西行の生涯

西行1西行2青年期出家の動機陸奥の旅高野山草庵交友四国の旅西住法師
晩年1晩年2晩年3晩年4鎌倉と西行重源東大寺大仏西行3・・・・

雑学の世界・補考   

西行1

(さいぎょう・元永元年-文治6年(1118-1190))平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。父は左衛門尉佐藤康清、母は監物源清経女。同母兄弟に仲清があり、子に隆聖、女子(西行の娘)がある。俗名は佐藤義清(さとうのりきよ)。憲清、則清、範清とも記される。出家して法号は円位、のちに西行、大本房、大宝房、大法房とも称す。
勅撰集では「詞花集」に初出(一首)。「千載集」に十八首、「新古今集」に九十四首(入撰数第一位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。家集に「山家集」(六家集の一)「山家心中集」(自撰)「聞書集」、その逸話や伝説を集めた説話集に「撰集抄」「西行物語」があり、「撰集抄」については作者に擬せられている。  
秀郷流武家藤原氏の出自で、藤原秀郷の9代目の子孫。佐藤氏は義清の曽祖父の代より称し、家系は代々衛府に仕え、また紀伊国田仲荘の預所に補任されて裕福であった。16歳ごろから徳大寺家に仕え、この縁で後にもと主家の実能や公能と親交を結ぶこととなる。保延元年(1135年)18歳で左兵衛尉(左兵衛府の第三等官)に任ぜられ、同3年(1137年)鳥羽院の北面の武士としても奉仕していたことが記録に残る。和歌と故実に通じた人物として知られていたが、同6年(1140年)23歳で出家して円位を名のり、後に西行とも称した。
その動機には、友人の急死にあって無常を感じたという説が主流だが、失恋説もあり、これは「源平盛衰記」に、高貴な上臈女房と逢瀬をもったが「あこぎ」の歌を詠みかけられて失恋したとある。近世初期成立の室町時代物語「西行の物かたり」(高山市歓喜寺蔵)には、御簾の間から垣間見えた女院の姿に恋をして苦悩から死にそうになり、女院が情けをかけて一度だけ逢ったが、「あこぎ」と言われて出家したとある。この女院は、西行出家の時期以前のこととすれば、白河院の愛妾にして鳥羽院の中宮であった待賢門院璋子であると考えられる。
しかしこれは後代の創作であるが、1988年「西行」で白洲正子が、待賢門院への失恋による出家説を唱え、90年、瀬戸内寂聴が連載を開始した「白道」で続き、91年に辻邦生が連載を始めた「西行花伝」で踏襲したもので、2008年三田誠広も書いている。また同書で瀬戸内は、美福門院説もあるとしているが、典拠不明である。五味文彦「院政期社会の研究」(1984)では恋の相手を上西門院に擬しているが、根拠薄弱である。
他にも、西行の生涯を知る上で重要な書物の1つである「西行物語絵巻」(作者不明、二巻現存。徳川美術館収蔵。うち、一巻は、阿波蜂須賀家に伝来し、2004年に閉館した萬野美術館に所蔵されていた。)では親しい友の死を理由に北面を辞したと記されている。
出家後は心のおもむくまま諸所に草庵をいとなみしばしば諸国をめぐり漂泊の旅に出て多くの和歌を残した。讃岐国に旧主崇徳院の陵墓白峰を訪ねてその霊を慰めたと伝えらえ、これは後代上田秋成によって「雨月物語」中の一篇「白峰」に仕立てられている。なお、この旅では弘法大師の遺跡巡礼も兼ねていたようである。また特に晩年東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うために陸奥に下った旅は有名で、この途次に鎌倉で源頼朝に面会したことが「吾妻鏡」に記されている。
年次に従って言えば、出家直後は鞍馬などの京都北麓に隠棲し、天養初年(1144年)ごろ奥羽地方へはじめての旅行。久安4年(1149年)前後に高野山(和歌山県高野町)に入り、仁安3年(1168年)に中四国への旅を行った。このとき善通寺(香川県善通寺市)でしばらく庵を結んだらしい。後高野山に戻るが、治承元年(1177年)に伊勢二見浦に移った。文治2年(1186年)に東大寺勧進のため二度目の奥州下りを行い、伊勢に数年住ったあと河内弘川寺(大阪府河南町)に庵居。建久元年(1190年)にこの地で入寂した。かつて「願はくは花の下にて春死なん、そのきさらぎの望月のころ」と詠んだ願いに違わなかったとして、その生きざまが藤原定家や僧慈円の感動と共感を呼び当時名声を博した。
西行の弟子とされた西住(さいじゅう)は晩年現在の山深い石川県加賀市山中温泉西住町に辿り着き住み着いたと伝えられ、その地の名となっとされ、昭和30年4月1日以前は江沼郡東谷奥村であった。西住の墓とされる石碑がある。また加賀市八日市町には「都もどり地蔵」の石碑があり、この地で西行と別れたとの伝承がある。西住の地の墓には建久4年3月建立と刻まれ、並ぶ別の墓は1954年(昭和29年)3月建立、「西住霊碑」「西住法師の元俗名は、源次郎兵衛なり...西行が西住を従え北国行脚の際、文治4年8月遂に寂す。是よりこの地を西住と称す。...」と刻まれる。
評価
「後鳥羽院御口伝」に「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく出できがたきかたもともにあひかねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり」とあるごとく、藤原俊成とともに新古今の新風形成に大きな影響を与えた歌人であった。歌風は率直質実を旨としながらつよい情感をてらうことなく表現するもので、季の歌はもちろんだが恋歌や雑歌に優れていた。院政前期から流行しはじめた隠逸趣味、隠棲趣味の和歌を完成させ、研ぎすまされた寂寥、閑寂の美をそこに盛ることで、中世的叙情を準備した面でも功績は大きい。また俗語や歌語ならざる語を歌のなかに取入れるなどの自由な詠みくちもその特色で、当時の俗謡や小唄の影響を受けているのではないかという説もある。後鳥羽院が西行をことに好んだのは、こうした平俗にして気品すこぶる高く、閑寂にして艶っぽい歌風が、彼自身の作風と共通するゆえであったのかもしれない。
和歌に関する若年時の事跡はほとんど伝わらないが、崇徳院歌壇にあって藤原俊成と交を結び、一方で俊恵が主催する歌林苑からの影響をも受けたであろうことはほぼ間違いないと思われる。出家後は山居や旅行のために歌壇とは一定の距離があったようだが、文治3年(1187年)に自歌合「御裳濯河歌合」を成して俊成の判を請い、またさらに自歌合「宮河歌合」を作って当時いまだ一介の新進歌人に過ぎなかった藤原定家に判を請うたことは特筆に価する(この二つの歌合はそれぞれ伊勢神宮の内宮と外宮に奉納された)。しばしば西行は「歌壇の外にあっていかなる流派にも属さず、しきたりや伝統から離れて、みずからの個性を貫いた歌人」として見られがちであるが、これはあきらかに誤った西行観であることは強調されねばならない。あくまで西行は院政期の実験的な新風歌人として登場し、俊成とともに千載集の主調となるべき風を完成させ、そこからさらに新古今へとつながる流れを生み出した歌壇の中心人物であった。
後世に与えた影響はきわめて大きい。後鳥羽院をはじめとして、宗祇・芭蕉にいたるまでその流れは尽きない。特に室町時代以降、単に歌人としてのみではなく、旅のなかにある人間として、あるいは歌と仏道という二つの道を歩んだ人間としての西行が尊崇されていたことは注意が必要である。宗祇・芭蕉にとっての西行は、あくまでこうした全人的な存在であって、歌人としての一面をのみ切取ったものではなかったし、「撰集抄」「西行物語」をはじめとする「いかにも西行らしい」説話や伝説が生れていった所以もまたここに存する。例えば能に「江口」があり、長唄に「時雨西行」があり、あるいはごく卑俗な画題として「富士見西行」があり、各地に「西行の野糞」なる口碑が残っているのはこのためである。
逸話
出家 / 出家の際に衣の裾に取りついて泣く子(4歳)を縁から蹴落として家を捨てたという逸話が残る(史実かどうかは不明だが、どうも仏教説話としてオーバーに表現されているという意見もある。外部リンクに関連リンクあり)。
旅路において / 各地に「西行戻し」と呼ばれる逸話が伝えられている。共通して、現地の童子にやりこめられ恥ずかしくなって来た道を戻っていく、というものである。松島「西行戻しの松」/秩父「西行戻り橋」/日光「西行戻り石」。
高野山にて修行中、人恋しさの余り人骨を集めて秘術により人間を作ろうとしたが、心の通わぬ化け物が出来上がったため恐ろしくなり、人の通わぬ所にうち棄てて逃げ帰ったという逸話がある。このように、西行の逸話にはその未熟さを伺わせるものが多く存在する。
源頼朝との出会い / 頼朝に弓馬の道のことを尋ねられて一切忘れはてたととぼけたといわれている。頼朝から拝領した純銀の猫を通りすがりの子供に与えたとされている。
晩年の歌 / 西行は、以下の歌を生前に詠み、その歌のとおり、陰暦2月16日、釈尊涅槃の日に入寂したといわれている。享年73。
ねかはくは花のしたにて春しなんそのきさらきのもちつきのころ(山家集)
ねかはくははなのもとにて春しなんそのきさらきの望月の比(続古今和歌集)
花の下を"した"と読むか"もと"と読むかは出典により異なる。なお、この場合の花とは桜のことである。  
 
西行2

青年期
西行は俗称を佐藤義清(のりきよ)という。憲清、則清、範清とも書く。生まれたのは、1118年(元永元年)で、父は左衛門尉佐藤康清、母は監物源清経の女(むすめ)というのが今日定説として認められている。なお、義清には仲清という弟がいたとされる。または兄との説もある。
佐藤家は、奥州藤原氏とも祖先を同じくする、鎌足以来の藤原氏の傍流である。藤原北家の血を引き、俵藤太の名を得て武勇を誇る家系である。藤原秀郷を祖として、東国に勢力基盤を形成した。曾祖父から代々、中央においては皇居の警備、行幸の供奉などを司る官職を務め、地方においては国司を務めていた。
西行の父方、佐藤家は政治面からみると下級官吏であったが、経済面では一族は東海から近畿・伊勢にわたった私有地を有する富裕な地方豪族であった。
一方、母の家系では祖父の清経が今様や蹴鞠の名手として有名であり、当時知られた風流人であった。遊里や遊興の世界にも通じていたのである。義清本人もまた、蹴鞠の名手であったという。
こうして、西行には父方の「武」、母方の「風流」や「遊び」、ひいていえば「文」という、二つの対照的な質、つまり文武が受け継がれたと考えられる。
1135年(保延元年)、十八歳で買官を意味する「成功(じょうごう)」によって、義清は兵衛尉に任じられた。そして主家徳大寺家の関係もあって鳥羽院の北面の武士として仕えるようになった。現在知ることのできる義清時代の作品に、
京極大政大臣中納言と申しけるをり菊をばおびただしきほどにしたてて、鳥羽院にまゐらせ給ひたりけり。鳥羽の南殿の東面の坪に、ところなきほどに植ゑさせ給ひたりけり。公重の少将、人々すすめて菊もてなされけるに、加はるべきよしありければ、
君が住む宿のつぼをば菊ぞかざる ひじりのみやといふべかるらむ (山家集上秋510) と義清が歌ったとされている。
これは義清が何年かの歌修練を経たあとの歌と考えられ、時と場合にふさわしい賀歌に上手に仕上っている。これが現在、残されている西行の最初の作品とされ、歌人西行の出発といえる。
この歌は、西行が義清と呼ばれていた時代につくったものである。北面の武士として、院の警護を仕事としていた時代である。この歌がのっている「山家集」は、西行自身が選んで編纂したものである。
京極太政大臣(中御門宗輔(なかみかどむねすけ))が中納言であった時、菊をたくさんに、つくりあげて、鳥羽院(下記参照)にさし上げられた。その菊を鳥羽離宮南殿の東面のお庭にいっぱい植えさせられた。公重の少将(下記参照)が人々にすすめて菊の花を賞翫する和歌を詠ましめたが、私(西行)にもそれに加わった方がよいと言われたので、
「君(鳥羽上皇)の住んでいられる宿の庭を菊が一ぱいにかざることだ。これでは、そこを仙(ひじり)の住んでいる宮、仙洞御所と申し上げるのが当然のことであろうよ。」
仙(ひじり)−聖とも書く。高い徳を備えて天下を治める人。 仙の宮−高い徳を備えて天下を治める人(天皇)が住む宮。
仙洞御所(上皇の御所)と指す。仙洞(せんとう)は仙人の住む清浄界の意味がある。
菊と仙 /菊は中国から渡来してきた花である。中国では菊に関わる伝説に長寿の花としての話が多い。
中国の南陽(いまの河南省)の甘谷の水は、この谷の上に咲く大菊の滋液を含んでおり、これを飲む人は長寿を保つという伝承がある。周の穆王(ぼくおう)の侍童がここに流され、その菊を飲んで不老不死になったと伝えられ、菊慈童、慈童仙人といわれた。
日本では初め、薬用として用いられ、それが観賞用として文芸作品に出てくるのは10世紀初頭からであり、「古今和歌集」や「源氏物語」にみることができる。中世の宮廷では九月九日に「重陽の宴」と呼ばれる菊花の宴が行われた。
後鳥羽天皇(1180-1239)は特に菊を愛し、衣服、車、輿(こし)、刀などをその文様で飾り、それが後の天皇方が踏襲したところから皇室の紋章として使われるようになったという。
出家
出家の心が芽生えてき、思い悩み、そして出家を決意するに至っても依然として揺れる心を詠った歌をニ首あげる。
鳥羽院に出家のいとま申し侍るとて詠める
惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは 身を捨ててこそ身をも助けめ (山家集雑)
いくら惜しみ執着したとて、とうてい最後まで惜しみ通すことのできる浮世であろうか、そうではない。そのような世にあっては俗なこの身を捨てて出家してこそはじめてこの身を助けよう。
世をのがれけるをり、ゆかりありける人のもとへいひおくりける
世の中をそむき果てぬといひおかむ 思ひ知るべき人はなくとも (山家集雑)
この歌は「ゆかりありける人」をどう考えるかによって、解釈がいろいろとかわってくる。これを世間一般の人、友人とありふれた関係の人であるとするならば、「誰にともなく告げた別れの言葉」となるであろう。特別な私的関係をもつ人、恋人のごとき人とするならば、その冷酷さを暗に怨嗟したものである。
私は俗世間を背き切って出家したと言い残そう。私のこの行い、この心のほんとうのところを理解してくれる人はなくても。
この現世をできるなら惜しみ生きたいという心と「身を捨てる」ということで、更に大きく身を助け、積極的に生きていこうという揺れ動く真情を吐露している。
出家直前の心境
出家直前の心境歌をあとニ首、記しておく。
はじめの歌は、「出家を控え、期待感で落ち着かない心を春の霞に例えたもの」、あとの歌は、「出家の不安を断ち切り、自分で自分を後押ししているもの」です。新しい世界へ飛び込もうとしている、期待と不安が織り交ざった義清、23歳の春である。
世にあらじと思ひ立ちけるころ、東山にて人々「霞ニ寄スル述懐」といふを詠める。
そらになる心は春の霞にて 世にあらじとも思ひ立つかな (山家集雑)
私が俗世を離れようと思い立ったちょうどそのころ、東山に人々が集まって、「霞に寄せるおもい」を詠おうという会があった。そのときの歌、
濁世を厭い、浄土を願って出家しようとして、そわそわと落ちつかなかった心は、春の霞と同じであった。しかし、いま、霞立つように、私の心も空高く舞い上がり、この世の外に出ようと思い至った。やっと、こう思うようになったことよ。
同じ心を
世を厭ふ名をだにもさは留め置きて 数ならぬ身の思ひ出にせん (山家集雑) 同じく、俗世を離れようと思い立った心を詠った。
私は世の人々の記憶にとどめるようなことは、してこなかった。だから、せめて「世を厭う人」であったという、この名だけでも、後の世に留めおいてもらいたい。人の数にも入らないわが身を世の人に思い出してもらう糧にしよう。
この現世をできるなら惜しみ生きたいという心と「身を捨てる」ということで、更に大きく身を助け、積極的に生きていこうという揺れ動く真情を吐露している。
上記で紹介したような、荒っぽいといってよい程でむきになった作品とは対照的に、つぎのような歌も詠んでいる。
讃岐の院、位におはしましけるをりの、みゆきの鈴の奏をききてよみける ふりにける君がみゆきの鈴のそうは いかなる世にも絶えずきこえむ (山家集雑)
讃岐の院=崇徳天皇/讃岐(さぬき)は崇徳天皇が流されたところ
位におはしましけるをり=天皇の位に在位中。(流される前) をり=旧仮名使いおり
みゆき=行幸天皇、上皇などが外出することの尊称
奏=行幸の前駆に鈴を鳴らすこと(?) 鈴の下賜を請う奏聞(天皇に申し上げること)(?)
天皇が行幸の時に使われた鈴の奏はいかなる世の中にも絶えず聞こえるでしょう
ふりにける=「古り(古くなってしまった)」と「振り」をかけている
賀茂の臨時の祭かえり立の御神楽、土御門内裏にて侍りけるに、竹のつぼに雪ふりたりけるを見て うらがへすをみの衣と見ゆるかな 竹のうら葉にふれる白雪 (山家集冬)
かえり立(かえりだち)=賀茂神社、石清水八幡宮などの祭礼の後、奉仕した使い、舞人たちが天皇の前に出て歌舞の遊びをすること
土御門内裏=平安京土御門の南、鷹司の北にあった鳥羽・崇徳時代の天皇の宮殿
竹のつぼ=竹林のある中庭 うらがえす=表、裏をひっくり返す
をみの衣=小忌の衣白い布に山藍で模様をすり出した神事用の服で神楽に着たもの
うら葉=末葉草木の先端の葉 ふれる=「降る」に存続の助動詞「り」の連体形がついたもの
時代背景
西行が生まれるころまでの約20年、つまり11世紀末から12世紀の初めにかけてはどのような時代であったろうか。 まず政治面からみていくと、白河法皇がその権力を強固のものとした。一方、平安時代、主流の位置にあった関白藤原氏の力は相対的に弱まった。白河法皇の主戦略はこの時期台頭してきた武士勢力をうまく使うことにあり、源氏と平氏を競わせることによって院政の基盤を確立していった。西行が生まれた時期は僧兵をも含めたこれら諸勢力、新旧の勢力がつばぜり合いを繰り広げていた、まさに激動の時代の最中に位置するのである。
院政の成立
1086-1129白河法皇による院政始まる。43年間にわたる白河院政の時代
1115-1119白河法皇、毎年熊野に行幸。この時期、権力、大いに強まる
僧兵の勢力増大、武士階級の興隆
1095延暦寺僧徒、日吉神輿を奉じて入京
1098源義家、昇殿を許さる
1108平正盛、源義親を討って武名を揚げる。源氏・平氏が勢力拮抗
1108延暦寺僧徒、再度日吉神輿を奉じて入京せんとするが、源平両氏をしてこれを防ぐ
1113平忠盛をして興福寺を、源光国をして延暦寺を討たしむ
経済は、荘園制度を基盤として成立していた。荘園とは、奈良時代末以降、貴族や寺社が諸国に私的に領有した土地をいう。平安中期になると大規模な開墾と地方豪族・農民からの寄進によって飛躍的に増大した。そして、不輸不入の特権(=租税の免税、国衙の役人を荘園内に入らせない)を得て貴族・寺社の経済的基盤となった。
国はやっきになるが、荘園の寄進はつづく
1091源義家への荘園寄進を禁ず
1099この頃、成功(じょうごう)=売官売位多し
1108新立荘園の停止を命ず
1111荘園記録所を開設
1119法皇の命で関白忠実の荘園が停止
一方、社会は天変地異がつづき、世情は荒れ、まさに混沌と混乱の時代であった。そのなかにあっても文芸大衆化の波が生まれ、遊びとしての芸能は社会に広がっていった。
社会不安
1092京都大火
1096大地震、近江の勢多橋破壊
1098京都、またもや大火
1099近畿大地震
1106京都大火、疫病流行
1107京都大火
1114博戯を禁ず
1119京都に強盗横行
芸能・文芸の大衆化
1096清涼殿にて田楽を行う
1106京都にて田楽流行
1115白拍子の初め
家系の社会的位置
西行の九代前の祖先である藤原秀郷は940年(天慶三年)、武蔵国(いまでいう東京都と埼玉県の一部、神奈川県の一部)の国司に任じられている。
西行の父は左衛門尉であったが、務める左衛門府は、六衛府(六つの役所)の一つで、右衛門府とともに宮中の諸門の警備に当たった役所である。その長官が左衛門督で、その三等官が左衛門尉である。通常は従六位以下であり、五位にあたる者は左衛門大夫と呼ばれた。
母方の祖父は源清経は、1093年に監物に任じられている。この監物は中務(なかつかさ)省に属し、大監物2人、中監物4人、少監物4人で大蔵省などの諸官司の倉庫の出納を監察し、宮中に保管されているそれらの鍵を受領・返納していた。
今様
平安中・後期から鎌倉時代にかけて流行した歌謡。古様(神楽歌、催馬樂など)対する当代最新流行歌の意味。院政期に全盛期を迎えた。
源清経(母方の祖父)は1096年ごろ美濃国の傀儡子(くぐつ歌に合わせて人形を操る芸人)の目井(めい)を都に呼び、今様を人々に教えさせた。また目井の養女の乙前は後白河天皇(1127-1192、在位1155-1158)に今様を教授したといわれている。
北面武士
院の御所の北面を詰所として、上皇の警備や御幸の供奉などにあたった武士のこと。
院北面は、11世紀末の白河院政開始後にまもなく創設された院司(いんじ上皇に仕えて、院中の庶務を掌る職員)の一つで、当初は雑多な近習・廷臣が雑事を奉仕していた。その後、その中で次第に武士の占める比重が大きくなっていった。やがて諸大夫以上の家柄の者から成る上北面と衛門尉・兵衛尉等を多く含む下北面との別ができるに至った。この下北面に多くの武士が登用され、北面武士と呼ばれたのである。
院中の警護機関としては既に御随身所・武者所があったが、北面はそれらの武力的要素を吸収して院の親衛隊としての性格を強めていく。
西行(義清)は,出家するまでその一員として、若き日を過ごしたのである。

春にあげました「散る桜残る桜も散る桜」に関しては、数々の情報やご意見をお寄せいただき、感謝しております。
良寛さんの歌だとの情報が一番多かったことをここに記しておきます。また、先の戦争(第2次世界大戦)のことにふれられたお便りもあり、歌の深さとともに歌の歩みも考えさせられました。ほんとうにありがとうございました。
歌を自分のなかに入れ、咀嚼していく過程は、その歌を読まれる方の歴史、環境、考え方、さらに生き方によって大きな違いがあり、その解釈も多様な面を見せてくれます。このことはテーマとしてたいへん魅力的なものですが、それを書き上げるにはかなりの力量と人生経験が必要と考えます。このメールマガジンではこのことには深入りせず、詠まれた時代が割にはっきりしている歌をご紹介するとともに、西行が生きた時代を理解するうえで少しでもお役に立てる情報を提供することに重心を置くことにします。
義清時代の西行は、どんなところで仕事をしていたのでしょう
出家と対比される現世とはどのようなものだったんだろうと興味があり、いろいろ調べ、考えてみました。今回は、まず、義清が務める「院」とはどのようなものか、義清の主家(ご主人の家)である「徳大寺家」はどれほどの位置にあるかを見てみます。
義清は徳大寺家の推挙があって、鳥羽院のおそば近くで仕事ができたわけで、義清の身分では考えられない環境に身をおけたのです。
院政
引退した天皇が上皇になり、前天皇(あるいは元天皇)という権威をもって国政の最高権限を握り、国を統治する。摂関政治(*1)の藤原氏より権力を取り戻し、義清が院に務めるころは完全に権力を掌握していた。
摂関政治(*1)藤原氏直系がその娘を天皇の后にし、その生んだ子を天皇とする。天皇の祖父という地位をもって天皇の政治を代行し、実質的に国を支配する。
鳥羽院政は、自らの意向で人事を行い、その過程で貴族層の再編成をいっそう進めた。そして、この時代になると貴族の家格がほぼ出来上がり、その格によって、官司の世襲や官職の昇進コースが定まる、つまり、家格によって固定化された。
徳大寺家
公成(きんなり999-1043)の娘の茂子が、白河天皇の母。
公実(きんざね1053-1107)の妹の苡子が鳥羽天皇の母。
公実の娘、璋子(たまこ)が鳥羽天皇の中宮になってからは勢威がさらに高まった。
公成の父、中納言実成(さねなり975-1044)が衣笠山の南西麓に山荘を構え、ここに寺院を営み、これを徳大寺と呼んでいた。
これらの情報からすると、義清は同じ家柄の人達に比べ、恵まれた立場におり、その環境に不服はなかったと想像されます。それよりかえって、その生活を断ち切るのに躊躇を感じていたでしょう。
みやびな宮廷生活をかいまみ、時には歌を詠み、蹴鞠もご披露したであろう。美しき女官達にも間近に接しられたかもしれない。歌で詠まれている「惜しむ」とか「捨てる」とかの背景には、このような華やいだ生活が私には見え隠れします。
しかしながら、この魅力的な世界にも何かやりきれぬものを義清は感じていたのかもしれません。あるいは、この捨てがたい世を離れざるを得ない何か別の要因があったんだとも考えたりもします。
私に分かることは、捨てるに捨てきれぬ環境があって、それでも出家という道を進もうとする悩める若き西行が存在したということ事実です。
最後にもう一首、紹介させてください。義清(西行)の心境に思いをはせるとともに、この一首に注目していただきたい点は、この歌が「よみ人しらず」になっているところです。公の歌集、特に天皇の命でつくられた勅撰集では、身分低き者は作者の名が記載されず、「よみ人しらず」となります。
それなら、その後の「勅撰集」にはなぜ西行の名がでているのでしょう?それは出家後だからです。出家すると、「西行法師」となり、僧侶の立場で名が記載されるのです。
こんなことが出家の要因になったとは考えにくいですが、自分の名が後の世に残る、西行という歌人がこんな歌を詠んだという事実を残したいと思う気持ちがあったと考えるのは私一人でしょうか。
身を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人こそ捨つるなりけれ (詞花和歌集春十雑下)
なお、これは勅撰集に初めてとられた歌である。「よみ人しらず」になっている。
俗世をすて身をすてて出家した人を世の人は身(世)をすてたと言うが、そうではなく、それは身を救ったのである。俗世をすてず、出家をせずに、あくせくしている人の方が、無明の生活をしていることになるので、大切なこの受けがたい人身を捨てたことになるのだ。
(別訳)俗世をすてて形だけ出家となった人が、本当にうき世を捨てたのではない。捨てないで俗世に残っている方が、その人の心の持ち方、生活のしかたによっては、内容的にはかえって、形式的に出家した人よりも真に世をすてたことになるのである。
義清は疲れていた
佐藤家の経済的基盤は荘園にあった。
現在の職も荘園からの収入で買ったものでありました。義清は佐藤家の代表として佐藤家の期待を一身にあびており、それに応えるべく頑張っていたと想像されます。そもそも荘園とは国の土地を私有化してしまったものです。自ら開墾の指揮をとったり、何らかの方法で土地を手に入れ、保持してきたのです。それが代々つづいて現在の基盤になっているのです。荘園経営には、中央の高位貴族家に寄進する、奉仕するなどの政治的な手段も必要でした。荘園維持に奔走してきた訳です。義清には、この祖先から引き継いだ資産を守りぬかねばならないという荷がどっと肩に背負わされたのです。佐藤家の寄進先、中央へのルートは摂関家および徳大寺家であったと考えられます。その後ろ盾によって国に税を払わなくてよい、実入りのよい体制をつくりあげてきました。それが佐藤家の基盤となっていたのです。
テリトリーの争いが激化してきました。
産業が発達し、耕地が拡大し、人口が増大するに従って、テリトリーの分捕り合戦、つまり、利害の争いは激しさを増していきました。国有地と荘園の間、荘園同士、所領の線引きなどの境界をめぐる争いが全国各地で多発しました。中央権力にとりいってつくりあげた人脈を使い、裁定を有利にしたり、調整してもらう政治的手段を講じますが、なかなかそれだけでは収まりません。武力衝突も当然、起こりました。佐藤家にしても荘園を寄進したり、徳大寺家という権門勢家に京侍として奉公するなどの手を打ってきましたが、争いが激しくなるに従い、武力に訴えることも多々出てきました。特に、義清の弟である仲清は血気盛んな人物であったようで、境界の杭を抜いてくるようなこともあったらしいです。
困ったことに隣りは院領の荘園。
「紀伊国の田中庄は佐藤一族が開発した所領で、在地領地として荘園経営にあたって来た。この古い歴史をもつ田中庄に対して、すぐ南隣りに荒川庄が新設されたのは、1126年-1131年のころ、行尊僧正によって行われた。(一部省略)この新たに設立された荒川庄と佐藤一族の田中庄とには境界をめぐる争いが起こり、絶えることがなかった。この荒川庄が行尊僧正から鳥羽上皇に寄進され、−−」鳥羽上皇は義清のお仕えする先、その鳥羽院に愛され信頼されていた義清は苦しい立場に追いこまれました。上皇にとっては、このような一地方の下々の争いごとは耳に入りませんし、関心もないことですが、裁判などで表ざたともなればどうなるかと義清も心穏やかではありません。この諍いは鳥羽院には些細なことでも佐藤家にとっては一大事です。また、この田中庄は徳大寺家にとっても捨てがたい価値を持っていたはずです。佐藤一族の期待を背負った義清は鳥羽院さらに徳大寺家との関係で悩み続けたと考えられます。
義清が接していた同世代
崇徳天皇/白河法皇は徳大寺家藤原公実(きんざね)の娘・璋子(しょうこ)を養女として育てた。これを摂関家藤原忠実(ただざね)の嫡男・忠通(ただみち)の室としようとしたが、忠実は辞退した。
そこで白河法皇は、1118年、この璋子を鳥羽天皇の中宮として入内(じゅだい)させた。璋子はその時、18歳。お腹に子がいたとも言われている。
翌年、璋子は1119年に顕仁(あきひと)皇子を生む。この皇子がのちの崇徳天皇である。1119年は義清が生まれた翌年。
ところで辞退した藤原忠実は白河法皇によって1120年に事実上、罷免された。
1123年、白河法皇は、鳥羽天皇を退位させ、5歳の顕仁皇子を天皇の位につけ、崇徳天皇とした。
崇徳天皇11歳のときに白河法皇が死に鳥羽上皇の院政が始まる。鳥羽上皇は崇徳天皇を自分の子とは思っていなかったようだ。これがその後の世襲に影響していく。このことはニ期以降に述べます。
なお、白河法皇に職を追われた藤原忠実は、鳥羽上皇によって復帰した(1132年)。
1139年、崇徳天皇22歳のとき、美福門院(びふくもんいん藤原長実の娘・得子(とくこ))が鳥羽上皇の子、躰仁(なりひと)親王を生む。崇徳天皇の弟にあたる。
1141年、今度は崇徳天皇が鳥羽上皇によって退位させられ、この鳥羽上皇の子躰仁親王が2歳で天皇になる。これは西行が出家した翌年である。崇徳天皇23歳のときである。
西行の義清時代、鳥羽上皇と崇徳天皇との間には確執があったことは十分、予想される。義清は院に仕えながらも、崇徳天皇の行幸等にもお供したようだ。なお、天皇を退位すると一応、上皇になるが、実権は鳥羽上皇にあり、鳥羽院政である。
藤原俊成/俊成(しゅんぜい)は1114年の生まれ、義清(西行)よりは4歳年上。平安末期から鎌倉初期にかけての歌人であり歌学者である。五条三位と称された。義清よりは大幅に位が上の貴族である。
俊成は歌界での中心人物になっていく。のちに後白河院の命により「千載和歌集」を撰進した。古典主義的立場に立ち幽玄の理念を樹立し、王朝和歌を総合的に継承するとともに中世和歌の出発点を築いた。
俊成の子はあの藤原定家である。俊成は歌を専門にすることができる家に生まれたのに対し、義清は佐藤一族の棟梁として雑務に追われる身でもあった。俊成は歌界のエリート。
藤原頼長/1120年-1158年。義清より2歳年下。摂関家藤原忠実のニ男。のちに左大臣までのぼりつめる。兄の忠通と対抗し、氏長者(うじちょうじゃ)となったが、その後、鳥羽法皇の信任を失い、崇徳上皇と組んで挙兵。
頼長は政界の中心人物となっていく道をあゆんでいた。なお、頼長は和漢の才にも富んでいた。また、義清の主家徳大寺家との関係も強く、1133年に徳大寺家藤原実能(さねよし)の娘幸子と結婚している。
平清盛/あの平清盛も同時代の人で1118年生まれ。義清と同じ歳。直接の交流があったかどうかは定かではないが、院には出入りする清盛と会っていたことは十分予想される。こちらは武家の超エリート。
 
