庶民の信仰と生活
この頁は、他の頁から「庶民」に関わりのある話題を抜粋・要約したものです 
一遍の時代、鎌倉時代の「庶民」はどのような人たちだったのでしょうか 
貴族以外、貴族・武士以外、定義・呼称も定かではありません 
「庶民」がどのような生活をし、なぜ仏に、または何を仏に願ったのか

時宗・一遍 仏の世界   

時宗・一遍の教え1 
一遍は時衆を率いて遊行を続け、民衆(下人や非人も含む)を賦算(ふさん)と踊り念仏とで極楽浄土へと導いた。その教理は絶対他力による「十一不二」に代表される。和歌や和讃によるわかりやすい教化や信不信・浄不浄を問わない念仏勧進は、仏教を庶民のものとする大いなる契機となった。
時宗・一遍の教え2 
戦や飢饉が続き、死と日常が背中合わせだった中世。民衆は切実に心の救済を求めていた。叫びにも似たその思いに応える様に、平安時代の末期から、従来は貴族社会のものであった仏教を、民衆に伝えるべく宗派を開いて奮闘した名僧が次々と現れた。法然(浄土宗)親鸞(浄土真宗)日蓮(日蓮宗)栄西(臨済宗)道元(曹洞宗)、彼ら鎌倉新仏教の巨星の最後に登場したのが、時宗の開祖・一遍だ。彼ら個性的なカリスマ開祖たちの中にあって、一遍は死の間際に自著・経典を全て焼き捨てるなど、その存在が一際異彩を放っている。 
六十万人は一遍が考えていた当時の全人口という説もあるし、熊野で神託を得た次の言葉の頭文字とも伝えられる。 
「六十万人の頌(しょう、仏法の詩)」 
六字名号一遍法 「六字の名(南無阿弥陀仏)は普遍の真理そのものである」 
十界依正一遍体 「十界(全ての世界)の事物は皆平等であり一つの存在である」 
万行離念一遍証 「万行(あらゆる修行)で執着の念を離れた所に浄土は待っている」 
人中上々妙好華 「人々の心の中で名号は清らかに美しく咲く蓮華の花なのだ」 
この念仏札の配布は画期的だった。出会う人すべてに手渡しで配りまくった結果、以前から阿弥陀を信仰する者はより信心を深め、信仰しない者にはこれが浄土教に触れるきっかけとなった。 
10月博多湾にモンゴルが来襲し全国に衝撃が走る。一遍たちは北九州に向かった。戦地では負傷兵や戦火の被害を受けた庶民に「この札は念仏だけで浄土へ往生できる安心のお礼です」と念仏札を配り歩いた。人々は一遍の教えに勇気づけられ、豊後では領主自らが彼に帰依した。一遍に付き従う民衆も多く、一行は九州を発ち、布教しながら北上していく。その過程で、39歳の時に備前で吉備津宮の神主の子息を始め、280余人が一度に出家するようなこともあった。 
「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」このお札を一遍は配っていた 
一遍の心のヒーローは平安中期に活躍した空也上人。平安朝の多くの僧は、寺院に布施を寄進する貴族の為に経を読んだが、空也は違った。彼は庶民が集まる市場や祭りの片隅に立ち、首から提げた鐘を叩きながら民衆の為に「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えた。そしてお布施が入ると、すぐさま病人や貧者に届け、水源が遠い村に井戸を掘るなど民衆の為に生涯を捧げた。空也は念仏の詠唱の果てに法悦に包まれ踊り始め、これをして「踊念仏」の開祖となった。人々はそんな空也を、敬意を込めて「市聖」と呼んだ。 
1284年(45歳)上洛した一遍は、憧れの空也上人が開いた六波羅蜜寺へ巡礼する。当地では「噂の踊念仏を一目見よう」と多くの民衆が集まった。「南無阿弥陀仏の言葉そのものが仏であり、その言葉には絶対的な力がある。唱えれば必ず救済されるのだ」京の人々はボロをまとった貧僧が説く分かりやすい教義に耳を傾け、熱烈にこれを支持した。都での布教は大成功、彼は感極まった。
時宗・一遍の教え3 
一遍は蒙古来襲・日本国の未曾有の外的な危機に対応すべく生まれてきた男とも言えよう。一方、不安な民情と疲弊した庶民の救済を目指して所謂「鎌倉仏教」が一斉に開花した。自力本願の禅宗(臨済宗/栄西・曹洞宗/道元)と他力本願の浄土宗(法然・真鸞・一遍)と日蓮宗(日蓮)などである。 
一遍の三度目の入洛は弘安7年(1284)46歳になっていた。賤民は前世からの宿業により地獄が必定とされた中で南無阿弥陀仏による極楽往生は一大ブームとなったのは当然である。七日間の釈迦堂滞在、次いで因幡堂に移り蓮光院、雲居寺、六波羅蜜寺を経て最後に空也上人の遺跡市屋での踊り念仏で頂点に達した。この市屋は現在の西本願寺南半分と接地を含む広大な境内であった。この道場の跡に時宗金光寺が建立された。後、河原町六条に移転す。 
時宗・一遍の教え4 
一遍は、善悪の判断を捨てろといいます。 
信心をもっていようがいまいが、なんであろうが、あらゆる人が阿弥陀仏の力によって往生するであろうことはすでに決定されている。あとはその人が素直な心で阿弥陀仏を求めて念仏を唱えれば、それだけでよいのだ。 
自分はかつて悪事を働いたことがあるだとか、善いことをしているだとかそのような考えをもつと、素直な心の働きが阻害されてしまう。善悪の判断を捨て、素直な心のままに念仏を唱えろということなのでしょう。 
これはたとえ悪人でも素直な心で念仏を唱えさえすれば往生できるのだということにつながるのでしょう。一遍の教えは武士階級にも広がりましたが、人殺しという悪事を職業とする武士でも極楽往生はできるのだという教えが彼らを捉えたのかもしれません。 
貴賤、身分の高い低いといった社会の道理を捨てろ、といいます。 
平安中期ころまでは念仏は僧が唱えるもので、それを聞くことのできるのも貴族階級に限られていました。それを在家の者でも唱えてよいのだとし、貴族だけでなく庶民にも広めていったのが、一遍が手紙に名を挙げた先人・空也上人(くうやしょうにん)であり、鎌倉新仏教の開祖たちであり、また一遍上人その人でした。 
女であるから往生できないとか、身分が低いから往生できないとか、そのようなことを考えてはいけない。素直な心のままに念仏を唱えればどんな人間であろうとも往生するのだから、その心の自然な働きを歪めるようなことは考えてはいけないのだというところでしょうか。 
実際、一遍時衆を支えたのは、武士であり、農民であり、女性であり、非人たちでした。社会の最下層に置かれたハンセン病者も信徒となりました。 
地獄を恐れる心をも捨て、極楽を願う心をも捨てろ、と一遍はいいます。 
念仏を唱えるのは、極楽往生を願って阿弥陀仏にすがるためです。しかし、その心をも捨てろといいます。そのような願いや、あるいは地獄に対する恐怖心は、自然な心の働きを抑圧してしまう。 
善悪の判断、貴賤、身分の高い低いといった社会の道理己、地獄を恐れる心を、極楽を願う心、とにかく心の自然な働きを歪めるあらゆるものをすべて取り除けということなのでしょう。 
声高に念仏を唱えれば、仏もなく我もないのだといいます。 
他の浄土教では、念仏を唱える者と阿弥陀仏との間に無限の距離が横たわっています。念仏を唱える者と阿弥陀仏とは一体になることはありません。しかし、一遍は、念仏により唱える者と阿弥陀仏の距離を一気に無化することができると考えました。 
この現世が浄土であり、外に極楽浄土を求めてはならないし、この現世を厭うてはならないのだと一遍はいいます。現世を厭い、極楽浄土を求めるというのがこれまでの浄土教の考え方でしたが、一遍はそのような考え方を否定します。 
それは、ありとあらゆる現象や生きとし生けるものにひとつの力が貫いていることを一遍は直感していたからです。あらゆる生きとし生けるもの、山や河や草や木、吹く風や立つ波の音までも、念仏でないということはない、と一遍はいいます。 
あらゆるものを貫くひとつの力。あらゆるものを生み出すとともに、あらゆるものに行きわたり染みわたっている、ひとつの力。すべてはそのひとつの力の場のなかに生じる一時的な現象である。その力を一遍は阿弥陀仏の慈悲としてとらえました。阿弥陀仏の慈悲はこの世界のどこまでも行きわたり染みわたっている。だから、人はただ素直なままに念仏を唱えればよいのだ、と。
浄土宗・法然の教え1 
法然の教えは、三心の信心にもあるとおり、民衆に凡夫であるということをまず認識させ、その上で浄土に往生するためには、専修念仏が一番の道であるから勧めるから選択するべきだというものとなっている。  
浄土宗・法然の教え2 
法然の時代は、政権を争う内乱が相次ぎ、飢餓や疫病がはびこるとともに地震など天災にも見舞われ、人々は不安と混乱の中にいました。ところが当時の仏教は貴族のための宗教と化し、不安におののく民衆を救う力を失っていました。学問をして経典を理解したり、厳しい修行をし、自己の煩悩を取り除くことが「さとり」であるとし、人々は仏教と無縁の状態に置かれていたのです。そうした仏教に疑問を抱いていた法然上人は、膨大な一切経の中から、阿弥陀仏のご本願を見いだします。それが、「南無阿弥陀仏」と声高くただ一心に称えることにより、すべての人々が救われるという専修念仏の道でした。承安5年(1175)上人43歳の春のこと、ここに浄土宗が開宗されたのです。  
法然上人はこの専修念仏(せんじゅねんぶつ)に確信を持つと、比叡山を下り、やがて吉水の禅房、現在の知恩院御影堂の近くに移り住みました。そして、訪れる人を誰でも迎え入れ、念仏の教えを説くという生活を送りました。こうした法然上人の教えは、多くの人々の心をとらえ、時の摂政である九条兼実など貴族にも教えは広まっていきました。
浄土宗・法然の教え3 
浄土宗は 法然上人(法然房・源空)を宗祖と仰いでいる宗旨です。 
法然上人は、ただひたすらに仏に帰依(きえ)すれば必ず救われる、すなわち南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)を口に出して称(とな)えれば必ず仏の救済をうけて平和な毎日を送り、お浄土に生まれることができる、という他力のおしえをひろめられました。 
貴族だけの仏教を大衆のために、というこのおしえは、日本中にひろまり、皇室・貴族をはじめとして、広く一般民衆にいたるまで、このみちびきによって救われたのでした。 
