白隠

 
白隠1白隠2白隠3白隠学坐禅和讃辺鄙以知吾文字絵夜船閑話禅的養生法夜船閑話評白隠4遊女大橋お多福美人鰻屋の娘お清大文字屋かぼちゃ富士大名行列圖おにあざみ白隠を考える1考える2考える3無門関禅の修行見性病気と養生仏教的仮説禅心理学的生命観禅師のお話子守唄 
諸話 / 青い目が見た白隠女性弟子大衆芸能万法帰一地獄絵延命十句観音経
 
古月和尚と伊呂波口説き

雑学の世界・補考   

鈍な者でも正直なれば、神や仏になるがすじ。 
人の命は無常である。出る息は入る息を待つこともなく、風に吹かれて落ちる露よりも儚(はかな)いものである。賢い人も愚かな人も、老いた人も若い人も、いずれが先とか後とか定まったものではない。そのため、他のことはさておいても、なによりも先に自分が死ぬときに、悔いのないようなことをまず習わなければならない。そのために日蓮は、仏典を学び、その中でもっとも優れている「法華経」の精神にたったのである。日蓮は、「法華経」に導かれて、生きることによって、臨終になっても、それを超える悟りをつかんだのである。「草取唄」 
南無地獄大菩薩。 
地獄や煉獄(れんごく)といった世界は、私たちが持つ死後の恐怖であり、そこに堕ちることへの不安にさいなまれるものである。白隠(はくいん)も、幼いときに教えられた地獄の凄まじい様相に脅え、地獄から逃れたいという一念で信仰の道に入った。ところが、地獄や極楽といったものは、人間が不安や恐怖心からつくり出した妄想である、と自覚するようになる。自分の心の迷いや邪心、満たされない思いから生れるのが不安であり、その不安から勝手に妄想を築き上げて、それに縛られている。このことを自知(じち)した白隠は、地獄こそ仏教の悟りの世界に導いてくれたとして、「南無地獄大菩薩」を唱えて、感謝したのである。「南無地獄大菩薩」 
ひげ長く、腰まがるまで生きたくば、食をひかえて、独り寝をせよ。 
海老(えび)のようにヒゲが長く、腰が曲っていても、ピチピチと健康で元気に満ちた老後を送りたいのならば、大食を控え、同衾(どうきん)せずに一人で寝ることだ、と白隠(はくいん)は説く。白隠は坐禅と呼吸法による健康法を説いているが、その前提として食欲と性欲の本能の節制こそが、長寿の秘訣であるといっている。本能のままに食欲や性欲を満たしたら、どうなるか。無鉄砲な若いときであっても、必ず体をこわすことになる。まして健康を保ち、元気なまま長生きしたいのであれば、本能のおもむくままの欲望は自制しなければならない。年相応に欲望を自制し、調整することの大切さを白隠は軽妙な海老の絵に添えた讃(さん)で書いている。「海老図」  
 
白隠慧鶴1

(はくいん えかく)貞享2年-明和5年(1685-1768) 臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧である。諡は神機独妙禅師、正宗国師。 駿河国原宿(現・静岡県沼津市原)にあった長沢家の三男として生まれた白隠は、15歳で出家して諸国を行脚して修行を重ね、24歳の時に鐘の音を聞いて悟りを開くも満足せず、修行を続け、のちに病となるも、内観法を授かって回復し、信濃(長野県)飯山の正受老人(道鏡慧端)の厳しい指導を受けて、悟りを完成させた。また、禅を行うと起こる禅病を治す治療法を考案し、多くの若い修行僧を救った。 以後は地元に帰って布教を続け、曹洞宗・黄檗宗と比較して衰退していた臨済宗を復興させ、「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とまで謳われた。 現在も、臨済宗十四派は全て白隠を中興としているため、彼の著した「坐禅和讃」を坐禅の折に読誦する。 現在、墓は原の松蔭寺にあって、県指定史跡となり、彼の描いた禅画も多数保存されている。 
 
 
白隠禅師2

 

白隠禅師は、駿河国原宿(現在の沼津市)長沢家の三男として、貞享二年(1685年)十二月二十五日の仕舞天神の日、丑の年、丑の日、丑の刻に生まれ、名を岩次郎といった。 
十五歳のとき松蔭寺で出家、慧鶴(えかく)と名付けられた。十九歳より旅に出て諸国を修行し、ついに五百年間に一人と言われるほどの高僧となり、のち臨済禅中興の祖と仰がれるようになった 
禅画をよくし、好んで釈迦、観音、達磨などを描き、現在松蔭寺に多数保存されている。 
また「駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠」とも歌われた。 
明和五年(1768年)十二月十一日八十四歳で入寂(にゅうじゃく)し、後桜町天皇より神機独妙禅師の諡号(おくりごう)を、また明治天皇からは正宗国師の諡号を賜った。
出生 
白隠禅師慧鶴は、1685年1月19日、駿河国(現在の静岡県)原の長沢家の三男に生まれました。昔、原は東海道の宿場町のひとつで、長沢家は代々原宿の駅長でした。 
出産の前夜、母は不思議な夢をみました。伊勢神宮の神の使いという男があらわれ、生まれる子は日本中の人々から慕われる人になる子だと予言したのです。 
父と母は大変に喜んで「岩次郎」と名付け、大切に育てました。 
幼少期 
岩次郎は身体的には成長が遅く、3歳までは立てなかったと伝えられています。 
けれども、非常に利発な子で、子守りが歌う、小夜の中山の村歌三百余首を、背中で聞いて覚えてしまいました。暗記力が優れていました。感受性も強く、5歳の時、はした女に連れて行かれた海岸で、雲の往来を見て「いかさまかわったものだ」と、子供ながらに、無常感を起こしたそうです。 
岩次郎の母は信心深い人で、寺へ行くのが好きでした。岩次郎は泣いてせがんで、母と一緒に連れて行ってもらいました。大人でも難しい説法を覚えて帰り、家の使用人達を集めて、話して聞かせました。 
11歳の時、母に連れられて、原の昌源寺へ日厳上人の天台の「摩訶止観」の講義を聴きに行きました。上人は雄弁に地獄の有様を説きました。血の池や針の山や煮えたぎった大釜の様子を詳細に描写しました。 
岩次郎はガキ大将で、近所の子供達を率いて悪戯をし、殺生もしました。地獄の話しを聞いて、岩次郎は恐怖に震えました。昨日、殺した沢山の蛙が恨んで、自分を地獄へ引っ張り込みにくるのではないかと思ったのでした。 
風呂に入り、湯が温まって、釜が鳴りだすと忽ち地獄を思い出して激しく泣き出すほどに怖気づきました。母から、西念寺にある天満宮は威徳霊異であると聞き、地獄の苦しみから逃れたい一心で、日々、参拝しました。 
12歳の頃、「観音経」や「大悲咒(だいひじゅ)」の読誦が霊感があると聞いてこれを唱えました。次第に出家したいと願うようになりました。 
14歳の時、徳源寺の僧に「句雙紙(くぞうし)」の素読を習い、3ケ月で暗記しました。自在身(火にも焼けず、水にも流されない悟りの境地)を得ようと固く決意していました。 
1700年、15歳の時、遂に反対していた父母の許しを得て、松蔭寺の単嶺和尚の門に入り、慧鶴と称することになりました。この寺は父の叔父である大瑞和尚が建てた所です。沼津大聖寺の息道(そくどう)和尚にも指導を受けて、非常に可愛がられました。 
修行時代 
19歳の春、息道のもとを辞して、旅に出ました。今の岐阜・福井県・愛媛県・広島県の寺を訪ね歩きました。しかし、才気ある故の慢心からか、仏法に対する迷いが生じ、出家したことを後悔するようになりました。 
仏像や経巻を見ることにさえ嫌悪を覚えました。詩歌に耽りました。 
20歳の春、美濃の瑞雲寺の馬翁和尚の処にいました。膨大な本が虫干しされている中から、「護法天竜(仏法守護の諸天善神)よ。願わくば我に正路を示したまえ」と念じて手にした一冊が「禅関策進」でした。明の雲棲が撰した、禅修業の用心策励となるべき古人の言行を集成したものです。慈明(唐僧・石霜山楚円禅師のこと)が錐で自分の股を刺して睡魔と戦い、座禅したエピソードに感銘しました。すっかり堕落していた我が非を深く反省して、再び修行する決意をしました。 
その年の6月、故郷の原から母の死を知らせる手紙が届きました。母の最後の願いとして「一心に修行して、世の人々を救うことのできる人になって下さい」と書かれていました。手放したくない我が子を仏門に入れた切ない親心に涙しました。親不孝を償う為にも、改心を誓いました。 
21歳の春、馬翁のもとを辞し、洞戸の保福寺の南禅和尚、伊自良の東光寺の大巧和尚のもとを経て、若狭小浜の常高寺に万里和尚を尋ねました。 
22歳の夏、四国の伊予の正宗寺で逸堂和尚の「仏祖三経」の講義を聴き、大いに感ずるところがあって、自信を回復し、修行を続ける決心を強めました。 
備後福山の正寿寺の正宗賛会に参加し、終わって東行しました。 
伊勢路にはいった時、馬翁の病気を聞き、急ぎ美濃瑞雲に至り、3ケ月間、献身的に看病しました。馬翁の病が快癒して、松蔭へ帰りました。 
その翌年、24歳の1707年11月22日の夜より翌朝まで、富士山の大噴火がありました。宝永山ができたのを以って、大自然の驚異を知ります。その折り、他の者達は寺を飛び出して他所へ避難しましたが、慧鶴のみ寺に留まって座禅をしていたと言い伝えられています。悟りの境地を得ようと捨て身だったのでしょう。 
翌年、24歳の春、越後高田英厳寺へ行き、生鉄(しょうてつ)和尚の人天眼目会(宋の智昭が編集した、五家の宗網を明らかにした書)に参加しました。 
その縁で、信州飯山の正受庵慧端和尚にまみえました。慧端は慧鶴の高慢を罵り、時には打ち据えて、厳しく接しました。約8ケ月の間、正受庵にいて、遂にひとつ解脱(悟る)しました。生鉄和尚に後継を求められましたが、何故か応じず、松蔭へ戻りました。 
松蔭へ帰ってからは、各地の「金剛経」「正宗賛」「碧巌集」などの講座の列席しています。悟達への飽くなき求道心があったのでしょう。 
禅病に臥す 
猛烈な禅修業をして、体調がおかしくなりました。頭がのぼせる、手足や腰が凍りつくように冷える、耳鳴りがする、消化不良と悪夢に苦しめられて、眠れない日々が続きました。いわゆる「禅病」を患いました。精神的にも疲れきって、ノイローゼになりました。本来、悟りを得れば、日常においても自由自在になれるはずだが、実際は違うと、その矛盾に迷って、心も病んだのです。 
26歳の折り、仙道・医道に通じた隠者を京都白河の山中に尋ねました。その白幽真人(はくゆうしんじん)に内観修養の秘訣を聞きました。教えを実践して治癒しました。後年、その体験は「夜船閑話」に記されます。 
漂泊 
29歳の時、伊勢建国寺の虚堂録会に出かけました。さらにその足で九州の古月和尚を尋ねるつもりで京都まで行きましたが、古月和尚の噂で気に入らないことを耳にしたので、予定を変えて、若狭円照寺に鉄堂和尚を訪問しました。 
次いで河内慧極和尚の元に行きました。「私はほぼ悟りを得たといえども、日常生活に於いては真の大安穏・大解脱に到達していない」と訴えて、示諭を乞いました。山中での暮らしを勧められました。 
和泉国視信太の曹洞宗蔭涼寺に半年程滞在しました。翌春、美濃保福寺で3ケ月の修行をしました。秋には美濃の岩崎霊松院万休和尚のもとに至りました。 
それぞれに大いに感じるところがありました。 
31歳の春、虎渓山に赴き、山之上村の巖滝山に、土地の居士の庇護を得て草庵を作りました。ひとり座禅修行をして、32歳の冬まで過ごしました。 
故郷へ 
その頃、父が病気になり、老僕が遥々と山中に尋ねてきました。強いて懇願し、遂に慧鶴を松蔭寺へ連れ戻しました。33歳で、破れ寺になっていた松蔭の住職になりました。 
翌1718年(享保3年)3月11日、妙心第一座の位を得て、34歳ではじめて「白隠」と号しました。その語義は、富士山が雪におおわれ、山肌を白く隠されて、麗しく聳え立つ意です。少年時代から秀麗な富士の姿に魅せられていたのでしょう。
おらの村のおしょうさま 
やがて「白隠禅師」の名は四方に広がり、僧侶だけでなく、大名や武士、農民や町民まで、教えを求めて松蔭寺を訪れるようになりました。 
寺の大広間で数百人の人々に仏法を説くこともあれば、田圃の畦道に腰をおろして、農家の年寄りと親しく仏教説話を語りました。村人達に慕われました。 
1736年(元文元年)52歳の時、僧堂が初めてできました。貧乏寺も、住職20年にして面目を整えました。 
禅道布教 
1740年(元文5年)56歳の春、「虚堂録」を提唱しました。集まった修行僧は400余人でした。その時の開講に際しての解説は1743年(寛保4年)に上梓されました。この会(え)で白隠の名は天下に広まりました。 
1749年(寛延2年)門人等に請われて「大灯録」を提唱しました。 
1751年(宝暦元年)67歳で備中井山の宝福寺に行き「四部録」を提唱しました。次いで、妙心養源院で「碧巌録」を講じました。 
1752年(宝暦2年)68歳、比奈(吉原市)の無量寺が改築落成します。白隠を開祖として、東嶺が住職となります。1753年(宝暦3年)69歳。美濃東光寺で「毒語心経」を講じ、正受老人の33回忌を修しました。 
1759年(宝暦9年)75歳、江戸深川臨川寺で「碧巌録」を講じました。上野池の端東淵寺で残りを講じました。「十句観音経霊験記」を書きました。12月、至道無難禅師の遺蹟、小石原の至道庵を入手して帰国しました。 
1760年(宝暦10年)76歳、2月、東嶺の尽力で三島龍沢寺が落成し、白隠開山となり、東嶺が住職となりました。 
1764年(宝暦4年。明和と改元)80歳、2月「大応録」を講じ3月に終了しました。非常な盛会でした。この頃より疲労が酷くなりました。 
1766年(明和3年)82歳、江戸に至り、渋谷東北寺に無難禅師の墓参をしました。小石原至道庵に入り、改築の状況を見ておおいに喜び、半年滞在しました。その間、日々法施を行じました。東嶺も師を助けて「碧巌集」を講じたりしました。多くの僧俗が集まりました。冬、松蔭に帰りました。 
1768年(明和5年)11月、松蔭にて臥床します。12月11日の暁、遷化しました。84歳でした。 
門人達が松蔭、龍沢、無量の三寺に分骨して塔(墓)を作りました。 
明和6年、神機独妙禅師と朝廷より謚(おくりな)されました。明治17年には更に正宗国師と追号されました。  
臨済宗・中興の祖 
臨済宗の始祖は臨済義玄(いんざいぎげん)です。臨済宗が日本に伝わったのは、鎌倉時代の初め、栄西禅師(えいさいぜんし)によってでした。武士を中心に広まりました。 
江戸時代になると、檀家制度ができ、幕府によって生活が保障され、僧達は修行や布教をしなくなり、すっかり堕落しました。 
白隠然師は平易な言葉でわかりやすく、人々に禅を教えました。現在の日本臨済宗を確立しました。故に、臨済宗の中興の祖といわれます。 
更無二念 
「さらに二念なからしむべからず」と読みます。白隠禅師の教えのひとつです。 
無心になる最も有効な方法として、二念を継ぐべからずと説いたのでした。初心を貫けないから様々な煩悩に苦しむのです。雑念を払う工夫を庶民にも理解できるように話したのでした。  
逸話 
白隠の檀家の未婚の娘が妊娠しました。シングルマザーでも颯爽と生きる女性もいる現代ではありません。ふしだらだと世間から白眼視されます。怒った父親が相手は誰かと問い詰めました。余りに責められたて、娘は白隠だと答えました。父親は白隠の所へ怒鳴り込みました。白隠は何の言い訳もせず、生まれた赤子を引き取って育てました。師は堕落したと去っていく弟子もいました。 
白隠は子を可愛がりました。3年が過ぎ、娘は良心の呵責と我が子恋しさに、遂に耐えかねて、父親に嘘をついていたことを告白しました。父親は仰天して、白隠に謝りました。白隠は「そうか」と子を娘に返しました。 
実話か否かは明確ではありませんが、全てを悠々と受け入れる人柄をあらわした物語でしょう。相手に流されて主体性がないようでいて、その時の状況によって、娘にとって最良の対応をしています。 
白隠は沢山の隠し子がいると噂されたこともあります。白隠の高名を妬んだ者が、家族に恵まれない児童を引き取って養育していることを、捻じ曲げて中傷しました。
松掛けの鉢 
白隠禅師70歳の頃、31万石の岡山の城主・池田候が参勤交代の途中で松蔭寺に立ち寄りました。しばしの清談をして、辞去せんとして、池田候は「なんなりと望まれたし」と寄進を申し出ました。松蔭寺には大勢の修行僧がいて、毎日の糧にも事欠く困窮のなかにあったにもかかわらず、白隠は小僧が壊した擂り鉢一つを乞いました。質素を美徳として、生涯のほとんどを黒衣で過ごした白隠らしい答えでした。 
池田候はその無欲に感銘して、備前焼の大擂り鉢数個を作らせて届けました。 
その中の1個が松掛けの鉢として残っています。 
松蔭寺横にあるすり鉢の松です。松の木にすり鉢がのっているのがわかるでしょうか? 
白隠禅師が台風で折れていた松を不憫に思い、池田の殿様から贈られた鉢の一つを松の折れた部分にかぶせたそうです。 
そうすると、その松は白隠禅師の気持ちに応えるようにぐんぐんと鉢をかぶったまま立派に伸びました。 
不思議とその鉢は台風が来ても嵐が来ても落ちることがなかったそうです。 
現在の鉢は昭和60年に取り換えられた鉢のようです。  
白隠の健康法 
26歳の折、白隠は京都白川の山中に白幽真人という仙道と医道に通じた隠者を尋ねています。前述したように、その頃の白隠は重症の「禅病」を患って、心身が衰弱しきっていました。白幽から、養生の秘法を教えられ、実践して、治癒しました。その体験を72歳の時に「夜船閑話」に書き残しました。 
内観法 
原則として夜の就寝前と朝の起床前に寝床で行う。寝床はふわふわしていてはいけない。背筋がピンと伸びる平らな物、煎餅布団が最もよい。 
仰向けの姿勢は最も楽な姿勢である。 
この姿勢は宇宙に一切を委ねた姿である。 
30分が標準だが、個々のライフスタイルにあわせて、何分でもよい。 
放下着(ほうげちゃく) 
心中のモヤモヤした雑念を全て吐き出し、心を空っぽにすること。 
数息観(すそくかん) 
呼吸数を数えながら、丹田呼吸(下腹部に重点をおく呼吸法)を行うこと。 
床に入り、上を向いて静かに横たわる。 
枕の高さは拳ひとにぎりくらいが適当である。 
両手は脇に卵1個を挟んだくらいに自然に開く。 
両足は腰幅程度に開いてリラックスする。 
全身の力を抜く。 
両足を強く伸ばして踏み揃え、丹田呼吸をする。 
丹田呼吸の仕方 
身体中の息をすっかり吐き出す。 
大気を鼻の孔からゆっくりと深々と吸う(心の中で「ひとーつ」「ふたーつ」「みっーつ」と語尾を伸ばして数える) 
下腹部に空気を満たす気持ちで「吸気」を行う。大気は肺に満ちて、横隔膜は下がり、下腹部が広がる。臍下丹田の充実感を覚える。 
「吸気」の所用時間は5秒以上かける。 
充分に大気を吸収したら、1-2秒、息を止めて「呼気」の準備をする。 
「呼気」も心の中でゆっくりと「ひとーつ」「ふたーつ」と数えながら、静かにゆっくりと5秒くらいかけて、鼻の孔から大気を吐き出す。横隔膜は上がり、下腹部はへこむ。修練により、1呼吸に15秒程度できるように努力する。 
内観 
放下着のうえ、丹田呼吸を行っていると、心身が充実する。気分が落ち着き、安らかになり、一種の催眠状態になる。観想(心で見、深く思う)を行う。 
次第に身体全体の気が下半身まで満ち渡り、手足から身体全体へと温かくなり、心地良くなり、眠気を催し、そのまま熟睡できる。非常に有効なストレス解消になる。  
軟酥(なんそ)の法 
自己暗示によって、精神意識を変えさせる精神療法である。 
卵くらいの大きさの軟酥(柔らかいバターのこと)の丸薬を頭に乗せたイメージを思い描く。丸薬の清らかな色と馨しい香りが頭全体を浸し、両肩、両手、胸、内臓まで浸透し、潤すと想像する。全ての内臓の疾患や腹部の疼痛が消失する有様が意識できる。 
軟酥は両足を温め、足の裏まで到達して止まる。 
この方法を熱心に何回も根気よく行えば、どんな病気も治せると、白隠禅師は言っている。 
頭寒足熱による養生 
禅の健康法の基本的な考え方である。 
就寝するときは、下肢を温かくしておくと、寝つきがよく、爽快に目覚めることができる。 
日中は足を温かくしておけば、上半身は薄着でも快適に過ごすことができる。 
内観法と軟酥の法は、観想により頭寒足熱を実現する。 
丹田から足の爪先まで温かくして、気持ちよくする。 
その逆で、心気が頭にきた状態は、心火逆上(のぼせ)という。頭寒足熱状態では、心気がさがる。 
頭を涼しく、下半身に熱い心気を充満させれば、心が澄み切り、感情が揺れない。頭痛が治る。 
これを「真観清浄観」という。  
白隠禅師の書画 
白隠禅師は禅芸術の最高峰というべき書画を残しています。強烈な個性を発揮した独自の世界を創りだしています。ユーモラスな文字絵も描いています。自由闊達な人物を想像させます。 
慧鶴と名乗っていた22歳の頃、松山藩の家老奥田氏に招かれ、多くの書画を見た中に、妙心寺の大愚宗築和尚の墨蹟がありました。技巧的には巧みではありませんでしたが、絹に巻き、筐に入れて大切に扱われているのは、文字の巧拙に関らず、和尚の徳の故だと慧鶴は気付きました。これより、文筆に興ぜず、一心に道を求めました。その際のカルチャーショックは白隠の精神の奥で熟成され、自由奔放な作風になったのでしょうか。 
関西の鑑識家で、白隠画の蒐集家だった山本発次郎氏(故人)は、ルソーもピカソも、白隠の傑作を見たら、絵筆を投ずるに違いない。雪舟もミケランゼロもダ・ビンチも平伏するより他にないと、特に白隠の晩年の作品を絶賛しています。東京京橋の近代美術館に白隠の「出山釈迦像」が、他の近代的な絵に伍して並べられたことがあったが、決して古く感じさせなかったそうです。 
ヨーロッパの人達にとって、墨絵は全くの異文化でしょうが、スイス・ドイツ・スペインなどで、白隠の展覧会が開かれ、好評でした。魂のこもった芸術はハートに響くのです。 
オーストラリア・ウィーンでは、毎日1000人以上の人が訪れて、いつも満員で、テレビでも紹介されたそうです。 
白隠が好んで描いた達磨像は百数十点あり、このエネルギーは現代人が倣うべきかもしれません。 
 
 
白隠禅師3

 

「駿河には、すぎたるものが二つあり。一に富士山、二に原の白隠。」ということばが、昔から人々の間で言われてきました。 
これは、日本一の富士山と同じように、白隠禅師がたいそう立派なお坊さんであったことをよく表わしている言葉です。 
白隠禅師は、今からおよそ二百九十年前の貞享二年(1685)に、原で生まれ、色々と世の中のためになる仕事をして、沢山の人々を助け、ふるさとの松蔭寺で亡くなった偉いお坊さんです。のちに国師という高い位を贈られました。 
原は昔、東海道の宿場町のひとつで、旅をする武士や町人たちが、疲れを休めたり馬の乗り継ぎをしたりする、人通りの多い町でした。 
その原にある「おもだかや」というはたご屋のおかみさんが、子供が産まれる前の夜、不思議な夢を見ました。それは、深い眠りの中に、白い衣に黒い冠のきちんとしたみなりの男の人が現れ、 
「わたしは、伊勢神宮の神様の使いの者である。こんど生まれる子は、ただの子供ではない。日本中の人々から慕われる立派な人になる子であるから大事に育てなさい。」といって、すうっと消えてしまったのです。 
そして、次の日、大きな目に黒目が二つ重なった輝くような目をした男の子が産まれました。 
「この子は、きっと強い人になるに違いない。「男の一心、岩をも通す」と言う言葉がある。この子が自分の決心をやり通す人になるように、岩次郎と名前を付けよう。」と、父も母も大変喜びました。この岩次郎こそ、のちの白隠禅師です。 
岩次郎は、幼い頃から大層利口な子で、子守が歌う「小夜の中山、夜泣き石」という長い歌を背中で聞きながらいつの間にか覚えてしまいました。 
岩次郎が六才の時のことです。岩次郎の母は信心深い人で、よくお寺へお坊さんの話を聞きに行きました。 
岩次郎も母と一緒にお寺へ行くのが好きで、母が「岩次郎や、おまえは家で遊んでおいで。」といっても聞きいれません。 
「おかあさん。一緒に連れて行って・・・」とせがみ、しまいには泣き出してしまうほどです。母はしかたなく岩次郎を連れてお寺へ出かけるのでした。 
けれども、お坊さんの話は、いつも難しい話しです。普通の子供だったらとても解りはしません。ところが岩次郎はそういう難しい話しをすっかり覚えて帰ってくるのでした。 
家へ帰ると、家中の座布団を積み重ねて、岩次郎はその上に座ります。そして、使っている男の人や女中さんたちを集めては、その日に聞いたお坊さんの話をします。大人でもよく解らない仏教の言葉を自由に使うので、聞いているものは目を見張りました。 
「なんという利口な子だろう。」と、人々はただ感心するばかりでした。 
岩次郎が、十一才の時のことです。 
原の昌源寺に、その頃有名な日厳上人(にちがんじょうにん)というお坊さんが来ました。岩次郎は、母に連れられて日厳上人のお説教を聞きに行きました。広間には、もう沢山の人が集まっていました。 
日厳上人は、高いところに座ると、みんなの顔を見渡してから、話しを始めました。 
「さて、皆さん。今日は地獄のお話しです。この世に生まれた人間は、いつかは死ぬということから、逃げることは出来ません。人間が死んでから行くところは、極楽が又は地獄です。極楽は楽しいところですが、地獄は恐ろしいところです。どういう人が、地獄へ行くかといいますと、それは、この世の中に生きているうちに、悪いことを沢山した人です。地獄には、針の山だとか、血の家だとか、恐ろしい場所があります。針の山を登る人は、痛がって泣き叫んでいます。血の池を渡る人は、蛇に噛まれて苦しがっています。それだけで終わりではありません。冷たい氷に閉じ込められたり、ぐらぐらと煮えたぎった地獄の大釜に入れられて釜ゆでにされたり、恐ろしいことがいつまでも続くのです。皆さんのうち、誰一人としてこういう恐ろしい所へ行きたいと思う人はいないでしょう。」 
岩次郎は、この話しを胸をどきどきさせて聞いていました。そして、のどが詰まりそうになりました。それというのも、岩次郎は、昨日、かえるを何匹も殺したことを思い出したからでした。あの沢山のかえるが怒って、自分を地獄というところに引っ張りこんではないかと思い、恐ろしさにそばの母の手をぎゅっとにぎりしめました。針の山を登るときも、血の池を渡る時も、何十匹というかえるが自分をとりまいてけらけらとあざけっている様子まで目に浮かんできます。 
岩次郎が、夕方、家に帰って来ても頭の中は地獄のことでいっぱいでした。 
おふろに入った時、母がふろばの外から、 「岩次郎や、少しぬるいかもしれないから、燃やしてあげるよ。」と言いまいした。 
まもなく、湯は熱くなってきました。母が、たき木をいっぱい入れて、どんどん燃やしているかのでしょう。たき木がパチパチとはぜています。そして、釜がゴーゴーと音を立て始めました。水面から湯気がたち、湯は、ますます熱くなってきました。 
岩次郎は、地獄の大釜のことを思いだして急に怖くなりました。岩次郎は突然、 「怖いよう。わーん。」と、おふろの中で、大声をあげて泣き出してしまいました。 
母は、びっくりして、 「どうしたの。岩次郎。急に泣いたりして・・・。」と、聞きましたが岩次郎は答えようともせず、激しく泣いているだけでした。 
しばらくして、ようやく、小さな声で、「おかあさん、俺、地獄へ行くかもしれないよ。地獄へ行ったら、どうしたらいいか教えて、おらあ、怖いよう、怖いよう。」と、話しました。 
母は、地獄の苦しみから救われる方法を聞かれて、どう答えていいか解りませんでした。岩次郎があまりに怖がるので仕方なく、「岩次郎や、仏様を信じ、心からお祈りをすれば、地獄の苦しみから救ってくれるに違いないよ。」と、答えました。 
それから、岩次郎は、毎日、夜中に起きて仏様の前に座り、目をつぶり、両手を合わせて、「どうか仏様。地獄の苦しみに遭わないよう、お助け下さい。」と、祈り続けました。 
こうして、二年程たちました。 
毎日のお祈りを続けているうちに、岩次郎はいつのまにか、お坊さんになりたいと決心するようになっていました。 
(そのためには、何よりも勉強だ。命がけの勉強だ。) 
そう考えた岩次郎は、雨の降る日も、風の吹く日も、家から四キロメートルもある愛鷹山へ出かけていきました。 
柳沢の部落の奥に、八丈石といわれる上が平らな大きな岩があります。まわりには、色々な形をした岩が多くあり、岩の下には、清らかな水が流れていて、修業をするのにふさわしい静かな所です。 
岩次郎は、近くの岩に仏様の姿を刻み、八丈石の上に座って、一生懸命に勉強しました。 
「岩次郎や、今日は、雨がひどく降るからやめたらどうだ。」と、父が止めても岩次郎はやめません。 
「岩次郎や、今日は、風が強いからおやめ。」と、母が言ってもやめません。 
岩次郎が、毎日、山の中へ行くことを知っている村の人は、「今に天狗にさらわれるか、谷川のかっぱに食われてしまうか。その時になって後悔しても追いつかないぞ。」と、岩次郎に言いました。 
それでも、岩次郎は、一日も勉強を休みません。難しい仏教の本を手に持って、八丈石や、時には、もっと上にある赤野の観音堂にも行くのでした。 
父は、もともと武士の血すじをひく人でしたので、岩次郎の固い決心を知って、ついにお坊さんになることを許しました。 
こうして、元禄十二年(1699)の冬のある日、ひっそりと梅の花のほころぶ松蔭寺で十五才の岩次郎は、お坊さんになる式をうけ「慧鶴(えかく)」と名付けられました。そして、和尚さんに向かい、「燃え上がる火も激しく流れる水も恐れない力を持つまでは、絶対に修業を止めません。」と、固く誓いました。 
岩次郎が慧鶴は、長く座り続けて心を磨く「座禅」という修業をはじめ、色々な厳しい勉強を続けました。 
お坊さんになってまもなく、沼津の幸町にある大聖寺で勉強し、十九才の時、ひとりで旅に出ました。そして、今の岐阜・福井・愛媛・広島などの県にある寺を次々と訪ねました。 
二十才のときの六月、今の岐阜県にある瑞雲寺という寺で修業をしているとき、ふるさとの原から手紙が届きました。開いてみると、それは母の死の知らせでした。手紙には、岩次郎への母の最後の言葉が書いてありました。 
慧鶴は泣きました。そして、はるかにふるさとの方を伏し拝み、心静かに母の最後の手紙を読みました。 
「岩次郎や、「地獄の苦しみを恐れない心を持ちたい。」というおまえの願いを知って、母は、反対されていた父上にお話しして、おまえを仏の世界に手放しました。母も本当はおまえを放したくなかったのです。 
母の命の終わりにあたって、ただただ願うことは、立派なお坊さんになるのだという決心を失わず、一心に修業して、世の人々を救うことの出来る人になって下さい。もしも岩次郎、母を思い出す時があったら、世の中のかわいそうな人々のために尽くしてあげなさい。」 
慧鶴は、込み上げる涙を抑えることは出来ませんでした。そして、母の病気も知らず、何のお世話をも出来なかったことを詫びました。今はただ、仏の道に入った自分が母の最後の教えを果たすことが親孝行であると思い、修業に励む決心を一層強くしました。 
色々な土地を、修業して歩いた慧鶴は、二十三才の年に、ふるさとの松蔭寺に帰りました。 
松蔭寺に戻った宝永四年(1707の十一月、富士山が噴火しました。百も千もの雷が、一度に落ちてきたようなものすごい音がして、天まで届くかと思われる火の柱が立ちました。と思うまもなく、原の村人の家は、地震の時のように揺れ動き、どろどろに溶けた岩が山の方から押し寄せて来ました。村人たちは、年寄りの手を引いたり、小さな子供をおぶったりして、みんな海の方へ逃げました。 
そういう騒ぎの中で、慧鶴だけは、松蔭寺から一歩も出ないで、一心に座禅をしていました。 
「捨て身の修業をしないで、どうして、火も水も恐れない心を作ることが出来ようか。」と、祈り続けるのでした。 
この噴火で天に舞い上がった灰は、それから十五日間も、原の宿の上に降り続けました。この時、新しく出来た山が宝永山です。 
その後、数々の修業を積んだ慧鶴の名は、だんだんと日本全国に評判となり、享保三年(1718)三十四才の慧鶴は「白隠(はくいん)」と名乗るようになりました。 
仏の道を求めて、およそ三十年、四十二才の秋、静かな夜の空気を震わせているきりぎりすの声に混じって、寺の一室から白隠禅師の泣き声が聞こえてきました。 
それは、「生者必滅、諸行無常(しょうじゃひつめつ しょぎょうむじょう)」の人々の迷いや恐れを離れて澄み切った仏の心を持つことが出来た喜びの声でした。お経の本は涙に濡れ、長い修業の間に衣は傷み、体は疲れ切っていましたが、禅師の目は、何者にも恐れない強さと、すべてのものをいたわる暖かさを備えて、清らかに輝いていました。 
白隠禅師の名は、四方に広まり、お坊さんばかりでなく、大名、武士から農民や町人まで教えを求めて松蔭寺をたずねる人々が多くなりました。 
禅師は、寺の大広間で、何百人という人々に仏の道を教える時がありました。また、田のあぜ道に腰をおろして、農家の年寄りと、友達同士のように仏教の話しをしました。村の人たちは、「おらの村のおしょうさまだ。」と、心から慕いました。 
今の佐賀県の領地を治めている大名の鍋島藩の殿様は、時々白隠禅師を訪ねました。 
ある時、ちょうど五月のお節句でしたので、村の人が、かしわもちを松蔭寺にお供えしてくれたので、これをおすすめしたところ、鍋島の殿様は半分割って口に入れましたところ、飲み込めませんでした。いつも大変おいしい料理を食べている殿様の口には合わない、まずいものであったからです。 
禅師は、「無理でもこれをおあがりなさい。理屈だけで人の世を治めることは出来ません。人々の暮らしの実際の様子をよく知り、人々の思いがどんなものであるかが解らなければ、世の中を立派に治めることは出来ません。」と、言いました。鍋島の殿様は、禅師のこの教えを心からありがたく思いました。 
世の人々に、仏の道を教えた白隠禅師は、宝暦二年(1752)には、富士市比奈にある無量寺、三島市にある龍沢寺などの新しい寺を、弟子たちと力を合わせて開き、仏を広げることに力を尽くしました。 
一生を修業と考え、人々の心に希望をあたえた白隠禅師は、明和五年(1767)の十二月、八十四才で亡くなりました。禅師は、この世を去りましたが、禅師の教えた禅の心は、弟子たちや多くの人によって受け継がれ、今の世の中にも生きています。 
特に、禅師が筆に黒い墨を付けただけで書いた絵は、仏教の教えの解らない人に対しても、心を打つものがあります。 
原の松蔭寺にある白隠禅師の墓、禅師の書かれた仏教の本と絵は、静岡県の文化財に決められ、大切に守られています。 
 
 
白隠学

 

白隠禅師 
白隠慧鶴禅師(1685-1768)は日本臨済禅中興の祖として、最も著名かつ重要な宗教家である。いま日本に伝わる臨済禅の法系はすべて白隠下になるから、現在の臨済禅は文字どおり「白隠禅」といってよい。  
ところで、一般的には、白隠とはいかなる人物として認知されているのであろうか。 
「広辞苑」  江戸時代の臨済宗の僧。駿河の人。名は慧鶴、号は鵠林。正受老人の法を嗣ぎ、京都妙心寺第一座となったが、名利を離れて諸国を遍歴教化、臨済宗中興の祖と称され、庶民に慕われた。気魄ある禅画もよくした。謚号、正宗国師。著「語録」「夜船閑話」「槐安国語」「遠羅天釜」など。  
「日本国語大辞典」  江戸中期の臨済宗の僧。諱は慧鶴、別号は鵠林、敕諡は神機独妙禅師・正宗国師。正受老人の法を嗣ぎ、故郷の松隠(ママ)寺に住したが、翌年、妙心寺へ入り、のち名利を嫌って諸国を遊歴し、仏教を教えた。臨済宗復興の祖といわれる。著に「槐安国語」七巻、「夜船閑話」「遠羅天釜」など。  
これらの記述で白隠の何たるかが端的に伝わっているかといえば、必ずしもそうではない。むしろ、この短文の中に、すでに重大な過ちが潜んでいるのだ。たとえば、「妙心寺第一座となったが、名利を離れて諸国を遍歴教化、…庶民に慕われた」とか、「妙心寺へ入り、のち名利を嫌って諸国を遊歴し」というところである。  
「広辞苑」は、どうやら「妙心寺第一座」を何か高い階位であるかのように解しているようである。「第一座」という高い位になったが、そのような名利を嫌って諸国を遊歴し、その結果、「庶民に慕われ」た、と受け取れるように説明しているからである。  
ここの記述は、「白隠年譜」享保3年、34歳の条に出る「冬十一月、位を花園第一座に転じ、白隠と号す」とあるのをふまえたものだろうが、そもそも「第一座」というのは、妙心寺派寺院の住職となり得るための最低限の僧職階位を言うものであって、いささかも「名利」の対象となるべきものではない。また「妙心寺へ入る」と言えば、通常は妙心寺住職となることを意味することになるのだが、白隠の場合、そのような事実はない。  
上に引いた「白隠年譜」の部分は、いわば、妙心寺派僧侶としての最低限の資格を取得するという事務手続きを行なったというに過ぎないのである。したがって「名利を離れて」「名利を嫌って」の表現は無用である。「名利を離れる」ことが高僧の条件であるといった、安易な前提がそこにありはしないかとも思えるのである。  
その他、白隠といえば、「一生、黒衣で通した」「庶民に分かりやすく法を説いた」「幼児期に体験した地獄の恐怖を、厳しい修行によって克服した」といった類のことがよく言われる。これらは必ずしも間違いではないが、だからといって、そのようなこま切れの事実を連ねたところで白隠の本質を言い現わすことには必ずしもならないのである。  
白隠研究のあゆみ 
白隠について書かれた随想・論文、紹介書・入門書はかなり多くある。とは言うものの、同じ禅僧である良寛や一休にくらべると、その数は格段に少ない。  
1997年、白隠研究のためにイタリアから来日した女性がインターネットで検索したところ、白隠関係の文献は120種ほどあったが、どれも同じことを書いてあり、結局三、四冊を読んだに過ぎない、と感じたという。実のところ、彼女の感じ取ったところは正しい。  
これらの「白隠関係論文」の大部分は、実は論文というよりは、学者・作家・評論家・好事家などが、白隠という禅僧を啓蒙的に紹介するために書いた文章であって、その内容は、およそ次の三種に大別される。  
高僧としての白隠伝(幼児期の地獄体験、刻苦修行とその克服)  
健康法(夜船閑話、遠羅天釜の概説紹介)  
白隠禅画についての随想  
1996年頃から、因縁あって、私も白隠禅師全著作を整理する仕事に関わることになった。ひととおりは白隠については「知っているつもり」ではあったが、正直なところあまり好きな禅僧ではないという先入観があった。子供の頃の地獄の体験、そしてその克服、またある種の仮名法語で執拗に繰り返される因果話など、つまり、上に分類したような白隠伝の紋切り型が記憶にしみついていて、どうも好きになれなかったのだが、このような白隠に対する抵抗感はひとり私だけではないようである。  
ところがである、仕事を進めるにしたがって、どんどん考えが変わった。禅師にはたいへん申し訳なかったのだが、私の了簡が狭かったにすぎない。しかも「私の了簡」だと思っていたのは、実は先行する諸氏の上記ABCのような「研究の成果」を読みかじって、それを自分の白隠に対する理解だと思っていたにすぎなかったのだ。白隠自身の著作を読み進むにしたがって、諸氏の解釈は、白隠の一部を捉えてはいるが、白隠禅師の全体像そのものではないと、そんな当たり前のことにようやく気づかされたのである。  
1868年頃の白隠観 
白隠がいつごろから「中興の祖」と呼ばれるようになったのかは定かではないが、没後100年にはすでにそのような認識が定着していた。  
「中興の祖」とは、文字どおり「一旦すたれた宗旨を挽回した人」ということだが、白隠は宗旨を旧態に復したのではない。むしろ、新しい時代に即応した人類救済のプログラムを提起した、一箇の宗教改革者であったというべきであろう。  
では、現今の日本臨済宗は白隠の宗教改革の結果であるかといえば、必ずしもそうではない。白隠の提唱した宗教改革は、未だに全うされぬままであると言ってよい。  
たとえば、白隠没後100年はちょうど明治元年に当たる。このころ、臨済宗では現在の修行形態である「専門道場」がほぼ出揃い、そのシステムが現在に至っている。けれども、これらの修行方法は必ずしも白隠が意図したものではない。  
そしてまた、明治期になると「白隠禅師坐禅和讃」が日課として採用されて誦まれるようになっているが、これも禅師は期待しなかったことであろう。「坐禅和讃」は白隠の若いときの著作ではあるが、禅師はそこに書かれていることを一生涯、標榜したのでもなかった。  
「坐禅和讃」は白隠禅を端的に著わすものではない。一見一聞、俗耳に入りやすい和讃形式であるために、宗門当局者によって、大衆教化の一方便として安易に採用され、そのまま惰性として定着したものではないか。  
「坐禅和讃」は今もなお、臨済宗では日課として誦まれ、在家信者にも勧められる基本聖典であるが、これは白隠禅の核心ではない。白隠がもっとも熱心に一貫して主張したのは、四弘誓願の実践、つまり永遠の菩薩行の実践ということである。  
白隠は、自らが考案した「隻手の公案」をはじめとするいくつかの公案によって、とにかく見性をせよ、という。しかし、これが最終目標ではない。さらに「悟後の修行」をすべきことを勧めるのである。「悟後の修行」とは、「上求菩提、下化衆生」のたゆまぬ実践、永久革命である。白隠は坐禅の効用だけを説いたのではない。 
このような白隠禅の特質が認識されぬまま、白隠は没後100年にして、妙心寺派の傑僧・高僧として奉られるに至ったといってよい。 
 
「壁生草」上「中に就いて貴ぶべきは悟後の修行なり。作麼生か是れ悟後の修。菩提心を以て第一と為す。古え春日の大神君、笠木の解脱上人に告げ玉わく、大凡倶盧孫仏より以来の智者高僧、菩提心無きは、皆な尽く魔道に堕すと。予大いに常に此の事を疑うこと久し。…初め廿五歳の時、此の事を疑つて、漸く四十二歳の時、不慮に此の大事に撞着して、豁然として掌上を見るが如し。作摩生か是れ菩提心。法施利他の善業是れなり。此れより誓つて四弘誓願輪に鞭撻して、馬年既に八旬余に到れども、終に怠堕せず、請に応じ五十里百里を経ると雖も、少しも恐れず分に随いて法施を行ず」。  
「主心お婆々粉引歌」「「悟後の修行とはどの様な事ぞ…。是は大事を御尋ぞふよ。…悟後の大事は即ち菩提。…たとひ天下の智者高僧も、菩提心なきや皆々魔道。菩提心とはどふした事ぞ。…上求菩提と下化衆生なり。四弘の願輪に鞭打あてゝ、人を助くる業をのみ。人を助くにや法施がおもじや…」。  
白隠は四十二歳の時に最終的に大悟したという。そのことを「年譜」では「師、四十二歳。秋七月…徳源の東芳、差して「法華経」を読ましむ。一夜読んで譬喩品に到り、乍ち蛬の古砌に鳴いて声声相い連なるを聞き、豁然として法華の深理に契当す。初心に起す所の疑惑釈然として消融し、従前多少の悟解了知の大いに錯って会することを覚得す。経王の王たる所以、目前に璨乎たり。覚えず声を放って号泣す。初めて正受老人平生の受用を徹見し、及び大覚世尊の舌根両茎の筋を欠くことを了知す。此れより大自在を得たり」と記す。  
この記述では、何を悟ったのかは判然としないが、「年譜草稿」の補記では、この時のことを「後久疑菩提心、是何等者。久□至不惑之年、決定菩提心是不出四弘誓願輪」という。つまり「菩提心とは是れ四弘の誓願輪を出でざること」を悟ったというのである。
明治から1968年まで 
明治30年代には二種の白隠禅師集が刊行され、さらに昭和に入ると、白隠著作を集大成した「白隠和尚全集」が刊行された。著作集の刊行は研究史上、画期的なことであり、それより以降、展開するであろう研究を保証すべきものであった。  
これら二種の白隠禅師集の翻刻では、原本の読み間違いが多く見られ、完全なものとは言い難いものではあったが、それよりさらに残念なことは、刊行以来、半世紀以上もの間、これらの誤りが補訂すらされずに放置されて来たことである。翻刻の誤りによって、まるで逆の意味になっているところも少なくない。それがそのまま英訳になったりしているのである。すべて、日本人研究者の怠慢に他ならない。  
零細な研究成果の中にも、着目すべきいくつかの成果もあった。殊に光芒をはなっているのが、野に在って研究された陸川堆雲の「考証白隠禅師詳伝」である。すでに36年前の精華である。  
よく白隠禅師は「平易な言葉で民衆に禅を説いた」などと解説するものが多い。仮名法語の中には、その種のものが皆無というわけではない。たとえば「粉引歌」「安心ほこりたたき」などにしても、一見いかにも平易そうなタイトルであり、七五調の俗謡の形式をとったものだが、その内容はかなり難解なものである。  
「平易な言葉で」などという解説は、おそらくは碌に原本を読みもしないで書かれたものとしか思えないのである。陸川堆雲はつとに「一見卑俗らしく思へるが、歌は禅の挙揚そのものであって、是は寧ろ久参の上士でなければ、歯の立たない内容である」と看破している。  
禅師はまた、現実の社会を直視し、政治の矛盾などを見抜き、はばかることなく直言している。その代表作が「辺鄙以知吾」であろう。徳川幕藩体制の根幹である参勤交代の大名行列がいかに無意味であり、いかに民百姓の負担になっているかをズバリ批判し指摘している。御政道批判はご法度の江戸時代である。案の定、「辺鄙以知吾」は絶版禁書に処せられた。この禁書の一件を最初に指摘されたのも陸川堆雲である。  
しかしながら、それ以降、メジャーな作家や評論家、学者によって陸続として白隠本が刊行されたが、このような問題に触れたものは皆無であった。相も変わらず、地獄の恐怖を克服する禅師の前半生を語り、あるいは健康法としての「夜船閑話」を語り、白隠の墨跡・禅画についての感想を述べるばかりであった。  
白隠墨跡・禅画への関心 
明治以降、殊に脚光をあびるようになったのが、白隠の書画である。山本発治郎、細川護貞といった熱心な美術収集家によって、白隠の書画の収集と保存が計られ、武者小路実篤、岡本かの子といった文人もこれに美術的評価を加えた。  
さらにはクルト・ブラッシュらの参加があり、第二次大戦後の世界的文化潮流の中でゼン・ブームと呼ばれるような動きもあって、白隠禅画は世界的な関心を惹起することになり、現在に至っている。  
明治以降、白隠の名はその墨蹟・禅画に対する興味の方が先行して、ひろく知られるようになったといってもよい。これは慶賀すべきことではあったが、墨蹟以外が究明されて来たかどうか、はなはだ疑問にも思う。禅師は単なる絵かきではない。あくまでも宗教家である。勘違いしてはならない。残されている禅師の膨大な著作との関連において、その禅画にこめられた禅師の意図が考察・解明されねばならないだろう。  
禅哲学者の久松真一は、白隠の書画を「力がある」「どっしりとして、とても動じない」「深さ」「鋭さ」「落ちつき」「枯高」「嶮しさ」といった言葉で言い表している。他の評論家もおおむね同じ方向でとらえているといってよい。けれども、これらの評語があてはまるのは白隠書画の一部である。  
これらの作品を前にする者は、洋の東西を問わず、老幼男女を問わず、久松や岡本と同じことを直感するであろう。ただ見るだけで分かるのである、その理由は必ずしも喃々せずともよい。  
しかし、白隠のすべての作品がそのような性格のものというわけではない。たとえば、竹内尚次が「戯画」と呼ぶような作品は、久松の言う範疇にはおさまらない。その意味するところが分からないから「戯画」と呼んで来たとも言えるのだが、これらの作品に如何なる宗教的メッセージが込められているのかは、ほとんど考証されことがなく、一部の好事の士によって、さまざまな任意の解釈が加えられて来たにすぎない。  
これらの作品は、実は戯画ではなく、さまざまな表現上の工夫を凝らして、技巧を尽して、白隠が伝えようとした宗教的メッセージに他ならないのである。このような一群の作品は、ただ美術眼や宗教的洞察力をもって直感的に観察するだけでは、その深意は決して見えて来ないようなものである。白隠の他の全著作を味読し、それとの関連を分析することによって初めてそこに深い宗教的意味がこめられていると分かる類のものである。 
白隠没後実に250年、これらの禅画の意味は、問われることなく封印されたままだったのである。  
白隠禅師の語録・法語に書かれた思想と関連させつつ、禅師の墨蹟の中の禅画の意味するところを再検証せねばならない。そこには、火の出るような宗教家の情熱があるはずである。白隠禅画が、いかに時代を超えたテーマをあつかい、いかに時代を超えた表現方法を駆使しているかが分かれば、おのずからまた、当面する現代の課題をのりこえる智恵が、そこに必ず開示される、と確信するものである。  
久松真一「仙高フ禅風」 
「白隠の禅風というものは、これはまあ大したものですね。あの人は、白隠禅と今日いっているくらいに、一つの禅の革新をやった人です。昔の禅をただそのままに伝えてくるというのじゃなしに、新しい禅を興したといってもいいくらいの人なんですからして、この白隠の禅というのはそりや大したものです。弟子が沢山出てきたというだけではなしに、自分で語録も沢山作っています。「槐安国語」でありますとか、「荊叢毒蘂」でありますとか、「仮名法語」なんていうものも、まとまったものを随分沢山に作っていまして、今日「白隠全集」という、ああいう遜大な全集が出来ておるくらいです。  
それから絵なんかにしましても、あの通りいかにも白隠らしい禅風の絵をかいて残しているという状態なんですが、それに比べますと、どうも、…仙高ヘ、白隠の禅風というものと比べたならば、まあはるかに劣るというか、下位に立たなくちゃならないという状態なんですがね。それですから私は、白隠と仙高禅風ということで比較して、どちらがどうのなんていうことは、これは言われるもんじゃないというふうに思うんです。  
仙高ニ白隠の絵を比べてみましても、その間の違いがわかると思うんです。白隠はああいうふうに、絵に非常な力がある。一体にこもっていて、そしてどっしりして、とても動じないというような、大盤石といったようなものが感じられますし、達摩一つ描きましても、その達摩の鋭さと、大きさといいますか、重量感というものも、とても大したものですしね。まあ、深さ、鋭さ、大きさ、それから落ちつき、それに枯高といったようなもの、嶮しさといったようなものが、白隠の描いた絵の中には見られますのですけども、どうも仙高フ絵は非常に軽妙でですね、そして形にこだわらないで、ごく自由に描いてありますけれども、しかし鋭さとか大きさとか、白隠のようなものはあの中には見られない。  
まあ、そういうふうですから、やっぱり絵に見るような軽妙さとか、それから、こだわらないとか、非常にまあ一方からいったら解放的ともいえるわけなんですが、そういうようなものがやっばり仙高フ性格でもあると思いますから、弟子を養うにしましてもですね、あの人は非常にまあ、いわば機智に富んだ頓智といいますか、まあ機智といってもいろいろの機智があるわけでして、白隠に機智がないとはいえないんですが、白隠のようなああいう機智じゃない、ちょっとその軽い機智といった、そういうようななものが仙高ノはあるわけです。そういう機智というようなものによって、あの人はきっと、弟子もそれから在家のもの達も、説得したに違いない。だから絵の賛にも実にそういう機智があふれていますし、絵の上にもあふれております」  
岡本かの子「白隠の書画について」 
「白隠の絵を御覧になる方は、先づその気魄の圧倒的なこと、旺盛な精力まで籠められているのにお気付きになりませんか。それから、意志を表現とするすざまじき情熱は生々しいくらいであります。いわゆる普通の禅画に見られるところの飄逸洒脱な様子とはいたく趣が違っているのにお気付きでありましょう。これはこの名僧の肉体や性格に拠るものでありますが、白隠の宗教の、飽くまで現実性と人間性に於て生命を見出して行くという、この宗教家の発足の目的、また大乗極則の目的に拠ることも多くあります。その積極的なところと、生々しさは、人によって、禅画としては下品に、幽趣が少なく思う方もありますが、それは好き好きに任せます。むかしはいざ知らず、近世になって日本の紙と筆で、而もこういう略画で、西洋画に負けないほどの力感を与えた画も少ないように思います。私は西洋ではミケランゼロとか線の太い細いは違いますが、デュレルやブレークを思い浮かべます」  
「図録白隠」細川本「十界図」の解説にいう、「…この図は、十界図のうち六道絵にはいるもので、閻魔王庁の十王の一人の前に呼出された亡者が過去の所業によつて裁判を受ける場面である。しかし、ここでは十王の一人が紅裙の菩薩に、介添の判官が二人の女性と一人の老女に、淨玻璃の鏡は菩薩の光背となり、それぞれ戯画化されている。岩陰の人物が煙管を持つているのも面白い。…」  
2018年に向けて「白隠学」の提唱 
まもなく没後250年になるが、白隠ほどその本質的探求がなされぬままで放置され、しかも一方で崇めたたえられて来た宗教家も少ないであろう。  
繰り返して言う。白隠の思い描いた「宗教革命」は、「上求菩提、下化衆生」という実践的テーマに集約される。それは永遠の未完成である。永遠に問い続けられるべき課題であり、その時代その時代において、常に新しい意義を見いださねばならぬ、そのような課題に他ならぬ。  
文化・政治・経済あらゆる分野で矛盾が噴出している昨今である。白隠禅師が今の世におわしたならば、どのような一句を吐き、どのように対処されるであろうか。こうした現代的課題に対する答えは、他ならぬ禅師の著作の中にそのヒントがこめられている。新しい切り口によって、白隠禅師の著作をとらえなおさなければならない。  
漢文語録・仮名法語・書簡・墨跡・禅画、これらの著作に内包される禅師の思想を汲み取るには、仏教学、禅学、禅宗史学の方法や観点からする解析のみでは不充分であるし、むしろ、広大な視野をもった白隠思想を矮小化してしまうことになる。国語国文学、民俗学、芸能史、美術史、政治史、地方史、思想史、心理学等々、あらゆる視点から、その特徴を解明することが必要である。  
なぜならば、白隠その人こそが、社会のあらゆる部門にすこぶる旺盛な関心をもち、日本文化のあらゆる要素を取り入れた著作や禅画によって法を説いた、希有な禅僧だからである。このような、白隠思想の総合的解明を、私は「白隠学」と名づける。法財は、ほとんど手つかずのまま、そこにある。  
 
 
坐禅和讃1

 

衆生本来仏なり 水と氷の如くにて 
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし 
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ 
たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり 
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず 
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり 
闇路に闇路を踏そえて いつか生死を離るべき 
  夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり 
  布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等 
  そのしな多き諸善行 皆この中に帰するなり 
  一座の功をなす人も 積し無量の罪ほろぶ 
  悪趣何処にありぬべき 浄土即ち遠からず 
  かたじけなくもこの法を 一たび耳にふるる時 
  讃歎随喜する人は 福を得る事限りなし 
況や自ら回向して 直に自性を証すれば 
自性即ち無性にて 既に戯論を離れたり 
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し 
無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず 
無念の念を念として うたうも舞うも法の声 
三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん 
この時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに 
当所即ち蓮華国 この身即ち仏なり
衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて 
(しゅじょう ほんらい ほとけなり  みずと こおりの ごとくにて) 
私たちは、皆生まれながらに、仏さまと同じ心を持ち合わせています。それはあたかも、「水」と「氷」の関係のようです。  
水をはなれて氷なく 衆生の外に仏なし 
(みずを はなれて こおりなく  しゅじょうの ほかに ほとけなし) 
氷は、水が固まってできたものであり、もとは同一のものです。水蒸気や雲も、水が変化したものです。水、氷、蒸気は、それぞれ形が違いますが、全て同じものであります。一般に「さとり」と呼ばれ、何か超人的な能力と思われがちな心も、また、凡人と思っている私たちの心も、本当は同一の「仏心」なのです。その「仏心」は、遠く離れた天国にあるわけではなく、水と氷のように、私たち自身の肉体と、その心を離れて存在するものではありません。  
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ 
(しゅじょう ちかきを しらずして  とおく もとむる はかなさよ) 
ところが私たちは、誰でも「仏心」を持っている、ということを信じないために、選ばれた聖人のみに「仏心」が宿っていて、凡人には、さとる資格がないものだ、と思っているのです。または、厳しい修行を行った末に、ようやく外部から「仏心」が降臨してくるものだ、と思っているのです。  
たとえば水の中に居て 渇を叫ぶがごとくなり 
(たとえば みずの なかにいて  かつを さけぶが ごとくなり) 
それは例えて言うならば、水の中にいて、のどが渇いた、と叫んでいる(周りは全て仏心であるのに、仏心を信じず、得ようともしない)ようであり、  
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず 
(ちょうじゃの いえの ことなりて  ひんりに まように ことならず) 
また、金銀財宝がつまった蔵のある家に、その子供として生まれていながら、その蔵があることを知らずに乞食をしている(仏心という宝を、生まれながらに持っていることを、知らずにいる)ようなものです。  
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり 
(ろくしゅりんねの いんねんは  おのれが ぐちの やみじなり) 
人間は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上、という6つの世界(六趣または六道)を生まれ変わる、とされ、それは「輪廻転生」と言われています。悪行の結果として、地獄・餓鬼・畜生の3つの悪趣に生まれ、善行の結果として、修羅・人間・天上の3つの善趣に生まれる、とされています。そして、苦しみからの解脱は、3つの善趣に転生すること、と考えています。しかし、そのような考えは、私たちが愚かで、仏心を信じないがために、そう考えるのです。もともと釈尊の教えでは、私たちの苦しみには、必ず原因があり、その原因を無くせば苦しみは消滅する、という考え方です。その教えを知らないから、私たちは輪廻転生に、救いを求めているのです。  
闇路に闇路を踏そえて いつか生死を離るべき 
(やみじに やみじを ふみそえて  いつか しょうじを はなるべき) 
それは、暗い夜道を、灯りも点けずに歩いていくようなものです。暗い夜道を歩いていっても、目的地に辿り着くのは難しく、これでは、苦しみから抜け出すどころか、さらに苦しみの迷路に入り込んでしまいます。  
夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり 
(それ まかえんの ぜんじょうは  しょうたんするに あまりあり) 
大乗仏教と呼ばれる、現在の日本仏教の教えの中に、「六波羅蜜」という6つの実践徳行があります。すなわち、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧、という、仏教徒としての大切な行いのことです。その中でも「禅定波羅蜜」は、最も重要であります。  
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等 
(ふせや じかいの しょはらみつ  ねんぶつ さんげ しゅぎょう とう) 
なぜ「禅定波羅蜜」が重要なのでしょうか? その理由は、布施・持戒・忍辱・精進・智慧の各実践行の他にも、仏教徒のつとめる行いとして、「念仏を唱える」「日々反省をする(自分の過失を認め、叱責を甘受し、悔い改めること)」「毎日の生活の中でするべき勤めをする」といった、  
其の品多き諸善行 皆この中に帰するなり 
(そのしな おおき しょぜんぎょう  みな このうちに きするなり) 
功徳を積むためのいろいろな行いがありますが、これらの実践には、すべて「禅定」が必要不可欠だからです。  
一座の功をなす人も 積みし無量の罪ほろぶ 
(いちざの こうを なすひとも  つみし むりょうの つみほろぶ) 
例えば、たった一度の坐禅経験でも、その坐禅が真剣な坐禅であったならば、その功徳はいくつもの悪行を消し去るに値します。なぜかと言えば、正しい坐禅は、強大な禅定力を養うことができるからです。  
悪趣いずくに有ぬべき 浄土即ち遠からず 
(あくしゅ いずくに ありぬべき  じょうど すなわち とおからず) 
果たして、3つの悪趣など、どこに存在するのでしょうか? 西方十万億仏国土の彼方に、阿弥陀如来の住む極楽浄土がある、と言われていますが、そんな気の遠くなるような世界に行けるとでもいうのでしょうか? ひとたび坐禅をするならば、それは私たちの妄想に過ぎないことが解るはずです。なぜなら、坐禅をしている間は、心は静寂であります。静寂な心の中が、極楽浄土そのものだからです。禅定力があれば、どんなに汚れた世の中にいても、この場所がそのまま清浄なる世界であることに気付き、阿弥陀如来と自分とが一体であることに気付くからです。  
辱なくも此の法を 一たび耳にふるる時 
(かたじけなくも こののりを  ひとたび みみに ふるるとき) 
幸いにも私たちは、釈尊の世から伝えられている、さまざまな説法を、「お経」という形で読むことができます。お経を読んだり聞いたりした時に、  
讃歎随喜する人は 福を得ること限りなし 
(さんたん ずいき するひとは  ふくを うること かぎりなし) 
もしもあなたが「有り難いなあ」「うれしいなあ」と思ったとすれば、それは釈尊の感じた幸福感と、全く同じものなのです。  
いわんや自ら回向して 直に自性を証すれば 
(いわんや みずから えこうして  じきに じしょうを しょうすれば) 
ましてや、自ら率先して読経をして、その功徳を、世の中一切全てのものに与えたい、と願うなら、その慈悲心こそが仏心に他ならないのです。私たちには、真実の清浄な心が備わっていたのだ、と確信するはずです。その真実の心に、聖人・凡人の区別があるのでしょうか? このような区別や、善悪などの差別を超越した、ただ1つの仏心があるのみです。  
自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり 
(じしょう すなわち むしょうにて  すでに けろんを はなれたり) 
その仏心は、形なく、得ることも、失うこともない、老若男女の別もない、生まれたままの純粋な心、捉えようにも捉えようのない、無心の心であります。そう自覚して得られた仏心は、他人には説明のしようがない、説明など不要な仏心であります。  
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し 
(いんが いちにょの もんひらけ  むにむさんの みちなおし) 
善い行いには、善い結果が得られます。悪い行いには、悪い結果が待っています。苦しみに直面した時、その苦しみには必ず原因があります。釈尊の言われた原因と結果の関係は、それぞれを縁によって結びつけています。種をまき、実を収穫するまでには、そこに、土壌・水・日光などの善い縁がなくてはなりません。私たちは、ともすれば結果ばかりを追ってしまいますが、因 → 縁 → 果 という一連のプロセスが大切なことは、もうお解りかと思います。では、原因と結果の道理からは逃れられないのでしょうか? そうではありません。因果の道理そのものは、大切な教えですが、これにとらわれている間は「迷い」であり「苦しみ」であります。それは、因と果とを、区別して考えているからです。区別するということは、つまり迷っているということです。禅定を養うことによって、このような区別から離れるのです。因/果、苦しみ/幸せ、と区別して考えている心は、私たちの心に他ならず、それは仏心にも違いないのです。禅定により区別を離れるならば、苦楽も一体、因果も一体、迷いすらも仏心と一体です。区別や差別を離れて、平等の入口を開けるならば、その先には、一本の真実の道が、まっすぐ延びているのみです。2つ、3つと分かれる迷い道など存在しないのです。  
無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず 
(むそうの そうを そうとして  ゆくも かえるも ことならず) 
では、迷いを断ち切り、禅定力を養うためには、どうしたらよいのかを考えてみましょう。1つめは、「目で見えるものの、姿・形にとらわれないようにする」ということです。この世に永遠のものはなく、形あるものは全て、常に変化しています。永遠不変のものはない、と考えることにより、煩悩・執着から離れることができるのです。煩悩・執着がなければ、欲望を抑えることができるのです。そうすれば、私たちの心は、どんな場合でも乱れることがないのです。とらわれを離れた心は、平安な心であり、「いつ」「どこで」「なにをして」いようとも、まるで我が家でくつろいでいるような安心感があるのです。  
無念の念を念として 謡うも舞うも法の声 
(むねんの ねんを ねんとして  うたうも まうも のりのこえ) 
2つめは、「心で感じたこと、一念一念を悪く考えないようにする」ということです。私たちの脳は、絶えず思考をしています。一瞬ごとの思考、すなわち一念の積み重ねによって、記憶・学習をしています。しかし、もしも悪い念が積み重なったとしたら、そうして造られた記憶・学習は、悪い結果を招くことは明らかです。そう考えると、たとえ僅か一念でも、苦しみの原因になり、積もった念、すなわち、出来上がった記憶は、苦しみの結果となるわけです。一念に振り回されないことです。少なくとも、自分の記憶と、他人の記憶は、全く異なるものであり、他人が自分と同じ事を考え、行動するなどとは考えないことです。そのように毎日努めるならば、他人の言動に一喜一憂することなく、仮に苦言を聞いたとしても、大切なアドバイスだったと、肯定できるはずです。見るもの、聞くもの、全てが新鮮な法話であり、立ち居振る舞い、どれをとっても、仏祖の行いと変わらないのです。  
三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん 
(ざんまいむげの そらひろく  しちえんみょうの つきさえん) 
このようにして養った禅定力を用いて、精神を統一してみましょう。身体中の感覚(眼で見る・耳で聴く・鼻で嗅ぐ・舌で味わう・皮膚で感じる・心で認識する)はそのままに、心を集注して、意識を乱れないようにするのです。それは一切のとらわれを離れた、自由自在の境地です。雲一つ無い青空が広がっているかのように、煩悩の無い、晴れやかな心になっているでしょう。さらに、仏心から出てくる4つの智慧を信じることです。それは、【1】真実を見つめて、清い心を持つ(大円鏡智)、【2】我見・差別を捨てて、慈悲の心を持つ(平等性智)、【3】道徳行を無心でする(成所作智)、【4】物事を正しく判断して、不安を取り除く努力をする(妙観察智)、これら4つの行いを、自分・他者の区別無く、行おうとすることです。この4つの智慧は、迷いの暗闇を明るくする光です。4つの智慧が相結ぶ時、あたかも中秋の名月のように、智慧の光は冴えわたり、たとえどんな困難に遭っても、真実の道を明るく照らし現してくれることでしょう。  
此の時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに 
(このとき なにをか もとむべき  じゃくめつげんぜん するゆえに) 
ここまでくれば、もう迷うことはありません。真実を、遠く離れたところに求める必要はありません。求めるどころか、おのずから目の前に広がっているのです。苦しみは消滅し、無念無相の世界が、静かなる大海のように広がっているのです。  
当処即ち蓮華国 此の身即ち仏なり 
(とうしょ すなわち れんげこく  このみ すなわち ほとけなり) 
私たちの日常そのものが浄土であり、日々が好日にして、幸せな毎日です。眼で見ること、耳で聞き取ること、身体で感じること、その全てが、仏祖と何ら変わらない生活であり、この自分自身こそが「仏心」そのものなのです。   
 
坐禅和讃2

 

白隠禅師の著作の中でもっとも知られたものといってよい。龍吟社版「白隠和尚全集」の解題に、「始めは松蔭において印施し、後に諸方にて印施し、林際門下の法席にては、今は普く之を唱ふることゝなれり」とあるが、底本が何であるかは明確ではない。また「松蔭寺本」は未見である。三島・深沢氏蔵の自筆本がある。また「坐禅和讃 美加幾毛利(みかきもり)」合刻(友松堂、刊年不詳)がある。  
上記の「白隠和尚全集」解題にいうように、現在では臨済宗の寺院では毎日、法要の席でも必ず唱えられるので、いわば白隠禅師の代表作として受け止められ、「一種の信仰的旗印のようになって」いるが、その内容に疑義ありとして、問題提起したのが陸川堆雲氏である。  
その論は、昭和38年に刊行された「考証白隠和尚詳伝」第八章、「座禅和讃について」に詳しい。氏は「この和讃の特色なるものは、禅宗門外の人を禅宗内へ誘導するための呼び込み的の和讃であつて白隠禅を表現せんとしているものではないのである」といい、さらには「既に禅圏内の人となりて修行しておる僧俗男女が、朝夕これを読誦するのは全く無意義である」とし、「禅堂内に於ては別に読誦すべき、適当のものを撰ぶべき」だとしている。  
「坐禅和讃」を白隠禅の精髄のように考えるのには、確かに問題があろう。気になることがいくつかある。  
その一、白隠禅師自身がもっとも標榜したかった和讃であるならば、法施に関してあれほど饒舌だった禅師のことである、自ら「坐禅和讃」をおびただしく書かれていたであろう。しかるに禅師自筆のものは、目下、深沢本ただ一点しか残らないのはなぜか。  
その二、「坐禅和讃」が禅師の思想のエッセンスであり根幹であるならば、禅師の他の著作中に、この和讃のこと、あるいはその考えが繰り返し示されていてしかるべきであるが、たとえば「布施や持戒などの諸善行はみな禅定に帰する」とか「一坐の功をなせば無量の罪も消える」といった主張はまったく見られないのである。この二点は大きな謎である。  
いったい、「坐禅和讃」はいつごろ書かれたものであろうか。「禅籍目録」では「宝暦10年」の成立としているが、これは「坐禅和讃」が合冊されている「みかきもり」の成立が宝暦10年なのであって、「坐禅和讃」そのものの成立年次を示すものとはいえない。  
唯一残る白隠禅師自筆の「坐禅和讃」が深沢本(筑摩書房、図録「白隠」263)であるが、これにも年次は記されていない。陸川氏は前掲書で「和尚の何歳の時に撰述されたものか未だ詳かにしないが、晩年の作であると推し得る理由があれど今はその穿鑿は省略する」と述べている。その理由が開示されなかったのは残念である。 
もし「禅籍目録」の宝暦10年成立説を受けるのならば、白隠はこの年に76歳である。しかし、宝暦10年成立説に疑いが残ることは、上で見たとおりである。筆者はむしろ、若い時に書かれたものではないかと考えている。 
上記の深沢本には脱字もあり誤記もあり、また後から別人によって挿入された部分もある。最後の部分にある「何ヲカ求ムベキ、寂滅現前スル故ニ」の15字は何らかの理由で欠けていて、明治になって釈宗演禅師が挿入し書き入れたものである。 
そして末尾の「到処便蓮華国、其身即仏ナリ」の部分は、下欄外に横向きに書かれている。体裁および内容からして、どうみても草稿である。しかも、その筆跡は常に見なれた禅師の筆跡とは異なるものである。 
図録「白隠」の編者竹内尚次氏は「書体から見て白隠の法語類の上梓を始めた当初、60歳頃と思われる」としている。先にいったように、陸川氏も「晩年の作」としている。ならば、この自筆本も晩年に書かれた書跡ということになるのだが、とても円熟期の白隱の手蹟には見えない。 
実のところ、筆者はこの深沢本がはたして禅師の真蹟であるのかどうか、若干の疑いを持っていたのである。しかし、ある時期の禅師の書跡に近いことが判明した。その筆跡は「布鼓」自筆草稿(長沢信義氏蔵)のそれに近似しているように思う。 
上に整理したように、禅師の書体における特徴が共通して見られるのである。「布鼓」草稿が書かれたのは、禅師が34歳もしくは40歳の時までである(「布鼓」解説を参照)。深沢本「坐禅和讃」も、ほぼ同じ頃までに書かれたものと筆者は考える。 
理由は筆跡だけではない。これとは別の理由がある。42歳以降の禅師が、「坐禅和讃」のような趣旨を積極的に標榜することは考えにくいからである。禅師の思想は42歳の時の「大悟」を境に根本的に変わったのである。「壁生草」下15丁裏には、次のようにある。 
一枚の青竹籠を設けて、其の中に入つて、内観と禅観と共に合せ並べ修して清苦す。貴ぶ可し、内観の功に依つて、従前多少の病悩は底を払つて平癒す。清閑瀟酒、岩瀧に在りし日より遥かに勝れり。貧を観ぜず富を知らず、万里人無き処に在るが如し。其の楽しみ、万戸侯の富と雖も加う可からず。人間天上の善果求むるに足らず。誰か信ぜん、東道浮島の駅、貧富混乱、是非喧嘳、人馬往来、絡駅たる窮巷の穢土を半捉して、深山巌崖、人跡不到の岩瀧の山中に斎しからしめんとは。  
ひたすら坐禅して禅悦にひたっていた時期である。「年譜」ではこれを41歳の時のこととする。しかし、その翌年42歳の秋、禅師は大悟する。「年譜」ではその時のことを、  
豁然として法華の深理に契当す。初心に起す所の疑惑釈然として消融し、従前多少の悟解了知の大いに錯って会することを覚得す。経王の王たる所以、目前に璨乎たり。覚えず声を放って号泣す。  
と記す。同じ時のことを「壁生草」下16丁裏では次のように言う、  
或る時、予、熟(つらつら)志念すらく、清閑を楽しみ枯淡を忘れ、常に内観を精修して、縦い彭祖が八百の歳時を保つも、恰も老狸の旧窠に睡るに似たり。如(し)かじ、是れより正受の遺嘱に随い、尋常大法施を行じて、無量の苦衆生を利済し、真正透関の衲子を摂出し、仏国土の因縁を精修し、菩薩の威儀を学んで、以て遠大の計を定め、真正透関の衲手[子]を三五箇を打出し、仏祖の広大の深恩を報答せんと欲す。  
また、「年譜草稿」の補記では、  
後久疑菩提心、是何等者。久□至不惑之年、決定菩提心是不出四弘誓願輪。  
という。つまり「菩提心とは是れ四弘の誓願輪を出でざること」を悟ったというのである。それまでの「悟解了知」は誤りだった、それより仏国土の因縁、菩薩の威儀を学ぶことこそ大事だと気付き、それ以来、もっぱら衲僧の接化と法施に邁進してゆくのである。  
この「仏国土の因縁、菩薩の威儀」、「四弘の誓願輪」、「菩提心なければ魔道に落つ」、このことこそ、以後つぎつぎと著わされる白隠法語に繰り返し繰り返し説かれることである。  
「坐禅和讃」の精神の陳述が、白隠法語にほとんど見られないのは、右の事情によるものではないか。若き時に書いた「坐禅和讃」を、白隠はもう書かないのである。もっとも重要で主張すべきことが、他にあったからである。  
陸川氏は「坐禅和讃」に代わって誦むべきは「四弘誓願」でなければならないと言われている。白隠禅師の仮名法語全体に目を通し、禅師の生涯の布教活動を概観してみるとき、その説に賛同をおぼえるのである。 
 
 
辺鄙以知吾(へびいちご)

 

「宝暦第四甲戌歳 仲秋吉辰」の刊記のある自筆刻本のほかに、松蔭寺所蔵自筆真本(折本で上下二巻の上巻、76開92頁)、永青文庫所蔵自筆真本(墨付92枚、「宝暦第四甲戌歳抄夏二十五日」の記)、帰一寺所蔵自筆真本(墨付68丁半一冊、「宝暦第四甲戌歳抄夏佳辰」の記)がある。すなわち、宝暦四(1754)年、白隠70歳の年に書かれたものである。  
これまでに翻字されているものには、竜吟社版「白隠和尚全集」(昭和10年)と「大日本文庫」本の「白隠禅師集」(昭和13年)がある。前者は、その解題に「宝暦四年甲戌十一月の自筆刻本ありしよし」と書いてあるから、自筆刻本に拠ったものではないらしい。おそらくは文久二年に重刊された流布本に従ったものか。この文久版については、最後に触れることにする。「大日本文庫」本は松蔭寺本を底にし永青文庫本で対校したものと記す。 
いま、ここでの翻刻は「宝暦第四甲戌歳 仲秋吉辰」の刊記のある自筆刻本に拠り、永青文庫本および帰一寺蔵の真本を参照した。自筆刊本の内容は、この二つの写本に比べて、記述が大幅に増補されている。主だった異同はいずれも注に記した。松蔭寺本は未見、「大日本文庫」によって参照したにとどまる。 
本書の冒頭には「何某の国何城の大守何姓何某侯の閣下近侍の需めに応ぜし草稿」とあるが、この部分は、松蔭寺本では「備之前州岡山城之大守池田伊豫守殿閣下…」、永青文庫本では「備陽岡城之大主池田豫州殿下…」とある。すなわち、岡山藩第四代藩主の池田継政(1702-76)に宛てた手紙の形をとる仮名法語である。 
池田継政は、元禄十五年岡山に生まれる。通称、茂重郎。のち将軍家継の一字を賜り継政と称した。宝永六年(1709)兄政順の死去に伴い世子となり、正徳四年(1714)襲封。39年間にわたり治政につとめ、宝暦二年(1752)隠居して西の丸に住み、同五年(1753)剃髪して空山と号した。書画にたくみで能楽や和歌も好んだ。安永五年(1776)歿、享年75歳。白隠より17歳年下。菩提寺は岡山藩第三代の池田綱政が開基となって開いた曹源寺である。 
巻下の52丁には「一年、国清練若において見参しまいらせし」とあるが、永青文庫本では「一年」を「三四年前」と具体的に書いてある。宝暦四年から「三四年前」は寛延三、四年になる。白隠禅師の「年譜」によれば、白隠が岡山城下に行ったのは寛延四年(1751)67歳の春のことである。おそらく、その折に国清寺で池田継政と会ったものであろう。本書の冒頭には「先回は久しぶりにて不慮の面謁」などとあるから、池田継政が松蔭寺に立ち寄ったと推測される。江戸期の随筆「譚海」の巻十一には次のような記事がある。 
備前の池田大炊頭殿、参覲往来には、必ず白隠和尚の駿河の庵へ立寄られける。休息の間、和尚と献酬ありし時、和尚申されけるは、我等願ひ御座候、あれなる鑓持、殊に寒げに見へ候、何とぞ御盃を給はれと申されしかば、頓て大炊殿、鑓持に盃を給はりける。翌年、此鑓持、侍に取立られ、和尚の所へ立寄、懇に謝し、士に成ぬる事を悦び云ける。国守の盃を賜れば侍に取立られる事、彼家の例也といへり。  
さて、本書の内容構成は次のようである。 
巻之上 
前文(-5丁表)。  
仁政と養生のすすめ(5丁裏-7丁表)。源義家、坂の上田村丸、源頼朝、主馬の判官盛久、悪七兵衛景清、楠兵衛正成、多田満仲の信心(-9丁裏)。  
延命十句観音経のすすめ(10丁裏-)。高皇観音経のこと(13丁裏-)。  
橋奢華麗を誡める(16丁裏-)。畜妾の誡め。  
佞臣を遠ざけて賢臣を用うべきこと(21丁表-)。一国を滅ぼすのは酷吏であること(22丁裏-)。  
お家断絶した中国のある藩の例(28丁表-)。  
暗君は酷吏を重用する(33丁表-)。酷吏の末裔は断絶すること(38丁表-)。  
村役人の専横と百姓の蜂起(39丁表-)。寺院が百姓を騙し賺して一揆を懐柔すること(41丁表)。悪いのは百姓ではなく酷吏と村役人である(42丁裏)。今生に富貴を誇る村の長者も奢れば必ず断える(46丁表)。村民の謎々(48丁表)。  
仁政を行なった人の例、羊姑(50丁)と関羽(51丁表)のこと。  
仁政のすめ(52丁-)。  
巻之下 
大樹神君家康公の善政の威徳を賛える(1丁表-)。  
神君御遺訓の精神こそ仁政の理想であるとの絶賛(4丁表-17丁表)。  
池田侯に仁政と万善行をすすめる(17丁表-)。痴福は三世の冤(20丁裏)。 
京の御室が高野の御室に語った話(21丁表-24丁裏)。  
桂山の老婆の話。老婆の娘が地獄から生還して語る見聞(24丁裏-32丁裏)。地獄を妄談とするは断見外道の所見(33丁表-34丁表)。  
富貴の身にして出家した人の例(34丁裏-)。妙荘厳王、花山法王、真如大徳、千代野、中将姫、祇王、祇女、仏御前、慧春比丘尼。万里小路藤房、時頼、刈茅重氏、佐藤憲清、態谷直実、遠藤盛遠、岡部六弥太など。  
華奢を禁じ浮費を制して、民をあわれみ恵む事が第一の徳行(37丁表)。側室、婢妾の数を減らすべきこと(38丁裏)。畜妾の害(39丁裏)。舞妓、戯女を買う大名(41丁裏)。その皺寄せは百姓に帰する(43丁裏)。  
参勤交替の大名行列の批判(44丁表)。その膨大な費用は結局百姓のつけになる(46丁表)。  
「死字」に参ずることをすすめる(46丁表-)。  
大尾。  
巻之上では古今の例をあげ、もっぱら仁政を説く。そして更に巻之下では、家康の「神君御遺訓」を引いて、その精神こそ仁政の理想であると、賛辞を連ねている。10丁裏には「人あり必ず云ん。鵠林俄かに此書を讃して六経にも越へたりと、何ぞ考へざるの甚しきや、此漢必ず諂ひ求る処あらんと」とあり、「御遺訓」が如何なる書にも勝るなどと、白隠はこびへつらっているのではないかと批判されるかも知れないが、と断った上で、その叙述は延々17丁の長きにわたっている。  
その他、本書の中でもっとも着目されるのは、上でいう17、18に書かれている、社会問題に対する頗るはっきりとした批判である。  
17では、諸大名が多くの妾をかかえ、時には京から数百両の大金で「舞子」「白人」といわれる戯女を買って国許に呼び寄せ、「二三年も玩びては、又は取かへ引かへ、扇子か煙管など取かゆる様に心易く覚へ玉ふ諸侯も是有るよし」と、大名の放逸で奢侈な生活を指弾し、「畢竟、憐むべく悲しむべきは領内の万民」であると批判する。そうした結果、当時頻繁に起きていた一揆や強訴のことにもふれ、「窮鼠却て猫を咬むと云んか」と、百姓に同情を示し、その「兆本(真犯人)は民にあらず、却て吏と長となる事を」と、はなはだ激烈な調子で、当時の政治批判を展開している。  
18では、いわゆる大名行列について手厳しい批判をくわえている。本書の44丁表以降の大意を現代文にすれば次のようである。  
列国諸侯の参覲交代の行列を見るに、先供え、後供え、長柄、槍、武具、馬具、籏竿、幕串などを連ねた夥しい人数の行列であります。時に、大井川や阿倍川でちょっとした川留めになると、川明けまで宿駅に滞留せねばならず、その費用は千両二千両にもなるということです。  
そもそも、大名行列は戦国時代の、生きるか死ぬかの一大事があった時代のしきたりでありましょう。家康公以来、いまや天下太平の御代である。諸侯の道中往来に金銭を費やすことが家康公の御心ではないはずです。  
仁者は敵なしとも申します。どうかせいぜい仁政を施され、民を憐れむ政治をなされますよう。道中の用心のためならば、これはと思う者達を前後に十騎ずつ召しつれられる方がよろしい。いいかげんなオベンチャラ者どもを千万人つれ歩くよりはるかにましというものです。  
とはいっても、大福力があって少しも民百姓を苦しめないというのでしたら、何万騎つれ歩こうと御随意ですが、どの国のことを聞いても、結局は百姓に皺よせがいくことは、まことに悲しい限りであります。  
参勤交代の制度は江戸以前からあったものだが、江戸時代になると、諸藩を統制し幕藩体制を維持する根本政策となった。諸大名は在府・在国一年交代となり、大名妻子をはじめ多くの家臣団が江戸に常住することになった。  
八代将軍吉宗は、幕府財政再建のために、享保七(1722)年、上米(一万石に対して米百石)をさせ、その代償として参勤交代を緩和し、在府半年・在国一年半としたが、やがて1730年また旧制に復した。すなわち白隠禅師の時代はこれに当たる。  
例えば、本書「辺鄙以知吾」が宛てられた先である岡山藩の場合、元禄十一年の「総人数御供方在江戸共」によれば、同年の参勤共人数は1,628人、江戸在住者は1,394人。合わせるとおよそ3,000人となる。参勤供人の内訳は、侍115、徒81、坊主28、御手廻り27、御六尺(駕籠を担ぐ人足)14、御触番22、御中間52、御足軽176、御小人291、又者(臣下の家来のこと)756。道中費用は、寛政十年から文政九年まで28年間の平均は約3,000両という(以上「藩史大事典」)。  
宝永四年現在の御家中男女人数が約1万人というから、上記の参勤供人数および在府人数は、およそその3割を占めることになる。参勤の道中費と江戸と国元での二重生活の経費が、いかに藩財政に影響を与えたかが推測できる。  
このように、諸大名の参勤交代に要する費用は莫大なものであったから、幕府もしばしば制度を改めることもあったが、根本的に改善されるわけではなかった。むしろ、諸大名は互いに威勢を張り見栄を飾る傾向にあり、結果的にこれが諸藩の財政を圧迫する主因ともなった。殊に、九州大名の場合は遠方であったために出費がかさみ、財政に深刻な影響をもたらした。  
白隠に参禅していた肥前の蓮池藩鍋島侯(「遠羅天釜」は鍋島直恒侯に宛てて書かれた)の場合など、元文三年(1738)には参勤中止の旨を佐賀本藩に願い出たが許されなかったこともある。延享元年(1744)には、蓮池藩をはじめとする佐賀の三支藩が病を理由にして参勤を遅延したが、幕府からきびしく糾弾されることもあった。  
大名行列は東海道を通るものが全体の6割を占めたといわれるが、原宿の「駅亭の長」の家に生まれた岩次郎(白隠の幼名)は、幼少時からこれを間近に見ていたであろうし、松蔭寺に住職してからも、寺前を多くの大名行列が通るのを目の当たりにしたことであろう。禅師はこの制度の皺よせが結局は民百姓に帰するのを、実に苦々しい思いでみていたのである。  
さて、17、18に見られるような、御政道批判ととれる内容も当然その一因となったのであろう、果たして「辺鄙以知吾」は禁書となったのである。  
明和八年刊、京都書林仲間編の「禁書目録」(汲古書院「日本書目大成」第四巻に影印所収)という本があり、その「絶版之部」の中に「辺鄙以知吾」の書名が記されている。「禁書目録」の序には次のようにある。  
古来、御制禁之唐本、和書、並に絶版売買停止之書、其外、秘録、浮説之写本、好色本之類は片紙小冊なりといへども、かりにも取扱ふべからず。常々相慎堅く法令を相守るべき旨、毎歳正五九月書肆会集の砌、ねんごろに是を戒めおくといへども、書目多数の事なれば、一々記臆しがたく、或は忘却し、或は意得たがひも是あるべし。依之、今般右之書目、古来より伝聞記録する所、大抵其類を分けてこれを記し印刻して小冊となし、書肆家々に附与し、人々常にこれを点検して、いささか疎略之誤りなからん事を願ふもの也、…  
出版取り締まりに関する最も早いものは、延宝元年(1673)の江戸町奉行所から出された触書であるが、その後、享保六年に本屋仲間が公認されてからは、本屋仲間によって自主規制されたという(宗政五十緒「近世京都の出版文化」・同朋舎出版)。  
上記の「禁書目録」は、つまり書林仲間の覚えのために作成された目録である。最初に「貞享乙丑年南京船持渡唐本国禁耶蘇書」の項があり、38部の書目をあげ、次に「書本」の項があり122部を載せる。  
ここで注目されるのは、「東照創業記考異」「松平記」「松平系図」「東照宮御遺訓」「東照宮御縁起」といった徳川家に関する書目があることである。そして、この項の最後には「右載する所の外、聞書、雑録等之写本数多これ有べしといへども、一々記すに暇あらず。すべて禁庭、将軍家之御事はいふに及ばず、堂上方、武家方、近来之事を記したる書は、右目録にのせずといへども、堅く取扱ふべからず、…」とあり、徳川家に関するものは、ことごとく禁書だったのである。  
「辺鄙以知吾」の中で、白隠は「東照宮御遺訓」を延々と引いて云々しているのだが、当然のこと「東照宮御遺訓」は禁書であった。「国書総目録」で「東照宮御遺訓」の項を見るに、数十種の写本があるが、版本は一冊も見ることができない。版本で公開することなど許されていなかったからである。  
先の序とあわせ見る限りでは、禁書というのも、書林仲間の自主的規制という感がするが、最後の項の「絶版之部」に収められるものは、その筋の検閲によって「絶版売買停止」を命ぜられたものである。「辺鄙以知吾」は「太平義臣伝」「色伝授」などと共に、この項に絶版禁書として列せられているのである。  
「辺鄙以知吾」が絶版禁書となった理由には次のことが考えられる。  
大樹神君の御政道、また「東照宮御遺訓」について云々していること。  
諸大名の私生活を批判していること。  
参勤交替制度の批判をしていること。  
「東照宮御遺訓」は禁書だから読むことが禁止されていた。ましてや、その内容を評論することをや。白隠はこの書を仁政の鑑として最大限の賛辞をおくっているのだが、たとえ賞賛であっても、これを云々することは禁忌であったはずである。しかるに白隠はこの書が禁書扱いされていることをも厳しく批判するのである。  
佞臣賊士の如きは、此書の世に行れん事を憎んで、必ず云ん。苛くも吾が大樹神君、明徳至善の遺言、豈にかろかろしく世間に流布して、鄙俗の手に触るゝ者ならんや。唯是十重に包裹し了て、文庫の底に納め蔵くして、人おしてみだりに披覧せしむべからずと。(巻之下14丁裏)  
然るお是を秘し、是おかくして、空布蠹魚の腹の中に葬られば、かならず神君の冥慮に違せんか。(同、17丁表)  
元禄から享保期にかけての江戸、京都、大坂の巷説風聞などを記録した「月堂見聞集」(本島知辰著)という書があるが、その巻之十二、享保五年の条には、「禁書目録」に載せる右の「太平義臣伝」「色伝授」の発禁の始末を記していて興味深い。「辺鄙以知吾」の刊行をさかのぼること30年ほど前のことである。  
八月十八日口触。頃日色伝授と申草紙板行致、不埒成事有之様に相聞候、絶板商売停止申付候条、右草紙取あつかひ仕間敷旨、洛中洛外へ可触知者也。  
八月廿四日、京都本屋共へ被仰渡候、太平義臣伝十五冊、右は赤穂大石氏の事を記す大坂板也、右売高何部と申事知れ可申間、売付候処へ代銀持参仕買戻し可申候、遠国へ参知れ不申候も可有候間、知れ不申候部数何程と書付可指上候、右之書物絶版被仰付候、此外に新板物無訳草紙、吉良殿事等の草紙絶板。  
「色伝授」は、絶板の上、商売停止が言い渡され、「太平義臣伝」の場合では、頒布した書を買い戻した上で絶版が申し付けられている。おそらく「辺鄙以知吾」に対しても同様の処置がとられ、右の二書と同じく、頒布されたものがに回収させられたのではないかと推測される。  
「太平義臣伝」は「赤城義臣伝」ともいうが、松浦静山(1760-1841)の「甲子夜話」続篇、巻三十五にその写しが載せているが、それは絶版の「当時に於て摸写せし」ものであるという。絶版になっても密かに写して読まれたのである。  
「京都書林仲間記録」(ゆまに書房)「諸証文標目」の部の宝暦五年六月の条には、  
辺鄙以知吾に付、吉田三郎左衛門殿より取之一通、  
同、田原重左衛門殿より取之一通、  
同、吉田三郎左衛門殿より取之一通、  
とある。これらの証文そのものは残されていないので内容は不明だが、「辺鄙以知吾」の刊記が「宝暦四年仲秋」であり、その翌年六月のものであるから、あるいは「辺鄙以知吾」の回収に関わるものではないかとも思われる。 
ところで、この初版刊行からほぼ百年余を経た、幕末の文久二年(1862)に再刻(白隠自筆ではない)された「辺鄙以知吾」がある。その書の巻末には「文久第二壬戌夏日 再板 三谷重緒浄書 増田宏道刻」とあり、釈忍阿という人による、延々23丁にわたる長文の跋がある。  
その跋の内容は白隠が「辺鄙以知吾」で述べる趣旨に賛同し、諸書を引いて更にその趣旨を敷衍するものである。再版事情に関する記述のみを引けば次のとおりである。まず、冒頭に、  
辺鄙以知吾は白隠禅師之法語にして、久しく世に絶しを悲歎し、此度書肆を勧誘して再板せる者也。此法語は唯々専ら四民和合を本とし、国家安穏にして、生死出離の理り迄を説き教へり。  
とある。これによれば、再版者である釈忍阿は、かつてこの書が発禁になったことは知らなかった模様である。すでに百年を経過して、かつての禁書処分のことは忘却されていたのかも知れない。そして跋の末尾にいう。 
白隠禅師此の法語を書遺せるも、またまた万代の末迄を憂患せる深意にして、久しく世に埋れしを、此度再板せる歓喜の余りに、表題に辺鄙以知吾とある文意を含みて、世わたりにも船道を行との言の葉によそえて、懸詠を述べ、をこがましくも端書をなし畢ぬ。道を以て辺鄙も知り得ば吾れもなく彼もなきさにすめる船人。…文久壬戌年季夏 釈忍阿。  
大日本文庫版「白隠禅師集」の解題で、常盤大定博士は「政治的識見の濃く現はれ、首尾熱烈なる意気を以て貫通し、頗る激する所ある如く、行文亦甚だ生彩あるものとして、特に研究さるべき一篇である」と評価している。  
白隠禅師が社会問題に言及した法語には「壁訴訟」 「夜船閑話」巻之下(真本のみ、版本なし) 「於仁安佐美」巻之上 「さし藻草」などがあるが、「辺鄙以知吾」はその中でも最も出色のものと言えよう。  
 
 
白隠の文字絵

 

