または『品部』(ほんちべ)で構成されていたものと思われる。・・・『部曲』または『品部』は職業集団で血縁集団ではないが、職業を世襲すると血縁集団化する。・・・やがてこの職業その他が姓(かばね)になっていく。」  
(しかし)「以上のような氏族制は、次第に崩壊して行かざるを得なかった。それが自覚されたのは「再び国内を統一し、強力な帝国となった隋・唐が、その勢力を朝鮮に伸ばしてきて、百済から援軍を要請されたときであった。援軍の日本軍は白村江で惨敗(663)して百済は滅びる。次は日本の番ではないかという恐怖は、北九州の防備を厳重にしたことに表れている。同時にこの危機感は国内体制の整備にも向けられた。」 
日本が導入した仏教は、儒釈道「三教合一論」だった  
(この国内体制整備の一環として、仏教そして儒教(=律令制)の導入による中央集権的な国家体制の確立が図られるようになった。)  
「仏教は渡来人によって六世紀の初頭にすでに日本に入っていたと思われ、通常仏教伝来の年は『日本書紀』の記述に基づき欽明天皇の十三年(五五二年)とされるが、これは百済の聖明王が仏像と経論を欽明天皇に献上し、天皇がその礼拝の可否を群臣に問うたときである。いわば個人の私的な信仰としてでなく、国家の宗教として認めるべきか否かの問題になった時のことであった。それが政争とからんで争いとなり、結局「天皇仏教を信じ、神道を尊ぶ」という妥協に落ち着いたのが用明天皇の二年(五八七年)、というのがごく普通の見方であろう。」  
「だが、宗教上の問題がそのような政治的配慮だけで簡単に片づくと見るべきではあるまい。まず、「日本は仏教を受容した」と簡単にいうが、ブッダが生まれたのは紀元前四八三年(?)、これが中国に伝わったのが紀元一年もしくは六七年、それが韓国に伝わり、さらに日本に伝わって前記の諸問題が一応落着したのが五八七年、この間に仏教が中国でどのように受容されて変容したか、その変容したものを韓国がどう受け入れ、それを日本がどう受容したのか、それをたどって行かねばならない。といってもこれは余りに大きな主題なので、簡単にその概略を記すに止めよう。  
いずれの国であれ外来宗教の導入は民族固有の信仰と対立して激しい論争を起こし、時には戦争まで起こる。仏教が中国に入ったころ、これと対立したのが民族宗教としての道教であったのは当然であろう。だが仏教が中国社会で一応の地歩を築き、道教も民間信仰を集大成して宗教としての体制を整えはじめる三世紀ごろ、両者は思想的融合に向かおうとする傾向を生じはじめた。  
これまた珍しい現象ではなく、キリスト教もイスラム教も、多くのその地の民間信仰や習俗を取り入れている。ただ中国の場合は、仏教は道教を吸収しきるほど有力ではなく、さらにそのほかに儒教があり、ここで、思想としての性格を異にする儒釈道の三教を調和して折衷統一しようという方向に向かった。これが三教合一論である。そして日本が韓国経由でなく、直接に中国に使者を派遣したのが『隋書倭国伝』によると推古天皇の八年(六〇〇年)である。・・・  
隋はやがて滅び唐の時代が来る。この間、日本から派遣された遣唐使の数は前述の通り(使節団総員の数ははじめは二百五十人ぐらい、奈良時代は五百人以上、平安時代には六百数十人、630年から894年まで十九回派遣)で、多くの留学僧・留学生を送り込んだ。日本人はおそらく、唐の都の長安の繁栄に驚いたとであう。そしてこの唐の時代(六一八〜九〇七年)が中国仏教の最盛期であったが、同時に道教は国家保護を受けて勢力を張り、統治思想としての儒教もまた勢力を得てきた。と同時に三教合一論が支配的になってきた。ということは、唐を絶対的な権威と考えた日本人が受け入れた仏教とは、三教合一論的な仏教と見なければならない。いわば「仏教」の名のもとに輸入された宗教的思想の中には、道教も儒教も含まれていたということである。 
道教は神道と同じか  
「そして中国の儒釈道合一論は、教義乃至は思想としてだけでなく、日本人に愛好された中国の詩人や文人を通じても人つてきた。唐代の白楽天や柳宗元、宋代の蘇東坡などはその思想がごく自然に三教にわたっており、それを師とした日本人にとって、三教合一論乃至は”合一論的な考え方”はごく当然のことであった。そしてこれが日本に於て、「神儒仏合一論」になっていって不思議でなかった。  
といえば、読者は当然に疑問に感ずるであろう――儒仏の合一は中国が自ら行ったのを日本がそのまま輸入すればよく、それなら僧形の儒者林羅山が出て不思議でないが、「神道」という日本独自の宗教と儒仏をどう結びつけたのか、と。  
非常に簡単な説明として「本地垂述説」が取り上げられる。いわば「仏の本地はインドで、それが伊勢に垂迹して天照大神となった」とすれば、神仏は簡単に一体化してしまうし、天皇の祖先は仏ということになり、『太平記』では天皇を「仏体」としている。  
こうなれば比叡山に日吉大社があり、奈良の興福寺に春日神社があって、両者が一体化して不思議でないし、社僧がいることも、当然となる。だがそう簡単に、「本地垂迹説」が成り立つものであろうか。ここで当然に考えられるのが道教と神道との関係である。  
天皇、紫宸殿、神宮、神社といった言葉だけでなく、神道という言葉自体が道教の用語である。また、『日本書紀』と『古事記』の記述が、中国の道教や民間思想と関係があることは江戸時代にすでに指摘されていた。これについては前述したが、『日本書紀』の「天地創造」が紀元前二世紀の『淮南子』、紀元後三世紀の『三五暦記』などをふまえて書かれていることは、江戸中期の尾張藩の学者、河村秀根父子が『日本書紀集解』ですでに指摘している。・・・」 
天人と仙人は道教の言葉  
「・・・日本の宗教史を見ると、少々不思議だなと思う点がある。というのは仏教が来て約千年たってキリスト教が来た、そして死後の霊魂の存在と、天国・地獄について説いた。民衆は別に不思議そうな顔もしなかった。ということは「天・人・アシュラ・餓鬼・畜生・地獄」という六界を輪廻転生するということを(仏教思想を)民衆は信じていなかったらしいということである。転生すれば「霊魂だけの存在」はあり得ないはずだが、民衆は「ある」と頑強に信じつづけていた。それを示す民話もまた決して少なくないし、幽霊は日本では常に活動しつづけ、現在でさえ活動している。死後に人が何かに転生してしまっては『四谷怪談』は生まれない。  
そして日本人は、天には美しい天人が住み、天女は羽衣をまとって空を舞うと思っていた。こういった「羽衣」伝説もまた少なくないし、「仙人」という、不思議な術で永久に死なない人もいるらしかった。一体こういう民話や伝説や物語はどこから出ているのであろうか。  
「天人」とか「仙人」とかいうのは、実は道教の言葉である。道教では宇宙の最高神は天皇=天皇大帝で、天上の神仙世界にある紫宮(紫微宮=紫宸殿)に住み地上の皇帝と同じように官僚がいてその中の高級官僚が「真人」、下級官僚が「仙人」なのである。そしてこの天上の天皇大帝は、官僚たちに命じて常に地上を監視させ、その人の善を賞し、悪を罰している。  
日本では、この天上の政府を地上に反映させた形で諡に天皇の称号を持つ支配者がおり、紫宸殿があるという形になっている。「神の支配の形態を地上に反映させたのが地上の政府」という考え方はヨーロッパにもあり、エウセビオスは、キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝の政府を、天上の秩序の反映としている。これと似た考え方かもしれない。」  
「・・・以上の道教の考え方は、儒教の天命思想に一脈相通ずる点はあるが、日本の天皇は、天地創造とともに発生した神々の直系の子孫として正統性を主張しているのだから、同じ考え方ではあるまい。ただ、『日本書紀』の冒頭を道教の天地創造ではじめたこと、そして律令体制が完成して間もなくこれが編纂されたことは、唐の王朝の宗教である道教の、前記の世界観が念頭にあったと見てよいであろう。  
そうなると天上にいる天皇大帝は、天照大神以降の天皇の諸霊ということになる。天皇が生前にも「天皇」と呼ばれるのは近世のことで、それ以前はすべて「院」と呼ばれ、死後に諡に天皇を付すのが普通で例外は後醍醐天皇だけである。このことは「天皇」とは死後の天上での称号であることを示し、、死んだ後は天から「天皇大帝」として子孫の統治を見守るという考え方があったのであろう。・・・  
そうなると、その究極にいるのは天照大神ということになるが同時に鎮護国家の祈願の対象は仏である。ここで統治神学として、儒釈道合一論が神儒仏合一論となり、神社と寺院が一体化し、それを合理的に把握するのに本地垂迹説が援用されても不思議ではない。いわば道教的発想はこのような形で神道と習合したと考えれば、当然の帰結だということになろう。そして広い意味の道教は、中村元教授のいわれるユーラシア大陸的な宗教的要素をもっていたから、神道との習合はごく自然な形で行われたであろう。  
人間のみならず、あらゆる動物は死ぬと霊が天に帰る、という考え方がアイヌの宗教にあることは多くの学者が指摘しており、これは、 中国の思想が日本に来るはるかに以前、いわば縄文時代からあったと思われる。この信仰と道教とはきわめて習合しやすいから、日本の原始的信仰がそのような形で神道となったという見方もできる。いずれにせよこの土俗的信仰は実に根づよく残り、キリシタンが来たとき、それを確認する宗教が来たかのように日本人が受け取って歓迎した。これも不思議ではない。 
仏教国家創建と儒教思想の導入  
仏教の受容は中国の宗教文化のすべての導入であった。ただ唐の時代は中国仏教の最盛期であったから、それは仏教中心の宗教文化の輸入であったと言ってよい。従って、仏教の僧侶が儒教の講義をしても人は少しも不思議に思わなかった。そして仏教を、氏族間の私的信仰から国家的な統一の共有しうる宗教へと変えたのが聖徳太子であろう  
「厩戸皇子は当時最大の豪族である蘇我馬子と協調して政治を行ない、隋の進んだ文化をとりいれて天皇の中央集権を強化し、新羅遠征計画を通じて天皇の軍事力を強化し、遣隋使を派遣して外交を推し進めて隋の進んだ文化、制度を輸入した。仏教の興隆につとめ、『国記』、『天皇記』の編纂を通して天皇の地位を高めるなど大きな功績をあげた。」  
