六道の辻

六道のすべて 
 
 
六道の辻1 
六道というのは仏教用語。有情(生あるもの)はこれ全て欲界、色界、無色界の三界に生きている。そして、そこで生き死にを繰り返す、輪廻転生である。とくに欲界にいる生類は業によって、六つの世界を生まれ変わり死に変わることになり、その世界が地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人間道、天道の六道である。三界から抜け出すのが涅槃の境地である。辻は賑やかな通りや四つ角のことだが、昔から辻は魔界への入り口と称されていた。六道の辻で有名なのは六道珍皇寺で、門前に「六道の辻」の石碑がある。
 
六道の辻2 
松原通(旧五条通)が轆轤町(ろくろちょう)にかかるところの辻。普段は庶民の町で小さな商店街が連なる静かな町。愛宕(おたぎ)念仏寺跡、地蔵堂跡、閻魔堂跡、姥堂跡、そして今も残る六波羅蜜寺、西福寺、六道珍皇寺などが点在する。その昔、この辺り一帯から山麓にかけては、鳥辺(部)、「とりべ」と云われ、葬送の地であったと云われる。亡くなった人を送る地、僧侶が亡者の霊魂に引導を渡す、いわゆる野辺送りの地で、冥界への入り口にあたる辻が六道の辻。地名の由来は、その昔におびただしい人骨が出土したため髑髏原と云われていた時期もあって、この髑髏、「どくろ」が転訛して「六道」になったのではないかと云われている。江戸時代初期までは「髑髏町」と云われていたが、轆轤挽職人が多く住む町だったので、京都所司代の命により轆轤町に変更されたと伝る。六道とは、生前の善悪の行いによって導かれる冥界で、天上、人間、修羅、鬼畜、餓鬼、地獄のこと。
 
六道珍皇寺1  
ろくどうちんのうじ。空海の師にあたる慶俊僧都が開いたと伝えられる。いまは建仁寺の塔頭(たっちゅう)になっていて、ふだんの境内はひっそりとしている。本堂の脇には閻魔堂があり、閻魔さまの像が安置されている。その隣に平安時代の歌人・小野篁の像がある。
 
六道珍皇寺2  
石碑には六道の辻と刻まれ、東山区の六道珍皇寺の門前にある。六道の辻は現世とあの世の境と云われ、実際の辻は石碑の西側に位置する辻になる。寺の閻魔堂には閻魔大王と小野篁の像が安置されている。小野篁は昼間は宮廷に仕え、夜は珍皇寺の井戸から地獄に通い、閻魔大王に仕え、裁きを手伝ったと云う奇妙な伝説が残る人物。
 
幽霊子育て飴1  
むかしむかし、六道の辻にある飴屋さんに、夜な夜な飴を買いにくる、顔色の悪い女がいた。不審に思った飴屋さんは、ある夜、跡をつけてみた。すると女は、鳥辺野の墓地のあたりでスッと消えてしまった。翌日、掘り起こしてみると、そこは出産直前に亡くなった女性の墓で、なんと、産まれたばかりの赤ちゃんと飴がでてきたという。どうやら墓の中で産んだ赤ちゃんを育てるために、幽霊となって飴を買いにきていたらしい。石標の建つこの所は六道の分岐点、この世とあの世を結ぶ交差点にあたる。このような伝説が生れたのは、小野篁の地獄行きの伝説との関係か。
 
幽霊子育て飴2  
慶長4年京都の江村氏は、妻を葬った数日後、土の中から幼児の泣き声がするので、掘り返してみれば、忘れもしない亡き妻が産んだ子供であった。ちょうどその当時、夜な夜な飴を買いに来る婦人がいたが、子供(幼児)を掘り起こしてからは、その婦人が来なくなったという。その後、この店で売る飴を誰となく幽霊子育ての飴(水飴を固めて小割りしたもの)と呼ぶようになり、果ては薬飴とまで言われるようになった。
 
幽霊子育飴3  
六道珍皇寺から少し東に入り今も飴が売られている。丁度、黄金糖からさらに甘さを取った水飴を原料とする素朴な飴。夜な夜な飴を買いに来る婦人がいた。ある日、土の中から泣き声がするので、亡くなった幼児のお墓を掘り返してみると、子供が泣いていたと云う。そしてそれ以後、婦人は飴を買いに来なくなった。
  
小野 篁  
おののたかむら / 延暦21年(802)-仁寿2(853)は、平安時代前期の官人、学者、歌人。異名は「野相公」、その反骨精神から「野狂」とも。小野篁は遣隋使を務めた小野妹子の子孫で、父は小野岑守。孫に三蹟の一人小野道風がいる。若年の頃、父に従って陸奥国へ赴き、弓馬をよくしたが、嵯峨天皇の言葉に触れて発奮し大学へ入り、官途についた。巡察弾正・弾正忠・弾正少弼などを歴任し、法理に明るく「令義解」の編纂にも深く関与した。承和元年(834)遣唐副使に任ぜられるが、承和5年(838)に正使藤原常嗣とのいさかいから、病気と称して職務を拒否したうえ朝廷を批判する詩を作したため、嵯峨上皇の怒りをかい隠岐に流された。1年半の後に許されて帰京。のち従三位参議に至った。
 
和歌 
わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ海人の釣舟 (百人一首11番) 
思ひきや鄙のわかれにおとろへて海人のなはたきいさりせむとは 
泣く涙雨と降らなむわたり川 水まさりなばかへりくるがに (古今和歌集) 
花の色は雪にまじりて見えずとも 香かをだににほへ人の知るべく 
水の面おもにしづく花の色さやかにも 君が御影みかげの思ほゆるかな  
しかりとて背そむかれなくに事しあれば まず歎なげかれぬあな憂う世の中 
うち解とけて寝ぬもの故に夢を見て もの思ひまさる頃にもあるかな 
数ならばかからましやは世の中に いと悲しきは賤しづのをだまき 
身のならん淵瀬も知らず妹背川いもせがわ  おり立ちぬべき心地のみして 
中にゆく吉野の川はあせななむ 妹背いもせの山を越えてみるべく 
にごる瀬はしばしばかりぞ水しあらば 澄みなんとこそ頼み渡らめ
 
 
伝説 
篁は夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという。この井戸は、京都東山の六道珍皇寺にあり、また珍皇寺の閻魔堂には、篁作と言われる閻魔大王と篁の木像が並んで安置されている。 
「今昔物語集」によると、病死して閻魔庁に引据えられたた藤原良相が篁の執成しによって蘇生したという逸話が見える。 
「宇治拾遺物語」などには、嵯峨天皇のころ、「無悪善」という落書きを「悪(さが・嵯峨のこと)無くば、善けん」(「悪なからば善からん」とも読める。いずれにせよ、「嵯峨天皇がいなければ良いのに」の意。)と読み、それに立腹した嵯峨天皇の出した「'子'を十二個書いたものを読め」というなぞなぞを、見事に「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と読み解いてみせ事なきを得た、という逸話も見える。
 
小野篁神社 
滋賀県大津市小野、和邇駅から南へ約1.1kmのところ。小野神社の末社で同境内地にあり、小野篁を祀っている。境内の木立ちの一隅に、切妻造の本殿がひっそりとたたずんでいる。切妻造の本殿は全国にも少なく非常に珍しい。県下では小野道風神社の本殿と天皇神社の本殿を合わせて3棟しか残っていない。建立は南北朝時代のころ、規模は3つの本殿の中でもっとも大きい。檜皮(ひだ)の屋根、太くて大きい木割り、低い床など、全体的に重量感があり、落ち着いた風格がある建物。
 
 
派生歌 
こぎいでぬと人につぐべきたよりだに 八十島遠きあまのつり舟 (藤原家隆) 
月かげにむしあけの瀬戸をこぎ出づれば 八十島かけておくる鹿の音 (後鳥羽院) 
わたの原をちの霞の春の色に 八十島かけてかへるかりがね (後鳥羽院) 
わたつ海の浪の花をば染めかねて 八十島とほく雲ぞ時雨るる (後鳥羽院) 
和田の原八十島かけてしるべせよ 遥にかよふ沖の釣舟 (藤原秀能「新拾遺」) 
わたの原吹くればさゆる汐風に 八十島かけて千鳥なく也 (源通方「続古今」) 
わたの原八十島かけてすむ月に あくがれ出づる秋の舟人 (藤原行房「続後拾遺」) 
天の原八十島かけて照る月の みちたる汐に夜舟こぐなり (洞院公泰「風雅」)  
 
 
六道のすべて

 

釈尊誕生伝説 
釈尊の誕生について様々な伝説があります。伝説は歴史的事実ではありません。しかし、単なる作り話ではなく、真実を伝えようとしたものです。 
釈尊は誕生するとすぐに、七歩あるいて、右手で天を指し、左手で地を指して、「天上天下 唯我独尊(天にも地にもただ我独り尊し)」と宣言されたと伝えられています。そしてその時、天は感動し、甘露の雨を降らせたと言います。 
釈尊の誕生について、様々な伝説が伝わっています。伝説ですから、歴史的事実ではありません。しかし、単なる作り話ではありません。伝説は、事実を伝えようとしているのではなく、真実を伝えようとしているのです。ですから、その伝説が何を伝えようとしているのかを受け取っていくことが大切なのです。 
「七歩あるいた」ということば、迷いの世界である六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)を超えたということを表します。誕生と同時に迷いを超えて悟りを開いたわけではありませんが、後に悟りを開いて仏陀(目覚めた者)と成ったと言うことを、誕生の所に引き寄せて表現しているのです。 
「天上天下 唯我独尊」という宣言は、決して「他人と比べて、この世の中で自分が一番尊い」という倣慢な意味ではありません。「私のいのちは、天にも地にも、この世の中にたった一つしかない、かけがえのないいのちである。しかも、このいのちは無限の意味内容を持っている。だからこそ私のいのちは尊い」という意味なのです。そして、これは、私のいのちにのみ言えることではなく、「すべてのいのちは、かけがえのない尊いものである」ということにつながるのです。 
六道について 
衆生(生きもの)がそれぞれの行為によって趣き往く迷いの世界のことで、六趣とも言います。 
地獄−苦しみの極まった世界。 
餓鬼−飢え渇きに苦しんでいる世界。 
畜生−恥をしらない世界。 
修羅(阿修羅)−争いの世界。 
人間(人)。 
天上(天)−喜びの世界。(煩悩を離れていないので、やがて崩れる。これも迷いの世界)。 
六道については、未来のこととしてではなく、今現在、そのような世界に趣くような心を満ち、行為をしているということを考えてみることが大切です。
 

 

