越前・若越の中世後期の信仰と宗教
天台真言系寺院禅宗諸派念仏系諸派時宗法華宗・・・ 
 

時宗・一遍 仏の世界   

 
天台・真言系寺院

天台・真言系寺院数 
現在、県内の天台・真言系寺院の総数は175か寺(越前112か寺、若狭63か寺)である。そのうち天台系寺院は112か寺(越前104か寺、若狭8か寺)で、その内訳は、天台宗26、天台寺門宗3、天台真盛宗79、本山修験宗2、金峯山修験本宗1、鞍馬弘教1か寺である。また真言系寺院は63か寺(越前38か寺、若狭25か寺)で、高野山真言宗27、真言宗醍醐派2、真言宗東寺派4、真言宗泉涌寺派1、真言宗御室派7、真言宗智山派19、真言宗国分寺派3か寺となる。真言宗寺院のうち越前の寺院は6か寺を除いてすべて新義系で、若狭の寺院はすべて古義系である。  
越前の天台・真言系寺院 
室町中期に越前に所在した天台・真言系寺院について、文安2年(1445)の東寺修造料足奉加人数注進状によってみてみると、寺院数とその僧侶数は表65のようになる。奉加額からみて、坂井郡豊原寺が越前の天台・真言系寺院の中心に位置し最大の勢力を誇っていたことがうかがわれ、またこれらの寺院とこの奉加人数注進状にみえない丹生郡大谷寺・大野郡平泉寺を合わせた寺院が天台・真言系の寺院であったと考えられる。そして、例えば今立郡大滝寺の奉加人数注進状に「右此寺は、顕宗在所たりといえども、御勧進に依り内-心落し、形の如く挙げて奉加せしむるものなり」と記されるように顕教系の寺院も奉加したようだが、ほとんどは密教系の寺院であった。表には56か寺がみえ、このうち7か寺が末寺を有しており、末寺数は52か寺であった。これらの寺院の僧により計123貫100文が奉加されたのであった。  
この文安2年の奉加人数注進状によれば、丹生郡真光寺の末寺として5か寺が、足羽郡大惣持寺の末寺としては9か寺が、坂井郡滝谷寺の末寺としては6か寺が知られる。その滝谷寺は、国内にとどまらず他国にまで勢力をのばし、加賀国慈光院や因幡国摩尼躰寺・観音寺など22か寺と本末関係を進めていた。これらのことから、真光寺・大惣持寺・滝谷寺などの有力寺院は国内・国外に末寺を有していたことがわかる。また滝谷寺については、因幡などに赴くなど日本海を自由に航行していた勧進聖衆の活動が推定される。  
越前における活動

滝谷寺や大谷寺・平泉寺などを通じて、南北朝期以降の越前の天台・真言系寺院の具体的な活動をながめてみよう。 
美作国の出身と伝える睿憲は、密教を求めて中国へ渡ろうとして遭難し、坂井郡崎浦(三国町)に漂着したといい、永和元年(1375)に「三国湊性海寺談所」において論書を書写しており、ついで康暦2年(1380)に「千手寺多聞院」で、永徳3年(1383)には「摩尼宝寺内多宝院」において論書を書写したことが知られる(「滝谷寺の文書と寺宝」)。この摩尼宝寺が現在の滝谷寺をさしている。睿憲が永徳2年に17か条を定め、そののち永禄7年(1564)に5か条を追加し朝倉義景が追認した寺法のなかに、「他流他宗等の学行を修すべからず」とみえ、滝谷寺は密教の教義を堅持し学頭・弟子を育てて、朝倉氏一族の保護やこの地の古くからの有力国人である堀江氏の寺領寄進などによって徐-に勢力を拡大し、天正年間(1573-92)には米方69石・地子銭21貫文余を保持する寺院に成長していった。住持の法統は京都醍醐寺報恩院の法流を継いでいた。  
もう一方の大谷寺は、越知山山頂にあった三所権現(越知社)の別当寺であり、この越知社は泰澄開創と伝える白山信仰にもとづく山岳修験の霊場であった。大谷寺は中世において次第に天台系の寺院となるが、鎌倉期には「弘法大師御影」を掲げており、真言宗的な性格も帯びていた。大谷寺は越知山の麓から少し東に離れた谷にあり、越知山の山上の神事・法事は3月18日の「御戸開」から9月17・18日の「御戸納」まで山篭衆を中心に行なわれた。寺院全体の管理は鎌倉期より院主、執当、大・小勧進などの「官職」と称される僧が行なっているが、寺僧たちは室町期には衆徒(講衆)と山伏(先達)から構成されていた。しかし天文元年(1532)に朝倉孝景は、山伏たちが「垂髪立」(俗人化)をしたため、今後は衆徒が寺を取り仕切るよう命じており、山伏の俗人化と勢力衰退を知ることができる。 
大谷寺は丹生郡糸生郷内にあり、この郷の地頭千秋氏の保護を受けていた。嘉元4年(1306)に弘法大師御影供料田を寄進している藤原兼範とは千秋氏のことであり、延文3年(1358)に「家風」の侍・中間・下部が大谷寺に乱妨することを禁止する旨の定書が出されているが、この「家風」とは千秋氏の家中をさすものとみられる。しかし宝徳元年(1449)千秋氏は90石の寺領御供田を勝手に売却し、さらに神木をことごとく切り売ったため、大谷寺は斯波氏に訴えている。法会などの費用が古くは在地から勧進の形で徴収される上分にも依拠していたことは、文保元年(1317)に3月会法華8講料として足羽郡が差定され、喜捨が求められていることから推定しうる。この法会の願主は泰澄大師聖霊、勧進は泰澄の分身とみられる小沙弥の飛鉢を受けた船頭で、その仏徳の不思議さに打たれて泰澄の侍者となった浄定行者、催使は仏敵に対する忿怒の相を表わす8大金剛童子とされており、泰澄伝承を巧みに用いながら行なわれる勧進に人びとは畏怖の念を抱きながら応じたのであろう。戦国期においても通常の寺領から年貢を収納するほか、大畑村・野田郷・田中郷・真栗村・甑谷村・在田村・坪谷村から上分を徴収していたことがわかるが、史料に上分と記されていなくとも、上分に由来する収納が多かったとみられる。これらは、古く「初穂」として納められていた形態を推定させるものである。また正応4年(1291)に大谷寺は日野川以西の商人たちを越知社の神人として掌握していたが、戦国期にいたっても丹生郡内の殿下領室衆や天下村蚕種商人から上分を取っていたし、塩商人・小物商人にも支配を及ぼしていた。 
越前白山信仰の中心地である平泉寺は、近年の発掘により白山社を挟む北谷・南谷に広がる6千坊と伝える多くの坊院跡が明らかになりつつある。戦国期の平泉寺の宗教活動は十分明らかではないが、明応2年3月16日(1493)秘符と丸薬を携えて京都相国寺蔭凉軒を訪ねた平泉寺杉本坊栄祐法印は、修験の根本道場である金峯山(大和・紀伊国境の大峯山)に8回も修業のために峯入した「無双の験者」で妻帯せぬ「清僧」であるとされており、平泉寺山伏の活動の一端を伝えている。平泉寺も大野郡内の荘園から正供とよばれる上分を徴する権限をもち、それはさらに坂井郡や末寺格の今立郡大滝寺近辺にも及んでいた。平泉寺の1つの坊である賢聖院は、寺領として大野郡内の大槻村・堂本村・護法寺村・井口村・滝波村・坂谷村・矢戸村・保田村などにおいて、近年買得分も含めて米分494石余、銭分45貫文を知行しており、護法寺村・片瀬村・井口村については、人足徴収権・闕所検断権をも有していた。賢聖院のこのような厖大な坊領をみれば、5000貫を知行したといわれる波多野玉泉坊や8000貫を支配したとされている飛鳥井宝光院のような「法師大名」の勢力がいかに大きかったかが知られるであろう(「朝倉始末記」)。大永4年10月3日(1524)朝倉孝景の援助を得ながら、寺領の吉田郡藤島荘の荘官中村氏が惣都合485貫文余の費用を負担した御児の流鏑馬が、大-的な臨時の祭礼として挙行されている。 
また近世末まで醍醐寺報恩院末であった性海寺は、滝谷寺とともに永正3年(1506)の加賀一向一揆峰起にさいして破却されるが、朝倉氏と密接な関係をもって再興が図られたようであり、また古くから朝倉氏家臣のなかで最も有力な国人であった堀江氏の寄進を得て、寺領の拡大を図っていった。  
若狭の天台・真言系寺院

近世に調査されたところによれば、中世の若狭における天台・真言系寺院の数は32か寺で、若狭の寺院数の15・4%にあたる。各宗派別の寺院数は表66のとおりである(「若州管内社寺由緒記」)。また文安2年の奉加人数注進状によると、若狭に所在した天台・真言系寺院については表67のようになる。それによれば、越前の豊原寺のような巨大伽藍や数多くの末寺をもつ寺院はなく、入り組んだ谷間や山中にそれぞれ独立した寺院として所在するものばかりである。  
表67にみえる真言系の寺院を郡ごとに分けて概観してみると、遠敷郡11か寺、三方郡5か寺、大飯郡6か寺と圧倒的に遠敷郡が多い。また草創時期についても遠敷郡の寺院に古代にまでさかのぼる古いものが多く、各寺の縁起によれば、神宮寺・多田寺・妙楽寺・羽賀寺・谷田寺が8世紀代に、明通寺・中山寺・飯盛寺などが9世紀代に草創されたと伝えている。これら古代に成立したといわれる寺院は、山岳信仰の場として開創され、平安中期から鎌倉期にかけて国衙の官人層との関わりをもちながら、あるいは荘園領主との関わりにより荘園の発達の過程で発展し、それらの人びとや地頭・領家・近在の百姓らの寄進によって寺領を拡大して、堂塔伽藍の整備を行なってきたものと考えられる。このことは、現存する各寺の本堂が鎌倉期から室町期に集中すること、また彫刻のほとんどが平安中期から鎌倉初期にかけて造像されたものであること、各寺院の分布がそれぞれ荘園に属する地域に所在することなどから、一応の裏づけができるであろう。  
若狭における活動

鎌倉中期以降、若狭国が得宗領となると、それまで国衙・荘園領主との関わりのなかで寺領の維持に努めてきた各寺は、北条氏との関係を重視しながら隆盛期を迎えることになる。しかし荘園の解体と相まって守護の勢力が拡大する戦国期にあっては、これら天台・真言系寺院は若狭国規模の祈祷などを行なってその基盤の確立を図るとともに、一方で民衆に寄進を求めてその信仰圏を拡大していった。 
事実、いま遠敷郡の明通寺・羽賀寺・妙楽寺・飯盛寺などの寺に、鎌倉末期から近世初期にかけての如法経料足寄進(施入)札が500枚余残されている(「小浜市史」)。この寄進札は、寄進者が自身の逆修(生存中にあらかじめ死後の冥福を祈って仏事を行なうこと)、父母・先師やそのほかの被供養者の追善供養のために、米10石または銭10貫文などを各寺へ施入し、それによって法華経の一部を各寺の僧侶や如法経衆・勧進聖に依頼して書写もしくは読誦してもらい、その趣旨を記して作成・奉納された札である。 
その寄進者の在所の分布から知られる信仰圏は各寺を取り囲む形であったようで、寄進の施主に各寺それぞれの周辺に住む近在の土豪・有力農民・商人・職人・女性などの名前がみられ、人びとの信仰でその圏域の拡大を図っていったものと考えられる。少数ではあるが、他国からの廻国聖衆の奉納札もみられる。これらの札は、時代によって形は異なるものの同様の形状をしており、室町中期以降は各寺に備え付けられるようになったものとみられ、寄進のあるごとに各寺の本堂の内陣・外陣に直接打ち付けられた。これは寄進者にとっては如法経読誦の証と功徳の表示を意味するとともに、寺院にとっては、寄進札を本堂に掲げることによって寺財を得るための宣伝効果としての役割も兼ねていたと考えられ、当初の寄進者には寺僧が多いが、徐-に民衆へ浸透していったものとみられる。 
ここで寺財として集められた如法経料について明通寺を例にみておこう。堂塔伽藍の建立は正嘉・文永ころ(1257-75)の住持頼禅以下20数名の僧の活動によるものであるが、その規模は本堂のほか14棟・25坊・5社で、衆徒25人・中座衆10人がいた。明通寺の場合、寄進にかかる如法経会は如法経堂において毎年9月20日から数日間勤行が行なわれている。そして集められた寄進の料足は、24石2斗が塔頭22坊の各坊に1石1斗ずつ均等に配分して貸し付けられていた。この利息として毎年坊別黒米(玄米)4斗が各坊から徴収されるという仕組みになっており、そして黒米22坊分の計8石8斗の半分にあたる4石4斗が如法経会の費用として如法経衆に下行されており、こうして如法経会は半永久的に維持され、残りの半分は寺年行事に交代のさい渡された。このような高利貸し経営がなされ、寺院の経営が支えられていたとも考えられる。 
室町期以降、百姓が先祖供養のために、このように米10石もの寄付を行なった事例は全国的にみても今のところ若狭のみで、その意味でも寄進札は、そのころの若狭の天台・真言系寺院の寺財の獲得と庶民の信仰のあり方を知るうえでも興味深い。 
一方で、若狭国規模の祈祷としての雨乞・千部経読誦・国家安穏の加持祈祷は、天台・真言系寺院が行なった。また武田氏が祈願所としたのも明通寺・羽賀寺・神宮寺・万徳寺の天台・真言系寺院であり、祈願所は守護の生誕日に勤行を勤めている。なお武田氏の菩提所はすべて禅宗寺院であり、守護の忌日には勤行を勤めた。この守護の祈願所のなかでの若狭第一儀の寺であることをめぐって、明通寺と神宮寺との間で確執があった。かねてから首座である左座に着いていたことを主張する明通寺に対して、神宮寺は「根本神宮寺」という寺名をもって第一儀を主張し、相論となったことは前述した。 
天台・真言系寺院の在地との関わりについては、先にふれた如法経料足の寄進にみえるように、在地の広い信仰を集めていたことが知られる。それ以外では、明通寺においては、経巻を買うために寺が母体となって金を積み立てる「経頼子(経頼母子)」が行なわれており、一方羽賀寺においても、「出家成之時、饗料」を取って出家する人から「出家銭」を徴収していたり、「田遊下行」が行なわれ、あるいは経頼母子も営まれているなど、天台・真言系寺院と在地との深い関わりをみることができる。 
若狭で唯一真言の本寺であった正照院(万徳寺)は、享禄5年(1532)に武田元光から「無縁所」としての特権を与えられている。これは、「闘諍喧埖」「殺害刃傷」「山海之両賊」などいかなる罪人もこの寺へ駆け込めば扶助されるという機能をもつ例として注目されている。このように若狭の天台・真言系寺院は、国祈祷所としての威信を保ちながら、それぞれの信仰圏を侵すことなく、在地のなかにあって広く厚い庶民の信仰を集めながら存続してきたものと思われる。そうでなければ、平安・鎌倉期から今に続く諸堂・仏像は残らなかったであろう。  
禅宗諸派 
五山派寺院