文字絵というのは、文字を用いて描かれた戯画のことで、我々がよく知るのは「へのへのもへじ」である。古いところでは「ヘマムシ入道」というのがあり、「青蓮院には四百年以前のものがある」(「遠碧軒記」下)というから、その起源は室町時代にさかのぼることになる。 
「嬉遊笑覧」には「宝暦ころ童の翫びの草子に、文字絵とて武者などの形を文字にてかき頭と手足をば絵にてかきそへたるものあり」(巻三)とあるので、江戸時代になるとかなり多様な文字絵が流行っていたことが伺われる。 
ところで、わが白隠禅師の描いた画の中に、この絵文字で描かれたものが二種類ある。「人丸像」と「渡唐天神像」とである。この二種ともに、花園大学歴史博物館に尤品が架蔵されているので、白隠のこの文字絵の意味について考えてみたい。 
上に引いた「嬉遊笑覧」にはまた、次のようにいう。「古きものには天神の二字にて菅家渡唐の像を画き、人丸の二字にて柿本の影をうつす、是はもと真言僧の木筆にて梵字をかきて仏像を作るより出たり」(巻三)と。 
「嬉遊笑覧」は文政13年ころの成立であり、著者の喜多村信節(のぶよ)は1783-1856、白隠よりおよそ百年あまり後の人である。「古きもの」がいつのころかは分からないが、この随筆では少なくとも室町期以前を言っていることが多い。  
これによれば、天神・人丸の文字絵も、ともに白隠の創始というわけではなく、それ以前からよく行われていたのである。ただ、その古い文字絵は「天神の二字」、「人丸の二字」で像を描いていたということであるが、白隠の描くものは、「南無天満大自在天神」の九文字で天神像を描いたもの、そして後者は「ほのぼのとあかしの浦の朝霧に……」という和歌の文字で人丸を描いたものである。この和歌で衣紋線を描くことは白隠以前にもあったものである。 
人丸図 
柿本人麻呂は「万葉集」の歌人であるが、生没年、経歴ともに詳らかなことは分かっていない。その作歌は三百数十首とされるが、人麻呂に仮託されたものも多いという。  
「古今和歌集」仮名序、真名序では「歌仙(うたのひじり)」としてまつり上げられるが、以来、宮廷を中心とした和歌の世界でこの傾向が強まり、平安末期には人丸影供(ひとまるえいぐ)といって、歌会が行われるにあたって、まず人麻呂像をかかげ、これに香華供物をそなえる儀式が執り行われた。人丸影供の起源は、「十訓抄」十、二によれば、次のようなことである。  
粟田讃岐守兼房といふ人有りけり、年比和歌をこのみけれど、宜しき歌もよみ出ださざりければ、心に常に人丸を念じけるに、あるよの夢に、西さか本とおぼゆる所に、木はなくて梅花ばかり雪のごとく散りて、いみじくかうばしかりけるに、心にめでたしとおもふほどに、かたはらに年たかき人あり。  
直衣にうすいろの指貫、紅の下袴をきて、なえたる烏帽子をして、ゑぼしの尻いとたかくて、常の人にも似ざりけり。左の手に紙をもて、右の手に筆を染めて、物を案ずるけしきなり。  
あやしくて誰れ人にかとおもふほどに、此の人いふやう、年比人丸を心にかけ給へる、其のこころざし深きにより、形ちを見え奉る、とばかりいひて、かきけち失せぬ、夢さめて後朝に、絵師をよびて、此の様をかたりて、かかせけれど似ざりければ、たびたびかかせて似たりけるを、宝にして常にをがみければ、そのしるしにや有りけん、さきざきよりもよろしき歌よまれけり。  
年比ありて死せむとしけるとき、白河院に進(たてま)つりたりければ、ことに悦ばせ給ひて、御宝の中に加へて、鳥羽の宝蔵に納められにけり。  
人丸像のお蔭で和歌がすっかり上達したというのである。「十訓抄」は建長四年(1252)の成立で、上の話は、白河院(1053-1129)の時のことである。  
また「古今著聞集」五、二六には次のようにいう。  
元永元年六月十日、修理大夫顕季卿、六条東洞院亭にて柿本大夫人丸供をおこなひけり。くだんの人丸の影、兼房朝臣夢みてあたらしく図絵する也。左の手に紙をとり、右の手に筆を握りて、とし六旬ばかりの人なり、その上に讃をかく、(漢文の讃あり、省略)ほのぼのとあかしの浦の朝ぎりに 島かくれゆく舟をしぞ思ふ、…。  
元永元年は1118年、鳥羽天皇の時代である。  
「ほのぼのと……」の歌は、「今昔物語集」巻二十四では、小野篁が隠岐国へ流刑されたとき、明石を通った時に詠んだ歌であるとする。しかし、「古今集」巻九では「このうたはある人のいはく、かきのもとの人まろがうた也」とし、同仮名序でも人麻呂の歌とする。以降、人麻呂作というのが通説となり、もっとも人口に膾炙していった歌である。  
歌会の時には、まず最初にこの歌を朗詠してから始められた。「古今著聞集」五、二六や謡曲の「草子洗小町」の冒頭にはそのさまが描かれている。  
「ほのぼのと……」の歌は古来、秀歌の最たるものとされ、平安中期、藤原公任の歌論集である「和哥九品」では上品上に位置づけされている。  
人麻呂の生涯はほとんど謎であったために、古くからさまざまな伝説が多く、さらに俗説が付加されることになった。和歌の神であったのとは別に、「安産」と「火除け」の神にもなったのである。  
「安産」の神となったのは「人丸」と「懐妊(ひどまり)」とのつながりによる。「后宮名目抄」上、六に「そもそも御火とまりと……申しけるは、女人はなべて経水のおこなはるヽ事、一月としてをこたることなく、十四の年よりかくの如し。  
されども懐胎のこヽろばへおはし侍れば、さやうのおこなはるヽことやみ侍るなり。なべて后宮のことわざに、経水を火と名付け来たることは、対屋に出で、別火をかまふることよりおこりける。  
経水おこなはれねば、対屋に出ず、別火をかまへねば、御火とまりとは申し侍る」とあるが、「人丸」を「火止まる」あるいはまた「火どまり」にかけたものである。  
ところで、白隠の人丸図賛には、もうひとつの歌が書かれている。  
焼亡(じょうもう)は かきの本(もと)まで 来たれども 
あかしと云へは 爰(ここ)に火とまる  
とある。焼亡(じょうもう)(ショウモウとも)は火事のことである。筑摩書房の圖録「白隱」153の解説で、竹内氏は妙心寺の異僧、般若房の和歌「和(ワ)誐(ガ)也(ヤ)登(ド)乃(ノ) 加(カ)幾(キ)乃(ノ) 毛(モ)登(ト)末(マ)弖(デ)也(ヤ)計(ケ)貝(ク)留(ル)遠(ヲ) 般若棒(ハンニャボウ)仁(ニ)弖(テ)宇(ウ)弖(テ)婆(バ)比(ヒ)登(ト)末(マ)留(ル)」(「正法山誌」巻六)による、と指摘している。  
般若房宗煕は、鉄船老人とも号した。義天の嗣。美濃鵜沼の人。幼時に大般若経の函を踏む夢を見て般若房と名のった。かつて郷里で火事があり、自分の家に及ぼうとした時に、  
わが宿の牆(かき)のもとまで焼け来るを 般若棒にて打てば火とまる  
と詠じたところ、火は隣家まで来て止まったという。  
細川勝元が龍安寺を造営している最中に、般若房はその門に「普請頻々少参学、天生風顛以触忤(普請頻々、参学を少(か)く、天生の風顛、以て触忤(そくご)す)」と大書し、さっさと郷里の岐阜に帰り、般若房を営んで隠逸の生涯を送った。同じく、岐阜の鵜沼にいた、還俗僧の漆桶道人こと万里集九と親交があった。  
竹内氏の図像解説で「膝上の灯火は般若棒」であるとするのは誤りである。「古今著聞集」がいうように「右の手に筆をとつて」いる図柄であるから、「灯火」や「棒」ではなく筆でなければならない。長沢本をみれば、「き」の字の先が筆になっていることが分かる。  
白隠の人丸像の賛には、この般若房の歌が書かれている。「人丸=火止まる」という民間の俗信を受容したものではあるが、白隠は単に火除けの呪いだけを目的として、この絵を描いたのではあるまい。  
御伽草子「小町草紙」では、この歌を仏教的に解釈して次のように言っている。「ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島隠れ行く舟をしぞ思ふ、と詠じ給ひし歌も、衆生のためなり。明石の浦とは、衆生の迷ひの心なり。島隠れ行くとは、三界流転の心なり。舟をしぞ思ふとは、大慈大悲の、あはれみ給ふ心なり」。  
曖昧模糊とした霧の明石を彷徨(さまよ)いゆく舟のすがたは、さながら苦海を流転する衆生のようなものであり、それを済度しようという、大慈悲のこころを詠ったものだ、という解釈である。  
では、白隠が人丸図を描いた趣旨は那辺にあるのか。長沢本「人丸像」には次のような賛偈がある。  
歌道明神何化身 歌道の明神、何の化身ぞ 
是非菩薩仏歟神 是れ菩薩に非ざれば、仏か神か 
到今明石浦朝霧 今に到り明石の浦の朝霧に 
有嶋有船無其人 嶋有り船有るも其の人無し  
白隠の語録「荊叢毒蘂」、および仮名法語などの著作には、人丸に関する詩文はないし、また墨蹟の中にも、これ以外の賛詩は見られない。したがって、白隠が人丸図を描いた意図を測り知るための資料はこれだけということになる。  
「小町草紙」では、人丸の歌を仏教的に解釈していたが、白隠もまた、当然のことながら、この歌を仏教的にとらえていたことが考えられるのである。  
歌道の明神、何の化身ぞ、 
是れ菩薩に非ざれば、仏か神か。 
今に到り明石の浦の朝霧に、 
嶋有り船有るも其の人無し。  
一・二句、人丸明神は実は、観音菩薩の化身だという。船は仏教では、船筏(せんばつ)の喩、迷える衆生を、此の岸から彼の岸へと渡すための方便(てだて)とされる。つまり「小町草紙」に言うところと、ほぼ同じことを白隠は言っているのである。今もなお、人丸の時代と変らずに、渡り行くべき島が見えるのに朝霧に碍(さ)えられて行けそうもない。乗るべき船もあるのに、「其の人」の姿は見えない、というのだが、この「其の人」という表現は「小町草紙」には見えぬものである。  
実はこの「其人」の二字があるからこそ、白隠のオリジナルとなり、禅的メッセージになるのである。七賢女のひとりが屍を指して「屍(しかばね)は這裏(しゃり)に在り、人は甚(いずれ)の処に向かってか去る」(「五灯会元」巻一、釈迦牟尼仏章)と言った、その「人」のことであり、また髑髏図の賛によく書かれる「形骸在此、其人何在(形骸は此に在り、其の人は何くにか在る)」という「其人」のことである。  
つまり、其の人とは、主人公である、白隠の言葉でいえば主心であるし、本来の面目坊といってもよい。朝霧に煙った曖昧模糊たる中を島隠れしつつゆく舟、そこのところに、一大真理があるのだが、そこを見て取る者は、なかなかおらない。そこのところに、禅の唯一の目的である、心の所在が顕れておる、それを見届けよ、といいたいのである。  
「ほのぼの」は「仄々」である。まだ光が薄くて、物がはっきりと見分けられない、いわゆる「ほのぼの明け」の状態で、しかもそこに朝霧が煙っていて、さらにいっそう見分けにくい光景である。  
禅語に「誰知遠煙浪、別有好思量(誰か知らん、遠き煙浪に、別に好思量の有ることを)」というのがある。はるか彼方、靄でけむり、水天一色となった(ちょうど瀟湘八景のごとき山水)ところ、そこによくよく思いを致すべきものがあるが、そのことに気づく者がいくたりあろうか、といった意味である。  
この語は碧巖録の下語にも出るものだが、白隠の「碧巌録秘抄」では次のように注をしている。「須磨明石ノ風景ハ、歌人デナクバ哀レヲ知ラヌ。アノ雲ノ下ヨ我ガ親里ジャ。名歌デナクテハ分ラヌ」。ここに人丸の名は明記はされていないが、いうまでもなく、「ほのぼのと……」の歌のことを言っているのである。 
渡唐天神図 
「渡唐(宋)天神」とは、詩禅一致を目指す五山僧によって、1400年前後に創作された話で、日本の詩神である菅原道真が、夢の中で径山の無準禅師に参じて、一夜にして印可を得、梅一枝をもって帰った、というものである。五山以降、禅林では多くの渡唐天神図が描かれ、また、詩にうたわれて来ている。  
菅原道真(845-903)が無準禅師(1178-1249)に参じたというのである。死没年で計算して、三百四十六年も前の人間が今の世に戻って来て参禅したということになる。歴史事実としてあり得ないことである。あまりにも荒唐無稽な話であるから、禅僧でさえも、そのようなことはあり得ないと批判する者があったほどであるが、このような話が創作されたのには理由があったのである。  
「渡唐天神」説話成立を証すもっとも初期の文献のひとつに、花山院長親の「両聖記」(「群書類従」巻十九)というものがある。両聖とは無準師範と北野天神である。この書はいわば「渡唐天神マニフェスト」ともいうべきもので、なぜこのような話があり得るのかが、仏教の立場から闡明に述べられている(句読点、私に補った)。  
此事、やまともろこしの伝記にかきのせぬ事なるを、をろかなる身のあさき心にては、さること有べしとさだめむ事、はばかりおほし。又このことはり、すべて有べからずといはむ事、その咎をまねきぬべし。……凡情にておしはからば、かたがたにつけて、うたがひありぬべき事ぞかし。しかはあれど一心法界に遠近のへだてなし。千万劫の転変又即今のうちをいでず。  
普通の人間の常識(をろかなる身のあさき心=凡情)で考えるならば、あり得ないことだが、一心法界という仏教の立場からするならば、時間や空間を超越して存在するのが真如なのだから、三百五十年前が今で、中国が日本であっても、いっこうに差し支えはない。  
歴史的事実としては「無」であるが、過・現・未を通貫する仏理の立場から言うならば「有」であるというのである。十方三世はただ一心に帰するのであるから、遠近の隔てもなく、千万年以前が即今となるのである。「両聖記」はさらにいう、  
抑(そもそも)、天下のことはり、有無のふたつをいでず。有と云(いう)よりみれば、古あり今あり、我あり人あり。…無といふにつきてみれば。仏なし衆生なし。天地日月、山川草木もみな是幻化なり。九流百家、四韋五明、色々様々にかきをき、言伝へたる事、たゞ名字のみ有て実体なし。  
「遠羅天釜」は白隠の代表作のひとつであるが、これに弟子の斯経(しきょう)が書いた「客の難ずるに答う」という文が添えられている。白隠の言わんとするところを簡明に解説したものであるが、そこに、  
大毘盧舍那…ノ本体ハ、猶ホ清浄ノ摩尼宝珠ノ如シ。而モ能ク種種ノ色像ヲ現ズ。…総ニ是レ所現ノ物ナリ。無現ニシテ現ナルガ故ニ無ニ非ズ。現ト雖モ不現、又タ有ニ非ズ。  
とある。仏智そのものの本質(大毘盧舍那仏)は一切のすがた形を離れている。けれども、現実世界の存在がどのようなすがた形で現われ出ても、それをことごとく映し出す。一切の存在はこれらの現象として現われる。本来色相(すがた)を絶しているのだが、現象として現われるのだから無というのでもない。現象として現われるけれども、その本質は色相を超絶しているのだから有でもない。それが仏智であり、一心法界の真如だというのである。 
ところで、白隠の渡唐天神像の賛には、  
唐衣おらで北野の神ぞとは そでにもちたる梅にても知れ  
とある。この歌が生まれた事情について、「菅神入宋授衣記」(「群書類従」巻十九)に次のように記す(原漢文)。  
一朝、天未だ明けざるに、丈室の庭上に一叢の茆草の有るを見る。(無準)禅師、自ら謂えらく「昨の夕、此の草無し。今の旦、甚麼(なん)と為てか、之を生ずるや」。時に神人有り、隻手に一枝の梅花をフ(ささ)げて、突然出来たる。禅師問うて曰く「汝は是れ何人なるか」。神人無語。唯だ庭上の茆草を指す。禅師、忽ち謂って曰く「茆草は菅なり」と。即ち扶桑なる菅姓の神なることを知る。神人、一枝の梅を禅師の前に呈す。胡跪して、一首の和歌有り。曰く、 
唐衣不織而北野之神也、袖爾為持梅一枝。  
「唐衣」とは、天神の着けた中国風の道服のことであるが、また「袖」にかかる詞でもある。「おらで」は「不織」あるいはまた「不折」、すなわち「織らざる衣」あるいは「折らざる折枝」の意を含む。  
天野信景(さだかげ)(1663-1733)の「塩尻」巻七三には、五山文芸を代表する希世霊彦(1404-89)の渡唐天神画賛のことが記されており、次の和歌を載せる。  
唐ころも をらぬ袂も にほひけり あふくに高き 梅の春かせ  
「織らぬ衣」である。日本には古くから「天の羽衣」伝説がある。あの天女が身にまとう羽衣は無縫である。「天衣無縫」という語もある。いわゆる不織布や、現代でいうシームレスということではない。縫い目がないとは、人工のまったく加わらぬ、天性そのままのということである。経典には「無縷不織衣」というものもある。いずれも天神・天女の召し物であって、現実のこの世にはあり得ぬものである。では、無いのかというと、そうではない。有にして無、無にして有なるものである。  
白隠の渡唐天神図で、天神が着ているのはそもそも何なのか。もう一度、観察してみよう。  
それはさながら衣のように描かれてはいるが、衣ではない。つまり、絹で織られた布でできた衣ではない。天神は「南無天満大自在天神」という名号を着ているのである。愚極礼才(1370-1452)は「天満大自在天神宝号記」(永享6年、1434)の中で、この七字の宝号は「諸仏の心体、衆生の妙用」を表わすもので「人々の自性の名詮」であると言っている。仏心であり、本有の自性、人々の中にもとからそなわっていて、変幻自在にはたらく「こころ」、それが「織らぬ唐衣」である。  
「遠羅天釜」(巻之下)で白隠はいう、「有(う)ト云ワントスレバ有(う)ニ非ズ、無ト云ントスレバ無ニ非ズ」、形に見えず、言葉に表現できない、それでいて自在にはたらいている「人々具足ノ妙法ノ心性」(巻之下)を見届けよ、と。このような趣旨を説いた自分の著作に、白隠は渡唐天神の和歌「唐衣おらで北野の神ぞとは……」から、「おらで」を採って「遠羅天釜」と命名したのである。有にも非ず無にも非ざる本具の自性、これが「織らざる衣」であり「折らざる折枝」である。  
白隠の「遠羅天釜」は、これまで、すべての辞書や書物において「おらてがま」と呼ばれているが、上の趣旨を理解しない、不注意な誤りというべきであろう。白隠自身も「オラデガマ」と濁音で読ませている。  
人丸像も、渡唐天神像も、白隠においては同じ意味を持っているのであるが、そのことを整理して見よう。  
柿本人麻呂も菅原道真も、ともに日本の学問・文学の神として、古くから尊崇されて来た存在である。人丸は、火伏・安産の神にもなり、他方天神は江戸期になると寺子屋の本尊になり、天神経とともに庶民の信仰をあつめた。  
人丸像も天神像も、その身に着けているのは衣ではない。人丸は「ほのぼの……」という和歌を着ている。両神ともに、和歌あるいは名号という文字を身につけているのだが、その文字にいうところは、日本の精神、日本のこころ、ともいうべきものである。 
身につけているというよりは、その心そのものが身体に他ならない、つまり、両神が「日本の心」を体(たい)(本質)としていることを表現しようとしているのである。  
室町の時代に、渡唐天神のような話がなぜ創作されたのか。そのひとつの理由は、禅僧たちが、既に先行して存在した北野天神信仰を禅に取り入れようとしたことであろう。日本を代表する学問(文学)神である菅公が、中国伝来の思想である禅に参じたという形をとることによって、外来思想である禅を日本に普及させ根づかせ、日本化させようという意図があったと思われる。  
かかる奇蹟話は、実は、北野天神ばかりではない。日本の最高神である伊勢神宮の天照大神が参禅したという話すらある。聖一派と法灯派の二つの流れを受ける別峰大殊(1321-1402)は、天照大神から藕糸の袈裟を授かり、さらに天照大神の自画自賛像(!)を授かったという。そのような画像は、もちろん神によってではなく、誰かの手によって作成されたのだが、今もなお岡山の松林寺に現存している。  
また、伊勢の大空玄虎(1428-1505)には天照大神が入室参禅した、という説話もある。白隠は皇大神が別峰に与えたという自賛自画像を岡山で実見しており、その経緯を「仮名葎」で取り上げている。  
渡唐天神説話の誕生と同じ時期であり、禅を日本化させ定着させていく過程で創出された奇蹟説話である。神さまの自画自賛像などというと、聡明な現代人からは、埒もないと一笑に付されようが、先に見たように、一心法界の立場からすれば、いかなる奇蹟説話もいっこう奇蹟ではないことになるのであって、エホバやアラーが参禅しても不思議ではないということにもなるわけである。  
ところで、白隠禅師は、貞享二年乙丑の十二月二十五日夜丑の刻(丑年丑月丑日丑刻)に生まれた(「年譜草稿」「壁生草(いつまでぐさ)」)。この因縁は白隠の天神信仰の原点ともなっている。  
白隠は天神の再来であり、渡唐天神に他ならない。  
外国の文字である漢文による詩文の作成を至上としたのが五山文学の時代であった。白隠ももちろん多くの漢文著作を表わしているが、何といってもその特徴は、日本語である仮名法語を多く書き表わし、また、民衆が熟知している当代の俗謡(はやりうた)などを賛に付した禅画を多く描いて禅の立場を表明し、これによって民衆を教化し、禅の日本化に努めたことである。そのような意味で、白隠は江戸の時代にふさわしく、装いあらたに生まれかわった「渡唐天神」であったと言ってよい。  
天神の再来であることは、白隠においても意識的に自覚されていたのである。白隠は衆生済度の教化のために、お多福女郎やお婆々など、さまざまな人物を描くが、その着物には梅鉢の紋がつけられていることが多い。梅鉢は天神の紋である。天神の再来たる白隠の分身であるぞよ、というトレード・マークでもある。  
姿かたちのない白隠のこころが、自由自在にあらゆる人物に変化し説法するのである。その白隠が見届けよとすすめる「有にも非ず無にも非ざる本具の自性」、そのための方便が「隻手の音声」である。「隻手音声」で白隠はこう述べる。  
いま、両手を合せて打てば、パンと音がするが、ただ片手だけをあげたのでは、何の音もしない。「中庸」に「上天の載(こと)は声も無く臭(か)も無し」というのは、ここの消息をいう。また、謡曲「山姥(やまんば)」に「一洞空しき谷の声、梢に響く山彦の、無声音を聞く便りとなり、声に響かぬ谷もがな」というのも、ここの秘要を言い表わしているのである、と。  
人丸像と天神像にまとわせた「織らざる衣」は、見ることも聞くこともできず、姿かたちにあらわせぬ、それでいて、確かに在る「こころ」、本有の自性のありようを表わしているのである。  
 
 
「夜船閑話」

 

その一  
わしが初めに禅に参じた日、心に誓って勇猛の信心をふるいおこし、不退転の道を求める情(こころ)をふりおこし、精錬刻苦すること二、三年、ある夜、たちまち心から何かが抜け落ちた。それまで抱いていた多くの疑惑が根本から氷のとけるようにとけ去った。長い、長い間生死をくりかえして来た過去世に積んだ業の根が、根底からなくなってしまった。  
その時わしは思った。「道というものは自己をはなれて遠くにあるものではない。古人は道を求めて二十年も三十年も苦労したというがなんともおかしなことよ」と。それから数ヶ月、手の舞足の踏むところを知らずというよろこびがつづいた。  
しかるに、その後、毎日の自分のありようをふり返ってみると、動と静の二境が全く調和していない。あるいは行き、あるいはとどまるというありようにしても、さっぱり洒脱自在ではない。そこでわしは思った、「勇猛精進して修行に精彩を放ち、重ねていま一度、大死一番しょう」と。そこで歯を喰いしばり、両眼をかっと見ひらき、寝食ともに廃せんとするほどの修行をしたのであった。  
それからひと月もたたぬうちに、心火逆上し、肺臓が焦げ枯れて、両足は氷雪の中に入れているように冷たくなり、両耳はまるで谷川のそばにでもいるようにざわざわと鳴った。肝臓も胆嚢も弱り果て、立ち居振舞いがおどおどとなり、心神疲労し、寝てもさめても幻影を見、両脇の下には冷汗が流れ、両眼には常に涙がたまるという有様になった。そこで諸方あまねく訪ねて明眼の師家につき、広く名医を尋ねたけれども、百薬投じていささかも効果なしという状態であった。  
ある人が云うのに、「山城国の白川村の山中の巌窟の中に住んでいる者がある。世間ではこの人のことを白幽先生と呼んでいる。年齢は百八十歳から二四〇歳ぐらいは経ている。人里から三〜四里も離れたところに住んでいて、人に会うことを好まない。行けば必ず走って逃げる。賢人なのか愚人なのか見分けがつかない。里の人は仙人だといっている。噂によれば先年死んだ石川丈山の先生で、天文学にも通じ、深く医の道に達しているということである。人が礼をつくして問うときは、まれに少し話してくれることもある。それを後になってよくよく考えてみると、非常に人のためになる言葉であったと思い当たるのである。」と。  
そこで宝永七年庚寅の年、正月中旬、ひそかに旅支度をして東美濃の霊松院を出発し、京都の黒谷を越えてただちに白川村に至った。荷物を茶店に下して白幽子が住んでいる巌窟のありかを尋ねた。里人ははるかかなた一筋の谷川を指指した。 その水音に随ってはるかに山道に入ってゆく。行くこと一里ばかりでその流れを横切ると、そこから先は木樵の通う道もない。  
そのときひとりの老人に出会ったので、道を聞くと、はるかに雲霧のかなたを指指して、「かなたに黄色に白味がかった一寸余りの四角なものが山気に随って見えたり隠れたりしているであろう。 あれが白幽子の巌窟の戸口に下っている、蘆で作った簾である。」と教えてくれた。わしはすぐ着物の裾をまくり上げて登って行った。険しい巌を踏み、ツタや葛を押し分けて行く。 氷雪はわらじを噛み、雪や露に衣は濡れた。油汗を垂らしてようたくかの蘆の簾のところにたどりつくと、風致の清らかなことは形容を絶し、まことに人間界とは思えぬほど、心魂は震え恐れ、肌は粟立つといったありさまであった。  
しばらく巌の根によりかかって息を数えること数百、しばらくあって衣を振って塵を落とし、襟を正して、おずおずと腰をかがめて簾の中をいかがうと、おぼろげながら白幽子が眼を軽く閉じて端座しているのが見えた。真っ黒な髪が膝まで垂れ下がり、朱のような赤い顔の美しいこと棗のようである。大きな布のような上着をまとい、軟らかな草の敷物の上に座している。  
巌窟の中は五、六尺四方くらいで、、生活の道具というべきものは何もない。机上にはただ中庸と老子と金剛般若経とが置いてある。  
わしは礼儀をつくしてつぶさに病気の原因を告げ、助けて頂きたいと請うた。しばらくして白幽子は眼をあけてじっとわしの方を見て、静かに告げて言うのに。「わしはこの山の中にいて半分死んでいるような無用人である。 木の実や栗などを拾って食い、鹿のたぐいを友として寝る。この他さらに何を知っているだろう。お恥ずかしいことだが、折角遠方からあなたがお訪ね下さってもなにもお答えできないのだ。」と。わしはそこで、さらに頭を下げてお願いした。  
時に白幽子は、ゆったりとわしの手を捉えて、精密に五臓を診察し、九箇の脈処を診察した。その手の爪の長さは五分ほどもあった。痛ましげに、また困り果てた様子で告げていうのに、「やれやれ、座禅観法の度が過ぎ、修行が節度を失って、ついにこの重病を発したのだ。そなたの禅病はまことに治しがたい。もし針と灸と薬の三つのものを頼みとしてこの病を治そうとするのなら、中国古代の名医扁鵲(へんじゃく)、倉公や華陀が力をつくして心配しても奇効をあらわすことはできない。そなたは今すでに禅観が過ぎて体を破っている。つとめて内観の功を積まなかったら、ついには再起不能になるであろう。これはかの入大乗論に、〈地に因って倒るるはまた地に依って起つ〉という言葉の通りである。」と。わしが言うのに、「願わくは内観の秘訣をお教え願いたい。参禅しつつこれを修めたいと思います。」と。  
白幽子は粛然として態度を改め、ゆったりとして告げて言うのに、ああ、そなたのような人はまことに問うことを好むの士である。それではわしが昔聞いたところを少しばかりそなたに告げよう。これは養生の秘訣で、人のほとんど知らぬことである。怠りなく修行するなら、不思議な効能をあらわすであろう。また長生きもできるであろう。
その二   
それ大道というものは分かれて二つとなる。それが陰陽で、この二つが和合して人間が生まれる。その人間が天から受けた元気が黙々として体中をめぐり、五臓につらなり、経脉にめぐる。衛気(将師ともいうべき気)と営血(士卒ともいうべき血液)とが互いに昇降循環すること一昼夜におおよそ五十回である。  
肺臓は雌の臓器であって横隔膜の上に位置し、肝臓は雄の臓器であって横隔膜の下に沈んでいる。心臓は太陽であって上部に位置し、腎臓は太陰で下部に位置する。五臓に七つの神気があり、脾臓と腎臓に各々二つの神気を蔵している。吐く息は心臓と肺臓より出で、吸う息は腎臓と肝臓に入る。 一呼毎に脉が三寸行き、一呼毎に脉が三寸行く。一昼夜に一万三千五百の気息があり、脉は一身を巡ってゆくこと五十回。 火は軽く浮くもので常に昇ることを好み、水は重く沈むもので常に下の方へ流れ行こうとする。  
もし人が、この道理を察せず、観照が節度を失い、志念が度を過ぎる時は、心火が燃えて衝き上がり、肺臓を焼き焦がす。母なる肺臓が苦しむ時は、子である腎臓が衰滅する。母と子と互いに疲れ傷んで、その結果五臓が疲労し、六腑が犯される。四大すなわち地水火風の四大元素の調和が破れて増減を生じ、四大の各々に百一の病を生ずる。こうなると百薬もききめはなくなる。多くの医者はすべて手をこまねいて、何とも言いようがないようなことになってしまうのである。  
思うに、生を養うということは、国を守るようなものである。名君や聖王は、常に心を下々の方に専らにし、暗君や凡庸な君主は常に心を上の方にのみほしいままにする。上の方にほしいままにする時は、九卿が権勢に誇り、百官が君主の寵をたのんで、民間の苦しみをかえりみることがない。野にある者は顔色青ざめ、国に餓死するもの多い。賢人、良臣はひそみかくれ、臣民は怒り恨む。 諸侯は離れそむき、多くの異族は競い起こって叛旗をひるがえし、ついに民衆を苦難におとし入れ、国体は永く断絶するに到るのである。  
心を下々の方に専らにする時は、九卿は倹約を守り、百官は倹約につとめて、常に民間の労役を忘れることがない。農民は余剰の粟を持ち、農婦には余剰の衣服がある。多くの賢人が来たってこの国の人となり、諸侯は恐れて帰服し、民肥え、国強く、法令に違背する庶民はなく、国境を侵す敵国はない。国のうちに戦いの銅鑼のひびきなく、人民は剣戟の名も知らぬようになる。  
人間の体もまた同様である。道に適した至人(しいじん)は常に心気を下半身に充実せしめる。心気が下半身に充実している時は、喜・怒・憂・思・悲・驚・恐の七情による病が内に動くことなく、風・寒・暑・湿の四つがもたらす邪気も外より窺うことを得ない。体の備えは充分となり、心神すこやかである。口は薬の甘いも酸いも知らず、身はついに鍼や灸の痛痒を受けない。  
しかるに凡人どもは常に心気を上方にほしいままにしている。 心気を上方にほしいままにする時は、佐寸すなわち肺臓の金を侵して、五官すなわち眼・耳・鼻・舌・身の各器官が萎縮して疲れ、父母妻子兄弟の六親すべて苦しみ恨むにいたる。このゆえに漆園すなわち中国古代の思想家荘子が言っている、「真人の息は踵でやり、衆人の息は喉でやる」と。  
朝鮮の名医許俊は言っている、「気が下焦(げしょう)すなわち膀胱の上あたりにある時は、その息が長くなり、気が上焦(じょうしょう)すなわち心臓の下にあると時は、息が短くなる」と。  
中国近代の医家上陽子(じょうようし)は言っている。「人には真にして一なる気というものがある。それが丹田(臍の下)の中に降下する時は、一陽が生ずる。もし人、その陽が生じた兆しを知ろうとするなら、暖気が生じてくるのをたよりとせよ。おおよそ生を養うの道は、上部を常に清涼ならしめることが必要であり、下部を常に温暖ならしめることが必要である」と。  
それ経脉の十二、すなわち心・肺・脾・腎・胆・胃・大腸・小腸・膀胱・心包・三焦・の十二個所にあるそれぞれの経脉は、支の十二、すなわち子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の十二支に配し、これが月の十二に応じ、時の十二に合っしている。六交すなわち六つのが劃線(かくせん)が、正卦(せいけ)・変卦(へんけ)の十二の劃線となって循環し一年を全うすることになる。  
五陰が上におり、一陽が下におるのを、易の卦では地雷復(じらいふく)と言うが、これは季節でいうと冬至の候である。これは「真人の息は踵でやる」と言うのに当たる。  
三陽が下におり、三陰が上におるのを、地天奉と言う。 正月の候である。万物が発生の気を含んで、百花が春の恵みを受ける。 これは至人が元気を下方に充実せしめる形象である。人がこれを得ると、体の構えが充実し、気力勇壮である。  
五陰が下におり、一陽が上にとどまるのを山地剥(さんちはく)と言う。九月の候である。天がこれを得る時は、林苑みどりの色を失い、百花みな枯れ落ちる。これは「衆人の息は喉でやる」と言う形象である。人これを得る時は、姿形が枯れ痩せ、歯が揺らいで抜け落ちる。 このゆえに延寿書に言っている、「六陽ともに尽きてしまう時は、この人は全陰の人で、死にやすくなる。 それゆえ元気を常に下方に充実せしめることが生を養う上で最も重要であることを知るべきである」と。  
昔、呉契初(ごけいしょ)という者が石台先生に見(まみ)え、斎戒して練単丹の術を問うた。先生が言うのに、「わしには元玄真丹という秘法があるが、上々の機根の者でなくてはこれを伝えることはできない。古代に黄成子という者がこれを黄帝に伝えた。 黄帝は三七二十一間斎戒してこれを受けた。それ大道の他に真丹はなく、真丹の他に大道はない。五無漏法(ごむろほう:迷いが無くなる五つの方法)というものがある。汝の六欲すなわち色欲・形猊(ぎょうみょう)欲・威儀姿態欲・言語音声欲・細滑欲・人相欲を去り、眼・耳・鼻・舌・身の五官が各々その職分を忘れる時、渾然たる本源の真気が彷彿として目の前に充満するのである。  
これは、かの大白道人の言う「我が天をもって、事(つか)うるところの天に合する」ものである。孟子のいわゆる浩然の気、これをひきいて、臍輪・気海・丹田の間におさめて、歳月を重ねてこれらを守り通し、これを養って育てあげておいて、一朝、その仙薬を練るかまどをひっくり返すなら、その時は、内外、中間、四方八方、宇宙全部ひっくるめての大仙薬となる。  
この時はじめて、自己は天地に先立って生まれず、虚空に遅れて死なぬ、というていの真実長生の大神仙であることを覚るであろう。 これを真実仙丹を練ることのできた時節とするのである。なんで風に乗り、霞にまたがり、地を縮め、水を渡るといった、瑣末な幻術を本懐とするものであろうぞ。それは、大海をかきまわして酥酪(そらく:バターやチーズの類)とし、大地を変じて黄金となすていのものである。  
昔の賢人が言うのに、「丹は丹田である。液は肺液である。肺液を丹田に還す、このゆえに金液還る丹と言うのである」と。
その三  
わしは言った、「謹んでご命令を聞きました。 しばらく禅観を取り出して、病を治すことに専念いたしましょう。ただ心配なのは、明の名医李士才(りしさい)の言う、〈*清い降〈せいごう〉に偏するもの〉になりはしないかということであります。心を一処に制すると、気血があるいはとどこおることになりますまいか」と。  
白幽子は微笑して言うのに、「そんなことはない。 李士才が言っているではないか。 火の性は炎上する、それゆえこれを下らしめなければならなぬ。水の性は下るものである。 それゆえこれを上ぼらしめなければならぬ。水が上がり、火が下る、これを名づけて〈交〉という。それが交わるのを〈既済:きせい〉とする。 交わらないのを〈未済:みせい〉とする。交は生の形象であり、不交は死の形象である。 李士才が「清降に偏なり」と言ったのは、朱丹渓の教えを学ぶ者の弊害を救わんがためである。  
古人が言っている、『相の火が上がり易いと身中が苦しむことになる。 水を補うのは火を制するためである』と。思うに、火は君・相の二義がある。 君の火は上方におって静をつかさどり、相の火は下方におって動をつかさどる。君の火はこれ一心の主である。 相の火は輔佐の宰相である。思うに相の火には二種ある。 いわゆる腎臓と肝臓がそれである。肝臓は雷に比せられ、腎臓は龍に比せられる。   
このゆえに、龍を海底に帰らしめれば、迅雷の発することはない。ただし雷を沢(たく)の中に蔵(かく)しめるなら、龍が昇騰することは決してないであろう。海にせよ、沢にせよ、いずれも水であるから、相の火の上りやすいのを制するのである。  
また言うのに、心が煩い労する時は、虚すなわち体調すべて負となり、心が熱する。心が虚となる時は、これを補うには、心を下して腎に交える。これを(補:ほ)と言う。これは既済の道である。  
   * 清い降(せいごう)に偏するもの / 寒冷の薬をもって心火を降下させすぎること  
そなたは先に心火逆上にしてこの重病を発した。 もし心を降下させなかったならば、たとい欲界・色界・無色界のすべての秘密の行を修行しつくしても、再起することはできぬであろう。かつまた、わが姿形が道家の人に類しているので、仏教者とは違うとするか。これは禅である。 他日そなたが悟りをひらいた時には、呵々大笑することであろう。  
それ観というものは、無観をもって正観とする。 多くの観あるものを邪観とするのである。先にそなたは多観のためにこの重症になった。 今これを救うのに無観をもってするのが一番よいのではないか。  
そなたがもし、心の炎、意の火という心火上昇を収めて、丹田足心の間においたならば、胸の中は自然に清涼となり、ああでもないこうでもないと思いめぐらすことが一点もなくなり、分別意識や心情の波は一滴もなくなるであろう。これが観音経にいう「真観清浄観」である。しばらく禅観を放り出して、などと言ってはならない。  
仏が言われている、「心を足心におさめてよく百一の病を治す」と。阿含経に「酥(乳製品)」を用いる法が説かれており、心の疲労を救うのにもっとも効きめがある。天台大師の摩訶止観には病因を論ずること、はなはだ意をつくしている。療治法を説くこともはなはだ精密であり、十二種すなわち、上・下・焦・満・増長・滅壊・冷・暖・衝・持・和・補という息がある。これによって多くの病を治すのである。  
また、心を臍の上におき、豆粒のごとく見る法がある。その大意は、心火を降下して、丹田および足心に収めるのを肝要とする。それはただ病を治するのみではない。 多いに禅観を助けるのである。  
摩訶止観の中に〈繋縁:けえん〉〈諦真:たいしん〉の二つの〈*止〉が説かれている。諦真とは実相の円観(この世の姿は相対がそのまま絶対、絶対がそのまま相対と見ること)である。繋縁とは心気を臍輪・気海・丹田の間に収めるのを第一とする。行者これを用いれば、大いに利益ある。  
   * 止 / 心を一点に集中し静止せしめること  
昔、永平の開祖道元禅師が大宋国に入って天童山で如浄禅師を礼拝相見した。道元禅師がある日、密室に入って如条浄の教えを請うた時、如浄は言った。「道元よ、崇拝の時、心を左の掌の上に置くべし」と。 これが天台大師の云う〈繋縁止〉の大略である。天台大師は始めこの〈繋縁内観〉の秘訣を教えて、その兄鎮慎〈陳鍼:ちんしん〉の重病を万死の中から助け救ったことは、くわしく天台小止観の中に説かれている。  
また白雲和尚が言っている、「我つねに心を腹の中に充たしめている。 衆徒を正し、率い、客を接し、機に応じ、小参〈臨時の説法〉や普説〈師家が一般大衆に説法すること〉の説法において縦横無尽にできるのもこのためである。老いてからは殊に利益多きを覚える」と。まことに尊ぶべきことである。  
これは中国の医書『素問:そもん』に見える、「恬澹(てんたん)虚無であると真気がこれに従う。 精神を内に守るなら、病がどこからくるだろうか」という言葉に本づかれたものであろうか。その内に守るという要点は、元気をして一身の中に充満せしめ、三百六十の骨、八万四千の毛穴に至るまで、髪の毛一本ばかりも欠けるところがないようにすることが肝要である。 これこそ、生を養う至極の要点であることを知るべきである。  
八百歳の長寿を保った中国の仙人彭祖(ほうそ)が言っている。「精神を和げ、心気を導くやり方は、密室に閉じこもり、床をとり、敷物をあたため、枕の高さ二寸五分、体をまっすぐに仰向けに伏し、眼をつむって、心気を胸の中におさめ、水鳥のやわらかな羽毛を鼻の穴にかざしても動かぬほど静かな息を三百息し、耳は何も聞かず、眼は何も見ない。このようにする時は、寒暑も身体を犯すことはできず、蜂やさそりも毒害を加えることができない。こうして三百六十歳になれば、真人に近い」と。  
また宋の文人蘇東坡(そとうば)が言っている。「腹が減ってから食事し、腹一杯にならぬうちに止める。散歩逍遙し、つとめて腹を空にする。腹が空になった時に静室に入り、黙然と端座して出る息、入る息を数えよ。一息より数えて十息に到り、十息より数えて百息に到り、百息より数えて千息に到る。その時この身は山がそびえるようになり、この心は寂然として虚空と等しくなる。かくのごとくなることを久しくして、一息おのずからとどまる。息が出でず、入らざる時、この息は八万四千の毛穴から雲霧がむらがり起こるような有様となり、長い長い前世からの諸病が自然に除かれ、多くの障りが自然になくなることを明らかに悟るのである。  
たとえば盲人がたちまちに眼をひらくがごとくである。この時もはや人に自分の行く道を尋ねる必要はなくなる。ただ普通の言語は省略して、自分の元気を長く養うことが大切である。このゆえに言う。「目の力を養う者は平生目を閉じ、聴力を養う者は平生余分なことは聴かず、心気を養う者は平生沈黙する」と。
その四  
わしは言った、「酥を用いるの法をお教え下さるまいか」と。白幽子は言った、「修行者が座禅している最中に、体の調子が悪く、心身ともに疲労したと自覚したならば、心を奮い起こしてまさにこの理念をなせ。たとえば色も香りも清浄な軟酥(やわらかなバターのごときもの)の、鴨の卵ぐらいの大きさのものが頭上にのっていると想うだ。その気味はきわめて微妙で、丸い頭の鉢全体をうるおし、ひたひたとうるおしながら下ってきて、両肩および両の臂、両乳、胸の中、肺臓、肝臓、腸、胃、脊梁骨、臀骨と次第にうるおしながら注いでゆく。このとき胸の中の五臓六腑のとどこおり、疝、癖、塊痛が心に随って降下することは、水が下方に注いでゆくようなもので、歴々として音を立て、全身を巡り流れ、双脚をうるおし、暖かにし、足の裏に至ってとどまる。修行者は二たび、三たびこの観をなすべきである。  
かのひたひたとうるおし下るところの余流が、積もり、湛えられて暖めひたすことは、あたかも世間の良医が種々の薬物を集め、これを煎じた湯を浴盤の中へ汲み入れ湛えて、わが臍輪から下を漬けひたすがごとくである。  
この観想をなす時、心に思うところが現実となって、鼻はたchまち世にもまれな香気を嗅ぎ、体はにわかになんともいえず軟らかな感触を受ける。心身調って快適であることは、二、三十の時よりもはるかに勝っている。この時、五臓六腑のとどこおりはすべて消失し、腸胃は調和し、知らぬ間に肌につやつやとした光沢が出てくる。もしこの修法をつとめて怠らなかったなら、どんな病でも治らぬということはない。 どんな徳行でも積まれないということはない。 どんな仙術でも成就しないということはない。 その功能のあらわれるのに遅速があるのは、修行者の精進が精であるか粗であるかによるのみ。  
わしのわかい頃は多病で、そなたの病の十倍も悪かった。 医者という医者がみんな振り向いてもくれなかった。あらゆる手段を用いたが救うすべはなかった。そこで、上下の神様に祈り、天仙の冥助(めいじょ=眼に見えない助け)を乞い願った。そしてなんという幸せか、計らずもこの軟酥の妙術を伝授されたのである。わしは喜びに堪えず、怠りなく精進修行した。 すると一ヶ月もたたぬうちに多くの病が大半快癒してしまった。それより以来ずっと、身も心も軽々としている。馬鹿のようになってしまい、毎月の大小は分からず、四年に一度の閏も忘れ、世の中のことを次第に忘れ、世間の人の欲望も、ならわしも、いつしか忘れ去ったのである。 わしの年が今年何十歳であるかも知らないのだ。  
先頃、あるご縁で、若狭の山の中に入りこんで三〇年ばかり経ったが、世の人はそのことを誰も気がつかない。過ぎこし方をかえりみるに、あたかも中国の廬生(ろせい)が邯鄲の茶店で眠り、一生をすごした夢を見てさめてみれば、茶店の主人の煮ていた黄梁(おうりょう)はまだ半煮えであったという故事のごとくである。今、この山中の人のいないところで、この枯れ衰えた骨だらけの体に、太布の単衣をわずかに二、三枚かけ、厳冬の寒さが綿をもくじくような寒さであっても、老いぼれた腸を寒さでいためることはない。  
山の木の実もなくなり、穀物を口にせざること数ヶ月に及んでも、ついに凍えたり飢えたりすることがないのは、皆この内観の力ではないか。わしは今そなたに、一生用いても用い切れないほどの秘訣をお教えした。 この外何も言うことはない、と言って、眼を閉じて黙座した。わしもまた、涙を浮かべて別れの挨拶を申し上げたのであった。  
静かにゆっくりと洞窟の口元を下れば、木末にわずかに落日がかかっている。折しもカラコロと下駄の音が山や谷にひびいた。驚き怪しんで、恐る恐るうしろを振り返ると、はるかかなたに白幽子が巌窟を離れて自らを送りに来てくれているのが見えた。すなわち言うのに、、「人跡未踏の山道で、西も東も分かるまい。恐らくは道が分からなくなるであろう。この老人がしばらく道案内をして進ぜよう。」と言って、大駒下駄をはき、痩せ鳩杖をついて、岩を踏み、険しい道を登ること、まるで平地を行くようで、談笑しつつ先立って歩いた。山路はるかに一里ばかりも下って、かの谷川のところに達して、さて言うのに、「この流れに随って下ったら、必ず白河村に出だろう。」と。互いに別れがたい思いで別れたのであった。羨ましいとも思い、また敬服もした。死ぬまでこれらの人についてゆくことができないのを自ら恨みとしたのであった。  
さて、おもむろに帰庵して、時々刻々かの内観法をひそかに修めること、わずかに三年に満たざるうちに、これまでの多くの病が薬も用いず、鍼灸の助けもかりずに、いつとはなしに除かれ治ってしまった。  
ひとり病が治ったばかりではない。これまで手足もつけられず、歯も立たなかったほどの難信、難透、難解、難入の公案が、根底から透過できて大歓喜を得ることおおよそ六、七回。その余の小悟で喜びに手の舞い足の踏むところを忘れたことは数を知らぬほどである。南宋の大慧宗杲禅師が言われた「大悟十八度、小悟数を知らず」と言うことをはじめて知り、まことだと納得がいったのである。  
わしは昔、二、三枚の綿入れを着ていても、足の裏がいつも氷雪に浸しているようであったが、今は真冬のきびしい寒さの中でも、綿入れも着ず、炉火もいらず、年はもう七十を越えたが、これと言うほどの病気もないのは、かの神術のおかげであろうか。  
白隠が死にかけの息のきれぎれに、でたらめの話を記して、他人を欺すのであろうなどと言ってはならない。これは生まれながらにして英明の素質あり、一言のもとに領解できるような俊才のために設けrのではない。わしのように愚鈍であり、病に苦しんでいる人が、読んで子細に観察したならば必ず少しは補いになると思ってのことである。 唯ある別人が手をうって大笑されるのを恐れるのみ。  
それは何故か。「馬が枯れた豆殻を咬んで、まぁ、昼寝の枕に騒がしいことよ」と、貴山谷詩集に言うではないか。  
宝暦七年正月二十五日 
 
「夜船閑話」に学ぶ禅的養生法

 

白隠禅師が若い頃に難病を患った体験から生み出した、独特の健康法に「内観の秘法」と「軟酥なんその法」がある。この二つは養心養生を示した長寿法として今日まで伝えられ、多くの人々を救ってきた。それこそ、言葉と映像的イメージングによる白隠流自愛法である。
内観の秘法  
宝暦七年(一七五七)、白隠禅師は古稀を過ぎ、自伝的養生書『夜船閑話やせんかんな』(巻之上)を書いた。端的にいえば、自分が若い頃、坐禅修行のしすぎで罹かかった「禅病」をいかに克服し、なにゆえ今も斯くの如く元気なのか、それを物語的に解説したものと言えるだろう。  
禅病といってもピンと来ないかもしれない。本文では「観理度かんりどに過ぎ、進修節しんしゆうせつを失して、終に此の重病を発す」とあるが、要は公案(禅問答の問題)を拈提ねんていしすぎ、根をつめて修行しすぎた結果、「心火逆上」したというのである。今ならさしずめ運動もせずにパソコン仕事をしすぎ、異様なほど交感神経が緊張した状態といえるかもしれない。若き白隠はこれによって両脚が冷たくなり、耳鳴りにも悩み、それどころか気持ちもおどおどして、悪夢にも悩まされていたようである。  
そこで白隠は、京都の白河山中に住んでいる白幽はくゆう先生を訪ねる。歳は百八十歳とも二百四十歳ともいわれているようだから、これも仙人と思ったほうがいい。そういえば「至人しじん」「真人しんじん」などの表現が本文に出てくるが、これは『荘子』の言葉である。自分の姿が道士(道教の修行者)に似ているからといって、道術だと思ってはいけない、これもまた禅だと、わざわざ白幽先生に言わせているが、誰もがそう思ってしまうほど、ここで説かれるのは道教的なベースに乗った処方である。もっとも、禅は中国で道教的な基礎の上に発展したものだから、その辺りはもっと学ぶべきだと、白隠は考えていたのだろう。この本には『荘子』『易経』『魔訶止観まかしかん』『素問そもん』などからの引用が出てくるが、これも白隠自身が親しんだ思想と考えるべきだろう。  
さて早速その処方を聞きたいところだが、白幽先生はご丁寧にも陰陽五行による生命観から説き起こす。その上で、肺の「火」を丹田におろし、腎の「水」を上へ上げて「交わる」ようにせよと言う。「交」こそが「生」の象だというのである。  
通常、我々のからだは、下半身が温かく、上半身が涼しいのが理想とされる。漢方では「上虚下実じようきよかじつ」というが、白隠の場合、これが逆になっているわけだから、気血を下のほうへおろさなくてはならない。その最良の方法が、「観の力」、内観の秘法だというのである。  
じつは内観といっても、言葉、音、映像による方法と、さまざまあるのだが、ここでは私が実際に行っていた言葉による誘導法をご紹介しよう。これは『遠羅天釜おらでがま』巻の上に書かれている言葉を、唱えやすく修正したものである。  
吾わガ気海丹田きかいたんでん 腰脚足心ようきやくそくしん、總そう二是こレ趙州じようしゆうノ無字むじ、無字何むじなんノ道理どうりカ在あル  
この調子で「気海丹田、腰脚足心」と五度ほど繰り返し、是れ即ち「本来ほんらいの面目めんもく」「唯心ゆいしんの浄土じようど」「己身こしんの弥陀みだ」「本分ほんぶんの家郷かきよう」などと唱えていくうちに「気海丹田、腰脚足心」に意識がどんどん集まっていく。まるでそこが無限の可能性を秘めた場所のような気がしてきて、自然に下半身全体が温まっていくのである。  
ちなみに「足心」というのは土踏まずのことで、荘子は「真人」の呼吸は踵でするのだと書いている。  
奇想天外に聞こえるかもしれないが、『夜船閑話』にも「唯心所現ゆいしんしよげん」とある。心に強くイメージした象に、からだは素直に従ってくれるのである。  
むろん、心中で「気海丹田」とか「腰脚足心」と唱えた途端、すぐに現実の自分の下腹部や腰・脚・土踏まずで、意識を持って行かなくてはならない。意識が行った場所に気血(精気や血液)が運ばれ、ほどなくそこが温かくなってくるから不思議である。できれば息を深く長く吐きながらイメージを拡げてほしい。誰にでもできる言葉とイメージングによる身心調整法である。
軟酥(なんそ)の法  
言葉のイメージ喚起力を利用した身心調整法が「内観の秘法」だとすれば、「軟酥の法」は純粋に映像的イマジネーションを用いる内観法といえるだろうか。いや、視覚だけでなく、熟練してくると味覚や嗅覚も関係してくる。一生かかっても「用い尽くせない」方法だというのだから、相当奥深いのだろう。これも「内観の法」の一つには違いないのだが、通常は単独で扱われることが多い。  
軟酥とは、バターのようなものと思えばいい。ただしその色や香りが清浄だと感じることが大切だから、「私、バターは嫌いなの」という方は、たとえばラベンダーの香りの香油の塊とか、何でも好きなものを想定すればいい。とにかく鴨の卵ほどの大きさの軟酥が頭頂に載っており、それが溶けてひたひた頭蓋に染み込み、首、肩、胸から全身が潤っていくイメージをもつ、というのだから、好きじゃなければ耐えられないだろう。  
幸い私はバターが好きだし、先日も肩が痛かったため、軟酥の法を試みた。  
まず大切なことは、坐禅のときと同じく、「目を収めて」坐ることである。短い時間しかない場合は、いっそ目は閉じたほうが効果的かもしれない(坐るのは椅子でもいい)。  
そのうえで息を長く深く滑らかに吐きながら、頭上のバターが融けていく様子をなるべく精密に思い描くのである。  
意識というのはその本性として一点に集まりやすい。するとすぐに思考が始まってしまい、映像的な動きが止まってしまう。だからいっそ刷毛で撫でるように面として思い浮かべたほうがいいかもしれない。息を吸うたびに頭上で融けたバターを想像し直し、それが吐きだす息と共に皮膚面も内部も潤しつつ下へ下へとおりてゆくのである。  
そうすると、不思議なことに、痛みのあった部分にも痛みを感じなくなっていく。それだけでなく、肺肝腸胃、あるいは横隔膜にも染み透ってゆくから、その辺りも調っていく。これはもう、喜びに満ちた最高のイメージングである。  
しかもその際、皮膚や臓器ばかりか、これまでに積み重なってきた亜念なども下へ下へ流れ出ていくと想うのである。  
呼吸のたびに上からイメージし直すが、一度通った場所は確認程度で済むし、まだ違和感がある場所には念入りに染み込ませればいい。そうしてどんどん下のほうに温かい液体が溜まり、しまいにはそういう香油のお風呂に下半身を浸したような気分になってくる。  
一応、足心(土踏まず)からバターが融け出てくるようになったら終了、ということではあるが、もっと余韻に浸り、バターの風呂にも入っていたい、という場合は、どうぞ勝手に続けてください。  
誰もが長年馴れ親しんでいるかに思えるそれぞれのからだではあるが、使いこなせるまでにけっこう修練が要る。修練というより、それこそ「養生」というものだろう。よく「ご自愛ください」などというが、最近は自愛の仕方を知らない人が多い。一生使える自愛法として、軟酥の法は如何だろうか。鼻先に付けた毛さえ揺れないほど静かに息を吐きながら、全身の毛穴から息と一緒にバターが染みだしてくる。それは人知れぬイメージングによる究極の自愛法である。  
この方法に習熟した白幽先生は、山中で食料の蓄えがなくなり、数ヵ月の間食べずに過ごしたらしいが、凍えもせず、飢え死にすることもなかったという。  
むろん、そんなことは真似しないでいただきたい。白幽先生はすでに百八十歳は二百四十歳か判らないほどの年齢なのだから、どうしても真似したければ百五十歳を超えてからにしてください。  
 
「夜船閑話」評

 

雲。その雲がゆっくりと湧いている。これを見て、のんびりしてくるのなら普通だ。山村慕鳥は石鹸を見た。その自在な形の動向に夢中になったり興味をおぼえる者も少なくない。少年マックス・エルンストはそこに「時の誕生」を読む。宮沢賢治はそこにカルボン酸の夢を見た。  
それなのに白隠は、子供のころにこの雲の姿に無常感を見た。よほど寂しい子供だったのであろう。  
元禄12年は、白隠15歳。  
のちにここに住むことになった原(沼津)の松蔭寺の単嶺和尚の門に入って慧鶴を名のり、無常の正体を知ろうとしたのだが、和尚は2年後に遷化した。  
やむなく近くの大聖寺に入った。けれどもいろいろ尋ねても無常の正体など、いっこうに埒があかない。そこでいったんは儒に走ろうとして、美濃不破郡の馬翁という和尚のところに赴いてみるのだが(大垣瑞雲寺)、やはりどうにもほど遠い。詩文ばかりに熱中した。ただ馬翁が書籍の虫干しをしているときに、ふと『禅関策進』の一節に出会った。「引錐自刺」の一節である。  
慈明が修行中の睡魔と闘うために錐を突き立てて懸命に修道したという、有名な逸話だった。これで愕然とした。自分は安易に無常の正体や解脱の意味を手に入れようとしてばかりいて、なんら修行をする気になっていなかった。生き改めなくてはならない。  
こうして宝永3年、白隠は伊予松山の正宗寺に逸禅和尚の仏祖三経を聞いたのを皮切りに、行脚を始める。22歳である。  
白隠の行雲流水はよく知られているが、ここでは追わない。越後の英巌寺の性徹、信濃の正受庵の慧端、遠江の能満寺の団海、同じく遠江菩提樹院の頂門、和泉の蔭涼寺の寿鶴を主に廻った。  
とりわけ正受庵の慧端に影響をうけた。オオカミとともに座禅した正受老人として、禅道によく知られる和尚である。  
正受老人は白隠が訪ねたときに、振り向かない。そこで白隠が一偈を示すと、やはり振り向きもせず「それはお前が学んで得たものか、お前が見たものか」と問うた。白隠は「もし自分が見たものなら吐き出してみせます」と言った。老人は「吐き出せ」と言う。白隠は嘔吐のフリをするしかない。  
そこで老人がすかさず「趙州無字」の公案をぶつけた。禅林に最も有名な公案である。さあ、来たかと白隠は汗だくになって「趙州の無にどこに手足などありましょう」と応えた。が、老人は何も言わない。そのうち急に振り返り白隠の鼻を押さえて、「ちゃんと手をつけておる」とやった。これでギャフンである。  
老人はお前のような穴蔵禅の坊主は自分一人でわかったつもりでいる糞坊主だ、しばらく叩かれよと言って、そのあと8カ月にわたって滞在した白隠を怒鳴りつづけたという。まったく何も教えない。白隠はただ作務をするばかりなのである。  
しかしあるときに托鉢をして家の門に立ったとき、そこに老婆が出て自分を待っていることに気がつかなかった。夢中で経を読んでいたためだ。そのとき老婆が箒をもってきて、さっさと消えちまえと腰を叩いた。それが白隠をハッとさせた。  
それまでずっと蟠(わだかま)っていた「荷葉団々」の頌、「疎山寿塔」の縁、「南泉遷化」の公案などが地響きたてて転げ落ちたのだ。呆然として寺に戻った白隠に、正受老人が一言だけ、放ったという。「汝、徹せり」と。  
こんな行脚をしているあいだに、富士山が噴爆した。宝永山の誕生である。富士の見える地に育った白隠にとって、この爆発は大きかったようだ。  
松山の正宗寺で大愚良寛の書に出会ったことも大きかった。一見拙劣に見える良寛の書からは徳が迸(ほとばし)っている。自分がここに到達するのはいつかと思ったという。ともかく大きいものには弱い白隠なのである。  
しかし26歳のころ、白隠はノイローゼにかかる。神経がずたずたになったばかりでなく、体もおかしい。よほどの修行と行脚であったのだろう。白隠は噂に聞いた京都北白川の白幽子なる道者を訪ねて、しばしその行法に従った。本書『夜船閑話』はそのときの体感をベースにしたものといわれる。  
やがて享保2年に駿河の松蔭寺の住持になったが、請われて翌年には妙心寺の第一座となった。  
このころからの白隠の弟子への指導はまことに厳格、放埒、大胆きわまりない。朝は耐え、昼は飢え、夜は凍えることをもって修行とし、いつでも毒舌と拳骨と罵倒を浴びせた。とても白隠の書画の柔らかさからは想像もつかない指南であるが、それが正受老人から教えられた白隠の確信だった。  
その後、白隠は自在な看話禅を説く。仮名法語も得意とした。中国禅を日本化した禅師には、古来、道元と白隠とが並び称されてきたのだが、その柔らかさからいえば白隠がめっぽう柔らかい。仮名を駆使したからであろう。しかし、他方で白隠ほど厳格な漢文で禅を説いた禅師もいなかった。59歳の『息耕録開筵普説』、62歳のときの『寒山詩闡提紀聞』、66歳の『宝鏡窟記』や『槐安国語』(これは必読)など、ちょっとやそっとでは読めたものじゃない。  
しかし白隠は筆まめでもあって、67歳のときの『於仁阿佐美』や『遠羅天釜』(これは法外)、69歳での『毒語心経』、そして73歳で綴った『夜船閑話』(やせんかんな)に関しては、なんとも陶然とした漢文・和文を書いた。  
よく白隠の看話禅とはいうが、その説法は限りなくハードなものと限りなくソフトなものとがあったのである。  
本書は一言でいえば「内観」のすすめを説いている。体の中を覗き、体の中にうごめく心を掴み出すことである。  
一般には『夜船閑話』は禅の健康法を説いている名著といわれ、古来、気海丹田法のバイブルのように扱われてきた。そういう面もある。いや、ほとんどそのような体裁の本に見えるのだが、読んでいくうちにそんなことを超えた心境になっていく。実用書としては道教の内観治癒を説き、心用書としては白隠の内観哲学を説く。そう、読めるのである。  
さきほども書いたように、本書は北白川の白幽子と出会って体感したことを書いたというふれこみなのであるが、しかしよくよく読んでみると、どうも白隠が勝手に作った話のように思われる。白隠はこういうトリックを平気で用いたし、またそのときに必要な最も適切なトリックを用いる天才でもあったから、このぼくの推測はあながち外れてはいないのではないかとおもう。  
しかしそんなことよりも、本書が看話禅あるいは白話禅としてのコンテクストをよくつくったことに感心したい。いまでは「あなたは体の調子が悪いですね」「よく眠れないでしょう」「ときどき食事をしたくなくなることがあるでしょう」と漠然と畳みこんで、それではねと改めてその解決法に急激に飛んでみせる話は少なくないのだが、そのようなことを相手の体にあずけながら説法する方法は、まさに白隠が開発したものだったのだ。  
そしてもうひとつ感心したことがある。白隠こそは江戸中期において、最もよくタオイズムに精通していたのではなかったかということだ。  
すでにぼくは岡倉天心の『茶の本』初読においてタオイズムにめざめ、ついで内藤湖南と幸田露伴を知ってまたまたタオイズムに出会い、さらに富岡鉄斎の水墨にタオイズムの極上を知った者であるのだが、その後に出会った白隠こそがその先駆をしていたとは思っていなかった。また誰も、白隠からタオの香気を引っ張り出そうとはしてくれなかった。  
これは落ち度であろう。白隠こそは、そして『夜船閑話』こそは日本のタオイズムの近世的出立だったのである。このこと、鈴木大拙や鎌田茂雄には気づいてほしかった。  
白隠の公案と白隠の禅画にふれるチャンスを逃したが、一言ずつ加えておく。  
公案についてはなんといっても「隻手の音声」がよく知られている。両手で打った音があるのなら、片手の音はどう聞くかという公案だ。ぼくはこれを勘違いして、両手で打った音のどっちの手に音が残っているかと掴まえて、何度もその話をいろいろの場面でしてきた。その後、『薮柑子』(白隠の著作)をよく読んでみたらまったく違った意味だった。まあ、いいだろう。公案とはそういうものだ。  
白隠の書画の面目については、これも何度も打ちのめされた。かつてぼくはNHKの日曜美術館で「白隠・仙涯(ガイのフォントがない!)」の番組に出たとき、原の松蔭寺を訪れてそうとうにじっくり白隠を見たのだが、まず、その大きさに驚いた。ついで、その闊達に蕩け、最後にその凛気に吹かれて、たじたじだった。  
そのときとくに自戒したことは、白隠の書画をまねる者は無数にいるが、これは白隠をいったん離れて「楷なるもの」に戻るべきことを教唆しているのではないかと思ったことである。なぜそうなのか、とは問うてほしくない。白隠の「南無阿弥陀仏」を見ればすぐわかる!  
 
 
白隠禅師4

 

白隠禅師と黄檗門
白隠禅師と黄檗慧極禅師との関係に就いて「龍澤開祖神機独妙禅師年譜」(因行格)及び御自身の著、「壁生草」によりてみますと、 
河の法雲に往く。慧極に謁して請益すらく、「学人(白隠御自身)、見道略々(ほぼ)其の旨を得たりと雖も、日用の上に於いて未だ真箇の大安穏・大解脱の場に到らず。願わくは示諭を垂れたまえ」と。極曰く、「汝恁麼ならば須らく山中に向かって草木と倶に朽死せんことを要すべし」と。之に由って槙尾山に登って住菴を求むれども、山主許さず。志を獲ずして還る。 
このところを「壁生草」では、 
処々高名の知識を尋ねて、救いを乞うと雖も、各々禅病と称して手を下さず。最後に泉州の慧極老和尚に参謁す。師云く、「禅病は医治せんと欲すれば転々重る。最も寂静の處を尋ねて、此の山の草木と共に朽ち果てんと、死に到るまで諸方に奔波すること莫れ」と。然りと雖も時々来謁せんが為に、篠田の蔭涼、洞家の禅堂を指して暫く掛搭せしむ、 
云々と。此の時、慧極禅師八十二才、白隠禅師二十九才である。河の槙尾山は嘗て慧極四十才の頃登り、安座に適していることを感じ偈を残しておられる。此の故に推挙したと思える。 
蔭涼寺の鉄心と慧極禅師の関係は共に中国僧、道者超元に師事なされており、且つ共に黄檗隠元との縁のある方である故に、白隠禅師は慧極禅師を通じて鉄心を識り得たと思われる。 
嘗て鉄心の名を聞く。他化し去ると雖も必ず遺風の以て鑑る可き有らんと、直に泉州に向かい、錫を蔭涼に挂く。禅規但々厳烈なるのみ。頗る鉄心の古風を失す。一日、衆に随って後園を灑掃す。把茅の陋室ありて「大涅槃経」を机上に安ず。師恠(あやし)みて僧に問う、「是れ何人の居ぞ」。僧曰く、「寿鶴老人というものあり。久しく鉄心に侍す。風度狂簡にして人と交わらず」と。師、之を物色するに、醜面敝衣、形狂人に似たり。是と語らんと欲して、纔かに近づくときは則ち之を避く。逐うて路頭盡くる處に至って、遽に衣を捉えて曰く、「老兄且く住(とど)まれ。我れ遠く鉄心の風を慕うが故に来って錫を挂く。願わくは我が為めに他の平生の示誨を挙せよ」と。鶴、愕然として曰く、「東西を回看すれども、真風地に墜ちて、未だ一箇も先師の道を問う者見ず。子、何ぞ独り此の言を為すや」と。便ち閑に乗じて、時々鉄心の作用を語る。 
青年、白隠の道を求める上に於て、黄檗、洞門の別なく一途に歩かれたお姿、誠に心膽に三十棒を喫せらるる思いがする。 
慧極道明=一六三二年生まれ。九歳で出家、十九歳、竺印に伴われ長崎に下り、道者超元に就く。道者、中国に帰りて後、閉門五年。隠元禅師檗門を創建さるに木庵に嗣法。寛文十二年、法雲寺を開山、東光寺(萩)等を開く。九十歳遷化。 
格宗浄超=「白隠年譜」寛文二年(一七四九)六十五歳の項に、「檗門の弟子格宗来参し、曹洞の五位を請益して、訣を受けて還る。後ち檗山に住して鵠林の宗風を分施す」とある。格宗三十八歳頃と考えられる。後七十五歳で黄檗二十二代の堂頭となる。 
華頂文秀=諸方歴参の後、白隠禅師の室に入る。三年にして白隠禅師遷化に遭い、故山に帰る。六十一歳にて黄檗山二十五代住山す。
白隠禅師と私  
私の白隠とのかかわりで最も大きなものは、なんといっても十年間僧堂で参じてきた白隠創作の公案禅であろう。しかしこれは私の身体の中に早く溶け込んでしまい、もはや跡形もない。その後私は大燈国師に打ち込み、かなり深く研究を続けた。その後「大燈録」全巻の訓註という仕事をした成果に基づき、僧堂で「槐安国語」の提唱をした。その時の感想であるが、白隠の著語には無駄なものが多い。しかし中にはさすが白隠と思われるようなピカッと光ったものもあった。だが結果的には大燈との落差を感じさせることが多かった。 
私が白隠の著作で最も感激して読んだのは「夜船閑話」と「遠羅天釜」である。過去多くの禅者が多くの禅籍を残しているが、一休は別として、こんな独創的で親切で面白い禅書は他に類を見ないと思った。 
私は若い頃、身体が弱く、専門学校の時、肋膜炎を煩い、大学では肋骨カリエスで入院手術をした。それゆえ僧堂で修行する前に健康上の不安を感じ、天風会というヨガを基本にした会に入り、中村天風先生の指導を受け、自分の健康にやっと自身を持つことが出来たのであった。おかげで十年間の僧堂生活では殆ど病気らしい病気をせずに修行に専念することが出来たのである。今から思うと天風会の実践法は、「夜船閑話」の実践法と随分似た所があることがわかった。特に呼吸法は近いと思われる。それはそれとして、天風先生の話は特に良かったが、次の話は忘れられない。 
天風先生の指導の基本には肛門を引き締めるという実践法がある。これは元来ヨガのクンバッカ法に基づく。その訓練の時の話である。 
江戸時代、ある船が台風に遇い遭難した。そして乗船していた人々は全て海岸に打ち上げられた。そこですぐさま検死の役人がやって来たが、その役人は打ち上げられた人びとの肛門をつぎつぎとしらべて行った。それは肛門が力なく開いている者は見込みがなく、力強く締まっている者は見込みがあるという理由からだという。その中でただ一人だけ肛門の締まっている者がおり、僧侶であった。その者が蘇生してから実は白隠禅師であることがわかり、役人達は「さすが天下の白隠禅師さまよ」と感嘆したという。 
この天風先生の話は何処に出処があるのかわからない。恐らく作り話であろう。しかし如何にも白隠さんらしい逸話ではなかろうか。不肖私の坐禅は、常に肛門を締めるという実践を伴って来た。「夜船閑話」の方法にこれを加うれば、白隠禅が間違いなく体得出来ることを私は保証する。
伊山和尚の二祖霊蹟・保存顕彰  
法輪寺第十代伊山和尚は、二十年の心血を注ぐ努力の甲斐あって、「白隠和尚全集」和本三十二巻を編纂し、昭和九年五月に江湖に頒ち、白隠和尚の盛名を天下に轟かすこととなった。この時、伊山和尚は白隠和尚の旧跡と霊墨を求めて全国を行脚した。その中に白幽子巌居之蹟がある。この地こそ白隠和尚の名著、「夜船閑話」発祥の地であり、白幽白隠両祖対面の霊蹟である。京都市北白川清沢口一番の十一、千七百三十五坪がこれで、現所有者は宗教法人法輪寺である。 
この地の顕彰のために明治三十九年十月、富岡鉄斎居士が筆を揮して、「白幽子巌居之蹟」の七字を書いて建碑した。 
この碑が昭和三十五年春、何者かによって、表面の七文字が削られ損傷を受けたことが、当時の京都新聞に報じられた。昭和九年以来、白隠和尚「夜船閑話」発祥の地であることを深く認識して、誰よりも該地を霊蹟として保存顕彰したいと願ってきた伊山和尚は、この報道を契機に強力な保存顕彰運動を始めた。昭和三十五年九月のことである。白幽子が無ければ白隠和尚は救われなかった。臨済中興の祖と仰がれる白隠和尚は、この巌窟の中で、白幽子に内観修養の秘伝を授かって起死回生したのである。伊山和尚はこの霊蹟を保存して顕彰せねばならぬと、「白隠和尚全集」を編纂した時と同じに、報恩謝徳の精神に燃えた。伊山和尚が生涯「夜船閑話」に集中して評唱すること数十回、講演は数千回と自ら語る。 
伊山和尚は昭和三十五年九月にこの運動を始め、翌三十六年と三十七年には胃癌を発病して入退院を繰り返し、三十八年三月遷化、世寿六十九才であった。この病中にも一日も忘れなかったのは、この霊蹟の保存と顕彰のことである。昭和三十八年二月二十九日、遷化の七日前、この事を明記した遺書を後住である佐野大義に手渡している。 
後住は保存については、微力を尽くして該霊蹟の周辺約一町七反余を買い求めて増地したが、顕彰についてはまだ何一つ責めを果たしていない。伊山和尚がこの霊蹟の保存と顕彰に如何に酬恩の誠を尽くされたか江湖の識者にこの保存記を読破してもらい、叱咤激励の御言葉を小衲に賜わらんことを伏して懇願申し上げる次第である。(平成九年七月下浣記)  
白幽白隠両祖遺蹟復興保存記 
昭和三十五年九月二十七日 
起上達磨道場弗云窟伊山 六十六才 
二百五十年来未解決のまま経過してきた、洛東北白川瓜生山中にある夜船閑話発祥の霊蹟にして白幽白隠両祖の遺蹟である、白幽子巌居の旧跡を、暴漢により破壊されたる逆縁から、この八月八日、多年禅門の宿願も成就して其の地番「北白川清沢口一番地の十一」千七百三十五坪、土地所有者内田初太郎氏が京都新聞の記事が縁となり、達磨寺に寄進さるる事になったので、此の由を九月二日、今後如何に復興すべきか、兼ねて荒らされた此の霊地の事を心配されておる、静岡原松蔭寺の白隠和尚と因縁浅からざる、妙心寺派管長にして静岡県興津清見寺住職たる嶺南窟古川大航老師を妙心寺小方丈大鵬軒に訪問して、約四時間に亘り、懇談検討した処、此の復興は達磨寺一個の発願とせず、白隠系在洛中の各山管長を発願者として発足すべきであると云う御意見から、古川妙心寺派管長自ら主唱者として在洛各山管長を歴訪するとの申し出により、外遊前御多忙の時間を割き、此の両祖遺蹟保存のために久壽翁が九月六日正午から吾が檀徒坂口繁蔵家から自家用車が回され、八時間の長きに亘りて、小衲と共に在洛臨済六山の管長にそれぞれ面談の上、強く一致協力して保存すべきことを力説された処、各山の管長も一致復興に努力したいと賛成があり、喜んで復興保存会の発願者たる事を快諾され、茲に妙心古川大航、東福林惠鏡、建仁竹田益州、南禅柴山全慶、相国大津櫪堂、大徳小田雪窓、天龍関牧翁(承認賛助順)各管長並びに土地の寄進を受けた所有者としての小衲後藤伊山の八人が発願者となってこの会を発足する事となり、今後の計画としては、先ず人の背丈もある雑木雑草を切り払って土地を整備し、今回何者かにより四月中旬破壊された富岡鉄斎翁の「白幽子巌居之碑」の再建、「夜船閑話発祥霊地」なる新石標の建設等の事業を、二十余年間も熱望して、今回漸く満願成就して、土地の寄進を受けた達磨寺を中心として、新計画が企画される事となった。 
嶺南窟大航老師は、此の復興を帰朝後継続すると気を懸けつつ、早く所有権の登記を完了するようにと、言葉を駅頭に残して九月十八日渡米、布教行脚に旅立たれた。 
達磨寺では、其の駅頭の約を実現すべく九月二十六日彼岸明けの日、寄進者内田初太郎氏と寄進を受けた法輪寺(達磨寺)との間に所有権の移転を正式に調印、翌二十七日、京都地方法務局への登記も無事成立した。 
此の白幽子巌居の霊地は、内田家に伝来する、土地権利書、古記録によれば、今から六十七年前の明治二十七年十二月二十七日、当時の所有者内田鹿蔵氏(現所有者内田初太郎氏の父)が売渡人となり、徳弘時聾(太無)氏が買受人となられ、所有者となられたが、七年後の明治三十三年三月九日には、再び内田鹿蔵氏に所有権を譲り渡され、洛北真如堂北之芝に在った松風窟白幽子の墓石も徳弘氏の退京と共に、明治三十四年京都から姿を消し、墓石柱なく、明治三十六年四月、富岡鉄斎居士等が重修される迄は受難して台石のみで墓石は無かった訳である。 
瓜生山の巌窟は現所有者内田初太郎氏が父鹿蔵氏から遺産を相続され、今日に及んだるを、巌居碑受難の七月十九日の京都新聞記事の逆縁が動機となり、善縁を結び、九月二十七日、法輪寺への権利の移転登記も完了して、此の両祖の霊地は初めて在俗の所有から二百五十年忌を記念して、禅門に所有権が移転され、宗教法人法輪寺の所有となったものである。 
今日漸く其の保存復興が緒に付くとは、余りにも法孫の此の両祖蹟への無関心さが惜しまれている。この土地は「左京区北白川清沢口一番地の十一」公称面積五千七百二十五平米である。 
この白幽巌居の霊地は、一大霊亀背上の巌居で、後方には巨岩が屹立し、其の巌窟に上れば京都市を一望眼下でき、北には大巌壁を負い、南面した理想的の地勢を自然に備えておるのは、此の辺の土地の中で最も秀でたる処で、二百五十余年前に留意して情寂な環境の良き処を撰び、白幽子が巌居し、身心を鍛錬されたる事も宜なる哉と憬慕の念一入なるものがある。 
二、三丁下迄は道と谷とが一緒になり、雨でも降れば道も一変して清水の川となり、白川砂を含み心地よく足を洗いつつ登らねばならぬが、巌居附近は水なく、乾ける山なるも、ただ巌窟前にのみ、白幽子の生命を守り続けてきた霊泉が滾々と湧出して、二百五十余年の長き間絶え間なく湧き続ける白幽泉である、俗称「長命水」と云う、此の巌窟と此の長命水は白幽子白隠両祖の遺徳を偲ぶ象徴たるなるものなれば、富岡鉄斎翁も明治三十九年十月、茲に建碑して此の巌窟と清泉の壊滅を恐れ、健石して此の霊地の不朽を計ると強調されている。此の居士の功績と、如何なるものにも換え難い此の霊地を多年保存し、守護し続けられ、私心を去って禅門に寄進下されたる内田初太郎家には、禅門としては挙って酬恩の誠を捧げねばならぬ。 
京都に於ける唯一の白隠和尚の旧蹟として、天下に宣揚すべきは法孫の当然為すべき責務である。 
 
 
遊女大橋こと慧林尼のこと

 

寛延3年(1750)、白隠禅師は前年の冬から播州明石の竜谷寺にあって虚堂録を講じていた。年明けて、長途、備前岡山そして井山に出かけた。各地での法筵をすませ、京都まで戻ったのは4月ころであった。禅師は昨年来の長旅の疲れを、京の豪商、岐阜屋こと世継八郎兵衛政幸の館でいやした。世継政幸はもともと江州神崎郡長勝寺村の清水氏の出で、岐阜屋世継氏に入り婿した人であり、出身地を同じくする東嶺との縁で白隠に参じた。世継政幸はすでに昨年の明石竜谷寺の虚堂録会にも参じ、その時に隻手の公案を透過していた(「荊叢毒蘂」「世継氏窮民を賑わす圖」)が、そのまま白隠禅師の備前行きに随従し、ともに京都まで戻り、禅師を自邸に招いたのである。 
「年譜」には「帰路平安城を過ぎ世継氏に館す。池大雅来参す。及び大橋女を度す」とある。池大雅はあの著名な画家のことだが、いま取り上げるのは「大橋女」という人のことである。その大橋に触れる前に、このたびの京都滞在中の禅師の活動を概観しておこう。4月には本山妙心寺の養源院で碧巌録を講じた。その法席には、宝鏡寺尼門跡、光照院尼門跡をはじめ葉室頼胤、冷泉宗家といった貴顕が連なった(「年譜」)。その後、宝鏡寺、光照院からはいくたびかお召しがあり、禅門寶訓を講じており、駿河に帰ったのは7月3日のことであった(「於仁安佐美」巻之下の冒頭)。つまり、白隠禅師はこのとき京都におよそ三ヶ月ほど滞在したわけである。その間、さまざまな人と出合い接化しているが、そのうちの一人が大橋女だった。 
白隠「年譜」には大橋女についての長い割り注がついている。「年譜」草稿の内容もほぼ同じだが、双方をあわせて、これを訳してみよう。  
大橋女はもとは江戸に住まいする旗本某甲の娘だった。父は千石余を食んでいたが、何らかの事情あって浪々の身となり、京都にやって来た。収入がないものだから、娘は弟とともに乞食までして家計を助けたが、それでも衣食ともに足らぬ赤貧のありさま。娘は一家を救うため、自分を遊女屋に身売りするよう父母に申し出たが、父母は、わが子を売って活きるなど畜生の業、と許すはずもない。娘はさらに、「これというのも方便、もしお許しにならなければ、一家ともに死ぬだけです。方便は真智には及びませんが、死の難を免れるは道にかなうのですから、これも真智ではありませんか」と説得するので、父母も泣く泣くこれに同意し、遊廓に送ったのである。 
女は、もとより教養があり、書も和歌もよくしたので、やがて島原の名妓大橋となった。しかし折りに触れて思うはわが身の上。もとはといえば侍の家に生まれ、深窓に養われ、女中にかしづかれる身であったのに、今はかかるうき川竹の身、何と情けないことか、と。やがてこの煩悶が積り重なって病となり、医者も手をこまねくほどになった。 
そんなある日、貴客があり、その様子や顔色をみて、何か悩みでもあるのではと尋ねるので、大橋もその来由をくわしく話したのだった。すると客がいう、「病になるのも無理はない。それをいやすには千金もの銭がなければならない。(そんな金はとても無理だが)別に、その病悩から脱け出す方法がある。けれども、こんなことを言っても信じはしないだろう」と。大橋、「信じます。どうか教えて下さい」というので、客は話して聞かせた、「そなたが、我が身と思っておるものは、すべて見聞覚知の四つに他ならない。けれども、この四つのものを司る主人というものがあるのだ。これから先、行住坐臥、見るもの何ものぞ、聴くもの何ものぞと、切々に返観して怠らないならば、いずれ本具の仏性が忽然として現前するであろう。そういう境地になれば、苦界を脱することができよう」と。 
それより、大橋は教えられたように、単々に潜修工夫する日々を重ねていた。そして、延享のころ(1744-1747)のある日、狂雷が京の都を襲い、28ケ所に落雷した。大橋は生まれつき雷が嫌いだったので、蚊帳に入りふとんをかぶって、左右を小婢従女に護らせて避難していたが、ハタと思うところあって、起き上がると端然と静坐した。やがて狂雷がにわかに庭に落ちた。たちまち大橋は仰顛気絶した。しばらくして蘇ったのだが、何と、見聞するところ、以前とはまったく異なるのである。この不思議な体験を、どなたか明師にお話しして、自分が味わった境地が何なのか証明してもらおうと思っていたが、廓暮しの身ゆえ、それもかなわずに過ぎていた。 
そのうちに、ある人に身請けされ、その妻となったが、やがてその夫も歿故した。その後、一素居士という者に再嫁した。居士は大橋に誘われて、いつも白隠禅師に参じたという。大橋は、後に一素居士に乞うて尼となり、慧林と名のったが、居士に先きだって死んだ。一素居士は白隠禅師の弟子である東嶺に焼香を頼んだ。東嶺が一素居士の家に行ったところ、位牌の代わりに、ただ観音像の軸が掛かっているだけである。東嶺が「位牌はどうしました」と尋ねると、居士は「普門品には応以婦女身得度者、即現婦女身而為説法とあるが、慧林尼こそは観音の応現だ。だから観音像を掛けてあるのだ、何もおかしなことではない」と答えた。東嶺もこれを聞いて黙って香を拈じたのである。  
以上が、白隠「年譜」および草稿に出る大橋女に関する記述であるが、「年譜」と「年譜」草稿とでは決定的な違いが一箇所ある。「年譜」草稿では、大橋女と一素居士を、それぞれ高橋女、一相居士としていることである。草稿は東嶺の執筆である。その東嶺は、夫に頼まれて自ら女のために焼香もしているのに、他本でいう大橋、一素居士とは別の名を記したのはなぜか。一相は一素の音通だとしても、高橋という名の遊女は島原に三人もいたというから(後出、明田氏著)、高橋の名はいささか気になるところだが、本稿で以下に引くように、大橋の名で記録するものが多いので、いまは大橋を正としておく。 
さて、「年譜」によれば、大橋女とは、かつて島原の遊女をしていた女のことで、大橋はその源氏名であることが分かる。白隠が京都で出合ったときは既に現役を退き、二度目の夫のもとに嫁していたのだから、禅師は「遊女」を接化したというわけではない。大橋は延享のころ(1744-1747)落雷で悟るところがあったというが、これは禅師が相見した寛延4年(1751)から4-7年前だから、既にそれなりの境界の女性であったわけである。 
大橋のことは、当時の京洛ではかなり有名であった。京の伴蒿蹊(ばんこうけい)(1733-1806)が寛政2年(1790)57歳の時に刊行した「近世畸人伝」(正篇)には、大橋のことがつまびらかに載る。いま原文を引く。 
都島原(みやこしまばら)の遊女大橋(おほはし)、実の名は律(りつ)[もと彼所に大橋といへる名妓あり。うたよみ手書ぬるが、その手ことによければ、大橋やうといひていまに伝はるよし。此妓もその名を嗣るとなん]よろづみやびを好めり。 
本名は律だという。また島原にはかつて別の大橋という太夫がおり、歌と書にすぐれ、特にその書跡は今も「大橋様(よう)」として伝わっているというのである。律女の大橋もその名妓の名を襲名したものである。 
さばかりの女なれば、中々につひのよるべもなかりけらし、尼にならんとおもへるを、老たる母のためいかにとためらふほどに、栗原一素といへるは、世のすねものにて独あるを、よき戯(たはぶれ)がたきなるべしと人あはせけり。 
一素居士は栗原一素だという。この男、世情に随わぬ情強者(じょうごわもの)で独り身を通していたが、この二人を妻合(めあ)わせれば、いい遊び相手(よき戯れがたき)になるだろうと、誰かの勧めで夫婦になったという。「年譜」の記述によれば、大橋はこれ以前に既にある男に身請けされたが、その夫とは死別して寡婦暮しだったのである。「老いたる母」がいたことは「年譜」には記さない。 
其家いとまどしければ、手づから雑事ども取まかなふに、猶うた物がたりを見ながらぞ飯をも炊きける。老の後彼(かの)嶋(しま)ばらわたりを過て、 
よそにみて おもふもつらし 身の昔 うき河竹の さとの夕べは 
此うた、下句などのつゞけがらはまほならねど、こゝろはいとあはれなり。 
「うき河竹のさと」は遊里のこと。歌人でもあった伴蒿蹊は、下の句のつづけ方などが秀逸(まほ)というわけではないが、その思いはいとあわれであると評する。 
またある人のもてる自画賛のうたはをかし。 
わするなと 契りし春は 夢なれや 寝覚とひくる 初雁の声 
画もよくすとにはあらざるべけれど、其さま風流に見ゆ。またある所にてみしは、海辺雪(かいへんのゆき)を、 
和田の原 波(なみ)もひとつに 苫(とま)しろき 雪をのせたる あまの釣舟 
花もみじの時、男はもちいひ(餅飯)を腰につけてあそべば、己はさゝえ(提げ重箱)を首にかけて西山におもむく。かたみに(互いに)才をたゝかはしけるが、後に夫婦つれて有馬の湯に浴し、妻はそこにて髪をおろしたり。 
白隠禅師に出合うまでの消息である。奇にして風流、恰好の「戯れがたき」どうしの夫婦の暮しぶりである。「畸人伝」の書き順を真とすれば、禅師に相見した時には既に落飾して尼になっていたということになる。 
さて禅にも参じて、白隠和尚京師逗留(とうりう)の日はつねにまうでしに、折々冷泉(れいぜい)寂静(じやくじやう)入道殿に出あひまゐらせしかば、和尚、此尼はもと島原の名妓なり、と語られしほどに、入道殿、さらばむかしのなげぶし(投節)といへるものを覚えたらん。うたひてきかせてんや、とのぞみ給ひしに、それはふしはかせ(節博士、古曲の音譜のこと)いとむつかしくて、今は久しくなりてわすれたるがうへに、老ごゑにてはこはぶり(声ぶり)もまねびがたし。そのころの小うたといふものも今のふりにはあらず。きこしめさんや、とて諷(うたひ)たりしも興ありしとなん。 
冷泉寂静入道殿は、権中納言冷泉宗家卿のこと。右の一場の逸話は、白隠が妙心寺養源院で碧巌録を講じた時のできごとであろう。白隠が京に逗留していた時は「常に詣で」たというから、大橋は(あるいは夫の栗原一素とともに)、禅師の京都滞在のうちでもっとも重要な行事であった妙心寺の法席には、当然のこと参じたはずである。 
ここで冷泉中納言が所望した投節(なげぶし)というのは大津投節ともいい、「明暦・万治(1655-1661)の頃から京都の島原の遊廓で歌い始められたもので、貞享・元禄(1684-1704)の頃もっとも流行し、京都・大坂・江戸ばかりでなく、地方の遊里などで広く行われたが、寶永・正徳(1704-1716)頃を限度として次第に衰えた」(「日本国語大辞典」)というはやり歌である。三味線にあわせて歌い、歌の終わりを「やん」と投げてうたったが、後には言い捨てるように歌ったもので、島原の「なげ節」、吉原の「つぎ節」、新町の「まがき節」は三名物とされていた。 
 往時の「投節」を所望された大橋は、音譜もすっかり忘れ、年老いて声も悪いのでとお断わりしたが、それでは座が白けようと、代わりに今では聞けぬ古い時代の小唄を披露したのであろう。場所はおそらく妙心寺養源院。所望する者、これに応ずる者、二者ともに脱洒、まことに風流の一こまであった。そして、傍らに在った白隠禅師もさだめしこれを賞翫されたことであろうと推察するのである。 
右に記すところによれば「老ごゑにて」とあるから、大橋はすでに若くはなかった。「畸人伝」の筆者、伴蒿蹊は若い時分に、この夫婦のことをよく識っていたという。 
おのれまだわかき時、夫婦ともにしれり。夫はもと類ひなき遊蕩にて、美少年に淫し、家産をも破しときけるに、後はあらくれし老法師にて、大ごゑにてよくものいひ、万(よろづ)のことみなしれるおもゝちして自負せるを、にくむ人もあり、興ずる人もありき。京のうちにては人のしれるをのこなりしも、今は四十年のむかしなり。 
栗原一素なる人物もかつてはかなりの大尽であったが、放蕩で家産をつぶしたという。伴蒿蹊の家は三条高倉西入る、京の中心地で畳表・傘などを商う富商であった。今から見れば、そう人口も多くない京のこと、一風変った人物のことは少年にも深い印象を与えたのであろう。大橋が白隠に相見したのは世継氏の邸だったが、世継の店、岐阜屋も三条高倉だった。栗原は京では「人の知れる男」である、世継氏も当然見知っていたはずで、夫婦とはかねてから何らかの縁があったから、自邸で白隠禅師に相見せしめたのであろう。「近世畸人伝」は最後を次のように結ぶ。 
此妻、人に語りしは、都の四方にて景物のよき所々、月をみるには聖護院(しやうごゐん)殿の東北に松の三本ある丘、ちどりを聞には五条のはしより下、夜深くなりては花頂山のふもとよし、水鶏(くひな)はおむろの前、ひばりは朱雀野(すざかの)とぞ。其すざか野と五条のながれの下は、己もよくしりて、其言をたがはぬをおぼゆ。聖護院のめぐりもうちはれて、すべて月にはよき所也。松のある所はさぞなん。なほこゝろむべし。 
「畸人伝」とは少し異なった伝記もある。明田鉄男「日本花街史」(雄山閣、平成二年)に「波娜婀耶女(はなあやめ)」という本が引用されており、そこにも大橋の記事が出る。 
「本名をりつと言へり。生れて画に巧みにして、花鳥風月濃淡さまざまに、暫しも筆のあゆみを止めず。洛西喬木女と落款せるもの多し。後栗原一素の妻となり、冷泉家の門に入りて和歌を学べり。中略。やがて感ずるところあり、惜しむ良人に暇を乞ふて禅尼となり、白隠和尚に参禅して大乗の門に入る。其後の消息詳かならず。忘るなと契りし春は夢なれや、寝覚とひくる初雁の声、の詠あり」。 
もうひとつ、「白隠禅師年譜補註」の「大橋女」の註には、次のようにある。 
誰レヤタレ 誰カハ今日ノ 妻ナラン 定メナキ世ニ 定メナキ身ハ 
此レハ大橋ガ歌也。島原廓外柳樹ニ単箋アリ。一素始見之、慕之コト年久シ。先婦死ス。娉一素居士。 
「先婦死ス」は「先夫死ス」か、あるいは「先ニ婦死ス」と読むならば、「娉一素居士」の後に入るべきか。右の歌を書いた短冊が島原遊廓の大門の柳に結ばれていたのを、風流一世の栗原一素が見て、大橋を思うようになった、というのである。 
ところで「年譜」草稿の最後に、東嶺が大橋女のために焼香した話を載せ、それは「実に壬申八月某日なり」と記す。壬申は宝暦2年に当たる。この記述が正しければ、大橋女こと慧林尼は、寛延4年の4月ころ(この年10月に宝暦に改元)白隠禅師に相見し、禅師が京で3ケ月ほど滞在する間、そのすべての法席に随従し、それから1年4ヶ月後には歿故したことになる。 
曲亭馬琴の「蓑笠雨談」(一名、著作堂一夕話)巻中には、寛政12年(1800)9月25日に東山双林寺で展覧された「烟花城書画展覧の目録」というのが載る。馬琴が京阪に旅をしたおりに写したものである。烟花は娼妓のこと、つまり島原の名妓の書画展の目録である。この時には全部で77点が展示されたが、その中には「別人大橋」というのもある。これは今いうところの律女大橋とは別人ということであり、それをのけて大橋のものが8点ある(前出、明田鉄男の説)。 
この展覧が催されたのは、大橋が白隠に相見してから五十年後のこと。大橋こと慧林尼はすでに歿故していたが、たいそうな人気があったのである。加藤正俊先生が大橋の書蹟をご架蔵と聞いて、お願いして拝見することができた。次のようなものである。 
はとのつえといふ事を 句のかしらのつぎの字にをきて 松年久といふ事をよみて奉る 恵琳 
とはに懸て ちとせかそふる この宿の まつのさかへの すえそ久しき 
五七五七七の各句の二番目に「はとのつえ」の5字がおり込まれている。鳩の杖は、頭部に鳩の形を刻んだ杖で、中国で老臣をいたわるために下賜されたもので、わが国でも80を越えた者に下賜されたという。添書に「恵琳尼、俗名大橋、畸人伝中に載する所の嶋原の遊女、剃髪の后、詠める所なり。我が家の祖先、尓然斎、有栖川家より鳩杖を拝領せるに付いて、祝いの為め詠める所の和歌」とある。有栖川宮家から某家に杖が下賜されたのを祝って歌ったものである。 
森大狂「近古禅林叢談」の大橋の項には、「遊女の図」に題した文というのを載せる。 
字下げ西にながれ東にながるる、同じ川たけの身にしある中にも、八重垣つくると詠じたまいし神垣のほとりは、いともやさしく、絵にかけるを見てさえ、まことなつかしうおぼゆ。しかはあれど、このふたりのすがた、ここにかきあらわさざるさきは、ありやなしや。 
「川たけの身」は「川竹の流れの身」というに同じで、遊女など定めのない身の上のこと、「浮き川竹」などともいう。「八重垣」は「古事記」の「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」である。「まことなつかしうおぼゆ」とあるから、苦界を引いてから書いたものであろう。また最後に「このふたりのすがた、ここにかきあらわさざるさきは、ありやなしや」というあたりは、まことに大橋の面目躍如たるところであるが、参禅の経験がなければ出ない言葉であろう。 
最後に、白隠禅師の和歌集である「藻塩集」に次のような歌がある。 
慧林いかにや歌よみかけたりけむ 岩つゝじの返して予がかごにあつらへおこしければ 
春に逢ふ うき世の花と みやま木と いざさしよりて あだくらべせん 
岩つゝじ 慧林 人しらぬ みやまのおくの 岩つゝじ あだにやさきて あだに散らむ 
「いわつつじ」は和歌では「云はねば」を導く序詞。「古今集」恋一、495に「思ひいづる ときはの山の いはつつじ いはねばこそあれ こひしき物を」、また「和泉式部集」下に「いはつつじいはねばうとし、かけていへば、もの思ひまさる物をこそ思へ」とあるように、言うに言われぬ恋の思いを詠うことが多い言葉である。慧林が「岩つつじ」の題で詠いかけて寄越して(おこしければ)返歌を求めて来たので、白隠が「いざさしよりて、あだくらべせん」と歌って返したということだろう。 
右の歌、いつの頃のものかは分らないが、白隠と慧林尼との交流は、尼の晩年一年餘りのこと、白隠も67、8歳である。山中にひっそりと咲き、人にも知られずあだに散って行く山つつじに我が身をなぞらえた尼の歌には、まだそこはかとなくただよう色香がある。それに対して、白隠禅師は、お互いに老境の出家の身、またともに寄り合って「あだくらべ」をしようではないか、とこたえたのである。「あだくらべ」は徒競。ともに出家の身、いつかまた会うて、世外無用のお話しでも致しましょう、というところか。けれども一方で「あだくらべ」はまた恋人どうしが相手の不実を言い合うことにも、また「婀娜くらべ」の意にも用いられる。禅師の言うこころ、「枯木寒巌に倚って三冬暖気無き」底のものとは、一味異なるもののようでもある。   
 
 
お多福美人のこと

 

お多福は白隠の仮名法語、絵画などに出る重要なキャラクターである。 
お多福は、おかめ、お福ともいう。丸顔で鼻が低くおでこで、両頬が高い醜女であるが、愛敬のある顔だちをしている。「宮比神御伝記」一九には「或説に、足利の末頃とか、ある神社の巫子に亀女とて、その見目ハかの面のごとくなるが、宇受売命(うずめのみこと)を信仰し、愛敬こぼるゝ計にて、……見目よりも心の実ありて、何なる渋つら悪玉も、この亀女が貌をみしほどハ、其の悪心のやみし故に、其のかほを面につくり、お多福と名づけて弘めしが始めなりと云ひ、また一説にハ、直に宇受売命の御かほに擬へたる物なりとも云ふは、何れかまことの説ならむ…」という。 
天鈿女命(あまのうずめのみこと)は、天の岩戸で踊りを踊った女神であるが、古代では必ずしも醜女ではなく、むしろ美女のイメージである。近世芸能の中では、「ひょっとこ」とともに道化役をしたりするが、その愛敬ぶりが強調され、福相として尊ばれる一方、逆に醜女の蔑称として使われることも多い。元禄期の狂言「毘沙門長者」に出るお福は醜女の典型である。また文楽浄瑠璃でのお福も醜女の道化役である。白隠より少し後になるが、朋成堂喜三二作、恋川春町画の「桃太郎後日噺」という黄表紙では、醜女でいていささか好色なわき役として描かれている。 
お多福のイメージの特徴は、このように両義性があることである。 
ところで、白隠禅師の「おたふく女郎粉引歌」の冒頭には次のようにある。 
あの下もの町の新べさんのゝおふくは 
鼻はひしやげたれど、ほうさきが高ふて 
   よひおなごじやの 
なんのかのてゝ、いつかひおせわでござんす 
天じや天じやと皆様おしやる 
  てんのとがめもいやでそろ 
文(フ)みの数文みの数恋(コ)ひ焦(コガ)れても 
  わしは当座の花はいや 
数ずの男の思ひもこわひ 
  みめの好(ヨ)ひのも気(キ)の毒(ドク)じや 
器量(キリヤフ)好しめと誉(ホ)めそやされて 
  男ぎらひの独(ヒト)りねを 
命(イノチ)取りめと皆様おしやる 
  わしは命はとらぬもの 
那須(ナス)の与市(イチ)は箭(ヤ)さきで殺(コロ)す 
  おふが目本で人殺ろす 
数ずの殿子(トノご)は限りもないが 
  わしがいとしは只独(ヒト)り 
婆々(バば)が粉歌(コウタ)は面白かろが 
  ふくがしらべは知りやるまい 
知音(チイン)どしなら歌ふもよいが 
  やぼな御客(ヲキヤク)にや遠慮しや 
「おふくは鼻はひしやげたれど、ほうさきが高ふて、よひおなごじやの」とは、醜女の条件を備えた美人だ、という意である。白隠は「さし藻草」巻一の十五丁で、大名が美しい側室などを多くかかえることを批判するくだりでも「随分長(たけ)低くて色黒く、鼻ひしげ、ほう先き高く、見苦るしきお多福と云へる美人」と言っている。「醜女の美人」「見苦るしき美人」というのである。一見すると醜いが、よくよく見れば個性的で、なかなかの美人ではないか、などという具体的な審美観を表明しているのではない。醜即美だというのである。対立した矛盾概念を一挙同時に言うのを、禅的修辞では「抑揚」というが、ここもその伝であろう。いかなる審美観もすべて俗に堕すのである。 
俗世の大方の男にとって、女性の美醜はあるいは重大関心事であり、このぬぐい去りがたい執着のために、一生を区々として終えることもある。また、女性にしても、美しく見えるように、その装いの工夫にただならぬ情熱を傾けるものである。 
右に引いた「粉引歌」の冒頭の歌を見ると、おふくは、恋い焦れる多くの男から恋文を寄せられる「みめの好ひ」女で、「器量好しめ」「命取りめ」といわれ、「目もとで人を殺す」ほどの美人である。すなわち、世間の美醜の判断からすれば、とびきりの美人である。 
ところが、その飛びきりの美人を白隠は醜女の「お多福」に描き表現するのだ。かつて美人の皮を剥ぎししむらを破って見せたのは九想詩の絵(美女が死に、体が膨れ腐り、鳥獣につつかれ白骨になり、最後に土に帰っていくさまを、九段階の絵で示したもの)であり、美をひんむいて醜を曝して見せたのは一休の「骸骨」であった。けれども、いま白隠禅師には美もなければ醜もない、美醜一如、美は醜であり、醜は美である。そんな世俗の美醜の判断を超越し、人々に福をもたらすお多福美人、それが白隠の描くおふくさんである。 
「粉引歌」のおふくは、また女郎でもある。伊勢・尾張辺では、宿場女郎や飯盛女のことを「おかめ」と称したという。「殿々奴節根元集」に「宮の宿のはたご屋なる飯盛女をおかめと呼事は、寛政十二申のとしの秋、熱田の…町はづれに大なる茶屋有て、蜆汁をうりたり。…此うちの下女をおかめといふ。此女かの茶屋の庭に、床台を出して茶菓子抔売しが、いつとなくおかめが店とて流行出せり。…是より呼初て、当所の飯盛女の惣名とはなれり」という。寛政は白隠没後のことであるが、同じようなイメージが白隠の時代にもあったかも知れない。 
以上を念頭に、「おたふく女郎粉引歌」の図を観察してみる。おふくが何やらを石臼で挽いているが、その前には、茶碗と茶筅が置かれているから、茶を挽いていると分る。「お茶を挽く」という語があり、女郎などが客がつかず暇なことをいう。その語源説はいくつかあり、「日本国語大辞典」では七項目をあげている。「お茶挽き」「お茶挽き女郎」の言葉もあり、客がつかず売れないので暇な女郎のことをいう。おふくが、下積みの不遇な境遇に置かれていることが暗示されていよう。 
また、おふくの着物には梅鉢の模様がついている。梅鉢は北野天神の象徴である。天神信仰は古くからあるが、禅林での天神は「渡唐(宋)天神」である。これは詩禅一致を目指す五山僧によって創作された話で、日本の詩神である菅原道真が、夢で径山の無準禅師に参じて、一夜にして印可を得、梅一枝をもって帰った、というものである(「国史大辞典」の「渡唐天神」項に、その概要、研究文献などが要領よくまとめられている)。かかる話が創作された背景には、日本を代表する学問(文学)神である菅公が、中国伝来の思想である禅に参じたという形をとることによって、外来の禅を日本に普及させ根づかせようという意図もあったと思われる。五山以降、「渡唐天神」図は多くの禅僧によって描かれて来たが、白隠禅師もまたいくつかの「渡唐天神」図を残している。 
一方、白隠禅師は、貞享二年乙丑の十二月二十五日夜丑の刻(丑年丑月丑日丑刻)に生まれたという(「年譜草稿」)。自伝である「壁生草(いつまでぐさ)」には「熟(つ)らつら指を屈して 処ンが誕日を考うるに、貞享第二丁丑の歳の臘月廿五鶏鳴丑(ケイメイチウ)なり。年月日時共に是れ丑。往往に言う、二十五日は忝くも丑天神の御縁日なりと。然れば北野に因由有るに非らずや」とある。白隠の天神信仰の原点でもある。 
これによって見れば、梅鉢の紋所は単に北野天神の象徴というだけではなく、日本に伝承された禅の正統を受け継いだ白隠自身である。さらに言うならば、外国の文字である漢文を至上とした五山とは異なって、日本語である仮名法語や和賛を附した禅画などによって禅の立場を宣揚し、定着させようとした白隠禅師は、江戸の時代にふさわしく、装いあらたに生まれかわった「渡唐天神」でもあった。梅鉢の紋所は、これらを象徴したものであろう。 
さらに観察すれば、おふくの前には、煙草道具(煙管と煙袋)が配置されており、煙袋にも梅鉢の紋がついている。これは、おふくが白隠禅師の化身であることの隠喩である。白隠禅師が愛煙家であったことは「荊叢毒蕊」などで判明している。梅鉢紋の煙草セットは白隠のものである。筑摩書房の図録「白隠」一四〇に「布袋吹於福図(布袋、於福を吹く図)」がある。賛語は次のとおりである。 
善導吐三尊弥陀(善導は三尊の弥陀を吐く) 
布袋吹二八於福(布袋は二八の於福を吹く) 
吐弥陀依称名功(弥陀を吐くは称名の功に依る) 
吹於福将其何力(於福を吹くは将た其れ何の力ぞ) 
随分とおもへどお福ばかりは 
吹にくひものでござる 
布袋が煙管を右手にし、深く吸い込んだ紫煙とともに十六歳(二八)のお福を吹き出しているところである。布袋はすなわち白隠である。おふくの着物には天神の紋所である梅鉢が印されている。 
いま、お茶を挽くおふくの前に、梅鉢の紋がついた煙管・煙袋が置かれているのは、おふくを我が(白隠禅師)化身として、この煙管から吹き出し了ったものであるぞよ、との暗示である。 
 
