八ツ橋

 
 
 
八橋、八つ橋、八ッ橋 (京都市発祥の銘菓・和菓子のひとつ) 
上新粉(米粉)、砂糖、ニッキ(肉桂・シナモン)の粉末を混ぜて生地を作り、薄く焼き上げたせんべいの一種で、長軸方向が凸になった湾曲した長方形をしている。焼かずに蒸しあげたものは生八ツ橋と呼ばれる 、昔の生八ツ橋は竹皮によって包まれていた。 
名前は伊勢物語の九段「かきつばた」の舞台となった「三河国八ツ橋」の故事にあるという説と、八橋検校の名にちなんで箏の形を模したことに由来する説とがある。
あんなま/本家西尾八ッ橋 
元禄年間(1687)に創業された京都で一番歴史のある八ッ橋メーカー。聖護院の森の「八ッ橋屋梅林茶店」にさかのぼり、当時、商っていたのは米粉を使って作られた素朴な白餅。東海道を行く旅人の携帯食としても重宝されていた。元禄2年(1689)現在の八ッ橋の原型となる橋の形をした素朴なおせんべいが誕生した。文政七年に熊野神社に奉納された絵馬に「八ッ橋屋為治郎」の名前が残っていることから「八ッ橋やと言えば、西尾」だった。西尾家の十二代目・西尾為治は明治時代から昭和初期にかけて八ッ橋を世界の博覧会に出品し、数え切れない栄冠を勝ち取 った。明治22年(1889)パリ万博では銀賞を受賞、八ッ橋は海を越えて評判を得た。
夕子/井筒八ッ橋本舗 
文化2年(1805)津田佐兵衞により創業、米、味噌、醤油、砂糖、菓子などを商う。昭和22 五代佐兵衞により「つぶあん入り生八ッ橋」を創作発表、「夕霧」と命名 。昭和24 昭和天皇、皇后両陛下に井筒八ッ橋を献上、第1回「八ッ橋祭」を提言、挙行。昭和32 第14回全国菓子博覧会にて生八ッ橋「夕霧」名誉大賞牌受賞。昭和40 第16回全国菓子博覧会にて「井筒八ッ橋」名誉総裁賞受賞 。昭和45 歌舞伎銘菓「夕霧」の姉妹品として「つぶあん入り生八ッ橋」を発表。昭和49 つぶあん入り生八ッ橋を故水上勉作「五番町夕霧楼」に因んで叙情銘菓「夕子」と命名 。
聖・ひじり/聖護院八ッ橋総本店 
近世箏曲の開祖といわれる八橋検校が、慕う数多くの高弟・門弟たちに見守られて、貞享2年6月12日(1685)亡くなり、黒谷金戒光明寺に葬られた(享年72才)。亡き師のご遺徳を偲び門弟たちが、続々絶え間なく墓参におとづれ続けたが、元禄2年(1689)黒谷参道の聖護院の森の茶店で、琴の形に似せた干菓子を「八ツ橋」と名付けて売 られるようになった。これが「八ツ橋」の始まりといわれ、その場所が当社創業の地である。 
屋号は玄鶴堂、「玄」は黒谷(京都東山の地名あるいは金戒光明寺の通称)の「黒」を、「鶴」は鶴の鳴き声が琴の音色の似ていることから名付けられた。
おたべ 
1946年河原町六角において菓子小売店として創業、1949年「京好み八ッ橋本舗」として八ッ橋の販売始める。1966年つぶあん入り生八ツ橋「おたべ」を発売、1969年現社名に変更。焼いていない生八ツ橋を初めて製造販売した。
【八つ橋・八橋】 小川、池などに幅の狭い橋板を数枚、折れ折れに継ぎ続けて架けた橋。(古く、遇妻(あいづま)川に八つの橋が架けられていたところから呼ばれたと伝えられる)愛知県知立(ちりゅう)市の地名。東海道筋にあって、古くから燕子花(かきつばた)の名所として知られた。歌枕。三河の八橋。 
「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもう」 伊勢物語・三河八橋で在原業平が東下りの際、句頭5文字に「かきつばた」を入れて読んだ(愛知県知立市無量寿寺)。 
