道元

道元1道元2正法眼蔵看経正法眼蔵重雲堂式
(時宗・一遍>転載) 道元と永平寺・・・
 

雑学の世界・補考   

仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり。
仏道を学ぶということは、仏典の知識をふやし、それを深めることではない。そこに自分という存在の真のあり方や生き方を学ぶことである。そして、本来の自己のあり方(仏性)を学び、その学び取ったものさえも、忘れてしまうことである。つまり、自己の存在のあり方を学び、その根底にある本来の自己=仏性をつかむと、自分の身心と他人の身心や事象との対立がなくなり、自他が同一となる世界に立つことができるのである。本来の自己を学び、その自己を離れれば、すべてが自己であり、宇宙である。「正法眼蔵」
他は是れ、吾れにあらず。
他の人は私ではない――という意味である。他人がつくったものや、人にやってもらったものの上に胡坐(あぐら)をかいて、さも自分がしたように思って生きているのが、私たちである。しかし、それはあくまでも他人のものであって、自分のものではない。それを自分のものにするには、物事に対して自分から主体的に取り組んで体得しなければならない。人任せにはせず、自分が行なうという主体性こそが「吾れ」である。何事にも人任せにはせず、付和雷同せずに、自分のかけがえのない生命を、いつ、どこにあっても主体的に発現せよ。それが人生を充実して生きることになるのだ、と道元は説いてやまない。「典座教訓」
人々みな仏法の機なり。非器なりと思うことなかれ。
どんな人でも仏法を修行し、それを実生活の中で実践する力が備わっている。そんな能力などはない、と決して思うな。仏法を学ぶことは、人間としての真実の生き方を学ぶことである。それを学びとり、生活の中で仏法を行なうことができる能力を、私たちは生まれながらにして持っている、と道元(どうげん)は説く。ある人が、「私は病身で、仏道を学ぶ力はない」といわれた道元は、「釈尊の生きておられたときでも、弟子たちは特別に優れていたわけでもなく、善人も悪人もいた。しかし、自分に内在する力を卑下(ひげ)して、真実の道を求めようとしない者はいなかった」(同前)と説いている。仏道は手の届かない所にあるのではなく、私たちの手の内にある。「正法眼蔵随聞記」
一事をこととせざれば、一智に達することなし。
一つの事に専念して、それになりきらなければ、真実をつかむ知恵を得ることはできない、と道元(どうげん)は説く。道元はいう。私たちは広く学び、多くの書物を読むことなど、とてもできない。それよりも、ただ一つのこと(修行)に専念して努力すれば、真実が見えてくる、と(「正法眼蔵随聞記」二)。私たちは万能という能力には恵まれていない。そのような人もいるだろうが、さしたる才能をもたない私たちは、だからといって自分を卑下(ひげ)することはない。自分ができることを一つでも見つけて、それに一生懸命に取り組むことで、自分のものにすることができる。そこからでも真実をつかむ知恵を体得することができるのである。「正法眼蔵」
人の心、元より善悪なし。善悪は縁に随っておこる。
人の心には元来、善や悪といった価値は根づいてはいない。善悪は自他の縁という相関関係によって起こるものである、と善悪を固定的に考えることを戒めたものである。たとえば、人が求道心を起こして、人里離れた山林に入って修行しようとする。その人は、山林こそが最高の修行の場で、世間は悪い所だと思う。ところが求道心が失われて修行が嫌になると、山林は悪い所だと思うようになる。私たちも同じように苦しい時に親切にしてくれる人を善い人だと思い、それがあまりにもお節介すぎると悪い人だと思ってしまう。このように心には一定不変なものはなく、状況や出会いなどの縁によって変わるのである。そのため、善い縁に出会えば心は善くなり、悪い縁に近づけば悪くなる。だから善い縁に触れるように心がけることである、と道元(どうげん)は説く。「正法眼蔵随聞記」
仏々祖々、みな本は凡夫なり。
仏像化されている仏さまは、初めから尊崇され、信仰された存在ではなかった。仏さまは、それぞれ修行して、悟りを開いて覚者となって尊敬された。また仏さまの教えを受け伝えた祖師といわれる人びとも、初めから優れた能力や人格を持っていたのではない。仏さまも祖師も、元々は私たちと同じような凡人であった。凡人であったときには、悪い心や邪(よこし)まな欲望も持っていた。しかし、その愚かさを反省し、悔(く)い改めて立派な師について仏道を修行したからこそ、仏となり祖師となったのだ。ここに仏や祖師と、凡夫との分岐点がある。道元は、仏さまや祖師の存在を対象化するのではなく、その教えを取り込むことができる仏性が私たちにはあり、仏祖と同じようになれる能力が私たちにはあると説いている。「正法眼蔵随聞記」
学道は先ず、すべからく貧を学ぶべし。
人生の真実を学ぶ人は、とりわけ貧しくなければならない、と道元(どうげん)は説く。これに続けて「なお利をすてて一切へつらう事なく、万事なげすつれ」と、利益を求めることをやめて、世間に迎合することなく、そうした思いを投げ棄てることである、と示す。私たちは、とかく欲望を満たしたいと思いながら生活している。だが道元は欲望の一切を否定する。特にお金などへの執着には、それと対極にある貧乏、すなわち無所有こそが、人生の真実を見つめる出発点になると強調する。無一物の境地に立つことが、真実を究めるために大切である。だが、たんに貧乏が必要だといっているのではない。すべての欲得を投げ棄てて、無心になって学ぶことこそが大切であると説いているのである。「正法眼蔵随聞記」
諸仏の慈悲、衆生を哀愍するは自身のためにせず、他人のためにせざるは、ただ仏法の常なり。
もろもろの仏が、慈悲の心をもって衆生を哀れむのは、自分のためとか他人のためといったことから離れた絶対の平等の心において行なうもので、これが仏法のあり方である、と道元は説く。仏法の修行は自分や他人のためにするのではない。まして名利(みょうり)のために修すべきものでもない。ただ仏法のために、これを修せよ、とも説いている。自他を離れたところに立つ心、それが仏であり、仏法を修すべき心得となる。仏の慈悲は、自他を差別しない平等の心であり、それは無償の慈悲で、その仏の姿を学ぶことは、仏と同じ慈悲を学ぶことである。その慈悲の心に立て、と道元は熱く説く。「学道用心集」
利行は一法なり、あまねく自他を利するなり。
利行とは自分の事はさておき、他人の利益を図る行為のことで、それは人間としての真理に基づく行為であるから、すべて自他に差別なく利益をもたらすものとなる、という意味である。道元は、師の栄西が餓死寸前の親子に仏教者にとって大切な仏像を作るための材料を与えて、「食べ物に代えなさい」といった行為に心から感動している。さらに道元は「しかあれば怨親ひとしく利し、自他おなじく利するなり」と言葉を続けている。怨みのある人にも、親しい人にも区別することなく、同じように利益を施すこと。それが自分を利して、生かすことにもなると、「無私」の行為の大切さを説いている。「正法眼蔵」
病は心に随って転じるかと覚ゆ。
病気は心のもち方しだいで変わるものかと思われる、という意味で、「病は気から」ということを実感した道元の名言である。中国(宋)に渡海した道元は、船中で下痢をわずらった。ところが、暴風に見まわれて船中が大騒ぎになった。それに気を奪われた道元は、病気であることを忘れて、そのまま治ったのである。その体験から、学道勉学する者は、他のことを忘れて勉励すれば病気も起こらないと思う、ということを説いている。人間は「身心一如」で一体となっている。それを忘れて身心が別々で機能していると考えることから、適切な健康を保つことができなくなる。病気になっても、心を明るくもてば、快癒の方向に進むこともあるのだ。「正法眼蔵随聞記」  



道元1

道元の生涯
臨済宗は鎌倉幕府の保護を受けて発展し、臨済宗の高僧たちは、幕府の政治顧問の立場を確立していった。 そして江戸時代になって徳川家康が儒学を官学とするまで、この状態は続いた。 つまり、臨済宗は政治権力と強く結びついていた。しかし、禅宗本来のあり方からすれば、目的はあくまで個人修行による悟りであり、政治権力とは無関係のはずで、 そんな臨済宗のあり方に不満を持ったのが道元であった。
道元は1200年、京都で生まれました。彼の父源通親は、朝廷内の実力者でしたが、道元が3歳のときに亡くなった。8歳のとき母も亡り、13歳で出家し、延暦寺で学んだ。しかし、「貴族のための仏教」となっていた天台宗に満足できず、比叡山を下り、建仁寺に入って栄西の弟子の明全(みょうぜん)から臨済宗を学 んだ。
1223年、24歳のとき、道元は明全とともに、より高度な禅を求めて南宋に渡った。南宋の港寧波(ニンポー)で、道元は禅の修行について大いに啓発される体験をし た。以下に 有名な逸話を紹介する。
寧波の港で、道元は入国の手続きのため、船の中に三ヶ月もとどめ置かれていた。そんなある日、日本の船がやって来ていることを知った一人の老僧が、たずねてきた。老僧は中国禅宗五山のひとつ阿育王山(あいくおうざん)の炊事係で だった。老僧は、日本特産の干し椎茸を求めてやってきたのだ。 道元は喜んで、茶をたて、老僧をもてなした。
「どうか船中にお泊まり下さい。いろいろとおたずねしたいことがあります。」
「それは無理です。私には大勢の食事をつくるという仕事がございます。」
「阿育王山ほどの大寺ならば、他にも炊事係はおられるでしょう。」
「これは私の修行であると心得ております。ですので皆の食事をつくるという仕事をおろそかにはできません。」
「あなたはたいそうなお年ですが、そんな雑用は若い者にまかせて、坐禅を組んだり、古人の公案を研究されるとかされればよいのではありませんか。」
「はっはっはっは。あなたは修行とはどういうものかが、まだ分かってはおられぬようだ。」
そう言い残すと老僧は急いで帰っていった。 道元はこの老僧との短い対話に大きなショックを受けたという。 老僧は道元に何を言ったのか、炊事とか掃除とか洗濯などの日常生活における雑事すべてが修行なのだと言ったのだ。 これをもっと短く言うと、「自分のことは自分でしろ」ということだ。 老僧はまさにこれを言ったのだ。
「自分のことは自分で」というのは、現在の日本では「常識」となっていが、当時はこの「常識」はなかったのだ。当時の常識は、「偉い人ほど自分では何もせず、他人にさせる」というもの だった。 私たちが「自分のことは自分でする」というのが当たり前だと考えるのは、実は道元がこのとき学んだ教えが定着したものなのだ。
道元は南宋で修行を積み、最後に天童奴浄(てんどうにょぞう)という高僧から、禅の神髄を学びとった。 「参禅は身心脱落なり。焼香・礼拝・念仏・修懺・看経を用いず只管に打坐するのみ」 これが、奴浄が道元に教えた禅の神髄である。「身心脱落(しんじんだつらく)」とは、精神や身体へのこだわりからはなれた状態のことで、つまり「悟り」の状態である。「身心脱落」を達成するただひとつの方法が「只管打坐(しかんたざ)」、つまりただひたすらに坐禅をすることである。これが奴浄の教えで ある。
つまり、坐禅が最高の修行であり、その他の修行は必要ないとする考え方だ。坐禅が最高なのかと言えば、それが釈迦が悟りを開いた方法であったからだ。
道元は、禅宗の初代である菩提達磨から代々伝えられた禅の神髄を身につけ、1227年に帰国した。 道元は建仁寺において、自分が身につけてきた「正しい教え」を広めようとしたが、またも延暦寺の妨害にあう。そのため道元は建仁寺を追われ、京都は深草の地に拠点を移し、教えを広めながら「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」を著した。
「正法眼蔵」は1231年から1253年にわたって書かれた道元の主著で、95巻の大著である。その内容は禅の本質・伝統・規則などが詳しく述べられているが、たいへん難解 だ。
道元の説く、きびしい禅の修行をしたう者は多く、しだいに弟子の数も増えていった。そのため、再び延暦寺などの攻撃がはげしくなっていった。
道元は1243年、弟子の一人であった越前国の豪族波田野義重の招きで、越前の大仏寺に移った。 翌年の1243年、道元は大仏寺を永平寺と名を改め、さらにきびしい修行に打ち込んだ。
1247年に5代執権北条時頼の招きを受けて鎌倉に下ったが、まもなく越前にもどった。道元は栄西とはちがい、政治権力を嫌ったのである。 その後、永平寺を弟子の懐奘(えじょう)にゆずり、1253年8月28日に京の宿で生涯を閉じたとされている(54歳)。
曹洞宗
道元の教えは曹洞宗とよばれた。禅宗であるということは臨済宗と同じだが、そのちがいは公案を用いず、ただひたすらに坐禅するという点にある。道元は在家のままでの悟りを否定し、出家主義を貫 いた。悟りを得るには釈迦が行ったように妻も子も捨てて出家しなければならないと考えたのだ。 また、道元は釈迦と同じく女人成仏、つまり女性が悟りを開くことについても否定的だった。
道元の教えは、弟子である懐奘(えじょう)の著した「正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)」にくわしく見ることができる。 「正法眼蔵随聞記」は懐奘が道元の教えをそのまま記録したもので、親鸞の弟子であった唯円(ゆいえん)の著した「歎異抄」のようなものだ。
道元はくり返し、くり返し、何よりも大切なことは出家し、修行に励むことによって悟りを得ることであり、その他のことは一切必要ないとのべている。
仏道を学ぶ人は、後日を待って仏道修行をしようと思ってはならない。ただ、今日ただ今をとりにがさすに、その日その日、その時その時に努力すべきである。
この近くに、ある在家の人がいたが、長い間病気であった。この人が去年の春のころ、わたしに約束して、「この病気をなおしたら、妻子と別れて仏門に入り、お寺の近くに庵室を建て、月に二回の布薩にも参加し、毎日の仏道修行やら、教えのお話しやらを見聞きして、できるかぎりは、戒にかなった行いを守って、一生を送りましょう。」と言っていたが、その後、いろいろと治療を加えたので、少し病勢も衰えたが、重ねて病勢がつのり、むなしく月日をすごしてしまった。
ところが今年の正月から急に重体となり、苦痛もいっそう切迫してきたので、思い切って平素準備していた庵室用の資財を運んで造ろうとしたがそのひまもなく、苦痛はいっそうひどくなるので、ひとまず、他人の庵室を借りて移り住んだが、わずか一、二か月のうちに死んでしまった。それでも死ぬ前の夜には菩薩戒を受け、三宝に帰依して、正式の仏弟子となり、臨終は立派にしてなくなったから、在家のまま心も乱れ、妻子への愛着をおこしたまま死ぬよりは結構なことであるが、去年思い立った時に在家の生活を離れて寺に近づき、僧団の生活にもなじんで、一年間正式に仏道を行って死んだなら、ずっとよかったであろうにとも思う。これにつけても、仏道修行は後日を待つということではいけないと思われるのである。
道元の説く厳しい自力修行は、親鸞の説く絶対他力とはまさに正反対の教えだ。 ところが不思議なことに、現在の日本で信者数の多いのは浄土真宗と曹洞宗である。ちなみに、現在の曹洞宗は二派に分かれ、福井県の永平寺と神奈川県の総持寺をそれぞれ本山としてい る。