法然上人は、どこにいても、なにをしていても南無阿弥陀仏を称えよ、とすすめておられます。南無阿弥陀仏と口に称えて仕事をしなさい、その仏の御名のなかに生活しなさい、とおしえられています。 
新しい宗教であったため、いろいろなことで迫害をうけましたが、そのときでも、法然上人はこのおしえだけは絶対やめませんという固い決意をあらわしておられますし、また亡くなるときにも、わたしが死んでも墓を建てなくてもよろしい、南無阿弥陀仏を称えるところには必ずわたしがいるのですといって、その強い信念を示されました。
浄土教 
阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く教え。浄土門、浄土思想とも。 
「浄土」という語は中国での認識であるが、思想的にはインドの初期大乗仏教の「仏国土」がその原型であり、多くの仏についてそれぞれの浄土が説かれている。中国・日本においては阿弥陀仏信仰の流行にともない、浄土といえば一般に阿弥陀仏の浄土をさす。 
平安時代の浄土思想は主に京都の貴族の信仰であったが、空也(903-972)は庶民に対しても浄土教を広め、市の聖と呼ばれた。良忍(1072-1132)は「一人の念仏が万人の念仏と融合する」という融通念仏(大念仏)を説き、融通念仏宗の祖となった。天台以外でも三論宗の永観(1033-1111)や真言宗の覚鑁(1095-1143)のような念仏者を輩出した。 
平安末期から鎌倉時代に入ると、法然(1133-1212)は「選択本願念仏集(選択集)」を著して浄土宗を開創し、根本経典を「仏説無量寿経」「仏説観無量寿経」「仏説阿弥陀経」の「浄土三部経」に、天親の「浄土論」加え制定した(「三経一論」)。  
法然の弟子の親鸞(1173-1262)は「教行信証」等を著して継承発展させ、後に浄土真宗の祖となる。一遍(1239-1289)は、諸国を遊行して時宗を開いた。平安時代後期から鎌倉時代にかけて興った融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・時宗は、その後それぞれ発達をとげ、日本仏教における一大系統を形成して現在に及んでいる。  
遊行上人 
遊行上人といえば時宗の宗祖一遍があげられるが、時宗の歴代宗主も遊行上人と呼ばれる。すなわち諸国を巡り民衆の念仏教化をする時宗の僧ということである。彼等は中世を通じて遊行回国(かいこく)し、民衆に名号札(ふだ)(「南無阿弥陀仏決定径生(六十万人)」の札)を手渡したり、念仏踊りを通じて民 衆に接している。札を受けることによって極楽往生を約束してくれる上人は、人々にとってはまさに生き仏なのである。このような遊行上人に対して、中世領主はいろいろな保護を与えている。
仏の布教 
念仏は7世紀前半日本に伝わったが、それが流布するのは平安中期以降である。  
「天慶より以往、道場聚落に念仏三昧を修すること希有なりき。如何に況んや小人愚女多くこれを忌めり。上人来りてのち,自ら唱え他を唱えしめ,その後世を挙げて念仏を事とせり。誠にこれ上人の衆生を化度するの力なり」 。  
日本に定着した念仏は、民俗浄土教と純正浄土教という二つの流れを形成した。  
民俗浄土教 / 土俗信仰と習合して呪術的性格を帯びた念仏の流れ〈葬送念仏、六斎念仏 虫送り念仏等)。  
純正浄土教 / 思想的に純化せられ、末法の時代の凡夫救済のための易行他力の念仏を説く流れ。中国で深化し、日本では法然が承安5年(1175〉浄土宗を開宗して、日本の純正浄土教を確立する。浄土真宗を開いた親鸞はこの法然の直弟子。同じく一遍も法然の直弟子であり、西山浄土宗を開いた証空の孫弟子に当る。法然、親鸞、一遍共に念仏門(浄土門)に立つ。  
法然・親鸞と一遍の念仏布教の違い  
法然は財産として若干の土地家屋を所有した。親鸞は物財は所有しなかったが、妻子を所有。そして所有には定住が不可欠である、一遍は財産・妻子なにもかも捨てて無所有(捨聖)に徹したから、一所不住の遊行生活を送ることができた。  
法然・親鸞の布教は定住型 / 農耕民・都市民・弥生人の系譜。  
一遍の布教は一所不住型 / 山人・狩猟採集民・縄文人の系譜。  
法然・親鸞は共に定住型である。かれらは一所に定住し、教えを求めてそこを訪れる人々に法を説いた。説法と著述活動がその布教方法であった。法然・親鸞のような思索家とは異なり、一遍は行動の人であった。鎌倉仏教の展開のなかで法然が提起し、親鸞、証空らが哲学的に深めた念仏信仰を、民衆の底辺にまで広めたのが一遍であった。両者の布教に違いがあるのは当然といえよう。  
一遍はその布教を賦算に託した。賦穿とは「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」と刷られた念仏札を配り歩くことである。けれども見方を変えれば、それは単なる護符・呪符信仰、物神崇拝の類いかもしれない。少なくともそれは法然や親鸞にとって無縁な布教方法であった。けれども民衆には念仏往生を約束する物的証拠が必要だという一遍の思いが、かれを賦算に駆り立てたといえよう。だから一遍は「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず」、念仏札を賦算して歩いた。その賦算は貧富、貴頗,男女の差別なく、乞食や非人、癒者にまで及んだ。念仏を社会の底辺まで運ぶには、賦算が説法や著述よりもはるかに有効な方法だったのである。  
とはいえ念仏布教は困難な道である。より多く賦算するにはより多くのひとに出会わねばならない。だから賦算と遊行は一体である。賦算には定住よりも遊行が勝るのだ。遊行とは異なり、踊り念仏の始まりは自然発生的である。けれども始めてみれば、それもまた人集めになんと有効な方法であったことか。  
念仏停止の弾圧以後、各地に逃れた法然の高弟たちはそれぞれ一派を形成(証空「西山義」聖光「鎮西義」季西「一念義」長酉「諸行本願義」隆寛「多念義」親鸞「一向義」〉。かくして法然浄土教は諸派に分裂してやがて消滅していったが、そのなかにあって証空の西山派と重光の鎮西派だけが、天台宗の付属宗となることによって弾圧をまぬがれた。  
法然浄土教は再三の弾圧によって四分五裂した。そのなかにあって一遍の布教とその後の遊行上人の回国は時宗を盛り上げ、室町初期にはついに、時宗教団が庶民仏教の頂点に立つ〈阿弥文化の盛行〉。けれどもその時宗も室町中期から応仁の乱を境に急速に衰退するや代わって勃興してきたのが、蓮如率いる浄土真宗である。
専修念仏と融通念仏 
専修念仏は、法然上人によっていきなり作られた、阿弥陀信仰の極限形です。阿弥陀仏が法蔵菩薩だった頃の誓願に着目し、もし阿弥陀仏が「仏」としてあるならば、必ずこの誓願を果たしてくれるだろうという絶対他力の救済を信仰することで成立する浄土教です。必要なのは、「絶対他力の信」であり、この現世での行いは悪人・善人問わず救済されるという非常に明快な宗教です。後には親鸞聖人に受け継がれ、法然上人・親鸞聖人の門下が教団を作って大きくしたために現在までの日本に多大なる宗教的影響を与えました。 
対して、空也上人は「市聖」「阿弥陀聖」と呼ばれた平安中期の仏教者で、在俗の修行者として諸国を遊行遍歴し、阿弥陀仏の名前を称えながら各地で道を開いたり、井戸や池を掘り、橋を架けて、野原に遺棄された死骸を火葬にするなどの救済事業を行いました。36歳の時には京都市中に入り乞食して集めた施物を貧民に与えました。46歳の時に比叡山に上って受戒すると、貴族の外護なども受けるようになりました。同時代には恵心僧都源信などがおり、彼らは哲学的に高度な浄土信仰を貴族層などに広めておりましたが、空也上人は庶民の間に入って情動的・狂躁的な信仰を広めました。千観上人などは、正面からその影響を受けて野に下りました。 
融通念仏は平安時代末期にかかる良忍上人が阿弥陀仏の直説として感受した「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行 是名他力往生 十界一念 融通念仏 億百万遍 功徳円満」という偈をもって、自他の念仏が融通して円満なる功徳が満ちることを説き、日課として口称念仏するべきだと勧めました。融通念仏は宗派としての勢いはその時々にあって盛衰を繰り返したため、なかなか資料も伝わりませんが、現在の融通念仏宗は鎌倉時代の法明や江戸時代の大通が出て、広めたのが元となっております。大阪市平野区の大念仏寺を総本山とします。 
そして、融通念仏は各地に関係を持っていた寺社がありました。融通念仏が寄付を募る手段として有効だった事があるためです。融通念仏者は各地を旅し、一種の漂泊の民になることから、多くの霊力を身に着けた「聖」としてみられていました。この霊力を頼みに人を集めていたようです。寺社はそれを融通念仏者に依頼し、融通念仏者もそのことによって大手を振って各地の寺社で「興行」を打つ事が出来ました。結果として、融通念仏が行った寺社の祭神が同時に融通念仏の守護神になったようです。 
こういったことがあったので、一遍の伝記上にも多くの神が登場し、一遍に道を知らせます。結果、これらの説には、法然-親鸞の系統に見るような専修念仏のラディカルさは見えず、思想的にはかなりの相違を見ることが出来ます。13歳の春に筑前太宰府にいた法然の孫弟子聖達に就いて出家しました。それから12年間、浄土教の勉学に励んだそうですが、36歳の時、四天王寺や高野山を経て熊野に詣でて神託を受けます。これ以降はより一層「南無阿弥陀仏」と称えながら神社のお札のような「念仏札」を配ります。後には時宗の祖とされる一遍聖人ですが門弟達には「神明を重んじよ」と説きました。「一遍上人語録」には熊野権現や大隅正八幡宮や北野天神などの結縁があった事が示されています。
称名念仏  
善導は憶念(念ずる)と称名(称える)とは同一であると主張して、称名念仏を勧めた。観想念仏のように阿弥陀仏や浄土を心の中でイメージ化する瞑想は特に必要でない。したがって、特別な修行や浄土を観想するための建築空間(寺院・堂)や宗教美術(仏像・仏画)は不要となり、時間と空間を問わず誰でも称名念仏できるため、幅広い層の民衆に対する浄土教の普及に貢献した。 