【八橋織】 絹織物の一種。向きの異なる綾織の組織を組み合わせて市松模様を表したもの。練織と生織との二種があり白または染めて着物あるいは羽織の裏地などに用いる。仙台地方で多く作られた。  
【八橋検校】 (1614-85)江戸初期の俗箏の開祖。八橋流箏曲の始祖。陸奥国(福島県)の人。江戸に出て三味線を学び、のち、筑紫箏を学ぶ。筑紫箏曲を改訂して新曲を作り今日の箏曲の基礎を築く。代表作は「四季の曲」など一三の組曲、「六段の調」などの段物。  
【八橋煎餅】 菓子の一種。京都名物で短冊形に焼いた煎餅。橋をかたどったものとも琴をかたどったものともいわれる。八橋。  
【八橋流】 筑紫箏および三味線の流儀の一つ。天和・貞享の頃、八橋検校が筑紫流箏曲を基礎にしてはじめたもの。この流派から生田検校が出、生田流を創始して以来八橋流は衰えた。
   
八橋検校
八橋検校 1 
八橋検校は江戸時代初期の筝曲演奏家、作曲家です。慶長19年(1614)生まれ。出生地には諸説あるが「筝曲大意抄」(山田松黒著/1779)より福島県いわき市が定説。幼少より目が不自由であったため、「当道座」(目が見えない人達 の組織。検校・別当・勾当・座頭などの官位名がある)に編入。幼名を城秀といい、大阪の摂津で当道の表芸のひとつである三味線で名を高める。その後、江戸に出て、賢順を始祖とする 「筑紫流筝曲」の伝承者の一人・法水に出会い、筑紫筝の技法を学んだ。岩城平藩主・内藤義概(号/風虎)の庇護の下に筝曲の確立に励むことになった。寛永13年(1636)最初の上洛をはたし、勾当の位を得 た。この頃、筑紫筝の奥義を極めたいという思いが断ち切れず、九州肥前国諫早の地(現在の諌早市)にまで赴き、そこで賢順の第一高弟である慶厳寺の僧・玄恕に師事し、ことごとく秘曲を受け得て江戸に戻った。寛永16年(1639)再度上洛し当道における最高官位「検校」に任ぜられ、上永検校城談と称した 、後に八橋と改められた。検校登官で自信をつけた八橋検校は、慶安年中(1648-52)に筝曲の改革を行う。音楽面、詞章面とも筑紫筝の組歌(賢順十曲)とは大いに異なる新しい筝組歌十三曲を創始した。音楽面での大きな改革は、陰音階を基調とした調弦法を編み出した。詞章面では、歌人でもあった内藤風虎の協力もあり、組歌の文芸的芸術性を一層高めるものとな った。八橋検校は、この八橋十三組の創作と、段物として器楽曲三曲を作曲したことによって、近世筝曲の礎を確立し、いわゆる筝曲八橋流の誕生させた。寛文3年(1663)頃から京都に移住 、近世筝曲の普及と伝承に貢献する門弟を数多く育てたが、貞亨2年(1685)享年72歳で亡くなった。 
京都黒谷の金戒光明寺(塔頭・常光院)に葬られ「鏡覚院殿円応順心居士」と号した。  
八橋検校 2  
俗箏の開祖。岩城の人とも豊前の人ともいう。 
色道大鑑(延宝6年ー1678畠山箕山著)の説。慶長19年(1614)岩城国平(現福島県いわき市)に生る。初め城秀と称し、加賀都(柳川流三弦の祖)と共に、石村検校に師事して三味線を習い、加賀都と共に三味線の名手と知られ、普及のために江戸に下り、法水の知遇を得、筑紫流箏曲を学ぶ。23才(寛永13年1636)の時、京に上り、寺尾検校の下で勾当となり、山住勾当を名乗り、26才(寛永16年)検校に進み、上永検校城談となり、後さらに八橋検校城談と改名。 