道元2

「仏家に、もとより六知事あり」で始まる道元の「典座教訓」は、禅寺(曹洞宗)運営管理に携る六つの役職の中から、食事・湯茶を管掌する典座(てんぞ)を取り上げ、その心構え、仕事に臨む姿勢といった精神的なものから、米の研ぎ方、仕事の手順、食材の扱い方、食膳の整え方に至る手順を記した手引書である。
因みに他の役職には、総監督の都寺(つうす)、事務長の監寺(かんす)、会計・出納の副寺(ふうす)、雲水の監督・指導の維那(いの)、伽藍の整備や田畑・山林を管理する直歳(しっすい)があり、現在の私たちが使っている知事は禅から由来したものと思われる。
ところで、道元が「典座教訓」を著すきっかけとなったのは、若かりし日の彼に大きな衝撃と影響を与えた二人の老典座であった。
その一人は、貞応2年(1223)道元24歳の5月、明州慶元府の港で待てど暮らせど降りてこない天童山の入山許可を待つ船において、日本商船入港の噂を聞きつけ、端午の節句に供する麺汁のだしに日本の椎茸を使おうと買いにきた阿育王山の典座であった。
阿育王山は南宋五山の一つに数えられる大陸の霊地であるから、道元はご馳走するから一晩ゆっくり語り合わないかと老典座に誘いかけたが、彼は明日の供養の支度があるから今すぐ戻らないと間に合わないと行ってしまう。
そのやりとりを道元は「典座教訓」に次のように記している。
「あなたはずいぶんお年を召しているのになぜ坐禅弁道や修行をしないで、こうした煩わしい典座の仕事に励んでいるのか。それで何か良いことでもあるのですか」と私が典座に聞くと、彼は大笑して「外国の青年よ、君はまだ弁道とは何かを理解せず、文字とは何かを知得していないよ」と言った。
私は彼の言葉に驚きうろたえ「文字とはどういうものですか。弁道とはどういうものですか」と聞くのが精一杯だったが、彼は「もし君がその問うところをあやまっていなければ望み無きにしもあらずだがね」と云い、まだわからないようならそのうち阿育王山でも来るがよいと言って立ち去った。
その二ヶ月後、入山許可が降りて道元がやっと足を踏み入れた天童山景徳寺にあの典座が帰郷の途次にと彼を訪ねてきた。その場面の「典座教訓」の記述は簡潔で、
「文字を学ぶ者は文字の故を知ろうとし、弁道する者は弁道の故を納得しようとするであろうね」と典座は云い、「文字とは何ですか」と聞く道元に「12345」と典座は答え、「弁道とは何ですか」と道元が問えば「徧界不曽蔵」と答えた。
それだけである。ホント、禅問答の見本だ。
因みに「道元典座教訓」藤井宗哲訳・解説によれば「徧界不曽蔵」を「宇宙は広く開けっぴろげ」と解している。
もう一人は、道元が天童山景徳寺で修行していたときに出会った老典座で、彼とのやりとりを「典座教訓」では次のように記している。
ある日私が食事を終えて宿舎の超然斎へ向かおうとしたところ、仏殿の前庭で、用さんという典座が杖を持ち、炎天下に笠もかぶらず体中に汗をかきながら一心不乱に苔(たい:きのこ)を干しているのをみかけた。
背は弓のように曲がり長い眉は鶴のように白い用さんの近くに寄って年齢を尋ねると68歳と答えるので、「そんなに辛そうな仕事をどうして寺男にやらせないのですか」と私が聞くと、「他人は私ではないから」と典座が答えるので、「あなたは真面目なのですね。ですが、こんなに強い陽射しが強いのに、どうしてそんなな仕事をしておられるのか」と聞く私に「陽射しの強い今でなければ、いつこれをするときがあるのかな」と逆に問われ私は言葉もなかった。
二人の老典座は、禅修行で大事なことは座禅を組み、お経を唱える事で、文字とは大蔵経(だいぞうきょう)や公案祖録を読むことと思い込んでいた若い道元に痛烈な一撃を喰らわせたのである。
後に道元は「禅苑清規(ぜんねんしんぎ)」によって典座職は大衆の斎粥を司る禅院六知事のひとつであり、衆僧の食事を管掌する役僧である事や、禅の修行において食事作りを含む日常生活の運営自体が修行であると知るのだが、これは道元が身を置いた叡山だけでなく日本の仏教界にはなかった事であったからその衝撃は大きかった。
宋から帰国後一時的に身を置いた建仁寺での、名ばかり典座が自らの手で食事を仕切らず寺男に任せきりにしていただけでなく、典座が台所に入る事を恥とする風潮に危機感を抱き、在宋中に出会った数々の名典座の教えを思い起こして後世に伝えるだけでなく、自ら禅院を営む上での手引書として著したのが「典座教訓」であった。
道元は正治2年(1200)の1月に、内大臣源(土御門)通親を父に、前摂政関白藤原基房(松殿)の娘・伊子(いし)を母に京の松殿の別邸で生まれた。
当時の貴族社会では生まれた子供は母方の家で育てられるのが一般的であったから、祖父の元房は孫をゆくゆくは有力な後継者とすべく英才教育をほどこし、道元は幼少時から聡明さを発揮して「前漢書」「後漢書」「史記」や唐代の帝王学書「貞観政要」を読んでいたといわれる。
しかし、道元が8歳のときに死別した母の伊子は道元の出家を強く望み遺言にその旨をしたためたとされるが、一体何故彼女は父・基房の考えに強く反対したのか。
それは彼女の人生に照らして極めて納得できる事で、彼女は源平争乱期には入京した木曾義仲と16歳で結婚させられて兄師家の摂政実現の生贄にされ、義仲討死後は後白河院政の頂点で辣腕を振るっていた内大臣・源通親に嫁がされるという二度の政略結婚を強いられたからである。
それでは、伊子にとって道元の父であり夫である源通親とはどのような男であったか。
源通親は村上源氏の嫡男でありながら平氏全盛期には高倉院に仕えて平氏の信頼を獲得し、清盛とのさらなる絆を強めて清盛の弟・教盛の娘と結婚するが、平氏が安徳天皇を擁して都落ちする際には、彼らを見切って比叡山に蓄電していた後白河院のもとに馳せ参じ後白河院に忠誠を誓っている。
その後の源通親は、院の寵妃・丹後の局と組んで愛娘大姫の後鳥羽後宮への入内を望む源頼朝を翻弄しつつ、娘任子を入内させている九条兼家との競合を利用して対後白河同盟にあった頼朝と兼実の間に楔を打ち込む一方で、通親自身は権勢を振るう後鳥羽天皇の乳母・藤原範子を妻にして、範子の連れ子・在子を養女にして後鳥羽天皇に入内させて、兼家、頼朝と共に天皇の外戚競争を展開している。
そして、めでたく在子が第一皇子出産の暁には一方的に九条兼家を政界から追放し、天皇の外戚として内大臣にもかかわらず、摂政関白・藤原基通を押し退けて強力な政治力を発揮する。
この親にしてこの子ありというべきか、通親の子・道具(道元の父という説もある)は古女房の藤原俊成卿の娘(定家の姉妹)を離縁して、土御門天皇の乳母・従三位按察局(あぜちのつぼね)と結婚して定家を悲憤させたと、「定家明月記私抄」(堀田善衛)は述べている。
当時の天皇の乳母は絶大な権限を有しており、加階・昇進を望む貴族は天皇への口利きを期待して、乳母に金品や荘園を寄贈をする事が常態化しており、藤原定家もこの事では随分苦労したようである。
源平内乱期に木曾義仲に嫁がされ、源通親全盛期には彼に嫁がされ、まさに乱世に翻弄されたといえる藤原伊子は、裏切りと権謀渦巻く政治の世界にわが子道元を投げ込みたくはなかったのだ。
3歳で父・源通親と、8歳で母・藤原伊子と死別した道元(幼名:文殊)は9歳で「倶舎論」を読んだと伝えられてているが、出家を志した栄西も8歳で読んだとされる「倶舎論」は、4-5世紀ごろ西インドの僧・世親(せしん)によって著された30巻からなる仏教の基礎的教学であり、このことからも道元の強い出家の決意が読み取れる。
13歳になった道元は母方の叔父で後に天台座主となる良顕を叡山に訪ね出家の相談をする。道元を継嗣と願う藤原基房の意を知る良顕は一度は反対するが、結局は彼の意志に逆らえず横川の僧房に彼を預け、あくる年道元は天台座主・公円の導きによって正式に出家し、この時から仏法房道元と名乗る。
当時は出家して鎮護国家の祈念を理とする叡山のような大寺院の僧になるということは、国家公務員として一種の特権的な身分と生活の保証を手に入れることを意味した。
とりわけ、叡山を始めとする南都北嶺(※1)の僧には公務員としての身分保証だけでなく、朝廷・院・公卿の催す仏事や、大寺院の恒例の法会に招かれたり、教学の知識を試す論議にも参加して実績を重ね、その実績を評価されて朝廷から僧官(僧綱※2)に任叙される。これが僧としての立身出世の過程であった。 
※1 南都北嶺(なんとほくれい):南都の諸寺と比叡山。特に興福寺と延暦寺を指す場合が多い。
※2 僧綱(そうごう):僧尼を取締り諸大寺を管理する僧職。僧正・僧都・律師からなる。
しかし、摂関家と内大臣家との間に生まれた道元のようなサラブレッドには、このような階段を一段一段登る必要はなかった。
何故なら、比叡山延暦寺の長官ともいえる天台座主(てんだいざす)は朝廷によって任命される公的な役職で、院政期以降は皇室や摂関家の出身者の就任が常態化しており、例えば63世天台座主・承仁法親王は後白河院の皇子であったし、道元が出家の相談をした良顕は後に承円と名乗り68世、72世の天台座主を務め、祖父藤原基房の異腹の弟・慈円は62、65、67、71世と4回も天台座主を務めている。
備中吉備津神社の一神官の息子であった栄西と違って、いきなり天台座主・公円の導きで出家したたサラブレッドの道元には、忍耐を要する長い長い修行や雌伏を経ることなく、いずれは天台座主への道は用意されていたわけで、母の藤原伊子が彼の出家を望んだのも、醜い政治の世界でなくても息子が栄光を目指せるとの思いがあったからではないか。
しかし、18歳になった道元はそんな栄光に背を向け叡山を後にする。
道元は建保5年(1217)の夏に18歳で建仁寺の明全に入門し、その後明全と共に入宋するのだが、それ以前にも15歳で一度叡山を降りて三井寺の座主・公胤を訪ねている。
この頃の叡山は、清水寺の帰属を巡って興福寺と激しく争い、興福寺の衆徒が春日大社の神木を奉じて大挙して京に押しかけた混乱の責任を取って、道元の出家の師・公円が天台座主を更迭され、代わりに道元の父・源通親が引き下ろした慈円が後任になるといった騒ぎだけでなく、日吉社の神饌を巡る山門(叡山)と寺門(三井寺)の争いが、東大寺・興福寺・金峯寺をも巻き込む大きな抗争に発展して、僧兵が互いの寺院に焼討ちをかけて武闘を展開するという状況にあった。
だから、道元がそうした叡山に愛想をつかして飛びだしたかといえば、そのような武闘や破壊は彼の生前から、つまり律令制度が崩壊する過程で数世紀に亘って展開されており、鎌倉政権樹立により頂点に達しただけの事で、幼少時からこのような事態を見聞きしていた道元にとっては承知の上で出家であった。
彼にとっての問題は出家の理念にあり、道元が身を投じた当時の叡山では「自身本覚(じしんほんがく)、我身即真如(がしんそくしんにょ)」、自分がそのまま真実であり、自分がそのまま仏であるという思念が広く流布しており、その思念の如く修行という漸進的・段階的な過程を経ないで、自分がそのままで即座に仏になれるのであれば、何故出家して厳しい修行に専念する必要があるのかと、自らの出家の根拠への根源的な問いかけが生まれるたのである。
これに関して道元の伝記「建撕記(けんぜいき)」では、
顕密の二教は共に「本来本法性(ほんらいほんほっしょう)、天然自性身(てんねんじしょうしん)」と語っているが、もしそうであるなら、過去・未来・現在の三世の諸仏は何を根拠にして、ことあらためて発心して菩提を求めたのであろうか、とあり、
人は生まれながらにして法性・性身、仏性を身につけているのであるなら、なぜ世俗のままではいけないのか。殊更出家して厳しい修行をする必要はないではないかと、出家の根拠に疑問が生じたとされている。
さらに、道元の弟子懐弉(えじょう)が深草の興聖寺における道元の説教を記録した「正法眼蔵随聞記」によると、
「この国の大師は土瓦の如くに思えて、正師に会はず善友なき故に、迷ひて邪心をおおこし」と道元は述べ、
師も友も見出せないまま孤立した道元は、僧として生きる場所を求めて叡山を去っていったのであろう。
14歳で道元が身を投じた当時の叡山を支配していたのは「自身本覚(じしんほんがく)、我身即真如(がしんそくしんにょ)」、自分がそのまま真実であり、自分がそのまま仏であるという本覚思想であった。
もし本覚思想が唱える通り衆生に本来仏性が具わっているのであれば、何故出家して厳しい修行に専念する必要があるのかとの強い疑問が15歳の道元を突き動かし、密かに山を降りて訪ねた相手が三井寺の高僧として名をはせた公胤であった。
しかし何ゆえに三井寺の高僧・公胤なのか。
公胤は三井寺に入って天台・密教を修め、村上源氏の出であったことから北条政子の頼みで公暁を弟子にした事もあるが、後鳥羽院の信望を得て長吏(トップ)を勤めて三井寺の興隆を成し遂げた実力者であったが、建久9年(1198)に法然上人が著した「選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)」を痛烈に批判する「浄土決疑抄」を書いたものの、後に法然の法門を聞くに及んで深く帰依して専修念仏の唱道者となり、道元が訪ねた時は公職を退き里房で念仏三昧の生活をおくっていた。
九条兼実の「玉葉」に「顕真遁世久しく、念仏の一門に入るに依って、真言の万行を棄つ」と書かれた顕真も、叡山で顕密を修めて名声を高めたにも拘らず大原に遁世し、文治2年(1186)秋には法然上人を勝林院に招いて諸宗の碩学達と「大原問答」を展開し、それを機に法然に深く帰依して念仏三昧に入るものの、文治6年(1190)には朝廷に推されて天台座主になっている。
このように、当時は天台を修めた高位高僧であっても、同じ人格の中に天台・密教という旧仏教と、専修念仏という新仏教が同居する事は珍しくなかった。
であるからこそ、道元は、かつての三井寺の高僧で今は遁世して念仏三昧に暮らす公胤をひそかに訪ねたのである。
ほとばしる思いで本覚思想への疑問、出家の根拠への問いかけをぶつけた若き道元に対して、公胤はそれに直接答えることはしないで、宋では禅が盛んで、建仁寺には、その宋で禅を修めた栄西がいるよ、と示唆した、と、道元の生い立ちを記した書籍の多くは記しているが、
そうではないでしょ?と私が思うのは、
一度は痛烈に批判した法然の専修念仏に今や深く傾倒して念仏三昧の暮らしをする公胤であれば、道元に宋禅や栄西を提示する前に、自らが帰依する法然の「専修念仏」を提示しないはずはない。その時道元はどう反応したのか。法然の専修念仏よりも栄西の宋禅に向かうに至った道元のプロセスを知りたいものだと私はしきりに思う。
道元の伝記「建撕記」によれば、叡山の本覚思想に大きな疑問を抱いた道元に、三井寺の公胤は問題解決の糸口として入宋すること、そのためには宋の虚庵懐敞から臨済宗黄龍派を嗣法した栄西開祖の建仁寺の門を叩くよう進言したとされている。
ここでは道元が建保3年(1215)に75歳で入寂した栄西から直接指導を受けたか否かは脇に置いて、公胤の進言で入宋求法(にゅうそうぐほう)を志すようになった道元が建仁寺の門を叩いたのは正解と言える。 何故なら、鎌倉前期に興った新宗派の禅宗では、仏法は書かれた教えよりも師から弟子への人格的陶冶(とうや ※1)を通じてこそ伝えられるとする「教外別伝(きょうげべつでん)」を原則としており、そのためには釈迦から達磨を経て今に至る法脈を伝える師から直に学ばなければならなかった。
であるからこそ数多の禅僧が命の危険をも顧みず中国渡航を熱望したのであり、その逆に鎌倉建長寺開祖の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)や無学祖元のような中国で高名な禅僧があえて辺境の日本に到来して禅宗をひろめたのである。
また、国家機構の面では、当事の国家は外交感覚が欠如していた事もあって外交機能を担うべき専門組織が存在せず、せいぜい名ばかりの担当組織として冶部省に属する玄蕃寮(げんばりょう※2)が存在しただけであり、そのうえ、中国の科挙のような高級官吏任用制度を持たない日本の律令体制では、官吏を養成する教育機関も存在せず、寺院こそが中世における代表的な教育機関であったし、そもそも僧侶には全文が漢文で構成される経典の読書きが不可欠なことから、中国との外交行為に必須とされる漢文能力も国風文化を重んじて漢文から遠ざかっていた貴族よりも僧侶の方が遥かに抜きん出ていた。
このような背景が、とりわけ禅宗における中国との人的交流を活発にし、その中でも日本禅宗の初祖とされる栄西が開いた建仁寺には、中国渡航経験者を始め、漢文能力や中国語能力に秀でた豊かな人材が集まり、最新の中国情報や中国人とのコミュニケーション・ノウハウが蓄積されてていたから、道元のような入宋を志す者にとっては打ってつけの場所であったといえる。
蛇足になるが、入宋間もない道元が出会った老典座との交流や、明全と道元が天童山で遭遇した出来事、これは、戒律の年次を無視して自国の僧を優遇して日本など外国僧を末席に置いた南宋ののやり方に対して、道元が外国僧に対する不当な扱いは仏教の平等に反すると天童山当局や皇帝の寧宗(ねいそう)に訴え、寧宗の勅宣で外国僧に対する待遇を改善させた成果は、まさに建仁寺で習得した語学力・コミュニケーション力の賜物であったと言える。
※1 陶冶(とうや):人材を薫陶育成する事。
※2 玄蕃寮(げんばりょう):律令制で冶部省に属し、仏寺や僧尼の名籍、外交使節の接待・送迎をつかさどった役所。
 