日本天台宗の円仁(慈覚大師)は、入唐の際に五台山竹林寺を訪れて法照の流れを汲む念仏を日本に持ち帰った。これは五会念仏とも五台山念仏ともいわれ、独特の声明による称名念仏が特徴である。これが日本の称名念仏の源泉となった。 
称名念仏の流れは、平安時代末期の日本において、融通念仏の祖の良忍に受け継がれ、その後の融通念仏宗では「南無阿弥陀仏」と称え、「大念仏」という。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて法然が開いた浄土宗では「南無阿弥陀仏」をひたすら称える「専修念仏」を行い、同系宗派の親鸞の浄土真宗にも受け継がれている。室町時代に天台宗から生じた天台真盛宗は、円戒と称名念仏を主にしている。
民間念仏 
中国浄土教においてすでに念仏の口称性が強調され、教理の面でも口称性の理由が深められていたが、民間の布教される側からみると念仏は同じことばの繰り返しという、呪術的言語にも似た、ありがたいことばであった。日本でもすでに奈良時代から浄土教の教えが入ってきていたが、平安時代になって民間に滲透したのは空也を始めとする念仏聖たちの活躍による。 
この念仏聖たちは六波羅蜜寺の空也像にみるように鉦(かね)をたたき、鹿の角の杖をつき、ひたすらに六字の名号を称えることにより往生することを説いた。空也を祖とする念仏行者・阿弥陀の聖と称する人々はほかにも多くいて、山林で修行をし、さまざまな霊験を行った。この念仏聖たちの伝統は鎌倉末期に出た一遍上人によって始められた時宗の徒によって引き継がれ、近世にいたるまで、鉢扣き・茶筅などの念仏系の聖として放浪する。 
一遍は遊行という型で全国を歩く一方、念仏を感得し、歓喜のうちに踊り始めたという踊り念仏をひろめた。これらが芸能化し、さまざまな念仏踊りが成立する。念仏の民間の定着には、念仏聖や時衆の徒のような、シャーマニスティックな民間宗教者の働きがあった。一方受け入れる側の民衆にも、念仏を唱えれば病気が治る、災害からまぬがれることができるとする信仰があった。とくに御霊や怨霊の祟りによって病気や災害がもたらされると考えた時代には、その御霊や怨霊を念仏で無事往生させて災厄を防ぐとしたため、念仏が民俗行事や民俗芸能に多く入るようになった。死してまもない新仏を送る、盆行事に念仏芸能が多いのは当然であるが、 他に虫送り・雨乞いなどの災厄除けの芸能にも念仏が用いられる。  
踊念仏・念仏踊・盆踊 
踊念仏の系譜  
一遍の念仏勧進は融通念仏によったものであるといわれる。だから、熊野で「融通念仏すゝむる聖」といわれたのである。融通念仏は、良忍が天台教学を身につけ大原の山中にいて声明による念仏をひろめようとした。これに対して一遍は民衆の中にいて民衆とともに往生の機を得ようとしたのである。これは空也に近い。一遍は「空也上人は吾先達なり」といっている。歴史的に踊り念仏のおこなわれた寺について見ると、七条金光寺・四条金蓮寺・大炊道場聞名寺・五条御影堂新善光寺・丸山安養寺・霊山正法寺・大津荘厳寺などがあり、時宗の寺僧が踊念仏をおこない、大津荘厳寺の法事には東山法国寺の僧が行っている。また四条坊門極楽寺の空也像の前では毎日踊念仏があった。その他では京極光明寺では宇津宮弥三郎朝綱持仏の阿弥陀開帳があり、大阪四天王寺の短声堂では大念仏を修していた。いま踊り念仏・念仏踊の多くは盆を中心にしておこなわれているが、京都では彼岸におこなわれることが多かったという。  
踊念仏のひろがり 
「一遍聖絵」では最初の小田切の里での踊念仏を別にすれば、念仏踊をおどっているのはすべて僧尼であり、一般民衆はこれを見ている。前述の諸寺におこなわれる踊り念仏・念仏踊も僧尼が踊ったとある。それが次第に民 衆の間で踊られるようになる。「融通念仏縁起」にも念仏踊のさまが描かれているが、この方は俗人も踊っている。そして寺の本尊のまえで踊っていて、舞台はつくられていない。「融通念仏縁起」の版本は明徳2年(1391)良鎮によってつくられ、肉筆本の方は応永21年(1414)につくられ、版本にしたがって描かれたもののようである。両本とも室町のはじめに描かれたもので、この頃になると、俗人も踊に参加しはじめていた事がわかる。こうして僧から俗へと除々に踊が拡大浸透していったもののようである。  
盆踊りの原点  
「踊り念仏」 
「踊り念仏」の特徴は、集団で「とんだり、跳ねたり」するという点にあります。このような踊りは、参加者に恍惚感と自己開放をもたらすものです。「踊躍」(ゆやく)と「念仏」を合一化し、心身の跳躍を通じて「法悦」を得るというのが一遍の踊り念仏の考え方です。「とも跳ねよ、かくても踊れ」と喝破した一遍の思想からすれば、この「とんだり跳ねたり」して踊るということ自体が、一遍の踊り念仏の原点と考えることも可能でしょう。 
「ともはねよ かくても踊れ こころ駒 みだのみのりと きくぞうれしき」(一遍)  
「踊り念仏」と「念仏踊り」 
「踊り念仏」は、もっぱら「ナムアミダブツ」あるいは「ナモデ」というような「念仏」を唱えながら踊りました。これに対し、念仏を唱えるかわりに歌を唄うようになったものが「念仏踊り」です。誰もが参加できるという参加性の高さが「念仏踊り」の特徴になります。  
振りをそろえる意味 
みんなで手振り足ぶりを揃えて踊るというのは、実は踊り念仏の大変重要な条件です。一人でも宗教的エクスタシーに入れるのは「シャーマン」です。これに対して、集団を宗教的エクスタシーに持ち込むには、みんなで一緒に振りをそろえて踊る「踊り」が重要になるのです。  
踊り念仏の源流と展開  
源流は叡山の「常行念仏」 
集団で繰り返し踊るというパフォーマンスをずっと昔に遡ってみると、平安時代に始められた比叡山の「常行念仏」が一つの源流であると考えられます。これは、叡山東塔や西塔の「常行堂」という施設の内部で、僧たちが念仏を唱えながら阿弥陀仏の周囲をぐるぐる行道してまわるという修行の一種です。  
「空也」民衆への展開 
山上の寺院堂内で行われていた念仏修行を、はじめて京都のまちなかの民衆の間に持ち込んだとされるのが空也上人です。空也の踊り念仏は、京都の六波羅蜜寺や空也堂に伝えられ、「鉦たたき」「鉢叩き」のような芸能者の手によって、全国に広まっていきました。  
「融通念仏」の集団性・参加性 
次に重要になるのが、平安時代末期に始まる「融通念仏」の潮流です。「融通念仏」は複数の人間が念仏を唱えてその効果をお互いに享受するという考え方です。このため、大勢で唱えるという集団性・多数参加性が、次第に重視されるようになりました。  
念仏の「行動化」 
「融通念仏」はまた、踊りという芸能へと展開する契機を含むものでした。融通念仏には、座って唱える「座行」と、立って唱える「立行」の2つのタイプがありますが、集団で行われる「立行」は、踊りにかなり近い形であるといえます。拍子を揃えて念仏したり行道しているうちに、自然に踊りへと変化していくこともあったのではないでしょうか。集団で念仏を唱えるという行為そのものが、踊りに展開する「行動化」の契機をはらんでいたといえます。  
「一遍聖絵」にも書かれているように、やはり空也の踊り念仏が一遍の踊り念仏の前身と捉えてよろしいのではないでしょうか。
念仏踊 
念仏踊あるいは踊念仏は、空也念仏・鉢叩・大念仏・六齋念仏などの名称で各地で呼ばれることもあるが、いずれも念仏や和讃の唱文を唱え、鉦や太鼓などではやしながら多くは輪になって踊ることである。空也・一遍などによって始められ念仏僧によって各地にひろめられたといわれているが、元来は古来の悪霊を追い払うための踊りが、浄土信仰の念仏の行と結びついたものであるとされる。したがって、古代より各地の村々で行われていた伝承的な民俗舞踊の流れの上に仏教的な理念が加えられたとみてもよい。 
旧仏教からは念仏踊は、むしろ仏教をおとしめるものだとの非難もあったが、中世以降は京都では鎮花祭と融合したりして代表的な民俗芸能へと発展していった。一遍上人絵詞などに伝えられる念仏踊は、都の人々などが集まる場所に屋台をつくって、そこでまず念仏僧が踊ってみせるという形であった。それがしだいに芸能化し興行化していくことになり、16世紀から17世紀には、鉦と黒塗笠をもって歌舞するようになり、願人坊踊・放下(ほうか)踊・みろく踊・けんばいなどさまざまな形になって全国各地に派生し発展していった。出雲の歌舞伎踊も念仏踊をもとにしたものである。 
空也と念仏踊 
空也は平安時代中期の僧で、浄土教を民間にひろめ念仏踊を民衆にすすめたといわれている。空也は若くして優婆塞(うばそく)となり修行をして20歳で出家、沙弥名を空也とした。空也は 「南無阿弥陀仏」を唱えることで自らの布教をはじめ、民衆は空也のことを阿弥陀聖と呼んだ。念仏によって囚人の教化にあたったり、疫病が流行すると募財して観音像や梵天帝釈・四天王像をつくった。また、大般若経を書写して願をかけた。 
当時は念仏を唱える人は、村落などではまだ少なかった。子供や女たちなどはむしろ念仏を唱えることを忌むこともあったといわれる。しかし、空也がそうした村落の人々に念仏信仰を布教するようにすすめ、自らが念仏を唱えると人々はともに 「南無阿弥陀仏」を唱えはじめたと伝えられる。 
仏の相好(そうこう)あるいは功徳(くどく)を念ずる観念の念仏から、称名念仏の教化につとめた空也にまつわる伝説は、六波羅蜜寺や空也寺などにおいて語られたが、空也の念仏布教でとりわけ重要なものは念仏踊である。空也の念仏踊は、彼が日ごろから親しんでいた鹿が、平定盛という侍に射殺され、それを悲しんだ空也が、鹿の皮をかわごろもとし、その角を鹿杖(ろくじょう)として、殺生の業を悔いて改めた平定盛とともに念仏踊を始めたと伝えられている。 