「太子は自ら法華経・勝鬘経・維摩経の注釈書、すなわち『三経義疏』を記し、一切を包容融合する統一的な原理として「一大乗」の思想を鼓吹した。そして大化の改新を経て大宝律令ができると、仏教は「僧尼令」によって国家の保護を受けると同時にその統制を受けるようになった。いわば僧尼は、鎮護国家を祈念する公務員になったわけである。現代でも国教のある国の多くでは聖職者は国家公務員であり、それから見れば仏教の国教化といえるであろう。」  
その聖徳太子の事績としては、冠位十二階(603)の制定や憲法十七条(604)の制定が上げられる。前者は儒教のと六つの徳目(徳・仁・礼・信・義・智)を大小に分けた12の組み合わせからなる。冠の色については紫・青・赤・黄・白・黒の順で、大小はその濃淡で表現したという。後者は、当時の中国の儒釈道三教合一思想の影響を受けたもので、仏教、儒教、法家の思想を援用して統一国家形成に向けた臣下の基本的モラルを示したものである。(第1条=和の強調、第2条=仏教の尊崇、第3条=臣の君に対する道、礼の強調、第5条=訴訟裁定の不公平への戒め、第6条=勧善懲悪、第11条=信賞必罰、第12条=国史国造らの私的収税の禁止、第15条=公私の区別、第16条=民の使用時期の制限など)これらは、近代的中央集権国家形成のための官僚機構の整備に向けた推古朝の政策を代表している。ただし、その施行範囲は畿内に限られ、また皇族や当時の実権の掌握者である蘇我氏の大臣は官位の授与対象から除外されたという。(『日本歴史大事典』「聖徳太子」より)(聖徳太子についてはその実在からその事績の当否まで諸説がある) 
中央集権国家への脱皮  
西暦六四五年、皇極女帝の皇太子中大兄皇子は、謀臣中臣鎌足と謀り、宮廷内クーデターを断行した。朝廷の実権を握る大豪族蘇我入鹿を宮中で暗殺し、ついで中央豪族の大部分の支持を得て入鹿の父蝦夷を滅ぼし、叔父(皇極女帝の弟)孝徳天皇を擁立して自らは皇太子となって実権を握り、新政府を組織して年号を大化と定めた。そして政局が安定した翌年に「改新の詔」として四ヵ条の基本政策を公布したのである。すなわち(一)氏族制を廃止し、皇族・諸豪族の私有地・私有民は公地・公民とする、(二)京師・国・郡・里などの地方行政組織を置く、(三)全国民の戸籍を編成し班田収授の法を実施する、(四)新たに租・庸・調その他の統一的な税制を実施する、と。これを大化改新という。(この四ヵ条の交付は「大宝律令(701)によるとする見解が有力)  
これは簡単にいえば「骨の代」を終わらせて「職の代」をつくる革命であった。すなわち従来の氏族制度における皇室と各豪族の個別的支配と、品部(職業部)の管理機構を基とする朝廷の世襲的な職業組織を否定し、中国の律令制にならい、公地・公民制を基礎とする中央集権的・官僚制的な支配機構を打ち立てることであった。 
「骨の代」(氏族制)における最大氏族が天皇であり、他の氏族と違う点は祭儀権を持っていたこと、しかし、その祭儀権は氏族全体を統一するものではなかった、とは一体どういうことでしょうか。これは天皇家がある伝統的な、他の氏族もその権威を認める祭儀権(あくまで天皇家の氏神を祀るもの)を継承していて、それ故に、自ずとその時代における氏族連合政権の中心をなしていた、ということだと思います。  
では、この天皇家が継承していた、他の氏族もその権威を認める伝統的な祭儀権とは、どのようなものだったのでしょうか。これについては、山本七平は「卑弥呼が日巫女なら・・・すでに500年以上続く祭儀権の継承があった」としています。心理学者で日本史研究者の安本美典氏は、記紀神話の天照大神は、邪馬台国の卑弥呼ではないか、といっています。  
また、こうした、伝統的祭儀権を継承する大和朝廷と豪族との関係は、天皇家の管理する職業的組織を個別的に担う程度の緩やかなものだったようです。しかし、この間大和朝廷は、徐々に中国の先進文化を導入し、地方に対する政治的・経済的優位性を確立していきました。一方、中央の豪族との関係においては、中国の文化的権威が支配的になるにつれ、天皇家の地位は相対的に低下していきました。  
大和朝廷の有力な氏族には主に臣や連の姓が与えられていましたが、それらの内、国政の中枢に参画したものは大臣、大連と呼ばれました。雄略天皇(五世紀後期)の時には平群氏が大臣、物部氏と大伴氏が大連に任命され、軍事・警察の職務を担当しました。特に、大連を歴任した物部氏は継体天皇の時に起こった国造磐井の乱(527)を討伐しました。このように、大連は、大和政権の領域・境界線の拡張に伴う諸地域の豪族の処分等にあたりました。  
また、物部氏は、朝鮮半島を含む大和政権の外交政策にも関与し、欽明朝期には物部尾輿が大伴金村の任那問題の失政(562年、任那が新羅に併呑)をついて失脚させ、以後大連を独占しました。また、552年に百済の聖明王が仏像と経論を献じたときには、朝廷における仏像礼拝の是非をめぐって排仏を主張し、蘇我稲目と対立しました。稲目の子守屋も排仏を主張しましたが、587年用明天皇の死後、物部氏は仏教礼拝や皇位継承問題もからんで大臣蘇我馬子に滅ぼされてしまいました。  
その後蘇我馬子は、崇峻天皇を擁立しましたが、後これと対立して592年に謀殺し、推古天皇を即位させました。以後、推古朝の政治を指導し、602年頃から推古天皇の摂政となった聖徳太子と共同して、大陸文化導入による国内政治改革に着手しました。620年には聖徳太子と共に『天皇記』『国記』等の史書を編纂しました。馬子が造営した飛鳥寺は、飛鳥時代の仏教交流の中心寺院として栄えました。  
馬子に続いて、蘇我蝦夷が大臣となり、推古天皇の死後は、舒明天皇を擁立しました。642年に皇極天皇が即位した後は、蝦夷の子の入鹿が権勢を振るいました。しかし、643年入鹿が聖徳太子の子である山背大兄王とその一族を滅ぼすと、その独裁に対する批判が強まるようになりました。こうした蘇我氏独裁を一気に覆し、天皇家に政治権力を回復するために行われたクーデターが、中大兄皇子や中臣鎌足らによる蘇我入鹿・蝦夷の殺害であり、それに始まる大化の改新だったのです。  
この事件を経て天皇家は、律令制の導入による中央集権国家の形成を目指しました。そのために左記の通り「改新の詔」四ヵ条がその翌年に公布されました。しかし、これが実際に公布され実施に移されたかどうかは疑わしく、668年に即位して天智天皇となった中大兄皇子は宮廷の官制の整備を進めた程度だったといいます。その後、この事業は次の天武天皇に引き継がれ、次の持統天皇晩年の701年には大宝律令が公布され、さらに718年にはその改訂版である養老律令が公布されて、氏族制度から律令的な中央集権国家への移行が、明確になりました。  
しかし、大宝律令などに規定された日本の律令制度は、中国の律令制とは大きく異なっていました。その一つが、中国では、統治者階級である官吏は、科挙という国家試験によって選出されましたが、日本では畿内の豪族出身の貴族が世襲的にそれを継承していった、ということです。また、官僚組織については、中国の場合は皇帝の下に中書省(立法)、尚書省(行政)、門下省(陳情審査)の三省が置かれ、皇帝が全てを決済しました。しかし、日本では、天皇の下に神祇官と太政官が併置され、天皇の任務は前者の祭祀が中心となり、後者は、太政官が実質的な政務の執行機関となりました。  
これは、天皇による国家統治の正統性を、伝統的な祭儀権の継承に求めたために生じたことでした。つまり、大陸文化(仏教や律令制度)の導入による中央集権化の取り組みを、天皇家の伝統的権威を背景に復古主義的に推進しようとしたのでした。そして、この天皇家の国家統治の正統性を根拠づけるものとして、神々による国産みから大和朝廷の建国を経て推古天皇、持統天皇に至る天皇家一族の記録を中心とする記紀の編纂がなされたのです。  
しかし、この記紀の記述と、中国の史書等によって知られる歴史的事実との対応関係は必ずしも明確ではありません。特に、神武天皇の即位(紀元前660年)から第27代継体天皇に至るまでの編年には引き延ばし等の作為が加えられています。そのため、神話時代の物語を全て造作としたり、初代神武天皇から第10代崇神天皇までを架空とする見解が生まれたのです。  
しかし、先に紹介した安本美典氏の説によると、『宋書』によって在位年数がわかる第21代雄略天皇から第30代敏達天皇までの平均在位年数は10年程度であることから、これを初代神武天皇から第20代安康天皇の在位年数に当てはめると、神武天皇は三世紀末頃活躍していたことになり、また、記紀によれば、神武天皇の五代前が天照大神なので、これは卑弥呼が活躍していた230年代に重なる、といっています。  
さらに、安本氏は、記紀の神話が九州を中心としていることから、卑弥呼が治めた邪馬台国は北九州にあり、それが三世紀末に東遷して畿内先住の豪族を服属させ、大和(邪馬台=ヤマト)朝廷を開いた。このことは、弥生文化が北九州から東に広まっていった事実や、考古学上の事実(三世紀末から畿内に古墳が現れ、その副葬品は北九州の古墳に特徴的な鏡、玉、剣などであること。畿内の銅鐸文化が突然姿を消していること)等から見ても明らかだとしています。  
といっても、今日では邪馬台国畿内説が有力ですが、いずれにしても、この広大で豊沃な後背地を持つ畿内において、大和王権が成立したことには違いありません。そして、この大和王権の中心にあったものが、天照大神(卑弥呼?)につながる伝統的祭祀を継承する天皇家だったのです。こうして、天皇家を中心として畿内の豪族がまとまることで氏族連合国家としての大和朝廷が形成されたのです。その後大和朝廷は、さらに、その勢力を全国に拡大していきました。しかし、その過程で、中国や韓国の文化を積極的に取り入れることを主張した蘇我氏が、先に述べたように、その政治的発言力を増していきました。その一方、伝統的祭儀に権威の基礎を置く天皇家の地位は相対的に低下しました。  
それが、蘇我馬子による崇峻天皇の弑逆(592年)や、蘇我氏血統の女帝推古天皇の擁立、厩戸皇子(聖徳太子)を摂政としたことにも現れています。従って、聖徳太子が冠位十二階を始めとする大陸の文物・制度の影響を強く受けた政策を押し進めていったというのは、太子の独自の見識から出たものというより、太子の協力を受けた蘇我氏の政治の一環と見るべきとする意見もあります。  
この太子の時代から大化の改新を経て記紀編纂に至までの歴史叙述については、それを記した『日本書紀』編纂者(藤原氏)の政治的意図を反映しているとされ、梅原猛氏を始めとする幾多の興味深い解釈がなされています。 
   