 
正法眼蔵 看経(しょうぼうげんぞうかんきん)

経巻とはなにか
阿耨多羅三藐三菩提の修證、あるいは知識をもちゐ、あるいは經卷をもちゐる。知識といふは、全自己の佛祖なり。經卷といふは、全自己の經卷なり。全佛祖の自己、全經卷の自己なるがゆゑにかくのごとくなり。自己と稱ずといへども我◎の拘牽にあらず。これ活眼睛なり、活拳頭なり。
しかあれども念經、看經、誦經、書經、受經、持經あり。ともに佛祖の修證なり。しかあるに、佛經にあふことたやすきにあらず。於無量國中、乃至名字不可得聞(無量國の中に於て、乃至名字だも聞くこと得べからず)なり、於佛祖中、乃至名字不可得聞なり、於命脈中、乃至名字不可得聞なり。佛にあらざれば、經卷を見聞讀誦解義せず。佛祖參學より、かつかつ經卷を參學するなり。このとき、耳處、眼處、舌處、鼻處、身心塵處、到處、聞處、話處の聞、持、受、説經等の現成あり。爲求名聞故説外道論議(名聞を求めんが爲の故に、外道の論議を説く)のともがら、佛經を修行すべからず。そのゆゑは、經卷は若樹若石の傳持あり、若田若里の流布あり。塵刹の演出あり、虚空の開講あり。
薬山のこと、慧能のこと
藥山曩祖弘道大師、久不陞堂(藥山曩祖弘道大師、久しく陞堂せず)。
院主白云、大衆久思和尚慈晦(大衆久しく和尚の慈晦を思ふ)。
山云、打鐘著(打鐘せよ)。
院主打鐘、大衆才集(院主打鐘し、大衆才に集まる)。
山陞堂、良久便下座、歸方丈(山、陞堂し、良久して便ち下座し、方丈に歸る)。
院主隨後白云、和尚適來聽許爲衆説法、如何不垂一言(院主、後に隨つて、白して云く、和尚、適來爲衆説法を聽許せり、如何が一言を垂れざる)。
山云、經有經師、論有論師、爭怪得老僧(經に經師有り、論に論師有り、爭か老僧を怪得せん)。
曩祖の慈晦するところは、拳頭有拳頭師、眼睛有眼睛師なり。しかあれども、しばらく曩祖に拜問すべし、爭怪得和尚はなきにあらず、いぶかし、和尚是什麼師。
韶州曹谿山、大鑑高祖會下、誦法花經僧法達來參(韶州曹谿山、大鑑高祖の會下に、誦法花經僧法達といふもの來參す)。
高祖爲法達説偈云(高祖、法達が爲に説偈して云く)、
心迷法華轉、心悟轉法華、(心迷は法華に轉ぜられ、心悟は法華を轉ず)
誦久不明己、與義作讎家。(誦すること久しくして己れを明らめずは、義と讎家と作る)
無念念即正、有念念成邪、(無念なれば念は即ち正なり、有念なれば念は邪と成る)
有無倶不計、長御白牛車。(有無倶に計せざれば、長に白牛車を御らん)
しかあれば、心迷は法花に轉ぜられ、心悟は法花を轉ず。さらに迷悟を跳出するときは、法花の法花を轉ずるなり。
法達、まさに偈をききて踊躍歡喜、以偈贊曰(偈を以て贊じて曰く)、
經誦三千部、曹谿一句亡。(經、誦すること三千部、曹谿の一句に亡す)
未明出世旨、寧歇累生狂。(未だ出世の旨を明らめずは、寧んぞ累生の狂を歇めん)
羊鹿牛權設、初中後善揚。(羊鹿牛權に設く、初中後善く揚ぐ)
誰知火宅内、元是法中王。(誰か知らん火宅の内、もと是れ法中の王なることを)
そのとき高祖曰、汝今後方可名爲念經僧也(汝、今より後、方に名づけて念經祖と爲すべし)。
しるべし、佛道に念經僧あることを。曹谿古佛の直指なり。この念經僧の念は、有念無念等にあらず、有無倶不計なり。ただそれ從劫至劫手不釋卷、從晝至夜無不念時(劫より劫に至るも手に卷を釋かず、晝より夜に至りて念ぜざる時無し)なるのみなり。從經至經無不經(經より經に至りて經ならざる無し)なるのみなり。 
転経(てんぎん)ということ
第二十七祖東印度般若多羅尊者、因東印度國王、請尊者齋次(第二十七祖、東印度の般若多羅尊者、因みに東印度國王、尊者を請じて齋する次に)、
國王乃問、諸人盡轉經、唯尊者爲甚不轉(諸人盡く轉經す、ただ尊者のみ甚としてか轉ぜざる)。
祖曰、貧道出息不隨衆縁、入息不居蘊界、常轉如是經、百千萬億卷、非但一卷兩卷(貧道は出息衆縁に隨はず、入息蘊界に居せず、常に如是經を轉ずること、百千萬億卷なり、ただ一卷兩卷のみに非ず)。
般若多羅尊者は、天竺國東印度の種草なり。迦葉尊者より第二十七世の正嫡なり。佛家の調度ことごとく正傳せり。頂◎眼睛、拳頭鼻孔、◎杖鉢盂、衣法骨髓等を住持せり。われらが曩祖なり、われらは雲孫なり。いま尊者の渾力道は、出息の衆縁に不隨なるのみにあらず、衆縁も出息に不隨なり。衆縁たとひ頂◎眼睛にてもあれ、衆縁たとひ渾身にてもあれ、衆縁たとひ渾心にてもあれ、擔來擔去又擔來(擔ひ來り擔ひ去りて又擔ひ來る)、ただ不隨衆縁なるのみなり。不隨は渾隨なり。このゆゑに築著◎著なり。出息これ衆縁なりといへども、不隨衆縁なり。無量劫來、いまだ出息入息の消息をしらざれども、而今まさにはじめてしるべき時節到來なるがゆゑに不居蘊界をきく、不隨衆縁をきく。衆縁はじめて入息等を參究する時節なり。この時節、かつてさきにあらず、さらにのちにあるべからず。ただ而今のみにあるなり。
蘊界といふは、五蘊なり。いはゆる色受想行識をいふ。この五蘊に不居なるは、五蘊いまだ到來せざる世界なるがゆゑなり。この關◎子を拈ぜるゆゑに、所轉の經ただ一卷兩卷にあらず、常轉百千萬億卷なり。百千萬億卷はしばらく多の一端をあぐといへども、多の量のみにあらざるなり。一息出の不居蘊界を百千萬億卷の量とせり。しかあれども、有漏無漏智の所測にあらず、有漏無漏法の界にあらず。このゆゑに、有智の智の測量にあらず、有知の智の卜度にあらず。無智の知の商量にあらず、無知の智の所到にあらず。佛佛祖祖の修證、皮肉骨髓、眼睛拳頭、頂◎鼻孔、◎杖拂子、跳造次なり。
趙州觀音院眞際大師、因有婆子、施淨財、請大師轉大藏經(趙州觀音院眞際大師、因みに婆子有り、淨財を施して、大師に轉大藏經を請ず)。
師下禪牀、遶一匝、向使者云、轉藏已畢(師、禪牀を下りて、遶ること一匝して、使者に向つて云く、轉藏已畢ぬ)。
使者廻擧似婆子(使者、廻つて婆子に擧似す)。
婆子曰、比來請轉一藏、如何和尚只轉半藏(比來轉一藏を請ず、如何が和尚只だ半藏を轉ずる)。
あきらかにしりぬ。轉一藏半藏は婆子經三卷なり。轉藏已畢は趙州經一藏なり。おほよそ轉大藏經のていたらくは、禪牀をめぐる趙州あり、禪牀ありて趙州をめぐる。趙州をめぐる趙州あり、禪牀をめぐる禪牀あり。しかあれども、一切の轉藏は、遶禪牀のみにあらず、禪牀遶のみにあらず。
益州大隋山神照大師、法諱法眞、嗣長慶寺大安禪師。因有婆子、施淨財、請師轉大藏經(益州大隋山神照大師、法諱は法眞、長慶寺の大安禪師に嗣す。因みに婆子有り、淨財を施して、師に轉大藏經を請ず)。
師下禪牀一匝、向使者曰、轉大藏經已畢(師、禪牀を下りて一匝し、使者に向つて曰く、轉大藏經已畢ぬ)。
使者歸擧似婆子(使者、歸つて婆子に擧似す)。
婆子云、比來請轉一藏、如何和尚只轉半藏(比來轉一藏を請ず、如何が和尚只だ半藏を轉ずる)。
いま大隋の禪牀をめぐると學することなかれ、禪牀の大隋をめぐると學することなかれ。拳頭眼睛の團◎のみにあらず、作一圓相せる打一圓相なり。しかあれども、婆子それ有眼なりや、未具眼なりや。只轉半藏たとひ道取を拳頭より正傳すとも、婆子さらにいふべし、比來請轉大藏經、如何和尚只管弄精魂(比來轉大藏經を請ず、如何が和尚只管に精魂を弄する)。あやまりてもかくのごとく道取せましかば、具眼睛の婆子なるべし。
高祖洞山悟本大師、因有官人、設齋施淨財、請師看轉大藏經。大師下禪牀向官人揖。官人揖大師。引官人倶遶禪牀一匝、向官人揖。良久向官人云、會麼(高祖洞山悟本大師、因みに官人有り、齋を設け淨財を施し、師に看轉大藏經をず。大師、禪牀より下りて、官人に向つて揖す。官人、大師を揖す。官人を引いて倶に禪牀を遶ること一匝し、官人に向つて揖す。良久して、官人に向つて云く、會すや)。
官人云、不會。
大師云、我與汝看轉大藏經、如何不會(我れ汝が與に看轉大藏經せり、如何が不會なる)。
それ我與汝看轉大藏經、あきらかなり。遶禪牀を看轉大藏經と學するにあらず、看轉大藏經を遶禪牀と會せざるなり。しかありといへども、高の慈晦を聽取すべし。
この因縁、先師古佛、天童山に住せしとき、高麗國の施主、入山施財、大衆看經、請先師陞座(山に入りて財を施し、大衆看經し、先師に陞座を請ずる)のとき擧するところなり。擧しをはりて、先師すなはち拂子をもておほきに圓相をつくること一匝していはく、天童今日、與汝看轉大藏經。
便擲下拂子下座(便ち拂子を擲下して下座せり)。
いま先師の道處を看轉すべし、餘者に比準すべからず。しかありといふとも、看轉大藏經には、壹隻眼をもちゐるとやせん、半隻眼をもちゐるとやせん。高祖の道處と先師の道處と、用眼睛、用舌頭、いくばくをかもちゐきたれる。究辨看。 
看経(かんきん)ということ