 
つけたり・鰻屋の娘お清のこと

 

「白隠広録」第二輯(明治三十五年発行)の口絵に、白隠禅師自刻の「清女像」の写真がある(沼津、和田伝太郎氏旧蔵、焼失して今はない)。像の底部には「明和元年八月、為親孝行清女、白隠作之」とあったという。さらに「鈴木清女木像之記」という、次のような一文がある。 
茲(ここ)に此の木像の由来を討(たず)ぬるに、駿州浮島ケ原字柏原は東海道筋に当り、鰻蒲焼の名物を鬻(ひさ)ぐ数戸の茶屋あり。就中有名なるを田子屋とす。家の西隣に本陣浮島氏の邸(やしき)を控へて、頗る全盛を極めたり。享保の頃、田子屋の主人鈴木佐右衛門、平素仏法に帰依し、原の松蔭寺なる白隠禅師の教化を受けて家庭の間に和気洋々たりき。二女あり、其の妹なるをお清と呼ぶ。幼より孝心深くして、毎(つね)に禅師の愛撫を蒙れりき。長ずるに及びて天の成せる麗質自ら万人の目を引き、其の評近郷に隠れなく、隣里の壮輩心を嘱する者多しと雖も、清女資性高潔にして操守貞しかりき。時の関白近衛侯(大解脱院殿)此地を通輿の際、白隠の禅関を叩くとて田子屋に小憩せられ、其夜は柏原なる本陣に宿せらる。禅師亦侯の旅館たる浮島氏に過りて、杯盤の間、相唱和して其の旅情を慰めらる。禅師時に謳うて曰く、 
東柏原田子屋の娘、姉は二十一妹は二十 
     妹ほしさに御立願とつて 
と。侯黙聴沈思久しうして領得せらるゝ所ありしか、礼謝して寝内に入り、安坐して睡られず。従者及浮島氏等は殿下の不興を惹起せしにやと危懼して措かず。之を禅師に謀る。師曰く、憂ふる勿れ、関白今夕大歓喜を得玉へり、侯の不眠は卿等の知る所に非ず、強て其の端由を知らむとならば、隣家の清女に就いて之を質せと。之を清女に問へば、笑つて答へず。終に其の意を解する者なし。明日爽昧、侯は浮島氏に遺嘱して清女を京都に致さしむ。聞く者皆其の栄達を羨まざる者なし。清女命に接し襟を正しくして辞して曰く、恩命泰山よりも高しと雖も、天涯地角相隔たり、朝夕の奉養を欠かば父母滄海の深恩を如何んせむと涕泣して止まず。浮島氏措く所を知らず、之を禅師に諮る。師情を具して親しく書を裁し以つて調停の労を取る。越て翌春、禅師自ら一躯の木像を彫(きざ)みて使者に托して京師に贈り、之を関白に奉らしめ以つて清女奉侍に代らしむるの雅意を致す。超えて数年、清女夭折す。後侯再び此地を過ぎりて、清女の夭折をきゝ、 所c惜措かず、深く鈴木氏親族愛別の悲痛に同情して、彼の木像を田子屋に賜ふ。是より相伝へて和田氏の蔵する所となるたりといふ。 
お清の像を造ったのは「越て翌春」とあり「明和元年八月」であるというから、近衛公が旅先の柏原で、鰻屋田子屋の次女お清を見初めたという右の出来事は、その前年、つまり宝暦十三年(1763)のことになる。白隠禅師はこの年、七十九歳。そして、このエピソードの一方の主人公である近衛関白とは、近衛内前(うちさき)(1728-1785)のことである。宝暦七年三月、関白に補せられ、十二年七月、大政大臣。大解脱院関白と称す。内前公が清女を見初めたのは、宝暦十三年(1763)、三十六歳の時のことになる。 
東柏原田子屋の娘、姉は二十一妹は二十 
     妹ほしさに御立願とつて 
「立願(りゅうがん)」は、神仏に願をかけること。 
「妹ほしさに御立願とつて」の「とつて」は「とて」か、あるいは「御立願したって」の意か。 
 ところで、興味あるのは「お清像」である。どう見てもお多福の顔である。いまをときめく都の関白大政大臣がお目をとめられた女性である。右の「清女木像之記」でも「天の成せる麗質自ら万人の目を引き、其の評近郷に隠れなく、隣里の壮輩心を嘱する者多し」というほどの器量よしである。浮島ケ原ばかりでではない、近郷にまで評判の美女である。その美人を、禅師は当時「醜女」の典型とされていた「お多福」に似せて造ったのである。 
これとは別に、白隠禅師が「おさつ婆さん」にあたえたという自刻の「おさつ像」というのがある(松蔭寺像)。おさつは、白隠とは二従兄(ふたいとこ)にあたる、原の庄司六郎兵衛憲英(白隠と同年にして竹馬の友)の娘で、十六の年から禅師に参じた、女性門下の代表でもある。白隠禅師よりは十九歳年少である。この像がいつ頃造られたものかは分らないが、やはり晩年のものと思われる。 
このおさつ像、これも私には「お多福」に見えるのである。お清像は二十歳の女性像、おさつ像はおそらく六十歳を越えた女性像、年齢の違いはあるが、ともに「鼻のひくひ代りにほうさきが高くて、好ひおなご」に造られているように見えるのである。 
白隠禅師には美もなければ醜もない、美醜一如、美は醜であり、醜は美である。どうやら、禅師の描き造る女性は、すべて「お多福」になるらしい。世俗の美醜の判断を超越し、人々に福をもたらすお多福美人、それが白隠禅師の描く女性像である。鰻屋の評判美人のお清をモデルにして、精魂こめて如実に美女像などを造っていたなら、白隠はもはや禅者ではなかったことになろう。  
 
 
「大文字屋かぼちゃ」のこと

白隠禅師の仕事をするようになって、禅師の墨蹟も見ることが多くなった。一日、偶々変わった絵柄のものが目に入った。筑摩書房の図録「白隠」の一六三に出る「大文字屋かぼちゃ」(永青文庫蔵)というものである。その賛の読みにいわく 
大文字屋のかぼちやとて、其名は高兵衛と申満す 
せいはひきくて、ほんに猿まなこ、よひワひなふ。 
竹内尚次氏の解説に「京の遊里の寸景を写したものであろう。宝暦元年白隠六七歳、島原の花魁大橋女を度しているので、大文字屋は島原に関聯するかもしれない。七〇歳頃のもの。鼻緒のない草履が注意される」とある。 
何とも一風変わった絵であり、賛の意も分るには分るが、何のために書いたものか、その意図はさっぱり見えない。不思議な絵だと思いつつ眺めていたのだが、ふと「大文字屋かぼちゃ」のことは、どうもどこかで見たか読んだような気がした。けれども、思い出せないまま、打ち過ぎてしまった。このほどようやく眠りつつあった記憶が覚めかけたので、少し調べてみた。 
この大文字屋、実は京都ではなく、江戸の新吉原京町一丁目にあった妓楼のことである。その初代の主人を村田市兵衛という。したがって図録の読み「高兵衛」は「市兵衛」の誤読。大正十一年に出た、細川侯爵家版「白隠墨蹟」の読みも「高兵衛」となっているが、その誤りを踏襲したものか。 
さて、この市兵衛という男、頭でっかちで背が低く、その風貌から「かぼちゃ」とあだ名されていた。これをからかって、妙な囃し唄を歌う者がおったという。 
ここに京町大文字屋のかぼちゃとて 
その名は市兵衛と申します 
せいが低くて、ほんに猿まなこ 
かわいいな、かわいいな 
この唄は都雀のあいだに大いに流行ったのだが、市兵衛はそれを逆手にとって、自らこれを歌って人を笑わせ、それによって商売が大いに繁昌したという。一種のPRソングである。宝暦年間には、花魁の名前を織り込んだ多くの替え歌も出来たという。白隠禅師が描いたのはこの遊廓大文字屋のあるじ市兵衛であり、賛にあるのは、当時はやったという「かぼちゃ節」そのものである。市兵衛が扇子を手に、例の唄を歌いかつ躍っているところである。 
狂歌作者の手柄岡持(てがらのおかもち)(1735-1813。戯作の時の名を朋誠堂喜三次(ほうせいどうきさんじ)という)の「後は昔物語」に「大文字屋かぼちやといふ唄は、流行甚しかりし。宝暦二申年と覚ゆ。云々」とあり、この一文の後に随筆家の山崎美成(よししげ)(1796-1856)が次のような補説している。 
美成云、京町大文字屋の市兵衛、其形ち見ぐるしく、頭の形かぼちやに似たりとて、爰に京町大文字屋のかぼちやとて、ひよつと曲輪(くるわ)の地廻りの男どものわる口に云しが、曲輪中の流行となりきたる。家ごとに是を聞てうたひ、段々江戸中の口にかゝりて流行謡となれりと、馬文耕の武野俗談といふものにみへたり。 
馬文耕とは講釈師の馬場文耕(1718?-1758)のことで、この人は白隠の時代により近い。ここにいう馬場文耕の「当世武野俗談」には宝暦六年の自序があるから、白隠禅師七十二歳のころの消息である。「地廻り」(遊廓辺にたむろするならず者、用心棒稼業)から、こんな囃し歌をうたわれ、一種の営業妨害をされたというのである。この大文字屋かぼちゃのことは江戸ではかなり有名だったと見え、その他、いくつもの随筆類に記録されている。 
蜀山人こと太田南畝(1749-1823)の「奴凧」には次のような記事がある。 
新吉原京町大文字や市兵衛が狂名をかぼ茶元成といふ。妻を秋風女房といひ、隠居の姥を相応内所と称す。一とせ此内所にて狂歌会ありし時、持仏堂をみるに、先の市兵衛が位牌あり。釈仏妙加保信士(かぼしんじ)とありしもをかしかりき。此市兵衛河岸にありし時、かぼちやといふ瓜を多く買ひおきて妓の惣菜に用ひ、産業をつとめて此京町へ出しとぞ。皆人かぼちや--と異名せし也。顔色も童の謡ふうたの如く、背ひきくて猿まなこなりしとぞ。自ら此歌をうたひ人を笑はせしとなん。宝暦の初の頃歟。 
(*--は"く"の字繰り返し) 
つまり、有名な狂歌師の加保茶元成(かぼちやのもとなり)は大文字屋二世であり、初代すなわち本編の主人公である「元祖かぼちゃ」の実子であるという。加保茶元成は別号は文楼(すなわち大文字楼のこと)、通称村田市兵衛。宝暦四年(1754)、新吉原京町の妓楼大文字屋の初代村田市兵衛の息として生まれる。文政十一年(1828)没、七十五歳。浅草本行寺に葬る。妻も秋風女房の名で狂歌をした。その吉原連には蔦唐丸(つたのからまる)(蔦屋重三郎)、筆綾丸(ふんでのあやまる)(喜多川歌麿)、棟上高見(むねあげのたかみ)(新吉原扇屋主人)、俵小槌(たわらのこづち)(新吉原大黒屋主人)などという連中が参加していた。 
また十返舎一九の「花柳古鑑」という本がある。十返舎一九といえば「東海道中膝栗毛」で名高いが、この十返舎は実は初代ではなく、弟子の九返舎一八という者が襲名して二世(あるいは三世)となったという。別に三亭春馬ともいうが、本名は磯部源兵衛(岩波「日本古典文学大辞典」、ただし、この辞典で「初代かぼちゃ」=「元成」とするのは非)。大文字屋市兵衛は代々狂歌をよくしたが、この人は三世加保茶元成を名のったが、別に狂名を加保茶浦成(かぼちやのうらなり)ともいった。つまり、大文字屋の世系は次のとおり。 
初代大文字屋市兵衛(姓村田、釈仏妙加保信士)…二代市兵衛(加保茶元成)……三代市兵衛(二世加保茶元成)……四代市兵衛(三世加保茶元成。加保茶浦成、十返舎一九) 
すなわち加保茶浦成こと四代目大文字屋市兵衛の書いた「花柳古鑑」上之巻には、初代かぼちゃについて記されるが、末裔が家伝を書いただけに、事のいわれも詳しい。 
今も世上(せじやう)にもてはやす、こゝに京町大文字屋の大南瓜(おほかぼちや)といふ唄のはやりしは、宝暦二年の事也、後者昔物語[享和三年記]に、大文字屋かぼちやといふ唄ハ、流行甚しかりし。(中略)。 
偖(さて)大文字屋市兵衛ハ、其始め村田市兵衛といひて、寛延三午、揚屋町河岸(かし)へ見世出(いだ)し、それより中二年(なかにねん)同河岸(おなじかし)に住居(すまゐ)、宝暦二申年大もんじやと改名して、京町一丁目へ出(いで)たり、大かぼちやの唄はこの時うたひだしたるなり、そのゆゑよしハ、北女閭起原などに説もあれど信じがたし、大文字屋二世(にせ)の主人(あるじ)言残(いひのこ)せるには、御先祖つね--語られしには、世の中に人間万事塞翁馬(にんげんばんじさいおうのうま)といふ事思ひあたりしは、我事をかぼちや--といはるゝ事也、我家(わがいへ)はもと村田屋と家名を呼ならせしが、或日、いさゝかの事よりして親分と不和になり、親分法外(はふぐわい)なる事をいひのゝしるが腹立しさに、さまで詫もせでありけるを、親分いたく立腹して、しからバ我家名を譲(ゆづり)し村田の布簾(のうれん)を取かへすべしとて、俄(にわか)にその布簾を外して行たるが、あまりなる事に思ひ、我ハ何屋にても一家をたてんと、直(すぐ)さま紺屋を呼寄、思ひよるべき縁家(えんか)もあらざれバ、何にても布簾(のうれん)いつぱいに大文字に書きたしと思ひしより、その大文字こそしかるべけれとて、直に大文字屋とかな書に布簾(のうれん)を染させ、一夜(ひとよ)のうちに露のたるゝ侭かけたるを、親分こゝろ悪くや思ひけん、我を恥かしめんとて、地廻(ぢまわり)などにいひふくめて、 
こゝに大文字屋の大南瓜(おほかぼちや)、其名は市兵衛を申します、身(せい)がひくうて、ほんに猿まなこ、ヨイハイナ--、 
と角口(かどぐち)などへ立せて、毎夜(まいばん)うたハせし也、我家村田屋の布簾をかへし、大もんじやと改名して京町壱丁目へ出たれば、こゝに京町とハうたひし也、それより此唄をちこちにうたひ流行(りうかう)なすに随ひて、家内も繁昌也、我身の見悪(みにく)きをそのまゝ、南瓜といはれたるが目出たければ、我死して後ハ法名をかぼ信士(しんじ)といふべしと物語しとなん、此話代々に言伝ハりたるを、おのれ聞けり、実に此の話の如くなるべし、村田屋を改めて大文字屋となりたる証をこゝに載す、(以下略)。 
(*--は"く"の字繰り返し) 
右の大文字屋の家伝によって「大文字屋かぼちゃ」の由来が判然した。地回りの親分とイザコザがあって、親分から「かぼちゃ」の囃し歌で嫌がらせを受け、営業妨害をされたのだが、市兵衛はこの苦境を「人間万事塞翁が馬」という心意気でのりこえ、かえって、新規開店した大文字屋の逆宣伝にして、稼業に成功したというのである。 
江戸時代に描かれた大文字屋かぼちゃの絵が二種ある。「近世商売尽狂歌合」に「かぼちゃ市兵衛図」がある。 
賛は「こゝに京町大文字屋のかぼちやとて、その名を市兵衛と申ます。せいがひくゝて、ほんに猿まなこ。よいわいな--」とあり、白隠の賛と同じである。解説にいう、 
狂歌に「京町に二人とはなき市兵衛や今に南瓜の種を残して」。 
伝記に、「東都名家歌集」に云、大文字屋、初は西河岸え見世をひらきしが、次第に繁昌繁昌し、終京町壱丁目に転宅せり。此市兵衛、至て軽く、家内惣菜にもかぼちや、唐茄子多く買置て喰せしより、近辺のもの、悪ル口に、爰に京町大もんじやの大かぼちやと唄ひし所、此うたにて大評判になり、猶々繁昌せりと云々」……。 
もう一つは、太田南畝の「仮名世説」軽詆に載る。 
新吉原京町大文字屋市兵衛は、其かたち見ぐるしく、かしらもカボチヤといふ瓜に似たりとて、みなひとかぼちやかぼちやと異名せしなり。顔かたちも、童の謡ふうたのごとくなれば、みづから此歌をうたひて、人をわらはせしとぞ、其比(そのころ)都下にてひさぎたる壱枚絵をこゝに模写す。其後の市兵衛、狂名を加保茶元成といへり。一とせ此内所にて狂歌の会ありし時、持仏堂をみれば、先の市兵衛が位牌あり。法名釈仏妙加保信士とありしもおかしかりき。 
図の賛に「こゝに京町大文字屋のかぼちやとて そのなは市兵衛と申ます」とある。この絵は宝暦年中に江戸で売られた印刷物であるという。誰が売り出したものか。遊女の名を折り込んだ替え歌が一緒に(別紙、ここには省略)摺ってあるのを見れば、吉原関係者であろう。あるいは市兵衛が自ら印刷して売り出したものかも知れぬ。 
ところで、白隠禅師の宝暦中の江戸行きは、白隠禅師「年譜」で見る限り、宝暦九年のみである。しかし、禅師の仮名法語を見ていると、特定はできないが、これ以外にも江戸を訪れていたらしいことが分る。いずれの時か分らないが、宝暦年中に白隠禅師が江戸に出た折、この「かぼちゃ節」を直接聞いたか、あるいはその噂を耳にしたのであろう。あるいは右にいったような「大文字屋かぼちゃ」の売り絵を実見していたかも知れない。 
ところで、白隠禅師は何のためにこの絵を描かれたのであろう。もともと誰に宛てて描かれたものか、その消息は杳として不明であるから、この絵の真意も何とも伺い知れない。その裏にはきっと何らかの物語か教訓が秘められていたはずであろうが、いまでは推測するより仕方がない。 
大文字屋の実子である、加保茶元成が子孫に言い残した話では、初代は「かぼちゃ」呼ばわりされたのだが、この逆境を「人間万事塞翁が馬」ととらえ、カボチャ頭の短躯に生まれついた禍を福に転じ、大いに事業に成功し、死んだのちは法名まで「かぼ信士」と、自ら決めていたというのである。このあたりに禅機を見た禅師が、「産業をつとめ」ていた江戸の商家か誰かの需めに応じて与えたものであろうか。 
初代かぼちゃの生没年は不明であるが、二世かぼちゃの元成が生まれたのが宝暦四年(1754)、京町の新しい大文字楼を始めて二年目であるから、この頃はすでに壮年であったと見てよい。宝暦二年は白隠禅師六十八歳である。いずれにしても、初代かぼちゃは禅師と同時代人である。直接、初代かぼちゃに贈られた可能性もないわけではない。 
永青文庫所蔵の真蹟の箱書などに「いわく」が書いてありはしないか、あるいはこの墨蹟の入手経路が分れば、何かの手がかりになるかも知れないと思って、永青文庫に調査方をお願いしていたが、先頃、白隠禅師仮名法語の資料調査で永青文庫を訪問することがあって、親しく実物を拝見することができた。しかし、箱には何も記録はなく、添書もない。お話を伺ったが、どうも手がかりは何もないのだった。資料調査を終わって、文庫の展示室を拝見していたとき、たまたま遂翁(白隠の法嗣)描くところの「雪巌欽(定)」の図が懸っていた。 
「巌頭為無位真人不少漏逗、何人得意」とあるのは遂翁の自賛であるが、何と!その脇には次のような賛があるではないか。 
茲に京橋(ママ)大文字やのかぼちやとて、其名を市兵衛と申します。せいがひくうても(ママ)、ほんに猿眼。 暑L。集境翁謹書 
集境翁とは、竜沢寺の星定元志(1816-1881)で、山岡鉄舟の師として知られた人である。「白隠…峨山…隠山…顧鑑(…通翁)…星定」という法系になる。 
「雪巌欽(定)」図というのは、雪峰、巌頭、欽山の三僧の次のような物語を絵にしたものである(「五灯会元」「林間録」また「碧巌録」三二則に出る話)。 
定上座は臨済門下の竜象といわれた人である。巌頭、雪峰、欽山の三人が臨済にあおうと河北にでかけたところ、途中で定上座に出会った。「臨済禅師はお元気か」ときくと「もう遷化された」という。三人は大いに残念がって、「禅師は生前、どんな言葉でもって指導されたか」と尋ねたところ、定上座は「汝等諸人、赤肉団上に一無位の真人有り、常に面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ」と、臨済禅師の上堂の語を示した。この語を聞いて巌頭は思わず口をあけて驚いた。ところが、そこで欽山が「どうして非無位の真人と言わなかったのか」とチョッカイを入れた。すると、定上座はやにわに欽山の襟首をねじ上げて「無位の真人と、非無位の真人と、どう違うのか。さあ道え、さあ道え」と恐ろしい剣幕でせまった。さすがに欽山も目を白黒してしまったが、定上座は欽山を捻り殺さんばかりの勢いである。脇にいた厳頭と雪峰がなだめに入って、ようやくおさまった。定上座がいうのに「この二人がおらなかったら、おまえみたな小便小僧は捻りつぶしてやるところだったわい」と。 
臨済の生っ粋のところを受け継いだとされた定上座の、手荒い手段を行じたところを描いたもので、禅林でしばしば描かれるところである。 
その臨済の家風を評した偈は数多くあるが、代表的なものの一つが、白雲守端の臨済三頓棒の頌である。 
一拳拳倒黄鶴楼、一鐘桴燼翻鸚鵡洲 (一拳に拳倒す黄鶴楼、一鐘桙ノ鐘椁|す鸚鵡洲)。 
有意気時添意気、不風流処也風流 (意気有る時は意気を添え、風流ならざる処、也た風流)。 
星定禅師が「大文字やのかぼちや」の唄を「雪巌欽定」図の賛に用いたのも、その意図は、臨済一流の家風が、臨済下の「竜象」と称された定上座の荒々しい作略に現われているところ、すなわち「風流ならざる処、也た風流」なるところを評したものであろう。大文字屋市兵衛は、その醜い容貌のため、子供にいたるまで江戸雀から「かぼちゃ」とあだ名されたのだが、その「不風流」をみごとに我が物として受け止め、サラリと逆宣伝に用い、家業を成功させ、自らの戒名も「加保信士」とつけた、当代きっての風流人であったわけである。 
いまは、白隠下の星定禅師が、白隠禅師と同じく「かぼちゃの唄」を賛語に用いているところに注目しておきたい。あるいは、白隠下に何らかの口伝でもあったものであろうか。   
 
 
「富士大名行列圖」のこと

 

「荊叢毒蕊」巻九(最終巻)に次のような偈がある。 写得老胡真面目、杳寄自性堂上人。 不信旧臘端午作、鞭起芻羊問木人。  
老胡の真面目を写し得て、杳に自性堂上の人に寄す。 旧臘端午の作を信ぜずんば、芻羊を鞭起して木人に問え。  
筑摩書房の図録「白隠」[一八三]に中津自性寺蔵、淡彩の「富士大名行列図」が掲載されるが、その賛偈である。ただし、「富士大名行列図」の賛では三句目の「作」を「時」に作る。竹内尚次氏は「推定八十歳」の作とし、白隠四天王の一人で、後に豊前中津の自性寺十二世となった提州禅恕に与えられたものとする。  
「荊叢毒蕊」は白隠禅師の語録であり、その跋文や「年譜」によれば、刊行は宝暦六年となっているが、実際には諸般の事情で大幅に遅延し、上梓されたのは宝暦八年のことである。このことは、菅原為成の序文に「宝暦戊寅秋八月」(宝暦八年)とあることからも明らかである。いずれにしても「荊叢毒蕊」の中にこの偈がおさめられるのだから、少なくとも「荊叢毒蕊」の刊行された宝暦八年以前に作られたものということになる。そして偈に「写得…」とあり、さらに「手写」(禅師がみずから描いた)とあるから、図と偈とは同じ時に作られたものと分かる。さらにまた提州が自性寺に入院住職となったのは宝暦十四(明和改元)年十月である。以上からすれば、ここにいう「自性堂上人」とは禅恕ではないことになる。とすれば自性寺の先代のことであろう。したがって製作年代も八十歳ではなく、少なくとも七十四歳(宝暦八年)より若い時のものと言える。禅文化研究所資料室所蔵、FAS文庫の一本書き入れには「依豊前中津自性寺祖山和尚需画」とあり、このことを裏づける。  
FAS文庫本の書き入れにはまた「曽有請老胡之図之唐紙。乃画其紙。故云爾。視者莫疑著則好」ともある。かねてから達磨を画くよう頼まれていたが、そのために送って来てあった紙に書いた、というのである。だから一二句に「写得老胡真面目、杳寄自性堂上人」と言った、ということであろう。「視る者、疑著すること莫くんば則ち好し」とあるのはいささか気になるが、これについては後でふれる。  
いま、偈の意訳を試みるに、次のようになろうか。  
かねて達磨の絵を頼まれていたが、ここに達磨の真骨頂を描いて、はるばる豊前の自性寺和尚にお届けする。十二月の端午の節句に作ったこの画が分からぬならば、稾の羊に鞭うって木人形に尋ねられよ。  
旧臘端午、芻羊、木人はいずれも無可有の消息をいう語。先にいう書き入れには、「旧臘端午の作」のところに「皆ナ隻手ノウワサ也」とある。「打たぬ片手の声を聞け」というところを、かく表現したものであろう。蒭羊、蒭は芻に同じ。芻狗の語があり、稾で作った狗をいうが、これと同じ意味である。  
ところで、白隠はなぜ富士山に大名行列を配して描いたのか。竹内氏の解説にいう、  
白隠は禅恕初参時の姿を回想しながら心をこめて富士山図を描き、のち禅恕入院の祝物として贈つたのであろう。富士を図絵して与えたのも、遠い九州で駿河時代を偲ぶための心尽しか。いずれにしても本図は、その大幅である点でも白隠山水図を代表する傑作といつてよい。大名行列が富士山麓を経て富士川に懸つたところ。先鋒隊は岩淵の宿に入りかかつている。渡頭の風情、山容など実景とそつくりで、富士宿の茶店で休んでいる寸景も微笑ましい。冬の真景図である。富士は淡墨の外隈で冬山を浮き立たせ、どんよりした曇り空の冷たさを表わしている。付彩は、人物や著衣に点々と控えめに淡朱をさし、墨色を生かしている。  
筆者は実のところ、これまで特に深く考えることもなく「何となくお目出たい太平の御代」を描いたものであろう、行列の人物像の動きはなかなか面白いなどと、漠然と眺めて来たに過ぎなかったのである。このほど白隠禅師の著作を整理する仕事にかかわって、この偈に出会ったのだが、その内容からすれば、どうやら単なる風景画ではなさそうである。「駿河時代を偲ぶための心尽し」としても、なぜ大名行列をかくも細密に書かねばならぬのか、その理由は少しも明確にはならぬ。画師の描いた画ではない。白隠禅師の何らかの真意が必ずそこに秘められているはずだ。いったい大名行列を細かにを描き込んだのには、どのような訳があったのか?。こんな疑問が湧いて来たのである。  
こんなことを考えている折りに、白隠禅師の仮名法語「辺鄙以知吾」を読んだ。岡山藩第四代藩主の池田継政(1702-1776)に与えた手紙の形をとるもので、その内容は簡単に言えば、奢侈に傲る大名の生活が、結局は民百姓の収奪することになることを厳しく戒め、善政を施すことを勧め、それがためには「死字」に参ぜよ、という趣旨のものである。諸大名が多くの妾をかかえ、その上、時には京から数百両の大金で「舞子」「白人」といわれる戯女を買って国許に呼び寄せ、「二三年も玩びては、又は取かへ引かへ、扇子か煙管など取かゆる様に心易く覚へ玉ふ諸侯も是有るよし」と、大名の放逸で奢侈な生活を指弾し、「畢竟、憐むべく悲しむべきは領内の万民」であると、激しく批判している。そうした結果、当時頻繁に起きていた一揆や強訴のことにもふれ、「窮鼠却て猫を咬むと云んか」と、百姓に同情を示し、一揆の「兆本(真犯人)は民にあらず、却て吏と長となる事を」と、はなはだ激烈な政治批判を展開しているのである。そして更に、いわゆる大名行列について、白隠は次のような手厳しい批判をくわえているのである(現代訳、大意)。列国諸侯の参覲交代の行列を見るに、先供え、後供え、長柄、槍、武具、馬具、籏竿、幕串などを連ねた夥しい人数の行列であります。時に、大井川や阿倍川でちょっとした川留めになると、川明けまで宿駅に滞留せねばならず、家柄によってはその費用は千両二千両にもなるということです。そもそも、大名行列は戦国時代の、生きるか死ぬかの一大事があった時代のしきたりでありましょう。家康公以来、いまや天下太平の御代であります。諸侯の道中往来について金銭の費やすことが家康公の御心ではないはずでありましょう。仁者は敵なしとも申します。どうかせいぜい仁政を施され、民を憐れむ政治をなされますよう。道中の用心のためならば、これはと思う者達を前後に十騎ずつ召しつれられる方がよろしい。いいかげんなオベンチャラ者どもを千万人つれ歩くよりはるかにましというものです。とはいっても、大福力があって少しも民百姓を苦しめないというのでしたら、何万騎つれ歩こうと御随意ですが、どの国のことを聞いても、結局は百姓に皺よせがいくことは、まことに悲しい限りであります。  
参覲交代の制は江戸以前からあったものだが、江戸時代になると、諸藩の大名を統制し、幕藩体制を維持する根本政策となり、諸大名は在府・在国一年交代となり、大名妻子をはじめ多くの家臣団が江戸に常住することになった。八代将軍吉宗は、幕府財政再建のために、享保七(1722)年、上米(一万石に対して米百石)をさせる代償として参覲交代を緩和し、在府半年・在国一年半としたが、やがて1730年にはまた旧制に復した。すなわち白隠禅師の時代はこれに当たる。  
例えば、「辺鄙以知吾」が宛てられた先である岡山藩の場合、元禄十一年の「総人数御供方在江戸共」によれば、同年の参勤共人数は1628人、江戸在住者は1394人。合わせるとおよそ3000人となる。参勤供人の内訳は、侍一一五、徒(かち)八一、坊主二八、御手廻り二七、御六尺(駕篭を担ぐ人足)一四、御触番二二、御中間五二、御足軽一七六、御小人(こびと)二九一、又者(またもの)(臣下の臣のこと)七五六。道中費用は、寛政十年から文政九年まで二十八年間の平均は約3000両という(以上「藩史大事典」)。現代の貨幣でいえば、およそ3、4億円という経費である。宝永四年現在の御家中男女人数が約一万人とある(「藩史大事典」)が、この数字から右の参勤供人数および在府人数を見れば、およそ三割を占めることになる。参勤の道中費と江戸と国元での二重生活の経費が、いかに藩財政に影響を与えたかが推測できる。  
このように、諸大名の参覲交代に要する費用は莫大なものであったから、幕府もしばしば制度を改めることもあったが、根本的に改善されるわけではなかった。むしろ、諸大名は互いに威勢を張り見栄を飾る傾向にあり、結果的にこれが諸藩の財政を圧迫する主因ともなった。殊に、九州大名の場合は遠方であったために出費がかさみ、財政に深刻な影響をもたらした。白隠とも関わりの深かった肥前の蓮池(はすのいけ)藩鍋島侯(「遠羅天釜」は鍋島侯に宛てて書かれた)の場合など、元文三年(1738)には参勤中止の旨を佐賀本藩に願い出たが許されなかったという。延享一年(1744)には、蓮池藩をはじめとする佐賀の三支藩が病を理由にして参勤を遅延したが、幕府からきびしく糾弾されることもあった。  
行列は東海道を通るものが全体の六割を占めたといわれるが、原宿の「駅亭の長」の家に生まれた岩次郎は、幼少時から大名行列を間近に見ていたであろうし、松蔭寺に住職してからも、寺前を多くの大名行列が通ったことであろう。白隠禅師はこの制度の皺よせが結局は民百姓に帰するのを、実に苦々しい思いでみていたのである。  
このような内容の「辺鄙以知吾」であるから、当然起こり得ることではあったが、果たして「発禁」となっているのである(この事情については、また別に触れてみたい)。参覲交代の大名行列は、幕藩体制の根幹であり、それが各藩の財政を逼迫し、百姓を苦しめる苛政の一因ともなっていた。白隠は唾棄せんばかりの調子で、それを厳しく批判しているのである。かかる考えの禅師が、単なる風景画の画題として大名行列を取り上げるはずはない。必ずや、批判の対象として画題にしたものであろう。  
以上のことから、この偈と絵の意味をさぐってみたい。  
かねて達磨の画を頼まれていたが、ここに達磨の真骨頂を画にして、はるばる豊前の自性寺和尚にお届け申し上げる、というのである。しからば、中央に描かれた巨大な霊峰白富士は、達磨の真面目そのもの、仏性であり自性そのものの象徴であろう。筑摩書房の図録「白隠」[一九〇]の「富士三保松原図」の賛に、  
恋ひ人は雲の上なるおふじさん はれて逢ふ日は雪のはだ見る また[四一〇]「おふじさん」の賛に、 おふじさん 霞の小袖ぬがしやんせ 雪のはだへを 見度うござんす  
とある。かつて一休は「本来の面目坊が立ち姿、一目見しより恋とこそなれ」と詠ったが、白隠の「おふじさん」は、すなわち一休の「本来の面目坊」である。巨大な白富士は仏性、自性の象徴である。いいかえれば、白隠禅の当体、また白隠禅師そのものと言ってもいいであろう。「それ、この白富士のごとき美しい〈自性〉をば識得せよ。それがためには、ぜひとも隻手の声を聞きとめられよ」と白隠が語りかけているのである。自性寺和尚に、自性が歴歴と顕現した富士図を贈った所以であろう。  
いま「大名行列図」を概観するに、大きく二つの部分に分けられるように思う。AとBである。Aでは巨大な白富士が中心になり、脇街道の茶店には、三人の巡礼者と思しき人物が見える。厨子を背負っているから六部であろう。床机には僧体の人物が腰をおろし、富士を眺めているようにも見える。往還には二人連れの乞食(一人はゴザを背負う)と飛脚など姿が見える。この部分だけを見るならば、実に平穏無事な風景である。  
それに対して、L形のB部分には、行列を中心に夥しい数の人物が描かれている。行列の配置と人数は、左から順に次のようである。騎馬一、鉄砲六、騎馬二、弓六、騎馬一、長柄六、先箱二、騎馬一、徒士八、陸尺(駕篭)四、長刀二、徒士三、騎馬二、毛槍二と、毛槍のところで画面は切れているが、行列は以下に陸続とつづくはずである。傍らに伴うものは、合羽駕篭三、何やら箱を背負った人物などが配されている。川辺には人足を中心に二十人ばかりの人物が描かれる、この川は、「東海道分間絵図」と照合して見れば、富士川であることが分かる。対岸は岩淵の宿である。川には十三艘ばかりの舟が描かれる。富士川は、大井川、阿倍川のような「歩(かち)渡り」ではなく、渡船であったから、いま舟による川越の準備をしているところであろう。対岸には、街道沿いに十五六人ほどの人物がいる。侍もおれば、僧体の者、厨子を負うた巡礼らしき人物も描かれているから、ここはまだ大名行列とは関わりないようである。  
このL形のB部分に細やかに描きとめられた大名行列を中心とした光景は、いわば世俗諦そのもの、すなわち世法、俗世界の論理(幕藩体制の根幹制度)を、Aとは対照的に描いたものではないか。本来底にデンと「独坐大雄峰」した白隠が、さながら蟻の行列のごとき参覲交代行列を睥睨しているところであろう。  
実のところ、少し離れて見るならば、行列の侍たち、またその他の人物は、まるで蟻のうごめくように見えて仕方がないのである。殊に、岸に近い部分には、大胆にデフォルメされた岩山が描かれているが、Aの富士を中心とした雰囲気とはおよそ対照的である。この険所と思しき山道を、八人と人物と二頭の馬が登っているところが見える。ちょうど「蟻の門渡{とわた}り」のようである。以下は、蟻に結びつけての勝手な想像である。  
筑摩書房の図録「白隠」の[二一六]には「蟻に臼」図があり、賛に「麿をめぐる蟻や世上の耳こすり」とある。「耳こすり」は「一、耳もとでささやくこと、耳語。二、あてこすり」の義。渡世のあくせくも所詮は「磨を遶る蟻」みたいなものだぞ、というのである。  
また「荊叢毒蕊」に「題蟻遶磨図」賛があり、次のようにいう。 蟻、鉄磨を遶る、遶り遶って休歇無し。 六趣の衆生に似て、輪転して出期無し。  
此に生まれ、彼に死し、鬼と成り、蓄と成る。 此の患難を免れんと欲せば、須く隻手の声を聞くべし。  
石うすを遶る蟻を、六道輪廻から脱却できぬ衆生に譬え、その苦難から逃れるためには、何としても隻手の声を聞かねばならぬ、というのである。  
白隠はまた「寒山詩闡提記聞」巻第二で、 畏る可し輪回の苦、往復、飜塵に似たり。 蟻の環を巡って未だ息まず、六道乱れて紛紛たり。  
頭を改め面孔を換うるも、旧時の人を離れず。 速かに黒暗獄を了じ、心性をして昏からしむる無かれ。  
という寒山詩の注に「蟻磨」の故事を引いて説明し、さらにこの詩を釈して「此の詩は、三界流転の苦を述べ、以て自性を識得せんことを勧む」ものであると解説している。  
この「大名行列図」もやはり一種の「蟻磨図」のように見えて来るのである。白隠は、身分が高く福貴自在の身に生まれたのは、過去の宿善の結果であるとし、それを忘れ果てて「福貴を恃み、威権にほこりて生民を苦るしめ、賦税を貪り、際限もなき悪業をつみかさね」るならば、「死後には必ず悪処に堕す」(「辺鄙以知吾」)という趣旨を、他の仮名法語でも繰り返している。画面の蟻のごとき行列は、一途に悪処にむかって行進してはいないか。中央にデンと坐す富士山(白隠)が、そんな俗界にあくせくする蟻(衆生)に向かって「須らく隻手の声を聞くべし」「自性を識得せよ」と説いているのであろう。  
ところで、先に引いた「荊叢毒蕊」の書き入れには「視る者、疑著すること莫くんば則ち好し」とあった。いま詮索しているように、この絵には何か深意があるであろうと考えることは「疑著」することに他ならないわけである。この書き入れは誰の手によるものかは不明だが、他の記事から見て、白隠から直接聞いたと思われるものもあるので、恐らくは弟子に近い人のものであろうと思われる。この「大名行列図」が描かれた年次は特定できないが、「辺鄙以知吾」の発禁事件(恐らくは宝暦六年)に近い頃であったことが推察される。自性寺には、白隠が描いた、自性寺開山定円正覚禅師像がある。その賛には「宝暦第七丁丑歳中春佳辰」とあり、さらに「祖山帚公、書を裁して諄く老夫が賛字を請う。武臣、梅田伝二、真をDCげて鵠林の草盧に蹈入す……」とある。つまり、宝暦七年二月に、祖山和尚の意をうけて、中津藩の梅田伝二が松蔭寺までやって来て描いて貰ったのである。この賛偈は「荊叢毒蕊」拾遺に収められている。それに対して「大名行列図」賛は、拾遺ではなく「荊叢毒蕊」本篇に収められているから、これ(宝暦七年)より以前に書かれたものである。  
さて「辺鄙以知吾」の発禁は、白隠および門下にとっては一大事件であったはずで、弟子たちにも周知の事実であったろうことは想像に難くない。まさに筆禍事件ではあるが、白隠老師が「辺鄙以知吾」「さし藻草」「壁訴訟」などで吐露する現実政治への批判は、この程度のことで已まるはずもない。林羅山の仏教批判に対する猛然たる反駁である「神社考辯を読む」という一文が「荊叢毒蕊」拾遺に収められているが、この一文を収めるのは止めた方がいいと提言した漢学者の梁田蛻巌に対して、白隠は激しく反発し、蛻巌に依頼していた序文も取りやめ(自性寺蔵の提洲宛書簡)、ついにはこれを収録して出版したという白隠である。信念は貫き通すのである。けれども、無用の摩擦は起こさぬに越したことはない。あれこれ説明せずとも一見便見、分かる者には分かる。「疑著すること莫くんば好し」という書き入れは、そんな事情から発せられた、白隠あるいは白隠周辺からの予防線だったのではないか、と思うのである。 
 
 
「おにあざみ」京都の姫宮門跡への苦言の手紙

 

白隠禅師の仮名法語「於仁安佐美(おにあざみ)」巻之上は、「浄蔵浄眼二大士両宮」に宛てられた手紙の形をとる、漢字カタカナまじり、八十五丁の法語である。巻尾には「寛延第四辛未之暦、仲秋三五之佳辰」とあるから、一七五一年、白隠六十七歳の時のものである。宛名にある「浄蔵浄眼二大士両宮」というのは実は架空の名であり、実際には中御門天皇のふたりの皇女に出されたものである。浄蔵、浄眼という名は「法華経」妙荘厳王品に出る、妙荘厳王の二王子の名で、白隠は「へびいちご」でも、妙荘厳王とその二王子のことを言っているが、いま「おにあざみ」を本にするにあたって、その実名を出すことを憚って仮名を用いたのであろう。 
中御門天皇の二皇女とは、宝鏡寺門跡である皇女浄照明院宮と、光照院門跡である浄明心院宮であるが、二人の略歴を「本朝皇胤紹運録」で伺っておくと次のとおり。 
宝鏡寺門跡皇女浄照明院宮は、享保十年(一七二五)十一月五日誕生。母は民部卿典侍。嘉久宮と称す。同十六年八月四日入寺(七歳)。同日喝食。同十八年九月二十三日得度(九歳)。明和元年十一月三十日薨る(四十歳)。 
光照院門跡浄明心院宮は、享保十五年(一七三〇)二月十七日誕生。母は民部卿典侍。亀宮と称す。同十六年十月二十三日、光照院を相続す。元文五年九月二十二日入寺得度(十一歳)。宝暦六年三月二十七日、色衣を聴(ゆる)さる。天明元年十月二日、二品に叙せらる。寛政元年三日薨る(六十歳)。 
生母を同じくする五歳ちがいの姉妹で、幼時に出家している、この二人の姫宮と白隠禅師との出会いは次のようなことであった。白隠禅師の「年譜」によれば、禅師はこの寛延四年(の春の終わりか)岡山からの帰りに、京都妙心寺養源院に立ち寄り、そこで「碧巌録」を講じたが、その時に「宝鏡、光照の両公主、および皇女清浄光院、儀を潜めて会に臨む」だという。これが両宮とのご縁になったらしい。この時、両宮はそれぞれ二十七歳と二十二歳ということになる。 
ところで「おにあざみ」の冒頭は次のような言葉で始まる(いま、大意を現代文にあらためる)。 
先頃は、思いがけず簾下に趨謁したてまつり、民間のいやしい言葉で弁説を弄し、……幾度かの評唱を致し、笑止に思(おぼ)されたのではと恐れ入りたてまつります。……駿河に帰る時も、御暇乞いと称して、それとなく推参致すべきかと、幾度も思いましたが、年老いて涙もろくなり、見苦しきさまを皆さまの御目にかけますのも愧ずかしいので、わざとひそかに帰って参りました。路すがらも帰った今も、何とぞ御不例ますます御快気ましまして、お元気にて菩薩の威儀を学ばせたまい、仏国土の因縁を成就せさせたまえと、ひたすらお祈り申しております。(一丁) 
八月十五日(仲秋三五)の日付になっているが、京都から駿河に帰ってしばらくして、この「おにあざみ」を書き上げて、両公主に献じたものである。つづいて、次のように記す。 
貴ぶ可きことに、御二方とも生まれながら霊骨が厚く、御智徳もゆたかで、求法の御志も厚くおわし、近習や常随の尼僧、上藹たちも、万事しめやかに殊勝にお見請けましたからこそ、とるに足らない繰り言をくどくど申し上げ、尊聴を汚したてまつったのです。もしそうではなくて、世間並みの尼法師などのように無智昏愚のありさまでしたら、七十にちかい、世間には何の望みも持たない一介の老僧が、いったい何のお追従を申して、召されます度ごとに参上いたしましょうや。(二丁) 
冒頭にも「簾下に趨謁したてまつり」とあり、ここにも「召されます度ごとに参上いたしましょうや」とあるから、白隠は妙心寺養源院で両門跡に会ったのみではなく、京都にいる間に複数回、宝鏡寺かあるいは光照院に招かれて行ったらしいことが分かる。この時の京都滞在は何日であったか「年譜」を見るかぎりでは不明だが、京の豪商である世継氏の家に滞在したり、画家の池大雅に会ったり、さらには遊女の大橋を接化したりしていることが記されている。 
ところで「於仁安佐美」卷之下という別の本がある。内容は、伊予大洲城の武臣である加藤内藏之輔成章に宛てられたもので、主として「隻手」に参ずべきことを述べたものである(宝暦二年正月二十五日、すなわち、両宮宛ての手紙が書かれた翌年に書かれたもの)。したがって同じ題ではあるが、内容的にはこの「卷之上」とは連続しない、まったくの別本である。その冒頭に、いまここでいう京都滞在のことが、やや詳しく述べられている。 
四月、本山華苑に於いて碧岩録一會、同く東福常樂閣上に於いて碧岩録一座。次に寶鏡、光照兩宮簾下の召しに應じて、禪門寶訓提唱數次。歸程、遠州見性禪苑。漸く當七月三日歸着。 
すなわち、白隠禅師はおよそ三カ月間、京都に滞在したが、その間に宝鏡寺かあるいは光照院で「禪門寶訓」の提唱を数回にわたって行なったのである。妙心寺の養源院での「碧岩録」提唱ではじめて両宮と知り合い、その後にさらに宝鏡寺か光照院に招かれて行ったのである。 
さて、両宮宛ての手紙の冒頭では、門跡方の日常が「万事しめやかに殊勝」であると褒め讃えているのだが、手紙の中盤になると、ずいぶんはっきりと、その日常生活のあり方に注文をつけるのである。言葉は敬語を用いてはいるが、ズバリと直截に提言する禅僧の苦言は、さながら鋭いトゲのある「おにあざみ」のようである。 
いずれにしても世捨人として死んでいく出家遁世の御身ですから、夏冬の御装束も、朝夕の御食事についても、すべて簡単になさるべきです。たとい八珍の御前が出されても、その中から御気に入った一品だけを召し上がり、御衣も麻衣に綿の御小袖というように、よろず質素になさって、宿世の善果を失わず、来生菩提の資糧を残し貯えられますように、とひたすらお祈り申し上げます。(二十九丁) 
衣装のことについては、後段でも次のようにいう。 
世の中を思い絶った出家遁世の人などが、いかにも権勢がましく、似あわぬ綾羅絹布をもったいぶって着かざっているのは、戒律にもそむくことでもあり、罪深くあさましいことですが、お互いに名利の風には吹かれ易いもので、何とも残念で愧ずかしいことに思います。(三十八丁) 
御食事の時も、御給仕の人々が五人も六人もつかれるのは、はなはだ大層なことです。下々の者の目にはいかにも豪勢で、はなはだ結構なことに映るかも知れませんが、恐れ入りながら、そのようなことは仏の御教えには少しも叶うことではありません。願わくは給仕人は毎日一人に定められ、残りの四人には誦経書写、礼拝恭敬などを勤めさせられますならば、菩薩の威儀にも叶い、下化衆生の御営みともなりましょう。(二十九丁ウラ) 
宝鏡寺や光照寺に幾たびか招かれて行き、そのたびに仰々しい供応にあずかり、その一部始終を見ることがあったのである。以下にも種々の苦言を呈するのだが、門跡寺院の生活の大概をつぶさに観察した上で、苦い意見を申し上げたのであろう。 
手紙の冒頭に「何とぞ御不例ますます御快気ましまして」とあったように、宮門跡は病弱であられたようであるが、その病についても白隠はかなり手きびしい意見を申し述べる。 
物静かにして心の底まで澄みわたるような境界こそ楽しみであり望ましい、というようなお考えが起こりますならば、これこそ禅味に耽着するというもので、はなはだ障碍となる魔境ですから、そのようなお考えは早くお捨てになることです。そして、毎日一定時間じわじわと汗が出るほど、お働きになることです。それが何よりの養生でありますし、はなはだ定力をつけ、身心竪固を得る方法でもあります。下々の者たちは毎日、渡世のために手足を痛め苦しめておりますが、そのような者たちには、頭痛や疝気、労咳やつかえなどという病気のある者はいっこうにおりません。(三十二丁) 
毎日の生活のために肉体を労している下々の者には、その程度の病いをかこつ余裕はない。いっそのこと、禅寺のしきたりにしたがって、おんみずから竹箒をとって作務掃除をなさることです、と勧める。 
掃地勤行はもとより叢林の旧規です。このように立派な門跡寺院に歴々の尼僧衆が大勢おられながら、掃地などはすっかり下郎奴僕にやらせておかれるのは、清規にも背き、徳行にも違うことになりましょう。昔のように宮中におすまいになられているのでしたら、このような事を申し上げる道理もなく、またはなはだ恐れ多いことですが、今は出家遁世の御身として寺におられるのですから、叢林の古風をたっとび、動容作務の中で定力を培われることです。……できれば、あなた様から率先され菷を持たれ、そして尼僧衆にも竹菷を一本ずつお持たせになり、つねづねお掃除をなさることです。世間はともかく、毎日動き働き、仏法の大義に忙しいのが貴院の家風であり、これが不断坐禅であると規矩を御定めになり、精彩を付けられますならば、作務労働そのものがそのまま七 助v八助vの坐禅と少しも違いがないということが、自然にお分かりになりましょう。(三十三丁) 
当時の寺院には、大ていは寺男という使用人がいたのである。貧寺であった白隠の松蔭寺でさえいた。白隠が入寺した際には、実家の沢潟屋から、白隠すなわち岩次郎が幼少の頃から仕えていた七兵衛というのが手伝いに来ていたし、これ以外にも「角」という下僕もいた(「荊叢毒蘂」黒光辨)。宝鏡寺は都の門跡寺院である。多くの奉公人がいたに違いない。 
元文三四年の頃(一七三八-九年)に起こったひとつの事件がある。ここでの話から十年余り前のことである。浄照明院宮は、享保十六年、七歳で入寺したから、そのころは既にに十五、六歳であったはずだ。当時の尼門跡(つまり先代ということになるか、これ確認)は後西院の皇女であったが、書をよくする人で「都鄙他邦の寺社より額字」を頼むものが多かったということである。そのころ宝鏡寺に川崎兵庫と川崎斎宮という兄弟が寺侍となっていた。兵庫は同じく宝鏡寺の家司である池田監物、それに御家来分医師の津田亨庵としめしあわせて、「神号位階は容易ならず、宮御方にては難整事なることを」と、希望者に対して「別敕」だといって、多額の金品を賺し取ったというのである。この事はやがて露見し、池田は吟味中に牢死、川崎兄弟は死罪となった。京都町奉行の与力であった神沢杜口が記している話である(「翁草」卷六十六)。 
ところで、白隠禅師よりのちの津村淙菴の随筆「譚海」(寛政七年[一七九五]の跋)には白隠禅師についてのいくつかの聞き書きが載せられている。このことは夙に陸川堆雲居士の「考証白隠禅師詳傳」でも指摘されているとおりだが、「譚海」巻十一に次のように言う。 
白隠和尚上京の時、女院御所にて院参あり。其時女院の御装束、紫縮緬の御衣に緋縮緬の袈裟にてましましけるを、和尚拝し奉りて、出離を求むる者は、箇様成御装束にてはあるまじき由、申上られしにより、後々は如法衣にかへて入らせ給ふ。殊勝なる御事成とぞ。和尚一度院参ありて、度々召れん事をうるさく思はれ、心宗のむねを一巻にしなし、鬼あざみと號して奉られける。又一説には此法語あまりかどめきたるさまの書なりしゆゑ、鬼あざみとは院中にて名付させ給ふともいへり。和尚遷化の後、此のゆゑによりて、独妙禅師と諡號を賜りけるとぞ。 
津村淙菴、名は教定、通称三郎兵衛。京都に生まれたが、江戸に移り、伝馬町に居住した。「譚海」は安永ころから寛政七年ころまでに、著者が見聞した諸国の各階層にわたるできごとを収録したものである。中でも「巻十一、十二は物識りの叔父の聴書と亡母の回想」を集めたものである(「日本庶民史料集成」巻八所収の解題)という。津村淙菴の叔父や母ならば、白隠とはほぼ同時代になる。京都にこのような噂が広まっていたと推測してもいいだろう。「譚海」の文中に「又一説には……鬼あざみとは院中にて名付させ給ふともいへり」とあるが、「おにあざみ」の題は白隠自身がつけているのだから、「譚海」にいう風聞の第一発信者は「おにあざみ」の本は見ていなかったのであろう。 
 「おにあざみ」の中であまりに「かどめきたる」苦言を呈した白隠禅師であるが、そののちも両宮様との交渉は続いたようである。「白隠和尚全集」(龍吟社版)巻六の四八〇頁には「銀首座に与ふ」という一通の書翰が収められているが、この中に「両宮様」とのその後の関係を伺わせる事柄が記されている。 
…しからば御約束の荷物、疾(とっく)に遣り申す筈にそうらえども、此の方へ日頃出入り参学の居士、菴原村山梨平四郎と申す者の娘ども両人、つねづね信心なる者にて、坐禅も出精勤め申しそうろうところに、当春、比奈村より金剛塔を書き立て、両宮様へ指し上げ、高覧に入れそうろうをを、姉娘承わり及び、うらやましく存じ、恐れながら、延命十句観音の尊像(を)、針細工に致し立て、両宮様へ指し上げ申し度き願望、密かに存じ立ち、随分精進潔齊いたし、清浄に仕立て申しそうろうを見及び、妹もまた同じく密かに存じ立ち、随分清浄にあらまし出来寄せ申せしを、平四郎も一見いたし驚き入り、二人の娘共に寸志捨て置き難くそうろう間、近頃もって恐れ入りそうろう御事にそうらえども、延命十句観音にてそうらえば、作者は賎しき者にそうらえども、御取り次ぎ申し、指し上げ呉れそうろうように申しそうろう。親実に願い申しそうろう故、親子の者どもの微志、黙止し難く指し上げ申しそうろう。近頃労煩なる箱にそうらえども遣り申しそうろう。……。 
宛先の「銀首座」は、龍吟社判「白隠和尚全集」の該尺牘の題には、白隠会下の葦津としているが、そうではなくて白隠下の指津宗珢(そうぎん)のことである。宝暦十年に妙心寺蟠桃院住持となった人だが、この時も京都にいた。書簡の年代は不明であるが、内容から推測するに、恐らくは妙心寺での碧巌録提唱のあった翌年であろう。右の手紙から次のことが分かる。 
一、春、比奈村の無量寺(白隠が住していた)から、金剛塔を書いたものを両宮様へ指し上げた。二、菴原(えばら)村の山梨平四郎の二人の娘たちが、このことを聞いてうらやましく思い、延命十句観音の尊像を刺繍したもの献上したいと願望し、一生けんめい精進潔齊して完成した。箱に入れて送るので、まことに恐れ多いことだが、取り次いで宮様に献上してほしい。 
山梨平四郎は菴原村の代々酒造業を営む素封家であるが、のち白隠下に参じて大悟したという了徹居士のことである。 
以上、「おにあざみ」の中から、女院に対する禅師の苦言の部分のみを取り出して見たのだが、この書の大部分は禅の大要を懇切に述べ、動中の工夫を親切に説いたものであり、禅師の意図がそこにあることはいうまでもない。  
 
 
白隠・考える1 / 地獄からの脱出から六道輪廻・平常的世界へ

 