 
『日本人とは何か』
 
 / 仏教は日本人の思想形成にどのような影響を及ぼしたか

 

仏教国家創建の功罪  
仏教の受容とは、実は中国の宗教文化(儒教や道教を含む)のすべての導入であった。ただ唐の時代は中国仏教の最盛期であったから、それは仏教中心の宗教文化の輸入であったと言ってよい。従って、仏教の僧侶が儒教の講義をしても人は少しも不思議に思わなかった。そして仏教を、氏族間の私的信仰から国家的な統一の共有しうる宗教へと変えたのが聖徳太子であろう。  
太子は自ら法華経・勝鬘経・維摩経の注釈書、すなわち『三経義疏』を記し、一切を包容融合する統一的な原理として「一大乗」の思想を鼓吹した。そして大化の改新を経て大宝律令ができると、仏教は「僧尼令」によって国家の保護を受けると同時にその統制を受けるようになった。いわば僧尼は、鎮護国家を祈念する公務員になったわけである。現代でも国教のある国の多くでは聖職者は国家公務員であり、それから見れば仏教の国教化といえるであろう。  
以上のような行き方を推し進め、仏教国家の創建へと目指したのが聖武天皇であろう。天平十三年(七四一年)の国分寺創建の詔、さらに天平十五年(七四三年)の東大寺大仏建立の詔はこの点で注目に値する。いわば諸国に国分寺と国分尼寺を建立して、「金光明経」を講宣読誦させることによって国家にふりかかる労障を消除し、大仏によって国家万民の上に利益を与えようという一大計画である。こういった国家的計画とその実施は、日本史上、これが最初で最後であろう。  
だがこのような大事業の結果招来されたものは、国民の疲弊、国家財政の破綻、寺領の増大、僧侶の政治介入と堕落であった。天平宝宇八年(七六四年)恵美押勝の叛乱が起こり、これは鎮圧されたが、次に僧道鏡が大臣禅師となって勢力を振るい、天平神護二年(七六六年)法王となって帝位をうかがうが、やがて失脚する。南都六宗といわれる首都奈良の仏教界は、さまざまな面で、どうにもならない状態になっていた。 
呪術性と末法思想で仏教変質  
延暦十三年(七九四年)桓武天皇は都を京都に移した。いわば奈良とその地の諸大寺は放棄され、同時にその統制、取締りは強化された。一方新しい首都の京都では、天台宗の最澄と真言宗の空海による新しいタイプの仏教、山林仏教が出現レだ。奈良の仏教は都市仏教だが、天台宗は比叡山に、真言宗は高野山にこもり、南都六宗とは違った新しい信仰の糧を供給した。といっても「鎮護国家」には変わりはなく、むしろそれはさらに強調されたといってよい。  
南都の六宗でも、天台・真言でも、仏教の教学に対する専門的な研究はもちろん行われており、その水準はきわめて高かったといわれる。だが一般の貴族や有力者が仏教に求めたことは、深遠な宗教的真理ではなく、「鎮護国家」を一族にさらに個人の水準にまで下ろし、自分や自分の一族の繁栄や安全を祈念してもらうことであった。彼らが最も恐れたのは、病気や災難であり、それらから自分を守ってくれる呪術を仏教に求めたわけである。ここに呪術仏教が要請され、それに対応したのが密教で、その神秘性や不可解さ、それを裏づけるような深遠な哲理は強く人びとをひきつけた。  
当時の人びとは、理解しがたい病気や災難を「物の怪」にとりつかれると考え、一種の強い怪異感で受けとめていた。そこでこの怪異感からの解放を加持祈祷に求めたわけである。その要請に応じたのが密教である。真言も天台もしだいに密教の比重が高まり、互いによりすぐれた呪術性を強調して競いあった。そしてその結果生じたのが、国家仏教から貴族仏教・閥族仏教への移行である。まず天皇家、ついで藤原氏一門が盛んに寺を建て、他の貴族もこれにならった。氏寺の出現である。そして政権の座からしめ出された貴族は、栄達の道を仏教界に求めた。  
有名な氏寺には、藤原伊勢人の鞍馬寺、藤原忠平の法性寺、有名な道長の法成寺や頼通の平等院などがあり、そこの僧たちは準貴族化して俗人と変わらなくなった。そして貴族の求めに応じて法会や加持祈祷を行なって土地の寄進を受け、しだいに富裕な土地所有者となり、武力さえも持つようになった。  
もう一つ見逃せないのは末法思想である。キリスト教にも「紀元一〇〇〇年終末思想」があったが、日本の場合は永承七年(一〇五二年)である。なぜこのような信仰が生じたのか。教理的にはシャカの人滅後千年が正法、次の千年が像法(この計算の仕方はさまざまだが)で、それが終わると世は「闘諍」の時代となり、仏教の教えは現世では全く行われなくなるという思想である。  
そして奇妙なことにこの年に香椎宮が焼失、翌年には伊勢大宮司の邸宅が、さらに翌年には高楊院内裏つづいて京極院内裏が焼失する。翌々年には安倍頼時の乱で追討の宣旨が下され前九年の役がはじまる。そして康平元年(一〇五八年)に新築の内裏がまた焼失し、法成寺も焼失し、翌年には一条院内裏が焼失し、その翌年には興福寺が焼失する。それは「平安時代」がいよいよ終わり、「闘諍時代」の来る不吉な予兆と人ぴとには思えた。事実、闘諍を恐れない武家の登場する時代は近づきつつあった。  
一方、これとともに浄土教信仰が力を得てきた。これは奈良時代にすでに中国から渡来していたが、空也や源信によって、あるいは踊念仏という形で、あるいは「厭離穢土、欣求浄土」という単純化した形で民衆の中にしだいに浸透していった。  
この時代は、貴族にとっては確かに「平安時代」であり、権威を誇る彼らにとってこの世は決して「厭離」すべき「穢土」でなく、浄土の荘厳さを生きている現実生活の中に見ようと願わせるような世界であった。だが平安時代は裏から見れば群盗と流亡の民を生んだ暗黒の時代である。彼らがこの「穢土」を「厭離」して「浄土」を「欣求」しても不思議ではない。やがて武士が登場し、文字通りの「闘諍」の時代が来る。そうなると今度は、衰亡して行く藤原氏一門にとって、この世は、そこから逃避したい「穢土」になっていく。 
念仏のみ選択した法然  
この源平の争乱期に、最も大きな影響を与えたのは法然(1133〜1211)の浄土宗であろう。前に法然のことをプロテスタントの宣教師に話したところ、「それではキリスト教ではないか」とか「まるでマルティン・ルターのようだ」とかいう反応が返ってきた。司馬遼太郎氏も同趣旨のことを記されているが、プロテスタンティズムとの類似性を最初に記したのはキリシタン宣教師ヴァリニャーノやカブラルであろう。そういう見方が出て不思議でない面がある。  
ただ現代の欧米人とはまことにこまった点があり、こういうときには必ず「どこかからキリスト教思想が日本に入ったのではないか」と考える。そういった質問を受けたので、ルターの宗教改革ははるか後代の一五一七年、北条早雲が三浦義同父子を攻め滅ぼした翌年で、日本はすでに戦国時代。冗談に「ルターが法然の影響を受けたことはあり得ても、その逆はあり得ない」と答えた。僧俗に関係なく、身分・職業に関係なく、行為さえ関係なく、「ただ個人の信仰のみによって」人間は救済されるという個人主義的な宗教思想の発生は、西欧より日本の方がはるかに早い。  
法然の思想は、『選択集』に記されており、要約すればいかなる愚痴無智・罪悪深重な者でも、阿弥陀仏の名をとなえるだけで極楽浄土に救済される身になるという。善根功徳を積む必要はないし、戒律を守り身を清浄に保つこともいらない。極言すれば、阿弥陀仏を礼拝することも、心に描くことも、浄土の「三部経」を読誦することもいらない。ただ称名念仏だけが「正定業」で、さまざまな宗教的修行は「捨閉閣抛(しゃへいかくほう)」され、念仏だけが「選択」される。  
人は現実から逃避せず、与えられた身のまま、武士は武士、農民は農民、そのままで念仏をとなえればよい。そのため特別な行儀はなく、行往坐臥の間に行い、時間の長短や回数の多少もない。思う時に思うようにとなえて、それだけで十分とした。ただ彼は、ちょうどルターがカトリックの七つの秘蹟のうち二つを捨てかねたように、臨終の行は捨てかねた。 
戒律死守した唯一の僧・明恵  
彼のような思想に対して当然に対抗宗教改革が起こった。その代表が華厳宗の栂尾高山寺の明恵であり、『摧邪輪』を記し、仏典のどこを探しても法然の主張するようなことは記されていないと批判した。明恵は典型的な高僧というタイプの人で、民衆を直接に教化するより瞑想と隠遁を愛したが、彼を慕う人は多かった。  
執権の北条泰時は彼から強い感化を受け、それが「貞永式目」の法哲学の基本になっていると思われる。また弟子の義林房喜海は生涯彼とともにあって、『明恵上人行状』を記し、これとその他の資料を基にして記された『明恵上人伝記』は徳川時代まで広く読まれた。その中の「あるべきようは」の七字を重んずること、いわばすべての人がその社会的位置で「あるべきようにあれ」という教えもまた、間接的だが強い教化力をもっていたと思われる。また彼が自らの「夢」を記しつづけた『夢記』は、心理学的に、また精神分析的に貿重な資料で、現代でも多くの人に研究されている。  
だが明恵自身の生涯の夢は、インドに行き、仏跡を歩きつつ、ありし日のブッダを慕いしのぶことであった。彼はこの夢を果たせなかったが、たとえ末世・末法の世であっても、あくまでブッダを慕い、彼が示した戒律通りに生きることが彼の生き方であった。生涯、戒律を一点一画も破らなかった僧が日本にいたか、と問われれば「明恵がいた」といえる。それは法然とは対極の存在であったといってよい。  
同じころ、栄西と道元によって中国から禅宗がもたらされた。これが広く普及したのは鎌倉時代であり、「只管打坐(しかんたざ)」の厳しい修業と厳格な戒律は、武士の生活規範とよく合致したものと思われる。禅は鈴木大拙により欧米に紹介され、日本の仏教といえば「ZEN」と思っている人も少なくないが、決してそうではない。ただ禅についてはすでに多くのことが紹介されているので、本書ではこれにとどめ、民衆的新宗教へと進もう。 
日本仏教の独自性  
足利時代になると、武士は禅宗、農民は真宗、商人は日蓮宗のような形になる。そして最も数の多い農民の宗教、すなわち真宗は、法然の弟子の親鸞が、師の教えをさらに徹底したものと言ってよいであろう。法然のもとに多くの人が教えを求めて集まったとはいえ、彼は生涯を殆ど京都で送ったので、その範囲は限定されていると同時に、都会的であった。  
法然も親鸞も旧仏教勢力によって流罪にされたが、このとき親鸞は越後で妻帯して関東に赴いた。彼は堂々と妻帯した仏教史上最初の僧かも知れず、この点では彼の方がルター的かも知れない。だがオウガスチノ修道会の司祭であるルターが結婚したのは一五〇〇年で、これまたはるかに後年である。そして親鸞は関東の辺地で、農民や下級武士に自らの教えを説いた。  