曩祖藥山弘道大師、尋常不許人看經。一日、將經自看、因僧問、和尚尋常不許人看經、爲甚麼却自看(曩祖藥山弘道大師、尋常人に看經を許さず。一日、經を將て自ら看す、因みに僧問ふ、和尚尋常、人の看經するを許さず、甚麼としてか却つて自ら看する)。
師云、我只要遮眼(我れは只だ遮眼せんことをを要するのみ)。
僧云、某甲學和尚得麼(某甲和尚を學してんや)。
師云、◎若看、牛皮也須穿(◎若し看せば、牛皮もまた穿るべし)。
いま我要遮眼の道は、遮眼の自道處なり。遮眼は打失眼睛なり、打失經なり、渾眼遮なり、渾遮眼なり。遮眼は遮中開眼なり、遮裡活眼なり、眼裡活遮なり、眼皮上更添一枚皮(眼皮上更に一枚の皮を添ふ)なり。遮裡拈眼なり、眼自拈遮なり。しかあれば、眼睛經にあらざれば遮眼の功徳いまだあらざるなり。
牛皮也須穿は、全牛皮なり、全皮牛なり、拈牛作皮なり。このゆゑに、皮肉骨髓、頭角鼻孔を牛◎の活計とせり。學和尚のとき、牛爲眼睛(牛を眼睛と爲す)なるを遮眼とす、眼睛爲牛(眼睛を牛と爲す)なり。
冶父道川禪師云、
億千供佛福無邊、
爭似常將古教看。
白紙上邊書墨字、
請君開眼目前觀。
(億千の供佛福無邊なり、爭か似かん、常に古教を將て看ぜんには。白紙上邊に墨字を書す、請すらくは君、眼を開いて目前に觀んことを。)
しるべし、古佛を供すると古教をみると、福徳齊肩なるべし、福徳超過なるべし。古教といふは、白紙の上に墨字を書せる、たれかこれを古教としらん。當恁麼の道理を參究すべし。
雲居山弘覺大師、因有一僧、在房内念經。大師隔窓問云、闍梨念底、是什麼經(雲居山弘覺大師、因みに一僧有り、房の内に在つて念經す。大師、窓を隔てて問うて云く、闍梨が念底、是れ什麼の經ぞ)。
僧對曰、維摩經。
師曰、不問◎維摩經、念底是什麼經(◎に維摩經を問はず、念底は是れ什麼の經ぞ)。
此僧從此得入(此の僧、此れより得入せり)。
大師道の念底是什麼經は、一條の念底、年代深遠なり、不欲擧似於念(念に擧似せんとは欲はず)なり。路にしては死蛇にあふ、このゆゑに什麼經の問著現成せり。人にあふては錯擧せず、このゆゑに維摩經なり。おほよそ看經は、盡佛祖を把拈しあつめて、眼睛として看經するなり。正當恁麼時、たちまちに佛祖作佛し、説法し、説佛し、佛作するなり。この看經の時節にあらざれば、佛祖の頂◎面目いまだあらざるなり。 
看経の作法
現在佛祖の會に、看經の儀則それ多般あり。いはゆる施主入山、請大衆看經(施主山に入り大衆を請じてする看經)、あるいは常轉請僧看經(常に僧を請じて轉ずる看經)、あるいは僧衆自發心看經等(僧衆自ら發心してする看經)なり。このほか大衆爲亡僧看經(大衆亡僧の爲にする看經)あり。
施主入山、請僧看經は、當日の粥時より、堂司あらかじめ看經牌を僧堂前および衆寮にかく。粥罷に拜席を聖僧前にしく。ときいたりて僧堂前鐘を三會うつ、あるいは一會うつ。住持人の指揮にしたがふなり。
鐘聲罷に、首座大衆、搭袈裟、入雲堂、就被位、正面而坐(首座大衆、袈裟を搭し、雲堂に入り、被位に就き、正面して坐す)。
つぎに住持人入堂し、向聖僧問訊燒香罷、依位而坐(聖僧に向つて問訊し、燒香罷りて、位に依つて坐す)。
つぎに童行をして經を行ぜしむ。この經、さきより庫院にととのへ、安排しまうけて、ときいたりて供達するなり。經は、あるいは經凾ながら行じ、あるいは盤子に安じて行ず。大衆すでに經を請じて、すなはちひらきよむ。
このとき、知客いまし施主をひきて雲堂にいる。施主まさに雲堂前にて手爐をとりて、ささげて入堂す。手爐は院門の公界にあり。あらかじめ裝香して、行者をして雲堂前にまうけて、施主まさに入堂せんとするとき、めしによりて施主にわたす。手爐をめすことは、知客これをめすなり。入堂するときは、知客さき、施主のち、雲堂の前門の南頬よりいる。
施主、聖僧前にいたりて、燒一片香、拜三拜あり。拜のあひだ、手爐をもちながら拜するなり。拜のあひだ、知客は拜席の北に、おもてをみなみにして、すこしき施主にむかひて、叉手してたつ。
施主の拜をはりて、施主みぎに轉身して、住持人にむかひて、手爐をささげて曲躬し揖す。住持人は椅子にゐながら、經をささげて合掌して揖をうく。施主つぎに北にむかひて揖す。揖をはりて、首座のまへより巡堂す。巡堂のあひだ、知客さきにひけり。巡堂一匝して、聖前にいたりて、なほ聖にむかひて、手爐をささげて揖す。このとき、知客は雲堂の門限のうちに、拜席のみなみに、面を北にして叉手してたてり。
施主、揖聖僧をはりて、知客にしたがひて雲堂前にいでて、巡堂前一匝して、なほ雲堂内にいりて、聖僧にむかひて拜三拜す。拜をはりて、交椅につきて看經を證明す。交椅は、聖僧のひだりの柱のほとりに、みなみにむかへてこれをたつ。あるいは南柱のほとりに、きたにむかひてたつ。
施主すでに座につきぬれば、知客すべからく施主にむかひて揖してのち、くらゐにつく。あるいは施主巡堂のあひだ、梵音あり。梵音の座、あるいは聖僧のみぎ、あるいは聖僧のひだり、便宜にしたがふ。
手爐には、沈香箋香の名香をさしはさみ、たくなり。この香は、施主みづから辨備するなり。
施主巡堂のときは、衆僧合掌す。
つぎに看經錢を俵す。錢の多少は、施主のこころにしたがふ。あるいは綿、あるいは扇等の物子、これを俵す。施主みづから俵す、あるいは知事これを俵す、あるいは行者これを俵す。俵する法は、僧のまへにこれをおくなり、僧の手にいれず。衆僧は、俵錢をまへに俵するとき、おのおの合掌してうくるなり。俵錢、あるいは當日の齋時にこれを俵す。もし齋時に俵するがごときは、首座施食ののち、さらに打槌一下して、首座施財す。
施主囘向の旨趣を紙片にかきて、聖僧の左の柱に貼せり。
雲堂裡看經のとき、揚聲してよまず、低聲によむ。あるいは經卷をひらきて文字をみるのみなり。句讀におよばず、看經するのみなり。
かくのごとくの看經、おほくは金剛般若經、法華經普門品、安樂行品、金光明經等を、いく百千卷となく、常住にまうけおけり。毎僧一卷を行ずるなり。看經をはりぬれば、もとの盤、もしは凾をもちて、座のまへをすぐれば、大衆おのおの經を安ず。とるとき、おくとき、ともに合掌するなり。とるときは、まづ合掌してのちにとる。おくときは、まづ經を安じてのちに合掌す。そののち、おのおの合掌して、低聲に囘向するなり。
もし常住公界の看經には、都鑑寺僧、燒香、禮拜、巡堂、俵錢、みな施主のごとし。手爐をささぐることも、施主のごとし。もし衆僧のなかに、施主となりて大衆の看經を請ずるも、俗施主のごとし。燒香、禮拜、巡堂、俵錢等あり。知客これをひくこと、俗施主のごとくなるべし。
聖節の看經といふことあり。かれは、今上の聖誕の、假令もし正月十五日なれば、まづ十二月十五日より、聖節の看經はじまる。今日上堂なし。佛殿の釋迦佛のまへに、連牀を二行にしく。いはゆる東西にあひむかへて、おのおの南北行にしく。東西牀のまへに◎盤をたつ。そのうへに經を安ず。金剛般若經、仁王經、法華經、最勝王經、金光明經等なり。堂裡僧を一日に幾僧と請じて、齋前に點心をおこなふ。あるいは麺一椀、羮一杯を毎僧に行ず。あるいは饅頭六七箇、羮一分、毎に行ずるなり。饅頭これも椀にもれり。はしをそへたり、かひをそへず。おこなふときは、看經の座につきながら、座をうごかずしておこなふ。點心は、經を安ぜる◎盤に安排せり。さらに棹子をきたせることなし。行點心のあひだ、經は◎盤に安ぜり。點心おこなひをはりぬれば、おのおの座をたちて、嗽口して、かへりて座につく。すなはち看經す。粥罷より齋時にいたるまで看經す。齋時三下鼓響に座をたつ。今日の看經は、齋時をかぎりとせり。
はじむる日より、建祝聖道場の牌を、佛殿の正面の東の簷頭にかく、黄牌なり。また佛殿のうちの正面の東の柱に、祝聖の旨趣を、障子牌にかきてかく、これ黄牌なり。住持人の名字は、紅紙あるいは白紙にかく。その二字を小片紙にかきて、牌面の年月日の下頭に貼せり。かくのごとく看經して、その御降誕の日にいたるに、住持人上堂し、祝聖するなり。これ古來の例なり。いまにふりざるところなり。
また僧のみづから發心して看經するあり。寺院もとより公界の看經堂あり。かの堂につきて看經するなり。その儀、いま清規のごとし。
高祖藥山弘道大師、問高沙彌云、汝從看經得、從請益得(高祖藥山弘道大師、高沙彌に問うて云く、汝看經よりや得たる、請益よりや得たる)。
高沙彌云、不從看經得、亦不從請益得(看經より得たるにあらず、また請益より得たるにあらず)。
師云、大有人、不看經、不請益、爲什麼不得(大いに人有り、看經せず、請益せず、什麼としてか不得なる)。
高沙彌云、不道他無、只是他不肯承當(他無しとは道はず、只だ是れ他の承當を肯せざるのみ)。
佛祖の屋裡に承當あり、不承當ありといへども、看經は家常の調度なり。
正法眼藏看經第三十
爾時仁治二年辛丑秋九月十五日在雍州宇治郡興聖寶林寺示衆
寛元三年乙巳七月八日在越州吉田縣大佛寺侍司書寫之 懷弉 
 