十界 
私達の心には十の世界があるといわれていますが、仏様の教えを聞くまでは六道と言って六つの世界を行ったり来たりしています。 
六道 
地獄界 / 怒りの心 
餓鬼界 / 貪欲な心 
畜生界 / 愚かな心 
修羅界 / 争いの心 
人界 / 穏やかな心 
天上界 / 喜びで満たされている心 
四聖 
声聞界 / 仏様の教えを受けて世のわずらいを離れた者 
縁覚界 / 仏様の教えを受けて更に自分の日々出合うところの出来事と思い合わせてその縁に因って覚るように修行する人 
菩薩界 / 自らも仏を目指して修行しながらも他者を慈悲の心で先に救おうとする人 
仏界 / 絶対平安の境地にあり衆生を大慈大悲で救済する境界  
人間は通常、人界に住しますので怒りや貪欲などを出さないように良識があり、平穏な心でいるのが本当ですが、仏様の教えを聞かなければ縁によって人を憎んだり怨みをもったり、愚痴をいったりと、悪い心を使ってしまいます。 
天上界は神々の世界ですが、天上界も六道の中に入っているのは、何か嬉しいことがあり、天にも昇る思いをするかと思えば、次の瞬間に自分に不利なことが生じると、又縁によって怒りを出したりと、地獄界と天界を行ったり来たりするからです。  
貪欲・瞋り・愚痴の三毒が、地獄・餓鬼・畜生の境界に相当しますが、お釈迦様はこれが苦しみのもとであると説かれました。 
「多欲の人は利をもとむること多きが故に、苦悩もまた多し。少欲の人は求むることなく、欲するところなければ、すなわちこの患いなし。直ちに少欲すら尚まさに修習べし。いかに況や、少欲のよく諸々の功徳を生ずるをや、少欲の人はすなわち諂曲(へつら)って人の意を求むることなく、また諸根のために牽(ひ)かれず、少欲を行う者は、心すなわち坦然(たんねん)として、憂い畏れるところなく、ことに触れて餘りあり。常に足らざることなし。少欲なる者にはすなわち涅槃あり。」(遺教経)  
「多欲は苦なり、生死の疲労は貪欲よりおこる。少欲にして無為なれば身心自在なりと覚知せよ。」(八大人覚経)  
「もし人、心足ることなければ、ただ多く求めて罪悪を増長す。菩薩はしからず、常に知足を念じ、貧に安んじ道を守り、ただ慧のみ是れ業なりと覚知す。」(八大人覚経) 
「貪人多く集め得て、足れるおもいを生ぜず、無明の闇、心を顛倒して、常に侵して他を損せんことを念ず、現在は怨憎多く、身を捨てては悪道に堕つ、この故に智者はまさに知足を念ずべし。」(尼乾子経) 
「瞋りをよく自ら制すること、走れる車を止めるが如くす、これを善きこととなす。迷いをすてて悟りにはいる。」(法句経)  
「若し瞋恚をなくせば安穏に眠ることを得ん。瞋恚をなくせば人をして歓喜を得せしめん。瞋恚は毒の本なり。これをなくす者は我が褒めるところなり。」(雑阿含経)  
「五欲に貪着して自ら放逸なる衆生は、為に不浄の境界を示現す。」(華厳経)  
私達は身・口・意(しん・く・い)の三業で善業も悪業も積むことになりますが、悪業には身で三、口で四、意で三の十悪を説かれています。  
十悪とは 
身には三つ / 「殺生」「偸盗(ちゅうとう)」「邪淫」 
口には四つ / 「悪口(あっく)」「妄語(嘘)」「両舌(二枚舌)」「綺語」 
意には三つ / 「貪欲(とんよく)」「瞋恚(しんに)」「愚痴」 
しかし、お釈迦様は、衆生がこのような悪業を積んでしまうのも無明によるとされ、釈尊の教えによって小さな我を捨て、本来の自己が「仏」であるこに気づくと、この世は仏性で満ち満ちていることがわかります。自然と周りの方々にも仏様に接するように感謝して仏性を拝みあって合掌礼拝していくようになれば、この世がそのまま浄土となるのです(娑婆即寂光土)。
 

 

仏説無量寿経/巻上 
正宗立願分/阿難、世尊の悦びの理由を問う 
如来は無尽の大悲を以って三界(さんがい、欲界、色界、無色界、六道の衆生世間)を矜哀(こうあい、哀れむ)す。世に出興(しゅっこう、出現)する所以(ゆえ)は、道教を光(てら)し闡(ひら)いて、普く群萌(ぐんもう、衆生)をして真法の利(利益)を獲(え)しめんがためなり。
 

 

法華経 
法華経二八品の前半部分一四品を迹門(しやくもん)後半部一四品を本門と呼ばれている。 
また法華経の特徴としては彼岸即ち来世ではなく此岸・常寂光浄土(この世の浄土)や女人救済が説かれている、また十界互具(じっかいごぐ)があり縁覚界・声聞界は成仏出来ないとされていたが法華経迹門に記述される二乗作仏(にじょうさぶつ)により成仏が可能となる、十界互具とは天台宗の教義で、十界にある凡てが互いに十界を有した境界があるとされ、いかなる人間も仏界から地獄界までの心があると言われる、すなわち心の内に十界を観て覚りを目指す教義とされる。 
十界を示すと上位四界を「覚り」の世界すなわち・仏界・菩薩界・縁覚界(個人のみで悟りを開く、独覚)・声聞界(覚者の教えを聞き悟る)、以下を「迷い」の世界を言い輪廻の六道を転生する、・天界・人界・修羅界・餓鬼界・畜生界・地獄界を言う、これを解説して全国を行脚したのが熊野比丘尼であり、テキストが「熊野観心十界曼荼羅」である。
 

 

九條錫杖経 
第三条 六道教化(ロクドウキョウカ) 
「まさに衆生(シュジョウ)を願うべし。天人の師となり、虚空の願を満たし、苦の衆生を度し、法界に囲繞(イニョウ)し、三宝を供養し、諸仏に値遇(チグウ)し、速やかに菩提を証せん」(衆生のために願おう。六道に迷う衆生の師となり、虚空のように無限の願いを満たし、苦しむ衆生を救い、真実世界に遍在し、仏法僧を供養し、諸仏に会って教えを受け、速やかに無上の悟りを得よう) 行者は一心に願います。 
1 み仏のような救済者になろう。 
「天人師」とは、み仏のことです。地獄界や餓鬼界にいると、なかなかみ仏の教えが心へ届かず、天人界と人間界にいる者がもっとも教えに教化されやすいので、そこにいる二者を代表させて六道全体の師とします。 
2 虚空のように限りない願いを成就させよう。 
行者の願いは自他の迷いを解き、共に救われることであり、虚空のように限りありません。迷いも救済の方法も無限ですが、それでは願いの内容が明確にならないので、「五大願」に集約させて誓います。 
「衆生は無辺なり、誓って度せんことを願う。福智は無辺なり、誓って集めんことを願う。法門は無辺なり、誓って学ばんことを願う。如来は無辺なり、誓って事(ツカ)えんことを願う。菩提は無上なり、誓って証せんことを願う」行者はこうした願いの円満成就を目ざします。 
3 苦海に行き悩む衆生を救おう。 
釈尊は、この世はままならない苦の海であると説かれました。根本的な智慧の明かりがない無明と、自己中心による煩悩とを抱えた者同士が暮らすこの世は、苦の世界です。無明と煩悩を克服し、共に迷いの岸から悟りの岸へと渡(仏教用語としては「度」と書きます)ることこそ、菩薩を目ざす行者の使命です。 
4 み仏と一体になろう。 
「法界」とは、み仏の眼から観た宇宙万物であり、真実世界です。それはどこか遠くにあるのではなく、み仏の悟りの次元へ入れば、この世はそのまま真実世界である本当の姿を顕します。「繞(ニョウ)」は「廻る」なので、「囲繞(イニョウ)する」とは、その世界の隅々まで行き渡っていることであり、どこにでも居ることです。「法界に囲繞する」のであれば、真実世界のどこにでもいるのですから、それはとりもなおさず、真実世界つまり、み仏と一体になることを意味します。行者の修行は即身成仏が終着点です。 
5 三宝を供養しよう。 
み仏は、この世とあの世を存在せしめ、人間を人間たらしめている根本的存在なので、「仏宝」と言います。仏法は、み仏の教えであり、具体的な救済力なので、「法宝」と言います。僧はみ仏と仏法を守り伝える者なので、「僧宝」と言います。これで三宝となりますが、「僧宝」は出家修行者だけでなく、信じ、帰依する人はすべてひとしく僧宝です。 
6 あらゆるところで、あらゆるみ仏にお会いしよう。 
地獄界では阿弥陀如来様、畜生界では虚空蔵菩薩様が救い主となられます。手を治すのは大日如来様と普賢菩薩様、腹腰なら千手観音様が救い主となられます。前厄の年には勢至菩薩様、八方塞がりの年には地蔵菩薩様が救い主となられます。このように、自他を救う法に入れば、行者は縁に応じた守本尊様方とお会いできます。 
7 速やかに悟りを開こう。 
泳げない人は溺れている人を救えません。明日まで待たないと泳げないならば、今、目の前で溺れている人のためには何の役にも立てません。また、人間の寿命はいつ尽きるか判りません。だから、「速やかに」と願わないではいられないのです。  
第四条 六道教化 
「まさに衆生を願うべし。真諦(シンタイ)を修習(シュジュウ)して、一切の衆生を大慈大悲し、俗諦(ゾクタイ)を修習(シュジュウ)して、一切の衆生を大慈大悲し、一乗を修習して、一切の衆生を大慈大悲し、仏宝と法宝と僧宝との一体三宝(イッタイサンボウ)を恭敬(クギョウ)し供養せん」(衆生のために願おう。仏界の究極的真理を修め習い、一切の衆生を大慈大悲によって抜苦与楽(バックヨラク)しよう。俗界の真理を修め習い、一切の衆生を大慈大悲によって抜苦与楽しよう。中道真実の教えを修め習い、一切の衆生を大慈大悲によって抜苦与楽しよう。仏宝と法宝と僧宝との一体三宝を恭敬し供養しよう)行者は一心に願います。 
1 仏界の真理である「空(クウ)」を正しく学び、正しく考え、正しく実践して、一切の生きとし生けるものの苦を抜き去り、楽を与えよう。 
一切のものは因と縁によって、今、かりそめに存在しているだけで、永遠に有り続けるものは何一つありません。たとえばお気に入りの車を考えてみましょう。いかに毎日磨いていても、モノである以上、必ず壊れ、いつかはなくなります。酸性雨に当たっただけでも、塩分や化学物質を含んだ土埃を舞い上げただけでも、腐食します。空の意識がないと、ちょっとしたトラブルで「大事な車を傷つけられた!」と憤り、とんでもない結果を招いたりします。 
こうした〈空の眼〉をきちんと持つためには、正しい修行が欠かせません。仏性を発揮した空の視点から生きとし生けるものを観た時、空を悟らずに我が身を守ろうとするだけの姿勢から発する苦にあえいでいる姿に、大きな悲しみが起こります。そこで、「苦を抜こう」という意志が起こります。また、大きな慈しみが起こり、「楽を与えよう」という意志が起こります。こうして行者は菩薩(ボサツ)の道を歩みます。自分だけが安心・安泰になろうとはしません。第三者的に見ているだけではいられなくなるのが菩薩です。 
2 俗界の真理である「心とモノの扱い方」を正しく学び、正しく考え、正しく実践して、一切の生きとし生けるものの苦を抜き去り、楽を与えよう。 
すべては空であっても、私たちの五感は確かに姿を見、音を聞き、香りを嗅ぎ、舌で味わい、触れて感触を確かめます。そうした刺激へ適切に対応し、適切に自己を表現できなければ、まっとうに生きられません。身だしなみを整えて公の場へ出るのは社会人として当然のたしなみです。はっきりした言葉で挨拶を交わすことも人間関係を円滑にするために欠かせません。おかしな匂いで周囲の人々へ迷惑をかけぬよう気をつけることも社会にある者として当然の心配りです。また、おいしい料理を作って食べる人のためになるのは尊い行為です。肌触りの良い服を作れば赤ちゃんは笑顔になります。 
こうした〈有るもの〉への道理にかなった対処法を身につけなければ、社会人として通用しません。一切は空であるからといって世間の動きと無関係に一人超然としている仙人のような人は、仏法の説く理想の人間像である菩薩とは遙かに隔たっています。 
3 空にも有(ウ)にも偏らない深く広い智慧を正しく学び、正しく考え、正しく実践して、一切の生きとし生けるものの苦を抜き去り、楽を与えよう。 
大きな慈しみの菩薩である弥勒菩薩(ミロクボサツ)様は、56億7000万年もの長い間、浄土から私たちを見守り続け、どうしても悟りきれない最後の一人をも必ず救い上げてくださる使命を持っておられます。 
だから、別名を慈氏菩薩といいます。大きな悲しみの菩薩である観音菩薩様は、どんな悲しみや危機をも見逃さず、癒し、救ってくださいます。だから、大悲観音と称され、代表的なものに狩野芳崖の描いた悲母観音などがあります。こうした方々は、すでに悟りを開いたにもかかわらず、慈悲心の大きさゆえに悲しみや苦しみやストレスに満ちたこの世と常に関わっておられます。その救いの手は、空の真理と有への対処法という二つの真実によって確かなものとなり、私たちはいっときなりともそのご加護から漏れることはありません。何とありがたいことでしょう。 
私たちは、菩薩様方を手本として弥勒様や観音様と同じ菩薩道を歩むべく、この世に生まれたのではないでしょうか。等しく仏性を持っていることがその証拠ではないでしょうか。 
4 仏法僧を尊び、供養して、しっかりと仏道を歩もう。 
み仏が仏宝、教えと法が法宝、それを守り伝える者が僧宝ですが、これは本来、一体です。み仏といってもただ超然としておられるわけではなく、仏身は絶えず説法され、私たちは仏身から切り離されてはいません。また、学び実践しようとする者にとって、み仏の存在と、教えと救済力の確かさは、自明の前提であり、み仏を観じ、教えを理解し、通じる相手へ伝えるという実践のない僧侶はあり得ません。つまり、仏法僧は常に一体です。 
これはプロの僧侶に限ったことではなく、み仏を信じ、救済を願い、教えを学び、共に仏法を守って行こうとする方々はすべて僧宝です。 
錫杖に導かれつつ、しっかりやりましょう。
 