出家後、陸奥の旅に出るまで

出家の動機
まず、出家したことへの反響を記し、その要因について著名な二人の見解を紹介する。 藤原頼長(脚注*1)の日記「台記」に、「俗時より心を仏道に入れ、家、富み、年若く、心愁ひ無きも、遂に以て遁世せり。人これを歎美せるなり」との文に述べられているように、西行は23歳で意外性をもたれて出家する。
藤原頼長/1120-1158年。西行より2歳年下。摂関家藤原忠実のニ男。のちに左大臣までのぼりつめる。兄の忠通と対抗し、氏長者(うじちょうじゃ)となったが、その後、鳥羽法皇の信任を失い、崇徳上皇と組んで挙兵。頼長は政界の中心人物となっていく道をあゆんでいた。なお、頼長は和漢の才にも富んでいた。また、義清の主家徳大寺家との関係も強く、1133年に徳大寺家藤原実能(さねよし)の娘幸子と結婚している。なお、徳大寺家は西行が義清といった時代のご主人の家である。
出家の原因についての古くからの諸説
仏教に深く帰依するに至った「道心」説
人生のはかなさが身にしみての「人生無常」説
「源平盛衰記」が語るところの申すも恐れある方への「悲恋」説
などがある。
小林秀雄は、その著書「無常といふこと」(参照*2)の中の「西行の章」で
西行の
世にあらじと思ひたちけるころ
世をいとふ名をだにもさはとどめおきて
かずならぬ身のおもひでにせむ
という詠歌を
「これらは決して世に追いつめられたり、世をはかなんだりした人の歌ではない。出家とか遁世とかいう曖昧な概念に惑わされなければ、一切がはっきりしているのである。自ら進んで世に反いた二十三歳の異常な青年武士の世俗に対する嘲笑と内に湧き上がる希望の飾り気のない鮮やかな表現だ。彼の眼は新しい未来に向かって開かれ、来るべきものに挑んでいるのであって、歌のすがたなぞにかまっている余裕はないのである。」
という。
窪田章一郎「西行の研究」によると、
「(出家の)根本にあったものは、−省略−よりよき生き方をしたいという人間の純粋な希望、要求であり、出家という行為は自身を自由にし、束縛から離つことであり、自己を遂げ、自己を解放することに価値ある生き方を求めることである。そこには政治的な絆や恋愛の苦しみから自己を救うという消極的な自己救済と、作歌と修業という積極的な自己救済」
の二面があるとする。
先んじて西行を「自意識」の人ととらえた小林秀雄や、また窪田章一郎、のこれらの説のように、現在の大勢は、西行の出家は外的な要因に動かされたことがあっても、より根本的には「より新しい自分を発見し、より自己を高める」という思いがあったと考える。  
動揺
西行は出家という形をとりながらも、依然として世俗の人とのつながりを持ちつづけ、また強い宗教的志向を持ちながら、煩悩ともいえる和歌に心とらわれている。出家後も、二つの世界で揺れ動く心に悩まされることになる。
この時期の心を詠ったものに次の歌がある。
月にいかで昔のことを語らせて 影にそひつつ立ちも離れじ
月に何とかして昔のことを語らせて、影の形に添うように、月影に昔の面影を思い浮かべて立ち離れないでおこう。
雲につきてうかれのみゆく心をば 山にかけてをとめむとぞ思ふ
ともすれば、雲にくっついて雲のようにふらふらとさすらいたいと思うこの心を山にひっかけてしっかりととどめたいと思う。
捨ててのちはまぎれしかたは覚えぬと 心のみをば世にあらせける
俗世を捨てて出家してから後は、世俗に混じって暮らすという点は(世事に拘泥して暮らす点は)なくなったと思うが、その身は、ともかくとして、心だけはまだ本当は世俗を離れないで俗世においていることだ。
山家の生活をしてゆこうと改めて決心したりはしているが、やはり世俗のことが心から離れない西行であった。  
待賢門院の女房たち
詠われている世界は、新生活に入った当初の修行者としての意気込んだ心や、現実への悲しみ、怒りの心が描かれている。この時、世の中では、崇徳院の退位、待賢門院(脚注*2)の落飾(脚注*3)、崩御といった一連の出来事は起きていた。西行とは縁の深い人々のこの変化推移は西行の心にも大きな変化をおよぼしていった。
出家前から強い関心を持っていた現実社会への失望は、西行の孤独感を深めるものであった。待賢門院の女房たちの出家後、彼女たちとの交わりで、この世の無常をいよいよ強く感じ、仏道修業の心を新たにした。そのときの歌、
待賢門院中納言の局、世に背きて小倉山の麓に住まれける頃まかりたりけるに事がらまことにいうにあわはれなりけり。風のけしきさへことに悲しかりければ書きつけける。
山おろす嵐の音のはげしさを いつならひける君がすみかぞ
待賢門院中納言の局(脚注*4)が出家して小倉山の麓に住んで居られた頃訪ねたのですが、そのご様子がまことに上品でまた心に深くしみてくるあわれがありました。風の吹く様子さえも、特別にかなしかったので、書きつけた歌です。
山から吹きおろす寒い嵐の音のはげしさにいつの間に堪えて、こんな寂しい生活に住み慣れるようになったのですか、これがあなたのお住家なのですか
待賢門院/1101-1145年/鳥羽天皇の中宮で、崇徳天皇・後白河天皇の生母/徳大寺家・藤原公実(きんざね)の娘/名は璋子(たまこ)
落飾/貴人が髪を剃り落として仏門に入ること
待賢門院中納言の局/待賢門院に仕えていた女房/女性の名は、その身内の位で呼ばれていた/中納言であるから高位の身分の方である  

世の中の無常は、西行を初度の陸奥の旅へと向かわせることとなる。陸奥の旅は、都を捨て、僧として厳しい修行をし、旅に身を置き、自らを試すことであった。しかし、内部にはやはり能因法師(脚注*5)の歌枕(脚注*6)の跡を辿るという「数奇」の心もあり、宗教的志向と文学的志向との両面をもったものであった。
なお、この時期は京都に留まっているのみではなく、伊勢へ旅したとされる。その頃の歌と推定されているものを二首紹介する。
世をのがれて伊勢のかたへまかりけるに鈴鹿山にて
鈴鹿山うき世をよそに振りすてて いかになりゆくわが身なるらむ
遁世して伊勢のほうへ行く時に鈴鹿山で
うき世を振り捨てて今こうやって鈴鹿山を越えていっているが、このわが身は一体どうなってしまうのだろうか
伊勢のいそのへぢの錦の島にいそわのもみぢの散りけるを
波に敷く紅葉の色を洗ふゆゑに 錦の島と言ふにやあらむ
伊勢の磯遍路(紀州熊野から伊勢への参宮路である海岸路か)の錦の島の磯のほとりにもみじが散っているのを
一面に広がっているもみじを波が洗うので錦の島というのであろう
注美しいものを「錦を洗う」という中国の故事による
このように伊勢あたりまでは足をのばしていたが、陸奥という遠い国への旅は初めてである。
能因法師/988年生まれ、没年未詳。1050年に生存の記録あり/中古三十六歌仙の一人。小倉百人一首の作者/1013年ごろ出家/摂津国難波や児屋池畔、または栗山に住した/甲斐・三河・陸奥・遠江・美濃・伊予などを旅する/馬の交易にも関わった/しばしば、旅の歌人と評されるごとく、二度の奥州下向を始め、諸国を旅し、多くの歌枕に接した。そのことが歌風の形成に深く関わった。/歌枕の有する一般的な連想作用から離れ、新たな景物を配して清新な美を描出した。後代の和歌表現に多大な影響を及ぼした。
歌枕/和歌に詠み込まれる歌語。歌題、名所、枕詞、序詞などを含む。/和歌にしばしば詠み込まれる特定の地名。名所。  
待賢門院を失意のどん底に追いやった元凶
待賢門院は鳥羽院の中宮として、また崇徳天皇の生母として、宮廷の華やかで雅な生活空間があった。それを立ちきり、髪をおとし、仏門に入ったのが、(西行出家の2年後の)1142年。そして失意のなかであの世に旅立ったのがその3年後の1145年。
なにがこの激変を生んだのであろう?
45年間の人生に何があったのであろう?
待賢門院は、西行にとって、幼き頃より、あこがれの人であり、尊敬のなかに強い親しみを持ちつづけた女性である。また、待賢門院に仕える女房たちとも、北面武士の時代をとおして、長く、そして豊かな交流をかわした。
待賢門院の落飾とともに彼女らも髪をおとし、待賢門院没の悲しみのなかで喪に伏すのである。その山里の寂しき庵で西行が見たものは、墨の衣をまとい、世を捨てて暮らす人であった。あのあでやかな衣は!きらびやかな鳥羽殿は!
そのあまりに違う姿に愕然とする西行であったろう。しかし、その現実を現実として直視しつづける西行もそこにいたことは確かである。西行、28才の秋である。
しかし、なぜ、このような大変化が起きてしまったのであろう。この元凶を追ってみることにします。
まず、つぎの仮説に立って、話を展開していきます。
「崇徳天皇は鳥羽天皇の子ではなく、白河法皇の子であった」
話は昔に戻りますが、鳥羽天皇は、父、堀河天皇が22才の若さで死ぬと、祖父、白河法皇によって、5才で天皇の位に座らせられた。
鳥羽天皇は、ものごとがわかってきた19才のとき(1123年)、白河法皇によって、強制的に天皇をやめさせられて上皇となった。上皇といっても名だけのもの、実権は白河法皇が依然としてにぎり、手放しはしなかった。
このとき、代わって天皇に即位したのが崇徳天皇である。
崇徳天皇は鳥羽院の子となっているが、実際は白河法皇が実の父といわれていた。19才になった鳥羽天皇は、白河法皇にとっては意のままにならぬ年代に入っていた。白河法皇は、若干5才の顕仁親王を天皇にしてしまった。このほうがコントロールしやすいし、それに、遅く生まれたかわいい我が子である。
上皇にされた鳥羽院はこのことを一生不服とし、いつかみておれと思いつづけたであろう。1129年、白河法皇が死ぬと、外野に追いやられていた鳥羽上皇にやっとお鉢が廻ってきた。6年間、閑職の身で考えていたことが、自分で実行できる場に舞い戻ってきたのである。鳥羽院政の始まりである。
これは西行が生まれるまえの話である。でもこれが伏線となって、西行の生き方に決定的な影響を与えることになる。
鳥羽院の中宮である「待賢門院」は崇徳天皇の生母であり、西行の主家である徳大寺家の藤原公実の娘、璋子である。白河上皇の養女となって育てられた。
白河法皇はこともあろうにその子に手をつけてしまった。さらに、考えられないことに、その子を自分の孫である鳥羽天皇の后にしてしまった。
中宮になったのが1118年、第一子の顕仁親王(のちの崇徳天皇)を生んだのが1119年。ちなみにこのとき、西行は2才である。
鳥羽院には待賢門院の他に皇后として美福門院がいる。美福門院は藤原長実の娘、得子で、1134年、非公式に入内した。鳥羽院32才のときである。この得子を鳥羽院は寵愛した。
1139年に得子(のちの美福門院)に子が生まれた。(体仁親王)1141年、鳥羽院はこともあろうにこの親王を天皇の位につけてしまった。時の天皇、崇徳天皇は退位させられたのである。新天皇、近衛天皇が3才、崇徳天皇は24才。鳥羽院はおれの子だとは思っていない崇徳天皇を追いやって、今度はほんとうの我が子を天皇につけることができたのである。
白河法皇への長年の恨みを一気にはらした。
しかし、これは崇徳天皇にとっては悲劇の始まりである。
鳥羽院が天皇を退かされたときは、救いがあった。白河法皇が死にさえすれば、自分が院政を引き継げる。白河法皇の死を待てばいい。崇徳天皇のときはまったく違う。鳥羽院が死んでも自分に順番は廻ってこない。院政は、時の天皇の親であること、あるいは祖父であることで権威づけされる。崇徳院にはこの目がない。鳥羽院が死ぬころには、近衛天皇が上皇になっており、自分のかやの外である。
これからと思っていた24才の崇徳天皇の未来は閉ざされた。待賢門院が身を引くのが、崇徳天皇退位の翌年である。待賢門院にとってもすべてがなくなってしまった。鳥羽院の愛も、そして、我が子、崇徳天皇の将来も。
そもそも。鳥羽院はこれまでの慣例を破る、ルール違反をやってしまったのである。天皇は第一親王があとを継ぐ。もし崩御したときに子がいないときのみ、その弟にまわる。
今回は、まだ、死んでいないのである。そして、それも第二子を飛ばし、第三子を近衛天皇にした。これはイエローカードどころではない、レッドカードである。しかし、退場はなし。鳥羽院政は死ぬ1156年までつづく。
なお、この鳥羽院の第二子はのちの後白河天皇である。母は、崇徳天皇と同じ、待賢門院である。こちらは鳥羽院と待賢門院が結婚したあとの子である。鳥羽院にとっては実の子である。
これを飛ばしたのは、なぜか?同じ腹から生まれた子を天皇にさせたくなかったためか。それほど、待賢門院が憎かったのか。
いいえ、そんな単純なことではない。
つぎの仮説を置きました。せりふ風に書きますと、
「鳥羽院さま、院政の危機です!」
鳥羽院は聡明な人です。院政時代をつくった人です。白河院もすごい人でありますが、院政を確固たるものにしたのは鳥羽院です。
鳥羽院は世の中の流れを的確にとらえていました。農業を基盤とした経済だけで世の中が動いているのではないことを理解していました。京都の南、鳥羽に大々的な離宮(鳥羽殿)をつくり、そこを物流の拠点と位置づけました。鳥羽殿は物と情報の中枢機構でもあったのです。京へ上がる物品はここに集まり、京から情報はここから発せられたのです。賢い鳥羽院がなぜ、崇徳天皇を追いやるといったルール違反をおかしたのでしょう。私怨だけでは説明できません。
院政は、諸勢力のバランスの上に成り立っています。院は、財力においては摂関家をはじめとする諸貴族には勝てません。武力においては皆無の状態でありました。基盤となる経済力、軍事力がない院が、その者たちの上に立ち、自分の政治を可能にするには、これら諸勢力をうまくあやつり、競わせ、牽制させ、自分の思う方向にもっていくのが唯一の方法です。彼らの上に位置する者としてその存在を認めさせ、その存在ゆえに世の平安が保てると思わせることです。抜きん出た勢力を絶対つくらせないことが鉄則です。そのバランス感覚と、意とする方向に誘導する駆け引き力をもって成立しているのが院政です。
徳大寺家・藤原公実(きんざね)の娘の璋子(たまこ)が白河上皇の養女となり、さらに鳥羽院の中宮になると、徳大寺家はおのずと世の注目を集める勢力となっていきます。ご存知のように、この璋子がのちの待賢門院です。璋子が顕仁親王を生み、その子が白河法皇によって崇徳天皇になると、徳大寺家は隆盛を極めます。
待賢門院は超美人で教養もあふれ、たいへん魅力的な人であったといわれています。名門徳大寺家の生まれ、それより増して、白河院のもとで育てられ、さらに養父の子を鳥羽院の子として生むという境遇を踏んだのですから、”かなりの人物”になっていったのは、しごく当然でしょう。
徳大寺家は待賢門院によって、その権勢を高めました。白河法皇をバックにし、崇徳天皇の生母である待賢門院がかなめでした。待賢門院を中心とする勢力は拡大していったのです。1133年、徳大寺家に、摂関家藤原忠実の次男藤原頼長が婿と入ると、待賢門院の一派はその存在を確固たるものにしたのです。
鳥羽院にとってはこの権勢高騰は面白くないです。ここに至っては自らの政治を進める上でたいへん目障りな存在になったのです。絶妙なバランス感覚を行使して築きあげてきたこれまでの路線にも赤信号が点滅し始めました。「鳥羽院、院政の危機です!」。
ちょうどそのころです。藤原長実(ながざね)の娘、得子(のちの美福門院)が入内したのは。1134年です。この得子を鳥羽院はたいへん寵愛しました。ところでこの藤原長実とはどのような人物だったのでしょう。「平安時代史事典」角川書店からとってきた情報をもとに紹介します。
藤原長実は1075年生まれで1133年に死亡と書かれています。すると、得子が鳥羽院のおそば近くに上がったのは父、長実の死の翌年になります。鳥羽院がいくら寵愛したところで、その親元が力を伸ばす可能性は低いのです。長実は白河法皇の近臣として自他ともに容認するところでありました。しかし、「中右記」に記されているように、
「才智なし、英華(詩文などにすぐれていくこと)なし、威里(名だたる外戚)なし」
でした。鳥羽院にとっては今度は心配ありません。なんでこのようにけなされている長実が白河院の近臣だったのでしよう。私は、「この人物は生まれは良くないが、その管理能力面でみるべきものがある」と白河法皇が認め、抜擢したのではないかと想像します。やり過ぎもあったようで、説話集「古事談」や「十訓抄」に二度も院から謹慎させられたという話が載っています。しかし、出任の停止をくらいながらもまた復活してくるのですから、上にとりいるのがかなりうまかったのでしょう。
1139年、得子(美福門院)が体仁親王を生み、1141年、鳥羽院はこの親王を天皇の位につけるべく、崇徳天皇を退位させた。これは何を意味するかというと「待賢門院を切った」のひとことです。それは勢いを増してきた待賢門院を中心とする勢力を削ぐことでした。崇徳天皇を退位させるということは、よりどころとする権威が無くなることを意味します。これが第二男子雅仁親王を飛ばして、第三男子体仁親王を近衛天皇にした理由です。雅仁親王は待賢門院と鳥羽院の間の子です。この雅仁親王を天皇にしたら、崇徳天皇を切る意味がありません。この新しい天皇のもとに待賢門院一派は力を温存し、さらに拡大していく可能性があります。美福門院の子、体仁親王を天皇にすることによって、鳥羽院は安心して自分の政治ができるわけです。
西行の食事
義清時代は、佐藤家の棟梁でしたから、食生活には何の不自由もなかったです。あえて気になることを言えば、北面の武士であったので夜勤も多かったでしょう。そんな折は、お夜食が出たのでしようか?どんな物が出たのでしよう?あたりが気になるといえば、気になります。
今回は出家後の西行の食事がテーマです。ちょっとでも勉強したうえで書くべきかもしれませんが、どう手をつけていいやら、見当もつきません。そこで、今回は推理のみで話を展開させていただきます。西行がどのような食生活をしていたかを推理しますと、いろいろなケースが考えられました。
1 実家が食事を運んでいた。
出家後の西行の家計は、実家の佐藤家がめんどうをみていました。この延長線上で考えますと、一族の誰かが食事を作らせ、西行のところに運ばせていたとの推定が成り立ちます。三度三度、運ぶのもたいへんだったでしようから、朝晩の二食制だったかもしれません。火をとおせばいいだけの物であったかもしれません。これがケース1です。
2 西行には追っかけがいた。
西行はいい男だったそうです。そもそも北面武士になれるのは、男前で武道に優れていることが条件でした。また、力だけあれば、いいっていうものではなく、教養があり、文芸にも見るべきものを備えている必要がありました。西行も当然、この資格条件をクリアしていました。
西行が出家したのが23才。若く、男前の西行を周りはほっぽときません。今でいう、西行ファン、西行の取り巻きも多かったでしよう。彼女らが争うように食事を運んだというのがケース2です。
3 お寺さんに食べに行ってた。
いまでいう外食のパタ−ンの一種です。西行は特定の宗教団体に属していたのではないですが、出家したのですから、寺に出入りしていたはずです。朝の修行を終えたあとの朝食、午後からいろいろやって夕食と、他の僧侶達といっしょにいただくというのがケース3です。
4 知り合いのところでごちそうになる。
これも外食パターンです。西行の歌の実力は知れ渡っていましたから、仲間内の歌の交換会で主催者のお宅に伺う、歌のことで知り合いから呼び出されることがあったでしよう。ついつい話が弾んで、気がつけば食事どき「西行さん、食事でもいっしょにいかがですか」と言われます。これがケース4です。
西行は出家してからも世俗が気にかかっていました。いろいろと情報交換で昔の知り合いも訪ねたでしょう。そんなとき「帰ってもひとりでしよう。食事でもどうですか」となります。
5 托鉢で食物をいただいていた。
今風の中食です。出家した西行法師が托鉢で家々を廻るのも修行のうちです。一人で廻っていたでしょう。そして、若い僧侶です。喜捨する側は「食事はたいへんでしよう」と思います。手をかけず食べられる物をお鉢に入れます。西行はありがたくいただいて、庵に帰り、食べるというのがケース5です。修行僧の姿がイメージされます。
6 使用人がついていた。
食事をつくる人をそばに置いておいたというのがケース6です。このケースでは以下のことをはっきりさせておかねばなりません。
その使用人は男であったか、女であったか?その使用人は西行と同じ屋根の下で寝起きしていたか?
7 自炊していた。
言葉どおり、自分で食事をつくり、食べていたというのがケース7です。
ところで庵に台所はあったのでしょうか?西行は出家する前は、豪族の棟梁でありました。そのような者が自分で料理ができるのでしようか?西行は70過ぎまで生きていました。貧しい食生活でそれほど長生きできるでしようか?
いろいろ疑問も出てきますが、20代の若者が一人、料理をする姿を想像してみてください。もしこのケースを採用するとなると、新しい西行像が浮かび出ますね。
 