親鸞はあらゆる意味でルター以上であろう。彼はこの世を穢土とは考えず、「現実」こそ「救済」の場であり、その場に生きることを念仏の目的とした。そして阿弥陀仏に救われるという「信」のみが救済を決定するのであり、念仏とは救済を求めて称えるものでなく、信じ得た喜びの感謝の声だとした。ひろ・さちや氏は真宗の念仏は、救済されたことへの「サンキュー・サンキューだ」といわれたが、適切な解説であろう。まさに人が救われるのは「信仰のみ」によるのであり、その前では老若男女貴賤、一切差はないと説いた。だが、彼の教えがすぐ広まったわけではない。それが農民の宗教となり一大勢力となるのは天才的伝道師蓮如が出てからである。  
この浄上教的な徹底した教えに強く反対し、法華経を絶対としたのが日蓮である。従って彼にとって天台以外の宗派はすべて否定さるべきもので「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」がスローガンであった。ただその彼もブッダを信じ「南無妙法蓮華経」の七字を称えるだけでよいとした。宗教人としての彼のタイプは、「法華経」絶対で非常に峻厳であり、この点では、旧約聖書の預言者を連想させるので、欧米人には理解しやすいらしい。この法華経および法華宗を最初に研究したヨーロッパ人はキリシタン宣教師オルガンティーノである。  
以上は日本仏教史のきわめて簡単な摘記だが、これを読まれただけで読者は二つのことを感じられるであろう。まず第一に、仏教は「鎮護国家」の宗教として正式に国家に採用されたが、やがてそれが貴族の宗教となり、さらに武士から民衆へと浸透して行ったこと。そして第二に、それは浸透とともに変質していき、日本独自の仏教となって行ったということ。ヨーロッパの仏教学者の中には、真宗は仏教ではないとする人もあるという。それが言いすぎなら、日本人によって創出された独特の仏教の一派と言ってよいであろう。  
しかし、この「民衆の宗教であるべき浄土宗(=真宗)は戦国の混乱の中では新たな秩序の確立よりもこの現世を否定し、諦念するという形になり、念仏による救済という信仰の上に強大な勢力を築いて一大封建領主となったのが本願寺であった。・・・このため一向一揆はむしろ、新秩序創出のガンとさえ見なされていた。ハビアンのみならず多くの人が、仏教のその姿に、新しい秩序の基となるべき精神的統合の原理を求め得なくなって不思議ではなかった。」(『受容と排除の軌跡』山本七平)  
「・・・人ノ心ハ私ノ欲ニ惹カレテ邪ノ道ニ至ラントノミスルニ、無我無欲トイイテ、何タル悪ヲ作リテモ罰ヲ与ヘン主モナク、善ヲ勧メテモ利生ヲ行ルベキ所モナシ。タダ何事モ空生空滅ト云テ自由自在ニ教ヘテハ、ナジカハヨクアラン。カヤウノ法ヲコソ邪法トハ云ベケレ(このハビアンの言葉は、当時の人びとが、「仏教思想に対して何となくもっているある種の疑惑や潜在的不信感を鋭く顕在化」させるものであった。「上掲書」)  
(江戸時代になると、仏教は、徳川幕府による寺請制度のもとで国教化するが、僧侶の生活の安定とは裏腹に、僧はあたかも「検死の役人となりたり」「僧は無学にても、不徳にても、事済むことになりたり」との批判も受けるようになった。『梧窓漫筆拾遺』太田錦城) 
この時、日本に伝わった仏教の教えとは、一体どのようなものだったのでしょうか。これは、厩戸皇子(以下、聖徳太子と表記)の十七条の憲法や、太子の著したとされる『三経義疏』に見ることができます。  
まず、憲法十七条ですが、これには当時中国で盛んだった儒教、仏教、法家の思想が反映しているとされます。具体的には、儒教思想の反映としては、  
まず、君臣の秩序を示すものとして、3条(君言えば臣承り、上行なえば下靡く。ゆえに、詔を承けては必ず慎め)。  
官吏相互の心得として、4条(群卿百寮、礼をもって本とせよ)、6条(勧善懲悪、諂(へつら)い欺きや誹謗中傷の禁止)、9条(信はこれ義の本なり)。  
官人の服務規律や議事の決め方として、8条(群卿百寮、早く朝(まい)りて晏(おそ)く退け)、13条(職掌を知れ。(知らないといって)公務を防ぐることなかれ)、17条(事は独り断むべからず)。  
官吏の人民に対する道として、5条(明らかに訴訟を弁えよ)、12条(国司国造、百姓に斂(おさ)めとることなかれ)、16条(民を使うに時をもってせよ)などが規定されています。  
つまり、「官吏としての臣が君に従順であり、相互に儒教的な徳を守り、民に対して仁慈であれば、国家はおのずから治まる」という考え方です。  
次に、仏教思想の反映としては、2条(篤く三宝を敬え。三宝とは仏と法と僧となり。それ三宝に帰せずんば、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さん)、10条(忿を絶ち瞋を棄て、人の違うを怒らざれ。共にこれ凡夫のみ。われ独り得たりと雖も、衆に従いて同じく挙(おこな)え)などが規定されています。  
つまり、先に述べた「儒教的な道徳の実践のためには、私心を去ることが必要で、そのためには仏教に帰依して己をむなしくせよ」というのです。  
法家の思想の反映としては、11条(功過を明らかに察して、賞罰必ず当てよ)がありますが、必ずしも、これは必ずしも、性悪説に立ち、国家の秩序維持のため法の厳正適用を主張する法家の主張とは同じではないような気がします。  
この外、第14条(群臣百寮、嫉妬あることなかれ。(嫉妬して)賢聖を得ざれば、何をもってか国を治めん)や、第15条(私に背きて公に向うは、これ臣の道なり)がありますが、これは、第一条(和を以て貴しとなし、忤(さか)うこと無きを宗とせよ。上和ぎ下睦びて、事を論うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん)という、「日本的」な「和」を尊ぶ思想に収斂しているように思われます。  
とりわけ、ここに見られる仏教思想の理解の仕方は、その後の奈良、平安仏教に見られるような鎮護国家的、呪術的な仏教への帰依とはかなり異なっています。ここには、聖徳太子による『三経義疏』(法華経・勝鬘経・維摩経3経の注釈書)に見られる、哲学的な仏教理解があります。これらの著作については、聖徳太子の自撰を疑う意見もありますが、飛鳥時代に編纂されたものであることは間違いなく、これは、その後の日本仏教発展の原点的意義を持つものといえます  
すなわち、『法華義疏』には、人は皆、内心に真実の仏性を具有する故に、上下貴賤、世間出世間等一切差別にかかわらず、共に同一仏道に融合するという大乗仏教の教えが説かれています。  
また、『勝鬘経義疏』には、そうした大乗仏教の教えを成就するためには、まず、自らを正すことによって、はじめて他の救済ができるという「自行化他」の教えが説かれています。  
さらに『維摩経義疏』には、宇宙人生の一切は因縁の所生であって、その真相は「空」であり、その「空」が一切事象の「有」になるのであるから、そこから生まれる我欲・我執の迷妄から離れなければならない。といっても、現実人生を捨離するのではなく、この「空有相即」の純浄の信念を以て、世間活動の教化を尽くし、理想と現実の一致融合を実現べき、と説いています。(『聖徳太子の信仰思想と日本文化創業』黒木正一郎著)  
しかし、こうした仏教教理の哲学的解釈がなされるのは太子晩年(615年)のことで、当時、一般に伝えられた仏教の教えとは、次のようなものでした。  
仏神は、日本の神のように一氏族だけで祀られる閉ざされた神ではなく、万人に開かれた神である。つまり、仏教は、氏族内の血族的団結の枠を超えた、個々の人間の輪廻転生を説くものでした。「人間は今生においては、一人一人が他人と違った善悪の業を積み、その報を必ず次生に受けて、天・人・修羅・餓鬼・畜生・地獄の六道を輪廻する。もし仏の教えに従って悟りを開けば、この苦しみから解脱することができる。」  
つまり、従来の氏族的割拠を支えていた閉じられた神信仰を打破して、中央集権的な統一国家を形成すためのイデオロギーとしての性格を持っていたのです。  
こうして、594年には仏教興隆の詔が出され、諸氏族共同の寺院が建てられ、仏像が作られ、斎会が催され、輪廻転生の教えに基づく超氏族の精神が鼓吹されました。といっても、従来の姓(かばね=職)による氏族社会の機構と、新しい個人の器量による律令政治の機構とは、その後も併行して存在し続けました。しかし、天武天皇の時代になって、後者の下部機構に前者が収まるという形で、ようやく国家体制の安定を見るようになりました。こうして、氏上は氏の社を祭ると共に、律令官僚として国家鎮護を祈る官寺を崇拝するようになりました。  
しかし、この日本に伝統的な神祀りの思想と輸入された仏教思想とは、便宜的な役割分担はできても、新たなより高次の思想に発展することは容易ではありませんでした。というのも、前者は「ロゴスとしての思想」を持たず、その思想的表現は仏教や儒教など外来思想の衣装をまとう形でしか表現できなかったからです。これが日本独自の宗教としての姿を見せ始めるのは、室町時代末に始まる戦国乱世の時代に、仏教の社会思想としての無力が顕在化して以降のことです。  
では、この「ロゴスとしての思想」を持たない日本の伝統的な神祭りの思想とはどのようなものだったのでしょうか。  
いうまでもなくそれは、『風土記』や『古事記』『日本書紀』などの神話・伝承の中に見ることができます。それは、神々による新しい生命力を生み出す「むすび」の力をたたえるもので、祭りはそれを更新・増長させる呪術としての意味を持っていました。ここでは「よき神」は自然の生命力を成長促進させる神であり、「あしき神」はそれを阻害する神でした。死は「けがれ」と見なされ恐れられました。また、「けがれ=罪」は人の生命力を妨げるものですが、それは「みそぎ」で祓うことができました。(三世紀頃、死後の世界の存在を語る思想(=道教)が伝わり、これが古墳文化を形作ったものと思われる。)  
つまり、これらの神祭りは、もとは生活共同体における生産力の維持・向上を祈り、共同体の団結を更新・強化するためのものだったのです。また、神道で強調される「誠」や「正直」などの徳は、「けがれ」なき清明心をいい、共同体に和順する素直な心をもつことを求めるものでした。こうした地域的共同体の祭りを、大八島を包む日本全体の建国神話におし広げたものが『古事記』『日本書紀』でした。(以上『日本の思想「神道思想集」』解説、石田一良)  
これが仏教や儒教との習合を経て後、朱子学の導入を契機として、これら仏教、儒教渡来以前の日本固有の精神文化を明らかにしようとする国学思想を生み、記紀はその聖典とされるようになりました。さらに、こうして国粋化された神道思想は、萬世一系の天皇の統治する国体の優越性を主張する尊皇思想へと発展していきました。一方、仏教は、徳川幕府がキリシタン禁圧の手段として寺請制度が取ったことから「国教化」し、体制教化の末端を支えるものとなりました。しかし、このことは仏教が「戸籍登録」という形で幕府政治の下請けをすることを意味したため、以後、救済思想としての宗教固有の影響力を喪失してしまいました。  
明治の廃仏毀釈は、それまでに、仏教に対する庶民の信仰がほとんど失われていたことを証すものといえます。 
   
