最澄

最澄1最澄2最澄3最澄4最澄5天台宗1天台宗2願文真言密教最澄と東国空海の返書東国仏教と日本天台宗の成立比叡山延暦寺末法燈明記1末法燈明記2末法燈明記3
 

雑学の世界・補考   

最下鈍の者も、十二年を経れば、必ず一験を得る。
「愚か者は、努め励むことを知らないで、ただ良い結果だけを求める」(「雑宝蔵経」)これは釈尊の名言である。労せずして益を求める、というのが愚か者であるが、そんな最下鈍(さいげどん)の者でも、ひとつのことを十二年間取り組み続けていれば、必ずひとつは秀(ひい)でるものをつかむことができる、と最澄(さいちょう)は自分の体験からいう。自分を愚かで才能がない最下鈍の者と反省した最澄は、十九歳のとき草深い比叡山(ひえいざん)に入って十二年に及ぶ修行を積んだ。そのとき世間との関係を絶ち、仏道の修行に徹するという誓いを立てて、実行したのである。最澄のように十二年の修行とはいかなくても、「石の上に三年」という諺があるように、ひとつのことに身心を傾けて徹底すれば、必ず効験を得ることができるものである。「顕戒論」
一隅を照らす、これすなわち国の宝なり。
比叡山延暦寺を開き、日本天台宗の祖となる最澄(さいちょう)の言葉の中で、最もよく知られている文の一句である。「国の宝とは何物(なにもの)ぞ。宝とは道心(どうしん)なり。道心ある人を名づけて国の宝となす。故に古人いわく、径寸(けいすん)(直径一寸の宝玉)十枚、これ国の宝にあらず。一隅を照らす、これすなわち国の宝なり」「道心」とは、仏教の真理を求めるひたむきな心と姿勢を持つ人のことである。その人たちこそが、もっとも大切な国の宝であって、それはどんな立派な財宝よりも尊いものである。その人たちが、社会の片隅にあって、人のお手本となって生きるべき道を照らしている。こうした人こそが、本当の宝なのである。仏教の心に立って、自分を鍛えながらも、人に仏の心を照射すること、これが道心ある人で、何にも代えがたい存在なのである。「山家学生式」
解脱の味いは独り飲まず、安楽の果は独り証せず。
最澄が十九歳で、出家の志しを明らかにしたときに誓った言葉である。「私は仏の前に伏して誓う。私は自分だけ悟りの味を味わおうとは思わない。悟りによって得られた美味しい果実も一人で食べようとはしない。すべての世界の生きるものと同じく、悟りの境地にいたり、すべての人びとと共に悟りの妙味を味わいたい」最澄にとっては、自分一人の悟りは悟りではなく、自分一人の救いは救いではなかった。最澄の仏道での悟りや救いは、すべての人びとと共にあって、初めて達成されると考えたのである。人と共に苦しみ、共に悟ることは、大乗仏教の出発点である。最澄は出家に際して、その志しを明言している。「願文」
心色見えずといえども、情けを見れば知り易く。
この言葉の前に「風の形は見ることはできないが、葉の動きを見れば、風の吹く方向を知ることができる」という文章がある。そのため同じように、「人の心の形は見ることはできないが、その人の動きを見れば、その心のあり方を知ることができる」という意味になる。これは悟りの実体をどうやって知るのか、といった奈良仏教側からの批判に対して、最澄が反論したものである。風の形や心の姿は目で見て確かめることができないように、「これが悟りだ」と示すことは難しい。しかし、そこから醸し出されるものによって、その実体をうかがい知ることができるということである。この言葉は、悟りの姿、心の実体というものを的確に言い表わしている。「顕戒論」



最澄1 / 伝教大師(767-822)

平安時代の僧で、日本の天台宗を開く。近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。生年に関しては天平神護2年(766年)説も存在する。先祖は後漢の孝献帝(こうけんてい)に連なる登萬貴王(とまきおう)で、応神天皇の時代に日本に渡来したといわれている。19歳のときに東大寺で正式の僧となったが、当時の仏教のあり方に不満をいだき、故郷に帰って比叡山寺(のちの延暦寺)をたてて12年の間、1人で修行した。さらに深く仏教を学ぶため、804年に遣唐使にしたがって唐にわたり、天台宗の教えを受けて、翌年帰国。桓武天皇(かんむてんのう)の保護を受けて、新しい宗派をおこした。死後、朝廷から伝教大師(でんぎょうだいし)とおくり名された。最澄は、学問と修行によって天台宗の発展をはかったが、比叡山に戒壇(正式の僧になるためのきまりをさずける特別の壇)をつくることは、奈良仏教の反対で生前にはみとめられなかった。  
近江国古市郷(滋賀・大津市)出身。4世紀中頃の渡来人の子孫で本名、三津首広野(みつのおびとひろの)。12歳で近江国分寺(石山)に入り、14歳で正式に出家して名を最澄と改めた。785年4月、東大寺において18歳で受戒(殺生の禁止など250の戒めを守ると誓うこと)したが、3ヵ月後の7月、奈良仏教が貴族社会の文化であることや、自ら煩悩を断ち切り悟りを得るために比叡山に向かい、修行生活を開始した。東大寺で受戒した僧は国家が認めた官僧であり、奈良で立身出世していく道を選ぶのが普通。最澄のように世俗的な名声を求めず、受戒後すぐに孤独な山林修行に入るのは極めて異例のことだった。
天台の教えでは、理論の研究をせず体験的な修行ばかり積む事を「愚」、体験的な修行をせず理論ばかり学んでいるのを「狂」と言う。最澄は比叡山に登る時に「願文(がんもん)」を記して誓いを立てた。18歳の彼は激しい口調で自身を批判する。「愚の中の極愚、狂の中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄、上は諸仏に違い、中は皇法に背き、下は孝礼を欠く(抜粋)」(私は愚の中の極愚、狂の中の極狂、塵の如き人間、最低の最澄である。上は仏たちの教えに反し、中は天子の法に背き、下は孝を欠いている)。このように自分を定めた上で、山林修行を通して功徳を得れば、それを自分だけのものにせず、あらゆる人に伝えて世界を仏の慈悲が満ちた浄土にすると誓った。
788年 3年後(21歳)、草庵を建てた最澄は、側のお堂に自ら彫った薬師如来を本尊として安置した。(これをもって比叡山開創とし、この時に仏前で灯した小さな灯は弥勒仏が救済に現れる日まで絶やさぬと門徒は誓い、1200年後の現在も根本中堂を照らしている)。
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793年 (26歳)草庵を比叡山寺(根本中堂)と呼ぶ。やがて一人で修行している最澄の下へ様々な立場の者が集まるようになった。鑑真和上の一番弟子・道忠は、最澄の「願文」を読んで純粋な熱意に胸を打たれ、なんと所有する2000巻以上の教典を、わざわざ彼の為に写経して贈ってくれた。中国で生まれた天台学は、鑑真から道忠へ伝わり、そして道忠から最澄へと受け継がれて、日本独自の天台学が形作られていく。
794年 (27歳) この年、都が平安京に遷都された。「比叡山に無名の良き青年僧あり」との噂は宮中に届き、平安京の造営担当者・和気(わけの)清麻呂らが最澄に帰依し、やがて桓武天皇も最澄の「願文」を知ることとなる。桓武帝が奈良を出たのは仏教界の権力が朝廷を凌ぐほどになったから。帝は完全に奈良仏教と縁を切るために、寺院の京都への移転を厳しく禁じた。それほど仏教界と距離をとろうとしていたが、帝もまた「願文」が胸に沁み、なんと自ら比叡山に登り最澄の下を訪れた。最澄が説く「即身成仏(じょうぶつ)」は「一切の生き物の中にはみな仏性があり誰もが仏になれる」ということ。
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797年 桓武帝は最澄と親交を結び、最澄を側近の内供奉(ないぐぶ、天皇のアドバイザー)に登用した。定員が10名の役職であることから「十禅師」とも呼ばれ、30歳の最澄は文字通り大抜擢されたのだ。
35歳、高雄山寺(神護寺)で法華経の講師をする。
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804年 (37歳) かねてから中国に渡って最新の仏教を学びたいと思っていた最澄は、1年間の短期留学生として遣唐使で渡航した。渡航と一言で言ってもそれは命懸け。派遣された遣唐使12回のうち、無事に往復できたのは5回だけ。それでも最澄の仏法への思いは抑え難く船に乗り込んだ。4隻で出航した船団は暴風雨に遭い、中国に着いたのは最澄が乗る第二船と、僧として公認されたばかりの若い空海(30歳)が乗る第一船の2隻だけだった(2隻は行方不明)。
 
806年 最澄と通訳の門弟は上海の南西にある天台山を訪問し、天台教学、禅、戒律などを学び、230部460巻の経典、多くの法具を土産に翌年帰国した。彼は桓武天皇に天台法華宗の設立許可を願い、806年1月26日(39歳)、天皇は奈良の南都六宗(華厳宗、律宗、法相宗、三論宗、成実宗、倶舎宗)に加え、新たに天台宗の僧侶を年に2名ずつ国費で養成する許可を出した。天台宗は晴れて国教の仲間入りをし、この日が「日本天台宗」の始まりとなった(この1ヵ月後、桓武天皇は病没)。
  同年に空海が帰国。彼は貴重な経典を山ほど持ち帰ってきた。最澄は大興奮。というのも、1年という短い留学期間では天台を学ぶことが精一杯で、密教の教義への理解は不完全のまま帰国したと自覚があったからだ。「空海殿に経典を借りて勉強しよう!」と、意気込む最澄。ところが空海は20年の留学が義務付けられていたのに2年で切り上げて帰国したことが違法とされ、平安京に入ることを3年も許されなかった。最澄は朝廷に働きかけ、自分が修行場に使った高雄山寺で空海を受け入れる提案をし、また新しく天皇に就いた嵯峨天皇が仏教を深く信奉していたこともあって、空海は入京を許された(809年)。
最澄が十禅師に名を連ねていたのに対し、空海は全く無名の青年僧。しかも最澄は空海より7歳も年上。だが、最澄は驕ることなく礼節をもって空海に密教経典の閲覧・借用を申し込み、空海の方もこれに対して快く貸し出した。数ヶ月が経ち、最澄は見栄を捨てて空海に頭を下げてお願いした「灌頂(かんじょう)を受けたい」と。灌頂とは師が免許皆伝を認めた弟子の頭上に水を注ぐ重要な仏教儀式。つまり、最澄は自分が空海の弟子となる決断をしたのだ。たとえ屈辱に感じても、それでもなお、仏法を極めたいという最澄の真剣な思いが伝わってくる。
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812年 (45歳) 空海は最澄に灌頂を授けた。最澄が目指している天台宗のあり方は、いわば仏教の総合大学。様々な宗派を学ぶことで真理を見極め、広い視野をもって悟りに至るというもの。だから、空海が中国で極めた真言密教も、最澄はどうしても学んでおく必要があった。
しかし翌年、最澄と空海の交流は途絶えてしまう。実は灌頂には段階があり、最澄が受けた灌頂は一般人でも受けることが出来るものだった(結縁灌頂)。後日、さらに重要な灌頂(伝法灌頂)を授けて欲しいと願ったところ、空海は「それには3年かかります」と断った。さらに、新たにお経の閲覧を申し込んだところ、「真言の悟りは文章修行ではなく実践修行から得られます」とこれも拒否。最澄には関東や九州に天台を布教し、比叡山に戒壇を開く大きな計画があり、50歳を前に3年を修行にあてる時間はなかった。やむなく愛弟子を高野山に送って真言密教を学ばせるが、弟子は最澄と別れて空海の弟子になってしまった。後継者と見込んでいた愛弟子が空海に走ったことに最澄は言葉を失う。
全ての宗派を平等に見る最澄の価値観と、真言密教至上主義の空海の決別は、遅かれ早かれ避けられない道だった。
 
814年 (47歳) 九州・筑紫国へ布教に赴き、翌年は関東で教えを説き、貧窮者の為の無料宿泊所や寺院を建立した。最澄の晩年は比叡山へ戒壇(かいだん)を設置する運動に精力を注ぐ日々。当時の仏教界は、誰もが自由に僧侶になれるわけではなく、国が指定した3ヶ所しかない戒壇で受戒した者だけが、公式に僧として認定された。3ヶ所とは奈良・東大寺、九州大宰府・観世音寺、東国栃木・薬師寺。最澄は天台の僧は奈良仏教の戒律ではなく、天台の戒律「大乗戒」を守るべきだし、比叡山での修行者が山で受戒できれば素晴らしいと考えていた。これに対し、奈良仏教界は猛反発。最澄は徹底的に叩かれた。
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818年 (51歳) 18歳の時に受戒した奈良仏教の戒律(具足戒)を破棄し、日本天台宗の学僧制度「山家学生式」(さんげがくしょうしき)を作る。内容は年分学生(官費の修行僧)の試験に合格した者に「大乗戒」を授け、12年間比叡山にこもって修行する菩薩僧を養成し、国の宝として下山させるというもの。「国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心あるの人を名づけて国宝と為す」(国宝とは何か。宝とは正しき道を歩もうとする心であり、その心を道心という。道心のある人を名付けて国宝となす)。「山家学生式」)/「山家」は天台宗、「学生式」は学制の意。
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822年 6月4日比叡山の中道院にて逝去。遺言は「怨(おん)を以って怨に報ずれば怨止まず。徳を以って怨に報ずれば怨即ち尽きぬ。私は生涯、荒い言葉を言ったことも、叩いたこともない。私の為に仏像を造ったり経を写さなくてもよい。ただ私の志を受け継いで欲しい」。弟子の手で建てられた廟所は浄土院と呼ばれている。
最澄の戒壇設置を求める努力は生前に報われることなく、没後7日目になってようやく認められた。嵯峨天皇は最澄の死を惜しみ、生前に最澄と親しく、天台宗を国教として認めた桓武天皇の元号「延暦」を寺号として額に刻み比叡山に贈った。これを受けて最澄の弟子達は「比叡山寺」を「延暦寺」に改名した。866年(没後44年)、清和天皇から最澄に伝教大師の名が贈られた。大師の意味は“天皇の先生”。最澄は大師の第1号になった。
最澄の死後、天台宗は様々な日本仏教の母体となり、延暦寺の修行僧の中から法然上人・親鸞聖人・栄西禅師・日蓮上人・道元禅師・一遍上人という、後世に大きな名を残す各宗派の開祖が巣立っていった。すべては最澄という一人の人間が、20歳頃に人生の煩悶を振り払うように山へ分け入り、その手で小さな庵を建てたことから始まったのだ。
命日の6月4日は各地の天台宗寺院は「山家会(さんげえ)」という法要が催される。
最澄の誕生地(門前町坂本)には「生源寺」が建ち、生誕日に祭りが催される。付近には居住した紅染寺跡もある。
天台密教は最澄の没後、弟子の円仁が唐から最新密教を持ち帰って完成された。東密(高野山)と台密(比叡山)は日本密教の双璧となった。
最澄を伝える文化財は兵庫県・一乗寺の「天台高僧画像」(国宝)、滋賀県観音寺の彫像(重文)、筆跡は「将来目録」「久融帖」等々。
霊廟の浄土院は本堂(根本中堂)のある東塔地区から徒歩約15分。ここに仕える僧は「侍真(じしん)」と呼ばれ、12年間一歩も浄土院から出ず、毎日午前3時に起床して修行を続けている。
 
最澄2

日本における天台宗の開祖で866年、没後44年目に弟子の円仁と共に日本最初の大師称号、伝教大師の諡号が与えられた。渡来系の三津首の家系で本名を広野と言い滋賀郡(現在の大津市)古市郷に生を受ける。14歳で近江国分寺に於いて大安寺の行表(ぎょうひょう)(722〜797)に付いて得度し最澄とした、785年東大寺に於いて具足戒を受ける、爛熟期の南都佛教界と決別の理由は定かではないが日枝山(比叡山)に隠遁し12年間に亘り草庵に篭る。788年比叡山に一乗止観院(現在の根本中堂)を創設し自彫の薬師如来(1435年焼失)を安置するが天台宗が公認されたのは806年である。
長期間草庵に篭り「願文」をしたため経典類を読破する内に鑑真が請来した天台経典に着目し、人間は総てが成仏できると言う一乗思想に活路を見出す、この間神護寺に於いて法華経の講会講師(主に法華十講)を勤める等知名度は広がり、797年には内供奉十禅師の一人に任じられる。
但しここに天台を修めようとした最澄の錯覚があるのかとの記述があるが、天台の碩学であった艦真の影響が有ろう、見逃せないのが東大寺の落慶法要の呪願導師を勤める為に大安寺に居住していた唐僧で天台の碩学、道璿(どうせん)の弟子で大安寺の行表(ぎょうひょう)に従って最澄が出家している為かも知れない、日本に請来していた南都六宗の中には天台宗は請来していない、しかし法相宗のほうが天台宗より60年程度新しい宗派である、即ち天台・智の死亡は597年であり、玄奘が帰国したのは638年である、経典の翻訳等の後に法相宗は成立している。
804年遣唐使派遣の情報を得、朝廷に入唐を奏上し短期留学即ち還学生(げんがくしょう)の身分で許可される。
通訳の義真(初代天台座主)と共に唐に着くや長安には行かず天台山に参拝し天台教学を授かり、竜興寺で両部灌頂・三聚浄戒を佛隴寺の僧から天台法門、を受け、戒・禅・密教を学び、密教経疏・天台章疏等の典籍230部460巻共に帰国する、在唐期間は約8か月、通訳付にしては会得した量は多い。
帰国すると桓武天皇は病で伏していたが、宮中に於いて病平癒の祈願をして天皇は平癒したと言う、信頼を得た天台宗は806年には年分度者に二人の得度が叶うようになる、余談になるが天皇家の菊の紋章は、最澄が桓武天皇に比叡山で採取した16弁の菊を献上して以来天皇家の紋章にされ今日まで使われている、この為天台宗は菊の紋章の使用を許されている。
桓武天皇が崩御すると南都佛教の攻撃は先鋭化し、更に理趣経の貸借をめぐり空海とも絶縁、更に最も信頼し空海に預けていた泰範も空海の弟子となり天台宗・最澄の苦難時代を迎える事になるが、桓武天皇がもう少し長命であれば天台宗は日本佛教界を席巻していたことだろう。
伝教大師最澄は最初の大師称号を授かりながら巷間の諺で「富士は静岡にとられ・豆は隠元にとられ・関白は秀吉にとられ・三蔵は玄奘にとられ」と言うが最澄は「大師は弘法にとられ」た最大の被害者であろう、因みに三蔵とは・経蔵(釈尊の教え)・律蔵(戒律)・論蔵(経と律の研鑽)の習得者を言う。
しかし最澄の最大の目的は自作の朝廷への要望書である「山家学生式(さんげがくしょうしき)」にある様に大乗戒壇、即ち一向大乗戒の設立であり心血を注ぐが822年6月4日中道院で56歳の生涯を終えた、大乗戒壇の認められたのは最澄没後7日の6月11日のこととされる、大乗戒壇の承認と時を同じくして年号からの延暦寺を寺名とする事を許される。
天台宗は円・戒・禅・密の四宗兼学であるが佛教の中とは言え隔たりは大きく教相判釈を行い一論にまとめる事は天才最澄にしても容易ではない、最澄は大乗戒壇の設立や三一権実論争にも時間をとられ、法華経を最高経典としたが生涯自身の教義を完成させることは無かった、しかし最澄の功績は鎌倉仏教即ち浄土宗・浄土真宗・禅宗・日蓮宗などの興隆に大きな役割を果たした。
最澄の著名な著作に前述の「山家学生式」がある、正式には「天台法華宗年分学生式」と言う、要点は「国の宝とは何物ぞ、宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国の宝となす。故に古人言わく、径寸十枚是れ国の宝にあらず。むかし、中国の魏王が、自分は、直径一寸もある宝玉を10枚も持っていると自慢しました。すると、斉王は、自分は宝物を持っていないが、立派な家来たちがいて、それが、国の宝だと語ったという、故事があります。伝教大師は、この故事を引いて、私たち一人一人が国の宝にならなければいけないと、説かれているのです。「道心」とは、仏道を求める心です。天台宗の教えの根本は、すべて生きとし生けるものは仏になれ、仏への一すじみちをいく教えしかない、というものです。皆成仏道(だれでも仏になれる道)の実現のためには、すべての他の人々が仏になることを手助けしなければなりません。これが、一隅を照らすことであり、天台宗徒の生き方です。」。  
 
最澄3

最澄は、その名の通り最も澄める人でした。彼は仏教の大道を、なんの邪念もなく、虚心坦懐に淡々と歩み続けました。その五十五年の生涯は、必ずしも長かったとはいえません。しかし彼は従容として死に就きました。死後、彼に送られた「伝教大師」の諡(*2)は、 彼の生涯の実績をよく表しています。彼は日本人に真実の教えを伝えてくれました。そして彼の伝えてくれた教えの灯はいまも彼が開いた比叡の山に 赫々と燃え続けているのです。
*1 仲間うちだけに通用する言葉。隠語。合い言葉。
*2 死者にその生前の徳や行いなどに基づいて贈る称号。
薄朱色に染まる比叡の山
湖が輝いています。湖は琵琶湖。伊吹山系の山稜が薄明りに浮かび上がり、やがて雲間を切り裂くように、朱を帯びた光が湖の上空を染め上げていく…。
少年は湖面を照らす朝の光を全身に浴びながら、急ぎ足で近江国分寺を目指していました。振り返ると、はるか彼方に両親の暮らす三津の郷が、朝霞の中にうっすらと見えます。その後ろには、幼い頃から慣れ親しんだ比叡の山が、少年を見送るようにそびえていました。比叡山は朝の光に少しずつ輪郭を見せ始め、頂上付近が薄朱色に染まり始めていました。少年は両親や一族の期待を一身に背負い、これからの勉学の日々を想像しながら、夢をふくらませるのでした。
「広野」と呼ばれた幼少時代
少年の名は広野。まだ十二歳でした。生まれたのは琵琶湖の西南端に近い滋賀郡 古市郷です。父の名は百枝、母は藤子と伝えられています。父の住む三津は滋賀津、大津、粟津と呼ばれる地域で、渡来系の人々が多く住む地域として知られており、少年の父もその一族の出身でした。
大師諱(*)は最澄 俗姓は三津首 滋賀の人なり 先祖は後漢の孝献帝の苗曩 登万貴王なり 『叡山大師伝』
* 人の死後にその人を尊んで贈る称号。おくりな。
『叡山大師伝』によると、広野が生まれたのは神護景雲元年(767年)となっています。少年の生家は、比叡山のふもと坂本生源寺と伝えられています。この生源寺にほど近いところに父百枝の旧宅跡が残っています。百枝の本拠と離れているのは、当時は妻問婚であったため、妻方が娘と百枝のために建てた新居であったからかもしれません。
栄達への道、国分寺入門
幼少時代の最澄は、とても利発で聡明な子どもでした
七歳にして 学 同列を超え 志 仏道を宗とし 村邑の小学 師範とせんと謂えり ほぼ 陰陽 医方 工を練む 『叡山大師伝』
読み書きを習わせれば飛び抜けた理解力を示し、両親ばかりでなく、一族からも将来を期待されていたことが、この一節からもうかがえます。
さて、広野少年が目指している近江国分寺は、奈良時代、全国に建立された官営の寺のひとつでした。この国分寺の門をくぐることは、少年が早くもエリートコースに乗ったことを意味しています。当時、トップ官僚の地位は藤原氏など限られた氏族によって占められており、庶民の師弟の出世の機会は極めて限られていました。しかし、僧となれば事情は別でした。実力次第で高僧として仰がれることも夢ではありません。なかでも国分寺は中央と直結しており、密度の濃い勉学や修行が可能だったのです。
広野少年は、近江国分寺の国師行表という高僧のもとで、この師の身の回りの世話をしながら、行儀作法はもとより、経文を習い、数年間の修行を積みました。少年が得度する十四歳までの三年間、師の行表は朝な夕なに経文の暗誦、読誦、筆写などを徹底して教えたことでしょう。そして少年は、この行表を通して彼の思想の根幹部分を成す一乗思想(*)を学んだのです。
末法ははなはだ近きにあり 法華一乗の機 今まさしくこれその時なり
(訳:末法の世はすぐ近くまで来ている。正しい悟りを得るためには法華経による一乗思想以外に救いの道はない。) 『守護国界章』
* すべての人が仏になれる可能性を持っているという考え。  
真の仏道者として
いよいよ広野に得度の機会が訪れました。宝亀十一年(780年)、十四歳のときのことです。国分寺の僧、最寂の死去により欠員ができたのです。その補充として、広野の得度が申請されました。太政官からは「得度するものは法華経、最勝王経を暗誦していて、礼仏の方法を身につけ、淨行を三年以上つんだものでなければならない」という布令が出ていました。大原来迎院に現存している大師真筆写しの度牒(*)によると、広野は、法華経一部、最勝王経一部、薬師経一巻、金剛般若経一巻、方広経、金蔵経、三宝経などの教典を習得したと記されています。
広野に正式に度牒が与えられたのは、延暦二年十七歳の時でした。そして得度をしたのち、名を「最澄」と改めます。最澄が得度を許されたのは、幸運としか言いようがありません。なぜならこの年、朝廷は国分寺の僧欠員の補充を禁止する法令を布告しているからです。最澄は近江国分寺でさらに修行を続け、十九歳のときに奈良東大寺で受戒し、国家公認の僧となるのでした。
* 得度の証明書、国宝。
奈良の都へ
当時、”青によし 奈良の都は咲く花の 匂うがごとくいまさかりなり” と万葉集に詠われた奈良の都。この奈良の都では桓武帝が即位し、改革の嵐が吹き荒れていました。桓武帝は官僚主義で身動きの取れなくなってしまった律令政治を根本的に変えようとしていたからです。
都を遷す!その決断はあまりにも突然で、都人にとっては青天の霹靂、あるいは暴挙としか言いようがありませんでした。
明日香から奈良に都が遷されてから七十有余年。奈良の都は、営々と築き上げてきた「匂うがごとき都」でした。大極殿から南に延びる朱雀大路とその両側に建ち並ぶ大寺院郡。中国や朝鮮半島からの渡来人も多く、国際都市としての様相さえ帯びています。まさに、当時の奈良朝は律令国家としての爛熟 期を迎えていました。その都を棄てようとしているのです。そして延暦三年(784年)、ついに都は長岡に遷されたのでした。
ところで、最澄はいつ奈良の都にのぼってきたのでしょうか?そして都の激動を見たのでしょうか?東大寺戒壇院での受戒(*)は長岡遷都後の翌年延暦四年四月ですが、最澄はその年の七月には晴れて国家公認の僧になった栄達を捨てて、比叡山に入ってしまいます。国家試験に合格してわずか三ヶ月ばかりで栄達を捨て去る決心がつくでしょうか?都が奈良にあった頃、都で受戒の準備を始めたとは考えられないでしょうか?
都では華厳宗の東大寺を頂点として、法相宗、律宗、三論宗、成実宗、倶舎宗の諸大寺が連なっていました。西大寺は師の行表が籍を置く大寺で、師の紹介があれば西大寺はもとより東大寺や唐招提寺など諸宗の経典類を閲覧し、書写をすることができたに違いありません。特に、鑑真和上ゆかりの唐招提寺では、和上招来の諸仏典に接したと思われます。最澄が生涯をかけて求めた天台学との本格的な出合いは、この時ではなかったでしょうか。そして最澄は受戒に備えて勉学にいそしみながら、政治の乱れ、社会の乱れ、そして何よりも仏教界の乱れを目の当たりにしたことでしょう。
* 出家または在家の信者が、仏の定めたそれぞれの戒律を受けること。
比叡入山
延暦四年四月六日。最澄は東大寺戒壇院で一人前の僧としての戒律・具足戒を受け、国分寺の僧帳に登録されました。しかしこの時すでに近江国分寺は消失し、最澄には戻るべきところがありませんでした。最澄はこのまま奈良に留まって、師行表の大安寺で勉学を続けるべきか否かという選択を迫られたことでしょう。あるいは、この時すでに生まれ故郷で日夜仰いだ比叡山に登り、山修山学への道を思い描いていたのかも知れません。都はすでに長岡に移っていました。
延暦四年をもって 世間の無常にして栄衰の限りあるを観じ 正法陵遅し 蒼生沈淪せることを慨き 心を弘誓に遊ばしめ 山林に遁れんとす 『叡山大師伝』
『叡山大師伝』によれば、最澄が比叡山に入ったのは延暦四年(785年)となっています。当時の比叡山は霊山としての信仰を集める一方で、修験者たちの修行の山にもなっていました。最澄以前にも山林修行で比叡山に入った者はいました。一時期、山岳修行は抑圧されたこともありましたが、桓武帝の父である光仁帝が解禁して以来、山林修行はひときわ盛んになっていました。しかし、修行者たちの動機の大半は呪術能力を高めるためのものであったため、修行に目鼻がつくと南都の寺院に戻り、世俗的な名声を求めるようになってしまうのでした。
最澄の願い
最澄は比叡山に登って、山間の窪地に小さな草庵を建てました。その場所は根本中堂に近い、東塔紅葉渓本願堂のあたりだと伝えられています。最澄はこの辺りに草庵を営み、比叡山寺と名付け、一乗止観院と号しました。
最澄のすごいところは、比叡山にこもってすぐに『願文』を書いているところです。願文とは、修行をするにあたって、それをはじめる前に立てる誓いのことをいいます。この誓いは全編わずか五百七十二文字の漢文で綴られた小文ですが、その内容たるや、「これが十九歳の青年の書いたものであろうか!」と思えるほどの悲壮な思いで綴られており、純粋な魂がほとばしり溢れ出ているのを誰もが見て取れます。
ああ、この私はなんとつまらない人間なのだろうか。愚者の中でも最も愚かな人間。狂える人のうちでも最も狂った人間。人間の中のくずのくずではないか… だが、そうであるからこそ修行を積んで少しでも悟りの境地に近づかなければいけない。六根相似(*)の位に入るまでは世間と交わったり 才芸などの横道に心を奪われたり まして世間の法会に出て名声や利益を受けることはすまい…
天台の入門書『天台小止観』によれば、体験的な修行をしても理論の研究を怠っているのを「愚」、理論だけで体験的な修行が出来ていないのを「狂」というと書かれています。最澄は、「自分はその理論研究も、体験的な修行も出来ていないから、愚の中の極愚、狂の中の極狂である」と言い切り、六根相似位に到達するまでは世間に出ないと誓うのです。そして、そこで得た功徳は自分だけのものにしないで、すべての人々に施して、この世界を仏の国土として浄め、未来永劫に仏の働きをなすことができますようにと願うのでした。
伏して願わくは 悟りの美味を一人で飲まず 安楽の果を独り占めせず この真理の世界に生きる一切衆生とともに 仏の悟りの位にのぼり この真理の世界に生きる一切衆生とともに ほとけさまの悟りのすばらしい味を楽しみたい。 『願文』
* 六段階ある仏道修行の第四段階のこと。ここまで修行が完成してくると、感覚器官がきわめて研ぎ澄まされ、三千世界(全宇宙)があからさまに認識できるようになる。仏に近い状態に到達できるが、そこまでの修行は容易なことではない。  
天台学の礎を築く
これより最澄は、ひたすら一乗思想を伝える天台学の研究にのめり込みました。
『叡山大師伝』によると、「最澄はこの時期、円頓止観十巻、法華玄義十巻、法華文句十巻、四教義十二巻、維摩経疏などを書写した」と記されています。
また、比叡山で一切経を書写して研究を進めるため、経珍、叡勝、光仁らをはじめ南都の諸大寺に協力を求め、教典の収集を行いました。その中で積極的に最澄を応援してくれたのは東国の道忠でした。道忠は鑑真和上の第一の弟子と言われる高徳で、後にその弟子たちを最澄の下で学ばせることになります。
道から師の行表へ、鑑真から道忠へと伝えられた天台学はこうして最澄のもとへ集約され、日本天台学の礎となったのでした。
桓武帝との出会い
最澄が比叡山で学問研究に没頭していた頃、長岡の都では桓武帝が絶望的な状況の中で苦しんでいました。側近であった藤原種継が暗殺され、無実の罪を着せられた弟の早良親王は、淡路への流罪の途中、兄への恨みを込めて絶食し、無念の死を遂げました。また、桓武帝の領土拡大の野望をかけた大規模な蝦夷出兵は失敗に帰していました。これらに加え、度重なる洪水、母高野新笠の死、皇太子安殿のノイローゼなどが次々と桓武帝を襲い、帝は、こうした不幸は自分が死に追いやった早良親王の祟りだと信じ込んだのでしょう、長岡京を捨てる決心をします。こうして選ばれた地が京都盆地でした。京都盆地は山背国 葛野郡と呼ばれ、大小の池沼が散在する湿地帯でした。新都建設は急ピッチで進められました。桓武帝にとって後戻りは出来ない大事業でした。
『叡山大師伝』によれば、宮中で天皇を護る内供奉の寿興禅師が、最澄の『願文』を読んでその精神の純粋さに感銘し、最澄を訪ね、親交を結んだといわれています。そして比叡山に、法華経による新しい仏教の立宗を目指して、教典研究に励む無名の青年僧がいることを桓武帝に報告したのでした。孤独な隠遁者は、思いがけない好運に恵まれます。桓武帝は、和気清麻呂らが最澄に帰依する姿を見て最澄に救いを見いだし、登用を決意されます。そして延暦十三年(794年)九月三日、桓武帝の行幸を迎え、竣工した比叡山寺一乗止観院の落慶法要が盛大に行われると、以後、比叡山は王城守護の根本道場と見なされるようになったのでした。
延暦十六年(797年)、最澄は内供奉として宮中に召されます。内供奉とは、朝廷の内道場に仕えて天皇の安泰を祈ったり進言をしたりする役職で、定員が十名であることから、「十禅師」とも呼ばれていました。そしてさらに五年後、最澄は高雄山寺に奈良の諸僧を集め、天台の講義を行います。これより前年には南都(奈良)十六名の高僧を集め、法華十講を行いました。こうして、天台法華宗の立宗はひろく世間に認められるようになったのでした
入唐求法の旅へ
時に延暦二十二年(803年)、遣唐使の派遣が決定した際、最澄は天台の教えをさらに深く知るために入唐求法の旅に出ることを桓武帝に願い出ます。そして翌年七月六日、最澄は弟子の義真を通訳に連れ、遣唐使の一行とともに唐に向けて旅立ちました。この遣唐使一行の中には、後に高野山真言宗を開く私費留学生空海もいましたが、二人が出逢うことはなかったようです。
当時、最澄と空海の身分は甚だ隔たっていました。最澄はすでに桓武天皇の寵僧であり、一方、空海は山野を浮浪する乞食僧の如き生活を長い間送り、入唐の前に急いで戒を受けた無名の僧でした。
この平安仏教の両雄が同じ船団に乗り合わせるとは、なんという運命のいたずらでしょう。そしてさらに、四隻の船団のうち二隻は難破をしてしまい、二人の船は唐にたどり着くという幸運!もし、二人のうちのどちらかでも溺死していたら、日本の仏教史・思想史も大きく変わっていたに違いありません。
中国明州に無事にたどり着いた最澄は、刺使(*)の計らいで中国天台宗第七祖道邃を紹介され、師から直接天台の奥義を学びます。そして弟子の義真とともに、大乗戒を授けられました。国宝殿にはその時の伝教大師入唐牒と明州牒が展示されています。さらに最澄は、天台山国清寺の座主行満から天台の法門、秘蔵の典籍や法具までことごとく授けられます。
行満座主は、
昔聞く。知者大師、諸の弟子等に告げたまはく
吾が滅後二百歳、始めて東国において我が法興隆せん、と。
聖語朽ちずして今、此の人に遇へり 我が披閲せる所の法門を 日本の闍梨に捨与せん。
海東に将ち去りて当に伝燈を継ぐべし。
と最澄を手厚く歓迎したといいます。
また最澄は、台頭していた密教を学ぶために、帰途の慌しさの中で真言密教の大家順暁阿闍梨を訪ね、密教までも学びます。しかし、これがひとつの「悲劇」の原因になろうとは、最澄自身、このときは夢にも思いませんでした。こうして最澄は八ケ月の短期入唐求法の旅を終えて、無事に帰国をします。帰国の際に持ち帰った経典・書籍は二百三十部四百六十巻に及びます。 最澄はこれらの教典、書籍を書写し、南都七大寺に寄進しました。これらを記した最澄の招来目録は、今日もなお国宝殿に展示されています。
* 長官  
桓武帝崩御
おそらく、誰よりも最澄の帰国を待ち望んでいたのは桓武帝だったでしょう。延暦二十四年(805年)の夏、最澄が帰国すると、彼のよき理解者であり庇護者であった桓武帝が、重い病の床についていました。最澄は血を吐くような思いで密教の秘法を修し、天皇の病気平癒の祈祷を行います。しかし、最澄は最初からの密教修行者ではありませんでした。
密教秘法の伝授を受けるには、「前行」ともいうべき荒行が欠かせません。優れた宗教者としての資質を、さらに人間としての極限まで修行によって研ぎ上げてのち、初めて秘法を授かるための行に入ることを許されるのです。空海もまた、その密教の師に巡りあう以前の彷徨時代に、そのような基礎的な行を修し終えていましたが、最澄は最初から天台仏教の「止観」の行をするために山にこもったのです。目的が違えば、到達点もまた違ってきます。最澄も並はずれて優れた宗教者ではありましたが、密教の秘法を深奥まで体得することはできていなかったのです。最澄自身もそれを知っていました。が、重病の床にあえぐ天皇の苦悩を見過ごすことは、彼の純粋さが許しませんでした。ほんの少しでも望みがあると思える以上、自己の不利益などかまわずに挑戦してみるのが最澄という人でした。が、最澄が危惧したとおり、彼の祈祷の力は、すでに死期の近づいていた天皇には及びませんでした。こうして最澄の後ろ盾となり、惜しみない援助を送ってきた桓武帝は、ついに七十歳の生涯を閉じたのでした。
悪事を己に向かえ、好事を他に与え 己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり。
(訳:好ましくないことをみずから進んで引き受け、好ましいことを他者へ振り分け、自分の利益を忘れて他者を利するのは、慈悲の究極のありかたである) 『山家学生式』  
空海との決別
最澄の名声が少なからず傷ついたところに、密教の正統さをまるごと受け継いだ空海が帰国します。最澄がまさに「最も澄み切った」純粋性を見せるのはそのときです。彼は空海が正規の密教を学び、その経典を法具とともに大量に持ち帰ったことを知ると、相手が都ではまだ無名で、しかも自分より七歳も若い僧であったにもかかわらず、彼を密教の師として仰ぐのです。そしてこのことが、「密教僧空海」の名を一躍有名たらしめることになったのでした。
最澄と空海―ふたりの出会いは、お互いにプラスをもたらしつつも、やがて断絶を迎えます。空海は最澄に真言密教の入門灌頂(*)を授け、持ち帰った密教経典も求めに応じて快く貸してきました。しかし、最澄が密教の根本経典のひとつである『理趣経』の解釈書『理趣釈経』の借用を申し込むに至って、空海は手厳しく拒絶するのでした。
「あなたは密教秘法の伝授を受けるのに不可欠な、密教の行を修めていないではないですか」
最澄は、“宇宙の生命である大日如来との一体化を経験せずに、字面だけで密教を知ろうとしている”というのです。理屈は空海にあります。大日如来と一体化することによって超人的な力を獲得し、その喜びの中で人々を救う―それが空海の真言密教だからです。しかし、最澄にも別の立場がありました。彼もまた、天台の修行によってすでに六根相似の位に入った高位の宗教者であり、何よりいまや天台法華宗という一門の教主でした。
思えば桓武帝崩御のあのとき、最澄は修法によって桓武帝のうつせみの身体を救うことはできませんでしたが、臨終の床にある天皇の魂は救済しているのです。そしてそのことによって、全国でも十余名しか出家を許されていないなか、天台の宗門からは毎年二人の僧を出家させることを天皇に許されているのです。天台宗は奈良の諸宗とならんで、国家的な公認を受けている歴とした一門です。それを捨ててまであらたに真言密教の門に入ることは、現実に至っては不可能でした。そのため最澄は弟子たちを空海のもとに送り、密教の研修に努めさせたのですが、そのような事情のなかで最愛の弟子泰範が彼に背いて戻らないという事件も同時に起こります。
こうして二人の巨人の出会いは悲劇に終わりました。最澄は先々代の桓武帝の寵僧でしたが、今は嵯峨帝の御代で、嵯峨帝の寵僧は空海です。以後、最澄は教団の勢力拡大と充実にその全力を傾けます。そして九州や東国に布教し、比叡山を真の僧侶を養成する聖地にするために、血のにじむような努力を重ねるのでした。
* そのときの灌頂は一般の人も授かることのできる結縁灌頂で、「伝法灌頂」ではなかった。  
論争に明け暮れた晩年
最澄の晩年は、二つの論争に終始したように思われます。一つは奈良仏教を代表する徳一との仏性に関する論争です。最澄は法華経に基づいて、すべての人間は仏性をもっていて、必ずいつかは仏になれると主張したのに対し、徳一は法相宗の教義に基づいて、人間には仏性をまったくもたない人や仏性をもっているかどうかわからない人がおり、すべての人が仏になることはできないと主張しました。最澄の「すべての人間には仏性があり、必ずやどんな人でも何度か生まれ変わるうちに仏になれる」という主張は鎌倉仏教にも受け継がれ、その後の日本仏教の大きな特徴となるのでした。
一切の有情皆悉く成仏し、一として成せざるはなし。
(訳:すべての人々は仏になるのであって、誰一人として仏にならない者はない) 『守護国界章』  
悲願の大乗戒壇設立
最澄のもう一つの論争は、延暦寺に大乗(*)戒壇を設立すべきかどうかという論争です。僧になるにはやはり戒を受ける必要がありますが、その戒を受けるには東大寺の戒壇院などの奈良仏教の管下に立つ寺において受けなければなりません。そうだとすれば、せっかく最澄が養った弟子たちも、正式に僧になるには東大寺などで戒を受けなければなりません。それゆえ延暦寺に戒壇を設けることは、新しい仏教である天台宗の死活にかかわることでした。最澄は、桓武帝の後を継いだ嵯峨帝に、天台僧の養成と戒壇院の設立を願い出ます。しかし、弟子の光定の奔走にも関わらず、奈良仏教界の猛反発に会い、願いは届きませんでした。
自己の解脱だけを目的とするのでなく、すべての人間の平等な救済と成仏を説き、それが仏の真の教えの道であるとするもの。
比叡山に大乗戒壇を設立し、そこで菩薩戒を授けた僧を十二年間山で修行させ、国の宝として育てようという伝教大師・最澄の壮大な夢。天台教学の勉学、摩訶止観の実践、密教の研修と修法の体得。最澄は弟子たちが修行し、国宝として比叡山を下り、活躍する姿を夢に描いていたに違いありません。しかし、その夢が叶えられることはありませんでした。そして彼の志は、弟子たちに引き継がれていくことになったのです。最澄の願う大乗戒壇設立の勅許が下りたのは、最澄没後七日目のことでした。
* 仏教の二大流派の一つ。
天台宗と日本文化
比叡山は、仏教をはじめ多くの日本文化に大きな影響を及ぼしました。そして最澄の夢は、その死後、次々に大輪の花を咲かせてゆきます。それは絵巻物や文芸、歌、芸能など多岐にわたりました。『法華経』から生み出された文化も無視できません。『平家納経』をはじめ、絵画や和歌、物語文学など、『法華経』をテーマにした作品は数え切れないほど残され、その後の日本文化にも大きな影響を与えてきました。
また、比叡山からは多くの優れた人材が輩出しました。そうすることのできた主な理由は、修行の体系がしっかりと打ち立てられていたからに他なりません。具体的には、「菩薩の十地」のような階梯が用意されていて、修行者はその階梯に沿って修行に励むことができます。このため、優秀な人材が育ちやすいのです。密教でいえば、最澄の願いは弟子の円仁や円珍に受け継がれ、ついに天台密教という空海の密教とは違った密教がつくられます。また、浄土宗の開祖・法然、浄土真宗の祖・親鸞、時宗の一遍、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、日蓮宗の祖・日蓮といった日本仏教に新しい道を開いた宗祖・高僧たちが、比叡山での修行のなかから育っていったのです。
一隅を照らさば、これ即ち国の宝なり。
(訳:社会のなかにおいて、社会の一隅を照らすならばこの人こそどんな宝にも勝る国の宝である) 『山家学生式』
最澄は生涯を通じて、人里離れた山林に住む清浄な行者でした。弟子たちに残した遺戒(*1)には、天台宗の僧は、集会では沙弥(*2)の後ろに座るべし、とあります。つまり、みずからを在家の位置においているのです。さらに衣、供物、住居など、あくまで質素で粗末なもので満足すべきだと言い残しています。
道心の中に衣食あり、衣食のなかに道心なし。
(訳:悟りを求める心があれば、衣食はおのずからついてくるが衣食をむさぼり求める心が先に立つと、悟りを求める心はでてこない) 『伝述一心戒文』
最澄のイメージは、十名もの僧によって大寺院の戒壇院で具足戒を受け、その戒を護ることにほとんどのエネルギーを費やす伝統的な比丘ではありません。心がまえ一つで山林で修行する者が、彼の理想とする「僧」でした。最澄というのは、おそらく彼自身がつけた僧名であると思われますが、「最も澄んだ人」というのは、一生果敢な論争に明け暮れたこの人に最もふさわしい名であるように思われます。
わが為に仏を作るなかれ。わが為に経を写すなかれ。ただわが志を述べよ。 『伝教大師遺誡』
*1 子孫などのために残した訓戒。
*2 仏門に入り、髪をそって十戒を受けた初心の男子。 修行未熟な僧。  
 
最澄4

約1200年ほど前、今の滋賀県大津市坂本の一帯を統治していた三津首百枝(みつのおびとももえ)という方がおられました。子どもに恵まれなかった百枝は、日吉大社の奥にある神宮禅院に籠もり、子どもを授かるように願を掛けました。神護景雲元年(767)8月18日、願いが叶って男の子が誕生し、広野(ひろの)と名付けられました。この広野こそ、後に比叡山に登り天台宗を開かれた最澄だったのです。お生まれになったところは、現在の門前町坂本にある生源寺といわれています。最澄の誕生日には、老若男女が集い、盛大な祭が行われます。また、近くには幼少期を過ごしたとされる紅染寺趾や、産湯に使われた竈を埋めたといわれるところがあります。
広野は、両親の深い仏教への信仰の影響もあって、12歳のとき、近江の国分寺(現在の大津市石山)に入り、14歳で得度し、「最澄」という名前をいただきました。厳しい修行と勉強に打ち込んだ最澄は、やがて奈良の都に行き、さらに勉学を積みました。そして延暦4年(785)、奈良の東大寺で具足戒を受けました。
具足戒とは、僧侶として守らなければならない行動規範であり、250もの戒めを完備していることから具足戒と呼ばれます。
国家公認の一人前の僧侶となった最澄には、大寺での栄達の道が待っていましたが、受戒後、故郷に戻り、比叡山に籠り一人修行を続けました。そしてすべての人々が救われることを願い、一乗止観院を建てて自ら刻んだ薬師如来を安置し、仏の教えが永遠に伝えられますようにと願って灯明を供えました。(延暦7年(788)年)
このとき最澄は、「明らけく 後(のち)の仏の御世(みよ)までも 光りつたへよ 法(のり)のともしび」 と詠まれ、仏の光であり、法華経の教えを表すこの光を、末法の世を乗り越えて(後の仏である)弥勒如来がお出ましになるまで消えることなくこの比叡山でお守りし、すべての世の中を照らすようにと願いを込めたのでした。
この灯火はこのときから大切に受け継がれ、1200年余りを経た今日でも、根本中堂の内陣中央にある3つの大きな灯籠の中で「不滅の法灯」として光り輝いています。
比叡山で修行を続けていた最澄は、みずから天台山に赴いて典籍を求め、より深く天台教学を学びたいと考えます。
そこで桓武天皇に願い出て、延暦23年(804)、還学生(げんがくしょう)として中国に渡りました。当時、中国に渡るのは命がけのことで、4隻で構成された遣唐使船のうち、中国に無事たどり着いたのは2隻だけでした。到着した2隻のうちの別の船には、後に真言宗を開かれた空海が乗っていました。
中国に着いた最澄は、今の浙江省天台県に位置する天台山に赴き、修禅寺の道邃(どうずい)・仏隴寺の行満に天台教学を学びます。その後禅林寺の翛然(しゅくねん)より禅の教えを受け、帰国前には越州龍興寺で順暁阿闍梨から密教の伝法を受けました。こうして多くの経典や法具を携えて帰国したのでした。
帰国した最澄は、『法華経』に基づいた「すべての人が仏に成れる」という天台の教えを日本に広めるために、天台法華円宗の設立許可を願います。その際、「一つの網の目では鳥をとることができないように、一つ、二つの宗派では、普く人々を救うことはできない。」という最澄の考えが受け容れられ、延暦25年(806)、華厳宗・律宗・三論宗(成実宗含む)・法相宗(倶舎宗含む)に天台宗を加えて十二名の年分度者が許されることになりました。ここに天台宗が公認されたのです。
この日を以て「日本天台宗」の始まりとし、比叡山延暦寺をはじめ多くの天台宗の寺院では、この日を「開宗記念日」として報恩報謝の法要を行っています。
天台宗が公認された後、最澄は、「国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心有るの人を名づけて国宝と為す。・・・一隅を照らす。此れ則ち国宝なりと・・・」で始まる『天台法華宗年分学生式』(てんだいほっけしゅうねんぶんがくしょうしき)(六条式)を弘仁9(818)年5月13日に天皇に奏上しました。そこには、比叡山での教育方針や修行方法などが示されています。
また最澄は、社会教化・布教伝道のために中部地方や関東地方、さらには九州地方に出かけ、天台の教えを広めました。出向いた各地で協力を得て『法華経』を写経し、これを納めた宝塔を建立しました(六所宝塔)。加えて、旅人の難儀を救うための無料宿泊所を設けました。
天台宗の年分度者が認可されたあとも、正式な僧侶となるためには奈良で具足戒を受けなければなりませんでした。最澄は、『法華経』の精神に基づいて、僧侶だけでなくすべての人々を救い、共に悟りを得るためには、戒律は大乗の梵網菩薩戒でなければならないと考えて、比叡山に天台宗独自の大乗戒壇院を建立することを国に願い出ました。しかし奈良の僧侶たちの猛反対にあい、なかなか認可されないまま、最澄は弘仁13年(822)6月4日、56歳で遷化されました。その七日後、最澄の悲願であった大乗戒壇院の建立を許される詔が下されたのです。
最澄は死に臨んで、弟子たちに「我がために仏を作ることなかれ、我がために経を写すことなかれ、我が志を述べよ(私のために仏を作り、経を写すなどするよりも、私の志を後世まで伝えなさい)」と遺誡し、大乗戒をいしずえにすることで誰もが「国の宝」になることを願ったのでした。
最澄の命日の6月4日には、延暦寺をはじめ各地の天台宗寺院で「山家会(さんげえ)」という法要が行われています。
嵯峨天皇は、最澄の死を大変惜しまれ、「延暦寺」という寺号を授けられました。このときから比叡山寺(日枝山寺)から延暦寺とよばれるようになりました。年号を寺号にしたのは、日本ではこれが最初です。
貞観8年(866)、清和天皇から最澄に「伝教大師」、同時に円仁に「慈覚大師」の諡号が贈られました。大師とは人を教え導く偉大な指導者という意味で、日本ではこれが最初の大師号です。これ以後、最澄は「伝教大師最澄」と称されるようになりました。
西暦538年、天台大師は中国荊州華容(けいしゅうかよう)県に誕生されました。この年は日本に仏教が伝えられた年です。誕生の時に家が輝いたので皆から光道(こうどう)と呼ばれました。生まれた時から人並みでなく、二重の瞳を持ち、7才のころ喜んでお寺にかよい、一度『観音経(かんのんぎょう)』を聞いただけで覚えてしまったといいます。
17才の時、父の仕える梁(りょう)の国は陳国に攻められて、大師は親族と共に流浪(るろう)の運命となってしまいました。
18才の時、出家に反対だった両親が亡くなり、兄の許しを得て果願寺で出家し、「智(ちぎ)」と名付けられました。そして一心不乱に修行し、23才の時、当時高名な光州大蘇山の慧思(えし)禅師を訪ね入門を許されました。禅師は「お前とわたしは昔インドの霊鷲山(りょうじゅせん)でお釈迦さまの『法華経(ほけきょう)』を一緒に聞いたことがある」と不思議な因縁を語り、再会を喜んだのです。(霊山同聴(りょうぜんどうちょう))。
大師は『法華経』の重要な修行である四安楽行を教えられ、修行すること14日、薬王品の焼身供養の文に至って忽然(こつねん)と悟りを得ました。(大蘇開悟)。
これを慧思禅師に報告すると、「これはお前とわたししか味わえない高い境地である」と絶賛したのです。
この慧思禅師は、日本の聖徳太子に生まれ替わり『法華経』を弘(ひろ)めたといわれています。
30才。やがて慧思禅師は、大師に陳の首都建康(けんこう)(金陵(きんりょう)・南京)で布教せよと命じました。
大師は27人の弟子を連れて建康の瓦官寺(がかんじ)に移り住み、説法しました。大師の説法は、当時高名な大忍法師が賞賛したばかりでなく、皇帝宣帝(せんてい)までが群臣たちに、大師の『法華経』説法を聞くよう命令するほどすばらしかったのです。やがて名声を聞いて集まる弟子が100人200人と年々増えましたが、逆に悟りを得る弟子の数が少なくなっていることに気付いた大師は、そこで8年間の建康での布教に区切りをつけ、ついに聖地天台山でさらに修行を深める決心をしたのです。
38才。大師の決心を聞いた宣帝は、勅命(ちょくめい)をもって引き留(と)めましたがその決意は揺(ゆ)るぎませんでした。天台山に入ると、最も美しい場所「仏隴峰(ぶつろうほう)」に至ると、なんとそこは子供のころ夢に見た場所だったのです。さっそく大師はそこに道場を建て、「修禅(しゅぜん)道場」と名付けて修行をしました。そして翌年、天台山の最高峰である華頂峰(かちょうほう)に登り一人坐禅をしていると、雷鳴が響き山地が振動し、悪魔のような恐ろしい情景に大師はびくともせず、ついに暁(あ)けの明星を見て真の悟りを得たのでした。これこそ天台仏教の奥義である欠けたることのない完全な教え、法華円教の悟りでした。これにより大師は「中国のお釈迦さま」と呼ばれるようになりました(華頂降魔)。
44才。天台山から流れ出す川や河口では、漁業が行われていました。ところが水死者も多く、魚も多く殺されていました。大師はこれを憐(あわ)れんで衣や持ち物を売り、そのお金でやな(魚を捕る仕掛け)を買い取り、そこを放生(ほうじょう)の場所にしました。そして『金光明経(こんこうみょうきょう)』流水品(るすいぼん)の説教をすると、人々はだんだん殺生(せっしょう)が嫌いとなり、やなが廃止されるようになりました。これを聞いた宣帝は大変感動し、その流域を勅命で放生池(ほうじょうち)と定めました。この大師の放生会は、仏教史上初めてのことです。
48才。陳の永陽王(えいようおう)は、大師から受戒し、命も助けられたことがありました。永陽王は、大師を建康の都に迎えようとたびたび要請しましたが、なかなか承知しませんでした。
ついに三度目の願いにより、大師はようやく建康に行き、宮殿で『大智度論(だいちどろん)』や経典をたくさん説いたのです。皇帝は高僧を呼んで難問を質問させましたが、ことごとく明解に答えたので、人々は仏様のように敬(うやま)ったのです。
やがて50才の時、『法華経』の文章を解説した『法華文句(ほっけもんぐ)』を光宅寺で講説しました。
54才。隋(ずい)国が天下統一した後、晋王(しんのう)(後の煬帝(ようだい))は、揚州の禅衆寺を修復して大師を招請しました。
この時、大師は晋王に不思議な因縁を感じて揚州に向かいました。晋王は僧侶千人を招いて供養し(千僧斎(せんそうさい))、願文を記すなどして熱心に仏教に帰依し、受戒を願ったので、大師は、大乗菩薩戒を授けました。晋王は大師に「智者」の号を送り、弟子として一生誠実に仕えたのです。
これから智(ちぎ)禅師は智者大師(ちしゃだいし)として敬(うやま)われることになったのです。
後の煬帝は、日本聖徳太子の遣隋使、小野妹子(おののいもこ)の拝謁(はいえつ)を許し、慧思禅師使用の『法華経』を日本に伝えさせたのです。
55才。大師は晋王が引き留(と)めるのをやっと断(ことわ)り、廬山(ろざん)や南岳(なんがく)を訪(たず)ね、故郷である荊州(けいしゅう)に帰りました。そして56才。故郷の恩に報(むく)いるため玉泉寺を建立し、『法華経』の経題を講義した『法華玄義(ほっけげんぎ)』を説きました。次の年は、仏教の修行内容をまとめた『摩訶止観(まかしかん)』を説きました。これらは先に説いた『法華文句(もんぐ)』と共に天台三大部として伝えられ、それからの仏教にとても有益な大きな影響を与えました。
58才。大師は晋王の願いにより再び揚州に向かいました。そこで王の求めにより『維摩経(ゆいまきょう)』を解説した本を献上しました。この『維摩経』は在家の維摩居士が仏教の深い真理を体得していることを説く経典です。晋王は、これを喜び、いつまでも揚州に留まるよう望みましたが、大師は天台山こそ帰るべき所と告げ、その秋、再び天台山に帰ったのです。
天台山に帰ってみると、昔の道場は荒れ果てていましたが、大師は、なつかしい渓谷や泉石に触れて深く喜びました。
やがて再び天台山に僧侶が続々と集まり、修行を始めたのです。
60才。晋王に何度も要請され、大師はついに下山を決意しました。天台山西門まで下(お)りたところ病気になり、石城寺に入り、臨終が近いことを悟りました。そこで大師は弟子達に、「観音様が師匠や友人を伴って私を迎えに来ました。これからは戒律を師とし、四種三昧(ざんまい)に導かれて修行しなさい」と遺言(ゆいごん)し、11月24日未刻(昼2時)に入滅されました。大師は即身仏となられ、肉身塔にまつられ、晋王は天台山に国清寺を建立し、大師の偉業を賛えました。
 ・・・以来1400年、天台大師の教えは宗祖伝教大師によって日本に伝えられ、今も仏教の根本原理となっているのです。
修禅大師
義真(781〜833) 第1世天台座主 平安初期、相模の人。22歳で得度、早くより最澄について天台を学び、延暦23年(804)、師に従って訳語僧(通訳)として入唐。帰朝後、最澄を補佐し、師の没後その遺志を継いで比叡山に大乗戒壇を設立。初の大戒の伝戒師となる。天長元年(824)初代天台座主となった。弟子に円珍がいる。
別当大師
光定(779〜858) 実務に徹して比叡山を護持 伊予の人。大同3年(808)、30歳で最澄の弟子となり、大乗戒壇設立のために尽力。円澄入滅後、天台座主不在の18年間を含めた36年間にわたり、延暦寺を護持・運営。延暦寺別当に任命されたところから、別当大師と呼ばれる。墓所は、伝教大師の廟所(比叡山浄土院)の隣に寄り添うようにある。
慈覚大師
円仁(794〜864) 第3世天台座主 下野の人。15歳で最澄に師事し、承和5年(838)中国に渡り、五台山・長安等で勉学、会昌2年武宗の仏教弾圧に遭い、艱難辛苦しながら多くの典籍・教法を持ち帰った。帰朝後は天台密教の大成につとめ、関東東北を巡錫して多くの霊場を開いた。
智証大師
円珍(814〜891) 第5世天台座主 天台宗寺門派の開祖 讃岐の人。母は空海の姪にあたるといわれ、15歳で比叡山に入り義真に師事した。仁寿3年(853)入唐。天安2年(858)四四一本一千巻の経論典籍とともに帰朝、比叡山山王院に住した。貞観8年(866)園城寺の別当となり、大いに天台の教風を宣揚した。貞観10年(868)安恵に次いで天台座主となる。同年園城寺を賜わると、ここを天台の別院とした。後に円珍の門流は園城寺において、円仁の門流(山門派)に対し寺門派を形成する。
安然和尚
(841〜?) 五大院先徳 阿覚大師 近江の人。円仁・遍照に学び、比叡山に五大院を構え盛んに天台密教を講述した。『悉曇蔵』等の著がある、天台密教の大成者である。生涯、ただ研究と著作に没頭したので、世にもっぱら五大院の先徳といわれる。
相應和尚
(831〜918、一説に908) 回峰行の始祖 建立大師 南山大師 近江の人。15歳で円仁の門に入り、宇多天皇の歯痛を鎮めるなどたびたび法験をあらわした。貞観7年(865、一説に貞観6年)回峰行の根本道場として無動寺を建立したので、後に建立大師といわれる。朝廷に奏上して最澄に「伝教」、円仁に「慈覚」の大師号を賜った。
慈恵大師
良源(912〜985) 第18世天台座主 元三大師 近江の人。南都の学匠を論破し(応和の宗論)、名声が響き渡った。多くの門下があり、源信・覚運などの偉才を輩出した。学問を奨励し、荒廃した比叡山を復興・拡充したので、叡山中興の祖と仰がれる。角大師・豆大師として庶民に広く信仰される。おみくじの元祖でもある。
恵心僧都
源信(942〜1017) 日本浄土教の祖 大和の人。良源に師事し、学才の誉れ高かったが、母の教誡によって栄名を忌み、横川の恵心院に住んで浄業を修し、『往生要集』を著わして日本の浄土教の基礎を築いた。仏像・仏画の制作が多数にのぼる。浄土系各宗から特に尊祟されている。
空也上人
(903〜972) 空也念仏の祖 京都の人。醍醐天皇の第5皇子とも伝えられる。在俗の修行者として遊行し、天歴2年(948)延暦寺の延昌に戒を受けた。応和3年(963)京都に西光寺(後の六波羅蜜寺)を建てた。常に市井に立って南無阿弥陀仏を称え、庶民に念仏を広めて市聖(いちのひじり)と呼ばれた。その念仏を空也念仏とも称し、踊り念仏の祖とされる。
慈眼大師
天海(1536〜1643) 上野寛永寺と創建 14歳で宇都宮粉河寺(こかわでら)の皇瞬僧正に学ぶ。後に比叡山で天台三大部を学び、園城寺でも就学、興福寺で法相・三論等を研究。徳川家康に謁見してより、次第にその信任を得る。のち秀忠・家光にも信頼が厚かった。元和2年(1616)家康が亡くなると、その亡骸を久能山より日光山に移し、奥院廟塔(後の東照宮)を造営する。そして家康に東照大権現の諡号を贈る勅許を得た。また、秀忠に助言し、上野の東叡山寛永寺を創建し、その第1世となった。 
法然上人
(1133〜1212) 浄土宗の開祖 岡山県の人。13歳で比叡山に上り、黒谷の青龍寺にこもり経典を読破。「念仏によって正しい生活と往生が得られる」と確信し、1175年浄土宗を開く。
栄西禅師
(1141〜1215) 臨済宗の開祖 岡山県の人。14歳で比叡山に入り、その後2度にわたって中国に留学。臨済宗黄龍派の禅と戒を学ぶ。帰国後博多の聖福寺を拠点に活動を始め、鎌倉の北条政子など、幕府の援助で京都と鎌倉に活動の拠点を設け、禅の教えが認知されるようになった。
親鸞聖人
(1173〜1262) 見真大師 浄土真宗の開祖 鎌倉初期、京都の人。9歳で比叡山の慈円の門下に入り、29歳で法然の弟子となり、他力易行門を会得した。35歳で配流の身となってからは越後、関東と教化の旅を続け、在家往生の実を示すため自ら肉食妻帯をした。『教行信証』を著わし、浄土真宗を開いた。90歳、京都に寂す。
道元禅師
(1200〜1253) 承陽大師 日本曹洞宗の開祖 京都の人。13歳で比叡山に登り、翌年、公円のもとで剃髪し天台の秘奥を学ぶ。後、建仁寺で栄西の高足の明全に師事し、禅宗に帰した。貞応2年(1223)、中国に渡って曹洞宗を学び、帰朝後は京都に興聖寺を開いて、只管打坐を唱導した。寛元2年(1244)、越前に大仏寺(永平寺)を創建し根本道場とした。
日蓮上人
(1222〜1282) 立正大師 日蓮宗の開祖 安房の人。12歳で安房清澄山に登り、道善に師事。21歳で比叡山に登り修学すると共に、諸所を遊歴し、31歳帰郷。初めて南無妙法蓮華経の題目を唱え、以後『法華経』の法門を弘通した。文永11年(1274)身延山に住し、弘安5年(1282)、池上に寂した。
一遍聖人
(1239〜1289) 智真 時宗の宗祖 伊予の人。母の死後10歳で出家、太宰府の浄土宗西山流聖達や肥前の清水寺の華台に学ぶ。在俗生活の後再出家し、信濃の善光寺にて他力念仏の安心を得る。以後一所不住の遊行を続け、空也にならって踊り念仏で布教した。
真盛上人
(1443〜1495) 慈摂大師 天台宗真盛派開祖 伊勢の人。19歳のとき、比叡山西塔の慶秀に師事。恵心僧都に傾倒して浄業を修し、在山20有余年、後に坂本西教寺を再興して根本道場とし、戒律と称名念仏を唱導した。円戒国師の称号がある。  
天台座主
天台宗総本山延暦寺の住職として宗祖伝教大師からの法脈を相承し、天台宗徒及び檀信徒の敬仰する天台宗の信仰の象徴的存在です。
座主とはもと僧団の中で学徳優れた上首を意味し、伝教大師の中国天台山での師、道邃和尚は天台山修禅寺座主と呼ばれていました。比叡山でも宗祖のあと義真和尚が法脈を継ぎ座主と称しましたが、おおやけに官符によって座主職が任命されたのは、義真和尚に続く円澄和尚のあと、円仁和尚(慈覚大師)からです。これ以降、江戸時代末に至るまで天台宗の教学の両輪である止観、遮那(しやな)(真言)両業に通達した者が、天台座主として朝廷から勅旨によって任命されてきました。また、平安中期以降、摂関・院政期以降は、皇族、貴族の出身者が多く任ぜられるようになりました。
慶応四年第231世座主昌仁が守脩(もりさお)親王として還俗されて以降、一時期座主職の補任は廃止されましたが、その間も法脈は継承され、明治17年に座主の公称が許され今日に至っています。
現天台座主半田孝淳大僧正は、義真和尚から数えて256世となります。
現在、座主職の欠職は許されず、座主が万が一の場合は、探題(たんだい)職の順位で次席の者が直ちに上任する定めになっています。探題職は、定められた経歴法階によって、望擬講(ぼうぎこう)、擬講(ぎこう)、已講(いこう)、という法階を歴任して、探題に補任されます。その補任順位の首席が延暦寺住職として天台座主に上任します。  
 
最澄5

神護景雲元年(767)
最澄、近江国滋賀郡古市郷に誕生。前年の天平神護2年(766)誕生説もある。
最澄の幼名は三津首広野(みつのおびとひろの)、父は三津首百枝(みつのおびとももえ)、母は藤原北家の出身と伝える。更に先祖は後漢(25〜220)第14代の献帝(181〜234)の血統に連なる後裔の登萬貴王であり、応神天皇代(201〜310・在位は270〜310)に日本に渡来したとの伝承がある。
父は滋賀津・大津・粟津の三津の首(おびと)=土地の有力者だったろうが、家系については父親が渡来人の末裔ということが信用できるぐらいで、献帝〜登萬貴王の血統云々は確かなものではなく貴種出生譚の一つだと思う。 
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宝亀9年(778) 12歳
少年最澄は出家して近江国分寺に入り、大国師・行表(722〜797)の弟子となる。
(天平13年(741)、行表は道璿(どうせん・702〜760、大安寺三論系)に師事して得度している。行表は最澄の得度後、大安寺に移る。) 
宝亀11年(780) 14歳
11月12日 近江国分寺の僧、最寂の死闕を補い得度を受け最澄と名乗る。 
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延暦3年(784) 18歳
桓武天皇の命により山城国乙訓郡長岡の地が造営され、平城京から長岡京へ遷都される。 
延暦4年(785) 19歳
4月6日 最澄、南都東大寺にて具足戒を受戒。
7月17日 最澄は比叡山の草庵に入る。大蔵経を読破、「願文」を著すと伝える。
願文
悠々たる三界は純(もっぱ)ら苦にして安きこと無く、擾々(じょうじょう)たる四生はただ患いにして楽しからず。牟尼の日久しく隠れて慈尊の月未だ照さず。三災の危うきに近づき、五濁の深きに没む。しかのみならず、風命保ち難く、露体消え易し。草堂楽しみ無しと雖も、然も老少、白骨を散じ曝し、土室闇く狭しと雖も、而も貴賎、魂魄を争い宿す。彼を瞻(み)、己を省みるに此の理必定せり。
仙丸(せんがん)未(いま)だ服さざれば遊魂留め難し、命通未だ得ざれば、死辰(ししん)何とか定めん。生ける時善を作さずんば死する日、獄の薪と成らん。
得難くして移り易きはそれ人身なり。発し難くして忘れ易きはこれ善心なり。是を以て法皇牟尼は、大海の針・妙高の線を仮りて人身の得難きを喩況(ゆうきょう)し、古賢禹王(こけんうおう)は、一寸の陰・半寸の暇を惜しみて一生の空しく過ぐるを歎勧せり。因無くして果を得る、是の処(ことわ)り有ること無く、善無くして苦を免るる、是の処り有ること無し。
伏して己が行迹(ぎょうせき)を尋ね思うに・・・・
(中略)
伏して願くば、解脱の味独り飲まず、安楽の果、独り証せず。法界の衆生と同じく妙覚に登り、法界の衆生と同じく妙味も服せん。
(後略)  
延暦7年(788) 22歳
最澄は比叡山に小堂(一乗止観院)を建て、自ら薬師如来像を刻み安置する、と伝える。 
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延暦12年(793) 27歳
1月 桓武天皇は和気清麻呂(733〜799)の進言を受け、藤原種継暗殺事件に続く自然災害・飢饉・流行り病等の社会不安が続く長岡京を放棄し、山背国葛野郡(やましろのくにかどのぐん)に都を遷すことを決める。和気清麻呂が造営大夫に任命され、土地の調査、造営が始まる。 
延暦13年(794) 28歳
10月22日 桓武天皇は新都に遷る。
11月8日 桓武天皇は新しい都を平安京と名づける旨の詔を下す。また、国名も「山背」から「山城」に変更される。 
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延暦16年(797) 31歳
最澄は内供奉十禅師となる。785年からこれまでの、最澄の行動の詳細は不明。(内供奉十禅師=宮中の内道場に奉仕、御斎会の読師を務める僧職。また天皇の夜居を勤める。) 
延暦17年(798) 32歳
9月 桓武天皇は三論宗・法相宗、二宗並習の詔勅を下す。
11月 最澄、比叡山寺において法華十講を始める。 
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延暦20年(801) 35歳
最澄は比叡山寺において法華十講を奉修。これには南都七大寺の高僧10名を招請し、講師を依頼する。 
延暦21年(802) 36歳
1月 桓武天皇は三論宗・法相宗、二宗並習の詔勅をくだす。
8月末 和気広世(わけのひろよ・和気清麻呂の長男)は桓武天皇の勅命を受け、高雄山寺に南都六宗の学僧13人を招請。最澄に法華会講師を務めさせる。
9月 最澄に請益僧(還学生)としての入唐許可がおり、義真も通訳としての同行が許される。 
延暦22年(803) 37歳
4月16日 第16次遣唐使・大使の藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)、副使の石川道益一行(最澄を含む)、遣唐使船4隻が難波住吉の三津港を出港。
4月21日 遣唐使船、暴風雨に遭遇。死傷者多数、最澄の船は筑紫に着く。同地で滞留。  
延暦23年(804) 38歳
1月 桓武天皇は三論宗・法相宗、二宗並習の詔勅をくだす。入唐留学生の欠員を補充する二次詮衡で、空海が選ばれる。
6月 遣唐使船、再度難波を出港。藤原葛野麻呂と空海は第一船に同乗。
7月6日 遣唐使の4船、肥前国松浦郡田浦を出港。最澄は副使・石川道益の第二船に乗る。
7月7日 船団は南風に煽られて第三船、四船が行方不明となる。
7月下旬 第二船は明州(みんしゅう)鄮県(ぼうけん)に着く。
8月10日 第一船は福州長渓県赤岸鎮に着く。
9月 最澄は明州に上陸後、病となり療養。回復後、9月15日に台州天台山に向かう。
9月26日 最澄は台州に着く。
最澄は滞在期間8箇月の間に各派・各師より受法する。
・中国天台宗の第7祖・龍興寺の道邃(湛然の門弟)は、最澄と弟子の義真に大乗菩薩戒を授ける。
・天台山国清寺座主・行満(湛然の門弟)は天台の法門、典籍、法具などを最澄に授ける。
・道邃より戒律を受ける。
・禅林寺・翛然(しゅくねん)より牛頭宗(達磨系禅の別派・傍系)の法を授けられる。
・不空金剛の弟子・順暁より越州にて胎蔵界と金剛界の密教灌頂を授かる。
(天台山下山より日本への帰国の間の慌ただしいものだったため、その内容には不完全なものがあったとされる。) 
延暦24年(805) 39歳
3月 最澄は前年(延暦23年)9月26日より、この年(延暦24年)の3月下旬まで台州に滞在。
4月11日 最澄は台州より明州を経て越州龍興寺に入る。順暁阿闍梨に師事して密教を受法。
5月18日 最澄は大使・藤原葛野麻呂と同じ船で明州を出港、帰国の途につく。
6月5日 対馬島下県郡に着く。
7月15日 最澄は上洛し「進官録」を上表、「請来目録」と金字の経等を朝廷に献上する。
8月7日 最澄は桓武天皇により殿上に召されて悔過読経し、唐より招来した仏像を献上する。
9月7日(または9月1日) 桓武天皇は最澄が請来した密教に関心を寄せ、高雄山寺において最澄を潅頂の阿闍梨とし、諸寺院を代表する僧八名に潅頂三昩耶を受けしめる。日本最初の潅頂で、毘盧遮那仏像一幅、大曼荼羅一幅、宝蓋一幅等が画工により描かれ、仏・菩薩・神王像の幡(はた)を五十余旈(りゅう)造り、その費用は朝廷が賄う。修円と勤操は桓武天皇の身代りとして潅頂を受ける。
9月17日 最澄、殿上にて毘盧遮那法を修法する。(元興寺・泰範が最澄に師事したのはこの頃か。)  
延暦25年・大同元年(806) 40歳
1月3日 最澄は、従来の南都六宗に天台法華宗を加え、年分度者を十二名とする制度を上表する。
1月5日 南都僧綱は賛意を示す。
1月26日 年分度者を十二名として学業を定めた太政官符が出される。
華厳業、律業、天台業には各二名、三論業(成実を含む)、法相業(倶舎を含む)には各三名の年分度者を賜う。天台業については年分度者二名の内、一名は摩訶止観を読み、もう一名は大毘盧遮那経を読むことが定められ、天台法華宗は朝廷により公認となる。
3月17日 桓武天皇崩御
5月18日 平城天皇即位
10月 空海は唐より帰国、以降2年ほど大宰府に滞在する。
10月22日 空海、「請来目録」を朝廷に提出。 
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大同4年(809) 43歳
2月3日 空海は最澄に「名書」を差し出す、と伝える。
4月1日 平城天皇は病が重くなり神野親王(嵯峨天皇)に譲位する。
4月13日 嵯峨天皇即位。
7月16日 同日付の太政官符により、空海は入京を許される。
7月中旬 空海、京都・高雄山寺に入る。
8月24日 最澄は弟子・経珍を空海のもとに派遣し、経論12部55巻の借覧を申し出る。以降、最澄から空海への書状は24通、空海から最澄への書状は6通が現存。
10月4日 嵯峨天皇は空海に対し、屏風二帖に「世説」の一文を揮毫することを要請。 
大同5年・弘仁元年(810) 44歳
1月14日 天台法華宗の年分度者、遮那業の学生・光戒、光仁、光智、光法の四名、止観業の学生・光忠、光定、光善、光秀の四名が得度。
1月15日 最澄は空海に書を送り、「十一面儀軌」「千手菩薩儀軌」の貸し出しを要請。
1月19日 最澄は比叡山寺の同法衆に隠居を告げ、三カ条の起請をたてる。
特に第三条では、「心神未だ調わず。耳根、眼根は練行するに安からず」となった最澄は、「一切の事は、先ず泰範禅師・経珍禅師に聞せしめ、伝えて最澄に聞すことを欲す」とし、比叡山寺の一切の事は泰範と経珍の二人に任せることを明示している。
2月17日 最澄は空海に書を送り、「借用した華厳経の書写が終わらない」こと、「十一面儀軌中巻は写し終わった」ことなどを伝える。また、空海より依頼されていた「摩訶止観」については現在、校合しているので、一巻の校合が終わる都度に送付することを約す。
5月14日 比叡山寺において、最澄は広智に三品悉地の真言、三部三昧耶の灌頂を授ける。
9月6日〜 薬子の変起こる
平城上皇は平安京を廃して平城京に遷都する詔勅を発するも、嵯峨天皇側によって拒否される。11日、平城上皇と寵愛を受けた尚侍・藤原薬子は東国行きを阻止され、上皇は剃髪して隠退・出家、薬子は服毒自殺する。また、薬子の兄・藤原仲成は射殺される。
9月11日 空海は最澄に書を送り、「摩訶止観」の送付に感謝し、最澄より誘われた比叡山寺への登山は都合により行けない旨を記す。
「風信雲書、天より翔臨す。之を披き之を閲(けみ)するに、雲霧を掲ぐるが如し」で始まる「風信帖」。(年号のない書状だが、この年のものと推定される)
文末では「今、我が金蘭及び室山と与に一処に集会し、仏法の大事因縁を商量し、共に法幢を建てて、仏の恩徳に報いんと思う。望むらくは、煩労を憚らず、蹔(しばら)く此の院に降赴(こうふ)せられんことを。此れ望む所、望む所。」とあり、最澄、室生山の僧(堅恵または興福寺の修円とされる)らと一堂に会して、仏法の大事因縁を語り仏恩に報いたいとする。そして、最澄の高雄山寺への来訪を促している。これらは薬子の変という皇室を取り巻く争乱により、世情騒然としていることを受けてのものか。
9月13日
最澄は空海からの招請に応じられない旨の書を送り、空海は返信する。「忽披状」
10月 空海は新たに請来した「仁王経」「守護国界主陀羅尼経」「仏母明王経」等の護国経典により、鎮護国家の修法を行いたい旨を上表する。「国家の奉為に修法せんと請う表」
(この年、最澄は伝燈法師位を授けられるも、諸宗僧綱による推挙は弘仁13年(822)まで得られなかった。) 
弘仁2年(811) 45歳
2月14日 最澄は空海に書を送り、「遍照一尊の灌頂」を受けることを願う。空海は後日に授法する旨、返信する。
2月15日 最澄は空海に書を送り、「三障未だ浄からざれば、聖教を披くことは望み難し。一期の後、深く恩の厚きことを悟る。下資、後期を待って必ず将に参謁せん。」と、後日の「遍照一尊の灌頂」受法を願う。
4月13日 最澄は空海に書を送り、「但し宿因微薄にして、未だ密会に預からず。昼夜尅念すること、鳥跡何ぞ述べん。去年期するところの悉地の月は来月に当たれり。」と、真言の法・受法を昼夜心待ちしている心情を記す。(書状に年号はないも、この年のものと推定される)
あわせて智の「法華文句疏」、湛然の「法華記」、「貞元釈教目録」の貸し出しを要請する。
8月1日 泰範は比叡山寺の「御講法華会」講師に任じられるも、「忽ち重障ありて諸事に堪えず」として出仕を辞退。最澄は慰留の書を送る。
10月27日 空海を乙訓寺(おとくにでら)に移住させる官符が治部省に下される。
11月9日 空海は乙訓寺(現・京都府長岡京市)に移り別当となる。 
弘仁3年(812) 46歳
4月1日(年号はないがこの年か) 最澄は比叡山寺から離れていた泰範に、「早く弊室に帰り」「老僧を棄つること勿れ」と帰山を促す書を送る。(この時点で、泰範は比叡山寺から離山していたことが窺える書状となっている。)
5月8日 最澄は「老病僧最澄」と署名した「遺言状」を書き、泰範を「山寺之惣別当兼文書司」、円澄を「伝法座主」、沙弥・孝融と近士(ごんじ)・土師茂足(はじのしげたり)を「一切経蔵別当」、近士・壬生雄成(みぶのおなり)を「雑文書別当」に任じ、後事を託さんとする。
6月29日 泰範は「破戒悪行し、徒に清浄衆を穢」したので身を引く旨の、「暇を請う」書を最澄に送る。最澄は泰範に「住持の法は蹔(しばら)く闍梨(泰範)に於(よ)る」と慰留の書を送る。(泰範は最澄の「山寺之惣別当兼文書司」との任命を受け入れず、また比叡山寺にも帰山しなかったものか。)
8月19日 最澄は空海に書を送る。文中、「但し遮那宗は天台と融通し、疏宗亦同じ」「亦一乗の旨、真言と異なることなし」と記し、「法華一乗と真言一乗は等しくなんら異なることはない」との、最澄の密教観が窺えるものとなっている。
9月 最澄は弟子・光定と共に摂津・住吉大神に参詣、一万燈を供し大乗を読誦する。
10月26日 最澄は空海に書を送り、「金剛頂真実大教王経」一部三巻の借覧を要請する。
10月27日 最澄は興福寺維摩会列席の後、弟子の光定と共に乙訓寺の空海を訪ね、高雄山寺での灌頂伝授を約す。
10月下旬 この頃、空海は高雄山寺に戻る。
11月5日 最澄は近江国高島郡にいる泰範に書を送り、空海の灌頂伝授を共に受けたいと誘う。
11月7日 最澄は再度、空海よりの灌頂伝授に共に入壇することを泰範に促す。
11月15日 空海は灌頂壇を高雄山寺に開筳
最澄は和気真綱(わけのまつな)、和気仲世(わけのなかよ)兄弟と共に高雄山寺に赴き、三濃種人を加えた四名で空海に弟子の礼を取り、金剛界の結縁灌頂を受法する。
11月15日 最澄は高雄山寺滞在中の食料調達のため、侍者を泰範のもとに派遣。
12月4日 最澄は高雄山寺の智泉に薯蕷二十余根、薯蕷子二十籠を送る。添え書には智泉を「法兄」と仰ぐことを記す。
12月14日 最澄は弟子の円澄、光定、比叡山寺の僧徒、更に泰範と南都諸大寺の学匠・沙弥・近事・童子など190名余と共に、空海より胎蔵の結縁灌頂を受法する。(金剛界・胎蔵の灌頂は一般的な結縁灌頂であり、最澄の望んでいた伝法灌頂ではなかったようだ。)
12月18日 最澄は空海に経典7部11巻の貸し出しを要請する書を送る。
12月23日 最澄は灌頂後も高雄山寺の空海のもとに留まっていた泰範に書を送り、空海より「法華儀軌」を受法した後、比叡山寺へ伝授することを要望する。 
弘仁4年(813) 47歳
1月18日 最澄は空海に書を送る。
「修行満位僧・円澄」は久しく最澄の同法であり、深く真言道を仰ぎ、真言の修行を欲している。空海に付属するので真言を受法させて頂くことを伏して願う、旨を記す。「円澄の貢状」
また同日、高雄山寺の三綱に書を送り、高雄山寺での最澄の住房・北院の厨子を泰範に貸し与えるよう、依頼する。
同日 最澄は空海への書状で、「弟子最澄」が空海より経典を借覧・書写する意を「但だ最澄の意趣は御書等を写すべきのみ」と記し、「奸心を用い、盗みて御書を写し取り、慢心を発すと疑うことなかれ」「小弟子(最澄)、越三昧耶の心を発さず」と疑念なきよう求める。
1月 最澄は高雄山寺の空海のもとに上記円澄と光定らを派遣し密教を学ばせる。後の文書「円澄等書状」(天長8年[831]9月25日)には、円澄・泰範・賢栄を派遣したことが記される。
2月 空海は泰範・円澄・光定ら数名に「法華儀軌一尊法」の伝授を始める。
3月6日 泰範・円澄・光定等19名、金剛界の結縁灌頂を空海から受法。
3月 円澄、光定は比叡山寺に戻るも泰範は空海のもとに留まる。(これについては上記のように、泰範は空海のもとに行く以前から比叡山寺と最澄から離れ分かれていたのであり、泰範は最澄や比叡山寺のもとに戻る理由、必要性はなかった、とも考えられる。)
6月19日 最澄は泰範に書を送り、「摩訶止観輔行伝弘決」十巻の返還を求める。「棄てられし老同法最澄」とあり、最澄と泰範の師弟関係は過去のものとなり、相当な距離感が生じていたことが窺われる。
9月1日 最澄、「依憑天台集」を著す。
11月 40歳となった空海は「中寿感興の詩並びに序」を最澄ら知己に贈る。
11月23日 最澄は空海に書を送り「文殊讃法身礼」「方円図」「注義」「釈理趣経一巻」等の借覧を願い出る。
11月25日 最澄は高雄山寺の泰範に手紙を送り、空海から贈られた「中寿感興詩」に対する和韻の詩を作るため「一百廿礼仏」「方円図」「注義」について空海より教示を受け、それを伝えるように依頼。更に入手した「法華経の梵本一巻」を来月9、10日頃、御覧に入れたいので都合をお聞きしたい旨を記す。「久隔帖」
12月 最澄は「中寿感興詩」に対する和韻の詩を空海に贈る。
12月16日 空海は最澄に礼状を送る。
(この年12月か(または11月か) 空海は「叡山の澄法師、理趣釈経を求むるに答する書」を以て密教受法の厳格なることを説き、経典の貸し出しを拒絶。) 
弘仁5年(814) 48歳
1月4日 最澄は嵯峨天皇の詔を受け、殿上にて諸僧らと天台義を論じる。
2月8日 最澄は空海の督促により、借用していた「守護国界主経」一部、「虚空蔵経疏」一部四巻、「貞元目録」初帙十巻を返還。
(最澄は筑紫国を巡化。千手観音像を造像、大般若経・法華経を書写、宇佐八幡の神宮寺と賀春神宮院にて法華経を講説する、と伝える。) 
弘仁6年(815) 49歳
4月1日 空海は「諸の有縁の衆を勧めて、秘密蔵の法を写し奉るべき文」=通称「勧縁疏」を著し、弟子達を東国、西国各地に派遣して、請来した経論36巻の書写流伝、即ち秘密法門の宣布を始める。文中、顕劣密勝を論じて、密教は顕教に勝ることを強調する。この後、会津の徳一は「真言宗未決文」(815〜821頃の成立と推測される)を著して、11カ条の疑問を呈する。
8月 最澄は和気氏の要請により、大安寺塔中院で法華一乗を真実とする天台義を講説、南都学僧と論争する。
(この頃、空海は「弁顕密二教論」を著す。) 
弘仁7年(816) 50歳
2月10日 最澄は空海の督促により、借用していた経典「新華厳疏」上帙十巻、「鳥瑟渋摩法」一巻等を返還。(二回目)
5月1日 最澄は高雄山寺の泰範に書を送り、「蓋し劣を捨てて勝を取るは世上の常理なり。然るに法花一乗と真言一乗と、何ぞ優劣有らんや」と、法華一乗と真言一乗とは優劣のなきことを記し、比叡山寺への帰山を促す。
(泰範ではなく空海が返書を認め、「顕密・権実の相違」を記し、「所以に真言の醍醐に耽執(たんしゅう)して、未だ随他の薬を瞰嘗(たんしょう)するに遑(いとま)あらず。」と泰範は密教の修行に専念することを伝える。以降、最澄と空海の書状のやり取りは減っていく。)
6月19日 空海は嵯峨天皇に上表文を提出し、「上は国家の奉為に、下は諸の修行者の為に、荒藪を芟(か)り夷(たいら)げて、聊(いささ)か修禅の一院を建立せん」と、高野山の下賜を奏請(そうせい)する。
7月8日 嵯峨天皇は紀伊国司宛てに太政官符を下し、高野山を空海に下賜。

この年、最澄は「依憑天台集」に序文を加えて「新来の真言家は則ち筆授の相承を泯(みん)ず」と、面授を重んじる真言授受法を批判する。最澄は円澄、円仁らを伴い東国を巡化する。法相宗・徳一は「仏性抄」を著して最澄の法華一乗の天台義を批判。
最澄と法相宗・徳一との論争始まる。三乗一乗論争(三一論争)・三一権実論争・仏性論争。弘仁12年(821)まで続く。徳一は「仏性抄」に続いて「法華要略」「中辺義鏡」「庶異見章」「慧日羽足」「中辺義鏡残」等を著し、最澄は「法華去惑」「守護国界抄」「決権実論」「法華秀句」「再生敗種義」等を著す。 
弘仁8年(817) 51歳
2月 東国巡化中の最澄は徳一の批判に対し、「照権実鏡」一巻を著して反論。
3月6日 最澄は下野・大慈寺の遮那仏前にて、円仁と徳円に金剛宝戒を授け、三種悉地の法を伝授。
5月15日 最澄は上野・浄土院にて、円澄・広智らに三部三昧耶の灌頂を伝授する。 
弘仁9年(818) 52歳
5月13日 最澄、「天台法華宗年分学生式」(六条式)を朝廷に上奏。
・天台法華宗の年分学生は比叡山寺で独自に得度。「梵網経」所説の大乗菩薩戒を授け、大僧として太政官が公認する。
・遮那業と止観業の学生に十二年間の籠山を定め、比叡山寺独自の仏教学習を行い、終了後は国家の官符により修了者を伝法、諸国の講師として任用する。
8月末 最澄、「勧奨天台宗年分学生式」(八条式)を朝廷に上奏。
・天台法華宗の得度者は、戸籍を治部省玄蕃寮に移行しない。
(南都僧綱による監督下からの離脱を図る。)
11月10日 最澄、空海と共に唐に渡った大使・藤原葛野麻呂死去。
11月中旬 空海は近事・賢聡らと共に高野山に入る。 
弘仁10年(819) 53歳
春 高野山の空海と一門は壇場の結界を行い、七日七夜の作壇法を修法して伽藍の建立を始める。
3月15日 最澄、「天台法華宗年分度者回小向大式」(四条式)を朝廷に上奏。
・(東大寺、下野薬師寺、筑紫観世音寺の「天下三戒壇」で授けられていた戒は「四分律」であり、部派仏教の一つ法蔵部の律に基づいていた。)これは小乗律であり、天台法華宗の年分学生並びに他の宗派より比叡山寺に来たって大乗を志向する者には小乗戒は受けさせず、大乗戒を授けて大僧とする。
(六条式・八条式・四条式の三つを合わせて「山家学生式」と称される。)
(最澄は「山家学生式」によって大乗戒壇の建立、南都僧綱の統制から離れた独自宗派の勅許を求める。)
5月19日 嵯峨天皇の諮問を受けた大僧都・護命を始めとする南都僧綱は、「大日本六統表」を上奏して反対意見を表明。
(この頃、空海は「即身成仏義」「声字実相義」「吽字義」(三部書)を撰述する。更に「秘密曼荼羅教付法伝(広付法伝)」の著述も始める。) 
弘仁11年(820) 54歳
(最澄は「顕戒論」三巻を著して南都僧綱に反論する。)
5月 空海は弘仁年間(810〜823)に詩文創作の理論書「文鏡秘府論」六巻を編纂し、この月には、その縮約版となる「文筆眼心抄」を著す。日本最古の漢字字書「篆隷万象名義(てんれいばんしょうみょうぎ)」6帖30巻も空海の編著で、成立年代は天長7年(830)以降と推測される。 
弘仁12年(821) 55歳
5月27日 讃岐国・国司は、空海を満濃池修築の別当に任じるよう、朝廷に上申する。これにより空海は同地に三箇月滞在し、工事を監督・指導する。
9月7日 空海が4月に修復を依頼した唐請来の胎蔵界曼荼羅・金剛界曼荼羅、諸尊の図像、祖師御影等が完成し、香華を設けて供養を行う。
(この頃、空海は「真言付法伝(略付法伝)」を著す。) 
■弘仁13年(822) 56歳
2月11日 東大寺に「国家の為に灌頂道場を建立し」、空海が修法することを命じる太政官符が下される。
2月14日 最澄の伝燈法師位について、弟子・光定は右大臣・藤原冬嗣に僧綱への働きかけを願う。冬嗣の尽力により伝燈法師位が最澄に授与される。
4月15日 最澄の病は重くなり、後事の全てを義真に託す。
6月4日 最澄、比叡山寺・中道院にて遷化。
(6月3日、嵯峨天皇は最澄の大乗戒壇設立の上申を允許しており、弟子・光定により綸旨は病床の最澄に報告されていた、と考えられる。一週間後、大乗戒壇設立の太政官符が下される。) 
 
天台宗1

釈尊の残された教えは、南は東南アジアの国々へ広まり、北はガンダーラからヒマラヤを越えて中央アジアへと広まり、やがて中国へと伝わっていきます。多くの求法の僧により、数々の経典が伝えられましたが、その中でも「妙法蓮華経」という経典に釈尊の「全ての人に悟りの世界を」という考え方がもっとも明確に述べられています。
この教えに注目し仏教全体の教義を体系付けたのが智(ちぎ)です。 智(538-597年)はその晩年を杭州の南の天台山で過ごし、弟子の養成に努めたことから「天台大師」と諡(おくりな)され、またその教学は天台教学と称されました。これが天台宗の起源であり、 智を高祖と唱えるのはこのためです。

釈尊が悟りを開かれたから、悟りの世界が存在するのではありません。それはニュートンが林檎の落ちるのを見ようが見まいが引力が存在するのと同じことです。悟りへの道は明らかに存在するのです。そして悟りに至る種は生まれながらにして私たちの心に植付けられていると宣言しました。あとはこのことに気付き、その種をどのように育てるかということです。