陸奥の旅

初度の陸奥の旅−白河
この時期は、保元・平治の乱と続き、平氏が権力を握り、その全盛期となる。古代貴族社会はその終焉の時を迎え、新興の武家社会が確立される時代である。
旧主家である徳大寺家との関係で縁のあった宮廷は、徳大寺家のポテンシャルの低下とともに縁遠いものとなっていく。
西行は主に高野を中心として生活しており、僧侶としての修行が一段と深められた時期である。
西行の転換時期と位置付けられるこの期のきっかけとなる、また出発点となる重要な出来事は、初度の陸奥の旅である。
修行と数奇とを兼ねた旅の中で、多くの歌が詠まれている。まず、代表的な一首を紹介する。
みちのくにへ修業してまかりけるに、白川のせきにとまりて、所がらにや常よりも月おもしろくあはれにて、能因が秋風ぞ吹くと申しけむ折、いつなりけむと思ひいでられて名残り多くおぼえければ、関屋の柱に書きつけける
白河の関屋を月のもるかげは 人の心をとむるなりけり
奥州(東北地方)へ修行の旅をして行った時に、白川の関にとどまったのであるが、白川の関は場所がらによるのであろうか、月はいつもよりも面白く、心に沁みるあわれなもので、
能因法師が”都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白川の関”と歌を詠んだ折は、いつごろであったのかと自然と思い出されて、名残り多く思われたので、関屋(関守のいる所)の柱に書きつけた、その歌
白河の関屋も荒れて、今は人でなくて、月がもる(注守ると漏るとをかけている)のであるが、その月の光はそこを訪ねる人の心をとどめるのであるよ。
昔は関守が人をとどめたように、いまは月が人の心をとどめさせている。
関に入りて、しのぶと申すわたり、あらぬ世のことにおぼえてあはれなり。都出でし日かず思ひつづけられて、霞とともにと侍ることのあと辿り詣で来にける心ひとつに思ひしられてよみける
都出でて逢坂こえしをりまでは心かすめし白河の関
関をこえて奥州に入り、しのぶ(信夫)という土地のあたりの様子が能因法師がここに来て歌を読んだ昔と同じように思われて深く感動した。私も能因法師の歌にあるように都を出発した日より今日まで旅の日数のかずかずのことが思いつづけられて、その能因法師の「霞とともに」という歌をよんだ遺跡にやっと参り辿り着いたことをわが心ひとつに思い知られて(能因の心がよく理解されて)詠んだ歌
都を出て逢坂山を越えた頃までは白河の関にかかるのはいつのことかと折々心に思っていた白河の関、その関を今日は確かに越えているのだ。感慨無量である。
信夫福島県の旧郡名。現在の福島市。上代、伊達郡と共に信夫国を形成。大化改新の時に陸奥国の郡となる。
能因法師の「霞とともに」
都をば霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く白河の関 (後拾遺和歌集)
初度の陸奥の旅−武隈
武隈の松も昔になりたりけれども、跡をだにとも見にまかりてよみける
枯れにける松なきあとに武隈は みきといひてもかひなかるべし
武隈の松も、能因法師の歌のように昔になってしまったけれど(いまではなくなってしまったけれど)せめてその松があった跡だけでも見に行って、よんだ歌
すでに枯れてしまった松のない跡に行って、武隈の松は、みき(見き-*1)と言ったところでかいのないことであろう。
見き、三木(3本の木)、幹->何れもかけことば
武隈の松宮城県岩沼市の竹駒寺付近にあった松
初度の陸奥の旅−平泉
これまで、「白河の関」「武隈」と、初度の陸奥の旅で詠った三首を紹介したが、これらには「歌枕」への強い関心がみられ、他の一連の歌とともに、平泉へ入るまでは旅日記のように明るく軽く弾んだような気分も感じられる。
平泉に着いて衣河を見ての歌では、
十月十二日、平泉にまかり着きたりけるに、雪降り、嵐はげしく、殊の外にあれたりけり。いつしか衣河見まほしくてまかりむかひて見けり。河の岸に着きて、衣河の城しまはしたることがら、やう変りて、物を見る心地しけり。汀凍りて、とりわき冴えければ
とりわきて心も凍みて冴えぞわたる 衣河見に来たる今日しも
十月十二日、平泉に到着したが、雪が降り、嵐がはげしく、特に天気は荒れていた。早く衣河が見たくて行って見た。河の岸に着いて、衣河の城を立派に作っている事や様子が変わっていて、すばらしいものを見る気持ちがした。水際が凍って、とりわけ寒かったので
雪降り嵐はげしく寒いのに、とりわけて心まで凍みて寒いことである。衣河を見に来た今日は特に。
と、歴史とともに凄絶な自然の姿に接した西行の心が詠われている。
なお、この歌は、川田順、尾山篤二郎、伊藤嘉夫、風巻景次郎は晩年の再度の陸奥の旅の折、詠まれたとしている。窪田章一郎は、詞書から初めて見るものへの好奇心に燃えているのが感じ取られ、また、白河の関を越えたときの文章からここまでは、一連のものとして統一性があることなどを挙げて、初度の旅の時の歌としている。
初度の陸奥の旅でのこころ 同じく陸奥の旅で詠まれた歌に
みちのくにて年の暮れによめる
つねよりも心ぼそくぞ思ほゆる 旅の空にて年の暮れぬる
いつもの年よりも心細く思われることだ。
旅の空の下で年が暮れていくことは。
同じ旅にて
風荒きしばの庵はつねよりも 寝覚めぞものはかなしかりける
旅をして風がはげしく吹き付ける柴の庵に泊まっていると、いつもより深夜や夜明けの寝覚めが何ともなしに悲しいことであったよ。
陸奥への旅は、身をもって孤独感を味わうものであった。西行は、初めて経験するこの大きな旅を契機にして、自己の内面をより深く見つめるようになる。旅での孤独感は一個の人間として、今までよりも増して自己を凝視するきっかけとなったといえる。  
年表
1147年晩春、西行(30才)、陸奥の旅に立つ6月、徳大寺家藤原実能、徳大寺落慶この年、源頼朝が生まれる
1148年春、西行、平泉で束稲山の桜を見る秋から冬のころ都に戻る
1149年高野山、大峰入の修行鳥羽院の皇后得子に美福門院の院号
1152年この前後、何度か遠く修行の旅平清盛、厳島神社を修造
1154年源義仲、生まれる
1155年近衛天皇崩御(17才)後白河天皇即位
1156年7月2日、鳥羽院崩御(54才)7月11日、保元の乱崇徳上皇の白河殿、陥される7月14日、藤原頼長敗死(39才)7月23日、崇徳上皇、讃岐に流される
1157年徳大寺家藤原実能没(62才)
1158年二条天皇即位、後白河院政
1159年平治の乱信頼、義朝が後白河上皇の御所三条殿を焼く清盛、信頼を討たせ、六条河原で斬る
1160年義朝討たれる(38才)頼朝、伊豆に流される美福門院没(44才)
1161年徳大寺家、藤原公能没(47才)
1164年崇徳院、讃岐にて崩(46才)
1165年二条天皇崩(23才)平清盛、権大納言、重盛、参議
1166年清盛内大臣
1167年清盛太政大臣西行、清盛ともに50才
なお、初度の陸奥の旅にたった年ですが、諸説があるようです。以下に上記「西行の研究」P184を引用させていただきます。
西行は生涯のうちに、すくなくとも二回陸奥の旅をしていることは明らかであり、晩年の旅については「吾妻鏡」の記載があって年代も明確であるが、初度の旅については、拠るべき資料がないところから、推定によらざるを得ない。川田氏はこの旅を康治二年(1143)としている。尾山氏は30歳までとしている。風巻氏は「西行」の年譜では川田説をとり、本文(「西行の研究」)では待賢門院崩御後に旅に出る気運になったろうと推定しているので、28歳以後のこととなる。三好英二氏も川田説と同じで、康治二年とし、都から伊勢へ赴き、しばらく滞留して東国へ旅立ったろうと考えている。  
歌枕
西行の陸奥の旅で詠んだ歌枕をいくつかあげる。なぜか不思議と陸奥に至るまでの歌枕(名所)がないのです。「小夜の中山」がありますが、これは2度目の旅のときのものです。
白河の関
古代、東山道の陸奥国への関門として、下野国(栃木県)との境に置かれた関所。勿来関(なこそのせき)、念珠(ねず)ケ関とともに奥州三関の一つ。福島県白河市旗宿付近にあったといわれる。
武隈の松
宮城県岩沼市の竹駒寺付近にあった松
名取川
宮城県中南部を東流する川。長さ55KM。奥羽山脈の二口峠付近に発し、仙台湾に注ぐ。
衣川
岩手県南西部を流れる北上川の支流
束稲山(たばしねやま)
岩手県南西部、西磐井郡平泉町と東町の境にある山。名和志根山とも書く。稲束がたわんでいるように見えることに由来する。
歌枕は多くの歌に詠みこまれたひとつのイメージを持った言葉だったのでしょう。「白河の関」といえば、単に奥州への玄関口に位置する場所そのものだけではなく、当時の人にしかわからない、独特の風情をかもし出す、一種の概念に近いものだったと想像します。
西行を少しだけですけど勉強し始めましたら、学生時代に持っていた「世を捨てて山にこもり自然を相手に仙人のような生活をした人」という先入感が吹き飛んでしまいました。活動的でアクティブな人物像が迫ってきています。人と会うことが好きな、いろいろなことを知るのが好きな好奇心あふれる人物です。行動派といっていい西行からすると、歌に詠われた名所を実際に見てみたい、その場に立ちたい、そこの風を吸いたいと思い立ち、それを実行に移すのは、しごく自然に思えてくるのです。陸奥といえば、京とはまったくの別世界がひろがる土地。豊かで都にはない何か新鮮な文化がある予感がしたのではないでしょうか。
「そうだ、旅に出よう!」  
旅について
一般に旅といってもその目的は様々です。何のために旅に出るか、何を目的に旅をするか、そうせざるを得ないかから見ていきましょう。
赴任任じられた国におもむく。
戦い遠征。軍隊の移動、物資の補給。
出稼ぎ他の土地での仕事さがし。
勉学中央寺院での修行。職能、技能の習得。
納税祖、調の運搬。
労役庸。労役提供のための移動。
商い物々交換、売り、買い。
信仰熊野詣など。
布教宗教活動
資金集め寄進、寄付集め。
技術指導土木、建築、工芸、美術。
情報収集密偵、調査。
このような種々な目的をもった、いろいろな階層の人々が街道を行き来していたと想像されます。
そのころの旅というか、人の移動について、流通の面から見てみましょう。
中央の権力が地方に及ぶにつれて、貢納の範囲が距離的に伸長し、付随する一般的な物資の交易・流通も発達した。調・庸その他の農民からの貢納物は、宮廷・官司・祭会などの用に供されるほか、皇族・貴族に施与された。それらが彼らを通して売却されたり、政府自らが市に払い下げることもあった。
京都の市での売買は、官司・寺院にとっても不可欠なシステムであった。そこでは米穀・布・野菜・果実・海藻・調味料・薪炭・紙筆墨などが取り扱われていた。そこで物品を販売する商人の背後には京都およびその周辺の農民がおり、ときには地方から物資を都に運搬する商人もいた。商品は船や人の背によって、地方から中央に運ばれ、あるいは地方間で取引されていた。
また、貢納物のなかには、多種多様の水産物も含まれていた。乾燥したり、煎汁(せんじゅう)としたり、あるいは鮨にするなど、貯蔵や運搬に堪えられるように加工されていた。加工技術の発達は、交換・輸送に適する商品を作り出した。それは水産物に限らず、布や農産物・畜産物などに及んだ。
平安中期以降になると、貴族・社寺の繁栄や地方豪族の台頭は中央の統制や秩序の廃頽を招き、自由競争の途を開いた。権門勢家は自己の必要品を直接に産地に求め、地方豪族は中央の工芸品を望んだ。その間に大小の商人、商業行為を行う農民が生じた。
地方では山坂や河沼の交通難があるうえに、山盗・海賊の厄があった。単なる行商人や少数の運送人では物資を輸送するのが危険であった。そういう業にたずさわる者は、ある程度の集団をなし、防衛の武力を備えている必要があった。地方豪族や在地の指導層のようにそれだけの富と力を持つものでなければならなかった。
流通は物資だけに限らず、技能・技術の流通もあった。たとえば、仏師が仏寺を離れて、地方の依頼者の注文に応じるようにもなった。中央と地方の新しい流通の面が出てきた。
これから判断すると、当時の流通は、私が思ってた以上に活発であったようです。推論を進めていきます。
このように物資の移動が盛んになり、人の移動も多くなるに伴い、インフラ(道、宿坊、運搬手段、案内、警護など)も整ってきます。とは言っても、西行が陸奥へ旅することは、死を覚悟するほどの困難な行動であったことには変わりありませんが。
西行と旅
少なくとも、初度の陸奥への旅は、上記にあげた「旅の目的」のいずれでも説明しにくいものです。あえていえば、「旅」そのものが目的でした。そのころの旅の通念からは抜け出たものでありました。
旅そのものに意味をもたせる旅は、西行が初めてではないのですが、そのころの一般的な旅のスタイルでなかったことは確かです。
参考中国の詩人、李白や杜甫が旅に出ているのが、8世紀中、西行があとをたどった能因法師は、11世紀前半。
ここでまたまた問題です。
この初回の旅が、旅を目的にしたもの、もっと狭めて「歌枕」をたどる旅にしてはおかしな点があります。
「白河の関」以前の場所で詠んだ歌がないのです。間がぬけて一足飛びに陸奥の入口に至るのです。それはなぜでしょう?
西行がこの時代、旅を実行できたには、それなりの背景があります。
ある程度のインフラが整備されていたことは前提条件でしょう。上で説明しましたように、人、物資にわたる移動が盛んに行われていたことが、西行の旅が成立した背景にあります。
それに加えて、西行固有の条件、背景があってはじめて、この旅が実行できたのです。
武に通じていたこと/農民くずれの山賊のひとりやふたりは追っ払えます。体力があったこともこれに含めましょう。
藤原秀郷を祖とすること/佐藤家は俵藤太で有名な武勇を誇る家系です。東国に勢力基盤を持っていました。行く先々でゆかりの家も多かったです。これらの口利きや案内で道中の安全は保障されやすかったと思われます。
中央での情報に通じていたこと/北面の武士であったことがここで活きました。中央の、特に院の状況や動きに関する情報は、地方の豪族、国司などにはのどから手が出るほどほしい情報です。土地の権力者に迎え入れられ、もてなされたことは十分想像できます。
僧侶であったこと/いざとなったら寺に駆け込めば、泊まりと食事は保障されます。昔の情報も今の情報も手に入れられます。
環境条件のみを書きましたが、これらの条件と、西行自身の内から湧き出る情熱が相伴って、この陸奥への旅という困難な行動が実行できたのだと私は考えます。  
 
高野山・草庵

陸奥から帰る
陸奥から帰ってきた西行はこの後、高野山で草庵を結び生活をしていたとも、また大峰修行もこの時期に行われたとも推定されているが、いずれも年代等をはっきりさせるものはない。
窪田章一郎の「西行の研究」では、年代不明としながらも西行32才の1149年の項にそれに関する記載がある。また、目崎徳衛の人物叢書「西行」には「西行は陸奥の歌枕探訪から帰洛した後、高野山に入って草庵を結び、」とある。現代語訳日本の古典「西行山家集」の「西行の生涯と作歌略年譜」でも、西行32才の欄に「西行、この年前後、高野山に住み、またしばしば吉野山を尋ねる」とある。
西行の陸奥への初度の旅は以前にも記したように、26才説と30才説があるが、高野山に草庵をかまえたのは32才前後からと考えるのが一致したところである。
だたし、数ある西行の歌でこのころ詠った歌がどれかは特定できない。なお、上記の現代語訳日本の古典「西行山家集」では次の歌を32才のところに分類している。
根にかへる花を送りて吉野山 夏の境に入りて出でぬる
根に帰る桜を見送って夏が境に入ったころに西行が吉野山から出てきたのか?
それとも、
西行が夏の境のころに再度、吉野山に入って花が散って根に帰ってゆく桜を見送って出てきたのか
迷うところです。
窪田章一郎の「西行の研究」でこの部分の記載を見つけました。
それによると、
「夏にはいってゆく吉野山をあとに、ひとり山を出てきた心である」とのことです。
「夏の境」の「の」が主格か所有格か迷いました。主格の「の」と採れば、夏が境に入るとなり、所有格の「の」とすれば、主語が「西行」で、西行が夏の境(のころ)に入ることになります。
桜に執着した西行から推察すると、また、春に出てまた夏に戻るという不連続性、不自然性から考えると、やはり夏に入るまで吉野に滞在して出ていったとする方がいいようです。上の文法でいえば、主格の「の」と採ったのです。
たれかまた花をたづねて吉野山 苔ふみわくる岩伝ふらむ
誰かがまた、いまごろ桜の花をたずねて吉野山を奥深く苔を足でわけ進んでいく岩を伝わっているのでしょう。
いずれにしろ、30代になった西行は、高野山や吉野という都から距離をおいたところで、自然そのものと向き合う生活を始めるのである。
政争と西行
白河、鳥羽の対立はこの時代にひきずり、形をかえて鳥羽、崇徳の両院の対立となっていた。
鳥羽院はその崩御(保元元年;1156年)の7月2日の一か月前に、平基盛、清盛、源義康、義朝らに誓紙をいれさせ、禁中や鳥羽殿の警護にあたらせていた。
この鳥羽、崇徳の対立にさらに摂関家の内紛がからんでくる。藤原忠実の後をついだ忠通、頼長兄弟の不和である。
鳥羽院崩御後三日目には、
「崇徳院と頼長が同心して軍兵を発し、皇位を奪おうとしている」との風聞ありとして、平基盛、惟繁、源義康らが後白河天皇の警衛にあたり、禁中、京中の警戒を厳にし、緊迫した情勢となっていた。
崇徳院方の拠点である白河殿では、源為義を中心に、為朝、平家弘らが作戦を練っていた。しかし、後白河天皇方は、11日、その白河殿を夜襲し、占拠して短期間で勝敗を決定した。院は13日に仁和寺に逃げ行ったが、やがて捕らえられる。
これが保元の乱と呼ばれる権力者間の闘争の概要である。
西行は崇徳院が敗れて仁和寺で髪をおろされたのを聞き、崇徳院を伺候している。その時の歌が次である。
世の中に大事いで来て、新院あらぬさまにならせおはしまして、御ぐしおろして仁和寺の北院におはしましけるに参りて、兼賢阿闍梨出であひたり。月明くて、詠みける
かかるよに影もかはらず澄む月を 見る我が身さへうらめしきかな
世の中に一大事が起こって、崇徳院がとんでもないご様子になられ、お髪をおろされて、仁和寺の北院にいらっしゃるところに参上しましたが、兼賢阿闍梨が出てきてあいました。月が明るくて、詠みました。
こんな一大事が起こった世の中でそしてこんな悲しい夜に光も変らず澄んでいる月がうらめしい。そして、その月を見る我が身までもうらめしいことであるよ。
保元の乱の十二日後の7月23日に崇徳院は讃岐へ配流になる。その後、崇徳院と西行との間では三度の歌の往来がある。
その中の一つに
かくてのち、人のまゐりけるにつけてまゐらせける
その日より落つる涙を形見にて 思ひ忘るる時の間もなし
それから後、人(寂然上人だろう尾山篤二郎)が讃岐へ行くのに、託してお届けする
讃岐へお移りになったその日より、別れの涙を形見にして涙が乾く間もないほど思い忘れる時もないことであるよ
崇徳院は配流されて八年後、1164年46歳で崩御する。  
保元の乱に至るまで
摂関家の分裂
鳥羽院の下で位置を回復し、摂関家の基盤の強化につとめていた藤原忠実は、関白の地位にあった子忠通と不和になり、忠通の弟頼長の学才を愛して、これに摂関家を託そうとした。
これに対し、兄の忠通は美福門院を中心とする勢力と結んで、弟の頼長と対抗した。美福門院は、鳥羽院の寵愛を独占し、時の天皇近衛天皇の実母である。近衛天皇は鳥羽の実子であり、崇徳天皇が鳥羽に退位をよぎなくされた時に、そのあとを継いだ天皇である。
忠通、頼長の兄弟は争い、それぞれ自らの養女を近衛天皇の后にするなど、摂関家の分裂は回復しがたい状態になっていた。1150年、藤原忠実はついに長男忠通を義絶し、摂関家の本邸を武士の力によって差し押さえ、藤原氏の長者の地位を次男頼長に譲った。
翌年、1151年、頼長は近衛天皇の内覧としてすべての政務に関与することになった。しかし、忠通は依然として関白の地位を固守しており、摂関家の分裂は公然たる事態にまで発展した。
鳥羽法皇はこうした事態の進行を黙認し、むしろ分裂を利用して、摂関家を自らの意のままに操ろうとしていた。
皇位継承の禍根
1155年、近衛天皇が17歳の若さで死亡する。崇徳上皇が期待していた、自らの子息をそのあとの天皇に即位させてくれとの強い望みは鳥羽院によって一蹴される。
鳥羽法皇は自らの子雅仁親王を後白河天皇として位につけた。この後白河天皇は崇徳上皇の弟にあたり、死んだ近衛天皇の兄にあたる。鳥羽院と待賢門院の子である。もし、美福門院と間に他に子があったら、後白河には天皇の位はまわってこなかったであろう。
鳥羽は、さらにこの後白河の子守仁親王を皇太子に立てた。これで次の天皇は崇徳上皇の系からは出ないことが決定的になった。
崇徳上皇と頼長の接近
藤原頼長は、近衛天皇の死後も新天皇後白河の内覧に立つことを希望した。鳥羽院はこの願いを無視し、頼長を失脚させた。鳥羽院の処置に根深い不満をもった頼長は崇徳上皇に急速に接近していった。
1156年7月、鳥羽院が死亡すると、長い間続いていた鳥羽専制政治は終わりをつげ、事態は新たな展開に向かっていった。
保元の乱
7月2日鳥羽院、崩御。
同5日朝廷、崇徳上皇&藤原頼長に不穏な動きあるとして警戒体制
同8日さらに朝廷、忠実・頼長が荘園より軍兵を召集することを阻止すべしとの命令
同10日これらの挑発に崇徳・頼長、進退窮まり、源為義や平忠正らを召集。集まった武士はわずか。為義、2つの案を出すが取り上げられず。そうこうするうち、源義朝以下の朝廷方の夜襲を受け、敗走。
同13日崇徳上皇は仁和寺に逃げ入ったが、捕らえられる。
同14日重傷を負った頼長は奈良に落ち延びたが、遂にこの日、死亡。頼長は西行とほぼ同い年、37歳である。
武士の痛恨
頼長の子息以下の廷臣は流罪。為義、忠正らの武士はことごとく斬罪。為義以下の父や弟を死刑に処す源義朝の悲しみと憤りは深かった。時の権力者の命ずるままに行動していた武士の怒りが込み上げてきたであろう。
時代の転機
保元の乱は宮廷政界の権力闘争が武士の力で決着がつけられたことを示している。政治の主導権が公家から武家に移るきっかけとなった争乱として、その歴史的意義は極めて大きいとされている。
「根にかへる花を送りて吉野山」の歌について
根にかへる花を送りて吉野山 夏の境に入りて出でぬる
花が散ってそれが根元にかえるそんな桜よ、また来年咲けよと、季節が夏を迎えるころ、吉野山を出てきました。
私は西行は春が過ぎ、夏を迎えるころ、吉野を出たと解釈しました。多分、大峰修行などの行に出たのでしょう。出ていこうとしても、西行のこころは桜にあり、また戻ってくるとの意思を桜がまた来年咲くとの自然の生命サイクルに託したのだと思うのです。
西行のベースがどこにあったかは議論の分かれるところですが、散る桜、そして再び咲く桜に、その根源を持たせたのだと考えます。
さて、あとの一首
たれかまた花をたづねて吉野山 苔ふみわくる岩伝ふらむ
は、あきらかに西行が吉野にいないときの歌です。何らかの事情で吉野に戻れなかったのでしょう。吉野への思いをこの歌に込めているのだと感じます。この歌の「たれか」は西行の分身であるかもしれません。  
 
交友

西行の交友
この世の動きのなか、西行は歌を通じての交流を深めていった。西行が参加した作歌の集まりを紹介する。
丹後守藤原為忠の子、藤原為業が京都双ケ岡の麓(常盤)に住んでいた。この常盤の邸に歌仲間が集まることがたびたびあった。そのことが「聞書残集」に載っている。
為忠の常盤の遺邸に為業が住んでいたときに、西住、寂然がやってきて、そのとき私は太秦にこもっていたのだが、このようだ(雅会を催す)といったので、常盤にまいりました。
為忠が常盤に為業侍りけるに、西住、寂然まかりて、太秦にこもりたりけるに、かくと申したりければ、まかりたりけり。
有明と申す題を詠みけるに
今宵こそ心のくまは知られぬれ 入らで明けぬる月をながめて
今宵こそ、本当に心の隅々まで知り合うことができた。西の山に入らないで一晩中、夜の明けるまで明るく照っている有明の月をながめながら
そうこうしているうちに静空、寂昭らがやってきて、話しをしながら連歌になっていった。秋で肌寒くので(西行と寂然は)背中あわせになって連歌をしたのでした。
かくて静空、寂昭なんど侍りければ、もの語り申しつつ連歌しけり。秋のことにて肌寒かりければ、背中あはせてゐて、連歌にしけり
思ふにもうしろあわせになりにけり(寂然)
思っても後合せになっていたんだなあ
この歌に他の人がつけられそうにもないと言ったので、
この連歌、こと人つくべからずと申しければ
うらがへりつる人の心は
裏返ってしまった人の心は
これで歌が成立する。つまり、「裏返ってしまった人の心は(こちらがいくら)思っても後合せになっていたんだなあ」
このあともいろいろ話や連歌がつづいたのであろう。この連歌が書かれている聞書残集ではこのあと仏門修行の話に進んでいる。
来世の話をそれぞれ話したときに、人並みに仏道に入りながら、思うようにならないことを話して
後世の物語各々申しけるに、人並々にその道には入りながら、思ふやうならぬよし申して
人まねの熊野まうでのわが身かな静空
と申しけるに
そりといはるる名ばかりはして
頭を剃った僧形とは名ばかりで人まねの熊野参詣の我が身だなあ
朝も明けようとしている。楽しい会はいよいよ終わりである。最後の題は「後会いつと知らず」である。
さて明けにければ、各々山寺へ帰りけるに、後会いつと知らずと申す題、寂然いだして詠みけるに
帰りゆくもとどまる人も思ふらむ 又逢ふことの定めなき世や
帰って行く人も、ここにとどまる為業も思っています。又いつの日、逢うことができるか定めない世でありますね
たいへんな時代、西行には心温まる交流があったことを知っていただければうれしいです。西行が寂然と背中合わせになって暖め合う光景はほほえましいです。この寂然についてはあとで紹介します。  
西住
西行には西住との号をもつ無二の親友がいた。西住は、和歌大辞典明治書院昭和61年によると、
平安後期の歌人。俗名源季政。生没年未詳。ただし、山家集によると西行以前の入寂(死亡)。源季貞の養子。西行の同行者として山家集および西行説話、謡曲「西行西住」などに見える。寂然、藤原俊成らとも交友があった。久安三年(1146)の左京大夫顕輔歌合に参加。千載和歌集に4首入集。
千載集に入集した歌に(第六冬歌463)
行路雪といへるこころをよめる
こまのあとはかつふる雪にうづもれて おくるる人や道まどふらん
行く道が雪であるという思いを詠む
馬のひづめの跡は、そのうえにすぐ降る雪に埋もれて、遅れてゆく人は今ごろは道にまどっているだろうなあ。
西行と西住の往来歌に
高野の奥の院の橋の上にて、月明かりければ、もろともに眺めあかして、その比西住上人京へいでにけり。その夜の月忘れがたくて、又おなじ橋の月の頃、西住上人の許へいひ遣しける
こととなく君恋ひわたる橋のうへに あらそふものは月の影のみ
かへし西住
おもひやる心は見えで橋のうへに あらそひけりな月の影のみ
高野山の奥の院の橋の上で、月が明るいので、いっしょに眺め明かして、(そんな楽しい日々を過ごしていた丁度)そのころ、(いっしょに眺めた)西住上人が京に出て行きました。その夜の月が忘れられず、又おなじ橋でおなじ月の頃に西住上人のもとへ歌を送りました。
何となくあなたを恋いつづける橋の上で、(今宵も私の心と)競っているのは月の光だけですよ
それに返歌が西住から届きました。
私が都にいても、あなたのことを月と競い合うように思いやっているのですが、私の心は見ることができず、ただ、橋の上には月の光だけだったんですね。  
大原三寂
西行は「大原三寂」と呼ばれた、寂念、寂超、寂然と交流があった。そのうち、寂然との歌の交換を紹介する。
なお、「大原」とついているのは、三人がそろって京都・大原に隠棲していたといわれていることから由来している。ただし、そのうち寂念については確証がないため、「常盤三寂」とも言われている。
寂然との贈答歌は、西行からは「山深みーーー」で始まる十首、それに対して寂然からの返歌、「−−−大原の里」で終わる十首で構成される。
十首、十首は、現代でいう近況報告を歌に託したような便りになっており、それぞれの生活の場である高野、大原を詠んでいる。それらは、絵でいえば、スケッチ画的風情である。
その代表と感じる各二首をここでは紹介する。
入道寂然、大原に住み侍りけるに、高野よりつかはしける
山深み窓のつれづれ訪ふものは 色づき初むる櫨の立枝

色づき初むる=色づきそむる
櫨=はぜうるし科の落葉高木
山深みけ近き鳥の音はせで
物おそろしきふくろふの声
け近き=け+ぢかき
け=気接頭語、−の様子だ。なんとなく−だ。の意。
せで=感じられないで

返し寂然
炭がまのたなびく煙一すぢに 心ぼそきは大原の里
なにとなく露ぞこぼるる秋の田に ひた引き鳴らす大原の里

ひた(引板)=鳴子(なるこ)/小さな竹筒を多く板に付け、縄を引いて鳴らし、田畑を荒らしにやってくる鳥獣を追い払う仕掛け。

以下、三寂について、若干、説明を加える。
三寂は、丹後守藤原為忠の子ら、為業(寂念)、為経(寂超)、頼業(寂然)の三兄弟の称。為業は三人の内、歌人としては、最も平凡であったと考えられているが、為忠亡き後の常盤の家を継いで、西行ら歌人たちの集まる場を作っていた。三兄弟の中では、一番出家が遅かったと見られている。
寂然は西行と同年輩(一、二歳年長)と考えられている。西住とならんで西行の歌人仲間では重要な人物であった。出家後、すぐに寂超とともに大原に住んだが、寂念と違って、都の歌会などに参加することもなく、僧位僧官も求めず、真言僧として大原を中心に生活していたらしく、西行を高野に訪れ、崇徳院を崩御前に讃岐に訪れた以外は旅もしなかったらしい。
寂超は三人の中で、最も位が上がったがそれでも正五位下である。出家後は大原に住み、仏法に沈潜し、止観を談義したりした。妻、美福門院加賀との間に子、隆信がある。
なお、この妻は後に藤原俊成と大恋愛の末、結婚し定家らを生む。一方、寂超の子、隆信は画家として、今に有名である。似せ絵を得意とし、源頼朝、平重盛などの肖像画は隆信の作と伝えられている。  
修行の旅に大峰入
修行の旅に大峰入がある。山岳信仰の対象として発展したのが金峰山であり、熊野から大峰・金峰山へ、あるいは逆コースを行脚する修験があった。この修行は苦しいものであり、西行が「さめざめと泣」いたというほどのものであった。
食を減らし、重い荷を負い、水を汲み、木を伐る修行は、地獄・餓鬼・畜生の三悪道の苦患に堪えて、「無垢無悩の宝土にうつる」ためであった。
大峰の神仙と申す所にて、月を見て詠みける
深き山にすみける月を見ざりせば 思ひ出もなき我が身ならまし
この深い山に(住む)澄んだ輝きの月が見られなかったらなんの思い出も私の身に残らなかったであろう
この歌での月は、悟りを象徴しており、月のごとく澄んだ西行の心を詠んでいる。この心境に達しなかったら、この辛く苦しい修行はなんであったのだろうと、修行のあとの充実感を詠んでいる。
月すめば谷にぞ雲は沈むめる 峰吹きはらふ風にしかれて
月が澄めば谷に雲が沈んでいるようにみえる。峰に吹くはらう風に雲が敷かれている。
この歌の雲は、西行が悟りを得ようとするのを包んで覆い隠そうと邪魔するもの、つまり煩悩を象徴している。修行することで雲が吹き払われると解釈される。さらに、風の力で雲が下に押しつけられるところを「しかれる」と詠んでいるのであるから、煩悩を抑えこめたという道心の喜びを表現している。
深い山といい、山から見下ろす光景といい、いずれの歌も京の都にいては詠めない歌である。厳しい修行のあとの達成感が実体験として迫ってくるところに現代にも西行の歌が脈々と受け継げられてきた力の源がある。  
保元の乱後
鳥羽院が亡くなり、徳大寺家の婿養子であった藤原頼長が保元の乱で死に、崇徳院は讃岐に流され、父と慕っていた徳大寺家の実能夫妻が亡くなり、あとを追うようにその子、公能が亡くなる。良き指導者であり尊敬する藤原成通も亡くなり、西行の青春からの精神的支えが次々と切られ、ただ一人残された。
時代も激動
西行の旧秩序との断絶は、時代の変化と機を一としています。武家が時代を動かす中心にのしあがったのです。
平治元年(1159年)、都で起こった争乱、平治の乱にその姿が明確に現れています。「平治の乱」は、後白河上皇や二条天皇の周辺の近臣グループの権力闘争に平氏、源氏が加担する展開でしたが、実質的には、この機に乗じて、平氏が権力の中枢に位置するための通過点であったのです。
貴族を中心とする時代は終わり、武家がそれに代わって、上皇・天皇の直結勢力になるのです。(上皇・天皇−上級貴族−武士)の構造から(上皇・天皇−武士)という新秩序に向かっていったのです。
院は崩壊せず
旧秩序がすべて崩壊したのではないのです。後白河にかわった院政は依然とした力を持ち、それを支えるのが平氏に代わっただけです。後白河は、宮廷内の軍事クーデタ(保元・平治の乱)を通じて、実質的権力を独占していきました。
平氏にしてもこの院を中心とする権力体制を是とし、権力の中枢に近づいていったのです。営々とこの過程を踏んで。
1132年(西行15歳)平忠盛は鳥羽上皇のために得長寿院(とくちょうじゅいん)千本観音堂(三十三間堂)の造営をを請け負い、完成させる。
1133年(西行16歳)鳥羽院の近臣として、院領肥前国に来着した宋船との交易を、大宰府を排除し、院の権威を背景にして独自におこなった。
1135年(西行18歳)瀬戸内海の海賊を追討し、備前守の地位とあわせて、着々と西国の海の世界と瀬戸内海沿岸諸国に勢力を固めていった。
これら経済力と院への取り入り、そしてなんといっても絶大なる武力によって、
1167年(西行50歳)平清盛、太政大臣となる。このとき、清盛も50歳である。  
交友
現代の眼から西住の歌や西行から西住への歌を見ると、この二人の関係に少々戸惑いを感じます。
左で紹介した歌でも、あとの方の歌で
「君恋ひわたる」という君は西住ですから、西行が西住を恋い慕うように思えてきます。
一方、最初にあげた千載集の歌は、
「おくるる人や道まどふらん」には、やさしさに満ちています。この「おくるる人」と詠む相手の人は誰かなあ?西行なのでしょうか?
「平安時代史事典(角川書店)」によりますと、
西住は、
西行出家後、まもなく出家か
西行より十歳ほど年長
崇徳院の菩提を弔うため、ともに四国に渡る
終生、同行者として親密に交流した
と記されています。
さらに
西住が往生を遂げた際にも、西行は高野山を下って臨終を看取り、遺骨を高野山まで運んだと書かれています。
この情報から推察すると、人生において西住は西行の先輩であり、西行が西住を慕っており、西住は西行に心をくばっていたと解釈してもおかしくないです。
西住は、西行にとって大事な人であったという視点からも、西住は十分研究の対象になります。
常盤の邸に歌仲間が集まって繰り広げられた連歌にも西住と西行の連歌があります。
雨の降りければ、ひがさ蓑を着て、まで来たりけるを、高欄にかけたりけるを見て西住
ひがさ着るみののありさまぞ哀れなる
むごに人つけざりければ、興なくおぼえて西行
雨しづくとも泣きぬばかりに
この日の西行は、心の深さよりはユーモラスな軽妙な味わいを中心としている。(途中省略)西住の句は「身の」に蓑を詠みこんでおり、勾欄にかけられている檜笠と蓑からしたたる雨の雫を、人間化して泣く涙としているところに、ユーモアがある。
一方、今週の「君恋ひわたる」も西行の戯れ歌とみることもでき、西行の西住に対する親しさと、こころのくつろぎを感じます。  
原風景があってこそ
歌のような風景がどんどん消えていくのは淋しいことです。
西行や紹介した三寂らが見ていた景色や感じていた風情が現代にそのまま変わらずに残っているとは言えません。しかし、それをそれなりに想像する試みはできます。それは幼きころの里であり、青春の野営で見上げた月であり、山深き山々です。そのような原体験から、懸命になって想いを巡らします。
時代は確かに違います。でも時代を超えた、人々の営々たる生活がその自然のなかに溶け込み、私たちに引き渡されてきたのです。この原風景があってこそ、古き昔に詠まれた歌になんとか少しでも近づくことができるのです。そうなのです、大原の里の風景、高野での心のひだの動きが見えてくるのです。
文化とは、そのような自然や人々の生活をも含めた、大きな時空として伝え、発展させていくものだと思っています。今週は、こんな事を歌から感じ取りました。
西行、三十才から五十才までを振り返る
西行の人柄をつくり、人生への姿勢を変え、西行の心を豊かにした中年期西行の姿が見えてきます。
若き時代の西行を形づくったものはいろいろありました。
佐藤一族の棟梁としての期待、北面の武士としてのつとめ、垣間見る宮廷の華やかな世界、そこに渦巻く野望や野心、さらにそれに取り入ろうとする者の姿、かなわぬ恋、入り乱れる愛憎、崇高さへのあこがれ、やさしくつつむ慈愛の心、あげていけばきりがありません。
それまでにはぐくまれてきた素地の上に西行の人生は大きく飛躍したのだと、私には思えてくるのです。その飛躍のきっかけとなったのが、次の三つでしょう。
旅陸奥への初度の旅に代表される、各地への旅
時代武力がものいう時代への変貌と、そのなかで、消えていった人々
友歌をきずなとする深い心の交わり
これらによって、西行の中年期は充実したものとして形成されていったと考えます。
さてひるがえって、まさに中年期を終えようとする自分に問いかけます。
「旅はしましたか?」、「時代をみつめてきましたか?」、「友はいましたか?」と。
いいえ、この問いはこうのように変えるべきでしょう。
「いまでも旅をしていますか?」
「時代をしっかりと受けとめていますか?」
そして、「交遊を深めていますか?」  
 