 

密教 
後期密教(タントラ仏教)別名を無上瑜伽密教とも言われる、インドに於いてはヒンドゥー教の興隆で対抗が困難になると、教義より行動(羯磨)を重要視した原理が強調された、性的儀礼が採用されて無上瑜伽すなわち男尊と女尊が性交する歓喜する仏像が現れた。 
左道密教として儒教と言う文化的遺伝子や、性行為が子孫を生み六道を輪廻する為に解脱が不可能となると言う思想に繋がり、中国や日本では敬遠されたがチベットやブータンに於いて継承されている、インドに於いてはヒンズーを含めてエトス即ち文化的遺伝子に合致していたが、ヒンズー教に吸収されて現在はチベットなどで踏襲されている、但し中国では元王朝の時代があり、蒙古にチベット仏教(仏教c参照)が流入していた為にこん跡は残る。 
日本に於いては左道密教として真言宗立川流と天台には玄旨帰命檀(げんしきみょうだん)が存在した、立川流は鎌倉時代に仁寛(蓮念)より興された流派で19世紀頃まで信仰されていたが淫祀(いんし)邪教として阻害弾圧され消滅した、立川流とは後期密教すなわちチベット仏教に近い教義で理趣経を重要視し荼枳尼天を崇拝、性交と即身成仏を関連付ける。  
 

 

曼荼羅 
智光曼荼羅は楼閣と池の間に阿弥陀如来と観音、勢至菩薩・十八聖衆・舞楽菩薩・比丘尼を描いた当麻曼荼羅を大幅に簡素化した変相図である。 
清海曼荼羅は当麻曼荼羅の縮小版で楼閣に阿弥陀二十五菩薩を描いたもので藤原時代に興福寺の僧清海が7日間の超昇寺大念仏行を行い極楽浄土の変相図を画いたものを言う。 
この他瑠璃光浄土を描く変相図に薬師八大菩薩(文殊菩薩・観音菩薩・勢至菩薩・弥勒菩薩・宝檀華菩薩・無尽意菩薩・薬王菩薩・薬師上菩薩)を描かれる事がある。 
他にも曼荼羅と呼ばれる宗教画は多くある、例を挙げれば寺の鳥瞰図(ちょうかんず)や仏像を描いた参詣曼荼羅や熊野三山の本願所寺院に籍を置く熊野比丘尼が勧進に携行し絵解き行脚した、「熊野観心十界曼荼羅」があり三重県を中心に40点以上の曼荼羅が確認されている、天台宗の重要教義である「十界互具」を絵画化された変相図で、人の「心」に内包する十界、すなわち解脱と解釈できる・仏界・菩薩界・縁覚界・声聞界に輪廻を転生する六道、所謂・天界・人界・修羅界・餓鬼界・畜生界・地獄界の様子を1葉に画がいた変相図である、同時に熊野三山を画がいた「那智参詣曼荼羅」等も携行した様である。  
 

 

天人五衰 
天人五衰という言葉がある。天人とは天界にすむ住人のことで、天界とは、生きとし生けるものが死後逝かねばならない六道の一番上部に位置する世界のことである。私たちはいま恵まれた人間界に生きてはいるけれども、死後はみないかねばならない来世があると考えるのが世界の仏教徒の常識である。生きてきた善悪の業によって死ぬ瞬間の心があり、その心の次元に従って来世が決まると考える。 
来世には六つの世界がある。家にある仏壇を見ると、みんな下から上にと段があり少しずつ細くなり、また最上部から下にと一段ごとに細くなっている。これは衆生世界の六道を表している。下から、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天、そして一番上の天板が仏界に当たるのであろうか。とにかくそのように出来ている。人間界の部分がいわゆる仏壇の内部であり、三段ほどに分かれ、本尊を祀り、位牌を祀り、御供えをする部分となっている。 
それで、沢山良いことをしてその善業の功徳によって趣く世界が天界であり、人間界よりも勝ったとても快適で、苦しみがなく、常に快楽を感じ続けられる世界でもあるという。寿命は誠に長く、短い四王天の天人でも一日は人間界の50年で寿命は500年、都卒天の一日は人間界の400年に相当し寿命は4000年と、途方もない時間を過ごす。 
しかしだからといって永遠ではなくて、天界の住人ということはまだ衆生の輪廻の世界を抜け出ていないので、いずれは寿命がいたり死後は下の世界に落ちていくしかないのだという。なぜならば、苦しみがないので解脱を望むこともなく、修行をすることもないから功徳を使い果たすだけなのだから。 
ところで、死後は浄土に往生したいと考える方もあるかもしれないが、それも実はこの天界の住人に過ぎない。仏教の世界観の中の浄土教なのであるから、仏国土に往生すると言っても、悟っていない限り仏界にはいけない。浄土という見事な荘厳世界も、実はそこは天界に過ぎない。お釈迦様と同じ悟りの寸前まで修行が完成に近づいた不還果を悟った段階の方のみ、天界から仏界にいけると言うが、そこまで修行するのは、それはそう簡単なことではない。だから天界にいったとしても、みんなそこからやはり一度は下の世界にいたり、また修行をして悟らない限り仏界にはいけない。  
 

 

因果の法 
仏教の説く法の基本にあるのは「因果(縁起)の法」と言われる。これを詳しく説いたのが「十二縁起」であり、「無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死」からなる。これをまとめて、「惑(縁)、業(因)、苦(果)」とする。これが「過去世、現世、来世」の「三世」に渡って展開する「三世の因果」となる。そこにあるのがいたずらに「生死」を繰り返す「業報(因果応報)」の連鎖である「輪廻」である。この「苦」からの解放(解脱)を説くのが仏教である。そこから完全に解放されたのが「涅槃」の世界である。苦である「輪廻」の世界を「此岸」とし、「涅槃」の世界を「彼岸」とする。仏陀とは此岸から彼岸に渡った人であり、その代表者が歴史的存在としての釈尊である。 
釈尊においてはすでに在世中に涅槃に達していたが、「涅槃像」や「涅槃図」があるように、その死もまた涅槃として表された。涅槃が悟りでもあり、死でもあることがここから始まる。ここがまた浄土教の出発点でもあり、涅槃の世界が悟りの世界でもあり、死後の世界でもある。「此岸」と「彼岸」が「迷い」と「悟り」に対応するとともにこの世界と浄土にも対応する。いわゆる「あの世」はその中間的世界だが、「六道輪廻」として「迷い」「此岸」に属するものである。「この世とかの世をともに捨てる」のが仏教である。 
仏教はしばしばいわゆる「霊魂」を否定すると言われるが、それは「六道輪廻」を繰り返しているものが「霊魂」と言われるもので仮の存在に過ぎないからである。大乗仏教では「唯識」で説く「阿頼耶識(あらやしき)」と言われるものが、過去の自分を「種子」として記憶し生死を繰り返すものなので、「霊魂」に近いだろう。仏教はそれを越えることを目指している。霊魂と区別して「仏性」を説くのはそのためである。鈴木大拙は「霊性」という言い方もしているが、仏教はあの世や霊的知識を説くことに主眼があるのではない。それは現象の説明の一部である。仏や菩薩といった聖衆はいわゆる霊魂ではなく、仏性を体現したものを、仮に人間の形で表しているに過ぎない。「惑、業、苦」という「業報」の「三世の因果」からいかにして脱するかが問題である。「苦」からの解放をもたらすのが真実の認識であり、仏教はそのための方法論である修道論を説く。仏教が知識でも学問でもないのは、結局この苦からの解放を求めて修行する実践の宗教であるからである。これが仏道である。この実践の修道論も「因果の法」を基本とする。ここで説かれるのが「四諦」と「八正道」である。大乗仏教ではこれが「四諦」と「六波羅蜜」となる。「六波羅蜜」は「八正道」の内容を含んでそれを発展させたものである。  
 

 

善悪の因果 
仏教の「因果の法」は仏教という宗教を離れてもいわゆる「因果律」として成立するものである。この因果律は科学を成り立たせているものでもあり、そういう点では合理性がある。その意味での「因果の法」を否定する人は誰もいないだろう。ところが仏教の基本をなしているこの「因果の法」が、科学の面では受け容れられても、道徳や宗教の話となると急に旗色が悪くなる。科学の因果律と道徳・宗教の因果律は別物である、あるいは因果律は科学においてだけ成立し、それ以外では成立しないと思っている人が増えているようである。それが皮肉なことに因果律を基盤とする科学が幅を効かせた結果であるようだ。 
しかしそれは浅はかな考え方であって、現代の科学が明らかにしているのは、現象の世界のほんの一部であるに過ぎない。その目に見えない世界を含めて「因果の法」は成立している。「因果律」を認めながら、自分だけその外にあり、何をしてもかまわないというのはむしがよすぎる。「因果の法」を信じることは仏教の出発点であって、この点において仏教の果たすべき役割はいささかも失われるものではないと思う。現代社会の様々な病理現象を見ると、かつて人々の心の中に確たる地位を占めていた「因果の法」が見失われているのだろうと思う。これが末法と言われることの一つの姿なのだろう。この因果の信は、浄土門の信から言えば、わざわざ「信」という言葉を使うほどでもなく、知的なものでもあり、少しものがわかればわかりそうなものだと思う。すでに述べたように科学的なものなのである。しかしそれさえ信じられないのなら、そこから説かなければいけない時代になったのだろう。この「因果の法」を説くだけでも充分宗教として成立する。 
この「因果の法」の実際的な適用として、かつては誰もが信じ、知っていたことが「善因善果」「悪因悪果」であった。これが「三世の因果」として、この世のことだけではなく、この世を去った後にもつながっている。仏教本来としてはすでに述べたように、六道輪廻を越えた世界に至るための「因果の法」が、「道諦」(因)と「滅諦」(果)として説かれ、それを実践修道するのが仏教だった。しかしそこにまで至らなくても、六道輪廻の中だけでもこの「因果の法」は成立する。その範囲では、善をなせば「天」に至り、悪をなせば悪道に落ちる。「地獄、餓鬼、畜生、修羅」の世界である。六道輪廻から衆生が脱することが難しいのは、この範囲の因果さえ信じず無視するからだと言えよう。だからさらにその世界を越えた次の段階の因果に至らないのは当然かもしれない。高次の善である「無漏善」の因果としての「道諦」(因)と「滅諦」(果)にまで至らないのである。 
しかし生死からの出離を求めてそこまで進んだとして、この次のレベルの因果である、この「道諦」(因)と「滅諦」(果)を修めようとしたとたんに、より高いレベルの善である煩悩の交じらない「無漏善」をなすことの難しさに襲われるのが修行者の常である。「道諦」の「八正道」や「六波羅蜜」を修することの難しさは、例えば「八正道」の「正見」「正思」をとってもわかるし、「六波羅蜜」の「布施」や「持戒」をとってもわかる。あるいは「戒、定、慧」の「三学」もそれを修めようとしたとたんに壁に当たるだろう。ここが知識や学問ではない実践の道である仏道としての仏教の難しさである。 
この因果を信じた結果、行き着くのが「悪業」だけを積み重ね出離の「善業」をなしえない「地獄必定」の我が身である。「機の深信」である。既に述べたようにここにおいて別の因果の法が要請され、浄土門の如来の本願を因とするもう一つの因果が説かれる。  
 