正法眼蔵 重雲堂式 (しょうぼうげんぞうじゅううんどうしき)

一 道心ありて名利をなげすてんひといるべし。いたづらに、まことなからんもの、いるべからず。あやまりていれりとも、かんがへていだすべし。しるべし道心ひそかにをこれば、名利たちどころに解脱するものなり。おほよそ大千界のなかに、正嫡の付屬まれなり。わがくにむかしよりいまこれを本源とせん。のちをあはれみて、いまをおもくすべし。
一 堂中の衆は、乳水のごとくに和合して、たがひに道業を一興すべし。いまは、しばらく賓主なりとも、のちにはながく佛祖なるべし。しかあればすなはち、おのおのともにあひがたきにあひて、をこなひがたきををこなふ、まことのおもひをわするることなかれ、これを佛祖の身心といふ。かならず佛祖となりとなる。すでに家をはなれ、里をはなれ、雲をたのみ、水をたのむ。身をたすけ、道をたすけむこと、この衆の恩は父母にもすぐるべし。父母はしばらく生死のなかの親なり、この衆はながく佛道のともにてあるべし。
一 ありきを、このむべからず、たとひ切要には一月に一度をゆるす。むかしのひと、とをき山にすみ、はるかなる、はやしに、をこなふし。人事まれなるのみにあらず、萬縁ともにすつ、韜光晦跡せしこころをならふべし。いまはこれ頭燃をはらふときなり、このときをもて、いたずらに世にめぐらさむなげかざらめや、なげかざらめやは。無常たのみがたし、しらず露命いかなるみちのくさにかをちむ、まことにあはれむべし。
一 堂のうちにて、たとひ禪冊なりとも文字をみるべからず、堂にしては究理辨道すべし。明窓下にむかふては古繁照心すべし。寸陰すつることなかれ、專一に功夫すべし。
一 おほよそ、よるも、ひるも、さらむところをば、堂主にしらすべし。ほしいままに、あそぶことなかれ。衆の規矩にかかはるべし、しらず今生のおはりにてもあるらむ。閑遊のなかにいのちをおはん、さだめてのちにくやしからん。
一 他人の非に手かくべからず、にくむこころにて、ひとの非をみるべからず、不見他非我是自然上敬下恭の、むかしのことばあり。またひとの非をならふべからず、わが徳を修すべし。ほとけも非を制することあれども、にくめとにはあらず。
一 大小の事、かならず堂主にふれて、をこなふべし。堂主にふれずして、ことををこなはんひとは、堂をいだすべし。賓主の禮みだれば、正偏あきらめがたし。
一 堂のうちならびにその近邊にて、こゑをたかくし、かしらをつどえて、ものいふべからず。堂主これを制すべし。
一 堂のうちにて行道すべからず。
一 堂のうちにて珠數もつべからず。手をたれて、いでいり、すべからず。
一 堂のうちにて、念誦看經すべからず。檀那の一會の看經を請せんはゆるす。
一 堂のうちにて、はなをたかくかみ、つばきたかくはくべからず。道業のいまだ通達せざることをかなしむべし。光陰のひそかにうつり、行道のいのちをうばふことを、をしむべし。をのずから少水のうをのこころあらむ。
一 堂の衆あやおりものをきるべからず、かみぬの、などをきるべし、むかしより道をあきらめしひと、みなかくのごとし。
一 さけにゑひて、堂中にいるべからず、わすれてあやまらんは、禮拜懺悔すべし。またさけをとりいるべからず、にらぎのかして堂中にいるべからず。
一 いさかひせんものは、二人ともに下寮すべし。みづから道業をさまたぐるのみにあらず、他人をもさまたぐるゆへに。いさかはんをみて制せざらんものも、をなじく、とがあるべし。
一 堂中のをしへにかかはらざらんば、諸人をなじこころにて擯出すべし。をかしと、をなじこころにあらんは、とがあるべし。
一 僧俗を堂内にまねきて、衆を起動すべからず。近邊にても賓客と、ものいふこゑ、たかくすべからず。ことさら修練自稱して、供養をむさぼることなかれ。ひさしく參學のこころざしあらむか。あながちに巡禮のあらむはいるべし。そのときもかならず堂主にふるべし。
一 坐禪は堂のごとくにすべし、朝參暮請いささかも、をこたることなかれ。
一 齋粥のとき、鉢盂の具足を地にをとさんひとは、叢林の式によりて罸油あるべし。
一 おほよそ佛祖の制誡をば、あながちにまほるべし。叢林の清規は、ほねにも銘ずべし、心にも銘ずべし。
一 一生安穩にして辨道無爲にあらむと、ねがふべし。
以前の數條は、古佛の身心なり、うやまひ、したがふべし。
暦仁二年己亥四月二十五日、觀音導利興聖護國寺開闢沙門道元示。
觀音導利興聖護國寺重雲堂式
爾時の堂主宗信、この文をうつして、のちにつたふるなり。ゆへに近代流布の本のおはりに、堂主宗信の四字をのするものあり、しかあれども、撰者にあらざること、しるべきなり。
 
道元と永平寺

日本禅宗の成立
一般に栄西が中国より禅を伝えたことをもって日本禅宗の出発点とするが、「元亨釈書」や「延宝伝燈録」などの僧伝や「興禅記」(無象静照著)・「将来目録」(入唐求法者が持ち帰った書物等の目録)などの史料から、鎌倉期以前にも禅を日本に伝えた人物が存在したことが知られる。まず飛鳥朝期に道照(629-700)が入唐し、法相宗や成実宗とともに禅を学び、元興寺に禅院を設けている。奈良期には唐僧の道璿(どうせん)が天平8年(736)に来日し、大和大安寺に禅院を設け、門弟の行表に法を伝えている。北宗禅というものであった。平安期に入ると最澄が入唐して円・密・禅・戒の4宗を伝えているが、彼は入唐する前にすでに行表から北宗禅を学んでいた。唐からは牛頭禅と称されるものを伝えた。空海にも「禅宗秘法記」という著述があったといい、在唐時に禅を学んだものと思われる。比叡山では円仁も入唐のおりに禅を学び禅院を設けており、円珍は代表的な禅籍である「6祖法宝檀経」を将来している。さらに平安期には唐僧の義空が南宗禅(以降、日本に入ってくる禅宗はこの南宗禅に属する)を伝えている。日本側の招きに応じたものであったが、数年にして帰国した。また日本から入唐した瓦屋能光(933年ころ没)は中国曹洞宗の祖である洞山良价の弟子となり、中国で没している。永延元年(987)帰国した三論宗の然(ちょうねん)は宋朝禅を学び、禅宗の宣揚を朝廷に奏請したが許可されなかった。平安末期に禅を伝えた人物に覚阿がいる。覚阿は入宋し、南宗禅のなかの臨済宗楊岐派の禅を伝えて、安元元年(1175)帰国して比叡山に入った。高倉天皇の問法を受けたが、笛を吹くのみであったという。このように、平安期以前において中国の禅宗と関わりをもった僧侶たちが何人かいたが、法孫を残さなかったために、これまでの禅宗史上ではあまり重んじられなかった。しかし覚阿の伝禅などは、後述する大日房能忍におおいに影響を与えることになったのではないかと考えられる。さて、中国からの伝禅という視点のみでは、鎌倉期以降なにゆえに禅宗が受容されていったかが理解できない。その背景には、中国禅を受容できるだけの基盤が日本のなかに存在したとみなければならないとする新しい視点が提示されている。それは、「往生伝」などの説話文学のなかに登場する禅定を修する僧や行的な僧に見出すことができる。また、奈良期における山林修行僧や民間布教僧のなかに位置した看病禅師や、持戒・看病の能力をもって国家に登用されていった内供奉十禅師の存在、平安期には寺院内に置かれた十禅師から四種三昧の修行をもっぱらにし臨終往生への助勢(葬祭)を行なう禅衆へと変化していった事実にも注目する必要がある。中世における禅僧たちがもっていた葬祭や祈祷の能力は、古代の「禅師」たちがもっていたものであったとするのである。さらに、禅的なものを古代からの山林修行の伝統のなかにも見出すことができるとする説もある。つまり、古代仏教のなかから中世における浄土教の展開や法華宗・律宗などの展開のみをみるのではなく、古代の行的仏教のなかからは禅宗の展開もみなければならないという視点である。これらのことを考えると、入宋して禅を伝えた道元についてみるとき、中国からの伝禅という視点とともに、道元の入宋にいたるまでと帰国後の展開、特に道元のもとに参じた人びととの関連においては、古代仏教からの禅的な伝統や行的仏教の系譜などからの影響について考える視点が必要となってくる。  
鎌倉期における禅宗の受容と展開