四国の旅

四国の旅へ
この時期は、四国で崩御した崇徳院の陵へ詣でることと、仏道修行のために弘法大師の遺跡をめぐることを目的とした四国の旅に始まる。
この時代は、清盛を中心とする平氏の全盛期から平氏討伐の気運が高まり、反平氏勢力の台頭と反撃とで、動乱が始まった年でもある。
四国への海路の歌から始める。この時、詠った歌は庶民(漁師)の生活を実見したうえのものであり、その当時の和歌としてはめずらしいものである。まずは、その一首。
備前の国に小島と申す島にわたりけるに、あみと申す物とる所は、おのおのわれわれ占めて長き竿に袋をつけてわたすなり。その竿の立てはじめをば一の竿とぞ名づけたる。なかに年たかきあま人の立てそむるなり。立つると申すなる言葉聞き侍りしこそ、涙こぼれて申すばかりなく覚えて詠みける。
立てそむるあみとる浦の初さをは つみの中にもすぐれたるかな
備前国(岡山県)小島(児島郡児島)という島に渡った時のことだが、あみという物をとる所は、それぞれ自分自分に場所を占めて、長い竿に袋をつけて一面にそれを立ててある。その竿の立て始めを一の竿と名づけている。それは、そのあま人(漁師)の中で年をとった人が立てるのである。「立つる」という言葉を聞いて、何とも言う言葉がなく感ぜられ涙がこぼれて詠んだ歌。
「立つる」というのは神仏に誓願するときの言葉であるのに、漁師達がその尊い言葉を罪深い殺生に用いていたので、その罪深さに涙がこぼれたのである。
仏に誓願を立てるのでなく、あみをとる竿を立てるのは
殺生の罪という、罪の中でもはなはだしい罪なのだろう
あみ=あみざこ。小えびに似たもの。
四国への海路で詠った歌をつづける。
日比、渋川と申す方へまかりて、四国のかたへわたらむとしけるに、風あしくて程経にけり。渋川の浦と申す所に、をさなき者どものあまた物を拾ひけるを問ひければ、つみと申す物拾ふなりと申しけるを聞きて
下り立ちて浦田に拾ふ海人の子は つみよりつみを習ふなりけり
日比、渋川(何れも児島の南、日比は児島郡日比、讃岐へ渡る港、渋川は日比の西にある海浜)というところに行って、四国のほうへ渡ろうとしたが、風の具合が悪くて、船出せず、そこにしばらくとどまっていた。渋川の浦というところで、幼いものたちが多くの物を拾っているのでたずねたところ、つみというものを拾っていると言ったのを聞いて
浦田に下りたって物を拾っている漁師の子供はつみ(貝の一種か?流木を意味するという説もある)を拾うことから始まって、漁師になって殺生の罪というものを習いおぼえるのだろうなあ。
真鍋と申す島に京より商人(あきびと)どもの下りて、やうやうのつみの物ども商ひて、又しわくの島に渡り、商はんずる由申しけるをききて
真鍋より塩飽(しわく)へ通ふあき人は つみをかひにて渡るなりけり
真鍋という島(児島から讃岐へ渡る途中、水島諸島中の一島)に京より商人たちが下ってきて、いろいろの積載の物を商売して、また塩飽の島(塩飽群島の本島)に渡り、商いをしようとしている由を言うのを聞いて
真鍋から塩飽へ通って商売をする商人はつみ(積み=積載物)を売買して島を渡り、世の中を渡っているのだなあ。
二首とも、「つみ」という音が「罪」の音と同じであることから、詠った歌である。
四国への海路の歌では、殺生という罪を重ねながら、それに気づかず生きている庶民の悲しい、しかし、たくましい生活に改めて生の意味を問い直す西行であった。瀬戸内海の海岸での庶民たちの生活を見て、彼らが知らず知らず殺生戒を犯している。しかし、殺生しないでは生きられない人間存在の罪深さ、そんな人間にとっての普遍的な課題を自覚し、詠作している。  
貴族社会の西行にとって
詞書の長いのは西行の特徴の一つです。左に紹介した歌も長いです。しかし、それには訳があって、実際に生活の場に立ったり、遠地に行って歌を詠むことは、その当時の歌壇では異色であったようです。
しかしながら、西行の立脚点は、旧態然たる貴族社会にあり、彼らの眼を意識するゆえに、彼らへの説明文として詞書が長くなるという事態を生んでいます。
そのような意識があるにせよ、西行はこれまでと違う世界に足を踏み出してしまったのです。この現場主義とも言っていい、この志向が西行の西行の由縁たるところです。想像や、先人の歌をなぞるのではなく、自分自身の目で見て、自分自身の歌を詠うところに西行は価値を見出したのです。
私はこれらの歌に、生活者のエネルギーに圧倒される西行を見ます。日々の生活を力強く生きている人々の姿を目のあたりにして、それをどう受けとめていいか戸惑う西行をこれら一連の歌から感じます。西行はこれらの庶民の暮らしをどう歌にしていいか分からなかったのではないでしょうか?月、花、霞といった歌題ではなく、自然の営みとしての暮らしの光景が目の前に展開したとき、西行は「つみ」という言葉から連想される観念的な世界に入っていかざるを得なかったと私は思うのです。この旅が、崇徳院の陵に詣でるものだっただけにその生活者のなまなましい現実の姿にどう処していいかと、窮してしまった西行だったのだとみます。これまでの歌の取り組み方では表現できない世界にまさに遭遇してしまったのではないでしようか。

 
崇徳院の陵に詣でる
少し時代はさかのぼるが、四国に流される崇徳院は保元元年七月二十三日、都を離れ、紀州の草津から船に乗り、八月十日、讃岐に着き、松山の一宇の堂に落ち着いた(保元物語)という。小豆島に近い直島に御所を造り、つづいて志度(今の大川郡)に移った。長寛二年八月二十六日崩御、白峰で火葬にし、松山の西麓に埋葬したのが白峰の陵である。(「西行の研究」より)
四国の旅は、この白峰の陵に詣でることが主目的であった。
陵に詣でたときに詠んだ歌を三首、ここに記す。
讃岐にまうでて、松山の津と申す所に、院おはしましけむ御あとたづねけれど、かたもなかりければ
松山の浪に流れて来(こ)し船の やがてむなしくなりにけるかな
松山の浪のけしきは変わらじを かたなく君はなりましにけり
讃岐に詣でて、松山の津という所に、崇徳院がいらしゃったあとをたずねましたが、跡形もなかったので
松山の浪に流れていらしゃった船はやがてはかなくなってしまったのだなあ
松山の浪の様子は変わらないのに、君はあとかたもなくなくなってしまわれた
また、崇徳院の白峰御陵に詣でて、栄華の現世への執着を捨てることを訴え祈った鎮魂歌を詠っている
白峰と申しける所に、御はかの侍りけるにまゐりて
よしや君昔の玉の床とても かからむ後は何かはせむ
白峰という所に御陵があるのをおまいりして
たとえ君が昔起臥された金殿玉楼とても、そうなった後(死後)は何になるというのでしょう
在俗の義清時代から、院との関わりがあった西行はこの四国の旅では崇徳院関係の歌はこの三首だけを残している。白峰御陵での歌で、西行は心の一区切りをつけ四国での修行の旅へと向かう。  
弘法大師の地へ
崇徳院の白峰御陵で鎮魂歌を詠い、栄華の現世への執着を捨てることを訴え祈った西行は弘法大師の地へ向かい、ある期間、庵を結んで住んだ。
同じ国に、大師のおはしましける御あたりの山に、庵結びてすみけるに、月いと明かくて、海のかた曇りなく見えければ
くもりなき山にて海の月みれば 島ぞ氷の絶え間なりける
同じ讃岐の国に弘法大師のいらっしゃったあたりの山に、庵を結んでいた時に月がとても明るくて海の方がくもりなくはっきり見えたので
曇りのない山(弘法大師のいらっしゃった善通寺近くの山)から海に照る月を見ると海が一面氷のようにきれいに見え、島はちょうどその氷の絶え間にあるように見えることだなあ
住みけるままに、庵いとあはれにおぼえて
今よりは厭はじ命あればこそ かかるすまひのあはれをもしれ
住むにつれて、庵がとても趣深く感じられて
今からはこの俗世を厭わないようにしよう、命があればこそ、このような山の庵の住まいのあはれをも味わえたのだから
世捨て人として西行は、少しでも早く来迎の機を得たいと待っていたが、今から後はこの俗世を厭離することをやめよう、「命あればこそ」の心境になった。
と静かに澄みきった修行者の心境が詠われている。
ところで、最初の歌によると、「・・庵結びてすみける」と詞書にあるので、西行は弘法大師が生まれ、若い時分修行した善通寺近辺でしばらく庵生活をしていたことは明らかである。曼荼羅寺の西四町、水茎岡の中腹に、今も山里庵の名が伝わると言う。この歌は「異本山家集」では詞書は「讃岐善通寺の山にて、海の月を見て」となっている。11月の月のころで、多度津辺の月明りの海上に、内海の海を展望しているとされる。
次の歌は、弘法大師ゆかりの地に庵を結び、西行は自然に親しみをこめて呼びかける。
庵の前に松の立てりけるを見て 久にへて我が後の世をとへよ松 跡したふべき人もなき身ぞ
庵の前の松の木よ、久しくながらえて、私の後生をとむらってくれ。私を思いだし、私の跡をしたってくれる人とてない孤独の身ですよ。
ここを又我が住みうくてうかれなば 松はひとりにならむとすらむ
私がここを又、住むのが嫌になって、漂泊の旅に出てしまったならば、松は以前のように又、独りぼっちになってしまうのだろう。
自然を自分の胸中の思いを託しうる対象として求めた。ここにも自己の孤独の慰めを松(自然)を友という対象として求め、自己の孤独を松の孤独に託して詠う自己を見つめた自己凝視の悲しみがある。しかし、その悲しみを悲しいと抒情的に詠うのではなく、その悲しみを客観化し、心の目でとらえた自然があった。  
西行の挑戦
最初の一首は、
松山の浪に流れて来(こ)し船の やがてむなしくなりにけるかな
船と詠んで暗に崇徳院を指していますが、第2首の
松山の浪のけしきは変わらじを かたなく君はなりましにけり
は、直接的に君という言葉を出しています。多分、第1首目は外向き用の歌であって、君という言葉を使わなかったのであろうと私は考えてみました。
少なくともその時代において崇徳院は罪人として讃岐に流されたのであり、その崇徳院を表立って詠えなかったと想像します。とは言え「松山の浪」で誰にでも崇徳院と解釈されてしまうわけで、西行は重々、それを知った上で詠んだと思われます。それを知った上で定家に歌の判定を頼んだところに西行の大胆さというか、挑戦ごころを見ます。
補足
西行の歌といえば「山家集」であるが、「歌合」という形式でも現代に伝えられている。そのひとつに「宮河歌合」がある。これは西行自身が自分の歌二首を並べて書き、第三者にその優劣を判断してもらった記録である。
さて、上に取り上げた第一首の「松山の浪に流れて」の歌もこの「宮河歌合」にものっている。この歌は比較の右の歌になっている。
左の歌は、
「道かはるみゆき悲しき今宵かなかぎりの旅と見るにつけても」である。これは、鳥羽天皇崩御の時の歌である。
「宮河歌合」は判詞を定家に依頼した。定家はこれに対して「左右の歌は共に旧日の重大な事件を詠ったもので、判を加えない」とした。この定家の判は当時の歌界を代表する考えとおもわれる。このような政治的、社会的事件をあつかった現実的な歌はその当時の歌界では受容されるものではなかった。
次に2首目と3首目との比較ですが、第3首はがらりと変わります。
よしや君昔の玉の床とても かからむ後は何かはせむ
前者2首は、君はあくまで天皇であり、上皇であった方という意識が感じられますが、第3首は、崇徳院もひとりの人間としてとらえています。人みな、死後の住みかはさびしい山の岩かげ、草のかげでございますといっているようです。ここに至って、西行は、仏のまえでは天皇もない、上皇もない、そんな世界にいることを悟っていたのだと思います。
四国での生活
四国への旅に出たのは51歳の冬。旅の目的は、崇徳上皇の慰霊と弘法大師の遺跡参りである。前者については目的を達したとの思いが歌から伝わってくる。一方、今回紹介された歌を見る限り、落ち着いた印象で、詞書がなければ旅先で詠んだ歌とは判別しにくい。善通寺近辺に庵をかまえたとき、西行からは旅が消えていったのではないか。ここが住みかと思い、歌を詠んでいたと思えてくる。
善通寺は四国八十八所、第75番札所である。八十八所を遍路すると、山を越え、海がせまる道を進んで、ここらあたりに来ると、おだやかな心落ち着く気分にさせる。多分、昔も、のどかな土地がらであったろうと想像されてくる。西行にここが一時の安住の地と思わせるところがあったのではないか?崇徳院を追悼する旅が強かっただけに、ここ善通寺は西行の心をおだやかにさせるなにかがあったと思う。真の「弘法大師の遺跡参り」は心の片隅にはあったろうが、その実行はしなかったか、なにかの都合でできなかったと思う。
弘法大師を追うのであれば、土佐に足を伸ばしたはずである。断崖の修行の場にこそ、弘法大師がおられる。四国八十八所を廻るとその印象を強くする。
久にへて我が後の世をとへよ松 跡したふべき人もなき身ぞ
時代が過ぎ、私が死んだ後の世の人々に問うてください。私のあとを慕う人などいないでしょうが、西行はここに生きたと。
ここを又我が住みうくてうかれなば 松はひとりにならむとすらむ
ここで住みごこちが悪くなって、また不安定なさすらいの生活に入ったならば、永遠なるものは我が身から離れた存在になるでしょう。
西行は年50を過ぎて、身のおきどころを考え始めたと私はこれらの歌に感じました。松は長寿、永遠を指します。凛々しく立つ松を見て、自分の行く末、孤独な自分をこの松に託したいと考えたように思えてきます。
どれだけの期間、四国に庵をかまえたかは定かではないが、少なくとも、西行は弘法大師のふところに抱かれるようなこの地を離れがたかったと私は感じます。どのような事情で四国を離れたかはまた分析してみますが、気持ちのうえでは永住の場所を求め始めたようです。  
善通寺あたり
「西行は弘法大師の地へ向かい、ある期間、庵を結んで住んだ」と書かれたように、
山に入ったところにあるこの庵は今も建て直されてあります。建物はまだ新しいのですが、西行上人いほりの跡と書かれた小さな石碑は歴史が感じられました。
善通寺は真言宗善通寺総本山ですが、奈良時代末期、唐から帰国した空海が長安の青龍寺を模して6年間の歳月を費やして建立したと言われています。
空海の父善通の名をとって寺号したとも言われ、また空海の先祖の佐伯氏の氏寺としてあったとも言われています。
寺の背後には、五岳山がそびえ正式には、五岳山屏風浦誕生院と言います。善通寺は75番の札所ですが、72番の曼荼羅寺には、西行桜もあります。石碑も写真に撮っているのですが、残念ながら読めません。
また73番の出釈迦寺には、「捨身ケ嶽禅定」という空海が幼少の頃、五山の一つである我拝石山の崖から身を投じたいきさつが書かれています。空海7歳(幼名真魚・まお)の頃、
「我仏法に入りて一切の衆生を済度せんと欲す。吾が願い成就するものならば釈迦牟尼世尊影現して証明を与えたまえ成就せざるものならば一命を捨ててこの身を諸仏に供養し奉る」
と言って身を投じるのですが、釈迦牟尼仏が現れ、大師は天女に抱き留められるといういわれです。
西行のいほりは、このように空海の縁のあるお寺や山に囲まれた、近くにあるということを、お知らせしたかったのです。
今、西行は弘法大師の四国に来ていますので、四国のことに関したいろいろなことを思い出しています。
西行はここに住みつづけようとしたと思えてくるのです。弘法大師ゆかりの地であり、崇徳院の眠る讃岐もすぐそこです。それにも増して、このゆったりとのどかな風土が永住の場にふさわしいでしょう。  

年の瀬に 東山にて人々年の暮に思ひをのべけるに
年暮れしそのいとなみは忘られて あらぬさまなるいそぎをぞする
年の暮に、あがたより都なる人のもとへ申しつかはしける
おしなべて同じ月日の過ぎ行けば 都もかくや年は暮れぬる (山家集冬の歌)
くもりなき山にて海の月みれば 島ぞ氷の絶え間なりける
私は山から見た海が月の明かりで氷がはっているように見えたことを詠ったと思いました。海全面に氷がはった情景を思い浮かべたと思ったのです。なぜ、見たこともない情景を西行が連想できたのかと疑問に感じつつもそう思ってしまったのです。
ところで西行さんは氷がはった景色を見たことがあったのでしょうか?
一面の氷の世界は北国(奥羽の旅)しかないような気もします。吉野や高野、熊野の情景から連想することは無理でしょう。

これは全く勘だけなので大違いのこんこんちきなのですが、わたしにはどうしてか氷が見えてこないのです。明るい(秋?)の名月が穏やかな海面に映え、水面のさざなみにキラキラ月光が反射している様子がまるで氷の表面にお日様がきらめいているように見え、氷の張った凛とした雰囲気より晧晧とした大きさを思ってしまいます。
きっと四国の印象が氷に結びつかないからでしょうね。

確かに四国と氷は不釣合いです。そうするとなぜ西行は「氷」を出してきたのでしょう?
この「氷」という言葉が気になりだしました。「氷」から浮かび出るイメージから、私は自分流の風景を思い浮かべてしまった訳です。それならば、西行は氷をどう歌に詠いこんでいるかに関心が向きました。
このようなとき、新渡戸さんがすばやく的確に情報を提供してくれます。新渡戸さんは、古典文学の、それも西行に焦点をあてて情報のデジタル化という有益で重要な活動をなさっています。

岩間とぢし氷も今朝はとけそめて苔の下水みちもとむらむ
三笠山春はこゑにて知られけり氷をたたく鶯のたき
春しれと谷の下みづもりぞくる岩間の氷ひま絶えにけり
小ぜりつむ澤の氷のひまたえて春めきそむる櫻井のさと
山おろしの木のもとうづむ花の雪は岩井にうくも氷とぞみる
水なくて氷りぞしたるかつまたの池あらたむる秋の夜の月
難波がた月の光にうらさえて波のおもてに氷をぞしく
月さゆる明石のせとに風吹けば氷の上にたたむしら波
いけ水に底きよくすむ月かげは波に氷を敷きわたすかな
岩間せく木葉わけこし山水をつゆ洩らさぬは氷なりけり
水上に水や氷をむすぶらんくるとも見えぬ瀧の白糸
氷わる筏のさをのたゆるればもちやこさましほつの山越
わりなしやこほるかけひの水ゆゑに思ひ捨ててし春の待たるる
川わたにおのおのつくるふし柴をひとつにくさるあさ氷かな
氷しく沼の蘆原かぜ冴えて月も光ぞさびしかりける
冴ゆと見えて冬深くなる月影は水なき庭に氷をぞ敷く
さゆる夜はよその空にぞをしも鳴くこほりにけりなこやの池水
よもすがら嵐の山は風さえて大井のよどに氷をぞしく
風さえてよすればやがて氷りつつかへる波なき志賀の唐崎
しきわたす月の氷をうたがひてひゞのてまはる味のむら鳥
くもりなき山にて海の月みれば島ぞ氷の絶間なりける

これらの歌を見る限り、西行は氷という言葉に寂寥たるイメージを持っていなかったようです。それならば、氷をもって何を伝えようとしたのでしょう。
くもりなき山にて海の月みれば 島ぞ氷の絶間なりける
の歌で西行は何を言いたかったのでしょう?
山に登ったら、美しかったというだけではないはずです。この歌にたくされたメッセージは何でしょう?
今年、私は初めて西行に出会い、この歳になって歌という世界を垣間見させていただきました。ひとつひとつの歌に込められた心、伝えたい思いを読み取ろうと懸命でした。生きた時代も違う、人生への取り組み方も違う、でも西行は確かにメッセージを発しています。基礎となる読解力もない、素養もない、感受性もない自分が、それを理解するなど到底かなわぬ無理難題と承知の上で、31文字に秘められた意思をくみ取ろうと努力しました。
歌を詠む人は、自分の感性、意思を膨大なエネルギーをかけて31文字に凝縮します。この凄まじい力を感じながら、それを解凍しつくせぬ自分を歯がゆく思いながら、この一年近くが過ぎました。
よくよく考えると、この凝縮と解凍のプロセスは歌の世界に限ったことでなく、みなさん方が日頃からなさっていることだったのです。ジャンルの違いはあれ、先人たち、同時代の人たちから、彼ら、彼女らの吹き出る思いを真摯に真正面から受け止め、咀嚼しょうと努力されている姿に感動していたのです。
これはインターネットで交わさせる会話においても例外ではありません。人はみな、何かの思いをのせて発信してくるのです。その情報の真の意味を理解しょうと努めました。しっかりと受けとめることが、人と人とのつながりの根底をなすと思うようになりました。
春、西行に始まり、いま時空を超えてここに西行の意志が私を奮起させます。みなさん、ほんの少しだったかもしれませんが、共に心、ふるわせられたこと、喜びであり、感謝しつくせない思いです。ありがとうございました。  
 