 
『現人神の創作者たち』
 
 / 神道は、どのように自らの思想を形成したか

 

「神道」――この言葉ぐらい定義しにくい言葉はなく、その内容ぐらい模糊として捉えがたいものはなく、時代によりまた人によりその定義・内容は常に一定しない。古くは「宗教もしくは宗教的と言われるもの」を総称した言葉であったらしいが、仏教の伝来とともに、まずこれとの対立的な意味で伝統的な日本の宗教を総称する言葉になっている。  
ところが奈良朝末期にはすでに神仏習合説が出、平安朝末期に本地垂迹説が出てくる。もっともこれらの説をさらに古く歴史的過去へさかのぽらせることも可能であろうが、機能しはじめるのは大体以上のころと見てよいであろう。そしてこの説は神道の側から起らず、常に仏教の側から起っており、いずれも仏を主とし神を従としている。そしてこれは旧仏教が新仏教を排撃する手段ともなっていた。  
その理論づけが本地垂迹説である。言うまでもなくこの説は、神と仏は本来同一で、本地はインドの仏だが衆生済度のために述を日本に垂れたのが神だという説で、仏主神従であり、仏教が神道を取りこもうとした説である。従ってこれをも神道と言うのは少々奇妙でむしろ仏教の一派だが、両部神道とか山王神道とか言われるものがこれで、前者は密教(真言における金剛界・胎蔵界の両部の教理を神道にあてはめ、内宮を胎蔵界の大日如来、外宮を金剛界の大日如来とし、大日本国とは大日の本国だとする考え方)、後者は天台の教義に基づく神道である。従って神道の一派を仏教の僧侶が立てても別に不思議ではない。  
以上の歴史を見てくると、神仏習合とははじめは仏教側の発想で、神道の方から習合を求めたのではないことが明らかであり、それはそうなって当然であろう。というのは神道は文字通り「はじめからあるもの」であって、自分の方から習合を求める必要はなかったからである。そしてこれが仏教側の要請であるが故に、仏主神従という形の「神道とりこみ形」の習合になって当然である。だがこのことは、これの逆転乃至は裏返しも可能だということである。  
いわば「神と仏は本来同一で、本地はインドの仏だが、衆生済度のため迹を日本に垂れたのが日本の神々である」という説は、あくまで教義(ドグマ)であって歴史的証明は不可能である。となると、これを裏返して「神と仏とは本来同一で、本地は日本の神だが、衆生済度のため迹をインドに垂れたのが仏で、それが日本に環流してきたのが仏教だ」と言うことも不可能ではない。というのは歴史的証明のない教義はそのまま逆転させても、論理的な矛盾は生じないからである。これは、出てきて少しも不思議でない当然の帰結である。  
この「裏返し本地垂迹説」ともいうべきものが伊勢神道(注)にあったが、これをさらに推進して発展させたのがト部兼倶(1435〜1511)であった.彼が生きた永享七年から永正八年まではいわば足利の乱世であり、彼自身は相当に山師的な、日本史には珍しい面白い人物である。彼は仏主神従を裏返しにし、それに基づいて両部神道を排斥し、それとは別に唯一宗源神道を主唱した。ある意味では神道の独立宣言とも言えるであろう。  
(注:度会神道・神宮神道ともいう。伊勢神宮の内宮・外宮を密教の胎蔵界・金剛界に見立てた両部神道の影響下に、鎌倉前期に形を整え、中期以降に発展し、南北朝期に集大成された。これは、国家護持を自認する仏教界による伊勢神宮の思想的な取り込みであり、渡会氏はその影響下に、神宮独自の古伝承によりながらも、仏教の論理・用語を借用した教説を立てた。伊勢神宮外宮の神官渡会氏の内宮への対抗意識がこれを助長したとされる。『日本歴史大事典』「度会神道」)  
いわぱ仏教は神道を仏主神従の形で取りこもうとして、ここで逆に神主仏従の形で取りこめられたわけである。  
彼は確かに相当に山師的な人物であり、世の動乱に乗じて神道を独立させて独占し、それに基づいて日本国中の神祇をことごとく自分の支配下に置こうとした。そしてこの意味では国家神道という発想は彼にはじまると言ってよく、日本的宗教の独立宣言のような一面ももっていた。そしてこれが、外来の他宗教への従属感から日本人を脱却させる効果があり、ある意味ではそのプライドを満足させる一面があった。  
(その主張は)まず第一に、「わが神道は国常立尊以降、天照大神まで相うけ、大神より天児屋根命に授け給い、爾来今日に至るまで、一気の元水をくみて、三教(儒釈道)の一滴をも嘗めず。故に唯一法あるのみ」であり、第二に「天児屋根命は神事の宗源を主とすると日本書紀にあり。ト部は宗源卜事の大業を受け、神代附属の正脈をつぎ、神皇の師範に侍し、一代不絶の名跡たり。故に卜部の正統は、唯一流の家業を受くるものなり」としている。そして第三に「国はこれ神国、道は神道、国主は神皇なり。天照大神一神の威光、百億の世界に遍く、一神の附属、永く万乗の王道を伝え、天に二日なく、国に二王なし。故に日神在天の時、月光星光をならべず。唯一天上の証明これなり」として、これを唯一三義の説明にしている。  
しかしこう言って神道を儒仏の上にもって来たところで、その体系的内容は儒仏からの借物にすぎない。だがこの問題も、「裏返し本地垂迹説」を援用すれば解決できる。これがいわゆる根本枝葉花実説で、これによれば前述の天児屋根命の神宣に基づく日本の固有の思想が基本で、これが日本に根ざし、まず中国に枝葉をのばし、インドに花開き、その実が落ちてまた日本に帰ったのだとする。こうすれば、神道が儒仏を援用したとて、少しも矛盾がないことになる。後代の超国家思想はほぼこのころにはじまったと見てよいであろう。  
言うまでもなく朱子学(旧来の儒教教典に大胆な新解釈を加え、理気一元論のもとに陰陽五行、五常五倫を説いたもの)は、この土壌の上に、幕府の統治のための官学として、まず入ってきた。従って、当時すでに日本の神祗をほぼ抑えていた唯一宗源神道との間に、ある種の習合が”便宜主義的に”生じたとて少しも不思議ではない。と同時に、林家にとっては、仏教は幕府から排除すべき敵であった。家康の側近で力を振った天海も崇伝ももちろん僧であり、いずれも神仏習合説の信奉者である。従ってその考え方は「神国=仏国」だが、道春にとっては「神国=儒国」であらねば自己の権威確立にはならなかった。  
こういうわけで、林氏はまず僧服をやめ、ついで僧形をやめ、一般士人と同様になって大学頭と言われるようになった。しかしこれは道春、春斎のときでなく、春斎の子の春常の時であり、彼が、番頭大学頭信篤と称したのは元禄四年のこと、・・・このことは当時の仏教的伝統がどれだけ強固であったかを示している。従って林家にとっては、儒学独立が同時に神儒習合であって少しも不思議ではなかった。  
もっともこの点を、ただ便宜主義的な動機とのみ見るのは、少々問題であり、道春があくまでも歴史的に見て神仏混淆はおかしいと思ったとて、それは不思議ではない。というのは仏教には元来、儒教的な歴史という概念はない。ないが故に本地垂迹説は歴史的証明を必要としない。しかし儒教はそうではなく、特に司馬光の『資治通鑑』(中国、宋代の歴史書。戦国時代から五代末までの1362年間の君臣の事績を編年体で記したもの)が日本に与えた影響は、当時、決定的だったからである。それは、戦後の一時期のような「歴史ブーム」をまき起した。  
だが歴史ブームとなれば、当時の人間が用い得た史書が中心は日本書紀であり、同時にこれは神道の”聖書”なのである。これは否応なく崇伝・天海の「神国=仏国」論への再検討となる。と同時に『資治通鑑』に基づく日本史解釈は神儒習合的になるから、徹底した中国崇拝家の林道春が神社考を著わしたとて、それは別に不思議ではない。だがたとえ彼がその序に「それ本朝は神国なり」と記したとて、これはすでに「仏国」の意味でなく、むしろこれを基本として仏教を排撃しているわけである。  
(林道春はその神社考の結論として)「こい願うは、世人わが神を崇んでこの仏を排せんことを。しからばすなわち、国家上古の淳直に復し、民族内外の清浄を致す。また可かならずや」と記している。(こうした見方は道春の論敵であった山崎闇斎も、熊沢蕃山も同じであった。蕃山は)「もとより四海の師国たる天理の自然をば恥じて、西戎の仏法を用い、わが国の神を拝せずして、異国の仏を拝す。わが主人を捨てて、人の主人を君とすることをば恥とせず、その過ちを知るべし」と記している。  
(こうした全般的な風潮の中で)神道の側からも当然これに対応する動きがあった。すなわち吉田流の唯一神道の中から、仏教的要素を排除する吉川惟足が出た。これが理学神道である。(これは、秘事や口伝を排し、吉田神道に朱子学の理気説や陰陽五行説を交えたもの。これらの仏教を排し儒教と習合した神道を儒家神道という。)  
(こうした朱子学的な歴史理解が、熱狂的な中国崇拝を生むことになるが、これに対する反発から、山鹿素行の『中朝事実』にあるような「日本こそ中国(=中つ国)である」といった主張がなされるようになった。これが、神道の根本枝葉果実説を呼び起こすこととなり、さらに、古事記・日本書紀を神道の聖典とし、萬世一系の天皇による統治の優越性を説く、国学思想を生み出すこととなった。その結果、従来神道思想を支えてきた仏教や儒教思想は排撃され、神道は、儒仏受容以前の日本固有の道(古道)に還ることが求められるようになった。これが平田篤胤を経て国家神道へと発展していくのである。)  
日本への仏教(儒・釈・道の三教が混淆した思想)受容が公的な問題になったのは、排仏派の物部氏が蘇我氏に滅ぼされた587年のことです。この時、仏教と対立する日本の伝統宗教をさす語として、神道という言葉があてられたといいます。では、この日本の伝統宗教である神道とはどのような思想を持っていたのでしょうか。前項では、これを「自然の生命力を讃えるもの」と説明しましたが、記紀ではこれを次のような農耕文化の伝搬として説明しています。  
まず、高天原において稲作や雑穀栽培、養蚕が始まったこと。次いで、スサノオが追放された出雲で雑穀栽培が行われたこと。この両者は後者が前者に国譲りをすることで和解したこと。次いで、ニニギが侍神と共に稲を持って筑紫の日向高千穂に天下り、海の民、さらに山の民と和解したこと。その後東征して大和に至り、ここを都として「五百秋水穂国」を開き、初代神武天皇が即位したこと。  
この物語は、稲作を中心とする農耕文化が、北九州から南九州それから畿内へと伝搬していったことに対応しています。それと同時に、この稲作文化の中心に天照大神がいて、その周りを神々が役割分担しつつ、合議制で高天原を治めていたこと。そこから中つ国に使者を派遣する形で、その統治を拡大していき、それが天皇を中心とする政治に発展したことを物語っています。  
さらに、このアマテラスを中心とする日本神話には、他の地域の神話には見られない際だった特徴を持っています。それは、アマテラスは「天上の神界の王者の最高神であるのに、女神」であるということです。他の神話ではおしなべて男性神で、彼らは想像を絶するほど残忍で無慈悲な性質を持っています。しかしアマテラスは、これらの他の神話の神々とは異なり、実に寛容で、ビックリするほど慈悲深く描かれています。  
それは、ほとんど母親が我が子を甘やかすのに似ていて、流血や殺害を極度に嫌う態度で一貫しています。また、彼女が高天原の女王の地位についた経緯も、その天稟の資質を見込まれて、当然の如く平和的にその地位についています。これも、他の神話の最高神が、血みどろの戦いの末にその地位についているのに比べて、著しい対照をなしています。(『日本の神話伝説』吉田敦彦・古川のり子)  
では、こうした日本神話に現れた平和思想は、一体どのように育まれたのでしょうか。これは、日本の稲作を中心とする農耕文化(弥生文化)の広がりとともに語られています。それは紀元前五世紀頃始まったとされます(近年、弥生時代の始まりを紀元前1000年頃まで溯らせるべきとする意見も出てきています)。とすると、六世紀末の仏教受容までには、すでに一千年近い稲作生活がなされていたわけで、ここから、日本の伝統思想が形成されたと見ることができます。そして、その基本は、日本的自然的秩序に従うことを最上とする一種の自然神話的発想であったろうと思われます。  
いうまでもなく、日本の稲作には季節的変動があり、この自然の秩序に順応して、季節を肌で感じながら、稲作が行なわれます。ここから、「自然に従っていればよい」という発想が生まれたのではないでしょうか。そして、こうしたものの考え方が、人びとの意識構造を決定した。つまり、これが歴史時代には入る以前の日本人の無意識の思想だったのではないでしょうか。  
ここに、まず、三世紀頃道教によって死後の世界の観念が持ち込まれ(これが古墳文化を生んだ)、次いで、仏教(=儒・釈・道三教合一思想)が入ってきました。その結果、日本人はそれまで無自覚だった自らの伝統思想を意識するようになりました。そして、この儒・釈・道三教合一思想を、日本の伝統的な自然秩序への順応を基礎におく神・儒・仏三教混淆思想として再把握するようになったのです。  
このことは、聖徳太子の憲法十七条にもそのまま反映しています(このことについては前項で説明しました)。次いで、この神・儒・仏混合思想は、奈良時代から鎌倉時代あたりまでは仏教中心に解釈されました。次いで室町時代末の乱世になると、仏教の無力が明らかとなり、主客が入れ替わって神道中心の神仏混合思想が唱えられるようになりました。次いで、江戸時代になり社会秩序が回復すると、神道は秩序の学である朱子学(新しい儒教の一派)と混淆するようになりました。  
その後、神道は、この新儒教をも「唐ごころ」として排除し、仏教や儒教導入以前の、日本固有の純粋な神道思想に回帰しようとする国学思想に発展しました。この思想は、日本的な自然秩序への順応をベースに、自然(天地、鳥獣草木を含む)と人間との関係、人間相互の関係(君臣、夫子、夫婦、兄弟、朋友)を、恩論や仁愛の情(あわれみ愛する心)をもって説明しました。それは多分に、儒教の五倫五常を反映するものでしたが、それをも、「人が天性生まれつきに持つ本性」と見なすところに、日本的な「人間性」信仰が表白されているといえます。(『受容と排除の軌跡』山本七平) 
 
