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【油を売る】江戸時代の油商人は、天秤棒で油桶を担ぎ小さな柄杓で油の量を量って売っていた。柄杓で油を移す時、油が粘って長く尾を引くのでなかなか油が切れない、そこで世間話をして油が切れるのを待った。このことから用事の途中で無駄な話をして過ごすことを表した。 
【天ぷら】江戸時代の洒落本作家の山東京伝が名付け親という説、大阪から魚のつけ揚げを売りに東京にきた男に「天麩羅」と看板を書いた。京伝曰く「天竺(てんじく)浪人がふらりと江戸に来て売るから天ふら、そして麩は小麦粉、羅はうすい衣である」。 
ポルトガル語の「料理」というtempero、中国語の搭不刺(とうふら)を語源とするといった諸説あり。 
【隠元和尚】中国僧の隠元は禅宗黄檗宗(おうばくしゅう)の開祖として有名だが、油料理の名人でもあった。足利時代に黄檗宗を広めると同時に、油を使った普茶料理も広めた、揚げ豆腐、昆布の油揚げ、飛龍頭などはこの時代がルーツ。
 
天麩羅

 

現在、「天麩羅」と漢字で表記する人は少ないだろうが、これを「てんぷら」と読めない人は少なく、テンプラ・temporaなどの横文字表記があまり似合わない代表的な日本料理となっている。元来揚げ物全般は海外から伝播したものであり、天ぷらもその例に漏れない外来品から派生したものである。よく食べているポピュラーな食品の割には、その歴史や変移がはっきりしておらず、現在の姿に近かったのかどうかもイマイチ分からないので歴史を紹介し難いのだが、諸説に通じるよう広い観点から「天ぷら」へと絞ってゆこうと思う。  
揚物料理のルーツ  
まず日本の揚物料理の歴史は古く、630年に遣唐使の渡航が始まって以来、奈良・平安期の頃、仏教・政治・文化と共に大陸(中国)から伝えられて宮中で広まった「唐菓子(からがし)」が最初ではないかとされている。これは穀物の粉を練って油で揚げたものであったと推測されており、伝来当時は宮廷行事や大寺・大社の供物として用いられ、庶民には縁遠い存在だったようだが、粉を捏ねたり、油で揚げたりする唐菓子の技術は後の饅頭や煎餅などの菓子の誕生を促したと言われている。宮中や神社仏閣の儀式に神饌菓子として用いられることで継承され、現在も下鴨神社・春日大社・祇園神社などに製法が伝わっている。  
その後、鎌倉期(13世紀頃)には禅宗の精進料理が本格的に伝わり、一般民衆にもその教えと共に普及し、精進料理から発展して茶懐石も誕生した。料理法における一番大きな変化は、油をエネルギー源として捉え、食材をゴマ油で素揚げする方法が日本で始められたことである。下味を付けた植物性の食材を主に用い、ボリュームや食感を考えて衣揚げにしたり、豆腐や葛等をうまく利用して肉類の代用としていたようだ。戦国・江戸の世の16〜17世紀には、長崎に渡来した中国人や南蛮人を通じ、小麦粉などを衣にした魚菜などの揚げ物、言わば西洋料理のフリッターに近い揚げ物料理がもたらされ、長崎を代表する料理「卓袱(しっぽく)料理」の一部として定着した。このように揚げ物は日本古来の調理法ではなく海外伝来の調理法であったが、貴重品である油を大量に使うことから庶民の口にはなかなか入らない、特別な料理であった。  
天ぷらの誕生  
江戸中期、物流が盛んになって各地の食材が江戸に集まるようになると、握り寿司や蕎麦、うなぎなどと共に揚げ物料理が江戸の町に定着していったと考えられている。特に安永年間(1772〜1781年)には江戸前の新鮮な魚を提供し始め、江戸湾(東京の内湾)で獲れた魚(白キス、メゴチ、穴子、車子、車海老等)を純正胡麻油で揚げた天ぷらが作られていたそうだが、ほぼ現在の天ぷらに近い形として完成していたと考えられている。天明年間(1781〜1789年)の頃に多くの屋台が庶民の味として生まれた頃、人通りの多い市中に常設の天ぷら屋台が増え始めたといわれている。屋台の中でもそば,すしと並んで人気が高く,江戸の三味と呼ばれたのが,天ぷらであるしかし上方では「つけ揚」、江戸では「胡麻揚」などと当時一般的には呼ばれており、庶民の間では「天ぷら」という呼び名が普及していなかったという。天ぷらはどこからきた名前であろうか。  
天ぷらの名前の由来  
安土桃山時代、来日したスペイン人やポルトガル人が菓子でも料理でも衣を付けたものを「テンペラ」と呼んでいたのが始まりだと一般には言われており、ポルトガル語で「調理」を意味するテンポラが訛ったものだという。他に16世紀、キリシタン(キリスト教カトリック)宣教師によって伝えられた南蛮料理の一種であるとの説もある。キリスト教では金曜日の祭(キリストが処刑された日にちなむ)の行事を「テンポラ(天上の日の意味)」といい、この日には鳥・獣の肉は禁じられ、精進料理として魚の揚物を食す習慣があった。そこでこの日に食べる魚料理のことを「テンプラ」と言うようになり、それが日本にも伝わったという説もある。いずれにしても外来語だが、要するに油で揚げた料理を指すことには変わりがない。  
一方「天麩羅」という漢字の表記は、天保7年(1836年)ごろ鈴木牧之によって編纂された「北越雪譜」によると、天麩羅という漢字表記が生まれたのは江戸後期〜幕末のことで、当時、戯曲作家として著名だった山東京伝(さんとうきょうでん)が、上方(関西)から芸妓と駆け落ちしてきた浪人風の男が江戸で開店するにあたり、この漢字表記を与えたという。「大阪には魚を油で揚げた「つけあげ」というものがあるが江戸では見当たらないので夜店でこれをやってみたい。ついては、「魚の油揚げ」ではおもしろくないので、何か効果的な名前をつけてほしい」と依頼された京伝は、どこから来たとも知れぬ男(駆け落ちした者)だから天竺浪人だ、というところから「天」、「麩」は衣の小麦粉、「羅」は衣が羅(うすぎぬ)のようなところから「天麩羅」とシャレで付けたという。京伝はもちろん以前から「テンプラ」の名前を知っており、ふざけて名前を付けた話が面白いと評判になって世間に広まり、現在にも伝わったという。  
屋台の天ぷら  
天麩羅の名前の由来の真偽のほどは不明だが、江戸前の魚をふんだんに使って一個4文から6文(今日の感覚で一個数10円程度)という安直な値段で売ったこともあって、天ぷら屋台は大変な人気を博したという。屋台の中でも蕎麦・寿司と並んで人気が高く、江戸の三味と呼ばれたそうである。江戸で天ぷらが屋台料理として定着した直接の理由は、町人が住む長屋が密集し火事の多い江戸では、油を高温に熟する天ぷらの屋内営業が禁止されたためだとされる。結果的には気軽に立ち寄れる屋台の天ぷらというような、江戸独特の風物を花開かせることとなった。また、蕎麦や寿司と比べて味覚が濃厚で腹持ちも良く、当時としては最もカロリーの高い食品であったろう。「守貞謾稿」によれば、アナゴ、芝エビ、コハダ、貝柱、スルメなどを水でゆるく溶いた小麦粉に浸けて揚げたものを天麩羅といい、野菜を揚げたものは「天麩羅」とは言わずに単に「揚げ物」と称したらしい。  
高級天ぷら  
こうして庶民の味として人気の出た天ぷら屋台であったが、時代が下るとともに高級化が進み、江戸末期の嘉永年間(1846〜1852年)から安政期(1854〜1859年)の頃には店を構える天ぷら屋が誕生し、本格的な料理屋として「お座敷天麩羅」が登場したり、料亭でも提供されるようになったという。屋内での天ぷらを禁じる法令は続いていたが、無論儲け優先であり幕府の禁令は無視された。これらの高級天ぷらには、種の魚や油に高級品を用いて差別化を図ったり、「金麩羅」「銀麩羅」「珍麩羅」などと店の看板に書き、客の目を引く工夫がなされたという。当時としては贅沢品であった卵や油を使って黄金色に揚げたものが「金麩羅」、卵の白身だけを衣に使ったものが「銀麩羅」と名付けられていたらしい。また、江戸と関西では使用する油にも違いがあり、関西では軽い菜種油が全盛であったのに対し、江戸ではごま油の濃い香りとコクが好まれて、「天麩羅」ではなく「ごま揚げ」と呼ばれていた。  
各地の天ぷら  
大正12年(1922年)に関東大震災が起きると、東京の天麩羅屋台の閉店が相次ぎ、失職した職人と共に江戸前の天麩羅が各地に移っていった。さらに後、東京の町の復興が進むと関西の料理店が東京に進出して来て、関西風のあっさりと揚げる天麩羅店や、魚介類だけでなく野菜を揚げる店も多くなった。一方、関西以西では今日でも魚のすり身(ハンペン状のもの)を揚げたものを「てんぷら」と言い、衣をつけて揚げた「天ぷら」とは明らかに異なる食品が存在するが、これは南蛮料理の一種であった「天麩羅」が我が国で料理として受け入れられて定着していった過程の一面を物語るものではないかと思われる。もともと我が国には、鳥や魚の身を骨ごと叩き割って料理する「骨かまぼこ」と呼ばれるものが古くからあったが、この古代料理に南蛮料理の「油で揚げる」手法が融合し、琉球では「チキアーギ」が生まれ、鹿児島では「つけあげ(チキアーギがなまった)」、すなわち「さつま揚げ」となり、次いで南伊予で代表される「てんぷら」として今日まで存在する料理となったのではないかと考えられる。高度成長期以後、油の精製技術の進歩や冷凍技術の発達、上手に揚げるインスタントノウハウの徹底などによって、かつての「下手な食べ物」としての天ぷらは姿を消し、飲食店のみならず各家庭にも広まっていった。昨今の健康志向の強まりで、栄養バランスがよくヘルシーな天ぷらは、外食はもとより手軽な家庭料理として食卓に欠かせない存在となっている。  
 
油を使っている分カロリーが高いはずなので、ヘルシーの度合からするとそれほど優良ではない気がするのだが、だからこそ天ぷらは美味しいように思う。最近では水で溶いた小麦粉をまぶして油で揚げたものなら何でも天ぷらと称されるので、アイスの天ぷらまで存在する。天ぷらが表面の衣と中身が違うことにシャレをかけ、俗に比喩として「鍍金(メッキ)物」「ニセモノ」、見掛け倒しの意味にも使われているが、中まで衣だったら、ただの特大テンカスである。なぜ悪い意味に用いられるのか疑問である。  
天ぷらにまつわる有名人としては徳川家康がいる。彼の死因は諸説あるが、タイの天麩羅(胡麻揚)による食中毒で死亡したという説がある。天ぷらを食べたのが1月21日の夕食で、亡くなったのは4月17日だというので、食中毒にしては日数がかかり過ぎており、諸症状から見ても胃癌か何かだったのではないかというのが一般的である。享年75歳というから、年齢からして油っこい食品は受けつけない気がするのだが、その晩はいつもより食がすすんだという。最期ぐらい好きなものを食べて死ねたら本望である。死因は何であれ、家康は死ぬ前においしい天ぷらを食べることができて幸せだったように思える。 
 
植物油

 

大豆油 大豆(油分16-22%)食用油の中で大変ポピュラーな油で、油切れがよく特有のうまみを持っている。サラダ油は大豆サラダ油と菜種サラダ油を調合したものが主流。マーガリンの原料としても使われる。 
菜種油 あぶら菜の種子(油分38-45%)風味は淡白で酸化しにくく熱に強い油。サラダ油は菜種サラダ油と大豆サラダ油を調合したものが主流。 
べに花油 べに花の種子(油分25-40%)サフラワー油とも呼ばれる。リノール酸の含有量が73-79%のハイリノール原料とオレイン酸の含有量が75-79%のハイオレイン原料がある。どちらも成人病予防に効果があると言われている。油くささがなくドレッシングやマリネなどの生食用としてよく使われる。 
コーン油 とうもろこしの胚芽(油分40-55%)酸化安定性が良く、加熱すると香ばしい独特の香りがたち香味豊かな揚げ物に仕上がる。 
綿実油 綿の種子(油分15-25%)風味とまろやかなうまみが特長。風味の安定性がよいのでサラダ油やマヨネーズの原料に使われる。 
ごま油 ごまの種子(油分45-55%)リグナンと呼ばれる天然の酸化防止成分を含んでいるので酸化しにくい油の一つ。昔から美容と健康の素といわれている。ごまの種子を焙煎してから搾っただけの茶色タイプのごま油は香ばしい風味が特長で中国料理や天ぷらなどのかおりを楽しむ料理に欠かせない。また、焙煎しないで搾り精製工程を経ていない透明タイプのごま油もある。
 