道元についてみる前に、日本の禅宗の流れについて概観しておこう。入唐した学生・学問僧(300年間で149人)に比べると入宋僧(170年間で109人)・入元僧(160年間で222人)の数ははるかに多い。入唐僧たちは、国家の留学生として求法の責務を負わされていた。ところが「然や成尋らの北宋時代の渡海は、国家からの派遣ではなく私的なもので、仏蹟巡礼が目的であった。平安末から鎌倉期に渡海した僧、すなわち入宋僧は次のように3分類できるといわれている。1.「然などの延長線上にあるもので重源や栄西などのように早く入宋した人びとで仏蹟巡礼を目的とするもの、2.俊芿(しゅんじょう)や月翁智鏡などのように律宗を伝えるためのもの、3.禅宗を求めてのもの、以上の3分類である。栄西は天台宗に活力を与えるために禅を用いようとした人物であるが、その2回目の入宋でさえ、宋より「天竺」に渡り仏蹟を巡礼するのが最終目的であったことはよく知られている。しかし、その後の入宋僧の大部分は3である。また日本の禅宗界は、中国禅を能動的に求めた時期から受動的に受容された時期へと移っていったとみることもできる。鎌倉前期には道元に代表されるような求法伝法を目的とした入宋僧が多かった。しかし後期以降は次第に文化摂取のための入宋・入元へと変化し、滞在年数も長くなっている。そしてこの時期には多くの優秀な中国禅僧が渡来したといわれており、日本の禅宗にとっては受動的受容の時期ということになる。鎌倉前期の禅宗界をみると、栄西が建立した京都建仁寺は真言・止観・禅の三宗を兼ねそなえた比叡山の末寺として存在し、栄西自身は鎌倉幕府のなかでは台密僧として活動しており、彼の門弟たちも同様であった。中国禅宗界を代表する無準師範の法を嗣いで帰国した円爾弁円は、9条道家の外護を受けて京都東山に本格的な禅寺の東福寺を建立しているが、同寺も真言・天台・禅の三宗を修する道場として出発したとされる。唱えた禅も顕密禅と称されるものであった。なおこの時期に、只管打坐(ただひたすら打ちすわる)という純粋禅を唱えていた道元は越前に赴くことになる。道元が越前に入ることを決断した要因の1つに、圧倒的な大伽藍である東福寺の建立を挙げる説があるほどである。このような日本の禅宗界の兼修禅的・顕密禅的な傾向を変化させたのは、寛元4年(1246)に渡来した蘭渓道隆であった。彼は宋朝風の純粋禅をもたらしたのである。彼が開山となった鎌倉の建長寺は、宋朝風の建築様式で建立された。この蘭渓が京都の建仁寺の住持となるに及んで、純粋禅は京都にももたらされた。武士のなかにも北条時頼のように、禅に深い理解を示す者も出てきた。ただし兀菴普寧は時頼が没すると、禅の理解者なしとして帰国した。北条時宗は、日本においても著名であった無準師範の高弟の環渓あたりを招こうとしたが、実際には法弟の無学祖元が弘安2年(1279)渡来した。蘭渓・無学ともに元の圧迫を避けての渡来という感じが強く、必ずしも一流の人物ではなかったようであるが、両者により宋朝風の純粋禅がもたらされた。元は再度の日本侵略に失敗すると、属国となるよう勧誘するために一山一寧という禅僧を送り込んできた。北条貞時はいっとき彼をとらえるが、のちには建長寺の住持としている。以後は日本からの招きに応じて渡来した人物が多く、東里弘会・東明慧日・霊山道陰などが挙げられる。このうち東明慧日は曹洞宗宏智派を伝えた人物である。彼およびのちに渡来した東陵永璵の法孫は、臨済宗で占められた五山派のなかでは珍しく曹洞宗として存在し、朝倉氏の外護を受けて越前にも寺院を有した。鎌倉最末期になると、清拙正澄や明極楚俊・竺仙梵僊などの一流の禅僧が招きに応じて渡来してくるようになる。明極は当時の入元僧の多くが彼のもとを訪れるほどの人物であり、竺仙も入元僧であれば一度は訪れるという古林清茂の高弟であった。これ以降は渡来僧は途絶え、わずかに曹洞宗宏智派の東陵永璵が観応2年(1351)渡来したに過ぎない。また日本の禅の水準も高まり、渡海してまで中国禅林から学ぼうとする者は少なくなっていた。そうしたなか鎌倉末期から南北朝期にかけて、渡海の経験のない、密教的要素を禅のなかに融合させた禅風をもつ夢窓疎石が活躍するようになり、その門派が勢力をもつようになっていったのである。禅宗の展開をみる場合、臨済宗と曹洞宗に分けてみるよりも、宗派にかかわらず京都・鎌倉の 五山を中心に展開した五山派(叢林)と地方に発展した林下(または林下禅林)とに分けて把握すべきであるという見解がある。そして中央から地方への伝播は三波に分けてとらえられている。まず第一波には越前永平寺開山の道元をはじめ、臨済宗の紀伊国由良西方寺(のちの興国寺)の開山である無本覚心、陸奥国松島円福寺の性才法心、山城国勝林寺の天祐思順などがおり、彼らは中国禅を積極的に求め、地方に隠遁し、教団形成には否定的であったという。このうち道元や天祐を除くほとんどの人びとは密教的性格をもっていた。彼らの活躍した時期は鎌倉前期であった。次に第2波は五山派寺院の門弟らで、上層の地方豪族の保護を受けて各地に寺院を建立した人びとである。それらの寺院は5山寺院の末寺となっていった。第三波には中国の中峰明本に参じて念仏禅を伝えた人びとが多く、隠遁的であった。近江国永源寺の寂室元光、常陸国法雲寺の復庵宗己、筑前国高源寺の遠渓祖雄、甲斐国天目山棲雲寺の業海本浄などで、南北朝前期から中期にかけての人たちである。またこの時期には、さまざまな理由で5山およびその周辺の寺院から地方へ出た人びともおり、一派を別立する者や、各地の他派へ流入する者などがいたのである。こうしたなかで、教団否定的であった各派も教団を形成するようになっていった。永平寺道元下の法孫のなかにも、永平寺から加賀大乗寺へ出た徹通義介や、能登永光寺・総持寺を開いた瑩山紹瑾などが登場するに及んで、曹洞宗は大規模な教団へと変化していった。五山派に属することなく各地に展開した林下禅林を代表するものには、永平寺道元下の曹洞宗や臨済宗の京都大徳寺・妙心寺の門流などが挙げられる。なお、曹洞宗でも宏智派は5山叢林のなかにあり、朝倉氏の保護を受けて越前にも進出してくることになるのである。  
栄西と能忍とその門下

道元の生誕前後(1200)は、禅宗史からみると大きな画期であった。栄西と能忍の出現である。栄西はまず天台宗の教学を学んだのち入宋し、臨済禅を学び、建久2年(1191)に帰国した。「興禅護国論」を著わし、建仁2年(1202)には将軍頼家の援助を受けて京都に台(天台)・密(真言)・禅三宗兼学の寺として建仁寺を建立している。建永元年(1206)重源の跡を嗣いで東大寺の勧進職となり、復興に尽力している。栄西の勧進聖的性格がうかがわれる。能忍は房号を大日房という。禅宗に関心をもち、独力で悟りを開き、摂津水田(大阪府吹田市)に三宝寺を開創している。しかし無師独悟を批判されると、文治5年(1189)弟子2人を入宋させ阿育王山の拙庵徳光のもとに遣わし、嗣法を許されている。能忍は「在京上人能忍」と称されており(「百練抄」)、京都での布教活動を行なっていたようである。能忍は拙庵から弟子を通じて受けた初祖達磨から6祖慧能(禅が中国でさかんになる基礎を作った人物)にいたる6人の舎利をもとに達磨宗を強調し、それまでの釈迦の舎利信仰に強い影響を与えたとも考えられている。建久5年には栄西とともに達磨宗の布教を停止させられているが、禅僧としての活動が栄西以上であったことは、日蓮が「開目抄」のなかで念仏宗の法然に並べて禅宗の大日(能忍)を挙げていることからもうかがえる。能忍の弟子である仏地覚晏は、多武峰(奈良県桜井市)に移る以前は京都東山にいた。弟子の懐鑑が東山で覚晏から血脈を受けている(「永平寺室中聞書」)。しかし多武峰は安貞2年(1228)に興福寺衆徒によって焼打ちに遭い、覚晏門下も離散ということになったようである。懐鑑は越前足羽郡波着寺に移りその拠点とした。多武峰にいた覚晏に参じた懐奘は帰国して建仁寺にいた道元を訪ね、文暦元年(1234)には宇治興聖寺の道元の門弟となっており、仁治2年(1241)には、越前波着寺にいた懐鑑が門下の義介・義演・義準・懐義尼・義荐・義運らを率いて上洛し、やはり道元の門下に入っている。なお波着寺は足羽川流域の稲津保にあるが、この稲津保出身でのちに永平寺3世となる義介が、波着寺にいた懐鑑のもとで寛喜3年(1231)ごろに出家している。そして、この達磨宗の相承物は義介から瑩山紹瑾へと伝播されていった。また越前大野郡宝慶寺開山の寂円の弟子であり、のちに永平寺5世となる義雲も系字の「義」が付されており、波着寺で出家したのではないかと考えられる。義雲は宝慶寺の檀越であった伊自良氏の出身と推定されている。いずれにしても達磨宗には、東山・多武峰・越前波着寺を経て道元の門下に入っていった一派と、摂津吹田の三宝寺を中心に応仁年間(1467-69)まで存続した一派が存在したのである。  
道元の入宋

永平寺を開いた道元の伝記としては、道元から4世で能登総持寺の開山の瑩山紹瑾が中心となって編集したとされる「元祖孤雲徹通三大尊行状記」(「曹洞宗全書史伝」)や、それを整備して応永年間(1394-1428)に編集されたという「永平寺三祖行業記」、永平寺14世建撕(1468-74まで永平寺住持)が著わした「永平開山道元禅師行状建撕記」(以下「建撕記」と略)、また瑩山紹瑾が歴代の祖の伝記を著わした「伝光録」(「曹洞宗全書史伝」)のなかの「第51祖、永平元和尚」の項などがある。これらの伝記を中心に道元の行歴を略記してみたいと思う。道元は、頼朝が幕府を開いて8年後の正治2年(1200)に京都で生まれている。正月2日の誕生とされる。父は村上源氏の久我通親、母は松殿藤原基房の娘の伊子といわれている。ただし実父はこれまで育父とされてきた通親の子道具とする説も有力となってきているが、母である藤原基房の娘との関係もあっていまだ確定的とはいえないので、ここでは父は通親、母は基房の娘伊子と考えておきたい。道元誕生の地は未詳であるが、母方の松殿の宇治木幡の山荘ではないかといわれている。父である源通親は当時土御門上皇の外祖父であり、頼朝をして「手にあまる」と怖れさせるほどの政界での実力者であった(「愚管抄」)。しかし道元はこの父を3歳のときに失い、母も8歳のときに失っている。母も初めは木曾義仲のもとに嫁がされ、そののち源通親の側室にされたという説もあるほどの薄幸の人であったようである。母方の伯父である師家は、道元を官職に就かせるために養子とし元服させようとした。しかし道元は13歳の春のある夜、松殿の山荘を去り比叡山の麓に母方の叔父良観法師(「永平寺 三祖行業記」「建撕記」には良顕とみえ、「尊卑分脈」には良観とある)の庵を訪ねた。良観は道元を比叡山横川の首楞厳院般若谷の千光房に住まわせることにしている。この般若谷は、栄西の弟子でのちに道元とともに入宋することになる明全が参学したところであり、道元より年長であるがのちに弟子となる懐奘も参学した場所であった。建保元年(1213)14歳の4月9日、天台座主公円について得度し、翌日戒檀院において菩薩戒を受け、仏法房道元と名乗った。比叡山において天台教学を学習するに及び、大きな疑問が生じたという。それは「本来本法性、天然自性身」という、一切の衆生には本来仏性がそなわっており人は本来仏であるとする天台宗などの基本的な考え方に対して、道元は、元来仏であるならばこれまでの諸仏諸祖はなにゆえに修行する必要があることを説いてきたのであるかという疑問をもったのである。天台教学からみれば幼稚にさえみえる疑問であったが、この基本的な問いに答えてくれる人物はいなかった。当時、延暦寺・興福寺・園城寺(三井寺)などの寺院の間では争いが生じており、そのために公円は辞任するにいたる。道元も15歳のころ比叡山を去り、園城寺の座主公胤を訪ね、先の疑問を問うたが公胤は答えず、禅宗の存在を教えた。道元はその指示により京都の建仁寺を訪ね、栄西が伝えた臨済宗黄竜派の禅にふれることになった。以後、道元は建仁寺や園城寺において学習を続けた。栄西は建保3年6月5日に鎌倉の寿福寺で没しており(一説には7月5日建仁寺にて没)、道元が栄西に会うことができたかどうかは微妙であるが、おそらく会うことはできなかったのではないかと考えられる。栄西なきあとの建仁寺においては、栄西の弟子の明全について参禅した。貞応2年(1223)24歳の2月22日、明全とともに京都を出発し、博多から船出して4月には中国の明州慶元府(寧波)に到着した。同年7月に天童山景徳寺に入り、臨済宗大恵派の無際了派に参じる。翌3年冬に無際が死去したので、天童山を去り諸方を歴訪したが、満足できなかった。ついに帰国しかけたが、以前に耳にした如浄という禅僧が天童山の住持となっていたので参禅することにした。如浄に参じてまもなく、ともに入宋した明全が亡くなっている。  
建仁寺から深草へ