仏教には八万四千もの教えがあると言われていますが、それらは別々な悟りを得る教えではなく、全ては釈尊と同じ悟りに至る方法の一つでもあるのです。例えば座禅でも念仏でも護摩供を修することでも、巡礼でも、写経でも、もっと言えば茶道、華道でも、また絵画、彫刻でも方法はさまざまでいいのですが、そこに真実を探し求める心(道心)があれば、そのままそれが悟りに至る道です。日常の生活にもそれは言えることです。(四種三昧の修行)
多くの開祖を輩出した天台宗が鎌倉仏教の母山と言われるのも、また日本文化の根源と言われるのもこのことからです。

そのために天台宗ではお授戒を奨めています。戒を授かるということは我が身に仏さまをお迎えすることです。仏さまとともに生きる人を菩薩といい、その行いを菩薩行といいます。
心に仏さまを頂いた人たちが手を繋ぎ合って暮らす社会はそのまま仏さまの世界です。一日も早くそんな世の中にしたいと天台宗では考え「一隅を照らす」運動を進めています。
先ず自分自身を輝いた存在としましょう。その輝きが周りも照らします。一人一人が輝きあい、手をつなぐことができればすばらしい世界が生まれます。

最澄は神護景雲元年(767、766年誕生説あり)、近江国滋賀郡、琵琶湖西岸の三津(今日の滋賀県坂本)で、三津首百枝(みつのおびとももえ)の長男として誕生。幼名を広野(ひろの)と呼ばれました。
早くからその才能を開花させ、12歳で近江の国分寺行表(ぎょうひょう)の弟子となり、宝亀11年(780)に得度、延暦4年(785)に奈良の東大寺戒壇院で具足戒(250戒)を受け、国に認められた正式な僧侶となられたのです。
受戒後3ヵ月ほどで奈良を離れ、比叡山に分け入り修行の生活に入られました。そして若き僧最澄は【願文】を作り、一乗の教えを体解(たいげ)するまで山を下りないと、み仏に誓いました。その後、延暦7年(788)に日枝山寺(後の一乗止観院)を創建、本尊として薬師如来を刻まれました。
【願文】の中で、「私たちの住むこの迷いの世界は、ただ苦しみばかりで少しも心安らかなことなどない。(中略)人間として生れることは難しく、また生れたとしてもその身体ははかなく移ろいやすい。」と、世の中の無常と人間のはかなさを自覚されました。
そして、「因なくして果を得、この処(ことわ)りあることなく、善なくして苦を免がる、この処(ことわ)りあることなし。」と因果の厳しさを述べ、だからこそ生きているときに善いことをする努力を惜しんではならないと考え、「願文」の中で五つの【心願】をたてられたのです。
天台大師智の教えを極めたいと願い、桓武天皇の援助を受けて還学生(げんがくしょう)として唐に渡りました。中国天台山に赴き、修禅寺の道邃(どうずい)・仏隴寺の行満に天台教学を学び、典籍の書写をします。その後禅林寺の翛然(しゅくねん)より禅の教えを受けられ、帰国前には越州龍興寺で順暁阿闍梨から密教の伝法を受けられます。こうして、円密一致といわれる日本天台宗の基礎をつくられたのです。
延暦24年(805)に帰朝してすぐに、高雄山寺で奈良の学僧達に日本で初めて密教の潅頂を授けるなどして、入唐求法の成果を明らかにされました。
当時、「仏に成れるもの、仏に成れないものを区別する」という説もありましたが、最澄は、「すべての人が仏に成れる」と説く「法華経」に基づいて、日本全土を大乗の国にしていかねばならないとの願いが募り、法華一乗による人材の養成を目指しました。
こうした最澄の努力と熱意が通じ、延暦25年(806)1月26日、年分度者(国家公認の僧侶)2名認可の官符が発せられました(天台宗開宗の日)。
2名の年分度者とは、天台教学を学ぶ者(止観業)1名と、密教を学ぶ者(遮那業)1名でした。
その後最澄は、真俗一貫の大乗菩薩戒こそが真に国を護り人々を幸せにすると考え、弘仁9年(818)から翌年にかけて【山家学生式】(さんげがくしょうしき)と呼ばれる一連の上表を行います。さらに弘仁11年(820)、「顕戒論」を著わして比叡山に大乗戒壇の公認を願われたのでした。
しかしその願いも叶うことなく、弘仁13年(822)6月4日、56歳で遷化されました。
そしてその7日後、最澄の願いが聞き届けられ、大乗菩薩戒を授ける得度授戒の勅許が下されたのです。
最澄亡き後、一乗止観院は「延暦寺」の寺額を勅賜され、比叡山延暦寺と呼ばれるようになりました。翌年、弟子の義真が伝法師(後世の天台座主のこと)として後を継ぎます。
第3世座主円仁によって、延暦寺では横川(よかわ)が開かれ、東塔地区も整備されていきます。また、9年間に亘る入唐求法の成果をもとに、天台教学の中に浄土教を取り入れ、密教を拡充していくなど、その功績は多大なものでした。
円仁の没後ほどなく、貞観8年(866)、最澄には「伝教大師」、円仁には「慈覚大師」という諡号(しごう)を清和天皇より賜りました。これは日本における初めての大師号であり、最澄・円仁による天台宗の確立が、いかに日本仏教の発展に寄与したかを示すものであります。
また、第5世座主の円珍(智証大師)や五大院安然らによって密教も体系的に整備され、後に東密(真言宗の密教)に対して台密(天台宗の密教)と称されるようになりました。
その後も多くの人材が比叡山で研鑽に励み、学問も修行も充実していきます。平安時代中期には、第18世座主の良源(慈恵大師)によって諸堂の再建と整備がなされ、論義が盛んに行われて教学の振興がはかられました。さらに弟子の源信(恵心僧都)によって「往生要集」が著わされ、これが後の日本の浄土教発展の基礎となりました。
また、「法華経」や浄土教信仰などは知識人の間に浸透し、「源氏物語」や「平家物語」に代表される古典文学の底流をなしています。円仁が中国からもたらし大成した声明は、日本伝統音楽の源流となり、また能・茶道にも天台の仏教思想が深く入り込んでいるといわれています。
平安末期から鎌倉時代はじめにかけては、法然・栄西・親鸞・道元・日蓮といった各宗派の開祖たちが比叡山で学びました。こうして後に比叡山は日本仏教の母山と呼ばれるようになったのです。
時代は下り、盛栄を誇った比叡山延暦寺も織田信長の焼き討ちにあい、一時その宗勢に陰りが見えましたが、江戸時代になり徳川家康の懐刀と云われた天海(慈眼大師)によってその勢力を盛り返し、特に寛永寺は西の比叡山に対して東叡山と呼ばれ、その影響力を日本全土に及ぼしたのです。
 
天台宗2  

釋尊によって開かれた佛教は、今日、キリスト教、イスラーム教と並ぶ世界三大宗教の一つとして、広く信奉されている。その領域は、わが国をはじめとするアジアの諸地域はもとより、世界の各地において多くの佛教徒の心を癒(いや)し、安らぎと平和実現への指標として、底辺の広がりをもつ。この佛教は、釋尊の滅後、一方ではインド、中国、韓国、日本へと伝承され、他方、インド、セイロン(スリランカ)、タイ、ビルマ(ミャンマー)などの南方諸地域へと伝播された。いわゆる北方佛教(北伝)と南方佛教(南伝)と称される所以である。 わが天台宗は、宗祖傳教大師最澄(766〜822)によって立教開宗された。その具体的内容は、天台法華宗の独立、一乗佛教の闡明(せんめい)、そして大乗戒壇の建立という鴻業にあったことは言うまでもない。しかし、その背景には、宗祖の入唐求法による中国天台との出合いがあったことを銘記すべきである。このことは、インドから中国へ伝承されたいわゆる北伝佛教の源流を、宗祖自らが確認したことを意味している。圓、密、禅、戒の四宗相承という宗祖の宗教的歩みは、実に、入唐という歴史的事実によって体験されたものであり、そのことが、宗祖の一乗佛教建立として意味づけられる所以である。 「天台宗は、宗祖大師立教開宗の本義に基づいて、圓教、密教、禅法、戒法、念佛等いずれも法華一乗の敬意をもって融合し、これを実疏する。」(天台宗宗憲第五条)とした宗憲が余蘊なく示している。 この歴史的背景を確認するためには、宗祖が、入唐求法において、高祖天台智者大師智(ちぎ 538〜597)の流れを汲む中国天台の祖師たちを通じて何を学び、何を付託されたかという、中国天台との連動に深く想いをいたすべきであろう。南無高祖天台智者大師、南無宗祖根本傳教大師と称える所以でもある。 もとより、天台宗は、宗祖大師の立教開宗の本義に基づく(宗憲)のであるが、宗徒としての今日的自覚は、宗祖大師の願文を深く味わい、その烈々たる宗教的信念に直参することにあろう。大師自身が、若くして霊山(りょうぜん)の釋尊に想いを馳せ、「牟尼(釋迦牟尼佛)の日は久しく隠れて、慈尊(慈氏大悲尊・彌勒佛)の月いまだ照らさず」という混濁の時代意識の中で自己をみつめ、且つ、「解脱の味い独り飲まず、安楽の果独り証せず」と誓った。この誓願こそ、大乗佛教の精髄を披瀝吐露した菩薩行の実践であったことを、いま改めて再確認すべきであろう。 また、法華経を所依経典とする宗義に照応するとき、高祖大師の教相判釋(きょうそうはんじゃく)にみる佛教観、その著述三大部に凝縮された教観二門に対する再確認が、われわれ僧侶に深く要望されるであろう。それによって、僧侶の一人ひとりが、天台宗の依って以て立つ位置づけを自覚し、僧侶としての信念を確立することに連なる。 一方、僧侶の日常生活にとって、佛教儀礼、儀式作法は不可欠の要因である。天台宗の年中行事、及び儀礼、作法に対する正しい理解とその実践があってこそ、解行相応(げぎょうそうおう)と言われる所以である。  
宗祖傳教大師とその教え
【宗祖傳教大師略伝】
天台宗宗祖傳教大師(766〜822)、僧としての名は最澄である。幼名は広野といい、天平神護2年(766)近江国滋賀郡で、三津首浄足〔百枝〕の子として生まれた。母は後世の『傳教大師由緒』(16世紀初)に中務少輔鷲取の娘藤子と伝える。宝亀9年(778)13歳で広野は近江国分寺寺主行表に師事し、宝亀11年(780)15歳で行表を戒師として得度、最澄と名づけられた。延暦4年(785)20歳の4月、最澄は東大寺で具足戒を受け僧(比丘)となった。その7月頃ただちに比叡山に入山し、僧としての決意をこめて『願文』を著わした。 延暦7年(788)、比叡山上に一乗止観院を創建し、そこに自ら薬師如来を刻んで安置し、「あきらけく 後の佛のみよまでも 光つたへよ 法のともし火」と詠んで燈を点じたという。 延暦16年(797)、最澄は32歳にして内供奉に任ぜられ、天皇の側近に侍して加護する役となり、また山上に一切経を完備すべく奈良、東国などの僧たちの助力をあおいだ。 こうして最澄は、大乗・一乗の佛教を求めてついに中国の高祖天台大師智(538〜597)の著作に出あい傾倒していった。延暦17年(798)、智の忌日11月24日を期して法華十講をはじめた。延暦21年(802)、桓武朝廷の重臣和気氏の主宰する高雄山寺の講経に招かれ、その天台教学への造詣の深さをみとめられ、ついに入唐して天台宗を伝えることを嘱され、還学生に任じられた。 延暦23年(804)7月6日、最澄は訳語僧として義真を伴ない九州を発した。明州に着き天台山をめざし、台州で道邃に受法し、天台山で行満に受法、さらに禅を脩然から受法。翌年4月、越州で順暁から密教を伝えた。そして、6月対馬を経て帰朝した。 9月、高雄山寺で奈良の学僧らに日本ではじめて密教の潅頂を授け、入唐求法の成果をあきらかにした。 延暦25年(806)1月3日、諸宗に天台宗を加え、年分度者を奏請、26日これが認められ、天台宗の開宗をみた。 天台宗の年分度者は、智の著『摩詞止観』を専攻する一名と、密教の代表的経典『大日経』を専攻する一名との二名と決められたが、日本に初めて最澄が密教を伝えたことを反映していることに特色があった。 この年8月、のちに真言宗を開く弘法大師空海が唐から帰った。最澄と空海とはともに入唐し、空海は唐都長安で恵果から密教を伝えた。最澄は早速空海との交際をはじめ、密教の年分度者の教育に助勢を請い、空海の伝えた密教を学んだ。 弘仁9年(818)、最澄は、比叡山を大乗菩薩の教団とするため、天台宗の年分度者の得度受戒はすべて大乗菩薩戒にもとづき、大乗菩薩僧とする構想をかため、5月、「菩薩出家を請う表」「天台法華宗年分学生式」「比叡山天台法華院得業学生式」を著わして上表、8月に「勧奨天台宗年分学生式」を上表した。この主張は僧綱の反対にあい、翌10年3月、「大乗戒を立てんことを請う表」と「天台法華宗年分度者回小向大式」を上表して、大乗と小乗との区別を主張した。 大乗菩藻戒による得度受戒の制度は、依然として許されず、最澄は『顕戒論』を著わしてその主張の根拠を明確にした。 一方、弘仁8年(817)東国におもむくなどして、六所宝塔を建立し、法華一乗によってこの国を護ろうとした最澄に対して、法相宗の徳一らが彿教修行者には、声開、緑覚そして菩産の三乗の差があるべきだとして、三乗、一乗いずれが真実であるかの論争が行われた。『守護国界章』『法華秀句』などは最澄が一乗真実を主張して徳一を破った論著である。 大乗菩蔵戒の認可が得られぬまま、弘仁13(822)年を迎える。最澄は健康を害し、『遺誡』を門弟たちに伝え、その志をつぐよう遺嘱して、ついに6月4日、中道院において入寂した。そして、その11日、嵯峨天皇は比叡山における大乗菩薩戒による受戒を聴許し、その使いが来山した。  
宗祖傳教大師「願文」とその趣意
【願文】
悠悠たる三界は、純ら苦にして安きことなく、擾々たる四生は、ただ患いにして楽しからず。牟尼の日久しく隠れて、慈尊の月いまだ照らさず。三災の危うきに近づき、五濁の深きに没む。しかのみならず、風命保ち難く、露体消え易し。草堂楽しみなしといえども、しかも老少白骨を散じ曝し、土室闇くせましといえども、しかも貴賎魂魄を争い宿す。かれをみ、おのれをかえりみるに、この理必定せり。仙丸いまだ服さざれば、遊魂留め難し。命通いまだ得ざれば、死辰いつとか定めん。 生けるとき善を作さずんば、死する日獄の薪と成らん。得難くして移り易きはそれ人身なり。発し難くして忘れ易きはこれ善心なり。ここをもって、法皇牟尼は、大海の針、妙高の線を仮りて、人身の得難きことを喩況す。古賢禹王は、一寸の陰、半寸の暇を惜しみて、一生の空しく過ぐることを歎勧せり。因なくして果を得る、この処りあることなく、善なくして苦を免がるる、この処りあることなし。 伏して己が行迹を尋ね思うに、無戒にして竊かに四事の労りを受け、愚痴にしてまた四生の怨となる。このゆえに、未曾有因縁経にいわく、施すものは天に生まれ、受くるものは獄に入る、と。提韋女人の四事の供は、末利夫人の福とあらわれ、貪著利養の五衆の果は、石女担輿の罪と顕わる。明らかなるかな善悪の因果、たれか有慙の人か、この典を信ぜざらんや。しかればすなわち、苦の因を知りて、しかも、苦の果を畏れざるを、釋尊は闡提と遮したまい、人身を得ていたずらに善業をなさざるを、聖教には空手と嘖めたまえり。ここにおいて、愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄、上は諸佛に違い、中は皇法に背き、下は孝礼を欠けり。謹しんで、迷狂の心に随い、三二の願を発す。無所得をもって方便となし、無上第一義のために、金剛不壊不退の心願を発ん。 われいまだ六根相似の位を得ざるよりこのかた、出仮せじ。(その一) いまだ理を照らすの心を得ざるよりこのかた。才芸あらじ。(その二) いまだ浄戒を具足することを得ざるよりこのかた、檀主の法会に預らじ。(その三) いまだ般若の心を得ざるよりこのかた、世間人事の縁務に著せじ。相似の位を除く。(そ の四) 三際の中間に修するところの功徳は、独り己が身に受けず、普ねく有識に回施して、ことごとくみな無上菩提を得せしめん。(その五) 伏して願わくは、解脱の味い、独り飲まず、安楽の果独り証せず。法界の衆生と同じく、妙覺に登り、法界の衆生と同じく、妙味を服せん。若しこの願力に依りて、六根相似の位に至り、若し五神通を得ん時は、かならず自度を取らず、正位を証せず、一切に著せざらん。 願わくは、かならず、今生無作無縁の四弘臥誓願に引導せられて、周く法界を旋り、遍ねく六道に入り、佛国土を浄め、衆生を成就して、未来際を尽すまで、恒に佛事を作さん。 〇三界…欲界、色界、無色界。〇四生…卵生、胎生、湿生、化生。一切衆生のこと。○牟尼の日…釋尊。○慈尊の月=・釋迦滅後五十六億七千万年を経て兜率天から娑婆に下生するという彌勒佛。〇三災…小の三災は刀兵・疾病・飢饉。大の三災は火災・水災・風災で世界を構成する火輪・水輪・風輪の三要素が壊滅すること。〇五濁…劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命滞。○草堂・土室…葬儀の殯堂と地下の墓室。○命通…宿命通、五神通の一。○獄の薪…地獄の炎に焼かれるもの。○法皇牟尼・・・・釋尊。○大海の針…大海に落した針を捜す難かしさをいう。『菩薩処胎経』七。○妙高の線…妙高すなわち須彌山から垂らした糸を麓の針の穴に通そうとする難かしさ。『提謂波利経』。○禹王…中国夏の祖。○無戒:・戒律を十分守れないこと。〇四事・・・衣服・飲食・寝具・医薬、僧に支給された。○未曽有因縁経…五人の偽修行者に提謂は布施を専らにした。その報で提謂は波斯匿王の妃末利と生まれかわり、偽修行者はその輿を担ぐものに生まれかわったとする。○有慙の人…反省の心を持つもの。○闡提…一闡提。icchantikaの音写。善なる根性を喪失してしまったもの。○空手…宝の山に入りなにも取らずに帰るもの。○極愚・極狂…天台大師の『天台小止観』によれば、禅定に偏るものを愚といい、智恵に偏るものを狂としている。○金剛不壊不退・・・金剛、タイヤモンドのようにこわれずしりぞかぬ堅固な。〇六根相似位…眼耳鼻舌身意の六根が佛の六根と相似になる位。天台大師の立てる理即・名字即・観行即・相似即・分証即・究竟即の六即の第三段階。○出仮…化他のために俗世に出ること。○世間人事の緑務・・・世間の緑務、工芸、医術、卜占、数学など。人事の緑務、人間の交際など。○檀主…施主。〇三際の中間・・・前際・中際・後際。過去・現在・未来。中間は現在。○有識…有情、衆生。○妙覚・・・究極の彿位。〇五神通・・・天耳通・天眼通・宿命通・他心通・神足通。漏尽通を加え六神通。○無作無縁の四弘誓願…決まった方法、限定された対象を越えた四弘誓願。〇六道…六趣。地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人道、天道。
【趣 意】
衆生は苦しみ患いにしずんでおり、釋尊は入滅して、未来の佛である彌勒佛もいまだ下生していない。災いや濁りに満ちみちている。しかも、人の命ははかない。人間として生まれることは大変稀なことだといわれる。人間として生まれたからには、この短い一生のうちに善なることをしておかなければ、後生は苦しみを得てしまうにきまっている。禅定も、智恵も満足でないわたしは、その最低最下のなかから心をこめて誓いを立てよう。 一つに、彿とほとんど同じすがたになれぬうちは化他の行に出ない。 二つに、佛教の真理を身につけぬうちは、技術、芸術などに手を染めない。 三つに、戒律を正しくたもてぬうちは、施主の法会にたずさわらない。 四つに、すべて空と悟ってとらわれのない心を体得できぬうちは、生活のための仕事やひととのつきあいなどに専念することはしない。佛とほとんど同じすがたになれれば別である。 五つに、いまの修行の功徳をひとりじめにせず、生きとし生けるもののこの上ないさとりのために回向する。 こうした誓いによって、われひとともに彿果を証し、六根相似になり、五神通が得られたなら、それに執着せず、まずひとのさとりを実現させたい。こうした誓いのもとに、法界をめぐり、六道におもむき、みなのさとりが実現できるよう未来の際まで修行をつづけようと思う。 宗祖傳教大師最澄が、比叡山入山直後の二十歳そこそこでうちたてた誓願は、みずからを極愚極狂塵禿底下と自覚し、厳しい目標をかかげ、しかも他を先にし自らを後にしてすべてのものに、佛のさとりを得させようとする菩薩としての大誓願である。 
宗祖傳教大師と天台法華宗
【総説】
宗祖傳教大師の出発点は、近江国分寺行表への師事にある。そのもとで得度し、東大寺で具足戒を受け比丘となる。行表の示唆として、『内証佛法相承血脈譜』に「心を一乗に帰すべし」とある。一乗佛教を求めて最澄は、天台大師智の教学に遭遇し、鑑真(688〜763)が将来した智の著作を読破しこれに傾倒した。 延暦21年(801)以来、三論宗と法相宗にかぎられていた佛教界は第三の宗として天台宗に関心を示し、和気氏の氏寺高堆山寺で天台三大部の講筵が開かれ、最澄もこれに加わった。これを機会に天台宗の将来弘布は最澄に托され、最澄は還学僧として入唐することになった。 最澄は、三論・法相二宗は論宗、天台宗は経宗と判定し、経宗は本、論宗は末とした。最澄は入唐して、智以来六祖の荊渓大師湛然(711〜782)門下の道ずいと行満から天台法華教学を伝えた。あわせて道ずいからは天台宗に連綿と伝えられた大乗菩薩戒を受けた。ほかに、順暁らから密教を伝え、修然からは禅を伝えた。そのいずれも、一乗佛教という基準にかなっているといえる。最澄が帰朝すると、密教を初めて伝えたことが注目され、諸宗の僧や桓武天皇の名代への潅頂などを行なった。延暦25年(806)天台法華宗を加えて諸宗に年分度者があてられた。それは最澄の上奏によるもので、華厳宗、天台法華宗、律宗、三論宗(成実宗を付す)、法相宗(倶合宗を付す)にわたり既に伝わった諸宗の復活をはかった。 天台宗の年分度者二人は、智著『摩珂止観』と密教経典『大日経』とを専攻した。密教については、空海から典籍を借覧し、最澄は門弟とともに潅頂を受け、門弟に空海のもとで密教を学ばせた。最澄の主張は天台法華圓教と密教とは一乗のゆえに一致するとする圓密一致にあった。空海の密勝顕劣の説に対し、台密の基本は圓密一致である。 天台教学の面でも、最澄将来の典籍は国家規模で書写が進められ、ようやく学僧たちの検討を経ることになって、法相宗と天台宗との間などに教学論争が盛んになった。その代表的なものが、最澄が東国に赴いた際にはじめられた法相宗徳一との論争であった。 『法華経』安楽行品によれば、初心の菩薩は小乗佛教を離れて修行すべきだとする。最澄は比叡山の天台宗を一向大乗の宗派にすべく、大乗菩薩戒による得度、受戒の制度を企図し学生式をつくって上奏した。しかし国家の僧制に変更を迫り、従来の佛教を小乗と決めつけることでもあったので、諸宗はこぞってこれに反対を表明した。一向大乗の寺には大乗上座文珠菩薩をおき、『梵網菩薩戒経』に出る十重四十八軽戒を、釋尊を戒師とし、文殊、彌勒二菩薩を羯磨、教授阿闍梨とする三師と現前伝戒師から伝えるとする。これが最澄のめざしたところであったが、その寂後にその聴許をみて、弘仁14年(823)4月14日、最澄をついだ義真を伝戒師として延暦寺ではじめて新制による大乗菩薩戒授戒会が行われた。  
内証佛法相承血脈譜
宗祖傳教大師最澄が伝えている佛教の内容は、得度の師である近江国分寺寺主行表の「心を一乗に帰すべし」との示唆にもとづいて、一乗佛教、すなわち、だれでも佛になれるという佛教の目標を実現できるとする理念を基本としている。『内証佛法相承血脈譜』 に表明するところによれば、入唐以前の素養として達磨以来の禅法を行表から伝えたとする。そして入唐して、道ずいと行満とから天台法華圓教を伝え、道ずいから天台圓教菩薩戒を授かったとする。さらに密教については、『大日経』による胎蔵界と、『金剛頂経』による金剛界とがそれぞれ善無畏、不空を経て順暁に伝わり、両界を一具として最澄が伝えたとする。さらに、雑曼荼羅として、佛頂、千手観音、如意輪観音、冥道供、普集会壇、軍荼利法など、天台山の惟象、明州の江祕、霊光らから伝えたとしている。 これら諸法門を圓密禅戒の四宗といい、『血脈譜』は四宗相承をあきらかにしており、四宗ともに『法華経』一乗圓教に帰一するから、四宗融合こそ最澄の佛教のあり方だといわれる。
【学生式】
弘仁9年(818)に最澄は一向大乗寺の構想を一連の学生式として表明した。5月の『天台法華宗年分学生式』は六条式といわれ、「国宝とは何物ぞ、道心有る人を名づけて国宝となす」と書き出され、古哲古人の言を引き「一隅を興らす」「能く行い能く言う」ものを国宝であるとする。 行と言とから能行能言は国宝、能行不能言は国用、能言不能行は国師、そして不能行不能言は国賊とする。この六条式の条項は、僧籍を立てぬ。佛子の号を名のる。圓十善戒で得度し菩薩沙彌とする。度牒に太政官印(第一条)。得度の年に佛子戒で菩薩僧となる。戒牒に太政官印。十二年籠山(第二条)。止観業は大乗経典、遮那業は諸真言を護国のために唱誦(第三、四条)。籠山後、国師、国用は諸宗の僧に伍して諸国の講師に、国宝は比叡山で後進の指導に(第五条)。諸国講師任用後、冬夏の法服の施科は諸国に収め民生に活用させる(第六条)。とする。 ついでの『比叡山天台法華院得業学生式』では、年分学生の前段階として得業学生を設け、止観遮那両業各九人九年間の修行を課して、及第したものから年分度者選考の試験を受けられるとした。 同年8月の「勧奨天台宗年分学生式』は、八条式ともいう。得業学生を各業六人、六年間に変更(第一条)。得業学生の費用は私弁(第二条)。得業学生の進退は官に申告(第三条)。得度、受戒、籠山の制。籠山中初六年間慧、後六年は思修。止観業は四種三昧、遮那業は三部の念誦(第四条)。年分学生の生活費(第五条)。他宗からの転寺(第六条)。籠山修了後の僧位(第七条)。比叡山に俗別当を置くこと(第八条)を規定。 なおこの構想が認可されず、弘仁10年(819)3月『天台法華宗年分度者回小向大式』を上表した。四条式とよばれる。佛寺に一向小乗寺、一向大乗寺、大小兼行寺とある(第一条)。一向小乗寺上座は賓頭廬尊者、一向大乗寺上座は文殊菩薩(第二条)。小乗戒は『四分律』の二百五十条等の戒。大乗戒は『梵網菩薩戒経』の十重四十八軽戒(第三条)。小乗戒は三師七証により、大乗戒は不現前三師と現前伝戒師により伝授(第四条)と、小乗と大乗は峻別されることを明示し、天台法華宗は一向大乗寺であるとする。四条式には、天台法華宗学生得業以後仮に小乗戒を受けることを許すこと、菩薩僧が護国に力を持っていること、大乗菩薩僧は真俗一貫の戒律であることなどを主張している。 「学生式」では、菩薩僧養成の方法として得度、受戒を大乗菩薩戒によって行うことにしている。この戒は十重四十八軽の計五八戒に出家在家にわたる戒を列ねており、真俗一貫しているとされる。また止観業、遮那業年分度者に、智のいう四種三昧(常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧)と三部念誦(佛部・蓮華部・金剛部の胎蔵界三部諸尊への供養法)を課すことをあきらかにして、十二年籠山という山修山学の修行内容を詳しくきめている。そして、天台宗年分学生の将来の進路をも規定している。
【顕戒論】
大乗菩薩戒による得度、受戒制度を主張する天台法華宗の構想は、四条式で小乗と大乗とを明確に区分した。この四条式に対する僧綱の「大日本六統表」に対して、最澄は「四条式」の主張の根拠を顕戒論』三巻に著わして上進した。 天台法華宗の年分度者が、大乗菩薩戒によって得度受戒し、比叡山を一向大乗の寺とするにあたって、最澄はみずから伝えていた具足戒を小乗戒としてこれの棄捨を宣言したという。小戒棄捨という。 この一向大乗寺の構想は、『法華経』安楽行品の「不共声開」すなわち小乗声開とともに受学しないという主張に出ており、圓頓妙戒としての天台宗に伝持されてきた菩薩戒を用いて大乗の大僧戒(菩薩僧の戒)としたのであった。後世この戒の所依を、正依法華傍依梵網等と議論することになる。 『顕戒論』三巻では、その跋に出るように、最澄によって天台宗が日本に伝えられ、宗が開かれ学生が養成されたことで、法華一乗圓教の定慧二学は整ったが、ここに圓の戒を樹立し、圓の三学の具備をはかろうとした意図が、詳細な根拠を引いてあきらかにされている。 注目すべき主張は、まず、「辺州欠学」とまで評して最澄の主張を批判する僧綱に対して、「不忠」であるとまで決めつけ、大乗菩薩こそ護国の実をあげられるという。 そして、いまこそ一向大乗の僧をこの国に養成すべきで、それはインド、中国にもその僧制の根拠が求められるとする。具体的には一向大乗寺の建立と、文殊上座制の確立をめざす。つづいて、大乗菩薩戒においては真俗一貫を基本とするが菩薩出家が存在しうることを論証する。そして、さらに護国の転経念誦の根拠、十二年籠山の根拠、山修山学の根拠などにおよぶ。
【守護国界章】
弘仁8年(817)、一切経書写に助力してくれた東国下野大慈寺の道忠らに礼をつくし、六所宝塔の安北、安東の塔を建立するため東国に赴いた最澄は会津恵日寺を拠点とする徳一の『佛性抄』を受け、三乗、一乗の教えの権か実かの論争をはじめた。最澄は『照権実鏡』を著わし、一〇ヵ条にわたり、三乗は権、一乗は実の主張を展開した。 この論争はつづいて、徳一が『中辺義鏡』を著わし、智の三大部の所説の一一に対して法相宗の立場から批判を加えた。最澄はこれに対し『守譲国界章』をもって反論している。法相宗のたてる五種性は、『解深密経』により、@菩薩定性、A独覚定性、B声聞定性、C三乗不定性、D無性有情の五で、ABの定性二乗とDの無性有情には成佛がないとする。これに対し最澄は、二乗および三乗の差は権りの立場、みな一佛乗、一乗に帰し皆成佛するという。 また、『法華経』について、徳一は方便の教え、定性二乗不成佛を論証し、最澄はこれに対し、『法華経』は真実の教えであり、一切衆生皆成佛を主張する。 徳一と最澄の三一権実論争は、徳一が『遮異見章』『恵日羽足』で『守護国界章』を批判し、最澄は『決権実論』を著わして反論する。また、中国唐の基の著『成唯識論枢要』をめぐつて、徳一がこれを論拠とするのに対し最澄は『通六九証破比量文』を広い立場から批判した。
【法華秀句】
『法華秀句』は、最澄が徳一との論争の最後に著わしている。内容は「法華十勝」を列ねて『法華経』の一乗の正義を宣揚している。最澄はこのなかで、巻中にインド、中国の佛性論争を整理するがこれは別の書とすべきとされる。『法華経』は果分の教、他経は因分の教とすること、即身成佛の論理を龍女成佛に関して主張するなど注目される。
宗祖傳教大師御遺戒とその趣旨
○(弘仁13年)夏4月、諸弟子等に告げていわく、我が命久しく存せず。若し我が滅後、皆服を著することなかれ。山中の同法、佛の制戒に依って酒を飲むことを得ず。若し此れに違わば我が同法にあらず。佛弟子にあらず。早速に擯出して山家の界地を践ましむることを得ざれ。 若し合薬の為にも山院に入ることなかれ。女人の輩を寺側に近づくることを得ざれ。何に況んや院内洗浄の地をや。毎日諸大乗経を長講して、慇懃精進して法をして久しく住せしめよ。国家を利せんが為め、群生を度せんが為なり。努力努力。 我が同法等、四種三昧を懈怠することなかれ。兼て毎月潅頂の時節護摩し、佛法を紹隆して以て国恩に答えよ。 但我れ鄭重に此の間に託生して一乗を習学し、一乗を弘通せん。若し心を同うせん者は道を守り道を修し相い思うて相い待て。(叡山大師伝) ○大師告げて言く、我れ生れてより以来、口に?言無く、手に苔罰せず。今我が同法、童子を打たずんば、我が為に大恩なり。努力努力。(叡山大師伝) ○遺戒の文に云く、第一は定階なり。我が一衆の中、先に大乗戒を受くる者は先に坐し、後に大乗戒を受けし者は後に坐すべし。若し集会の日、一切の所には内に菩薩行を秘し、外には声聞の像を現じて、沙彌の次に居すべし。他の為に譲らるる者を除く。第二は用心なり。初めに如来の室に入り、次に如来の衣を著し、終に如来の座に坐せよ。第三に充衣なり。上品の人は路側の浄衣、中品の人は東土の商布、下品の人は乞索随得衣(乞い索めて随って得たる衣)なり。第四は充供なり。上品の人は不求自得食、中品の人は清浄乞食、下品の人は?施受くべし。第五に充房なり。上品の人は小竹の円房、中品の人は三間の板屋、下品の人は方丈の固室。造房の料、修理の分には、秋の節に檀を行ぜよ。諸国の一升の米、城下の一文の銭。第六に充臥具なり。上品の人は小竹藁等、中品の人は一席一薦、下品の人は一畳一席なり。 故に、巨畝の地価は是れ我等が分にあらず、万余の食封は是れ我等が分にあらず。僧統所検の天下の伽藍は、是れ我等が房にあらず。大師釋迦、多宝分身来集の日、文殊の問に答えて、声聞を求むる者を問訊することを許さず。一講堂中に共住することを許さず。一経行処に共行することを許さず。ここをもって、朝来に乞食し、撮飯を受けて山中の飢口に供し、檀を秋節に行じ等布を納れて雪下の裸身に著けよ。衣食の外、更に望むところなし、但だ出仮利生をば除くなり。  (叡山大師伝) ○(弘仁13年)5月15日付属の書に云く 最澄、心形久しく労して一生ここに窮まる。天台の一宗、先帝の公験に依り、同じく前の入唐天台受法沙門義真に授くること已に畢んぬ。今より以後、一家の学生等、一事已上違背することを得ざれ。(叡山大師伝) ○怨を以て怨に報ずれば、怨止まず。徳を以て怨に報ずれば、怨即ち尽く。長夜の夢裏の事を憎むことなかれ、法性真如の境を信ずべし。(伝述一心戒文巻上) ○彼の時、師云く、我が為に佛を作ることなかれ、我が為に経を写すことなかれ、我が志を述べよ。(伝述一心戒文巻中) ○最澄法師云く、桓武天皇御願の宗を建立すること、二師弘められたり。道人を弘め、人、道を弘む。道心の中に衣食有り、衣食の中に道心なし。(伝述一心戒文巻下)
【解説】
○(弘仁13年)夏4月…病床にあった宗祖大師が、一山同法に後事を託したもの。(一)服喪しないこと。(二)禁酒の制。(三)女人禁制。(四)長講の業。(五)四種三昧と潅頂護摩。(六)託生の誓い。 ○大師告げて言く…一山で僧侶の身辺を世話するひとぴとへのあらあらしい言葉、打擲を禁じたもの。 〇遺誠の文に云く…(一)定階−座次。(二)用心−三軌。(三)充衣−衣服。(四)充供−飲食。(五)充房−住居について制したもの。法体の維持と住持佛法出仮利生を旨とすべきことを定める。 ○(弘仁13年)5月15日付属の書…公験すなわち公的な文書により、義真師を後継とすることを宣言したもの。 〇怨を以て怨に報ずれば…怨恨を抱かぬようにとは、具体的には早世した同法宏勝および命延の両霊に対する鎮魂の辞。そのまま後進への誠めとなっている。 〇彼の時、師云く…没後の供養を制した遺言、追善のため造佛写経をするよりも、宗祖の志願を実現してほしいという意。 ○最澄法師云く…宗祖大師が後継者を定めるに際し、これまでの義真、圓澄二師の功績をたたえ、今後宗を弘めるための心がけをのべた。道心、菩提心すなわち前むきに佛法に生きることをよしとする。  
日本天台の発展
【総説】
宗祖なき後、修禅大師義真和尚が伝法師(座主の先称)となって一山を統裁し、一乗止観院は延暦寺の寺額を勅賜された。大講堂・戒壇院等一山の整備に心を用い、天長勅撰六本宗書の一つ『天台法華宗義集』も上奏された。義真和尚の後同門の寂光大師圓澄和尚が伝法師を継ぎ、西塔院を落成されたが、僅かに二年の在位でしかなかった。その後複雑な事情があったのであろう、別当大師光定和尚が伝戒師として諸事を決裁し、慈覚大師圓仁和尚が唐から帰り、仁寿4年(854)正式に座主の任命を受けるまで、15年に及ぶ間伝法師の相続はなかった。慈覚大師の九年間の入唐求法の実際と辛苦の様相は『入唐求法巡礼行記』に詳しく残されている。大師の求法は、圓・禅・密・浄・悉曇等に亘るが、それによって台密の充実と圓教との融合、常行三昧・法華三昧の改伝、その他諸の行儀の始修あり、また東塔を意味する法華総持院の建立、横川の創始もなされた。圓仁大和尚の活動は全く師最澄宗祖を信仰するところからなされたもので、傳教・慈覚の両大師号が同時に下賜されたのも意味があろう。 慈覚大師遷化の後、羽州講師として赴き、また『愍論弁惑章』の著作のある安恵和尚、台密事相に秀でた恵亮和尚、『即身成佛義』を作った憐昭和尚、回峰行の祖とされる相応和尚、台密の興隆と歌人として名のある遍昭僧正、そして慈覚大師の門人であり、後に遍昭僧正に師事した五大院安然先徳に至って比叡山の佛教は盤石の安きに置かれた。安然先徳は「顕密の博士」と推称される如く、圓・密・悉曇・圓頓戒等にわたって卓越した識見を披露し、阿覚大師と尊赦せられた。 一方義真和偽の門、智証大師圓珍和尚が入唐、五年間在唐し、圓密の要義、倶舎、因明、悉曇を学び、慈覚大師が五八九部八〇二巻の経疏を将来したと同様、四四〇余部一千巻に及ぶ典籍をもたらした。圓珍和尚は三井園城寺を天台別院とし、後には寺門天台の開祖とされるが、台密の充実に力を尽くし、将来した倶舎、因明についてもその学を伝えた。特に山王信仰確立に努め、大小山王神のために年分度者二人をも許されている。安恵座主を襲いで第五世座主となり、滅後智証大師の号を勅賜された。後その系列には増命・尊意和尚等台密事相に優れた者が少なくはなかったけれども、やがて山寺両門の確執を生じたことは遺憾である。 かくして比叡山の教学も充実し、年分度者の増員、堂舎の整備、田地の施入など相次いで、経営の基礎は固まった。更に宗祖大師の東国・九州の教化に始まり、慈覚大師、安恵座主、蓮剛和尚などによる地方教化も盛んで、各地に天台別院とされるものがあった。しかし開宗以来安然先徳に至る間は、圓・密・戒学ともに充実し、圓密一致の教義の確立に目覚ましいものがあったが、その後は概して各方面に亘って振わなかった。特に承平5年(935)から引続いて火災による堂宇の焼失があり、甚しく山中は荒涼を極めたようで、復興は慈恵大師を待たなければならなかった。 慈恵大師良源大僧正は第十八世座主として二十年間在位し、その間中堂を初めとして三塔の復興には目覚ましいものがあった。更に二十六条式を定めて僧風の刷新を計り、広学竪義を始め教学の隆盛をもたらした。大師の門下は多士済々で、性空上人、増賀聖、覚運僧正、恵心僧都等枚挙に遑がない。それは諸宗を超えて天台の佛教が隆盛になった時代であった。台密事相の隆盛から、本来の天台圓宗即ち法華経の思想信仰が盛んとなり、加えて阿彌陀佛の信仰が極めて旺盛となった。恵心僧都の『往生要集』は浄土信仰の開花のもととなった。 時恰かも会昌の法難以来衰微の極にあった中国の天台も、四明知礼尊者によって復興最盛期を迎えた。しかし日本天台は四宗を共に伝えて、既に趙宋の天台とは異った形で遥かにこれを凌駕するものがあった。けれども入宋僧も相次いだので、趙宋天台等の教学も伝えられ、その影響も皆無ではなかった。国内では台密に幾多の流派を派生したが、法華経そのものの理解の進展と圓密一致の思想信仰にもよるところがあって、本覚思想が高調され、恵心檀那の両流口傳法門が興った。のみならず天台法華教学の一般への流行は、文芸の上にも大いに影響するところがあった。 さきに恵心僧都に先導された浄土信仰の勃興に一言触れたが、宗祖大師の一乗佛教は、その機運の熟するところ、浄土・禅・日蓮等多くの新宗の開華があった。更に内部にあっても声明道、山王神道等の確立があった。 久寿三年(一一五八)堀川院の皇子最雲親王が第四十九世天台座主となられてから、覚快・承仁・真性親王などが座主となられたが、特に後醍醐天皇の第一・第八皇子が座主職につかれ皇室との関係は愈深く、南朝建武の中興に与った比叡山の力は極めて強かった。その主力は僧兵であったが、その力が強大になるに従い乱行を事とした。その結果遂に織田信長によって叡山は灰燼に帰した。その間既に関東にはいわゆる田舎天台が繁栄し、その他各地に教学のみるべきものがあって、叡山再興の上には誠に幸運であった。その再興は慈眼大師天海僧正の力を俟って行われた。慈眼大師は日光山・仙波等の面目を一新すると共に、東叡山の開創、比叡山堂塔の建立等にとどまらず、教学の復興に鋭意つとめ、且つ一実神道を宣揚した。 天海大僧正の後、天台の教権は関東に遷り、東叡山管領の宮の統制下におかれた。口傳法門発生以来次第に相承伝受に安逸を貪り、僧風は堕落した。元禄享保の頃妙立・霊空和尚が趙宋四明尊者の教学を鼓吹し、玄旨帰命壇の行儀を邪義として退けひいては口伝主義の教学を匡正しようとした。その安楽派は四分律兼学を立場としたので、真流和尚らが山家の大乗戒顕揚の宗旨に背くとして抗争を繰り返したが、慧澄律師に至って四明天台の天下となった。明治時代における名ある天台の名匠は、ほとんどその門下である。
【法華経】
既に宗祖において『法華経』が諸経中の最勝のものであることや、一乗真実の旨が遺憾なく論じられて、当時南都にも立ち向かって論戦を挑む者はなくなっていた。当然『法華経』を宗とするのであるから、三大部を基準にしてその研鑽を専攻された。圓澄・徳圓・光定各師などによる『唐決集』に、その研鑽の跡を見ることができるが、例せば貞観元年(八五九)天安寺で修された法華八講の会場で、正法華・妙法華・添品法華の三経の文の同異を全通して名誉を得た安恵座主と、その『愍論弁惑章』などがあって、『法華経』研究の着実な模様が察知される。特に智証大師には『法華論記』があり、『法華論』の代表的註書とされる。これより先、慈覚大師は人唐の前、大衆の懇請によって法隆寺や四天王寺に『法華経』を講じ、また病によって横川に隠栖中法華写経を実修し、根本如法堂を造立された。 しかし『唐決』の中でも『法華経』を八教の中のものとするか、超八醍醐とするかの問題や、即身成佛の問題などが問われ、それらは『法華経』と『大日経』との関係を踏まえているようである。智証大師の「法華」を書名に冠するほとんどの著作も、圓密一致即ち、法華と真言教合一を述べることに力を注いでいる。そのことは慈覚大師の顕密二教判、智証大師の五教教判、安然先徳の五教教判など、次第に法華真言一致を標榜しながら密教重視の傾向になっていることも示している。 承平以来度重なる火災のため荒涼を極めた比叡山内は、慈恵大師によって復興せられ、広学竪義の始行は天台法華教学の復興隆盛を来たす基となった。圓密双べ栄えたけれども、恵心憎都の『一乗要決』は宗祖以来の一乗真実の問題を結論し、後の『法華経』流行に拍車をかけたというべきであろう。同時に覚運・院源両僧都等の如く、民間貴族のために法華・三大部等を教授講読することも盛んに行われ、既に康保元年(九六四)には大学学生と叡山の僧とが会合して、法華を互いに学び讃歎する勧学会が始められて、著しい流行をみることとなった。 その間「五時講」や「法華懺法」の如き行事も盛行したが何といっても論義の流行は『法華経』の詳細に亘る研鑽をもたらした。同時に口傳法門が興起し法華経独勝を旗印としたけれども、観心以本を旨とし己証を誇ったので、着実な理解に欠けるものがあった。しかしその時代、宝地房証真哲匠の如き学匠のあったこと、やゝ下って日蓮上人の事観唱題による「法華宗」の開宗なども注意されなければならない。 とにかく四宗融合に浄土信仰が加わっても山王神道が盛んになっても、『法華経』にその帰結が求められたので、四宗あるいは五宗一源といわれる所以である。
【圓戒】
山家大師の理想は法華一乗佛教の信仰と、それによる実際生活の規範としての梵網一乗圓頓の戒によって、社会の平安を期することにあった。そこに真言一乗佛教を伝えて、その重要性を知り、並べ伝えることにしたので、真言一乗の研究を弟子達に托したため、慈覚・智証の両大師は多くの力をそれに注がれた。しかし当時天台教判の中に密教をどう摂入するかの問題や梵網経の廬舎那佛と釋尊との同異、即身成佛の地位の問題などが、圓澄、光定和尚などから入唐の圓載和尚らに托されて、唐決を求めているので、当時の研究の模様が知られる。何といっても重要なことは圓戒伝授の問題であった。四条式の請願は直接には光定阿闍梨や右大臣藤原冬嗣ら四要人の尽力によって、滅後直ちに勅許があった。義真和尚は翌年圓仁和尚を教授師として、十四人に伝戒し、天長四年初めて大乗戒壇院が建立された。ここに本宗の圓戒は名実共に備わることになった。義真・圓澄両師の伝戒は一宗の宗徒に限られていたようであるが、圓仁座主は文徳天皇を始め奉り、皇子・公卿・宮妃など百五十余人に伝戒したという。圓仁座主の『顕揚大戒論』は安恵座主が師の草稿を整理し、寂後二年に発表されたもので、宗祖大師の純大乗戒に対する南都の強烈な非難に抗して、題目に明示する如く、声聞戒のほかに菩薩戒はないとする説等を、諸経論を引いて反駁したものである。圓仁座主には京都に尼戒壇を建てる念願もあったという。 智証大師圓珍は安恵座主を襲いで第五代座主となり、『普賢行法経疏』や『註授菩薩戒儀』の中で大乗菩薩戒を明らかにし、戒壇院において二千人に菩薩の僧戒を授け、道俗に伝戒すること数万人に及んだという。また安然先徳は圓密一致の立場から法華圓教の戒を主張し、圓の三聚浄域を伝受して一得永不失の戒体を得ること、受戒によって六即成彿することを、その『普通授菩薩戒儀広釋』三巻の中に説いている。この圓戒思想が後世に及ぼした影響は極めて大きい。 安然先徳の後山門は次第に荒廃し、戒法は教学と共にはなはだ不振であった。この時慈恵大師良源座主は、既に僧兵の増加する如き戒法弛緩の時、優婆塞戒に過ぎない五戒単受の出家の学業優秀な者は、十重四十八軽戒を護持する菩薩僧と同等と認めた。更には律衣を改めて素絹衣を用いる事とした。律僧に対して官僧と称せられるものである。恰かも破域奨励の如く思われるけれども、時勢と圓戒の本旨を理解した上での、むしろ圓戒弘通者というべく、春秋二季の戒壇院の授戒金施行や楞厳院の布薩を厳重に行なった。慈覚大師の後、戒脈は次第に継承されて良忍上人に至る。その間明尊大僧正は山寺両門の軋轢のため三井園城寺に三摩耶戒壇造立を願い、後その勅許を得たが、山徒のため戒壇を焼かれ実現しなかった。 慈覚大師流と称せられる戒脈は聖応大師良忍上人から法然上人を経て、黒谷流、二尊院流、大念彿寺流の三流が派生した。また法然源空上人から直接浄土宗の戒脈となったものの中に、西山派から三鈷寺流と廬山寺流とが分かれ、共に圓戒を興隆しその間圓戒復興に努力した人師もあった。黒谷流は後に元応寺流と法勝寺流とに分かれ、恵尋上人から相次いで圓戒復興に尽力し、興圓の如きは十二年籠山を復興した。その元応・法勝二流では、重授戒潅頂という特殊な授戒儀則を考案して秘伝し遠国四箇の戒場が設けられた。当時は総体的に観心主義教学が盛行し、理戒思想が旺盛で事戒々行は全く地に堕ちていた。また文明の頃、黒谷に隠遁していた真盛上人は『往生要集』に導かれて、戒称二門即ち圓戒と念佛とによる法儀を唱えた。その後僧儀の堕落は次第に度を増したようだったが、元禄・享保の頃妙立・霊空和尚らの一門が厳粛な戒律主義を唱え、行儀の面目大いに改まるものがあった。彼等は趙宋四明の学を提唱したので、四分兼学の律儀を宣揚し、安楽律院を創めた。しかしそれは山家大師の圓戒とは抵触するとして、真流圓耳和尚、三井の敬光和尚らが復古運動を起こし、その抗争はいわゆる安楽騒動といわれるが、熾烈を極め明治維新に及んだ。
【論義】
義真座主は南京三会の一たる興福寺維摩会の講師となり、圓澄座主は宮中御齋会後の内論義に出仕し、圓珍座主もまた宮中金光明会において論義に参加し、また維摩会講師にも補されている。それより以前光定和尚も宗祖大師に随従して弘仁五年興福寺に於て宗義を論じ、翌年にもまた義弁を振うところがあった。圓仁和尚は入唐前法隆寺安居、後にまた天王寺に法華、仁王経を講じ、安恵座主も大安寺の法華八講にその名を馳せることがあった。これらはすべて宗祖大師の理想である天台一乗佛教を、南都諸宗の上に宣揚することに与って力があったが、一には南京三会に講師を勤めた者が僧綱に推されることもあって、論義は重要な意味を持つものであった。義真座主の『天台法華宗義集』は、極く着実に『三大部』等の内容を紹介することにおいて、また八義科に要約して説明することに於てその価値を認めるべきであるし、安恵座主の『愍論弁惑章』は、即身成佛、四教証拠、三一権実、定性二乗、三車四車等の重要論目を連ね、堂々と法相宗等の主張に反駁を加えており、安恵座主に並んで玄昭阿闍梨が因明王と称せられ、憐昭和尚並びに安然和尚に『即身成佛義』があり、蓮剛和尚に『定宗論』がある如きは、対他宗の論義として注目すべきものがあった。結局宗祖大師の始修された天台大師会(霜月会)と義真座主の始められた山家会(六月会)はそれらの努力によって、教学の中心となって連綿と続くことになった。 密教全盛の時代となって、法華圓教の研究が奮わなくなったと見えた安然和尚の後も、むしろ三大部や法華経は公卿や文人たちの教養として流行した。この時良源慈恵大師の論義奨励があり、安和元年、広学竪義が六月会に加えられた。この会は南京三会にも匹敵する権威を持つものであった。これより五年前行われた宮中法華十講における良源和尚と仲算との論争は応和宗論として有名であるが、既にこの時二十人の学匠中半数を天台側が占め、その優勢を示している。その傾向が論義の重要性を更に知らせることとなり、竪義の創始となった。ここに優秀な慈恵大師門下が輩出することとなり、教学論義の隆盛をみ、論義の形式も大体整ったと思われる。 義科は篇目を立てて自他宗相対して是非を顕わすもの、宗要は自宗の大事について論じ、問要は宗要から派生して自己や現実問題として把えようとするものであるが、既に天台一乗佛教は自他共に許す優位を占めるものとなったので、むしろ対内的に宗学の深まりを求めて、宗要・問要の定形化が見られる。 その時延久の頃南京三会に匹敵する北京三会が設けられ、天台三会とも称せられた。天台の僧侶は南都の三会によらずとも、北京三会を経て僧綱に任ぜられることになり、これを目途に各谷毎に論場が盛えた。時恰かも本覚思想の旺盛、観心主義の流行が互に影響し合って、口傳法門が論義の中で、また論義の内容が口決相承されて、遂には安易なものとなったものもある。けれども義科・宗要・問要等の類集は悉く鎌倉末期から南北・室町の頃になされ、密教論義・浄土教論義・戒論義・和光論義なども始まった。元亀法難の後は天海大僧正が仙波・日光に於て大いに論義を勤修され、江戸中期願王院智周僧正が公弁法親王の命を受け、霊空和尚の指導を得て『台宗二百題』を定義し、現在もこれによるところが多い。
【口傳法門】
台密に十三流と呼ばれる発展分派があったのに相次いで、天台圓教にも恵心・檀那の八流が平安末期から俄かに興った。圓密一致の教学が安然先徳によって完備することになり、本覚思想が高調される頃から、口傳法門は既に胚胎していた。明瞭な形で現われたのは恵心僧都の系統を引く皇覚の頃で椙生流と呼ばれる。それに対して檀那院覚運僧正の系列に澄豪和尚があって恵光房流と呼ばれた。当時谷々で盛行した論義の発展が、観心を重んじた宗風に助長されて、各々独自の理解を誇った如くで、恵檀に各四流のほか寺門にもまた竜渕・智寂の二派があった。口傳法門が流行したさ中にも毅然とした学風を守った宝地房証真の如き学僧もあった。 口傳法門の特徴は四重興廃を説いて教判とし、『法華経』独勝の立場の上に観心の重を最要としたところにあった。論義の中で、或はそのための『三大部』の講義の中で、独自の創意を口傳したので、個々の口傳の数は千七百ヶ条にも及ぶというが、実数はわからない。恵心流では教行證三重の七箇の大事を構成し、特殊な行法によってこれを伝授した。檀那流もまた七箇を構えるけれども、流派によってその名目 を異にし、むしろ五両一箇の大事が特色とされる。何れにしても一心三観と無作三身とを主体としている。大事や血脈は極端に秘重され、師資唯授一人を尊び、やがては実子相続が主張された。 余り明確ではないが恵心流は横川と西塔と無動寺谷とを本拠としており、檀那流は東塔と西塔黒谷とがそれであった。関東天台(田舎天台)といわれる仙波あたりから、多くの学徒が無動寺で恵心流を学んだこともあって、関東は専ら恵心流であったように思われているが、檀那流も多い。また檀那流の東塔北谷は竹林房流であるが、京都へ下った猪熊流、廬山寺流もあった。 口傳法門は法華独勝を立て前として、一心三観・無作三身を説くのであるけれども、檀那流ではそれを玄旨帰命檀潅頂で伝授したが、その名の如く『法華経』宝塔品の二佛並坐の儀式を顕教潅頂と名づけて、且つ禅宗の公案、道教の北斗信仰、彌陀浄土信仰を合糅した形態のものであった。それは元禄の頃霊空和尚の安楽一派によって排斥され没落した。同時に檀那流黒谷一派には重授戒潅頂が考案された。六即四重の合掌を教え、実相一印の工夫によって事相に授戒の即身成佛を得させようとするものである。元応・法勝の二寺が応仁の乱で衰滅した後、元応寺流は来迎寺に、法勝寺流は西教寺に兼摂せられ、西教寺のものは現在天台真盛宗僧侶の必修の行儀になっている。 顕教潅頂の中に加えられるものに恵心流五重相伝潅頂や和光同塵潅頂もあった。前者は「南無妙法一心観佛」の称念を授け、それが圓密浄戒一致の潅頂であると教える。後者の和光潅頂は山王潅頂のことで、霊山で釋迦多宝二佛が冥合することが潅頂で、俗諦の神明と真諦常住の佛とが冥合することを教える。結局四宗融合を事の上に具現することについて観心を凝らしているのである。当時四家の潅頂というものがあり、顕教を専攻するものは生知妙悟の秘決、密教専攻では都法潅頂、戒家は鎮国授戒、記家は和光潅項とする。鎮国潅頂は恐らく重授戒潅頂であろう。記家は記録を専門とするものの意味であろうが、口傳法門の継承者について名づけられているようである。その記家を代表する者が『渓嵐拾葉集』の編者光宗師らであってみれば、戒家も記家も黒谷一派に関係が深い。 院政時代より以来安楽律一派が興るまでは大方口傳法門の世であったが、その間に厳格な学風を守った宝地房証真哲匠の如き師もなくはなかったし、廬山寺一派の如きも四宗兼学を守り『廬談』と称せられる義科集の如きは、決して単純な口傳を伝えてはいない。  
台密
【歴史的展開】
台密は、宗祖傳教大師、慈覚大師、智証大師が入唐して傳承して来た胎金蘇三部の密教を以て構成され、特に法華経や天台数学との融合の上に成り立っている。 延暦二十四年四月、天台山における求法を終えた傳教大師は、帰国の船に乗る前の一ヶ月、越州の竜興寺で、善無畏の孫弟子順晩阿闍梨に遇い、潅頂道場に導かれ、三部三昧耶の印信(印契と真言)を授かった。この印信には『大日経』と『金剛頂経』の要諦が含まれている。すなわち大師は密教の真髄を得たわけである。 その年の六月、帰朝した大師は、折しも桓武天皇御病のため、その平癒の祈願を懇請されたので、旅の後れを癒す間もなく、九月一日、京都西郊の高雄において、日本最初の潅頂儀式を修した。そして翌二十五年、止観業と遮那業の二人の年分度者を賜わることになったが、ここに圓教(法華経を中心とする天台学)と密教とを総合する、いわゆる圓密一致の天台法門が成立することになった。 弘仁十三年(八二二)大師が遷化なされた後、比叡山における密教は一時衰退したが、承和十四年(八四七)、十年に及ぶ入唐求法を終えて帰朝した慈覚大師圓仁(七九四〜八六四)によって、東密に優る、整備した密教が比叡山に構築された。すなわち圓仁は、揚州で宗叡や全雅から悉曇や梵書を傳授され、長安の都で元政、義真、法全等の大阿闍梨から胎金蘇三部の密教を傳授された。 三部の密教は、インドから唐にかけての密教の、歴史的展開の成果であり、東密の胎金両部の密教に相い並ぶものである。圓仁は『金剛頂経』と『蘇悉地経』に各々七巻の注釋を作ったが、これで唐の善無畏・一行の『大日経義釋』十四巻とともに三部の大経の注釋が揃った。また圓仁は比叡山上に総持院を建立し、鏡護国家を祈る道場としたが、その教理にも儀式にも、多分に蘇悉地部の要素が含まれている。 智証大師圓珍(八一四〜八九一)は、仁寿二年(八五二)から天安二年(八五八)まで入唐求法をし、天台山で天台学を、長安青竜寺で圓仁の師でもあった法全から三部の密教を傳授された。帰朝した圓珍は、多くの功業の中でも特に三部の密教を充実せしめたことと、法華経と密教の融合に努めたことが挙げられる。後年、三井寺の別当となり、以後、その系統の者は三井寺を本據としたが、圓珍の在住した山上の山王院には、唐から将来した膨大な典簿が蔵されていた。 因みに平安朝初期に人唐求法した八師は、台密では最澄、圓仁、圓珍であり、東密では空海、常暁、圓行、慧運、宗叡であるが、台密三師の将来した経論疏の合計一二五五部二二七〇巻は、東密五師の将来した合計三五五部五一三巻(いずれもほとんどが密教書)の、部数では三・五倍、巻数では四・四倍である。もちろん空海は密教史上、傑出した人物であるが、『御靖来目録』に載す二一六部四六一巻の時代と圓仁・圓珍の時代と、典簿や文物において格段の飛躍のあったことが想像される。 続く五大院安然(八四一〜九〇二〜)は、圓仁の弟子であるとともに、圓仁の弟子遍昭の弟子でもある。そして遍昭がひろく多くの傳授を受けていたものを、安然はそのまま受法したので、教相・事相の両方に亘って豊富な知見をもち、『教時問答』四巻、『菩提心義抄』十巻、胎金蘇の『対受記』(事相)等、膨大な著述を遺した。すなわち安然を以て、台密の教相事相は完成の域に達したといえるであろう。 十一世紀のなかばに横川の覚超(九五五〜一〇三七)の川流と池上の皇慶(九七七〜一〇四九)の谷流の二流が始められた。この両者には教相・事相の著述が多いが、特に皇慶説、弟子長宴記の『四十帖決』十五巻は事相の大著として貴重である。この後、密流の分派は盛んに行われ、三昧流良祐、法曼流相実、佛頂流行厳、智泉流覚範、穴太流聖昭等が輩出したが、鎌倉時代初め、臨済の祖栄西(一一四一〜一二一五)は比叡山に葉上流を開き、また小川流の承澄(一二〇五〜一二八二)や澄豪が出た。これらの密流を一口に川谷十三流と赦するが、さらに細かく分派をし、また相互に交流もしている。 この中、良祐の三昧流の系統から青蓮院門跡の慈圓(一一五五〜一二二五)が出た。慈圓は史書「愚管抄』や歌集「拾玉集』で著名であるが、密教の行法には精魂を擬らし、『毘逝』、『法華別帖』、『四帖秘決』等、教相・事相の撰述が多く、台密のみならず、日本密教史上に大きな足跡を遺している。 法曼流相実(〜一一六五)の弟子に静然があり、事相の叢書『行林』八十二巻を出し、鎌倉時代末の承澄の『阿婆縛抄』(現存二二七巻)とともに儀軌集成書の白眉である。また南北朝時代の初め、黒谷の光宗(一二七六〜一三五〇)編の『渓嵐拾葉集』(現存一一六巻)には、台密の事相・教相やそれにまつわる傳承説が豊富に集録されている。少し後れて浄土宗西山派の籍をもつ実導仁空(一三〇九〜一三八八)は、『大日経義釋捜決抄』十二巻、『遮那業案立』五巻をはじめ、台密に関する大部の著作を遺している。徳川時代の初め、天海(一五三六〜一六四三)は、比叡山麓の日吉神社の祭祀を行う山王神道にもとづき、新たに山王一実神道を以て日光東照宮を創祀したが、この中には『法華経』の教理とともに三昧流の思想が傳承されている。 このほか比叡山無動寺を起点として、相応和尚(八三一〜九一八)によって創始された回峯行は、密教の祈願と杜多抖?を綜合した修行で、以後、その傳統は連綿と続き、今日でも幾多の千日大行満行者を輩出している。 修験道は天台宗としては前記の回峯行のほか、三井寺の増誉(一〇二九〜一一一三)が白河上皇の熊野御幸の先達を勤めたころから本山派修験道が形成され、同時期の醍醐寺を中心とする当山派修験道と、その教勢を競った。山門としては回峯行に伴う比良山、また吉野の金峯山、越前の白山、越中の立山、出羽の三山、筑紫の背振山、豊後の国東、播磨の書寫山等に修験の根據地をもっている。 一体に、鎌倉時代以降、天台密教の著作は必ずしも多くはない。その理由は、天台宗には中国天台以来の三大部をはじめ、圓頓戒、浄土教、論義、口傳法門等、各般の教学や実習が共在し、それぞれの時代や地域や階層を教導して来た。そのため人材がひろく各部門にふり分けられたのである。しかも台密の教相・事相の充実や各時代における教勢は、優に東密と対応できるだけの内容をもって来ているのである。  
浄土教
【歴史的展開・教義】
浄土教の浄土には、阿彌陀佛の極楽浄土もあれば、薬師如来の東方瑠璃光浄土もあるように、佛の数だけ、それぞれの浄土がある。又、念佛にも、阿彌陀佛を念ずる念佛もあり、薬師如来を念ずる念佛などもある。 しかし、天台大師の教えによれば、『摩詞止観』常行三昧の下に「九十日、身は常に行(道)し、口は常に阿彌陀佛の名を唱え、心は常に阿彌陀佛を念ずる」とあり、他のもろもろの佛の名を唱えるのではなく、彌陀一佛に限ることを、指示しておられる。つづいて「彌陀を唱うるは、即ち十万の佛を唱うることと功徳、等しく、ただ専ら彌陀を以て法門の主となす」とし、更に「要を挙げてこれを言わば、歩々、声々、念々、ただ阿彌陀佛にあり」と示しておられることからも、浄土教の教主は、阿彌陀佛に定め、従って浄土は極楽浄土に定めるお考えであることがわかる。 それ以来、中国や日本においては、念佛とは阿彌陀備を念ずることとの見方が、大きな流れになった。 阿彌陀佛とは、Amitabha(無量光)、Amitayus(無量寿)の両意を含めた音訳で、西方極楽の主である。『無量寿経』によれば、過去佛である世自在王佛の時、王位を捨て、出家した法蔵菩薩をその前身とする。一切諸佛のもろもろの浄土をめぐって、五劫の間思惟し、各種の浄土を較べ選んで、四十八願を建て、兆載永劫の間の修行によって、西方十万億土に極楽浄土を建立された。 極楽浄土の有様は、『観無量寿経』にも説かれているが、天台宗日々課誦の『阿彌陀経』によって、浄土の宝樹、宝池、宝地、宝楼閣などの厳飾微妙な様子や、水鳥樹林から発する和雅なる鳥の鳴き声や、微風吹動の音が、響きわたっていることなどを知ることができる。
【理観の念佛・事観の念佛】
さて、彌陀一佛を念ずる念佛を、理観、事観、口称の三種類の念佛に分けることができるとされている。即ち「念々」は、理観の観心念佛と、事観の観想念佛の二になり、「声々」は口称の称名念佛になるのである。 前述の常行三昧の次ぎ下の文に「意に止観を論ずれば」として、西方十万億刹の阿彌陀佛は宝地、宝池や諸菩薩に囲まれ説法したまうのであり、その佛の三十二相の、一つひとつを心に念ずる、と述べられているのが、事観の観想念佛に当ると見てよかろう。更に理観の観心念佛に当る文がつづいている。即ち、佛や浄土の相を心に想い浄べるというその心は、掌に得ることができぬ(空観)と同時に、心の鏡に映ずる佛、浄土の像は宛然としてあり(仮観)、としながらも、心の来去はもとより知るに由なく、心に何の想いもないのが涅槃である(中観)と、三諦即一を述べられているのが理観の観心念佛であろう。
【口称の念佛】
「声々」の口称念佛は、元来、天台念佛の中核である理観念佛と、事観念佛の補助的なものであったが、後には往生極楽を願う念佛、という独立的地位のものになった。 この独立的口称念佛に、先鞭(せんべん)をつけられたのが、慈覚大師である。中国五台山の法照が、極楽の水鳥樹林の奏でるさまの音曲を、名号に附して唱えた念佛法を、五台山から比叡山に伝え、天台常行三昧と合会して、引声念佛とし、比叡山常行三昧堂で修せしめられた。この念佛が「山の念彿」と言われて、都の人士の心に感銘を与えた。
【恵心僧都の念佛】
次に恵心僧都は、一代の学僧でありながら、顕密の教法は、利智精進の人のみが能くするものであり、濁世末代の、予が如き頑魯(がんろ)の者の智目、行足には、往生極楽の教行に如(し)かずとして、極楽と念佛に関する要文を、あらゆる経論章疏から選んで、集大成した『往生要集』を著わし、極楽に往生できる教と行とを、詳述された。この『徒生要集』が世に出るや、末法の時、到来(永承七年<一〇五二>)を数十年後に控えた当時、現世における佛法破滅に対処して、極楽に往生し、見佛聞法を願う風潮が一挙に興り、称名念佛の声が国内に満つるに至った。 この『往生要集』は、後の法然、親鸞などの念佛に、はかり知れぬ影響を与え、鎌倉新佛教の浄土教興隆に大きく貢献した。しかも恵心僧都は「往生極楽を華報となし、証大菩提を果報となす」と述べ、天台圓教の華果同時の教から、往生極楽によって、天台本来の目的である、証大著提を期せられたことも、注意しなければならないことであろう。 一方、平安中期、末期にかけて、天台諸師の間では理観念佛も盛んに説きつづけられていた。例えば、恵心僧都に仮託(かたく)されたものと云われているが、勝れた観心の書である『観心畧要集』には、「観法は諸佛の秘要、衆教の肝要なり」と標しつつも、「阿彌陀佛名を念ずるとは、阿とは空、彌とは仮、陀とは中なりと、阿彌陀の三字において、空仮中の三諦を観ずべきなり」と云って、時の流行の念佛に寄せて、三諦圓融の境地に入ることを教えているのは、理観の観心念佛である。 又、摂津、金龍寺の千観内供奉が、事観の日想観を修しつづけたことは有名で、このような事観念佛も、多くの諸師の間で修せられたのである。
【真盛の戒称二門】
室町時代に入ると、西教寺の真盛は、『往生要集』に心を深く引かれて、盛んに念佛法門を弘めて、大衆を教化した。念佛法話に感激した聴聞者が、真盛に布施を申し出ても、これを受けず、代りに断(た)ちものとして、圓頓戒を守ることを約束させた。このように現、当二世にわたる教化をして、戒称二門の独自の派を創めた。  
山王神道
【総説】
日本天台の教義をもって、山王の神々を、理論化した神道説を山王神道という。一方、山王一実神道は、徳川家康を東照大権現として祀るときに、この山王神道説に拠って、天海が独自に唱えた神道で、いわば東照神道ともいうべきものである。 最澄が比叡山を開創した頃は、地主神の二宮権現と大三輪明神を勧請した大宮権現の山王二聖信仰であった。それは最澄撰とされる『長講法華経発願文』先分に拠って確認される。山王の語は、この他に最澄撰の『比叡山相輪?銘』にもみえているが、山王とは、中国の天台山の鎮守である道教の神山王元弼真君に由来するものと考えられる。圓珍の『制誡文』に拠ると、圓珍の頃には聖真子権現を加えての山王三聖信仰へと発展していたことが知られる。そしてこの山王三聖が尊像として祀られたのは、『日吉根本塔縁起』に拠ると、明達にはじまる。明達は平将門の乱の平定を日吉山王に祈って調伏した功により、根本塔を創建し三尊像を安置したのである。院政期になって、後白河院の『梁塵秘抄』や平康頼の『宝物集』などになると、山王の神々の本地佛が示されるようになってきた。 山王神道説が、教説として説かれるようになったのは、貞応二年(一二二三)成立とされる『耀天記』からとみられるが、この『耀天記』の中でも、山王事の条は、特に教義的であって、単独に行われていたものが、のちに『耀天記』と合体されたものであろう。そしてここで説く山王神道説は天台法華教学を基にしており、大宮権現の本地は釋迦如来であると説き、更に山王上七社の名もここに列挙されている。鎌倉末の頃に撰述された、義源の『山家要略記』や光宗の『渓嵐拾葉集』には、山王神道説が多く集録されている。これらは記家の文献であって、比叡山の故実を記録したものであるが、その中に叡山の天台神道説が多く含まれている。つまり天台の顕密一致論に依拠した、釋迦を本地とする大宮権貌と大日如来を本地とする伊勢の天照大神との同体を説いたり、台密の蘇悉地部の一字金輪佛頂が山王権現の本地であると説いたりしている。南北朝時代になって、慈遍が『天地神祇審鎮要記』を著し、伊勢神道や両部神道を視野に入れて、山王神道説の体系化を企っている。 近世に入ると、天海が山王一実神道を創唱した。この神道は、徳川家康を東照大権現として祭祀するに当たって、天海が中世の天台神道説である山王神道説を基盤として、発想された神道説である。いわば東照神道とも称すべきものである。天海は『東照大権現縁起(真名)』を著し、教理的には山王神道説に基づき、徳川家の子孫繁栄と幕藩体制の維持を願った教説を主張している。山王一実神道を伝承した戸隠の乗因は、『転輪聖王章』を著して、山王一実神道の正統として自認しているが、晩年に修験一実霊宗神道を創め、道教に傾き、老子を尊崇し一実道士を称したため、追放された。それ以後は、山王一実神道の目立った展開はなかった。
【山家要略記】
日吉山王に関する教説を中心に、叡山の故実、堂塔・佛像・修行規則、高僧の行業等を記したもので、山王神道の教説の代表的な書である。本書において、山王と三輪、山王と伊勢との同体を説く等、山王神道と他の神道説との関連を知ることができる。巻数は、九巻本・七巻本・五巻本、その他一巻本等があり、『山家要略記』という同一書名であっても、その内容は一定していない。撰者は、鎌倉後期の義源とする説が有力である。なお、本書の類書も多く存し、一括して山家要略記類と称する。
【本覚思想】
本覚の語は、『大乗起信論』にみえ、すべてのものは本来覚れる性を持っていると説くのがこの教説。本覚思想は、日本天台にとり入れられ、中世近く文字は同じでも、日本独自の天台本覚思想として発展を遂げた。つまり「煩悩即菩提」「生死即涅槃」といわれるように、生死・凡聖・善悪といった二元相対を超克して、絶対不二の世界観を創出した。鎌倉佛教は、この本覚思想の素地の上に生まれている。  
日本天台宗と佛教諸宗
【鎌倉新佛教】
鎌倉時代には、比叡山で修行した高僧たちによって、多くの新宗派が生まれている。日本天台は法華一乗の教学を基礎に、圓密禅戒を包摂していることから、鎌倉佛教の諸宗派の生まれる素地は備わっていたものといえる。更に中古天台を特徴づける本覚思想が、新しい鎌倉佛教の教えを誘発したともいえる。平安末期、政治の実権は貴族から武士へと移り、僧兵の暴挙、源平の争い、そして天災・飢饉など、世の中は不安な状況にあった。佛教史観によれば、いわゆる末法の時代であった。そこに、平安貴族佛教に代わり、民衆の願いと救済を目的とした佛教が生まれるに至ったのである。しかし、鎌倉時代の佛教は、再編成された旧佛教、つまり戒律を守り、修行を重視する本来の佛教のあり方があくまで正統であって、戒律を無視し、修行を軽視する易行道を主旨として生まれた鎌倉新佛教は正統ではない、とみる佛教史観がある。それは顕密を融合する立場で、鎌倉佛教を捉えようとする顕密体制論である。 法然(一一三三〜一二一二)は、浄土宗を開いている。法然は、叡山で修行を重ね、恵心僧都源信の『往生要集』の影響を受け、更に唐の善導大師の教えに触発されて、専修念佛を唱導した。念佛の易行のみを修することに専念し、伝統的な佛教の立場を否定したので、旧佛教側から激しい反発を招き、念佛停止の禁制に遇い、流罪となった。それは、法相宗の貞慶が、法然教団への弾圧を訴えた『興福寺奏状』を執筆したことにもよる。主著に『選択念佛本願集』があり、専ら口称による称名念佛を主張した。これに対し、旧佛教側の華厳宗の明恵は、法然の『選択集』が、発菩提心を否定し聖道門を群賊に譬えるなどの過失があることについて、激しく批判した『摧邪輪』を著している。 法然の弟子たちは、数派に分かれたが、その一念義派の親鸞(一一七三〜一二六二)も、やはり叡山で修行をしており、法然の唱導した念佛の教えこそ、真実の教えであると浄土真宗を開いた。親鸞は、念佛停止のために、越後に流されたが、許されて後、常陸で『教行信証』を撰している。浄土真宗の立教開宗の根本経典である。親鸞は、徹底した他力本願を説き、妻帯も佛道を妨げないと唱え、『愚禿親鸞と自称し、非僧非俗の生活を送った。第八代の蓮如(一四一五〜九九)は、活発に布教を行い、今日の大教団の基磋を築いた。真宗は、本願寺派(西)、大谷派(東)の東西本願寺の二大教団が、主体をなしている。浄土系には、他に叡山で修行した良忍(一〇七二〜一一三二)の開いた融通念佛宗、天台を学び後に熊野で神勅をえて、念佛を唱え遊行と賦算をこととした一遍(一二三九〜八九)の時宗がある。 栄西(一一四一〜一二一五)は、叡山で修学していたが、入宋して懐敝より臨済宗の禅を受けた。日本臨済宗の祖。栄西は、叡山の弾圧に対して、禅宗の立場を弁明するために『興禅護図論』を著している。更に幕府の帰依を受け、寿福寺や建仁寺を創建した。臨済宗は公案による禅修行を主体としている。栄西は、茶を日本に伝え、茶についての著『喫茶養生記』がある。また叡山で修学していた道元 (一二〇〇〜五三)は、栄西の高足明全に師事し、師とともに入宋して、天童山の如浄に参じ、曹洞禅を学び、それを伝えている。日本曹洞宗の開祖。曹洞宗は、公案を用いず只管打坐、つまりただひたすら坐禅することを重んじている。『正法眼蔵』は、道元の法語を集めたもので、行を重んずる道元禅の教えが説かれている。 日蓮(一二二二〜八二)は、比叡山で天台教学を究め、のち故郷安房の清澄山で、法華経こそ佛教教理の真髄であり、宇宙の真理を説くものであると悟り、日蓮宗を開宗した。のち鎌倉を中心に布教をし、幕府に対しても法華経の宣揚に努め、北条時頼に『立正安国論』を呈した。日蓮は、この書の中で法華経に帰依しなければ、国内の戦乱と外国の侵略とが必ず起こるであろうと述べている。このような幕府非難や他宗批判を激しく行ったため、幕府の迫害を受け、度々法難に遇っている。佐渡にも流されたが、やがて許されて身延山に入り、法華経の宣布に当った。日蓮は、南無妙法蓮華経の題目を唱えることによって、法華経読誦の功徳があると説いて、この唱題を勧めた。そして、法華信仰を否定するものは、佛法を謗るものとして折伏した。また日蓮は、浄土宗で説く厭離穢土・欣求浄土のために、否定された此土つまりこの娑婆こそ寂光土であるとの主張をしている。 旧佛教の立場に代表される高僧たちには、貞慶や明恵の他に、俊?や叡尊などがいる。彼らは戒律を厳格に守ることを主張した。
【新宗数】
江戸時代末期に宗教的特別な霊能力(カリスマ)の所有者によって、民衆の救済を唱える新宗教が現れた。黒住教、天理教、金光教などで、明治期になると、大本教・ほんみち・ひとのみち教団・霊友会・生長の家などが創唱されたが、なかには厳しい弾圧をうけたものもあった。 昭和二十年、太平洋戦争が終結し、新しい日本国憲法によって信教の自由が認められ、且つ国家神道が廃止されるに至った。既成の新宗教が信教の自由のもとに再出発をし、更に宗教法人法の改定に伴い、宗教法人としての認可がえ易くなったため、旧宗教からの分派・独立も盛んになり、新しい教団の設立も多数にのぼった。その中には、神道系・佛教系(天台・真言・日蓮など)・新宗教系などの新しい教団が含まれている。 天台系の新教団には、念法真教・孝道教団があり、戦後に天台宗から分派・独立した教団に、和宗・聖観音宗・金峯山修験本宗・修験道などがある。真言系の新教団に、解脱会・真如苑などがあり、本門佛立宗・霊友会・立正佼成会・佛所護念会教団・創価学会などは、法華系に属する。  
日本天台宗と日本文学
【比叡山と文学】
比叡山は、平安の都人から「山」と呼ばれ、山に関する詩歌は数多い。奈良時代の漢詩集『懐風藻』に、麻田連陽春が詠んだ詩があり、霊山比叡山を讃えているのが始まりで、平安時代に入り、良岑安世の叡山を詠った詩が『経国集』に載っており、紀貫之が比叡山を詠んだ歌が、『古今集』にみえている。『梁塵秘抄』からは、今様歌謡を通して、平安文人の比叡山信仰の篤さを知ることができ、歴史書『愚管抄』の作者として知られる慈圓は、歌人としても名高く、その歌は歴代勅撰集にとられている。このように、比叡山は歌の題材として事欠くことはなかったのである。 文学作品として有名な『源氏物語』や『平家物語』も、天台教学がその底流にあることを無視することはできないし、説話物語にも、比叡山に関する話がみられ、『今昔物語』や『宇治拾遺物語』、『沙石集』などは代表的なものである。宴曲の「山寺」、謡曲の「大江山」「兼平」「船弁慶」など、比叡山を様々に描いている。
【天台声明】
声明曲には、梵語曲(四智梵語讃・大讃・百八讃など)・漢語(四智漢語讃・唄・散華・錫杖など)・和語曲(講式・教化・祭文など)がある。各種声明は、独唱や同音(斉唱)や次第音(輪唱)で唱誦される。また、一字を二拍・三拍・四拍などで唱誦する拍子物や無拍子で唱誦する曲もある。音階や旋律型などにより呂曲・律曲・中曲という分類があり、壱越調・平調・下無調・双調・黄鐘調.盤渉調・上無調の七調子に分けられている。 基本法儀は、朝懺法・夕例時ともいう法華懺法と例時作法である。経論の要義について問答討論する法華十講・八講・広学竪義・講経論義など論義法要もある。祖師の真影を供養する天台・傳教・慈覚・慈恵の四大師御影供がある。その音曲が、平曲や謡曲など邦楽に影響を与えたという講式は、六道講式・涅槃講式・舎利講式など数多くある。その他、落慶・晋山・開眼など慶讃祝祷に修される四箇法要(唄・散華・梵音・錫杖)もある。以上のごとき各種法要を顕経法要という。 密教法要には、曼荼羅供(胎蔵界・金剛界など)・光明供(施餓鬼・葬儀式など)・潅頂会・御修法(七佛薬師法・普賢延命法・鎮将夜叉法・熾盛光法など)があり、多くの密教声明が伝承されている。  
 
願文(がんもん)

漢文
悠悠三界。純苦無安也。擾々四生。唯患不楽也。牟尼之日久隠。慈尊月未照。近於三災之危。没於五濁之深。加以。風命難保。露体易消。草堂雖無楽。然老少散曝於白骨。土室雖闇(狭)。而貴賎争宿於魂魄。瞻彼省己。此理必定。
仙丸未服。遊魂難留。命通未得。死辰何定。生時不作善。死日成獄薪。難得易移其人身矣。難発易忘斯善心焉。是以。法皇牟尼。仮大海之針。妙高之線。喩況人身難得。古賢禹王。惜一寸之陰。半寸之暇。歎勧一生空過。無因得果。無有是処。無善免苦。無有是処。
伏尋思己行迹。無戒窃受四事之労。愚痴亦成四生之怨。是故。未曽有因縁経云。施者生天。受者入獄。提韋女人四事之供。表末利夫人福。貪著利養五衆之果。顕石女担輿罪。明哉善悪因果。誰有慙人。不信此典。然則。知苦因而不畏苦果。釈尊遮闡提。得人身徒不作善業。聖教嘖空手。
於是。愚中極愚。狂中極狂。塵禿有情。底下最澄。上違於諸仏。中背於皇法。下闕於孝礼。
謹随迷狂之心。発三二之願。以無所得而為方便。為無上第一義。発金剛不壊不退心願。
我自未得六根相似位以還不出仮。其一。
自未得照理心以還不才芸。其二。
自未得具足浄戒以還不預檀主法会。其三。
自未得般若心以還不著世間人事縁務。除相似位。其四。
三際中間。所修功徳。独不受己身。普回施有識。悉皆令得無上菩提。其五。
伏願。解脱之味独不飲。安楽之果独不証。法界衆生。同登妙覚。法界衆生。同服妙味。
若依此願力。至六根相似位。若得五神通時。必不取自度。不証正位。不著一切。願必所引導今生無作無縁四弘誓願。周旋於法界。遍入於六道。浄仏国土。成就衆生。尽未来際。恒作仏事。 
読み下し文
悠々たる三界は純ら苦にして安きこと無く、擾々たる四生は唯だ患にして楽しからず。牟尼の日久しく隠れて慈尊の月未だ照さず。三災の危きに近づき、五濁の深きに没む。加以ず、風命保ち難く露体消え易し。草堂楽しみ無しと雖も然も老少白骨を散じ曝し、土室闇く(狭)しと雖も而も貴賎魂魄を争い宿す。彼を瞻、己を省みるに此の理必定せり。
仙丸未だ服さざれば遊魂留め難く、命通未だ得ざれば死辰何とか定めん。生ける時善を作さずんば死する日獄の薪と成らん。得難くして移り易きは其れ人身なり。発し難くして忘れ易きは斯れ善心なり。是を以て法皇牟尼は、大海の針・妙高の線を仮りて人身の得難きを喩況し、古賢禹王は、一寸の陰・半寸の暇を惜しみて一生の空しく過ぐるを歎勧せり。因無くして果を得る、是の処り有ること無く、善無くして苦を免るる、是の処り有ること無し。
伏して己が行迹を尋ね思うに、無戒にして窃かに四事の労を受け、愚痴にして亦四生の怨と成る。是の故に、『未曽有因縁経』に云く、「施す者は天に生まれ、受くる者は獄に入る」と。提韋女人の四事の供は末利夫人の福と表れ、貪著利養の五衆の果は、石女担輿の罪と顕る。明らかなる哉、善悪の因果、誰か有慙の人にして、此の典を信ぜざらん。然れば則ち、苦因を知りて而も苦果を畏れざるを釈尊は闡提と遮したまい、人身を得て徒に善業を作さざるを聖教に空手と嘖めたまう。
是に於いて、愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄、上は諸仏に違い、中は皇法に背き、下は孝礼を闕く。
謹みて迷狂の心に随い三二の願を発こす。無所得を以て方便と為し、無上第一義の為に金剛不壊不退の心願を発こす。
我れ未だ六根相似の位を得ざるより以還出仮せじ。其の一。
未だ理を照らすの心を得ざるより以還才芸あらじ。其の二。
未だ浄戒を具足することを得ざるより以還檀主の法会に預からじ。其の三。
未だ般若の心を得ざるより以還世間の人事の縁務に著かじ。相似の位を除く。其の四。
三際の中間に修する所の功徳は独り己が身に受けず、普く有識に回施して悉く皆無上菩提を得せしめん。其の五。
伏して願くば、解脱の味独り飲まず、安楽の果独り証せず。法界の衆生と同じく妙覚に登り法界の衆生と同じく妙味も服せん。
若し此の願力に依りて六根相似の位に至り、若し五神通を得ん時は必ず自度を取らず、正位を証せず、一切に著せざらん。願くば、必ず今生無作無縁の四弘誓願に引導せられて、周く法界を旋り、遍く六道に入り、仏国土を浄め、衆生を成就し、未来際を尽くすまで恒に仏事を作さん。 
現代語訳・解釈文
はるか限りないこの世界は、ただ苦しみばかりで安らかなことは無く、乱れ騒がしい生き物たちは、ただ思い悩むことばかりで安らぐことはない。お釈迦様が遠い昔にお亡くなりになられてより以来、次のほとけさまは未だお姿を現されていない。災いによるこの世の終わりが近づきつつあり、人々の考えが誤って汚れに満ちた世の中に沈んでしまっている。その上、風に吹き消される灯火のようにはかない命は保ちがたく、朝露のようなこの体は消えやすい。草葺きの葬送を執り行うお堂には楽しみは無いのに、老いも若きもここに白骨を散じさらし、墓の中は暗くて狭いにもかかわらず、どのような身分や職業の人であれ相争ってここに魂を宿らせるようなものである。他人を仰ぎ見て、自分を省みるに、この理は確かである。
わたしは不老長寿の薬をまだ飲んでいないので、魂をこの世に留めておくのは難しい。また前世の行いの善悪を知る神通力をまだ得てはいないので、自分の死期をいつであると定めたらよいのであろうか。生きている間に善い行いをしなければ、死を迎えた日には地獄の薪となって火に責められるであろう。得ることが難しく、また得てしまえばほかのものに生まれ変わってしまい易いのが人の身である。起こし難く、起こしても忘れ易いのが善の心である。そこでお釈迦様はこのことを、大海原の中の一本の針を探すことや、世界で一番高い山の頂上から垂らした糸を麓の針の穴に通すことに喩え、中国古代の賢い王である禹(う)は、少しの時間、わずかな暇をも惜しみ、一生が空しく過ぎ去ってゆくことを嘆いた。原因が無くて結果があるという道理はなく、善い行いをすることなく苦しみを免れるという道理もない。
ほとけに伏して自分のこれまでの行いを尋ね考えてみるに、戒律にかなう正しい行いもなくひそかに衣服や食事などの生活の世話を受けながら、真理を知らず愚かにしてまたあらゆる生き物に迷惑をかけている。このためお経には「他に施す者は天に生まれ変わり、逆に施しを受けてばかりいる者は地獄に入る」と説かれている。ある女性が前世において献身的に施しの精神を実行したところ、生まれ変わって国王の后となる幸福に恵まれ、その施しを貪り受けた5人の出家者は、生まれ変わって皇后の乗る御輿をかつぐ奴隷となる不幸な結果に顕れた。行いの善悪により、その結果の善悪もまた明らかである。恥を知る人であるならば、誰がこの教えを信じないであろうか。このようなことにより、苦しみの原因を知りながらその結果を恐れない者を、お釈迦様は悪の心に囚われてほとけと成るに及ばない者として退けており、人の身に生まれながら、いい加減に過ごして善い行いをしない者を、ほとけのおしえでは、宝の山に入りながら何も得ずに帰る者であると責めている。
ここにおいて、愚か者の極みであり、狂っている者の極みであり、徳のないつまらない僧侶であり、最低である最澄は、仏弟子としてはほとけのおしえに違反し、国民としては天皇の定めた法に背き、子供としては親孝行を欠いている。
謹んで迷い狂える心に随いながらも、ここに五つの誓いを起こした。全てのものにとらわれないことを手段とし、最高の真実のおしえのために、壊れたり退いたりすることのない、堅い決意の心からの願いを起こしたのである。
わたしは、世のあらゆる出来事を先入観や煩悩に惑わされずありのままに見聞きし考えることができる相似の位という修行の段階に至るまでは、比叡山を下りて世間に出るまい。
ほとけの教えを明らかに照らし出す心を得るまでは、修行に関係ない芸事はするまい。
戒律を完全に守り身につけることができるまでは、法要に出て施主からお布施をいただくことはするまい。
ほとけの智慧に満ちた心を身につけるまでは、世間の諸々の仕事をするまい。ただし、相似の位を得たならばこの限りでない。
わたしが現在の世で修めた善い行いの報いは、独り占めすることなく遍くすべての生き物に施して、ことごとく皆最高のほとけの智慧を得させたい。
ほとけに伏して願うところは、苦しみの世界から脱した喜びに一人浸ることなく、安らぎに至る方法を一人だけ知ることなく、この宇宙のあらゆる生き物が同じく苦しみの世界から脱し、安らぎに至る方法を知らしめたい。
もしこの心からの願いが叶って相似の位に至り、5種の不思議な力(見えないものを見る・聞こえない声を聞く・他人の心を知る・過去を知る・どこへでも自由に行く)を身につけたときは、必ず、自分だけがほとけの智慧を得ることなく、ほとけと同等の存在にはならず、あらゆる物事にとらわれることはなすまい。 
 