オリーブオイル オリーブの果実 オリーブの果実を搾っただけの油。特有の香りとうまみがありヨーロッパでは古来から最高級の油として尊ばれてきた。エキストラバージンオリーブオイル、オリーブオイル、エキストラライトオリーブオイルの3タイプがある。化粧品、医薬品などにも用いられる。 
やし油 ココやしの果実を乾燥させたコプラ(油分65-75%)ココナッツオイルとも呼ばれる。常温で固体という性質を活かしてマーガリン、ショートニング、製菓用油脂として使われるほか、シャンプーにも用いられる。 
パーム油 パームやしの果実(油分44-53%)常温で固体の油脂。カロチンを多く含み赤橙色をしているが、精製したものは淡色で食用としてフライ等の加工用やマーガリン、ショートニングなどに使われる。 
ひまわり油 ひまわりの種子 クセのない淡泊な風味が特長。サラダ油としてドレッシングやマリネなどの生食用によく使われる。 
こめ油 米ぬか、米の胚芽(油分12-21%)サラッとした風味が特長で、耐熱性や保存性に優れているためマヨネーズなどの原料や製菓用としても用いられる。植物油で唯一日本産。
 

 

beer ビール、大麦の麦芽を水と加熱して糖化した液にホップを加えさらに酵母を加えて発酵 
ale 英ではホップの入っていない薄口のビール 
lager beer 貯蔵ビール 
dark beer 黒ビール、焦がした麦芽やカラメル色素などを入れて作った黒褐色のビール 
draft [draught] beer 生ビール、醸造したままで加熱殺菌をしていないビール 
ginger ale ジンジャエール、生姜の香りのあるアルコール分のない清涼飲料水、ビールに似た苦みがある 
gin ジン ライ麦の蒸留酒 
gin and tonic ジントニック 
bourbon 米国産ウイスキー 
whiskey アイルランド産ウイスキー 
whisky スコットランド産ウイスキー ライ麦などに麦芽、酵母を加え発酵させ蒸留して作った酒 スコッチ
  
whisky and water 水割り 
whisky and soda/highball ハイボール(米) 
wine ワイン、葡萄酒 
white (red/rose・) wine 白(赤/ロゼ)ワイン   
vintage wine 極上のワイン 
vodka 〈ウオッカ〉小麦、ライ麦、とうもろこしなどからつくったロシア原産の蒸留酒 
rum ラム酒 蔗糖蜜を発酵させてつくる蒸留酒 西インド諸島特産 
蒸留酒 醸造酒、醸造粕、その他アルコール分を含む材料を蒸留してつくる ウイスキー、ブランデー、ラム酒、焼酎(しょうちゅう)など 
焼酎 清酒粕、味醂粕などを蒸留してつくる強い酒 穀類・甘藷・馬鈴薯などを原料にして醸造することもある 
酒 米を発酵させてつくる日本酒 上代は濁酒が主で室町時代頃から清酒もつくられるようになった現代は清酒をいう 
老酒 中国産の醸造酒の総称、もち米、あわ、きびなどが原料 Chinese (rice) wine 
紹興酒 Shaoxing [Shao-hsing] wine
 
【濁醪・濁酒】どぶろく(濁醪(だくろう)の変化か)。蒸した米に、こうじと水を加えて醸造しただけの滓(かす)をこし取らないままの白色のどろりとしたにごり酒。 
【濁醪】だくろう。にごり酒。どぶろく。 
【原酒】どぶろく。また醸造したままで他のものを混ぜていない日本酒。 
【濁酒】にごりざけ。糟(かす)をこしてない酒。もろみをこしてないか濾過しただけで滓引(おりびき)していないために白濁している酒。どぶろく。だくしゅ。にごり。 
【濁酒】だくしゅ。にごりざけ。日本酒の一種で製造原料は清酒と同じであるが、漉(こ)さないので白くにごっている。どぶろく。 
【薄濁】うすにごり。どぶろくの薄いもの。 
【酒】米を発酵させて製するアルコール分含有の飲料。日本酒。上代は濁酒が主で室町時代頃から清酒もつくられるようになった。現代は主に清酒をいう。古くから多くの異名がある、三輪(みわ)、三木(みき)、ささ、九献(くこん)、霞、三遅(みめぐり)、般若湯、硯水(けんずい)。一般にアルコール分を含有する液体飲料。合成清酒・焼酎(しょうちゅう)・みりん・ビール・果実酒類・ウイスキー類など。
  
【清酒】漉(こ)した酒。澄んだ酒。濁酒に対していう。日本酒。 
【酒類】アルコール分を含む飲み物の総称。清酒、合成清酒、しょうちゅう、みりん、ビール、果実酒類、ウイスキー類、スピリッツ類、リキュール類及び雑酒の10種類に別けられる。 
【麹黴】子嚢(しのう)菌類の一つ。菌糸は無色または多少色がある。隔壁があり、よく分枝する。菌糸の所々から、長さ約二ミリメートルで先端が球状あるいは棍棒状にふくらんだ柄を出す。先端には多数の枝が放射状につき、末端には球状の無性胞子が数珠状につく。アミラーゼなどの酵素を含み、でんぷんを糖分にかえる働きがあるので清酒、甘酒、醤油、味噌などを作るのに利用する。麹菌。麹種。
 
酒「日本酒・焼酎」

 

現在の日本ではビールをはじめ、ワイン・日本酒・焼酎・ウィスキー・ブランデーなど、さまざまな酒が出回っており、中でもビールは明治維新以降圧倒的支持を集め、その風味をまねてアルコール度を下げた発泡酒も昨今では好評である。しかし、古来より日本に存在した伝統的な日本の酒とは?と問われて即答できるだろうか。本項ではその答えに当たる伝統的な日本の酒について触れてみることにする。  
酒の起源  
まず人類が初めて酒を造った時期は明確ではないが、少なくとも7000年ほど前には既に酒造りが行われていたのではないかといわれている。我が国でも7000〜6000年ほど前の縄文時代の遺跡から酒造りに使ったとみられる土器が発見され、また、青森県の三内丸山遺跡の縄文前期の地層や秋田県の池内遺跡からもヤマブドウやニワトコの種子が大量に発見されていることから、この時代には既に果実酒が造られていたのではないかと考えられている。さらに、果実酒だけでなく、この時代には雑穀を発酵させた酒も飲まれていたようだが、糖分で自然発酵する果実酒と違い、雑穀の場合は麹によらなければ発酵しないので、麹の無かった時代は人が口中で噛み、唾液中のアミラーゼで糖化させたのではないかと推察されるという。  
酒は媚薬?  
古代人はアルコールによる酩酊状態を神の力による神秘体験と考えたために、酒は神からの授かり物又はお供え物として宗教儀式に欠かせないものであったが、日常生活からの開放感を得るために、それが少しずつ庶民の間にも広まっていったらしい。しかし、庶民が飲酒を楽しみ酩酊する様子は権力者にとっては社会風俗の乱れとも映ったらしく、7世紀中頃には日本で初めて、祭事などの場を除いて飲酒を禁ずるという禁酒令を朝廷が出している。こうした禁酒令は江戸時代まで何度も繰り返し出されているが、繰り返し出されたということは、禁を犯して飲酒する人々が絶えなかったということでもあり、断ち難い酒の魅力を指しているといえるかもしれない。鎌倉時代には、幕府は「沽酒(こしゅ=酒の売買)の禁」を出して鎌倉の民家にある酒壷を1戸につき1壷だけ残して全部打ち壊したが、その数は合計37,247壷あったということからも、自家用以外にいかに多くの酒が造られていたかがわかる話である。幕府のこうした強権発動にも拘わらず、1425年頃には洛中洛外で合計342軒の造り酒屋が営業していたという盛況ぶりであった。  
日本酒の起源  
現代の日本酒に通ずる米を使った酒造りは、紀元前2〜3世紀ごろに稲作をもたらした人たちによって伝えられたと考えられているが、当初の濁り酒を押し絞って清酒に加工する方法は平安時代であったと思われる。そのころ、宮内省の中に造酒司(さけのつかさ)という役所が設けられ、酒は民衆から離れて朝廷のために造られるようになり、平安初期に書かれた『延喜式』によれば当時の宮中には10種ほどの酒があったらしく、小麦麦芽を加えて甘味を出した酒や、麹の量を増やした甘酒のような酒、水の代わりに酒で仕込んだ酒などがあり、酒造技術もかなり進歩していたことが推察される。その後、醸造法は一段と改良され、加熱殺菌のための火入れや、蒸米、麹米のどちらにも白米を使用する諸白という製法が産み出され、江戸期の元禄ごろには現在に至る酒造りの基本が出来上がったといわれる。  
灘の酒  
こうした中で産地として著名になったのが灘である。灘の酒が有名になったのは江戸中期のことで、六甲山系の豊富な水と間近に港を抱えた立地のよさもあり、蒸米10石に対して水1石(十水:とみず)と、水の量を増やした技法で現在とほぼ同じ酒を大量に造ることができるようになって不動の地位を確立した。さらに、硬度8度前後の硬水で地下4〜5メートルの浅井戸に湧く水の発見でおいしい酒造りが一段と進んだ。これは六甲山系に発し貝殻層を通って流れ落ちた水と海岸から浸透してきた塩分とが混じった水で「宮水」と呼ばれる米造り用の水である。また、明治期に入ると醸造技術を向上させようという気運が高まり、明治37年に東京・王子に国立醸造試験所が設置され、酒造りの研究は大いに進歩した。なかでも明治28年に酵母の存在がわかったのが画期的な出来事で、それまでは、麹菌が糖化作業の段階で糖分をアルコール発酵させる物質に変わるのだと清酒学者ですら思いこんでいたという。こうして今日の日本酒の基が確立したのである。  
焼酎の起源  
前述の日本酒や泡盛と共に古くから人々に親しまれてきた蒸留酒が焼酎であり、全国各地で米、さつまいも、麦などのほかさまざまな原料を用いて造られている。起源については、「1400年代に朝鮮大宗から対馬藩主(長崎県)に高麗酒という焼酎が送られた」「14世紀から15世紀にかけて東シナ海から南洋地域に進出した倭寇が持ち帰った」「15世紀ごろに、シャム(現・タイ)と交流があった琉球を経て伝えられた」「琉球の対岸にある中国・福建省からもたらされた」など幾つかの説がある。焼酎の最大の特徴は、「でんぷん」を含んでいればほとんどのものが原料となることで、なかにはアロエ、牛乳、サボテン、コーヒーなどの変り種もみられる。そこで、焼酎の製造法を中心に「焼酎の味」についてまとめてみたい。  
焼酎の製造  
焼酎造りに欠かすことができないのが焼酎酵母菌であり、これによって原料に含まれるでんぷんを糖質に分解し発酵させることでアルコール分を作り出す。焼酎造りに用いられる焼酎酵母には「宮崎県酵母」「鹿児島県酵母」「協会焼酎酵母2号」「泡盛1号酵母」などがある。  
蒸留方式の違いによって甲類焼酎と乙類焼酎に区別され、明治時代以降に誕生した「連続式蒸留器」によるものが甲類、乙類は「単式蒸留器」を使う昔ながらの伝統製法によるものである。大量に生産される甲類焼酎はホワイトリカーとも呼ばれ、無味無臭に近いことからサワーや酎ハイに用いられ、それだけで味わうことは稀である。  
単式蒸留方式のうちの一つが「減圧蒸留」があり、常圧では90℃程度で沸騰する醪(もろみ)を蒸留器の内部を真空にすることで50℃程度まで下げ、醪の柔らかな香りをそのまま出来上がった焼酎に生かす方法である。雑味成分が少なく、癖のない軽やかな味わいが特長で、かつての強い個性の焼酎のイメージを一新させるのに役立った。軽快で癖のない飲み口の焼酎を造る減圧蒸留に対し、昔ながらの製法が「常圧蒸留」である。やかんで湯を沸かすのと同原理で、醪に高温の蒸気を当ててアルコール分を気化して取り出す。軽やかさはなくなるが芳醇で豊かな風味が長所である。  
蒸留直後の焼酎は酒質が安定していないために一定期間貯蔵して安定させることが必要となる。貯蔵は、使用する容器や場所、期間などによって違いが生まれ、それが焼酎の個性ともなる。なかでも容器が果たす役割は大きく、甕、タンク、樽の三種が蔵元によって使い分けられている。また、泡盛のように長期間醸成させるほど風味が増すものは5年、10年あるいは数10年寝かせることも珍しくないといい、常夏の沖縄では、温度と湿度が低値安定していて貯蔵にうってつけの涼しい鍾乳洞を貯蔵場所とする蔵もあるという。  
蒸留し、貯蔵してできた原酒は、そのままではまだおいしい焼酎にはならない。銘柄にふさわしい味と風味に仕上げる作業が「ブレンド」である。ブレンドするには、銘柄ごとのメインの原酒に少量のほかの原酒を加えながら味を決めるのだが、その作業を行う人が「ブレンダー」である。ブレンダーが少量で実験を行って配合の割合をきめ、それを基にその年の焼酎の味を決める。  
醪を蒸留して最初に出てくる焼酎原酒を「初垂れ」「初留(しょりゅう)」ともいう。アルコール度数は60度と高いが、蒸留が進むにつれて度数は下がり、いも焼酎の場合は37度ほどに落ち着く。なかには初留だけを集めた焼酎もあり、度数は高いが濃縮された豊かな香りが味わえるという。  
焼酎と健康 
健康志向の昨今の観点から焼酎の健康に関するボイントをみてみると、本格焼酎には次のような優れた効果があることが明らかになっている。1心筋梗塞・脳梗塞の予防につながる。2血栓を溶かす効果がある。3ストレスを軽くする。4免疫機能を高める。5日曜の夜に飲むのが最適である。6もちろん、適量が前提であることはいうまでもない。  
まとめ  
最初に投げた問いである、古来より日本に存在した伝統的な日本の酒は?の答えは少々複雑である。古代の酒は、出雲・博多に現在も残っている米を原料にした粘度の高い「練酒」のようなものであっただろうと言われており、皇室行事である新嘗祭(にいなめさい)で見ることができる。これが清酒に進化していくと考えられているので、日本酒はどうやら日本発祥の伝統的な酒といって間違いない。  
一方の焼酎(泡盛も含まれる)の起源は、16世紀頃に他国から伝来して蒸留が始まったとされているため、日本発祥ではないことは間違いないが、古来より存在した伝統的な日本の酒に含めることができるのではないだろうか。  
流通・製造法の発達で日本のどこにいても全国各地の地酒、輸入酒などさまざまな酒が手に入る便利な時代になったが、飲酒に対する意識も変わり、酒の魔力に呑まれる人は少なくなったようだが、深酒にはくれぐれも用心いただきたい。 
酒屋 焼酎の「コトブキストアー」 江東区猿江  
全国のブランド焼酎を品ぞろえ。タバコ買いがてら、淡いブルーやピンクのカラフルなビン、包装に惹かれてしまい、つい店主をからかってしまう。 
ビンそのものの素晴らしい透明性にもあるが 「この透明な水も売り物 ?」
 