『日本的革命の哲学』
 
 / 「貞永式目」を創った北条泰時の思想はどのようなものだったか

 

人間が、何か新しい発想で新らしいことをはじめようと思っても、過去を全く無視することはできない。マルクスがいかに新しい発想をしようと、その発想を体系化しかつ具体化するための「思想的素材」は過去と同時代に求めざるを得ない。しかしこのことは、他国の法と体制をそのまま継受することとは全く別である。継受は決して新しい発想を自己の中に創出したのでなく、自己と無関係のあるものを見て、それに自己を適応させようとしただけである。この点、明恵−泰時政治思想は前者であり、まず「自然的秩序絶対」という思想を自ら創出し、それを具体化するための素材を同時代と過去に求めたにすぎない。  
まず「今ある秩序」を「あるがままに認める」なら、朝も幕も公家も武家も律令も、そしてやがて自らが作り出す『式目』の基になる体制も、あるがままにあって一向に差しつかえないわけである。朝幕併存は「おかしい」と日本人が思い出すのは徳川期になって朱子の正統論が浸透しはじめてからであり、それまでは、それが日本の自然的秩序ならそれでよいとしたわけである。これが大体、明恵―泰時政治思想の基本であろう。  
だがその基本を具体化し、現実をそれで秩序づけるとなれば、この基本を具体化する素材が必要である。そしてその基本的素材は中国の思想に求められた。だが、中国思想に求めたのはあくまでも素材である点が、律令とは決定的に違う。同時に、それが本質であって素材でない中国とも違っでくる。これはもしも今、泰時のような状態に置かれたら、その基本的発想は自ら創出しても、それを具体化する素材は西欧の政治思想に求めるであろうというのと同じである。このことは今の段階では、政治家よりむしろ経営者の行き方にあるが―― 
宗教法的体制は生まず  
前章で記したように、明恵上人は泰時に、この自然的秩序に即応する体制を樹立するには「先づ此の欲心を失ひ給はば、天下自ら令せずして治るべし」であるといい、その背後には、「政治は利権である」が当然とされていた律令制の苦い歴史的体験があるであろうとのべた。この体験も一つの素材であるが、つづく明恵上人の言葉には明らかに、孔子・老子・荘子・孟子等の考え方が入っている。これは当時の僧侶は単に宗教家というよりもむしろ総合的知識人であったことを考えれば少しも不思議ではない。  
たとえば『孟子』は「心を養うには寡欲が最良の方法である。その人となりが寡欲であれば、たとえ仁義の心を失っても、失った所は少なくてすむ。その人となりが多欲であれば、仁義の心があるとしてもきわめてわずかである」と説き、また老子は「無欲にして静ならば、天下将に自ら定まらん」といい。荘子も「聖人の静なるや、静は善なりと曰うが故の静なるに非ず。万物の以て心を僥(みだ)すに足るもの無きが故に静なり。……それ虚静恬淡、寂莫無為、天下の平(和)なるにして道徳の至なり」としている。  
この考え方の背後にあるものは、「自然法則は道徳法則である」という発想だから、それは先験的なものであり、「無欲」な自然状態になれば、この先験的道徳法則が発見できるという考え方であろう。後にこれを体系的な哲学にするのは朱子であろうが、明恵上人の考え方はもちろん朱子学的ではなく、むしろ、それへ至る思想の日本的・仏教的解釈と見るべきであろう。  
また明恵上人は春日大明神をも信仰しており、この点では最も正統的な三教合一論者であったといえる。そして喜海の記すところでは、大乗・小乗はもとより外道の説も孔老の教えもすべて如来の定恵から発したものだと固く信じていたらしい。この思想がどのように形成されてきたかは『受容と排除の軌跡』で詳説したので再説しないが、この考え方が政治的に機能するときは、何らかの宗教を絶対化した「宗教法的体制」にはならないという点では、まさに泰時の政治思想さらに幕府の政治思想の基本となっている。(後略) 
明恵の「あるべきようは」  
では人は「無欲で無為」であればよいのか。さらに全員が無欲になって隠遁してしまえばよいのか。面白いことに明恵上人は決して無為を説かなかった。「或時上人語りて曰はく、『我に一つの明言あり、我は後生資(たすか)らんとは申さず、只現世に有るべき様にて有らんと申すなり。聖教の中にも行すべき様に行じ、振舞ふべき様に振舞へとこそ説き置かれたれ。現世にはとてもかくてもあれ、後生計り資かれと説かれたる聖教は無きなり。  
仏も戒を破って我を見て、何の益かあると説き給へり。仍って阿留辺幾夜宇和(あるべきようは)と云ふ七字を持つべし。是を持つを善とす。人のわろきは態(わざ)とわろきなり。過ちはわろきに非ず。悪事をなす者も善をなすとは思はざれども、あるべき様にそむきてまげて是をなす。此の七字を心にかけて持(たも)たば、敢えて悪しき事有るべからず』。と云々」と。また『遺訓抄出』には「又云、我は後世たすからむと云者にあらず。たゞ現世先づあるべきやうにてあらんと云者也。云々」とあり、この言葉は座右の銘のように絶えず口にしたらしい。この考え方は浄土教の信者とは方向が全く違う。(中略)  
泰時はもちろんこの言葉を聞いたものと思われる。彼は明恵上人のこの言葉をどう受けとり、それが彼の施政、特に『貞永式目』の中にどのように反映」ているであろうか。まずこの「あるべきようは」を具体化すれば、細かいことまで「こうあるべきだ」と定めた一種の律法主義になる。・・・だがそれはいわゆる律法主義であってはならず、・・・「心の実法に実ある」振舞いが、ごく自然的な秩序となって、この戒法に一致するように心掛けよ、である。従ってこれは見方を変えれば「あるべきよう」にしていれば、自然にこうなるということ、それも決して固定的でなく、「時に臨みて、あるべきように」あればよいのである。そして面白いことに泰時にとっては「法」も、こういったものなのである。(後略) 
世界史上の奇妙な事件  
だがこの「戒法」というものは「心の実法に実あるふるまい」をしていれば、自然にそれが、「戒法」になるような「法」であらねばならない。それは、結局、自然的秩序をそのままに「戒法」としたということになる。いわば、内心の規範(道徳律)と社会の秩序と自然の秩序が一体化するような形であらねばならぬということ。それが「詮ずるところ、従者主に忠をいたし、子親に孝あり、妻は夫にしたがはゞ、人の心の曲れるをば棄て、直しきをば賞して。おのづから土民安堵」となる、いわば「あるべきようは」が達成されるということであろう。  
泰時にとっては「立法の趣旨」とはつまりそれだけであった。だがこれは世界史に類例がない奇妙な事件なのである。というのは、泰時に向って「お前はいかなる根拠によって立法権をもつと主張できるのか」と問えば、彼は何も答えられないからである。(後略) 
法の形をとらぬ実法  
・・・(そこで)彼は『式目』を「目録」と名づけようとした。では当時の「目録」という言葉に「法令集」という意味があったのであろうか。実は、ない。「所領目録」「文書目録」等、「目録」の意味と用法は現在とは変らない。従って泰時にとっては『式目』とは「法規目録」とでも言うべきものであった。ではこの「法規目録」はいかなる法理上の典拠に基づいて制定されたのか。そう問われ、またそれが明らかでないと非難されても、そのような法理上の典拠はないと彼はいう。  
このように明言した立法者はおそらく、人類史上、彼だけであろう。そして言う「たゞし道理のおすところを被記候者也」と。一体この「道理」とは何であろうか。泰時はそれについて何も記していないが、簡単にいえば「あるべきようは」であろう。。前の手紙と対比しつつ、今まで記した明恵―泰時的政治思想を探って行けば、それ以外には考えられまい。いわばこれが立法上の典拠なのである。  
彼は律令格式がきわめて体系的で立派なことは認めている。しかしそれは「漢字」で書かれているようなもので「かな」しかわからない一般人にはわからないという。そこでこの『式目』は、「かな」しか知らない多くの人を「心えやすからせんため」に制定したものであるという。もちろんこれは比喩であって『式目』もまた実際には『漢文』で書かれている。しかし律令格式を知る者は、「千人万人が中にひとりだにもありがたく」また「百千が中に一両もありがたく」という状態は、この法律を知る者が皆無に等しかったことを示している。これは事実であろう。  
問題はこの語の前の「武家のならひ、民間の法」という言葉である。これは確かに、律令格式とは別の「武家法と民間の慣習法」があるという意味ではなく、「武家・庶民を問わずそれを知らないのが一般的である」という意味であろう。ではその武家・庶民が完全に「無法」かというと決してそうではなく、一種の「法の形式をとらぬ実法」があり、社会は律令格式によらずそれによって秩序を保って来たことは否定できない。その意味では「武家法と民間の慣習法」の存在を言外に主張していると見てよいであろう。  
簡単にいえばそれが自然的秩序であり、そのため逆に律令が浸透しなかったともいえる。そして人びとは、不十分ながらその秩序の中に生きており、それを当然としているのに何かあって法廷に出れば「俄に法意をもて理非を勘(かんがえる)」となり、「人皆迷惑と云云」という状態になる。そして泰時が、この状態に終止符をうとうということである。  