 

逆縁の因果 
この無明と無常の中に閉じこめられ、つながれている人間を、逆にそれを縁として真実へと導くのも浄土教の役目である。ここで同じく「因果」でありながら、通常の因果とは全く逆に見える「因果」がある。それが「逆縁」という「逆説的因果」である。 
聖道門の発想は基本的には、通常の順当の因果である「順縁」の発想である。「善因善果」を重ねれば六道輪廻の中では「天」に行き着く。さらにそこから次の段階として無漏善を重ねて声聞、縁覚に至り、菩薩、仏と段階を踏んでいく。修道の階梯を一歩ずつ無理なく歩んでいくものである。これは誰も異を唱えることのできない順当の因果である。 
そこからはずれた人間を救うのが浄土門である。ここにあるのは「逆縁」であり、本来は悟りへの障碍となるものの中にいる人間を救うのである。この逆縁を成り立たせているのも実は「如来廻向」である。すでに「衆生の因果」に代わり「如来の因果」という形でこの廻向を述べたが、その際の「廻向」は信心を与える「廻施」の意味が中心となる。これも廻向の重要な働きだが、私はまた「廻向」には「向きを廻らす」「廻転」「方向転換」「翻す」意味があると思っている。「ものの逃ぐるを追はへ取るなり」と言われるものである。自力の心を翻えさし偽りに沈む人間を根本的にひっくり返す真実の力がある。 
親鸞が好んで書き与えた聖覚の「唯信抄」では「信謗ともに因として、みなまさに浄土に生まるべし。」と言う。信じる者が往生するのは当然として、謗っていた者までそれを逆縁として往生するのである。「五逆誹謗正法」という「五逆罪」(殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血)の者も、正法を謗っていた者も、それを逆縁として往生する。 
衆生の側においてはこれが「回心」として経験される。善悪の因果に漏れ、信疑の因果にも漏れた者の最後のよりどころがここにある。「畢竟依」である。「逆説的因果」と述べたが、もはやそれは通常の「因果」を越えたものと言った方がよく、むしろ奇蹟と呼んだ方がいいのかもしれない。それが浄土教においては働いているのである。信仰の奇蹟である。浄土教は「転」の宗教である。その結果、「悪」さえも「転悪成善」として「善」となり、結果的には出発点にあった「善悪」の因果にも適うことになる。  
 

 

十王信仰 
十王信仰(じゅうおうしんこう)は、地獄を統べる10人の裁判官に対して慈悲を乞う信心の一種である。生前は十王を祭り、死して後の罪を軽減してもらうという意図があった。十王は死者の罪の多寡を鑑み、地獄へ送ったり、六道への輪廻を司るなど畏怖の対象であった。一般に閻魔に対する信仰ととる向きもあるが、閻魔以外の裁判官の知名度が低いせいである。 
十王とその本地 
秦広王(しんこうおう)=不動明王  
初江王(しょこうおう)=釈迦如来 
宋帝王(そうていおう)=文殊菩薩 
五官王(ごかんおう)=普賢菩薩 
閻魔王(えんまおう)=地蔵菩薩 
変成王(へんじょうおう)=弥勒菩薩 
泰山王(たいざんおう)=薬師如来 
平等王(びょうどうおう)=観音菩薩 
都市王(としおう)=勢至菩薩 
五道転輪王(ごどうてんりんおう)=阿弥陀如来 
十王の審理 
死者の審理は通常七回行われる。没して後、七日ごとにそれぞれ秦広王(初七日)・初江王(十四日)・宋帝王(二十一日)・五官王(二十八日)・閻魔王(三十五日)・変成王(四十二日)・泰山王(四十九日)の順で審理をする。審理で問題が無いと判断されれば次の審理に回る事は無く、抜けて転生し、七回すべてやるわけではない。一般に、五七日の閻魔王が最終審判となり、ここで死者の行方が決定される。これを引導(引接)と呼び、「引導を渡す」という慣用句の語源となった。 
七回の審理で決まらない場合、追加の審理が三回、平等王(百ヶ日忌)・都市王(一周忌)・五道転輪王(三回忌)となる。ただし、七回で決まらない場合でも六道のいずれかに行く事になっており、追加の審理は実質救済処置である。もしも地獄道・餓鬼道・畜生道の三悪道に落ちていたとしても助け、修羅道・人道・天道に居たならば徳が積まれる仕組みとなっている。 
なお、仏事の法要は大抵七日ごとに七回あるのは、審理のたびに十王に対し死者への減罪の嘆願を行うためであり、追加の審理の三回についての追善法要は救い損ないを無くすための受け皿として機能していたようだ。現在は簡略化され通夜・告別式・初七日の後は四十九日まで法要はしない事が通例化している。
 

 

一念三千 
天台には一念三千という考えがあります。 
三界 
仏教ではこの世界のことを三界といいます。「女三界に家なし」ということわざがありますね。三界とは欲界と色界と無色界です。欲界とは最下層の世界で、淫欲・貪欲を有する衆生の住むところです。色界とは欲界の上、欲を離れた清らかな世界、無色界とは、色界を越えた最上の世界で精神のみが存在します。優れた瞑想に入っている者のみが生まれる世界で、その最高所が有頂天といいます。 
六道輪廻 
欲界の衆生の輪廻を六道輪廻と言います。六道とは地獄、餓飢、畜生、阿修羅、人間、天です。天とは仏教に取り込まれた神のことで、仏教では天も輪廻を繰り返すと考えました。衆生はこの六つの世界を繰り返し輪廻する苦しみを負っています。村のはずれの辻などに六地蔵が置かれているのをよく見かけますが、それは六道を輪廻する衆生を導くために六体の地蔵が置かれたものです。しかし、仏教では、この六つの世界の他に、あと四つの世界を考えます。それが声聞と縁覚(独覚)と菩薩と仏です。声聞とは仏陀の声を聞いて悟りを開く、つまり出家をした仏陀の弟子を意味します。縁覚(独覚)とは仏陀に教えを乞わなくとも自力で悟りを開いた人です。この声聞と縁覚(独覚)は大乗仏教からは小乗とさげすまれていて、劣ったものとされています。六道に四つの世界を加えて十の世界を十界といいます。しかし、天台ではこの十の世界はそれぞれに他の九の世界を備えていると考えます。「地獄に仏」ということもありますね。またそれぞれに十の相と三つのあり方があります。つまり10×10×10×3と全部で三千の世界が考えられます。つまり私たち凡夫が日常生活においておこす一瞬一瞬の心が三千の世界を映すというのです。例えば、日ごろ心が穏やかな人も、何かの機会に人が自分に言った一言にかっとなってその相手を睨むとき、その人の心は阿修羅となっています。それ故、瞬時の油断もなく、心の中にある仏の世界を観ようとする修行が重要になってきます。
 

 