萩碑文鐘銘集(昭和28年)に採録された「八橋検校の碑」の碑文の説。 八橋検校諱(いみな)は誠団、豊前州小倉(現福岡県北九州市小倉区)の人、不幸にして蚤(はやく)明を失い、東武江(江戸の別称)に遊び、筑箏を柏屋氏に学ぶ。又西肥に適(ゆ)き、僧玄恕に従い尽くその秘奥を究め、時に妙手と称せらる。玄恕なる者は、所謂賢順居士なる者の高弟なり。  
八橋以為く彼の箏曲の音は樸素にして辞雅ならず。之を今俗に馴施すれば即ち魏文の臥、啻ならざるなり。此に於て乃ち新声15曲を作り以て敷州□風に協す。  
その辞1に和歌に拠り旁々唐詩及び和華の艶詞をクンセキし演べて之を長くす。初め6曲を外調と為す。1を疑冬と曰い、2を梅枝と曰い、3を都鳥と曰い、4を雛鶴と曰い、5を微雪と曰い、6を雪晨と曰う。次の3曲を内調と為す。1を雲上を曰い、2を薄衣と曰い、3を桐壺と曰う。  
次の3曲を小秘事と為す。1を須磨と曰くい、2を四季を曰い、3を扇と曰う。又静掻、臨舌乱等の調あり。皆徒に絃にして辞なく以て配附するか、3調に次いで後、更に3曲を造る。これを大秘事と為す。1を雲居と曰い、2を四季源氏と曰い、3を乙と曰う。その曲弥々妙なり。故に曰く、一たびこの曲を奏すれば即ち天必ず之が為めに雲を興し雨を降らさんと。蓋し声音の道は精微に尽きれば、即ち性情の和に合し陰陽の行に参ずる者非なるか、八橋子の業はそれ至れるかな。  
この故に年を窮めて精錬すと雖もその人に非ざるよりは未だ嘗て与かり聞くを得ず□□□。  
昔わが先師初島勾当宝永中京師に遊び、八橋子の高弟l根尾検校に従って業を受く、根尾子その才を奇とし以て雲居曲を授く。然る後先師事を以て西帰す。凡そ五越月にして復京師に赴く。根尾師溘焉として下世す。先師乃ち旻天に号泣しその墓に告げ祭って返る。初め先師その師に侍し頗る大秘事の旨を得たり。  
師歿するの後或は一たび之を鼓すれば乃ちただ1曲にして止み、敢て2曲以下を奏せず。蓋しその師の親しく伝うる所に非さるを以てなり。或は曰く、子の才を以てせば廃を興し闕を補うと雖も可なり。況や嘗てその旨を与り知るものおや。且つその祖の意匠をして湮滅せしなることを子豈に之に師の忍びんやと。先師肯かずして曰く、否、大凡そ事の廃興存亡する所以の者は皆天なり、たとい人自ら悪と為すも能く天に勝たんや。今且つ幸にその一猶存し以て祖意を視るに足るのみ。何ぞ必ずしも多きを用いんやと。此に於てか2曲遂に亡ぶ。是より後八橋氏の箏法盛んに行われ、而して亦源を同じうし流を異にするもの寔に繁し。先師退いて徒に授くるに履恒に戸に盈つ。貴戚権門も延賞するに遑あらず。而して遂にその師授を厳にし新意を以て人の聴を悦ばすを欲せず。  
この故に能く八橋家の正音を失わざる者独り我輩に在り。八橋子晩に浪華に客居し貞享2年乙丑6月12日を以て卒し、謚して鏡覚院円応順心居士と曰う。墓は平安城東黒谷にあり。ああ我が祖、世を去りて百年吾儕その流をくみ、厚沢に涵泳すと雖も、道路修遠にして時月に謁祭し追慕を致す能わず。此に於て同志と力を戮せ石を長門覇城の東医徳寺の妙音祠の側に樹て香花所と為し、兼ねて不朽を図る。伏して報本追遠の思を此に万一せんことを願う。その辞に曰く、  
貘たり秦声、筑士駸々たり、大和風を移し、古に決し今に湎む 高山流水手に得て心に応ず、峨々たり洋々たり 千載の知音  
天明4年歳次甲辰6月12日 八橋4世藤谷会下 長陽参一謹んで識す  
(裏面)  
本藩の正流諸名勝の堂に入る者、恭しく印可を奉ずる者10名、この行辱くも工事を命ぜられ経費を資給すること門人松乃一に及ぶ。亦頗る功力を致す正に功徳久遠と謂うべし。  