自我偈
妙法蓮華経如来寿量品第十六偈
自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万
億載阿僧祇 常説法教化 無数億衆生
令入於仏道 爾来無量劫 為度衆生故
方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法
我常住於此 以諸神通力 令顛倒衆生
雖近而不見 衆見我滅度 広供養舎利
咸皆懐恋慕 而生渇仰心 衆生既信伏
質直意柔軟 一心欲見仏 不自惜身命
時我及衆僧 倶出霊鷲山 我時語衆生
常在此不滅 以方便力故 現有滅不滅
余国有衆生 恭敬信楽者 我復於彼中
為説無上法 汝等不聞此 但謂我滅度
我見諸衆生 没在於苦海 故不為現身
令其生渇仰 因其心恋慕 乃出為説法
神通力如是 於阿僧祇劫 常在霊鷲山
及余諸住処 衆生見劫尽 大火所焼時
我此土安穏 天人常充満 園林諸堂閣
種種宝荘厳 宝樹多花果 衆生所遊楽
諸天撃天鼓 常作衆伎楽 雨曼陀羅華
散仏及大衆 我浄土不毀 而衆見焼尽
憂怖諸苦悩 如是悉充満 是諸罪衆生
以悪業因縁 過阿僧祇劫 不聞三宝名
諸有修功徳 柔和質直者 則皆見我身
在此而説法 或時為此衆 説仏寿無量
久乃見仏者 為説仏難値 我智力如是
慧光照無量 寿命無数劫 久修業所得
汝等有智者 勿於此生疑 当断令永尽
仏語実不虚 如医善方便 為治狂子故
実在而言死 無能説虚妄 我亦為世父
救諸苦患者 為凡夫顛倒 実在而言滅
以常見我故 而生★恣心 放逸著五欲
堕於悪道中 我常知衆生 行道不行道
随応所可度 為説種種法 毎自作是念
以何令衆生 得入無上道 速成就仏身
法華懴法
先 総礼伽陀
我此道場如帝珠  十方三宝影現中
我身影現三宝前  頭面摂足帰命礼
次 総礼三宝
一心敬礼 十方一切常住仏
一心敬礼 十方一切常住法
一心敬礼 十方一切常住僧
次 供養文
是諸衆等  人各★跪  厳持香華  如法供養  願此香華雲
遍満十方界 供養一切仏 経法并菩薩 声聞縁覚衆 及一切天仙
受此香華雲 以為光明台 広於無辺界 受用作仏事 供養已礼三宝
次 敬礼段
一心敬礼本師釈迦牟尼仏
一心敬礼過去多宝仏
一心敬礼十方分身釈迦牟尼仏
一心敬礼東方善徳仏尽東方法界一切諸仏
一心敬礼東南方無憂徳仏尽東南方法界一切諸仏
一心敬礼南方栴檀徳仏尽南方法界一切諸仏
一心敬礼西南方宝施仏尽西南方法界一切諸仏
一心敬礼西方無量明仏尽西方法界一切諸仏
一心敬礼西北方華徳仏尽西北方法界一切諸仏
一心敬礼北方相徳仏尽北方法界一切諸仏
一心敬礼東北方三乗行仏尽東北方法界一切諸仏
一心敬礼上方広衆徳仏尽上方法界一切諸仏
一心敬礼下方明徳仏尽下方法界一切諸仏
一心敬礼往古来今三世諸仏七仏世尊賢劫千仏
一心敬礼法華経中過去二万億日月灯明仏大通智勝仏十六王子仏等一切過去諸仏
一心敬礼過去二万億威音王仏二千億雲自在灯王仏
一心敬礼過去日月浄明徳仏雲雷音宿王華智仏等一切諸仏
一心敬礼法華経中現在浄華宿王智仏宝威徳上王仏等一切現在諸仏
一心敬礼法華経中未来華光仏具足千万光相荘厳仏等一切未来諸仏
一心敬礼十方世界舎利尊像支提妙塔多宝如来全身宝塔
一心敬礼大乗妙法蓮華経十方一切尊経十二部経真浄法宝
一心敬礼文殊師利菩薩弥勒菩薩摩訶薩
一心敬礼薬王菩薩薬上菩薩摩訶薩
一心敬礼観世音菩薩無尽意菩薩摩訶薩
一心敬礼妙音菩薩華徳菩薩摩訶薩
一心敬礼常精進菩薩得大勢菩薩摩訶薩
一心敬礼大楽説菩薩智積菩薩摩訶薩
一心敬礼宿王華菩薩持地菩薩勇施菩薩摩訶薩
一心敬礼法華経中下方上行等無量無辺阿僧祇菩薩摩訶薩
一心敬礼法華経中舎利弗等一切諸大声聞衆
一心敬礼十方一切諸尊大権菩薩声聞縁覚得道賢聖僧
一心敬礼法華経中一切聖凡衆
一心敬礼普賢菩薩摩訶薩
為法界衆生断除三障帰命礼懺悔
次 六根段
一 眼根段
至心懺悔弟子某甲与一切法界衆生・従無量世来・眼根因縁・貪著諸色・以著色故・貪愛諸塵・以愛塵故・受女人身・世世生処・惑著諸色・色壊我眼・為恩愛奴・故色使使我・経歴三界・為此弊使・盲無所見・眼根不善・傷害我多・十方諸仏・常住不滅・我濁悪眼・障故不見・今誦大乗・方等経典・帰向普賢菩薩・一切世尊・焼香散華・説眼過罪・発露懺悔・不敢覆蔵・諸仏菩薩・恵明法水・願以洗除・以是因縁・令我与法界衆生・眼根一切重罪・畢竟清浄・懺悔已礼三宝・第二第三亦如是
二 耳根段
至心懺悔弟子某甲与一切法界衆生・従多劫来・耳根因縁・随逐外声・聞妙音時・心生惑著・聞悪声時・起百八種・煩悩賊害・如此悪耳・報得悪事・恆聞悪声・生諸攀縁・顛倒聴故・当堕悪道・辺地邪見・不聞正法・処処惑著・無暫停時・坐此竅声・労我神識・墜堕三途・十方諸仏・常在説法・我濁悪耳・障故不聞・今始覚悟・誦持大乗・功徳蔵海・帰向普賢菩薩・一切世尊・焼香散華・説耳過罪・発露懺悔・不敢覆蔵・以是因縁・令我与法界衆生・耳根所起・一切重罪・畢竟清浄・懺悔已礼三宝・第二第三亦如是
三 鼻根段
至心懺悔弟子某甲与法界衆生・従無量劫来・坐此鼻根・聞諸香気・若男若女身香・肴膳之香・及種種香・迷惑不了・動諸結使・諸煩悩賊・臥者皆起・無量罪業・因此増長・以貪香故・分別諸識・処処染著・堕落生死・受衆悪報・十方諸仏・功徳妙香・充満法界・我濁悪鼻・障故不聞・今誦大乗・清浄妙典・帰向普賢菩薩・一切世尊・焼香散華・説鼻過罪・不敢覆蔵・以是因縁・令我与法界衆生・鼻根重罪・畢竟清浄・懺悔已礼三宝・第二第三亦如是
四 舌根段
至心懺悔弟子某甲与法界衆生・従無量劫来・舌根所作・不善悪業・貪諸美味・損害衆生・破諸禁戒・開放逸門・無量罪業・従舌根生・又以舌根・起口罪過・妄言綺語・悪口両舌・誹謗三宝・讃歎邪見・説無益語・闘搆壊乱・法説非法・諸悪業刺・従舌根出・断正法輪・従舌根起・如是悪舌・断功徳種・於非義中・多端強説・讃歎邪見・如火益薪・舌根罪過・無量無辺・以是因縁・当堕悪道・百劫千劫・永無出期・諸仏法味・弥満法界・舌根罪故・不能了別・今誦大乗・諸仏秘蔵・帰向普賢菩薩・一切世尊・焼香散華・説舌過罪・不敢覆蔵・以是因縁・令我与法界衆生・舌根重罪・畢竟清浄・懺悔已礼三宝・第二第三亦如是
五 身根段
至心懺悔弟子某甲与法界衆生・従多劫来・身根不善・貪著諸触・所謂男女身分・柔軟細滑・如是等種種諸触・顛倒不了・煩悩熾然・造作身業・起三不善・謂殺盗婬・与諸衆生・作大怨結・造逆毀禁・乃至焚焼塔寺・用三宝物・無有羞恥・如是等罪・無量無辺・従身業生・説不可尽・罪垢因縁・未来世中・当堕地獄・猛火炎熾・焚焼我身・無量億劫・受大苦悩・十方諸仏・常放浄光・照触一切・我身罪重・障故不覚・但知貪著・麁弊悪触・現受衆苦・後受地獄・餓鬼畜生等苦・如是等種種衆苦・没在其中・不覚不知・今日慚愧・誦持大乗・真実法蔵・帰向普賢菩薩・一切世尊・焼香散華・説身過罪・不敢覆蔵・以是因縁・令我与法界衆生・身根重罪・畢竟清浄・懺悔已礼三宝・第二第三亦如是
六 意根段
至心懺悔弟子某甲与法界衆生・従無始已来・意根不善・貪著諸法・狂愚不了・随所縁境・起貪瞋痴・如是邪念・能生一切悪業・所謂十悪五逆・猶如猿猴・亦如黐膠・処処貪著・遍至一切・六情根中・此六根業・枝条華葉・悉満三界・二十五有・一切生処・亦能増長・無明生死・十二苦事・八邪八難・無不経中・無量無辺・悪不善報・従意根生・如是意根・即是一切・生死根本・衆苦之源・如経中説・釈迦牟尼・名毘盧遮那・遍一切処・当知一切諸法・悉是仏法・妄想分別・受諸熱悩・是則於菩提中・見不清浄・於解脱中・而起纏縛・今始覚悟・生重慚愧・生重怖畏・誦持大乗・如説修行・帰向普賢菩薩・一切世尊・焼香散華・説意過罪・発露懺悔・不敢覆蔵・以是因縁・令我与法界衆生・意根一切重罪・乃至六根所起・一切悪業・已起今起・未来応起・畢竟清浄・懺悔已礼三宝・第二第三亦如是
次 四悔
一 勧請段
我弟子某 至心勧請・十方応化法界無量仏・唯願久住転法輪・含霊抱識還本浄・然後如来帰常住・勧請已礼三宝
二 随喜段
我弟子某 至心随喜・諸仏菩薩諸功徳・凡夫静乱有相善・漏与無漏一切善・弟子至心皆随喜・随喜已礼三宝
三 迴向段
我弟子某 至心迴向・三業所修一切善・供養十方恆沙仏・虚空法界尽未来・願迴此福求仏道・迴向已礼三宝
四 発願段
我弟子某 至心発願・願臨命終神不乱・正念往生安楽国・面奉弥陀値衆聖・修行十地証常楽・発願已礼三宝
次 十方念仏
南無十方仏 南無十方法 南無十方僧 南無釈迦牟尼仏
南無多宝仏 南無十方分身釈迦牟尼仏 南無妙法蓮華経
南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩
次 経段
妙法蓮華経安楽行品
爾時文殊師利・法王子菩薩摩訶薩・白仏言世尊・是諸菩薩・甚為難有・敬順仏故・発大誓願・於後悪世・護持読誦・説是法華経・世尊菩薩摩訶薩・於後悪世・云何能説是経・仏告文殊師利・若菩薩摩訶薩・於後悪世・欲説是経・当安住四法・一者安住菩薩・行処親近処・能為衆生・演説是経・文殊師利・云何名菩薩摩訶薩行処・若菩薩摩訶薩・住忍辱地・柔和善順・而不卒暴・心亦不驚・又復於法・無所行・而観諸法如実相・亦不行・不分別・是名菩薩摩訶薩行処・云何名菩薩摩訶薩・親近処・菩薩摩訶薩・不親近・国王王子・大臣官長・不親近諸・外道梵志・尼★子等・及造世俗・文筆讃詠外書・及路伽耶陀・逆路伽耶陀者・亦不親近・諸有凶戯・相扠相撲・及那羅等・種種変現之戯・又不親近旃陀羅・及畜猪羊鶏狗・畋猟漁捕・諸悪律儀・如是人等・或時来者・則為説法・無所★望・又不親近・求声聞比丘比丘尼・優婆塞優婆夷・亦不問訊・若於房中・若経行処・若在講堂中・不共住止・惑時来者・随宜説法・無所★求・文殊師利・又菩薩摩訶薩・不応於女人身・取能生欲想相・而為説法・亦不楽見・若入他家・不与小女・処女寡女等共語・亦復不近・五種不男之人・以為親厚・不独入他家・若有因縁・須独入時・但一心念仏・若為女人説法・不露歯笑・不現胸臆・乃至為法・猶不親厚・況復余事・不楽畜・年小弟子・沙弥小児・亦不楽与同師・常好坐禅・在於閑処・修摂其心・文殊師利・是名初親近処・復次菩薩摩訶薩・観一切法・空如実相・不顛倒・不動不退不転如虚空・無所有性・一切語言道断・不生不出不起・無名無相・実無所有・無量無辺・無碍無障・但以因縁・有従顛倒・生故説・常楽観如是法相・是名菩薩摩訶薩・第二親近処・爾時世尊・欲重宣此義・而説偈言
 若有菩薩 於後悪世 無怖畏心 欲説此経 応入行処
 及親近処 常離国王 及国王子 大臣官長 凶険戯者
 及旃陀羅 外道梵志 亦不親近 増上慢人 貪著小乗
 三蔵学者 破戒比丘 名字羅漢 及比丘尼 好戯笑者
 深著五欲 求現滅度 諸優婆夷 皆勿親近 若是人等
 以好心来 到菩薩所 為聞仏道 菩薩則以 無所畏心
 不壊★望 而為説法 寡女処女 及諸不男 皆勿親近
 以為親厚 亦莫親近 屠児魁膾 畋猟漁捕 為利殺害
 販肉自活 衒売女色 如是之人 皆勿親近 凶険相撲
 種種嬉戯 諸婬女等 尽勿親近 莫独屏処 為女説法
 若説法時 無得戯笑 入里乞食 将一比丘 若無比丘
 一心念仏 是則名為 行処近処 以此二処 能安楽説
 又復不行 上中下法 有為無為 実不実法 亦不分別
 是男是女 不得諸法 不知不見 是則名為 菩薩行処
 一切諸法 空無所有 無有常住 亦無起滅 是名智者
 所親近処 顛倒分別 諸法有無 是実非実 是生非生
 在於閑処 修摂其心 安住不動 如須弥山 観一切法
 皆無所有 猶如虚空 無有堅固 不生不出 不動不退
 常住一相 是名近処 若有比丘 於我滅後 入是行処
 及親近処 説斯経時 無有怯弱 菩薩有時 入於静室
 以正憶念 随義観法 従禅定起 為諸国王 王子臣民
 婆羅門等 開化演暢 説斯経典 其心安穏 無有怯弱
 文殊師利 是名菩薩 安住初法 能於後世 説法華経
次 十方念仏
南無十方仏 南無十方法 南無十方僧 南無釈迦牟尼仏
南無多宝仏 南無十方分身釈迦牟尼仏 南無妙法蓮華経
南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩
次 後唄
処世界如虚空 如蓮華不著水
心清浄超於彼 稽首礼無上尊
次 三礼
一切恭敬 自帰依仏 当願衆生 体解大道 発無上意
自帰依法 当願衆生 深入経蔵 智慧如海
自帰依僧 当願衆生 統理大衆 一切無碍
次 七仏通戒偈
願諸衆生 諸悪莫作 諸善奉行 自浄其意 是諸仏教 和南聖衆
次 六時偈
後夜偈
白衆等聴説 後夜無常偈 時光遷流転 忽至五更初
無常念念至 恆与死王居 勧諸行道衆 修道至無余
晨朝偈
白衆等聴説 寅朝偈 欲得寂滅楽 当学沙門法 衣食繋身命
精麁随衆得 諸衆等今朝 白月〔黒月〕寅朝清浄 各誦六念
日中偈
白衆等聴説 午時無常偈 人生不精進 喩若樹無根 採華置日中
能得幾時鮮 華亦不久鮮 色亦非常好 人命如刹那 須臾難可保
黄昏偈
白衆等聴説 黄昏無常偈 此日已過 命即衰減
如少水魚 斯有何楽 諸衆等 当勤精進 如救頭燃
但念虚空 無常勤慎 莫放逸・
初夜偈
白衆等聴説 初夜無常偈 煩悩深無底
生死海無辺 度苦船未立 云何楽睡眠
半夜偈
白衆等聴説 中夜無常偈 汝等勿抱臭屍臥
種種不浄仮名身 如得重病箭入体 諸苦痛集安可眠
次神分  霊分  祈願
九条錫杖
第一条 平等施会段
手執錫杖 当願衆生 設大施会 示如実道 供養三宝
設大施会 示如実道 供養三宝 三振
第二条 心発願段
以清浄心 供養三宝 発清浄心 供養三宝 願清浄心
供養三宝 二振
第三条 六道知識段
当願衆生 作天人師 虚空満願 度苦衆生 法界囲繞
供養三宝 値遇諸仏 速証菩提 二振
第四条 三諦修習段
当願衆生 真諦修習 大慈大悲 一切衆生 俗諦修習
大慈大悲 一切衆生 一乗修習 大慈大悲 一切衆生
恭敬供養 仏宝法宝 僧宝一体三宝 二振
第五条 六道化生段
当願衆生 檀波羅蜜 大慈大悲 一切衆生 尸羅波羅蜜
大慈大悲 一切衆生 ★提波羅蜜 大慈大悲 一切衆生
毘梨耶波羅蜜 大慈大悲 一切衆生 禅那波羅蜜 大慈大悲
一切衆生 般若波羅蜜 大慈大悲 一切衆生 二振
第六条 捨悪持善段
当願衆生 十方一切 無量衆生 聞錫杖声 懈怠者精進
破戒者持戒 不信者令信 慳貪者布施 瞋恚者慈悲 愚痴者智慧
★慢者恭敬 放逸者摂心 具修万行 速証菩提 二振
第七条 邪道遠離段
当願衆生 十方一切 邪魔外道 魍魎鬼神 毒獣毒竜 毒蟲之類
聞錫杖声 摧伏毒害 発菩提心 具修万行 速証菩提 二振
第八条 悪趣解脱段
当願衆生 十方一切 地獄餓鬼畜生 八難之処 受苦衆生
聞錫杖声 速得解脱 惑痴二障 百八煩悩 発菩提心
具修万行 速証菩提 二振
第九条 迴向発願段
過去諸仏 執持錫杖 已成仏 現在諸仏 執持錫杖 現成仏
未来諸仏 執持錫杖 当成仏 故我稽首 執持錫杖 供養三宝
故我稽首 執持錫杖 供養三宝 三振
南無恭敬供養 霊山界会
恭敬供養 護持仏子
哀愍摂受 護持大衆
次 迴向伽陀
願以此功徳  普及於一切
我等与衆生  皆共成仏道
例時作法
先 衆罪伽陀
衆罪如霜露  恵日能消除
是故応至心  懺悔六情根
次 三礼
一切恭敬 自帰依仏 当願衆生 体解大道 発無上意
自帰依法 当願衆生 深入経蔵 智恵如海
自帰依僧 当願衆生 統理大衆 一切無碍
次 七仏通戒偈
願諸衆生 諸悪莫作 諸善奉行 自浄其意 是諸仏教 和南聖衆
次 黄昏偈
白衆等聴説 黄昏無常偈 此日已過 命即衰減 如少水魚 斯有何楽
諸衆等 当勤精進 如救頭燃 但念虚空 無常勤慎 莫放逸・
次 無常偈
諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽
如来証涅槃 永断於生死 若有至心聴 当得無量楽
次 六為
為十方施主念釈迦牟尼仏
為天皇陛下念薬師琉璃光仏
為三世四恩念阿弥陀仏
為大師等尊霊念妙法蓮華経
為一切神等念摩訶般若波羅蜜経
為法界衆生念文殊師利菩薩
次 四奉請
散華楽 散華楽
奉請十方如来 入道場 散華楽
奉請釈迦如来 入道場 散華楽
奉請弥陀如来 入道場 散華楽
奉請観音勢至諸大菩薩 入道場 散華楽
次 甲念仏
南無阿弥陀仏 阿弥陀仏 阿弥陀仏
次 経段
仏説阿弥陀経
如是我聞・一時仏在・舎衛国・祇樹給孤独園・与大比丘衆・千二百五十人倶・皆是大阿羅漢・衆所知識・長老舎利弗・摩訶目★連・摩訶迦葉・摩訶迦旃延・摩訶★★羅・離婆多・周離般他伽・難陀・阿難陀・羅★羅・★梵波提・賓頭盧・頗羅堕・迦留陀夷・摩訶劫賓那・薄★羅・阿★楼駄・如是等・諸大弟子・并諸菩薩摩訶薩・文殊師利法王子・阿逸多菩薩・乾陀呵提菩薩・常精進菩薩・与如是等・諸大菩薩・及釈提桓因等・無量諸天大衆倶尓時仏告・長老舎利弗・従是西方・過十万億仏土・有世界・名曰極楽・其土有仏・号阿弥陀・今現在説法・舎利弗・彼土何故・名為極楽・其国衆生・無有衆苦・但受諸楽・故名極楽・又舎利弗・極楽国土・七重欄楯・七重羅網・七重行樹・皆是四宝・周匝囲繞・是故彼国・名為極楽・又舎利弗・極楽国土・有七宝池・八功徳水・充満其中・池底純以・金沙布地・四辺階道・金銀瑠璃・頗梨合成・上有楼閣・亦以金銀瑠璃・頗梨車渠・赤珠馬脳・而厳飾之・池中蓮華・大如車輪・青色青光・黄色黄光・赤色赤光・白色白光・微妙香潔・舎利弗・極楽国土・成就如是・功徳荘厳又舎利弗・彼仏国土・常作天楽・黄金為地・昼夜六時・而雨曼陀羅華・其土衆生・常以清旦・各以衣★・盛衆妙華・供養他方・十万億仏・即以食時・還到本国・飯食経行・舎利弗・極楽国土・成就如是・功徳荘厳
復次舎利弗・彼国常有・種種奇妙・雑色之鳥・白鵠孔雀・鸚鵡舎利・迦陵頻伽・共命之鳥・是諸衆鳥・昼夜六時・出和雅音・其音演暢・五根五力・七菩提分・八聖道分・如是等法・其土衆生・聞是音已・皆悉念仏・念法念僧・舎利弗・汝勿謂此鳥・実是罪報所生・所以者何・彼仏国土・無三悪趣・舎利弗・其仏国土・尚無三悪道之名・何況有実・是諸衆鳥・皆是阿弥陀仏・欲令法音・宣流・変化所作・舎利弗・彼仏国土・微風吹動・諸宝行樹・及宝羅網・出微妙音・譬如百千・種楽同時倶作・聞是音者・皆自然生・念仏念法・念僧之心・舎利弗・其仏国土・成就如是・功徳荘厳
舎利弗・於汝意云何・彼仏何故・号阿弥陀・舎利弗・彼仏光明・無量照十方国・無所障★・是故号為・阿弥陀・又舎利弗・彼仏寿命・及其人民・無量無辺・阿僧祇劫・故名阿弥陀・舎利弗・阿弥陀仏・成仏以来・於今十劫・又舎利弗・彼仏有無量無辺・声聞弟子・皆阿羅漢・非是算数・之所能知・諸菩薩衆・亦復如是・舎利弗・彼仏国土・成就如是・功徳荘厳
又舎利弗・極楽国土・衆生生者・皆是阿★跋致・其中多有・一生補処・其数甚多・非是算数・所能知之・但可以無量無辺・阿僧祇劫説・舎利弗・衆生聞者・応当発願・願生彼国・所以者何・得与如是・諸上善人・倶会一処・舎利弗・不可以少善根・福徳因縁・得生彼国・舎利弗・若有善男子善女人・聞説阿弥陀仏・執持名号・若一日・若二日・若三日・若四日・若五日・若六日・若七日・一心不乱・其人臨命終時・阿弥陀仏・与諸聖衆・現在其前・是人終時・心不顛倒・即得往生・阿弥陀仏・極楽国土・舎利弗・我見是利・故説此言・若有衆生・聞是説者・応当発願・生彼国土
舎利弗・如我今者・讃歎阿弥陀仏・不可思議功徳・東方亦有・阿★★仏・須弥相仏・大須弥仏・須弥光仏・妙音仏・如是等・恆河沙数諸仏・各於其国・出広長舌相・遍覆三千大千世界・説誠実言・汝等衆生・当信是称讃不可思議功徳・一切諸仏・所護念経舎利弗・南方世界・有日月灯仏・名聞光仏・大焔肩仏・須弥灯仏・無量精進仏・如是等・恆河沙数諸仏・各於其国・出広長舌相・遍覆三千大千世界・説誠実言・汝等衆生・当信是称讃不可思議功徳・一切諸仏・所護念経
舎利弗・西方世界・有無量寿仏・無量相仏・無量幢仏・大光仏・大明仏・宝相仏・浄光仏・如是等・恆河沙数諸仏・各於其国・出広長舌相・遍覆三千大千世界・説誠実言・汝等衆生・当信是称讃不可思議功徳・一切諸仏・所護念経
舎利弗・北方世界・有焔肩仏・最勝音仏・難沮仏・日生仏・網明仏・如是等・恆河沙数諸仏・各於其国・出広長舌相・遍覆三千大千世界・説誠実言・汝等衆生・当信是称讃不可思議功徳・一切諸仏・所護念経
舎利弗・下方世界・有師子仏・名聞仏・名光仏・達摩仏・法憧仏・持法仏・如是等・恆河沙数諸仏・各於其国・出広長舌相・遍覆三千大千世界・説誠実言・汝等衆生・当信是称讃不可思議功徳・一切諸仏・所護念経
舎利弗・上方世界・有梵音仏・宿王仏・香上仏・香光仏・大焔肩仏・雑色宝華厳身仏・沙羅樹王仏・宝華徳仏・見一切義仏・如須弥山仏・如是等・恆河沙数諸仏・各於其国・出広長舌相・遍覆三千大千世界・説誠実言・汝等衆生・当信是称讃不可思議功徳・一切諸仏・所護念経
舎利弗・於汝意云何・何故名為・一切諸仏・所護念経・舎利弗・若有善男子・善女人・聞是諸仏・所説名及経名者・是諸善男子・善女人・皆為一切諸仏・共所護念・皆得不退転於・阿耨多羅三藐三菩提・是故舎利弗・汝等皆当・信受我語・及諸仏所説
舎利弗・若有人・已発願・今発願・当発願・欲生阿弥陀仏国者・是諸人等・皆得不退転於・阿耨多羅三藐三菩提・於彼国土・若已生・若今生・若当生・是故舎利弗・諸善男子善女人・若有信者・応当発願・生彼国土
舎利弗・如我今者・称讃諸仏・不可思議功徳・彼諸仏等・亦称説我・不可思議功徳・而作是言・釈迦牟尼仏・能為甚難・希有之事・能於娑婆国土・五濁悪世・劫濁見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁・中得阿耨多羅三藐三菩提・為諸衆生・説是一切世間・難信之法・舎利弗・当知我於・五濁悪世・行此難事・得阿耨多羅三藐三菩提・為一切世間・説此難信之法・是為甚難・仏説此経已・舎利弗及諸比丘・一切世間・天人阿脩羅等・聞仏所説・歓喜信受・作礼而去  仏説阿弥陀経
次 甲念仏
南無阿弥陀仏 阿弥陀仏 阿弥陀仏
次 合殺   十界一念 融通念仏 億百万反 功徳成就
阿弥陀仏 阿弥陀仏 阿弥陀仏 阿弥陀仏 阿弥陀仏 阿弥陀仏
阿弥陀仏 阿弥陀仏 阿弥陀仏 阿弥陀仏 阿弥陀仏
次 迴向
我等所修念仏善  迴向極楽弥陀仏
哀愍摂受願海中  消除業障証三昧
天衆神祇増威光  当所神等増法楽
遷化大師等成正覚 一切霊等成仏道
慈覚大師増法楽  七世恩所生極楽
本願聖霊生極楽  上品蓮台成仏道
聖朝安穏増宝寿  天下安楽興正法
十方施主除災患  念仏大衆成悉地
命終決定生極楽  面奉弥陀種覚尊
菩提行願不退転  引導三有及法界
同一性故証菩提
次 後唄
処世界如虚空  如蓮華不著水
心清浄超於彼  稽首礼無上尊
次 三礼
一切恭敬 自帰依仏 当願衆生 体解大道 発無上意
自帰依法 当願衆生 深入経蔵 智恵如海
自帰依僧 当願衆生 統理大衆 一切無碍
次 七仏通戒偈
願諸衆生 諸悪莫作 諸善奉行 自浄其意 是諸仏教 和南聖衆
次 初夜偈
白衆等聴説 初夜無常偈 煩悩深無底
生死海無辺 度苦船未立 云何楽睡眠
次 九声念仏
阿弥陀仏 阿弥陀仏 阿弥陀仏 阿弥陀仏 阿弥陀仏
阿弥陀仏 阿弥陀仏 阿弥陀仏 阿弥陀仏
次 神分  次 霊分  次 祈願
次 大懺悔  普為四恩 三有法界 永除三障 礼仏懺悔
至心懺悔・如是等・一切世界・諸仏世尊・常住在世・是諸世尊・当慈念我・憶念我・証知我・若我此生・若我前生・従無始生死以来・所作衆罪・不自覚知・若自作・若教他作・見作随喜・若塔若僧・若十方僧物・若自取・若教人取・見取随喜・或作五逆四重・無間重罪・若自作・若教他作・見作随喜・十不善道・自作教他・見作随喜・所作罪障・或有覆蔵・或無覆蔵・応堕地獄・餓鬼畜生・及諸悪趣・辺地下賤・及弥戻車・如是等・所作罪障・今於十方・三世諸仏・慙愧発露・皆悉懺悔・至心発願・願我等従今日・乃至無上菩提・於一切処・常得値遇・普賢文殊・観音勢至・地蔵菩薩・令我恆得親近・恭敬供養・発菩提心・永不退転・常生浄処・浄仏国土・断除三障・永離衆難・成無上道  乗仏子
次 五念門
一 礼拝門
稽首天人所恭敬  阿弥陀仙両足尊
在彼微妙安楽国  無量仏子衆囲繞
金色身浄如山王  奢摩他行如象歩
両目浄若青蓮華  故我頂礼弥陀尊
面善円浄如満月  威光猶如千日月
声如天鼓倶翅羅  故我頂礼弥陀尊
観音頂戴冠中住  種種妙相宝荘厳
能伏外道魔★慢  故我頂礼弥陀尊
無比無垢広清浄  衆徳皎潔如虚空
所作利益得自在  故我頂礼弥陀尊
十方名聞菩薩衆  無量諸魔常讃嘆
為諸衆生願力住  故我頂礼弥陀尊
金底宝間池生華  善根所成妙台座
於彼座上如山王  故我頂礼弥陀尊
十方所来諸仏子  顕現神通至安楽
瞻仰尊顔常恭散  故我頂礼弥陀尊
諸有無常無我等  亦如水月電影露
為衆説法無名字  故我頂礼弥陀尊
彼尊無量方便境  無有諸趣悪知識
往生不退至菩提  故我頂礼弥陀尊
彼尊仏刹無悪名  亦無女人悪道怖
衆人至心敬彼尊  故我頂礼弥陀尊
我説彼尊功徳事  衆善無辺如海水
所獲善根清浄者  願共衆生生彼国
二 讃歎門
烏瑟膩沙無見相  髪毛右転紺青相
面輪端正満月相  眉間毫相右旋相
眼睫紺青不乱相  眼精紺色分明相
四十歯斉逾雪相  四牙鮮白鋒利相
舌相広長覆面相  常得上味適悦相
梵音和雅等聞相  常光面各一尋相
体相縦広量等相  身相修広端厳相
容儀洪満端直相  七処充満愛楽相
肩項円満殊妙相  膊腋悉皆充実相
胸臆身半師子相  身色光曜金体相
身皮細滑離塵相  毛孔一生右旋相
陰相蔵密象王相  両臂修直摩膝相
双★漸次繊円相  足跟広長称趺相
足趺修高称跟相  指間★網金色相
諸指円満繊長相  手足柔軟勝余相
千輻輪文円満相  足下平満等触相
清浄慈門刹塵数  共生如来一妙相
一一諸相莫不然  是故見者無厭足
我今略讃仏功徳  於徳海中唯一★
迴此福聚施群生  皆願速証菩提果
三 作願門
彼国清浄無悪趣  人天不復更悪趣
其身皆是真金色  其形同一無好醜
能識宿命無量劫  能見十方諸仏土
能聞十方諸仏説  能知十方衆生心
一念超過無量国  不起想念貪愛心
安住正定至菩提  仏光遍照十方界
彼仏寿命無限量  彼国声聞無数量
人天寿命亦無量  人天不聞不善名
十方諸仏称彼仏  彼仏十念生極楽
臨終迎接得往生  往生行願必果遂
彼国人天相好具  菩薩究竟至補処
食頃供養無量仏  所須供具皆如意
皆能演説一切智  悉得金剛堅固身
万物厳浄無称量  菩薩悉見菩提樹
読誦皆得辨才智  智恵辨才不可量
彼国清浄現諸刹  所有妙香薫十方
仏光所照得柔軟  菩薩聞名得無生
聞名女人離女質  聞名菩薩常梵行
聞名信楽得礼敬  彼国衣服随念至
所有快楽如漏尽  樹中影現諸仏刹
菩薩聞名具諸根  亦得清浄解脱定
命終之後生貴家  亦復具足衆徳本
逮得三昧見諸仏  彼国菩薩恣聞法
菩薩聞名得不退  亦得三種深法忍
我建六八超世願  必至無上菩提道
此願若不満足者  我誓不成等正覚
衆生無辺誓願度  煩悩無辺誓願断
法門無尽誓願知  無上菩提誓願証
願我臨欲命終時  尽除一切諸障碍
面見彼仏阿弥陀  即得往生安楽刹
我既往生彼国已  現前成就此大願
一切円満尽無余  利楽一切衆生界
願我往生極楽界  修習念仏三昧故
以本願力往娑婆  最初引摂結縁者
四 観察門
阿弥陀仏真金色  相好端厳無等倫
白毫宛転五須弥  紺目澄浄四大海
光中化仏無数億  化菩薩衆亦無辺
四十八願度衆生  九品咸令登彼岸
観音勢至大名称  功徳智慧倶無量
具足慈悲救世間  遍遊一切衆生界
五 迴向門
以此礼讃仏功徳  荘厳法界諸有情
臨終悉願往西方  共覩弥陀成仏道
願共諸衆生 往生安楽国
願共諸衆生 値遇弥陀尊
次 迴向伽陀
願以此功徳  平等施一切
同発菩提心  往生安楽国 
円頓章
円頓者。初縁実相。造境即中。無不真実。繋縁法界。一念法界。一色一香。無非中道。己界及仏界。衆生界亦然。陰入皆如。無苦可捨。無明塵労。即是菩提。無集可断。辺邪皆中正。無道可修。生死即涅槃。無滅可証。無苦無集。故無世間。無道無滅。故無出世間。純一実相。実相外。更無別法。法性寂然名止。寂而常照名観。雖言初後。無二無別。是名円頓止観。
当知身土 一念三千 故成道時
称此本理 一身一念 遍於法界
観音経
妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五
尓時無尽意菩薩即従座起偏袒右肩
合掌向仏而作是言世尊観世音菩薩
以何因縁名観世音仏告無尽意菩薩
善男子若有無量百千万億衆生受諸
苦悩聞是観世音菩薩一心称名観世
音菩薩即時観其音声皆得解脱
若有持是観世音菩薩名者設入大火
火不能焼由是菩薩威神力故
若為大水所漂称其名号即得浅処
若有百千万億衆生為求金銀瑠璃★
★碼碯珊瑚琥珀真珠等宝入於大海
仮使黒風吹其船舫飄堕羅刹鬼国其
中若有乃至一人称観世音菩薩名者
是諸人等皆得解脱羅刹之難以是因
縁名観世音
若復有人臨当被害称観世音菩薩名
者彼所執刀杖尋段段壊而得解脱
若三千大千国土満中夜叉羅刹欲来
悩人聞其称観世音菩薩名者是諸悪
鬼尚不能以悪眼視之況復加害
設復有人若有罪若無罪★械枷鎖検
繋其身称観世音菩薩名者皆悉断壊
即得解脱若三千大千国土満中怨賊
有一商主将諸商人齎持重宝経過嶮
路其中一人作是唱言諸善男子勿得
恐怖汝等応当一心称観世音菩薩名
号是菩薩能以無畏施於衆生汝等若
称名者於此怨賊当得解脱衆商人聞
倶発声言南無観世音菩薩称其名故
即得解脱
無尽意観世音菩薩摩訶薩威神之力
巍巍如是
若有衆生多於婬欲常念恭敬観世音
菩薩便得離欲若多瞋恚常念恭敬観
世音菩薩便得離瞋若多愚痴常念恭
敬観世音菩薩便得離痴無尽意観世
音菩薩有如是等大威神力多所饒益
是故衆生常応心念
若有女人設欲求男礼拝供養観世音
菩薩便生福徳智慧之男設欲求女便
生端正有相之女宿植徳本衆人愛敬
無尽意観世音菩薩有如是力若有衆
生恭敬礼拝観世音菩薩福不唐捐
是故衆生皆応受持観世音菩薩名号
無尽意若有人受持六十二億恒河沙
菩薩名字復尽形供養飲食衣服臥具
医薬於汝意云何是善男子善女人功
徳多不無尽意言甚多世尊仏言若復
有人受持観世音菩薩名号乃至一時
礼拝供養是二人福正等無異於百千
万億劫不可窮尽無尽意受持観世音
菩薩名号得如是無量無辺福徳之利
無尽意菩薩白仏言世尊観世音菩薩
云何遊此娑婆世界云何而為衆生説
法方便之力其事云何仏告無尽意菩
薩善男子若有国土衆生応以仏身得
度者観世音菩薩即現仏身而為説法
応以辟支仏身得度者即現辟支仏身
而為説法応以声聞身得度者即現声
聞身而為説法応以梵王身得度者即
現梵王身而為説法応以帝釈身得度
者即現帝釈身而為説法応以自在天
身得度者即現自在天身而為説法応
以大自在天身得度者即現大自在天
身而為説法応以天大将軍身得度者
即現天大将軍身而為説法応以毘沙
門身得度者即現毘沙門身而為説法
応以小王身得度者即現小王身而為
説法応以長者身得度者即現長者身
而為説法応以居士身得度者即現居
士身而為説法応以宰官身得度者即
現宰官身而為説法応以婆羅門身得
度者即現婆羅門身而為説法応以比
丘比丘尼優婆塞優婆夷身得度者即
現比丘比丘尼優婆塞優婆夷身而為
説法応以長者居士宰官婆羅門婦女
身得度者即現婦女身而為説法応以
童男童女身得度者即現童男童女身
而為説法応以天竜夜叉乾闥婆阿修
羅迦楼羅緊那羅摩★羅伽人非人等
身得度者即皆現之而為説法応以執
金剛身得度者即現執金剛身而為説
法無尽意是観世音菩薩成就如是功
徳以種種形遊諸国土度脱衆生是故
汝等応当一心供養観世音菩薩是観
世音菩薩摩訶薩於怖畏急難之中能
施無畏是故此娑婆世界皆号之為施
無畏者無尽意菩薩白仏言世尊我今
当供養観世音菩薩即解頸衆宝珠瓔
珞価直百千両金而以与之作是言仁
者受此法施珍宝瓔珞時観世音菩薩
不肯受之無尽意復白観世音菩薩言
仁者愍我等故受此瓔珞尓時仏告観
世音菩薩当愍此無尽意菩薩及四衆
天竜夜叉乾闥婆阿修羅迦楼羅緊那
羅摩★羅伽人非人等故受是瓔珞即
時観世音菩薩愍諸四衆及於天竜人
非人等受其瓔珞分作二分一分奉釈
迦牟尼仏一分奉多宝仏塔無尽意観
世音菩薩有如是自在神力遊於娑婆
世界
尓時無尽意菩薩以偈問曰
世尊妙相具 我今重問彼 仏子何因縁
名為観世音 具足妙相尊 偈答無尽意
汝聴観音行 善応諸方所 弘誓深如海
歴劫不思議 侍多千億仏 発大清浄願
我為汝略説 聞名及見身 心念不空過
能滅諸有苦 仮使興害意 推落大火坑
念彼観音力 火坑変成池 或漂流巨海
竜魚諸鬼難 念彼観音力 波浪不能没
或在須弥峯 為人所推堕 念彼観音力
如日虚空住 或被悪人逐 堕落金剛山
念彼観音力 不能捐一毛 或値怨賊繞
各執刀加害 念彼観音力 咸即起慈心
或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力
刀尋段段壊 或囚禁枷鎖 手足被★械
念彼観音力 釈然得解脱 呪詛諸毒薬
所欲害身者 念彼観音力 還著於本人
或遇悪羅刹 毒竜諸鬼等 念彼観音力
時悉不敢害 若悪獣囲遶 利牙爪可怖
念彼観音力 疾走無辺方 ★蛇及★蠍
気毒煙火燃 念彼観音力 尋声自回去
雲雷鼓掣電 降雹★大雨 念彼観音力
応時得消散 衆生被困厄 無量苦逼身
観音妙智力 能救世間苦 具足神通力
広修智方便 十方諸国土 無刹不現身
種種諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦
以漸悉令滅 真観清浄観 広大智慧観
悲観及慈観 常願常瞻仰 無垢清浄光
慧日破諸闇 能伏炎風火 普明照世間
悲体戒雷震 慈意妙大雲 ★甘露法雨
滅除煩悩焔 諍訟経官処 怖畏軍陣中
念彼観音力 衆怨悉退散 妙音観世音
梵音海潮音 勝彼世間音 是故須常念
念念勿生疑 観世音浄聖 於苦悩死厄
能為作依怙 具一切功徳 慈眼視衆生
福聚海無量 是故応頂礼
尓時持地菩薩即従座起前白仏言世
尊若有衆生聞是観世音菩薩品自在
之業普門示現神通力者当知是人功
徳不少仏説是普門品時衆中八万四
千衆生皆発無等等阿耨多羅三藐三
菩提心
延命十句観音経
観世音南無仏与仏有因与仏有縁仏
法僧縁常楽我浄朝念観世音暮念観
世音念念従心起念念不離心 
山家六条式
山家学生式。
天台法華宗年分学生式一首。国宝何物。宝道心也。有道心人。名為国宝。故古人言。径寸十枚。非是国宝。照于一隅。此則国宝。古哲又云。能言不能行。国之師也。能行不能言。国之用也。能行能言。国之宝也。三品之内。唯不能言不能行。為国之賊。乃有道心仏子。西称菩薩。東号君子。悪事向己。好事与他。忘己利他。慈悲之極。釈教之中。出家二類。一小乗類。二大乗類。道心仏子。即此斯類。今我東州。但有小像。未有大類。大道未弘。大人難興。誠願先帝御願。天台年分。永為大類。為菩薩僧。然則枳王夢猴。九位列落。覚母五駕。後三増数。斯心斯願。不忘汲海。利今利後。歴劫無窮。
年分度者二人。柏原先帝新加天台法華宗伝法者。凡法華宗天台年分。自弘仁九年。永期于後際。以為大乗類。不除其籍名。賜加仏子号。授円十善戒。為菩薩沙弥。其度縁請官印。
凡大乗類者。即得度年。授仏子戒為菩薩僧。其戒牒請官印。受大戒已。令住叡山。一十二年。不出山門。修学両業。凡止観業者。年年毎日。長転長講法華。金光。仁王。守護。諸大乗等。護国衆経。凡遮那業者。歳歳毎日。長念遮那。孔雀。不空。仏頂。諸真言等。護国真言。凡両業学生。一十二年。所修所学。随業任用。能行能言。常住山中。為衆之首。為国之宝。能言不能行。為国之師。能行不能言。為国之用。
凡国師国用。依官符旨。差任伝法及国講師。共国講師。一任之内。毎年安居法服施料。即便収納当国官舎。国司郡司。相対検校。将用国裏。修池修溝。耕荒理崩。造橋造船。殖樹殖種★。蒔麻蒔草。穿井引水。利国利人。講経修心。不用農商。然則。道心之人。天下相続。君子之道。永代不断。右六条式。依慈悲門。有情導大。仏法世久。国家永固。仏種不断。不任★★之至。奉円宗式。謹請天裁。謹言。
弘仁九年五月十三日。
前入唐求法沙門最澄上。 
山家八条式
勧獎天台宗年分学生式。
凡天台宗。得業学生。数定一十二人者。六年為期。一年闕二人。即可補二人。其試得業生者。天台宗学衆。倶集会学堂。試法華。金光明。二部経訓。若得其第。具注籍名。試業之日。申送官。若六年成業。預試業例若不成業。不預試業例。若有退闕。具注退者名并応補者名。申替官。
凡得業学生等衣食。各須私物。若心才如法。骨法成就。但衣食不具。施此院状。行檀九方。充行其人。凡得業学生。心性違法。衆制不順。申送官。依式取替。
凡此宗得業者。得度年。即令受大戒。受大戒竟。一十二年。不出山門。令勤修学。初六年聞慧為正。思修為傍。一日之中。二分内学。一分外学。長講為行。法施為業。後六年思修為正。聞慧為傍。止観業。具令修習四種三昧。遮那業。具令修習三部念誦。
凡比叡山。一乗止観院。天台宗学生等年分。并自進者。不除本寺名帳。便入近江有食諸寺。令送供料。但冬夏法服。依大乗法。行檀諸方。蔽有待身。令業不退。而今而後。固為常例。草菴為房。竹葉為座。軽生重法。令法久住。守護国家。
凡有他宗年分之外。得度受具者。自進欲住山十二年。修学両業者。具注本寺并師主名。明取山院状須安置官司。固経一十二年竟。準此宗年分者。例賜法師位。若闕式法。退却本寺。
凡住山学生。固経一十二年。依式修学。慰賜大法師位。若雖其業不具。固不出山室。経一十二年。慰賜法師位。若此宗者。不順宗式。不住山院。或雖住山。屡煩衆法。年数不足。永貫除官司天台宗名。本寺退却。凡此天台宗院。差俗別当両人。結番令加検校。兼令不盗賊酒女等。住持仏法。守護国家。
以前八条式。為住持仏法。利益国家。接引群生。後生進善。謹請天裁。謹言。
弘仁九年八月二十七日。
前入唐求法沙門最澄上。 
山家四条式
天台法華宗年分度者回小向大式。
合肆条。
凡仏寺有三。
一者一向大乗寺。初修業菩薩僧所住寺。
二者一向小乗寺。一向小乗律師所住寺。
三者大小兼行寺。久修業菩薩僧所住寺。
今天台法華宗。年分学生。並回心向大初修業者。一十二年。令住深山四種三昧院。得業以後。利他之故。仮受小律儀。許仮住兼行寺。
凡仏寺上座。置大小二座。
一者一向大乗寺。置文殊師利菩薩。以為上座。
二者一向小乗寺。置賓頭盧和尚。以為上座。
三者大小兼行寺。置文殊与賓頭盧両上座。小乗布薩日。賓頭盧為上座。坐小乗次第。大乗布薩日。文殊為上座。坐大乗次第。此次第坐。此間未行也。
凡仏戒有二。
一者大乗大僧戒。制十重四十八軽戒。以為大僧戒。
二者小乗大僧戒。制二百五十等戒。以為大僧戒。
凡仏受戒有二。
一者大乗戒。依普賢経。請三師証等。
請釈迦牟尼仏。為菩薩戒和上。
請文殊師利菩薩。為菩薩戒羯磨阿闍梨。
請弥勒菩薩。為菩薩戒教授阿闍梨。
請十方一切諸仏。為菩薩戒証師。
請十方一切諸菩薩。為同学等侶。
請現前一伝戒師。以為現前師。若無伝戒師。千里内請。若千里内無能授戒者。至心懴悔。必得好相。於仏像前。自誓受戒。今天台年分学生。并回心向大初修業者。授所説大乗戒。将為大僧。
二者小乗戒。
依小乗律。師請現前十師白四羯磨。請清浄持律大徳十人。為三師七証。若闕一人不得戒。
今天台年分学生。并回心向大初修業者。不許受此戒。除其久修業。
窃以。菩薩国宝。載法華経。大乗利他。摩訶衍説。弥天七難。非大乗経。何以為除。未然大災。非菩薩僧。豈得冥滅。利他之徳。大悲之力。諸仏所称。人天歓喜。仁王経百僧。必仮般若力。請雨経八徳。亦屈大乗戒。国宝国利。非菩薩誰。仏道称菩薩。俗道号君子。其戒広大。真俗一実。故法華経。列二種菩薩。文殊師利菩薩。弥勒菩薩等。皆出家菩薩。跋陀婆羅等五百菩薩。皆是在家菩薩。法華経中。具列二種人。以為一類衆。不入比丘類。以為其大類。今此菩薩類。此間未顕伝。
伏乞。陛下。自維弘仁年。新建此大道。伝流大乗戒。利益而今而後。固鏤大鐘腹。遠伝塵劫後。仍奉宗式。謹請天裁。謹言。
弘仁十年三月十五日。
前入唐天台法華宗沙門最澄上。 
 
真言密教

チベット人によるインド密教の受容について
通説に従えば1)、インド密教では、七世紀頃に現れた『大日経』と『金剛頂経』(特に『真実摂経』)を中心とした密教経典を中期密教と呼び、それを境にして、それ以前の密教を初期密教、それ以後の、特に『金剛頂経』系から展開された密教を後期密教と呼ぶ。もっとも、これは歴史上の分類であって、初期密教や中期密教が次々と生成、消滅したわけではなく、後期密教が盛んになる八世紀以降の時代には、次のような種類の密教経典が並存していたと思われる。すなわち、(チベットの学僧、プトゥン(1290-1364)の分類に拠れば)それぞれ(ア)所作タントラ(初期密教に対応)(イ)行タントラ(大日経系中期密教に対応)、(ウ)瑜伽タントラ(金剛頂経系中期密教に対応)、(エ)無上瑜伽タントラ(後期密教)である。更に、(エ)は@方便(父)タントラ、A般若(母)タントラ、B双入不二タントラと呼ばれる範疇に分類される2)。これらの後期密教の特徴は人間の性的欲望を積極的に認め、むしろそれを「悟り」の境地に至る手段とすることである。
インドからチベットに仏教が伝来したのはチベット全域を統一し、吐蕃王朝を建てたソンツェンガンポ王(581-649)の時代であった3)。その後、本格的な仏教導入が、ティソンデツェン王(742-797)の時代から始まる。しかし、チベットに後期密教が導入されたのは、いわゆる「ランダルマの破仏」(八四一年)4)以後の「後伝期」においてであると言われている。すなわち、十世紀初頭にグゲ王朝が成立すると、国王はリンチェンサンポ(958-1055)等をネパールに留学させ、新しい仏教を学ばせ、仏典の翻訳を開始した。もっとも、すでに大小乗仏典および中期までの密教経典のほとんどは「前伝期」に翻訳されていたので、主に「新訳」の対象になったのは、吐蕃時代より後に成立した後期密教経典であったわけである5)。
このようにしてチベットには、小乗、大乗(顯教)、初、中、後期各密教のすべての仏教がそろうことになる。しかし、そこから当然に発生する教義上の混乱を整理するために、インドから招かれたのがヴィクラマシーラ大寺院の学頭アティーシャ(982-1054)であった。彼によって著された『菩提道灯論』は、彼の弟子達がカダム派を開く教義の基礎となったのみならず、後にカダム派を吸収する形でチベット最大の宗派となったゲルク派の開祖、ツオンカパ(1357-1419)の教義に強い影響を与えた6)。以下では主として小玉[1]の精細な分析によって、アティーシャがどのように当時のチベット仏教を整理したかを見てみよう。
アティーシャの教義の特徴はチベットに並存する全ての仏教を総合する教理を樹立しようとしたことである。その際、彼が直面した最大の難問は、小乗、大乗(特に顯教)、密教(特に後期密教)におけるそれぞれ異なる戒律をどのように「総合」するかということであった。
第一に小乗戒と大乗戒の関係である。すなわち「別解脱律儀は菩薩律義の所依として必要か否か。」7)ということであるが、これに対するアティーシャの答は次の如くである。「七種別解脱律儀をば/常に別に守るものに/菩薩律の福分は存するが/他のもには存しない。」8)つまり、「たとえ菩薩であっても、出家する際は声聞の二五〇戒等をまず受ける必要があることになる。」9)
第二に小乗・大乗戒と密教、特に後期密教における行との関係である。すなわち、「梵行者が秘密・般若智慧の両潅頂をうけることは適当なりや否や」10)と言うことであるが、これに対するアティーシャの答は次の如くである。「本初仏大タントラに/いとかたく禁じられているから/秘密・般若慧智の潅頂を淨行者は受けてはならない。もしそれら潅頂をうければ/淨行の苦行に住するものには/禁制の行いとなるから/苦行者の律儀を違犯する。(略)」11)ここで言う「本初仏大タントラ」が何を意味するかは明らかでないが、管見では、それが『大日経』またはその系統の経典をさすと解すれば納得がいく。また「秘密・般若慧智」は、方便(父)タントラの代表たる「秘密集会」と般若(母)タントラ(および、それらを総合したと言われる双入不二タントラ)を示すと解すべきであろうが、アティーシャ自身は「いわゆる四種潅頂のうち、(別解脱戒に抵触しない)第一の瓶潅頂における金剛阿闍梨潅頂は・・・秘密真言の門にあるものにとって必要なことでもあるとも説いている。」12)
要するに、アティーシャは後期密教経典に直面しながら、小乗戒を絶対視した13)。それが原則的にはツオンカパに受け継がれ14)、かえって教理上の混乱をもたらしたことは否めない。しかし、このことが(インドとは違って)チベットで仏教を生きながらえさせたことも否めないであろう。
付注
1)以下のインド・チベット密教史に関する主な参考文献は、特に注意しないかぎり、松長[2]、奥山[3]、立川[4]である。
2)ただし、特に後期密教の分類に関しては異論がある。プトゥンの分類(『プトゥン仏教史目録』(1322))は双入不二タントラに属する「時輪タントラ」を最高の教理にすえたものだが、後述するゲルク派では双入不二タントラをたてないで、父タントラに属する「秘密集会」を、またサキャ派では母タントラに属する「ヘヴァジュラ」を最高の教理とする。田中[5]pp.85-92参照。
3)インドから招かれた学僧シャアーンタラクシタの布教を助けるために密教僧パドマサンバヴァも招かれた。これがチベットに密教が導入された最初である。
4)ただし、本当に「破仏」があったかどうかは疑わしい。田中[5]p.33参照。
5)これは『デンカルマ目録』(824年)に後期密教経典が掲載されていないことからの推論である。しかし、『敦煌文書』の中には、吐蕃時代にすでに後期密教の初期のタントラ経典がチベットに存在したことを示す文書がある。
6)「事実アティーシャの教学が、彼の門弟達によってうけつがれ発展したカーダム派、さらには新カーダム派たるゲルク派、特にこの派の開祖ツオンカパのよりどころとなったことは学者の一致して認めるところである。」
7)この引用はパンチェン・ラマ四世ロサンチュキゲイツェン『菩提道灯論の釈"卓越笑の賀宴"』からのものである。
8)〜12)小玉[1]
13)これは、日本の真言密教が中期密教経典とそれと抵触しない大乗戒にもとづいて成立したことと著しい対照をなしている。
14)ツオンカパに対するアティーシャの影響が如何に大きかったかは、次の挿話が物語っている。「ツオンカパは・・・(秘密集会聖者流における『究竟次第』五次第のうちの第二)心清浄次第で(空、極空、大空、一切空のうち前三者の)三空を体験するためには(生身の女性と交合する)『羯摩印』が必要だと考えていたが、自派の僧侶が堕落することを恐れて、敢えて「羯摩印」を用いなかったといわれる。そのため彼は・・・生前は(『生起次第』に続く、より)上級の『究竟次第』を実践せず、『本当の光明』が体験出来る入滅時に初めて成仏することができたと伝えられている。」
中国唐代に活躍した密教僧(不空)の業績
 並びに中国密教史上における意義・位置づけについて
真言密教の伝統的な見解によれば、不空三蔵は付法の八祖の第六、伝持の八祖の第四に位置する。本稿はこの不空の業績を、特に中国密教の「護国思想」を中心として取り上げ、その日本密教(真言密教)に対する影響を考える。
「不空(Amoghavajra,705-774)は、北インドのバラモン出身の父と康国人1)を母として西域に生まれた。」。その後、長安に入り金剛智(Vajrabodhi,671-741)に師事した。不空の前半生は不遇であったが、安禄山の乱(755-763)及びその後のチベット軍の侵入に対する調伏活動によって一挙に名声を得、玄宗、粛宗、代宗の唐三朝に仕え、密教経軌七十七部百一巻を翻訳した 。
この簡単な伝記叙述からも推察できるように、彼の宗教活動の重点は「鎮護国家」にあったと思われる。事実、彼は護国のための潅頂道場の設置とともに、すでに存在した(伝)鳩摩羅什訳『仏説仁王般若波羅蜜経』を「重訳」することを朝廷に願いでて許され、『仁王護国般若波羅蜜多経』として「訳出」している2)。
『仁王経』は『金光明経』(『金光明最勝王經』)、『法華経』(『妙法蓮華經』)とともに護国三部経と言われているが3)、『仁王経』については、(伝)鳩摩羅什訳そのものが(少なくともその一部が)、羅什訳でなく中国撰述の偽経である疑いが濃厚で、それを(訳出されたテキストは廃棄されるという当時のならわしのために)「サンスクリット原典もないまま」に「重訳」した不空訳『仁王経』の「仏教経典」としての価値は低い。しかし、それだからこそ、かえってそれは(1)「重訳」の意図と(2)不空の「護国」に対する考え方を示していると考えられる。
(1)(伝)鳩摩羅什訳(以下、旧訳本)と不空訳(以下、新訳本)の両『仁王経』を比較したとき、特に目立つのは「各所に密教的要素を導入した」ことである。すなわち、第一に旧訳本(受持品第七)の「五大力菩薩」4)が新訳本(捧持品第七)では『金剛頂経』系密教の諸尊に入れ替わっている。第二に新訳本の奉持品第七にかなり長文の陀羅尼が挿入されて、しかも、それは「三宝に帰命す。聖なる大日如来応供正遍智者に帰命する。・・・」から始まっている5)。
(2)しかし、内容としてはほとんど変わっていない6)。特に、この経典の弘通のための国王への付囑について、旧訳本では、「是故付囑諸國王。不付囑比丘比丘尼清信男清信女。何以故。無王力故。故不付囑」となっているところは、新訳本では、より簡単に「我以是經付囑國王。不付比丘比丘尼優婆塞優婆夷。所以者何無王威力不能建立。」となっているが、意味内容は変わらない。つまり、本経を国王に付囑するのは、王の力が絶大で、それを借りれば、僧侶へ直接に付囑するよりも効率的に衆生に弘通させることができるからである。
ちなみに、この『仁王経』の思想は、真言密教でそれと並んで重視される『守護経』(般若・牟尼室利訳『守護國界主陀羅尼經』)の思想と微妙な、しかし重要な差異がある。すなわち、『守護経』における国王と衆生との関係を母と乳児の関係に譬えた有名な章句7)を見ると、『仁王経』のように、国王を経典弘通の方便としてみなすのでなく、国王そのものを守護することが、順序よく身分階梯の上から下へ、やがては全衆生への守護になるという主張になっている。弘法大師空海は、ともに自ら将来した(不空訳)『仁王経』と『守護経』との比較について何も語っていないが8)、少なくとも真言密教の立場、すなわち、菩提心を発した衆生は、平等に、かつ直接に法身・大日如来に瑜伽して、その説法を聞くべきであるという立場からは、『仁王経』の思想がより望ましいと言わざるを得ない9)。
とまれ、不空が『仁王経』の「重訳」によって「護国思想」を密教的に展開した「功績」は大きく、特に『守護経』が撰述される基礎になったことは容易に想像できる。それがやがて日本において、戦時中とはいえ、高野山真言宗の最高の学僧をして「思うに、この『守護経』における『国王即国家』の思想が自然に『皇室即国家』のわが国体に合致し、・・・その国家を統べさせ給う陛下はまた密教精神を基本として、天下万民を撫育遊ばされる。」と言わしめるまでに至ったことは感慨深い。
付注
1)現在のサマルカンド(中央アジア、ウズベキスタンの古都)か。
2)松長[1]p.142
3)静[5]p.113.
4)「菩薩」といっても、有志八幡講十八箇院所蔵「五大力士菩薩」(十世紀前期)では、明らかに忿怒身(教令身)として描かれている(高田・柳沢[6]p.74-75)
5)さらに、この陀羅尼の観行法が不空訳『仁王護國般若波羅蜜多經陀羅尼念誦儀軌』に示されている。
6)この点は松長[7](p.71)と同意見である。栂尾[4]は傑出した論文であるが、次の点には同意できない。「然るに正純密教が成立するや、その密教思想の上から、従来の仁王般若経を見直し、鬼神の聞法を介するというよりも、寧ろ国王自身がこの秘密般若の味得し体解することによりてのみ護国の成果を挙げうるやうにこれを改訂した。それが不空訳の『仁王護國般若波羅蜜多經』二巻である。」([4]p.10)
7)「善男子譬如良醫見小嬰孩。?身疾病不勝醫藥。乃以良藥令母服之。由母服藥力及於乳。其子飮乳疾病皆除。・・・若護國王獲七勝益何等爲七。所謂若能守護國王即是守護國之太子。若守護太子即守護大臣。若守護大臣即守護百姓。若守護百姓即守護庫藏。若守護庫藏即守護四兵。若守護四兵即守護隣國。若能如是一切皆安。」(TaishoTripitakaVol.19,No.9970997_,19,0566a06(03)-a22(01)
8)空海の護国思想については、静[5]の研究がある。
9)もっとも、護国思想に関係する不空訳の経典は他にもあり、特に『葉衣觀自在菩薩經』と『文殊師利菩薩根本大教王經金翅鳥王品』がある。また、不空の上奏文や朝廷との関係文書を編集した『表制集』(円照編『代宗朝贈司空大辨正廣智三藏和上表制集』)がある。これらには『守護経』の思想に似た章句も見られる。例えば『金翅鳥王品』には、「當於未來末法時。用此護持佛法。擁護國王及國界。令諸有情皆得安樂。此法門應須揀擇法器。淨信三寶者。住菩提心深愍有情者。孝順父母忠敬國王。尊重和上阿闍梨。」(TaishoTripitakaVol.21,No.1276_,21,0328c29(02)-0329a03(07))章句が見られる。なお、前述二経の指摘は松長[7]に、『表制集』の指摘は藤善[2]による。
鎌倉・室町期の真言(宗)密教について1)
真言宗に限らず、一つの宗派を形成する僧侶集団を支えるためには、経済的基盤の確保が必要である。ここでは、主として山陰[1]を参考にして、中世、特に中・後期(南北朝・室町時代)の全国的な荘園解体期において高野山金剛峯寺が、その支配下にある寺領をどのように守りえたかを説明するとともに、それによって生じた「宗学の堕落」について考えたい。
「創立当時の高野山は国衙から施与された正税を収入の基礎としていたと思われる。これが寺田として文献に見える初めは、貞観十八年(876)に・・・水陸田三十八町が寺田となったときである。」しかし、その後、主として摂関家、院政、鎌倉幕府の中央権力からの寄進を得て、鎌倉時代末期には、現在の伊都郡・那賀郡のほとんど全域の膝下荘園の他に、多くの遠隔荘園をも領有することになる。いわゆる「元弘の勅裁」(元弘三年(1333))は、「御手印縁起」にもとづいて膝下荘園のほとんどを、高野山金剛峯寺領として、改めて公的に認めたものであった2)。
しかし、公的な領有と実質的な支配権の確保とは別である。高野山金剛峯寺はその後(すでに朝廷の権力に依拠できない状況で)、遠隔荘園の支配を諦める代わりに、膝下荘園領に関して、上は室町幕府守護の介入を排除し、下は惣村の自立を抑制するために自力で奮闘することを決意した。その中心となったのは「衆徒」と呼ばれる広義の学侶集団である。
ところで、高野山において衆徒がこのような勢力として、指導力を発揮するためには、特に(1)衆徒内部の結束、(2)衆徒以外の職集団、特に「行人」に対する制御、(3)山内の他のサブ・セクト、特に「大伝法院方」の排除等が必要であった。以下では、このうち(1)と(3)に注目しよう。
(1)を端的に示すのが、山陰[1]に引用されている二つの置文(貞和三年置文(1347)、貞和四年置文(1348))である。前者は衆徒の一致団結のために「四季祈祷」を行うこと、後者は、衆徒の結束を乱すものに厳罰をもってのぞみ、かつ非常の場合には「衆徒一同発向」によって対処することを決めている。興味深いのは両置文に、預大法師が、行事入寺、年預山籠(または阿闍梨)と並んで、代表者署名として堂々と存在することである3)。このことは衆徒全体の事実上の主導権が、その最下層にある大法師(五番衆)4)に握られていたことを示唆している。実際、自力で寺領を維持するためには、臈次の若い(したがっておそらく年齢は若いが、学問的水準が低い)衆徒が全衆徒の先頭に立ち、行人・荘官を指揮して事に当たらざるを得なかったのであろう5)。
他方、(3)については、大伝法院方との敵対は、教義の相違というよりも、大伝法院方が旧来から領有する荘園(相賀、山崎、志富田等)のほとんどが「御手印縁起」に示された領内にあったことによっている。かくして、文字通り血を血で洗う闘争の結果、高野山金剛峯寺は、弘安十一年(1288)に伝法院方を山外へ追い出すことに成功したが、なお支配地をめぐる紛争は延々と続くことになる6)。
しかし、このような高野山金剛峯寺の「経済的成功」が、反面では真言密教の教義の発展を阻害したことは想像に難くない。実際それは、@(衆徒内結束に有効な)臈次による昇進制度のために、衆徒全体を五番衆と同様の学問的水準の低い集団にし、かつA論争による教義の発展を蔑ろにした結果、「空白の二百年」7)を生みだしたのであった。
周知のように、真言密教は、すでに空海生存中に、徳一の『真言宗未決文』によって投げかけられた疑問に答える課題を負って来た。特に、徳一が教義の核心をなす即身成仏に関連した二つの疑問点、すなわち「行不具失」と「闕慈悲失」を提起して以来、この時期、多くの真言宗徒によって反論が試みられてきた。しかし、その中で比較的整然とした議論を展開できたのは、管見では東寺派の杲宝(1306-1362、『杲宝私鈔』)のみといってよい8)。
もっとも、宥快(1345-1416)は長覚(1340-1416)とともに「応永の大成」を果たし、それまでの浄土教の思想が混入した高野山の教学を、真言密教を基本として立て直したと言われている。しかし、例えば彼が『宗義決択集』において「問真言正所被機可限上根上智乎。答據一義可爾也」に続けて、「下根人為結縁傍機此雖二世若三世證果。」と述べ、上根上智以外の人の即身成仏を認めず、下根の「隔世成仏」を主張するとき、なお浄土教の影響から脱しきれていないことを示している9)10)。これが「空白の二百年」の避けがたい結末であった11)。
付注
1)一部、山陰加春夫教授の指導を受けた。
2)(狭義の)御手印縁起は弘仁七年(816)〜承和三年(836)の日付をもつ公文書群(三浦[4])であるが、赤松[5]および武内[6]は寛弘元年(1004)の石垣荘との寺領紛争直前に成立したと考証している。この「偽作」は元弘の勅裁までにも、幾度となく高野山寺領確保に役立っている。
3)また、観応二年(1351)の「定置鞆淵庄下司与百姓和談間事」(山陰[1]においても、預大法師の署名が、行事山籠、年預山籠と並んで存在する。
4)和多[7]では五番衆を大法師と区別しているが、ここでは同一の職位と考える。
5)「行人」との関係はほぼ円滑であったように見えるが、それでも「高野動乱」(永享五年(1433))に見られるように、諸役諸賦課の軽減等を求めて行人(六番衆)の蜂起が起こっている 。
6)大伝法院との領地争奪戦は正平十年(1355)相賀南荘の領有で終了する。
7)一応、覚鑁の寂滅(1143)から宥快の生誕(1345)までを目途とした。
8)東寺もまた、金剛峯寺と同様の問題に直面している。しかし、紛争処理の先頭に立ったのは「学衆方」の(臈次にこだわらず器量によって選ばれた)上位者であり、事実、杲宝自身が矢野荘紛争の際に所務職として活躍している。
9)浄土教の側からみれば、真言宗を「穢した」平安浄土教(空也、源信)は未だ顕密仏教の価値体系に拠っており、法然、親鸞が切り開いた浄土教ではなかった。すなわち「妙なる諸行を修する能力がないから方便として念仏を専修するのか、それとも諸行は無価値だから念仏のみを専修するのかが対立点である。」(平雅行[9])高野山真言宗が教義上で闘うべき強敵は前者ではなく、後者であるべきであった。
10)杲宝および宥快の所論については、拙稿「徳一の『真言宗未決文』−特に「即身成仏疑」について」(2007)および「機根論」(2007)。
11)この「空白時代」に続いて、高野山上では「高野山法度」(1601)に続き「高野山衆徒法度」(1615)によって、多分に自ら招いたものとは言え、幕府によって封じ込まれた「暗黒時代」が続く 。
江戸期に活躍した真言宗の僧侶(慈雲)の伝記・思想等について
本稿では江戸中期に活躍した慈雲飲光(1718〜1802)を取り上げる。慈雲の業績は、次の三つにまとめられる1)。
(1)「正法律」を唱道し、全ての仏教僧侶に釈迦が定めた戒律に帰れと呼びかけたこと。
(2)『十善法語』を著し、全ての在家者に人として守るべき道を分かりやすく説いたこと。
(3)「雲伝神道」を唱道し、仏教、神道、儒教を統一的に解釈したこと
これらは相互に関連しているが、ここでは(3)を中心に検討する。それに必要な限りで、まず慈雲の略歴を主に岡村[1]にそって示す2)。
慈雲は亨保三年(1718)大阪中之島高松藩の蔵屋敷に生まれた。父の上月安範は神道に造詣があり、『大祓解』(おおはらいのげ)を著し、法楽寺3)の洪善普摂和上に深く帰依した。母のお清は洪善から十三仏の真言をさずかって毎日唱えるほどの篤信家であった。父は慈雲(幼名、満次郎)十三歳のとき死去したが、このような幼児・少年期の家庭環境が慈雲の生涯に与えた影響は無視し得ないと思われる4)。
慈雲は父の死の年に法楽寺で出家。亨保十七年(1732)十五歳で、京都の伊藤東涯5)のもとで三年間、儒学を学んだ。元文元年(1736)十九歳で、大和の諸寺で唯識学その他の大乗仏教を学んだ後、河内の野中寺6)で本格的な戒律と密教の修行生活を始めた。元文四年(1739)二十二歳で、忍綱より西大寺流の秘法潅頂を受けた7)。寛保元年(1741)二十四歳のとき信州正安寺大梅禅師8)のもとに参禅した。
その後、寛延二年(1749)三十二歳、河内長栄寺で「根本僧制」を定め、安永四年(1775)五十八歳、『十善法語』を完成、ほぼ享和元年(1801)八十四歳、(「雲伝神道」の大成)『神儒偶談』を著した9)。文化元年(1804)八十七歳、寂滅。
以上の略歴が示すように、慈雲は、本来は真言密教の僧侶でありながら、その幼・少年期に父から神道についての教えを受けたはずであり、また青年期に意欲的に大乗仏教、儒学、禅宗を修している。これらの教養の積み重ねが「雲伝神道」の基礎になったことは疑い得ない。
さて「雲伝神道」とは何かは、(1)古代に始まり、中世に爛熟した神仏習合論、いわゆる「本地垂迹説」との違い及び(2)中世に始まり江戸末期に完成した「国粋神道」との違いという二つの問題に答えることによって得られる10)。
「本地垂迹説」とは、もともと自然信仰にもとづいて、みるべき教理をもたない神道に真言密教の側からの理論武装を与えるものであった。例えば、代表例として、いわゆる「両部神道」(三輪流神道と御流神道)は、アマテラスオオミカミを大日如来に見立てた上で、伊勢神宮における内宮を胎蔵界の(理を意味する)大日如来に、外宮を(智を意味する)金剛界の大日如来に対応させてみせた11)。しかし、「雲伝神道」には、そのような仏と神との個々的な対応関係は見られず、むしろ全体としての仏教と神道の関係が語られる。すなわち「此神道則有為法也。密教則無為無漏也。以九種住心観之則有為無為別趣也。秘密荘厳心中。即有為而是無為。我日本国直是両部曼拏之定位。而藷神悉三部界会五智聖位。藷社立本地垂迹斯由也。然初心行者味於法義妄談権実。故大師十種神寳中云不雑仏法。此義更問。」(慈雲[2]p.266)。
他方、「国粋神道」に属する人々は、少なくとも賀茂真渕(1697〜1769)までは、仏教を排斥するために儒教を用いていた。その限りで、これは純粋な「国粋神道」ではない。儒教については、慈雲は次のように述べている。「要をとって言ば。道とは常住不変なるものなり。此道天地とともになり出たる。我国の神道なり。人倫ありて後。衆多の聖人出て安排布置せる。是儒墨百家なり。此等の道理を知り。時に随ひ事に応じて。取り用て妨ざるを有道の人と名く。」(慈雲[3]p.74)また「神道の高き。道教儒教の及ぶ処に非ず。その深意を得るに於は。密教に入るに非ざれば是を知ること能わず。以て知るべし。吾が密教の最尊最上無比無等の教にて。有為無為諸法の決択。内外諸道の説相。皆此より明なることを。」(慈雲[4])。
儒教をも否定した本居宣長(1730〜1801)と平田篤胤(1776〜1843)の思想に対する批判は直接的ではないが、次の文から伺い知ることができる。「今の仏家者流の宗旨がたまり、祖師びいきの如き、我が師はその卑陋たるを知る。若し神道に従事して儒を嫌い仏を憎む、・・・是彼日蓮の徒なり。墨子が倹を守る。一日も緩にすべからざるの道なり。神祇徳あるを誨ゆ。また我が国の風なり。」(慈雲[5]p.448)12)
明治維新をはさむ「排仏毀釈運動」が失敗したのち、いち早く「雲伝神道」が見直されたのもうなずけることである13)。
付注
1)中村[6]p.410
2)木南[7](p.467)における略歴も参照した。
3)現在、真言宗泉涌寺派大本山。
4)岡村[1]では少年時代にはむしろ仏教に敵意を抱いていたと記されているが、慈雲自身の韜晦が多分に混じっていると思われる。
5)寛文一〇年(1670)〜元文元年(1736)。儒学者。父は儒学者伊藤仁斎。古義学の興隆の基礎を築いた。
6)江戸時代、律宗の勧学院。明治時代中期に高野山真言宗に転じる。
7)伝法は、叡尊(一二三七年、西大寺再興)・・・→慈忍(一六二〇年、野中寺開山)→洪善→忍綱→慈雲である(岡村[1]p.39)。
8)天和二年(1682)〜宝暦七年(1757)。禅二宗の中にあって臨済宗の白隠とならび称される曹洞宗の高僧。
9)木南[7](p.53)は『神授偶談』の成立を慈雲八十四,五歳の時と推定している。
10)以下、慈雲からの引用に当たって、稲毛[8]、池田[10]を参考にした。
11)西田[9]pp.127〜133。
12)この文は「楊墨も亦可取か」の項にある。なお西田[9](pp.252〜61)は、「神」を定義できない(神道不測の)本居宣長と平田篤胤の神学を「不可知論」または「絶対不可知論」として批判している。
13)明治期における「雲伝神道」の復活過程については池田[10]に詳しい。 
 
最澄と東国

山上多重塔
「如法経」とは法の如く書写した経典のことで、多くは法華経を如法清浄に書写することをいいます。一般的な説では天長10年(833)に円仁が比叡山横川で始めたとされますが、如法経との表現自体は天平勝宝4年(752)5月16日の「自所々請来経帳」をはじめ古文献に散見され、近年の研究により「山上多重塔」が紹介されています。
山上多重塔は赤城山南麓の舌状台地にあり、周囲は広大な草原、畑で赤城山の悠々たる姿を一望に収めます。所在は群馬県勢多郡新里村でしたが、現在は合併により群馬県桐生市新里町山上2555となりました。国指定の重要文化財として正式には「塔婆〈石造三重塔〉」ですが、通称の山上多重塔と呼ばれることが多いようです。多重塔は明治時代後半の開墾により近くで発見、その後現在地に移されて覆屋に納められ、礎石はコンクリートで固められました。最初に造り立てられた場所も、現在の所在地周辺ではないかと推測されています。材質は多孔質の安山岩を加工したもので、上から相輪、屋蓋、塔身、礎石で構成され、塔身上部に穿たれた円形状の穴には銘文にある「如法経」を納めたと考えられます。
銘文は塔身の上層、中層、下層に分けて南面から西面、北面、東面へと横に刻まれ、上層に「如法経坐 奉為朝庭 神祇父母 衆生含霊」、中層に「小師道 輪延暦 廿年七 月十七日」、下層には「為兪无間 受苦衆生 永得安楽 令登彼岸」と書かれています。
読み下せば「如法経の坐である。朝庭(廷)、神祇、父母、衆生、含霊の為に奉る。小師道輪、延暦二十年七月十七日。無限に苦を受ける衆生を兪し、永く安楽を得て彼岸に登らせんが為に。」となるでしょうか。
この銘文により、朝廷、神祇、父母、衆生、含霊等あらゆるもののために、無間地獄の受苦にあう衆生が救われ安楽を得て彼岸へ往けるように願い、僧道輪が関わって延暦20年(801)7月17日に如法経を納める経塔が造立されたことが分かります。これは最澄の入唐2年前のことで、円仁の如法経からは30年以上も前になります。また、朝廷から征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂が蝦夷を平定すべく第三次(3期)征討軍を率いて現地に向かい、蝦夷の討伏を奏上した延暦20年(801)9月27日と同年のことでもあります。(特に宝亀5年[774]以降、弘仁2年(811)までの蝦夷征討は1期から4期に分けられる)  
山上多重塔のかなたに
僧・道輪がどのような人物であったかは不明なようですが、山上多重塔が造られた延暦20年(801)以前、(11年かけて6回の試みの末、天平勝宝5年[753]に来日した唐の)鑑真の弟子である道忠(日本人 生没年不詳)とその弟子が下野・上野の両毛一帯で人々への教化を展開していました。東国の道忠一門と比叡山寺の最澄には深い関わりがあり、その発端について菅原征子氏の論考「日本古代の民間宗教・T東国古代の民間宗教・第三章 両毛地方の仏教と最澄」(2002年 吉川弘文館)では、以下のように解説されています。
「最澄と道忠との出会いは『伝』(※叡山大師伝)によれば、延暦十六年(797)最澄が叡山にて『一切経論章疏記』等の書写を思い立ったとき、叡勝、光仁、経豊、聞寂、といった南都の学僧がこれを助けたのであるが、そのとき道忠もこの写経事業に加わって大小経律論二千余巻を助写したのが最初のようである。また円澄(第二代天台座主)は、このとき助写のために道忠から最澄に送られた弟子であるらしい。道忠について、『伝』は次のように記している。
(前略)又東国化主道忠禅師者、是此大唐鑑真和上持戒第一弟子也。伝法利生、常自為事。知識遠志、助写大小経律論二千余巻。(後略)」
「『伝』に言う彼ら道忠の弟子たちは、いずれもその名の上に一乗仏子を冠しており、最澄と志を同じくする法華一乗を受持する菩薩僧であった。」
山上多重塔に刻まれた「為兪无間 受苦衆生 永得安楽 令登彼岸」と僧・道輪。その背景に見える法華一乗の菩薩僧である道忠一門と最澄のつながり。この小さな石塔のかなたには、大いなる歴史の舞台があるように思えてきます。山上多重塔を入り口として、歴史空間をめぐる旅に出てみましょう。まず僧・道輪と同時代に菩薩行を展開した道忠一門と最澄の関係を概観し、次に当時の東国の人々の暮らしに多大なる影響を与えた歴代朝廷による蝦夷征討(えみしせいとう)を見ていきたいと思います。
※「叡山大師伝」
最澄の伝記で、ほかに「山家伝」「伝教大師伝」「比叡山大師伝」「大師一生記」等と称されます。撰者については、平安時代末期の石山寺蔵写本に「一乗忠」、仁平二年(1152)4月10日の奥書がある宝永3年(1706)書写本に「釈一乗忠撰」とあり、従来は「一乗忠」とは最澄の門弟の一人である「仁忠」とされてきました。
これに対し、福井康順氏(「新修伝教大師伝考」『伝教大師研究別巻』所収 1980年 天台学会・早稲田大学出版部)と佐伯有清氏(「慈覚大師伝の研究」1986年 吉川弘文館)は弘仁10年(819)12月5日の「内証仏法相承血脈譜」末尾の「一乗仏子。真忠筆受」と、弘仁9年(818)7月27日の義真真蹟とされる「比叡山寺諸院別当三綱」に「少別当真忠」とある「真忠」が「一乗忠」である、即ち真忠が「叡山大師伝」の撰者であろう、と推定されています。
しかし、寺尾英智氏が論考「中山法華経寺蔵『叡山大師伝』及び紙背文書」(「古文書研究」第26号 1986年)にて、中山法華経寺所蔵の「叡山大師伝」には冒頭「釈一乗仁忠」とあることを指摘され、「仁忠」である可能性も残されていて、撰者の特定には至らないのが現状のようです。 
鑑真と弟子たち
道忠は来日した鑑真(持統天皇2年・688〜天平宝字7年・763)より具足戒を受けて律宗を学び、持戒第一の弟子とされ、師亡き後のことと考えられますが関東に下って人々に菩薩戒を授けて周り東国の化主と呼ばれる人物でした。
天平勝宝7年(755)9月、東大寺に戒壇院が建立され鑑真が戒和上となりましたが、この時、鑑真と共に来日した唐僧の法進(景龍3年・709〜宝亀9年・778)は師の片腕として戒壇の創立に尽力し、天平宝字3年(759)に唐招提寺が創建されて鑑真が移住すると、法進が東大寺戒壇院の次の戒和上になっています。法進は「沙弥十界並威儀経疏」「注梵網経」「東大寺受戒方軌」「沙弥経鈔」等を著し、律師から少僧都へ、そして大僧都へと昇進します。
法進と同じく師に随い来日した唐僧の思託(生没年不詳)も師の戒律弘宣を助け、天平宝字元年(757)11月23日に備前国の墾田百町を賜ると伽藍建立の費用にあて、天平宝字3年(759)8月1日、平城京の右京五条二坊の新田部親王(にいたべしんのう ?〜天平7年・735)邸跡地の施入を受けて、そこに唐招提寺を開創しました。そこには思託も移住し、師の伝記である「大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝」3巻(後の宝亀10年[779]2月、淡海三船[おうみのみふね]が「唐大和上東征伝(とうだいわじょうとうせいでん)」として1巻にまとめる)、日本初の僧伝となる「延暦僧録」10巻を著しました。
鑑真一門は法進と思託を中心に二つに分裂していたようで、それは、東大寺戒壇院の戒和上となり南都仏教界に順応しながら昇進して国家仏教の一翼を担った法進と、大乗的見地に立ち人々を教化する菩薩行を重んじた思託との違いであり、道忠と晩年の鑑真は後者の側に立っていたことを、薗田香融氏は論考「最澄の東国伝道について」において指摘されています。 
比叡山での写経
鑑真が亡くなってから4年後の神護景雲元年(767)に生まれ、延暦16年(797)には31歳となっていた最澄の写経事業を道忠が助け、そこには道忠の弟子であった法鏡行者(後の第二代天台座主となる円澄 宝亀2年・771〜承和4年・836)も加わります。
鎌倉時代末期の元亨2年(1322)、臨済宗の僧・虎関師錬(こかんしれん 弘安元年・1278〜興国7年/貞和2年・1346)が著して朝廷に上呈された日本初の仏教通史である「元亨釈書」によれば、「釈円澄」の伝に「甫七歳。新羅法玄摩頂曰。汝必為人師。十八事道忠菩薩。忠者鑑真之神足也。使令左右晨昏無倦。間即誦習。忠愍其懇誡授菩薩戒。名為法鏡行者。延暦十七年。上叡山従伝教落髪。教改今名。時歳二十七。」とあり、少年円澄は新羅僧・法玄に師事し、18歳の時、道忠の弟子となって菩薩戒を授けられ法鏡行者と称し、延暦17年(798)には比叡山へ上り最澄の門弟になり円澄と改名しています。
比叡山寺での写経事業により最澄と道忠に深い絆が生まれたものでしょうか。武蔵・上野・下野にあって民衆教化の菩薩行を展開した道忠一門と、延暦4年(785)7月17日、19歳の時に比叡山に入り、その時著した「願文」に「伏して願くば、解脱の味独り飲まず、安楽の果、独り証せず。法界の衆生と同じく妙覚に登り、法界の衆生と同じく妙味も服せん。」と書いたと伝えられる最澄の二者が気脈を通じ、「志」を共有したであろうことは想像に難くない、といえるでしょう。最澄と道忠、その門弟らとの交流は比叡山寺の人材を育てることになり、東国の化主たる道忠と弟子の広智、徳円らに学び、付法された青年僧が、初期天台教団の座主を務めるようになります。 
最澄と東国の道忠一門 円澄・広智
最澄が東国へ伝道に赴いた時期について、薗田香融氏は「弘仁7年(816)夏頃から弘仁8年(817)夏頃」(前記「最澄の東国伝道について」)とし、菅原征子氏は「弘仁8年(817)の春からほぼ半年ぐらいのごく短い期間」、佐伯有清氏は薗田氏の論考「最澄とその思想」を受けて「最澄の東国巡化が、弘仁八年であったことは確実である。」とされています。以下、各氏が判断の史料に用いられた文献を見ながら、そこに登場する人物なども確認していきます。
弘仁7年(816)5月1日 最澄より弟子・泰範宛ての最後の手紙
我公此生結縁。待見弥勒。儻若有深縁。倶往生死。同負群生。以来春節。東遊頭陀。次第南遊。更西遊北遊。永入叡山。待生涯。去来何廻遊日本。同殖徳本。不顧譏誉遂本意。
文中、「来年春には東国へ赴く」とあることから、それは弘仁8年(817)の春であると推測されます。
承和4年(837)2月14日 第二代天台座主・円澄の「相承血脈書」(光定撰)
謹按故円澄和上。受伝法灌頂書曰。弘仁八年五月十五日。在緑野寺法華塔前。故最澄大和上。為鎮国家利楽有情。入於胎蔵金剛両部大曼荼羅壇。親執宝蓋。於円澄広智両弟子頂。而伝授両部灌頂者。
弘仁8年(817)5月15日、上野国の緑野寺(浄法寺)法華塔前で、円澄は広智(こうち 生没年不詳)と共に最澄から金剛胎蔵両部の灌頂を授けられています。この記述から弘仁8年(817)5月、最澄が上野国を訪れていたことが確認されます。
「叡山大師伝」に「本願所催。向於東国。盛修功徳。為其事矣。写二千部一万六千巻法華大乗経。上野下野両国。各起一級宝塔。塔別安八千巻。於其塔下。毎日長講法華経。一日不闕。兼長講金光明。仁王等大乗経。弘願所逮。後際豈息哉。所化之輩。逾百千万。見聞道俗。無不歓喜。爰上野国浄土院一乗仏子教興。道応。真静。下野国大慈院一乗仏子広智。基徳。鸞鏡。徳念等。本是故道忠禅師弟子也。延暦年中遠為伏膺。不闕師資。斯其功徳句当者矣。」とあり、広智は道忠に師事して下野国の小野寺(大慈寺)に住した僧で、同じく道忠の弟子であった浄土院(緑野寺)の教興・道応・真静ら、大慈院(小野寺・大慈寺)の基徳・鸞鏡・徳念らと協力して、最澄が本願とした「法華経六千部書写」の内、二千部一万六千巻を書写し、上野・下野両国に一級の宝塔を造立しています。
参議で比叡山寺の俗別当だった大伴宿禰国道(おおとものすくねくにみち 神護景雲2年・768〜天長5年・828)が天長2年(825)に義真、円澄に宛てた書状には「坂東諸国。未聞其義。此則常陸僧借位伝燈大法師位徳溢。空拘権教。未会真実之所致也。経云。当来世悪人。聞仏説一乗。迷惑不信受。破法堕悪道。夫誹謗妙法。常生難処。悲哉。溢公罪如経説。禅師以去弘仁八年。為令一切衆生。直至道場。結縁八島之内。奉写法華経六千部。今聞下野国。小野寺沙弥広智。伏依師教写千部。毎年行檀。毎日長講。揚一乗奥義。述十如之妙旨。正法将来。若人更起。所謂為如来之使。行如来之事。是以左相君。遙加随喜。持奏令度。今使円教東被。唯憑斯人。努力努力。」(大日本仏教全書・天台霞標2―2 )とあり、坂東諸国では法相宗の徳溢(徳一)が活発に教化を展開し、妙法=妙法蓮華経=法華経を誹謗したこと、弘仁8年、最澄が東国を訪れたことが記録されています。また、最澄の法華経六千部書写の願いを受けて、下野国・小野寺の広智が中心になって法華経を一千部書写し、長講が行われていました。
前後しますが、第5代天台座主の円珍(弘仁5年・814〜寛平3年・891)に三種悉地法を授けた徳円(延暦4年・785〜?)の「徳円阿闍梨印信」(承和9年[842]5月15日)に、「最澄阿闍梨去大同五年五月十四日。比叡山止観院妙徳道場。伝授広智阿闍梨。」(智証大師全集下巻、1918年  園城寺事務所)とあり、「広智付徳円三昧耶戒印信」(天長7年[830]閏12月16日)には「日本大同五年五月十四日。比叡山一乗止観院内供奉沙門最澄。於近江国比叡山妙徳道場。付三部三昧耶。牒弟子広智。」(大日本仏教全書・天台霞標2―2)とあって、大同5年(810)5月14日、比叡山寺の止観院妙徳道場で、広智は最澄より三部三昧耶を授けられていたことが分かります。
承和2年(835)11月5日、円澄は広智に宛てた書状に「又仁(仁=円仁)与徳(徳=徳円)。大禅師之所生子也。一入唐也。一入京也。」と書いていますが、文中の大禅師は広智のことであると推定され(慈覚大師伝の研究)、これにより、広智は第三代天台座主・円仁(延暦13年・794〜貞観6年・864)の師僧であったことが分かります。もっとも早く成立したと考えられる「三千院本『慈覚大師伝』は、円仁の誕生から比叡登山まで、広智のはたした役割について、いっさい沈黙している。」(同)なかで、円澄の広智宛て書状に、円仁が広智の弟子であったことを触れているのは「まことに貴重」(同)、「円仁が広智の弟子であったことを伝える同時代史料は、これ以外にはない。」(同)と佐伯有清氏は解説されています。
「元亨釈書」には「釈安慧。姓狛氏。内州大県郡人。七齢事州之小野寺広智。俗之号菩薩者也。智異其才器。携付台嶺伝教。時年十三。」とあり、第四代天台座主・安慧(あんえ 延暦13年・794〜貞観10年・868)もはじめは小野寺(大慈寺)の広智に師事し、後に最澄の門弟となった人物でした。 
下野国・小野寺と上野国・緑野寺
小野寺=現在の大慈寺は栃木県下都賀郡岩舟町にある天台寺院で、天平9年(737)に行基(天智天皇7年・668〜天平21年・749)が開基、二祖は道忠、三祖が広智と伝えています。弘仁6年(815)4月1日、空海(宝亀5年・774〜承和2年・835)は「諸の有縁の衆を勧めて、秘密蔵の法を写し奉るべき文」=通称「勧縁疏」を著して、弟子を東国、西国各地に派遣、請来した経論36巻の書写流伝・秘密法門の宣布を始めました。この時、空海は徳一(とくいつ 生没年不詳)と小野寺の広智のもとにも使者を派遣し、密典の書写を依頼しましたが、徳一は「真言宗未決文」(815〜821頃の成立と推測される)を著して、11カ条の疑問を提示しています。尚、空海から徳一宛ての書簡には「陸州徳一菩薩」とあり、徳一は弘仁6年(815)には陸奥国にいたことがわかります。
緑野寺=現在の浄法寺(群馬県藤岡市浄法寺)も天台寺院で、道忠が創建と伝えています。薗田香融氏は鑑真が日本に持ってきた経典のほとんどは道忠が東国に移したのではないか、と指摘し、「続日本後紀・巻第三」承和元年(834)5月の条に「乙丑。勅。令相模・上総・下総・常陸・上野・下野等国司。勠力写取一切経一部。来年九月以前奉進。其経本在上野国緑野郡緑野寺。」とあることについて、「『続日本後紀』承和元年五月の条、相模・両毛・両総等の国司に一切経を書写奉進せしめたことがみえるが、其経本は上野国緑野郡緑野寺にあると注記されている。平安初中期に有名であった緑野寺経本とは、おそらく鑑真が請来し、その遺弟が護持していたところから唐土請来の経典として重んぜられていたのではないか。」と解説されています。
最澄と東国の道忠一門 徳円
「慈覚大師伝」
弘仁五年。官試及第。時年廿一。明今正月金光明会。受沙弥戒。七年。東大寺。受具足戒。其夏中。遂諳講大小二部戒本。兼学習諸威儀法則。先師有本願。欲書写二千部法華経。率弟子等。赴向上野下野。果願已畢。於両州之間。各択十人弟子。授伝法灌頂。大師又其一人也。先師常歎謂諸弟子曰。我朝固執小戒。未入大乗。身後妙果。何以可期。汝曹宜捨小趣大。弟子等情執不同。種性各異。執強者違教背去。機熟者廻心仰慕。先是大同元年冬十二月廿三日。於叡山止観院。円澄法師為上首。百有余人。授円頓菩薩大戒。此授天台師々相伝大戒之始也。厥後時受之者。弘仁八年三月六日。又授徳円及大師矣。
承和9年(842)5月15日 「徳円阿闍梨印信」
最澄阿闍梨去大同五年五月十四日。比叡山止観院妙徳道場。伝授広智阿闍梨。皆有印信。師師相付也。復澄阿闍梨去弘仁八年三月六日。下野州大慈山寺伝付弟子徳円。印署未蒙。大師遂没去。天長七年閏十月十六日為取印信於野州大慈山道場。更受広智阿闍梨。方給印信。今阿闍梨徳円嗣師跡故。伝授弟子僧円珍。最後紹継仏種莫断。広智和上是第五付属。沙門徳円第六付属。僧円珍第七付属。
徳円の「最澄授徳円戒牒」
弘仁8年3月6日付の疏文
謹於下野州都賀県大慈山寺遮那仏前。受如来金剛宝戒〜
弘仁5年(814)、円仁は官試に及第=言試に合格。弘仁7年(816)には東大寺で具足戒を受け、続いて最澄の東国伝道に随い弘仁8年(817)3月6日、小野寺(大慈寺)にて、徳円と共に最澄より円頓菩薩大戒(金剛宝戒)を受けました。この「慈覚大師伝」の記事からも弘仁8年(817)3月時点での、最澄の下野国滞在が確認されます。
徳円は、大同3年(808)6月17日の「沙門広円遺言状」に「付嘱弟子盛澄。基徳。広智。得念(徳念)。安証(徳円の沙弥時代の名)同法等。冶部省依勅旨所与。比叡山最澄大阿闍梨。転授灌頂公験。」とあることから、はじめは小野寺(大慈寺)の広智・基徳・徳念と共に奈良・大安寺の広円(天平勝宝7年・755〜? 三論宗・勤操の弟子)に学んでいたことがわかります。弘仁3年(812)には比叡山寺にて最澄に師事、弘仁14年(823)、比叡山寺の大乗戒壇で光定と共に大乗戒を受けました。「徳円阿闍梨印信」によれば弘仁8年(817)3月6日、小野寺(大慈寺)で(円仁と共に受けた円頓菩薩大戒とは別に)最澄より三種悉地法を受けた際、徳円は印署を蒙ることができず、天長7年(830)閏10月16日、広智より再度受法して印信を給わっています。承和9年(842)5月15日、比叡山西塔の釈迦宝前にて、徳円は三種悉地法を後に第5代天台座主となる円珍に伝え(この時、円仁は入唐中)、第6代座主・惟首(ゆいしゅ 天長3年・826〜寛平5年・893)と第7代座主・猷憲(ゆうけん 天長4年・827〜寛平6年・894)も徳円のもとで学んでいます。
天長7年(830)閏12月16日付の「広智付徳円三昧耶戒印信」には「大日胎蔵。亦復同日。授上野緑野多宝塔如法壇。並受於叡山大師最澄阿闍梨」とあり、これは前記・円澄「相承血脈書」の「弘仁八年五月十五日。在緑野寺法華塔前。故最澄大和上。為鎮国家利楽有情。入於胎蔵金剛両部大曼荼羅壇。親執宝蓋。於円澄広智両弟子頂。而伝授両部灌頂者。」との記事と重なることから、弘仁8年(817)5月15日、上野国の緑野寺(浄法寺)法華塔前で最澄が金剛胎蔵両部の灌頂を弟子に授けた時、広智と円澄の他に徳円がいたと推測されます。
これまで見てきたことから、道忠に連なり小野寺・緑野寺を基軸にしたネットワーク=道忠一門(道忠教団)が、最澄の東国伝道への導き手であり受け入れの母胎であった、といえると思います。
※光定撰の「伝述一心戒文」、円澄の「円澄和尚手書」、円澄和尚記によったとされる光定撰「相承血脈」に書かれた密教の修法・密教伝授の内実について、水上文義氏は論考「台密思想形成の研究 第三篇 台密の教相と事相 第一章 台密事相とその伝承 ― 三種悉地法を中心に」にて疑点があることを指摘され、これら文書は「徳円印信」類とあわせて、対空海が念頭にあったこと、円澄の正統性を宣揚する意図があったであろうことを解説されています。
最澄を東国へ赴かせたもの
延暦25年・大同元年(806) 10月、唐より帰国して、大同4年(809)7月中旬には京都・高雄山寺に入った空海のもとへ、最澄は幾度となく書を送り、門弟を行かせて、自らも弟子の礼をとり灌頂を受ける等、密教伝授の完璧を期しました。しかし、弘仁4年(813)末頃、空海からの「叡山の澄法師、理趣釈経を求むるに答する書」にて密教受法の厳格なることを説かれ、経典の貸し出しを拒絶されてしまいます。
弘仁6年(815)4月1日、空海は「勧縁疏」を著して弟子を各地に派遣、秘密法門の宣布を始めて、密教は顕教に勝ることを強調し始めます。空海の書簡は「下野広智禅師」のもとにも届き、広智と共に道忠の弟子であった上野国緑野郡・浄院寺(緑野寺)の教興も空海の勧進にこたえて、「金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経」(金剛頂経)を書写しています(高山寺所蔵本)。弘仁7年(816)には、最澄の愛弟子・泰範も空海のもとに留まり比叡山寺には帰らないことが明らかとなり、最澄の密教伝授の願望は途中で終わることになりました。同年、「依憑天台集」に序文を加えて、「新来の真言家は則ち筆授の相承を泯ず」と面授を重んじる真言授受法を批判したのは、密教観を修正しなければならない環境となったことを示すものでしょうし、それは同時に、この頃の最澄の傷心を表したものともいえるでしょうか。
時を合わせるように、空海との関係が終わる頃には東国で新たなる事態が起こりました。「本朝高僧伝」(臨済宗の卍元師蛮[まんげんしばん 寛永3年・1626〜宝永7年・1710]が史料を集めて「元亨釈書」の欠を補い元禄15年[1702]に成立した高僧伝75巻)がもとになりますが、法相宗の徳一は筑波山を開き中禅寺という神宮寺を創建した後、会津に赴いたと伝えられています。その徳一は「仏性抄」を著して最澄の法華一乗の天台義を批判。最澄は徳一の論難に対して猛然と反論、両者の論争は三乗一乗論争(三一論争)・三一権実論争・仏性論争等と呼ばれ、その応酬は弘仁12年(821)まで続いたとされます。
比叡山寺俗別当・大伴宿禰国道の書に、徳一は坂東諸国で法華経を誹謗しながら教化活動を展開していたことが書かれていることから、東国にいた徳一が論難した直接の相手は当時既に教線を拡大し、かつ重なり合っていた道忠一門に対してではないかと思われます。それは同時に、道忠一門より青年僧を受け入れ、自門の中核としていた最澄教団への挑戦でもあったのではないでしょうか。旧来の仏教勢力の側において教学に秀でた徳一にしてみれば、後進の道忠一門、一体でもあった新興の最澄教団の勃興は看過できないものがあったのでしょうし、道忠・最澄一門からしても、旧仏教勢力の論客ともいえる徳一であれば、また衆生教化という布教の土壌を共通のものとしていたことからも、徳一を論破しておく必要があったのではないかと思われます。
このように、最澄の東国伝道の背景としては、空海との交流が途絶え次なる展開を期していたところに、空海が上野国の教興や下野国の広智のもとにまで密教の宣布を始めていたこと。一体ともいえる道忠一門が旧仏教を代表する論客の徳一から論難されていた(同時に教化の現場における道忠一門と徳一信奉者との接触もあったと考えられます)、ということがあるのではないでしょうか。そこには、道忠一門から最澄に東国伝道の要請があった、という推測が成り立つのではないかと思います。
東国巡錫に訪れた最澄のもとに集まった群衆について「元亨釈書」は「上野緑野寺豫塲者九万人。下野大慈寺五万人。」と上野国・緑野寺で9万人、下野国・小野寺で5万人と伝え、「叡山大師伝」は「逾百千万。見聞道俗」と100千万としていて、共に多くの人々が集まったことを伝えています。有縁の僧より聞いていた最澄という人物の人柄に直に接し、受戒し灌頂を受けた人々の信仰の喜びと熱気に、その場は包まれたことでしょう。
このような東国への衆生教化の旅(弘仁8年・817)は最澄自身にも新たなる展開へのエネルギーとなったようで、翌弘仁9年(818)4月21日に「六所造宝塔願文」を作成。5月13日には「天台法華宗年分学生式」(六条式)を、8月末には「勧奨天台宗年分学生式」(八条式)を朝廷に上奏し、続いて弘仁10年(819) 3月15日に「天台法華宗年分度者回小向大式」(四条式)を朝廷に上奏しています。六条式・八条式・四条式の三つを合わせて「山家学生式」と呼ばれていますが、これによって最澄は大乗戒壇の建立、南都僧綱の統制から離れた独自宗派の勅許を明確に求めています。  
当然、旧仏教勢力は反発し、嵯峨天皇の諮問を受けた大僧都・護命を始めとする南都僧綱は、弘仁10年(819)5月19日に反対意見を表明するのですが、最澄は翌弘仁11年(820)には「顕戒論」三巻を著して反駁しています。そして弘仁13年(822)6月4日、最澄は比叡山寺の中道院にて遷化するのですが、前日の6月3日に嵯峨天皇は大乗戒壇設立の上申を允許していて、弟子・光定により綸旨は病床の最澄に報告されていた、と考えられます。大乗戒壇設立の太政官符は最澄遷化の一週間後に下されています。
最澄の一生を俯瞰すると、その晩年に全精力を傾けたといってもよい大乗戒壇設立への活動は、東国伝道が大きな転換点であり出発点であった、また原動力ともなったといえるのではないかと思うのです。  
 