だが泰時は決して、「式目絶対、今日から『関東御成敗式目』が日本国における唯一絶対の法である」と宣言したわけではない。彼はあくまでもその時点において「あるものはある」とする態度を持している。いわば出来あがった自然的秩序をそのまま肯定しているわけで、朝幕がそのまま併存してよいように、「律令・式目」もまた併存していて一向にかまわなかった。彼は『式目』への謗難を礼儀正しく拒否したが、といって『律令』に謗難を加えようとはしなかった。だが律令は結局、「天皇家とその周辺」の「家法」のようになっていき、「武家国内の教会法のヴァチカン」のように、やがて、そこだけが特別法の一区画になって行くのである。 
「幕末の国学系の歴史家伊達千広は、その著『大勢三転考』において、日本の歴史を三期に区分し、「骨(かばね)の代」「職(つかさ)の代」「名(みょう)の代」とした。・・・この区分は政権の交替ではなく、政治形態という客観的な制度の変革による本格的な歴史区分であり、それをそのまま歴史的事実として承認しているからである。・・・  
彼の三大区分のそれぞれを簡単に記せば「骨の代」とは、古代の日本の固有法文化に基づくもので、その基本は、国造・県主・君・臣のように居地と職務が結合した血縁集団を基礎とする体制で、これを身体にたとえれば氏が血脈で姓は骨に相当し、その職務は、血縁的系譜の相承で子孫に受け継がれる。  
この「骨」は天武天皇十三年(684)に廃され「職の代」となる。いわば朝廷から「官職」を与えられてはじめて地位と権限とが生ずる時代である。・・・そして第三の「名」の代は文治元年(1185)、源頼朝が六十余州総追捕使に任じられた以降の時代で、「名」とは封建制下の大名・小名の時代である。  
以上の分け方を、別の言葉で表現すれば、古代固有文化の時代、中国からの継受法文化の時代、新固有文化の時代ともいえるであろう。もっともこの区分の時期には、それぞれの考え方があってよく、「法制」という面から「骨」と「職」の区分を大宝元年の『大宝律令』の完成交付(701年)、「職」と「名」の区分を貞永元年の「貞永式目」(関東御成敗式目)の交付(1232年)としてもよいであろう。(『日本的革命の哲学』)  
北条泰時は、この「職の代」から「名の代」の転換期に、日本に定着することなく形骸化してしまった、中国からの継受法(他国の政治制度をまねた法律)である「律令」に代えて、固有法である「貞永式目」を制定して、日本の政治に実質的に機能する法秩序を打ち立てたのです。それは革命ともいうべき政治的大転換であったわけですが、彼は、その革命を一体どのような政治思想に基づいて行ったのでしょうか。  
このことを考えるためには、まず、律令政治というものがどのようなものであったかを見ておく必要があります。  
律令制度の基本は「公地公民制」です。これは全ての土地人民は公の所有になったということ、つまり天皇家の所有になったということを意味します。そして、こうして公有された土地は、改めて「班田収受の法」に従って、戸籍に登録された正丁(21歳以上60歳以下男子)に口分田として支給され、また収容(死亡時に返還)されました。そして、人民は、支給された口分田について「租」(稲二束二把)を地方政府に、また、成年男子にかかる人頭税である「庸・調」(布・米・塩・綿など地方の特産物)を中央政府に納めました。  
ところが、この公地公民制は、表面上は「井田法」に見るように大変公平な制度のように見えますが、裏返せば、全てが利権に附属する「利権制国家」に変質していきました。というのは、「口分田をいかに勤勉に耕したとて、それによって得た富で隣地を買って財産をふやすことはできない。しかし官職につけば必ず利権はついてまわり、さまざまな不正を行いうる。これは、生産手段の集権的国有制に発生する構造的腐敗の体系というべき状態で、これは昔も今も変わりはない」からです。  
「こうなると地方官になったり官職についたりするのは一に利権のためとなるから、能力はどうでもいいということになる。・・・しかし、中央官僚は門閥に支配されているからはじめから無理となると、多くの者は地方官を志望する。そしてひとたび任官すれば「一国を拝すれば、その楽余り有り、金帛(きんぱく)蔵に満ち、酒肉案(=膳)に堆し、況んや数国を転任するをや」(平兼盛)」で、それは天下り官僚が公団等を渡り歩いて次々と何千万という退職金を手にする比ではない。」ということになりました。  
このように、律令制は一面では利権制であり、農地耕作者の勤労意欲も高まらなかったことから、次第に公地公民制は崩壊していくことになりました。というのは、この制度の基礎は口分田の支給であり、それを基にした租庸調という税制によって成り立っていました。また、その班田収受は戸籍を基にしています。しかし、戸籍に登録すれば土地は支給されるが税金もかかるし徭役も兵役もある。そのため、その対象となる男子は戸籍登録をしないくなり、戸籍はほとんど女子だけになりました。  
では、男子はどこで働いたかというと、第一が功田と腸田などの私有地です。また、開墾地の労働力として働きました。これらの土地の開墾は、人口の増加に伴う墾田の不足によって否応なく要請され、かつ、723年の「三世一身の法」から743年の「墾田永年私有法」を経て、開墾地の私有が認められるようになりましたので、彼等は、その私有地(=荘園)を有する領主のもとで作人として働くようになりました。  
こうして、律令制度は「名存実亡」となり、同時にその間隙を縫って利権が発生し、如何ともしがたい様相を呈するようになったのです。そして、それへの対処療法は、明恵上人が言うには「打ち向かうままに賞罰を行い給はば、弥々(いよいよ)人心の姧(かたま)しくわわくにのみ成りて、恥をも知らず、前を治れば後ろより乱れ、内を宥めれば外より恨む。されば世の治まると云う事なし」というような無秩序な状態になりました。  
では、なぜそのようなことになるのかというと、病の根源を知らないからで、そのためにますます病気が重なって癒え難くなっているのだ。その病気の根源は「欲」であり、これが遍く万般の禍となっているから、これを療せんとするなら、まずこの欲心を棄て去ることが大事だ。そうすれば天下は自ずから令せずして収まるだろう。明恵上人は北条泰時にこのように言いました。この言葉は、以上述べたような、当時の律令制下の利権政治を念頭においたものだったのです。  
これに対して泰時は、「それはもっともですが、私自身は全力を尽くしてこの教えを守ろうと思っていますが、しかし他人にこの教えを守れというのは難しい。どのようにしたらいいでしょう」というと、明恵上人は「それは容易です。ただ為政者としての貴方お一人が無欲になり切られたなら、その徳に感化されて、天下は容易に治まるでしょう。」と答えました。泰時は上人のこの言葉を肝に銘じ、心に誓ってこの教えを守ったといいます。  
泰時は、こうした明恵上人の政治哲学を胸にその後の政治を行っていったわけですが、ではこの明恵上人の思想はどのようなものだったかというと、それは日本の伝統的な三教(神・儒・仏)合一論で、「(仏教の)大乗・小乗はもとより外道(それ以外の)説も孔老(孔子や老子)の教え」も融合した日本的な自然法的道徳思想でした。明恵上人自身は華厳経の僧侶でしたが、その理解の仕方は、以上のような日本的・仏教的解釈であったと見ることができます。  
この華厳経の基本的な考え方は、「広大な真実の世界を包含する仏(毘廬遮那仏)が、一切の衆生・万物とともにあり、さらに一切の衆生・万物も仏を共有しうる」というものです。ここから天台宗の「山川草木悉皆成仏」という考え方や、あらゆる衆生には仏性が備わっているという法華経の考え方が生まれました。しかしながら、この仏性は人間の「欲」によって曇る。従って、その欲心を去って「政をなすに徳をもってすれば」自然と社会の秩序は保たれる。明恵は泰時にそのように教えたのです。  
では明恵は「無欲で無為」であればいいといったのかというと、そうではありませんでした。彼は、浄土宗を激しく非難したように、「我に一つの明言有り、我は後生資(たすか)らんとは申さず、只現世に有るべき様にてあらんと申すなり。・・・現世にはとてもかくてもあれ、後世ばかり資と説かれたる聖教は無きなり。・・・仍て阿留辺幾夜宇和(あるべきやうは)と云う七字を持(たも)つべし。これを持つを善とす」といったのです。これを泰時は固定的でなく、「時に臨みて、あるべきように」あればよいと考え、そして「法」もそのようなものであるべきだ、と考えたのです。  
これが、泰時の「法」に対する基本的な考え方となりました。「法」とは、その時代の現実をふまえ、その問題点を把握し、それを常識に照らして正していくためのもので、必要に応じて改廃すべきものでした。そして、それを行う為政者は、まず第一に無欲であるべきで、自らの内心の「道理」にもとづく「理非の決断」ができなければいけない、としたのです。これが「貞永式目」という、当時の日本人の常識に根ざした固有法を生む事になり、これは、武家社会だけでなくその後の日本の社会一般に広く浸透していくことになりました。 
   