参一重ねて識るす永代石碑科の為めに方に金壱両之を寄附する者なり  
参都 松野都 左奈都 城幾  
筑紫楽を修めた八橋は、三味線音楽の旋律を応用して、半音程を持つ平調子、雲井調子の陰旋音階の調子を考案し、右手17法、左手8法の運指法を制定し、細かい装飾音を使用し、速いテンポの演奏法のもとに、筑紫流箏曲の大幅増補改訂を行い、実際の必然性から琴爪を改良し三味線組歌をつくった。  
表組  蕗、梅ケ枝、心尽し、天下太平、薄雪、雪の晨       6曲  
裏組  雲の上、薄衣、桐壺、須磨、四季の曲、扇の曲、雲井の曲  7曲  
組外  六段の調、八段の調、乱輪舌、雲井弄斉  
また、胡弓の改良、つまり従来のものより弦をゆるく張るように改め、弓を特に長くし、持ち方の変更などを行うなど、俗箏の基を築いた。筑紫流箏曲の俗箏に対し、八橋流箏曲と称す。貞享2年(1685)6月12日72才歿。墓は京都黒谷にあり。戒名、鏡覚院円応順心居士。 
八橋検校 3  
慶長19〜貞享2〔1614-1685〕 近世箏曲の流祖、また演奏家、作曲家。城名は城談。  
生国について磐城(福島県)説(『箏曲大意抄』など)と豊前小倉(福島県)説(萩市赤崎神社碑文など)とがある。  
幼くして失明、城秀と名のって三味線を学ぶ。  
寛永(1624〜44)の初期、のちの柳川検校加賀都(かがのいち)とともに大坂で演奏。  
三味線八橋流を開いた(『色道大鏡』)というが、三味線八橋流のその後については不明。  
寛永中期に盲人位階の初度である上衆引を得る。  
その後江戸に出て筑紫箏賢順の弟子玄恕からも伝承をうけた(『琴曲抄』)と言うが疑問。  
ともあれ筑紫箏ははなはだ高尚であり「俗耳に遠し」(『琴曲抄』)と感じた彼は「終に是に淫声をくはえ」(同) すなわち陰音階を採用して平調子を考案して十三曲の組歌を作曲し、こんにちに伝える組歌の様式を大成した。  
近世俗箏の開祖とされるゆえんである。  
『箏曲大意抄』などによれば組歌がつくられたのは慶安(1648〜52)のころであるという。  
これに先立つ寛永13(1636)年上洛し、寺尾検校城印を師として勾当となり山住姓を名のった(山住勾当)。  
寛永16(1639)年ふたたび上洛して検校に登官。  
はじめ上永検校城談あと名のっていたが、いつのころからか八橋検校城談と改めた。  
その前後から『色道大鑑』の著者、畠山(藤本)箕山の庇護のもとに演奏・教育活動につとめ、少なくとも寛文3(1663)年までは磐城平藩より五人扶持を給せられていた(『寛文三年御印判並ニ御意乃趣留書』)。  
貞享2年6月12日没。享年71歳。墓所は京都黒谷の常光院。  
前述の赤碕神社の碑文は百回忌にあたる天明4(1784)年に弟子筋によって建てられたものである。なお、生田検校流祖生田検校の師、北島検校は八橋の高弟。また八橋の業績として胡弓の改良を数えるものもある(『色道大鑑』)が詳細は不明。  
八橋検校の作曲とされるものに十三曲の組歌(ただし、そのうちのいわゆる〈三曲〉は後代大幅に改変された可能性がある) 付物の《雲井弄斎》、やはり組歌で秘曲とされる《古流四季源氏》《乙の組》(後者については疑問)、段物では《六段の調》《八段の調》《九段の調》および《乱》がある。  
十三組 《菜蕗》《梅枝》《心尽》《天下泰平》《薄雪》《雪の晨》《雲の上》《薄衣》《桐壺》 《須磨》《四季の曲》《扇の曲》《雲井の曲》最後の三曲をとくに〈三曲〉ということもある。 