最澄宛、空海の返書−理趣の答案−

813年(弘仁4)11月23日付の手紙で、最澄は「理趣釈経一巻を来月中旬まで借覧したい」と空海に申し送ったが、このとき長文の返書をもって、空海はこれを断った。
その返書が、空海の漢詩文を集成した『遍照発揮(へんじょうはっき)性霊集(しょうりょうしゅう)』(略称、性霊集)の巻第十に収録されている『叡山(えいざん)の澄法師(ちょうほうし)、理趣釈経(りしゅしゃくきょう)を求むるに答する書』である。
以下は、その全文である。
お手紙を受け取り、安堵しております。雪の降る寒い季節となりましたが、天台止観(てんだいしかん)の座主(ざす)であり、法友である最澄和上(わじょう)には、お変わりもなくご健勝のことと、わたくし空海、安心いたしました。
わたくしと和上とが友情を結んでからもう何年になるのでしょう。
この結びつきは、膠(にかわ)と漆(うるし)のように堅固で、常緑樹の松と檜のように枯れることなく、乳と水のように密で、互いに感化しあえること、あたかも芝蘭(しらん:霊芝と藤袴)の芳香のごとしと思っております。
止観(瞑想と観察)の翼(つばさ)を広げ、高く二空(にくう)の教え(個体の自我も個体本体を構成している物質要素も、ともに固定的実体がないから、その存在はともに空であるという教え)の上に飛び、止観という駿馬(しゅんめ)を走らせ、生きとし生けるものによる欲望と物質と精神との迷いの世界の外に遠く到達し、和上とわたくしとが並んで、ブッダの法(仏一乗)を流布しようと誓った、この心とこの約束を誰が忘れることができるでしょうか。
とは言っても、顕教一乗(天台宗)は和上でなければ伝わらず、秘密仏蔵(真言宗)はわたくしが流布すると誓うものです。
ですから、お互いにそれぞれの法を守り伝えることに忙しく、二人で話し合ういとまもありませんが、交わした堅い約束を思えば、お会いできなくても、心はいつまでも通い合っていると信じています。
さて、さっそく封を開き、拝読致しましたところ、『理趣釈経』の借覧を求めておられると分かりました。
ですが、理趣(真理に至るための道筋。道理)には多くの糸口がありますから、和上の求められている理趣とはどのようなものを指しておられるのでしょうか、もっと詳しく知ることができればと思っております。
そもそも『理趣経』の説く道理と、『理趣釈経』(理趣経の注釈・意義書)が説く文は、広大で、天空をもってしてもすべてを覆(おお)うことができず、大地をもってしてもすべてを載せることができず、無数の国土を墨(すみ)として、その墨を河と海の水のすべてを使用して磨って書いても、その一句一偈の意味を書き尽くすことは誰にもできほどの内容をもつものなのです。
ですから、如来によって示されるいのちのもつ無垢なる知の無限の大地のようなちから、菩薩によって示されるいのちのもつ無垢なる知の無限の大空のようなはたらき(つまり、さとりによって得られる無垢なる知の広大なるちからとその広大なるはたらき)によらなければ、その説くところの教えを信じ理解し、保持することは不可能なのです。
(そこで)才知・才能に乏しいわたくし空海ですが、わたくし自身が唐留学(804-806)において、青龍寺の恵果和尚(密教第七祖)から直に教わった、理趣の教えの要旨を以下に示すことにします(ので、些かなりとも手助けになればと思います)。
【心がまえ】
「願うところは空海よ、理趣を学ぶにあたって、おまえ自身のもっている学問・知識を正し、おまえの迷いのもとなっている無義無益の見解から離れ、理趣の語句の意義、密教流伝の奥義に真摯に耳を傾けなさい。」
【基礎論理−九つの理趣−】
「そもそも理趣の道理は、無量無辺にして日常的な思考を超越するものです。ですから、すべてを集約し、末端を削いで、その根本においてとらえなければなりません。
その根本として、まず三種があります。
1、可聞(かもん)の理趣(聞くことができる道理)
2、可見(かけん)の理趣(見ることができる道理)
3、可念(かねん)の理趣(思うことができる道理)
です。
もし、可聞の理趣を求めるのであれば、おまえ自身が生まれたときからもっている無垢なる知によって語られる言葉に道理はあります。その言葉の中にこそ真実が秘められていますから、他人の口中に求めるべきものではないのです。
もし、可見の理趣を求めるのであれば、見なければならないものは物質としての存在であり、おまえの身体を構成している四大(固体・液体・エネルギー・気体)などの質料がそれです。他者の身辺に求めるべきものではないのです。
もし、可念の理趣を求めるのであれば、おまえ自身の思考の中にもともとそなえられている無垢なる知がそれで、他人の心中に求めるべきものではないのです。
また、次の三種があります。
1、心の理趣
2、(いのちのもつ無垢なる知のちからを示す)仏の理趣
3、衆生(生きとし生けるもの)の理趣
です。
もし、心の理趣を求めるのであれば、それはおまえ自身の心の中にあり、他人の身中に求めるべきものではないのです。
もし、いのちのもつ無垢なる知のちからの理趣を求めるのであれば、おまえ自身の心中にあって、あるがままに活動しているものがそれであり、それもしくは、その活動と同質の知のちからをもつものの周辺に求めるべきで、凡愚なるものの周辺に求めてはなりません。
もし、生きとし生けるものの理趣を求めるのであれば、おまえ自身が無量の生きとし生けるものの一員なのですから、その観点で理趣とは何かを把握すべきです。
また、三種があります。
1、文字の理趣
2、観察の理趣
3、実相の理趣
です。
もし、文字の理趣を求めるのであれば、文字すなわち言葉は音声の屈曲(発音)であり、その発音に意味をもたせたものが言葉(文字)になったのだから、それらによって綴られる文脈は心の本体と相応するものでなく、実在性のない因縁によって仮(かり)に存在するものであり、実在性のないものに道理を求めることは不可能です。また、紙と墨とによって生じる文字ごときに道理を求めるのであれば、それは、それらが和合したところ、つまり書かれたところにあり、筆と紙と書き手である学者が一同に揃うところの周辺を探すべきです。
もし、観察の理趣を求めるのであれば、それは、見る心と見られる対象があるから生じるものであり、双方を別々にすれば、そこには色とか形とかに分類したものは何も存在しないのです。そのようなものを誰が取って、誰に与えることができるでしょう。
もし、実相の理趣を求めるのであれば、すべての存在は原因と条件によって生じているものであり、固定した実体がないというのが実相なのです。
実体のないものには本来、名も相もありません。名と相のない実相は虚空と同じことなのです。ですから、実相を求めるならば、それは空(くう)そのものであり、その外に何かがあるわけではないのです。」(と恵果和尚から、わたくし空海は直に教わりました)
(この教えにもとづけば)『理趣釈経』とは、御身(最澄を指す)がそなえられているあるがままの三つの活動性、行動性・コミュニケーション性・精神性が示すものがそれ(理趣の注釈・意義そのもの)なのであり、わたくし空海のもつ三つの活動性も『理趣釈経』なのです。(つまり、理趣の本体はお互いの身体活動の中にあり、それが言葉となって『理趣経』経典となり、その経典を注釈したものが『理趣釈経』であるから、理趣もその注釈も自らの身体活動こそが根本である)
しかし、御身の活動性は、原因と条件によって限りなく移り変わって行き、その実体が不可得であるように、わたくし空海の活動性も不可得です。そのように、それぞれがともに不可得であるものを、誰が求めて、誰に与えることができるでしょうか。
また、二種の理趣があります。
御身とわたくし空海とのそれぞれの理趣です。
もし、御身が自らの理趣を求められるのであれば、それは御身の身辺こそあるはずで、わたくし空海の身辺にあるものを求めるべきではありません。
もし、わたくし空海の理趣を求めると言うことであれば、わたくしには二種類の我(が)があります。
その一つは五つの認識作用から成る仮(かり)の我であり、その二は無我による大我です。
もし、五つの認識作用(万象を五感でとらえ、とらえたことをイメージし、そのイメージによって快・不快の判断を下し、その判断が記憶されて意識になる作用)によって成る仮の我(原因と条件とによって生じている存在)に理趣を求められるのであれば、仮の我は原因と条件によって生じる存在ですから、実体をもちません。実体のないものをどうして求めようとされるのでしょうか。
またもし、無我による大我(無我によって小さな自我を超越したところにある大我)に求められるのであれば、それはいのちのもつ無垢なる知のちからを象徴する大日如来の活動性と同じものであり、その活動性は生きとし生けるものすべてに入り込んでいて、御身がそなえられている活動性そのものなのですから、他人の身辺にこれを求めるべきではないのです。
また、わたくしには、まだ判らないのですが、御身は自らが得られたさとりによって生きとし生けるものを済度されようとしておられるお方なのか、それともまた、凡夫として自らをさらに高められようとしておられるお方なのでしょうか。
もし、さとりによって、いのちのもつ無垢なる知のちからにすでに目覚めておられるなら、その知は完全で欠けるところがないのですから、どこか欠けているとして、どうしてさらに真理を探し求められるのでしょうか。
もし、生きとし生けるものを済度するための真理はさまざまであるとして、さらなる真理を求めておられるというのであれば、ブッダがさとられる以前の修行中のシッダに戻ってバラモンに仕えるようなものであり、すでにさとりを得ていたという文殊菩薩がブッダに仕えられたように、師が弟子に教えを受けるようなものです。
もし、自らをただの凡夫として理趣を求められるのであれば、当然、ブッダ(目覚めた人)の教えにしたがうべきです。
ブッダの教えにしたがうのであれば、ブッダの説かれた戒めにしたがった修行を必ず為すべきです。修行を為さないで教えを授受すれば、それは伝えるもの、受法するものにとって、何の利益ももたらさないでしょう。
思うに、密教の興廃は御身とわたくし空海との二人にかかっています。御身がもし正しい法式によらずに法を受け、わたくしがもし正しい法式によらずに法を伝えるならば、将来、法を求める人は何によって求道の真意を知ればよいのでしょうか。正しい法式によらない伝受は盗法です。これこそブッダをあざむくことです。
また、密教はその奥義を文章にすることを重んじておりません。ただ、心を以って心に伝えること(以心伝心)を大切にしています。
(真理を伝えるために使われた)文章は(その目的を果たしてしまえば)糟粕(かす)や瓦礫(がれき)に過ぎません。もし、そのような糟粕瓦礫になった文章を得て、それのみに執心するならば、そこには物事の実質はないのです。
ほんものを捨てて偽物を拾うことは愚かな人の為すことです。ですから、愚かな人の為すやり方に御身はしたがってはなりません。そのようなやり方を求めてもなりません。
また、古(いにしえ)の人は道のために道を求め、今の人は名誉や利益のために道を求めたがります。名利のために道を求めるのは真の求道の志(こころざし)ではありません。
真の求道とは、おのれの身を忘れて求めるのが正しい道であって、ブッダがさとりを得られる以前に、何もかもを捨てて、仙人に仕えられたようにするものなのです。
また、道の教えを聞いた者が、自らは実行しないで、他人に道を説くようなことを孔子が許さなかったように、わたくしの師の恵果和尚は、弟子の能力・素質が未熟であると判断されると、その時機ではないとして、教えを説くことをなされませんでした。
その理由は何かといえば、密教の真髄であるいのちのもつ無垢なる知のちからの教えは、日常の思考をはるかに超えたものですから、一途な信心をもたなければ、その教えを会得することは叶いません。弟子が口でいくら「一生懸命に信じ修行します」と唱えても、心にそれを嫌がる気持ちがあれば、頭があって尾がないことになります。口で言うだけで実行しないのであれば機は熟しておらず、信じ修行するように見えているだけで、真の信修(しんじゅ)ではないのです。(そんな弟子に教えを説くことを恵果和尚は避けられたのです)
真摯に信心することから始め、苦しい修行をして道を得てこそ、道を継承し、道を説く君子になれるのです。(そのように相手の能力・素質を見抜き、時機を見て、ブッダも孔子も恵果も教えを説かれたのです)
とかく世間の人というものは、見目麗しく聡明で貞節な女性を嫌い、それよりも色っぽくてみだらで尻軽な女性を愛し、望みをすべてかなえるという珠玉(しゅぎょく)をばかにして笑い、玉に似たまがいものの石を珍重する。また、絵や置物の偽の龍を好んで、ほんものの龍を見失い、修行するための断食を重んじて、栄養のある牛乳粥(かゆ)を嫌悪し、金に似ているということで黄銅を宝物にする。
このように、余計なものをくっ付けたり、大事なものを余分ものとして切り取ったりすることは、人が自然なありかたにそむいて余計なことを考え、余計な価値観を物事に付け加えるからです。
濁った河と澄んだ河とが黄河に流れ込んで合流するが、その二水を区別できないならば(すなわち、余計な考えを排除して、自然のありかたをありのままに見る目をもたなければ)、誰が牛乳から醍醐(だいご:バター)へと至るその美味を知ることができるでしょうか。
自分の顔の美しさや醜さを知ろうと思うなら、心の鏡をまず磨くことです。研磨剤の有無を論じてみてもしようがないでしょう。
さとりの境地に到達しようと思えば、まず心の海の船を漕ぐことです。船や筏(いかだ)の虚実を論じてみてもしようがないでしょう。
毒矢が射られたのに、まずそれを抜きとらずに、誰がどこから射たのかなどと問うことは空しく、道を聞いても行動を起こさなければ、どうして千里の先を見届けることができるでしょうか。
わずか二粒の丸薬で病魔を退散させることができ、たった一匙(さじ)の秘薬で桃源郷に遊ぶことができるという。
しかし、たとえ千年の間、『本草(ほんぞう)経』や『大素(たいそ)経』の漢方薬学の書を読み唱えても、人体を構成する固体・液体・エネルギー・気体の四大要素の不調和によって生じる病気を治すことはできないのです。
そのように、たとえ百年の間、あらゆる経典の中身を論議してみても、貪・瞋・癡より生じる煩悩(欲望がひき起こす余計な考え)を退治することはできないのです。
海の水のすべてをくみほすほどの不退転の信念をもち、鎚(つち)の鉄のかたまりをけずり磨いて細い針をつくるほどの努力の人でなければ、誰が、誰もが平等にいのちのもつ無垢なる知に目覚めてブッダになれるというすぐれた修行法を信じて、日常の思考を超越した深い瞑想の世界に入る修行をすることができるでしょうか。
止(や)めましょう、止めましょう、
そんな途方もないことを思うのは。
わたくしはまだそのような人に会ったことがありません。
しかし、そのような人はほんとうに遠い彼方の人なのだろうか。(そうではないのです)ひたすらに信心し、修行を実行しさえすれば、その人がそうなのです。
その人こそが男女を問わず、無尽の信心と努力を重ねることができる人なのです。
そのようにひたすらに信心、修行をすれば、貴い人、賤しい人の区別なく、ことごとくが宗教的な能力・素質をもち、無限の法を受け入れる器(うつわ)をもつ人となれるのです。
その器によって、鐘を叩けば鳴り、声を出せば谷に響くように、たちまちにして理趣に感応できるのです。
たとえ、薬箱に妙薬がいっぱいにあっても、服用しなければ効き目はありません。
また、衣装箱に大事な衣服をいっぱいに持っていても、着なければ寒さは防げません。
ブッダの弟子のアーナンダは、ブッダの傍にいて一番多くの説法を聞きましたが、それだけではさとりを得ることはできないのです。ブッダがさとりを開かれたのは日々の精進勤行の結果なのですから、そのブッダが修行された通りに精進することこそがさとりを得るお手本なのです。そのようにして、代々の祖師もみな修行によってさとりを開かれて来ました。
しかし、悲しいことですが、
1、時代的な環境が腐敗し、人間関係が荒んで他者を受けとめる心のゆとりがなくなり、それぞれが生存本能のままに生きなければならないことによる時代の濁り。(劫濁:こうじょく)
2、独善的なイデオロギーによって、他者の考えを聞く心が失われてしまうことによる思想の濁り。(見濁:けんじょく)
3、貪(むさぼり)や瞋(いかり)などの、人間不信の浅ましい心が惹き起こす精神の濁り。(煩悩濁:ぼんのうじょく)
4、他者の傷み、悲しみを感じられなくなることによって、ともに生きるいたわりの心を失う濁り。(衆生濁:しゅじょうじょく)
5、自他の生命が粗末に扱われることによって生存が短くなる濁り。(命濁:みょうじょく)
などの五獨(ごじょく)がはびこる世になり、人の心がそのせいですっかり自己中心的で驕(おご)り荒んでしまい、ブッダの信者までもがブッダが説かれた方便を聞いただけですでに妙果(さとり)を得たとして、ブッダが妙果の真実の法(妙法)を説こうとされても、聞く耳を持たなくなってしまったのです。
その後、人間ブッダは濁世(じょくせ)の衆生を棄てて、永遠の瞑想の世界に入られてしまわれました。
(そのような訳ですから、ブッダの妙法は、残った一部の弟子たちによって師資相承されることになり、大勢の信者を前にしてブッダが妙法を説法する機会は永遠に失われてしまったのです)
五獨に染まり、驕り荒んだ心をもつ者が、その鳴る音を耳にすると皆死んでしまうという毒薬をぬった太鼓のように、ブッダの妙法は聞く者すべてを済度するほどに功徳が広大無辺であったため、その劇薬(使う分量をまちがえると、はげしく中毒するくすり)に近い効き目によって、楚の刀工干将(かんしょう)と妻の莫耶(ばくや)の夫婦が打ち、やきを入れて鍛えた名剣が、「真の用法を知らないと自らを傷つけることがあるから、小人に与えてはならない」との戒めをもつのと同じように、みだりに人に伝えてはならないこと(つまり、未入壇の者には真言の教えを授けないということ)が先師からの教えとなっています。
ですから、この先師の訓戒は慎んで聞かなければならないのです。(恵果和尚より正統密教を師資相承されたわたくし空海も、この戒めを絶対に守らなければならない立場にあります。どうぞご理解下さい)
(そのようなことで)御身がもし、(妙法を得たいのであれば、密教独自の戒律である)三昧耶戒(さんまやかい:ブッダとの約束にもとづく戒め)を守り、それに背くことなく、自らの身命を守るようその戒めを守り、その戒めの根幹をなしている四つの禁目、
1、正法(ブッダが定められた通りの生活、修行を行ない、禁じられたことは行なわないという法)を捨ててはならない。
2、さとりを求める心を捨ててはならない。
3、正法を伝えることを惜しんではならない。
4、生きとし生けるもの為にならない事があってはならない。
を自分の眼を大切にするように保ち守り、教えどおりに修行を積み、教えを乞うにあたっての盟(ちかい)を立て、法を伝えるのにふさわしい功績をあげられるならば、いのちのもつ無垢なる五つの知(五智:ごち)、
1、法界体性智(ほっかいたいしょうち):澄んだ水があらゆるところに行きわたるように、万物の世界に行きわたっている知。「知の自性平等」<大日如来>
2、大円鏡智(だいえんきょうち):澄んだ水の表面に万象が映ずるように、一切万有はありのままであるとする知。「万物の平等性」<阿閦(あしゅく)如来>
3、平等性智(びょうどうしょうち):澄んだ水の水面が同じ高さになるように、あらゆる存在は平等であるとする知。したがって、すべての利益は等しいと知る。「利益の平等性」<宝生(ほうしょう)如来>
4、妙観察智(みょうかんざっち):澄んだ水の水面がすべてを正確に映し出すように、あらゆる存在の差別相を正しく観察する知。その観察の結果、生きとし生けるものの自性は泥田に咲く蓮の花のように清浄であるとさとり、その清浄である存在によって、すべてが教化できるから、真理は平等であると知る。「真理の平等性」<阿弥陀如来>
5、成所作智(じょうそさち):清らかな水がすべてのものに浸透し、その成長を育むように、生あるものどうしが互いにはたらきかけ、あるがままに成すべきことを為し、ともに生きる知。したがって、すべての生あるものの活動は、すべての分別動作そのままに平等であると知る。「活動の平等性」<不空成就(ふくうじょうじゅ)如来>
を師資相承することになるでしょう。
そうなれば、ブッダの真の法『理趣経』の注釈書である『理趣釈経』をいつでもお貸しすることができるのです。
つとめてご自愛下さい。
使いの者の帰るに当たって、ここに些か私見を書き記しました。
釈の遍照(空海)
続遍照発揮性霊集補闕鈔 巻第十『答叡山澄法師求理趣釈経書』より
解説
こうして最澄宛の空海の返書を読むと、その後、天台宗と真言宗との間で教義上の確執をもたらすことになった事柄の根幹を知ることができる。
最澄は空海が請来した経典の借覧を度々乞い、その都度、空海は快く貸し出しに応じていたのだが、『理趣釈経』借覧を求める手紙に対しては、長文の返書をしたため、何故、現時点において貸し出すことができないかを極めて丁寧に、そうして論理的に説明したのである。
同じ仏教者として、空海のこの率直な言葉を、賢明な最澄はどう読んだのであろうか。
802年(延暦21)、最澄(767-822)は桓武天皇より入唐求法(にっとうぐほう)の短期留学生として選ばれ、804年(延暦23)の7月、空海(774-835)と同じく(空海は遣唐大使藤原賀能の第一船に、最澄は第二船に乗船した)九州を発っている。
このとき、空海が一介の学問僧であったのに対し、最澄はすでに叡山の座主であり、法華経の第一人者として、宮中に出入りする高僧であった。
9月明州に到着した最澄は、天台山に登り、八ヶ月間天台教学を学び、さらに大乗菩薩戒を受け、禅と密教を相承した。
805年(延暦24)5月に帰朝し、806年(大同1)1月には日本の天台宗の開宗となった。
その教義は留学時の修学事情に合わせて、法華円教・真言密教・達磨禅法・大乗菩薩戒を融合する総合的なものであった。
当時の日本の仏教(南都仏教)といえば、仏教の教理の研究を中心とした学僧たちが、それぞれの学派にもとづく宗派(唯識論の法相宗/存在の範疇を「認識作用」と「自然界と生物界」と「生・行為・意志」とに分類し、それらの要素を分析研究する倶舎宗/空の論理の三論宗/三論宗に付属し、「個体のもつ自我の空」と「個体本体の構成要素の空」を検証する成実宗/僧侶が守るべき戒律を策定する律宗/「一即多、多即一」の有機的理論によって世界を把握する華厳宗)を成し、厳しい戒律を守って自己のみの解脱(小乗)を目指すというものであった。
これに対し最澄は、仏教の教えは一乗であるとする天台教学の説く「声聞(教えを聞いて学ぶこと)と縁覚(ひとりでさとりを得て、他に説かないこと)と菩薩(目覚めたもののもつ無垢なる知のちからのはたらきを担うもの)との三乗は、仏教教化の方便(手段)であり、ことごとく仏一乗(目覚めた人、すなわちブッダのもつ無垢なる知のちからという一つの乗り物)に帰す」(法華経)の教えを唱え、そのことによって、一切の衆生が救われるという教え(大乗)を展開するとともに、僧侶による社会的貢献をも規定した。
また、比叡山で修学修行する者の専攻を「止観業(しかんごう)」と「遮那業(しゃなごう)」の両業と定め、天台宗の教学の二本柱とした。(「止観業」とは、中国隋代の天台大師、智が自らの証悟により体系づけた『法華経』を所存とする天台の教理と実践のことをいい、また「遮那業」は、『大日経』を中心とする真言密教のことを指す)
最澄は、当時この止観業である「法華一乗」の教えと、遮那業である「真言一乗」の教えは、ともにさとりを得るための大乗の究極の教えであるとし、両者に優劣をたてるべきではないという考えを示している。
最澄と空海の生きた時代は、794年(延暦13)に都が平安京(京都)に移されたことによって、腐敗していた南都(奈良)仏教が、新しく生まれ変われる時機にあった。
その状況下に、唐に留学していた最澄(805年5月帰朝)と空海(806年10月帰朝)が相次いで日本に帰ってきたのだ。
帰朝した二人は早速、新しい仏教の樹立という目的に向かって手を組んだ。その様子は本文手紙の始めにも記されている。
また、「それぞれが唐で学んだ宗派を含め、あらゆる仏教の教えを仏一乗(目覚めた人であるブッダ、あるいはブッダのもつ無垢なる知のちからそのもの)に融和総合させること」「仏教の慈悲によって広範囲の社会事業を実践すること」などを協議し、意見を一致させ、ともに協力して仏法興隆に尽くそうと誓ったのである。
その融和総合の方は、最澄の天台宗の教学や、空海の『十住心論』の執筆となり、その慈悲の実践の方は、最澄の『山家学生式(さんげがくしょうしき)』(天台宗僧侶の修行規則)に記された人材育成目的「国の宝とは道を修めようとする心をもつ人のことである。道心ある国師国用を訓育修行させて、地方に派遣し、治水産業の指導と、経典を講じ心を修め、国民のために働かせたい」となり、空海においては、満濃池や益田池の治水工事、大輪田泊の港湾整備、東寺の建立、わが国最初の庶民学校・綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)の創設などの多方面の社会事業となって実現された。
このように国家国民のための新しい仏教を、お互いに協力して弘(ひろ)めて行こうと約束していた二人に、その当初において垣根などはなかった。
そのことから、同志であり、親しく交わっていた最澄に、空海が率直な言葉をもって理趣(真理に至るための道筋。道理)の論理を説くことになったのだ。
その率直な言葉をもって空海が最澄に諭そうとしたのは「理趣は経典の文の中にあるのではなく、お互いの身体活動の中にあるから、以心伝心によってのみ伝えることができる」ということである。
返書には一貫してそのことが述べられている。
そのことを何としても最澄に理解させようとする空海の言葉には手厳しいものがあるが、それが仏教者としての面目である。
その熱意を同じ仏教者として、最澄が理解できなかったはずがないと思う。
さてそれよりも、空海のこの手紙には、人間学としての普遍的なテーマが語られている。そのテーマは古代中国の思想家、荘子の次なる説話と重なる。
「竹を編んで作られた荃(せん)は魚をとらえるための道具である。魚を得る(捕らえる)と荃のことは忘れる。
足をひっかけるわなである蹄(てい)は兎をとらえるための道具である。兎を得る(つかまえる)と蹄のことは忘れる。
(そのことと同じように)言葉は物事の意味をとらえるための道具である。意味を得る(理解する)と言葉のことは忘れる。
わたくし荘子は、そのように言葉を忘れることのできる人(すなわち、世界の真理をさとった人)をどこかで得て(見つけて)、ともに語り合いたいと思う。」
『荘子』雑篇の中の「外物篇第二十六の十三」より
という内容であるが、この説話に照らすと、荘子の話し相手に空海ならすぐにでもなれるが、最澄は言葉(文章)に執着しつづけている人だから、荘子の話し相手には当分はなれそうにもない。
空海のつぶやきが聞こえる。
「真理をさとっていれば、すでに文章は不要である。それなのにどうして最澄和上は次々と経典の借覧をお求めになるのですか」と。 
 
東国仏教と日本天台宗の成立
 最澄東国巡錫の意義と背景を導きとして

はじめに−東国小宇宙論第5のメルクマールとして
1992年3月、私は、飯岡秀夫教授をリーダーとする研究プロジェクトにおいて1、米山俊直氏の小盆地宇宙論2を導きの糸としながら、群馬あるいは高崎を考える地域学構築のユニットについての検討を行い、少なくとも古代においては、ほぼ今日の関東と重なり合う、アヅマと呼ばれ続けてきた地域つまり東国がその単位たりうることを指摘し、そのユニットを「東国小宇宙」と名付けた3。
「小宇宙」の用語は、米山氏の「小盆地を中心とする文化領域は、いわばひとつの世界である。この世界を、私は『小盆地宇宙』という名で呼ぶことにしている。小盆地宇宙とは、盆地底にひと、もの、情報の集散する拠点として城や城下町、市場をもち、その周囲に平坦な農村地帯をもち、その外郭の丘陵部には棚田に加えて畑地や樹園地をもち、その背後には山林と分水嶺につながる山地をもった世界である。」4「言語(方言)、物質文化、生活慣習、宗教行事、生業、経済組織などが、このレベルでほぼ完結したミクロコスモスを作っていた。多くの場合、藩ないしそれと同格の政治的統合もこのレベルで生れ、城や城下町の象徴性が生れた」5 という定義に由来するが、米山氏が、この基本ユニットを「ひとつの世界」「ほぼ完結したミクロコスモス」「宇宙」と呼んでいる背景には、「宇宙」という言葉が持つ本来の意味が生きている。
通常「宇宙」の語は、全天体を含む天空を指して使われることが多いが、元々『淮南子』斉俗訓に言うように、「宇」は天地四方、「宙」は古今往来を指し、空間的に完結するとともに、一つの時間が流れ続ける世界を意味する言葉だからである。まさに独自の歴史の全体が刻み込まれた一つの天地である。しかし他面、そうした地域は、孤立しているわけではなく、他の地域、より広大な地域と常に連動することをもって地域たりうる。つまり、世界史と連動する主体性をもった「ほぼ完結したミクロコスモス」こそ、地域ユニットにふさわしいと考えられる。
そこから、東国(アヅマ)を基本ユニットとして措定するとともに、東国小宇宙を特徴づけるメルクマールとして1豪族居館・後発型形象埴輪・後期大型前方後円墳の盛行2中国北朝に起源する銅製容器の古墳埋納3石碑の盛行4東国諸氏族の古代国家基本問題への深い関与を挙げた。しかし考察の射程として、時代的には5世紀後半から8世紀前半にかけて、考察対象としたメルクマールも物質的なものに限定せざるをえなかった。
その後、私は、日本最古の石碑である山ノ上碑(辛巳歳(681))や金井沢碑(神亀3(726)年)に仏教との関わりが強く出ており、早くも7世紀中葉には七堂伽藍を擁する寺院(放光寺=山王廃寺)が造られていたこと、本論の中心となる道忠・弘智教団の存在や山上多重塔の建立(延暦2(801)年)などから、「早かった仏教の定着と日本天台宗成立への関わり」を東国小宇宙を小宇宙たらしめる第5のメルクマールとして指摘した6。
しかし、その内実については、1992年1月、本学内の研究紀要『産業研究27−2』に研究ノートを提示しただけで7、積極的な論をなしえないまま徒に時を過ごしてきた。ここに飯岡先生の退官を記念するに際して紙面を提供いただけたことを幸いとし、弘仁8(817)年の最澄東国巡錫の意義と背景を検討することを導きの糸として、第5のメルクマールについての私の考えを明らかにしておきたいと思う。ただし恥を忍んで申し上げれば、12年前の研究ノートのリライトを何度か試みたけれども、その実、研究ノートから毫も論考を深められなかったことを率直に吐露して、飯岡先生のご寛恕をいただくとともに、識者の叱正を甘受したい。 
第1節 最澄東国巡錫の意義
周知の通り、百済系渡来氏族三津首百枝の子、広野として近江国滋賀郡古市郷に生まれた最澄(神護景雲元(767)年〜弘仁13(822)年)は、得度・受戒直後から比叡山に入山し天台の教えを独習して延暦23(804)年入唐。道僉、行満について天台宗の奥旨を学び、僊然から牛頭禅を伝えられ、順暁に秘密灌頂を受けた。帰国の翌年大同元(806)年天台宗は公認され、以後、最澄は、天台法華の宗論・組織論の確立と密教の取り込み、南都仏教との論争を展開し、弘仁8(817)年の東国巡錫、翌年の「山家学生式」の上表に至る。
六条式・四条式・八条式からなる「山家学生式」と同時に提出された2つの表「先帝御願天台年分度者は法華経に随って菩薩出家となさんことを請う表」及び「大乗戒を立てんことを請う表」の上奏において、最澄は、旧来の僧綱による各宗案分の学生養成制度の軛から自らを解き放って独自の学生養成制度の創設を図るとともに、独自の大乗戒壇を設立し、天台僧侶は自誓受戒の大乗戒(円頓菩薩戒)によって僧たりうることを求めた。独自の学生養成制度の創設要求もさることながら、『四分律』に基づく具足戒250戒を全て捨て去り、三師七証による受戒制度そのものを否定する最澄のこの主張は画期的な主張だったが、自身、この年3月、小乗戒を棄捨すると宣言し、同年、大乗戒によって僧となった学生を独自に養成する大乗寺の構想ならびに彼独自の鎮護国家論に基づく六所宝塔造立の構想を矢継ぎ早に打ち出していく。
最澄の上奏が完全に認められたのは最澄没7日後の弘仁13(822)年6月11日のことであったけれども、このように見てくれば、弘仁9(818)年という年が、天台宗が立教開宗の年とする比叡山一乗止観院創設の延暦22(803)年、天台宗公認の大同元(806)年と並ぶ、否、それ以上に重要な年であることが分かる。それだけに、その前年に行われた東国巡錫には大変大きな意義があったと言わなければならない。
最澄の東国巡錫については、多くの先学によって幾つかの理由が挙げられている。
一は空海(宝亀5(774)年〜承和2(835)年)との関係で、帰国後密教の取り入れに執心した最澄は、空海に教えを請うべく泰範などを遣わしたが、最澄の思惑通りには事態は進まず、失意と失地を挽回するために東国に向かったという考えである。たしかに、「最澄は、東国伝道によって空海の圧迫感から解放され、自己の独自性を空海の灌頂に対して、授戒の形において表現した」8とする薗田香融氏の指摘などは、翌年の「山家学生式」の上表からも首肯されるが、天才間の葛藤だけに問題を還元できるだろうか。空海も、この前後、東国周辺、すなわち日光の勝道上人(天平7(735)年〜弘仁8(817)年)の求めに応じて文を認めたり9、次に述べる徳一(一説に天平宝字4(760)年〜承和2(835)年があるが、正しくは生没年不詳。最澄・空海とほぼ同世代と考えられる)に書簡を送って真言宗への協力を要請したりしている10ことを考えれば、最澄、空海共に依拠・協力を願う強力な仏教集団が東国周辺に居たこと、そして、それらの人々の中に、空海よりは最澄に近い存在があったことを重視すべきであろう。
二は徳一との関係で、徳一が会津在住の僧であり、「徳一の最澄批判、というよりも天台宗法華批判は、直接に最澄との間でおこる前に、東国における最澄同調者たる道忠門下との間に、東国現地においておこされていた」11 と考えられ、その激しい論争が最澄の東国巡錫時と重なることから重視されている。「徳一は最澄に反撃を加え、5年間にわたって大論争を展開した。これは中国唐代の『法宝』と『慧沼』との間に交わされた論争を、日本に引きついだもので三一論争という。徳一は会津にあっても、なお南都教学の代表と目され、この法論を高く推賞された。最澄の著作のかなりはこの反論として書かれ、天台宗はそれによって初めて体系をなしたとも言われる。」12
しかし、ここで注意したいのは新しい教団組織者としての最澄の立場である。『天台法華宗年分得度学生名帳』に見られるように、大同2(807)年より弘仁9(818)年に至る12年間の天台法華宗年分度者24名のうち、比叡山に残る者僅か10名、法相宗に奪われた者6名、うち2名は「別勅」により法相宗に移されるという現状を克服し、かつ東国に生まれつつある天台菩薩教団を支えるために、東国での法相宗批判を徹底しようとしたのだろうが、その現実的解決は、議論としての法相批判にではなく、小乗戒の放棄、独自の大乗戒壇設立による学生養成制度の確立にあった。その視点に立った時、東国巡錫の主たる理由を徳一との論争に求めるのは若干無理があるように思われる。
現に、残されている史料や伝えによる限り、徳一教団と道忠・弘智教団は、ともに地域あって菩薩行と呼ばれる営みを行っているが、徳一と最澄あるいは道忠・弘智教団とが人間の帰属を巡って争った形跡は見られない。
三は、『群馬県史研究』に「両毛地方の仏教と最澄」を著された菅原征子氏の説で13、緑野寺(群馬県多野郡鬼石町)・大慈寺(栃木県下都賀郡岩舟町)の安東・安北両塔の完成に合わせて最澄の来訪を要請したとする考えである。両塔は六所宝塔の一で、最澄の発案とされるが、「最澄の上野、下野での活動は、史料上で確認できるのは、半年ほどの、ほんの短い期間なのである。従って最澄自らが、上野・下野両国でのそれぞれ法華一千部八千巻ずつの写経に加わったり塔の造立の過程を見守っていたとは考えられ」ず、両塔造立は、東国の知識集団が「法華経写経と共に進めていた活動であって、その完成にあわせて最澄の赴向を要請し、彼によって、完成した一千部法華経の宝塔への安置、四種の会衆ともいうべき両毛の知識を集めての連日の法華経の長講、大乗菩薩戒の授戒、付法灌頂の伝授等々を計画実施したものと考えられる。広智らの一連の活動に対する最澄の東国赴向の関係は、画竜点睛というべきもので、あくまでも主体は在地の知識集団にあったといえる」とし、翌年の六所造宝塔願文は「東国での体験をふまえてつくられたものであろう」とされた。
薗田氏もまた、東国仏教が最澄に与えた「その一は鑑真の遺弟道忠の門徒との接触による無遮戒(道俗貴賎男女をとわずに授ける大乗菩薩戒)の理念に洗礼されたことである。その二は彼が新しい理念の表詮として、大乗戒の独立という形を以ってしたことである。授戒という結縁の儀式によって民衆を教化した最澄の東国伝道の結果として、最も注目したいのは、この大乗戒問題に及ぼした影響である」14 と結ばれている。
結論的に言えば、私は、菅原氏・薗田氏を初めとする先学の高説の尻馬に乗るものだが、そうしたことが可能となった東国の風土、時代性について、いささかの考察を加えておきたいと思う。
まずは最澄と東国の関係から概観しておこう。 
第2節 最澄と東国−浮かび上がる道忠教団
最澄と東国との最初の重要な関わりは、延暦16(797)年比叡山上に一切経を備えようとした折の道忠の助写である。この一切経書写には大安寺僧聞寂なども協力したが、『開元釈経録』によれば1076部5048巻に及ぶ一切経の4割、二千余巻は道忠による助写だった。
『叡山大師伝』の下の簡潔な記載は、当時の東国仏教を考える上で多くの内容を含んでいる。
「東国化主道忠禅師といふ者あり。是は此れ大唐鑑真和上持戒第一の弟子なり。伝法利生、常に自ら事と為す。遠志に知識し大小経律論二千余巻を助写す。纔に部帙を満てるに及びて万僧斎を設け同日に供養す。今、叡山の蔵に安置せしは斯れ其の経なり。」(原漢文)
まず注目されるのは「東国化主」「鑑真和上持戒第一の弟子」と道忠を評している点で、『元亨釈書』円澄伝にも「忠は鑑真の神足(=高弟)なり」とある。受戒制度を整えるために度重なる遭難を乗り越えて来日し東大寺戒壇院などを設置した戒律の師、鑑真(唐・嗣聖5(688)年〜日本・天平宝字7(763)年)の高弟、「持戒第一の弟子」と称される人物が東国に居たという事実である。
しかも『元亨釈書』などに鑑真の弟子と記される日本人は道忠ただ一人であった15。
ここから、なぜ、そのような人物が東国に居たのかという疑問が当然沸いてくる。従来その理由として、天平宝字5(761)年下野薬師寺に戒壇を設立するに際して派遣され、東国に定着したのではないかという推測がされている。しかし道忠に関わる資料の中に下野薬師寺との関係を想像させるような資料は見られず、また、論敵となる徳一などとは異なって、「東国下向」の伝えを持っていない。道忠の出身、生没などを明記した確実な資料はないと言わねばならぬが、最澄の弟子で大乗戒壇設立に奔走した光定の『伝述一心戒文』に武蔵出身を示唆する表現があり16、『叡山大師伝』『元亨釈書』などは東国に居るのが当然と言ったニュアンスで書かれている。彼の東国移住は、師寂して後の鑑真思想具現のための帰国だったのではなかろうか。
「東国化主」という評価も道忠のそうした動きを指してのものと思われる。事実、吉田靖雄氏によれば17、「化主」と称されていた人々は、「化他行利他行の実践」者で、「彼等の活動した範囲は、少なくとも郡程度から数カ国にわたっていた」とされ、当時確実に「化主」と称された人物として、和歌山県伊都郡花園村医王寺旧蔵「大般若経」奥書(天平勝宝6年)に見られる河東化主諱万福法師、来日以前の揚州における鑑真と道忠の3人を挙げている。鑑真18が同じく「化主」と称されていたことは特に注目され、「鑑真和上持戒第一の弟子」の評価と「東国化主」の呼び方には深い繋がりが想定される。
また吉田氏は、「利他行の実践ということと活動の広範囲であったことの二点は、菩薩と称された僧の行動面と一致しており、『化主』と『菩薩』とは、同じ内容をもった異称であることがわかる」として、道忠の弟子で菩薩と称された広智について、「鑑真−道忠−広智の師弟は、たんに戒律という法脈に連なるということばかりではなく、民衆に対する菩薩利他行の実践という点で一貫して連なっている」と結論づけている。現に道忠は「伝法利生」を事とし、彼の弟子たちに関わる資料からすれば、下野薬師寺以外の、いわば私設の寺院を中心とした教団活動に携わっていたことが知られ、広智もまた「己を虚しくして他を利す」(現行本『慈覚大師伝』)「いわゆる如来の使と為て、如来の事を行ず」(天長2年8月付叡山俗別当参議大伴宿禰国道書)と評される人物であった。その点では徳一もまた同様の行動を示しており、同じ法相の高僧行基(668〜749)と共に「菩薩」の名をもって呼ばれている(『南都高僧伝』)。このように見れば、菩薩行は、広く東国周辺の仏者に共通する像として捉えられ、東国仏教の深さと広さ、質の高さを物語る。
そこで改めて、道忠の思想と実践を継承しつつ最澄と関わった人々の動向を概観することを通して、道忠教団の内実に踏み込んでみよう。
道忠の弟子としてまず挙げたいのは、一切経助写二千余巻を持って叡山に登り最澄の弟子となった第2代天台座主円澄(宝亀3(772)年〜承和4(837)年)である。『元亨釈書』によれば、円澄は武蔵国埼玉郡の人で本姓壬生氏。延暦6(787)年、18歳をもって道忠に師事、菩薩戒と法鏡行者の名を授けられ、延暦17(798)年、27歳の時に「叡嶺に登り到り、先の師(=道忠)と共に一切経を写し経蔵に収む。先師の後に従いて一切経を供う」(『伝述一心戒文』)「伝教(=最澄)に従い落髪す」(『元亨釈書』)とある。円澄の名は、この時、最澄より一字を分かちて与えられたものであったが、それまでの9年間、いわば俗体のまま、道忠より授けられた菩薩戒に立って、道忠とともに写経や利他行に携わっていたことは大いに注目される。
第2に挙げるべきは広智で、その生没年は不祥だが、最澄の東国巡錫、上野・下野両国への宝塔建立に関わる『叡山大師伝』の記載に、「爰に上野国浄土院(=緑野寺)一乗仏子教興、道応、真静、下野国大慈寺一乗仏子広智、基徳、鸞鏡、徳念ら、本是れ故道忠禅師の弟子なり。延暦年中遠く伏鷹を為す。師資を闕かさず、斯れ其の功徳勾当の者なり」ある通り、道忠の一切経助写に関わっていたと見られ、また彼の弟子、円仁(延暦13(794)年〜貞観6(864)年)の卒伝(『日本三代実録』貞観6年正月14日条)などは、円仁生誕の延暦13(794)年頃には大慈寺に居て下野国人に広智菩薩と称されていたと記している。そして承和2(835)年11月5日付広智宛の円澄書簡からその時までの生存が確認できるが19、円澄からの入京の誘いに応えられなかったことを考慮すればすでに相当の高齢に達していたと見られる。おそらく円澄が菩薩戒を授けられた頃には既に道忠の弟子となっており、道忠と共に大慈寺を開き、鑑真−道忠の衣鉢を継いだ、円澄よりやや年長の人物と見られる。
広智は一貫して下野国大慈寺にあったが、最澄との接触は少なくとも3回に及んでいる。第1回は道忠助写の時、第2回は大同5(810)年の比叡登山、第3回は最澄の東国巡錫時で、大同5年の比叡登山で広智は最澄から三部三昧耶の灌頂を受けている20。なお、大同3年6月17日付の大安寺沙門広円の遺言状によれば、広智は、同じ大慈寺の僧、基徳、徳念、徳円と共に広円の弟子でもあったことが知られる。その徳円について『天台法華宗年分度得度学生名帳』は「僧徳円、住山、止観業、師主大安寺伝燈満位僧円澄、興福寺、弘仁三年、年分得度者」と記し、円澄も、当時の僧綱案分では大安寺僧とされていたことが分かる。浄土院在僧の名は広円の弟子の中に見えないが、最澄一切経書写に道忠と共に協力したのが大安寺僧聞寂であったことを考えれば、道忠と広円あるいは大安寺の間には深い関係が想定され、また大同3(808)年以前に道忠が寂していた可能性は極めて高い。
その他、広智に関しては、1最澄東国巡錫に際して緑野寺法華塔前で両部灌頂を受けたこと212下野国大慈寺の安北宝塔は広智により守られたこと223第4代天台座主安恵(延暦24(805)年〜貞観10(868)年)も広智の弟子で、最澄東国巡錫の際、最澄に託されたこと234最澄入寂のため直接に渡すことができなかった徳円(下総国 島郡倉樔郷の人・俗名刑部稲麿とある)への印信はその師広智より付嘱されたが、徳円は第5〜7代天代座主円珍・惟首・猷憲の師となったこと245「師師相伝之明験」として、最澄が唐より将来した天台香爐峯栢木文笏4枚のうち1枚が付されたこと25 6空海からも弘仁6(815)年・天長4(827)年の少なくとも2回、働きかけのあったこと26などが知られている。
他の弟子、孫弟子については割愛したいが、先の『叡山大師伝』の記載は、上野国浄土院(=緑野寺)・下野国大慈寺(=小野寺)を中心に数多くの僧侶を挙げている。また、武蔵国慈光寺(埼玉県比企郡都幾川村)も道忠を開山と伝える。
名の分かっている人物だけでも整理すれば道忠の法脈は図1のようなものであり、このように整理すれば、道忠及び広智とその教団が最澄−天台教団との間に持っていた関係は尋常ならざるものであったことが理解される。
初期天台教団は道忠教団と言ってよいほどである。
なぜ、そうなりえたのか。そのことを考えるためには道忠・広智教団をさらに掘り下げてみる必要がある。
図1 道忠・広智教団の法脈 
第3節 道忠・広智教団登場の背景
道忠・広智教団の社会像としては次の4点が指摘できる。
1 円仁の俗姓は壬生氏で壬生氏は円澄の俗姓でもあったこと
2 緑野寺に一切経があることは広く知られており全国から注目されていたこと27
3 幾つもの寺院を建立し一切経を書写できるだけの経済的基盤を有していたこと
4 菩薩戒に立った利他行を活動の中心としていたこと
まず円仁・円澄の氏の名である壬生氏だが、佐伯有清氏が『円仁』で紹介している「熊倉系図」(鈴木真年編『百家系図稿』所収)によれば、円仁の姓は公(君)28 で、その家系は下毛野君の祖とされる奈良君に始まり、父は都賀郡三鴨駅長で大慈寺厳堂を建立したと言う。円仁卒伝などでも円仁の家は大慈寺の檀越とあり、円仁を上毛野君・下毛野君の家系に連なるとみなす意識は『元亨釈書』『明匠略伝』『天台座主記』などに共通しており、『明匠略伝』も円仁の俗姓を壬生公としている。
壬生氏は大王家の子女たちの養育料を負担させられた部=壬生部の伴造(統率者)で、多く地方の優勢豪族がその地位についたとされ、東国の諸国造の系譜を引くとみなされる氏族には壬生の名を負う氏族が少なくない。古代身分秩序の根幹に関わる姓の違いに注意しながら、壬生の名を負う地方有姓者の動向を8〜9世紀の史料から要約して抽出してみよう。
◎公(君)姓
・『日本後紀』弘仁4(813)年2月14日条。
上野国甘楽郡大領外従七位下勲六等壬生公郡守に、戸口増益、民の懐しむ所を以て特に外従六位下を授く。
・『日本三代実録』貞観12(870)年8月15日条。
上野国群馬郡外散位正八位上壬生公石道に壬生朝臣を賜う。
◎直ないし連姓
・『常陸国風土記』行方郡条。
孝徳天皇癸丑の年(653年)、茨城国造小乙下(従八位下相当)壬生連麻呂、那賀国造大建(大初位相当)壬生直夫子らは行方郡の郡家を別置。なお壬生連麻呂は、同書中に夜刀の神(=蛇)を追い払った伝承も載せる。
・『大日本古文書』2−73頁。
天平10(738)年2月、壬生直信 理、駿河国正税帳に駿河郡少領外従八位上として署名。
・『寧楽遺文』補遺1・調庸 墨書。
天平勝宝5(753)年10月、常陸国行方郡大領外正八位下壬生直足人、同郡逢鹿郷戸主建部身麻呂の調布専当郡司として署名。
・『続日本紀』天平宝字5(761)年正月〜宝亀7(776)年4月条。
常陸国筑波郡の人、壬生直小屋主女は宮人として姓を直から連、連から宿禰に、位階も正七位上から最終的には正五位下勲五等に進められ、本国国造とされた。
・『続日本後紀』承和7(840)年2月25日条。
相模国大住郡大領外従七位上壬生直広主に、窮民に代わって私稲を輸し戸口を増益した功により外従五位下を仮授す。
・『続日本後紀』承和8(841)年8月4日条。
相模国高座郡大領外従六位下勲八等壬生直黒成に、貧民に代わって調布・正税を納めるなど戸口を増益した功により外従五位下を仮授。
・『日本三代実録』貞観元(859)年3月5日条。
相模国大住郡大領外従五位下壬生直広主に従五位下を授く。
・『日本三代実録』元慶6(882)年11月朔条。
甲斐国巨麻郡人左近衛将曹従六位上壬生直益成の男3人・女4人を山城国愛宕郡に貫隷。
◎吉志姓
・『続日本後紀』承和12(845)年3月23日条。
武蔵国前男衾郡大領外従八位上壬生吉志福正は、承和2年神火により焼失した武蔵国分寺七層塔の再建を申し出、許される。また同人は、承和8年5月7日、2人の息子の一生にわたる調庸を前納することを申し出、許される(『類聚三代格』調庸事条)。
◎首姓
・『類聚三代格』神宮司神主禰宜事条。
天平3(731)年の勅に「戸座、備前国壬生首云々、右女帝御宇之時供奉」とあり、同史料には同じくミブ首と読むと考えられる生部首の名も見られ備中国人とある。その他、『新撰姓氏録』河内国皇別に壬生臣、未定雑姓河内国に壬生部公が見えているが、以上の概観から、壬生の名を負う地方有姓者の分布にはかなりの偏りのあることが知られる。つまり、君(公)姓は円仁自身を含めて上野・下野に、直あるいは連姓は常陸・相模・甲斐の東海道に属する東国諸国に、吉志姓は武蔵に、首姓は山陽道にという分布である。直あるいは連姓という括り方をしたのは直から連へと姓が上げられている例が見られるからだが、これは、天武天皇時代に制定された八色の姓の制度に形式としてかなっている。また壬生公石道、壬生連小屋主女は、同制度にかなった形で君(公)から朝臣へ、連から宿禰へと改賜姓されている。
姓の上昇も含めて、君(公)姓が上野国に集中していることは大変興味深く、「東国小宇宙論」や「あづまのくに−古代東国史論」で指摘したように、東国、特に中心地域である上野・下野両国には、天武天皇13(684)年上毛野君・下毛野君・大野君・池田君・佐味君・車持君の6氏、いわゆる東国六腹の朝臣に朝臣が与えられたのを嚆矢として、君(公)姓から朝臣姓へ改賜姓が盛んと行われた。壬生公石道以外の例を示せば次の通りである。
◎『続日本紀』神護景雲元年3月6日条等。
上野国碓氷郡・甘楽郡・群馬郡・吾妻郡に勢力を張った石上部君を上毛野坂本君から上毛野坂本朝臣へと改賜姓。
◎『続日本紀』天平神護2年12月12日条・神護景雲元年3月6日条。
上野国佐位郡に勢力を張った桧前部を桧前君から上毛野佐位朝臣へと改賜姓。
◎『続日本紀』天平神護2年5月20日条。
甘楽郡に勢力を張った礒部に物部公を賜姓。
◎陸奥国における改賜姓例等
一々の例は省くが、全般的には吉弥侯(部)→上(下)毛野+地名+公(朝臣)→上(下)毛野公(朝臣)という改賜姓が行われている。吉弥侯(部)は上毛野氏・下毛野氏の同族を称し、上野・下野を中心とする東国から陸奥国に半ば強制的に移住させられた人々である。
このように見てくれば、「熊倉系図」の信憑性はともかく、円仁は、朝臣姓に登りうる格を持って上毛野氏・下毛野氏との同祖性を主張できる社会階層に属していたと言ってよいであろう。ただし壬生公は、東国六腹の朝臣には数えられない氏族で、朝臣賜姓も貞観12(813)年と新しく、官位も低く、中央官人としての活躍も知られていないから、東国六腹の朝臣に比べればセコンダリークラスに属す氏族と見られる。一般に郡司クラスと称される人々、おそらくは上毛野坂本朝臣、上毛野佐位朝臣などと同様に、7世紀半ば以降、東国六腹の朝臣が中央の貴族・官人として殿堂入りしていった後を受けて在地の権力を掌握していった階層と思われる。
壬生公(朝臣)の主たる勢力基盤としては上野国甘楽郡・群馬郡、下野国都賀郡を中心とする地域が挙げられるが、富岡市下高尾(旧甘楽郡小野郷)の仁治の碑(仁治4(1243)年建立。この年2月寛元と改元)には壬生姓の者5名の名が刻まれており、13世紀半ばまで甘楽郡にその勢力を維持していたことがうかがわれる。仁治の碑には解読不明も含めて20余名の名が記されているが、判読できた氏族21氏の内訳は藤原6名、壬生5名、小野3名、春日・六人部各2名、物部・安部・大宅各1名で、壬生氏の占める割合はかなり高い。緑野郡との近接性を考えれば、緑野寺の造立に壬生公が関与していた可能性も低くない。
明治23(1896)年多胡郡・南甘楽郡と合して多野郡となった緑野郡の範囲は、おおよそ今日の藤岡市と鬼石町をあわせた地域で、平安時代半ばの百科事典『和名類聚抄』によれば10ないし11の郷を属していた。一般に奈良・平安時代の1郷の人口は1250人前後と見られており、緑野郡の人口は12,000〜14,000人程度となる。現在の藤岡市・鬼石町の人口は7万ほどだから人口の伸びは5〜6倍である。北海道と沖縄を除く日本全国では、奈良時代約600万人と推計されており、現在20倍ほどに人口は伸びている。群馬県では12〜13万人程度が200万人と15〜16倍になっているから、緑野郡は極めて人口密度の高い、つまり生産性の高い地域であった。(表1)
表1 奈良時代と現代との人口対比
緑野郡最優勢の勢力は佐味君であった可能性が高いが、『日本書紀』によれば、この地には屯倉が設置されており29、また昭和10年に行われた群馬県内所在古墳の悉皆調査では、同郡域の藤岡市平井地区で県内最多数の古墳が確認されている。佐味君を頂点として、自立性の高い中小の豪族や郷戸が存在し、ミヤケ以来の関係を介して中央権力とも交通していたと見られる地域である。したがって緑野寺は、佐味君が中央の有力な貴族・官人になった後、なお高い生産性を維持したこれら中小豪族と彼らに率いられた人々によって建立されたと見てよいだろう。
大慈寺が建てられた下野国都賀郡も元々は下毛野君の主たる勢力基盤で、下野国府が開かれた地域だが、「熊倉系図」等に従えば大慈寺は壬生公を檀越としており、8世紀後半代以降においては、下野国におけるセコンダリークラスが有力な寺を建て、そこに地域の人々が結集するに至った状況が見られる。
武蔵における壬生吉志の社会的地位もよく似たもので、壬生吉志は、東松山市・吉見町辺りに設けられた横渟
屯倉の管掌者として6世紀後半代に武蔵に派遣された渡来系氏族で、横渟屯倉の置かれた横見郡から比企郡、男衾郡(現埼玉県大里郡寄居町・江南町・川本町辺り)に勢力を延ばしたと見られている30。史料にうかがわれる壬生吉志は先に挙げた壬生吉志福正の承和年間の2つの事跡だけだが、武蔵国分寺七層塔の再建、2人の息子の一生涯に及ぶ調庸の前納のいずれも、その背後に巨大な経済力と技術・人間の動員力を持っていたことを物語る。
議論を壬生吉志と道忠・広智教団との具体的関係に絞れば、武蔵国分寺七層塔の再建と並んで、比企郡の慈光寺(比企郡都幾川村)が開山を道忠としていること、その慈光寺に貞観13(871)年前上野国権大目安部朝臣小水麿写経の大般若経600巻のうち152巻が現存していることなどが注目される。慈光寺建立時の当域優勢氏族としては壬生吉志が第一に挙げられるし、当時写経の元となった一切経は緑野寺に存在したからである。壬生吉志と道忠・広智教団との間には浅からぬ関係があったと見てよいであろう。
つまり緑野寺、大慈寺、慈光寺を建立、経営した主体のこうした類似性と、そこを主たる展開の場とした道忠・広智教団の、利他行や知識(=講)による写経活動を柱とする仏教との間には深い繋がりがあったと考えられるのである。
すなわち、先に挙げた有姓の壬生氏の多くは、窮民に代わって調庸を納め、戸口増益に功があったとされており、壬生公、壬生吉志、及び彼らと同じ社会階層に属する人々は、氏姓を異にしながらも、民衆に密着した地域有力者として、地域民衆の「利生」に身を尽くしたと見られ、彼らのそうした行為を実践的に裏うちする思想こそ大乗仏教の菩薩行、利他行に他ならず、事実「化主」あるいは「菩薩」と呼ばれた僧侶の行った架橋、造寺、衆僧供養、病患者の治癒、飢者への施食、寒者への給衣などは華厳経や梵網経では福田つまり菩薩行の内実とされている。
言い換えれば、地域最優勢豪族による多分に勢力誇示的な造寺行為ではなく、地域民衆の学習・修行・救済センターとして寺を建てようとする意識の高まりという社会基盤の成熟があってこそ、東国化主としての道忠・広智の菩薩行は具現化できたものと見られ、そのことが最澄に大きな影響を与えたと考えられるのである。
しかも福田あるいは菩薩行と称される行為が勝れて技術的な内実を持つことは、彼らの民衆済度の志を具現させられるだけの技術・学識が地域の中に蓄積されていたことを示唆する。
現に緑野郡周辺及び慈光寺建立の武蔵国比企郡や隣接する円澄の出身地埼玉郡は、6世紀東国を特徴づける人物埴輪の供給センターの一つであり31、緑野寺と隣接する多胡郡には早くから機織や瓦焼成の技術が定着していた。多胡郡に伝わる「羊太夫伝承」には採鉱・冶金、金属加工の定着の様子が見られ、また、上野国分寺跡出土の大量の文字瓦のうち多胡郡に関わる瓦には、他の郡域の場合とは異なって、個人名まで箆書きされたものが多く、多胡郡域を中心に国分寺瓦が焼かれていたことを示唆する。
大慈寺の建てられた下野国都賀郡も下野国府が開かれた地域として同じような技術の蓄積をもっていた地域で、特に「熊倉系図」が円仁の父がその駅長であったと記す三鴨の地は「氈」(毛織の敷物)生産の中心地であったと言われ、『令義解』『延喜式』などには「下野の氈」が見えている。壬生吉志福正が息子2人の庸として紙を大量に前納しえたことも注目される。
結論を急げば、道忠・広智教団が活動した8〜9世紀の東国は、農業生産以外の各種手工業生産によって、当時の平均的人口密度を数倍するほどの人口を食べさせられるだけの成熟を遂げていたと考えられるのである。これら手工業生産は当時の最先端の産業技術であり、それらによって高い人口密度が維持されていたとすれば、そこには、いわば古代の地方都市が芽生え始めていたと言ってよいであろう。道忠・広智教団の登場は、古代東国社会が「地方都市」を析出させるまでに成熟していたことの宗教的、思想的表象とさえ言えるのである。
つまり、道忠・広智教団に結集した人々は、単に苛酷な律令国家の収奪体制から逃れようとした人々ではなく、手工業生産という付加価値の高い産業技術をもって自立性を高めようとした人々だった可能性が高いのである。だからこそ進んで、その中から多くの菩薩僧を出して中央−世界の最高の学問を吸収させようとし、自ら一切経を揃えんとしたのである。
しかも、そうした状況が上野、下野、武蔵の各「地方都市」をネットワーク化する形で生じていたことに注目したい。東国はまさに一つの小宇宙として「地方都市」を生み出し始めていたのではなかろうか。これこそ道忠・広智教団登場の社会的背景と言ってよいであろう。 
第4節 知識写経と経塔建立の意義
そうした社会背景をもって登場した道忠・広智教団には、知識(=講)による写経と経塔建立を頻繁に行った形跡が見られる。
知識と呼ばれる同信の結社(講)は7世紀後半から見えはじめ、東国でも金井沢碑(神亀3(726)年、高崎市山名町)に確実に初現する。金井沢碑は佐野三家の子孫を中核とする9人の知識によって建てられた先祖供養・入信表白の碑で、知識の規模は小さいが、道忠・広智教団の知識写経、経塔建立の先蹤をなすものである。佐野三家の一族は、山ノ上碑(辛巳歳(681)、高崎市山名町)の記載によれば681年の段階で僧を出していたことが知られるが、一人の僧を出すことから在俗の知識結成へと進んでいる。そして「三家子孫」嫡系の6人を中核としながらも、他の3人が知識に参加する形となっており、血縁から地縁・職縁へと知識が拡大されていく傾向が見られる。こうした地域での動きを発展させるところに道忠・広智教団の活動は存在した。在俗の様々な職種の人々が進んで参加できる活動形態こそ大乗戒に支えられた知識という形態であった。
さらに、拙論「東国小宇宙論序説」や「あづまのくに−古代東国史論」でも指摘したように、建碑という形式自体が注目される。つまり相当数の人々が文を読み、書き、残し、伝えあうことに価値を見出していたわけで、このことは手工業生産への関与とも関係すると考えられるが、こうした知的伝統があってこそ、膨大な写経、造塔活動も可能だったと思われる。
また、碑には「上野国群馬郡下賛郷高田里」の三家子孫が建立したとあるが、その所在地は多胡郡山名郷辺りであり、上野三碑と称される山ノ上碑・金井沢碑・多胡碑に多胡郡在住の渡来系氏族や三家関係者が深くかかわっていたことが知られる。こうした渡来系氏族や三家関係者こそ道忠・広智教団の背後に存在する地域有力者と同じ社会階層に属する人々であり、道忠・広智教団の活動範囲と重なる地域でもあった。
知識写経と経塔建立のハイライトをなすのは最澄東国巡錫時のことと考えられる緑野寺・大慈寺の法華経塔の建立だが、その前段階として延暦20(801)年の山上多重塔建立がある。
山上多重塔を詳しく研究された柏瀬和彦氏は、石碑の加工技術や書体などから延暦20年の時期に造立されたもので贋作ではないと指摘され、経塔であると明言されている32。氏の釈読に従えば次のように読み下せる。
「(本塔は)如法経の坐(=安置する塔)なり。
朝庭(=朝廷)、神祇、父母、衆生、含霊の為に奉る。
小師道輪、延暦二十年七月十七日(に建つ)。」
无間(地獄)に苦を受く衆生を愈し永く安楽を得て彼岸に登らしむ為に。
字議等、なお議論があろうが、「特別に宗教的条件を整え、定められた法式に従い、敬虔な気持ちで書写した経」である「如法経」を納めるために延暦20年の時点で経塔が建てられたことが核心をなす問題点である。
その「如法経」の実態について、柏瀬氏は、一般に如法経書写は、円仁の天長10(833)年の行為が最初とされていることを考慮して、この段階では「法華経の可能性はあるが、断定することはできない」と慎重な言い回しをされているが、同塔塔身部にうがたれた穴の大きさが法華経8巻を納めるのに適した大きさを示している点や後世の例、あるいは他の経典とは異なって、法華経自体が「まさに一心に受持・読・誦・解説・書写して、説の如く修行すべし」(如来神力品)と主張し、「受持・読・誦・解説・書写」は五種法師の行として重視されたことなどから見て、法華経と考えてよいと思う。
円仁が如法経書写を行う30年も前に、円仁の出身地に近い東国の地で如法経の書写と経塔建立が行われていたのである。延暦20年とは、道忠が最澄の一切経助写を実行した4年後、最澄入唐の2年も前のことであった。
元々法華経を塔の中に納める風習は法華経成立時代(紀元1〜2世紀)から存在し、特に法華経の最終成立年代にあたっては、舎利を納めたストゥーパ(st ̄upa)よりも経(法華経)を納めたチャイトヤ(caitya)の方が重視されるに至るが、田村芳朗氏は33、特に写経を重視するようになる西暦100年頃から菩薩行も強調されると指摘され、経塔の重視は「批判と反省をとおして僧院主義と在俗主義の両者を止揚し、大乗菩薩道の真精神を確立しようとした結果の産物」であり、菩薩行と写経・経塔建立を重視する法華経作成者の属する社会としては「商業生産を主とする社会」が想定されると言う。
田村氏の言われる法華経成立史とそこにおける経塔重視の意味、法華経作成者の属する社会状況を道忠・広智教団の社会的背景に照し合わせた時、その類似的性格を指摘することができるだろう。道忠・広智教団の背後に横たわる社会階層は古代社会の成熟段階で最前線に登場した手工業生産に関わる自立を求める人々であり、地縁・職縁をもって知識を結成し始めた人々であった。その人々は、優れたリーダーの下に大乗戒をもって在俗のままで仏者となり、自らと地域の発展のために菩薩行に積極的に関与しようとした。とすれば、8〜9世紀東国における法華経信仰の受容は単に新しい思想やスタイルの受容ではなく、受容、定着の必然性があったのである。
そこでさらに注目されることは、柏瀬氏が、「多重塔は塔身部に経典を納めていた。このような形式をもつ石造塔は、当時のものには現在のところ他に例をみない。ただ材質などは異なるが類似するものとして瓦塔があげられる。特に群馬県は瓦塔が多く出土されており、時期的にも多重塔と一致するものが多い」34 とされていることで、たしかに瓦焼成の技術は、道忠・広智教団を支えた社会階層に深く関わる技術であり、知識写経という形態は、在俗の有力な家に法華経を納める施設を必要としたであろう。道輪と道忠・広智教団との関わりはなお不明だが、山上多重塔や瓦塔の登場は、道忠・広智教団の活動と深い関わりがあったとしてよいであろう。
付言すれば、徳一と塔との間にも興味深い関係がある。徳一開基と考えられ「仏都会津」の中心寺院となった恵日寺(福島県耶麻郡磐梯町)にある徳一大師廟と呼ばれる五重石塔(国史跡)がそれで、上第二層目から舎利壺と見られる土師器が発見されている。塔は「下層の塔身が高く、軒の出が深い。また各塔身の下が広く、上がせまって梯形をなしている。屋根の四隅に孔をうがち、風鐸を釣った痕跡が見られるのが珍しく、全国的にも類例が少ない」35 ものだが、石塔・土師器ともに平安中・後期のものとされている。したがって、徳一大師墓としても、没直後のものではないが、形式からすれば、こちらは経塔(caitya)ではなく舎利塔(st ̄upa)と見られる。
さらに興味深い史跡が恵日寺の西北約1キロメートルのところにある「戒壇跡」と称されている国史跡である。雑木林の中に方形石塔蓋石などが散在し、「絹本著色恵日寺絵図」(16世紀初頭)にある塔の存在を示唆するが、「蓋石のつくりは徳一の石塔と同じで、技法、年代ともほぼ同時期と考えられる」36 ばかりか、徳一廟の基壇下には発掘調査でめぼしいものは発見されなかったが、こちらは「一部で地形的に段状をなしていることが確認され」37 、堺市の大野寺の土塔38や奈良市高畑町の頭塔39との関連を推測させる。こうした点は行基や南都仏教との関係性を高めるが、さらに西谷正氏は、今年2004年9月、北京で開催されたアジア史学会第13回研究大会において「渤海・塔基墓の背景」と題する報告講演を行い、「塔基墓出現の背景に、唐の塔と地宮の概念の影響を認めたいのである。このような概念は、朝鮮においては、たとえば新羅の道 国師墓に見られるように、地上の浮屠と、地下の石槨・石棺という形に変容した様相で見出せるのではなかろうか。日本では、福島県に位置する東北地方の法相宗の拠点とされた、恵日寺の僧・徳一の墓塔と伝えられるものが、そのような構造をもっている可能性があるといえよう」40 と指摘されている。今後検討を深めるべき課題であろうが、世界史との連動を推測させることは注目される。 
結びにかえて
こうした背景のもとで、最澄は弘仁8(817)年東国を訪れ、翌年「山家学生式」「六所造宝塔願文」などを著し、大乗菩薩僧たちによって指導、運営される国家像、地域像を日本型仏教として確立していくことになるが、その核となる人々つまり最澄の言う国宝、国師、国用の典型となる人物もまた道忠・広智教団から最澄−天台教団に託された円澄、円仁、安恵らであった。
初期天台教団が道忠・広智教団であったのは必然だったのである。
東国の側から言えば、郡司階層と呼ばれる地域と民衆に密着した有力氏族層を主たる牽引者とする「地方都市」ネットワークの形成とさえ呼びうるような社会的成熟の達成と、文字を通しての意志伝達や各種手工業生産の充実、知識と呼ばれる講の成立などの前代からの蓄積を前提に、そこに登場した道忠・広智という優れたリーダーの存在によって、最澄が夢見た成熟した古代社会にふさわしい宗教・思想つまり時代の普遍性が実践的に先取りされていたのである。
それは日本天台宗への収斂ばかりでなく、徳一に始まる「仏都会津」の輝きや勝道を嚆矢とする日光周辺の神仏習合、山岳信仰の広がりとも相通ずる。東国は決して草深い鄙ではなく、日本人の心、思想、生活を根底で支える大乗仏教、民衆仏教揺籃の地だったのである。 

1 高崎経済大学附属産業研究所編『群馬・地域文化の諸相 その濫觴と興隆』日本経済評論社,1992年。
2 米山俊直『小盆地宇宙と日本文化』岩波書店,1989年。
3 熊倉浩靖「東国小宇宙論序説−群馬における地域学構築の前提として」(前掲書1所収),97〜126頁。
4 米山前掲書11頁。
5 米山前掲書195頁。
6 熊倉浩靖「あづまのくに−古代東国史論」上田正昭先生古稀記念論文集『古代の日本と渡来の文化』学生社,1997年,327〜338頁。
7 熊倉浩靖「8〜9世紀における東国小宇宙の宗教と思想―最澄東国巡錫の意義と背景を導きとして―」高崎経済大学附属産業研究所『産業研究』27−2,70〜81頁。
8 薗田香融「最澄の東国伝道について」『仏教史学』第3巻第2号,61頁。
9 空海は、弘仁5(814)年下野伊博士を通じての勝道の求めに応じて「沙門勝道歴山水瑩玄珠碑并序」(『性霊集』二所収)を草している。
10 弘仁6(815)年空海は弟子康守を徳一のもとに遣わし真言宗普及のための協力を請うている(『高野雑筆集』)。これに対して、徳一は「真言宗未決文」を著し真言宗への疑問を提示した。しかし、空海は、それに反論を加えず、最澄との間のような論争にはならなかった。逆に反論がなかったことが後に真言宗内部の論争へと持ち込まれていくことになる。
11 高橋富雄『徳一と最澄』,中央公論社,1990年,43〜47頁。
12 伊藤泰雄編著『会津恵日寺』,恵日寺,1994年,6頁。
13 以下の引用は菅原征子「両毛地方の仏教と最澄」『群馬県史研究15』,1982年,7〜9頁。
14 薗田前掲論文8)60頁。
15 田村晃裕『最澄』,吉川弘文館,1988年,42頁。
16 佐伯有清『円仁』,吉川弘文館,1989年,20頁。
17 以下の引用は吉田靖雄『日本古代の菩薩と民衆』,吉川弘文館,1968年,31〜37頁。
18 『鑑真和上三異事』に「稟性秀於人倫而被行猶由聖法、戒珠浄営利他心深、於諸州中独為化主」、『唐大和上東征伝』に「後帰淮南教授戒律、江淮之間独為化主、於是興建仏事済化群生」とある。
19 佐伯有清『慈覚大師伝の研究』,吉川弘文館,1986年,354頁。
20 天長7年閏12月16日付「広智付徳円三昧耶戒印信」、承和9年5月15日付「徳円阿闍梨印信」等。
21 承和4年2月14日付「円澄相承血脈書」。
22 天長2年8月付「叡山俗別当参議大伴宿禰国道書」。
23 佐伯前掲書19)336〜341頁。
24 承和9年5月15日付「徳円阿闍梨印信」及び『天台座主記』。
25 『天台霞標』栢木文笏条。
26 弘仁6年3月26日付広智宛空海書状及び『続遍照発揮性霊集補闕抄』「詠十喩詩」付記。
27 例えば高山寺蔵金剛頂瑜伽経各巻奥跋には「上野国緑野郡浄院寺 一切経本 掌経仏子教興 掌経仏子 写経主仏子教興 経師近事法慧 弘仁六年六月十八日(以下略)」とあり、また、東国諸国の一切経写経の原本が緑野寺経本であったことが『続日本後紀』承和元(834)年5月15日条などから知られる。
28 「君」の姓は、天平宝字3(759)年10月3日より「公」に換えられた。
29 『日本書紀』安閑天皇2(535)年5月9日条。ただし、緑野屯倉がこの時に設置されたと見る見方には同意しがたい。
30 金井塚良一「北武蔵の古墳群と渡来系氏族−吉士の動向−」『古代東国史の研究』,埼玉新聞社,1980年。
31 金井塚良一・梅沢重昭他著『討論 群馬・埼玉の埴輪』,あさを社,1987年,240〜292頁
32 以下の引用は柏瀬和彦「山上多重塔の基礎的研究」『群馬県史研究』27号,1988年,22頁。
33 以下の引用は田村芳朗『法華経』,中央公論社,1969年,44〜50頁。
34 柏瀬前掲論文32)29頁。
35 伊藤泰雄前掲書12)10頁。
36 伊藤泰雄前掲書12)12頁
37 磐梯山慧日寺資料館『慧日寺を掘る―史跡慧日寺跡発掘調査展―』,1993年。
38 神亀4(727)年行基により開かれた大野寺の土塔は、主軸をほぼ真北にする四角錐をなし、基壇の一辺53メートル(180尺?)、高さ8.6メートル以上(30尺?)で、13段に築かれて頭頂部は円形か八角形をなす。基壇の外装は割った瓦を平積みにして整え、各段の上表面は瓦で葺かれていた。瓦の塔という外観を示し、寄進者である知識衆の名前を刻みつけた1,000点を数える文字瓦が出土している。瓦に記された年号などから行基生存中の完成と見られ、周辺の調査では奈良時代の建物跡などが見つかっていないことから、創建時の大野寺は土塔のみであったと見られている。(堺市教育委員会『土塔』の記載等より)
39 神護景雲元年(767)良弁僧正の命により東大寺僧実忠が造営した土塔。方形32メートルの四角錐台で7段に築かれ、各段の四方には現在27基の石仏が残っている。石仏の高さ61〜111センチメートルで、それぞれ浮彫り、線彫りなどで如来三尊や侍者等を表し、仏舎利を納める仏塔と見られている。(奈良市教育委員会解説看板の記載等より)
40 アジア史学会第13回研究大会研究報告集(日本語版),2004年。『東アジアの古代文化』124号(2005年春夏号),大和書房に正式論文として掲載予定。  
 