空也は天台宗の僧であったが、この念仏踊によって、民衆のなかに念仏信仰をひろめていくことにつとめた。文字も読めず、仏教・教典の知識にすがることなどまったくかなわない貧しい民衆にとって、ひたすら念仏を唱えること、念仏踊という形のなかに宗教的な救いを求めることができるのは願ってもないことであった。空也によって念仏踊は各地にもたらされ、日本における民間宗教の一つとして発展し、念仏踊はさまざまな地方の民俗的伝統のなかで土地の芸能となっていった。 
念仏講 
念仏を修する信仰者たちの会合のことである。念仏講の講は、そもそも経論の講説のことであるといわれており、仁王講や法華八講などが代表的なものである。念仏を修し唱える人々の会合・結社は、平安中期以後に、称名念仏が民衆のなかに広く受け入れられるようになり、念仏踊などが行われるようになるころに多くつくられた。往生講・迎講と呼ばれる講などがひろがって行った。念仏信仰の普及とともに、こうした念仏講も数を増し、その種類もさまざまになり、浄土宗における別時念仏、あるいは真宗における報恩講なども念仏講の一種であるとされている。念仏講はやがて説教を聞き念仏を唱える集りから娯楽的・習俗的になった。  
経済・社会 
荘園体制 
鎌倉時代の社会の基盤は荘園体制であり、荘園領主、在地領主の二元支配を特色とする。農民には名主(みょうしゅ)、作人(さくにん)、下人(げにん)(所従(しょじゅう))などの階層があり、年貢、公事(くじ)、夫役(ぶやく)などの税が課せられ、名主はその負担責任者であった。作人は荘園領主や国司(こくし)に対し租税を負担するほか、小作料としての加地子(かじし)を在地領主や名主に納め、下人は在地領主、名主などに隷属し、彼らの直営地の耕作に駆使された。荘園制では、同一の土地に対し、領主的、農民的な多様の権利が行使され、それらは本所職、領家職、領所(あずかりどころ)職、下司(げし)職、地頭職、名主職、作職などの「職」として表現され、排他的な土地所有は存在しなかった。地頭が置かれても、その権限や得分(とくぶん)は前任者のものを継承したから、荘園領主は打撃を被らないはずであったが、荘園領主は地頭の任免権をもたなかったし、地頭は農村に館を構え、所領を直接経営し、年貢を押領(おうりょう)し、農民支配を強め、荘園侵略を進めていった。荘園領主側は現地の管理を地頭にゆだね、定額の年貢を確保する地頭請(うけ)、一半の地を地頭に与え、荘園領主、地頭が互いに相手に干渉せず、所領を経営する下地中分(したじちゅうぶん)などの解決策をとった。いずれにしても、こうして荘園領主、在地領主の二重支配は一元化する傾向がみられた。  
諸産業の発達 
鎌倉中・後期には農業生産が大いに向上した。荘園の複雑な支配関係は、灌漑(かんがい)用水の円滑な利用を妨げたが、水車や用水池の利用も盛んになった。それらは名主・地頭の指導によるものであったが、多くの農民も参加した。苅敷(かりしき)(苗草(なえくさ))、草木灰(そうもくばい)などの肥料も利用され、牛馬を耕作に使用することも多くなった。農業技術の改良で農業生産は向上し、生産地帯では米・麦の二毛作が行われるようになった。農業生産の発達は農民の地位を向上させ、下人の独立、作人の名主への成長、名主の領主化がみられ、荘園制の基盤を動揺させた。 
農村では農業のかたわら手工業製品を納めたり、手工業のために領主に労役を提供する農民もいた。高度の手工業技術者は、貴族・寺社の保護下に座をつくっていたが、農業生産が発達すると、農村でも専門の手工業者が現れ、一般庶民の需要にも応じるようになった。とくに鍛冶(かじ)・鋳物師(いもじ)が活躍し、農具や日用品を民間に提供した。農業や手工業の発達につれ、荘園の中心、交通の要地では定期市(いち)が開かれ、在地領主や名主が年貢米を銭にかえたり、物々交換を行ったりした。行商人によって、中央の製品は地方にももたらされた。都市では常設の小売店舗として店が現れ、専門商品別の店も増えた。京都や鎌倉では町という商業地域が生まれた。物資輸送もしだいに発達し、馬借(ばしゃく)、車借(しゃしゃく)など専門の運搬業者が現れた。得宗被官や律宗の僧侶(そうりょ)によって港湾施設が整備され、また淀(よど)川などの河川や港湾には問丸(といまる)が発達した。彼らは最初は荘園領主のために運送、保管、委託販売にあたったが、しだいに領主から離れた独立の運送仲介業者となり、一般商品を扱うようになった。宋(そう)との貿易によって、宋銭が広く流通し、貨幣の使用が増すと、年貢は地方の市で銭にかえ、中央の荘園領主に送られることが多くなり、代金決済の方法として為替(かわせ)も始まった。借上(かしあげ)という金融業者も現れ、民間の相互扶助的な金融としては頼母子(たのもし)(無尽(むじん))が行われた。  
文化 
鎌倉時代、とくにその前期には武士の文化水準は低く、依然として貴族文化が盛んであった。武士の台頭は、情緒的で優美な貴族文化に、意志的で剛毅(ごうき)な武士の気風を吹き込み、貴族文化の革新をもたらした。武士も貴族文化を摂取して文化水準を高めた。寺院の勢力は強大で、仏教の占める位置は大きかった。とくに新仏教の興隆などによって、仏教は庶民 生活のなかに入っていった。中国との交渉で、禅宗をはじめとする宋元(そうげん)文化が輸入されたことは、幕府上層を中心とする武家文化の向上に大きな影響を与えた。
風俗・生活 
衣服 
平安時代に下級の役人が着用した狩衣(かりぎぬ)・水干(すいかん)は武士の正装となり、武士は平素は直垂(ひたたれ)を着用した。上層農民、有力商人も直垂で、庶民は小袖(こそで)に括袴(くくりばかま)を用いた。豪族の女性は小袖に袿(うちき)や打掛(うちかけ)を着用、平素は小袖の着流(きなが)しであった。庶民の女性は、小袖に褶(しびら)(腰裳(こしも))か、小袖着流しが普通であった。被(かぶ)り物では一般に烏帽子(えぼし)を用いたが、一部ではなにもかぶらない風習もあった。髪型は普通髻(もとどり)が行われたが、身分によりさまざまであった。女性は市女笠(いちめがさ)をかぶったり、被衣(かずき)を羽織ったりした。従来、はだしであった庶民も、足駄(あしだ)や草履(ぞうり)を用いるようになった。衣服、被り物、髪型は身分によって異なっており、ある種の身分標示として機能していた。  
食物 
食事は1日2回が原則であったが、労働の激しい人々は、1、2回の間食をとった。貴族社会では食生活が形式化し、故実(こじつ)が生まれたり、動物性食品を忌む風習がおこったりしたが、庶民の生活はこれとは関係なく、貧しいながらも健康なものであった。彼らは米穀のほか、雑穀や芋類をいっしょに煮炊きし、山野河海からとれるすべてのものを食用に供し、主食と副食との区別は困難であった。調味料は塩、酢、味噌(みそ)、煎汁(いろり)(カツオなどを煮つめた汁)を用い、甘味料には飴(あめ)、蜂蜜(はちみつ)、甘葛煎(あまずらせん)(葛草(つるくさ)の煮汁)、干柿(ほしがき)の粉があった。貴族が飲む酒の種類は増えたが、庶民の酒は濁(にごり)酒であった。旅行の際には、焼米(やきごめ)、糒(ほしいい)、干物(ひもの)、海藻などの保存食を用いた。  
住居 
貴族は前代からの寝殿造(しんでんづくり)の住宅に居住した。武士の住居は、高台や交通の要地に建てられ、周囲に堀、土塁、垣根を巡らし、堀の内、土居(どい)とよばれた。主人である武士の居室(主殿)を中心に、警固の武士が詰める遠侍(とおざむらい)のほか、厩(うまや)、櫓(やぐら)など武士の生活に必要な設備を備えていた。屋根は萱葺(かやぶ)き、板葺きで、主殿にも一部しか畳を敷いていなかった。京・鎌倉などの町屋は切妻(きりづま)の板葺きが多く、内部は板の間、一般農民の家は掘立て小屋で、土間に籾殻(もみがら)や藁(わら)を敷き、上に蓆(むしろ)を敷いており、屋根は萱葺き、藁葺きであった。  
芸能・娯楽・俗信 
都市の祭りは華麗の度を加えた。村落でも名主(みょうしゅ)を中心とする座の神事が行われ、さらに多くの村人も加わるようになり、都市の祭りが農村にも受け入れられた。芸能の主流を形成したのは、身分的に賤視(せんし)された人々である。琵琶法師(びわほうし)は琵琶にあわせ 「平家(へいけ)物語」などの語物(かたりもの)を語った。白拍子(しらびょうし)は歌舞を演じた。鎌倉後期にはそのなかから曲舞(くせまい)がおこり、能楽(のうがく)の形成に影響を与えた。田楽(でんがく)や猿楽(さるがく)も盛んで座をつくって上演し、のち能(のう)・狂言(きょうげん)に発展した。貴族が独占していた遊戯も庶民に広まり、大陸から伝わっていた囲碁(いご)、将棋(しょうぎ)、双六(すごろく)も盛んになった。とくに双六は貴族から庶民まで行われ、賭博(とばく)化したため、幕府や朝廷はしばしば禁令を出した。また民間では印地打(いんじうち)(石打)がおこったが、争闘となって禁止されることもあった。出産は坐産(ざさん)で、妊婦が腹帯を巻く習慣もあり、宮参(みやまい)りも行われた。育児には乳母(めのと)、里子(さとご)、子守など、他人の助力を借りることもあった。成人の儀にあたり、武士などでは烏帽子親(えぼしおや)をたてる習俗が普及した。葬制については、民間では死体遺棄に近いことも行われたようで、葬地と離れて別に祭地を設け、そこで供養を行う風習があったと思われる。  
鎌倉時代の庶民 
惣村の形成と土一揆 
鎌倉時代後期、近畿地方やその周辺部に新しい形の農村が作られた。加持子(かじし)という地代を取る地主になりつつあった名主たちだけでなく、新しく成長してきた小農民をも構成員としていて、村の神社の祭礼や農業の共同作業などを通して結合を強くしていった。この村は寄合という村民の会議の決定にしたがって、おとな・沙汰人と呼ばれる指導者によって運営されたが、惣百姓と呼ばれた村民は自らが守るべき規約である惣掟を定めたり、村内の秩序を維持するために警察権(地下検断[じげけんだん])を行使することもあった。このような自立的・自治的な村を惣(そう)とか惣村(そうそん)と呼んだ。この惣村は、山や野原などの共同利用地(入会地)を確保し、灌漑用水の管理なども行うようになった。また、領主へおさめる年貢などを惣村がまとめて請け負う村請や地下請(百姓請)も 次第に広がっていった。 