 
『日本的発想と政治文化』
 
 / 言葉なき思想の自己増殖

 

伝統的規範は、日本人がこの島で生きて行くための「知恵の集積」であり、その思考の体系は、一種、生物の生態系のようになっている。人間が社会をつくるとは、その社会と自己との関係、いわば「個と全体」とをいかに系統立てて把握するかが基本になるから、社会的動物とは思想的動物であり、それによって生きている。  
したがって、その思考の体系が生物の生態系のようになるのは当然であって、どこの国、どの時代の思想であれ、これと似た一面をもつことは否定できない。そしてこの生物の生態系の一部を、外来思想で否定するという形で”刈り取る”と、全体のづフンスが崩れて、それとバランスをとっていた他の面が、外来思想の名で異常な自己増殖を起こすのである。  
この現象は、ソビエト、中国、アフリカ等々に見られる。いわば”収容所群島”もカンボジアの現状も直接にはマルクス主義とも社会主義とも関係はあるまい。関係あるなどと言われたらマルクス自身と他の社会主義者たちが驚くであろう。だがしかし、この現象が起こりかつこれからも起こるであろうことは否定できない。と同時に、これはただに外国の問題でなく、アメリカ型民主主義を受け入れたわれわれももつ問題である。  
このことを考えるきっかけになったのは、ある新聞記者の私への質問である。その新聞は昨春から「戦後民主主義を問う」といった連載を企画し、その取材に来られたのであった。そのとき記者が、「一体これをどう思われますか」と言いつつ話した一つの例話がある。  
ある小学校のあるクラスで、その一人を懲罰としてすっ裸にしてさらし者にした。そして教師は、クラスの多数決によってきまったのだから、完全に民主的・自治的な制裁であると言ったという――聞いているうちに私は少々暗潅たる気持となった。民主主義について哲学的思索を次々に積み重ね、三権分立、議会民主制という一つの結論に到達するまでのさまざまな思想家を思い、その人たちがこの話を聞いたら、マルクスや社会主義者以上に、それは私とは関係ないと言っただろうと思ったからである。  
これはかっての「村八分」的な「さらし者」や、切支丹弾圧時の俵につめて首だけ出して河原にさらすという行き方、またかつての軍隊における私的制裁や収容者の集団リンチと基本的には変わりはない行き方である。すなわち「言葉なき思想」のある面の異状な「自己増殖」であり、これとバランスをとる歯止めが外来思想で”刈り取られた”悲しむべき状態であり、その状態を輸入の思想の名で正当化しているにすぎないからである。  
もちろんこれは「民主主義」そのものの責任ではない。私はその記者にそれは「民主主義」とは無関係の行為であると言った。民主主義――その発生の原点を探れば、それをヘレニズムに遡ろうとヘブライズムに遡ろうと、その基本にあるものは前者は「法」、後者は「律法」の絶対化の意識である。この二つは発想が違うが、いずれも「公示された法」を個人の上におき、個人または集団による恣意的処罰は絶対に許さないのがその原則である。  
彼らは人間の恣意的な発想や決議に絶対性を置かず、それを二重、三重にチェックし、その上でなお基本的な原則――それが憲法と呼ばれようと神の律法と呼ばれようと――に照らして違法がない場合にのみ、新たなる「法」として告示した。そしてその告示前の行為は、たとえその「法」に違反していても罰されないのが原則である。  
以上の観点から、「生徒を丸裸にしてさらし者にした」という行為を見てみれば、たとえ生徒の多数決を尊重するにせよ、まず事前に、「これこれの行為をした者は裸にした上でさらし者にする」という規定が多数決で決定され、同時にそれが校則に違反なく、さらに教育基本法にも違反していないことが論証されねばならない。もしそれを論証し得たならば、それが公示され徹底されればならず、それ以前の行為はたとえその罰則に該当しても、これには適用してはならない。  
同時にその「法」はある個人に恣意的に適用されるのでなく、少なくともそれを決議した全員に等しく適用されねばならない――これは言うまでもないことだが、少なくともこの教師の言う「民主主義」とは、このような考え方を基本としている思想ではなかったことは事実である。したがってこれは民主主義でなく、前述の「自己増殖」を民主主義という外来の思想で呼んでいるにすぎないわけである。 
思想には思想を  
ではこの教師が「民主主義」と呼んだ発想の背後にあるものは、何であろうか? 言うまでもなくあらゆる思想のもつ命題の一つは、前述のように、個と全体との合理性をどのような関係におくかにある。そして「主義」とはその関係の置き方が主題のはずで、この場合に教師のとった処置は、「全体の恣意的な意志に対する個の滅却」であり、個人の尊厳の無視であり、法に基づく個人の抗議・抵抗の権利の否定である。いわば個を認めず無条件で全体を絶対としている立派な全体主義であり、それを一集団に限定している点では集団主義以外の何ものでもない。  
そして彼はこの全体主義を民主主義と呼んでいるにすぎないのである。記者はモのような例を次々にあげて私の意見を求めた。そしてそれに答えているうちに、一種、やりきれない気持になってきたことは否定できない。  
しかし「やりきれない」と感ずること自体が、一つの誤りであろう。  
これは前述のように、伝統的な生物の生態系に似た「言葉なき思想」が体系的な外来思想で”刈り込み”を受けたとき必ず生じた現象であり、その現象を生じたのはそれなりの理由があったのだから、その現象の思想的な克服はけっして不可能ではなく、その方法は探せば見つかるはずであり、過去の多くの民族はそれを克服して新しい未来を切り開いたはずである。  
もちろん、戦後民主主義が多くの成果をもたらしたことは否定できない。と同時に多くの代償を支払い続けてきたことも事実である。何ごとにも代償があるとはいえ、この二つの関係は戦後日本の企業にも似て、一方が成長し成果をあげるに比例して、代償の”自己増殖”も、その負債のように雪だるま的に増殖して行ったことも否定できない。  
前述の例が、民主主義という資産を口にするとき、それがそのまま全体主義・集団主義・個人の尊厳の無視という負債を示しているのと同じである。そしてこれがそのまま進めば一種の精神的破産を招来するであろうという予感は、すべての人がどこかで感じており、それが「戦後民主主義を問う」といった連載を新聞社が企画するゆえんであろう。  
では、どうすべきなのか。  
原則は簡単である。思想が招来したものは、思想で克服する以外に方法がない。では「思想」で克服するには具体的にはどうすることなのか。それは個々の日本人がもつ「内なる合理性」と、国際社会の中の日本社会という「外なる合理性」を、いかに関係づけるかと言うことであろう。  
もちろん、ゲバ棒を振おうとテロを行おうと、その者の内なる「虚構の合理性」に社会を合致さすことはできない。もしそれを夢想するなら、日本の現状では、文字通り世界同時革命を起こしてみずからが全能者になると夢想する以外には、虚構の方法論さえ樹立できまい。  
とはいえ、多数決という名の外なる「虚構の合理性」に無条件で屈服し、丸裸のさらし者にされても、「耐えがたきを耐え、忍び難きを忍ぶ」という形で、みずからの内なる合理性を圧殺し、これを自己の心理的問題として内心で処理すれば、それは社会的には何の解決ももたらさず、両者とも、みずからの社会を耐えがたい対象とするだけであろう。