嘉禄3年(1227)28歳の秋、如浄より嗣書(法が伝えられたことを証明する書)を受け、帰国することになった。同年8月ごろ出帆し、肥後国の川尻に帰着し(薩摩国坊津に帰着したとする説もある)、京都建仁寺に入った。この年、早くも「普勧坐禅儀」(「曹洞宗全書宗源」)を撰述している。なお永平寺所蔵の道元真筆本(国宝)の奥書は天福元年(1233)の撰述となっているが、まもなく撰述する「弁道話」に「その坐禅の儀則は、すぎぬる嘉禄のころ撰集せし普勧坐禅儀に依行すべし」とあり、嘉禄3年は12月10日に安貞元年と改元されていることを考えると、嘉禄3年に撰述したことになる。したがって永平寺所蔵の同書は、6年後に深草の観音導利院興聖寺を開創したおりに清書したものである。この「普勧坐禅儀」は道元が主張する「正伝の仏法」の坐禅を一般に広め勧めようとするもので、いわゆる教学の仏法ではなく、仏教の原点に帰り釈迦の正覚に直結しようとするものであったといえる。同書は道元の基本的立場を明らかにするものであった。建仁寺にいた道元のもとには、法を問う者も少なくなかったようである(「正法眼蔵随聞記」)。しかし寛喜2年の31歳のころ、建仁寺を出て山城深草に閑居した。建仁寺は道元にとって、次第に参禅者に指導できるような環境ではなくなっていたようである。大日房能忍の法孫であった懐奘が参随を願ったときに、別のところに草庵を結ぼうと思うのでそのときに訪ねて来るようにと言わざるをえなかったほどであった(「伝光録」)。それに、当時の建仁寺は腐敗し堕落していたようである(「正法眼蔵随聞記」)。そして道元の建仁寺における房舎は破棄された(「京都御所東山御文庫記録」)。教禅兼修の建仁寺で純粋禅を説いたため、比叡山僧の迫害があったものと考えられる。  
深草における活動

寛喜2年に閑居したところは京都郊外深草の極楽寺別院の安養院であった。この安養院で翌3年8月15日、道元の禅を如実に示した「弁道話」を撰述している。道元は如浄から伝えた仏法を正伝の仏法と称したが、それは只管打坐の禅風であった。坐禅を、悟るための手段にはしなかった。坐禅それ自体に絶対の価値を見出し、坐禅修行すること以外に悟りはないとし、「修証一如」、すなわち坐禅(修)が悟り(証)であるとする。道元の在俗男女に対する態度は、「弁道話」に「本郷にかへりし、すなわち弘法救生をおもひとせり」と述べており、帰国後は法を広め、衆生を救済することを念頭に置いていたことが知られる。ゆえに坐禅修行は「男女貴賎」にかかわらず修することができるものであることを明確に示している。このころになると道元の周辺には、近衛家や藤原教家(弘誓院)・正覚禅尼などの助力者が現われたようである。このうち近衛家は、近衛基通と道元の父とされる久我通親とがともに抗幕派として政治的に深い関係にあったとされる。また建長5年(1253)の近衛家の所領目録からは(「近衛家文書」)、冷泉宮領の相模国波多野(神奈川県秦野市)の地を管理したことが知られるが、この波多野はのちに道元の大檀越となる波多野氏の本貫の地であった。藤原家と密接な関係にあった寺院のなかには山階寺や法性寺などをはじめとして多武峰や極楽寺も存在し、近衛家とも無関係ではなかったようで、道元が深草の極楽寺の別院である安養院に居住するようになったのも、近衛氏との関係からではなかったかと考えられている。藤原教家は道元の母方の関係者であったようである(「尊卑分脈」「山州名跡志」)。道元はこの藤原教家や正覚禅尼などの助力により、天福元年ころに観音導利院興聖宝林禅寺を深草の極楽寺跡に開いている。そしてこの年の夏に「正法眼蔵」(摩訶般若波羅密の巻)を示し、以後同書の示衆・撰述を進めていくことになる。文暦元年の冬、大日房能忍門下で仏地覚晏の門弟であった懐奘が参じてきている。嘉禎2年10月(1236)僧堂を開くと、前述のように仁治2年春には越前波着寺の懐鑑が門下の義介・義演・義準・懐義尼・義荐・義運らを率いて道元のもとに入っている。大日房門下の集団での参入であった。道元僧団は次第に大きくなっていった。やがて京都においても説法を行なうようになり、仁治3年12月17日には六波羅の波多野義重のもとで「正法眼蔵」(全機の巻)を説き、翌寛元元年4月29日には六波羅密寺で「正法眼蔵」(古仏心の巻)を説いている。道元の建仁寺・深草時代に道元に参学・問法する者が少なからず存在したことは前述したが、帰国後まもない安貞元年10月15日明全の得度の弟子の智姉が明全の舎利(火葬にしたときに高僧ほど多数あるとされる美しい骨)を分与してほしい旨を申し出てきたので、道元は「舎利相伝記」(「曹洞宗全書宗源」)を書いて与えている。道元が建仁寺にいたときである。なおこの智姉は道元より4代の法孫になり能登の永光寺や総持寺の開山として知られる瑩山紹瑾の「洞谷記」に「明智優婆夷」と表記されており、篤信者であったことがうかがえる。瑩山は永光寺開創に尽力した平氏の女性をこの建仁寺に道元を訪ねた明智と対比させているのであり、のちのちまで明智の名は知られるところとなっていたようである。「洞谷記」にはまた「瑩山今生祖母明智優婆夷」とみえる。瑩山の出生地は坂井郡多称村(丸岡町山崎三ケ)、あるいは今立郡帆山(武生市)ともいわれている。明智は越前の人か、あるいは少なくとも越前と密接な関係にあった人物であったと理解される。  
道元の越前入国

天台宗の教学を集大成したといわれる「渓嵐拾葉集」(1347)には、仏法房(道元)が後嵯峨天皇のときに「護国正法義」を著して奏聞に及んだが、佐の法師が、道元の説は仏教に拠ったものではないので沙汰に及ぶようなものではないとの判定を下し、極楽寺が破却されたという記事を掲載している。これによれば、道元が「護国正法義」を著したということになり、その内容が原因で極楽寺が破却されたというのである。その内容は未詳であるが、栄西の「興禅護国論」を意識してのものであったと思われる。では「護国正法義」が著述されたのはいつごろなのであろうか。暦仁2年4月25日(1239)に撰述された「正法眼蔵」の奥書に「観音導利興聖護国寺開闢沙門道元示」とある。「護国」という文字がみられるのは、この巻だけである。「護国」ということが強く意識されたときであろうか。この暦仁2年4月からそう遠くない時期で、かつ後嵯峨天皇の即位後で、「正法眼蔵」の撰述に間がある時期が「護国正法義」の著された時期ということになろう。それは、仁治3年6月2日の「正法眼蔵」(光明の巻)以後、9月9日の「正法眼蔵」(身心学道の巻)撰述の間ということになると考えられている。しかし、道元が越前に入居するのはちょうど1年後の寛元元年の7月である。「護国正法義」の撰述からすると間があきすぎているとする見方から、極楽寺破却そして道元の越前入居の直接の原因は、仁治3年12月17日の六波羅密寺そばの波多野義重邸と翌寛元元年4月29日の六波羅密寺での「正法眼蔵」の説示ではなかったかとする説もある。いずれにしても、波多野氏がのちに永平寺における檀越となっているところをみると、六波羅での道元の説法は入越と深くかかわっているとみてよかろう。天台別院であり、多くの人びとの信仰を集めていた六波羅密寺での説示が比叡山の僧徒を怒らせ、興聖寺が破却されるという事態になってしまったものと思われる。六波羅密寺での説示は古仏心の巻であり、その巻頭では、禅宗の系図が釈迦以来正しく伝わってきたことを示すものであるだけに、比叡山側を刺激するものであったのかもしれない。それにしても、道元の越前入国は急であった。「正法眼蔵」の著述・説示は、天福元年夏に説きはじめて仁治3年12月までの9年半に42巻に及んでいたが、仁治4年に入っても正月6日に都機、3月10日に空華、4月29日に古仏心、5月5日に菩提埵薩4接法、7月7日に葛藤の各巻を示している。古仏心の巻以外は興聖寺での説示である。7月7日に同寺で説示して1か月を経ない閏7月1日には、すでに越前大野郡の禅師峰において三界唯一心の巻を示しているのである。深草興聖寺を義準に頼み、7月のうちに越前に入ったことになる。興聖寺の破却があったとすれば、説示に間がある5月5日から7月7日の間であったものと推定される。さて、道元の越前入国の理由であるが、直接的には興聖寺が破却されるということがあったかもしれないが、それのみではなかったようである。道元はすでに師の如浄から深山幽谷に居して修行するようにといわれており(「宝慶記」)、深山にての修行のことは「正法眼蔵」(重雲堂式の巻)のなかにもうかがえるので、道元の心の底には深山幽谷での修行への思いがあったものと思われる。それが興聖寺の破却や、比叡山や建仁寺との関係の悪化、あるいは大規模な伽藍をそなえた東福寺の建立などのこととあいまって、越前入居ということに傾いていったものと思われるのである。  
越前入居の要因

道元が吉田郡志比荘に入居することになった最大の理由は、それまでに有力檀越となっていた波多野義重の所領が同所に存在したことによるものと考えられる。波多野氏は平安末期以降、多くの支族を出し、秦野盆地(神奈川県秦野市)から足柄平野へと進出し、松田・河村・大友・菖蒲・広沢など各地の地名を苗字とする諸流が活躍する状況になっていた。次に波多野氏が全国に拡散したのは、後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を下して争った承久の乱(1221)が契機になっていて、関東の多くの後家人が乱の恩賞地を得て西遷していったが、波多野義重もこの時期に志比荘に移ったのではないかと考えられる。志比荘は、平安末期の承安3年(1173)に後白河天皇の女御の建春門院平滋子の本願によって創建された最勝光院領として立荘された荘園である。義重は承久の乱にさいしては惣領の波多野経朝に従って参戦し、右眼を失明している(「吾妻鏡」)。義重が承久の乱の新恩地として志比荘の地頭職を受けたことを明らかにする史料は存在しないが、道元を同荘に招き、のちに永平寺の大檀越となっていることや、義重の跡を嗣いだと考えられる子息の時光が「野尻」と号し越中国野尻(富山県福野町)を領していたことが知られることから、義重と時光は越中国野尻とともに志比荘の地頭職を受け継いでいったものと考えられる。これらのことから義重は、承久の乱による恩賞として越中国野尻とともに志比荘を受け、西遷していったと考えてよかろう。承久の乱後に義重の名がみえる史料は、仁治3年12月17日に道元が六波羅蜜寺のそばにある義重の邸宅で説示した「正法眼蔵」の奥書である。当時の義重は六波羅探題での任務に就いており、六波羅に屋敷を構えていたことが知られる。またそれ以降も、京都六波羅で活動していた。義重にとって、志比荘へ入宋僧を迎え、数年後に寺院(大仏寺、のちの永平寺)を建立したことは、自らの力を荘園内外に示すことになったものと思われる。西遷後家人が本貫地から神を勧請したり、新たに寺院を建立した例は多々あるが、波多野義重が道元を迎えて寺院を建立したのも、そのような面でとらえることができるのではなかろうか。道元が越前に入居することになった理由には、波多野義重の勧誘とともに、足羽郡波着寺から参入してきた懐鑑以下の達磨宗の人びとの勧めも存在したと考えられる。そのなかには義介のように、足羽川流域の稲津保の出身者もおり、越前の地理や状況に詳しい人びとがいたと思われる。波着寺の旧跡(福井市成願寺町)は「波着観音」と称され、登り口には「波着観音」の額を掲げた鳥居が建っている。志比荘は波着寺からさほど遠くない所にあった。波着寺は比叡山の末寺的存在であったと考えられるが、かつて達磨宗の人びとが拠りどころとした東山多武峰のように、往徨する天台宗の別所聖などが居住する場であったろう。さらに道元を越前に迎えるにあたっては、波多野義重とともに、後述するように今立郡に所領をもち京都に私宅をもっていて義重とも系図上でも連なると考えられる覚念の力もあったものと思われる。また道元から明全の舎利を受けた明智も、前述したように越前と密接な関係にあった人物であった。道元は、こうした諸関係を背景として越前に赴くことになったのである。ただ越前出発まで「正法眼蔵」の説示を続け、半月ばかりで越前に入り、入り次第すぐに同書の説示を開始しているところをみると、興聖寺破却事件の有無はともかくとして、越前入国はかなり計画的に以前から進められていたものと考えられる。なお計画性が考えられることから、興聖寺破却事件などは存在しなかったとする見解もある。  
永平寺の開創