このような強い連帯意識で結ばれた惣村の農民は、不法をはたらく代官の罷免、水害やひでりの被害による年貢の減免をもとめて一揆を結び、訴訟をするために領主のもとに大挙しておしかけたり(強訴)、要求が認められないときは全員が耕作を放棄して他領や山林に逃げ込んだり(逃散)する実力行使を行った。 
惣村を母胎とした農民勢力が、大きな力となって中央の政界に衝撃を与えたのが、正長元年(1428)の正長の徳政一揆(しょうちょうのとくせいいっき)であった。この年の8月まず近江の運送業者の馬借(ばしゃく)が徳政を要求して蜂起し、ついで土一揆が徳政を要求し、京都の酒屋や土倉などおそって、売買・貸借証文をうばった。嘉吉元年(1441)数千の土一揆が京都を占領して「代始(だいはじめ)の徳政」を要求したため(嘉吉の徳政一揆)、ついに幕府は徳政令を発布した。 
応仁の乱 
6代将軍に就任した義教(よしのり)は、幕府における将軍権力の強化をねらって、守護大名の統制を厳しくして、将軍に屈服しないものをすべて力で抑えようとした。そのため幕府と対立関係にあった鎌倉府との間が決裂し、永享10年(1438)義教は関東へ討伐軍を送り、翌年鎌倉公方の足利持氏(あしかがもちうじ)を討ちほろぼした(永享の乱(えいきょうのらん))。さらに義教は専制政治を強化したため政治不安が高まり、嘉吉元年(1441)処罰を恐れた有力守護の赤松満祐(あかまつみつすけ)は義教を殺害した(嘉吉の乱(かきつのらん))。これ以降将軍の権威は大きくゆらぎ、幕府政治の実権が有力大名に移っていった。 
こうしたなかで、約1世紀におよぶ戦国時代の口火を切った応仁の乱(おうにんのらん)が起こった。幕府の管領家畠山(はたけやま)・斯波(しば)両家の家督相続をめぐる争いと、8代将軍義政(よしまさ)の弟義視(よしみ)と義政の妻日野富子(ひのとみこ)のおす子義尚(よしひさ)との将軍家の家督相続争いがからみ、当時幕府の実権を握ろうとして争っていた細川勝元(ほそかわかつもと)と山名持豊(やまなもちとよ)がそれぞれを支援して対立し、応仁元年(1467)に戦いが始まった(*3)。戦いは京都を主戦場にしていたが、東軍が西軍の大名の本国攪乱(かくらん)戦法を取ったため、戦いは地方に広がった。戦いに疲れた両軍の間に 文明9年(1477)和議が結ばれたが、この乱により将軍の権威はまったく失われてしまった。 
この乱で守護代や有力国人が力を伸ばすとともに、地方の国人たちは混乱の中で自分たちの権益を守ろうとして、しばしば国人一揆(こくじんいっき)を結成した。文明17年(1485)南山城地方で両派に分かれて争っていた畠山の軍を国外に退去させた山城の国一揆は代表的なものであり、8年間にわたり一揆の自治的支配を実現した。このように下のものが上のものの勢力をしのいでいく現象が、この時代の特徴であり下剋上といった。また、 長享2年(1488)に起こった加賀の一向一揆もその1つのあらわれであった。本願寺の蓮如の布教によって近畿・東海・北陸に広まった真宗本願寺派の勢力を背景に、加賀の門徒が国人と手を結び、守護富樫政親を倒したもので、この後一揆が支配する本願寺領国が1世紀にわたって続いた。 
農業・商工業の発達 
室町時代の産業は、一般民衆の生活と結びついて発展した。この時期の農業の特色は、耕地面積の拡大が困難であったため、土地の生産性を向上させることが試みられた。灌漑や排水施設の整備・改善により二毛作が各地に広まりった。また水稲の品種改良が進み、各地の自然条件に応じた稲が栽培されることになった。鉄製農具や牛馬は鎌倉時代よりもさらに普及し、刈敷や草木灰などとともに下肥の肥料が広く使われるようになった。 
手工業者の同業組合である座の数は飛躍的に増加し、さまざまな生産部門に座が登場した。座は公家・寺社に保護される代わりに営業税を納める形をとり、注文生産や市場めあての商品生産も行った。また、京都・奈良を中心とする近畿地方だけでなく全国的に結成されるようになり、地方の特色を生かして特産品を生産するようになった 。 
農業や手工業の発達により、月に3回開く三斎市(さんさいいち)から、応仁の乱後は6回開く六斎市が一般化した。連雀商人(れんじゃくしょうにん)や振売り(ふりうり)と呼ばれた行商人も増加していき、京都の大原女(おはらめ)・桂女(かつらめ)などで知られるように女性の活躍が目立った。都市では見世棚(店棚)(みせだな)をかまえた常設の小売店が増えるとともに、京都の米場・淀の魚市などのように特定の商品だけを扱う市場もうまれた。 
商品経済が盛んになると貨幣の流通が著しく増えた。また遠隔地取引きの拡大とともに現金輸送にかわって、為替の利用も多くなった。貨幣は主として永楽通宝など中国からの輸入銭が使用されたが、需要の増大とともに粗悪な私鋳銭(しちゅうせん)も流通するようになり、取引きにあたって悪銭をきらって良質の貨幣を選ぶ撰銭(えりぜに)が行われた。 貨幣経済の発達は金融業者の活動をうながし、酒屋などの有力な商工業者は土倉(どそう)と呼ばれる高利貸業者をかねるものが多かった。 
海・川・陸の交通路が発達し、廻船(かいせん)の往来もひんぱんになり、交通の要地には問屋(といや)がおかれ、おおくの地方都市が発達した。また多量の物資が運ばれる京都・奈良への輸送路では、馬借(ばしゃく)・車借(しゃしゃく)と呼ばれる運送業者が活躍した。
生活 
中世の遺跡を発掘すると青磁や白磁、常滑に古瀬戸それに土師器のような土器など様々な器が出土する。つい最近までは青磁や白磁のような輸入品は高級武士の館や寺院などで使われ、一般庶民は常滑などの陶器を使い、貧しい者が土器を使っていたと思われていた。しかし、実際には都市市民が青磁や白磁を使っていたことが分かったのである。しかもこれまで賤民が使っていたと思われていた土器は、実は高級武士の酒盛りに消耗品として使われていたことも分かった。 
例えば、各地から発見される大量の埋納銭は鎌倉時代すでに貨幣経済が地方の農村にまで浸透していたことを物語っている。鎌倉の大仏は浄光という聖が庶民から集めた銭を鋳溶かして作ったと記録にあるが、実際にその一部を削って成分を分析したところ、当時流通していた貨幣に大変近かったことが判明した。更に、1975年に韓国の新安沖で海底から発見された元の商船には800万枚もの貨幣が積まれており、それらは全て日本で使われるために運ばれたのだが、あまりに重いためバラスト代わりに船底に敷き詰めてあった。少し前の宋の記録には「日本が大量に貨幣を輸入するのでデフレになってしまった」とも書かれているのだ。  
備中新見の庄には二つの市が開かれており、田畑でとれた農産物の換金が行われ、年貢の銭納も行われていた。物資は船で高梁川を下り連島で大船に移し替え京に運搬され、割符(さいふ/手形)による信用取引も行われていたという。地頭は秋の収穫の際には有力農民の労をねぎらい宴会を開いた。領家への決算報告にはその時にかかった費用を必要経費としてさっぴき、庄内で生産された鉄を相場の高いときに売ったと書き記した。実際に鋳物師がいたと思われる遺構は日本の各地から発見されている。  
「泣く子と地頭には勝てぬ」と言われていた地頭ではあるが、このように農民と融和し相場に長けていた地頭もいたのである。一遍聖絵で有名な福岡の市に見るように鎌倉時代の後期には各地で市が開かれ活況を呈していた。商品経済は我々が思っているより古くから農村にも広まっていったのである。  
地頭の横暴を示す例として、教科書でも必ず取り上げられるのが阿弖河(あてがわ)庄民の訴状であるが、「領家のために木を伐採していた農民がむりやり村に戻されて、畑に麦を蒔かないと女子供に縄を打ち、耳を切り鼻を削ぐぞ」と言う恫喝の文言の中にも、実は商品経済に関係する部分が含まれている。それは農民が農閑期に木を伐採していたということである。この木はいったいどこに行くのであろうか。 
当時日本と中国の間で行われていた貿易品で、金や工芸品と並んで主力輸出品だったのが木材である。蒙古の進入とともにその支配を嫌った人々は南に逃れ南宋を作った。しかし急激な人口増加は建材や燃料としての木の大量伐採につながり「棺桶を作るのにも事欠いた」と記録されている。そんなとき大量の木材を供給していたのが森林国日本だったのである。阿弖河庄の農民が伐りだした木材は筏を組んで川を下り、海を渡り、そして博多に集積された可能性が高い。新安沖で発見された商船も無事だったら帰りの船で中国へ木材を運んだに相違ない。800万枚の貨幣のうち何割かはその代金だったかもしれないのである。  
発掘では食糧ゴミも出土する。それによると、米麦はもちろん稗、粟、蕎麦の穀類、梅、桃、瓜、橡、クリなどの果物、鯵、鯖、鯛、鰹などの魚類、蛤、浅蜊、アカニシ、鮑、栄螺、牡蠣などの貝類、猪、鹿、鶏、兎、イルカ、馬、犬などの鳥獣家畜を食べていたことが分かっている。 
トイレとおぼしき遺構からは「糞便だった」と思われる有機物を多量に含んだ黒い土が出土する。未消化の瓜の種などと共に、中から幅2-3cm、長さ20cmくらいの箆状の木片が出土することがある。これこそが中世のトイレットペーパー、籌木(ちゅうぎ)である。鎌倉時代の人はこの籌木でウンチを拭いていたのだ。あの頼朝や義経もそうだったのであろうか。しかし、籌木の無い地域もあり、そうしたところでは一体どうやって拭いていたのだろうか。  
食事 
吾妻鏡に記述された食事関係記事と、それを裏付ける形で描かれた「絵詞」(えことば)から推測した鎌倉時代の食事について述べてみよう。 
食料の保存法 
冷蔵技術のなかった当時、生食は限られた範囲でしか行われておらず、調理法も焼く、煮る、蒸す、が主流であり、それに揚げるや煎るが希に加わる程度であった。しかしおいしく食べたい、大切な食べものは腐らせずに保存したいという気持は今も昔も変わらず、煮・焼・煎・楚割(すはやり/干して裂く)・塩引き・塩漬け・膾(なます)・黒作・干物・削りもの(鰹節など)・鮨、薫製など多彩な保存法が考えられていた。吾妻鏡には頼朝の好物が楚割であったこと、彼がもらった楚割をにちゃにちゃ食べていた様子を髣髴させ、微笑ましい。  
炊具・調理具  
鍋・鉄鍋・釜・自在鉤・五徳・竈(かまど)・擂り鉢・擂り粉木・菜箸・俎板・包丁・石臼・杓子・柄杓・貯蔵具としての大甕(おおがめ) 