比叡山延暦寺



 
■東塔 
根本中堂
根本中堂(こんぽんちゅうどう)は、比叡山延暦寺東塔の中心的建造物で、延暦寺の総本堂です。文殊楼の西、大講堂の東の窪んだ場所に位置しています。現在の建造物は寛永19年(1642)の再建で、国宝に指定されています。
根本中堂の形成
延暦4年(785)7月中旬、最澄は山林静寂の地をもとめて叡山に登り草庵に居住した(『叡山大師伝』)。この草庵は「根本一乗止観院」と称され、薬師像を安置したという(『叡岳要記』巻上、根本一乗止観院)。これがのちの根本中堂となる建造物の原型なのであるが、創建された当時、根本中堂は現在見るような巨大な建造物であったわけではない。根本中堂は先にのべたように一乗止観院と称され、薬師堂・文殊堂・経蔵の3宇によって構成されていた。その規模は貞観元年(858)9月25日に円珍が作成したとする「勘定資財帳」(『山門堂舎記』・『九院仏閣抄』に引用される)によると、桧皮葺の根本薬師堂1宇が長3丈(9m)、広さ1丈5尺5寸(4m69cm)、高さ1丈2尺(3m63cm)であり、桧皮葺の文殊堂1宇が長さ3丈3尺(10m)、広さ1丈6尺(4m84cm)、高さ1丈2尺(3m63cm)、桧皮葺の5間の経蔵1宇が長さ3丈3尺(10m)、広さ1丈6尺(4m84cm)、高さ1丈2尺(3m63cm)とされ、薬師堂・文殊堂・経蔵はそれぞれ長さが3丈(9m)ほどのほぼ同じ寸法であったことが知られる。
経蔵とは文字通り経典を収める蔵のことであるが、最澄は一切経書写事業を企画し、弟子の経珍(生没年不明)に告げた。そこで師弟は一切経を書写していったが、この事業には叡勝・光仁・経豊などが助写し、最澄は書写したものを片っ端から読んでいった。この事業は昼夜を問わず行なわれたが、「山家」(のちの延暦寺)には蓄えがなかったため、五千巻ともいわれる一切経をすべて書写することができなかった。そこで最澄は願文をつくり、南都諸大寺に回覧させた。この事業に賛同して大安寺の聞寂が助力したほか、「東国の化主」と称された道忠は二千巻も書写した。今(9世紀前半)、叡山蔵に安置される経典は、この経典のことである(『叡山大師伝』)。このように最澄在世中に発願された一切経を納めるため経蔵がつくられたのだが、経蔵と薬師堂・文殊堂の三堂がのちに根本中堂を形成することとなる。
『九院仏閣抄』に引用される『元慶年中記』によると、「(根本中堂は)昔、伝教大師が造営したものであり、始めは薬師堂・文殊堂・経蔵があった。年月がへるにつれ、壊れ始めてきた。そこで座主の智証大師(円珍)は、止観院を修造し、旧規を改め新たに9間(16.2m)の堂1宇を建立した。〔東には孫庇がある。〕始めたのは元慶6年(882)6月7日で、仁和3年(887)11月7日に至って、造営は終了した。(中堂のうち)中央の5間分は薬師堂とし、南の2間分は経蔵に、北の2間分は文殊堂として、2堂(経蔵・文殊堂)は中堂に付属させた。」とあり、元慶6年(882)より仁和3年(887)まで6年におよぶ大工事によって、3堂は9間4面の堂(根本中堂)に集合されたことが知られる。
しかし、承平5年(935)3月6日に中堂・前唐院、および官舎・私房のすべての41箇所が焼失した。尊像はすべて取り出している。同月17日には宣旨を蒙り、中堂の造営を開始し、3年後には完成している(『天台座主記』巻1、13世大僧都尊意和尚、承平5年3月条)。なお焼失した年は、『天台座主記』・『扶桑略記』裡書では承平5年としているが、『扶桑略記』本文・『天元三年中堂供養願文』では翌6年(936)としている。
その後、天元元年(978)、天台座主良源は根本中堂の大規模な修造を開始し、天元3年(980)9月3日、落成し、斎会を設けて供養した(『九院仏閣抄』)。この時の願文である『天元三年中堂供養願文』によると、修造の理由として、狭い廂があるのみで、廻廊がないため、法会において僧等が風雨にさらされることをあげている。
さらに『天台座主記』によると、根本中堂が11間4面の大堂へと巨大化したことによって根本中堂のある窪地状の狭い平地では対応できないため、南岸の土をとって北谷にうずめたが、それでも経蔵を設ける場所がないため、根本中堂より経蔵を分離して、虚空蔵堂の南隣に5間4面の規模で経蔵を建立したとある(『天台座主記』巻1、18世権律師良源、天元3年9月晦日条)。根本中堂を11間4面としたのはこの時であるかと思われる。11間4面は、現在の根本中堂と同じ間数である。その後天治元年(1124)には修復が行なわれている(『天台座主記』巻2、45世僧正法印仁実、天治元年9月条)。なお現在の根本中堂の規模は桁行11間(37.57m)、梁間6間(23.63m)、棟24.46mとなっている。
根本中堂はこの再建によって巨大化したが、内陣は土間となっていた。現在の根本中堂も内陣は土間のままであり、外陣よりの一段低い構成となっている。一般的に仏堂の床は、奈良時代までは現在みるものとは異なって板張ではなく、土間であった。また内側はあくまで仏のための空間であって、僧はその外で礼拝するものであった。それが内陣・外陣の区別のはじまりであるが、のち平安時代前期になると礼拝のため参詣する者が現われた。そこで堂の前に庇を葺き落して礼堂とした。これが孫庇であるが、やがて参詣者の中には仏堂に泊まり込んで何日も参詣する者が現われた。これを参篭というが、この参篭のため、土間であった仏堂はやがて板張りとなるようになった。ところが根本中堂をはじめとして、天台系の本堂(延暦寺東塔根本中堂・延暦寺西塔釈迦堂・園城寺金堂・円教寺講堂)の内陣は土間のままとなっており、外陣は板張りで内陣よりも一段高くなっている。これら天台系の本堂の基本形は根本中堂とみることができるが、根本中堂が3堂から9間堂への集合、11間の大堂へと拡大発展する中、最澄以来の伝統が内陣において一貫として守られ続けていたと評する意見がある。
中堂薬師
さて、根本中堂といえば現在、観光案内や延暦寺に参詣した人のサイトやブログをみると最澄自刻の薬師如来像と「不滅の法灯」が著名である。「不滅の法灯」つまり常灯明については後述することとして、薬師如来像について述べたい。
この薬師如来像は『山門堂舎記』根本中堂条によると、延暦7年(788)に薬師堂を建立した際、虚空蔵尾に倒れていた木を伐採し、手づから薬師仏像1体を彫刻して安置したという。薬師堂は文殊堂と経蔵の間にあったため中堂といったのだが、『山門堂舎記』の成立は鎌倉時代まで下るため、この記事に関して信憑性が問われる。
確実な史料の初見は光定の『伝述一心戒文』に中堂薬師に関する記述があり、また弘仁14年(823)4月14日に始めて大乗戒を授けた際、中堂の薬師仏像の前にて授戒を行っている(通行本『慈覚大師伝』)ことが知られる。
この薬師仏像はどのようなものであったのであろうか。『阿婆縛抄』巻46薬師本によると、「施願無畏〔通仏の相なり〕これ苦しみを抜き楽を与えるの義なり。秘説にいわく、中堂薬師は施願・無畏なり。忠師みずからこれを見ゆ。(中略) 東寺金堂ならびに南京の薬師寺像、右手をあげて左手を垂らす。左足をもって右膝を押す、云々。あるいはいわく、和州室生寺薬師仏これに同じくするなり、云々。」とあることがわかる。すなわち『阿婆縛抄』の編者・承澄(1205〜82)の師である忠快(1162〜1227)は秘仏である中堂薬師をなんらかのきっかけがあって見たところ、印相は施願・無畏、つまり右手をあげて左手を垂らすというものであったという。つまり中堂薬師は一般的な薬師如来像の印相である右手をあげて左手に宝珠を載せるという姿ではなく、「通仏の相」というように釈迦如来・弥勒如来・盧舎那仏といった普通の仏像との区別が困難な様相であり、東寺金堂の薬師如来像(現存せず、現在金堂には桃山時代康正作の薬師如来像が安置されている)、薬師寺金堂蔵の薬師三尊像中尊(銅像鍍金、8世紀前半、像高254.7cm)、室生寺金堂蔵の伝釈迦如来立像(薬師如来立像、木造彩色、9世紀後半、像高234.8cm)がこれと同様の形像であった。
先の引用部分に「(中略)」とした部分は「実相院は後朱雀院の御願なり。梨下座主明快〔時に護持僧なり〕沙汰して、中堂の本仏を写し奉る。師は円融房の行事なり。件の仏、もと宝珠を持たず、人々謗難するの間、後にこれを持たしむ、云々。」という文があるのだが、この文にあるように康平6年(1063)に後朱雀天皇の御願により実相院が建立された際に、天台座主明快(985〜1070)は中堂薬師を模刻したのだが、人々が違和感を覚えたのか非難したため、垂らしてあった左手を宝珠を持つ手にかえたという。この記事によって、すでに康平6年(1063)の段階で施願・無畏の印相は違和感を覚えるほどの古様となっていたことが知られる。
『叡岳要記』に「同(中堂)薬師仏像一躯。〔高さ五尺、身は金色、衣文は綵色。〕」(『叡岳要記』巻上、根本一乗止観院)とあるように、中堂薬師の像高は5尺(150cmほど)であり、東寺金堂・薬師寺金堂の薬師如来が丈六座像であるのと対比を示している。また肉身を金、衣部分を朱とする「朱衣金体」である。この「朱衣金体」と、印相が施無畏・与願であること、地髪部と肉髻部があいまいでなだらかに続いている、いわゆる「スキー帽形」であること、股間の衣文がY字となっていることが天台宗系の薬師如来立像の典型であり、中堂薬師の模刻であると考えられている。これらは総称して「天台薬師」といわれている。
根本中堂の薬師如来像は、永享7年(1435)2月5日の根本中堂自焼の際に焼失してしまい、宝徳2年(1450)仏師に命じて焼け材を利用して造立させた(『康富記』宝徳2年5月16日条)。これも信長の比叡山焼討ちで再度焼失してしまった。現在の根本中堂の薬師如来立像は、江戸時代の延暦寺再興の時に横蔵寺(岐阜県揖斐郡揖斐川町)より移座したものである。それは横蔵寺の薬師が最澄自刻のものであるという記録が横蔵寺にあったことによるものである(「豪盛書状(『立石寺文書』)」(『山形県史 資料篇15上 古代中世史料1』〈1977年3月〉246頁)。移座するに際して像内より金銅仏が取り出されている。これが現在横蔵寺蔵の薬師如来立像(銅造、像高36.6cm、平安時代)である。この横蔵寺蔵の薬師如来立像は中堂薬師像とは異なり、下に垂らした右手は衣の先を握り、左手に薬壷を持っている。裳裾に「邃授澄貞元廿一四」という銘文があり、「道邃が最澄に授ける。貞元21年(805)4月」と解釈できる。この胎内薬師如来像は最澄が唐より請来したとされている(「豪盛書状(『立石寺文書』)」)。ただしこの銘文は中世の後補と考えられている。
根本中堂の薬師如来像は寛永17年(1640)12月に翌々年の中堂供養に先んじて七条仏師康音(1600〜83)によって修復された(『本朝仏師正統系図并末流』康音尻付)。宝永3年(1706)12月にも中堂・講堂・文殊楼の諸仏像が残らず修飾されているが、この時の「薬師之ホソ寸法」の調べによると、薬師如来像のほぞ穴は縦2寸5分(7.5cm)、横1寸9分(6cm弱)であった(『本朝仏師正統系図并末流』康伝尻付)。
ところで、秘仏であった根本中堂薬師如来立像が天台宗開宗1200年記念事業の一環として、一般公開された。『別冊太陽 比叡山』(平凡社、2006年4月)12頁に根本中堂薬師如来立像の写真が掲載されているが、この写真をみる限りでは、印相は薬壷を持つ一般的な薬師如来像の様相であり、天台薬師の様式とは異なっている。
鳩が新常灯明を消す
後醍醐天皇は、元徳2年(1330)3月27日に山門に行幸し、根本中堂の北の礼堂を御所とし、大講堂供養を行い、根本中堂にて新常灯明を挑げた。28日に無動寺に行幸するまで滞在したが、この時の座主は後醍醐天皇の皇子尊雲(大塔宮)で、のち還俗して護良親王と名乗った。尊雲親王は修行・学問を行わず、武芸を嗜んでいたという。これは後醍醐天皇による倒幕計画の一環であったが、尊雲親王の行動は関東につつぬけであったという。
常灯明は、無尽灯・常夜灯とも称される。これは『維摩経』菩薩品に、一人の者が、法をもって多数の衆生を開導すれば、また多数の衆生が多数の者を開導し、展転して尽きないことから、あたかも一個の灯が次々に移されて無数の灯となることに譬えていうもので、菩薩の化導の義として説かれる。これが実際に常灯明として行われるようになった時期は不明であるが、中国・唐の華厳宗第三祖の法蔵(643〜712)は武周の則天武后のために、十鏡を八隅に置き、その中に仏像を安置して火を灯し「刹海重重無尽之意」を表わしている(『仏祖統紀』巻第33、法門光顕志第16)。
日本では常灯明がいつ頃から行われていたかは不明であるが、天平19年(747)の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』に「常灯分壱仟束」とあることから、奈良時代より存在したようである。最澄の常明灯に関しては、その濫觴の詳細は不明だが、中国・天台三祖の智ギ(りっしんべん+豈。UNI6137。&M011015;)(538〜97)が『維摩経』の注釈書である『維摩経略疏』を記していることからもわかるように、無尽灯に対する関心は深かったようである。
『伝述一心戒文』によると、天長年中(824〜34)、延暦寺俗別当であった権中納言藤原三守(785〜840)が淳和天皇に奏上して、延暦寺灯分宣旨が太政官に下された。この延暦寺灯分宣旨については詳しいことは不明だが、内容は灯分を2分し、そのうち1分は根本中堂の薬師仏の灯明料に、1分は三昧堂での法華経を読むための灯明料とするというものである。この延暦寺灯分宣旨が下った時、同じく延暦寺俗別当であった伴国道(768〜828)は、光定に、いかなる理由によって灯分が2分されたか光定に質問した。光定は、「三昧堂衆が“1合の油で法華経を照らして読んでいたが暗かったため、数日後、5撮の油を加えてみたところ明るかった”といっていたため、三昧堂に1合5撮の油を供すべきである。中堂の薬師仏は、年分を2人を寄し、永代の基となすべきである。そのため1合5撮の油を供すべきなのである。これ合わせれば、灯分は3合である。(これによって)淳和天皇は延暦寺に灯分を施入し、また大納言藤原冬嗣(775〜826)はこれを計り、永代の灯分を2堂に供し宛てた」と答えている。これによって伴国道は官符の文を作成している(『伝述一心戒文』巻中、灯分達天長皇帝分為於二分一分供中堂薬師仏一分供三昧堂講法華経文13)。この灯分3合は、1年360日にて計算すると、1080合、つまり1斛8升となり、『延喜式』巻26主税上に「およそ延暦寺の灯分油は1斛8升。(後略)」と規定されているのもに符合する。
天禄3年(972)、廬山寺文書の「天台座主良源遺告」(『平安遺文』305)に、根本中堂ではないが常灯料のことがみえている。『宇津保物語』藤原の君に「比叡の山に、惣持院の十禅師なる大徳のいふやう、かタきを得んずるやうは、比叡の中堂に、常灯を奉り給へ。」とあることからもわかるように、著名な最澄常灯のみならず、他者も発願による常灯を挑げることができた。また常灯明は天台宗では叡山各末寺にもあり、四天王寺・三千院・北野社などが著名であり、高野山の灯篭堂の常夜灯がよく知られるところである。
ここであげる新常灯明とは、後醍醐天皇が桓武天皇が自ら挑げたとされる常灯になぞらえて、手づから120筋の灯心をたばね、銀の油錠(油皿に足がある祭具)に油を入れた灯明であり、皇統の無窮をかがやかせることを願ったものであった。『太平記』巻5中堂新常灯消事によると、山門の根本中堂の内陣に山鳩1つがいが飛んで来て、新常灯の油錠の中に飛び入り、暴れたため、灯明がたちまち消えてしまった。この山鳩は、堂中の暗がりのため行方不明となっていたが、仏壇の上に翼を低くしているところ、イタチ1匹が走り出で、この鳩2羽を食い殺した去ったという。この事件の真偽は不明で、年月日も未詳であるが、『太平記』では、元弘2年(1332)の付近にかけている。ただし、元弘3年(1333)の閏2月24日付の「花園天皇宸翰消息」(京都国立博物館蔵)に、「兼ねてまた常灯の事、鳩これを消すの後、断絶するかの旨、(後略)」とあることから、少なくとも鳩が常灯を消したことが確認できる。
なお、根本中堂の後醍醐天皇新常灯明は、再び灯されたようであるが、貞和2年(1346)2月13日夜の亥刻(9時)に、初夜の行法の鐘木にて誤って消されてしまっている(『園太暦』貞和2年2月13日条)。常灯明は、「常灯」という位であるから、消えさせないことが原則ではあるが、不意のことで消えることも多かったようである。新常灯明以前にも、元暦2年(1185)7月9日に京都を襲った地震では、根本中堂の常灯は、承仕法師(堂舎・仏具などを掌り、法事等の雑役に従事する者)がこれを取り出して、消させなかったが(『玉葉』元暦2年7月9日条)、同12日に再度地震があったときには、根本中堂にあった4灯あった常灯明のうち、3灯は消えてしまい、最澄の常灯明のみが消えなかったという(『源平盛衰記』巻第45、内大臣関東下向附池田宿游君事)。ただし桓武天皇の常灯の詳細は不明である。『天台座主記』によると、天禄3年(972)に3灯を統一して1灯としたとあるが(『天台座主記』巻1、宗祖伝教大師、延暦7年条、付天禄3年項)、桓武天皇の常灯はこの時に最澄の常灯明と併せられたのかもしれない。
常灯明は天台系の諸寺に多くあり、天台系の諸寺には根本中堂の常灯明が伝えられる事が多かった。山形県の立石寺もその一つである。立石寺は慈覚大師円仁の創建にかかるとされているが疑わしい。この立石寺は創建当時に根本中堂の常灯明を運んでいたとされていた(「天台座主二品法親王尊鎮置文写」『立石寺文書』(『山形県史 資料篇15上 古代中世史料1』〈1977年3月〉245頁)が、天童頼長・成生十郎らの攻撃により立石寺が廃滅した。立石寺の復興にあたって住僧一相坊円海が天文12年(1543)4月13日に叡山に登り、東塔仏頂台教王院を宿房として滞在し、根本中堂の最澄の常灯明より灯明を申し受けて立石寺に戻り、8月15日に立石寺の常灯明を復活させた(「一相坊円海置文写」(『立石寺文書』)」(『山形県史 資料篇15上 古代中世史料1』〈1977年3月〉245頁)。
最澄の常灯明は永享の乱(1435年)に際しては無事であったものの、元亀の織田信長の比叡山焼打ちに際して根本中堂ともども常灯明も失われた。のちに比叡山が再興され、天正13年(1585)に根本中堂が再建されるあたって、最澄の常灯明も復興されることとなった。その42年前に立石寺が根本中堂の常灯明を受けたことにより、立石寺の常灯明の灯明は根本中堂に移され、天正17年(1589)10月25日、立石寺に常灯明を移した立石寺の住僧一相坊円海が今度は根本中堂に灯明を運び、復興された(「豪盛置文写」(『立石寺文書』)」(『山形県史 資料篇15上 古代中世史料1』〈1977年3月〉253〜254頁)。
永享の乱と根本中堂の焼失
天元3年(980)に再建された根本中堂は、以降455年にわたって焼失することもなく、偉容を東堂にはなち続けていたが、永享7年(1435)に永享の閉篭事件によって焼失した。
ことの発端は永享6年(1434)7月、山門(叡山)は幕府に対して12ヶ条の要求をつきつけた(『満済准后日記』永享6年7月11日条)のがはじまりである。当時の将軍は足利義教(1394〜1441)である。足利義教は将軍となる前は出家して義円と名乗り、第153世天台座主であった。将軍に選出されたため還俗して天台座主職は辞任したという特異な経歴をもっていた。
同月23日、幕府は六角・京極両氏に対して、山門領の押収のため、近江国(滋賀県)に下向させた(『満済准后日記』永享6年7月23日条)。27日には山僧らは日吉神輿六社を根本中堂内に引き入れ閉篭(立てこもり)した(『満済准后日記』永享6年7月29日条)。8月幕府は山徒が上意(将軍の命令)に背いたとして、山門(叡山)領をことごとく差し押さえさせ、さらに近江の六角・京極両氏に対して近江国(滋賀県)に下向させ、悪党を鎮圧すべし、という命令が出していたが、これに対して山門(叡山)も将軍を呪詛し、さらに幕府と微妙な関係にあった鎌倉公方に対しても上洛すべきであると勧めるほどであった。それにもかかわらず諸大名は将軍の強行意見に難色を示し、三管領の一つ畠山氏の家人遊佐氏にいたっては将軍の命に背いて河内国(大阪府)に戻るありさまであった(『看聞御記』永享6年8月18日条)。8月22日には京極持光の軍勢が近江国に下向したが、勢多橋において山徒と合戦となった。京極勢は山法師を撃破した(『看聞御記』永享6年8月22日条)ものの、京極勢は名のある武将が討ち取られるなど、犠牲が多かった。そのため土岐氏が加勢のため派兵された(『看聞御記』永享6年9月5日条)。この加勢が功を奏したのか、9月末までには山徒側にとって戦況は絶望的となり(『看聞御記』永享6年9月27日条)、11月6日夜、山徒らは坂本金輪院を自焼して根本中堂に閉篭した。このため幕府は畠山・赤松両氏を山門へ向わせた(『看聞御記』永享6年11月6日条)。
永享7年(1435)2月4日、延暦寺からの使節4人が交渉のため京都に来たが、義教はこの4人を悲田院にて斬首してしまった(『看聞御記』永享7年2月4日条)。この報を聞いた山徒らは同月5日、根本中堂に放火してしまった(『看聞御記』永享7年2月6日条)。根本中堂に立て篭もって自焼・腹切した者は24人におよび、根本中堂安置の薬師如来像も焼失してしまった。またある煎物商人が路頭でこの事について噂したところ、逮捕・斬首されてしまった(『看聞御記』永享7年2月8日条)。これについて『看聞御記』の記録者である伏見宮貞成親王(1372〜1456)は「万人恐怖」と評した。
根本中堂の再建は焼失してわずか6ヶ月後の8月3日に開始され(『看聞御記』永享7年8月3日条)、嘉吉3年(1443)頃までには落成していたらしい。この時再建された根本中堂は明応8年(1499)7月20日に細川政元(1466〜1507)被官の赤沢朝経・波々伯部宗量らが軍勢を率いて延暦寺を攻撃した際に、根本中堂・大講堂などを焼き払ったため(『後法興院記』明応8年7月20日条・『大乗院寺社雑事記』明応8年7月12日条)、再度再建工事が着手され、永正15年(1518年)4月4日に落慶供養が行なわれた(『天台座主記』巻5、161世尭胤親王、永正15年4月4日条)。
近世の再建
延暦寺は元亀2年(1571)9月12日の織田信長の比叡山焼討ちによって壊滅し、根本中堂もまた焼失した。延暦寺は信長の横死後に漸次再建に着手されているが、根本中堂も天正13年(1585)に再建工事が着手され、天正17年(1589)10月までには完成したらしい(「豪盛置文写」(『立石寺文書』)」(『山形県史 資料篇15上 古代中世史料1』〈1977年3月〉253〜254頁)。しかしこの堂も寛永7年(1630)9月18日の大風によって大講堂・文殊楼・法華堂・常行堂もろとも顛倒している(『天台座主記』巻6、169世二品最胤法親王、寛永7年9月18日条)。
寛永11年(1634)、徳川家光(1604〜51)は根本中堂・大講堂・文殊楼の造営を分部光信(1591〜1643)・朽木稙綱(1605〜61)らを奉行として造営にあたらせた。これは南光坊天海(1536〜1643)の口添えによるもので、家光は天海に深い信頼をよせていたため実現することができたのである(『天台座主記』巻6、169世二品最胤法親王、寛永11年此年条)。寛永19年(1642)12月19日に根本中堂の造営が完了し、この日の夜に供養が行なわれた。ただし大儀を用いず、略式の供養とされた。供養の導師は天台座主の尭然が行なった(『天台座主記』巻6、171世入道二品尭然親王、寛永19年12月19日条)。この時完成した堂が、現存する根本中堂である。
再建された根本中堂はこれまで6度の修理工事が行なわれている。最初は寛文8年(1668)に実施され(『天台座主記』巻6、181世入道無品尭恕親王、寛文8年同年条)、柱根継・屋根くぬぎ葺替えが実施された。第2回は元禄16年(1703)に開始されている(『天台座主記』巻6、189世入道無品尭延親王、元禄16年条)。宝暦元年(1751)12月23日に根本中堂の屋根が大雪のため崩落したため(『天台座主記』巻5、207世入道二品尭恭親王、宝暦元年12月23日条)、宝暦3年(1753)3月15日より第3回の修復工事が開始されている(『天台座主記』巻6、207世入道二品尭恭親王、宝暦3年3月15日条)。第4回は寛政10年(1798)春から秋にかけて行なわれ、9月に修復工事が完成している。この時屋根をくぬぎから銅板に改められたが、廻廊の屋根はくぬぎのままであった(『天台座主記』巻7、215世一品尊真親王、寛政10年従春至秋条)。第5回は明治23年(1890)、第6回は昭和30年(1955)に行なわれた。 
文殊楼

文殊楼(もんじゅろう)は比叡山延暦寺東塔惣堂分の根本中堂の正面東側の虚空蔵尾に位置する堂です。一行三昧院とも称されています。円仁によって建立され、貞観6年(864)に完成。その後何度も焼失しましたが、現在の建物は寛文8年(1668)のもので、大津市の指定文化財となっています。
文殊楼の建立
文殊楼はもとは常坐三昧一行院として最澄によって弘仁9年(818)に建立が企画された(『弘仁九年比叡山寺僧院等之記』)。この企画はさらに弘仁10年(819)3月15日の「四条式」において、天台宗の年分度者の楽章が十二年籠山する際に山の四種三昧院にて修行することを標榜している(『山家学生式』)。
四種三昧は常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧のことで、うち常坐三昧とは、『文殊師利所説般若波羅蜜経』・『文殊師利問経』を所拠経典としたもので、智ギ(りっしんべん+豈。UNI6137。&M011015;)(538〜97)の著作『摩訶止観』によると、常坐三昧は一行三昧ともいい、まず起居動作において許されることと許されないことを論じ、口業の上の言説と沈黙を論じて止観し、身は常に坐って歩いたり伏せたりしなかった。この常坐三昧を実施のは集団より一人の方がよく、一静室や空閑地にて諸々の喧騒を離れ、一つの縄床に座って他に移動することなく、90日間を一期として結跏正坐して、頭や背中は直立し、動かず揺れず、坐をもって自誓した。食事は排便を除いてただ専らに仏に向かって端坐正向したという(『摩訶止観』巻第2、二勧進四種三昧入菩薩位)、大変な苦行であった。
しかし常坐三昧院の建立は遅れ、最澄示寂後のことになる。円仁は入唐中の開成5年(840)7月2日夜に東に一谷を距てた峰の上に光を見ており(『入唐求法巡礼行記』巻第3、開成5年7月2日条)、これによって心に文殊閣の建立を誓ったという(通行本『慈覚大師伝』)。この同じ日に円仁は五台山の南台頂近くの金閣寺を訪れている。ここで9間三層の文殊堂を見物しており、第一層には文殊菩薩像、第二層に金剛頂瑜伽の五仏像、第三層に頂輪王瑜伽会の五仏金像が安置されていた。また第一層には大蔵経六千巻が納められていた(『入唐求法巡礼行記』巻第3、開成5年7月2日条)。この五台山での見聞が、実際の文殊楼建立に際して大いに参考となったのである。
帰朝後の貞観2年(860)、円仁は文殊楼建立の奏上を行っており、詔によって造料を給付された(通行本『慈覚大師伝』)。貞観3年(861)には五台山の霊石を建立地の五方に埋めており、文殊楼の建立を開始した(通行本『慈覚大師伝』)。この霊石は円仁の請来目録である『入唐新求聖教目録』に「五台山土石二十丸(立石各十丸)」とあるものであり、円仁はこれを「しかるに立石等は、これ大聖文殊師利菩薩の住処の物にして、円仁ら五頂に巡礼するによりて取得す。これ聖地の物によりて、これを経教の後に列す。願わくは見聞随喜する者をして同じく結縁せしめ、みな大聖文殊師利の眷属となさんなり」とある(『入唐新求聖教目録』)。
ところが文殊楼は円仁在世中に完成せず、円仁の遺誡においても文殊楼の完成を気がかりなこととしている(通行本『慈覚大師伝』)。円仁示寂後の貞観6年(864)10月に文殊楼会が実施され、僧都道昌(798〜875)を導師とし、僧都恵達(796〜878)を呪願とした(通行本『慈覚大師伝』)。
その後、文殊楼の検校となって文殊楼の経営を支えたのが承雲である。承雲は年未詳2月15日に宣旨によって文殊楼検校となっているが(通行本『慈覚大師伝』)、貞観6年(864)2月15日に内供奉十禅寺に補任されていることから(『日本三代実録』巻8、貞観6年2月15日壬申条)、検校となったのは貞観6年(864)のことであったらしい。
承雲はさらに文殊像を造立して文殊楼に安置した。この文殊像の胎内には五台山の香木が中心に入れられていた(通行本『慈覚大師伝』)。貞観18年(876)6月15日には承雲の申請によって文殊楼が朝廷を誓護の道場となっているが、文殊楼は二層で、高さは5丈3尺(16m)、広さは5丈3寸(15m)、縦は3丈8尺(11.5m)であり、正面に安置される文殊坐像1体は高さが4尺8寸(145cm)、化現文殊乗師子立像1体が8尺(240cm)、脇侍の文殊立像4体は高さがそれぞれ5尺3寸(160cm)、侍者化現文殊童子立像1体が5尺3寸(160cm)、師子御者化現文殊大士立像1体が高5尺3寸(160cm)であった(『日本三代実録』巻29、貞観18年6月15日庚申条)。
元慶3年(879)10月16日に近江国大浦荘を文殊楼の灯分・修理料として寄進されたが(『類聚三代格』巻第2、元慶5年3月11日官符)、承雲の申状によって元慶5年(881)3月11日に料分の余によって僧4口(人)を文殊楼に置くこととした(『類聚三代格』巻第2、元慶5年3月11日官符)。
あいつぐ焼失
文殊楼は康保3年(966)10月28日に大講堂・鐘楼・常行堂・法花堂・四王院・延命院などとともに焼失している(『扶桑略記』第26、康保3年10月28日条)。これまで文殊楼は大講堂付近に位置していたが、天台座主良源(912〜85)は安和2年(969)の再建に際して、虚空蔵峰の頂上に移した。さらに文殊楼が焼失した後、文殊の師子の足元にあった五台山の土を探したものの、灰が多く積もっていて分別不能であったため、良源は円仁が五台山から持ち帰った土を文殊師子の足下に踏ませた(『慈慧大僧正伝』)。天元3年(980)10月1日に文殊楼の供養が行われた(『日本紀略』天元3年10月1日条)。
長久5年(1044)10月9日に延暦寺文殊楼に阿闍梨が4人設置された(『扶桑略記』第28、長久5年10月9日条)。永保3年(1083)に文殊楼供養が行われており(『天台座主記』巻2、36世法印権大僧都良真、永保3年条)、また寛治2年(1088)8月29日にも大講堂・四王院・文殊楼の供養が行われているから(『天台座主記』巻2、36世法印権大僧都良真、寛治2年8月29日条)、この頃修造されたらしい。
元久2年(1205)10月2日に文殊楼は大講堂・四王院・延命院・法華堂・常行堂・鐘楼・五仏院・実相院・御経蔵・虚空蔵惣社・南谷彼岸所・円融房・極楽房・桜本房とともに焼失しているが(『天台座主記』巻3、67世僧正真性、元久2年10月2日条)、ただちに再建に着手され、元久3年(1206)7月24日には文殊楼は法華堂・常行堂・四王院・実相院とともに棟上されている(『天台座主記』巻3、68世権僧正法印承円、元久3年7月24日条)。
建保3年(1215)11月25日には北谷大妙坊からの失火により焼失しているが(『天台座主記』巻3、72世権僧正承円、建保3年11月25日条)、貞応3年(1224)に再建された(『叡岳要記』巻上、文殊楼院)。
再建僅か5年後の安貞3年(1229)3月25日にも北谷喜見坊からの失火により焼失したが(『天台座主記』巻3、74世二品尊性親王、安貞3年3月25日条)、寛喜3年(1231)3月29日に再建の立柱をし、4月28日に棟上、7月7日に本尊を安置し、寛喜4年(1231)3月25日に再建供養を行った。観厳律師が法華経1,200部、金光明経1,200部、仁王経1,200部を勧進し、比叡山上で転読させ、このうち3,000部を文殊楼に納め、残り600部は畿内・畿外の神祠に頒布した(『天台座主記』巻3、75世大僧正良快、寛喜4年3月25日条)。
文永3年(1266)8月18日には大風により文殊楼が経蔵・法華堂・戒壇院政所・惣持院とともに破損している(『天台座主記』巻4、84世前大僧正澄覚、文永3年8月18日条)。文永7年(1270)10月8日に棟上された(『天台座主記』巻4、86世前大僧正慈禅、文永7年10月8日条)。
永仁5年(1297)9月19日には比叡山上の武力抗争によって焼失しているが、この時の焼失は大講堂・五仏院・鐘楼・政所・定法房・浄眼房・実相院・定心院・同鎮守・彼岸所・円融房・極楽房・香集坊・法性坊・四王院・戒壇院・法華堂・常行堂が焼失する大惨事となった(『天台座主記』巻5、99世前大僧正尊教、永仁5年9月19日条)。
元亀2年(1571)信長の比叡山焼討ちに際しても焼失したとみられるが、江戸時代になってから再建工事が実施されたらしい。しかし寛永8年(1631)9月18日に大風のため文殊楼は根本中堂・大講堂・法華堂・常行堂・横川四季講堂とともに倒壊してしまう(『天台座主記』巻6、169世最胤法親王、寛永8年9月18日条)。
寛永11年(1634)、徳川家光(1604〜51)は根本中堂・大講堂・文殊楼の造営を分部光信(1591〜1643)・朽木稙綱(1605〜61)らを奉行として造営にあたらせた。これは南光坊天海(1536〜1643)の口添えによるもので、家光は天海に深い信頼をよせていたため実現することができたのである(『天台座主記』巻6、169世二品最胤法親王、寛永11年此年条)。寛永19年(1642)に完成した(『天台座主記』巻6、169世二品最胤法親王、寛永11年此年条)。
寛文8年(1668)2月27日に東塔北谷僧房の善学院より出火して、前唐院とともに焼失するが(『天台座主記』巻6、181世入道無品尭恕親王、寛文8年2月27日条)、同年中に再建工事を行った(『天台座主記』巻6、181世入道無品尭恕親王、寛文8年条)。この時再建されたものが現在の文殊楼であり、桁行3間(9m45cm)、梁間2間(6m8cm)の入母屋造の三間一戸二階二重門である。二階は床を張って文殊菩薩を安置する。初重には扉を設けず、両脇を板壁で区切って室としている。和様を基調としながらも、柱の粽・台輪や花頭窓などに禅宗様を加味する。
安永10年(1781)3月19日に文殊楼は修理を行っており、本尊を外に遷座した(『天台座主記』巻6、212世入道二品尊真親王、安永10年3月19日条)。天明元年(1781)10月17日、陰陽師により文殊楼の正遷座の日を24日と決定された(『天台座主記』巻6、212世入道二品尊真親王、天明元年10月17日条)。
昭和48年(1973)に大津市の指定文化財に指定された。 
大講堂

大講堂(だいこうどう)は比叡山延暦寺東塔に位置する建物で、単に「講堂」とよばれることもありますが、横川の四季講堂などと区別するため「大講堂」と称されています。戒壇院よりも高い場所に位置しており、多くの法会の舞台ですが、幾度も焼失してきました。現在の建物は昭和38年(1963)に讃仏堂を移築したもので、寛永11年(1634)の建立です。この建物は重要文化財に指定され、最初から数えて10代目の建築物となっています。本尊は大日如来で、本尊の両脇には日蓮・道元・栄西・円珍・法然・親鸞・良忍・真盛・一遍といった、比叡山から大成して新たに宗派を打ち立てた祖師の像が安置されています。本尊は大日如来像。
大講堂の建立
大講堂は平安時代初期、淳和天皇の天長年間(824〜34)に建造されたのが最初である。この時期は最澄示寂間もない頃で、初代天台座主義真(779〜833)の時代であった。
大講堂建造年について、史料上に諸説ある。最も早い時期に設定しているのは『山門堂舎記』・『叡岳要記』といった中世における比叡山の寺誌である。『叡岳要記』には「天長元年(824)、勅により建立された」(『叡岳要記』巻上、大講堂)とあって、最澄示寂してから3年後の天長元年(824)のことであったとする。また同書裏書の「講堂秘銘」によると、講堂は最澄が建立したもので、伽藍結界壇場の地域をひらく前に土中に一つの鏡を埋めたという。それは胎蔵界の大日如来をあらわしているものであり、鏡面の大きさは7寸(21cm)であったという(『叡岳要記』巻上、大講堂、裏書、講堂秘銘)。
または淳和天皇は戒壇院とともに7間の講堂を建造するよう勅を下していたが、もとは授戒において勅使ら散宿のために用いる戒壇院の付属物として計画されていたが(『伝述一心戒文』巻中、造戒壇講堂料九万束達天長皇帝下近江国文)、造立が戒壇院と同時期とするならば、天長4年(827)5月2日に太政官が戒壇院・講堂造立料として9万束を近江国より施入させたこと(『叡岳要記』巻上、大講堂)をその一画期とすることができる。例えば『天台座主記』では天長5年(828)を大講堂の建立時期にあてており(『天台座主記』巻1、1世義真和尚、天長5年条)、天長9年(832)9月3日に大講堂の供養導師として護命僧正(750〜834)を屈請したという(『天台座主記』巻1、1世義真和尚、天長9年9月3日条)。また戒壇院とともに造立された講堂を、大講堂とは別の施設とみて、大講堂の正確な建造年は不明としながら、弘宗王(?〜871以前)が深草先帝(仁明天皇)のおんために造立させた観世音菩薩像(『山門堂舎記』大講堂)の造立時期である9世紀中頃を、大講堂の造営時期とする説がある。
第5世天台座主円珍(814〜91)は元慶年間(877〜85)に突如哭泣して悲しみ、「我が大唐請益の師である良ショ(ごんべん+胥。UNI8ADD。&M035702;)大和尚がにわかに遷化された。貧道(円珍)はただちに追福を修して門弟子の志をするべきである」といい、調布50端を喜捨して延暦寺講堂にて諷誦を修した(『天台宗延暦寺座主円珍伝』)。
天暦4年(950)に講堂は改造されており(『天台座主記』巻1、15世権律師延昌、天暦4年条)、同11年(957)5月1日には改造が完了したのか、講堂において供養が行なわれている(『天台座主記』巻1、15世権律師延昌、天暦11年5月1日条)。しかしながら改造が終了して間もない康保3年(966)10月28日、延暦寺の講堂・鐘楼・文殊楼・常行堂・法花堂・四王院・延命院など全21宇が焼失してしまった(『扶桑略記』第26、康保3年10月28日条)。翌康保4年(967)3月11日には諸堂造営料として封戸500戸を施入する旨の宣下があり(『天台座主記』巻1、18世権律師良源、康保4年3月11日条)、天禄2年(971)に講堂の桧皮葺が完了し、新造の仏像が安置された。講堂の規模はもとは5間であったが、この時より7間となった(『天台座主記』巻1、18世権律師良源、天禄2年条)。また最澄が講堂の地に埋めた鏡は、義真が天長年間に大講堂を造立したときに本尊の腹中に納めたが、大講堂が焼失した際に灰の中から件の鏡を取り出して、本尊を新造するときに再度腹中に納めたという(『叡岳要記』巻上、大講堂、裏書、講堂秘銘)。天禄3年(972)4月3日、講堂をはじめとした5堂の供養が実施された。これ以前の1日には習礼が実施された。僧200人、伶人150人を屈請し、法会が終わってから終日舞楽が行なわれた(『天台座主記』巻1、18世権律師良源、天禄3年4月3日条)。
応徳2年(1085)6月7日、大講堂が破損したため、修造が開始された。修造は明年10月以前に終了した(『天台座主記』巻2、36世法印大僧都良真、応徳2年6月7日条)。寛治2年(1089)8月29日に大講堂・四王院・文殊楼の供養が行なわれている(『天台座主記』巻2、36世法印大僧都良真、寛治2年8月29日条)。
法華十講の創始と六月会・霜月会
大講堂はその名の通り、僧侶の学問研鑚の場として発展した。大講堂で現在最も重要視される法会に「法華大会(ほっけだいえ)広学竪義(こうがくりゅうぎ)」がある。このうち法華大会は「法華十講」とも称され、法華経8巻に無量義経1巻・観普賢経1巻をあわせた、いわゆる「法華三部経」あわせて10巻を講説する法会である。法華十講は古来、伝教大師最澄の忌月である6月に行なわれる「六月会(みなづきえ)」と、天台大師の忌月に行なわれる「霜月会(しもづきえ)」が実施されてきた。このうち法華十講が最初に行なわれたのが11月に実施された霜月会である。
延暦17年(798)11月、最澄は始めて十講法会を行なった。さらに延暦21年(802)11月中旬には一乗止観院において勝猷・奉基・寵忍・賢玉・歳光・光証・観敏・慈誥・実福・玄耀ら10人の僧を屈請して三部の経典を講演させ、六宗の議論を聴聞した(『叡山大師伝』)。またこの前年の延暦20年(801)11月14日に霜月会が行なわれたといい、義真が竪者となって遂業し、大安寺聞寂・薬師寺霊雲・東大寺慈光の3人が博士(証義者)を務めたという。このように当初は他寺の僧侶を招聘して議論を行なっていたが、大同4年(809)の霜月会では博士は義真が、竪者は円修(生没年不明)が務めており、延暦寺僧のみにて行なわれるようになったという(『天台座主記』巻1、宗祖伝教大師、延暦20年条)。
さらに弘仁14年(823)6月、最澄の1周忌に浄野夏嗣(生没年不明)は最澄を偲んで、弘通の鴻基(もと)をはじめることを欲して、延暦寺別当であった藤原三守(785〜840)・大伴国道(768〜828)とともに法華十講を行なわせたが、この時の講師・複講は義真・円澄(772〜837)・光定(779〜858)・徳善(生没年不明)・徳円(787〜?)・円正(生没年不明)・円仁(794〜864)・仁忠(生没年不明)・道紹(生没年不明)・興善(生没年不明)・興勝(生没年不明)・仁徳(生没年不明)・乗台(生没年不明)の13人が交替で務めた(『叡山大師伝』)。このように延暦寺において法華十講は六月会と霜月会で実施されることとなった。さらに詳細は不明だが、承和13年(846)には竪義を加えられたという。霜月会・六月会はともに立者(竪者)は南都(奈良)と北嶺(延暦寺)の僧が随時つとめていたが、探題に限っては必ず南都の僧がつとめることになっていた(『釈家官班記』巻下、六月会)。また天台系の寺院では法華十講が「階業」の一つとして位置づけられている場合があり、元慶元年(877)12月9日の太政官牒によると、元慶寺の学僧らが得度・受戒した後、複試・夏講を元慶寺にて行ない、立義一階を「延暦寺六月法華会」にて行うこととし、その他は諸寺に准じて伝灯満位の僧位に叙されることになっている(『類聚三代格』巻第2、仁和元年3月21日官苻)。「階業」とは講師五階(試業・複試・立義・夏講・供講)と読師三階(試業・複・立義)のことで、諸国講読師となる資格を得るためのカリキュラムのことである。元慶寺では講師五階のうち複試・夏講を元慶寺にて行ない、立義は延暦寺六月会の法華十講とし、他は諸寺に准ずることになっている。永観2年(984)成立の『三宝絵』には、霜月会に天台大師を供養する大師供の様子が描写される。それによると法華十講が終わった翌朝の24日に大師供を行なうものであり、「霊応図」を堂の中にかけて、供物を庭の前よりおくって茶を煎じ菓子を供え、香をたき花を捧げていた。時々鐃ハチ(金へん+(拔−てへん)。UNI9234。&M040271;)(にょうはち。小型のシンバルのようなもの)を打ち鳴らし、方々が画賛を唱える。この画賛は唐の顔真卿(709〜85)が撰したもので、円珍が請来したものであるという(『三宝絵詞』巻下、僧宝30)。「霊応図」とは『天台山智者大師霊応図』のことで、最澄が請来したものであり(『伝教大師将来台州録』)、「八家秘録」によると9尺(270cm)という巨大なものであった(『諸阿闍梨真言密教部類総録』)。
法華十講を大成させたのが康保3年(966)に天台座主となり、後世「叡山中興の祖」とされる良源(912〜85)である。康保3年(966)12月26日、良源は権律師となったが、同日に六月会に広学竪義を加えるとの宣下があった(『天台座主記』巻1、18世権律師良源、康保3年12月26日条)。康保5年(968)6月、延暦寺にてはじめて広学立義(竪義)が行なわれ、立者(竪者)は覚円(生没年不明)が、博士(題者)は禅芸(902〜79)がつとめ、三観義と因明四相違(自らの提案に矛盾する提案を論証してしまうような理由)について出題された(『扶桑略記』第26、康保5年6月条)。またこの時、去年分の竪者は春叡(生没年不明)がつとめたという(『天台座主記』巻1、18世権律師良源、安和元年条)。
広学竪義とは、諸経典についての題目について、大講堂にて論義することである。竪者(りっしゃ)は題によって講じ、問者はこれに対して難じ、精義者(証義者)は審判をし、探題は出題者であり論場を統轄した。広学竪義は六月会における法華十講の「五巻の日」(ごかんのひ。“いつまきのひ”とも)の夜に「夜儀」として実施された。「五巻の日」とは法華経の第5巻を講説する日のことで、法華讃歎を実施して「薪の行道」が行なわれる。法華経の第5巻の「提婆達多品」が、童女の成仏を説き、悪人成仏・女人成仏とされたことから尊重されたことから、第5巻の「提婆達多品」を講説する「五巻の日」が尊重されたものである。
良源が創始した頃の広学竪義について、以下の説話にその雰囲気を知ることができる。
延暦寺の覚運(953〜1007)は、早くから菩提を求め、念仏を業としていた。これをみた天台座主良源らは、「このような人が大業(竪義)をとげなかったら、道の恥である」といって竪義に推薦し、四種三昧の義を出題した。覚運は布衣を着て堂に入った。見物の大衆たちは歎息しない者はいなかった。「こころに止観を論ずる者は、西方阿弥陀仏を念ず」という出題が読まれた時、覚運は不覚にも涙を流してしまった。これは覚運が道心の者であるため、出題者である探題がこの設問をつくったのであった。竪義は9題を無事に終え、第10問目も懸案はないようにみえたが、今度は出題者である探題の禅芸がいきづまって覚運に試問することができなかった。そこで天台座主良源みずから「私が精義(問答の可否を判定)しよう」といい、「六観世音を広うすれば即ちこれ廿五三昧」の出題について、良源は六観音のそれぞれの種子は何か問いかけると、覚運は「密教を習っていないので正しく解答できません」といった。良源は「すでに広学であるのに、どうして真言の教を知らないというのか」といった(『続本朝往生伝』権少僧都覚運)。
良源は天禄元年(970)7月16日に「二十六ヶ条制式」を作成して、延暦寺全山の門徒らに禁令を布告した。そのうち3ヶ条は法華十講に関連するもので、六月会の講師・立義者、十一月会の講師が饗応や調鉢・煎茶・威儀供を行なうことを禁止している(「天台座主良源起請」芦山寺文書。平安遺文0303)。また良源が座主になってから、それまで南都の僧侶がつとめていた探題を、これ以降は天台宗の僧侶のみがつとめることになったという(『釈家官班記』巻下、六月会)。このように良源は法華十講を叡山学徒の研鑚の場として重視し、学徒の習学意欲の向上につとめた。
建保2年(1214)5月6日に六月会は宮中御斎会に准ずるとの宣下があり(『天台座主記』巻3、前大僧正慈円、建保2年5月6日条)、同月27日には六月会開白が行なわれ、勅使として平経高が登山してきた(『天台座主記』巻3、前大僧正慈円、建保2年5月27日条)。霜月会は嘉元元年(1303)に宮中御斎会に准ずるとの宣下があり、勅使は右中弁惟輔であった(『釈家官班記』巻下、十一月会)。これ以降、六月会・霜月会に勅使が登山することが恒例となり、現在まで続いている。
法華十講の六月会と霜月会は、本来6月と11月に毎年実施されていたが、少なくとも文明11年(1479)以降には、5月26・27日から6月13・14日にかけて一定期間中に両会が連続して実施されるようになった。焼討ち以降は、「五年一会」と称され、満4年に一度行なわれるようになった。ただし忌日・天災・戦争などによって年期が移動する場合があった。現在法華十講は「法華大会広学竪義」として天台宗随一の古儀となり、叡山焼討ちから近年実施された平成19年(1998)まで96会が実施された。
大衆僉議
大衆僉議(だいしゅせんぎ)とは、比叡山一山において集団による合議によって全山の意志を決定する方法である。大衆僉議自体は園城寺や興福寺でも行なわれたが、延暦寺の場合は大講堂の前庭にて行なわれ、大衆僉議のあとは、概ね軍事的行動に出るか、朝廷に嗷訴するという二通りのパターンがとられた。
『延慶本平家物語』には大衆僉議の様子が毫雲の口を通して語られる。同書によると、延暦寺の毫雲(豪雲)は訴訟のため後白河法皇のもとに参じた。その名を聞いた後白河法皇は、「さては山門に聞こえたる僉議者だな。お前たちが山門講堂の庭において僉議をするように申せ」といい、毫雲は地を頭に傾けて、「山門の僉議というものは、特殊なものです。まず王の舞(舞楽の一つ)を舞(いますが、その)時には、面の下は鼻をしかめるようにします。三塔(東塔・西塔・横川)の僉議の様子は、大講堂の庭に三千人の大衆が会合して、破れた袈裟で頭を包んで、入堂杖として二・三尺ばかりの杖をそれぞれがつき、道芝の露を払って、小さな石を一つづつ持って、その石に腰をかけて並び、同宿であっても互いに見知らぬようにします。“満山の大衆立廻られ候へや”といって、訴訟の議題を僉議いたしますが、正当な場合は「尤々(もっとももっとも)」と賛同します。正当ではない場合は「不謂(いわれなし)」と申します。これがわが山の定まっている法なのです。勅定だからといって、直頭(ひたがしら。頭を包まないで、むき出しにすること)ではどうして僉議をすることができましょうか」と申したところ、法皇は面白がって、「さればそのいで立ちで参って僉議しなさい」と仰せになった。毫雲は勅定を蒙って、同宿十余人に頭を包ませて、下部(しもべ)には直垂・小袴などで頭を包ませた。以上十二三人ばかり率いて、御前の雨打ちの石に腰掛けて、毫雲は自身の訴訟の趣旨を最初より一時に申し述べると、同宿立ちはかねてから議論してきたことであったから、一同に「尤々(もっとももっとも)」と申したてた(『延慶本平家物語』第1本、毫雲事)。
またこの僉議の時には独特の発声法で、「歌を詠む音でもなく、経論を説く音でもなく、また差し向かい言談する様でもない」(『源平盛衰記』巻第四、豪雲僉議事)といい、「鼻を押さえ声を替えて」(『源平盛衰記』巻第四、豪雲僉議事)、発言者が誰であるかわからないよう、他者を気にせず自分の意見を述べるものであった。
大衆僉議の様子は、『天狗草紙』延暦寺巻に「三塔会合僉議」として描かれる。そこでは裹頭の僧や武装した僧兵などが大講堂の前庭に立ち並び、「園城寺のひ弱い衆徒ら、これから押し出して寺を焼き討ちにしてやる」というと、それを受けて「この山は仏法繁昌の勝地である。訴訟は他の寺院と違って道理に基づかないことであっても正しい訴えなのだ。聖断が滞るのであれば、速やかに諸院諸堂を閉門し、七社の神輿を担ぎ出し、天下に騒動をおこしてやる」というと、それに賛同する僧が「尤(もっとも)」「尤(もっとも)」と答える。また『法然上人行状絵図(四十八巻伝)』巻31でも、大講堂の前に人がびっしりと立ち並んで円陣を組んだ様子が緊迫感をもって描かれている。
度重なる焼失1
元久2年(1205)10月2日午時(午前11時)、法華堂・常行堂の両堂(にない堂)から火災が発生し、類焼して講堂・四王院・延命院・鐘楼・文殊楼・実相院・経蔵などが焼失した(『天台座主記』巻3、67世僧正真性、元久2年10月2日条)。承元2年(1208)4月19日に再建工事に着手され(『天台座主記』巻3、68世権僧正法印承円、承元2年4月19日条)、建暦2年(1212)5月25日、講堂の本尊に修復を加えて安置した。講堂が炎上してから根本中堂で行なわれてきた六月会も、この年から講堂にて修せられることとなった(『天台座主記』巻3、69世前大僧正慈円、建暦2年5月25日条)。この時も、大講堂が焼失した際に、本尊に納められていた鏡を灰の中から取り出して、本尊を新造するときに再度腹中に納めたという(『叡岳要記』巻上、大講堂、裏書、講堂秘銘)。
文永元年(1264)3月23日、天王寺別当職が園城寺に附されること、および丹波国出雲社の神人殺害に端を発して山門の大衆が蜂起し、大衆が敗北したが、25日、延命院が放火され、類焼して講堂・戒壇院・鐘楼・四王院・法華堂・常行堂・八部院等が焼失した(『天台座主記』巻4、83世無品最仁親王、文永元年甲子3月23日条〜25日条)。この時も、大講堂が焼失した際に、本尊に納められていた鏡を灰の中から取り出したという(『叡岳要記』巻上、大講堂、裏書、講堂秘銘)。その後叡山では園城寺との戦闘・山上の争乱・元寇が重なって大講堂の再建がはかどらず、文永6年(1269)7月11日には講堂造営の雑掌に関する院宣が下されている(『天台座主記』巻5、86世前大僧正慈禅、文永6年7月11日条)。それでも進捗しなかったらしく、文永10年(1273)5月2日には講堂の造営に関して、器量の住侶を雑掌とするよう綸旨が下された。そこで10カ年に限って料所を教因・真範・承詮の3人に配して、円滑な造営をはからせた(『天台座主記』巻5、87世前大僧正無品澄覚親王、文永10年5月18日条)。それが功を奏したのか、建治元年(1275)12月8日に大講堂の棟上が行なわれた。そのために天台座主の澄覚法親王(1219〜89)が山上に登山してきて、講堂本尊の御衣木を根本中堂にて加持した(『天台座主記』巻5、87世前大僧正無品澄覚親王、建治元年12月8日条)。このように迅速な運営の結果、10カ年に限って料所を教因・真範・承詮の3人に配したにもかかわらず、約束の10カ年が経過する前に大講堂が完成する可能性が出てきたらしい。そのため座主の澄覚法親王は3人の功績を認めて、建治2年(1276)2月3日に残り7カ年の料所運営を認めるよう、3人の雑掌の申状を院に奏上した。18日に申状のままに院宣が下っている(『天台座主記』巻5、87世前大僧正無品澄覚親王、建治2年2月3・18日条)。弘安8年(1285)7月21日、大講堂の供養が行なわれ、再建が完了した(『天台座主記』巻5、91世尊助親王、弘安8年7月21日条)。
再建してわずか13年後の永仁6年(1298)9月19日夜、放火による延焼のため、大講堂が焼失した。この事件は叡山内の争いによるものであった。前年の永仁5年(1297)8月に北谷住学生である理教房性算(生没年不明)が天台座主尊教(1249〜?)の恩寵によって勢力を拡大しており、叡山は性算一派の支配下に置かれつつあった。同じく北谷の学生である円恵(生没年不明)は性算の勢力拡大を憂慮して公家・武家に訴えたが、性算は訴訟を揉み消した。円恵は都率谷の住侶である承玄(生没年不明)らとともに八王子に閉篭し、周囲に逆茂木を設置して武装し、参詣者の足止めし、「三千衆徒の鬱訴」と称して座主の政務を妨害した。これに苦慮した性算らは公家・武家に訴えるとともに、16日には座主の門徒とともに八王子に閉篭する円恵・承玄を襲撃して両者を生け捕りとし、武家に引き渡した(『元徳二年三月日吉社并叡山行幸記』・『天台座主記』巻5、99世前大僧正尊教、永仁5年8月条)。翌永仁6年(1298)9月17日には円恵・承玄の弟子20余人は甲冑を帯びて北谷の性算の住房を襲撃した。政所の辻にて合戦となったが、円恵・承玄の弟子20余人は散々に敗北して、19日亥刻(午後9〜11時)、退却する途上に大講堂の軒下やそのほか3ヶ所に放火し、大講堂・戒壇院・文殊楼・四王院・法華堂・常行堂が一夜のうちに灰燼と化してしまった(『元徳二年三月日吉社并叡山行幸記』・『天台座主記』巻5、99世前大僧正尊教、永仁6年9月17・19日条)。この年10月13日には後宇多上皇がひそかに叡山に登って諸堂が灰燼と化した様相を視察しているが、山門滅亡を嘆いたための行動であったという(『元徳二年三月日吉社并叡山行幸記』・『天台座主記』巻5、99世前大僧正尊教、永仁6年10月13日条)。この事件の余波は翌正安元年(1299)まで続き、衆徒が座主・妙法院門徒と合戦に及ぶ事態にまで悪化した。幕府は放火の下手人をあばいて問題を解決するための使者を上洛させた。裁定によって門跡は山務に付せられ、所領は法華堂・常行堂の料所となり、性算は投獄された(『天台座主記』巻5、99世前大僧正尊教、正安元年4月1日条)。文保元年(1317)11月1日、大講堂本尊の開眼供養が行なわれた。座主の覚雲が導師となるため山上に登山してきた(『元徳二年三月日吉社并叡山行幸記』・『天台座主記』巻5、107世二品覚雲親王、文保元年11月1日条)。元徳2年(1330)3月27日、後醍醐天皇臨席のもと、大講堂の供養が行なわれた(『元徳二年三月日吉社并叡山行幸記』・『天台座主記』巻5、118世尊雲親王、元徳2年3月27日条)。
元弘元年(1331)4月13日夜、法華堂より出火・類焼して大講堂・四王院・延命院・常行堂などが焼失した(『天台座主記』巻5、120世三品尊澄親王)。このように鎌倉時代に大講堂はたびたび焼失し、そのたびに再建されているが、当初7間であった規模が、『山門堂舎記』では「桧皮葺の9間の堂」と記録されており(『山門堂舎記』講堂)、いつ頃の再建での変化か不明であるが、鎌倉時代に大講堂の規模が拡大していることが窺える。おそらくは弘安8年(1285)の供養願文に「新たに桧皮葺九間講堂一宇を建立し」(『弘安八年大講堂供養記』)とあることから、弘安8年(1285)の再建で9間に拡大したと思われる。
度重なる焼失2
文和元年(1352)10月14日、北朝は延暦寺大講堂の木作始の日時を定めた(『園太暦』文和元年10月14日条)。延暦寺は大講堂の造営料を関所の通行料でまかなっていたらしいが、貞治5年(1366)には臨川寺料の加賀国大野荘の年貢の運送を抑留している。臨川寺料の加賀国大野荘の年貢の運送は、諸関による抑留が禁じられていたのだが、それを違乱したため、同年9月に重ねて勅裁が下された。しかしながら貞治6年(1367)に再度延暦寺造講堂関所がこれを抑留したため、足利義詮はこれを止めさせている(「足利義詮御判御教書」臨川寺重書案文。『大日本史料』6編28冊、305頁)。明徳4年(1393)には延暦寺は大講堂造営料木とするため宿敵園城寺・三尾新羅神領内の材木を伐採したらしく、2月17日に幕府は伐採を禁止している(「室町幕府御教書」園城寺文書84、旧園城寺文書・個人蔵)。応永3年(1396)9月20日にようやく大講堂供養が行なわれ、大講堂の再建が完了した(『天台座主記』巻5、145世一品尊道親王、応永3年9月20日条)。
明応8年(1499)7月11日、細川政元の被官赤沢朝経・波々伯部宗量らが延暦寺を攻撃した。根本中堂に西坊城顕長・桃井某・東蔵坊師弟の4人が閉篭していたが、早朝に細川勢に放火され、炎上した。この時根本中堂・大講堂・常行堂・法華堂・延命院・四王院・経蔵・鐘楼などが焼失し、戒壇院のみが残るありさまであった(『大乗院寺社雑事記』明応8年7月12・23日条)。天文9年(1540)2月9日に大講堂の造営が開始され(『大館常興日記』天文9年2月9日条)、同年3月25日に延暦寺は大講堂造営奉加帳に義晴の加判を請うている(『大館常興日記』天文9年3月25日条)。大講堂の造営は思うように進捗しなかったらしく、天文22年(1553)4月20日に天台座主妙尭尊法親王(?〜1559)は越後守護代長尾景虎(上杉謙信、1530〜78)に大講堂造営の費用を寄進させている(上杉家文書)。
延暦寺は元亀2年(1571)9月12日の織田信長の比叡山焼討ちによって壊滅し、大講堂もまた焼失した。信長横死後に再建されたらしいが、寛永7年(1630)9月18日の大風によって大講堂は、根本中堂・文殊楼・法華堂・常行堂もろとも顛倒している(『天台座主記』巻6、169世二品最胤法親王、寛永7年9月18日条)。
寛永の再建と近世の修理
寛永11年(1634)、徳川家光(1604〜51)は根本中堂・大講堂・文殊楼の造営を分部光信(1591〜1643)・朽木稙綱(1605〜61)らを奉行として造営にあたらせた。これは南光坊天海(1536〜1643)の口添えによるもので、家光は天海に深い信頼をよせていたため実現することができたのである(『天台座主記』巻6、169世二品最胤法親王、寛永11年此年条)。寛永14年(1637)5月28日には大講堂の立柱の日時が定められた(『続史愚抄』寛永14年5月28日丙申条)。寛永19年(1642)12月19日に根本中堂の造営が完了し、この日の夜に供養が行なわれたが(『天台座主記』巻6、171世入道二品尭然親王、寛永19年12月19日条)、同年に大講堂・文殊楼もまた根本中堂完成年である寛永19年(1642)に完成したという(『天台座主記』巻6、169世二品最胤法親王、寛永11年此年条)。
この時完成した大講堂は、桁行9間(33.6m)、梁間6間(22.7m)、軒高23.3m、入母屋造栩(とち)葺の巨大建造物で、南に面して建っていた。見た目は二階建9間の建造物にみえるが、単層7間の一重裳階付であり、裳階の部分が外陣となっている。内陣は石敷で低く、外陣は板張りで高く、天台密教特有の様式を備えていた。
その後大講堂は根本中堂と同時に修理が行なわれ、寛文8年(1668)には屋根の栩葺替えが行なわれた。また柱総数60本のうち、すべて残らず腐朽しており、うち30本は7尺(2m10cm)から5尺(1m50cm)ほど根継ぎしなければならないほど深刻であり、ほかの30本も3尺5寸(1m5cm)から2尺(60cm)ほど根継ぎする必要があった。腐朽の原因は風通しの悪さにあったため、側廻腰貫下に換気窓を設けている(『比叡山山上御修理覆根本中堂廻廊文殊楼大講堂鐘撞堂伏見屋積帳』)。
元禄16年(1703)から宝永3年(1706)にかけてと宝暦4年(1754)の両度に屋根の葺替え、塗装の塗り直しが行なわれている。元禄16年(1703)からはじまった修復工事は、根本中堂・大講堂・本願堂・文殊楼・大黒堂・前唐院と、延暦寺東塔の建造物まるごと修理を行なったもので(『天台座主記』巻6、189世入道無品尭延親王、元禄16年条)、文化7年(1810)から翌8年(1811)にかけて屋根を銅板葺とし(『御修復雑記』、および「文化八年東塔止観院大講堂修復棟札銘」)、明治23年(1890)・大正8年(1919)の両度には屋根の小修理が行なわれた。明治31年(1898)12月28日には特別保護建造物(重要文化財)となり、隣接する大鐘台もまた明治35年(1902)に特別保護建造物(重要文化財)に指定された。戦後、大講堂の屋根銅板に腐蝕、軸部斗きょう(柱の上に位置する屋根を支える組み物)に弛緩がみられたため、昭和24年(1949)から同26年(1951)に総工費998万円をかけて大修理工事が行なわれた。総工費のうち、800万円が国庫負担で、残りが延暦寺が負担した。
大講堂の焼失と讃仏堂の移転
大講堂は修理完成からわずか5年後に焼失してしまった。
昭和31年(1956)10月11日午前3時40分頃、大講堂から火災があがっているのが発見され、延暦寺の宿直者20人が消火につとめたが、すでに大講堂の内部を焼いていた。海抜700mの深山であるため、大型消防車は現場には入れず、ケーブルカーで数台のポンプ車や消防団員を運び上げ、2時間後に消防署員・団員300人が集まったが、火が強く手のつけようがなかった。昭和29年(1954)10月に1300万円かけて大講堂の裏側に設けられた直径13m、深さ4.7mの防火用水槽があったが、消火用ポンプが一台しか使用できなかったため、大講堂が全焼。延焼して大鐘台(重要文化財)・前唐院・食堂・水屋・受付所のおよそ170坪を全焼した。大講堂に安置されていた重要文化財の持国天(一木造、彩色、像高145cm、平安時代初期)・多聞天(一木造、彩色、像高150cm、平安時代初期)・釈迦如来像(銅製鍍金、像高90cm、室町時代)・阿弥陀如来坐像(木造彩色、78cm、平安時代初期)が焼失し、ほかに大日如来像・弥勒像も焼失した。翌日、修学旅行で比叡山を訪れた山梨県甲府高の生徒100人は瓦礫と化した堂宇を見学するはめになってしまい、また一人の老婆が息せき切って焼跡にかけつけ、涙をボロボロ流しながら両手に数珠をもんで大声でお経を唱えていたという(「京都新聞」昭和31年10月11日夕刊)。
失火と放火の両面から警察の捜査がすすめられたが、なかなか捜査進捗せず、延べ1,000人の刑事を動員し、1,500人に事情聴取を行なった結果、1ヶ月後の11月15日に、延暦寺山上事務所受付係の19歳の少年を放火の容疑で逮捕した。少年は賽銭窃盗の容疑で逮捕されていたが、同日に放火を自供した。自供によると、無断下山したのを上司にしかられたため、これを恨みに思い、山上事務所からひそかに抜け出して講堂に忍び入った(「京都新聞」昭和31年11月15日夕刊)。少年は10月10日夜11時40分頃、大講堂の扉を合鍵で開け、東南の隅にたてかけてあった畳にマッチで放火した。少年の放火によって大講堂が全焼してしまったのだが、少年が受付係という低い役職にあることを快く思っていなかったことや、学歴コンプレックス、夢見た結婚の破談などから、この事件と金閣寺の焼失事件との類似点を指摘された(「京都新聞」昭和31年11月16日朝刊)。
現在の建物は、昭和38年(1963)に山麓坂本の讃仏堂(旧東照宮本地堂)を移築したもので、国の重要文化財に指定されている。
讃仏堂はもとは東照宮の本地堂であり、比叡山の麓の坂本西端(現在の比叡山高等学校テニスコートの地)に造立されていた。東照宮は徳川家康の遺命によって、徳川家光の代になってから、家光が天海大僧正に命じて建立させたもので、勅許によって比叡山山麓の真葛原に鎮座することとなった(『山門堂社由緒記』巻第2、近江州滋賀郡坂本神社仏閣記、東照大権現御社)。寛永11年(1634)閏7月にまず神殿が完成し(『天台座主記』巻6、169世二品最胤法親王、寛永11年閏7月条)、同月27日には勅会遷宮が実施され、天海大僧正が導師となり、比叡山の諸門主がことごとく集まって法会が行われた(『天台座主記』巻6、169世二品最胤法親王、寛永11年閏7月27日条)。本地堂は翌日の28日に供養が行なわれている(『天台座主記』巻6、169世二品最胤法親王、寛永11年閏7月28日条)。本地堂は主要部材の半数までが、いずれかの建築古材を再用したもので、古材は桧材、新材は松材であったことから、当時良材の集積を待つことなく建造されたようであり、そのことから古材と寛永8年(1631)の大風で顛倒した建造物との関連性が指摘されている(滋賀県教育委員会1963)。解体移築の際に発見された墨書によると、「とりとし寛永十年大津北国町山田奈々右衛門□□六月二日」(「小屋貫墨書銘」。滋賀県教育委員会1963所引)・「寛永十年卯月…吉□」(「西脇間外陣境内法長押継手内雇ほぞ墨書銘」。滋賀県教育委員会1963所引)・「寛永十年卯月十五日山田吉□御用頭」(「西側外内法長押継手内墨書銘」。滋賀県教育委員会1963所引)とあり、寛永10年(1633)には建造中であったことが確認される。本地堂の本尊は薬師如来で、日光月光二菩薩像・十二神将像・徳川歴代将軍の位牌が安置された(『山門堂社由緒記』巻第2、近江州滋賀郡坂本神社仏閣記、東照大権現御社)。
建物は桁行7間(20.9m)、梁間8間(22.2m)で、正面中央3間分に1間の向拝が突き出ている。単層入母屋造の瓦棒銅板葺となっている。梁間方向の前3間分は外陣で、梁間方向の奥3間のうち、桁行方向の中3間分を内陣として来迎壁・須弥壇を設け、両翼それぞれ2間分を脇陣として仮設の仏壇が設けられている。本地堂は寛文9年(1669)・貞享4年(1687)・元禄15年(1702)・享保3年(1718)・元文3年(1738)・宝暦11年(1761)・天明元年(1781)・文化8年(1811)・明治13年(1880)と9度にわたって修理されており、とくに宝暦11年(1761)には屋根を桧皮葺から銅板葺に改めている。
本地堂は東照宮神殿に向かい合って立地していたが、近世において本地堂では毎日17日に「三院講」が行なわれ、三院の大衆が集まって論議を行なった。また徳川将軍代々の忌日にも三院の論議が行なわれるなど(『山門堂社由緒記』巻第2、近江州滋賀郡坂本神社仏閣記、東照大権現御社)、徳川幕藩体制下では重要視されたが、明治をむかえて東照宮信仰は衰退することとなる。神仏分離時に東照宮は日吉大社に、本地堂は名を讃仏堂と改めて延暦寺に、それぞれに分割管理されることとなった。
前述したように、昭和31年(1956)に大講堂が放火によって焼失した。延暦寺では一山をあげて再興に全力を注ぎ、一時は鉄筋コンクリート造の旧様式のままの再建も検討されたが、焼失した大講堂の面積は703平方メートルという巨大なものであったため、そのままでの再建は断念された。昭和36年(1961)にいたり、讃仏堂を移転して大講堂とする再建案が決定され、同年4月1日、工事が着手された。大講堂跡には遺跡保存のため90cmの基壇を構築し、その上に面積455平方メートルの讃仏堂を移築した。工事は延暦寺の直営工事で進められ、総工費1億円をかけて昭和38年(1963)3月31日に完了した。山上の湿気対策のため側廻りをガラス障子とし、また外部を丹塗・彩色塗を施すなど現状変更をおこなっている(滋賀県教育委員会1963)。移築なった大講堂は昭和62年(1987)6月3日に重要文化財に指定された。 
前唐院 

根本中堂の裏手に行くと、前唐院に着きます。根本中堂が一段低い場所にあるため、前唐院の付近より根本中堂をみおろすことができます。
唐院というのは、入唐僧の住房の通称である。南都大安寺道セン(王へん+睿。UNI74BF。&M021311;)の唐院、薬師寺戒明の唐院が著名で、他に東大寺・興福寺等にも唐院がある。今回の前唐院は慈覚大師円仁(794〜864)ゆかりの施設であり、円珍(814〜91)の唐院と区別するため、「前唐院」と称されたのであって、円珍の唐院、すなわち「後唐院」が園城寺に遷った後も、そのまま「前唐院」と称されたものである。
前唐院は、『扶桑略記』に、「同年。延暦寺において禅唐院を建つ。」(『扶桑略記』第21、宇多天皇上、仁和4年同年条)とあり、『天台座主記』にも、「仁和四年〔戊申〕前唐院を建つ。」(『天台座主記』巻1、5世少僧都円珍和尚、仁和4年戊申条)とあるように、仁和4年(888)に天台座主円珍によって建立されたとあるが、『叡岳要記』には、「右の院は大師(円仁)平生の禅房なり。」(『叡岳要記』巻上、前唐院項)とあって、円仁生前のものなのか没後に建立されたのか詳細ははっきりとしない。ただし通行本『慈覚大師伝』では円仁の遺誡として、「(楞厳院の)中に我が房舎あり。もし留住の人あらば、親疎を論ずるなかれ。」とあるように、横川谷の首楞厳院に円仁の住房があったようである。ただし円仁が天台座主となって以降、東塔にて一山の経営を行ったようで、通行本『慈覚大師伝』では貞観6年(864)正月14日、円仁が死の床に臥せっている時、弟子一道(生没年不明)が戒壇院の前に到ると突然音楽が聞こえてきたため、その音がする場所を探って中堂と常行堂の間を行き来すると、「大師房」から音楽が発せられていることがわかり、驚いて中に入ってみると音楽が聞こえなくなったとある。この「音楽」というのは、往生者が没する直前には周囲の人々に音楽が聞こえてくるという往生伝の一典型であるが、「音楽」云々の説話はともかくとしても、この説話より「大師房」の位置関係をみてみると、「大師房」は中堂から常行堂の途中に位置していたことが知られる。中堂と常行堂の間とはかなりの距離があるため「大師房」の場所を具体的に比定することは困難であるものの、現在前唐院のある場所は中堂の裏手であるため、前唐院が「大師房」の位置に建てられた可能性がある。
円仁は貞観6年(864)正月13日、自身が請来した真言経典・道具類を、最澄が同じく請来した真言経典・道具類とともに惣持院に納めて、惣持院を円仁の門徒に検校させること奏上し、15日に左弁官下文によって円仁の弟子の安慧(795〜868)に惣持院のこと執当させている(『天台座主記』巻1、3世内供奉円仁和尚、貞観6年正月13日条)。円仁はその前日の14日、円仁は示寂する1時間ほど前に清浄霊験の仏堂の側で滅するのはよろしくないとして「大師房」より弟子慈叡(生没年不明)の住房に移り、そこで示寂した(通行本『慈覚大師伝』)。
前述の通り、円珍は仁和4年(888)に惣持院に納められていた円仁請来の真言経典・道具類を前唐院に移しているが、何故惣持院に納められていたものを前唐院に移したのか不明である。円珍が経典の校合に熱心であったことから、最澄請来本と円仁請来本の系統を明らかにするために分離したのかもしれない。このことからみると、「大師房」が円仁示寂後に僧房なり別の用途に用いられていたのを、円珍が、円仁の入唐請来の真言経典・道具類を収めるため「前唐院」として改めて創設したとみるのが自然かもしれない。それ以降、円仁の入唐請来の真言経典・道具類は前唐院に安置されるようになり、再び惣持院には戻らなくなった。『叡岳要記』には桧皮葺の5間3面屋が1宇としており、円仁の入唐請来の真言経典・道具類の他に、天台教籍、伝教大師の影像があったほか、慈覚大師の真影坐像が安置されていたという(『叡岳要記』巻上、前唐院項)。天台座主が就任する際、前唐院の第1櫃を開けるという儀式があり、前唐院は天台座主就任儀礼のうちで最重要位置をしめることとなったのである。
天暦3年(949)3月22日に天台座主延昌(879〜964)は朝廷より慈覚大師(円仁)真言法文の検封の宣旨を蒙っている(『天台座主記』巻1、15世権律師延昌、天暦3年己酉3月22日条)。
貞元3年(978)9月晦日、根本中堂の再建工事が終了して落成の法会である「中堂会」が実施されたが、天台座主良源(912〜85)は根本中堂の落成に先立って前唐院を再建している(『天台座主記』巻1、18世権律師良源、貞元3年庚辰九月晦日条)。
永祚元年(989)、智証派の余慶(919〜91)が天台座主宣命を受けたことに端を発して、慈覚派門徒が騒動した。10月29日には藤原有国(944〜1011)が告文をつくり、前唐院の慈覚大師の塔に登り、慈覚派門徒の暴戻を訴えた。この告文の中には「師子身中の虫」の句があることで有名になった(『元亨釈書』巻第30、志4、黜争志9、永祚元年10月29日条)。「塔」とはこの場合は墓所を表わす語であるが、実際の廟ではなく、慈覚大師像のことであると思われる。前唐院は御影堂のごとくなっていたとの指摘があり、慈覚大師廟よりも前唐院の方が慈覚大師の墓として機能していたようである。
天台座主仁覚(1046〜1102)は座主在職中の寛治7年(1073)からに目貝(生没年不明)に前唐院の見在書を勘定せしめた。目貝は前唐院の「蔵師本」(経蔵内に備えつけの目録と考えられている)によって勘定し、嘉保2年(1095)6月に完了した。これが『前唐院見在書目録』である。原本は逸したが、現存している写本は比叡山の南渓蔵本で、嘉吉3年(1443)に帝釈寺本から書写したものを再び天明3年(1783)に実霊が書写したものである。『前唐院見在書目録』は小野勝年「前唐院見在書目録」とその解説」(『大和文化研究』第10巻4号、1965年)に翻刻されている。この『前唐院見在書目録』によると、前唐院には2個の厨子が存在したことが知られる。このうち第1厨子には外典類、密教以外の仏典などが多く安置され、第2厨子は密教経典・讃咒儀軌の類、計289部426巻が安置されたことが知られる。仁覚の前任の天台座主であった良真(1023〜1096)の在任中の永保3年(1083)7月には前唐院の経蔵を土蔵に改めている(『天台座主記』巻2、36世法印権大僧都良真、永保3年癸亥7月条)。これは火災より保護するための処置と思われる。
また天治元年(1124)9月に前唐院は修理されている(『天台座主記』巻2、45世僧正法印仁実、天和元年9月条)。久安4年(1148)6月19日には、雨の日であったが、白河・鳥羽両院は中堂より前唐院に御幸して、慈覚大師像(木像)に礼拝して、宝物を閲覧している(『台記』久安4年6月19日条)。
無論、元亀の信長の叡山焼打ち(1571)によって、前唐院とその厖大な真言経典・道具類は灰燼に帰した。前唐院は寛永年間(1624〜44)に再興された(『東塔五谷堂舎並各坊世譜』前唐院)。しかし寛文8年(1668)2月27日に東塔北谷僧房(善学院)の火事が延焼して前唐院と文殊楼が焼失してしまったため(『天台座主記』巻5、181世入道無品尭恕親王、寛文8年2月27日条)、寛文8年(1668)から同10年(1670)にわたって再建され、修復は天保11年(1840)から宝暦3年(1753)、寛保元年(1741)に行なわれている(『山門堂舎由緒記』巻第3、前唐院)。
昭和31年(1956)10月11日の火災で、大講堂が焼失したが、この時、前唐院も全焼している。 
戒壇院 