焼き鳥

 

現代の解釈では、焼き鳥とは鶏肉・鶏の臓器を一口大に切ったものを竹串を刺して焼いたもので、スズメなど小鳥を串に刺し丸焼きにしたものも焼き鳥と呼ばれているので、概要は名前の通り鳥類の料理である。しかし一般的な辞書によれば「鳥のほか、豚や牛の臓物を焼いたものにもいうことがある」と掲載されているので、例外が存在することを知っておかなければならない。「焼き鳥」という言葉からすれば古来よりスズメやウズラなどの小鳥、又は鶏が原材料であったのではないかと思われるが、明治末期には既に牛豚のモツを串に刺して照り焼きにした「焼き鳥」と称するものが珍味として屋台で売られていたらしい。それが大正中期頃からしだいに庶民の味として愛好者が増え、昭和期に入ると焼き鳥と言えば牛豚のモツだということが定着していたという。では焼き鳥が誕生した時、何の肉を用いていたのだろう?  
焼き鳥の起源  
明治維新明けの混乱期に「焼き鳥屋」と名付けられた屋台が始めて登場するも鶏肉は庶民にとっては高級品であり、当初は鶏ガラやスジ肉などが使われていたという。屋台が浸透するとともに串に刺す食材は多様になり、牛・豚・馬の安い部位・狗肉など、下等の部類に入るものなら何でも供されたとの話であるが、それでも庶民の人気を博し、戦後までの長い期間、いわゆる鶏肉は用いられていなかったという。焼き鳥が大衆化した一番の要因は、米軍の駐留によってもたらされたブロイラーだった。昭和40年以降ブロイラーの普及が広がり、大衆やきとり店でも現在の焼き鳥メニューと同水準になり、低価格で酒に合う、居酒屋メニューとして定着したようだ。現在では地鶏や炭焼き、希少部位などにこだわる店も増え、焼き鳥が再び高級化しているというから不思議なものである。  
名物焼き鳥  
愛媛県・今治市の名物となっている「焼き鳥」で、いわゆる焼き鳥の鉄板焼き版である。ぶ厚く傾斜のある鉄板を使い、コテ状のもので押さえつけて焼くため、火力が保たれ、脂切れが良く、また早く提供できるなど、「早い・安い・旨い」と合理的なので地元で大流行した。なかでも皮・もつが人気で特に名物とされ、パリッとした旨味をもつ。元祖は焼鳥屋「五味鳥」とされるが現在店舗はないという。  
分類  
昭和中期ごろの「食べ物に関する本」によると、焼き鳥は三つに分けて認識されていたらしい。その一は、主にスズメやウズラなどの小鳥を焼いたもの。江戸時代から続くいわゆる「小鳥焼き」であるが、急速に数が減った。その二は鶏。鶏のなかでもシャモなどは高級な料理とされてきたが、鶏を使った焼き鳥は今日まで続き、最近では地鶏と銘打った焼き鳥が各地で人気を呼んでいる。三つ目がモツの焼き鳥である。牛豚だけでなく鶏のモツも扱い、大衆的な人気を得て今日、主流となった。  
呼び名  
呼び名は肉の部位や味の特徴、串にしたときの形容などから付けられていることが多いが、地域や店によってさまざまな呼び方をする。以下、そうした呼称に影響を及ぼしたと思われる食肉業界における内臓の呼称と部位をまとめてみると、  
舌/タン、心臓/ハツ、肝臓/レバー(キモ)、腎臓/マメ、脾臓/タチギモ(チレ)、肺/フワ(フク)、第一胃/ガツ・ミノ、第二胃/ハチノス、第三胃/センマイ、第四胃/ギアラ(アカセンマイ・アカワタ)、小腸/ヒモ(ホソ)、大腸/シマチョウとなる。また、内臓の呼称については朝鮮語起源説もあるので、その観点からチェックしてみると次のようになるという。  
1 ミノとガツ / 牛の胃は反すう胃といい、4つの部分に分かれているが、ミノは第一胃のことで、切り開いた形が蓑笠のような三角形であることが由来だが、時には“笠(ガツ)”と呼ぶこともある。また、ガツは今日では豚の胃袋のことをいう。  
2 ハチノ巣 / 牛の第二胃のことで、表面のヒダが蜂の巣のような形をしているところからハチの巣ともいうが、朝鮮語のホルチブを直訳した言葉がハチの巣であるともいう。  
3 センマイ / 牛の第三胃のことで、ヒダが幾重にも重なる表面の様子を指していて、朝鮮語の“千葉(チョニョブ)”の意から“千枚”としたとものらしい。  
4 テツチャン / 牛の大腸のことだが、朝鮮語の“大腸(テッチャン)”がそのまま使われている。  
5 コブクロ / 子袋、すなはち豚の子宮のこと。子袋という発想が朝鮮語からきたらしい。  
6 チレ / 牛や豚の脾臓のことだが、ときには膵臓などの臓器のことを指す。南部の朝鮮語の方言の“チレ”(標準語はチラ)からきたもの。  
7 ファ / 朝鮮語の肺(ブア)からきたという。  
鶏の部位・名称  
1せせり;首の剥き身で一羽からわずかしか取れない部位。2はつ:鶏の心臓のこと。3ささみ:胸の内側に2本ついている筋肉。4なんこつ:胸骨の先端の比較的柔らかい部位。5手羽:手羽先は羽の先端部分で肉は少なく脂肪分が多いのが特徴。また、胸肉に一番近い手羽元は羽の付け根の部分で、手羽先に比べると脂肪分は少なめ。6ぼんじり:尾骨の周りの肉で周囲を脂肪の塊が覆っているほんのわずかしか取れない部分。7きも:鶏の肝臓部位、レバー。8すなずり:筋胃(きんい・石や砂がためられたゴムのような強力な胃ぶくろ)、砂肝とも。9もも:足のつけ根から先の部分。このほか、首の皮の部分の“かわ”や、鶏の挽肉をこねて団子状にしたものを串に刺し、こんがりと焼き上げた“つくね”などもある。  
 
焼き鳥について探ってみると、大衆食とはいえ「幻の地鶏」「秘伝のタレ」「幻の部位」など、食べてみたくなる未知の串が多く存在することを知った。それらはいわゆる高級化した焼き鳥の類であり、店舗独自の宣伝文句なのであろうが、「焼き鳥」という庶民の手の届く範囲であることが一番の魅力なのかもしれない。様々な部位の焼き鳥を手軽に食せる時代なのだから、健康・美容の観点からも、特に女性や子供に食べてほしい食材ではないだろうか。 
 
中華料理店

 

安心して食べられるところはホテルに限る。サービスも良いし、味を煩く言わなければ、当たり外れが少なく、ほとんど何処も値段は同じようなものだ。ホテルに行こう。 
一軒行きつけの中華料理店があったが、10年以上の付合いから生まれた人間関係が、美味さを楽しめるサービスを生んだとも感じている、バブル期だったか閉店した。 
(以下思いつき寸評は、海老のチリソース・牛肉と野菜の炒め物・青菜のクリーム煮から)
 
菊川・フーチン(福井?) 安くておいしい食べやすい、海老のチリソースはお勧め。 
昔あった六本木「梅江」 ちょっと四川風で日本人に合わせた味、いつでも鯉のあんかけが頼めた、家族の集まりの定席、中華の楽しみも教えてくれた。中村さんから涙声の閉店挨拶の電話を娘が取る、娘も泣いたとのこと。 
六本木・楓林 広東風、甘いマーボー豆腐。気がついたらなくなりました。2002/9 
六本木・四川飯店 四川風、辛いマーボー豆腐。 
横浜・中華街 観光地、順序はデタラメ、投げ出される皿の音に腹をたて店を出る。 
横浜・インターコンチ 夜のコースの半額でランチ、美味いが夜の値段では食べたくない、ロケーション最高。 
幕張・プリンス ランチ\1980、食べ放題でひと通りの中華が食べられる、東京湾一望。それなりの味だが、休日のランチならお勧め。 
舞浜・シェラトン ロケーション良し、味は普通以上、マリンブルーの杏仁豆腐。ランチは並。 
舞浜・ヒルトン 味は普通か並、十分に焼け焦げた炒め物を食べさせられた。 
台場・日航ホテル コースで味を楽しむ、落ち着いた雰囲気良し。 
東陽町・イースト21 下町の中華、普通。 
錦糸町・東武ホテル 下町としては美味しい。 
箱崎・パークホテル 普通以上、混むと変哲のない雰囲気のない部屋まで使う。 
番町・ダイヤモンド 美味しい、値段もそれなり。 
青山・南国酒家 広東風かちょっと甘めのただの中華、店構えが古くなった、社会人になりたてで異国を感じた昔(昭和40年代)が懐かしい。 
九段・グランドパレス 並。 
芝・東京プリンス 小さな庭を見てレストラン風で古くなったが、お勧め、美味い。 
皇居・パレスホテル 普通だったか記憶に薄い。 
溜池・全日空ホテル 食材が良い美味しい、サービスもすばらしい。物によってエスニック風味はちょっと?
近所 ホテルの中華お節 美味しくて7-8年続いたろうか  
大晦日 正装のホテルの方が配達してくれる 
2015年正月 これまでと味が違う不味い 2016年止める 
 
高くて美味いはあたりまえ

 

 
 
賞味おすすめ浅草の定番 
どぜう 
二階大広間 家族でわいわい楽しむ 江戸庶民になれる
 
尾張屋 
美味さを知って40年 期待を裏切らない天ぷらそば 
娘は浅草といったら 尾張屋へ必ず立寄る大ファン
 
カレーの歴史

 