八橋検校 4  
1614(慶長19)−1685(貞享2) 近世箏曲の祖とされる盲人音楽家。  
行年についてはふつう、高井伴寛「撫筆雅譜大成抄」(1812、文化9)に記された72歳説によっているが、64歳没説(関根只誠「名人忌辰録」)、78歳没説(新八橋流伝授書)などもあり、それらに従えば、1622年(元和8)または1608年(慶長13)生れということになる。  
生国は「箏曲大意抄」(1779、安永)以来、磐城とされるが、いずれの郡の生れかは定かでなく、現在のいわき市平(たいら)小太郎町児童公園の碑文(鈴木光四郎撰)に記される様な磐城平の出生とする証拠はない。  
また山口県萩市赤崎神社内の碑文によれば豊前小倉の人とされる。  
「色道大鏡」(1678、延宝6序)によれば初名城秀、寛永(1624−44)の初めには大坂で加賀都(かがのいち)(のちの柳川検校応一)とともに三弦を弾き、三味線の八橋流の祖となったとされる。  
「隔費記」には、寛永14年の頃に「三味線当代名人二人乃内」とされている。 しかし三味線のその後の伝承は不明。  
当時の盲人の習慣として平家琵琶も学んだと思われるが、その記録はない。  
また同書では呼吸の改良も行ったとし、寛永の中ごろには初度の上衆引(盲人の位)となったとする。  
そのころ江戸に出て、筑紫箏の法水から箏曲を習得(「糸竹初心集」ほか)。「琴曲抄」(1695、元禄8)によれば、肥前に行って玄恕にも師事したとされるが、筑紫箏側の伝書では否定されている。  
1636(寛永13)上洛して、妙門派寺尾検校城印を師として勾当となり、「色道大鏡」の著者藤本(畠山)箕山の家来の名をとって山住姓を称し、城言に箏を教え、城言は大坂の万重(まんよ)という太夫職(遊女)に教えた。  
1639年11月11日再上洛して検校登官(「三代関」)。当初、上永検校城談と名のったという(「色道大鏡」)。  
八橋姓に改めた時期は定かでないが、「検校着座次第」(久我家文書)によれば、1657年(明暦3)以前らしい。  
この再上洛の再には筑紫箏の秘曲を弾き、城連、城行らがその伝授を受けた。  
「箏曲大意抄」などによれば正保年中(1644−48)に岩城領主が詞章の不足を補ったのに基づいて、慶安年中(1648−52)に新しい組歌を編成、筑紫箏とは異なる陰音階の調弦による箏組歌を考案、いわゆる八橋十三組を作曲したとされる。  
菊池康雄「八橋検校覚え書」は、この岩城領主を磐城平藩主内藤風虎(義概、義泰)と推定、明治大学蔵の内藤文書「寛文三年御印判並ニ御意乃趣留書」によって、八橋が1663年(寛文3)までは平藩から五人扶持を給せられていたことを指摘している。  
中山太郎「日本盲人史 正編」によれば、慶安ころから京都に移住したとされるが、「松平大和守日記」では、1662年(寛文2)までは江戸の大和守邸に伺候している。  
1685年(貞享2)版「京羽二重」には、京の綾小路烏丸西へ入町に居住したとある。  
八橋を師として検校に登官した者には、太田城順 (1662 年登官)、根尾城和 (1672 年登官)、本坂城訓 (1675 年登官) があり、いずれも江戸に居住した。根尾検校は八橋セン益(八橋の息か)とともに京都黒谷常光院の八橋の墓の施主となり、根尾門下の初島勾当は萩に箏曲を伝え、初島門下の参一らが1784年(天明4)の百回忌に、前記の赤崎神社内に碑を建てた。  