※常滑・古瀬戸(特に擂り鉢は、擂る、捏ねる以外に煮るなど万能の調理具として広く普及したものである)  
流行の食事は寺院から 
「慕帰絵」には寺院の台所風景が描かれており、今日中世の調理器具や調理法を知るための好資料となっている。それによると、逗子棚には大皿や小鉢、折敷、壺などの食器がおかれ、その前で僧侶や烏帽子・直垂姿の男たちが茹で上がった素麺をザルの上に盛り、汁の入った椀にとって食べている姿が描かれている。その横では調理人がまな箸と包丁を持ち、まな板の上で魚の切り身とおぼしきものをさばいており、その横の囲炉裏ではその切り身を串焼きにしている。このように、最も進んだ料理は中国に渡った僧侶が持ち帰った寺院にあった。  
当時の食事は朝餉と夕餉の一日二食が基本であるがこれだけでは腹が持たないために、点心と呼ばれる軽食が食されるようになったのも鎌倉時代である。 
主な点心は、水繊(葛粉に砂糖を加えて火にかけて練ったもの)・饂飩(うんとん)・饅頭・素麺・棊子麺・温餅・砂糖羊羹・・・・焼き餅・興米(おこし)・粽(ちまき)・索餅(さくべい/小麦と米の粉を混ぜて縄状にねじった菓子) 。 
朝夕の食事は米飯で味噌汁に野菜の煮物、豆腐や蒟蒻の料理が寺院の主な食事であるが、時には魚や肉類が出ることもあったし、酒を飲むときもあった。 
庶民の食事はこれとほぼ同じかやや劣る程度であるが、大っぴらに肉食し酒を飲んでいたのは言うまでもない。  
当時の調味料としては「醤醢」(ひしお)がよく知られているが、これは現代の「たまり」のことである。また、「醤醢」とともに重要な調味料として「糂汰味噌」(じんたみそ)があるが、これは従来の大豆味噌に米麹と米糠を混ぜたものであり、精進料理の味付けに欠かすことが出来ないものと言われた。他の調味料としては古くからの「魚醤」があり、塩・梅酢・などともに多彩な味付けがあったことを物語っている。  
吾妻鏡などには正月や主な行事の際に「椀飯」(おうばん)なるものが記されているが、これはご馳走をさすものであって、料理の種類を表す言葉ではない。今日の「大盤振る舞い」の語源になったものであり、接待役が腕をふるって客をもてなすときの料理である。吾妻鏡の記述には「駄餉」(だしょう)という中食が度々登場するが基本的には二食であり時として点心や駄餉があったと考えていいだろう。  
お菓子の発達と砂糖の普及 
栄西による茶の紹介と普及はまず寺院から興り、ついで武士階級への普及をもたらした。同時に茶菓としての点心が普及し、やがて鎌倉時代後期になると武士階級から都市部の住人に広まっていった。宋・元から輸入された菓子には、饅頭・羊羹・棊子麺・水晶団子・乳餅(にゅうびん)などがあり、国内に入ってからはさらに「花びら餅」「撥餅」(ばいもち)「粟餅」「黍餅」「三島餅」「矢口餅」(黒上・赤中・白下)「宿世餅」(すくせもち)などバリエーションも増えた。  
高価だった砂糖も貿易が盛んになる鎌倉時代後期には徐々に一般にも流出し始め、街の辻などで商人よって砂糖入りの饅頭などが売られるようになった。日蓮聖人が信徒から寄進された「十字」(むしもち)もそうしたものの一つと考えられる。  
椀飯・駄餉 
「大盤振る舞い」の語源となった「椀飯」や弁当、あるいは昼食を表す「駄餉」は吾妻鏡の中に42箇所出てくる(椀飯21:駄餉21)。武士の生活に「質素」を求めた頼朝の死後に記述が多くなり、内容が盛大になるところが興味深いが、多くは正月や節句あるいは狩りや宴の際に有力御家人(正月三が日は北條氏による)が将軍をはじめとする高級御家人に饗応したものである。
鎌倉・室町時代 日本人は何を食べた 
源氏が京都の平家政権を倒して迎えた鎌倉時代、南北朝の内戦を経て京都に政権が戻った室町時代は、古代からの荘園制のなかで武家社会が形成され成長する時代です。蝦夷(縄文人部族)がまだ多く分布していた東北地方への侵略、奥州藤原氏との対立、モンゴル帝国(元寇)に対する防御、そして足利尊氏が台頭して南北朝時代を迎えるなどまさしく争乱の世となったのです。足利氏が両皇統合を実現し足利政権は230年も続くのですが、中期には応仁の乱があり、後半はいよいよ戦国時代、群雄割拠・弱肉強食の時代となって秩序は乱れていきます。 
平安時代の貴族、僧侶といった上流階級は形式的な食事を重視し、仏教の影響を受けて肉食を禁止した結果、食品の種類はかたより不健康な食風でした。武家の世となると玄米食と獣肉を自由に食す風潮が広がります。平家の衰亡を教訓として質素倹約に努め、栄養価の高い食生活で“もののふ”の活動エネルギーを蓄えたのです。平安時代と比べると簡素な食風ですが実際的で健康な食生活に変化していきました。武士の棟梁は地方貴族でしたが、大半の武士は農民の出身で戦時は武器を持って闘いますが、平時は土着して土地を耕作する食糧の直接的な生産者だったのです。彼らは狩りによって得た獣肉はそのまま彼等の食料としていたので、貴族が嫌がろうとも気に止めず、洛中の寺院の境内で公然と肉食の宴を開いたりしたそうです。 
新仏教や禅宗も登場し、次第に貴族や僧侶の方が武士に感化されていき、獣肉を食すことは禁忌ではなくなってしまいました。この時代は食材が多様化し、近代まで日本人が食してきた材料がほぼ出揃います。また調味料や料理技術も進歩して生物、汁物、煮物、煎り物、炙り物、蒸し物、漬物といった「和食」の基本的なカテゴリーが生まれ、料理の専門家、流派が登場します。 
食品材料 「清良記」「庭訓往来」の記述から 
【穀類】米、大麦、小麦、大豆、小豆、粟、稗、黍 
【野菜】茄子、瓜、大根、牛蒡、芋、蕗、茗荷、薊(アザミ)、芹、茸 
【果物】栗、柿、胡桃、梅、李(すもも)、桃、山桃、枇杷、杏、梨  
【柑橘類】柑子(こうじ)、橘、蜜柑、柚子、橙、金柑、石榴、棗(なつめ)、苺、百合、椎、銀杏、樫  
【海藻類】若布、青海苔、海苔、アラメ、もずく 
【魚類】鯛、鯉、鮒、鰈、鰹、鮭、鱒、鯵、烏賊、蛸、トビウオ、イシモチ、鮑、サザエ、蛤、海豚、海月、海胆、鮠 
【鳥類】山鳥、ツグミ、ウズラ、雉 
【獣類】兎、猪、鹿、熊、狸 / 牛馬は農耕の労働力だったので食用にされなかったらしい。  
【薬味】山葵、芥子、生姜、胡椒、胡桃 / 胡椒は室町後期に琉球から輸入された。 
調味料 「庭訓往来」の記述から 
塩、酢、酒、醤、飴、甘煎葛(あまずら)、蜂蜜、果実粉。醤のうち穀醤系のものが味噌⇒嘗め物に使われた。醤油は室町時代に分離して普及する酒も調味料だった。酒かすに漬け込む粕漬けはこの時代に興った。そして砂糖が室町時代の上流階級で甘味料として重用されるようになる。 
調理法 
【飯・粥】強飯(米を蒸した飯≒おこわ)が中心、姫飯(米を釜で炊いた飯)は僧侶だけ。精白米は公家階級の一部だけ。庶民は米飯をほとんど食べられず、粟、稗と副菜(野菜)という食事が一般的だった。 
【副食】生食、焼き物、煮物、蒸し物、茹で物、羹(あつもの)、汁物、にこごり、嘗め物、醤、漬物、干物、鮨。干物や餅などの保存食も多く登場する。食の多様化に加え、この時代の特徴は「戦陣食」の形成と「一日三食制」の発生です。 
【戦陣食】玄米を携行し、手拭で包み水にぬらして地に埋めてその上で火を炊いて飯を作ったそうです。また屯食(おむすびの原型)と呼ばれる焼いた握り飯を竹の皮や木の葉に包んでよく携帯した。(「吾妻鏡」より)また糒、焼き米、梅干、味噌、塩、胡麻、鰹節、麦焦がしなどを携行しています。餅類、干魚、塩魚など保存食が発達したのも戦場での食事の必要からだったのでしょう。 
【一日三食制】鎌倉時代に順徳天皇は三度食事をした(「禁秘抄」「海女藻芥」)とあるが後醍醐天皇の「日中行事」には二食となっており、宮中の原則は二食だったようです。僧侶は元来一食のみでしたが間食を取るようになり、菓子などを食べていました。12世紀の末ごろになると比叡山の山法師、興福寺の奈良法師は三食となっていて僧侶が先行して三食制に移行したようです。(「古今著聞集」より)武士は平時はニ食が普通。(但し分量は三食に相当する量をとっていたようです。)ですが、戦場などでの労働の激しい時には三食を取るようになった。昼食の習慣は僧侶からの影響を受けたと考えられますが、戦乱の続く世にあって慣習化し平時でも三食制となっていきました。やがて京都の公家も感化され、室町時代に三食制が一般化します。 
 
米の収穫量が上昇して米が常食になったとされています。たしかに公家、僧侶、武士は米を常食とするようになりました。農民でも一部の裕福な農民は米を常食としたようです。しかし、私権時代を通して、支配者階級と被支配階級の差は明白です。中世の世においても公家、僧侶、武士はたびたび酒宴をもよおし、食生活を楽しむ機会に恵まれていたのに対し、彼らに種々の生産物を提供していた農民の食生活は前代からほとんど変化していません。蓮如上人が奥州地方に下向し、大農家でもてなしを受けたとき「日ごろ食するものをこしらえよ」というと、農家の主は稗粥(ひえがゆ)を出してきたという。(「空善記」) 
大多数の農民は米を生産していながら相変わらず米を食することは出来なかったというのが事実ではないでしょうか。
貴族と武士と農民の食事の違い 
食事の差で決まったといわれている源平合戦 
1185年の壇ノ浦の合戦では源氏と平氏それぞれ日頃の食生活が関係しているといわれている。源氏方についた武士たちが栄養のバランスのとれた食事をしていたのに比べ、平氏たちは、貴族風の食生活をしていた。その食事は栄養のかたよったものだったので、両者では体力に大きな差があったというわけだ。 
鎌倉時代の貴族の食事(上の位の武士) 
強飯(むした米)、魚貝類や野菜などに、塩などの調味料があって、それを自分の好みで味付けして使っていました。食品の種類も多かったが、保存食が多く栄養がかたよっていました。魚貝類や肉類の多くは、遠方から都に届くため、干物などに加工してあることが多かったようです。食事が形式化して毎日同じメニューが続いたり、食物への迷信(例/乳製品と魚を一緒に食べると腸に虫が生じるなど)などもあって、栄養がかたよった不健康な食事になりがちでした。 