弘法大師と六道輪廻 
真言宗は即身成仏の教えを標榜する。だから人は死後みんな仏となるのだと漠然と考えている僧侶も多いようだ。六道に輪廻するなどという考えは受け付けないという。だが、そのような考え方をとるからと言って、みんながみんな死後仏になるなどと安易に言うことが出来るものなのだろうか。弘法大師は、著作の中にでも、六道や業輪などという言葉を多用されて衆生世界のあり方を述べられているのに、それを素直に認めようとしないのはいかがなものか。 
宮本啓一國學院大学文学部教授は「仏教かくはじまりきパーリ仏典[大品]を読む」の中で、「インドで生まれた輪廻説は、仏教を通じてわが国でも一応は支持されて来ました。しかし、明治維新と併行して展開された廃仏毀釈運動や迷信打破運動の中で、輪廻説は急速に旗色を悪くして行きました。科学(サイエンス)は経験の観察から仮説的な法則を導き出す学問ですから、死んだらどうなるかという、経験を超えた領域の問題について、発言することはありません。・・・」それなのに科学的かどうかという観点から死生観を論ずるのは全くナンセンスなことである。そればかりか輪廻説を否定したところにこそ仏教の革新的な独創性があったなどと主張する仏教学者や僧侶が多いのには驚かされると宮本教授は述べておられる。 
ところで、大正五年発行の「真言宗義章」という著作がある。著作者は、真言宗各派連合法務所編纂局とあり、当時の高僧方が明治の揺籃期を乗り切りさらに時代が退廃する中で危機感もあり、真言宗の教えの骨子をまとめたものだ。読むと、この著作では六道輪廻が当然のこととして教えの根底にある。 
早速、問題の即身成仏に関する章から見てみよう。「第八章即身成仏章」には、即身成仏には三重の次第があるという。まずはこの宇宙森羅万象すべてが仏の現れとしてみる立場から、私たち人間も含めたすべてのものは、そのまま仏であるとする即身成仏、これが一重。しかし普通、私たち凡夫は沢山の悩み苦しみを抱えて自らを仏とは思えないものなので、速疾に成仏できるとする密教の修法が必要となる。そこで煩悩に覆われて隠れている仏を開き見るために、凡夫は身に印を結び、口に真言を唱え、心に仏を想う三密の修行をもって仏と一体となる境界を一時的に体験する、これが二重の即身成仏。 
そして、次に、その一時的な境界を絶えず積み重ねることで、常に四六時中仏と一つになり仏の働きを生きることができるとする。これが第三重の即身成仏である。そしてこの三重の即身成仏を成し遂げられた人は、すなわち弘法大師その人であるとしている。つまり即身成仏を本当にその生存中になされた人は弘法大師のようなたぐいまれな偉徳と学才を有する方のみということでなのであろう。 
そして、「第十一章機根不同章」には、およそ真言行者の修行の段階や才能には正機と結縁の二種類があるとして、正機とはその生まれも良く才知に優れた上根上智の者をいい、出家在家を問わず三密双修の一生の間に成仏する機根であるという。これに対し、結縁とは生まれにも才知にも恵まれていない下根劣慧の者をいい、一密二密の修行による功徳によって、顕教の行者のように三劫を経ることはないけれども、二生三生を経て、つまり二回三回生まれ変わり、その間に機根が調い一生成仏がかなうとある。さらには私たちは神通力がないので、過去も未来も知らない、だから、過去世にどのような良い功徳を積んできたものかも知らないし、未来世のいつ成仏できるものかも分からないものだとしている。 
さらに、「第二十一往生浄土章」では、この浄土は大日如来の浄土であり密厳国土と称するとしながらも、ここでも、上根上智の人は、三密の妙行によって一生の間に三密相応してこの身を転じることなく密厳浄土に往生する。けれども、下根劣慧の人は、一密二密の修行によって、如来の加持力と教益によって、地獄餓鬼畜生の三悪道の苦を逃れて、しばらく浄土に生じるか人間あるいは天上にあって、なお悟りを求める心を失うことなければ、二生三生の間には三密双修の時いたって、速やかに密厳浄土に往生するとある。つまりは一密二密の修行をしない者は三悪道に墜ちるかもしれない、それらの行によって、その功徳から人間ないし天上に生まれるという六道輪廻を仏教の死生観として受け入れてこの「真言宗義章」が書かれていることが分かるのである。 
仏教はお釈迦様の時代を最高点として、以降徐々に劣化していると考える。何を持ってそう言えるかといえば、お釈迦様の悟りと同じ阿羅漢になる人の数からしてそのように考えるのである。仏教の経典が編纂され、律蔵論蔵が整えられ、学問的な発展、寺院や仏教徒の数がたとえ増えて世界宗教となったとしても、それだけで仏教が成し遂げられているとは言えない。どれだけ沢山の人たちがお釈迦様と同じ悟りに近づけるか、そこが問題なのであって、その観点からすると明らかに私たちは、おそらくは底辺の時代に暮らしているとの認識が必要なのではあるまいか。つまり大正時代の高僧方がまとめられた、江戸時代までの仏教の雰囲気を語り伝えるこの「真言宗義章」に書かれているものの方が今の仏教学者、僧侶が唱える考えよりも確かであると言えるのである。 
それでは次に真言宗の祖師である弘法大師の自らの言葉を、筑摩書房刊「弘法大師空海全集」から、現代語訳をそのままに紹介してみよう。まず「三教指帰(さんごうしいき)」で仮名乞児という仏教行者の語りとして、「迷いの三界に一定の家はない。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道の中で固定した所にいない。六道に輪廻する者はある時には天を国とし、またある時は地獄を家として住むこともある。あるいはあなたの妻子となり、またあなたの父母ともなる。・・・あなたと私は始めのない昔から、代わる代わる生まれかわり死にかわって転変し、常住でない。」と仏教の世界観を簡潔に述べている。ある先生は、この部分の解釈として、三界に一定の家なしとあり、一生の間に地獄もあり天上もありと単なる心の浮沈を表現したものだと断じられているけれども、それはあきらかに誤りである。この部分は何度も生まれ変わりして六道の中に定まる所なしという意味である。ここで弘法大師は自らの知識として持つ正当なる仏教の輪廻説を開陳したのだと言える。 
また「続性霊集補闕鈔巻第八」中の「仏経を講演して四恩の徳を報ずる表白」には、「この世で死んで、後の世に生まれ変わり、生死輪廻の迷いの地獄からは、出ることが難しく、あるいは人となり、あるいは亡者となって、病苦の報いを受けやすい。まことに悲しいものは、われらこの世に迷うものたちである。まことに苦に満てるものは、この六道輪廻の世界を迷えるわれらである。」私たちはみな六道の輪廻の世界を生きている。それはとてつもなく苦しみにまとわれている。私たちはこの輪廻の果てしない長い生死に迷うているのだと言われているのである。 
同中「有る人、先師の為に法事を修する願文」には、「人の生涯は百年に及ばないのに、万年にもわたる輪廻の悪業を行っている。賊のような悪業は、日々つみ重なって四つの魔の軍となって押しよせ、鼠が命綱を夜かみ切ってしまえば、命はむなしく閻羅王の罰の世界におちていくのである。」ここでは、この一生は短いものかもしれない、しかし私たちには過去の長い転生によって万年にもわたる業を作ってきていることを思えと言うのである。 
「続性霊集補闕鈔巻第九」中の「諸の有縁の衆を勧めて秘密蔵の法を写し奉る応き文」には、「六道の迷いの世界の生きとし生けるものも、四生の流転の生きものも、みな父母であり、飛ぶ小虫、蠢く虫けら、何ひとつ仏性を具えないものはない。願わくは清澄な眼を見開いて三密の合致した仏の境地を照らし、煩悩の縛めを断ち切って、人々をして如来の五智の楼台に遊ばしめたい。」とある。四生とは、胎生、卵生、湿生、化生のことで、胎生は母胎から生まれ出るもの、卵生は鳥のように卵として生まれるもの、湿生とは蚊のように湿地より生ずるもの、化生とは天界または地獄、餓鬼のごとくに他の三生以外に自然に化生するものを言う。それらもみな何度も生まれ変わりする中で自分の父母であったかもしれない、だからこそ小虫であっても仏性がある。つまり一切の衆生に仏性があるというのは、六道輪廻がその根拠にあるということなのである。そのことに気づいて悟りに向かって私たちは生きるべきなのであると言われている。 
いかがであろうか。誠に明快にその教えの根本に、この輪廻転生、六道、業、因縁という観念があってはじめて成立するということなのである。私たち凡夫の、いまの知識経験から理解できないからといって、お悟りになられたお釈迦様や、日本仏教の祖師方が言われていることを削ぎ落として、単に当時の人々に教えを語るために輪廻という世界観を枠組みとしてその中に自分独自の合理性を組み込んでいったのが仏教であるなどと断じてしまうのはいかがなものか。悟られた方の雄大な教えを悟ってもいない単なる知識だけの頭の枠に小さく閉じ込めることに過ぎないのであると言えまいか。そこからは教えの真にダイナミックな躍動、その力を受け取ることが出来ないことを肝に銘ずるべきなのである。  
 

 

空也と源信がひろめた念仏 
清水寺の近辺は、昔は鳥部野と言って死者を遺棄したり埋葬したりするところでした。化野(あだしの)の露、鳥部野の烟と言われますね。清水寺から清水坂を下り、清水道の信号を渡ってすすむあたりには鳥戸野の入り口にあたる六道の辻に位置しました。その付近には、今は珍皇寺や六波羅蜜寺があります。珍皇寺は中世以来、「六道さん」の名で親しまれ、あの世(冥府)とこの世の出入り口とも考えられていました。今でも、この寺はお盆の前にはあの世からの亡者の英霊を迎えるために多くの参詣者で賑わうとのことです。六波羅蜜寺は空也上人ゆかりの寺です。この寺の空也上人像は口から六体の仏が出ているというように「ナムアミダブツ」という音を形に表わしたことでも有名です。諸国を遊行し、各地で道を拓き、井戸や池を掘り、橋を架け、野原に遺棄された死骸を火葬にしたと伝えられる空也は、972年この寺で入滅しました。六波羅という地名は、昔、遺棄された髑髏が多かったために「どくろがはら」と呼ばれたことから、「ろくはら」という地名がついたとの説もあります。市聖や阿弥陀聖と呼ばれた空也は念仏を民間に広めることに大きな役割を果たしました。 
念仏をより普及させたキーパーソンがいます。天台宗の源信(恵心僧都=えしんそうず)がその人です。985年、学問僧であった源信は、往生の手引書ともいえる「往生要集」(おうじょうようしゅう)を著した。そこに書かれたこの短い言葉が貴族の間で大流行します。「厭離穢土(おんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)」ですね。 
この世は汚れた穢土(えど)、苦悩や矛盾に満ちた世界で、人間はその中を輪廻(りんね)している。これを厭(いと)い、念仏を唱えることによって、阿弥陀仏が永遠の極楽浄土へ導いてくれることが説かれているんです。これが浄土教の基盤となっていきます。 
こういった現世を否定的にみる当時の仏教の観念が、絵画としてわかりやすく描かれて残されています。それが「六道絵(ろくどうえ)」ですね。仏教では、この人間世界は三界六道(さんがいりくどう)にあり、人間は生きているときに果たした善悪により、死後に六つの世界のどれかに輪廻転生(てんしょう)すると考えられたのです。 
その六つの世界とは、一番上に学問、善行を施した者の「天道」、続いて「人道」があります。ここまでが善を行ったものが行くところで、以下、悪行を重ねるにしたがってランクが下がり、いつも戦い合う「修羅道」、獣の道の「畜生道」、飢えに苦しむ「餓鬼道」、そして最後が「地獄」に落ちていく。 
人間の生きる世界とは、六道輪廻の世界で、繰り返し繰り返し続き、なかなか抜け出せない世界なんですね。でも、そこを脱出できる方法があった。それが念仏でした。阿弥陀仏を信仰することにより、これらの輪廻転生を超越した永遠の極楽に迎えられると考えられたのです。源信の「往生要集」は、のちに中国の天台山国清寺にもたらされて、宋の時代の中国仏教界にも大きな影響を与えたといわれてるんですね。
「往生要集」 
空也が民間に阿弥陀仏の信仰を広めたのに対して、源信は貴族の間に浄土への憧れをかきたてました。秀才であったが名利を嫌って横川に隠棲した彼は、44歳の時に「往生要集」を完成しました。横川の恵心院に住したため「恵心僧都」と呼ばれた源信の「往生要集」は浄土教を広めるのに計り知れない影響を与えました。 
「往生要集」は二章からなり、第一章は「厭離穢土」といいます。そこで源信は地獄の様子を克明に描写しています。さらに、衆生が輪廻する六道の苦しみを述べ、人々に世が末法の時代に突入しようとしていることを実感させました。第二章の「欣求浄土」では、ひるがえって浄土の素晴らしさを克明に説きます。観無量寿経の影響を強く受けた「観察門」では、阿弥陀仏の姿を観想することを説きました。 
時はあたかも不安の時代でした。摂関政治が地方政治の乱れをさそい、それが武士の台頭に拍車をかけるなど、貴族たちに社会不安を与えようとしていた時代でした。末法の世には、自力の学問や修行では救われず阿弥陀仏にすがるほかはないとの源信の言葉は、貴族たちの心を揺さぶります。そのような貴族の一人に道長がいました。「この世をば わが世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしとおもえば」との歌を詠んだ道長は53歳でした。しかし、体調を崩した彼は、阿弥陀仏の信仰にすがります。法成寺の阿弥陀堂には九体の阿弥陀仏が安置されました。阿弥陀仏が衆生を救うのには九つのグレードがあるとの信仰からでした。現在、この法成寺はありませんが、浄瑠璃寺(九体寺)には道長が造営した法成寺の阿弥陀堂と同種の九体の阿弥陀仏が安置されています。1027年道長は臨終を迎えます。北を枕に西向きに伏し、阿弥陀仏の手に結ばれた糸を自らも握りしめ、僧侶の読経の中で、浄土を夢見て62歳の生涯を閉じました。
末法の世の到来 
比叡山の円仁が伝えた五台山の念仏がしだいに僧から文人貴族に広まりました。東国で争乱があるなど治安が悪化して人心が動揺すると、空也(903-972)が京で念仏勧進を行い熱狂的信者を集めました。また源信は「往生要集」を著し、地獄を説いて六道輪廻の観念を人々に浸透させ、弥陀の相好や浄土の荘厳を観ずる念仏を説きました。 
極楽往生を願って道長が法成寺(1022)を、子の頼道が宇治の平等院(1053)を建立するなど華麗な浄土系寺院諸堂を建設しました。しかしこの頃すでに、彼らの貴族政治にも陰りが見え始め、しだいに地方武士階級の勢力が増し、さらには疫病の流行や治安の乱れ、大地震や大火など天変地異が頻発し、また僧兵の横行などから、人々には正に末法の世の到来を予感させました。 
末法は、釈迦入滅2000年後に始まるといわれ、我が国では1052年(永承7年)にあたるとされました。 
この説は「三時説」といい、仏滅後千年を教えと修行とさとりが備わっている正法の世、次の千年が像法の世で教えと修行はあるがさとりがないとされ、その後の一万年は教えのみで修行もさとりも無い末法の世が来るとされました。これは中国で書物に記されたものであり、インドでは時代を意味する概念ではありませんでした。 
しかし、当時は、権勢のある家柄の子弟が寺の要職につき、下級の僧は僧兵化していくなど、正に俗化した僧侶たちの横暴の様が末法の世を感じさせ、さらに様々な動乱がおこり末法を強く意識させられる時代であったのです。 
平安時代末期は、正にそうした世の中にあって救いとなる教えとは何かが模索されておりました。
 