この系統の伝承は最も八橋の伝承に忠実であった可能性が大きく、萩八橋流ともいうべきものであるが、現代では絶えている。  
一方、松代の真田藩に伝えられた、いわゆる松代八橋流の伝承系譜のほうは、八橋に直近する時代に不明な点がある。  
一般に八橋創始の箏曲を中央で伝承したとされる住山検校、北島検校らは盲官制度上の八橋の弟子ではなく、大阪八橋流の祖とされる城追座頭や、沖縄箏曲への伝承の祖とされる吉部座頭などと八橋との関係の詳細は不明である。  
八橋の作曲と伝えられるものは、中央伝承の現行曲では「菜蕗」「梅が枝」「心尽し」「天下太平」「薄雪」「雪の晨」「雲の上」「薄衣」「桐壺」「須磨」「四季の曲」「扇の曲」「雲井の曲」のいわゆる八橋十三組と、付物「雲井弄斎」、秘曲の「古流四季源氏」「乙組」、段物の「六段の調」「八段の調」「乱」である。 
筝曲八橋流(そうきょくやつはしりゅう) 
八橋検校が、当時の筑紫流を改革・発展させて創始した音楽を筝曲八橋流という。八橋検校の作曲と伝えられているものは「菜蕗/梅枝/心尽/天下大平/薄雪/雪辰/雲上/薄衣/桐壷/須磨/四季曲/扇曲/雲井曲 」の八橋十三曲と、付物の「雲井弄斎」秘曲「古流四季源氏」「乙組」段物「六段の調べ」「八段の調べ」「乱れ」である。これらの新しい組歌は目の不自由な音楽家の間で伝承され、やがていろいろな流派にわかれた。こうした後代の分流に対して、八橋の時代のものを八橋流といい、その伝承を正統に伝えると称する流派もそれぞれ八橋流と名の った。八橋の直弟子である根尾検校の伝承は、初島勾当を経て山口県の萩に伝えられた。少なくとも、八橋の百回忌までは、この萩八橋流が続いていたとされる。現代、藩楽として京都から八橋流を導入した長野県松代の真田家によって継承されているのみとな った。八橋が近世筝曲の道を開いたおかげで、そこから育った弟子が上方で生田流、江戸で山田流をたて、庶民の間に筝を普及させていった。「箏」(そう)は十三弦で琴柱を用い、「琴」 (きん)は七弦で琴柱を用いない楽器である。古くは「箏の琴」と「琴の琴」と2種あり、「琴の琴」は何時しかすたれ世の中ではほとんど見ることがなくなり、「箏の琴」が「琴」岳で「箏」の琴を表わすようになったと言われ る。もちろん検校によって広められた「箏」が、日本の知識階級の愛好されたためでもある。 
 
聖護院
京都市左京区にある本山修験宗の総本山。もと天台宗寺門派の大本山で、円満院、実相院とともに天台三門跡のひとつ。 円珍の創建とつたえ、はじめは常光院と称した。寛治4(1090)園城寺長吏の増誉が、白河上皇の熊野詣の先達をつとめた功により熊野三山検校職に任じられ、そのとき聖体護持のために常光院をあたえられたため聖護院と改称された。平安末期、後白河上皇の皇子の静恵法親王(じょうえほっしんのう)が入寺して以来、法親王の入寺があいつぎ門跡として園城寺長吏と熊野三山検校とを兼務した。室町時代から熊野修験者の全国的な組織化をすすめ、江戸時代には本山派(天台系)修験道の本山となり、当山派(真言系)修験道と拮抗した。堂宇は応仁の乱の兵火などでしばしば焼失し寺地も移動したが、 延宝4(延宝4)現在地に再建された。天明8(1788)、安政元(1854)の2度の皇居火災には、当寺が光格天皇や孝明天皇の仮宮となったため、聖護院旧仮皇居として国の史跡にも指定されている。 書院のほか、不動明王立像2体、智証大師(円珍)座像、熊野曼荼羅図などが重要文化財。毎年8月1日には奈良吉野の大峰山に峰入りするため、全国から数千の山伏があつまり、当寺から京都駅まで山伏行列をおこなうことでも有名。また江戸時代以来、土地の名産に聖護院大根があり、現在では八橋煎餅も知られている。