カレーは誰もが知っているとおり、インドの伝統的な料理です。しかしインドには元々、料理の名前としてのカレー(curry)という言葉は存在していませんでした。 
「curry」という言葉の語源にはいくつかの説があります。特に有名な説は次の2つです。 
1つめは、タミール語で「ご飯にかけるタレ状のもの」という意味の「カリ(kari)」という言葉を、西洋人が料理の名前と勘違いしたという説。 
2つめは、ヒンディー語で「香りの良いもの」「美味しいもの」という意味の「ターカリー(turcarri)」という言葉を、これもやはり西洋人が料理の名前と勘違いしたという説です。 
他にも様々な説がありますが、どの説が正しいのか、はっきりしたことはまだ分かっていません。しかし、料理の名前としての「curry」という言葉は、西洋人が初めて使い始めたのは間違いないようです。 
「curry」と名付けられた料理は、現在ではインドだけでなく、東南アジア、日本、ヨーロッパ、アメリカなど世界各地で食べられるようになりました。 
日本では明治時代以降に広まった、比較的歴史の浅い食べ物であるにもかかわらず、既に日本人の食生活にはなくてはならない「日本料理」として定着しました。  
 
カレーの誕生

 

インドで後に「カレー」と呼ばれるようになった料理がいつ頃誕生したのか、はっきりとしたことは分かりません。しかし、カレーに使われているスパイスのうちインド原産のものは、既にインダス文明時代から栽培されていたようです。 
インダス文明は新石器時代に西アジアからインド北西部へ移住してきたドラヴィダ人という民族によって興されました。インダス文明は紀元前2300年頃に始まりました。 
ドラヴィダ人はメソポタミアやエジプトなどと交易を行っており、中東で栽培されていたスパイスもインドへ持ち込まれていました。スパイスをたくさん使ったインド料理の原型は、この頃既に形作られていました。これが現在のカレーの原点、原始的なカレーの誕生といえるかもしれません。 
紀元前1700年頃になるとインダス文明は衰退しました。紀元前1500年頃になると中央アジアの遊牧民族だったアーリア人という民族がインド北西部へ移住してきました。 
ドラヴィダ人はアーリア人によって征服され、一部はインド南部へ逃れていきました。現在のインド人が地方によって民族や言語が違うのは、この一件の名残です。 
アーリア人はインドに移住すると遊牧を止め、農耕を始めて定住するようになりました。そしてアーリア人によって、インダス文明とは違う新しい文化が興りました。原始的なカレーにはアーリア人の食文化も取り入れられ、インド各地で地域ごとに特色のあるカレーが発展し ていきました。 
紀元前 300年頃になると、インド人は東南アジアと交易を行うようになり、インドへ東南アジア産のスパイスが持ち込まれると同時に、東南アジアへはインドの食文化が伝わりました。このことにより、インドのカレーはさらに多くの種類のスパイスが使われるようになり、東南アジアでもカレーが作られるようになりました。 
一方、タイ人の先祖はこの頃、華南地方で稲作をしながら暮らしていました。しかし漢民族などの北方諸民族の南下に伴い、タイ人の先祖は周辺の各地へと移住を始めました。 
彼らの一部は、9世紀頃までに現在のタイ王国のある、インドシナ半島まで移住してきました。ここでタイ人はインドから伝わったカレーに出会いました。そしてカレーはタイ人の食生活に取り入れられていきました。 
こうしてインドで生まれたカレーは東南アジア各地に広まっていき、それぞれの地域の伝統的な食文化と融合して独自の発展を遂げていきました。 
しかし、15世紀ごろまではアジアのどの国でも、現在のカレーには大抵入っているチリペッパー(唐辛子)は使われていませんでした。 
実はチリペッパーは熱帯アメリカ原産で、この頃にはまだアジアには伝わっていなかったのです。チリペッパーが伝えられるまでは、ペッパー(胡椒)やロングペッパー(長胡椒)などで辛味を出していました。  
 
大航海時代とスパイス貿易

 

ヨーロッパでは紀元前からアジア産のスパイスが使われていました。東南アジア産のスパイスは海路でインドに集められ、インド産のスパイスとともにアラビア商人の手によって、シルクロード経由でヨーロッパに運ばれていました。 
ヨーロッパではアジア産のスパイスは高値で取引されるため、アラビア商人はこのスパイス貿易で莫大な利益を上げていました。 
西洋人はスパイスをアジアから直接仕入れることができるようになれば、自分たちもスパイス貿易で大きな利益を上げることができると考えました。 
しかし、シルクロードはアラビア商人に支配されていたので使えません。そこで、海路アジアへ行くための航路開拓が求められるようになりました。そして15世紀中頃、大航海時代が始まりました。 
イタリアのジェノヴァ出身の航海家で商人でもあったクリストファー・コロンブスは、当時最新の仮説だった地球球体説に基づき、ヨーロッパから西回りでアジアへ到達することを考えました。 
コロンブスはスペイン・カスティーリャ王国の女王イザベル1世の援助を受け、1492年8月3日に西に向かって航海を始めました。そして同年10月11日に島を発見し上陸しました。 
コロンブスはこのとき上陸したのはインドの近辺の島だと考えていましたが、実際はアメリカのカリブ海に浮かぶ島でした。1493年3月15日、コロンブスはスペインに帰還 しました。 
コロンブスはアメリカから様々な品物を持ち帰りましたが、その中のひとつがチリペッパー(唐辛子)でした。これは西洋人が初めて体験する、強烈な辛味を持ったスパイスでした。 
実際のアジア航路はポルトガル人の航海家ヴァスコ・ダ・ガマによって開拓されました。 
ヴァスコ・ダ・ガマはアフリカ南端を経由してインドにたどり着くことを考えました。1497年7月8日にリスボンを出航し、翌年5月20日にインド南部のカリカットに到達しました。 
これ以降、西洋人はアジアから直接スパイスを仕入れることができるようになりました。 
アジア航路が開拓されると、西洋人はアジア各地からスパイスを仕入れると同時に、アメリカから持ち帰ったチリペッパーをアジア各地へ伝えました。 
インドや東南アジアでは元々辛いものを好む食文化があったので、チリペッパーが伝えられると瞬く間に普及し、各地の食文化に劇的な変化をもたらしました。 
そして、インドや東南アジア各地のカレーにはチリペッパーが用いられるようになり、これまでよりも辛いものになりました。 
同時にこれまで代表的な辛味性スパイスのひとつだった、ロングペッパー(長胡椒)はあまり生産されなくなりました。  
 
西洋人とカレーの出会い

 

16世紀以降、ヨーロッパ各国はアジアとの貿易で独占的な利益を上げるため、アジアの植民地化を始めました。 
インドに最初の植民地を築いたのはポルトガルでした。ポルトガルはインド南西部のコーチン、ゴアとセイロン島(現スリランカ)を占領し、アジア貿易の拠点にしました。 
17世紀になると、オランダ、フランス、イギリスがインドに侵出してきました。 
オランダはポルトガルからセイロンを奪い、フランスは東海岸のポンディシェリに、イギリスはインド東部ベンガル地方のカルカッタ(現コルカタ)、東海岸のマドラス(現チェンナイ)、西海岸のボンベイ(現ムンバイ)に拠点を築きました。 
この三国はそれぞれ東インド会社を設立し、植民地経営を行わせました。最終的にインド全域を支配したのはイギリスでした。 
イギリスは1756年〜1763年の7年戦争でフランスをインドから追い払いました。その後、イギリスはインド東部のベンガル地方全域を占領すると、1773年に東インド会社の社員だったイギリス人ウォーレン・ヘースティングズを総督に任命して統治させました。 
以後は、東インド会社に代わってイギリス政府が直接総督を派遣して統治する体制が作られました。 
イギリスはベンガル地方から徐々に支配地域を拡大し、19世紀中頃までに現在のインド、スリランカ、パキスタン、バングラディシュ、ミャンマーの全域を占領しました。1877年にはイギリス女王がインド皇帝を兼任する「イギリス領インド帝国」を成立させました。 
16世紀初期、西洋人は植民地支配していたインドで初めて、後に「カレー」と呼ばれるようになる料理を目にしました。この頃からヨーロッパでもインド人の食文化が紹介されるようになりました。 
料理の名称としての「カレー(curry)」、またはそれに似た言葉は、16世紀後期〜17世紀初期ごろから使われていたことが、当時のヨーロッパの書物で確認されています。 
18世紀中頃までの西洋人は、カレーをインド人が食べているものとしては知っていても、同じものを作って食べることはありませんでした。しかし、18世紀後期になるとイギリスでカレーが作られるようになりました。 
カレーのレシピが初めてイギリスに紹介されたのは1772年頃のことでした。紹介したのは1773年に初代ベンガル総督になるヘースティングズでした。 
ヘースティングズの紹介したレシピは、稲作が盛んで米が主食のベンガル地方のものだったので、イギリスではカレーは米とともに食べるようになりました。 
また、ヘースティングズはガラムマサラもイギリスへ持ち帰り、これが後のカレー粉の原点になったとも言われています。 
「明解簡易料理法」(1774年)という書物には、現存するイギリスで最古のカレーのレシピが載っています。それは「みじん切りにしたタマネギとぶつ切りにした鶏肉をバターで炒め、ターメリック、ジンジャー、ペッパー、クリーム、レモン汁を入れて煮る」というものです。 
このレシピでは、インドで作られているカレーよりスパイスの種類が極端に少ないのが分かります。イギリス人にはたくさんの種類のスパイスを組み合わせて使うことは慣れていないため難しかったようです。このことがイギリスでカレー粉が考案された理由と考えられます。 
初めてのカレー粉は18世紀末〜19世紀初期頃にイギリスのC&B(クロス・アンド・ブラックウェル)社から発売されたと言われています。 
カレー粉が作られてからイギリスのカレーは、シチューなどのヨーロッパの伝統的な料理の調理法を取り入れ、独自の発展を遂げていきました。  
 
日本人とカレーの出会い

 

日本人がカレーと出会ったのは江戸時代末期、ペリーの黒船来航後に日本が開国し、尊皇攘夷運動が盛んになった混乱した時代でした。 
日本人でカレーについてのもっとも古い記録を残しているのは福沢諭吉です。福沢は1860年(安政7/万延元年)に「増訂華英通語」という辞書を出版しました。これは福沢がアメリカで購入した英中辞典を元に、発音をカタカナで表記したもでした。この中で、英語の「curry」に「コルリ」という発音が記されれています。 
但し、これは多くの英単語の内のひとつとして紹介されているだけなので、当時の福沢が実際にカレーを見たり食べたりしたことがあったかどうかはは分かりません。 
日本人で実際にカレーを目撃したもっとも古い記録を残しているのは、1863年(文久3年)幕府遣欧使節の一人だった三宅秀です。幕府遣欧使節一行はフランスの船でヨーロッパに向かっていました。その船にはインド人も同乗しており、その食事を目撃したのです。 
三宅は日記に次のように書いています。 
「飯の上ヘ唐辛子細味に致し、芋のドロドロのような物をかけ、これを手にて掻きまわして手づかみで食す。至って汚なき人物の物なり」 
また、幕末の日本では横浜などの貿易港に外国人居留地が作られており、そこで暮らすイギリス人を通して、ヨーロッパ風のカレーが日本人に紹介されていました。 
但し、この頃カレーを知っていた日本人は、外国人に接する機会があった一部の人だけでした。カレーが一般の日本人にも知られるようになるのは明治時代になってからでした。 
日本人で実際にカレーを食べたというもっとも古い記録を残しているのは、1971年(明治4年)国費留学生としてアメリカに向かっていた山川健次郎です。 
アメリカへ向かう船の中で山川は、船酔いで苦しんでいた上、食堂で出される西洋料理が口に合わず、食欲不振になり体調を崩していました。しかし何も食べないわけにはいかず、食堂のメニューから何とかして食べられそうなものを探しました。そして見つけたのがカレーライスでした。日本人である山川は、米を使った料理ならなんとか食べることができたのです。 
日本で初めてのカレーのレシピは1873年(明治5年)に発売された「西洋料理通」(仮名垣魯文著)と「西洋料理指南」(敬学堂主人著)の2冊の本に記載されています。 
この両書の共通の特徴は、カレー粉で味付けし、小麦粉でとろみを出すことと、野菜はネギのみを使用し、タマネギ、ニンジン、ジャガイモ等は使われていないことです。肉については「西洋料理通」では牛、鳥、羊を、「西洋料理指南」では鶏、エビ、タイ、カキ、赤カエルを使っています。 
カレー粉と小麦粉が使われていることから、カレーがインド料理としてではなく、西洋料理として日本に伝わったことが分かります。また野菜はネギしか使われていませんが、現在のカレーでは定番のタマネギ、ニンジン、ジャガイモなどは、当時の日本ではあまり栽培されていなかったこともあり、まだカレーの具としては用いられてはいなかったようです。 
1876年(明治9年)には札幌農学校(現北海道大学)が設立され、「少年よ、大志をいだけ」で有名なクラーク博士が赴任してきました。クラーク博士は寮に住む学生の栄養状態改善のため西洋料理を推奨し、「生徒は米飯を食すべからず、但し、らいすかれいはこの限りにあらず」という規則を作りました。「ライスカレー」の語源はこの一件にあるとする説もあります。 
1877年(明治10年)以降はカレーライスをはじめステーキ、カツレツなどの西洋料理を扱う飲食店も増えてきました。しかし庶民的な和食の数倍の価格だったので、まだ高級料理として扱われていました。カレーが庶民の身近な料理になるのは明治時代後期になってからでした。  
 