西住法師

西住法師
さて、この四国への旅は西行一人でなく、西住といっしょであったことは残された歌によって明らかである。
この西住は生涯、影のように西行につきそっている。作歌年代が不明なものではあるが、一人、旅をつづける西行が西住をつねに恋しく思い、その心を詠った恋歌を思わせる歌が残されている。そこからは西住への親しさがうかがわれる。
さて四国の旅では、旅半ばにして西住は都へ帰らなければならないことになる。
四国の方へ具してまかりたりける同行の、都へ帰りけるに
帰りゆく人の心を思ふにも 離れがたきは都なりけり
四国の方へいっしょにいった同行の西住が都に帰るときに
帰って行く人の心を思うにつけても(私の心から)離れがたいのは都であるなあ
都の魅力を感じながらも、ここ四国で修行の道を選ぶ西行がいた。そして離れがたい西住に最後の歌を贈る。
ひとり見おきて帰りまかりなむずるこそあはれに、いつか都へは帰るべきなど申しければ
柴の庵のしばし都へ帰らじと 思はむだにもあはれなるべし
ひとり置いたままにして帰っていってしまうことはさびしいことで、いつかは西行も都へは帰らなければなりませんよと西住が言いますので
柴の庵にいてしばらくは都へ帰るまいと思うのさえもあはれなのに、まして帰っていくあなたは心深いものがあるのでしょうよ。
いつも同行していた西住の元気な姿は四国への旅を最後に見られなくなる。その後、西住は病に倒れ、危篤に陥る。
同行にて侍りける上人、例ならぬこと大事に侍りけるに、月のあかくて哀なるを見ける
もろともにながめながめて秋の月 ひとりにならむことぞ悲しき
同行の上人(西住)が危篤になった時、月が明るくてあはれなのを見て
今まで、いつも共にながめてきた秋の月だが、その友である西住が亡くなったら、これからは一人でこの月をみなければならぬようになってしまうことが悲しい事だ。
西住との別れは次第に近づいて来る。  
西住の死
俗界にいるころからの親友である西住の死は、生きている限り避けることができない運命である。西行はこの悲嘆の情をあるがままに素直に歌にしている。以下にあげる歌は同じく歌仲間であった寂然からの西住の死を悲しむ歌に応えるものである。
同行に侍りける上人、をはりよく思ふさまなりと聞きて申しおくりける寂然
乱れずとをはり聞くこそうれしけれ さても別れはなぐさまねども
(臨終には心乱れてさわぐ人が多いのが普通だが)西住上人は心おちつき立派であったと聞いてその臨終をみとどけた西行におくったのは
臨終にあたって、少しも心が乱れず立派な往生であったと聞くのはうれしいことです。しかし、死別は辛い悲しいことで、立派な往生だからといって心が慰められるものではありませんが。
これに対し、西行は
この世にてまたあふまじき悲しさに すすめし人ぞ心みだれし
この世においてまた会うことのない死別の悲しさに、臨終正念をすすめた私のほうが、死に行く西住よりも心が乱れてしまいました。
臨終正念臨終の際、心を乱すことなく、阿弥陀仏にひたすら念じて極楽往生を願うこと
西行は西住の死をみとり、高野山へ骨を納める。それを聞いた寂然は再び歌を西行のもとに届ける。
とかくのわざ果てて、あとの事ども拾ひて高野へまゐりてかへりたりけるに寂然
入るさに拾ふかたみも残りけり かへる山路の友はなみだか
葬式のことやあれこれが終わって、遺骨を拾い高野山に納め、(それも終わって)帰ったときに
高野山に入ったときは(西行が)拾った形見の骨も残っていたでしょうが、納骨を終えて高野から帰る途中の(西行の)山路の友は、ただ涙だけだったのでしょうか。
これにも西行は自分の心のうちを素直に示す。
いかでとも思ひわかで過ぎにける 夢に山路を行く心地して
どうしたとも分別も何もなく、ただぼんやりとして過ぎてしまったようだ。夢の中で山路を歩いて行く気持ちでした。
西住の死を悲しむ西行を気づかう歌を届けた寂然もそのとき、病いの床に臥していた可能性が高い。この歌のあと、寂然の歌は現れない。この時期は、西行にとって寂然との最後の時期でもあった。
修行が自分の心を成長させるものであり、また詠歌も自分自身の心の世界であり、修行と詠歌が一つに結びついたものであった。
僧界にも歌界にも名誉を地位も求めず、自己の力だけで独自の道を歩んできた西行は、次第にその双方に独自の位置を築き、人々に慕われ尊敬されるようになってきた。  
詞書にみる四国の旅の時期
四国の旅およびそれ以降の詞書をピックアップします。
西行は、四国の旅に立つにあたって賀茂神社に参詣している。
1168年(仁和二年)51歳
−−、年高くなりて四国の方へ修行しけるに、また帰りまゐらぬこともやとて、仁和二年十月十日の夜まゐりて幣まゐらせけり。
四国での歌はこれまで紹介したように数々残っている。そのあと、年代のはっきりしているは、住吉神社に詣でている事が記された以下の詞書である。
1171年(承安元年)54歳
承安元年六月一日、院、熊野へまゐらせ給ひける跡に住吉に御幸ありけり。修行しまはりて、二日、かの社にまゐりたりけるに、さらに翌年、摂津の国に行っている。
1172年(承安二年)55歳
六波羅太政入道、持経者千人あつめて、津の国和田と申す所にて供養侍りけり。
西行は四国に住もうと一時思ったのではないか?
西行は四国の地が気に入り、何年かそこに居をかまえたと想像してみました。しかし、上に記載の情報からは四国にいたのは高々3年弱です。
窪田先生は承安三年前後に西住は没したのではないかと記述しています。それを前提にして物語をつくりますと、
西行はもう少し長く四国にいて、いつか帰ってくる西住を待つ。しかし来たのは、西住が危篤であるとの知らせ。それをきっかけに西住とともに住みたいと思った四国を離れ、都に駆け戻リ、看病し、最後をみとる。年老いた西住が住むのに良いと思った温暖な四国になぜ戻って来なかったかと思いながら。都に帰るという西住をなぜ強引にも引き止めなかったかと悔いながら。
しかし伝え伝えられたとはいえ、山家集の記載を推論の前提にしなければなりません。思い入れで書いてはいけません。西行が西住を大事な人と思い、失うことのつらさを一番感じていたことは我々に伝わっているのですから、それで十分です。  
西行の思想
西行は歌以外に書物が残っていないため、その歌から西行の心境を推しはかるしかありません。しかし歌からですと、西行が到達した心境は推察できたとしても、物ごとにどのよう取り組んでいたか、その考え方はどうであったかを理解することは困難な作業です。
西行が仏教をどのようにとらえていたかは興味あるところです。この期における中心テーマのひとつはここにあるのですが、残念ながらあきらめるしかありません。
ただ、西行はかなりの長い詞書を歌につけています。散文形式の詞書ですので、若干ですが西行の思考の一端を見ることもできます。幸いにも弘法大師に関する記述でかなり長文のもの残されています。それを以下に紹介させていただきます。
弘法大師生誕の地である善通寺に誕生のしるしに松が植えられています。その松を見て、西行は、他の野山にはえている松とは異なり、この松は大師ゆかりの松として特別な松であることに哀感を覚えています。
大師の生れさせ給ひたる所とて、めぐりしまはして、そのしるしの松のたてりけるを見て
あはれなり同じ野山にたてる木の かかるしるしの契ありけり
つづいて西行は、大師が幼いころ写経して埋めたという山に登るのです。そこには曼荼羅寺の行道所があります。なお、行道所とは読経をしながら仏殿を廻り歩く修行をする所です。そこへ登るのは非常に困難です。
まんだら寺の行道どころへのぼるは、よの大事にて、手をたてたるやうなり。大師の御經かきてうづませおはしましたる山の嶺なり
坊の外には一丈ほどの壇がつくられてあります。そこに大師が毎日登って行法をしたと伝えられています。
ばうのそとは、一丈ばかりなるだんつきてたてられたり。それへ日毎にのぼらせおはしまして、行道しおはしましけると申し傳へたり。
その壇は二重になっていて、その廻りを行道できるように築かれていました。そこへ登るのは大変危険なので用心して這うように西行は登ります。登りつめた西行は、大師がこの行道中、釈迦如来が雲に乗って来るのに逢ったという伝説を踏まえて、今、自分が大師と同じ場所に登っているのだと歌にします。
めぐり行道すべきやうに、だんも二重につきまはされたり。登る程のあやふさ、ことに大事なり。かまへて、はひまはりつきて
めぐりあはむことの契ぞたのもしき きびしき山の誓見るにも
そこから上は大師が御師釈迦如来に逢われた嶺で、我拝山と呼んでいますが、土地の人は山をつけないで我拝とだけにしています。この山は姿が筆に似ているので又の名を筆の山といいます。
やがてそれが上は、大師の御師にあひまゐらせおはしましたる嶺なり。わかはいしさと、その山をば申すなり。その邊の人はわかいしとぞ申しならひたる。山もじをばすてて申さず。また筆の山ともなづけたり。遠くて見れば筆に似て、まろまろと山の嶺のさきのとがりたるやうなるを申しならはしたるなめり
行道所からまた這いつくばるようにして峰に登ると、大師が釈迦の姿を見たという場所に塔が建てられています。その礎はたいへん大きく、高野の大塔ほどの跡と見うけられます。そこで筆の山という名にからませて歌を詠みます。
行道所より、かまへてかきつき登りて、嶺にまゐりたれば、師に遇はせおはしましたる所のしるしに、塔を建ておはしましたりけり。塔の石ずゑ、はかりなく大きなり。高野の大塔ばかりなりける塔の跡と見ゆ。苔は深くうづみたれども、石おほきにしてあらはに見ゆ。筆の山と申す名につきて
筆の山にかきのぼりても見つるかな 苔の下なる岩のけしきを
善通寺には弘法大師の画像が描き添えられ、また大師の筆跡も残されています。四の門の額が少し破れていたのが、これから先どうなるかと西行は気にかけます。
善通寺の大師の御影には、そばにさしあげて、大師の御師かき具せられたりき。大師の御手などもおはしましき。四の門の額少々われて、大方はたがはずして侍りき。すゑにこそ、いかゞなりけんずらんと、おぼつかなくおぼえ侍りしか
以上の文を読んできますと、西行の修行への姿勢が見えてきます。忠実に大師の足跡を追い、それを追体験することで少しでも大師に近づこうとする意志が見えます。仏道の教えは何も語られていません。ただ、自分の目で見たまま、体験したままを淡々と書き綴っています。対象を真摯に見つめることが西行の修行であったと思われてきます。  
 
晩年没するまで1

治承四年(1180年)から建久元年(1190)まで、年齢は63歳から73歳について述べる。伊勢に住居を移して、河内弘川寺で没するまでの晩年期である。
西行は、源平争乱期に入った社会を避けて、高野・熊野の修行場から離れ、伊勢の国へ移り住んだ。高野山での活動に区切りをつけた時期である。伊勢移住の契機は、西住や寂然といった親しい人々との死別もあり、気分を一新させる意味も含んでいる。
この治承、養和、寿永、建久とつづくこの年代は、古代が終焉の時を告げ、中世が確立する一大転換期である。西行と親しい交渉があった平氏の滅亡、同族の奥州藤原氏の滅亡と、歴史の渦のなかに西行は身をおいて晩年をすごすことになる。
そして、69歳の時、東大寺勧進のため再度の陸奥への旅に出かけ、70歳で旅より帰る。その後、都と河内で最晩年を過ごし、その中で「御裳濯河」「宮河」の二つの自歌合の編集をし、生涯の作品を整理する。
まず西行は生活の本拠を伊勢に移す。伊勢には若い頃何度か行ったことがあり、西行にとって懐かしい土地であった。
西住や寂然との別れは西行をいっそう孤独にさせた。その西行が心を癒すためにも選んだ地は昔の修行地であった。
詠歌の時代は不明だが、若い頃、伊勢に行った折の作品を二首紹介する。
世をのがれて伊勢の方へまかりけるに、鈴鹿山にて
鈴鹿山うき世をよそにふり捨てて いかになりゆくわが身なるらむ
俗世を離れて伊勢へ行きましたときに、鈴鹿山で
鈴鹿山よ、浮き世を振り捨て行く私はこの先どうなっていくのでしょう
「いかになりゆくわが身」と自分の将来に対する不安を詠った出家後間もないと思われる若い西行がみられる。
修行して伊勢にまかりけるに、月の頃都思ひ出でられて
都にも旅なる月のかげをこそ おなじ雲居の空にみるらめ
修行で伊勢に行きましたときに、月の頃、都が思い出されて
旅の空でみるこの月の光を都でも同じ雲が浮かぶ空で見るのでしょう
若い西行は、修行の地である伊勢でも都から心が離れることはなかった。そして年老いた西行は再び伊勢へと旅立つ。

西行は治承四年1180から文治二年1186まで、伊勢に住んでいる。この時期は以仁王の挙兵から平家滅亡そして源義経の逐電に至る内乱の時期である。西行はこの一連の争いの様子を伊勢で耳にし、歌を詠んでいる。
まず最初の歌は、武士を捨て世捨て人となった西行ではあるが、その武士達の争いをせずにはいられない人間達の「あはれ」を詠っている。
世のなかに武者おこりて、にしひむがしきたみなみいくさならぬところなし、うちつづき人の死ぬる数きくおびただし、まこととも覚えぬ程なり、こは何事のあらそひぞや、あはれなることのさまかなと覚えて
死出の山越ゆるたえまはあらじかし なくなる人のかずつづきつつ
世の中に武士が大挙して立ち、西、東、北、南いずれでも戦(いくさ)をしていないところはない。
切れ目なく人が死ぬのを聞くとその数はおびただしい、真実とも思われないほどである。これは何事の争いかと歎き悲しい状態であると思われて
死出の山を越えてゆく絶え間はないだろう 亡くなる人の数がずーと続いて
次の歌は、「平家物語」巻四の「橋合戦」で知られる「宇治川の合戦」(1180年)である。
宇治川で以仁王と源頼政が平氏と戦った時のことを詠っている。源頼政はこの時亡くなるが、源頼政は俊成からその歌才を称えられたほどの歌人である。西行が知らないはずはなく、どんな感慨をもっていたのであろうか。
武者のかぎりむれてしでの山こゆらむ。山だちと申すおそれはあらじかしと、このよならばたのもしくもや、宇治のいくさかとよ、うまいかだとかやにてわたりたりけりときこえしことおもひいでられて
しづむなるしでの山がはみなぎりて うまいかだもやかなはざるらむ
武士が群れて死出の山を越えていく。(だから)山は山賊という恐れは無くなったであろう。(死出の山ではなく)この世であれば頼もしいであろうに、(ところで)宇治の戦だったろうか、馬筏とかいうもので川を渡ったと耳にしたことが思い出されて
多くの人が沈んでゆく死出の山河は漲って、馬筏でも(渡るのは)かなわないであろうことよ
最後の歌は、具体的には寿永二年(1183)、木曽義仲が備中水島で平氏に敗れたことを詠んでいる。
ここに出てくる木曽人とは、木曽義仲を指す。治承四年、以仁王の令旨に応じて挙兵し、平資盛の大軍を破り、平氏を都落ちさせて木曽義仲は入京する。都で我が物顔に振るまい、都を荒らした木曽義仲へは、西行は突き放したような手厳しい評価を下していた。
義仲は都で勢威を振るったが後白河院と対立し、源義経・範頼軍に攻められて、元暦元年(1184)に敗死した。
きそと申す武者死に侍りにけりな
きそ人はうみのいかりをしずめかねて しでの山にもいりにけるかな
木曽という武士が死にましたとか
木曽から来た人は海に碇を沈めることができず、死出の山に入ってしまったよ
以上、いずれも「聞書集」におさめられた、源平争乱の有様を詠った歌である。

「西行と平氏」についてふれておく。平氏が抬頭した頃から西行は平氏と交わりがあり、その全盛期になってからも平氏一族の人々とは親密な関係をもっていた。平氏との関係がうかがえる歌としては忠盛邸で詠んだものや、つぎにあげる二首が残されている。
最初の歌は、西行五五歳、和田で催された平清盛の大仏会に招かれたときに詠んだものである。和田は昔の「武庫の泊」で平家に財をもたらした宋との貿易船が停泊する港であった。この歌では、仏法の繁栄を讃歌し、平氏の盛運を祝福している。
六波羅太政入道、持経者千人あつめて、津の国和田と申す所にて供養侍りける、やがてそのついでに万燈会しけり。夜更くるままに灯の消えけるを、おのおのともしつぎけるを見て、
消えぬべき法の光のともし火を かかぐるわたのとまりなりけり
六波羅太政入道は平清盛。持経者は経文を常に読誦して教えを身につけている人である。万燈会は懺悔・報恩のために多くの灯明をともして供養する行事をいう。夜が更けてその灯明が消えると次々にまたつけなおして、夜間中灯明をともしている万燈会の様子を見て詠んだ歌である。
歌のなかにある「わたのとまり」は和田の港のことであり、その海面に灯明が映し出され荘厳な情景が浮かび上がってくる。
つぎの歌はいつ詠んだかは特定できないが、五二歳から五九歳までの間の歌である。この歌からは、中宮大夫時忠(平時忠)との親交がうかがい知ることができる。時忠は後白河院の后建春門院、そして清盛の妻時子の兄である。平氏では最有力者である。
常よりも道たどらるる程に、雪深かりける頃、高野へまゐると聞きて、中宮大夫の許より、かかる雪にはいかに思ひ立つぞ、都へはいつ出づべきぞ、と申したりける返事に
雪分けて深き山路にこもりなば 年かへりてや君にあふべき
返し(時忠)
分けてゆく山路の雪は深くとも とく立ちかへれ年にたぐへて
いつもより、道に迷いそうなほどに雪が深かった頃、私が高野へ行くということを中宮大夫が聞いて、「こんな雪にどうして高野へ行くなど決めたのですか、都へはいつ出てくるのですか」と言われたのでその返事に
雪を分けて深い山路にこもったので 年が改まってからあなたに会うでしょう
返歌(時忠)
雪を分けて入ってゆくその山路の雪は深くても早く返って来なさい、新年を連れて
なお、「たぐふ」は、並ばせる、連れ伴わせるという意味。
この平氏が没落していくのが、西行の出である佐藤家も平氏もともに、武をもって院に関係を保って来た豪族であった。摂関家に縁故をもってきた源氏とは異なる感情を西行は平氏にむけていたと思われる。  
西行、高野山での仕事
西行は高野で修行のみをしていた訳ではありません。つぎのことが「西行の研究」に書かれていました。
鳥羽院皇女・五辻斎院頌子内親王は、父の菩提のため高野山東別所に蓮華乗院の建立を大義房賢宗に命じた。承安五年(1175年)である。その賢宗が途中で亡くなったため、西行があとを引き継ぎ、治承元年(1177年)に完成させている。西行60歳のことである。
同じ年、西行は高野山の検校の命で上京し、平清盛に高野山が紀州日前神宮の社殿造営の課役から免除されるよう申請している。
西行が高野山の僧として活動していた一端がわかります。
伊勢に移り住むころ
西行が伊勢に移り住むのは治承四年といわれています。時計の針を少し戻してみます。
治承元年清盛暗殺計画?(鹿ケ谷の陰謀)後白河院の院勢力と平清盛を中心とする平氏との対立・抗争が激化するなか、この事件が起きる。
治承三年清盛、後白河院を幽閉清盛による宮廷内クーデター、院近臣40名の官職を解き、平氏一派で空位を埋め、後白河院を鳥羽院に
幽閉する。
治承四年安徳天皇即位清盛は外祖父の地位に立つ。平氏討伐計画後白河院の皇子以仁王と源頼政とが挙兵、宇治平等院で敗戦。
福原遷都平氏、京を離れる。
全国規模の動乱関東、源頼朝。木曽、源義仲。
東大寺・園城寺炎上平重衡、東大寺・園城寺を攻め、堂塔を焼く。
養和元年平清盛死す。
戦乱の波は、延暦寺、園城寺、興福寺のみならず、高野山、熊野へと広がっていきます。高野は、いわんや都は、西行にとって静かな余生をおくる地ではなくなっていきました。
伊勢へ移り住む動機
西行が高野山住まいを離れ、伊勢に移った動機に関してはいくつかの説があります。今回は、どのような理由から伊勢在住となったかを考えてみます。
1.神宮祠官荒木田氏の存在
2.高野山に対する失望
3.本地垂迹思想による神宮崇敬
4.源平合戦期の社会事情
伊勢行の動機として
「一つには深刻かつ長期化した内乱」をあげたあと、「そもそも西行はあれほど長期にわたって伊勢に止まることを当初から予測していたであろうか」と考え、そうではなくて「神域の平穏と荒木田氏の歓待によって、思わぬ長逗留になったものではなかろうか。
そして、その長逗留が、おのずから神宮崇敬や祠官との歌交を深め、ひいては思想上にも大きな影響をおよぼしたものと思われる」と分析している。
ところで私はこの考え方を理解するものの、個人的な見解として次のように考え、自らに納得するのです。
治承四年(一一八〇)といえば西行六十三歳です。高野山で西行、およびその行動を許容し理解してくれた僧たちも多くは世を去ってしまった歳です。
西行は高野山で僧位を得ようともしなかったし、学僧・専門僧でもありませんでした。このような西行が高野山にいられたのは、それだけの自由さ、寛大さが高野山にあったと、私は考えます。当然、理解者も多くいたはずです。
その理解者が一人減り、二人減りの状態になっていき、高野山の中心世代は西行より若い世代へと移って行ったでしょう。一方、自由さや寛大さもそれが許される時代ではなくなっていきます。動乱の世、各寺(宗教集団)も自己防衛に、あるときは攻撃的防衛に向かっていかざるを得ない時代です。このような時代背景のもと、高野山も例外ではなく、ひとつの組織体としての態勢をとっていったと考えます。
戦いにおいては、多くの組織はピラミッド状の堅固な厳格な体制へと変化していきます。この流れのなかで西行は、なにを考え、どう行動をとったでしょう。一人の自由人として生きてきた西行が、自分をその組織体の一部に組み込むことという難題にどう対処できたでしょう。
わたしは、高野のなかで置き場のない孤独な西行をそこに見、高野の山を下る時期だと判断せざるを得ない西行を、想像してしまうのです。  
 
没するまで2

俊成と平氏
これは直接西行とは関係ありませんが、この時代背景の理解の一助になればと、取り上げます。
先に記しましたように、源平争乱期です。ここでは平氏は源氏におされて、次々に都落ちをします。この間の事は、「平家物語」に語られ、世に知られています。
その都落ちが始まる寿永二年(1183)二月、後白河院より千載和歌集撰集の院宣が藤原俊成に下ります。その年の六月、安徳天皇と神器を奉じて、
平家一門は西海へおもむきます。その中の一人、平忠度(清盛の弟)は和歌の師である俊成に「良い歌があったらぜひ勅撰集に選んでほしい」とまとめた自分の歌稿を託して都落ちしたとされています。
その気持ちを察した俊成は、後に、名をはばかって「よみ人しらず」として千載集に載せています。
それが、故郷花といへる心をよみ侍りける
さざ浪や志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな
の歌です。
千載和歌集のなかで、西行の歌の三つ前にとりあげられています。
「故郷」は古い京という意味があり、人がかつて住んでいて、今は住まなくなった所をいいます。「さざ浪」は志賀の枕詞、「志賀の都」は近江の大津宮です。「ながら」は、「昔ながら」と「ながらの山」(長等山)と両方にかかっています。志賀の都は荒れ果ててしまったが、昔ながらの長等山の桜は今年も咲いていることだ。変わらない自然と無常の人間界を対比させて詠んでいます。
この歌は、「万葉集」の柿本人麻呂の長歌「近江荒都を過ぐるときの歌」の本歌取りとなっています。柿本人麻呂が壬申の乱で荒廃した大津京の跡にたたずみ、そこで栄華の日々を送り、滅びていった人々への鎮魂歌として詠んだものです。
俊成は、源平争乱の時代全体を反映した歌として、これを千載集にとりあげたといわれています。他にも、何首か平家歌人の歌が読み人知らずとしてとられています。滅びていった平氏への鎮魂の意味もあったのかもしれません。
俊成と平家一門との関係はその他に、資盛、維盛らがいます。話はまた前に戻りますが、千載和歌集の院宣の伝達の使者は資盛でした。資盛は重盛の子であり、清盛の孫です。やはり俊成を歌の師とする一人でした。俊成は千載和歌集の院宣が下ってから公平を期すために、歌の判者をやめます。最後は、資盛邸での歌会でした。
そして、その兄である維盛は俊成の孫娘の夫です。維盛は「平家物語」では滝口入道の引導で那智の海に入水して果てた人です。
この平家一門と関わり、平家の盛衰を見つめた一人の女性がいました。建礼門院右京大夫です。右京大夫は清盛の娘で、安徳天皇の母である建礼門院徳子に仕えた女性です。資盛の恋人でもありました。平家一門の運命を身近に見つめてきた右京大夫が、平家滅亡後、その追憶を悲哀を込めて書いたものが日記風な歌集になった「建礼門院右京大夫集」です。
この女性とも俊成は縁があります。俊成はこの時代には珍しく長寿でした。西行より四年先に生まれ(1114年)、14年長生きをし(1204年)、この時代の人の悲劇を全て見ることになります。
九十の賀の時、院よりお祝いに衣装を賜ります。その衣装の刺繍は建礼門院右京大夫がしました。刺繍をした建礼門院右京大夫、そして、それを手にした俊成、二人の胸に去来するものは、なんだったのでしょう。

高野山の山を住みうかれて後、伊勢国二見浦の山寺に侍りけるに、太神宮の御山をば神路山ともうす。大日如来の御垂迹と思ひてよみ侍りける
深く入りて神路の奥を尋ぬれば 又うへもなき峰の松風
高野の山に住んでいたが、そこに住むのも嫌になって、さすらいの心がおこり、伊勢の国の二見の山寺にいた。大神宮の御山を神路山という。伊勢の皇大神宮の天照大神は大日如来の御垂迹だということを思って詠んだ歌
大日如来の本地垂迹のあとを思いつつ、神路山の奥深く入ると、この上もなく尊い、又微妙な神韻を伝える峰の松風が吹くよ
この歌から推察できるように、西行は僧でありながら神宮参詣をしている。またこの時代の思想的特色であった天照大神を密教の本尊大日如来の垂迹とする「本地垂迹」思想がみられる。
さらに、「西行上人談抄」からは、この時期、数奇と仏道を融合統一した心境を深め、詠歌は「神明」とくに「天照大神のよろこびたまふ」ところとする
信念もうかがえる。
「西行上人談抄」は、「西公談抄」、「西行日記」、「蓮阿記」ともいわれ、西行の弟子であった蓮阿(荒木田満良)が、西行より歌について聞書きした
もので、西行の歌論書となっている。
その中で、古今和歌集その他の秀歌例を挙げ、「和歌は麗しく詠むもの、古今集の歌風を手本として詠みなさい。その中でも、雑部を常にみなさい」
と教えている。雑部は述懐を主とした歌群である。述懐を重んじた西行の詠歌姿勢がみられる。
西行は歌論書など歌について書いたものを残していない。この「西行上人談抄」が歌以外では唯一、西行の歌についての考え方を知ることができるものである。

伊勢の国では、山寺や草庵で生活していた西行のまわりに神官たちの作歌サークルが育っていった。そのひとりに荒木田氏良がいる。氏良は前回紹介した「西行上人談抄」を書いた荒木田満良(蓮阿)の兄で、内宮で禰宜をつとめた人である。伊勢では、この氏良、満良兄弟らが中心になった若い作歌サークルがあったと考えられている。
作歌サークルの人々と西行との間には交流歌があり、今回はこの氏良と交わされた歌を紹介する。ここにあげる贈答歌は氏良が三十歳前後の作らしい。ということは30才以上離れた若い者に西行は歌を教えていたことになる。(西行の指導がよかったかどうかは別として)氏良は「新古今和歌集」に一首入集し、その子孫も代々、勅撰集の作者となっている。
この歌は二月十五日、釈迦入滅の日の月が曇っていることを題材にして、西行に贈ったものである。
伊勢にて神主氏良が許より、二月十五日の夜、曇りたりければ申し送りける氏良
今宵しも月のかくるる浮き雲や 昔の空のけぶりなるらむ
かへし
霞みにし鶴の林のなごりまで 桂のかげもくもるとを知れ
十五日は釈迦入滅の日、「けぶり」は「火葬の煙」
氏良の歌は月を隠している浮き雲を釈迦火葬の煙ととらえて詠っている。
それに対して、西行は「けぶり」を春という季節にふさわしい「霞みにし」で受け、「くもるとを知れ」と返している。返歌にある「鶴の林」は釈迦が入滅
したときの沙羅双樹の林を指して、釈迦が入滅した時、その死を悲しみ、葉が鶴の毛のように白く変わり、枯れてしまったという故事によるものである。また「桂」は「春に紅色の花を咲かせる木」であり、中国の伝説では、月の世界に生えているという木である。白い「鶴の林」と紅い花咲く「桂」を対照的にならべて鮮明さを歌に与えている。
西行は、
「お釈迦さまの煙は春の霞みとなって、鶴の林の姿をとどめる月中の桂樹のかげをも曇らせています、そう思いましょうよ」(武彦意訳)と呼びかけている。

東大寺再建の勧進で再度陸奥へと足を運んだ西行の歌に全作品中のピークといわれる二首がある。
一つは、東の方へ修行し侍りけるに富士の山を詠める
風になびく富士の煙の空にきえて 行方も知らぬ我が思ひかな
風になびく富士山の煙が空に消えて行方がわからなくなるように、世のこと、自分のことをいろいろ考えて、私の思いもそれと同じく行方がわか
らなくなるよ
「煙の空に消えてゆくようにあてどもなくつぎつぎに湧いては消えてゆく、果てしない雑念がある。人間として持たざるを得なく、また持っている、さまざまな思いをできるならば捨てたいと願う。雑念、妄想というものが現在も存在することを認めながらそれを苦痛に思っているのではない。そういう自己を在るがままに反省し、大きく客観視する。そういう態度のなかから、この歌は詠われている」という。
この窪田章一郎の見解に代表されるように、安田章生、目崎徳衛、久保田淳などの諸研究者は、ほぼ一致した見方をこの歌に対して示している。
西行は七十三年という生涯にわたって「わが心」「わが身」「わが思ひ」を執拗に凝視し追求し続け、それを歌に表現してきた。上の歌はその生涯の最終段階における「わが思ひ」である。この「わが思ひ」は、青年期の一途な物思いとは対照的に、数奇心も道心も恋心も旅心も諸々含まれた名状し難い複雑な想念であったろう。
「行方も知らぬ」とは詠っているものの、この感傷的ともいえる「詠嘆の底には今までのように、わが思ひのもどかしさに身をさいなむ自虐さはもうなく、
それも又よしと肯定する淡々たる悟りが感じられる」と目崎徳衛は述べている。