戒壇院とは、最澄構想による大乗戒壇授戒のために建立された建造物で、大講堂よりものぼったところに位置しています。戒壇院設立は比叡山史において最も困難な事業でした。というのも、その設立においては、これまでの仏教界を差配していた南都仏教の反対に立ち向かわねばならなかったからです。これらの一連の事件を「大乗戒壇設立」とか「大乗戒壇独立」といいますが、大乗戒壇設立に尽力したのが最澄の弟子の光定(779〜858)でする。
光定は大乗戒壇設立の顛末を回想録『伝述一心戒文』に書きのこしています。
戒壇とは?
それ以前に、そもそも「戒壇」とは一体どのようなものであるか?
これについて、ふざけて「坊主製造器」という人がいた。かなり言い得て妙であるが、それをいうのであれば「僧製造器」の方が正確である。現在の我々が俗語で「坊主」というと広義での「僧侶」を意味するが、「僧侶」というのと「僧」というのは若干語彙が異なる。現在では、広義での「坊主」あるいは「僧侶」というのは、仏教の出家者全体を意味するが、古代においてそれに相当する語は「沙門」という。
では僧というのは一体何であるのか?
それは出家・得度して「沙弥」となった後、さらに戒壇において授戒したものを「僧」というのである。つまり、戒壇とは「僧」になる資格有するための授戒を行う場であるのである。
奈良時代における得度と授戒
奈良時代の仏教は僧尼令の得度・授戒制度によって官僚の統制を受け、また国家のために奉仕をその存在の第一義とされたため、「国家仏教」と称される。
そもそも得度というのは、本来は在家者が出家して僧籍に入って沙弥になることをいうのであるが、それは国家よりみれば、戸籍・民政・租税徴収を主に掌った民部省の戸籍より名を削除し、治部省の僧尼籍に編入することである。僧尼籍に編入することによって課税の対象より除外されるのであるが、同時に国家の厳重な管理下に置かれた。そのことは僧尼の刑罰については刑法典である「律」ではなく、令の「僧尼令」に定められたことにも明らかである。また度者(得度者)の人数には制限が加えられた。毎年一定数のみ許可され、奈良時代では最大10名が許可された。その他、臨時度者があり、特別な儀式において度者を許された。また「死闕の替」というのがあり、度者が死亡すると、その替として度者死亡人数と同じ人数の得度が許された。最澄もこの「死闕の替」による度者である(「最澄度縁案」『来迎院文書』〈平安遺文4281〉)。延暦17年(798)9月に年齢制限を加え、試験制度(年分度試制)が導入されている。延暦22年(803)正月には法相・三論両宗から5名づつと変り、延暦25年(806)正月には最澄の上表によって、宗派・寺院に合計12人の定員が設けらた。
これらの制限や国家仏教的性格への偏重のため、社会的実践を重んじる行基のような僧とは対立し、また僧尼令によって厳重に禁止されていたにも関わらず、正式な得度によらない私度僧が現われ、さらに税負担を逃れる目的で僧尼の風体をとるものが跡を絶たなかった。
受戒は、養老令で規定はされていた。しかし授戒法というものは本来、授戒に際してはまず戒壇に登って、戒和上・教授師・羯磨師の3人の師と、7人の証人(あわせて三師七証という)の下で受戒しなければならなかった。これを「通受」という。ところが三師七証を務める資格を持った者が戒を授けなければならないのであるが、日本では三師七証を務める資格を持った者が揃わなかった。そこで便法として正式な師によるものでなく、自身の誓いにて行う自誓授戒を行なっていた。この方法はあくまで「便法」であるから、のちに戒師を唐より招聘することとなったのである。招聘されたのが鑑真であり、鑑真は天平勝宝6年(754)4月、東大寺大仏殿前の仮設戒壇で沙弥に具足戒を授戒し、授戒制度が確立したのである。戒壇を受けるための戒壇院は全国3ヶ所に設置され、東大寺戒壇院・大宰府観世音寺戒壇院・下野国薬師寺が三戒壇と称された。
こうして確立された授戒法に異議を唱えたのが最澄だったのである。
最澄の小乗戒壇棄捨と大乗戒壇設立宣言
弘仁9年(818)3月、最澄は諸弟子らに、山岳に篭っている間、仏種の萌芽が芽生えてきたとして、この後、声聞の利益を受けず、永く小乗の威儀にそむき、自ら誓願して二百五十戒の棄捨を宣言した(『叡山大師伝』)。
さかのぼること12年前の延暦25年(806)正月26日に天台業2人の年分度者が認められているが、1人は大毘盧舎那経を読む遮那業、1人は摩訶止観を読む止観業となっている(『類聚三代格』巻2、延暦25年正月26日官符)。
始めて叡山の年分度者を得度させた大同2年(807)より弘仁10年(819)までの叡山得度者の実体が窺える史料として「天台法華宗年分得度学生名帳」(延暦寺所蔵、平安遺文補246)が知られる。この記述者は最澄自身であるが、それによると、大同2年(807)より弘仁10年(819)までの12年間、比叡山止観院にて年分により得度した者の合計は24人となっている。そのうち、叡山に留まったのは光定・徳円・円仁等わずかに10人である。さらに、留まった者のうち、弘仁8年(817)以降に得度した6人は授戒させていないらしく、「沙弥」の表記のままである。
つまり、弘仁7年(816)以前に授戒して僧となった者18人のうち、叡山に留まった者は3割のわずか6人にすぎなかった。叡山を去った要因として、死去が1人、母を養う為に叡山を去った者が2人、修行2人、法相宗に奪われたのが6人、原因不明が3人となっているが、その要因が東大寺戒壇院での授戒に因することは明らかである。つまり、東大寺戒壇院で授戒すると、確実に年分得度した者が南都側に入り、叡山に戻ることはないことを意味している。
弘仁8年(817)以降に得度した6人は最澄の小乗戒壇棄捨と大乗戒壇設立宣言により東大寺戒壇院にて受戒することはなかったが、最澄が小乗戒壇棄捨と大乗戒壇設立宣言を行っていなければ、この6人も少なからず南都側に留まってしまったということは、想像に難くない。
叡山にて年分にて最初に得度したのは、大同2年(807)の年分である光戒と光忠であるが、光戒は母を養うために叡山を去り、光忠は弘仁6年(815)に死去しているので、最澄が小乗戒壇棄捨と大乗戒壇設立宣言を行った弘仁9年(818)3月の段階では、記念すべき叡山年分度者初年の大同2年得度の2人とも叡山にはいなかったのである(「天台法華宗年分得度学生名帳」)。
翌年の大同3年(808)の年分によって得度したのは、光仁と光定である。光仁は巡礼修行のため叡山にいなかった。そのため弘仁9年(818)の段階で叡山の年分によって得度した僧のうち、叡山に留まっており、かつ年臈が高かったのが、光定(779〜858)のみであった(「天台法華宗年分得度学生名帳」)。そのためか、最澄は大乗戒壇設置を朝廷に求める接伴役として光定を抜擢するのであるが、この最澄の人事は大乗戒壇設置のみならず、天台宗史その後においても吉と出ることになる。
弘仁九年以前の光定の動向
まずは戒壇院設立の影の主役であり、その証言者である光定の弘仁9年(818)までの動向について若干説明しておこう。光定は大乗戒壇設立に関する回想録である『伝述一心戒文』を記している。『伝述一心戒文』は上・中・下の全3巻からなり、承和元年(834)に完成している。光定自筆原本は現存していないが、応徳元年(1084)に良祐によって光定の草稿本である双厳房蔵本を書写した延暦寺本(旧千妙寺本)が最古の完存する写本である。刊本に『大正新修大蔵経』74、『日本大蔵経』46、『伝教大師全集』1があり、訓読・現代語訳はまだ存在していない。同書は大乗戒壇設立に関する経緯、光定の尽力、最澄や光定の奏達文を記載しており、大乗戒壇設立を語る上で重要な史料となっている。
光定は、俗姓は贄氏で伊予国風早郡の人である。宝亀10年(779)に生まれた。その先祖は武内宿祢の6男の葛木襲津彦の後裔といわれている。母は風早氏であるが、腹中に蓮華が生える夢をみて、身重であることが判明したという。このことがあったため、光定が20歳になってから、母は光定に「先の瑞、かくの如し。汝は必ず出家するか」と告げたという。
その後、光定の父母が没して、喪に服した後に俗を離れて山林に住んでいたが、僧勤覚の勧めによって都に入った。大同年間(806〜10)の初め、都にて自身の師となすべき人を訪ね求めたが、その人を得ることができなかった。ある人が「叡山大師は慈悲の心に住みて止観の宗を伝う」というのを聞き、大同3年(808)に叡山に登、止観院に寄寓し、たまたま徒衆が義真(779〜833)を屈請して摩訶止観を講ずるのを聴いていたのを契機として、義真の師である最澄の目にとまったという(『延暦寺故内供奉和上行状』)。この時30歳であり、先輩にあたる義真より2歳年長であった。光定は、大同4年(809)の比叡山止観院の止観業の年分度者の試業し、9条に通じていたため及第し、翌5年(810)正月14日に宮中斎会にて得度した(『延暦寺故内供奉和上行状』)。
この事情について、光定自身は次のように述べている。
大同4年(809)3月、光定は『摩訶止観』を持参して大安寺の勤操(754〜827)の住房に赴き、法華経を読もうとしたが、勤操は住房にはいなかった。数日後、勤操が住房に戻ってきたため頂礼して教えを請うた。すると勤操は「それがしは比叡の大禅師(最澄)に伝えられた旨を承けて聞かしめているのだ。多方に遊行するというのであれば、留まりなさい。試業を成しとげようとするのであれば、速かに還って叡岳に登り、努力せよ。あとを廻ってはならない。」と光定に命令した(『伝述一心戒文』巻上、被最初年分試及弟得度聞伝宗旨文)。
勤操は「法華八講」の創始者であり、その創始について『三宝絵詞』中巻、法宝の一八には次のようにのべられている。
“昔、大安寺に栄好という僧がいた。彼には寺の外に住まわせている年老いた母がおり、母への食事を童子の従者に運ばせていた。いにしえの七大寺は毎朝僧1人あたり小飯4升を与えていた。栄好は給付された小飯4升のうち、1升を母に、1升を乞者(こつしゃ。布施のみによって食を得る修行者)に、1升を栄好自身に、1升を童子従者に与えていた。その栄好には勤操という親しい友人がいた。勤操はある日栄好の童子従者が泣いているのをみた。その理由を聞いてみると、「今朝栄好が死んでしまったため食事を得られなくなってしまった。自分の食事は何とかなるにせよ、栄好の母をどうすればいいのか」と困っていたという。勤操は自分の飯を栄好の母に与えて養うこととし、栄好の母には栄好の死を知らせないこととした。このように栄好の母にはいつも通り、童子従者が食事を届けていたのであるが、ある日勤操は供養のため寺にやってきた客人に酒を勧められて痛飲したため、いつの間にか夕方になってしまっていた。勤操は急いで童子従者に食事を栄好の母のもとに持って行かせたが、母は「年をとるというのは残念なことです。(栄好は)怠けているのではないのですか?」といった。その言葉を聞いて童子従者は悲しみのあまり、栄好が既に死んでいるという真実を栄好の母に漏らしてしまった。それを聞いた栄好の母は悲しみのあまり息絶えてしまった。勤操は同法の7人と童子従者を連れて、栄好の母の亡骸を石淵寺に葬った。供養を終えて勤操は、「私は栄好に代わってその母を養ってきたが、その思いを果たすことが出来ず、その命は失われてしまった。その冥福のために供養したい。我々8人はいる。法華経が8巻なのは何かの因縁なのであろう。七々日(四十九日)の間はこの寺に来て、1日1鉢を設けて、一人が1巻を講じることとしよう。また年ごとの忌日にも、今日集まった8人が力をあわせて、その日が終りになるように4日講を修して法華経を説こう。これを"同法八講"と名付けて、毎年欠かさず行いたい。」といった。この年は延暦15年(796)であった。”
「法華八講」の創始によって勤操は最も法華経に関して知見があると当時みなされていた。それは最澄も勤操に一目を置いていたことを示している。しかし勤操は最澄と法華経に関する見解が異なっていたのか、光定にはむしろ最澄の方が相応しいと考えたようである。
そのため、光定は叡山に戻り、このことを詳かに最澄に聞かせた。すると最澄は、「わたしの学ぶところの業、これを承けてこれをまなびなさい。」といったため、この年の夏の間、光定は首をかく暇のないほど、三部の大乗を修練して、大義を学んだ。
この年7月に大学に赴き、漢音を音博士高貞門継のもとで修練した。
11月に僧綱所において南都七大寺の僧侶の前にて、義旨・文意を試験された。文は9に通じて第1位、義は8に通じて第2位であった。その後漢音を試験された。
大同5年(810)正月、金光明会にて髪を剃り袈裟を着て(得度し)、最澄に礼拝した(『伝述一心戒文』巻上、被最初年分試及弟得度聞伝宗旨文)。
「九条」というのは「経論の中、大義十条を問い、五以上に通ずる者は、乃ち得度を聴(ゆる)す。」という年分度者試業規定(『類聚三代格』巻2、延暦25年正月26日官符)によるもので、光定は短期間の間に『摩訶止観』に通じたことが示されている。また大同4年(809)の年分度者が翌5年(810)に得度するというのは、「それまさに度すべき者は、正月斎会のおわる日に度せしめよ」という規定(『延喜式』巻第21、玄蕃寮、年分度者)との関連が推定されている。前述の通り、「天台法華宗年分得度学生名帳」では光定は大同3年(808)に得度したことになっており、『伝述一心戒文』や『延暦寺故内供奉和上行状』の得度年と食い違う。「天台法華宗年分得度学生名帳」を記した最澄が勘違いしたのか、光定自身が間違ったのか、今のところは判断を避ける。『延暦寺故内供奉和上行状』で光定を「天台の度者は、これより濫觴(はじめ)なり。」としているのが、光定は天台の度者としては2番目にあたるから誤りである。
弘仁3年(812)4月21日、光定は東大寺戒壇院にて具足戒を受けた。奉実(737〜820)を戒和尚として具足戒を授戒した。この時33歳であった。興福寺に所属した(『延暦寺故内供奉和上行状』)。
7月16日には、金嶽(吉野金峰山)に登り、明神のために法華経を二七日間(14日間)講説した。この講説が終わった後、大安寺の勤操と安澄(763〜814)の2大徳が景深を招いて『六巻抄』を講義させたが、この時、光定も『六巻抄』を聴講している(『伝述一心戒文』巻上、被最初年分試及弟得度聞伝宗旨文)。『六巻抄』というのは、唐の道宣(596〜667)の著した『四分律刪繁補闕行事鈔』3巻のことで、3巻をそれぞれ上下にわけて6巻としたという。現在は12巻とされている。
7月に光定は再び戒壇に登って、菩薩三聚浄戒(摂律儀戒《戒律》・摂善法戒《仏の教え》・摂衆生戒《他人を救う》)を東大寺景深より受けている。
9月に最澄は、渡海の願に報いるため、住吉大神のために一万灯を供して大乗を読んでいる。光定も最澄にしたがって種種の願を修している(『伝述一心戒文』巻上、被最初年分試及弟得度聞伝宗旨文)。この年の3月に、最澄は宇佐八幡に赴いて同じく渡海の願に報いて法会を行っている(『叡山大師伝』)ので、それに関連したことであろう。
続けて10月、光定は最澄にしたがって維摩会に参加するため山階(興福寺)に入り、長慧(?〜826)の案内で食堂に入った。また藤綱中納言(藤原縄主か。ただしこの時は参議)は最澄に礼拝して、食堂に案内した。この時、泰演(生没年不明)と明福(778〜848)は最澄に面会し、最澄に随伴した光定も、両師との面識を得ている。泰演はさらに最澄一行を西大寺に招き、最澄一行はそこで一夜宿り、その後平安城に戻った(『伝述一心戒文』巻上、被最初年分試及弟得度聞伝宗旨文)。維摩会とは、興福寺講堂で藤原鎌足の命日の10月17日にあわせて、毎年10月10日より7日間維摩経の講説を行なう法会である。
その帰途、最澄一行は長岡の乙訓寺で空海に面会している。最澄一行は乙訓寺で一宿し、最澄と空海は交流を温めている。この時に最澄は空海より灌頂を受ける約束を取り付けている(『伝述一心戒文』巻上、被最初年分試及弟得度聞伝宗旨文)。最澄が泰範に宛てた書簡によると、最澄一行は10月27日に乙訓寺に一泊し、空海より胎蔵・金剛界両部曼陀羅を見せてもらっている。この時に空海より灌頂を受ける約束を取り付けているのである(『伝教大師消息』)。
11月15日に高雄山寺(神護寺)にて最澄・和気真綱(783〜846)・和気仲世(787〜852)・美濃種人(生没年不明)の4人は空海より金剛界灌頂を受け、12月14日には最澄・泰範(778〜?)・円澄(771〜836)・光定ら145人が空海より胎蔵界灌頂を受けている(『灌頂歴名』)。この後、光定は一尊の法を受けるために高雄山寺に留まっている(『伝述一心戒文』巻上、被最初年分試及弟得度聞伝宗旨文)。
弘仁4年(813)正月に光定は再び叡山に登るも、しばらくもせずに再び高雄(神護寺)に戻った。2月には法花儀軌一尊の法を空海より受けた(『伝述一心戒文』巻上、被最初年分試及弟得度聞伝宗旨文)。「法花儀軌」というのは、不空(705〜74)訳(「訳」といっても実は「著」)『成就妙法蓮華経王瑜伽観智儀軌』1巻(大正蔵1000)のことで、大日経・金剛頂経をもとに不空が法華経を儀軌化した経典である。これは空海が請来したものである(『弘法大師請来目録』)。なお3月6日には、光定は円澄・泰範らとともに空海より金剛界灌頂を受けている(『灌頂歴名』)。
弘仁4年(813)6月以後は、最澄のもとで天台宗の宗義を学んだ(『延暦寺故内供奉和上行状』)。
弘仁5年(814)、光定は最澄・参議藤原冬嗣(775〜826)に陪従して興福寺に赴き、義解・義延と本宗義の論争の時、始めて重席の称に列なった。この論議において光定は一躍名を挙げた(『伝述一心戒文』巻上、被最初年分試及弟得度聞伝宗旨文)。藤原冬嗣は、内麻呂の長子で、嵯峨天皇の東宮時代より仕えて信任され、薬子の変へとむかう危急に際しては巨勢野足とともに蔵人頭に任じられ、嵯峨に近侍して太政官への勅命伝達を掌握し、蔵人所を発展させた。前年の弘仁4年(813)より興福寺南円堂の造営に着手し、同8年(817)に完成している(『興福寺縁起』)。おそらくは南円堂に関連することかと思われるが、光定と藤原冬嗣の面識はこの時に得られたものであろう。
弘仁6年(815)3月17日、御前に召され、玄番頭真苑雑物(生没年不明)と円旨の論争を行った(『伝述一心戒文』巻上、被最初年分試及弟得度聞伝宗旨文)。この真苑雑物は、もとは興福寺の僧孝成であり、還俗して宮中における法相宗勢力の代表となっていたが、これ以降、光定はたびたび宮中に召され、宮中において天台宗の立場を表明した。光定自身「今日に到るも論議息まず。」といっていることから(『伝述一心戒文』巻上、被最初年分試及弟得度聞伝宗旨文)、両者の論議は少なくとも『伝述一心戒文』が撰述された承和元年(834)の段階まで継続されていたようである。両者の宮中における論議は相当激しかったらしく、嵯峨天皇は両者の激しい応酬をからかって俳優に真似をさせている(『日本文徳天皇実録』巻10、天安2年8月戊戌条、光定卒伝)。
一向大乗寺・一向小乗寺・大小兼行寺
弘仁9年(818)3月、最澄が小乗戒壇棄捨と大乗戒壇設立宣言を行ったことは前述した通りだが、『伝述一心戒文』巻上、承先師命建大乗寺文によると、その1ヶ月前の2月7日に、最澄は弟子の光定に諮っている。
最澄「宗を伝えるために大乗の寺を建てたい」
光定「大乗の寺はこの世間にはありません。今急にどうして一乗寺を建てようというのですか?」
最澄「(そういうのであれば、まず)お前に一乗の号を授けよう」
光定「まだ大乗の寺を建ててすらいないのに、一乗の号をうけることはできません。大乗寺を建てたら、その時に一乗の号をうけましょう。(そもそもそれは何なのか)説明して下さい。」
最澄「天竺には一向大乗寺・一向小乗寺・大小兼行寺というものがある。」
光定「この3寺があるというのでしたら、(最澄が)授けられるところの一乗の号をうけましょう。寺というのは、僧の住むところなのですから。」
最澄は、これによって一乗の号を定め、光定に一乗の号を授けた。この後、最澄は光定に密かに藤原冬嗣を通じて嵯峨天皇に上聞することを命じている。
この時期、旱魃により都にも餓死者が出るまでとなり、4月3日には京畿に使を遣わして雨を祈らせている。同月21日最澄のもとに藤原冬嗣より祈雨読経を乞う旨の書状が届いている。翌22日、嵯峨天皇の墨勅が下って、26日より3日間の精進読経が要請されている。この要請は最澄のみならず、南都諸大寺・畿内諸寺および山林道場に祈雨読経させている。
23日の卯時(午前5時)、光定は最澄が大乗の寺を建立したいとの旨を藤原冬嗣に聞かせたところ、冬嗣は「しばらく待て」と返事した。光定は叡山に登って最澄に報告すると、最澄は「頑張れ、(ただし)焦るな。大道を建立して、国家を守ろう。」と光定に答えている。
26日5更(午前4時)に九院を定めている。この九院とは止観院・定心院・惣持院・四王院・戒壇院・八部院・山王院・西塔院・浄土院の9ヶ院をさすのだが、この段階ではあくまで構想の状態であり、9ヶ院に含まれる戒壇院は、その勅許すら出ていなかった。構想段階でしかない九院を設定することは、この日より3日間、祈雨読経する直前を狙ってのものであり、祈雨読経のすることで九院構想を実現へと働きかけを行なったのである。祈雨読経終了の29日に光定は右大弁良峰安世(785〜830)に対して大乗の寺を建立したいという最澄の上表文を呈した。この時、良峰安世は藤原冬嗣と同様に「しばらく待て」と返答した。良峰安世は、桓武天皇の庶皇子で、良峰の姓を賜って臣籍降下していた。母の百済永継は後宮に入る前は藤原内麻呂のもとにおり、そこで藤原冬嗣を生んでいる。つまり、安世は冬嗣の異父弟にあたる。すなわち、光定は祈雨読経で天台宗が注目されるのを見越して、政界の重要人物である藤原冬嗣・良峰安世兄弟にターゲットをしぼり、最澄も九院設立構想を打ち出したのであるが、結局諸大寺にも祈雨読経を行っている中の勇み足であり、どれだけの注目を集めたのか詳細は不明である。
雨は祈雨祈祷の3日目に細い雨が降った程度で大雨は降らなかった。5月4日の夕方になって光定は右大弁の曹司(官庁)に赴き、最澄の上表を良峰安世に差し出した。良峰安世は光定を引き連れて内裏に参上し、そのまま最澄の上表を上聞した。この時、三箇日雨が降らなかったためか、護命僧都は40人の大徳を率いて内裏で仁王経を講じている。光定も夜通しで三尊に念じているが、翌5日早朝に大雨が降った。光定はこれにより「修行満位」の僧位を賜っている。なお同年9月には伝灯満位に昇進している。結局、祈雨祈祷によって九院構想を実現させようとする最澄の目論みは最澄側の祈雨祈祷自体の失敗によって実現を見なかっただけではなく、南都側の祈雨祈祷の成功によって最澄の面目は失われてしまった。
8日に光定は再度良峰安世に面会して最澄の意志を伝えると、今度は「力をつくしてこれを行うべきである。(しかし)天下の法師らは彼の宗(天台宗)が大乗の寺を建立することを許さない。(だから)叡山寺で、しばらく待て。これは法師らの意志を調べるためなのだ。」という前向きな返答を得ている。
六条式
同じく弘仁9年(818)5月13日、最澄は「天台法華宗年分学生式」を撰上した。これは叡山の学生を大乗戒によって教育する規定を定めたもので、全部で6項よりなるので、「六条式」と呼ばれている。以下繁多の煩いを避けるため具名ではなく、通称の「六条式」と呼ぶ。なお「六条式」は最澄自筆原本が比叡山に残っている。
この「六条式」はその行頭に「国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心あるの人を名づけて国宝となす。」という有名な文言があることで有名である。近年天台宗では「六条式」の文言に「径寸十枚。非是国宝。照于一隅。此則国宝。」という文言によって「一隅を照らす」運動を展開したが、安藤俊雄・薗田香融『日本思想大系4 最澄』(岩波書店、1974年5月)で「六条式」の「照于一隅」は、最澄自筆では「照千一隅」であるとして、激しい論争となった。つまり、これまでの写本では「照于一隅。此則国宝。」となっていたため、「一隅を照らす、これすなわち国宝なり」と「于」字を助字と解釈していたものを、「照千・一隅、これすなわち国宝なり」と実字としたものである。
「照千一隅」とは、司馬遷『史記』巻46、田敬仲世家第16、威王24年の「国宝論」の引用であり、より正確にいえば『史記』を引用した湛然(711〜82)『止観輔行伝弘決』第5之1からの引用である。「国宝論」とは、中国戦国時代の紀元前355年、斉の威王(位前378〜前343)と魏の恵王(位前370〜前335)が狩猟した際に、恵王が「あなたの国に国宝があるか?」と聞かれて威王が「ない」と返答すると、恵王が自分の国には前後12台の馬車を照らすことができる直径1寸の珠が10枚あるのだと自慢すると、威王は自分の国には防衛や人心掌握に優れた臣下が4人いて、千里のさきまで照らすことができ、12台の馬車を照らすくらい何だというのだ、といったため、恵王が恥じ入ったという説話によるものである。『史記』には「一隅」の2字はなく、『止観輔行伝弘決』に『史記』の文意を取って「一隅」としたものであるとされる。結局、「照于一隅」か「照千一隅」の論争は決着をみていないが、「照于一隅」説側には決定的な打撃力不足で、一時、最澄の自筆が「于」字は「千」のように第一画が右上がりになるクセがあるから「千」ではなく「于」だ、という説がでたが、「六条式」の中で最澄は「于」字と「千」字を使い分けているため、そのようにみるのは難しく、結局、「照千一隅」に落ち着きそうである
最澄が「六条式」で奏上した内容は、文意を取ると、以下のようになる。
1、天台宗の年分は、弘仁9年(818)から、すべて大乗としたい。その際にはこれまで授戒したら戸籍から除かれて僧籍に記入されていたのをやめて戸籍から除かず、円教の十善戒を授けて、「声聞の僧」ではなく「菩薩の沙弥」としたい。その際には度縁(得度証明書)には官印(役所のハンコ)を請いたい。
2、大乗では、得度する年に仏子戒を授けて菩薩僧とし、戒牒(授戒証明書)には官印を請いたい。授戒し終わったら叡山に住み、12年間山門を出ず、両業(止観業・遮那業)を修学させたい。
3、止観業の者は毎日、『法花経』・『金光明最勝王経』・『仁王経』・『守護界陀羅尼経』等の護国の大乗経典を長時の読経と講経をさせたい。
4、遮那業の者は毎日、『大日経』・『孔雀王経』・『不空羂索神変真言経』・『仏頂尊勝陀羅尼経』等の護国の真言を長く念じさせたい。
5、両業(止観業・遮那業)の学生は、12年修学するところや、両業によって任用し、人材を適材適所に用いたい。
6、国師や国用は、官符の趣旨に添って、伝法や国の講師に任命して欲しい。国の講師は任にある内は、毎年、安居講に支給される法服料は、任地の国の官舎に収納し、国司・郡司が管理下に置き、これを土木等の事業に役立てて欲しい。
「六条式」撰上の2日後の15日には「比叡山天台法華院得業学生式」を撰上している。これは年分学生の採用は15歳から25歳までとし、止観業・遮那業を授けて菩薩僧要請の前段階とするという内容である。しかし朝廷から最澄のもとには何ら反応がなかった。
17日に良峰安世が光定に、「護命法師らが、『大乗の寺は天竺(インド)にはなく、また大唐にもなく、またこの世のどこにもない』といっています。それがしの状を殿上に達したところ、大皇(嵯峨天皇)は『大法師(護命)らに一任しなさい』と勅されました」と伝えた。この子細を光定は叡山に登って最澄の耳に入れている。ここに大乗戒壇設立における最大の難敵である護命(750〜834)が登場する。
護命
護命は俗姓は秦氏で、美濃国各務郡(現岐阜県各務原市および岐阜市) の出身である(『続日本後紀』巻3、承和元年9月戊午条)。10歳の時、当洲金光明寺(美濃国国分寺)の道興のもとで受法した。それから2年間、法華経・最勝王経の二部経典の音訓に通暁し、『百論』・「側法師疏」1巻・『円弘師章』4巻を諳んじたという(『日本高僧伝要文抄』第3、護命僧正伝)。
『百論』とは提婆(170頃〜270頃)の著作で、三論宗の根本経典である。また「側法師疏」一巻とはおそらく新羅唯識宗の祖円測(613〜96)の百法論疏1巻(『新編諸宗教蔵総録』)のことで、唯識思想の大成者である世親の著『大乗百法明門論』(大正蔵1614)の疏(本文の章句に即した注釈書)である。また『円弘師章』四巻の詳細は不明で、『法相宗章疏』に「円弘師章四巻 百二十紙」とあり、『東域伝灯目録』には「円弘章五巻〔或いはいわく、円弘師章、諸録に四巻という。新本を見るに五巻あり〕」とあって巻数が一定しないが、日本では奈良時代からたびたび書写されており、早くは天平3年(731)に書写記録(正倉院文書)がある。書写記録をみると概ね4巻で一定しており、唯識派の経論とともに書写されている場合が多く、安然(841〜?)著の『教時諍論』(大正蔵2395)には玄奘三蔵の説を受けたとしてながらもその説に違背することが多かった4人である玄隆・円弘・補ボウ(日へん+方。UNI6609。&M013796;)・秦賢(太賢)の中にみえるので、新羅人の唯識派の僧であったかもしれない。いずれにせよ、『百論』・『百法論疏』1巻・『円弘師章』4巻に通暁していたということは、三論や法相に通暁することにもつながるので、若年にしてこれらに通暁していた護命の神童ぶりが知られるのである。
護命は15歳の時、元興寺万耀の弟子となり、吉野山に入って苦行を行った(『続日本後紀』巻3、承和元年9月戊午条。『日本高僧伝要文抄』では16歳)。万耀の推薦によって得度のための試験を受け、天平神護元年(765)出家得度した。19歳の時、鑑真の弟子である法進僧都(?〜778)のもとで沙弥戒を受け、翌年具足戒を受けた。護命の資質を評価した法進は「わが日本国にはお前のような者はまれだ。なぜならば、最近の得度者はきびしくととのっておらず、受戒のために二泊し、今日沙弥戒を受けたら、明日には具足戒を受けているのである。しかしお前はひとり戒律にしたがって(受戒日に間を置いて)いる。法を曲げる者がこれをみたら自ら慎むだろう。よいことだ。お前は優波離(うばり、釈迦の十大弟子の一人)の生まれ変わりだろう」といった(『日本高僧伝要文抄』第3、護命僧正伝)。
護命は勝虞大僧都(?〜811)のもとで法相を学んだが、ひと月の上旬は深山に入って虚空蔵法を修し、下旬は本寺にて法相宗の教義を研鑚した。若年の学習と受戒の逸話をみてもわかるように、護命は学僧でありながらも実践を重視した僧であった。弘仁6年(815)に少僧都に任ぜられ、翌7年(816)に大僧都に昇進した。最澄が「六条式」を撰述した弘仁9年(818)の段階では大僧都であり、僧正不在の僧綱では名実ともにトップの地位におり、自ら僧綱における最澄の大乗戒壇設立反対の先鋒となった。
護命は天皇の親任があつく最後は僧正まで登り詰めたが、本来は学僧であり、日本法相を代表する『大乗法相研神章』5巻(大正蔵2309)を撰述した。また山岳修行を行い、役小角・行基(668〜749)・良弁(689〜773)とならんで金峰山における山岳修行の端緒となるなど、徳・学・業を兼ね備えた高僧であった。このような大物が最澄の大乗戒壇設立という難行を成し遂げようとする時に立ちふさがったのは、最澄にとって悲劇というしかないが、これは大乗戒壇の理念を論争によって深化させるという思わぬ作用を生み出していった。
八条式
嵯峨天皇が大乗戒壇設立に関する件を僧綱に一任することを聞いた最澄は、5月21日には「請菩薩出表」を撰上して、「六条式」の趣旨を説明している。しかし何ら反応はなかった。
最澄は8月に細則をとり決めた「勧奨天台宗年分学生式」を撰した。この「勧奨天台宗年分学生式」は8ヶ条の条文よりなるので、「八条式」と略される。ここでも以下「八条式」と略す。「八条式」撰上の事情は『伝述一心戒文』にはみえない。最澄が「八条式」で奏上した内容は、文意を取ると、以下のようになる。
1、おしなべて天台宗の得業の学生の数を12人と定めるのは、6年を一期とする。もし1年に2人欠けるようなことがあった場合、2人補うこととする。得業生を選ぶ試験では、天台宗の学僧衆が学堂に集まって、『法華経』・『金光明経』の訓読を試験し、及第した者は、具さに戸籍と名を記して、得業生を選ぶ試験の日に官に送る。6年たって業を成した者は得業生を選ぶ試験をさせることとする。業を成さなかったものは得業生を選ぶ試験を受けることはできない。もし途中で辞める者がいた場合、辞めた者の名と補欠の者の名を記載して、官に申し出て交替させる。
2、おしなべてこれらの学生等の衣食は、それぞれ私物をもちいる。もし心がけ・才能が優れていて、修行の要点を成就しているにもかかわらず、ただ衣食が足りない者は、この寺の証明書を与えて、布施を各地に求めて、その人に充与する。
3、おしなべてこれらの学生、心性が法に違犯し、もろもろの山内の規則に従わなかった場合、官に申し出て、式によって交替させる。
4、おしなべて天台宗の得業の者は得度の年に受戒させる。受戒し終わったら、12年間叡山を出ず修学させる。初めの6年は聞慧(もんね。聞くことを中心とした学問)を中心とし、思修(ししゅ。思索と実践を中心とした学問)を予科とする。一日のうち3分の2は仏教学、3分1分は仏教以外の学問を学ぶこととする。後半の6年は思修を中心とし、聞慧を予科とする。止観業の者は四種三昧(4つの修法。190日間仏名を唱える常坐三昧、290日間道場内で阿弥陀仏の名号を唱えつつグルグルまわる常行三昧、321日間仏像をまわる行道と坐禅とを修し、ともに合間に礼仏・懺悔・誦経などを行う半行半坐三昧、4その他すべての行法を含む非行非坐三昧)を修習され、遮那業の者は三部(遮那・孔雀・金剛部)の念誦を修習させる。
5、おしなべて比叡山一乗止観院の天台宗学生等の年分度者、ならびに天台年分学生以外に自ら希望して山で修行しようとする者は、本寺の名簿に登録したまま除籍せず、近江国の食封のある諸寺に入れて費用を送らせる。ただし法服は大乗の法によって布施を求めて調え、修行から退かないようにする。今より後はこれを恒例の規則とし、草菴を住処とし竹の葉を座具とし、生を軽んじ仏法を重んじ、仏法をして永遠ならしめ国家を守護する。
6、おしなべて他宗年分度者以外で、得度・受戒した者が自ら進み出て、山に12年間住み、止観・遮那の両業を修学したいと思う者がいた場合、詳細に本寺と師主の名を記して、一乗止観院の許可状を与えて、その許可状を官司に安置することとする。12年を経たら、天台宗年分度者の者に準じて、例として法師位を与えて頂きたい。もし規定に合わない場合は本寺に退ぞかせる。
7、おしなべて住山の学生、12年を経て規則に従って修学した場合、大法師位を与えて頂きたい。もしその修行が完全ではないとしても、固く山室を出ないで12年を経た場合は法師位を与えて頂きたい。もし天台宗の者で、宗の規則に従わず、山院(叡山)に住せず、または山(叡山)に住していても、しばしば規則に違反し、12年の年月に足りなかった場合、官司にある天台宗の名簿から削除し、本寺に退かせる。
8、おしなべて天台宗の院には、俗別当2人を官から派遣し、順番で監督にあたらせ、盗賊・酒・女などを禁止させ、仏法を住持し、国家を守護したい。
以上の八条の式は、仏法をまもり国家を利益し、人々を導いて善に向わせるためのものである。謹んで 天裁を請う。謹んでもうす。
これら「六条式」と「八条式」は延暦25年(806)の格(法令)に対する式(細則規定)とみなすことができるという指摘がある(井上1971)。しかしこの「八条式」もこれまでの奏上と同じく黙殺されることとなってしまった。
四条式と顕戒論
弘仁10年(819)3月3日、「六条式」・「八条式」を奏上したにも関わらず、双方とも黙殺されたことに業を煮やした最澄は光定との間に以下のようなやりとりをしている(『伝述一心戒文』巻上、冷然大上天皇書鐘銘文5、荷顕戒論達殿上文)。
最澄「大乗戒を建立するために、野寺(常住寺)の護命僧都の房に赴きなさい。」
光定「僧都の命をうけたまわるのは、何のためですか?」
最澄「僧都の署名を請うためである。」
光定「大乗の伝戒がなるのもならないのも天子の一存にあるのであって、僧都にあるのではありません。僧都の署名を請うてはなりません。」
最澄「わたしは戒法のためなら体身を惜まない。」
光定「詳しいことは良峰右大弁に申し聞かしめましょう。」
最澄「すべてのことはお前の意にまかせよう。」
同15日、最澄は「天台法華宗年分度者回小向大式」を定めている。この「天台法華宗年分度者回小向大式」は4ヶ条の条文よりなるので、「四条式」と略される。ここでも以下「四条式」と略す。最澄が「四条式」で定めた内容は、文意を取ると、以下のようになる。
天台法華宗年分度者回小向大式(四条式)
合せて4ヶ条
1、おしなべて仏寺というものには三種類ある。
一つは一向大乗寺。修業し始めの菩薩僧が住む寺である。
二には一向小乗寺。小乗専門の律師の住む寺である。
三には大小兼行寺 久しく修業した菩薩僧の住む寺である。
天台法華宗の年分得度の学生、および回心して大乗に転じはじめた修業の者は12年、叡山の四種三昧院に住まわせ、12年間の修行の後、利他の故に、小律儀を仮受した場合、仮に兼行寺に住むことを許す。
2、おしなべて仏寺の上座に大乗と小乗の区別を設ける。
一つは一向大乗寺。文殊師利菩薩を安置して、これを上座とする。
二には一向小乗寺。賓頭盧和尚(十六羅漢の一)を安置して、これを上座とする。
三には大小兼行寺。文殊と賓頭盧と両尊を上座に安置し、小乗の布薩(半月毎に戒本を読誦する儀式)の日には賓頭盧を上座として小乗の行事法にしたがい、大乗の布薩(半月毎に戒本を読誦する儀式)の日には文殊を上座として、大乗の行事法にしたがう。この行事法はこの世間では未だに行われたことはない。
3、おしなべて仏戒に二種類ある。
一つは大乗の大僧戒 十重四十八軽戒(『梵網経』所説)を制して、大僧戒とする。
二には小乗の大僧戒 二百五十等の戒(『四部律』所説)を制して、大僧戒とする。
4、おしなべて仏の受戒に二種類ある。
一つはには大乗戒。『普賢経』の所説によって証人とする三師を請う。
釈迦牟尼仏を請じて、菩薩戒の和上とする。文殊師利菩薩を請じて菩薩戒の羯磨阿闍梨とする。弥勒菩薩を請じて菩薩戒の教授阿闍梨とする。十方一切の諸仏を請じて、菩薩戒の証師とする。十方一切の諸菩薩を請じて、同学の者とする。(その上で)現実の一人の伝戒の師を請じて、現実の師とする。もし伝戒の師がいなかった場合、千里の範囲内で請ずる。もし千里の内にすら戒を授けることができる者が射なかった場合、至心に懺悔して必ず好相を得てから、仏像の前にて自ら戒律を守ることを誓って受戒しなさい。今、天台の年分得度の学生、および回心して大乗に転じはじめた修業の者には、所説の大乗戒を授けて、大僧としよう。
二つめは小乗戒。小乗の律(『四部律』)に依拠して、(戒律の)師として現実の十師を請じて、白四羯磨(びゃくしこんま。1案件に3度同意を示す)する。清浄持律の大徳10人を請じて、三師七証とする。もし1人でも欠いた場合、受戒することはできない。
最澄はこの「四条式」と「請立大乗戒表」・『称讃大乗功徳経』1巻・『説妙法決定業障経』1巻・『大方広師子吼経』1巻を光定に持たせ、内裏に参上させた。この月17日は桓武天皇の国忌(天皇の忌日)にあたるため、それを期しての奏上であった。光定は良峰安世に詳細を聞かせたが、良峰安世は「少しだけ待て。これから内裏に参上するところだ。」といった。しかし言葉があって以降は何の音沙汰もなく、17日の夕方になっても嵯峨天皇の勅答が無かったため、光定は鬱屈のあまり、詳細を最澄に書き伝えることが出来なかった。そこで光定は藤原冬嗣に事態の進展を尋ねた。そこで冬嗣は嵯峨天皇に報告したところ、嵯峨天皇は僧綱の判断に委ねることを口勅しており、玄番寮頭真薗雑物はこれをうけて「四条式」のことを護命僧都に告げていた(『伝述一心戒文』巻上、5、荷表与之四条式達殿上文)。つまり光定の思惑とは異なり、嵯峨天皇は自身では判断せず、護命をはじめとした僧綱の判断に委ねることにしていたことが判明したのである。
さきに光定は「大乗の伝戒がなるのもならないのも天子の一存にあるのであって、僧都にあるのではありません。僧都の署名を請うてはなりません。」と豪語していたが、事態の停滞を受け、最澄の命によって3日後の同20日、最澄の状に護命の署名を請うため、護命のもとにむかった。光定に最澄の状をみせられた護命は、状に「菩薩僧を度し、まさに国家を守らんとす」とあるのをみて「大唐に菩薩僧などいないし、それに別受(三師七証によらず、伝戒師のみの自誓戒)の菩薩僧なんてのもいない。通受の菩薩僧のみあるのだ」といった。それに対して光定は「別受の菩薩僧のなくして通受の菩薩僧あるとおっしゃるのは、彼(最澄)の志を知らないのですか」と反論したが、護命に「大乗を約して髪を剃る者なんていないが、小乗を約して髪を剃る者はいる。小乗をへてから菩薩戒を受ける僧はいるが、小乗を経ないで菩薩戒を受ける僧なんていやしない。小乗をへてから菩薩戒を受ける僧はいるが、このような別受菩薩僧なんていうのはいやしない。だから状に署名することはできないのだよ。」といわれて、光定は返す言葉がなかった。
光定は叡山に登って護命が最澄の状に署名することを許さなかったことを報告した。これを聞いた最澄は「僧都(護命)は一切経を読んでいないし、それに一切論疏も読んでいない。だから別受の菩薩僧はいなくて通受の菩薩僧はいるなんてことをいったのだ」といった。光定は「一切経を読むと別受の菩薩僧というのがいるというのでしたが、その僧の名を教えて下さい」といった。最澄は答えて「『諸法無行経』に喜根という名の比丘菩薩僧がでてくるし、『法華経』でも常に比丘菩薩を軽んじない」といった(『伝述一心戒文』巻中、一乗戒牒度縁捺大政官印文)。
護命は僧綱を通じて「四条式」のことを七大寺に達した。七大寺の僧侶らは、「一乗戒なし」「菩薩僧なし」「僧最澄の奏状に道理なし」と主張し、それぞれの状を殿上に報告した。『顕戒論縁起』によると、南都七大寺の反駁として「南都西大寺が僧統に進むる」1首、「南都東大寺が僧統に進むるの牒」1首、「南都大安寺が僧統に進むるの牒」1首、「南都薬師寺が僧統に進むるの牒」1首、「南都山階寺が僧統に進むるの牒」1首、「南都元興寺が僧統に進むるの牒」1首、「南都東大寺景深和上が進むるの論」1首があったことが示される(『顕戒論縁起』下巻目録)。彼ら僧綱・七大寺僧らの主張は玄蕃頭真薗雑物(当時は図書助か)が嵯峨天皇に報告した。しばらくもしない間に、良峰安世は七大寺の僧侶らの報告を返却したが、それについて良峰安世は、「四条式は護命僧都らに賜ったが、七大寺の僧侶たちに賜ったわけではない。」といって、僧綱が独断で七大寺に「四条式」に対する意見を募った事に対して不快の意をあらわした。そのことを玄番寮頭真薗雑物は護命僧都に告げたが、しばらくもしない間、護命僧都らは表啓の詞をつくり、七大寺の僧侶らの状を殿上に奉った。嵯峨天皇は内匠頭藤原是雄(?〜831)に勅して、最澄に護命僧都らの表啓をみせるため、状を文殿に置き、内匠頭藤原是雄はその詳細を光定に告げた。光定は叡山に登って最澄に報告した。最澄は光定に「今考えてみれば僧綱らの表啓を得ようとしているが、戒疏等が無い」といった。そのため光定は都に戻り、内匠頭藤原是雄に告げたところ、内匠頭藤原是雄は表啓等の文を光定に授与してくれた。そこで光定これをもって叡山に登って最澄にたてまつり、最澄はこれを見て『顕戒論』を撰述した(『伝述一心戒文』巻上、5、荷表与之四条式達殿上文)。
『顕戒論』は弘仁11年(820)2月29日に内裏に進上された。嵯峨天皇は勅して図書助玉作(真薗)雑物にあたえた。雑物は『顕戒論』を僧綱に送付した(『叡山大師伝』)。この『顕戒論』に対して僧綱側は、黙殺という最も消極的でありながら、早期の決着を目指す最澄をはじめとする天台教団にとって最も効果的な打撃を与えたのである。その後最澄は南都側の学僧徳一との熾烈な三一権実論争を繰り広げ、彼の残り少ない時間は徳一との論争についやされたのである。このように完全に停滞した大乗戒壇設立運動であるが、弘仁13年(822)にいたって事態は急展開することとなる。
最澄が示寂したのだ。
最澄の示寂と大乗戒壇設立勅許
弘仁13年(822)4月、最澄は諸弟子達に向って遺誡をのこした(『叡山大師伝』)。この頃には最澄は病に臥せっており、自身の最期の時を予感していたようである。5月13日には天台宗の今後の指針と管領する僧を定めた「付属書」をのこしている(『叡山大師伝』)。
最澄は6月4日に比叡山中道院にて示寂したが(『叡山大師伝』)、示寂以前に最澄は奏上を提出しており、その奏上の中で「それ如来が戒をさだめることは、機にしたがうものであって(つねに)同じというものではありません。衆生発心というものも、大小のまた区別があるのです。伏して望むところは、天台法花宗の年分度者2人、比叡山において毎年春3月(21日)の先帝(桓武天皇)国忌の日に、法花経の制によって得度・受戒させ、12ヶ年、(比叡)山を出ることをゆるさずに四種三昧(八条式参照)させ、修練を得させたい。そうすれば一乗の戒が定まり、ながく聖朝に伝わることでしょう。山林にて精進し、遠く塵劫(じんごう。はかることのできない長い時間)にすすめたい。」とのべている。この奏上は最澄示寂1日前の6月3日に裁可されている(『類聚国史』巻第179、仏道部6、諸宗、弘仁13年6月壬辰条)。最澄は『顕戒論』撰述後、その労力を三一権実論争に費やしてきたが、自身の末期が近くなると、その最後の力を大乗戒壇設立にむけたのであった。正式に戒壇院設立の官符が下されたのは最澄が示寂して一七日(7日後)にあたる6月11日のことであったが(『類聚三代格』巻第2、弘仁14年2月27日官符)、この勅許に尽力したのが藤原冬嗣・良峰安世・藤原三守・大伴国道の4人であったという(『叡山大師伝』)。
その6ヶ月後の弘仁14年(823)2月26日には比叡山寺は「延暦寺」の寺号を賜り、3月3日に延暦寺別当が設置され、藤原三守・大伴国道が別当に補任された(『叡山大師伝』)。同年3月17日の桓武天皇国忌日に天台宗年分度者によって2人を得度させた。しかしここで仁忠(生没年不明)と光定の間で論争がおこっている。問題の発端は天台宗の年分度者2人の勘籍をどのようにするかというものである。前述したように僧は得度すると民部省の戸籍を脱して、玄蕃寮の僧籍に入れられることとなっていた。最澄は天台宗では僧綱の支配を脱するため、僧を僧綱およびその上位官である玄蕃寮の管轄下におかないことを主張し、また菩薩僧は国家の直接的管轄を経ないように玄蕃寮の僧籍に入れず、民部省の戸籍のまま菩薩僧とすることを主張してきたのである。しかし実際に得度した僧を、玄蕃寮の僧籍に入れて領知するのか、あるいは民部省の戸籍のまま天台宗にて領知するのかという問題が、大乗戒壇設立の勅許がおりたことによってにわかに発生したのである。
仁忠は「玄蕃寮は2人の度者(得度者)を勘籍する」と主張したのに対して、光定は「『顕戒論』には‘天台宗の2人の度者(得度者)は、僧籍に預からず、僧統(僧綱)に属さない’とあるのであるから、どうして玄蕃寮が勘籍のことを領知するようなことがあろうか」と主張した。光定は自身の主張通りに事を進めるため、参議伴国道に対して「去る弘仁元年(大同5年、810)に法師光定が勘籍の時、治部省は允・録2人、民部省は允・録2人のそれぞれが交わって勘籍を作成しました。よって、延暦寺別当は太政官の左中弁にあって、民部省の允・録の2人を召して、天台宗度者の籍を勘しようとすれば、必ずこの事はなるでしょう」と主張した。伴国道は聞きおわって、民部省に対策を指示した。民部省は「官符を下して勘籍を作成すべきです」といった。これをうけて延暦寺別当権中納言藤原三守と大伴国道の2別当は殿上に達して勘籍の官符を民部省に下した。それより以後、天台宗の年分度者2人は、勘籍の日に官所に赴かず比叡山にて度縁(得度証明書)を得ることとなった(『伝述一心戒文』巻中、年分度者勘籍之事申下民部文)。
また度縁を授けるの日、別当大伴国道は「太政官の印を度縁(得度証明書)に捺して、戒牒(受戒証明書)には捺さない」といった。光定は「護命僧都は先師(最澄)と菩薩僧のことで諍いした時にこのように考えていました。(敵対する護命がそう考えていたのだから)印を戒牒に捺さないことにすれば、後代比叡山にて受戒する事は成就しなくなるでしょう。今なすべきこととしては戒牒・度縁に太政官の印を捺印して一宗の僧らに授与すべきです。しかる後に大乗の寺を建てることができるのです」といった。大伴国道はこのことをうけて、殿上に奏上し、度縁・戒牒に太政官の印を捺すこととなった(『伝述一心戒文』巻中、一乗戒牒度縁捺太政官印文)。
同年(823)4月14日、義真を一乗戒和尚として、14人が菩薩大戒を授けられた(『叡山大師伝』)。最澄が存命していた時に、最澄は「必ず戒和上とするのは、具さに血脈のごとくにしなさい」といっていた。そのため最澄とともに入唐して血脈を受けた義真を戒師としたのであるが、この時も仁忠は「この師(義真)用いてはならない。雑の咎があるだろう」といって反対した(『伝述一心戒文』巻中、大皇御筆書一乗戒牒文)。この授戒は根本中堂の薬師像の前で行なわれ、義真が伝戒師、円仁が教授師となっている(『慈覚大師伝』)。菩薩大戒律を授けられた14人のうちの1人が光定であり、光定は「三筆」の一人に数えられる嵯峨天皇揮毫による宸筆の戒牒を賜るという栄誉を受けている。戒牒は嵯峨天皇が冷泉院にて書したもので、舶来の縦簾紙に揮毫され、太政官印が捺される。なおこの2日後の16日に嵯峨天皇は皇太弟(淳和天皇)に譲位している。戒牒は延暦寺が蔵して現存している(国宝)が、文化年間(1804〜18)に彦根藩主井伊直中(1766〜1831)より叡山根本中堂に納められたものである(『天台霞標』2編巻之2、別当光定大師、受菩薩戒牒)。それ以前の所蔵は不明だが、代々延暦寺にあったものが、信長の比叡山焼打によって山外に流出し、地縁によって彦根藩井伊家が所有していたものであろう。
太政官印の経緯であるが、光定は大伴国道に対して「太政官の印を「受菩薩戒比丘光定」の字の上に捺して下さい」といった。大伴国道は「何の文によってそうしようというのだ」と聞いたため、光定は「義真大徳が大唐で受戒した戒牒によるのです」と返答した。そこで光定の意見が用いられ、嵯峨天皇宸筆の戒牒の文の上に太政官印が捺された(『伝述一心戒文』巻中、一乗戒牒度縁捺太政官印文)。
このようにして最澄悲願の大乗戒壇設立が成し遂げられたのである。
戒壇院建立
弘仁9年(818)4月26日に最澄が九院を定め、そのなかに戒壇院が含まれていることは前述した。また同年7月27日には十六院を定め、戒壇院を「菩薩戒壇院」とし、義真を別当に、光定を知院事としたが(『叡岳要記』巻上、十六院)、これらのことは大乗戒壇設立以前のことであるから内実は伴っていなかった。
天長4年(827)5月2日、太政官は近江国に官苻を下して戒壇院を建立した。建造物は桧皮葺の5間(9m)四方の戒壇堂1宇で、戒壇堂の上に金銅の覆鉢があり、鉢の上には宝形を置いた。戒壇堂の内部には壇1基あり、高さは6尺7寸(201cm)、長さは2丈8尺(8m40cm)、広さは2尺(60cm)であった。尊像を安置する壇は板敷で、長3丈6尺(10m80cm)、広さ3尺(90cm)であり、高さ3尺(90cm)の金色釈迦牟屈仏像1体を安置した。ほかに綵色の比丘像と文殊・弥勒菩薩像がそれぞれ1体あり、高さ2尺5寸(75cm)であった。
戒壇堂の後方には5間(9m)の看衣堂1宇と、3間(5m40cm)の昇廊が東西にそれぞれ1宇、廻廊が1廻あった。廻廊は東西の長さ14丈(42m)、南北の長さ12丈(36m)があり、3間(5m40cm)の中門1宇に接続した(『山門堂舎記』戒壇院)。
この戒壇院建立事情について、光定は以下のように記している。
最澄示寂後、良峰安世は「わが心は叡嶺にある。仏家に託生したい」と常々語っていた。そのため良峰安世は叡山に登って大師の影(最澄の肖像)に礼拝したのであるが、光定はそれを見て不覚にも両目より涙を落とした。良峰安世もまた両目より涙をながしていた。この時良峰安世は一夜叡山に留まった。光定は「東大寺の戒壇は小乗の壇であるとはいえ、厳清なること無比であります。登壇受戒の師らは、恭敬すること仏のようであり、また灌頂壇に入れば本尊を得ようとします。彼の心は謹厚で、ほかの思いなどなく、また雑念もありません。今、この受戒(大乗戒壇)は壇もなく堂もありません。大乗戒を受けるとはいえ、恭敬(の心)はあつくありません。それゆえに壇・堂を建立したならば、賢納言(良峰安世)大恩の力(といえるでしょう)」といった。良峰安世は「わたしは高官の任にあるとはいえ、勢力はありません。そうとはいえ力にしたがって許しが出るようにしましょう」といった。光定はよろこび、義真が証人となった。
この月、光定は冷然院に参じた。美作守藤原是雄は「わが師(嵯峨天皇か)は慇懃に語を憂い(意味不明)、戒壇堂の宣旨は昨日太政官良峰右大将(安世)に下りました」といった。淳和天皇は戒壇院建立のため料稲9万束を近江に下させている。これをうけて光定は参議伴(大伴)国道を太政官曹司に訪ねた。伴国道は「戒壇の宣旨は下った。5間(9m)の堂1宇をつくるべし」といった。光定は「戒和上が待気するために細殿をつくるべきです」といった。伴国道は「細殿は無用である」といったが、光定は「もし細殿がなかったならば、風雨がある時、かの日(授戒の日)どこに宿ればよいのでしょうか。だから細殿をつくるべきなのです。また更に宣旨下して、細殿を作り加えるべきです。勅使1人来宿するために、5間の桧皮葺1宇の南北に庇を作るべきです。勅使の従者のために、7間の板屋を作るべきです」といった。これは義真の考えであったという(『伝述一心戒文』巻中、造戒壇講堂料九万束達天長皇帝下近江国文)。
初期叡山の内部抗争と光定
戒壇院の建立が成就したことは以上に見た通りである。光定が大乗戒壇設立に尽力した結果であり、そのため光定は後世天台宗において「別当大師」と尊敬を集めた。その一方で光定は初期叡山の内部対立に深く関わり、政界の人脈を駆使してその都度干渉を加えた。この対立は必ずしも戒壇院とは関係ないが、光定の後半生を語る上では欠かせないものであるから、以下にのべよう。
叡山内部の対立の発端は最澄の後継者指名に端を発する。弘仁3年(812)5月8日、最澄は病となったらしく、遺言を記した。遺言では最澄示寂後の後継者として泰範を山寺惣別当に、伝法座主を円澄に指名した(『伝教大師消息』)。
しかし最澄は10年後、示寂の約2ヶ月前の弘仁13年(822)4月15日、示寂を予知して天台の法ならびに院内の惣事を義真に付属し(『伝述一心戒文』巻下、造一心戒文達承和皇帝上別当藤原大納言成弁寺家伝戒文)、その1ヶ月後の5月15日の付属書で最澄は、天台一宗を先帝(桓武天皇)の公験により義真に授け、「比叡寺印」の印文をもつ比叡寺の私印を授けている。また上座仁忠に院内の事を付属した(『叡山大師伝』)。
このように最澄は弘仁3年(812)の遺言で泰範・円澄を後継者指名しているが、弘仁13年(822)の付属書では義真を後継者指名している。泰範はのちに最澄から訣別して空海の弟子となり後継者指名は事実上解かれた形となっていたから、泰範が弘仁13年(822)の付属書に名前がみえなかったことは理解できるにしても、弘仁3年(812)の段階で後継者指名されていなかった義真が、何故弘仁13年(822)になってから後継者指名されたのか、疑問にのこるところである。
この事情について光定は、「最澄法師には2人の弟子がいた。彼の弟子は義真と円澄である。義真法師は上臈で、円澄法師は下臈である。去る弘仁3年(812)最澄法師は病床にあり、その年5月に付法印書を円澄法師に授けられた。弘仁4年(813)義真法師は相模国(神奈川県)より叡嶺(叡山)にやってきて寄在した。義真法師は上臈で、円澄法師は下臈であった。同じく弘仁13年(822)付法の印書を義真法師に授けられた。その時光定は『付法の書を2師(義真と円澄)に授けられましたが、どの師を首(あるじ)となさるのですか』と問うた。最澄法師は『上臈の師を衆の首(あるじ)とすべきである』と答えられた」と記している(『伝述一心戒文』巻下、造一心戒文達承和皇帝上別当藤原大納言成弁寺家伝戒文)。つまり最澄が病床にいた弘仁3年(812)の段階で、義真は相模国にいて叡山にいなかったが、翌弘仁4年(813)になって叡山に「寄在」したことが知られる。義真は最澄とともに入唐しており、そのことから最澄の弟子ではなく「同学」とみなされたとされる。
最澄示寂後の叡山の経営は弟子達が一丸となって運営されるかにみえたが、比叡山寺が「延暦寺」の寺号を賜った弘仁14年(823)、延暦寺別当大伴国道が「先師(最澄)の風を行うべし」と光定に命じたことから、叡山内部の抗争の火種となった。比叡寺が官寺化して「延暦寺」となったため、官寺として管理するための必須条件である上座・寺主・都維那の三綱を任命する必要性に迫られたのである。そこで光定は「円澄大徳を延暦寺の寺主に任じましょう」といったが、仁忠は承諾しなかった。また光定は「義真大徳を延暦寺の上座に任じましょう」といったが、これまた仁忠は承諾しなかった。仁忠が示寂した後、天長年間(824〜34)になってから光定は「義真大徳はまさにこの事(最澄の後継)を行なうべきです」といった(『伝述一心戒文』巻上、荷顕戒論達殿上文)。光定は最澄の言葉にしたがって、三綱の最上位の上座に義真を、第2位の寺主に円澄を任命させることで、最澄の遺志にしたがおうとしたが、それ以前に仁忠が上座となっていたため、仁忠は立場上、光定の提案を拒否せざるを得なかった。また仁忠は義真の戒和上となる時、「この師(義真)用いてはならない。雑の咎があるだろう」といって反対した(『伝述一心戒文』巻中、大皇御筆書一乗戒牒文)ことは前述した通りであるが、「雑の咎」というのは義真が最澄の生粋の弟子ではなく、仁忠のような生粋の弟子からみればよそ者にみえたからであるという(仲尾1993)。義真は天長元年(824)6月22日に初代の天台座主となり、名実ともに最澄の後継者となった。
天長10年(833)7月4日に義真が示寂した。義真は院内の雑務を弟子の円修(生没年不明)に授けており、円修は座主を私号した(『天台座主記』巻1、1世義真和尚、天長10年7月4日条)。その月の下旬、奈良に滞在していた光定は叡山に登って、円修および三綱の道叡(生没年不明)・乗天(生没年不明)・戒宣(生没年不明)と談話し、義真より伝法したかどうかを問いただした。義真の臨終の様子を円澄と光定が聞いていなかったため、円修が実際に伝法したかを怪しんだ円澄と光定は、円修が座主となることに猛然と異議をとなえた。とくに光定は弘仁3年(812)に最澄が付法印書で円澄を後継者指名したことを重視して、義真示寂後130日間、伝法の首(あるじ)は定まっていないが、円澄こそ伝法の首に相応しいと主張して、天長10年(833)10月24日付の大納言藤原三守宛の書状を記している(『伝述一心戒文』巻下、造一心戒文達承和皇帝上別当藤原大納言成弁寺家伝戒文)。光定の朝廷への強力なロビー活動の結果、勅使和気真綱(783〜846)が叡山に登り、円修の座主職を停止させた。このため円修は大和国室生寺に追放され(『天台座主記』巻1、1世義真和尚、天長10年7月4日条)、承和元年(834)3月16日、円澄を伝法師とする右大臣宣が下され、円澄が第2世天台座主となったのである(『天台座主記』巻1、2世円澄和尚、承和元年3月16日条)。
光定のその後については、最後にのべることとして、戒壇院のその後について箇条書的にみていこう。
戒壇院のその後
貞観7年(856)3月15日、年分度者は2箇年を経て、臨時度者は3箇年を経て、その後に受戒させるという新制度が定められた。これに対して延暦寺は異議を官に申し立て、得度した年に授戒することを申請した。貞観8年(866)閏3月16日の官苻によって年分度者は申請の通りとなったが、臨時度者は得度3箇年を経てから授戒することとなった(『類聚三代格』巻第2、寛平7年10月28日官苻)。
貞観16年(874)11月29日、延暦寺別当小槻今雄は上宣を蒙り、木工寮に仰せて中門の軒廊を造営させた(『叡岳要記』巻上、戒壇院)。
寛平7年(895)3月7日、太政官は延暦寺に対して、天台宗の臨時の度者は、寺家は詳細に官符に月日・依止(えじ。僧が得度して、依りたよって監督を受ける先輩の僧)・師主(師匠)を記入して、2月以前に直接官に申送し、3月の内に授戒させるよう規定した。しかしこの頃になると延暦寺の年分度者は全部で10人に増加しており、2人は大小比叡両神分として3月17日の試度(得度試験)で、また2人は賀茂・春日両神分として3月25日に試度することになっていることから、3月に試度が実施される4人の年分度者は、3月中の授戒が困難となっていた。そこで延暦寺は、授戒日を4月15日以前に定め、また臨時度者と年分度者は同日に受戒させ、あわせて4月16日に夏安居の結縁を結んで国家を鎮護することを申請し、寛平7年(895)10月28日に官苻が下されて裁可された(『類聚三代格』巻第2、寛平7年10月28日官苻)。
天慶3年(940)2月10日、近江国は栗太郡500束、神崎郡1,500束のあわせて2,000束を天慶2年延暦寺戒壇院燈分料の稲として出挙している(『叡岳要記』巻上、戒壇院)。
延長5年(927)4月18日、延暦寺での授戒のうち、延暦寺僧の授戒と他寺僧の授戒で混乱をきたすため、これ以後、初日を延暦寺の戒日とし、後日を他寺の戒日とした(『叡岳要記』巻上、戒壇院)。
永保2年(1082年)10月、戒壇院の中門を改築し、文殊楼の修理を行なっている(『天台座主記』巻2、36世法印権大僧都良真、永保2年壬戌10月条)。また翌年永保3年(1083)7月に戒壇院の四面廻廊を新造している(『天台座主記』巻2、36世法印権大僧都良真、永保3年癸亥7月条)。
天治元年(1124)9月には、屋根を桧葺に改めている(『天台座主記』巻2、45世僧正法印仁実、天治元年甲辰9月条)。
文永元年(1264)3月23日、天王寺別当職が園城寺に附されること、および丹波国出雲社の神人殺害に端を発して山門の大衆が蜂起し、大衆が敗北したが、25日、延命院が放火され、類焼して戒壇院・講堂・鐘楼・四王院・法華堂・常行堂・八部院等が焼失した。戒壇院の本尊は西谷の千手堂に移された。戒壇院は10月23日に再建を開始し、11月2日に棟上している(『天台座主記』巻4、83世無品最仁親王、文永元年甲子3月23日条〜11月2日条)。
文永3年(1266)8月18日、京都と西国一円に暴風雨が猛威を振るい、暴風雨は東堂にも襲かかり、戒壇院の新造したばかりの中門・廻廊が顛倒している(『天台座主記』巻4、84世前大僧正澄覚、文永3年丙寅8月18日条)。翌文永5年(1268)10月13日には大衆が戒壇院の後の木を伐採したところ、倒れてきた木が戒壇院の本堂と看衣堂を直撃し、顛倒させている(『天台座主記』巻4、85世尊助親王、文永5年戊辰10月13日)。
永仁6年(1298)9月19日夜、放火による延焼のため、戒壇院が焼失した。この事件は叡山内の争いによるものであった。前年の永仁5年(1297)8月に北谷住学生である理教房性算(生没年不明)が座主尊教(1249〜?)の恩寵によって勢力を拡大しており、叡山は性算一派の支配下に置かれつつあった。同じく北谷の学生である円恵(生没年不明)は性算の勢力拡大を憂慮して公家・武家に訴えたが、性算は訴訟を揉み消した。円恵は都率谷の住侶である承玄(生没年不明)らとともに八王子に閉篭し、周囲に逆茂木を設置して武装し、参詣者の足止めし、「三千衆徒の鬱訴」と称して座主の政務を妨害した。これに苦慮した性算らは公家・武家に訴えるとともに、16日には座主の門徒とともに八王子に閉篭する円恵・承玄を襲撃して両者を生け捕りとし、武家に引き渡した(『天台座主記』巻5、99世前大僧正尊教、永仁5年丁酉8月条)。翌永仁6年(1298)9月17日には円恵・承玄の弟子20余人は甲冑を帯びて北谷の性算の住房を襲撃した。政所の辻にて合戦となったが、円恵・承玄の弟子20余人は散々に敗北して、19日亥刻(午後9〜11時)、退却する途上に大講堂の軒下やそのほか3ヶ所に放火し、戒壇院・大講堂・文殊楼・四王院・法華堂・常行堂が一夜のうちに灰燼と化してしまった(『天台座主記』巻5、99世前大僧正尊教、永仁6年戊戌9月17・19日条)。この年10月13日には後宇多上皇がひそかに叡山に登って諸堂が灰燼と化した様相を視察しているが、山門滅亡を嘆いたための行動であったという(『天台座主記』巻5、99世前大僧正尊教、永仁6年戊戌10月13日条)。この事件の余波は翌正安元年(1299)まで続き、衆徒が座主・妙法院門徒と合戦に及ぶ事態にまで悪化した。幕府は放火の下手人をあばいて問題を解決するための使者を上洛させた。裁定によって門跡は山務に付せられ、所領は法華堂・常行堂の料所となり、性算は投獄された(『天台座主記』巻5、99世前大僧正尊教、正安元年己亥4月1日条)。
戒壇院は元亀2年(1571)9月12日の信長による比叡山焼討ちによって壊滅した。現在の建造物は延宝6年(1678)の建立で、重要文化財に指定されている。建物は石積みの基壇の上に立つ方3間の建造物である。ただし一重裳階(もこし)がついているところから、外観は方5間(12m33cm)、二重の建造物にみえる。内部中央3間に石壇を築いて戒壇とする。屋根はとち葺で、上屋屋根正面に唐破風がつく。戒壇院の再建にあたっては、九州肥後国(熊本県)沙門某が、一国(肥後国)を勧請して廻って再建の費用を集めたものである(『天台霞標』3編巻之3、正覚豪盛僧正、延暦寺戒壇再興縁起)。
光定の後半生
光定は回想録的著作である『伝述一心戒文』を承和元年(834)に擱筆している。承和2年(835)に内供奉十禅師に補任された(『延暦寺故内供奉和上行状』)。同5年(838)4月2日に伝灯大法師位に叙され(『日本文徳天皇実録』巻10、天安2年8月戊戌条、光定卒伝)、延暦寺の戒和上となった(『延暦寺故内供奉和上行状』)。
嘉祥元年(848)7月15日、嵯峨天皇の国忌日に光定は実敏(788〜856)・願勤(生没年不明)・道昌(798〜875)とともに清凉殿において法華経を講じた(『続日本後紀』巻18、嘉祥元年7月壬申条)。同3年(850)2月22日、光定は三論宗の少僧都実敏・法相宗の明詮(809〜68)・総持門大法師円鏡(生没年不明)とともに清凉殿にて座主となり、3ヶ日に限り法華経を講じた。この時仁明天皇は御簾を隔ててこれを聴いていたという(『続日本後紀』巻20、嘉祥3年2月辛未条)。同年12月16日、光定の表講のため、勅があって天台宗に止観業の年分度者2人が加えられた(『延暦寺故内供奉和上行状』)。
天台座主は承和3年(836)10月26日に円澄が示寂して以来、任ぜられなかったが、仁寿4年(854)4月3日に円仁が第3世天台座主となるとともに、光定は延暦寺別当に補任された(『天台座主記』巻1、光定和尚、仁寿4年甲戌4月3日条)。これによって光定は「別当大師」と尊称される。また同年四王院を建立した。
天安2年(858)7月、文徳天皇は光定が80歳になったのを聞いて、80歳に因んで度者8人、あしぎぬ80疋、調布・商布・交易布それぞれ80段、綿80屯、銭800貫、米80石を賜った。同年8月10日、延暦寺八部院の坊にて示寂した。享年80歳(『延暦寺故内供奉和上行状』)。
光定は人となりが質直で、服飾につかえなかったため、天皇はその質素をよろこび、ことさらに憐遇を加えたという(『延暦寺故内供奉和上行状』)。その一方でその性格は苛烈で、真苑雑物と宮中において激しい論議を行ない、嵯峨天皇に両者の応酬をからかわれて俳優に真似をさせられるほどであった(『日本文徳天皇実録』巻10、天安2年8月戊戌条、光定卒伝)。また仁明天皇が戯れに「そもそも止観宗(天台宗)というのは、真言の道を称揚するものだ」といったため、光定は怒って「我ふたたび参らず」といって階(きざはし。宮中)を下りて比叡山に帰ってしまい、天皇が試しに召し還そうとしても、さらに怒って戻らなかった。それでも天皇は甚だ愛咲したという(『延暦寺故内供奉和上行状』)。光定が大乗戒壇設立に尽力し、その設立にこぎつけたという多大な功績を残しながら、一方で、叡山内部の対立でも宮中の人脈を駆使して干渉を行ない、叡山の内部対立抗争の悪しき伝統の濫觴を築き上げてしまった。なお、この光定を、同じく最澄の弟子で、そのもとを去った泰範(生没年不明)と同一人物とするむきもあるが、これは醍醐寺本『諸寺縁起集』以来、『弘法大師十大弟子伝』・『高野春秋編年輯録』・『本朝高僧伝』と受け継がれた妄説である。
別当大師廟は浄土院の裏手にある。別当大師廟に関しては、円珍の『行歴抄』天安3年(859)正月23日条に「(前略)山王院より浄土院に参じて、拝して先大師(最澄)の霊に謝す。次に拝して故別当大徳(光定)の墳に謝す。浄土院より過ぎて西塔の肥前の前講澄ギ(りっしんべん+豈。UNI6137。&M011015;)和上の院に至る。(以下略)」とあるように、円珍が帰朝報告として諸師の墳墓を廻った際に、浄土院の付近にある「別当大徳の墳」に礼拝したことが知られる。後のことではあるが、貞観6年(864)正月13日の円仁の遺誡に「この山上に諸人の廟を造ることなかれ。ただ大師の廟を留むるのみ。」とある(通行本『慈覚大師伝』)ように、「廟」は浄土院の最澄廟のみであり、ほかの先師である義真・円澄・光定は「墳」扱いであったことが知られる。のちに貞応3年(1224)8月8日に仁全法眼が執当して別当大師廟を棟上しているが(『天台座主記』巻3、73世大僧正円基、貞応3年甲申8月8日条)、この時なってはじめて廟として整備されたのであろう。
なお、かつて「別当大師堂」と称されていた建造物が比叡山山麓の坂本に位置していた。詳細な場所をいうと、日吉大社参道口の二の鳥居前の30mほど北へ行った東側、大将軍神社と市殿神社との間に位置していたのである。現在は比叡山上横川の都卒谷に移され、恵心堂と呼ばれる。建物は3間の宝形造、瓦葺の建造物で貞享5年(1688)の建築である。坂本にあった時には内部に別当大師(光定)像とされる像が安置されていたが、これは本来は大黒天像であり、光定とは無関係であった。本来光定とは無関係なこの堂が「別当大師堂」と呼ばれていた所以は、堂がかつて生源寺伴に属する公人達の集会場所で、山王講などの信仰的催しを行なった場所であったことによる。彼ら公人の最長老を「三院別当」と称し、他の公人組織の役職名にも「別当」の呼称があったのであるが、「別当」達が集まる堂が、いつしか別当大師の称号とを混同するようになって、「別当大師堂」と称されたとみられている(景山1978)。
比叡山上の別当大師廟には、光定の功績をしのぶかのように、周辺は清掃されており、小さな花が捧げられている。 
山王院 

山王院は東塔の惣持院の西方に位置する小堂です。見た目は、まるで田舎の小高い丘にあるひなびた神社のようです。ここは智証大師円珍(814〜91)の住房であったことで知られています。
山王の起源
延暦4年(785)7月中旬、最澄は寂静の地を求めて叡山に昇り、草庵を構えてそこに住した(『叡山大師伝』)。奈良時代末期より平安時代初期にかけて、寺院より離れて人里離れた深い山中に草庵を構えて住む僧が多くなっていった。最澄のその一人であるが、最澄が叡山に構えた草庵は、後に延暦寺という巨大寺院へと発展していくのであるが、この時は山にわずかな建物があるだけの存在でしなかった。それでも最澄在世中より叡山の伽藍は増加していき、しだいに寺院としての体裁が整ってくるようになっていった。
最澄は弘仁9年(818)4月26日、九院を定めたが、その九院には止観院・定心院・惣持院・四王院・戒壇院・八部院・西塔院・浄土院とともに山王院が含まれている(『叡岳要記』巻上、九院)。その5日前の4月21日に最澄が記した「弘仁九年比叡山寺僧院等之記(日本国大徳僧院記)」(園城寺蔵)の中で「仏法を住持し、国家を護らんがために、十方一切の諸仏、般若菩薩、金剛天らの八部護法善神王ら、大小比叡と山王眷属、天神地祇、八大名神、薬応、薬円、心を同じうして大日本国を護り(後略)」と述べている。ここで最澄は他神とともに「山王眷属」をあげ、「山王眷属」が護国に利することを主張している。
ここで突然「山王」となるものが登場するのであるが、この「山王」はもともと日本にあった概念でも、最澄が創始した概念でもない。最澄が入唐した際に入寺した国清寺には「地主山王元弼真君」なる祠があったという。これについて熙寧5年(1072)に入宋した成尋(1011〜81)は天台山に参詣した時の見聞として以下のように記している。
「次に地主山王元弼真君に礼拝した。真君は周の霊王(前571〜前545)の子で、王子晋といい、寺は王子の邸宅であった。王子は仙人となってから数百年を経て、智者大師に謁見して受戒し、地(天台山)に付属した。あたかも日本天台の山王のようである。『天台記』に“真人は周の霊王の太子喬であり、字は子晋。笙を吹くことを好み、鳳凰が鳴くような音をたてた。伊洛(伊川と洛陽。現在の河南省一帯)の地にいる間、道人浮丘公に接し、嵩山に登ること30余年後、その行方はわからなかった。たまたま白鶴に乗り、その時代の人に(出会って)謝して去った。この時真人は桐柏真人・右弼王・領五岳司といった仙官に任命され、帝に侍って治華山に来た”とある」(『参天台五台山記』巻第1、熙寧5年5月14日癸巳条)。
真君は『列仙伝』にも伝がある道教の神であるが、成尋は真君を「あたかも日本天台の山王のようである」としている。この真君について、唐の元和年間(806〜20)に記された天台山に関する伝記・地誌集である『天台山記』に「塘より南1里、洞門に至り、門外の西南1里余で、王真君の壇に至る。真君はすなわち桐柏真人である。小殿があり即ち真君の儀像がおごそかである。開元年間(713〜41)の初め、玄宗皇帝がこれを創立した。道士7人を得度させ清掃し水を打つことをさせた」とあるように、最澄が入唐する60〜90年ほど前に玄宗皇帝によって王真君壇が建立されていることが知られる。後唐朝(923〜36)の天台山僧の従礼は、真君を祀ることを在家の人に薦めた時、真君の説話を語った上で、「そのため天台山の僧坊・道観(道教の寺院)では、みな右弼(真君)の形像をつくって、香果(かくのみ)を捧げるのだけなのである。これより俗間は号して山王土地とすることは非なることである」(『宋高僧伝』巻第16、明律篇第4之3、後唐天台山福田寺従礼伝)とあるように、天台山では真君の塑像をつくって祀ることが盛んであり、真君は「山王」と称されていたことが確認される。
このように最澄は中国天台山における「山王」、すなわち真君祠にならって、叡山においても山王を比叡寺(のち延暦寺)に祀ったものであった。しかし中国天台山が山王を道教の神としたのに対して、最澄は日本の国情にあわせて、地神の日吉の神を山王として信仰した。のちに「山王信仰」として日吉の神々に対する信仰は形成されていったが、山王院の位置づけは明確にされなかったようである。
山王院の建立
弘仁9年(818)4月26日、最澄は九院を定め、そのなかに山王院が含まれており(『叡岳要記』巻上、九院)、最澄の九院設立構想の中に山王院が位置づけられていた。しかし同年7月27日に十六院を定めた時には山王院はみえていない。
山王院には5尺(150cm)の千手観音立像1体と聖観音像1体が安置されており、建造物は桧皮葺の5間堂であった。これは仁寿年間(851〜54)に藤原基経(836〜91)がもと板葺であった堂を桧皮葺の新堂に改めたものである(『山門堂舎記』山王院)。
山王院の建立についての詳細はわかっていないが、『叡岳要記』・『山門堂舎記』には山王院の建立縁起として、3説話を掲載しており、それぞれが異なった内容となっている。以下に3説話を掲げておく。
1 養老6年(722)正月に稽首勲が千手観音像を造立したが、天平宝字元年(757)12月18日にこの像は天に飛び去ってしまった。丑寅(東北)の方角の高峰に落雷があり、天皇は勅使を丑寅の高峰に遣わした。この仏像は木の根本に安座しており、取り出そうとしたものの、この仏像は動かなかった。勅使は力及ばず、空しく帰ってこの旨を上奏した。天皇は聞いて、これより以後は取り出してはならないと命令した。延暦4年(785)、最澄が叡山に登った時、草庵を結んでこの千手観音像を安置した。その後、山王院の号を宣下された(『叡岳要記』巻上、山王院、所引尊敬記)。
2 伝教大師(最澄)が三輪明神を勧請して鎮守とした(『叡岳要記』巻上、山王院、所引山王院縁起逸文)。
3 叡山に最澄が草庵を構える以前、近江国に一人の信女がおり、道心は甚だ深く、信じる力は堅固であり、六道衆生に利益せんがために6体の観音を造立することを願っていた。時に比羅山に光を放つ木があった。彼女は夢に瑞相をみて、ついで霊木を伐採した。後に一老父がやってきて、「我まさに汝の願うところの像をつくらんと欲す」といって、江(琵琶湖)のほとりまで材を曳き、山頂に斧を運んで彫刻した。日を経ないうちに完成したが、老夫は見えなくなっていた。(この観音は)六観音の一つである(『山門堂舎記』山王院、耆旧相伝)。
また三善為康(1049〜1139)によって永久4年(1116)に編纂された文章集である『朝野群載』のなかに年未詳の「山王院千手堂住僧等曜知識文」が載録されている。そこにみえる説話は3にみえる説話とほぼ同様であるが、そこでは仏像が千手観音となっている(千手観音は説話1)ことと、「智証大師(円珍)が入唐求法して帰朝した後、この堂にて灌頂の事を修せられた。これよりはじめて山王院千手堂と称す」(『朝野群載』巻第17、仏事下、山王院千手堂住僧等曜知識文)と記載されることから、最澄の九院構想を始源とする記事を否定して、円珍が灌頂を行なった貞観2年(860)に山王院の号がはじまったものであり、1と3の説話は本来は聖観音と千手観音間の元来一つの縁起であったものが、千手観音の縁起と聖観音の縁起に分かれてしまったという説がある(菅原1992)。
しかし山王院と千手堂の関係について、明確でない部分が多い。延長3年(925)4月28日の「園城寺公文勘注文」(園城寺文書、平安遺文221)には「山王院地請文」2通と「千手堂判文」1通の存在が示されており、山王院と千手堂が別個のものであったことが確認され、千手堂が山王院となったという説は否定される。
文永4年(1267)以前に成立した延暦寺の寺誌である『叡岳要記』の千手院の項目では「今の千手堂これなり。今は園城寺にあり」と述べた上で、「桧皮葺5間、本願は伝教大師。千手観音・聖観音像1体を安置す」とあるように、千手堂は山王院と同一であるとは述べておらず、『叡岳要記』の記された「今」(1267以前)には園城寺にあると述べている。それに対して元亨4年(1324)に杲鎮の延暦寺寺誌に関する口述を筆記した『九院仏閣抄』では山王院について、「惣持院の西方にあり。本尊は千手観音。今は千手堂と号す」とあるように、山王院は現在では千手堂と号すると述べている。この両者の記事のどちらが正しいのか、これだけでは判別しがたい。
京都国立博物館蔵「東塔絵図」(鎌倉時代)では画面左側に「山王院」とあって、桧皮葺の間数不明の建造物がみえ、その前方に桧皮葺の建造物2軒、3間の板葺の建造物1軒の計3軒の建造物が描かれる。そのさらに左方には「千手□」とある桧皮葺の5間の建造物1軒が描かれる。この「千手□」が千手堂だとすると、『叡岳要記』が記す桧皮葺5間の建造物に近いが、『叡岳要記』が述べるように園城寺には移転しているわけではなく、「東塔絵図」では千手堂は山王院付近に位置していることが確認される。また『九院仏閣抄』が記すように山王院と同一ではないことも確認されるのである。これらが意味するところは明確ではないが、あるいは山王院内にあるいくつかの建物の一つに千手堂があったということがいえるのかもしれない。
智証大師円珍
山王院を智証大師円珍が住房としていたことは前述した通りである。ここでは智証大師円珍について略述する。
智証大師とは円珍示寂後に朝廷より賜った諡号である。円珍は、俗姓は因支首で讃岐国那珂郡金倉郷(香川県丸亀市)の人である。父は宅成といい、母の佐伯氏は空海の姪であった。弘仁5年(814)に誕生した。幼い頃から才を示したため、15歳の時に叔父である僧仁徳にしたがって叡山に登り、義真の弟子となった。19歳の時、年分度者の制によって得度し、天長10年(833)4月15日に授戒した。授戒の後は最澄が定めた『山家学生式』の規定にしたがって12年篭山した。
その間承和5年(838)冬、石龕にて坐禅している時、たちまち金人が現われて「お前はまさに我が形を図画して慇懃に深く信仰しなさい」といった。円珍が誰何すると、金人は「我はこれ金色の不動明王である。我は法器(仏法を受ける素質をもつ者)を愛するから、常にお前の身を擁護しよう。お前は早く三密の奥儀をきわめて、衆生の舟航となりなさい」といった。円珍はその形を熟視してみると、容貌は魁偉・奇妙で、威光は火が燃え上がるように盛んで、手には刀剣を持っており、足は虚空を踏んでいた(空中浮遊のこと)。そこで円珍は画工にその蔵を写させた。像は今でもある(『天台宗延暦寺座主円珍伝』)。この像こそ園城寺に伝わる秘仏「黄不動」であるといわれている。円珍にはこのような霊験説話が多い。
12年篭山が終わった後、経論をきわめ尽くしてしまい、疑問があってもそれを教えることが出来る人がいなかった。そのため円珍は入唐留学に想いを馳せるようになった。承和14年(847)正月、大極殿吉祥斎会において、法相宗の明詮(789〜868)と激しい論戦を行なった。そのため円珍の名は朝野に轟くこととなった。
嘉祥3年(850)春、夢に山王明神が現われて、「公(円珍)は早く入唐求法の志を遂げなさい。留まってはならない」と告げた。円珍は「そのうち請益闍梨和尚の仁公(円仁)が三密をきわめて本山(叡山)に帰着されるでしょう。今さらどうしてせわしくも航海に出ようとすることがありましょうか」と答えた。神は重ねて「公(円珍)の言葉のようであったら、世の中の人が多く髪を剃って僧となっているのに、公(円珍)はどうして昔にせわしくも剃髪の志をとげたのか」といった(『天台宗延暦寺座主円珍伝』)。翌年春に明神は重ねて入唐をすすめたため、円珍は入唐を許諾した。そこで円珍は入唐の意志を上表したため、天皇は深く感じ入って入唐を許可した。また円珍は太政大臣藤原良房(804〜72)のあつい帰依を受けていたため、この後も藤原良房・基経父子の助力を得ることができた。
仁寿元年(851)4月15日、円珍は入唐の志を遂げるために九州太宰府に向かい、同3年(853)7月16日に新羅商人の船に乗船して一路唐に向い、12年間の入唐留学の末、天安2年(858)6月19日に帰国した。
帰朝した円珍は叡山の「旧房」に住み、所伝の大法・天台宗の章疏を諸僧に教授した(『天台宗延暦寺座主円珍伝』)。この「旧房」について、『朝野群載』やそれを引用した『九院仏閣抄』では「山王院千手堂」とする。ただしこの旧房とは山王院の近くになった西谷の住房である唐院(後唐院)であるとする説がある(佐伯1989)。また『寺門伝記補録』では、貞観2年(860)に円珍が園城寺唐坊廓内に一座を構え、山王三聖を勧請したことを記した上で、故叡岳大師(最澄)の房内にも神座があって、房を山王院と号したとする(『寺門伝記補録』第8、山王勧請)。
貞観10年(868)6月3日、勅によって天台座主に任じられた。円珍は時に55歳であった。同14年(872)9月に叡山に帰ったが、それ以降は朝廷の要請があっても叡山の外には出ることがなかったという。寛平2年(890)12月26日に少僧都に任じられた。しかし翌寛平3年(891)2月には病となったのか、自身の火葬法を指示している。同年10月29日、袈裟をつけて手棒を頂戴し、水で口をそそぎ、右側に臥せて5更(午前3時〜5時)に入滅した。78歳。円珍入滅の36年後の延長5年(927)12月27日、朝廷は円珍に智証大師の諡号を賜った。
山王蔵
円珍は経典の蒐集・研究・校合を熱心に行なっており、蒐集された典籍は円珍の住房であった山王院に収蔵された。山王院に収蔵された典籍は、円珍自身が入唐して入手した典籍はもちろんのこと、門弟によって蒐集された経典も含まれ、また円珍は入唐後も唐僧に書簡を送って典籍入手に努めるなど典籍蒐集を怠らなかったこともあり、山王院の経蔵に収蔵された典籍は厖大な数にのぼった。円珍示寂34年後の延長3年(925)頃に書かれた山王院経蔵の蔵書目録である『山王院蔵書目録』4帖は、現在では2帖しか残存していないが、それでも2帖には1,090点、2,959巻におよぶ厖大な典籍が記載されている。この山王院の経蔵は、経典(園城寺蔵『弥勒経疏』)に朱印で「山王蔵印」と蔵書印が捺されていることから、「山王蔵」と呼ばれていた。山王蔵には円珍の在世中あるいは示寂後に専任の事務担当者が置かれ、蔵書の整理運用にあたった「山王印経蔵勾当」「山王院経蔵司」「山王院経蔵専当」という職があり、図書館の司書とほぼ同様の役であったことが推定されている(佐藤1937)。
山王蔵に収蔵された典籍の多くは、当初三井寺(園城寺)に収蔵されていたようである。典籍が請来されてから山王院に納められるまでの一例をあげてみると、円珍は『大日経義釈』を大中9年(855)に唐長安青龍寺の法全より入手して帰朝し、それを延暦寺におさめ、後に三井寺に仮に収蔵した。その後再度延暦寺に戻し、「山房」、つまり山王院に安置している(『唐房行履録』巻中、所引大日経義釈第9巻奥書)。また円珍は『瑜伽供養法次第』を大中9年(855)に唐長安青龍寺の法全より入手して帰朝した。宗叡は入唐する前にその『瑜伽供養法次第』を三井寺にて書写したとの経緯を寛平元年(889)9月8日に円珍は山王院にて追記している(『批記集』瑜伽供養法次第識語)。このように三井寺に収蔵された典籍が山王院に移されたことが確認されるが、いつ移されたのかはわかっていない。山王院に典籍が移されたと推定できる年代としては、円珍が天台座主に任じられて叡山に帰った貞観14年(872)9月頃の可能性がある。
円珍示寂後も山王院は円珍門弟の管領するところであった。延喜2年(902)秋、僧綱所より円珍の伝記を進上するようにとの牒が延暦寺の寺家に到来した。延暦寺の寺家は、記録を撰国史所(国史を編纂する役所)に進上するようにと山王院に牒した。そこで円珍の門弟である良勇(855〜922)が、円珍の平生の事・始終の事を記憶から思い起こし、同じく円珍の門弟の鴻与(生没年不明)が円珍の遺文を引勘した。また門弟達が議論を重ねた上で、最後に門弟の台然(生没年不明)が筆記した。その後、三善清行(847〜918)に委ねて撰述させ、円珍の伝記が完成した(『天台宗延暦寺座主円珍伝』)。このように山王院へ出された牒が円珍門弟達に伝達されているように、山王院は円珍門弟の所管する子院となっていたのである。以降、智証門徒で山王院あるいは千手堂と関係する著名な僧に、増命(843〜927)・明達(877〜955)・余慶(919〜91)・光日(生没年不明)・広清(生没年不明)・定基(977〜1033)・昌生(生没年不明)といった僧がいる。
天元4年(981)、法性寺座主職をめぐっての不和・確執から慈覚・智証両門徒は争いとなり、争いを避けて智証門徒の余慶(919〜91)は観音院に、同じく智証門徒の勝算(939〜1010)は修学院に逃れた。それでも叡山上には数百人の智証門徒が円珍の遺跡を守っていた。争いはエスカレートして慈覚・智証両門徒間の衝突・刃傷・放火が相次いだため、朝廷は天元5年(982)正月5日、蔵人掃部助恒曷を叡山に登らせ千手院経蔵を守らせた。しかし争いは止まず、正暦4年(993)8月10日、智証門徒1,000人は円珍像を背負い叡山を退去して大雲寺に移り、長徳年間(995〜99)の初め、園城寺に移った(『寺門伝記補録』第19、雑部乙、両門不和之事・両門別離之事)。これによって智証門徒は園城寺を中心として寺門派を形成した。園城寺に移った円珍像は園城寺後唐院に円珍関係文書とともに秘蔵され、現在に伝わっている。正暦4年(993)8月、智証門徒千人が叡山を退去したが、慈覚門徒は智証門徒側の勝算の房・満高の房・明肇の房・連代の房を焼き払い、千手院をはじめとした房宇40余宇、蓮華院・仏眼院・故座主良勇の房・房算の房・穆算の房・倫誉の房・実定の房・寿勢の房・湛延の房等を破壊した。これ以降、智証門徒が叡山に住むことはなかった(『扶桑略記』第27、正暦4年8月10日比条)。しかし山王院や千手堂は移転したわけではなく、その後も叡山上にあったため、山王蔵に収蔵された厖大な典籍がどのような運命を辿ったのか定かではない。園城寺に移転された後に比叡山僧兵の攻撃で園城寺が烏有に帰した際に焼失したのか、あるいは叡山上に留まり続け、信長の比叡山焼討ちによって焼失したのか、わかっていないのである。山王蔵の蔵書印「山王蔵印」が朱印で捺される園城寺蔵『弥勒経疏』のみが、山王蔵に収蔵された現存する唯一の典籍である。
その後の山王院について、詳細なことはわからない。『山門堂舎記』・『叡岳要記』といった延暦寺の寺誌に記載され、「東塔絵図」に描かれているから、中世まで細々ながら存在していたようである。信長の比叡山焼討によって焼失したと思われるが、天正年間(1573〜92)に行光坊雄盛が千手堂を再建した(『東塔五谷堂舎並各坊世譜』西谷、千手堂)。千手堂は寛文元年(1661)8月に修復された(『天台座主記』巻6、180世入道二品慈胤親王、寛文元年8月条)とも、天和3年(1683)に3間と4間の規模で再造されたともいう(『東塔五谷堂舎並各坊世譜』西谷、千手堂)。また山王院は万治4年(1661)と宝暦3年(1753)に修復が行なわれている(『山門堂舎由緒記』巻第3、西谷、山王院)。なお元和元年(1615)には密厳院賢祐が山王院に七社の像を安置する5尺と1間の規模の山王社1社を建立している(『東塔五谷堂舎並各坊世譜』西谷、千手堂)。 
浄土院 

最澄廟所としての浄土院
浄土院は、最澄が構想した九院の一つであり、後の十六院構想にも浄土院は含まれていた。ところが、構想とは裏腹に実際には最澄生前には未着手のものが多かった。例えば十六院構想時に含まれていたものでは、根本法花院・向真院は、造立されなかったのである。
浄土院は『弘仁九年比叡山寺僧院等之記』では、浄土院はまたの名を「法花清浄土院」とされ、弘仁9年(818)9月の段階で別当に薬芬が、知院事に煖然がその地位にいることが知られているから、弘仁9年(818)以前に造営に着手されていたようである。浄土院とは、最澄が義真とともに延暦23年(804)に入唐した時、台州臨海県龍興寺の付属施設であり、最澄はここで道邃より受法している。浄土院の名称はこれにより採用したのであろうか。
弘仁13年(822)6月4日、最澄は中道院にて示寂した(『叡山大師伝』)。遺体は浄土院に運ばれた。この地は最澄を荼毘した地ともいわれる(『浄土院長講会縁起』)。以後、浄土院は最澄の廟所としての地位を有するのである。
浄土堂は3間の規模であり、5間の礼拝堂が1宇、5間1面の雑舎が1宇あったという。伝教大師廟は、桧皮葺の方丈廟堂が1宇あり、四面に孫庇があった。この基本的な構成は、浄土堂は阿弥陀堂と名称を変えたように、それぞれ若干の名称を変えたほかは、特に大きな変化はない。また『叡岳要記』によると、最澄が建立した等身阿弥陀坐像が安置されたという。
仁寿4年(854)7月16日、天台座主円仁は唐の五台山竹林寺の風に習って、浄土院の廟供の事を行っている(通行本『慈覚大師伝』)。これの詳細は不明であるが、円仁は入唐中の開成5年(840)5月1日に五台山竹林寺を訪れ、同五日には「竹林寺斎礼仏式」というものに参加している(『入唐求法巡礼行記』巻第2、開成5年5月1日・5日条)。具体的に竹林寺のどのような「風」を浄土院の廟供に導入されたかは不明である。現在浄土院で行われている法儀は、御影供と長講会の2つのみであるという。
無論、浄土院は信長の叡山焼打ちによって灰燼に帰したが、江戸時代に再建されている。現在みえるのはその時の再建されたものである。
表門は正面1間(2m95cm)、側面1間(1m26cm)の向唐門で、屋根は銅板葺である。『東塔五谷堂舎並各坊世譜』によると万治4年(1661)8月から11月に祖堂・唐門・前殿を改造し、明和年間(1764〜72)に修復されたとある。
拝殿は白砂の前庭の後ろに建ち、規模は桁行5間(13m58cm)、梁行3間(7m87cm)で、屋根は入母屋造、銅板葺で中央に軒唐破風をつけている。内部は拭板敷で、天井は格天井となっている。17世紀中頃の建立とみられており、『天台座主記』の記述から寛文元年(1661)の建立(『天台座主記』巻6、180世入道二品慈胤親王、寛文元年8月条)が推定される。
伝教大師の廟所である御廟所は、正面3間(8m)、側面3間(8m)で、屋根は宝形造の銅板葺となっている。外観は礎盤・台輪・火頭窓が備わった禅宗様建築である。内部中央は1間(3m45cm)四方の堂内堂となっており、中央四点柱間を桟唐戸で閉ざして周囲に高欄をめぐらしているから、外部から堂内に入っても、さらなる密閉空間を形成するのである。外陣空間の床は瓦敷となっている。御廟所の建立年代は、表門・拝殿と同じく寛文元年(1661)頃の建立とみられる。
近世における侍真制の復興
元禄12年(1699)11月には、侍真の制度に、12年篭山を加えている。そのことは『開山堂侍真条制』に詳しい。
「12年篭山制は伝教大師最澄の定めた制度にかかわらず、時代が移り変わり、法は堕落して、12年篭山制を知らない者すらいた。もし身命をすてて伝教大師最澄の祖訓にしたがう者があった場合、山院にあっても衆務を免除することを許そうと思っていた。また浄土院は近年、ただ堂司だけがいて侍真はおらず、そのため伝教大師最澄への恩に報いることができないのである。そのため侍真を設置するという建議は私の意にかなうのである。この年の初夏、登壇受戒して篭山の誓いを立てる者が2人いた。近くまた発心する者が2人いた。また新たに侍真の房を構築して既に落成した。このことは我が喜びにたえない。また全山の僧に告ぐ。初修行の僧は伝教大師の真子である。歴代の侍真は礼供を欠くことがあってはならない。よって条件を立て、これを以て永式としたい。
一、大小二食はの時には如法供養すること。
一、食をたてまつる時には、変食呪二十一遍と般若心経三唱をよむこと。
一、朝課の仕事と晩課の敬礼法の時には、ともに梵網十戒をよむこと。
一、両業の人は、それぞれの恒務がある。今は定めるところではないとはいえ、(恒務の間でも)ますます心を精進すべきである。
一、3月に居を遷すというのは、釈尊が定めたことである。侍真の職は久しく留めてはならない。3月が終わったら(侍真の職を)再び始めること。(3月に)閏月があった場合は、四月に(侍真の職を)始めなさい。
一、3月中に特に重要なことがなかった場合、院を出てはならない。
一、重病などの場合、(本人の)要請によって交替させなさい。
以上の条件は、それぞれ遵守させなさい。急制ではないとはいえ、誠や思いをつくして祖師の恩に微塵でも報いることを誓うのである。」
また享保5年(1720)には7項目にわたる『浄土院規矩』がまとめられ、第1課誦献斎の事、第2散物油料の事、第3大小掃除の事、第4拝堂巡検の事、第5院内への付届事、第6輪番諸式事、第7交代用意の事であるという。
この『開山堂侍真条制』と『浄土院規矩』によって、現在、浄土院で行われている侍真日課の基本をなしているという。現行の祖廟浄土院侍真日課は以下の通り。
午前3時半、出定(起床)、開拝殿戸。
午前4時、 朝課
午前5時、 備御小食(大師宝前)献供作法・大黒天法楽
午前5時半、侍真小食
午前6時半、阿弥陀供一座・護国三部妙典(仁王般若・金光明・法華)読誦・大般若経読誦
午前10時、 献斎供養(大師宝前)・献茶(大師・弥陀・文殊)
午前10時半、侍真斎食
午後4時、 晩課
午後5時、 閉拝殿戸
午後9時、 入定(就床) 
四王院跡 

四王院はかつて比叡山東塔の大講堂の西側に位置した子院です。開山は光定で仁寿4年(854)に建立されました。東塔の一子院でありながら文徳天皇の御願寺としての位置づけをもっていました。信長の比叡山焼き討ち以降、再建されることなく現在に至っています。
四王院の建立
四王院は光定(779〜858)によって延暦寺中に建立されたが、それ以前より延暦寺を開創した最澄によって建立の構想があった。
最澄は弘仁9年(818)4月26日、九院を定めたが、その九院には止観院・定心院・惣持院・戒壇院・八部院・山王院・西塔院・浄土院とともに四王院が含まれている(『叡岳要記』巻上、九院)。ところが、構想とは裏腹に実際には最澄生前には未着手のものが多かった。例えば九院のうち、最澄生前に建立されたとみられるのは、わずかに止観院・八部院・山王院だけであった。
このように、最澄生前には未着手であった九院も、その示寂後に門弟らによって建立されるようになっていった。さらに彼ら門弟も朝廷の尊敬を受けるに到り、最澄が九院構想で示した計画は、門弟らによって成就されることとなる。四王院を建立したのは、最澄の門弟で、後世「別当大師」と尊崇されるようになる光定である。
仁寿4年(854)、勅があって光定は延暦寺僧別当に任じられた。同年には御願をつかさどって、四王院の事を起工した(『延暦寺故内供奉和上行状』)。
このように文徳天皇の仁寿4年(854)に四王院が建立されたことが知られるが、中世の延暦寺の寺誌『叡岳要記』によると、それを溯ること16年前の仁明天皇の承和5年(838)正月3日に四王院供養が行なわれたとする。同書によると本願主は光定内供で、乾(北西)には多聞天、巽(南東)には持国天、艮(北東)には増長天、坤(南西)には広目天の四天王を安置した。供養の衆は左右に分かれ、左方には呪願師(導師が願文を読むのに続いて呪願文を読む役僧)に東寺の実恵律師(786〜847)、引頭(いんず)に興福寺の明福少僧都(776〜848)、唄師(ばいし。梵語の経文を曲調をつけて詠む)は寿豊律師(?〜839)、散花(花をまいて仏を供養する)は西大寺の善海律師(?〜847)、讃頭(さんとう。経文の斉唱にあたって先導する者)は延暦寺の安恵内供(805〜68)、梵音(四箇法要の四種の声明曲の一つ)は延暦寺の円豊(生没年不明)、錫杖(四箇法要の四種の声明曲の一つ)は延暦寺の恵亮(生没年不明)、堂達(どうたつ。儀式の荘厳・伝達・差配を行なう)は澄恵大法師(生没年不明)がつとめた。右方には導師(衆僧の首座として儀式を執り行う)に薬師寺の豊安大僧都、唄師に東寺の忠継(仲継)律師(?〜843)、引頭に東大寺の泰景少僧都(772〜851)、散花に興福寺の延祥権律師(769〜853)、讃に延暦寺の円珍(814〜91)、梵音に元興寺の静安大法師(790〜844)、錫杖に延暦寺の安然(841〜?)、堂達に大安寺の平法大法師(生没年不明)がつとめた(『叡岳要記』巻上、四王院供養)。
以上の通り、四王院の建立に仁寿4年(854)説と承和5年(838)説の二説があることが知られるが、双方とも光定が建立に大きく関わっていたことが確認できる。光定については戒壇院にて説明したから、ここで詳細は述べるようなことはしないが、仁明天皇が光定にむかって戯れに「そもそも止観宗(天台宗)というのは、真言の道を称揚するものだ」といったため、光定は怒って「我ふたたび参らず」といって階(きざはし。宮中)を下りて比叡山に帰ってしまい、天皇が試しに召し還そうとしても、さらに怒って戻らなかったが、それでも天皇は甚だ愛咲した(『延暦寺故内供奉和上行状』)というエピソードや、光定が比叡山上では稲粒が乏しいことを訴えたため、天皇は「光定乞食袋」と書き付けた袋を賜い、その中に糧食が詰められており、以後恒例化した(『阿娑縛抄』巻第195、明匠等略伝中、別当大師)ということからも知られるように、光定は仁明天皇の信認が極めてあつく、また第2世天台座主の円澄が承和3年(836)に示寂すると、円澄の盟友のような立場にあった光定は延暦寺内で重きをなし、円澄が後継指名した円仁が承和14年(847)に唐から帰国するまで、延暦寺内で並ぶ者はいなかったらしい。円仁が帰国して、仁寿4年(854)に第3世天台座主に補任する太政官牒を受けると同時に、光定もまた延暦寺僧別当に補任された(『延暦寺故内供奉和上行状』)。
このように朝廷・延暦寺双方で重きをなした光定による四王院の建立は、延暦寺における一子院の建立という範疇にとどまらず、文徳天皇による御願寺という位置づけを有するようになる。四王院は「天皇一代が新たに修造された御願寺」とみられており(『新儀式』巻第5、臨時下、造御願寺事)、天安2年(858)3月28日の太政官牒によって、四王堂の供料のうち、三宝ならびに四王および梵王・帝釈供養の供養料として、毎日白米2斗4升8合(座ごとに3升6合1)が美濃国(岐阜県)の支弁で充当されることとなった(『九院仏閣抄』四王院、太政官牒)、なお元慶2年(878)5月15日には美濃国に勅して、毎年春に延暦寺四王堂に送る仏僧供料の利息の残りの稲米10斛・黒米10斛を都に送るよう命じている(『日本三代実録』巻33、元慶2年5月15日庚戌条)。
また光定は天安2年(858)8月10日に延暦寺八部院の坊にて示寂したが(『延暦寺故内供奉和上行状』)、その3日後の8月13日には天台座主円仁を四王院検校とする官苻が下されている(安亮とする説もある)(『九院仏閣抄』四王院)。さらに翌天安3年(859)正月27日には四王院七禅師を定める官符が下されており、円豊・康済・長薗・サン(のぎへん+粲。&M025333;)賢・長仙・塵躬の7人の僧は仁寿4年( 854)4月13日に宣旨によって四王院に入院したが、いまだ官牒を受けていなかったため、このような官苻が下されることとなった(『九院仏閣抄』四王院)。
四王院の修法と焼失
四王院はその名の通り、堂宇内に高さ6尺5寸(195cm)の金銅四天王立像が安置されており、文徳天皇の発願により鋳造されたものであるという(『叡岳要記』巻上、四王院)。康保3年(966)10月28日の四王院の火災において、北方像のみが残存したものの、腰から焼け絶えてしまったため、頭・足は別となり、見る者は悲しみの涙を拭ったという(『吾妻鏡』元久2年10月13日条)。
四王院に安置された四天王像は、国家安全の祈祷である四天王法の修法の本尊となる。四天王法は乱世の時に修法するものとされていた(『阿娑縛抄』巻第138、四天別総、第一可修此法事)。延長4年(926)3月7日に左大臣藤原忠平は空慧の定心院・運昭の四王院の解文を申せしむべきの事を忠行に仰せている(『貞信公記』延長4年3月7日条)。天慶3年(940)正月3日、明達(873〜951)は平将門・藤原純友の降伏祈祷のため、延暦寺四王院にて14口(人)の伴僧とともに四天王法を修法している。さらに同年8月29日にも伴僧14口を率いて、不断七日の四天王法を修法した(『阿娑縛抄』巻第138、四天別総、先縦等)。また応和2年(962)11月11日には四王院にて東西の諸徳(名僧)を招聘して内論議の事を議定し、同19日の夜に行われた(『天台座主記』巻1、15世権律師延昌、応和2年11月11日条)。
四王院は幾度も焼失や倒壊の憂き目に遭っている。康保3年(966)10月28日、延暦寺の講堂・鐘楼・文殊楼・常行堂・法花堂・四王院・延命院および故座主喜慶ら7人の房舎の全21宇が焼失した(『扶桑略記』第26、康保3年10月28日条)。天禄3年(972)には延命院とともに再建の作事が開始され、3月下旬には落成した(『慈恵大僧正拾遺伝』)。
応徳2年(1085)8月26日夜、大風が吹いて四王院が倒壊した。ただちに新造されることとなった(『天台座主記』巻2、36世法印権大僧都良真、応徳2年8月26日条)。寛治2年(1088)8月29日に、講堂・四王院・文殊楼などが竣工したため、供養が行なわれた(『天台座主記』巻2、36世法印権大僧都良真、寛治2年8月29日条)。
元久2年(1205)10月2日子刻(午後11時)、延暦寺の法華堂の渡廊に放火され、延焼して講堂・四王院・延命院・法華堂・常行堂・文殊楼・五仏院・実相院・丈六堂・五大堂・御経蔵・虚空蔵王・惣社・南谷・彼岸所・円融坊・極楽坊・香集坊が灰燼を化した。この放火は堂衆の所行であったと疑われている(『吾妻鏡』元久2年10月13日条)。建永元年(1206)7月24日には法華堂・常行堂・四王院・文殊楼・実相院などは再建のため棟上が行なわれている(『天台座主記』巻3、68世権僧正法印承円、建永元年7月24日条)。
中世の延暦寺の寺誌『叡岳要記』によると、四王院の建造物は桧皮葺の5間の堂で、檐下の四隅に極彩色で荘厳されていた(『叡岳要記』巻上、四王院)。また特に必然性がないにもかかわらず、平面は正方形であったといい、ここに天台宗建築を特徴づける象徴的な意味があったとされる(藤井2006)。
永仁6年(1298)9月17日に延暦寺の円恵・承玄の弟子20余人は甲冑を帯びて比叡山東塔北谷の性算の住房を襲撃した。政所の辻にて合戦となったが、円恵・承玄の弟子20余人は散々に敗北して、19日亥刻(午後9〜11時)、退却する途上に大講堂の軒下やそのほか3ヶ所に放火し、大講堂・戒壇院・文殊楼・法華堂・常行堂が一夜のうちに灰燼と化してしまい、四王院も類焼してしまった(『元徳二年三月日吉社并叡山行幸記』・『天台座主記』巻5、99世前大僧正尊教、永仁6年9月17・19日条)。その後再建に着手され、元徳2年(1330)3月27日に大講堂・延命院・四王院・法華堂・常行堂の5堂の修造が完了している(『閻浮受生大幸記(五代国師自記)』諸寺興隆大幸)。しかし元弘元年(1331)4月13日夜、法華堂より出火・類焼して大講堂・延命院・常行堂などが再度焼失し、四王院もまた同様の運命をたどった(『天台座主記』巻5、120世三品尊澄親王、元弘元年4月13日条)。
その後四王院についての記録らしい記録はないが、明応8年(1499)7月11日、細川政元の被官赤沢朝経・波々伯部宗量らが延暦寺を攻撃し、早朝に細川勢に放火され、根本中堂・大講堂・常行堂・法華堂・延命院・四王院・経蔵・鐘楼などが焼失した(『大乗院寺社雑事記』明応8年7月12・23日条)。
延暦寺は元亀2年(1571)9月12日の織田信長の比叡山焼討ちによって壊滅し、四王院もまた焼失した。その後再建されることなく、現在まで到っている。 
定心院跡 