 

歎異抄(たんにしょう) 
第五条  
親鸞は父母(ぶも)の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。 
そのゆへは、一切の有情(うじょう)はみなもって世々生々の父母(ぶも)・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を回向(えこう)して父母をもたすけ候はめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦(ごうく)にしづめりとも、神通方便をもって、まづ有縁を度すべきなりと。云々。 
第十五条 
煩悩具足の身をもつて、すでにさとりをひらくといふこと。この条、もつてのほかのことに候ふ。 
即身成仏(そくしんじょうぶつ)は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法花一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。来生の開覚は、他力浄土の宗旨、信心決定の通なるが故なり。これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。おほよそ今生においては、煩悩・悪障を断ぜんこと、きはめてありがたきあひだ、真言・法華を行ずる浄侶、なほもつて順次生のさとりをいのる。 
いかにいはんや、戒行・慧解(えげ)ともになしといへども、弥陀の願船に乗じて、生死の苦海をわたり、報土の岸につきぬるものならば、煩悩の黒雲はやく晴れ、法性の覚月すみやかにあらはれて、尽十方の無碍の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにては候へ。 
この身をもつてさとりをひらくと候ふなるひとは、釈尊のごとく種々の応化の身をも現じ、三十二相・八十随形好(ずいぎょうこう)をも具足して、説法利益候ふにや。これをこそ、今生にさとりをひらく本とは申し候へ。「和讃」(=「高僧和讃」)にいわく、「金剛堅固の信心のさだまるときをまちえてぞ弥陀の心光摂護(しんこうしょうご)してながく生死をへだてける」と候へば、信心の定まるときに、ひとたび摂取して捨てたまはざれば、六道に輪廻すべからず。 
しかれば、ながく生死をばへだて候ふぞかし。かくのごとくしるを、さとるとはいひまぎらかすべきや。あはれに候ふをや。「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならひ候ふぞ」とこそ、故聖人(=親鸞)の仰せには候しか。 
親鸞御影と恵信尼像 
そう言いながらも、実際にはこの世界では悪徳が栄えるように見えることがある。これについてはすでに釈尊在世中から疑問を持つ者がいたようであり、また現代でも因果の法を語るときには反論されることだろう。釈尊も因果の表れる時間的なずれは認めた上で、時間的にずれることはあっても必ずこの因果は表れ、特にこの世を去ったときにはっきりとそれがわかるとしている。「悪いことをしても、その業は、刀剣のように直ぐに斬ることは無い。しかし、来世におもむいてから、悪い行いをした人々の行きつく先を知るのである。のちに、その報いを受けるときに、劇しい苦しみが起こる。」(「感興の言葉(ウダーナ・ヴァルガ)」)天上から地獄までの悪趣を含めた世界があることは釈尊の言葉にはっきりと説かれている。 
こうしてこの世のことだけではなく「三世の因果」が説かれる。その上でさらにそれを越えて「この世とかの世をともに捨てた」彼岸の涅槃の世界が説かれている。「奔り流れる妄執の水流を涸らし尽くして余すことのない修行者は、この世とかの世とをともに捨てる。あたかも蛇が旧い皮を脱皮して捨てるようなものである」(「スッタニ・パータ(ブッダの言葉)」)。親鸞が「生死出づべき道」を求め、「後世」を祈るというのは、「三世の因果」を信じた上で、六道輪廻の中の最高所である天上世界に生まれたいのではなく、仏教が目指した六道輪廻を越えた世界に至ろうとしたからである。
 

 

沙石集 / 和光の利益甚深の事 
南都に少輔(せう)の僧都璋円とて、解脱上人の弟子にて、碩学の聞えありしが、(=死後に)魔道に落ちて、ある女人に憑きて、種々の事ども申しける中に、「我が大明神の御方便のいみじき事、いささかも値遇(ちぐ=出会ふ)し奉る人をば、如何なる罪人なれども、他方の地獄へは遣(つか)はさずして、春日野の下に地獄を構へて取り入れつつ、毎日晨朝(じんでう)に、第三の御殿より、地蔵菩薩の、灑水器(しやすゐき)に水を入れて、散杖をそへて、水をそそぎ給へば、一滴(したた)りの水、罪人の口に入りて、苦患(くげん)暫く助かりて、少し正念に住する時、大乗経の要文、陀羅尼なんど唱へて聞かせ給ふ事、日々におこたりなし。この方便によりて、漸く浮かび出でて侍るなり。学生どもは、春日山の東に、香山(かうせん)と云ふ所にて、大明神、般若を説き給ふを聴聞して、論義問答なんど人間に違はず。昔学生なりしは皆学生なり。目の当たり大明神の御説法聴聞するこそ、忝なく侍れ」と語ける。地蔵は本社鹿島の三所の中の一つなり。殊に利益めでたくおはするとぞ申しあひ侍る。無仏世界の導師、本師付属の薩埵(さつた=菩薩)なり。本地(=仏)・垂跡(=神)いづれもたのもしくこそ。されば和光の利益はいづくも同じ事にや。日吉の大宮の後にも、山僧多く天狗となりと、和光の方便によりて出離すとこそ申し伝へたれ。それも諸社の中に、十禅師、霊験あらたに御座(おはしま)す。これも本地は地蔵薩埵(=地蔵菩薩)なり。とたてもかくても、人身を受けたる思ひ出、仏法に遇(あ)へる印(しるし)には、一門の方便に取り付きて、出離を心ざすべし。心地観経には、「一仏一菩薩を憑(たの)むを要法とす」と説けり。されば内には仏性常住の理を具せる事を信じ、外には本地垂跡の慈悲方便を仰いで、出離生死の道を、心中に深く思ひ染むべきをや。三悪の火坑、足の下にあり。六道の長夜、夢未ださめず。爪上(そじやう=珍しく)の人身を受け、優曇(うどん=稀な)の仏法にあひながら、なす事なく勤むる事なくして、三途の旧里(ふるさと)に帰りなば、千度悔い百度悲しむとも、何の益かあるべき。多生(=何度も生れ変り)に稀(まれ)に浮かび出で、億劫に一度あへり。心をゆるくして、空しく光陰を送る事なかれ。時、人を待たず。死かねて弁へず。努々(ゆめゆめ)勤めおこなふべし。 
[一仏一法に望をかけ、功をつみて、専一にして相続する、諸教の行門のすがたなり。有縁の法を深く信じ行じて、臨終のならしにすべし。]
 

 

古代日本人の他界観と仏教流入以後 
古来日本人は多様な他界観をもっていた。これは日本人のルーツが多様であったことと関係しているのだろう。「古事記」「日本書紀」においても幾つかの他界が語られている。「高天原」「常世」「黄泉の国」「根の国」「底の国」「妣の国(母の国)」などである。これと対応するように神々も天津神の系統と国津神の系統とがあり、それぞれ伊勢神宮と出雲大社を中心に一つの世界を形成している。国譲り神話により、顕界を司るのは伊勢神宮を中心とする高天原の神、幽界を司るのは出雲大社の神であるオオクニヌシである。 
これに加えて仏教が日本に入り、六道輪廻の世界(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)とそれを越えた聖者の世界(声聞、縁覚、菩薩、仏)とが加えられた。特にその中の地獄はそれまでの他界にはっきりとこれに対応するものがなかったために大きな衝撃を日本人に与えたと思われる。記紀神話の世界では死は「かんあがる」と言われ、死ねば皆神になるというのが基本的な考えだった。かなり楽天的は他界観だったと言ってよいだろう。例えばスサノオは高天原を追放されているが、出雲に下り、国津神となっている。正邪や善悪の面ではかなり寛容で、罪を犯しても禊ぎ、祓いをすればそれは消せるものだった。 
仏教は真理としての因果の道理を基本とするので、善因善果、悪因悪果であり、これは人間が勝手に変えられるものではなく、因果、業報の理法に基づくものだった。これがそのまま他界に反映するので他界も善因善果、悪因悪果に基づいて分かれることになる。理法なので、恣意的な裁きもない代わり、救いもない。この他界は古代日本人の並列的他界の多様さとは異なり、善悪による階層分化である。最下層に地獄があり、六道輪廻の中では天が最上層となる。 
しかしここまではまだ迷いの世界で、人間自我にとらわれた「我執」の世界であり、「有」の中にある。それでここの最上部が「有頂天」と呼ばれる。人間的幸福を追求する欲の世界であり、人間的幸福への執着を越えた「無我」の「空」の世界ではない。それでこれを越えようとする人間に対してはそれを邪魔し、引き留めようとするものがそこにあり、これが「六欲天の魔王」などと呼ばれる。悪魔的存在が地獄だけにあるのではなく、実は人間的幸福のさなかにあるというのは、この天も捨てさせてそれを越えたものを求めさせようとするからである。これを越えたのが仏教を学び悟る声聞から先の世界である。その基本は出家して世俗を捨てた上で真理を求めるものだった。ここからが輪廻を越えた聖者の世界だった。これがいわゆる「彼岸」であり、その前の迷いの世界が、この世界と他界の天から下を含めた「此岸」である。浄土はこの「彼岸」の側の他界である。六道輪廻の世界は今述べたように他界であってもこの世とともに「此岸」の側になる。 
そこまで認識が進まないとしてもとりあえずは地獄に落ちるのは何としても避けたいので様々な功徳を積み、少しでも上の世界を求め、またこの世界に生まれ変わったときには少しでもいい暮らしをしたいという人々が仏教を知った貴族階級を中心に増えてくる。浄土教的な考え方の始まりである。やがてさらに平安末の混乱とともに末法思想の影響で浄土教熱が高まることになる。その中から後述する法然、親鸞の浄土教が生まれる。 
明治時代以降の他界観 
時代を飛ばして明治以降に進めて考えると、明治時代から正式にキリスト教が入り、ここに「天国」という他界が入ってくる。これを仏教的他界観と比べると、キリスト教の天国は本来そこに生まれれば、そこで永遠の生命を得て、この世に還ってくる必要のない世界であり、仏教の六道輪廻の世界を越えた浄土と同等のものだったと思われる。しかし、仏教の六道輪廻の中の「天」と混同され、地獄ではない、あの世の中の比較的いい世界くらいの感覚で受け止められ、「天国」は急速に日本に定着していったようだ。マスコミ等での表現を見ても「天国と地獄」という形での対になった他界観が現代の一般的な他界観の代表だろうと思う。 
明治以降のその他の表現では仏教者でありながら、科学者、教育者、文学者でもあった宮沢賢治はアインシュタインの理論にいち早く接し、これを取り入れた「四次元」を他界に転用している。「銀河鉄道の夜」は亡くなった友人とともにする一種の霊界旅行と言うべきものだが、そこでも「四次元」の考え方を応用している。仏教の他界がもっていた階層構造を次元として捉えたものである。 
他に鈴木大拙が紹介し、今でも読者を持つスウェーデンボルグの霊界は階層構造があるだけではなく、地球外の宇宙までも視野に入れた壮大なもので、宮沢賢治の他界観もこれと通じるものがある。 
このように時代に応じて他界観も変遷しているが、私はただ階層構造をもつだけではなく、「迷い」と「悟り」「有」と「空」「我執」と「無我」と言った区分を入れた仏教の他界観は真実を生きる上で優れたものだと思う。単純な言葉ではすでに述べた「彼岸」と「此岸」である。これはキリスト教の場合も元来は同様だったと思われる。
 