一方、庶民の食事は質素でしたが、玄米飯に自分たちでとった新鮮な肉なども食べたので、貴族に比べ健康だったようです。  
早死にだった貴族 
平安貴族は、消化の悪い、栄養の片寄った食事をしました。その上室内中心の生活で運動不足だったことから、不健康でした。貴族たちの多くが、栄養失調や皮膚病、結核、脚気、鳥目などの病気になりがち早死にするものが多かった。貴族が全盛期を迎えた、平安時代中期、貴族の推定平均寿命は、男性が50歳、女性が40歳でした。  
農業 
鎌倉時代は全体的に今よりも3-4℃気温が低く小氷河期時代とも呼ばれている。この時代はビニールハウスなどがあったわけではないので、天候によって農業が大きく左右された。貴族は平安時代からもともと食べ物が豊富だったが(京都という日本の中心地にいるので)下地中分ができてからというもの、貴族に入ってくる年貢は少なくなったので、少し質素になった。その分武士の取り分が増えた。余った米などは戦に備えた兵ろう米に、売って戦のための武器を買ったりするのに使ったこの時代の経済の基本は農業であった。貴族>武士(上の位)>武士(下の位)と、武士の下の位の人達はほとんどが農民で、稗(ひえ)や粟(あわ)を食べていた。  
悪党・海賊 
百姓は農業のみに依存していた訳ではありませんでした。山野や川・海を生業の場とした百姓は少なからずいました。漁労・製塩・水上輸送・狩猟・採集・手工業生産・鉱物採取などにかかわる人達はたくさんいました。その食べ物も米のほか麦・豆・粟・稗・蕎麦など多彩でした。 
米・絹・布は神に捧げるとともに交換手段となり、百姓は市庭(いちば)において鍋・釜・鋤・鍬等の鉄製品、陶磁器、衣類。刀・弓の武器等と交易を行いました。市庭は海辺と内陸との交易の場として、また浜・川原・中州・坂などの自然の接点の場に立ちました。 
市庭に定住する人々や酒屋や借上などが増え、都市が形成され始めました。宋から流入した銭貨も市庭で流通するようになり、市が開かれる日に市庭を様々な商人が巡り、仮屋に店を開いて周辺の百姓と交易を行いました。 
西国において、鋳物師は天皇家に直属し、魚貝売りの中には天皇家の供御人や、神社の神人が見え、油売りの多くは岩清水八幡宮山崎神人でしたし、神人の塩売りもいました。職能人の多くは人の力を超えたものとして、天皇や神社に直属し、神人・供御人・寄人として市・渡・津・泊の通行税を免除される特権を持っていました。彼らは広く遍歴して交易に従事しました。 
これら職能人の遍歴を支えたのが廻船人で、西国の廻船人は神人・寄人となり、年貢の輸送とともに広域の交易に従事しました。 
神人・寄人の中には借上といわれる金融に携わる者もいました。山僧と言われる延暦寺の下級僧侶や、熊野三山の山伏にも借上に従事する者がたくさんいました。銭貨を資本として貸付が行われましたが、神仏への初穂・上納された銭が資本となり、利息が神仏への御礼として支払われました。こうした借上や商人の中には女性が少なからずいました。 
廻船人や商工民が遍歴する浦・浜・渡・津・泊・宿には寺社が建てられ、関所が設けられました。そこを入港・通過する船は神仏への初穂・上納を関料として支払うことが義務付けられました。 
こうした港や交通路を警固するため岬や丘陵に城が設けられ、そこの領主や職能民は関料の納入を怠った者に対し、武力を行使しました。こうした武力を行使する者に対し、悪党・海賊と呼びました。 
これらの津・泊には年貢などを保管する倉庫があり、問丸(といまる)と言う人々に管理されました。廻船人や商人の根拠地であり、問丸・酒屋・借上などの金融業者が集まった津・泊は都市を形成していきました。 
主要道沿線や道と海上交通の接点には多くの宿が成立しました。宿の機能を持つ遊女・傀儡(くぐつ、曲芸・歌舞をする人々)・白拍子(歌舞を歌い舞う遊女)達の屋(や)、接待所と呼ばれた寺院などが集中して都市を形成していきました。 
南宋との交流は活発で、北部九州には多くの宋人が渡来、移住しました。それらの宋人の中には神人・寄人となって、荘園・公領に荘官や職能民に与えられたと同様の年貢を免除された、給田畠を与えられる者もいました。 
博多は中国大陸・朝鮮半島との交流の窓口で、宋人が住む大唐街(唐人町)が形成された大都市でした。肥前の今津・薩摩の坊津・肥前の神崎荘・越前敦賀などにも宋人が渡来・移住しました。 
宋から流入した多量の銭貨は広く流通するに従い、社会に大きな影響を与えました。銭を神仏と敬愛するほど富への欲望は掻き立てられ、商人・借上・博打やそれに結びついた悪党・海賊の動きを活発化させました。これに対し、幕府も王朝国家も弾圧し、統制下に置こうとしました。 
殺生を悪事とし、博打・人身売買を禁じ、過度の風流や派手な衣装を禁止し、得体の知れない力に動かされて度を外したことをするのを悪とし、それらを行う集団を悪党として弾圧しました。 
13世紀後半になると、漢字を交えた平仮名を百姓も書き、宋銭の流通は計数能力を百姓も持つようになります。こうした能力や知識を使って百姓達は惣百姓という名の下に年貢・公事を請負い、市場で収穫物を売って、銭に替えて納め、不作のときの年貢の減免や不法な代官の罷免を文書にして支配者に要求しました。 
こうした動きに対し、荘園・公領の支配者である寺社本所・領家・地頭は紛争の解決に、相互に得分を安定的に確保するため、下地(したじ)の分割を行い、得分に応じた田畠を一円支配する方式が広がってきました。こうした一円領の年貢・公事の負担を請負う富と能力を持ち、取引や銭貨の扱いに慣れた借上や商人を代官として年貢・公事の徴収を委ねました。 
山僧・山伏などの僧侶・神人がこれらの業務に従事することが多く、これらの人々は神仏の初穂・上分を資本として貸付け、利息をとって、さらに豊かになりました。このように富裕になることを有徳といい、富裕な人を有徳人(うとくにん)と呼びました。 
彼らは神仏の名目にない銭貨を貸付け、田畠・物品を質に取り、それらを保管する倉庫、いわゆる土倉(どそう)を持つようになります。 
都市の金融業者や商人の間ではネットワークが形成され、為替や手形が流通し、信用経済が発展します。年貢・公事を請負った代官は多様な収得した物品を市庭で相場の高い時に売却して換銭し、送料・手数料の決まった手形を入手して、それを京都や鎌倉に送っています。 
馬借・車借などによる陸上交通で、京都と宇治川・淀川から瀬戸内海・北部九州に到る海上交通は上賀茂・下賀茂社の供祭人・石清水八幡宮の神人・熊野神人などが廻船人に進出しています。北条氏の保護を受けた西大寺律僧も関を立てて勧進を行い、港湾・河川交通の土木事業や造寺を行いました。兵庫・福泊・牛窓・尾道・竈戸・赤間・門司・博多・今津・神崎などの津・泊は港町が形成されました。 
勧進は神仏のために聖・上人が遍歴して布施を受ける行為でしたが、この時代、律僧・禅僧が勧進上人になって天皇・将軍の認可を得て海上・陸上交通の要衝に関所を立て、そこに入ってくる船や人から初穂の名目で、関料を徴収する方法が広く行われました。禅律僧はこれら集められた資金で、非人(百姓達から疎外された、職能で生きる人々)などの職能民集団を組織して土木工事を行いました。更に勧進上人は職能民集団の力で、外洋渡航の構造船を造り、北条氏の援助を受けて中国に渡り、貿易を行いました。 
時宗の開祖一遍上人は念仏を唱えるだけで、全ての人は救われると説き、念仏を唱えて念仏踊りを踊り、時宗を布教して、諸国を遊行しました。 
この時代、金融や商業分野の女性の活動は活発でした。女性は田畠についても、財産権を持っていましたし、荘官や名主になる女性もいました。遊女・白拍子・傀儡などの女性の芸能民の社会的地位は今考えるほど低いものではありませんでした。 
しかし、一部には女性を穢れた存在と考える空気も強まってきました。時宗の一遍上人が男女の時衆を従えて遊行しているのに対する非難はその現われでもありました。そして14世紀になると遊女などの女性芸能民は卑賤視されます。また田畠の権利において女性の地位は低下していきます。 
これらに平行して穢れを忌避する傾向が強まっていきます。葬送や刑吏に携わった人々、牛馬の皮を扱う人々は神人・寄人として天皇・神仏に結びつく職能民でしたが、彼らを蔑視する空気が貴族・寺社の中に現れてきます。そしてその傾向は牛馬を扱う馬借・車借、遍歴する芸能民・宗教民にまで及びます。 
神仏に対する畏敬が薄れ、それらによって規制された富への欲望があらわれ、高い利息を取り、博打や酒・女におぼれ、殺生に走るなどの動きが目につきだします。このように制御できない力を、穢れを含めて悪とし、それらを行う人々を悪党として抑制しょうとする動きが顕著になってきました。 
14世紀初め、得宗の専制が極まった頃、西国・瀬戸内海・熊野で海賊の大蜂起があります。これは北条氏による海上交通の支配に対する海の領主、廻船人達を中心にする不満が爆発したものと思われます。軍勢の大動員により、この蜂起も一応は鎮静化しますが、悪党・海賊と言われた山・海の領主、神人、熊野の山伏、山僧などの商人、借上などの金融業者、博打、非人などが跳梁する不安定な状況が続きます。更に京都・奈良などの衆徒・神人の強訴が頻発しました。
南北朝時代の社会 
南北朝内乱期、在地領主層は、生き抜くために結集することが必要であり、国人一揆の発生は、戦闘の際の中小武士団の結合にありました。 
国人一揆は、守護の軍事編成の基盤でもありました。在地領主層は、一揆の人々が助け合う相互扶助をつねとしました。 
国人一揆は守護配下に置かれたとはいえ、家臣団には入らず、自由な立場にありました。それだけに戦局判断の誤認は、国人領主にとって命取りになりました。国人一揆は新たに入部してくる守護への抵抗の組織にもなりました。 
ところで、国人一揆内の争いは各国人領から逃散(ちょうさん)する農民の抱え込みで発生したと思われます。この解決法は国人間の「人返し法」の制定にありました。国人一揆は支配下の農民の闘争を弾圧する組織ともいえます。 