日本でのカレーの普及

 

明治時代後半になるとカレーは庶民的な洋食店でも扱われるようになりました。また、比較的裕福な家庭でも作られるようになりました。 
カレーが一般庶民の家庭でも作られるようになったのは、日露戦争がきっかけでした。 
朝鮮半島と満州の支配権を巡って対立していた日本とロシアは1904年(明治37年)2月8日に戦争を始めました。これが日露戦争です。二〇三高地の激戦や日本海海戦を経て1905年(明治38年)9月5日ポーツマス条約が締結され、日本は勝利しました。 
戦争を行うためには兵士に食べさせる食料が必要です。そしてそれは、日持ちがする食材で一度に大量に簡単に調理できるものでなくてはなりません。そこで白羽の矢が立ったのがカレーでした。 
カレーは軍用食品として最適だったので、陸海軍ともに採用されました。海軍でのカレーを食べる習慣は、現在の海上自衛隊にも引き継がれており、毎週金曜日が「カレーの日」になっています。 
日本軍の兵士達は軍隊でカレーの作り方を覚えました。そして戦争が終わると兵士達は国へ帰り、家族にカレーの作り方を教えました。これ以降、一般家庭でもカレーが作られるようになりました。 
明治後期から昭和初期にかけてカレーが一般化するにつれて、様々な新製品が続々と作られました。 
1902〜03年(明治35〜6)頃、日本郵船の客船の一等食堂で、福神漬けがカレーのつけ合わせとして採用されました。(福神 漬けそのものは1886年(明治19年)に 東京池の端・酒悦によって製品化されています) 
1904年(明治37)頃、東京早稲田の三朝庵がカレーうどんを考案しました。 
1906年(明治39年)東京神田の一貫堂から日本初のインスタントカレー「ライスカレーのたね」が発売されました。これはカレー粉と肉を混ぜて乾燥させたもので、お湯をかけるだけで食べられるというものでした。 
1909年(明治42年)頃、東京目黒の朝松庵がカレー南蛮蕎麦を考案しました。 
1910年(明治43年)大阪難波で自由軒が開店。カレーとライスをあらかじめ混ぜ合わせ、生玉子をのせているのが特徴でした。 
1911年(明治44年)頃、日本郵船の客船・三島丸の食堂のシェフがドライカレーを考案しました。これは、白飯の上に汁気の少ない挽肉カレーをのせたものでした。 
大正時代になるとタマネギ、ニンジン、ジャガイモといった野菜も一般的になり、カレーに使われることも多くなりました。現代の日本のカレーの基本的な形態はこの頃確立されました。 
1914年(大正3年)東京日本橋の岡本商店がインスタントカレー「ロンドン土産即席カレー」を発売しました。これはお湯で溶いて肉や野菜を入れて作るものでした。 
1918年(大正7年)東京浅草の洋食店・河金がカツカレーを考案しました。 
1926年(大正15/昭和元年)「ホームカレー」の商標を持つ稲田商店を吸収していた大阪の薬種問屋・浦上商店(現ハウス食品)が、粉末タイプの即席カレールー「即席ホームカレー」を発売しました。その後、1928年(昭和3年)に「ホームカレー」は「ハウスカレー」と改名されました。 
1927年(昭和2年)東京深川の菓子店・名花堂(現カトレア洋菓子店/江東区森下)がカレーパンを考案し「洋食パン」の名で実用新案登録しました。 
1927年(昭和2年)東京新宿の中村屋は、日本の飲食店としては初めて本格的なインド風カレーをメニューに取り入れました。中村屋の創業者の相馬愛蔵は、日本に亡命中だったインド独立運動家ラス・ビハリ・ボースを保護していました。ボースは日本のカレーが安い食材を用いた経済料理になっている現状を憂い、相馬に本格的な高級インド風カレーを作るよう進言しました。相馬はボースの意見を採用し、最高の食材を使ったインド式「カリー・ライス」を完成させました。 
このように、カレーは日本人の食生活に定着していきましたが、カレー粉は昭和初期頃までイギリスのC&B(クロス・アンド・ブラックウェル)社製のものでほぼ独占されていました。 
当時のC&B社はカレー粉の製法を公表しておらず、製品のパッケージにも「このカレー粉は東洋の神秘的な方法によって製造された」としか書かれていませんでした。 
このため、国産品でC&B社製と同等以上の品質のカレー粉を作ることは困難でした。明治時代末期頃から国産のカレー粉も作られてはいましたが、これは輸入品にスパイスを添加しただけのもので、完全な国産品ではありませんでした。 
初めて純国産の高品質なカレー粉を作ることに成功したのは、東京浅草の日賀志屋(現ヱスビー食品)でした。創業者の山崎峯次郎は日賀志屋設立当初からカレー粉の研究を始め、1923年(大正12年)にC&B社製に負けない品質のカレー粉を完成させました。これ以降、いくつかの他メーカーからも純国産のカレー粉が発売されました。 
しかし、国産のカレー粉はしばらくの間あまり売れませんでした。それは、長い間C&B社製のカレー粉が独占的に使われていたため、多くの飲食店が「カレー粉は C&B社製でなくてはならない」と考えていたためでした。しかし、ひとつの事件をきっかけに、国産のカレー粉は急速に普及していきました。 
1931年(昭和6年)C&B社製のカレー粉の容器に安い国産のカレー粉を入れて売っていた悪徳業者が摘発されました。このとき既に多くの偽造カレー粉が販売され、使用されていました。 
しかし、長い間カレー粉の偽造には誰も気付きませんでした。この当時の国産のカレー粉はC&B社製に負けないくらい高品質になっていたため、実際食べ比べてみても違いが分からなかったのです。この一件が国産のカレー粉の評価を高める結果になりました。これ以降、国産のカレー粉が普及していきました。  
 
戦争の時代

 

1931年(昭和6年)9月18日、柳条湖事件をきっかけに満州事変が始まりました。日本は中国東北部を占領し「満州国」を成立させましたが国際的には認められず、1933年(昭和8年)に日本は国際連盟を脱退しました。この頃からカレーの原料として欠かせないスパイスの輸入量が減り始めました。 
1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件がおこって日中両軍が衝突し、日中戦争が始まりました。 
日本政府は国民の戦争への協力を促進するために1938年(昭和13年)国家総動員法を制定し、経済統制を始めました。これによりスパイスの輸入が制限され、カレー粉の生産に支障を来すようになりました。 
1939年(昭和14年)になると、様々な生活必需品が切符制になり、国民の生活水準は低下しました。 
1941年(昭和16年)12月8日、日本軍はハワイの真珠湾を攻撃し、マレー半島のコタバルに上陸しました。これにより日本はアメリカ、イギリスと戦闘状態に入り、太平洋戦争が始まりました。 
戦争は東南アジア全域に拡大し、東南アジアのスパイス産業は大打撃を受けました。カレー粉の生産量も著しく低下し、一般の国民がカレーを食べることは不可能になりました。 
しかし、カレーは軍用食品として必要だったので、軍に納入するために、わずかながらカレー粉の生産は行われていました。 
やがて、そのわずかなカレー粉を作るために必要なスパイスも手に入らなくなると、ヨモギの粉などの増量剤が使われるようになりました。カレーを黄色 く着色するために必要なターメリックが手に入らなくなると、黄色くないカレー粉も試作されましたが採用されませんでした。 
この当時の陸軍では英語が敵性語と見なされ、使用が禁止されていました。このためカレーは「辛味入汁掛飯(からみいりしるかけめし)」と呼ばれていました。しかしこの名称は一般には普及せず、海軍では普通に「カレー」と呼ばれていました。 
太平洋戦争末期になると日本は補給を絶たれました。日本軍は多くの戦線でカレーどころか満足に食事もできない状況に陥り、多くの兵士が餓死しました。また、日本本土も空爆によって多くの死者が出ました。 
そして、沖縄占領、広島・長崎の原爆投下を経て1945年(昭和20年)8月15日、日本は連合国に対し無条件降伏しました。 
日本は戦争には負けましたが、ようやく平和な時代が訪れました。戦後の闇市では、あり合わせの材料で作られたカレーが売られていました。当時のカレーメーカーは原料の不足に悩まされながらも、戦後の早い時期からカレー産業復興のため精力的に取り組みました。 
1948年(昭和23年)には学校給食が始まり、カレーがメニューに取り入れられました。この頃からGHQの放出したスパイスにより、カレー粉の生産量も回復していきました。 
1950年(昭和25年)になると朝鮮戦争による特需景気により日本の経済は急成長しました。 
1951年(昭和26年)にはサンフランシスコ講和条約が締結され、翌年に日本は主権を回復しました。この頃になるとスパイスの輸入も再開され、カレー粉の原料が安定して供給されるようになりました。そして多くのカレーメーカーが乱立し、新製品が次々に作られ競争が激化していきました。  
 
戦後-80年代

 

戦後から1950年代に掛けて、固形や粉末の即席カレーが各社から発売されました。この頃は即席カレーの試行錯誤の時代で、現代では見られないユニークな製品がありました。 
1945年(昭和20年)にオリエンタルから発売された「オリエンタル即席カレー」は、炒めた小麦粉にカレー粉を加えたものでした。当時は終戦直後で娯楽の少ない時代でしたが、オリエンタルは踊り、演奏、声帯模写、奇術、腹話術などを行なう芸人達を宣伝カーに乗せ、全国を回りながらカレーを売っていました。 
1950年(昭和25年)キンケイから発売された固形ルー「キンケイミルクカレー」は、石鹸に似た形状だったので、石鹸と間違えて使った人もいたそうです。現在と同じような板状の固形ルーは、同年にベルから発売された「ベルカレールウ」が初めてでした。 
1954年(昭和29年) ヱスビーから発売された「ヱスビーモナカカレー」は、粉末タイプのカレールーを最中の中に入れたもので、最中ごとそのまま鍋に投入するというユニークな製品でした。 
1960年代になると、即席カレーは固形タイプが一般的になりました。家庭でも、カレー粉と小麦粉から作るより、固形ルーを使って作ることが多くなりました。1960〜70年代には各社から多くの固形ルーが発売され、その中のいくつかの製品は現在でも販売されています。また、この時代にはレトルトカレーも考案され、徐々に普及していきました。 
1960年(昭和35年)ハウスから「ハウス印度 カレー」が発売されました。 
1960年(昭和35年)グリコから「グリコワンタッチカレー」が発売されました。これまでの固形カレールーが非常に堅く、使用するときに削る必要があったのに対し、ワンタッチカレーは現在のものと同じように、柔らかく溶かしやすい画期的な製品でした。 
1963年(昭和38年)ハウスから「ハウスバーモントカレー」が発売されました。リンゴとハチミツを使った子供でも食べられるマイルドな味が特徴で、現在まで続く大ヒット商品になりました。 
1964年(昭和38年)ヱスビーから「特製ヱスビーカレー」が発売されました。「インド人もびっくり!」と言うテレビCMで話題になりました。 
1966年(昭和41年)ヱスビーから「ゴールデンカレー」が発売されました。これは今までの製品とは違い、スパイスの風味を効かせた本格派のカレーで、値段も他の製品の倍くらいしました。 
1968年(昭和43年)ハウスから「ジャワカレー」が発売されました。 
1968年(昭和43年)大塚食品から世界初のレトルトカレー「ボンカレー」が発売されました。「3分間待つのだぞ」と言うテレビCMで話題になりました。沖縄では現在でも当時とほぼ同じパッケージのボンカレーが販売されています。 
1971年(昭和46年)ハウスからもレトルトカレー「ククレカレー」が発売されました。 
1978年(昭和53年)後に日本最大のカレーチェーンになるCoCo壱番屋の1号店が、名古屋でオープンしました。 
1980年代は空前のバブル景気のため、贅沢な風潮の時代でした。この時代はグルメブームの時代でもありました。和食やフランス料理などの高級料理店が、テレビや雑誌にたびたび取り上げられるようになり、「美味しんぼ(雁屋哲原作、花咲アキラ作画)」などの料理漫画の連載が始まりました。 
これまでの日本のカレーは庶民的で家庭的な料理と言うイメージがあったのですが、この頃には高級化したカレーも作られるようになりました。本格的なインド料理やタイ料理などのエスニック料理店も一般的になりました。固形ルーやレトルトでも高級志向、本格志向のものが次々に発売されました。 
グルメブームの一方で、この時代には激辛ブームもありました。今までにない非常に辛いカレーを出す店が増えたほか、レトルトなどでも激辛志向の新しい商品が作られました。 
1980年(昭和55年)ヱスビーから高級カレー「フォン・ド・ボー・ディナーカレー」が発売されました。当初は缶詰でしたが、1982年(昭和57年)にはレトルトも発売されました。 
1982年(昭和57年)全国学校栄養士協議会で1月22日の給食のメニューをカレーにすることが決定され、全国の小中学校で一斉にカレー給食が出されました。これを記念して1月22日は「カレーの日」に定められました。 
1983(昭和58)ハウスから高級カレー「ザ・カリー」が発売されました。固形ルーとペーストがセットになった製品でした。 
1983年(昭和58年)ヱスビーから固型ルー「カレーの王子様」が発売されました。日本初の幼児向けカレーでした。1985年(昭和60年)にはレトルトも発売されました。 
1986年(昭和61年)ヱスビーから「ムツゴロウの味覚王国」シリーズが発売されました。これはカレールーの他にいくつかのスパイスをセットにしたもので、本格的なインドカレーの調理を手軽に楽しめる製品でした。現在も同じ ような構成の「スパイスフェスタ」シ リーズが販売されています。 
1986年(昭和61年)グリコから激辛志向のレトルトカレー「LEE」が発売されました。いくつかの辛さのレベルから選べるようになっていましたが、基本的に全て辛口なので「甘口」「辛口」ではなく、「辛さ×10倍」「辛さ×20倍」というように表記されていました。  
 