「フェリーニの「道」のなかの「小石」。たしかにこの場では、「わたし」は「置き換えられない」ものであるー位置からしてそうだ、だがそこには主観性はない。識別可能だが、数の上のことにすぎない。もう一つ、もう一つーそれはただ、そばに、そして間隙に、場所があるということにすぎない。だから「わたし」への神の意図や愛をわずらわす必要もない。この場以外の場所を(にあることを)望まないということ、宿命を信じ、運命の取りかえを恐れること(なにが起きるか分からない)、それが「わたし」の場をつくるのであって、「神」に頼るまでもない。」(「尽き果てることなきものへ」ミッシェル・ドウギー) 
「春が終わって散っていった桜の花びらの下の土のかすかな濡-その濡を花びらと一緒にそっと洗うように持ちあげてみる時私たちの校庭は大きくランド・スライドして傾いて、その時遥か幾億光1年の時の丘陵はほっと輝くようです薄みどりの薄墨の薄みどりの薄墨に輝きふるえ輝きふるえiさんね、イシ、石!」(「オミリス、石の神」吉増剛造)  
「その山の頂に一つの石がありました。・・・さて、この石は天地開闢以来たえず天地の霊気、日月の精華を受け、長い間これに感応したものですから、心が通い合って、胎内に仙胞(こども)を宿すにいたりました。そうしてある日のこと、その石がなかから裂けて、鞠くらいの大きな石の卵が一つ生まれました。それが風を受けたため、一匹の石猿になりました。・・・その猿は山の中を達者に歩き、走り、飛びはね、草や木を食い、流れや泉の水を飲み、山の花を集め・・・」(「西遊記」小野忍訳)  
「地球ハマルイゼ 林檎ハアカイゼ 砂漠ハヒロイゼ ピラミッドハ三角ダゼ 空ハ青イ 海ハ深イ 地球ハマルイ 小サナ星ダゼ ・・・」(「○と△の歌」武満徹)
宗教的思惟をどう考えるか  
私たちは、そして、仏教の仮説の影響を受けた人たちも、現に日常的生活を営んでいる現実世界とは別の次元の世界を想像して、それを地獄や極楽浄土・天国などと呼んできました。白穏も現実世界とは次元の異なる世界にふれる事が少なくありません。仏教で伝統的に表現されてきた現実世界とは異なる次元の世界も、人々が夢想・想像・創造してきた「異界」に含めることができます(小松和彦)。「異界」という言葉を、民俗・土俗宗教から世界宗教(仏教、キリスト教などのように民族や地域などの出生した基盤から離陸・拡大して教義的に抽象化した宗教)にわたって広く流布してきた今・現に生きて活動している日常生活とは異なる領域として想像世界すべてを包括するものとして使用します。人類はおそらく想像を絶するほど長い時間にわたって異界を夢想・想像・創造してその実在を信じてきたようです。人によっては、異界の世界に生きることが現実の世界を生きることであるようです。.小松和彦は「日本人の異界観」で、異界とは「私たちの世界、すなわち、人びとの日常世界・日常生活の外側にあると考えられる世界・領域のことで」、「「異界」は・・・日常生活に「奥行」をあたえ・・・「私たちの世界」、日常生活の陰の部分、裏側の部分を構成して・・・じつは、人びとの日常生活・世界は、異界がなければそもそも成立しないのである。」と述べています。さらに、異界を「「私たちの世界」の対概念として、時間的な異界に着目すれば、「私たちの世界」に対しての「死後の世界=死者の世界」が想定されることになるわけだが、それを空間的に見れば、「私たちの世界」の境界の向こう側に「彼らの世界」が想定される・・・」と時間的なものと空間的なものに区分しています。  
小松の考えに追加しますと、異界は私たちの現実世界と時間的・空間的に切り離された別次元に存在して現実世界に「奥行」を与えているだけでなく、異界の構成要素を現実世界の構成要素としても考えることができます。すなわち、異界を人々の想像世界とみなしますと、現実世界の構造の中に異界を包含することが可能です。そのように考えますと、仏教のいう生前・死後の世界もすべて異界とみなし現実世界の構成要素と考えることができます。人間のあり方は、「異界」の世界(宗教・思想・夢想.など)と現実の世界の二重構造を持っています。  
異界を時間的・空間的に現実世界と切り離して考えますと、何かの媒体・媒介によってこの世と異界が結びつけなければなりません。鎌倉時代に書かれた無住の「沙石集」にある異界に関するレポートでは、夢もしくは憑依された者の口を通して異界が現れることが少なくありません。すなわち、「沙石集」では異界が直接この現実世界に開いてきます。これに対して、白穏が記載している異界に関するレポートほとんどが臨死体験として表現されています。つまり、一度死んで現実世界を離れて異界に移行してそこである経験をして、再度、現実世界に回帰した人びとによってなされた報告です。現実世界と異界が切り離されています。これは、時代的な変化でしょうか。さらに古い時代にさかのぼりますと、古事記では神(イザナギノミコトとイザナミノミコト)は異界と現実世界を移行・移住して、現世と異界は張り合わさっています。勿論、現在でも異界を見ることができると云う原始的な人々がいますので、異界と現実世界との関連に関するさまざまな思考形態は現在世界でも並存していることは否定しませんが。ここでは、仏教に関する事項が取り扱りあつかっていますので、現実世界は「この世」や「現世」、異界は「あの世」「地獄」「極楽浄土」などの言葉で表現されます。  
先ほど述べましたように、白穏の異界についての考える内容にはいくつかの要素が含まれています。ひとつは、現世と切り離された空間的・時間的次元(死後の世界)と想定する一般的な考えです。この場合には、六道(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上)輪廻の世界は死後に想定.されます。それと同時に、  
六道輪廻の世界の現実性を死後の世界に想定するだけでなく現世にもみています。この場合には、異界を現実世界の構成要素と考えることになります。さらに、唯識思想を引き継ぐ禅の伝統に従って六道輪廻の世界をこころがつくる.妄念と断言します。この場合には、現実世界.も異界も.すべて.妄念ですので両者は同一であってなきがごとき存在と想定されています。白穏の現実世界と異界の関係について一番不明で大事なことと思われるのは、彼はこの世を地獄界とみてその中に人間界と天上界を含めて考えたか、この世を人間界と考えてそのうちに地獄界や天上界を含めて考えていたかということです。白穏にとってはこの両者は同じことなのかも知れませんが。わたしの立場は、現実世界を心の妄念、もしくは現実世界も異界もこころのつくりだす妄念とは考えません。そのために、白穏は現実世界を人間界以下の世界、人間界、天上界からなる六道を輪廻する迷いの世界と考えたと推測します。その六道輪廻の変転から離脱する修行をこの現実世界で行い、そのことで人々が信じられないぐらい膨大な時間を費やしてきた異界と現世の間を転生するという妄念体系にもグットバイしようとしたと考えます。  
私たちの通常の生活倫理では、極めて単純化していいますと善を行うと結果として快がもたらされ、悪を行うと不快がやってくると、だから快を得て不快を避けるためにそれぞれ善を行い悪を禁止するという、善悪と快不快とが裏表のように結びつけられています。この因果の倫理原則を「善悪←→快不快の原則」と記号化しておきます。矢印が善悪から快不快へ一方向ではなく、快不快から善悪への逆方向のものもあるのは、快を生み出す行動が善で不快を生み出す行動は悪であるという欲望肯定的な倫理学説もあるからです。仏教の六道輪廻、因果応酬の考えもこの原則の中に含まれます。しかし、現実世界では必ずしも善と悪の行為が快と不快の結果にそれぞれ結びつきません。この善悪と快不快の不一致を説明するために、仏教では過去に行った善悪の行為の結果(業)が現在の快不快の状況をもたらし、現在の行為の善悪の行為の結果(業)が未来の快・不快の状況を招来するという過去・現在・未来をいう時間軸を導入して、「善悪←→快不快の原則」がなりたつように思考・行為の範囲を拡大します。それが、六道輪廻の思想です。このように考えますと、白穏は「善悪←→快不快の原則」を超える世界体験の次元をめざしたことになります。私も、現世利益を軸にした宗教的観念とは異なる志向、「善悪←→快不快の原則」を超えた世界体験をめざす試みを宗教的実践の真髄と考えています。しかも、この「善悪←→快不快の原則」を超える宗教的実践は、私たち一人一人がここに現にただ存在することそれ自体を絶対的に肯定する思想に到達するはずだと想定しています。この立場から、土俗民間宗教は現世利益宗教で、世界宗教(仏教、キリスト教、イスラム教)はそれを超えたものという考えを私はとりません。  
ここで、話の進行上、私が宗教的と思う次元についてのイメージにふれておきます。「善悪←→快不快の原則」の彼岸に宗教的真理を想定することは、現世利益宗教を「低いもの」もしくは「方便」の宗教と考えますが、土俗民間宗教を「低いもの・方便の宗教」とみなすものではありません。たとえば、深澤七郎の「楢山節考」のおばあさん・おりんの行為に私は宗教的実践の真髄を見るものです。「楢山節考」を読んでいる方は現在あまり多くないと思いますので紹介します。小説の舞台は、「山と山が連なっていて、どこまでも山ばかりである」信州の山の中の小さな村です。食料となる作物の生産は極端に低い貧しい村です。冬の来る気配を感じるとその冬がこせるか村民はビクビクして心配します。皆が食料に過敏になっており、たとえば、食料を盗んだ一家の人々の姿は人びとの足音がよく聞こえた夜にどこともなく消えています。村の伝統的な掟では村人は七十歳になると、異界の地でもある楢山に捨てられることになっています。おりんはその日が来るのを待ちます。若いものの生存のために口減らしとして捨てられるという行為を自発的な供犠の儀式のように考えます。供犠の儀式のために、酒と酒の肴を日頃準備すらしています。おりんは楢山に善行の報いである快的世界を想定していません。厳しい孤独の寒い世界を想定していたはずです。やがて、おりんは息子の辰平に担がれて、楢山に捨てられる日がきます。しかし、おりんにとって、供犠の儀式は「善悪←→快不快の原則」の次元を超えた問題です。立派に成し遂げなければならない運命・つとめです。そのおりんの姿が、日本列島の盆地に散在した村々がかもし出したやさしく懐かしい母親の像と重ねあわされながら描かれています。二人は楢山に着き、息子の辰平がおりんを肩から降ろし、降ろすと二度と振り返ってはいけないという掟に従って山を下る場面を引用します。  
「楢山の中程まで降りて来た時だった。辰平の目の前に白いものが映ったのである。立ち止まって目の前を見つめた。楢の木の間に白い粉が舞っているのだ。  
雪だった。辰平は、「あっ!」と声を上げた。そして雪を見つめた。雪は乱れて濃くなって降ってきた。ふだんおりんが、「わしが山へ行く時アきっと雪が降るぞ」と力んでいたその通りになったのである。辰平は猛然と足を返して山を登り出した。山の掟を守らなければならない誓いも吹きとんでしまったのである。雪が降ってきたことをおりんに知らせようとしたのである。本当に雪が降ったなあ!と、せめて一言だけ云いたかったのである。辰平はましらのように禁断の山道を登っていった。  
おりんのいる岩のところまで行った時には雪は地面をすっかり白くかくしていた。岩のかげにかくれておりんの様子を窺った。お山まいりの誓いを破って後をふり向いたばかりでなく、こんなところまで引き返してしまい、物を云ってはならない誓いまで破ろうとするのである。罪悪を犯しているのと同じことである。だが「きっと雪が降るぞ」と云った通りに雪が降ってきたのだ。これだけは一言でいいから云いたかった。  
辰平はそっと岩かげから顔を出した。そこには目の前におりんが座っていた。背から頭に筵を負うようにして雪を防いでいるが、前髪にも、胸にも、膝にも雪が積もっていて、白狐のように一点を見つめながら念仏を称えていた。辰平は大きな声で、「おっかあ、雪が降ってきたよう」 
おりんは静かに手を出して辰平の方に振った。それは帰れ帰れと云っているようである。 「おっかあ、寒いだろうなあ」  
おりんは頭を何回も横に振った。その時、辰平はあたりにからすが一ぴきもいなくなっているのに気がついた。雪が降ってきたから里の方へでも飛んで行ったか、巣の中にでも入ってしまったのだろうと思った。雪が降ってきてよかった。それに寒い山の風に吹かれているより雪の中に閉ざされている方が寒くないのかも知れない。そしてこのまま、おっかあは眠ってしまうだろうと思った。  
「おっかあ雪が降って運がいいなあ」 そのあとから、「山へ行く日に」と歌の文句をつけ加えた。  
おりんは頭を上下に動かして頷きながら、辰平の声をする方に手を出して帰れ帰れと振った。辰平は、「おっかあ、ふんとに雪がふったなア」と叫び終えると脱兎のように馳けて山を降った。」  
わたしは、すぐれた宗教者とは現世利益の考え方を超えて、このおりんのように善悪を超えた次元の問題に爪をかける思考を行う人と考えています。もし宗教的思惟に意味があるとすれば、善悪・快不快の範囲を超えた事柄を思考の対象としていることでしょう。禅もそのひとつだと思います。もし、この貧しい村に寺がありそこに僧侶がいたと仮定します。その僧侶が宗教的な事柄をおりんに説教したとすれが、おそらくおりんは僧侶の話をありがたく聞いたでしょう。しかし、僧侶が、おりんがその時にすでにもっていた宗教的思惟をより豊かなものにできたかどうかは怪しいかぎりです。おりんが自分で向かってゆくしかない事柄なのです。想像しますに、おりんが死を迎えるまでの時間に、楢山に滞在していた時間におりんの宗教的実践は凝縮されたはずです。おりんにとっては大事業です。失敗するか成功するかは運任せですが、私たちも通り抜けていかねばならない大事業です。楢山の老人が捨てられる場所は、岩陰に死体がころがり、カラスがたくさんいる山です。その厳しい孤独の寒い世界で死を迎えるという覚悟がおりんの宗教的実践の真髄のようにみえます。おりんのなかには、捨てる・捨てられるという「善・悪←→快・不快の原則」をこえて、生き残るものが生きることを肯定するという思想があります。生きる欲望が現世の基盤になってはいますが、「善・悪←→快・不快の原則」をこえようとする宗教的実践という回り道を経なければただ現にここに生きてあることを絶対的に肯定する考えに至らないのではないか、という考えを過去の思想家に影響されながら私は抱きはじめています。回りくどい生き方が必要です。たとえば、西欧の宗教家や哲学者でいいますと、人間が感じ考える快・不快や善・悪と無関係もしくはそれらをこえたところに「神」を想定するエックハルト(1260頃―1328頃)やスピノザ(1632―1677)の考え方に、「善・悪←→快・不快」原則をこえようとする宗教的思惟を見出せます。エックハルトは、説教の中でイエスによって神殿を追い出された商人たちについて次のように言います。「次のような人々は皆商人である。重い罪を犯さないように身を慎み、善人になろうと願い、神の栄光のために、たとえば断食、不眠、祈り、そのほかどんなことであっても善きわざならなんでもなす人々。このような行為とひきかえに気に入るものを主が与えてくれるであろうとか、その代償に彼らの気に入ることをしてくれるはずだと考えているかぎり、これらの人々はすべて皆商人である。・・・彼らは他のものを得るためにあるもの与えようとしているのであり、こういった仕方でわれわれの主と取り引きをしているからである。このような取り引きをしようとするかぎり、彼らは期待を裏切られることになる。というのも彼らの所有するすべて、彼らのなしうるすべてを、神のために捧げ、神のために行ったとしても、神が彼らに対して何かを与え、何かをなすべき義務など少しもないからである。もし神が彼らに何かを与え、何かをなしたとしたら、それは神が自由な意志で無償でなしたからに他ならない。」「私は貴下に言いたい、・・・神を愛する仕方は仕方なき仕方であると。なぜなら神は無だからである。神が存在しないという意味ではない。人が言い表し得るようなこれ或いはあれではないということである。神はすべての存在を超えた存在である。存在なき存在である。それ故に、人が神を愛する仕方は、仕方なき仕方でなければならない。」(エックハルト説教集)。「善・悪←→快・不快」原則が貫く現世、すなわちその反映である六道輪廻の転生の向こうに宗教的思惟が、その宗教的思惟の次元があることを、エックハルトは徹底的に考え貫いています。  
スピノザも、利益の獲得という目的のために作った「善・悪、功・罪、賞賛と非難、秩序と混乱、美・醜い」(「エテイカ」)などの「諸偏見」の向こうに神=自然の領域を想定しています。すなはち、「定理十七神は受動の状態にはおちいらない。また喜びや悲しみの感情にも動かされない。・・・・系本来的に言えば、神はだれをも愛さないし、まただれをも憎まない。なぜなら、神は喜びや悲しみという人間的な感情にもうごかされないからである。したがって神はだれをも愛さないし、また憎まない。」(「エテイカ」第五部)。スピノザは、人間の認識について「われわれは、どのような場合にも、ものを善と判断するから、そのものへ努力し、意欲しあるいは衝動を感じあるいは欲求するのではない。むしろ反対に、あるものを善と判断するのは、そもそもわれわれがそれにむかって努力し、意欲し、衝動を感じあるいは欲求するからである。」というマルクス、ニーチェ、フロイト、つまり現代思想の先駆者達の思想の前提を完全に先取りする視点を示しています。そして、「徳そのものと神への奉仕を、それだけでは幸福、最高の自由ではないかのように、徳や善行をもっとも困難な奉仕と見なし、神から最高の報酬をもって報いられることを期待する人々が、徳に関する真の評価からいかに遠ざかっているかを、われわれは明瞭に理解するのである。」とのべ、完全に「善悪←→快不快の原則」を超える宗教的思惟を行っています。スピノザは、「善悪←→快不快の原則」を超える次元に突入しただけではありません。その「善悪←→快不快の原則」を超える試みの次元で、「われわれの最高の幸福あるいは至福がどこにあるのか、結局それは神の認識にしかないことを教える効用をもっている。」こと、「運命にかんすること」「社会生活に貢献すること」「共同社会のために少なからぬ貢献をなす」ことを考えつづけた希有なひとです。彼は、カトリック教を支配思想とするスペインから虐殺を免れるためにオランダに流亡したユダヤ人の子であり、さらに当時のオランダの国家と支配的諸集団の支配思想であるキリスト教(カルビン派)およびユダヤ教からも破門と排斥を受け、そのうえ信頼していた保護者でもあった政治家の友人を民衆に虐殺されました。それでも徒党を組むことなくその宗教的思惟をつづけ、ここに現にただ生存して生きていることを肯定する思想を試みたのです。おりんも、エックハルトやスピノザと共に、善いことをなしたから快適な生活があり、悪いことをしたから不快な生活がもたらされたという原則を超えたところで、彼女の生と死の在り方を祈ったと想像します。わたしは、「善悪←→快不快の原則」の向こうへ抜けようとする試みをもたない思惟に宗教的なものを感じません。おりんのような人々の声やつぶやきを聞こうと努力し共鳴することがこの地球での宗教的思惟を支えてきたのだと思っています。たとえば、次のような文章にも、宗教的なものを感じます。ウラジーミル・ナボコフの「透明な対象」の主人公は、小説の最後の場面で滞在していたホテルの火事に巻き込まれます。「目に焼きつく最後の光景は本か箱が白熱して完全に透明になり虚ろになるところだった。これこそが、きっと、それなのだ。肉体が死ぬときの露骨な苦しみではなく、ある存在状態から別の存在状態へと移行するのに必要となる不可思議な精神操作の喩えようもないいたみなのだ。ま気楽に、なんというか、行こうぜ、なあきみ。」と自分に呼びかけながら小説は終わっています。わたしは、このような言葉に「善悪←→快不快の原則」をこえ、欲望にもてあそばされることへの退路を断った宗教的なものの精神を感じます。勿論、仏教、特に禅はもっとも明示的に「善悪←→快不快の原則」をこえることをめざした宗教的思惟です。
無住の「沙石集」と白穏の法語の比較 
白穏の思想を考える場合には、白穏の略伝でふれたように地獄に堕ちる恐怖感から宗教生活に入りその後どのように宗教思想を作っていったかという検討を避けることはできません。柳田聖山は「臨済の家風」で次の寺田透の文章を引用しています。「禅とは、現世から出発して、諸法の実相たることを確信することによって、迷いを去り、仏にまみえ、それによって自己を仏にしようとする道である。決して暗くも、香華臭くもない、からっとした、尽十方世界一顆明珠と見てとる肯定的精神であるという風に、われわれの禅宗観が成り立っているのは、理由のないことではあるまい。ところが、白穏は暗く、地獄の匂いをもっている。その意味で、かれは多分に真宗風を兼ねあわせているのでなかろうか・・・。そこに見られるのは、おのれを永遠化しようとする美の姿でも、また美しいものを作り出すことによって、永生への願いを現実化する人間のいとなみでもなく、滅亡のーしかもそれ自身は図太いと言っていいくらい力強いー予告である。」この寺田透の文章にはよく批判されるようにたしかに白穏を「真宗風」に解釈しすぎている傾向がありますが、白穏の思想は「尽十方世界」を直ちに「一顆明珠」とみなす、この現世そのものが悟りの世界だという批判仏教派がいう意味での単純な「本覚思想」ではありません。「本覚思想」について佛教語大辞典(中村元)では、「本覚とは・・・現象界の諸相を超えたところに存する究極のさとり。また、このさとりの普遍性により、人間は生まれついたままさとっていることを表す。本来そなわっているさとり。・・・日本天台の本覚思想では、・・・生滅変化する現実界こそが、本来、ほんとうのさとりの世界であると主張した。」と説明されています。この現実世界をまるごと悟りの世界であると肯定する本覚思想に対して批判仏教派イデオログーらは、本覚思想は「動物以来の太古より人間が・・・生まれそこに育っていった固有の土着思想と・・・合体しており」「自己肯定的な」「権威主義的」思想で、反「知性」的である(袴谷憲昭・松本史郎:「本覚思想批判」・「縁起と空」)と批判しています。批判仏教派イデオログーだけでなく、修行して悟りをめざした人々でこの「日本天台の本覚思想」に戸惑わなかった人はいなかったと思います。事実、「日本天台の本覚思想」対する批判は鎌倉時代の新仏教運動以前から行われてきました。問われればならないのは、天上界(王族)出身のブッタがもつ知性的で合理的かつ自己抑制の強い宗教的思惟を、日本列島の人々がどのように消化したかその思惟活動を検討して、「日本天台の本覚思想」が生まれた理由を明らかにすることです。日本列島の人々が輸入文化でしかも天上界の思惟である仏教をどのように消化したかを問わないで、仏教原理に反するかどうかを裁定するだけの仏教原理主義のような現象は、どこの思想領域にも棲みつく群小イデオログーたちの現象でしかないと考えます。 
白穏は、現世をはっきり六道輪廻が反復する迷いの世界であることを凝視しつづけています。しかし、その六道輪廻が反復する「尽十方世界」を「一顆明珠」の次元へ変容させようとします。あきらかに、もし批判仏教派が言う意味で現状追従的な「本覚思想」があると仮定しても、日本列島に住む私たちが「本覚思想」を宗教観として自力で克服するには長い宗教的実践や知的営みがまだまだ必要であると考えています。なぜなら「本覚思想」は日本列島に住む人々の潜在可能性を、それへの希望も含んでいる思想だからです。私のこの文章の目的の一つは、寺田透の文章が指摘する「滅亡のーしかもそれ自身は図太いと言っていいくらい力強いー予告」から「尽十方世界一顆明珠と見てとる肯定的精神」への移行・変容を追体験することです。その変容の体験を記述する時に、実体としてありもしない「精神」「魂」「こころ」などの「技術語technicalwords」を使用していたとしても、それは記述用語、専門・技術語の使用に関する問題です。それらの技術語が示そうとした体験が重要なのです。  
白隠思想の核とも言える「見性から悟り後の修行」、「仏教修行と養生.」の問題に入る前に白隠の法語を読みながら白隠の宗教思想の輪郭をひろくあさくなぞろうと思います。わたしは、白穏が無住の「沙石集」を読んで、僧侶・皇族・貴族・大名などの天上界にすむ宗教的・文化的・政治的・経済的な支配階層への批判をつよめ、現世を六道輪廻と再確認した、と資料的裏づけは乏しいのですが直感的に考えています。私のような還暦に近い年齢になりますと、貧しい素朴な人びとの生活のなかに未来の生活の萌芽があるという単純純朴な考えは強弁したとしても虚偽であることがわかり、また支配階級・階層の生活はたんに贅沢三昧の生活ではなく文化の積み重ねられた未来に一番近い可能性もあることにも気づきます。これは、おそらく私の努力がもたらした考えではなく、たんなる加齢が自動的にもたらした経験だと思います。現世を六道輪廻が反復する世界であると断言することは、支配層と被支配層の相互補完的な世界に、さまざまな幻影・幻想を描くことを断つことです。わたしは、庶民出身の白穏がこの見解に達したことを「革命的」なことだと推測します。白穏が無住の「沙石集」を読んで僧侶であっても地獄のおちるという記載に衝撃を受けたというのは、白穏の地獄恐怖感が増強強化されたということではなく、ちょっとしたら天上界は地獄から一番遠いかもしれないという幻想.を切り捨てたということです。天上界も地獄である、天上界に出生の秘密をもつ思想(仏教)も地獄への案内書になりうることに自覚的になったのです。  
六道輪廻からの脱出が課題とされるときには、よく人間界以下の(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅)が問題とされます。たとえば、日本列島の中に念仏・浄土宗を定着させた先駆者といわれる源信の「往生要集」を読みましても、人間界以下の世界は生き生きと描かれていますが、天上界の描写は生き生きとしておりません。彼の記載では、天人も淫、食、睡眠欲からまぬかれていません。天人が死ぬ時、衰えゆく兆候をしめす。その衰えの兆候は、天人五衰と言われています。中村元によりますと、天界の衆生の寿命がつきて死ぬ時に示す徴候は、衣服が垢でよごれ、頭上の華鬘が萎えてしまい、身体がよごれて臭気をはっして、腋下に汗がながれ、自分の座席をたのしまなくなるといいます。天人の生活は「快楽きわまりない」ものです。そのために「天上より退かんとする時、心に大苦悩を生ず地獄のもろもろの苦毒も十六の一に及ばず」と源信は書き、「孤独のなか中で死ぬ」とされています。  
中村元の「原始仏教の思想U」では、天には神々が住み、天は光輝喜楽であり、天人は幻術や病を癒す術を使用できますが「愛欲の束縛に縛られている」といいます。仏教の天上界は、インドの土着宗教であるヒンズー教の多神(帝釈天、火神、閻魔、太陽神、水天、風神、毘沙門天、月神、夜叉、梵天など)の世界を転用して作られています。このように考えますと、人間界を含めそれ以下の世界にすむ人々の抱く救済幻想の世界はほとんど仏教のいう天上界に含まれます。日本列島の庶民生活の苦悩に基盤にもつ宗教諸集団の救済・願望世界、「癒し」の約束手形を発行する人びとの癒しの世界は天上界に属します。初期仏教を作った人々は天上界(王族)出身の人びとでしたので六道輪廻の世界を超えるという問題設定の中には当然当時の支配階級・階層の生活やその宗教生活も含められていたに違いありません。私は先に仏教の世界は、四諦・八正道仮説にもとづいて生きようとした人びとに作られた現世の分業世界と述べました。それを、ここでさらに補足しますと、ミルチア・エリアーデは「世界宗教史3」で「4諦には、仏陀の教えの核心が含まれている。・・・最初の真理は、苦や苦痛(パーリ語でドウツカ)にかかわっている。仏陀も、・・・すべては苦であると考えていた。・・・さまざまな幸福の形態、瞑想によって得られる霊的な状態ですらドウツカであると言われる。・・・それは「永遠でないもの、ドウツカであり、変化しやすい」である・・・。・・・永遠でないがゆえにドウツカなのである。・・・第二番目の真理は、転生を決定する欲望、欲求、「渇き」は絶えず新しい快楽を求めるが、それは、感覚的な快楽への欲望、自己を永続化させようとする欲望、消滅(もしくは自己破壊)の欲望に区別される。・・・自殺に結びつく破滅への欲望はそれ自体が「欲求」であり、それが解決策にならないのは、永遠なる輪廻転生をとめることにならないからである。三番目の真理は、苦からの解脱は欲求を捨て去ることにあるというものである。それは涅槃に相当する。事実、涅槃は「渇きの消滅」ともよばれることがある。最後の四番目の真理は、苦の消滅にいたる道を示している。」と、四諦を説明しています。この説明では、現世の生存の貧困・病・老の苦しみに発する救済幻想だけでなく、一見すると現世の現実的苦悩とは無縁に見える支配階級・階層および宗教界の人びとの多くの考えも「ドウツカ」に含まれています。これが、六道輪廻を超えるという思想の核心のようにみえます。白穏は、無住の「沙石集」を読むことでこの考えを深めたようにみえます。  
さて、私見を離れて話をすすめます。そのために無住の「沙石集」と白穏の法語を比較するのがよいと思いつきました。といいますのは、白隠を調べていて「沙石集」をはじめて読んだのですが、鎌倉時代に流布していたと思われる僧侶分業世界の話を集めたこの本は、日本列島の仏教を考える素材を数多く含んでいるからです。そのために、「沙石集」を対照にとりますと、白穏の理論の精華だけを検討するのではなく、白穏の理論を僧侶分業世界が持っていた問題群と関連させながら検討できると考えたからです。  
無住の沙石集には、さきほど述べましたように鎌倉時代の宗教的環境と関連した多くの逸話が含まれています。無住は、源頼朝が1192年に征夷大将軍となり鎌倉幕府がはじまった後の時代の人です。その時代、日本列島の仏教は、比叡山、高野山の天台宗と真言宗、そして奈良の大寺院の理論的な仏教研究を中心とした顕教と密教が仏教の主流でした。それら仏教の主流の形骸化に対して、在来の仏教を革新する運動(明恵)や、仏教の中の一つの立場を選択して信心を強調する新仏教運動(法然、親鸞、一遍、栄西、道元、日蓮など)が興った時代でもあります。そのような変革期に、無住は、沙石集の跋文で「もともと田舎に生まれ育ち、文書も習ってはいないし歌道も知らない。仏法の一宗さえも本格的に学ぶことはなく、もっぱらの山がつでありますが、暮らしを立てる煩いを逃れるために、人の真似をして遁世門に入り、出離の要法のみを問い語って修行し、道人に近づき、志しは疎いとはいえ、望むのは菩提を得ることです。」(小学館、日本古典文学全集52、小島孝之)と書いているように密教、禅、律など当時の仏教の知識を広くもとめたようです。この雑学性が仏教の中の一つの立場を選択して新仏教運動を興した「信心」の強い諸教祖たちより低く見られてきた理由です。最近、大隈和雄が「信心の世界、遁世者の心」(日本の中世2)で沙石集を分かりやすく説明しております。これに対して、白穏その1で述べましたように、白穏は最後の武家時代である徳川時代に生まれ、政治権力によって完全に統制された宗教世界の中で栄西が開いた禅宗に属しながら仏教の革新運動を起こし、雑学性を否定して「純」禅を志向したように無住とは対照的な方法をとっています。
「沙石集」の第一巻は、まず本地垂迹説について触れています。日本列島の仏教を考える場合には仏教が輸入される以前から存在していた自然宗教(天地の諸現象が神々として実体化される)=神道との関連が問題になりますので、理屈にあった問題設定と思います。本地垂迹説は、仏教系の仏・菩薩が、日本列島の自然宗教の神々に姿を替えて顕われたと考えます。この本地垂迹説では、例えば、伊勢神宮の内宮と外宮の祭神である天照大神と豊受大神は、両者とも大日如来が姿を替えて顕われ、人々に現世利益ももたらすと考えます。この本地垂迹説は、日本列島では長い間支配的な考えであったようで、日本列島の宗教環境に仏教が輸入されて消化された方法とその結果であるとも言えます。しかし、明治維新で、(平田系)神道派が政権中枢部にもぐりこみ神道イデオロギーによって明治国家を形成しようとしたために、仏教と神道の分離と仏教の排斥(排仏棄釈)が行われ、本地垂迹の考えは迷信、土俗信仰の類いの様にみられました(邪教/殉教の明治―廃仏毀釈と近代仏教、ジェームス・E・ケテラー)。しかし、本地垂迹説は日本列島の人々の宗教的心性には根をはって残存しています。そもそも釈迦の仏教は、自然宗教の絶対的な否定の、そして現世利益などを無視する考えです。争いをさけるために、口をつぐんで自然宗教の批判を公然とはしなかっただけです。この初期仏教への回帰を日本列島の仏教者では、唯一、親鸞だけが一切の神祇(祗)信仰を拒否という姿勢で示しています。親鸞は、42歳ころに新潟(越後)から関東への移住の時に、「上野国の佐貫」で、「衆生利益」にために三部経(無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)を千度繰り返して読む行に入ろうとします。しかし、親鸞は4から5日目で突然にその行為をやめたそうです。ここで、親鸞はシャーマニズムと決別したのだと思います。「衆生利益」の為であっても三部経を唱え続ける儀式的な行は虚偽行為であると断定して、現世利益を供与する宗教から脱皮したと考えられます。親鸞と息子・善鸞との別離は単なる権力闘争ではなく神祇(祗)信仰をめぐる対立だったようです。善鸞は神祇(祗)信仰を認め民衆の現世利益にそった宗教活動を継続したといわれています。本地垂迹説は、主として民俗学系統の人々によって土俗宗教や山岳宗教・修験道との関連で調べられてきましたが、最近、山本ひろこらが精力的に中世の密教と神道の連結を示す本地垂迹説を検討してます(異神、変身論、中世神話など)。  
無住は伊勢神宮を参詣して、神官の話しをききます。国のはじまりに、大海の底に大日如来の種子があったので天照大神が鉾を海中に入れて探しました。鉾の滴りが落ちて国になろうとした時に、第六天の魔王が「滴りがおちて仏法がひろまり人々が悟りをひらく兆しがある。」と判断して、その行為を妨害しにきます。天照大神は、仏法がひろまることのないようにすると口約束して、「仏を「立ちすくみ」、経を「染め紙」、僧を「髪長」、堂を「こりたき」などと呼んで仏法を広めた」というのを聞きます。「内宮・外宮」は密教の胎蔵界・金剛界に対応しているといいます。天の岩戸は高天原ともいい兜率天のことです。と説明して、伊勢神宮を密教理論で説明します。「本地垂迹として出現なさったその御姿は異なっていても、その志は同じであろう。・・・・我が国では、仏の威光をやわらげて神としてまず現れ、人々の荒々しい心をやわらげて神としてまず現れ、人々の荒々しい心をやわらげて、仏法を信じさせる方便となさった。神の姿をとった身近な方便を信ずれば、この世では災いを止めて安穏に生きる望みを果し、来世では流転しない真理への悟りを開くであろう。」と書いているように、無住は何の疑いもなく仏法へつながる「方便」としても本地垂迹説をみとめています。この本地垂迹説は、「南都に小輔の僧都性円という、解脱房上人の弟子で碩学として知られた人が死後、魔道に堕ちて、ある女にとり憑いて、いろんな事をいった。」その中で、「我が春日大明神の救済手段のすぐれているのは、すこしでも信仰した人を、どんな罪人であっても、他所の地獄へ行かせないで、春日野の下に地獄を作って、そこに入れては、毎日早朝に、第三の御殿から、地獄菩薩が、酒水器に水を入れて、散杖を添えて水を灌ぎなさると、一滴の水が罪人の口に入って、地獄の苦しみがしばらくの間楽になって、少し正念でいられるので、その時、大乗経の大切な経文や陀羅尼、神の呪文などを唱えてお聞かせになる。これを毎日怠りなくなさる。この御方便のおかげで、ようやく魔道から逃れることができるのです。」という発言がありますが、この説話に見られるように、日本列島の神様も人びとを救う役割をもつとされ、民間・土俗宗教のなかに広く深く浸み込んで行ったと考えられます。  
日本列島への仏教の輸入に際して、自然宗教と仏教の関連は複雑であったようです。すこし話が離れますが、本地垂迹説についてさらに考えてみます。佐藤正英は、「聖徳太子の仏法」の中で重要な指摘をしています。彼によれば、仏法以前には日本列島の神は「<もの>神と<たま>神」からなり「<もの>神は、事物や事象の実なる在りようの形象である。自己にとって多物である事物や事象は、同一性をもたず、過剰であり、抗し難く、災厄をもたらす。<もの>神は、蛇、石、雷あるいは美麗な男などさまざまな形姿をとって現出するが、祭祀を介することによって、一時的にせよ、自己と融和する。・・・<たま>神は、<もの>神を祀るひとの霊魂として現出した。事物や事象の実なる在りようとの融和をもたらすひとこそ、すぐれたひと、つまりひとらしいひとと見做されたからである。しかしどれほどすぐれたひとであろうと、事物や事象との十全な融合は成就され難い。<たま>神は、十全な融合を希求してやまない自己の在りようが、死後に霊魂の形姿で現出した存在である。<たま>神を祀ることは、自己の希求が充足される事態の現出を観念することであった。」このような宗教環境のなかで、釈迦仏は「蕃神」(異国からやって来た神)で、「国神」(在来の<もの><たま>神)に比較されて、利益と災厄をもたらすと考えられた、と述べています。聖徳太子の業績の一つに仏教の消化があり、勝鬘経、法華経、維摩経の注釈が上げられています。そこで、佐藤正英は、「勝鬘経」を次ぎの様に説明します。私がいくら努力して読んでも勝鬘経をこのようには読めません。勝鬘経は小乗仏教を批判し、「如来蔵(と呼ばれる、如来たるべき本性が、衆生の内に胎児の状態で存在する)」という考えを述べている本としてしか読めません。おそらく、私の読み方が批判仏教派による「如来蔵」思想批判に影響され「如来蔵」という技術語にとらわれて自分の頭で考えないことによるのでしょう。佐藤正英は、「勝鬘妃によれば」人びとは執着・怒り・無知から起こる顕在煩悩(現生で完結する煩悩)と、顕在煩悩の基盤にあり前生・現生・後生を貫き偏見・欲望・身体・輪廻に関連する潜在煩悩につきまとわれている、と言います。これが「分断生死・有為生死」であるそうです。そして、亡父母など有縁な人びとの<たま>神を祀ることは、それらが「分断生死・有為生死」の境涯を脱することを助けることになります。しかし、その先に「分断生死・有為生死」を脱してもなお「根源煩悩」があり「不思議変易生死」(「眼に見えず、肌で触れられず、間接的に心に感じとられる出生死滅」で「幽在時間・幽在空間」からなる。)があります。「根源煩悩」は「他者との隔絶の溝が十分に埋められた時にはじめて消滅する。」とされます。「幽在時間・幽在空間」にいる菩薩はそこで「自己の内から汲み出される自発」によって「幽在時間・幽在空間」を脱して行くと読まれています。この様に、在来の日本列島の土着・自然宗教思想と仏教的思惟は連結され、二段階解脱論とでも名付けられる考えによって統合されます。つまり、「霊魂」「たま」「精神」などという技術語で表現された個性あるこころが日本列島の在来の自然宗教の儀式によって仏教へ向かうように促され(第一段階解脱)、その後、実体化されこころの技術語「霊魂」「たま」「精神」が解消され無我・無自性となります(第二段階解脱)。この論理構造は、自然宗教を否定した親鸞の思想の論理構造にも当てはまるように思われます。つまり、親鸞にあっては、一度、念仏で人びとのなにか(おそらくはタマシイ)が浄土に「横超」(私はこの語のもつニュアンスが好きです)します(往相)。「横超」したタマシイは浄土で修行して、解脱に至ります。浄土は途中下車する阿弥陀如来の主催する停車場です。この論理構造は、さきの佐藤正英の勝鬘経から引き出した論理構造と一致します。また、浄土で修行した菩薩の中には解脱しないで民衆の救済のために現世にもどる(還相)する一派があるそうです。このように考えますと、自然宗教を徹底的に否定して初期仏教への回帰したようにみえる親鸞の論理構造にも、佐藤正英の二段階解脱論や「常世」とこの世をタマは往復するという日本列島の民俗的文化土壌が消化されているようにみえます。なお、佐藤正央には「歎異抄論註」という改訂版を含めてすばらしい名著が在ります。このように、親鸞のように、伝統的な自然宗教の徹底的な批判からなりたっている思想も出生の母胎の臍を切り離せないものなのでしょう  
さて、白穏は神々と仏をどのように考えていたでしょうか。わたしは、本地垂迹説な宗教的感覚が相当あったのではないかと想定しています。ただ、白穏は自然宗教的な宗教観を否定するモダニズム的色彩を強くもつ禅の中で修行して育っています。そのために本地垂迹説的な言辞は明確では在りません。ただ、白穏は、政治権力が優勢となり、当然にもそれにともない武士の精神力の高揚・鍛錬に伴い、儒教的考えが優勢となった時代に活躍しています。そのために、法語では、仏教の諸宗門、神道、儒教、道教の考え方はその極致の境地においては一致するという考え方をとっています。多くの法語では、世俗論理として儒教をみとめるか、先ほどのべた二段階解脱論の第一段階として儒教を認めているようにみえます。たとえば「八重葎巻之一高塚四娘孝記」です。白穏は、小野田家の供養に参加して孫の四人の娘に会います。娘の両親は死亡(宝暦四年-1754年)しますが、両親の供養のために残された姉妹(十四歳、十二歳、八歳、六歳)が平仮名つきの「法華経」を書き写した行為をたたえています。  
白穏は、「八重葎巻之一高塚四娘孝記」の中で、まず儒教・孔子の生知安行(生まれながら道理に通じ、安んじてこれを行う)の考えを肯定して、「夫れ孝は徳の本なり、教えの依って生る所なり。天地の性、人を貴しとす。人は孝行より大いなるは無し」(孝経大義)と世俗社会における儒教の優位性を肯定します。これは治世に関しては、武士階級と儒教論理が仏教を陵駕していることが前提になっています。戦国時代の統治・戦争経験から、武士階級は精神力と政治能力に関して僧侶階層を越えたと思われます。白穏は、まず世俗社会が仏教や僧侶階層の力の及ばない独立した秩序とそれを支える生活観や論理から成り立っていることを認めています。次に、日本列島に古代からある土俗的もしくは儒教的な祖霊の仏教的ではない弔いの行為・供養を大事な宗教的な行事をして是認します。しかし、「孝子として父母の喪に服しても、ただ泣いているばかりならば、両親はあの世で菩提を得られず、地獄のさまざまな苦しみを受けることになる。・・・三年の服喪だといって、小さな廬にこもり、精進潔斎して喪に服したとしても、父母が未来永劫に六道を流転するであろう苦しみに思いを致し、これを救おうという気持ちがないなら、これもまた大変な不孝ということになろう。」というように、最後に、宗教観として儒教的な考え方を超える必要があると力説します。仏教の特徴である、六道輪廻を超えることが、すなわち「因果の理」を超えることの重要性を主張します。この三段階に分ける記述の仕方は、白穏の法語の一つの定型的なパターンです。すでにお分かりのように、先ほど引用した佐藤正英が定式化した二段階解脱論が完全に白穏の三段階論のなかにあります。白穏の場合にも、日本列島にありつづけた本地垂迹説や土俗宗教と世界宗教としての仏教との関連を考える場合には、両者を接合する内在的な論理として佐藤正英が定式化した二段階解脱論が重要でありことがわかります。だたし、白穏の場合には、仏教修行として禅の方法を第一とすることが付け加わります。  
もう少し、白穏の三段階の論理を見てみましょう。たとえば、「辺鄙以知吾(上、下)」では、領主の治世に関する心構えをときます。暗君は酷吏を重用する、そして権力を利用して私的に安楽な生活を送ろうしますが、これらのことは避けなければなりませんと。「暗君が一国を得るならば、必ず奢るのである。そして多くの場合、側室を侍らせ美しい側女を置く。よって財用が不足することになり、あらゆる手段を講じてこれを集めようとする。・・・酷吏の悪知恵にたけたものを抜擢し、これを民間に放って、民百姓を収奪し搾取する。激しく収奪し多くを搾取する者ほど重用され、忠節であるとされ、俸禄も位も高くなるのだ。」そして、「民百姓を収奪し搾取する」することが社会の経済生活を破綻させるのだとときます。倹約生活の強調されます。官吏も気を付けよ、と注意します。「いかなる役人であっても、ご先祖様がいない者はないであろう。そのご先祖様が泉下にあって、諸君の行いを見たならば、きっと啼泣して言うであろう、「焦げた穀物は芽を出さないと言うが、酷吏が一人出ればその家の後継ぎは絶えてしまう。我等もそのうちに、お祀りする子孫がなくなって、幽魂となってさまようことであろう。ああ、願わくばどうか仁吏となって酷吏とならないで下され」と。つまり、暗君の安逸な私的生活の維持に貢献して民百姓を収奪すると、その家はその悪行によって滅びると言います。ここでは、はっきりと世俗論理としての家の思想と先祖の霊魂供養の思想が正当なものとして扱われています。ただし、この白穏の政治・社会理論は、白穏の時代にあっては独創性や卓越性はまったくないといっていいと思います。
六道輪廻の世界からの脱出  
白穏は、「沙石集」を読んで驚愕したといいますが、私はこのことを重視しまう。と言いますのは、「沙石集」の読書体験が、死後に地獄に堕ちることの恐怖感、さらには自分が地獄に堕ちる原因をこの世でつくるなどの悪への過敏となる罪悪感、さらには善をなして快的な世界へ転生するという希望など「善悪←→快不快の原則」を超える次元への突入の志向を強化したと考えるからです。その読書体験が、「善悪←→快不快の原則」を超える次元をめざす決定的な体験であると断言できるほど資料的な裏づけを持っていませんが、そのような白穏の宗教的志向を明示的に示すエピソードであると考えることはできます。「沙石集」を読みますと、仏教の「四諦」・「八正道」仮説に基づいて職業的・分業的世界(白穏その1)で生きる僧侶が生活を維持する場合にぶつかる多くの問題(その多くは現在でも課題になっていると思いますが、)に触れられています。  
まず、僧侶の地獄落ちの説話から見てゆきましょう。  
「大和国の篠原という所に、論識房という僧がいた。説法などして歩いていたが、年をとってからはこの事はつまらぬ事と思い、信施物などを受けるのも恐ろしいと、自斎になって説法もやめ、小さな田を人に耕作させて、自分は引き蘢って、「法華経」を誦持して、後世菩提のための修行とした。論識房が他界した後、弟子の僧で讃岐房という者が病気になって息絶えた。一日たって蘇生して、次のように語った。「炎魔王の宮殿に参った。そこでまだ報命がまだ尽きていないからといって放り出され、どこへ行ったらよいかもわからず、ふらふらと歩いているうちに、師匠の論識房が、手にお経を一巻握って出て来て、「どうしたのか」と言う。「これこれの次第でございます」と言うと、「私は囚人になってここにいる。私の住処を見よ」と連れて行った。小さな庵室に釈迦三尊の絵像を掛け、机の上に法華経一部が置いてある。「私は説法をやめて何の利益もなく、かえって仏弟子の儀に背いて、不浄の財なのに田を耕作して人を悩ませた。これが失だといって囚人になった。こういう囚人は大勢いるが、格別の苦しみはない」と語る。讃岐房が「私はどうなるのでございましょうか」と言うと、「しばらく待って地蔵菩薩がおいでになったら、お願いしなさい」と教える。その時、錫杖の音がして、忙しそうに地蔵菩薩が出ていらっしゃった。喜んでこの事情を申し上げると、「それでは」と炎魔王の前へ連れていらして、「この法師は報命がまだ尽きていないのですか」と仰せになると、「許しました」と炎魔王が申されました。「それならば、さあ」と言って、広い野の中を遥々と連れていらっしゃると、餓鬼どもが無数に多くいる中に、ある餓鬼が地蔵に申した。「この法師は、昔の我が子です。彼を育てかわいがるために難儀をし、貪業を作るうちに、今このような悲しい報いを得ました。餓鬼の習いは子供を食うことです。いただいて食いたい。」と申すのに、「これはお前の子に似ているが別人だ」と仰せになる。「いいえ間違いなく我が子でございます。確かに覚えています。いただきたい」と申すけれども、「間違いだ。お前の子とそっくりの別人なのだ。」と言ってそのまま連れて通り抜けなさった。遥かに遠くまで連れておいでになって、「私は、お前を助けるために嘘をついたのだ。あの餓鬼はお前の実の母だけれども、ただ今お前を食べたとしても、餓鬼の苦しみを助かるはずもないのだ。お前の命を失うのもかわいそうに思って嘘をついて助けたのだ。必ず母の供養をよくよくして、母の苦しみを助けよ。今は道がわかるだろう。忙しい身なので行くぞ」と言って去っていらっしゃった。」」  
「中ごろ南都に学僧がいた。亡くなって後、弟子の僧は、その学僧の転生した先がよくわからず、教えてくれるように本尊に祈った。  
ある時、春日大社へ参詣する途中で、亡くなった師僧に出会った。夢のような気がしたのだった。「御房が、私の転生先を知りたがっておられるから、お見せしよう。さあおいで」と言って、春日山へ入っていった。見ると興福寺のような寺がある。たくさんの僧坊もある。師僧はそこの部屋へ入って、「ここで私の様子を見てごらん」と言う。見ていると、講行が始まるらしく、めいめいの部屋から法衣をまとい、僧たちが出てきて、講堂に並んで坐った。いつものように問答、論議を行ったのだった。  
その後、空からはらはらと落ちてくる物がある。釜である。また落ちてくる物がある。獄卒である。銚子と器などもそれぞれ落ちてくる。そして、獄卒が釜の中の溶けた銅を銚子に入れて、器に注ぎ、順々にその場の僧に回した。僧たちは器を受け取って銅を飲み、苦しみ悶えて絶命し、皆、身体が燃えて灰のようになった。すると、獄卒も釜も道具もまた消えてなくなった。驚いて見ていると、半時ほどして、また順々に生き返り、本の姿に戻って、またそれぞれの房へ帰って行った。師僧は、「さて、御房、私の様子はご覧になったか。これは名利を求めて仏法を学んだために、このような苦しみが絶えないのだ。さすがに仏法を学んだおかげで、論議や問答をするのだ。名利に心をかけず修行すべきであったのに、情けない道に入ってしまった」と泣く泣く語った。そして、弟子は見送られて山を出た。自分の房に戻り、まるで夢から覚めたようであった。」  
最初の説話は、仏教者が修行の途中で利他行為を中断して自分の安泰な生活に閉じこもり、生活を維持するために他人を使役しました。そのことが悪行とされています。精神活動の停滞と生活のために他の分業世界の行為を行うことも禁止している訳です。二番目の説話は、仏教の修行は、僧侶という分業世界および他の分業世界での名誉、利益、利権を求めることを強く禁止していています。  
最初の説話と同類の話ですが、仏教では殺生が禁止されているために現世で食物を得る生産活動を行うことが出来ません。農業で耕作して虫を殺したものが懲罰される説話も述べられています。そのために、僧侶は生活を維持するために僧侶以外の人の布施に頼る以外に方法はありません。それは、僧侶が他の分業世界の人に寄生することを意味します。日本列島では、生産的な活動を不浄な行為であるみなす考えは少なかったと思いますので、僧侶の寄生行為は他の分業世界の人びとに批判を引き起こしますし、僧侶にも負い目の意識を引き起こしたと推測できます。そのこともあり、僧侶以外の人びとからの僧侶への批判の説話がよくでています。この問題は、単に僧侶の堕落とか退廃とかで解決つく問題ではありません。死ぬことも生きることにも明確な回答を出さない仏教仮説にもとづく僧侶が日本列島社会で生きる時に不可避にぶつかる重大問題です。僧侶の生活の維持のために、僧侶社会と他の分業世界との軋轢と相互補完の説話も多くあります。僧侶以外の人びとは経済的に豊かとなると、現在でもそうですが社会的・文化的アクセサリーを求めるようになります。無住の時代には、仏事を盛大に催すために僧をまねき説法をさせたようです。そのときには、布施をくれる施主にこびる説法をする危険が絶えずあったと思います。漁師に招かれた僧侶が「みなさんが湖で漁をなさるのは、すばらしい功徳なのです。その理由を申しますと、この湖は比叡山の本尊である薬師如来の眼なのです。湖の魚をとるのは、仏の御眼の塵をとることですから、たいへんな功徳になるでしょう」(六の五)と述べた説話が乗っています。また、布施を受け取る僧侶はその専門家をしての知識や技量に鋭い批判の目が注がれたこともあったと思います。文字が読めず、「大般若経」の一部を勝手に「法華経」や「仁王経」にしてしまう僧侶や経を逆さまにして呼んだりする僧侶の説話もあります。  
しかし、僧侶にとっては非常に激しい困難な課題は、最初に引用した説話の二番目のものです。大乗仏典によく見られる強烈な精神の否定・前進運動を個々の僧侶に求めているからです。ここに、石川淳が永井荷風の死に関して書いた「敗荷落日」という悲痛な弾劾の文書があります。「晩年の荷風はなにを守ったか、なにを守るつもりであったか、目に見えない。いや、目に見えるかぎりでは意味が無い。ひとはこれを奇人という。しかし、この謂うところの奇人が晩年に書いた断片には、何の奇なるものも見ない。ただ愚かなるものを見るのみである。怠惰な小市民がそこに居すわって、うごくけはいが無い。まだ八十歳にもみたぬ若さにしては、早老であった。怠惰な文学というものがあるだろうか。当人の身柄よりも早く、なげくべし、荷風文学は死滅したようである。また、うごかぬ精神というものがあるだろうか。当人の死体よりもさきに、あわれむべし、精神は硬直したようである。・・・むかし、荷風散人が妾宅に配置した孤独はまさにそこから運動をおこすべき性質のものであった。これを芸術家の孤独という。はるかに年をへて、とうに運動がおわったあとに、市川の僑居にのこった老人のひとりぐらしには、芸術的な意味はなにも無い。・・・今日なおわたしの目中にあるのは、かつての妾宅、日和下駄、下谷叢話、葛飾土産なんぞに於ける荷風散人の運動である。日はすでに落ちた。もはや太陽のエネルギーと縁が切れたところの、一箇の怠惰な老人の末路のごときは、わたしは一灯をささげるゆかりも無い。」  
この文章の芸術家を宗教家という言葉に置き換えると、すくなくとも日本列島では永く僧侶の中に大乗仏教が体現していた熱情的な否定・前進運動の体現者を求めていたのだと思います。この熱情的な否定・前進運動をつづけることの出来るひとは一部の人でしょう。この理想と現実の僧侶が対比されて、僧侶は批判されます。白穏の悟り後の修行とは、勿論、この熱情的な否定・前進運動をさしていることは言うまでもないでしょう。しかし、実際問題として石川淳が永井荷風を批判しているように、絶えず精神運動を前へ進めてゆくことは大変なことだと思います。そのために、日本列島では、分業界の専門家には一定程度のところで地位と役割を与え、もっぱら後進の指導と組織維持にあたることを許容するそれぞれの分業界の円熟の作法(円熟の政治学)が作られてきたのではないかと思います。  
仏教の専門家である僧侶が他の分業世界の活動に無知である態度も批判に曝され物笑いの種になっています。「常陸国の東城寺に・・・三井寺で学んだ学僧がいた。仏の教えを学ぶことに専念し、顕密の勤行を怠りなくつとめた人で、俗世間のことには、まったく無頓着であった。田舎の常のことで、田に入れるために、小法師が肥料の糞を荷に馬につけて運んで行くのを見て、「何のため肥を田に入れるのか。やい、私が豊作祈願のために「仁王経」を誦んでいるのだぞ。「仁王経」が馬の糞に劣るとでも言うのか」と言ったのであった」(五本・八)と皮肉っぽい説話があります。また、家の屋根は茅葺きなので表面はささくれだっているが、「毛焼き」するために家の火事をだし、人びとが火事に集まると暖をとりなさい言った話や、自分と他人の所有の馬の区別がつかず放牧されて誰の馬でもつれてくる僧侶の話、馬のおすとめすが区別つかず三年間飼っていた雄馬を牡馬と思っていて教えてもらっても訂正しない僧侶、片方の眼が障害されていたが馬喰が片側の顔しか見せず馬喰のトリックに騙されて病気の馬を買わされた僧侶の話など、僧侶の分業外生活への無知を冷やかしたり嘲笑する説話もたくさん載っています。私は、仏教の専門家である僧侶が他.の分業世界について無知であることへの批判はほとんど重大な意味を持たないと思います。単なる暇つぶしの世間話と判断します。しかし、仏教という分業世界の専門知識をその適応範囲をこえたところに使用すると、僧侶は愚行を犯すことになります。同じことは、脳科学、精神医学、心理学などの分業世界の専門知識についても言えます。「小法師が肥料の糞を荷に馬につけて運んで行くのを見て、「何のため肥を田に入れるのか。やい、私が豊作祈願のために「仁王経」を誦んでいるのだぞ。「仁王経」が馬の糞に劣るとでも言うのか」と言ったのであった」という話が紹介されていますが、耳の痛い話です。  
これと関連して、妻帯の問題も大きな問題です。なぜなら、他者と共生することを考える場合には、性的事柄は人間関係の原基とも言える問題だからです。性的な関係を仲立ちにして別の個体と持続的な共生関係を作るという関係行為は、性的な関係を生殖関係やエロス的な享楽に還元できない次元を示しています。仏教では自殺を否定するために、修行の中で否定・前進運動のエネルギーが枯渇した場合、しかも分業世界で「円熟の政治学」を行使する地位をえられない場合、僧侶が生存のために同居人を求めることは極めて自然なことです。無住は次の説話を批判意識ぬきにおもしろおかしく書いています。つまり、無住の生きていた鎌倉時代ではすでに(それ以前から)僧侶の妻帯については実際には寛容であったようです。私は、白穏たち江戸時代の僧侶も自分を律する態度はついてはそれぞれ個人によって異なりますが、他の僧侶の性問題の対処については寛容な態度をもって出家生活を維持していた、と想像しています。白穏の大垣の和尚にたいする接し方はそのひとつの例です。  
「信州のある山寺に上人がいた。三人の腹で三人の子があった。最初の女人の子は、忍びに忍んで通ったので、上人の子だと言って連れて来たけれども、不審に思い、その子の名前を「思いもよらず」と付けた。次の女の子は、時々自分の僧坊へも女が忍んで通って共に暮らしたので、それほど疑いの心もなく、その子の名前を、「さもあらん」と付けた。最後の妻はひたすら家に置いて共に暮らし、全く疑いの心もなかったので、名前を、「子細なし」と付けた。ある人会って、自分から進んで、「三人の子持ちですが、しかじかと名付けました。これは「子細なし」の母親です」と言って、妻も出て来て挨拶した。「思いもよらず」も、少し成長して大人びた子であった・・・・。」  
このような、温かみのあるユーモアのある話とは別に、妻帯の問題は老後の生活の問題でもあります。  
「ある山寺の法師が、誘惑に負けて、ある女人と契りを結び、お互いの愛情も深いままに共に暮らしていた。その内に、この僧が長く病気で寝込んだところ、妻は手厚く看病したので、この僧はほっとして、「弟子などがこのように看病してくれることは希だ。よくぞ女人と契りを結んで、臨終も安心なことよ」と思った。日数も経ち気力も衰えたので、元来道心のある僧で、念仏などもしていたものだから、これで最後と思い、端座合掌して西に向かって念仏を唱えた。それをこの妻は、「私を捨ててどこへ行かれるのですか。ああ悲しい」といって、僧の頸に抱きついて引き倒した。「ああ情けない。心静かに臨終させてくれ」と言って、起き上がって念仏すると、妻はまた何度も何度も引き倒した。僧は声を張り上げて念仏を唱えはしたが、妻に引き倒されて、組み掴まれてこと切れた。臨終の作法としてはまことにぶざまに見えた。魔障の仕業であろう。」(第四の四)この他に、僧侶が中風に患った時には弟子や門徒は面倒を見てくれないという話や、老僧は世話を見てもらうために若い尼と生活しますが、その尼は世話をしないところか若い修行僧を通わせ老僧の頸をしめて殺そうとした話などが載っています。
これらの説話は、体が頑強で激しい修行に耐える精神力がある時期を過ぎた後に、僧侶がどう生活してゆけばよいのかという問いをつきつけています。さらに、生き延びるために女性をどのように利用するかという話は論外ですが、他者と共生関係を持った場合に「執着を絶て」というだけではかえって罪作りの行為を進めることになりかねません。仏教の「四諦」・「八正道」仮説にもとづいて生きることと性的パートナーを含めて他者と充実した生活をすることの間には解決つかない矛盾が必ず生まれます。なぜなら、「現世は稲妻や朝露のようにはかない。現世の一生はどんなに長くとも、夢のように過ぎ去るだろう。永劫にわたる苦患の因縁を作ってはならない。」(六の八)という現世に愛情をもつ対象を拒否することが仏教の「四諦」・「八正道」仮説を成立させる前提になっているからです。仏教の「四諦」・「八正道」仮説の側からみると、もう一度引用しますと、必ず「「私を捨ててどこへ行かれるのですか。ああ悲しい」といって、僧の頸に抱きついて引き倒した。「ああ情けない。心静かに臨終させてくれ」と言って、起き上がって念仏すると、妻はまた何度も何度も引き倒した。僧は声を張り上げて念仏を唱えはしたが、妻に引き倒されて、組み掴まれてこと切れた。臨終の作法としてはまことにぶざまに見えた。魔障の仕業であろう。」という問題が起きるのです。この問題は仏教の「四諦」・「八正道」仮説を考える場合には避けて通ることはできません。「男」は仕事だけをして「亭主顔」でいばっていられる特権はもはや与えられていません。この問題は仏教の「四諦」・「八正道」仮説にとっては決定的に重要な事柄です。私は、仏教も「善悪←→快不快の原則」の向こうへ抜けようとする試みを行っている思想運動であると勝手に考えています。仏教の「四諦」・「八正道」仮説を取り外すと「善悪←→快不快の原則」の向こうへ抜けようとする試みはどうなるかについて後に別項で主題的に考えてみます。  
無住はさすがだと思いますが、僧侶の分業世界に生活するものとして、上からではなく対等な立場の視点からほかの分業世界の人との関係を次の説話で述べています。「ある山寺法師が、在家の俗人と湯屋で出会い、さまざまな世間話をしていたときに、俗人の一人が「法師ほど欲深いものはいない。能力も才覚もなく、戒行も知恵もないのに、布施を欲しがり、供養の金品を望む。恥じる心もなく、ものを欲しがるだけだ。われわれは俗人だが、あんなに欲深いことをしたとは思わない。」と言った。すると、一人の僧が、「本当に法師の欲の深さはそのとおりで、法師には道心もない。しかし、そうは言っても身体を捨ててしまうわけにはゆかないので、供養料や供養米にたより、布施にたよらなければならないのです。そうでなければどうして生きてゆくことができるでしょうか。所領もなく、田畠ももたない身ですが、盗みもするわけにはゆきません、布施をうけとらなかったら、どうして命をつなぐことができるでしょうか。  
ただし、欲の深さでは、俗人のほうが勝っておられる。武士は、命をすてるべきものと知りながら、国や郡を支配している。言ってみれば、命と引きかえにしてまでものが欲しいために、領地を支配するということではないでしょうか。そうして、一生涯の身を養い、妻子を育み、主君の恩を厚くうけながら、臆病な俗人は、戦場で命を捨てずに、逃げ隠れするのは、一生涯にわたって盗みをつづけていると言えるのではないでしょうか。それゆえ、命を捨てるというのはきわめて欲が深いのであり、逃げ隠れするのは大きな盗みにほかならない。これほどの貪欲な盗人は、法師のなかには多くはないでしょう」と言ったので、俗人は返すことばがなくなってしまった。」(十・十一)。このように、僧侶の分業世界にすむ人間と他の分業世界に住む人間は対等な視点で物をいいあえばよいと思います。私はこのような相互対等な視点から仏教を一分業世界として、ほかの分業世界に住む人間の視点から仏教を考えています。  
白穏も、臨死体験者の話しを引用しながら、僧侶や現世の天上界の近くに住んでいた人たちが地獄におちた生活を法語でよく描いています。桂山の老婆の娘の臨死体験の話を引用します。  
「去年の冬から重い病にかかって寝たきりでしたが、次第に弱り、とうとう事切れてしまいました。それでも、まだ胸のあたりがちょっと暖かいので、すぐには野辺送りせず、十日ばかり置いたままにしておきましたところ、ある夜、ふっと息を吹き返したのです。そして、泣きながら、次のような物語をしたのです。  
この度、私はこの世のものとは思えぬ怪しき者どもに引き立てられて、谷のように薄暗いところを十里ばかり歩いて行きました。我慢できないほど苦しい目をして、地獄という所をあちこちへと巡って来たのです。あたりは真暗で月日の光もなく、ただ無間・焼熱の炎が燃え上がり、そこからワアワアという悲鳴が聞こえて来ます。これは罪人どもが責めを受けて泣き叫ぶ声です。ご身分の高い方々も乞食も、みな同じ所に入れられて、目も当てられぬ苦患を受けているのです。その中には、私の見知った人々も多くいました。お坊さんも、この中に混じり、責めさいなまれています。(「後世を助かろうとご修行なされたのに、どうしてこんなことになって、こんな苦患を受ける破目になったのでしょう」と、私がお尋ねしたところ、「それは一文不知で少しも見性の知徳がなく、それなのに、表だけはいかにも戒律をたもっている振りをし、高僧のように見せかけ、在家信心の人たちをたぶらかして、いろいろ供養を受けたからである。あるいはまた、不浄説法といって、他に勝ろうとし、我がために妄りに仏法を安売りし、若い修行者の悟門を防げたり、あるいは悪智悪覚といって断無の見をもって傲ったからである。破戒無慚の僧などは言うに及ばないであろう」と教えられたのです。)また別の所にはかすむばかりに広い野原があって、ここには餓鬼阿弥とかいうものだそうですが、人の形のようですが、燃え杭のように黒く、瘠せて干からびた者が幾人とみなくうずくまっていて、ヒイヒイ泣き叫んでおります。こんな所を通りすぎて、ずっと行きますと、十畳ほどもある鉄の城門にたどり着きました。見上げると、上には二丈もありそうな大きな額が打ちつけられて、何か字が書いてありましたが「閻羅大城」とあるのがと教えられました。その門を、獄卒たちがけたたましく罪人を引き立てて出入りしています。その城門の中を恐る恐る覗いて見ると、広い大庭におびただいい罪人どもが、びっしりうずくまって泣き叫んでいて、目も当てられないありさまでした。罪人たちは口々に言っています、「娑婆にいた時、こんなにも恐ろしき所があると少しも知らなかったのは、何とも悔しいことであることよ。法談などで地獄の話も聞いたが、そんなものは怪しげな坊主が、飯にありつき生計をたてるために、言い出したことに違いないと、謾り軽んじていたことが、何とも悔やまれることよ。いつになったら、こんな恐ろしい所から遁れ出ることができよう。ああ、あさましいありさまよ。」こう泣き悲しむ声は、肝にこたえて恐ろしいものでした。その他にも、叫喚、大叫喚、焼熱、大焼熱、黒縄、衆合とかいう地獄がありましたが、そのありさまは、とても言葉も及ばないほど恐ろしいものでした。また、森蔭のほの暗く気味の悪い所に、古くなって腐り破れて傾いたような牢獄があり、お侍のような人が七八人、すっかり瘠せ衰え、袴肩衣の破れたのを引っかけ、苦しそうにかがんで居て、人影を見ると物を乞う風情で、苧殻のように瘠せた腕を差し出して、ブルブルと震えてわなないていました。これは八十年ばかり前の、伊豆のある役所のお侍だということです。そのまわりの木蔭に立ち並んだ牢獄は、古いものも新しいものも、数限りなくありましたが、中には、立派な虎鬚をはやして威厳のある顔つきをした人が、かがみ込んだりしています。これは、中国や日本で、情容赦もなく非道に民百姓を貪り苦しめた君主や大臣だということでした。それ以外にも、いろいろ恐ろしい所があり、いま思い出しても身の毛が立って恐ろしくてなりません。・・・  
今ごろでは、こういう話を聞くと、得てして虚説、妄談であると思う人が多いのである。中には手を拍って大笑して「人間というものは、陰陽二気が本来もっている能力が合して生まれるのである。だから死ねば、ちょうど灯火が消え失せるようなもので、消えたら何もなくなるのだ。天堂や地獄などがあるわけない」などと言う物もいる。こういうのを断見の外道の考えと言うのであるが、恐るべき悪意見である」  
この臨死体験の話しは、白穏が生前、現世、死後という時間の中で六道輪廻を理解する考えを是認していることを示しています。時間的な因果報酬を非常に重視する考えです。白穏は、この臨死体験の内容を信じていたふしがあります。この地獄めぐりでは、僧侶のほかに封建時代の政治的支配層に属しているひとで、「仁・義・礼・智・信」や「修身・斉家・治国・平天下」などの儒教論理から外れたひとが地獄に落ちています。  
無住と白穏の僧侶の地獄落ちの話には内容にちがいもみられます。無住の「沙石集」では「信心の欠如」が地獄落ちの理由にされることが多いのですが、白穏の場合には、「菩提心がなかったために、このような魔道に堕ちてしまったのだ」とされていることが多いことです。  
「解脱上人は、・・・その夜は一晩中、灯をかかげて読書をされた。やがて夜も更けて人の寝静まった頃、外がいやに騒がしいので、そっと窓紙に穴をあけて覗いてみた。すると、恐ろしい姿をした悪鬼どもがおびただしく集まり、咬みあいつかみあい、さながら修羅場のようである。・・・一人の老僧、「・・・彼等はみな・・智者高僧なのだが、菩提心がなかったために、このような魔道に堕ちてしまったのだ。」」(壁生草)  
「もし双方とも承知せず、自分勝手に言い、あっちこっちと別れて法要をするなら、いくら立派な追善供養であっても、皆さんの瞋恚の炎や、人我の剣樹刀山に隔てられて、故人には一滴の水も届きません。それどころかかえって、この上ない罪障となり、菩提の防げとなることは明らかです。昔の書物や諸方の言い伝えなどを考えあわせますに、故人のためには夥しい苦患になることです。ですから経にも「一念の瞋の火は、倶胝恒沙の万善の功徳を焼き尽くす」と説かれているのです。」「昔、比叡山のさる高僧が夢をみた話しがあります。どこであるか、立派な高殿に珠玉で飾った経机がぎっしり並べられ、机ごとに法華経が積み重ねられている。ところが、その経の中から火が出て、空高く燃え上がりました。上人は怪んで「いったいどうしたわけでこんなに燃え上がるのか」と尋ねられると、そばなる老僧が言われるに、「これは、四十年前、ここにかかる貴き経巻があらわれて、人々が悦んで伏し拝んだところ、不思議なことに、にわかに経巻から火が出て、お経の積んであるほど火もまた増えたというのです。上人は御存じないか、ここに積まれた経は、そなたが四十年間読み続けて来たお経の数だ。何といっても恐ろしいのは瞋恚の炎です。今日からは常不軽の大願を起こして、どんな逆縁に逢ってもプッツリと思ひ静めて、瞋りの心を起こされぬことです。さもなくば、経をよむことも、すっきりとおやめなさい。あれを御覧なさい、上人が日ごろ読み積まれたお経が、あんなに燃え上がって、消ゆる間もなく、絶えぬ炎となっていましょう。読み積むほど、この炎がまた燃え増さるのです。お経に限らず、瞋の火はすべての善根の功徳を焼き尽くしてしまいましょう」と。そこで夢からさめたということです。」「私の寺に出入りする人々の中に、亡き父母のため夫のために、一里ほど離れた浜辺から平らな小石を拾い集め、背負って来て、石経といって一字一石の法華経を書き写し、経塚をつくり僧をよんで供養した婦人が二人あります。昔は父母の後世を供養するために、自分の身を売った人さえあるということです。」  
身をうること、これはおそらく布施の強調でしょう。(依田家三代目の十七回忌にあたり親類に不和を諌めた手紙、八重葎)  
無住と白穏が描く僧侶の分業世界を含む現世の六道輪廻世界をみてきました。後に検討するように無住の鎌倉時代と白隠の生きた江戸時代の生活世界の内実は相当に変化していますが、ここではうんと抽象化して彼らは現実の生活世界を六道輪廻の反復する社会と把握したと考えられます。白隠は「荊叢毒蘂」のなかで、「黒火についての論説」を書いています「隣の宿場に失火があった。自分は二人の僧と、老僕と子供の下男とをやった。帰って来て大いになげいていうには「ああ恐ろしく悪むべきものは火である。八百戸の人家が立ちどころに焼け野原となった。本当に悪むべきである。そうであるが大いに愛すべきものもあります」と。自分がいった。「お前さんがいう大いに愛すべきものとは一体何か」と。下男がいうには「よくよく考えてみると、火事がもし真っ暗闇の中の黒い火であって、あのように迅速に燃えうつれば、たいへんな人と物との損害があるだろう。自分とても生きて帰ることができようか。幸いに光り輝いて豆や麦のように小さな火も暗い中で光輝を発すること夜空の星のようであった。火事にもまことに心があるのか」と。自分がひそかに思うには、ああこの子供の下男のいうこと、よくよく考えねばならぬ。生死無常の黒火その迅速なること風の如く、昼夜に賊を焼きつくし、一時も休むことはない。老幼尊卑も、出家者も在家者も、賢者も愚者も、一人としてこの火災にかからない者はいない。しかし火より救ってくれと叫ぶ者もいない。そのうえ、因果応報の道理は、目前にはっきり現れ、小罪といっても、それは星の光りが輝いているようだ。何と畏ろしいことか。世間の多くの人は、明もまた畏れず、黒暗もなお避けなければ、まもなくすべて焦土と成ろう。本当にかなしまねばならぬ。自分はそこで大声で叫んでいうと、子供の下男と老僕が頭をあげた。自分はいった。「生きて帰れたといってはならぬ。自分がお前たちを見るに燃え残りの木のようだ。」と。下男茫然としていた。自分は大声で叱った。下男はまた茫然としていた。」。この、文章にみられるのは、「老幼尊卑も、出家者も在家者も、賢者も愚者も、一人としてこの火災にかからない者はいない。」と、この世にあるものは、すべて例外なく六道輪廻に中に生きている、「因果応報の道理」、「生死無常の黒火」から自分だけが無縁に生きているという例外を設けるような考えをすっぱり捨てるべきであるという極めて緊張して張り詰めた態度です。この「生死無常の黒火」のなかでは、「神々」に現世利益を願い媚びへつらっても、幻想に幻想を積み重ねて夢想や身体症状の世界に逃避もしくは薬物によって桃源郷へ逃れようとしても、「生死無常の黒火」、避けられないものは避けることが出来ないという洞察がまず前提にあります。この場合、白穏がいう「因果応報の道理」、「生死無常の黒火」は、スピノザが泣くな、わめくな、さわぐな、ひたすら理解せよとのべた神=自然の因果の必然性とほぼ同一のものをさしているように思えます。そして、白穏は「座して死をまつな」、その中で「工夫せよ!」と言っているようです。
大火や猛火を比喩にした中国の禅僧の逸話はいくつか有名な禅語録に記載されています。白隠の言わんとすることを追体験するために冗漫ですが見てみましょう。「碧巌録」第二十九則「大随の終末の猛火」にこうあります。  
「僧が大随に問う、「終末の猛火がゴウゴウと燃えさかり、大千世界がみな壊れるとき[これ]も壊れますか」(「これ」とは何か。天下の禅僧たちはこの一句を探りきれない。あらかじめ掻いておいて、かゆみに備えている)  
大随「壊れる」。(穴なしのハンマーに顔をぶつけ、鼻をつぶした。口を開く前に見破ったぞ)  
僧「そうであれば、それについて行きます」。(けたはずれの大人物も言葉にふりまわされてしまう。やはり誤解している)  
大随「ついて行け」。(前の矢はまだ浅かったが、後の矢は深く達した。多くの者はただ「これ」を探りきれずにいる。水を増せば舟は高く、泥が多ければ仏像は大きくなる。「ついて行け」と言うならば、どこにあるのか。「ついて行くな」と言うならば、どうするか。そこで[圜悟が]打つ)  
・・・・・  
大随山の法身和尚は、大安禅師の教えを継いだ。・・・かってイザンの下で火起こし番をしていた。ある日イザンが問うた、「あなたはここに数年いるが、問いを発してどうなるかやってみることができない」。大随「わたしにどんな問いをしろというのですか」。イザン「あなたがわからないのであれば、仏とは何であるか、と問いなさい」。大随は手でイザンの口をおさえた。イザン「君はこれから地を掃く人を求めるかね」。その後四川に帰り、堋口山の道すがら、茶をいれて往来の人を三年間もてなして、やっと住職となり、道場を開いて大随山に住した。」  
・・・・・  
ある僧が問う、「終末の猛火がゴウゴウと燃えさかり、大千世界がみな壊れるとき、[これ]も壊れますか」。この僧は経説によって問うたのである。経説にこうある、「成・住・壊・空の劫に三災劫が起こり、三禅天まで壊れる」。・・さて、「これ」とは何だろうか。多くの人は分別にとらわれた理解をして「[これ]とは衆生の本性だ」という。  
・・・・・  
後にある僧が修山主に問うた、「終末の猛火がゴウゴウと燃えさかり、大千世界がみな壊れるとき、[これ]も壊れますか」。修山主「壊れない」。僧「なぜ壊れないのですか」。修山主「大千世界と同じだからだ」。「壊れる」と言うのも行き詰まらせるし、「壊れない」と言うのも人を行き詰まらせる。  
・・・・・  
この僧が問うのは「壊れる」と「壊れない」ということを考えていたのか「二重の関所」ということである。分かった者であれば「壊れる」と言っても超脱したところがあるし、「壊れない」と言っても超脱したところがある。」この文章は、「壊れる」といっても「壊れない」といっても良いしまた悪いという二律背反的な論理で読者を二重に拘束する典型的な公案の文章であるために理解しにくい文章です。この二重拘束の状態から拘束された僧侶が脱出するのを援助するという無門の公案に基づく見性の原理は、白隠の見性の方法の核心でもあると考えますのでこれも次回に別項でゆっくり検討します。ここでは、この見性の原理をとばして考えますと、体験、知識などを取っ払ったところで、生きていることを体得することが大事なのだと言っていると思います。仏性や宇宙があるなしという問いの前にまず存在していることを肯定的に体得することです。しかも、それと同時に、個人の感情、意志をこえた自然・宇宙の法則が厳として存在していることを体得することへも導こうとしています。その中で工夫しろ、「生きてかえれたとは言ってはならぬ」という白穏の心構えと共通しているようにみえます。これらの逸話は、生きることの運命と個人の生き方=修行への心構えを問いなおすという話です。この宇宙は壊れるか、壊れないかは私達の力を超えた運命といっていいものでしょう。その時に、個人の生きる地平が壊れるか、壊れないかはいずれにせよ引き受けるしかありません。個人の地平といってもいまだ現れないものですから「これ」といってもいいのですが。ここで、大随はイザンによって問い(課題)が、即ち大随の固有の地平の入り口が与えられたことです。ここに公案体系の最大の問題があります。公案体系には全ての個人の地平を創出できるほどに開かれているのかという問題は問いつめられねばなりませんが、ここでは少なくとも大随はイザンによって、何の模範がないところで個人の地平を開く路が暗示されたことが大事です。禅語録では、弟子は師を超えてこそ師と対等になれるといいます。  
白穏の六道輪廻を生きる思想は、伝統的な輪廻転生の考えの影響を色濃くもっています。因果応酬について考える場合に、異なる幾つかの問題が混同されてあります。一番目は、前世の罪、という確かめようのない罪の問題です。現世の病気や社会・経済的破綻による不幸(不快体験)の原因を前世の罪(業)のせいにして、現世の不快体験を罪に対する罰と解釈します。現在的には、この考え方は関係妄想であると言えばすむことです。二番目は、現在生きている人が過去の罪に悩んでいる場合です。過去に犯した他者もしくは生命ある存在にたいする毀損が罪と解釈され、それが罰として現在の不幸もしくは将来の不幸を引き起こすのではないかという不安を生み出します。三番目は、社会の中で生きており、現実に他者を毀損し、また絶えず毀損の可能性のある生活を送っているというのが現実の生活です。この不可避の罪が不可避の罰をもたらすという考えです。わたしは、先に白穏の因果の考え方のなかには、伝統的な因果応酬の考え方にとらわれながらも、白穏の固有の考えと思える線にそって考えると、すなわち可能性として考えると、自然に関する自然科学の因果律とは異なりますが、スピノザが述べようとした意味で、私たちの知覚・感情を超えた次元で必然性の動きがあるという想定に近い「因果」の考えを、白穏は持っていたのだと思います。その、必然性の世界で「善悪←→快不快」原理をこえた工夫を提案したのだと思います。ただ、因果の必然性の認識や因果の必然性を主体的・能動的に生き、「善悪←→快不快」原理をこえようとする発想には、なるようにしかならないという諦観に陥ったり、何をしても許されるという一種の居直りになってしまう可能性があります。前者の例は鎌倉時代の「とはずがたり」です。作者の二条は、後深草院の愛人となりますが、同時に「雪の曙」「有明の月」「近衛大殿」「亀山院」らとの同時進行的な情愛関係と出産がくりされます。後深草院との間にできた子が死んだの場面を、後に、「去年出で来給ひし御方、人知れず降顕(叔父)の営みぐさにておはせしが、この程御悩みと聞くも、身の過ちの行く末はかばかしからじと思ひもあへず、神無月の初めの八日にや、時雨の雨の雨そそき、露と共に消え果て給ひぬと聞けば、かねて思ひまうけにし事なれども、あへなくあさましき心の内、おろかならんや。前後相違の別れ、愛別離苦の悲しみ、ただ身一つにとどまる。・・・帰る朝は名残を慕ひて又寝の床に涙を流し、待つ宵には更に行く鐘に音を添えて、待ちつけて後はまた世にや聞えんと苦しみ・・・。人間のならひ、苦しくてのみ明け暮れる。一日一夜に八億四千とかやの悲しみも、ただわれ一人に思ひ続くれば・・・。」と回想します。二条の14歳という年齢、男の側からの略奪・強奪に近い情愛関係が通常の出来事であった時代的環境から考えると流れに身を任せるしかない対処方法も理解できないでもありません。しかし、快と不快に揺れ動き、罪悪感に感傷的となる文章には辟易します。このような快と不快の流れに身を任せる生き方が、仏教の前世の因縁による必然性という考えと結びついています。登場人物を弁護するために追記しますと、中村真一郎は「色好みの構造」の中で、後深草院はすぐれた政治的見識をもった人物でかつ二条の経済的面倒を生涯みた「精神的な愛情」にもめざめた人であると評価しています。二条ものちに「修行の心ざしも、西行が修行の式、羨しくおぼえてこそ思ひ立ちしかば、その思ひを空しくなさじばかりに」と、この物語を書き綴ったひとです。そうであっても、白穏の六道輪廻の世界への主体的・能動的な対処の仕方ときわめて対照的といえます。  
禅語録の伝統の中には、ダルマの毒殺、二祖の恵可の虐殺は、彼らの前世の因縁を引き受けた結果と想定されているように、生きていること、自分の行為(選択が極めて限られた状況での行為についても)の責任をはっきりさせるという考えが流れています。そのために、「善悪←→快不快」の原理をこえた場合にも何をしても許されるという考えは出てこないように作られています。罪(生きているものに害を与えて毀損する)犯してもよいという居直の考えは制止されています。しかし、禅の近傍から、宮本武蔵の「五輪の書」(テロルの極意書)や、満州事変から第二次世界大戦の時代に「善悪←→快不快」原理を超えた次元から殺人・他者毀損を積極的に肯定する思想が生まれたことは隠しようもないことです。それは、「善悪←→快不快」原理のなかには、他者との共存・共生する知恵・道徳・倫理も含まれていますが、「善悪←→快不快」原理を超えた次元で他者との共存・共生原理への配慮が「積極的」に「倫理的仮装」のもとに無視されたからだと考えます。このような一見すると主体的・能動的にみえる「倫理的仮装」が発生するメカニズムがありますので、「善悪←→快不快」原理の迷妄を打破する試みをこの現世でつまり「善悪←→快不快」の原理が貫徹している世界で行なうという試みがもつ問題を充分に考えておく必要があります。  
「善悪←→快不快の原理」を超えようとする宗教的実践が「善悪←→快不快の原理」が貫徹する世界=社会がなされたばあいに生まれる欠陥思考を考えておきます。ひとつは、「善悪←→快不快」の原理は迷妄なのだから、罪を犯すこと(生きているものに害を与えて毀損する)を行ってもよいという考えです。罪をおかすことは人間に反省の契機を増大させるのであるから、罪をおかすことに宗教的な意義があるとする、倒錯した考えは代表的なものでしょう。類似したものには、武士のなかにみられた「善悪←→快不快の原理」の社会で生きる工夫をして罪を犯す(生きているものに害を与えて毀損する)決断を積極的に支持する考えです。これには、臨済の中にある独立して決断する自由を得るという思想が便宜的に利用されることもあります。べつのひとつは、修行して、「善悪←→快不快の原理」を超える試みをこの世界でするという宗教的実践の構造を次のような啓蒙家の実践構造に置き換える考えです。禅には、一度、見性に達して、その後に、悟りの後の修行と他の人が悟りに向かうのを手助けするという考えがあります。しかし、「悟りの後の修行」は一生の修行プログラムですので「禅僧侶世界」という専門家集団の分業世界の確立が原理的に根拠づけられています。そのために、禅僧侶世界に、個人が「善悪←→快不快の原理」を超える試みを行うという肝心のことを忘却したところで、他の人が迷妄を打破するのを様々な工夫を講じて援助することを専門家職と満足するという啓蒙家を輩出する危険があります。
隠遁・出家について 
現世の生活世界を六道輪廻の転生世界と把握した場合、そこからどう離脱するかが課題となります。仏教では、それを現世世界への執着を断った出家生活に求めます。しかし、日本列島では、仏教が最初から国家宗教として輸入されたこともありますが、出家生活が時間とともに無住や白穏で引用した文章が示す多くの問題がでてきました。そこで、出家とは別に、現世生活世界から完全に離脱する遁世ということが問題になります。 
遁世生活についても佐藤正央は「隠遁の思想」で要をえた記述を西行に即して述べています。隠遁は世俗世界を離脱することである、と定義します。世俗世界とは、日本列島の支配層から見ると古代と中世においては「律令体制内世界」を意味しています。遁世する場所は、律令体制内世界の周辺の辺境世界です。隠遁して辺境世界で観念的に「原郷世界」が予感されるとされます。「原郷世界」とは、「古代や中世のひとびとにとって、自己のすべての全きのかたちにおける欲望が、或る長さの経過内においてではなく、眼前において即時に、しかも少しの間然するところがなく十全に充たされる世界である。自己の本来の在りようを十全なかたちで、現実のありようとしてもつことができる世界である。原郷世界はひとびとが本来そこに在るべきはずの世界である。その意味において原郷世界は彼方にありはするが、ひとびとにとっての本来の家郷、つまり原郷である。ひとびとは原郷世界においてはじめて、自己が自己であることの本来の在りように到達することができる。原郷世界は、自己が今・此処にこうして現存していることに、確固たる拠りどころを与え、生の意味を与えるものである。」とのべます。この原郷世界へ一度亡命して、その後に解脱をめざしたようです。しかし、実際には、遁世は、現世の人間関係のしらがみから逃れる一つ方法でもあろました。「貧家はもともと貧しいから、必ずしも健康のためなど思わなくても、えられないのでいつも空腹ですごし、晩に食事をすることが少ない。・・・・貧家の人々は、体が疲れているが、多くは病気にかかっていない。ただ飢えが病なのである。」と無住が書いているような貧困な現世世界からの離脱するための遁世も多かったと思います。 
無住の時代でも、六道輪廻の転生する現世世界を離脱するといっても、容易なことではないようです。僧侶の分業世界、出身に関連する分業世界の利害や名誉の問題が絶えず出家しや僧侶に影響をあたえます。これは、単にその僧侶に現世的な利益をもたらすということばかりでなく、生きてきた恩に報いるという問題もからんでいるからです。現実とはこのようなものなのでしょう。そうでなければ、人間は簡単に悪事をなすものではありません。「沙石集」は次の説話を載せています。 
「故小納言入道信西の十三回忌に、その子や孫、名僧、上綱が寄り集まって、一族八講という大変立派な仏事があった。開白は聖覚法印、結願は明遍僧都と決めて、覚憲・澄憲・静憲らが使者を遣わして高野へこの旨を申された。「遁世の身でございますので、参上することはできません」と明遍僧都がお返事なさったのを、兄の上綱たちは全く理解できないと思い、「それでは遁世の身では親の孝養をしないのか。あれほどの智者、学生と言われる御房のお返事とは、かえすがえすも思われない」と、折り返し使者を遣わして申された。 
また、返事に申されることには、「この仰せ畏まって承りました。遁世の身でありますので親の孝養をしないと申しているのではございません。各々方の中に参上することを憚っているのでございます。その訳は、遁世と申すことをどのように心得ていらっしゃるのでしょうか。私が存じておりますところでは、遁世と申すのは世を捨て、世に捨てられて、人並みの者として数えられないことでございます。ですから、世に捨てられて世を捨てないのは、ただの非人であります。世を捨てたとしても世に捨てられないのでは、遁世したことにはなりません。ところが、各々方は南北二京の高僧、名人でいらっしゃいます。その中に参上いたしまして一座の講師をも務めましたならば、公家から招かれた時にどのように申し上げたらよろしいのでしょうか。このような山の中に引き蘢っている本意に適いません。ただし、孝養をしないと申しているわけではございませんので、代わりの者を参られましょう」と、恵知房をつかわして代理を務めさせられた。」(第十の五)。このように、遁世を貫くことも大変であったようです。この明遍の言うように「遁世と申すのは世を捨て、世に捨てられて、人並みの者として数えられない」ところ、この逸話が如実に示しているように、現世世界の「善悪←→快不快の原則」を超える次元をめざす志向がなければなりません。無住の時代にも、ある僧侶が隠遁するとその僧侶に結縁してご利益が得られるという考えがあり、かえって人々が隠遁しようとする僧侶の周辺にむらがり、僧侶への布施も集まったようです。すなわち、僧侶以外の人びとは、さまざまな現世の原則から優れた僧侶を駄目にするためにいろいろ策略を練るという結果となります。 
「沙石集」には、人びとの篭絡を逃れる策を練って隠遁を達成しょうとした僧侶の説話も載せています。ある家に、ある僧侶が食べ物を求めてきます。その僧侶は、「自分は意志が弱く性的欲望に負けてある女性を誘惑してしまった。その恥をしのぶために山に隠れています。」と言います。その家の主人は、その僧侶を遁世者とにらみ家人に密かにあとを追跡させます。その僧侶は、山の中の庵で、こんなうそをつきながら遁世生活を続けているつらさを独り言で嘆きます。それを家人は主人に報告します。主人はやはりそうであったかと隠遁者の庵のそばに食べ物を置きます。そうすると、その僧侶の姿はどこともなく消えます。この説話は、遁世生活は、人びとの「親切さ」を頑なに拒否して維持されなければならなかったかを告げています。 
また、「沙石集」には遁世という浄化された方法でなく、地獄界に近いところから「善悪←→快不快の原則」を超える精神の運動の可能性を暗示する説話もあります。 
「南都に悪僧がいた。若い時から武勇を好み、一文字も読めなかったが、然るべき宿善を催したのであろうか、歳をとった後でつくづく思ったことは、「人の身には死ということがある。逃れられない道である。死んでからはまた、苦楽の報いを受ける。悪があれば悪道に入り、善業があれば善処に行く。このことは定められたことだ。自分の生涯の行業を考えてみると、悪事ばかりを好んで善根を営んでいないのに、既に高齢となり、冥途の旅が近付いている。何を頼みにして道の糧としようか。好んで習い学んだとしても、仏法の理を悟るのも難しい。どうすれば人身の思い出とし、浄土の業因とすることが出来るだろうか」と人知れず悩んでいる内に、「自分は強盗の仲間に入って人を助ける算段をし、密かに念仏を申して往生の素懐を遂げよう」と考え、京都へ上がって、「強盗の仲間になりたい」と言うと、名高い悪僧なので、「もちろんだ」と喜んで仲間に加えた。人の家へ押し入る時は、先に中に入って、「しばらく待て」と言い、人を逃がしたり物を隠させたりし、うわべは乱暴であるかのように振舞い、多くの人の命を助けた。そして獲物を分配する時には、「必要な時にはそのように申しあげよう。今はいらない」と言って物を取らなかった。そして、密かに念仏の功を積み、他の事はしなかった。 
こうして年月が経つ内に、ある時捕まえられ、検非違使のもとに預けられ禁獄されていたが、その預かり先の検非違使の夢に、金色の阿弥陀像を縛って柱に結び付けていると見えた。驚いて訝しく思っている内に、度々同じような夢を見たので、まずこの法師を解き許して、「あなたが強盗をするのはどうゆうわけか」と問うと、「御不審に思われることでしょうか。拙く不道の者でございまして、物の欲しさに強盗をしていたのでございます」と述べるので、「やはり正直に言われよ。思うところがあって問うのである。」と言ったけれども、ただ同じように度々答えていた。 
判官が申すには、「ただありのままをお答え下さい。このような夢を見たのです。御房を縛っているのに、仏を縛っているとばかり見えるのです。」と言ったので、この法師ははらはら泣いて、「もとは南都の悪僧でございましたが、近ごろ後世の事が恐ろしく思われ、「念仏を申そう」と思い立ちましたが、武勇の道に長けておりますままに、「同じ事なら、この道によって善根の因としよう」と思ったのでございます。京都の強盗が無意味に人を殺し、多くの物をかすめ取っていることを気の毒に思い、「人の命を助け、物を少しでも隠させよう」と思ってこのようなことをしているのでございますが、このことは誰にも相談しておりません。私の心の中だけで思っていたのですが、仏の御心にも適ったのでございましょうか」と申したので、判官も涙を流して随喜し、上役に申し上げて許してやった。」(第十の六)この話は、因果応酬の原理におおわれた話ではありますが、人は置かれたどのような境遇のなかであっても、「善悪←→快不快の原則」を脱して、それを超える運動へ向かえる契機があることを伝えています。さらに、世間から善行(慈善事業)と思われることを避けるべきことが象徴されています。しかも、いわゆる悪人正機説へ逸脱する歯止め・制止もあります。六道輪廻が重層的に重なり合っているこの人間の現世では、さまざまな位置から「善悪←→快不快の原則」を脱する試みが可能なのです。 
前回ふれましたが、白穏の弟子の快岩古徹と大休和尚は、修行中に大阪の養源寺のとまり、そこで白穏が書いた 
「清浄行者、涅槃に入らず」(「破戒の此丘、地獄に堕せず、清浄の行者、涅槃に入らず」)の偈頌と頌 
「閑蟻争い曳く蜻蜒の翼 新燕並び休む楊柳の枝 蚕婦、籃を携えて菜色多く 村童、笋を偸んで疎籬を過ぐ」 
(蟻は争ってトンボの羽を引き、春飛来したばかりのつばめは柳の枝で休んでいる。蚕を飼う女は顔色が悪くカゴをさげ、村のいたずら小僧は竹の子を盗んで垣根を逃げていく。)をみて、この文章の意味ができずに松蔭寺の白穏を訪ねます。この偈頌と頌がよく示していますが、白穏も強盗に一味に入った僧侶のように、六道輪廻の現世の片隅から「善・悪←→快・不快の原理」を超えようとしたのです。この世にとどまり、この世で悟りを開くとは、遁世して「原郷」にこもりそこから悟りへ向かうのとは全く異なる方法といえます。「仏国土の因縁、菩薩の威儀とは何か。それは四弘誓願」である、「この世界一切がそのまま浄土であり、すべての人々が仏である」(隻手音聲)という考え、つまり自分を含めて衆生の中に「仏心」という潜勢力を発現・開花させるのが、白穏の考えだったのだと思います。この行為のなかには、慈善事業がもつ自分を評価するうぬぼれが少しでも入ってはいけません。白穏の絵は戯画ですが「南無地蔵菩薩」(閻魔大王=地蔵菩薩)というのは本音だったのだと思います。前回解釈を保留しておいた、修行生活の彷徨から沼津の松蔭寺におちついてから見た次の夢は、この観点から解釈できないでしょうか。 
「ある夜夢に母が現れて紫衣を自分にくれた。持ち上げて見ると二つの袖がたいへん重いと感じた。この袖を探るとそれぞれ一つの古鏡が入っていた。直径五、六寸ばかりで、右手のは光り輝き、その光は心の中まで透徹し、自分の心も山河大地もすべて清冽に澄んで淵の底がないようであり、左手の鏡は全面に少しの光輝もいなく、その表面は新しい鍋がまだ火器に触れないもののようだ。すると突然に左の鏡の光輝が右の鏡よりも、百千億倍に輝くように感じた。これ以後、万物を見ること、自己の面を見るようになった。ここで初めて如来が目に仏性を見るということがわかった。」(遠羅天釜)つまり、現世世界から「原郷世界」での離脱をめざすと「すべて清冽に澄んで淵の底がないよう」な世界にいたりますが、別の方向、沼津の松蔭寺で「南無地蔵菩薩」(閻魔大王=地蔵菩薩)に帰依することでこの現実世界において仏心を探求することが「万物を見ること、自己の面を見るようになった。ここで初めて如来が目に仏性を見るということがわかった。」という直感をえたことをこの夢は示している可能性があります。 
さて、先を急ぎまず。先ほど、「八重葎巻之一高塚四娘孝記」をつかって、白穏の法語の基本構造として三段構造を検討しました。この三段構造を軸に、「八重葎巻之一高塚四娘孝記」で白穏の思想を検討してゆきます。白穏は、仏教を一部門としてほかの理論や思想と比較する目を、自分の考えや方法を他者の眼でみて茶化す視点も持っていました。 
「まったく世の中にはには苦々しいこともあるものだ。農工商それぞれの道を着実に勤めて、妻子を養い、ちゃんとした暮らしをたてているような人たちでも、無知愚鈍の僧にだまされて、熱心に念仏したり、あるいは六部だ巡礼だ、千ケ寺参りだ横道参りだなどと、一日中、裏小路までくまなく歩き回っては人家の門に立ち、夜は夜で、辻堂やお宮に野宿するなどの苦労をして、妻子をうち捨てて家を離れ、諸国をうろつき回っているのである。まったく苦々しいことだ。 
そればかりか、近ごろはもっと馬鹿々々しいことがある。家柄も血筋もよく、村でも人格者だとほめられ村長と崇められるような人たちが、稀に見る高僧だとか言う、したたかの大曲者にだまされて、接心だなどと古宮や空家に集まり、やれ隻手の声を聞かねばならんとか、やれ音声を止めよとか、印篭の中の富士山を見よ、家鵝の卵の内の茶臼を取り出して見せよ、三河の馬が草を食えば、相模の牛が腹一杯になるとはどうじゃ、などと、わけの分からぬことに苦労しているのだ。こんなことをしていったい何の役に立つか。まったくお笑いぐさである。
そもそも人たるもの、世にでたら君によく仕え、家にあってはよく親につかえねばならぬ。君臣父子、夫婦昆弟の道を守り、忠・孝・礼・義をつとめるのが人の道である。そして最後に死ねば、魂は虚空に帰り、魄は黄泉に帰るだけのことだ。三途もなければ、衆生が生死を繰り返す六道などというものもあるわけはない。異端の教えである仏教がいう天堂地獄など根も葉もない虚言だ。まったく苦々しいことである。」 
このような、儒教や国学的視点からの仏教批判に対して 
「このように言う者が、この頃多いのだが、こういうやからを断見邪道の罪人というのである。自分が誤るだけならまがしも、他人まで邪見の坑に落としているのだ。かかるやからは、必ず地獄に堕ちて無限の苦を受けるであろう。地獄などない、地獄が苦しいからと言って、娑婆に戻って来た者など、この世が始まって以来、一人もないし、娑婆が恋しいと言って手紙をよこした者もおらんではないか、などと言うことなかれ。次のような話もあるのである。」 
死後に地獄などないという意見についての白穏の批判は、上記のように強引です。私は、死後に霊的世界、地獄・天国、転生・輪廻する世界がないだろうと考えている者ですから、この強引な言い方には納得できません。しかし、もし現実世界の中に苦・地獄があると考えるのであれば納得できます。この現実世界の苦・地獄には、社会的・経済的な関係によるもの、苦・地獄へと逸脱する人間の傾向・性向によるもの、病・死・自然災害など人間の意志の外からくるものなどさまざまな要因が含まれます。儒教がいう「君臣父子、夫婦昆弟の道を守り、忠・孝・礼・義をつとめるのが人の道である。そして最後に死ねば、魂は虚空に帰り、魄は黄泉に帰るだけのことだ。」という考えでは現実の苦・地獄問題は解決つかず、むしろ問題があることを覆い隠してしまうことを批判すべきでしょう。白穏は、地獄の例をあげます。秦の荘襄王、白起の糞泥地獄、周の武帝の卵地獄、八幡太郎源義家の殺戮など。地獄は社会の身分に関係なくすべの人に訪れます。「いうなら奈落の底に沈みては、刹利も須陀もかわらざりけり」。苦・地獄墜ちの原因には、人間社会で避けられない生物学的欲求に基礎を置く欲望、生存のための他者との葛藤などがあり、死についても「魂は虚空に帰り、魄は黄泉に帰る」というわりきりではなかなか納得できません。人間が社会と家族を構成する秩序・規則を有用・効率的に作ればよい、という考えからみれば無用の行為であるとみなされ諸問題が、私たちの現実生活にはあります。仏教はそれらの問題を考えようとしています。また、白穏が地獄の中であっても利他行為をなした者や菩薩を称賛しているころに注目すべきでしょう。例えば、八幡太郎源義家(殺戮者)は観音大士によって奥州の衆生を利益して救ってほしいと願った、盗みの首謀者は他人に罪が及ぶのを防ぎ自分で責任をとった、地蔵菩薩が地獄に堕ちた人々を救おうと活躍している、などです。 
ただ、白穏が釈迦を孔子・孟子よりも優れているとあげている次のような考えについては、私はまったく受け入れることができません。孔子・孟子は生知安行(生まれながら道理に通じ、安んじてこれを行う)はもっていたが、「天眼通、宿明通という大智は具えていなかった。」、つまり釈迦をシャーマンにする考えです。釈迦は、「天眼通、宿明通という三明六通をすべて自然に具えておられ、三世古今、尽大千界、十方虚空、天堂地獄、仏界魔宮まですべてを、はっきりとお透しになられたのだ。」ちなみに、天眼とは遠近、苦楽などすべてをみとうす智慧で、宿明とは宿命「自己および他人の過去生の運命境遇、および未来生の果報をしることができる智慧」、三明六通とは「三明-宿命通、天眼通、漏尽明」「六通-天眼通、天耳通、他心通、宿命通、如意通、漏尽通」で、三世古今とは「過去、現在、未来」のことだそうです。テレビでもてはやされている「有名人」が持っているとうわさされている能力です・ 
しかし、そのようなシャーマン的な能力をもってしても、仏教では因果律を超えられないとされています。例えば、釈迦については次のような逸話があります。「釈迦が弟子を連れてよそに行った時に、路に鎗が落ちていた。その鎗葉、精舎に帰ってもついて来て釈迦の脚から足の甲まで貫いて、飛んで行った。それについて、「善因善果、悪因悪果というが、そなたたちも常に恐れ慎まねばならない。善因はどんなに少しでも無駄にはならないが、悪因はほんのわずかでも積むならば、その報いをのがれることはできない。あの鎗は、私の従兄の提婆達多がしかけたものだ。百劫の昔、私と提婆達多が漁師だった時に、私たちは互いに魚を争い、私が櫂で提婆達多の左脚を突き抜いたことがあった。今、私は無上の悟りを開き、三界の大導師と言われるようになったけれども、その報いはのがれることができないのである。」という。」 
この因果応酬の話は、刹那に点滅して推移するわたしたちの生の在り方に連続性を持ち込みます。刹那の点滅する断絶に、唯識説は遺漏という考えを置きます。唯識説によりますと、刹那に点滅して推移するわたしたちの生では、私たちの自我意識の向こう側に私たちの行為によってもたらされた結果が蓄積されてゆきます。しかし、これを強いて意識に内在化させて深層意識として限定する必要はないでしょう。私たちの内にも、外にも、私たちと他者との相互の関係にも、行為の結果は沈澱して行くと考えることができます。唯識説の因果応酬の考えは、行為の結果は沈澱され、行為主体の意識を超えたところで外から内からその自我に影響を与えることを示しています。だが、仏教では、自我に影響するすべての作用がその主体の行為の結果ではないことに注意する必要があります。例えば、釈迦族の滅亡は、過去の大きな魚を殺したために、その大魚の復讐によると考えるのは、自分に無関係な事も自分の責任にして自分を責める鬱病の微少妄想や罪業妄想に近い拡大解釈と言えます。おそらくは、釈迦族の滅亡は、釈迦一人の力ではどうしようもなかったのです。私たちの心的作用は仮説を作りながら私たちの行為を連続したものとして維持し多くの要素を統合するのですが、その時に架空の根拠のない観念=妄想を作る傾向もあります。それは、私たちの行為の結果ではないことからも多くの苦がもたらされるという現実世界のあり方に基因しています。 
さて、白穏は続けます。「とりわけ残念なのは、末世の者たちはよしあしの弁別ができず誤った教えに従って、来世があり輪廻があることも知らないで、せっかく受け難き人身を受けているのに畜生同然の心持ちで、貪り、嗔り、愚痴にして他人をあなどって、ほしいままに大悪業を作り重ね、その結果、また三塗に戻って果てしない苦悩を受けていることである。」地蔵菩薩は四人の娘たちの「法華経」を写経は、「地獄の父母が苦しんでいるのを助け」また「三塗に落ちて果てしもない苦患を受けることになるのを」防ぐと述べます。この後に、白穏は、禅の意義を強調します。 
「真の修行者ならば、精錬苦修して坐禅し、やがて死人のようになって、見る我も見られる世界もないという境地に至り、さらに、その根本意識の源に一刀を下し、氷盤をぶち砕き玉楼を推し倒し、懸崖に手を撒して大死一番し、そこからもう一度生き返って来る、という体験をせねばならぬのであるが、その絶後の蘇生する直前のところ、そこに安住してしまうことを「亡者が穴の中で活計をする」とか「棺桶の中で目を見張る」とか「有気の死人」とかいう言葉で表すのである。その見る我も見られる世界もないという寂滅のところにとどまり、安住していたのでは、いくらたっても決して道を成就することはできぬ。今ごろの黙照禅の輩は、そういうところが禅定だと思っているのである。・・・今時の黙照禅の連中など、いくら坐ったところで、結局は二乗小果のままで自己満足するだけのこと、いつまでたっても仏道を成就することはできまい。いくら石槨や鉄桶の中に隠れていても、世界を亡ぼす壊劫の猛火を前にしてはいかんともできまい。山河大地が焼きはらわれ、四禅天まで焼き上がって、世界はことごとく灰塵と帰す時、そんな鉄桶や石槨すらもなくなってしまうのだ。」と言います。これは盤珪に典型的に見られた、「体」と「用」の論理に区分して、体に還帰するのがよい、という考えの否定です。「体」と「用」の区別は禅思想を考える場合に重要なものにみえますので、ここで触れておきます。島田虎次は「朱子学と陽明学」で、この概念は中国起源か仏教起源かは判明としないのですが、「体用の論理」は「因果の論理」とは区別されると言います。「因・果の関係が風と波との関係であるのに対して、体・用の関係とは水と波との関係」と例に挙げています。「「体」とは根本的なもの、第一次的なもの、用とは派生的なもの、第二次的なのものぐらいに考えておいてよい。」としています。これが、宋学(朱子学)では、心を「性・未発・体」と「情・已・用」に区別して、前者は、「仁・義・礼・智・信」の五常で、「本然の性」で「未発」なものとされます。後者は情(惻隠・羞悪・辞譲・是非、また七情)として已発(すでにあらわれた)の情・欲とされます。已発の情は過度になり欲・悪となるので「本年の性」「初めに復(かえ)る、ことが要請されます。この論理は完全に盤珪の論理でもあります。おそらく、白穏は、この「用」から「体」へ戻る静的な思考にたいして、動的な思考を提出したのだと思われます。 
盤珪の「不生にして霊明な仏心」を生命論的に解釈して宇宙に流動する生命エネルギーのように考える仏教学者もいます。しかし、このような楽天的な考えではなくて、不生ということを徹底的に考察して「だからこそわたしは神に、神がわたしを「神」から自由にしてくれるように願うのである。」という考えをエックハルトは述べています。「わたしたちが神を被造物の起源としてつかむかぎり、わたしの本質的有は神を越えているからである。神のかの有の内に、つまり、神がすべての有を超えているところ、そこにわたし自身はあったのであり、そこでわたしは自分自身を意志し、そしてわたしというこの人間を創造することをわたし自身の意志で認めたのである。それゆえ、わたしの時間的生成からではなく、わたしの永遠なる有からいえば、わたしは、わたし自身の原因なのである。つまりわたしは、生まれざるものものであって、わたしの不生というこのあり方からいえば、わたしが死ぬということもけっしてありえない。わたしの不生というこのあり方からいえば、わたしは永遠の過去から存在していたし、今もあるし、永遠にありつづけることになる。わたしの誕生というあり方によってあるものは、死ねば無に帰すであろう。それは死すべきものだからであり、時間と共に朽ちてゆかざろうえないものである。私の永遠なる誕生において、すべてのものは誕生し、わたしはわたし自身とすべてのものの原因となったのである。もしわたしはそう望んだのならば、わたしもすべてのものも存在しなかったであろうし、わたしがなければ「神」もまたなかったであろう。神が「神」であることの原因はわたしなのである。もしわたしがなかったならば、神は「神」でなかったであろう。こういうことはどうしても知らなければならないというわけではないが。」(エックハルト教説集)。 
さて、気分が重くなったところで、孫悟空・白穏に戻ります。そして彼は言います。「何としても尊信し奉行すべきことは、無上菩提の大道、仏国土の因縁、菩薩の威儀ということである。菩薩の威儀を修めるには、まず四弘誓願を実践せねばならぬ。四弘誓願とは何か。 
衆生無辺誓願度(衆生は無辺なれど、誓ってすくわんと願う) 
煩悩無尽誓願断(煩悩は尽くること無けれども、誓って断たんと願う) 
法門無量誓願学(法門は無量なれど、誓って学ばんと願う。) 
仏道無上誓願成(仏道は無上なれど、誓って成ぜんと願う。) 
これを四弘の誓願論と言う。この上ない仏道を完成するためには、まず、生きとし生ける者を救済しようと誓うことである。生きとし生ける者を救済するには、勇猛精進心を奮い起こして、刻苦精錬、とにかく見性せねばならない。そしてはっきりと見性するためには、何といってもまず、隻手の音を聞かねばならぬ。そして隻手を聞くことができたら、それをも捨て去って、一切の音声を止めよ。そしてそれから、あらゆる経論を詳しく探り、さらには仏教以外のあらゆる書物をも究めて、広く法財を集め、法を説かねばならぬ。これを菩薩の威儀と言うのである。法を説くにあたって、してはならぬことがある。いささかでも、他より勝ろうとか、名利を貪るような気持ちがあるならば、そのような説法は不浄説法と言う。不浄説法すれば、必ず地獄に堕ちる。どうか、すべての人々をわが子のように思い、誰彼なく教え喩し、永遠に退転することなく無縁の大慈悲をもって、一切衆生と共に無上菩提を完成していただきたい。これを仏国土の因縁と言うのである。・・・一切衆生がことごとく仏国土の因縁である。」「法を説いて人を済っていくという行為ほど貴いことはないと思うのである。あらゆる善行の中でもっともまさるのを菩提心と言う。これを実践することを、悟後の修行と言う。」。これが、おそらく白穏の到達点であると思います。この論理は、白穏の法語をすべてを貫くといっていいほどに基本的なものです。例えば、「延命十句観音経霊験記」も、観音経を唱えることに現世利益を得る利益と、さらにその次元から悟りを目指す宗教的求道への転回を述べ、さらに全人類の救済を目指すことへさらに転回しなければならぬことを主張しています。悟りへの求道も、「空のひろがる八識頼耶の無分別識」→「広大無辺の大日輪」→「明暗双々に至り、高尚安閑無為の悟境」に達しますが、ここで、とどまると「鬼家の活計(死人のくらし)」である述べます。白穏の思考に慣れるために引用しておきます。 
「如法読誦・・・口にこの「十句経」を誦し・・・我がこの臍輪気海丹田の間には男に非ず女に非ず、ただ一つの、ひろびろとした空がひろがっており、万刃の暗黒の深い穴の如くです。これを八識頼耶の無分別識と言います。・・励み進んで退かない時には、万里の熱い氷の内に在るが如く、あるいは瑠璃の瓶のうちに在るが如くで、進むこともできず退くこともできず、技尽き言葉も窮し理も無くなる大難所に達します。この時少しも屈せず、口には専ら「十句経」を誦し、精神は常に丹田気海の宝処に向かってひたすら参究して退かない時は、忽然玉楼を倒す如く、氷盤を投げて摧くが如く、八識頼耶の含蔵識を粉砕し、塵沙の如き多くのけがれた無明煩悩の雑毒海を踏み散らし、真言宗でいう阿字不生、六十恒河沙、広大無辺の大日輪を現出し、塵沙無明の根本を抜き去り「十方虚空無く大地寸土無し」です。・・・それでも満足せず、口には誓って常に「十句経」を誦し、・・いちずに退かないならば、明暗双々(明・差別と暗・平等の両界が対立せず相即融合)に至り、高尚安閑無為の悟境に達します。しかし、ここに到達して以て足れりとし、無闇に座ってばかりいるならば、元通り棺の内で目をパチクリしているというもので、これを「鬼家の活計(死人のくらし)と言います。それは「機位離れざれば毒海に堕在」というもので、知らずに小乗二乗(声聞・縁覚)小乗の縁覚乗に堕ちているのです。 
これを以って足れりとせず、四弘誓願の願輪に鞭打ち、口には常に「十句経」を誦し、心にはひそかにひろく内典外典を探り無量の大法財を集め、大法施を行じ、一切衆生を利益し、仏祖の深恩に報い、十万無量の含識と共に仏道を成就し、ひとしく無上正等正覚を唱えるようにしましょう。虚空が仮に尽きることがあったとしても、我が願は尽きることが無いでしょう。これを仏国土の因縁、菩薩の威儀と申します。・・・・」。四弘誓願が強調されます。四弘誓願は先にのべましたが、悟りの境地を最後まで先送りする構造となっています。自分にとっても、他者との関係のもちかたにとっても無限の努力が要求されています。 
白穏の思想の到達点である四弘誓願をみましたが、白穏の思想の重大なものに見性から四弘誓願部分への転回を検討する必要があります。そのまえに白穏の魅力でもある、白穏の法語を広く浅く一瞥しておきましょう。   
 
 
白穏・考える2 / 禅思想の社会的基盤

 

白穏の法語の特徴は、明らかに貴族・武士階級とは別個に独立した階級・階層あった庶民生活を基盤しています。彼らは、生活文化を作りあげつつありました。白穏の思想は、明らかに江戸期の元禄文化の影響を受けています。白穏の法語と対比しますと、無住の「沙石集」の登場人物はほとんどが僧侶、武士、貴族です。中世においては貴族や武士階級などの支配階級以外の人びとの生活は、よく知られていませんが、不安定なものであったようです。時代が下った戦国時代でも、村の人びとは敵国の領主や武士団の略奪対象となり文字どおり人身売買の商品として扱われたと言います。「沙石集」にも被支配階級の人びとは登場します。承久の乱の時に尾張国の住民が社壇に逃げて来た話、常陸国に薬師如来を祀っていた草葺きのお堂のそばに住んでいた十二三歳の子どもが息たえ野辺に遺棄されたが鳥獣も食わず生き返った話、駿河六合富士川のほとりで殺生を業とする男の話、大津や北国の漁師が説教師や導師と呼んで説教させた話、駿河国原中の宿の女が客の忘れたお金を保存して戻した話、虫歯を抜く唐人の話し、山に住む人々の話、片方の眼が悪い父親が雉に転生して家に逃げ戻った百姓の話、食物を妻子に与えないけちな百姓の話などです。しかし、数は少なく生き生きとは描かれていません。時代がさがりますが、戦国時代の農村の農民たちは、自衛して戦い、武士団や領主も、その力をあなどれなかったことが知られています。佐竹照広などによって下克上の時代として逞しい庶民の説話が生み出されたと書かれている室町時代・戦国時代の以前の鎌倉時代の被支配階級の悲話を「沙石集」で見てみます。 
「さる文永年間に、ひでりが続いて、国中に飢饉の話しがはなはだしく広がっていた。なかでも、美濃・尾張はことさら餓死者が多かったので、たくさんの人が他国へ逃げて行った。美濃国に貧しい母子がいた。もともと貧乏だった上、このような時世になり、飢え死にするしかなかったので、すぐさま恨めしい結末を迎えるのも無念で、「身を売って母を助けよう」と思い、母にその旨を言うと、たった一人の子供である上に、孝養の志もある子なので、離れることが悲しくて、「死ぬにしても同じ所で手をつなぎ、頭を並べて死のう。限りあるこの世で、生き別れになるのも無念だ」と言って、母は一向に許さなかったが、もし生き長らえたらいつか廻り会うこともあるだろう。すぐにも餓死してしまうのも、さすがに悲しく思われて、母はとめたけれども子は身売りして、代金を母に渡して泣く泣く別れ、東国の方へ下向した。 
三河国矢作の宿で、知り合いの者が私に語ったところによると、「商人が、人を大勢連れて下向する中に、若い男で人目も気にせず声を立てて泣く者がいた。人が変に思って、「なぜそれ程泣くのか」と聞くと、「私は美濃国の者なのですが、母を助けるために身売りして、東国の方へ、どこに留まるとも定まらず落ちていくのです。母が、あまりにも別れを悲しみ、悶え焦がれましたが、日数を数えて私を思い起こしているでしょう。生きてさえいれば廻り会う事もあるだろうとなだめてきましたが、またもう一度、母の姿をみることもなく、東国の奥、どのような山の果て、町の果てにかさすらって行き、夕の煙、朝の露のように消えて、再び母を見ることもなく終わるのでしょう」とかき口説いて、事情を詳しく語って、声の限りに泣くので、これを見聞きした旅人も、宿の者たちも、涙で袖を濡らしました」と語った。」 
「京都に、貧しく暮らしている者がいた。妻は夫に、「このように貧しく心苦しい世の中では、耐え忍ぶことも出来そうにありません。人がしないことでもありませんし、強盗でも追い剥ぎでもして私を養って下さい」と言ったので、「人が貧しいのは常の事である。どうしてそのようなことが出来ようか」と言ったが、妻は恨み嘆き、泣いたりして、「それではお暇下さい。どんな人であっても頼りにして過ごしていきます」と言った時、さすがに愛情も薄くはなかったので、内野の方へ行って様子を窺っているうちに日暮れとなり、女房が女童を連れて通りかかったのを、ちょうど人目もなかったので、走り寄って殺し、二人の着物を剥いで帰った。 
血の付いている小袖などを、「これは、こういう事をして手に入れたのだ」と言って妻に渡したところ、「そうは言ったけれどかわいそうな事をした」とでも言うべきなのに、満面に笑みをたたえてとてもうれしそうな様子だった。あまりに疎ましく思われたので、日ごろの情けも愛情も忘れてしまい、そのまま家を出て髻を切り捨て、ある僧坊で出家し、高野へ上がった。そして一筋に後世菩提の勤めを怠らなかった。訳もなく人殺しをしたことも罪深く思えて、一方では亡くなった女房たちの後世を弔っていた。」 
「沙石集」からみますと、人びとの生活は、「無常転変の虚妄の世」で、外側からの力で壊れ流されてゆくように描かれています。流浪する生活、生活苦からの犯罪と人身売買、所領地をめぐる争い、老と病の苦しみに満ち溢れ、「信心の世界、遁世者の心」(大隈和雄)にあこがれてゆく世界のようです。 
これに対して、白穏の禅思想の基盤である庶民生活は安定しています。高尾一彦は「近世の庶民文化」のなかで、江戸時代の都市町人の生活と農村農民の生活文化を検討しています。それによりますと、江戸期には商業的農業、小商品生産、問屋制家内工業・マニュファクチュアが発展して商人資本や高利貸し資本が形成されています。それを経済的基礎にして、庶民的倫理的共感である。 
人情が発生しています。都市庶民のなかには、働いて貯蓄する勤労倫理ができそして蓄えをもとに遊ぶという勤労と遊楽の循環させる考えが浸透しています。生活倫理として、堅固・才覚・始末・堪忍・分別・正直の考えが生まれ、「好色余情は近代恋愛にまだ遠いけれども、男女の愛情生活の意識的な享楽あるいは知的な反省を内包している」愛情の美と倫理もみられたそうです。また、経験的合理意識である「経済や社会生活のなかで経験的に帰納された傾向や法則的なものを、こんどは判断行動の価値基準として応用してゆく意識的態度」もみられています。他方、農村では親子関係や孝行を重視して才覚を軽視するなど都市町民とは異なる経験的合理意識が生まれたと言います。これらから推測されるのは、仏教の人生を苦と見る仮説では捉えきれない厚みと広がりを庶民生活はもっていたこと、そして明らかに仏教的視点・仮説では社会を把握しきれなくなっていたことです。 
白穏の禅思想はこれらの庶民文化のうえにさいています。白雲の法語も、出版産業・メデイア部門の発展を基礎に流布したのだと思います。白隠法語で、発展した出版産業・メデイア部門の影響を明らかに受けた代表例として、「御洒落御前物語(おしゃらくごぜんものがたり)」「お婆々どの粉引き歌」をここではとりあげてみます。 
「御洒落御前物語(おしゃらくごぜんものがたり)」は、お夏と清十郎の悲恋物語です。この話は、井原西鶴も「好色五人女」の中で「姿姫路清十郎物語」の、近松門左衛門の「おなつ清十郎笠物狂」の題材として取り上げられています。井原西鶴の「好色五人女」は、遊廓で作られた金銭に裏打ちされた虚構的・観念的な「色好み」「粋」などの「恋愛」ルールを逸脱してしまう現実の性愛関係が描かれています。その中の第五話以外は、男、女ももしくは両方が処刑も自殺する話ですが、此れ等の悲劇の中にも描かれているおかしさ、ユーモアが、例外的な第五話で開花しています。おもしろいので紹介します。男色の源五兵衛が、親しんだ二人の美少年を失い草庵を作り山中に隠れすんでいましたが、慕ったおまんが男装してあらわれその術策で源五兵衛と夫婦になります。おまんの両親が二人の中をみとめるところとなり、その財産を譲られ、二人が蔵をひらくと財宝が山のようにあり、「江戸・京・大阪の大夫のこらず請けても、芝居銀本して捨てても、我一代に、皆になりがたし、何とぞ、つかひへらす分別出ず、これはなんとした物であらう。」と「うれしがなしい」終結を向かえおわり、次ぎの第一話に回帰する構造となっています。仏教仮説をはみ出す、社会ルール、人生観、生活の実態がそこに描かれています。このような「好色五人女」の中に「姿姫路清十郎物語」があります。 
酒造家の跡取り息子の清十郎は十四歳から「色道」に打ち込み業平に匹敵する女好きのする男でした。かれは、父親に勘当された時に遊女の皆川と心中しようとして果たせず、皆川だけが自殺します。生きの残った清十郎は、姫路の但馬屋の手代となり、真面目に勤めますが、そこの娘のお夏と愛し合い、やがて上方に駆け落ちしようとしますが、途中で捕まります。清十郎は但馬屋で行方不明になった七百両の嫌疑も受け処刑されます。お夏は錯乱し子どもたちのなかにはいり「清十郎ころさばおなつもころせ」(「清十郎を殺すならお夏も殺せ。生きて辛い思いをさせようよりも。辛い思いを、生きて、生きて辛い思いをさせようよりもエ。訳;山根為雄)と歌たったり「「むかひ通るは清十郎でないか、笠がよく似た、すげ笠が、やはんはは」とけらけら笑ひ、うるわしき姿、いつとなく取乱して狂出ける」。お夏は自害しようとしますが果たせず比丘尼になります。 
西鶴は、「世間胸算用」「西鶴置土産」でも貧乏な中で、もしくは女郎を身請けして困窮の中で性を軸とする私的な家庭生活を維持している夫婦を描いています。「西鶴諸国話」には、大名の姫が奉行人と恋愛して駆け落ちしますが、発見させ、男は殺され、姫は座敷き牢に入れられ自害をすすめられる話があります。此の時に、女は一人の男をもつことは「不義」ではないと主張します。白穏の時代には、生物的な性的欲望に基づく性関係が遊廓における享楽と擬似的な恋愛だけでなく、現実生活の次元でも性的欲望と精神的結合が一致した男女関係を尊重する観念が生まれていたようです。 
近松門左衛門の「おなつ清十郎五十年忌歌念仏」ですが、姫路の旅籠但馬屋の手代清十郎が主人の娘お夏と恋仲になります。同僚の勘十郎が七十両(約七百万円という)を私的に流用して、さらに清十郎と清十郎の父親を欺きます。清十郎は、金を盗んだと思われ、またお夏との恋愛が発覚して但馬屋を追われます。清十郎は勘十郎に復讐しようとして過って別の同僚の源十郎を殺してしまいます。捕われた清十郎は処刑される場面でお夏から手渡された煙管で喉をつき、お夏も鑓で自害をくわだてます。清十郎が息を引き取る前に勘十郎が逮捕され、お夏は助かり仏門に入ります。この話は、十一歳から奉公にでて商いの技術、芸能と文字を習い、主人に感謝して忠誠をつくし親にも孝行する清十郎が、経済的利害、職業的同僚との軋轢、身分の壁のある恋愛から破滅する話となっています。つまり、商人世界にひとつの豊かな生活文化が成り立っていることを示しています。仏教の因果応酬などでは捕らえきれない生活の豊かさがあります。 
さて、白穏はこの題材をどのようにあつかったでしょうか。 
「辛苦なければ色でもやせぬ、私しや悟に浮身をやつす、寝てもおきてもさて歩くにも、どふぞどふぞとただ一すじに、心がけたりや、ついに埒あいた、兎角皆様、異見じやないが、わしがいふこと好聞しやんせ、あはれなるかな世間の人の、暮らす家業を能々見れば、千年百年、生べきよふに、心うかうか月日をおくる、今も死すべき事も知らず、慈悲も情けも後生の事も、欲の餘りにただあやまりて、未来苦患のあることしらず、此世来世も助りたくば、うたぬ隻手の聲聞しやんせ、経や陀ら尼をよむより勝る、直に佛のおすがたとなる、未来蓮花はまだるい事よ、西も東も南も北も、土や草木や海山かけて、蓮花ならざる所はないぞ、西方極らく十萬億も、直に足もと、それはなの先、それは見性の眼が無けりや、どこもかしこも三途の地ごく、股も刃の山ともなるぞ、兎角つとめて見性すれば、三途地獄も刃の山も、きへて浄土と現れにける、今に死すともてんぽの皮よ、自己がひらけにや此世をかけて、萬劫末代、地獄の修行、たとへ学問博識とても、死ねば奈落の罪人となる、在家なりとも見性すれば、生死はなれて明るい世界、さとり開かぬお寺にまさる、いろや博奕の御はなしならば、昼夜ねずとも面白かろが、こんなはなしは気に入るまいぞ、こころ強くもいひきかすれば、みんなそびらに汗水流し、笑止がほして我家に帰る、無常なる哉その年暮に、思ひがけなき病に付て、床の上にて臥にける今をかぎりに両親達は、後や枕に立添よりて、なみだながして念佛進む、娘本来見性すれば、親に向ひて申せし様は、わしが形體は去年の春に、後生極楽疑いなけりや、今に死すとも苦は有ませぬ、辞世二首と紙筆取りて終に二首の歌書しまい、其れや後とて、末後の一句、向ひ透るは清十郎じやないか、笠がよふ似た菅がさが、笠が似たとて清十郎であらば、御伊勢参りは皆清十郎」 
白穏は太平の世であっても人生の苦と死から逃れられない、とに外側から仏教の仮説を持ち込んでいるようにみえます。と言いますのは、白穏の法語は、おなつと清十郎の恋愛、清十郎の死とおなつの狂気を基本要因とする話のパロデイとなっているからです。つまり、おなつと清十郎の悲恋は仏教仮説からいいますと虚妄の出来事ですが、おなつと清十郎の悲恋が実質的な出来事であり、それにのっかかって白穏の法語があるという構造となっています。また、おなつが恋に狂い「清十郎」の痕跡をあらゆるものにみたように、この歌は主人公の娘もおなつの恋にみならって見性に狂いなさいと述べています。つまり、社会・経済競争と愛情の問題が凝縮されたものとして扱う近松門左衛門の浄瑠璃や西鶴の小説を実質あるものと前提にして、学問や浄土宗を超えて方法としての見性を基本としてそれを狂ったように追求すれば、見性=清十郎に到達するが、だからと言って清十郎もどきに満足してはいけない、あの命をかけた清十郎だよ、といっているようです。この文章の構造は、仏教仮説、とくに因果応酬が基本的な構造原理としている無住の「沙石集」の説話との根本的な違いです。仏教の分業世界は、武士・戦士世界、農民世界さらには商人の世界と並存している一世界になっています。 
私は、突拍子もないことを言うようですが、白穏、西鶴、近松門左衛門には、共通する時代的思想があると思っています。白穏その1で、遠羅天釜」で書かれている「張氏兄弟」の話しを取り上げました。兄の張五は得た金で塩、綿、麻、粟米、野菜、果実、魚肉などを商い巨万の富みを築きますが、白穏は明らかに兄に共感しています。白穏は、この巨万の富を修行と見性の量と同一視しています。張五は、商品・貨幣経済が生産過程に浸透して経済社会を支配する以前の流通過程で生まれた高利貸し資本や商人資本の人格化された姿です。前期資本家たちには、悪賢いだけでなく、知略、勇気、冒険心に富んだ人たちもたくさんいました。勿論、ウエーバーが描くように内面化された信仰心に則って生活した人や、ゾンバルトが描くような贅沢や虚栄の生活を満喫した人もいました。日本列島でもそうだったと想定されます。西鶴の「好色一代男」は、高利貸し資本家や商人資本家の精神の一面を肥大化して虚構化しています。「夢介」という女色・男色だけを考えて生活する男の子供としてうまれた「世之介」は、7歳の時に精神的(身体的ではなく)に色事に目覚め、「たわむれし女三千七百四十二人、小人のもてあそび七百二十五人」(吉行淳之介訳)の「遊び心をとどめようもなく、恋に身をくだ」く生活をおくります。還暦を向かえ落ち込みますが、「好色丸」という船をつくり膨大な滋養・強精剤を詰め込み「わたしをはじめここの男たちは、この世に心を残すものは何もない身だから、これより女護の島に渡って、掴みどりの女を見せよう」といって、「恋風にまかせ、伊豆の国より日和見すまし、天和二年神無月の末に行方しれずになりにけり。」となります。この、停滞することを嫌い、絶えず活動し、量を拡大再生産する運動は、白穏にもみられる精神構造です。この運動は、現在の日本列島では「癒し」などという言葉を吹き飛ばし、否「癒し」「安らぎ」「やさしい」「心のケア」などというよわよわしいつぶやきを逆手にとり、それを拡声器で増幅して「身体と心の美容」「サプルメント文化」などからなる一大産業部門をつくり日常生活の隅々まで浸透しています。白穏には、「安心法興利多々記安心ほこりたたき記」という、「若い時から商い好きにて」と、釈迦を商才豊かな商人にみたて、仏教学説をたくさん創り、世界各国に支店を出したという歌もあります。これは、白穏だけでなく、近代・現在の思想家の本を読むときには必ず随伴する問題でもあります。到達した現状に安住することを嫌い、さらに前方をめざして進み続けようとする精神の否定・前進運動は無限増殖を目指す資本の運動を反映した精神形態であることは間違いありません。精神の否定・前進運動が、無限増殖の対極に絶対・相対的窮乏を累積させる資本の増殖運動とどこが異なるのかその分岐点をきちんと見分ける必要があります。アメリカ文明は、ある意味では極めて克己的で禁欲的な面をもっています。その精神は、経済・政治の領域だけでなく、科学・芸術・哲学などあらゆる面に浸透して、私たちの活動の原理になっています。その問題点を克服することは容易ではないでしょう。
さて、次に思想的にも白穏法語の代表作と思われる「お婆々どの粉引き歌」を見てみましょう。これは、中世の謡曲「山姥」のパロデイです。「お婆々どの粉引き歌」を謡曲「山姥」と比較しますと、白穏の禅思想が江戸文化の中にあることが鮮明となります。芳澤勝弘の「白穏-禅画に世界」によれば、おたふくは美と醜の両方が不可分に合体した「美醜一如」な存在だそうです。美と醜を対比させる「世俗の判断を超越して、人々に福をもたらす。」そうです。お多福は、「おかめ」「お福」ですが、丸顔で鼻が低くおでこで両頬が高い醜女ですが、日本列島の古代の一部では美人(鶴見俊輔)であったと言います。白穏の「おたふく女郎粉引歌」や「粉引き歌」にはおふくが登場しますが、彼女は女郎です。「東海道中膝栗毛」の中で、伊勢尾張の「宿場女郎」や「飯盛女」は「おかめ」と呼ばれています。東海道の宿場町には飯盛り女がいて、このような女たちと遊び身を持ち崩した男たちがたくさんいたようです。東海道の宿場町に住んでいた白穏は、このような事情は熟知したことと思います。 
白隠の「布袋吹於福図」(布袋、於福を吹く図)には、 
「善導は三尊の弥陀を吐く 布袋は二八の於福を吹く 弥陀を吐くは称名の功に依る 於福を吹くは将た其れ何の力ぞ」 
と書かれているそうです(「白穏-禅画に世界」芳澤勝弘))。善導とは、法然が天台宗の思想のなかから念仏を主たる方法とする浄土宗を選択させた中国の浄土宗系統の僧侶です。彼は、「弥陀を吐」き、弥陀の名を称号(南無阿弥陀仏)することで信心を阿弥陀仏に知らせ、それが阿弥陀仏の四十八の誓願によって称号を唱えた人々が救済されると言いました。 
一方、布袋は七福神に入っていますが、「太った体で腹を出し、杖で布袋をかついで市中に出て、変わったことをいったりする。だれにもかまわず物を乞い、それを袋に貯えた。」人物だそうです。白穏の布袋は、「春駒をする、人形遣いをする、皿回しをする」など大道芸もよくするそうです(芳澤勝弘)。DaidougeiinShizuokaで売り出そうとしている静岡市政むきの人物といえます。暇な時、喫煙家・布袋がお多福(煙)を吹きます。それは、「其れ何の力ぞ」、Daidougeiや暇人の力は何か、と問いを立てています。 
さて、おたふくとは何者でしょうか。おたふくの代表的な女性像として、アメノウズメが挙げられてきました。アメノウズメとは、古事記や日本書記の中で、スサノオが高天原で乱暴狼藉するのに怒り、アマテラスが天の岩戸のこもった時に、アマテラスを天の岩戸から引っ張り出すために神々を集めた宴会で乳房と性器を露にストリッパー的にダンスを踊った女神です。アメノウズメは、高天原の神々が日本列島に植民地を作った時にも登場します。ニニギノミコトを頭に高天原侵略軍が中継ステーションで日本列島の様子をうかがった後に降りて来ましたが、その進軍路に「その眼はヤタノカガミ(アマテラスが孫におくった三種の神器のひとつ)のように光り、赤ほずきのように赤く照り輝き、身の丈は七尺、鼻の長さは七寸」(「ウズメとサルタヒコの神話学」鎌田東二と「アメノウズメ伝」鶴見俊輔)という異貌の外国人が立っていました。しり込みする神々のなかで、アメノウズメがその外国人・サルタヒコに近寄り、「あなたは誰か」と話しかけます。この時も、アメノウズメは鋭い眼をしながら性器を見せたといいます。これらの神話は、南方熊楠が述べた「命をねらう呪術的な視力・邪視」から身を守るために女性性器を見せて笑いを誘い邪視の魔力を失なわせるという猥談の効用を思い出させます。サルタヒコは高天原軍の道案内をするために進路の途中までむかいにきていたのですが、サルタヒコと知り合ったアメノウズメは、サルタヒコと共に伊勢地方に去ったといいます。 
アメノウズメの特徴を鶴見俊輔は次のようにまとめています。 
「(1)まず、美人でないということ。しかし、魅力がある。(2)なりふりかまわない人である。世間体にとらわれぬ自由な動きをする。(3)その気分に人びとをさそいこんで一座をたのしくする人である。(4)生命力にあふれている。それが他の人たちの活気をさそいだす。(5)笑わせる。人のおとがいをときはなち、不安をしずめる。嘘をついてでも、安心させる。(6)わいせつを恐れない。性についての抑制をこえるはたらきをする。(7)外部の人が、その一座に入ってきても、平気である。とくべつに警戒するということはない。開かれた心をもっている。」 
彼の「アメノウズメ伝」には、「子どものころ私は、生のむこう側(想像の中での死の側)から、世界を見ていた。(想像された)死者の側からこの世界を見ると、この世界についてのつじつまのあう世界像がつくれる。その反対に、生きているものとして生の内側からこの世界を見る時、これは一時的にどう帳尻をあらわしても、またすぐにほころびてくる世界である。おどるものによって、世界もまた、おどる。」という印象的な文章があります。このような思想的視点から、アメノウズメを動きのある生の形象としてとらえています。このオカメの形象を、もう一方の醜の相貌である嫉妬に狂った「般若の面」の「鬼ババ」や「オバタリアン」と対比させています。 
白穏は、活動性、快活性、楽天性、性的存在、開放性、生命力を象徴させるお多福に重要な役割を演じさせます。このようなお多福を禅の理想像である布袋が、浄土宗の阿弥陀と対等なものとして吐き出すのです。芳澤勝弘によれば、白穏のお多福は、お茶を挽く(女郎が暇で客がつかないこと)、梅鉢模様のついた着物(梅鉢は北野天神の象徴で、天神は「渡唐(宋)天神」、外来神でもあるそうです。中国から輸入された禅を象徴するといいます。)を着て、煙草道具(煙管と煙袋)をそばにおいています。このように考えますと、お多福を吹く布袋は、白穏の思想の「活動性、快活性、楽天性、性的存在、開放性、生命力」を暗示しているように見えます。 
謡曲「山姥」は、遊女(百ま山姥)の前で、山姥が「深山幽谷の態を描写し、邪正一如、善悪不二」を説く話ですが、白穏の公案「隻手音声onehandcracker」では、その説明に「山姥」の一節である「一丁空しき谷の響きは無生音をきく便り(と)」が引用されているように、重要な役割を担っています。 
「お婆々どの粉引き歌」を謡曲「山姥」と比較して、表に示します。 
謡曲「山姥」は、善悪の両面を持つ山姥は、「善悪不二、邪正一如」を象徴して、「それとなく人を助ける業をなす」(芳澤勝弘)と説明されています。私は、次の天台宗の発想・十界互具思想は、六道輪廻の思想をよく考えられたものにしていると日頃思っています。十界互具思想では、「六凡」(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)と「四聖」の「覚界」(声聞、縁覚、菩薩、仏)の各段階ははっきりとは区別されていません。また、衆生(生命ある存在)は、生と死を一区切り(境)にして過去・現在・未来という時間の流れのなかでどこかの段階の世界に移行・転生するという線的な考えに変更を加えています。「六凡」(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)と「四聖」のそれぞれの世界が他の九世界を含むという入れ子構造になっています。私たちが人間界にいるとすれば、その人間界の中に地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏があると考えます。現在という時点に、過去・現在・未来という時間軸が並存していることになります。この考えでは、すべての存在は善悪の両面を持つのが実相であると観想するだけではなく、この考えを入れ子構造として立体的に考え、さらに現時点に「無限」とか「永遠」とかという時間概念を持ち込み動的構造にするという考え方もなりたちます。鎌倉時代の新仏教の動きはこの観点から理解することもできます。つまり、それぞれの世界に生きていることを「いま・ここ」で「仏界」へと転生させる運動へ変換できるのです。白穏の思想もそのように理解できます。 
「山姥」では、遊女(この言葉が示す女性像は、過去にさかのぼるにつれて「あそびめ」から宗教的な祭儀に関与する女性に変貌します)の「百ま山姥」が「山姥」の世界に導きますが、「お婆々どの粉引き歌」ではこの「山姥」のパロデイとなっておたふく女郎(遊女)がお婆々の「粉引き歌」へ導くようになっています。「お婆々どの粉引き歌」も白穏の法語の定石の基本構造を持っています。 
まず、通俗的な社会道徳感が無批判に取入れられています。 
「雨露の御恩で五穀もみのる、すへの野山の草木まで 君の御恩は山より高い、賤がわら屋の果て迄も 繁昌召されよ万代までも、風に草木なびく様に 忘れまあいぞよ御主の御恩、遠きあの世の後迄も 親の御恩は海よりや深かひ、恩を知らぬは犬猫じや 孝行する程子孫もはんじやう、おやは浮き世の福田じや」 
「主心至善二つはないぞ、常に正しき此の心、唐らの大和の物知りよりは、主心定まる人が好ひ、」 
「上下万民主心があれば、治さめざれども世は万歳、嬉れし目出度や主心の徳で、うたぬ隻手の声もきく」 
「主心お婆々はいくつになりやる、わしは虚空とおないどし、・・・主心お婆々はどこらにござる・・・十方法界實相無相、見られもなく見てもない、生死涅槃もきのうふの夢よ、煩悩菩提の迹もない、堕して苦しむ地獄もないが、往ひて楽しむ浄土もないぞ、・・・励み求めし見性の法は、いまは地獄の種となる、本との主心は皆消えへ失せて、魔縁天狗が入り代わる、過去の縁因拙い故に、終に真正の明師に逢にや、悟後の修行の奥義も知らぬ、本との凡夫がいつそ増し、」 
「悟後の修行とはどの様な事ぞ、おばば知てなら歌ふて見やれ 悟後の大事は即ち菩提、・・・菩提心とはどうした事ぞ、山まん婆女郎も歌ふておいた、上求菩提と下化衆生なり、四弘の願輪に鞭打当てゝ、人を助くる業をのみ、人を助すくにや法施がおもじや、法施や万行の上もりよ、有難たひぞや法施の徳は、たとひ佛口も尽くされぬ 法施するには見性が干要、見性ばかりでは乳房が細い、細いちぶさじや好ひ子は出来ぬ、よい子なければ跡絶へる、隻手音声もとめ得ておいて、此で休すりや断見外道、次に千重の荊棘叢を、残る事なく皆透過せよ、」 
結局は、法施(教えを説き弘めること-=仏教の宣伝)が他力ということである。あの時代に。 
「・・・流石禅宗のめしやくひながら、関鎖とおらにや文立たぬ」 
「此等逐一透過の後に、広く内典外典を探ぐり、無量の法財集めておいて、三つの根機を救わにやならぬ、三つの根機の其中に、真の種草を求るがおも、真の種草が真実欲しか、法窟の牙と奪命の符と、鳥の両羽を挟むが如く、是がなければ種草は出来ぬ、」 
「是が即ち仏国の因、とりも直をさず菩薩の大行、・・・」 
今までくどくどと述べてきましたので、この「お婆々どの粉引き歌」の説明は不要と思いますが、白穏が「遠羅天釜」で述べている文章をあげておきます。 
「人々が如来の智慧、真実の相を本来具えており、少しも欠けることなく、それぞれ仏性という如意宝珠をそなえて、永遠に大光明を放って娑婆がそのまま寂光の浄土となる。毘廬遮那がいる法性の真実土に住みながら、智慧の眼が働かなくなってしまったために、この浄土を娑婆であると見あやまり、仏を衆生であると思いあやまって、この得難い人間として生まれた身体や、逢い難い一生をむなしく過ごし、無智愚迷な牛馬のように、何らの分別もなく暮らしているのだ。・・・たとえば阿修羅や大刀鬼に腕をとられて、三千世界をまわること千回、百めぐりしても、正念工夫を一時も忘れず、相続不断に修行する者こそ真正の参禅者である。」「諸侯は参内して国務を行う時、武士は弓を射たり、馬に乗ったり、学問をする時、農夫はすきやくわで耕す時、大工は墨糸やおのを用いる時、女子ははた織の時に、正念工夫があれば、これこそただちに諸聖の大禅定といえるのだ。」謡曲「山姥」と比較しますと、白穏の活動の場が俗世の中にあることがよくわかります。 
Daidougeiの芸人が出てくる話は白穏にはたくさんあります。わたしは、これらに、白穏の欠点がよくでて.いるように思います。「寝惚之眼覚(ねぼけのめざまし)」では、大道芸人が大江戸で口上を述べます。内容は、儒教、学問の批判、僧侶批判、最後に、太平の中にも欲望の基づく行為には悦びと苦しみがあり、其れを解決する課題があると明言します。「安心法興利多々記安心ほこりたたき記」は、先に述べましたように商人に見立てた口上です。「福来進女ふくらすずめ」は、桃太郎の鬼が島征伐にたとえて見性の意義を述べたものです。これらは、すべて大道芸人の口上のように多弁・流暢です。 
大道芸人のように多弁・流暢にの口上をのべる典型例として「成仏丸薬之方書、直指人心入見性成仏丸」をあげておきましょう。 
「私事は、小田原勇助と申しまして、生れぬ先きの親の代から、 
薬屋でございます。推売は天下の御法度でございますれども、先ず効能の一通りを、御聞き下さいませ。私売り広めまする所の薬は見性成仏丸と申しまして、直指人身入でございます。此薬りを御用ひなされますれば、呑みこむと苦しみの病を凌ぎ、三界浮沈の苦しみも、六道輪廻の悲しみも、即座に安楽になりまする。此薬と申しまするは、本とは天竺摩訶陀國、浄飯大王の御子に悉多太子と申て、生まれながら七脚歩み、天上天下唯我独尊と仰せられて、各々様方が御存じの、檀特山に入、闍のく童子と憂き別れをなし、其時は、薬種を把りに山に御入り成されまして、難行苦行。雪山と云山中にて、六年の間、練りきたい、其後に五千四十餘巻の四通の薬の法書が出来まして、其の時、御弟子が十大弟子、竝に五百人すぐれた上手が出来まして、衆生の病をなをす、其の根元は成佛丸で、此の薬を傅えられましたが、其後、天竺にて四八二十八人ござりまして、其の二十八代目の達磨大師と申しますが、嚴しく傅えられまして、御廣めなされ、大唐にては二三六人、五家七軒と分かれましたが、兎や角ござりました中に、神光のひじの痛み、玄沙が足の痛、雲門のちんばもなをり、百丈の鼻血も留まりました。其外数々ござりますれども、なかなか申し盡しませぬ。 
我朝にては、千光和尚、始て傅えられまして、其後、二十八流と申しまして、二十四人の妙薬師が出来ましたが、夫れより、紫野の大燈は、天子様の御用、仰せつけられましたが、其時、顕露丸、秘密丸と申て、別に売薬士が出来まして、成佛丸と功能争いを致され、勅命有て、奈良、叡山、三井寺邊の売薬師と禁裏にて議論致されましたが、大燈が勝れましたが、花園の法王様は、美濃の伊深に勅使を立てられ、其弟子関山国師を召し出され、此の薬を御上りなされました。早速、其のしるし有て、其の後、御ほふびとして、天子様の御屋敷を賜りまして、花園屋と申しまするは、即ち私しが本家でござります。 
又此の薬の製法と申さば、先ず趙州の柏の木を寳剣よきで切り、六祖の臼ではたき、馬祖の西江水を汲み取り、大燈の八角盤で練り立て、白穏が隻手にのせ、倶胝の一指で丸め、玄沙の白紙に包みまして、其上書きを、禅宗林才郡花園屋見性成佛丸と記します。此の薬を丸にて、能くかみこなして、立つもすわるも、臍の下へ呑込居ますれば、譬い天上に生まれても、楽しいとも思わず、地獄に落ても苦しとも思わず。私し排りますではござりませぬが、今時、六字丸と申しますが、発行致しまするが、是は朝飯前夕飯後に、御用ひ成されますれば、凡夫の保養にはなりますれども、断末魔の苦しみには、中々役には立ませぬ。今、世間の死にしまの念佛丸と申しまするは、是でござります。 
此の薬には、代物三銭宛入りますれども、私しが此の成佛丸には、代物一銭も入りませぬ。先づはあらましかよう。サアサア、御用成れませぬか、と申しましても、皆様のを心持ち次第、銭は一文もとりませぬぞ、あがってごろうじませへ、サアサアサアサア、と申しましても、後世菩薩、即坐成佛の思召は独りもがざりません。さらば、をいとま申します。」 
この口上は、小田原名物の外郎(外郎は透頂香ともいう。口臭胃熱を去り、頭痛を治し眠気を去るという効能)を売る外郎売りの早口口上、啖呵口上をまねたものです。そうです、ふうてんの寅さんの口上を思いださせます。読んでいて楽しく、爽快感もあります。しかし、寅さんの映画は、全く同じ構造の反復です。寅さんは、時に洞察めいたことを言いますが、寅さんには何の変容もおこりません。流暢に多弁に軽躁的に流れてゆく口上は、聞いていて心地好いのですが、白穏その1で述べた基本的な欲望を核に作られたそのひとの対自・対他・対自然関係の構造の上をはしり、既成の構造を補強することはあっても、その構造を破壊する力はなくその構造に変容をもたらすことはありません。これは、白穏の法語だけがもつという欠点ではなく、仏教の啓蒙書がもたざろうえない欠点なのだと思います。白穏は、そのことに自覚的であったので、楽しみにこれらの法語を書いたのかもしれません。 
さて結論を述べます。江戸期にはまだ閉鎖的で自足傾向が強かったものの共同体(村社会)と共同体の間には都市と武士階層を仲介に商品・貨幣経済や流通機構が発展し、さらに都市には出版業界・メデイア機構が発達と拡大みていますが、庶民層の生活文化はそれを基盤にして実質を持つものとなっています。白穏の思想は、江戸期の庶民層の生活文化の成熟を基盤にした仏教思想です。  
 