鎌倉幕府は13世紀末ごろに、次第に増加しつつあった禅宗寺院を統制するために、中国で行なわれていた五山官寺制度を取り入れている。しかし実際にその機能が整えられるのは南北朝の内乱期を経て室町期になってからであった。五山官寺制度は、全国のいわゆる五山派に属する寺院を五山-十刹-諸山の位次に組織することであり、その寺院への住持辞令ともいうべき公帖は将軍から発せられることになっていた(関東以東の諸山寺院の住持には関東公方から発せられた)。なお五山の上である南禅寺と京都五山第一の天竜寺に対しては公帖に加えて朝廷より綸旨が出され、紫衣被着が許可された。 
越前・若狭においても、五山制度が整うなかで京都・鎌倉の五山寺院から進出してきて、寺院を建立する禅僧が現われるようになってくる。 
まず、越前・若狭の五山寺院についてみておこう。越前では足羽郡弘祥寺・南条郡妙法寺の2か寺が十刹、今立郡の日円寺・善応寺と永徳寺(所在地未詳)が諸山、若狭では高成寺と安養寺が諸山に列せられていた。これらの寺院を開いた禅僧たちは、京都・鎌倉から越前・若狭に進出してきた人びとであった。  
諸山から十刹となった妙法寺

少林山妙法寺の開山は鎌倉円覚寺の開山として知られる無学祖元、その門弟の高峰顕日、さらにその門弟の夢窓疎石の3人となっている(「扶桑五山記」)。夢窓は後醍醐天皇や足利尊氏・直義の外護を受け、同時期の禅宗界の中心となった人物である。この三開山のうちの誰の段階で建立されたのかは不明であるが、3名連記しなければならない理由が存在したに違いない。あるいは無学や高峰の時期に成立した寺を夢窓の時期になってさらに本格的な寺院としたというようなことかもしれない。夢窓派の寺院ということになろうか。現在は廃寺となっているが、武生市妙法寺町にあったと考えられている。暦応3年11月(1340)付の得江頼員軍忠状に「妙法寺城」の名がみえる。暦応3年にはすでに妙法寺が存在し、城山の名として用いられるほどになっていたのであるから、寺院の成立はそれよりも以前ということになる。いつごろ諸山に列せられたかは不明であるが、「心田播禅師疏」に怡菴という人物が妙法寺に入寺するさいの「山門疏」(新住持を迎える寺院で作る詩文)があるので、心田清播の没する文安4年(1447)以前であることは確かである。かなり以前とみてよかろう。このように怡菴が文安4年以前に住持となり、寛正4年10月13日(1463)には正伝首座が住持辞令ともいうべき公文(公帖)を受けている。しかし応仁の乱後に兵火にかかり、寺産も奪われるというありさまであった。永正4年(1507)の仙甫□登座元の入寺は、当寺が40年ぶりに粗末ながらも旧観に復した直後のものであった。月舟寿桂が法眷疏(法類による祝辞)を作成している(「幻雲稿」)。 
戦国期に入ると五山派寺院は一般に衰退へと向かうが、妙法寺の場合は寺勢を盛り返したようである。天文13年3月17日(1544)夢窓と兄弟弟子の元翁本元を開山とし同じ諸山に列せられていた日円寺に比べて、より上位に列せられるよう僧録である鹿苑院へ願い出ている。翌日鹿苑院僧録は、諸山に上下の位次はなく、僧侶の席次は公文を受けた順によるという返答書を送っている。その後も妙法寺は日円寺よりも上位の位次を求める運動を続けたのであろう、10年後の天文23年4月2日、十刹に列せられている。  
諸山の日円寺

日円寺の開山の元翁本元は高峰顕日の門弟で、無学祖元の孫弟子にあたる。元翁は夢窓と兄弟弟子であり夢窓と行動をともにした人物で、京都十刹第2位で京都嵯峨大堰川の臨川寺開創に関わった人物として知られる。仏光派(仏光は無学の禅師号)の寺院ということになる。現在は廃寺となっているが別院山の山号をもつので、今立町別印にあったことが知られる。別印の地名は道元の弟子覚念が建立した寺院が永平寺の別院的存在であったところからそう称されるようになったといわれており、覚念が月尾山の下の同地に塔婆を建立したという伝承をもつ地である(「永平開山道元禅師行状建撕記」、以下「建撕記」と略)。日円寺の前身は覚念の開いた寺院であったとも考えられる。通称法界門のあたり一帯が寺跡であると考えられており、近くの教徳寺裏の山道からは至徳3年(1386)の銘文がある8角石塔が出ており(「今立町誌」)、文永8年(1271)の銘文をもつ5輪塔もあったとされている(「岡本村史」)。元翁の没年が正慶元年(1332)なのでそれ以前の成立であろう。 
五山・十刹・諸山を記した「扶桑五山記」には越前国の安国寺と付されているが、安国寺となったのは永徳寺であるから、日円寺が安国寺とされるのは越前の利生塔が存在したがゆえの誤記ではないかとされる。「扶桑五山記」にも「多宝塔」の存在が記されているが、五山派を統制した鹿苑院僧録のもとで実務を担当した蔭凉軒の記録である「蔭凉軒日録」の嘉吉元年6月17日(1441)条によれば、同寺に塔婆が造営され、これに対して幕府は5000疋(50貫文)を寄進している。これが以前からあった利生塔の再建なのか、別の所にあった塔が破損したので同寺に建立したのかは不明であるが、何の記載もないので、以前から存在した可能性が高いといえよう。 
安国寺・利生塔とは、足利尊氏と直義兄弟が夢窓疎石の勧めもあって、元弘年間(1331-34)以来の戦乱における戦没者の供養のために各国に1寺1塔を建立したものであり、建武4年(1337)に計画され、同5年ごろから貞和年間(1345-50)にかけて設置されたものである。 
日円寺が諸山に列せられた時期は不明であるが、永享8年8月6日(1436)素奫首座が新住持の公文を願い出ているので、それより以前に諸山であったということになる。汝霖妙佐(1390年ころ没)という五山文学僧が、一関妙夫の入寺のさいの諸山疏(近隣の寺院が歓迎の意を表わす詩文)を作成しているので、14世紀末ごろには諸山に列せられていたかもしれない(「汝霖佐禅師疏」)。そして、塔婆造営のころの住持は有章和尚であり、その後も統一宗・胤嗣宗・素祭首座・徳邑首座などが住持に就いている。素祭の場合、入院のさいの山門疏が記録されている。日円寺は、京都南禅寺内にある続宗軒の末寺であると記録されている。続宗軒は堅中圭密の塔頭(塔所・支院)である。堅中は同じ仏光派であるが日円寺の開山元翁の法系ではない。どのようなことで南禅寺続宗軒の末寺となったのかその理由は不明であるが、15世紀の中ごろには続宗軒の末寺として存在したのである。また、このころ日円寺は「守護違乱」に巻き込まれ訴訟をおこしており、その経営は容易ではなかったようである。そして永正14年には、一麟□慶という禅僧が住持に就いている(「幻雲稿」)。  
諸山・安国寺の永徳寺

法華山永徳寺の開山は大休正念である。彼は文永6年に来日した禅僧で、鎌倉浄智寺の開山となっている人物である。彼の禅は仏・儒・道の三教一致の思想であった。特に彼は北条時宗の弟の宗政に三教一致を説き、鎌倉武士の間に朱子学を導入した人物として知られる。 
しかし永徳寺は一度は衰退したのであろう。中興開山として此山妙在の名を伝えている。此山も高峰顕日の門弟であり、日円寺開山の元翁や夢窓と兄弟弟子であった。彼に関する塔頭としては京都建仁寺内に如是院、鎌倉円覚寺内に定正庵があった。また、入元のおりには弘祥寺の開山である別源円旨とも会っており、帰国後も交流をもった。同寺は仏光派の寺院ということになる。 
永徳寺は足利義詮から康安2年8月17日(1362)付で、安国寺を称するようにとの御教書を受けている。同文書によれば、火災に遭った長楽寺が再興の見込みがないので、永徳寺が安国寺となるようにとのことであった。 
永徳寺が諸山に列せられたのがいつかは未詳であるが、天境霊致(永徳元年11月18日没)が永徳寺に入寺する印空光心(光信)首座の山門疏を作成しているので、永徳元年(1381)以前には諸山に列せられていたとみることができよう。この印空は此山の弟子でのちに南禅寺の51世となっている。また、天境はそののちに入寺したと考らえれる山堂居首座の山門疏も作成している(「無規矩」)。また、五山文学僧の東沼周曮は文安元年3月に公文を受けて入寺した匊芳鐗や、享徳元年閏8月(1452)に公文を受けて入寺した舜徒光韶に対して詩文を作成している(「流水集」)。なお、匊芳鐗は永徳寺に入院する以前に京都五山の万寿寺で前堂首座という役職を務めていたことが知られ、舜徒は建仁寺の199世、南禅寺の210世となっている人物である。少し年代が前後するが、沢庭という人物も文安から宝徳年間以前(1444-52)に入寺しており(「越雪集」)、永享10年3月20日には光麗首座、寛正2年4月14日には以旭首座が公文を願い出ている。永徳寺は京都建仁寺内の如是院の末寺であり、永徳寺内には開山塔の正宗院があり、同院には領地が存在した。 
永徳寺は諸山寺院であり、安国寺でもあり、住山者のなかにはのちに京都五山の建仁寺や南禅寺の住持となる人物も存在したのである。  
曹洞宗宏智派

越前の十刹弘祥寺と諸山善応寺は、ともに別源円旨を開山にもつ曹洞宗宏智派の寺院である。同じ曹洞宗ではあるが永平寺系曹洞宗が京都・鎌倉以外の各地に展開した林下に属したのに対して、五山派として展開した一派である。他の五山派がすべて臨済宗であるなかでは特異な門派であったといえよう。日本の宏智派は東明慧日が延慶2年(1309)に渡来したのに始まる。肥前国の善光寺、肥後国の寿勝寺を開き、北条貞時の外護を受けて鎌倉の建長寺や円覚寺に住し、円覚寺内に白雲庵という塔頭を構えた。東明の門弟の別源円旨は康永元年(1342)朝倉氏に招かれて越前に活動し、同じ門弟の不聞契聞は白雲庵を守った。観応2年(1351)には東明の法姪の東陵永や建仁寺の住持となり、建仁寺内に洞春庵を開き塔頭とした。  
また別源の門弟の玉岡如金は建仁寺内に新豊庵を建て洞春庵とともに門派の拠点とした。建仁寺には大慧派に変わってからも深い関係にあった中岩円月の妙善庵なども存在し、宏智派は1つの勢力を形成した。 
宏智派は洞春庵には三条家、新豊庵には飛鳥井家などの外護を受け、越前では別源が朝倉広景の外護を受けて弘祥寺を開山し、さらに善応寺・吉祥寺を開山している。広景の子高景の養子で実は高景実弟松尾宗景の子で別源の門弟となった紫岩如琳が大孝寺を開くと、その後も教景の子の月浦宗掬・仙隠宗華、孝景(英林)の兄弟の聖室宗麟・玉岩光玖・宗階など、朝倉一族から宏智派の禅僧になる者が少なくなかった。また含蔵寺・護田寺・子春寺など、宏智派の寺院が建立されている。 
宏智派は、別源も東明の門弟となったのちに入元しているが、そのおりに漢詩文で知られた古林清茂に参じたこともあり、その他の人物でも入元する者が多く、漢詩文をもって知られた人びとが多く存在したことから他宗派の文学僧との交流もみられた。特に永正年間(1504-21)臨済宗中峰派の月舟寿桂という禅僧が一乗谷に来て、宏智派の寺院であるにもかかわらず、弘祥寺や善応寺などの住持になっているのである。医者の谷野一栢、儒学者の清原宣賢や高辻章長、連歌師の宗祇や宗長なども一乗谷を訪れており、同地の文芸の水準は高まったが、その中心にあったのが宏智派の僧侶や寺院であったといっても過言ではない。宏智派は越前では朝倉氏の滅亡とともに衰退したが、同氏の領国時代の宗勢には相当なものがあったといえる。  
弘祥寺の成立と展開

ここで弘祥寺について少し詳しくみておこう。山号を大治山と称し、足羽郡安居(福井市金屋町)にあった宏智派の寺院である。前述したように、朝倉広景が康永元年に別源円旨を開山に招いて建立した。諸山に列せられたのは貞治3年10月1日(1364)(「扶桑五山記」)、十刹に列せられたのは応永9年11月25日(1402)であった。 
弘祥寺に入った人物をみると、まず別源の弟子の玉岡如金がいる。天境霊致の山門疏があるので、永徳元年以前ということになる(「無規矩」)。玉岡は越前の人で、のちに建仁寺61世、天竜寺28世となっている。また同じ別源の弟子には紫岩如琳もおり、彼は前述したように朝倉氏の出身で、母谷山大孝寺を開いた人物である。さらに宏智派から大慧派に転派したが密接な関係を保っていた中岩円月の門弟の東湖浄暁が、入寺中に加賀の諸山金剛寺に住したことのある惟忠通恕と漢詩文の往復を行なっており、永享元年以前に入寺していたことが知られる(「繋臚橛」)。さらに入寺者をみると聖貞首座・契咸西堂が公文を願い出ており、文安4年以前には雲霄□昂が住持となっている。雲霄は同じ宏智派の諸山である肥後国寿勝寺から十刹である弘祥寺への入寺というコ-スをたどったことになる。 
さらにまた心浩西堂・鷹瑞西堂・如辰西堂が入寺のための公文を願い出ており、桃仙渓も寛正3年以前に入寺し(「流水集」)、契檀西堂が公文を願い出ている。 
華仙隠と錦渓如辰は文明9年(1477)以前に住持に就いており(「黙雲集」)、永正6年6月23日に雲巣□仙が肥後寿勝寺に入寺しており、永正8年8月には功甫洞丹が住持として入り、宝玉之が永正16年春に公文を受け、2年後の同18年8月に入寺している(「幻雲稿」)。なお功甫は天文2年に建仁寺へ274世として入寺している。彼は「扶桑五山記」によれば「不入院南禅」となっており、南禅寺には入寺せずして「前南禅」の資格のみを得たのであろうか。 
宏智派の祖である東明慧日の2百年忌すなわち天文8年当時、先の永正8年に入寺した功浦洞丹が臚雪鷹灞と漢詩文を交わしている(「臚雪藁」)。すでに建仁寺の住持も終えた人物なので、弘祥寺内の一角に庵でも構えていたのかもしれない。 
このように多くの入寺者を出したが、諸山の善応寺からの入寺は近隣なので当然のこととして、肥後国寿勝寺からの入寺もみられ、諸山善応寺・寿勝寺-十刹弘祥寺-五山建仁寺-五山の上の南禅寺という宏智派の出世(官寺や中心的な寺院に入ること)のコ-スがあったことが知られる。 
なお弘祥寺は明治初年に臨済宗妙心寺派大安寺(福井市田ノ谷町)に併合されている。大安寺は福井藩主松平光通によって明暦元年(1655)に創建された寺院である。また弘祥寺には明人で夢窓派の禅僧となった帳徳廉が訪れ、中国の寒山寺になぞらえて詩を作っており、長享元年(1487)に訪れた月舟寿桂が、それにちなんで作詩しているほどの景勝の地であった(「幻雲詩藁」)。  
諸山に列した善応寺