仁治4年7月7日、すなわち七夕の時点では興聖寺にいた道元は、閏7月1日には志比荘の吉峰寺(上志比村吉峰)において「正法眼蔵」(三界唯一心の巻)を説示している。「建撕記」は、7月16日に宇治を出発し、7月末には越前の吉峰寺に入ったと記している。「正法眼蔵」の各巻の奥書により、道元がどこに居住していたのかがわかるが、入越当初の道元は閏7月1日から11月13日までは吉峰寺において4か月半の間に16巻の「正法眼蔵」を説示している。11月6日に説示された「正法眼蔵」(梅華の巻)には「深雪 三尺大地漫々」とあるように、吉峰寺は雪の深いところであった。11月19日から翌寛元2年元旦までに、禅師峰下の草庵(大野市西大月)において「正法眼蔵」5巻が示衆され、門弟懐奘により2巻が書写されている。禅師峰で正月を越した道元や懐奘は吉峰寺に戻り、正月11日から6月7日までは同寺にて「正法眼蔵」各巻の示衆や書写を行ない、このときの夏安居(4月15日から7月15日の修行)は吉峰寺を中心に行なわれたものと思われる。越前に入国して1年弱の間に、道元は吉峰寺から禅師峰へ移り、また吉峰寺へ戻ったことになるが、周辺の僧侶たちは両寺間を往復しながら修行生活を続けていたのではないかと思われる。そしてこの間に、それまでに計画されていたであろう大仏寺の建立が、春になるのを待って実行に移されていった。2月29日には大仏寺法堂の地を平らにする工事、4月12日にはその法堂の上棟式が行なわれた。その儀式の時間などについては陰陽師の安倍晴宗に占わせている(「建撕記」)。この安倍晴宗はのちの建長4年4月1日に宗尊親王が将軍として鎌倉へ下向するさいに、西御方(内大臣土御門通親の娘)や波多野義重らとともに従った人物である。7月18日には開堂説法が行なわれており、道元の語録集である「永平広録」にもそのときの法語が掲載されている。寺院は吉祥山大仏寺と号することになった。このときの法要の参詣人のなかには、「前大和守清原真人」「源蔵人」「野尻入道実阿左近将監」「案主」「公文」などがいた。このうちの「野尻入道」とは越中国野尻にいた波多野義重の子息の時光であろう。また「案主」「公文」といった荘園を管理する在地の人物と思われる人びとの参加もあったことがうかがえる。9月7日には京都の興聖寺より大仏寺に木犀樹が送られてきている。大仏寺開堂の祝賀ということであったろう。そして翌寛元3年の4月15日には大仏寺において夏安居の上堂(堂の須弥壇の上に登って行なう説法)があった(「永平広録」)。これはすでに大仏寺に僧堂が完成していたことを示している。このような大仏寺の建立には波多野義重とともに覚念の助力があった。越前に入ってまもないころに、すでに2人で寺地の選定にあたっている。「建撕記」に、「雲州大守并今南東左金吾禅門覚念相共ニ建立セント欲ス、庄内ニテ山水ノ便宜ヲ尋ヌ」とみえ、覚念は今南東郡内に所領をもっていたことがうかがえる。ちなみに今南東郡とは、今立郡のうち月尾川・鞍谷川流域および足羽川上流域にあたる。道元は最晩年に上洛し覚念の私宅で療養生活を送っているので(「建撕記」)、先述したように覚念は京都に私宅をもち今立郡に所領をもつ人物であったといえる。覚念は波多野義通の2男義職(義元)の子息としてみえる中島義康ではないかと考えられ(「諸家系図纂」)、波多野義重は同じく波多野義通の長男忠綱の子息であるから(「尊卑分脈」)、義重と覚念とは従兄弟という近い関係にあったことが理解される。ところで大仏寺という寺名であるが、これは禅宗寺院として建立される以前にあった寺名であったと思われる。道元や波多野義重・覚念らは大仏寺という古寺があった所を整地してそこに本格的な禅寺を建立し、旧寺名をそのままとって大仏寺としたものと考えられる。なお、大仏寺は現在の永平寺裏山の大仏寺山山頂付近にあり、3代の義介のときに現在地に移ったとする説があるが、大仏寺旧跡といわれる所はのちの永平寺の伽藍が存在したほどの広さはないので、大仏寺は当初より現在の永平寺が存在するあたりに建立されたものと考えられる。大仏寺の開堂説法から2年、同寺での初めての結夏上堂から1年が経過した寛元4年6月15日、道元は大仏寺を永平寺と改めている(「永平広録」)。またこの日には「永平寺知事清規」を撰述し、永平寺を運営する6知事の心構えを定めており、道元の意気込みが感じられる。道元は宝治元年8月(1247)に執権北条時頼の招請により鎌倉に赴き、説法を行ない、翌2年3月に帰山している。この鎌倉行きはあまり思うようにいかなかったようで、反省の色がみえる。この年の暮の12月21日に「庫院須知」を定めて、「公界米」の使用の仕方について規制を定めており、それより2年前の寛元4年8月6日にも「正法眼蔵」(示庫院文の巻)で規制を定めており、すでに庫院が存在したことが知られる。また建長元年正月11日には「吉祥山永平寺衆寮箴規」を撰述しているので、衆寮という建築物も完成していたことが理解できる。建長元年10月18日に道元は「永平寺規制」を設け、参陣・訴訟を行なうこと、諸寺の役職に就くこと、他寺院の勧進職を勤めること、地頭や守護所の政所へ赴き訴訟を行なうこと、諸方の墓堂の供僧や三昧僧(葬送にかかわる僧)を務めることなど、9か条について禁止しているのである。禁制を定めなければならないほど、さまざまな能力をもった僧侶たちが存在したということになる。そこには、ややもすれば世間の一般的な傾向に流される僧侶を出さないよう腐心している道元の姿がある。また永平寺にはさまざまな人びとも参詣したようである。寛元5年正月15日の布薩説戒のさいには5色の雲が方丈の正面障子にたなびいたといい、参詣していた吉田郡河南荘中郷の人びとがそれを見物したという文書が伝えられている。道元は建長4年の秋に病気となり、翌5年7月には永平寺を退いている。そして懐奘が7月4日に2世として入院した。8月5日に道元は懐奘をともない京都に向かって出発し、俗弟子覚念の高辻西洞院の宅に入り、8月15日には中秋の和歌を詠み、同月28日に寂した。54歳であった。懐奘は東山の赤辻にて道元を荼毘に付し、9月10日に永平寺に帰った。同月12日には葬儀を行ない、永平寺の西隅の道元の師如浄の塔があったところに塔を建て、その庵を承陽庵と号することにしている。なお、それまでの如浄の塔は道元を慕って中国より渡来した寂円が塔主として守ってきたものであった。  
道元没後の永平寺と三代相論

道元のいなくなった永平寺は2代孤雲懐奘の尽力によって維持されてきたといえる。道元の生前中から「正法眼蔵」の書写を続けてきたが、道元寂後も道元が最晩年に新たに100巻をめざして編集しなおすために書き始めたという新草「正法眼蔵」の書写を中心に道元の遺作を整理し、書写を続けている。懐奘はいま一方では、建長7年2月14日に徹通義介に嗣法を許している(「永平寺室中聞書」)。この義介は懐奘の要請により宋国に渡ったというが、この入宋はまず史実であったとみてよかろう。そして弘長2年(1262)に在宋4年にして帰国した。義介が将来したと伝える「五山十刹図」(金沢市大乗寺蔵)には問題点がある。将来説は否定されないとしても、それを親しく見聞し筆録したということではなさそうである。しかし義介が入宋し学んできたことが反映されて、永平寺の伽藍と規矩(規律)が整備されたことは確かであり、それは帰国早々に実行されていった(「三祖行業記」)。文永4年4月8日(1267)義介が懐奘のあとを受けて永平寺三代に入った。義介はその後も引き続き伽藍や規矩の整備に力を尽くしたとみえ、「永平中興」とさえ称されたようである。しかしこの革新的な面に反発する人びともいた。何らかの事件があったようである。結局、義介は文永9年2月に退院している。そののちに寺の門前に養母堂を建てて母を養っていたという。これがいわゆる第一次三代相論というべき事件である。義介のあとの永平寺には懐奘が再び住した。しかしその懐奘も弘安3年8月24日に死去している。そこで、義介が再度永平寺に入ることになった。ところがやはり義介の革新的な面を指示する一派とそれに反発する道元の宗風を重んずる一派との対立は深まるばかりであったようである。義介は住持すること7年にして弘安10年ついに永平寺を退院し(「建撕記」)、すでに弘安6年の時点で澄海法師という人物の招きに応じてその開山(第1世)となっていた加賀大乗寺に入ってしまう。そのあとを受けて永平寺4世として入ったのが義演であった。義介が入宋したりして伽藍の整備や規矩などについて学んでいたときに、2世懐奘を手伝って「正法眼蔵」の書写や道元の語録である「永平広録」の編集などを行なっていたのが義演であった。義介の革新性に対して、義演には道元の禅風をそのまま守る姿勢があったものと思われる。大檀那波多野氏の努力もあったようであるが、義介派との対立は避けられなかった。これがいわゆる第2次三代相論である。のちに義演が没すると、義介と義演のいずれを永平寺三代とするかで双方の遺弟たちのあいだでさらに相論があったとされる。すなわち第3次三代相論である。義演の行状については史料がないが、加賀大乗寺に入った義介の門弟である瑩山紹瑾は、永平寺住持中の義演の許可を得て「仏祖正伝菩薩戒作法」の書写をしている。この年代に正応5年(1292)とする説(「仏祖正伝菩薩戒作法」)と永仁4年(1296)とする説(「洞谷記」)があるが、いずれにしてもこのころに義演が永平寺の住持として在住していたということになる。また義演の住持中に2度ほど火災に遭ったという説がある。1つは永仁5年3月24日に山門・方丈を残して全焼したとする説である。金沢市の浄住寺が所蔵する「安楽山産福禅寺年代記」にみられる記載であるが、「建撕記」には見当たらない。いま1つは、徳治・延慶年間(1306-11)のころに火災に遭い、懐奘が書写した「正法眼蔵」も焼けてしまい、義雲が灰燼のなかから拾い出してまとめたものが義雲本と称される60巻本の「正法眼蔵」であるという説である。しかし義雲の60巻本はそのような成立ではないので、この説も成立しない。次の義雲が5世として入ったときに永平寺はかなり荒廃していたようであるが、火災後の永平寺を興したという記録はないので、これらの火災説は史実ではないようである。近世に編纂された「日本洞上聯灯録」のなかの義演伝では、晩年は報恩寺に閑居し世間に出ることはなかったと記述されているが、同寺がどこの寺院であるのかは未詳である。  
義雲の中興と寂円派

三代相論などで永平寺はかなり疲弊していたようである。このような状況のなか、大野郡宝慶寺から5世として入院したのが義雲であった。義雲は道元を慕って宋国より渡来してきて懐奘に嗣法し宝慶寺を開いた寂円の門弟で、弘安2年ごろに懐奘に助力して「正法眼蔵」を書写していた人物である。正和3年12月2日(1314)永平寺に入っている。義雲は宝慶寺から什物などを持参したりして伽藍の整備を行ない、永平寺の復興に全力を挙げている。嘉暦2年8月4日(1327)には梵鐘を鋳造している。入院してから13年が経過していた。梵鐘の鋳造は諸堂の復興がほぼ完了したことを意味するのではなかろうか。このように義雲は伽藍の復興に尽力したが、宗旨に関する面でもその立直しを行なっている。60巻本「正法眼蔵」は義雲の編集によるものといわれており、嘉暦4年5月には60巻の各巻の題目の下に着語を付し、各巻の大意を7言4句の偈(宗教的な内容をもった漢詩文)で表現した「正法眼蔵品目頌」を撰述している。先述したように、義介を永平寺の中興とよんだ時期があったようであるが、義雲以降は彼を称するのが一般的となった。義雲が入寺して以降、関東より入った門鶴が慶長3年(1598)に24世になるまで、永平寺住持はいずれも宝慶寺から入ることになっていった。すなわち寂円派の人びとによって永平寺住持職は務められていったのである。義雲が正慶2年10月12日(1333)に寂したのちに住持となったのは、門弟の曇希という人物であった。  
 

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