 
白隠・考える3

 

いままで、白穏の略伝と思想の基本を検討してきました。雑文が長くなったので道筋を整理しておきます。今後、次のような順序で書いてゆきます。白穏の見性(「悟り後の修行」に先立つ「悟り」に至るプロセス、私にとってはこの区別は必要ないのですが)にとって正受老人との関係が決定的に重要な役割を果たしました。私は、正受老人との関係が白穏の転回点であり、その意味では白穏の「見性」のときと判断しています。その理由を、見性に至る禅の修業方法の構造を検討することで根拠づけます。そして、心理・精神療法の観点から、禅修業から学ぶべきものと避けるべきものを検討します。禪の修行と精神・心理療法に共通しているのは、回り道の構造を持つ事です。「私の地平」という未知の世界に踏み出しますが、独りではその地平に至る道を見出せず、その未知の世界を指し示す事しかできない師もしくは友人との密接な交流という迂回路を通る必要があります。この回り道では、援助を差し伸べてくる師や友人との葛藤・批判を経なければ「私の地平」へ進めないという困難さもちます。「師もしくは友人」は敵対者でもあります。白穏の回り道で正受老人が臨界点的役割をはたしました。少なくとも、白穏はそう述べています。このような迂回路で得るとされる「見性」は、何を目指すのでしょうか。それは、修行者の「仮構構造である自我」の解体です。「見性」の方法が迂回路で仮構物の自我の解体の跡に何があるのでしょうか。私は、「ただここに存在することの肯定感」と考えてきました。ここまできて、私は少し意見を修正します。「ただここに存在することの肯定」は、自然→生命→意識へと自然から逸脱してしまった存在(人間)の肯定、「ただここに逸脱して存在していることの肯定」を意味することへ修正します。これは、釈迦が生まれるや言い放った「唯我独尊」という自然との一体感の強い肯定観への回帰ではなく、その転変・変奏です。この観点から、「ただここに逸脱して存在していることの肯定」を検討します。今回は、ここまでです。ここからさらに、白穏は「うつ状態.」を経験して、「動く」ことと「休むこと」をどう考えたかを検討する予定です。その後、「ただここに逸脱して存在していることの肯定」と禪が切り開いたと(私が勝手に)想定する地平の関連を検討しながら、だんだんと白穏からはなれてゆきます。最後には、仏教仮説(「四諦」・「八正道」仮説)を取り払って仏教が対象としてきた領域を考えるとどうなるかを試みます。私がめざしている最終地点は「聖なる世界」と「世俗世界」の関係の中で往復運動を繰り返へし、「聖なる世界」への合体を夢想することと「世俗世界」を現状肯定することの間でうろつく仏教的思惟の領域―それを抜け出るのが優れた仏教者の精神であったと思っていますがーを突破することです。ですから、白隠以外のいままでの項目と同じように、白穏から得たものを使いながら現代的な問題に接近するつもりです。
 
「無門関」の方法

 

師の役割の重要性  
白穏の「見性」にとって正受老人の役割が決定的に重要です。といいますのは、盤珪や達磨宗を開いたと言われている能忍など一部の「無師独悟」の人を除きますと、普通、禪の僧は師をもち師の指導を受けることで「見性」するからです。「悟り」は師から弟子に伝えられるというのが禅の正統的な考えですが、それには理由があります。例えば、日本列島の主流をなす頓悟禅の出発点に置かれている中国の神会も「輪廻を繰り返してカンジス河の砂の数ほどの劫を経ているのに解脱できないのは、今までこの上ない悟りを求める心をおこさなかったためか、仏や菩薩、真の善知識に出会わなかったためです」(神会の語録・壇語)と述べているように、禪仏教では指導者(師)との出会い、師の役割が重要視されます。それは、禪では、経典から得られる知識からではなく師から「悟りの方法と方向」が直接に伝授され「見性」の体験に向かうという「教外別伝・不立文字」の考えがあるからです。このような考えには、精神分析諸派が繰り広げてきた門閥の形成という閉鎖主義を生み出すのではないかという危惧がありますが。  
「無門関」はよく読まれていますので、「無門関」によって公案を使った参禅の方法を検討してみます。また、以下の「碧巌録」と「従容録」の逸話の引用が多くなります。理解のために「碧巌録」と「従容録」の書き方の構造について触れておきます。「碧巌録」には、禅の修行における師と雲水の関係を考察するには適した逸話が多く、さらに圜悟が垂示、著語、評唱をつけているために、圜悟の考えをおうことができます。「碧巌録」を使って、比較的理解しやすい則を素材に師と雲水の関係を考察してみます。「碧巌録」は、「範とすべき古人の言行」(入矢義高、「碧巌録」:岩波文庫・解説)とされる古則に雪竇重顕が頌をさらにそれに、圜悟克勤が垂示、著語、評唱つけるという、三重構造になっています。これらの用語の意味については、「白隠その2」を見てください。これは、「従容録」も同じ構成になっています。  
「無門関」は、岩波文庫にある西村恵信訳を基本的に使用します。「無門関」の一は有名な「趙州狗子」です。最初に師から弟子に出されることの多い公案だそうです。「ある僧が趙州和尚に向かって「狗(犬)にも仏性がありますか。」と問うた。趙州は「無い」と答えられた」という内容です。無門は、この逸話についての考究方法を、「無門関」全体を貫く基本的な考究の方法として述べています。彼は、まず、この逸話を考えるために、「素晴らしい悟りは一度徹底的に意識をなくすることが必要です。」とのべます。現象学のように、日常の世俗世界のなかで作られてきた心的・感情的・意志的パターンを駆動することを中断して判断を一旦中止することが必要だと述べます。さらに、「からだ全体を疑問の塊にして、この無の一字に参ぜよ。昼も夜も間断なくこの問題を提げなければならない。しかも、決して虚無だとか有無だとかいうようなことと理解してはならない。」と、犬に仏性があるかないかという問自体を理論的にといつめる方向から自分を「疑問の塊にして」「無」に意識を集中しなさい、と方向転換を要求します。そうすると、「今までの悪知悪覚が洗い落とされて、時間をかけていくうちに、だんだん純塾し、自然と自分と世界の区別がなくなって一つになり、ただ自分ひとりで噛みしめるよりほかはない。」、今迄の知識、方法では解答が得られない全くの懐疑の状態に陥ります。最後に、「ひとたびそういう状態が・・・打ち破られる、驚天動地のハタラキが現れ、・・・仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺すという勢い。この生死のまっ只中で大自在を得、迷いと苦しみの中で遊戯三昧の毎日ということになるのだ。」と、懐疑がある「ハタラキ」とともに破られることが期待されます。このハタラキが発現することが重要のようです。しかも、この修行は、「狗に仏性が有るかどうかと、丸出しされた仏陀の命令、有無の話としたとたん、忽ち命を奪われる。」と最後に歌われるように、「狗に仏性が有るかどうかと」という仏教の仮説の範囲を超えて出てゆくことが要請される生死を賭けた一種の遊戯ともみえます。実益が欠けているので、意識としては決闘のようなゲームの感覚を伴うのでしょう。そして、この逸話を考え抜くと、「ここに提示された「無」の字こそ、まさに宗門に於いて最も大切な関門の一つにほかならない。・・・この関門をくぐり抜けることができたならば、趙州和尚におめにかかることができるばかりでなく、同時に歴代の祖師たちと手をつないでいくことができ、・・・祖師たちと同じ眼で見たり同じ耳で聞いたりすることができるのだ。」と、仏教理論の呪縛を突破してある次元に至るとそこで、仏陀以後連綿とつづく祖師達と出会い彼らと同一な体験を得るに至ると述べられます。この同一性=同質性という考え方に注目すべきです。「六祖壇経」には、後に触れることもあるかと思いますが修行者の個性を極端に主張する逸話もありますが、禅では言葉の向こうにあるらしい悟りの世界に同一・同質性があるという考えを懐疑の対象には想定していないようにみえます。  
無門の方法では、絶対絶命の懐疑にまず陥ることが逸話を考える際の必須の要件です。狗に仏性があるかないかという問いは、新たな地平を指し示すための記号でしかないようです。例えば、犬に仏性は在るかという質問には、通常、理論的にはあるという答えが想定できます。特に、生あるものすべてに仏性があるとする日本の天台宗の本覚理論(私は直接的な文献にはあたっていませんが)を背景にした仏教理論の環境ではそうです。そうすると、この「趙州狗子」はこの伝統的理論とは反対のことを述べたことになります。学人は、仏教学の文献をおそらく検討します。そこに、人間、動物、植物、さらには無機物にも仏性を認める考えは、如来蔵理論の系列につらなる考え方で、日本では天台宗の本覚理論として完成され、禅はどうもこの如来蔵理論の系列に近い考えをとってきたということがわかります。勿論、文献を探すと、きっと犬には仏性はない、という意見もあるにちがいありません。師の振る舞い(操作)によって、修行僧は文献学的にそして心理的に判断不能状態に陥り混乱するはずです。同じ「趙州狗子」は「従容録」の第十八則にでていますが、その逸話では、趙州は、同じ質問に、ある時は「ある」、別の時には「ない」と答えています。ちなみに、「従容録」では「一人の僧がきて趙州に向かって「犬にも仏性がありますか、どうですか」と問うた。(この僧抛げられた土塊を追いまわす癡犬のようなものだ。)」という著語がはいっています。このように、問いが成立している地平も、打ち壊されています。さて、無門の方法をまとめますと、言葉の向こうに、まえもって到達すべく期待されたある地平が前提にされています。それに至るために、打ち壊されるべき旧い地平から舞台を回す小道具として問い=公案が作られています。打ち砕かれるべき旧い地平は、仏教の理論や言葉に囚われた修行者の世界です。その旧い地平は、考えぬかれ、体験的に破壊され、無意味な問いとして捨て去られることが期待されます。逸話が成り立つ問いの成立する範囲=次元からは、論理的・理論的にいくらつめても答えがでてこない構成になっています。追い出される、もしくは出て行くしかない.構成になっていますが、しかし、その次元に修行者を回収する二重の構成になっています。  
そのために、「無門関」には理論的には解答不能な逸話が多くあります。例えば、「十一、州、庵主を勘す」です。「趙州がある庵主の所へ行って、「おい、しっかり生きているかい」と問われた。すると庵主が挙を挙げた。そこで、「こんな浅いところに舟を泊めるわけはいかん」と言ってどんどん行ってしまった。趙州はまた別の庵主のところへ行くと、すぐ聞かれた、「おい、しっかり生きているかい」。ここの庵主もまた同じように挙を挙げた。趙州は、「与えたり奪ったり、殺したり活かしたり、何と自由なことじゃないか」と言ってこの庵主には頭を下げられた。」。この逸話では、趙州はどうして一方をほめ、他方を無視したか、が問いです。「二十六、二僧、簾を巻く」では、大法眼和尚が簾を指差したので、二人の僧が簾を巻き上げたところ、大法眼和尚は「一人はそれでよし。もう一人は駄目だ」と言います。どうして、一方は良くて、他方は駄目なのでしょうか、と問います。趙州と大法眼の判断基準について何の情報も与えられていません。課題を理論的に答える材料を与えられていないので答えられなくなっています。問いに理論的に答えられなくなっているのは、逸話の課題と構成だけではありません。日本仏教基礎講座6によれば、「師家によって、それらの解答が次々に奪い去られてしまうと、学人は懐疑と失意のどん底に落ち入る。・・・一個の疑団となる。」と書かれているように、参禅では、師家によって学人が懐疑の底に落とされるように方法的に操作されるようです。この無門関にみられる方法は、変えられるべき性格・行動様式が、迷い・懐疑を経てその性格・行動様式への洞察を得るという近代の臨床心理学に近い精神療法のように見えます。しかし、禅の方法と多くの精神療法の方法にははっきりしたちがいがあります。禅では、修行者は課題と指導者の操作によって懐疑・疑惑・自責の状態に至らされ、どのように答えても回答にならずに一挙に自己破壊に陥るように操作されるように見えることです。
無門関の方法と二重拘束理論 
この修行者が陥る懐疑・疑惑・自責の状態は、臨床精神医学・心理学で統合失調症の発生に関与するコミュニケーションの障害としてかって有名になった二重拘束理論が想定した二重に拘束された状態(asituationcalledthe“doublebind”)に類似しています。 
BatesonG,らによりますと、人間のコミュニケーシヨンは言語と非言語(姿勢、ジェスチャー、顔の表情、イントネーション)、そして文脈・脈絡から構成される複雑なものです。二重拘束によるコミュニケーシヨンの障害は、簡単にいいますと、「してもおこられる、しなくてもおこられる」、という相矛盾する禁止命令が声と行動のような異なるコミュニケーシヨン水準において同時に伝達されるために、伝達の受け手は身動きのできない混乱状態に陥るというものです。多くの場合、母親からこどもに「してもよい」と「してはいけない」の両方の信号を同時に与えられ、混乱に陥った子供は人格の崩壊へ導かれるという仮説です。 
この二重拘束状態の構成要素として、BatesonGらは、1)二人もしくはそれ以上の人間の間で起こり、2)受け手の犠牲・被害体験は繰り返され、3)第一番目の禁止命令(これをすると罰うを与える)があり、4)第一番目の禁止命令と両立しない第二番目の禁止命令が異なるレベル(第一番目の禁止命令が言語的なら第二番目の禁止命令は非言語的なレベル)で行われ、5)第三番目の禁止命令として受け手(犠牲者)にこの二重拘束状況から逃れることが禁止され、6)受け手(犠牲者)が二重拘束的世界を完全に受け入れた後には、もはや上記の二重拘束状態の構成要素を全て満たさなくても、ささいな信号や刺激が受け手を情緒的混乱に陥れることになる、とまとめています。 
この二重拘束状態が統合失調症の発生原因となる仮説については、現在は否定的な見解が多いのですが、BatesonG,らが二重拘束状態をラッセルのTheoryofLogicalTypesに結びつける考え方も早い段階から批判がなされています。しかし、BatesonGらがいうように、二重拘束状態が、彼らの言う意味での自我機能(自己内のコミュニケーシヨン様式と自己と他者のコミュニケーシヨン様式との区別)に絶大な悪影響を与えることは確かだと思います。 
今回、BatesonG.らの論文を読んで二重拘束状態の代表例にZenBuddhism(禅仏教)の公案による修行が記載されていることに気づきました。ZenBuddhismの修行者が病者とことなるのは、修行者(受け手)が師(.与え手)に反撃できる自由を持つことであるとも書かれています。 
BatesonG,らが書いているように、無門関の方法は修行者を二重拘束状態に追いこみ「自我」を解体して「無」に住ませることを目的にしています。禅も心理・精神療法と同じく対人関係間のコミュニケーションを使用して、そのコミュニケーションに関与した諸個人の態度変容を目的とします。禅の修行は「悟り」「見性成仏」「自分をしる」などと表現されるという本人にだけしかわからないある境地、正確には本人にも解らない、つまり誰にも解らない境地にむけて個人が向かってゆくのを「積極的・作為的に指導」するという、誰にも十分には確証を持って行うことができないことが行われます。立ち止まって考えると、恐ろしい冒険が行われることになります。だからこそ、指導者側の方法・能力が決定的に重要な役割.を持ちます。親切心さえあれば「精神的な癒し」がもたらされる、と考えてよいほど素朴なものではありません。師は、「一句」、二重拘束状態の突破を可能とする一言を発しなければならない義務をおいます。それは、真理に関する事柄ではなく、実存的心理的問題に関する事柄のように思えます。二重拘束的混乱状況で現にある性格・行動様式が破砕され、そのことで「はたらき」が現れることが期待されます。これに対して、多くの近代精神療法は二重拘束状態の混乱からの脱出を直接にめざす方法から成り立っています。無門関の方法は、「死と復活」を直接的に目標としていますが、「死」をめざすことは強調されますが、「復活」に関しては弟子まかせのようです。この点で、ウイルヘルム・ライヒの「性格分析」の方法、現にある性格・行動様式の分析と解体(鎧としての性格の解体)を強力かつ直接的めざしますが、「復活」に関しては技法的な配慮のない方法に類似しているようにみえます。この技法は、禪が期待しているような「反逆心」が患者にない場合には致命的な破壊作用をおよぼします。「潜伏性陰性感情転移」という語は、治療者にたいする「憎しみを見せかけの愛情の顕れ」を意味して、患者の治療者に対する「反抗心・反逆心」に過敏にさせ、治療者にそれを消去させることをめざさせます。しかし、BatesonG,が指摘しているように、この患者の治療者に対する「反抗心・反逆心」こそが、患者が自分の生き方を見出す原動力なのです。
二重拘束状態からの脱出  
この二重拘束状態からの脱出を示す逸話が「三十即心即仏」「三十三非心非仏」です。馬祖和尚は、前者では「心こそが仏である」と答えています。しかし、後者では「仏とは」「心でもない、仏でもない」と言っています。柳田聖山の「禅思想:その原型をあらう」によりますと、法常という僧は、馬祖に「心こそが仏である」と聞き、そして悟り、そのまま大梅山に三十年間こもり、以後、馬祖に会うことはなかったそうです。ある時ある僧が山で道に迷い法常に出会います。その僧は法常に、ちかごろ馬祖は「仏とは、心でもない、仏でもない」と述べていると伝えます。これを聞き、法常は「あのおいぼれおやじめ、いまだに人をだますくせがなおらんとみえる。汝は非心非仏と言うがよかろう、わしはただ即心即仏で充分だ」といいます。馬祖は、それを伝え聞き「梅の実が一つみのった」と述べたそうです。この話は、修行者には師に対して反撃する力が二重拘束状態からの脱出に必要なこと、また、その反撃力がなければ脱出できないことを示しています。さらに、禅では言葉の向こうにある経験(生)の次元が目指され、言葉はそれを表現するものではなく、ただ指し示す指示記号の機能しか与えられていません。柳田聖山は、「即心即仏」も「非心非仏」も、「泣いたり泣きやんだ」りする子供をだましあやすために与える小判を装った黄色い枯葉だ、といいます。新たな地平は「不是物」(「何かではないである」)である、と述べます。このように、修行者は「仏縛を破り」「祖師縛を破り」を敢行しながら、二重拘束状態から脱出することが期待されます。柳田聖山は、馬祖の即心即仏・非心非仏を検討して一つの結論として「応病与薬のほかに、応病与薬ならぬ言葉を求めるのは、誤りである。」と結論します。禅の言葉は、修行者を二重拘束状態に落とし込め自我の解体を行いますが、さらにある経験の地平を指し示し、しかも修行者がその経験の地平至るように一押しするという機能をもつようです。優れた師はこのような言葉を、修行者が必要とする時に発しなければなりません。  
論点先取り的に私の意見を述べますと、個人が獲得しや新たな地平を「不是物」で表現することですませるのは反対です。そして、あたかも「見性」した人間はある同一の状態=地平に到達するという考えにも反対です。全ての人が「同じ眼で見たり同じ耳で聞いたりすることができる」同一性=同質性のもつ洞察の地平があるかどうかは誰も証明しえないことです。「教外別伝・不立文字」を根拠づけるためによく引き合い出される「迦葉の微笑」にしても、好事家の通人同士が互いにわかった顔で野暮なひとの振る舞いをみて「にやっ」と笑う世界とどこが違うかはっきりさせる必要があります。法常が「わしはただ即心即仏で充分だ」と言ったように、「教外別伝」で得た世界は個性的なものです。この個性的な体験世界を言葉で表現するかしないかは、その人の選択です。しかし、「見性」した洞察は同一の状態=地平に属する、だから表現すべきではない、と抑制をかけるべきではありません。「禅僧の境涯は一にも二にも「没縦跡」、自らの生きた痕跡や打ち立てた功績を後世に残さぬことをよしとする。」(沖本克己、白穏禅師を読む)とされているそうですが、このことと、洞察体験の表現を禁止することは別の問題です。意識的にしようがしまいがすべては「没縦跡」となります。問題にすべき第一は、まず全ての真理、全ての悟り体験には限界があるはずだ、ということです。その個性の悟り体験を、言葉で表現されずしかも限界のない「全てが充足している体験である」と勝手に思い込んでいますと、その限界が増殖して血生臭い事態が発生します。「応病与薬ならぬ言葉を求めるのは、誤りである。」という意見に賛成してもよいのですが、しかし、そう言うだけでは、応病与薬のつもりで毒薬を与えるのを防止できません。少なくとも、一定の真理・体験の限界を言葉や理論で査定することが、その防止につながります。宗教の歴史が未熟で血生臭いことは隠しようのないことです。第二は、洞察の表現が、その人間にとって生きていることの表現であり生の充実となることです。第三は、ある個人の洞察の体験が、近親者との新たな精神的な交流の次元をひらき、互いに関係しあう「共同性=協働性」の生の拡充をもたらす可能性があることです。このなかには、生を共有してきた者が脱落して(死)、その後に、ある個人がその「共同性=協働性」の関係を保持し行き続けることも含まれます。「悟り体験」は、その個人を同質=同一状態へ解消するのではなく、新たな「共同性=協働性」の関係を開くものです。これらが、この項で言いたいことの全てなのですが、さらに私の馬鹿話をつづけます。  
「没縦跡」などというにしては、大乗仏教の一派である禅でも、僧侶の弟子や在家信者への啓蒙活動などの対他関係・行為が慈悲の名のもとに美化されます。「啓蒙活動」を何の恥じらいもなく「慈悲」行為であると表現される文章を読みますと唖然とします。「慈悲」という「黄色い枯葉」にだまされて、僧侶の対他行為が反省されない訳です。その為に、一見すると利他行為や慈善行為と見えるものが、姑息な自己保全、無制限の他者侵略、いらぬお節介の行為になる危険があります。この欠点は、法華経や宮沢賢治の詩「雨にもまけず」にもみられると思います。柳田聖山によりますと「南泉と潙山」という「禪匠」は、「共に来生は牛になるという、末後異形の誓約を残す。生涯、信者の施物によって、僧形を保ち得たことへの、深い反省」の上にたった「言葉」のようです。日本列島で言えば、白穏と同時代の禅者・良寛にも、僧侶の他の分業世界に生きる者との対他関係について深い考察が見られます。私は、布施で生きる僧侶の世俗世界への関連を正面に据えた意見は少ないと思っています。そのためか、修行に関しても、指導者の役割と責任がきちんと論議されず、指導者の任意的な振舞が容認されているようにみえます。少なくとも、指導者は余計なことはしないという、反省・基準が必要です。これは、お坊さんだけのことではありません。精神・心理療法でも、患者が自力で成し遂げなければならない、金縛り状態から、いまだ見出されていないはっきり名づけられない地平へ脱出するために、治療者がどのように関与するかは重要な課題です。例えば、フロイト派の、患者の性格・行動様式への洞察は治療者の解釈によってもたらされるという方法は容易にゆきづまるはずだ、と私は考えています。これは、フロイト派の解釈理論でだけではありません。心理.・精神療法には、理論的枠組みは必要なのでしょうが、粗雑な理論的枠組みよりも、患者を一歩前進させる「一句」を発見する工夫のほうが重要であることと、それを可能とする状態に患者が到来するのを待つ忍耐力が必要なことを、白穏から学びました。精神・心理療法を反省するためにも、「無門関」の方法で、指導者が失敗した逸話とうまくいった逸話の両方をみてみましよう。
師の指導の失敗と成功例  
「碧巌録第十一則黄檗の酒糟食らい」にある「仏祖の優れた働きはすべて把握され、人間界・天上界の根本の生命は悉く指図を受ける。なにげない言葉が人々を驚かせ、ちょっとした所作が束縛を打ち破る。至高の人物を教え導き、至高の事がらを呈示うる。さて、どんな人が、このようにしてきたのか。」この問いは重要です。しかし、容易なことではありません。  
失敗例のようにわたしには見えるのは、「十四南泉、猫を斬る」です。「南泉和尚は、たまたま東西の禅堂に起居している門人たちが、一匹の猫をめぐってトラブルを起こしているところに出くわされた。彼は直ちにその猫をつまみ上げると、「さあお前たち、何とか言ってみよ。うまく言えたらこの猫を救うことが出来るのだが、それが出来なければ、この猫を斬り捨ててくれようぞ」と言われた。皆は何も言うことが出来なかった。南泉は仕方なく猫を斬り捨ててしまった。晩になって、高弟の趙州が外から道場へ帰ってきたので、南泉はこの出来事を趙州に話された。話しを聞くと趙州は、履いていた草履を脱いで自分の頭に載せて部屋を出ていってしまった。」無門は「かの趙州がいたならば、やり方はすっかり逆のはず。刀を奪い去られては、南泉さえも命乞い」と歌っています。  
この逸話について、弟子への教育のためにあえて殺生を犯し地獄落ちも覚悟するという南泉の気迫のこもった生死ギリギリの決断を評価することも可能です。事実、「碧巌録第六十三則十四南泉が猫を斬る」では、「南泉は猫を二つに斬った。(見事、見事。此の如くならねば、いずれも泥団子をこねまわすやからだ。盗賊が行ってしまってから弓を構えるのでは、すでに第二段階に転落だ。)と圜悟が著語をつけています。しかし、泥団子をこねまわすのは南泉を含めた禅僧たちのことであり、斬られた猫には関係のないことです。さらに、泥団子をこねまわしたとしても猫を殺してもよいのかという問にはきちんと答えねばなりません。すなわち、いかなる理由があるとは言え、猫を斬るに至った帰結およびその帰結を防ぐことができなかった思想・論理をきちんと検討されるべきです。「従容録」の「第九則南泉斬猫」では、この逸話がもつ微妙な問題について、天童宏智正覚の頌と、それについての万松行秀の評唱によって表現されていますので、長くなりますが引用します。訳は原田弘道のものです。  
「[示衆]《以下略、大言壮語で月並みなので略します。》  
[本則]ある日、南泉山の東堂西堂の雲水たちが一匹の猫のことで論争した。(人は不平さえなければ黙っているが、少しでも不平があれば何やかやと云いだす。ちょうど水は高低がなければ流れないが、流れるのは平らでないからで、それと同じだ。)見かねた南泉がその猫を引っさげて云った。「何とか云い得たら斬らずにおこう。(南泉のこの鋭鋒に誰が対抗しえるであろうか。)誰一人答える者がなかった。(愚図愚図しているうちに、にわか雨でずぶ濡れになるぞ。)南泉はこの猫を一刀両断に斬ってしまった。(いったんぬいたからには無事に鞘に収まるはずはない。)  
のちに、南泉はこの次第を趙州に告げた。(同じことも二度も問題にするなど半文の値打ちもない。)それを聞いて趙州は、穿いていた草鞋を脱いで頭に載せて、サッサとでて行ってしまった。(万松自分が南泉であったなら、この趙州をも一刀両断にしてくれたものを。)この様子を見た南泉、「そなたがあの場にいたら猫を斬らずに済んだであろうに」と云った。(弟子を賞めるのはいいが、自分の口がゆがんでいるのに気づかないとは、見苦しい限りよ。)  
[頌]東西両堂の雲水たちが猫児を争い、喧々轟々と糸の乱れたごとく、攫み合いでもする勢いだ。(道理があるならば、静かに論じても分かる。高声に論ずるのは道理がないからである。)そこに南泉がでてきて、よく正邪を試験した。(南泉、一見の下に正邪を見抜くこと、鏡がものを映すがごとく、少しも昧ますところがない。)この利刀は猫児を両段したばかりでなく、万物共に境像亡じ、有無迷悟の妄分別も消えてしまった。(龍王が風雲を起こすときは、その勢いすさまじくして寄りつき難いが、南泉もそれと同じようだ。)  
このような痛快な手際は、千古のやり手として賞讃しない者はない。(だがここに、万松ひとり断固として承知しないぞ。)斬猫のこの道は今なお厳然として滅びない。(死んだ猫の頭など何の役に立つものか。道ありなどとはとんでもない。)《以下、略》」。  
万松行秀の評唱にそって読むと、南泉の指導下で、おそらくは上司に自由にものを云う雰囲気のない権威主義的な人間関係の中で、雲水たちがなにやら不満をつのらせていたらしく、その状況で猫問題が発生したとも解釈できます。その時、南泉は雲水達の迷妄を立つために力ずくで猫問題を消去しましたが、それは殺生を禁じる原則を破って猫を殺生するという暴力によってでした。猫が消えれば、猫問題は消えます。しかし、雲水たちの不満、未熟さは残ります。さらに、猫を消去することで、南泉が示した「万物共に境像亡じ、有無迷悟の妄分別も消える」働きの模範は、激しさを伴う決断の自由さを示すことに成功したかも知れませんが、猫への対他的配慮を完全に欠落させています。また、純粋に技法上の視点から考えますと、弟子の成熟度を無視した指導であることと、禅の修行プログラムがもともと基礎にもっている矛盾的関係すなわち雲水達が自立的な地平を目指すという自力の行為が、指導者によって外側から強制されるという禪の修行のうちに内在している解決できない問題点が最悪の形で露出しています。  
他方、指導者のハタラキの工夫がうまくいった逸話は、「二十八久しく竜潭をしたう」です。「竜潭和尚はあるとき、徳山が教えを乞いにやってきて、夜になったので、「夜もだいぶん更けてきたから、そろそろ山を下りたらどうかね」と言われた。徳山は仕方なく別れを告げて簾を上げて外に出ようとした。ところが外が真っ暗なので引き返してきて、「辺りが真っ暗なものですから」と言った。竜潭和尚は提灯に灯をつけて渡してやった。徳山がそれを受け取ろうとすると、竜潭和尚はそれをフッと吹き消してしまった。徳山はそのとたんに悟りを開いて、竜潭和尚に深々と頭を下げた。「お前さん、一体どうしたんじゃ」と言われた。徳山は、「私は今日からは、もう世界中の禅匠の言われることに迷うことはありません」と言った。明くる日になって竜潭和尚は説法の壇に登ると、「もし一人の男があって、剣樹のような歯と血をのせた盆のような口を持ち、一棒をくらわされても振り向きもしないようなら、いつの日か、誰一人として寄り付けないところに、自分自身の仏法を打ち立てるであろう。」と言われた。徳山はそこで持っていた「金剛経」の・・・注釈書を焼き捨て、礼を述べて山を下っていった。」。この逸話の示している竜潭和尚のすばらしいサービス精神は、資本主義社会でクリニックを開いている私などは爪の垢を煎じての飲まなければならない話です。この逸話は、竜潭和尚は話し合いで徳山の成熟度を充分に確認していること、竜潭和尚は徳山に説教をせず毀損もしていません。一連の脈絡をもった動きの中で工夫をこらし、徳山が新たな地平へ進むのを助けています。さらに明くる日に、竜潭和尚が徳山の「わかった」体験を強調して再確認していています。この再確認についてはくどい、老婆心だ、という見解も出されていますが、私は必要なのだと考えます。
禪語と二重拘束的言葉 
二重拘束状態についてもう少し考えて見ます。禅語録では、答えられない構造を持つ発言や問いがよくみられます。例えば「碧巌録」第二則「趙州の到道無難」に、「「最高の道は難しいことはない。唯だ取捨選択を嫌うのみ、そういう言葉が出てきたとたん、もう取捨選択であり、明々白々になってしまう。わしは明々白々のところには住まぬ。おまえたちは(それを)後生大事にするのか」その時ある僧が問うた、「明々白々のところにいない以上、何を後生大事にすることがありましょう」 
趙州「わしも知らぬ」 
僧「和尚は知らないのなら、どうして明々白々のところに住まぬと申されたのですか」 
趙州「問はそれでよろしい。礼をして退れ。」。 
同じ逸話は、「碧巌録」第五十七則「趙州の取捨選択を嫌う(一)」では、 
「僧が趙州に問うた、「至高の道は難しいことはない。ただ取捨選択を嫌うのみ」という。取捨選択しないとはどういうことか」。 
趙州「天上天下、唯我独尊」。僧「そいつはまだ取捨選択だ」。 
趙州「いなか者め、どこが取捨選択だ。」」。 
この逸話は、私たちが自然界で生き抜くために言語活動という行動戦術を使用していることの問題点を鮮明にさせています。私達は言語活動を逃れて私達の活動を語ることはできません。私達はあくまで言語表現によってすでにある言語表現の限界をこえてゆく以外には方法は有りません。とすれは、この公案が示している、「唯だ取捨選択を嫌うのみ、そういう言葉が出てきたとたん、もう取捨選択であり、明々白々になってしまう。わしは明々白々のところには住まぬ。」という表現と、趙州の「天上天下、唯我独尊」という表現は「取捨選択」ではないという表現がどう違うのかを問い詰めなければなりません。この言語表現の持つ問題は、禅では古くからあったようです。 
「心は色でないから、色には属しない。心は色でないものでもないから、色でないものにも属しない。心が何ものにも属しないところ、そこが解放にほかならぬ。もしも、禁戒をやぶったとき、われわれはあわてるが、そのあわてる心が、不可得であると知ると、すでに解放を得たのであり、天に生ずることは不可得であると知る。(じつは)空だとしるけれども、空も不可得、不可得だと知るけれども、不可得も不可得なのだ。」(禅思想、柳田聖山「二入四行論長巻子」)。 
また、「碧巌録」第十三則「巴綾の「銀の椀に雪を盛る」には、「「楞枷経」に云う、「仏によって説かれた心を根本とし、門のないことを仏法への門とする」。馬祖が云う。「すべて言葉があれば、提婆(「碧巌録」の注:禅宗では西天大十五祖とする。提婆宗は・・・提婆が鋭い論法で外道を論破したことから、言句による教示の立場を指す。)の根本の立場だ。この言葉こそ中心としている」。おまえたちは皆、わしの門下として逗留している。提婆の根本の立場を究明できただろうか。・・・「言葉がそうだ」と言えば見当外れ、「言葉がそうでない」と言っても見当外れ。さて、馬太師の言いたいことはどこにあるのか。 
後に雲門が云った、「馬大師の見事なお言葉だが、それについて問う人がいない。」 
ある僧が問うた、「提婆の根本の立場とはどのようなものですか。」 
雲門「九十六種(の外道)のうちで、おまえが最低の種類だ」。」。 
これらの禅者の表現にみられるように、禅者は到達した自分の体験を表現するために既成の表現を無限に否定して行く行為をつみ重ねていきます。そのために、思考を規制してくる既にある表現を否定し、さらには言語表現自体を否定しますし、個人の思考を規制してくる命題を求める態度を鋭く排除する表現も混在します。その結果、言語表現に関する態度が極めて錯綜して理解が困難となります。 
このような錯綜した言語表現を、「見性」という体験によって個の変容を目指す試みの次元で、錯綜した言語表現を論理的に整理することは意義をもつのかとうかは不明ですが、理解するためには、やはり、論理的に解決すべきものは論理的に解決すべきだと思います。そこに、西欧文化の優れた特徴を認めます。矛盾律は「合理的思考の根本原理」(現在論理学、末木剛博、弘文堂)とされています。ところが、上に見てきたように、禅語録には意識的と言ってよいのでしょうがこの矛盾律に違反する表現がよく見られます。これはどうしてでしょうか。これは、ある次元の世界を突き抜けた体験の表現は、突き抜けられた次元の表現と混在しているからだと思います。つまり、これらは、ラッセルのパラドックス(ラッセルのパラドックス、三浦俊彦)が表現している構造と体験の次元で行っているのです。「矛盾律は「(pそして非p)ということはない」と表現され、「一つの命題が肯定されるとともに、否定される、ということはない」、または「一つの命題が真であるとともに偽である、ということはない」、または「命題は自身に矛盾することは許されない」とも言うことができます(現在論理学、末木剛博、弘文堂)。ラッセルのパラドックスでは「嘘つきのパラドックス」が有名ですが、それは「嘘つきが「私は嘘をついている」という発言は嘘かほんとうか」というものです。このパラドックスの場合には、ラッセルは「自分が自分自身の規定に当てはまるかどうかを問うことが間違いである」(自己言及の禁止)という規則を作って解決しようとしたことはよく知られています(ラッセルのパラドックス、三浦俊彦)。ラッセルのパラドックスは、「正しい前提から正しい推論を経て間違った結論(たとえば矛盾)に至る」ことがなぜおきるのかを解く一つの工夫です。BatesonGらも二重拘束状態でのべた論文でラッセルのTheoryofLogicalTypesを「クラスとそのメンバーには割れ目・断裂があってクラスはそれ自体のメンバーになれないし、その一つのメンバーはクラスになれない。というのは、クラスとそのクラスのメンバーは異なった抽象のレベルにあるから。」と説明して、二重拘束状態からの脱出の方向を探っています。私たちも、禅語録を読む場合にも、継起的にあらわれる言葉の間に、次元が異なることばが並存していることに注意して論理性に区別して読む必要があります。 
このようにして、「碧巌録」第五十七則「趙州の取捨選択を嫌う(一)」を考えますと、「至高の道は難しいことはない。ただ取捨選択を嫌うのみ」という場合の「取捨選択しないとはどういうことか」という論理的次元と趙州の「天上天下唯我独尊」という次元を区別する必要があります。「ただ取捨選択を嫌うのみ」という思考や行動を規制し隷属させようとする言語表現の向こうに「天上天下唯我独尊」という「お前」の世界があることを示そうとしています。しかし、体験の次元でも、言語表現は演繹的に自動的に進行するという性向をもっていますので「天上天下唯我独尊」も「取捨選択」の対象に引き戻される言語表現になる可能性を絶えず持っています。言語による論理が自動的に展開する方法は、演繹法として完成されて、人間がこの自然界で生き延びるために使用する方法の大きな一つとなっています。しかし、言語表現が一定の理論として公式化されそれが論理的に自動的に展開すると、その言語表現と言語が機能する状況とのあいだに不可避にずれが生じます。わたしは、「エビデンスに基づく治療のアレゴリズム」という思考方法に馴染めない理由に一つは、論理の演繹的展開と言語が機能する世界とのずれが生まれることにあります。私には人間の活動が言語によって完全に呪縛されているとは思いません。言語の向こうにある対人交流や自然・宇宙との交感などの体験領域があり、それを生きていると実感しております。しかし、そうではあっても、言語活動が人間の体験を深め明瞭にしてゆくことは間違いのないことと思います。そのためには、公式化された思考と行動を規制してくる言語表現には絶えず注意を払う必要がありますが、論理的に物事を整理する方法を無視すべきではありません。 
話はずれましたが、師によって修行者は二重拘束状態に落とされることをみてきました。この二重拘束状態からの脱出を示唆する言語表現には、論理的な誤謬があるために理解しにくい問題点があることをしてきしました。しかし、この論理的な誤謬を整理することと、体験レベルで二重拘束状態を脱する問題はことなります。禅の最終目的は、体験レベルで二重拘束状態を脱するということですが、それを検討する前に、二重拘束状態を脱する方法の軸となっている師と修行者の関係を検討します。
 
禅の修行における師と雲水の関係

 

臨済宗では、恐らく師家の指導・操作により、修行者は二重束縛の中で今迄の考え方・行動パターンを破壊して、新たな経験の地平(それは如来蔵思想と結びついているようですが)に踏み出すのだと思います。その悟りとは、おそらくは、ヴィントゲンシュタインの言うように、私たちの行動の前提となり私達の生活を意識的・無意識的に規制している「世界像」の一部もしくは大きな部分を崩壊させて、別の世界像の入り口に気づき、至り、立つことのようです。つまり、新たな体験の地平の入り口に至ることです。もしそうだとすれば、言葉で表現するのが困難だという理由で、紋切り型もしくは月並みの表現を反復することは、修行者が新たな地平に入り込むことを遮断してしまう危険をもちます。禅は悟りに至った、つまり新たな地平にいたった体験を何度も反芻しながら、その地平を表現してきました。それが、禅の理論なのだと思います。一定の理論ができると、私達はその理論に拘束されることになります。たとえば政治党派のイデオロギーは、その典型例で、多くの人は自分で善し悪しを検討することなく「権力闘争」で喧嘩し人をも殺してきました。禅では、その危険に非常に敏感に反応してきたようです。そのために、逸話を集めて体験によって相対的に自由に理解して行く方法が取られているのかもしれません。大慧という人は看話禅(先師たちの逸話を集成して悟りへの修行に役立てる方法をとる禅)の大成者だそうですが、逸話が理論化されるのを嫌って「碧巌録」を焼き払ったそうです。 
禅語録には絶えず他の人が作った言葉に呪縛されることを嫌い否定しようとする強迫的な言動がみられます。これは、どうしてなのか考えてみる必要がありそうです。禅の考えを率直に表現しているように見える「六祖壇経」(六祖の戒壇院説法集)を手がかりに考えてみます。その本で、恵能は自分の中に仏性が在り、それを見出すことが修行である、と述べています。例えば、三学(戒:戒律、定:瞑想、恵:智恵)について「心の根底にあやまりのないのが本来の戒だ、心の根底に乱れのないのが本来の定だ。心の根底に愚かさのないのが本来の恵だ。」と、戒定恵を個人の心のあり方であると主張しています。この意見が、如何に外側からの規制を徹底的に排除した意見であるかは、他の考えと比較すると鮮明となります。例えば、早島鏡正の「ゴータマ・ブッダ」では、戒は出家者と世俗の生活者が実践すべき戒めと規律、定は心を静め真理を体得する方法、恵を戒と定でえられる解脱(「あらゆる束縛から離れて、主体的自己を実現した自由の境地」)と述べています。これに対して、恵能は、全ての仏性は「本来」、個人の心の中にあります。あらゆる経典と言葉は、個人の心の中にある仏性を人間が表現したものであるから、その経典と言葉に拝跪することは本末転倒であることになります。これが、「教外別伝」「不立文字」「見性成仏」の元になる考えと思います。この考え方は、フォイエルバッハのキリスト教の神概念にたいする批判に類似しております。それは、本来は人間に内在する良い面が外在化されて神として創造されたにもかかわらず、人間は自分達の作った神に膝つき、それに隷属している、という自己疎外の論理に基づくキリスト教への批判です。恵能の思想を、推し進め明瞭に表現しているのが「臨済録」です。しかし、「自分の中にある」と説教されても、確証するのは困難です。「君たちがもし、この世に生まれて死ぬこと、つまりこの世をでていくことと住まることを、あたかも衣服を脱いだり着たりするように思いのままでありたいと思うなら、たったいま、わしの説法をきいている男を見つけ出すことだ。この男は、身体もなければ特徴もなく、根本もなければ始めもなく、何処にとどまりようもなく、活きてぴちぴちだ。・・・探せば探すほど遠ざかり、呼べば呼ぶほどすれちがうから、これを秘密とするのである。」と臨済が述べるように、秘密なのです。「お前がそうだ」と言われても、修行者も分からない、師家に聞いても「分からない」秘密です。そこで、修行があります。この修行は、だから、見出されるべき仏性は、本来、その個人にあるのに、自分の力だけではそれを見出すことはできない。そのため、その個人がその仏性を発見するために他者の指導によってもたらされるという、奇妙な回りくどい構造をもちます。「六祖壇経」では、「もし、自分で悟れないものは、友人を求めて見性もらわねばならない。友人とは何ぞや。最高の乗りものを手にいれて、ずばり道をおしえてくれる人である。友人はまことにすばらしい、そのわけは、教え導いて仏におめにかからせていただけるのである。」と友人の意義が述べられています。そして、「見性」した時に、「君たち、わしの死後といえども、わしの教えをものにしたものは、いつもわしの法身が君たちのそばを離れぬ」(六祖壇経)と、釈迦以来の祖師達との同一性が述べられます。このように、奇妙な回り道を必要とする「見生」のために師は友人として決定的に重要です。 
師と修行者の理想的な関係が、「碧巌録第十六則鏡清のつつき返し」にでています。「彼(鏡清)はうまく機微をとらえてそれに応じた説法をすることができた。衆僧に教示した、「およそ修行者は、啐啄を同時にとらえる眼を持ち啐啄を同時になしうるはたらきを備えてこそ、禅僧といえる。母がつつこうとすれば子もつつかぬわけにいかず、子がつつこうとすれば母もつつかぬわけにはいかないように」。ある僧が進み出て質問した、「母がつつき子がつつき返す。これは和尚にあっては、何ごとを成しえるのでしょうか」。鏡清「良い知らせだ」。僧「子がつつき母がつつき返す。これは修行者にあっては、何ごとを成しえるのでしょうか」。鏡清「面目がすっかりあらわになる」。このように鏡清の門下には啐啄の機微ということがあった。」更に、この話しに「そこで南院は衆僧に教示した、「各地の禅師たちは啄を同時にとらえる目を持つだけで、啐啄を同時になしうる働きがない」。ある僧が尋ねた、「啐啄を同時になしうる働きとはどんなものですか」南因「やり手はつついたりつき返しいたりしない。つつき合ったらともに駄目になる」。僧「やはり、私にはわかりません」。南院「何がわからないのか」。僧「忘れました」。南院は僧を打ちすえた。僧は承服しない。南院は僧を追い出してしまった。」がついています。師にも修行者にも理論への囚われからの脱皮が絶えず要請されます。師には具体的な工夫を必要とされます。修行者には反逆心が必要です。しかし、「追い出す」という強圧的方法は、精神療法では避けるべきでしょう。 
私たちは、自分が現在の地平を貫いて新たな地平に達するために、他人(親、友人、師)の援助を受けなければならないという回り道を必要としますが、この回り道には、自己と他者の間に問題を引き起こすという構造があります。師と修行者の関係が理想的な場合には、修行者が現在の地平を否定して新たな地平へ向かうことを試みている時に、師家は修行者が向かう新たな地平についてはっきりとは知らなくともその修行者が向かう地平を感じ取り細心の注意を払って指し示し、修行者はその援助を受けながらすすむと言う師と修行者の関係が成立します。 
「従容録」「第四九則洞山供真」には以下の文章があります。「洞山が師の雲巌の真、すなわち画像を祀って供養する際に「かつて洞山が雲巌のもとを辞する時に、雲巌に向かって、和尚が万一遷化の後に、和尚の真を写し得ているかと問われたら何と答えたものでしょう」と問うと、雲巌が、その人に向かって、「ただこれこれと道(い)ってやったらよい」という話を挙げた。すると一僧がでてきて、「雲巌禅師が、先にただこれこれと道われたその意味はいかなるものでしょう」と訊ねた。洞山は「私はあの時は危いところ、先師雲巌の意を錯って理解しようとしていたよ」と云った。僧は不審を懐いて云った。「雲巌和尚は仏性そのものになりきった上での働きに、仏性があると思っていたのでしょうか。それともないと思っていたのでしょうか。」洞山は、「もしあることを知らなかったら、どうしてただこれこれと道うことを知っていよう。もしあることを知っていればどうしてあのように道うであろう。」」。この逸話の師達のあいまいなものの言い方は先に述べたように考えると理解可能となります。 
「第五〇則雪峯甚麼」も同じ主題を述べていると解釈できます。同じ話は「祖堂集」にも出ていてそちらの訳の方が分かりやすいのでそれを使用します。雪峰と巌頭はともにかって徳山のところで修行した仲間です。ある日、二人の僧が雪峰の庵にたずねます。「和尚は、・・・身を外にのり出させていう、「何だ」その僧は答える「何だ」雪峰はすぐさま頭をたれて庵内に入る。」その後、二人の僧は雪峰の手紙をもって巌頭のところややってくる。いろいろあって、最後に、巌頭が「末期の一句について」僧に言う。「わしは徳山と同じ根から生まれても雪峰と同じ枝で死ぬことのできぬ男だ。おまえ、末期の一句をしりたいなら、ほかでもないこれがそれだ。」最後のところは、「従容録」では、「巌頭はそれならばという風に「雪峯と私とは同じ所で生まれたが、雪峯は雪峯、私は私で、同じ所で死ぬとは決まっていないからな」といった。更に「そんなに聞きたいならば云って聞かせよう。末後の一句は只這這(ただこれこれ)」雪峯は是甚麼ぞ(これなんぞ)といい、巌頭は只這這(ただこれこれ)という。是同か是別か。言語文字の尽きたところ。」これは、師が修行者にある地平を指し示すのですが、師の居る場所とは異なる場所を修行者がめざさねばならないことも暗示されています。先に、神会の「六祖壇経」では「君たち、わしの死後といえども、わしの教えをものにしたものは、いつもわしの法身が君たちのそばを離れぬ」と、釈迦以来の祖師達と同一の地平に到達するという悟りの同一性について触れました。しかし、「第五〇則雪峯甚麼」では、修行者が到達すべき新たな地平は個々人によって異なるのか、同一の地平ではあるが占める位置が異なるのかはっきりしません。禅語録では地平の同一性・同質性を支持する表現は多く見られます。同一性を想定する法身という語は、唯一の実体があるかのような錯誤させる言葉です。禅の考え方のなかには、普遍的な超個性的なものが個人に宿り同一になるという考えと、独立した個人がいる同質の地平があるという考えが混在しているようにみえます。私は、個人が到達すべき場所は個々人によって異なるという異質性を強調する考えに賛成します。が、その場所の存在する場所が所属する地平自体が異なるのか、それとも同一地平内ではあるが場所が異なる位置をしめるのかについては私の結論を保留にしておきます。言い直しますと、私は、釈迦以来の祖師達を独立した個人ではあるが同一の集合体に属していると考えるか、独立した個人は一つの集合体には属さないで単一で存在するのか、については未決定にしておきます。 
さて、修行者が回り道を経て向かうことを示す言葉は禅語録にはたくさんあります。「碧巌録」第十四則と第十五則もその例と思います。 
「碧巌録」第十四則「雲門の対一説」には、「禅では、仏性ということを知りたければ、時機が来て因縁が熟すのを見て取らなければならない。」とあります。「碧巌録」第十五則「雲門の倒一説」では、 
「僧が雲門に問うた、「現前しているはたらきではなく、現前している事実でもない時はどうですか」。 
雲門「倒一説」とは 
「これまでの諸聖人は一つの法さえ人に与えたことがあっただろうか。どこにおまえに与える禅の道というものがあるだろうか。おまえが地獄に落ちるような業を作らなければ、当然地獄に落ちる事も無いし、おまえが天堂に生まれるような因をつくらなければ、当然天堂に生まれる果を受けることもない。一切の業縁というものは、みな自分で作って自分で受けるものなのである。 
・・・三つの玄妙なはたらきというものがある。体中の玄(本体の玄妙さ)・句中の玄(言葉の玄妙さ)・玄中の玄(玄妙な中でも玄妙なるもの)である。古人はこの境界に至ると、その完全なるはたらきが大きな作用を発揮し、生に遇えばおまえと共に生き、死に遇えばお前と共に死ぬ。虎の口の中に身をゆだね、手足を投げ出し、千里万里もおまえが銜えゆくままに任せるのである。何故か。究極の一手を本人に打たせねばならないからだ。」と説明されています。 
また、次のような例もあります。巌頭と雪峰がある宿にきていた。巌頭は寝てばかりいて、雪峰は坐禅ばかりしていた。雪峰胸をさして、「此所が落ちつかない」という。そう言って、いままで塩官や洞山などの師匠に言われてきた事を思い出す。巌頭は「いきなりどなりつけていう、「そんなことでは、自分一人救えぬわい。」雪峰「これからさき、どうすればよろしいか」巌頭「これからさき、広く正法を宣揚しようとおもうなら、一つ一つ、自己の胸中より涌きださせてきなさい。そいつとともに天にかぶさり地にかぶさってゆくであろう。」」雪峰は、それを聞いて大悟した、という(祖堂集)。このように、自分の方向を定めるために、師・友人との関係という回り道をへながら、自分の行くべき方向を自分で定めねばなりません。 
そうは言っても、禅の修行の本には悟りの境地という「もの」が実体化され個人がそこに消えて行くような表現や、悟った状態の同質性が想定される表現が使用されており、更に人間は諸物質の寄せ集めであり無自性であり個我はないという伝統的な考えがあります。そのために、師の修行者にあたえる危険性についての認識がなく修行者に破壊的な作用をもたらす可能性も絶えず再生産されています。是は、精神科・心療内科・心理療法士の業界団体が患者向けに出したパンフの中にみられる、自画自賛の治療者像と同じです。白穏が正受老人の所で修行したことを書いたところで述べたように、すぐれた師であっても、修行者の自我の殻(すでに作られた適応行動パターン)を力ずくで破壊してくる可能性があります。そのために、この「友人」といわれている師については、その果すべき役割、義務、責任、役割の限界が批判的に取り上げられるべきです。しかし、大乗仏教では、この「友人」「悟った人」の指導については、その人達の慈善行為・利他行為であると言語表現され賞賛されるために批判的に検討されることは理論的・方法的にはありえません。指導の失敗は、すべて修行者の来歴の因縁(現在的な表現では、能力)の問題にされます。 
私は、資料にもとずいて云うことは出来ませんが、修行の理論構成と私の経験から、修行者の人格的破壊に至った事例は避けられないはずだと推測しています。繰り返しますが、仏教にはチェックして、補正する理論・方法がないからです。 
このように、回り道の問題があるために、その人が自分を発見するのを手助けするという方法は、重大な問題を生み出します。つまり、「これがお前の正体」だと押し付けて、ある人の恒常的な行動パターン=性格を抑圧し、解体して、教義を注入して洗脳する危険があります。たとえば、ミッシェル・フーコーは「人間などというものはない」と皮肉っぽく宣言し、サルトルの「人間は自由であることから逃れることは出来ない」という主体性論を無視して、人間が身体的・精神的に規律・理性などの名のもとにどのように型にはめられ、作られて行くのかを検討しました。何の本か忘れましたが、ミッシェル・フーコーがサルトルの自由論は、私の青春時代には拷問であった、というような発言を読んだ時に少しびっくりしました。しかし、個人に内在すると想定される価値が外側から強制されると、強制された側の人間にとって「お前は自由な主体なのであるから、責任をもって自由に決断することは避けられない」という思想は拷問に近いものになることが納得されます。ミッシェル・フーコーの方法は、一見、環境が人間を規定するという古い命題をやきなおした方法をとっているように見えましたが、じつは主体性論の持つ拷問的な役割をふまえて、その考え方も批判的に見る視点から、人間が環境に如何に馴化されてゆくかを歴史的に明らかにして、人間の自由を間接的に護って行くという戦略をとっているのだと、理解しました。相手にとって良いことだと思っていても、相手のためにする方法が相手にとっては拷問的で破壊的に作用することがあることに敏感である必要があります。身体的に暴力を振るいながら「この痛みを、お前の精神の変革の糧にしろ」などという、旧・日本軍隊で流行していたと云われている行動様式は、いまだ、私達の社会には温存されています。その一つの極端な現れがオームの「ポア」=救済的殺人論だと思います。同じことは、精神医学の精神療法でも絶えず問題になりますが。「松蔭寺」には、白穏とともに修行の途上でなくなった多くの修行者の墓もあるそうです。恐らく、美談だけではすむまいと邪推しています。修行の途中で倒れた人がいるなら、その人に対して指導者はどのようにふるまったかが検討されなければなりません。 
次の逸話は、師と修行者がうまく行かない場合の対処法の一つを示しています。 
「雪峰が飯たきの長に当って、米を選り分けていたとき、先生はたずねた、「砂を選りだして米を除いているのか、それとも米を選りだして砂を除いているのか」 
雪峰「砂も米も一挙に除きます」 
先生。「弟子たちに何をくわせるのだ」 
雪峰はそこで米桶をふせてしまう(ひっくりかえした、碧巌録)。 
先生「お前がこの次第では(お前の因縁はここにはない、碧巌録)、どうでも徳山に行かねばならぬな」」(洞山録)。師は修行者と関係を持つ場合に、この逸話が示すようにその修行者がもっともよい道を選べるように配慮すべきであると思います。 
先に述べましたように、二重拘束状態をまとめたBatesonG,らは、ZenBuddhismの修行者が病者とことなるのは、修行者(受け手)が師(.与え手)に反撃できる自由を持つことですと指摘しています。この表現は、宗教的修行と精神療法の同一さと違いを暗示しています。ここで、禅の修行における師と修業者の自由・活発な関係を具体的に述べている文章および逸話を紹介します。  
「臨済録」には、師家と弟子との活発な関係を表現した文章があります。  
「・・各地から学生がやって来て、主客が顔を合わせると、ただちに一言あって、相互に相手を分別する。学生は師家の鼻柱に、手練手管の謎をかけ、「どうだわかるか」と問いかける。君がもし、それを誘いだと見ぬけば、ひったくって(相手を)穴の中になげこむが、学生はすぐに正気にかえって、師家の答えを要求する。師家は前と同じように、それをひったくる。「すばらしや、偉大な師匠よ」と、学生はいう。「貴公、もののよしあしもおわかりでない」  
こんどは逆に、師家が手の込んだ誘いをかけて、学生の前にひけらかす。男は心得て、主人ぶらず、誘いにのらぬ。師家は、たちまち半身をあらわす。学生は、すぐにどなりつける。師家は差別の言葉をかけて、相手をゆさぶる。学生はいう、「よしあしも心得ぬおいぼれ坊主め」。師家は、「ほんものの修行僧だ」とほめる。  
しかし、各地の禅坊主ときたら、真偽のほども心得ず、学生がやって来て、悟りと寂滅(禅定)、仏の三身、知恵と境地などについてたずねると、ボケ老人はすぐに相手を説得にかかる。学生にあしざまに非難されると、棒をにぎって、「貴公は礼節を知らぬ」とたたく。もともと、君たち師家のほうが、ボケ込んでいるだけが。相手を叱ることなどできん。  
さらに、ある種のてんから何も心得ぬ悪知識は、口からでまかせに、よいお天気だ、よい雨降りだ、よい灯籠だ、よい丸柱だといいまくる。君たち、自分の眉毛が何本残っているか、判っているのか。・・・例の人のよい学生たちに、くっくっと口をおさえて、笑われるにちがいない、「おいぼれ坊主め、世界中をまよわせる」」。この、文章では、師と修行者の修行関係は、教えるものと教えられる役割をもつものとした固定したものではなく、おのおのが主となり客となり、敏速に相互に反応しあい活力にみちた関係であることが示されています。そして、以下のように師と修行者の間に見られる、主と客の関係について具体的に記述しています。このようなことは、診療所では、患者と医師との間で日ごと繰り返されているのかも知れません。  
「主と客が顔をあわせると、もう挨拶のやりとりである。あるときは相手に応じて、自分を(よく)みせる。あるときは、身ぐるみ動き、あるときはさそいをかけて、よろこんだり怒ったりする。あるときは自分を半分だけみせ、あるときはライオンの背にのって、文殊菩薩の境地をみせ、あるときは象の背にのって、普賢菩薩の境地を示す。まともな学生が来て、声をあげてどなりつけ、まず膠の壷を一つとりだす。師家はそれがさそいと見抜けないで、さそいにのって型どおりにふるまう。学生は、どなりつける。向こうはそれでも、手をはなそうとせぬ。これは病い膏肓に入って、医者もお手あげというやつである。客が主を試す場合である。  
次ぎのは、師家のほうは、何ももちださない。学生が質問する尻からすぐにとりあげてしまう。学生はとりあげられると、必死にはなすまいとする。これは、主が客を試す場合である。  
ところが、ある学生は、一つの清浄な境地を装って、師家の前にあらわれる。師家はそれがさそいだと見抜いて、ひったくって穴の中に投げ込む。学生は「すばらしい師匠だ」という。師家は、「馬鹿ものめ、よしあしもわからん」という。学生はあたまをさげる。これは、主が主を試みる場合である。  
さらにある学生は、自ら首かせをはめ、くさりを引きずって、師家のまえにあらわれる。師家は、もう一つの首かせと、くさりをつけてやる。学生はよろこんで、わけがわからくなる。これは客が客を試す場合である。」。  
師と修行者の関係のこれら一連の諸問題を集約的に示し様々に考えさせる逸話が「碧巌録」第二十則「竜牙の祖師西来意」にみごとに描かれています。長いのですが、問題点が描かれ、さまざまな視点が提出され、私たちに思考させることを誘発する文章です。引用します。  
「竜牙が翠微に問うた、「祖師西来とはどういう意味ですか」。(あちこちで言い古された公案だが、突き詰めて考えなければならない。)  
翠微「わしに禅板をとってくれ」。(禅板で何をするんだ。あやうく思い通りにさせるところだった。危ない!)  
竜牙が翠微に禅板を手渡した。(やはりしっかり捉えていない。青龍に車をつけることはできても、青龍そのものは乗りこなせなかった。残念ながら、面と向かいながらしっかり受けとめていない。)  
翠微は受け取るとすかさず打った。(当たったぞ。だが死人を打つことができたとしても何にもならない。やはり第二義門に落ちてしまった)  
竜牙「打つことは構いませんが、結局祖師西来の意はないですね」。(こいつの話は第二義門に落ちた。泥棒が逃げてから弓を張っている)  
竜牙はまた臨済にも問うた。「祖師西来の意は何ですか」。(あちこちで言い古された公案をまた問うた。半文の値打ちもない。)  
臨済「わしに蒲団をとってくれ」。(曹渓の流れに立つ波が皆同じようであれば、数えきれない一般の人々が陸にいながらおぼれることになるぞ。同罪に処して同じ穴に埋めてしまえ)  
竜牙は臨済に蒲団を手渡した。(相変わらずしっかり捉まえていない。相変わらず愚かな奴だ。越国も揚州も同じようなものだ。)  
臨済は受け取るとすかさず打った。(当たったぞ。だが残念ながらこんな死人を打ったのでは、前とまったく同じことだ。)  
竜牙「打つことは構いませんが、結局祖師西来の意はないですね」(幽鬼のすみかで暮らしを立てているのは明々白々だ。うまくやったつもりが、泥棒が逃げてから弓を張っている)  
・・・・・  
(竜牙が)寺の住職となった後、ある僧が教えを乞うた、「和尚はあの時二老師を肯われたのですか」。竜牙「肯うことは肯ったが、結局祖師西来の意はないのだ」。竜牙はまわりの情勢によく目をくばり、病に応じて薬を与える。しかし、わしは違う。僧が「和尚はあの時二老師を肯われたのですか」と問うたら、わかろうがわかるまいが背骨めがけてすかさず打つのである。こうしてこそ、翠微と臨済とを推し立てるだけでなく、質問にも背かない  
・・・・・  
竜牙はまず翠微と臨済とに参禅し、のちに徳山に参禅した。そこで問うた、「拙者が鏌鎁の剣を持って先生の首を取ろうとしたらどうしますか」。徳山は首を伸ばして言った、「ストン!」。竜牙「先生の首は落ちました」。徳山は微笑んで(そのまま)やめた。つぎに洞山の所へ行った。洞山は問うた、「いままでどこにいた」。竜牙「徳山の所から来ました」。洞山「徳山は何か言ったか」。そこで竜牙は前の話を挙げた。洞山「彼は何と言ったのだ」。竜牙「何も言いませんでした。」洞山「何も言わなかったなどと言うでない。まあ徳山の落ちた頭をわしに見せてみなさい。」ここで竜牙は悟るところがあった。そこで香を焚き遠く徳山の方を望み、礼拝懺悔した。徳山はこれを聞いて言った、「洞山のおやじはことの善し悪しがわかっておらん。この男が死んでからどのくらいたったことやら。教えたとしても何の役に立とうか。まあ奴にはかってにわしの頭を担いで天下を歩き回らせてやろう。」  
・・・・・  
彼(竜牙)がこの問題を提出したのは、・・・おやじ(の力量)を見抜こうとしたものであり、また自己のこの大事を明らかにしようとしたものである。言葉もはたらきもむやみに発せず、年期をかけたところに現れ出る、と言えよう。  
・・・・・  
ごらん、五洩は石頭に参禅し、まず自ら約束して言うに、「もし一言でお互いに通じ合えば留まり、そうでなければ去りましょう」。石頭は姿勢を正して坐ると、五洩は袖を払って出た。石頭は五洩がものになるやつであると知ったので、教えを示した。しかし五洩はその意を理解せず、別れを告げて門の所まで出ていった。石頭はこれを呼んで言った、「きみ!」。五洩は振り返った。石頭「生まれてから死ぬまで、つまるところは「これ」だ。頭をめぐらして、決して他にもとめるんじゃないぞ」。五洩は言下に大悟した。  
・・・・・  
二老師(翠微と臨済)は別々の師匠の法を嗣いでいるのに、どうして答えは似通い、やり方は同じなのか。古人は一言一句いい加減に扱わなかったということを知らなければならない。  
彼(竜牙)は後に住職となり、とある僧が問うた、「和尚はおの時二老師にまみえ、彼らを肯われたのですか、肯われなかったのですか」。竜牙「肯うことは肯った。しかし結局祖師西来の意はないのだ」。泥のなかに棘がある。緩めて人の自由にさせればもう第二義門に落ちる。このおやじはしっかり掴まえることができたので、洞山下の師匠となり得たのだ。もし徳山や臨済の門下となっていたら、必ずや別の生きざまがあったであろう。もしわし(圜悟)であれば違う。ただ彼に「肯うことは肯わなかった。しかし結局祖師西来の意はないのだ」というだけだ  
・・・・・  
竜牙がそのように(「結局祖師西来の意を問うたら、彼に「西来に意はない」と言った、ともしおまえたちがこのように理解するならば、無為の悟りの境界へとおさまりかえってしまう。だから言ったのだ、「必ず生きた言葉を参究せよ。死んだ言葉を参究してはならない。」生きた言葉で合点すれば、永久に忘れない。死んだ言葉で合点すれば、自分すら救うことができない。  
竜牙がそのように(「結局祖師西来に意は無い」と)言ったのはなかなかよいのだ。古人(洞山良价)は「持続するのは非常に難しい」と言った。古人は一言一句をいい加減に扱わない。前後は照応し、方便と真実があり、智恵と行動があり、主客ははっきりしており、縦横自在に(主客が)入れかわる。もしピタリと当てはまったところを分析しようとすれば、たとえ竜牙が禅の根本をはっきりつかまえていたとしても、第二義門に落ちてしまうのはやむを得ない。あのとき二老師は禅板と蒲団を求めたが、竜牙は彼らの意図を知らなかったはずがない。彼(竜牙)は胸中にある事を顕しはたらかせようとしたのである。とはいえ、そのやりかたはなかなか手厳しいものであった。竜牙がこう質問したら、二老師はこう答えた。一体何故祖師西来の意がないのであろうか。こうなると、別に優れた所があることを知らなくてはならない。  
・・・・・ (雪竇の頌)  
廬公に渡しても(その禅板や蒲団が)何のお拠り所となろう。蒲団に坐り禅板に寄りかかって祖師の伝灯を継ごうとするな。見どころは、夕暮れの帰りゆく雲がまだくっつかず、遠くまで続く山並みのみどりが果てしなく幾重にも重なっている(その景観)。  
・・・・・  
死ぬような目にあって一気に打ち砕き、心の中には一事も無くなり、さっぱりとしてしまえば、拠り所など必要ないのだ。蒲団に坐ったり禅板に寄りかかったりしていて、いかにも仏法らしくふるまう必要はない。  
・・・・・ 「見どころは、夕暮れの帰りゆく雲がまだくつかず」と言うのはいささかよい。・・・帰りゆく雲がまだくつかないとき、おまえたちならどうする。  
「遠くまで続く山並みのみどりが果てしなく幾重にも重なっている」。またもや幽鬼に住処に入った。ここまで来ると、得失・是非を一気に押さえ込みさっぱりして、やっともう一息というところである。「遠くまで続く山並みのあおみどりが果てしなく幾重にも重なっている」。さて、これは文殊の境界か、普賢の境界か、観音の境界か。ここまで来ると、さて、いかなる人の境界であろうか。」  
禅語録を迂回路の方法として読んでいて、私は精神科治療に関連する三つのことを学びました。ひとつは、個人についての肯定的な感覚のことです。わたしは、認知療法などに典型的にみられる考え方にある種の異和を持っています。その考えは、基本的には個人を環境や社会に適応させるという考え方で、不適応を起こしている対人関係や社会関係の取結び方を明らかにして、学習・訓練によって適応的になるように対人・社会関係の取結び方を改革するというものです。また、仏教の十二縁起論に類似しているのですが、「欲望にとらわれ」る理由・原因を治療者によって分析され、解釈され、そのことを知ることが治療方法であるという、フロイドに代表される操作論や「無明」論にも異和を感じてきました。勿論、治療技術のレベルでは学ぶ点はたくさん在ります。その違和感は、個人は、まずもって、自分の存在を全的に肯定することが重要であるという前提が抜けていることによります。「六祖壇経」の全的肯定観については引用しましたので、臨済録から引用しておきます。臨済録は本全体が個人の存在に関して全的肯定観で溢れています。臨済は、述べています。「君たちの心の一瞬の清浄な輝きこそ、君たちの内なる法身仏であり、君たちの心の一瞬の無分別の輝きこそ、君たちの内なる報身仏であり、君たちの一瞬の無差別の輝きこそ、君たちの内なる化身仏である。」と、更に、「どんな環境も君をひっくりかえしに来られぬ。例えば、前世の悪い業のなごりや、ナラクに落ちるしかない五つの重罪でも、あちらから解放の海と変わる。」どんな悪条件もこの輝きのさまたげにならないと楽天的・軽躁的です。この、人間の直感的認識の陽性面は、人間は宇宙の中で、無機物から生命へ、そしてされに動物へ、動物から人間への推移を肯定的に考える三木成夫の個体・系統発生論に合致しています。しかし、現代の社会環境の重圧は軽躁状態だけでは追い返せないくらい重いものです。フランシス・ベーコンの絵では、私達の御先祖様の爬虫類や祖師や友がうちひさがれ、ふさぎ込み、吐き、叫んでいます。これもまた真実です。であったとしても、いまだ何かわからない不明の地平に向かうためには、うちひさがれ、ふさぎ込み、吐き、叫ぶそのただ中で、私達が自分が存在していることの、しかもただ存在していることに肯定的な感情をもつことが大事です。  
二つ目は、日常的な医療活動の中での工夫の重要性である。「般若とは、そもそも何のことか。般若は知恵のことである。どんな時にも一瞬一瞬の心をくもらせないで、いつも知恵を働かすのを般若の実践とよぶ。一瞬も心がくもると、たちまち般若はたえ、一瞬もこころが働けば、たちまち般若はすがたをあらわす。・・・般若は特定のすがたをもたない、知恵そのものである。」(六祖壇経)  
医療実践では、「場面/個人にそった即位即妙な反応・発言をする工夫・支援」が要請されていると思います。さまざまな臨床心理学派の公式から自由になろうと思います。機とは、山飛ぶ、とは躁的表現に表出されることではなく、具体的な状況で生き生きと絶えず工夫が絶えまなく行われる精神の運動のことではないか、と考えました。つまり、「公式言辞」(禅板や蒲団)―例えば森田療法派の「症状にとらわれるな」という恫喝、フロイト派の「療法士と患者の陰陽の転移分析とその解除」という「私の地平」への歩み出しを遮断する方法、ユング派の分析・抽出された行動・思考パターンを元型にしてそのコピーとして現代人にあてはめようとする安易な方法などーの反復行為を可能なかぎり中止することです。  
三つ目は、表現の問題です。禅では、言葉や理論を超えた存在や状態を大事にします。しかし、禅の表現はある所から、同じことの繰りかえしになっていないでしょうか。別に、禅の表現方法に捕われる必要はありません。  
末木文美士は「「碧巌録」読む」の中で、「「日面仏、月面仏」は、まさに馬祖の一世一代の大説法です。そういう不条理な、意味連関をはみ出した存在としての自分を、どう受け止めることができるかという問いかけであり、それを受け止めえたときに、そこではじめて、禅における自由というものが実現されてくる。」と書いています。  
「先生が明朝遷化されようとする前日の夕刻のこと、寺務長がたずねた、「和尚は四大不和のようす、今日はいかがですか。」その逸話は、祖堂集によれが馬祖の死の直前のことになっています。  
先生「日面仏もおれば、月面仏もおる」」(祖堂集)  
柳田聖山は、日面仏とは、無限に寿命の長い仏で、月面仏とは非常に寿命の短い仏と解説をつけています。この逸話について、「「維摩の一黙」と言います。文殊は、言葉では表現できないと言いながら、言葉を使って説明しています。ところが維摩は、言葉では言えないところがあるからこそ、自分自身、言葉を使わないで、態度で示した。言葉がない世界を、言葉を使わないということによって、教えたわけです。」と、「維摩の一黙」との連関の中でのべています。確かに、めざしている新たな地平は現在の言動を抜けてゆく精神の運動にあります。しかし、その地平は可能な限り理論的につめていったり、その体験を記述したり、芸術の方法で表現することが可能と思います。また、禪者の一部にみられるように否定運動に強迫的になる必要はありません。この否定運動を強迫的に追及しますと統合失調症の症状としてみられる言動に類似してきます。それが、臨済録の普化の言動です。檀家で食事の供養を受けて食膳を蹴とばしたり、ロバの鳴き声をだしたり、町中を鈴とふって歌ったりなどの私達の意表を超えた行動は、私達の了解をこえてます。通常の理解のコードをこえた所にあります。例えば、「先生はある日、普化といっしょに、檀家に食事の供養をうけにでかけられた。先生は、普化にたずねる、「一すじの毛が大海を吸いこみ、一つぶの芥子がスメールの山をおさめるとは、神通力のわざか、それとも、もともと当然のことか、どちらだろう」普化は食膳を蹴とばす。先生、「手荒すぎるぞ」普化、「ここがどうゆう場所だと思って、手荒いとか丁重だとかいわれる」・・・」。これは臨済録の中にある普化の有名な逸話の一つです。この逸話をさまざまに解釈できます。しかし、はっきりしているのは普化の行動は、二重帳簿の言動であることです。普化の「ここがどうゆう場所—柳田聖山は「ここは、維摩の方丈であり、無分別の世界」と注をつけています—」のここの世界と、檀家で食事をしている世界は異なるにもかかわらず、普化は二つの世界を混同して、二つの世界を同時に生きています。もし、この普化の言動が病理的でないとすれば、禅という分業的世界でしか理解できない言動を、他の世俗世界に持ち込んだことになります。これは、既成の言語とそれを超えようとする運動の対立では有りません。わたしたちにとって、言語とその向こうの対立があるわけでは有りません。わたしたちにとって精々問題にできるのは、既成の言動のパターンとそれを超えて行く運動の対立であり、既成の言動のパターンとほのかに見えて来る地平の対立です。私は、「無分別の世界」とか「仏性」とか盤珪の「不生」を既成の言動のパターンの向こうにほのかに見えて来る地平と解釈しています。この普化の言動を、臨済がしたように棺桶を送ることでは解決しません。禅語録にみられるもう一つの表現とその向こうの問題は、これもまた有名な公案の逸話で表現されています。「趙州拍樹」—わかりやすい従容録の第四十七則から採用します—「一僧が趙州に質問した。「初祖達磨大師がインドから中国に渡来して伝えた仏法の意旨は何でしょうか」趙州が答えた。「庭先の拍樹だよ」」。この「庭先の拍樹だよ」はたしかにこの僧の迷いを打ち砕く力をもっています。それは、フォイエルバッハがヘーゲルの論理学の呪縛を打ち砕き、そこに野原が、自然が、あるではないかと叫び、妻と田舎にこもった逸話と類似しています。しかし、もし、無機物→有機物・植物・動物(生命)→人間(言語)の系統発達を無意味なものとして、人間の自然からの逸脱を迷妄と解釈して自然に回帰することを悟りと解釈するだけでは(禅語録にはそのような思想が時々顔をだしているように見えます)、「庭先の拍樹だよ」という言葉はなんの破壊力ももちません。「庭先の拍樹だよ」の意味することは、また新たに表現してゆくのが私達の生=自然からの逸脱行為であるというその在り方を知らせることです。  
自分の固有の地平を表現して、それが確かに表現したとたんに表現が無用となるのですが、表現しなければなりません。私達は同質の世界にはいません。これがポイントです。一人で生活を完結させるのでなければ表現しなければなりません。コミュニケーションによって、辛うじて、異質な人間の交流が維持されています。私は、野矢茂樹のヴィントゲンスタインの言葉に関するつぎの解釈に異常に感激しました。  
「七語りえぬものについては、沈黙せねばならない。  
いや、沈黙は何も示しはしない。私は語るだろう。ひとつの論理空間のもとで語り、他者に促され、新たな論理空間のもとでまた新たに語るだろう。そしてこの語りの変化こそが、他者の姿を示すに違いない。・・・・語るとは時間的な営みなのである。論理空間の変化はただ時の流れの中においてのみ、示される。それゆえ私はこう言おう。  
語りきれるものは、語り続けねばならない。」(「「論理哲学論考」を読む」)。  
仏教でも、中観派的発想は論理実証主義者のいう擬似問題―言葉が作り出した解答できないもしくは解答が無意味な問題―を徹底的に批判しています。論理実証主義者は近代科学がひらいた知識を背景にしているのに対して、中観派の人たちは、「アビダルマ教学」が樹立した存在するものについての知識世界を前提にしているといいます。「アビダルマ教学」が心と世界を成り立たせると推定して取り出した諸存在の「自性」を批判しました。それだけではなくて、諸存在の自性を批判して解体する言語活動によって、無機物的な世界から逸脱して発生した人間が「求めることを避けられない」擬似問題への解答の一つを見出したのでしょう。存在に自性はない、と。しかし、「倶舎論」からうかがわれるアビダルマ教学は世界・宇宙・こころの存在を分析しつくそうする極めて論理的・合理的知性によって長い期間にわたって多くの僧侶たちによって作られたと想像されます。これも、釈迦の思想がもともともつ一面であることは間違いありません。それを、否定・破壊しようとした否定・前進運動の大乗仏教にはその分「非論理的・非合理的」なまやかしが混入するのは当然といえます。「見性」の目的もここらの問題に関わってきます。無機的世界から逸脱して生まれた生命、すなわち人間もその生を維持するためにこの自然的世界に適応してゆかなければなりません。「見性」が破壊しようとしているのは、生まれてから現在に至るまでに作られてきた「対自・対他・対自然」関係とその再生産の構造であることは先に述べました。この「対自・対他・対自然」関係には、自然環境の中で生きてゆくための適応能力―論理的・合理的知性と、自然環境の中で逸脱して生きていることの意味づけを不可避に求めること事が含まれます。後者が擬似問題を発生させるのですが、「見性」は「擬似問題」への態度・見解をも破壊し、「擬似問題」を「求めることを避けられない」あり方を各人に別の方法で再生させるに事もめざしています。
 
「見性」のめざすもの

 