西行の歌境を代表する作品のもう一首は、次の歌である。
東の方へ相識りたりける人の許へまかりけるに、小夜の中山見しことの昔になりけるを思ひ出でられて
年たけてまたこゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山
東国へ知人を訪ねていく時に、小夜の中山を越えたことが昔になってしまったと思い起こされて
こんなに年老いて、この小夜の中山を再び越えることができると思っただろうか、それなのに今またこうして小夜の中山を越えようとは、まことに命があるおかげであるよ。
この歌には、三十前後の初度の陸奥の旅と、今回の六十九歳という高齢での再度の旅、その二つが、久しい時間を経て、一つに把握され、自己が自然にとりこまれ、自然と一体化した安らかさが感じられ、人生的な深い味わいのある作品となっている。
この歌を川田順は「西行傑作中の傑作」とし、窪田空穂もまた「老いて身世を大観した歌」とする。
窪田章一郎は「西行の全作品中のピークになっている」と位置付け、「人生的な味わいが全体からにじみ出ている歌」と評価している。さらにこの歌
は「西行の文学を象徴する意味をもち」「いかにも健康的で明るいことである。老いの艶という味わいが濃厚である。それが深さをもっている」と言う。
「風になびくーーー」と「年たけてーーー」の二首を「自然と人間とを一如に観じる宗教的に至り得た境地」「求めてやまない求道心と文学的資質とが一つになっていて観念的に割り切れず生きつづけている人間の声」と受け取っている。
さやのなかやま(小夜の中山)
遠見国の歌枕。現在の静岡県掛川市にある峠。箱根とともに東海道の難所の一つである。
和歌では古くは
「甲斐が峰をさやにも見しかけけれなく 横ほり伏せるさやの中山」(古今集・東歌)
がある。「さやにも」と同音反復の表現をとっていることからみてサヤノナカヤマと呼んでいたようである。おそらく「狭山の中山」というのが本来の名であったろう。歌の意味は「甲斐の国の山々をはっきりと見たいものだ。にもかかわらず、心なく横たわって伏しているさやの中山がじゃましているよ」。
「東路のさやの中山なかなかに あひ見てのちぞわびしかりける」(後撰集・恋一)
「東路のさやの中山ではないが、なかなか、つまり中途半端に知り合ってしまってからの方がつらい気持ちです」。
「東路のさやの中山さやかにも 見えぬ雲ゐに世をやつくさむ」(新古今集)
「東国への道にあるさやの中山よ。ここを越すと、まさしく異郷という感じです。はっきりと見えない遠い旅の空で一生を終わることになるのだろうか」。
これらの歌のように「さやの中山なかなかに」「さやの中山さやかにも」という同音反復の歌枕表現が一般的であった。
西行の
「年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけりさやの中山」(新古今集)
が契機となって旅人の感懐をしみじみと詠んだ歌も多くなっていく。
また「さや(小夜)」−>「さやか(清か)」の縁で次のような歌も出てくる。
「ふるさとの今日の面影さそひ来と 月にぞ契る小夜の中山」(新古今集)
「故郷に残してきた人の今日の面影をさそってきてくれと月に約束するのです。この小夜の中山で月を見ていますと」。
このように「月」がよく詠まれるようになり、小夜の中山は、月の名所にもなっていった。  
本地垂迹説
超歴史的な本仏が歴史世界にすがた(迹)となって現れる(垂)とする説だそうです。本地は、本来のあり方、本来の境地と、辞書にはのっています。まだよく理解できませんが、書いていきます。この本地垂迹説を神祗信仰に適用して、仏・菩薩が人々を救うために神の姿を借りて現れたと説き、平安時代からの神仏習合に大きな働きをした。
平安前期の書物に「垂迹」の語が認められ、中期には仏が権り(かり)に神として現れる意を示す「権現」が使われている。伊勢内宮の本地が大日如来とか、八幡神は阿弥陀如来の垂迹など、本地仏が設定されるのは後期である。以後、各社ごとに本地仏が定められ、鎌倉時代にはほぼ全国的に普及した。
古来から日本にいる神は、本来目に見えない存在で人格的要素が希薄である。神は、空の上とか、人が分け入らぬ、人間が住む世界とは違うところにいて、それがときどき人里に下って来る。
その際に姿形を持たない神は一時的に宿る場が必要になり、それが樹木や岩などの自然物であれば、それが神となる。宿るところは鏡や刀剣のように人が作ったものの上でもいい。人に下れば、神がかりである。
一方、仏教は崇拝の対象としての仏と、思想・教理としての法、教団としての僧が総合された体系である。そのなかで仏のみがクローズアップされ、仏は外国から渡来した神相当の存在とみなされた。仏も神同様に、十分に敬意を払って祀らないとさまざまな厄害をもたらすと日本では考えられた。
仏教伝来当時には仏は日本の神と同じ範疇でとらえられていたが、そのうち、外来の仏教は日本古来の宗教が及びもつかない高度で強力なものであることがわかってくる。インド・中国という最高の文化のなかで磨かれ、思想・教団組織・儀礼などいずれをとっても高度に確立された宗教である。それに建築や工芸・医療などの最新技術が伴い、さらに、律令政治体制とも密接に結びついていた。
仏教が国家の中枢になっていくに従い、古来からの神々を仏教システムのなかに組み込むことで自己の存在を守り得ると考えた。
この神の仏への従属はいろいろな形態をとった。ひとつが「神は実は仏が衆生救済のために姿を変えて現れたのだという考え方」である。神仏を一体としてとらえたこの考え方は、端的に神仏習合の形を示している。
平安中期になると、これが本地垂迹的な発想として明確になっていく。本地垂迹というのは、本地、すなわち本来のあり方をしている仏が、垂迹、すなわち仮の姿をとって現れたのが神だという考え方である。熊野は本宮が阿弥陀、新宮が薬師、那智が観音を本地とする。日吉は釈迦、伊勢は大日というように、どの神はどの仏の垂迹であるという具合である。
一方、本地垂迹説は仏教土着化の思想的根拠となり、仏教の外来要素を稀薄ならしめてその日本化を推進する働きもした。
伊勢に至るまでの西行を少し振りかえってみます。
高野山で詠んだ歌に西行の心の一端を見ることができます。歌に詠みこまれている情景が西行の心境でなかったかと思うのです。「山深み」ではじまる寂然にあてた十首を見てみますと、次のような情景が歌に織り込まれています。
「音あはれなる谷の川水」
「はげしき物すごき月影」
「訪うものは色づきはじめたはじのたち枝」
「何心なくなく猿の声」
「かつがつ落ちる橡の実」
「物おそろしきふくろうの声」
「ものものしくわたる嵐」
「ほだを切る斧の音」
「見るものはみなあはれもよほすけしき」
「馴れて寄ってくる鹿」
このような生活環境から西行は離れる決意をしたのです。
深く入りて神路の奥を尋ぬれば 又うへもなき峰の松風
の詞書にあるように「高野の山を住みうかれて」伊勢に移ったのです。「住みうかれて」は「住むのがいやになって」では強すぎますが、「住むのがうとましくなって」「住むにはつらくなって」あたりと私は解釈しています。
いずれにせよ、伊勢に七年間、住むことになるのです。この晩年期、戦乱の外なる世界とは対称的に西行は平安な心を自分のなかにはぐくんでいくのです。それを歌で見ていきます。
まず「すずしの心」です。
伊勢神宮に公卿勅使が参拝するのに行き逢ったときいかばかりすずしかるらむつかへきて御裳濯川をわたる心は
この歌に詠われている「すずし」は単なる感覚的な涼しいではなく、なにか心晴れるようなすっきりした気持ちが表れています。清らかさともいっていいでしょう。
つぎは、伊勢の守山というところで梅が香ばしい漂う春の「おだやかな」普段の情景を詠っています。
柴のいほにとくとく梅のにほひきて やさしきかたもある住まひかな
さらに神も仏も自分のなかに一体となって融合する「宗教的境地」も詠っています。伊勢の太神宮に参った折の歌で
さかきばに心をかけむゆふしでて おもへば神もほとけなりけり
自らが選んだ挑戦の数々から得た体験が、六十三才を過ぎた西行の心のなかで成熟し新たな境地へと進んでいきます。そんな西行にいま想いをはせています。
補足
さかきばに心をかけむゆふしでて おもへば神もほとけなりけり
の歌に見解を付け加えさせてもらえれば、「さかきば」は榊の葉という意味でしょう。「ゆうしでて」は「木綿垂でて」と解釈しました。木綿(ゆふ)はこうぞの樹皮の繊維を細かく裂いて作った糸で、榊などに掛けて神事に用いたものです。垂づは、垂れる・掛けるの意味です。なお、ゆふは結ふにかけているのかもしれません。「しでて」はその前の「心をかけむ」と結びつけているように思えます。所作がこころと一体になって
いるさまがよく読むと歌から伝わってきます。
富士山噴火
平安時代初期以降14回の火山活動が古文書に記録されている。大規模なものが3回あった。延暦一九年(800年)、貞観六年(864年)、宝永四年(1707年)である。
延暦の噴火では、当時の東海道であった足柄路(現在の足柄峠付近)が火山灰で埋まった。貞観の時は、溶岩流が「せの海」と呼ばれた湖を本栖湖、精進湖、西湖に三分した。宝永は第一級の激しい爆発であった。上空に噴き上げられた火山灰は相模国一帯から、江戸、下総、上総国まで降下し、堆積した。西行が旅したころ、富士は悠々たる噴煙をたなびかせていたのである。「風になびく富士の煙」が見られた。  
 
没するまで3

この期の特色ある歌の一つに「たはぶれ歌」十三首がある。子供の頃の思い出や、現在の老境に至った心境を詠ったもので、あたたかさや愛が感じられる。それらの歌では、「麦笛、炒粉かけ、あこめの袖の玉襷、竹馬、隠れ遊び、雀弓、ひたひ烏帽子、土遊び、茅巻馬」など、具体的に子供の遊びやその当時の子供の様子が目に浮かぶようで、優しい安らかな心境、清澄、そして澄明な世界が展開されており、魅力ある作品となっている。題詠による創作歌が主流であった当時の和歌の中で、個人生活を表現した新しい、珍しい作品である。
嵯峨にすみけるに、たはぶれ歌とて人々よみけるを
うなゐ子がすさみに鳴らす麦笛の 声におどろく夏の昼臥し
幼い子がなぐさみに鳴らす麦笛の声ではっと目覚める夏の昼寝よ
幼子が鳴らす麦笛がすぐ側で聞こえるのだから、西行の住んでいたところはきっとささやかな住まいだったであろう。麦笛を鳴らす幼子と夏の昼寝から目覚める西行とが思い浮かべられるような歌になっている。
昔かないり粉かけとかせしことよ あこめの袖に玉だすきして
昔のことになったなあ、炒粉かけとかいうことをしたよ、あこめの袖に玉だすきをかけて
いり粉かけ米を炒って粉にしたもので、菓子の材料。熱湯で練って食べる。あこめ上着と下着の間に着る衣装。表綾、裏平絹、表裏ともに紅の童衣。玉だすき玉は襷(たすき)の美称。
はるか遠い思いでとなってしまった西行の幼い日の姿を詠っている。
竹馬を杖にもけふはたのむかな わらはあそびを思ひ出でつつ
幼い時の遊び道具の竹馬を、今日は杖として頼む身になってしまった、子供の頃の遊びが思い出されることだよ。
幼い時の竹馬遊びを思い出し、その竹馬も今は年老いた自分が杖としていると詠った歌。
昔せしかくれあそびになりなばや 片隅もとに寄り臥せりつつ
昔した隠れんぼをやりたいものだなあ。今も子供達は私達が子供の時にしたように、あちらこちらの片隅に臥せて隠れているよ。
今、西行は部屋の片隅にじっと臥せっている。その姿は、幼い日、かくれんぼした時の姿と同じである。ああ、あの子供の日にしたかくれんぼをもう一度したいものだなあと西行は思う。そこには老いた現在の自分と子供の頃のイメージとが重ね合わされ、年を越えた世界がひろがっている。

陸奥の旅から帰って洛北嵯峨付近で生活し、河内の弘川寺で没したとされるまでの三年間に、西行は自らの手で作品の整理をおこなった。「たはぶれ歌」にみられる静寂な世界とは対照的に、最後の命の炎を燃やすが如く精力的に生きた最後の三年間でもあった。
藤原俊成、定家に各々判詞を依頼しそれをつけて自歌合の形態をとる「御裳濯河歌合」と「宮河歌合」、また「山家集」以後の歌稿の歌を加えて自撰歌集をまとめあげた「異本山家集」、さらにそのなかでも厳選した歌をとりあげた「山家心中集」がある。
「御裳濯河歌合」は西行が自ら七二首の自作の歌を選び、それらを二首づつ歌合の形式でまとめた。歌合はその時代に隆盛していたもので、二つの歌を左、右に並べ、その優劣を競うのである。この対比形式のみをかりて自撰歌集を編纂したのである。
これを自歌合と呼ぶ。歌合でどちらの歌が勝っているかを判じるのが判者であり、これを藤原俊成に頼んだのである。判者が下した内容は、判詞として記録される。「御裳濯河歌合」は西行の歌と俊成の判詞で構成されている。「宮河歌合」は俊成の子の藤原定家に判者を依頼している。
「御裳濯河歌合」からその例を引く。
三番左勝
おしなべて花の盛りになりにけり 山の端ごとにかかる白雲
すべての花(桜)が盛りになったなあ、山のどの稜線にも白雲がかかったように花が咲いているよ

秋はただ今宵ひと夜の名なりけり おなじ雲居に月はすむとも
秋はただ今宵十五夜、ひと夜のためにある名であるよ、他の夜も今宵と変わらない空に月が澄んで住んでいるといっても
これに対する俊成の判詞は、左の歌、うるはしく、たけ高く見ゆ。右の歌も、姿いとをかし。十五夜の月をめづるあまりに、今宵ひと夜の名なりけりといへる、心深しといへども、なほ名残の秋を捨てむこと、いかが聞こゆ。左、こともなく、うるはし。勝とや申すべからむ。
左の歌は歌の姿(歌体)が端正で美しく、格調高く見える。右の歌も姿は趣きがある。しかし、十五夜の月をめでるあまりに「今宵ひと夜の名なりけり」といって、残リの秋を捨ててしまうことは、風情があるといっても、どう聞こえるだろう。左は好ましく、端正で美しい。勝というのがよいであろう。
なお、「うるはし」は「一首の調和のとれた意で、典麗・典雅にあたる」、「こともなく」は「素材・趣向・用語というような知的な要素が問題とならない域にはいっていて、高度に統一された調和の姿」と解説もできる。

「御裳濯河歌合」は伊勢神宮内宮へ、「宮河歌合」は外宮へ奉納したものであった。単に歌のみを奉納するのではなく、歌合の形式にしたところに特徴がある。
この自歌合は西行が編み出した表現形式ではないがこの両宮歌合での成功がきっかけとなって、その後定家、後鳥羽院、藤原良経らがこれを試み、中世の歌界で流行した。自己の総決算としてふさわしい形と思われたのであろう。
さて、「宮河歌合」は、定家に判詞を依頼した。定家がその判詞を記して、西行のもとに届けるまで二年ほどがたっていた。「贈定家卿文」には判詞が届いたときの西行の喜びようが書かれている。
枕もとにいた三人の人に、別々に三回読ませて聞き、なお感動が止まらず、「手づから、頭をもたげ候て、休む休む二日に見はて候ぬ」と、記されている。
その「宮河歌合」から一組を紹介する。
あなああ、まあ、(感動の高まりから発した声)あやにくあいにく(意に反するさま)
八番左
惜しまれぬ身だに世にはあるものを あなあやにくの花の心や
右勝
憂き世にはとどめおかじと春風の 散らすは花を惜しむなりけり
定家の判詞
右、花を思ふあまりに、散らす風をうらみぬ心、まことに深く侍るうへに、左、あなあやにくのとおける、人つねに詠む詞には侍れど、わざと艶なる詞にはあらぬにや。散らすは花をなどいへるは、猶まさり侍らむ。
参考訳
右の歌は花を思うあまりに、花を散らす風をうらむ心がまことに深い上に「散らすは花を惜しむなりけり」と表現した点で左の歌よりいっそう勝っている。左の歌のなかの「あなあやにくの」とは人がよく詠む詞ではあるが、わざとらしい艶なる詞ではないだろうか。
ところで、
「憂き世にはとどめおかじと春風の散らすは花を惜しむなりけり」
の歌は、伝統的な優艶を中心としながらも、厭世気分を絡ませている。この心は西行作品の根幹をなす。定家はこれを理解し、判じている。
なお、このとき、定家は二十八歳である。

西行が二度目の陸奥の旅に出たのは文治二年(1186年)七月といわれている。西行、六十九歳のときである。当時からすれば、かなりの高齢である。また行き先も陸奥という遠く離れた異郷である。常識的には無理な旅立ちである。この前年の三月に壇ノ浦の戦いで平家が滅亡し、戦乱はしずまったかのようであるが、秩序はまだ取り戻せず依然として先が定かでない時期である。
この旅は、東大寺の砂金勧進で平泉の藤原秀衡に会うのが目的である。当時の東北地方は藤原秀衡によって治められていた。藤原三代といわれる、藤原清衡・基衡・秀衡の奥州藤原氏が百年の政権を奥州に築いていた。
その秀衡に東大寺大仏鍍金に使う砂金の奉加を督促する旅である。西行がこの旅に出る前年、つまり文治元年(1185年)八月に大仏開眼供養が行われている。そのとき、大仏をおおう全身の鍍金が終わっていなかった。藤原秀衡から貢献されるはずの金が遅れていたためと推定されている。その督促役が西行にきたのである。
当時、東大寺勧進職に任じられていたのが重源上人である。重源の手によって、源頼朝を大壇越とした東大寺再建勧進がおこなわれていた。西行はその勧進に加わり、遠く陸奥まで藤原秀衡を訪ねていくことになる。ところで、この東大寺復興の総責任者である重源は、西行とは若いとき高野聖の仲間であった。年齢では四歳ほどの差である。
伊勢の地で安住の生活をしていた西行が老体を押してまで奥州まで出向かねばならなかった理由についてはいろいろ考察されている。なぜ西行に勧進の役が廻ってきたか、なぜ西行が秀衡に頼みにいくことを了解したか、から始まって、そもそも、東大寺復興という仕事に加わることを西行自身がどう考えていたか。
身分もない地位もない西行である。その西行が奥州を治めている権力者になぜ貢献を督促できるのか。藤原秀衡と源頼朝との覇権争いはまだ決着がついていない。そんな穏やかならぬ地へ七十にならんとする老僧が行けると思ったのか。重源上人から西行へ発した懇願なのか、東大寺のトップ層にいた重源と権力構造の外側にいた西行とはどのような距離があり、どれほどの親しさがあったのであろうか。
いずれにせよ、西行はこの難題な仕事を引き受けた。数奇な心がつき起こす初度の旅とは違い、公的任務を担った旅である。それに年齢からしても死を覚悟した旅であったかもしれない。
「年たけた」西行を突き動かすものはなんだったのでしょう。「越ゆべし」と思うのは、さやの中山か、はたまた、人生の最後に越えねばならぬ山だっ
たのでしょうか。この峠を越えると正真正銘の東路、もう戻ることのできぬ旅が始まります。
七十余年の人生、時代の流れのなかで生きざるを得なかった西行。隠遁の世界に留まることを許さぬ時代の要請。それを真摯に受けとめ生きてきた西行。時代が最後で下す要請に一歩一歩、足を運ぶ西行。その歩みのなかで「命なりけり」が西行をつつみます。そこには見栄も名誉も力みもみな消え「命なりけり」に爽やかに身をおいています。
「年たけて」こそ、西行がこの峠を越え、行きつく世界があります。そこは東でもない、西でもない。権力者でもない、一介の歌僧でもない。現世でもない、彼岸でもない。「命なりけり」と、いままさにさやの中山を行く西行その人がそこに在る世界です。初度の時とはまったく違う、あのころは思いもしなかった自分をかみしめ、喜んでいる西行がここにいます。
年たけてまたこゆべしと思ひきや 命なりけりさやの中山
そして、越えたとき、
風になびく富士の煙の空にきえて 行方も知らぬ我が思ひかな
の世界が広がるのです。西行亡くなる四年前です。
詞書にあるように「嵯峨に住んでいた頃、数人の仲間が集まり詠んだもの」が、上に紹介した「たわぶれ歌」である。西行が陸奥での役目を無事終え、都に戻ってきたころの歌であるとされている。
それらは、これまでの歌づくりとは違った雰囲気をかもし出している。内容も幼い頃の回想である。これらの歌は「聞書集」に載っている。「聞書集」
は「山家集」と歌の重複がなく、なんらかの観点で「山家集」から抜き出し、別建ての歌集にしたようである。そこには、地獄絵をみて詠んだ歌や、このたわぶれ歌など、注目すべき作品が収められている。
この「たわぶれ歌」は、個人的というか私日記的なものといってもよかろう。歌界の人たちへの特別な配慮もなく、気楽に、うちとけた気分で歌としている。つまり、作歌に対する態度が私的である。
ところで、西行の歌は同時代の歌人に比して、自意識が色濃く打ち出されているものが多い。そのなかには自伝的性格をおびたものもあったろう。
心の故郷への回顧や幼き頃の回想の歌が、上記の「たわぶれ歌」以外にもあったと十分想像される。それが現在に伝わっていないのは、歌に対する時代のとらえかたにあろうと私は考えている。ある暗黙の約束事のなかでの歌づくりが主流であった歌界の伝統のなかで、このようにあまりに私的な歌は片隅に追いやられてしまい、個人生活を中心にした自由な作歌の道は、その当時困難であったと考えられる。
その道を歩むには自分自身への強い動機つけと、それに応え得る才能かつ力量が必要である。さらに加えて、それを理解し共鳴し得る人々の存在が求められる。そうでなければ、記録にも残らず、後世へ伝わることもない。「聞書集」が「新古今集」の撰集資料のひとつとされたとき、幾人かこれに眼を通したにもかかわらず、「たわぶれ歌」には一首も印がつけられなかった。
その時代の基準(この場合だと勅撰和歌集の選定基準)から逸脱していたのである。西行が意識したか否かは別にして、その当時の枠からはみだし、時代を超えた歌づくりに挑戦していたことは事実である。今回紹介した「たわぶれ歌」には、そのあかしとしての意味がある。そして、歌に対する西行の新しく独自の態度が後世の歌人に影響をあたえていくのである。

西行は「歌合」には無縁な歌人であった。貴族社会のそうした優雅な「たのしみ」にすすんで入るつもりはなった。自分独自の世界のなかで在野の歌人として生きつづけた。その西行がなぜ「歌合」という形式で他者の判を得ようとしたのだろうか。それも晩年になってその行動に出たのである。
ひとつの見方として、西行もひとりの歌人であり、生きたその時代の歌壇の一員として、そのお墨付きを得たいと望んだとも考えれば考えられる。しかし、その説得力はあまりに弱い。
それより、歌人としての名声を得ていたとはいえ、生涯のおわりに近づき、自分の歌の総決算として、第三者の客観的な評価を得たいとの思いから発した行動と解釈する方が納得感はある。判詞を依頼したのは当代歌壇では最高位にいた藤原俊成である。俊成の評価はその時代の評価である。西行が俊成から判詞を望んだのも、俊成の歌壇での重みと権威が歌人にとって重要な位置付けをなしていたからであろう。
俊成は永久二年(一一一四年)に生れ、六条顕頼の養子となった。歌壇に出たのは長承三年(一一三四年)二十一歳、常盤家の五番歌合に出詠した時である。師事したのは保守派の藤原基俊である。崇徳院に重用され、その頃、四歳年下の西行とも親しくなった。崇徳院が二人を結びつける縁をつくったといってもいい。崇徳院が亡くなったあと、やや不遇な時期があったが、七十歳の時に勅撰和歌集の撰者となった。
摂関家の一角を担う右大臣九条兼実の引き立てもあった。俊成は九条家の和歌指導となっていた。俊成と権カ者との結びつきは、俊成が歌壇に重きをなす要因のひとつである。建久四年(一一九三年)に催された「六百番歌合」は、左大臣藤原良経が九条家歌壇の十二人の主要な歌人に各々百首を詠進させた大々的な歌合であったが、その判者に俊成をおいている。
文治四年(一一八八年)四月、七十五歳になった俊成は勅撰集である「千載和歌集」を奉上した。このなかには西行の歌は十八首が入首している。
歌以外のあらゆるものを捨てて自らの存在理由を歌詠みにかけた西行にとってさえも生きているうちに、その生涯で歌い上げたものが中央歌壇という公の世界でどう評価されるかは興味とともに確かめておきたいことであったろう。
無冠の歌人として終わるか、はたまた、権威からの評価を得て後の世まで自分の歌が生き残るかを確認することは、西行という歌人にとってさえも焦眉の関心事であったと考える。
死が近いことの予感のもとに、俊成に「御裳潅河歌合」、また定家に「宮河歌合」の判詞を願ったのである。
以上の分析を終えたあともまだ釈然としない気分が私に残ります。この西行の最後の行動のなかに何か挑戦的な意気込みが感じられるのです。待ちに待った判詞が定家から届いたときの西行の喜びようには何かあるはずです。  
 
没するまで4

花は桜
春の訪れとともに、日本列島は南から北まで順に、桜の花衣を身にまとっていく。桜は梅・桃などと同じバラ科の落葉花木で、日本はその野生種が多く、桜の国というにふさわしい。各地には特有の桜があり、沖縄のヒカンザクラ、そして北海道にはチシマザクラやオオヤマザクラがある。その南北に連なっている列島の間には、ヤマザクラ、マメザクラ、オオシマザクラなど、いろいろな種類がある。
これらの基本種を元にした自然雑種も多く、室町時代にはすでに20余種の八重桜の園芸種ができていたといわれる。江戸時代には品種改良が進み、多くの八重桜の品種が誕生して、八重桜全盛期時代となる。しかし、江戸時代末に生まれた「染井吉野」が登場してからは、全国で植えられる桜の多くはこの品種となり、現在に至る。春になると心待ちにされる桜の開花・桜前線の便りは、ご存知のようにこの「染井吉野」である。
十月桜のように秋から咲くもの、冬桜のように12月が花時のものなど、花時が極めて長いのも、桜の特徴である。
西行に詠われている桜は赤みを帯びた葉とともに咲く「ヤマザクラ」で、その花はほとんど白に近い淡紅色である。江戸時代のような栽培種ではなく、自生のものであり、「染井吉野」と比べると、より小さく、かそけく、清楚であったと思われる。
櫻井満によると「農耕生活を営んできた日本人は、春への思い入れは深い。春は草木の芽が「張る」という意味がある。桜のサは田の神・稲の神を、クラは神座をあらわす。花見は、桜の咲きぐあいを見て、秋の作物の実りを占うために始まった」という。
稲作国であり、桜の花時が農作業を始める大きな目安となることもあって、桜は、古来、日本人に最も親しまれてきた花木である。そうやって花見の宴という習慣も生まれた。
「万葉集」では、「はな」というと、一般的には桜のことであった。しかし、奈良時代になり、中国から古代より文書にある梅が入ってくると、梅のほうが、貴族文化の中で主流となる。梅は外来文化の象徴として、漢詩や歌に多く詠まれるようになる。
ところが、政治や文化の影響の源である唐が滅びかけ、894年に遣唐使が中止されると、この外来文化を基礎とした日本独自の文化が開花していく。いわゆる国風文化といわれるものである。
国風文化の成立は、9世紀後半から10世紀後半まで延喜を中心とする時期とされ、11世紀の成熟期を経て、12世紀に退廃期となる。平安中期から後期にかけての文化をいう。
この国風文化の始まりの時期である、913年頃に最初の勅撰集である「古今和歌集」が成立した。「やまとうたは人のこころをたねとしてよろづのことのはとぞなれりける、ーーー」で始まる仮名序では、新しい時代の風をとらえた貫之たちの意欲が感じられるものとなっている。
また、御所の庭の正面に「右近の橘左近の梅」として植えられていた梅が、947年(天暦元年)桜の木にとってかわられる。さらに、平安後期に入ると、宮廷を中心として、梅よりも桜ということで、桜が様々な行事に出始める。
そんな時代、花では、外来文化の象徴としての梅よりも、日本古来の桜へと意識が移っていき、「花といえば桜」となったのもうなづける。

常に自己の心と向き合い、自己の心を凝視しつづけた西行は、若い時の、心をそのままに詠いこむ抒情的色彩の強い歌から、その心に自然を対応させた自然詠へと発展させていった。西行の研ぎ澄まされた心でとらえる自然は、単に抒情に流れることなく、心の目でとらえた客観的な自然となっていく。自己の心も、自分自身も、全てを自然に融け込ませ、そのなかに同一化されていく。
慈円の「拾玉集」で伝えられた
無動寺へ登りて大乗院のはなち出に湖を見やりて
「にほてるやなぎたる朝に見わたせば 漕ぎゆく跡の浪だにもなし」
は最後の歌境となる。
西行の作品は、生涯、彼自身の生活から遊離することなく、対人生、対社会、対自然の感懐を表現して、円熟した境地へ次第と向かい、人としての深い味わいを熟成していった。
ここへ至るには「すなおに」心情を表現したとだけでは言いきれない別の面があった。そう、私は考える。それは、中世という時代と関わりを持ち、時代の先駆けとしての先見性に由来するものであろう。これが私のこれからの研究テーマである。
いずれにしても西行の歌の数々は一人の人間が織りなしたかけがいのない一生の、その記録であり、存在証明であったと、ここに至り、再認識する。
建久元年(1190年)如月十六日、西行七十三才、河内の弘川寺で、没す。

「西行の宗教的世界」高木きよ子著大明堂発行においても、
「伊勢神宮へ奉納するという形で自歌合を行ったのは、西行にとってどういうことであったか」と問いかけている。
同書の分析を要約するとつぎのとおりである。
・伊勢両宮へ奉納したこと自体には西行の伊勢への並々ならぬ宗教的態度をみる。
・自歌合は自撰の歌集であり、西行の一生の総決算の意味を持つ。
・宮廷社会への潜在意識的憧憬であった「歌合」への思いが「自歌合」の形をとらせた。
・「自歌合」という形が自己実現手段として大いに西行の面目をほどこすものであった。
私はこれを私なりに解釈してみる。
西行の根底には貴族文化があり、その中から体得したものは他の歌人に負けないと自負していた。
さらに、その伝統的な和歌の世界に自分は新しい何かを呼びこんだとの自信を持っていた。中央では名をなすことも官を得ることもなく、中心的な存在にはなり得なかった自分に対し、他にない独自性を生み出すことで自分は存在し得ると考えていた。
地位がないとか、既成組織のなかに身をおいてはいないというある種の劣等感ともいえる気持ちとは裏腹に自己へのプライドが高く、自分の世界を形成しているのだという自負が、「自歌合」という形式をとらせ、さらに、俊成、定家に判をもらうという行為に向かわせたのだと私は考える。
俊成は貴族和歌の世界で彼独自の世界をつくり、その時代の中心人物である。一方、定家は二十八歳でありながら天才の誉れ高く将来を嘱望される歌人と西行は見ていた。歌を判じるには、歌を詠む者と同じ能力をそなえていなければならない。西行は、当代随一の歌人と、和歌の将来をになう新鋭の歌人を指名した。そこに西行の自信がある。判詞は俊成でなければならず、定家でなければならなかったのである。
さらに加えて、両者の力量は評価しながらも彼らにはない自分の力を二人に西行は見せるのである。彼らが西行の挑戦にどう答えるかをもって、自分が生きた証しとしたかった。
この挑戦はつぎの歌を自らが選び、歌合として判を求めたことに見ることができる。
「御裳濯河歌合」の七番に、
「ねがはくは花のもとにて春死なむ そのきさらぎの望月の頃」
を入れている。これは、あまりにも個人的な意思が前面に出た歌である。その時代における公けの歌の世界では拒絶される部類に入る。
俊成も判詞で「ねがはくはと置きて、春死なむといへる、うるわしき姿にはあらず」と断じている。
俊成がどのような歌を好むか、どのような歌が許容されるかを西行は知ったうえでの撰歌である。俊成がどう判を下すかを見てみようとしたのではないかと邪推してしまう。
ちなみに俊成の自賛歌を記しておく。
「夕されば野辺の秋風身にしみて うづら鳴くなり深草の里」
一方、「宮河歌合」にもこれに類した歌合がある。
三十二番で
「道かはるみゆき悲しき今宵かな かぎりの旅と見るにつけても」
「松山の浪に流れて来し舟の やがて空しくなりにけるかな」
前者は、鳥羽院の葬儀の際に詠んだ歌である。それに対して後者は、讃岐に流された崇徳院を偲んだ歌である。これのどっちがいいかの判定を定家に求めた。この二つ歌を並べ、それに判を下すように持っていったところに西行の凄さがある。
激動のなかを生きてきた年たけた者が、これからの時代を切り開いて行こうとする若者に突きつけた挑戦であると、私は感じる。西行がこの二首並立に社会性や政治性を持たせたかったか、あるいは、社会性を超えた歌自体として提示したかったのかは、私には判らないが、歌は歌だけでは存在し得ないことを西行は言いたかったと解釈している。
ところで、これに対し、定家は、判を下すことができないと、判を下している。
「左右共、為旧日之重事。故不加判。」