90年代-現代

 

1991年、日本はバブル崩壊によって景気が悪化しました。この頃からカレーの多様化が始まりました。単純に本格志向で高級なのではなく、その店ならではの独自性のあるカレーを出す店が増えました。レトルトでも消費者の嗜好に合わせた個性的な製品が作られるようになりました。 
1992年(平成4年)日本人宇宙飛行士・毛利衛さんが、地球周回軌道上のスペースシャトル・エンデバーでレトルトカレーを食べました。カレーが宇宙食として用いられたのはこれが初めてでした。レトルトカレーは他の宇宙飛行士にも好評で、これ以降たびたびスペースシャトルに持ち込まれるようになりました。 
1996年(平成8年)ハウスから「こくまろカレー」が発売されました。「コクのカレー」と「まろやかなカレー」の二つをブレンドした家庭的な味が特徴のヒット商品でした。 
1998年(平成10年)和歌山県で、夏祭りの会場でカレーに毒物が混入され、4人が死亡するという痛ましい事件が起こりました。(和歌山毒物カレー事件) 
2000年(平成12年)グリコから「LEE・辛さX30倍 期間限定 辛さ増強ソースつき」が発売されました。辛さ増強ソースを使うことでX40倍の辛さにすることができ、激辛ファンの間で話題になりました。これ以降、辛さ増強ソースつきのLEEは期間限定で何度も発売されるようになりました。 
2001年(平成13年)横浜市中区に「横濱カレーミュージアム」がオープンしました。カレー専門としては日本初のフードテーマパークで、様々な個性的なカレーを出す店が軒を連ねていました。たくさんのカレーで楽しませてくれた「横濱カレーミュージアム」でしたが、2007年3月、多くのカレーファンに惜しまれつつ閉館しました。 
2001年(平成13年)ヱスビーから「とろけるカレー」が発売されました。野菜をじっくり煮込んだまろやかな味わいが特徴のヒット商品でした。発売当初、ハウスの「こくまろカレー」とパッケージが酷似していたため、裁判沙汰になりました。 
2001年(平成13年)集英社の漫画雑誌「週刊ヤングジャンプ」誌上において、カレー漫画「華麗なる食卓(ふなつ一輝著、森枝卓士監修)」の連載が始まりました。これまでにも料理漫画でカレーが取り上げられることはありましたが、カレー専門の漫画はおそらくこれが初めてだと思われます。この漫画の主人公・高円寺マキトは世界中で修業を積んだカレー料理人です。彼の周りで展開されるドラマの中で、世界中の様々なカレーが紹介されます。レシピもついているので実用性もあります。 
2000年代には札幌のスープカレーが全国的に大ヒットしました。スープカレーは1970年頃に初めて作られたと言われています。1990年代頃から扱う店が増え始め、現在は札幌以外の地域でも扱う店があります。スープカレーは一般的な日本のカレーと違い、小麦粉を使用しておらず、スパイスと出汁を重視した味付けが特徴です。 
1990年代に始まったカレー多様化の流れは現代も続いています。札幌スープカレー以外にも横須賀の海軍カレーなど、各地で地域特産のカレーが作られています。これからも様々な新しいカレーが創り出されていくことでしょう。   
 
中村ハル自伝より (大正10年頃)

 

新宿中村屋の印度式カレーライス  
いろいろと食べあるきして最もびっくりさせられ、また思い出の深いのは新宿駅の近くの中村屋というパン屋の特殊料理である純印度式カレーライスについてであります。俗にインデアンカレーライスといっていました。  
ここのカレーライスは日本一だという評判ですから、料理研究を志していた私としては、何としてでもこのインデアンカレーライスの全貌をつかまねぱ腹の虫がおさまりません。ある日曜日の朝、この中村屋を訪づれて、まずパン屋の奥の間のカレーライスの店に入り注文いたしました。  
普通、日本式のカレーライスはメリケン粉でドベリをつけている加減か、御飯の上にかけた姿を見ると、まるで猫のタバキ(吐き物)のかかった感じで、私なんか口をつける気持ちが起こりません。ところが、皆さんはこのタバキのようなカレー煮をスプーンで御飯にまぜてさもおいしそうに飯べておられます。  
本式の印度式カレーライスは、そんなドベドべしたものではありません。  
給仕人が持って来た中村屋のを見ますと、飯一人前と別にカレー煮の方は綺麗なカレー鉢に盛って盆の上に飯皿と並べておき、スプーン一本そえているのです。  
なるほどな一と、第一番に感心しました。聞けば、カレーライスそのものは実は印度人の食べる雑炊だそうで、印度や南方方面の酷暑の地ではカレー粉を炊き込んで舌が切れるくらい辛味をつけて食べねば辛抱ができないところがら、印度や印度シナ方面ではこの料理が好まれているとのことです。  
そこで、まずカレー煮の方を調べてみました。姿はドベドべしないでサラサラしていて、日本の吸物にちょっと粘り気のある程度。一口味わってびっくり、辛くて辛くて目の玉が飛び出るとはこのこと。いかな私も閉口しましたが、その辛味のなかにいうにいわれぬ旨味を含んでいます。  
中の具を調べてみますと、(1)鶏の骨付き身二切れで、これはちょうど日本の水炊きのときの鶏肉くらいの大きさで、□に入れると簡単に身と骨がはぐれます。(2)大切りの馬鈴薯二切れ一これも形は大きいが、フワフワと煮えて口に入れるとすぐとろけるほど臼あとは玉葱五、六切れです。  
汁の方は何かミジン切りみたいなものが少々混っているだけで、サラサラと黄褐色ですが、  
その辛味とうま味の配合は何ともいえません。  
さすがに日本一といわれるほどのことはあると感服いたしました。  
一人前食べ終っていろいろ考えました。このカレーライスの味は何からとった味だろうか?  
まさか鶏肉や玉葱だけであれだけの味は出るものではない。私の探求心からこのままですむはずもなく、思い切って帳場に行き調理場の見学を願い出たのであります。ところが、キッパリと断わられました。  
しかし、何としても諦め切れません。横浜に帰って、日夜このことを考えているうちに一計を考えついたのです。1それはこの中村屋が本来パン屋であるのにカレーライスを営業して天下に名をなしているのは、中村屋の一人娘の養子婿にビハリ・ボースという印度独立の志士がいるからであろう。このピハリ・.ボースならば、印度の独立運動に身を投じて英国の官憲の目を逃がれている身です。日本に上陸して以後、困っているときに、私と同じ郷里西新町出身の頭山満翁がかくまってやり、その後この中村屋に婿入りさせたと聞いている。よし、ここは一つ頭山満先生の御力添えを願おうと―――。  
これはよいところに気がついたというわけで、早速頭山満先生の屋敷をたずねて行きました。カレーライスの話をして、その調理法を教わりたいので、是非調理場に入れるよう取り計らってくださいと訴えました。頭山先生も感銘されてか、それほど熱心ならば、郷土の後輩としてビハリ・ボースに頼んであげようといわれ、紹介状を書いてくださいました。ビハリ・ボースにとっては、頭山先生は命の恩人。おかげで一も二もなく、調理場に入ることを許可されたのです。  
さて、調理場に入ってびっくり仰天。鶏の臓物といっても大腸、小腸が、山のように積んであるのです。そのころの日本では、肝臓とか砂ずりなどはともかく、その他の臓物は捨てていた時代です。それなのに腸の山積みを見せられたものですから、年若い私が肝をつぶすのも無理からぬこと。そこで、いったいこの腸はどうするんですかと尋ねて二度びっくり。この腸が中村屋のカレーの素ということで、腸のミジン切りがカレーのドベリのもとをなしていたのでした。  
次にカレー粉が特別辛くて、しかも高尚な風味のあるのは何故かと質問しました。  
「ここの店ではカレー粉は一種でなく、印度産のほかにシャム産、.フィリッピン産等々三種類も四種類も混用しています。そのほか、いろいろの香辛料を混合して、このように強い、良い香気と辛味を出しているんです」  
ということで、それぞれ実物を見せていただきました。  
つまり、カレー煮はスープとカレー粉、その他の香辛料とほどよいドベリに鶏の腸のミジン切りのカレーの素が主で、中の具はたいして大切なものでなく、何はおいても味と辛味、香気に重点を置いて調理すべきものと聞いて大いに啓蒙されました。  
中村式カレーライスの考案  
中村屋のカレーライスは汁があまりサラサラして澄し汁のようで、これでは日本人の好みにどうかな一と考えました。帝国ホテルのやり方を見学いたしましたところ、ここではドベリを出すのにメリケン粉は使わず、中華料理によく出てくる餡の考えを入れております。すなわち最後に片栗粉の水溶きしたものを流し込んで、艶とドベリを出す方式です。  
私がよく言っている中村式(中村屋ではありません)のそれは、以上の中村屋のインデアンカレーライスを基本に、それに帝国ホテル式および私独自の考案を加味して作り上げたものです。  
少しくだいていいますと、中村式というのは、中村屋のカレーライス方式を基として、これに玉葱、人参などの野菜の切り屑を鶏の腸にまぜてドベリとし、甘味には砂糖のかわりにトマトケチャップを少々使用したこと。また、ドベリには帝国ホテル式の片栗粉を用いる中華料理館の考えを入れたことなどであります。  
御飯の炊き方も、白米だけにしないで美観を添えるため、グリンピースや小さく細の目に切った人参を入れるなど、見て美しく、食べておいしく、そして栄養の点を考えております。  
およそ、料理の研究を志す者は、先輩の人々が研究し遺された美点を謙虚に学びとり、さらにこれに満足しないで自分でもなおそのうえに風味の上から、あるいは栄養の点から、さらに考案を重ねてより以上のものを創作していく心掛けが肝要と思います。  
現に、わが中村料理学院で教えていますカレーライスは、印度人ビハリ・ボースの印度式カレーライスを基として、これに工夫、考案を加えて改良し風味の点でも日本人向きに、栄養的にも理想に近づけており、その苦心の結晶をみていただきたいと思います。 
 
  
 
味覚

 