 

利休 
「力囲希咄」禅における「喝(かつ)」と同じく、大声を発することであろうが、臨済禅で言う「喝」そのものだと思う。臨済禅の「喝」には四喝があり、修行者への叱咤/師家(しけ 、出家、在家を問わず、師と仰がれるにふさわしい学識人徳を備えた禅匠)への威嚇/師弟が力量をためしあう勘験/それらすべてを含む一喝であるが、利休は死に面して自らにその「喝」を発した。 
「祖仏共に殺す」芳賀幸四郎の引用する「無門関」第1則「趙州無字」に添えた無門慧開の一節「天を驚かし地を動かして、関将軍(関羽)の太刀を奪い得て手に入るるが如く、仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、生死岸頭に於て大自在を得、六道四生の中に向かって、遊戯三昧ならん」よりむしろ、「臨済録」にいう「仏に逢っては仏を殺し、祖に逢っては祖を殺す、羅漢に逢っては羅漢を殺せ」によるべきと思う。 
不立文字、教外別伝を旨とする臨済禅の思想においては、経典や祖師の残した書物に一切とらわれてはならない。利休の斎号である抛筌斎にもその意思が現れている。脱俗、無一物、祖仏共に殺し、ありとあらゆるものを脱却し、そして直指人心、見性成仏こそがここで利休が言わんとしていることであろう。利休が命を賭して貫き通した表現の世界、台子茶事の新たな作為機転、草庵茶の侘と創意、それらも機を一にする。
 

 

三途の川 
真田六文銭 渡し賃 
三途の川はどこにある 死んで冥土に行く途中に越える川 
生前の罪業により 緩急の異なる三つの瀬を渡る 
川のほとりに鬼形の姥がいて衣を奪い取る 
六道銭 葬る時に三途の川の渡船料として棺の中に納める 
六道能化の地蔵菩薩への賽銭 
衆生が生前の業因によって生死を繰り返す六つの迷いの世界 
地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上  
 

 

御詠歌 
秩父札所七番 青苔山法長寺(せいたいさんほうちょうじ)  
    六道を兼ねて巡りて拝むべし 又後の世を聞くも牛伏  
四国五番札所 無尽山地蔵寺 (むじんざんじぞうじ) 
    六道の能化の地蔵大菩薩 導き給えこの世後の世 
四国七十三番札所 我拝師山出釈迦寺 (がはいしざんしゅっしゃかじ) 
    迷いぬる六道衆生救わんと 尊き山に出ずる釈迦寺   
 

 

南無阿弥陀仏 
「南無阿弥陀仏をとなふるは、すなわち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになるともうすなり」「無始より」は人間としていのちを授かってから今日に至るまでだけでなく、生まれる前遠い遠い昔、六道輪廻の世界を経巡っていた頃からということ。長年の罪業をお念仏一つで悔い改めてくださる阿弥陀如来様の偉大さを感じずにはいられません。勿論念仏を称えた事を手柄と考えてはいけません。 
浄土門は身心を放下して、三界・六道の中に希望する所ひとつもなくして、往生を願ずるなり。此界の中に、一物も要事あるべからず。此の身をこゝに置ながら、生死をはなるゝことにはあらず。
 

 

女人講 
北関東に多くあった「十九夜講」は、安産の神、十九夜様を主尊とし、数ヶ月に一度、19日に集まって、如意輪観音による血の池地獄からの救済を謳う「十九夜念仏和讃」を唱えるというものであった。「十九夜様お礼(洗濯場)」(栃木県佐野市の十九夜講のもの)  
帰命頂来十九夜の 御堂の前を眺むれば 老若男女が集りて 
おいさめ申す念仏は 家内安全身の祈祷 嫁も娘も安産に  
守らせ給え観世音 一には大日如来様 二には日月薬師様  
三には三世の諸仏様 四には信濃の善光寺 五には五池の如来様 
六には六道の地蔵様 七には七尊観世音 八には八幡大菩薩  
九にはくりから不動様 十には当所の神仏 それを念ずる友がらは 
十悪大難のがるべし 死して冥土に行く時は 八万余仭の血の池を 
かすまな池と見て通る 女人救はんその為に 血の池地獄へお立ち会い 
血の池のがるお念仏は 十九夜様の御本尊 火水あらためこうむりて 
さてまたごんぎをとり清め さてあさましや月のやく 十三十四の頃よりも  
四十二三が身とめなり 月には七日のやくなれば 年には八十四日ある 
今朝まですみしが早にごり 濁ごりし我が身をせせぐには ぼんちの下の井の水で 
井の水くんですすぐべし すくいてこぼすも恐ろしや こぼせば大地が八つにわれ 
ほのぼの煙も立ち上り 山へこぼせば山の神 地の神荒神けがすなり 
川ですすげば川下の 水神様も汚すなり 池ですすげば池奈落 
両え浄土を汚すなり 天日でほすも恐ろしや 日輪様をけがすなり 
夜干にほせば星明神 月輪様を汚すなり まだその外におそろしや 
ちりに交りて火にくばり 普賢ぼさつや釜の神 三世の諸仏を汚すなり 
南無阿弥陀仏のお念仏を 三べん申して桑の木の 桑の根本えこぼすなり 
その血のとがも恐ろしや 夜昼血の波わきかえる ひろさが八万余仭なり 
深さが八万余仭なり 中へ落ちる罪人が 池のそこへおし込まる 
上へうがみて空見れば 上にはれん上の綱をはり あらあら恐し鬼達が 
黒がねちょうしを手に持ちて 我らのしゃばのやく水が のみほせかいほせかしゃくする 
如意輪様があらわれて さほど罪もあるまいに 我らがしゃばにありし時 
遊びにもししお念仏 ほうらい山の山となり ほうらい山の山あれて 
ひらきし蓮華が五本立ち つぼみし蓮華が四本立ち 九品浄土へまえるには 
開きしれんげを笠にして つぼみしれんげを杖につき 法け経だら経みのに来て 
行かぬかなわぬ道なれば 雨の降る日も風の夜も 昼夜にさべつさらになし 
ついたち九日十九日 二十九日のお念仏で 八万余仭の血の池を 
申しうめたい南無あみだ 念仏からくる唐糸は 極楽浄土のこの門を 
銭でも金でもあかばこそ 念仏六字でさらとあけ 極楽浄土のまん中え 
黄金の御堂が三つたち 上なる御堂をみたまえば 釈迦とだるまのお立ちあい 
下なる御堂を拝むれば 父と母との住む浄土 極楽浄土へこぎ給へ 
申し浮みし南無あみだ    
(坂本要「民間念仏和讃と安産祈願 利根川流域について」藤井正雄編「浄土宗の諸問題」による)十九夜様の姿は十九夜塔という石造物に刻まれているが、明らかに二臂の如意輪観音である(女性の墓碑に刻まれるものと同様)。これは、血盆経信仰から転じた信仰である。  
 

 

地蔵菩薩 
六道の一切衆生の苦を除き福利を与えることを願いとする菩薩。俗信では小児の成長を守り、もし夭折した時はその死後を救い取ると信じられた。密教では菩薩形にあらわされるが普通には頭をまるめた僧形で宝珠を持ち、平安中期以降は宝珠と錫杖を持つ姿が一般化し、多く石に刻まれて路傍に建てられ民衆とのつながりが強まった。その救いや霊験、形、置かれた地名などによって、親子地蔵、腹帯地蔵、雨降地蔵、とげぬき地蔵、延命地蔵などの名がある。地蔵尊。地蔵。 
十三仏と仏(亡者)の供養 
二七日「釈迦如来」において、歴史上に存在した釈迦牟尼世尊「釈尊/ゴータマ・シッタルダ」の説法を受け入れる。寺院では、「釈迦三尊」というように「釈迦如来」を本仏として左右の脇仏に「文殊菩薩」「普賢菩薩」が祀られ(配置)ている。次の三七日「文殊菩薩」四七日「普賢菩薩」となる。 
三七日「文殊菩薩」は、「文殊の知恵」ともいわれ、釈迦の弟子の知恵の第一人者・舎利弗(しゃりほつ)の変化身(へんげしん)だ。知恵の行、即ち般若波羅蜜多の行を行うことで、三摩地(=覚りの境地/無上正等覚)を得ることが出来、「般若心経」では観自在菩薩の説法の場面から説いている。四七日「普賢菩薩」の功徳として「普賢の行願」がある。迷える者がこの行を願うことで、「普賢菩薩」は強い慈悲の力を普き持ち救ってくれる。 
中陰においては未だ本来の仏界には辿り着くことの出来ないことを示し、五七日「地蔵菩薩」が六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)輪廻を説き伏せ、未だ六道をさまよう亡者を第七世界の真の仏界に導こうとしている。釈迦が五十六億七千万年を経た未来に「彌勒菩薩」に姿を変え再来し、人類救済の説法を行うまでの間は「地蔵菩薩」がすべての人を救うという。 
五七日 / 地蔵菩薩(Ks.itigarbha・クシティガルバ/枳師帝掲婆、乞叉底蘖婆) 
地蔵菩薩は釈迦の入滅後56億7千万年を経た来世(未来)に再度この世に現れるといわれる弥勒菩薩が来るまでの間、いかなる悪事や災難に対しても怒ることなく、屈することもない、大きな慈悲と慈愛の心で、衆生のすべての人々を苦しみから救済するといわれる。姿は頭を丸め、見るからに優しく、身近に接することのできる姿(声聞形)、即ち出家沙門の姿(僧形)をし、一体だけで祀られている時には右手に錫杖を持ち、左手に宝珠を持っている。 
街角や峠に地蔵さんをよく見かけられる。古くから墓場の入口には六体地蔵(六地蔵)や水子地蔵、寺院の境内やお堂に子育地蔵や子守地蔵などが祀られている。このうち六体の地蔵は、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の「六道」を表し、亡者の冥土入りに、死者が「中陰」に在る輪廻転生の橋渡しを担っていると考えられる。同時にこの世の現実社会における「六道輪廻」を通して、人々を苦しみや災難から救ってゆこうとする誓願を持ち続けている。 
地蔵菩薩の誓いと守りの功徳は、生と死の両界における危機を回避し、孤独な気持ちから解放させてる母親の慈愛心を持った寄り添いの念が込められている。子供のように弱い者に対しては三世(過去・現在・未来)を超えた強い慈愛の力を以て救っていこうとする。水子地蔵では、先祖代々における過去の水子供養を行うことだけでなく、現世、未来永劫に至るまで水子としての不幸が起きないことを願う萬霊供養が行われることとなる。 
真言宗では大人が亡くなった時は本尊大日如来の梵字である(あ)字を位牌の戒名の上に書くが、幼な子が亡くなった時は地蔵菩薩の梵字である(か)字を書く。 
胎蔵界曼荼羅には地蔵院の主尊として菩薩形をなし、左手には幢を持ち蓮華上に立て、右手に宝珠を持っている。
 

 