鎌倉期、守護は国司の権限の行使を認められず、大番催促と謀反人・殺害人の検断に限られていました。南北朝期の守護は謀反人・殺害人のほか、窃盗人・放火人などの検断、刈田狼藉、犯人の検挙・断罪、一般訴訟の裁判権も確立しました。その支配は御家人に限らず、寺社や地下人にまで拡大していきました。更に、半済(はんぜい・年貢の半分を兵糧として武士に与える権限)・兵糧料所の配分権もありました。 
兵糧米の調達は現地調達が原則で、農民を苦しめ、荘園領主の年貢収納を不可能にしました。このため、荘園・国衙領は急速に疲弊していきました。 
そこで、幕府は1352(観応3)年、半済令を発布しました。寺社本所領に対する守護や在地領主の乱暴や押領を厳禁しますが、近江・美濃・尾張の3国の本所領の年貢の半分は当年限り、兵糧料所とするとしました。しかし、半済令が出されると、守護・在地領主達は半済と称して乱用していきました。 
1357(延文2)年には、半済、年貢半分を土地そのものの折半に使用するようになりました。そして、当年限りの規定も消えました。 
守護がどの荘園を誰に与えるかの権限を得たことは大きな意味を持ちました。在地領主達を配下に治めるため、半済・兵糧料所の配分権をもって、所領拡大を目指す在地領主を被官化しょうとしました。 
大田文の記載により段銭が徴収されました。鎌倉時代、国衙の役人によって検注が行われ、大田文が作成されました。南北朝時代後期には検注権は守護に掌握されていました。こうして、守護は国衙の重要な職務の一つを掌握していきました。14世紀後半になると、半済・兵糧料所の設置、守護請、守護役の賦課などにより、荘園体制は崩壊し始めます。 
鎌倉時代末期以降、村落では問題に対処するため、村民が鎮守や寺庵を中心に寄合を持って、定書や起請文(きしょうもん)をつくりました。即ち、農民の結合である惣が成立していて、農民の訴えや要求が寄合で検討され、起請文によって荘園領主に提出されました。 
農民達は要求を実現するため、逃散をほのめかしました。これは田畠を荒廃させ、年貢米の確保ができず、領主階級に打撃を与えるものでした。 
逃散が可能ということは公的な田畠以外に、山野の開墾、新田開発が行われ、近隣の農民達との連帯が成立していました。 
農民の結合が進むにつれ、その組織維持・発展のため、規約がつくられました。その中で、組織に対する裏切りの罰が設けられました。それは追放刑でした。この時代、共同体からの追放は浮浪そして死を意味していました。惣にはこの様な検断権がありました。 
惣の寄合は春秋の農事・祭礼・節句などを機会に定期的に行われ、そのほか臨時の寄合ももたれました。有力名主層を含んだ惣百姓組織へ発展していきました。 
農民闘争の原因の一つに労働力の収奪がありました。農民の農業維持発展に必要な労働力は代官や在地領主の佃や直営地経営にも必要でした。また守護による夫役徴発も守護と惣との対立を深めていきました。 
農業は産業の基礎であり、その中心は水稲耕作でした。耕地拡大は困難なため、耕地をいかに利用するかが問題とされました。深耕に耐える鍬、牛馬の利用、肥料施入などが行われました。 
農作業に要する労働力は大きなものがあり、田植え時の労力確保は一番の問題でした。結(ゆい)という協業は必要不可欠でした。 
旱水害という自然災害に対処するには灌漑施設を充実することと、早稲・晩稲などの収穫期の異なる稲を栽培することでした。しかし、その努力にもかかわらず、自然災害から逃れることはできませんでした。また、虫や獣の害にもあいました。 
耕地の高度利用として、稲の後に麦を蒔いたり、畠地で雑穀を年2度栽培したりする二毛作が行われました。これが可能になるには水田と畠地の切り替えができる灌排水技術や地力を維持する肥培技術の進歩がありました。 
肥料としては草木灰の利用があります。この肥料の利用により、山野の領有・帰属に関心が集まり、荘園領と地頭、荘民の間で対立が起きました。この山野は薪炭の生産を行う場でもあったため、争いを起こすことになりました。 
牛馬による犂(すき)で耕作することにより、農業生産は発展しました。この時代、牛馬は重要な財産でした。 
地方へ、貨幣や商品は浸透していきました。名田畠の質入・売買が行われ、富む者と没落していく農民が出てきました。 
在地領主層は直営田を持ち、山野河海を領有し、支配地域に手工業者を居住させて、彼らの必要とするものを生産させました。更に、市場を支配下に置いて、農民層の支配を確実なものにしていきました。 
京都は武家・公家・大寺社の権門から町人に至るまで、大きな人口を抱える消費都市と同時に、各地荘園から送られた原料を加工する生産都市でもありました。 
生産において、座商人によって生産独占・販売独占が行われました。この中では大山崎油座神人(じにん)が有名です。石清水八幡宮をバックに諸国に荏胡麻(えごま)購入の行商に赴いていました。幕府によって諸関津料が免除され、次第に保護され、大山崎油座は生産・販売の独占権が与えられました。 
元王朝は少数のモンゴル族が広大な中国を支配したため、独特の身分制度を持っていました。第1がモンゴル族、第2が征服支配を補佐した色目人、いわゆる西域の人々、第3が被征服民の漢人でした。漢人の中でも南宋支配下の江南の人々は最下位に置かれました。 
政治・経済の実務は漢人の手にゆだねられました。実務を担当した彼らの中には税を着服する者もいました。支配階層の末端より混乱は生じてきました。 
モンゴル貴族の中では定住する者と遊牧する者との対立が生じ、王室はチベット仏教を狂信し、多大な貢物を奉じ、その費用のために増税しました。この様な社会不安の中、紅巾軍による白蓮教徒の乱などが江南で続発します。 
日本とは文永・弘安の役後も日本商船の渡来は許可され、貿易が行われました。杭州や泉州には外国貿易を管理する役所が置かれていました。私貿易は盛んに行われると同時に、公許の建長寺造営船、住吉社造営船、天龍寺船が入元しました。 
1357年、叛乱が続く江南で、朱元璋(しゅげんしょう)は挙兵しました。回復中華をスローガンに勢力を伸ばし、1368年帝位に就きました。 
朱元璋は大都の元王朝を中国から追い出しました。朱元璋(洪武帝)は明帝国の独立を宣言し、同盟軍であった紅巾軍を切り捨て、白蓮教を禁止しました。 
明は外国貿易を厳しく制限し、冊封体制下の国々とのみ朝貢貿易を行いました。 
元が日本征服に失敗した後も、元の勢力下に朝鮮はありました。高麗王朝は積極的に元王朝と結びつきを強めていきました。 
地主である両班(ヤンバン)と寺院は私的大土地を私有していました。彼らは元と結びつき、私的利益に走りました。 
元王朝が衰退した頃、高麗王は親元派の一族を退け、鴨緑江以北の元を攻撃しました。 
明が建国すると、友好関係を結び、大土地所有の制限などの国内改革に着手しました。しかし、親元派と親明派の対立は激しく、改革は失敗しました。そして、親元派が勢力を回復しました。 
この頃、朝鮮は倭寇に悩まされていました。李成桂は、寺社・権勢家が田地をかすめ取り、民衆の苦しみは増している、倭寇と戦うにはこの様な状況を改め、軍人として能力の優れた者を選ぶべきだ、と建策しています。 
明が支配していた遼東を攻撃する将軍に李成桂は任命されていましたが、彼はその無謀を説きました。しかし、聞き入れられず、戦闘に入りましたが、途中その遠征をやめることを決断しました。これを民衆は歓迎しました。 
帰国後、李成桂らは親元派を追放しました。権力は次第に彼に集中していきました。無力化した高麗王は李成桂に王位を譲りました。1392年、李成桂(太祖)は都を京城(ソウル)に移し、新王朝の成立を明に報告しました。ここに李氏朝鮮が成立しました。 
倭寇は14世紀中頃、高麗王朝が衰退するとともに朝鮮半島の南岸を襲いました。漕船(米穀輸送船)を襲い、兵営を襲撃し、民家を焼き払ったため、租税が納まらず、官僚達は俸禄を得ることができない状態でした。 
この為、高麗王朝の経済力は急速に低下していきました。兵士は戦わず、高麗王朝の消極策により倭寇は増長していきました。倭寇の略奪対象は米穀と奴隷でした。奴隷は使役したり、転売したり、捕虜としてある程度の値段で送り返したりしました。 
倭寇の根拠地は対馬・壱岐・肥前松浦と言われています。この地方は昔から土地が狭く、飢饉が多かったのと、この頃の国内流通の発展が、住民を海外に向かわせたと思われます。しかし、高麗王朝は対元交渉に忙殺され、日本との通商関係は拒否していました。これが海の商人を海賊に変えた第1の理由と思われます。 
第2は内乱期、南北朝とも海賊を重視しました。熊野水軍・村上水軍がこれに当たります。松浦党や対馬・壱岐の海賊も軍事力として動員されたと思われます。こうした中で、彼らの造船技術、航海技術、戦闘能力は大きく向上しました。 
放置していた高麗政府も対策に乗り出しました。しかし、年間数十回に昇る侵入回数、規模においては、数百から千、二千人に昇る大規模なものになっていました。 
高麗は明に火器の供与を要請し、手に入れていました。1380年、鎮浦口(ちんぽこう)に侵入した500艘の倭船を高麗軍は新式火砲で全滅させます。この新兵器で李成桂らは倭寇を鎮圧していきます。 
1389年、高麗軍は倭寇の根拠地の一つである対馬を襲撃しました。この後、小規模な倭寇を除いて、大規模な侵入はなくなりました。 
李氏朝鮮は倭寇に対する兵船の整備を行いました。その一方で、懐柔策も取り、投降した倭寇を厚遇しました。そして通商を許可することにより、懐柔を行いました。倭寇は消え、大内・渋川・宗・菊池・島津氏や松浦党などの豪族が通商を行いました。 
1392年、李氏は幕府に使者を遣わし、倭寇禁止を要求しました。将軍義満は守護に命じて倭寇を禁圧すると禅僧絶海中津(ぜっかいちゅしん)に答書させています。 明も高麗と同様に倭寇に苦慮していました。山東地方沿岸から、江蘇・浙江・福建・広東地方に到るまで、倭寇は侵入しました。明は何度か日本に使節を派遣しますが、禁圧の実は上がりませんでした。義満が対明交渉に乗り出すまで、両国の正式な外交関係は生まれませんでした。  

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