食べ物の味は主に舌に分布している味覚神経によって判別するのであるが、基本的な四種類の味を専門とする味蕾はそれぞれの場所に陣取っている。すなわち、甘味は舌の先端と前半の舌背部にある味蕾で感じ取るが、塩辛い味は舌の先の他に舌の側面にある味蕾が捉え、酸味は舌の中央部が敏感であるが苦味は舌の後方とか口蓋で感得するとされている。しかし旨味・美味というのは上記四種類の味が複雑に混ざっている他に香辛料なども加わっているいる筈だから、味覚神経だけの感覚だけでは決められないような気がする。医学書にも、味覚神経以外の嗅覚とか、触覚が味覚に強い影響を及ぼしていると書いてある。臭覚の関与と言えば、いい匂いのするものは食べても美味しく感ずるのが普通であろうが、鰯の丸干しを焼いている時の臭気は強烈であっても味は悪くないと言う人も多いと思う。だから、嗅覚と味覚は別個に働くこともある。しかし臭覚を失った人が味が分からなくなったと訴えることがあるし、世に言う風味のある食べ物という言葉は嗅覚が関与している証拠であるとみてよいと思う。なお、食べ物のうまさには温度とか硬軟の感触も関わっている。味噌汁は熱い方がおいしいが、冷や奴は生温くては味が落ちると思う。湯豆腐は結構おいしいものであるが軟らかい絹漉し豆腐よりは少し硬めの木綿豆腐のほうが私は好きである。ウナギや穴子の身はぐにゃぐにゃしていて味はともかく歯ごたえがないのが気に入らない。広島の宮島口で食べた「あなごめし」本舗の穴子はしこしこしていて美味しかった。新鮮な魚の肉は引き締まっていて美味しいと言うが、冷凍したソバよりは作りたてのソバのほうが美味であるというのは何か差が感じられる故であろう。また、人には食べ物は眼で視て賞味する傾向があり色の配合とか盛りつけの状態が味覚に微妙に働くことも見逃せない。その上食事する場所の環境が楽しいものであれば料理を賞味できる気分になるというものである。それから疲れた時には味覚が鈍るといわれるが腹が空くとなんでも美味しく思うというのも本当である。
唾の効用  
唾が人体に取って必要欠くべからずの(品物)であることには誰しも異論はないと思う。  
もし唾が出なくなったら口や喉が乾いて生きた心地がしないことは疑いない。そして舌の回りも悪くなってモノもろくに言えなくなるようになるし、モノを食べることも困難になる。  
逆に、涎が垂れる程、唾が過剰に出ることもあり、モノを言う時には(口角泡を飛ばして)という有様にもなろう。唾の分泌量は普通でも涎を垂らすのは口のしまりが悪いからのこともあり、唾を飲み込む(作業)がおろそかになっているかであろう。  
唾そのものの効用としては、澱粉などの消化酵素があるほかに、消毒作用があるとか、生長ホルモンが含まれているとかの説があるが誰もそれを活用はしていない。  
唾の中にパロチンというホルモンがあることを唱えたのは、日本の有名な学者であったが、これは間違っていたことが分かったため、世界の学会では無視されていると最近読んだ本に書いてあった。  
動物が傷口をなめるのは(生活の知恵)ではあろうが、人間社会では(お呪い)程度の気持ちで利用している。そして、唾を付けるというのは自分の持ち物だという印を付ける目的の行為である。唾を印しとして付けるより多量に(潤滑油)として唾を塗るという使い方もある。少し滑稽じみているが、唾を付けた指を空中にさらして風の方向を知るということも唾の利用法の一つにあげてもよいであろう。  
大体、人間が正常に生活している時には、唾そのものの存在を意識しないで、黙って唾を飲み込む運動をしている。食事をしていない時でも、睡眠中でも唾を飲み込む運動をしているが、それは全く無駄なことではない。というのは、唾を飲み込むことで知らないうちに中耳の気圧が外圧と同じに保たれるということがある。それから肺に通じる気道から喉頭に上がって来た粘液(痰)が唾と一緒になって食道へ飲み込むことになるのも重要な(効能)であるといえる。  
ところが、人によっては、この無意識にやっている唾飲み込み運動に気付いて、それは病的症状---たとえばPostNasalDrip=後鼻漏(こうびろう)があるためと考え始めて、これ大変とばかり医者に相談に来ることがある。飲み込むのが厭で、それを意識的に止めようとするのなら、やたらに咳払いをすることにもなろうし、痰や唾を吐き散らす場所を探さないといけなくなる筈である。  
西部劇などで部屋に(痰壺)が置いてあるのを見たことがあるが、今では洗面所が手近にあって痰壺などの必要性は無くなっている。真偽のほどが確かめられないのだが、今でも中国では、北京の高級料理屋でもお客が床に遠慮なく唾を吐く習慣が認められているとか。  
さて、この唾を吐くという行為は、どう見ても見苦しくて非衛生的な(唾棄)すべき行為であると思う。まして料理屋で食卓の横に唾を吐くなんてとんでもないことである。アメリカでは幸いに室内競技をしている選手が観衆の前で床に唾を吐いている光景は流石に見られないが、これが屋外の競技となると選手が地面(露出した土であろうと、草、芝生であろうと、アストロ・ターフであろうと)に唾を吐き散らす行為が多いものである。  
最近はテレビで色々な競技の放映を観ることが多いのだが、大相撲の(水を付ける)(儀式)では、ちゃんと差し出された木製の柄杓から水を口に含んで、吐き出す時には紙ナプキンを口許にあてがって上品に行うのがしきたりになっているように、日本の国技では、口を観衆の面前で濯ぐ動作はあからさまにやらない考慮がしてあるのだと思う。  
(国技)とも言えるアメリカのベースボールではプレイをしている途中、誰も彼も唾を吐くのがとても目障りであるが、日本の野球選手もアメリカの選手のお行儀の悪い習慣を真似て同じように唾を吐いている人を時々目にするものである。  
ベースボールより(上品)とされているテニスではプレーヤーがコートに唾など吐いたら、たちまち厳重な注意を受けて(減点)はおろか(失格)もしてしまうのではないか。私は最近ゴルフの公式試合で有名人(たとえばタイガー・ウッズなど)が(グリーン)の上に唾を吐いているのを見て、自分の目を疑った程である。(紳士の遊び)として格式のある筈のゴルフも大衆化するにつれ、そのマナーも地に落ちたということであろうか。  
路上で立ち小便をすることはアメリカでは(違法)になっているのに、家族の一員扱いをしている犬などに公園の芝での(排泄)行為を見逃している慣習を人間にも当てはめて、排泄行為の一つとみることも出来る(唾吐き)をするのを黙認する(公衆道徳)が横行しているアメリカ社会は嘆かわしい。(公衆道徳)は、学校教育によって培われる以前に家庭での躾によって身に付くものであるから、躾をする親が、(ろくでもない)のでは、お行儀のよい子供が育つことを望むのは無理な相談であると言うものだ。  
酵素  
酵素(エンザイム)は、ビタミンやホルモンと並んで生体の営みに欠かせない物質であるが、ビタミンやホルモンのように、その欠乏症がそれほど話題にのぼることがない。酒や味噌などの醸造に使う(コウジ)は酵素の一つであり、日本人には絶対に欠かせないものである。そして、体内には何十種類もの酵素があって、食べ物の消化や、その他諸々の化学反応に不可欠の役目をしていることを知らないで日常生活を享受しているものである。  
ビタミンは体内では生産されないので、食物から摂取しなければならない上に、貯め置きも出来ないので、毎日補給が必要である。ホルモンは内分泌腺で生産されるが、血中に適量を保つ為には、内分泌腺同志で密接な関連の下に毎日生産を続けている。  
酵素は体内の細胞から生産されているが、その働きは(触媒)ということで、化学反応を助けるが、酵素自身は分解したり、変化しないので減らないという特性がある。しかし、消化腺から消化管に排泄される消化酵素は減って失われるので、消化腺は毎日酵素の生産を怠る訳には行かない。その他の消化管から失なわれない所で働く酵素は補給しないのでもよいのかも知れない。  
いずれにしろ、生きる為に絶対欠かせない酵素に関しては割合無関心でいられるのは有り難いことである。一般人が耳にする酵素として市販されている(タカジアスターゼ)は、高峯譲吉博士が創製されたもので、澱粉の消化酵素(アリナミン)の商品名である。  
消化酵素としてはこの(ジアスターゼ)の他に、胃液にある蛋白質の消化酵素(ペプシン)、腸液の中で乳糖を分解する消化酵素(ラクターゼ)、膵臓から出る蛋白質分解酵素(トリップシン)や脂肪分解酵素(リパーゼ)もある。更に、腸液にある蛋白質分解酵素の中にはペプシンやトリップシンである程度分解されたものに働く(エレップシン)あるし、腸内の麦芽糖を分解して葡萄糖にする(マルターゼ)などもあり多士済々の消化酵素陣が控えている。  
消化酵素以外の酵素には、酸化・還元に関係する酵素で、(オキシダーゼ)とか、(カタラーゼ)などがあって、「縁の下の力持ち」の役目をしている。これらの酵素は酸素を付けたり外したりするので呼吸酵素とも呼ばれているのだから、生命の維持に超重要な働きをしていると言ってよかろう。  
なお、アルコホール代謝に関係のある酵素で(エスレラーゼ)というのもあるし、血液の凝固に関係する酵素もあり、それは「血友病」の原因要素としても、臨床的に注目されるようになったし、心臓発作があった時に血液検査で蛋白分解酵素(トランス・アミネース)の増加が認められるとか、酵素の測定が診断にも応用されるようにもなっている。  
とにかく、酵素の働きは多岐に亘っていて、黙々として生命を支えて呉れているのだから、全く(酵素様々)と感謝しなければならない。  
 
宮本百合子の十八番料理

 

白菜と豚の三枚肉のお鍋  
そろそろ夜がうすら寒くなってくると家でよくするお惣菜の一つです。白菜を四|糎(センチ)位に型をくずさない様にぶつぶつ切りまして、三枚肉は普通に切ったのを一緒に水をたっぷり入れてはじめからあんまり強くない火で永い時間に煮ます。味は食塩と味の素と胡椒でつけて一番終いにほんの一滴二滴醤油を落します。白菜がすっかりやわらかくなった時白タキを入れても美味しゅうございます。是はスープもたっぷり一緒に呑める分量にしてはじめから水を入れておきます。家のお料理は疲れている時には、塩もつい余計と云う事になって定った分量をラジオの様に申しあげられません。何卒舌と御相談下さい。  
ピローグ(挽肉の卵巻き)  
これはロシヤで食べたものの真似です。挽肉をみじんにきざんだ玉葱と一緒にいためて食塩と胡椒で普通に味をつけ、卵を茹でてそれを細かく切って、いためておいた肉とまぜます。別にめりけん粉を卵と水でゆるすぎない様にといたものを拵えて、フライパンにバタをぬってめりけん粉をといたものを少し流し込んでうすい皮をつくります。その皮の中へ、前に拵えておいた肉と卵の混ぜたものをつつんであつい中にいただきます。そのままでもよし、卵クリームでもあると大へんな御馳走になります。  
変りふろふき  
これからはよくどちらでも大根ふろふきが流行(はや)ります。大好きですがどうも胡麻をかけただけでは物足りないので一工夫して、挽肉を味噌、醤油、砂糖で甘辛くどろりと煮て胡麻などの代りにかけていただきます。中々誰にでも喜ばれます。  
野菜と肉のいり煮  
サラダ菜が好きですが生がこわいので思いついた事。もやしでも何でも、少々の肉類、玉葱のいい加減にきざんだもの、それを皆一緒に豚油をとかしたものでいため、だしを入れて塩と砂糖、醤油で好みに味をつけ、下すすぐ前にサラダ菜をむしって洗っておいたものをほどよく手でちぎって入れ、ぐったりしたところですぐ下します。好みによりサラダ菜の葉が多くても少くてもよい訳でしょう。  
そばのカーシャ  
これはお料理の説明と云うよりは私の長年の食べたい想いをのべるわけですが。東京にそばの実の殼をとったまま、粉にしないでまるのままのがあるでしょうか。誰に聞いても知らない様ですが、この丸いままのそばの実を壺に入れて一晩水につけたものをオーブンで焼いて、柔かいけれどぱらっとしたものが出来上ったところへバタを混ぜたり玉葱をバタいためにしたものをまぜたりして食べますと実に軽くて、いい香がしてその味は中々忘れられません。ロシヤの家庭で極く普通につくられて居ります。もしそばの丸のままの実があるものなら一度はやってみたいと思って居ります。読者は日本中にいらっしゃるわけですからもしかそんなそばの実が手に入る事を御存知の方がいらっしゃると思いますので。  
〔一九三九年十一月〕
 