開創 
聖護院は本山修験宗(山伏)の大本山であり、智証大師・円珍によって創建された天台寺門宗の門跡寺院、本尊は不動明王。本山修験はおよそ千二百年前、役行者神変大菩薩が開 いた宗派で、平安朝の初めに智証大師に伝わり、大納言藤原経輔の子・増誉大僧正に継れた。増誉大僧正は寛治4年(1090)白河上皇が熊野本宮に御参詣の際、先達をつとめた功によって一寺を賜り、「聖体護持」の二字をとって「聖護院」と勅称された。またこのとき増誉大僧正は、熊野三山検校職に任ぜられ、修験道の統轄を命ぜられ た。なお当院は四世門主に後白河天皇の皇子・静恵法親王が入寺し門跡(皇子・貴族などが住まう寺院)となった。
沿革 
聖護院門跡は初め今の場所にあったが、応仁の乱(1467-1477)で焼失し、洛北の岩倉村長谷の地に移された。文明13年(1481)に夫人日野富子と不和になった足利義政が入寺 したため、本格的に堂舎の整備が行われたが同19年焼失。その後、豊臣秀吉が烏丸上立売に当院を造営、しかし、市中に移った後も再度の火災に見舞われ焼失した。延宝4年(1676)後水尾天皇の皇子・道寛法親王の時に現在地に復した。 
天明8年(1788)御所炎上の際、光格天皇が本院を仮皇居とし3年間住まわれ、また安政元年(1854)の御所炎上の際にも孝明天皇の仮皇居となり、この由緒をもって昭和11年「聖護院旧仮皇居」として史跡に指定された。
本山修験宗と入峰 
役行者神変大菩薩によって開かれた本山修験は、日本古来の山岳信仰、自然崇拝に源を発し、民俗信仰と仏教・道教の思想が融合して成立した。出家・在家を問わない菩薩道修行実践の宗派であり、最も日本的な庶民宗教といえ る。修験は「実修得験」の意味で、修行体験によって徳をあらわすことをいい、理論よりも実践が中心になっている。現実の人生に極楽浄土を築くもので、そのために健全な心身を養わねばな らず、山に登り自然の声を経典として仏心を探り、身体を練るのものである。役行者の正統として、この修験の法統を増誉大僧正が継承して以来、当院では毎年、各地に散在する修験道の峰に修行し、菩薩道の実践を行ってい る。ことに昔の大峰入りは、門跡の乗った御輿を中心に全国から参集した山伏行者の列が4キロ以上に及び、明治維新までは祇園祭とともに「京都一日の花」といわれるほどの盛観で あった。
建造物と宝物 
当院の総面積は約五千坪(16000m2)。院内には本堂・宸殿・表門・書院・庫裏などがあり、ほとんどが延宝4年(1676)に聖護院がこの地に移された時に建てられたもの。中でも仮皇居当時の御座所、御学問所、ご愛用のお茶室などは由緒が深く、ことに御所より女院の御殿を賜って移した書院は、江戸初期の書院例を示すものとして国の重要文化財に指定されてい る。本堂は昭和43年に収蔵式本堂として再建、庫裏は平成6年に大仏間として再建された。宸殿、大玄関は平成11年より解体大修理が行われ、今年落成した。宝物に、智証大師作不動明王二体、智証大師坐像、光格天皇宸翰神変大菩薩号勅書、絹本著色熊野曼荼羅図など重要文化財数百点が保存されている。

  
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