瑞聖山善応寺は弘祥寺とともに別源円旨を開山とする宏智派の中心寺院であったが、延徳元年10月19日(1489)から諸山に列せられるよう幕府に運動を展開している。建仁寺内の同派の塔頭である洞春院が11月21日に幕府に3000疋と杉原紙10帖を納めるなどしており、諸山列位が決定した。そして翌2年閏8月2日に春岳契東首座が公文を願い出て、諸山になって初めての入寺を果たしている。月舟寿桂が山門疏を作成しているが、春岳がのちに弘祥寺にも入寺していることが月舟の詩文集から知られる(「幻雲稿」)。また大成集首座が文亀元年(1501)に入寺し、永正年間ころには廉甫泉座元や臚雪鷹も入寺した。廉甫は少年のころから弘祥寺で修行した人物であるという。臚雪は東林如春に弘祥寺か善応寺において参学し、その弟子となり、月舟寿桂にも文筆を学び、天文5年8月には建仁寺の279世となっている(「扶桑五山記」)。  
護田寺と一乗谷南陽寺

ここで宏智派の寺院であった護田寺についてみてみたい。同寺は足羽郡安居の弘祥寺から数里ほど離れ、9頭竜川右岸の吉田郡河合荘岩坂というところに存在した。同寺には明応8年(1499)に宏智派の慧均監院(寺院の運営を司る役僧)という人物が、「33所巡礼観音」すなわち33体の観音像を仏師に彫刻させそれを安置し、開眼供養の法要のための法語の作成を五山文学僧で宏智派と親交のあった天隠竜沢に依頼しているのである(「天陰語録」)。なおこの護田寺は、それから33年後の天文元年の夏に河合荘岩坂の地から弘祥寺の傍に移転し、中興開山の桃渓悟の「肖像」画を作成し、賛を宏智派と深い関係にあった弘祥寺や善応寺に住したことのある月舟寿桂に依頼しているのである(「幻雲文集」)。月舟の文集によれば、当時の住持は功甫洞丹であり、別源円旨-紫岩如琳-器成l翁-桃渓悟-功甫と次第する人物であったことが知られ、ここにも宏智派の展開の一端がうかがえる。 
月舟寿桂はこれまでにもみてきたように、善応寺や弘祥寺に入寺した人物の祝辞ともいうべき多くの「疏」などを作成しており、宏智派の越前における展開のなかで生まれた交流であったといえよう。この月舟が一乗谷南陽寺の良玉侍者の肖像に賛を加えている。これには「南陽尼寺」とあり、南陽寺は尼僧の寺であり、朝倉貞景(天沢居士)が月舟のもとで出家させた娘の良玉侍者のために再造したことが記されている。宏智派の活動は朝倉氏の文化と深く関わっていたといえる。  
諸山高成寺と安養寺

高成寺は山号を青井山と称し、現在は南禅寺派の寺院として小浜市青井にある。若狭の守護大高重成が康永3年に遠敷郡青井にあった旧仏教系寺院を禅寺に改め、大年法延を開山に招いた。寺号は大高重成から取ったものであった。大年法延は古林清茂(別号を金剛幢)の法を嗣いで渡来した竺仙梵僊の弟子となった人物で、鎌倉を中心に活動していた。金剛幢下の人物であるだけに漢詩文に優れた能力を発揮した人物であった。晩年になり上洛し、足利尊氏の帰依を受けた。尊氏の幕下にあった大高重成も大年に帰依した。大年は康永3年10月8日に師竺仙から跋文を請い、尊氏が尊敬した夢窓疎石の「夢中問答」を刊行しているが、大高重成の助勢があった。大年は貞治元年8月1日に置文(遺言状)を定めている。器用の人物を住持に選出すべきことと、本寺楞伽院(竺仙の塔頭で鎌倉浄智寺と京都南禅寺のなかに所在)が同寺を門徒寺と称して「違乱妨」をすることを禁止するという内容であった。このような置文が作成されたのは、楞伽院の干渉が強まる可能性もあると考えたからに違いないと思われる。大年はその年の10月2日に没している。なお同寺は安国寺に指定されている。高成寺は古林派(金剛幢下)あるいは楞伽派に属したことになる。  
高成寺が諸山に列せられた時期は不明であるが、応永25年に大梁梵梓が住持に就いており、瑞渓周鳳が諸山疏を作成しているので、それ以前から諸山であったことが知られる。住持に就いた人物をみると、法勝首座と康仁首座が公文を求めている。康仁の公文の申請のときには京都楞伽院祥金の「吹嘘(推挙)」があった。また聖真首座や慈晃首座も公文を申請している。江庵慶派首座は長享2年5月2日に公文を願い出て、6月1日に入寺している。「青井山安国高成寺略記」によれば、諸山の高成寺に住してから鎌倉十刹第一の禅興寺-鎌倉五山第一の建長寺-京都五山の上の南禅寺へと出世するコ-スがあったという。楞伽院のある浄智寺への入寺がこのコ-スに入っていないことには疑点が残るが、鎌倉禅林との関係を保っていたことは確かなようである。 
安養寺は山号を万歳山と号し、もと遠敷郡西津荘にあったが、現在は廃寺となっている。開山は在中中淹である。彼は竜湫周沢の門弟で夢窓疎石の孫弟子である。京都相国寺や南禅寺に住し、南禅寺内に瑞雲庵、相国寺内に大徳院(のち慈照院)などを開創している。安養寺は応永17年8月29日に諸山に列している(「守護職次第」)。夢窓派の寺院ということになる。 
住持に就いた人物をみると、中銀首座がいる。永享10年4月7日に公文を申請しているが、相国寺内大徳院の「吹嘘」によっている。また周恕首座・周雄首座・梵柔首座・聖誥首座・心隆首座が公文を申請している。なお心隆の公文は1か月後の9月25日に発給されている。 
高成寺は京都南禅寺内(あるいは鎌倉浄智寺内)の楞伽院の、また安養寺は京都相国寺内の大徳院の末寺として位置づけられており、五山寺院内の門派の塔頭と深い関係をもっていたといえよう。  
在地五山派寺院の経営

丹生郡志津荘に祥瑞寺という寺院があった。京都五山の1つである東福寺内の海蔵院の末寺であるから聖一派の寺院である。祥瑞寺は永享11年9月5日当時訴論をおこしているが、幕府は祥瑞寺をはじめとする「大衆」(僧侶)に対して理に付くべき旨を命じている。祥瑞寺やその僧侶の無理な訴論や行動の停止が命じられたということであろうか。長禄2年9月14日(1458)当時、志津荘には祥瑞寺を「首」とする総持寺・瑞応寺・伝泉庵など23の道場が存在したが、志津荘の領主である賀茂社(下賀茂社)の社家が「闕所」とされたことを訴えている。おそらくこのときの長禄合戦の戦乱によって志津荘内の23の道場の寺領が「闕所」とされたのであろう。 
23か寺は祥瑞寺を「首」としたが、そのもとにあった総持寺は独自でも所領の安堵を得ている。なお総持寺の塔頭として伝泉院(伝泉庵)の名がみられ、23の道場のなかにも本院・支院の関係があったのである。ただし、寺領と関わる支院だけに、塔頭といっても伝泉院が総持寺内に存在した支院か、少し離れた所にあり末寺的性格をもった支院であったかは不明である。いずれにしても京都に本院をもつ現地の寺庵がいかに存在していたかをうかがうことができる。 
また、東福寺海蔵院の末寺の普明庵は寺領が押領されたのであろう、朝倉孝景に充てて返却の下知をするように求める書状が出されている。現地の厳しい状況のなかで、なんとか寺領を経営しようと努力している在地の寺院の姿をみることができる。なお前述した東福寺末寺の祥瑞寺は、寛正4年7月5日当時におこっていた訴論において目安を捧げている。これにより、玄儀書記の訴えは「濫訴」とされ退けられ、「寺家」(祥瑞寺や本寺東福寺のことと考えられる)の主張が認められる判決が出されている。そして玄儀書記と協力関係にあった斎藤新兵衛尉は「違乱」をおこしたとして「折檻」の処分を受けた。この訴論の内容は不明であるが、約2年後の寛正6年8月6日ごろには、住持や焼香侍者(入寺をはじめとする儀式において住持に代わって焼香する役割をもつ者)が決定されているが、そのさいに以前の訴論が若干問題となったようであるので、住持の問題であったのかもしれない。訴論が住持職の問題か、あるいは寺領に関する問題かは不明であるが、玄儀書記が斎藤氏の力を背景に祥瑞寺の運営(あるいは住持職獲得)に乗り出してきたのに対して、在地の祥瑞寺は目安を捧げるなどして対抗してその「濫訴」を退けており、ここにも戦乱の世における在地の五山派寺院がさまざまな問題に対面していた様子をみることができるのである。 
若狭や越前の禅宗寺院の禅宗なかには幕府の祈願寺となるものがあった。小浜の栖雲寺(小浜市浅間)が長禄2年10月27日に、越前瑞勝寺が翌3年4月4日に、越前興源寺は同3年9月29日に祈願寺となっている。栖雲寺は東福寺内退耕庵の末寺であるので聖一派の寺院である。このうち栖雲寺と瑞勝寺は寺領の経営がうまくゆかず「不知行」となったり、諸方で「押妨」にあったりして、厳しい状況にあった。そのようななかで、祈願寺となって在地での経営を有利に展開しようとしたのであろう。 
なお栖雲寺は、寺伝では文明15年武田信親の創建で、武田氏の出身で武田元信の子である京都建仁寺の潤甫周玉を開山に迎え建仁寺系の寺院として存続したという。寺伝からすれば文明15年以降の存在となるが、「税所次第」の応永14年5月17日の記事によれば、足利義満が栖雲寺に「御座」しており、それ以降、前述のように長禄2年当時も存在したことになる。したがって、当初は東福寺退耕庵末寺であったが、武田氏によって再興され、武田氏出身の建仁寺系の僧が住持となってのちは建仁寺系の寺院として存続したことになる。そのほかにも五山派の寺院は存在した。越前竜翔寺は相国寺内鹿王院の末寺であり、長禄4年8月25日に寺領の安堵を受けている。  
瑞応山大成寺(高浜町日置)は大飯郡青郷に建立された寺院で、現在は建仁寺派である。応永元年に大草道忠が華陽和尚を招いて開山としたという(「若州管内社寺由緒記」)。一説には南北朝期の守護大高重成が小浜の高成寺とともに建立した寺院ともされる(「稚狭考」)。また、もと大飯郡日引にあって瑞泉寺と称したともされる(「若狭国志」)。延徳3年5月28日より同4年6月24日にかけて大成寺の心月和尚が蔭凉軒に書状や贈答品を届けている。6代目の梅岩瑞賢侍者が住持のときに諸堂が焼失し、武田元光が天文18年に伎西堂を開山に招いて再興したという。また同寺には、武田氏の家臣の逸見氏が在京中の中興開山伎首座へ充てた書状などが現存する。 
遠敷郡三宅荘の荘内にも長久寺という禅寺があり、文明7年の当時幕府の祈願寺であった(「政所賦銘引付」)。文明19年に寺領に対して領主の通玄寺が幕府の奉書をもって半済を実施しようとしたので、長久寺は幕府に訴えている。荘園領主に対抗している地域の寺庵の姿をみることができる。  
三万谷深岳寺と一乗谷の文化

朝倉氏は、禅宗においては曹洞宗宏智派をはじめとする五山派と永平寺系曹洞宗を深く外護したが、永平寺系曹洞宗とともに林下に属する大徳寺系の禅とも交流をもった。深岳寺は一休宗純の弟子の祖心紹越が一乗城山の東北麓にある足羽郡宇坂荘三万谷の福松に建立し、開山を一休とした禅寺である。紹越は朝倉孝景(英林)の弟の経景の子であって、一休のもとに参じた人物である。紹越は一休にゆかりのある酬恩庵(京都府田辺町)や大徳寺内真珠庵に住したが、越前に帰って深岳寺を開いている。同寺にて永正6年に一休の33回忌の法要を営んでいるので、それ以前の成立ということになる。この法要には朝倉貞景も臨席している。また紹越は、酬恩庵・真珠庵の塩噌銭(毎年10貫文)は越前から運上することを約束している。深岳寺のあった位置が一乗谷からさほど遠くないことも考え合わせると、深岳寺が一乗谷文化に果たした役割は大きいものであったと推察される。  
永平寺系曹洞禅

鎌倉期の永平寺についてはすでに述べたところであるが、弘安元年(1278)に宋から道元を追慕してやってきた寂円は、大野郡小山荘の地頭伊自良氏の外護を受けて大野に宝慶寺を建立し、2世の義雲が永平寺5世に入って以降は代-永平寺の住持を出し、戦国期になると朝倉氏の外護を受けていった。 
永平寺3世の徹通義介が加賀大乗寺に進出し、門弟の瑩山紹瑾は能登に永光寺・総持寺を開き、北上する展開をみせたが、瑩山の弟子の峨山韶碩の門下が逆に越前へと進出してくることになった。そしてのちに同派が全国各地へと発展すると、それらの寺院と能登総持寺との間における各派の拠点として存在した寺院も少なくない。以下、「越前国名蹟考」「若州管内社寺由緒記」や寺伝などによりみていくことにする。  
まず、総持寺2世の峨山の弟子の通幻寂霊は摂津と丹波の境に永沢寺を建立し、越前に至徳3年に竜泉寺(武生市深草)を開山している。開基は藤原義清であった。また通幻の門弟たちが寺を創る。普済善救が白沢永幸の外護を受け応永12年に禅林寺(福井市徳尾)、天真自性は喜慶元年(1387)に慈眼寺(今庄町小倉谷)、天徳曇貞は宗生寺(武生市新保)、芳庵祖厳は応安5年(1372)に願成寺(武生市土山町)を、不見明見は応永3年に興禅寺(武生市村国)を開いている。慈眼寺はこの地の土豪赤座氏とも関係のある寺院と伝えられる。禅林寺にはのちに一乗谷で儒学を講じた清原宣賢が葬られており、願成寺は斎藤加賀守と2階堂吉信の菩提所という。 
さらに、峨山の弟子で加賀仏陀寺を開いた太源宗真の門弟の梅山聞本は在地の土豪小布施氏の外護を得て竜沢寺(金津町御簾尾)を、瑩山の弟子の明峰素哲の孫弟子の宝山宗珍は永建寺(敦賀市松島町)を建立している。竜沢寺開山の梅山が京都でも知られる名僧であったことは、足利義満の7回忌法要を勤めるよう将軍より再三にわたり要請を受けていることや、梅山所持の観音仏の霊験は京都にも知られていたことからもうかがえる。また永建寺は、金ケ崎城に迷う霊魂を鎮めるための寺院であったという。 
これらの寺院のうち、竜泉寺・禅林寺・宝生寺・慈眼寺・願成寺・竜沢寺・永建寺には、それぞれ門下の寺院によって輪住制(短期間で住持を交替していく方法)が採られ、各派の拠点となり結束の中心となっていった。例えば慈眼寺の場合、機堂・快翁・英仲・希明の4派によって同寺の運営が維持されており、北陸・関東地方を中心に東海地方や伯耆・出雲などに門下が展開していた。竜沢寺の輪住制は多くが2年で交替し、如仲(喜山・真厳・不琢・石叟・物外・大輝)・大初(仙厳)の各派などによって維持された。 
そののち曹洞禅は越前・若狭に勢力をもった武士の外護を得て展開を遂げた。特に越前では朝倉氏、若狭では武田氏およびその家臣との関係が顕著であるが、それをみる前に他氏との関係についてみておくことにする。不見の孫弟子の春屋永芳は霊泉寺(武生市池泉町)を開山している。同寺は斯波氏の墓所となっている。普済の門弟の玉翁正光は永享5年に金剛院(武生市深草)を、普済の孫弟子の胎雲恕欣は文安年間(1444-49)に洞源寺(武生市中央)を開き、開山には師である宝山を迎えている。外護者は立髪(立神)兵庫頭であった。末寺の洞月院も同じ宝山の開山であり、開基檀越も同氏であった。斯波氏が力を失うにしたがって、大野郡に力をもった2宮左近将監の外護を得て太源・了堂派の薩摩国日置郡の元勅が、康正元年(1455)に洞雲寺(大野市清滝)を開いている。なお2宮氏は朝倉孝景(英林)に滅ぼされている。同寺はその後は朝倉氏の外護を得て存続した。一方、太源・了堂派の徳翁永崇は15世紀に斯波持種の外護を得て洪泉寺(大野市鍬掛)を建立している。  
越前における曹洞禅の展開と朝倉氏