「お地蔵さん」 
「お地蔵さん」という名で親しまれている仏さまの正式名称は「地蔵菩薩」。観音信仰と並び民間信仰の中心的存在です。観音さまは大変慈悲深く、その名を唱えるだけで33種にも変身して日常的な苦しみや災難を救ってくれるといわれ、民衆の支持を集めました。観音信仰はすでにインドにあって、仏教が日本に渡来するとほぼ同じに入り、法華経の普及とともに広まりました。現存する飛鳥時代の仏像でもっとも多いのが観音像です。観音33身説にもとずいて西国33所の観音巡礼が起こり、後には全国に観音霊場巡りが普及しました。地蔵は地獄に落ちる死者をすくってくれる菩薩(仏になる以前の段階にとどまり、人々を救済する存在)。平安時代中期から末期にかけて起こった末法思想、浄土信仰と結びついて貴族のあいだから広まっていきました。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という六道のいずれにも現れるとされ、六地蔵信仰も生まれました。民間信仰の中ではこどものこどもの守り仏として考えられるため、日本人の心情により訴えるところがあると考えられます。この世とあの世の境にいて、冥土にゆく者の苦難を救うとされたので、道中の安全を守る道祖神の信仰とも結びつきました。道路の傍らや村境に地蔵像が多く建てられているのはそのためです。「おいなりさん」と親しまれる稲荷同様、身近な信仰です。死後に賽の河原に集まるこどもたちを守ってくれるという信仰から、地蔵像の前に小石を積んだり亡くなったこどもの遺品や好物などを供える風習は各地で見られます。「お地蔵さま」として親しまれている「地蔵菩薩」。「観音さん」と並んで人を選ばす、わけへだてなく万人を救ってくれる点で庶民に広く指示されているのでしょう。
 

 

天狗 
平田篤胤は天狗とは現世で知識だけを追い求め、精神的な修行を怠った者が変化したものであると論じた。鎌倉時代・源平盛衰記にも同趣旨のことが書かれ、通常の六道(地獄道・餓鬼道・阿修羅道・畜生道・人間道・天道)には属さない天狗道に堕ちたものであるとしている。天狗は知者であり仏法にすぐれ地獄/餓鬼/阿修羅/畜生道には落ちない。しかし無道心だから天道にも上れない。結果行き場がなくなって天狗道に落ちて輪廻から見放されたとある。
 

 

死生観 
他人の「死」を我々は経験できる。しかし、自らの「死」を経験することはできない。ハイデガー「存在と時間」が指摘するように、「死」とはいっても様々な位相があって、時代と地域でも異なり、自明のものではない。「死生観」という括りで世界を見渡してみると、「死」は大きく四つに分類できるのではないか。 
一つは、現実の肉体的生命が無限に存在すると信じるという考え方。これは中国の神仙思想や不老長寿、エジプトのミイラ信仰に代表される。日本でも古代の常世の国の神話もこれにあてはるだろう。霊魂は別として、肉体の存在を重視し、それが未来永劫存続することが可能であるという死生観である。二つ目は、肉体は消滅したとしても霊魂は不滅だという考え方。これはキリスト教の天国と地獄といった来世観や、仏教の地獄極楽思想、輪廻思想が代表的なものである。ここには肉体重視の思考とは異なって、個人の霊魂が死後も異界にて存在し続けるという考えがある。そして死後の霊魂に対しても個性が重要視されるのが特徴である。三つ目は、肉体も霊魂も滅んでしまうが、それに代替する不滅対象(代用物)となって死後の世界で存在するという考え方。これは日本の「先祖」に代表される祖霊信仰があてはまる。先述した個性を有する霊魂とは異なり、33回忌や49回忌といった弔い上げを経ると、死者の個性は次第に消滅し、「ご先祖様」という代々の家の死者の集合体として、家が永続する限りにおいて存在し続ける。例えば、お盆(盂蘭盆)には家代々の各個人の死者霊ではなく、先祖という一種の集合体を迎えて、饗応して、そして再び送る。これが日本のお盆の形である。仏教の六道輪廻思想では、死者の縁者が回向・供養することによって、死者の「たましい」は地獄界や餓鬼界から脱出して人間界へ転生(生まれ変わり)することができるが、この思想の基層には、あくまで死者霊魂の個性は保持されている。祖霊信仰で見られる家のご先祖様としての没個性化とは対照的である。そして、四つ目としては、肉体や霊魂、そして代用物も消滅するが、現在の行動に自己を専従集中させることで、生死を超越した境地を体得するものである。これは一般的な「死」の概念とは異なるようだが、悟りをひらくことや、神との一体化などの神秘的体験を得ることによって、「死」を超越することができるという考え方である。 
前述の三つの説は肉体や霊魂等の永続・消滅を前提として、人間の「生」の後に訪れる「死」の世界でのあり方を問うているが、この第4の説は「生」の時間の延長線上に「死」を考えるのではなく、時間をも、生と死をも超越しようとしている。四国遍路における弘法大師も、「死」ではなく「入定」しているとされ、今でも「生」の存在なのである。
 

 

西の川原(賽の河原)地蔵和讃 
釈迦がこの世を去ってから、弥勒菩薩がこの世に現れるまでの間を無仏の時代といいます。無仏の期間は、56億7000万年間続きます。この無仏の時代を守り、衆生(人々)を救って悟りの境地にみちびいてくれるのが、地蔵菩薩です。 
地蔵は、六道で苦しむ衆生を教化・救済する菩薩でもあります。日本では平安時代から広く信仰されるようになりました。一般的には左手に宝珠、右手に錫杖を持っています。また、その姿は頭を丸めた僧の形をしています。六道の救済に当たることから、六地蔵の信仰が生まれました。 
また、子どもを守るということで、幼くして死んで賽の河原で苦しむ子どもを救済、賽の河原で地蔵fが子供を庇護する話は「地蔵和讃」によって民衆に広がり、「地蔵和讃」にもとづいて多くの地蔵石仏がつくられました。 
「地蔵和讃」にはいろいろありまして、作者によっては勿論のこと、それが唄われた地方によっても、たとえ同じ表題でも歌詞が違っています。 
江戸時代になって地蔵信仰は民間信仰と結ばれて広まり、子育・火防・盗難除・病気平癒など庶民のあらゆる願いをかなえてくれる仏として各地につくられました。また、各地に地蔵講が結成され、月の24日を地蔵の縁日として祈るようになり、秋の地蔵盆は子供たちを楽しませてきました。 
冥府において亡者を救う思想は、子を失った親たちの信仰を集める。地蔵と子供は強く結びつき、子育地蔵・子安地蔵の名で信仰されている地蔵も各地にあります。
 

 

高館の戦い 
4月30日の朝、泰衡は、家来の長崎太郎を大将にして五百騎の軍勢で義経の居館高館に攻め込んできた。兼房と喜三太は屋敷の上に駆けあがり、引き戸の格子を小楯にして弓矢を次々と射ち放った。屋敷の大手門には、弁慶、片岡八郎、鈴木三郎と亀井六郎の兄弟、鷲尾三郎、増尾十郎、伊勢の三郎、備前の平四郎の八人が立ちふさがった。常陸坊など11人は、朝から山寺参りに出向いてまだ帰っていなかった。弁慶は、鎧をまとい大長刀(おおなぎなた)の真ん中を握って立ち構えると「囃し立ててくれ、殿原達。東の方の奴原にいいものをみせてやる。わしはこう見えても若い頃、比叡山で詩歌管絃を許されていた。一手舞って奴原に見せてやるわい」と言い、鈴木三郎、亀井六郎に囃させて踊り出した。 
うれしや瀧の水 鳴るは瀧の水 日は照るとも絶えずとふたり 東の奴原が 鎧兜を首もろともに 衣川に切流しつるかな 
寄せ手の一人は「判官殿の御内には剛の者がおいでになる。寄せ手が五百騎で攻めているのに、城にはたった十騎ばかり。それでもああやって踊っているんだからなぁ」と呆れ顔で言った。弁慶は舞を終えると「東の方の奴原に、手並みの程を見せてくれようぞ」と言って長刀をふるい、鈴木三郎と亀井六郎の兄弟は太刀を冑の真っ向に構え、三人、轡をならべて敵方に攻め込んだ。すると、さっと散って寄せ手が退いた。 
鈴木三郎は、弓手(ゆんで)に二騎、馬手(めて)に三騎切り伏せ、七、八騎に手負わせたものの、自らも致命的な痛手を受け、弟に「亀井の六郎、犬死にするなよ」と言い残して自刃し果てた。亀井六郎は「奴原はわしの弓の力を未だ知るまい。初めて見せてくれようぞ」と言い残して弓矢を射ちまくり、三騎討ち取り、六騎に手を負わせたが切り込まれ自刃した。備前の平四郎と増尾十郎も討ち死にし絶えていた。片岡八郎と鷲尾三郎は、一つになって戦っていたが、鷲尾は深く攻められて死に、そこへ入ってきた弁慶と伊勢の三郎と三人で敵陣深く攻め入った。伊勢の三郎は深手を負って「暇乞いをして死出の山で待っている」と言い遺し首を垂れた。 
弁慶は、喉笛を打裂かれて全身を赤く染めながら、威風堂々の戦いを見せていた。弁慶が持仏堂に入ると、義経は静かにお経を読んでいた。弁慶が「軍はかぎりになりて候。備前、鷲尾、増尾、鈴木、亀井、伊勢の三郎、各々軍思ひのまゝに仕り、打死仕りて候。今は弁慶と片岡ばかりに成りて候。限りにて候ふ程に、君の御目に今一度かゝり候はんずる為に参りて候。君御先立ち給ひ候はゞ、死出の山にて御待ち候へ、弁慶先立ち参らせ候はゞ、三途の河にて待ち参らせん」と言うと、義経は「今一入名残の惜しきぞよ、死なば一所とこそ契りしに、我も諸共に打出でんとすれば、不足なる敵なり。弁慶を内に留めんとすれば、御方のおのおの討死する。自害の所へ雑人の入れたらば、弓矢の疵なるべし。今は力及ばず、假令我先立ちたりとも、死出の山にて待つべし。先立ちたらば誠に三途の河にて待ち候へ。御経も今少しなり、読み果つる程は死したりとも、我を守護せよ」と続けて言った。 
弁慶は、御座する所の御簾をそっと引き上げ、義経に別れを告げた。義経の目に、咽(むせ)び泣く弁慶の姿が映った。敵の接近する音を近くに聞くと弁慶はあわてて立ち去ろうとしたが、すぐに戻って  
「 六道のみちの巷に待てよ君 おくれ先だつならひありとも」 
の歌を詠み、死後にふたたび会う約束を交わすと、 
義経は  
「 後の世もまた後の世もめぐりあへ そむ紫の雲の上まで」 
と返歌して、慟哭した。 
弁慶が戦に戻ると、片岡は、傷を負い精魂使い果たしたかのようにぐったりした。もう、腕も肩も限界だった。片岡は、もうこれまでと自らの手で刀を深く刺した。
 

 

極道 
本来仏教用語で仏法の道を極めた者という意味であり、高僧に対し極道者(ごくどうしゃ)と称し肯定的な意味を指すものであった。然し江戸時代より侠客(弱いものを助け、強い者を挫く)を極めた人物を称える時に「極道者」と称した事から、博徒(ばくちで生計を立てる者)までも極道と称する様になった。そのため、本来の意味を外れ道楽を尽くしている者、ならず者や暴力団員と同義語で使われる逆の意味で使用される事が多くなった。 
明治期の落語や劇では、素行の落ち着かない者、就労せず遊んでいる者を、「国道」と呼んでいる。尚、ヤクザものが自己を指して極道と言うのは、暴力団組員と呼ばれるのを嫌うためであるとされる。暴力団が極道を称するのは、かつての侠客に憧れを抱いているのが理由であるとされるが、実際の活動は反社会行動集団を指す。 
ヤクザという意味は本来「何の役にも立たない」と云う意味であり、極道という言葉の意味とは微妙な差異があるが、世間一般ではヤクザも極道もほぼ同意に取られる。ヤクザも極道も「暴力団」に変わりはなく、法的な定義ではどちらも同じ「暴力団員」である。また、暴力団員ではなくとも、反社会的な行動をする者をヤクザまたはヤクザ者と呼ぶこともある。
 

 


  
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