西行といえば桜です。この西行メルマガの第1回配信は去年の春四月一日でした。ここ茨城でもそろそろ咲く頃かなあと待ち遠しい時期でした。日本は南北に細長い国であることをそれほど意識していませんでしたけれど、読者の方からのメールをいま読み返してみると、桜前線は南の鹿児島にはすでに上陸していたのですね。メルマガへの最初のレスポンスは大山さんからのお便りでした。
はじめまして、大山と申します。おりしも桜満開のこの時期に西行のメールが届くとはまた、オツなものですね。できましたらお二方の創刊
に際してのお気持ちなどお聞かせいただければ、うれしいのですが。文面から察するにご年配のご夫婦と見ますが、違っていたらすみません。ま、想像しているのも悪くはありませんが。今後ともどうぞよろしく。
四月十六日に「春の特集号」を組んだのですから、関東はそのまえの週あたりが満開だったのでしょう。デジカメの写真の日付も4月9日になっています。
今年は東京の桜が咲くのが早く、めずらしく長くもって、十分に満開を楽しめました。その桜も北上し、北海道の北端に到達するのも間近でしょう。今年の西行メーリングリストに「桜が咲きました」のお便りが北海道からあったのは5月9日です。
風の三郎です。
四月の連休スタートと同時に札幌でも桜が開花しました。現在は、早咲きのエゾヤマザクラが散りはじめ、ソメイヨシノは満開。梅も満開です。山は新緑、黄緑の中にピンクのスプレーを吹き付けたように桜が点在する風景は印象派の絵を見るようです。
桜といえば、つぎの歌はあまりにも有名です。
「ねがはくは花のもとにて春死なむ そのきさらぎの望月の頃」
この歌にふれずして「西行の生涯とその歌」を終えるわけにはいかないでしょう。ご存知のことを書く野暮をお許し願って少々付記させていただきます。
「きさらぎの望月」は、釈尊が涅槃に入ったとされる二月十五日です。そのころに「死なむ」と西行は詠んでいます。「きさらぎが桜の季節か?」と、私ははじめ思ったのですが、当然、旧暦なのです。
「源氏物語」のなか「花宴」の巻で、春二月南殿で桜の宴が開かれ、和歌を互いに交わし、音曲を奏し舞いを興じたことが語られています。旧暦と新暦の対応付けはむずかしく、説明することは止めますが、西行MLで大山・新渡戸両氏の調査・分析レポートが注目を集めたことはメモリアルとして記しておきます。
さて、ここで言えることは「きさらぎの望月の頃」に桜が咲くことはそれほどめずらしいことではなく、3-5年のサイクルで「きさらぎの望月の頃」が、新暦の四月にかかるのです。西行が亡くなったのは73歳で1190年の旧暦2月16日でした。その「きさらぎの望月」は新暦でいうと3月29日であり、歌のとおりの頃でした。
「きさらぎの望月」、つまり、旧暦二月十五日は新暦でいつかは、年年、変わります。西行の年齢と対応づけて記してみます。
70歳−4/2、67歳−4/4、
62歳−3/31、59歳−4/3、
56歳−4/6、51歳−4/2、
48歳−4/4、あとは略します。
話を進めて、この歌がいつごろ詠まれたかです。西行研究者が指摘するように、私も老年期ではないと思っています。短絡的ですが、ちょうど「きさらぎの望月」の夜に月と桜を眺めて、詠んだとして、48歳、新暦で4月4日の夜、56歳の4月6日あたりと見当をつけました。
これより前ですと、死を詠みこむには若過ぎます。死を意識し始めるこの年齢あたりとみたのですが。西行48歳は1165年でその前年の八月に崇徳院が讃岐で崩じています。また56歳の場合ですと、その年に西住が没したといわれています。冬から春の変わり目に亡くなったのであれば、1173年に詠んだというのも西行の生涯とその歌を考えるうえで着眼点になります。  
 
鎌倉・西行

東国にやって来る西国の人にも、よほど富士山の印象は深いとみえ、花鳥風月と数寄に没入した旅の歌人・西行の自讃歌の第一にも、次のような歌がある。
東(あずま)の方へ修行し侍りけるに、富士の山をよめる
風になびく富士の煙(けぶり)の空に消えてゆくへも知らぬわが思ひかな
西行(1118年‐1190年)は、藤原俊成とともに「千載集」や「新古今」の新風を形成した院政期-鎌倉時代初期の歌人である。後鳥羽院から高く評価され、後には松尾芭蕉にも敬愛された。
俗名は、佐藤義清。もとは鳥羽上皇の北面の武士(御所の北側を警護する院直属の部隊)であったが、23歳で出家。花と月と自然を愛し、隠世修行を行った。「願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」の歌が、よく知られる。
父は左衛門尉・佐藤康清、母は源清経の娘。兄・佐藤仲清は紀州荒川荘の在地領主として勢力を振るったが、鎌倉幕府成立以降は衰退した。藤原秀郷の子孫でもある。
冒頭の「風になびく・・・」は、1186年、西行が69歳のとき、俊乗房重源に委嘱され、2度目に奥州に旅した際に読まれた歌と考えられている。
この旅の途中、西行は鎌倉で源頼朝に謁したことが、「吾妻鏡」に記される。
「文治二年八月十五日己丑二品御参詣鶴岡宮而老僧一人徘徊鳥居辺怪之以景季令問名字給之処佐藤兵衛尉憲清法師也今号西行云云仍奉幣以後心静遂謁見可談和歌事之由被仰遣西行令申承之由廻宮寺奉法施二品為召彼人早速還御則招引営中及御芳談此間就歌道并弓馬事条条有被尋仰事西行申云弓馬事者在俗之当初憖雖伝家風保延三年八月遁世之時秀郷朝臣以来九代嫡家相承兵法焼失依為罪業因其事曾以不残留心底皆忘却了詠歌者対花月動感之折節僅作卅一字許也全不知奥旨然者是彼無所欲報申云云然而恩問不等閑之間於弓馬事者具以申之即令俊兼記置其詞給縡被専終夜云云」
(抄訳八月十五日、頼朝卿が鶴ヶ岡八幡宮に参拝していると、鳥居のあたりに老僧が徘徊している。不審に思った梶原景季が名を問うと、佐藤兵衛尉憲清法師というもので、今は西行と号する(名乗っている)という。頼朝卿は早速に御所へ招いて、歌の道と弓馬の事(兵法)についてお訊ねになったが、西行は「藤原秀郷以後九代にわたる嫡家相伝の兵法は、出家のときに全て焼いてしまい、心に残すこともなく全て忘れてしまった。」と答える。また歌の道については、「ただ花や月を見て、心に感じるままに三十一字を書き連ねるだけで、奥義などは知らない。人にお教えするほどのものは何もない。」と答えた。しかし頼朝卿がしきりにお訊ねになると、兵法について語られたので、頼朝卿はすぐにそれを藤原俊兼に書き取らせ、歓談は夜遅くまで続いた。)
「十六日庚寅午剋西行上人退出頻雖抑留敢不拘之二品以銀作猫被充贈物上人乍拝領之於門外与放遊嬰児云云是請重源上人約諾東大寺料為勧進沙奥守秀衡入道者上人一族也。」
(抄訳翌日、西行上人は、お引き留めもかなわず、ご退出。頼朝卿は、銀の猫を西行法師に贈る。が、上人はこれを拝領すると、門の外で遊んでいた幼子に与えてしまった。西行上人は重源上人(→(「本堺」(6)「将軍地蔵堂」と高綱の「元屋敷」))の願いで、東大寺料の砂金勧請のために奥州に向かうとのこと。陸奥守秀衡入道は、西行上人の一族の人である。)
 
重源1

(ちょうげん) 保安2年-建永元年(1121-1206) 中世初期の日本に生きた人物。平安時代末期から鎌倉時代にかけて活動した僧である。房号は俊乗房(しゅんじょうぼう、俊乗坊とも記す)。 東大寺大勧進職として、源平の争乱で焼失した東大寺の復興を果たした。
経歴
紀氏の出身で紀季重の子。長承2年(1133年)、真言宗の醍醐寺に入り、出家する。のち。浄土宗の開祖・法然に学ぶ。四国、熊野など各地で修行をする。中国(南宋)を3度訪れたという(異論もある)。
東大寺は治承4年(1180年)、平重衡の南都焼打によって伽藍の大部分を焼失。大仏殿は数日にわたって燃え続け、大仏(盧舎那仏像)もほとんどが焼け落ちた。
養和元年(1181年)、重源は被害状況を視察に来た後白河法皇の使者である藤原行隆に東大寺再建を進言し、それに賛意を示した行隆の推挙を受けて東大寺勧進職に就いた。当時、重源は齢61であった。
東大寺大勧進職
東大寺の再建には財政的・技術的に多大な困難があった。周防国の税収を再建費用に当てることが許されたが、重源自らも勧進聖や勧進僧、土木建築や美術装飾に関わる技術者・職人を集めて組織し、勧進活動によって再興に必要な資金を集め、それを元手に技術者や職人が実際の再建事業に従事した。また、重源自身も京の後白河法皇や九条兼実(2)、鎌倉の源頼朝などに浄財寄付を依頼し、それに成功している。
重源自らも中国で建設技術・建築術を習得したといわれ、中国の技術者・陳和卿の協力を得て職人を指導した。自ら巨木を求めて山に入り、奈良まで移送する方法も工夫したという。また、伊賀・紀伊・周防・備中・播磨・摂津に別所を築き、信仰と造営事業の拠点とした。
途中、いくつもの課題もあった。最大のものは大仏殿の次にどの施設を再興するかという点で塔頭を再建したい重源と僧たちの住まいである僧房すら失っていた大衆たちとの間に意見対立があり、重源はその調整に苦慮している。なお、重源は東大寺再建に際し、西行に奥羽への砂金勧進を依頼している。
こうした幾多の困難を克服して、重源と彼が組織した人々の働きによって東大寺は再建された。文治元年8月28日(1185年9月23日)には大仏の開眼供養が行われ、建久6年(1195年)には大仏殿を再建し、建仁3年(1203年)に総供養を行っている(3)。
以上の功績から重源は大和尚の称号を贈られている。
重源の死後は、臨済宗の開祖として知られる栄西(4)が東大寺大勧進職を継いだ。
東大寺には重源を祀った俊乗堂があり、「重源上人坐像」(国宝)が祀られている。鎌倉時代の彫刻に顕著なリアリズムの傑作として名高い。浄土寺(播磨別所)、新大仏寺(伊賀別所)、阿弥陀寺(周防別所)にも重源上人坐像が現存する。
著作
重源は、建仁3年(1203年)頃に「南無阿弥陀仏作善集」を記している。今日、一部で戒名に阿弥陀仏をつけるようになったのは重源の普及によるともいわれる。
大仏殿のその後
重源が再建した大仏殿は戦国時代の永禄10年(1567年)、三好三人衆との戦闘で松永久秀によって再び焼き払われてしまった。
現在の大仏殿は江戸時代の宝永年間の再建で、天平創建・鎌倉再建の大仏殿に比べて規模が縮小されている。
大仏様
重源が再建した大仏殿などの建築様式はきわめて独特なもので、かつては「天竺様(てんじくよう)」と呼ばれていたが、インドの建築様式とは全く関係が無く紛らわしいため、現在の建築史では一般に「大仏様」(だいぶつよう)と呼んでいる。
当時の中国(南宋)の福建省あたりの様式に通じるといわれている。日本建築史では飛鳥、天平の時代に中国の影響が強く、その後、平安時代に日本独特の展開を遂げていたが、再び中国の影響が入ってきたことになる。構造的には貫(ぬき)といわれる水平方向の材を使い、柱と強固に組み合わせて構造を強化している。また、貫の先端には繰り型といわれる装飾を付けている。
西行と重源
高野にこもりたるころ、草のいほりに花の散り積みければ、/散る花のいほりの上を吹くならば風入るまじくめぐりかこはむ(西行)
秋の末に寂然、高野にまゐりて、暮の秋によせて思ひをのべけるに/なれきにし都もうとくなりはててかなしさ添ふる秋の山里(西行)
法会の当日、法皇は仏前の巽方(たつみ)の仮屋の御所に入ったが、それは松葉で葺いてあり、いちばん西に法皇、中に八条院、東に女房たちが入った。舞台に到着した開眼師定遍により仏眼真言が唱えられた後に、法皇が大仏殿の麻柱をよじ登って開眼を果たす予定とされていたが、定遍が遅れてしまい、近臣の藤原親能、藤原能盛(よしもり)、平業忠(なりただ)らの助けで登った法皇がまず開眼を行った。さらに仏眼真言も法皇自身が唱えたというが、やがて遅れてきた定遍も仏眼真言を唱えたのであった。かくして大仏は再生を遂げたのである。  
 
重源2
治承4年(1180)も押し詰った12月28日、「王法仏法」の象徴ともいえる東大寺が平重衡の焼打ちによって灰燼に帰した。
翌治承5年(1181)3月17日、左小弁兼蔵人の藤原行隆が十数人の鋳物師を引連れて焼損の実態を調査し「修造不可」の結論に達したにもかかわらず、後白河院は6月26日には藤原行隆を造寺造仏長官に任じ、8月には60歳の俊乗房重源に「東大寺造営勧進」の宣旨を下し、これをもって東大寺復興事業がスタートしたのである。
ところで、後白河院が重源に「勧進」宣旨を下した事について、当初は、朝廷・摂関家・鎌倉幕府から庶民にいたる幅広い信者を持つ法然上人を推挙したところ、「自分は念仏勧進に専心する身」と辞退する代わりに信頼の厚い重源を推薦したとの説もある。
律令国家崩壊に伴う財政破綻と源平争乱による国土の荒廃・疲弊の中での東大寺修復は並大抵ではなかったが、ここでは、渡海僧重源でなくてはなし得なかった点に絞って、先ずは大仏の修復から述べてみたい。
「東大寺造営勧進」の宣旨をうけるやいなや、重源は直ちに大仏の螺髪(※1)から鋳はじめるのだが、大仏の頭部と大仏の両手の鋳造は日本の鋳物師の技術で充分可能としても、その頭部と両手を焼残った大仏の胴体に鋳継ぐ技術を日本の鋳物師が未経験であることが判明して重源は厚い壁にぶつかる。
そこで重源が配下をあちこちに派遣して情報収集をしていたところ、宋の鋳物師・陳和卿(ちんなけい)が船が破損して帰国がかなわず九州の港に停泊していることを知り、早速彼を呼び寄せて鋳造方法を協議した結果、大仏鋳造の中心的役割に陳和卿一行を採用し、補佐役に東大寺鋳物師草部是助(くさかべこれすけ)を充てて大仏修造を推し進め、元暦2年(1185)8月28日には大仏開眼供養に漕ぎ着けている。
このことから注目したいのは重源と宋人鋳物師陳和卿との繋がりである。重源が「東大寺造営勧進」の宣旨を賜って大プロジェクトに着手し鋳造の難題に直面していた。九州の港では宋人鋳物師陳和卿がたまたま停泊していた。それだけでは、この二人は繋がらない。
宋王朝(960-1279)の時代、私的な貿易は盛んに行われたが日本は宋と正式な国交を持たなかった。そんな状況下、入唐三度の経験を持つ重源であったればこそ、陳和卿に繋がる情報網を持てたのであろうし、宋人鋳物師が持つ技術への確信と信頼をもてたのである。
重源の抜擢に応えた東大寺鋳物師草部是助の系統が、後に「東大寺─大仏方供御人惣官」職を代々受け継いだ事は既に述べた。
※1 螺髪(らほつ):仏像の頭部の髪の様式。螺状をした多くの髪がならぶもの。因みに螺とは殻が渦巻形に巻いている貝類のこと。
大仏修造については宋人鋳物師陳和興(ちんなけい)の革新的な技術を登用してほぼ三年をかけて成し遂げた重源であるが、次の難題は大仏殿修造である。
天平17年(745)年に聖武天皇の勅願により東大寺が創建された頃は、遣唐使がもたらした大陸文化・仏教文化を受け入れた平文化が開花し、国力と民心に勢いがあったが、それでも東大寺造営に伴う莫大な事業費捻出は国家財政の窮乏を招いたとされる。 しかるに大仏修造の任を負った重源が直面した現実は、律令制度崩壊による国家財政の破綻と源平争乱による国土の荒廃と民心の疲弊であった。

ともあれ資材の調達から始めねばならない。重源が最も欲した良質の巨木は、東大寺創建時の聖武天皇の治世時には畿内一円に豊富に見られたが、源平争乱、養和の大地震、度重なる飢饉を経た鎌倉初期には吉野の山奥か伊勢神宮の杣(※1)にしかのこっておらず、いずれもが金峰山や伊勢神宮といった大寺社の所領となれば、幾たび重源がそれらの伐採許可を申請しても受け入れられるはずのものではなかった。
朝廷が事態の打開を図って文治2年(1186)3月に周防国(山口県)一国を東大寺造営料に充て重源に国務を管理を任せたので、重源は自ら番匠(※2)を率いて周防に赴くが、ここでも源平合戦の荒廃が甚だしく、飢えた民心を安定させる為に米や種子などを人々に与える事から始めなくてはならなかった。
目当ての資材を求めて重源と番匠が杣に分け入ると、高さが7丈(21メートル)から10丈(30メートル)に及ぶ巨木のため、大轆轤を設けて70人の作業員が大綱で巨木を搬出するか、轆轤が使えなければ千人余りで轢く工夫を編み出さねばならなかった。
そうして搬出した巨木も、空洞や枝木の良し悪しを吟味すると100本の内の90本は使い物にならず、吟味した資材を何とか佐保川に持ち込でも、浅すぎて木が流れない場所では、堰を築き水を溜めては落とすという作業を180箇所も繰り返して何とか木津の港に運び、そこから巨木を筏に組んで瀬戸内海を経て淀川に流し、淀川を遡って奈良まで運ぶという有様であったが、その間の樵(きこり)達の食事と健康管理ならびに士気の鼓舞などのマネジメントも含めて、正にロジスティックスにおけるイノベーションが求められたのである。

平清盛が太政大臣従一位になった仁安2年(1167)に、47歳で入宋して諸寺を巡って最先端の仏教建築技術を習得して帰朝した重源が、資金不足、資材不足、時間不足、技術者不足の諸条件をクリアして大仏殿修造を成し遂げるために編み出したのが、最も簡単な工法を用いて最も堅牢な建造物を建てる「天竺様建築」であった。
現在唯一大仏殿と同じ「天竺様式建築」を留めている東大寺南大門(下図)を文献と照合した専門家の結論を、建築に全く暗い私が、同じく建築に明るくない人たちに少しでも理解してもらえるように簡略化して述べると、
1、先ず18本の主柱(母屋柱)を揃える。
2、次に、これらに差し込む肘木(ひじき)や貫(ぬき)に用いる部材(長さ一尺2寸5分、厚さ7寸)を大量に造る。
3、そして、斗(※4)(1尺2寸8分四方、高さ9寸)を2080個作る。
作業としては1と2の作業が大部分で、1と2の作業をしている間に1の柱に2を差し込む穴をほり、14本の虹梁(※3)と約500本の垂木を造って建物の骨組み部材の勢作を終える。
図の南大門木組をみると、柱を上層まで一本で貫き、そこに、肘木を差し込むという極めてシンプルな構造でありながら、層の屋根裏まで見透かせる内部構造を通して堅牢さが見て取れる。
つまり、宋の仏教建築をつぶさに研究してきた重源は期せずして、今から820年も前に、個々人の技術差を問うことなく、大量の人員を投入して、資材の無駄を最小限にとどめ、短期間で、堅牢な建築物を構築するという、マスプロダクションの手法を編み出したのである。
※1 杣(そま):植樹をして材木をとる山。
※2 番匠(ばんしょう):古代、交代で都に上り木工寮(もくりょう)で労務に服した木工。
※3 虹梁(こうりょう):社寺建築に用いる、やや反りを持たせて造った化粧梁(はり)。
※4 斗(と):酒を酌みとる柄杓の形をしたものか。漏斗
今から50年も前の中学の美術で、東大寺南大門の金剛力士像の阿形と吽形の見事な調和を目にして以来、長い間私の頭の中に「運慶と快慶」は対の存在として刷り込まれていた。例えは古いが、一世を風靡した漫才コンビの「ダイラケ(ダイマル・ラケット)」のような、あるいは職場で何時も対になって行動するので「おしゃれ小鉢」と称された若い同僚のようなものとして。
「ここからみると奈良は火の海である。興福寺の東金堂の屋根が焼ける。西金堂も火がついている。五重塔と三重塔は火柱となって焼け落ちた。すぐ眼の下にある東大寺の大仏殿は炎上の旺(さか)りで、逃げ帰ってきた者が話しているのを聞くと、大仏殿の二階の上には2千人余りが焼死しているという。金銅16丈の廬遮那仏(るしゃなぶつ)は御頭(みぐし)が地に落ちたと語った。講堂、食堂(じきどう)、回廊、中門、南大門はすでに跡かたもなく焼けたとういうのだ。(中略)
天平の諸仏体は、いまこの炎の中に消滅し去ろうとしている。運慶は炎を凝視していた。凝視しているのは、実は、不空羂索(ふくうけんじゃく)立像や四天王立像とその足下の鬼形や、八天像、十大弟子像、十一面観音像などの素描であった。(中略)
運慶はその消失を不思議に惜しいとは思わなかった。惜しいと思うのは、尋常の観念だと考えた。いつでも見られる眼前の具象が残ることはかえって邪魔なのだ。(中略)
運慶はそんな身勝手な事を考えて、燃え狂う火を群集と共に、眺めた。すると、横でしきりと炎に向かって合唱して歔(な)く者がいる。彼は口の中で「恐ろしやな。天竺、震旦(しんたん)にもこれほどまでの法難はあるまい」と、呟いては、泣きながら経を誦(ず)している。運慶はその男を見た。それが父の康慶の弟子の快慶であった。運慶は忽ちこの男を軽蔑した。これは畢竟、尋常な人間なのである。」
長い引用になったが、これは、松本清張の短編小説「運慶」から、平重衡の南都焼討の光景を春日山に避難して眺めている運慶を描いたものである。
何よりも独創性とリアリティを重んじる運慶は、仏師としての芸術の天分は快慶よりも自分の方が一枚も二枚も上手だと自負したにもかかわらず、東大寺造営勧進職・重源は、快慶には東大寺中門の二天像、僧形八幡神坐像、南大門金剛力士像阿形など5作品を造らせたのに対して運慶には3作品しか造らせていない。
その理由を小説「運慶」は、
「運慶の造った仏像は、あんまり人間臭くて感心しない。仏像は尊厳さが第一だ。写実も結構だが、ああ、仏放れがしていては、仏という感じに遠くなる」と、
運慶の作品に対する重源の言葉として用いている。
さて、そうなると、探究魔を自認する私としては、長い間「対」として認識してきた運慶と快慶の作風にそんなに大きな違いがあるとすれば、実際にこの目で確認しなければ気がすまない。
そう思っていたところ、折りしも東京国立博物館で「東大寺大仏」展が催されていることを知り、早速会場に足を運んだのだが、そこで、驚かされた事は次の二点である。
その第一は、快慶の代表作とされる金剛力士像阿形の筋骨逞しく迫力満点の作風と、優美で穏やかな他の諸作品との余りにも大きな違いである。
そして第二の驚きは、東大寺南大門の金剛力士像解体修理を終えて発見された「金剛力士像像内納入品」の記録では、これまで運慶の作とされてきた吽形像の作者は定覚(運慶の実弟)と湛慶(運慶の長子)、他方、快慶の作とされてきた阿形像の作者は運慶と快慶と墨書されていた事である。
先日は栄西像を見るために鎌倉国宝館に足を運んだのだが、そこで運慶の作品と対面したばかりか鎌倉幕府が運慶一門を重用した形跡を知ることが出来たのは望外の収穫であった。因みに入館券には運慶作とされる「十二神将立像」が使われている。
では、何故鎌倉幕府が運慶を重用したのであろうか。ここで私のすっ飛びを展開するなら、
源頼朝が日本国総追捕使・総地頭に任じられた文治元年(1185)を「鎌倉時代」の開始とするなら、その翌年の文治2年(1186)に北条時政(※1)が願成就院(静岡県)の「毘沙門天立像」を初めとする諸像を、さらに、文治5年(1189)には、和田義盛(※2)が浄楽寺(神奈川県)の「阿弥陀三尊像」等の諸像を運慶に造らせているのは、彼らなりの明確な意図があってのことであろう。
源頼朝と共に鎌倉幕府を創設したこれら二人の武人が、新しい「武者の世」の到来を世に周知させる広報活動の一環として仏像を建立したとすれば、律令国家並びに公家文化のシンボルともいえる定朝様式を連綿と踏襲して朝廷や平家に重用され仏師界を席巻していた院尊や明円を登用するとは到底考えられない。
鎌倉幕府は彼らの新たな武者の文化を打ち立てるべく、院尊や明円に代わ仏師として慶派(運慶の父が棟梁)の奈良仏師に白羽の矢を立てたのであろう。他方、伝統に安住する院尊や明円の圧倒的な支配に辟易し、南都焼討により灰燼に帰す興福寺や東大寺の仏像を眺めながら、これからいよいよ自分の独創性を発揮できると熱い血を滾らせていた運慶にとって、東国武士からの要請は新たな作風で仏師界の主導権を握る願ってもないチャンスだった。
治承5年(1181)8月に重源が「東大寺造営勧進」職を拝命され東大寺復興事業がスタートしたのは既に述べたが、東大寺サイトの「東大寺の歩み・歴史年表」によれば、
文治2年(1185)3月7日、源頼朝、重源に米1万石・砂金千両・上絹千疋を送り再興を助成する(吾妻鏡)
建久元年(1190)12月初旬、源頼朝、密かに四天王寺・東大寺に参詣する(東大寺文書)
建久6年(1195)3月11日、源頼朝、馬千頭・米1万石・黄金千両・絹千疋等を重ねて寄進する(吾妻録)
と、源頼朝が東大寺修復に並々ならぬ関心を抱き、朝廷に対抗するかのごとく資金・資材面で相当な支援を行ったことが記されている。
その莫大な経済的支援の威力を行使して、源頼朝が重源に慶派仏師の活用を示唆したと考えても何ら不自然ではない。何しろ聖武天皇の発願により建立され天平文化の象徴ともいえる東大寺に新たに武者の文化を打ち立てる事にもなるのであるから。
この機会に宋朝様式を取り入れたい重源にとっても、これほどの大修復工事を考慮すると、院尊や明円の一派だけでは人員だけでなく技術面でも慶派の投入は不可欠であったであろうが、「運慶の造った仏像は、あんまり人間臭くて感心しない。仏像は尊厳さが第一だ。写実も結構だが、ああ、仏放れがしていては、仏という感じに遠くなる」(「小説日本芸譚」より「運慶」松本清張)と思えばこそ、より多く快慶の登用に傾かざるを得なかったのではあるまいか。
※1 北条時政:鎌倉幕府創業の功臣で初代執権。伊豆の流人源頼朝を引き立てて幕府創立に尽くし、娘政子の父として外戚の権威を発揮した。
※2 和田義盛:鎌倉前期の武将で侍所の初代別当(長官)。源頼朝の挙兵に三浦一族と共に参加し、平家追討・奥州征伐に武功を立て重用された。
さて、話を東京国立博物館で開催した「東大寺の大仏」展に戻すと、会場には快慶作の「僧形八幡神坐像(勧進所八幡殿)」「阿弥陀如来像(俊乗堂)」「地蔵菩薩立像(康慶堂)」の3作品が展示されていた。
いずれの作品も線の切れが美しく、ささくれたこちらの気持ちを柔らかく解きほぐしてくれるようなたたずまいだった。私の気持ちを鎮めてくれる何ともいえない空気に魅せられて、優美な仏像の一つ一つに足を止めじっくりと向き合いたい気分にさせてくれたのだ。 仏像に一目惚れとはおかしな表現だが、その時の私は、正に三つの仏像にそれぞれ一目惚れして立ち去りがたい気分になっていたのだった。
思うに重源は、東大寺復興にあたって、東大寺の象徴という以上に荒廃した国家の復興の象徴とも言える中門の二天像を慶派の棟梁・康慶でなく、また康慶の長子運慶でもなく快慶を抜擢し、さらには、重源の東大寺復興にこめた信仰心の発現ともいうべき「僧形八幡神坐像(勧進所八幡殿)」(下図左)と「阿弥陀如来像(俊乗堂)」(下図右)は快慶だけに造らせている。
平家という正に武者によって焼討ちされた東大寺復興は、内乱に次ぐ内乱と相次ぐ飢饉により荒廃した国土、疲弊した民の心を復興させる事業でもあり、何よりも疲弊した人々の心を慈しみ、労わり、復興に向けて一つに纏め上げてゆくうえで、武者の世に自らの独創性を重ねた作風の運慶ではなく、快慶を重用した重源の気持がこれらの作品からも伝わってくる。
ところで快慶の仏像から立ち昇る「慈しみ」と「労わり」の空気は一体何処から生じているのであろうか。
東大寺復興において重源は勧進活動の拠点として幾つかの別所をを設け、播磨別所とされる浄土寺(兵庫)阿弥陀三尊立像、伊賀別所とされる新大佛寺(三重)阿弥陀三尊立像は快慶が造仏し、他にも難波別所に安置した丈六(じょうろく:一丈六尺約480センチ)の阿弥陀三尊像も快慶作の可能性が高いとされており、別所が大衆への布教活動の拠点であった事を考えれば、快慶は重源の依頼で造仏に関わっただけではなく布教活動の面でも重源と行動を共にしていたことは十分考えられるのである。
それを解き明かす鍵としては、重源は醍醐寺出身で浄土信仰に篤く、自ら南無阿弥陀仏と称し信徒にも阿弥陀仏号を付与し、他方快慶は、建久3年(1192)に後白河法皇の追善のために制作された醍醐寺「弥勒菩薩立像」(下図)から「巧匠安阿弥陀仏」の称号を使い始めて、それ以降の作品には「仏師」ではなく宋風に「巧匠」を用いて「安阿弥陀仏」と銘記しているものが多い。
その三年前の文治5年(1189)に制作され現在ボストン美術館に収蔵されている「弥勒菩薩」制作時には「仏師快慶」と銘記されていた事を考え合わせると、この二作品の間に快慶が重源へ深く傾倒し、熱心な念仏信仰の信者となった可能性が高く、敬虔な信者としての姿勢が彼の作品にあのような「慈しみ」と「労わり」の佇まいを表現させたのではないか。
ともあれ、国立博物館では運慶の作品が展示されていなかったので二人の作品を間近に見比べる私の目論みは外れたが、重源が何故東大寺復興に快慶を重用したのかについては少し理解が深まったように思う。
「わが身五十余年を過ごし、夢のごとし幻のごとし。既に半ばは過ぎにたり。今やよろづをなげ棄てて、往生極楽を望まむと思う。たとひまた、今様をうたふとも、などか蓮台の迎へに与(あず)からざらむ」
これは後白河院が「梁塵秘抄巻十」に表明した極楽往生への強い強い願望であった。
その後白河院が法然上人から「往生要集」の講説を受けて感動し、自らの死に際しては法然上人の儀式に則って往生を願ってひたすら念仏を唱え、建久3年(1192)3月13日、寅の刻(午前4時)、床の上に端座して眠るがごとく66歳の命を絶えた事は既に述べた。
「往生要集」で著者の恵心僧都(源信)は、「この世はこんなにも醜い苦の世界であるが、西方には阿弥陀浄土という美しく楽しい世界がある。さあ、この醜い世を厭離して美しい極楽浄土を願い求めよう」と呼びかけ、死後に阿弥陀浄土へ行く方法は「南無阿弥陀仏」と誦(ず)す事」と口誦念仏を説いた。
この恵心僧都の口誦念仏をさらに発展させたのが法然上人で、「末法の凡夫には難しい修行や瞑想ではなく、極楽往生を念じただ口で「南無阿弥陀仏」と唱えて阿弥陀如来におすがりするだけでよい」とする専修念仏を主唱したことから、浄土教は後白河院のような法皇から遊女・乞食に至るまで一気に広がり鎌倉仏教を代表する事になる。
ところで、後白河院が乞い願った「蓮台の迎へ」を示す来迎像は、両脇に勢至菩薩と観音菩薩を伴った阿弥陀如来が雲に乗って現れる形が基本だが、それを体現する「来迎三尊像」は、鎌倉時代以前は三尊とも座っているか、阿弥陀如来が座っているのが一般的であったが、鎌倉時代以降は三尊とも立つのが一般的になったという興味深い変化が見られる。
鎌倉時代の代表的仏師・快慶の作品は40件ほど存在が知られているが、そのうち13件が「来迎阿弥陀立像」で、その線の美しい優美な阿弥陀像は後に「安阿弥様の阿弥陀仏」と称され大いに流行したとされる。
図の「阿弥陀三尊像」は安阿弥様の阿弥陀仏の代表ともいえる作品で、祈りで来迎者を迎えようとする勢至観音(向かって左)と、腰をかがめ前に差し出す蓮台で来迎者を迎えようとする観音菩薩(向かって右)の姿に、浄土教に心を重ねた快慶の創作姿勢が読み取れる。
とりわけ、図の慈愛に満ちた観音菩薩像から思いおこすのは、土佐に流される法然上人に教えを請おうと舟で近寄る遊女を描いた「法然上人絵伝」の一こまである。芸だけでなく春をひさぐ遊女も蓮台の迎へに与かれるのかと。
「善人なをもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」との、法然上人から親鸞へと受け継がれた強烈なメッセージが浄土教には脈々と流れているのである。
 