慈眼寺の系統すなわち天真派は、信濃から関東へと進出するとともに、北陸にもかなりの発展をみせている。天真派と朝倉氏との関わりは、坂井郡本郷の竜興寺(現在廃寺、福井市8幡町8幡の山上)が天真の門弟の希明清了により開山されたことによる。同寺は安居の代官藤原清長によって建立された。この地は朝倉氏が南北朝期後半に地頭職を獲得していたから、竜興寺と朝倉氏の関係は深かった。朝倉氏は一乗谷に移ると、その地に孝景(英林)の祖父教景(寛正4年没)の菩提所として心月寺を建立し、開山に竜興寺3世の桃庵禅洞(天真-希明-大見-桃庵と次第)を開山に招いたのである。朝倉氏が天真派を中心に永平寺系曹洞宗に保護を加えたのは、同派の寺院が越前に点在しており、新しい拠城の一乗谷から山を越えた所に永平寺が存在していたことによるのであろう。なお、心月寺の末寺の松雲院(義景の法名からの寺号)が近世初頭に一乗谷の城戸内に建てられた。 
朝倉氏の越前支配下において天真派は同氏や一族の外護を受けて、いくつかの寺院を建立している。桃庵の弟子の芥室令拾は永春寺(福井市つくも)の開山となっている。同寺は一族で北庄城主であった頼景が建立した寺院であった。芥室の法孫である勧雄宗学は、やはり北庄城主の朝倉景行の外護を受けて慶相院(福井市つくも)を開山している。芥室と同じく桃庵の弟子で心月寺の2世の海闉梵覚は泰蔵院(鯖江市南井、慶長8年結城秀康により足羽郡北庄に移され、昭和18年に三方郡北田の東光寺跡に移る)を開山したが、その弟子で心月寺3世の夫巌智樵は越中松倉城主の椎名氏の外護を受けて越中新川郡東山に雲門寺(現在廃寺)を開山するとともに、越前に英林寺を建立したが、これは朝倉孝景(英林居士)のための寺院であることはいうまでもない。享禄4年7月晦日(1531)付の「慈眼寺納所方置米置文」に英林寺の名がみえ、当時の住持は夫巌の弟子の大雄亮麘であったことが知られる。 
越中においては東に椎名氏、西に神保氏の2大勢力が2分して支配していたが、この置文によれば、越中神保氏の家臣である小島6郎左衛門が置米15石を寄進している。またこの事実を確認し連署している泰蔵院の夫巌は、前述したように椎名氏の外護を受けて越中雲門寺を建立した人物であり、英林寺の大雄の門弟である。心月寺の大英もその法系の人物であり、椎名氏が外護する越中雲門寺とは深く結びついている人びとであった。また神保氏も天真の弟子で希明と兄弟弟子である機堂の門派を受容していた。つまりともに天真派を受容していたわけであるが、その天真派は当時1年交替で住持を勤める輪住制を展開していたのである。ここに天真派は越前朝倉氏・越中神保氏・同椎名氏との間で生じた問題について、仲介の役割を担いうる立場にあったといえる。 
夫巌の兄弟弟子の竜億祖易が朝倉景高を開基として岫慶寺(大野市日吉町)を天文年間(1532-55)に開いている(「大野領諸宗寺方年代寺領記」)。また心月寺の門流ではないが、天真派で機堂の法孫である越渓麟易が永昌寺(福井市東郷)の開山となっている。一乗谷初代の孝景の室である桂室永昌大姉の菩提のための建立であったことが知られる(「月舟和尚語録」)。さらに越渓の弟子の雷沢宝俊が霊泉寺(福井市東郷、もとは篠尾)の開山となっている。開基は朝倉景儀である。また朝倉氏の関係から、そのもとにあった商人にも曹洞禅は受容された。慈眼寺や心月寺と関係の深い存在であった祥雲寺は、戦国期からの商人であった慶松家の菩提寺であった。大永元年(1521)の創建であるという。 
その他の派では、願成寺の開山である芳庵の門弟の昌庵惔丰が盛景寺(武生市春日野町)の開山となっている。応永年間(1394-1428)の成立で開基は朝倉盛景であるとされる。朝倉氏に早い時期から外護を受けたことになる。また通幻の弟子の天徳曇貞の法孫である竹香舜可は、瑞洞院(武生市大虫町)を朝倉孝景(英林)の外護を受け創建している。宝慶寺の寂円派の建綱の法孫である以麘は曹源寺(大野市明倫町)を開山しており、太源・如仲・真厳派の梅翁存玄は幸松寺(敦賀市莇生野)の開山となっているが、両寺ともに義景の外護を受けた寺院であるとされる。さらに前述したように大野宝慶寺も、大野郡司として当郡を支配した朝倉光玖(玉岩)から所領を安堵されているし、大野の洞雲寺も彼の手厚い保護を受けている。  
若狭における曹洞禅の展開と武田氏・在地武士

若狭における曹洞禅の展開は、越前の願成寺(武生市土山町)から進出してきた常在院(三方町田上・の系統、同じく願成寺から盛景寺(武生市春日野町)を経て若狭へ進出してきた峨山・通幻・芳庵派と、永建寺(敦賀市松島町)・永厳寺(敦賀市金ケ崎町)から進出してきた明峰派、また峨山・実峰派の向陽寺(三方町藤井)、慈眼寺系統の天真派の展開が主なものであるといえる。外護者の関係でいうと、武田氏および在地で力をもってきたその家臣の外護を受けて展開したといえる。  
まず、実峰派の大統一祐が向陽寺を明徳2年(1391)建立し、若狭最初の曹洞宗寺院となり、のちの永禄年間(1558-70)ごろに武田氏の重臣で大倉見城主であった熊谷氏の外護を受けたといわれている。ついで大統の弟子の伝芳良授が伝芳院(三方町相田)を応永17年に建立している。 
願成寺開山の芳庵の弟子の竜室道泉が応永2年に常在院(三方町田上)を建立している。開基は飯河氏とも伝えられる。この竜室の門弟の大円宗智は応永22年に神通寺(小浜市遠敷)を開創している。開基は武田氏の重臣内藤下総守と伝え、彼の位牌所ともなっているが、この内藤下総守は16世紀前半の人物である。また常在院開山竜室の法孫にあたる白室正圭(竜室-伝室-為天-一峰-白室と次第)は大永元年に清月寺(上中町杉山)を開山しており、開基は内藤佐渡守であるという。さらに常在院6世の自天寿珍が洞源寺(小浜市生守)を開山し、同寺3世の忍翁誠俊は竜雲寺(小浜市奈胡)を開いている。なお竜雲寺の成立を応永7年とし、外護者を内藤筑前守とする説もあるが、内藤氏は武田氏重臣で時代が合わない。 
ついで願成寺・盛景寺(武生市春日野町)からの展開についてみてみよう。まず盛景寺3世の亀舜祖卜が臥竜院(三方町三方)を建立しているが、外護者は熊谷大膳直行(直之)であるとされ、盛景寺4世の門弟の関翁鉄州は瑞林寺(美浜町早瀬)を武田氏の家臣粟屋越中守の外護を得て開創している。また臥竜院7世才庵俊藝の弟子の聯山祖芳は、文亀2年に武田元信の外護により仏国寺を開いている。さらに、やはり臥竜院7世の弟子の中巖宗恕は武田元光の外護を得て大永元年に発心寺を開山している。なお両寺の開山は兄弟弟子の関係にあるが、のちに発心寺は仏国寺の本寺となっている。盛景寺8世の機山祖全は徳賞寺(美浜町佐柿)を開き、やはり武田氏の重臣であった粟屋勝久の外護を得ている。粟屋勝久は永禄6年から12年にかけて武田氏に背き、武田氏から出兵依頼を受けた朝倉氏と戦い、国吉城を守り抜いている。したがって、同寺の建立はその永禄年間ごろのことであろう。 
次に敦賀の永建寺・永厳寺の門派である明峰派の展開についてみることにする。永厳寺8世大通の弟子の大功文政が竜泉寺(小浜市新保)を天文10年に開いている。外護者は武田信高であったとされ、竜泉寺2世の大輪新巨は天文2年に霊沢寺(小浜市大谷)を開山しており、開基は粟屋元行であったとする。また竜泉寺4世の懐州自探は天文23年に霄雲寺(小浜市大谷)を開創している。開基は元行の弟の粟屋勝昭であると伝えている。  
天真派の展開もみられる。天真派のなかの英仲派は丹波や備後に展開したが、英仲派の順応慶随が諦応寺(上中町安賀里)を開いており、その年代は文亀元年のこととされる(「若狭郡県志」)。さらに同寺4世の明室存察が興禅寺(小浜市東相生)を禅寺に改宗しており、宝徳2年(1450)開創されたときは天台宗であったが明応5年に曹洞宗に改宗されたとされる。外護者としては、武田氏の家臣である寺井日向守の名が伝えられている。 
また天真派のなかの快翁派は伊賀に展開した派であるが、同派の竹翁明三は大光寺(小浜市口田縄)を開創している。文明元年のことであり、武田氏の重臣大塩吉信の外護を得ている。大光寺3世の助山文佐は海元寺(大飯町父子)を開山しており、外護者は武田氏の被官で石山城主であった武藤上野介(友益)で、開創年代は永禄2年とされる。なお天文2年とする説もある。 
以上みてきたように、若狭の曹洞宗は越前から展開し、武田氏やその家臣・被官であった在地の勢力に受容されて展開したが、そればかりでなく、宗派独自の力も有していたと考えられる。「永建寺衆僧并末寺戒臘帳」をみると、大永元年以降毎年多数の得度者を出しており、戦国の世の中で門派や寺院を維持・経営していった力のようなものがうかがわれる。
出世道場としての永平寺

永平寺は5世に大野郡宝慶寺から義雲が住持に入って以降、寂円派によって運営が行なわれていたが、暦応3年3月11日に火災に遭っている。南北朝の内乱に巻き込まれたようである(「建撕記」)。火災後9か月にして僧堂は再建されたが、その他の伽藍の復興は11年後に始まり、8年もかけて終了している。しかし15世紀後半になると、峨山派の人びとも正住のほかに住持として入ってくるようになり、それらの人びとの納銭により、復興・修理の事業が行なわれるようになっていくのである。しかもその数は、次第に増加していった。 
一方、全国的発展を遂げた能登総持寺を拠点とする峨山門派は同寺に輪住制を敷いていたが、入院者が増加するにしたがい住持期間は短くなり、1年間に幾人もの入院があった。正住がそのようであったから、運営は有力5派の塔頭(これも各院1年交替の輪住)が1年間で5分して担当し、近隣寺院との協議により行なった。いずれにしても永平寺または総持寺の住持を勤めることにより、宗内の僧侶としての地位を高くした。 
五山派の人物が、将軍や関連公方の公帖を受けて諸山-十刹-五山へと進み、五山の上の南禅寺の住持となって公帖とともに綸旨を受けて紫衣着用を許されることになったのに対して、林下禅林は朝廷から住持辞令ともいうべき綸旨を受けて入院した。これを出世(瑞世)という。永平寺・総持寺ともにこの出世の道場の資格を求めていくことになる。 
永平寺は応安年間に朝廷より「日本曹洞第一」の「出世道場」の勅裁を得たというが、それには若干の疑点もある。永平寺は文明5年にも火災に遭っているが、その34年後の永正4年12月には曹洞宗の第一道場であるという勅額を受けている。この勅額下賜により、綸旨による出世が可能になったと考えられる。禅師号を受ける資格はすでに得ていた。なお総持寺は永正8年正月に紫衣の綸旨を求めているが、失敗している。紫衣の資格は得られなかったが、すでに綸旨の出世道場としての勅許は得ていたのかもしれない。いずれにしても総持寺も出世道場としての資格獲得に努力していた。 
永正6年4月に永平寺の住持が定書を作成している。それによると「居成」(入院しないで「前永平」の称号のみを得ること)は禁ずるが、老僧の場合は代理を立てることを許可する、出世者は「置銭」を納める。その「置銭」は修造奉行に納められ、住持と相談して造営の費用に充てる、としている。このように16世紀前後になると出世がかなりさかんになり、そのさいの「置銭」が伽藍の修造費に充てられていたことが知られる。 
永平寺は天文8年10月7日にも「日本曹洞第一」の「出世道場」であることを認めた後奈良天皇綸旨を受けている。文言から、火災により焼紛失したので再申請したことが知られる。しかしこの下賜に対して総持寺が相当の反発を示したようである。当時、両寺は出世第一道場をめぐり争っていたようである。そののち永平寺は天正19年10月22日(1591)後陽成天皇の出世道場として認可する旨の綸旨を受けている。総持寺は2年前の天正17年6月27日に同内容の綸旨を受けている。このころには両寺ともに相互の存在を認めあうようになっていたようである。以降、両寺は両本山としての地位を確実なものにしていったのである。なお出世を促す招請状を、永平寺では「請状」、総持寺では「公文」と称した。内容はほとんど同じで、伽藍修造のために入院してほしい旨が述べらられている。 
こうしたなかで永平寺は納銭の増額を図ろうとしたのであろう。享禄元年(1528)それまで峨山派のなかで排除されてきた源翁派の下総安穏寺に請状を出すが、関東の了庵派を中心とする他派から、それならば我-が永平寺の運営から手をひくと猛反対を受けている。また総持寺でも永禄元年に源翁派の会津示現寺に公文を出すが、やはり他派から反発を受けるという、出世をめぐる事件がおこっている(「安穏寺沙汰書」「会津示現寺沙汰書」)。永平寺は元亀2年(1571、あるいは同3年)の12月30日に火災に遭ったとされ(「建撕記」)、また天正2年に一向一揆が蜂起したさいにも、一揆方により放火されている。また同寺ばかりでなく、宝慶寺をはじめ破却された曹洞宗寺院は少なくなかった(「朝倉始末記」)。火災後の永平寺は、出世者からの置銭徴収にいっそう力を入れ、また関東をはじめとする全国の諸寺院からも援助を受けて復興事業を進めていったものと考えられる。各地には永平寺祚棟・祚玖両住持の出世を促す「請状」が多くみられるのである。  
念仏系諸派  
越前真宗教団史概観