「見性」という方法の意味  
話しを戻します。さて、このように苦労する「見性」の修行がなぜ必要なのでしょうか。くどいのですが、この問題をもう少し考えてみます。白穏は「見性」に至る前に「大死一番」という「死」のメタファアーを使用する段階を設定しています。そのメタファアーによって、個人の行動パターンを発現させ維持・再生産する「私なるもの」=「私という仮構物」(行動を統合する極=実体であると仮構されている)を解体することを示しています。「私なるもの」中には、先ほども述べましたが、適応・認識と存在することについての二要因の意味づけが含まれています。この「私なるもの」が、いまの言葉である「自己同一性」とか「本当の私」という言葉に言い換えられますと、後者の要因が強調されます。そして、後者の要因は、「単一・同一・継続」的なもので永遠に続くかのような実体が想定され、「魂」という語に置き換えられます。仏教の伝統は、この「私なるもの」「自己同一性」「本当の私」「永遠の魂」「そのものを成立させている真実普遍な本性=自性」なるものは「ない」=「無自性」であると考えているようです。「私なるもの」が自立的に存立=自性を認める教説・考えをひたすら批判し解体することをその主要な任務にしたのが中観派の考え方です。この存在するものの自性をひたすら批判する中観派的思想は大乗仏教運動の根幹を支えているものです。この中観派的批判思想の前提には、さきほどふれましたがアビダルマ教学が前提として存在しています。アビダルマ教学の煩瑣な分類学は、紀元前500年頃から数百年という長い時間をかけて、おそらくは多くに天才、秀才、変人、偏執者、普通の人びとによって積み重ねられた「この世の存在の分析とその体系」であると、私は「てんかん発作型とてんかん症候群」の分類が形成される過程を勉強した経験から想像しています。中観派の人たちは、アビダルマ教学を前提に、その教学の上で、分析され抽出された体系の中に配置された個々の存在について「自性する」ものはない、一切は虚体であると批判しているだけと言ってもよいのです。しかし、中観派の人たちの情熱は、実体の解体のその果てに「何か」無自性の世界を期待したようです(ツオンカパの中観思想、四津谷孝道)。自然から逸脱して存在する私たちが自然を支配するために作り上げる理論は「絶対的」に自然よりも小さなものであることを知っているのだと思います。この直観が絶えず「小さな理論・小さな神々の支配」を突破しようとする衝動に火をつけるのです。この中観派的思想は、個体の体験を刹那的に点滅・断絶するものと考えその持続を否定することと、個体はさまざまな器官・物質が単に合わさったものであるという比較的素朴な原始仏教の考え方に源を発して、ものは相互に依存しているという縁起の考えかたで存在するものを再認識する方法に基礎を置いているようです。白穏の「見性」の主張は、この中観派的な考え方に比較しますと、「私なるもの」の解体の跡に、「私なるもの」の再生を強く主張しているように見えます。「死」=自性の崩壊・解体のあとに、その廃墟から「私なるもの」が強く動き回る活力をもつ妙心として変容・再生すると主張するのが白穏の特徴です。妙心は幽霊みたいなものですが、自然界からはみ出し、同時に六道輪廻の社会も抜け出そうと試み、しかも社会の中でその存在を宇宙に向かって自己主張します。  
禪者である白穏は語りませんので、解体され再生されるべき「私なるもの」について私なりに考えてみます。おそらく、私達は、一人で生活するぶんには、私という仮構構造を想定する必要はないと思います。他人と暮らすとなると、すなわち広い意味の家族と社会で暮らすことを考えると個人の行動を統合している私という仮構構造を設定しなければなりません。特に、他者との関係で生じるさまざまな齟齬を解決するために、契約(約束と責任)を個人間の相互の関係を規制する基本的な原基と想定する西欧で発生して世界を覆い尽くしつつある近代社会では、個人の「同一性」という言葉が流布しているように「私という仮構構造」が強固にあるかのように想定されています。この「私という仮構構造」の発生が社会の中で生きていることに大きく依存していることを、マルクスは現代社会に入り口で鮮明にしたことは有名です。「ある意味では、人間も商品と同じことである。人間は、鏡をもって生まれてくるのでもなく、また吾は吾なりというフィヒテ的哲学者としてうまれてくるのでもないから、人間はまず、他の人間という鏡に自分を映してみる。人間たるペーテルは、自分と同等なものとしての人間たるパウロに連関することによって、初めて、人間としての自分自身に連関する。だがそれによって、ペーテルにとっては、パウロ全体がまた、そのパウロ然たる肉体のままで、人間種族の現象形態として意義をもつのである。」と商品の章のなかの注で書いています(「資本論」、長谷部文雄・訳)今回、この文章を書き写していて、この文章には膨大な注・保留・批判をつける必要があると思いました。  
だが、その「私という仮構構造」が強固でないことは、「多重人格」という語が他方で流布していること、プルーストが「失われた時を求めて」という膨大な長さの小説を書いて辛うじて「同一性」の断片をつなぎ合わせていることからも容易に推測されます。「同一性」をもつ個人であるという「私という仮構構造」の発生についての仮説は、大雑把に言いますと二つの流れがあるようです。ひとつは、ルソーなど西欧・市民革命の前後に発生した、人間はもともと「自然状態」では個人主義者であり自分と自分に属する精神的および物質的なものに対する不可侵の所有権を持っているという考えです。もう一つは、自然状態に近い時点では「主体」は小集団で個々人は集団に融合していた。時間が現在に近づくにつれて集団から国家、家族、個人が析出されてきた、という考えです(この考えは誰が言ったか、今は思い出せず本を引用できません)。ニッポン猿に関する本を読んだりしまして、私は後者に近い考えをもっています。  
白穏の「見性」という試練で目指すのは「私なるもの」の仮構構造の解体であり、その後の再建です。「死と再生」が中心テーマです。それは、正受老人のもとで修行していて布施を受けに家々を回っていた時に「しつこい」と老婆に竹箒でたたかれ意識を失い倒れ、意識が蘇生したときにある「悟り」を得た、という逸話が象徴的に示しています。先ほど述べましたように原始仏教は素朴に「無自生」説を、1)個体はさまざまな器官・物質が単に合わさったものである、2)個体の体験は刹那的に点滅・断絶するもので持続性はない、と述べていますが、これらの2点に関連させながらここで「私なるもの」について考えてみます。
自我の仮構物―関係の束という視点から  
なぜ「私なるもの」をここで考える執拗に考える必要があるかと言いますと、先ほど述べたように、無門の公案の方法は「解答」できない課題を突きつけで修行者を追い込み「私なるもの」を解体することを目指しているからです。今回、その「私なるもの」を考えるために神から離れ、幼児から離脱して、自分のことを自分で考える理性の哲学=啓蒙主義の提唱者の代表的人物とされているカントを調べてみました。勿論「私とはなにか」については書いているわけではありませんが、自分で考える自分で立つことをめざす思考に「私とはなにか」を考えるヒントがあると思いついたからです。読んでびっくりしたのですが、彼はきちんと無門の公案の方法「私なるもの」を解体し「無」に追い込む解答不可能な課題について十分に考えていました。こう書きますと、なにか偉そうに聞えますが、私のカント理解はもっぱら中島義道のカント研究によっています。ですから、「純粋理性批判」が中心です。彼によってはじめてカントの本を思想書と読む事ができました。余計なことを付け加えますと、中島義道は、「醜い日本の私、うるさい日本の私、私の嫌いな10の人びと、私の嫌いな10の言葉、狂人三歩手前、後悔と自責の哲学」など名・迷・怪著をやつぎばや(八つ当たり的に)に発表しています。その個人主義者ぶりは、「韃靼人ふうのきんたまのにぎりかた」以降「山口百恵は菩薩である」「地獄系24」などの膨大な数の名・迷・怪著を世に送りだし、「水滸伝・任侠の夢」で空手によって鍛えたその雄姿を写真に示し、いまや「大落語上下」という大著を発表した平岡正明に近づきつつあるようかのようにみえます。また、以下で使用するカントの用語理解は大幅に「カント事典、弘文堂」によっています。  
さて、仏教は、人間が「私なるもの」という実体=自生をもつことを否定する理由に一つとして、個体はさまざまな器官・物質が単に合わさったものであり、だから、個体それ自体にはそれを作り上げている「魂」のような特別な原基がある訳ではない、と考えます。この考えについて、次のような「弁証法的」思考からの批判があります。全体はそれを構成する部分に分解できるが、諸部分が全体を構成した時には、全体としてまとまりの持ったある固有の特性をもつ。この考えももっともらしく見えます。しかし、個人の特徴とする全体性は閉鎖的であるまとまりを持ったものであるという保証は何もありません。諸部分が絶えず消滅と再生を繰り返し、結合と分離の動きの中で絶えず拡散的でまとまりに欠ける可能性も考えられます。全体性などという閉鎖系の仮定があやしいのです。ですから、「弁証法的」思考を無批判には受け入れられません。ここで、「私なるもの」について言語学の単語の単位である「音素」と類比させて考えてみます。ヤコブソンは言葉の単語を構成する「ア、イ、ウ・・・」というような音の単位(音素)は、歯、硬口蓋、舌、唇などの解剖学的要因、連続・中断、緊張・弛緩、飽和・希薄など機能的要因などの多くの音声学的要因が束となって作られると考えています。実際にこれらの音声学的要因について詳細に検討もしています(「構造的音韻論」)。このような音声学的諸要因が組み合わさって音素という言語学的単位を作られ、諸音素が組み合わされて単語がつくられています。それぞれの言語には、固有の音素の体系があり、その言語を構成する単位となっています。音声学的諸要因が組み合わさってある音素が作られ、別の音声学的諸要因が組み合わせによる別の音素と区別(弁別)されます。ある音素は、多くの音声学的な単位に分解されますが、一つの音素はそれ自体で存立して他の音素とともにある一定の集団と作り、組み合わされ、関係づけられ、ある言語の基盤を作ります。このヤコブソンの音素についての研究は、少なくとも言語関係=体系の単位である音素は幾つかの要因に分解されるにしても、言語の次元(上位次元―自然からの逸脱の高い次元)で別の単位である他の音素と集団を構成して一定の体系をつくる例を示しています。音素の構成要因は分解されると言語の次元では存在意味が持たなくなりますが、分解された別の次元で(音素の場合は音声学的要因の次元―下位次元としておきます)である集団構成をもつことになります。このように考えますと、上位次元での単位はその次元で自性をもつという事ができます。しかし、下位次元からみると無自性ということになります。この考えに対して、音素はその構成要因に分解しなくても、言語の次元でそれ自体は「自性」を持たないという考えがあります。それはある種の構造主義的言語学が示す極端な関係論的発想ですが、ある音素は他の音素と区別されることで、その弁別機能で一定の体系の中で役割を果たすと言う考えです。区別される特徴に意味があるのですから、ある音素自体の特徴は二次的な意味しか持たないという考えになります。しかし、特別に風変わりに考えなければ、この考えも区別されるためには他の音素と異なる特徴=自姓があるという考えを否定するには根拠薄弱と言えます。つまり、音素に言語の次元では自性はあるのです。音素の自性を考える場合に注意すべきなのは、音素は人間が逸脱したとしても自然から生まれたためにもつ解剖学的な諸要因(物質的要因)に根をもっており、しかもその上に人間の作った文化的・観念的要因が関与する言語の次元での単位であることです。だから、人間の作り出した文化的・観念的要因を無視しますと、音素は自性を持たない事になります。  
音素と類比させて人間について考えて見ます(ここで類比という方法で論議してようかどうかには自信のないところもありますが)。「私なるもの」の基体となる身体は、無機物、有機物でつくられた器官から構成されています。しかも、下部構造からずれるように、無機物から有機体(生命)、更に意識がつくられています。この無機物から生命、生命から意識へずれてゆく様式は、相当の部分が分子生物学的手法などによって遺伝子によって統御されていることが日々発見されてゆくでしょう。確かに、人間も構成要因の物質にどんどん分解することができます。分子生物学の発展は、人間の死も、心臓の死であったり、肝臓の死であったりと部分的器官の死に分解されてきています。しかし、「私なるもの」の死があることを、私は実感しています。この実感に即してかんがえますと、「私なるもの」を残してある身体器官の交換は可能ですので、構成する器官によって「私なるもの」が成立していると考える事はできません。生き残ることを目的にする遺伝子が「私なるもの」をつくるのでしょうか。例えば、分子生物学によって可能となった同じ遺伝子を持つ二人のクローン人間を想定してみます。二人は、仮に同じ行動をとったと仮定しても、それぞれは独立して他の一方から区別された「私なるもの」があると考えると想像されます。第三者からみて「私なるもの」があると考える点では区別がないとみえてもそうです。意識をもって生きていることに「私なるもの」の発生の根拠があるようです。その意味では「私なるもの」は仮構物=観念ですが、私なるもの」にとって構成されている人間社会の次元では「私なるもの」は自性をもちます。「私なるもの」によって、私は、個人は生きてきた諸関係の積み重ね・集積が仮構物=観念であると考えています。その意味では諸関係の束として人間を考えるマルクスの考えを支持します。  
しかし、関係・体系と言っても、閉鎖的な二次元的な集団関係を想像している訳ではありません。私は、個体を関係の束と考える場合にもつイメージ次のようなものです。束それ自体をみますとたしかに諸要因から構成されます。それらの諸要因によって構成されている関係には大小さまざまなものがあり、それらの関係は重層的に積み重なり、さまざまな厚みをもって上下左右、連続する過去の積み重ねに境界がなく拡散してゆきます。空間も時間も一定しない諸関係から構成されるために境界があいまいで、ちょっとすると境界が崩壊していてほかの束とつながっているかもしれない関係・構造のようです。そういう、項=束が個体です。しかしある個体の中心部分では、生まれてから死ぬまでに積み重ねる諸関係によってほかの個体と異なっています。忘れてはならないのは、中心極はあくまで諸関係の集積であることです。幼少期の個体の形成には模倣・取り入れの作用が大きな働きをしているようです。もう10数年以上も前に、朝早く、人がいない熱帯の森の川の洗い場で、サルが人間の着物を洗う動作を繰り返しいるのを見かけたことがあります。そのサルの行動は私にとっては奇妙に映ったのでみていましたが、そのうちにサルは日ごろひそかに目撃している人間の洗濯行動を模倣しているのだ、という考えに至りました。その後、子供が成長して行く時に、近親者の行動の模倣・取り入れ作用が大きな働きをしている事に気づきました。例えば、親が立って両手で新聞を拡げてみる癖があるとしますと、いつのまにか、子供も同じ動作をしているのを目撃しました。それも、新聞を逆さまにして。このような、模倣・取り入れの行動は、精神分析で「同一化」という言葉であたかもある人の何かを取り入れるかのように表現していますが、私は他人との関係を集積してゆくという考えをとっています。これは、子供だけではありません。私達の日本列島の集団生活では、尊敬しているもしくは威圧的なボスがガニ股もしくはいくぶん斜の姿勢をとって歩く人であると仮定しますと、その集団の構成員もそのようなスタイルで歩行することを見かけることは日常不断に経験することです。このガニ股もしくは斜めに歩く行為の模倣は、ボスと模倣者の関係を示しています。この様に、個体は、底の所で、近親者との濃密な関係を模倣によって組み込みながら諸関係の束として厚みと大きさを拡大するのだと思います。そして、関係の束の発生には、サルを最初に例としてあげたように生物学的な根拠があると想定しています。諸関係の積み重ねは、あたかも、他者の「魂」「精神」「こころ」に「憑依」されもしくは「同一化」するようにみえ、またそのように誤って表現されているのだと思います。音素で考えたように、諸関係が束ねられますと、他の個体とことなる個体が発生して、現在もしくは未来において他の個体達と諸関係をもちある体系の一部分を占めます。しかも、ある個人は構成する諸関係がことなるだけでなく、積み重ねられた諸関係に何かを付け加えて存在しているようです。このように「個体の自性」を考える場合には、音素の場合と同様に、文化的・観念的・社会的要因を考慮にいれた諸関係の集積・集合という視点を考慮する必要があります。しかし、下位集団からみますと、人間も無自性とみなすことができます。このように考えますと、仏教の仮説に反して、個体は諸物質もしくは諸関係の集合だとしてもー自然に限りなく近づけて理解すると無自性ですがー「自性」(私という仮構構造)を社会・文化・観念的次元でもつという考えが十分に成り立ちます。
自我の仮構物―刹那的な点滅という視点から  
個体の体験は刹那的に点滅・断絶するもので連続性はない、だから「私なるもの」に自性はないという点について考えて見ます。この問題は、大きな問題です。時間論の問題と言ってよいでしょう。私の意見は、極端に詰めていいますと、私の経験は刹那的に連続性なく推移してゆくだけだと考えに傾いています。しかも、日向ぼっこをしているように、刹那的に連続性なく推移してゆく時間にゴロンと身を任せるときに幸福感を感じます。その状態に時間はあるでしょうか。ゴロンと日光に身を任せ小さな子供を腹のうえにのせて楽しんでいる状態は、大げさにいいますと時間の流れを超越しているのです。  
しかし、社会の中で働き、生計を立てるとなると、私たちは時計を必須の生活道具に用い過去・現在・未来の「時間」のスケジュールのなかで生きなければなりません。生きた諸関係を「統合」して「個体の自性」=「私なるもの」を作る必要があります。その時には、境界のない関係の束に境界をつけることを要請もしくは強制されます。社会は、個人にはそのひとの思考と行動を統制している「自己同一性」なるものをもつという仮説を要請するからです。その要請の代表が「自己責任論」です。私が若い時に読んだ著作家に梯明秀という人がいます。彼は、「夢想」のような形而上学をまじめに作ったひとです。例えば、資本論の書き出し(端緒)をめぐって、今から考えますと何の意味もないことを一冊の本にしました。彼は「物質」の自己運動が宇宙の原理であり、無機物→生命→意識・社会という推移を「発展」として意味づけていたと記憶しています。宇宙が自分を反省するために人間に意識を開花させた、というのです(私は、人間はすべて天文学者か哲学者にならなければならないのかと考えたものです)。手元に本がないので確かめようがないのですが(確かめる意志もないのですが)、これらの事態の推移を「発展」ととらえる考え方を無批判に受け入れません。少なくとも、私の実感は意識とは自然からの逸脱です。  
自然から逸脱した意識を持った動物の代表が人間です。そう考えますと自我の経験は、刹那的に連続性なく推移してものではなく、経験が自我によって「消化・統合される」と極限的に表現することもあるように、楽しんだり苦しんだりした経験が思いで・禍根などとして「諸関係」は積み重ねられているはずであると仮定されます。自我の仮構構造のレベルと非自我のレベルの経験は、仏教にとっても大きな課題です。  
ここから、時間論を中心にカント研究をしている中島義道をてがかりに、それによって理解したカントの思想にそって自我の仮構構造の解体と再生について考えてみます。西洋の18世紀には自然科学的方法、経験的実験的方法、実証主義、自然権、啓示宗教批判などを主張する啓蒙主義が台頭してきました。この啓蒙主義的思考の体表者にカント(1724-1804)がいます。カッシラーは、カントの啓蒙主義を、「未成年状態」から脱して「汝自身の悟性を使用する勇気を持て」と個人の自律性を強調した思想と述べています。認識についても、人間の認識は外界を単に写し取るのではなく、人間に内在する能力(感性、悟性、理性)によって認識して統一的な世界像を得てゆくと、人間の生来的にもっている能動性を強調します。強い自我を強調したようにみえます。  
先ほどものべましたが、読んでびっくりしたのですが、自我とは自分の内に根拠をもった安定した関係・構造であるいう考えを超えて、白穏が無門の方法を取り入れて方法化した課題を別の観点から答えようとしています。さらに、世俗世界(非宗教的世界)の中で「善・悪←→快・不快」原則の向こうへ飛び出そうとした哲学者の面があることがわかります(実践理性批判)。これは、人間がどうしてももってしまう宗教性(未練・迷い)をこの世を越えたもので解決する一般的な宗教思考ではなく、この世に留まってその中で思考してゆくという方法を作りあげています。これは、考えてみれば重要な事です。  
話しを進める前に、カントは複雑な人らしく、啓蒙主義の代表者という解釈から外れる部分も多くもっていた事に触れておきます。カントの思想にはもともとある不安があったことを坂部恵は先駆的に指摘しています。坂部恵は「理性の不安―サドとカントー」の中で、西欧の理性(自我、意識、良心の世界)―「「理性」とは・・・何らかの「根拠」(神、自然、物質、等々)と、また「根拠」との「関係」によって基礎づけられた、もろもろの安定した「関係」(たとえば諸「法則」「律法」「現象」といったもの)の総体を意味する・・・」―をたたえた「理性の時代」が十八世紀から十九世紀―啓蒙主義の時代であったとしています。しかし、その理性の時代という像は仮の姿であり、理性のうちには「理性の不安」「闇」が巣くいその代表としてサドを取りあげています。サドは「無意識」「倒錯」「欲望」「欲望の際限のない専横における愛と死との狂気じみた対話」(フーコー)「死そのもののかたりの世界、時間性のまとまったかたどりを失ってただ延々と無気味な散文の世界」を体現したといいます。そして、この両者を対立的に取り上げることだけではなく、カントの「超越論的」哲学に先行してもしくはその底辺にサド的世界にたいする不安が一貫して存在していたというのが、坂部恵の「理性の不安」をもつカント像の核心です。しかし、欲望の氾濫を「サドの「「魂の錯乱、欲望の狂気、欲望の際限のない専横における愛と死との狂気じみた対話」(フーコー)」は「西欧の古典的理性の爛熟の時代に、「西欧的想像力のもっともおおきな転換の一つを構成する」集団的文化現象としてあらわれたものであること、すなわち久しく日常の理性的生活から隔離されいまや沈黙のうちに追いやられた「非理性」が、・・・・「監禁生活から、監禁生活のなかにおいて生まれた」・・・いわば非理性の住家としての城砦、地下の穴倉、僧院、孤島などのイマージュをその展開の場所としている・・・。」や「純粋(肉)感性批判は、まさに感性が感性としての古典的なまとまったかたどりを失って、もはや感性ともいえぬ幻想の世界、死のかたりの散文として展開だれる幻想の世界にいきつくことを示す。」という文章が示すように、フーコーの歴史時代的分析に寄りかかりすぎて、時代が理性と欲望の氾濫や狂気を対極的に生み出したという考えは少し安易な論理にながれているようにみえ賛成しかねますが。アドルノとホルクハイマーは、啓蒙主義の「理性」の必然的結果がファシズム・ナチズムによって計算された「収容所」での大量ユダヤ人虐殺であると「啓蒙の弁証法」で述べていることは改めて指摘する事もないでしょう。街角のクリニック活動を続けながら現在の社会・家庭・私的世界を考えますと、わたしも理性と狂気が対極にあるのではなく、「カントとサド」の世界、両者の思考・行動様式が一体性となって荒れ狂ってゆくという認識に密かに達しつつあります。勿論、医療行為もその中に含められています。しかし、坂部恵の「自我」とは元来「安定した関係」でも「光に満ちた」ものでもないという指摘は重要です。そして、「「視霊者の夢」の周辺」で述べている、「スウェーデンボリへの執着と反発というみずからの「迷い」、否定の側にふみ切ってしまえぬ二義的な態度の根源をたずねて、カントは、みずからの秤の偏りというぎりぎりの実質に行きあたった・・。ここで、「迷い」を率直に認め、それを解きあかすべき自己のぎりぎりの姿を告白しつつも、それをただちに普遍的なものとはせず、なおそこに秤の「不正」をみとめる、という態度が、この著作の二義性という基調音のおそらく究極の源をなすわけであるが、・・・あい反する二つの立場の間に引き裂かれ、いわば宙づりにされた自己のぎりぎりの姿をさらけ出しつつも、独断に陥ることなく、あくまで他人の公正な判断の可能性に対して決定を留保する、・・・。みずからをみずからたらしめる理性―根拠をもあえて疑問に付し、夢とうつつの区別すらさだかでなくなる無定形な不安のうちにたゆたうことをあえてする、最もラジカルな思考のあらわれと見なされるべきものではないのか。」という文章は、これからの私の考察にとって、導きになる文章です。私の視点は、自然から逸脱してしまい、意識を開花させた人間は、一方では自然に近い次元と、他方では自我という硬い構築物(自我心理学などはその代表です)を要請される次元の間をうろうろしている存在であるということです。  
さて、カントの「純粋理性批判」は、簡単にいいますと、無機物→生命→意識の推移によって自然からずれてきた人間が、生まれたときからすでにもっている認識能力(超越論的)の内容、能動性と意味、その限界・制約を明らかにしようとした本と考えられます。「超越論的原理論」で人間の認識能力である「感性(自然界の対象物に刺激されて人間がもつその対象物の表象像をもちます)」「悟性(概念、判断、推論の能力は人間には生得的に具わっています。統合の能力です。)」、すなわち「直観(感性)」「構想力(多様性をひとつの像にまとめる能力で、感性と悟性を結び付けます)」「悟性」によってえられた認識が「統覚(私が思う、というレッテルを貼って個々の認識を私の認識として統一する能力)」によって統合されるといいます。この認識によって自然界からずれた人間の生得的な能力と自然界の接触面が「現象界」として分析認識され、そのことで人間は自然界の中で生きて生存することが可能となります。この、人間の生来的な能力と外界との接触=認識について、中島義道は、実に懇切丁寧に「カントの時間論」「カントの自我論」「カントの法論」のなかで、常識に反しない健全なしかも複雑な人間と外界との関係(主観性の側から客観的認識を確保する方法)を説明しています。そして、カントに倣いカントの言葉からかもし出される神秘的な概念を排除していますので、認識論についてはこれらの本を読んでください。  
「純粋理性批判」にもどりますと、現象界の認識と自然界への適応(従属)だけでは満足できない厄介なものを人間はもっていると言います。それが先ほど坂部恵の「「視霊者の夢」の周辺」でのべた宗教性(形而上学)の問題です。その厄介なもののために、人間が生得的にもっている理性(経験的知識に左右されない「諸悟性規則を原理へ統一する能力」)を乱用するように運命づけられています。「霊魂と不死」「世界と自由」「神の現存」のなどの問いは、環境への適応行動だけでは満足できない環境から逸脱した人間の発する問いです。それらの問題に答えようとした時、理性の乱用が発生するといいます。理性の乱用の問題が「超越論的弁証論」で扱われ、人間はこれらの問題を考察するやいなや思考の間違いの連鎖を生み出すために「仮象の論理学」とも言われています。しかし、これらの問題は、野蛮な言辞から高尚な論理までの幅がありますが、人間には消し去る事が出来ないもののようです。自然からずれてしまった人間の宿命のようです。必ず、なんらかの形で問いとして発生します。だから、カントは「馬鹿げた教義」にだまされないように、これらの問いに関する思考の間違いの連鎖とこれらが解けない問題であることをはっきりさせようとしています。そういう意味では、極めて現在的な本です。ただ、理性と言う語がうまく理解できません。悟性は、外界からの刺激によって感性にあらわれる多様な表象を構想力によってまとめて法則をつくり判定します。理性は、この生まれながらにもつ外界とは無関係な能力を、悟性をこえたところで悟性を使用して推論して、経験によって外界の影響の痕跡をもつ概念からその経験の痕跡を洗い流し原理として総体性・統一性を表わす理念を作るのだというのですが。その統一性・総体性に霊魂、世界、神などの理念も含くまれると考えているようです。しかし、経験から離れているだけに検証のしようがないためにまがい物が跋扈する世界でもあります。  
内容をはぶきますが、「魂」もしくは「魂の不死」なる問いは「誤謬推理」が生み出した虚構であるといいます。その方法は、第二誌世界大戦後に、精神の機能を精神の実体としてすりかえる言語使用の誤謬が擬似問題を発生させると話をすすめたG・ライルの「心の概念」に類似した方法です。カントは、宇宙の始まりと範囲、宇宙のものは単純な部分の合成からなるのか否か、宇宙・世界には自由があるのか必然性だけか、などの宇宙に関する問題は、或る考えとそれに反する考えの二つが二つとも成り立つ(二律背反論)ことを考察します。「神」の存在については、人間の認識能力を超えた問題であり認識としては解答を見出せない問いですが、神の存在とは理想であり最高善に関するする実践的な問いであると言って結論を先延ばしにしているようにみえます(これは「実践理性批判」や「判断力批判」に引き継がれます)。この「先延ばし」の方法は、世俗世界の中に宗教的問題の解決をさぐるという方法とも解釈できます。このように人間の認識能力には限界があり、「魂の不死、宇宙・世界、神」に関する原理は人間の能力を超えた問題である、言っています。しかし、「純粋理性批判」をめくるとわかりますが、この本は、人間の認識について述べた本と言うよりは、絶えず人間がいだく「魂の不死、宇宙・世界、神」の問題を扱っている部分が大半です。「魂の不死、宇宙・世界、神」の問題をどうしたらよいかと考えあぐねている迷いの本であるとも言えます。  
「純粋理性批判」で扱われているこれらの問題は、初期仏教で釈迦が解答することを拒否したとされている問題とほぼ同じです。中村元の「原始仏教の思想T」によれば「(1)我および世界は常住であるか(すなわち時間的に局限されていないか)、あるいは常住ならざるものであるか(すなわち時間的に局限されているか)、(2)我および世界は〔空間的に〕有限であるか、あるいは〔空間的に〕無限であるか、(3)身体と霊魂とはひとつであるか、あるいは別の物であるか、(4)人格完成者は死後に生存するか、あるいは生存しないか」などの諸問題については、釈迦は「捨てて置いた」といいます。これらの諸問題に答えない理由を、「このことは目的にかなわず、清らかな修行の基礎とならず、世俗的なものを厭い離れること、欲情から離れること、煩悩を制し滅すること、心の平安、すぐれた英知、正しい悟り、安らぎのためにならないからである。」と、実用的な観点から考えたといいます。中村は、原始仏教には「一無意義な、用のないことがらを論議するな。二われわれは、はっきりした確実な根拠をもっているのでなければ、やたらに論議してはないない。」という特徴があり、「そうした妄想(戯論)を捨てることによってはじめて安らぎに到達し得る」と考えたそうです。しかし、これらの問いは、実用書では解決されることはなく、消えることはなく絶えず生み出されます。仏教の歴史もそれを示しています。カントの「純粋理性批判」は、「「はっきりした確実な根拠を」もつ認識論をつくり、そこから「無意義な、用のないことがらを論議」した本です。  
禪は、これらの答えられない問題を実践的に、つまり修行の方法に用います。答えられない問いを修行者に突きつけ、追い込み、修行者の自我に死をもたらそうとします。ここが、カントと白穏の分かれ目です。カントは、人間の認識能力の限界を明らかにして、解答不可能な課題である神に関連した理念をこの世俗世界の只中で最高善へ導く実践的な理念へ変換しますが、白穏は人間の認識能力の限界を鮮明にする課題を修行者に突きつけ自我の既成の仮構物を崩壊させ(大死一番)その後に自我の仮構物の再生(妙心)を期待します。  
さて、カントは、白穏が一度こわそうとする自我をどのように考えたかを、実際には中島義道がそれをどう解釈したかみてみます。  
中島義道の「カントの自我論」は、認識の問題から認識する存在である自我へと周り道をへて接近します。「自我の構造」など「仮構物」であることを知っているからです。しかし、人間はたえず「自我の仮構物」を作って生きて生きねばならないようにもなっています。認識から周り道をへて自我へ接近するのは「自我の仮構物」を作る必要のある人間の生きた構造を明らかにするためでしょう。中島は、「「私とは何か」と問う者は、その問うという行為においてすでに、「私」とはそう問う者がそれで「ある」ようなあり方だということを知っている。」という考えがあり、カントは「デカルトの答えは、疑う者が私であって他の誰かでないことは、それ以上疑いえない精神の洞察だ、というものである」というデカルトの信念を共有しているといいます。つまり、「デカルトの信念A=思惟する者が私であるという信念」「デカルトの信念B=その思惟のかたちが「私」という言葉を適切に語るあらゆる者(あらゆる理性的な人間)に普遍的であるという信念」を前提にしている、というのです。すでに、「私とは何か」という問いをはすうるものは、発するまえにすでに存在して生きているのですが、あたかもまだ存在していないかのような仮定をつくるという回り道を「私というもの」を認識するために必要なのです。人間は「時間・空間」という直観の形式で外界をみます。それは「私が独特の視点から独特のパースペクテイヴをもって」ものに出会うことを意味します。人間はさまざまな視点から外界をみて統一像をつくります。イギリス経験論―人間は外界からの刺激・印象によって外界に関する認識をつくるーの考えをおしすすめ、人間の認識がもつ虚構性(狂気にずれてゆく根拠といってもいいのかもしれませんが)を鮮明にしたヒューム意見ー人間は外界から受ける種々の印象を「勝手に」「習慣的」に合成して統一像を作るーとは反対極から、カントは認識をとりあつかいます。人間は、はじめから環境からずれて狂気寸前の位置から「私がさまざまな視点世界をみる」という形で世界を認識するといっているというのです。「種々の視点」からみているのに「統一」された世界像ができるのは、ここの視点はすべて「私がみている」というレッテルを貼り付けているからで、そのことによって、断片的な世界像がたえず統一されていきます。この「私がみている」というレッテルは貼り付け統合した世界像によって、人間は過酷な環境に生き残ることができるのでしょうか。中島は、どのようにカントはそれが可能かを考えで「超越論的」というびっくりするような仰々しい言葉をもつ方法の論理展開をときあかします。その次の論理展開がいりくんでいますので、ついてゆきますとながくなるので、要点を独断でまとめます。1)独りの人間がもつ統一像は、はじめから視点を積み重ねてゆくと更に大きな世界像があるであろうという「一つの可能な世界」の一部であることを知っています。しかも、「私がいかなるパースペクテイヴをとろうと、そこからの相貌は一つの経験としての実在世界に影響を与え」ません。私流に理解しますと、無機物→生命→意識(動物にも意識はあると私は想定します)へと逸脱して、さらに意識を飛躍的に開花させた人間のある個人は最初からすでに「私」という視点から世界を見るように存在しているということあり、その逸脱した立場からみることが「超越論的」であるということのようです。2)人間の作る統一像が「客観性」をもつのは、  
その、個人の作る限られた世界が外界に適合するのはどうしてか。それを保証する論理的な工夫がカントの「コペルニックス的転回」だといいます。「コペルニックス的転回」とは、人間は様々なものに視点を移して(憑依)させてみることだといいます。コペルニックスの場合は、地球の上からみる視点と太陽からみると想定された視点を統合して太陽系の構造と運動を明らかにしたと説明します。つまり「「一重の視点」から「二重の視点」への転回なのである。・・・地動説とは、私が住みついている地上の視点に加えて太陽の視点を獲得すること、こうした二重の視点を獲得することなのだ。」このような人間の生来の能力が、主観的ではあるが外界認識の「客観性」を保証すると考えます。なを、中島の独創性を明らかにするために、通常の「コペルニックス的転回」の意味を紹介しておきます。通常の「コペルニックス的転回」とは、経験的認識方法―外界からえる印象を積み重ねて外界を認識するという方法―から、超越論的認識方法―人間の認識の側から外界の認識を可能にする形式を明らかにする方法―、主観性への立脚、アプリオリな綜合―主観性の側から諸印象が統合され統一された概念・原理を生産する生得的な能力―への転回(カッシラー「カントの生涯と学説」)というのが一般的な理解のしかただと思います。3)有名な人間に認識不可能とされている「物自体」とは、私がみずからの視点と他者の視点との差異性を完全に消去した視点から眺めた世界に対応する実在である、と明快にしています。「物自体とは私の表象の背後に潜む不可知の世界なのではない。私の表象の背後ではなくむしろ「手前」に注目することが必要なのだ。」といいます。4)つまり、最初から、逸脱した個人は世界の中に生きてうごめいていることが前提になっているのです。物自体とは、いまだ私は認識していないが実感している世界です。物自体の世界で「根源的に「私が存在する」という実感につながっている。」のだといいます。このように、認識の仕方から、もともと自然界から逸脱して生きている「私はいる」というところへ至ります。「私にとって、私の存在こそが私の表象かはみ出して体験できる唯一のものなのだ。」中島義道は、この気がついた時にはすでに生活している世界(彼にとっては、例えば、うるさい醜い、厭な人や言葉が氾濫してかれを狂気の三歩手前に追い込んでいるこのニッポンの生活)が「もの自体」なのだといっているようです。5)ここから、自我とは何かを考えます。自我とは「「私が存在するという感じ」」にとどまらず、「私とは「存在する感じ」である。」というところにすすみます。「生きて存在すると感じる者」それが自我なのです。  
中島義道の「カントの自我論」の論理は、世界秩序は「私の表象」であるという「超越論的観念論」(自然から逸脱したものが生来的にもつ認識)の視点で一貫させようとします。だから、他者についても回りくどい論理が必要となります。他者とは「私から見るかぎり森羅万象の一つとして私の表象でしか」ありません。論理的にはその次に他者を「私と同様に内的体験をもつ独特な表象として構成し、さらにその背後に超越論的対象を想定するのである。・・・同型性(他者も彼に向けて「森羅万象は私の表象である」ということを承認できる、と信じていたはずである)を承認する者だけが、私の他者」であると認知します。このような論理構造は、おそらく夫婦喧嘩や恋人のあらそいごとをしたときに感情的にもあらわれます。彼は、「すべてに奇妙さがつきまとう。だが、奇妙さにもかかわらず、じつは誰でも日常的に熟知していることであり、だからこそ、これはわれわれの生きる世界そのものが内包する奇妙さであるように思われる。超越論的観念論はそれを正確に記述しようとの試みである。各人が固有の表象の「うち」に留まり、その「そと」に出られないという前提で、しかも各人の同型性を保ちつつ、こうした構造のもとで物体の世界も、私の固有の体験も他者の固有の体験も語りつくそうと」試みたとのべています。この文章は、私たちは、私の視点の束でしか世界を見ることができないという限界をもちながら、「私」ではないが同様なことをしている存在である想定される人間や、さらには「私の表象」をこえる物体から衝撃をうけながら、生きている奇妙な存在なのだと言っているように理解されます。  
「奇妙な世界」で「存在している感じ」をもつものがどのように自我をもつのかと、彼は次に考えます。奇妙な世界に気がついた時にはすでに「存在」して生きているのが「私」なのです、から出発しましょう。彼の論理は、既に「あるもの」が後から「ある」事や「あるもの」を理解するという後追い構造を認識はもつことを忠実になぞってゆきます。現在いきているもの(「現実存在」)は、現時点で「過去のさまざまな空間的場所における出来事を「私の過去」として取り込むことができるような」存在であると考えます。中島は「「私」の秘密」という本で、もう少しわかりやすく言っています。「私とはー不思議なことーこういうかたち過去形を使える者なのです。そのためには、私は<いま>存在していなければならない。過去形を使える者は、現在生きつつ、過去においていかに「あった」かを語っているのです。・・・現在と過去を「つなぐ」のではない。現在を生きつつ、あくまで現在の側から過去をつなぐのです。」「過去形から出発するかぎり、私はさまざまな面をもった複合的構造をしている。私はあらゆる時間的規定以前に「根源的に」存在するのでもなく、<いま・ここ>の知覚の場面に絶対確実に存在するのでもなくて、むしろ過去という不在、無意識という不在、泥酔・錯覚・幻覚・夢想・思い違い・早とちり・・・・という「混濁した意識」を含んで<いま・ここ>にかろうじて「ある」のです。」  
このように、自我とは、存在していると感じるものが、危ういやりかたで自分が過去にしたことと結びつけながら「「「私」とは「私とは何か」と問う者」であると結論しています。だから、先に、述べたように、「自我という仮構物」には、たえず仮構物が構成される前にすでにある「存在している感じ」、後ろに何かを背負い私に敵対してくる「私と同型の他者」、思いのままにはゆかない物体・自然などの「「そと」の空気が流れ込んで」きます。「私の存在とは私の表象の中にうがたれた一つの穴である。」という名文句を吐くものなのです。この様に、自我はやわらかい形で発生してきます。  
しかし、「自我」とは過去の想起と関連された時に、過去の想起と関連した「うちの世界」と「そとの世界」とにわかれます。「この「うち」という形式が自我」になると結論します。その自我の形式のまとめが次の文章となります。  
「(1)想起の対象は、私が直接的に到達できるものである。だから、現在の私と想起の対象としての私とは内的関係にある。つまり、想起の対象は私の「うち」にある。ここに成立しているのは、時間的な「うち」である。  
(2)わたしは、ことごとく現在である世界のただ中に想起の対象としての過去を現出させる。しかし、過去世界は私の「そと」には知覚されない。それは「そと」に存在しないゆえに、「うち」に存在するとみなされる。  
(3)(1)の時間的な意味における「うち」は、たちまち(2)の空間的な意味における「うち」に重なり合う。そして、(1)から(2)への移行が準備される。想起とは、想起している現在の私と想起の対象としての過去の私の内的関係なのであるが、その時間的な意味における「うち」を空間的な意味における「うち」とみなしてしまう。」(「「私」の秘密」)  
ただ、彼の、未来についての考えかた「未来は厳密には時間ではありません。未来と現在の関係は、現在と過去との関係をただ延ばしただけです。われわれは「未来」と呼ぶものは、じつは時間ではなく概念であるにすぎない。未来が過去と並ぶ独特の時間であるというのは錯覚です。」については、ここでは態度を保留にしおきます。  
さて、まとめて見ましょう。中島のカントの検討から導き出した自我論では、1)魂というような何か根源的・初発的・初源的な「私なる」単一体はない、2)私とは「私とは何か」と問う前にすでに存在している者である、3)私はすでに存在している「世界」で他者や物体に刺激・触発されもしくは自分で自分を刺激・触発しながら生きているのですが、しかしあくまで自分のほうから感じ考えなければならない者であり、4)「いま・ここ」に生きているわたしが、過去に経験した無数の「いま・ここ」にあったものとして経験した知覚に想起してえられる表象(知覚と概念のあいだにあるヌエ的観念)を積み重ねてつくられるのが「自我」であるといっているようです。この視点は、対自・対他・対自然関係を積み重ねてきたものが「私の仮構構造」であるという私の視点を厳密に考えているようです。この様に考えてゆきますと、「見性」で破壊するの「自我という仮構物」は「単一体の魂」があるかのように錯覚するほどにまで固くなったもしくは虚偽的・錯覚的に想定された「私の仮構構造」を、解答できない問題を出す事で追い込み破壊する方法であると考えることができます。ついでに言いますと、中島のように想起モデルの「自我」で想定されるように、私たちの「自我の仮構物」は、過去の出来事を「後悔と自責」(「後悔と自責の哲学」)積み重ねと想起して呪縛されて固くなった「私の構造」を作る傾向をももちます。「見性」は「後悔と自責」で固くなった私の構造をも破壊する事を目指し「自由」へ穴をあけるものだとも思います。また、たえず空虚感にさいなまれ「私なるもの」を縛りつけ型にはめてくれる「単一の原理」をもとめる自我の仮構物も一挙に崩壊させます。
自我の崩壊後に来るもの  
私の経験が断続・刹那的に連続して「同一性」は非常に脆い刹那の連結でしかない事に気づきますと、「魂」「自我」「神」などの強固な虚構の統合点・よりどころを求めます。真木悠介は、「時間の比較社会学」のなかで、鋭くもジョルジュ・プーレの「人間的時間の研究」の序論に出てくるカルヴァンの「われ信ず」という考え方を現代人の時間観念の形成にとって決定的に重要なものとして取り出しています。「私は自分が絶えず連続的に流れてゆくのを見る。自分がいまにものみこまれようとするのを見ないような瞬間がすぎて行くことは一刻もない。しかし神はその選ばれた人たちを、彼らが決して水に沈まないようにささえているのだから、私はかたく信じる、数限りなくやってくる嵐にも拘らず私が依然として残るであろうことを。」「人間的時間の研究」の中で、このカルヴァンの言葉は、神によって創造された人間をも含めた被創造物は恒久的な関係の中に配置されている中世期の世界像と、諸個人の活動の共同体を宇宙の生成の中につくり上げようとするルネッサンス的感情が崩壊して、個人の孤立した姿が現れた十七世紀の人間像を象徴的に示す言葉として引用しています。カルヴァンは、仏教が想定している世界や人間像は断続的・刹那的に並存させているだけであるという事態に、自分が飲み込まれてゆく蟻地獄をみているようです。時の断続的・刹那的な並存や推移に一瞬の安らぎもないといいます。連続してゆく事態は断片のままで不安なのです。一つの極(原理)に統合されなければならないと考えます。これは、断片化する経験(これが現代の私たちの姿なのですが)に不安をもち断片的世界を「自我」「魂」「国家」「神」など統合する原理を求めそれにすがりつきたいと言う願望(たえず出現する教祖や政治家が約束する手形です)に通じるものだ、と言えます。仏教は生を時間からみると刹那・刹那に断裂して点滅してゆくと捉え、自我を無・自性と把握しそこに悟りへの可能性を見ますが、カルヴァンの考えは仏教の方向とは正反対の極の考え方です。「見性」は、「自我」「魂」「国家」「神」など断片的世界を統合する原理を求める心性をも解体する試みのようです。  
過去の積み重ねの自我の解体・崩壊の後には、単一体の原理を求める以外には自我の再生の可能性はないのでしょうか。中観派的な発想のように、世界・自我の無自性を受け入れことが「悟り」であり、自我の再生など夢物語でしょうか。白穏は自我の再生、それも繰り返し続けられる自我の創造を「悟り後の修行」としているというのが私の視点ですので更にこの点について考えてゆきます。  
先ほど引用した真木悠介の「時間の比較社会学」を手がかりにもう少し考えて見ます。この本では、単一体を求めるカルヴァンの考えとは対極的なものとして、やはりジョルジュ・プーレの「人間的時間の研究」のルソーについて書かれている章から、ルソーの「魂が十分に堅固な地盤を見いだして、完全にそこに安住し、そこに自分の全存在を集めて、過去を呼び起こす必要もなく、未来に一足飛びする必要もないような状態、時間が魂にとってなんの意味もなく、いつまでも現在が続き、しかもその持続を示さず、継起のあともなく、不足や享受の、快楽や苦痛の、欲望や恐れの感情もなく、ただわれわれの存在という感情だけがあって、その感情だけが魂の全体をみたすことができる、そういった状態があるとすれば、その状態が続くかぎりは、そこにある人は幸福な人といえる。」という文章を「孤独な散歩者の夢想」からとりだしています。ルソーはこの考えを、前進的に外に進む青年・壮年期から内に引っ込む老年期にいたり、狭い範囲の活動可能な領域へ無限に広がる想像世界を縮小して合わせた思想と述べています。この時期、ルソーは被害・関係念慮から未来への希望をなくして回想に充実感を見出しています。ジョルジュ・プーレは、ルソーは思考の退却だけでなく内にこもりそのことで宇宙との一体感を得たとも言っています。  
私は、このようなジョルジュ・プーレの結論に行く前に、「孤独な散歩者の夢想」の第二の散歩に書かれている「意識を喪失」から回復した時の回想に注目します。第一の散歩では、青年期・壮年期の活動の結果、友人、国家・宗教的関係者から孤立・迫害され、「こうしてわたしはたったひとりになってしまった。もう兄弟も、隣人も、友人もいまい。自分自身のほかにはともに語る相手もない。だれよりも人と親しみやすい、人なつこい人間でありながら、万人一致の申し合わせで人間仲間から追い出されてしまったのだ。」という孤立・無縁の孤独状態におかれた状況から書き出されています(「孤独な散歩者の夢想」今野一雄訳)。私は若いときに、「孤独な散歩者の夢想」をフランス、スイス、イギリスを転々と流浪した後にやっとパリに戻ることがゆるされ楽譜の清書で生活の糧を得ていた感傷的な老人によって書かれた本と読み流した思い出があります。今は、白穏の「見性」修行の体験を示す原型的体験が記述された本として読もうとしています。さて、孤立無援な状況に立ったルソーは、「このノートは正確にいえばわたしの夢想の断片的な日記にすぎないものとなるだろう。ここでは自分のことがたえず問題にあるだろう。物思いにふける孤独な人間はどうしても自分のことを考えがちだから。さらにまた、散歩の途上でわたしの脳裏をかすめるさまざまな外界の観念もやはりここにしるされることになるだろう。わたしは考えたことを、頭に浮かんだままに、また、前夜の考えと翌朝の考えがふつうにたいして関連をもたないように、関連もなしに語るだろう。・・・・わたしはこれから人間のなかでは無にひとしい。かれらとは現実の関係、真実の交渉もたないのだから、わたしはそれ以上のなにものでもありえない。」もともとルソーの思想には、過去の痕跡を持たない自然状態の人間や子供の生活にある動物のように純粋な感覚で生きるのが人間にとって「幸福の状態」であるという考えが内在しています。ルソーは流浪生活のはてに社会状態のなかで生きる個人として自我の復権のために狂気じみた行為をも敢行しますが、無に帰しました。自我の復権の失敗の後に、この引用した文章のように自我の崩壊しかけた状態のなかで躁の感情と鬱の感情は絶え間なく移り変わる状態が描写されます。そして、第二の散歩では自我の完全な崩壊に見舞われた事件に遭遇します。1776年10月24日、田舎の風景や植物を観察して「いつも感じる喜びと興味おぼえながら」歩き回ります。そして「わたしは嘆息してつぶやく。この世で自分はなにをしたろう?自分は生きるために生まれたのに、生きることもなく死んでいく。だがすくなくとも、それは自分の過ちではなかった。わたしは自分をつくってくれた造物主のもとへ、善行の捧げものを携えていくことはできない。そうことをさせてもらえなかったのだから。しかし、とにかく、実を結ばなかったとはいえ、よき意図の貢物を、なんの役にもたたなかったとはいえ、健全な感情の貢物を、また人々の侮辱という試練に堪えた忍耐心の貢物を携えていき。」などと考えます。そうしているうちに、「一頭のデンマーク犬」が「一台の四輪馬車の先に先にたって懸命に突進してきて」ルソーに衝突します。倒され、意識を失い、ほとんど夜になって意識が回復します。「夜は暗くなっていった。わたしは空を、いくつかの星を、それからほの明るい草原を認めた。その最初の感覚は甘美な瞬間だった。まだそんなことで自分を感じるだけだった。わたしはこの瞬間、生に生まれつつあった。そして、軽やかなわたしの存在をもってそこに認められるいっさいのものを満たしているような気がした。すべては現在にあって、なにも思いだせない。わたしというもののはっきりした観念は全然なく、わが身に起こった先刻のことも全然意識にない。自分がだれであるかも、どこにいるかもわからない。痛みも、恐れも、不安も感じない。・・・わたしは自分の全存在のうちにうっとりとするような静けさを感じていたが、それを思い出すたびにいつも、どんなに強烈な快楽の経験のうちにもそれにくらべれるものがないような気がする。」と言う体験をします。ここで思い出すのが、白穏が正受老人のもとで絶対絶命の状態に落ち込み、老婆に帚で打たれて意識を失い倒れた事件です。  
しかし、その後も、「こんなにも多くの偶然の事実の集積、わたしのもっとも残酷な敵のすべてが、いわば幸運の翼にのって世に輝いていること、国家を支配する者、世論を指導する者、地位にある人、信用のある人々のすべてが、あたかも篩にかけられたようにわたしにたいしてなんらかのひそかな敵意をいだいている者のなかからえらばれて、共同の陰謀に加わっていること、こうした普遍的な一致協力はたんなる偶然によるものと考えるにはあまりにも異常なことである。」と、ほとんど被害・関係妄想といってよい観念のなかで迷い、躁的感情と鬱的感情が入り混じりながら、逡巡、自信、恨み、悔恨の言葉が以下のように面々とつづきます。このような思考は、孤立無援の逆境の中にあるひとがとる普遍的なパターンなのでしょうか?「老人というものはみんな、子供たちにくらべて生にいっそうつよい執着をもち、青年よりもいっそうつらい面持ちで生を去っていく。それはつまり、かれらのいっさいの苦労はこの世のためだったのだが、人生の終わりになってすべては徒労だったことを知るからである。いっさいの心づかい、財産、刻苦精励の結晶もすべて、死ぬときには見捨てていく。かれらは生きているあいだ、死に際して持ち去ることのできるようなものはなにひとつ獲得しようとは考えなかったのだ。」「数年間の動揺をへて、ようやくわたしは精神力を取り戻し、自分を反省しはじめて、逆境のために準備しておいた救いの道のありがたさをさとったのだ。考えてみなければならないすべてのことに決断を下して、わたしの準則を自分の境遇にあてはめてみると、自分は人々の不条理な判断や、みじかいこの世の生活のつまらない事件に、それらがもっているよりもはるかに大きな意味をあたえていることを知った。この世の生活は試練の状態にすぎないとするならば、その試練がどういうことであるかは問題ではなく、ただそのために試練が課せられる結果がもたらされればいいのであり、したがってまた、その試練が大きく、激しく、たびかさなれば、それにたえることができるというのは、それだけで身のためになるということを知ったのだ。どんなに激しい苦しみも、それには大きなしかも確実なつぐないがあることを知っている者にたいしてはその力を失ってしまう。」「ああ、いったいだれがわたしを絶望から救ってくれるのか?恐ろしい運命にあって、理性が提供してくれた慰めのうちにいまはむなしい幻影を見るだけだとしたら?理性がこんなふうに自分の仕事をぶちこわし、逆境にあるわたしのために準備しておいてくれた希望と確信の拠りどころをすべてくつがえすとするなら?世界でわたしひとりだけの慰めとなる幻想がなんの役にたつ?現代のすべての人は、わたしひとりの心の糧となっている思想のうちに、誤謬と偏見をみるだけだ。現代人はわたしの体系と反対の体系のうちに真理と明証をみいだしている。わたしが自分の体系をまじめに採り入れたと信じることさえできないらしい。わたし自身も、心からそれにうちこんでいながら、わたしにとって解決不能な、うちかちがたい難点をそこにみいだしている。しかもそれに執着している。いったい死すべきもののうちでわたしひとりが賢者なのか、わたしひとりが知識ある者なのか?事態はこうであると信じるには、そのほうがわたしには都合がいい、というだけで十分だろうか?」  
そして、その中で、犬との激突の後の意識の喪失からの回復時に経験した「わたしはこの瞬間、生に生まれつつあった。そして、軽やかなわたしの存在をもってそこに認められるいっさいのものを満たしているような気がした。すべては現在にあって、なにも思いだせない。」いう「いまの時」が持続する、有名な1765年秋のピエール湖のサン・ピエール島での体験を「過去にあったいまの時」の体験を回想します。その体験は散歩と植物観察の中でもたらせられます。「魂が十分に強固な地盤をみいだして、そこにすっかり安住し、そこに自らの全存在を集中して、過去を呼び起こす必要もなく未来を思いわずらう必要もないような状態、時間は魂にとってなんの意義ももたないような状態、いつまでも現在がつづき、しかもその持続を感じさせず、継起のあとかたもなく、欠乏や享有の、快楽や苦痛の、願望や恐怖のいかなる感情もなく、ただわたしたちが現存するという感情だけがあって、この感情だけで魂の全体を満たすことができる、こういう状態があるとするならば、この状態がつづくかぎり、そこにある人は幸福な人と呼ぶことができよう。それは生の快楽のうちにみいだされるような不完全な、みじめな、相対的な幸福ではなく、充実した完全無欠な幸福なのであって、魂のいっさいの急遽を埋めつくして、もはや満たすべきなにものも感じさせないのである。こうした状態こそわたしがサン・ピエール島において、あるいは水のまにまにただよわせておく舟のなかに身をよこたえて、あるいは波立ちさわぐ湖の岸べにすわって、またはほかの美しい川のほとりや砂礫の上をさらさらと流れる細流のかたわらで、孤独な夢想にふけりながら、しばしば経験した状態なのである。」わたしが、現存する、生きている、というそれだけの喜びの感情体験を経験します。おそらく、この自分が生存している喜びの感情は特別なものではないでしょう。私たちは、この体験は時折するのですが社会生活に追われて覆い隠されてしまうのです。このように私が書くのは、私も壮年期につらい時期があり、数年間ほど北米や日本の同じ風景をあくことなく眺めた経験があるからです。その時に、孤独感と共にある種の幸福感をも感じていました。その時には、よく青春期に読んだ桶谷秀昭の初期の「土着と情況」(1967)の本のあとがきにある「一昨年の晩夏から秋にかけて、夕の空が異様にうつくしかった。その空の深い蒼は、少年期のはじめ、大病をしてくたばりかけた頃、目に映った空とおなじようにうつくしかった。これはよくない徴候だとおもいながら、夕の空をみることにこころはひかれつづけた。」と言う文章を思い出していました。そして、この体験を「よくない徴候」ではなく、幸福感でもあるのだと考えました。そうゆう読書体験があるだけに彼に余計に思いいれがあったせいか、彼の「昭和精神史」で朴烈事件と関連した次のような文章には強い嫌悪感をもちました。朴烈事件とは、関東大震災の直前に、彼が電信柱に貼ってあった大正天皇の写真をナイフで突き刺していて逮捕され大逆罪に問われたものです。その本に金子文子について触れた文章があります。「その妻金子文子は、無籍者で、悲惨な境遇に生まれ、両親に捨てられ、朝鮮、内地と放浪生活を送るうちに、無政府主義に惹かれるようになった。「何が私をかうさせたか」という獄中の自伝があるが、そのねじれた性質を悉く境遇のせゐにしてゐる、暗い怨念の文章である。」。このごろ流行しているように、品格とかという社会の秩序感を人格の性状に置き換えた言葉を乱用して人を裁く文章を読みますと羞恥心が起こります。自然から逸脱してしまった人間には、逸脱してしまった事による負債とともに逸脱してあることを肯定しようとする生存感があるのだと思います。それを聴く努力が大事なのです。  
さて、このルソーの体験を引用したジョルジュ・プーレは「人間的時間の研究」のなかで「魂の孤独、ただし宇宙の全体性のなかにおいて。とまどうような、しかしルソーにあってはついにはその逆のもの、膨張の運動に到達する。じじつ、自我の感情が純粋感覚との同一化によって再び見出されるやいなや、この感情をできるかぎり広大な感覚にまで拡げることをさまたげるものはなにもない。すなわち宇宙全体の感覚のなかに自己を再び見たすことをさまたげるものはなにもないのである。」「「時間が少しも継続性を持たず、場所が少しも距離を持たない」(神)ような人として語っている」、と言っています。私は、この解釈は「飛躍」だと思います。この体験は特殊な者に訪れるものではない、という考えを持っています。おそらくは、流浪しているホーム・レスの人々も日々体験している「至福」の時があると、私は想定しています。ルソーは「サン・ピエール島の追憶」の後に、被害・関係妄想にも高まった思考のなかで、社会のなかで生きている自分の自己弁護―受け入れないことの不満、肥大した自尊心が傷つけられる事への恨みなどーを繰り前しますが、それと同時に「魂が十分に強固な地盤をみいだして、そこにすっかり安住し、そこに自らの全存在を集中して、過去を呼び起こす必要もなく未来を思いわずらう必要もないような状態、時間は魂にとってなんの意義ももたないような状態、いつまでも現在がつづき、しかもその持続を感じさせず、継起のあとかたもなく、欠乏や享有の、快楽や苦痛の、願望や恐怖のいかなる感情もなく、ただわたしたちが現存するという感情だけがあって、この感情だけで魂の全体を満たすことができる、こういう状態」を日々の生活の中で確認しています。私は、ルソーの「原始人・子供」の体験についての観念は「ただわたしたちが現存するという感情だけ」の体験に連なり、社会の中で生き抜かなければならない私たちがそのことによって「ただ生きている生存の肯定感」を毀損されられてしまうもしくは自己毀損の感覚が人間をだめにする考えが「社会契約論」や「人間不平等起源論」の底部にあるのだと思います。それが、ルソーの場合には、自然と社会を対立させる思考をうみだしているのです。私は、論点先取り的にいいますと、ルソーのこの現存することの体験を、神に向かってではなく、小山俊一のいう「生存感覚」(EX-POST通信、プソイド通信)の方へ、さらに生存感覚の肯定の方へ解釈してゆくつもりです。さて、そこに行き着くために、また回り道をしましょう。  
私たちは、幼児期を過ぎ家庭生活から狭い意味での社会を主たる生活に選択します。そのなかで恒常的な傾向を維持する思考・行動パターンとして現れる自我という仮構を作ってゆきます。それが、壊れたときに「ただ存在すること」の体験に回帰するのです。「見性という方法」は、いままで考えてきたようにそれを意識的に方法としているのだと思います。そうすると、仮構され自我の崩壊とは、何を意味しているのでしょうか。ウイントゲン・シュタインは「確実性の問題」で、この問題に接近する思考を繰り返しています。私は、ウイントゲン・シュタインの魅力は、何かの原理を作る事ではなく、ひたすら何度も原理的なことを考え続けた事にあると思っています。彼の「「意味」と「規則」のあいだには一つの対応関係が成立する」「言語ゲーム」論についてはたくさんの本が出ていますのでそれを参照してください。結論的にいいますと、わたしたちは社会生活を長く続いた言葉の使用法の訓練によって「言語ゲーム」によって生きるようになります。そして、「ある種の経験命題が真であることが、われわれが依拠する枠組みの一部をなしている」ようになり、「ムーアの諸命題の「私は知っている」という表現に、「私はゆるがぬ確信をもっている」という表現を置きかえてみたらどうなるか」「私の世界像は、私がその正しさを納得したから私のものになったわけではない。私が現にその正しさを確信しているという理由で、それが私の世界像であるわけでもない。これは伝統として受けついだ背景であり、私が真と偽を区別するのもこれに拠ってのことなのだ。」という文章が示すように、言語が隅々まで浸透しているために、私たちの生活では、教えられた「世界像」が私たちの自我の思考・行動を支配している基本的な原理となる可能性があると指摘しています。  
この世界像は、「この世界像を記述する諸命題は一種の神話学に属するものといえよう。この種の命題の役割は、ゲームの規則がうけもつ役割に似ている。それはゲームというものは、規則集の助けを借りないで、すべて実地に学ぶこともできる。」「そして、「しかじかのことが私の動かぬ確信である」と私が言うとすれば、それはいま問題にしている場合も含めて、つぎのことを意味するであろう。私は一定の思考過程を経て意識的にその確信に到達したのではない。当の確信は、ことさらに取り上げるのが不可能なほど、私の問と答のすべてのうちに深く根を下しているのだ、」なのです。この世界像は、「われわれが何事かを信じるようになるとき、信じるのは個々の命題ではなくて、命題の全体系である。・・・明証的なものとして受け入られるのはひとつひとつの公理ではなくて、体系である。すなわち、帰結と前提とが互いに支えあうような一つの体系である。・・・とにかく私は、どこかで信用することを始めなければならないのではないか。つまりどこかで疑いを遮断して事を始めなければならない。・・・  
子供は大人を信用することによって学ぶ。疑うことは信じることの後に来る。」と様々な観点から世界像について考察しています。私たちが、「確実な事」だと思う世界像は、子供のときから経験によって学んで作り上げてきた体系的な規則のようなものであり、人はそれを基準によって思考・行動します。これが、世界像からみた「自我の仮構物」ですが、「見性の修行」は、過去の経験によって大人・先生から訓練されてきたこの世界像を破壊する試みでもあります。しかし、その世界像は「私は無数のことを学び、他人の権威にしたがってそれを受け入れた。しかるのちに、私自身の経験によってそれらの多くが確認され、またあるものは反証されるのを見たのだ。」といえるほどに、私たちのうちに根をはった強固なものなのです。  
自我の仮構物の崩壊とは、社会の中で生きてきた判断の基準の崩壊です。そのために、ただ生きている生がそのときに露呈します。しかし、これは私たちを自然へと解体することを意味しません。自然から逸脱してしまった生命、それからさらに逸脱をはかろうとする意識を開花させた人間の生存に直面することです。そして、自然から逸脱した生存は仮説体系とその作り直しによって生きていることにきづくことです。しかし、私たちの生存の感覚はすぐにいまある社会的な思考・行動によって隠蔽されてしまいます。ルソーの「孤独の散歩者の夢想」は、私たちの生存の原基を「夢想」として何度も確認します。しかしその「夢想」は「いまある社会的な思考・行動」の世界像に隠蔽され、それと軋轢を生み孤独な生活に退避します。それを維持する力強さが必要です。
大森荘蔵の「立ち現れ」論 
この、原基的な自然から逸脱した生存を持続的に散文的に追及したものに、大森荘蔵の「立ち現れ」論があります。大森荘蔵は、世界はただそこに立ち現れる、と言います。その立ち現れの世界では、「ありもしない「支点」としての「私」を尋ねあぐねて、それでは一体「私」はどこにいるのだ、と尋ねたくなろう。しかし「見る私」、事物がそれに対して「見えている私」などはありはしないのである。だがしかし、「私」はどこにもいきはしない、「見る私」、事物がそれに対して「見えている私」などはありはしないのである。だがしかし、「私」はどこにもいきはしない、「私」はここに居る。「私」は奥行きのある風景の中、「ここ」に居る。「ここ」に生きて呼吸をし、「ここ」に私の五体がある。そして様々のものが連結した風景(私の五体を含んで)が「見えている」、それだけであり、それでおしまいなのである。それが「私がここに居る」というそのことなのである。・・・何がどのように「見えてくる」かは私の姿勢と連動して変わってくる。それが「私がここに生きている」というそのことなのである。」「この、風景が見えているという状況には、その風景を「見る」見物人としての私、つまり認識主観としての私なるものはいないのである。見るものと見られるものという、主観―客観の構造はここにはない(したがって、主客未分などということもない)あるのはただ動作主体としての私である。この動作主体性をわれわれは認識論的主観性ととり違えやすいのである。動作主体としての私は空間の中の好む場所に移動できる。また、動作主体として私は好む方向に眼を向ける。そのとき或る風景が「見えている」。」「五感の風景はいかにそれぞれ異質であっても一つの空間の風景なのである。・・・この「一つの空間」の中心である「ここ」は五感の風景すべてに共通の「ここ」であり、「すぐそば」も「遠く離れて」も同じく五感共有の「ここ」であり、「すぐそば」も「遠く離れて」も同じく五感共有の「そば」であり「遠方」なのである。」(新視覚新論)そうだとすれば、過去はどうでしょうか。「過去はまだ存在している、ということです。何と馬鹿な、と思われるでしょう。・・・一切が刹那に滅します。しかし、それはだから「思い浮かべられる」こともできない、ということにはなりません。つまり、それらは全くの「無」ではないのです。そして誰でもがそれらを「思い浮べる」のです。そのことを率直に(努力して率直に、率直たらんと努力して)みるならば、過去は「思い浮ぶ」形で存在している、と言うべきではありませんか。」(新視覚新論)これらの、文章からえられるのは、「新視覚新論」の「はじめに」で書かれているように「「心」という袋をひっくり返して「心の中」を世界の立ち現れに吐き出したのである。時空四次元の世界にである。世界そのものが悲しく喜ばしく恐ろしく、世界そのものが意志的である。・・・・この世界が意志的であるということは、立ち現われそれ自体が意志的であるということである。これから割るつもりのスイカ、これから射つつもりの標的、引くつもりの引き金、こうした立ち現れである。つまり四次元世界は行動的世界なのである。」「物心一如の唯一の世界に対しての「私」・・・の抹殺である。しかしそれは同時に物心一如の世界の中に私がおのずから復元することに他ならないのである。」と書いています。この「立ち現れ論」は、明らかに、過去の「世界像」を基盤にした自我を解体して、動作主としての個人という視点から世界とともにある私の復活が追求されています。 
これは「立ち現れ論」は、私たちの体験を刹那的に点滅・断絶するものとする仏教の観点にちかいのではないか、と私は考えています。「刹那的に点滅・断絶」する世界の中で動作主として私を復活させ、「刹那的に点滅・断絶する世界」を「立ち現れる」世界として刹那に幅と厚みをもたせそこにうごめく人間を描いていると思います。この「立ち現れ論」の「動作主」にあっては、さしあたり、過去―現在―未来という時間観念はありません。なぜなら、過去―現在―未来という時制観念が成立するためには、動作主は一度「立ち現れの世界」から離脱して、その流れから離れた地点にたつ必要があります(入不二基義、「時間は実在するか」)。ですから、「立ち現れる」世界は現在でもないのです。ただ存在しているだけです。人間は生まれた時には「唯我独尊」、物心一如の世界に生まれます。しかし、生命→意識へずれている分だけ、自我を仮構してゆきます。それを、解体して、はかないところに存在している、動作主としての幅と厚みの持った物心一如の世界に生存して行動する個体としての生に気づくことが個体の復活なのではないかと思います。それは、小山俊一が「EX-POST通信」で言っているように動的に把握しなければならないのですが。小山は、人は「世界全体の全作用を身に受けている・・・世界の集中点」としての「存在感覚」を持ち、「人は一方で世界にむかっての運動の発出点、展望の原点」である「生存感覚」を持つと考えます。このような「存在感覚」と「生存感覚」を二焦点とする楕円形の生存を肯定的に、小山の生存感覚の場合には「ボルネオに従軍」して以来血まみれではあったとしても、把握してゆきたい。それが、白穏の見性後の修行ではないか。 
やっと、白穏の「見性体験」を私なりに理解するところへきました。そうすると、その後の想定されている、見性後の止まることのない悟り後の修行を理解するのが次の課題となります。それは「悟り」を聖なるものなどと持ち上げそこに固執しない動きです。 
さて、私がどうして白穏の見性体験が正受老人の下にいたときにあったという考えを持ったかという理由を述べ終わりました。そこでは、無門が提示した修行方法によって白穏の修行が行われ、「大死一番」が遂行されたのです。その時、既成の自我の仮構構造は解体され断片化しました。「意識の喪失」の後に、生存している生が露呈します。そして、「白穏その1」で引用した白穏のところで修行していた古郡兼通居士が書いた「万仞の崖の上で、支えの手を離す。鋤が石に当たって火を発し、宇宙を焼く。我が身、灰燼となってよみがえれば、田んぼは元どおり稲穂が実っている」という詩のところまできました。この先、白穏は「田んぼは元どおり稲穂が実っている」世界をどう生きていったかを理解しようとつとめます。その場合にも、いままでと同様に井筒俊彦(「意識と本質」)や立川武蔵(「ブッデスト・セオロジー」)などのように「悟り」を「聖なる」世界の体験であるというようなシャーマニズム的な仮説を拒否して理解してゆくつもりです。白隠の「妙心」とは、逸脱した存在の肯定観です。しかし、「自我の仮構物」とそれを取りかこむ「世界像」の崩壊の中に現れる「立ち現れの」世界は、至福や幸福感で満たされているだけではありません。恥辱、苦痛、恐怖を発生させる体験でもあります。「外傷後ストレス障害」の診断基準にある外傷体験のフラッシュ・バックや夢での再現は「立ち現れの」世界でもあります。ここに、自然から逸脱して存在する私たちの困難さがあるのだと思います。小山俊一の「立ち現れの」世界は血で染まっています。 
それは、ともかく、「逸脱してただそこにいる存在感」が仏教語では無自性の極に近く(イコールではありません)、「仮構物である自我」が自性の極に近い(これもイコールではありません)と考えることができます。私たちは「逸脱してただそこにいる存在感」と「仮構物である自我」の二重構造で揺れ動きながら、社会・世界の中で生きているのです。
 
病気と養生

 

私は、個人は生きてきた諸関係の積み重ね・集積が仮構体=観念であると考えています。その意味では諸関係の束として人間を考えるマルクスの考えを支持します。仮構体という言葉で表現しますのは、人間社会という上位次元では「私なるもの」、人間関係、社会は現実体ですが、自然という下位次元からみると「私なるもの」、人間関係、社会は自性のもたない虚構体と考えられます。そのために、実質体=現実体の次元と、虚構体の次元の両方を含むものとして仮構体をいう語を使用します。  
「ヤハウエは暴風(あらし)の中からヨブに答えて言われた。この無知の言葉をもって経綸(はかりごと)を暗くする者は誰か。君は男らしく腰に帯せよわたしが君にきくから、わたしに答えよ。地の基いをわたしがすえたとき君は何処にいたか。語れ、もし君がそんなに利巧なら。」(ヨブ記)  
「転頭す木上座を 秋雨窓に入りて寒し 一片磨甎(ません)石 髑髏なんぞ看ることを得ん   
思いかえしてみると、一本の錫杖にもつきぬ思いがある。その錫杖上座をもって、いま庵を出でようとするのだが、柴扉(さいひ)を開けば、秋雨がさっと、何一つないいぶ せき部屋に入ってきて、ぞっとする。修行というものは、一かけらの石を研(す)り磨いて鏡とするいとなみにも似て、ただひたすらに石をみがいていることに意義を見出すべきで、「鏡とする」、つまりさとりを求めての修行であってはならない。髑髏は、衲(わし)が性こりもなく、またも行脚に出かけるこの姿を、どのように看とって下さることか。愚かな奴め、と看とっているにちがいない。」(良寛髑髏詩集譯飯田利行)  
仮構体としての私たちの脆弱性が最も集中的にあらわれるのが「病老死」です。「逸脱してただそこにいる存在感」を肯定して生き抜くことは、たえずこの仮構体としての私たちの脆弱性に直面しなければなりません。白隠は、病をどのように考えたのでしょうか。
白隠のうつ状態と白幽子の治療  
白隠の思考のなかでは、病気と養生が大事な問題として考察されています。白穏の略伝で述べたように正受老人の下での修行の後、白穏26歳(宝永七年)の頃、「うつ状態」となっています。その症状については詳しくは、白穏の略伝に書きましたが、過度の座禅によって、自律神経と関連した様々な症状(脚・腰の冷感、耳鳴り、涙流、)、うつ的気分、悲観的思考、食欲不振、睡眠障害、疲労・倦怠感などが現れており、「うつ状態」と判定できます。「両脚は氷雪に浸したように冷え、谷川のほとりを行くかのように、いつも耳鳴りがする。肝胆が弱まったためか、何をしていてもおどおどし、心神は疲れやすく、寝ても覚めてもいろいろ幻覚が見える。両腋にはいつも汗をかき、眼は常に涙ぐんでいる。」という状態でした。白穏の生涯を総体的にみますと非常に高いエネルギー水準を維持した極めて活動力に富んだものであり、ドストエフスキーや南方熊楠の高水準のエネルギーを持続させた生涯に類似しています。しかし、白穏の生涯の中では、この「うつ状態」の時期は明らかにエネルギー水準の低下した状態がみられます。このような事から考えますと、白隠には躁病性エピソードと鬱病性エピソードと呼べるほど極端に高いもしくは低い気分の水準を示さない気分障害があったのかもしれません。白隠は、病的な状態を経験することで、ある目的のために外に向かう行為・修行の時期と病気・停滞による引きこもり時期をどのようにすごすかという両者の関係を考察しています。白隠も道元と同じように病気にはシャーマン的な呪術的祈祷などの擬似的宗教的医療的技術に救いを求めていません。この時期の医療水準の技術で対処しています。白隠は京都郊外の山中にすむ白幽子をたずねます。山城の白河山中に岩居する白幽仙人は、蘆の簾をかけた洞穴に住んでいたと言います。「目を閉じ端座した白幽仙人の姿」は、「白髪まじりの髪は長く膝まで伸びているが、赤味をおびた艶やかな顔である。荒布のうわぎを引っ掛け、席に座って」いました。「同窟内はわずか五六尺四方、生活の具は何もない。机の上に「中庸」「老子」「金剛般若教」。「自分は山中にこもって死にかけの老いぼれだ。木の実を拾って食べ、獣とともに睡って生きているだけだ」と述べたと、白穏は書いています。白幽仙人については、白隠の創作であるという意見もありますが、実在していた人物のようです。  
この人に「内観の法」を伝授されました。内観の法とは、「万物の根源には陰陽の二原理あり。陰陽の二気があい交わって人間が生まれる。人にはだから精気がある。五臓が働き、気血が循環する。横隔膜の上に肺があり、その下に肝臓。心臓には神、肺臓には魄、脾臓には意・智、腎臓には精・志が宿る。呼息は心肺から出て、吸息は腎肝に入る。一呼・一吸ごとに、それぞれ脈は三寸行く。こうして一日に一万三千五百の気息があり、脈は全身を五十回巡行する。火の性質は軽いから常に上に昇ろうとして、水の性質は重いから常に下にながれようとする。心臓は五行の火、腎臓は五行の水。」という解剖学と生理学で身体を把握します。そして、白穏の病態を「座禅観法がすぎたり、考え過ぎると心火は燃え上がり、肺金をそこない、金母である肺臓に負担がかかると、水子である腎臓が衰える。そして、五臓六腑が障害される。」と判断します。治癒の方法を次の二元論的思考で把握します。「道をきわめてその極に達した者は、常に心気を下に充たす。心気が下に充つるならば喜・怒・哀・燿・楽・悪・欲という七情も動くことはなく、風・寒・暑・湿などの四邪が外から」侵すことはありません。「凡庸な者はこれに反して、常に心気を上に向けてほしいままにしておくのである。・・・こうして、左右の両手首にある脈がそこなわれ、眼・耳・鼻・舌・身・意のはたらきは萎縮し疲れるようになる。」と言います。ここから、生命力をたくわえる養生は、荘子が言う「真人は踝で息をする」「気が下腹部に集まれば、その息は長く深くなる」という考え、道士の言うに「元気を常に下に(下腹部の丹田)充たすこと、これが生を養う枢要であ」り、「六欲をしりぞけ、五官がそれぞれそのはたらきを忘れるときは、そこに混然たる本源の真気が目前に充ちる」という治療法を提出しています。下腹部の臍輪・気海・丹田の間に気をみたし「この自己がそのまま、不生不滅の大宇宙と一つになる」といいます。この考えは、垂直的に上方へ飛翔する思考ではなく、下腹部という動物的生命のほうへエネルギーを充実・充満させ、大地と連結する思考といえます。そう言う意味では大乗仏教のなかにみられる人間の生物学的なエネルギーを修行に転換する思考や技術に一致するものといえます。勿論、この「内観の法」の考え方は、道教の影響が強いようにみえます。白隠の思想は仏教に閉じこもらずに儒教や道教の思想を大幅に採り入れています。  
さらに、白幽仙人より白隠は「軟酥を用いた内観の法」も伝授されたといいます。「色も香もよく清浄な軟酥の、鴨の卵ぐらいの大きさのものを、頭のてっぺんに置いたと想像せよ。その絶妙な風味が骨と透ってあまねく頭の中をうるおす。そして、だんだんと浸みわたり下って来て、両肩から左右の腕、そして両乳、胸郭の間に浸み、さらには肺・肝・腸・胃、そして背梁骨へと、次第に浸みていく。こうして、下に浸み流れる時に、胸の中につかえた五臓六腑の気の滞りによって生じた痛みは、観想する心とともに、さながら水が低きに流れるように、音をたてて降下するであろう。そして、体中をめぐり流れ、双脚を温め潤し、足下に至って止まる。その時、次のような観想をしなさい。この侵々としみながら流れ下る流れがあふれ溜まって、一身を暖めひたすこと、ちょうどよい香りのする各種の薬草を調合し煎じて、この薬湯を浴盤に堪えて、それに臍輪以下を漬けひたしたようである、と。一切は心のあらわれであるから、このように感想するならば、実際にめずらしい香気を嗅ぐことができ、身体も触り心地のよいものに包まれた感覚を味わうであろう。身心は調和し、二三十歳の青年の時よりははるかに勝ると感じるようになろう。かくして、体内の滞りは消え、胃腸も調子よく、いつのまにか肌の色つやも輝くばかりになっていよう。この観想を怠らずに努めるならば、どんな病も治り、徳も知らず識らずのうちに積まれ、いかなる仙道にも勝る結果を得るであろう。ただ、その功験に遅速はあるが、それはこの法を熱心に進修するかそうでないかによるだけのことである」。この考えは、現代風に言いますと、暗示を含んだ自律訓練法に通じる考え方といえます。上記のような白幽子に教えられた「内観の法」は夜船閑話(上下)にまとめられています。
白隠の医療観 
すなわち、「もしこの秘法を修しようと思えば、少しの間、参禅工夫をやめ、公案を考えることをやめて、まずぐっすりと一眠りして目を覚すがよい。まだ眠りにつかず、まぶたの合わない前に、長く両脚をのばし、強く踏みそろえ、身中の元気をへその下の下腹、腰と脚、土踏まずに充実させ、次のように観念しなさい 
(1)我がこの気海丹田(臍下より陰処までを気海という。丹田も臍下の下腹部にあたるところで、ここに力を入れると軒昂と元気が得られる。注:鎌田茂雄)、腰脚足心はすべて自分の先天の本性(原文は「本来の面目」の訳。ここでは呼吸が先天の気であるからこのようにいう。)にどうして鼻孔があろうか。 
(2)我がこの気海丹田はすべて自分の本来の故郷である。この本来の故郷に消息たよりなどあるべきはずがない。 
(3)我がこの気海丹田はすべて自分の心であり、その心は即ち浄土である。我が心をはなれて別に浄土の荘厳はない。 
(4)我がこの気海丹田は、すべて自分の身の中にある弥陀である。我が身が弥陀である以上、別に自分以外の弥陀が法を説くはずがない。 
このように繰り返してたえず観想してみよ。観想の効果が積もれば、身全体の元気が知らない間に脚、腰、土踏まずの間に充足して、臍下丹田がひさごのように張って力が満ちあふれ、篠打ちしない鞠のように固く張りつめるであろう」 
「ここにおいて真実参禅の勝れた者数人を得て、内観と参禅とをあわせ用いて、田を耕すごとく、敵と闘うごとく修行に励んできたが、考えてみると、これまで三十年を経過した」。 
この文章にみられるのは、参禅という仕事に集中して精神的な疲労による病が発生した時に、そとへ向かう生活から自分の「故郷、本性、弥陀」に還帰することを奨めていることです。自分を肯定するうちの世界にもどることを行っています。白穏の場合、参禅はそとにおいてネルギーを集中する仕事のように考えているようにみえます。少なくとも病気になった場合には、禅の修行を中止して、一時、こもって病気の治療に専念することの重要さを指摘しています。庄司六郎兵衛の娘「お察」への手紙で実父の「腎虚」にたいして、食べ物の制限する看病人の役割の重要性を説いています。 
「よい看護人というのは、まごころで仕え、しかも心を強くもって、命をかけても病人の気持ちに逆らっても、これを説得し、どんなに責められて叱られても粥飯の二品以外には与えず、どんなに罵られても少しも屈せず怖れず、ふみ堪えて、病人の心のままに任せず、何としても全快して頂こうと、片時も離れず、しばしも油断せずに看病するような人です。・・・・いずれにせよ、看病人の精神が弱くて、病人におどされ欺かれて、言いなりに食い物をあたえていたのでは、独りも治らないのです。」と、病人の欲望や病人への優しさに屈しないで病気を克服することを教えています。少なくとも、生命を軽く見ないで快復するように注意を集中すべきであると述べています。 
他方、病人にむかっては、「病中の覚悟」として、 
「・・このように世話を焼いておられたのでは、心火が増し、その結果、肺金の中の本元の水分を養うことができなくなりましょう。水分が尽きてしまえば、命を保つことはできません。 
なぜならば水分が枯れ力が弱まれば、火気を制することができず、次第に気もあせり、あれこれ世話を焼くことも増え、その結果、果ては自汗と盗汗といって、冷や汗が出る「骨蒸労熱」という症状になるでしょう。・・・本来、天地の理は一つですから、世間の水火と身中の水火とは別物であるわけはありません。ちょっとしたことにも怒り、顔が赤くなり体が熱くなるのは、心火が逆らい上がる兆候なのです。・・・ 
兵法でも「身を死地に置いて全治を得る」ということがあります。自分は死に切ったも同然だと思い切り、身を捨てるならば、存外、九死に一生を得るということです。こう申すからと言って、健康管理を粗末にし、食事や養生をいい加減にせよということではありません。死に切ったならば、世間のあれこれの世話を焼くことも、食い好みをしたりすることもないはずです。この死に切るとは、死でもなければ生でもない、有でも無でもなく、聖でも凡でもない、神でも仏でもないところです。ただ混々沌々として、何の分別もなく、ただただ生まれたばかりの赤子のように、すべてを天運に任せることです。すべてを放下して、自分は世間には何の用もないのだと、こう思い定めて、ご養生なされば、自然に本元の一気が静まり定まって、陰陽もおのずから分明になり、身体のすべてが力を得、次第に快気に向かうことでしょう」。療養に際しては、「死にきって」世間の事など考えないで療養に集中すべきであると述べています。しかし、勿論、現代社会では、「死にきって」、自分を世の中から離脱させて生きて治療に専念することは極めて困難と思います。自分や家族の現状と将来を考えないで治療に身をまかせ治療に専念することができる人は一部の人でしょう。 
「昔、中国で仙人が呂洞賓という人に「仙丹の製法は、黄金の粉と朱を混ぜて、これを練ること三年ないし七年、などと世間では言っているが、これは何の根拠もないことだ。真の長生不死の神丹というものは、本元の一気を守ることだ。この気を外に出さないために、眼妄りに見ず、耳妄りに聞かず、口妄りに言わず、身妄りに動かさず、心妄りに馳せず、真気を下腹部の臍輪気海にため養う。これを丹を練ると言うのだ」と言ったといいます。「臍輪の下にわが内なる丹をつくりだす丹田があるのだという教えを聞いた呂洞賓は、この法を慎み守り、久しからずして仙術を成就したということです」と、根拠のない魔術的擬似的な治療に身をまかせることを戒めます。白隠は一貫して、呪術的・魔術的・シャーマニズム的な思考・方法に近づくことはありません。仏教の中にも、魔術的・シャーマニズム的な「技法」を用いて、病気を治療するという擬似的な医療行為を行う傾向をもつ宗派が存在します。白隠の医療感はこのような考えとはまったく無縁にみえます。 
このように、白穏は、世俗、他人のことのために気をつかうことをやめて、療養することを勧め、血迷っていんちき治療法に迷わぬことを説きます。このことは、現在にあてはめますと、何の根拠もない薬物や治療法がインターネットや宗教的装いのなかで蔓延する事態を批判することになります。 
そして、「私がこんなつまらぬ繰り言を書いてお送りするのは、お互い、いつまでも生きられる身ではない、ことに、あなたとは竹馬の頃より仲よくして来たのですから、せめて七八十年もともに生きのび、お互いに心の慰めともなりたいと思ってのことです。願わくばお互いに年寄り朽ちて、愛別離苦も無常も、何とも思わぬまでになりたいものです。「人生まれて静かなるは天の性なり」と申します。心静かに安らかならば、きっと必ず天寿を全うできましょう。必ず必ず、病中は坐禅の心になりすまして、何事も打ちすてて、気長に養生なさること、もっとも肝心です。」と、やさしさにあふれた常識の範囲の思考に考えを留めています。 
私は、仏教の思想の一つの特徴として、自然宗教とはことなり、シャーマニズムやアニミズムを超える思考がはっきりあることだと考えています。永い時間をかけて欲望を統御して、執着から自由になることを学んでゆくことを教えています。一挙に「悟りに達することは」どうでもよいことなのです。シャーマンは悪しき科学者・技術者でもあるのです。白穏は、医療に奇蹟をもたらす魔術を期待しません。極めて、現代的な態度をとっています。そして、病気を私達の仮構体としての生の一面であること、病気は例外的な状態ではないという認識を持っていたようです。しかも、人間の仮構体としての生を虚構体一元論の観点からみて、生きる試みを断念させることはしていません。あくまで、仮構体としての生を生き抜く事をすすめています。仮構体としての私たちの生を維持するために、外に向かう生活と内にこもる生活の両面を考慮する生き方が必要な事であると述べているようにみえます。禅には、健康人が病人を治療する、という考えを完璧に超えた考えが見られます。医療従事者の病者に接する態度にとって極めて洞察に満ちた逸話を紹介します。「従容録第九四則洞山不安」です。 
「洞山良价は四大不調で身心が安泰でなかった。いわゆる老人病である。時に一僧がきて質問した。「和尚は病人となられましたが、病気をしない者がありますか。」(病と不病に分けた。まあそれもよかろう。)洞山が云った。「あるとも。」(洞山の本意ではないが、この場合あると強情をはった。)僧が云った。「それならばその不病者が和尚を看病するのですか、どうですか。」(世間ではありふれたことで、珍しくもない。)洞山が云った。「いや、老僧は反対に他の不病者の看護をするだけの力量があるよ。」(これででこそ凡俗を超越した本来底の相見だ。)僧が云った。「して和尚が他の看病をされる時、その仕方はどうですか。」(洞山はどんな眼で相見するのであろう。見不見に渉ったら無理だ。)洞山が云った。「山僧が他を看病する時は、病気などまったくないよ」(仮和合の身心においては本来無病と看るのが真の看病、すなわち仮身にすら捉われず、真人に相見している。)」 
人間を健康人と病人に分けて、健康な人間が病人をみるという考えが否定されています。人間は健康人と病人に分けることはできない。健康と病気をもった人間が、健康と病気をもった人間をみるという当たり前のことを、正面にすえて考察しています。元来、人間は普通では健康状態にあり、例外状態として病的状態にあると考えがちです。「普通の状態」は健康で活気にあふれていると考えられているために、病的状態と死の問題はひたすれ覆い隠されてしまっています。特に最近は、テレビに代表されるマスコミは、自然から逸脱した人間=仮構体が作っている社会の災害を人間の不幸と捉えるのではなく経済的効率の観点からのみ発言してその考えを社会に浸透させています。人間は自分の身体も含まれている自然から逸脱した仮構体ですから、仮構体を虚構体とみなす自然からの侵害を病気を含め自然災害としてたえずこうむります。仮構体の人間が作り上げた仮構体の社会にとって、不可避におそう災害はマイナス効果をもつので、経済効率を優先させる考えは、人間の病的状態に対する配慮、病的状態を補助するシステムをどんどん解体してゆきます。というのは、人間の仮構体としてもつ脆弱性(自然の状態に解体する傾向)を無視しますと、脆弱な部分を切り捨てる傾向になるからです。先の洞山の逸話は、健康と病気を二分しない次元で、「医療」とは何かを考えています。白隠は、健康な状態ではそとに向かう活動を、病的状態では引きこもる活動をすすめ、この両方が白隠の高いエネルギー水準を維持する無限否定・前進運動の柱になっていると思います。
 
仏教的仮説から抜けてゆくもの

 