定心院はかつて比叡山東塔南谷に位置した子院です。現在はその跡地に書院が位置しています。開山は円仁とされ、仁明天皇の御願によって承和13年(846)に建立されました。そのため東塔の一子院でありながら仁明天皇の御願寺としての位置づけをもっており、近江国(現滋賀県)の正税のうち7.5パーセントが定心院のために出費とされました。信長の比叡山焼き討ち以降、再建されることなく現在に至っています。
定心院の建立と仁明天皇の御願
最澄は弘仁9年(818)4月26日、九院を定めたが、その九院には止観院・山王院・惣持院・四王院・戒壇院・八部院・西塔院・浄土院とともに定心院が含まれている(『叡岳要記』巻上、九院)。ところが、構想とは裏腹に実際には最澄生前には未着手のものが多かった。例えば九院のうち、最澄生前に建立されたとみられるのは、わずかに止観院・八部院・山王院だけであった。
このように、最澄生前には未着手であった九院も、その示寂後に門弟らによって建立されるようになっていった。ここで述べる定心院は仁明天皇の御願によって建立された。
定心院は仁明天皇の御願によって比叡山上に建立された子院である。承和13年(846)8月17日、仁明天皇は勅を下したが、これはそれより以前に定心院を建立していたため、この日に勅が下されたものであった。この文飾の多い勅の中で仁明天皇は、「美しい玉で飾った宮殿や、帝王の都は、いまだ紙くずかごから出ることはない。紫府丹台は神仙の洞窟であり、ついには自宅を壊してそこに住む。」と神仙思想に想いをはせており、定心院の建立地については「しずかで爽やかであり、仏道を求めるのに適している。高い峰が東に聳えており、耆闍山の形勝はことさらではない。道は西に通じており、王舎城の風煙と接している。これは天台の上界で、銀地の道場なのだ。松や柏は数歩隔たって生えており、雲や霞は一色にして建物に連なっている」と、仏教の勝地であることを強調している(『続日本後紀』巻16、承和13年8月丙戌条)。
さらに同年12月29日、仁明天皇は勅して、延暦寺定心院の三宝および梵王・帝釈の供養料として、白米を毎日1斗5升5合を給付し、僧10人に白米を毎日6斗4升。灯分として油を毎日2合を給付することとし、これを近江国に支弁させることとした。その料は正税3万束を割いて出挙(1年契約の利息付き貸借)し、その利息分を充てることとした。もし未納する者がいた場合、正税の収益で充当することとした。毎年日を数えて舂(つ)いて運ぶ支度をし、その功賃は例に准じてまたこれを充当する。灯分の油は米で交易した利潤を用い、年が終ればすべて発送する。用途や残高を細かく記録して、長官(近江守)自ら担当することとし、長官が不在ならば、次官(近江介)が同様に事務を行なう。毎年延暦寺側の受領書を取らせ官に報告すること。もし違怠するならば、節会の参加を禁止することとし、これより以後は恒式とすることとするなど、細かく規定された(『続日本後紀』巻16、承和13年12月丙申条)。
近江国正税は400,000束であるが、このうち7.5パーセントの30,000束を定心院料に充てるいうのは、巨額の出費であり、例えば近江国においてこれよりも多かったのは俘囚料105,000束、国分寺料60,000束、救急料51,700束。修理国府料40,000束、池溝料40,000束にすぎず(『延喜式』巻26、主税上、諸国本稲、近江国正税)、御願とはいえ比叡山の一子院にすぎない定心院料が、近江国国衙の中心的事業と並ぶような巨額なものであったことは驚くべきことである。例えばあまり適切ではないが、近江国が位置した現在の滋賀県にあてはめるとすると、滋賀県の平成18年の財政規模は2798億9600万円であるから、7.5パーセントは209億9220万円となる。この小さな堂宇にはあまりにもそぐわないものであった。それだけに定心院建立事業は仁明天皇のイニシアチブが強力に働いていたことが知られる。定心院が御願寺として官から正税の出挙を受けたことは延暦寺側にも大きな影響を残した。嘉祥3年(850)9月16日には総持院の供料のうち、十四僧の供料に冠しては定心院十禅師の法に准ずることが定められているほか(三千院本『慈覚大師伝』)、仁和2年(886)には延最が延暦寺西塔院釈迦堂に5僧を置くべき事を奏上しているが、その中で鉢(料)については定心院に准ずるよう願い出ており(『類聚三代格』巻第2、仁和2年7月27日官苻)、定心院の例は、延暦寺における堂宇・子院が官から多額の経営料を交付される際の前例となったのである。なお出挙のみならず、定心院料として塩が給付されており、日ごとに1升5合、毎年日を数えて用意して官に申請し、正月30日以前に運送することとなっていた(『延喜式』大膳下)。
さらに翌承和14年(847)2月には、智行の者を選んで延暦寺において始めて定心院十禅師を設置した。勅には、「僧ら毎日それぞれ大般若経2巻を転読し、一部の転読が終われば再度また開始する。六時また如法修行する。それに従事する者は宮中最勝会や臨時の公請に預かる。十禅師にもし欠員が出た場合、才行がともに備わっている者を選び、大勢が推薦する者を官に申して補充する。」とある(『続日本後紀』巻17、承和14年2月庚申条)。
この時定心院十禅寺に選ばれた僧の中に、後に第4世天台座主となる安恵(805〜68)や(尊経閣文庫蔵『類聚国史』抄出)、第5世天台座主となる円珍(814〜91)がいる(『円珍和尚伝(東寺観智院蔵本)』)。また中世の比叡山の寺誌『九院仏閣抄』に引用される太政官が延暦寺に発給した牒によると、この時定心院十禅寺となったのは伝灯大法師位の徳善・興勝・安恵・円珍、伝灯満位僧の南寂・恵亮・円真・叡均・慈叡・承雲であるという(『九院仏閣抄』定心院、太政官牒)。延暦寺定心院十禅師と釈迦堂五僧料の炭は、近江國に30丁焼き備えさせており、毎年11月1日から翌年の2月30日まで日を計算して人ごとに1斗を充当した。10月20日以前はすべて寺家(延暦寺)に送付した(『延喜式』巻23、民部下)。ちなみに定心院十禅師は宮中最勝会や臨時の公請に預かることになっていたが、実際の例としては嘉祥3年(850)2月15日に仁寿殿における文殊八字法修法において、円仁と定心院十禅師が屈請されたくらいしか例がない(『続日本後紀』巻20、嘉祥3年2月甲子条)。
また定心院では正月一七箇日修法という修法が行なわれていたが、その修法料として白米9斗2升、糯米1斛7升、大小豆各7斗7升。胡麻子3斗8升5合を近江国の年料から割かれることとなっていた(『延喜式』巻23、民部下)。修法料とは別個に定心院正月悔過の布施料として綿44屯であり、これらは三宝ならびに脇侍菩薩・梵釈・四王合せて11座(1座ごとに4屯)に給付された。また十禅師の布施は、絹20疋、綿100屯、布30端(一人あたり絹2疋、綿10屯、布3端)であった。これらは毎年12月20日以前に送付された(『延喜式』巻30、大蔵省、悔過料)。
また平安時代後期の規定ではあるが、宮中における仏教法会のひとつである季御読経において、威儀師・従儀師・次第がそれぞれ一人屈請されることとなっており、東大寺・興福寺・延暦寺といった別格の大寺は別としても、元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺・東寺・西寺と同等で、かつ次第が一人多い点では四天王寺・仁和寺・醍醐寺・法勝寺よりも優遇されていた(『江家次第』巻第5、2月、季御読経事)。
定心院は「天皇一代が新たに修造された御願寺」とみられているが(『新儀式』巻第5、臨時下、造御願寺事)、一子院の経営という範疇を超えた、巨大な財政力を背景とした天皇の御願寺であった。
定心院十禅師の活動
定心院は仁明天皇の御願によって建立されたものであるが、承和5年(838)から同13年(846)のにかけて慈覚大師こと円仁が建立したという(『叡岳要記』巻上、定心院)。定心院供養は承和14年(847)8月10日に実施され、東寺の実恵をはじめとした僧綱の面々が供養に参加したという(『山門堂舎記』定心院供養)。
元慶2年(878)7月10日に『弥勒上生経宗要』の書写が円敏によって定心院政所で行なわれているが(『弥勒上生経宗要』奥書)、この政所の大炊屋には大黒天神像1体が安置されており、光定が政所本尊を満山(比叡山すべて)の守護とするために安置したという。また一説には根本中堂の本尊と同じ材料の木で造られたものであり、最澄の自作であったという(『叡岳要記』巻上、政所大炊屋)。
定心院十禅師となった者は、宮中最勝会や臨時の公請に預かることになっていたが、必ずしも臨時の公請に預かった者がいたわけではないが、延暦寺の寺史において重要な役割を果たす者が何人かいた。
無動寺を建立した相応(831〜918)は、当初鎮操に従って叡山に登り、のちに円仁にしたがって朝廷において重きをなすほどの人物となったが、最初の師鎮操は法花堂の僧のままで、一階の業も果たすことがなかった。貞観3年(861)鎮操は定心院の供僧への推薦を希望した。相応は深く心に刻んで西三条女御(?〜858)のもとに赴いて頼み込み、西三条女御は父の右大臣藤原良相(813〜67)に告げた。藤原良相は「一階も果たしていない者を諸院の供僧に任命することは難しい。ましてや定心院にいたっては、天台の最重のところである。私の力は及びがたい。(だから私に頼らず、自身で)奏上すべきである」と答えた。女御は弟の右大将藤原常行(836〜75)を通じて内裏に奏上させた。これより先、寺家(延暦寺)から推薦した僧を定心院十禅師の欠に任命して欲しいとの言上があったが、公家では要請によって任命する正式な官符を作成していなかった。その時に女御の奏上があったから、寺家の解文を抑留して、すぐさま鎮操を定心院十禅師に補任してしまった。このことは頼み込んだ相応自身が驚いてしまい、延暦寺の僧侶はみな希有のことだと言い合った(『天台南山無動寺建立和尚伝』)。このように定心院十禅師の僧は、延暦寺側が推薦することができたものの、任命権は朝廷が把握しており、しかも太政官ではなく、天皇や女御といった内廷の者の意志が最優先されたことがうかがえる。
天慶2年(939)3月、尊意(866〜940)の弟子の阿闍梨定心院十禅師の引行が、師に先立って示寂してしまった。尊意は弟子達にむかって、「釈迦如来は在世の時、舎利弗・目連大師が釈尊が涅槃される前に入滅してしまった。まさに今、耆老の平仁に去年山で死に、まだ壮年の阿闍梨が今年の春に死んでしまった。私の歳は80歳、命の残りは久しくはない。ああ悲しいかな。師資の契りは会うのは難しく、別れることはやさしい。無常の理(ことわり)の前後は知ることが難しい」と嘆いている(『日本高僧伝要文抄』第2、尊意贈僧正伝)。
十禅師の中には、浄土信仰と関連して、平安時代に流行した往生伝に登場する人物が複数いる。その中には平安時代の代表的説話集『今昔物語集』でも引用されて広く知られる成意・春素がいる。
延暦寺定心院十禅師の成意は、もとより潔白でこだわりがなく、持斎(正午を過ぎて食事を取らない節食規定)を好まず、朝と夕に食事した。弟子は「山上の名徳の多くは斎食(昼食)を摂ります。師はなぜ一人このことをゆるがせにするのでしょうか」といった。成意は「私はもとから清貧で、日供のほかは得るはない。ただあるがままに供米を食べているだけなのだ。ある経典には“心は菩提をさまたげ、食は菩提をさまたげず”というではないか」と答えた。数年後、弟子の僧に命じて、「今日の食事は常の量よりも倍にして、いつもより早くしなさい」といった。弟子達は早朝に炊いて供進した。成意は鉢の中の飯に匙を二つ入れ、弟子たちに分けて、「お前たちが私の食を食べるのは、ただ今日だけだ」といった。食が終わると弟子に「お前は無動寺の相応和尚の御房に行って、成意はただ今極楽に詣でます。かのところでお会いしましょうと言いなさい。また千光院の増命和尚の御房に言って、先ほどのように言いなさい」と命じた。弟子は「この発言は妄言みたいですよ」といった。成意は「私がもし今日死ななければ、私の狂言となるだろう。お前が何の恥じることがあろうか」といった。そこで弟子達は両所に赴いたが、帰ってくる前に成意は西を向いて入滅していた(『日本往生極楽記』延暦寺定心院十禅師成意)。
延暦寺定心院十禅師の春素は、一生『摩訶止観』を読み、また常に阿弥陀仏を念じていた。74歳のときの11月、弟子僧の温蓮に語って、「阿弥陀如来が私を迎接しようとしている。その使は禅僧一人、童子一人、ともに白衣を来ている。衣の上に絵が描いていて、花びらが重なっているようだ。来年の3・4月がその時期だ。いまから飲食を断って、ただ茶を飲むだけだ」といった。明年4月、また温蓮に命じて、「目の前に使がまた来ている。私の眼前にいる。閻浮(この世)を去るのだ」といった。日中に到って遷化した(『日本往生極楽記』延暦寺定心院十禅師春素)。
赤袴の騒動
定心院は仁安2年(1167)に「赤袴の騒動」によって焼失している。「赤袴の騒動」とは、比叡山上で、東塔と西塔の対立によって起こった紛争である。紛争の背景に座主の地位の争いや、大衆の地位の上昇もあり、それらが複雑に絡まっている。
長寛2年(1164)4月26日、後白河上皇は比叡山に登り、七仏薬師法を修し、七日間滞在し、五月三日に還御した(『天台座主記』巻2、52世権僧正快修、長寛2年4月26日条)。同年10月5日、天台座主快修(1100〜72)は、根本中堂衆を禁獄したことにより大衆に追放され、寺務は停止された(『天台座主記』巻2、52世権僧正快修、長寛2年10月5日条)。閏10月13日、俊円(1107〜66)が天台座主に就任した(『天台座主記』巻2、53世権僧正俊円、長寛2年閏10月13日条)。だが、永万元年(1165)8月10日、天台座主俊円が病により座主職の競望が行われ(『天台座主記』巻2、53世権僧正俊円、永万元年8月10日条)、翌仁安元年(1166)8月28日、入滅した(『天台座主記』巻2、53世権僧正俊円、仁安元年8月28日条)。
同じく仁安元年(1166)9月1日、快修は再び天台座主に就任し(『天台座主記』巻2、54世僧正快修、仁安元年9月1日条)、同月10日に追放されたことを許すという表明をし(『天台座主記』巻2、54世僧正快修、仁安元年9月10日条)、10月21日には比叡山に登ったが(『天台座主記』巻2、54世僧正快修、仁安元年10月21日条)、12月17日には大衆による襲撃を受けている(『天台座主記』巻2、54世僧正快修、仁安元年12月17日条)。同月21日、東塔南谷の定心院・実相院・五仏院・丈六堂・円融房が放火によって焼失した(『天台座主記』巻2、54世僧正快修、仁安元年12月21日条)。
それと前後して法眼宗延を領袖とする西塔・横川の「赤袴の党」と称される衆徒は座主の罷免を求めているという風聞がおこったため、東堂の衆徒は五仏院政所・小谷岡本に城郭を築いた(『天台座主記』巻2、54世僧正快修、仁安2年条)。仁安2年(1167)正月1日、赤袴の党のうち、西塔の衆徒は東塔に進撃し、東塔の衆徒と東塔西谷の千光院にて遭遇し、合戦となった。7日に八王子・客人・十禅師の神輿を根本中堂に振上げた(『天台座主記』巻2、54世僧正快修、仁安2年条正月1日条)。16日には、赤袴の党は東塔の衆徒の築いた城郭2ヶ所を同時に襲撃したが、ほどなく両所とも撃退され、赤袴の党は戦死29人、捕虜9人を出し、赤袴の党は敗走して西塔に城郭を築いた(『天台座主記』巻2、54世僧正快修、仁安2年正月16日条)。
この間、後白河上皇は一連の騒動に対して裁決を行おうとしていたが、2月3日、天台座主快修は院壇所に逐電した(『百練抄』仁安2年2月3日条)。10日、東堂の衆徒は西塔の赤袴の党の城郭を攻撃し、これを陥落させた(『天台座主記』巻2、54世僧正快修、仁安2年2月10日条)。同月15日に明雲が天台座主に就任した(『天台座主記』巻2、55世法印明雲、仁安2年2月15日条)。明雲は就任当日、ただちに赤袴の党の張本人である宗延を追放し、常陸国に配流された(『天台座主記』巻2、54世僧正快修、仁安2年2月15日条)。しかし、6月23日に、延暦寺所司三綱・日吉社司らが上皇の御所に群参して、前座主快修が山上の寺を焼き払ったことを訴えるなど(『百練抄』仁安2年6月23日条)、対立の構図は解消しなかった。
定心院の焼失
万寿2年(1025)10月17日、定心院は焼失しており(『天台座主記』巻、26世僧正法印院源、万寿2年10月17日条)、仁安元年(1166)12月21日にも赤袴の騒動によって放火されて焼失した(『天台座主記』巻2、54世僧正快修、仁安元年12月21日条)。
中世の定心院の様相は中世の延暦寺の寺誌『山門堂舎記』に記録されている。それよると、桧皮葺の7間堂が1棟あり、懸魚は金銀鏤や絵画によって荘厳されていた。丈六(5m)の釈迦如来像1体、1丈(3m)の十一面観音立像1体、1丈(3m)の金剛蔵菩薩立像1体があり、壇下には梵天帝釈四天王像1体あり、文殊聖僧像1体は別に壇下の座の方床に安置された(『山門堂舎記』定心院)。
このように定心院の堂宇の規模は極めて大きく(現在の大講堂と同規模)、安置されている尊像も大きなものばかりであるが、定心院の本尊釈迦如来像の印相は、普通の釈迦の印相とは異なっており、智吉祥印とも、釈迦鉢印であるともいわれており、いずれも誤った説であるともされるが、鎮護国家の秘印であったという(『九院仏閣抄』定心院)。
さらに桧皮葺の3間の軒廊が東西それぞれ1棟あり、食堂の北には2間の鐘堂が1棟、鐘堂の北には5間の夏堂が1棟、夏堂の北には3間の経蔵が1棟、15間の僧房が1棟あり、夏堂の北には方丈宝蔵が1棟あり、道の北には5間廊が1棟、7間大衆屋が1棟があった(『山門堂舎記』定心院)。
永仁6年(1298)9月19日亥刻(午後9〜11時)に延暦寺の内紛から大講堂の軒下やそのほか3ヶ所に放火され、大講堂・戒壇院・文殊楼・四王院・法華堂・常行堂が一夜のうちに灰燼と化してしまった。定心院もまた焼失し、定心院だけではなくその鎮守も罹災した(『元徳二年三月日吉社并叡山行幸記』)。
その後定心院に関する記録らしい記録はないため再建の様相は不明である。延暦寺は元亀2年(1571)9月12日の織田信長の比叡山焼討ちによって壊滅し、定心院もまた焼失した。その後再建されることなく、現在まで到っている。
定心院には鎮守として山王社が鎮座し、大宮権現が祀られている。この山王社は比叡山焼き討ち後に日増院珍海が慶安2年(1649)に再興したもので(『東塔五谷堂舎并各坊世譜』定心院)、現存する。定心院の旧跡は現在の書院の付近である。 
延命院跡 

延命院は比叡山延暦寺東塔東谷にかつて位置した延暦寺の子院です。天慶元年(938)に完成し、朱雀天皇の御願寺としての機能していました。当初は大講堂の東側に位置していました。織田信長の比叡山焼き討ち後に東塔東谷に復興され、明治時代頃に廃寺となりましたが、江戸時代中期には比叡山麓の坂本に里坊が建立され、現在に至っています。
延命院の開祖尊意1 / 出家まで
延命院を開創したのは尊意(866〜940)である。尊意の伝記は『尊意贈僧正伝』1巻に現わされている。編者などは不明であるが、文章などから10世紀中頃とみられている。その生涯を編年体で記すものの、弟子などの口伝を直接的典拠としていたらしく、出生の奇瑞にはじまって、夢想・霊応譚など説話的要素が多い。この『尊意贈僧正伝』は『続群書類従』9上に所載されているが、はじめの505字は前欠であったため、『日本高僧伝要文抄』から補ったとある。書き下し、現代語訳はいまだ存在していない。
尊意は俗姓を息長丹生真人といい、左京の人であった。先祖は応神天皇第7皇子の稚渟毛二俣命で、皇子の3男佐芸王の11世の後裔であると伝えられる。尊意の母は35歳になっていたがかつて子がおらず、そのため子がないことを帰依していた僧に語ったところ、僧は「子を求めるのなら観音に祈りなさい。必ずや端正の男女を得るだろう」といった。母はこの言葉を聞いて、朝に夕方に祈った。貞観7年(865)母は奇夢をみて何ヶ月かたってから妊娠が発覚した。翌貞観8年(866)2月に男の子を産んだ。ほかに兄弟はなかったから、父母は大切に養った。6・7歳になった頃読書を好んで、村の子どもは尊意を一番とした。遊ぶ時に木を立てて幢を構え、石をたたいて仏とし、「南無」と唱えた。心は山林を楽しみ肉や魚を食べず、羽毛(鳥)を殺さなかった。隣家に一人の老翁がいたが、朝も夜も千手陀羅尼を読んでいた。翁は尊意の父母に「この子がもし必ず出家すれば、戒行が勝れた人になるだろう。私の見解に虚誕があろうか。千手真言を教えて欲しい。」 父母は「とてもよいことです」といった。そこで老翁は陀羅尼を授けた。幼少の心に常に諳誦し、たまたま比丘(僧侶)を見れば恋慕の心がおこった(『日本高僧伝要文抄』第2、尊意贈僧正伝)。
貞観18年(876)7月15日、11歳の時鴨河の東の吉田寺で仏を見た。後壁に地獄画があり、その中に造罪の人受苦の相が描かれていた。たちまち遊楽を捨てる心がおこり、すなわち入山の志がおこった。父母はその心を見て、片時も門外から出さなかった。ここに王城の北山に幽遠の精舎(寺)があり度賀尾寺(のちの高山寺)といった。苦行僧がおり名を賢一といった。般若心経を持呪とし、呪縛を自らの本とした。貞観年間(859〜77)呪縛業によって得度受戒した。親しく賢一を家師とした。賢一との因縁のため度賀尾寺に登った。3年の間親家に帰らず、蔬食苦行した。幼稚の心に愁いはおこらず、日夜千手陀羅尼を読んだ。元慶2年(878)春、賢一は度賀尾寺を出て遠く越州(越前国)の白山に入ることとなった。ここに賢一は幼童に語って、「貧道(僧の一人称)は今遠いくにに行くことになった。再び逢うときはいつになるかわからない。そこで所持している薬師仏像を付属して去ろう」といった。本尊壇上に安置されている五寸の像はこれである(『日本高僧伝要文抄』第2、尊意贈僧正伝)。
元慶3年(879)9月14日、14歳の時始めて比叡山に登り、増全の房に入って昼夜陀羅尼を読んだ。増全はその器量をみて陀羅尼を読むことを止めさせ、朝は経巻を授け、夕方には義章を教えた。元慶6年(882)、17歳の時には習ったことは優れて長じており、文義は兼ね備わっていた。4月8日、落髪出家した。この日から中堂に100日間日参し、夏安居の後、親母に謁するため増全のもとを辞して下洛した。その頃南北二京(奈良京都)で霊験聖跡をことごとく巡礼した。ある精舎(寺)には一日三日、ある伽藍には五日七日と勤修練行した。紀伊国胡河寺(粉河寺)には七日修行し夢に長さ5尺(150cm)の大剣を得た。10月下旬に帰洛のついでに河内国若江郡の若江寺に寄宿した。白心の木がありその枝は折れて落ちていた。1尺(30cm)ほど切り取って比叡山に持って帰り、千手観音像を造った。一生帰依の尊はこれである(『尊意贈僧正伝』)。
延命院の開祖尊意2 / 出家以降
仁和2年(886)8月26日、尊意は21歳でついに出家し、年分度者の金剛頂業の課試に及第した。同3年(887)に戒壇院に登壇して受戒した。比叡山は12年篭山の制があり、尊意も12年篭山し、昌泰元年(898)7月15日に山門(比叡山)より出た。尊意は最初極楽寺初代座主の増全にしたがって、両部大法・諸尊等法を受けた。その後権律師玄照阿闍梨の所にて重ねて先学を研鑚して、蘇悉地法を習学した。さらに三部諸尊、各々の密語は多少を論ぜず皆一万回諳誦(そらんじて読むこと)した(『尊意贈僧正伝』)。
延喜19年(919)5月10日、尊意54歳の時に定心院に転入となった。さらに8月7日には伝法阿闍梨位の官苻を賜り、10月20日には文殊楼検校の官苻を賜った。延喜22年(922)8月5日、尊意57歳の時、内供奉十禅師に任ぜられた(『尊意贈僧正伝』)。
延長元年(923)6月29日、勅によって中宮(藤原穏子)の御産のため右僕射東五条邸(右大臣藤原忠平邸)にて7ヶ日間不動法を修した。第4日初夜の後には大聖歓喜天が出現したといい、よって加えて歓喜天も供した。7月24日には親王が誕生した。これが醍醐天皇第11皇子の寛明親王である。勅によって尊意は寛明親王の護持の師となった(『尊意贈僧正伝』)。この寛明親王こそ、後の朱雀天皇である。
延長3年(925)夏、天下は大旱となった。7月14日の宣旨に、「大納言藤原朝臣清貫が以下の通りに宣す。勅を奉まわるに、炎旱旬を経し、雨は降らない。よろしく尊意大法師に仰せて、今月十六日より始めて3箇日の間、延暦寺において甘雨の法を修させなさい」とあるから、謹んで勅旨によって6口(人)の僧を引率して仏頂尊勝法を奉修した。同月19日、左少弁藤原朝臣元方は仰せて、「勅語をうけたまわるに、「一昨日雷公が響を発したが、僅かに2・3回聞えただけで、雨雲はまた治まってしまい、雨はいまだに降っていない。」と。ここによってさらに7箇日修を延長しなさい。」と。また勅語をうけたまわるに、「御占に「修法の間に穢の事があるだろう。公家は慎んでいるとはいえ、恐れはこの事であろうか。修法のついでにこの趣を謝って欲しい」と。延修の頃、第6日目の朝、尊意は夢に四大龍王示現の想を感じて、第4日目の正午には東南の隅からひとかたまりの雲が北を指して、いよいよ大きくなるや突然雨が降った。同月22日の宣旨に、「正修の4箇目に雨がすでに降った。感験ははなはだあらわれた。朝家はことごとく驚き、みな拝喜をした」と。また同月23日の宣旨に、「修した法はすでに感応があった。雨は快く降った。禁中の上も下も、諸人拝舞し、みな万歳を叫んだ。」と。尊勝の秘法の興隆はここに始まった(『尊意贈僧正伝』)。
延長3年(925)10月21日、寛明親王が皇太子に定められた。翌年延長4年(926)5月11日、61歳の時、天台座主に任ぜられ(『尊意贈僧正伝』)、名実ともに天台宗・延暦寺の頂点に立った。延長4年(926)5月、中宮が御産の時、邪気が中宮をなぶり悩ませ、ほとんど危急におよんだ。尊意は勅をうけたまわり、7日間不動法を修した。第3日目にいたって勅使藤原元方が勅語を仰せて、「もし母と子がともに得がたい時は、修善の力を母后に注いで欲しい」と。和尚はこたえて奏上し、「よく産む者も産まれる者もみな安穏をもってするのが明王の本誓です。どうして疑うことがありましょうか」といった。その日の暮、夜通しで護摩をたき、明朝6月1日辰尅(午後11時)、親王が誕生した。諱は成明といい、今の東宮皇太弟はこの方である(『尊意贈僧正伝』)。この成明親王こそ、のちの村上天皇である。
同年8月12日に諸院検知の官符を賜った。翌年延長5年(927)10月28日、皇太子の宝祚長久(長寿)のため三十種の大願を誓った(『尊意贈僧正伝』)。延長6年(928)閏8月28日、尊意63歳の時、法橋位を賜った(『尊意贈僧正伝』)。
延長7年(929)3月、全国で疫病が流行し、死者は道に溢れるほどであった。朝廷は左・右京職に病人であろうとなかろうと食を賜って養護したが、病気の者はますます倍となり、人命は保ちがたかった。そこで宣旨して、「左大臣が宣す。勅を奉るところによると、“以下のように聞いている。真言の教えの中で、疫死を除く法があると聞く。速やかにその法を修して、災疫を払いなさい”と。謹んで綸旨によって30口の伴僧を率い、3月23日から宮中豊楽院にて7ヶ日の間、昼夜たえることなく不動法を修した。7日の内に疫病が退散し、重病の者も首をあげて命を長らえた。賞として度者32人を賜った。延長8年(930)夏、季節にわたって旱魃となった。6月27日の宣旨に、「左大弁藤原朝臣邦基傳宣。左大臣宣す。勅を奉るに、今月29日より5箇日の間、延暦寺において座主尊意をもって阿闍梨となし、8口の僧を率いて甘雨の法を祈り修せしむ」と。宣旨によって尊勝法を修した。雨はすでに降り、朝野は感激した(『尊意贈僧正伝』)。
延長8年( 930)に醍醐天皇が崩御すると、子の朱雀天皇が即位した。尊意は朱雀天皇の事実上の護持僧であったから、その後尊意の社会的地位は上昇していった。承平元年(931)10月27日、66歳の時、法眼位を賜った。同年12月1日、延暦寺中堂(根本中堂)にて始めて仏名懺悔を修した。その端緒は、延暦寺に寿栄という名の年90歳ばかりの老僧がいたが、その身は孤独で縁戚もおらず、臨終の時、発狂したような所作で左手に盆を取り右手で打ち、左手に衣をとるや右手で奪って脱いだ。罪報が招いたところとして、衆人は悲哀した。そのため尊意は『三千仏名経』一部を書写し、山中の能化6人を招いて三ヶ夜の間、三千の仏号を唱えて千僧の罪・孤独を滅させた。あわせて年中千僧供の銭米の数など、僧供の度数および施主姓名を報告させ、三宝に啓白してかの福祚を祈らせた。臘月(12月)1日をもってながく恒例とした(『尊意贈僧正伝』)。
承平2年(932)9月16日、西塔院釈迦堂において太上天皇の周忌御斎会を修した。尊意を講師とした。12月には惣持院潅頂道場において阿闍梨定心院十禅師行誓に伝法潅頂職位を授けた。承平3年(933)7月24・25日、天皇は相撲節のために仁寿殿に御した。尊意は勅によって護身法を献じた。同4年(934)春、弘徽殿の前の柿樹に鳥が巣を作ったため撤去することとなった。勅によって7日間不動法を修した。三日目から鳥が日々巣をついばんで北山に飛び去り、7日間のうちにことごとく撤去された(『尊意贈僧正伝』)。
承平4年(934)10月15日、ことさらに勅命により法性寺にて始めて潅頂した。この寺の阿闍梨のはじめはこれよりおこった。大臣諸卿はみなその庭に参じ、省寮は陳列して輿を担い、蓋(傘)をとって送迎した。尊意は昼に三昧耶戒を修し、夜に入壇潅頂を修した。参議兼右衞門(藤原実頼)をはじめとして20余人が潅頂を受けた。承平5年(935)10月12日、尊意69歳の時、少僧都に補任された。尊意は同年12月3日に辞表を出したが、28日に勅使侍従源某が山房に来て、辞表を許さなかった(『尊意贈僧正伝』)。
延命院の建立と新延命院
延命院は承平6年(936)天台座主少僧都の尊意が勅を奉って造営したものである(『山門堂舎記』延命院)。承平8年(938)3月5日、尊意は延命院の供燈の事を奏聞した。「去る延長元年(923)、中宮が身ごもって天皇が御誕生になった時、謹んで仰せの旨を受け、宝算(天皇の寿命)を祈り、玉体(天皇の身体)の安穏を期しました。その後御願により、金剛寿命経および梵天・帝釈天像を造り、一堂を構えて諸尊を安置して延命堂と号し、金剛寿命密法を勤修し明王二天真言を持念しました。天皇が位にお即きになってから、いよいよ至誠をつくして宝祚(天皇の長寿)を祈り、昼も夜も怠ることはありませんでした。すでに16ヶ年におよび、修僧らは三時の勤練を行なっていますが、すでに歳月がたち、一鉢の底には露があるのみで、いまだに日々を過ごすための資財はありません。望み請うところは、特別に天裁(朝廷の裁許)を賜り、諸院御願の例に准じさせ、仏聖の灯油および七僧の日供を給付せられたい。ただし例の僧にもし欠員があった場合、定心院・惣持院・四王院などの例に准じて、寺家司に命じて階業の人のうち、顕教・密教に抜きんでて秀で、戒律が備わっている者を選んで、その替りに補任させます。」(『尊意贈僧正伝』)
尊意の奏上によって天慶元年(938)5月25日、朝廷は延命院の三尊の供灯として近江国の料を賜い、七僧の日供として美濃国の料を賜っており、さらに同年8月7日には延命院の「七禅師」官符を授けている(『尊意贈僧正伝』)。これによって延命院は灯料・僧料といい、七禅師の設置といい、名実ともに御願寺としての体裁を得ることとなった。
ところで、朱雀天皇には「十種御願」なるものがあり、尊意は朱雀天皇の意を受けて御願の実行を目指していたらしい。その一つとして同年8月7日に尊意が奏上した一万仏塔の修補もあったが、これは天皇の御願であるにもかかわらず、天皇自身が上意下達的に実施していたものではなかった。換言すれば御願の実施が天皇自身では行ない得なかったことを示している。この「十種御願」は他にどのようなものがあったか不明であるが、尊意は同年8月9日に御前に参上したついでに、60部の大般若経の書写と60体の観音の造立を御願として、実施を願い出るための「奏上」をしている。これらのことから、「十種御願」というのは、朱雀天皇自身の発案によるものではなく、漠然とした御願の構想が朝廷側にあった可能性はあるにせよ、それらの発案・理論的牽引・具体的方策が主導したものであったとみてよい。実際、承平8年(938)5月12日に尊意は摂政太政大臣藤原忠平のもとを訪れて、御願堂の僧供7人の料として美濃国を給うべきことを申し述べており(『貞信公記』承平8年5月12日条)、僧供料を得るために政界のトップに尊意自ら働きかけを行なっている。ところでこの承平8年(938)の段階では朱雀天皇は15歳の少年であったから、実際の御願はその母穏子の兄忠平であり、自身の日記にも普賢延命菩薩への信仰がみられており(『貞信公記』延長3年9月2日条)、そのことから延命院の御願は忠平によるものであったと考えられている 。
延命院は天慶元年(938)に完成しており(『叡岳要記』巻上、延命院)、6月28日の内御修法において、山座主(尊意)は山御願堂(延命院)にて修法を実施し、覚慧は禁中で伴僧15人を率いて呼応した(『貞信公記』天慶元年6月28日)。10月21日に延命像(普賢延命菩薩像)を安置し、20口(人)の伴僧を率いて、7ヶ日間の夜、金剛寿命菩薩秘法を修した(『叡岳要記』巻上、延命院)。ただしこの修法は地震のためであったらしく、内御修法を山御願堂(延命院)にて行なっており、座主(尊意)が阿闍梨となって、伴僧14口を率いて修法した(『貞信公記』天慶元年10月22日条)。天慶2年(939)夏、この季節にわたって旱(ひでり)となり、田畑の存続が危うくなる事態となった。よって朝廷は尊意に宣旨を賜った。「先年の例に准じて、尊勝法を修し、甘雨を祈祷して、必ず感応させなさい。」 尊意は7月15日から延命院にて5ヶ日の間、20口(人)の僧を率いて尊勝法を修した。5日目になると大雨が降った。賞として度者22人を賜った(『尊意贈僧正伝』)。
以上のような経緯から延命院は「天皇一代が新たに修造された御願寺」とみられており(『新儀式』巻第5、臨時下、造御願寺事)、比叡山上の子院でありながら、四王院・定心院・大日院とならんで、御願寺としての位置づけを得ることとなった。
延命院の本尊は普賢延命菩薩像である。普賢菩薩は『法華経』普賢菩薩勧発品に、法華経信仰者を保護すると説かれているため、平安時代の人々は普賢影向(ようごう。現前すること)を期待しており、説話上でも夢に白象上の普賢に相対したというものがみられる(『大日本国法華経験記』叡山西塔蓮房阿闍梨伝)。ところが普賢延命菩薩は密教経典における尊像であり、雑密経典の提雲般若訳『諸仏集会陀羅尼経』(大正蔵1346)、不空訳『金剛寿命陀羅尼経』(大正蔵1134b)は奈良時代にすでに写経記録があり、空海が他に不空訳『金剛寿命陀羅尼念誦法』(大正蔵1133)を請来し(『御請来目録』)、天台宗では円仁が『金剛寿命陀羅尼念誦法』と不空訳『仏説一切如来金剛寿命陀羅尼経』(大正蔵1135)を請来した(『入唐新求聖教目録』)。またこの時円仁は「普賢延命像一鋪(三輻苗)」を請来しており(『入唐新求聖教目録』)、またそれは「普賢延命曼茶羅一鋪(三副苗)」とも称されていた(『前唐院見在書目録』)。
普賢延命菩薩は『金剛寿命陀羅尼経』によると、長寿を得せしめ不慮の事故を除く功徳があるとされている。延命院の建立目的は天皇の長寿を祈るためであったことは、尊意の奏上によって知られることであるが、不慮の事故を除くという点で延命院が建立目的の一つに数えられたとみられる。実際に延命院建立の6年前の延長8年(930)6月26日、大納言藤原清貫と右中弁平希世が清涼殿で落雷のため事故死するという事件があり、醍醐天皇は恐怖のあまり病床に伏せ、遂に崩御してしまった。のちにこの事件は醍醐天皇治世下に失脚した菅原道真の祟りとみなされ、天神信仰が隆盛する契機となったが、当時は単に「雷公」と記されるのみであり、すなわち菅原道真の祟りとはみなされておらず、事故として扱われていた。すなわち延命院は現実の出来事を背景に御願として建立されたものとみられる。
前述したように尊意は7人の僧で三時の修法を行なっており、7人が三時に修法を行なうと21となり、また天慶元年(938)には20口(人)の伴僧を率いて金剛寿命菩薩秘法を修しているが、尊意を合わせると21人となる。この21人による修法は不空訳『仏説一切諸如来心光明加持普賢菩薩延命金剛最勝陀羅尼経』(大正蔵1136)に「もし病苦の衆生がいるのであれば、長寿を求め、故に病苦を離れる。すなわち道場を建立し、清浄の屋舎において、あるいは伽藍につきて、三七(21)の比丘・清浄僧を請い、この経を転読すること各四十九遍、別にこの陀羅尼を持すこと十万遍に満てば、すなわち寿命を獲たり」とあることを典拠としており、尊意は経典に忠実に御願を修していたことがうかがえる。
延命院は朱雀天皇の御願寺であるが、同じく比叡山上に造営された朱雀天皇の御願寺として新延命院がある。この新延命院は朱雀太上天皇の御願で、天慶年中(938〜47)に詔を下して所司が建立したものである。太上天皇が崩御の後に3僧が設置されることとなった。天暦8年(954)4月28日に供僧3人の官符が下り、同日に度者(年分度者設置のことか)の官符も下った。中世期には桧皮葺の5間の堂が1棟あり、普賢延命像1体と梵天・帝釈・四天王像が安置されていた(『叡岳要記』巻上、新延命院)。
この新延命院については不明なことが多く、その実態は明らかではない。ところでこの新延命院は普賢延命像1体と梵天・帝釈・四天王像が安置されている。四天王像は普賢延命像が安置される壇外の四周囲に小壇を作って安置されることとなっており、これを四天王壇と名付けられていたという(『諸仏集会陀羅尼経』)。この四天王を普賢延命像の周囲に安置して行なう修法に、現在も延暦寺で行なわれる普賢延命大法がある。この普賢延命大法は、公式には承保2年(1075)に実施されたのが初出であるが、それ以前の延久4年(1072)にも2月9日にも非公式で実施されている(『阿娑縛抄』第220、普賢延命法日記)。例えば、普賢延命大法は5つの所為経典の組み合わせによって成立したものであることが指摘されているが、平安時代初期までには概ねこれらの経典はそろっていた。ただしこれらの経典を解釈して修法に組み込むのにはいくつかの過渡期の段階があったであろうから、尊意による新延命院はその試みの一つとして行なわれたものであり、同時に朱雀天皇の「十種の御願」の一つとなっていたのであろう。また朱雀天皇御願とはいえ、藤原忠平主導であった延命院ではなく、新延命院こそが朱雀天皇の御願として建立されたとみる見解がある 。
延命院の開祖尊意3 / 尊意の示寂
尊意が延命院を建立した頃、最澄の根本法蔵(経蔵)の一切経の内、500巻ほどが不足していた。尊意は衣鉢を捨て施し、書写を行なった。同年11月、法華十講のついでに大講堂で題名供養を行ない、一切経を補充した(『尊意贈僧正伝』)。
尊意は高齢であったが、朝廷から信認を受け、御願実行の中心的人物となっていたが、栄光の中で晩年は弟子に次々と先立たれていた。そのため、「釈迦如来が在世の時、舎利弗・目連大師は釈尊が涅槃される前に入滅してしまった。まさに今、耆老の平仁に去年山で死に、まだ壮年の阿闍梨が今年の春に死んでしまった。私の歳は80歳、命の残りは久しくはない。ああ悲しいかな。師資の契りは会うのは難しく、別れることはやさしい。無常の理(ことわり)の前後は知ることが難しい」と嘆いている(『尊意贈僧正伝』)。
天慶3年(940)2月23日、尊意は斎(おとき。昼食)の後、剃髪して沐浴し、弟子の恒昭に命じて、「余とこの界の縁はすでに尽きた。他生を期してこれらか逝こう。余は少年より観音に帰依して、あえて両心などなかった。お前は黄昏時になれば、千手陀羅尼を読んで加持し、ひとえに引き上げて欲しい。年来の頃の願いは極楽に生まれることであったが、今思いを改めて兜率天(弥勒菩薩の居所)に生まれたい。また火葬の後は骸骨を留めてはならないということは語ってきたが、今しばらく釈尊の遺身の舎利の縁を思い起こした。荼毘の後は葬墳のところに遺骨を置き、必ず石柱を建てなさい。これはわが弟子・同法および親疎讃毀を見聞した人をして兜率天への因縁をなさしむるためである。」(『尊意贈僧正伝』)
また弟子達を誡めて、「葬送の法は、時日の吉凶を選ばず、陰陽の地鎮を用いず、ただ浄水を加持し、五字の呪を読み、その地を浄めて四方の境を結びなさい。詳しくは薬叡に言い含めている。またわが弟子達は喪服を着てはならない。四十九日の間は旧房に集まって念仏してはならない。それぞれが自房に住んで修学を怠るな。国家を誓護せよ」 ようやく黄昏時となって、恒昭は謹んで教誡の通りに千手陀羅尼を読み、法体を加持した。寅尅(午前3時)に及んで、尊意はことごとく上下内外の着る物を脱ぎ、さらに清浄の新しく清潔な法衣を着て穢履にいたった。皆は尊意の姿を見て威儀は常の倍となり、法則(声明)は欠けることなかった。手を洗って口をそそぎ、乾陀色の欝多羅僧(茶色の七条袈裟)を着て本尊に頂礼し、歩き出て輿に乗り、手は定印を結び、口に五字を唱え、兼ねて「大日観音」の名号を唱えて習禅房に赴いた。この習禅房は臨終のために生前に選んだところであった。そのため習禅房といったのである。この夜に雲や霧が山を覆い、霧雨が降った。翌朝には晴れ渡っていた(『尊意贈僧正伝』)。
24日、病気で苦しむことなく入滅した。享年75歳、臈年54。尊意が眼を閉じた朝には鳥が100羽あまり、房の付近の樹木に集まって飛んだり泣いたりするともなく、房の裏に集まって、互いに悲音を出した。人が聞いても驚かず、巳尅(午前9時)に飛び去って行った。尊意が斎食の時、一分の斎飯を放鳥の辺に施していた。26日早朝には極楽寺座主少僧都禅喜が尊意の骨を埋めて石柱を建てた。同日、朱雀天皇は勅使を派遣して、房前にて尊意の生前の功績と天皇の悲しみを述べた。尊意の遺弟は地にひざまずいて涙を流し、見聞きしていた大衆たちも悲しまない者はなかった(『尊意贈僧正伝』)。
延命院の焼失
延命院は幾度も焼失の憂き目に遭っている。康保3年(966)10月28日、延暦寺の講堂・鐘楼・文殊楼・常行堂・法花堂・四王院および故座主喜慶ら7人の房舎の全21宇が焼失しており、この時延命院もまた焼失した(『扶桑略記』第26、康保3年10月28日条)。天禄3年(972)には四王院とともに再建の作事が開始され、3月下旬には落成した(『慈恵大僧正拾遺伝』)。
久安2年(1146)3月19日には三井寺の僧侶らによって延命院一乗坊が焼き討ちされ(『天台座主記』巻2、48世権僧正行玄、天養2年条、首本久安2年条)、翌久安4年(1148)3月に中堂の僧侶によって延命院が焼き討ちされた(『法曼開祖相実贈大僧正伝』)。さらに元久2年(1205)10月2日子刻(午後11時)、延暦寺の法華堂の渡廊に放火され、延焼して講堂・四王院・法華堂・常行堂・文殊楼・五仏院・実相院・丈六堂・五大堂・御経蔵・虚空蔵王・惣社・南谷・彼岸所・円融坊・極楽坊・香集坊が灰燼と化し、延命院もまた焼失した。この放火は堂衆の所行であったと疑われている(『吾妻鏡』元久2年10月13日条)。建永元年(1206)7月24日には法華堂・常行堂・四王院・文殊楼・実相院などは再建のための棟上げが行なわれている(『天台座主記』巻3、68世権僧正法印承円、建永元年7月24日条)。
中世期の延命院には桧皮葺の5間の堂が1棟あり、3尺(90cm)の延命像(普賢延命菩薩像)1体が安置されていた。他に彩色の梵天・帝釈天像がそれぞれ1体あった(『叡岳要記』巻上、延命院)。さらに延命院は講堂の東に位置していたという(『山門堂舎記』延命院)。建物は桧皮葺の五間堂が1棟あり(『叡岳要記』巻上、延命院)、さらに礼堂が付属していた(『御堂関白記』長和元年5月23日条)。延命院は比叡山の建築物として典型的な五間堂であったことが知られる。
比叡山上の建築物は自然火災・内紛による放火など多くの焼失に見舞われているが、延命院は記録が少ないため詳細は不明である。元徳2年(1330)3月27日に大講堂・延命院・四王院・法華堂・常行堂の5堂の修造が完了しており(『閻浮受生大幸記(五代国師自記)』諸寺興隆大幸)、延命院を除いた建造物はすべて永仁6年(1298)の延暦寺の内紛で焼失したものを再建したことの記録であるから、延命院も永仁6年(1298)の延暦寺の内紛で焼失した可能性があろう。その後元弘元年(1331)4月13日夜、法華堂より出火・類焼して大講堂・四王院・延命院・常行堂などが焼失した(『天台座主記』巻5、120世三品尊澄親王、元弘元年4月13日条)。
明応8年(1499)7月11日、細川政元の被官赤沢朝経・波々伯部宗量らが延暦寺を攻撃し、早朝に細川勢に放火され、根本中堂・大講堂・常行堂・法華堂・延命院・四王院・経蔵・鐘楼などが焼失した(『大乗院寺社雑事記』明応8年7月12・23日条)。
その後延命院に関する記録らしい記録はない。延暦寺は元亀2年(1571)9月12日の織田信長の比叡山焼討ちによって壊滅し、延命院もまた焼失した。
近世以降の延命院
ところで延命院は中世に「講堂の東」に位置していたが、江戸時代の復興時には東塔東谷に再建されている。東塔東谷は、東塔の東南の仏頂尾と、同じく東塔の東北の檀那院の二つのエリアに分かれている。うち延命院は仏頂尾に位置していた。
延命院は江戸時代前期には復興していたらしい。学匠が住む室として位置づけられており、旧名は福円坊と号していた(『山門堂社由緒記』巻第1、東塔、東谷、現坊)。再建年については不明だが、『山門并葛川記』(1652撰)が記録上の初出で、以後明治12年(1879)の『山上坊宇間数調簿』にも記載があることから、江戸時代前期から明治時代初期まで存続していたようである。
「山門三塔坂本惣絵図」(内閣文庫蔵、1767年成立。武覚超『比叡山諸堂史の研究』口絵所載)によると、近世期の延命院は東坂を東塔に登る途中に位置しており、東塔東谷を檀那院とともに仏頂尾の地域であった。同絵図には檀那院廟(覚雲廟)より若干降ったところに位置していることが示されており、この付近には延命院のほかに、華王院・光聚院・白豪院・三光院がそれぞれ斜面を平削して建てられていた。
「山門三塔坂本惣絵図」には東坂から一本が左側(南)に向って延びており、三光院の上(西)を通過してから上下(西と東)に分岐し、上部(西側)に延命院、下部(東側)に華王院が位置していた。地図上では単に北から南への移動にしかみえないが、実際には斜面を削って平坦地としているため、下に降る斜面となっている。ただし現在では道は存在しておらず、三光院跡から直接華王院跡を通過して延命院跡へ降る方法が、最も安易な延命院跡へのアクセス方法となっている。延命院が位置していたと思われる東塔東谷には斜面に廃寺跡とみられる複数の人工的な平坦地があり、三光院跡には江戸時代に積まれたとみられる石垣跡がある。
その後延命院は近代に廃寺となったが、延命院の里坊は現在も比叡山の麓の坂本に現存している。里坊とは山坊の住していた僧侶が、老齢などによって山坊に住むことが困難であることから、麓の坂本に住むことを許されて形成された住坊のことである。この里坊の延命院もまた、江戸時代中期には記録上に現われており、享保11年(1726)8月29日に大僧都に推薦された延命院恵厳(『天台座主記』巻6、198世入道二品尊祐親王、享保11年8月29日条)と何らかの関係、すなわち老功の者として里坊を形成することを許されていたとみられる。坂本の里坊延命院は、山上の延命院が廃寺となった後も現存している。 
五仏院跡 

五仏院(ごぶついん)は比叡山延暦寺東塔南谷に位置した子院です。どこに位置したかなど、詳細なことはわかっていません。
五仏院はもとは承雲(?〜881以降)が建立した建物である(『阿娑縛抄』第201、諸寺略記下、延暦寺三塔諸堂、東塔、五仏院)。承雲は円仁(794〜864)の弟子である。円仁示寂後、とくに文殊楼の建立に尽力した人物である。
五仏院は南谷に位置していたということ以外、どこにあったのか不明である。南谷は東塔の南側おより南西に広がる地帯であり、その範囲は広大であって、五仏院がそこのどこに位置していたのか知るすべはない。ただし、回峰記録によると、回峰者は無動寺の後に五仏院・実相院・食堂(文殊楼)を廻ったといい(『北峰大廻次第』)、また文殊楼・定心院・五仏院・実相院・覚意三昧院をへて政所を廻ったというから(『北嶺回峰次第』)、概ね現在の文殊楼が位置する虚空蔵尾の麓にある書院の西側に点在していたであろうことが推測でき、しかも五仏院は文殊楼と無動寺を結ぶ線上に位置していたらしい。文殊楼の建立に尽力した承雲が住するに相応しい子坊である。
永承2年(1047)に上東門院(988〜1074)の奏上によって御願所となった(『阿娑縛抄』第201、諸寺略記下、延暦寺三塔諸堂、東塔、五仏院)。建物は桧皮葺の方五間堂である(『阿娑縛抄』第201、諸寺略記下、延暦寺三塔諸堂、東塔、五仏院)。「方五間堂」とは、比叡山をはじめとした天台建築の一大特徴であり、桁行梁間ともに5間四方で、宝形造となった建物をいう。現在比叡山上には西塔の常行堂・法華堂がそれに該当する。
金色の丈六阿弥陀如来と、高さ1尺(30cm)金色の金剛界五仏像が5体安置された(『阿娑縛抄』第201、諸寺略記下、延暦寺三塔諸堂、東塔、五仏院)。もともと仏像は愛宕寺に安置されていたものであるが、明達が五仏院に迎えたもので、定朝の作であったという(『叡岳要記』巻上、五仏院)。
永暦元年(1160)4月12日に五仏院に阿闍梨3口を加えられており(『天台座主記』巻2、49世権僧正最雲、永暦元年4月12日条)、仁安元年(1166)12月21日に放火によって定心院・実相院・五仏院・丈六堂・円融房が焼失している(『天台座主記』巻2、54世僧正快修、仁安元年12月21日条)。仁安2年(1167)に赤袴騒動が激化し、西塔・横川の僧が座主罷免を要求したため、東塔は五仏院政所と小谷岡を城郭化している(『天台座主記』巻2、54世僧正快修、仁安2年条)。また明雲の得分の一つに寺務があり、その一つに実相院分が含まれ、これらは安元3年(1175)5月11日に停止されている(『玉葉』安元3年5月11日条)。明雲の時代、比叡山上の内乱が激化し、明雲が座主であった時、五仏院から西塔まで48人を殺害させたという(『愚管抄』)。
元久2年(1205)10月2日にも法華堂の放火が類焼して講堂・四王院・延命院・法華堂・常行堂・文殊楼・五仏院・実相院・丈六堂などが焼失している(『吾妻鏡』元久2年10月13日条)。建長5年(1253)9月22日にも五仏院・実相院・法華堂が焼失したが(『天台座主記』巻4、81世無品尊覚親王、建長5年9月22日条)、文永7年(1270)3月2日に五仏院が上棟され(『天台座主記』巻4、86世前大僧正慈禅、文永7年(1270)3月2日条)、文永9年(1272)7月10日に五仏院に本尊を安置した(『天台座主記』巻4、87世前大僧正無品澄覚親王、文永9年7月10日条)。
永仁5年(1297)9月19日にも延暦寺の内紛から大講堂の軒下やそのほか3ヶ所に放火され、五仏院も焼失した(『天台座主記』巻5、99世前大僧正尊教、永仁5年9月19日条)。
これ以降、五仏院がどうなったかわかっていない。 
実相院跡 

実相院は比叡山延暦寺東塔南谷に位置した子院です。後冷泉天皇の御願として建立されました。どこに位置していたか詳細なことはわかっていません。 
実相院の建立
実相院はもとは浄善院と号した明快(985〜1070)の住房であったが、康平5年(1062)4月2日に破却して、後冷泉天皇の御願のための子院を建立した。同年10月7日に勅を奉って建立を開始し、康平6年(1063)10月に完成した。同年10月29日に大納言藤原信長(1022〜94)以下公卿や殿上人が列席する中、明快が導師となって、僧都以下30口が讃衆となり、法花堂を供養した(『阿娑縛抄』第201、諸寺略記下、延暦寺三塔諸堂、東塔、実相院)。
実相院の建物は桧皮葺の五間堂1宇の内部に高4尺(120cm)の金色の薬師如来像と如意輪観音像、文殊菩薩像をそれぞれ1体安置し、また同じく五間堂が1宇あり、多宝塔を内部に安置し、さらにその中に紺紙金泥の法華経を納めている。他に7間3面の僧房が1宇ある(『阿娑縛抄』第201、諸寺略記下、延暦寺三塔諸堂、東塔、実相院)。このうち五間堂のもう一つは法華堂であり、四種三昧のうち半行半坐三昧を行う堂であった(『扶桑略記』第29、康平6年10月29日丁酉条)。
なお実相院の本尊は根本中堂の薬師如来像を写したものであるが、根本中堂の薬師如来は施願・無畏、つまり右手をあげて左手を垂らすという古様であったため、当時の人が違和感を覚えて非難し、現在の薬師如来のように手に宝珠を持つ印相に造り替えている(『阿婆縛抄』巻46、薬師本)。
康平6年(1063)12月27日に阿闍梨5口を給され、康平7年(1064)9月11日に供僧十口三昧を行うことと、僧12口の院司の官符を受けた(『扶桑略記』第29、康平6年10月29日丁酉条)。
実相院は南谷に位置していたということ以外、どこにあったのか不明である。南谷は東塔の南側おより南西に広がる地帯であり、その範囲は広大であって、実相院がそこのどこに位置していたのか知るすべはない。ただし、回峰記録によると、回峰者は無動寺の後に五仏院・実相院・食堂(文殊楼)を廻ったといい(『北峰大廻次第』)、また文殊楼・定心院・五仏院・実相院・覚意三昧院をへて政所を廻ったというから(『北嶺回峰次第』)、概ね現在の文殊楼が位置する虚空蔵尾の麓にある書院の西側に点在していたであろうことが推測でき、しかも五仏院は文殊楼と無動寺を結ぶ線上に位置していたのに対して、実相院は五仏院を経由した、若干離れたところに位置していたらしい。
実相院には正税が規定されたらしいが、詳細は不明であり、しかも実相院が律令体制が崩壊しつつあった時期に建立されているから、実態はわかっていない。応徳3年(1086)12月29日に備前国は加挙を申請しているが、そのうち実相院仏聖供米料42斛、白米21斛6斗、黒米20斛4斗を加挙されている(『朝野群載』巻第27、諸国公文下、惣返抄四通、主計寮雑米惣返抄)。正税は貸し付けを基本とする税である出挙によりなっていたが、出挙の回収が出来なくなると、規定される正税の減額が国司より申請される事態に陥った。これを減省というが、減省は一年間のみ特例として認められたものであり、その国は用残(正税の利稲の残余)を増額出挙(加挙)して貸し付けした本稲を補填することとしていた。すなわち実相院分が減省となったことを指しており、加挙によって不足分の補填を試みたということになる。
久寿3年(1156)4月19日に最雲が実相院廊下にて座主宣命を受けており(『天台座主記』巻2、49世権僧正最雲、久寿3年4月19日条)、仁安元年(1166)12月21日に放火によって定心院・実相院・五仏院・丈六堂・円融房が焼失している(『天台座主記』巻2、54世僧正快修、仁安元年12月21日条)。元久2年(1205)10月2日にも法華堂の放火が類焼して講堂・四王院・延命院・法華堂・常行堂・文殊楼・五仏院・実相院・丈六堂などが焼失している(『吾妻鏡』元久2年10月13日条)。建永元年(1206)7月24日には法華堂・常行堂・四王院・文殊楼・実相院などは再建のため棟上が行なわれている(『天台座主記』巻3、68世権僧正法印承円、建永元年7月24日条)。
建長5年(1253)9月22日にも五仏院・実相院・法華堂が焼失し(『天台座主記』巻4、81世無品尊覚親王、建長5年9月22日条)、建長8年(1256)4月27日に実相院は再建のため上棟された(『天台座主記』巻4、81世無品尊覚親王、建長8年4月27日条)。永仁5年(1297)9月19日にも延暦寺の内紛から大講堂の軒下やそのほか3ヶ所に放火され、大講堂・文殊楼・五仏院・鐘楼・政所・定法房・浄眼房・実相院・定心院・同鎮守・彼岸所・円融房・極楽房・香集坊・法性坊・四王院・戒壇院・法華堂・常行堂が焼失した(『天台座主記』巻5、99世前大僧正尊教、永仁5年9月19日条)。
これ以降、実相院がどうなったかわかっていない。 
脱俗院跡 

脱俗院は最澄が生前に定めた十六院の一つである。
弘仁9年(818)7月27日、最澄は十六院構想を定めているが、その中に脱俗院が見えている。これは別名を法華清浄脱俗院といい、別当として薬芬(生没年不明)を、知院事として行宗(生没年不明)が任じられている(『弘仁九年比叡山寺僧院等之記(日本国大徳僧院記)』)。
別当に任じられた薬芬は、最澄の門弟のうち、「信心ある仏子」と讃えられた門人の一人であり(『叡山大師伝』)、また後に最澄の廟所となる浄土院の別当に、最澄の生前より任じられていたことからもわかるように(『弘仁九年比叡山寺僧院等之記(日本国大徳僧院記)』)、戒行ともに優れた人物であったらしい。また一乗止観院(後の根本中堂)においても、大別当義真(781〜833)・小別当真忠(生没年不明)についで、上座薬芬・寺主慈行(生没年不明)・都維那円信(生没年不明)が任命されているように、一乗止観院の三綱の一人であった(『山門堂舎記』根本中堂)。
この脱俗院は、本尊が地蔵菩薩であり、別名を水飲堂といったが(『叡岳要記』巻上、十六院)、それ以外の詳細はわかっていない。最澄の著作に仮託された『三宝住持集』によると、西坂(雲母坂)を麓より登山する人が、垢衣を脱俗院で脱ぐから、脱俗院の名があるとする(『三宝住持集』当山十六院事)。
脱俗院は別名を「水飲堂」と称したことは前述の通りであるが、水飲の地は、比叡山の西側の境の地であり、天禄元年(970)の天台座主良源(912〜85)による「二十六ヶ条起請」の規定があり、これによると籠山僧の結界として、東は悲田、南は般若寺、西は水飲、北は楞厳院が指定されており、ここから外に出ることが禁止されていた(「天台座主良源起請(二十六ヶ条起請)」廬山寺文書〈平安遺文303〉)。すなわち脱俗院は比叡山における結界の地に置かれた子院であった。
この脱俗院については、水飲付近に位置したということ以外はほとんどわかっていない。中世にはあったようであるが、廃院になった時期も不明である。 
 
■西塔 

法華堂 
法華堂(ほっけどう)は比叡山延暦寺西塔に位置する建造物の一つで、一辺12mほどの規模です。隣の常行堂と渡廊下によって連結していることから、両者あわせて「にない堂」と称されています。天長3年(826)に建立されましたが、その後幾度かの焼失をへて、文禄4年(1595)に現在の建物が再建されました。
法華三昧と東塔法華堂
法華堂は四種三昧(ししゅざんまい)の一つ、半行半坐三昧を実施するための堂として建立された。師主三昧は常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧のことで、うち半行半坐三昧とは、行(あゆ)むのと坐するのを併用する修行法である。これは智ギ(りっしんべん+豈。UNI6137。&M011015;)(538〜97)の著作『法華三昧懺儀』にあらわれたもので、道場に高座を設けて法華経を安置し、二一日間、十方の三宝を礼し、釈迦・多宝などの仏を勧請し、法座をめぐりながら焼香散華して三帰依文および法華経の安楽行品を唱え、坐禅を行なうものである。
最澄は止観業の者は四種三昧を修習することを「八条式(勧奨天台宗年分学生式)」にて規定しており、僧綱の四種三昧に関する疑問に対して、『摩訶止観』を引用して回答している(『顕戒論』巻上、開示四種三昧院明拠)。
現在、比叡山上には法華堂という名称の建物は西塔に現存するものを指すが、かつては東塔・西塔・横川に一つづつあり、それぞれが法華堂(法華三昧堂)という名称を有していた。
東塔の法華堂は弘仁3年(812)7月上旬に造立されたもので(『叡山大師伝』)、その後円仁(794〜864)が貞観2年(860)に法華経安楽行品を法華堂に伝えたとも(『慈覚大師伝(通行本)』)、嘉祥元年(848)春に半行半坐三昧行法を伝え、四季が終るごとに三七日(27日間)懺法を行なったともいう(『阿娑縛抄』第201、諸寺略記下、延暦寺、東塔、法花三昧院)。
最澄が建立した法華堂は康保3年(966)10月28日の延暦寺大火災の際に焼失したが(『扶桑略記』第26、康保3年10月28日条)、康保4年(967)4月には再建されている(『慈恵大僧正拾遺伝』)。この時再建された法華堂は元久2年(1205)に焼失するまで存在していたが、桧皮葺の5間の建物で、堂には金銅の如意がある宝形造があったというから(『阿娑縛抄』第201、諸寺略記下、延暦寺、東塔、法花三昧院)、現在の西塔法華堂と同様の形式の桧皮葺宝形造の方5間堂であったことが知られる。この東塔法華堂の形式は、以後の天台宗寺院における法華堂の形式として踏襲される。また「止観院西北に在り」(『阿娑縛抄』第201、諸寺略記下、延暦寺、東塔、法花三昧院)とあるように、根本中堂の北西に位置していた。
東塔法華堂は元久2年(1205)10月2日に焼失(『天台座主記』巻3、67世僧正真性、元久2年10月2日条)、翌元久3年(1206)7月24日に再建の上棟が行なわれている(『天台座主記』巻3、68世権僧正法印承円、元久3年7月24日条)。さらに建長5年(1253)9月22日(『天台座主記』巻4、81世無品尊覚親王、建長5年9月22日条)、文永元年(1264)3月25日にも焼失しており(『天台座主記』巻4、83世無品最仁親王、文永元年3月25日条)、同3年(1266)8月18日には大風により破損している(『天台座主記』巻4、84世前大僧正澄覚、文永3年)。ほかに永仁5年(1297)9月19日(『天台座主記』巻5、99世前大僧正尊教、永仁5年9月19日条)、元弘元年(1331)4月13日(『天台座主記』巻5、120世三品尊澄親王、元弘元年4月13日条)、明応8年(1499)7月11日(『大乗院寺社雑事記』明応8年7月12・23日条)にも焼失しており、元亀2年(1571)の信長による焼討ちの際の後にも再建されたものの、寛永7年(1630)9月18日の大風によって倒壊(『天台座主記』巻6、169世二品最胤法親王、寛永7年9月18日条)、以後再建されることはなかった。
横川の法華堂は天暦8年(954)に藤原師輔の発願によって良源(912〜85)が建立したものであるが、信長の焼討ち以降、再建されることはなかった(『慈恵大僧正伝』)。
西塔の法華堂
西塔の法華堂は天長2年(825)11月3日に円澄(771〜836)と延秀(生没年不明)が建立したものである(『叡岳要記』巻下、法花堂)。円澄が法華堂建立に果たした役割について、円澄の盟友である光定(779〜858)は「西塔の院、三昧堂を建て、法華三昧を修念し、三部大乗を長講す」と讃えている(『伝述一心戒文』巻下、大法師円澄功能)。
建立したもう一人の人物として名があげられている延秀については、最澄が定めた十六院の一つ法花三昧院において「別当延秀」として見え(『叡岳要記』巻上、十六院)、また「信心ある仏子」と称された最澄の弟子数十人の中の一人として、円仁とともに名が挙げられている(『叡山大師伝』)。なお天安3年(859)正月23日には、円珍が帰朝報告のため比叡山の各堂を巡行しているが、その中に「法華三昧堂」、すなわち法華堂が含まれている(『行歴抄』天安3年正月23日条)。
普賢菩薩像が安置され、最澄筆の法華経一部が納められた。これは座主の喜慶(889〜966)が村上天皇より賜ったものであり、伝えによると、康保2年(965)2月に仁寿殿にて村上天皇の病気の際に孔雀経法を行なった賞として得たものであり、経典は銀の箱に納められたという(『叡岳要記』巻下、法花堂)。
西塔の法華堂は久寿元年(1154)11月11日夜に焼失している。そのため法華三昧行法を丈六堂にて修することになった。この焼失の原因は、常行堂にて行なわれる二十八講の香火が仏壇に引火したため、常行堂と法華堂がともに焼失することになってしまったものである(『山門堂舎記』西法華堂)。
文永8年(1271)4月15日、西塔南谷北上房より火災が発生し、大風であったため類焼し、法華堂・常行堂・勧学堂・鐘楼が焼失した(『天台座主記』巻4、86世前大僧正慈禅、文永8年4月15日)。同年5月19日には西塔法華堂・常行堂の造営のため、但馬国平野荘・箕浦荘・木徳荘・朝妻荘などの料所を承詮に付属しており(『天台座主記』巻4、87世前大僧正無品澄覚親王、文永5年5月19日条)、同8年(1271)7月29日には西塔法華堂・常行堂の上棟が行なわれた(『天台座主記』巻4、87世前大僧正無品澄覚親王、文永8年7月19日)。
文禄の法華堂
法華堂は元亀2年(1571)信長の比叡山焼討ちにおいて焼失したらしいが、その詳細についてはわかっていない。
法華堂の再建は文禄4年(1595)に常行堂とともに行なわれた(延暦寺文書〈滋賀県教育委員会事務局文化財保護課1968所載〉)。これが現存する法華堂であるが、なお昭和39年(1964)に行なわれた解体修理工事に際しての発掘調査によると、前身建物や焼土層が検出されなかったため、焼討ち以前の法華堂の場所は現在地ではなかったことが知られる(滋賀県教育委員会事務局文化財保護課1968)。
法華堂再建に際して地山をすきとって地盤としているが、礎石には焼失跡があったため、礎石は他の建物を転用したものとみられている。例えば北側に面する礎石6つは転用礎石であり、南側に面する礎石5は野面石、南側の一番西側の礎石はもとは五輪塔であった石である。また法華堂・常行堂の再建は釈迦堂の移建に際して同時並行的に進行したため、長押など一部の材には釈迦堂からの転用がある(滋賀県教育委員会事務局文化財保護課1968)。
その後貞享4年(1687)に法華堂・常行堂の修理が行なわれ、両堂を繋ぐ渡廊下が新造された(延暦寺文書〈滋賀県教育委員会事務局文化財保護課1968所載〉)。渡廊下は東塔法華堂・常行堂には付属していたことが京都国立博物館蔵「東塔絵図」(鎌倉時代)によって確認されるが、西塔法華堂・常行堂については室町時代後期(1495〜1571)の絵図「比叡山絵図(比叡山南渓蔵)」によって中世にあったことは確認されるが、再建以後は貞享4年(1687)の新造まで確認できない。なお「にない堂」は、「担い堂」「二内堂」とも表記される。
寛保3年(1743)に法華堂・常行堂の修理が行なわれ(延暦寺文書〈滋賀県教育委員会事務局文化財保護課1968所載〉)、安永10年(1781)3月にも修理が実施された(『天台座主記』巻6、212世入道二品尊真親王、安永10年3月19日条)。また文化2年(1805)(延暦寺文書〈滋賀県教育委員会事務局文化財保護課1968所載〉)・明治24年(1891)にも修理が行なわれている。また昭和12年(1937)に屋根を銅板葺に改めたが、昭和39年(1964)から同43年(1968)に行なわれた解体修理工事に際して栩葺に復旧された。昭和30年(1955)6月22日に法華堂・常行堂は重要文化財に指定されたため、昭和の解体工事に際して費やした6294万のうち、国庫負担分も利用された。 
椿堂 

椿堂(つばきどう)は比叡山延暦寺西塔南谷に位置する堂坊で、聖徳太子の開基になるとされています。
椿堂の建立時期は明確な史料がないため不明であるが、承澄(1205〜82)が建治元年(1275)に編纂した図像集である『阿娑縛抄』に西塔の一堂としてみえ(『阿娑縛抄』第201、諸寺略記下、延暦寺、三塔諸堂、西塔)、また鎌倉時代の延暦寺の寺誌『叡岳要記』において、「南谷 椿堂。(本仏は観音十一面如意輪、聖徳太子御本尊を腹心に奉納す)」とあることから(『叡岳要記』巻下、西塔)、少なくとも鎌倉時代には存在していた。
また中世の説話によると、聖徳太子が建立したものといい、六角堂の金六臂の如意輪観音・椿堂の銀四臂の如意輪観音・石山寺の白檀二臂の如意輪観音とともに、聖徳太子ゆかりの三尊であり、いずれも三寸(9cm)ほど大きさであったという。また椿堂はもとは安養堂といい、聖徳太子が登山の時の杖をこの地に建てると、それが大きくなって大地に生えたため、椿堂といったのだという(『渓嵐拾葉集』第2、仏像安置事、聖徳太子七生本尊三礼事記)。
近世の説話では、聖徳太子の本尊説話を踏襲しているが、聖徳太子が奈良から祥瑞をみて光を追ったところ、この地にたどり着いたという。また如意輪観音像を千手観音造をつくってその中に納めたという(『山門堂舎由緒記』巻第1、西塔、南谷、椿堂)。
むろん聖徳太子が実際に比叡山に登ったというものは平安時代までに溯る聖徳太子伝各種にはみえず、ただの説話にすぎないものの、当時からみて古様の如意輪観音像があったこと、あるいは如意輪観音像といいつつも、像容不明の半跏像は如意輪観音に比定されることが多かったから、古像を安置する小堂が古来より比叡山にあった可能性があろう。
椿堂では後深草法皇が臨幸した際に修正会を実施し、以後恒例になったといい、また竪義も実施されたという(『山門堂舎由緒記』巻第1、西塔、南谷、椿堂)。
元亀2年(1571)信長の比叡山焼討ちに際して椿堂は焼失したが、大泉坊乗慶は本尊を守って山を降り、三井寺に隠した。天正年間(1573〜96)に同じ場所に再興され、闕所となった三井寺の廃材で再建された(『西塔堂舎並各坊世譜』南谷、椿堂)。
その後老朽化したため、元禄17年(1704)に新たに再建された。堂内に開基とされた聖徳太子の像を安置している(『西塔堂舎並各坊世譜』南谷、椿堂)。
椿堂は現在四種三昧(ししゅざんまい)の一つ、常坐三昧を実施するための堂となっている。
四種三昧は常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧のことで、うち常坐三昧とは、『文殊師利所説般若波羅蜜経』・『文殊師利問経』を所拠経典としたもので、智ギ(りっしんべん+豈。UNI6137。&M011015;)(538〜97)の著作『摩訶止観』によると、常坐三昧は一行三昧ともいい、まず起居動作において許されることと許されないことを論じ、口業の上の言説と沈黙を論じて止観し、身は常に坐って歩いたり伏せたりしなかった。この常坐三昧を実施のは集団より一人の方がよく、一静室や空閑地にて諸々の喧騒を離れ、一つの縄床に座って他に移動することなく、90日間を一期として結跏正坐して、頭や背中は直立し、動かず揺れず、坐をもって自誓した。食事は排便を除いてただ専らに仏に向かって端坐正向したという(『摩訶止観』巻第2、二勧進四種三昧入菩薩位)、大変な苦行であった。
最澄は弘仁9年(818)に常坐三昧一行院建立の構想を立ち上げ(「弘仁九年比叡山寺僧院等之記」)、円仁に命じて常坐三昧堂を建立させ、同年9月に完成したというが(『叡岳要記』巻上、常行三昧堂)、その実態は不明である。「八条式」において、天台学生の修学規定として、四種三昧を行なうことを示していたが(『勧奨天台年分学生式』)、最澄在世中は常坐三昧は行なわれず、円仁が入唐帰朝後に文殊楼を常坐三昧一行院にあてたとみる方が自然かもしれない(『叡岳要記』巻上、文殊楼院)。 
釈迦堂 

転法輪堂(てんぽうりんどう)は比叡山延暦寺西塔に位置する西塔の中心的伽藍で、転法輪とは釈迦の講義の意で、すなわち西塔の講堂です。古来より転法輪堂の正式名称よりむしろ「釈迦堂」の名で知られています。現在の建造物は延暦寺に位置するものとしては最も古い建物で、もとは園城寺の金堂でした。
釈迦堂の建立と最澄弟子間の対立
釈迦堂は西塔院の中心伽藍である。西塔院自体はその供養を承和3年(836)3月晦日に円澄(771〜836)が檀主となって実施された。呪願を空海(774〜835)が、導師を護命(750〜834)が務めるといったように、そうそうたる顔ぶれであった(『叡岳要記』巻下、釈迦堂)。
ところが西塔院の中心伽藍であるはずの釈迦堂の沿革については判然としたことはわかっていない。その理由として、釈迦堂の開基について10世紀頃には円澄系と延秀系の間で確執があり、双方がそれぞれの祖たる円澄・延秀(生没年不明)に釈迦堂の創建を帰していたからである。
円澄は武蔵国埼玉郡(現埼玉県)の人で、俗姓は壬生氏である(『元亨釈書』巻第2、慧解2之1、延暦寺円澄伝・『天台座主記』巻1、2世円澄和尚、前紀)。延暦17年(798)に比叡山の最澄のもとに至り、出家して弟子となった。最澄の「澄」字をとって円澄と号した。このとき円澄は27歳であった。延暦24年(805)春に詔があって紫宸殿にて五仏頂法を修し、得度した。その夏4月には泰信(?〜811頃)について具足戒を受戒した。同年6月、唐より帰朝した最澄は、朝廷の命により高雄寺(現、神護寺)において修円(771〜835)・勤操(754〜827)らすでに高名な高僧に潅頂を授けて受法弟子とし、桓武天皇のために毘盧遮那秘法を修したが、円澄もその中にいて、ともに潅頂三摩耶戒を受けた。これは日本における潅頂の最初であった。大同元年(806)11月には比叡山止観院にて円澄が上首となって、100余人と円頓菩薩大戒を受けた(『続日本後紀』巻2、天長10年10月条、円澄卒伝)。弘仁3年(812)5月8日には最澄の遺言において、最澄示寂後の後継者として泰範(778〜?)を山寺惣別当に、伝法座主を円澄に指名した(『伝教大師消息』)。同年12月14日には高雄山寺(神護寺)にて空海より胎蔵潅頂を受けている(「高雄山寺潅頂歴名」山城神護寺文書〈平安遺文補247〉)。
延秀についてであるが、「信心ある仏子」と称された最澄の弟子数十人の中の一人として、円仁(794〜864)とともに名が挙げられている(『叡山大師伝』)。最澄が定めた十六院の一つ法花三昧院において「別当延秀」として見え(『叡岳要記』巻上、十六院)、また天長3年(826)に西塔法華堂を円澄と友に建立した人物でもある(『叡岳要記』巻上、法花堂)。
このように、円澄・延秀はともに最澄の弟子であったものの、彼らの門弟の時代には確執が表面化している。それは最澄在世中から水面下で弟子達の間で対立があったからである。
最澄には多くの遺弟がいて、それぞれが弟子を有していたことが知られる。最澄が延暦4年(785)に比叡山に山房を構えていた頃は、彼の弟子は叡勝・光仁・経豊など人物がいた(『叡山大師伝』)。しかし彼ら第一世代の弟子はその後ほとんど姿を見せなくなり、代わって台頭したのが義真・円澄・泰範・仁忠といった第二世代の弟子達であった。最澄示寂後の天台宗を牽引したのは彼ら第二世代であった。その後は光定・徳円・円仁などが第三世代となるが、このうち光定は第二世代と年齢が近かったため、実際には第二世代の弟子達と行動することが多かった。
上の系譜上では、あくまで法系上だけでのものであって、密教の法脈である潅頂血脈はこれとはかなり異なっていた。例えば、第4代天台座主の安恵は、最澄の弟子であるが、潅頂は円仁から受けており、そのことから円仁の弟子とみなされることが多い。最も複雑な法系をもつのが第6代天台座主の惟首であり、彼はこの系図のように最澄の弟子である徳円の弟子であったが、さらに師守は遍昭で、潅頂も遍昭から受けていた。さらに但馬講師法勢の弟子でもあったが、法勢は初代天台座主義真の弟子であった。また「入寺帳」によると、師主は安洪なる人物で、もとは恵亮の弟子でありながら、さらに西塔院主の常済阿闍梨の受法でもあったという(『天台座主記』巻1、6世惟首和尚、前紀)。
このように受法関係が複雑になった背景には、それぞれの師主の立場が相互に異なったことも要因にある。最澄示寂後、最澄の生前の指名により義真が天台座主に就任した。ところが最澄は後継者を生前に後継者を二度定めている。弘仁3年(812)には最澄示寂後の後継者として泰範を山寺惣別当に、伝法座主を円澄に指名した(『伝教大師消息』)。しかし10年後の弘仁13年(822)に天台の法ならびに院内の惣事を義真に付属し(『伝述一心戒文』巻下、造一心戒文達承和皇帝上別当藤原大納言成弁寺家伝戒文)、さらに上座仁忠に院内の事を付属した(『叡山大師伝』)。最澄が後継者を選定し直したのは、泰範が最澄から訣別して空海の弟子となったことも一因であろうが、いずれにせよ、最澄の後継者として、泰範=円澄路線ははずされて義真=仁忠路線が突如として現われたのである。ところで、義真は生粋の最澄の弟子ではなかったらしく、入唐時に訳語僧(通訳)として最澄に随行したことから、天台山での仏教を直接学ぶ機会があり、入唐後の成果を王朝に誇示する必要があった最澄にとって、義真の後継は半ば必然となっていた。その中で、最澄示寂後に再度後継者の人事が一変することになる。
後継者からはずされていた円澄には盟友がいた。大乗戒壇設立に奔走し、後に別当大師と尊称されることになる光定である。光定は仁忠に対して、上座を義真に任命するように迫ったのである(『伝述一心戒文』巻上、荷顕戒論達殿上文)。上座は最澄の指名により仁忠が任命されるはずであった。上座は官寺において、寺主・都維那の上に立つ三綱のトップであるが、比叡山が官寺である「延暦寺」となると、三綱を整備する必要に迫られた。光定は大乗戒壇設立に際して、官側と交渉したことから、「延暦寺」が官から支援を受けるための前提条件として、三綱を整備する必要があると考えたらしい。最澄後継指名の筆頭である義真は「天台の法ならびに院内の惣事」を付属されていたが、後日、最澄は院内の事を仁忠が司ることした。その結果、筆頭の義真は法、すなわち天台宗のことのみ関知するのみであって、寺院のことは関知出来なくなる可能性があった。光定はそこで後継指名の筆頭である義真を、寺院管領の首席である上座とするよう迫ったのであるが、さらに光定は次席の寺主に円澄を任命するよう迫ったのである。当然仁忠は光定の主張を拒絶したが、光定としては、以前に後継者指名された円澄こそが後継者となるべきであると考えていたのである。
仁忠と円澄は、双方とも最澄の生粋の弟子であるが、仁忠は義真の戒和上となる時、「この師(義真)用いてはならない。雑の咎があるだろう」といって反対したことがあるように(『伝述一心戒文』巻中、大皇御筆書一乗戒牒文)、義真が最澄の生粋の弟子ではなく、仁忠のような生粋の弟子からみればよそ者にみえたからと考えられている(仲尾1993)。すなわち後継者指名された義真と仁忠の間には感情的なしこりがあり、そこを付け入るような形で、光定は義真=仁忠路線を、巧みに義真=円澄路線へと変更させようとしたのである。しかしながら仁忠存命中は達成されることなく、仁忠が天長年間(824〜34)に示寂してから、義真は天台宗と延暦寺双方を管領する「天台座主」に就任したのである。
このように天台座主となった義真であったが、義真が座主であった時期は、天台宗の教勢を伸ばすことに失敗してしまう。それは天長年間(824〜34)に淳和天皇が勅によって六宗にそれぞれの宗の教理の概要を記させた天長勅撰六本宗書をみても明らかとなっている。
この中で、法相宗の護命は天長7年(830)に『大乗法相研神章』全5巻を撰述したほか、天台宗の義真『天台法華宗義集』全1巻、律宗の豊安『戒律伝来宗旨問答』全3巻、三論宗の玄叡『大乗三論大義鈔』全4巻、華厳宗の普機『華厳一乗開心論』全6巻、真言宗の空海『秘密曼荼羅十住心論』全10巻、『秘蔵宝鑰』全1巻を撰述した。このなかでもとくに護命の『大乗法相研神章』全5巻と空海『秘密曼荼羅十住心論』全10巻は双璧とされており、空海の『秘密曼荼羅十住心論』は、現在においても日本宗教史における深遠・難解な著作として道元『正法眼蔵』と並び称されるほどのものであった。
このように法相宗・真言宗では教義を大上段に振上げるほどの大著を撰上することができたのに対して、義真は『天台法華宗義集』全1巻という、天台宗教義の概略を示した小冊にとどまっていた。巻数が全1巻にすぎないのは天長勅撰六本宗書のなかでも『天台法華宗義集』にすぎないため、義真は新興にすぎない天台宗の概略をとりあえず提示するだけにとどめた可能性もあるが、さらに新興である真言宗は、空海が大著の『秘密曼荼羅十住心論』全10巻と、小著の『秘蔵宝鑰』全1巻の双方を撰述して、しかも両著に関連性を持たせており、一見入門的な『秘蔵宝鑰』は大著『秘密曼荼羅十住心論』のインデックス的役割を果たしていた。つまり相当の準備がこの著作に注ぎ込まれていたことが窺える。
逆にいえば、天台宗側では準備に時間を割くことが出来なかった可能性もある。というのも天台宗は僧綱の支配下から独立状態にあったが、逆に国家が全国の僧尼を監督する僧綱の支配から抜け出ていたことは、国家仏教に関する情報が細微まで伝達されないことを意味しており、天長勅撰六本宗書の撰述が決定された時には、他宗派はすでに著述を完成させていたかとりかかっていたかの可能性があり、後手に回った天台宗は『天台法華宗義集』全1巻を提示することができたにすぎなかったのかもしれない。
このような義真と天台宗の威信の失墜とともに、台頭してきた空海の真言に対する朝廷の関心を無視することはできなかったのか、天長8年(831)9月25日には円澄・徳円らは両部の潅頂受法を空海に求めている(『伝教大師消息』)。これは天台宗における年分度者二人のうち、止観業とともに構成される毘盧舎那業を完成させるためであり、以前、円澄が弘仁3年(812)に高雄山寺にて胎蔵潅頂を受けていたことと関連するものであった。これに対する空海の反応はわかっていない。
天長10年(833)7月4日に義真が示寂した。義真は院内の雑務を弟子の円修(生没年不明)に授けており、円修は座主を私号した(『天台座主記』巻1、1世義真和尚、天長10年7月4日条)。円澄とその盟友である光定は、義真示寂の場にいなかったため、円修に問いただしたものの、結局円修が座主となることに猛然と異議をとなえた(『伝述一心戒文』巻下、造一心戒文達承和皇帝上別当藤原大納言成弁寺家伝戒文)。その結果、勅使が比叡山に登り、円修の座主職を停止させて大和国室生寺に追放し(『天台座主記』巻1、1世義真和尚、天長10年7月4日条)、承和元年(834)3月16日、円澄が第2世天台座主となったのである(『天台座主記』巻1、2世円澄和尚、承和元年3月16日条)。
西塔院や釈迦堂建立に関する円澄系・延秀系の主張は異なることは前述したが、実際の相違点を羅列してみると、
1 最澄より西塔院建立の付属を受けたのは誰か
  円澄系=円澄
  延秀系=延秀
2 西塔の地にまず何が建てられたのか
  円澄系=延秀の私房があったため、円澄が破却して釈迦堂を建立した
  延秀系=延秀が建物を建て仏像を安置した。後の政所である
3 釈迦堂はどのように建立されたか
  円澄系=延秀の私房を破却して建立した
  延秀系=政所の北の地を均して小堂を造立し、南庭に仏像を移した
4 延秀の私房はどこにあったのか
  円澄系=西塔中心地にあったため破却して東の地に移した。後の一心房である
  延秀系=夢中の告によって釈迦堂の東の地を選んで寄宿の草庵を建立した
このようにみてみると、円澄系は、最初に西塔の地に建てられたのは延秀の私房であり、そのため最澄より西塔院建立の付属を受けた円澄が、私房を破壊したと主張したのに対し、延秀系は、最初に建てられたのは政所であって、そもそも円澄の付属と破壊の事実はなかったとした。
また釈迦堂は、延秀の私房にせよ、政所にせよ、西塔において二番目に建立された建造物であるかのようにみえるが、西塔院供養が行なわれた承和3年(836)3月以降、記録に残る上で最も早いのは天長2年(825)に建立された法華堂であり、これも円澄と延秀が建立したものである(『叡岳要記』巻下、法花堂)。そのことについて光定は「西塔の院、三昧堂を建て、法華三昧を修念し、三部大乗を長講す」と讃えている(『伝述一心戒文』巻下、大法師円澄功能)。
釈迦堂の建立については、『阿娑縛抄』諸寺略記に「元は延寿、三間の板屋を建立す。後に大衆、五間東屋に改造す」とあるように(『阿娑縛抄』第201、諸寺略記下、延暦寺、三塔諸堂、西塔、釈迦堂)、延寿なる人物が板葺三間堂を建立したのを、大衆が桧皮葺五間堂に改造したことがみえる。この延寿については延秀のことで、大衆はそれを率いる円澄であるという意見があり、円澄系が主張する円澄による堂の破壊は、実際には改造をさしていたとみられる 。
『阿娑縛抄』諸寺略記は、元慶年間(877〜89)に延最(生没年不明)が釈迦堂が狭いことを嘆き、大衆と釈迦堂の改造について相談したが、話題が屋根に葺く桧皮のことにおよぶと、光孝天皇が援助を申し出たという(『阿娑縛抄』第201、諸寺略記下、延暦寺、三塔諸堂、西塔、釈迦堂)。またこの援助は光孝天皇が即位以前のまだ親王であった時であったといい(『類聚三代格』巻第2、仁和2年7月27日官符)、のちに釈迦堂が御願堂としての体裁を得る上で非常に重要な転機となった。
仁和2年(886)7月27日には、延最(生没年不明)の奏上により釈迦堂に5僧を置き、昼に光孝天皇御願の大般若経を転読し、夜には釈迦仏眼真言100遍を唱えることとした。さらに5僧への鉢(支給額)は定心院に准ずることとした(『類聚三代格』巻第2、仁和2年7月27日官符)。定心院は仁明天皇の御願寺となった比叡山の子院で、定心院の例は、延暦寺における堂宇・子院が官から多額の経営料を交付される際の前例となっていた。具体的に定心院へは僧10人に白米を毎日6斗4升。灯分として油を毎日2合を給付し、近江国に支弁させていた(『続日本後紀』巻16、承和13年12月丙申条)。
なお釈迦堂では正月悔過が行なわれており、その布施は三宝料として細屯綿12屯、5僧への料として絹10疋、綿50屯、調布15端が官から支給され、毎年12月20日以前に申請して運送させていた(『延喜式』大蔵省)。また釈迦堂には5僧への料として塩が給付されており、日ごとに7合5勺で、毎年日を数えて用意して官に申請し、正月30日以前に運送することとなっていた(『延喜式』大膳下)。
蓮坊(生没年不明)は延昌(880〜964)の弟子で、釈迦堂の供僧であった。法華経を日夜怠らず唱え、真言も両部の法を研鑚した。江文(京都市左京区大原付近)の頂上に登り、一夏籠って断食の行を行ない、塩を絶って法華経を唱えたという(『大日本国法華経験記』巻上、叡山西塔蓮坊阿闍梨伝)。蓮坊の師延昌は江文付近の静原の地に補陀落寺を建立しており、その関係で江文に籠ったとみられるが、その後毎夜欠かさず釈迦堂に詣で、氷を破って闕伽(仏に備える水)を汲み寒さを忍んで法華経を唱えたという(『大日本国法華経験記』巻上、叡山西塔蓮坊阿闍梨伝)。また春命(生没年不明)は西塔の住僧であるが、昼には住房で終日法華経を転読し、夜には釈迦堂で終夜法華経を唱えていたという(『大日本国法華経験記』巻上、叡山西塔春命)。
このように釈迦堂は御願寺としての体裁を整えていったが、その後西塔の中心的伽藍となっていった。
釈迦堂の尊像
釈迦堂の本尊は釈迦如来像で、像高は3尺(91cm)あり、最澄の本願により造立されたものであるという。蓮華座・天蓋は綵色で、もとの蓮華座は破損のため延喜年間(901〜23)に改造されたものである。天蓋の中には直径1尺(30cm)の唐鏡があり、釈迦如来像の頭上に懸けられていた。天蓋は延喜年間に平録法師が造立したものである(『叡岳要記』巻下、釈迦堂)。
ほかに仁和年間(885〜89)に明琳によって造立された金色の普賢・文殊菩薩像があり、延喜年間(901〜23)に仁意によって造立された像高5尺(150cm)の綵色の梵天・帝釈天や、天慶年間(938)に造立された木像の文殊菩薩像があった。ほかに延喜年間(901〜23)に貞頼親王(876〜922)の願により造立された像高7尺(210cm)の綵色の四天王があり、貞頼親王はこの四天王像のため、延喜12年(912)6月5日に近江国蒲生郡の津田荘を施入している(『叡岳要記』巻下、釈迦堂)。
このように延喜年間(901〜23)までに釈迦堂の体裁が整えられていったが、同時に数々の法会の舞台にもなっている。承平2年(932)9月16日には釈迦堂にて醍醐天皇の周忌御斎会が行なわれ、尊意(866〜940)が講師となって御願の一切経を修している(『尊意贈僧正伝』)。
康保4年(967)6月30日、村上天皇の五七日(35日忌)のため、延暦寺西塔・釈迦堂・観空寺・醍醐寺・法性寺・上出雲寺・弥勒寺にて諷誦が行なわれた(『本朝世紀』第8、康保4年6月30日条)。また長元9年(1036)5月15日に一条天皇崩後四七日(28日忌日)の諷誦が7ヶ寺で実施されたが、その一つに釈迦堂が選ばれている(『類聚雑例』長元9年5月15日条)。
文治4年(1188)には釈迦堂の改造を行なっている(『山門堂舎記』西塔、講堂)。なお天台座主に就任した者は、青蓮院の者ならば代々、まず最初に無動寺に入堂していたが、西塔の者ならばまず釈迦堂に入堂していた(『天台座主記』巻3、68世権僧正法印承円、建暦3年4月9日条)。
学生と堂衆の争乱
建仁3年(1203)5月、西塔釈迦堂の学生(がくしょう)と堂衆(どうしゅ)が不和となり争乱が起こっている。学生は学問を修める僧侶のことで、当時は貴族の師弟からなり、堂衆は寺院の雑役をする下級僧侶であった。平安時代末期から鎌倉時代にかけて、荘園所領の管理や経営を行なったことから、堂衆の地位はあがったかのようにみえたが、比叡山上においてはその身分格差は歴然としており、温室(風呂)に入る順番も学生がまず入浴し、堂衆はその後に替って入った。
その温室であるが、同年3月に西塔南谷の湯治の際、堂衆がその制度を守らず、刻限が来たため先に入浴してしまい、それを学生が咎めると暴言を吐いて立ち去っていった。翌日、学生が入浴しようとすると、堂衆側は二人を差し向けて湯釜に砂礫を入れ、釈迦堂の庭に出してしまった(『天台座主記』巻3、66世権僧正法印実全、建仁3年条)。
南谷の学生は憤懣に堪えず、南谷より退散し、彼らに同心するほかの谷の学生も退散してしまった。5月23日に西塔各谷の堂衆たちは協議して、それぞれの谷で湯屋を別に設けることとし、7月16日にはほかの西塔四谷(北谷・東谷・南尾谷・北尾谷)も温室を設けた(『天台座主記』巻3、66世権僧正法印実全、建仁3年条)。
学生と堂衆の対立は、学生側が8月1日に大納言岡と南谷走井房に城郭を構えたことによりエスカレートし、堂衆を追い払った。追い払われた堂衆は同月6日に荘園の軍兵を率いて登山し、両城郭を攻撃したが、双方に多大な犠牲が出て、7日に堂衆は退却した。学生も19日には退去することを決定し、28日に京都に降り、長楽寺・祇園に退去した(『天台座主記』巻3、66世権僧正法印実全、建仁3年条)。
10月4日には堂衆を除名して叡山から追放すべき旨の院宣がくだったが、13日には釈迦堂の堂衆に東塔の堂衆が力を貸し、八王子山に城郭を構えた。15日には官軍が差し向けられ、攻撃を行なったが、堂衆の必死の抵抗のため、攻め落とすことが出来ず、かえって堂衆が落とす矢や石で死傷者が多くなった。17日夜に堂衆はひそかに退去して散り散りとなったが、11月6日には八王子山の三宮神殿・彼岸所が焼失しており、堂衆が群居して穢れたための神火であるといわれた(『天台座主記』巻、67世僧正真正、建仁3年10月4日〜11月6日条)。
このような学生と堂衆の争乱は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて比叡山上でたびたび発生しており、それらは荘園所領の経営や寺院の清掃などの実務に携わる堂衆の不満が噴出したためでもあった。学生と堂衆の争乱は合戦となることが多く、そのたびに多くの死傷者の発生、堂坊の焼失をまねいた。
中世における釈迦堂
承久2年(1220)8月9日、西塔釈迦堂の仏像が突然倒れるという出来事があり、そのため17、18日に釈迦堂にて大般若経の転読と百座仁王講が修されている(『天台座主記』巻3、72世権僧正承円、承久2年8月9日〜17・18日両日条)。貞応2年(1223)12月10日には大仏師隆円に釈迦堂本尊の仏座を修復させ、26日には本尊を安置している(『天台座主記』巻3、73世大僧正円基、貞応2年(1223)12月10日・26日条)。貞応3年(1224)8月22日にもやはり隆円に釈迦堂の六天(梵天・帝釈天・四天王)の仏座を修理させているが、この時の修理料として、承久4年(1222)に比叡山修理料として用いるために大嘗会役より免除された但馬国の修理料を用いている(『天台座主記』巻3、73世大僧正円基、貞応3年8月22日条)。
この尊像修理に関連してか、元仁2年(1225)4月8日に阿闍梨3口を釈迦堂に加え(『天台座主記』巻3、73世大僧正円基、元仁2年4月8日条)、安貞2年(1228)12月24日にも阿闍梨3口を釈迦堂に加えている(『天台座主記』巻3、74世二品尊性親王、安貞2年12月24日)。その後弘長2年(1262)6月21日にも釈迦堂の本尊が顛倒して左手が破損している(『天台座主記』巻4、82世無品尊助親王、弘長2年6月21日条)。
弘長3年(1263)7月、横川の衆徒が横川中堂に閉篭しているが、これは堅田浦(琵琶湖の湖関)の検断権について、西塔と横川で相論となったことに起因する。天台座主の尊助(1217〜90)は西塔に有利な裁定を行なったため、横川の衆徒は閉篭を行ない、8月14日には聖真子の神輿を横川中堂に振上げ、裁許がなければ聖真子の神輿もろとも中堂を灰燼と化すと恫喝した。西塔も対抗して8月10日に釈迦堂に閉篭している。結局9月23日に院宣があり、尊助は天台座主を辞職。これによって西塔は堅田浦の検断権を諦め、横川に裁許されることとなった(『天台座主記』巻4、82世無品尊助親王、弘長3年8月14日条)。なお正和5年(1316)10月17日にも円成寺益信(827〜906)への諡号問題によって釈迦堂が閉篭している(『天台座主記』巻5、106世大僧正仁澄、正和5年10月17日条)。
嘉吉3年(1443)9月23日、日野有光(1387〜1443)が五性院宮(金蔵主)を擁立して根本中堂を皇居とし、数百人を率いて根本中堂および西塔釈迦堂に籠り、同夜に京都の禁裏を襲撃して三種の神器を奪取し、禁裏を焼き払ったが、後花園天皇の確保に失敗。同月25日には管領畠山持国(1398〜1455)は逆徒討伐の綸言によって比叡山に逆徒攻撃を命じ、比叡山側は根本中堂と釈迦堂の逆徒を攻撃して追い散らし、五性院宮を捕縛している。10月2日には日野有光を比叡山にて誅殺、その子資親をはじめとして60余人は六条河原で斬首された(『成唯識論本文抄』論第8巻本文抄34、増専識語)。
釈迦堂の復興
釈迦堂は元亀2年(1571)の信長の比叡山焼討ちによって他の堂坊もろとも焼失している。釈迦堂の再建に尽力したのは詮舜(1540〜1600)であるが、彼の事績については瑠璃堂のところで述べている。
釈迦堂の再建は、宝幢院の大衆によって着手されようとしており、仮堂が建立されつつあったが、そのため本尊を新造する必要に迫られた。詮舜は夢で釈迦堂の本尊が近江国高島郡水尾村(現、滋賀県高島市)にあるという霊夢をみたため、天正13年(1585)12月28日に本尊を迎えに行っている(『天台座主記』巻6、167世二品尊朝法親王、天正13年12月28日条)。
文禄4年(1595)、豊臣秀吉は突如、園城寺の闕所(財産没収と破却)を命じた。かつて秀吉の幕下にあった詮舜は転法輪堂(釈迦堂)の復興をめざしていたから、園城寺弥勒堂(本堂)を詮舜に賜い、それを転法輪堂とするよう願い出た。そのため転法輪堂は再建された。これが現在の釈迦堂である。さらにその余材で坂本生源寺の仏殿を建立した(『天台座主記』巻6、167世二品尊朝法親王、文禄4年条)。
釈迦堂に転用された園城寺弥勒堂は、園城寺の本堂であり、比叡山との戦闘で幾度も焼失している。園城寺は建武3年(1336)に後醍醐天皇側と足利尊氏の戦闘において足利尊氏方につき、そのため新田勢と宿敵比叡山の攻撃を受け、園城寺・如意寺は全焼してしまっている。その後尊氏の室町幕府の成立とともに、園城寺は尊氏の信認を大いに受け、貞和3年(1347)には園城寺の再建計画が立てられた。その時に金堂は32,139貫文の再建予算が計上されている(『三井寺続灯記』巻第8、修造用脚員数事)。弥勒堂はこの時のものであり、すなわち現在の釈迦堂の建立時期は貞和3年(1347)頃ということになる。
釈迦堂に移転された弥勒堂は、桁行7間、梁間8間で単層入母屋造の建造物で、現状とおおむね同様である。ただし内陣は延暦寺の建造物にふさわしいよう改造されており、現在はすべて土間となっている内陣は、園城寺の現金堂の状態から、当時土間の周囲1間通りは床が張られていた可能性がある。また内陣入側の土壁を撤去し、土壁となっていた部分をすべて板壁に張り替え、さらに内内陣の柱2本を撤去している。また前身建物の焼損した礎石をそのまま転用している。釈迦堂は梁間の手前3間分を板敷の外陣、奥5間分を土間の内陣とした、典型的な天台本堂建築となっている。
その後貞享2年(1685)に修理が行なわれており、柱根継・根継沓石の挿入、須弥壇・厨子の造り替え、屋根の葺替、小屋の補強と妻飾の大部分取替、高欄の造り替え、西側後寄の庇を撤去など、大規模なものであった(『貞享二乙丑年九月比叡山西塔諸堂御修復仕様御入用銀大積帳』〈滋賀県教育委員会1959所載〉)。元文5年(1740)にも修理が行なわれたらしいが(滋賀県教育委員会1959)、宝暦11年(1761)にも横川中堂・坂本東照宮本地堂(現大講堂)とともに修理を行なっている(『天台座主記』巻6、207世入道二品尭恭親王、宝暦11年条)。文化8年(1811)にも修理が行なわれ、4月19日に西塔釈迦堂の本尊の外遷座が行なわれ(『天台座主記』巻7、218世二品承真法親王、文化8年4月19日条)、同年7月28日に釈迦堂の修理が終了している(『天台座主記』巻7、218世二品承真法親王、文化8年7月28日条)。
明治24年(1891)・昭和30年(1955)にも解体修理工事が実施され、平成10年(1998)に台風によって屋根に倒木が直撃したため、修理が行なわれている。 
相輪塔 