現在の福井県は、石川・富山両県と同じく真宗系諸寺院が大多数を占めている。そのなかで特に越前の真宗教団史を概観すると、真宗諸派に属する専照寺・証誠寺・誠照寺・毫摂寺の4本山が現存し、伊勢とならぶ高田派の数少ない基盤でもあり、また古くから本願寺一族(一家衆)が繁出し、多数を占める本願寺派・大谷派は朝倉氏・織田氏と抗争し激しい弾圧をこうむっている。以下、真宗系各派が歩んだ戦国期までの軌跡をみていきたい。  
顕密諸寺庵伝承 
寺院所蔵の史料には、必ずといってよいほど由緒書・縁起・書上といった伝承記録類がある。この種の伝承記録類に記される寺院草創伝承は、在地系と流入系とに大別される。在地系の由緒で典型的なものは、天台・真言の顕密寺社の門弟・弟子だった人物が、親鸞・覚如以下の本願寺歴代あるいは高田の顕智らに帰依したと記するものである。 
在地系寺院の伝承には、その前身が「太子堂」「来迎堂」「念仏堂」「薬師堂」などであったと記されている例が多-見受けられる。「太子堂」を前身とするものには、古刹である美山町折立称名寺や本願寺派の福井市中角光福寺・金津町6日永宮寺が、「来迎堂」を前身とするものには福井市上森田厳教寺がある(元禄ごろ成立の「由緒」)。また「念仏堂」を前身とするものには遠敷郡上中町福乗寺が(「上中町郷土史」)、「薬師堂」を前身とするものには高田派の芦原町新郷専光寺(廃絶)や上中町熊川得法寺が知られる。おそらく白山信仰の拠点として著名な平泉寺・豊原寺や越知山大谷寺などの有力寺社の末寺・子院・堂舎・村堂・村社・草庵に身を置く者が、同じ阿弥陀仏信仰ということで、善光寺聖や真宗系の高僧などと中世の各時期を通じて一時的・断続的に接触し、徐-に特定の門流に所属するようになったというのが実情であろう。なお時宗からの改宗伝承例はほとんどみられない。  
佐-木同族伝承寺院群

流入系寺院の由緒のなかで、鎌倉幕府草創期に活躍した後家人佐-木三郎盛綱・4郎高綱兄弟を祖とする一群の由緒書が存在する。中世の宗教集団は近世以降の宗派的な形態をとっておらず、善知識と称される指導者(師匠)と彼から面授・口伝を受けた門弟(弟子)によって擬似同族集団的に構成される「門流」が、実際上の形態であった。非血縁の弟子や門徒にとって、師匠・善知識はいわゆる「親」そのものであった。共通の始祖伝承とは、各宗派に帰着する以前にそれぞれが属していた門流の痕跡を告げるものと想定される。  
さて盛綱・高綱の始祖伝承をもつ寺院は、越前に少なくとも15か寺、そのほか加賀・能登・越中にも数か寺ある。それらの多くは高田派の足羽郡折立称名寺から分立し、戦国期から近世にかけての宗派化の進展に従って、それぞれ高田派・本願寺派・大谷派・誠照寺派などの現存各派に属していったことが、由緒書の記述概要や関連史料から推定できる。折立称名寺は、高綱の子孫たる法善光実が足羽郡東郷村で高田の顕智に帰依して創建されたと伝えられている(「美山町史」「大野郡誌」)。顕智は鎌倉末期に活躍した人物である。 
盛綱・高綱始祖伝承は、北陸以外の奥美濃(岐阜県郡上8幡町安養寺)・近江(滋賀県日野町正崇寺)・摂津(大阪府茨木市溝杭仏照寺)・信濃(長野県松本市正行寺)・常陸(茨城県日立市覚念寺)などの各寺記録中にも見受けられ、ほぼ全国的に分布している。ところが、それらの記録中に光実の名が登場することはほとんどない。光実伝承の展開地域は北陸一帯に限定されているのである。摂津仏照寺や近江正崇寺は、関東原始門流の一派である荒木門流に属する畿内の最有力寺院である(光薗院本「親鸞聖人門侶交名牒」「真宗史料集成」、以下「集成」と略)。荒木門流の本寺格の寺院に鎌倉最宝寺があるが、その寺院は盛綱の兄定綱の系統をひく近江守護佐-木道誉の所領内に存在していたことが知られている(明徳4年12月6日付京極高詮安堵状「最宝寺文書」)。高綱の弟の義清の在所である相模国大庭にも、荒木系の有力指導者である源誓が薬師堂の別当として居住していた(「甲斐国志」)。おそらく鎌倉後家人佐-木一族につき従って原始荒木門流の者たちが諸国に拡散し、そのうちのある系統の者が奥美濃から越前へと流入し、光実という人物のときに顕智の教化にふれて高田門流内に組み込まれ、南北朝から室町期にかけて折立称名寺に属する門弟が次つぎと北陸各地へ拡散していったのであろう。  
高田系

越前の古い由緒をもつ寺院のほとんどは高田系に属している。それらの寺院の由緒書には、盛綱・高綱兄弟以外にも、斎藤実盛(福井市風尾勝鬘寺)・波多野慈道(三国町加戸本流院)・土屋義則(美山町河内聖徳寺)など、他派の伝承と比べて、鎌倉後家人の系統を引く名族の名が散見される。彼らは顕智の越前巡教のおりに坂井郡加戸や足羽郡東郷で帰参し、門流の列に連なったという。高田系の古刹寺院には、鎌倉から室町期と推定される太子立像・太子絵伝・太子堂・善光寺三尊仏など聖徳太子に関わる法物が共通して存在しており、開祖と仰ぐ外来領主の庇護を得て浄土教的な太子信仰をもとにした宗教活動を進め、やがて高田門流内に固定化されていったものと推測される。  
高田門流は東海地方を拠点としていたが、貞治3年(1364)成立といわれる「三河念仏相承日記」に、越前へ入った高田門流の人物として遠江国狭束(静岡県大東町)の「佐塚ノ専性」の名が記されている。この専性は、大野市友兼専福寺・今井西応寺の開基と伝えられている。本覚寺は戦国期の越前本願寺教団を代表する寺院であるが、本願寺7代の存如に帰依する以前の同寺は高田門流に属していた(小松市春木家蔵「長禄元年光明本尊」「新丸村の歴史」)。同寺の祖は南北朝期の和田の信性といわれている。「反古裏書」(永禄10年成立)によると、この信性は三河本証寺の門弟であった。本証寺(愛知県安城市)の祖である和田の慶円(教円)も顕智の弟子といわれている(「三河念仏相承日記」)。近年、本証寺・本覚寺に伝存する太子立像がともに同一制作者の手になるものということが明らかにされた(安城市歴史博物館特別展「聖徳太子像の造形」)。顕智のあとを継いで高田門流の4代目の代表者となった専空は14世紀前期に北陸へ行化し(「加賀市史」)、10代目の真恵も長禄3年(1459)に加賀・越前・近江に赴いたと伝えられる(「正統伝後集」「真宗全書」)。かくして越前は、東海地方と並ぶ確固たる高田派の基盤となっていった。なお同派の寺院は、流入経路の関係からか、大野・足羽・今立・坂井郡に多い。  
三門徒系の展開

三門徒各派は、大町如道を共通の始祖とする。彼もまた、三河と関係の深い人物であった。「反古裏書」や各種の「親鸞聖人門侶交名牒」および愛知県岡崎市願照寺・同勝蓮寺・福井市中野専照寺・武生市片屋光照寺蔵の先徳連坐像などから法脈上の師弟関係図をみると、まず親鸞面授の弟子である常陸国真壁(茨城県真壁町)に住んだという真仏聖に始まり、真仏の弟子に遠江国鶴見(浜松市)あるいは池田(静岡県豊田町)に住んだともいわれる専信坊専海がおり(三重県津市専修寺蔵「教行信証」「集成」)、専海の弟子に三河国碧海郡和田(愛知県岡崎市)の円善がおり、大町如道はこの円善の弟子と位置づけられている。円善については、「三河念仏相承日記」や光薗院本「親鸞聖人門侶交名牒」や宝永2年(1705)成立の「越前三門徒法脈」では、高田門流の代表者である真仏や顕智との親密さが記載されているが、法脈上の師弟関係図のなかには顕智・専空などの高田門流の代表者が一度も登場していない。師弟関係図に登場する真仏とは、高田門流の祖である真壁の真仏でなく、荒木門流の祖である常陸国大部(水戸市、福井市浄得寺蔵「真仏上人御俗姓」では常陸国横添)の平太郎真仏なのであろう。加賀国松任本誓寺蔵の先徳連坐像の銘は「顕智-専空-信性-円寿」と、また大野郡和泉村浄楽寺蔵の先徳連坐像の銘は「顕智-専空-円寿-信性」となっている。仮にこの円寿を円善の誤記とみなしても、願照寺・勝蓮寺・専照寺などの連坐像の銘に記されている円善と、本誓寺・浄楽寺蔵の銘に記されている円寿(円善)とでは、前後に位置する師弟の名が違っており、円善と円寿(円善)は所属門流の異なる別人であることは明らかである。鎌倉期の三河は専海らの荒木門流が教線を拡げた地域であったが、三河の諸寺は鎌倉末期ごろにはそろって円善のもとを離れて高田門流に属するようになった。大町如道の系統は、三河において衰退に向かいつつあった荒木門流の和田円善に直接連なる一団に属し、一方、先にみた和田慶円・信性の系統は、荒木門流から高田門流へと転身し隆盛を迎えようとする一団に属していたのである。  
もっとも南北朝ころは、ある師から法脈を伝授されても、その故をもって特定の門流内に固定され続けるという状況下にはなかったらしい。如道は応長元年(1311)越前へ下った本願寺3代の覚如から「教行信証」を伝授されているが(「存覚上人一期記」)、至徳2年(1385)成立の「証誠寺申状等写」によると、「真言宗4度ノ潅頂ヲトゲ」てもいる。暦応4年(1341)の如道の死去にともない(「新編岡崎市史」)、彼の跡の足羽郡大町専修寺は2男如浄が継承し、長男良如は南条郡府中正覚寺と敦賀郡原西福寺(浄土宗清浄華院流)の開祖となり、3男浄一は中野道場(福井市中野、のちの専照寺)を建立し、4男正通は丹生郡片屋光照寺(旧誠照寺派、現仏光寺派)の祖となった(「越前三門徒法脈」)。なお中野浄一は、如道高弟の今立郡帆山誓願寺(武生市、のち今立郡上河端新出)の開基である道願の子との説もある(「中野物語」「一向専修 一流正伝出血脈」)。 
大町専修寺を継いだ如浄(1381年没)は、宝永2年成立の「中野物語」や「証誠寺申状等写」によると、やがて浄土宗小坂義(「新儀諸行往生之義」)へ傾斜し、そのため如浄のもとから道性らの「一向専修念仏往生義」の者たちが分裂し、続いて3代目の良金(了泉)のとき中野系の者たちが離れて(元禄期成立「専伝寺転派顛末記」では永享7年とする)、如道直系の大町専修寺は衰微していった。中野系の者たちは親鸞忌日に「精進」を行ない、朝夕の勤行のときに正信偈・和讃を読誦していたが、本願寺6代の巧如から関係を絶たれ、本願寺覚如の高弟乗専を祖とする京都出雲路の毫摂寺や真言宗の教義を受容していったといわれる(「専伝寺転派顛末記」「越前三門徒法脈」)。 
横越証誠寺の祖である道性は三河の出身で、如道の子とも道願の子ともいわれ、当初は大町門徒の一員であったが、今立郡山本荘に引き分かれ一派をなした。道性の長男は証誠寺を継ぎ、2男如覚は父と不和になり鯖江に誠照寺を分立し、3男道幸は今立郡上河端常楽寺(鯖江市、誠照寺系)の祖となった(「中野物語」)。誠照寺の祖となった2男如覚は本願寺覚如の兄で京都常楽寺の祖である存覚の門弟でもあったが、やがて「邪義の骨張と成」ったため、本願寺はいつしか誠照寺との友好関係を絶ったという(「反古裏書」)。誠照寺は戦国初期の一時期、山門の系列下にあったらしい。なお誠照寺派の寺院には、光明が48本未満の各種十字名号本尊が多-見受けられる。一方、証誠寺では善幸が、応仁・文明の乱によって出雲路毫摂寺が退転したおり、毫摂寺の善智(室は石田西光寺永存の妹)・善鎮らを山本荘に住まわせて本寺として遇した(「反古裏書」「越前三門徒法脈」)。善幸はまた、自分の娘の夫に西光寺永存の弟の兼慶(玄秀)を迎えて毫摂寺善智の養子としている。かくして三門徒各派は、分裂を重ねながらも、特に南条・今立・丹生郡一帯にひろがっていった。
三門徒の特徴

門流段階では、擬似同族的な「衆」としての結集状態であり、本寺・末寺という支配・被支配関係はいまだ主流にはなっていなかった。中野専照寺一老の地位にあった丹生郡西大井専蓮寺(鯖江市)の「縁起」(宝暦8年以後成立)は「島津山専光寺者、(中略)信長治世迄、無本寺也」と記し、丹生郡片屋光照寺も慶安2年(1649)「口上書写」で無本寺と主張している。おそらく同族だからとの理由であろう。仏教史のうえで、人師と仏との分離、祖師の特定、祖師の教義のみの叙用、特定の専修仏への結集を初めて主張したのは本願寺8代の蓮如であり、現代に通ずるこの「宗派」としての指標が他派にも援用され定着していくのは近世に入ってからであった。中野系ではようやく17世紀末の元禄期にいたり、親鸞を排し開基を如道1人に絞り込んでいる(「専伝寺転派顛末記」)。そして、福井市南江守仏照寺の由緒書に「中興右高田宗より三門徒派ニ改参(中略)又浄土真宗ニ属シ、則汁(渋)谷仏光寺之末寺ニ罷成」と記されるように、各派を包括する「真宗」という共通概念が一般化するのはさらに遅く、実に近世末から近代にかけてであった。 
さて三門徒は「ヲカマス(拝まず)ノ衆」であったことが知られている(「反古裏書」)。いわゆる「不拝秘事」である。確かに本来の阿弥陀如来は「イロ(色)モナクカタチ(形)モマシマサヌ」ものであり、拝む対象仏の存在を否定するのも一理ある。しかし三門徒は、代わって「善知識」を拝む方向へ傾斜していった(「越前三門徒法脈」「反古裏書」)。誠照寺には、室町初期の作と推定されている24光明十二化仏つきの「中将姫蓮織曼荼羅」がある。大和当麻寺の中将姫の説話は浄土宗西山派禅林寺がさかんに講説して回ったといわれており、西山派の「竹林鈔」によると、「善導念仏シ給時、口ヨリ仏ノ出タマフ(中略)我等カ唱ル念仏ノ息モ、同ク仏体ナルヘシ」と、善知識がそのまま仏であると主張する。中世において高僧の画像を本尊と称する例は多く見受けられ、師匠・善知識が仏であるとの認識は(「真恵上人御書集」「集成」)、むしろ一般に広く認知されていた見方であった。例えば福井市専超寺(もと専照寺末、現本願寺派)にも口中から化仏が飛び出している善導画像がある。仏と同質の高僧が輩出し続ける限り、多数の先師を内包しながらも集団は新たな人師を中心に分裂を重ねていき、分裂後の教線は局地的になっていく。三門徒の分裂と不拝秘事・善知識だのみは表裏の関係にあったのである。各集団内部での選択・淘汰を経て近世にいたり、専照寺・証誠寺・誠照寺・毫摂寺の4か寺がようやく本山としての地位を確立する。 
ところで三門徒系の一部には、祖師と経典の選択化・固定化を進め、宗派化の直前段階にまで到達せんとする小集団も存在していた。それが三門徒各派のどの系統に属するものかは明確でないものの、「如道ノ義流ニハ、死人ニ時ノ衣類ヲ着サセス、ユアミ(湯浴)サセス、忌日ニ魚鳥等ノ食事ヲ忌マズ、没後葬礼等ノ儀式カロクセヨ」とあり(「越前三門徒法脈」)、文明7年(1475)と推定される福井市浄得寺蔵の蓮如の御文写にも、彼らのことを「(親鸞の)和讃・正信偈ハカリカ肝要、阿弥陀経モ読マス、6時礼讃ヲモ勤行セス、念数モツヒトナシ、(中略)一遍ノ念仏モマフ(申)サス、師匠ノ報謝ノ志ハカリナリ」と記している。 
本願寺は7代存如のころからこの三門徒の一部と接触をもっており、蓮如もおそらく彼らから多くのことを学んだはずである。戦国期の古日記類には「一向」という文言が頻繁に使用されている。全くといってよいほど駄目なという、一種の否定的な枕詞である。この「一向」という否定語には、旧時代の秩序や価値観を引き裂いていこうとする力強さやひたむきな姿に対する恐れや畏敬が入り交じった複雑な気持ちも包含されている。「一向」という言葉は動乱期の時代相を示すにふさわしい名称であり、右にみた一部の三門徒系の集団こそ、「一向衆」を冠するに最適の集団であった。  
本願寺一族の繁出