1 仏教的思惟に見られる仏教仮説を抜けるもの
仏教仮説からもれる仮構体世界  
私は、ここからだんだん仏教の仮説である「四諦」の問題領域から離れて行きます。と言いますのは白隠の本や禅に関する本を読みますと、仏教仮説「四諦・八正道」とは異なる考えと思想も見られるからです。白隠の本や禅に関する本には、この人間世界をどう生きるかに答えるための修行という考えが強くでています。修行という考え方は、虚構体としての人間という視点(病・老・死)から人生を見るのではなく、虚構体をひとつの要因として含みながらも、自然から逸脱して存在している生の世界はそれ自体で「自性」=価値と意義をもつことを示すと考えることもできます。この点を少しずつ明らかにしてゆこうと思います。しかし、修行を人間世界を生きるための行為と考えた場合には、白隠の本や禅に関する本は宗教という分業世界内に閉じこもり、上から外の分業世界の人々にものを言う形を取っているために狭さと独善があります。宗教の分業外で生きている私としては、宗教的分業世界の視点とは異なる視点で考えることになります。  
まず、仏教で理想とされる世の中の人と出来事への執着を断った人間による関係がこの世界ではどのように現れかを考えて見ます。それをよく示すと思われる例を「沙石集」から引用します。「昔、仏法を求める修行者がいた。ある山中を行くと、二人の山人がおり、その一人は畑を耕している。父子であろう。見ていると、子供の方が毒蛇に噛まれて急死してしまった。父親は嘆く様子も見せず、この修行者に声をかけて、「あなたが歩いて行かれる道の側に家がある。それが私の家です。そこから食事を持ってくるはずだ。「たった今、子供が急死した。食事は一人分持って来るように」と知らせて下され」と言う。「父子の死別は悲しいだろうに。どうして嘆く様子がないのか」と修行者が尋ねると、「人間の親子の縁は、はかないものだ。鳥が夜、林に寄り集まり、夜が明けると方々へ飛び去るのに等しい。皆、業にしたがって離れ別れるだろう。何も嘆くことはない」と答える。さて、山人の家に出向いて見ると、食事を手にした女人と門で出くわした。「これこれ」と話すと、「それなら」と、一人分の食事を戻した。家の中には老女がいる。僧が尋ねて、「あの死んだ人は、そこもとのお子さんか」と問う。老女は「そうです」と答える。「どうして嘆く様子をお見せにならないのですか。」と聞くと「何を嘆くことがありましょう。母子の縁は、川を渡るために船に乗って行き、岸に着いたところで、別れ別れになるようなもの。各人が業にしたがって行くのです。驚くべきことではありません」と老女はいう。また、先ほどの女人に、「この死んだ人は、そこもとには何に当たるのか」と問う。女人は、「私の夫です」と答える。「どうして悲しむ様子がないのですか」と言うと、「何を嘆くことがありましょう。夫婦とは、市に出かけた人たちが、たまたま出会い、用事が済めば方々へ別れるようなものです。最後まで連れ添えるものではありません。」と答えた時、この修行者は、「一切の因縁は仮であって、執着をもってはならない。在家の人でさえ、そのことを心得ている」と、恥じる気持ちが起こり、諸法の因縁が幻化虚妄であるという道理を仲立ちとして、悟りをひらいたそうだ」(第八の四)。ここで述べられていることは「一切の因縁は仮であって、執着をもってはならない」という考え方が貫かれている世界です。先に述べましたように、「私なるもの」はさまざまな要因・因子に分解してしまえば確かに自性がなく、仮の虚構体です。しかし、人間の世界という次元で考えますと、先に述べたように「私なるもの」の次元には「自性」があります。「私なるもの」は、このように次元の異なる自性と無自性を含んで存在します。このような「私という仮構体」が作るものすべて、夫婦関係、親子関係、集団関係、社会関係などはこの意味で仮構体世界と言えます。自然からみれば「自性」がなく「虚構体」=無自性ですが、その関係を生きているものにとっては「実質体=現実体」=自性を持つものです。先に示しました「沙石集」の「諸法の因縁が幻化虚妄」であるという仏教的思惟の「理想的な人間関係」の在り方は、「虚構体」としての側面から人間関係をきりとったものです。だが、もしそうであれば、どうしてそもそも夫婦や親子関係という「虚構体」を作るような「虚構体」に「虚構体」を重ねるような事をしたのでしょうか。もし、私、夫婦関係、親子関係、集団関係、社会関係が「虚構体」であるとするならば、どうして「虚構体」に「虚構体」を重ねるような事をしたのかを徹底的に問われなければなりません。どうして、仏教徒は、釈迦の言葉にもある「死すべきものが死すべきものをつくるべきではない」という言葉を徹底的に考察しなかったのでしょうか。私は、この「死すべきもの」の視点を徹底させないところに、すなわち人間界を消滅させずに(人間の誕生を否定すると人間界はなくなります)人間界に発想の根拠を置こうとしているところに仏教的思惟の秘密があるように想定しています。白隠は「槐安国語」のなかで「平等無き差別は仏法に順ぜず、悪差別なるが故に」「差別無きの平等は仏法に順ぜず、悪平等なるが故に」と述べています。「差別」とは欲望に突き動かされている世俗的な考え方で、「平等」とは欲望の対象への執着を断った考え方です。白隠は、欲望にみちた人間社会を離れて仏教は成立しないといっているのです。世俗世界の中で生まれ、生き、修行してこそ「悟り」の次元が開けると述べています。そこが、ジャイナ教との違いではないかと想像しています。といっても、ジャイナ教に関しては「思想の自由とジャイナ教」(中村元)を読んだだけですが。欲望・執着・生を離れ、究極的には餓死をひたすら求めるジャイナ教の徹底さを欠いたところに仏教という思惟運動の豊穣さがあったのだと思います。  
「沙石集」の「諸法の因縁が幻化虚妄」であると悟って身を処し、他者への執着を欠く人間関係(具体的な存在にたいする執着を断った生き方)は、白隠の言葉で言うと「悪平等」ではないかと思います。また、この説話は別の連想をよび起こします。それは、貨幣経済が社会の隅々まで浸透して「人間関係」をも含めて全てが価格メカニズムによって処理される「純粋資本主義社会」に想定される人間関係です。老年期にはいりつつある私は、「抽象的」な「社会的労働」が「具体的」「私的労働」を排斥・駆逐してゆくところに資本主義社会の問題点をみいだす、すなわち「中世期的・共同体的・人間関係への郷愁」から「資本論」を読む方法からはずいぶんと離れたところにいます。しかし、市場価格メカニズムに晒され私的生活の悲惨さにもがいている人々を弊害にじっと耐える「独立精神」に欠けた人間とみなす「純粋資本主義的」な人間観は、「諸法の因縁が幻化虚妄」であると考えて対他関係への執着を断った人間観と類似しているようにみえます。確かに、貨幣経済の社会への浸透・拡大そして最終的な資本主義社会の確立は、つまらない社会的諸拘束から人間を自由にしました。上位社会集団への隷属から個人の独立自尊の精神への道を促進しました。しかし、貨幣、資本が個々の人間を「人的資源」としか見ず取り替え可能な部品のようにみる傾向に、人間的なものへの「執着」をたった一つの姿を見る思いがします。最近、私はアメリカ人が他者への執着を断ってひたすれ独立性を維持しようとする姿(例えばゲーム理論)に、仏教的思惟の生み出しそうな一つ(あくまでも一つのですが)の理想的姿を幻覚的にみる思いをもつ時があります。  
勿論、仏教の運動のなかには、「沙石集」の説話が述べている全ての人間関係を幻化虚妄とする考えとは異なるものがあります。白隠の書いた本の中にはそのような考えがたくさんあります。これらは、仏教の中にある仏教の「四諦」仮説から離れてゆくものではないかと思っています。  
そこで、「沙石集」の「諸法の因縁が幻化虚妄」とは反対に、私、夫婦関係、親子関係、集団関係、社会関係が「実質体」でもあるという観点から人間関係を考えてみようと思います。  
佐藤正央は、仏教徒の出家説話でよく見られる欲望的世界への執着への断念とは違う観点から有名な仏教出家談を解釈しています。「「今昔物語」は次のような説話を伝えている。寂照は俗名を大江定基といったが、三河守に任ぜられたとき、もとの妻を京に残し、「たぐいなく覚えける女を相ひ具して」下った。女は任国で病にかかって死んだ。寂照は恋しきあまり葬ることもせず、女を抱いたまま臥していた。幾日かたって「口を吸いけるに、女の口よりあさましく臭き香のいできたりけるに、疎む心出てきて・・・世は憂きものなりけりと思ひとりて、たちまちに道心を起こしてけり」(今昔物語、第十九の第二)・・・世俗世界における恋の達成を断念せざるおえない状況に追い詰められても、なおいとしい女への恋に固執した。寂照においては恋は絶対願望となった。くちづけしたとき、女の口から発する「臭き香」に寂照はつき放される。世俗世界において恋がそのまま持続することはない。「世を憂きものなりけり」と寂照は思いとる。絶対願望に捉えられた寂照は隠遁した。」(佐藤正央;「隠遁の思想」)と書いています。わたしは、最後の文章に注目します。この世の大事なものに執着し離れることができなかったその果てにその固有のものへの欲望を「絶対願望」へ転化したという考えです。  
また、次の西行の話を追加しています。  
「「選集抄」は次のような説話を伝えている。所用で京に出向いていった同行者を恋しく思った西行は、恋しさのあまり、高野山の野に出て死者の骨を拾い集めた。藤や糸で骨を編み、砒霜を塗り、いちごとはこべの葉汁で揉み、さらに反魂の術を施して、同行者をつくった。集めた骨は同行者の姿形になりはしたが、色も悪く、心もない。声は出たが、吹き損じた笛のような声であった。殺すこともならない。つき放された西行は、みずから造った同行者を高野山の奥に置いた」。説話は、出家後にも、悟りを準備する場である「原郷」のおいても悟りをめざす同行者との人間関係への執着を示しています。その恋人(佐藤正央は西行を同性愛者と仮定しています)への絶対願望が隠遁生活の維持をささえる力になっているのです。  
佐藤は、このように前者の説話を愛するものへの執着(欲望・煩悩)を断念して解脱するのではなく、執着する人物との関係を絶対的な関係へと観念的に転位して、そこから悟りを準備する「無葛藤の原郷世界」へ入る、もしくは「原郷世界」においても仮構体としての人間関係の役割の重要性にふれております。後者の説話は、「悟りの世界」を準備する「原郷世界」においても同行者への執着が悟りへの励みになる事を示しています。  
次の説話(この説話を何から書きうつしたか今は確かめられないのですが)は個別的な者への再確認がみられ、その執着を生き抜くことで、「道心をかためた」話です。  
「三河守定基、深く愛情を持っていた女が亡くなってしまったので、世の中を辛いものと考えていたところ、五月の長雨のころ、それ程悪くはない姿をした女が鏡を売りに来たのを、取って見ると、その包み紙に  
今日のみと見るに涙のます鏡慣れにしかげを人に語るな(今日限りであると思って見ると涙が増してしまう、真澄の鏡よ。見慣れた影を人に語ってはいけない)これを見たら涙も止まらなくなってしまった。鏡を返して、様々に慈悲の心を掛けてやった。そして道心をいよいよ固めたのはこの事に依るのであった」。この説話は、亡くなった女の記憶が薄らぎはじめた頃に、ふたたび、亡くなった女の存在が再確認され、その執着とともに生き抜くために「道心をいよいよ固めた」とも読めます。この説話は、個別の関係を観念的世界へ転位させるのとはことなり、個的な存在を代替するのが不可能であることと、個別との関係の唯一性=絶対性を貫いて別の次元に転位してゆくことを示しています(この転位がどのような構造になっているかは、いまのところ私にはわかりません)。これは、世をはかなんで、ということではないだろうと思います。おそらく、執着する感情が断たれたのではなく絶対の関係へと変換・深化され、永遠の相(スピノザ)において現世のできごとをみているのです。  
これまでは、妻、恋人など、性的存在との関係とその関係への執着を断つのが仏教の仏教仮説「四諦・八正道」でした。しかし、仏教と関係した領域でも単に執着を断つという方法だけでないことがあることがわかりました。  
ここで問題を整理しておきます。宗教は、処世術の問題ではなく、究極的には死が人間にとって避けることができないことであるために存在すると思います。この不可避の死に対して―死とはこの文章で使用している語を用いますと仮構体としての人間が自性の次元から無自性の次元へ解体されることですが(この次元からみると人間世界は虚構体となります)―生をどのように考えるかの問題だと思います。  
死に関連して生をどのように考えるかについては、大きく三つあると考えられます。一つ目は、自分の生にどのように対処するかということです。仏教の世の中にある欲望の対象への執着を断つ生活を貫くという思想やエックハルトの「離脱」という考えは、この次元の問題です。なお、エックハルトの「離脱」について、「エックハルト教説集」(岩波文庫・田島照久編訳)は「「何も意志せず:無所求」、「何も知らず:無知」、「何も持たず:無所有」、さらにはこのよう無所求、無知、無所有であることの自覚からも自由であったように、自己の外に立てられたどんな獲得対象ももたず・・・・「離脱」の自覚からも「離脱」したあり方」と訳注をつけています。これに対して、他者、対象物とのつき合いと葛藤を避けず、その中で、仮構体としての自我の変容をたえず継続させながら生きてゆこうとする考えもあります。私は、白隠の思想は後者に属していると考えています。今まで、白隠について、この視点から述べてきたつもりでいます。  
実質体=現実体世界としての観点から仮構体世界をみますと、個人、同伴者や友人との関係、家族、集団などの問題が考えられなければなりません。私の思う基本的な視点だけ素描しておきます。白穏を含め仏教の仮説にもとづく人々は出家という単独者の生活形態をとりますので、この一つ目の個人がこの世界で何をするのかという問題群に考え方が集中していることは言うまでもありません。この点については、後に検討することになります。二つ目は、他者との共生の問題です。これは、「沙石集」の説話ではもっぱら「解脱」にとって障害となる事として取り上げられています。特に、近親者との関係が問題となります。三つ目は、自己、近親者を含めた社会システムの問題です。ここでは、同伴者、個人と集団、そして社会の順番で考えて見ます。
妻との関係  
一緒に長く生きてゆく同伴者(妻、夫、恋人)との関係は、仮構体である人間の最大の生きる喜びであり、また悲しみでもあります。ここに、はじめに「一九九四年一月一七日に亡くなりしわが妻へ」と書かれているようにがんで死亡した妻と喪失した妻との関係に徹底的に執着しながら書き続けられた「尽き果てることなきものへ」(ミッシェル・ドウギー、梅木達郎訳)という本があります。妻との関係への「執着」を風化させるものを拒否して執着を貫き通そうとしています。そうする事が、神なき現在において、意味あるという考えと意味がないという考えの間を揺れ動いています。妻との関係を永遠化したいという思いと、しかし人間の在り方は一時的なものでしかないという考えの中で動揺を繰り返しています。この揺れ動く在り方が現在の人間の在り方だと思っているようです。仏教仮説のこの世の欲望の対象となるものへの執着を断つという考えを文字通り忠実に表現して家族全員が相互への執着をたっていた6-1-1で引用した沙石集の説話と対極の立場から書かれています。つまり、人間の仮構体の中にある実質体(そのものがそれ自体で本性を持つ側面)の持続性と自然へ解体してしまう虚構体の間で動揺を持ちながら、それゆえに喪の体験の中で妻の実質体を維持し続けようとあがいています。  
最初の出会いが至福あったかどうかは別にして、何年もつづくと夫婦の間には特別な関係が成立します。この特別な関係が喪失してしまう試練に生き残ったものは堪えなければなりません。「否応なくやってくる別離の痛みだ、生きながらえた後に、愛が何十年ものあいだにすっかり相貌を変え、ささくれ立ち、前言を翻してしまい、それが同じものなのかすら分からなくなってしまう頃に。・・・・ぼくは降りていく。あの女(ひと)が亡くなった、行ってしまった、過ぎていった、試練を。あのひとは死に迎えられた。ぼくは降りていく。・・・・それでも恐れることなく、あのひとのもとへ、わたしたちのもとへ、立ち戻っていこう。あのひとを生きたまま浮かび上がらせることはない、それは知っているが。」という文章で、この本ははじまります。妻が死亡した悲しみと、いま夫に刻印された妻との特別な関係に立ち会おうというのです。  
「もうあの女(ひと)が死んでから月がかわった。ぼくにはずいぶんな苦しみが。・・・・苦しみには「果てがない」――苦しみは元の原因をはみ出て溢れだしていく、泣き嘆くのは、Mの人生についてだけではなく、一人になった「ぼく」やぼくらの人生・・・・について泣くのだ。いや、すべてについて、全部について、世界について泣く。・・・・この悲嘆を守り抜くのだ。「考えをかえる」ことなしに、この悲痛な時代をこだまする音域となり悲鳴となること」。妻がいなくなることは、関係の一方の項がなくなるだけではありません。生きられた関係が消失すると、それにつながる世界との関係も消失します。そうすると、彼の周囲の人々との全ての関係が喪へと変化します。その喪失感は悲しみの感情として世界に拡がってゆきます。  
その失ってしまった大事な世界は、悟りなどの世界に比べれば些細な世界です。特別なことがあるわけではありません。  
「ほかにはなにもなかった――なにも起こらなかったという事実以外には、なにもない、ただつかのまの出会いがあり、お互いにすべてを言い合っただけのことだ。終わりなく短いものと短く終わりのないものとの交換。なにも起こらなかった、ただこの通過、この見せかけの全体、なんでもないと知れば壊れてしまうものを除いては――だがそうしたものこそ、人はだれかと出会って思い出す。おぼえているかい?あの雨を、マスタードを、あの日彼女が着ていたドレスを。そしてみな微笑む。そしてこのなんでもないものをわたしたちは惜しむのだ。わたしたちが惜しむのはなんでもなく、なにも悔いるものはない。」二人の間にはこのような、些細なことがらに関する日常的な会話や出来事があるだけです。また、何処にでもある月並みな夫婦喧嘩もあります。彼らの結婚生活にもさまざまな尋常ではない葛藤があったようです  
「結婚生活は争いのたえない、暴力的で「やりきれない」ものだった、そう言っておこう。だれにも負けないほど、多くの人々同様、ぼくは結婚に苦しんだーみんながそうだったのか?」。夫婦の愛は、現在ではますますそれほど簡単で平坦なものでなくなっています。互いに努力しなければその維持が困難となっています。そうは言っても、日常的な些細な出来事が互いに関心を持つように強く生きるように駆り立ててゆくのです。取り立てて大きな事件や深淵なことが夫婦の愛に必要な訳ではありません。  
「命により命あるままとどまるよう強いられ、命により命に、ぼくの命に、関心をもつよう強いられる、ぼくの命などどうでもいいのに。打ち明け、口に出し、恐れ、欲望するべく強いられ・・・・――生きるようにと。取り立てて特別なものがある訳ではありません。」  
しかし、人間誰でもそうでしょうが、私達はすばらしい面と卑俗な面を合わせ持っています。「「人間」というものは滑稽であり、またときには壮麗である。なぜどちらか一方が優るのか。どちらか一方を優先させるかどうかはわたしたち次第であり、なにをするかにかかっているのではないか――部分的とはいえ。ぼくは形容不可能なもののなかでさまよう」。彼ドウギーは、人間を固定的な型の行動パターンだけを示す者とは考えません。卑俗な人間であると思っていた人が勇気あるすばらしい行動をとることもあります。  
私達は生きてきたこのような日常生活を想起して、自分のいたらなさを思い出すと後悔の念がでてきます。「哀れみ。ずっと殴られ傷を負い地に伏した者であるかのごとく、あのひとはわたしたちの足下に、打ちのめされて横たわっている。・・・・あのひとは防御をとき、応答もせず、気を失い、疲れ果てている。もうぼくはあの人を守ってやることもない。だがぼくは、あのひとを守ってきたのだろうか、それもただすり減らし、追いやっただけではないのか?」かつて存在した関係の相手に対する後悔と自責が現れます。私はもう少し違うように彼女に接することができたのではないか。彼女を本当に守ってあげたのだろうか。しかし、いまや後悔しても取り返しがつきません。  
「あのひとが求めていたのは、一人に放置されないことだった。なによりもまずはじめにわたくしたち二人があること、遠ざけられたりしないことだった(「おお、放逐された女よ!」・・・・)。だが最後の最後に、それが起きた、消滅が、敗北が。大地への打ち捨てから数日しかたっていないのにもう、「みな」はあのひとのことをぼくに話さなくなるほどだ――それは心配していた以上に早く、恐れていた以上に否応なしにやってきた。喪はぼくが懸念していた以上にプライベートであり剥奪されていた」。妻が生きていたということが、そしてその喪失の嘆きは非常に早く違う存在によって穴埋めされてゆきます。現在では或る人の喪に費やす時間は日々短くなっています。人は亡くなると、すぐにもともと居なかったように処されます。その時間は日々早まっているようです。喪を生きることは「病気」として扱われかねません。医学コードの「重度ストレス反応および適応障害」の「急性ストレス反応」に分類されかねません。何があっても感情をコントロールすることが理想とされる現在社会では、喪の体験に耐え、喪の悲しみがなかったかのように振舞うことが社会的に美徳とされています。これは、具体的な他者に対する執着を断つ仏教的思惟と類似しています。  
次の思想は仏教的思惟とは対極の思想でしょう。「「愛は死よりも強し」、どうゆう意味だろう。愛、それは現実のアトム、分節、日々の砕けやすい核、固体化の原理、媒介する三角形、二つであって一つではないこと、子供たち、兄弟姉妹や、親子、恋人同士や、夫婦の間柄だ。それのみが、現実に存在することの唯一の証だ。個々の項に先立ち、世代や気の合う仲間や身内をつくり出すこの関係によってあるのでなければ、現実存在などない。愛こそ主体であって、閉じこもった個体でもなければ、自分優先の自己でも、自分に仕える奴隷でもない。・・・・愛こそは主体、問題となっているものの主体である。歴史とは愛の物語である――さもなくば無だ」。ここに書かれているのは、人間、人間の作る世界は、自然の要因によって作られ自然からずれた生命や意識をもつ存在です。自然からみれば一時的に虚構体としてしか存在しない世界です。仏教の用語を使用すれば、自性(そのもの自体に本質がある)の世界に見える人間の世界は、自然からみれば無自性(そのもの自体には本質はない)への世界であります。しかし、作者は、「愛こそは主体、問題となっているものの主体である。歴史とは愛の物語である――さもなくば無だ」と人間が作る関係・世界こそが人間にとって現実性を持つ実質体世界であると述べています。それだけが人間にとって意味があると。私は、その人間的世界はその存立が時間的に制限されているために仮構体という語を使用しました。引用した文章表現は関係を強調していますが、西洋人の個体の鎧は頑固で強固のようですので、当然にも関係の担い手も暗黙に表現されているはずです。そして、愛の対象が亡くなったとしても、「・・・・「まるでもう意味のない命のように」、そうあなたは言う。それに付け加えよう、もはやなんの意味もない命がもつ意味が、あのひとに残っていると―言い換えればあのひとにはまだ意味が残っている」と、その人とその人との関係が、意味として相手に刻印されていると言います。存在した関係は、相手がいなくなったとしても、その担い手に蓄積・残存してゆくのです。  
「狂わんばかりの無為の瞬間の喜び楽しみがあり、その裏側に死ぬことの絶望がある。この絶望は、自分が死んだらあとはどうにでもなれとするあらゆる理由に比べて不釣合いなほど大きい。・・・・だがぼくはあの喜び楽しみを、それのみを叙述しよう。たとえ次のことを知っているとしてもだ。存在するとは恐るべき多数の他者にとってはまったく存在しないことであり、わたしたちのまわりに「空虚」をなすことであると・・・・」。どんなに私達の世界を実質的な世界であると表現しても、しかし、私たちに世界は二律背反に満ちた世界です。喜びと絶望、生と死は背中あわせに張り付いています。そして、意味のある関係は極めて私的なもので、多くの人には知られていません。私たちが実質的で現実性をもつ世界は小さいものです。確かに、私達の私的生活に現在では世界中の政治的・社会的・経済的な関係が密接に入り込んでいてもです。  
「結婚していることの中にはなにかがある、それぞれが焦点となる二人の楕円をつくる、それがぼくを中心に引き寄せ、逃げていかないようにしてくれた、離れていったり、忘れたり、散財したり、肩をすくめるのをくい止めてくれた。そこには総合の力が、記憶があった、そこには家があった。ところがそのすべてが解体しており、欠如がぼくを吹き飛ばす。  
あのひとの一生を正確にデッサンしてみなければ。あのひとの勇気が、献身がどんなものだったか、あのひとの忍耐と失意が、決意が、制約が、たえざる恐れと笑いが、敗北と畏怖がなんであったか。  
やっと数週間たっただけなのに、もうぼくは、わたしたちの生とあのひとの死、わたしたちの死を内側から見せてくれるあの顔を直視しようと振り返るのをためらう。あのひとの石化する顔が念頭に浮かび、そこに想起の焦点が合ってしまうと、涙あふれ、魂が風邪をひく、魂は身体と記憶のあいだを流れる。寡居。なにゆえに死と戦うのか?」  
彼は言う。二人の関係こそが、世界は彼女との関係によってのみ成立する。しかし、妻の死を考えるともう感情の混乱が二人の生の記憶を思い出すのを妨げます。「非常に遠く非常に近く「世界」内にある存在――それはあのひとのために、あのひとによってある。かくして「世界」がある。この関係では、あのひとの側に即自的なものがあるわけではなく、またあのひとの所有物の側に孤立した自己があるわけでもなく、関係に先立つ両者が互いに接近し出会うわけではけっしてない。この二つは、主体が抽象されて出てきたものである。関係こそが強いのであり、「超越論的」である。またこの関係はつねに同時に第三者にとっても存在する――現にここでそれについて語るぼくにとっても。ある関係への関係が、他我にとってある。我はつねに同時にある他であり、それを思考するわたしであって、かくして無数の相関する関係がもつれ錯綜する。」  
しかし、その関係も忘却へと追われる。  
「この世を去ったものは、思っていたよりはるかに素早く、より徹底して追い払われる、さほどのことを信じていないぼくすら予想できなかったほど。ごく近しい者を失うこと、それはこの「信じられないような」消散の経験にとらわれることだ。・・・・  
かき消された死者は消滅し、生きている仲間同士によって抹消される。列はまたすき間をつめ、いつも同じ間隔で広がり、同じ空虚な充実だ・・・・たった一つの存在がいなくなっても、なにも減りはしない。寡居。」  
彼は、死は、生の対極にあると言う。それは、生きていた者の忘却であり、「眠りをむさぼる構造」だという。フロイトの言う「死の本能」が行き着く先がこの「眠りをむさぼる構造」であるという。  
フロイトは人間をつき動かす欲動として、「快楽原則」と「現実原則」から「性欲動」と「自我欲動」を経て最後に「快楽原則の彼岸」の中で「死の欲動」と「生の欲動」を人間の行動を規定する基本的な欲動として提出したことには前にふれました。そして、彼は「死の本能」は涅槃をめざすと述べています。日常的な経験から考えますと、私たちは強い睡魔にとらわれたときと目覚めたときに「生に関連する諸課題」などどうでもよくなります。眠りは生きてゆこうとする力を麻痺させるようです。また、夢の中での過去の出来事の反復は、人間の生への挑戦をたえず摩滅させるのではないかと私は密かに考えています。眠りは安らぎでもあります。この忘却の川である「眠りをむさぼる構造」が、私達の生活の底にあると、ドウギーは言います。この忘却、眠りをむさぼる構造があっても、彼ドウギーは、私たちの生は生と死、出来事と忘却、喜びと絶望など相対立する要因をもち一元的な原理では捉えられないが、私的な生活を徹底させることが「終りのないつかぬまの時が、つかのまの無限性に変じ、永遠を成す」のだと言います。この言葉は理解が難しいものです。幻想でしょうか。そうかも知れません。しかし、自然から逸脱して存在して生きている私たちは、この幻想にしがみついて生きてきたのではないかと推測します。  
「きみ亡きあとを生き延びるのは、自明なことではない。この猶予を生きることは、それは一つの任務であり、ある異常さ、偶然、モチーフ、唖然、悔悟、不当さ、瞑想、不均衡であり、場合によっては義務であり、日延べすること、それに専念することだ。・・・・今日ぼくがそうしている以外のどんな生き延びも認めない、ぼくはまだ生きているが、目覚めてすぐ苦痛を取り戻す。弱められた輪廻転生によって、きみの失われた生の幾ばくかがぼくの生に移り、きみの苦痛だったものがまるで輸血された苦しみのようにぼくの苦痛に写し取られる。  
死者たちとの交信など一切信じない、ぼくの内に刻まれたきみとの交信を別とすれば。この異なる魂は「ぼくの内に生き」、この他なる真理は「人の内部に住まい」、自我の渇きをいやし、他者性の歓待へと向かわせてくれた。  
永遠の生など一切信じない。わたしたちがまたどこかで会うことなど決してない。それにまさしく、この未来の陥没を喪の作業が埋め合わせてくれないのであって、そこに悲しみがあるのだ。この悲しみ、それが今度は「ぼく」と共に消え失せてしまうだろう。それにしてもこの底なしの悲しみの日々――・・・・・、それが「未来の生」なのであり、そこでぼくに連れ添うのはきみの忘却だ。終りのないつかぬまの時が、つかのまの無限性に変じ、永遠を成す。」  
無神論者である彼は、「永遠の生など一切信じない」。そのために、限られた期間だけを過ごすことを強いられる私たちは、私の同伴者の喪を「連れ添い」としながら、「未来の生」を生きつづける。その決意が「終りのないつかぬまの時が、つかのまの無限性に変じ、永遠を成す」のだろうか。私たちは、「永遠を成す」経験を積み重ねる事が必要なのだと知っているのに、それがなかなかできないのです。  
私たちがでてきた自然からみれば、この人間世界は虚構体=無自性の世界です。しかし、その虚構体世界を仮構体世界へ、その実質体世界=自性の世界(白隠は差別―世俗世界―のなかに平等―悟りの世界―をみる)へと変容させること、私たちにとってはその実質体世界それこそが現実の世界であります。そこから、彼ドウギーは死を崇拝する宗教を批判します。  
「死-への-存在?否。そうではなくて、死に反対するのだ。敵対し、迂回し、無関心だったり全力で拒否したり、否認したり、忘却する――死にはなにも同意すべきものもなければ、引き受けようと欲すべきものもない!・・・・わたしたちは死ぬためにはできていない。そうではなく、不死のもの、ないしは死すべきならざるものとしてある。死に備える?・・・・・かれは群集と、着衣の者たちとともに、無関心な輩や同胞たちに交わって、七年ごとのお祭りに登場する大きな男性像へと登っていくのだった。無言で、裸で、男やもめのかれが。だが敬虔で偶像崇拝的であり、迷信深く、赤く染まった巨像の足元に。この苦行と偶像崇拝の共存は、われわれの叡智、われわれの哲学にはない。」  
この後半の部分は、シャイナ教の聖者のことでしょうか。彼ドウギーは、私たちは死に備えるために生きているのではない、といいます。必死になって「不死のもの、ないしは死すべきならざるものとしてある。」と述べます。実質体世界でもあり虚構体世界でもある仮構体世界で、仮構体世界を死滅すべきでないものとして生きる、と必死に述べます。それは、「神なき」世界ではどのようにしてやるべきか。  
「神なきとき、法が、道徳が、理性が、自らを持する厳しさが――無のなかで、無に抗して――必要になる。・・・・さてわたしたちが望むのは、人間形成――「進歩」とは言うまい――が続くことだが、それが続けられていく過程で、宗教性を多少とも漂わせた神話への執着が人間形成を助けるよき手段なのか、最後の命令なのか定かではないのだ」。後半の文章を、私は非常に重要だと思うようになっています。「聖なる世界」を想定しない、何らかの宗教性、それは個々の人々を何か神聖なものに拝跪させるのではなく、「人間形成」を完遂させるのを助ける宗教性が必要である、と私も考えるようになってきました。「光を発するというよりは光を受け取るところとなり・・・・まわり一帯の中心だ。この見回すまなざしは・・・・友情の挨拶をおくる。存在が存在することの確信が、この防備をとかれた独房のなかにあり、そこでぼくは自分が息絶える前に死んでしまいたい。  
そこでぼくは、結局自殺を思い描く、打ちひしがれたぼくは、まるで諦め、否認され、論評された一神論の無力な神のようだ、あるいは訪れるもののない福音書による結婚を司る祭司のようだ。」人間は、このように不均衡に、動揺の中で生きる以外にはないのでしょうか。  
このように「尽き果てることなきものへ」は妻の喪の経験を徹底的に考察して、動揺しながら彼と妻の関係の意義を述べています。妻への執着を徹底的につめます。このことで、仏教仮説とは異なる考えをこの仮構体の世界で出す試みをしているようにみえます。  
しかし、禅の中にも仏教仮説に収まりきれない、現実世界を否定も肯定もしない考えがあります。 「祖堂集」には、次の話があります。  
釈迦の誕生で、「仏は生まれたまうやいなや・・・一方の手で天を指して獅子吼される、「天上天下に唯だ我れ独り尊し」  
そして、詩をつくっていう、わたしが生まれて、母胎はすでに尽きた、これはわたしの最後の生存である。 わたしはすでに解放を得た、かならず衆生を度し尽くすであろう。  
太子は水浴が終わると、黙して何もいわず、もともと世間の乳児と同じようになる」。釈迦の誕生談では生まれた時に既に「自分の誕生」に関する絶対的な肯定観があり、そして「最後の生存」でありその生存に対する肯定観があります。それが、一度消えて修行によって再度確認するという構造になっているようにみえます。白隠の四弘誓願(衆生無辺誓願度:無限にいる生きとし生けるものすべてを救っていきます、煩悩無尽誓願度:無限にある煩悩をすべて断っていきます、法門無量誓願度:無限にある教えをすべて学んでいきます、仏道無上誓願度:この上ない教えである仏道を成就します)の解釈も、文字道理にこの現実世界を生き抜くという内容になっているようにみえます。
個人−恋人・友人−共同体  
禅仏教を考える場合には、個人と僧侶集団、特に師との関係が特別な関係のように見えます。道元の場合には、「面授」すること、師からの教えを伝承されことが非常に重視されています。これに対して白隠の場合は、愚堂―至道無難―正受恵端―白隠恵鶴の系譜を見ますと道元の考えとは異なるかたちで修行の伝承がなされています。白隠の系譜では、師による教育・指導は決定的役割を持っていますが、師による認可や師の下での集団の形成などは重要なことではないようです。師により激しい訓練を受けますが、諸個人は修行後には師の「悟りの認可」など無用と別離して独自の生き方を模索しています。この白隠に至る系譜は、個人と共同性に関して特別なもの、或る意味では極めて現代的なものがあるようにみえます。白隠自身は、この系譜を少しはずれて江戸時代に形成された本末制度・檀家制度の中にある妙心寺系の末寺である松蔭寺に本拠をおいて修行僧に「悟り」の認可を与え続けています。また、自分の弟子である東嶺のために龍沢寺を用意し、本末制度・檀家制度の中で生きることを選択したことは白隠の略伝で述べました。白隠の場合には、一生かかる禅の修行プログラムを作り、はっきりした分業体制・集団を作ります。個人と共同体に関しては、白隠は松蔭寺に落ち着く前と後ではまったく異なる考えをとっています。  
共同体とは集団と国家を意味し、共同性とはこころざしを一つにする集団性をここでは意味します。この個人―恋人・友人―共同体の問題は、人間の世界を虚構体の世界とみる視点からは何の意味もち得ないと思います。共同体は、今まで多く悲惨な状態を人間に与えてきました。それは人間の世界を実質体=現実体世界とみる観点からのみ意味あることです。その意味では、仏教仮説「四諦」をこえている問題です。ここで、仮構体世界という視点から共同体について考えてみます。と言いますのは、私たちは家族から幼稚園・小学校をへて、ゆっくり社会の中である集団に属する生き方をとるようになるのが普通です。私にとっては社会の中である集団に属して生きることは大変なことでした。若い時に、ある主義・信念で集団を形成しても、個人はその集団に完全に帰属してしまい仲間との融合・狂熱状態に価値を置くのではなく、個人は集団=共同体を超えるところに立たなければならないと考えたことがありました。これは、青年達が作った集団の弊害が露骨に現れ、共同体の現在の最高の形態ともいえる国家の弊害がファジズムとスターリニズムという形で露骨に見えていたからです。サルトルは、「弁証法的理性批判」の中で、社会的・政治的・経済的制限・圧迫に反逆する反逆者の集団行動を、「溶解集団」→「誓約集団」→「規約的集団」→「制度集団」の変遷として記述しています。それは、反逆者の自由な行動の融合から、自律的な相互関係の誓約となり、さらに個人の自律性を拘束する他律的な規約が持ち込まれ、最後に上下の序列が形成され人間の集団行動が他律的に動くようになるという変遷です。個人の自発性の喪失を描いた集団の変遷ということになります。私はこの集団の変遷の図式に入り込むことに拒否的な考えを持っていました。どのような集団もこのような変遷をかならずたどると考えていました。ですから集団が滅びても個々の個人が生き残れる集団をどのように作るかを考えていました。一見、理想的に描かれている「溶解集団」にもなじめない感覚をもっていました。この実感は、今まで約40年間持ち続けています。  
この集団、会社、国家というものを考える際に、重要な手がかりを与えてくれる考えをモーリス・ブランシュは提出しています。モーリス・ブランシュは、「明かしえぬ共同体」で個人―恋人・友人―共同体の問題について重要なことを述べています。一つは、個人が共同性をこえる思考としジョルジュ・バタイユの1930年代の経験を取り上げています。ある理想を共有する同盟者との関係を否定的共同体(共同体をもたない人びとの共同体)として独特な解釈を加えています。もう一つは恋人たちの共同体という名のもとに「死の病いアガタ」(マルグリット・デユラス)を検討することで、共同体とはなりえない男女の関係を考察しています。  
ジョルジュ・バタイユの1930年代の経験を取り上げているほうから検討します。「共同体」と言う語は、日本においても、「人間は平等に助け合って生きるべき」であると言う思想を表現するものとして、一つの理想として多くの若者をひきつけてきました。それは左翼系の人たちだけではなく、右翼系の人たちにとっても理想でした。政治の領域だけでなく、多くの宗教団体にとってもそうです。しかし、その理想であるはずの「共同体」は、「歴史の壮大な誤算が、破産と言うことをはるかに超えたある災厄」をもたらしたと、モーリス・ブランシュはいいます。そのもっともよい例が共産主義である、と彼は言います。  
「共産主義が平等をその基盤とし、あらゆる人間の欲求がすべて平等に満たされる(それ自体は最小限の要請である)ことのない限り共同社会はありえないとするものであるならば、共産主義が想定しているのは完全無欠な社会ではなく、透明な人類という原理、つまり人類が本質的にはおのれ自身によって産出されその意味において「内在的」である――人間の人間に対する内在――という原理である。このことはまた、人間を絶対的に内在的な存在とみなすことを意味している。なぜなら、人間は徹頭徹尾営みであり、おのれの営みの所産であり、最終的には全体の所産としてあるからであり、またそうなるべきものだからである」。この意見は「一見きわめて健全にみえる」が「この論理は最も不健全な全体主義の原点である」。と言いますのは、人間は個別な存在としては「個人は、譲渡不可能な諸権利を身に備え、おのれ以外に起源をもつことを拒否し、そしてかれ同様の一個人であるとみなされない他者に対する理論的な依存関係にことごとく無関心であることによって、おのれを宣明する」。これに対して、モーリス・ブランシュは排他的な自足する人間観とは異なる「非対称的」人間関係を想定します。すなわち、異質な人間の人間関係です。「人間と人間との関係が自同者の自同者に対する関係ではなくなり・・・・彼を注視するものに対して対等でありながら、その者とはつねに非対称的な関係にある他者を導入するとしたら、そこに領するのはまったく別の種類の関係であり、この関係はまた、ほとんど共同体とは名付けようのないある別の社会形態を必然化することになる」。  
個人がその人だけで自足して、自分と他者は同一で、人類が人類を作り上げているという人間観が、共産主義の土台にあり、個々人はそれぞれ異なっているという観点がない、と批判します。  
そして、ジョルジュ・バタイユの他者との関係の経験についてふれてゆきます。かれは、「ジョルジュ・バタイユの場合・・・・十余年にわたって、現実、思考の両面で、共同体の要請を実現すべく試みた果てに、彼は孤独にとり残されたかにみえるが、それは単なる孤独に立ち戻ったということではなく(いずれにせよ孤独ではあるが、分ち合われた孤独である)、いつでも共同体の不在へと転化しうる不在の共同体[不在を共有する共同体]に身をさらしていたのである。」と述べます。ここで、ブランシュはバタイユについて、従来の解釈とは異なる解釈を行います。かれは「不完全性の原理」(「おのおのの存在者の根底には、不充足の原理がある」)を提案して「存在者は単独であるが、自分が単独であることを知るのは、彼が単独ではないその限りにおいてである、と。・・・・存在者がもとめているのは承認されることでなく、異議提起されることである。彼は現存すべく他者へと向かい、他者によって異議にさらされ、ときには否認される。彼に自分自身であることの不可能性、イプセ[自己性]あるいはそう言ってよければ分断された個人としての在り方に固執し続けることの不可能性を意識させるのは[異議にさらされ否認をうける]この剥奪状態だが(そこに存在者の意識の起源がある)、彼が他者に向かうのはまさしくそうした不可能性を意識するためなのであり、この剥奪状態の中ではじめて彼は存在しはじめるのである。こうしておそらく彼は、外に置かれるというかたちで現存し、自分をつねにとりあえずの外部性として、あるいはそこかしこに破綻をきたした現存として体験しながら、ただ、荒々しい沈黙のうちで不断の自己解体を通じてのみ、おのれを構成してゆくことになる」とバタイユの体験をまとめています。  
一般的にバタイユはエロチシズムの哲学者として、その考えは、単純化していいますと、孤独な人間が孤独であるために連合を求め恍惚をめざすと考えられています。ブランシュは、まったく反対に、バタイユは、個々人が同質的で互いに融合した状態を求める共同性を求めたのではない。孤独な個人と孤独な個人の、孤独を共有する共同性を求めた結論します。共同体ではなく、孤独な人間同士の孤独を互いに認知しあい何かを通じ合うものを実現したのだと、言います。通常、文化的、政治的、宗教的な共同体の中では諸個人は「融合状態・集団的沸騰状態」へ向かいます。これらの諸共同体をバタイユはめぐりました。その経験の中で「彼(ジョルジュ・バタイユ)にとって重要だったのは、すべてを(自分自身をも)忘れ去る亡我の状態であるよりも、不充足でありながらその不充足を断念できない現存が、活を入れられおのれの外に投げ出される、まさにそのことを通して貫かれる困難な歩み、超越の通常の諸形態をも内在性をもひとしく崩壊させてしまうこの運動のほうだったということを肝に銘じておかねばならない」とブランシュは結論します。バタイユにとっては、集団の中で融合して活動することも、集団の活動の中で個人が垂直的に集団を超越する夢を追求することも重要だったのではなく、そのような集団の融合・恍惚状態を崩壊させる運動こそが大事であったとしています。バタイユには自己を他者の中に投げ出し自己崩壊させることで自己形成する運動を行っていたとしています。  
この孤独者と孤独者の共同性は、すぐれた禅者の間でもみられました。また、優れた禅者は、無門の方法のところでみたように「荒々しい沈黙のうちで不断の自己解体を通じてのみ、おのれを構成してゆくことになる」ことでもありました。これはすべて、この世界で、すなわち現世的な出来事でもありうることをブランシュは示しています。  
この孤独の共同性について、ジョルジュ・バタイユの極限的表現をブランシュは引用します。「ジョルジュ・バタイユは言う、「同胞が死んで行くのに立ち合うとき、生きている者は、もはや自己の外に投げ出されてでなければそれに耐えることができない。」「死にゆく者」の手をとりながら「私」が彼と続ける無言の対話、私はそれを、ただ彼が死ぬのを助けるためにのみ続けるのではない。彼のもっとも本来的な可能性でもあるだろうこの孤独な出来事、そしてそれが彼固有の所有に属するとも思われる、この出来事の孤独を分かち合うために、私は彼と対話を続けるのだ。  
「そうだ、確かに(とはいえいかなる真理に照らして?)きみは死んでゆく。だが、死に瀕してきみはただ遠離ってゆくわけではない。きみはなお、ここにいる。なぜなら、きみは今、この死ぬということを、あらゆる痛みを受け渡す同意であるかのようにして私に委ねている。そして私はそこで、身を引き裂かれながらそっと身震いし、きみとともにことばを失い、きみの助けなしできみとともに死に瀕し、きみのかわりに死に身を委ねて、きみをも私をも超越したこの贈り物を受けとろうとしているからだ」。それに対してこの答えがある、「私が死んでゆこうというのに、きみを生きさせる幻影の中で」。それに対してはこの答えがある、「きみが死んでゆくというのに、きみを死なしめる幻影の中で」」(「彼方への歩み」)。  
上に引用した文章は、同胞の死に立ち会う時に諸個人間に大きな隙間があり、相互に異なった存在であることを先鋭にすることを表現しています。見取るものと死ぬものを入れ替えることはできません。しかし、その個人の間の違いをお互いに分かちもつかよい合いは確かにあります。ブランシュは、その通い合いを否定的共同体(共同体をもたない人びとの共同体)と名づけました。もはや、共同体という語を使用する必要はないでしょう。共同体という語を共同性に置き換えて、「共同体をもたない人びとの共同性」と呼んだほうがよいと思います。私たちは、今までの知識から判断しますと、知らないうちに生まれておりおそらくは知らないうちに死ぬのだろうと考えられます。他者は、その人の誕生と死を目撃する事ができます。そう言う意味では人間は自分の全てを統括できない有限者(ブランシュ)です。「明かしえぬ共同体」の第二章の「恋人たちの共同体」は、この個人と個人の異質な孤独な人間の間の共同性をつくることがいかに困難であるかを示す作品として、「死の病いアガタ」(マルグリット・デユラス)を検討しています。この作品では、個人の異質性に加えて男と女の異質性が明らかにされ、共同性をつくることの困難さが描かれています。この部分については、ここでふれる必要はないと思いますので省略します。  
今までの検討から、私たちは、この文章で使用している言葉で表現しますと、虚構体でも実質体でもある仮構体としての私たちは、諸個人は異なった存在でもありますが、相互が異なっているものとして認知し合う以外には方法はありません。その意味で、個人は他の個人をもって置き換えることはできません。  
白隠のはじめの方で述べた「ただそこに存在することの肯定観」を、次に「自然から逸脱して存在することの肯定観」と言い直しましたが、さらに「異なった在り方で逸脱して存在することの肯定観」へと変更します。そして、異なった者同士は、孤独の共感性において、ふれあい=共同性を形成できる可能性をもつ存在ということができます。
家族から社会性への問題  
私たちの私的生活の現実体=実質体世界の側面で問題となるのは、子供を含めた家族の問題です。この問題を一番含んでいる説話は、親鸞や一遍が尊敬していたと言われている教信についての話です。以前に文献にあたった記憶があるのですが、現在は時間的な余裕がないために手元にある栗田勇の「一遍上人」より引用します。それは「往生極楽記」の原形を示していると栗田勇は述べています。  
「勝尾寺勝如は、言語を自ら禁じ、黙して草庵に観想をこらしていたが、一夜、播磨の加古の教信なる者の往生の告を感じ、弟子をつかわして事実を知ったというくだりである。・・・弟子が還って言うには、――駅家の北に竹の廬(いおり)有り、廬の前に死人有り。群れる狗、競い食せり。廬の内に一の老嫗(おうな)・一の童子あり。相共に哀哭せり。勝鑑(弟子)更ち(すなわち)悲べる情を問ふに、嫗の曰く、死人はこれ我が夫沙弥教信なり。一世の間、弥陀の号を称えて、昼夜休まず、もて己の業となせり。隣里の雇ひ用ゐるの人、呼びて阿弥陀丸となす。今嫗老いて後に相別れぬ。これをもて哭くなり。この童子は即ち教信の児なりといへり」。この話は、現実体=実質体の世界の観点から読みますと実に悲劇的です。私は、長い間、親鸞も一遍もこの教信の死については、この世を虚無体世界の観点から理解して、己の死と重ね合わせて考えたと思ってきました。仏教を学んでいた教信は浄土教に帰依し、還俗して播磨でさまざまな日常業務をしながら生活をたて、妻をもち子をもうけました。世俗の仕事の中で「弥陀の号」を唱える生活だったようです。この説話は、共同体=国家・社会がつくる「地位や富や知識」と「習練の深さの上下」や「僧侶的な地位」(「一言芳談について」吉本隆明)などを捨ててひたすら浄土に往生することを願っていた教信の信仰心が暗黙の前提になっています。勝鑑に教信の往生として目撃されている場面は、亡骸は狗に食われ(これは、釈迦の前世談で釈迦が動物に身を供する説話をなぞっていると思われます)、先立たれた妻と子(童子)が泣いています。往生談と解釈されたのは、自分の身体、妻、子供への執着を断った死だからでしょうか。  
この解釈とはことなり、つまりこの世の妻・子供への執着も断ちみごとに往生(死にとげた)と言うのではなく、妻・子供を未来における同行者を見なし「浄土への往生」を選択した自由な行為と解釈できないでしょうか。最近、教信の死が「浄土に往生」をひたすら願うという人間の現実体=実質体に起源をもつ必死の選択行為であるように、思えてきました。人間が虚構体から自然への解体にいたる必然性に逆らう自由の行為は­―それは死(虚構体としての人間)と隣あわせであるという逆説的行為でもあるのですが―身内のものを犠牲にするという過酷さを伴う危険があります。自由な行為が過酷さと結び合った世界に、私たちはいまだ生きております。  
その自由を求める行為は、あとに残された妻と子供が味わなければならない人生の荒波の苦労に匹敵する価値をもっているのでしょうか。私は、この問題をめぐって自問自答を繰り返しています。妻や子はこの世を現実体=実質体世界に起源をもつ侵害と虚構体世界がもたらす自然への解体に逆らって生きてゆかなければなりません。その世界で、喜びよりも苦労の多い生活を強いられることが十分に予想されます。教信にはその心配はなかったのでしょうか。どうして一遍や親鸞は教信を尊敬したのでしょうか。それが、自然とさらには生命からさえ逸脱してしまった人間の自由の極限の選択行為であるからでしょうか。  
そこのところの覚悟を私はうまくすくいとりきれないでいます。この説話は、私にとって長く謎めいた説話としてありましたし、今でもそのようなものとしてあります。教信と妻との関係、および教信と子との関係は、虚構体世界の問題であるのだから配慮に値しないと、教信は考えたのでしょうか。仮に虚構体世界を基礎に現実体=実質体の世界があったとしても、教信と妻との関係、教信と子との関係には現実体=実質体の世界として―かりそめの夢であったとしても―あったはずです。そこに、夫婦、親子としての情の通い合い、無常の喜びがあったと思います。教信の信仰は仮構体世界(人間的=社会的世界)を虚構体世界としてみる視点で構成されていると考えたとしましても、必ず仮構体世界の実質­体=現実体の側面と虚構体の側面の二つの次元の異なる問題は、教信に葛藤を引き起こしたに違いありません。今回、最初に「沙石集」の畑で働いていて毒蛇に咬まれて死んだ山人の説話をとりあげました。父親は、悲しむ様子をみせないで「人間の親子の縁は、はかないものだ。鳥が夜、林に寄り集まり、夜が明けると方々へ飛び去るのに等しい。皆、業にしたがって離れ別れるだろう。何も嘆くことはない」と答えています。本当にそうでしょうか。家族には、夫と妻の間には葛藤を含んだ共同性、親と子供の間には相互の依存と保護から独立と別離に向かう間にできる共同性があるはずです。この、共同性のなかでおこる出来事は、仮に一時的であり月並みなことであっても、当事者にとっては幻想であっても「永遠の今」を感じさせる時を刻んでいます。この、日常の些細な出来事、例えば子供が最初に歩き始めた瞬間、壁に向かってサッカーのボール蹴りをする姿など、数多くの「永遠の今」の積み重ねこそが家族の共同性の実質体=現実体世界の現実性なのだと思います。再度書きますと、その「永遠の今」が空に消える?幻想であったとしてもと考えはじめています。「永遠の今」でもあり「刹那的」でもある自然と生命から逸脱した私たちの生は不思議なものです。  
禅関係の本では出家者を対象とするために、家族の問題はあまり扱われていません。しかし、「碧巌録」第四十二則に龐居士(ほうこじ)の話がでています。このひとは、財産を持っていた人だそうですがそれを維持するための煩わしさから自由になるために財産を捨てて竹笊(笊)を作り売るという赤貧のなかで本人、妻、息子、娘の4人で生活をしていたそうです。この4人とも「一切は空無である」であるという仮構体世界の実質体=現実体世界の側面をそぎ落とし虚構体世界としてのみみる修行をしていたようです。しかし、この4人の生活はなかむずましかったようです。このなかむずましさこそ仮構体世界の実質体=現実体の側面ではないでしょうか。これは、先にみた西行の同行者の場合とおなじです。やがて、娘、龐居士(ほうこじ)、息子の順番でそれぞれ「消え去るように」亡くなります。最後に、妻が村の家々に挨拶をしていずこともなく消息を消したということだそうです。この話と、「沙石集」の説話に共通しているのは、両親が子供の養育を終えているらしく、子供たちも一定のいき方、人生に対する観点をみにつけ家族関係がしっかりしていることです。家族関係が同行者の関係になっていたのかも知れません。そのように、考えますと、この両家族の話は、日常の些細な出来事を永遠の今として積み重ねた家族の共同性がもつ現実性の次元を超え、仮構体世界の虚構体と実質体=現実体をその実質体=現実体の側面から超えようとした同行者の話と解釈すべきなのかも知れません。ここでは、一応このように結論しておきます。  
上記の両家族の話と比べて、教信の話が悲劇性を帯びているようにみえるのは、老嫗(おうな)と童子がまだ同行者になっていないことです。この世界が仮構体世界であったとしてもそれを実質体=現実体世界とみる視点からは、つまり虚構体へ解体する傾向に逆らって維持する世界からみる視点からは、教信の態度を子供に対する無関心な無責任な行動パターンを示し子供の養育を拒否する親の態度から区別ことが困難です。それとも、子供に、仮構体世界の実質的=現実体世界の側面は一時の夢であったとしても、仮構体世界の虚構体世界への転変の必然性に逆らって、仮に一見すると虚構体世界の勝利に見えようとも、教信の場合には往生という自由の選択の観点を貫く生きる方を、子供と妻に親にとして夫として自由な行き方の一つの模範として示したのでしょうか。もし、私が教信ならば、無念の思いの果てに、自由の行為がもたらす過酷さを示す行為と考えたと思います。最後には、妻と子が実質体=現実体としての側面を持つこの世を、たえず虚構体世界へと変質させる傾向に逆らって生きぬく潜在力・可能性に期待することになると思います。自然、さらには生命の世界からも逸脱してしまった人間に一瞬の出来事ではあれ存在価値があるとすれば、それはこの世の(仮構体的世界)の人間的側面(実質体=現実体的世界)が虚構体世界へ解体される傾向に逆らって生きることのように思われます。次の良寛の詩が示す「自由の極限」を、教信は泣く子供の中にみた・期待したという可能性があります。  
「巨靈(これい)、擡(もた)ぐることを得ず 一片の髑髏軽し 是れ孤蜂の好(このも)しきあり  
一かけらにすぎない髑髏は、ごく軽いはずなのに、巨靈(黄河の神の名)という河神の力をもってしても持ちあげることができない。一片髑髏の気安さは、あたかも群れを離れた一匹の蜂にも似たこのましさ。蜂は帰巣性によって旧巣を慕うものであるが、これは一向に慕おうとはしない。こういう所がこの髑髏のさらりとした様によく似ている。」(良寛髑髏詩集譯飯田利行)。  
しかし、仮に夫が家族に無関心で執着を断ったもしくは断たされたとすれば、妻と子供の生活上の問題は社会的な次元の問題として考えなければなりません。人間には卑劣な面もあることが還暦を迎える年齢になるとよくわかりますが、社会の存立に意味があるとすれば、その基本的役割は、仮構体世界の実質=現実体的側面を自然がもつ虚構体的側面へ解体する作用が生み出す悲惨さと悲劇を最小にする手立てを講じる事だと思います。人間はそう簡単には自然とは共存できません。「生、病、老、死」が生み出す悲惨さに抗して生き抜くことは大変なことです。社会に意味があるとすれば、虚構体から自然へ解体する必然性に逆らって実質体=現実体世界を維持することです。それも慈善行為としてなされるのではなく、制度的に対処するプランが最低限考えられなければなりません。これこそが、「文明・社会」の存立根拠ではないでしょうか。その場合に、先に検討したモーリス・ブランシュの共同性の問題は、社会制度の基本的な問題を考える場合の視点でもあると思います。仮構体世界の実質体=現実体の側面は、現代社会では資本主義を経済的土台としていますので極度に拡大させる運動が進展しています。今、私は、「生産力思想」の無意味さを虚無主義ではなく、仮構体世界の実質体=現実体の側面からみて理解しつつあります。現在の動向および街角のクリニックの町医者から見ましても、社会のメカニズムが生みだす弊害は著しいものがあります。マルクスが資本論で注としておびただしい文献の引用をしている窮乏とは異なる意味ですが。いまのところ、「そんな気がします」としか書けませんが。  
さて、白隠は社会をどのように見ていたのでしょうか。
2 白穏の社会認識・社会問題に対する態度  
人間社会を「生・病・老・死」、すなわち「苦」としてとらえる仏教仮説をこえる次元の問題として、この人間社会を現実体・実質体として生きる考え方を検討してきました。白隠の生き方も、最後には、仮構体としてのこの世を虚構体へ解体する傾向にさからって、仮構体世界の二重性(実質体=現実体世界と虚無体世界)の中で生きる方法を追求しているように見えてきました。白隠は社会をどのように考えたのでしょうか。
白隠の社会問題についての基本的視点  
白隠は松蔭寺で弟子の修行を指導しながら、一般庶民から大名までひろく付き合いがあったようです。そして、支配階級に属する領主にも政治生活を送るうえでの問題点をいろいろ指導しています。そのことから、白隠の社会観を或る程度は推測することができます。なぜ、白隠の社会観を問題にするかといいますと、すでに何度か述べましたように宗教的実践は一度「善悪←→快不快の原則」―よい事をすると死後の世界を含めて快適な生活がおとずれ、悪い事をすると死後の世界を含めて不快な生活がおとずれる―、仏教の場合には六道輪廻を否定してそのむこうへ向かう試みをする実践です。そのために、「善悪←→快不快の原則」を基礎とする日常生活倫理や道徳感と対立することになります。しかし、白隠の場合には、一度、「善悪←→快不快の原則」を突破した後に、この仮構体の世界を虚構体でもあり実質体・現実体でもあるという両方の視点から、「人はみな生死の流れを超えたいとねがうが、足したり引いたりしておちつくのは、かまどの前の座席である」という洞山五位の観想的立場には満足しなかったのです。「疲れ果てた徳雲老人は幾たびも妙峰の山を下り、彼はあの馬鹿聖人を相棒にたのんでせっせと二人で雪を担い、井戸を埋め立てるのだ」と「悟り後」の修行という動的工夫をこの仮構体世界で行うという考えをとりました。その仮構体世界は欲望を基礎とした現実体社会であり、自然への崩壊傾向が待ち構える脆弱な虚構体世界でもあります。けして「生命の世界はすばらしい」と無条件に賞賛できるものではありません。しかも、寺院の階級と僧侶の格式が定められた本末制度の中で「悟り後」の修行を継続的に行うという選択を行っています。その時に、白隠は四弘誓願の考えを独自に解釈して強く主張します。この次元に舞い戻りますと、問題になるのは実質体=現実体世界でもある仮構体の世界には「善悪←→快不快の原則」が貫かれますので、「諸悪莫悪、衆善奉行」(もろもろの悪い事しないで、あらゆる善行につとめなさい)という道徳が再度問われ、それを実行することが課題となります。例えば、臨済録では、宗教的に現在ある仮構体の地平とは異なる地平をめざすことが強調されますので、現在の仮構体の地平にとどまる「諸悪莫悪、衆善奉行」は相対的に軽視されます。しかし、白隠の立場では社会的な「諸悪莫悪、衆善奉行」が、再度、宗教的実践と関連させて課題となります。  
「辺鄙以知吾」と「壁訴訟」みながら、白隠の宗教分業外の世界への考えを探ってみましょう。  
白隠の基本的立場は、「壁生草」にあるように、1)「菩提の道を実現しようとするならば、つとめて四弘誓願を実践しなければならぬ。たとえ不二門に入ることができても、菩提心、殊に利他の心がなければ、必ず魔道に堕ちる。」、2)「世間で何ともうとましいものは、湿った薪、爆ける炭、水まじりの灯油、船頭、車夫、それにまま母、蚊、虱、鼠、そして賊僧  
・・・・・  
世間では、誰でも家に在って生業をするのに、ことさら在家というのはなぜか。在家とは出家に対して言うのである。在家の人たちは生活のために、農工商それぞれの仕事に励んで辛苦しているのだから、僧のように、もっぱら生死出離の一大事を究める修行をする暇はない。そこで、在家の人々は折々に出家に供養して、来生の勝縁を結ぶのである。であるから、出家たるものは大勇猛信心を奮起し、とにかく見性の眼を開き、不断に法を説いて、仏祖に代わって一切の人々を救済せんとするのである。だから、出家と在家とはいわば車の両輪である」ということだと思います。繰り返しになりますが、1)「見性」の後に繰り返しこの仮構体の世界で修行を継続する、2)宗教的分業界と宗教外分業界を「車の両輪」と捕らえ、宗教的分業界優位の立場から宗教的分業界と宗教外分業界を平等の視点からみる立場へ傾きかけていることです。白隠の社会・政治について述べた法語では仏教的立場が強調された場合と社会にとって政治・経済的観点が優位にされる場合があり、それが不統一の印象をあたえます。白隠の治政観と社会観を具体的に述べている代表作「辺鄙以知吾」を検討しましょう。
「辺鄙以知吾」の内容  
「辺鄙以知吾」は、白隠70歳の時の作で、「神君御遺訓」(徳川家康の御遺訓)に触れているということで絶版禁書とされた本です。岡山藩第四代目藩主の池田継政宛の手紙と言う形の仮名法語です。「辺鄙以知吾」にはいろんなことが書かれていて内容と論理が錯綜していますが次の様にまとめられると思います。  
まず、領主の治政のことが上げられています。領主は自分の「君位」をまもるために、領民が栄え国も豊かにしなければなりません。そのために、領主は健康を維持するために養生に努めるべきと説きます。そして、「信心堅固にして武運を養う」ことが大事であると、武士階級の道徳・倫理を認める立場をとっています。この立場は、仏教の仮説と武士階級の道徳・倫理を対等に取り上げた白隠の先行者である鈴木正三の立場と共通しています。その後、現実社会の理想的な原則である「諸悪莫悪、衆善奉行」すなわち「善事ならばどんなちょっとしたことでも・・・・すぐに実行し・・・・悪事ならばどんなささいな事でもプッツリとやめ二度と行わない」ことを実行することをすすめています。  
治世の具体的内容になりますと、まず第一に「酷政」(領民を苦しめる政治)の原因となる贅沢、浪費、快楽の抑制を説きます。「本来明徳」を持っているのに「あさましい欲」によって「主心」を見失うと「死後には必ず三途八難の地獄に堕ちる」と世俗的な宗教観をときます。  
政治には「仁吏」を用いるべきであるといい、「仁吏はいつも民百姓の利害を考え、その土地が肥沃であるか瘠せているかをよく観察し、農作業の苦労に思い致し、凶作の年には賦税や使役をゆるめ、民百姓が飢えにくるしまぬようにする。そして内政面では君位を磐石にし、千載の後にまで主君が苛政のそしりを受けぬようにする」。これに対して、「暗君」は、「酷吏」を用います。「酷吏」は「凶作であれ豊作であれ、一向かまわず、百姓が飢え苦しんでいることを顧みずに、ただひたすら奪いとり貪ることが、主君に対する忠節と思っているのだ」といいます。「酷吏」は、「主君に対する忠節」と思って民百姓から収奪します。単に、「酷吏」やそれに群がる人々の個人的に残酷な性格・資質によるのではなく、「酷政」のメカニズムを体現しているのが「酷吏」であるという認識は重要です。白隠は、後にもう一つの「酷政」のメカニズムについてもふれますが。「酷吏」は、ある意味では「能吏」でもあるために民百姓からの収奪・搾取に励むことになります。白隠は、この「酷政」のメカニズムを作動させる主要な原因を領主の贅沢、浪費、快楽に求めています。すなわち「むしろ酷は奢の影であろう。奢りというものがあるから、その影のごとくに酷吏がでるのだ」と述べています。これと別に、「酷政」にはもう一つ、政治のメカニズムに関与するものが私利私欲から村長などと組んで「お上の仰せなるぞ」と言って民百姓から収奪・搾取する場合もあることを述べています。  
まとめますと、政治のメカニズムは、明君ならば仁吏を用いて百姓が豊かになり、暗君ならば酷吏を重用して百姓が貧しくなると考えているようです。そして結果として、「酷政のメカニズム」が生み出すのは、「百姓が奈落の底に沈み、国が滅び」、「領主と酷吏」の家は跡継ぎが絶え、「お祀りする子孫がなくなって」、酷政のメカニズムに関わった人々は「幽魂となってさまようことであろう」と脅しています。白隠は、ここで「家と霊魂の思想」を認めているかどうかは不明ですが、家と霊魂の思想を前提にして酷政のメカニズムに関与することを脅しています。  
白隠は百姓一揆の発生については、その原因を酷政に求めています。「酷政」の結果、「どの家も苦しみ泣き、痩せ衰えて、飢えくるし」み「怨恨の気持ちを抑えることができない」と「死を賭しての行動に出る」。蜂起した百姓たちは、村長を襲い、城内に入り狼藉にいたります。このような事態にいたると、役人たちは寺院の和尚たちを使って、百姓たちをだまして事態を収拾し、蜂起がおさまると、首謀者を捕まえて磔などの刑に処します。白隠はこのように本末制度と檀家制度に組み込まれた仏教の寺院が酷政に関与することを批判します。  
また、参勤交代を浪費の例にあげて批判しています。「列国の諸侯の参勤交代の行列を拝見いたしますに、先備え、後備え、長柄、槍、武具、馬具、旗竿、幕串など、おびただしい人数の隊列を組んで通行されております。これほどの大人数ですから、ちょっとした川留めがあって宿場に逗留しても、家柄によっては千両二千両の出費が必要になるとのことです」。参勤交代は、徳川幕府の政治的支配構造の大きな柱であったわけですから、これを浪費の観点からのみ批判するには問題を捉え損ねると思われます。  
白隠の社会認識の基本は、農民が基礎にありその上に「上は公卿から下は庶民に到るまで、工業(工)、商業(商)、祈祷師(巫醫)、医者(巫醫)、楽師など、幾千万種の生業をする人々がある」というものです。そして、農民がいなければ、私たちはすべて餓死すると述べています。農民を社会の基礎という考えはその時代には支配者の一般的な考えであったようです。また、白隠には、その上に構成されている支配構造についての批判意識もなかったようです。しかし、白隠は民百姓の世界に生きていましたので、民百姓を単なる経済的基礎の「人的資源」とは考えていなかったようです。例えば、「壁訴訟」にも百姓一揆を次のように「・・・・三四十年来、播州姫路を始めとして、各地において百姓が反逆し、数百人も徒党を組んで蜂起し、お城を取り囲み、竹槍をとって武士に対抗することが七八ケ所に起こっております。・・・・これらの事件が起こった所では、どこでも、賦税を多く搾り取り、私のためによこしまをする役人がおったからです。・・・・百姓はまるでわだちの水たまりで瀕死になった魚のように、次第に困窮が切迫して、女房子供を養うこともできなくなり、とうとう飢え死にするよりほかはない。こうして追い詰められた百姓たちは、どうせ死ぬ命ならば、ご公儀に怨念の矢を射かけて、後は野となれ山となれと思いつめるようになる。こうして、覚悟を決めた上で起こした謀叛である・・・・」と民百姓の悲惨さと覚悟を描いています。  
さて一方、白隠は家康の善政をたたえます。「神君御遺訓」(徳川家康の御遺訓)には「忠諫廉直の賢臣を登用し、追従軽薄の佞臣」を避け、「万民の生活を心配し、農作業の労苦に思い」、武士として「武術の鍛錬を怠らない」ことが肝要であると述べていることを喜んでいます。「神君御遺訓」(徳川家康の御遺訓)の精神こそ仁政の理想である。徳川家康の「仁治のお手本」があるからこそいまのような太平の時代が出現できたのですから、「神君御遺訓」は武士にとってはお経より有用であると讃えています。  
これらの視点は、白隠は仮構体世界における仏教分業界以外の分業世界の生活倫理、政治・経済の独立性を完全に認めていることになります。この点で、この現実世界を虚構体世界とみる仏教仮説を離れています。「神君御遺訓」(徳川家康の御遺訓)という読むことを禁止されている本を公然と取り上げたこと、百一揆の原因を「酷政メカニズム」に求めたこと、参勤交代を批判しているなど、社会の問題点にたいする批判精神は十分に発揮されていますが、白隠の時代の水準で、上記の社会認識は、それほど独創的ではなかったと判断されます。たとえば、「贅沢、浪費、快楽の抑制」である倹約の問題は、もっぱら精神的な道徳の問題として把握され、それが結果として「酷政」を発生させると理解されています。この精神的な事柄と経済現象の区別は、石田梅岩(1685-1744)の場合にははっきりしています。彼の「倹約」は、一方では「消費における効率の極大化」すなわち「商人や農民の利潤極大化行動」という商品・貨幣経済が浸透いる社会での経済現象の問題として把握され、他方では儒教の立場からでしょうが宇宙の構成原理である「物の法」に一致するという精神の問題として把握されています(「石田梅岩の「倹約」−経済思想史からの一考察―、川口浩」。白隠の場合には、やはり宗教以外の世界を把握する点で狭さをもっていることは否めません。  
しかし、次の事は、重要だと思います。もし仮に、宗教的「見性」があったとしても、それは夫婦、家族、共同性のところで述べましたが、個人の「見性」を超えた他者との関係の問題です。哲学的な問題としては他者問題というのは面倒な問題のようです。しかし、他者に共鳴・共感して生きていることは私たちの確かな実感です。また、私たちの内閉的な殻を打ち破って衝撃をもたらすのも他者であることも確かです。ここに、現実社会の理想的な原則である「諸悪莫悪、衆善奉行:善事ならばどんなちょっとしたことでも・・・・すぐに実行し・・・・悪事ならばどんなささいな事でもプッツリとやめ二度と行わない」ことを考えなければならない次元が成立します。白隠が、「悟り後の修行」を本末制度の末寺で行おうとすれば必ずぶつかった問題だと思います。  
これも、また白隠好みの話でありますが、北の桂山という山里から出てきた老婆の娘の臨死状態から回復した後の「地獄めぐり」の話がでています。その中には、宗教修行によって現世の利害をこえることのできなかった僧侶や酷政を行った君主や大臣の話がでています。  
「お坊さんも、この中に混じり、責めさいなまれています。(「後世を助かろうとご修行なされたのに、どうしてこんなことになって、こんな苦患を受ける破目になったのでしょう」と、私がお尋ねしたところ、「それは一文不知で少しも見性の知徳がなく、それなのに、表だけはいかにも戒律をたもっている振りをし、高僧のように見せかけ、在家信心の人たちをたぶらかして、いろいろ供養を受けたからである。あるいはまた、不浄説法といって、他に勝ろうとし、我がために妄りに仏法を安売りし、若い修行者の悟門を防げたり、あるいは悪智悪覚といって断無の見をもって傲ったからである。破戒無慚の僧などは言うに及ばないであろう」と教えられたのです。)・・・・立派な虎鬚をはやして威厳のある顔つきをした人が、かがみ込んだりしています。これは、中国や日本で、情容赦もなく非道に民百姓を貪り苦しめた君主や大臣だということでした。」と書き、最後に「酷政メカニズム」に関与したものの地獄落ちの話を付け足しています。これらの話は、白隠の場合には、「地獄めぐり」の話というよりは、仮構体世界のこの世を実質体=現実体世界と把握した場合の「諸悪莫悪、衆善奉行」の問題として提示しているように考えられます。と言いますのは、世俗社会のメカニズムは、仮構体世界である現世の実質体=現実体世界性に注目して、さらにそれをそれ自体で存立する実体として分析しなければ解明されないからです。
3 仮構体の世界でめざすあらたな地平  
仏教仮説仏教仮説「四諦・八正道」を外れる禅の思考 
このように、仏教仮説「四諦」に反対して出される考え、その仏教仮説では解決できない問題、仏教仮説では扱うのが困難な領域の問題について検討してきました。ここで禅の話にもどします。出家僧が対象ですので、残っている個人のことが問題となります。仏教仮説「四諦」にはおさまりきらない個人の問題を考えてみようと思います。どうしてかと言いますと、私たちの仮構体の世界がいくら自然へと解体されると言いましても、すなわち中観派の人たちの言うように「空」で「無自性」だとしましても、仮構体である私たちにとってこの世界はどうしようもなく現実性をもっているからです。  
例えば、「従容録」の第五十六則の「密師白兎」に天童がつけた示衆に明示的に表現されています。「むしろ地獄の苦境にあっても、その苦境を解脱する諸仏の妙法を求めずにいる。生死を厭い涅槃を求めるのは・・・妄念である。この妄念を離れれば諸聖の慕うべきもない、衆生の忌むべきもないことが分かる。・・・・ところが提婆達多は無間地獄に堕ちながら、帰って三禅天の楽を受けているという。これに反して鬱頭藍弗は有頂天に上がっても飛狸の身を脱し得なかった。・・・・」。原田弘道は、提婆達多に関しては「・・・・釈尊の従兄弟。出家して仏弟子となり、後に背いて仏を謗り、かつ殺害せんとして、・・・・生きながら無間地獄に堕ちた。仏はこれを憐れみ、阿難をして問わしめると、提婆は「我地獄に在りと雖も、三禅天の楽しみあり」と答えた」と、鬱頭藍弗に関しては「・・・・五通を得て王宮に出入りしていたが、王の夫人の手に触れて神通力を失い、これを取り戻そうといろいろ努力をした。そして非有想非無想処に生まれることができたが、寿命がつきて下界に堕ちて飛狸に生まれて、もろもろの魚鳥を殺して無量の罪を犯して三悪道に堕ちたという。」と注をつけています。この話は、地獄をこの現実世界と置き換えることも可能ですが、自分の出生した場の現実性を表現しています。この現実性を認めないで何かをもとめることは不可能なのです。  
また、これも有名な公案ですが、「百丈野狐」があります。無門関から取ります。「百丈和尚の説法があると、いつも一人の老人が大衆の後ろで聴聞していた。そして修行僧たちが退場すると、老人もまた出ていくのであった。ところがある日、彼はひとりその場に居残って出ていこうとしない。そこで百丈が、「そこにいるのは誰か」と聞かれた。老人は、「はい、私は人間ではありません。大昔、仏陀もまだこの世に出られない頃、この山に住んでいましたが、ある日弟子の一人が、「仏道修行を完成した人でも、やはり因果の法則に落ちて苦しむものでしょうか」と尋ねるので、「いや、因果の法に落ちることはない」と答えました。するとそれいらい五百年の長い間、私は野狐の身に堕ちてしまい、生まれ変わり死に変わりして今日に至りました。どうか私に代わって正しい答えとなる一句によってこの野狐の身から脱出させていただきたい」と頼んだ。そして改めて、「仏道修行を完成した人でも、やはり因果の法則に落ちて苦しむものでしょうか」と質問した。すると百丈和尚は、「因果の法を昧(くらま)さないと」と答えられた。その途端に老人は大悟し、百丈和尚に礼拝して言った。「私は已に野狐の身を脱することができました。抜け殻となってこの山の後ろにおります。・・・」・・・」。この話しに無門は次ぎのような注をつけます。「「因果に落ちず」でどうして野狐に堕ち、「因果を昧(くらま)さず」だと何故に野狐を離脱しうるのか。もしこの大切な一点を見抜く第三の眼を持つことができるならば、あの百丈山の老人も何のことはない、実は五百年という長いあいだを風流の中に生きていたんだと分かるであろう。」  
この、「野狐は悟り」の話しをどの様に解釈したらよいでしょうか。  
もっともオーソドックスなのは、苦界を逃れ清浄の世界へ逃げるのは小乗の考えで、苦界の中にとどまり「悟り」を見いだすのが大切であるという考えです。この考えの中には、苦界に生まれるのが自分の運命であるから、その運命を逃れるのではなく引き受けそれを生きぬくというものや、大乗系仏教でよくみられる、苦界にとどまり他の人が悟るのに寄与すべきであるという考えが含まれます。  
二番目は、人間の悩みは、無機物、有機物、動物の世界から逸脱した意識に起源をもっている人間界への執着だから、意識を解体して「野狐」の世界になりきることも悟りである、という考えです。つまり、五百年間悟りの世界にいたにもかかわらずそのことにきづかなかったことが問題なのである、という考えです。無門のコメントはこの考えに近いと思います。もし、そのよう考えれば、野狐の状態は悟りの状態ですから、「実は五百年という長いあいだを風流の中に生きていた」と言うことになります。六道輪廻の世界を全て一つにして考えればよいわけです。この視点は、私の任意的な考えでなく、禅語録に確かにあります。例えば「従容録」の「第六七則厳経智慧」には、「「華厳経」に云っている。釈尊が法界平等の大智慧をもって、あまねく一切衆生を見渡したもうに、三千世界ありとあらゆる一切の生物が、ことごとく如来と同一の智慧も徳相も具有していて、少しも欠けたところがない。(熊はとんぼ返りをする芸があり、驢馬は扇子舞を真似て舞う芸がある。これは智慧徳相である。)ただ衆生は自己心性にそむいて、顛倒妄想して執着しているので、その智慧徳相を証得し、自ら円満具足と納得できないでいるのである(妄想執着是何物ぞと究めてみれば、取り除く妄想はどこにもない。厭う心が妄想となるのである。)」と云っています。「野狐は悟り」の話は、この考えに類似したものですが無門のコメントにみられるように、自然のエネルギーそのものになるという力強さを持っているように思います。  
このように、禅の中には、この現実世界を離れてどこかに、「悟り」の世界があるという考えを否定する思考があるように思います。この仮構体世界に生き、生をまっとうしますが、それでも仮構体からみてその滅びに逆らって一つの新たな地平を必死に創造する挑戦をしているようにみえます。白隠の到達した四弘誓願の解釈も、先ほど述べましたがこの流れの中にあると思います。  
また、繰り返しになりますが、仏教は主として欲望の基づく行動への執着の遮断と予想される自己の死とどのように向き合うかという二点が重要な課題になっています。仏教と極めて類似した考えを持つといわれるジャイナ教と比較すると、より鮮明になります。例えば、払子は、ジャイナ教では蚊や蠅などの虫を殺さぬために柔らかいものでそばから移動してもらうための実用器具として使用されているそうですが、禅では法具となりもっぱら儀式用具となっています。ジャイナ教では、生物はすべて生きたいという欲望をもっており、それを殺生してはいけない、という考えが強くそのために断食して「餓死する」ことが賞讃されています。この点、仏教は、人類が滅びることについては肯定も否定もしていません。「死すべきものが死すべきものを作るべきではない」という、考えがありますが、滅びた方がよいとは言っていません。なんとか、人類が生き延びる道を探してきたようにみえます。特に、禅の場合には生が肯定されているようにみえます。「祖堂集」には次の話があります。釈迦が、「勇猛精進」の修行による餓死直前で、「わたしがもし衰弱した身で道を完成すれば、外道たちは誤っていうであろう、自から餓死することが涅槃であると。それゆえどうしても食を受けねばならぬ」。これは、禅の仏教解釈の中に「餓死することが涅槃」であるということを否定する思想があることを示しています。死に屈しそれを崇めるような思想に対する拒否がはっきりみられています。
禅でみられる奇異な行為  
禅の本読んでいますと、無意味にみえ滑稽感があり笑いを誘うような行為、挑発的で相手を打ちのめそうとみまがえている行為、訳の分からない狂気じみた動作など日常生活からは逸脱した理解困難な行動が見られます。しかし、彼らの行動は敏速で緊張して張りつめています。  
また、禅語録を読んで気づかれるのは、指を立てたり、大声をだしたり(渇)、払子を立てたり、杖をふるったり、状況と無関係な意表をつく発言など、身体、言葉、小道具を使用して対話の相手に意表をついた策略(トリック)を見せることです。これは、禅僧の行動の一つの重要な特徴です。このような、行動特徴を示す神話的人物はトリックスターです。禅僧の行動特徴には、トリックスターのそれに究めて類似しているものがあるようにみえます。  
例をいくつか「碧巌録」から取り上げます。 「碧巌録第四十四則禾(か)山の太鼓打ち」  
「禾山が教示した、「習学(だんだん学んで行く)を聞と言い、絶学(学ぶことが無くなるまで学ぶ)を隣と言う。この二つを超えることが真の超越である。」  
僧が進みでて問うた、「真の超越とは何ですか」。 禾山「太鼓を打てる」。 僧「仏法の真理とは何ですか」。 禾山「太鼓を打てる」。  
更に問うた、「即心即仏はさておき、非心非仏とは何ですか」。 禾山「太鼓を打てる」。 重ねて問うた、「至高のひとが来た時にはどのように導かれますか」。  
禾山「太鼓を打てる」」 「碧巌録」第七十四則  
「金牛和尚はいつも昼食の時間になると、みずから飯櫃を持って僧堂の前で舞いを舞って、ハッハッハと大笑いして、「菩薩たちよ、さあ飯を食いに来い」と言った。  
雪竇は言った、「とはいうものの、金牛は好意でやっているのではない。」  
僧が長慶に問うた、「古人は、[菩薩たちよ、さあ飯を食いに来い]と言いましたが、どうゆう意味でしょうか」。  
長慶「まるで昼食に際して祝賀の法要をしているようだ」。」 「碧巌録」第九十三則  
「ある僧が大光に問うた、「長慶が[昼食に際して祝賀の法要をしている]と言った」、その意味は何か」。 大光は舞いを舞った。僧は礼拝した。  
大光「何を見て、礼拝したのだ。」 僧は舞いを舞った。 大光「このエセ禅者め」」 「碧巌録」第八十則  
「僧が趙州に問うた、「生まれたばかりの赤ん坊は、六識を備えていますか」。 趙州「急流の上で球を打つ(ボロ)」。  
僧はまた投子に問うた、「急流の上で球を打つとは、どういう意味ですか」 投子「一念一念、流れを止めぬ」。」 「碧巌録」第十九則倶胝の一本指  
倶胝和尚はあらゆる問いに、指一本立てるだけだった。 ・・・・・  
死に臨み(倶胝は)衆僧に言った「わしは天竜の一指の禅を会得したが、生涯、一指の禅を使いきれなかった。知りたいか」。指を立てると、そこでこの世から去ってしまった。  
これら一連の動作と言葉は、外からの刺激に素早く反応する敏速さと、周囲の状況とは無関係にみえる行動ですが、個性的特長をもち、自分で体得した創造的行為です。禾山の「太鼓を打てる」ということば、金牛和尚の昼食時間における舞と大笑い、大光の舞い、趙州の言葉、倶胝の一本指たてなどの動作と言葉が何を意味するのは私には不明です。しかし、仮構体の世界であるこの世界が虚構体の世界に変容することを知りながら、自分で独自に何か今までの現世内的生き方とは異なる「地平」を目指そうとしていることは確かのようです。  
これらは、全てこの世界を成立させる、「善・悪←→快・不快の原則」の倫理・道徳則を突破しようとする挑戦の様にみえます。恐らく、仏教界の優れた思想(勿論、私などからみても仏教界にはつまらない思想はたくさんあります)はすべてその試みのようにみえます。禅と対極にあるように見える「暗い」浄土系の思想も太陽(「阿弥陀」)の光りをあびることを求めています。親鸞の全ての思想は、善悪と快不快を構成要因とする倫理・道徳則をこえて、ただそこにいるだけで太陽の光をひたすら浴びることを求めた思想への歩みと言っていいのではないかと心秘かに思っています。  
私は、禅者が目指す地平など述べるほど禅の知識はありません。白隠の本を読み、それと関連した禅の本を読み、今までに私が得ていた知識から推定してその地平を漠然と描こうと思います。  
「無門関」十二則  
「瑞巌の彦和尚は、毎日自分に向かって「おい主人公」と喚びかけ、自分で「はい、はい」と応えられるのであった。「しっかりしなされや」。「はい」。「どんな時も他人に騙されてはなりませんぞ」。「はい、はい」。と自問自答されるのが常であった。  
無門は言う、「瑞巌親爺は自分で自分を買ったり売ったりして胡散臭い一人芝居をなさったもんだが、一体何が言いたいのだろう。さあ此所だぞ。一人は喚ぶ者、一人は応える者。一人ははっきり目覚めている者。一人は他人に騙されたりはせぬ者。しかしどの一人を肯がってもやはり駄目だ。そうかといって瑞巌和尚の真似をして一人二役でもしたならば、野狐禅もいいところだ」  
頌(うた)って言う、行者が真実識らぬのは、意識に幻惑されるゆえ。過去より積もる苦の種を、愚かに本来人と呼ぶ。」  
これは、過去に経験した人間関係の累積したもの、それが現在の自我、個人の性格=行動パターンを作っているのですが、その殻を対自関係(この場合は自己対話)、対他関係(この場合は修行に関連する人)によって打ち破って「ある地平」むかう前進運動を示しています。  
次ぎは、一度引用した臨済録の有名な逸話ですが、ここで再度検討してみます。  
「定例の説法でいわれた、「生身のからだに、脱体制の自由がある。いつもおまえたちの口から、出入りしているぞ。まだ気づいていないなら、たった今、見とどけろ」そのとき、ある修行僧が出てきてたずねた、「どういうのが脱体制の自由です」師匠は椅子をおりて、相手(の胸)をひっつかむ、「さあいえ」修行僧は、何かいおうとする。師匠はつきはなした、「脱体制の自由というのに、何たる糞っ切れだ」。噛んで捨てるようにいうと、さっさと自室にもどった。」(柳田聖山、臨済録)。柳田聖山は「赤肉団上有一無位真人」を「生身のからだに、脱体制の自由」と訳して、すぐれた注をつけています。「<脱体制の自由>もとは道家の語である。「真人」は、アラカンの訳語。仏性、法性、自性、本性、精神、人格など、時と場合によって種々に呼びかえてもよいが、それらはとかく概念化し、実体化されやすい。無位はそうゆう概念化を拒否する、たった今の言葉である」。臨済の無位の真人は、さきの瑞巌和尚の自我を超えて行く概念と同じです。しかし、「真人」とか「本来の面目」などの言葉は擬人化され実体化されるために、その言葉にとらわれてしまいます。さらに、「本来の面目」などの言葉は、「真人」は存在していますがいまは覆い隠されている本来的な何物かという意味を絶えず暗示します。無位の真人という言葉は、このような個人の本来性という意味を完全に払拭します。また、臨済の思想の核心は、個人の絶対的な自由に有ると思います。「この男は、身もなければ姿もなく、根もなければ本もなく、何処に住むこともなく、(何処でも)ぴちぴちはねまわって、およそ無限の設備(容器)も、使いこなすのに場所をとらん」。このように、個人の環境を問わない自由な行為が極端に強調されます。たえず、虚構体へ転変する仮構体のわれわれの世界、違う言葉でいいますと、たえず自然への世界に解体される傾向に直面している私達の世界で、この世界に生まれ死んでゆく生を肯定し、「脱体制の自由」として闊達にその解体運動にあいわたる地平が強調されます。これが、私が禅者の言動にみる一番感心することです。これが、目指されている新たな地平の大きな要因と考えています。  
しかし、わたしには、このような環境の拒否の強調は、環境すなわち環境(対自・対他・対自然)との関係の累積である個体の検討を怠る傾向があり、逆に個人に囚われる結果になりかねないようにみえます。さらに「この男」が、全ての人に本来の有るものであれば、どうして「探せば探すほどとうざかり、呼べば呼ぶほどすれちがうから、これを秘密というのである。」のでしょうか。それは、<脱体制の自由>はすでにあって隠れているのではなく、可能性としては「生身のからだ」にあるのですがいまだ顕在化していないものだからだと思います。過去の因縁の集積を超えた、おそらくは「修行」によって到達する次元にあるからだと思います。勿論、この「修行」は仏教世界に限定された意味での「修行」ではありません。「脱体制の自由」は、現在の個人の在り方をこえた将来において実現されるべき地平に属するからだと思います。
普化に見られる禅僧の一特徴  
「脱体制の自由」を問題にするところに、わたしは、「臨済録」に普化が登場する意味があると思います。普化は、「臨済録」に独特の人物として登場します。普化は盤山宝積の弟子だったと言います。「碧巌録第三十七則盤山の三界無法」に「盤山宝積和尚は、馬祖門下の禅師である。後に普化一人を世に出した。盤山に臨終に際して衆僧に言った、「誰かわしの肖像が描けるものはおらんか」(肖像を描くとは、考えを引き継ぐものの意味のようです。)衆僧は皆肖像を描いて盤山に示した。盤山はすべて罵った。すると普化が出て来て言った、「それがしは描けました」。盤山「どうしてわしに見せんのだ」。普化はすかさずとんぼ返りを打って出て行った。盤山「こいつは後に気違いじみたやり方で人々を教化して行くだろう」」と描かれているように、私達の常識を超えた人と考えられています。盤山は「三界に何物も存在しない。どこに心を求めようというのだ。」と言ったひとです。普化は何もない世界で空を舞ったのかもしれません。  
臨済はその普化とともに施主に招かれて食事の席につきます。「師匠は、普化にたずねる「一すじの毛が大海を吸いこみ、一つぶの芥子がスメールの山をおさめるとは、神通力のわざか、それとも、もともと当然のことか、どうだろう」普化は、食膳を蹴飛ばす。師匠、「手荒すぎるぞ」普化、「ここがどういう場所だと思って、手荒いとか丁重だとかいわれる」師匠は翌日も普化といっしょに、食事の席に招かれた、「今日のごちそうは、昨日にくらべてどうかな」普化は相変わらず、食膳を蹴飛とばす。師匠、「よいことはよいが、手荒すぎる」普化、「ドジめが、仏法に、手荒いと丁重の手かげんがあるものか」師匠は二の句がつげず、ネを上げた」。この逸話をみますと、普化の行動は、統合失調症の症状として記載されている二重帳簿の世界を想起させます。統合失調症の人は、急性増悪期の幻覚・妄想状態では完全にこの現世とは異なる世界におりますが、慢性的な状態では自分の妄想の世界とこの現実の世界を二重に生きています。異なる世界を二重に生きているのです。  
しかし、私が思うに二重帳簿的な世界を生きるのは統合失調症の人に特別なことではありません。誰でも、異なる対人関係の中で公共的な現実関係を営みながら、その現実関係とは異なる個人の固有の地平もしくは実現したい地平を持っています。それを他の人の二重構造の世界と折り合いをつけながらこの世界での現実的関係を結んでいます。そのために、公共的な現実関係も実は複雑なものなのだと思います。そのために、ある時ある個人が約束事のように見なされた公的な行動パターンと突然に対立する行動をとることが当然あります。  
話をすすめる前に二重帳簿的な世界について少し考えておきます。井筒俊彦は、「意識と本質」で禅について次のように述べています。現世に否定が、例えば「無」をてがかりに「存在の本源的無限定性に実存的に出遭う」、その後、さらに「絶対無限定者としての存在が、自己の限定相である「無」を無化し」て、「根源的非結晶性が結晶体に転ずる形而上学的瞬間」をへて「有意味性」にもどる。「山は山である。」→「山は山でない。」→「山は山である。」という意識の変換が行われ、最後は「絶対的無限定者が刻々に柏樹という形で新しく自己限定してゆく」と述べています。この論理展開は、あきらかに「悟り」体験を悟り「世界」=「絶対的無限定者」と実体化しているようにみえます。そうでなければ「絶対的無限定者」が「自己限定」して現世の対象物が「現成する」というようには表現されないからです。この場合には、「本源的無限定性の世界」と「現実世界」の二重帳簿的意識・世界構造ができるのではないかと推測します。これに対して、私が「地平」という語を使用するのは現実世界を知覚し直されることで見いだされるものを示したいためです。地平は現実世界の中にあり、一つの可能な世界をつくることのできる潜勢力として感じ認識出来なければなりません。地平は、潜勢力を発見し、其れを加工して行くことで形成されてゆきます。その意味では、いまだ存在しないものです。さて、話をもどします。  
普化は臨済よりも約束事として確立した日常的世俗的な行動パターンを否定・超越(無視)する意志が強く、日常的・世俗的生活とは鋭く対立した別の地平を生きようとします。  
「その頃、普化はいつも町のなかで、鈴をふって歌っていた、「明るい朝が来れば、明るい朝次第、暗い晩が来れば、暗い晩次第、四方八方から来れば、つむじ風のよう、大空いっぱいに来れば、からざお方式でやっつける」師匠そばつきの僧をやって、普化がそう歌うのを見つけ次第、すぐに(胸ぐらを)ひっつかんで「全然どんなふうにも来ないときは、どうする」といわせた。普化は僧をつきとばした、「あしたは、大悲院でおときがあるんだ」。そばつきの僧は、もどって報告した。師匠、「おれは前々から、こいつはくさいとにらんでいたのだ」」。この逸話も、二重帳簿的な生き方というよりは、普化の考えがめざしている地平に集中している事を示しています。「鈴をふって歌っている」行為は、世界と整合性を持たずに生きているものです。「全然どんなふうにも来ないときは、どうする」などという魂胆のある質問などは無視して「あしたは、大悲院でおときがあるんだ」と答えています(「大悲院の御斎は何人も拒まぬ無遮大会である。こんな下らない質問をしてくる奴は、とうていわしの相手ではないが、無遮大会ならそんな奴でもちゃんと相手をしてもらえるだろうよ」という注釈があります。中国禅僧列伝:田中博美)。臨済に攻撃性があるのは、すでに存在している現世・世俗世界のなかで個人の地平と現実世界との葛藤を表現しているからだと思います。普化は狂的に見えますが、それは現世・世俗世界の行動パターンを逸脱しているからで、決して攻撃的では有りません。それは、現世・世俗世界の地平とは異なる地平に近づき現実社会との葛藤が比較的すくないからだと思います。しかし、現実社会と対立する時には鋭角的に鋭く対立します。既に存在する個人の核を撃ち破り、この地平は、新たに生まれつつある個体をうちに含みながら現われるようです。  
普化が生野菜を食べているのをみて、臨済が「まるで本もののロバ」だというと、普化はロバの鳴き声を出します。臨済が「悪党め」と言うと、普化は「悪党だとも、悪党だとも」と行って去ります。臨済が普化を「悪党」と呼ぶ逸話は、別の逸話にも見られます。臨済が、河陽と木塔という長老と、普化は騒ぎをやらかすが凡人なのか聖人なのかとうわさしていると、普化がきます。臨済が「おまえは凡人なのか聖人なのか」と問うと、普化が「お前がまず答えてみろ、わしは凡人か聖人」と言い返します。臨済が喝をいれると「河陽は花よめ、木塔はおいぼれ婆さん、臨済は一見識もっている」と批評します。そのあとは、前の逸話と同じく、臨済が「悪党め」と言い、普化は「悪党だとも、悪党だとも」と行って去ります。普化は、この逸話では、現実世界を見ており、それぞれの人物評も行っていることが暗示されています。  
普化の別れも永遠の命を示すかのようで印象的です。普化が人々に僧服をねだり、人々は普化に与えますがうけとりません。臨済は普化に棺桶を与えますと、普化は臨済が僧服をくれた、東門で、明日、みんなにおさらばすると町々にいいふらします。人々が東門にゆくと普化はいません。普化は3回おさらばを言いふらし、人々は三日間集まります。普化の四日目の別れの宣伝には誰も来ません。そうすると、普化は棺桶に入り通行人に釘を打ってもらいます。人々が話を聞いてあつまり、棺桶の蓋をあけますと、普化の身体はすでに消えていました。この普化の別れは、ダルマが毒殺されて棺桶にいれられ埋葬されますが、蓋をあけると死骸はなく片方の靴だけが残っていた話に似ています。その後、片方の靴を持ったダルマが砂漠を歩く姿が目撃されたと伝わっていますが、その最後のダルマを思い出させます。この普化とダルマの死の話は、個体の生存の永遠性を象徴していると思います。仮構体世界に生きていたことの永遠性です。その永遠性が神とか天国とかの宗教的教義に生成され、その宗教的教義が人間世界に抑圧的に逆転する手前にある人間の生の肯定と永遠性です。それは素朴な「永遠の今」の実感であり、それとともに禅者が宗教的教義の逆転をうちやぶって到達する必死になってえる自由の境地なのかもしれません。
禅僧にみられるトリックスター的特徴 
普化の行動に特徴的なのは、先に述べました二重帳簿的世界にもとづく場違いな他者の思惑をこえた行為、もしくは仮構体世界の中から普化固有の地平へ移行する行動です。現世をこえた地平にいるために、時として現世に対して極めて対立的に表現され戦闘的になります。また、「鈴をふって歌」うなど道具を使用した幼児的な特徴や自由さがみられます。臨済をひやかす狡猾や悪戯ごのみの行動が多く、臨済が弟子に普化の思想を試させますとこの策略を全く無視する態度も爽快です。普化の言動パターンは既成の生活習慣からずれが多く、「悪党」と「愚か者」の要素もあり、ロバのまねなど動物的な行動もとっています。さらに、普化は、円熟の拒否、放浪性、再生力などを示しています。この特徴は普化だけではなく、他の禅僧にもみられる特徴です。 
白隠の略伝で、白隠にはトリックスター的特長もあると述べましたが、トリックスターは神話にでてくる「神聖な文化英雄」あり「神聖な道化」で、狡猾、悪戯ごのみ、悪漢、愚か、幼児、動物、活力、変身、半獣半神の二面性の特徴をもっています(ラデイン、ケレーニイ、ユング、「トリックスター」)。普化は、まさにこれらの特徴を示しています。 
愚かさ、インチキくささ、遊び、演技性を示す話しは、禅語録のいたるところにころがっています。その典型的に示す話が臨済録にもあります。カッコの中の文章は訳者の柳田聖山の注ですが、入れた方が分かりやすいので入れて引用します。 
「ある年長の僧(すでに一家をなして、自信過剰である人)が師匠におめどうりした。およそあいさつの品物を出さず、いきなりたずねた、「礼拝したものか、礼拝せぬものか(仏と仏の初対面である。礼拝するのが本当かどうか)」。師匠はたちまち、どなりつけた。年長の僧は、すぐに礼拝する。師匠、「みごとな悪党だナ」。年長の僧、「悪党だとも、悪党だとも」。さっさと出てゆくのに向かって、師匠、「何事もなくてよかったと思うなよ」(仏法を甘くみるなよ)。内輪の古参の僧が、ずっとそばにひかえていた。師匠、「そそうがあったかナ」。古参の僧、「ございました」、師匠、「客のそそうか、主人のそそうか」、古参の僧、「双方ともにそそうがありました。」師匠「(わしの)そそうはどこにあったのか」古参の僧は、さっさと出てゆく。師匠、「何事もなくてよかったと思うなよ」。あとで、ある僧が南泉に報告した。南泉、「まるで国営の、イチャモン競馬だナ」(官ゆえに、もの言いがつく。さすがよりぬきの名馬だが、型にはまっているという見方。場合によると、インチキも)」。最後の柳田聖山の注は鋭いと思います。禅の問答は、追い込まれた時の、豹のようなすばやさ、活力、どう猛さがいのちです。その活力と創造力を維持することは難しいものです。活力と創造性が欠落しますと、馬鹿らしさ、インチキくささ、遊び、過剰な演技性、常同パターンの繰り返しの退屈さがみられます。そのような行動は、禅語録では喝や殴打の対象にされています。 
山口昌男は、トンプソンの理論を紹介して、トリックスターは「シャーマンの厳粛さと生真面目さ、最良の狩人役の肉体美と技能、頭目・首長の権威」などの、既成の秩序を批判すると述べています。禅も、また、既成の王法、仏法を批判するエネルギーに満ちていたことは随所にみられます。トリックスターそのものである道化芸人の小道具は禅の世界には氾濫しています。禁忌に挑戦するのも禅僧の特徴の一つです。 
トリックスターは性欲旺盛で活力にみち社会の周辺性や現実世界の境界性を示しています。仏教では欲望にもとづく行動を抑制するのが教義の大きな柱になっていますのでトリックスターの性欲旺盛と過剰な食欲は禅とは一致しないようにみえます。しかし、これも禅、とくに臨済系では動き、エネルギーの充実と動きが重視されますし禅僧の逸話は活力に満ちています。周辺性という特徴も顕著で、森の中への遁走、社会の中央にある政治権力から可能な限り離れるという考えも、達磨の考えとされています。一番判りやすい関口真大の文章を引用します。 
「梁の武帝の世(520年)に広州につく。南京の王宮にて、両者の問答があります。梁は熱心に仏教を保護していました。 
どんな教えで衆生を済度するのか 
一字の教えももっていません 
私は、寺を建て、人を救い、写経もして仏像もつくりました。功徳があろうか。 
無功徳。「人天の小果で、有漏の因である。」 
仏教の真の教えは何か 
からりとして何もない。 
お前はだれか 
知りません」(達磨の研究、関口真大)。 
その後、達磨は魏に入り、洛陽の少林寺で面壁黙坐して九年間すごしたとされています。 
この問答は、「碧巌録」では次のように表現されています。 
「梁の武帝が達磨に問うた、「聖諦第一義(根本の真理)とは何か」 
達磨は「廓然無聖(からりとして聖性すらない)」 
帝「朕と向かい合っているのは誰か」 
達磨「識らぬ」。」(「碧巌録第一則) 
なお、関口真大の「達磨の研究」は、達磨の伝記は長い時間をかけて中国の禅僧によってつくられてきたことを実証しようとしている本です。そうすると、社会の周辺性にすむ達磨の姿は、中国の禅僧達によって継承され創造されてきた考えということになります。 
トリックスターの社会の境界性と特徴も、達磨がいずこからかやってきていずこへか消えてゆく物語や普化がどこかへ消えていった話に象徴されています。 
放浪性は多くの禅僧が見せる行動パターンで、日本でも白穏、一休、良寛、大灯などが見せるものです。 
トリックスターの物語では、地上的世界を離れることはありません。トリックスターは、神話にでてくる「神聖な文化英雄」であり「神聖な道化」の面をもつ恩人と道化の役割をになっています「北アメリカにおけるいわゆるトリックスター神話のすべての圧倒的多数は、地球創造、いや、すくなくとも世界の変形を説明し、つねにさまようあるき、つねに飢えており、ふつうの善悪の概念では左右されない、人びとにいたづらをするか、人びとからいたづらをされるかしている、ひどく性欲旺盛な主人公を持っている。ほとんどどこでも、彼は神聖な特徴を持っている。・・・さらにべつな場合には、彼はせいぜい一般化された動物、または死を免れない人間である。」(「トリックスター」ポール・ラデイン)。シャーマンは、霊的世界をめぐり霊力をみにつけ権力的ですが、トリックスターは、自分の知力で、機知と狡智で未知なるものと戦います。この意味では、明らかに禅僧たちはトリックスター的です。最後に、1970年代に、日本列島にトリックスター(いたずら者、道化)論を導入して論陣をはった、山口昌男の「道化的世界」でトリックスターの代表である道化の定義を引用しておきます。先ず、コックスという人のあげた道化の三つの特徴を彼は紹介します。 
「(1)ある人々には、道化は我々自身の恐怖と不安の手近な標的である。つまり、道化をスケ−プとして見る。(2)ある人々には、道化は人間が本当は不合理な土くれであることを示す媒体である。(3)他の人々には、道化は、我々が物理的な法則と社会的礼節の檻の中に永遠に閉じ込められるのを、かたくなに人間らしく御免こうむることを、明らかにする。」つづいて、彼は、ほかの特徴を列挙する。それらは、「(4)道化は、無意識の世界の使者である。(5)道化は、混沌の淵の断崖に導くことで我々に、本源的な生の感情を蘇させる。(6)道化は意識の境界に立つ。彼は、意識が一つの領域から他の領域に切り換えることを助ける媒介者的存在である。(7)道化を通して人は、捨てられ、忘れられ、無価値とされて来たものに意味を見出す術を学ぶ。(8)道化は、人を効用性、時間の支配する世界の奴隷状態からの離脱を助ける。(9)道化は純粋遊戯の精神の化身である。(10)道化は生の多様性へ人を開眼させる。(11)道化は、否定的要素を再統合することを助け、最大の否定である死に立ち向って、これを手馴づける術を人に示す。(12)死に直面して、日常生活の厳格にみえる価値、矛盾を拒否する思考が無力なことを自覚させ、笑い、遊戯、肉体を通じて、生の世界の根本的矛盾を克服する道を示す。(13)道化は、理性を相対化し、武装解除し、より超越的な理性に至る道を示す。 
道化のこのような多様性は、現実の多様性そのものであるし、道化はその忠実な鏡にすぎない。道化は、現実の多様性、多層生に対応すべく、文化がつくり出したもっとも柔軟性に富んだ装置である。」とまとめています。 
私は、白隠の略伝で、白隠をトリックスター論から捕らえられないかと考えました。いままでみてきましたように、禅僧の生き方には、達磨、そしてそれを引き継いだ慧可は殺されていますのでスケープ・ゴートであった可能性があります。(2)以下の特徴とされる「人間が本当は不合理な土くれである」、「檻の中に永遠に閉じ込められるのを」破壊する、「無意識の世界の使者」である、「本源的な生の感情を蘇させる」「意識の境界」「無価値とされて来たものに意味を見出す」「純粋遊戯の精神の化身」「多様性へ人を開眼させる」「笑い、遊戯、肉体を通じて、生の世界の根本的矛盾を克服する道を示す」「最大の否定である死に立ち向って、これを手馴づける術を人に示す」「理性を相対化し、武装解除し、より超越的な理性に至る道を示す」などの特徴が、大なり小なり多くの禅僧にみられる特徴です。これは、禅僧は、ある定まった教理・教義に基づいて仮構体世界を裁断するのではなく、仮構体世界のもつ現実体・実質体世界の複雑さとそれがはらんでいる危機(虚構体世界としての現実世界)に対応してきたからだと思います。このように考えますと、禅全体をトリックスター論の観点から捉えることも可能なように思われます。 
「トリックスターの系譜」というルイス・ハイドの本があります。紹介したいのですが、長くなります省略します。ただ、2点だけ書いておきます。ひとつめは、「真実や所有権の既成のカテゴリーを脅かし、そうすることで、実現可能な新世界への道を開こうとする」ことと「あらゆる原型に攻撃を加える原型で、神話を解体させる恐れのある神話中の人物」ということです。これらの特徴が、既成の仏教の教義にとらわれることを拒否し、「不立文字」「教外別伝」「直指人心」「見性成仏」をスローガンにして新たな地平を見出そうとする禅僧にいかに類似していることでしょうか。また、ルイス・ハイドは、トリックスター的知性では偶然の役割が大きいと強調しています。自我のそとにある出来事がまずあり、偶然に触発されて既成の意識・世界像の構造が解体され、構成された世界構造のむこう側の風通しのよい地平に向かうことが述べられています。これは、まさに、禅語録で見られる多くの禅僧の特徴です。禅僧は日常生活において不断に修行と訓練をしますが、ある偶然の出来事、外界のもの音、誰かになにかを言われた、などの外界からの刺激によって精神の転回・「悟り」がもたらせられています。白穏の場合も、高田の英岩寺の時は鐘の音を聞いて、正授老人のもとにいた時には老婆に打たれて意識を喪失して、四十二才の時に法華経を読んでいてこおろぎの声を聞いて精神の転回が起こったなど、大きな精神の転回・「悟り」体験は、偶然にくる外界からの刺激によって誘発されています。勿論、精神の転回がもたらされた時の偶然の体験の決定的意義は、そこにいたるまでの偶然の出来事のなかに閃きと可能性をみいだすための修練を基礎にしていることは白隠の生涯が示すところでもあります。  
■おわりに

 

はじめに書いたように、悠遼メンタルクリニックを開設した時に、静岡市を中心とした地域の生きるための潜勢力を探索して、それに誘発されて未来の地平を考えてゆく仕事を私のライフ・ワークにしようと考えました。そのために悠遼クリニック・ニュースとして発行し、インターネットのホーム・ページにも載せてきました。方法としては、街角で働く開業医が患者さんから受ける刺激と静岡市という地域のもつ潜勢力の刺激に誘発されたものを考えつづけるという無方法と言っていいものです。この白隠もその一つですが、長くなってしまいました。実は、最初の構想では、白隠と禅僧の世界を書いた後に、社会について考え、そこから得た道具を使って、さらに大西巨人の「神聖喜劇」と埴谷雄高の「死霊」の読解を試みるということでした。いまのところ、社会について考える手前のところまできました。ここで、一応まとめておきます。残りについては、補論として書き続ける時間がある限り書いてゆこうと思います。 
さて、白隠に刺激されていろいろ考えてきました。私の精一杯の理解です。この仮構体世界をいきいきと生き抜いた一人の人を描くことができたとすれば、それで満足です。 
 
 
禅心理学的生命観 / 人間の生命現象を中心に

 

序言 
禅あるいは仏教における生命観を探ってみる時、それは初期経典の仏説から後代の論書とその注釈書に至るまで、数多くの論説のなかにみることができます。そして禅宗における論書で説明している生命観もまた、多くあります。なぜなら、仏教という宗教そのものが人間のための宗教であると同時に、哲学であり思想でもあるからです。 
しかしそのような幅広い問題をいまここで全般的に探ることはできませんので、今回のフォーラムでは「禅心理学的生命観」という論題で、仏教において仏陀の覚りとその覚りの思想を背景に展開される人間の生命現象を中心に、その生命の展開現象の要点を簡略にご紹介したいと思います。 
禅心理学とは 
仏教において禅心理学とは何であるのでしょうか。ふつう、宗教といえば神・仏を中心に信仰する姿勢をとるものであるといえます。学問は少なくとも仏教学に関する限り、教法を中心に研究する姿勢を取るものであります。そして、禅は自覚を中心に修行する姿勢を取るものであるのです。それ故に禅心理学とは、自覚すなわち覚りの問題に立脚して論説する教法を基に心理学的次元で研究する、覚り中心の心理学であるといえるでしょう。加えてそれは狭義の意味では禅宗系統の禅思想を中心にアプローチすることが考えられますが、広義の解釈では仏陀の大覚思想を中心に展開される仏教における人間の覚りと関連する全ての理論が含まれるべきものであります。 
「生」についての禅心理学的見解 
有情と四生 
生というのはただ遍く摂します。したがって有情と説くのです。ここでまず“有情”についての意味を探ってみます。この“有情”について仏教辞典では次のように説明しています。 
有情とは、草木、山河、大地などの非情に対する語で、感情や意識をもつ生きものをいう。これは梵語Sattvaの訳で薩多婆、薩と音写され、「衆生」とも訳される。羅什訳『阿弥陀経』には衆生、玄奘訳『称賛浄土仏摂受経』には有情とあるように、衆生は旧訳、有情は新訳とされる。『相応部経典』三には「有情、有情と言われるのは、何故、有情といわれるのか。色(受・想・行・識)において、欲あり、貪あり、喜あり、渇愛あり、執着し染著せるが故に有情と言わる。」とある。貪・瞋・痴の煩悩をもつ人間一般を意味するが、この点からは浄土教で人間を凡夫とよぶことと同じである。 
また西藏語sems-canは心を有するという意味で、望月仏教大辞典ではその有情について次のように説明しています。 
成唯識論述記第一本に「利楽有情に乃ち多義あり、梵に薩と云ひ、此に有情と言ふ。情識を有するが故なり。今衆生に此の情識ありと談ずるが故に有情と名づく。別の能有なし。或は假者能く此の情識を有するが故に亦有情と名づく。又情とは性なり、此の性を有するが故なり。又情とは愛なり、能く愛ありて生ずるが故なり。下の第三に云はく、若し本識なくば、復何の法に依りてか有情を建立せんと。有情の體は即ち是れ本識なり。」と云へり。是れ有情の名は単に情識を有するものに限る。然るに倶舎論宝疏第一には「衆生とは即ち有情の異名なり。梵に薩と名づけ、此に有情と名づく。梵に社伽jagatと名づけ、此に衆生と名づく。即ち有情と體一にして名異なるのみ。」 
そして“衆生”の語義に関しては多くの説がありますが、この“衆生”については望月仏教大辞典にても引用しておりますように倶舎論光記第一では次のように説明しているのです。 
「衆多の生死を受くるが故に衆生と名づく」と云へるは、即ち衆多の生死を受くるが故に衆生と名づくるの説なり。又大智度論第三十一に「但だ五衆和合の故に強いて名づけて衆生と為す」と云ひ、大乗同性經巻上に「衆生とは衆縁和合するを名づけて衆生と曰ふ。所謂地と水と火と風と空と識と名色と六入との因縁より生ず」と云へるは、五蘊等の衆縁假りに和合して生ずるを衆生の義となすの意なり。 
さて、この“有情”には四生があり、“四生”(catasro-yonayah)とは有情、すなわち人間や動物などの心あるいは感情をもつものの出生に、胎生・卵生・湿生・化生の四種があることをいうのです。この四生についての説明は仏教大辞彙にても引用して説明していますように、『集異門足論』の意によりますと、卵生とは例えば鵝・雁・孔雀・鸛鵠・鸚鵡のように、最初は卵殻で纏裹(てんか)され、その後卵殻を破って出産する場合を言います。胎生とは胞胎から生まれる場合で、例えば人間を始めとする象・馬・駝・牛・羊・鹿・猪のように最初は胎臓に纏裹され、その後胎盤を破って生まれる場合を言います。湿生とは、湿気から生まれる場合で、注道・穢厠・陳粥・叢草・稠林・草庵・葉窟・潤湿地などにおいて生まれる蟋蟀・飛蛾・蚊蚋・麻生蟲などを言います。化生とは、頼るところなく爾として生まれるすべての天衆・地獄の有情・中有の有情のことであると言っています。そして『大毘婆沙論』等によりますと、人の卵生について、世羅波世羅の因縁を詳しく説しているのが見られます。それは即ち「その昔此洲に二商人がおり、海に入って二匹の雌鶴を捕獲した。その姿はとても美しく、すぐに此と合会して二卵を生み、卵中から二童子を出した。今の二人はこれだ」とあるのです。これはすなわち、人間の原初的な始祖は卵生から生まれたというのを言うもので、進化論的な論説をしているのです。また倶舎論寶疏巻八には四生の順番を次のように論じています。「卵は必ず胎あり、これの故に先に説く、胎に卵なきものあるが故に卵の後に在りて説く、胎は必ず濕なるが故に濕生の先に説く、所託あるをもっての故に化生の前に在り、濕にして胎なきものあるをもって胎生の後に在りて説く、無にして而も忽ち有るを名づけて化生と為す、此は縁最も少きが故に後に在り」と言うのです。そして上にあげた四生の中で、最も強く最も大勢なのは化生であると説明しています。 
“化生はすでに余生に勝っていますが、後身の菩薩はこの化生を受けないで、現生に胎生を受ける理由はなぜかというと、仏教大辞彙によりますとそれは大親属を示してその種性の勝を顕して、敬慕の心を生じさせ、諸親属を引導し、外道の謗言を未然に防いで、後に舎利をとどめて後昆を益するためであると言っているのです。すなわち化生の次には胎生が勝り、卵・湿の二生は性多く愚昧で悪意樂が多く、苦海に沈溺して傍生類の生とするというのです。また無量壽經巻下には天上極樂に往生する者に胎生・化生の二類あることが示してあり、信疑の得失を顕しているのです。”
生と死 
人間の生命や死についての考え方はさまざまでしょうが、究極的には人間の生と死という一つの存在様式についての問いが考えられるだろうと思います。すなわち、生命とはなにか、私がこの世の中で存在することの意味はどこにあるのか。死とはなにか、そしてこの生と死の束縛から解放されるというのはいかなるものであろうかなどの問題が考えられます。さて、仏教で生死というときには梵語のsamsaraを言うもので、これは輪廻を意味するものです。そしてこの輪廻説の現世的表現で私たちは迷いの果てしないことの生死海とか、苦しみの世界としての生死の苦海と言っているのです。ですから私たちはいつかは悟りの彼岸に渡らなければならない存在であるにも拘わらず、それが困難ですから難度海ともいうのです。では人間にとって生と死とは何であるのでしょうか。仏教大辞彙ではこの生と死について次のように説明しています。生と死(jati-marana)とは有情存続の一期における始終を言うのであります。具さに分けてまた、生・老・病・死の四相とし、十二因縁にては生・老死の二としています。勝鬘經においてはこれを次のように説しています。 
「死とは謂く根壊するなり、生とは新に諸根起るなり」とし、また「二乗は生死の畏れを度し(中略)生死の恐怖を離れて生死の苦を受けず」ともいうのです。すなわち、諸經論によると生死の問題とともに凡夫有漏の生死界を離れて不生不滅の大涅槃を得るべきことを教えているのです。夫れ生あるものは必ず死し、因あるものは必ず果を尅するのです。これをもって生死輪廻して窮止することがないのです。大佛頂首楞嚴經巻三には「生じては死し、死しは生じ、生々死々して旋火輪の如く未だ休息あらず」と説き、成唯識論巻七には「未だ眞覚を得ざる時には恆に夢中に處す、故に佛説きて生死の長夜となす」ともいっているのです。このために世尊は大覚を證して群生を警覚し、生死海をわたすようになさったのです。即ち心地觀經巻一には「常に生死の苦海中において大船師となさって群品を濟ふ」とあり、また倶舎論巻一には「衆生を抜きて生死の泥より出でしむ」とあるのを解して「彼生死はこれ諸の衆生■溺の處なるによるが故に出づべきこと難きが故に所以に泥に譬ふ、衆生中において淪沒して救ふものなし、世尊哀愍して随つて所應の正法の教手を授け抜濟して出でしむ」と論じているのがそれなのです。そしてこの生死の苦痛なることは四苦・八苦の一に数えられ、あるいは生相をその形状から分けて、胎・卵・湿・化の四生とし、死相をあるいは命盡死・外縁死の二種、あるいは壽盡福不盡等の四句分別に分けて説明することがあります。生死を広義に解して分段・變易の二種に分け、二乗は分段生死を離れてもいまだに變易を離れず、菩薩は二種の生死を離れることによって大覺の果を證するというのです。 
さて、このような生と死には七種の生死があると論じています。この七種の生死を仏教大辞彙では次のように説明しています。それはすなわち、“一切の生死を七種に分けるもので、世親釋攝大乗論巻十四に七種生死の語が見えております。これを止觀輔行巻七ノ一においては攝大乗師の所立として、分段・流来・反出・方便・因縁・有後・無後の七種としたのであります。では、その七種の生死についての意味を探ってみます。一に分段生死とは壽に長・短の別あって身に大・小の異ある三界の果報についていいます。二に流来生死とは真に迷い、妄を追って生死に流来する衆生有識の初についていいます。三に反出生死とは発心修行して生死を反出する背妄の初についていいます。四に方便生死とは方便道を修して見思の惑を断じて三界の生死を離れ、更に界外の生を受ける入滅の二乗等についていいます。五に因縁生死とは無漏業を因とし、無明を縁として受生する初地已上の菩薩についていいます。六に有後生死とはまた有々生死ともいい、いまだに最後一品の無明を断ずることのできないことをもってやはり一番の變易生死を受ける第十法雲地の菩薩についていいます。七に無後生死とはまた無有生死ともいい、已に最後品の無明を盡ずるが故に後身を受けない等覺の菩薩についていいます。以上七種の生死の中で、方便生死以下の四種は等しく變易生死の分類であるので、これを四種變易と呼ぶこともあるのです。” 
人間の生命現象 
仏教では人間の生命現象がどのように現れるとみているのでしょうか。仏教経典のあり方には多分に要素還元主義的な側面があります。それは五蘊無我という概念です。ここで五蘊の蘊(skandha)とは積集の意で、五つの集まりの意味であって、われわれの存在の五つの構成要素、即ち色・受・想・行・識の五つの要素の集合体をいいます。そして色(rupa)は物質性で、われわれの身体を、受(vedana)は感覚機能を、想(samjna)は表象機能を、行(samskara)は過去からの業力による情動機能を、識(vijnana)は精神的な面の主体性をそれぞれ意味するのです。そして我々人間の生命体は縁に依って、この五蘊の要素で構成されているのです。したがって縁が尽きると“我”といえるものが何もない、という意味になります。仏教経典の中にみられる生命観に一つの有機体としての人間個体、そしてその個体としての生命体を見出すことは難しいといえるでしょう。あくまでも多元的なダルマ(法)が縁起の中に刹那刹那、組み合わせを変えつつ生起してくる、その相続があるのみなのです。 
 

 