相輪塔(そうりんとう)[とう(きへん+堂)]は比叡山延暦寺西塔東谷に位置する高さ14.5mの銅製の搭です。もとは宝幢院の付属施設でしたが、宝幢院廃絶後は相輪塔のみ残りました。
宝幢院
最澄は弘仁9年(818)に相継いで比叡山上における諸堂宇の建立計画を発表しているが、宝幢院やその付属施設である相輪塔もその頃の構想によるものであった。
天台宗の根本経典の一つである法華経には、見宝塔品として釈迦が法華経を説法していると多宝塔が現出し、中にいた多宝如来が半座を空けて座を譲るという場面がある。それを具象化したのが宝幢院であり、相輪塔であった。「宝幢院」の「幢」とは塔を意味し、相輪塔の「トウ(きへん+堂。UNI6A18。&M015440;)」もやはり塔を意味する。すなわち宝幢院も相輪塔も法華経の見宝塔品における塔であることになる。
弘仁9年(818)4月22日に最澄は六宝塔院を定めている。その六宝塔院は東の上野宝塔院(上野国緑野郡)・南の豊前宝塔院(豊前国宇佐郡)・西の筑前宝塔院(筑前国)・中の山城宝塔院(西塔)・北の下野宝塔院(下野国都賀郡)・国の近江宝塔院であった。この構想は最澄在世中にすべて完成せず、とくに近江宝塔院は東塔の惣持院となって円仁によって完成された(『叡岳要記』巻下、天台法華院)。
山城宝塔院はのちに西塔院として弘仁9年(818)7月27日の十六院構想のなかに含められた。その十六院構想の中に「法花延命幢院」として宝幢院があった(『叡岳要記』巻下、十六院)。弘仁9年(818)7月27日には光定(779〜858)を戒壇院知事および宝幢院別当に任じている(『延暦寺故内供奉和上行状』)。ところが構想とは裏腹に実際には最澄生前には未着手のものが多く、宝幢院自体も未着手に終わっている。ただし宝幢院の付属施設であった相輪塔については、弘仁11年(820)9月に最澄によって銘文が撰述され、法華経・大日経など合計58巻分を銅桶内に埋経している(『叡山宝幢院図并文』)。
現存の相輪塔は明治に再建されたもので全高14.5mとなっている。うち宝珠・九輪で構成される上部は8.5m、円柱の下部は6mとなっているが、当時は全高13.6mで、うち上部は1m、銅桶は40cm、円柱の下部は12.2mとなっている(『叡山宝幢院図并文』)。
宝幢院を完成させたのは恵亮(812〜60)である。当初は円澄の弟子であったらしいが、のちに円仁の門弟となる(『僧官補任』宝幢院検校次第)。仁寿4年(854)11月には円仁の奏請により三部大法阿闍梨となっている。これによって三部大法潅頂を修したが、これは官符によって三部阿闍梨位を授けられる嚆矢となった(通行本『慈覚大師伝』)。
その後恵亮は惟仁親王(後の清和天皇)の護持僧となっていたようである。嘉祥3年(850)3月25日に降誕した惟仁親王は、文徳天皇の第4皇子であったが、母は藤原良房の娘であり、同年11月25日には皇太子に立てられた。そのため童謡に「大枝を超えて走り超えて、躍り騰がり超えて、我や護る田にや。捜(さぐ)りあさり食(は)む鴫(しぎ)や。雄々い鴫(しぎ)や。」と謡われ、識者は「大枝」は「大兄」のことで、文徳天皇に4皇子ありながら3兄を超えて惟仁親王が皇太子となったことをいったものとされた(『日本三代実録』巻1、清和天皇即位前紀)。その年8月5日に恵亮は惟仁親王が皇太子になるよう祈祷を行なっていたという(『日本三代実録』巻3、貞観元年8月28日辛亥条)。この惟仁親王と皇位を争ったのが長兄の惟喬親王であり、両者は皇太子の位をかけてそれぞれ護持する僧がいた。惟喬親王についたのが、空海の弟子の真済であり、惟仁親王についたのは空海の実弟で弟子の貞観寺真雅であり、また恵亮であった。
後世の説話によると、惟喬親王と惟仁親王の皇太子をめぐる争いは、競馬や相撲で決着がつけられることとなった。競馬は惟喬親王側が勝ち、その後相撲となったが、相撲も惟喬親王側が圧倒しかかっていた。惟喬親王側は真済が、惟仁親王側は恵亮が大威徳護摩法していたが、恵亮は真済側に「恵亮和尚失せたり」と誤情報を流すことによって真済を油断させていた。相撲も一進一退となると、恵亮は独鈷で自分の頭を突き指して、脳を芥子にまぜ護摩にたき、黒煙をたてて一もみしたところ、惟仁親王側が最終勝利を収めることができたという(『平家物語』巻第8、山門御幸)。
宝幢院はかつて最澄が選んだ地に恵亮が建てたもので、嘉祥年間(848〜51)に完成した。千手観音像を安置し、清和天皇の即位を祈祷した。他にも等身大の不動・毘沙門三尊があった(『叡岳要記』巻下、宝幢院)。宝幢院は天安3年(859)正月23日に円珍が帰朝報告のため比叡山の諸堂を回った際、宝幢院の恵亮と面会して喫飯していることから(『行歴抄』天安3年正月23日条)、少なくとも天安3年(859)の段階での完成が確認できる。
貞観元年(859)8月28日、恵亮の奏上により延暦寺に年分度者2人を設置することが認められた。そのうち一人は賀茂神分として大安楽経を修し、加えて法華経・金光明経を修することとなった。また一人は春日神分とし、維摩経にて試験し、加えて法華経・金光明経を試験することとなった(『日本三代実録』巻3、貞観元年8月28日辛亥条)。これらの経典のうち、「大安楽経」は一部で38巻ある経典で(『類聚三代格』巻第2、貞観元年8月28日官符)、詳細は不明であるが、法華経は天台宗の根本経典で、金光明経は護国経典の、維摩経は在家経典の代表的なものであり、いずれも天台宗と朝廷の繋がりを重視した経典の選択となっている。さらに恵亮は年分度者の試度(得度試験)は毎年3月下旬に西塔宝幢院にて実施することとし、戒壇院で大乗戒を受戒した後は、最澄創始の十二年籠山の制に従って籠山し、前述の経典を一日も欠くことなく講ずるものとした(『日本三代実録』巻3、貞観元年8月28日辛亥条)。このように比叡山と朝廷の繋がりを重視するとともに、年分度者の試度を宝幢院で行なうことによって、比叡山における西塔の位置づけを明確にするとともに、宝幢院が中心伽藍であることを示した。
翌貞観2年(860)には相輪塔の柱が腐朽したため、修理すると同時に清和天皇の御願として無垢浄光根本真言77本、右大臣藤原良相(813〜67)分として無垢浄光相輪塔中陀羅尼3巻(99本)、皇后藤原明子(829〜900)分として仏頂尊勝陀羅尼21本、太政大臣藤原良房(804〜72)分として仏頂尊勝陀羅尼真言21本が新たに納められた(『叡山宝幢院図并文』)。
恵亮はその年に示寂しているが、その後貞観3年(861)の式牒により恵亮が獲得した年分度者は西塔院司が管領することとなり(『類聚三代格』巻第2、仁和3年3月21日条)、貞観18年(876)3月14日には勅により延暦寺宝幢院に8僧を置くこととなり、欠員があった場合は官に申請して補わせた(『日本三代実録』巻28、貞観18年3月14日壬辰条)。その後元慶7年(883)10月11日には宝幢院を統轄する職として別当を設置しているが、その後、年分度者の管領について西塔院司と宝幢院の間で争いが置きたが、仁和3年(887)3月21日には宝幢院側の主張が通り、年分度者は宝幢院別当が統轄することとなった(『類聚三代格』巻第2、仁和3年3月21日条)。また規定により国家から宝幢院に灯油2斛6斗4升(476リットル)が支給された(『延喜式』巻26、主税上)。
その後、相輪塔は延喜17年(917)閏11月21日に暴風のために折れて倒れた。翌延喜18年(918)秋には再建のための用材を比良山より伐採しており、延喜19年(919)10月19日に完成した(『叡山宝幢院図并文』)。永観2年(984)には宝幢院の改造を行なっている(『叡岳要記』巻下、宝幢院)。
宝幢院の廃絶と相輪塔の再建
宝幢院はやがて、西塔院にかわって西塔の中心的存在となっていった。西塔分の年分度者2人は宝幢院が掌握し、さらに常住僧も8人あったためである。そのため西塔院司にかわって宝幢院検校が西塔を代表する者となった。
恵亮の後は常済(?〜873頃)が宝幢院検校となっているが、宝幢院検校から天台座主に就任した人物には増命(843〜927)、延昌(880〜964)、陽生(913〜90)、暹賀(914〜998)、院源(948〜1025)、勝範(996〜1077)がおり(『僧官補任』宝幢院検校次第)、延長元年(923)には良源(912〜85)が宝幢院の日灯の房に入っている(『慈恵大僧正伝』)。
宝幢院は鎌倉時代から南北朝時代にかけて廃絶したらしく、宝幢院検校は、宝幢院廃絶後も西塔を代表する者として補任され続けた。宝幢院の跡地はその後昭和39年(1964)の発掘調査で再発見されるまで地中にあり、発掘調査では東西5間、南北6間(10.8m)の本堂を中心に、東西に数個の建物が並んで検出された。
治承3年(1179)4月15日には西塔相輪塔供養が行なわれており(『天台座主記』巻2、56世無品覚快親王、治承3年4月15日条)、信長の比叡山焼討ち後、相輪塔は慶長年間(1596〜1615)の初めに詮舜によって再建を試みられたが、結局寛永8年(1631)の再建まで待たなければならなかった。その後貞享2年(1685)に修理が行なわれ、同4年(1687)に完成した。高さは4丈5尺(13.5m)で、最澄撰述の銘文が復刻された(『西塔堂舎並各坊世譜』相輪塔)。
ほかにも寛保2年(1742)にも修理が行なわれ(「相輪塔銅像鍍金経筒外筒銘」〈景山1978所引〉)、天明元年(1781)にも修理が行なわれ、6月に相輪塔に納経されて完成した(『天台座主記』巻6、210世入道二品尊真親王、天明元年6月条)。
現在の相輪塔は明治29年(1896)に再建されたもので、昭和45年(1970)に解体修理工事が実施された。 
弥勒石像(弥勒堂跡) 

弥勒石像は比叡山延暦寺西塔釈迦堂の裏手北東にの香炉岡に位置する石仏です。鎌倉時代初期に造立されたものとみられています。
比叡山は古来より多くの堂坊が立ち並ぶ巨大伽藍であった。ところが比叡山上には石造の遺品が極めて少なく、注目すべきものは全くないと思われていた。それが西塔香炉岡より発見された。
西塔香炉岡は釈迦堂の東北に位置する丘で、西塔の中では東谷に位置分類される。ここには現在相輪塔があるが、昭和39年(1964)の発掘調査では宝幢院跡をはじめとして2箇所の堂跡、5箇所の僧坊跡、20余りの建物の礎石が発見された。伝説によると、釈迦堂供養の際に天人が香炉を手に持って降りてきて、口に「敬礼天人大覚尊(きょうらいてんにんだいかくそん)」から始まる四句文を唱えた。後に香炉をこの丘に埋めたから、「香炉岡」と呼ぶのだという(『山門堂社由緒記』巻第1、西塔、香炉岡)。
昭和34年(1959)秋、釈迦堂の解体修理工事が終盤にさしかかっていた頃、横川に参詣した篤信の一老女が、釈迦堂の後方に大きな石仏があることを語ったので、西塔輪番の小堀光詮師(現、三千院門跡)は半信半疑のまま、修理場の工人に、人の背丈ほどある熊笹の群生を切り払わせたところ、弥勒石像が出現したという(川勝1960)。
釈迦堂を正面から左側にまわると相輪塔への道があり、50mほど進むと十字路となり、そこを右に進むと弥勒石像の光背の後ろ側がみえる。道を進んで回り込むと石像正面となる。
石像は仏身・光背・蓮座・敷茄子を一石で彫製したもので、花崗岩製、総高216cm、像高180cmとなっている。光背が大きく欠け、また頬も剥離している。石像の下には別石で造られた円形反花座があるが、現在は地中に埋まっている(川勝1960)。
光背は身光(下)と頭光(上)からなる二重輪光式で、光背表面に仏身をめぐって11個の月輪内に梵字が表わされている。光背背面中央には大きく月輪を彫り沈める。月輪は58cmあり、梵字で釈迦を表わす「バク」字を薄肉彫する。中央の月輪の左右下には、それぞれ文殊を表わす「マン」、普賢を表わす「アン」の梵字が薄肉彫される。中央下方には上下30cmの落とし込みをつくり、その内部には28cm、深さ10cmの奉籠孔を設けており、もとは経典を納めたものと推測される(川勝1960)。
光背背面に釈迦・文殊・普賢の釈迦三尊が梵字で表わされ、しかもそれが光背背面にあることから、第二の釈迦で56億7千万年後に出現する弥勒と考えられている(川勝1960)。
近世の比叡山の寺誌である『山門堂社由緒記』では弥勒石像について、「弥勒堂(旧跡なり。相輪塔の巽(東南)にあり。東谷に属す) 今石像弥勒一体あり。堂は廃たる。」(『山門堂社由緒記』巻第1、西塔、弥勒堂)とあり、弥勒石像は、もとは「弥勒堂」なる堂の尊像であったとみられている。実際、弥勒石像の光背や頬の欠損は、元亀2年(1571)の信長の比叡山焼討ちの際に、火にかかって剥離したものであるとみられている。 
瑠璃堂 

瑠璃堂(るりどう)は比叡山延暦寺西塔北谷に位置する堂坊です。黒谷道が寸断される以前は黒谷青龍寺から釈迦堂に向う道に面しており、京都から西塔の中心伽藍へ向う途中にありましたが、黒谷道が寸断されたため、現在は奥比叡ドライブウェイから500mほど歩いたところにあります。瑠璃堂は織田信長の比叡山焼討ちに際して、焼け残った唯一の堂とする口碑で有名です。
近世以前の瑠璃堂
瑠璃堂の建立時期は明確な史料がないため不明であるが、承澄(1205〜82)が建治元年(1275)に編纂した図像集である『阿娑縛抄』に西塔の一堂としてみえ(『阿娑縛抄』第201、諸寺略記下、延暦寺、三塔諸堂、西塔)、また鎌倉時代の延暦寺の寺誌『叡岳要記』において、「北谷 瑠璃堂(本仏薬師)」とあることから(『叡岳要記』巻下、西塔)、少なくとも鎌倉時代には存在していた。
また中世の伝承では、西塔院の瑠璃堂の本尊薬師如来は、根本中堂の薬師如来と同じく清涼山の霊木で造られたとされ、他に法勝寺薬師堂の本尊、日野薬師、美濃国横安寺の薬師如来も同じ木で造られたという(『渓嵐拾葉集』法勝寺薬師堂本尊事)。
その後、寛正5年(1464)に継運が西塔瑠璃堂にて『一代決議集』を書写している(日光天海蔵『一代決議集』奥書〈『昭和現存天台書籍綜合目録』下〉)。
瑠璃堂をめぐる伝説
瑠璃堂は前記の通り、建立年代や由緒についてはっきりとしたことはわかっていないが、近世の寺誌や後世の伝説において建立年代の推測が行なわれてきた。
明和4年(1767)に撰述された延暦寺の寺誌である『山門堂社由緒記』によると、瑠璃堂は薬師如来を安置するため「瑠璃堂」と称すのであって、本来の号は「放光院」といったという。元慶年間(877〜85)に本尊が光を放ち、都の陽成天皇が驚いて光を放つところを捜索させたところ、その地に至り、延最が薬師如来の霊瑞を奏上した。そこで天皇は尊崇して放光院の号を賜ったという。後、村上天皇が天台座主陽生(924〜90)に仏堂を造立させ、薬師如来と日光・月光・十二神将を安置させたという(『山門堂舎由緒記』巻1、西塔、北谷、瑠璃堂)。
後述するが、現在の瑠璃堂の建造物は建築様式からみると室町時代後期のものとなっている。口碑ではあるが、瑠璃堂は元亀2年(1571)の信長の比叡山焼討ちに際して、唯一焼失を免れた建物であるという。そのため各種書籍やガイドブックにおいても、比叡山において唯一焼失を免れた建物という説が一般的となっている。
ところが正徳4年(1714)に撰述された西塔の寺誌である『西塔堂舎並各坊世譜』によると、瑠璃堂の建立は天正年間(1573〜92)のことで、その後寛永7年(1630)に3間の堂として新造され、元禄6年(1693)に正琳坊の跡地に移建したという(『西塔堂舎並各坊世譜』北谷、瑠璃堂)。このように桃山時代の天正年間(1573〜92)建立、江戸時代前期に再建、その後移転という略歴が示されているのだが、瑠璃堂はすでに鎌倉時代の寺誌に記録があることから、天正年間(1573〜92)の建立説をとる同書の記述は否定される傾向にある。
しかしながら瑠璃堂は西塔北谷の中心的建造物であるから、実際に焼討ちを免れたとするのは難しく、また瑠璃堂の建物自体、延暦寺では珍しい禅宗様を基調としていることから、『西塔堂舎並各坊世譜』の記述に従って、禅寺の一堂を元禄年間に移建したとみなす説もある。実際、瑠璃堂は粽付円柱と礎石の間に木製礎盤が組み込まれているが、粽付円柱は室町時代の形式を有するのに対して、木製礎盤は当時のものではないことから、瑠璃堂が移建された建造物であることが知られる。
瑠璃堂の建物は方3間で、軸部は禅宗様の粽付円柱となっており、木鼻・海老虹梁・須弥壇の形状、海老虹梁と内陣来迎柱の間に頭貫・台輪・詰組斗きょうを連ねて天井を受ける内陣構架の形式から、室町時代中・後期の禅宗様と考えられている。
現在、瑠璃堂は桧皮葺入母屋造の建物である。ただし明治33年(1900)の記録では「屋根柿葺」とあることから(『名勝旧跡取調帳』)、その後桧皮葺に変更されたものであり、これは大正7年(1918)の修理工事の際に、担当者が明治45年(1912)2月8日付の官報告示(国宝指定)に「桧皮葺」と誤って指定されていたのを真に受けたためで、官報告示の記述に従ってわざわざ設計変更を提出し、柿葺を桧皮葺にしてしまったものである(滋賀県国宝建造物修理出張所1940)。
さらに、現在の瑠璃堂は正面中央に桟唐戸、その左右に花頭窓があるが、明治45年(1912)の写真では桟唐戸ではないため、大正の修理の際に推定復元されたものとみられている。また天井は格天井で、床は土間となっているが、これらも当初からのものであるかどうかは不明である。
瑠璃堂の修復
宝暦元年(1751)に修復願が出されており(『釈迦堂附瑠璃堂御修覆箇所帳』〈滋賀県国宝建造物修理出張所1940〉)、寛政10年(1798)(『釈迦堂附瑠璃堂御修覆箇所帳』〈滋賀県国宝建造物修理出張所1940〉)、文化2年(1805)(『文化二丑年瑠璃堂并鎮守御修覆奉願箇所覚』〈滋賀県国宝建造物修理出張所1940〉)にも修復願いが出されている。
明治45年(1912)2月8日に国宝指定されており、戦後国宝保存法が文化財保護法に切り替えられた際に、重要文化財に指定された。
大正4年(1915)1月15日には、大雪による積雪のため瑠璃堂背後の山腹急斜面上の杉が倒れて瑠璃堂を直撃し、屋根を破壊した。そのため同7年(1918)7月に修理工事に着手し、翌8年(1919)1月に竣工した。この修理のための総工費3,976円(当時)のうち、国庫補助額は3,376円(当時)、残り600円(当時)は延暦寺が負担した。
昭和13年(1938)10月21日夜、強風のため長23m、太さ84cmの木が根本より折れ、瑠璃堂の屋根に倒れて倒壊。翌22日朝に黒谷より通学の児童が発見した。この際本尊の薬師如来像は須弥壇から前方の土間に投げ出され、バラバラに破壊された。昭和14年(1939)7月に修理工事を開始し、翌15年(1940)1月31日に竣工した。工事費用8,676円(当時)はすべて延暦寺が負担した。
正教坊1 / 西塔の再興者詮舜1
瑠璃堂は隣の正教坊の持仏堂という位置づけであった。
正教坊は、もとの名称を石泉院といった。ここには閼伽井(あかい。仏に備えるための水をくむ井戸)があったといい、石泉水と名付けられていた。旱魃になっても涸れなかったため、霊井とされた。そのため石泉院は秘密潅頂道場となり、また千日回峰行の行門室であった。
この正教坊における信長の比叡山焼討ち以前の様相はほとんど知ることができないが、詮運(生没年不明)が天文22年(1554)頃に正教坊に住していたらしく、後の詮舜(1540〜1600)が14歳の時に詮運のもとで得度している(「舜公碑銘」)。
信長の比叡山焼討ち後に、正教坊の再興第一世となったのが詮舜である。この詮舜は正教坊のみならず、焼討ち後に比叡山の復興に尽力し、とくに西塔の復興を果たした人物であり、瑠璃堂の側面には詮舜の生涯と功績を記した碑文「舜公碑銘」が亀趺石の上に建てられている。これは詮舜示寂後137年後の元文2年(1737)に建てられたもので、公家の花山院常雅(1700〜71)・八条隆英(1702〜56)によって撰述された。碑文自体は『天台霞標』3編巻之3(『大日本仏教全書』第125冊)にも収録されている。
詮舜は俗姓は藤原で、近江国滋賀郡(現、滋賀県大津市)に生まれた。先祖は武蔵国児玉の人で、正慶・建武年間(1332〜38)に戦乱を避けて近江国に移ってきた。豈の賢珍は先に出家していたから、詮舜が出家の意志を示すと、父に反対された。そこで詮舜は父に衰えた天台教学を復興すると志を述べたから、父は感動して出家を許した。14歳の時、西塔の正教坊詮運のもとで出家・受戒し、顕教・密教を兼学し、少しも怠ることはなかったが、当時周囲の僧はすでに放埒の者が多く、時の比叡山は道を志す者とよこしまな者が混在する有様であった(「舜公碑銘」)。詮舜は元亀2年(1571)に回峰行の苦行を行なっている(『西塔堂舎並各坊世譜』正教院)。
元亀2年(1571)の信長の比叡山焼討ちに際しては、比叡山より逃れて観音寺に寓居した。ここで比叡山復興を誓い、志を同じくする者たちが集まった。たまたま兄の賢珍が豊臣秀吉のもとに仕えていたが、弟詮舜を呼び寄せてみると、秀吉は詮舜の勇敢で潔く正直なのをみて気に入り、詮舜は秀吉に側近として仕えることとなった。同じく天台僧で秀吉に仕えていた医師がいた。それが施薬院全宗(1526〜99)で、二人とも比叡山再興の志があったから、全宗は東塔を、詮舜は西塔を再興することを誓い合った。そのことを聞いた正覚院豪盛(1525〜1610)もやって来て、ともに比叡山再興について協議した(「舜公碑銘」)。
正教坊2 / 西塔の再興者詮舜2
秀吉が織田信雄と対立し、兵を美濃国(岐阜県)に進めると、詮舜はしばしば陣中に出入りして比叡山復興を願い出た(「舜公碑銘」)。秀吉は旧主信長の意志であったから、比叡山再興にはなかなか首を縦に振らなかった。ある日陣中で、物はみな自然になるの理について談じていたが、そのとき詮舜は秀吉にむかって、「あなたの童名は日吉丸といいますが、今将軍としての大業をなしとげました。運をひらき栄えることはあたかも朝日が昇るかのようです。日吉社と比叡山が復興しようとする時期もまた、自然の道理ではないでしょうか」といった。ついに秀吉は比叡山復興を許可した(『天台座主記』巻5、166世准三后覚恕、天文12年5月条)。秀吉は豪盛・全宗とともに諸国に募縁するよう指示した。募縁の文章は公家の中山慶親(1567〜1618)が撰述し、諸国をめぐった(「舜公碑銘」)。宝幢院の大衆が西塔の本堂たる釈迦堂を、まずは仮堂として建造していたが、本尊がなかったため、新たに造立しようとしていた。詮舜は本尊が近江国高島郡水尾村(現、滋賀県高島市)にあるという夢をみたため、実際に行ってみると、はたして夢の通り本尊があったから、天正13年(1585)12月28日に転法輪堂(釈迦堂)の本尊を水尾村より迎えた(『天台座主記』巻6、167世二品尊朝法親王、天正13年12月28日条)。
文禄2年(1593)には天台座主尊朝法親王(1552〜97)の命により兄賢珍とともに秀吉に願い出、私財をなげうって日吉二宮本殿を再建した(「舜公碑銘」)。文禄3年(1594)2月23日には正親町天皇の三回忌が清涼殿で行なわれ、比叡山からは4口(人)の僧が八講を行なった。その中に詮舜と豪盛がいた(『天台座主記』巻6、167世二品尊朝法親王、文禄2年2月23日条)。西塔の復興が少しづつ行なわれていくと、方々に散った延暦寺の僧を呼び寄せた。その頃、兄の賢珍が示寂した。賢珍は近江国栗太郡(現、滋賀県草津市)の観音寺(芦浦観音寺)住持であったが、その跡を遺言で弟詮舜に継がせた。詮舜は観音寺第8世となり、観音寺が掌握していた琵琶湖湖上水運や租税の経営を行ない、その様子は「徳恵ありて人和して民賑わう」ものであったという(「舜公碑銘」)。
文禄元年(1592)に秀吉は朝鮮出兵を行ない、肥前国(佐賀県)に駐屯しているが、詮舜もそれに同行した。さらに文禄3年(1594)の伏見城築城に際して、経営を行なっている(「舜公碑銘」)。詮舜の才能を秀吉は認めており、幾度か還俗させようしたが、詮舜は首を縦に振らなかったという(「舜公碑銘」)。
文禄4年(1595)、秀吉は突如、園城寺の闕所(財産没収と破却)を命じた。詮舜は転法輪堂(釈迦堂)の復興をめざしていたから、園城寺弥勒堂(本堂)を詮舜に賜い、それを転法輪堂とするよう願い出た。そのため転法輪堂は再建された。これが現在の釈迦堂である。さらにその余材で坂本生源寺の仏殿を建立した(『天台座主記』巻6、167世二品尊朝法親王、文禄4年条)。慶長元年(1596)には園城寺の闕所により延暦寺に賜っていた大津の園城寺の寺地を返却し、かわりに上坂本村と葛川村の地を得た。
このように西塔の復興を果たした詮舜は、慶長5年(1600)2月19日、仏号を唱えながら安らかに示寂した(「舜公碑銘」)。示寂した場所は観音寺であった(『西塔堂舎並各坊世譜』正教院)。詮舜の最期の心残りは散佚した経典の再収集であり、これは門弟に託された。詮舜は西塔北尾谷に葬られた(「舜公碑銘」)。
正教坊3 / 回峰行石泉坊流
正教坊は石泉院(石泉坊)と称され、千日回峰行の行門室であった。かつて東塔無動寺谷の玉泉坊流、横川飯室谷の恵光坊流とならんで西塔正教坊の石泉坊流は千日回峰行の三門流に数えられ、多くの行者を輩出した。
いつ頃から正教坊が千日回峰行の行門室となったか不明であるが、正教坊の再興第1世の詮舜は、信長の比叡山焼討ちの直前の元亀2年(1571)に回峰行の苦行を行なっている(『西塔堂舎並各坊世譜』正教院)。
正教坊の第2世の豪運(?〜1615)は回峰を行なわなかったが、詮舜の門弟で一族であった舜興(1593〜1662)は慶長17年(1612)に回峰行を行ない、元和2年(1616)に正教坊第3世住持となり、その後寛永11年(1634)4月に観音寺に移っているが、万治3年(1660)には葛川の総一和尚となり、参篭すること44次におよんだ。また法華経の読誦は1000部、護摩行も1000遍行ない、また師詮舜の悲願であった経典の再収集も、承応年間(1652〜54)に正教坊の北に書庫を設けることによって成し遂げている(『西塔堂舎並各坊世譜』正教院)。これは正教蔵文庫と称され、明治12年(1879)に正教坊住持稲岡尭如より西教寺に寄進され、現存する。
また正教坊第4世の心運(?〜1668)は、舜興の外姪(甥。姉妹の子)で、寛永17年(1640)に回峰行七百日満となり、慶安5年(1652)には葛川総一和尚となり、参篭44度に及んだ(『西塔堂舎並各坊世譜』正教院)。第5世の舜雄(?〜1701)は当初慧心院等誉の門弟であったが、後に心運の弟子となり、明暦3年(1657)から万治3年(1660)にかけて回峰行七百日を満了し、その年のうちに師から正教坊を譲られた。延宝2年(1674)5月に故あって正教坊を離れ、南尾谷西学坊、のち和泉国海岸寺(大阪府堺市)で示寂した(『西塔堂舎並各坊世譜』正教院)。
第6世の等運は、舜雄同様に等誉のもとで出家したが、その後舜雄に師事。万治3年(1660)に回峰行三百日を達成して白帯袈裟を受け、その後回峰行七百日も満了した。延宝2年(1674)5月に正教坊住持となった。貞享5年(1688)には葛川総一和尚となり、54度に及んだ。元禄8年(1695)には正教坊を改造し、元禄15年(1702)には正教坊を正教院と改め、弟子の等貫に正教院を譲って、等貫は第7世となった(『西塔堂舎並各坊世譜』正教院)。その後正教院は正徳4年(1714)から延享元年(1744)までの間に正教坊に復している。
寛政5年(1793)10月7日、西塔正教坊の聖諦が千日回峰行を満行のため参内し、玉体加持の祈祷を行なった。この時聖諦は桧笠で、小御所母屋のすみの柱の下に桧扇を敷いて笠をもたせおいたという(『天台座主記』巻7、214世入道二品真仁親王、寛政5年10月7日条)。
その後、石泉坊流の回峰行は、元治元年(1864)3月22日、大阿闍梨大僧都覚宝が回峰千日行満して綸旨を賜り、9月27日に参内し、孝明天皇の天顔を拝して玉体加持の祈祷を行なったのを最後に途絶した(『天台座主記』巻8、231世、二品昌仁親王、元治元年3月22日条)。
その後、正教坊は衰退し、正教坊の持仏堂という位置づけであった瑠璃堂は残ったが、大正頃には門のみが残るだけで、建物は失われていた。現在では坊舎があり、西塔北谷にある山坊は他に瑞雲院のみとなっている。 
大日院跡 

大日院はかつて比叡山延暦寺西塔に位置した比叡山の子院です。天暦2年(948)に村上天皇の御願で建立された御願寺です。修法以外の記録は少なく、正確にどこに位置したのか、いつ廃寺となったのかもわかっていません。
熾盛光法
熾盛光法は『大聖妙吉祥菩薩説除災教令法輪(熾盛光仏頂儀軌)』(大正蔵966)を所依経典とする台密における除災の修法である。同経によると、「あるいは大疫・疾病流行し、鬼神暴乱、異国の兵賊、国人を侵掠するに遭い、もし明人先にこれを知る者あらば、まさに奏上して曼荼羅を置くべし。帝主日々虔敬の心をおこし、おのずから発願して加護を祈請せば、必ず勝利を獲て悪賊消滅せん。」(『大聖妙吉祥菩薩説除災教令法輪』)とある。このように疾病の流行・天変地異・兵乱などを退散させることができると説かれており、国家の求める除災の項目と合致していた。
この熾盛光法は単に国家の求める除災の修法とみなすことも可能であるが、むしろ個人に効果がある修法とされ、とくに王者に対する効能を強調していた。たとえば「凡庶の人、王者を恐れて疑いを生ざば、かりに紙上において一切諸天の名字を書き、諸尊の下に帖す。彼をして疑を断じしめて、正信を生ず」(『大聖妙吉祥菩薩説除災教令法輪』)とあるように、王者と臣下における間隙も、この修法によって信頼を回復すると説かれているが、臣下側からの視点ではなく、王者からの視点であることは興味深い。さらに女性・宦官・奴婢など、賎民視された人物が修法・道場・壇をみると修法の効力を失うとされ、個人の修法の場合、曼陀羅は方1肘(54cm)で、大きくても3・4肘(164〜216cm)に過ぎなかったが、国王の場合の修法では16肘(8m64cm)、大きいものでは28肘(15m12cm)にも及んだというから(『大聖妙吉祥菩薩説除災教令法輪』)、王者と庶民の差は修法において隔絶していた。
この熾盛光法の所依経典である『大聖妙吉祥菩薩説除災教令法輪』が最初に請来された記録は、宗叡(809〜84)の請来目録であり(『新書写請来法門等目録』)、異名同本である『熾盛仏頂威徳光明真言儀軌』を最初に請来したのは恵運(798〜869)であったが(『恵運律師書目録』)、ほぼ同時期に円仁も請来していたらしい。円仁の請来目録にはみえないが、安然(841〜915)の「八家秘録」には、「熾盛仏頂威徳光明真言儀軌」として『大聖妙吉祥菩薩説除災教令法輪』がみえており、「仁・運」とあるように、円仁と恵運が請来したことが知られる(『諸阿闍梨真言密教部類総録』)。また円仁請来経典の収蔵庫であった前唐院の蔵書目録によれば、『大聖妙吉祥菩薩説除災教令法輪』が1巻づつ、異名同本である『熾盛光威徳仏頂念誦儀軌』1巻が1帙にまとめられており(『前唐院見在書目録』)、録外経典ではあるものの、円仁が請来したとみてよい。
嘉祥3年(850)に円仁は「災いを除き福を致すは、熾盛光仏頂をこれ最勝となせり」とした上で、唐にならって熾盛光法を修する道場の建立を願い出ている(三千院本『慈覚大師伝』)。その道場となったのが後の惣持院である。
『大聖妙吉祥菩薩説除災教令法輪』によると、熾盛光法を修するにあたっては、まず一浄房室を灑掃することからはじまり、白牛の地面に接触していない瞿摩夷(牛糞。古代インドでは清浄物とみなされた)を塗布し、さらに白檀の香水を地に散らした。さらに悪物・砕瓦などの類を取り除き、河岸の白土で壇を築いた。曼荼羅を描く画人は、酒・肉・五辛を食させず、香湯を沐浴して新浄衣を着させ、当日の朝に八関斎戒を授けた。白布上に十二輻金輪を描き、五色の粉を燃やし、その粉のひとつひとつに真言を加持すること七遍、または三七遍(27回)の後に用いた(『大聖妙吉祥菩薩説除災教令法輪』)。
熾盛光曼荼羅は、まず輪の中心に八葉白蓮華を描き、金銀で彩色した。さらに金輪仏頂を描き、この曼荼羅を浄房の深密のところに荘厳して建てた。その後、熾盛光仏頂真言を昼夜不断に念誦し、諸尊真言の念誦を兼用した。修法の日は少ない場合でも三日三夜、多い場合は七日七夜、もしくは二七日夜(14日間)に及び、護摩を行った。修法の結果、目的を達成した場合、曼荼羅はただちに収納し、地壇は削り除いて、河に流された(『大聖妙吉祥菩薩説除災教令法輪』)。
熾盛光法は前述の通り、疾病の流行・天変地異・兵乱などを退散に効果があったとされていたが、説くところはむしろ、国家そのものに対するものではなく、個人に対するもの、とくに王者といった貴顕層に対しての効果をあらわしていた。例えば、国において日蝕・月蝕、または五星(木星・火星・金星・水星・土星)が明るさを失ったり色や形状が変化した際、または妖星・彗孛(いずれも彗星)が王者や貴人の命宿を犯したり、または日月が本命宮の中にて欠損した際に、熾盛光法を修すると利益があるとみなされた(『大聖妙吉祥菩薩説除災教令法輪』)。中国古来の伝統的占星術のような国家的災厄としての天変に関する修法ではなく、個々人の本命宮への災厄、すなわち個人としての王者への修法であった。
熾盛光法は延喜5年(905)夏に惣持院の塔下で修されており(『阿娑縛抄』巻第59、熾盛光末、熾盛光法日記集、清涼房伝云)、延喜11年(911)秋にも禁中で怪異があったため、豊楽院にて熾盛光法が修された(『阿娑縛抄』巻第59、熾盛光末、熾盛光法日記集、清涼房伝云)。さらに延長2年(924)11月8日に尊意(866〜940)の私房にて熾盛光法が修され(『貞信公記』延長2年11月8日条)、承平8年(938)3月11日には天変のため天台座主尊意に叡山上で熾盛光法を修させ(『貞信公記』承平8年3月11日条)、天慶8年(945)11月4日にも叡山にて天台座主義海(871〜946)が天変・物恠のため熾盛光法を修している(『貞信公記』天慶8年11月4日条)。
大日院の建立
大日院を開創したのは延昌(880〜964)である。延昌についてはすでに「補陀落寺」で述べたから省略する。
大日院は天慶6年(943)に建立されたとも(『扶桑略記』第25、天慶6年条)、天暦2年(948)に建立したともいう(『天台座主記』巻1、15世権律師延昌、天暦2年条)。実際には村上天皇の御願で建立されており、後掲の史料などからは後者の説が正しい。天慶10年(947)3月には、延昌に対して、「御願一院、造立すべきのところ、まさに定申すべし」(『貞信公記』天慶10年3月4日条)とあるように、村上天皇が延昌に御願寺を建立させていることが知られる。同年(改元して天暦元年)9月2日には比叡山御願堂の図がもたらされている(『貞信公記』天暦元年9月2日条)。天暦2年(948)に大日院供養が行われているが、本願主は延昌であった(『叡岳要記』巻下、西塔大日院供養)。
すでに比叡山上には、仁明天皇の定心院、文徳天皇の四王院、朱雀天皇の延命院が御願寺として存在しており、これにならったものとみられている。さらに大日院建立に際して十禅師が設置されている(『扶桑略記』第25、天慶6年条)。
天徳2年(958)正月6日、この日より始めて大日院において熾盛光法・不動法の両壇の法を修した。また大般若経を転読させ、7日間に限って天変を消すためである。蔵人修理亮平珍材が事の次第を仰せて、兼ねて度者1人を賜っている(『天台座主記』巻1、15世権律師延昌、天徳2年正月6日条)。これ以後、大日院では熾盛光法がたびたび実施されるようになり、事実上の熾盛光法の専門道場と化した。
熾盛光法は、その秘匿性をも修法の効能を増すための条件に設定されており、熾盛光法の修法が終了次第、壇を破壊して河に流すことになっており、さらに旅先などにおいても修法可能なように、縮小・簡略化された儀軌も設定されていた(『大聖妙吉祥菩薩説除災教令法輪』)。ところが日本で最初に熾盛光法が修させた惣持院にあった熾盛光曼荼羅は、叡山上では後世も「惣持院根本曼荼羅」と称され、書写の基準となっており、また容易には他見が許されなかったように(『阿娑縛抄』巻第59、熾盛光本、懸曼荼羅)、惣持院根本曼荼羅は丁重に保管されており、このことは日本における経典を離れた儀軌が形成されつつあったことを示している。すなわち大日院のように熾盛光法の専門道場が形成されたのは、10世紀の台密が経典主義から脱却して口訣といった新しい段階へと進んだことを意味する。
天徳2年(958)2月21日には大日院にて熾盛光法を50日間に限って修法させた。これも天変を消すためであった(『天台座主記』巻1、15世権律師延昌、天徳2年2月21日条)。この効果がなかったのかさらに4月10日には継続して大日院にて熾盛光法を50日間に限って修し、前とあわせて計100日間天変を消すための修法を行なった(『天台座主記』巻1、15世権律師延昌、天徳2年4月10日条)。本来、熾盛光法の修法は、多くとも二七日(14日間)を超えないことが原則であったが(『大聖妙吉祥菩薩説除災教令法輪』)、これをはるかに上回る期間の修法が行われている。
大日院は村上天皇の御願であり、しかも御願は、国家修法ではなく、あくまで天皇個人の護持の修法であり、また熾盛光法自体も、王者個人の災厄を除く事を目的としていたから、効果がないのならば効果が出るまで修法を続けなくてはならなかった。このことは他の御願寺においても、定額寺・年分度者・階業の奏上の際には、不断の修法を強調する例が多く、大日院の奏上の記録は残っていないが、同様の奏上が行われていた可能性があった。そのため、修法ははじめた以上、結果を出すまでは継続し続けなくてはならなかった。
天徳4年(960)6月5日に大日院にて大般若経を50箇日にわたって読経されている(『日本紀略』後篇第4、天徳4年6月5日癸酉条)。さらに同年7月29日にも大日院にて延昌に7日に限って熾盛光法を修させているが、これも天変を除くためであった(『扶桑略記』第26、天徳4年7月29日丁卯条)。このように多用された熾盛光法であったが、天徳4年(960)9月22日より仁寿殿にて延昌は同法を修していたが、修法の最中の9月23日夜に内裏が焼亡してしまい、翌24日に延昌が避難していた達智門人宅に近い左近衛府大将曹司に移して修法をやり遂げることになった(『阿娑縛抄』巻第59、熾盛光末、熾盛光法日記集、天暦御記)。
応和元年(961)閏3月17日には大日院にて五壇法が修され、権律師喜慶は番僧十口(10人)を率いて不動法を、賀静は降三世法を、尋真は軍茶利法を、行誉は大威徳法を、長勇は金剛夜叉法を修している(『扶桑略記』第26、応和元年閏3月17日庚辰条)。応和3年(963)2月11日にも大日院にて延昌が伴僧20口(人)を率いて熾盛光法を行なった(『天台座主記』巻1、15世権律師延昌、応和2年11月11日条)。
村上天皇が崩御すると、大日院は御願寺から、追福の祈願所となる。康保5年(968)5月25日には、大日院で村上天皇の周忌法会が行われ、親王・女御が参会して諷誦を修している(『日本紀略』後篇第4、康保5年5月25日丁未条)。その後、大日院は天延2年(974)正月28日に阿闍梨弘延が大日院にて百箇日にわたって不動息災法を修しているが(『親信卿記』天延2年正月28日条)、これを最後に大日院は史料上から姿を消した。
大日院が廃絶した時期はわかっていない。寛保3年(1743)の『山門西塔惣堂并五谷堂舎現房諸旧跡名所ヶ所附帳』に「大日院旧跡 釈迦堂ヨリ弐町廿間(約254m)程、凡ソ丑(北北西)ノ方ニ当ル」とある。  
 
「末法燈明記」について 1

「末法燈明記」
『末法燈明記(末法灯明記)[まっぽうとうみょうき]』とは、延暦20年(801)に、日本天台宗祖最澄[さいちょう]によって著されたとされる書です。
この書では、平安末期から鎌倉期より日本を席巻することとなる、いわゆる末法思想が説かれ、特に末法という時代における僧侶の位置づけがなされています。
『末法燈明記』なる表題は、末法にあっては、髪を剃って袈裟を着ただけの形ばかりの僧であっても、それは「暗黒に等しい時代に光明をもたらすかけがえの無い灯明」であるという主張を表しています。この書の主眼は、今や(平安期初頭)時代は末法に等しい、像法末期であることを人は理解しなければならず、よって国家は正法[しょうぼう]・像法[ぞうほう]時における「まっとうな僧尼」のあるべき姿をもって、末法の「破戒することすら叶わぬ無戒の僧尼」を規制するべきではない、というものです。
ようするに、最澄は、自身達僧侶が戒もまもらず堕落し尽くしていたとしても、それは個々人の努力でいかんともし難い「時流」のせいであり、いくつかの仏典にも根拠があることだから、仕方がない。そのような形ばかりのエセ僧侶であっても、国家ならびに社会の人々は、これを尊敬して布施を行うべきである、といったことを説いています。
中でも、過去しばしば取りざたされ、現在ですら『末法灯明記』に触れる者ならば必ず引用するのは、「たとえ末法の中に、持戒の者あらんも、すでにこれ怪異なり。市に虎あるが如し(末法という時流にあって、まっとうな僧侶などがあったとしても、それはもはや怪異である。街中に放たれた虎のようなものだ)」などと、本来の戒律に従って生活する「まっとうな僧侶」、(戒律という観点から見た)正しい僧侶を否定している一文です。 
末法思想とは
末法思想とは、一部の仏教における仏教的終末論(というと正確ではなく語弊がありますが)、あるいは時代観です。末法思想は、釈尊が悟りを開きその教えを説いてからの時代には、正法・像法・末法の三種があり、時代が下るごとに仏教が実践され、人が悟りに至ることがなくなっていくとするものです。
末法思想の典拠とされる代表的な経典は『大方等大集経(略称:大集経)』です。他にも典拠とされる経典はいくつかありますが、いずれも大乗の経典です。よって、末法思想は小乗にはありません。もっとも、正法が500年もしくは1000年しか持続しないとする説は、諸部派に伝えられています。
正しく仏教が行われ、悟りを得る聖者も現れる「正法」は、仏陀滅後500年あるいは1000年間。賢者聖者の出現は稀なものの、仏教を信仰して寺院などを建立する者がいまだ多い「像法」は、正法後の1000年間。その後に到来するのが「末法」であり、この時代となると仏教は滅びるなどとされました。
日本では、僧界だけでなく一般社会においても平安後期から次第に流行し始め、鎌倉時代には大流行します。これは、末法は永承7年(1052)に到来する、とされたためです。鎌倉期、末法思想が世間を席巻した事によって、宗教や文学など文化方面はもとより、政治にまで強い影響をあたえています。その後の日本においても、末法思想は、それを肯定・否定するに拘わらず、なんらかの影響を各方面に与え続けました。現代においてすら、それを公然と口にする者はいないとしても、いまだその影響は日本仏教界に強く残っているほどです。
仮に『末法燈明記』の主張する「末法」を認めたとすると、いま我々はまさに末法時代のただ中にあると言えるわけですが、この現代日本を見渡す限りにおいて、この書の説く末法の有り様そのままが日本仏教界に現出しているのは、なんとも皮肉な話と言えるでしょう。いや、あるいは当時からこのような有り様が続いている、と見た方が適当でしょうか。 
堕落容認の「聖典」
この書は、末法思想を背景に鎌倉初期、天台宗から派生していった、栄西[えいさい]禅師や親鸞[しんらん]、日蓮[にちれん]など鎌倉新仏教の祖師といわれる人々によって、自身の思想を正当化する為などに援用されています。
もっとも、その中で栄西禅師だけは、その著『興禅護国論[こうぜんごこくろん]』において、『末法燈明記』の内容やそれを援用する人々を批判し、末法であるならなおさら戒を守るべき事を強く主張しています。また、道元禅師は、この書に直接触れる事はなかったものの、末法思想そのものを否定しています。
いずれにせよ、この書は、それら人々の思想を知る上では、欠くべからざるものと言えます。また、日本仏教の、戒律無視あるいは戒律否定の思想や歴史を知るためにも、大変重要な書です。平安末期から鎌倉期にかけて天台宗から湧いて出てきた、「鎌倉新仏教」などと言われるものの中、特に浄土教と日蓮の教を知るためにも、必須・必読の書です。さらに、日本仏教史はもとより、日本思想史をたどる上でも不可欠の書である、といって間違いありません。
面白い事に、現在においてすら、いまだこの書を権威として引き合いに出し、自身達の「エセ僧」たる現状を正当化しようとする人々は後を絶ちません。彼等にとって『末法燈明記』は、自分たちの立場を都合良く容認してくれる「聖典」とすら言い得るものとなっているようです。この様なことから、この書の思想が多くの僧尼に影響を与えて援用させたことが、むしろこの書が説いた世界を現出させた一大要因となった、と見ることもできるのです。 
偽撰説
一昔前の仏教学会において、この書を最澄撰とすることに懐疑的・否定的な意見、偽撰説が提出されました。これに対抗して、真撰説も出されましたが、いずれも相応の論拠があり、いまだ決着を見ていません。といっても、最近は学会において新説がだされるわけでもなく、よって論争されることなどもなく、両説なんら進展していません。すでに仏教学会からの興味は全く失われたものと言っていいでしょう。
これは仏教学などとは関しない意見ですが、明治初期の釈雲照律師は、この書を杜撰な偽書として問題外としています。
しかしさて、確かに『末法燈明記』には、偽撰であるとする説が出るのも当然、と言える点がいくつかあります。
まず、『末法燈明記』の記述どおり、最澄が延暦20年(801)に撰したものだとして、栄西が建久2年(1191)に著した『興禅護国論』にて引用するまでのほぼ400年もの間、これを引いた書が他に「全く」見られないのは、あるいは天台宗徒によってその内容の過激さから門外不出とされていたのかもしれませんが、第一に不審な点です。
本当に最澄が、晩年に近くなってなした、大乗戒を受戒しただけで比丘性が成立するなどという仏教の伝統的戒律観からすると常識外れの主張以上に非常識極まりない大暴論(と断じて全く良い)を、それ以前に主張していたのであれば、その思想の残滓や残り香が多少なりともその他著作に見られてもおかしくないでしょう。しかし、実際、最澄が、東大寺戒壇院にて受具足戒後の弱冠の頃(785)に著した『願文[がんもん]』と、入唐帰朝後の弘仁10年(819)から、「具足戒を捨てて梵網菩薩戒の単受で国家認定の僧侶」とするための大乗戒壇建立とその国家の承認を得るために次々と顕した著作の内容とを、『末法燈明記』に比較してみると、あまりに大きな齟齬をきたしています。これも、偽撰との疑惑を抱かざるを得ない一因と言えます。
さらにまた、「文献の鬼」とも言うべき最澄にしては、仏典の引用の仕方やその扱いがあまりに杜撰。たとえば孫引きがあまりに多く、書写の過程で字を誤ったなどといったレベルの話では澄まないほど、それに錯誤や誤解が多いのも、最澄偽撰と考える理由の一つです。この点は、偽撰説に説得力をもたせる、最も決定的なものと言えます。この一点で最澄の著作ではない、とまで言えるほど、彼の仏教への信仰心と信念からでしょう、その文献の扱いは厳重であることが知られているのです。
しかし、これはあくまで現代における「仏教学という文献学」内だけでの話です。特に真宗からすれば、親鸞の主著『教行信証』にて、ほとんど全文を引用し、これを否定すると親鸞の主張の核が大きく損なわれてしまうほど極めて重要な書です。
よって、それら宗派の「宗学」には関わりの無い事と言えます。日本の天台宗系の諸宗派、特に真宗と日蓮宗において、『末法燈明記』が、最澄が著した権威あるものと見なされ、用いられてきたことに変わりはありません。日蓮と親鸞は、このような「暴論」を書き散らしている書をその思想の核の根拠に据え論を展開しているので、この書を彼らは否定するわけにはいかないでしょう。
よって重要であるのは、「最澄が著したものであると見なされてきた歴史的事実」であって、最澄が実際に著したものであるかどうかなど、また別の問題です。 
末法(まっぽう)
仏教で、仏の教のみが存在して悟りに入る人がいない時期のこと。または、釈迦の死後1,500年(または2,000年)以降の時期のことである。末法というのは、正法(しょうぼう)、像法(ぞうぼう)の後に位置づけられている時期のことである。正法・像法・末法という三時(さんじ)のひとつである。末法というのは、仏の在世から遠く隔たったため、教法が次第に微細・瑣末になり、僧侶が戒律を修めず、争いばかりを起こして邪見がはびこり、釈迦の仏教がその効力をなくしてしまう時期とされる。三時の長さのとらえかたには諸説あり、一説には、正法 千年、像法千年、末法 一万年とされ、多くはこの説をとっている。
『末法燈明記』では1052年(永承7年)に末法に入ったとされた。なお『末法燈明記』は、日蓮等の鎌倉仏教の多くの祖師は最澄の著述だと定めた。現在では『末法燈明記』というのは最澄に仮託して書かれた文献、つまりは偽典と説明されることがある。 
 
「末法燈明記」 (現代語訳) 2

そもそも真理を守り従って、(みずから悟った真理で)もって人々を教導する者は(出世間の長たる)法王である。(仁政によって)天下を治め、その(徳の)風を世界に吹かせる者は(世間の長たる)仁王である。であるから、仁王と法王とが、互いに(その徳を世界に)顕しあって万物(の真理)を明らかにし、真諦と俗諦とが、たがいに連携して(仏の)教えを広めていく。これによって仏典は世界中に伝わり、喜ばしい政治が天下に布かれるのだ。(ところが)いまや愚僧(たる私最澄)などは、天網(のように朝廷が張り巡らせた法律「律令格式」)に従い、そのあまりに厳しい科刑にかしこまって恐れおののいている。(そんな状況であるから、私達僧は、)落ち着き安心する一時すらもないほどである。
ところで仏陀の教えには三時(という時代毎の興廃)がある。人には三品(という気質や能力の別)がある。(仏陀の説いた)教えと戒律の趣旨は、その時代ごとに(適切なものが説かれているから時代が異なれば)変わり、(それについての)非難あるいは賞賛の文言も、人によって様々に取捨される。そもそも(中国の聖人達の伏儀の上古・周公の中古・孔子の下古といった)三古の運も、その盛衰は一様ではなかった。仏陀はその教えに五つの段階を設けて人それぞれ適応する教えを説かれたのであり、人の智慧の高さや悟りの深さにも異りがあるのだから、どうして一つの方法によって(人々が)更正し、また一つの理でもって(人々を)導くことが出来ようか。(いや、そんなことは出来はしないのである。)
そこで正法・像法・末法(と仏陀の教え)が段階的に荒廃することを詳細にし、あるいは僧の破戒と持戒の定義を明確にする。その過程で(私最澄は)三つの段階を踏んでいる。初めに正法・像法・末法の年代を決定し、次に僧における破戒と持戒の定義をし、最後に経典を挙げてその説の正しいことを確認する。
初めに正法・像法・末法の年代を決定するが、これに諸説あって不同である。(いまは)仮に(その中の)一説を述べよう。窺基は、(その著『観弥勒上生兜率天経賛』にて)『賢劫経』を引用してこのような説を述べている。「仏涅槃の後、正法は五百年間、像法は一千年間、この千五百年の後に、釈迦の教えは滅びる。(『賢劫経』では)末法を説いていない」と。(窺基の)他の所説によれば、(『般若会釈』に)「尼僧が八敬法を実行せず怠け堕落したがために、(一千年正しく行われたはずの)仏陀の教えが(五百年以上の)長きには世に行われなくなった」とある。よって窺基の説は採らない。
また『涅槃経』には、「末法の中にあって、十二万の大菩薩達があり、仏陀の教えを保っており(仏陀の教えが)滅亡することがない」と説かれている。(しかし、)これは(「大菩薩」という修行を相当に積んだ)上位の者について特に言われたことであるからまた採用しない。 
では聞こう。もしそうであるならば、(正法と像法の期間)千五百年の間における僧尼の行い・有り様はいかなるものであろうか。
答えよう。『大術経』の所説を調べると、「仏陀が涅槃された後、初めの五百年間は、大迦葉[だいかしょう]など七人の賢者・聖者が次々と現れ、仏陀の教えは正しく伝わって滅びなかった。その五百年が過ぎると、正しい仏陀の教えは滅びてしまった。(仏滅後)六百年になると、九十五種の仏教以外の思想を説く者が競うように現れる。(しかし、)馬鳴[めみょう]が世に現れて、それら諸々の外道を論破・屈服させる。七百年後から百年の間には、龍樹[りゅうじゅ]が現れて、仏教以外の(真理に違する)思想を論駁する。八百年後になると、比丘は放縦になって、わずか一人二人が、悟りに至る事があるばかりだ。九百年に至っては、(律に背いて)奴隷を比丘とし、女奴隷を比丘尼とするようになる。一千年後には、(僧尼達は、人の身体が穢れた執着するに足りないものだと知るための仏教の冥想法)不浄観の教えを聞くと、これに怒りを覚えて修めようとしない。一千百年には、僧・尼らは結婚して家庭を持つようになり、(仏陀の定めた)律を(「こんなものは用がない。役に立たない」などと)誹謗するようになる。千二百年には、諸々の僧尼らは、いずれも子供をもうけるようになる。千三百年には、(律によって汚く価値の無い色に染めるべきことが定められている)袈裟は純白のものが用いられるようになる。千四百年には、出家・在家の男女達は、皆まるで(殺生を生業とする汚らわしい)猟師のようである。三宝の所有物を売り飛ばす。千五百年後には、俱睒彌[カウサンビー]国に二人の僧がある。互いに論争となり、ついに互いに殺害するまでに至る。これによって(仏陀の)教えは竜宮に隠れてしまう」とある。
『涅槃経』の巻十八、および『仁王経』などに、またこの文がある。これらの経文の所説に従えば、千五百年後には、戒・定・慧(の三学が行われること)は無くなってしまっている。
よって『大集経』の巻五十一にこのように説かれている。「私が滅度した後、初めの五百年間は、諸々の比丘達は、私の正しい教えに従って、解脱に至る者が盛んにある。初めの聖果を得る事を、名づけて解脱という。次の五百年間には、冥想に励む事が盛んである。次の五百年には、私の教えを熱心に学ぶ事が盛んである。次の五百年には、寺院を造営する事が盛んである。これ以降の五百年には、(仏教徒同士の)闘争が盛んに起こるようになる。(私の)教えは(社会から)隠れ没する」などと。
この(『大集経』の所説の)意味は、(仏滅後から)初めの千五百年間は、秩序をたもって、持戒と冥想と智慧との三つの修道法が盛んに行われるということである。つまり先ほど引用したところの、正法五百年と、像法一千年との二つの時代にあたるのである。寺院を造営することが盛んな時代以降、すなわちこれからが末法である。
よって窺基[きき]の『般若会釈』にこうある。「正法五百年間、像法一千年間、この一千五百年の後は、それまで行われていた仏陀の正しい教えは滅び去る」と。このことから知られるだろう。寺院を造営することが盛んな時代からは、末法の時代に属すること を。 
では聞こう。もしそうであるならば、今の世(平安初期)はどの時代にあたるのか。
答えよう。釈尊が滅後された年代には、諸説があるが、ここでは一応二つの説を挙げる。
一つには法上法師などが、『周書異記』を根拠とする説。「釈尊は(周の)第五代王たる穆王滿の五十三年壬申に入滅した」と。もしこの説に依れば、その壬申の年より日本の延暦二十年辛巳までで、一千七百五十年である。
二つ目は費長房などが、『春秋』を典拠として、「釈尊は周の第二十一代王たる匡王班の四年壬子になって入滅した」と主張する。もしこの説に依れば、その壬子の年より日本の延暦二十年辛巳までで、一千四百十年である。
これによって知られるだろう。今の時は像法の末期の時代であることが。像法末期の僧徒の行い・有り様は、すでに末法と同様である。それはつまり、末法の中にあっては、ただ口だけ言葉の上だけの教えはあっても、修行されることも悟りに至ることも無い。もし戒律の伝統があってその授受が行われていれば、戒律を破るということもあるだろう。しかし既に戒律の伝統は滅びている。であるからどの戒律の項目を犯して、破戒だというのか。(戒律の授受が無いのだから)戒律を破る事もないのだ。どうして戒律を守るなどということがありえようか。
よって『大集経』にこう説かれている。「仏陀が入滅された後には、戒律を破るどころか受けた事すらもない僧徒が世界にあふれる」などと。 
聞こう。諸々の経典や律典の中では、あらゆる面から(波羅夷罪や僧残罪などを犯した)破戒の者を罰して、僧伽の中に留めることを許してはいない。破戒した者はこの様に厳しく罰せられるのである。まして無戒の者がサンガの成員(つまり僧侶)たり得る訳などない。しかし、(あなたは先ほどから)再三にわたって末法の世における「無戒の僧」などというものについて論じている。どうしてありもしない瘡蓋[かさぶた]を剥くことが出来るというのか。
答えよう。あなたの言い分は誤っている。正法・像法・末法それぞれの時代における僧侶の有り様については、様々に諸々の経典に説かれているのだ。仏教や(儒教・道教など)その他の宗教の僧侶および在俗信者で、それらを読んでいない者があるというのか。(いや、そのような者はいないのである。)(皆がそのように自明なこととしているのに、)どうして(出家たる者が)自身の邪[よこしま]な生活を貪り求めて、国家を保ち安定させるところの正しい教え(仏教)を故意に衰退させるというのか。もっとも今(私が)主張しているのは、末法にはただ「名字の比丘(形ばかり・名ばかりの出家修行者)」しか存在していないということである。この「名字の比丘」を世間における掛け替えのない宝とする以外、他に(世間に平安という実りをもたらす)福田は無い。たとえ末法の世にあって、戒律を厳に守っている者があったとしたら、それはもはや正気の沙汰ではない。市街地に虎(の様な猛獣)が現れるようなものである。この様な者を誰が信じるというのか。
聞こう。正法・像法・末法における僧侶たちの有様について、すでに諸々の経典に説かれていることは確認した。では末法における(形ばかり・名ばかりの出家者)「名字の比丘」を、世間の真の宝とすることは、どの聖典に根拠があるというのか。
答えよう。『大集経』第九巻にこう説かれている。「例えば本物の黄金を(値が付けられないほどの)無上の宝とするようなものである。もし本物の黄金が無ければ、銀をもって至上の宝とする。もし銀が無ければ、真鍮や偽物の宝をもって至上の宝とする。もし偽物の宝も無ければ、赤白色の銅や鉄、白銅・鉛・錫を、至上の宝とする。このように、ありとあらゆる世間では、仏法は至上の宝である。もし仏法が無ければ、(劣った教えである小乗の一種たる)縁覚の教えが無上の宝である。もし縁覚の教えが無ければ、(劣った教えである小乗の一種たる)阿羅漢の教えが無上の宝である。もし阿羅漢の教えも無ければ、その他の賢者・聖衆をもって、無上の宝とする。もしその他の賢者・聖衆も無ければ、冥想によって平安への入り口の境地に至った凡夫をして、無上の宝とする。もしそのような凡夫もいなければ、戒律の規定を厳に保つ者をして、無上の宝とする。もし戒律の規定を厳に保つ者が無ければ、破戒の比丘をもって、無上の宝とする。もし破戒の比丘すら無ければ、(戒を受けることなく)ヒゲと髪を剃り、身に袈裟をまとうだけの、名ばかりの比丘を、無上の宝とする。(形ばかり・名ばかりの比丘であったとしても、)仏教以外の九十五種の思想家・宗教者と比較したならば、最上の存在である。まさに世間からの供養を受け、(その果報として善果をもたらす)福田となるであろう。なんとなれば、出家者と言いながらまったく形ばかり・名ばかりであるというその存在自体が、生きとし生けるものから怖れられるものだからである。もし(名字の比丘を)後援し支援し大切にすることがあれば、その人はそう遠くない将来、(あらゆるモノには実体の無い、移ろい行く「空」なるものであるという真理を認識する)「無生法忍[むしょうほうにん]」という境地に至ることが出来るだろう」と。以上が経文からの引用
この経典にある文中に、八段階で無上の宝が説かれている。いわゆる、如来と、縁覚と、(阿羅漢たる)声聞とおよび(不還・一来・預流という阿羅漢果に至るまでの)前の三つの境地と、冥想によって平安への入り口の境地に至った凡夫と、持戒の比丘と、破戒の比丘と、無戒の名字の比丘とが、この順番のまま、それぞれが正法・像法・末法という時に見合った無上の宝である。初めの四つは正法の時の無上の宝。次の三つは像法の時の。最後の一つは末法の時の無上の宝である。このようなことから明瞭に知られるだろう。破戒の比丘・無戒の比丘であっても、それらは誠に世の宝であることが。 
聞こう。慎んで先ほどの(最澄がその主張の典拠とした『大集経』の)文を読んだところ、破戒の比丘も(無戒の)名字の比丘も、まことに尊い無上の宝であるという。(しかし、では)何故に、『涅槃経』や『大集経』などの経典には、「国王や大臣が、破戒の比丘に供養することがあれば、国に(水災・火災・風災という)三つの災いが起こり、来世には地獄に生まれ変わる」と説かれているのか。破戒の比丘ですらそのような災いをもたらす元となるのである。「無戒の比丘などというもの」なら尚一層ひどいことになろう。ということは釈迦如来が「破戒(の比丘)」ということについて、一方では批判し、他方で賞賛していることになる。どうして同一の経典の文中において、まったく矛盾した二律背反の主張がなされているという過失があろうか。(仏陀がそのような過失を犯すはずがないであろうに。)
答えよう。あなたの主張には誤りがある。『涅槃経』などの経典は、仮に「正法の世」における破戒僧を禁じたものである。像法・末法の比丘について説かれたものではない。(比丘という)その名称は同じであっても、時代によって(その在り方には)異なりがあるのだ。その時代・時流に適合するように禁止されたり許可されたりするのが、釈尊のご趣旨である。よって釈尊のお言葉に、二律背反の過失あるものなどない。
聞こう。もしそうであれば、一体どうして『涅槃経』などの経典が、ただ正法の世における破戒の僧のみに限って禁じ罰しているのであって、像法・末法の世の比丘については除外されるなどと知り得るのか。
答えよう。私が引用した『大集経』所説の、八段階のまことに尊き無上の宝というものが、その証左・根拠である。それらすべてが、その時代に応じた無上の宝である。ただ正法の時代では、破戒の比丘の存在は、(戒律を厳格に保って生活しているところの)清浄なるサンガの秩序を乱すものであるから、仏陀は厳に(重大な破戒行為をした比丘を追放・還俗させるなどして)禁じてサンガの成員とすることは無かったのである。
このように言える根拠は、『涅槃経』第三にこうあるからだ。「如来はいま無上の正法を、諸々の王・大臣・宰相・比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷に、教え授けた。これら(仏陀から親しく説法を受けた)諸々の国王・大臣や(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷という)四部の者たちは、諸々の学道の人に(仏陀の教えを)説き勧めて、大いなる瞑想と持戒と智慧とを獲得させよ。もしこれら(瞑想と持戒と智慧との)三品[さんぼん]の教えを学び実行することなく怠け、非道徳の行いをなし、仏陀の正しい教えを誹謗・中傷する者があれば、王者や大臣、四部の者たちよ、(そのような者らを)ねんごろにその行いを改めさせよ。このような王者や大臣などは、計り知れない功徳を得て、少しの過失などもないであろう。私(釈尊)が死去した後には、仏教が広まった土地土地で、持戒の比丘があり、正法を守り伝え、(比丘の中で)私の教えを歪めさせる者があれば、ただちに追放や別住させたり、厳しく咎めて罰したり許したりするであろう。このような者こそが私の弟子、まことの「教えを聞く者」である。かく知るべきである、このような人は福徳を得ることが計り知れないと。もし持戒の比丘がありながら、私の教えを歪める者を見ても、これを放置し、厳しく咎めもせず、追放などにも処せず、その罪を告発もせずにおく者があれば、それをこのように認識しなさい。その者は仏法における仇(獅子身中の虫)であると」と。 
また『大集経』の巻二十八にこのようにある。「もし国王が、私の教えが衰滅していくのを見ていながら、放置して保護・援助することがなければ、計り知れない未来世において、(その国王が)布施や持戒・智慧など(修行して善行を)行ったとしても、国内では三種の不祥事が起こり、死して後には大地獄に生まれ変わる」と。また『大集経』の巻三十一にはこうある。「仏陀が説かれるには、「大王は(私の教えのままに修行する)持戒の比丘がただ一人であってもこれを擁護・後援して、数え切れないほどのその他大勢の悪比丘を支えてはならない。私は今、ただ二種の(境地に至った)人のみが(大王から)支持・後援されることを許そう。一つは阿羅漢であり、彼は(四禅八定などと言われる)八段階の瞑想の境地すべてを獲得して悟りに至った者である。二つには(預流などとも言われる、小乗の第一段階の)聖者の境地に至った者である」などと。
この様な(破戒の比丘を罰して許さない)禁則は、(経典の中で)そこかしこ数多く説かれている。(しかし、)それらすべては正法の世における明確な禁則であって、像法・末法に通用する仏の教えではない。この様に言い得る根拠は、像法・末法の世では、正法が実行されることもなく、(仏陀の教えを誹謗しようにも)誹謗し得る「教え」すら存在しないのである。(そんなことであるから、末法の世に破戒・無戒の比丘があったとしても)どうしてそれを「毀法(仏法を誹謗し歪める者)」などと名付けることが出来ようか。(戒律を破ろうにも戒律自体が伝わってないのであるから)破り得る戒律もないのだ。(正法の世では破戒・無戒などと言われる比丘があったとしても)誰がこれを「破戒(の比丘)」などと呼ぶことが出来るのか。またその時代の大王は、守護すべき「教え」が無いのである。どのような行いによって国に三つの災いが起こり、あるいは大王の布施・持戒・智慧という善行を帳消しにしてしまうというのか。(像法・末法では、そのような悪果をもたらしうる原因すらも無いのだ。)また像法・末法の時代では、修行して悟りや聖者の境地に至る者など存在しない。どうやって(王は、『大集経』で説かれているような)二種の聖者を守護・後援しえるというのか。この様なことからこう結論できる。上に挙げた経典の所説は、すべて正法の世における、「持戒」ということが可能な時代、「破戒」ということが可能な時代についてのみ説かれたものであると。
次に像法の一千年間における、はじめの五百年間は、持戒の比丘が次第に減少し、破戒の比丘が次第に増加していく。戒の伝統とその授受、持戒の比丘があったとしても、悟りや聖者の境地に至ることは出来ないのだ。
よって『涅槃経』の巻七に説かれている。「迦葉菩薩が、釈尊に語って言うには、「世尊よ、あなたが説かれたように、「魔」というものには(五蘊魔[ごうんま]・煩悩魔・死魔・天魔という)四種あります。(その中でも)天魔の説く教えと仏陀の説かれた教えとを、私はいかにして見分ければ良いでしょうか。あらゆる生き物の中では、天魔の教えに従う者もあれば、仏陀の教えに従う者もあります。この様な者たちも、またどのように見分けられるのでしょう」。仏陀は迦葉にお答えになった。「私が死去して、七百年の後、(天魔たる)魔王波旬[パーピヤス]が次第に勢力を持つようになり、我が正法を妨げて破壊しようとするであろう。例えば(殺生を生業とする者たる)猟師が、袈裟を身にまとうようなものである。魔王波旬[パーピヤス]も、またその様なものである。比丘の姿、比丘尼の姿、優婆塞・優婆夷の姿、あるいは(小乗の聖者の階梯の第一段階)預流の聖者の姿をとって現れ、さらに阿羅漢の姿や仏陀の姿をもして現れるであろう。魔王は煩悩まみれの身でありながら、煩悩を離れた者たちの姿に化け、私の教えを滅ぼそうとするであろう。この天魔たる波旬[パーピヤスは]、私の教えを滅ぼさんとして、この様に語るであろう。「仏陀が舎衛国[サーヴァッティー]は祇園精舎[ぎおんしょうじゃ]に在ったとき、諸々の比丘に対し、奴隷や従僕、牛・羊・象・馬、および銅や鉄の鍋や釜、大小の銅盤など、所有することを許された。田を耕し苗を植えるなど農業に従事し、商品の売買など商業に従事し、(それによって得た利益で)米穀を蓄えること。このような諸々の行為や、仏陀は大いなる慈心をお持ちであるから、生きとし生けるものを憐れんで、すべて先に挙げた物品を蓄えることをも(比丘たちに)許された」と。この様なことを述べる経典や律典は、ことごとく天魔の所説である」と。
すでに(仏滅後)七百年の後、波旬[パーピヤス]の勢力が次第に旺盛になることが(経典に)説かれているのだ。よって以下のように知られるのだ。仏滅後の七百年以降の比丘は、次第に(先に挙げた)八種の律で禁じられている物を求め、所有するようになると。以上のような(律蔵で仏陀が禁じられたようなことをむしろ推奨する)妄説をなすのが、すなわち天魔の教えである。『涅槃経』などの経典の中には、(仏滅後七百年などと)明確にその年代を説いており、詳しく(その時代における比丘たちの)儀式や生活の様子を明らかにしている。(そのように数々の経典に明確にされているのであるから)これ以上疑いを持つべきではない。ここでは仮に根拠となる一文を挙げただけであるが、その他の経典の所説も『涅槃経』に同じであることを知れ。 
次に像法の時代の後半では、持戒の比丘の数は減少し、破戒の比丘の数が圧倒的多数となる。
この様なことから『涅槃経』の巻六にこのように説かれている。「仏陀は菩薩に説かれられた。「善男子よ、例えば迦羅林という、多くの(毒のある)迦羅の木が生えている林があるとする。この林の中には、ただ一本だけ違う(食べられる実のなる)樹が生えている。これを鎭頭迦[ちんずか]という。この迦羅[から]の樹と、鎭頭迦の樹との、その果実は非常によく似ていて、見分けることが出来ない。その果実が熟れる頃、ある女性が来て、それら果実をすべて拾い取った。(それら拾い取った果実の割合は)鎭頭迦の果実は一割、迦羅迦の果実は、九割であった。この女は(どれもが鎭頭迦の実であると思い、実はそれがほとんど迦羅迦の実であることを)知らずに持って帰り、市場に行ってそれらを売った。何も知らない子供が、双方の違いを見分けることが出来ずに、迦羅迦の実を買い、食べたところ死んでしまった。智慧ある者が、この事を知って、実を売った女に問いただした。「おまえはこの実をどこから、採ってきたのか」と。そこで女は、その場所を答えた。するとこれを聞いた人々は言った。「その辺りには、数え切れない多くの迦羅迦の樹が生えていて、ただ一本だけ鎭頭迦の樹が生えているだけだ」と。人々は(女が採ってきた実がほとんど迦羅迦の実であることを)知って、(女の無知を)笑って(女の採ってきた実をすべて)捨てさせたようなものである。善男子よ、サンガの中で、八不浄の物を蓄えることについても、これと同じことが言えるのである。サンガの中で、多くの者が先に挙げたような八種の律で禁じた物を蓄えているとしよう。しかしただ一人だけ厳格に戒律を守る比丘があって、そのような八種の律に違反する物を受領せず所有しない。(彼は)よく多くの比丘たちが戒律に違反する物を所有していることを知っており、しかしそれでも(彼ら非法の比丘たちと)比丘としての生活・行動を同じくして、サンガから離れることはない。(その持戒の比丘は)先に述べた(有毒の樹の生い茂る)林中にわずか一本ばかり生える(無毒で食べられる)鎭頭迦樹のようなものであろう」と」。
また『十輪経』にはこうある。「もし私の教えに従って、出家したにも関わらず悪行を行う者はあったとしよう。沙門でもないのに、自身をして沙門であると自称し、また(すべての性行為を離れる)梵行を行ってもないのに、梵行を修めていると自称する。この様な比丘でも、よく全ての天龍・夜叉に、あらゆる善法の功徳・地中に秘められた宝(に喩えられる教え)を掘り起こして、生ける者の導師となるであろう。小欲知足ではなくとも、ヒゲと髪を剃り、衣をまとう。この様な行為こそが起因となって(ヒゲ・髪を剃って衣をまとっただけの者でも)、よく生きとし生ける者をして、善なる行為をさらに行わせ、多くの神々や人々を、善なる道へと導くのである。および破戒の比丘で、これが死んだとしても、戒(をたとえ破ってはいても「戒を受けたという行為」)の余勢は、まるで牛黄[ごおう]のようなものである。牛が死んだとしても、人は(牛黄という有用で貴重なものが採れるから)これを重用するのだ。あるいは麝香鹿[じゃこうじか]が死んだ後でも(彼から採れた麝香が)有用であるようなものだ」と。
すでに迦羅林の中に、一本だけ鎭頭迦樹があるという喩えを見た。これは像法という時代の流れも衰え、破戒の比丘が世に満ちて、わずか一人二人の持戒の比丘が残っているようなものだと(『涅槃経』で)譬えられている。また破戒の比丘は、たとえば(僧侶として)死人(のようなもの)であっても、麝香が(それが採れる麝香鹿が)死んだとしても有用なものであると(『十輪経』で)譬えられている。死んだ(とされるに等しい状態になったとしても)後も有用であったならば、生きとし生けるものの導師と言えるのだ。(このようなことから)明確に知られるだろう。この(以上に挙げた喩えが適合する)時代では次第に破戒の比丘を世に福徳をもたらす聖者とするという説が、先に挙げた『大集経』の説と同じであることが。 
次の像法の世が去った後には、まったく戒律の伝統は滅び去る。仏陀は(その教えが像法・末法と衰退・滅亡の道を辿るという、いかんともしがたい)時運を知られていたので、末法の人々を導かんとして、(末法の世における)形ばかり名ばかりの僧侶を賞賛され、世に福徳をもたらす聖者とされたのである。
また『大集経』の巻五十二にこうある。「もし後の末世において、私の教えに従う者で、ヒゲと髪を剃り、身に袈裟をまとうだけの形ばかり名ばかりの比丘に対して、もし後援する者があって、信心して布施すれば、はかりしれないほど大きな福を得るだろう」と。
また『賢愚経[けんぐきょう]』にはこうある。「もし仏教を信じ支援する者が、将来、仏陀の教えがまさに滅亡しようとしている時代、たとえ比丘が、妻をめとって子をもうけていたとしても、四人以上の(そのような)形ばかり名ばかりの僧侶たち(似非サンガ)を、尊敬して恭しく思うことは、(仏陀直々の高弟たる)舎利弗[サーリープッタ]尊者や、大目連[マハーモッガーラーナ]尊者を見るのに等しくあるべきだ」と。
また『大集経』にはこうある。「もし破戒・無戒の身であるにもかかわらず袈裟をまとって僧侶然とする者を打ち罵る罪は、万億の仏陀のお体を傷つけて流血させるに等しい。もし人あって、私の教えのために、ヒゲと髪を剃り、袈裟を身にまとったとしよう。(彼が)たとえ戒を受けて持つことがなくても、そのような者らは皆、涅槃を象徴して顕現するものである。この様な者はさらに諸々の人々や神々のために、涅槃へと至る道を示すのだ。この様な者は(仏陀・仏法・僧伽という)三宝に対して、心に畏敬・信仰の念を生じ、すべての九十五種の仏教外の思想・宗教(の思想家・宗教家)に勝る。この様な者は必ず速やかに至高の悟りを得て、あらゆる在家の俗人に勝るのだ。ただし在家信者で(あらゆる困苦・誹謗・中傷・迫害などに)忍び耐える徳を獲得した者には及ばない。このようなことから、破戒の比丘であっても神や人は尊敬して支援すべきである」と。
また『大悲経』にはこうある。「仏陀は阿難[アーナンダ]におっしゃられた。「私が滅度した後の末世において、私の教えが滅びようとしているとき、比丘や比丘尼は、私の教えを信奉する者として、出家したにもかかわらず、手に子供の腕をとって、一緒にそこかしこへと経巡り歩き、酒屋から酒屋へと渡り歩き、私の教えの信奉者でありながら、(性行為をなすなど)不浄な行いをなすことがあろう。(しかしながら)彼らに酒による過失・罪などがあったとしても、この現在の宇宙が存続する時間の中で、皆が完全なる悟りに得るに至るであろう。この現在の宇宙が存続する時間の間には、一千の仏陀が世に出るであろう。私(釈迦仏)は第四番目の仏陀である。次は弥勒[マイトリー]が、私の次の仏陀として世に出るであろう。そして最後に世に出るのは廬遮那[ヴァイローチャナ]如来である。そのような順序で次々と仏陀が世に現れるのだ。あなたは、このように知らなければならない。阿難よ、私の教えを信奉する者で、具足戒(二百五十戒)を受けて沙門(比丘)となった者でありながら、沙門としての行いをせず(比丘としての資格を失い)、しかしみずからを沙門と称する、外見は沙門のようにヒゲと髪を剃っており、袈裟をまとう者があるだろう。この現在の宇宙が存続する時間の中で、弥勒を上首とし、さらには廬遮那如来を上首として、形ばかり名ばかりの諸々の沙門は、次々に現れる仏陀が、その生涯を終えて滅度されるとき、次第に悟りを得て、一人として悟り残すことはない。その所以[ゆえん]は、形ばかり名ばかりの全ての沙門の中で、一度でも仏陀の御名を唱え、一度でも信仰心を生じさせた者の、その功徳は、決して虚しいモノとはならないからだ。(このように言うのは)私が仏陀としての智慧をもって、全世界を知り抜いているからである」と」と。
『維摩経[ゆいまぎょう]』にはこうある。「仏陀の(「如来・応供[おうぐ]・正遍知[しょうへんち]・明行足[みょうぎょうそく]・善逝[ぜんせい]・世間解[せけんげ]・無上士[むじょうし]・調御丈夫[ちょうごじょうぶ]・天人師[てんにんじ]・仏世尊[ぶつせそん]」という十の異称・敬称である)十号の中で、初めの三つを聞くことの功徳について、仏陀がもし詳細に説かれたとしたら、億万年以上の時を経ても語り尽くせないであろう」と。 
(今までに挙げた)これら諸々の経典では、すべて(それが仏滅後、幾年を経ての事であるかの)年代を特定して、(像法・末法という)未来に現れる形ばかり名ばかりの比丘を、世の導師としている。もし正法の時代の(サンガや比丘についての)禁則・規定事項をもって、末法の時代の形ばかり名ばかりのサンガや比丘について規制しようすれば、教えと時機とがそぐわず、人と規則とが噛み合わないであろう。このようなことから律にこう説かれているのである。「仏陀が規制されなかったことを(後代の比丘たちが)規制すれば、その規制が(仏陀がお備えになっている宿命[しゅくみょう]明・天眼[てんげん]明・漏尽[ろじん]明という)三つの智慧によってお説きになられたことを断絶させるであろう」と。これがどうして罪でないことがあろうか。
以上経典を引用して論拠としてきた。後は「教え」(宗派の教義?)と照らし合わしてみれば、末法の世に至れば(真理からして)必然的に正法が損なわれ滅するのである。(人の行為を三種に分類した身体と言葉と心との)三業は善悪のどちらでもなくなり、(行住坐臥の)四威儀は乱れるであろう。
たとえば『像法決疑経』にこう説かれている通りである。「もしある人があって、仏塔や寺院を造営し、三宝を供養したとしても、しかしその心には敬意はない。僧侶に接待すると約束して寺院におりながら、飲食や衣服・湯・薬を供養しない。むしろ逆に(僧侶に)せがんで、僧侶のために用意された食事をむさぼり喰らう。出自の貴賤を問わず、もっぱらサンガに対して、不利益な行為をなし、侵害して秩序を乱そうとする。このような者は、永く(地獄・餓鬼・畜生という苦しみ多大なる境涯たる)三途の世界いずれかに生まれ変わってそれ以外の境涯には生まれ変われないであろう」と。
いま世俗の社会を見てみると、さかんに『像法決疑経』に説かれているような事が行われている。これは時勢として仕方のないことである。人に過失があってこのような事態になっているのではない。(在俗の信者で寺院や僧侶などに経済的支援をする)施主にもすでに施主としての(本来持つべきであろう)信仰などないのだ。誰が僧侶に僧侶としての行業が欠落していることを非難できるというのか。(在家の人々も悪いのであるから、出家者が悪かったとしても非難する資格などないのだ。)
また『遺教経』にこう説かれている。「(比丘が)一日でも車や馬に乗って移動することがあったならば、五百日間は在家信者から食事の招待を受けてはならない」と。現在の僧侶の惨憺たる状況で、どうして持戒してその徳を表すことが出来るというのか。(出来るはずもないのである。)
また『法行経』にはこうある。「私の出家の弟子ありながら、もし在家信者から指名されての食事の招待を受けた者は、国王の領地を移動してはならない。国王の領地に湧き出る水を飲んではならない。五百の大鬼が、常にその行く手を遮り、五千の大鬼が、常に後ろにあって「仏法の大賊」と罵るであろう」と。 
『鹿子母経[ろくしもきょう]』にはこうある。「五百人という阿羅漢達を(それぞれ指名して食事に招待する)別請[べっしょう]したとしても、これは福徳を生じる善行とは言えない。もし一人でも(指名することなく食事の招待をしてやって来た)僧侶としての行業を全く備えない似非比丘に食事を接待したとしたら、計り知れない功徳となる」と。
現代の僧侶たちは、すでに(在家信者から指名されての食事の招待である)別請されることを望んでいる。(福田たる僧侶たちがこのようであるから在家信者は)どうやって功徳を積もうというのか。持戒の比丘が、どうしてそのような振る舞いをするであろうか。(持戒の比丘であれば、別請を好むなどということはあってはならないであろうに。)(『法行経』に説かれるように、別請を受けた者は)国王の領土を行けず、また国王の領土に湧き出る水を飲むことも許されず、五千の大鬼から、大賊だと罵られるであろう。嗚呼、(別請を望む過失ある)「持戒の比丘達」は、どうやってその過ちを改めるというのか。
また『仁王経[にんのうきょう]』にはこうある。「もし私の弟子で、国家によって使役される者は、皆わたしの弟子などでは無い。(国家が)大小の(サンガや僧侶たちを管理する為の機関である)僧統[そうとう]を設けて、監視・管理する、という様な時代が来れば、仏法は滅亡するであろう。国家が仏教を管理・監視することは仏法を滅亡させ、国を滅ぼさせる原因となる」と。
『仁王経』などの所説から推察すると、サンガを監視・管理する機関の存在を容認して、その管理下に甘んじることは、サンガを分裂させる卑しい行為である。あの『大集経』などには、無戒の僧侶を名付けて、世を救う宝としているのだ。どうして国を食い尽くすイナゴを保護して、むしろ家を守る宝を捨てるというのか。
是非とも持戒・破戒などと僧侶を二類にわけず、たがいに仏法という美味を食して、比丘・比丘尼の伝統を滅ぼさず、寺院の時を告げる鐘の音を絶やしてはならない。であるから末法における仏の教え(破戒・無戒の比丘を虐げることなく信仰して後援すること)は、国を安泰にさせる道としてそぐうものとなるのだ。 
 
末法燈明記について 3

はじめに
末法燈明記はその研究史の中で、本書が全体として何を主張するものであつたかという点に於いて、次の様な二つの評価がある。家永三郎氏は、本書一篇の目的は「破戒無戒に対する政治的圧迫解除の要求に終始する」ものであると指摘した。鶴岡静夫氏は「燈明記は末法思想を深刻に身に感じ、それによつて社会生活を律していこう」とする目的で述作されたものとする。この様な二つの評価が、本書に関するこれまでの代表的な見解であると思う。末法燈明記に関しては、長い真偽論争の研究史がある。小稿では、とくに本書が最も中心の主題として主張するものは何であるかという点に留意しつつ、できれば、その成立の状況まで推定してみたい。
家永氏は、本書がその宗教的価値の承認要求を主眼としていない、と指摘した。この点は、その後の本書の研究に於いてあまり重視されずに経過した。末法燈明記が日本仏教界に与えた影響を考える時、本書の日本仏教界での援引のあり方と、右の家永氏の指摘とのずれは重要な問題と考える。以下、如上の点に留意しつつ本書の主題の分析から述べる。

伝教大師全集に載録されている末法燈明記を史料として本書の構成をみると、大きく分けて三部に大別できると考えられる。今それを、序文、本論、結語と便宜的に区別して梗概を述べたい。
〔序文〕部分では、本書作成の動機と内容について述べる。
仏教を正像末の三時から説明するために次の設問をする。一三時について、口その各時の内容として破戒、持戒の僧についで論じ、国最後に、教をあげて各時を比較する、と述べる。
〔本論〕では、序文に述べた順序で正像末の三時の諸説から説明する。この〔本論〕にあたる部分は、問答形式で記述され〔序文〕の設問一に二間、すなはち、正像一千五百年間の行事と、今の世はいずれの時であるか、と設問して答えて行く。〔序文〕の設問(二) の破戒・無戒の内容について四間を掲げる。解答以外に三点補足して、像法前半五百年、後半五百年、像季の後の名字僧の存在について述べる。〔序文〕の設問国には、教を列挙して正像末の状況を比較して、その三時の特色を説明する。しかるのちに末法について指摘して、現実の社会と対比して言及する。
〔結語〕では、僧統の存在を認めながら、一方で、無戒の比丘も済世の宝であるから、区別せずに世の福田として認めるべきである、とする。それが国を支える道理であり、末法の仏教も役立つものである、と結ぶ。
右の様な構成と論旨をもつ本書は、比較的短篇に属するものである。しかし、その短篇の中に経典や他の書物が多数引用されている。それを任意に分類すると、経典等その他の書籍名を入れて、十四の名前がみられる。それは、直接引用二十一ヶ所、その他、取意六経七回、例証四経六回を数えることができる。このように、本書の大部分が引用経典によつて占められている。主たる引用経典は、浬繋経四回、大集経八回である。次に引用経典等の間に記される作者自身の筆になると考えられる短い語句の特色について考察する。
(イ) 愛愚僧等。率二容天網殉傭二仰厳科殉未レ邊二寧処殉(ロ) 故知。今時是像法最末時也。彼時行事既同二末法殉然則。於二末法中殉但有三言教殉而無二行証殉若有二戒法殉可レ有二破戒殉既無二戒法殉由レ破二何戒幻而有二破戒一。破戒尚無。何況持戒。(ハ) 像季末法。不レ行二正法一。無二法可ワ殿。何名二殿法幻無二戒可ワ破。誰名二破戒一。(ニ) 今見二俗間幻盛行二此事幻時運自爾。非二人故爾幻檀越既無二檀越志司誰得レ誹三僧無二僧行鱒(ホ) 推二仁王等殉拝二僧統↓以為二破僧之俗殉彼大集等。称二無戒殉以為二済世之宝而量留二破国之蛙殉還奔二保家之宝綿須下不レ分二二類叩共喰二一味殉僧尼不レ絶レ跡。鳴鐘不占失レ時。然乃允二末法之教。令レ有レ国之道殉
右に引用した五ヶ所は、末法燈明記の筆者の手になる文章と考えられる。通読して行くと、今の時、像末にイ「傭二仰厳科一」した愚僧等は、「未レ邊二寧処一」と述べる。これは、何かの処断を受けたと想定しなければならない。そのような厳科が何を意味するものであるか。それを考えるには、ハ「誰名二破戒一」、(ニ「誰得レ誹三僧無二僧行こと述べる「誰」という存在が問題であると思う。そこで(ニ) の「檀越」についての言及をみると、今の檀越にその志として檀越たるものがいない点を指摘する。筆者は、この「誰」という対象を腕曲にではあるが檀越と総称することによつて彼らのあり方を非難している。一方では、(ロ)にみられる様に、像季末法には破戒ということがないのであるから、像季末法の僧尼の行事を正法の制文で非難してはならないと主張することによつて、僧尼の弁護をなしている。
末法燈明記一巻を右の様に理解することが許されるならば、執筆の動機は次の様に考えられる。何かある厳しい取り締まりに遭遇した筆者が、出拠を示しながら、末法の無戒名字の比丘でも世の福田とされ、真宝として供養を受けるべ'きである。しかるに、現在の僧徒に対する厳しい要求はどうしたことであるのか、非難する檀越も、その檀越たる務めをはたしていない。しかし、それは、現在が像季の末にあたる時代ということを考えれば、いたしかたのないことである。この様に「誰」を対象として、注意をうながすのが執筆の目的ではなかつたか。換言するならば、本書の論理は、像法の最末の時という時点に立脚しながら、末法の無戒名字僧を例に出すことによつて、像法最末の僧の立場をそれに準ずるという説明で正当化して行くという面に、その主題があると考えられる。

末法燈明記は、本文中に末法年時の計算法として二説を示す。しかしその計算の基準として、延暦二十年辛巳(八〇一年)を明記する。そこで従来の真撰説に於いては、この延暦年間の仏教事情と本書の関係を指摘することで論旨が展開された。この方法は、偽撰論者からは、時代のあとの者がさかのぼつて延暦の状況に符合させて本書を執筆することが可能であると反論を受けた。そこで私は、手続きとして延暦年間の仏教統制の推移と、延暦二十年前後に於ける最澄の活動とをそれぞれ別個に考察して、先述の末法燈明記の主題との関係を考えてみた。
桓武朝の仏教に対する施策は、厳しい統制が実行されたことがその特色であろう。しかし、延暦年間二十五年間を通じてみるならば、後半に至つて仏教統制のあり方に若干の変化がみられる。それは、延暦二十一年からは、仏教界に対する勅に、施物や善宿優遇策などの新しい統制方針が出されたことである。私は、その原因を延暦二十年の坂上田村麻呂による東国経略の成功などの要素に加えて、別に何か、仏教界からの対応があつたのではあるまいかと仮定してみた。
最澄は、この延暦二十年前後にはどの様な活動をもていたか。薗田香融氏は「延暦二十年における最澄」についての詳しい研究を発表された。最澄の行動で注目させられることは、延暦二十年十一月、比叡山一乗止観院に南都の十大徳を招いて、法華経を講じたことである。二十一年九月七日には、最澄の入唐の問題が生じて、二十二年四月には最初の出帆をしている。時間的には、二十年の十一月から二十一年の九月頃までの最澄は、自由に活動をすることができたであろう。最澄の年齢は、この頃三十五・六歳である。右の延暦二十年十一月の叡山に於ける南都の学匠との接触は、「平城旧都。元来多レ寺。僧尼狸多。濫行屡聞。L と勅に記され、検察を受ける南都の仏教界の実際の状況を直接聞く機会を得たであろう。延暦の初期、願文を作つて入山した最澄は、平城の諸大寺の仏教界の様子は知つていたはずである。それ故に、執拗な政府の仏教統制に対して無関心であつたとは考えられない。とくに、延暦十九年に至つて、実際に還俗者がみられたということは、やはり仏教界に大きな衝撃を与えたであろう。
この様な経過を知る時、必ずしも十分な史料的裏づけをもつてはいないが私は次の如き憶測を述べてみたい。南都の大徳から最近の教界取り締まりの状況を聞いた最澄が末法の無戒名字僧の存在を典拠として、像季末法の僧尼の破戒もやむなしとする『末法燈明記』を世に公表した、その結果として、政府の仏教政策が二十一年に至つて若干変化するひとつの要因になつたのではないかと。それ故に、執筆の動機と年時は、延暦二十年の十一月以後そう遅くない時に求めたい。
結びにかえて
多くのすぐれた偽撰論を前にして、敢えて以上の様な素朴な一試論を述べることは、末法澄明記一巻の存在と、その真偽論争の結果が日本仏教史に於いて重要な位置を占めるという認識にもとついている。本書の研究史には、引田経典、戒律観、末法年時算出法など色々な論点が存在する。本小稿は、末法燈明記の主題として主張する点と、延暦年間の仏教統制の変化と、最澄の執筆の可能性を、それぞれの問題として考察した。その結果として、最澄の述作の可能性を認め、その時期を延暦二十年十一月以後そう遅くない時点に求めた。その執筆の動機を、南都の十大徳からの教界統制の状況の聴取によるものではないかと考えたわけである。
以上は、十分な史料的裏づけのないままに、諸先学の論稿に啓発されて記したものである。忌悸なき御叱正を賜わらんことを願うものである。   (一九七五年八月末日稿)  
 

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