南北朝期の覚如以降の本願寺は、親鸞廟所から脱却して天台浄土系の寺院化を指向していたが、自らの末寺を創建し育成させようとする方向性は有していなかった。事実、末寺の由緒書のなかに大谷一族の誰かを始祖とするという伝承は皆無といってよい。例えば、石川県小松市興宗寺の9高僧連坐像の法系は「入西-西仏-行如」と記されており、行如の師にあたる西仏は常陸法善門下で信濃康楽寺の祖とされる人物であった(「加賀市史」)。したがって、蓮如の登場とともに本願寺系として活躍する寺院のほとんどは、それ以前には他の諸門流に属していたことになる。覚如・存覚の代に先述の大町如道・興宗寺行如や「和田ノ信正(信性)」の帰依があったといわれるが(「反古裏書」)、おそらく一時的な接触・交流というのが真相であろう。  
本願寺系の進出は、本願寺歴代の庶子一族の繁出という形をとって進んでいく。越前での第一歩は、足羽郡和田郷西方の本覚寺(現在は吉田郡上志比村に所在)から始まる。同寺では信性没後に長男と2男とが対立し、長男は寺から退出した。しかしその長男が早世したため、門徒衆は本願寺6代巧如の弟である鸞芸頓円を後継住持に招請した。やがて戦国期に越前教団を本覚寺とともに主導することとなる、吉田郡藤島超勝寺(福井市)の誕生である。藤島の地には戦国期の有力寺院たる坂井郡久末照厳寺(金津町)・砂子田徳勝寺(のち福井市了勝寺、藤島荘重藤は了勝寺の土門徒の地)の寺基も存在していたことがあったらしく、一種の「古聖地」とみなされる。 
ところで頓円の子如遵は「ヨロツ父ノ道ヲマナフ事マレ」な状態で、その子巧遵も「法流ニウトウトシ」と批判されており(「反古裏書」)、おそらく蓮如の吉崎下向時までは依然高田系に属していたのだろう。一方の本覚寺はすでに存如の代に「三帖和讃」などの各種聖教・典籍類の下付を受けており(「遺徳法輪集」「集成」)、本願寺血縁の寺である藤島超勝寺より一歩早く本願寺系に属したものと思われる。 
超勝寺住持となった頓円の弟に玄真周覚という人物がいた。彼は旧本覚寺門徒団により、「法流ツフサナラサリシ」頓円に代わって「申ウケラレ」たという(「反古裏書」)。吉田郡荒川興行寺の誕生である。一説には応永年間(1394-1428)のことといわれる(興行寺蔵「由緒書」「越前集成」)。その周覚の子孫は頓円系以上に広く繁出していく。すなわち長男永存は丹生郡石田西光寺(鯖江市)を創建し、長女・2男は時衆となり、2女は照護寺良空の妻となる。足羽郡稲津桂島に所在した照護寺(福井市)は 六角堂とも称され、越前の守護代たる甲斐一族が住持していた非本願寺系の寺であった(「反古裏書」「親鸞奉讃奥書」)。三女は存如の弟でもと山門の僧侶だった宣祐如乗に嫁ぎ、加賀2俣本泉寺に住した。4女は先述したように当時今立郡山本荘へ下っていた毫摂寺善智へ嫁ぎ、三男は興行寺を継ぎ、4男は平泉寺に入り、5男は斯波氏に属し、6男は毫摂寺善智の養子となっている。 
蓮如期以前の本願寺庶子一族には、本願寺門流への帰属意識は存在していなかった。血縁と法縁とは別との認識である。福井市成福寺の「由緒略記」は「玄真(中略)法流ヲ天台ニ酌ミ、(中略)5代目乗玄マデ代-天台ノ教ヘヲ遵法」すると記してはいるが(「越前集成」)、真宗に酌むとは記していない。入寺した庶子たちに関する本願寺側からの記述があまり好意的に描かれていない理由がここにある。招請する側も、養子入りはもっぱら天台宗青蓮院系寺院の「貴種」をもらい受けたとの認識だったのだろう。他派の寺院に入寺していた本願寺庶子一族が本願寺のもとへ結集し始めるのは、蓮如が長禄元年に本願寺住持となり一宗創立を決意したあとであった。庶子一族の参入によって本願寺派の勢力は一挙に拡大するにいたる。蓮如は各地の一族の要の諸寺院に改めて自分の子女を配し、その再掌握を図っていった。  
諸派の帰趨

三門徒系の本寺たる大町専修寺では時の住持がにわかに還俗したため、石田西光寺永存の三男で三河勝鬘寺(愛知県岡崎市)の高珍蓮光の女子をもらい受けていた蓮慶が入寺した(「反古裏書」)。勝鬘寺の祖である信願は如道と兄弟弟子の関係にあったため、勝鬘寺は如道系の関係寺院とみなされていたのだろう。この蓮慶の入寺により、古刹大町専修寺はここに本願寺系寺院として復興されることになった。大町門徒団は一向宗が禁止されていた戦国期にも唯一本願寺の斎頭役(仏事・法要を司る役)を担っており、かなりの勢力を有する存在であった。大町専修寺は天正一揆で廃絶して名跡は坂井郡勝授寺(三国町)に受け継がれるが、旧蔵法物類は北陸一帯の各寺に分散している(「越前三門徒法脈」)。石川県中島町常光寺蔵の無碍光本尊は大町専修寺の遺物といわれている。 
横越証誠寺の兼慶(のちに玄秀)は文明3年に吉崎の蓮如のもとへ参じ、毫摂寺善鎮も文明4年あるいは同10年以後に蓮如のもとへ参ずる。このため、証誠寺・毫摂寺系の人びとも親本願寺系となっていった。鯖江誠照寺は、蓮如の吉崎滞在中に「大略帰参」したとか、京都の常楽寺蓮覚のもとへ参じたとかいわれる。もっとも誠照寺はそののち再び「秘事」に戻ったといわれ(「反古裏書」)、毫摂寺も永正年間(1504-21)後半には本願寺のもとを離れ、京都仁和寺門跡の門下となっている。ともに永正3年(1506)の一揆敗北の結果をふまえた動向と推察される。 
高田系から本願寺系への改派例としては、坂井郡加戸円福寺(本流院)から同郡岩崎信行寺が(「仏教風土記」)、折立称名寺から今立郡橋立真宗寺(鯖江市)が、足羽郡栃泉法光寺(福井市)から今立郡松成満願寺(鯖江市)が(「鯖江市史」)、佐塚の専性の系統から大野郡上据最勝寺(大野市)がそれぞれ分立し、本願寺系となった。そのほか、美山町浄願寺・鯖江市蓮光寺・越前町蓮光寺・越廼村専徳寺なども高田系からの分立という由緒をもっている。注目すべき点は、三門徒系の場合には本寺級の大坊主が配下の門末を引き連れて参入しているのに対し、高田系の場合は個-の寺院からの分立という形をとっている点である。これは高田派寺院がある程度強固な結集意識を保持していた証拠といえよう。  
戦国期の高田派の分裂

戦国初期、高田派に真恵が登場する。ちょうど本願寺蓮如が登場し活躍する時期と一致し、やがて両派は激しい対立状態に突入する。加賀の高田勢は長享2年(1488)一向一揆によって滅亡したが、越前はその逆で、永正一揆の敗北によって本願寺系の寺院勢力が壊滅してしまった。しかし越前で高田派が隆盛をきわめようとする間もなく、高田派内を2分する深刻な抗争が始まった。真恵の子である応真は当初継職を辞退したため、常盤井宮の子の真智が真恵の後継者となる予定となっていた。ところが永正9年に真恵が没したのち、応真(天文6年京都柳原寺で没)は意を翻し、高田専修寺の住持職の綸旨をもらい受けて諸国の末寺に自己のもとへの参集を求めた。真智も同様に綸旨を受け、両派は自己の正当性を訴えて朝廷・幕府・大名・各地の領主などからの認知・保証を受けることに奔走し、さまざまな世俗の諸権力の介入を許していった。  
越前の高田派有力各寺は、両派のどちらに与するかの選択を迫られた。坂井郡角屋専光寺(芦原町)からは永正以前に加賀国山代専光寺(大谷派)・坂井郡三国台智敬寺(大谷派)が分立していたが、永正以降は加戸松樹院(応真系)が分立し、やがて角屋専光寺は廃寺となり、その名跡は坂井郡井江葭安養院(現芦原町2面)に受け継がれる(「坂井郡誌」「坪江の郷土史」「加越能寺社由来」)。専性開基の大野郡今井専西寺は真智方に与し、応真方の大野郡友兼専福寺が分立する。なお専西寺は近世にいたり仏光寺派西応寺となる。結局真智方には丹生郡風尾勝鬘寺・坂井郡新郷専光寺・坂井郡兵庫西林坊(のち中川西光寺)・大野郡中挟専西寺の4か寺が与し、称名寺など残りの寺院は応真(のち尭恵)方についた。応真方は朝倉氏などに働きかけて真智派4か寺の動きを牽制するが、真智派4か寺はそれに対抗しそろって平泉寺の末寺になるなど、一致した行動を取り続けている。越前は他国と比べ応真派が多いものの、三河とならぶ真智派の最有力基盤でもあった。ともあれ戦国期の高田派は激しい派内抗争に明け暮れ、それに全精力を使い果たしていったのである。 
真智はいつのころからか兵庫西林坊へ下向し、永禄末期ころに朝倉義景より坂井郡熊坂に寺地の寄進を受け、下野国高田・伊勢国一身田と同じ寺号の専修寺を建立した。熊坂こそ本山との意志表示である。天正13年(1585)真智が没すると、熊坂専修寺の勢力は急激に衰えていった。近世初頭、熊坂専修寺は丹生郡畠中村へ寺基を移し、寛文年間(1661-73)には伊勢一身田専修寺との争いに破れて破却され仏光寺派へ、ついで大谷派へ変わり、丹生郡大味へと移る。大味法雲寺蔵の親鸞・顕智以来の歴代上人の法物類の存在は、同寺があるいは高田派本山になる可能性もあったことを今に物語っている。 
この分裂抗争の原因であるが、真恵は自らの集団を「法然上人末流」「浄土宗下野流」と自称している(寛正6年6月日付専修寺越前末寺門徒中言上状案・永正18年6月27日付後柏原天皇綸旨「専修寺文書」「集成」)。その一方で、各国の有力末寺は「毎年3月8日」に本山へ出仕すべき誓約も行なっている。この月日は、親鸞や法然の忌日ではなく真仏の忌日である。高田門流は依然として善導・法然・親鸞・真仏・顕智などの法脈上の複数祖師を戴き、選択的な教義を構築できない段階だったのである。もっともそれはそれで広範な浄土系念仏諸集団をくまなく吸収しうればよいのであろうが、祖師や代表者を絞り込まない限り、個別的な主従関係を強めようとする地方大寺院の自立志向の動きを阻止することはできない。中心軸となるべき本山も、下野高田専修寺・伊勢一身田無量寿寺(のちの専修寺)・近江坂本妙林院(天文10年9月18日付長野稙藤書状「集成」)・越前熊坂専修寺と群立状態になっている。本山も末寺も群立・自立状態のままで本山への結集をいくら呼びかけ続けても、組織的な教団化は事実上不可能であった。  
若狭の真宗

若狭における真宗の勢力は、隣接する越前・近江と比べて格段に弱い。小浜市および三方町・上中町・名田庄村などには点在しているものの、三方郡や大飯郡などではほとんど存在しない所もある。若狭の真宗寺院の由緒書をみると、越前の場合とは逆に、真宗系諸門流の展開した痕跡はほとんどうかがうことができず、それと対照的に本願寺の覚如・善如・綽如・巧如などへ帰依し改宗したという伝承を有する寺院が多い。本願寺歴代への帰依伝承が記されている理由は、荒木門流をはじめ他の真宗系諸門流との接触の契機すら存在していなかったことの反映と推察することができる。また地理的条件からみても、白山系阿弥陀信仰の影響度より、天台宗比叡山延暦寺や真言宗の影響度の方が強かったことだろう。 
蓮如は文明7年に吉崎から退去する途中、小浜から遠敷郡にかけての一帯で数十日間滞在した。この一帯の寺院には、そのときに帰依・改宗したとの伝承が多-見受けられる。若狭の真宗は大名権力による一向宗禁制をこうむらなかったので、本尊・画像・御文証判類などの法物類は意外と多数残存している。 
若狭の中心寺院は、聖徳太子立像を安置する他力堂から出発した小浜妙光寺である(「太子略縁起」)。同寺は覚如あるいは綽如への帰依伝承をもち、末寺・道場だったと推定される寺院は少なくとも6か寺ある。戦国期には石山本願寺への御堂番の役を担っている。また本願寺の前住実如忌の斎頭役を担う主体として「若州衆」単位が設定されているが、その中心的担い手は妙光寺だったに違いない。同寺は足利将軍家や若狭の歴代守護家から寺地の安堵を受けており、また武田氏と本願寺との使者として活躍している点からみて、他の北陸諸国の大寺院とは異質な、東国・西国にまま見受けられる領主の保護を受けている寺院と推測される。 
若狭の場合は、越前より近江との関係が密接である。妙光寺の旧所在地と伝えられる瀬木(小浜市玉前)の地は「本福寺門徒若佐(狭)ノ小浜ノセギニ道場、太郎ト云、人数30人計」とみえ(「本福寺門徒記」「本福寺旧記」)、湖西の堅田門徒がいた地でもあった。また逆に妙光寺は「江州高嶋郡音羽庄打下」に門徒を有している(打下浄照寺蔵明応3年4月付方便法身尊形裏書「高島町史」)。永正18年に実如が「明誓門徒田中郷南市」(滋賀県安曇川町)の空了へ下付した方便法身尊形が名田庄村妙応寺に現存するのも(「わかさ名田庄村誌」)、近江との関係が深かったことを物語る一例であろう。また、「慈敬寺へ、若狭国与力すべきの由、仰せ出され候」との記事もある。本願寺宗主の庶子一族寺院である近江堅田慈敬寺へ、従来からの湖西の門末のほかに、若狭の門末も与力として組み込むというのである。この一体化の措置も、おそらくは近江・若狭両国の地理的・歴史的関連性を反映したものであったのだろう。  
  