おいしさのクオリアの進化と受容

 

人間にとって、世界をさまざまな感覚のインターフェイスで感じ取ることは、生きていく上で欠かせないことである。  
私たちの感覚は、さまざまなユニークなクオリア(質感)から構成されている。私たちの感じることのできるクオリアの多様性は、そのまま、私たちが接する世界の多様性である。  
たとえば、甘さ一つをとっても、私たちが感じる甘さには、さまざまなものがある。ハチミツの甘さ、砂糖の甘さ、なしの甘さ、リンゴの甘さ、みかんの甘さ、餡の甘さ、バナナの甘さ・・・これらの異なる甘さを、私たちはそれぞれ異なるクオリアとして感じている。  
食べること、飲むことにまつわる様々な多様なクオリアを、私たち人間は進化の過程で獲得してきた。その機能的な視点から見た必然性は、おそらく、環境の様々な潜在的な食物(食べて良いもの、悪いもの)を見分け、食べて良いものでもその状態(熟しているか、腐りかけているか、その他何かおかしなことはないか)を判別することにあったと思われる。そのような機能的な意義を考えれば、下等な動物にも、人間のように「今このようなクオリアを感じている」と自省する能力まではないにせよ、食べ物のクオリアを感受する能力はあると考えて良いだろう。  
食物にまつわるクオリアは、それに関する判断の当否がそのまま生死にかかわるという意味で、世界認識のインターフェイスとしての感覚の様々な様相においても、もっとも切実な意味を持つと言って良い。時には、間違ったものを食べて死んで行ったかもしれない膨大な祖先の体験知に支えられて、今日の私たちは、多種多様な食物の「おいしさ」を、異なるクオリアとして味わう能力を身につけている。  
命をつなぐ糧である食物について、その味をうんぬんする風潮を批判する人は多い。しかし、一見皮相的なグルメブームの背後にも、食を味わうということに関する生きる切実さが潜んでいる。  
食べるということは、本来一回一回が真剣勝負であったはずである。現代ではそのような記憶は遠いものとなったが、私たちが感じる「おいしさのクオリア」は、生物の進化の過程で延々と積み上げられてきた食べることをめぐる真剣勝負の名残なのである。  
1+1が2にならない世界  
食べ物に関するクオリアの興味深い性質の一つは、それが「1+1が2にならない世界」であるということである。  
コーヒーには、コーヒーのクオリアがある。ミルクにはミルクのクオリアがある。ところが、コーヒーにミルクを入れたミルクコーヒーのクオリアは、その構成要素それぞれを単独で飲んだ時のクオリアと確かに関係はしているものの、それとは異なる別のクオリアになっている。  
青色と黄色を混ぜると、その結果としてもともとの構成要素である二つの色と関係はしているものの、全く異なる「緑色」のクオリアが生じる。味覚においても、二つの要素の組み合わせで、全く異なるおいしさが成立する。ここに、味わいの世界の深さがある。  
先に、甘さにもいろいろあると書いた。これらの「甘さ」は、甘み物質そのものだけによってもたらされているのではない。私たちは、その食物の食感、香りその他のさまざまな因子を総合した結果を、「あるユニークな甘さのクオリア」という形で感じているのである。  
メロンの甘さは、メロンのあの独特の香りなしでは成り立ち得ないし、バナナの甘さは、ねっとりとしたバナナの触感をその不可欠な構成要素として成立している。  
一般に、私たちの認識において、クオリアは、様々な要素から構成される複雑な対象を、まとめて一つのユニークな存在として感じる形式であると考えられる。色で言えば、「透明感」のクオリアは、単独の色では実現しない。透明なコップがあっても、そのコップの各部分の色そのものは透明ではない。透明感のクオリアは、一つ一つをとれば透明とは感じられない色が、ある特定の空間的パターンで分布した時に成立する。透明感とは、色の要素がある特定の分布をしている様子を、まとめて一つのユニークな質感に統合した時に成立するものなのである。  
クオリアは、1+1を2としてとらえるのではなく、全く別のものとしてユニークに把握する私たちの感覚のメカニズムである。だからこそ、たとえば、カレーのルーを単独で食べた時のクオリアと、白飯を単独で食べた時のクオリアを単純に共在させたものとは異なるようなクオリアが、「カレーライス」という形で二つの要素を組み合わせた時に成立するのである。トンカツも、餃子も、その個々の構成要素の味わいには還元できないようなクオリアを感じさせる。私たちが日常的に体験しているさまざまなおいしさのクオリアは、1+1が2にならない世界において、さまざまな要素の混合物が、一つ一つの要素に還元されるのではなく、その組み合わせ自体が一つのユニークな実在として把握されるような認識の形態なのである。  
おいしさのクオリアと言語  
テレビのグルメ番組などで、レポーターが、食べ物の味を「おいしい」とか「うまい」とか、貧弱な言葉でしか表現しないと、しばしば非難されることがある。  
確かに、私たちが実際に感じている食べ物にまつわるクオリアの多様性を考えると、そのおいしさを表現する言葉の貧弱さは意外とさえ言える。  
たとえば、蕎麦をつゆに漬け、刻んだネギと絡ませながら食べる時のクオリアは独特である。タピオカを入れたアイスミルクティーは、タピオカを単独で食べ、アイスミルクティーを単独で飲んだのでは決して得られないようなクオリアを与えてくれる。これらのクオリアは、私たちの意識の中でそれぞれユニークなものとして把握されているが、そのユニークさを表す言葉を多くの場合私たちは持っていない。せいぜい、「おいしい」、「さわやか」、「もちもちとしている」、「つるつるとしている」などといった限られたボキャブラリーで自分の感じているおいしさを表現するだけのことである。  
大抵の食べ物のおいしさのクオリアについて、私たちはそのユニークさを感じていながらも、日常生活の中ではそれぞれに特定の表現を与えることなく通りすぎてしまうのである。  
プロの料理人でさえ、食べ物のおいしさのクオリアの一つ一つのユニークさと、それをつくり出す材料構成、調理過程について一般人よりは深い洞察を持っているにせよ、それぞれのユニークなおいしさのクオリアを表す言葉を持っているかどうかと言えば話は別である。おいしさのクオリアは、私たちの生命の維持に直結する感覚に属するにもかかわらず、おそらくそうだからこそ、その多くが意識的に処理されることなく、十分な言語表現を与えられていないのが実情なのである。  
ワインのように、それぞれの製品が与えるクオリアのユニークさに重大な関心が向けられ、微細なクオリアの差が実際の価格差に反映されるような経済構造があると、はじめて、味わいのクオリアに対するユニークな言葉の表現の発達がうながされることがある。  
立花隆さんが、以前、雑誌の記事の中で、フランスのワインの専門家たちへの訪問記を書かれているのを読んだことがある。立花さんによると、専門家たちは、ワインの味わいを表す言葉を二百くらいは持っているという。ワインの味わいは、本来複雑で豊かなものであるが、私たちはそれらを表す十分なボキャブラリーを普段使いこなしていない。ところが、専門家に「このワインは日なたの藁の香りがする」と言われてから飲むと、確かにそのワインはそのような言葉でしか表しようがない味わいを持っていることに気が付くのだということである。  
クオリアを数値化したり、記号化したりすることは一般には難しい。一方で、私たちがワインを飲んだり、食べ物を食べたりする時に、私たちの意識の中でそのような行為に伴う質感がその他の何とも異なるユニークな質感として感じられていることも事実である。  
ワインの専門家たちは、そのような、素人が確かに意識の中でユニークな感覚として感じてはいるものの、いまだ言語化できていないクオリアにピンポイントの表現を与える。だからこそ、いったんその表現が与えられれば、そのような訓練を積んでいない人でも、ある程度は「確かにそのような味わいがある」とその的確な表現を確認することができるのである。  
新しいクオリアに対する好奇心  
ネオフィリア(新奇性の嗜好)は、新生児から大人まで、人間の本質的な傾向であると考えられている。  
食べるという行為においても、人類は、その歴史の中で一貫して新しい味わいのクオリアを求めてきたに違いない。もちろん、未知の味に対する警戒心はあっただろうが、それを上回る好奇心が、結果として人類の食のレパートリーを広げ、食材の多様性を通した人類の栄養状態の改良、食糧の供給源の多角化、安定化に寄与してきたことだろう。  
生肉と焼き肉は異なる味わいのクオリアを持っている。よほどの偶然の蓄積がない限り、自然状態において、焼き肉を味わうことができる動物はいないはずである。焼き肉の味覚は、いわば、人間がそのネオフィリアに駆動された探究の結果史上初めて獲得した味わいのクオリアである。その味わいの獲得は、人類の感覚の歴史上画期的な出来事であったと言っても過言ではないだろう。  
塩を料理に常用できるようになったことも、人間の日常の味わいのクオリアを一変させたと考えられる。醤油やみそといった調味料は、それを使う文化圏の味わいのクオリアをそれまでとは全く異なるものに変えてしまった。胡椒を始めとする香辛料を求めて世界中を航海する人々の情熱は、結局のところ、新しい味わいのクオリアを求める人間のネオフィリアに駆られていたのだろう。  
もちろん、塩を始めとする調味料を使うこと、食材を焼いて調理することの意味を、客観的な栄養学の体系の中で議論することもできる。しかし、近代的な栄養学が確立したのは、人類の長い味覚の歴史の中で、ほんの最近のことである。人類が、近代的な辞書が確立する以前の言葉の長い歴史の中で一つ一つの言葉の意味を明確に定義することなく用いてきたのと同様、人類は、近代的栄養学の確立以前の長い歴史の中で、自分の味覚だけをたよりに必要な食物をとってきたのである。  
人類の長い味覚の歴史の中で、新しい味わいに挑戦するということは、自分の摂取する栄養のレパートリーを拡大することにつながるとともに、体調を崩したり、場合によっては死に至る可能性の中に自分を投企する行為であったことだろう。  
近代的な栄養学、調理法による安全圏に囲い込まれて、安心して味わいのネオフィリアを追求することができる現代人も、時には、今自分が食べているもののクオリアのユニークさをじっくりと見極めることが、潜在的には生死にかかわる重大事であった、人類の圧倒的に長い歴史に思いをはせるべきなのかもしれない。  
おいしさは、人々を饒舌にする  
クオリアという視点の興味深く、また難しい点は、二人の人間の間で、感じているクオリアが同じものであることを確認することが今のところ(そしておそらくは原理的に)不可能であるということである。  
私たちは、子供の頃からミルクを飲んでいて、それぞれが、ミルクの味わいとしてはっきりと思い浮かべることのできるクオリアを持っている。しかし、私たちの誰一人として、自分が感じているミルクのクオリアと、他人が感じているミルクのクオリアが同じものであることを確認した者はいない。  
餃子を食べると、あの独特の味わいが得られる。しかし、その味わいが、他人にとっても確かにあの味わいであることを確認する術はない。客観的に成分を分析したり、弾性や温度といった属性を測定したとしても、それ自体が、味わいの同一性を保証するものではない。  
私たちは、一人一人がその主観的な味わいの世界の中に原理的に閉じこめられているのである。  
日常的な文脈で言えば、味わいのクオリアについて言葉を通してコミュニケーションをとることが、一人一人が閉じこめられている味わいの小宇宙の中の孤立からかろうじて逃れる唯一の方法である。  
だからこそ、私たちは、今までにない味わいのクオリアに出会った時、それを他人に伝えたいという強い欲望を持つ。  
何人かで連れ立って温泉地に出かけていく女性が、現地での食事を楽しみにする。そのような時、別に「一つ普段とらない栄養素でもとってみようかしら」と思っているわけではないだろう。彼女たちを駆り立てているのは、そこにしかないかもしれない味わいのクオリア体験である。  
そして、そのようなネオフィリアの追求の結果、それまでにないすばらしい味わいのクオリアに出会うことができたら、今度はそれを誰かに伝えたくなる。自分の親しい人に、どのような味わいか教えたくなる。そのようなコミュニケーションへの衝動を通して、私たち人類は、本来プライベートな(私秘的な)ものであらざるを得ないクオリア体験を、何とか伝えようとするのである。  
そのようにしてクオリアを共有することは、人類の文化の発展の上で、大きな意味を持ったに違いない。  
数人の気の合う仲間で食卓を囲み、料理を味わうということは日常的に見られる習慣である。そのような一見何気ない日常の風景の中に、人類の生を支えるもの、人類を駆り立ててきたもの、人類の文化を発展させてきた味わいのクオリアを巡る探究の旅の原風景がかいま見えるのである。

 


   
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