■縁起説 
人間の生命現象はどういうふうに現れているのでしょうか。人間の生命発生についての仏教的な論説は第一に縁起説であります。それでは、仏教の経典で人間の生命現象を論説している縁起説を中心に探ってみましょう。
1 縁起と縁起説 
まず、縁起とはなにかを探ってみます。この縁起の語意について仏教大辞彙では“縁起とは梵語、Pratityasamutpadaの訳語で、因縁生起の義にして縁となって果を生起するもの”であると説明しています。ですからこれはまた因縁というのです。この因縁について仏教大辞彙では次のように説明しています。 
“因と縁との義。因は結果を招くべき親しき原因。縁は因を助けて結果を生ぜしむべき疎なる助縁をいう。業を因とし煩悩を縁として迷界の果を感じ、智を因とし定を縁として悟界の果を感ずるが如き是です。縁のみを以って果を生ずることを得ざるは無論なるも、因のみを以ても亦果を生ぜず、必ずや因縁和合して果あり、故に一切の有為法は悉く因縁の所生なりと云へり。因は恰も穀物の種子の如く、縁は恰も種子の発生を助くる雨露水土等の如し、種子の親因は雨露水土の助縁を借りて此に初めて果實を結ぶ、之を因縁和合と云ふなり。此の如く一切の萬有は因縁和合の上に假に生ずるもの”であるというのです。 
このような説明は具体的に人間においては十二因縁説で表われております。これはすなわち、十二因縁における“無明は行の縁となり、行は識の縁となり、乃至生は老死の縁となり、此れ有るが故に彼れ有り。此れ起るが故に彼れ起りて、生死相続止まざるの理を明かにし、同時に亦此れ無くんば彼れ無く、此れ滅すれば彼れ滅するの理に由り、無明を断除して以て涅槃を求むべきことを説けるものなり”(望月)。とするものです。ですから印度の諸外道が個我及び諸法の自性實在を主張しているに対し、佛陀は凡べて之を否定し、萬有は唯だ相互に依存するものにして、独立的自性を有するに非ずとし、以て特殊の人生観世界観を建立せることになったのです。また縁起の語義に関しては、大毘婆沙論第二十三に次のように説明しています。“縁起とは是れ何の義ぞ。答ふ、縁を持って起るが故に縁起と名づく。何等の縁をか持つ、謂はく因縁等なり。或は有説は縁より起るべきことあるが故に縁起と名づく。謂はく性相ありて縁より起るべし。性相なきに非ず、起るべからざるに非ず。復有説は有る縁より起るが故に縁起と名づく。謂はく必ず縁ありて此れ方に起ることを得るなり。有は是の説を作す、別別の縁より起るが故に縁起と名づく。謂はく別別の物、別別の縁より和合して起る。或は復有説は等しく縁より起るが故に縁起と名づく。” 
しかし説一切有部等においては、この如く十二縁起説に基づいて次のような発展的な論説を展開させているのです。“延いて一切有為の諸法の縁起相生を論じたるも、単に六識建立なるを以て、生死の苦果は唯即ち煩悩及び業の招く所なりとし、此の他に別に相続の主あることを認めず。然るに大衆部等に於ては根本識の存在を認め、尋いで唯識大乗に及んで七八二識を説き、萬有を以て第八阿頼耶識中の種子の開発となし、■に頼耶縁起の説を構成すると同時に、一面に於ては亦分別論者等が主唱せし心性本浄説より転じて如来蔵の教義を生じ、如来蔵心より一切の万有を発生すると説き、これを如来蔵縁起と稱するに至れり。思ふに此等は六識の外に一種の根本識體を認むるものにして、原始佛教の教義と径庭あるが如きも、而も同じく皆無明を以て迷界発現の元本となせるは即ち十二縁起説より発展せしものなるを證するものといふべし”(望月)。 
そして十二縁起においてこれを旧訳では十二因縁と言っていますが、縁起という言葉は勿論新訳の語です。倶舎論巻十には「諸支の因分を説きて縁起と名づく、これ縁となって能く果を起すによるが故に」とあります。次に探ってみる十二縁起・業感縁起・頼耶縁起をはじめとする、眞如縁起・法界縁起等もまたこの因縁生起の義なのであります。では縁起論とはなにかについて見ていきましょう。これについて仏教大辞彙では次のように説明しています。 
“縁起論とは実相論に対比される言葉であります。縁起論は宇宙万有の諸法が因縁によって生起し来る相状及び所以を明かにすることをその教理としているからこの名があるのです。実相論はまた実体論ともいうもので、諸法の実相本体を審かにしてその教理とするものであります。縁起論は諸法の因縁生起を論じてその研究は概して時間的にして、ある本源より諸法が開展することを論理的に説明しようとする態度に出て行き、実相論は諸法の本体実相を研めようとするが故に空間的でしかも直覺的に実践主義の態度を取るのです。その縁起論系に属するものの中で、教理によって分別すると業感縁起・頼耶縁起・眞如縁起・法界縁起・六大縁起の説があります。業感縁起は倶舎等の説にして、諸法の縁起する所以、業力の所感にして、即ち善悪の業力は善悪の果報を感じ、果報の所にまた業あって更に果を感じ、因果循環尽きないものとするものです。そして頼耶縁起は深密經・瑜伽論・唯識論等に基づく法相宗の説で、万法開発の本源は、衆生の心識である阿頼耶識中にあり、業力また此識中に種子として執持させられ、諸法その物の種子に力を与えて縁起させると言うのです。眞如縁起は諸法とは眞如が無明の縁によって起動して、恰も湛然たる海水が風の縁によって千波万波無量なるようで、頼耶縁起においてはなお各個人の頼耶識あって発現の本となります。しかるに眞如縁起に至っては絶對なる眞如より発現するとなしているもので、これは主として起信論にはじまる説です。法界縁起は法界の諸法塵々ことごとく諸法を具して縁起し、その關係無盡で、啻に眞如の一法のみ縁起の本源であるとするのではないとみなしているものです。華嚴經に基づく華嚴宗の説はこれを言っているのです。そして六大縁起は諸法は地・水・火・風・空・識の六大より縁起し出でたるものであるとする説にして、これは眞言宗の説です。一方、実相論においては成実論は萬有に仮有・実有・真空の三方面があると立て真空をもって究竟第一義となし、中論・百論・十二門論等の論、般若經等に基づく三論宗は諸法皆空、不可得を主張し、絶對的空論をなし、法華經を宗とする天台宗に至っては即空・即仮・即中、三諦円融と談じて諸法存在がそのまま眞如實相であるとし、吾人の情想にあるようなものでなければ空であり、その空をそのままにして諸法は苑然として存し、柳緑花紅、ことごとく実相真如の妙相であるが故に即ち中道であるとの現象、すなわち実在論をなしているのです。ただしこの二大教系は本来相反する説ではなく、その教理構成の要点を異にするまでにして互に相資くべきものなのであります。” 
それでは人間の生命発生の現象についての縁起論的論説を探ってみましょう。 
2 十二縁起説 
生命の発生現象については、縁起説、特に十二縁起説について、発生心理学的次元で解明する必要があります。また、釈尊の覚りもこの十二縁起についての内容である、と伝えられております。十二縁起論とは、過去の惑・業の結果、現在の世界に生を受け存在した後、また未来の生を引き入れる原因の業を作り、絶え間なく因果相続する理致を説く縁起論です。これについて仏教経典では次のように記されています。 
十二因縁:/ 十二種の因縁生起の意。十二支縁起dvadasanga-pratitya-samutpada(巴梨語dvadasanga-paticca-samuppada)といい、また十二縁起、十二縁生、あるいは十二因縁起とも名づく。即ち衆生が生死に流転する因果相依の関係を十二支に分類したもの。十二支とは1無明、2行、3識、4名色、5六処、6触、7受、8愛、9取、10有、11生、12老死なり。長阿含第十大縁方便経に「阿難、此の十二因縁は見難く知り難し。諸天魔梵沙門婆羅門の未だ縁を見ざる者、もし思量観察してその義を分別せんと欲せば、即ち皆荒迷しく能く見る者なし…(中略)…、是の如く癡を縁として行あり、行を縁として識あり、識を縁として名色あり、名色を縁として六入あり、六入を縁として觸あり、觸を縁として受あり、受を縁として愛あり、愛を縁として取あり、取を縁として有あり、有を縁として生あり、生を縁として老死憂悲苦悩大患の所集あり。これを此の大苦陰の縁となす。」と言い、また雑阿含経第十二に「仏比丘に告ぐ、縁起の法は我が所作に非ず、また余人の作にも非ず。然るに彼の如来出世するも、及び未だ出世せざるも法界常住なり。彼の如来は自ら此の法を覚して等正覚を成じ、諸の衆生の為に分別し演説し、開発し、顯示す。…(省略)」(『望月』) 
そして以上の論説については、各経典の説と現代の発生及び発達心理学的知見を総合してみますと、次のように論ずることができます。 
(1)無明(avidya)―過去のすべての煩悩位から現在の果が熟れるまでの顛倒心の状態をいいます。これは無明惑すなわち法性を陰蓋し(善・悪業含有)、明に反する状態で、これは痴に同じです。ここで、顛倒とは自性に闇い、妄に随って真に迷い、妄惑に随順して妄業を作り、この妄業に依って展転相生し、三界に輪伝して妄を捨てて真へ帰る能力がないことをいいます。こうして生命の「主人公」は無明の心と無常を常という想と所取中に分明の執見のいわゆる三顛倒を起こしつつ入胎処へ尋ねて行くのであります。 
(2)行(samskara)―過去のすべての業の作用で、無明が発する福・非福、不動の三業で働き、無明とともに種子及び現行に通じることになります。過去の業には<1>牽人の業―人生の身を受けるべき業と<2>円満の業―他の一切の造業したものがあります。 
(3)識(vijnana)―受胎には三事和合、すなわち母体の快適さ、父母の交合、縁のあるgandharvaの現場に来ているべきです。―心王識:結生の種子識(入胎時の種子)→gandharva(尋香行)→先体反応→透明帯通過→受精能獲得(性の決定)→相続心(愛・憎)をもって妊娠します。 
(4)名色(nama-rupa)―受精された受精卵は卵割を続けつつ、子宮に入り胞胚の状態になります。胞胚は胚盤胞の状態になって子宮内部組織に結着→着床をし、胎盤を形成します。心王識の指示でmanas識の萌芽え(開導根―神経の最初出現は受精3週間後)→alaya識とmanas識の共同作業で―等無間縁依(alaya識の遺伝情報伝達)、倶有依(manas識の遺伝情報相続)→身体を形成していきます。1週:胎中のkalala(和合)―受精後着床までをさします。4日目に男女性判別ができ、7〜8日目に着床します。2週:arbuda(泡)―胚芽の幹細胞(受精後2週)が形成されます。司令塔の役割をする心王識の指示に依ってpesi,ghana段階へ発達します。3週:pesi(血肉)―2.5oの大きさになります、神経板、神経溝が形成されます。そして脳胞、心胞が生起します。4週:ghana(堅厚)―4oの大きさ。神経管、心臓板が発生します。五臓六腑の根が生起しますが、まだ支相はありません。5週:prasakha(支節)―8oの大きさ。5週頃上形相ができます。着床はこの時までをいいます。 
(5)六処(sad-ayatanani)―第五prasakhaの後続発達段階です。6根は6境と相互渉入して6識の発生が始まります。そして胎生3週頃視覚器(眼胞)が生起し、6週頃神経節細胞出現、胎生4週頃聴覚器(耳胞)発生、7週頃蝸牛管発生、6週頃耳、鼻、手足が発生します。6週―10〜12oの大きさ。羊水に浮かび、視神経、頭蓋骨の発達現象が見られます。7週―17〜18oの大きさ。性分化徴候が見られ、胃が整立します。さらに肛門が開かれ、尾部が退化します。8週―25〜30oの大きさ。人間としての基本的な器官とシステムが整備されます。このとき身長の1/2が頭部です。 
(6)触(sparsah)―六根が対象との接触のため所依機能が発揮されます。根、境、識がまだ倶生していなくてもその結果が同じであることから、これを和合といい、これが和合して生じる感覚が触です。2ヶ月―25〜30oの大きさ。2ヶ月を過ぎつつ神経系、循環系の外界刺戟に対する反応を見せます。3ヶ月―7〜8pの大きさ。内臓器官の顕著な発達が見られます。心拍動が活発になり、内外性器も区別が可能になります。 
(7)受(vedana)―第六意識相応の貪愛、眼耳鼻舌身意の六対境について、外界のものを受け入れる機能(感覚受容器)が発達します。触と受の生起は倶時に起こるのです。(倶舎論、大毘婆沙論)六触より六受―5は身受、1は心受です。(阿毘達磨蔵顕宗論)4ヶ月―16〜18pの大きさ。胎盤が完成し、四肢が発達します。胎児は運動を始め、手足と身体を活発に動かし、指をしゃぶります。さらに口で羊水を飲み、排泄をします。 
(8)愛(trsna)―貪愛、婬愛、資具愛が発生されるとこのために四方に探って労倦をきらうことがありません。(大毘婆沙論第23)そして随触を領納し、(倶舎論巻1)そして欲望の発生現象が現れます。5ヶ月―24〜26pの大きさ。頭部は全体の1/3になります。そして爪が発生します。さらに胎動が活発化します。6ヶ月―30〜32pの大きさ。脳のしわが寄り始まり、筋肉と骨格の発達現象が顕著になります。 
(9)取(upadana)―煩悩の別名をさします。すべての存在への関係結びが発生します。愛欲の対象に意を傾けます。そして外部世界の分別が始まります。すべての資具をもらうために忙しく動作し、自発的活動を見せます。取は有情をして業火を起こし、行相に勇健な姿を見せます。7ヶ月―35〜40pの大きさ。老人のような姿になります。28週より歩行運動のような兆候が見られます。そして胎便が認定されます。8ヶ月―40〜43pの大きさ。大脳皮質が完成されていきます。 
(10)有(bhava)―生成―存在を意味します。これは人間の人格体が完成されたことを意味します。それと同時に生死の苦果がある迷界の存在を示します。生を受ける業を作り(倶舎論)―母体からの影響を受け―次生を受ける業を集積するのです。9ヶ月―45〜48pの大きさ。体重2300〜2700g。皮下脂肪の発達によって、老人のような姿はなくなります。10ヶ月―49〜51pの大きさ。体重2600〜3400g。こうなりますと成熟児と呼ばれます。 
(11)生(jati)―母体に托して前生より相続する識心によって五蘊和合した身を生起するものが生有です。したがって、当有の生支は現在の識と同じです。(倶舎論第9)―これは憂・悲・苦・悩を同伴します。 
(12)老死(jara-marana)―生の刹那から名色、六処、触、受は老死していきます。老―五蘊すなわち色(身)、受(感覚)、想(取像)、行(造作)、識(種子の了別識)の分離過程をいいます。死―生来の五蘊の解体現象をさします。→命尽、福尽、現世の外縁に依り―自身愛、眷属愛、財産愛、後有愛が生起します。→そして主人公はこの身体を離れていきます。
3 業感縁起説 
惑に基づく業を原因とし、その結果として苦なる生存の流転があるという「惑―業―苦」の業感縁起論では自らの行為に対する「果」をうけとるということが挙げられます。そしてこの業感縁起説では生命の主体である“有”で論説され、この“有”は次のような四有説として説明されています。ではまず業感とは何かを探ってみます。仏教大辞彙では次のように説明しています。 
“業感とは、善悪の業力によって苦楽の果を感じることをいうのです。苦楽等一切の事は偶然にして存するものにありません。必ず原因があります。その原因は善悪の業力にして、苦楽はそれに由って感じる果報なのであります。だからこれを業感というのです。また順正理論巻三十三では次のように論じています。 
「世現に見る愛非愛の果の差別生ずる時は定んで業用による、農夫の類の如き正業を勤むるによって稼穡等の可愛の果を生ずることあり、諸の愚夫、盗等の業を行ずること有れば便ち非愛の殺縛等の果を招く、また見るまた初、胎に處するより現因に由らずして樂あり苦あるあり、既に見る現在要ず業を先と爲して方に能く愛非愛の果を引得す、前の樂苦必ず業を先となすを知る、故に因無きに非ず」 
以上のようにその業感の理致を説明してあるのです。ですから、業感縁起というのは有情業力の所感によって世界の一切現象を縁起するとする説をいうのです。仏教大辞彙によりますとその縁起説は次のように説明されています。倶舎論巻十三に「世の別は業によって生ず」とあるように、この世間には有情の正報があり、依報があります。そして正報に妍醜智愚の別があり依報に山川草木の差があります。そしてその果報は苦にして厭ふべきものがあり、楽にして愛すべきものがあり、千態万状ですといえども、ことごとく一に業力の所感によるのです。 
また業とは有情の身語意に昼夜造作する所の善悪の事を言うのです。業とは一時あるといっても、その力用は消滅せずして必ず結果を招いて来るのです。善業には可愛の果があり、悪業には非愛の果がある。人天鬼畜等の總果を受くべきものを引業といい、その上に妍醜智愚の差別を存在させるものを満業という。現在世において果を感ずべきものを順現業といい、次生において果を感ずべきものを順生業といい、その已後において果を感ずべきものを順後業といい、感果及びその時の不定なるを順不定業といいます。そしてこれらの業の複雑なる関係によってこの差別ある世界の一切現象を縁起するというのです。それでは四有においての“有”とはなにかを仏教大辞彙から探ってみます。 
“有(bhava)とは迷の果の名で、三界を三有といい開いて二十五有・二十九有となして、また生有・本有・死有・中有を四有というようなことはこれをいうのです。迷界苦樂各別の果、善悪各別の原因によって感じ、生死相続し因果ほろびないため“有”というのです。そして四有(catvarabhavah)とは即ち有情の輪廻転生における一画を四期に分けたもので、中有・生有・本有・死有と称するものです。この四有の中で中有とは前生と今生、もしくは今生と来生との中期においてある身をいい、生有とは今生托生の初の身をいいます。そして本有とは生れ畢りて死ぬまでの身をいい、死有とは今生最後の生命体が完全に抜けて行く間の身のことをいいます。これらを四有と総称することは有は不亡・存在の義で有情流転の因果、展転相続して滅亡せず、五蘊和合の有情生死輪廻しつつ常に三界に在るので、その一期を画して四とするを四有と称するのです。” 
そしてこの有説については小乗家と大乗家の説がありまして、その内容を仏教大辞彙では次のように説明しているのです。 
“小乗家の説:四有の中で、生有・死有はおのおの生・死の一刹那をとり、本有は長短一ならず、然るに四有を立つる中で染汚・不染汚を分別し、或は欲界・色界・無色界の三界に属するかどうかを論ずるについて、雑心論巻九・倶舎論巻十によれば生有は唯染汚性、本有・死有・中有は両者に通じるとし、三界の中には欲界・色界に四有あり、無色界には中有なしとしています。 
大乗家の説:唯識家においては四有を立てても、涅槃經においては一定せず、乃ち大乗義章巻八に有部・成實論等の偏へに中有の有無を断じているのを貶して諍論の起る所以と爲し、涅槃經の文に「我が諸の弟子、我が意を解せずして唱へて言ふ、如来、中陰(中有)は一向に定んで有り、一向に定で無しと宣説す」とあるのを引いて、大乗の所説はこのように偏執がなく、有無宜しきに随ひて上善・重悪のようなものは牽引力強く果報を招くことが速いので中有なく、余の業は遅鈍の故に中有あって、故に偏へに定めるべきではないとしました。” 
こうして結生相続せしむる無明煩悩について瑜伽論ではその他の一切煩悩全てがそうであるとし、雑集論では倶生の愛及びその相応法を論じています。そして成唯識論巻八にこの二説を会して後者は正しく潤生するものに対し、前者はその助力するものを出すためであると論じているのです。 
4 耶縁起説 
耶縁起とは法相宗にて立てる説で、諸法は阿耶識より縁起するという説をいうのです。これをまた阿耶縁起・唯識縁起ともいいますが、これは人間における生命の主体性を第八阿頼耶識に求めているのです。凡そこの第八阿耶識は仏教大辞彙の説明によりますと、“有情各箇に存在し無始已来相続しつつあるものです。これらの識には一切法の原因即ち種子を攝蔵し、乃ち適当の生縁が具する時は色心萬差の諸法を現起し来る、実にこれは能縁起中の能縁起というべきもので、前六識所縁の六境の本質も、前七轉識その者も悉く此識の縁起に係らないものはなく、故にこれを耶縁起と呼ぶのです。その縁起の根本を第八識に求めて色心諸法の実有を認めず、而も業によって撃発される実体と恆時に業感の勢力を保持する実体とを明かにしたる点は小乗の業感縁起とは異なります。” 
さて、瑜伽師地論巻一では“中有”とは“健達縛”という概念と共に“中有”の概念の代わりに“阿耶識”(alaya-vijnana)という全く禅心理学的な概念としての用語を導入し始めています。(李2001)このalaya識の意味は識を貯蔵するもののことで、蔵識とも訳され、生命の種子という意味での種子識ともいいます。この“阿耶識”は「唯識説で説く最も根元的な識のはたらきであり、覆われて潜在している意識を表します。そして心の奥底に蔵されている識であり、現にはたらきつつある識(Pravrtti-vijnana七識)が生じるための根底・基盤となるものであります。これを根本識(mula-vijnana)ともいうのですが、またこれは非可視的、非現象的で、意識下の意識のようなものであります。これは前の瞬間の心作用の印象(習気・種子)をたくわえ、次の瞬間の心作用をひき起こします。一切現象の直接原因である種子をうけこみ、それを自らに貯蔵する精神的原理でもあります。アーラヤとは貯蔵所の意味なので、何か実体的・場所的な解釈をひき起こしやすいが、その本性は空であるといえます。唯識説では個人存在の主体、さらに輪廻の主体であり、身体の中に存する微細なものであると考えられています。」(中村)このようなalaya識は母胎に入胎して現世にて新しい生命体を形成する生命の主人公として、説明されているのです。そして以上のような阿耶識は、中有から生有へ、生有から本有へ、本有から死有へ、死有から中有への状態へ、無始以来の過去より大覚による解脱の瞬間まで、その生命の出没現象は決して断切されない識神として、生命の主人公になります。この識が自体内に善と悪と無記というすべての業(karma)の種子を貯蔵したまま、過去の生より現在の生へ転移されて、新しい生命体を形成するのであります。すなわちこの阿耶識が托胎することによって、一つの生命体の発生現象が始まるのです。 
では、生命の種子としての阿耶識の意味を総合仏教大辞典からより詳しく探ってみましょう。ここで生命の種子とは梵語bijaの語訳で、その種子の意味は次のようなものです。 
(1)穀類などがその種子から生じるように、物心すべての現象を生じさせる因種となるものです。また種ともいい、穀類などの種子を外種または外の種子というのに対して、唯識宗ではこのような種子は阿頼耶識の中に蔵されるとし、これを内種または内の種子ともいいます。この内の種子は生果の功能(結果を生じるはたらき)を指し、これは現行の諸法(現在に顕われてはたらく諸現象)によって、あたかもものに残り香がしみこむように、阿頼耶識に熏習(においづけ)された慣習の気分であるから習気とも名づけます。 
(2)唯識宗では、種子は阿頼耶識中に蔵されるとします。その関係を成唯識論巻二には、阿頼耶識は体、種子は用、あるいは阿頼耶識は果、種子は因の関係にあり、不一不異であると論じています。また同巻二では、種子は次の六種の特質を具えなければならないとされており、これを種子の六義といいます。(法藏館)種子六義とは即ち成唯識論巻ニと攝大乗論(上)において次のように説明しています。 
1.刹那滅。刹那ごとに生滅変化するものであること。常住不変のものは結果を生ずることができないので、必ず刹那刹那に生じては滅すべきこと。 
2.果倶有。生起した結果(現象)と同時に離れずに存在すること。 
3.恒随転。必ず同一種類のものとして連続して起こり、乱れることがなく、前後が異種類とはならないこと。識が生起する時、種子もまたしたがってはたらいていて、連続して間断のないこと。 
4.性決定。種子とその種子のあらわした現象とは、性において決定していて変わらないものであること。たとえば、善の種子から悪の結果が出るということはありえない。善悪の性が決定していて、まじらないこと。 
5.待衆縁。種子という一つの原因のみで現象を生起するのではなくて、必ず多くの縁によって現象を生起するものであること。衆縁の和合をまって結果を生ずること。 
6.引自果。種子は必ず自己の結果を引生して他の種子の果を引生しないこと。物質と精神とについて、それぞれ別々に因果関係が存するということ。 
種子は、以上の六種の条件を具備する(中村)と論じているのです。そして種子がいかにして起ったかについては、総合仏教大辞典で次のように説明されています。 
“種子の生起説には本有説・新熏説・新旧合生説の三説があり、これらを主張する学流をそれぞれ本有家・新熏家・新旧合生家と称するが、法相宗では第三説を正しいと見ています。即ち、種子には無始以来阿頼耶識中に先天的に存在する本有種子(本性住種)と、後天的に現行の諸法により熏じ付けられた新熏種子(習所成種)とがあり、この二種の種子が合わせて現行法としてすべての現象を生じると見るのです。ところが本有説では本有種子のみを立てて新熏種子を認めず、現行の熏習は新熏種子を生じるのではなく、ただ本有種子を増長させるだけであると主張し、新熏説では新熏種子のみを認めて本有種子を認めないのです。 
一般に種子には、有漏の諸現象を生じる有漏種子と、菩提の因となる無漏種子と言う二種の種子があり、有漏種子にはまた名言種子と業種子との二種の種子があると説明しています。名言種子は、名言(言語的表象)によって阿頼耶識中に熏じ付けられた種子であって、物心すべての現象が現在に顕われはたらく(現行の)ための直接の因であります。これにはまた表義名言種子と顕境名言種子の二種があります。表義名言種子は、意味を表す言語(表義名言)を第六意識が縁じて(認識して)、その言語に随って諸現象を変現するときに熏習される種子であり、顕境名言種子は、心・心所法である前七識の見分(主観)など(顕境名言)が対境を縁ずる(認識する)際に熏習される種子であるのです。” 
ここで唯識論でいう心と心所法とは心の主と客の働く法則としての概念を意味するものであります。この心・心所法は総合仏教大辞典によりますと、名言ではありませんが、名言がそれぞれの存在を表すように、心・心所は対境を変現するから顕境名言といわれます。すべて名言種子は種子と同じ種類の現行(現象)を生じるので等流習気ともいわれます。次に業種子は、果熟(果報)を生じる直接の因である名言種子を助けて、善悪業による異熟を生じさせるはたらきのある種子であり、第六意識と相応する善悪の思(意志の精神作用で業の体)によって熏じ付けられます。異熟とは仏教語大辞典によりますと、善悪行為の因が異類・異時に成熟することの意で、行為の結果を言うものであると説明されています。 
■三事和合説 
仏教と現代生命科学説における生命観についての1つの差異点は三事和合説です。現代の生命科学では、個体の生命の誕生は精子と卵子との出会いだけを注目していますが、仏教では次のような3つの因縁があることによって、生命体の主人公である識神がくることによって受胎ができる、と論じています。その3つとは何かというと、『増一阿含経』巻十二では、父母が身を共にするに無病であること。そしてその場所には生命体の主人公である“識神”がきているべきである。そしてまた、父母になろう人々に、子を持つ縁があるべきである。この3つの因縁があれば受胎が成り立つ”と論じています。これを『同経』巻十二では次のように説明しています。 
“ある時佛、舎衛國祗樹給孤獨園にいました。爾の時世奠、諸比丘に告げなさって、三因縁有りて、識来て受胎する。云何が三と爲すや。これにおいて比丘、母に欲意あって父母共に一處に集り、與に共に止宿するも、然もまた外識まだ来り趣かないので便ち胎を成じない。もしまだ識来り趣かんと望んでも、父母集らざれば則ち胎を成ることがない。もしまた母人欲なく、父母一處に集るも、爾の時父の欲意盛んで、母大に慇懃でなければ、則ち胎を成じない。もしまた父母一處に集在するも、母の欲熾盛にして、父大に慇懃ならずば、則ち胎を成じない。もしまた父母一處に集在するも、父に風病あって、母に冷病有れば則ち胎を成じない。もしまた父母一處に集在するも、母に風病有り、父に冷病有れば則ち胎を成じない。もしまた時あって父母一處に集在するも、父の身に水氣偏多にして、母に此の患ひなければ則ち胎を成じない。もしまた時あって父母一處に集在するも、父の相に子有りて、母の相に子なくば、則ち胎を成じない。もしまた時あって、父母一處に集在しても、母の相に子あって、父の相に子なくば、則ち胎を成じない。もしまた時あって父母倶に相に子なくば則ち胎を成じない。もしまた時あって識神胎に趣くも、父行いて在らざれば、則ち胎を成じない。もしまた時あって、父母一處に集るべきに、然るに母遠く行きていない場合は、則ち胎を成じない。もしまた時あって、父母一處に、集るべきに、然るに父の身重き患ひに遇う時識神来り趣けば、則ち胎を成じない。もしまた時あって父母一處に集るべきに、識神来り趣くも、然も母の身に重き患ひにかかれば、則ち胎を成じない。もしまた時あって父母一處に集るべきに、識神来り趣くも、然もまた父母の身倶に疾病を得ば、則ち胎を成じない。もしまた比丘、父母一處に集在し、父母に患ひなく、識神来り趣き、然もまた父母倶に相に兒有れば、此れ則ち胎を成じることができる。これを此の三因縁あって来れば、胎を受け、結生することになる。” 
では結生とは何かを探ってみることにします。結生とは輪廻転生の間、中有を沒して次の生を得ることをいうのです。人間においていわば母胎に托生することです。このとき身をもつ瞬間の主人公は言うでしょう。「母上、よろしくお願い致します。父上、よろしくお願い致します。」と。しかし、この結生の瞬間、極微的な存在である主人公は母の子宮の壁にぶつかりながら大きな衝撃を受け、気絶というか失神することになります。子宮の壁にぶつけられる衝撃と母の水の影響で主人公は過ぎた中有の生をはじめとするすべての過去の記憶をほとんど忘れてしまうことになるのです。こういう状態ですので、受精後の一つの受精卵は二つに分割されるのにおおよそ31時間〜36時間の時間がかかり、おいおい気が付くことになりつつ、細胞の分割はその速度がはやまることになって3日目には16分割までなされます。そしてまた約1日〜2日後には子宮に入ることになるのです。ですので、結生してから子宮に入って胞胚の状態になり、この胞胚の状態で数日間子宮内を自由に漂った後、遂に7日〜8日目に着床をすることになるのです。そして男児も女児も結生するときに父と母の遺伝因子が伝えられることによって、父母と子女の関係は第二の我(ぼく)という関係になることになるのです。 
しかし日本の諺にも「形は生めども心は生まぬ」(子息表生むけれど裏は生まぬ)という言葉がありますように、これこそその意をよく表しているといえるでしょう。すなわち形は父母が生んでも心は別の主人公である識神のgandharva(健達縛)があるからであります。ですから、父は父、母は母、子は子なのです。そして、その個性の差異は過去からの業識の差異に起因するものであるとみなすべきなのです。 
また『大宝積経』では、縁起説とこの三事和合説、そして輪廻説を中心に受胎される状況から生まれるまでの発達過程を詳しく論じています。しかし『大宝積経』では“中陰”あるいは“中有”という言葉を使用していますし、後代の『阿毘達磨大毘婆沙論』巻七〇では、“健達縛”という言葉を使っています。ところで『阿毘達磨倶舎論』では、その巻八で、三事和合説を論ずる中で、特に母の身体的な健康を強調して次のように論じています。 
“経典に説く如く、母胎に入る為には次のような三事が倶現されるべきである。第一に母の身体が健康であるべきであり、第二に父母が交愛和合すべきであり、第三にこの時、健達縛がその場に現前すべきである。” 
また大毘波沙論の中には次のような説をもあります。 
“三事和合して母胎に入ることを得、即ち父母倶に染心あって和合し、母身調適にして無病なる時、そして健達縛正に現在前するとき、この健達縛、爾の時、二心展轉して現前に母胎蔵に入る。”阿毘達磨大毘婆沙論巻第七十によりますと、この中、三事和合すとは、父と及び母と、ならびに健達縛との三事和合することをいい、父母倶に染心あって和合すとは、父と及び母と倶に婬貪を起して、共に合会するをいい、母身調適にして無病なるこれの時とは、母、貪を起して身心悦豫して、身、調達と名くるときをいうのです。此によって、九ヶ月、或は十ヶ月の中、胎子を任持し、損壤させないというのです。 
以上のように、仏教の経論では妊娠の成立条件として三事和合説を論じているのです。それ故に、受胎時の受精卵は単純な有機体ではありません。そこにはすでに、生命の主人公である“まことのぼく”すなわち“真我”が宿っているのが分かるのです。 
■輪廻説 
仏教における輪廻思想を取り扱う時にはいつも縁起説と業説を背景にして説明しなければなりません。そして輪廻において問題になってきますのは、その輪廻の主体が何であるのかということです。それは各経典によってその主人公の名が違っておりますが、しかしそれは名の違いのみであり、実は同じ内容のものをいうのです。例えば、瑜伽師地論のgandharvaとか倶舎論破我品のpudgala、または唯識論の識、というものがそれです。仏教において輪廻(samsara)とはその主人公が生死を経て三界六道を循環すること恰も車輪の廻転して窮りないようなことをいいます。これを六道輪廻とも生死輪廻とも称しますが、流転・輪転というのもまた同じです。心地觀經巻三には「有情輪廻して六道に生ずること車輪の始終なきが如し」とも「我れ輪廻に處して所依なし」とも説き、觀佛三昧經巻六には「三界の衆生、六趣に輪廻して旋火輪の如し」とあります。また成唯識論巻四には「有情、此れ(四根本煩惱)に由て生死に輪廻して出輪すること能はず」とあり、同じく巻八には生死輪転・生死輪廻・生死相続等の語があります(龍谷大)。結局輪廻とは輪廻転生と元々言うとおり、死後、別の生命体に生まれ変わり(転生)、さらには永続的に生死が繰り返されることをいうのであります。では輪廻の根拠について探ってみることにします。上のように生老死の生存をくりかえしていく姿を輪廻としておりますが、しからば、かかる輪廻のよってきたる根拠・理由は何でしょうか。前述した縁起論によりますと、輪廻の帰趣・始源は無明(avijja)に在ると説いています。「この状態からかの状態へと、くりかえし生死・輪廻をうける人びとは、その趣く境界が無明にのみ存する」ということです。そして初期仏教における輪廻思想が説されている経典の一つで『スッタニパータ』というものがありますが、この『スッタニパータ』の偈では愛執(tanha)が輪廻の根拠であると言っております。こういうふうな輪廻の根拠についての論説は結局無明が愛執のものであり、愛執が無明のものであることをいうのであるといえます。ですからこれら無明とか愛執とは、実に大いなる迷妄であり、それによってこの永い輪廻が始まっているといえます。早島先生もおっしゃるように、“ブッダが当時の輪廻説を採用した所以は、われわれの存在が愛執や無明などの惑に基づくものであることを明らかにしようとするものであったといえるのです。愛執は情的煩悩の最たるもの、無明は知的煩悩の最たるものなのです。そして、惑によって業がなされるのです。すなわち、我々は業の相続者なのであります。輪廻する人は自己の業によって輪廻するということです。”『増支部経典』では次のように説しています。「修行者たちよ、生けるものたちは業を所有し、業を相続し、業を母胎とし、業を親族とし、業を依所とし、善悪の業を作ってそれの相続者となる」。それ故に、まず、われわれはこの世が輪廻の生存界であり、わたし自身は輪廻の存在者であるのを自覚しなければならない存在であるのです。一方、唯識思想では、輪廻の主体を「アーラヤ識」に求めております。アーラヤ識とは別名「一切種子識」と呼ばれるように、その中に過去の業の影響が種子として貯えられ、同時に現在、未来にわたって、自己の身心さらには自然界を生み出す根源体であり、過去の習慣や行為を内に攝する潜在意識とも理解されるものです。そしてその上に自我的で主客の対立した現象世界が作り出されると見ています。このような論説を主張するものを識転変説と言いますが、これによって苦に満ちた輪廻世界が展開されるとみるのです。唯識思想はこの「識」のあり方を修行によって、汚れた状態から清らかな状態へと変革されることを目指しています(平賀)。つまり、汚れた識が転じて清らかな智慧を得る転識得智とはすなわちアーラヤ識中のあらゆる汚れた部分が除去され、清浄な部分のみで満ちることになるのです。これは「迷い」の心の状態から「悟り」の心の状態への転換でもあるのです。そして倶舎論の破我品ではその主体としての“プドガラ”(pudgala)という名を挙げておりますが、これまた、生命の主人公を語っているのです。しかし、阿部先生も論じられたように破我品中において有であると主張されるプドカラは犢子部の立場では我とは別であり、我は無であるけれどもプドガラは有るとなすのです。すなわち犢子部は我は仮有であるが、プドガラは実有であるとするのです。そして輪廻の主体としてプドガラをたてています。その部分の記述を探ってみることにしましょう。まず、プドガラは実に有る、と主張し「定めて我は無いとするのは誤った見解である。」という経文を挙げています。これに対し「定めて我は有るとするのも誤った見解である。」とも説かれていると反論し、我無しとするのは断見、我有りとするのは常見の誤りであると非難しています。この問答の次に輪廻に関する問題が次のように論じられています。ちょっと長くなりますが阿部先生の文を引用してみます。 
犢:もしプドガラが無いならば誰が輪廻するのか。輪廻そのものが輪廻するというのは正しくない。また世尊は「無明に覆われた衆生は流転し輪廻す」と説かれた。反:プドガラは如何にして輪廻するのか。犢:他の蘊を捨ててから受け取ることによって。反:この宗[主張]は答えが出された。例えば刹那滅な火が相続によって移転していくように、衆生と呼ばれる蘊の集まりも、渇愛と執着をもって輪廻する。 
ここでは輪廻の主体と輪廻の仕方が問題となっています。犢子部は、プドガラすなわち主体なしの輪廻はあり得ない、といいます。対して論主は、どの様にして輪廻するのか、と問い返します。その問いについて、刹那滅である火が相続によって流転していくように、五蘊仮和合である衆生も渇愛と執着をもって相続によって輪廻するというのです。そして問答は次のように続きます。 
犢:もしこの蘊だけならば、なぜ世尊が(次のように)説かれたのか。「私こそが、かの時にスネートラという師であった。」反:なぜ(そう)説かれてはならないのか。犢:諸蘊[心身の構成要素の諸集合体]が(前と今とでは)異なっているからである。反:それでは(前と今とで異ならない存在とは)何か。犢:それは同じプドガラである。 
上の話は輪廻転生につながっている世尊の前世の話でありますが、犢子部の説によるならば、輪廻の主体であるプドガラが、この世にスネートラとして生じ、また、世尊として生じるといいます。しかし、論主(ヴァスバンドゥ)の説はそうではありません。アートマンすなわち輪廻の主体とされるものは仮に施設されたものであるといっているのです。犢子部が引用している経文は、五蘊の相続においてある時はスネートラと呼ばれ、またある時は世尊と呼ばれる、ということです。要するに、我とは五蘊の相続において仮に施設されたものであり、我であると執着するものは我にあらざるものである、ということです。以上が破我品中において説かれる輪廻説で、その根底にあるのは縁起説であるようにみえるのです。 
さて、仏教における業はすなわち行為の概念としてこれには相即する三側面があるもので説明されます。即ちそれは、規範としての行為、その規範に沿うように行動する行為・完了した行為によってある効果作用をもたらすもの(輪廻へ向かわせる一種の力として「果報」をともなう潜在的な力を指すこともある)にまとめられています。そしてそれらは行為者自身にのみ付着するとされ、これらの行為はその主体者の未来に影響を及ぼし、その人の再生のありようを決定する要因とみなされました。そこには、自らの行為によって生じた効果作用を自ら受け取る法則(いわゆる因果応報)が成立しているのです。 
仏教経典にみられる生命観は、以上のような輪廻説を基本にして展開されています。従って妊娠という事情は、何もない“無”の状況から一つの生命が新しく生じたものではなく、輪廻の過程のなかで、一つの生命体の主人公が現在という時間と空間の中で、父母との因縁で結ばれることによって新しい生が始まるとみなすのであります。このような視点が、まさに仏教的生命観と現代生命科学的生命観におけるもう一つの根本的観点の差異点でもあるのです。ところでこの輪廻の生は三世に渡って絶え間なくなされております。ではこの三世について探ってみます。三世のことを仏教大辞彙では次のように説明しています。 
“三世(trayo-dhvanah)とは時間を分けて過去と現在・未来のことをいいます。また前世・現世・来世ともいい、また前際・中際・後際の三際(trayontah)とも称します。過ぎ去れる時を過去といい、現に在る時を現在といい、未だ来らざる時を未来というのは言うまでもないでしょう。阿毘達磨集異門足論巻三では次のように論じております。 
「過去世とは諸行の已に起り、已に生じ、已に轉じ、已に聚集し、已に出現し、過去に落謝して盡く滅し離變せしは、過去性・過去類・過去世の攝にして、これを過去世といふ。諸行の未だ起らず、未だ生ぜず、未だ轉ぜず、未だ聚集せず、未だ出現せざるは、未来性・未来類・未来世の攝にして、これを未来世といふ。諸行の已に起り、已に生じ、已に轉じ、已に聚集し出現して住し、未だ謝せず、未だ盡滅せず、未だ離變せず、和合して現前するは、現在性、現在類、現在世の攝にして、これを現在世と謂ふ」(龍谷大)以上のように仏教においてはどのような宗派であろうと生死の問題について、さまざまな形で論説し、またその解脱の道を論じているのです。 
では、禅宗では人生問題をどうみているだろうか、これについて少し探ってみることにします。“禅宗では、他宗とは異なり、理論的な方法で生死という問題にふれることよりも、座禅実践に依り、単刀直入、解脱の道を体得することに重きを置きます。鈴木先生もおっしゃるようにいくら論理がたけていようと、実地に生死、解脱を体得しないかぎり、三界の生死輪廻を続けるのみであるとするのが、禅宗の考え方です。それ故に禅は見性悟道することが宗旨の根本になっているのです。それは、『無門関』の中には「撥草参玄は只だ見性を図る」と言う語がありますけれども、これをみても、禅宗は見性成仏することを第一義としていることが、はっきり理解できます。この見性とは、自己の本性を明了に看取することであります。また鈴木先生の引用文の中の臨済の師である黄檗希運の『宛陵録』には次のような言葉があります。 
“達磨は西天より来って、唯だ一心法をのみ伝え、一切衆生本来是れ仏にして、修行を仮らざることを直指す。但だ如今こそ自心を識取し、自らの本性を見て、更に求むること莫れ。” 
とありまして、人々具足の本性を看取することが述べられています。この見性が臨済禅の家風であり、標的であります。そしてまた、鈴木先生の引用文の中の『六祖壇経』では、次のように説いています。 
“若し自性を悟れば、亦た菩提涅槃を立てず。亦た解脱知見を立てず。一法の得べき無くして、方に能く万法を建立す。是れ真の見性なり。若し、此の意を解れば、亦た仏身と名づけ、亦た菩提涅槃と名づけ、亦た解脱知見と名づけ、亦た十方国土と名づけ、亦た恒沙数と名づけ、亦た三千大千と名づけ、亦た大小蔵、十二部経と名づく。見性の人は、立つるも亦た得し、立てざるも亦た得し、去来自由にして無滞無礙、用に応じて随って作し、語に応じて随って答え、普ねく化身を見して、自性を離れず。即ち自在神通、遊戯三昧の力を得るを、此れを見性と名づく。” 
以上で分かりますように、自己の本性をつかみ取ることが見性であり、これが仏教における人間性の実現であるといえるのです。 
 

 

結語 
私は結論として、私たち人間の生命体の存在である“我”という概念を探ってみることで、今日の話題を終わらせたいと思います。 
仏教大辞彙によりますと我(atman)とは体常一にして自在なる作用を有する個人または宇宙的のもの、または他に対して自己を呼ぶ名です。前者の我は印度の宗教・哲学上において常にその思索研究の中心となるものですが、仏教経典に出ている“我”の説には分析的に説明する理論を大別するに仮我と実我と真我との説があります。 
仮我は普通の称呼に用いられるものであります。実我は印度在来の外道(宗教家・哲学家)の主張する所のもの、または凡夫の妄情に自ら存する我の思想があり、これに対しては厳然として無我を主張して仏教の一特長としています。そして真我は涅槃の妙徳の上に存するものです。しかしただ、真我は涅槃の妙徳にして小乗の如き空寂の涅槃を説く者を談ぜない所、唯大乗においてのみこれを談じ、仮我・実我の二は通じて談じる所です。これについて現実的な生命の構造をもっと詳しく探ってみましょう。 
まず“仮我”とは実に我は存在しなくても、五蘊仮和合して因果相続しつつあるものを他の相続に対して仮に我と称せしことをいうのです。諸経の初めに“如是我聞”といい、天親の浄土論に世尊我一心といえるようなものがこれです。これを現代の心理学では“自我”といっています。“実我”は薩迦耶見(身見)を本として凡夫迷妄の執情の前にあるものを言います。その我の意義は常一主宰を義となすとするのです。常一とはその体常住獨一にして主宰はその作用がまるで国王の如く宰相の如く自在なるをいうのです。これは現代心理学でふつう無意識的な世界として情動的な本能の世界あるいは個性の世界を意味するものです。 
そして“真我”とはまた大我ともいうもので、涅槃の妙徳にして常楽我浄の四徳の中の我徳を意味しています。慧遠の『大乗義章』の意に依りますと涅槃の体としての真実なるについて我というと、その用としての自在なるを我というとの二義があります。体についていうとは南本涅槃経巻二“哀歎品”に「説いて諸法無我と言ふも実は我無きに非ず、何者かこれ我なる、もし法これ実これ真これ常これ主これ依にして性変易せずばこれを名づけて我と爲す」とあるのがこれです。そしてこの涅槃はこれ仏性にして衆生心中に在つては如来蔵と称せられるものであり、それ故にまたこれを我と称すのです。すなわち真我とは生命の“主人公”を指しているのです。 
以上のように見るとき、私たちの生命体の主体である“真我”は縁起の法則に従って身をもらい、業と遺伝因子と胎内環境の影響によってManas識を発生させ、そのManas識は、生まれつつ意識水準の自我を形成させる、ということが分かります。故に自我は死滅しても、生命体の主人公である“真我”は身だけを変えるにすぎないのです。 
最後に私が申し上げたいのは、我々の生命は刹那刹那に生滅しつつ七十年とか八十年において更に大いに生まれ死ぬものであるのですが、そのような生と死はつまり一時的なものに過ぎないということです。その生命の真相は生まれては死ぬし、死んでは生まれ、永遠に生々し、絶え間なく死々して連綿として永遠に存在するということです。これは意識的なものではなく無意識的な存在であり、それが無明としての衆生であり、衆生としての人間の生命の真の姿なのであります。即ち、生と死は一つの体に二つの用の現われであるといえるものです。 
最近の生命科学は遺伝科学的に永遠の生命は認めておりますが、これもまた無意識界の永遠の生命の姿なのです。これに反して仏教の禅心理学は、無意識界の意識化、無自覚の自覚化、あるいは無明から明るみへの永遠の生命を志向するものであります。このような生命というのは衆生としての無明的生命ではなくて、すでに暗黒の世界を脱した明るみの世界で存在している生存そのものなのです。  
 
白隠禅師のお話

 

受け入れるとはどういうことか?  
禅の人は生を、存在を、あるがままに受け入れます。そして、なんの理由もなくそれを楽しみます。そこに好悪の判断は入りません。ただ、あるがまま、起こるがままを理由なく楽しむ。  
禅の人の受容性とはどんなものなのか、有名な白隠禅師の逸話をご紹介します。  
白隠が住んでいた村の、ある娘が妊娠した。娘は聞かれても相手の名を明かさない。しかし娘の父親が執拗に聞き出そうとし、脅しつけたので、娘はそれから逃れようとして、それは白隠だと告げた。  
娘の父親はそれ以上何も言わず、子供が生まれるのを待った。生まれるとすぐに白隠の元へ連れて行って、「これはおまえの子供だ。」と言い、彼の禅師の前に放り出した。そしてそれに続けて考えつく限りの悪口雑言を浴びせかけ、あらゆる侮蔑とあざけりをまくし立てた。  
黙って聞いていた白隠は、聞き終わるとただひと言、「おお、そうなのか?」とだけ言ってその子を腕に抱いた。  
それからというもの、白隠はその子を自分のボロボロの僧衣の袂にくるんで、どこへでも連れて歩いた。雨の日も嵐の夜も、雪の降る日も白隠は近所の家々を廻って、その子のためのミルクを乞うて歩いた。  
白隠には多くの弟子がいたが、その多くが「禅師は堕落してしまった」と思い、彼の元を去った。しかし白隠はひと言も言わなかった。  
一方、母親である娘は、自分の子供から離れている苦しみと悔恨の情から、とうとう子供の本当の父親の名を明かした。娘の父親は白隠の元へ駆けつけてひれ伏し、頭を地に擦りつけるようにして、繰り返し許しを乞うた。  
白隠は、「おお、そうなのか?」とだけ言って、娘の父親に子供を返した。  
いかがでしたか? 美しいお話でしょう? この白隠の姿が本当に「受け入れる」ということなのでしょう。これが禅の人の受容性です。自分に起こることは全て受け入れる、すべて自分が責任を取る。なんてすごいことでしょう! なんて美しい人なんでしょう! 人の究極の姿がここにある、と思いませんか?  
自分の生に起こることは全てOKだ。生がもたらすものは全てOKだ。完全にOKだ。この磨き込まれた鏡の様な質、これが禅の人の質です。何も良くはなく、何も悪くない。全てが神性なのです。  
生を出来るだけあるがままに受け入れるようにしたいものです。それを受け入れることで、やがて、欲望が消えます。緊張が消えます。不満が消えます。それをあるがままに受け入れることで、人はとても楽しく感じ始めるでしょう。全く何の理由もなしに!  
喜びに理由があると、それは長続きしません。喜びの原因になったことが去れば元に戻る。しかし、喜びに何の理由もなければ、それは永遠にそこにあるでしょう。  
禅の人は常に理由のない喜びの中にあるのです。素晴らしいですね! しかし、この質は他でもない、あなたにもあるのですよ。あなたの中にも隠されているのです。ただ、気が付いていないだけ・・・・・  
あなたが自分の内側に入ること、自分の内側を見ることを続けていれば、いつか必ず、それも突然、理由のない喜びが起こることでしょう。それはあなたを解放するに違いないのです。
地獄の門と天国の門  
地獄にいるか、天国にいるか、という選択権は、瞬間毎にあなたが持っている、ということを覚えておきましょう。もしあなたが無意識だったら、なにがしかの地獄にいます。それはあなた次第。  
あなたが意識しているとき、あなたは天国にいます。醒めて、油断せずに、意識していましょう。これもまた、あなた次第。  
これでは何のことかよく解りませんね。  
では、次の物語を読んでみてください。  
偉大な禅者、白隠は、まれな開花のひとつ。  
彼の処へ、一人の戦士、侍が来て尋ねた。「地獄はありますか? 天国はありますか?もし、地獄と天国があるなら、その扉はどこにあるのですか? 私はどこから入ればよいのですか?」  
彼は素朴な戦士だった。戦士は常に素朴。彼らのマインドの中にずるさはない。計算はない。彼らにはふたつのことしかない。生と死だ。だから、彼はなにか教義を学ぶために白隠のもとを訪れたわけではなかった。ただ、地獄を避けて、天国に入れるように、その門がどこにあるのかを知りたかっただけだった。  
そして、白隠はそのことをよくわかっていて、戦士にしか解らないやり方で応えた。  
白隠は問う。「おまえは誰なのか?」  
戦士は応える。「私は侍だ。」侍であることは非常に誇り高いこと。自分の命を差し出すのを一瞬たりとも躊躇わないことを意味する。  
彼は言った。「私は侍だ。侍大将だ。」  
白隠は笑って言い放った。「おまえが侍大将だって? おまえは乞食みたいだぞ!」彼の誇りは激しく傷いた。彼らはその誇りを傷つけられることを死よりも嫌う。侍は自分が何のためにここに来たのかを忘れた。彼は我を忘れ、刀を抜いて将に白隠を殺そうとした。  
と、白隠は笑って言った。「これが地獄の門だ。この刀、この怒り、このエゴとともに、ここに地獄の門が開く。」  
これは戦士にはすぐに理解出来ることだった。そしてこの侍もすぐに理解し、我に返って刀を鞘に収めた。  
そこで、白隠は言った。「ここに天国の門が開く。」  
地獄と天国はあなたの中にあります。両方の門があなたの中にあります。あなたが無意識に振る舞っている時、そこには地獄の門が開きます。あなたが油断せず、意識するようになる時、そこには天国の門が開きます。  
あなたのマインドは天国であり、地獄であり、そのどちらにもなれる許容力があります。でも、人はどんなものも、どこか外側にあると思い続けています。どんなことも外側のせいにしたがる・・・・・  
地獄と天国は、生の終わりにあるのではなく、それらは今、ここ、にあるのです。瞬間毎にその扉が開きます。あなたは一瞬のうちに、地獄から天国へ、天国から地獄へと行き来することができます。  
それは全てあなた次第。あなたの意識の状態次第です。ですから、できるだけ醒めていましょう。意識することです。  
あなたが醒めて、意識的であるとき、あなたの前には天国へ続く門が開きます。  
 
白隠禅師の子守唄

 

子守唄は白隠禅師晩年の作とされているが、詳しい制作年代は分かっていない。子守唄を歌って守り育てる赤子というのは内なる仏心のことで、「この子大事に守りさへすれば、生死離れて無漏土(むろど)に至る」とあるように、白隠禅師はみんなが仏さまに育つことを願ってこの歌を残してくれたのである。  
「ここは娑婆(しゃば)とて堪忍(かんにん)国土、忍をなす故、人ではないか」。私はこの一節を自戒の言葉にしている。  
「金は限りのあるものなれば、入るを計りて出だすが好いぞ」。この一節は日本の政治家に捧げたい。  
「伊勢の太神(おおかみ)三杵(みきね)の御供(ごくう)、宮は茅葺(かやぶ)きおごらすまいと、神の恵みのアラ有り難や」は説明が必要だと思う。伊勢神宮では三回だけ杵(きね)で搗(つ)いた米を炊いて、神様にお供えしているという。神様は粗末な玄米を食べておられるということで、「宮は茅葺き」も粗末な建物を意味している。伊勢の神様はこうして質素倹約の手本を示してくれているのだから、私たちも質素な生活をしようという意味である。  
 
子守り唄をばうたうて聞かしゃ うたやよいよい、よい子に成るぞ  
その子どこにと尋ねてみれば どこに居るやら無明の闇で  
ありか知れねど余所(よそ)ではないぞ  
   母の胎内宿りしよりも ついに離れず身に引き添うて  
   熱い冷たいよしあし共に 指図次第に任せて置けば  
   悪い事せず善い事ばかり 神の仏もほかには無いぞ  
されど日々悪智慧ついて 気随気儘の手勝手仕出し  
いつの間にやらこの子宝に 凡夫頭巾をかぶせて仕舞ひ  
あたら宝の持ちぐさらしよ  
   酒と色とにその身はただれ 遊楽夜あそび朝寝と小言  
   欲に目のないばくちの勝負 勝てば勝ちたし負くれば惜しく  
   山をこかそか山からこかそ うそで世渡りや浮かべる雲よ  
栄耀栄華も昨日の夢じや とかく正直正路に習へ   
天地国王、主人や親の 恩の重きを心につけて   
衣服食事におごりをするな 寒うひだるう無ければよいぞ   
   家財諸道具かざりはいらぬ 雨露(うろ)にあたらず用さへかなひ   
   すめば住吉おごらぬ心  
   伊勢の太神(おおかみ)三杵(みきね)の御供(ごくう)  
宮は茅葺きおごらすまいと 神の恵みのアラ有り難や  
貧と福とは天命なるぞ 知らで無理せばその身の過(とが)よ  
心正直、少欲なれば 貧は貧でも不足はないぞ  
   結句(けっく)、金持ち苦労の種ぢゃ へらすまいとて貪欲すれば  
   親の金をも盗むに同じ ついに家庫(いえくら)空しく成るぞ  
   宝へらさぬ工夫というは 我が身つづめて仁心、発(おこ)し  
慈悲と情けで人をば助け 家内眷属一家をはじめ  
友と知音も成丈(なるたけ)すくへ  
金は限りのあるものなれば 入るを計りて出だすが好いぞ  
   倹(けん)と吝(りん)とをよく弁えて 倹は我が身の奢りを省き  
   吝は内外に辛き目みせて 不仁不義から為す業(わざ)なれば  
   我に足ること知らぬが故ぞ 餓鬼の苦患(くげん)と言ふのはここよ  
信さへありや貧者も仁は 出来るものだよ、貪欲瞋恚(しんに)  
愚痴を離れりやみな慈悲心よ 身にも口にも意(こころ)は猶も  
人の助力や世界の道に よかれよかれとなすわざなれば  
   直に神なり菩薩の行よ 士農工商みな受け得たる   
   己が家職を大事にすれば 我と天地と相応いたし   
   四海兄弟、他人はないぞ  
しかも佛の御法(みのり)の教え きけば一切男子も女子も  
共に生々(しょうしょう)のわが父母ぞかし しかし他人の気に入るとても  
主(しゅう)と親とに背いた時は 神や仏の守りは無いぞ  
   主は日月(にちげつ)、父母天地 これに仕へて忠孝すれば  
   神や仏を祈らずとても 常に身に添ひ守らせ給  
   後生極楽ほかでは無いぞ 子供そだてが大事でござる  
子供よければ我世を譲り 隠居したとこ安楽世界  
現世安穏(げんせあんのん)未来は浄土 後生願いがたらわぬ時は  
隠居しながら子の世話焼いて 鬼の呵責(かしゃく)や閻魔(えんま)の役目  
   親子もろともこの世が地獄 子供はじめは性善(せいぜん)なれど   
   愛が過ぎれば気随(きずい)になるぞ 友を選ぶが先ず第一よ   
   友が悪けりや悪いがうつる 友がうそつきや、うそつき習ふ  
麻につれたる蓬(よもぎ)の草よ 親の仕業(しわざ)がみな子に移る  
親がよければ子もよいぞ 親が欲なと子供も欲な  
子供不孝で片親ないは なおも育てが大事でござる  
   父は与楽の慈の教訓に 母は抜苦(ばっく)の悲の愛憐(あいれん)よ  
   これが片よりゃ片輪になるぞ 五体人なみ、心は片輪  
   慈悲の二つを一人の親が 兼ねて勤めしためしもあるぞ  
むかし孟母は織りける機(はた)を 切って怒って子を励ませば  
その子一途に学師につかへ 今も孟子と尊とばるるも  
母の慈悲より起こるときけば 子供しつけが大事でござる  
   奉公さすなら情けをかけな 殊に女子には教えがいるぞ  
   嫉妬深いと衣類のかざり これも愚痴から起こるといへど  
   母の仕方がみな従ふぞ 母の気随(きずい)が娘に移り  
母が奢れば娘も奢る 母が癇癪(かんしゃく)娘が短気  
母を習ふが娘の道よ 外へやろふが跡目にせうが   
妻は夫にしたがふ習ひ 内をおさむる役目となりて   
   気随気儘に身勝手すれば 家内乱れて修羅くら煮へる   
   修羅の道こそなお遠ざけよ たとい夫は愚かにあろと   
   神や仏や主人と頼め 舅姑我が二親(ふたおや)よ   
下をあはれみ身を高ぶるな 夫婦和合は則ち天地  
心正直内外の神よ 慈悲の仏に五ツの道は   
人の人たる道こそ是れよ 儒仏神道みなこの事よ  
   寝るも起きるも立っても居ても いかに如何にと一心不乱  
   信をこらせばよい子が知れる 年はいくつか無量寿ぼとけ  
   いやな顔せずさて愛らしい 又と二人は無い御子(みこ)さまよ  
唐(から)や天竺(てんじく)十方世界 どこも此の御子ひとりの沙汰よ  
何宗角宗(かにしゅう)もひとつの月よ 須磨も明石も姥捨て山も  
吉野竜田の紅葉も花も 外(ほか)を尋ぬる事では無いぞ  
   寒さこらへりや暑さが来る ここは娑婆とて堪忍(かんにん)国土  
   忍をなす故、人ではないか しとも無いとも親孝行と 主人忠義と家業を励め  
   是れをこらへてしなれりや遂に 実に忠孝礼儀になるぞ  
万芸万能学問とても 始め上手な物では無いぞ  
すべて堪忍その功積もり 妙に至りて師と仰がるる  
むかし南都の明詮僧都(みょうせんそうず) 学をうとんで夜の間に寺を  
   出でて雨降り大仏殿に 宿るあしたが雨強く降り  
   軒の雨だれ当たりし石に 穴のあきしも天然自然  
   堅き石さへ穴あくからは 堅い文字(もんじ)もしばしば見れば  
ついに了解(りょうげ)も成りそなものと 倦むをこらへて勤学(ごんがく)あれば  
法相一宗の知識とよばれ 今の代(よ)までも名のかんばしき  
   したい事にはよい事ないぞ うそか遊戯(ゆげ)か奢りの沙汰か  
   色かばくちか朝寝か酒か 心よごれて地獄の種ぢや  
   是れもこらへてせぬのがよいぞ こらへさへすりや人には成るぞ  
悪い癖よりよい癖つけよ 浄い汚いも分けたがよいぞ  
地獄きたなし 清いは浄土 神も仏も皆我なりと   
我意(がい)を立つれば即ち邪見  
   家に伝はる宗旨を替へな 国の御法度先祖の家法  
   堅く守るは祈祷の札よ 欲な願いで作善をこめる   
   神や仏は非礼を受けず  
念仏、題目、経読むことも 悪と欲心忘れぬ時は  
やはり今生(こんじょう)地獄におつる  
在家却って極楽往生 我を離れた香華(こうげ)の供養  
   わずか一食を備ふるとても 功徳大いに罪咎(つみとが)のがる  
   思案分別みな妄想よ 我心自空(がしんじくう)は世尊の御法(みのり)  
   有り難いぞやかたじけないぞ 心清浄、正念にして  
日々に新たに日々うたへ 念仏、題目、子守りの唄よ  
この子大事に守(も)りさへすれば 生死離れて無漏土(むろど)に至る  
願ひ次第に十方浄土 寂光極楽いずれへなりと  
   儒仏神祖も手を引き給ひ 往きて生まれて蓮の臺(うてな)  
   ついに子守りも仏の位 家内安全、目出たかりける  
 
諸話

 

青い目から見た白隠さんの言葉と意味
浮世絵、若冲、白隠禅画・・・いずれも19世紀末から20世紀にかけ、ヨーロッパにおける美術品としての評価が日本に“逆輸入”されたものですね。いたしかたありません。日本にはそれまで「美術」という概念がなく、明治6年(1873)に日本政府として初めて参加したウィーン万国博覧会をきっかけに作られた言葉だったのです。仏像を彫刻、書画を絵画として扱うようになったんですね。  
ちなみに、万博開催の先駆けとなったイギリスでは、1851年、1862年、1871(〜1874)年にロンドン万博が開催され、フランス・パリでもこれと競い合うように万博が企画されました。幕末・明治だけで1855年、1867年、1878年、1889年、1900年と開かれ、日本は1867年以降の4回のパリ博全部に参加。1878年のパリ万博では、フランス大統領から古物(アンティーク)の出品を要請する国書が明治天皇に発出されました。これがヨーロッパにおける日本美術ブームに拍車をかけます。1873年ウィーン万博参加以降、日本は官民ともに明治時代だけで40近い博覧会に参加しました。現在、ミラノ万博が開催中で、日本の和食が大変な人気を集めているようですね。140年前は美術、今はグルメかぁ〜。  
それはさておき、幕末〜明治は日本にも多くの外国人がやってきました。大半は横浜10km圏内の外国人居留地に住んでいたので、よく目にしたのが鎌倉大仏。ヨーロッパの街では広場や公園など屋外にブロンズ彫刻が置かれているので、同じように屋外の自然の中に安置された大仏さまを、公園でよく見かけるような身近な彫刻芸術ととらえた、とトムセン教授。奈良東大寺のように大仏殿の中にあったら、また違っていたかもしれませんね。  
1884年、フェノロサと岡倉天心が奈良法隆寺の救世観音像を発見し、「超一級のギリシャ彫刻のようだ」と絶賛。ドイツの東アジア美術史家でケルン東洋美術館を創設したフリーダ・フィッシャー女史(1874〜1945)は、延べ10年におよぶ日本での滞在日記「明治日本美術紀行」の中で、“日本人は美術館に展示された仏像を、寺と同じように拝んでいた”とし、日本における美術とは、宗教的意味と芸術的意味の2つあることを指摘しました。しかし当時、日本の美術館にも〈禅画〉はありませんでした。  
白隠禅画を初めてヨーロッパで紹介したのは、ドイツの美術研究家クルト・ブラッシュ(1907〜1974)。父は大阪の第三高等学校ドイツ語教師で浮世絵研究家。母は日本人。1928年に同志社高等商業学校を卒業し、京城ドイツ領事館に務めた後、ドイツに帰国し、戦後の1948年に再来日。貿易商を営むかたわら、仏教美術や日本文学を専門に研究し、その過程で出会った白隠禅画に魅了され、1957年に美術解説本『白隠と禅画』を出版しました。そして1959年から1960年にかけ、ヨーロッパで初めて大々的に禅画の展覧会を開催したのです。  
そのスケジュールがまたすごくて、1959年1〜2月にウイーン、4月にケルン、6〜7月にベルン、9月にコペンハーゲン、10〜11月にベルリン、12月ミラノ、翌1月ローマ。「作品にとってはよくないが、影響力は絶大だった」とトムソン教授。白隠の弟子東嶺や、後世の禅僧・仙豪`凡の作品が中心だったようですが、初めて禅画に触れたヨーロッパ人は、当時注目されていたモダンアートに近い新鮮な驚きと高い関心を示し、ZENブームのさきがけとなりました。ちなみに展覧会のために作られた図録には、日本大使館後援のクレジットがあり、浮世絵を扱う古美術商の広告もちゃっかり入っていたそうです。  
この展覧会の反響が、日本にも伝わってきて、日本の美術館や博物館でもようやく禅画が扱われるようになりました。トムソン教授は「日本人にとって禅画は日常の中にあり、かえってその価値観に気づかなかったと言える。西洋のパイオニアたちの中には日本語が読めない人も多かったが、幕末の浮世絵と同じように、新しい見方や考え方で禅美術への認識を日本へ逆輸入した」と説きます。  
アメリカではギッター・イエレンやピーター・ドラッカーといった有名コレクターの収集品が展覧会で続々と紹介されました。スティーブン・アリウスという研究家が研究発表のために訪れたカンザスシティで、たまたま町の床屋さんに立ち寄ったら、店主から「禅画の話をしに来たのか、HAKUINはどう思う?」と訊かれ、ビックリしたとか。スゴイですね、いま、沼津の床屋さんで、そんな質問のできる人、何人いるんだろ・・・。  
ちょうど1年前のプラザ・ヴェルデ開館記念講演会で初めてまともに白隠禅画のことを学び、まったく初心者の域から脱っしていない私ですが、かつてフィッシャー女史が指摘した、〈仏像を芸術作品とみるか、あくまでも信仰の対象とするのか〉、この二項対立構造は、素人目にみても、いま現在、白隠さんを取り巻く状況にそのまま当てはまっているように感じます。  
トムソン教授は「いまや、白隠に対する認識や歴史、知名度は、日本だけでなく、世界中のものとなっている。白隠は沼津だけでなく、世界のHAKUIN。白隠についての西洋視点と、日本人の心にある価値観を互いの言葉で大いに議論しよう。外国人も日本人もひとつになって、沼津の一禅僧が発信した素晴らしいビジョンを享受しよう」と締めくくられました。「議論しよう」というメッセージを、公開講座に出席した一部の市民しか聞いていないというのは、なんとももったいない話だと、つくづく思います。 
白隠禅師の女性弟子

 

初心者の私にとっては、まず大きかったのが「白隠さんに女性の弟子がいた!」というインパクト。仏僧と女性のかかわりと聞けば、思い起こすのは一休さんと森女、良寛さんと貞心尼あたり。小説なんかでは老いらくの恋という描かれ方をされているので、最初、白隠さんにもそういう女性がいたのか・・・なんて妄想しちゃいましたが、一休や良寛のように風流に生きた人と違い、生まれ育ったジモトで大勢のお弟子さんを抱えていた白隠さんですから、醜聞沙汰になるような関係とは考えにくい。  
実は醜聞がなかったわけではありません。原の町家の嫁入り前の娘が妊娠してしまって苦し紛れに「相手は白隠さん」と白状し、親はカンカン。でも白隠さんは一切反論せず。後で娘がウソを付いていたと認め、親が白隠さんにヒラ謝りするも、「子に父親がみつかって本当に良かった」と笑顔で返した白隠さんに、一家は心酔した・・・という逸話があるので、白隠さんに女性信者がいれば、いまの時代のワイドショー如く、ああだこうだ言われたのかもしれないな、と想像できるけど、今回のお話を通し、清くまっとうな師弟関係だったようだと確信しました。  
記録によると、白隠さんには6人の女性弟子がいたようで、今回アンナ先生が紹介されたのは、阿察婆(おさつばあ)と親しまれていたお察さんと、恵昌尼という尼僧。お察さん(1714−1789)は、父と叔父が白隠さんの熱心な在家信者で、本人も14歳ぐらいから参禅。かなりの熱血信者だったようで、親が結婚を奨めたときも信仰に生きたいと抵抗したそうですが白隠さんに説得されて嫁ぎ、45歳のときに夫を亡くすと仏行にまっしぐら。白隠さんが亡くなるまでそばに仕えていたそうです。  
お察22歳ぐらいのときに写経した「法華経」の写しには白隠さんが加筆した形跡があったり、白隠さんが自ら彫刻した「おさつの老婆像」というのがあって、これが白隠さんがよく描くお多福の顔によく似ているなど、お察が白隠さんの愛弟子だったことがよくわかります。そこに恋愛感情があったかどうか、小説家なら妄想をふくらませるでしょうけど、心から尊敬できる男性、しかも後に500年に一人といわれる不世出の宗教家のそばで、お婆ちゃんになるまでつかえ、お多福モデルになったお察さんは、もう、それだけで女性として十分幸せな生涯だったんじゃないかな・・・。  
恵昌尼(?−1764)は清水の人で、夫に先立たれた後、出家し、興津の清見寺9世の陽春主諾(1666−1735)の弟子となり、陽春亡き後、陽春と交流のあった白隠さんに参じたようです。ちょうど修行の“同期”に、後に白隠第一の高弟といわれた東嶺円慈がいました。あるとき、修行仲間とうまくいかずに京へ逃走しようとした東嶺が愛用していた経本「普賢行願讃」を恵昌尼に与え、彼女はそれを泣きながら受け取った、というエピソードが記録に残っています。  
こういうお話をうかがうと、白隠も東嶺も、女性を差別することなく、人として、修行者としてまっすぐに対峙していたことがわかりますね。  
もともと原始仏教には女性差別がなく、よく言われる“五障三従”は、仏教の根本思想にはありません。「五障」とは、女性は生まれながらにして「梵天王、帝釈天王、魔王、転輪王、仏になれない障りを持っている」ということ。「三従」とは、女性は「幼い時は親に従い、結婚すれば夫に従い、老いては子に従わなければならない」・・・つまり女は男に無条件に従わなければならないという説。お釈迦様が生まれる前からインド社会にあった女性蔑視の考え方で、「五障」はヒンズー教の、「三従」は儒教の影響があるらしいとのこと。でもそれがいつの間にか仏教の真理として伝わってしまい、女性は仏教の救いから排除され差別され続けてきました。  
日本で出家する女性というと、身分の高い女性が寡婦になった後、庵を結んで静かに余生を過ごす、そんなイメージを持っていました。ところが、禅宗では男の僧侶と同等に修行者として扱われようと思いつめたあげく、なんと、自分で自分の顔を焼いて醜女になる尼僧が多かったそうです。男女同権、男女共同参画社会の現代では想像もつきませんが、そこまでしないと修行者として認めてもらえなかったのです・・・。  
そんな歴史背景を考えると、白隠さんが女性の弟子を大切に扱い、お察さんを愛嬌のあるお多福さんに描いたのは、男女の性差や見た目の美醜など関係なく、すべての衆生を救うのが仏道である、という強いメッセージが込められているように思います。大変進歩的な考えですね。  
・・・改めて、こんな素晴らしい教えをたくさん遺しているのに、白隠さんのことが一休さんや良寛さんほど知られていないのは、なぜだろうと考えてしまいます。そもそも500年に一人の逸材と聞かされても、何がどうスゴイのか、一般の人にはピンと来ない。  
もっともっと白隠という人物をクローズアップさせる、たとえば小説家が触手したくなるような人間らしい伝説や艶話の一つでもあれば・・・とも思うけど、今の日本の宗門の方々にとって白隠さんは絶対的存在であり、どこか、それを許さない空気があるようです。  
白隠さんが救済の対象としていたのは、ありとあらゆる衆生であり、そこに、出家か在家か、男か女か、日本人か外国人か、なんて意味はない。その教えが普遍的でボーダーレスだからこそ海を越え、時代を越え、多くの外国人を惹きつけた。白隠さんのメッセージを、日本人が、静岡人が、今の時代にどう受け止め、伝えるか・・・お2人の海外研究者から大きな宿題をいただいたような気がします。  
少なくとも『男女同権の先駆者』であることは間違いないのだから、現在、女性差別問題に取り組んでいる人たちにも、白隠さんの功績を知っていただきたい!ですね。 
白隠と大衆芸能

 

小田原の外郎(ういろう)売りの口上・・・私は初めて拝見しましたが、歌舞伎ツウの方ならご存知のようですね。外郎売りは二代目市川團十郎が享保3年(1718)に初演した市川家歌舞伎十八番。親の敵を討つため曽我兄弟の弟・五郎が外郎売りに変装し、侵入先で「武具馬具ぶくばぐ三ぶくばぐ・・・」と早口言葉の口上を述べる。二代目團十郎が初演した1718年、白隠さんはちょうど33歳で、どうやらこの芝居をライブでご覧になっていたそうで、すっかり気に入り、禅の教えを薬売りの口上にアレンジして書いたのが「見性成仏丸方書・売の口上」でした。一部ご紹介すると、  
私ことは、小田原勇助と申しまして、生まれぬ先の親の代から、薬屋でござります。(略)私売り広めますところの薬は、見性成仏丸(けんしょうじょうぶつがん)と申しまして、直指人心(じきしにんじん)入りでござります。この薬をお用いなされますれば、四苦八苦の苦しみを凌ぎ、三界浮沈の苦しみも、六道輪廻の悲しみも、即座に安楽になりまする。(略)この薬の製法と申さば、先ず趙州の柏の木を宝剣斧で切り、六祖の臼ではたき、馬祖の西江水を汲み取り、大灯の八角盤で練り立て、白隠が隻手にのせ、倶胝の一指で丸め、玄沙の白紙に包みまして、その上書を、禅宗臨済郡花園屋見性成仏丸と記します。  
「直指人心 見性成仏」は白隠さんが達磨画の賛によくお書きになる言葉。心の根本をスパッと指し示し、「誰もが持っている仏性に目覚めなさい」という禅の大切な教えですね。これを、ガマの油売りの口上みたいに抑揚をつけ、身振り手振りを添えて聞かせるとは、確かに、お坊さんの説教よりも楽しいかも!  
ちなみに、素人なりに調べてみたんですが、「趙州の柏の木」とは、無門関第三十七則に出てくる庭前柏樹という公案(禅問答)。趙州という中国の禅僧が小僧に「達磨さんは何のためにインドから来たのですか」と質問され、「前の庭に植えてある柏の木さ」と答えたとか。「六祖の臼」の「六祖」とは、達磨から数えて6代目の禅宗の祖・慧能(えのう)のこと。見性成仏を説いた方ですね。「馬祖の西江水」とは茶席の禅語で知られる「一口吸尽西江水(いっくにきゅうじんす さいこうのみず)」のことでしょう。馬祖禅師が「悟りとは大河(揚子江)の水を一口で飲み尽すようなもの。生半可な状態で停まらず、あますことなく一切を吸収し、無となれ」と説いたもので、千利休が師の古渓和尚から教えられ、大悟したと伝わります。  
「大灯の八角盤」は碧眼録に出てくる大燈国師のエピソードで、非禅宗派の守旧派僧たちと議論した際、大燈が「禅とは八角の磨盤、空裏に走る」と答えた。八角の磨盤とは八頭の牛馬に引かせる石臼or八角の空飛ぶ古代武器とも言われ、どんな堅いものでも粉砕するもの。これで守旧派を論破したそうです。「白隠の隻手」は白隠さんの有名な公案「両手でポンと打つと音が鳴る、では片手ではどんな音が鳴る?」ですね。「倶胝の一指」は唐の時代、何を尋ねられても指一本立てるだけの倶胝という禅僧がいて、あるとき指一本立てる真似をしていた小僧の指を切り落としてしまったという痛いお話。「玄沙の白紙」は唐の禅僧玄沙師備が兄弟子の雪峰に白紙の手紙を送り、受け取った雪峰は「君子千里同風」と答えた。「遠くはなれていても仏法はただ一つ。心は通ず」という意味だそうです。  
続いて芳澤勝弘先生の基調講演『白隠と大衆芸能』。今回は「鳥刺し図」「傀儡師(くぐつし)=人形遣い」「宵恵比寿」「布袋春駒」といった一見、戯画か漫画のようなユーモラスな白隠禅画を紹介してくださいました。実は7月11日に名古屋徳源寺で開かれた『中外日報宗教文化講座・禅の風にきく』で芳澤先生が「鳥刺し図」を解説してくださり、続けて拝聴したおかげで素人なりにも理解が深まったので、ここでは「鳥刺し図」について取り上げたいと思います。  
鳥を捕獲する「鳥刺し」。黐竿(もちざお=モチの木の樹皮から取った粘着材を塗った竿)で野鳥を刺して(ひっかけて)捕まえる人のことで、江戸時代には、鷹匠に仕え、鷹の餌となる小鳥を捕まえていたそうです。刺した鳥は食用または観賞用にも利用され、メジロやウグイスなど声や姿が美しい小鳥は多くの愛好家が競い合って入手しました。もちろん現在の日本では鳥獣保護法で野鳥の無断捕獲は禁止されています。  
白隠さんが描いた「鳥刺し」はこれ。講演レジメのモノクロコピーを引用させていただいたので、見辛いと思いますが、鳥刺しの男が長〜い黐竿で狙っているのは、なぜか鳥ではなく草鞋の片方。右上には「子ども、だまれ なんでもはいてくりよと思ふて」、左端には「ばかやい そりや鳥ではない、わらんじだはやい」と掛け合いトークみたいな賛が書かれています。  
トークを現代ふうに再現すると、左から先に「ばっかだなあ、そいつぁ鳥じゃないよ、草鞋じゃないか〜」。これを受けて右が「小僧だまれ、オレは何が何でもこの草鞋を履いてやろうと狙ってるんだ」。右の台詞はこの画に描かれた鳥刺しの男。左の台詞は画には描かれていないけど、悪気がなく思ったまんまのことを言った子どもでしょう。白隠さんはなぜ台詞の主の子どもを描かなかったのでしょうか。  
芳澤先生の解釈によると、子どもをあえて描かなかったとしたら、この台詞は二次元の画を三次元で観ている我々の台詞、ということになり、白隠さんは「おまえたち、この画を見て鳥じゃなくて草鞋を狙っている鳥刺しを滑稽だと思ってるだろう?」と問いかけて、さらに、主人公の鳥刺しに「何が何でも草鞋を履こうと狙っている」と言わせた。片方の草鞋というのは、禅学をかじった人ならピンと来ると思いますが〈隻履西帰〉を意味します。  
禅の始祖・達磨が中国(当時は魏国)で亡くなって3年後、北魏の宋雲が西域から帰る途中、死んだはずの達磨が自分の草履の片方を手にして西の方に帰るのに出会ったという。その話を聞いた魏の明帝が、あらためて達磨の墓を調べさせたところ、そこには草履が片方しか残っていなかったという故事です。片方の草履とは達磨を象徴するアイコンで、それを何が何でも履きたいという鳥刺し男は、白隠さんご自身かもしれないし、そのような思いで直指人心見性成仏に努めなさいという白隠さんのメッセージかもしれない。隻履西帰の情景をそのまんま描くのではなく、江戸時代の衆生に親しみやすいモチーフで多少のヒネリを加えて描いた。当時の大衆芸能や風俗をよく観察しておられた白隠さんならではの作品ですね。  
この鳥刺し画、現在、確認されているだけで5枚あるそうです。もちろん、浮世絵みたいに量版したわけではなく、白隠さんが送る相手一人ひとりに手描きしたもの。白隠画はそのほとんどが、相手に合わせ、オーダーメイドで描いたものですから、一体誰に宛てて描いたのか、興味をそそられますが、多くは持ち主が次々と入れ替わってしまって、白隠さんが最初に誰のために描いたのかわからないそうです。  
先生の講演では、途中で伊東市宇佐美の阿原田神楽保存会が演じる『鳥刺し踊り』が披露されました。写真は翌20日に開かれた第19回静岡県民俗芸能フェスティバルで全幕上演された鳥刺し踊りの一部分。鳥刺し奴(やっこ)に身をやつした曽我兄弟の弟・五郎が村人と戯言を交わす場面と、兄に仇討ちの本意を疑われ、斬られそうになるシーンです。ここでも曽我兄弟の仇討ちがモチーフになっていたとはビックリ。曽我兄弟が相模〜伊豆一帯でいかにメジャーな存在だったかがわかりますね。  
白隠さんの「鳥刺し図」。たった1枚の禅画から、実に奥深い禅の教えや豊穣な地域文化が伝わってきて、この画1枚で、何本もの映画やドラマや舞台芸能が産み出せそうです。最初に描いてもらったの、誰だろう・・・。ホント、興味が尽きません。 
「万法帰一」と白隠

 

かろうじて「理解の入口に立てたかも」・・・と思いたいのが、芳澤先生の講演「万法帰一と白隠」。先生がよく取り上げられる“白隠メビウスの輪”でお馴染み、「在青州作一領布杉、重七斤」の布袋図を題材に、白隠さんの宇宙観、ともいえる教えの一端に触れることが出来ました。  
この布袋図は、真ん中にニコニコ顔の布袋さんと3人の童子。布袋さんは長方形で帯のように長い紙の両端を持って、ぐるっと円にして両端を頭上に掲げています。右側には紙の表面に「在青州作一領」の文字、左側には紙の裏面に「布杉、重七斤」。文字もちゃんと裏返しで書かれています。画像ナシではピンと来ないと思いますが、勝手にコピー使用するわけにもいかないので、試しに自分で作ってみました。こんな感じで、真ん中の輪っかの中に布袋&童子の顔が描かれています。  
これは実際に表面に「在青州作一領布杉、重七斤」と描いて半分を裏返しにして端っこをつないで、“メビウス”状態にした3次元のものを写真に撮っただけですが、白隠さんは2次元の紙の上に、ひねった紙を構図として描かれたわけです。な〜んでこんな七面倒くさい表現方法を??と誰しも思います。  
まずは「在青州作一領布杉、重七斤」の意味を先生に解説していただきました。11世紀の宋の時代、圜悟(えんご)が書いた『碧巌録』に、「趙州万法帰一(じょうしゅうまんぽうきいち)」という有名な公案(禅問答)があります。唐の時代、趙州和尚という高僧がいて、あるとき、若い僧から「万法帰一、一帰何処(あらゆる存在は一なるものに帰着するといいますが、その一はどこに行くのですか?)」と訊かれ、件の言葉―すなわち「わしは青州におったとき、襦袢を一枚作った。重さは七斤あったんじゃ」と答えたそうです。さすが禅問答!ちんぷんかんぷんな答えです(笑)。  
碧巌録の著者、圜悟は「趙州和尚の答えは非論理的だが見過ごしてはいけない。自分がそのように訊かれたら、“腹が減ったら飯を食い、疲れたら寝る”と答えよう」と言ったそうです。その答えも非論理的でしょう〜とツッコミたくなりますが(笑)、圜悟自身は「但参活句不参死句(参句=常識を超えた言葉の意味を考えなさい、不参句=常識的な言葉に惑わされてはいけないよ)」と禅問答集の編者らしい物言いをする人でした。  
最近の研究では、趙州和尚の出身地青州では赤ん坊の体重が七斤(約4.2kg)とされていることから、「帰一」とは、おぎゃあと産まれ落ちた生身の自己に帰るという意味だと、きわめて常識的に解釈されているそうです。でもその説が正しかったら、白隠さんなら赤ん坊の画か何かで解くはず。あえて難解なメビウスのひねりを描いたほんとうの理由=白隠流解釈は別にありそうです。  
芳澤先生は白隠禅師の漢文語録『荊叢毒蘂(けいそうどくずい)』を訓注・現代語訳され、今春刊行される予定です。白隠さんの駿河訛りの肉声がそのままテープ起こししたみたいに収録された超注目の語録とのこと。その荊叢毒蘂で白隠さんは「万法帰一、一帰何処。州曰、在青州作一領布杉、重七斤」について、「この公案は実によい。生死(=迷い)の根元をたち截り、無明のもとをくだくことのできる話頭である」と述べているそう。「この自己の鏡にむかって、この一鎚をふりあげ、朝も夜もひたすら拈提(ねんてい=公案について考える)するならば、七日たたぬうちに生死も涅槃も、煩悩も菩提も、一鎚に撃砕して全世界が木っ端みじんとなるような大歓喜を味わうであろう」と続きます。  
ちょっと複雑な表現ですが、先生は「白隠は、万法(あらゆる存在=有)と一(絶対に分けられない存在=無)は別々であるが、実は同じモノの表と裏の関係と捉えた」と解説されます。好きと嫌い、肯定と否定、煩悩と菩提・・・二項対立のように見えるものは、みな同じ。そのことを、ひねった紙の表裏で表現した。しかも、ドイツの数学者メビウスが、不可符号曲面の数学的特徴である「メビウスの環」を提唱した100年も前に。そこから発せられる白隠さんのメッセージとは「絶対矛盾をつきつめよ」と先生。  
そうはいっても、凡人が「万法も一も同じ、その矛盾を追究せよ」と言われたところで、何をどうすればよいのか、拈提の方法がわかりません。物事にオモテとウラがある、人の心にも本音と建前がある。そこまでは理解できるけど、突き詰めていったら「全世界が木っ端みじんとなるような大歓喜を味わう」ような境地になれるものでしょうか。  
まあ、私のような、禅学のさわりのさわりをさすっただけの素人は、理屈で理解しようとしがちで、理詰めで考えたところで答えがでないのが禅の公案。仏教徒の誓いの言葉である『四弘誓願文(しぐせいがんもん)』には、  
衆生無辺誓願度(いきとしいけるものを救え)  
煩悩無尽誓願断(煩悩を絶て)  
法門無量誓願学(法の教えを守れ)  
仏道無上誓願成(仏道を完成させよ)  
とあります。白隠さんは順番を少し変えて、  
法門無量誓願学(まず仏教以外のことも含め、一生懸命学びなさい)  
衆生無辺誓願度(それを周囲の人々に説いていきなさい)  
煩悩無尽誓願断(そうすれば煩悩が自然に無くなり、)  
仏道無上誓願成(仏道に達することができる)  
と教えたそうです。利他の精神で日々勤行するその先に、矛盾にとらわれない澄んだ鏡のような心境に近づけるのかもしれません。自分の場合はこうして学んだことを復習し、活字にまとめて発信し続ける、ということなのかな。  
ところで、1154年に刊行された『祖庭事苑』という日本最古の禅語辞典に、宇宙とは「天地の四方を宇という。古往今来を宙という」とあるそうです。宇は空間を、宙は時間を意味すると考えられていたんですね。「虚空」「無始無終」「無前無後」というような表現もされていました。  
禅画によくある、大きな丸を描いただけの「円相」。白隠さんは何万点も禅画を描いているのに意外にも円相は4点ぐらいしかないそうです。あれだけ豊かな筆遣いや表現力をお持ちの白隠さんからしたら、丸を描いて終わり、なんて物足りないに違いありません。それでも数少ない円相には「十方無虚空、大地無寸土」という画賛が添えられています。「虚空もなければ大地もない。ただ清浄円明なる大円鏡の光が輝いている」という意味だそうです。・・・これは、考えようによっては、量子論を取り入れた最新の宇宙物理学によって、「宇宙の始まりは“無”だった」「宇宙が誕生する瞬間、“虚数時間”が流れた」「それによって宇宙の“卵”が大きくなり、急膨張した」「高温・高速度の火の玉状態(ビッグバン)を経て恒星や銀河が出来た」という宇宙の成り立ちを表現しているようにも思えます。  
白隠さんのことだから、夜空を見上げるうちに、「時間も空間もない無から宇宙が始まった」ことを観念的に理解したのではないか・・・などと妄想したくなるほど、思惟ある画賛です。三千世界を彷彿とさせる壮大な宇宙観。科学の力で観測・実証できたとしても、人間自身が認識するものである以上、宇宙イコール自己、と言えなくもない。  
今、読んでいる武藤義一氏の『科学と仏教』に、「釈尊は宇宙の創造神を認めず、内観によって自己を知り、智的直観によって宇宙や人生の全てを成り立たせる法を悟った」とあります。「科学はwhat に答えるもので、仏教はhowに答えるもの」ともあります。となると、“絶対矛盾をつきつめよ”という教えを科学者が実践してきたからこそ、今日の宇宙物理学があるとも言える。白隠さんが現代に生まれ変わったら優れた科学者になっていたかもしれませんね。 
白隠さんの地獄絵

 

最初に登壇されたフランソワ・ラショー氏(フランス国立極東学院教授)は、フランスにおける日本文化研究の第一人者のお一人。現在、京都大学人文科学研究所でも研究活動をされています。老獪な学者さんを想像していたら、意外にもお若い方で、ご自分の体型を“布袋ルック”と自虐的に紹介されるノリのいい方でした。  
ラショー氏が取り上げたのは、白隠さんの書『南無地獄大菩薩』。2年前の渋谷Bunkamura白隠展で初めて観た時、南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経ではなく、なんで地獄の大菩薩?と、まずは言葉の意味に首をひねり、晩年の作というのに小学生のお習字みたいに紙一杯に整列した野太い文字にゾクっときました。でもこのときは、地獄の恐ろしさに対抗するために力をググッと込めて書かれたんだと勝手に解釈していました。  
東海道「原」宿の問屋業・長澤家に生まれた岩次郎(白隠の幼名)は8〜9歳の頃、母親に連れられて行ったお寺の説法で地獄の恐ろしさを教わり、トラウマになった。13歳の頃、上方からやってきた浄瑠璃一座の芝居で、真っ赤に焼かれた大鍋をかぶり焼き鍬を両脇に挟んでもびくともしない日親上人のことを知り、地獄の業火に耐えられる仏力を自ら得ようと出家した、と言われます。「地獄」は白隠さんにとって終生のテーマだったのでしょうか、白隠さんは地獄の閻魔大王を描いた絵もたくさん描いています。  
ラショー氏によると、キリスト教圏にも地獄を描いた絵がたくさんあり、天国の絵はわりとワンパターンなのに比べ、地獄絵図は多種多様。人が、地獄を想像させる痛みや苦しみを現世で経験するからだと。確かに北欧神話のベルセルク(凶戦士)伝説とか、ダンテの神曲に影響されたミケランジェロ「最後の審判」、ロダン「地獄の門」など等、時代や地域を越え、実に多くの地獄が可視化されています。  
それらに比べると白隠さんの地獄絵はどことなくユーモラスです。松蔭寺のお隣り清梵寺が所有する『地獄極楽変相図』は、上からお釈迦様と両脇の普賢&文殊、真ん中に閻魔大王、その左側にはアーチ型の橋を渡るお金持ちそうな人々が描かれているのですが、この人々は、子ども→青年→壮年→老年と、一人の人間の一生を表現しているそう。閻魔様に一番近いところにいる老人、はたしてどんな地獄の沙汰が待っているのか。恵まれた生涯であっても功徳を積まなければ地獄に落ちるよ、というメッセージが込められているそうです。  
閻魔様の下には地獄で様々な拷問を受ける人々が描かれています。ラショー氏は「キリスト教のテーマは地獄から救われること、禅のテーマは自分の心から救われること。己の心の研究なんです」と説きます。  
芳澤先生は『南無地獄大菩薩』の意味を、「地獄と極楽の当体は同じもので表裏一体なものにほかならない」「地獄は単なる懲悪のシステムであるだけではなく、そのまま救済の方便にもなっていたのである」と説きます。白隠さんがその絵の中で、美と醜、地獄と極楽といった対極的なものを一体化させるのは、表裏一体という教えがベースにあるようです。  
そういえばレオナルド・ダビンチの名言に似たような言葉があったっけ。  
美しいものと醜いものは、ともにあると互いに引き立て合う。(レオナルド・ダビンチ)  
白隠さんは、引き立てあう“美醜”をさらに発展させ、“美醜は本来一体”と考えたのかな・・・。  
とにもかくにも、地獄の絵を見てそのような深遠なメッセージを理解できた人が、当時どれだけいたのでしょうか。白隠さんが生きた時代は、五百羅漢や七福神のような愛嬌のある、ゆるキャラみたいなアイコンがブームになっていたようです。また当時は中国からやってきた黄檗宗の僧たちが本場で流行していた“唐様”の書道を持ち込んで、知識層の間では王義之のような大家の書がもてはやされていた。白隠さんはそういう世の中のトレンドをある意味きちんと分析し、わかりやすさや親しみやすさを加味しつつも、画賛や絵の構図によって〈心を識る禅の教え〉を伝えようとした。  
その、白隠画の真意を読み取るリテラシー能力が当時の人々にあったのだとしたら、現代人よりもはるかに教養があったのではないかと想像します。我々は、芳澤先生のような翻訳家がいなかったら、白隠さんのことをただユニークで個性的な書画を描く和尚さん、としか判断できないけれど、考えてみると江戸時代の庶民の識字率は都市部に限れば80%近くあり、当時の国際社会では突出した数字。しかもラショー氏によると「江戸の中期、庶民の関心は地方や海外に向いていた」。富士講や伊勢参りがブームになったのもこの頃です。  
ダビンチの名言の中で一番好きなこの一説を想起しました。  
最も高貴な娯楽は、理解する喜びである。(レオナルド・ダビンチ)  
私は、白隠さんが戦国期や幕末のような革命ルネサンス時代ではなく、日本が比較的穏やかで、人々も文化活動を楽しむ余裕や外界への好奇心を持っていた一方、社会の隙間にさまざまなひずみが生じ、将来に対する漠然とした不安感や厭世観がただよっていた・・・そんな、今の平成ニッポンみたいな時代に生まれた人、というところに面白さを感じます。  
東海道という人・モノ・情報が行き交い、人々は目新しいものに飛びつきやすく、飽きっぽい、静岡人気質そのものという土地に生まれ、その土地で生涯を終えたというのも非常にユニークです。地政学から見て、駿河という土地が白隠さんの業績にどれほどの影響があったのか・・・今、自分が白隠さんを学ぶ根源的な意義がそこにあるような気がします。  
「知るだけでは不十分である。活用しなければならない。意思だけでは不十分である。実行しなければならない。(レオナルド・ダビンチ)」 
諸話 / 延命十句観音経

 

横田氏のお話は、白隠禅師が熱心に広めた『延命十句観音経』という、わずか42文字の短いお経について。  
観世音 かんぜーおん  
南無仏 なーむーぶつ  
与仏有因 よーぶつうーいん  
与仏有縁 よーぶつうーえん  
仏法僧縁 ぶっぽうそうえん  
常楽我常 じょうらくがーじょう  
朝念観世音 ちょうねんかんぜーおん  
暮念観世音 ぼーねんかんぜーおん  
念念従心起 ねんねんじゅうしんきー  
念念不離心 ねんねんふーりーしん  
漢字だけでもなんとなく意味がわかる、やさしいお経ですね。円覚寺では幼稚園児が毎朝唱えているそうです。  
白隠さんが59歳のとき、のちに筆頭弟子となる東嶺さんと出会い、後継者が出来て安心したのか61歳ぐらいから外の世界に視野を広げ、庶民に向けてこのお経をさかんに説くようになりました。「松蔭寺が山奥ではなく、東海道宿場町の街道沿いにあった町のお寺で、庶民の暮らしに身近に接していたから」と横田氏。白隠さんの功績からしたら、大伽藍を擁する大寺院の管首になってもおかしくないのに、白隠さんは生まれ故郷の町のお寺で生涯を送ったのです。おかげで原の町には全国から白隠さんを慕って修行僧や一般参禅者が大挙して押し寄せたんだとか。約250年後のこのフォーラムに700人集まったのですから、十分想像できます。  
白隠さんは75歳のとき、九州のさる藩主に宛て、このお経の功徳を紹介した手紙を書きます。それが「延命十句観音経霊験記」として伝わっています。  
大名は自身の日記で、白隠さんの手紙に、  
「この経を読んで瀕死の重病人が治癒した」  
「さる武将が敵に処刑されそうになったとき、このお経を読んだら敵将の夢に観音が現われ、処刑するなと諌めたため、命拾いした」  
「薄島(すきじま)のお蝶という娘が死んで地獄の閻魔大王に一生の罪科を調べられた。そのとき10歳位の小僧が現れ、たちまち観音様に変身し、“この娘は延命十句観音経を護念して未だに寿命が尽きないから、娑婆へ返して観音経の功徳を衆生に知らせる方が良い”とアドバイス。娘は生き返り、延命十句観音経の功徳を白隠に物語った」  
という摩訶不思議なエピソードが紹介されていたと書き残しています。いくらお経を勧めるためとはいえ、白隠さんが大名に奇跡話の類を説くのかなあと首をかしげたくなりますが、とにかくその大名の日記には、江戸でも白隠さんが説く延命十句観音経が大流行していると書いてあった。庶民がこの手の話を聞きつければ、間違いなくブームになるでしょう。  
横田氏は「このお経を、丹田に力を込めて何度も唱える。その繰り返しの中で、己の心を検証させる。それが白隠さんの言う真の功徳です」と解説されました。霊験記は、このお経に関心を持ってもらうためのきっかけ、という位置づけなのかな。同等で語っちゃぁ申し訳ないんですが、私なんかも地酒の講座で、「この酒は皇室献上酒です」「有名人の○○さんが大量買いしました」なんて“盛ったハナシ”で関心を引いたりします。自分が心底自信を持って勧める酒ならば、きっかけなんてその程度でも十分アリだと思っています。  
東日本大震災の後、被災地のお寺の支援に入られた横田氏は、僧侶が何をすべきか真剣に悩まれたそうです。炊き出しや瓦礫の片付に汗をかく中で、物資以外に届けられるものはないだろうかと。そして、ある人の助言で、延命十句観音経と観音様の絵を色紙に書いて被災寺院に届けたら、たいそう喜ばれた。「避難所で色紙を本尊に見立てて読経したら涙を流して感謝された」「大勢の檀家が亡くなり、本堂も流され、絶望の底にいたときにこの色紙が届けられ、力が湧いてきた」という声も寄せられたそうです。現地の和尚さん方の何よりの励みになったんですね。  
このお話を聞きながら、2011年4月17日に歩いた福島県いわき市の久ノ浜海岸を思い出しました。空襲にでも遭ったかのように、瓦礫一面だった海岸沿いの町・・・そこで出会った男性に「家はすべて流され、これだけがめっかった(見つかった)」と見せてもらったのが、この小さな額絵でした。  
横田氏が経験されたこととは比べ物にもなりませんが、見ず知らずの自分に写真まで撮らせてくれたからには、この、ささいな言葉が家族の思い出として手元に残ったことを、この男性は本当に心の糧にされているんだと胸に迫ってくるものがありました。  
当日配られた延命十句観音経のプリントに意訳が書かれていました。とても丁寧な意訳でしたが、42文字のシンプルなお経ですから、私なりにシンプルに要訳してみました。  
観音さま、  
苦しいときに寄り添い、救おうとしてくださる仏さまの心。それは私たちが本来持って生まれたものなんですね。いろいろなご縁によって、そのことに気づかされます。  
人のために尽くす。それこそが楽しみであり、己を清める生き方です。毎朝、毎晩、仏さまの心に従い、離れないと念じます。  
観音さま(観世音菩薩)は数ある仏や菩薩の中でも、人の声を観る=心で聴くという力を持っていて、何かにすがりたいとき、聞いてもらいたいことがあるときに呼びかけるキーコードのような存在だと解釈しています。でもキリスト教のお祈りで天に向かって「主よ」と呼びかけることとは少し違う。救いとなる仏心は、実は自分の中にあって、自分の心を呼び覚ます、という意味もあるのです。  
世は無常=常にあらず。すべてのものがうつろいゆく世では、人は、ひとりでは生きられない。出合った人とつながり、慈しみ、支え合って生きるしかない。でも人は本来、この世で起き得るどんなことも受け容れる力を持っている。耐えられない試練は与えられない、とも言える。・・・そのことに気づかせてくれるお経だと、私は解釈しています。   
お経を唱えるだけで病気が治る、命が助かるという白隠流のプレゼンテーション、本当にそうかもしれないと信じて懸命に唱えていくうちに、心が浄化されていく作用が確かにあったのでしょう。250年経ってもその作用は十分効くようです。 
 

 

 

 

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