時宗

諸国を広く遊行して時宗の布教に努めた開祖一遍智真は、弘安2年(1279)越前にも廻国したとされるが、越前の時宗寺院のほとんどが2祖真教(他阿弥陀仏)に帰依して開創したと伝えるように、越前における本格的な布教は、この他阿真教に始まる。他阿真教は正応3年(1290)夏に南条郡府中(武生市)の惣社に参篭し、12月にも惣社よりの請に応じて社頭に歳末別時念仏を行ない近郷を化導した。翌4年12月さらに翌5年秋にも惣社に参篭したため、ついに平泉寺衆徒の干渉を招き、その乱行によって加賀に移らざるをえなくなった。そののち正安3年(1301)には敦賀に進出し、真言宗より改宗した西方寺に入って、ここより気比社に参篭したが、当時の気比社と西方寺との間には参詣の妨げとなっていた沼沢があったため、真教は気比神人・衆徒とともに、土砂を運んで参道を造成した(「一遍・他阿上人絵伝」)。これが歴代の遊行上人廻国時の「お砂持の神事」となって今日まで続いている。 
歴代の遊行上人の布教は、諸国を廻国しながら念仏を勧進して賦算(念仏の札を配ること)を行なうことによって進められた。これによって確実に増加した時衆の分布とその動向を知る有力な史料として、南北朝期から室町前期にかけて順次記載されてきた「時衆過去帳」(神奈川県藤沢市清浄光寺所蔵、正保2年に敦賀西方寺から移管)がある。各法名の多くに国名や在所名・俗名などが裏書きされており、越前の門徒関係の法名も検証できる。それによれば、越前における時衆分布は坂井郡長崎称念寺を中心とする長崎衆の法名が最も多く、そのほか坂井郡から吉田郡にかけて河川沿岸の「三国湊」「金津(6日市)」「浪寄(波寄)」「勝蓮花」「河合庄」などに分布し、「越前堀江」「越前引田入道」などの国人名や「長崎念珠屋」の商人名もみえる。また今立・南条郡では「越前国府」を中心に「越前池田」、足羽郡では「越前中野」「越前木田」「江守」や「越前吉野」(吉田郡か)などの在地名もみえる。 
このように、「時衆過去帳」によって知られる時衆信徒の越前における分布と合わせて検証すべきことは、時宗道場寺院の成立状況であろう。時宗末寺帳としては、寛永10年(1633)「時宗藤沢遊行末寺帳」などがあるが、特に注目したいのは京都七条道場旧蔵本の「遊行派末寺帳」である。この末寺帳は享保6年(1721)の筆写であるが、他の末寺帳とは異なり、すでに中世末から近世初頭に廃寺となった8か寺の末寺名も記載されており、寺名に付記されている在地名が「時衆過去帳」の法名裏書の在地名とほぼ一致することにより、中世の時宗寺院を改めて確認することができる。これら寺院が漸次に衰退し廃寺となっていった背景に、文明3年の蓮如に始まった本願寺による越前布教のあることはいうまでもない。  
なお現在に残る時宗寺院の多くは中世に系譜を有するものと思われるが、史料が乏しく確認できない。中山格寺院の今立郡岩本成願寺も他阿真教の遊行による帰依とするが、中世における活動は明らかでない。同郡菅谷の積善寺は、朝倉敏景(孝景)の出陣を祝して連歌を呈した時宗僧としてみえている(「朝倉始末記」)。 
越前における時宗の古刹坂井郡長崎称念寺は、近世には塔頭10軒・末寺14か寺を擁する大坊で(「各派別本末書上覚」)、広大な境内は今にその風格を残している。当寺は養老5年(721)泰澄の草創と伝え、正応3年他阿真教の化導によって時宗に改宗されると、称念房・仏眼・道性の有徳人兄弟によって伽藍が建立され、称念房は寺号となり、仏眼・道性は光明院倉を建て称念寺の財政を支えたという。真教は当寺の後事を証阿に託して遊行にでるが、証阿はのちに薗阿と改めたという。初代の薗阿は真教の入寂と同年の元応元年(1319)に死没するが、以後の住持は歴代薗阿を襲名して「時衆過去帳」にも記載されている。このように越前における時宗布教の中心道場となった当寺は、長禄2年12月26日に将軍足利義政から祈願所の御教書と寺領・塔頭領の安堵惣目録が与えられ、寛正6年(1465)にも後土御門天皇から祈願所の綸旨を受け、以来、朝倉・柴田氏など歴代国守・領主の保護を受けた 。 
称念寺は境内に新田義貞の墓があることで著名であるが、南北朝の抗争のなかで、南朝は時宗との関係を深めていったらしい。後醍醐天皇の血統をもつ尊観が遊行12代を継承しているのも、これによるものと思われる。したがって南朝方の新田義貞が陣僧として時衆をともなったのは当然のことで、遊行7代託何(宿阿)の初賦算地を「暦応元年4月19日、越前河井(河合)往生院」としているのは(「遊行藤沢歴代系譜」)、年次から推しておそらく新田義貞の陣僧中の1人であったからと思われる。そして暦応元年の閏7月2日に藤島の灯明寺畷で戦死した新田義貞の遺骸は、「輿ニ乗セ時衆8人ニカ-セテ、葬礼ノ為ニ往生院ヘ送ラレ」とあり(「太平記」)、その往生院こそ、義貞の本営石丸城の近辺にあったと思われる吉田郡河合荘の往生院のことであろう。従来この往生院は長崎称念寺と同一視されていたが、称念寺の歴代が「薗阿弥陀仏」であったのに対し、往生院の住持名は「時阿弥陀仏」と記載されているから(「時衆過去帳」)、別寺であることは明らかである。義貞の戦死後に義貞の近習であった斎藤5郎兵衛尉季基・同7郎入道道献の2人が「出家シテ、往生院、長崎ノ道場ニ入リ」と述べられているのは(「太平記」)、往生院が長崎(称念寺)の下道場であったからと思われ、中世末期に往生院が衰退して称念寺に併合されると同時に義貞の墓も称念寺に移転し、以降は往生院称念寺と称するようになったものであろう。 
若狭における時宗の活動については、「時衆過去帳」に関連記事がみえないなど詳らかではない。室町期の応永7年(1400)に時衆が代官として守護領であった多烏・汲部両浦へ入部し数十日間滞在したさい、接待費などを不当に課したなどとして両浦百姓により訴えられているが、この時衆の活動は布教とは直接関係をもつものではないと思われる。寺院としては遠敷郡小浜の西福寺や真言宗から改宗したと伝える浄土寺、大飯郡本郷の称名寺が知られ、いずれも遊行7代託何の弟子覚阿弥を開山としており、南北朝期ごろに創建・改宗されたものと推測される。そのほか小浜では応永12年に建立されたと伝える称念寺・西林寺がみえ、大飯郡でも石山浄土寺が真宗に改宗する戦国期末までは時宗寺院であったという(「若州管内社寺由緒記」)。若狭では南北朝から室町初期のころに、日本海交易の中心港の1つであった小浜を中心として、佐分利川舟運の起結点にあたる本郷や、遠敷郡名田荘坂本と大飯郡高浜とを結ぶ山越えの道が佐分利川と交差する石山など、交通・交易の要所と考えられる地点に時宗寺院が創建されていったことが知られる。  
浄土宗

法然を開祖とする浄土宗の越前における弘通はあまり早くはなかったが、浄土宗の教義自体は同じ念仏宗のなかに培われて広まっていったらしい。念仏宗のなかでも比較的早く越前に浸透したのは時宗であり、遅れて関東の親鸞教義(浄土真宗)が東海地方から美濃・越前穴馬谷を経て越前に伝播してきた。すなわち下野高田派の如道や信性らが三河から来越し、なかでも三門徒教団の祖とされる大町専修寺の開祖如道は秘事法門という新義を唱えたとされるが、この如道教団の行義は時宗のほか浄土宗西山義の影響を強く受けており、これを背景としてか、のちに如道の門下から浄土宗寺院が分立するのである。  
如道の法脈を継ぎ大町専修寺の住持となった如浄は如道の2男といわれ、如道の長男良如は浄土宗鎮西派に帰依して南条郡府中に正覚寺を創立したといわれる(「中野物語」「越前三門徒法脈」)。すなわち正覚寺は、浄土宗浄華院8代敬法に帰依した良如が、南北朝期に斯波高経の拠った府中の新善光寺城(「太平記」)跡を寺地として貞治5年に建立したもので(「大西山正覚寺開山良如上人略記」)、府中近辺の念仏衆が当寺を擁立したものと考えられる。そののち良如はその法弟の良信に正覚寺を譲って、応安2年(1369)には敦賀郡原に西福寺を建立した(「中野物語」「越前三門徒法脈」)。当寺に同年11月15日付の山内重経の敷地寄進状が伝来するから、敦賀郡野坂荘櫛川郷の地頭山内氏の氏寺としての性格ももちながら建立されたらしい。明徳元年(1390)には崇光上皇の勅願所、応永30年には足利義持、永享2年(1430)には足利義教の祈願所となって寺格を高め、国主・領主の厚い外護を受けた。中世は京都浄華院(清浄華院)、近世は同黒谷金戒光明寺、近代は京都知恩院と本山を変えたが、塔頭寮舎は天正年間(1573-92)以前に上塔院など24院以上、近世中期に15院、末寺は明治期に50余か寺を数える大坊であった。なお良如の去った正覚寺も府中一帯の中心的浄土宗道場として栄え、天保2年(1831)の記録では、摂取院など塔頭8院・末寺10か寺を支配する大坊に成長している。 
敦賀において、西福寺と並ぶ鎮西派の古刹に善妙寺がある。もと気比宮神宮寺中の釈迦寺が、正元元年(1259)空覚のとき改宗して現地に移ったものという(「敦賀志」)。明徳5年2月日付(1394)の棟忠田地寄進状に初めて寺名がみえ、応永3年には守護斯波義将が7か所の寺領を安堵している。永禄元年(1558)の善妙寺寺領目録によれば、14の塔頭・寮舎を有する大坊であった。 
一方、朝倉氏の居城一乗谷も浄土宗布教の中心となり、鎮西派一乗寺・真照寺が存在した。両寺ともに鎌倉期の源智による創建と伝えるが(「一乗寺明細帳」「真照寺明細帳」)、真照寺は中世には一乗寺の末寺とされており、一乗寺より分立したものと考えられるから、一乗寺は少なくとも文明以前の室町期に創建されたものであろう。一乗谷の地名も、この一乗寺より生まれた可能性がある。両寺は朝倉氏の滅亡後、足羽郡北庄に移った。 
開祖法然の死後、門下は教義上の分裂をおこして大きく4流に分立したが、浄土宗の本流は京都知恩院を本山とする鎮西派で、以上述べた越前の浄土宗寺院もすべて鎮西派寺院であった。これに対して京都禅林寺・光明寺を本山とする西山派も一乗谷に進出し、文明5年朝倉孝景の帰依によって安養寺が一乗谷東新町に建立された。長享2年8月(1488)には朝倉貞景が当寺で真盛から説法を受け(「真盛上人往生伝記」)、天文16年(1547)と翌17年には当時一乗谷に寄寓していた儒者清原宣賢が当寺で「大学章句」や「中庸」などを講じている(京都大学所蔵「大学章句」)。また永禄10年11月に朝倉氏に身を寄せた足利義秋(義昭)が安養寺に入り、翌11年7月に美濃の織田信長のもとへ去るまでの9か月間は室町将軍家の「御所」となるなど(「朝倉始末記」)、当寺は学問所や迎賓館としての機能も合わせもっていた。天正3年北庄に移り、近世は西山派檀林の小本山の寺格を有し、加賀・越前の当派寺院の触頭となった。 
近世に入ると、浄土宗は徳川家一門の宗旨となり幕府の厚い保護を受けた。越前においても慶長12年(1607)の福井藩祖結城秀康の死後、徳川家の命により京都知恩院満誉の弟子万清を開山として秀康の菩提所の浄光院(宝永6年に運正寺と改号)が建立され、以後、福井藩領内鎮西派寺院の総触頭となった。 
若狭に関しては、伝播・布教の様子について具体的に明らかではない。寺院としては、永享元年に小浜青井に誓願寺が建立され、戦国期に入って同じく青井の地に心光寺・専心寺・常然寺・浄安寺が創建されたといい、天文年間(1532-55)には大飯郡高浜に常然寺末西福寺と心光寺末浄国寺が開創されたと伝える(「若州管内社寺由緒記」)。  
天台真盛派