東大寺「大仏様」 / 重源

昨年は公慶上人の遠忌法要でしたが、今年は重源上人の800年御遠忌です。重源上人は治承四年に焼失した東大寺を再興されました。その前半生はよくわかっていません。(東大寺が炎上したのは平安時代末で、大仏開眼から428年目。重源が東大寺復興造営の朝命を受けた時、彼は61歳)
彼の伝記は「南無阿弥陀仏作善集」(なむあみだぶつさぜんしゅう)という書物です。彼は自分のことを南無阿弥陀仏と呼んでいました。また、弟子たちにも阿弥陀仏号という別名をつけました。このほか、重源上人に関する史料としては、没後100年のちに書かれた「元亨釈書」(げんこうしゃくしょ)や「播磨浄土寺開祖伝」があります。彼は藤原末期の保安二年(1121)、武官の家に生まれました。俗名を刑部左衛門尉重貞(ぎょうぶさえもんのじょうしげさだ)といいます。
13歳の時、京都醍醐寺で出家しました。17歳の頃は四国の真言霊場で修行し、19歳の頃は大峰、熊野、葛木、白山、立山など各地の霊峰を巡ったようです。
仁安二年(1167)、後白河上皇の頃、入宋しました。
高野山延寿院の鐘銘には「入唐三度上人重源」と刻まれています。
また、九条兼定が書いた「玉葉」という日記には、本人が渡唐三か度と自称したとの記述があります。
ところが、栄西と一度宋に渡ったのは記録も残っているのですが、あと二回については、詳細がよくわかっていません。もっと言えば、実際に渡ったのかどうかも含めて不明です。
栄西は備中一宮吉備津宮に生まれました。重源と仲が良く、重源の臨終にも立会い、鐘楼の勧進職を引き継ぎました。
重源はもともと東大寺とは何の関係も持っておりませんでした。
「黒谷源空上人伝」(くろだにげんくうしょうにんでん。浄土宗関係の記録)、「源平盛衰記」(げんぺいせいすいき)などには、東大寺復興の責任者に後白河院が法然を指名したが、法然は、自分は念仏の勧進であり、造寺造仏の勧進はできないと辞退した。そして、代わりに重源を推挙したとあります。
知恵第一の法然、支度第一の重源という言葉がありますが、当時から重源は有能な実務家として知られていたようです。
これが重源が「結縁勧請の聖」(けちえんかんじょうのひじり)と呼ばれる所以です。
なお、「東大寺造立供養記」には、異説が残っています。
そこでは、重源が治承五年(1181)2月、霊夢により東大寺に参詣し、自分で東大寺復興の勧進職に立候補するためにやって来て、造東大寺長官藤原行隆にアピールしたと書かれています。
ともあれ、養和元年(1181)、重源は東大寺造営の宣旨を賜り、勧進上人になりました。
1181年、東大寺は螺髪(らほつ)から再現されることになりました。
当時の日本人、とりわけ、当時の日本の鋳物師(いもじ)にこれだけの巨大仏を再現することができるのかを尋ねたところ、鋳物師自身からは悲観的な回答しか得られませんでした。
そこで重源はたまたま日本に来ていた宋の鋳物師陳和卿(ちんなけい)を登用したのです。
寿永二年(1183)2月11日には右手が、同年4月19日には頭部の鋳造が完成しました。
文治元年(1185)4月頃、大仏尊像の修造が完成しました。
同年8月28日、後白河院の行幸を得て開眼式が執り行われました。
本来開眼するのは、東大寺別当の職にある者が執り行うべきです。しかし、式当日、当時の別当はいつまでたっても、会場に姿を現しません。
しびれを切らせて後白河院が待ちかねて、自ら大筆を執り、大仏に開眼したと伝えられています。思うに、これは後白河院が開眼をしたがっていることを察した別当が、気を利かせてわざと遅刻したんでしょうな。
当時の大仏は顔にしか金箔を貼っておりませんでした。金といえば奥州の砂金、当時は藤原秀衡の時代です。
文治二年(1186)2月又は4月、重源上人は伊勢神宮を参拝し、大仏造営の祈願をしたおり、西行法師を訪ねました。
これは、西行法師に、奥州から砂金を奉納してもらうよう頼んだのではないか、と考えられています。
西行は源頼朝を訪ねてから奥州へ旅したと言われています。
頼朝は、西行に銀でできた猫を与えたが、西行はそれをすぐ、その辺で遊んでいた子供にあげてしまったという話が「吾妻鏡」という書物に出ています。
後に砂金450両の奉納を受け、全身に金箔を張ることができたのですが、奈良時代、聖武天皇が発願した初代の大仏も全部鍍金しない内に開眼したと伝えられています。
鎌倉時代に再興された大仏も、顔のみ鍍金して開眼を迎えたということになります。  
重源は、大仏はともかく、大仏殿が完成するか、を非常に心配していたようです。材木を調達することがまず大変なんですね。奈良吉野山の桧を探しましたが、良いものはありません。次に伊勢神宮遷宮に備えて良い木を用意していないか調べましたが、駄目でした。
話は変わりますが、東大寺の管長は、管長になると伊勢神宮に公式参拝することになっています。
同年3月23日、大仏殿造営のため周防国(山口県)を造営料として与えられ、重源は国司に任命されました。
同年4月18日には杣(そま)始めの式を行い、徳地町の「なめら」から切り出しました。
徳地町、現在は合併で山口市に編入されているのですが、今日は徳地町と呼ばせていただきます。
柱の長さは27-30m、短くても20-24mが必要で、直径も1.6mくらい必要となります。
直径18cmの縄で縛って70人がかりで引っ張って運びました。
100本切っても使い物になる良材は10本程度しかありません。重源は良い木材を得るため、米一石の賞金を出しました。
木材を運ぶには「さな?川」で流しました。「木津」という地名がありますが、これは奈良時代、木材を集めたことに由来します。
合格した木材には鉄の刻印を打ち込んで目印にしました。その刻印は阿弥陀寺に残っています。
(この刻印は先日の「重源」展で展示されていた。山口県・阿弥陀寺所蔵で重文。撥(ばち)のような形をした鉄製のヘッドで「東大寺」という字が浮き彫りになっている。そして、そのヘッドには木製の柄が通してある。最初、この刻印はちょうど金づちで釘を打つみたいに直接木を叩くのかと思っていたが、それではうまく刻めないだろう。柄を持って刻印面を木に押し当て、別の金づちでその刻印面の背を叩いて、木に「東大寺」という文字を刻み込んだものと思われる)
佐波川は水かさが少なかったので、大きな木材を運ぶのにどうしたかと言うと水をせき止め、118ものダムを造りました。魚通しという3-4mの導水路をうまく活用したのです。
この川には「りんげ王」?水難の地という場所があり、川底に3本の木が刺さっているそうです。日照りになって水量が減ると、その木が見えたとも言います。今でも「この先に木が沈んでいる」という石碑が残っています。
重源は材木を切り出す人たちの健康のため石風呂を作りました。石を焼いて濡れむしろ、薬草などをかぶせ、浴衣に着替えて入るものです。
私も入ってみましたが、焼き立ての石を入れると熱くて3分と入っていられません。岸見という所のの石風呂は特に大きくて、中に10人くらい入ることができます。神経痛、打ち身、くじきなどに効きました。
文治三年には130本ほど切り出しました。最長のものでは39mの木を切り出し、これは大仏殿の棟木に使用しました。
国司に任命されても守護がイケズしまんねんね。
(「イケズしまんねんね」というのは、「意地悪するんですよね」という感じの柔らかい関西弁。)
地頭が重源の米を盗んだりもしたようです。重源もこれには困りました。
重源は、文治五年(1189)年に九条兼実を訪ね、「150本も切り出したが、まだ10本くらいしか届かない。こんなことでは勧進職を続けていくことはできないので、辞退させてもらいたい」と申し入れたが兼実が慰留しました。
周防の阿弥陀寺では当時の山門や仁王、湯船が残っています。
建久元年(1190)7月、大仏殿母屋柱二本立柱したという記録が残っています。同年10月19日には後白河法皇の臨幸により大仏殿の上棟式が行なわれました。
建久四年(1193)3月には、東大寺造営のため、高尾の文覚上人(もんがくしょうにん)が播磨国奉行となりました。
また、同年4月10日には備前国、現在の岡山県を東大寺造営料として賜り、重源は国司に任命されました。
「南無阿弥陀仏作善集」を読んでも備前時代のことはよくわかりません。現地では、大湯屋跡の池が残っている。地名でいうと、湯迫(ゆば)という地に蒸し風呂をつくったようです。少し前までは草ぼうぼうの荒地だったのですが、最近行ってみると、現在では石碑や温泉ができていました。
瀬戸町の万富という所に13箇所もの東大寺瓦窯址が見つかっています。瓦には「東大寺大仏殿」の刻印が施されています。
平瓦に文字を入れる例は奈良時代からあるのですが、軒瓦に文字を入れたのは重源が最初です。
渥美半島の伊良湖でも3箇所の東大寺瓦窯址が見つかっています。伊良湖で焼かれた瓦の刻印は「東」と「大仏殿」の二種があります。
万富で焼いた瓦は吉井川で運搬しました。伊良湖からどう運んだかはよくわかっていません。紀伊半島をぐるっと廻ったとはちょっと考えられませんが、どうやって運んだのでしょうか。
また、どういう風にして瓦を焼いたかもよくわかりません。
なお、この「万富」のことは「南無阿弥陀仏作善集」にも載っていません。
東大寺の造営のため重源は各地に、東大寺別所、高野新別所、渡辺別所、播磨別所、備中別所、周防波阿弥陀仏(周防別所)、伊賀別所という七別所を設けました。
別所には丈六阿弥陀如来像を本尊とし、浄土堂、湯屋、鐘を備えました。別所とは、重源が諸国に派遣した勧進聖(かんじんひじり)の専修念仏の道場でもあったのです。
建久六年(1195)3月12日、大仏殿落慶供養が営まれました。
重源には復興造営の功によって「大和上」(だいわじょう)の位が授けられました。
その後、重源が失踪してしまうという事件が起きました。そこであわてて、源頼朝が八方手を尽くして行方を捜索させました。高野山に行っていたことが判明し、頼朝は藤原ちかよし?という人物を出迎えの勅使として派遣しました。結局20日間ほど後に帰還したそうです。
如意輪観音、虚空蔵菩薩という大仏の両脇侍は71日間で完成したと言われています。
また、四天王は運慶、快慶をリーダーとして106日間で完成させたと言われています。
正治元年(1200)、南大門が上棟しました。また、回廊なども完成しました。
建仁三年(1203)7月、南大門の金剛力士像が完成しました。金剛力士像は平成5年に大修理が行なわれ、いろいろなことが分かりました。わずか69日間で完成させたと言われていたのですが、バラしてみると30くらいの部品を組み合わせて出来ていたことが分かりました。それが驚くべき早さで完成した秘訣なのでしょう。
同年11月30日、東大寺総供養が営まれました。この辺のことは、「明月記」などにも書かれています。
建永元年(1206)6月5日、俊乗房重源は83歳で亡くなりましたが、61歳から22年間、東大寺復興に捧げました。  
 
西行法師3

本名佐藤義清(のりきよ)。生命を深く見つめ、花や月をこよなく愛した平安末期の大歌人。「新古今和歌集」には最多の94首が入選している。宮廷を舞台に活躍した歌人ではなく、山里の庵の孤独な暮らしの中から歌を詠んだ。
祖先が藤原鎌足という裕福な武士の家系に生まれ、幼い頃に亡くなった父の後を継ぎ17歳で兵衛尉(ひょうえのじょう、皇室の警護兵)となる。西行は御所の北側を警護する、院直属の名誉ある精鋭部隊「北面の武士」(一般の武士と違って官位があった)に選ばれ、同僚には彼と同い年の平清盛がいた。北面生活では歌会が頻繁に催され、そこで西行の歌は高く評価された。武士としても実力は一流で、疾走する馬上から的を射る「流鏑馬(やぶさめ)」の達人だった。さらには、鞠(まり)を落とさずに蹴り続ける、公家&武士社会を代表するスポーツ「蹴鞠(けまり)」の名手でもあった。「北面」の採用にはルックスも重視されており、西行は容姿端麗だったと伝えられている。
武勇に秀で歌をよくした西行の名は、政界の中央まで聞こえていた。文武両道で美形。華やかな未来は約束されていた。しかし、西行は「北面」というエリート・コースを捨て、1140年、22歳の若さで出家する。出家の理由は複数あって、(1)仏に救済を求める心の強まり(2)急死した友人から人生の無常を悟った(3)皇位継承をめぐる政争への失望(4)自身の性格のもろさを克服したい(5)“申すも恐れある、さる高貴な女性”との失恋。彼は歌会などを通して仲を深めた鳥羽院の妃・待賢門院(崇徳天皇の母)と一夜の契りを交わしたが、「逢い続ければ人の噂にのぼります」とフラレた--等々、こうした様々な感情が絡み合った結果、妻子と別れて仏道に入ったようだ。阿弥陀仏の極楽浄土が西方にあることから「西行」を法号とした。
西行は出家を前にこんな歌を詠んでいる。
「世を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ」
(出家した人は悟りや救いを求めており本当に世を捨てたとは言えない。出家しない人こそ自分を捨てているのだ)
“出家”という行為自体は珍しくないことだが、西行が官位を持っていたのにそれを捨てたこと、しかもまだ20歳過ぎで若かった点などから人の注目を集めたらしく、時の内大臣・藤原頼長(後に保元の乱で敗死)は日記に「西行は家が富み年も若いのに、何不自由ない生活を捨て仏道に入り遁世したという。人々はこの志を嘆美しあった」と記している。西行が延暦寺など大寺院に出家したのではなく、どの特定の宗派にも属さず地位や名声も求めず、ただ山里の庵で自己と向き合い、和歌を通して悟りに至ろうとしたのも通常と異なっていた。
※西行を語る文献には、出家時のことを「妻子を捨てて出家した」とだけ書いているものが多い。これのみでは彼がとても冷たい男に見える。実際にはちゃんと弟に後の事を頼んでいるし、こんな後日談もある。出家の数年後、京を訪れた西行は、5歳になったはずの娘が気になって、こっそり弟の家の門外から中の様子をうかがった。ちょうど子どもが遊んでいて、髪が伸びて可愛らしく成長していたんだけれど、彼を見るなり「行きましょう。そこのお坊様が怖いから」と中に入ってしまった(これはツライ)。この娘は後に有力貴族九条家の娘・冷泉の養女になって西行も喜んだが、冷泉が嫁いだ時に相手の夫が自分の侍女にしてしまったので、「娘を養女に出したのは小間使いにさせる為ではない!」と西行は彼女を連れ出して妻の所に戻したという。西行は妻子のことをずっと見守っていたんだ。
出家直後は郊外の小倉山(嵯峨)や鞍馬山に庵を結び、次に秘境の霊場として知られた奈良・吉野山に移った。西行は長く煩悩に苦しんでおり、いわゆる「聖人」じゃなかった。彼は出家後の迷いや心の弱さを素直に歌に込めていく。
「いつの間に長き眠りの夢さめて 驚くことのあらんとすらむ」
(いつになれば長い迷いから覚めて、万事に不動の心を持つことができるのだろう)
「鈴鹿山浮き世をよそに振り捨てて いかになりゆくわが身なるらむ」※伊勢に向かう途中で
(浮き世を振り捨てこうして鈴鹿山を越えているが、これから私はどうなっていくのだろう)
「世の中を捨てて捨てえぬ心地して 都はなれぬ我が身なりけり」
(世の中を捨てたはずなのに、都の思い出が煩悩となり私から離れない)
「花に染む心のいかで残りけん 捨て果ててきと思ふわが身に」※吉野で。10万本の桜がある。
(この世への執着を全て捨てたはずなのに、なぜこんなにも桜の花に心奪われるのだろう)
1146年(28歳)、東北地方に歌枕(和歌の名所)を訪ねた。初めての長旅だ。平泉に本拠地がある奥州藤原氏は西行の一族。一冬を過ごし、過ぎ行く年の暮れに次の歌を詠む。
「常よりも心細くぞ思ほゆる 旅の空にて年の暮れぬる」
(いつもの年より心細く感じるなぁ。旅の空の下で年が暮れていくよ)
1149年(31歳)、旅から帰った後は真言霊場・高野山に入って庵を結ぶ。当時の高野山は落雷の火災で大きな被害を受けており、復興の為の寄付(勧進)を各地で集めて周る僧・高野聖(ひじり)が多く集まっていた。西行も彼らに加わり、出入りを繰り返しつつ約30年間を当地で過ごす。
1156年(36歳)、都にて「保元の乱」が勃発!
この時代の朝廷権力の流れは、白河(法皇)→堀河(白河の子)→鳥羽(堀河の子)→崇徳(実は白河の子)→近衛(鳥羽の子)→後白河(鳥羽の子)。天皇が退位すると「上皇」になり、上皇が出家すると「法皇」になる。
白河はトンデモ法皇で、老いてから若い養女(待賢門院)に手を出し、お腹に子(崇徳)を身篭らせたまま孫(鳥羽)と結婚させている。白河の次男・堀河天皇が22歳で早逝すると、5歳の鳥羽天皇を即位させ白河が後見人となる院政をスタート。鳥羽が19歳になって自己主張を始めると強制退位させて上皇(肩書きオンリー)にして、まだ5歳の崇徳を即位させ法皇自身が実権を握り続けた。
白河法皇が死んでから鳥羽上皇の巻き返しが始まる。鳥羽は白河と全く同じことをした。鳥羽は法皇となって白河の子である崇徳(当時22歳)を強制退位させて上皇にし、まだ3歳の実子・近衛を即位させ、近衛が早逝すると近衛の兄・後白河を擁立した。そして鳥羽法皇が死ぬと、崇徳上皇VS後白河天皇の「保元の乱」が勃発する。源氏の主力は崇徳側に、平家の主力は後白河側についた。戦は後白河の勝利となり、崇徳は讃岐に流される。続く平治の乱で源氏の残党を破った清盛は、平家全盛の時代を築いていく。この後、後白河は法皇となって5人の天皇を30年間背後で操り、同時に武家間の対立を煽って巧みに立ち回ったことから、源頼朝は「日本一の大天狗」と評した。
1168年(50歳)、保元の乱で讃岐に配流され、4年前に無念を叫びながら死に、朝廷にとって菅原道真と並ぶ大怨霊となった崇徳上皇(西行がフラレた妃の子)の鎮魂と空海の聖地探訪の為に四国を巡礼する。
「よしや君昔の玉の床とても かからむ後は何にかはせん」※崇徳上皇の墓(白峰陵)にて
(かつては天皇の身分とて、死後は誰もが平等ではありませんか。どうか安らかにお眠り下さい)
西行は四国から高野山に帰る前に、当地で暮らしていた庵の前に立つ松に歌った。
「久に経てわが後の世を問へよ松 跡しのぶべき人もなき身ぞ」※讃岐国善通寺にて
(松の木よ、長く生きて私の後生を弔っておくれ。私は崇徳上皇と違って偲んでくれる人もいない身なのだ)
さらに高野山で修行したのち、1177年(59歳)、伊勢二見浦へ移住。1180年(62歳)、源平の乱が勃発、全国各地を戦の炎が包み込む。翌年、平家の都落ち。西行は伊勢の海を見ながら「東西南北、どこでも戦いが起こり切れ目なく人が死んでいる。これは何事の争いか」と嘆き、この戦乱を詠む。
「死出の山越ゆる絶え間はあらじかし 亡くなる人の数続きつつ」
(天寿を全うせず戦で命を奪われ、あの世への山を越えて行く人の流れが絶える事はないのだろうか。もう戦死者の話を何人も聞き及んでいる)
源平動乱の中で東大寺は大仏殿以下ことごとく焼失した。1186年(68歳)、復興に情熱を燃やす高僧・重源(ちょうげん)は西行を訪ね、「大仏を鍍金(ときん、メッキ)する為の砂金提供を約束してくれた奥州藤原氏に、早く送るよう伝えて欲しい」と頼んだ。西行と旧知の仲の奥州藤原秀衡はまだ存命であり、重源は西行=秀衡の繋がりを頼ったのだ。仏教界の頂点にいる重源に頭を下げられ、相手の心意気に惚れた西行は「分かりました、引き受けましょう」。彼は実に40年ぶりに東北へ向かう。
この時代、70歳になろうかという老人が、伊勢と岩手を往復するのは想像を絶するほど大変なことだ。本心から御仏の為という厚い信仰がなければ出発できなかっただろう。藤原秀衡は平泉までやって来た西行に感動し、すぐに砂金を奈良に送った。
「年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山」※奥州へ向かいつつ
(まさか年をとってから夜の中山道を再び越えるなんて思いもしなかった。これも命あってのことだなぁ)
実はこの奥州行きで、西行と征夷大将軍・源頼朝が対面している。1186年8月15日、鶴岡八幡宮に頼朝が参詣すると、鳥居の周辺を徘徊する老僧がいた。怪しんで家臣に名を尋ねさせるとこれが西行と分かり、驚いた頼朝は館に招いて、流鏑馬(やぶさめ)や歌道の事を詳しく聞いた。西行はヒョウヒョウとし「歌とは、花月を見て感動した時に、僅か三十一字を作るだけのこと。それ以上深いことは知りません」。流鏑馬のことは「すっかり忘れ果てました」とトボケていたが、頼朝が困惑するので馬上での弓の持ち方、矢の射り方をつぶさに語り始めた。頼朝はすぐに書記を呼んで書き留めさせたという。2人の会話は終夜続き、翌日も滞在を勧められたが、西行は振り切るように昼頃発った。頼朝は土産に高価な銀製の猫を贈ったが、西行は館の門を出るなり付近で遊んでいた子どもにあげてしまったという。(「吾妻鏡」)
※現在鎌倉の祭りで催されている「流鏑馬」は、西行がコツを伝授した翌年から行なわれるようになった。
※平泉まで義経を捕らえる為の関所を幾つも通る必要があったので、その通行証を求めに鎌倉へ寄ったとも言われている。
1187年(69歳)、このころ京都嵯峨の庵に住み子どもの遊びを題材に「たはぶれ歌」を詠む。
「竹馬を杖にもけふはたのむかな 童(わらは)遊びを思ひでつつ」 
(子どもの頃に遊んだ竹馬は、今では杖として頼む身になってしまったなぁ)
「昔せし隠れ遊びになりなばや 片隅もとに寄り伏せりつつ」
(昔のように隠れんぼをまたやりたい。今もあちこちの片隅で子どもが伏せて隠れているよ)
1189年(71歳)、西行は京都高尾の神護寺へ登山する道すがら、まだ少年だった明恵上人に、西行自身がたどり着いた集大成ともいえる和歌観を語っている。「歌は即ち如来(仏)の真の姿なり、されば一首詠んでは一体の仏像を彫り上げる思い、秘密の真言を唱える思いだ」。同年、西行は大阪河内の山里にある、役(えんの)行者が開き、行基や空海も修行した弘川寺の裏山に庵を結び、ここが終焉の地となった。
西行は亡くなる十数年前に、遺言のような次の歌を詠んでいた。
「願はくは花のもとにて春死なむ その如月(きさらぎ)の望月の頃」※如月の望月=2月15日。釈迦の命日。
(願わくば2月15日ごろ、満開の桜の下で春逝きたい)
西行が来世へ旅立ったのは2月16日。釈迦の後ろを一日遅れてついて行った。
他界から540年後の江戸中期(1732年)、西行を深く慕い弘川寺に移り住んだ広島の歌僧・似雲法師が、西行の墳墓を発見した。以降、似雲法師は西行が愛した桜の木を、墓を囲むように千本も植えて、心からの弔いとした。墳墓上の老いた山桜を始め、今では1500本の桜が墓を抱く山を覆っている。
悟りの世界に強く憧れつつ、現世への執着を捨てきれず悶々とする中で、気がつくと花や月に心を寄せ歌を詠んでいた西行。同時代の藤原定家らのように技巧的な歌に走るのではなく、あくまでも素朴な口調で心境を吐露した。自然や人生を真っ直ぐに見つめ、内面の孤独や寂しさを飾らずに詠んだ西行の和歌は、どこまでも自然体だ。
宮廷の中ではなく山里で歌を詠み、ある時は森閑の静けさに癒され、ある時は孤独の侘しさに揺れ動きながら、源平動乱の混沌とした世界にいて、自分の美意識や人生観を最後まで描き出した。
500年後の芭蕉を始め、後世の多くの歌人たちが、西行の作品をその人生と合わせて敬慕してきた。鎌倉期には「新古今」に最多の作品が入選し、日本全国には146基も歌碑が建立されている。西行は800年の時を超え、今なお人々の心を捉えて離さない!
※全2090首のうち恋の歌は約300首、桜の歌が約230首。勅撰集には265首が入撰している。55歳前後には家集「山家集」の原型が出来ていた。
※西行による崇徳上皇への墓参は、後に上田秋成が「雨月物語」の冒頭で描いている。
※弘川寺の境内には西行記念館があり、西行直筆の掛け軸など多数の資料が展示されている。
※近鉄長野線「富田林」駅から金剛バス河内行終点下車。バスの本数が少ないので必ず帰りの時間を確かめること。

「ゆくへなく月に心のすみすみて 果てはいかにかならんとすらん」
(どこまでも月に心が澄んでいき、この果てに私の心はどうなってしまうのだろう)
「松風の音あはれなる山里に さびしさ添ふる蜩(ひぐらし)の声」
(松風の音が情緒のある山里に、寂しさを添えるヒグラシの声が聞こえるよ)
「荒れ渡る草の庵に洩る月を 袖にうつしてながめつるかな」
(荒れ果てたこの草庵に差し込む月光を、袖に映して眺めているよ)
「さびしさに堪へたる人のまたもあれな 庵ならべむ冬の山里」
(冬の山里で私と同じく寂しさに堪えている人がいれば、庵を並べて冬を乗り切るのに)
「霜冴ゆる庭の木の葉を踏み分けて 月は見るやと訪ふ人もがな」
(霜がはった庭の葉を踏み分け名月を見ていると、誰かと一緒に見たいなぁと思うのさ)
「谷の間にひとりぞ松も立てりける われのみ友はなきかと思へば」
(この地に友は誰もいないと思っていたら、谷間にひとり松も立っていた)
「心をば深き紅葉の色にそめて別れゆくや散るになるらむ」
(私の心を深紅の紅葉の色に染めて別れましょう。散るとはそういうことです)
「水の音はさびしき庵の友なれや 峰の嵐の絶え間絶え間に」
(峰から吹き付ける強風の中に、時々聞こえる川の音は寂しい庵の友なのだ)
「ひとり住む庵に月のさしこずは なにか山辺の友にならまし」
(独り寂しく住む庵に差す月の光は、まるで山里の友のようだ)
「花見ればそのいはれとはなけれども 心のうちぞ苦しかりける」
(桜の花を見ると、訳もなく胸の奥が苦しくなるのです)
「春ごとの花に心をなぐさめて 六十(むそぢ)あまりの年を経にける」
(思えば60年余り、春ごとに桜に心を慰められてきたんだなぁ)
「吉野山花の散りにし木の下に とめし心はわれを待つらむ」
(吉野山の散った桜の下に私の心は奪われたまま。あの桜は今年も私を待っているのだろう)
   

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