天台真盛派は天台僧真盛を開祖とする宗派である。真盛は寛正2年に19歳で比叡山の西塔南谷北上坊秀慶和尚の室に入って20年間山を出ず、ひたすら天台教学を究めた。文明14年の母の死を契機に世の無常を感じ、黒谷青竜寺に隠棲し、「往生要集」を講じて世に知られるようになると、ついに朝廷より法談の聴聞を望まれるまでにいたった。同18年、比叡山下の近江坂本西教寺に入り、ここを不断念仏の根本道場として一派を創始した(「真盛上人往生伝記」)。真盛の教義は戒律を確守したため近世では天台律宗と称したが、天台宗の一派とはいいながら、その説くところは浄土教門、勧めるところは称名念仏であったため、念仏宗の一派と意識されて庶民の厚い信仰を得た。  
真盛は、生国の伊賀をはじめ近江・摂津・河内など畿内近国を中心に巡教化導した。若狭では小浜極楽寺が明応元年(1492)真盛を開基として創建されたと伝える(「若州管内社寺由緒記」)。また越前では、特に朝倉氏の外護を受けて発展した。真盛は長享2年8月に信濃善光寺参詣の帰路に南条郡府中に逗留して化導にあたり、朝倉貞景も一乗谷安養寺に真盛を招いて説法を聞いた(「真盛上人往生伝記」)。そして越前布教の根本道場として府中に引接寺が創建され、真盛が府中奉行人の印牧新右衛門尉に念仏を勧めた書状も伝来する。文政12年(1829)には引接寺は広大な境内に本覚院など塔頭11院・末寺53か寺を有し、中山格寺院となっている(「引接寺由緒書」)。 
真盛の布教によって越前に創建された寺院は、引接寺をはじめ吉田郡岡の西光寺・今立郡新庄の放光寺・大野郡の青蓮寺と蓮光寺の5か寺であった(「真盛上人往生伝記」)。なかでも西光寺は、大畔畷の合戦(文明6年閏5月15日の合戦か)で戦没した多くの軍兵の亡魂を追善する目的で、延徳元年(1489)に真盛を招請して岡の次郎丸(福井市岡保)に創建され、天正年間には北庄城下へ移転した。同じく蓮光寺は、文明7年7月23日の大野郡井野部郷の合戦で滅亡した2宮左近将監兄弟および軍兵の亡魂を弔うため、延徳2年に大野郡司朝倉光玖の懇請によって2宮氏館跡に創建された寺院である。朝倉貞景の帰依以来、一乗谷にも真盛門下の寺院が数多く建立された。引接寺末寺の西念寺や西新町の盛源寺、少し遅れて弘治3年(1557)に創立された極楽寺がこれである。  
一乗谷において特記すべきは安波賀に寺跡を残す西山光照寺で、長禄合戦で敗死した朝倉孝景の叔父鳥羽豊後守将景の菩提を弔って再興された寺院である(寺名は将景の法号による)。寺跡に大永2年(1522)の「中興盛舜上人7回忌供養塔」が残るように、当寺の中興開基は真盛の高弟盛舜である。しかし彼は真盛門下でありながら天台系の京都東山法勝寺で円頓戒を受けたため、光照寺も一時その末寺となったらしく、本寺の法勝寺が「当寺末寺越州光照寺住持盛舜」に上人号を与えられるよう朝廷に執奏している。朝倉氏滅亡後、光照寺は末寺7か寺とともに北庄城下に移るが、城下外にも数か寺の末寺を支配する中山格寺院であった。一方、光照寺の本寺法勝寺は、天正18年後陽成天皇の勅により坂本西教寺に併合されて廃寺となった。なお開祖真盛は智善坊と称したため、本寺西教寺は智善院西教寺と号した。「智善院宗西山光照寺」と記載されるのはこのためである。近世では一貫して天台律宗の一寺として記載されるが(「越前国寺庵」「越前・若狭地誌叢書」)、現在は天台宗延暦寺末寺となっている。 
以上のごとく、天台真盛派の諸寺院は、朝倉貞景の真盛への帰依もあって、戦国期には朝倉氏被官や多くの庶民の信仰を集めて繁栄した。現在一乗谷に残る無数の石仏群は、盛源寺境内や西山光照寺跡・極楽寺跡の石仏群のように天台律宗系のものが大部分を占め、合戦で戦死した将兵の亡魂を弔うために造立されたものが多く、親子兄弟などの肉親に対する追善供養のためのものであろう。  
法華宗 
北陸布教

法華宗(日蓮宗)は天台宗から分立して成立した教団で、天台の迹門法華宗に対して本門法華宗と称したのが始まりという。このことは文永10年(1273)ころの日蓮自署に「法華宗沙門日蓮」とあることからうかがわれる。いわゆる「日蓮宗」「日蓮党」とは比叡山衆徒らが蔑称として用いたもので、教団の名称として定着するのは近世中期以降のことらしい。 
法華宗の北陸弘通は、日蓮の孫弟子である日像によって行なわれた。日蓮は鎌倉で布教を続け、京都での布教を念願としていたが果たせず、日朗の弟子日像にその夢を託したという。13世紀後半ころの京都では、天台・真言の2大宗派が国家宗教として大きな勢力を誇示していた。加えて新興宗教の禅宗・浄土宗系の諸宗派が、武家などの権力を背景に教派を大きく発展させていた時期でもあった。 
法華宗の京都弘通は教団の存在を都に認識させ天皇に教義を奏上することにあったが、その布教に期待されたのが日像だったのである。日像は永仁2年(1294)に身延山久遠寺(山梨県身延町)から信州路を経て越後に赴き、日蓮法難の地となった佐渡へと廻国し、さらに能登7尾へ向かう船中で石動山天平寺(石川県鹿島町)の僧を折伏して彼の北陸布教は始まった。能登・加賀での足跡は、妙成寺をはじめとして妙法輪寺・円乗寺・本興寺・宝乗寺・妙正寺などに伝承されるが、これらの寺院はほとんど真言宗から改宗したようである。  
越前での日像の足跡

加賀から越前へ入った日像の動きは明確には捕捉できないが、まず足羽郡報恩寺(福井市安保町)にその足跡が認められる。当時、この地域は真言宗寺院であろうか極楽寺が存在したらしく、日像はこの寺の住僧頼尋を討論ののち改宗させ、寺号を法音寺に改めたという。現在の日蓮宗真門流報恩寺である。 
法華宗への改宗以前に確かに真言あるいは天台の寺院が存在したことは、報恩寺周辺で出土した石塔によって知ることができる。表面には梵字が掘り込まれ、裏面には弘安3年(1280)という造立年が記されている。石塔は明らかに密教系のもので、少なくともこの時期には密教系寺院の存在したことがうかがわれよう。日像の越前入りは永仁2年の28歳のときと伝えられており、石塔造立より14年後のことである。  
それよりのちには今立郡周辺を布教したものか、現在の鯖江市大正寺町には疫病の祓いや旱魃の雨乞などで奇瑞を現わしたとの伝承があって(「日像菩薩伝記」)、文殊山麓の榎ノ木坂の大岩には日像の刻んだ法華題目が残るという。さらに南条郡今宿(武生市)では全村が法華宗に帰依したといい、ここにはのちに妙勧寺が建立されている。同じく南条郡大道(南条町)にもその波及があって全村が改宗したらしい。南条町西大道には「北陸身延山」といわれる妙泰寺があり、日像自筆の「曼荼羅本尊」(十界大曼荼羅)が今に伝承されている。 
敦賀へ入った日像は気比神宮寺の住持覚円と46項目にわたる問答を行なったと伝えられている。その結果日像は覚円を論破して折伏させたといい、当寺は真言宗から改宗し寺号を妙顕寺に改めたと伝える。同寺にはこのときの「開基日像菩薩・2祖覚円上人問答書」があり、また日像の坐像を安置する。  
若狭への弘通

それより日像は若狭路へと歩みを進めたが、敦賀から小浜までの間にはこれといった伝承がない。小浜での布教には劇的な展開があって、禅宗の僧侶素頔・明覚の兄弟が日像に帰依したとされている。とくに弟明覚は日像の暗殺を計るが、30番神に守護された日像に驚き改宗したという。妙興寺には日像筆の「石造曼荼羅本尊」がある。素頔は日禅、明覚は日善と改め、このころ丹後街道に面した「かけのわけ」(欠脇、小浜市大宮)に所在した禅宗寺院(跡地は現在の心光寺)を法華宗に改め妙興寺と称したという。しかし同寺をもと禅宗寺院とする伝承には若干の疑問もある。鎌倉末期の小浜には、文献でみる限り、嘉暦元年(1326)ごろに所在した時宗浄土寺(跡地は現在の妙興寺)しか見当たらず、記録のうえで禅宗で最も古い寺院は暦応2年(1339)創建の高成寺で、そのほかでは貞和3年(1347)に天台宗から浄土真宗へ転じたと伝える妙光寺(小浜市神田)がみられる程度である。したがって小浜では妙興寺が法華宗としては最古の寺院となるのであろうか。いずれにしても越前・若狭への法華宗の普及は日像によるもので、そののち布教の中心となっていくのが報恩寺・妙泰寺・妙顕寺・妙興寺であり、これらは弘通の本拠地として現存する。  
京都の弘通と四条門流の成立

若狭小浜から湖西路をたどり近江坂本を経て上洛した日像は辻説法を行ない、柳の酒屋と称した有力町衆中興宗意らを入信させ、徳治元年(1306)には洛北松ケ崎の全村を改宗させるなど、着実に教団の基盤を作り上げていった。弘通にはたびたびの妨害もあったが、建武元年4月(1334)ついに後醍醐天皇から勅願寺の綸旨を受け、暦応4年には四条櫛笥に方1町の土地を拝領した。今小路の小庵だった京都妙顕寺はここに本拠を得たのである。これによって同派を四条門流と称した。  
六条門流の成立

一方、鎌倉松葉谷にあった本国寺(のち本圀寺)は同じ日朗派として法灯を受け継いでいたが、4世日静のとき鎌倉幕府は崩壊し、庇護者であった足利一族は京都へ転進した。日静は、後醍醐を破って新主権者となった足利尊氏の母方の叔父と伝えられる人物である。 
後醍醐新政下で勅願寺となった妙顕寺の弘通は急速に伸張したが、尊氏が京都を押さえるためには同宗で勅願寺に対抗できる勢力が必要であった。そこで足利氏の擁立した光厳天皇の勅定により、本国寺は六条楊梅に広大な寺域を得て鎌倉から移転した(「本国寺文書」)。これは明らかに、妙顕寺とその背景にあった町衆の強大な経済力を意識してのことと推察される。これにより本国寺は貞和元年に六条法華宗として成立し、4町4方の広大な寺域が足利直義により安堵された。ただし同年の院宣には東西2町・南北6町となっており、直義の充行状とは記載が異なる。本国寺文書は天文5年(1536)の法華の乱で焼失し、のちに筆写されたものであってなお検討を要するが、本国寺の状況を知る史料としては注目されよう。本国寺が六条に所在したことで、同派は六条門流と称された。 
尊氏・直義兄弟は本国寺を庇護し、延文元年(1356)に御影堂建立材木を寄進し、翌2年には天下静謐の祈祷を命じて国家的な位置づけを与えており、尊氏による本国寺崇拝意識の意識的な高揚が認められよう。  
室町期の若狭の法華宗

法華宗は少なくとも南北朝期には妙顕寺派によって確実な定着をみるが、京都での法華宗に対する比叡山衆徒の迫害は著しく、至徳4年6月7日(1387)比叡山衆徒によって妙顕寺は破却され、その日のうちに妙顕寺日霽は難を逃れて小浜へと走った。同日付の日霽筆「曼荼羅本尊」が本境寺に残されており、興味をひく。この当時本境寺は存在せず、この曼荼羅が小浜で描かれたとは思われないが、法難との関わりを示すものとして貴重である。法華宗の重要人物が小浜へ避難していることは、この地方の安全が確保されていたことを証明しており、以後においても小浜への避難はあったようである。 
若狭の法華宗寺院は鎌倉末期成立の妙興寺、南北朝期(あるいは室町初期)成立の長源寺がともに古い由緒をもち、両寺以外では永享9年(1437)成立の本承寺、永正元年(1504)成立の本境寺など、室町中期以降に成立した寺院が多い(「若州管内社寺由緒記」)。これらを支えてきた檀越は、この時期に活発な商業活動が行なわれていた小浜を背景にして経済力をもった有力町衆が中心であった。  
法華宗の波及について京都の本寺とのかかわりでみると、妙顕寺派の妙興寺や本国寺派の長源寺の動きが活発だったが、本能寺派の本承寺や本隆寺派の本境寺などの動きもあった。これらの寺院はいずれも町衆と深い結びつきをもっていたと推定される。このことは天文19年に本境寺の有力檀方であった関戸豊前入道を通じて「奥州戸館馬」を武田信豊が獲得していることからうかがわれ、本境寺の背後に日本海を媒介にして活動した小浜住人の姿をみることができる。だが妙興寺・長源寺以外では史料が少なく、全体での法華宗の動向は把握しにくい。現状では、妙興寺・長源寺の2か寺を中心にした叙述にならざるをえない。 
残された史料では京都と同様の様相がみられ、極端な表現をすれば武家・町衆の2大帰依者にわけられよう。戦国末期では、武家・町衆混在の檀越が寺院を支えていたようである。例えば妙興寺では享徳4年(1455)に守護武田信賢の禁制状が発給されており、武田氏の禁制状としては最古のものである。さらに大方殿(日野重子)の田地寄進、武田氏被官寺井家忠の所職補任状など幕府・守護家臣との深い関わりを示す。一方、長源寺は永享7年の開山日源による規式や、永正11年の本山本国寺日遵の規式がある。日遵規式のなかに檀方評定衆として葛井・瀬木・瓜生など小浜の有力住人と思われる人びとが名を連ねており、これら「檀方中評定」の存在が知られ、また遠敷郡勢井村百姓からの加地子得分の集積がみられるなど町住人・農民とのつながりが強く、両寺には対照的な様相がみられる。 
長源寺は大永2年(1522)、武田元光が後瀬山城を築き麓の長源寺を館にしたことで現在地へ移転するが、天文初年には若狭最大の権力を保持していた守護被官粟屋元隆が同寺を庇護し、同寺の発展に大きく寄与していたらしい。元隆は京都出兵のとき六条本国寺を本陣に利用するなど、軍事的な関わりもあった。  
天文法華の乱

京都における法華宗は天文年間(1532-55)ごろに発展の最盛期を迎え、市中の半数が法華宗徒であったといわれる。強大な自治組織をもち、1万人に達する軍事力も備えており、天文元年の一向一揆攻撃には佐-木定頼の与力として出陣した。町衆はこの力を利用して税の免除を要求するなど、為政者にとっては大きな障害となってきた。また法華宗の発展で影響を受けたのが、大きな勢力を誇示していた比叡山衆徒であった。天文5年、法華宗との論戦に破れた比叡山衆徒は延暦寺3塔および三井寺(園城寺)とともに蜂起し、これに近江武士団が加わり、7万5000の軍勢で本国寺をはじめ京都法華宗本寺21か寺を攻撃して破却した。この背後には将軍義晴があり、町衆勢力の一掃を狙ったことが推測される。この攻撃に天台衆徒の動員は広範囲に行なわれたらしく、若狭神宮寺に対しても梶井宮門跡の令旨が発給されており、若狭からも参陣したと思われる。 
天台宗側は若狭の法華宗への弾圧を企てるが、実際には法華宗に対する圧力はみられず、さほどの影響はなかったようである。これには武田氏の有力家臣である粟屋元隆の意志が十分発揮されたと考えられ、そのため天台一派からの介入が阻まれたとみるべきであろう。 
天文法華の乱にさいして若狭武田氏は傍観しており、粟屋元隆の法華宗庇護は京都日蓮党にとっては大きな救いであった。というのは、法華宗各派とも、京都本寺に事あるときは小浜の寺院を仮本寺として活動したという。さらに本来は本寺にあるべきはずの宗宝、例えば本境寺の「絹本著色5祖曼荼羅」(南北朝期)、長源寺の後土御門天皇証判の「守護国家論」、加えて両寺には日蓮筆の断簡が伝存されているなど、この乱にさいして本寺からの若狭への什宝移転があったと推測される。天文法華の乱前後に、長源寺6世日政の発願で、元隆と深い関わりをもっていた京都の絵師窪田統泰が「日蓮聖人註画讃」を長源寺で描いたのは、法華宗の危難にさいして法灯護持の願いをこめてのことではなかったかといわれている。そのほかでは、天文22年に連歌師宗養が長源寺に遊び、同寺の塔頭安金院には幕府の御用絵師小栗宗丹・宗栗の供養塔が残るなど、文化面での関わりもあった。戦国末期では朝倉氏の乱入など「退転」に及ぶほどの難儀もあったが、武田氏奉行人山県秀政によって長源寺は護持されている。中世以来、若狭の法華宗は町衆門閥や武家方とつながりをもちながら発展し、これが近世の寺院経営に大きな影響を与えたのであった。  
 


    項目内容の詳細表示へ戻る    
出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。